ウマ娘恋愛短編集 (あーふぁ)
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1.サイレンススズカ『サイレンススズカ:私の走る理由』

 春は遠く、まだ冬の寒さがある2月1日。

 今日はウマ娘、サイレンススズカのデビュー戦の日だ。

 俺は初めてレース場にまで来てはレースを見ていた。

 今までウマ娘のレースには興味がなく、ここに来ることなんて思いもしなかった。

 でも来ることになった理由は、デビュー前から仲の良い友達として付き合ってきたサイレンススズカを見るためだ。

 普段会っている彼女はミステリアスでどこか影のある雰囲気を持ち、ちょっとずれた常識を持つ子だった。

 だからか、レースでは上手に走れるか心配していた。

 

 けれど、いい意味で大きく予想を裏切ってくれた。

 半袖短パンの体操服を着て1番のゼッケンをつけたスズカが、ゲートから出た瞬間に内側から先頭に立つ。あとはそのままマイペースといった感じで前を走り続け、ゴールするときには他を大きく離していた。

 その姿を見て、俺は最初から最後までスズカの走る姿から目が離せず、惚れたと言ってもいい。

 力強さを感じる走り。風になびく髪。揺れる尻尾。

 走る前まで、俺がスズカに持っていた寂しげなイメージはレースが終わる頃にはもうなかった。

 寂しげな子。

 そんなイメージを持った、初めて会った頃とは違っていた。

 あの時の出会いは雨が降っていた日だ。1人公園の中で、雨に打たれながら寂しげにベンチに座っていたスズカと出会ったのは。

 

 ◇

 

 季節は9月も後半になった夏の終わり。

 息苦しいほどの暑さはずいぶんと前に感じ、今日は雨がザーザーと強めな勢いで降る肌寒い日だ。

 高校が午後3時頃に終わり、部活に所属していない俺は寄り道もせずに、ひとりで家へと帰っている。

 遊び盛りな男子高校生としては帰りに寄り道をするものだが、俺は家に帰って家事と勉強をしなければいけない。

 別に誰かに怒られるというわけでもないが、俺にはやる必要があった。

 仕事で長く家にいない親同士が浮気の疑いとか愛がないとか言って離婚し、家とお金を与えられてアパートでの1人暮らし。

 尊敬もできない親を見て育った過程で学んだことは、人は1人で生きていかないといけない、ということだ。そのためにも良い大学に行き、収入がそこそこ良くて優良な会社に行く必要がある。

 友達なんていないも同然だが、立派な人間になるには必要な犠牲だ。

 それに高校2年生ともなると大学受験はもう間近。

 

 だから今日も今日とて、寄り道もせずまっすぐ帰っている。

 ショルダーバッグを肩に掛け、手には傘を持って制服の半袖ワイシャツをちょっとだけ雨に濡らしながら静かな住宅街を歩いていると、帰り道ににある公園が気になった。

 雨の日にわざわざ来る人がいないのに、傘も差していない女の子がベンチに座っていたからだ。

 足を止め、公園の入り口からベンチに座るその子の横顔を見ると外見的な特徴から人ではなく、その子は俺と同じ歳ぐらいに見えるウマ娘の女の子だった。

 

 人の耳の位置にあるものはなく、代わりに頭の上にはウマ耳がある。その耳には緑色の耳を覆っている、リボンのような耳カバーな馬具のメンコカチューシャをつけていた。

 ワンピースタイプの青を基調としたセーラー服の制服を着ていて、とても控えめな大きさの胸元には大きな青いリボンと蹄鉄(ていてつ)の形をしたブローチがついている。

 下は白色に青いラインが入っているスカート。太ももまである白いニーソックスな制服に皮靴のローファーは、このあたりじゃウマ娘たちが通う学校として有名なトレセン学園のものだ。

 顔が美人で、明るい茶色の髪の彼女はうつむいて寂しそうに地面を見続けている。 お尻から出ている、髪と同じ色をしている尻尾は力なく垂れていた。

 放っておくと風邪を引き、道に出たときには車にぶつかって死んでしまいそうな気がした。

 そんな彼女のことが気になり、俺は公園に入るとまっすぐ彼女のところへと歩いていく。

 正面に立って彼女を見下ろす形となるが、目の前のウマ娘の子は俺に反応する様子さえも見せていなかった。

 

「大丈夫か?」

 

 無反応すぎることに対して心配の声をかけると、ゆっくりとした動作で俺を見上げてきた。

 でも何も言ってこず、その目には何の意思も感じない。

 あまりにも無防備で無気力で寂しげで。生きる気力すらなさそうに見えた。

 そんな人に関わるのは面倒なだけだ。

 無視するか、よくて警察に電話するのが普通だろう。

 でも俺はそんな目の前の子に何かしてあげたかった。この子を見ていると、親が離婚して自分が捨てられたように感じたときのことを思い出して。

 

「ウマ娘の学園ってのは全寮制だったはずだが、帰らないのか?」

 

 彼女がこれからどうしたいのか気になって聞くが、俺の言葉に返事もせずにまた地面をじっと見つめ始めた。

 言葉だけじゃどうしようもないと思い、冷えている彼女の手をゆっくりとした動作で掴む。

 

「俺の家に連れていく。嫌だったら言ってくれ。すぐに手を離して俺はいなくなるから」

 

 しばらくのあいだ返事を待つが、何も言わないために強引に手を引っ張っては立ち上がらせる。

 けれど、その体は力なく俺の胸へと寄りかかってくる。

 170㎝の身長な俺より少しだけ低い背は片手で抱きかかえるには辛い。だから慌てて傘を放り投げ、地面へと倒れてしまわないように両手で抱き留めた。

 そうしてから冷たい体の女の子を1度ベンチに戻し、落とした傘を閉じるとそこらに放り投げる。

 

「連れて行かれるのが嫌じゃないなら、自分で立ち上がるか抱っこされろ。どっちがいいんだ?」

 

 女の子の顎を掴み、俺の目線へと合わせる。その目はさっきと違い、ほんのちょっとだけ感情が揺れ動いた気がした。

 

「……抱っこ」

 

 ちょっと悩んだあとに小さな口から、ささやくような声が聞こえた。

 自分で選択肢を出しておいて、選ばないと思っていたのに抱っことは。今まで恋人すらいなかった俺に高度な要求をしてくるが相手は弱っている女性だ。こんなところで変にときめいたり、挙動不審になるわけにはいかない。

 俺は女の子を肩へと担いで1人暮らしをしている自分のアパートへと向かって歩き出す。

 もし俺が鍛えた体なら、ロマンあるお姫様抱っこをしたいがそんな体力はない。だからコメ袋を担ぐような雑な抱き方なのは許してもらおう。

 

 女の子を肩に担ぐ姿は他の人から見ると、誘拐している姿に見えるだろうが幸いにも人と会うことはなく、アパートへとたどり着く。

 2階建てで、和室で1Kな広さの部屋である201号室の前に来ると、肩に担いでいた女の子を降ろす。

 ショルダーバッグから部屋の鍵を取り出してドアを開け、彼女を玄関の中へと入れる。

 いったん彼女を座らせたままにし、靴を乱暴に脱いでショルダーバッグを床へと置いた俺は台所がある玄関から部屋と移動する。

 本棚とタンス、ちゃぶ台にテレビがある部屋のタンスからバスタオルを4枚取り出すとそれを持って玄関へと行く。

 

「ほら、これで体を拭け」

 

 玄関に座ったままの女の子に2枚のバスタオルを差し出すが、受け取る気配もなく俺をぼぅっと見上げてくるだけ。

 ため息をつくと、俺は自分の顔だけを拭いてから女の子の体を拭いていく。

 制服が雨で張り付いて、下着が透けて見えて、普段なら気になってしまうが、今はそんな場合じゃない。

 顔をごしごしと拭いてから、胸をさわらないように気を付けつつ上半身を拭いていく。それが終わると俺はワイシャツを脱いでTシャツ姿になり、別なバスタオルを使って俺自身の体を拭いていく。

 

「あとは自分で拭けよ」

 

 そう言うと女の子はゆっくりとした動きで立ち上がり、手に持ったバスタオルをなぜか俺に向けてくる。俺はその手を掴んで女の子自身の体を拭かせる。

 

「誰が俺のを拭けと言った」

「連れてきてもらったから、お礼として拭かなきゃと思って」

「お前はまず自分の心配をしてろ。いいか、しっかり拭いとけよ?」

 

 小さく頷いたのを確認すると、台所のすぐ隣にある風呂場に行き、ガス給湯器のスイッチを入れてシャワーの準備をする。

 それから部屋のオイルヒーターの電源を付け、洗ったばっかりでまだ着ていなかった学校指定の赤色ジャージと下着を乾かす用のドライヤーを準備して玄関へと持っていって、床に置く。

 

「シャワーを浴びろ。ジャージは洗ったばかりだから綺麗だし、女物の下着はないから自分で乾かせ。そのあいだ、俺は外にいるから。何か質問は?」

 

 早く体を温めて欲しい俺は早口でそう伝えると、女の子はジャージのズボンを手に取った。

 

「これ、私は履けないと思う」

「未使用のはないから我慢してくれ」

「そうじゃなくて。尻尾を出す穴がないの」

 

 ……ウマ娘だってことを忘れていた。

 慌てて部屋からハサミを持ってきてジャージに穴を開けようとしたが、どれぐらい切ればいいかがわからない。実際に尻尾をさわって大きさを確かめればいいが、それはただのセクハラになる。

 

「わからないから自分で切ってくれ」

「いいの?」

「ああ。切るのはすぐにできるだろうし、先にシャワーを浴びてくれ。じゃないとせっかく連れてきた意味がない」

「それは私の裸が見たいってこと?」

「見ねぇよ! 早くシャワー行ってこいウマ娘! 髪も下着もきちんと乾かして用意できたら出てこいよ!」

 

 連れてきた理由が納得したという顔に俺は大声をあげ、俺は自分用のバスタオルを2枚ひっつかむと早足で外へと出ていく。

 そうしてアパートの廊下に来ると閉めたドアに背を預けて座り、自分の体を拭いていく。

 ため息をつくと一気に疲労感がやってくる。

 俺は善意で人助けをして立派な人間だと自己満足をしたかっただけだが、言われてみるとエロ目的で連れてきたようにしか思えなくなってくる。

 そんなことは考えていなかったのに。

 

 ただ、体を拭くときに服の上から見えてしまう下着に目が向いてしまったのは不可抗力だ。エロ目的とはまったくの別問題だ。

 そんなことを考え、自分は間違っていないと正当化しつつ体を拭き終わると待つ以外にやることはなく、濡れたバスタオルを自分の上半身に巻くと降り続ける雨を見ながら時間が過ぎて行くのを待っていた。

 寒さに体を震わせながら、ぼぅっとしていると背にしているドアから控えめなノック音が聞こえてくる。

 

「終わったのか?」

「うん」

 

 思っていたより早かったと思いながら、ドア越しに聞こえる声を聞いて立ち上がり、そっと静かにドアを開ける。

 そこには俺のちょっと大きいジャージを着て、しっとりとした髪にメンコが外されて横へと倒れたウマ耳が見えている、かわいい女の子がいた。

 どこか一般常識からずれている子が普通に服を着ていて安心する。遠慮して下着姿だけだったら怒っていたところだ。

 

 あとは俺がシャワーに入って体を温めれば落ち着くが、その前に名前を聞いていなかったことを思い出す。

 別に今日だけの出会いだから名前なんて知らなくてもいいが、せっかく知り合ったのだから聞いてみたいとも思う。

 

「知らなくていいかもしれないが、俺の名前はアキだ。お前の名前は?」

 

 親と同じ苗字とつけられた名前が嫌で、友達から呼んでもらっているあだ名を言う。

 女の子は俺がフルネームを言わないことに不思議そうに見つめてきたが、すぐに返事をしてくれる。

 

「私はサイレンススズカ。まだデビューしてもいないウマ娘」

 

 名前と同時に聞いてもいないことを教えてくれる。レースに出たことがあるとかないとか、そんなことは気にもしないがウマ娘にとって大事なことなのだろう。

 なんで公園にいたとか、気になることはいくつかあるが自分から言いたくなるのを待つことにする。無理に聞いて、嫌がられるのは嫌だから。

 

「それじゃあ……スズカでいいか。サイレンススズカって全部呼ぶのは長い」

「そこは敬称をつけるんじゃないの?」

「なんでそこだけ常識人なんだ」

 

 マイペースなのに戸惑いながら、俺はスズカが使っていたバスタオルを手に取ると、俺が体に巻いているのと一緒に洗濯機に入れる。シャワーを浴びた後に俺自身の脱いだ服を入れてから洗濯機を動かせばいいと思ったが、それだとスズカの制服がわずかな時間とはいえ遅くなってしまう。時間優先ということで俺が着ていたワイシャツとスズカの制服も入れて脱水のボタンを押す。

 

 タンスから自分の下着と着替え、バスタオルを取って風呂場前に置く。

 そして服を脱いでシャワーを浴びるために風呂場へ入ろうとするが、手に服をかけたところで視線を感じて振り向くとスズカが静かに俺を見つめてきていた。

 

「私はどうすればいいの?」

「俺がシャワーから出てくるまで好きにしていい」

 

 そう言って背を向けるが、すぐに名前を呼ばれる。

「アキくん」

「なんだよ」

 

 綺麗な女の子に自分の名前を呼ばれたことに新鮮さと嬉しさを感じながら振り向くと、スズカの手には着ているはずのブラとショーツ、それとドライヤーを持っていた。

 一瞬だけ思考が止まるが、すぐに理解する。

 そう、俺が貸したジャージの下はノーブラノーパンの状態だと言うことに。

 

 スズカは尻尾をふんわりと揺らし、恥ずかしそうにするわけでもない。

 男である俺に下着を見せることに何の羞恥心も感じていないらしい。

 わかった。この子はアホの子だ。

 これから接する時はそのことを頭に入れることにし、ついマジマジと見てしまう下着から目をそらす。

 

「これ、乾かしててもいい?」

「乾かしておけって言っただろ! ええい、俺に見せるな! 奥に行って乾かしておけ!」

 

 部屋の奥へと指を指し示すと、頷いたスズカは素直に行ってコンセントにドライヤーを差してから座り、下着を乾かし始めた。

 公園から家まで連れてくるよりも、家についてからのやりとりのほうがとても疲れる。

 大きくため息をつき、服を脱いでいくと俺に背を向けているスズカの尻尾が見えた。ジャージにハサミで穴を開けただけだから、その穴から白い尻の一部分が見えてしまっている。

 

 その姿に理性と本能が争い、理性が勝って視線をずらすと、スズカの頭の上にあるウマ耳がこっちへと向いていた。

 スズカの耳を気にしながら服を全部脱ぎ、下半身にバスタオルを巻く。

 すぐに入るならバスタオルはいらないが、少し試したいことがあるからだ。

 

「……スズカのむっつりスケベ」

 

 小声で言うと、スズカが体をびくりと震わせると同時にこっちに向いていたウマ耳が素早く前へと向く。

 俺がスズカに興味があるように、向こうも興味があるようだ。羞恥心もあることがわかり、裸でうろつくとかそんなことをしなさそうなことに少しだけ安心する。

 スズカがこっちに注意が向いていない隙に風呂場へと入り、脱いだバスタオルを外へと出した。

 風呂場の中は暖かく、嗅いだことのない匂いがする。

 それがスズカの匂いだとすぐに気づき、なんだか恥ずかしくなってしまう。同じ年頃の女の子が使った風呂場を使うなんてのは。

 

 ドキドキしながらも、シャワーを浴びて体が温まるととてもいい気分になる。

 シャワーを浴びながら、このあとはどうしようかと考える。髪を乾かして、あとはコーヒーを飲みながら話をすればいいか。夕食の時間にはまだ早いし。

 色々と考えながら風呂場のドアをそっと開け、隙間から手を伸ばしてバスタオルを手に取る。

 体を拭いてから、バスタオルを腰に巻いて外へと出た。風呂場の中で着替えると、どうしても服が濡れるから外で着ることになるが、見られるかもという緊張感がやってくる。

 

 アニメやラノベだと、今のとは逆な展開が普通なのに。少女漫画だとこういうのはあったりするか?

 と、恥ずかしがりながら背中を向けているスズカを見ながら服を着終える。スズカの耳はさっきとは違って、こっちに耳を向けないように耳を落ち着きなく動かして努力しているのが見えた。

 その行動に感心しつつ着替えたあとは台所に向かい、ヤカンに2人分の水を入れて火にかける。

 棚からマグカップ2つを取り出して台所に置き、何にしようかと考える。家にあるのはインタスントコーヒーに紅茶、友達からもらったまま缶から未開封のこんぶ茶がある。

 

「スズカ、何か飲むか?」

 

 ドライヤーの音に負けないよう、大きな声でそう聞くと下着を乾かす手を止めてスズカが隣へとやってくる。

 俺はお茶類が置いてある棚へと指を差すとスズカ自身に選ばせる。そうして選ばれたものは、こんぶ茶だった。

 外見的に紅茶を選ぶかと思っていただけに、渋い選択に驚きながら缶を手に取って開ける。

 初めて入れるものだから、缶表面にある説明をじっくりと読む。そうしているとすぐ隣から、風呂場に入ったときと同じ匂いがした。

 すぐ横に来たスズカは俺の持っている缶を手に取った。

 

「私がやる」

「お前は乾かしていればいい」

「アキくんはこんぶ茶飲んだことないでしょ? それなら私のほうが上手にできると思うの」

 

 さっきまでの恥ずかしいところを隠したいかのような、スズカのやる気アピール。

 何かミスをしそうな気がしないでもないが、本人にやる気があるし普段から飲んでいるみたいだから任せるのが1番か。

 

「わかった。じゃあ任せる」

「うん。代わりにアキくんは私の下着を乾かしておいてね」

 

 衝撃的発言を言っておいて、自分の言ったことに気にするでもなくマグカップへとこんぶ茶の素を入れていく。

 女の子の下着を乾かすのは犯罪じゃないだろうかとか、男に対する警戒心の無さはいったいなんだと疑問に思いながら、触るとまだ少し濡れている下着の前へと座る。

 おしゃれな刺繍が入っている下着を前に、何も考えないようにしてドライヤーのスイッチを入れて下着を乾かし始める。

 そうしながら、スズカの様子をそっと見るとヤカンを静かに見つめていた。

 ちょっとの時間が経ち、マグカップ2つを持ってきたスズカはちゃぶ台に置く。

 俺はドライヤーのスイッチを切り、マグカップ1つを手に取って座るとスズカも俺の対面へと座る。

 お互いに何も言わず、マグカップに入っているこんぶ茶を飲んでいく。

 

 初めて飲んだ味は、しょっぱさとこんぶのうまみ成分が入ったスープだと思った。お米にかけたくなる。もしくは何か具を入れたい。

 お茶と言うには首を傾げる味だが、心も体も温まっていく。

 2口目を飲み、落ち着いてところでスズカに気になっていたことを聞く。

 

「なぁ、スズカは公園で何をしてたんだ?」

「えっと、散歩?」

「傘も差さずにか? 俺はウマ娘の関係者じゃないし、ただの学生だ。変なことを言っても怒らないぞ」

「じゃあ言うけど。……落ち込んでいたの。今度出ることになる、初めてのレースについて」

「ウマ娘らしい悩みだな」

「うん。それでね、私を鍛えてくれるトレーナーさんが『お前はまだレースに出せない』って言われて。周りの子たちがどんどんレースに出るなか、私だけが置いていかれてるの」

 

 さっきまでの言葉少ない様子とは違い、不満や誰かに言いたらしく俺へと言葉を出してくる。

 自分に自信がないような不安な声で。

 

「レースに出れない理由は、私の成長が遅いからだって。だからレースは遅い時期になるの。でもそれはなんだか私に能力がないって言われている気がして……」

「やっぱりウマ娘ってレースに出たいものか?」

「走ることをなくしたら、私たちウマ娘の存在価値なんてないも同然だと思う。踊ったり歌ったりすればいいって思うかもしれないけど、それはウマ娘じゃなくてもできるから」

 

 話を聞いても、ウマ娘の苦しみなんてのは俺にはわからない。

 俺はウマ娘でもないし、ウマ娘たちと関係する仕事をやったことがあるわけもなく詳しくもない。

 ただ、自分の価値なんてひとつの物事だけではわからないと思う。

 

「でも問題に向き合って悩み続けるってすごいことだと思う。楽なほうに逃げようとしないんだから」

 

 現実逃避として何かに逃げることもなく、自分の将来のことについて考えているのだから。

 

「……そんな立派なものじゃない」

 

 俺としてはとても立派だ。公園で傘も差さずに雨の中にいたくらいに悩み、自分の価値に疑問を持っていたのは。

 でも言葉だけじゃ、スズカの助けには何もならない。

 今日会ったばかりのスズカの力になりたい。自分に自信を持って、この子の笑顔を見てみたいと思ったから。

 じゃあ俺にできることは?

 少しぬるくなったこんぶ茶を飲み干し、考えた結果はとりあえず飯を作ることだった。

 

「スズカ、今から飯を作るがなにか食べれないものとか好きなのはあるか?」

「えっと……野菜中心だと嬉しいかな」

「わかった。作るから待ってろ。夕食ぐらい食っていく時間はあるだろ?」

「なんでアキくんは私に優しくしてくれるの?」

「昔の自分を見ているような気がしてな」

 

 親が離婚して、アパートの部屋と金を渡され、捨てられたと思って世の中と親に失望していた俺の過去に、スズカが公園にいたときの雰囲気に似ている気がして。

 誰かを見捨てるような人間にはなりたくないという思いが俺にあるからだ。

 

「あとは美人な人に優しくしたいってところだ」

 

 そう言って、ほんの少し恥ずかしくなっては立ち上がり、台所へと行く。

 今からご飯を炊くのは時間がかかる。冷蔵庫を見ると、いい具合にうどんがあった。2人分のうどんと適当な野菜を炒めて夕食にしよう。

 冷蔵庫から野菜を取り出し、まな板の上で野菜を切っていると隣にスズカがやってきた。

 

「どうした?」

「作るの、見ていてもいい?」

「いいけど、下着はつけたか?」

 

 さっき話をしていた時より、なんとなく明るくなったスズカに聞くとジャージの前を開けてブラをつけているのを見せてくる。

 それを見て、即座に俺は包丁を置くとジャージを掴んではファスナーを上いっぱいにまであげる。

 

「……おとなしく見ているならいいぞ」

「アキくんは乱暴ものね」

「お前の常識がずれているからだ!」

 

 呆れた言い方に大声をあげてしまうが、それの何がおかしいのかスズカは小さく笑みを浮かべてくれた。

 初めて見た笑顔に見とれていたが、気を取り直して料理へと戻る。

 

「誰かに心配してもらえることって、こんなに嬉しいだなんて思わなかった」

 

 恥ずかしい。なんだかそう言われるのは恥ずかしい。

 スズカはつい放っておけなくて、色々と気になってしまう。例えるなら、手のかかる妹を持ったと言えばいいかもしれない。

 料理を作り続けながら、じっと俺の手元を見てくるスズカの横顔を見て、そんなことを思う。

 野菜炒めと、うどんを煮るのが終わって料理ができあがると、皿に盛りつけるのと運ぶのはスズカが自主的に運んで行ってくれた。

 ちゃぶ台で向かい合って、ウマ娘に関する雑談や学園のことを聞く。

 食事が終わっても話は続き、スズカの話を多く聞いていた。でもスズカは時間が気になり、部屋にある壁掛け時計を見あげた。

 

「私、もう帰らないと」

「そうか。今日は話ができてよかったよ」

「私も。誘拐されたときはどうなるかと思ったけど」

「誘拐じゃねえよ。連れてく前にちゃんと聞いただろ?」

「……ええと、そんなことを聞かれた気がしたような、しなかったような」

 

 俺から目をそらしながら立ち上がると、洗濯機の前へと行って制服を手に取った。

 それを見ると、俺はすぐに家の外へと行き、着替え終わるのを待つ。

 スズカが出てきたときは出会ったときと同じ格好になっていた。

 

「今日はありがとう。ちょっとだけ元気になった」

「それはよかった。もしスズカをテレビで見る機会があったら、今日のことを思い出しながら見てやる」

「私を好きになった?」

「なってねぇから早く帰れ」

 

 スズカは少し不満げな様子になるが、すぐに感情のないクールな表情を俺へと向けてくる。

 俺は家へと1度戻り、使い捨てなビニール傘を取ると遠慮するスズカの手に強引に持たせた。

 それに戸惑っていたが、俺の強い意志を感じて受け取ってくれた。 

 

「もう雨に濡れるんじゃねぇぞ。それじゃあな」

「……うん、ばいばい」

 

 そう言って、スズカは俺へと小さく手を振りながら返っていった。

 今日は疲れたが、いいことをしたと精神的に充実した日だった。

 ウマ娘、サイレンススズカとの偶然の出会い。スズカと名前を呼んで色々と世話をした、常識からちょっとずれた女の子。彼女の悩みが軽くなったのなら、嬉しく思う。きっと出会うことはもうないような気がした。

 そう思ってしまうと、寂しく思えたがそもそもあんな美人な子と話をできただけも喜ぶとしよう。

 もし、彼女が有名になったら自分の中で満足感がきっと出るに違いない。

 あの子は俺が助けたんだぞ、と。

 

 そう思いながらスズカがいなくなった方向をしばらく見ていたが、体が寒くなって家へと戻る。

 1人になり静かになった家の中。洗濯機の前にはスズカが残していった、お尻あたりに穴が開いたジャージが置いてある。このジャージは後で直して家で使う用にしよう。

 それと公園で投げ捨ててしまった傘は明日の朝に拾ってこないと。

 そうして慌ただしくも、ちょっと楽しかった日は終わっていく。

 

 

 

 また、いつもの変わらない日常が戻ってきた。

 でもそれは2日後の天気がいい晴れの日に終わる。

 学校が終わり、家へと戻ってくるとドアに背を預けて座っていたスズカがいたからだ。

 出会ったときと同じように制服を着ていたが、前と違うのは手に持ったトートバッグいっぱいに入っているニンジンだ。

 スズカは俺に気づくと立ち上がり、何の感情もないようなクールな顔つきで俺を見てくる。

 

「アキくん、帰って来るのが遅い」

「文句言う前に何か言うことがあるだろ、お前」

 

 流れ的に会うことはないような雰囲気だったのに、こうも再会するのはなんかがっかり感がある。

 後々、レースに出ているスズカの姿を見て俺が感動するっていうはずだったのに。

 あまりにも再会が早すぎる。

 呆れた俺に対し、スズカは首を傾げたがすぐに元へと戻った。

 

「これが照れ隠しというものね?」

「さっさと入れ」

 

 スズカの声を無視し、ドアの鍵を開けて入っていく。後ろからスズカがやってきて家へとあがる。

 俺は肩にかけているショルダーバッグをそこらに放り投げると、 冷蔵庫を開けて何の飲み物を飲ませようか考えていると隣にスズカがやってきてトートバッグを差し出してくる。

 

「これ、お土産」

「お、ありがとな」

 

 冷蔵庫のドアを閉めて、トートバッグを受け取るとずっしりと重いのが手に伝わってくる。

 いったん床に置いて中身を確かめるが、ニンジンばかりだ。ニンジンの奥のほうにはお土産ではないスズカの私物っぽいものが入っていた。

 

「全部ニンジンなのはなぜ?」

「普通のだとつまらないかなと思って、トレセン学園名物の高品質ニンジンを買ってきたの」

 

 高品質と言うだけあって、形も色もいい。だけれど、16本もあると消費するのに困る。

 男子高校生の1人暮らしなんて、そんなに野菜は食べないし、ニンジンなんて特にだ。ウマ娘ならとても喜ぶだろうけれど、俺は喜びと同時に困惑がある。

 でもお土産は気持ちなので、ありがたく冷蔵庫へとしまう。

 

「何か飲みたいのはあるか?」

 

 軽くなったトートバッグを返すと、スズカは冷蔵庫のドアを開けてペットボトルのオレンジジュースを指差す。

 そのペットボトルを持ち、ガラスのコップふたつを持つとちゃぶ台へと行き、つい2日前と同じように俺の対面へと座るスズカ。

 ジュースを2人分注ぎ、ある程度飲んだところで気になっていたことを聞く。

 

「今日はどうした。走る練習中にころんで泣いたか? ストレス発散で大食いしてショックを受けたのか?」

「アキくんの中で私のイメージはいったいどうなっているの?」

「手のかかる妹」

 

 ため息をついて言うとスズカは不満らしく、足を延ばして俺の足を軽く蹴ってくる。

 抵抗も文句もしないでいると、次第に威力が上がっていき、強くなっていく。

 

「スズカ、痛い」

「謝って。私が手のかかるってとこは謝って」

「妹なのは否定しないのかよ。で、今日は何の用だ?」

「遊びにきた」

 

 足を蹴るのをやめると、さも当然のように言ってくる。

 友達ならそれでもいいが、俺との関係はそう呼べるものじゃないと思う。その日だけの出会いだと思っていたから、今日みたいなのは予想さえしていなかった。

 

「俺とお前は友達だったか」

「じゃあ知り合いから始める」

「出会ったのも縁があるってことだし、それでいいか」

 

 俺の言葉に何か気になることがあったのか、首を傾げて少し考えたあとに口を開けた。

 

「……ツンデレ?」

「今すぐ出ていけ」

 

 そんな楽しい言葉のやりとりをしつつ、俺は家に帰ったらいつもしている勉強のためにスズカを放置することにした。

 スズカもやることがあるため、ちゃぶ台に勉強道具を気にせず自分の作業を進めていた。

 その作業とは、俺があげたスズカ用に改造されたジャージだ。持ってきたソーイングセットと当て布で、尻尾部分の穴を補強している。

 時々その作業を気にしながら勉強をしていると、作業が終わったスズカが隣に座ってくる。

 

「アキくんはいつも勉強しているの?」

「ああ。今は目標がないが、行きたい大学に入れるように」

「大変だね」

「お前だってウマ娘なんだから、なにかしら努力をしているだろ。それと同じことだよ」

「そっか。アキくんと同じかぁ……」

 

 言葉に寂しさと嬉しさの感情を顔に浮かべ、スズカが悩んでいる問題は今も続いていることがわかる。

 でもそれは俺にはどうしようもない。だから、気晴らしをさせてあげようと前のようにふざけることにした。

 やることはスズカの頬に人差し指を突き刺すということを。

 それをされたスズカは表情を変えなかったが、俺が「ぺったんこな胸と違って、ほっぺたは柔らかいな」なんて言うとイラッとした感じに顔をしかめると俺の人差し指を口に入れ、結構な力で噛んできた。

 俺が悲鳴をあげたのは言うまでもない。

 そういうふうに今日は時々じゃれあいながら、スズカが俺の勉強を見るということをして過ごしていった。

 

 空が暗くなりかけた時にスズカは帰ると言い、俺は少し待ってもらってサンドイッチを作る。

 たくさんのニンジンをもらったから、それのお礼としてだ。

 作ったのはきゅうりのサンドイッチだ。パン4枚を使い、作っていく。

 パンにはマーガリンの甘味ときゅうりの爽やかさ、塩コショウを入れる。これが俺お気に入りの作り方。

 その俺自慢の手作りサンドイッチをスズカに持たせる。

 

「もらっていいの?」

「おう。帰るときにでも食ってくれ」

「ありがとう。わざわざ作ってくれたのは、私の魅力のせい?」

「何を言っているんだ。このダメ妹は」

 

 スズカのおでこをデコピンではじき、涙目でおでこを押さえながらスズカは帰っていった。

 なんだかんだで今日も楽しかった。もう俺の中ではスズカは妹ポジションだ。

 お礼を言ったから、今度こそもう会わないかと思う。

 でもそのうちまた来そうな気がするから、それまでに料理の腕前を上げて置かないと。

 そう決心してちゃぶ台のところに戻ると、スズカが縫っていたジャージが置いてあった。ズボンを手に持って広げると、きちんとお尻の穴部分は補修されていた。

 

 スズカの奴はまた来るらしい。そのことはなんだか嬉しくなり、にやける顔を軽く叩く。

 補修されたスズカ専用のジャージをタンスにしまうと、冷蔵庫からニンジンを取り出して今日の夕食は何を作ろうかと考えた。

 こうしてスズカと過ごした2回目。この日から、俺とスズカの友達以上で兄と妹みたいな関係が始まっていく。

 週に1回か、2回ほどスズカは学園の授業が終わったあとにアパートへと遊びにやってくるようになった。

 遊びと言っても、ほとんどは雑談をしたりスズカが本棚から何かの本を取って読んでいるぐらいだ。スズカが本を読んでいるあいだ、俺は勉強をして静かな時間を過ごしたいた。

 そういう穏やかな関係の日が続き、俺とスズカは遠慮をあまりしない仲になっていった。

 でも親しくなったからといって、スカートの中が見える無防備姿勢が増えてきたのは俺の理性によろしくないのでやめて欲しいとは思うが。

 

 9月の出会いから始まり、12月と続いていく。

 そのあいだ、スズカが気に入ったきゅうりサンドイッチを毎回持ち帰らせ、クリスマスを一緒に過ごし、神社に初詣にも行った。

 こうして一緒の時間を過ごし、俺の狭い1Kの部屋にはスズカの私物が少しずつ増えていく。食器にマグカップ、スズカ専用ニンジンと言ったものが。

 世話の焼ける妹という家族がもう1人できた気分になる。

 スズカと会うのが楽しみになってきたが、1月も半分を過ぎるとひどく落ち込みながらスズカがやってきた。

 その日はスズカは家に入るなり、テーブルに突っ伏して力なく倒れた。

 それを見ながら、俺はいつものように座って勉強をし始める。

 が、いつもの何かと俺にちょっかいをかけてくるのと違い、どんよりと暗いオーラを出しているのが落ち着かない。いったい何があったのか心配してしまう。

 

「何かあったか?」

「聞いてくれるの?」

 

 突っ伏したまま、顔だけを動かして見上げてくるスズカ。

 ふざける様子もないことから、真面目に話を聞くことにする。

 

「お前の悩み事ならいつだって聞いてやるさ」

「ありがとう。そのね、2月1日に初めてのレースがあるの。時間は午後1時を少し過ぎたあたり。コースは芝の1600m」

 

 スズカが言ってくれたのは前にも言っていた、レースのことだった。

 悩みを教えてくれたのは嬉しいが、もし技術的なこととか、どう走ればいいとか聞かれたらと思うと冷や汗が出そうになる。でも聞いたのは俺自身で、スズカの悩みが軽くなるのなら分からなくてもしっかりと聞いてやりたい。

 

「……不安なの。最初のレースから私のウマ娘生活が始まっていくのが。負けたらどうしようって。1度負けたら、その次も負けるかもって。そうして勝てなかったら私はどうすればいいのかということを考えるの。ウマ娘だから走るけれど、私には目標がなくて。G1優勝? 海外遠征? 3冠? そのどれにも興味が持てなくて」

 

 いつもより勢いよく、感情が強くある言葉がスズカの口から出てくる。自分への自信のなさと不安が。特に走る理由がないというのが大きな問題になっていると思う。

 俺だって何の目的もなく勉強を日頃からしているわけではない。大学に行き、きちんとして就職をしたいと考えている。

 

 そうすることで、自分を捨てた親と違って、まともな人間として存在することができると思うから。

 だからスズカにも理由が必要だ。これから自分を支えるべき、そんな理由が。

 

「だったら俺のために走ってくれよ。俺はスズカが、サイレンススズカが走っている姿が見たい。

 普段はクールな雰囲気だけど、どこかぽやぽやしているお前じゃなくて。かっこいいお前が、俺は見たい。レース場に行って、お前を見てやる」

「アキくんのため?」

「おう。普段がダメダメだから、俺にかっこいいところを見せてくれ」

「私はダメダメじゃ―――」

 

 スズカはその言葉に不満だったのか俺を睨んでくるが、ほんの数秒経ったあとには気まずそうに目をそらしていた。

 おそらく、かっこいいところがあると思っていたけれど、考えてみればなかったということに思い至ったのだと思う。

 

「……もし私がダメなウマ娘で、引退させられたらアキくんが養ってくれる?」

「任せておけ。ウマ娘を使う仕事に就職して、思い切り働かせてやる」

 

 そう言って笑みを浮かべると、スズカは安心した笑みを浮かべてくれた。

 少しのあいだ、ふたりで笑みを浮かべあっていたが、スズカはふと真顔になる。

 

「ねぇ、アキくん。もし私が次のレースで勝ったらご褒美が欲しいの」

「いいぞ。で、いったい何が欲しいんだ?」

「んー、内緒」

 

 それを最後にレースに関する話は終わり、いつも通り俺たちは部屋の中で自由にのんびりと過ごした。

 レース4日前に遊びに来たスズカは、レースの見方やレース場の場所、レースの時間を改めて教えてくれた。

 俺が初めて行くからなのか、お姉さんみたいな感覚で俺に接してくるのは新鮮だ。妹が成長したような気分になる。

 気分よく俺に色々と教えたあとは、絶対に来てねと何度も念押ししてくる。手書きのメモでレース場についてから行く順番を詳細に書いたのを俺に渡すくらいに。

 前と違って、やる気に溢れるスズカに結果がどうあってもレース後に会ったら優しくしてやろうと決めた。

 

 

 

 そうして時間が経ち、2月1日のよく晴れた日。

 今日はサイレンススズカの初レースだ。

 コートを着こんで、ショルダーバッグを肩に下げた俺は電車で初めてのレース場へとやってきた。

 レース場は人が多く、皆がきらきらと輝いた目でレースが始まるのを楽しそうに待っている。

 そんな中をうろつきながら、食事をする店が多いなとか、レースを見るスタンドが多くあって、指定席や自由席があり、場所の違いによってどう見えるかに困惑していた。

 でも前もってスズカが書いてくれたメモに従い、まずはパドックと呼ばれるところに行く。

 ここはレースに出走する前のウマ娘たちが、それぞれ自分の健康状態を見せる場所らしい。

 そのパドックは、ファッションショーでモデルさんたちが歩いて姿を見せるのと同じようなステージになっている。

 

 多くの人がウマ娘を待つように俺も同じくやってくるのを待つが、ちょうど時間だったらしく、パドックの入り口にある赤い垂れ幕が上がってウマ娘が出てくる。

 そこにいたのは1番のゼッケンをつけたサイレンススズカだった。

 いつもの感情が分かりづらいクールな顔には、少し緊張の様子が見られる。

 半袖短パンの体操着を着ていて、その上には長袖の上着を肩にかけるようにしていた。その状態でステージの一番前まで歩いてくると、上着をかっこよく投げ放つ。

 投げる動作だけでかっこいいと思ってしまう。その時に一瞬だけスズカと目が会った気がしたが、すぐに背を向けて戻っていった。

 普段の頼りなさと、ここでのかっこよさのギャップに惚れてしまいそうになる。あの常識からずれているスズカなのに。

 ドキドキと鼓動が強くなる心臓を抑え、他のウマ娘が出てくるのを続けて見る。

 そうして全員分見たが、スズカを見たときと違って心がときめく子はいなかった。

 それで理解した。俺はただギャップの差によるものにやられただけなんだって。

 

 そう納得して、時間には余裕があるからレース場内を少し散策してからレースを走るウマ娘たちにファン投票ができるというので深く考えずに"サイレンススズカ"を選んだ。

 投票を出してからは場内をうろうろと歩き回ったあと、ウマ娘たちが走るコースが見える1階のスタンドへと行く。

 今日はウマ娘たちのデビュー戦だからか、テレビで見たことのあるG1レースと違って人が少なく、観戦しやすい。

 スズカのレースが始まるのにワクワクしながら待っていると時間はあっという間に過ぎ、ウマ娘たちが走るコースにトラックがゲートをつけて運んでくる。

 もう目に見える何もかもが新鮮で、俺の好奇心を全力で刺激してくれる。

 

 ゲート後方のコース上には11人ものウマ娘たちがいて、それぞれ準備運動をして体をほぐしていた。

 ウマ娘は美人な子が多いなと感心するが、俺にとって目を引くのは1番のゼッケンをつけているサイレンススズカだ。

 各ウマ娘たちの準備運動が終わり、それぞれゲートの中へと入って皆が並ぶとすぐにゲートが開いた。

 スズカは最初から先頭に立ち、1番前を走っていく。他の子を寄せ付けぬ、圧倒的な速さ。後ろの子とどんどん差を広げていく。

 それは最後のコーナーを回り、直線へと入っても先頭にいた。スタンドからの歓声が大きくなるなかで他のウマ娘たちが追い上げるも、追いつかれることはない。

 スズカは最初から先頭でそれを譲らず、最後の直線も先頭。そのまま後続と大きく差をつけて勝った。

 他のウマ娘をものともしない、マイペースで圧勝する姿を見て俺は言いようがない歓喜の感情がやってくる。

 

 スズカの走る姿は綺麗で、力強い。

 初めてレース場で見ることもあってか、スズカは日本で1番のウマ娘なんじゃないかと思ってしまう。

 スタンドからのスズカの名前を呼ぶ歓声があってスズカの強さがわかるというものだ。

 レースを走り終えたスズカはコースの上で立ち止まり、荒くなった息を整えながらスタンドをきょろきょろと何かを探すように見ている。

 俺を探しているのか? と考え、目立つように片手を思い切り上へと上げる。それでも回りの人たちがやっているから、そんなに変りない気がする。

 だから俺は声を上げる。

 

「スズカ―! サイレンススズカー!!」

 

 名前を呼んだからか、スズカは俺に気づいて俺と目が合った。その途端にスズカは安心したような柔らかな笑みを浮かべると、コースから離れてレース場の中へと戻っていく。

 観戦していた人も一部はいなくなるが、この後も別ウマ娘のレースは続いていく。

 この後の俺の予定はレースで勝ったウマ娘のウイニングライブ、つまりは1着で勝ったスズカが歌って踊るのを見ることにしているが、それまではまだ時間がある。

 ウイニングライブについての説明はスズカが軽くしてくれたが、1着から3着までのウマだけがアイドルのように歌って踊れることができるとのことだ。

 

 でもなんでライブなのかがわからない。

 走るだけじゃ観客はそんなに来ないし、ファン投票は賭け事ではないから、お金が賭けれない代わりにライブの当選権ということだろうか。

 夕方の時間が近づくとライブをする場所まで行くが、どうもレースの時と客の雰囲気が違う。

 ウマ娘を応援していた人たちが、なにやらアイドルのライブで応援するような道具の何かを準備している。

 スズカはライブのことなんて軽くしか言ってくれなかったために、何を歌うかとか踊りはどういうものかも分からない。

 周囲の客の観察をしているあいだにライブの時間が来て、スズカが走った前のレースのウマ娘たちがウイニングライブを始める。

 運動着の姿と違うんだなぁとぼんやりと見ながら、歌い終わっていくのを眺めていく。

 

 そしてスズカの番が来た。

 ステージに出てきたスズカの姿は運動着とは違い、綺麗な衣装をしていた。

 緑色のケープを身に着け、その下にはトレセン学園のとは違う制服のようなデザインで白と緑を使った色だった。手には黒手袋、足は黒タイツで全部を覆って靴はヒールを。

 見慣れない、でもおしゃれな恰好はただかわいくて、さらには歌って踊るのは見ていてたまらない。

 初めてのライブだからか、それほど歌も踊りも上手というわけではない。でもこのライブは印象深く記憶に残ると思う。

 ライブをしているのが不思議な関係で仲良くしているスズカなんだから。

 スズカの出番が終わり、他のウマ娘たちのライブが終わると心に穴が開いたような空虚感が生まれる。

 競馬場から自宅へと帰る途中、テンションが下がったためか暗いこと考えてしまう。

 どこかスズカが遠くに感じたのは気のせいだろうか。多くのファンが集まり、スズカに声援を飛ばして嬉しそうに笑みを浮かべている人たちを見ると。

 俺なんてファンの中の1人と同じ存在だろう。

 もしかしたら、次会ったときはいつもの違うスズカになっているかもしれないと考え、怖くなってしまう。

 

 そんな気持ちを持ちながら、スズカがやってきたのは次の日の夕方だった。

 スズカにもう会わないほうがいいとか言われたら嫌だと思いながら、休日の日を暖かい部屋の中で、ジーンズと長袖の服を着てごろごろしていた時のことだ。

 チャイムの音が聞こえ、慌てて玄関へと行きドアを開けるとそこにはスズカがいた。

 いつものクールな顔つきに普段どおりの制服にメンコの耳カバー、茶色のダッフルコート姿。背中には大きく膨らんだリュックサックを背負った。

 

「約束を果たしに来たの」

 

 ……約束? あぁ、そんなのもあったなと思いだす。約束の内容は俺がご褒美をあげるというものだったはず。

 スズカを中に入れると、スズカはちゃぶ台の前に行ってリュックサックを置く。

 俺にスズカとは反対側のちゃぶ台前に座るよう指で指し示してきたので素直に座る。

 

「ちゃんとレースを見たよ。かっこよかったな」

「あ、うん、ありがとう。これ、お土産」

 

 俺が褒めると困惑しながらリュックサックの中から物を取ろうとする。

 ちゃぶ台の上に並べられたのは物はお土産だった。

 有名ウマ娘の写真が入ったシールやキーホルダーにボールペン。

 

「結構あるな。むしろ俺のほうが感謝するよ。あんなかっこいいスズカを見れてよかった」

「ううん、私のほうが感謝している。アキくんを見て、落ち着けたの。走り終わったあと、みんなが私に向かって歓声や笑顔を向けてくれて嬉しかった。あぁ、私がみんなを喜ばせてあげているんだなって。私が走ることで喜ぶ人がいるなら、走り続けたいって思ったの」

「走る理由ができてよかったな」

「うん。それとアキくんが見続けてくれるなら、その、頑張れる、と思うの。だからずっと私を見ていて欲しい」

 

 頬を赤らめ、たどたどしく恥ずかしがりながら言うのに俺までもが恥ずかしくなってスズカの顔を見れなくなる。

 どちらも言葉が言えず、静かな時間が続く。でも嫌な時間じゃなく、自分の中の恥ずかしさがいっぱいで喋ることすらも難しい。

 今、何か口を開けたら感情任せに恥ずかしいセリフを言うに違いないから。

 だから頭を落ち着かせ、言葉を選んで言う。

 

「走る理由は見つかったらしいな?」

「うん。見ている人に喜んでもらえるような、夢を与えられるように私はなりたい」

 

 走る前と今ではすっかりと変わっている。ウマ娘だから、と惰性で走ろうとしていたスズカが目標を持って明るい顔になっている。

 正直、俺がいなくてもいい気がしてくる。

 自分の目標を持ち、レースで圧倒的な強さがあるのだから、すぐに有名なウマ娘になるだろう。その時になればスズカの成長の邪魔になるかもと思ってしまう。

 

「スズカ」

「なに?」

「……俺はまだスズカと一緒にいていいかな」

 

 スズカは首を傾げ、不思議そうな表情になって言う。

 

「アキくんはアホの子だったりするの?」

「お前に言われたくないわ! この常識知らずが!」

「うん。私は常識がちょっとだけ足りないの。だから今までもこれからも必要。アキくんが、私には必要なの。いつでもどんな時でも」

 

 小さく、幸せそうな笑みを浮かべるともう何も言えない。

 こんな顔をされたら俺は一方的に負けてしまう。いや、その前にそう思ってくれるのはとても嬉しい。

 スズカといると楽しいし、生きていくことを 元気づけられるから。

 

「それとこれもあげる」

 

 そう言ってリュックサックから出したは1個の蹄鉄(ていてつ)だ。

 

「これは2日前の、私が初めて走ったレースのものなの。記念としてアキくんに持ってもらいたくて。私の大事なものを」

 

 蹄鉄(ていてつ)はちゃぶ台に置かず、頬をちょっとだけ赤らめて俺から目をそらしながら手渡してくる。

 それを受け取り、これがスズカが使っていたものだと実感すると鉄の重み以上な何かを感じる。

 初めてのレース、初めての勝利を運んだ、スズカの走る靴につけられていた蹄鉄(ていてつ)

 

「何もしていないと錆びちゃうから、時々は手入れしてね」

「錆止めを塗って、時々取り出しては眺めるよ」

「うん。残りのもう1個は私の寮の部屋にあるから、お揃いだね」

 

 はにかんで嬉しそうに言うスズカ。まるで親友のような関係で気分がいい。

 物を通して目に見える友情があり、今こうやって笑いあう見えない友情。

 ひとおり蹄鉄(ていてつ)を眺めたあと、それをちゃぶ台に置くとスズカとの会話に戻る。

 

「もらってばかりだと悪い気がするな。レース前にご褒美をあげるって言ったろ。何がいい?」

「お泊りがいい」

「どこに?」

「アキくんの部屋」

 

 俺とスズカは仲がいいと思っている。これはお互いに遠慮なんてなく気楽だし、男女的問題が起きないという信頼が置かれているってことか?

 でも何も考えていないこともあるが、あえて聞くと俺が気にしすぎだと思われる。

 ここは普通どおりのそっけない態度で行こう。

 

「いいけど、泊まっても大丈夫か?」

「大丈夫。ちゃんと外泊許可をもらったから。男友達の家に泊まるって」

 

 ……正直者は好きだけど、よくトレセン学園もこれで許可を出したなって思う。でもきちんと許可はあるわけだし、後々の問題にはならないはずだ。

 スズカはリュックサックの中から白いキャミソールみたいなものに緑色のカーディガン、下着は前に見たのと違うデザインのを出してくる。

 着る服の準備も万端だ。

 それにこれはスズカがレースを頑張ったご褒美として望んでいるんだから、できるだけ叶えないと。

 その前に服と下着は目の毒なのでリュックサックに戻してもらうが。

 

「準備もしっかりしているみたいだな。さて、俺はお土産を片付けて、今から飯を作るがスズカはどうする?」

「アキくんが持っている本を読みたい」

「ああ。本棚にあるのなら自由に読んでいいぞ」

「……自由に読んではいけないのがあるの?」

 

 その言葉に何も答えず、お土産物を集めて部屋の隅っこに置くと急いで台所へと行き料理を作ることにする。

 正直にその答えはいいたくなかった。俺だって健全な男の子。女の子が読んじゃいけない本だって多少は持っている。

 もしスズカが読みたいと言ったら非常に困るため、その話は回避しないといけない。

 背中に感じる視線を無視しつつ、2合分のお米を研ぎ始める。考えることは夕食のメニューをどうしようかということだ。今日はカップ麺で済まそうと思ったが、せっかくレースで勝ったあとにカップ麺というのはよろしくない。

 もっと豪華にしてもいいんじゃかいかって気もする。スーパーで買える範囲内で。

 

 そうなると今から買い物に行くべきだ。

 俺1人じゃなく、スズカも連れて。

 お米が研ぎ終わり、炊飯器にセットが終わると何かの本を読んでいるスズカのそばへと行く。

 

「夕食の材料を買いにスーパーに行かないか?」

「行く。今すぐ行く」

 

 返事は素早く、力強かった。読んでいた本をすぐにちゃぶ台の上へ置くと、リュックサックを持とうとするがそれを止める。

 

「お金はいらないって。今日は俺に任せてくれ」

「でも……うん、わかった。アキくんに任せる」

 

 俺はそこらに放り投げてあったジャンバーを着ると、財布とエコバッグをジャンパーのポケットに入れてダッフルコートを着たスズカと一緒に家を出る。

 暖かい家から寒い外に出ると時刻5時の今は太陽がもう沈む寸前で、人気のない道に街灯の灯りがあちこちでついている。

 向かう先はすぐ近くのスーパーだ。そこへ行くため、スズカと並んで歩くが、こうして歩くのは初めてだ。最初に会ったときは雨の中でスズカを俺が肩にかついで家に連れていったし、それ以外でスズカと会うのは俺の家の中だけだった。

 女の子と一緒に歩くというのは、そんなに多くないため新鮮だ。

 そもそもこんな美人なスズカと一緒に外にいることにわずかに緊張してしまう。

 

「スズカは何か食べたいのがあるか?」

「アキくんが作ってくれるなら、なんでもいい」

「なんでもって言われると困る。嫌いなものだけでも教えてくれ」

「野菜中心なら後は好きにしていいよ。……それにしても」

「なんだ?」

「えっとね、私たちってまるで恋人みたいな会話しているね」

 

 なんて照れながら言うスズカの髪をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でまわしてはボサボサの頭にしてやる。

 スズカはじとっとした目つきでに俺をにらんでくるが、俺としては恋人という気分じゃない。

 

「お前がウマ娘じゃなかったら、兄と妹な関係にしか見えないな」

「つまり、今は恋人と見てくれ―――あ、待って、尻尾はやめて」

 

 変なことを言うスズカの尻尾の付け根に手をやり、さわさわと撫でるとスズカの言葉は止まり、色っぽい喘ぎ声が聞こえてくる。

 その声が聞こえてすぐに手を引っ込めるが、今まで尻尾は触ってこなかったから、こんな反応をするとは思わなかった。せいぜい、くすぐったい程度だと思っていたのに。

 次からはしないように気をつけよう。危ない気持ちになってしまうし、セクハラしたということで警察沙汰になってしまうかもしれないから。

 

 ……ああ、いつもならスズカをさわるなんてことはしないのに。

 外という開放的な空気に、レース勝利というお祝い事のために俺のテンションが上がってしまっている。

 もう早く買い物を済ませ、家に帰って飯食って寝よう。明日になればスズカは帰り、穏やかな日常が戻ってくる。

 それから恥ずかしがったスズカとは会話もなく、なんとも言えない空気の中でスーパーへとやってくる。

 今日作る料理はキャベツのステーキに湯豆腐、あとは家にある白米とインスタント味噌汁だ。

 作るものを決めると、先にその場所へ行ってから材料を買い、あとは日用品やお菓子などを買っていく。

 スズカは、買い物かごを持つ俺の後ろをついてきては、俺が手に持った商品を見たあとに値段を確かめるということをしている。

 どうも普段はスーパーに行かないらしく、なんにでも興味津々だ。

 そんなスズカがかわいく見え、頬が緩んでしまうが慌てて手で口元を押さえる。これがスズカに見られたら、また変なことを言ってくるから。

 

 スーパーで問題を起こすことなく、無事に家に帰ってきた俺とスズカ。

 それぞれジャンパーとコートを脱ぐと、エコバッグの中身を片付けたあとはそろって台所の前へと立つ。

 これから料理を始めるのだが、なぜかスズカもやる気が満ち溢れている顔をしている。

 

「スズカ。俺は今から料理をするんだ」

「わかってる」

「あまり話ができないから、向こうに行ってていいぞ?」

「私も手伝いたいの」

 

 けなげな言葉に感動し、手伝わせようとするが今日の夕食は簡単なため手伝ってもらえる要素があまりない。

 最も手間がかかるのはキャベツのステーキだが、それもすぐ作り終えてしまう。

 

「今回は簡単なのだから、すぐに終わるが」

「それでいい」

 

 決意の固さに俺は折れ、スズカにキャベツのステーキを任せることにする。

 まな板の上にキャベツを置き、包丁を手渡すがどうにも持ち方が悪い。

 

「料理経験はあるか?」

「ええと、ウマ娘は料理をおいしく食べるのが仕事の一部となっていて……」

 

 つまりは料理経験がない、と。

 それはそれで楽しい。何も知らない子に、自分好みのことを教え、育っていくというのは。

 スズカに料理技術を教えたら、将来的に俺好みの味を作ってくれるかもしれない。そうすれば料理を作らなくてもいい機会が増える。

 

 いい機会なので、丁寧に持ち方から教えていく。他は料理を作りながら教えていくことにする。

 まずは買ってきたキャベツ1玉を半分に切らせ、切った半分を4等分に。

 用意した小麦粉をキャベツの切り口にまぶす。

 スズカがその作業を楽しくしているあいだ、俺はニンニク1欠片をスライスする。次にフライパンへオリーブオイルとスライスしたニンニクを入れ、弱火で火にかける。

 そうやって油にニンニクの香りを移すのを待つあいだ、作業が終わったスズカと一緒に待つ。

 そのあいだに会話はなく、フライパンをじっと見つめるスズカのふんわりと揺れる尻尾を見ていた。

 

 2、3分ほど時間が経ったあとは火を中火に変える。そこに4等分したうちのふたつ、小麦粉をつけたキャベツを入れる。

 全部で4つの両面をいい具合に焼いたあとは湯豆腐と味噌汁も作る。

 部屋のちゃぶ台へと食器を準備し、料理を運ぶのはスズカに任せ、俺はちゃぶ台の前に座って待つ。

 用意が終わると対面にスズカが座り、お互いに手を合わせて「いただきます」と言って食べ始める。

 キャベツのステーキにしょうゆをかけ、スズカも同じように。そして同じタイミングでそれを口に入れる。

 

「うん、うまいな」

「おいしい。アキくんに教えてもらいながらだけど、私の初めての料理になるのね」

「あー、初めてならもう少し手の込んだものがよかったよな」

「ううん、最初はこれくらいでいいと思う。これより難しかったら、アキくんに全部任せちゃうだろうから」

 

 自分の力量をきちんとわかっていることに好印象を受ける。俺がいるなら、とりあえず作りたいものから始めると言っても良さそうなのに。

 料理の味付けやお米の固さ、この季節は何の食べ物がおいしいかなどの雑談をしている時に気になったことがある。

 

 今日、スズカは俺の家に泊まると言った。でも布団は俺の分しかない。夏なら布団はなくてもなんとかなるが今は2月。布団もなしにそこらで転がっていたら風邪を引いてしまう。

 スズカは寝袋か何かを持ってきたのかとも考えたが、さっきのリュックサックにはそれが入っているようには見えなかった。

 食事を終え、箸を置いた俺はまだ食べ続けているスズカに聞くことにする。

 

「なぁ、スズカ。俺の部屋は布団がひとつしかないが、お前はどうするんだ?」

「どうするって、そんなのアキくんと一緒の布団でいいじゃない」

 

 なんでもないように言うスズカの言葉に俺は硬直し、固まってしまう。

 その言葉の意味は、俺を追い出してスズカがひとりでそこで寝る。または一緒に寝るということが考えられる。

 

「なるほど。スズカは俺が服を着こんで床の上に寝ればいいと言うのか」

「だから、一緒に寝ればいいって言ってるの」

 

 表情を変えずにクールなスズカ。動揺しているのは俺だけか。ウマ娘にとって感情を大きく表現する耳の動きがわかればいいが、スズカは耳カバーをしているためにどういう感情なのかわかりづらい。

 普段からの落ち着いた雰囲気もあって、いったいどういう意味か。男女としてなら、俺はまだ早いと思うし、そもそも現役ウマ娘のスズカとしても男女的問題が起きてしまうのも。

 

「私はアキくんの温度を感じて寝たいの。今まで母親の他に誰かと一緒に寝たことなんてないから。……信頼できるアキくんのそばにいると、私の心は満たされるの」

 

 それを聞いて、俺は自分がバカだったことに気づく。もっと頭を使えと自分を叱る。スズカは常識が足りない子だが、繊細な子でいつも考えて生きている。

 時々言う、恋人的な言葉は寂しさを伝える遠まわしだったと気づいた。

 スズカと出会って5か月ちょっと。スズカのことの多くはわかったつもりでいたが、そうではなかった。

 出会いの時から、スズカは自分への自信がなく寂しがっていた。

 

 捨てられたらどうしようと悩み、自暴自棄になって雨が降る公園のベンチに傘も差さず座っていた。死んでしまいそうな雰囲気に見えたほどに。

 それが今のような仲がいい関係になったが、単なる男女との関係ではないが、俺もスズカと一緒にいると安心する。

 今の俺たちを表すなら、家族みたいな信頼と安心を求めている関係なのだと思う。兄と妹のような。

 やっと俺たちの関係が把握できたときには、スズカは静かに俺を見つめていた。

 

「わかった。寝るだけな」

「ありがとう。アキくん大好き」

 

 大好きと言われた瞬間に、驚き心臓がバクバクと動いて鼓動が早くなって顔が赤くなる。

 家族と思った途端に、そんなことを言われて動揺する俺の意思の弱さが悲しい。

 スズカのほうはそういう意識がないというのに。その期待を裏切らないように、スズカのことを考えて大事に付き合っていこう。

 言ったほうのスズカは食事を終え、興奮も恥ずかしがる様子もなく自分の分の食器を台所へと持っていく。

 

 その時に見えた後ろ姿。スズカの尻尾は普段の下がっている状態ではなく、高く持ちあがっていた。

 尻尾でも感情が分かるらしいが、その知識がない俺にはそれがどういう意味かは分からない。だから、これからはウマ娘のことについて多くを調べていこうと思った。

 食後の後片付けはスズカがやってくれるというのでお願いし、俺はテレビをつけてちゃぶ台へと突っ伏して適当な番組を見ている。

 今から勉強はスズカを気にして集中できないし、読書な気分でもない。なのでテレビを見ることぐらいしかやることが思いつかず、ぼぅっとしているとスズカが後ろへとやってくる足音が聞こえる。

 

「あの、シャワーを借りても?」

「わかった、今から出て―――」

「そのままでいていい。今日は寒いし、アキくんを追い出すというのも悪い気がして」

「そう? じゃあこのままテレビ見ているよ」

「うん。私はシャワーを浴びてくるね」

 

 といって、隅っこに置いてあったリュックサックから下着とバスタオル、俺に見せてきたパジャマ代わりの服を持って風呂場へと向かう。

 ぼぅっとしていて、事の重大さに気づけなかったけど……俺の真後ろでスズカが着替え?

 そのことに気づいたときにはスズカの服を脱ぐ音が聞こえる。

 後ろを振り向けば、すぐそこにスズカの裸が見える。

 ちょっと見たい気持ちと、見たら嫌われるという思いがせめぎあう。

 

 そのあいだに風呂場へとスズカが入っていく音がし、風呂場のドアを閉めたことで安心する。

 思春期である男子高校生にとってなんという拷問か。この精神的な辛さを、シャワーから出てきたときにもう1度耐えなきゃいけないのか。ああ、俺が信頼できるかスズカに試されている気がする今だ。

 落ち着け。こういう時は素数を数えればいいって誰かが言っていた。次にスズカが出てきたら、そうしよう。

 対策を素早く脳内で考え付いたが、予想外の音が聞こえる。

 シャワーの音だ。その水の流れる音は不規則で、音だけでも刺激的な。脳内にガツンと来る。

 ……ああ!! 女性と同棲している世の中の男性たちを俺はものすごく尊敬する。こんな生活を当たり前に続けているだなんて。その人たちはどんな精神力をしているんだ。大人か、大人なら耐えれるのか、くそったれめ。17歳の俺にはきっついぞ、こんちくしょう!!

 

 テレビの電源を落とし、ちゃぶ台に顔をうずめてはひたすら耐える。素数を数える余裕なんてない。

 断続的に聞こえてくるシャワーの音に耐え、ふと音が止まったあと、次に聞こえたのはドアの音。バスタオルで体を拭く音。下着や服を着ていく音。

 あぁ、今この瞬間に俺の精神力は鍛えられていく気がする。顔をあげまいと耐えていると、足音が俺の横を通り過ぎて正面に座る音が。

 

「次、いいよ」

 

 声が聞こえ、顔をゆっくりと上げるとパジャマ代わりの服を着たスズカが座っていた。

 耳につけていたメンコのカバーは外されてウマ耳が見え、髪はまだバスタオルで拭いただけでしっとりと濡れている。

 持ってきた白いキャミソール、その上に緑色のカーディガンを着ていて、初めて見る姿に見とれていた。

 

「アキくん?」

「ん、あぁ、入ってくるよ」

 

 スズカの声で我に返り、慌てて立ち上がるとタンスから下着と灰色のパジャマを手に取った。

 風呂場の前に行ってスズカの方を見ると、スズカは座りなおしたらしく俺に背を向けて手に持ったドライヤーで髪を乾かそうとしていた。

 俺の着替えるのに興味がないのか、または理性が強いのか。スズカは大人だなと感心しながら服を脱いでいたが、視界の端に何かがちらちらと動いた。

 

 それはウマ耳だった。

 俺の動きが止まったときは落ち着きなく耳が動いていたが、また脱ぎ始めると顔はこっちを向いていないが耳の向きは俺へと固定される。

 スズカも俺と同様に好奇心があるのかと俺だけがえろいわけじゃないことに安心し、全部脱いだあとに風呂場へと入る。

 初めて会ったときと同じように風呂場はスズカの匂いで満ちていたが、あの時よりも落ち着かなくなってしまう。

 今ではもうずいぶんと親しい仲の女の子の匂い。それが好きな子なのだから余計に。好きといっても家族、妹という意味でだが。

 変に興奮してしまっていたが、シャワーの暖かさで次第に落ち着き、終わる頃にはいつも通りに戻っていた。

 ドアを開けて風呂場を出ると、スズカは俺に背を向けた状態のままでテレビの電源をつけて見ていた。

 耳の向きは一瞬こっちへと向いたが、すぐにテレビへと戻した。

 それでも耳や尻尾は落ち着きがなく、こっちに興味があることに苦笑してしまう。

 スズカの後ろ姿を眺めながら手早く着替えると、スズカの隣に置いてあるドライヤーを取りにそばまで行く。

 

「ドライヤーを使っていいか?」

「うん、私はもう使わないから」

 

 さっきまで俺へと興味を持っていたのに、今はそっけない態度にイタズラをしてしまいたくなる。

 さりげなく、座っているスズカの耳へと手を伸ばして優しく撫でると、体をビクリと震わせたスズカはすぐにくすぐったそうに手で耳を押さえた。

 俺をちょっと不満そうに見上げてくる顔はかわいらしい。

 

「アキくんのえっち」

「今のがそうなるのか」

「逆の立場で考えるとそうなると思わない?」

「……なるな。でもスズカのかわいい姿が見れたから気にするな」

「私は気にするの!」

 

 と、俺の足をバシバシと手で軽く叩いてくる。それを無視し、スズカの隣に座るとドライヤーで髪を乾かし始める。

 俺が相手をしてくれないのが嫌だったのか、スズカは俺の髪をがしがしと乱暴に撫でまわしてくる。

 それさえも無視していると、乾きつつある髪を手で整えてくれる。

 その優しい手つきが無視しきれず、そっとスズカの顔を見ると優しい顔で俺を見つめてきた。

 

「アキくんはかわいいね」

 

 男としてそう言われるのは嬉しいような、嬉しくないような複雑な気分だ。

 スズカの顔を見続けることができないほどに恥ずかしくなった俺は、髪が乾ききってもスズカを気にしないようにして寝る時間まで本を読むことにする。

 俺がそうするとスズカもテレビの電源を切り、前に家に来たときに見ていた本を読み始める。

 その間、お互いに会話もなく本を読み進めていくも時間が進むにつれて寝る時間が近づいてきて落ち着かなくなる。

 

 これから俺はスズカとひとつの布団で寝る予定だが、寝れる気がしない。そのうち眠気で自然と落ちてしまうだろうが、それがいつになるかはわからない。

 このまま悩み続けるよりも行動に移して寝る努力をしたほうがいい。明日は学校があるし。まぁ、あまりに眠れなかったら休むことにしているが。

 

「寝るか」

 

 本を閉じて立ち上がってはスズカに声をかけると、立ち上がって本を本棚にしまう。

 俺も本棚へとしまうと、ちゃぶ台を部屋の隅に寄せて押し入れから俺が使っている1人用の布団を敷く。

 それからオイルヒーターの電源を切り、部屋の灯りをオレンジ色の小さなものへと切り替える。

 暗くなった部屋に敷いた布団。目の前にはスズカという美少女がいる。

 どうにも落ち着かない心を抑え、先に布団に入るとスズカにも入るように言う。

 スズカは戸惑うことなく布団へ入り、横になる。

 

 お互いに天井を見て、会話もなく息遣いが聞こえるだけ。

 おやすみぐらい声をかければよかったと思うが、今から言うにはタイミングが難しい。でも言わないと落ち着かない。

 どうしたものかと悩んでいると、スズカが声をかけてきた。

 

「アキくん」

「どうした?」

「ありがとう。今まで私を支えてきてくれて。あなたがいたから、私は頑張れた。レースにも勝てた。不安になった時にはアキくんのことを頭に思い浮かべて、やってこれたの」

「なに。兄として当然だ」

「私のことは妹なの?」

 

 寝返りの音が聞こえ、すぐ耳元に息がかかる。振り向くとすぐ目の前にスズカの顔があり、薄暗い今の状態でも少し寂しそうな表情が見えた。

 

「今はそれでいい。私を大事にしてくれるアキくんは私のお兄ちゃんで」

 

 スズカは柔らかく微笑むと、素早く俺に顔を近づけたかと思うと頬に温かく、柔らかな唇の一瞬だけの感触。

 

「おやすみなさい」

 

 キスの意味について考える時間もなく、スズカはそう言って俺に背を向けた。

 その背中を見ながら、仲良くなれたんだと嬉しく思う。それは友達以上で兄と妹のような関係で、家族が新しくできたような。

 信頼ができ、いとおしい俺のスズカ。

 今ある愛情はこれから恋愛としての意味に変わるかもしれないが、今は親愛という愛情でいっぱいだ。

 

「おやすみ」

 

 自然と俺の手はスズカの頭へと伸び、スズカはビクリと体を震わせたあとに俺の手へと押し付けてくる頭を何度か優しく撫でたあと俺も寝ることにする。

 布団に入った時とは違い、今は穏やかな気分だ。

 スズカとの親しく、心休まる関係がこれからも続いていって欲しい。お互いに甘え、甘えられることのできる存在として。




2018年4月30日投稿

連載版 サイレンススズカ:私の走る理由
3話まではこれと同じ話です。
https://syosetu.org/novel/155411/


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2.キングヘイロー『キングヘイロー:私の走る理由』

 星空が綺麗に見える夜。トレセン学園で用務員として働いている僕は、1Kの広さであるアパートの部屋へと帰ってくる。

 18歳の時に北海道から就職して働くためにトレセン学園へやってきて5年が経っていた。

 3月はじめの今の時間帯は少しばかり寒く、本棚やちゃぶ台がある畳の部屋はひんやりとした気温だ。

 灯りをつけてカーテンを閉めると、すぐに石油ファンヒーターのスイッチを入れる。

 部屋はまだ寒いが息苦しい服からの解放を求めてジャンバーとその下に着ていた服を脱ぐ。

 そして自分の体を見て思うのはそれなりに筋肉がついたと感じる。

 トレセン学園での仕事は幅広く、馬場整備から学園敷地内の木の剪定や学校設備の維持までする。日頃から結構な体力を使うために高校生の頃よりもいい体つきになってしまった。

 

 成長したなぁと実感してから、動くのが楽な黒色のジャージへと着替えると夕食の準備を始める。

 と言ってもカップラーメンを食べるためのお湯を沸かすだけだ。

 夕食を食べ終えたあとは妹同然のキングヘイローからもらった、デビュー戦の時に使った蹄鉄(ていてつ)の手入れをやることにする。時々手入れをしないと、すぐにサビが増えてしまうから。

 1週間前にもサビ取りをしたが、今日も手入れをする。

 

 普段は定期的にやるものだが、仕事中にテレビで見たヘイローの弥生賞を見た興奮がまだ残っていたからやりたくなってしまう。

 レースのほうは残念ながら3着で負けてしまったけど。

 

 夕ご飯の片づけをし、台所に行って換気扇のスイッチを入れると部屋に戻ってヒモを結んで壁にかけてある蹄鉄(ていてつ)を手に取る。

 それと部屋の隅に置かれているサビ取りとサビ止めスプレー、それに白い布の横へと座ってはそれらを手に取ってサビを取る作業をしながらヘイローとのことを思い出す。

 キングヘイローとの出会いは、僕が小学校低学年の時だった。

 僕の母親とキングヘイローの母親である、ウマ娘として名門であるグッバイヘイローさんとは親友と呼べるほど仲が良かった。

 

 だから親が子供を連れて互いの家に訪れる機会も多く、そのある時にグッバイヘイローさんから直接、娘であるキングヘイローの遊び相手兼友達になって欲しいと言われた。そして良ければ、信頼できる友達にと。でも僕が嫌いになった時や、あの子がダメな子だとわかった時は見限ってもいいと言われたけど。

 当時の僕は素直に「わかった」とは言ったが、多くの意味は理解しないままだった。

 でも生まれてまだ2年ほどのキングヘイローは幼くもかわいいウマ娘だった。僕は一目で夢中になり、機会があれば一緒に遊ぶようになった。

 

 お互いに成長していくうちに、一時期は反抗期や大人になっていく途中で仲が悪くなったりしたものの、本当の兄と妹みたいな関係になっていく。

 僕は彼女のことを『ヘイロー』と呼び、ヘイローは僕のことを『兄さま』と呼んでくれる関係に。

 高校を卒業すると、僕はグッバイヘイローさんの紹介で北海道から本州にあるトレセン学園へと就職した。

 

 その時はヘイローが寂しさで泣いてくれたのが印象深く、時々思い出すことがある。

 それから少しの時が経ち、ヘイローがトレセン学園に入ってきた。

 学園で再会したときは嬉しかったが、ヘイローは僕に対して距離を置いてきたのが寂しく思えた。

 でもそれは学園で会った時だけで週に1、2度ほど僕の部屋にやってくるときは昔のような距離で接してくれる。

 そんな出会った頃や小さい頃を思い出しながら始めた作業は終わり、ちょっとだけあったサビは取れた。

 あとは仕上げとしてサビ止めをつけるだけ。

 

 と、作業を続けようとしたらチャイムの音が部屋に響き渡る。

 壁にかけてある時計を見ると時刻は午後9時半。

 この時間に来るとしたら1人しか思いつかない。

 ヘイローと会えると思うと自然に笑みが浮かび、蹄鉄(ていてつ)と道具を置いて玄関へと向かう。

 すぐにドアを開けると、そこには薄い青と白を基調としたトレセン学園の制服を着てニーソックスを履き、ボストンバッグを肩にかけているキングヘイローがいた。

 ヘイローの身長は僕より20㎝低い159㎝。

 頭の上にあるウマ耳の両方には青色のカバーを付けていて、右耳には小さな緑色のリボンを結わえている。

 

 女子高生のような幼さがある顔だが、美人度に関しては肌が輝くようで胸もあってスタイルがよく、そこらの子よりも美人だと自慢したくなるほどに綺麗だ。

 髪はよく手入れがされていて、肩まである跳ねっ毛な明るい茶色のセミロングだ。ウマ尻尾の毛も髪と同じく手入れがしてあり、尻尾は高く持ち上がり左右にふんわりと揺れていた。

 レース後で負けたから落ち込んでいるかと思いきや、そんな雰囲気はなく疲れた表情をしていたものの、僕の顔を見ると笑顔を浮かべて抱き着いてくる。

 

「おつかれさま、ヘイロー。レースは残念だったね」

「はい、兄さま。でも楽しかったです。まだ自分が早くなれる余地があるとわかって今日は嬉しい日でした」

 

 そう嬉しそうに言って僕の胸に顔を押しつけてくるヘイローの髪を優しく一撫でし、僕はヘイローの両肩を掴んでは押して距離を取る。

 不満そうな顔で僕を見上げる姿はかわいいが、先に心配することがある。

 

「今日も泊まるのかい?」

「外泊届けもきちんと届けてきましたわ」

「寮にいたほうが快適だし、ご飯もおいしいと思うけど。それにレース後だし休まないと」

「兄さまのそばにいるのが最高の休養となりますの」

 

 僕の腕を優しく振り払うと、ローファーの靴を脱いで部屋へと上がる。その際にきちんと靴を綺麗に並べていく。

 僕はドアの鍵を閉めると、ヘイローの後を追う。

 ヘイローは畳の上にボストンバッグを置くと正座で座り、ウマ耳にかぶせているカバーを外してバッグにしまうと僕が手入れをしていた蹄鉄(ていてつ)をじっと眺めている。

 

 疲れているだろうから、すぐにくつろいで欲しいと思うが、作業の方が気になって仕方がないらしい。

 僕はヘイローの隣に座り、その蹄鉄(ていてつ)を取るとさっき続けていた作業を進める。

 サビ止めのスプレーを吹き付けては丁寧に布で拭いていく。溝も釘穴の部分も時間をかけて。

 静かなままヘイローは僕の手元を見ているため、気になっていることを聞く。

 

「ご飯は食べてきた?」

「はい。スペシャルウィークさん、セイウンスカイさんと一緒にレース場の食堂で」

 

 蹄鉄(ていてつ)から目をちょっと離し、表情をうかがうと怒りや落ち込むような感情は見当たらない。

 その2人のウマ娘はヘイローより先にゴールしたウマ娘たち。

 レースに負けても仲良くでき、一緒にご飯を食べれるのはいいことだと思う。

 相手に敵意を向けることや恨むことをせず、ただ自分の成長について喜べるは素敵なことだ。

 それにその2人のウマ娘とは話したことがあるから、3人とも仲が良いいのは安心する。

 蹄鉄(ていてつ)へと目を戻し、会話はないが穏やかな空気の中で作業を終える。

 

「綺麗になっただろ?」

 

 と蹄鉄(ていてつ)をヘイローの前に持っていって見せつける。

 

「そのまま大事にしていてくださいね?」

「ああ。ヘイローからもらった大切なプレゼントだからね。サビがつかないように頑張るさ」

 

 そう言って立ち上がり、蹄鉄(ていてつ)を本棚の上へと置く。壁に飾るのは明日やることにしよう。

 綺麗になった蹄鉄(ていてつ)を見ていると、暖かい視線を感じてヘイローへと向く。だが、視線が会った途端に顔を横に向けた。その横顔は嬉しそうに笑みを浮かべていた。

 

 サビ取りに使った道具を片付けて台所の換気扇を止めたあとは、ぼぅっとした静かな時間を過ごしたくなってヘイローのそばで壁に背をあてて座る。

 それを見たヘイローは俺の前に膝立ちで急いでやってくると、俺の膝へと手を置く。

 いったい何をしたいんだろうかと不思議に思っていると、ヘイローは恥ずかしそうに口を開いた。

 

「あの、少しばかり足を開いていただけません?」

「どうして?」

「理由は、その……ですね。その、北海道にいた頃のようなことをしたくなりまして」

 

 それで昔のことを思い出した。小さい時から、ヘイローは足の間に入って僕の胸へと体を預けるというのを気に入っていた。

 こっちに来てからは1度もそれをしなくなっていた。

 ヘイローも美人なウマ娘の大人として成長していくのだから、子供のように扱うのは失礼だと思っていたからだ。

 

「それに2回も続けて負けると、私の心もちょっとだけ疲れているんです。だから、これは心の栄養補給なんです!」

 

 恥ずかしそうに大きめな声で言う姿がかわいらしく、苦笑しながら俺は足を開くとすぐにヘイローはその隙間に体を入れてくる。

 僕の胸に背中を預けると、安心したような大きな息をついた。レース後にシャワーを浴びたらしく、シャンプーのふんわりした香りを感じていると、ヘイローは僕の左右の手を取ると自分自身のお腹のあたりに持ってくる。

 この姿勢は僕がヘイローを抱きしめている態勢だ。

 恥ずかしい気持ちがでるも、小さい頃の時と変わらないなと懐かしい気持ちで安心する。会話もない静かな部屋で僕はヘイローの温度を感じながら、僕はそんなことを思った。

 

 ちょっとのあいだ、お互いの体温を感じあっていたがヘイローは今日のレースやウイニングライブについてゆっくりと話し始めた。

 弥生賞では負けたけれど3着になれたのだから、能力的には劣っていないという自信ができた。次のレースである皐月賞ではいいところを見せれるかもしれないと興奮した様子で語ってくれる。

 ウイニングライブはレースとはまた違う楽しさがあり、見てくれる人が喜んでくれることが嬉しい、と。スペシャルウィーク、セイウンスカイのふたりと一緒に何かをすることは楽しいとも。

 ヘイローは喋りながら僕の手を撫で、時には太ももをぺしぺしと叩きながらも話をしてくれる。

 そんな仕草なヘイローがかわいく思える。

 

「ヘイロー」

「なんですか、兄さま?」

 

 不思議そうに顔を僕へと向けてくる。

 喋っているあいだは顔が見えなかったが、こうして見るとヘイローの顔が好きな僕としては嬉しい。それに昔と違い、レースで走る理由も変わっていそうだ。

 最初は走る理由は『親が優秀だから、子も優秀であるべき』なんてことを言っていた。

 僕と仲良くなってからは『自分の優秀さと、兄さまにいいところを見せたい』と変わっていった。

 優秀な親を持ったせいなのか、周りからの期待が強すぎたのか、自分の意思は走る理由に入っていなかった。

 

 周囲の希望を子供ながらに応えようとして、頑張っていた。

 僕が『好きなように走ればいいんじゃないの?』と言ったら『ウマ娘だから他の誰よりも早く走らなければいけないのです』と。

 トレセン学園での生活が楽しい今では、新しく走る理由を見つけているのか気になる。

 

「走るのは楽しいかい?」

 

 聞きづらい質問をしてしまい、ヘイローの返事が以前と変わらなかったらと考えると気が重くなる。もし変わっていなかったら、そのうち重みに潰れて走ることが嫌いになりそうに思えたから。

 でも僕の暗い考えとは逆に、微笑みを浮かべる。

 

「とても楽しいです。ここには競い合える友がいて、純粋に走る力を比べられることは私にとって幸せなことです。あ、ウイニングライブも楽しいですよ?」

 

 自然な笑みに僕は安心し、ウマ耳を優しく撫でる。

 ヘイローは目をつむり、僕の手の動きに合わせて気持ちよさそうにする。時々色っぽい声が出てくるのにかなり驚いて手の動きが止まるが、ヘイローが自分から僕の手へと頭を押し付けてくるために動揺を抑えて撫で続ける。

 今まで子供扱いをしてきたが、精神が大人になりつつあるヘイローをこれからは1人の大人なウマ娘として扱ったほうがいいかもしれない。

 

 そう思いながらも昔のように撫でる手は止められず、今度は髪を撫で始めてしまう。

 変えようと思ってもなかなか変えられるものじゃない。そもそも僕が妹離れをするのが辛いし、大人扱いした結果が『兄さまなんて大嫌い!』と言われた日には、休暇届けを出して北海道に帰ってしまう気がする。

 ヘイローの成長は嬉しいが、僕自身の精神が昔のままで止まっているのは苦しいがしばらくは穏やかな時間を過ごしたい。

 このままずっと撫で続けていたいが口に手をあてて大きなあくびをするヘイローを見て、いつもより寝る時間は早いが寝てしまうことにする。

 

「レースで疲れているだろうし、もう寝ようか」

「……兄さまがそう言うなら」

 

 僕の言葉に眠そうな顔のヘイローはゆっくりと立ち上がり、置いてあるボストンバッグから白色の下着と緑色のパジャマを取り出して風呂場の前へと行く。

 そして僕の視線を気にすることなく、服を脱いでいく。

 アパートに泊まりに来たときは必ず着替えるが、その時は僕が外に行って待っている。だからトレセン学園に来てから下着姿になったヘイローを見るのは初めてで、いい筋肉の体だなと感心する。

 じっと見ていると僕の視線に気づいて、ぼんやりとしたヘイローはウマ耳をピーンと真上に立てて、大口を開けては声さえも出ない驚きの表情になった。

 このまま見続けるのはやばいと思い、即座に背を向ける。

 何か怒ってくるのかと思いきや、部屋と風呂場の間を仕切る戸が閉まり、服を急いで脱ぐ音が聞こえて風呂場へと入っていった。

 

 それでも背を向けたままでいて、風呂場からシャワーの音が聞こえたときにようやく体から緊張が抜けていく。

 すぐに思いだすのはヘイローの下着姿だ。その時に見た体はウマ娘らしい筋肉の付き具合に感心した。もちろん女の子として成長した部分はあり、色気が増してはいるがときめいたりはしない。

 それは長い時間を一緒に過ごしたから異性とは思えないし、大事な妹だから。

 僕は人間でヘイローはウマ娘だけど、これから先、どれだけの時間が経っても大事な妹だ。

 そばにいるあいだ大事にしようと思いながら、ヘイローがシャワーから上がってくるまで時間を潰すために本棚から小説を取り出して読みを始めることにする。

 

 そうして小説を読み始めたものの、ヘイローの下着姿が記憶に強く残り集中して読むことができない。

 なかなか忘れることができず、早くシャワーに入って意識をさっぱりさせたい。でもヘイローはまだシャワーから上がってこず、時間が経つのがとても遅く感じる。

 入りたい気持ちを抑えつつ待っていると、風呂場の扉が開く音が聞こえた。それからすぐに部屋と風呂場のあいだを仕切る扉が開き、緑色のパジャマを着たシャワー上がりのヘイローの姿があった。

 それを確認すると僕は小説を畳の上へと置いて立ち上がり、タンスからパジャマと下着の着替えを持ってヘイローの横を通り過ぎる。

 その時にヘイローは僕の腕を掴んで睨んできた。

 

「兄さま、私に何か言うことはありませんの?」

「あー……しっかり髪をかわかしてね?」

「違います。ほら、こう、私を見て……何かときめきません?」

 

 最後の言葉は僕から目をそむけ、恥ずかしげに言ってくる。

 そんな仕草はかわいいと思うが、それは妹としてかわいく、異性としてはまだときめきはしない。

 

「ずっと昔から妹であるヘイローはずっとかわいいよ」

「あ、ありがとうござ―――ではなくて、ときめかないんですか!? そして妹的かわいさよりも1人の女性としてはどうなんですか!?」

 

 ヘイローの大声から逃げるように仕切りの扉を閉め、素早く服を脱いでさっさと風呂場へと入った。

 8年前から1年に1回は今のように同じことを聞いてくるから、素直に最後まで聞くと返事に困る。

 どうもヘイローは僕にときめいて欲しいらしい。その理由がわからない。

 女性として充分に綺麗だし、強気な性格は慣れてしまえば素敵なものだから自信を持っていいぞと言っているのに。

 

 僕が高校生の時は当時付き合っていた恋人に対し、その人の前で僕に抱き着いてきては仲の良さをアピールしてきて困らせてくれたものだ。

 と、ここでヘイローが言いたかったことに気づく。

 小さい頃から一緒に過ごしてきた僕たち。僕が高校生になって、距離が離れた高校に通うようになって自然と一緒にいる時間が減ると共にヘイローの自己主張は増えてきた。

 ……つまりヘイローはブラコンだ。

 そう認識すれば、多くのことに納得する。

 今日だってそうだ。兄と妹の関係として過ごしてきたとはいえ、大人になっていくに連れて兄離れというのが起きるはずだ。それがないということは、もう兄が好きすぎて仕方ないという事だろう。

 きっと間違いないはず。

 

 答えが出たことで安心し、ヘイローがまるで僕を男として見ているわけじゃないと理解できた。

 シャワーを終え、風呂場から出てヘイローと同じ店で買った、サイズ違いの緑色のパジャマを着る。

 仕切りを開けると、畳にあぐらで座りながらクシを使いつつドライヤーで髪を乾かしていた。

 僕が来たことに気づくと表情を明るくし、ドライヤーを止めて僕の前までやってくると腕を引っ張ってきて座らせられる。

 

「私が髪を乾かしてあげます」

「毎回やってもらうのは、僕の兄としての尊厳がなくなりそうなんだけど」

 

 ため息をついて言うと、ヘイローは僕の後ろに回り込んで濡れた髪を触ってくる。

 

「大丈夫です。私は心の底から兄さまのことが好きですから」

 

 その言葉に一瞬、心臓がどきりと音を立てた。好きというのは普段から聞いているが、今のだけは違った。

 好きという意味は兄として? と聞こうとしたがドライヤーの音によって聞くタイミングは止められた。

 そのままヘイローに髪を乾かしてもらっているが、落ち着いた今となっては聞くことができなくてよかったと思う。

 もし、もしもだ。

 僕のことを男として好きだと言ったら、ヘイローを意識してしまって今までの関係が変わってしまう。

 それは怖いことだ。僕はこのまま変わらない関係で、ずっと穏やかに過ごしていきたいから。

 そんな想いを抱きながら、乾かし終えるのを待つ。

 ドライヤーの音が止まり、ヘイローが僕の髪を撫でて乾いたのを確認する。

 

「もう大丈夫ですね」

「次は僕がヘイローを乾かしてあげるよ」

「それなら明日も泊まりますわ」

「ダメ。外泊しすぎると学園から怒られるだろう?」

 

 そう言って立ち上がるとヘイローは不満そうに頬を膨らませるが、僕はそれを気にせず台所に行って歯磨きをする。

 台所には僕とヘイローの物である歯ブラシとコップが置いてあり、ヘイローのを取るとまだ不満な顔を向けてくるヘイローへと差し出す。

 じっと僕を見つめていたが大きなため息をつくと、しぶしぶといった様子で僕の隣へとやってきて受け取った。

 

 僕たちは並んで歯磨きをし、寝る準備を進めていく。

 しかし、ヘイローの私物も増えてきたなと思う。

 始めは遊びに来て、その日のうちに帰っていった。今では泊まるようになり、必要なものである自分用の歯ブラシやコップ、シャンプーや布団すらもある。

 ……考えてみると、これは同居生活に近いのかもしれない。

 これがヘイローの母親であるグッバイヘイローさんに伝わったら、レースの集中を邪魔しているとして怒るかもしれない。いや、むしろ『精神を落ち着かせる場所があればレースで連敗してもやっていけるから安心した』と言ってきそうだ。

 

 歯磨きを終えた僕たちは部屋を片付け、押し入れから2人分の布団を出して敷いていく。

 敷く際に布団同士の距離は離しておく。お互いに寝相が悪いというわけではないけれど、女の子的には寝る時は距離を離したほうが安心できると思って。

 それと近すぎるとヘイローの寝顔で僕が落ち着けないから。かわいい顔を見ていると、理性がなくなって抱きしめてしまいそうだ。

 いつも通りに布団を敷いたのに、ヘイローは口元に手をあてて考え事をしたあと、布団同士をくっつけた。

 僕はそれを見て無言で距離を取るも、またくっつけられる。

 それを3度ほど繰り返したところで僕は諦めると、ヘイローはガッツポーズをとって喜んだ。

 

「寝るか」

「はい、仲良く寝ましょう」

「寝るに仲良くも何もないと思うんだけど」

 

 僕はストーブを止めてヘイローが布団に入ったのを見て、部屋の灯りを小さなオレンジ色へと変えると自分の布団に入る。

 天井を見上げ、寝ようとするがすぐ隣からヘイローの息遣いが聞こえることが気になりすぎてしまう。

 なんでだろう。よく僕のことを好きですと言われ慣れているのに、今日だけはなぜだか意識してしまう。

 妹なのに、1人の女性として見てしまいそうだ。別にそれが悪いことではないけれど、今までの関係から変わると扱いに困ってしまいそうだ。

 ヘイローとの関係性に悩んでいると、ふと声をかけられる。

 

「兄さま」

「なんだい?」

「次のレース、G1である皐月賞に勝ったら私のお願いを聞いて欲しいの」

 

 多くのウマ娘が目指し、破れていくG1のレース。それだけにウマ娘にとって、G1勝利というのはとても栄誉あること。

 それを勝つことができるなら、ウマ娘のキングヘイローは素晴らしいウマ娘と言われるだろう。

 だから、ヘイローの望むプレゼントをあげてもいいと考える。

 

「G1のレースに勝てたなら、なんだって聞いてあげるよ」

 

 そういうと、ヘイローは布団の中で僕の手を優しく握り、すぐ耳元に息遣いが聞こえてくる。

 

「……私の恋人になってください」

 

 耳がくすぐったい小さなささやき声で言われ、頭でその言葉の意味を理解したと同時に勢いよくヘイローへと振り向くが、すぐにヘイローは僕から手を離すと背を向けていた。

 今まで妹としか思わないようにしていたが、こうも言われると意識してしまう。

 

 物凄く恥ずかしく、顔が熱く、心臓の鼓動の音がうるさく聞こえてくる。

 自分の今の状態が理解できると、隠れていた感情は女性として好きだというのが表に出てくる。

 今、この瞬間に僕とヘイローの関係は兄と妹から、1人の男と女に変わっていく。

 ゆっくりと深呼吸し、ゆっくりと落ち着いてきた僕はヘイローに素直な気持ちを伝える。

 

「いいよ」

 

 素敵な言葉は言うことができなかったけれど、その言葉を聞いたヘイローは突然布団の中に潜り込み、何かの言葉を興奮して言っているようだったが聞き取ることはできなかった。

 僕としては今すぐに恋人関係になってもいいのだけど、G1を勝つまで待てる。そのほうがやる気が出るだろうし、ヘイローならすぐにG1を勝つだろう。

 

 勝ったときにはどんなふうにお祝いしようか、どこにデートしに行こうかと今から考えてしまう。その前に母親であるグッバイヘイローさんにも会いに行かなきゃいけないか?

 まだ先のことを頭の中でぐるぐると考えてしまい、中々寝れない。

 その時に隣でヘイローが動き、微笑みを向けてくる。僕はそんなヘイローの顔を優しく撫でる。

 

「早く寝ないと明日は遅刻するぞ」

 

 そう言って僕の方から背を向ける。かわいい顔をじっと見ていると落ち着くことなんてできないから。

 目をつむり、頑張って寝ようとすると優しげな声が聞こえてくる。

 

「おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

 

 その言葉を最後に僕たちの間に静かな時間が流れ、ヘイローの寝息が聞こえてくる。

 次第に興奮が収まり気持ちが落ち着いてくると、少しずつ眠気がやってくる。

 そして次に目を開けたときはいつもと変わらない日常がちょっとだけ変わり、今までよりも幸せな時間が増えるに違いない。

 そんなことを考えながら、僕の意識は穏やかに沈んでいった。




2018年6月17日投稿


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3.ウオッカ『僕とウオッカの始まる恋の関係』

 11月のはじめ、学校が終わったあとに僕はバスでウマ娘のウオッカに会うためトレセン学園へとやってきた。

 来た理由は、昨日の日曜日に天皇賞(秋)に初めて出走して勝ったのを祝うためだ。

 本当はお祝いの品を買って来たかったけれど、まだ高校1年な僕はお小遣いも少なく、進学校に通っているためにバイトも許されていない。

 座席に置いたバッグを手に持って正門近くのバス停から降りると、制服であるブレザーの上から薄いジャンバーを着た僕の体に肌寒い風をちょっと感じる。

 雲がない空には太陽が傾き、オレンジ色の光が僕を照らしていた。

 道路のカーブミラーには幼さが残る顔の僕が見えていて、首筋まである茶色っぽい黒髪が輝くように光を反射している。

 

 少しのあいだカーブミラーを見て、寝ぐせや顔に汚れがないのを確認してから歩いていく。

 このトレセン学園は敷地面積が東京ドーム17個分ほどあり、2000人ほどのウマ娘が寮に住んでいると以前にウマ娘のウオッカから自慢げに教えられた。

 その自慢たるトレセン学園は学園というより、ひとつの街とも言える。

 壁と柵に囲まれた学園、西洋式の鉄でできた正門を見ると僕が通っている高校とは違うのだなと実感できる。

 そして、広大な学園の周りを走っているウマ娘を見ながら待ち合わせ場所である、寮の入り口前へと行く。

 

 その入り口前には3段ほどの小さなコンクリート製の階段がある、その最上段にバッグを置いて座ると、ひんやりとした冬の寒さが体全体に伝わっていく。

 思ってたより、ちょっとだけ寒かったからマフラーか手袋を持ってくればよかったなぁ、と自分の小柄な体を抱きしめるようにしてウオッカを待つ。

 時間の指定は学校が終わったら来いという約束だ。

 今日はレース翌日のあとだから、トレーニングも軽く終わらせてすぐにやってくるだろう。いや、やってこないと僕が風邪をひいてしまう。

 ちょっとずつ冷えていく手で、寮へと帰っていく顔見知りのウマ娘に手を振りながらウオッカとの出会いを思い出す。

 

 あれは去年の8月の少し前。僕が中学3年生だった時に今の高校へ学校見学をしたついでに近くの商店街で出会った。

 あの時のウオッカはダイワスカーレットというウマ娘と一緒に買い物に来ていて、そのふたりと僕がすれ違ったときだ。

 ウオッカの外見か、または雰囲気。そのどちらかもしれないけど、一目惚れのような、物凄く気になって仕方がない感覚がやってきた。

 僕より身長が高く、スマートで筋肉質な体。

 ウマ娘特有の特徴的な茶色のウマ耳で、左耳の根本にはリング状のアクセサリ。

 茶色の髪色でポニーテールは腰ほどまでの長さあり、他の髪は首筋までの長さ。その髪は全体的に外へとハネていた。

 その茶色の髪の中で、白い一筋の髪が右目のあたりをおおっている。

 薄茶色の瞳をし、高校生っぽい美人な顔立ちで茶色の尻尾があった。

 僕とウオッカはお互いに不思議と視線が離せなくなって見つめあってしまう。それから、どちらともなく自己紹介を始めた。

 

 それがキッカケでもう1年以上友達付き合いが続いている。ダイワスカーレットことスカーレットとも。

 普段からメールでやりとりをし、時々電話で話をして一緒に遊びに行くのは楽しいことだった。

 彼女たちと一緒にいるのはとても安心する。ウマ娘のレースを見にいき、誰が勝つかと予想しあったり。レース後に口喧嘩をするウオッカとスカーレットを微笑ましく見ていると、レース内容はどっちがよかったかと聞いて困らせてくるのも。

 バカな話も楽しいことも3人で楽しくやってきている。

 そういう少し昔のことを思い出し、自然と笑みが浮かんでしまう。が、風が吹くと寒さのためにすぐ笑みはなくなってしまう。

 

 ちらちらと学園の正門へと視線を向けるが、ウオッカの姿はまだ見えない。

 時間かかるかなと思ってため息をつくと、突然背中にひんやりとした冷たい感触がやってきた。

 声にならない叫び声をあげて、誰がやったかと後ろを見るとウオッカが僕の背中へと手を入れているのがわかった。

 

「待たせたな、ユニ」

 

 僕の名前の漢字を見て、ユニと呼ぶようになった赤いジャージの上に黒のジャンバーを着たウオッカは僕の隣へ1人分の距離を開けて座り、いたずらがうまくいって楽しそうな顔をしていた。

 ウオッカが来てくれたのは嬉しい反面、この突然のいたずらに思い切り不満な顔を向ける。

 僕にじっと見つめられたウオッカは視線をそむけたあとに僕の頭をぐりぐりと撫でまわしてくる。

 

「許してくれって。無防備な背中を見てたら、つい魔が差して」

「……まぁいいけど。今日の練習は終わったの?」

「おうよ。昨日がレースだったから今日は軽くな」

「いつものレース後より遅かった気がしたけど」

「あー、いや、それはスカーレットの奴とお前の話をしてな」

 

 遅くなった理由を聞くとちょっとだけ頬を赤くしてウマ耳を左右ばらばらに動かし、体もそわそわと落ち着きなく挙動不審になるウオッカ。

 普段は自信があり、いつも僕の前を歩いていく気の強い女の子。あまり見ることがない 不安がっている姿はなんだかかわいい。

 

「あいつのことはどうだっていいんだよ」

「ウオッカがそういうなら。今日はレースに勝ったから、おめでとうって言いに来たんだ。昨日のどっちが勝ったかわからなくてドキドキしたよ」

 

 天皇賞(秋)のレース。最後の直線でウオッカとスカーレットのふたりが競り合い、同着かと思えるゴールだった。

 昨日は手に汗を握り、写真判定で結果が出るまでずっと興奮と緊張感があった。

 

「なかなかかっこよかっただろ?」

「とても。もう、かっこいいって言葉しか出ないよ。うん、昨日のウオッカはものすごくかっこよかった。あぁ、今もこうやって思い出してくると昨日のレースは見れてよかったと本当に思うよ」

 

 言葉の途中から昨日のことを思い出し、段々と興奮していく。

 あの時の興奮はパドックから始まり、馬場に入った時、返しウマの時もずっと見ていたことを伝える。ウオッカはいつもよりかっこよく、スカーレットは凛々しくて美人だと。

 そして走る姿は何よりも好きだということも。

 そのことを熱く言ったからか、僕にたくさん褒められたウオッカは恥ずかしくなったのか、顔を膝の間にうずめてしまう。

 さっきの冷えた手の仕返しとして、さらに恥ずかしくさせたいといたずら心が芽生えた僕は話題を続ける。

 

「ゴール板を通過してからの写真判定の時間。あの13分は心臓に悪かったね。ウオッカとスカーレットはどっちも好きだから、同着でいてくれなんて思っちゃったよ。で、勝ったのがウオッカだとわかったときには、放心したね」

 

 テレビで何度も繰り返されたリプレイ映像はどっちが勝ったかがわからず、見ていただけなのにたくさん緊張した。

 ウオッカが1着、スカーレットが2着だとわかったとき、僕はウオッカに言ったとおりに放心した。

 それからはすごいレースが見れたと嬉しくなり、次の日に1週間も前から珍しく約束をしたウオッカと会ったら褒めてあげようと思った。

 

「昨日のウオッカは最高にかっこよかったよ。……あぁ、僕だけ話をして悪かったね。今日は冷えるから、どこかに食べに行こうか?」

「あー……、その、あぁ! ユニ、腹が減っただろ。減ったよな? なんか食い物持ってくる!」

 

 そう言って僕が腰を上げて立ち上がろうとすると、僕の肩を押さえつけて座らせてくると、そのまま慌てて寮の中へと入っていった。

 いつもなら、コンビニやハンバーガーを食べに行ったりするけど今日に限っては違うらしい。

 お小遣いがないとか、ダイエットをしているということだろうか。もしそうだったのなら、気づくことができなかった自分が情けない。

 

 ウオッカといると男友達みたいに気楽な感じで接してしまうのに気を付けないと。これがとても女の子らしいスカーレット相手なら深く考えてから行動や発言をするんだけど。

 もう少し気を引き締めなきゃいけないかなぁと考えながら、寮へと戻ってくる顔見知りのウマ娘たちに手を振り、挨拶をしていく。

 4人ほどに挨拶をした頃、その4人目とスレ違いにニンジンスティックとマヨネーズが入ったコップをひとつずつとマフラーを手に持ったウオッカがやってくる。

 ウオッカは他のウマ娘の後ろ姿を見たあと、ムッとした不満そうな表情で俺の隣へ座ってくるとマフラーを手渡してくる。

 

「使っていいの?」

「そうでなきゃ持ってこないだろ。ほら、早く巻け」

 

 ウオッカの心遣いに感謝し、マフラーをぐるぐると首に巻いていく。だけど、それを見ていたウオッカはコップを置くと不満な顔のまま俺からマフラーを外し、おしゃれなやり方で巻いてくれる。

 マフラーをつけて暖かくなるのと同時に巻いてもらうのはなんだか恥ずかしい。

 恥ずかしくてウオッカの顔を見れないでいると、目の前に細長く切られたニンジンスティックとマヨネーズの入ったコップを差し出される。

 

「食え」

「ありがとう」

 

 ニンジンスティックを1本掴み、マヨネーズにつけてからポリポリとかじっていく。

 僕とウオッカは会話もなく、寒空の下で静かに食べていく。でもこの静けさは嫌じゃない。

 ニンジンの良さがわかる濃い味を感じていると、ウオッカとスカーレットに会ってから段々と健康的な食生活になっていく気がする。

 

 ウマ娘は走ることが仕事だから食事にも気を付けていて、ハンバーガーや牛丼は滅多に食べない。一緒に出掛けた時にはベジタリアン向けのレストランや回転寿司などのヘルシーな食べ物ばかりだ。

 はじめのうちは野菜ばかりなのは好きではなかったけれど、多く食べても胃もたれしづらい、食後が楽などの良いところにも気づけた。

 だからぽりぽりと音をたててニンジンを食べていくのも悪くない。

 

「なぁ、ユニ」

「なに?」

「お前、ウマ娘の友達って多いのか?」

「友達っていうか顔見知りかな。僕がウオッカやスカーレットたちと一緒にいるからか、話しかけてくれる子と挨拶をする程度だよ」

「……その割にはさっきの奴とだって楽しそうにしてたのが見えたんだけど」

 

 そうだったっけ、と首を傾げながら思い出しているとウオッカの表情が寂しそうなものに変わっていた。

 思い出すのをやめてウオッカを見ていると、すねた様子を見せてくるがかわいくてたまらない。

 だからニンジンスティックを食べ終わってから手を制服で拭いたあとに、つい頭を撫でてしまった。

 撫でられたウオッカは目を見開いて驚き、そのまま抵抗もせずに10秒ほど撫でられていたけど、耳をピンと立てながら顔を赤くして僕の手を力強く掴む。

 

「なんで俺の頭を撫でるんだよ」

「構って欲しいのかなって」

 

 そう言うと、ウオッカは僕をにらむと体をちょっとだけ動かして離れた。

 嫌われたかなと思っていると、乱暴に僕の頭を掴んでは僕の体を引っ張り倒して膝の上へと頭を移動せられた。

 僕の頭はウオッカの膝の上。

 膝枕。そう、これは膝枕だ。女の子からの膝枕なんてのは今までしてもらったことはない。ウオッカの柔らかい太ももの上に頭を……いや、柔らかくはなかった。太ももの鍛えられた筋肉は固く、枕にしては感触が悪い。

 

 けれど、それでも男と違う女の子特有のわずかな柔らかさと匂いを感じて、僕の心臓は全力で走った時と同じぐらいにドキドキと緊張をしている。

 緊張したまま、どうすればいいかわからず、言葉は何も出てこない。

 ウオッカのほうも強引に膝枕をしておきながら、そこから先は言葉や行動が何も続かない。僕たちは動くこともなく、お互いの息遣いを聞くだけだ。

 

 緊張し続けている時、ふとウオッカが僕の頭を撫でてくる。

 驚いてウオッカの顔を見ると、恥ずかしそうにしながらも優しい顔つきだった。ボクは緊張が少しやわらぎ、ウオッカの尻尾を振る音を聞きながら、されるがままになる。

 その手つきははじめこそ雑に撫でてきたけれど、次第に優しくて気持ちがいいものになってきた。

 僕はウオッカに撫でられ続け、段々と落ち着いてくると同時に眠気がやってくる。

 

「どうだ、嫌じゃないか?」

「ん……」

 

 ウオッカから声をかけられても、もう少しで寝てしまいそうな状態ではうまく反応ができない。

 ぼぅっとウオッカの目を見つめることしかできないでいると、頭から頬へと手の位置を変えて撫でてくる。

 だけど撫でるのもすぐに終わり、ウマ耳をピンと僕の方向に立てると、両手で僕の頭を固定すると目をしっかりと開けたままウオッカの顔が近づいてきた。

 そして頬にやってきた柔らかい唇の感触。

 それは1度、2度と続けて軽いキスが。

 

「あー……ウオッカ?」

「目が覚めただろ」

「それは、もちろん」

 

 言葉では落ち着いているが、頭ではもう大混乱。これは恋愛的な意味なのか、言葉通りに僕を起こすためだけなのか。

 僕の頭を抑えているウオッカの手をさわると、僕の頭を掴んでいた力が弱くなる。その手を掴み、僕の頭から手を離させると起き上がってウオッカの隣に座る。

 

 混乱しながらもキスされた場所をさわると、そこは少し湿っていて夢でないと確認できた。

 ウオッカに今のはどういう意味? と聞くために振り向くと、そこには鼻血を流し始めたウオッカの姿が。

 僕は慌ててポケットからティッシュを取り出すと、ウオッカの鼻へとティッシュを当てる。

 

「ちょっと、どうしたのさ!?」

「たいしたことない。時々あるんだよ。その……緊張と興奮があると」

 

 恥ずかしいウオッカはかわいくてたまらないが、それよりも鼻血を止めないといけない。僕は片手でウオッカの手を取り、僕の代わりにティッシュで鼻血を止めてもらっているあいだにティッシュで鼻に入れる栓を作る。

 それをふたつ作ると、ウオッカの手をどけて鼻へと素早く差し込んでいく。

 ウオッカの綺麗でかっこいい顔に鼻栓があるのを見ると、さっきまでのドキドキした緊張がなくなっていく。

 ちょっと間抜けな顔を見て、にやにやしていると物凄く不満な顔をしているウオッカが僕の肩をばしばしと叩いていく。

 

「帰れよ。今日はもう帰れよ!」

「わかった、帰るって」

 

 苦笑いを浮かべてバッグを持って立ち上がると、僕の背中をぐいぐいと押して歩かせてくる。

 僕は押されるままに歩き、話しかけても怒ってばっかりのウオッカに苦笑しながら連れてこられた場所は降りてきたバス停だ。

 次のバスが来るまでには5分ほどとすぐにやってくる。

 ウオッカは僕を置いて帰るかと思えば、横に立って一緒にバスが来るのを待ってくれる。

 隣に立つウオッカは僕のすぐ隣にいて、僕から目をそらしながら手の甲を僕の手へとコツンコツンと当ててくる。

 

「どうしたの、ウオッカ」

「……さっきのキスはな、俺からすれば告白ってやつなんだ。恋愛的意味の。……いつもなら一緒にいるだけで嬉しいんだけど、今日学校が終わったあとにスカーレットの奴が『いつになったら、あんたたちは恋人になるのよ』ってからかってきたんだよ。それで……」

「それで僕が襲われたと」

「いや、違……違わないけど、お前は俺のことをどう思ってたんだよ」

「一目惚れした時から、ずっと好きだけど」

 

 ウオッカの手をそっと優しく握り、けれど恥ずかしくて僕はウオッカの方を絶対に見ない。

 告白の返事同然の言葉を言ったあと、ウオッカは静かになって僕の手を力強く握り返してくる。

 胸の鼓動が高まると同時に、胸いっぱいの幸福感がやってきて何かをしたくてたまらない。

 そこでひらめいた。ウオッカに仕返しをするということを。どうやろうかと考えているあいだにバスがやってくるのが見える。

 

「マフラーを返すから手を離して」

 

 そういうと名残惜しそうに手を離してくれ、自由になった両手でマフラーを外す。

 そのマフラーをウオッカの首元にぐるぐると巻いて、今度は巻き方に文句を言わないウオッカに声をかける。

 

「ウオッカ」

「なにか―――」

 

 返事をしようと口を開けたウオッカの唇にキスをした。

 してしまった。

 本当は頬にやる予定だったけど、ウオッカが動いてしまった。

 ウオッカとしたのは唇と唇がふれるだけの軽いキス。

 僕はすぐにウオッカの手を振りほどき、バスがやってくると同時に開いた扉へと急いで駆け込む。

 

 運転手と僕以外誰もいないバスの中から見たウオッカは口をあんぐりと開けていて、ドアが閉まってから手を振るとようやく動きを見せた。口元を手で押さえながら、もう片方の手で僕を指差している。

 ゆっくりとバスが走りだすとウオッカが走りだしてバスの横に並ぶが、角を曲がるとその足は止まる。

 

「ユニのばかー!!」

 

 と、大声で僕の名前を叫ぶ声が響き渡る。

 ウオッカにいたずらができた喜びができて嬉しくなり、バスが走り続けてウオッカの姿が見えなくなると急に恥ずかしくなる。

 

 キスをしてしまったということに。

 今まで仲のいい友人だったけれど、これからはどういう顔して会えばいいんだ。

 これは両想い? 恋人関係? 親友以上恋人未満?

 そのどの関係か分からない。でも今の僕はすっきりとした感情だ。

 自分の想いを伝えることができて。




2018年12月5日投稿


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4.ダイワスカーレット『ダイワスカーレット:アタシの走る理由』

 春休みが終わって高校3年生になり、退屈な始業式が終わった日の昼過ぎ。

 4月9日の月曜日である今日は天気がよく、透き通るような青空がある晴れだ。

 桜はもう少しで咲きそうになっていて、学校からの帰り道にある川沿いの堤防を自転車で走っていると見かけるつぼみの姿にわくわくする。

 そういう桜を見ている途中に川沿いの堤防斜面に降りると、草地のそこへと自転車を倒したあとに座り込む。

 

 17歳という年齢だけれども、座るときに「よっこいしょ」と声が出てしまうとおっさん化が進んでいるかと思って自分自身にショックを受けてしまう。

 若いけども運動は適度に筋肉をつける程度にしかしないし、バイトをしている影響で働くのは面倒くさいと実感したからかもしれない。

 まだ黒い学ランを着ていたい。 と、そう甘えたことを思いながら青空を見上げる。

 

 ぼぅっと空を見上げながら考えるのは、ついさっき会った、ダイワスカーレットの母親のことだ。

 あの人は俺が幼稚園の頃から仲良くしてくれているが、1カ月に1度の周期で恋人ができたかと聞いてくるのが少々うるさくもある。

 特に今日なんかは帰っている途中に出会い、晩御飯を食べに来ないかなんてテンション高く誘われたし。

 その人の娘であるスカーレットとは3年前まですごく仲良くしてくれたから良くしてくれるんだろうけど、恋人として付き合っていた時と違って別れた今となっては家に上がるのは遠慮してしまう。

 

 恋人になっていたと言っても、当時小学生のスカーレットが少女漫画で恋愛にあこがれていたから、流れで付き合うことになったということだけど。

 スカーレットは妹のような親しい存在で、恋愛感情はなかった。

 だから、トレセン学園に行くか地元で進学するかを悩んでいたとき、俺はあっさりと別れ話を切り出してはスカーレットをトレセン学園へと追いやったけれど。

 俺のせいで走る才能があるのを潰すのは心苦しかったから。

 別れたときの泣き顔を思い出して心苦しくなる。

 

 別れてからは決意がにぶらないよう、1度も会っていないが別に嫌いなわけじゃない。スカーレットの母親経由で頑張っている情報も聞くし、スカーレットが出たレースやライブを見て追い続けている。

 大きなため息をついてから、ズボンのポケットからスマホを取り出して見るのはスカーレットが初めて走ったデビュー戦だ。

 はじめは2番手の位置で始まり、中盤から終わりまでは先頭を維持し続けて勝ったレース。当時、中継で見ていたときには勝った瞬間にひどく安心したものだ。

 昨日なんて強敵ぞろいのG1の桜花賞を勝ち、小さい頃から俺の後ろをついてきてばかりだったウマ娘の女の子だった。今ではすごく人気のある子になった。

 スカーレットにとってはいいことだが、俺は彼女を遠くの存在に感じてしまった。

 

 きっとこうやって身近だった人が遠く感じ、段々と忘れていくのだろう。

 そう寂しくライブ映像を見ていると、ふと足音がして影が差した。

 音のほうを見ると、そこには元恋人であるダイワスカーレットがいた。

 15歳ぐらいの子供と大人っぽさが同居した美しい顔立ちで、明るい笑みを浮かべている。

 ルビー色をした勝気な瞳に、膝まで届く黄色と鮮やかな赤色を合わせた美しい緋色で、青いフサフサしたファーシュシュを付けた長いツインテールだ。

 そんな髪をした頭の上にはピンと立った細長のウマ耳に、前は見ることがなかった銀色に輝くティアラを着けている。

 紺色と白のラインが入った長袖長ズボンのジャージを着ていて、大きな胸がよく目立つ。

 

「久しぶりね、おにいちゃん!」

「……スカーレットも元気そうだな」

 

 予想もしない再会に意識が空白となりつつも、168㎝の身長がある俺より低いながらも前にあったときよりもずっと成長してなんだか感動してしまう。

 そんなふうにぼんやりとした雰囲気で返事をしつつも、俺の頭の中はなんで昨日レースをしたばかりなのにここにいるとか、強引に別れを告げたのに恨んでないのかという気持ちがある。

 

「隣、座ってもいい?」

「ああ」

 

 スマホの動画を止めてポケットにしまってから言った途端、すぐにスカーレットは俺の隣に拳みっつ分ほどの近い距離を取って勢いよく座ってくる。

 隣に座って元気な姿は昔を思い出し、つい小さな笑みが浮かんでしまう。

 それを見たスカーレットはどことなく恥ずかしそうにしながらも、ちょっとずつ距離を詰めてきては恋人として付き合っていた頃のように体をぴったりとくっついてくる。

 

「ランニング中だったのか?」

「おにいちゃんがこのあたりにいるってママが教えてくれたから、そのついでだけどね」

 

 まるでいつも会っているかのような、自然に話をするが俺は気になって仕方がないことがある。

 なんで突然会いに来たのかってことを。

 あと、なんかいい匂いするし、俺の首筋を髪がくすぐり、あったかい体温でなんだかドキドキするし! 昔はヤンチャする子供だったのにこんなに女っぽくなって!!

 落ち着こうと深呼吸してみると、ダイワスカーレット成分を吸い込んでしまってテンションが変になりそうだ。

 高校の女友達とでさえも、これほどの距離で話をするのはちょこちょこあるけど、こういうのは慣れるものじゃない。

 

「おにいちゃんはアタシに会えて嬉しい?」

「嬉しいというか、困惑している。今まで会わなかったのに、突然来たからな」

「それは……だっておにいちゃんが別れようって言った理由が理由だったから」

「あれは俺がいるとダメになると思ったんだ」

 

 あの時、進学先で悩んだスカーレットと別れたのは今でもいい決断だと思っている。

 そうでなかったら、スカーレットは普通のウマ娘として今でも俺の恋人として長く続いていたと思う。

 トレセン学園に通いながら遠距離恋愛をすればいいとも言われたが、それだと中途半端になってG1を勝つなんてことはできなかったかもしれない。

 スカーレットの才能を伸ばすために別れた。結果としてよかったと思う。

 

「ねぇ、おにいちゃん。アタシね、桜花賞を勝ったんだよ? それを伝えたくて来たんだから」

「見ていたよ。大外1の8番で出て、スタートで失敗していたな。でもそこからすぐに上がって、先頭集団。最後の直線はウオッカを後ろにゴールしたのは興奮したよ」

 

 昨日のレースを思い出して少しばかり興奮しながら言うと、スカーレットは恥ずかしそうに目をそらしては、落ち着きなく左右のウマ耳をバラバラに動かしている。

 そんな様子を見るとちょっとだけ安心する。こういう恥ずかしがる姿は昔から変わっていないなぁって。

 

「そうアタシは桜花賞を勝ったわ!」

「偉いな」

 

 胸を張って自慢げに言うスカーレットに、つい昔のように頭を撫でようとして頭にさわるも、小さい頃と同じ扱いは嫌だろうと思ってすぐに手を離す。

 だが、俺の手はスカーレットの両手でしっかりと掴まれ、頭の位置へと置きなおされた。

 そのことに少し戸惑うも、スカーレットに求められていることを知って嬉しくなりながら頭をそっと優しく撫でていく。

 こういうのは昔もやっていたが、今も昔と同じように心が温かくなって、スカーレットと一緒にいるだけで嬉しくなってくる。

 そんな気持ちで撫でながら、スカーレットが頑張っているのを昔と同じように褒めるとウマ耳がしっかりと俺の方へ向いて尻尾も高く振り上げていることから、喜んでくれているのがわかる。

 

「ねぇ、アタシはもう立派なウマ娘になったわよね?」

「あぁ」

 

 俺がそう言うと、スカーレットは撫でる俺の手を掴み、自身の胸元へと持っていく。

 ジャージとブラ越しにわかる胸の感触はちょっと固いものの、女の子の大きな胸をさわっていることにドキドキしてしまう。

 そんな緊張気味な俺に気づいていないスカーレットはひどく大きなため息をついた。

 

「安心したわ。これでダメだって言われたら、アタシはもう走る意味がなくなるもの」

「自分の才能を確かめたくてトレセン学園に行ったんじゃなかったのか?」

「それもあるんだけど、1番の理由はおにいちゃんに認めてもらいたくて行ったの。別れた時は嫌われたのかと落ち込んだけど、アタシを心配していたからってことを学園に通い始めてからママに聞かされたの」

「……あの時は俺も説明なく別れたのは悪かった。今でも嫌いじゃないし、その、別れようと言った俺からは言いづらいけど……」

「もういいの。時々帰ってくるから、その時はアタシと遊んでよね!」

 

 俺の言葉をさえぎり、まぶしい笑みを見て俺はうなずいた。

 それから俺の手がスカーレットの胸から解放されてからは、離れていた時間を取り戻すかのように話を始めた。

 スカーレットがトレセン学園に行ってからウマ娘に強く興味を持ち、関わっていきたいと思い、行動に移したことを。

 今ではバイトをしながら引退ウマ娘協会に寄付と引退ウマ娘のためにボランティア活動をするようになったと言うことを、スカーレットはにこにことした笑みで聞いてくれている。

 

「おにいちゃんが、アタシたちウマ娘に興味を持ってくれて嬉しいわ」

「ボランティア先で知り合ったリカコさんのおかげでレースやダンスの知識も増え……」

 

 俺のことをかわいがってくれている、大人のウマ娘の名前を出した途端に俺はスカーレットから両肩を掴まれて強く押し倒された。

 下は草地のため、それほど痛くはないが、俺の腹にまたがり、肩を押さえつけてくるスカーレットの目は少し怖い。

 

「誰、リカコって人」

 

 今まで会話していた、明るく元気な声とは一転して迫力のある低い声。

 人生で初めて女性に押し倒されたことと、聞いたことのない声に強く困惑すると同時にスカーレットから感じたことのない恐怖がある。

 俺の言葉に何か怒っているようだが、その原因が何かわからない。ウマ娘の名前を出しただけで怒るわけもないだろうし、バイト内容のことか?

 

「あー、エアリカコという引退ウマ娘の人が親切にしてくれるんだ。トゥインクルシリーズやライブの裏話を教えてくれて、勉強になるよ」

 

 ちょっと声が引きつりながらも懸命に答えると、スカーレットは俺の腹にまたがったままジャージのポケットからスマホを取り出すと何かの操作をし始める。

 落ち着かない静かな時間が少し経ったあと、スマホをしまったスカーレットは俺に吐息がかかるほど顔を近づけてささやいてくる。

 

「現役でG1勝っているアタシがレースやライブのことをその人よりもずっと詳しく教えてあげるわ。それで、他にその人と何をしているの?」

「一緒にスマホでレースを見たり、イベントがある時は受付をやっている」

「……ふぅん。楽しい?」

 

 無機質な声で聞いてくるスカーレットの声に、ここで返事を間違えるとひどいことになりそうな気がする。

 3歳も年下だというのに、圧力が強い。レースやライブで精神を鍛えられているからなのか、さっきから冷や汗と緊張がやばい。

 自然と息が荒くなっているぐらいに。

 ああ、返事はどうするか。顔は真顔だけど静かに怒っているのがわかる。原因はなんだ。

 ぐるぐると混乱しそうな頭で考えていると、スカーレットの右手が俺の首筋をそっと壊れ物を扱うかのようにさわってくる。

 さわられて背筋がぞくぞくとするなか、ふと気づいたことがある。

 これは嫉妬なんじゃないかって。

 

「楽しいけど、深い仲じゃなくて仲のいい友達だ。それにリカコさんは結婚していて子供がいる」

 

 頭の中でじっくりと考えてから返事をすると、スカーレットは安心したふうにため息をついて俺から顔を離す。

 

「そっか。それなら別にいいわ。アタシを忘れないでいてくれるなら!」

「別れてからもスカーレットのことは忘れたことはない。少し会いづらくなっただけで」

「今のアタシなら会いづらくない?」

「ああ。都合がいいかもしれないけども、また昔と同じように仲良くなりたい」

「それは嫌」

 

 てっきり以前と同じような仲がいい関係に戻りたいと思っていただけに、すぐに否定されたのは心がとても痛い。

 1度、関係を捨てたら元には戻れないということか。

 考えてみれば、一方的に振ってきた男がヨリを戻そうと言うセリフか、俺が言ったのは。

 客観的に考えれば、ひどい男に思える。もし少女漫画でこういうシーンがあれば、すでに女主人公には新しい男がいるというのが普通だ。

 ……もしかしてスカーレットに男ができたのか?

 ひどく落ち込むと同時に悲しむ気持ちと共に、そのことを聞く俺。だが、同時にこれほど落ち込んでしまうのはスカーレットを妹と思っている以上の感情があるんじゃないかと疑問に感じる。

 

「スカーレット、お前、彼氏ができたのか?」

「違うわ! アタシはずっとおにいちゃんが好きよ。最初は恋人ごっこだった。でもトレセン学園で色々な人とふれあっていく中で、おにいちゃんを愛しているんだっていう自分の強い気持ちに気づいたの」

 

 俺の弱々しい問いに対してスカーレットははっきりと力強く返事をし、俺の唇を人差し指でなぞってきた。

 

「だから、前のような恋人ごっこじゃなくて結婚を前提とした恋人になりたいわ」

 

 からかう表情じゃなく、真面目な顔で俺をじっと見つめてくる。

 その強い思いは俺にとって重く、目をそらす。

 求められているのは愛情がある恋人関係。スカーレットは2年ほど会えていないもの関わらず、これほどの言葉を言ってくれた。

 だが俺は?

 会っていないあいだ、スカーレットの姿をスマホという物を通じて追っていた。

 中継されていたレースにライブ。動画以外にもウマ娘の関連雑誌を買ってはスカーレットの記事がちらっとでも載っていると喜んだ。

 また、会っていなくてもスカーレットの母親には強引に活躍をこと細かく聞かされていた。

 

 スカーレットが頑張っている。

 それを聞き、見続けていたから、俺は日々の日常に張り合いが出て楽しんで生きるようになった。

 スカーレットと会ったときに胸を張れるような、充実した生き方をしているぜと言えるように。

 そういう理由で、引退ウマ娘協会への寄付とボランティアをするようになった。

 その影響で将来はウマ娘に関係する仕事に就きたいと思うようにとも。

 でも自分のスカーレットに対する感情は深く考えたことはなかった。

 だから、今の俺はスカーレットに対する感情がどういう物かただしく認識できない。

 時間か、きっかけがあればわかるのだが。

 

「ね、おにいちゃん。今すぐに答えて欲しいの」

 

 そう切なげに言われても答えは出ない。だから俺はスカーレットに体をどけるように言い、自由になった体を起こすと自転車を立ち上げては斜面を登って道へと行く。

 そこはサイクリングロードで、進行方向のまっすぐに伸びた道にはちょうどよく人がいない。

 不思議そうに俺のあとを追って登ってきたスカーレットをちらりと見たあと、俺は自転車に乗って走り出した。

 

 立漕ぎの全速力で。

 答えが出ないなら、後回しでいいと。今日の夕方にはスカーレットとスカーレットの母親との夕飯に誘拐されそうだけど、それでも時間が欲しい。

 だいたい20kmちょっとの速度を出して安心していると、後ろから妙な視線と圧力。それと走ってくる音が聞こえてくる。

 それが何か確認しようと思って振り向こうとした瞬間、真横にはスカーレットが平気そうな顔をして横を走っていた。

 昔は俺が乗る自転車の横に来るのは苦しかったのに、今ではとても楽そうだ。

 トレセン学園に行った成長がよく見れるというものだ。

 

 だがな、スタートが早すぎないか。加速も速度も余裕すぎだろ。

 ウマ娘の身体能力の高さは知っているつもりだったが、こうして成長したスカーレットと走っているとウマ娘について新しく知った気分だ。

 走りで成長を喜びたいが、今はついてこられたくない。

 

 1人静かに考え、自分の感情に答えを出したいから。

 自転車を漕ぎながら、昔よりも美しくなったフォームを間近で見るのはついつい見とれてしまう。

 他にも太陽の光を浴び、緋色のツインテールがきらきらと輝き、風を受けて後ろになびいていく髪とか。

 それと大きな胸が走ることによって、たゆんたゆんと上下に揺れて視線がそこへと強く誘導される。

 結果、色々な物に気を取られた俺は立漕ぎの途中で足の動きを止めてしまい、バランスをくずして堤防の斜面へと自転車ごと倒れて転がり落ちていく。

 

「おにいちゃん!?」

 

 と視界がぐるぐると回転する中で聞こえた、スカーレットのとても焦った声。

 回転が止まり、体のあちこちが痛い。頭を強めに打ったらしく、感覚はあるも体が動かすことができない。

 意識だけは少しばかり動くため、脳が揺れたなぁと思う。

 それだけしかできなく、スカーレットが走って降りてくる足音、すぐ横に座り込んできては俺の顔を覗き込み見ながら悲痛な叫び声が聞こえる。

 動けなくなった俺をなんとかしようとしているが、トレセン学園でよく教育を受けているためにこういう状況で体を動かしていけないのはわかっているみたいだ。

 何十秒か、もしくは1分か2分ほど経つと体が動けるようになって、俺を心配するスカーレットの顔を見上げる。

 その顔には涙が流れた跡があり、動いた俺を見て固まっているスカーレットの顔へと手をそっと出して目元を指でぬぐう。

 

「頭が痛むだけだから心配しなくていい」

「心配するに決まってるでしょ!? バカ、アホ、おにいちゃん!!」

 

 涙を流すほど俺を心配してくれる姿を見ると、大切に思ってくれてるんだなぁと嬉しく思う。

 今までもそう思ってくれていたのはわかるが、2年ぶりに会っても以前と同じふうに想ってくれているなんてな。

 それが嬉しくて、さっきよりもすっごくかわいく見えてくる。

 俺を罵倒と心配する声をぶつけてくるスカーレットの大声を聞きながら、体を起こして深呼吸をしてから体を見回す。

 出血の痛みはなく、学ランの制服は草や土で汚れているだけだ。破けたりはしていない。

 一安心してからスカーレットへと体を向ける。

 

「……ごめんなさい、おにいちゃん」

「落ちたのは俺がミスっただけだろう?」

「そうじゃないの。アタシがおにいちゃんと恋人になりたいって言ったから逃げたんでしょ?」

「自分の気持ちがわからなくて返事ができなかったからな。でも今は少し違う」

「違う?」

「2年も会おうとしなかった俺を好きでいてくれてたことが嬉しいと思えたんだ。それに、レースやライブの動画で見るよりも……うん、まぁ……」

 

 動画で見るよりも、今のお前は綺麗でかわいくて好きだ、なんてことを素直には言えずつい恥ずかしがって目を少しそらしてしまう。

 スカーレットが正直に来るのに、男の俺が女々しくも言葉を出せないのは情けなく思う。

 深呼吸を2度ほどしてからスカーレットに向き合うと、スカーレットはひどく落ち込んだ顔をしていた。なんでだ。

 

「あー、スカーレット?」

「アタシの走り、どこかダメだった? 昨日の桜花賞では1番になったけどダメ? 2着にいた、ウオッカとの着差が小さかったから? それともライブが変だった? アタシの顔がかわいくない? 胸が小さい? ねぇ、アタシの何がダメなの?」

 

 感情がなくなった表情でスカーレットは俺の両肩を強く掴むと、ゆっくりと力を入れてきて俺を地面へと押し倒してくる。

 

「お前がダメとかじゃないんだ」

「アタシはね、おにいちゃんにもっと見て欲しいの。アタシが1番を取るのを。走る様子を、踊る姿を、歌う声を。だから、捨てないで?」

 

 泣きそうな表情と消えそうなほどの小さい声で言ってくるが、そもそも俺にはそんな気はまったくない。

 スカーレットに対する不満なんて、今のように押し倒してくるぐらいなもんだ。

 昔からスカーレットは明るくて元気で、一緒にいるだけで幸せになるような子だ。

 それは今も変わっていない。

 

「違う、そうじゃなくてだな! 動画で見るのと違って目の前にいるお前は、ずっと素敵でかっこよくて綺麗に思ったんだ」

「それ、本当なの?」

「本当だ。それにスカーレットと一緒の時間を過ごすのは小さい頃から好きで、今だって、その、俺と一緒にいてくれて嬉しい」

 

 恥ずかしくなって目をそらしたくなるが、この気持ちはきちんと伝えたい。だからスカーレットを正面から見つめる。

 スカーレットは泣きそうな顔から不思議そうに、そして最後には緩んだ笑顔になってとてつもなく嬉しそうだ。

 

「ね、おにいちゃん。これは相思相愛ってことよね?」

「……そういうことになるな」

 

 相思相愛なことを認めると、スカーレットは勢いよく立ち上がっては両手を思い切り広げては嬉しそうにくるくると回りながら笑い越えをあげる。

 

「っっっっ! やったわ! またおにいちゃんと恋人になれた!! ありがとう、助言してくれたスズカさんとキングさん!!」

 

 俺の知らないウマ娘と思われる人の名前を空に向かって飛び跳ねながら叫んでいるが、そこまで喜ばれるのは嬉しいと思うと同時に、まだ恋人になると言っていない。

 また恋人になってくれるのは俺も嬉しいが、告白の過程を通らないと恋人にはならないんじゃないか。

 告白というのがなくても恋人という関係はふたりが認識していればいいんだろうか。

 昔、スカーレットが読んだ少女漫画とスカーレットがいなくなってからも買い続けてしまって、今も読み続けている少女漫画の告白シーンを思い出す。

 ……どの漫画も男女どちらかが告白していたシーンは必ずあった。

 

「スカーレット」

「よし、アタシはやったわ。おにいちゃんの1番にっ……!」

「スカーレット!」

「え、あ、なに?」

 

 声をかけてもあまりの興奮で気づかないスカーレットに大声で名前を呼ぶと、ようやく気づいたスカーレットは俺の横へとすぐに戻ってきてしゃがみ込んでくる。

 首を傾げた姿はかわいらしくてたまらないが、俺は短く息をしてから告白をした。

 

「好きだ。また付き合って欲しい」

「……! 付き合うわ! おにいちゃん、大好き!!」

 

 きちんと告白をし、その返事をもらった俺は安心した。両想いとはわかっていても、言葉に出すという行為は緊張する。

 告白して一安心すると、スカーレットは俺の胸元へと飛び込んできて、またしても俺は押し倒された。

 胸元にすりすりと顔をこすりつけられながら。ばっさばっさと機嫌良さそうに振る尻尾を見ながら、俺は昔のようにウマ耳や頭を優しく撫でていく。

 これからは今まで会わなかったぶん、大切にしていこうと思いながら。




2021年3月20日投稿


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5.サイレンススズカ(ヤンデレ)『私だけの景色、私だけのあなた』

ヤンデレスズカの話。


 トレセン学園にいるトレーナーたちから、僕は変人だとよく言われている。

 そこには悪い意味もいい意味も含まれている。

 トレーナーになったばかりは色々試しているんだろうなと暖かい目で見てくれたけれど、28歳になった今では変なことをし続ける人という認識になっている。

 それというのも、僕が育てるウマ娘は変則的な走りになるからだ。

 まわりからは『ひとり旅をさせるトレーナー』として少しばかり知名度がある。

 走らせ方の内容は、最後方で最終コーナーから思い切り走らせる。

 大逃げでぽつんと1人走らせる。

 バ群から離れ、1人だけ横につけて走らせる。

 カメラが写さないほどの大外から1人ぶっ差せる。

 そういう変わった走らせ方しかできない。

 

 できないというか、そうしたほうが最善だった。

 今まで育てた6人のウマ娘たちはそれでG1勝利をあげられなかったけれど、重賞を勝つ活躍をしてくれた。

 僕の元から離れ育っていったウマ娘たちのことをぼぅっと思い出す昼間の今。

 トレーナールームにいる僕は、昼休みに入ったチャイムの音が鳴ったことで授業が終わったと気づく。

 5月の暖かくて過ごしやすい今は、つい時間を忘れてしまうことがある。

 普段からスーツを着ている僕にとっては、こういう時期はいい。

 すぐ後ろにある窓からは暖かい日差しが入り、椅子に深く腰掛けてはぼぅっとしてしまう。

 目の前にある机には書類仕事はなく、今は育てているウマ娘が1人しかいないから楽でいい。

 

 30にもなっていない奴が何をのんびり生きているんだと先輩トレーナーから言われることもあるけど、そんなの人それぞれで育成成績が悪くなければ好きにやっていいじゃないかって思う。

 天井を見上げ、昼ご飯はどうするかなぁと考えていると、ドアからノックの音が聞こえてくる。

 よく聞き慣れたリズムのノック音に、僕がただ1人育成しているウマ娘が来たかと思う。

 

「入っていいぞー」

「失礼します。今日はここでご飯を食べに来ました」

 

 僕の間延びした声を聞いて、ウマ娘、サイレンススズカは丁寧な言葉と共に部屋に入ってきた。

 ウマ耳は緑色の覆いをつけていて、明るいさらさらとした栗毛の髪には白いカチューシャ。右耳には緑と黄色の小さなリボンを付けている。

 ワンピースタイプの青を基調としたセーラー服の制服を着ていて、走りやすそうな小さい胸元には大きな青いリボンと蹄鉄の形をしたブローチがついている。

 下は白色に青いラインが入っているスカート。太ももまである白いニーソックスな制服に皮靴のローファーだ。

 

 一目見ただけで服は綺麗にアイロンがかけられていて、靴もよく手入れされているから几帳面だなぁと毎回見るたびに思う。

 几帳面さは物静かな性格から来ているんだろう。走ることに関しては僕と強い口調で言い争うこともあるけど、基本はおしとやかなお嬢様と言った雰囲気だ。

 そんな雰囲気がある青い目をしたスズカは茶色の尻尾を揺らしながら、部屋に置いてある3人掛けのソファーへと座り、手に持っていたご飯が乗っているトレイを目の前にあるテーブルへと置いた。 

 

「今日のランチはコロッケ定食か」

「はい。野菜サラダも多めに取ってきたので、栄養も悪くありません」

「時には好きなものを食べてもいいけど、普段からそういう考えはとてもいいな」

 

 スズカのウマ娘として健康的な食事を取っていることに強く感心しながら、俺が机から取り出したのはカップラーメンだ。

 お湯をそそぐだけで手軽な、けれど栄養が悪いインスタント。

 それを机の上に置き、床に置いてあったポットを机の上に乗せてはラーメンにお湯を注いでフタを閉じるとスズカから冷たい視線を感じる。

 無言の視線は、『私が食事を気にしているのに、トレーナーさんはジャンクフードですか? ふざけているんですか?』という意味が込められていそうなものが。

 僕はそれを無視し、スズカと出会った頃はトレーナーに不信感を持っていた頃、をラーメンが出来上がるのを待ちながら、そんなことを思い出す。

 

 スズカと出会ったのは2年前。

 俺が育てるウマ娘がいなくなり、誰をスカウトしようか悩んでいると先輩の女トレーナーから話を持ち掛けられたのがキッカケだ。

 なんでも先頭を走りたがり、逃げしかしようとしないウマ娘を自分じゃ育てられないから預かってくれないかと。

 変わった育て方しかしない僕に、スズカは最適なんじゃないかと思ったらしい。

 特にやることもなかった僕はスズカを受け入れたが、出会った時のスズカは僕への不信感を隠さない態度で接してきた。

 考えなくても、前トレーナーから僕へと移籍となれば捨てられたと思うだろうし、僕自身の評価もそれほどいいものじゃなかったから。

 だから来た当初は僕のトレーニングメニューも渋々と言った様子で、時には自分で作っては走ることもあった。

 

 それが変わったのはスズカを本心から褒めたときだった。

 模擬レースで他のウマ娘を大きく離し、1人で先頭を走っている姿を見た僕はその走る姿に惚れた。トレーニングで見ることはあっても、それはレースとは違う。

 彼女の心構え、他のウマ娘と比べての走り。

 太陽の光に当たり、きらきらと輝くような茶色の髪。風でなびく髪や尻尾は綺麗だった。

 

 なによりも彼女がひとり先頭を走る姿はただただ美しいと思った。

 レースが終わったあと、興奮したままにスズカのことをべた褒めしたあとに『スズカが見ている綺麗な景色を僕も見たい』と言ってから関係が変わっていった。

 よそよそしかったスズカは僕とよく話してくれるようになり、姿を見ると近寄ってきてくれる。

 よく気に入られたのか、僕が他のウマ娘と楽しく話をしている時なんかは、腕組みをしてきて強引にどこかに連れていこうとする。

 そんなかわいらしい独占欲には困っているが、今はスズカしか見ていないよと言って毎回説得している。

 

 普段から仲良くなってくるとトレーニング内容も詳しく相談できるようになり、時には一緒に遠出をして普段見ることのない景色。

 美しい緑が生い茂る山や澄んだせせらぎの音が聞こえる川、青く美しい海辺でトレーニングをすることもよくあった。

 そうして成長したスズカはレースではとても強くなり、スズカの逃げはスズカにしかできないスズカだけのものなった。

 サイレンススズカというウマ娘はもう安定しており、これより先は実力がある前トレーナーのところへ移籍したほうがスズカにとっていいかもなと最近は思うようになった。

 

「あの、お湯を入れてから3分が経ちましたよ?」

「ん、あぁ」

 

 思いの他、思い出にひたりすぎてスズカに言われるまでラーメンのことをすっかり忘れてしまっていた。

 フタを開け、ラーメンに加薬や粉末スープを入れて麺を混ぜ混ぜしながら気づいてくれたスズカに感謝にする。

 

「ありがとう、スズカ。よく気づいたな」

「はい、私はいつでもあなたのことを見ていますから」

 

 かわいいほほ笑みを僕へと向けてくれ、走ることに熱狂的なことをのぞけば精神がとても安定している子だ。

 強くて素直で気遣いができてかわいいウマ娘を担当することができてよかったと強く思う。

 

「あの、ご飯を一緒に食べませんか?」

 

 そう言ってスズカは、自身の隣をぽんぽんと手で軽く叩いて誘ってくる。

 普段は食堂のテーブルで向かいあい、または隣り合って座ることはあるものの、トレーナールームでは隣り合って食べたことがない。

 初めての経験にわずかの間だけ戸惑ったものの、俺はラーメンを持ってスズカの隣へと1人分の距離を開けて座り、ラーメンをテーブルへと置く。

 すぐ隣に座るのは気遣って遠慮したというのに、スズカは俺のすぐ隣にわずかな距離を置くだけで座りなおしてくる。

 

「スズカ?」

「せっかくの楽しい食事の時間なのに、距離を開けるのはなんだか寂しくて」

「あー、それは悪かった。次からは気をつけるよ」

「約束ですよ?」

 

 スズカの言った言葉からは重さが強く感じ、この約束を破ったら面倒なことになる予感がした。

 目力と言葉から感じるスズカの強さに俺は言葉を出せず、うなずくことしかできない。

 約束が終わったあとは、食事をしながらの雑談だ。

 スズカがスペシャルウィークやマチカネフクキタルとは何を話していたか教えてくれ、僕のほうはこれと言って変わったことはなく今以上にいいトレーニングは難しいと言うぐらいに。

 より良いスズカの走りを見るために頑張ってはいるが、育てたウマ娘の経験の経験が少ないと思いつく手段はとても少ない。

 少し前から考えていた、以前のトレーナーのところへ戻ってもらうのがいいかもしれない。

 お互いにご飯を食べ終わったあと、僕は緊張と少しの悲しみを持ってスズカへと移籍のことを言おうとする。スズカが了承したら、もうお別れになるという寂しさがある。

 

「なぁ、スズカ」

「ご飯が足りなかったなら、食堂から持ってきますか?」

「話があるんだ、スズカ。そろそろ僕以外のトレーナー、具体的に言うなら前トレーナーのところへ戻らないか?」

 

 そう言葉を言った途端、スズカは鋭い目つきでにらんできた。

 さっきまでののんびりとした空気はなくなり、緊張感が出てくる。

 なんだろう、この空気は。

 この流れなら話し合いという流れなのに、なんだかケンカでも始まってしまいそうだ。怖い。

 

「これ以上僕といても良い成長はできない。走りが安定し、逃げという型が決まったらベテラントレーナーと一緒にいたほうがいいと思うんだ」

「……それは私を捨てるということですか?」

「スズカの走りを今より良くするには僕以外が適任だと思うんだ」

 

 スズカは僕の目をじっと見つめたあと、1度深呼吸してから僕へと迫り、胸元へと片手を置いてくる。

 

「私が先頭を走り続けたいというのを聞いて、前のトレーナーはいい顔をしませんでした。

 勝ちたいなら、言うことを聞いてくれと言われ、それに従った私は自分の走り方を抑えてトレーナーが言う"一般的"なレース展開を勉強しました」

 

 透き通る青空のような目をしたスズカは僕のことをまっすぐに見続けてきて、今までの抑えてきた気持ちを出すかのように、けれどゆっくりと言ってくる。

 

「自分の思うとおりに走れない。私が見たい先頭の景色を見続けることができない。私は気持ちよく走りたいだけ。勝つためだけに走るのは嫌になっていたときがありました。

 そんなときにトレーナー、あなたが私を受け入れてくれました」

 

 俺の胸元に手を置いていたスズカの力が強くなり、その手に押されるように俺はソファーへと倒れこんでしまう。

 座ったまま、俺を上から見てくるスズカは少し表情が柔らかくなって言葉を続けてくる。

 

「はじめは私が捨てられたと思って、辛くあたりましけど、あの時のことを私を恥じています。

 短絡的に考えず、あなたが指示したメニュー、あなたが私を見てくれている強いまなざしを感じ取れなかったんですから」

「今はどうだ?」

「今はあなたを信頼しています。私と一緒に、同じ景色をずっと見ていきたいと言ってくれたあなたを。私を理解しようとしてくれたのは、あなた以外誰もいませんでした。

 だから、私にはあなたしかいないんです。

 あなたよりも良いトレーニングメニューを作れても、私を信頼して理解してくれない、私と同じ夢を見てくれない人なんていらないんです」

 

 スズカの微笑みはなくなり、暗くなった雰囲気で顔を近づけてくるが俺はそれが怖くて逃げようとしてソファから落ちてしまう。

 

「トレーナー、私とあなたの関係はどういうものですか?」

「トレーナーとウマ娘……という答えは求めていないよね。……うーん、親戚の娘さんのような感じかな」

 

 上半身を起こし、冷たい目で見てくるスズカに答えるとスズカはちらりと僕から視線をずらし、何かを決意したかのような力強い目を僕に向けてくる。

 

「私はあなたと一緒に同じ景色を見ていきたい。それだけなの。でも私を捨てるということなら、愛が足りないということ?」

「過程だけ見れば捨てるように思えなくもないけど、スズカには充分愛情を持って接しているよ」

「でもそれは親愛でしょ? 今まで抑えていたけど、私は恋人としてあなたが欲しい。

 あなたが見るものは私だけでいい。

 あなたの声は私だけ聞ければいい。

 あなたの何もかもを私だけの物にしたいんです」

 

 背筋が冷たくなるほどに感情が込められていない声で、スズカはゆっくりと倒れた俺の腹にまたがって体を力強く押し倒してきた。

 押し倒したときに床の上にある両手首をスズカの手でそれぞれ抑えられる。

 スズカに押し倒された格好となった僕の前にはスズカの顔が近く、美しい髪が僕の顔をくすぐってくる。

 

「僕はスズカに恋愛感情を持っていないんだ」

「私にはある。初めて私を見てくれた最初の人。優しくしてくれて、信じてくれたあなたを私は欲しいの。引退してもずっとあなたと一緒にいたい」

「女友達として仲良くはしたいね。まずは起きた状態で話をしようじゃないか」

 

 そう言ってスズカを押しのけようと腕に力を入れるも、抑えつけているスズカの力が強くて腕が動かせない。

 ウマ娘ほどではないにしろ、筋トレで鍛えているのにそれを楽々と抑えているのを実感するとウマ娘の身体能力の高さを改めてわかってしまう。

 僕が一生懸命に力を入れているのにびくともせず、スズカは涼しい顔のままだ。

 

「ねぇ、抵抗しないんですか? ほら、このままだとキスしちゃいますよ?」

 

 初めて聞くスズカの色っぽさがある声と笑み。それと少し荒くなった呼吸で、ゆっくりと僕の顔へと顔を近づけてくる。

 色っぽさに一瞬だけ見とれてしまうも、キスしてしまうと今の関係性が壊れてしまうのが僕は怖い。

 僕はレースをするウマ娘のトレーナーであり、関係が深くなってしまうとスズカを今よりも大事にするようになって他のウマ娘を育てるときに邪魔となってしまう。

 それは僕の夢、かっこよく走るウマ娘たちを近くで見ていたいというのができなくなってしまう。

 

「スズカ、僕はたくさんのウマ娘たちを育てるという夢が―――」

 

 言葉を続けている途中、スズカは目を開けたまま僕にキスをしてきた。

 そのキスは勢いがよくて歯と歯がぶつかるものだったけれども、途中で目をつむったスズカは僕へと唇を優しく合わせてきた。

 その唇はすべすべとしていてやわらかく、キスの感触が気持ちよくて抵抗しようという気持ちがなくなってしまう。

 もっとも、抵抗しようにも力負けしているから無理なのだけれど。

 だから僕はスズカにされるがままで、強引にされているというのに気持ちがいいキスをもっと続けたいだなんて思ってしまう。

 

 次第に僕は目を閉じ、スズカに求められるままキスを受け入れていく。

 ずっとキスを続けるのも呼吸が苦しくなり、酸素を求めて口を大きく開けると、の中に舌を入れてきてスズカが僕を蹂躙していく。

 普段のおとなしそうな雰囲気とは違い、とても情熱的に僕の中をかきまわしてくる。

 

 気持ちいい。

 それだけが頭の中でいっぱいになる。

 いつ終わるともしれないキスが終わったのは、昼休みの終わりを告げるチャイムの音が鳴った時だ。

 僕を求めるスズカの動きが止まり、離れていくのを感じてから目を開ける。

 僕たちはお互いに荒い呼吸をしたまま、息を整えていく。

 

「抵抗しなかったから、これは無理矢理じゃなくお互いにしたくてしたキスになりますね」

 

 と、そんなことをうっとりとした笑みを浮かべて言ってくる。

 結果的にはそうなってしまったものの、抵抗ができないからお互いに合意でキスをしたというようになってしまっただけだ。

 でもスズカの狙い通りに効果は出てきてしまっている。1度キスをしてしまうと、スズカを1人の女性として見てしまう。

 キスをされた時から、緊張と興奮で心臓はバクバクと激しく動いてしまっている。

 

 そんな僕の様子にスズカは安心した様子を見せ、尻尾を高く上げ嬉しそうにブンブンと左右に勢いよく振っている。

 けれど、その尻尾の動きもすぐに止まり、悲しい表情になる。

 どうかしたかと声をかけようとしたら、スズカは抑えつけていた僕の手首から手を離す。

 

「私があなたに知らない景色をこれからずっと見せてあげます。多くのレースで勝ち、レコードだって出してみせます。

 だから、私を捨てないでください。私はあなたといたいだけなんです。

 あなたとだから頑張ってこれた。ずっとずっと一緒にやっていきたいんです」

「でも僕はこれ以上スズカの逃げるという走り方を強くできる気がしない」

「それなら私と一緒に成長すればいいんです。今はできなくても、これからできればいいんですから」

 

 キスを終えてもすぐ目の前にいるスズカにそう言われてその通りだと気づくが、それだとどれくらいの時間がかかるだろうか。

 ウマ娘の選手生命はそんなに長いものではない。だからスズカが走ることができている間に僕が追い付くかが問題だ。

 もちろん、そうなった場合は懸命に努力はするけれど。

 

「スズカが僕の成長を待ってくれるなら、僕は君と同じ道を歩いていこう。でも、襲うようにキスをする必要はなかったんじゃないかな」

「だって、そうしないとあなたは他の子と仲良くなって私を見なくなるかもしれないと思って。それに私があなたを大好きなんです。

 告白したら関係が悪くなるかもと思って今までできませんでしたけど、今なら勢いでできるかなって」

 

 一方的に僕を襲い、冷たい表情でキスをしたあとに感動しそうな言葉を言って最後にかわいらしく言ってくるのはずるい。

 襲ってきたのを許してしまいそうだ。

 でも、スズカの言うとおりになると僕はスズカが引退するまではスズカしか育てることができなくなる。

 あと、もしかしたら引退するときは他のウマ娘を見ないように、と僕も一緒に辞めさせられそうだ。

 

「他にもウマ娘を育てろと理事長から言われているから、スズカ以外に見ることはあるだろうけども」

「それは……仕方がありません。私と結婚前提の恋人になってくれることで我慢します」

「僕がスズカに恋心を持たないとそれは無理なんじゃないかな」

「恋人というのは全員が両想いから始まるわけじゃないと思います。お見合いで初めて会った同士で恋人にもなりますから。

 お見合いでも付き合っていくうちに愛情が生まれていくので、そこは心配しないで私と両想いになってください」

 

 そう言って目をつむり、またキスをしてくるスズカ。

 今度はさっきの強引なキスとは違い、唇にふれるだけの優しいバードキス。

 それを何度も繰り返したしてから名残惜しそうに顔を離していく。

 

「必ず私に振り向かせて見せますので、これからも私たちだけの景色を見ていきましょうね」

 

 今日1番の明るい笑顔でそんなことを言ってくる。

 今までスズカと一緒にやってきて、たくさんのところへ出かけ、レースで勝ち、時には遊んで多くの景色を見た。

 そしてスズカが言う、私たちだけの景色とはレースでスズカが勝つところ。

 GⅢ、GⅡ、GⅠと多くを勝ってきた。スズカはそれを僕と一緒に続けてくれるという。

 強引に襲ってきてキスされるのは遠慮したいけど、僕の指導を受けてこれからもレースを勝ちたいと言ってくれるのは嬉しい。

 

 そういう気持ちなら、スズカが望む先頭の景色を、綺麗な景色をずっと見させてあげたい。

 でも恋人関係になるかは保留だ。

 僕がスズカに惚れた時が来たのなら、その時は僕のほうから告白はするけれど。



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6.グラスワンダー『あなたに優しくしてもいいですか?』

 夜の0時になり、今日で4月最後の日となった夜の今。

 暗い空は雲ひとつなく晴れていて、細い三日月と星空がよく見える。

 暖かくなりはじめた4月とはいえ、夜にもなるとまだまだ肌寒い気温となる。

 そんな時間にトレーナーである俺は、よれているスーツ姿でトレセン学園の敷地内もいる。

 夜中に1人でいる理由は、夕方にトレーニングが終わったあとにさっきまで学園の校舎内で先輩トレーナーたちから押し付けられた書類仕事をやっていたからだ。

 その仕事を苦労して終えてからは、外にある自分のトレーナー室へと疲れた体で向かって歩いている。

 

 遅くまで急ぎでもない仕事をやらされ、つまりは嫌がらせを受けている原因は24歳でトレーナーになったばかりの俺が有名になってしてしまったからだ。

 活躍理由は、初めての育成で俺が悩みながら一緒に成長してきたウマ娘がレースでレコード勝ちをし、3冠を取るほどに強くなったから。

 そのために経験がとても少ないというのに、優秀なトレーナーとして理事長に褒められ、学園の外では期待の新人としてメディアに取り上げられた。

 それが気にくわない人たちからは嫌がらせを受ける日々を送ってしまっている。

 走って踊る華々しいウマ娘たちを育てる学園だが、同じ出身校で争うからこそ派閥争いが辛い。

 

 どこかに入ってしまえば、多少は楽になるだろう。

 でも、それをすると方針を指示されて俺がやりたいように育てることができず、先輩方が勝つために自分のウマ娘にとって最適なレースが選べない。

 どっちつかずの八方美人をしつつ、やりすごすために俺は日々雑用をしては専属トレーナーの仕事をやっている。

 こうやって日をまたぐほどの仕事をするのは時々あり、日々生きているだけでストレスが溜まって気分が悪くなる。

 先輩方の仕事をやっても褒められず、うまくできても何かと文句を言われてしまう。

 生きるのも辛く感じる日々だが、それでもやっていけるのは俺の専属契約ウマ娘のグラスワンダーがいるからだ。

 彼女と一緒にいて2年が経ち、グラスと名前を気軽に呼べるほどに仲良くなった。

 そんな彼女がレースを走り、勝ち、喜ぶ姿を見るのが俺のいきがいだ。

 

 それを見るために俺は嫌がらせに耐えつつ彼女と一緒に頑張っていく時間は楽しい。

 楽しすぎて22歳でトレーナーとなってからの2年間は家とトレセン学園の往復が中心となり出かける時間と体力がなくなるほどに。

 お金はあるも時間がないという状態になってしまうぐらいだ。

 日々の食事も自分で作る気力がなくて店で買うばかり。

 こんな時に恋人がいれば疲れた心を励ましてくれて、ご飯を作ってくれるんだろうかと思う。

 歩きながらそう思うと、なんだかとても悲しくなるがグラスが引退するまでは恋人なしで頑張ろうと考える。

 グラスが無事に引退してこそ恋愛の余裕が生まれる。嫌がらせもなくなるか減るだろうし、そうでなかったら拒否して反抗すればいい。

 俺はグラスのために生きているから、終わったあとはもうどうにでもなってしまえ。

 トレーナー資格がなくなってもトレセン学園で働けるのなら、それでいい。

 

 そもそもトレセン学園に就職した理由が、弱いながらもレースをやっていたウマ娘な母親の影響で『かっこよく走るウマ娘をすぐそばで見たい』というものだから、優秀でなくても頑張る子たちのために俺は頑張っていきたい。

 ……けれど、やっぱり専属のウマ娘を持って、すぐ近くで一緒にいたいという想いはある。

 今となってはその理由の他に『グラスワンダーを立派なウマ娘として強く育てたい』というのもある。俺の人生でこれ以上はないと育て終えた以降もそう思えるほどに。

 そのためにも、たとえストレスで胃が痛くなり、ふとした瞬間に自然と涙が出てしまっていてもやっていきたい。

 大きく深呼吸をし、片付けをしたら早く帰ろうと思いながら自分に割り当てられたトレーナー室へとたどり着く。

 そのトレーナー室は木造の平屋で1Kの建物だが、なぜか明かりがついていた。周囲にあるトレーナー室は暗いというのに。

 明かりつけっぱなしだったかと反省しながら鍵を取り出してドアノブに差し込むも鍵は開いていて、ドアを開けるとあたたかな空気を感じた。

 不思議に思いながらもたくさんの本棚とテーブル、ソファーがある部屋へ入ると3人掛けのソファーのまんなかに制服姿のグラスが座っていた。

 

 グラスは小説を手に持って真剣に読んでいたが、俺が入ったのに気がつくと本を目の前のテーブルへ置くと穏やかな笑顔で俺へと振り向いてくれる。

 頭の上にはふたつのウマ耳があり、右耳には青いリボンの髪飾りをしている。そして耳は横に倒れていてリラックスしているのがわかる。

 その耳の下にある髪は腰まである長さで綺麗で淡い栗色だ。

 俺を優しい目で見てくる、透き通る青空と同じ青色の瞳はまっすぐにこちらを見つめてきて、中等部であるグラスの幼さがある顔はかわいらしく感じる。

 152㎝という俺よりも結構低く、控えめな胸ということもあって、妹がいたらこういうふうに迎えてくれるんだろうかと考えてしまう。

 

 

「遅くまでお疲れさまです、トレーナーさん」

「あぁ……いや、そうじゃない。なんでいるんだ」

 

 仕事してきたことをねぎらってくるグラスの言葉に自然と返事が出てしまうが、ため息をついて文句を言う。

 0時を過ぎた時間まで起きているなんて体によくない。それは選手として、1人の女の子としてもだ。

 早く寝ないと疲れがうまく取れない。規則的な寝起きこそが健康になる手段のひとつでもある。

 待っていてくれているのは嬉しいが、グラスのためにならない。

 

「寮に帰れ。あとで俺が呼び出したせいだと謝っておく」

「そのことでしたら、ご心配なさらず。トレーナーさんと遅くまで勉強をするという名目で外泊届けを出してきたので大丈夫ですよ」

 

 グラスはいたずらが成功した子供のような明るい笑みを浮かべるが、今の俺にはそれに付き合う余裕はなくて1人静かになりたい気持ちでいっぱいだ。

 俺は入り口そばにあるポールハンガーにスーツの上着を掛けると、部屋にある冷蔵庫から野菜の缶ジュースを一気飲みして少しだけ気持ちを落ち着ける。

 

 しかし、いったいなんだって今日の遅い時間にかぎってグラスがいるんだ。今まで何度か同じような時間で仕事を終わったことがあるが、こんなことは1度もなかった。

 ゴミ箱へと飲み終えた空き缶を乱暴に投げ入れたあとにグラスに軽口を言おうと笑みを浮かべたが、うまくいかずに変な笑みを浮かべてしまう。

 グラスは耳をまっすぐに立てて俺の顔をじっと見つめると、立ち上がって俺のすぐ前までくると心配そうな顔になる。

 

「……今日はなにかありましたか?」

「単に仕事が遅くなって疲れただけだ」

 

 不必要に心配されたくない俺はグラスから顔をそむけて言うが、グラスは俺が顔を動かしたほうに移動して顔を見てくる。

 また顔を動かすも、その動きについてくる。

 グラスの心配してくる顔を見てしまうと、弱音を言ってしまいそうだ。トレーナーだからこそ、今以上の心配をさせたくはない。

 

「トレーナーさん、私と顔を合わせてくれませんか?」

「グラスの美人な顔を見てしまったら、あまりの綺麗さに興奮して寝るに寝られなくなってしまう」

「あら、それは嬉しいですね。私を見て喜んでくれるなら、いつでもどこででも見せますよ?」

 

 遠まわしに目を合わせたくないと言うがグラスはそれを気にせずに両手で俺の頬を押さえてきて、まっすぐ見つめあう形になる。

 じっと見つめられ、俺は視線をあちこちに飛ばして目を合わせないようにする。正面から見られると疲労を隠しきれないが、わずかでも逃げられる可能性を信じて。

 だが、それがよくなかったのか、グラスは小さくため息をついた。

 ため息の意味は仕事を要領よくできない俺に失望したのかと思い、同僚や先輩と同じようにグラスにまでそういう目で見られるのは嫌だから手を振り払って離れようとする。

 

 だが離れることはできず、グラスの手は俺の頭を抱きかかえ、グラス自身の胸元へと導かれた。

 力強い手に俺は抵抗できず、身長が20㎝以上低いグラスに抱きしめられては頭を撫でられるがままになってしまう。

 グラスの控えめだが、きちんとやわらかさがある胸と頭を撫でる手の優しさ。

 制服越しに感じるグラスの体温と甘い匂いに包まれると、自然と心が落ち着いてくる。

 俺に優しくしてくれる人がいるという安心感が苦しい。このままだと甘えてみっともないところを見せてしまう。

 けれど、離れようと思っても体は言うことを聞かずグラスに包まれていたくて離れることができない。

 そうやっているとグラスがひどく優しい声をかけてくれる。

 

「辛い時なら辛いと言ってください。愚痴や文句を言えば楽になると思うんです」

「そんなのは言えない。これは俺だけの問題だ」

「でも、しなくていい苦労をしているのは私のせいではないんですか?」

「世渡りが下手なだけだよ」

「では、そんなトレーナーさんを私が優しくしてあげてもいいですよね。いつも立派であろうとするのはいい心掛けですけど、そうしてばかりだと近いうちに倒れてしまいますよ?」

 

 俺を心配してくれる暖かい言葉。

 それをどれだけ欲しかったかと思うと同時に、グラスに心配をかけたことを反省する。

 グラスは今日にいたるまで、こんな心配する言葉を言わなかった。目だけは心配していたが口には出していなかった。

 それはグラスの優しさなのかもしれない。大人の男である俺だから、育てているウマ娘から心配されるとプライドが傷つくと思って配慮してくれたんだろう。

 でもここ最近の疲れ具合もあり、俺を心配して戻ってくるまで待っていてくれていた。

 

「いつも頑張っているのはわかっています。だから、疲れたときは私に甘えてください。私だってトレーナーさんの役に立ちたいんです」

 

 抱きしめられたグラスの胸元から顔を上げると、慈愛に満ちた表情で俺を見てくれている。

 あぁ、こんなにも優しくしてくれるなら、もっとグラスの役に立ちたい。グラスがレースで勝ち続け、ウイニングライブできらきらと輝く姿を見たい!

 グラスから離れると、グラスは俺の手を掴んでソファーへと連れていく。そして俺がソファーに座るとわずかな距離を開けて隣に座ってくる。

 何か俺に聞くわけでもなく、ただそばにいてくれる。それだけなのに俺の目には涙が目に浮かんでしまう。

 だからか、言いたくなかった愚痴をつい言ってしまう。

 

「先輩に言われたんだ。お前が勝てているのはグラスワンダーが優秀なだけだ。お前はその背中に乗っているリュックサックみたいな奴だと」

「私が優秀、ですか。私の血にガソリンが流れているというような噂が流れるくらいだったら自分でも良いウマ娘かなと思いはしますけど。

 でもそうじゃない私は優秀ではありません。優秀だとしてもあなたがいてこそですから、そういうのはつまらない嫉妬です。

 ウマ娘が自分だけで強くなれるなら、トレーナーなんていう職業はなくなりますよ。あなたの頑張りは私が一番近くで見て、一番良くわかっています。

 だから、聞く必要のない言葉は聞かないでトレーナーさんを、あなたを理解してくれている人だけを見て、声を聞いていればいいんです」

 

 ……言われるとそうだ。俺はトレーナーになったばかりの頃に先輩に多くの意見を聞き、自分自身の中で多様性の考えを持ち続けろと教えられた。

 だが、それも時と場合による。

 特に嫌がらせを多く受けている、今の状況のような。多くの考えを意識し、聞く。それには多くの考える時間と思考する労力を取られてしまう。その結果、日頃から胃を痛くしてストレスに耐えるばかりだ。

 悪い今を変えるのなら、グラスを信じるべきだと気づく。今までグラスに頼らず、信頼していないふうな形となっていた。

 そんな俺なのに、グラスは優しい言葉をかけてくれた。優しく抱きしめてくれた。

 

「どうして俺にそこまでしてくれるんだ?」

「私のトレーナーだから、ではダメでしょうか」

「納得できないな。お前がここまで優しくしてくれるほど、俺と仲がよくはなかっただろう」

「そうでしょうか?」

「考えてもみろ。お前と一緒にいる時間なんて走ること関連でしかない。他のトレーナーたちのように遊びに行くなんてことは1度もなかったはずだ」

 

 俺とグラスとの仲は少し他のトレーナーとは違う。そもそもの出会いが変わっていたから、それも当然かと思う。

 普通はトレセン学園内での選抜レースでウマ娘とトレーナーがそれぞれ契約を結ぶ。

 だが俺たちはそうじゃなかった。

 俺は選抜レースでウマ娘との初めての契約がうまくいかず、選抜レース後の俺はトレーナー契約が結べなかった15人ほどのウマ娘たちのトレーニングを見ている時に出会った。

 選抜レース時のグラスワンダーは選抜レースで2着となり、悪くはない結果なのにスカウトを断って練習を続けていた。

 そんな時に併走相手を求めて俺のところへとやってきた。他のトレーナーたちも当初はそれを受けていたが、グラスワンダーと併走して落ち込むウマ娘が多かったためにすぐに相手がいなくなってしまっていた。

 

 だから俺のところへとやってきた。グラスワンダーが相手をつぶしてくるという噂は聞いていたものの、自分より格上の相手との練習は勉強になるだろうと思って俺が教えていた子たちに相手をさせた。

 結果は惨敗で、ものすごく落ち込んでしまった。だが、俺はそれが悪いことではないと思っていた。トレーナーがいない子たちは強い子たちと練習する機会がないから。

 まぁ、俺はそう思っても本人たちはそう思っておらず、自信をなくしていたために俺はものすごく褒めた。強い子とやるのはいい経験だとか、

 それプラス自腹でウマ娘たちとグラスワンダーを誘ってご飯を食べにいくなどをして元気にさせた。

 結果としてグラスワンダーと仲良くなり、一緒に練習する機会も増えた。

 1度併走トレーニングをしてからは、俺たちの中にグラスワンダーも混ざるようになった。

 一緒に練習をし、トレーニング方法について考えあい、練習するときは俺の隣によく来るようになった。 

 

 そんなある日に『どうして悪い噂がある私を練習に入れてくれるんですか?』と言われたことがあった。

 その言葉に『みんなで練習すると楽しいじゃないか』と当然のように返事をすると、きょとんとした顔をしたあとにおかしいものを聞いたとでもいうように大きな声で笑われた。

 どうにも他のウマ娘やトレーナーはライバル意識が強く、楽しく練習なんてのはあまりないらしいのが理由だった。

 そうして一緒に過ごし、グラスワンダーは次の選抜レースで1着となって喜び、同時にもう一緒にいられないかと寂しく思った。

 でも俺を逆に指名してきた。新人トレーナーである俺をだ。

 その逆指名を俺は受け、グラスワンダーの専属となった。

 専属となると、以前のように今まで教えていた他のウマ娘たちと会う機会は減ったものの、専属のウマ娘を持つと学園から施設の使用回数や時間が多く与えられて一緒に過ごす時間が増えた。

 グラスワンダー、今となってはグラスと呼べるようになったが同じ時間を過ごすだけで仲が良くなるものはないはずだ。

 俺は過去を思い出し、考え、自分の意見が正しいことを確認する。

 

「……やっぱり理由はないな」

 

 悩んでも答えが出なかった俺は静かにそう言うと、グラスは大きく深呼吸してからまっすぐに俺を見つめてきた。

 それはレース前と同じように緊張している雰囲気で。

 俺はグラスが何を言うか身構えて待つ。1分かそのくらいの時間が過ぎた頃にグラスはゆっくりと口を開いた。

 

「私、グラスワンダーがあなたを愛しているからです」

「……俺を好きに?」

「あなたの隣は美しい桜を見ているのと同じぐらいに心が穏やかになるんです。それに専属でなくても私のことを一生懸命考え、応援してくれた。そんなあなたを好きになって当然じゃないですか」

「俺はただトレーナーとしてウマ娘のことを大事に考えているだけだぞ?」

「それが嬉しいんです。私の専属となってくれた今は、私のことだけを考えてくれているのがすごく嬉しくて」

 

 俺を愛していると言ったグラスは緊張感が一気になくなり、すっきりとした笑みを浮かべて優しい声になっている。

 そんな様子に対し、俺は告白をされても少ししか驚かなかった。言われてから気づくが、確かにそういう理由でないと優しくしないよなと思ったから。

 

「俺はお前のことを女性として意識していない」

「それで構いません。私があなたに片想いしているだけですから」

 

 俺は口を開けて何かを言おうとするも言葉が出ない。

 つい無意識でひどいことを言ってしまったが、グラスは怒ることも落ち込むこともなかった。

 それが逆に俺に罪悪感を抱かせる。

 俺はいつでもウマ娘のグラスワンダーを見てきたが、それは選手としての一面だけ。

 1人の人として見たことは、さっき告白された瞬間から始まったばかりだ。

 

「別に今までどおりでいいんです。変なことを言って失礼しました。今は心穏やかになってください」

 

 グラスは俺から少し距離を取ってから、太ももを両手で軽くポンポンと叩いて膝枕を誘ってくる。

 突然のことにどうしようか動けないでいるが、グラスはただ俺を優しく見つめてくるだけだ。

 その視線に意識は吸い込まれ、自然と体は横に倒れてグラスの太ももの上に頭を置いてしまった。

 グラスの柔らかくも鍛えられた太ももの上に頭を乗せた俺は、そっと頭を撫でられながらトレーナー室の景色を眺めていく。

 

「私はあなたの助けになりたいんです。ですから、これからは私に頼ってください。迷惑をかけてください。

 そうしてくれれば、私はとても嬉しいですから」

 

 そう言ってくれるグラスは疲れた俺の心を癒してくれ、これからグラスワンダーという女の子にはまってしまいそうだと感じた。

 以前だったら選手とトレーナーの関係に個人的関係が強すぎるのはダメかと思っていたが、もうグラスがいないとやっていけなさそうだ。俺を心配してくれる子がいるならもっと頑張れる。

 眠さと疲れでぼぅっとする頭でそんなことを思う。

 グラスに優しく撫でられながら意識が落ちそうになっていると、グラスの撫でる手が止まったなと思った瞬間に唇へと柔らかくすべすべとした感触がきた。

 落ちていく意識の中で、俺のグラスにキスをされたんだなと思いながら。



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7.アグネスタキオン(百合)『私たちの関係は名称未定』

女トレーナーとの百合小説。


 閉じているカーテンの隙間から、まぶしい朝日の光が部屋へと差し込んでくる朝の5時。

 その光が顔にあたって眠っている意識を覚ましていき、このまま寝ていたい気温を感じる5月の朝。

 心と体を休める休日が終わり、やってきた月曜日の今日。

 ウマ娘たちがトレーニングだけでなく学業も一緒に頑張る日がまた始まる。

 でも今日だけは普通の月曜日と違う。

 なぜなら、今日は私とタキオンが同居して1周年の日だからだ。

 

 最初はトレーナーである私のことを都合よく実験のモルモット扱いにしていたものの、女の身でありながらタキオンに恋愛的な意味で一目惚れしていた私は雑に扱われても嬉しかった。

 ある日にタキオンの食生活が悪いと知って私が強引にお弁当を作ってあげたら仲がよくなった。

 お弁当をあげ続けるうちに私が住むマンションの部屋にまで朝、夜と押しかけてる日々が続き、タキオンがG1を勝ったあとに『そろそろ一緒に暮らしてもいいんじゃないかな』と言われて私は深く考えずに同居生活を決行。

 そして一緒に暮らし始めてからわかったけど、これは実に名案だった。

 そう、食生活がだめだめなタキオンをしっかりお世話することができたから。

 同居生活は1人で暮らすよりも気を遣い、時々口喧嘩をするけど寂しくないから悪くはないと思う。

 

 今までのことをぼんやりとした頭で同居することになった理由を思い出しながら体にかかっている毛布をどけて起きようとすると、布団を並べて隣に寝ているタキオンが私の手をぎゅっと握っていた。

 毛布ごと体を丸くしているタキオンはかわいらしく、握ってきている指を丁寧に外してから、つい頭を撫でてしまう。

 私にとってタキオンは手のかかる妹のような存在だ。

 胸は私よりも大きく、身長は私と同じ159㎝。

 濃い色をしている髪は肩までかかるほどのセミロングで、ところどころに跳ねているところがある。

 ウマ耳や尻尾も同じ茶色だけれども、こちらは髪とは違って癖っ毛はなくて綺麗にまっすぐとなっている。

 パジャマは私とおそろいのデザインで、色はタキオンが青色。私のはオレンジ色だ。

 普段は憎たらしくなるほど練習をしたくない言い訳や実験狂いな彼女だけど、寝ている時の表情はとてもかわいい。

 この安心してゆるんでいる表情を見ていると、ほっぺたをぷにぷにとつつきたくなるぐらいに。

 

 でも、そういう襲うようなことはやらない。

 なぜなら、私は彼女から信頼されているトレーナーだから!(過去にほっぺたつんつんをやって、思い切り指を噛まれたことは忘れることとする)

 私は寝顔を見せてくれるタキオンを10秒ほど鑑賞したあとに体を起こして大きなあくびをする。

 それからは腰あたりまであるボサボサの黒髪を手櫛で適当にやってから立ち上がると、タキオンを起こさないようカーテンを閉めたまま朝ごはんの準備をする。

 "強いウマ娘は食事から"という言葉が私の中にあり、栄養管理は大事だと思っている。でも栄養管理を重視しすぎていると、食事を楽しむという行為が減ってしまうので厳密にはしないけど。

 

 台所に立った私が最初にすること。

 それは私がコーヒーを飲むことから始まる。

 ご飯作りの前に飲むことによって、心のリラックスと脳を目覚めさせることが大事だから。

 でもコーヒーには詳しいわけではなく、インスタントを飲む程度のものだ。

 そのインスタントなコーヒーを飲むため、水を入れたヤカンをコンロに乗せて火をつける。

 沸くまでの間に、コンロのそばにある棚からは愛用のピンク色をしたマグカップを取り出し、コーヒーの粉を入れると後は待つだけ。

 

 待っている間に考えることはタキオンのこと。

 はじめはタキオンの私物はなく、少しの着替えがあればいいと本人は言っていた。

 でも一緒に過ごしていくうちに私の家には物が増えていき、元々住んでいた寮の部屋は荷物置場となっている。

 タキオンの物が増えるほど、私と彼女の仲は深まっていき、私の人生も明るくなった。

 元々私は学校の先生になりたかった。でも、トレーナーをやっている一族だったために、祖父からの『私を心配している』という名の元で脅迫を受けて途中から私の道も変えられてしまう。

 父がトレーナーをやらなかったから、そのぶん私に期待していたのだと思う。

 親は私の自由よりも、親族からの目を常に気にしていた。味方がいない私は高校生の時から本格的に勉強をさせられ、従うしかなかった。

 今でも逃げることはできていない。

 

 今年で26歳となった私には恋人すらいなく、永久就職で逃げるなんてのはできないのが悲しい。

 最も出会いがトレセン学園でしかなく、ウマ娘関係者とは距離を置きたいから恋人ができないのは仕方がないと思っている。

 その前に、なぜか仲のいい男友達でさえできないけれど。普段から愛想をよくしているはずなのに、もてないのが謎だ。

 そういうわけで、1人寂しく人生を終える気配を感じてもタキオンさえいればいいやとなるぐらいになっている近頃。

 親や親族に反抗してトレーナーをやめたあとに、安心した暮らしをするためにはトレセン学園で今のうちにお金をたくさん稼がないといけない。

 そしてお金を溜めてから、私はトレーナーじゃない仕事をやりたい。できれば、隣には引退したタキオンがいて親密な友人関係でいたいなぁ。

 そんなずっとずっと先のことを考えるけど、考え過ぎてもいいことはないとお湯が沸いてきた音で思考を断ち切り、ヤカンを持ってコーヒーを淹れていく。

 コーヒーを淹れ終わり、ヤカンを片付けたあとは飲むだけとなったときにタキオンの「んんぅ……」という少し色っぽい声が聞こえてくる。

 振り向くと、いつもはこの時間に起きてこないタキオンが上半身だけを起こし、茶色の目を半分だけ開けてはぼぅっとした表情で固まっている。

 

 

「おはよう、タキオン」

「ん、んん、あぁ……」

 

 タキオンが私と同じ時間に起きてくるのは珍しく、というか初めてだ。

 いつも寝起き直後の顔は見ているけど、普段よりもどことなく眠そうな顔を見れたのはラッキーだ。嬉しくて、つい笑顔を浮かべてしまう。

 タキオンが起きたのはいいものの、私が返事しても挨拶がかえってこないことから目覚めていないらしく、私は料理を作ることも忘れてコーヒーを飲みつつタキオンを観察する。

 あとどれくらいで起きるかなと壁にかけてある時計を見ていると、ポスンという音が聞こえる。

 

 その音が聞こえた方向にはタキオンが倒れている姿だった。

 起きるのがいつも遅いタキオンには朝早く起きるというのは無理があったかな、と思いながら飲み終わったマグカップを置くとタキオンへと近づいていく。

 すぐそばに行き、かわいい寝顔を至近距離で堂々と覗き込めるのに緊張して正座をしてしまう。タキオンが仰向けになる寝顔を見る機会はあまり多くない。

 つい正座してしまうのも仕方がないこと。

 

 大きく息をつき、心を落ち着けてから顔を覗き込むと、安心した寝顔がそこにはあった。

 もうかわいい。無防備な時こそ最高にかわいい。普段はなんだか上から目線というか、プライド高いウマ娘だけれど、この瞬間だけはかわいいしか言えない。

 あぁ、こんな子が妹だったらいいのになぁ。もし将来、結婚するんだったらタキオンのような子を産みたい。

 仲良くなる前は周囲を気にせず実験ばかりで相手の都合を考えない面性格、でいつも面倒ごとを起こす子にしか見えなかった。

 でも今はタキオンが考える"線の内側"に入れてもらった私はタキオンが甘えてくるのがたまらない。

 

 タキオンをじっと見つめていると、ふと勢いよく両手を天井へと向けて突き上げた。そうして、そのままの姿勢で目を開けたタキオンは頭を私へと動かして眠そうな目を向けてきた。

 時々ある、甘えたいという欲求の仕草だ。

 私はそれに応えるために立ち上がると、タキオンの体を踏まないように注意して体をまたぐ。

 そうしてから深く息をついてからタキオンのすべすべとした手を掴み、ぐっと力を入れて引っ張って体を起こしてあげる。

 

「今日の朝ごはんは何がいい?」

「……卵。卵だ。卵料理がいい」 

「おっけーい。じゃあ今から―――」

 

 上半身だけを起こしたタキオンに食べたいものを聞いたあとは、料理するために離れようとすると繋いだままの手を引っ張られる。

 そうしてバランスを崩して、膝をついた私の体は先はタキオンの胸の中に収まってしまった。

 タキオンは私を優しく抱きしめ、仰向け状態のまま。私の顔はタキオンの少し大きめな胸にうずまっている。

 ブラをつけていないパジャマ越しの胸は柔らかくて暖かく、幸せな気分にしてくれる。

 それは高級品のステーキやワインを飲んだときよりも強く幸せな。

 

「あの、タキオン?」

「まだ眠いんだ。一緒に寝ようじゃないか」

「私、これから朝ごはん作るんだけど」

「なに、1食ぐらい手を抜いてもいいだろう? 朝の食事は栄養ゼリーにしよう」

 

 タキオンは胸に埋まっている私の頭を何度も優しく撫でてくる。

 好きなウマ娘のタキオンからこういうことをされると、タキオンの言われるままでいいかなぁって思ってきた。

 タキオンから感じる、優しい匂い。普段はオレンジの匂いがついている消毒液の匂いがするけど、寝起きの今だけは自然なタキオンの香りがしている。

 しばらくタキオンにされるがままになり、顔を胸にうずめたままでいる。でも、少ししてタキオンが苦しそうな感じがしたら、ごろんと転がってはタキオンのすぐ隣へと移動した。

 2人一緒にぼぅっと朝のおだやかな時間を楽しみ、そして少しして起きた私はもうすぐ出勤時間なのに気づく。

 

「タキオン、時間」

「もうそんな時間かい? 着替えてくるといい。私も着替えて学園に行くとしよう」

「そうしよっか。あ、今日はきちんと授業を受けるんだよ?」

 

 タキオンは私の言葉に返事をせず、にんまりとした笑みを浮かべると私の体を押し上げて立たせた。

 それから布団を片付けたあと、部屋で化粧をして灰色のスーツに着替え終わった私と薄青色の制服姿になったタキオンがテーブルへと着く。

 目の前には栄養補助食品であるゼリー飲料のパックがふたつ。

 

「さぁ、食べてくれたまえ。この私が料理を用意した!」

 

 と、椅子は座っているタキオンがテーブルに置いてあるのを堂々と言うのに対してため息をつき、私はテーブルを挟んで反対側の椅子に座る。

 そして、じっと静かにタキオンの顔を見つめていると、タキオンはすぐさま顔を私からそらす。

 そらす理由はわかっている。それはタキオンが自分自身の肌を大事にしないことに、私はひどく文句があるからだ。

 

「ねぇ、タキオン? 今日はどうやって顔を洗ったの?」

「それはだね、目が覚めるように冷たい水道水で―――」

「きちんとぬるま湯で洗ってから、洗顔料を泡立ててって言っているよね? そのための洗顔ネットも買ってあげたでしょ? なんで水だけなの?」

 

 私の怒りが少し混じった声に、タキオンは慌ててゼリー飲料のパックを口に含んでから顔を思い切りそらす。

 そんな様子にひどく悲しいため息をついてしまう。

 せっかくタキオンは綺麗な肌だというのに、水でばしゃばしゃと適当に洗うだけだ。せっかくの肌を大事にしないことにいらだった私は、やりかたや道具を買ってもさっぱり使ってくれないことにいらだっている。

 何もメイクをしろと言っているわけじゃないのに。

 正しく洗って化粧水をつける。それだけだというのに、この子は気にしない。

 思えば食事だって栄養さえあるなら、なんでもいいと味には深いこだわりがなかった。

 一緒に暮らして1年が経った今日まで、指導はしたものの学んでくれたのは、おいしいご飯は身心ともに良いということだけだ。

 

 まぁ、本人にそこまで興味がないなら強くはすすめないけれど。

 でも、せっかく綺麗な肌をしているのにもったいないなぁとそればかりを思いながら、私もゼリー飲料を飲み始める。

 お互いにゆっくりとゼリー飲料を飲む音を聞きながら、飲み終わったあとは家を出るだけだ。

 せっかくの同居生活1周年なのに何も言ってくれないなぁと寂しく思う。まぁ、私から言ってもいいんだけど1周年がどうした、なんて返事をされたらショックを受けるので聞かないことにする。

 仲良くなり、一緒に暮らし始めてお互いのことを良く知るようになっての1年。

 私はタキオンのことをとても好きだけど、タキオンは私のことを都合のいいトレーナー以外に何か思ってくれているのかな。

 食事が終わって片付けたあとはトレセン学園へと行く。

 玄関へ行き、学生カバンを持ったタキオンが先に靴を履いてドアノブに手をかけると、何を思ったのか私へと振り向いてくる。

 

「そういえば、今日から同居してからの1年が終わって2年目が始まるんだったね。……ふむ、お互い一緒にい続けて嫌にならない。これは実に素晴らしいことだとは思わないかい?」

 

 優しい笑みを浮かべ、同居を喜んでいるのは私だけじゃないと知って嬉しくなる。

 今まで同居して嬉しいとか、素晴らしいということは言ってくれなかった。君と食べるご飯はいいものだ、とは言ってくれたけど。

 だからこそ、初めて聞く言葉が嬉しくてたまらない。

 感極まった私は目に涙を浮かべながらタキオンの胸に飛び込んでしまう。

 

「タキオン、だいすきぃ……」

「なんだい、まるで子供みたいに抱き着いてきて。私はまだ独り身だったはずだよ」

 

 タキオンは苦笑しながら私を優しく受け止めてくれる。

 私をそっと抱きしめてくれるだけで嬉しい。

 一緒に暮らす前、タキオンが私と暮らしたいと言ったときは生活が面倒なだけなんだろうなぁと思っていた。

 確かにそのとおりだけど、1人ではなく親しいタキオンと一緒にいることがこんなにも幸せで、生活が充実している。

 私のそばにタキオンがいる。

 それはたくさんのお金やおいしいものを食べるなんかよりも、ずっとずっと幸せなんだなと気づけた。

 だから、これからもずっと一緒にタキオンと生きていきたいなと思う。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 私ことアグネスタキオンは、モルモット兼トレーナーと一緒にマンションの家から出る。

 よく晴れた青空の下で、ふたり肩を並べて学園へと向かって気分良く歩いていく。

 10分ほどで着く学園に向かう途中、話すことは私の実験やトレーニングや体調についての話題だ。

 他にもトレーナー君の人間関係や私以外に練習を見ることがある、専属トレーナーがいないウマ娘のことなど話題には事欠かない。

 こういう家を出てから学園へ着くまでの話は中々に楽しい。

 家でする雑談と同じようにも思えるが天気や景色、通りゆく人々によって会話がそれらの影響を受けて川の流れのように変わっていくのはいいものだ。

 

 以前はトレーナー君と出会うまでは目的のない雑談なんて無駄なものだと思っていた。

 今では私だけのトレーナーである彼女とずっと一緒にいたいと思うほどに。

 出会った頃は私に一目惚れしたという、ずいぶんな変人だと思い、同時に良い実験台が手に入ったと喜んだものだ。

 私は彼女のことを実験サンプルとしか思っていないのに、いつどんな時でも私を心配してくれてから興味を持っていった。

 今まで、私は学園でレースに興味のない、人に悪さをする頭のおかしいウマ娘という認識だった。そこらの人を手当たり次第に薬品を投与する、犯罪者と言われることも。

 事実その通りで否定しなかったが、彼女だけが私を嫌がらずにいてくれた。

 それが嬉しかった。そばに置きたいと思うようになった。

 そう思ってから、薬を使って私に依存させようとも思ったけど、私が求めているのは自由意志で私を好きでいてくれる彼女だと薬を作っている途中で気づいた。

 

 だから他の手段で、彼女を私だけのものと認識させる必要があった。

 言葉だけでは周囲にただしく認識されず、時間が経つほどに誰の物かと忘れてしまう。

 監禁や軟禁もダメだ。それは彼女の美しい精神を私が汚してしまうことになる。

 料理で胃袋を掴む、という伝統的手法も料理を作ることができない私には無理だ。

 と、なれば匂いを使えばいいと思った。

 そう、学園で私と同じ匂いをさせていれば、嫌でも私のことを連想するだろうと。そうすれば、悪名高い私と関わり合いたくないという思いに違いないという結論が出た。

 

 愛しい、私だけの彼女と話をしているとトレセン学園の正門前へと着く。

 門の前で立ち止まった私たちは、いつもやっていることをやっていく。

 それは私の物だと示すマーキング行為。

 

「さ、トレーナー君。そろそろ殺菌しようか」

「でも今日は料理しなかったし、別に雑菌ついていないと思うんだけど……」

「何を言っているんだい、まったく。もし、君が原因で誰かが病気になったら問題が起きるじゃあないか。ほら、早く手を出したまえ」

 

 自分が汚れていないと言ってくる彼女に、私は普段から携帯しているオレンジの香りがついている除菌スプレーを両手に吹きかける。そのあとには首筋を。

 本来の除菌としてなら首筋になんかやらなくてもいい。

 だけども、ここに匂いをつけておかないと彼女に近づいた奴らに警告を与えることができない。

 首筋に付けるときは毎回疑問の目を持たれるが、そこは「君は汗の匂いをまき散らすのが好みなのかい?」と言っては強引につけている。

 そうしてスプレーをひととおりやったあと、私の朝の日課はこれで終わる。この人は私のものだ、とマーキングが終わるとひどく満足感を得ることができて気持ちがいいものだ。

 つけたあとは学園の門を通り抜け、私と彼女はそれぞれの出入り口に行くために途中で別れる。

 

 私は1人、学生用の玄関へと向かい、少しして後ろへ振り向く。

 そこには1人になった彼女が時々トレーニングを見てあげていて、私の知っているウマ娘に親密そうに話しかけられていた。

 私からは声が聞こえない距離でどういう会話をしているかはわからないものの、楽しそうだという雰囲気なのはわかる。

 私の物である彼女と楽しく話をしている忌々しいウマ娘は話をしているうちに彼女へ距離を詰めていくが途中、私が付けた匂いに気づいたのか動きが止まる。

 そして周囲を見渡し、私と目が合った途端気まずそうになっては目の前にいるトレーナー君に何かを喋ったあとに慌てて走ってはいなくなってしまう。

 

 ……うん、香りの効果はただしく効いているようでなによりだ。

 残された私のトレーナー君は不思議な顔をしながら、職員用の玄関へと向かっていく。

 視線に気づいたのか、歩く途中で私を見ては微笑んで手を振ってきたため、私も同じように手を振り返した。

 このお互いに手を振りあうという行為に心の高揚感を得つつ、耳と尻尾が機嫌よく動いてしまう。

 今日も普段と何も変わらない日常が進んでいくことを嬉しく思いながら。



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8.サイレンススズカ『スズカちゃんは僕のそばにいる』

 11月らしい冷たい空気を頬に感じ、耳からは灯油ストーブがうなり声をあげる音と本のページをめくる音が聞こえて目を覚ます。

 目を開けて見えるのは、トレーナー室の白い天井だ。

 3人掛けのソファーの端でのんびりともたれかかって寝ていた今。

 本を読んでいたのに、いつの間にか寝ていたらしい。首を上にしながら寝ていたため、痛む首を片手で押えながら体を起こした。

 まだ起きていない、ぼぅっとした頭で今は何時だっけかとちょうど正面にある壁掛け時計を見る。

 

 時計は午後7時になっていて、ウマ娘たちのトレーニングを終えたのを見届けて戻ってから2時間ほど寝ていたことになる。

 目の前にある背の低いテーブルには、寝る前に読んでいた小説が置かれていた。

 

 ふと体があまり冷えてないことに気付き、毛布が親切な誰かによって首から下へとすっぽりかけられている。

 普段から体を鍛えているとはいえ、スーツを着ているだけでは風邪を引いていたと思うのでこれには助かった。

 29歳のおじさんになった今となっては、若い時と違って無理をしても中々病気やケガが治らないから。

 今の自分の状態を把握していると、段々と意識がはっきりしている。

 それで起きた時から聞こえてくる、本のページをめくる音にようやく意識を向けることができる。

 寝ている間に誰か来たのだろうか。用事があるなら起こしても構わなかったというのに。

 そんなことを思って聞こえてくる音の方向、左へと頭を向ける。

 そこには僕と同じ、端の方に座ったウマ娘が熱心に小説を手に持って読んでいた。

 

 その子はサイレンススズカ。僕と育成契約をしているうちの1人だ。

 ウマ耳は緑色の覆いをつけていて、明るいさらさらとした栗毛の髪には白いカチューシャ。右耳には緑と黄色の小さなリボンを付けている。

 ワンピースタイプの青を基調としたセーラー服の制服を着ていて、走りやすそうな小さい胸元には大きな青いリボンと蹄鉄の形をしたブローチがついている。

 下は白色に青いラインが入っているスカート。太ももまである白いニーソックスな制服に皮靴のローファーだ。

 

 そんな彼女の横顔を見るのはトレーニングの時に少し遠くから見るぐらいで、こんな1mぐらいしか離れていない距離で見るのは滅多にない。

 小説を読み、笑みを浮かべてリラックスしているスズカはかわいく、ついつい眺めてしまう。

 10秒ほど眺めていると、僕の視線に気づいたスズカは読んでいた本を閉じてはテーブルへと素早く置く。そうしてから、俺へと優しい笑みを向けてくれる。

 

「寒くありませんでしたか?」

「ん、ああ。毛布をかけてくれてありがとう、スズカ」

「いえ、礼を言うほどのことではありません。体が冷えたと思うのでコーヒーを淹れてきますね」

「角砂糖は5つで頼む」

「はい、いつもの数ですね」

 

 僕の要求に、スズカはわかっていますよとでも言うかのように僕の頭を軽く一撫でしてくると、ソファーから立ち上がったスズカはコンロへと向かい、ヤカンに水を入れて火をかける。

 僕が選んだ、最初のウマ娘であるスズカとの付き合いも今年で4年目。

 今では他のウマ娘もいるけど、不思議とスズカの前では気を許してしまう。

 もし隣にいたのがスズカでなく、他の子だったら自分でコーヒーを用意するとこだ。

 お湯が沸くのを待つスズカの後ろ姿を見ながら、ふとなんでこんな時間にいるんだろうと今になって気づく。

 トレーニングが終わったのは5時で、今は8時だ。トレーニングが終わったらジャージから制服へ着替えて帰るのが普通なのに。

 

 申請すれば夜も練習はできるものの、今日はうちのチームでそういう予定はなかったはずだ。

 話し合いや相談をする予定もない。練習したら解散だったはずだ。

 何か理由があっただろうかと考えるも思いつかず、コーヒーを飲み終えたら聞くことにしよう。

 ひとまず悩みは置いといて、スズカにかけてもらった毛布をたたんでからテーブルの上に置き、同じテーブルからスペちゃんに借りた女性向け恋愛ライトノベルを手に取り、コーヒーが来るまでの短い時間を待つ間に読み始める。

 

 本を読みながら耳へと聞こえてくる音を楽しむ。

 スズカがふたり分のマグカップを用意し、ドリップコーヒーの袋を破く音。それをセットし、お湯を入れる音や角砂糖を入れる音が静かな部屋へと響く。

 コーヒーの香りが僕へと届いたと同時に本をテーブルの上へと片付けると、スズカがそれぞれの手にコーヒーが入っているマグカップを持ってやってくる。

 

「お待たせしました」

「ありがとう」

 

 スズカの手から両手でマグカップを受け取り、熱い湯気が出ているコーヒーに息を吹きかけてから小さく口をつける。

 熱いのを飲んでいるとスズカはさっきよりも近く、マグカップ3つぶん開いたぐらいの距離に座ってきていた。

 普段からこのぐらいの近さだから、起きたときよりも近いことに安心し、コーヒーを飲んで体が内側から温まる感触を楽しむ。

 

 そしてお互いに会話もなく、静かにコーヒーを飲む時間が過ぎていく。

 別に話すことがないから静かなわけではなく、スズカと一緒にいるだけで僕は満足しているからだ。だからといって恋人関係ではなく、そこはきちんと公私の区別をつけている。

 トレセン学園的には健全な付き合いなら恋人になろうが気にしないという方向だが、僕としては教え子と恋仲になってしまったら色々とダメになってしまいそうなので気をつけている。

 その子だけ練習をひいきするとか、甘やかしてしまうだろうから。

 恋人でなければ、僕とスズカはどんな関係だろうかとよく考えることがあるけど、この関係につける名称が思いつかない。

 

 ……そういえば、ふたりきりだなんてひさしぶりだ。

 育てているウマ娘が6人もいるからか、いつも誰かがいて3人以上でいることが当たり前になっていた。

 だから、こうしているのは最初に出会った時を思い出してなつかしく感じる。

 スズカが入学したばかりの時、練習コースにいたスズカとの最初の会話で『走るのにあなたが邪魔です』というひどく冷たい言葉をぶつけられたものだ。

 あの時は練習がひと段落したと思っていたけど、まだ終わってなかったことに気づけなかった僕のミスだった。

 

 その経験を元にスズカの練習を邪魔しないようにして、雑談や近頃のウマ娘たちの話をするうちにわずかずつ仲良くなった。

 そこまで僕がサイレンススズカというウマ娘に入れ込んだのは顔や髪が綺麗だったからという、ウマ娘のトレーナーにあるまじき一目惚れ理由だった。

 あとは走っていて、楽しそうな顔を1度も見なかったから気になったということもあった。

 そういう理由でなんとか口説き落とし、こうして仲良くできていると昔の僕はよく頑張ったと褒めてあげたい。

 思い出にひたったあと、コーヒーを全部飲んでマグカップをテーブルに置いてから、なんでこんな時間にいるかと聞こうとしたときにスズカが声をかけてきた。

 

「トレーナーさんが読んでいた本。いつもと違いますね」

「あー、これか。これはスペちゃんから借りたんだよ。『今のトレーナーさんに足りないものがあります!』って言われてね。今日読み終わって、あとはあとがきを読むだけなんだ」

「……そうでしたか」

 

 スズカに聞かれたことを素直に言ったというのに、スズカの顔は初めて出会った時のようになんだか怖く感じ、じっと僕を見つめてくる。

 

「スズカ?」

 

 名前を呼ぶ声にスズカは反応もせず、僕とぴったり体をくっつけてきてはとても近い距離で見上げてくる。

 上目遣いとなっているスズカはかわいさもあるが、それよりも怖くてたまらない。

 元々ソファーの端に座っていたこともあり、これ以上下がれないから、どうしようもない。

 

「ずっと前から思っていたんですけど、どうして私以外の子を『ちゃん』と付けて呼んでいるんですか?

 私はトレーナーさんから見て、そう呼びたくなるほどにはかわいくないのでしょうか」

 

 スズカは僕に対して時々怒っているが、それは僕がジャンクフードを食べまくっていた時や無理して風邪を引いたぐらいだ。その時はこれほど怖さを感じず、かわいさがあって怒り続けて欲しいと思うほどに。

 だけど今の怒りは滅多に見ない。これほど怒ったのは……スペちゃんの髪をぐりぐりと撫でまわしながらじゃれあっていた時だけだ。女性の髪を撫でまわすのはよくありません、って言われたけど今は同じ状況じゃない。

 いったいスズカが怒っている原因はなんだ。

 名前の呼び方はきっかけなだけで本質は違うと思う。

 

 というか、こんな至近距離で見つめられるとドキドキして苦しいんだけど。一目惚れした顔がこんなにも近く、そう、首を前に少し動かすだけの距離へとスズカの顔が僕へと近づいてきているから!!

 青いサファイヤのように美しい瞳は、いつまでも見ていたくなるほどに綺麗なんだ!

 淡い茶色の髪は、いつでも撫でて柔らかさを楽しみたいのを我慢しているっていうのに!

 スズカが小さく笑みを浮かべた時なんて、あまりのかわいさに胸が痛くなるほどだ!

 もちろん声も素晴らしい! 耳元でささやきながらベッドで寝たいぐらいに!

 

 だから、そんなスズカに見つめられると心臓がバクバクと音を立てて辛いから、目をそらすのは仕方のないことだ。

 僕は心の中で叫び声をあげてスズカから目をそらすと、スズカはすぐに僕の顔を両手で掴むと僕の顔の向きを戻してくる。

 そうして見つめあう僕とスズカ。

 

「……私はかわいくありませんか?」

「そんなことはないよ」

「じゃあ、なんで顔をそむけたんですか?」

 

 お前がかわいすぎるからだよ!! と叫びたくなるも、そんなことを正直に言うと嫌がられそうだから言いたくない。

 てか、愛の告白をしてしまいそうだ。あぁ、とにかく、何かを言わないといけないからマイルドにした褒め言葉を言おう。

 スズカとキスをしてしまいそうなほどの至近距離で見つめられ続けられる中、僕はついに口を開いて言葉を言おうとする。

 その時に、ふと部屋に寒い空気が入ったのを感じると、スズカは手の力が弱まって扉の方向を見る。それにつられて僕も扉を見ると、そこにはスペちゃんがいた。

 制服を着た、黒髪が綺麗なスペちゃんはドアを少しだけ開け、なんだか申し訳なさそうにしている。

 

「スズカさんがなかなか帰ってこないので探しに来たんですけど、いい雰囲気のところでお邪魔してすみません……」

 

 緊迫した空気なところに、突然スペちゃんが来たことで僕とスズカは硬直するけど、いち早く意識が戻った僕は密着しているシーンを見られて恥ずかしく思いながらもなんでもないかのように振る舞う。

 そうでないと、トレーナーとウマ娘の不純異性交遊と思われかねない。今なら、スペちゃんに聞かれればケンカ中だったと言えるはずだ。

 

「あー、さっき読み終わったからいいよ」

 

 そう言うとスペちゃんは素早く近づき、テーブルに置いてある本を手に取っては僕とスズカの顔を交互に見る。

 入ったときは申し訳なさそうな表情だったのに、今では安心したふうに笑みを浮かべている。

 

「それほどくっついているなら、おふたりは恋人同士になったんですね! 毎夜スズカさんがトレーナーさんのことを好きすぎて部屋で『トレーナーさんに甘えたいわ』とか他にも―――」

 

 そのスペちゃんの言葉は最後まで言い終えることがなかった。

 なぜなら、僕から離れたスズカがレースの時ぐらいの早さでテーブルに置いてある自身のマグカップを手に取ると、立ち上がっては強引にスペちゃんの口へと押し付ける。

 スペちゃんの口を強引にふさぎたかったスズカのことは気になったが、それよりも顔を赤くしながらも怒りの笑みで飲ませているスズカのことが気になった。

 

「スペちゃん? たくさん喋ってノドが渇いたでしょう? ほら、私のコーヒーを飲むといいわ?」

「ス、スズカさん、わた、私。ブラックはダメで―――」

 

 本来ならコーヒーを強引に飲ませているスズカを止めるべきだが、止めるとスズカに怒られそうなのと動揺するスズカはあまり見ることがないので見続けることにしよう。

 それにスズカも加減はわかっているだろうから。

 そんなスズカとスペちゃんを見つつも、気になっていたのは僕に甘えたいと言っているらしいスズカのことだ。

 事実なら、今日スズカが普段よりもくっついてきたことや、怒ってきた理由に説明がつくかもしれない。それでも、名前の呼び方の違いで機嫌悪くなったのはわからない。

 ひとり静かに悩んでいると、スズカはスペちゃんにコーヒーを飲ませたらしく、スペちゃんは床に膝をついてはむせていた。

 

「スペちゃん、大丈夫?」

「……はい、大丈夫です! スズカさんの照れ顔がかわいかったので!!」

 

 心配して声をかけると、すごいいい笑顔で言ってきた。それになんだか腹が立ってしまう。僕の角度ではスズカの後ろ姿しか見えなかったらうらやましい。

 だから、ほっぺたを両手でむにむにとさわって嫌がらせをしてやろうかと思っていると、スズカは僕とスペちゃんの顔を2度見てから真面目な顔をしては部屋の中をぐるぐると左回りで歩き始めた。

 

 それはゆっくり、時には早く。耳をそわそわと落ち着きなく動かし、尻尾は興奮したように高い位置で元気に振っている。

 僕とスペちゃんはそんなスズカの様子を不思議そうに見ているけど、何かを決心した顔になったスズカは勢いよく、さっきと同じような位置で僕に迫ってきていた。

 

「トレーナーさん、私、急に甘いものが欲しくなりました。

「甘いもの? それならグラスちゃん用の和菓子があるけど」

「いえ、目の前にあるものです」

 

 目の前? と不思議に思っているとスズカは僕の首に両腕を回し、目をつむって勢いよくキスしてくる。

 でもそのキスは勢いがよく、歯と歯がぶつかって痛いキスになってしまう。

 それでもスズカはキスを続け、歯があたりながらも唇同士がふれあうキスへと変わっていく。そして次第に僕の口の中にはスズカの舌が入ってきた。

 スズカの行動に混乱しつつ、されるがまま。

 甘いものってのは僕が甘いコーヒーを飲んだ口の味か、なんてのを冷静に考えてしまう。

 

 ディープキスをされている中、一生懸命にキスするスズカの顔や荒い息は好きだなぁと感じつつ、視界の端には熱を持った表情で僕たちのキスを見つめているスペちゃんがいる。

 スズカの長く情熱的なキスによって呼吸が苦しくなってくると、スズカはようやく目を開けるとキスをやめて僕から離れていく。

 その時にキスをした僕たちの唇の間から唾液が粘りを持って糸を引いていく。

 お互い息を荒くし、スズカのとろんとした甘い笑みを見ているとはまってしまいそうだ。

 

 スズカのためなら、いくらでもお金と時間を使いたくなる。ひとりの女性として求めてしまいたくなるが、ウマ娘たちのトレーナーだという意識を強く持ってなんとか耐える。

 そうして耐えたとこで、スズカが自分のポケットから出したハンカチで自身のと僕のを拭いたスズカは不安そうな顔になった。

 

「あの、私のこともみんなと同じように呼んでくれませんか?」

「……えっと、スズカちゃん?」

「はい、あなただけのスズカちゃんです」

 

 お願いされるまま、スズカちゃんという名前を呼ぶと、スズカはとても幸せそうな笑顔を見せてくれる。

 

「これで私も他の子たちと一緒になれましたね?」

 

 僕とスズカの話を聞いていたスペちゃんは「スズカさんは、そう呼ばれたいためにキスをしたんですか!?」と大きな声で驚いていた。

 そもそも僕はスズカをスズカと呼んでいたことに深い理由はなく、出会ってすぐの頃から呼び捨てだったのは言いやすかっただけ。もしかしたら、1人だけ違う呼称なのが寂しかったのかも。

 でも今は疑問を考える時間や説明をすることはしない。だってスズカが、スズカちゃんがこんなにも嬉しそうだから。 

 

「初めてのキスは、甘いコーヒー味でしたね?」

 

 口元を両手で隠し、嬉しそうに尻尾を高く振りながら恥ずかしげに言ってくるのはずるい。

 もう最高にかわいいんだけど。僕のウマ娘が。

 スズカちゃんに対して、僕の衝動が高まりすぎて、ついスズカちゃんの体を強く抱きしめた。

 女の子特有のやわらかい体。シャンプーの香りがする髪、耳がくすぐったくなる呼吸の音。

 それらすべてが僕の心をおかしくしてくる。

 

 スズカちゃんと僕が、それぞれお互いを好きだと気づいた今、僕は今以上にこれからのことを考えていこうと決めた。

 きっと長い付き合いになる、スズカちゃんとすぐそばで過ごしていく時間のために。



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9.ナリタタイシン『ナリタタイシン:アタシの走る理由』

 4月の入学式が終わり新しいウマ娘たちが入った春が終わり、今は雨がしとしとと降るようになった6月のはじめ。

 まんまるの月が明るく照らしている夜は、ちょっとの風が吹いていて少し肌寒い気温だ。

 高校卒業と同時にトレセン学園の用務員に就職し、今年で12年目となった30歳の俺は灰色のツナギを着て懐中電灯を片手に持って学園内を歩いている。

 夜の10時ともなると夜間トレーニングをするウマ娘はいなく、練習場やトレーニング施設は明かりを消していて普段のにぎやかさはまったくない。

 外灯と懐中電灯の光で静かな学園内を字巡回していると、レース場に近づくと何かの音が聞こえてくる。

 ここに勤めてから、そういう音は時々聞くことがあった。

 

 はじめのうちは幽霊かと怯えたものだが、耳を澄ますと聞こえてくるのはウマ娘の走る音だ。

 この時期になると頑張りすぎる子がいるものだ。

 業務的に消灯後に走る子がいるのは無視できないというものあるが、自分の体を大事にしないで感情のまま走り続けるウマ娘はとても気になる。

 だから俺は少し早足で練習場のコースへと近づく。

 

 月明かりに照らされ、芝の上を走っているのは小柄な子だ。

 夜遅く、帰ろうともしない子の走りを止めるため、コースの上へと歩いていき、懐中電灯の明かりを彼女の目に直接当てないようにしつつ向ける。

 俺に気づいたジャージ姿の子は、速度を下げると俺の目の前で止まってくれた。

 収まる気配がないほどに荒い呼吸をしていて、汗を顔にべったりと張り付けている小さな身長のウマ娘だ。

 その子は淡い茶色の髪で、ところどころ跳ねているボブカットの髪型をしている。

 

 俺の身長が180cmなのに対し、彼女は30㎝は低いと思う。

 そんなにも小柄だと、レースで競り合う時にはとても苦労しそうだなと思う。

 小さな体でレースは大丈夫だろうかという目をしたのがいけなかったのか、彼女は俺を殴りたいと思っているような目できつくにらんでくる。

 懐中電灯の明かりを消し、言葉をかけようとすると向こうから声をかけてきた。

 

「なにか用?」

「トレーニングの時間は終わってるだろ」

「……自主練だけど」

「こんな時間にか。明かりがない練習場で1人寂しく?」

「あんたには関係ないでしょ。ウマ娘は走るのが仕事で、アタシはその練習をしているだけ」

「とはいえ門限は過ぎてるし、俺はお前が何と言おうと帰らせなきゃいけないんだが」

 

 帰る気配がないウマ娘の手首を掴もうと俺は近づくが、彼女は息が整っていないのに走り去っていく。

 夜の色に混じり、離れていく後ろ姿を見ると何かしてやりたくなる。

 今の彼女は練習効率も練習メニューもない、ただ無駄に走っているだけだ。そういう子は用務員という仕事を長くやっていれば、数は多くなくとも見ることはあった。

 そして、そんな彼女たちに俺はおせっかいを焼いていた。

 

 とは言っても練習内容を教えるとか、トレーナーがいない子にトレーナーの仲介なんてことじゃない。

 愚痴や不満を聞き、自分の目標を見つけさせることだけだ。それだけでも今まで会ってきたウマ娘たちはヤケにならず、体を大事にして練習するようになった。

 以前に俺と会話した子もその子らと同じだろう。

 別に用務員といっても学園の維持管理をするだけでいいのだが、頑張りすぎる子たちがどうしても気になってしまう。

 

 コースを1週し、止まる様子もなく走って戻ってくる彼女に向けて懐中電灯を構えると顔へと向けて明かりを点ける。

 彼女はそれをかわそうとするも、俺は手首を動かして光から逃がさないようにする。

 俺の元へと来ることには足も遅くなり、立ち止まる。

 

「お前はバカか」

 

 懐中電灯の明かりを消し、心の底からあきれた声が出てしまう。

 意地になり、意味がないどころか悪影響ばかりの走りを続ける彼女に対して、そんなことを強く思う。

 

「どっちがバカだ!! 走っているってのに邪魔してさ! ほんとバカにしやがって!

 トレーナーの誰もが、一緒に入学してきた子たちやアンタみたいな用務員までもが、みんなアタシをバカにする!

 体が小さい、才能がない、先頭に立とうとする無茶な走りとか言ってさ! そんなにバカにするんだったら、教えろっての。

 それもせずにバカにするだけなら、なんでアタシを入学させたんだ!!」

 

 一息に怒りの言葉を大声で俺へと叫び、耳を伏せてにらみつけているのは本気で怒っているようだ。

 だが、その怒りは周囲にいる人間よりも自分自身にいらだっているように思える。

 自分自身に能力が足りない、身長があれば、体格がよければというような不満を感じられる。

 

「4月の夜は寒いから宿直室に行かないか。そこで話をしよう」

「なんで行かなきゃいけないのさ。話たってアンタにアタシの気持ちがわかるわけないから話なんて無駄だ!」

「そりゃわからんさ。俺はウマ娘でもないし、陸上競技をやっていたわけでもない。でも俺はお前のような子を今まで見てきて、世話を焼いてきたんだ。

 だがな、嫌な奴らを見返したいってのなら頭を使え。今のままだとそいつらの思うとおりになってしまうだけだ」

 

 静かに言う俺に対し、さっきまでのように声を荒げずにこちらをにらんでくる。

 けれど、少しして怒った気配は薄くなり、耳もまっすぐに立ってきて落ち着いてきている。

 今までの荒っぽさから一転してのこれ。気持ちの切り替えが早く、これなら上手に生かせば走るのに良いものとなるに違いない。

 

「俺はお前と同じように苦しんでいる子たちを見てきて、話をしてきた。お前もしたいのならついてこい」

 

 その小柄のウマ娘に背を向けると、俺は使っている宿直室へと向かって歩いていく。

 少しばかり業務をさぼることになるが、悩んでいるウマ娘に優しくしない奴なんてトレセン学園の職員じゃないと俺は言いたい。

 ここに就職する前から、レースで負けたウマ娘はどうなるんだろうと思っていた。

 それが知りたくて用務員になり、この10年で負けた子たちは自分に劣等感を抱いたまま去っていった。

 だから、それをなんとかしたいと今も昔も思っている。

 

「アタシはお前じゃない。ナリタタイシンって名前だ」

「ナリタタイシン。俺についてこい」

 

 背後からの声に俺は顔を振り向きもせず、喋りながら歩いていく。

 

「はぁ!? 誰がアンタみたいな奴に!」

 

 歩き続けている俺に大声をかけたナリタタイシンだが、ちょっとの時間が経ってから小走りで近づいてくる足音が。そして俺の後ろへと来て何も言わずに静かに歩いてついてくる

 暗くなったトレセン学園の中を俺とナリタタイシンの歩く足音だけが響く。

 学園の中に入り、宿直室へと入る。部屋は12畳の広さで畳がある和室と、二段ベッドが2つある部屋に別れている。

 どちらの部屋にも他の用務員はおらず、まだ学園内を巡回しているのだろう。

 畳の部屋へと靴を脱いで上がると、後ろに来ていたナリタタイシンにも来るように手招きをする。

 そうして不満顔な彼女が畳に正座で座ると、俺は自分のバッグからナリタタイシンの目の前へとノートを4冊を置いた。

 そのどれもが使い込まれたもので、表紙に汚れや傷が多くついている。

 

「なに、これは」

「お前のように暗い中で走ったウマ娘たちが、後輩に向けた助言や学園に対しての恨みや悔しさが書かれたノートだ」

 

 様々な感情が詰まったノートだと説明されたにも関わらず、ナリタタイシンは戸惑いもせず興味深そうにノートを手に取るとじっくりと読み始めた。

 その様子を見ながら、俺はポケットからスマホを取り出すとウマ娘寮を管轄する人に電話をし、ナリタタイシンというウマ娘はもう少しで帰ると連絡をしておく。

 電話が終わり、読んでいる邪魔をしないように俺はナリタタイシンの前にあぐらで座った。

 少ししてノートを開いたまま、俺へと顔を向けてくる。

 

「これを書いた子たちと仲はよかった?」

「ああ、よく話をするほどにな。エイシンカヌート、カピオラ、アストリアシチー、スプリームインター、メジロラーク。今でも彼女たちのことをはっきりと覚えている」

「強かった?」

「レースに勝ち続けたかという意味では誰も強くなかった。だが、勝てなくても走り続けた根性ある強い子はいた。まぁ、中には挫折して学園を辞めた子もいるが」

 

 辞めた子たちの泣き顔や絶望した顔を思い出すと、華々しいレースの裏に数多くの負けたウマ娘たちがいる。

 レースで勝てるのは1人しかいないから。

 そんな彼女たちに同情し、愚痴を聞き、なぐさめ、励ましていた。レースに負けた子たちの悲しい表情が見ていられなくて。

 

「……アンタの名前は?」

「別に知らなくてもいいんじゃないか」

 

 俺が昔を思い出し、彼女たちの役に立てたかという記憶から戻ってくると、ナリタタイシンが突然名前を聞いてきた。

 

「アタシだけ知らないってのは不公平だと思うんだけど」

「それもそうか。名前はマサトだ」

「マサトね。じゃあ、マサト。このノートは借りてもいい?」

「他の誰にも見せないのなら」

「わかった。じゃあ今日は帰るよ。練習を続けると、ノートに書いてあるように尻尾を掴まれて寮へ連れていかれるからね」

 

 小さくからかうような笑みを浮かべると、ナリタタイシンはすぐに帰っていった。

 部屋を出るときに小さな声で「ばいばい」と言って。

 気が強い子とちょっとは近づけたな、と自分自身の行動を褒めてあげたい。あとは今日のことをキッカケとして、彼女がヤケにならない練習をしてくれると嬉しい。

 そしてナリタタイシンのことを大事にしてくれるトレーナーを見つけてくれればいいと俺は1人だけになった部屋で、強くそう願った。

 

 

 ナリタタイシンと出会った日から1年が経った。

 4月に入り、トレセン学園に新入生がやってきて、これから段々と暑くなっていくこの頃。

 去年と同じ今頃、あの時の出会いがきっかけで俺はタイシンと呼べるように仲がよくなった。

 タイシンもあの日からは落ち着き、明かりがない練習場で見せていた焦りとはどこへ行ったのかと思うほどに強くなって今ではG1の皐月賞を勝ったほどに。

 専属のトレーナーも見つかり、ウイニングチケットやビワハヤヒデといったライバルたちもいる。

 実にこれからが楽しみなウマ娘の1人だ。

 今でも1日に1回程度会っては愚痴や不満、時にはレースに勝った喜びを教えてくれる。

 少々会いすぎかと思うこともあるが、用務員という仕事柄、学園内を歩き回っているから自然と出会う。

 タイシンのほうが俺のほうを探しに来る機会も増えているが。

 

 それもあってか、タイシンと友達のウマ娘たちとも接する機会が増え、勝ち星が多い子と話すのは新鮮だ。

 だからといって、俺が気にしている、弱くてもがむしゃらに頑張っているウマ娘を心配するといったことは続けている。

 でもなぜだか知らないが、いつのまにかタイシンやウイニングチケット、ビワハヤヒデたちが相談に乗っている。

 いまでは3人組のBNWたちに教わりに聞く新入生たちが増えつつある。

 わずかだけ俺が手のかけられる子がいなくて寂しいとは思うものの、ウマ娘たちがお互いに話し合って問題を乗り越えていくのはいいことだと思う。

 寂しさと嬉しさと安心が来ている日常を送る中、休憩時には校舎の影となっている部分が日課となっている。

 特に昼飯を食べたあとは眠たくなることもあり、生徒たちの邪魔にならないように気をつけて選ぶ。

 

 そのため、寝る場所はいくつか決めているが天気や気分によって変わっていく。

 そして今日の寝場所は体育館裏の日陰の場所だ。

 春とはいえ、晴れている今日は日光に当たっていると暑くて寝苦しくなるから、体育館裏は実に最適だ。それにここは人が来ることがないため、1人だけの空間だから静かでいい。

 俺は仕事を寝過ごさないように、スマホのアラームをセットすると体育館の壁に背を預けて足を広げて座る。

 体育館の周りは木々で囲まれており、そよ風によって葉っぱがこすれる音は聞いていると眠気を誘ってくる。

 そうして目をつむり、俺はしばしの睡眠へと入っていく。

 

 ふと、シャンプーのフローラルな香りと胸元に優しい重さを感じて目を開ける。

 寝起きで頭がぼんやりとしているなか、視界に入るのは俺の足の間に体を入れていて、胸へと背中を預けているのはスマホでゲームをやっている制服姿のタイシンだった。

 時々、というか週2か週3ぐらいでタイシンはどうやって知っているのか、寝場所を変えている俺のところへとよくやってくる。

 そうしてやってきたときは、横にいて俺へと寄りかかっていることが多いが、今日だけは珍しく胸元に来たかったらしい。

 後ろ姿しか見えないタイシンの表情はわからないため、今の気分がわからない。と、いうのも前に声をかけた時はいらだっていて声をかけただけで怒られたものだ。

 

 まぁ、こうして来てくれるわけだから嫌われてはいないだろうが。

 今まで話をして来たウマ娘たちの中で最も距離が近く、対応にも困る。

 恋愛対象として見ているわけではないが、かと言って妹のようでもない。1人の女性として接しているものの、いつの間にかこういう至近距離で一緒にいるようになった。

 こう近づかれるのは信頼されているという証拠なので悪い気はしない。

 ただ、夏になるとクソ暑くてたまらないのでやめて欲しいところだが。

 

「タイシン」

「ん、すぐに終わらせるから待ってて」

 

 タイシンがやっている音ゲーが終わるのを待つ間、左腕の時計を見ると休み時間が終わるまであと12分。

 終わるのを待つ間、俺はタイシンの癖っ毛のある髪へとそっとさわっていく。

 右手で髪を撫で、タイシンが嫌がっていないのを見るとそのまま撫で続けていく。

 デリケートな耳には手がふれないよう気をつけつつ、優しく撫でまわす。

 タイシンの髪は手すべすべしていて気持ちよく、長時間さわり続けていたい。さらさらとしている髪もいいが、跳ね癖があるのもさわっていて実に楽しい。

 そうしてタイシンのゲームがひと段落まで撫で続けていたが、そのあいだずっとタイシンから色っぽいため息が出ているのは気がついていないことにする。

 もし気づいて、そのことをタイシンに言ったら以前に足を踏みつけられたことがまた起きてしまうだろう。

 

「よし、終わった」

 

 そう言うとタイシンはスマホをスカートのポケットにしまい、大きく深呼吸をした。

 それは体の力を抜いて、さっきよりも俺へと体を預けてリラックスしている。

 

「なんだ、今日は誰かに嫌がらせでも受けたか」

「最近はそういうのはないよ。……いや、チケットの奴がからんできてウザいことはあるけど」

「じゃあ、今日はどうした」

「別に。マサトに会いたかったから来ただけだけど。悪い?」

「悪くはないさ。俺もこうやってタイシンとくっついていると落ち着くからな」

「なにそれ、自分で言っていて恥ずかしくないの?」

 

 不満そうに言ってはぺしぺしと手で軽く俺の太ももを叩いてくるタイシンがかわいい。

 昔はきつく当たってきたが、今ではこういうふれあいかたになっている。

 こだわりがあるのか、俺に会う理由を何かと用件をつけて来ているが、今日は特に用もなしというのは珍しい。

 ツンツンとした性格がやわらかくなってきているのはいいが、それをタイシンの女性トレーナーにも向けて欲しいという気持ちもある。

 ちょこちょこ女性トレーナーからタイシンと仲よくなるにはどうするかと相談を受け、時には一緒に酒屋へ行って飲むこともある。

 

「ねぇ」

「なんだ」

「アンタさ、恋人はいないんだっけ」

「俺はケンカを売られているのか?」

「そうじゃなくて! その、恋人がいるのなら気をつけようかと思って。アタシじゃなくてトレーナーに!

 ほら、よく会っては話をしているでしょ!? 仕事の邪魔になっているならアタシから文句言っておくから!!」

 

 大きな声で焦ったように早口で言うタイシンは、頭をごんごんと俺の胸元へとぶつけてくる。

 そんなタイシンがいったいどんな様子で聞いてきたのかと、体を動かして目を合わせようとするも、タイシンは頭を動かして目を合わせてくれない。

 

「……で、いるの。いないの」

 

 ウマ娘のことばかり気にして恋人はいないし、結婚もしていない。

 だが、正直に言うとからかわれるだろうから、たまにはからかってみたい。かといって完全な嘘は見破られるから、少しの事実を混ぜて。

 

「今はいないが、気になっている子ならいるぞ」

「それは誰」

 

 軽い気持ちで言ったのに対し、タイシンは俺のほうへと顔を向けて無感情な表情になっていた。

 タイシンとは至近距離で目が合い、お互いの吐息すらわかるほどだ。

 だが、俺はときめきを感じず、むしろ恐怖を感じた。

 タイシンの耳は初めて会ったときかのように耳を後ろに倒し、じっと見つめてくる。

 

「妹みたいな関係のウマ娘がいて、その子とよく話をする機会が―――」

「あぁ、キングヘイローさんと仲がよかったね。そう、彼女がアンタの心を乱しているんだ」

 

 俺の言葉を途中でさえぎり、どこか光を失った目とひどく平坦な声で言ってくる。

 それを聞き、このままだと何かがヤバいと感じて恐怖心と冷や汗が一気にやってくる。

 

「待て。別に心は乱してないし、あいつには好きな男がいるから恋愛相談を受けているだけだ」

「なぁんだ。それを早く言ってよ。おかげで勘違いするところだったじゃん」

 

 タイシンの目に光が戻り、座りなおして俺から視線を外すと恥ずかしそうにスマホを取り出してはゲームを始める。

 それを見た俺は安堵の深呼吸をすると共に、これからタイシンをからかうときは女性関係はやめようと強く誓った。

 

「でもそのうちに結婚前提の恋人を作りたいとは思っているよ。最近はタイシンのおかげで気が楽になった」

「アタシみたいな若いウマ娘とくっつけるから?」

 

 嬉しそうに頭をぐりぐりと押し込んでくるタイシンにされるがままになり、それが落ち着くのを待つ。

 

「それはないこともないが、今まで心配したウマ娘たちの中でお前がG1を勝ったことが嬉しいんだ。勝てなくて荒れていた子の助けになれたんだと思ってな」

「今までアンタと仲良くなった子たちは感謝してるよ。あのノートに残酷な夢を見せられたって罵倒されていても、アンタがいなければ学園を辞めるのはもっと早くなってただろうし」

「そうだな。そもそも俺の自己満足で相談や愚痴を聞いているだけなんだ。別に感謝されるのが当然と思っているわけじゃないさ」

「アタシはマサトにすごく感謝してるけど」

 

 そう言ったタイシンは俺に寄り掛かるのを辞めて体を起こすと、あぐらになって俺と向き合うように座る。

 近い距離になっても小柄なタイシンと俺とでは身長的な高さもあって、タイシンからのかわいい上目遣いをしやすい状況となってしまっている。

 現に態勢を変えた瞬間にそうなっていたし、でも真面目な表情になっているのに俺だけタイシンをかわいいと思うのはよろしくない。

 じっと俺の顔を見つめてくるが、ぼぅっと俺の顔を見てから、なぜか恥ずかしそうに目をそらした。

 

「それならよかった。俺もお前には感謝しているぞ。練習を頑張って結果を出し、さらには新入生にも優しいし」

「昔のアタシやノートの中の先輩たちを思い出すと、頑張っている子には、こう、なんというか……つい構いたくなって」

 

 こういうのを聞くと涙が出そうになる。

 俺が続けてきたことが、タイシンへと受け継がれているということに。

 負けるウマ娘は必ず出るが、1人で不満や愚痴を抱え込まずにそれぞれが話をしあって走って欲しいと思う。 

 

「お前たち3人が活動しているからか、昔のお前のように明かりを消してまで練習する子がいなくなって嬉しいな」

「……迷惑だった?」

「いいや、迷惑なんかじゃない。でも今までやっていたことがなくなって寂しい気もするが」

「アンタにはアタシがいるじゃん」

 

 寂しがっていると、タイシンは俺の両肩へと手を置いて俺の胸元に顔をうずめてくる。

 

「アタシはさ、ヤケになって練習していた時に心配してくれたのが嬉しかったんだ。

 出会った日はそうじゃなかったんだけど、今のトレーナーに会ってから大切にしてくれることのありがたさがわかったんだ。

 今でも心配してくれるし、疲れた時にはこうやって優しく受け止めてくれる」

「お前のためなら、なんだってやってやるさ」

 

 タイシンの頭を撫でながら思うことは、それにタイシンのようにかわいい女の子と仲良くなれるのは1人の男としても嬉しいものだ。

 タイシンがトレセン学園を卒業するまでは、今のような親友関係を続けていきたい。

 静かな、けれど心が暖かくなる時間を過ぎていると、授業が始まる予鈴の音が鳴り響く。

 その音でタイシンは胸元から顔を離して肩からも手を離すと、スカートのポケットから小さなノートを取り出して俺の前へと突きつけてくる。

 

「戻る前にこれを読んで」

「仕事が終わってからでいいか?」

「いますぐ読んで。流し読みでいいから」

 

 もうすぐ授業が始まるというのに、このタイミングでノートを出してはすぐに読めだなんて言う。

 断ろうかとも思ったが、タイシンが強く言ってくるために渋々受け取っては最初のページを開き、ぱらぱらとめくっていく。

 最後のページへ行く途中までを流し読みしていく。

 はじめは恨み言が多く、トレーナーを得てからもそれは続いていくが段々と走る喜びや勝利の嬉しさなどが書かれている。

 それらを読んで、頑張っているタイシンが報われていていいと思っていると、将来の目標や夢が書かれているページにたどりつく。

 そこに書かれていたのは『初めてできた恋人と結婚を前提に付き合い、引退と同時に結婚。妻になったアタシは料理や家事を勉強して旦那を癒し、子供は干支をコンプリートするぐらいに生む』という具体的な内容をじっくりと見てしまうが、タイシンに肩を軽く叩かれたので次のページへと進む。

 

 次にめくったページには『好きです』という4文字だけが書かれていた。

 どういうことかと思って顔をあげると、タイシンは素早く俺の頭を手で抱え込むと唇へと目をつむってキスをしてきた。

 そのキスは痛みがあった。

 勢いが強かったために歯と歯がぶつかったから。でもそれは最初だけで、唇がふれる軽いキスをしてきた

 そのことに戸惑い、ノートを落としてしまう。空いた手でタイシンを突き放すか、それとも受け入れるか。親友だと思っていた自分の感情が揺れ動き、キスをしてからでタイシンのことがひどく愛おしく見える。

 自分の感情に整理がつかないままで3度キスをされると、ようやくタイシンの顔が離れたものの、タイシンは顔が赤くなって左右の耳がばらばらと動いて落ち着きがなく見えた。

 

「付き合ってくれるかの返事は、ずっと待っているから。またね、マサト」

 

 それだけを早口で言い残して、全速力で俺の前から去っていった。

 残された俺は呆然としたまま、タイシンにキスされた唇を自分の手でなぞっては今のが夢じゃないと実感する。

 現実感がやってきたところで、猛烈に心臓がバクバクして今になってから緊張と興奮が同時にやってくる。

 生意気でツンツンしているけど、優しいところもある。そういうイメージをタイシンに持っていたから、俺のことはうるさいおじさんという印象を持たれていると思った。

 だが、キスをされたことで恋愛対象として見られていることがわかる。

 

 それも俺を恋人にしたいとか。

 今までタイシンに恋愛感情を持ってはいなかったが、キスをされたことで実はタイシンが好きだったという感情があふれてきた。

 キスをされただけでタイシンのことがもう好きで好きでたまらなく、今のにやけている顔は絶対に人には見せられない。

 あぁ、くそったれめ。恋愛経験なんてほとんどないから、この後はどうすればいいんだ。タイシンと会ったときにうまく話せる自信がない。

 ……ひとまずキングヘイローに恋愛相談をしよう。

 タイシンを愛おしい気持ちが、恋愛感情だと後押ししてもらうために。




タイシンを書き終わった時にすっきりした。
これはきっと妹が幸せそうで嬉しいという気分!


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10.サイレンススズカ(微ヤンデレ)『私を分かってくれないトレーナーさんにはお仕置きが必要です』

微ヤンデレ。


 寒さが厳しくなって雪が降りそうなほどの12月。そんななかでも夕焼けが綺麗に晴れた日のこと。

 トレセン学園で22歳の若い男ながらもトレーナーの資格を取った僕は、他のトレーナーが持て余していたサイレンススズカという、気難しくて走ることしか考えないウマ娘の専属として一緒に頑張ってきた。

 2年が経つ頃にはお互いに名前を呼びするほどに親しい関係となり、G1やG2といったレースに勝利。

 それは僕とスズカの頑張りが結果として出る素晴らしいことだった。

 でも勝利の栄光以外にも様々な悪意が僕へとやってきた。それは初めて担当するウマ娘がいきなり大活躍した妬みや恨みで。

 トレセン学園内で頼れる人もいなく、派閥にも入れていなかった僕が悪意から逃れる手段は他のトレーナーたちの事務仕事の手伝いをたくさんやることだった。

 本来、僕がする必要のない仕事の肩代わりをすることによって圧力から逃れることができた。

 それに報酬をくれる人もいて、スズカが使える練習コースや時間を派閥に属するトレーナーたちよりも多めに取ることも。

 多数の派閥の手伝いをし、僕の精神と肉体の調子をトレードすることによってできたのを僕はできるだけ有効に使えるように胃痛を我慢してでも努力した。

 でもこうやってトレセン学園での生活を送っていると、疑問に覚えることがある。

 

 僕の幸せはなんだろうと。

 自分の教え子がレースで活躍するのはとても嬉しいけど、そのレースに出るための練習時間を作るのに胃痛で毎日を過ごす日々は素敵なものだろうか?

 スズカを勝たせたいために僕は頑張ってきた。いい結果も出た。

 でもこんな苦しんでまで頑張る必要があるんだろうかと疑問に思う。

 僕がやりたかったことがなんだったのか、トレーナーになってやりたかったことが今でははっきりとは思い出せない。

 

 レース後に踊って歌う子たちを間近で見たくて?

 ターフの上を軽やかに、そして懸命に走るウマ娘たちに心を動かされて?

 脅威の追い込みを魅せてくれた三冠馬、ミスターシービーを育てた人に憧れが?

 

 どれも合っているようで、合っていないように感じる。

 そんな終わりのないことを考えながら、先輩トレーナーの書類仕事を終えて練習コース近くにあるトレーナー室へと戻ってくる。 

 ウマ娘たちが遠くで声を出して練習しているのを聞きながら、灰色のスーツのポケットから鍵を出して扉を開けた。

 僕に渡されている部屋は畳12畳ほどの広さがあって、ストーブの暖かさがすぐに充満するほどの小さい場所だ。

 本棚やソファーにテーブルがあって中央には仕事用の机が。

 そんな机の上には、驚くことに制服姿のサイレンススズカがいた。

 練習メニューを渡しているから今頃は1人で練習をしているはずなのに、とも思うが何よりもなんでそんな場所で寝ているんだ。

 ソファーならまだわかる。普段、スズカはそこで休憩や寝ることもあるから。

 

 なのに、なんで今日は机の上で体を丸めているかがわからない。丁寧にも机の上に乗っていた資料やペン立てはソファーへと移動しているし。

 スズカの気持ちよさそうな寝顔が見え、腰まである長くてさらさらとしている栗色の髪や尻尾は机からこぼれ落ちている。

 体を丸めているから、スカートの中が奥深くまで見えて白いニーソックスの先にある、太ももの付け根付近と白い布が見え隠れしている。

 ……なんという男の精神に悪い子だろうか。

 もし今、スズカが目を開けてサファイアのような透き通る青の瞳で見つめてきたら、僕は罪悪感ですぐさま倒れてしまうに違いない。

 高校生のスズカに対して性的に興奮してしまったということで。

 

 サイレンスズカと出会った頃は走ることにしか興味ありません、というクールな女の子だった。

 自分にとって気持ちのいい走りを求め、トレーナーの言うことはあまり聞かず、ただただ自分の要求に合ったときだけ練習をやるウマ娘。

 才能があるけども手に負えない秀才、そう言われたのがサイレンススズカだ。いくつものトレーナーたちによって育てられ、けれどもどのトレーナーも制御できなかった。

 だから多くのトレーナーに煙たがられては僕の元へとやってきた。

 新人で初めてウマ娘を持つことになった僕は、自分が求める理想よりもすごいウマ娘を担当できたということだけで喜び、スズカが求める走りのために練習メニューを組んでいった。

 誰も追い越させない逃げの走りで、スズカ自身しか見ることができない先頭の景色を見るための手伝いをしてきた。

 そのためかスズカのトレーナーというよりも、その下っ端という気分で仕事をやってきた。別に嫌なわけじゃなく、こういう練習の方向性もあるのだと勉強になった。

 スズカのために時間をかけたけれども、僕とスズカは走る練習をするだけの間柄で、走ること以外は学園内で会っても目を合わすことすらない。

 

 けど、一緒の時間を過ごして勝つようになってくると信頼してくれたのか、次第に甘えてくるようになってくれた。

 ふたりきりだと頭を撫でて欲しいと要求してくるし、くっつくほど近くにきては一緒の資料を読んだりもする。

 特にふんわりとした優しい笑顔で見つけてくるのは反則だ。

 僕が何度ときめいたと思っている!

 トレーナーとウマ娘のただしい関係を維持するために、つい抱きしめたくなる気持ちを抑えるのは本当に苦労する。

 普段からこんな様子なんだろうかと他のウマ娘に聞いたところ、僕が知っているスズカとは違うようだ。

 

 学校でのスズカは相変わらず氷の女といった様子で、他のウマ娘もどことなく距離を置いているとのことだ。

 そうやって他のウマ娘たちと積極的に話をしたのが悪かったのか、スズカがどこからかやってきては一緒にいる時間が増えた。

 だがその一方で、僕が今日は何回あの子と会ったかとか、どんな会話をしていたのかを把握して確認するかのようなスズカの独り言を耳にするようになってきてから怖さがやってくる。

 まるでストーカーのように僕が行くところのどこへでもスズカと会うようになって、スズカの自分だけを見て欲しいという欲求も増えてきている。

 そのせいか、仲良くなったウマ娘たちは、スズカがいるとおびえていなくなってしまうようになった。

 

 そんな最近のスズカの行動を思い出していると、目の前で初めて見る行動のスズカはもしかして機嫌が悪いからこうしているんじゃないかと怖くなり、そっと背中を向けて去ろうとする。

 でもできなかった。

 僕の背に冷や汗が出るほどに、低く冷たい声が聞こえたからだ。

 

「トレーナーがいなくなると、私はこの世の終わりとでもいうような悲鳴をあげますよ?」

 

 その脅迫めいた、ちょっとばかりの怒った感情が乗せられた言葉を聞いた僕はゆっくりと振り向いた。

 そうして、まだ机の上に寝転がったままでいるスズカのところへと歩いていく。

 

「今日はいったいどうしたんだい?」

「いつもソファーで寝てると起こさないで出ていくから、今日は変わった寝方をしていたんです。なのに、いつもと変わらないから少し怒ってしまって」

「あー、スズカが寝てるときは出直すのに気づいてたんだ?」

「はい。ウマ娘は人の気配に敏感ですし、それにあなたのことならいつだって気にしていますから」

 

 そう言ってスズカは笑みを浮かべるも、その笑みはどことなく怖さを感じた。まるでごちそうを前にした捕食者だ。

 自然と体が後ろへと下がり、それを見たスズカは目を細めてはゆっくりとした動作で起き上がると、静かに机の上から降りた。

 

「トレーナーさん、どうして逃げるんですか。私は怒っていませんし、怖くありませんよ?」

 

 感情豊かな耳の動きもなく、笑みを消した無表情のスズカに追い詰められた僕は背中がドアへとぶつかってしまう。そうして逃げられなくなった僕の目の前にスズカがやってくる。

 僕のほうが161㎝のスズカよりも8cm高いというのに、僕以上の圧迫感を感じる。

 

「ふたりきりは嫌ですか? 私はあなたと一緒にいたいだけなんです。でもトレーナーさんに迷惑がかかるといけないと思って、他の子たちを威圧するだけで我慢していたんですよ?」

「嫌ではなくてスズカと仲良くなれるのは嬉しいけど、そこまでスズカに好かれる理由が思い当たらないんだ。だから、いったい何の理由があるかと思って」

「あなたを好きになる理由なんて特別なことは何もありませんよ。私の好きなようにさせて、信頼してくれたあなたを手放したくないと……そう思ったんですから!」

 

 声に力が入り、最後には大声を上げたスズカは僕の肩を掴むと足払いをかけて床へと叩起き落としてくる。

 でも床にぶつかる直前、スズカは僕の腕を引っ張ってぶつかる衝撃をやわらげてくれた。

 でも、そうしてくれても痛いのは痛く、動けないでいるとスズカは僕の腹へと足をまたいで乗っかってくる。

 ストーブの音と、スズカの荒い息遣いが聞こえる中で僕たちは静かに見つめあう。

 

「スズカ、君に何かあったのなら教えて欲しい。君は今まで僕に危害を与えてこなかったじゃないか」

「今まではそうでした。でもこれからは違うんです。あなたと身も心もずっと一緒にいたいという気持ちを、トレーナーさんはわかってくれますか?」

 

 スズカが静かに言うも、その目はまるで光を失って狂気を宿しているように思える。

 それが怖い。怖くてどうすればいいかわからない。

 今までは仲良くやってきていて、友情と理解がある指導者と走者のような関係だと信じていた。

 なのに、これはなんだ。なんでこうなっている? 僕はスズカとの関係を間違えたか?

 僕はスズカが気持ちよく走るために、努力してきただけなんだ。恋愛関係になりたかったわけじゃない。

 

「僕は今のスズカが怖いよ」

「それなら、なんで逃げないんですか?」

 

 言われて逃げるということすら忘れていた。そしてスズカに言われて体を動かそうとした途端、僕の胸元へ手を乗せて体重を預けながら力を入れてくる。

 僕がどんなに力を入れようともスズカは涼しい顔で抑えつけてくる。

 必死の抵抗にも関わらず、人とウマ娘にはこんなにも身体能力に差があるのかと今になって実感する。

 日頃からトレーニングでそういうのを見てきたというのに。

 

「僕はいつもの柔らかい笑みを浮かべるスズカが好きだよ」

「強引なのは嫌いですか? 私はこんなにもあなたを好きなのに」

 

 スズカは僕を押さえつけたまま、そう言いながら僕の首元へと口を近づけると小さく口を開けて噛んでくる。

 あまり力が入っていないが、噛まれたということに驚きすぎて声すらでない。

 スズカは甘噛みするように何度も噛んできたあと、音を出しながら舌で首筋をなめてくる。

 背筋がぞわぞわとする未知の感触とエッチに感じる音。

 それを一瞬だけ気持ちいいと思ってしまったのはなんだろうか。

 

「私はトレーナーさんと話をしたいだけなんです。それがダメなら、手足を縛ってお持ち帰りしてもいいですか?」

「そんなことしたら僕は嫌いになるよ」

 

 耳元でささやいてくるスズカの声に気持ちよさを覚えはじめ、このままだと何かがダメになりそうだという危機感が猛烈にやってくる。

 なにかの新しい性癖があらたに開発されていく気がする。

 そんな未知の感覚を余裕めいて感じられるのは、もうどうにもならないとあきらめているからだと思う。

 今すぐ大声をあげても止められ、スマホで助けを呼ぼうとしても無駄だろうと。だから、もう何をされようとも無抵抗になろうと決めると、自然と落ち着くものだ。

 

「持ち帰りたくなるほど、スズカに好かれる理由はあったかな。他のトレーナーと違って遊びに行ったことはないはずだけど」

「遊びに行かなくても、今まで私を育ててくれたこと以上に好きになる理由はないと思います。どのトレーナーも私を信じず、やりたいことをやらせてくれず、型にはめてトレーニングさせてくるのは息苦しくて。

 私のことを思って鍛えてくれたのはわかりますけど、あなた以外は私のことを深く知ろうとしなくて」

 

 僕とのことを話すスズカは、今までの恐ろしさを感じる表情から一転してやわらかい笑みを浮かべてくれる。

 スズカは僕から手を離すとポケットからバンソウコウを取り出し、さっき噛まれた場所へと2枚貼ってくれた。

 その時にスズカの顔が僕の真上へときて、さらさらの髪が頬を撫でてくる感触は気持ちがいい。

 髪をじっと見つめ、手でその髪をさわっていく。

 初めて自分からさわったスズカの髪。シルクやサテンの布よりも夢中になってしまいそうだ。

 でも視線を感じ、手を止めてスズカの顔を見る。

 

「私は先頭の景色を見たかったんです。それを見ることは素敵な幸せでしたけど、レースで勝った時にあなたがとても喜んでくれたのはそれと同じくらいに嬉しくて。

 私を待ってくれている、あなたの笑顔が大好きでそんな光景をずっと見続けていたくなったんです」

 

 悲しさと懐かしさ、それと愛おしさの感情が見える表情に、走ること以外で僕は初めてスズカにときめいてしまった。

 今まで見たことがないからか、それがとてもよく見えて、つまりは恋愛的な感情を持ちそうだという。

 

「なのに私が好きになった理由をわからないなんてことを言うんですから、今のはそれをわかってもらうためのお仕置きです」

 

 そう言いながら嬉しそうに噛んだところを、壊れ物を扱うかのように優しくさわって色気がある笑みを浮かべたスズカの表情に見惚れてしまう。

 さわられているうちに段々と元の落ち着いた様子に戻ったスズカは、立ち上がって僕から離れるとまっすぐに手を差し出してくれる。

 僕はその手をすぐに掴んで立ち上がると、僕とスズカは言葉もなくお互いを見つめあう。

 僕を脅迫して噛んで傷つけてくるけど、惚れている今となってはそういうのさえもかわいい愛情表現だろうと感じる。

 お互いに見つめあっていると、今までと違って恋愛感情がはっきりわかってしまったから恥ずかしく感じる。

 それをごまかすために僕は部屋に入ったときからの疑問を聞くことにした。

 

「話は最初に戻るけど、部屋で待っていたのは僕に何か用があったのかい?」

「早く来たからトレーナーさんを待っていただけですよ?」

「じゃあ、今からトレーニングしようか」

「その前にやることがあります」

 

 僕が疑問の声を上げるまえに、スズカは僕に背を向けると、両手で髪をかきあげる。

 それがいったいどうしたのかと聞くと、スズカは不思議そうに見つめてきた。

 

「髪、さわらないんですか? 怖がらせてしまったお返しに、好きなだけさわっていいですよ?」

「……僕は別にさわりたいわけじゃ―――」

「それなら、なんで私の髪をさわったんですか?」

 

 いたずらっぽく笑うスズカに言い訳すらも思いつかず、申し訳なくなって視線をずらす。

 無意識とはいえ、さらさらと揺れる髪にさわりたくなってしまうのは仕方がないと思う。

 男性が一般的に好きである女性の大きい胸はさわりたいと思うことはないが、風になびいて揺れる髪はつい目を奪われてしまう。

 

「さわってもいいですよ?」

 

 2度もそう言われると僕は我慢をせずに、けれども慎重に手を伸ばしてさわっていく。

 さわった髪はすべすべで気持ちよかった。他に言葉は浮かばず、とにかく気持ちいい。

 そんな髪を手で持ち上げると、手のひらから流れる水のように髪がこぼれ落ちていった。

 窓から入り込む夕日の光に髪を当てると、キューティクルが輝いて天使の輪のように見える。

 こんな美しいものを見ると、スズカの髪におぼれてしまいそうだ。

 まさか自分がこれほどにも髪が好きだったなんて。

 またさわる機会があるなら、高いクシやドライヤーを用意して髪を梳いてあげたい。

 それと洗うことも。

 そう思いながら両手でスズカの髪を優しい手つきで撫でていく。

 時々スズカはくすぐったそうにし、色っぽい声であえぐのを聞くと自制心が色々と止まらなくなりそうなのでやめることにする。

 

 僕はスズカから離れると、スズカは僕へと体を向けてくる。

 そうして自身の髪をさわり、口元に手をあてて少し悩んでいる様子だ。

 1分ほど待つと悩みも終わり、スズカは明るい笑顔を浮かべた。

 

「私と恋人になってくれれば、この髪はいつでもどこでも自由にしてくれて構いません」

「そういう取引で恋人同士になるものだっけか」

「私は恋愛を少女漫画でしか知りませんけれど、相手の顔が気に入った、性格がさっぱりしていい、作るお菓子はすごくおいしいというのがあるように惚れるきっかけは様々だと思います」

「まぁ、そういうのもあるだろうけど……」

「ではそれから始めませんか? 今は私の片想いでいいですから」

 

 スズカを恋人候補としてキープしているようで嫌な気持ちにもなるが、スズカの期待する目でみつめられると断りにくい。

 

「わかった。スズカを恋人にしたいとなったら、僕のほうから告白するよ」

「ありがとうございます。そんな優しいあなたが私は大好きです」

 

 愛を告げる言葉と今日1番の魅力的な笑顔を見た瞬間、これは近いうちに完全に惚れると感じた。

 付き合ったらスズカからの愛情がすごく重くなるだろうけど、それほどに強く愛されるというのは嬉しい。

 いくらかは普段の生活で息苦しくなるかもしれないけど、恋人や結婚した人たちの関係もきっとこういうものだろう。

 愛する人が自分だけを見て欲しいと思えば。




髪フェチ小説を書きたくなってきたため、こういう話に。
元々はヤンデレ小説を書こうとしていたんです。


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11.グラスワンダー『チョコレート味のキスからは逃げられない』

 

 テレビやラジオ、新聞までもがチョコと強くメッセージを伝えてくる日。

 それは2月14日のバレンタインデーに他ならない。

 トレセン学園も世間一般の波に乗り、チョコを送りあっている今日。

 それは友達同士で。またはお世話になっている人や好きな人に想いを伝えるためのプレゼントとして。恥ずかしがりながら、時には愛情を込めて。

 それらは自分に関わらなければ、とても素敵なことだと思う。いや、むしろ僕もそういう素敵なシチュエーションでもらいたかった。

 

 僕はトレーナーであり独身の20代な若い男ということもあって、今日1日はトレセン学園に来る前からずいぶんとウマ娘たちに追いかけまわされた。

 グラスワンダー専属となって2年目のトレーナーではあるけど、教官や教師たちの手伝いなどといったことでウマ娘たちとふれあう機会がある。

 だからグラス以外にも親しい子はいるが、今年はもうすごかった。去年はグラスや専属となったばかりの僕に遠慮をしていたから少なかったんだけど。

 それで今年はどれくらいすごかったかと言うと、デパートの限定商品を追い求めるお姉さま方のような勢いと気迫があった。

 

 チョコと同時に渡してくる言葉は『あたしのトレーナーになって欲しいの』『恋人になってください』というのが10人以上はいたと思う。

 思うというのも、朝から全力で逃げ回っていたから人数はよく覚えていない。

 多人数に追われて逃げるのは障害競走をしている気分だった。そんなことをしたから、朝にはぱりっとしていたスーツは午後の放課後になる頃にはしっかりとよれよれになってしまっている。

 そんなふうに疲れても結局はウマ娘たちに追いつかれる。

 トレーナー室へ着く頃にはスーツのあらゆるポケットにチョコとメッセージカードが詰められていた。

 

「おかえりなさい、トレーナーさん」

「ただいま、グラス」

 

 扉を開けて暖かいエアオンの空気を感じる12畳ほどの狭いトレーナー室のソファには、茶色の髪が美しいグラスがジャージ姿で座って小説の本を読んでいた。

 僕が来ると本を閉じては穏やかな笑みで迎えてくれる。

 グラスは見た目からして、おしとやかな清楚という感じで普段の言葉遣いも見た目そのとおりだ。だから、グラスと一緒にいる時間は心が落ち着いて好きだ。

 

「トレーニングは終わったのかい?」

「今日はバレンタインデーの話ばかりを他の子たちにされて落ち着かないのでストレッチだけで終わりました」

「それでいいさ。無理にやってもいいトレーニングはならないからね」

 

 そう言って申し訳なさそうにするグラスの手がふれあうほどの近さで右隣に座り、なんでもないことのように言う。

 ソファに深く腰掛けて、大きく深呼吸をする。その時にふわりと感じたシャンプーの香りが僕の心を落ち着かせてくれる。それにちょっとだけふれている僕とグラスの小指の温度も。

 

「ずいぶんとお疲れですね?」

「本当に疲れたよ。バレンタインデーとは恐ろしい日だ」

 

 ソファのすぐ前にあるローテーブルへと強引に渡されたメッセージカード付チョコを置いていく。

 スーツのあちこちに入れられたものは全部で18個と大小さまざまなものがある。

 

「去年は私からだけでしたけど、今年はずいぶんともらいましたね」

「グラスのおかげでトレーナーとしての結果が出ているし、今は色々なウマ娘たちとふれあう機会が増えたからね」

 

 今はグラスの専属トレーナー教官たちの手伝いの他に、グラスが休みの時には教官の代わりとしてトレーニングを見たり、ウマ娘たちの課外活動に付き合っている。

 そのせいか、今年は朝から走りっぱなしで疲れた。チョコをもらうと断るのが面倒なことになるため、壁や屋根に登ったりと障害競走なことをしていた。

 結局は強引に渡されてしまっているけど。

 

「これ、食べるんですか?」

「あぁ……どうしようかな。苦いのが嫌だからそういうのが入っていたら嫌だし、変なのが混じっているかもしれなくて怖いかな。うん、包装を開けて中を見たら捨てるよ」

「それは少しひどいような気もしますが」

 

 グラスは眉をひそめて僕に文句を言うが、僕だってそれはひどいと思う。だけどそうしたくなるのも、メッセージカードを見ればわかるはずだ。

 僕はチョコからメッセージカードを18枚全部抜き取り、グラスへと押し付けるようにして渡す。

 グラスは渋々それを受け取り、1枚ずつゆっくりと見ていく。

 その間、僕はシックなまたは派手なチョコの包装を開封しては中身を出し、確認だけしてからテーブルの端っこへと押しのけていく。

 

「これはなんというか……情熱的ですね?」

「僕とグラスしかいないから素直に言ってもいいよ」

「手書きだから感情がよく伝わってきて、本人の熱心さは感じますけれど、その、なんというか……」

「押しつけがましいってとこかな。まぁ、バレンタインデーの日に後押しされたこと自体は悪くないんだけど」

 

 問題はメッセージの内容だ。

 以前逆スカウトをされて断った子がチョコと一緒に伝えてきたのだ。複数の子たちから渡されたものをまとめると『グラスワンダーさんより私のほうが良い結果を出せるし、エッチなこともしてあげます』と。

 他にもレースのことは関係なくて『片想いしてもいいですか』とか『あなたを忘れるために着たシャツをください』とそういう告白めいた恋愛感情をぶつけられている。

 もちろん全部のものに対する返事はNOだ。でもそれは相手へ伝えるなんてことはしない。1度反応をしてしまうと、余計に構ってくるから。

 

「これはどうします?」

「断るから全部捨てるつもりだけど」

「はい、ではそのようにしますね」

 

 僕の言葉を聞いたグラスは笑みを浮かべているもどこか怒っているようで、ゴミ箱にメッセージカードを捨てるときは勢いをつけて投げつけるように捨てていた。

 怖い雰囲気が出ていたグラスだけど、戻ってきたときにはおしとやかな様子で座ると僕の左手へ自身の手を載せてきた。

 グラスのほっそりとしてすべすべしている手がしっかりふれあっていると、心がときめいて甘い快感がやってくる。

 

 想いはまだ伝えていないものの、グラスへ恋心を持っている僕としては興奮を抑えるのが辛い。

 グラスがトレセン学園を卒業するときには告白しようと思っているが、こうやって来るのは理性にとても悪いものだ。

 かといって嫌というわけでもなく、嬉しいから受け入れている。

 去年のクリスマスに僕のことをどう思っているか聞いたとき、グラス自身は僕のことを兄みたいだと言っていたから、こういうのは信頼の証だと思っている。

 

「こんなにたくさんもらっていますけど、私からのチョコは必要ですか?」

「グラスからならいつだって喜ぶよ」

「本当ですか? こっそり私以外の子からもらったチョコを食べてません?」

「僕はグラスからもらえるチョコがいいんだ」

「まぁ、そんな嬉しいことを言っていただけるなんて。ちょっと取ってきますね」

 

 ソファから立ち上がり、壁にかけてある学生バッグからチョコを入れてあるだろう小さな紙袋をふたつ持ってくると、また僕のすぐ隣へと座ってくる。

 今度は肩がぴったりとくっつき、手は上から優しく握るようにして繋いできた。

 これほど近くにいるのはずいぶんとひさしぶりで、たしか今年の正月以来だった気が。

 そうやってくっつくことに嬉しいのと同時に、グラスからチョコをもらえる嬉しさで安心する。

 

「ビターが苦手だとは知っていますけど、もしかしたら食べるかもしれないと思って甘いのと苦いのを作ってきました」

「甘いものの後になら食べられるかもしれないけど、去年と違って今回は手作りなんだね」

「はい。とは言っても、ただ溶かして形を作っただけですけど」

「嬉しいよ。その手間の分だけ大切に思ってくれているようで」

「私はいつだってあなたを大切に思っていますよ?」

 

 嬉しい言葉を言ってくれるグラスから渡された青いドット模様の紙袋を受け取って紙袋を開くと、中には僕の手の平より小さなハートの形をしたチョコがふたつ入っている。

 手作りだけど綺麗に仕上がっているチョコからは甘さと苦さを脳へと感じさせてくれるカカオ特有の匂いがした。

 その香りは市販の安い板チョコではなく、初めての香りで食べたことはないものの高級チョコの雰囲気がする。

 来月のホワイトデーに何を返すか、実に悩ませてくれるも今は食べるほうが先だ。

 

「これ、どっちが甘い?」

「お好きなほうから食べてください。私的にはあなたの苦そうなものを食べた顔が好きなので、こちらをおすすめしますけど」

 

 僕はグラスの指差したのとは別のチョコを指でつまむと、口の中でに少しだけかじり、口の中で溶けていくチョコがきちんと甘いのに安心する。

 甘いだけでなく、カカオの豊かな風味がある。

 生きていた中で安いものしか食べたことがないから、これ以上チョコのことを褒める言葉が思いつかない。

 だからグラスにかける言葉はシンプルで、けれど想いを込めた一言になる。

 

「おいしいよ」 

「それはよかったです。頑張って作ったのでとても安心しました」

 

 グラスのウマ耳がぴこぴこと動き、繋いだ手をぎゅって握ってくるのを見ると、喜んでくれているのが言葉だけじゃなくて心からだというのがわかって嬉しい。

 言葉だけだと本当に喜んでいるのか心配になるけど、こういうふうに行動でわかるととても安心する。

 女心は難しいというのは人もウマ娘も同じであり、それに年齢は関係ないだけに苦労をするものだ。

 

「では次に食べるのは苦いほうですね」

「……グラスが作ってくれたんだから、食べたい気持ちはあるんだけど」

「そんな嫌な顔をしなくてもいいですよ。もうひとつは私のにしますから」

 

 苦笑を浮かべたグラスは袋の中から苦い方であるチョコを手にとって食べていく。その時のチョコをかじっていくリズムのいい音は聞いているだけで落ち着くようだ。雨がしとしと降る時のような。

 食べていくグラスを見ていたけど最後の部分は口にいれず、くわえた状態で僕をじっと見つめてくる。

 グラスはどこか緊張したようで少し息が荒い。チョコにアルコールなんて入った味はしなかったし、なんでそんな目で見てくるんだろう。

 

 そんな悩みをグラスへ聞く前に、グラスは繋いでいた手を離すと両手で僕の背中と頭を力強く抑えてくる。

 そうして後ろへ逃げようとするも逃げられず、グラスはゆっくりと僕の顔を近づけ、止まる。

 グラスのくわえたチョコが僕の口にぶつかり、目を閉じるグラス。

 そこまでされたところでようやくわかる。

 これはグラスから愛の告白なんだってことが。

 

 目を閉じてから口を開け、グラスからのチョコを受け入れる。

 すると僕の口へチョコを押し込むと、そのままキスをしてきた。

 グラスの唇はマシュマロを連想するほどにやわらかく、ふれるだけで気持ちよくなる。

 

「うん……んっ、ん……♡ 私の初めてのキスはどうですか?」

 

 チョコレートを口にふくんで甘い声を出してくるグラスのキス。

 そのチョコは苦味を感じるものだけど、すぐ近くで感じるグラスの熱い吐息や甘い声。それらでチョコの苦味なんて気にならなくなる。

 キスをしてすぐに液体となってとけたチョコは、それぞれ僕とグラスの口の中にある。

 その状態で舌と舌がねっとりとからみあうチョコ味のキスは気を飛ばしそうになるほどに気持ちがいい。

 グラスとのキスはこれが初めてだけど、グラスははじめから積極的にしてくる。

 キスをしている時の息継ぎはまだ下手だけど、段々と上手になってきた。

 

 僕には以前付き合っていた恋人はいたけど、キスなんて滅多にしない関係だった。

 だからこそ、こうやって求めてくれるのは嬉しくなる。

 そうして普通のキスよりも甘さと苦み、ビターな香りがある。

 キスを続けているうちに溶けたチョコは飲み込んでしまい、終わりにしようと思ってもグラスはまだ離してくれない。

 

「グラス、ちょっと、苦しい……」

「そのまま苦しんでください。女の子たちに追いかけられて、たくさんチョコをもらうような人には私の物だという証をつけないといけないんですから。

 まだ恋人にならなくてもいいと思っていましたけど、私以外の匂いがたくさんついてるのはもう我慢できません」

 

 キスを止めて僕の言葉を聞いてくれたものの、どうにも今日の行動はグラスには不満だったようだ。

 僕だけ酸素を求める荒い息をし、グラスは普段トレーニングで慣れている苦しさなのか平然としている。

 苦しむ中、理解するのはグラスが僕のことを異性として好きだということ。

 今まで恋人に甘えるような行動や言葉があるのはわかっていたが、グラスは抑えが効く子だから、恋人を求めるにしてももっと先だと思っていた。

 だから僕はトレーナーと教え子という関係がなくなる卒業まで待って告白をしようと考えていたんだから。

 

 そのことを伝えようとするも、グラスは僕の口を唇でふさいで強く抱きしめてくると勢いよくソファへと押し倒される。

 普段からしているトレーニングで鍛えられているグラスの体。だからといって筋肉質なだけじゃなく、女の子らしい体のやわらかさや胸のふくらみがあって少しドキドキする。

 でもそれを正直には感じ取れない。いまだ僕を抱きしめているグラスから離れることはできず、されるがままだから。

 

「んっ、ちゅっ、ちゅ……♡」

 

 グラスからの一方的にされるキス。

 でも僕がグラスのことを好きだということを伝えたくて自分から舌を動かし、そして耳や髪を優しくさわっていく。

 少し前まで子供だと思っていたけど、グラスは段々と大人っぽくなってきている。

 それは見た目だけでなく、中身もだ。初めて会った頃より化粧やスキンケアに気をつけ、レース以外でも俺と話題が会うようになってきた。

 出会った時から素敵な女性ではあったけど、ここ最近はもっと素敵になってきている。

 

「グラスはいい女性になってきたよね」

「それはあなたのそばにいたくて。あなたに選んでもらいたいから化粧や上品な仕草を頑張っているんです」

 

 髪を撫で、キスの勢いが止まったところで口を離したグラスに僕は力を入れて抵抗をしてこないグラスから抜け出すと、今度は逆にソファへとグラスを押し倒す形になる。

 そうやってグラスを見下ろしている状態で僕は僕自身の言いたいことを言う。

 

「僕は前からグラスしか見ていないよ。卒業してから告白をしようと決めていたぐらいに」

「それは……私にとってずいぶん甘い言葉ですね」

「僕からしてもね。恥ずかしさのあまり、今なら苦いチョコを食べても大丈夫なぐらいだ」

「次もチョコ味でやりましょうか?」

「チョコを食べる時にグラスとのキスを思い出すからやめよう。興奮しちゃうから」

「わかりました。では次もチョコを用意してキスをしましょうね」

 

 うきうきとした様子でグラスはテーブルへと手を伸ばし、僕が色々な女の子たちからもらったチョコが入った箱をひとつ取る。

 その箱の中から丸いチョコを取って口に入れて転がしている様子は見えるけど、きらきらとした目で僕を見つめてくるのはなぜだろう。

 理由を知りたくないけど、G1に勝った時と同じぐらい目がきらきらしているから情熱的になっているグラスから逃げられる気がしない。

 

「あのグラス? グラスワンダーさん?」

 

 グラスは僕の呼びかけに答えず、僕の背中に手を回すと無言で強く抱きしめてくる。

 そうして僕とグラスはまた甘くて苦いキスをしていく。キスだけの、長く幸せな時間を。



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12.グラスワンダー『毎日が栗毛色』

 10月も下旬になり、もうすぐ冬になりそうという季節な晴れの日。

 そんな時期に、俺は練習場の使用権をかけて放課後にトレーナー18人による3000m勝負という、実にウマ娘のトレーナーらしい勝負をした。

 俺自身の結果は1着で、30を過ぎたばかりにしてはすごく頑張ったほうだと思う。普段から鍛えている成果があったというものだ。

 トレーニングウェア姿で汗をだらだらと流して走り終わった俺を褒めてくれるのは担当して2年目のダイワスカーレットと、親友の女トレーナーが担当しているグラスワンダーの2人だ。

 親友は先頭の俺からたっぷり1分も遅れた18着で、そこらの芝の上に息も絶え絶えで倒れている。

 

 動かなくなった親友を肩に担ぎあげて邪魔にならないところで寝かせてから、スカーレットとグラスの2人の練習をまとめて見ることになった。

 そして練習が終わったあとは、普段と違って急いで帰る2人を不思議に思いながらトレーナー室でスーツに着替えてから事務処理をする。

 仕事が終わった頃には陽が沈んでいて、自宅へと帰ろうとする頃には夜の7時を過ぎていた。

 寒風が吹く夜道を腹を減らながら歩き、コートを着ても寒さで体を震わせながら築20年のアパートにたどりつくと、なぜか部屋は明かりがついていた。

 つけたまま出て来てしまったか、もしくは泥棒に入られた。

 そのどちらかを確かめるためにドアノブへ手を出すと、部屋の中から小走りで向かってくる足音が聞こえてくる。

 

 敵か!? と身構えてドアが開くのを10秒ほど待つも、全然開く様子がない。

 部屋から物音が聞こえてこないことから、そっと静かに扉を開けると制服姿で正座をしていたグラスワンダーが耳をピンとこちらに向けて立ててはウキウキとした笑みを浮かべて待っていた。

 

 知り合って3年目となるグラスの右耳には青いリボンの髪飾りをつけていて、耳は横に倒れていることから自然と待っていてくれたのがわかる。

 グラスが走るたびに俺が目を奪われるほどの美しい髪は腰まである長さで淡い栗色をしている。

 透き通る青空と同じ青色の瞳はまっすぐにこちらを見つめてきて、今では高等部になったものの、まだ幼さがある顔は低めな150前半な身長もあってかわいらしく感じる。

 スカーレットと比べてとても控えめな胸を持つグラスは、将来はいい美人さんになるだろうと思う。

 だが今の状況が理解できていない俺は、ドアを開けたまま硬直してしまっている。

 でもグラスは動かなくなった俺を気にせず口を開いた

 

「おかえりなさい、カズキさん。お仕事お疲れ様です」

 

 俺の名前を呼んで仕事をねぎらう言葉に、止まっていた脳が動きはじめる。

 とりあえずは開けたままだったドアを閉め、家へと入る。

 

「お風呂にします?」

 

 家へと入った俺に対してグラスはそんなことを聞いてきた。

 なんでここにいるのかと聞こうとすると、そんなドラマか何かで聞いたことがあるセリフを言ってくる。

 この寒い外を歩いてきたから、あったかいお風呂にすぐ入れるのなら贅沢かもしれない。

 

「それともご飯にしますか?」

 

 答えずにいると、次にご飯はどうかと聞いてくる。

 そんな言葉を言うグラスの向こう側からは焼いた肉とタレの香ばしい匂いがして、腹が減っているという事実を加速させてくる。

 グラスがここにいる理由は後回しにして、飯を食うと言おうとして口を開くもそれより早くグラスが次の言葉を続けた。

 

「どちらでもなければ、その、……私をいただきますか?」

 

 俺から視線をそらし、けれど恥ずかしそうに見つめてくるグラス。

 まだ子供ながらも、そう言う姿はちょっとだけ女性らしさが出ているなぁと感心する。

 と、いうかなんだこれは。

 このやりとりは新婚夫婦でやるお決まりの奴じゃないか、おい。

 

「おい、グラス。誰にそんな変なことを吹き込まれた」

「えっと、私のトレーナーさんが日本の伝統文化である会話をすれば男は落とせると言っていたので……」

「明日、あいつにラリアットをぶちかましてダートの下に沈めてやろう」

 

 今日、走ったあとに倒れていたのを助けてやったんだから感謝ではなく、この仕返しとは。

 いや、あいつ的にはこれが感謝のやり方か?

 以前からグラスが俺に対して好意を持っていたのを知っているとはいえ。

 

「料理をしているようだが、手を離して大丈夫か?」

「はい。きちんと火を止めましたので」

「そうか。それで、なんで俺の家にいるんだ。鍵はどうした?」

 

 革靴を脱ぎ、ストーブの暖房で暖かくなっている部屋にあがると家に帰ってきたという安心のため息をつく。

 

「スカーレットちゃんに鍵を開けてもらったんです。一緒にカズキさんを待ちませんか、と言ったんですけど今日は私に貸してあげると言ってくれました」

「俺は物扱いかよ」

 

 嬉しそうに言って立ち上がったグラスが、脱ごうとしていた俺のスーツを脱がしてくれるとそれをハンガーにかけてくれる。

 自然としてくれる動きは以前にこうしてもらったことはあったっけかと考えてしまったほどだ そもそもグラスがアパートに来たのは初めてだというのに。

 合鍵を渡しているスカーレットは週に2回ほど来て、料理ができない俺のために料理や掃除をしては寮へと帰っているが。

 

「あとで材料費のレシートを渡してくれ」

「それならご心配なく。私のトレーナーさんからお金をいただいてきましたので」

「あいつが? 何か面倒なお願いこととかないだろうな」

「いえ、何も。いつもお世話になっているから、これくらい払うと言っていました。それとお金は私が自分で払ってでもがカズキさんのご飯を作って、お世話をしていましたよ?」

 

 まっすぐな目でみつめられ、ここまで好意を持たれるのも変な感じだ。

 自分の担当ウマ娘なら、こういう好意の向けられ方もわかるが。

 グラスはそんな誰にでも世話をする性格ではないし、俺に好意を持つきっかけとなったのは医者の見立てよりも怪我を早く治したということだと思う。

 親友の担当ウマ娘ということもあって、アイシングといった体のケアに気をつけていた。

 あとは自信をなくした時やいらだっていた時に励ましたぐらいだ。

 

 その時の内容はマルゼンスキーの再来と呼ばれ、比べられて自分自身を見てもらえないことに不満を隠せない彼女を、お前はすごくないと冷たい目で言っていたような。

 それとマルゼンスキーや世間の声を気にして自分の走る目的やきっかけを忘れた、もしくは他のことに気を取られるウマ娘なんて見ていて悲しいと言った記憶がある。

 スカーレットと一緒に練習した時は頑張ったグラスを少し褒めることがあったぐらいだ。他には親友の担当ウマ娘だから、助言を求められれば答えることはあったが。

 15歳ほどの年齢差があると、きっと兄のように思ってくれているんだろうな。

 

 そういった過去のことを思い出しながら上着やコートを脱ぎ、ワイシャツとズボンだけの軽装になった。

 そして外したネクタイはグラスの手によって洗濯籠へと持っていかれた。

 一息落ち着いたところで、2Kの狭い部屋の中にはグラスの物と思われるボストンバッグが置いてあった。

 その大き目なバッグのしっかりと荷物が入って膨らんでいる様子から、これから面倒なことが起きそうだという不安がくる。

 

「グラス、あのバッグの中身は?」

「ここで一晩を過ごすためのものですけど」

「今すぐ帰れ」

「でもお料理がもうすぐできあがりますよ?」

「……食事が終わったら帰れよ」

 

 部屋いっぱいにいい匂いがしている状況で、そんなことを言われると追い返すに追い返せない。

 完成に近い料理でも、俺には仕上げなんてできないし、せっかくだからうまい料理を食いたい。

 スカーレットも料理を作ってくれるが、まぁおいしいとまではいかない。本人の前では言えないが。

 

「外泊届けは申請しましたし、トレーナーさんからも許可をもらっていますよ。スカーレットちゃんからも頑張ってきて、とも言われていますし」

 

 いったい何を頑張らせるんだ。なんだ、料理か、風呂か、掃除か?

 あいつらはいい歳になったおっさんと若い子が一緒に泊まるというのに問題は覚えないのか。

 あとグラス自身もだ。男という存在をどう考えているんだ。

 まぁグラスほど若い子なら、性的な目で見るのはそうはないが。あと7年ほど歳を取っていれば好みになっているだろうが。

 

「それでさっきの挨拶のことはやってくれるんだろうな」

「ええと、料理やお風呂のことですか?」

「いいや。私をいただきますか、っていう言葉だ」

 

 グラスがそういうエッチなことをするわけがないとわかっているからこその冗談と、からかうような口調と笑みで言う。

 そうするとグラスは小さく目を見開き、顔をうつむけたあとに尻尾を足の間に巻き込んでいる。

 その様子で冗談ではなく、部分的には本気だったのかと恐怖する。

 もし、最後の選択肢を選んでいたら、グラスとイケナイことをしてしまったかもしれない。

 グラスが成年だったらいいが、未成年とはそんなことをしたくない。

 

「あの、そういうのは結婚してからがいいと思うんです。でも、どうしてもと言うなら……」

「やらなくていい。それよりも飯だ。今はとにかく腹が減っているんだ」

「あ、はい! もうすぐ完成しますので、シャワーを浴びて来てください!」

 

 耳と尻尾を元気よくぴょこんと上向きに立てたグラスは嬉しそうに台所へと向かって料理の続きをし始めた。

 そんな後ろ姿を見ると、変な感じだ。

 普段、自分が食べるご飯と言えばスーパーやコンビニで買ったものばかり。だから台所に立っている姿を見ると、現実でない気持ちがする。

 それも制服を着た女子学生が、となると。

 スカーレットもここに来て料理はしてくれるが、それは妹が兄のような俺の世話をしてくれるように思っている。

 だから1人の女性として少しだけ見ることができるグラスがいるのは嬉しくなる。スカーレットのように口うるさく言ってこないこともあって。

 

「えっと、どうかしましたか?」

「料理を作り慣れているなと思っただけだだ。シャワーを浴びてくるよ」

「はい、ゆっくりしてくださいね」

「それだとグラスの料理が冷めてしまう。いつも通りにするさ」

 

 振り返ってそう返事をし、下着とパジャマを手に取ってから風呂場へと行く。

 服を脱ぎ、熱いシャワーを浴びていると疲れた頭が段々とクリアになってくる。

 以前からグラスに好き好きアピールをされてはいたが、ついに家へと来てしまった。

 しっかりと恋愛対象ではない、と断れない俺も悪いんだが。

 俺の担当ではないものの、グラスの担当である女トレーナーとは親友であり、俺が担当しているスカーレットと合わせて2人一緒にトレーニングをしていた。

 だから、俺にとってもう1人の担当と言えなくもない。

 スカーレットと一緒に組み始めた頃はグラスの好感度は今ほどではなかったが、怪我をしたときに俺が熱心にアイシングや疲れを取るためのマッサージをしているうちに仲良くなっていた。

 グラスのトレーナーはトレーナーとしての経験がとても浅い新人で、まだ経験や知識が浅いから自然と俺がやるように。

 

 今でもそれが続き、怪我対策やマッサージは俺がやることとなっている。

 まぁ、好かれているのは俺がしている指導はいいということの証明にはなっているが、ああも若くて綺麗な子から好意を寄せられるのは戸惑う。

 これが大人の女性なら対応しやすくはあるんだが。年齢の壁や法律を気にしなくてもいいために。

 ……現状は今の関係を維持しておこう。こういうのは一時の年上男性にあこがれがあるだけ、と恋愛小説でもあったし。

 急いで問題を解決しなくていいという結論に達し、ひとまずは心の安定を得ることができた。

 そうなったあとは、今日の3000mを走った疲れを熱いお湯で癒しながら体を洗い終えた。

 

 シャワーを終え、パジャマへと着替え終えると部屋にある四角いテーブルには料理を乗せた皿が並んでいて、2人分の食器が用意されていた。

 グラスはというと、台所で洗い物をしている途中だった。

 

「シャワーを浴びていいぞ。着替えは持ってきているんだろ? あぁ、シャンプーやボディーソープを持ってきてなかったら俺のを使っていいぞ」

 

 グラスの横に行って言うと、洗い物を途中で終えたグラスは俺の姿を見て硬直していた。

 耳は落ち着きなくピコピコと動いているが、他に動きはない。

 何か変な恰好をしていたかと思って自分の体を見回すが、何もおかしなところは見当たらない。

 

「どうしたんだ?」

「え、いえ、その、湯上りの姿は初めて見たのでドキドキしてしまって……」

 

 落ち着きない尻尾と耳の動きを見つつ、上目遣いでじっと見られると俺のほうがなんだか心がそわそわして落ち着かない。

 だから、グラスにこの気持ちを悟られるのは恥ずかしいから早足で冷素早く席に戻って食事をすることにした。

 そうしたらグラスも落ち着きを取り戻し、慌てて炊飯器からご飯を茶碗へとよそってくれる。

 それを目の前に置いて食事の時にやる挨拶をする。

 

「いただきます」

「どうぞ召し上がってください」

 

 並べられている食事は和食でぶりの照り焼き、インスタントだけど生野菜が入っている味噌汁、野菜炒めといったバランスの良さそうな食事だ。

 健康的な食事は滅多に食べることはないため、ひさしぶりに食事というものに感動した。

 スカーレットも作ってはくれるが、あいつが作るのは肉重視なために食べることが疲れることもある。いくら俺がよく食うとしてもだ。

 

「あの、どうですか?」

「うまいぞ。ほら、グラスも食べるといい」

 

 俺にそう言われて安心したグラスは俺の向かいに座ると、箸を手に取ってご飯を食べていく。

 今日のなにげないことの雑談をして話題がひと段落すると、ふと緊張した顔つきになったグラスが声をかけてきた

 

「カズキさんはこういうご飯なら、毎日食べたくなります?」

「ん? あぁ、そうだな。毎日食べたくなるな」

「そう言っていただけると、とても嬉しいですね」

 

 グラスの耳は横向きに倒れ、それは気分がいい証拠だ。

 なんでもない言葉なのに、喜んでくれるのが嬉しい。

 

「これだけうまいと、少しはスカーレットの奴にも見習わせたいとこだ。あいつは肉ばっかりで――……どうした?」

「知りません……!」

 

 苦笑しながらも楽しそうに言っていると、さっきまでは気分良さそうだったのにグラスは唐突に不満そうな声を出しては耳を後ろへとしぼった。

 そして、俺の足をペシンペシンと軽くとはいえ何度も蹴ってくるのはなんでだ。

 褒めるという意味ではさっきと一緒なのに。グラスがスカーレットに料理を教えてくれれば、肉ばっかりな生活が改善されて俺の生活はさらによくなると言うのに。

 グラスが不機嫌になった理由がわからないまま会話もなく食事が終わる。

 

 居心地が悪いなか、食器を台所へと片付け終わるとお互いに向かい合う状況になった俺とグラス。

 グラスはいまだ機嫌が悪そうにしていて、俺の会話スキルではすぐに改善できそうにはない。

 

「洗い物は俺に任せて、シャワー入って来たらどうだ?着替えを持ってきているんだろう?」

「それは私がここに泊まってもいいということですか?」

 

 グラスにそう言われて気づく。スカーレットでさえ泊まらせたことないのに、グラスに許可を出してしまったことに。

 でも1度言った言葉を撤回するのは大人して恥ずかしいし、さっきとは一転してウキウキとした様子で俺の顔を見上げているグラスにダメとは言いづらい。

 別に一泊しても手を出さないんだから大丈夫だろう。

 世間にばれたらうるさいだろうが、親友のトレーナーとスカーレットの奴らはグラスを後押しして家へとよこしたんだから、口裏合わせや何かで協力してくれるだろうから大丈夫なはずだ。

 

「布団も客人用があるから使っていい」

「ありがとうございます。……スカーレットちゃんはここのシャワーを使ったことがあるんですか?」

「ない。泊まったこともな。あいつが泊まったら母親のようにうるさくなって俺は寝不足になってしまう」

「泊まるのは私が初めて、ですか」

 

 スカーレットの名前を出した瞬間、また不機嫌になるかと思いきや、今度は晴れやかな笑顔を浮かべる。

 ……女心ってのはまったく持ってわからん。世間が女心は秋の空と自然現象になぞらえているのも納得するというものだ。

 

「泊まらせてくれるお礼に、私がシャワーを浴びる音を聞いてもいいですからね?」

「誰がそんな変態なことをするか」

 

 俺に変態性を植え付けようとして機嫌よさげにからかう笑みを浮かべるグラスに対し、おでこを軽くデコピンすると嬉しいという顔になる。

 そのグラスに俺は早く行けというようにシャワーがある方を指差す。

 グラスはそれを見て、自分のバッグから下着とパジャマを持ち出すとうきうきとした様子で歩いていった。

 ちなみに持っていった下着の色は黒のシンプルなレースで、パジャマは勝負服と同じ青色だった。

 

 だからと言って、それがなんだというわけだが。

 着られていない下着はただの下着であり、人に着られてこそ魅力ある衣服になる。

 でもグラスが幼いから下着姿を見たとしても、俺は興奮しないんだろうなぁと思いながら台所に洗い物を持っていく。

 スポンジで皿を洗っていると距離の都合上、シャワーの音は聞こえない。ただ自身の洗う音だけだが、そこでふと思うことがあった。

 グラスが俺と同じ匂いをさせていたら、学園で変な噂になるんじゃないかと考えて背筋がひんやりとする。

 だが、今から止めるわけにもいかないし1度言った言葉には責任を持っていたい。だから、同じ匂いがするぐらいならなんとかなるだろう。

 別に毎日ではなく、今回だけだから。

 

 思考に決着がつく頃には洗い物が終わり、その後はお酒を飲む時間だ。

 今日は何かと肉体的に疲れたから、心の栄養となるお酒を飲まなければいけない。

 そうしてウキウキと喜びながら戸棚にある麦焼酎の陶器の瓶とおちょこを手に取りテーブルへと戻る。

 瓶からおちょこに注ぎ、度数25度のアルコールを飲んでいく。

 飲んだあとの余韻が長く続き、クセが少ない味がいい。そこそこの値段がするお酒をちびちびと飲むのはいいものだ。

 

 普段はおつまみを用意しているが、今日は何もなしで飲みたい気分だった。

 それは3000mも走って体が疲れたから早く飲みたかったことと、酔っていないとこの後のグラスと過ごす時間の会話に困りそうだったからだ。

 休日にスカーレットが来たときは何も言わなくても向こうから話題をたくさん振ってくれた。だが、グラスはスカーレットと同じようにしてくれるとは思えない。

 そういうことに悩みつつ、グラスがシャワーを浴びる音を聞きつつ飲むお酒は心がやすらぐ。

 別にエッチな雰囲気を味わうとかではなく、信頼できる人がいて、1人寂しくないということに。

 1人暮らしが長くなると人恋しくなり、もうすぐ冬という時期だとなおさらだ。

 寒くなるほどに人が恋しくなる。恋人が欲しいという気持ちも少しはあるが、ウマ娘のトレーナーをやっていると仕事に熱中しすぎて恋愛相手には不向きだと思われる。

 

 それに教えている子が美少女ともなれば浮気を疑われ、お互いに不幸なことになりやすい。

 そのため、URAやトレセン学園の職員と結婚することが多いと聞く。

 中にはウマ娘が結婚できる年齢になってから自分の担当ウマ娘とする奴もいるらしいが。

 その場合だと妻になったウマ娘の独占欲が強く、日常生活に不都合が出ると噂では聞く。

 詳細はわからないが、噂話では自分の物だと証明するために噛み痕や匂いをつけられるとかそういうことだ。

 まぁ、いざとなったら婚活か独身でもいいか、とアルコールでぼんやりとしてきた頭で考えていく。

 そうして飲み続けているとグラスがシャワーから上がる音が聞こえ、ドライヤーを使う音がなって少ししてから青色のパジャマを着たグラスがやってきた。

 シャワーを上がったばかりのグラスは顔が火照っていて、普段よりもどことなく色気がある。

 

「色気があるな」

 

 そう小さくつぶやいたら、グラスは自分の尻尾を前に持ってきて両手で掴み、落ち着きがない様子ながらも俺のすぐ隣へとやってくる。

 近くに来たグラスの香りはいつも俺が使っているシャンプーと同じはずなのに、普段よりも良く感じ取れる。

 しっとりとしているグラスの髪をそっと鼻に近づけて匂いをかぐ。

 

「あ、あのカズキさん? えっとですね、私の匂いを気に入っていただけるのは嬉しいのですけど、そういうのはムードがあれば私は、いえ、今でも―――」

 

 と、なんだか興奮しながらも焦っているグラスに声をかけようとしたくても、まぶたは閉じていき、お酒によって気持ちよくなった意識は落ちていく。

 目が完全に閉じる寸前、落ちないようテーブルへと顔を乗せてグラスの恥ずかしそうな困り顔を見ながら俺は寝た。

 

 

 ◇

 

 

 ―――沈んでいた意識が俺に馴染んだシトラスの香りが鼻へ届く。

 それが何か気になって目を開けると、今度はさっきのとは別に爽やかな香りがする。その香りは視界いっぱいに近づいてきていた俺の担当ウマ娘である制服を着たスカーレットだった。

 ルビー色をした勝気な瞳に膝まで届く美しい緋色の髪。

 前髪には銀色に輝くティアラのアクセサリーがあり、腰まで届く長いツインテールには青くてフサフサしたファーシュシュがある。

 中等部なだけあって幼さが残る顔はあきれたふうだった

 

「ほら、アタシが来たんだから起きなさいよ」

「あぁ……スカーレットか。おはよう……」

「おはよ、トレーナー。今は6時5分よ。今日は遅いんじゃない?」

 

 俺から距離を取って正座をしているスカーレットはスマホをポケットから出して時間を確認し、手間のかかる大人だなぁとでもいうようにため息をつく。

 今日は早朝トレーニングの予定はなかったはずだが、時々こうやってスカーレットは気が向いたときにやってくる。

 今回もそうだが、起こしてくれたのはありがたい。いつもは5時半に起きるものだが、いつの間にか寝ていたためにアラームのセットをし忘れていた。

 まだ動き出せていない頭で昨夜のことを考えると、お酒を飲んで寝たらしい。布団にいるのはどうやらグラスが運んでくれたらしい。

 そして今は暖かい1つの布団の中で、けれど何かによって圧迫感があり少し呼吸がしづらい状況だ。

 

 それから逃げるために体を動かそうとするも、右腕と右足が動かない。

 体が動かない恐怖感と共にその方向へ振り向くと、目の前にはキスしそうなほど近さで穏やかに寝ているグラスの顔があった。

 いつ一緒に寝ていたんだ。なんで腕や足を巻き付けるようにしているんだと思うことはあるが、スカーレットの大きい胸より控えめだがブラなしでパジャマ越しのマシュマロのように柔らかくて気持ちのいいグラスの胸の感触を腕に感じている!

 パジャマ越しとはいえ、この感触を味わうと嬉しいと思ってしまったことに対し、グラスを単なる子供とは思えないなと自分の認識を少しだけ変える必要ができた。

 子供と思っていても、生きていれば心も体も成長していく。そんな当たり前のことを、15歳ほども離れているから子供という固定概念があった。

 ……だが、それが胸によって気づいたというのは男として悲しむべきか、喜ぶべきかはわからない。

 

 そんな自分にひどく大きなため息をつき、このままだとスカーレットに心底失望されるのでグラスの抱き着きから逃げようとする。

 が、逃げられない。布団から出ようとしてもグラスの抱き着きからは抜け出せず、手や足を掴んで離そうとしても抱きしめる力が強すぎる。

 グラスの耳元で名前を呼んでも反応がなく、自由になっている片手で体を揺らしてもさらに力が強くなるばかり。

 こんなところでウマ娘としての能力を出さないで欲しい。

 自分1人じゃどうにもできないため、スカーレットに助けてもらおうと思ったらいなかった。

 聞こえてくる音から察するに冷蔵庫や棚を見て朝ごはんをどうしようか探しているらしい。

 

「スカーレット、スカーレット! 俺を助けてくれ!!」

 

 グラスが今すぐ起きるほどに声を出すが、急いでやってきたスカーレットはまだ状況が改善してないことを確認してから何事もなかったかのように話を始めた。

 

「材料がなくて3人分は作れないから、朝ごはんは学園の食堂で食べようと思うんだけど」

「この時間なら開いているし、それでいいと思うが、助けてくれ!」

「じゃあ、それにしましょ。アタシ、お腹がすいたから早く準備をしてよね」

「その前に俺がグラスに手を出したのかと疑問を覚えつつ怒れよ!」

「だって……出してないでしょ? 匂いは普段通りだし。あ、でもグラス先輩があんたと同じシャンプーの匂いがしたわね。一緒にお風呂入ったの?」

「手を出していないし、一緒に入っていない。未成年のグラスに手なんて出すものか」

「それならいいじゃない。……いえ、やっぱり、よくはないかしら。グラス先輩の気持ちを思えば出されたほうが……」

 

 グラスに対して紳士的行動をした俺に対して妙に深いため息をつき、俺に対して残念な人を見る目を向けてくるが、俺は何もしていないというのに。

 それよりもグラスの気持ちを思うなら助けて欲しい。

 ウマ娘に強く抱き着かれるのは結構苦しいもんなんだ。このままだとグラスが起きたとき、俺なんかを抱き枕にしていた事実を恥ずかしがり、迷惑をかけたことを強く後悔するはずだ。

 だから、そんな嫌な気分にさせないためにも早く!

 頑張ってもがくも脱出できることはかなわず、助けを求めてスカーレットの方に目をやるもあいつは部屋のカーテンを開けてから俺を無視して部屋の片づけを始めていた。

 スカーレットが一通り終わるまで待つかしかないか?

 

「おはようございます、カズキさん。あなたが隣にいるだけで世界はとても素敵に見えますね」

 

 そんなことを考えていると、すぐ耳元でハチミツをたっぷり溶かしたかのような甘い声でささやかれる。

 背筋がビクリと震えるほどに快感があり、事態がわからないまま固まっていると今度は耳にしっとりとした感触が。

 耳を舐められた!? と理解した途端、慌てて離れようとすると、俺を抱きしめていたグラスの拘束がゆるんで布団の外へ無事に出ることができた。

 

「おはよう、グラス。だが、大人をからかうとひどいことを俺にされるぞ」

「あら。いったいどんなことをしてくれるんですか?」

 

 楽しそうに挑発してくるグラスに対し、俺はにっこりとちょっとだけ笑みを浮かべると俺は布団をグラスにかぶせると布団ごと体を両手で持ち上げると、そのままぐるりと3回転してから床へと雑に降ろす。

 グラスの将来が心配だ。恋人でもない俺に対し、こんな魔性の女的行動をしてくるなんて。

 将来はいったいどんな大人になるか今から心配だ。トレセン学園のたづなさんみたいに度胸が強い女になってしまう気がする。今と同じように、将来も大和撫子を目指して欲しいものだ。

 ちょっとだけ気が重くなりながらも、グラスがぐったりしている間に俺は洗面台に行って髭剃りや髪を整えていく。

 洗面台に行く時にすれちがったスカーレットは気になるのがあったのか、俺のカップ麺や冷凍食品を眺めてはうなり声をあげていた。栄養バランスが悪いと後で怒られそうだ。

 顔をさっぱりと洗ってから部屋に戻ると、ようやくグラスが布団からもぞもぞと出てくるところだった。

 

「出かける準備をしてくれ。今日の飯は学園の食堂で食うからな」

「スカーレットちゃんもですか?」

「そうだ。だから早くしろ。食いに行く時間が遅くなるほど、あいつは暴れるぞ? 前に炊飯器の電源を入れ忘れたことがあって、機嫌を直す代わりに豪華なプリンを買ってきてとコンビニを走りまわされたほどだ。食べ物に関しては特にうるさい」

 

 そう言った途端、俺の後ろに何かを勢いよくぶつけられる。

 何をぶつけられたかを見ると、スーツやワイシャツといった着替えだ。後ろへ振り向くと、投げた本人は笑みを浮かべながら怒っている様子だ。

 

「グラス先輩に嘘を言っちゃダメじゃない!」

「俺は事実を――」

 

 嘘偽りないことを伝え、他にもスカーレットの食べ物系エピソードを伝えようとする前にタックルのように体へと抱き着かれ、布団の上へスカーレットと一緒に倒れ込んでしまう。

 いくら布団の上でスカーレットが軽いとはいえ、1人分が体に乗っかって倒れたのは結構痛い。

 それに俺の口をスカーレットの細長くてすべすべした手でふさいでくるから喋れないし、呼吸も苦しい。

 年頃の娘が大人の男にのしかかるのはどうかと思う。グラスよりもとても大きな胸が、服越しといえどもボリュームと感触がわかってしまって反応に困る。

 このことについて注意すれば、セクハラだとか言って結構怒ると思うから、あきらめてスカーレットが離れるのを待つしかない。

 

「ほら、グラス先輩は顔を洗ってきてください!」

「それじゃあ、先に使わせてもらいますね」

 

 と、スカーレットは顔をグラスへと向け、グラスは寝起きなためかぼんやりとした様子ながらも自分のバッグから洗顔用品を手に持つと言われたとおりに歩いていった。

 それを見たスカーレットは、すぐに顔を俺へと戻して手を口から離すと、俺の隣へ来ると小さな声で喋り始めた。

 

「……ねえ、もしかして一晩の間に恋仲になったの?」

「なっていない。俺とグラスは健全な関係だ」

「あぁ、プラトニックラブってことね。うん、それなら学園から文句は言われないだろうし」

「違う。俺はグラスに恋愛感情なんてのない」

「別に隠さなくても大丈夫よ。アタシは変な噂を流さないし、2人はお似合いだと思っているから」

「年頃の女は恋愛になると途端にテンションが上がる……。とりあえずお前は外で待っていろ。着替えるから」

「いや、ここはあんたが着替えて外で待つべきでしょ。トレーナーの着替えなんて見飽きているし。グラス先輩の着替えを見る気?」

「……わかった。グラスが戻ってこないように見張っていろ」

 

 スカーレットが来ると普段でさえ賑やかなのに、さらに賑やかになってしまった朝は非常に精神が疲れる。

 だが、こうやって賑やかな朝は悪くない。朝から誰かと楽しく喋れるというのはとてもいいことだ。

 スカーレットが俺から離れて背を向けたところで、立ち上がった俺はパジャマの上下を脱いで投げつけられた服を着ていく。

 その間、スカーレットは「おにいちゃんみたいに思っている人に恋人ができたことが嬉しくも寂しい……。これが兄離れというヤツなのね!?」となんか1人の世界に入っていた。

 恋人じゃないと否定しても、恋人というのを押し付けてくるのでもう訂正するのはあきらめた。スカーレットがそう思っているだけでまわりはそう思ってはいないだろうし。

 今までスカーレットと仲良くしても兄と妹みたいと言われたから、グラスとも同じようになっているだろう。

 

「着替えたぞ」

 

 最後にネクタイをゆるく締め、着替え終えるとスカーレットに声をかける。

 するとすぐに独り言をやめてこっちへと振り返り、立ち上がっては足から頭までじっと見てくる。

 

「動かないで」

 

 スカーレットは俺のすぐ前まで近づいてくると手を伸ばして、髪を手櫛でなおしてきて、ネクタイをきっちりと結びなおしてくる。

 こいつの嫌いなところのひとつはこれだ。俺の服や髪が乱れていると、こうやって強引に直してくる。

 はじめのうちは俺も抵抗していたが、雑に服を着ているとスカーレットの機嫌が悪くなるので、抵抗もせずにされるがままとなっている。

 ネクタイを締め終えたあとはハンガーにかけてあるコートを俺へと着せてきた。

 

「うん、これで完璧ね!」

 

 完成した俺のスーツ姿から離れ、青空のように晴れやかな笑顔を浮かべて自分の仕事っぷりに満足しているスカーレット。

 ネクタイを手に持ってみると、たしかにきっちりできている。

 

「ハンカチや荷物は後で持っていくから、ほら、早く出て行きなさい!」

「俺の家なのに追い出されるのは悲しいもんだが?」

「なによ。グラス先輩の着替えを見たいの? 見たら私があんたの悪い噂をすごく流すんだから!」

「わかった。わかったよ」

 

 スカーレットに背を押されて出ていくが、ふと視線を感じて一瞬だけ足を止めて振り返る。スカーレットの向こう側に見えるグラスがいて、その表情はうらやましそうで泣きそうな。

 どうしたとグラスに聞く余裕もなく、俺は外へと追い出される。

 時計もなく外に出た俺は、そのまま外で待つしかない。

 少しの間、ぼぅっとドアにもたれかかりながら2人が出てくるのを待つ。

 家の中から楽しく会話をする声が近づいてくると、ドアから離れて出てくるのを待つ。

 俺の荷物を持ったスカーレットと、綺麗に身だしなみをして制服を着たグラスが家から出てくる。

 スカーレットは俺の荷物を渡してくると、ポケットから合鍵を出して鍵を閉めた。

 

「スカーレットちゃんは合鍵をよく使っているですか?」

「これですか? これは週に2回ぐらいなのでそんなに使っているわけでもないです。トレーナーの私生活がだらしないんで、時々私が見てあげなきゃいけなくて」

「俺はそこまでダメ人間じゃないが」

「ご飯も作らず、部屋は着終えた服が出っぱなしで私やレースに関する資料が床いっぱいに散らばって目的の物が探せなかったことを私は忘れたことがないわよ?」

 

 ジト目で見てくるスカーレットと、それでも俺は1人でやっていけると話をしながらアパートから出ると、学園への道を俺を真ん中にして横に3人並んで歩いていく。

 学園からちょっと離れているからウマ娘はいなく、仕事へと向かう学生やサラリーマンたちとすれちがっていく。

 

「そういう関係はあこがれますね」

 

 スカーレットとお互いに普段の生活がどれだけダメか欠点を言い合っていると、ふとそんなことをグラスがほほ笑みながら言った。

 そんな言葉に俺とスカーレットはお互いに一瞬だけ見つめあってしまう。

 言われると、このお互い遠慮なく言える関係は気楽だ。トレーニングメニューや何のレースに出るかも言い合えるし、日常の小さなことを言い合っているから何が原因で調子が悪いとかもわかりやすい。

 

「学園ではアタシが1番仲がいいとは思いますけど、兄と妹みたいな関係なので毎日手を焼いていますよ。放っておくとバカ兄はすぐ栄養失調になるし」

「冷凍食品は手早く準備できておいしいんだぞ? それに栄養不足はサプリを飲んで解決している」

 

 いかにも俺が不健康な生活を送っているとグラスに思われないよう、歩きながらスカーレットの苦情に対して順番に答えていく。

 睡眠時間、運動量、遊びなどについて。母親みたいに感じるが、兄に厳しい妹がいるとこんなのだろうか。

 話しているうちにトレセン学園沿いの道へ来て、ランニングをするウマ娘たちとすれ違うようになった。

 そこで話はひと段落したところで今まで静かに話を聞いていたグラスが足を止めた。

 俺とスカーレットは不思議に思いながら立ち止まったところでグラスが口を開く。

 

「カズキさん」

「なんだ?」

「あなたが好きです。私の恋人になっていただけませんか?」

 

 いつも俺に向けてくれるおだやかな笑みで、なんでもないかのように俺へと言ってきた。

 告白する雰囲気や流れではなかったから心構えができなく、突然のことに5秒ほど意識が止まってしまう。

 グラスの目を見ると、冗談というのではなく本気だというのがわかる。

 

「好意を持たれているのはわかっていたが、恋愛感情までだとは。……好きになった理由を聞いても?」

「はい。私はあなたのそばにいると、私の世界は綺麗になるんです。私に甘すぎず、厳しい時は厳しくする。周囲の意見に影響されない。何があっても私を見る目を変えず、優しくしてくれるカズキさんのことが。

 それに昔、私に言ってくれた励ましの言葉が、とても印象に残っていて」

「グラスは他の誰でもなく、グラス自身のグラスだ。そういうふうだったか」

「それです。私自身を肯定してくれたのが、とても嬉しかったんですよ? 好きになって当然です」

 

 ほっぺたを少し赤くして静かに興奮しながらも伝えてくれる熱のこもった言葉を聞いていると、なんだか恥ずかしくなる。

 こうやって想いを伝えられるのはひさびさであり、恋愛経験が少ないということもあって非常に心臓がドキドキと緊張してきた。

 こういう時にスカーレットは、俺のことをそんないい奴じゃない、と言うかと思って姿を探すと、俺たちから距離を取って目を輝かせながら見ていた。 

 スカーレットがしばらくは静かにしていそうだと確認してから、またグラスの想いを受け止めるために、まっすぐな目を見つめかえす。

 

「様々な理由を並べましたが、単純にあなたのすぐ隣にいたいと思ったんです。スカーレットちゃんが1番仲がいいと言っていましたけど、それは私がなりたいんです。

 私にとって、あなたは夜空に淡く浮かぶ月のような存在であり、太陽のように強くはないけれども、優しいあなたと私は一緒の時間をこれまで以上にすぐそばで過ごしていきたいと強く思ったんです」

「俺はお前に好意を持っているが、恋愛感情じゃないぞ?」

「はい、わかっています。でも時間をかけて私に惚れてもらうので大丈夫ですよ?」

 

 グラスの笑みは優しさがありながらも力強さがあり、俺のことが欲しいという感情がわかる。

 30を過ぎた俺に対して、どこまでその想いが続くか楽しみだ。

 グラスが学園を卒業するまでに俺を好きでいたら、その頃には俺もグラスのことを好きになっていて恋人関係になっていそうだ。

 

「お手柔らかに頼む」

「はい。仕事の邪魔はしないようにします。時間が空いている時や、練習時間の合間、または夜や休日に頑張るだけですので」

 

 思っていたよりも強気な行動で、第二のスカーレット、もしくはスカーレットを上回る存在になりそうだ。

 今の時点でも恋心をぶつけられただけでグラスのことが気になってしまっている。

 今日の朝、一緒に添い寝してたいだけでは、気にしてなかったというのに。

 大きく2度深呼吸し、精神を落ち着けたところでランニング中のウマ娘たちが足を止めて、こっちをキラキラとした目で見つめていたことに気が付いた。

 俺が手を振ってあっちへ行けという仕草をすると黄色い声をあげながら、10人ものウマ娘の集団は走っていった。

 それからはさっきと同じようにグラスとスカーレットの間に挟まりながら学園へと歩いていく。

 今回の告白についてスカーレットは返事を保留にした俺を嫌っているかと思ったが、安心したふうな笑みを浮かべていた。そのことについて聞くと「なかなか進まなかった2人の関係が、やっと進んでくれたのが嬉しいのよ」ということだ。

 まわりから見れば、俺とグラスの関係は見ていてやきもきするものだったろうかと考えていると、グラスがそっと慎重に俺の手を握ってきた。

 俺はグラスのことをまだ恋愛対象として見れないが、ほんのわずかだけ手に力を入れて握り返す。

 そうすると、グラスは学園の正門に着くまで俺の手の甲を指ですりすりとしてきた。

 それは快感で背筋がゾクゾクとして気持ちよく、けれど気持ちいいのを必死に我慢している。そうでもしないと、あっという間に頭の中がグラスでいっぱいになりそうだったから。

 これからはグラスにときめかないよう気をつけないと。と、いう簡単に破れてしまいそうな誓いを心の中でして、これからもグラスと仲良くやっていきたいと思った。



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13.ダイワスカーレット『スカーレットの親愛感情:基礎編Ⅰ』

ツイッターのクリスマスリクエスト募集で書いた話。


 トレーナーにはそれぞれトレーナー室という、学校の教室を一回り小さくした専用の部屋を学園から与えられる。

 その部屋はある程度改造してもいいが、お金もなく担当しているウマ娘が1人しかいない新人トレーナーの僕にはそんなことはしたくてもできない。

 ただ、エアコンがついているだけでとても幸せだ。

 なぜなら、僕が住んでいるアパートにはエアコンがないから。だから夏や冬には温度の苦しさから逃げるために長時間この部屋にいることが多い。

 20代中盤の若さとはいえ、暑いのや寒いのには耐えられないから。

 

 だから今日みたいな7月の暑い昼間には冷房でよく冷えた部屋にあるソファーのまんなかに深く座り、ひとり静かに読書をする。

 お昼ご飯を食べ終え、やってくる心地いい眠気を感じながらウマ娘たちの元気な声を窓やドア越しにBGMとして聞くのはいいものだ。

 だけど、静かな時間は12時を半分ほど過ぎた頃に破られることになる。

 走ってくる足音が聞こえ、誰かが来た気配に気づいてドアについている小さな窓の向こう側を見ると、制服姿のスカーレットがいた。

 荒い息をつきながら廊下の暑い空気と共に入ってきたスカーレットは、扉を閉めると腰まである鮮やかな赤い色の大きなツインテールの髪を揺らしながら俺の方へとゆっくり歩いてくる。

 

 このお昼休みの時間に会う予定はなかったけど、こんなにも急いでやってくるのは何かあったんだろうと僕は本を閉じて膝の上に乗せるとスカーレットがやってくるのを待つ。

 今日の中等部は特にイベントや何かの発表がないはずだから、何が言いたいのか想像もつかない。

 僕自身悪いことはしてないよね、と自分自身に問題がなかったか考えているうちにスカーレットは人が座る1人分の距離を開けて僕の隣へと座ってきて目を合わせて見つめてくる。

 その途端、走ってきて汗をかいているスカーレットから、なんだか匂いがした。別に匂いフェチというわけではないのだけど、女の子はいい匂いがするなぁと感心してしまう。

 

「どうかした、スカーレット?」

「別にどうもしないわ! なんとなく来たかっただけよ!」

 

 そう大きな声で言うとスカーレットは僕から目をそらし、次の言葉を待つも何も言ってこない。だから僕は読書を再開する。

 読んでいるのは栄養学の本で、ウマ娘にとって良い身体状態を維持するかを求めている僕にはとてもいい本だ。

 そうして本を読んでいると、スカーレットがちらちらと僕を見てくる視線を感じる。でも僕はそれに気づきつつも、気難しいスカーレットが何かを言ってくるまで本を読み続けることに。

 顔を合わせると恥ずかしがり屋な部分がある彼女にとって、こういうままのほうが話しやすいだろうから。

 

「あのね、アタシが急いで来たのは理由があるの。タキオンさんがトレーナニウムという栄養素を発見したから、お願いされて本当にあるかの実証実験に協力しているの」

「僕とスカーレットはあの人にお世話になっているからね。協力するのはいいことだと思うよ」

 

 時々トレーニングの練習相手をしてもらっているアグネスタキオンは薬物の研究をよくやっていて、実験で爆発や異臭騒動を起こすことがある。

 そのために学園では問題視されている子だ。でも、うちのスカーレットとは気が合うらしくて仲がいい。

 どれくらい仲がいいかと言えば、一緒に勉強やスイーツ巡りに紅茶の飲み比べもやるほどに。

 そんな人からお願いされたんだから、タキオンにとって大事な研究の仕事をスカーレットが頼まれたということは今のように嬉しくなって当然だ。

 普段は他の人に任せない仕事を、信頼しているスカーレットにお願いしたんだから。

 それにしてもトレーナニウムとはいったいなんだろう?

 

「それでね、これに関するデータを取るために私が協力しているの。だからアンタも私に協力しなさい! いいわね!?」

「読書の邪魔にならなければいいけど」

 

 スカーレットのほうに顔を向けずに返事をする。しかし、こういうふうに僕へとお願いするのは珍しい。

 トレーニングメニューの方向性では大声で文句を言ってくることはあるけど。

 

「それで、それはどういう物質?」

「なんでも日常的に摂取していないと健康によくないとか。だから、今から私がそれを正しく摂取できるか試すのよ」

「痛くなければいいよ」

「アンタに痛いことなんてしないわよ!」

 

 近い距離で大声を聞くのは耳が痛くなるが、それを指摘すると長々と苦情を言われるので何も言わずにスカーレットがタキオンに頼まれたという実験をするのを待つ。

 でも動く気配がない。

 

「スカーレット?」

「これは私がやりたいんじゃなくて、実験のためなんだからね!!」

 

 静かなスカーレットが気になって顔を向けると、スカーレットは言い訳めいた言葉を言いながら僕と体がくっついてきた。

 彼女の担当になって1年と少し経つけど、これほどの近さにやってくるのは片手で数えるほどだ。

 まだ中等部で幼さがあるものの、女性らしさが感じられるから自然と緊張と少しの興奮をしてしまう。

 僕のような男の固さではなく、女性特有のすべすべした肌だ。そんな手で僕が本を読んでいる手をそっと掴まれると、読書は中断するしかない。

 スカーレットに手首を掴まれたまま本を閉じ、ソファーの上に置く。

 吐息の音がわかるほどの近さから上目遣いでじっと見つめられると、もうやばい。すごくやばい。将来は相当な美人さんになるに違いないスカーレットから見つめられると、恋に落ちてしまいそうだ。

 心臓がバクバクと花火のように大きい音をたてているかのようなのを感じつつも、1人の大人として感情を顔を出さないように気をつける。

 

 そんな平静な心を維持しようとしていると、スカーレットは顔を赤くして恥ずかしそうにしながらも僕の胸元へと顔を勢いよく突っ込ませてくる。

 理由も言わずにそんなことをされると、驚きのあまりに言葉が何も言えず、あまりの勢いに一瞬呼吸できないほどに痛みを感じた。

 いつもは怒りはしないものの、今ばかりは文句を言おうとするもスカーレットは僕の胸に顔をうずめて深呼吸をしていた。

 頭で理解できない謎の行動に対してどう行動すればいいかわからず、そのまま硬直していると「トレーナーの匂い、すごくいい……」とつぶやくものだから困る。

 

「あー……スカーレット?」

 

 困惑しながら小さく声をかけると、スカーレットは磁石が反発するように勢いよく僕の胸元から顔を離して見上げてくる。

 

「違うのよ!? これはタキオンさんが言っていたトレーナニウムっていうものがあるかどうかの調査で!

 別にアンタの匂いが好きとか、暖かくていいとか、ずっとこうしていたいなんて思ってないんだからね!?」

「トレーナニウムというのは僕から出ているのかい?」

「そうよ! これは誰でいいっていうわけじゃなくて、アタシのトレーナーだからこそ出てくる物と聞いたの。だからこうしてアタシが試しているというわけ。わかった!?」

「タキオンからお願いされた調査なら仕方ないな」

 

 また謎の言葉であるトレーナニウムなる単語が出た。

 それはいったい何を意味しているかがなんとなくわかってきた。タキオンがどういった意味でスカーレットにそのことを言ったかわからないが、僕のほうとしては被害はないし実験を続けてもいいと思っている。

 言い訳を続けるスカーレットの頭と肩を強引に掴むと、自身の胸元へ抑えつける。

 すると、それまで言葉を発していたスカーレットは急激に静かになり、時間が経つと今度は気持ちよさそうに僕の膝の上へと頭が落ちていく。

 

 その位置を調整し、膝枕のようにすると寝息が聞こえた。その音を聞いて顔を覗き込むと、穏やかな表情で目をつむっていた顔が見える。

 気持ちよさそうに寝ているのを見ると、スカーレットが起き上がるまで立ち上がれなくなる。

 結局スカーレットは何をしに来たかがよくわからず、あとでアグネスタキオンに話を聞きに行くかとそう思ったところで視線を感じた。

 その方向を見るとドアの窓越しに、にんまりとした笑みを浮かべたタキオンがいた。

 いつからいたのかわからないが、観察のために最初からいたに違いない。

 けれど、スカーレットのことをとても気に入っているタキオンだから僕とスカーレットが今のようにくっついていても変な噂を流すことはないはずだ。

 今だってタキオンは僕に軽く手を振ると機嫌良さそうに歩いていなくなったんだから。

 まぁ、去り際に「スカーレット君を泣かせたら、君の予想する3倍はひどいことをするからな」とテンション高く、スカーレットが起きないような大きさの声をドア越しに聞いてしまったけど。

 

 怖かったタキオンがいなくなって僕は落ち着き、スカーレットの静かな呼吸がよく聞こえる部屋で読書を再開する。

 今すぐ立ち上がって起こすのも悪い気がするし、昼休みが終わるまで時間はまだあるから。

 そう考えた僕はソファーに置いていた本を手に持って読んでいく。

 読んでいくうちに自然とスカーレットの頭を片手で撫で、さらさらとした髪や柔らかい耳の感触を楽しんでいく。

 そんなことをしながら本を読んでいくと、ふと今回のタキオンは何を見たかったかに思い当たった。

 それはエンドルフィンとオキシトシンを発生させ、その効果を直接見たかったんじゃないかと。

 どちらも脳から分泌されるものであり、そのふたつは幸せを感じさせてくれる物だ。

 

 エンドルフィンのほうはウマ娘にとって普段からよくよく感じ取れるものだろう。

 いわゆるランナーズハイと呼ばれるもので、それは走り続けていると気分が高揚し、不安感が減って心が安らぐと言う。

 ウマ娘たちは走るのが好きで、その中には雨が降ろうとも雪が降ろうとも道がない道でも走るウマ娘がいるほどだ。

 エンドルフィンという脳内から発生する物質はわからなくとも、感覚的には理解しているからこそ走り続けていたいのかもしれない。

 走っていなくても、褒められる、笑う、恋愛で心がときめいている時に発生する。

 

 もうひとつの物質であるオキシトシンは人や動物とのスキンシップで発生する、効果としてはエンドルフィンに似ているものだ。

 恋人同士がいちゃいちゃすると幸せ感を感じるのはこのためであり、特にボディタッチをすると効果がよく出る。

 キス、抱きしめるなどと言った行為で。他には映画や音楽で感動することでも。

 

 だから、この2つをまとめて新しく造語を作ったタキオンはスカーレットにその実験だと言って普段は僕に対してツンツンしているスカーレットがどう甘えるかが興味を持ったんだろう。

 いや、だがマッドサイエンティストとも呼ばれるタキオンのことだ。他に何か意味があるかもしれない。

 でもそんなことよりもすごく重大な発見をした。

 

「眠っているスカーレットがこんなにもかわいいだなんて」

 

 本人が眠っているからこそ言えるセリフ。

 実験が終わってからも、時々でいいからこういうかわいい姿を見たいなと思ってしまう。

 と、ここまで考えていたところで気づいたことがある。

 いくらスカーレットが仲のいいタキオンに頼まれたとはいえ、僕に対してここまでするのは不思議だ。

 普段はツンツンしていて、僕に文句や軽く蹴ってくるスカーレット。

 時々は一緒に出掛けたりはするものの、それは友達のような関係でこんなふうにくっついたことは今が初めてだ。

 ……それゆえに、きっと、だからこそ、もしかすると。

 

 スカーレットは僕のことを恋愛的意味で好意を持っているんじゃないかと思う。本人は気づかなくても無意識で。

 だって、そうでなければ好きでもない男とくっつき、匂いをかぎ、膝枕で寝るなんてことはないだろう。

 そんなことに気づくと、自分の心臓がさっきとは違う意味でバクバクと大きな音をたてていく。

 今までは教え子とか妹のように思っていた。

 

 けど今では1人の女性として認識してしまい、膝の上にスカーレットを乗せている状況が嬉し恥ずかしい!

 あぁ、自分で自分の顔が赤くなっていくのに気づいてしまう。今まで女性経験というのはなかったから、それはさらに。 

 もはや読書どころではなく、さっきまではできていたスカーレットの頭を撫でることさえ恥ずかしい。

 本を雑に置くと、スカーレットの眠った顔を昼休み終了のチャイムが鳴るまでずっと見続けてしまっていた。

 そのあとはもちろんスカーレットに怒られたが、今までの怒鳴るだけとは違った。

 怒ったあとは僕の前に腕を組んで威圧感たっぷりな姿、とは違って何かに恥ずかしがっている表情がかわいく見える。

 

「スカーレット?」

 

 不思議そうに見ていると、スカーレットはスカートのポケットから小袋に入った飴を取り出し、その中身を手に持って僕の口の中へと押し込んでくる。

 唇に触れる細くて白い指先。そして甘いイチゴ味が口の中へと広がっていく。

 

「タキオンさんがお礼には甘いものをあげるといいって言ってたから。それじゃあアタシは帰るけど、昼休みのことは誰にも言わないでよね!

 アタシが恥ずか――じゃなくて、トレーナニウムがあったことを他の子に知られると困るから。それじゃあね!」

 

 飴が口に入っているから、うまく返事をできないでいるとスカーレットは赤いツインテールをなびかせながら急いで帰っていった。

 いつもはドアを閉めていくのに、今は開けたままで行ったぐらいに。

 ソファに座ったまま思うのは、スカーレットがすごいかわいいと思うことだけ。

 唇に触れた指先の感触を思い出していると、慌てた様子でドアを閉めに戻ってきては走り去っていく。

 プライドが高く負けず嫌いで素直になれない彼女だけど、今のような心遣いは素敵だなと思って、本気で惚れてしまいそうだ。



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14.ナリタブライアン『恋愛的挑発行動をしてくるナリタブライアン』

 暗い雨雲と共に、梅雨の雨がしとしとと降ってきている少し肌寒い午後の1時。

 担当のウマ娘であるナリタブライアンを山に連れてきた、担当の僕は1人静かにエンジンを止めた車の中で待っていた。

 軽自動車の後部座席にはブライアンの着替えや練習用具が置いてあり、けれどブライアンはここにはいない。

 1人雨の降る山道を走りに行ったからだ。

 本来の予定だと、日頃のストレス発散と練習を兼ねて晴れの山道を走る予定だったが急に雨が降ってきた。

 そのため、やめようと止めるも赤いジャージを着ているブライアンは「これぐらいの雨なら、むしろいい練習になる」と言って勢いよく走っていった。

 僕が声をかける間もなく1人で行くと、残された僕は持ってきた小説の本を読むことにする。

 

 僕とブライアンの関係は今年で2年目。その育成方針からは放任主義と周囲からよく言われるけど、ただ話す回数が少ないだけ。

 話す時はお互いに向かい合って話すし、冷めた関係というものではない。必要な時には必要なだけ言葉を交わす。

 今日だって車を出してくれと頼みに来たし、時には一緒にご飯を食べに行こうと誘い誘われる間柄だ。

 ブライアンが帰ってきたら、僕の方からご飯を食べに行こうと誘うつもりだ。最も誘いに乗ってくれるのは気まぐれで3回に1回くらいだけど。

 それでも1人暮らしで恋人もいない僕としては今日のような天気が良くない日には人恋しくなって1人でいたくないときがある。30歳になった今では恋人が欲しいなという気持ちがある。

 そんな気分になった時は今のように読書をすればいいわけだけど。

 

 そう思いながら車に当たる雨の音を聞き、シートベルトを外してリラックスした状態で山の中で静かに小説を読む今の時間は贅沢だ。

 アパートにいると周囲の生活音や車のエンジン音ばかり聞こえる。

 でもここでは自然の音しか聞こえてこない。それが耳に心地よく、トレーナー室で高くていいスピーカーを買って自然音を流そうかと考えるほどに。

 それを実行しないのはお金がないのと、ブライアンと一緒に山や海に来たときに聞くからそれでいいかと思っているから。

 雨音と風で木々の葉っぱがこすれる音を聞きながら小説を読んでいると、不意に後部座席が開く音が聞こえる。

 

 その方向へ顔を目を向けると、雨で全身を濡らしたブライアンの姿があった。

 背中まであるポニーテールのつややかな黒髪とウマ耳がぬれ、金色に輝く鋭い目が僕を見つめてくる。

 ブライアンが帰ってくると、僕は手に持っていた小説を助手席のダッシュボードに入れると車のエンジンを動かして暖房を動かす。

 まだ冷えている車に、大きな胸を持つブライアンはこの小さい車に入りづらそうにしながらも後部座席の荷物を強引にどけて車内へと濡れたまま入ってくる。

 当然、座席はびしょびしょになるけどもそれくらいなら後でかわかせばいいだけだ。

 ブライアンがドアを閉めてから僕は顔の向きを戻すと、ルームミラー越しに走りに行くときよりもすっきりした表情のブライアンを見る。

 

「楽しかったかい?」

「別に。いつもとやることは変わらないからな」

 

 そっけない言葉のやりとり。でもこれが僕とブライアンの普通だ。

 ブライアンはバッグからかわいたタオルで顔と髪を拭くと、不意にルームミラー越しの僕と目を合わせてくる。

 それを5秒ほど続けると、ブライアンはタオルを手放して急にジャージの上着を脱ぎ始めた。

 灰色のスポブラが見えてしまったところで、僕は殴るように勢いよくルームミラーの角度を手で変えると、目を閉じて着替え終わるのを待つことにしている。

 そうしたらブライアンがつまらなそうに文句を言ってきた。

 

「そんなに私の体を見るのは嫌か。自分から脱いだんだ。見たぐらいで文句は言わないぞ」

「教え子を性的な目で見たくないだけだよ。まぁ、大人の体だったら文句を言われても見てしまうだろうね」

「……今、ブラジャーを外した」

「言わなくていいよ!?」

 

 突然、いらついた声で着替え実況を始めたブライアンに驚きつつも目を開けないように気をつける。

 でも目を閉じていても音は聞こえてきて、衣擦れの音が僕の耳によく聞こえてくる。

 ブライアンの着替え実況も最初の報告だけで、あとは無言のまま続いていた。時々強い視線を感じたけど、それが意味するのは何かわからない。

 こんなにも近い距離で着替えをしてくるのはめったにないことなせいか、ブライアンが近くにいるのはちょっとだけ心臓がどきどきと強く動いてしまう。

 普段は背中合わせで本を読み、肩をくっつけて映画鑑賞をすることはあるのに、音だけでこうなるだなんて。見えるよりも見えないほうが興奮するというのはこういうことかと1つ勉強になった。

 

 少しの時間が経ってから着替え終わったらしいブライアンは僕に終わったと声をかけると、新しいジャージを着たブライアン後部座席から車の中を通って助手席へとやってくる。

 移動する際にブライアンの尻尾が僕の顔や手にぶつかり、尻尾はまったく気にかけていなくて雨でぬれたままなのがわかる。

 ブライアンはいつどんな時でも尻尾のことを考えていなく、練習やレースで汚れた時やライブ前の手入れは僕が全部やっている。

 そのおかげで上手なブラッシングや手入れ用オイルに詳しくなったことはいいことだけど。でも時々でいいから気にして欲しいところ。

 まだ少女と言えるから彼女に許されているけど、大人になったときに1人でうまくできるか不安だ。

 

「今回ぐらいは尻尾を気にしてもいいと思うんだけど」

「私は気にしないが」

「僕が気にするの。風邪を引いちゃうでしょ」

 

 尻尾のことを言われて不満げに僕をにらんでくるブライアンの両肩をつかむと、強引に体を後ろ向きにして僕の方へと向ける。

 いつも似たようなやりとりをしているからか、さしたる抵抗もなくすんなりと尻尾を僕に向けてくれた。

 まったく水分が拭き取られていない尻尾のぬれた状態を見てから後部座席に手を伸ばすと、ぬれていないバスタオルを取って雨でぬれた尻尾を優しくつかんで丁寧に拭き始めていく。

 強引にやって尻尾の毛を抜かないように注意しつつ、尻尾の根元から。

 今回は練習後にブラッシングする普段と違い、今は尻尾に水分が多いから何度もふいていかないといけない。

 そうしておとなしくしているブライアンの尻尾をタオルでふいていくと、ふとブライアンから色気がある声がもれ出て来た。

「ん……、あっ、んっ……」

「僕の理性に悪いからやめて欲しいんだけど?」

「私は悪くない。お前の手つきがいやらしいせいだ」

「そんな理不尽な」

 

 早口で恥ずかしそうに言うブライアンが少し水分が取れた尻尾でバシバシと僕の手を叩いてくるが、僕はそれを無理につかんでタオルでふいていく。

 しっかり水分を取ったあとはドライヤーで乾燥したいところだが、車の電力的な問題でできないのが悲しい。

 早く帰って自分でやって欲しいところだ。いや、あとで姉であるビワハヤヒデに電話して面倒を見てもらうか。

 タオルを後部座席へと戻し、帰りはご飯を食べに寄るか、家に戻るかを考えようとしたらブライアンは僕の読んでいた小説を手に持って表紙を眺めていた。

 

「本を読んでいる時というのは、どんな気分になるんだ?」

「そうだなぁ……知らない世界を体験できる幸せというものかな」

「知らない世界、か」

 

 その答えがいいのか悪かったのかわからないけど、それを聞くとブライアンは小説を開いて読み始めた。

 読んでいる間に車を動かしてもいいけど、それは邪魔をしてしまうだろうから5分ぐらいはこのまま待つことにする。

 ブライアンが真剣な顔で本を読み始めると、僕はやることがなくなって昔の印象深いひとつのことを思い出してしまう。

 

 それはスカウト合戦の時で周囲のトレーナーたちが走る能力がどうこうとか将来の展望を言っている時に「レースは勝つか、負けるかだ」とブライアンが言ったときに、僕が「勝利か、より完全な勝利かだよ」と小さくつぶやいた言葉が気に入られて、専属トレーナーとなった。

 実績が少なかった僕に周囲からの嫌がらせの言葉が何か月か続いたけど、練習の内容やブライアンがレースに挑んでいくなかでそんな声は消えていった。

 

「おい、帰るぞ」

「もういいかい?」

「ああ。もう腹が減ってたまらん」

「お昼も食べてなかったからね。すぐに帰ろうか」

 

 小説を戻してシートベルトを装着したブライアンを見て、ルームミラーを直して僕も同じようにシートベルトをつけると車を発進させた。

 山道を降りていくなか、帰りはどこで食べようかと考える。

 焼肉屋、ラーメン屋、食べ放題の店と候補はある。でも、どれでもいいというわけでもない。

 肉が大好きで、待たずにたくさん肉が食べられるところが好みだから。

 この食事代は経費で落ちず、僕のポケットマネーから出て大きな出費となっているけど、ブライアンのためと思えば気にはしない。

 レースで力強く走り、ライブでかっこいい歌声を出すブライアンのファンだから。

 最も近い場所にいるファンとして考えれば、これくらいのお金なんて出させてもらうほうが嬉しいと思う。

 その代償として、削るところは削っているために家の暮らしは質素に暮らしている。

 

「今日はどのお店で食べようか」

「肉があるならどこでも……いや、少し私のわがままを聞いてくれないか」

「いいよ。無理なら無理って言うけど」

「それで構わない。私はトレーナーの家で肉を食べたい」

「僕の家で?」

 

 1人暮らしで恋人もいなく、部屋はそれほど散らかってはいないから問題はないけど。

 でも今まで1度もブライアンが来たことはなく、僕が誘うとかブライアンが行きたいと言う事はなかった。

 別に禁止していたわけではない。仲良くはあるけど、それ以上の、たとえば恋人のような関係に思われないように無意識でお互いに一線は引いていた。

 だと言うのにどうしたんだろう。

 

「ダメ、だろうか。私が知らないだけで恋人がいるというなら行くのはあきらめるが」

 

 あまり弱気な声を出さないブライアンが、今だけは不安そうな声を出しているのが意外だった。

 運転中にちらりと横を向くと、声と同じような目で僕を見つめている。そんなのを見てしまうと、僕の家でご飯を食べるぐらいいいかと思う。

 女の子を連れ込むわけでもなく、担当であるウマ娘の子なんだから。

 

「いないよ。恋人を探してはいるんだけどね」

「いないのか? 誰かを好きだということもなく?」

「それ以上聞かないで。まだ恋を見つけられないんだ。ブライアンが僕なしでやっていけるようなら見つけられるかもね」

「無理だな。私はお前がいないと無理な練習をするぞ? それにお前から別な奴に担当が変わるなんてごめんだ。今から来る奴はみんな私の名声目当てだろうからな」

「それなら仕方ない。一緒に独身を貫こうか」

「それはお前1人でやってくれ。私は結婚する予定なんだ」

「僕も将来的にはしたいね」

 

 ブライアンとプライベートな話は時々するけど、恋愛系の話をするのは非常に珍しい。今まで恋愛はバカバカしい。走るウマ娘なら、それよりも練習とレースに情熱をそそぐべきだと言っていたのに。

 いったい何があったんだろうかとワクワクする。レースしか頭にないんじゃ、ひどく落ち込んだときに気分転換は難しいと思っていたから、今はいい傾向だと思う。

 ここから話を続けたいと思ったけど、続けると僕の恋愛経験や好みやらがバレるのでやめることにする。

 これ以上話を続けたくない僕の空気がわかったのか、ブライアンもそこから先は話を広げることなく静かになった。

 だから僕は今日これからの予定を言う。

 

「僕の家で食べるなら、スーパーに寄って材料を買おうか」

「それはつまり、手料理、ということか?」

「そうなるね。あ、お寿司や総菜を買う―――」

「お前の手料理がいい。……待て。これはお前の財布に負担がかからないようにと考えただけだ。別にお前が作るものをすごく食べたいと言うわけでは、いや、食べたくないわけではないが!」

 

 僕の言葉をさえぎり、力強く言う僕の手料理が食べたいと言ってくるブライアン。でもその直後、慌てたように大きな声で言う。

 その後は言葉が続かず、山を下りて赤信号で止まったところで、僕の体をパシパシと手で軽く叩いてくる。

 青信号になるまでそれは続き、ブライアンは不満そうに窓を眺めたままでスーパーの駐車場に着くまでは一言も会話をしなかった。

 普段は愛想が悪いけど、こういうふうにかわいいところを見るといいなと思う。そのいいな、はブライアンが大人だったら交際を申し込みたくなるほどに。

 

「ブライアンはここで待っているかい? それとも一緒に?」

「……遠まわしなやり方は私らしくないな」

 

 駐車場に着いてシートベルトをはずし、ブライアンはどうするか聞くと僕に目を合わせず小さくつぶやいた。

 その言葉からどんな料理の希望が出てくるか待っていると、シートベルトをはずしたブライアンは僕のほうへ身を乗り出すと両手で僕の首へと手を回してきてをしっかりと押さえてくる。

 そして僕を見つめたまま素早く顔が近づき、勢いあるキスをした。

 そのキスは柔らかさやときめきを感じることもない、歯と歯があたって痛みがあるロマンが足りないキスだった。

 でもこれがファーストキスになる僕には、それでも心臓がドキドキとして急に目の前にいるブライアンに女性らしさと愛おしさを感じた。

 

「ブライア―――」

 

 どうしてこんなことをしたか聞こうとする前に、ブライアンは僕の背中に手を回して抱きしめるような態勢になってから続けてキスをしてくる。

 今度はゆっくりと顔を近づけ、優しくふれるようなキスをし、そのあとは唇を強く押し付けてくるキスへ。

 息が苦しくて離れようとするも、ブライアンは僕を力強く抱きしめたまま離してくれそうにない。

 とても長い苦しみと甘いキスを感じていると、不意にキスの感触がなくなっていく。

 鼻先がふれあいそうなほどに近い距離で僕たちは荒い呼吸をしながら見つめあい続ける。

 色々と考えることは頭でぐるぐると回っているけども、今すぐに聞きたいことはひとつ。

 

「僕はまだ君に恋愛感情を持てないんだ」

「それならこれから先、私がお前を落とすこともできるんだな?」

「……ノーコメントで」

 

 自分の感情に素直でいたかった。でも年齢とトレーナーとウマ娘という関係性の都合上、恋人関係になれるかは言えない。

 

「お前がいると私は安心してやってこれたんだ。これからもそうありたいから覚悟してくれ」

 

 そう言ったあとにもう1度強引に短いキスをしてきたあと、ブライアンは車から出て僕の側に回ってくるとドアを開けてきた。

 ブライアンはキスで力が抜けたまま立ち上がる気力がない僕を見るとため息をつき、でも嬉しそうな顔をしながら両手で僕を引っ張り上げる。

 

「しっかりしてくれ。お前が作る肉料理には期待しているんだ」

「男の料理にそれほど期待しないで欲しいんだけど」

「期待するさ。なにせ、好きな男の料理を食べられるんだからな」

 

 男前すぎる言葉に、僕は心がときめいてしまう。

 恋愛感情を持っていないと言ったけど、キスと今の言葉がきっかけで恋愛感情が目覚めてしまった。

 さっきとは違って今ではブライアンのなにもかもがキラキラに輝いてみえる。

 そうなってしまって思うことは、遠くないうちに僕は攻略されて恋人関係になるだろうと。

 そんな未来があると考えると、悪くないと思う僕がいた。



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15.ナリタブライアン『お前のことをどれだけ好きか知って欲しい』

気楽にできる書き方で1度やってみた小説。


 小学校の高学年の頃から俺はウマ娘と積極的にふれあってきた。

 それは親戚で10歳年下となるハヤヒデとブライアンの姉妹だ。

 ハヤヒデと出会ったのは彼女が1歳に成長してからだったが、ブライアンが生まれた時はすぐ見ることができたから今でもつやつやした黒髪を持つかわいい赤ちゃんの時の純粋無垢な笑顔を思い出せる。

 そんな彼女たちと一緒の時間を過ごしたのは8年間。

 中学高校と同じ地元で家が4軒隣のため、彼女たち姉妹の世話や遊び、地元のレース教室に応援へ行くというような親密な関係だった。

 幼い彼女たちも年上な男の俺をよく慕ってくれた。特にブライアンにはすごく気に入られていた。

 

 その理由としてはブライアンだけをよく甘やかしていたからだと思う。彼女の親や姉のビワハヤヒデは、無愛想さで周囲に敵を作ることが多く、野菜嫌いなブライアンに説教をよくしていた。

 そのブライアンは嫌な空間から逃げる時は決まって俺の元へとやってきた。学校や部活で遅くなった時は俺のベッドに潜り込んで寝ながら待ってくれるほどに。

 そういうかわいい姿を0歳の頃から見続けると、本当の妹みたいに思える。

 幼稚園の時はブライアンの母親の代わりに幼稚園へ向かいに行き、小学校で運動会があるときは高校を休んで応援に行くぐらいに大事にする。

 ブライアンが小学生になってからは、ませた言葉を言うようになった。「お嫁さんになるから、私が大人になるまで待っていて」という微笑ましいのや、腕や腰に抱き着きながら「好き、好き、好き!」という言葉を言い続けるのが。

 でもこういうのは思春期と共になくなるんだろうなぁと寂しい思いがある。

 妹がいる友達からは成長するとにらまれ、嫌いという言葉を平然と言ってくるとよくよく聞かされた。前もってそういうのがわかっていれば心構えができると思う。

 

 俺とブライアンの本物の兄と妹より仲がいいと言われた関係は8年間でいったん終わることになった。

 俺が18歳になると、ウマ娘の勉強をするため東京の大学へ行くからだ。

 そしてトレーナーの資格を取り、中央のトレセン学園に入った頃にはハヤヒデとブライアンのふたりが入学していて、引っ越してきた俺のアパートへよく遊びに来ていた。

 日々能力を高めていくふたりを見ながらサブトレーナーとして2年の経験を積んだあとに25歳になってから新人のトレーナーとなった。

 最初は高等部1年となったハヤヒデの担当に。翌年にはブライアンを。

 ふたりの能力が高く、自分がふさわしいのかと悩む時期もあったがそれは吹っ飛ばすことができた。

 

 ◇

 

 なんで急に昔のことを思い出したかというと、現実逃避したい放課後の今だからだ。

 6月の中頃。冷たい風を出すエアコンの音。遠くからはウマ娘たちが声をあげて走っている音だけが聞こえるトレーナー室に26歳の独身である男の俺と、16歳のブライアンとふたりきりになっているために。

 それに追加して、ソファーに座っている俺の膝の上へとまたがり、首に手を回して強く抱き着いてくるのは理性との闘いだ。

 160cmという、俺より少し身長が低いブライアンは俺の首に顔をうずめていて、制服とブラ越しに感じるバストサイズ91という大きな胸の感触に幸せを感じてしまう。

 ブライアンは興奮しているのかウマ耳がパタパタと動いて俺の耳をくすぐってくるし、ポニーテールで腰まで届く真っ黒な髪を間近で見るとさわりたくてたまらない。

 10年ほど昔もブライアンは今と同じように俺へと抱き着いてきた。その時は子供に好意を持たれるのはいいなと思っていた。

 

 だが今は違う。そう、違うんだ。

 好かれているならいいじゃないかだって? あぁ、俺もそう思ってはいたさ。トレセン学園で再会してもこういうふうに抱き着いてこなかったからな。

 だが今は違う。俺とブライアンの年齢差はちょうど10歳差。それほどの状況でこれを他の人に見られたらどう思う?

 教え子に手を出す変態扱いになるぞ!? しかも他に人がいない密室!! 

 普段はクールで一匹狼なブライアンが、これほど俺へと甘えてくるのは薬でも持ったのかと疑われることは間違いない。

 だからクビにされてしまいそうなら、ブライアンに嫌がっていることを伝えればいい。そうすれば、ブライアンも渋々ながらもどいてくれるだろう。

 だが、言い出せないわけがある。

 

 そう、気持ちいいんだ……すごく。

 抱き着いてくるブライアンの髪から甘い匂いがして、さっき思ったように胸は柔らかい。それに俺の足の上に乗っているお尻も適度な弾力があっていいし。

 そう、今日初めて気づいたんだがウマ娘の鍛えられた筋肉でもお尻は柔らかい!

 今まではガチガチに固いと思っていた。それがどうだ? ヒップサイズ85の大きさがあり、この適度な弾力と重みが最高にいいんだ!!

 恋人が一度もできなかった俺にこの刺激は辛い。

 そんな女に慣れていない俺が、なんでブライアンのバストとヒップのサイズを知っているか疑問に思う人かもしれない。

 トレーナーだからそんな数字は把握していて当たり前だって?

 ハヤヒデの担当もしているが、細かい数字は知らない。

 ただ知っている理由なのは、身体測定のたびにブライアンが教えてくるからだ。

 俺が大学を卒業してトレセン学園に就職してから。つまりはブライアンの12歳の頃からサイズを教えられている。

 中等部1年から高等部2年の今にいたるまで。

 数字と視覚でしか理解できなかったが今はじめて感触で理解してしまっている。そう、わからされているってことだ。

 

「今日はどうしたんだ、ブライアン。今までこんなことはなかっただろう?」

 

 すぐ目の前にあるブライアンの耳へと驚かさないようにささやき声で言うも、体を細かく震わせてくるだけで何も返事はしてこない。

 いったい何があったのかと首元にかかるブライアンの吐息にくすぐったさを感じながら、理性が崩壊してしまいそうな頭で考えていく。

 練習やレースで悩むならすぐに言う。姉であるハヤヒデとケンカしたら雰囲気ですぐにわかる。でもこの状態はそのどちらでもない。

 いったい何が原因なんだ、と悩んでいるとブライアンが口を開く気配がした。

 

「今日、昼間に中庭で女と話をしていただろ」

「女? 女……あぁ、あれを見ていたんだ。彼女はダイワスカーレットって言って、普通に雑談していただけ。蹄鉄の材質や重さはどう使い分けたらどうかというのをね」

「それにしては楽しそうだったじゃないか。私は校舎の中にいたから声までは聞こえなかったが。笑顔で両手を握られて嬉しそうにしていただろ?」

「あれは喜んでもらえたから。俺の話が役に立ったなら喜ぶのは普通だと思うけど。新しく担当契約を結ぶというわけじゃない」

「お前と仲のいい女たちは全員知っていると思ったが、知らなかった。私の知らないところで知らない女に会うのは私の心がざわつく」

「心配することじゃないし、ダイワスカーレットと知り合ってまだ2か月しか経っていないけど」

「2か月というのは入学式が終わってすぐのようなものだろ。あれは女の顔だった。お前を見つめる目が違った」

 

 低くいらだった声でそう言い、ブライアンは僕の首筋から顔を離して俺を正面から見上げてくる。

 まっすぐに俺を見つめてくる顔。上目遣いになっているから、普段のかっこよさにプラスしてかわいさがある。

 くっそ、なんなんだよ。この美人さんはさぁ!? 昔はかわいい妹と思っていたのに、今はごく普通の素敵でかっこいい美人なんだけど。

 これにもう一押しあれば惚れるところだった。実に危ない。

 ブライアンは俺に恋愛感情を持っているのとは違うと思う。これはブラコンだ。大好きな兄が、自分の知らない女と話をしているのを嫌がっているだけだ。

 俺に対して兄という感情しか持たないブライアンに恋愛感情を持つのはよくない。

 いや、持ってもいいが持つ時はそれは18歳を過ぎてからにしよう。成人になった年齢なら、歳の差があっても世間からあまり文句は言わないだろうし。

 そう考えがつき、深呼吸してからブライアンの質問に答える。

 

「それは憧れとかじゃあないか? 多くのウマ娘はトレーナーと契約を結ぶのが難しいし。それに彼女は中等部1年で13歳も離れている。そんな年上に恋愛感情なんか持つわけがないさ」

「年齢差があると恋愛感情を持たないものなのか?」

「そうだと思うよ。恋愛に年齢差は関係ないと言うけど、多くの人は年齢が近い人を選ぶし、年齢差が離れていると話題に困ると思う」

「だが、私はお前のことが恋愛対象として好きだぞ?」

 

 首を傾げて不思議そうに恥ずかしがらずにまっすぐ言うブライアン。その純粋な感情が俺にはまぶしく、顔をそむけてしまう。

 そのまっすぐな告白にもう嬉しいと思う気持ちと同時に、はずかしさと緊張で心臓が激しく動く。

 

「その、ええと、初めての告白だっけか?」

「昔は何度も好きだと言って告白していただろ。それと結婚の約束もした」

 

 結婚の約束は子供の頃にしたもので成長したら忘れると思っていた。でも昔からずっとブライアンは俺のことを好きだった。

 俺はというと、そういう約束は忘れていた。2週間ぐらい前にハヤヒデから「ブライアンは結婚の約束を今でも覚えている」と言われるまで。

 

「私はお前以外の男なんて興味がないんだ。お前さえいてくれれば私はそれでいい」

 

 やばい。

 すごく、やばい。

 こんな告白をされると落ちてしまう。いや、もう落ちたも同然だが、わずかな理性が未成年と付き合うのは待てと思いとどまる。

 ハヤヒデ助けて。なんで今日だけ来るのが遅いんだ。早く来ないと俺はお前の妹と付き合ってしまうぞ!? ダイワスカーレットでもいい!

 時間稼ぎをしようと、何か話題があるか考え、気になっていたことを聞くことにした。

 

「告白って雰囲気がいいときにやると思ったんだけど」

 

 そう言うとブライアンは俺から目をそらし、今日初めてはずかしそうに頬を赤く染めた。

 美形女子なブライアンが、そんなことをするとギャップ差でかわいくてたまらない。

 

「……お前が取られそうだと思ったからだ」

「俺が?」

「そうだ。お前があの赤毛のツインテールと楽しく話をしているのを見て、心の中がもやもやした。だから告白した」

 

 嫉妬する姿なんてのは珍しく、いつもクールで何事にも気にしないで生きているものだから嬉しい。それほどに俺が大好きなんだと。

 ブライアンは俺の体を両手で抱きしめて俺の首筋へ顔を寄せてくると、耳へと優しくささやいてくる。 

 

「好きだ。昔からずっと愛している。今日はずっとお前のことだけを考えていた。大好きだ。私を大事にし、優しくしてくれるお前のことが。姉貴と同じくらいに大好きだ」

 

 俺の声にならない、嬉しさと恥ずかしさが混じった感情。かわいい妹としか思えなかった気持ちが急激に変わってしまっている。

 俺も好きだと言いたいが、それだと流れに乗っただけで嫌だ。

 きちんと自分の気持ちを整理し、ブライアンの好きなところをはっきりと言えるようになったら告白をしたい。

 そのことを今は言葉に出せないが、代わりに髪を撫でることで許して欲しい。自分の心に従うなら、思い切り抱きしめたくなるがそうしたら

 そう思いながら髪を撫でると、ブライアンは満足したような甘い声を出す。

 ブライアンにささやかれながら髪を優しく撫で続ける。そんなことをハヤヒデが練習に来るまでずっとしていた。

 理性がなくなってキスをしないように我慢しながら。



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16.グラスワンダー&エルコンドルパサー『1日を変え、人生を変える耳かきを』

 俺がひとり静かに過ごしているトレーナー室に強い雨音が聞こえてくる。

 その強さはウマ娘たちが雨天での練習をあきらめそうなほどに。

 この雨は午後2時である今だけでなく一日中降るらしく、天気予報では大雨注意報が出ている。

 こんな雨を見ているウマ娘たちは学園での授業時間中にどんなことを思うのだろうか?

 多くが残念に思いそうだが、女性ファンが多いミスターシービーは強い雨の中で傘もなく散歩していそうだし、楽しいこと探しが得意なゴールドシップは何か想像がつかないことをやっていそうだ。

 

 まぁ、自分が担当しているグラスワンダーに限っては強い雨でも練習すると言うような無茶なことはしないだろうが。

 グラスが何か言ってきても今日の練習は中止するし、トレーニング施設の使用権を獲得できなかったから部屋で筋トレかレース映像を見ることぐらいしかできない。

 新人トレーナーでグラスが初の担当である俺には、屋内で練習をするときにトレーニング施設を使える権利がないのがくやしい。

 あの先輩トレーナーたちめ。トレーナーはウマ娘の実績だけじゃなく年功序列で施設が使用できるトレーナー順番が変わるとか、脳みそ化石化しているんじゃないか。

 勤続年数でしか威圧できないから、俺みたいな25歳の若造がトレーニングしたウマ娘に負けるんだよ。新しいことに挑戦しないから変わっていく環境に対応できないのがわからないのか、じいさんたちは。

 時々、文句や苦情を言われ続けると俺が無能みたいに思うことがある。そんな時はグラスが励ましてくれたからこの2年間を今までやってこれた。

 だからこそ嫌々ながら雑用を今までやってきた。

 その恨みを晴らすときはグラスが学園を卒業して俺が自由になった時だ。

 その時には必ず仕返ししてやると恨みの感情が高ぶってくる。

 ……ダメだ。雨のせいか、気分が落ち着かなくて今まで溜まっていた怒りが頭の中でぐるぐると暴れてきてしまう。

 

 こんな時は新聞を読もう。文字を読めば、心が落ち着くに違いない。

 目元まである髪をかきあげるようにしてイライラをわずかに抑える。

 そうしたあとは即行動だ。座っていたソファーに深く腰掛け、目の前にある低いテーブルに足を放り投げてはウマ娘新聞をだらっと読み始める。

 スーツを着てこういう態勢をすると、すごくだらけた人間に見えるが人前ではできないことをするのはちょっと気分がよくなる。

 リラックスする状態になって読み始めた記事にはウマ娘のレース予想やグラビア写真、インタビューの記事が載っている。

 身長が152㎝と背が低くて胸が小さいグラスと比べると、背も胸も大きいタイキシャトルの勝負服を着た写真はとても目の保養になる。

 学園だとウマ娘たちの身体はじろじろ見ないようにしているから、こういう新聞やテレビではしっかりと胸や尻を見てしまう。

 普段の生活で、そういう部分をあまり見ないように理性で抑え込んでいる自分をすごく褒めてやりたい。

 ウマ娘とのスキンシップでグラスや妹みたいに思っているエルコンドルパサーなどの頭を撫でることはあるが、それだけだ。

 抱きしめ、手を繋いで歩くなんていう恋人に思われる、またはセクハラな行為は一切していない。

 

 ただ、グラスと仲のいいエルコンドルパサーについては何かとさわってしまうことはあるが。

 エルとの付き合いは、グラスにお願いされてエルが求めるトレーナーを探すのに付き合ったのがきっかけだ。

 それから話すことが多くなってプロレスを何度か見に行ったことがあると言ってから、エルコンドルパサーは俺にプロレスの話を振って来たり、関節技や投げ技をかけてくることがある。

 その中では軽く首を絞めてくるのがよくある。

 俺のほうが163㎝のエルよりも背が高いからか、よくジャンプして背中に乗っかってくる。

 その時にバストサイズが77のグラスと違って89と胸の大きい子だから、痛みと共に胸の柔らかさを存分に堪能してしまうのは仕方がない。

 ……このグラビアを見ていると、エルの胸の感触を思い出して少しだけムラムラとしてしまう。

 そんなことを思ってしまうから新聞をテーブルに放り投げると、棚から綿棒とティッシュペーパーを持ってくる。

 耳掃除をしようとした瞬間に授業終了のチャイムの音が天井のスピーカーから鳴り響き、それから少ししてトレーナー室に静かなノックの音が鳴る。

 俺はティッシュペーパーに綿棒を包むとドアへと顔を向けた。

 

「入っていいぞ」

「失礼します」

 

 そう声を出すと、夏仕様の制服を着て学園指定のカバンを手に持った中等部所属のグラスがほほ笑みを俺に向けながら部屋へと入ってくる。

 淡い栗色の腰まである長く美しい髪の持ち主であるグラスは、薄暗い部屋のライトをつけるとテーブルへ持っていたカバンを置いてから俺のすぐ隣へと肩を並べるようにして座ってきた。

 アクアマリンの宝石のように綺麗な色を持つ青い目で俺を見上げ、口を開く。

 

「今日の練習は何にしますか?」

「これほど強い雨で走らせたくはないから中でやる。そんな予定だったけどもトレーニングルームの使用許可がダメだった。だからレース映像とライブ映像を見て勉強をしようか。だが、その前に俺の耳掃除が終わるまで待ってくれ」

「耳掃除、私がやりましょうか?」

「自分でやるからいいよ。それに人の耳はわからないだろ?」

「本で勉強はしました」

「それは次の機会に。今はジュースでも飲んで待っていてくれ」

 

 テーブルに置いてある綿棒をじっと見て耳掃除をしたがっているグラスを無視し、綿棒で耳掃除がしやすいように少しグラスから距離を取って座り直す。

 グラスは親切にもやってくれると言ったが、耳掃除はひとりでやるのが1番いいと思っている。他の誰かに自分の耳を預けるというのはどうにも不安になるからだ。

 そうは思っても、俺はグラスの耳掃除を時々やってしまっている。まぁ、それは例外だろう。グラスがやってくれと求めてくるんだから仕方がない。

 グラスの気分が良くなるのなら、多少の勉強や耳掃除道具を買うことぐらいなんてことない。

 ……しかし、気になる。こうして自分で自分の耳掃除をしていると感じるグラスの熱い視線が。

 さっき耳掃除をやると言ったときも、普段落ち着いていているのにその時だけは情熱的な感情があった。

 グラスを気にしないようにして耳掃除を続けていると、グラスは自分のカバンを開けて中を確認したあとでソファーから立ち上がる。

 向かった先は冷蔵庫の隣にある棚で、そこからガラスコップを取り出すと冷蔵庫の中から氷を取り出して入れていく。

 次に炭酸ジュースのペットボトルを持つと、なぜかコップには注がず、コップと一緒にこっちへと持ってくる。

 

「何をしているんだ?」

「えっと……お気になさらず。トレーナーさんは耳掃除を済ませてください」

 

 声をかけると一瞬挙動不審になるグラスだが、グラスがそんな行動を取るのは初めてで何をやりたいかが全然わからない。耳や尻尾の様子を見ても怒っているわけでも不安になっているのでもないのが謎を強くしている。

 が、考えていてもわからないので言われたとおりに俺は耳掃除を進めていくとグラスはテーブルにそれらを置いてから、ステンレスのマドラーを取ってきて一緒に置く。それと椅子もひとつ持ってきてテーブルの横へ。

 その頃になると俺の耳掃除も終わり、綿棒を置いてあるティッシュで包んで片付けが終わる。

 

「終わりましたか?」

「ああ。じゃあ何のレースから見ようか」

 

 さっきと同じように隣に座ってきたグラスに行ってから自分の事務用机に置いてあるノートPCを持ってこようと立ち上がろうとするも、グラスはすぐに俺の体を押さえてソファーへと押し倒してきた。

 グラスの綺麗でさらさらとした髪が顔にかかり、近くで見るグラスの顔に見惚れてしまう。大人になれば、みんなが振り向く美人さんになると思う。それは俺が恋人として欲しくなるぐらいに。

 つい見惚れてしまったが、仰向けになった俺の上からグラスが見下ろしているのはなぜなんだ。

 

「グラス?」

「……ええと、その、今日ぐらいはゆっくりしたほうがいいかと思いまして。だからトレーナーさんはそこでゆっくり寝ていていいですよ」

「そういうのは仕事が終わってからにする」

「今ぐらいは休んでください。今は私がトレーナーさんを癒してあげたくて。仕事でストレスが溜まって胃が痛いと普段から言っているじゃないですか」

「言ってはいるが」

 

 グラスが今のように強く言ってくるのは時々あって、多くは俺の体調を心配する時だ。

 いったい何があるのかわからないが、さっきと違って耳の動きが左右ばらばらになっているのを見ると不安らしい。

 意味もないことをするわけがないから、俺は黙って従うことにする。レースや練習以外ではいつもはおしとやかなのに、真面目な顔が怖かったというわけではない。

 ……いや、ちょっとだけ怖かった。力があるウマ娘だからこそ、迫力がある。

 

「俺はどうすれば?」

「リラックスしてソファーの上で横になって目を閉じていてください」

 

 ちょっととはいえ恐怖を感じてリラックスは難しいと思いながらも、グラスが俺の上から離れてからソファーの上で仰向けになった。

 だが、グラスが何をするのか気になって目を閉じずにグラスの行動を見ていると、グラスはさきほど持ってきた氷が入ったコップをテーブルごと俺の耳元へ近づけると椅子に座って炭酸ジュースを注ぎはじめた。

 耳のすぐそばでシュワシュワと聞こえてくる音。普段から聞く機会はあるものの、こんなにも耳の近くで聞くのは初めてで気持ちよく感じている。

 

「ダメじゃないですか。目を閉じて意識を集中しないとよく感らじれませんよ?」

「何をするか気になってな」

「安心してください。変なことはしませんから」

「そこは信頼している」

「だったら目を閉じてください」

 

 と、怒った声をするも微笑みを浮かべたグラスが俺のおでこを指で軽くつついてくる。

 そんなグラスのかわいい仕草に俺も笑みが浮かび、言われたとおりに目を閉じた。

 シュワシュワと炭酸のはじけていく音、わずかに聞こえてくるグラスの吐息。

 雨音が弱まってきたらしく、今ならグラスが出す音がよくわかるようになった。

 炭酸の音が弱くなってくると、今度はステンレスのマドラーがコップに入って氷をかき混ぜていく音が。

 それらに強弱をつけられると実に心地いい音となる。

 

「これで炭酸の音は終わりです。次は私がトレーナーさんの耳掃除をします」

「さっきやったんだが?」

「そのあとの処理がまだですよ。私とっておきの道具を用意したので期待してくださいね」

 

 目を開けた俺に、グラスはうきうきとした様子で立ち上がるとドアの鍵を閉めた。

 

「グラス?」

「私たちの間に邪魔が……、ええと、集中が途切れると怪我するかもしれないので」

「邪魔が入るとダメになるのか」

「別にそういうわけではないんですけど、トレーナーさんは黙って私に身を任せていればいいんです!」

「わかった。今だけはグラスに任せる」

 

 グラスの不可解な行動と落ち着かない様子が気になっていると、ソファーに倒れている俺のところへ来ると強引に膝枕の姿勢になってくる。

 グラスのすべすべした太ももの感触や体温がいいなぁ、と感じてしまったことに対して悪いことをした気がするから起き上がろうとする。

 だが、それはできなかった。グラスが俺の頭を両手で押さえているから。

 口を開いて文句を言おうとしたものの、こういう頑固な状態になるとグラスは何も聞いてくれない。

 

「あの、動かれるとトレーナーさんを感じてしまって恥ずかしくなるのでおとなしくしていただけると……」

「それなら膝枕をやめてくれないか。俺も恥ずかしいんだが」

「いえ、やめません。今が好機なので」

 

 何が好機かわからないが、やめる気配がないグラスに全てを任せることに。

 あぁ、グラスの鍛えられた筋肉や俺の頭を撫でてくる感触がもどかしい。緊張と興奮で辛い。

 何度か俺の頭の位置を変え、満足したグラスは前かがみになってテーブルにあるバッグに手を入れる。

 その時にグラスの胸が俺の顔にあた……あたらない?

 こういう時、漫画だと胸の感触を感じて幸せ気分になれるのだが。グラスのような控えめなのではなく、大きいものがいい。具体的に言うならエルコンドルパサーのような。

 ああいう巨乳こそが正義だ。大きい胸は全人類の男たちの憧れだ!

 そう強く思っていると、言葉に出していないのにグラスが怖い笑顔で肘でぐりぐりと俺のこめかみに対してねじこんでくるので腕を軽く叩いて降参のジェスチャーをする。

 ある程度の年月を一緒にいると、考えていることが簡単にバレてしまうらしい。

 

 痛みから解放されてグラスと目を合わせると、顔は笑っているのに目が笑っていなかったのが怖かった。

 もう変なことは時々しか考えないようにしようと決めた途端、グラスは耳かき道具を取り出した。

 その道具、グラスが言っていた耳かき道具は初めて見るタイプの物だった。

 それは羽根箒のような形で1㎝と少しはある長さの毛が放射線状に広がっている。

 耳の奥にまで届くのに恐ろしさを感じ、耳を痛くするんじゃないかと怖くなった。

 グラスにやめてもらおうとしたものの、目をつむり我慢することに。グラスは俺にとって悪いことはしないだろうから。

 今までだって俺が仕事で困った時や他のウマ娘にいちゃもんをつけられている時には助けてもらったし。

 

 顔を横に向け、覚悟を決めると片手でそっと顔を押さえられて左耳に入ってきた。

 細長いそれは耳の奥側まで入っていく。

 

「耳の中には迷走神経というのがあって、そこを刺激されると気持ちがいいんですよ。わかりますか? 私が奥でごそごそしているのが」

「くすぐったい」

「それが気持ちよくて耳かきをたくさんする方がいますけど、やりすぎると病気になりますので2週間に1度ぐらいがいいと聞きました。トレーナーさんも耳かきは間隔をあけてやってくださいね」

 

 耳掃除をしているグラスが言うとおりに、毛先が耳の中にあたると背筋がぞわぞわする気持ちよさが全身を駆け巡る。

 音はごそごそとしているだけなのに耳の奥をさわられると、どうにでもしてくれと無抵抗の気持ちが出る。もっとやってくれとも。

 耳かきの知識なんてのは、気持ちよさのあまりに聞いた瞬間に記憶できず消え去ってしまう。

 

「実はこれ、トレーナーさんのために注文してカバンに入れていたんです。耳かきをしてもらっているので、私もトレーナーさんにできる日が来るかなと思いまして。

 本当はこの羽根箒タイプのではなく、ステンレスや竹製の耳かき道具を考えていたんですけど、人の耳掃除をしたことがないと怪我をさせてしまいそうなのでこれにしました」

 

 グラスの優しい気遣いに感謝はするが、素晴らしい快感が耳に集中している最中だと素直に聞くことができない。

 どうしても耳掃除をされている音に気を取られてしまって。

 

「この耳かきに使っている毛ですけど、私の尻尾の毛を使っているんです」

「グラスの尻尾?」

「はい。尻尾の根元にある毛は弾力性に優れているということなので。あ、心配しないでください。自作ではなく、お店に切り取ったのを送って作ってもらったものですから」

 

 グラス自身の毛を使っているということを聞くと、なんだか背筋が快感とは別に震えてしまう。

 自分の毛を使って、それを俺に使っている。こう、なんというか、愛が重いというように感じてしまう。

 別にグラスからは好きだ、とかそういう言葉や行為をされたことはないが。

 グラスに恋人として好かれた男は大変に違いない。愛が重く、束縛された生活を送るだろう。

 美人で性格のいいグラスにならヤンデレや束縛されてもいいか、とわずかに思う気持ちもある。

 

「細かいのを取り終わりましたので、次は反対側の耳をお願いします」

 

 耳掃除を続けてもらうために一度起き上がろうとしたものの、グラスがなぜか俺の頭を手で押さえつけてくる。

 反対側をするには起き上がって位置を変えないといけないはずなのに。

 

「そのまま顔を反対側に向けてください」

「それだとグラスのスカートに顔を突っ込んでしまうぞ。いいのか、グラスの匂いを存分に味わってしまうぞ?」

「構いませんよ? トレーナーさんにだったら、私の好きなところの匂いを感じてもらっても。……はずかしいですけど、喜んでもらえるのなら私は嬉しいです」

 

 グラスを恥ずかしくさせて手を離させようとしたのに、その意味を理解しての行動だった。

 俺とグラスはトレーナーと教え子の関係ではあるが、これはそれ以上に想われていることはわかる。グラスは優しい子だから、というだけでは片付けることはできない。

 でも俺の勘違いかもしれないために、言葉で確認することにしよう。

 

「そういうのは好きな人にやってくれ」

「好きですよ。好意でなく、愛情という意味で」

 

 顔を見上げて目を合わせると、視線をずらすグラス。

 耳と尻尾も落ち着きなく動いていることから、からかっているわけではなく本気のようだ。

 それに対して俺はどうするか決められない。

 グラスに好意を抱いてはいるが、恋愛感情かどうか考えないでいた。早くても学園を卒業近くになってから考えようとした。

 

「トレーナーさんは私のことを、どう思っていますか?」

「恋愛感情かどうかは、グラスが卒業してから考えようとしていた」

「それだと困ります。トレーナーさんに恋している子は私の他にいますから。トレーナーさんの気持ちを待っている間に奪われたくありません」

 

 俺を好きなのは他に誰がいるかということに興味はあるものの、それをグラスに聞くなんていう失礼なことは聞かない。

 考えるべきは俺が今のグラスにどういう気持ちを持ち、返事をするかだ。

 

「…………考えていいか?」

「いいですよ。私も急でしたので。それでは頭を反対向きにしてください。続きをやりますから」

 

 即答できず男らしくないと言われかねないのに、長い時間のあとに言った言葉をグラスは微笑んで許してくれた。

 だから、さっきまでは断っていたことが断りづらい。

 俺はグラスに言われたとおりに、その場で頭を反対側に向ける。

 目の前に広がる光景はグラスのスカートと、見えそうで見えないスカートの中。それといい匂いを感じる空間だ。

 

「それでは始めますよ」

 

 今から耳かきをされたら理性が持たないんじゃないかと怖がった瞬間に耳かきは始まり、さきほどよりも強い快感が。

 耳かき+グラスの体温と匂いがもう……。

 グラスのすべてに包まれているように感じ、もう耳かきをされたまま動きたくない。

 膝上も居心地がいいし、毎日30分はこうされたい。

 グラスにすべてを任せて気持ちよくなっていると、不意にグラスが手の動きを止めて俺の耳元へ顔を寄せるのを感じる。

 そして聞こえてくるのは、脳の奥へと響くような優しいささやき声だった。

 

「……トレーナーさん、好きです。大好きです。あなたのかっこいい真面目な表情、私を優しく撫でてくれる手、悪いことは悪いと言って良いときは褒めてくれる。そんなあなたが私は大好きです」

 

 気持ちのいい声と共に伝えられる愛の言葉。

 俺を褒めながら伝えてくれるそれに、心臓の鼓動は強くなってくる。

 まっすぐに好きと伝えられると、グラスに対しての感情が強くなってきてしまう。

 抑えようとしていた。俺がグラスに向ける恋心を。

 まだまだレースが続くのに、もし恋人関係になってしまったら練習で甘くしてしまうだろうから。

 だから、俺の手から離れてからにしようと考えていた。

 そんな苦悩を知ってか知らないのかはわからないが、グラスの甘いささやきは俺の理性を壊してくる。

 

「あなたと一緒の時間を増やしたいし、一緒に添い寝やご飯を食べたいです。大好きです。愛しています。どうか私の恋人になってください」

 

 グラスの手にはもう耳かき道具はいつのまにか持っていないらしく、両方の手で俺の頬や頭を撫でてくる。

 グラスの声と手によって俺の心は陥落しかけ、学生相手だけど付き合ってもいいかと思う。

 実際にトレーナーとウマ娘で付き合っている人たちもいることだし。

 俺自身もグラスに好意を持っているのを伝えようとするが、ふと思い出したことがある。

 それは恋人関係になってしまえば、俺は必ずグラスに甘くなってレースやライブの練習が甘くなってダメになるんじゃないかと。そして、それによって俺から離れていくかもしれない。

 

 グラスにやられてしまいそうになっている理性を集めると、グラスの腕を軽く叩いて仰向けの態勢になる。

 そこには顔を赤くしてうるんだ目で、俺を優しい目で見つめてくるグラスの顔があった。

 

 雨音がなくなっている今、グラスの吐息と部屋の外から聞こえるウマ娘たちの練習を始める声だけが聞こえる。

 まっすぐに想いを伝えられると、俺まで顔が赤くなってしまっているのがわかる。

 グラスをこれほど近くで見ることはあまりなく、この色っぽさがある表情を見ると子供ではなく大人に近づいていると思う。

 俺が何も返事をできないでいると、グラスがゆっくりと俺へと顔を近づけてくる。

 

「嫌だったら言ってくださいね」

 

 そう言って目を閉じたグラスの唇が近づき、俺は抵抗することなく俺も同じように目を閉じる。

 吐息の温度を感じ、そして唇に柔らかい感触がやって俺の呼吸は止められた。

 キスをした瞬間に心臓の鼓動はうるさく鳴り響き、触れた唇はとても熱く感じる。

 ついばむようなグラスのキスを受けいれていく。

 

「んっ、はぁ……んむっ……」

 

 初めてするグラスとのキス。

 軽く押し付けるだけだった不器用なキスだったが、次第になれてくると唇を吸い上げてきたり、唇の端を舌で舐め上げるといったことをしてくるようになった。

 俺の頭を抑えるグラスの手がキスをするたびに強くなり、痛みを感じるがそれ以上に気持ちよさがやってくる。

 グラスが熱心にキスをしてくるから呼吸が苦しくなり、わずかな隙を見ては口を開き酸素を求める。

 それと同時に目を開くと、目をうるませていたグラスはキスするのをやめてくれた。

 グラスは息が乱れていなく、さすがウマ娘だということに感心してしまう。

 こんな色っぽい状況なのにウマ娘の特徴を考えてしまうのはトレーナーならではの職業病だ。

 でもそれがいいことでもある。耳や尻尾の動きでグラスがどれぐらい嬉しいということがわかるから。

 

「あぁ、私、すごく幸せです。トレーナーさんとこうしてキスができるなんて」

「キスは気持ちよくなかったと言われなくて安心するよ」

 

 グラスは満ち足りた表情をし、同時にうるんだ目で俺を見つめてから再び顔を近づけてくるが、俺はおでこに手を押し当てて動きを止める。

 気持ちよくはあるが、これ以上され続けるとキスだけじゃ我慢ができなくなってしまう。

 それにここはトレセン学園の中だ。ずっと続けていたら、誰かに見つかる危険性がある。

 トレーナーと学生。青年と未成年。

 耳かきで変わっていく俺たちの関係。

 そんな関係性の恋愛はあまり褒められたものではないだろうが、恋心を持ったらどうしようもない。

 特にグラスほどのまっすぐな愛情は。

 大人になると恋愛感情だけでは恋人を作らず、その人の職業や収入などを気にするようになる。

 でも俺は純粋な好きという気持ちで恋に落ちてしまった。

 栗毛でかわいいグラスワンダーというウマ娘に。

 

 キスを通じてお互いの気持ちがわかり、恥ずかしくも嬉しい気持ちになったあとは普段どおりの練習をさせ、終わったあとはいつものように別れた。

 トレーナー室での出来事はまるでなかったかのように。

 でもそれも仕方ないかとも思う。外にいたんだから、トレーナー室でしたようにキスをするのは他のウマ娘たちに注目をされてしまう。

 だからグラスは変わらなかった。

 そんなことを寂しく思いながらトレーナー室に戻ると、キスをしたのを思い出し、それが恥ずかしくて仕事と勉強を夜遅くまでした。

 そうして夜遅くまでいると、自然と眠くなり目を閉じてしまった。

 今日は幸せな1日だと思いながら。

 

 

 ◇

 

 

 ―――温かいぬくもりと女性が使うシャンプーの甘い匂いを感じて、目を覚ます。

 ぼんやりとしながら目を開けると、そこには知らない天井が見えた。

 薄暗い明るさの中で見る、トレーナー室でも自宅でもない模様の真っ白な色をした天井。

 なんでここにいるんだ、とうまく動かない記憶をたどると、ここに来る前は机に突っ伏してトレーナー室で寝た記憶がある。

 グラスとキスしたあとはいつも通りにグラスのトレーニングをし、グラスが帰ったあとは机に向かって夜遅くまで仕事をしていた。

 なのに、なんでここにいるんだろうか。そもそもここはどこだ、と自分が下着姿でベッドに入っている状況を確認してから顔を左へ向けると、そこには愛しているグラスの眠り顔が。

 薄い青色のパジャマを着て、鼻と鼻がくっつきそうなほどに。

 それと俺の左腕を抱き枕のようにして抱き着いてきている。グラスの控えめな、けれど柔らかさを感じる。

 

 そこで気づいた。寝る時はブラをしないということを。だから、この柔らかさは刺激的だ。それもベッドの中でだ。

 ここにやってきた過程はわからないものの、ベッドに連れ込まれているというのはわかる。

 でもそれ以上に思考が進まなかった。

 なぜなら、こんなにも無防備でかわいいグラスの寝顔を見てしまったから。

 俺が愛するウマ娘。そんな彼女がこんなにも近くでいたら見るしかない。

 今までも時々はこういう距離があったものの、恋愛感情あるのとないのとじゃ大きく違う。好きになった今では緊張と興奮でドキドキする。

 

 そうして、ただただグラスの寝顔を見ていると、ふと強い視線を感じた。

 その方向へ体を向けると、そこには髪を下ろしてマスクを外しているエルコンドルパサーがいた。

 ポニーテールじゃなく、セミロングの髪型でマスクがない顔をしたエルはベッドにすっぽりと包まれていて、顔だけを出していた。

 海をイメージする深い青色の目でじとーとした様子で俺を見つめていた。

 不審者扱いされているのか!? と驚き、そこで慌てて首を動かして周囲を見渡す。

 視界に入るのは12畳ほどの広さがあるフローロングの床。本棚や化粧台に制服を掛けるハンガー、鷹が入っている鳥かごにタンスがある。それによって、ここがどこかの答えが出た。

 

 ここはウマ娘寮だ。

 トレーナーでも寮長や学校からの許可がないと入ることができない禁断の場所。緊急以外で入ると罰を与えられると前もって言われている。

 今なら言い訳のしようもない。エルとは親友のように良い関係だが、さすがにこれは訴えられても仕方がない。

 でも言い訳をさせてくれるなら、俺が知らないうちにここへ来ていたと言いたい。ここに連れてこられたと。

 それはきっとグラスだと思うが。

 だとしても、ここに来るまで俺が起きることもなく、また寮の人に気づかれないというのが気になるところだが。

 それよりも今はエルのことだ。

 できうる限り素早く彼女を説得し、何事もなかったかのように部屋から出ていきたい。

 

「あー……おはよう、エル」

「ブエナスディアス。よく眠れましたか?」

「状況はわからないがぐっすりと。だが言わせて欲しいことがひとつある」

「なんですかー?」

 

 スペイン語で挨拶をしてくれるエルだが、寝起きのためかテンションが低く、普段会っている時のハイテンションな様子が見られない。

 その低いテンションなため、物凄く責められている言葉に感じられる。

 自分の意思でここに来たわけじゃないと伝えるために起き上がろうとするも、後ろから伸びてきた手が首に巻きついてきて力任せでベッドの中へと戻された。

 

「ダメですよ、トレーナーさん。いなくなっちゃダメです」

 

 と、そう耳元で甘くささやいてきたグラスの声が。

 この様子を見ていたグラスはため息をつき、ベッドから起き上がる。

 薄い赤色のパジャマを着ていたエルは部屋のカーテンを開け、まぶしい朝日の光を部屋に入れたあとに思い切り両腕を上へと向けて背伸びをする。そうしたあと、じっと俺を見つめてきた。

 

「グラス、きちんと目を押さえていてくださいねー?」

 

 エルがそう言った途端、俺の視界はグラスの手によって暗くなった。

 慌てて手をどかそうとするがグラスの力は強く、どかすことができなかった。

 仕方なく抵抗をあきらめると、エルが言った言葉にはなにかしらの意味があると思い、グラスに目をふさがれたまま、おとしなしくすることにした。

 少しして聞こえてくる音は、エルが服を脱いでいく音だ。次にはハンガーから服を取り着ていく音が。

 視界がなくとも衣擦れの音だけが聞こえるのはなんだかドキドキする。

 

 昨日、グラスとキスをした時ほどではないが女子高生が至近距離で着替えをしているというのはなんとも刺激がある。

 これでも健全な男であるから、少しだけ興奮してしまうのが悲しい。

 エルとは女性的な意味で仲良くしているのではなく、兄と妹のような関係性だから。

 精神を落ち着けるために深呼吸をするも、つまりは女性の甘い匂いを胸いっぱいに吸うことになって落ち着くことは少ししかできなかった。

 衣擦れの音がなくなり、髪にブラシを通す音が終わると足音が近づいてくるとグラスの手が離されて首元にまた手を回されると視界が戻ってくる。

 目の前には制服を着て、マスクを着けたエルの姿があった。

 

「なんでこんな状況になったかを知っているか?」

「昨日、グラスが毛布に包まれたトレーナーさんを持ってきましたよ! あ、服を脱がせたのはグラスだから安心してくださいね!」

 

 普段どおりのテンションになったエルに元気よく教えてもらった。

 俺が知らないうちに部屋に来たわけではなく、グラスに連れてこられたのがわかって一安心だ。脱がされたというのに恥ずかしさを覚えるが。

 そうして答えを聞いたあとに疑問が出てくる。なんでその場で起こさずにわざわざ連れてきたのかということを。

 

「答えを教えてくれるか、グラス」

「あのままだと風邪を引きそうだったので連れてきただけですよ?」

「寮に連れてくるのは問題があるだろ」

「事前にエルから許可を取りましたし、寮長のヒシアマゾンさんにも。トレーナーさんの許可はありませんけど」

「同意の上で連れてきたと思ったんですが、グラスの独断でしたか……」

「それでも男がウマ娘寮の、ましてや部屋に入るのは問題だ。もしかしたら風紀委員や警察のやっかいになるかもと思って心臓に悪いんだが。……エル、朝から疲れた俺をなぐさめてくれ」

 

 そう言うとエルはいたずらっぽく笑って床に膝をつくと、俺の頭へ向けて手を伸ばしてくる。

 

「エルがいい子いい子してあげますねー?」

「―――さわらないでください」

 

 エルが手を伸ばして俺の頭にさわろうとした瞬間、グラスの低く機嫌悪そうな声によって手の動きは止まった。

 その予想外のことに固まる俺とエル。

 5秒ほど時間が経ってからエルはまた俺の頭を撫でようとするが、また同じ言葉をグラスは言った。

 そうしたあとにグラスは腕に力を入れ、俺を離さないようにして強く抱き着いてくる。

 背中に胸が強く押しつけられて小さな幸せが来るものの、グラスの低く威嚇する声で背筋が冷たくなってしまう。

 

「この人は私のです」

「えっと、でもエルのおにいちゃんみたいな人ですから、こういうスキンシップは当然で―――」

 

 エルが言い終わる前に、グラスは俺の顔を掴むと後ろから身を乗り出して目をつむりながら唇へとキスをしてきた。

 押し当てられるキス。でもそれだけじゃなく、舌を入れてこようとしたので慌ててグラスの肩を強く叩いて止めようとするもグラスは続けてくる。

 舌が入り、口の中を舐めまわされてから舌と舌がからみあう。

 甘い刺激でされるがままになっていると、エルの「うわぁ……。うわぁっ……!」と恥ずかしさと驚きが入り混じった声が聞こえる。

 お互い荒い息をしながら30秒ほどキスをすると、ようやくグラスが離れてくれた。

 俺のグラスの口の間にはつなぐように糸を引きながら。

 グラスは自身のパジャマの袖で俺の口を拭いてから自分のを拭いた。

 

「私の恋人に手を出す時は許可を取ってください」

「え、恋人!? いつからですか!?」

「昨日の夕方からですよ」

 

 幸せそうなな声を出し、赤くなった頬で俺へと頬ずりをしてくるグラス。

 さっきまでの緊張していた空気が少しゆるくなり、安心して背中に感じる胸の柔らかさをとても感じるが、もう少しボリュームが欲しいと思ってしまった。

 多くの男は大きい胸が好きなわけだが、俺と同じように思うのは当然だ。別に胸の大小で好きになったわけじゃない。

 でもちょっとだけ寂しく思うのは許して欲しい。

 まぁ、胸の感触はとても嬉しいものだが。

 恋人宣言を受けたエルの方はというと、親友であるグラスが恋人を作ったことにショックを受けたらしく、呆然とした様子で俺とグラスの顔を見比べている。

 だが、突然のことで驚いたのか不安そうに左右の耳をばらばらに動かしながらも、一呼吸してから明るい笑顔を浮かべてくれた。

 

「……そ、それはおめでたいことです! えと、その、先に食堂に行って1人分のご飯を追加してもらううに言ってきますね!!」  

「エル!」

「トレーナーさん。行ってはダメですよ」

 

 冷たい声で言ってくるグラスは俺に足をからめて動けなくしてきて、首しか動かすことができない俺は背を向けて部屋を出ていくエルを見送ることしかできなかった。

 部屋を出る時に閉めるドアの音は寂しく聞こえ、それがエルの心境と同じなんじゃないかと錯覚してしまう。

 エルがいなくなり、グラスと抱きしめられている俺は力を抜いてグラスの好きなようにさせる。

 

「女性と仲良くするな、と言うわけではありませんけど、今だけはエルに優しくしないでください」

「だが、俺はエルも大事に思っているんだ。あいつは妹みたいに仲良くしてくれて……」

「それで構いませんよ。エルはあなたの妹役。私が付き合ったと聞いてもエルが今までと同じなら、その関係性を変えないでください。エルがあなたを好きと言うのなら、その時に考えましょう」

 

 さきほどのような冷たさはなく、どことなくエルを信頼しているような声色のグラスは俺の首筋へ顔をうずめてくる。

 その言葉を聞いてグラスやエルたちは中等部で精神が幼いままだと思っていた。でも子供のようにみんな仲良しというには行かない。

 俺はエルに恋愛感情を持ってはいないが、恋人になったグラスからすれば心配だっただろう。

 だから今こうして恋人だという宣言をした。

 俺をここに連れてきたのもそういうこと……なのかはわからないが。トレーナー室で寝たのは偶然で、もし起きていたらここには来なかっただろうし。

 詳しいことはグラスに聞いたら教えてくれるかもしれないが、なんとなく連れてきた理由はわかる。だからこそ、グラスの口からは聞きたくはない。

 グラスとエルはいつまでも仲良くして欲しく、今までと変わらない関係が俺は欲しい。そして朝のうちに関係を良くできないかと悩む。

 女性同士の友情関係というのはどうにも理解ができないものの、さっきの手を叩き落すのはよくないというのはわかる。

 エルが俺に向ける感情は恋愛までは行っていないだろうし、さっきのは恋人になったばかりだからこそグラスが他の女性、エルといえども近づけたくなかったのかもしれない。

 だからこそ俺が原因で仲を悪くさせたくなく、そのためには行動をしないといけない。

 

「グラス、そろそろ着替えてくれ」

「わかりました。あ、恥ずかしいですけど、私の着替えを見ても構いませんよ?」

「俺が構う。終わったら教えてくれ」

 

 グラスは俺がそっけないことを言っても楽しそうに笑い、俺の首筋を1度手で優しく大事に撫でてから離れていく。

 背中からグラスが離れると、背中にあった温度が寂しくなりながらも俺は布団を頭からかぶってグラスの甘い匂いがする布団の中で視界をゼロにする。

 恋人関係になったとはいえ、グラスが大人になるまではプラトニックな関係でいたい。セックスはせず、キスもあまりしないという意味で。

 お互い好きでも制限をつけないと困ることになる。レースに集中させたいし、メディアが問題にしてくるからだ。

 朝飯を食ったあと、トレーナー室でそのあたりをグラスに話しておこうと考えたところで気になることがひとつ出る。

 それはグラスの匂いということだ。布団の中だからそれはたくさんあり、ムラムラまでは行かないものの気になって仕方がない。

 早く着替え終わってくれと祈りながら待ち続けていると、そっと静かに布団を持ち上げられた。

 

「次はトレーナーさんの着替えですよ」

「ん、あぁ」

 

 制服姿になったグラスは微笑みながら俺を見てくる。

 そのグラスを見ながら、俺は部屋を見回して自分のスーツを探していく。

 起きた時には気がつかなかったが、ハンガーにスーツが掛けられていた。

 すぐに着替えようとしてベッドから出ようとするも、寸前で下着姿なことに気づけた。

 男だから下着を見られてもいいとは思うものの、年頃の女の子であるグラスに俺の体なんかを見せていいのかとも思う。

 腕や足の毛は剃っていなく、人に見せられるような肉体でもない。

 1度グラスに出てもらうか? と悩んでしまう。

 

「昨日、私のベッドに入れる時に拝見しましたので今は心の準備ができているから大丈夫ですよ?」

「見苦しかっただろ。ごめんな」

「いえ、そんなことは。ただ、見ていてドキドキしただけです」

 

 ほんのり恥ずかしそうに言い、反応がそれだけなら着替えてもいいだろう。

 でも自分が知らないうちに服を脱がされたという事実はなんというか、……なんだ。言葉にできない恥ずかしさがある。

 いつもおとなしめなのに、昨日からテンションが高いグラスに振り回されているから何かいたずらがしたくなった。

 なので起き上がる時に整えられたグラスの髪を両手でぐしゃぐしゃとかき回す。

 さらさらとした髪の感触に驚き、普段の頭を撫でる感触とずいぶんと違うんだなと思いながらハンガーにあるスーツを着ていく。

 ワイシャツやネクタイは昨日の汗を吸って不快感はあるが、それも今だけの我慢だ。

 寮を出たら1度自宅に帰ってシャワーを浴びないとな。

 服を着たあとにネクタイを結ぼうとしていると、乱れた髪を直したグラスが楽しそうに俺へと近づきたくなる。

 

「あの、私にネクタイを結ばせてくれませんか?」

「できるのか?」

「動画で何度も見ただけですけど。本当は練習をしていればよかったんですけど、付き合っている相手もいないのに練習するのは変に思われるなと思って」

「飯を食って寮を出たあとは1度家に帰るから短時間しか着けれないぞ」

「はい、それで充分です」

 

 グラスが俺のすぐ前に来ては、首にかけただけのネクタイに手を伸ばして結び始めていく。

 でもすぐにはできなかった。初めてのネクタイに、身長差もあって結びづらいから。

 結んでくれるのを待つ間、これから寮の食堂へ行ったときに他のウマ娘になんでいるのかという言い訳を考える。

 ―――そんなことを考え始めて10分が経った。

 不格好ながらも結べてはいるが、綺麗にできていないのが我慢できずに何度もやり直している。

 その負けず嫌いの精神はとても好きだが、このままだと長い間部屋から出られなくなってしまう。

 

「それでいいよ、グラス」

「でも私は綺麗に結びたいんです」

「今はこれでいい。次までに練習をすればいい」

「……また結ばせてくれるんですか?」

「ベッドに誘拐しないなら、機会があった時に結んでもいいさ」

「そっけないけど、時々私に優しくしてくれるあなたが好きですよ」

「ありがとう。そう言葉に言ってくれるグラスが俺も好きだ」

 

 俺の言葉で照れているグラスはかわいい。元からかわいかったが、関係性が変わった今は好きだという言葉がお互い普通に言えることができるから新しい一面を発見できた。

 それと恋人になったが普段とあまり変わらない関係性に落ち着くようで嬉しい。

 急にいちゃいちゃされる、べたべたされる、恋人だからということでわがままを言わないのは助かる。

 いや、同意もなくベッドに連れてこられたのはわがままになるか?

 グラスとの付き合い方についてはトレーナー室で話し合うから、その時だ。

 あまり行きたくはないが、今は寮の食堂に行かないとな。

 エルが俺たちのご飯を用意しているだろうから。

 

 部屋を出ようとするときにグラスが手を恋人繋ぎで握ってくるが、それを許した。ただし、部屋を出るまでという5秒ほどのごく短い時間だが。

 それがいたく不満だったようで、食堂に行くまでグラスに尻尾でぺちぺちと足を叩かれ続ける。すれ違い、または一緒の方向へ行くウマ娘たちにはすごく不審がられて居心地が悪かった。

 食堂に行ってもそれは続き、入った瞬間には楽しく会話しいていた子たちの多くがはじめは不審の目で。次第にグラスがしている意味がわかったのか、好奇心できらきらとした目で見てきて注目の的になるのは落ち着かなくて居心地が少し悪くなる。

 彼女たちの頭の中ではいったいどういう関係性に見えるか気になってしまう。

 

 でもグラスはそれを気にせず、ご飯を確保して席を取っていたエルのところへ行く。

 俺もその後を追いってエルが座って待っているところへ近づいた。

 するとエルは気を利かせたのか、グラスが尻尾で俺の体を機嫌良くさわり続けているのを見ると朝食が載っているお盆を持ってどこかへ行こうとする。

 

「一緒に飯を食うぞ」

「でもエルは2人の邪魔をしたくはなくて……」

「俺はエルと一緒に飯を食いたいんだ。昨日までは仲良くしてくれたのに、一方的に冷たくするのはひどいと思うが?」

 

 エルは不安そうにグラスを見るが、グラスはエルと目を合わせて微笑むと先に座った。

 朝のようにグラスがエルを拒否するかと心配したが、やはりグラスとエルは親友で起きた時にあった一件はちょっと独占欲があふれてしまっただけだろう。

 グラスは負けず嫌いではあるが、とても優しい心を持つ子だから。

 エルは立ったまま悩んでいるが、俺が座ってエルを見つめると、仕方なくといった様子でグラスの隣へと座った。俺はふたりが座るグラスの向かい側の席だ。

 そうして3人で食べ始める朝ごはん。

 ウマ娘専用の寮に朝から男の俺がいるからか、周囲からの視線を感じながら食べて始める。

 今日の朝食は米に鮭、納豆や生卵に味噌汁という和食だ。それに追加して量の多い肉炒めが。

 人の身でウマ娘と同じメニューや量は辛くもある。

 なので、朝に悪いことをした謝罪とエルとも仲良くしたいという意味を込めて肉を皿ごと渡す。

 

「エル、これをやる」

「私も半分あげますよ、エル」

 

 俺とグラスから肉を渡されて、エルの肉炒めは超大盛になった。

 急に増えたことに困惑したが、そこはウマ娘。好きな肉が増えたことで喜んでいるのが耳の動きでわかる。

 

「あの、私に気を遣わなくても―――」

「食べ始めないと取り上げるぞ。5、4、3……食べたか。それでいいんだ」

 

 プロレス好きなエルに対して俺がカウントを取り始めると、即座に反応して食べ始めた。

 エルが食べ始めるのを見てから、俺とグラスは自然に目を合わせて微笑みあい、ご飯をゆっくりと食べ始める。

 食べながら俺たちは雑談をし、朝のことがなかったかのようにエルとグラスは楽しく話をしている。だが、聞いている方は恥ずかしいというか、穴があったら隠れたい心境だ。

 なぜなら話題が俺とグラスが付き合うにいたった過程だからだ。それにグラスが俺のどういうところか好きな部分を。

 他のテーブルに座っているウマ娘たちは、俺たちの方を見てはいないが耳がこっちへはっきりと向いているのは見てわかる。

 ……どうかウマ娘たちの間で、変な噂話ができないで欲しいと願う。俺が強引に迫ったというようなことが。

 

 話題には心配しまくりだが、グラスとエルが楽しそうに笑いあう姿を見ると実に安心する。

 話の内容は、朝だけは独占したかったことの説明と謝罪、それと俺のことをいい男だとか私1人にはもったいないなんてことを。

 俺とグラスが付き合い始めたのがきっかけで、2人の友情にヒビが入ったなんてことになったら俺は物凄く後悔をするだろう。

 だから、仲良く話している様子ならグラスと健全なお付き合いをしつつ、今までどおりエルと一緒に遊べる。

 グラスが先にご飯を食べ終わり、次に俺、エルの順番に。全員が食べ終わったあとは、すぐに片付けて自室へ戻るのかと思うとエルが勢いよく立ち上がり俺をにらむかのような目つきで見てきた。

 ただ事ではなさそうな気配を感じた周囲の視線が集中し、食堂が静かになったところでエルは机に両手を叩きつけるように置くと、尻尾をピンと持ち上げて耳をまっすぐに俺へ向けては身を乗り出して近づいてくる。

 

「あの、トレーナーさん、好きです! 私を2番目の恋人にしてください!!」

「…………恋人?」

「はい! グラスの話を聞いてわかったんです。兄みたいだと思っていた今までの気持ちは、恋心だったと言うことを!」

 

 きらきらとした目で勢いよく語るエルに、俺はどう反応していいか困っている。

 昨日恋人としてグラスと付き合い始めたのに、これだと俺から恋人を奪おうとしている女と思われるんじゃないか、おい。

 せっかくグラスとエルの関係を今まで通りにしたいと思っているというのに! それにエルのことは妹同然という意識だから告白をされても困る。

 あと、ここでグラスと付き合ったのがバレたじゃないか。周囲の静かすぎる沈黙が怖い。食堂の厨房ですら調理する音が止まっているんだ。

 こっそりグラスの方を見ると、グラスはエルを見て怒っ……てはいない。気分良さそうにしている。グラスが何を思っているのかはわからなく、どうすればいいか聞きたくなる。

 だが、この状況で答えないでいると情けない男なってしまう。ここでどう答えても正解はないとしても。だから覚悟を決めて振ろう。

 そう思って口を開いた途端、エルは机から離れると晴れ晴れとした様子で、けどすごく恥ずかしそうだ。

 

「もやもやとした気持ちがすっきりしてもう、幸せデース! だからエルのことを、その、グラスと一緒に……」

 

 俺がエルの目をじっと見つめると、エルは俺から目をそらして穏やかな表情をするグラスを見てから、思い切り顔を赤くする。

 グラスが何か言おうとした瞬間、エルは勢いよく食堂から走って出ていった。

 周囲からの黄色い歓声を背に受け、今まで見た中で1番を争うほどのスタートダッシュの良さで。

 その走りに見惚れてしまったものの、ここからどうすればいいんだ、俺は。

 

「追いかけてください。そしてトレーナーさんは私と同じようにエルから耳かきをしてもらうといいですよ。あなたの隣に私だけがいるのは寂しいですから」

 

 グラスの言葉を聞いた周囲はそれがどういった意味を持つ言葉かわからないだろう。いや、後半はわかると思うが前半はわからない。

 俺がグラスと付き合うきっかけになった耳かきのことを。

 その意味がどういう意味を持つかまでは聞かない。きっと俺とグラスは分かり合えている。

 

「行ってくる」

「私の大切な親友をお願いしますね」

 

 手を優雅に振るグラスを見ながら、エルは大事な子だから話をきちんと聞いてあげよう。

 グラスからは2人目の恋人にしてもいいよ、と許可はもらったが話し合いをしてからだ。

 いつも自信たっぷりだけど、焦る姿がかわいいエルを捕まえるために俺は食堂を出ていく。

 エルが出ていった時と同じくらいに黄色い声援を受けて。




全力で書くとこういう感じに。


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17.ゴールドシチー『ゴールドシチーという名前の女の子』

 よく晴れた日の6月下旬。

 段々と夏が近づき、気温も30度近くなってくる太陽に文句を言いつつ、俺は自転車で高校に向かう途中にコンビニへと寄る。

 目的は昼に食べる弁当と、今日発売の女性向けファッション雑誌。

 よく行くコンビニのためか、会計の時に店員になんでこんなのを買うんだと一瞬だけ不思議がられたが必要な買い物なんだ。

 この雑誌には幼馴染で、今はトレセン学園にいるゴールドシチーがモデルとしてインタビュー記事があるから。

 買った雑誌を通学カバンに入れると、昼休みに読むまでの時間が楽しみだ。

 こんなにも楽しみな理由は、俺がシチーに片想いをしているから。

 

 幼稚園から中学まではずっと一緒に過ごしてきた。

 お互いの家へ入り浸り、何をするにも仲が良くて。友達たちにからかわれて一時期距離を置いてしまうことがあったものの、親友といった関係になっていた。

 関係が変わったのは中学が終わってから。

 俺は地元東京の高校へ行き、シチーは同じ都内のトレセン学園へ。

 中学の時からモデルとして活躍していたが、それだけでなくウマ娘だからこそ走る自分を見てもらいたいと希望に満ちた顔で言っていた。

 

 今までずっといたシチーと離れて1年と少し。

 高校2年生となってから、恋愛感情としてシチーが好きだという気持ちに気づいた。彼女を好きになった理由は長年一緒に育ってきたせいなのか、一緒にいると落ち着くから。

 今まで一緒にいたのに、離れてから大事なのは何かということに気づいた自分自身をバカにする。

 恋愛感情に気づいてからはずっと気持ちが重く、どうすればいいのかと悩む。

 シチーは仕事とトレーニング、それとレースで忙しくて会うのは長期休みの時だけ。

 あとはスマホでテレビ電話をするぐらいに。

 

 それしか接する機会がなくて寂しく、1日ずっと一緒にいた昔のことがひどく遠くに感じてしまう。

 シチーのほうは寂しいのかはわからない。

 あいつはいつだって自分の感情を隠すのが上手で、言ってくれないと俺はわからなかった。

 ウマ娘は尻尾と耳で感情がわかるものだが、大事な話になるとシチーは俺の背中におおいかぶさってくっついてきては尻尾や耳の様子を見せてくれなかった。

 時には背中合わせやすぐ隣にいることも。そういうのが小学校の終わり頃からはじまった。

 

 でも感情がわからなくても、一緒にいてくれることから、俺のことを悪く思っていないことはわかった。

 時々会う今でも昔と同じようにしてくるし。

 だから会えない寂しさをごまかすために、俺はシチーが出ている雑誌を全部買い、テレビCMは何度も見た。

 

 そのことを言ったら『全部見ているの? マメだね、マサキも』とめんどくさげに言っていたが俺の名前を呼びながら喜んでくれていた。

 ストーカーなの、と言われなくて安心し、今は堂々と自信を持ってシチーのおっかけをしている。

 昼飯を食べたあとに、暑いせいか屋上で誰もいなく1人静かに見ている今も。

 だが、雑誌のインタビュー記事にはシチーが恋人にしたいタイプを語っていた。

 それが俺とは違うものだった。

 内容は年上で頼りがいがあり、アタシの中身を見てくれる人が好みの男性だと。

 

 片想いしているからこそ、このインタビュー記事は心にぐっさりと深く刺さる。あまりにも気になって睡眠時間が減りそうなほどに。

 俺とシチーは同い年で、シチーからは俺のことを頼りがいがないと言っていた。

 過去にも『アタシが見てないと1人暮らしできないほどにマサキはダメ人間になりそうよね』と小さく笑みを浮かべてのため息つきで。

 近頃はシチーのことを考えると、どうやってシチーに喜んでもらおうかと考えることが多い。

 

 だが、このままだと次に会ったときに接しづらく、こうやって落ち込んで何もしないままでは後悔する。

 振られるなら堂々と言葉をかけてこそだ。このまま想いを抱えていくと、ことあるごとにシチーのことばかりを考えてダメになる。

 思ったが吉日。勢いがある今こそ俺はスマホを手に取ってシチーへとテレビ電話をかける。

 事前連絡もなしに唐突なのは悪いとコール中に気づいたものの、もう遅い!

 

 でもコール中に弱気になり、シチーには告白ではなく俺に恋心を持っているかを聞くことへと変えた。

 時々シチーに電話をかけるときは気楽できるが、今だけは心臓が強い鼓動を立て、緊張しまくりだ。

 そうして電話が終わったら甘いものをたくさん食べようと考えていると、穏やかな笑みを浮かべたシチーがスマホの画面へと写る。

 

「今、大丈夫だったか?」

『ご飯食べてる途中だけど、マサキからの電話なら大体大丈夫よ』

 

 画面の向こうに見えるのは食堂らしく、シチーの背景にはテーブルに乗った超々大盛りのご飯やそれを食べる灰色のウマ娘の姿なんかがあった。

 不思議そうに俺を見てくるシチーの姿は胸元から耳の先近くまで見える。

 プラチナブロンドの髪に、宝石のアクアマリンのような薄青色の綺麗な目。

 100年に1人の美少女ウマ娘と言われるほどの美人な幼馴染の姿を見て深呼吸をしてから言葉を言う。

 

「少しだけ大事な話をしたいんだけど、いいか? 一言を言うだけの時間だけ欲しい」

『ちょっと待って。ジョーダン、電話が終わるまで静かにして欲しいんだけど』

『おっけーい!』

 

 一緒に食事を食べているらしい子に話しかけて元気な返事をもらったシチーは、画面の角度を変えてウマ耳を見えなくした。

 

『いいよ。なんでも言って』

「……その、好きな人ができたんだ。まだ片想いだが」

『は?』

 

 シチーを見てから言葉がうまく出ず、なぜか片想いしているということを言った。

 いや、嘘ではないんだけど。シチーのことを好きなのは本当だから。

 片想いと言っただけでシチーが不機嫌になったが、どういった意味になるんだろうか。

 これが俺に嫉妬してくれるんだったら嬉しいなと思いながら無表情になったシチーに話を続けていく。

 

「すぐにではないけど、近いうちに告白をしようと思って。それでシチーに背中を押してもら―――」

『やめたほうがいいんじゃない? それ、本当に好きって感情なの? 高校生の自由なうちに恋愛をやっとけとかの言葉もあるけどそういう感じ?』

 

 俺の言葉をさえぎり、低い声をして早口で言ってくる。

 その勢いと迫力に負けて何も言えないでいると、シチーは言葉を続ける。

 

『そうだったらやめたほうがいいと思う。時間は無限にあるわけじゃないし、もっと自分のことや周囲のことを考えてみれば?』

「あー、恋愛ってそんなもんか? 別に一目惚れってわけでもないんだが」

『そういうもんでしょ。付き合ってから好きになるってのもあるけど、マサキはそういうのじゃなくて仲のいい友達から恋人に変わっていくほうがいいと思うけど』

 

 以前シチーはモデル仲間やマネージャー。あとトレーナーの人から恋愛話を聞き、他の人が恋愛している姿をよく見ていると去年の12月に会ったときに言っていた。

 あの時はプレゼントの値段じゃなくて一緒にいてくれることをありがたく思えばいいのに、とつまらなさそうに言っていたのを覚えている。

 それにしてもここまで話をしてもシチーが嫉妬しているのか、恋愛嫌いなのか、助言をしてくれているのかがわからない。

 

『……それで、マサキが好きな子はどんな子。ウマ娘?』

「ん、あぁ。好きな子はウマ娘なんだ。同い年の」

『私のほうが美人で足が速い』

 

 強くはっきりした言葉で言われると、さっきまで説教モードだったのに今はわからないけど怒っているようだ。

 

「見た目がよかったから好きになったんじゃなくて、性格なんだけど。落ち込みやすい子だから、一緒にいてあげなきゃと思って」

 

 小学生の頃から俺は朝にシチーの家まで言って彼女を起こしてから学校へ行くのが基本だった。

 周囲が思春期になってきた時には、見た目が綺麗だから告白してくる奴なんて最低と落ちこむシチーのいう愚痴も聞いた。

 一緒に化粧も探し、服や下着を買いに行くときにも。

 男性目線も意識しなきゃいけないから、俺が気にいる服はどれかと聞き、言ったらすぐに買っていた。

 昔のことを思い出しながら、シチーが好きなのは見た目が理由じゃないと改めて思う。

 美人なのはいいことだけど。シチーがモデルの仕事を取った時は自分のことのように喜んでいた。

 

 

「それでシチーには応援してもらいたくて」

『アタシさ、いったん考えろって言ったばかりだけど』

 

 はじめはシチーの気持ちを知りたくて電話したが、こうも俺の恋愛感情に文句を言われると段々いらだってくる。

 なんでこうもシチーに怒られないといけないんだ。怒っている理由がよくわからないし。俺がシチーのことを好きだという気持ちは知られていないとはいえ。

 だからといって、ここで反発して暴言を言ってしまうのはよくない。

 そうなる前に電話をやめようとした途端、シチーの背後にこっそりと現れたのは、黒髪のツインテールでギャルなウマ娘が手に手鏡を持ってやってきた。

 

 手鏡に写っていたのは、シチーによって隠されたウマ耳。

 その耳は怒って耳を後ろへとしぼっているのではなく、左右の耳がくるくると動かしている時だった。

 それが意味するのは不安だ。

 今までの強気な言葉とは違って、心の中ではそうではなかったらしい。

 その様子がわかると気持ちを落ち着けることができる。 

 

「ありがと、後ろの子。おかげで落ち着けたよ」

『あたし、いいことしたっしょ。今度会ったらカフェでおごってー』

「約束する」

『あんた何言って―――、ちょっとジョーダン!?』

 

 そう言ったシチーは勢いよくスマホをテーブルへと叩きつけるように置き、画面がまっくらになる。

 そして聞こえてくる声は、シチーがジョーダンと呼ばれた子を怒鳴りつけている。

 

『ジョーダン! やっていいことと悪いことがあると思うんだけど!?』

『あたし的には感謝して欲しいっつーか。だって電話の相手、いつも好き好き言っている男の子でしょ? ケンカするのを止めたあたしを褒めるべきじゃん?』

『違うし。マサキのことなんてなんとも思ってないし。好きってのは人してという意味だし。恋愛とかじゃなくて。てか、そもそもそんな言ってないし、なんとも思ってない』

『えー、そうかなぁ? 恋バナするとシチーはいつもマサキのほうがって言ってるじゃん』

『言ってない!!』

 

 と、俺のことに関する話が始まっていく

 詳細を聞きたかったものの、すぐに話題はレースの練習内容やテスト結果になっていってヒートアップしていく。

 一言言って終わる予定だったのに、こんなにもシチーに注意されるなんて。

 ……シチーは綺麗系な子だけど、ジョーダンって呼ばれていた子は可愛い系だったな。

 

「あー、切るからな?」

 

 と、そんなことを言ってから電話を切った。切る瞬間までふたりの言い合う声がしているから、俺の声は聞こえていないんだろうな。

 そうしてから、深いため息を。

 シチーの照れ隠しの気配は感じれなかった。でも俺の好きだという気持ちは変わらない。むしろ決心がついたほどだ。

 

 7月はじめである来週にはシチーがこっちに戻ってくると前々から言っていたから、その時に告白するための心構えを作って置こうと強く誓う。

 振られて関係がぎごちなくなったとしても少しの時間があれば、元通りになるだろと前向きに考えながら。

 もしくは告白してもシチーにからかわれて普通な関係のままかもしれないし。

 ……よし、明日は東京レース場に行ってウマ娘を見よう。

 この落ち込んだ気分を変えるために。朝早く行き、レースが終わる夕方までの1日をレース場で過ごそう。

 そう決意したが、残りの授業はシチーとの電話した記憶がずっと思い出してしまい集中できずに終わった。

 自宅のマンションへ帰ってからシチーに電話しようと思ったが、言いたいことは言えたし、続きは会ったときでもいいだろう。

 電話のあともシチーから何も連絡がなかったし。

 寝るまでは今まで買ったシチーが出ている雑誌を読んでいき、シチーのことを「好きだ」と言いながら眠りについた。

 

 ◇

 

 翌朝の土曜日はスマホのアラームで朝7時に起きると、母親が作ってくれたご飯を食べると着替えるために部屋へ戻った。

 普段はそれほど着る服を気にしないが、今日だけはデートに行くぐらいの気合を入れて服を選んで着る。

 

 それほど気合を入れる理由としては、精神的ストレスを解消するためだ。

 気に入ったウマ娘のライブを全力で応援するからには、綺麗な姿で行きたいから。

 肌や顔、髪の手入れを洗面台でしたあとに、もう1度部屋へ戻ってバッグに入れる荷物を準備していると、朝早くからチャイムの呼び出し音が聞こえる。

 それに気づいた母親が廊下を小走りで行く足音が聞こえる。

 壁越しには母親が誰かはわからないが親しく話しているみたいだ。

 それからすぐに俺の部屋にノックの音がされる。

 でもそれは母親のではなく、聞き慣れたシチーのノック音。

 

 ……さすがにシチーじゃないだろ。シチーが長期の休み以外で来たことはないし、そもそも今は朝の8時だ。起床難のシチーが起きれるはずもないし、朝のトレーニングをさぼるわけもない。

 だとすると一体誰だ。シチーママ?

 誰が来たか不審に思いながら、ドアに近づくと静かにドアノブを回して開けた。

 そこにいたのは耳を後ろへと絞って怒っているシチーだ。

 シチーはトレセン学園の制服を着ていて、呆然としている俺を押しのけて部屋へ入ってくる。

 そしてドアと鍵を閉める。

 

「おはよ、マサキ」

「なんでいるんだよ」

「昨日あんな電話をされたら心配して来るに決まってるでしょ。それともアタシが来ると何かマズいことでもあった? 出かける準備をしているようだけど」

「……マズいことはないし、1人で遊びに行こうと思っていただけだ。それと驚いたのはシチーが朝に起きていたから」

「アタシだって朝練があれば、10回に1回は早く起きることだってあるし。特に今日はマサキに会いたくて早起きしたから」

「トレーニングは?」

「サボった。マサキのほうが大事」

 

 シチーはそう言ってから俺の頭から足の先を見ると、不満そうな顔で俺の手を掴んでくる。

 そうして引っ張られた先は俺のベッドだ。

 シチーが先に座ると俺も横へと座らされる。

 肩がくっつくほどの近さで、シチーは俺の顔をまっすぐに見てくる。

 

「それで好きな人は誰なのよ」

「なんだ、俺に恋人ができたら寂しいか?」

「は? バッカじゃないの。別に寂しくないし。ただ、あんたがどっかの変な女に引っかかると夢見が悪くなるだけだから」

 

 シチーをからかうように返事をした俺だが、この言葉にシチーは顔を赤くすることもなかった。

 こんなくっつくような距離にいるのに、異性として思われていないことに落ち込む。

 でも昨日、突然電話したのに次の日にはこうやって来てくれるのが嬉しい。

 異性としてはダメそうだから、もう告白して好きという恋愛感情を抑えるために楽になるか。

 この様子なら振られても少し時間が経てば、いつものような親友関係に戻れるだろうから。

 

「ほら、アタシがわざわざ来たんだから、素直に言って」

「好きな相手を?」

「そう。名前と外見を教えて。トレセン学園の子だったら、何のレースを見て好きになったかも」

「なんか俺の姉みたいだな」

「実際そうでしょ。アタシのほうが1か月早く生まれてるし」

 

 1カ月差は同い年じゃないのかという疑問はあったが、自信がある小さい笑みを浮かべたシチーに俺は深呼吸をしてから言うことに決めた。

 

「好きな子の名前はゴールドシチーって言うんだ」

「……アタシ?」

「太陽が当たるときらきらと輝く金色の髪を持っていて、目はアクアマリンのように美しいんだ。顔は綺麗なのは当然だけど。

「や、ちょ、ちょっと待って、待ってってば!」

 

 慌てて俺の口を両手でふさいでこようとするシチーの手を掴み、けれど力負けして押し倒される形となったけど俺は言葉を続ける。

 

「シチーの走る姿が好きになったのは小学3年生の運動会。あの時からシチーの走る姿が好きになったんだ」

 

 俺の体の上に乗っているシチーは態勢を立て直し、でもそれは俺の頭の両脇へと手をついて抑え込むような態勢になってしまっている。

 こういう迫られるシチュは初めてで、ちょっとドキドキしている。

 

「そしてなにより、俺の悩み事は昨日のように突然でも聞いてくれるのが嬉しい。心配して駆けつけてくれた時は昔から毎回ときめいていた」

「……そんなにアタシのことを好きなのに、なんで突然昨日のようなことを言ったのよ」

「昨日読んだ雑誌の記事で、シチーが年上で頼りがいがある男が好みだと書いてあった。だから告白して振られようと思って電話した」

「それは男の好みなだけで、マサキのことを嫌いって言ってないでしょ」

 

 シチーは俺の目をまっすぐに見つめ、倒れている俺の手に手を絡めてくる。

 それはいわゆる恋人繋ぎというやつで。

 

「自分でもアタシが面倒な女だとわかっている。寝坊はするし、昔から仲がいい女の子には嫉妬してた。一時期、アタシが綺麗だからって男共が群がっていても普段と態度が変わらなくて安心した」

「シチーはシチーだから、美人になって普段と態度を変えるのもおかしいだろ」

「それをしてくれるのはいないのよ。みんなアタシの見た目しか見てくれない。レースでも走る姿だけ。練習を頑張っているな、とかそんなのはない。ファン稼ぎのために走っているとバカにされることもある」

「昔から変わらなくて、アタシが甘えることができるのは1人しかいない。……ムードもないけど言うから。アタシはマサキのことが好きだってことを」

「……それは恋心で?」

「そう。だからアタシたちは両想い。今からマジの恋人関係になったってこと」

 

 俺が今の状況に信じられないでいると、シチーは深く大きなため息をついた。

 そして小声で「言っちゃった。もっとロマンチックな告白をしたかったのに」と顔を赤くして恥ずかしがっていた。

 そうされるとシチーの迫力に圧倒されていた心が落ち着き、告白して両想いになったという実感が沸き上がってくる。

 

「これからどうしよっか」

「シチーはトレーニングがあるだろ?」

「あとでトレーナーにごめんって言っておく。本当なら来週の夏休みに戻ってくるけど、今日はいつもやっているようにいちゃいちゃしよ?」

「いつも?」

「アタシがマサキの背中におおいかぶさってアンタに甘えるのを。これ、やり始めた頃から好きだったんだよ?」

 

 親友として心を許してくれていることの表現だと思っていた。でも小学校の終わり頃から始まったそれは俺への愛情表現だったらしい。

 シチーの行動の意味を理解していたつもりだったのに、できていなかったのにちょっとだけ落ち込んでしまう。

 

「これからはシチーのことをもっと理解するようにするよ」

「ん、そうして」

 

 その言葉を最後に、俺とシチーはお互いを抱きしめあった。それを長時間やったあとは俺の母さんが作った料理を一緒に食べ、恋人繋ぎで外を歩いて散歩をする。

 

「あー、やばい。こんだけ幸せだと帰りたくない……」

「今度は俺が寮まで会いに行こうか?」

「それはダメ。ジョーダンやヘリオスがからかってくるから。あとアタシの彼氏を見せたくない」

「シチーの友達となら仲良くできると思う」

「だから嫌なんだってば。もしマサキが惚れたらどうしよかって。あとその逆も」

 

 不満と嫉妬が入り混じった声と表情を見せてくれたことに嬉しく、シチーがすごく可愛い。

 

「友達として好きになることはあると思うけど、恋人としてはシチーが1番だよ」

「本当に? アタシが1番?」

「ああ。シチーがいなくなると人生はきっとつまらなくなる。例えるなら、弁当に唐揚げが入っていないぐらいに」

「アタシは食べ物じゃないっての。……待って。その、そういう、あっちの意味で食べたいってこと?」

「違う! そうじゃなくてシチーがいなくて寂しいってことだ!」

「そう。ふーん、そうなんだ。アタシがいないとダメなんだ?」

 

 急に勝ち誇ったように、にやにやとした笑顔で見てくると勝負に負けたようで反応に困る。

 でもそんなシチーが好きだ。

 惚れたほうが負けという言葉があるけど、こういうシチーの一面が見られれるなら負け続けてもいいと思う。

 そうして、俺たちは今までと変わらない関係で付き合い始め、けれど変わっていく関係を始めた。



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18.カレンチャン(百合)『カレンの声と息遣いは天使のような』

弱めの百合。


 トレーナーとは頭を使い、体力を使う仕事だ。

 レースメニューを考え、ダンスやボイスレッスンをする。ライブ関係のレッスンは他の人に任せることがあるけども。

 でも今の私が強い筋肉痛に悩まされているのは、昨日カレンと一緒にダートコースを走るという運動をしてしまったからだ。

 32歳にもなると、筋肉が固くなり体力もなくなる。それには男も女も関係ない。

 いや、女のほうが疲れやすいかもしれない。

 男と違って身だしなみに気を遣い、生理がある時なんかは生きるのに毎回絶望するから。

 髪のケアをするのは面倒なため、肩に少しかかるぐらいの黒髪セミロング。普段からジャージですっぴんという女を捨てている私。

 背は162㎝とぼちぼち高いから、化粧をしていないとそれが強調されてしまうけど。

 そんな楽なスタイルで、倒れているのはトレーナー室の中。

 

 その部屋にある3人掛けのソファーで小柄な体を横にして仰向けにしている。

 ぼぅっとしていると、開けた窓から夏が近づいてくる柔らかい風と共にトレセン学園のチャイム音が入ってきて、少ししてトレーニングをするウマ娘の声が聞こえてくる。

 聞こえ始めたと同時にトレーナー室の声が開き、私の担当ウマ娘であるカレンが入ってきた。

 

「やっほー、お姉ちゃん。元気してる?」

「……アルコールが欲しい」

「お酒に逃げちゃうと、男の人も逃げちゃうよ?」

「私にはカレンがいるからいい……」

 

 元気なカレンに疲れた声を向けて顔をあげると、困ったように笑顔を浮かべて半袖のトレセン学園制服を着て手にはバッグを持っているカレンがやってきた。

 灰色の明るい髪色、左耳に赤いリボンがついた耳カバー付きの黒いカチューシャ。

 小悪魔的、と言いたくなる笑みや行動、言葉。それらがリアルとSNS上でとても人気があるのが私の教え子。

 今年で3年目となり、出会った時のように身だしなみやだらけた姿を見せれるほど信頼できている。

 カレンのほうはいつもきっちりしているけど。1度だらけてしまうと、いい表情の自分になれないからと。

 

「また仕事を押し付けられちゃった?」

「んー、昨日カレンと走ったから」

「ごめんね? でも私はお姉ちゃんと走れて嬉しかったよ?」

「この魔性の女め」

 

 私の頭のすぐ隣に座ってきたカレンの顔に手を伸ばし、いつでも私が喜ぶことを言ってくれるカレンが可愛く、照れ隠しでほっぺたをツンツンする。

 カレンは私にされるがままになり、私がつつくのをやめるまで何もしないでくれていた。

 と、言ってもつつくのは10秒で終わった。

 筋肉痛に耐えながらやるのは腕が痛いから。あぁ、若さが欲しい。若さがあれば、すっぴんでもお肌を気にしないでいられるのに。

 あ、でも前にそんなことを言ったらカレンにあきれた表情をされるから、言葉にはしないようにしている。

 若くても普段からケアをしていないと若さがあってもダメになると言われたから。

 

「今日は練習をお休みにして、お姉ちゃんを癒してもいい?」

「癒す?」

「そうっ! ほら、これ!」

 

 カレンは持っていたバッグから取り出したのは、耳かきの道具である白い綿棒が入っている円柱のケース。

 

「お姉ちゃんが横になっているし、このまま私の膝枕で優しくしてあげる」

「32歳にもなって耳かきをしてもらうのは恥ずかしいんだけど?」

「いつもジャージですっぴんな人が言っても説得力はないと思うんだけど、私のお姉ちゃん?」

 

 カレンは小さくため息をつきながら、私の頭を自身の膝へと乗せてくる。

 私はカレンの言葉に心が痛み、動くことができなくてされるがままになった。

 トレーニングはあとでやることにして、今だけはカレンの優しさに甘えることにしよう。

 カレンの張りがある太ももに乗った頭は、人肌のぬくもりと太もものやわらかい感触。それとほんのりと甘い香りがして心が落ち着いてくる。

 これは気分が落ち着くなぁと思ったのは一瞬だけ。近い距離でカレンと見つめあい、さらには私と同じぐらいの大きくもなく小さくもない胸が見えた。

 同性でありながら、なぜかドキドキとして、カレンはこんなにかわいい子だっけかと思ってしまう。

 

「顔、横向きにして欲しいなぁ。耳かきのやり方を勉強したけど、カレン、正面からできなくて」

「あ、ごめんね」

 

 困っているカレンに私は慌ててカレンの体を見ない、反対側へと顔を横へと向ける。

 

「最初は左耳からね。動かないでねー?」

 

 耳に入った綿棒は、しょりしょり、といった音と感触で耳の入り口を撫でるようにしてきた。

 時々私の耳から綿棒を外し、ティッシュで耳垢を拭いては続けてくる。

 次第に入り口から奥へと行き、変わっていく感触が気持ちよくなっていく。

 すりすりと耳の内側をこすり、耳の壁をなぞるようにしてくる。

 

「お姉ちゃん、普段から耳かきしてるの?」

「え、してるけど。そんなに汚かった?」

「その逆! 普段から女を捨ててズボラなのになんで耳かきしてるの!? カレンがお姉ちゃんに癒しをあげられないじゃない!」

 

 それは大きな声で、けれど、耳が痛くならない程度の声で怒鳴ってくる。

 だけど、それは理不尽というもの。いかに女を捨てている私といえど、カレンの天使のような声を聞くために耳かきは適度にやっている。

 そのことについて言おうと思ったけど、怒ったカレンはあまり見ることなく、こういうカレンの声もいいなと何も言わない。

 

 カレンは唸り声をあげながら耳掃除をする手を止めると「お姉ちゃんを癒すにはどうすれば……」と小さい声でつぶやくように言った。

 私はカレンが私のことを想ってくれるだけで癒される。そう、いつも言っているけどカレンはいつも不満そうにしていた。

 何かしてあげたいのに、お姉ちゃんのためにできない自分にいらだつと。

 でもカレンはそれほど頑張って変わらなくてもいい。

 

 休みには私と一緒にデートをしてリフレッシュさせてくれるし、今どきの若い子の情報を知るのは楽しいから。

 カレンといるだけで私は毎日が楽しい。カレンさえいるなら、男なんていらず、結婚なんてしなくてもいいとも。

 最も、カレンが学園を卒業したら1人になった私は寂しくて恋人を作りたくなるだろうけど。

 そうして私がカレンのことを考えていると、急に姿勢を前向きにする。

 それによって私の横顔にあたるのはカレンの胸。

 制服とブラ越しに感じる、柔らかくて暖かさがあるそれは胸だと認識した瞬間にすごく恥ずかしい。

 まるで子供のような気分。いえ、年下のお姉ちゃんを持ったかのように感じて。

 

「えーと……カレン?」

「自慢だけど、カレンの胸はいいものだと思うの」

 

 さっきよりも近い距離で聞こえ、耳元でささやくのはずるいと思う。

 近いからこそ言葉のひとつひとつに快感があり、気持ちよすぎて体が震えてしまう。

 

「うん、カレンの胸はすごいから離れて欲しいな」

「えー、お姉ちゃんのためにしてあげ―――ははーん?」

 

 早口で言う私に、カレンは何かに気づいたのか吐息を感じられるほどにより近づいてくる。

 

「恥ずかしがるお姉ちゃんかわいい♪ いつもカレンのために頑張ってくれてありがとねっ」

 

 うおおおお!! 耳がくすぐったい! 息遣いの音が気持ちいい! この、男女問わず惚れさせてくれる小悪魔め!

 小さく体を震わせて耐えていると、続けてカレンが私を褒めてくる。

 その攻勢に耐え、息も絶え絶えになってしまう。

 

「さて、次は反対側の耳を掃除するよ?」

「もうトレーニングしない?」

「嫌でーす。ほら、早く反対になって」

 

 カレンの嬉しそうな声に逃げられないとあきらめた私は、渋々体を反対側へ向け同時に頭も。

 右の耳も左と同じ流れで掃除をしてくれる。 

 さきほどと同じぐらい気持ちいいけど、すぐ私の目の前にはカレンのスカートがある。

 同性愛者ではないけど、これほどカレンに近づき、カレンの甘い匂いを感じ、カレンの暖かい体温を実感しているとドキドキする。

 イケメンなフジキセキ、ミスターシービー、シリウスシンボリとは違う惚れる成分がカレンにはある。

 毎回耳掃除をしてもらったら、カレンのことしか考えられなくなるなぁとぼぅっとした頭でいると、いつのまにか左耳の掃除が終わっていた。

 

「これで終わったの、カレン」

「まだだよ? だから動かないで」

 

 起き上がろうとしたけど、言われるまま元に戻す。

 カレンに言われたからそうしたけど、もう終わったと思うんだけど。

 

「いい子、いい子」

 

 そう言いながらカレンが優しく頭を撫でてくれる。

 特にケアをしていない私の髪を手で梳くように。

 私自身が壊れ物かと思ってしまうほどに優しく。

 

「あの、カレン」

「なぁに?」

「なんで私は撫でられてるの?」

「だってお姉ちゃんを撫でることなんてあまりないから。今ならちょうどいいかなって」

「子供にされる見たいで恥ずかしいんだけど」

「でも落ち着くでしょ?」

 

 私はなんでも知っているよ、と思うほどに優しく慈愛に満ちた声に反抗する気はなくなってしまった。

 だから私はもう素直になる。

 

「落ち着く……」

「お姉ちゃんはいつも頑張っているんだから、時々はこうしてカレンに甘えて欲しいなぁ」

「でも私は大人で、トレーナーだから」

「大人でも疲れる時は疲れるでしょ? ほら、ちょっとでいいから寝て? 30分経ったあとに起こすから」

 

 カレンの優しい言葉に私は何も言えず、今はただただ甘えて優しさに包まれていたい。

 そう思った瞬間に強烈な眠気が来て、普段の精神的な疲れと昨日の肉体的な疲れから目を閉じてしまう。

 私の全部をカレンに優しくされながら。

 だから起きたときはカレンのためにもっと頑張ろうと落ちていく意識の中でそんなことを思った。




この小説の連載版。
ズボラなお姉ちゃんと世話焼きカレン
https://syosetu.org/novel/305826/


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19.ダイワスカーレット『I LOVE YOU を言いたくて』

「なぁ、トレーナー。この漫画の『月が綺麗ですね』っていうセリフ、どういう意味なんだ?」

 

 そんなことを唐突に言っていたのは担当ウマ娘の1人であるウオッカだ。

 大雨が降って外で練習できない中でタバコを吸うのを我慢し、のんびりしようと暇そうにしているウオッカに声をかけて一緒に漫画を読んでいる。

 もう1人担当のスカーレットは静かにしたい気分じゃないということでレッスン室に行ってダンスレッスンをしている。

 制服姿のウオッカは俺と同じソファーに腰掛け、読んでいる少女漫画を持って俺のすぐ右隣へと移動してきては俺へと見せてくる。

 

 今年で高等部1年となったウオッカは、トレーナーとはいえ男である俺に無防備に近づいてくるのは困ってしまう。妹が4人いるから女性慣れはしているが。

 いい匂いがするし、鍛えていても女性らしい体のやわらかさがあって少しだけ緊張とときめきがある。

 だが、その行動によく慣れている俺は読んでいたウマ娘小説をソファーの上に置くとウオッカが指差しているシーンの場所を覗き込む。

 

 そこは美少年の子が主人公である女の子に、月を背景にして喋っているところだった。

 つまりは美しい告白シーンだ。

 

「夏目漱石だな。I LOVE YOUをどう訳するか、という話になった時にこう和訳すると言ったのがそれだと聞いたことがある」

「やっぱりかー。スカーレットの奴も同じことを言ってたけど、そういう意味なのか。あいつ、恋愛漫画も小説もすっげぇ読むから、そういうのを読まないオレに嘘を言っているかと思ったぜ」

「スカーレットはいい子だから、そう嘘はつかないだろう?」

「あー、そうだけどよ。からかってくることが多くて。いや、あいつの話はもういい。なんでこんな訳になったんだろうな」

「日本人なら、それくらい優雅に言ってもらいたいと思っていたのかもな」

 

 そういうムードがあっての告白だったら強く記憶に残る。

 言う方も言われる方もいい気分になる。振られたとしても、ショックはやわらぐに違いない。

 

「自慢げにそういうから、お前だったら、I LOVE YOUをどう訳するかって聞いたんだ」

「へぇ。それでどうなった?」

 

 ああいう強気でプライドが高く、1番を目指している女の子だ。

 スカーレットのような子が男性に言うとしたら、

 

「それが『素敵な匂いがしますね』だってさ。笑えるだろ? なんで告白が匂いになるんだっての」

「スカーレットは俺の服に染みついているタバコを嫌っているからな。それからだろう、きっと」

「ヘビースモーカーってわけでもないんだし、俺は気にしないんだけどなぁ。……うん?」

 

 ウオッカは漫画をソファーの上に置くと、俺の太ももの上に両手を置くと首筋に顔を近づけてくる。

 近づいてくるウオッカから顔をそらし、匂いを嗅いでくる恥ずかしさに耐える。

 

「どうしたんだ」

「そういえば今日のトレーナーはタバコの匂いがしねぇな?」

「タイミング悪くて機会がなかったんだ」

 

 20歳を過ぎてから吸い始め、25歳になる今でも続いている。けど、吸うのは学園の外でだ。

 トレセン学園の敷地内では全面的に禁煙で、吸う機会がない。

 だから吸う時は敷地の外に行く必要があるんだが今日は出る暇がなかった。

 吸っても1日3本ぐらいだから我慢しようと思えばできるのだが。その代わりにちょっとだけ精神が落ち着かなくなるだけだ。

 俺が恥ずかしさに耐えていると、首筋から顔を動かして胸元へ

 

「服もほとんどタバコの匂いがしないぜ!」

「洗い立てだからな」

 

 目を輝かせて驚くウオッカだが、そんなのが珍しいのかと不思議に思う俺。

 そんな時だ。

 トレーナー室の扉が開き、雨音と共に部屋へダイワスカーレットが部屋へと入ってきた。

 腰まで届く長く赤いツインテールをしているジャージとブルマ姿の彼女は、ドアを閉めてから俺たちの姿を見ると大声を上げて怒鳴ってくる。

 

「私がいない間になにウオッカに手を出してんのよ、変態トレーナー!!」

 

 そう言われて心当たりがない俺はウオッカを見ると、ウオッカと目が合って俺たちはお互い不思議そうに思いながらスカーレットを見る。

 顔を赤くして怒っているスカーレットは足早に俺たちの前へ来ると、俺たちへと人差し指を突きつけてくる。

 

「ふたりきりでそんな密着して何をしていたのよ!」

「何って言われても……なぁ、トレーナー?」

「ウオッカとの距離感は大体こんな感じだが。スカーレットが見ていないだけで」

「……っ!! ウオッカもウオッカよ! クラスで恋バナしているだけで恥ずかしがっているのに、大人であるトレーナーに抱き着いているだなんて!」

 

 出会った頃である2年前は恋愛に関することはひどく苦手だったウオッカ。だが、俺との関係はそんなのではなく兄と妹のようなものだと思う。

 世の中の妹を持つ兄たちもきっと俺とウオッカがしているようなことを平然とやっているだろう。

 お互いに恋愛感情は持っていなく、……持ってはいないが段々と大人の女性らしい体になってくると俺のほうが恥ずかしくなってはきているが。

 それでも男女という仲ではない。

 

「なぁ、スカーレット」

「なによ」

「俺とトレーナーが仲いいから嫉妬してんのか?」

「はぁ!? するわけないじゃない、そんなの!!」

 

 耳と尻尾が全力で怒りモードのスカーレットは、俺の膝の上にいるウオッカに襲い掛かる。

 ウオッカは俺の上にいながらスカーレットと向かい合ってお互いにお互いの肩を押さえて始めた。

 俺はというと、ふたりの間に入るとよくないことが起きていたから何もしない。

 だが、今回ばかりはなんとかしないといけない。

 それというのも、ウオッカの背中が俺の胸へと入ってくる態勢だから、軽く抱きしめてあげないと落ちる。それにスカーレットの力がそのまま俺の体へぶつかってくるから、ウオッカ越しに押さえつけられているのが苦しい。

 

 俺はウオッカの腰に手を回しながら、すぐ目の前にあるウオッカから感じる黒髪ショートとポニーテールの匂いを嗅ぐ。

 ここまで近づく場合は汗の匂いを感じるしかなかったが、今日は練習前だから爽やかなシャンプーの匂いがする。

 その爽やかなのを感じると、スカーレットが思うI LOVE YOUの意訳もありだなと思う。

 

 そうしてウオッカとスカーレットのじゃれあいは続き、ふとした瞬間にウオッカがよろけて俺の上からいなくなってしまう。

 ソファーへと仰向けに倒れたウオッカの代わりに、力余ったスカーレットが勢いよく俺の胸元へと飛び込んできた。

 勢いがよかったから、スカーレットが来た瞬間には胸が圧迫されて空気がもれるような音が出てしまう。

 

「おい、スカーレット! 俺に勝てないからってトレーナーに攻撃するなよな!」

「何言ってんのよ! あんたがよろけるのがいけないんでしょう!?」

「いいから早くどいてくれ」

「わかっ―――」

「どうした?」

 

 急いでどこうとしたスカーレットだが、目を丸くして不思議そうな表情をする。それはキスできそうなほどの距離で、ウオッカとは違ってスカーレットには女性として見てしまっているため心臓の鼓動がやばい。

 かといって目をそらすこともできない。恋人にしたいという感情までは行ってないが、こうも綺麗な顔をしているとずっと見ていたくなるからだ。

 スカーレットは俺の焦っている気持ちに気づいていないのか、俺の首筋へと顔を近づけては甘い髪の香りを残してすぐに離れて俺から距離を取った。

 

「タバコの匂いがしないわ……」

「今日は吸ってないからな。おいこら、匂いを嗅ぐな変態め」

「誰が変態よ。体からタバコの匂いがしないなんて初めてじゃない。ねぇ、ウオッカ?」

「ん、あぁ、いや、そうでもないぜ? 風呂上りの時とか」

「それもそうね。そういう時なら匂いが落ちてい―――待って、なんでウオッカがそれを知っているのかしら。いつも夜はアタシと一緒じゃない」

「そりゃあ時々自主練でするランニングの帰りに寄っているから」

 

 仰向けになっているウオッカはなんてことのないように言っているが、スカーレットのほうは違う。

 驚き、怒り、焦り。そういう色々な表情が混じっている。それと俺がウオッカに性的な意味で手を出していると思ったのか、物凄いにらみつけてくる。

 

「スカーレットはウオッカとランニングしても先に置いて行くだろ。ウオッカからそう聞いているんだが」

「確かにいつもウオッカより先に着いているけど。いつも遅いと思ったら、そんなことをしていただなんて……!」

「なんだよ。前に誘ったら行かないって言ったじゃねぇか」

「だって汗かいてるのに、汚い姿で行けないじゃないの!」

「いっつも見てるじゃん、そういうの」

「それは学園にいる時でしょ! 自主トレしている時とは違うのよ、このバカウオッカ!」

「なんでそうなるんだよ! わけわかんねぇこと言うなって!」

 

 ソファから起き上がったウオッカはそう言ってスカーレットとにらみ合う。

 このふたりはよくこうやって口喧嘩のようなことをして、仲良く言い争いをしている。

 むしろ、これがないとふたりが元気じゃないと思ってしまう。

 

「ところでふたりとも。俺はタバコを吸ってもいいのか?」

 

 ふたりが楽しく言い争いをしている中、無視されると思いながらも彼女たちのことを思うならタバコをどうにかしたほうがいいのかと思って聞いてみる。

 するとふたりはピタリと言い争いをやめ、すぐにじっと俺を見つめてくる。

 ふたりして同じ行動を取ると、びっくりして怖いからやめて欲しい。仲がいいからこそ同じことができるのはわかるが。

 

「吸ったほうがいいぜ」

「吸わないほうがいいわ」

 

 同時に言われる、正反対の言葉。

 ウオッカとスカーレットが自分の意見を言った瞬間、すぐにふたりはお互いに向き直って言い争いをしようとしたところを俺は止める。

 

「待て。言い争うな。お前らはなんでそういう意見になったんだ? あぁ、俺の健康がどうってじゃなくて、お前らに取ってタバコはどう思っているかの意見をくれ」

「タバコを吸っていると大人でかっこいいから。それにライトスモーカーでタール少ないを吸っているから気にならない」

「私は吸っていないほうがいいと思うの。そっちのほうがあなたは素敵な匂いがしていいわ」

 

 ウオッカは真面目に意見を、スカーレット大きなため息をついては愚痴のような何かを言った。

 だが、俺はスカーレットの言葉が気になった。

 それはさっきウオッカが言っていた I LOVE YOU のスカーレットが思う意味だ。それにとても近い。

 これはどういうことだ!? とウオッカへ目を向けると、ウオッカも驚いたらしく目をぱちくりとさせている。

 ウオッカもスカーレットの言葉に驚いているということは、I LOVE YOUの言葉だと認識している。つまりはスカーレットは俺に恋愛感情を持っているってことか、おい。

 そう考えると、急にドキドキしてくるんだが?

 

「あー……なんだか俺は邪魔っぽいから10分後に……いや1時間後に戻ってくるから! それじゃあな!!」

「おい、ウオッカ!」

「なんで急に慌てて帰ったのかしら」

 

 この狭いトレーナー室にスカーレットとふたりきりにしないで欲しかった。

 気を使っていなくなったんだろうが、そういうのはお互いに恋愛感情を持っている時に気を使うものだ。

 今回の場合はいてくれたほうがよかった。俺ひとりだと対応に困る。

 

「まぁ、理由はわかるんだが……」

「なによ。私だけ知らないってこと? 教えなさいよ!」

 

 少し怒った様子のスカーレットは俺のすぐ左隣へ来ると、迫ってくるので顔を押し返す。

 その時にぎゃーぎゃーわめくから正直に言ってスカーレットをおとなしくさせることにした。

 そう、自分の発言を思い出して恥ずかしくさせておとなしくなってもらおうという、実に賢い俺の判断で!

 

「お前、I LOVE YOU の意訳をウオッカになんて言ったか覚えているか?」

「なによ、急に。ウオッカのことなんてどうでもいいでしょう!?」

「ウオッカにいった言葉を思い出してくれ」

 

 そこでスカーレットは俺に顔を掴まれたまま、動きを止め考え始まる。

 それから1秒2秒と時間が経つごとに事態を把握できたスカーレットは顔が赤くなり、俺の手を振り払うと大声をあげて暴れ始めた。

 

「月が綺麗ですねって言う言葉は有名だけど、あれをウオッカに言うのはなんか恥ずかしかったのよ!」

「それがなんで『素敵な匂いがしますね』になるんだ!? 流れがわからんぞ!」

 

 俺のほっぺたを引っ張ろうとしてくるスカーレットに必死で抵抗し続けていると、ふと力がなくなり組み合った状態でスカーレットは話し始めた。

 

「とっさに思いついたのがあんただったのよ! ……それで顔や声、性格が私好みなあんたの匂いがよかったら、アタシは恋愛相手として惚れるだろうな……って、ああもう!!!」

 

 大声をあげ、深呼吸したスカーレットは俺をみつめ、けど恥ずかしそうにしてくる。まるで恋する乙女のような表情をして。

 

「こうなったら最後。あたしの告白を聞いてもらうわ! 年齢差なんて関係ないの。妹みたいにもう扱われたくない。いい? ちゃんと聞きなさいよ。1度しか言わないから。

 ……私はあんたのことが大好きなのよ!!」

 

 ここまで怒り狂うように大声で言っていたスカーレットだが、言いたいことを言い終わると俺の首へと腕を回して胸元へ顔を押し付けながら抱きしめてくる。

 そうしたあとに不安そうな表情で俺を見上げてくる。

 その顔はいままで1番のかわいさだ。

 

「私、あんたの、ううん。あなたのためなら―――」

 

 俺の耳元にささやかれる甘いささやきの声。

 それは歳相応でなく、大人の甘い声だ。

 そんなのをささやかれると抵抗せずに言いたいことを全部聞き、普段ツンツンしてくるギャップもあってか俺の耳と脳がとろけてしまう。

 それからウオッカが戻って来るまではスカーレットの好きなようにされてしまった。



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20.フジキセキ『穏やかな雨と濡れた尻尾と片想い』

 空いっぱいに広がる黒い雲から強めの雨が降っている午後の5時。

 6月中旬の今は梅雨なだけあって雨の日が多い。

 つい30分前までは降っていなかったが、天気予報どおり夕方からの雨だ。

 雨が車の屋根をリズムよく叩く音を楽しみつつ、俺はフロントガラスの向こう側を見る。

 エンジンを切って車を止めている場所は、トレセン学園の外にある正門近く。

 ウマ娘たちが強くなってきた雨から逃げるようにランニングからトレセン学園の中へ慌てて走っていく姿を眺める。

 

 その中には俺の担当であるウマ娘はいなく、あいつのことだから雨の中を楽しんでいるだろう。

 元々俺が車でここにいるのは遠くの場所で走りたいと言ったフジキセキの要望だったが、雨が降りそうなのとヒシアマゾンがいたからという理由で俺をここに待たせてトレセン学園の周囲を走っていった。

 わざわざ車を持ってきたのに使わないのは無駄な労力を使ったとため息が出たものの、こうして車の中で静かに読書ができる時間は幸せだ。

 トレーナー室にいると同僚のトレーナーたちや学園職員、フジキセキをはじめとしたウマ娘が来るから1人静かな時間を長く確保できないから。

 歳を取るほどに自分だけの静かな時間の大事さがわかってきた。28歳というおっさんになった今では特に。

 

 2分ほど窓の外を見続けていたが、フジが来る気配なく、読書へと戻ることにした。

 事前に雨に濡れたフジが帰ってきてもいいように、後部座席にはバスタオルを敷き詰めていて、畳んだ状態のバスタオルも多く置いている。

 髪や服、尻尾が拭けるようにと。

 体を拭いた、短い距離とはいえ車ごと学園の中へ連れていく予定だ。

 いつ帰ってきてもいいように準備を整え、安心した気持ちで本を読んでいると、不意に運転席側の窓をノックする音が聞こえる。

 

 本から顔を上げると、そこには笑顔を浮かべて雨に濡れたジャージを着ているフジがいた。

 フジは首筋にかかるぐらいの黒髪と、水彩絵の具のような淡い水色の目を持っていて男性アイドルのような美形の顔を持っている。

 168㎝という高身長もあって女性でありながらイケメンと言ってもいい。胸が大きくても。

 そんなフジを見ていると、視界の端にはフジとランニングしていたヒシアマゾンが学校の中へと急いで駆け込んでいく姿が見えた。

 俺はフジに向かって指で後部座席を指差すと、ダッシュボードへと本を置く。

 そして置いたと同時に扉が開き、ひんやりとした雨の空気と一緒にフジが車の中へと入ってきた。

 フジが扉を閉めたのを確認してから車のエンジンを動かして暖房を入れる。

 

「ランニング楽しかったか?」

「楽しかったとも。雨が降っている街は普段と表情が違っていて新鮮だったよ。あと、雨が降ってきたときに帰りたがるアマさんの反応がかわいくてね」

 

 ルームミラー越しにタオルで体を拭いていくフジキセキを見ながら、そう返事を返してくる。

 どんなことでもそうだが、練習というのは単純な作業の繰り返しが基本だ。

 でも時々は違う練習を取り入れると、新鮮な気分になれる。

 

「怪我はしなかっただろうな?」

「もちろん。雨が降ってきたときは走る速度を抑えてたさ。君が怪我には気をつけろ、と毎日のように口を酸っぱくして言うものだから無意識にね」

「それは普段から言っていた甲斐があったというもんだ」

 

 髪や体を拭きながら、すっきりした顔になるとルームミラーで見る俺と目線を合わせてくる。

 フジの様子を確認すると、そのまま雨に濡れた姿を見続けるのは俺の理性にダメージを与えてくるので目を離して窓の景色を眺める。

 ボーイッシュでイケメン女子なフジだが、17歳の少女であることは変わりない。

 専属の担当となって2年目だからこそ、距離感を大事にしていきたいと思う。

 

 フジは俺の前なのに、気にすることなく服を脱ぐことがよくある。

 注意してもあまり気にせずに『トレーナーさんなら大丈夫でしょ?』と抜群の信頼を寄せてくれるのは嬉しいことではあるが。

 時々男と思われていないんじゃないかと思うことがある。今だってジャージを脱ぐ音が聞こえてくるし。

 車の中でならいいが、人前で無防備な面を見せていると俺が現役女子高生なウマ娘に手を出す変態と噂になってしまう。

 そうなるとフジが学園を卒業したあとに契約してくれるウマ娘はいなくなるだろう。

 フジがタオルで体を拭く音が聞こえなくなるのを待ってから、俺は声をかける。

 

「学園の中に戻るぞ」

「それはもう少し待ってくれないかな」

「なんでだ」

 

 ハンドルに伸ばしかけた手を戻し、後部座席へと体をひねってフジを見る。

 そうした途端、目の前はフジがいて、ジャージの前を開けた状態で強引に助手席へと来ようとする。

 ただでさえ狭い軽自動車の中で動くもんだから、フジの水気がある尻尾がべしりと俺の顔へと当たった。

 助手席へと座って満足そうにしているフジだが、タオルを敷いていないから濡れるのは気になる。まぁ、あとでフジに掃除させればいいか。

 

「冷たいんだが」

「ごめん。でも君に尻尾を拭いてもらいたかったんだ」

「自分で拭け。男に尻尾を預けるな」

「君になら私は気にしないけど?」

「気にしろ。俺だって男なんだ。そういう気持ちはないが、そういう言葉を言い続けているとムラムラするぞ」

「イケメン女子と呼ばれている私に、女の子らしさを感じるのかい?」

「……考えてみたが、そんなのは感じてないな」

 

 そんなことを興味なさそうに言うと、フジは濡れた尻尾をべしりと俺の太ももへと叩きつけるようにして置いてくる。

 

「てめっ! 俺のスーツが濡れたじゃねえか!」

「私が濡れたんだ。トレーナーである君自身も濡れたっていいと思うんだけど」

「よくねぇよ、このイケメン女子が。俺はお前と違って雨に濡れるのは嫌なんだ」

 

 俺はフジが手に持っているバスタオルを奪うと、尻尾をごしごしと雑に拭き始めた。

 

「尻尾はウマ娘にとって大事な部分だ。少しは大事にしてくれないかい?」

「だったら俺に任せるんじゃねえよ」

「信頼している君にしてもらいたいという乙女心だよ、これは」

 

 フジに乙女心。

 どのウマ娘よりも男心を持って女の子たちに甘くささやいているフジが、乙女心。

 あまりにも似合わなくて、つい手を止めてフジの顔をじっくりと見てしまう。

 

「なんだい、そんな目で見てきて。私だって1人の女性だよ? 信じられないならジャージを脱いでブラでも見せようか?」

「見たくねぇよ。だから、脱ぐな。いや、脱ぐなって! 尻尾を丁寧に拭くからやめてくれ!」

 

 その返事を不満に思ったらしく、脱ごうとするフジの手を止めようとするが力で負ける。

 俺の理性を刺激してくるのはやめて欲しい。いくら恋愛対象ではないとは言うが、美人な子が無防備にされると非常によくない。

 明日にでも貞操観念が強いウマ娘に教えてもらおう。さしあたってはシンボリルドルフやエアグルーヴだろうか。

 そう考えている間にもジャージの上を脱いだフジに仕方なく譲歩すると、フジは気分よく俺の太ももへと尻尾を置きなおした。

 ひどく大きなため息をつくと、毛先から根本までをじっくり丁寧に拭いていく。

 そうして話もなく雨音とエンジン音、尻尾をタオルで拭く音だけが車内に響く。

 

「ねぇ、トレーナー」

「なんだよ」

「読書って楽しい?」

「あん?」

「ほら、よく本を読んでいるから。トレーナー室の本棚にシェイクスピアや柳田国男、サン=テグジュペリに寺山修司があるじゃない」

「そうだな……。ギャリコの雪のひとひらは文章が綺麗なんだ。平凡な女性の一生を雪のひとひらに例えていて。人生を肯定する話だったよ。読んでいて浄化される気分になる。

 しかし、作者名までよく覚えているな」

「好きな人の物は好きになりたいからね」

「そういうことを言うのはファンか、好きな男ができた時にしておけ」

「君がそういうのなら、次に言うときはそうするよ」

「そうしてくれ」

 

 フジはこういうふうに他の女の子に言うように、同じような感じで俺へと言葉を投げかけてくるのが困る。

 今ではそういう言葉にはなれたが。はじめの頃はどういう対応にすべきか悩んだが、子供として扱えば対処は少し楽になった。

 

「それで楽しいの?」

「読書がか? 知らない世界を体験できるってのはいいぞ。楽しいというよりも幸せな気分になれる」

「幸せかぁ。そういうとわかる気がする。私も女の子たちにサプライズをして喜んでもらえると嬉しいから」

「だろう?」

「……ところで私の幸せのために尻尾の根本まで拭いてくれないかな?」

 

 話の途中で根本以外の尻尾を拭き終わり、尻尾を掴んで投げるようにフジのところへ移動させるとそんなことを言ってきた。

 今まで尻尾の根元を週1回の間隔で俺がブラッシングしてきたが、根本までというのはいつも拒否していた。

 担当ウマ娘との距離感はある程度持っていたい。

 

「なんでそれが幸せになるんだ」

「ほら、私の好きな男性である君にしてもらうのは、今までやってもらったよりもきっと気分がいいなと思って」

 

 いつも俺をからかうようなことを言うフジだが、今までのと違って声が違う。

 表情も笑みを浮かべてはいるが、どことなく真面目な印象がある。

 こういうのを見ると、フジに何かあったかと思う。それも精神が不安定になるような。

 フジに言葉を返さず、フロントガラス越しの雨を見る。

 外の道路にはもうウマ娘たちはいなく、傘を差して歩いている人が2人いるだけだ。

 

「フジ、今日はずいぶん攻めてくるな。何かあったか?」

「特別なことはないよ。ただ、アマさんに恋愛相談をしたら、関係が変わるのを怖がっていては進めないのが嫌だと気づいたからね」

「恋愛相談か」

「そうだよ? 君に恋人へなって欲しいと告白しようと思っているんだ」

 

 実質的にフジから告白をされてしまった。

 ムードはなく、いや、狭い車内でふたりきり。雨の中というのは多少あるかもしれないが。

 さりげなく雰囲気作りもなかったから、事前に回避もできなかった。

 好意を向けてくれるのは嬉しいが、どうしたものかと悩む。

 年齢差は9歳差だが、それは別に気にしない。

 学生だから、というのは卒業まで待てばいい。

 

「俺はお前を女性としては見れていないぞ」

「なに、私が卒業するまでに君を落とせばいいだけさ」

「自信があるな」

「いいや、自信なんてないさ」

 

 いつものように自信ある力強い声なのに、弱気な言葉を言ったフジについ振り向いてしまう。

 フジは俺が振り向くと少し恥ずかしそうに目をそらして不安そうに耳を動かしている。

 

「今のように誰も来ない場所で、君と近い距離にいる。だから言った。でも今のがきっかけでよそよそしくなるのが怖い自分もいるんだ」

「変なことをしなきゃ大丈夫さ」

「恋愛アピールをしてもいいということかい?」

「常識の範囲内と、俺の評判が悪くならない程度になら」

「ありがとう、私のトレーナーさん」

 

 その時の笑みが普段はイケメンか子供っぽさがあるのに、この時だけは大人の色気があって1人の女性として見てしまうほどの綺麗なものだった。

 無表情を維持しようと頑張っているから、声や顔には出ていないが内心は心臓がバクバクだ。

 やばい、普段からこういう大人な雰囲気出されたら手を出してしまそうだ。

 

 今日フジがいなくなったあとに、フジの母親と連絡を取らないと。担当になって会ったときに、週1回の連絡をすると約束したからな。

 このあとにするのは定期的なのではなく、お宅の娘さんに迫られたということを電話で言うのだが。

 フジの母親なら、フジが暴走しないように抑えるか、おっさんである俺との恋愛を止めるだろう。

 そう思いながら、シートベルトを締めるよう言ってから車を走らせた。

 いつもと違う場所で、いつもとは違う様子のフジの本音を聞けたのはいいことだったなと思いながら。

 今日という雨やフジの相談に乗ったヒシアマゾンに感謝もして。

 

 

 そして、その日の夜にフジの母親に電話をしたんだが『娘を末永くよろしくお願いします』と言われた。

 なんでそうなった。

 母親というものは娘を心配するんじゃないのかと、控えめな表現で聞いた。

 その返事はこうだった。『私の娘が好きになった男の人となら幸せになれるから』と。

 そう言われると恥ずかしくなり、長い時間を空けてから「…………わかりました」と言う。

 親公認になったフジの恋愛。

 それを真面目に考えて行こうと思う。



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21.マンハッタンカフェ『マンハッタンカフェはここにいる』

 マンハッタンカフェと共にふたりきりでやっているトレーニングを午後5時という早い時間帯で切り上げる。

 夏の暑い日差しから逃げた木の下に行き、カフェの汗をタオルで拭いてあげながら、明日の土曜日には早朝練習がないと言う。

 練習量が減ったことを伝えるのは、近頃いい感じに練習ができているからこそ申し訳ない気持ちだったけど、カフェはトレーナーである僕にも同僚との付き合いがあると理解しているから責めてはこなかった。

 まだ16歳だけど雰囲気に大人っぽさがあるカフェに怒られたら、結構な精神的ダメージが来るところだ。

 担当契約した頃は僕が用事でいなくなるといじけることが多かったものの2年もそばにいると、子供というのは時として精神の成長が早く進むことを実感する。

 

 そしてカフェから離れてする付き合いというのはトレセン学園の大人たちでやる、居酒屋を借り切っての宴会だ。

 8月の今、多くのウマ娘やトレーナーたちが合宿所にいって仕事の量が減っている今こそ飲んでおこうと思っているらしい。

 人間関係は良くしていきたい僕も渋々付き合うことになったわけだ。

 トレセン学園に来て8年。30歳になった今でも飲み会での付き合い方がわからず、酔っぱらった人から面倒な絡みをよく受ける。

 愚痴や教え子の自慢を酒臭い息と共に言うのは短い時間ならいいけど、同じ話をループしてくるのは困る。

 反応しないと文句を言われるし。

 酒が飲めないのに、強く薦めてくる人がいて断るのも大変な精神力を使う。

 楽しくない飲み会だけれど、良い人間関係を作るのにはこういうのも必要だ。

 同じく酒が飲めない、仲がいい先輩も僕と同じように苦労をしながら飲み会によく参加している。

 

 午後11時になると飲み会は解散になり、酔っぱらった人と一緒に店を出た僕はすぐにタクシーを捕まえると自宅へと向けて帰る。 

 タクシーの車内では1人になれたという開放感があり、店内では脱いでいたジャケットとネクタイを結び直して飲み会の時とは違う姿によって気分を入れ替えた。

 向かう先は自分のアパートであり、飲み会前のメールで僕の担当ウマ娘であるカフェが部屋を涼しくして待っていると伝えられた。

 

 本来は担当ウマ娘である子が夜遅いのに自宅へ来るというのはあまり良くないことだ。

 でもカフェには合鍵を預けるほどの仲になっている。

 カフェとは担当になって1年と3ヶ月ほど。

 今まで担当してきた子とは違い、カフェとは仲良くしている。

 カフェは落ち着いた低音の声に普段から落ち着いていて、話をするのが楽しい。

 それに僕と同じコーヒー好きで、よく一緒に喫茶店巡りをしては仲が深くなる。

 

 カフェの方も幽霊問題があって、彼女の近くにいると色々と問題が起きるから話す相手は僕とアグネスタキオンがほとんどだ。

 多少は霊による恐怖があるけど、カフェ自身が悪いわけじゃない。

 友達が少ないからか、男である僕にも女性の親友のように仲良く接してくれるのは嬉しい。

 ただ近すぎる距離感がいつも気になっている。

 肩を並べて座る、資料を見るときは顔がとても近い、尻尾や髪をさわってもいいと言ってきたりと対応に困ることもあるけど。

 それでも断る理由がないかぎりはべったりとくっつている。

 あとは何かと僕の世話を焼きたがり、おかげで仕事は丁寧で多くこなせると評価が上がった。

 感謝の気持ちとして、カフェが興味を持っていた欲しがっていたオズワルド農園のコーヒー豆などを。

 誕生日には僕のアパートの合鍵も。

 

 ……カフェが居心地いいと言ってよく来そうだからあげたくなかったんだけど、耳元で仕事をねぎらってくる優しい言葉をささやかれるとダメだ。

 カフェの言うとおりにして鍵をあげてしまったことは少し後悔している。

 

 その理由として部屋の掃除や洗濯をしてくれること。ご飯の材料を買ってきて、買ったものはこっちからお金を出してはいるけど。家政婦さんかメイドさんがいるような気分になってしまう。

 人としてカフェに頼り切りでダメになりそうだ。

 あげたあとでダメというのもアレだし、見えないお友達による脅迫とカフェの満足そうな顔を見た時には、被害があるわけでもないし問題ないということにした。

 そういう過程でカフェが俺の自室に来ている。外泊許可はすでに取っていて、疲れを癒してあげたいと言ってきた。

 

 タクシーから出ると満月の月明かりの下で2階建てアパートがよく見える。

 2階にある1DKの自宅へ入る前にあたりを見回し、特に霊関係の何かは来てなさそうだと思ってからドアを開けた。

 照明がついて明るい廊下と冷房のひんやりした空気を感じながら靴を脱いでいく。

 そうしていると、ぱたぱたと急いだ足音でカフェが迎えに来てくれた。

 

 カフェは身長は155㎝と僕より20㎝ほど低め。淡い黒色の髪を腰まで伸ばし、金色に輝く目を持つ16歳のウマ娘。

 胸が小さくスレンダーな体形でトレセン学園の長袖と短パンのジャージを着ている。それが夜という時間帯もあって普段見るよりも色っぽい。

 カフェは僕の前に来た時に、髪と同じように黒が美しい耳と尻尾をふわりと1度だけ揺らして帰ってきたのを喜んでいるみたいだ。

 

「おかえりなさい、トレーナーさん」

「ただいま、カフェ。来ていたんだね。もう遅い時間だけど大丈夫?」

「はい、大丈夫です。飲み会で心が疲れると言っていたので、私が癒してあげようかと思いまして」

 

 聞き惚れる低い声で心配そうに言ってくるカフェがかわいく、頭をぐりぐりと強めに撫でてしまう。

 その時に爽やかな香りがし、シャワーを浴びたんだなとわかった。

 清潔でさっぱりしているカフェを疲れた時に見るのは落ち着く。

 そう思いながらしっとりしている髪を感じながら撫でる僕を嫌がることなく嬉しそうに受け入れてくれる。

 あぁ、帰ってきたら美少女にお迎えされるというのはなんと幸せなことなんだろう。

 独身である俺にはぐっとくるシチュエーションだ。

 

「2次会に行って遅くなることもあると思うから、次はしなくてもいいよ」

「私が好きでしていることですから。トレーナーさんは気にしなくていいですよ」

 

 僕が部屋に上がると、カフェはドアの鍵を閉めて後ろから着いてくる。

 冷蔵庫の前へ行き、缶の微糖コーヒーを一気に飲んでゴミ箱に捨てた時に気づいたことが。

 夜ご飯をカフェは食べたのだろうかと。

 見つめるとカフェは不思議そうにしていて表情ではわからず、冷蔵庫近くのゴミ箱を見るとコンビニ弁当が捨ててあった。

 

「冷蔵庫の材料は使っていいっていつも言っていると思ったんだけど」

「それだとトレーナーさんが何か食べたくなった時に困るじゃないですか。私は一緒に住んでいるわけでもないですし、自分のご飯は自分で持ってきます」

「でもコンビニ弁当というのも……」

 

 カフェの担当トレーナーとしてコンビニ弁当というのは栄養面で気になってしまう。

 別に時々は好きなのを食べても問題ないのはわかっているけど。

 僕は悩みながらもカフェがいつの間にか持っていた濡れタオルを渡され、汗を拭いていく。

 汗ばんだ肌には冷たいタオルは気持ちよく、気遣いが上手なカフェはいい奥さんになれそうだなぁと強く思う。

 僕とカフェは友人以上恋人未満の関係。でもカフェにいつか恋人ができて、ここに来なくなったら寂しくなる。

 ……この寂しい気持ちが恋心かは自分でもまだわからない。そういう気がしないでもないけど、まだよくわかっていない。

 そう思いながら、ついぼぅっとカフェを見ていると、カフェは首を傾げて見つめてくる。

 

「えっと、どうかしましたか?」

「いや、何も。今日は疲れたなと実感してきたところ」

「それならシャワーを浴びてきてください。着替えはもう脱衣室に置いていますから」

「ありがとう。それじゃあシャワーに行ってくるけど、今日は泊まる?」

「はい。そうさせていただければ嬉しいです」

「わかった。適当に何かしていてね」

 

 そう言ってから僕は疲れている体で脱衣室へと行く。

 そこに用意された肌着とトランクス、短パンがあるのを確認してから脱ぎ、中でわずかに残るカフェの香りがある場所で熱いシャワーを浴びて体をすっきりさせていく。

 カフェはもう入ったらしく、カフェが使っているシャンプーの香りが残っていた。

 思えば、寝間着として使っているジャージを着ていたんだから今日は泊まっていくということに気づくんだった。

 普段は聞かなくてもわかるのに、ずいぶんとぼぅっとしているらしい。

 人間関係に必要とはいえ、飲み会はずいぶんと疲れてしまう。終わるたびに疲労を少なくしようと思っているけど、うまくできたことがない。

 

 そういう時は家に帰ればカフェが優しくしてくれるからありがたい。

 お腹が減っている時にはご飯を作ってくれる。

 寝るときには耳元で子守歌。

 ……なんだか甘やかされている気がする。カフェは恩返しと言いながら僕に良くしてくれるけど。

 僕からすればたいしたことはしていないけど、カフェは僕がいたから救われたと言う。

 今まで一緒にやってきて、カフェは変わってきた。

 はじめは自分のせいで誰かに迷惑をかけないかおびえていた。でも何かあってもそれほど気にしていないという態度を続けていると変わっていった。

 今では幽霊を自分の力でぶちのめすほどになり、僕と唯一の友達であるタキオンには積極的になっている。

 

 僕はカフェのためになっているなら嬉しいと考えながらシャワーを浴び終え、着替えをする。

 カフェが持ってきた性能のいいドライヤーで髪を乾かしたあとは、丁寧に歯磨きをする。

 そうして寝る用意ができてからカフェのところへ戻ると、床には布団がぴたりとふたつ並べてあった。

 お腹が冷えないよう、夏用のタオルケットも用意してある。

 

「……今日は布団が近くない?」

「私が寂しい気分になっているので」

 

 そう言うカフェはエアコンを止めて部屋の窓を開けている途中だった。

 暑い日に寝る時はエアコンで喉をいためないためにそうしている。

 それは僕がいつもしていることだけど、なんだか今日のカフェはずいぶんと積極的だ。

 

「少し火照った体が落ち着いたら寝ましょう」

「先に寝ていてもいいけど」

「私をひとりにするんですか?」

 

 布団に置く扇風機の位置を調整していたカフェは、しょんぼりした耳と寂しそうな表情を僕に見せてくる。

 壁にかけてある時計は午前0時を過ぎていて、カフェのためにも早く体を冷やそうと扇風機の前へと座った。

 あぐらで座り、目をつむって扇風機の風を体で受けていると風が止まる。

 目を開けると、そこにはカフェが立っていて自然と足の間へと座ってきた。

 時々こうやって椅子のようにされることはあるけど、それは涼しい時だけ。今のように暑い時にされると非常に息苦しくなる。

 

「暑い、重い」

「女の子にそんなことを言うと嫌われますよ」

「今だけ嫌っていいから離れてくれ」

「お断りします」

 

 カフェは楽しそうに笑い声を出しながら僕の胸へと体重を預け、満足そうに息をつく。

 僕は嫌と言ったけど、実はそれほど嫌じゃない。

 カフェの温度と重さを感じると、いつもしていることと変わらないことに安心するから。

 10分ほど扇風機に当たり続けると、カフェが僕の手に指先をそっと絡ませてくるので今日は寂しかったんだなと思いながらされるがままでいた。

 

「そういえば僕を癒してくれるんじゃなかったっけ」

「そうですよ。そのために私は毎日努力して、よりトレーナーさんを癒せる結果を近いうちに出そうと思います。

「カフェが辛くなければ好きにしていいけど」

 

 部屋の明かりを消してから風を入れるためにカーテンを開け、月明かりに照らされながら布団の上へ崩れるように仰向けで倒れ込む。

 カフェは僕とは違い、静かにに入ると布団で体を横にしている。

 一息つき、寝る気持ちでいるとカフェが近寄ってきて耳元で優しくささやいてくる。

 

「辛くなんてありませんよ。あなたのためなら」

 

 その小さな息遣いと重い感情がこもった言葉に、背筋がゾクリと快感と寒気で震えあがった。

 言葉の意味は変なものではない。純粋に僕を心配しての言葉だと思う。

 だけど声に込められた意味は僕が思う以上に感じる。

 

「あなたの選択は私の選択。あなたの望みは私の望み。将来的に私はそうなりたいです」

「僕はそんなのをカフェに求めていないよ。求めるとすれば、多くの友達を作って欲しいかな」

「いりません、そんなの。あなたとタキオンさん、私にしか見えない"お友達"だけいればいいんです」

 

 僕は横向きになり、寝る前に真面目な話をしようとする。

 でも目の前には鼻と鼻がくっついたほどの近さでカフェが僕の目を見つめていた。

 慌てて距離を取ろうとしたけど、できなかった。

 カフェのすべすべとした足が壊れ物でもさわるかのように優しく僕の足に巻き付き、手をそっと首に回してきたから。

 こんなふうに足がふれるといったことは初めてで、今日のカフェはいつもと違うことに心配する気持ちが大きい。

 強い眠気に耐えて話をする。何よりも大事なのはカフェの体調だから。

 密着してくるカフェでドキドキしてエッチな気持ちは心の奥底に封印しておく。それはもう厳重に。

 

「今日は調子悪い?」

「ただ寂しいだけです。"お友達"はタキオンさんの『月の満ち欠けによる運動能力の違い』という研究に興味があると言って出かけました」

 

 いつもはカフェの"お友達"がいるから、僕との関係が進みすぎないようにセーブしてくれる。

 それは窓ガラスにヒビが入るとか、ポルターガイスト、ラップ音といった心霊現象で。

 

「カフェが学園を卒業するまで走ることを見捨てないよ」

「卒業したら終わりになるんですか」

 

 カフェは鼻と鼻がふれあうほどに顔を近づけると同時に僕の首に回す手の力を強くする。

 少し息苦しくなりながらも首を横に振り、今まで言ったことのなかったことを言う。

 

「言葉が悪かったね。卒業したあとはカフェの気持ち次第で、その、あぁー……明日でいいかな?」

「ダメです。言ってください。そうでないと私、ひどいことをしてしまいそうで」

「じゃあ言うけど。……その、愛の告白というのをしようかと考えていて」

「いいですよ。結婚を前提としてお付き合いをしましょう」

「今のは告白したわけじゃなくて」

「未来にする予定があるなら今しても変わらないと思います」

「カフェ、近い」

 

 耳をぴこぴこと激しく動かしているカフェは僕の胸へと顔をうずめて抱きしめる形になったが、その顔を両手で押し出して強引に突き放す。

 告白していないけど、カフェから恋人になる返事をもらえたのは嬉しい。

 でもまだ早すぎる。今は友達以上恋人未満でいないと色々と我慢できなくなる。

 ……我慢するなら、そもそも家の鍵を渡すなと言われそうだけど。僕もカフェと一緒にいたかったから出来心で渡してしまったんだ。

 

「話はあとでするから寝よう。意識があやふやだから、忘れてしまったらごめんね」

「そうなっていたら私が思い出させてあげます。……それではおやすみなさい」

 

 そう言ったカフェは僕から体を離し、頬を大事なものを扱うかのように一撫でしてから自分の布団に戻った。

 ようやく静かになったものの、僕の心臓はカフェの告白を思い出してバクバクと動いている。

 でもそれも時間が経つにつれて収まり、僕の目はゆっくりと閉じていく。

 そしてあっというまに眠りについた。

 

 

 ◇

 

 

 顔に強い日差しを感じ、暑苦しさを覚えながら目を開ける。

 壁にかけてある時計を見ると、午前5時30分。

 しょぼしょぼとする目を指でこすり、大きなあくびと共に起き上がる。

 その時に手に重さを感じ、寝ているカフェと手を繋いでいたことに気づく。

 カフェの眠るかわいい姿を見ながら手の甲を撫でると、一瞬だけ笑みを浮かべた。

 

 昨日、寝る寸前の記憶はちょっとだけ覚えていないけど、告白しあったことだけはわかる。

 ちゃんとした告白ではなく、カフェが将来結婚したいという話だったはずだ。そして僕は先送り。

 まだ16歳の子供に対し、大人として正しい対応ができたと思う。

 カフェはまだ幼く、精神がもう少し成長してからの言葉だと僕もカフェを受け入れるつもりだ。

 それまで自分の恋愛感情を抑えて指導者として上手に対応できるかは難しいかもしれないけど。

 ダメだとなったらタキオンの実験薬を飲んで自分への罰としよう。

 

 恋人繋ぎで絡んでいる指をほどいて上半身を起こし、カフェを見ながらぼぅっと意識が覚醒していくのを待つ。

 そうしてカフェを見ていると朝日にあたって輝く黒の髪が魅力的で、つい手を伸ばしてさわってしまう。

 絹糸のように柔らかく、手で持ち上げると水のようにさらさらと手からこぼれて行くのを見ると笑みがこぼれてしまう。

 

「いつも優しくしてくれてありがとう」

「そう言っていただけて嬉しいです」

 

 褒めた途端、目が急に開いて目があったことにひどく驚いておおげさに髪から手を離す。

 でもカフェが素早く僕の手を両手で掴むと手の平に優しい口づけをしてきた。

 

「ずいぶんと積極的だね」

「気持ちを伝えたから、積極的になっていこうと思いまして」

 

 突然のことに混乱しながらも、手の平にキスする意味はなんだったかと思い出そうとする。

 そうしている間にカフェは起き上がり、僕を抱きしめようとしてくるので慌てて両肩を押して近づいてくるのを止めた。

 

「それはダメ。付き合ってから」

「……抱きしめ合うのはいいと思いますけど」

「きちんと線引きをしないとダメだよ」

「泊まっている時点で理由としては弱いですが」

 

 自分でもそう思うけど、ダメなのはダメだ。

 このまま話をしていると言いくるめられるので、急いで指をほどくと布団から立ち上がる。

 カフェも僕に続いて立ち上がり、一緒に洗面台へ行って顔を洗う。

 その後、今日1日は何も予定がないため、漫画本一冊ほどの距離を取って一緒に並んで座りテレビを見る。

 

「一緒に起きるというのは恋人も同然だと思いませんか?」

「添い寝フレンド。略してソフレというのもあるから恋人とは限らないよ」

「わかりました。トレーナーさんが私の恋人になりたくなるまで静かに行動しますね」

「僕の評判が落ちないようにして欲しいなぁ」

「それはもちろんです」

 

 少しの間テレビを見ていると、ふとカフェは何かを思い出して立ち上がるとキッチンへと行く。

 不思議に思ってついていくと冷蔵庫を開けて中にある材料を取り出している。

 

「あの、朝ごはんを作るだけなのでトレーナーさんはテレビを見ていてください」

「作ってもらってばかりだから今日は僕がしようか?」

「私が恩返しをできるのはこれぐらいだけですから。そして将来の妻として夫のご飯を作るのはごく当然のことです」

 

 真面目な表情をしてかっこいい顔になるけど、さりげなく結婚することを確定としているのはどうかと思う。

 お互い時間が経つうちに好きな相手が変わるかもしれないし、予定を決めて生きていくのは意識してしまって生きづらくなる気がする。

 そんな考えが表情に出ていたのか、カフェは持っていた野菜を置いて僕から少しだけ距離を取る。

 そうして僕の前でくるりとゆっくり一回転をし、素敵な髪がふんわりへ浮かぶ。

 僕は髪に注意を引かれて見つめていると、カフェは小さく笑い声を漏らす。

 

「私は自慢の髪を見てもらいたい。あなたは私の髪を見たい。だから大丈夫ですよ」

「性格が好きだから大丈夫と言うものじゃないか、普通は」

「だって私がいないと、トレーナーさんは生きるのに苦労するじゃないですか。全部私に任せてくれればいいんです」

 

 最後に掃除をしたのはいつだろう?

 気がつくと窓ガラスは綺麗になっていて、洗濯物は洗われている。僕は家に帰ってご飯を食べて寝るだけだ。

 スーパーに行ったのは? 

 行ったとしてもカフェと一緒だ。1人で買い物に行くことなんて学園の購買しかない。お財布は渡していないものの、近いうちに毎回お金を渡すのが面倒になって預けてしまうだろう。

 

「生活能力がない人と結婚してくれる女性は私ぐらいしかいませんよ。仕事以外は私に任せてくれればいいんです」

 

 計算して行動していたという事実に気づき、怖くて体が震える。

 僕は1人暮らしをしていたと思っていたけど、カフェに頼りきりになっていた。僕とカフェが一緒に寝る日も増え、同棲に近いと言えるかもしれない。

 恋人ならそれでもいいけど、そうでない僕とカフェでは依存関係になっているんじゃないか。

 ……でも一緒にいて気楽なカフェとなら堕落する生活をしてもいいか。

 カフェの暗さと重さを感じる、濁った瞳を見つめながら僕はそう思った。




地の文について勉強。
今までよりも読みやすくなったと思います。
面白さも増えていると嬉しいですね。


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22.メジロドーベル『あなたに好きという気持ちを届けたい』

 夏の合宿が終わり、学園に帰ってきてから4日が経つ。

 平日である今日の午前は1人ピーマンの収穫をしていた。

 トレーナーなのに、お前はいったい何をしているんだとよく言われる。

 聞かれた人に毎回言っているけど、何かの用事で生徒会室へ行ったときにエアグルーヴと雑談をしていたら一緒に畑を作って管理することになっていたんだ。

 それも少し手間がかかる減農薬で。なんでも自然に優しいのをやってみたいと言ってきたから。

 俺としては薬でばしゃーってやんないと虫が大量発生する印象だったが、今の機会じゃないと育てることもないかと思ってやった。

 そのあとはやる気があるエアグルーヴに負けて1年目を過ぎて2年目も協力をすることに。

 でも手間がかっても自分たちの手で育てるというのは意外と楽しかった。

 

 畑を始めた当時は本業も忙しくなく、先輩トレーナーから任された担当ウマ娘はデビューしたばかりのメジロドーベル1人だけ。

 男が苦手でうまくコミュニケーションができず悩んでいた当時は気分転換の趣味として始めることができたのはよかった。

 ピーマンを育てつつエアグルーヴに愚痴や相談をし、一緒に農業雑誌やネットで勉強をしてはマルチを張り、土寄せや剪定などもやった。

 そうしてストレス発散と、覚えた知識を使って野菜の成果を見るのは中々に楽しいものだ。

 

 今年でピーマンを育てて2年目だが、去年よりも上手にできていると思う。

 取れたものはエアグルーヴへ後で持っていくことにして、気分よく昼休みへと入れた。

 昼ご飯を食べ終わりジャージ姿の俺は冷房がよく効いているトレーナー室で涼んでいると、昼休みが半分を過ぎた頃に制服姿のドーベルが小さな手提げバッグを持ってやってきた。

 普段は控えめだけど、今日は強いノック音と共に部屋へと入る。

 ドーベルは腰まである長さのまっすぐな黒髪がふわりと揺れて気の強そうな、でも一瞬にして弱々しくなった目で俺を見てくる。

 

「その、トレーナーにお願いがあるんだけど」

 

 ソファーに深く腰掛けていた俺から、人ひとりぶんの距離を取って座ったドーベルは俺から目をそらし、申し訳なさそうに言ってくる。

 俺はそのままドーベルに話を続けさせ、5分ほどの落ち着きがない話をしてきた割には用件はシンプルなことだった。

 漫画でやりたいシーンがあるけど、自分で調べてもよくわからないということ。

 ドーベルは男が苦手ということもあって、出会った時からうまく要点を言えないことがある。

 担当になって今年で3年目にもなると、全部ではないものの仲が良くなってくると何を言いたいかわかることが増えてきた。

 特にドーベルが漫画を描くのを隠していることを偶然知ってからは同じ少女漫画好きということもあって漫画の話題をすることが多くなった。

 

「ラブレターの書き方を知りたいということだな?」

「そう。自分で考えてもよくわからない文章になるの。それに手書きだとどうすればいいかわからなくて」

 

その言葉を聞いた瞬間、胸にズキリと鋭い痛みを感じるもののなぜかがわからない。

きっと親離れしていく子供みたいに思ったんだろう。

 

「トレーナー?」

「いや、なんでもない。ドーベルとレース以外の話をするのはあまりないから驚いたんだ」

 

 走ること以外だと頼ってこないドーベルだからこういうのはあまりない。

 ドーベルとはレースでしか関係のないビジネスライクな感じだから、こういうふうに頼られるのは嬉しい。

 だからといって気合を入れると嫌がられるに違いないから、あまり興味のないふうにしないとな。

 できれば頼れる大人として活躍したいところだが、ラブレターなんて高校生の頃に2度もらっただけで書いたことがないから役に立つかは怪しいが。

 しかし、ドーベルに好きな人ができたか……。

 まるで自分の妹に好きな人ができたようで、嬉しい気分だ。

 だけどもそんな様子を察したのか、ドーベルは慌てて大きな声で言ってくる。

 

「好きな男ができたのか。レースに影響が出なければ――――」

「別に好きな人がいるとかじゃなくて! ……漫画を描くのにいまいちわからないの」

 

 こんなに寂しくなったのは初めてで、ちょっとだけ落ち込んで言っているとドーベルが声を張り上げて俺を止める。

 耳も尻尾も怒った様子だ。

 これほどまでに怒るのは、漫画に真剣な気持ちを持っているドーベルだからこそだ。

 ついからかってしまいたくなるが、それはエアグルーヴにでもやることにしよう。

 

「わかった。わかっているから。ドーベルが男を好きにならないってのは」

「別にそういうわけじゃ……。いえ、それは別にどうだっていいの。告白された経験ある大人としてあなたに手伝って欲しくて」

「それほど恋愛したわけでもないんだが」

「エアグルーヴ先輩に聞いたの。あなたが高校生の頃、3度告白されて2回は手紙だったって。でも恋人は作らず、今もいない」

 

 その話をされた途端、俺は痛みのあまりに両手で胸を素早く押さえる。

 年下の子に24歳というおっさんの俺が恋愛話をなんでしてしまったのか、今でも後悔して思い出すと辛い。

 あの時は1年前のすごく暑い日に、エアグルーヴと一緒に剪定作業をしていた時だった。

 ラジオを聴きながら草取りやっていた時に、アナウンサーが恋愛の話が流れていた。

 暑さで理性が弱まっていた俺は、ラジオが流れていたとはいえエアグルーヴにしては脈絡なく俺の恋愛関係について聞いてきた。

 恋人と有無、恋愛経験、好きな女性のタイプなど。

 聞かれるまま全部答え、そのあとに「俺が好きなのか?」とからかったら「たわけ!」の怒声と共に使っていた軍手を投げつけられたのは今でもよく思い出せる。

 それぐらい気安い関係だったとはいえ、ドーベルに全部話されると恥ずかしい。

 

「他の人に言わないでくれよ。今まで恋人がいなかったってことは秘密にしたい」

「どうして?」

「女性と仲良くなれなかったなんて恥ずかしいじゃないか」

「そうは思わないけど。告白を3度もされたんだから魅力的な人よ。……アタシだって悪くは思っていないし」」

 

 俺をからかっているのかとも思ったが、耳や尻尾、表情を見ると落ち着きなくそわそわしているだけだ。

 ドーベルに嫌われてないことを言葉として言われて安心する。それも好意的に見られているのが嬉しい。

 その嬉しさが表情に出てしまい、ドーベルからすごく変な目で見られたので深呼吸して顔を無表情にする。

 

「それでラブレターの書き方とは言うが、何を手伝えばいいんだ?」

「男の人はどういう状況で、どんなことが書かれていたら嬉しいかを教えて欲しいの」

「それならできるな。放課後にやるか?」

「今がいい」

 

 昼休みもあと20分で終わるから、放課後と提案したがドーベルからは強くはっきりした口調で"今"と言われた。

 そんなにも急ぎとなるなら、ラブレターを使う漫画は賞に出す、誰かに見せるといった大事なものなんだろう。

 

「ドーベルがそういうなら。それで俺がするアドバイスでいいか? 全部考えると俺のラブレターになってしまうだろう?」

「それはもちろん。アタシ1人で考えると遠まわしな文章になっちゃって」

「告白なら全部が直球てわけでもないし、遠まわしでもいいと思うが。まぁ、ひとまずやってみようか」

「それもそうね。机、借りるから」

 

 俺がそう言うとドーベルはソファーから俺が普段使っている机へ行って椅子に座ると、紙とシャープペンを出した。

 さて、最初のアドバイスはどうするか。

 そう考えたところで誰に送るかさえも聞いていなかったことに気づく。

 

「ところで主人公は何歳で、相手はどうなんだ?」

「手紙を渡す子は女子高生で17歳。渡す相手は25……ううん、27歳の男の人」

「結構歳の差があるな。そうなると言葉を飾らないほうがいいだろ」

「そういうものなの?」

「男からすれば、年下の子から告白されるなら装飾された言葉よりまっすぐなほうがいい」

 

 高校生の頃に渡されたラブレターを思い出し、かわいい封筒の中に入っていた紙に書かれていたのはわかりやすくシンプルな文章だった。

 あれには心を動かされたが、知らない女の子だから振った。

 返事も丁寧じゃなく、告白された恥ずかしさから雑になってしまったのは反省している。

 その経験を活かして告白設定を上手に作らないとな。

 

「性格の設定は?」

「面倒くさがりなのに心配性で世話好きな人」

「そういう男は不幸を引っ張ってきそうだからやめたほうがいいと言いたくなるな」

「なによ。好きになったんだからいいでしょ……。あ、主人公の女の子がね!?」

 

 俺が女だったら、そんな男とは友達までの付き合いしかしない。

 そう思っているから自然とラブレターの文章を考える、という前提すら放棄しようとしていた。

 それに焦ったのか、ドーベルはすごい勢いで慌てている。

 

「今のは悪かった。その主人公は男をすごい好きということなんだな?」

「うん。2年間片想いしているの」

 

 ドーベルがほっぺたを恥ずかしさで赤く染めているのを見ると、自分が考えた設定を言うというのは相談だとしても言いづらいらしい。

 それでも俺に頼ってくれたのは嬉しく、このまま仲のいい関係で担当契約を終わらせたい。

 ……しかし、こういうドーベルを見たことがないから、すんごくかわいく見える。漫画の設定じゃなく、まるでドーベル自身が恋愛しているのかと錯覚するほどに。

 恋すると美人になる、というのを聞いたことはあるが、こういうことなのかと理解した瞬間だ。

 

「それくらい片想いしているんだから、幼馴染か?」

「ううん、違う。ええと……陸上部のOBで一緒に色々教えてもらったっていう設定」

「なんでそこで止まるんだよ。設定を詰めていないのか?」

「まだプロットの途中だから。ラブレターをどうにかしないと行動の仕方がわからないから」

「そういうものか。しかし、そこまでだと仲がいいからラブレターじゃなくてもいい気がするんだがなぁ」

「主人公の設定は自分に自信がなくて怖がりな子なの」

 

 小さな声で困ったふうにいうドーベル。

 そうなるとおとなしめな主人公にはやっぱりラブレターのほうがいいだろう。

 スマホで手軽に告白ができる時代で、手書きの手紙というのはもらうほうも嬉しくなる。

 文字に感情がこもっているからな。

 

「これくらい情報があると考えられるな。だが、先にドーベル自身が書いたのを見たい」

「え、あたしの? 書けないからお願いしているんだけど……」

「ドーベルがどう書いたかを元にアドバイスするんだ。ひとまずシンプルに書いてみてくれ。」

「それもそうね」

 

 そう言ったドーベルは真剣な表情で机へ顔を向けると、悩むこともなく紙にさらさらと書いていく。

 すぐに文章を書けているなら練習したのがよくわかる。ドーベルは少女漫画が好きだから、ふんわりとした感じなんだろうな。

 と、思っていたけど書き終わるのはすぐだった。

 俺をにらめつけながら渡してきた紙を見ると、書かれていた文字は『ずっとアタシを見てくれていた、あなたが好きです』と。

 じっと文章を3度読み返し、もう少しは長くしていいかもしれない。

 女子高生と陸上部OBという設定だから、どういうときに好きになった、どんなところが好きかを詳しく書いたほうが男心にときめくだろう。

 

「もう少しだけ長いほうがときめくな」

「シンプルって言ったじゃない」

「シンプルだから文章を短くする、というわけじゃないぞ」

「じゃあトレーナーならどう書くの?」

「俺の場合か」

 

 ドーベルに紙を返し、俺がこの女主人公だったらどう書くかを考える。

 女子高生らしさというのはわからないものの、好きな男に見て欲しい言葉はなんだ。

 

「走りで悩んだとき、いつどんな時でも迷惑がらずに教えてくれるのが嬉しかったです。あなたが一緒にいれば、レース前でも心が落ち着き、隣にいてくれるなら走る自信がでます。

 そんな手間のかかる私ですが、付き合ってください。と、言えば悪くはないはずだ」

「それだと男性を利用しているだけって思われない?」

「男ってのは利用されるというか、頼られるのがすごい好きな生き物なんだよ。俺でも好意を持っている相手からだったら恋人になってしまうだろうな」

「…………そういうものなの?」

「もちろん」

 

 長い沈黙のあと、ドーベルが俺から目をそらし、でもちらちらとなぜか恥ずかしそうに見てくるのがかわいい。

 俺が言ったことはそんなに恥ずかしかったか? おっさん的だと思われてしまっただろうが、俺の年代的にはこうなるはずだ。

 他の20代や30代前半あたりの男もこういう感じが好きなはず。

 たぶん。きっと。

 

「とても参考になった。これでいいのが書けると思う」

「助けになったらよかった。あとは付き合って何がしたいとかも書けば、いや、今のは忘れてくれ。言い過ぎた」

「別に気にしてないし、そういうのを書いてもいいのね」

「ああ」

 

 休み時間が終わるまであと5分だが、ドーベルは真剣な様子で机に向かって考え始めた。

 さっきとは違う、おしゃれなデザインの紙を用意して。

 漫画に使うラブレターの内容ならノートに書けばいいのに、ここまで本物と同じ状況を再現するなんて。

 細部にこだわるのはいいものだ。

 でも書き始めてすぐではあるが、声をかけて教室へ帰らせたい。でも邪魔をすると怒られるだろうし、遅刻する理由付けとしては俺に引き留められたことにしておくか。

 ドーベルの真面目な姿を見つつ、いなくなるまでは俺も静かにしているかとソファへ横になる。

 

 チャイムが鳴ると同時に「できた!」という元気な声が聞こえる。

 顔だけ向けると、満足感たっぷりな顔をしたドーベルと目があった。

 

「できたか」

「うん。ありがとね、トレーナー。それで後は渡すタイミングなんだけど」

「タイミングか。同級生なら机の中や下駄箱だが。あとはふたりきりの時でいいんじゃないか?」

「ムードとかそういうのは考えなくていいの?」

「告白するのにそこまで考え過ぎなくてもいいだろ。静かな場所であれば」

 

 ドーベルは手紙をかわいらしい封筒に入れ、デフォルメされたシールを張って止める。

 それを持って勢いよく立ち上がると、早足で俺の前に来ては顔の前へと突き出してきた。

 

「これ、あげる」

「書いたばかりのラブレターをどうすればいいんだ」

「静かでふたりきりならいいって言っていたから」

「それは言ったが」

 

 俺から目をそらし、赤くなって言っているドーベルを見ていると気づいた。

 これが俺へのラブレターだってことに。

 ってことはなんだ。今まで漫画の参考用としてやっているものだと思っていたが、渡す俺の好みを聞きながら目の前で書いていたってことだよな?

 ドーベル、渡したい相手の前で書くなんて度胸がついたな。出会った時から考えると精神の安定度が高まって……。

 違う。考えることは違う。

 これは俺のことを好きだっていうことだ。

 俺もドーベルのことは嫌いではないが、そういう恋愛対象で見てはいなかった。

 普段ツンツンしているけど、ふとした瞬間に優しくしてくるのは嬉しい。

 時間をかければ男である俺への苦手意識もなくなり、今ではふたりで街へご飯を食べに行く程度の中ではあるが。

 一緒にいると楽しいとは思う。思うが!

 

「返事は急がなくていいから。それじゃ授業行ってくる!」

 

 ドーベルさっきまで使っていたペンを片付けると、バッグを持って全力で走ってトレーナー室からいなくなった。

 追いかける気力もなく、ドーベルがいなくなったドアをぼぅっと見つめてしまう。

 なんか恥ずかしくなってきた。

 直接言われるのとは違う恥ずかしさと、自分がドーベルを好きだったということに気づいて。



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23.シンボリルドルフ『僕のことが好きで照れ隠しとして説教をしてくるルドルフに迫られて胃が痛い』

嫌われが少しあります。


 ウマ娘たちが学校の授業を終え、ジャージに着替えてトレーニングが始まって少したった頃。

 走る基礎を教える教官の助手として副教官の職を得ている僕は畑作業をしていた。

 広さはテニスコート4面分。理事長に言われて去年から作り始めたニンジン畑だ。

 

 本来は僕の仕事ではないものの、就職したばかりだったのと若いからという理由で流れで任されてしまった。

 高校を卒業後、2年間勉強した専門学校ではウマ娘のことだけ。

 副教官という職業の都合上、暇になる時間は多く、そのあいだに農作業について勉強をした。

 用意した道具は理事のポケットマネーで、労力は自分が学んでいる教官のもとでトレーニングをしているウマ娘たちだ。

 トレセン学校に入ったばかりの彼女たちは不思議に思い、または嫌そうにしながらも手伝ってくれた。

 

 今年で2回目だから去年よりも作業は手際よくなり、ついでに僕の体も筋肉質になった。

 そうして彼女たちが5月はじめから9月終わりの夕方までちょこちょこ手伝ってくれた畑。

 朝から俺が収穫作業をして午後からは今いる子たちの手伝いもあった。そしてたった今、作業を終えた。

 

「収穫完了!!」

 

 疲れながらも収穫できた喜びの叫び声をあげると、俺に合わせて畑のあちこちで「かんりょー!」と6人のウマ娘たちが元気に大声をあげてくれる。

 他にも手伝ってくれた子たちはいるけど、その子たちは今、教官の指導を受けてトレーニング中だ。

 ここの子たちは教官が1度に見られない子たち。自主練だけだと飽きるから、教官の許可をもらって今日まで作業をしてもらっていた。

 収穫したニンジンは理事長に持っていくのと、持っていくのにダメそうなのは自分たちで食べる。

 

 そのため、収穫用コンテナに入れたニンジンたちは僕に与えられている、グラウンド近くにあるトレーナー用の部屋へといったん持っていく。

 ウマ娘たちと一緒に運び入れていくニンジンは明日選別をしてから、それぞれに配る予定だ。

 土に汚れたウマ娘たちは自分で育て、収穫したニンジンにきらきらした目で見たあとに僕へ大きく手を振って練習へと戻っていった。

 特別に理事長から与えられた僕だけの小さな部屋。

 その中にあるのは農作業道具、ニンジンが入ったコンテナ。ウマ娘に関する本とウマ娘たちにあげるお菓子が入っている本棚が3つ。あとは僕の作業用デスクと椅子。ノートPC。

 他には僕個人が持参した小さな冷蔵庫。

 半分物置になっているけど、これが僕の作業場だ。

 

 部屋のエアコンを付け、机の上に置いてあるタオルで体と短い髪を拭き、冷蔵庫で冷たいスポーツドリンクを飲む。

 そうしてから椅子に座り、大きく息をつく。

 20歳でトレセン学園に就職し、教官で親戚のおばさんの下で将来教官になるために僕は学んでいく。

 

 ……という予定だったんだけど。理事長に会ったら農作業のことや事業拡張計画に巻き込まれ、親戚の教官からは兼任している教師で疲れているということもあって、ウマ娘に関する多くの事務仕事を任された。

 おかげでトレセン学園の人たちと顔を繋ぎ、広い仕事の経験をできたのはいいのだけれど。

 きちんとウマ娘のトレーニングを直接教えたいという気持ちが強い。

 今の僕は22歳。まだ焦るべきじゃないけど、早く成長したいという気持ちが強くなりすぎてしまっている。

 ウマ娘たちのためにバーベキューのやりかたや、お出かけの送迎をするのも仕事としてはいいんだけど。

 

 トレセン学園に就職できただけでも、満足すべきだよなぁとため息をつきながらPCの電源を立ち上げると、教官から任されている僕の事務仕事を始めていく。

 いや、その前にあさってニンジンを料理するための食堂申請のデータが先か。

 その後は農作業の過程や収穫の成果、各ウマ娘のトレーニングスケジュール設定、一緒に農作業したウマ娘たちの精神状態の文章化。

 必要な物品の申請。それと教官がメモ書きしたのも文章化が必要だな。

 

 頭の中で優先順位をつけ、机の上にある付箋紙にそれを書くとモニタのはじっこに張り付けておく。

 急ぎの仕事ではないけど、全部合わせるとなかなかの業務量となる。

 仕事を片付ける要領がよくないから、どの仕事もよく時間がかかってしまうのが少し悩みどころ。

 そう思いながらもカタカタとノートPCのキーを叩いていく。

 

 畑作業を終えた時はすっきりとした気分だったものの、仕事を続けていくうちに段々と気分が悪くなってくる。

 仕事が嫌とかそんなのじゃない。

 そろそろ『彼女』が来る時間かなと思ったから。

 壁掛け時計を見ると、時刻は4時50分。

 今日のトレーニングはどれだけ時間がかかるかわからないけど、20分以内には来そうな気がする。

 

 そう思ってしまった途端、ひどく憂鬱になり大きなため息をついてしまった。

 僕が仕事を貯めている様子がわかったら、きっと説教をしてくるんだろう。

 あとはウマ娘たちにトレーニングをさせずに農作業をさせているのはいったいどういうわけだ、と。

 

 農作業については理事長と教官の許可があるけど、ウマ娘がトレーニングをしないことが、というよりも僕のなにもかもが気になってしまうようだ。

 ダメ出しを色々と出される僕にとっての癒しといえば、ウマ娘たちのふりふりと動く尻尾。いや、それよりもシービーと気楽に話すのが楽しい。

 ……長い時間、話をしているとどこからともなく『彼女』がやってきて話に混ざってくるのが胃に痛いとこだけど。

 

 『彼女』のことを考えると、恐怖と焦りがやってきて以前、精神の疲れで1度吐いたことを思い出す。 

 僕としては楽しく話せるぐらいに仲良くなりたいんだけど。

 そう思い、苦しみながらも農作業関連の提出データを終えると同時に部屋の扉が静かに開く。

 その音に僕はビクリと体を強く震わせ、すぐに開いた方向を見る。

 そこには僕の苦手な『彼女』で、ジャージ姿で練習を終えたらしいシンボリルドルフが立っていた。

 

「やぁ、副教官。君の様子を見にきたよ」

「……トレーニングが終わったのかい?」

「だから、ここにいるんだろう? 私はトレーニングを投げ出すなんてことはしないよ」

 

 爽やかな雰囲気だけれども、その声を聞くと僕をいじめに来たんじゃないかと想像してしまう。

 そういうのは今までないけれど、僕と彼女が出会ってから仕事をよく見に来られるから緊張する。

 

 その恐れる対象である子は中等部1年で9歳年下だ。

 ルドルフはデビューしてないながらも、すでに注目度が高い。

 名門のシンボリ家で、トレセン学園に入る前から能力の高さで3冠ウマ娘の期待値が高く、話題性が強い。

 また面倒見の良さや責任感から中等部をまとめていると言われている。

 

 歳の差が9歳で180㎝の僕とは10㎝少しの差があるけど、そういう大人と子供の差があっても恐れてしまう。

 尻尾の毛1本1本から威圧感があるシンボリルドルフは部屋に入ってくると、近くに置いてあった椅子を取ってひとり分ほどの距離を開けて隣へと座ってくる。

 

「作業画面を見てもいいかな」

「ん、あぁ。大丈夫」

 

 会話をするだけでも一気に僕の緊張が増えるが、彼女は僕の様子を気にすることなく僕のノートPCの画面をのぞき込む。

 今の画面は理事長に向けて出す、ニンジンの育成結果の文書だ。

 本当は仕事のものだから見せないほうがいいんだけど、生徒の個人情報じゃないから抵抗することなく見せてしまう。

 

「これで今日の仕事は終わったのかい?」

「まだだよ。さっきニンジンの収穫が終わったばかりだから」

 

 そう言ったら、大きなため息が返事になった。

 それに僕は恐怖でぶるりと体が大きく震える。

 

「いつも言っていることだが、君は仕事の要領がよくない。効率よくやって、時間を作れるようにならないとウマ娘のトレーニングを任せてもらえないと思うのだが」

「わかっているけど、仕事は丁寧にやるものだと思うんだ。それにウマ娘たちと農作業をするのは僕にとって癒しの時間だから、予定外のこともしちゃって」

「癒し? 理事長から任されているのはニンジンを育てることだが、それの何が癒しになるんだい?」

 

 僕をぎろりとにらみ、少しだけ耳を後ろに絞って怒っている様子だ。

 失言だった。

 仕事が楽しい、といえば怒られることもなかった。でもウマ娘たちと作業するのが癒しだなんて言ったから、怒っているんだろう。

 シンボリルドルフも優先的にする練習がない時は一緒に作業することはあるけど、その場合は毎回僕の隣にぴったりとくっついてくる。

 嫌がらせをしてくるわけじゃないけど、僕が何をするにしても一緒に来て、一緒の仕事をする。

 僕が普段からさぼっているように思われているのか、監視をしてくる。だから、他のウマ娘たちと雑談はできず、作業に関する話しかできない。

 シンボリルドルフがいる時、他のウマ娘たちは僕たちに近づきたくないのか、いつも話をしに来る子さえも近づいてこない。

 

「君は何をしにここへ来ているんだい? ウマ娘たちと楽しくお喋りをすることではないだろう? 確かに会話をすることでコミュニケーションを取るのはわかる。

 君と一緒に作業をした先輩や後輩からは、話が楽しく、勉強になることがあると聞いているからね。

 でも、私は君と楽しい話をしたことも勉強になったこともない。この違いはなんだろうね」

 

 お前に監視されているからだ! なんて言いたいとこだけど、言っても状況は改善するどころか悪くなるのが容易に想像できてしまう。

 ……僕はただ、楽しく仕事をしたいだけなのに。

 女性ばかりいるトレセン学園でハーレムや恋愛をしたいという気持ちはない。

 友達や友人のような関係になりたいと思うことはあるけど。

 恋愛するなら同い年や年上にしか興味がないから、安全だと思う。そのあたりも就職するときに事前チェックされたし。

 ……親戚でもある教官を通して、僕の性癖が理事長や理事長秘書に公開されるという羞恥プレイがあったのは辛かった。

 

「聞いているのか、君。真面目に仕事を続けていないと、私や他のウマ娘たちのトレーニングを任されないぞ」

「あぁ、うん。そうだね。その通りだよ」

「……なんて覇気のない。私としては君に頑張ってもらいたいんだが」

 

 あきれたように大きくため息をついて目をつむるシンボリルドルフ。

 そう言われた僕は強く胃が痛くなり、すぐに右手でお腹を押さえる。

 シンボリルドルフと会ったばかりはこんな感じじゃなかった。

 はじめは礼儀正しくて真面目な子だと感じ、わからない部分があれば僕や教官に色々と聞く勉強熱心なことで好印象を持っていた。

 でも次第に多くのウマ娘たちと一緒の時間を過ごすうちに、4月に入学してて8月あたりから僕へと厳しくなっていた。

 

 昔はルドルフと呼んでいたけど、今ではシンボリルドルフと呼んでいる。

 別にそう呼べと言われたわけじゃなく、僕自身より年上な精神年齢の気がして呼び捨てだと気がひけたから。

 気分が最低限に近い状態になりながらも、僕は文句を言われないうちに仕事を始める。

 見られても大丈夫な、購入物品のリスト作成を。

 表計算ソフトを立ち上げ、打ち込みを始めると横にいるシンボリルドルフが不満そうな気配を出し始めた。

 

「私に聞かないのか?」

「何を?」

「私が何の練習をしてきたかを。副教官である君は予定として知っていると思うが、実際に走った者の声を聞くのも大事だと思う」

 

 目を開き、いつものようににらんでくる表情を見ると僕はノートPCを閉じて体をシンボリルドルフへと向ける。

 そして、話してくださいという姿勢になると満足そうにうなずいて話を始めた。

 

 内容はストレッチや校外ランニングといった普段のメニューと変わらないこと。でも校外で何々を見た、先輩、後輩がいい併走相手で嬉しいといったこと。

 それを相槌をしながら聞いていくけど、あまり内容は入ってこない。

 僕が思うことは早く1人になりたいという思いだ。

 それなら自分から何か用事を作って逃げればいいけど、前にそうしてカフェテリアでゆっくりしていたらバレて怒られた。

 ストーキングというわけではなく、他のウマ娘が教えてくれたとのこと。その時はシンボリルドルフの人望に驚いたものだ。

 

 別のことを考えながら、シンボリルドルフの顔や肩、足といったものを見ていく。

 中等部1年である13歳の時点で美人な顔とスタイルの良さから、将来はレースのこと以外でもメディアが放っておかないなぁと思う。

 そうして段々と僕のことを忘れていって欲しいものだ。学園内であっても話しかけてこないぐらいに。

 嫌いというわけじゃない。ただ怖いだけ。

 自分が要領よく仕事しないのはわかっている。だからといって毎日のように説教をされたくはない。

 今は自分自身のことを一方的に話をしてくるし、きちんとした会話をしたい。

 

 ……いや、きっと僕を好きでないだろうから難しいかな。こうやって近づいてくるのは僕に不信感を持っているのと、何かしでかさないかと監視をする意味でだと思う。

 僕みたいに若い人は少ないし。何が気に入らないか聞きたいけど、それでまた怒られるのも嫌だから現状維持となって耐えるだけ。

 他のウマ娘との会話が日々の癒しだ。

 

 耳は話を聞いて頭では現実逃避な思考をしていると、ふと話が止まった。

 意識を戻すと、話したいことは終わったらしい。

 そのことに安心し、でも会話も動きもなく見つめあっているだけの静寂の時間は心地よくはなく、シンボリルドルフも目を天井にやって口元に手を当てながらどうしようかと悩んでいる様子だ。

 僕もこれからどうやって1人で仕事をするか言い訳を考えないといけない。

 そう思っていると、何か思いついたらしくシンボルルドルフが目を合わせてきた。

 

「よかったら私に君の仕事を手伝えることがあったら―――」

「やぁ、ミスターキャロット。農作業が終わって疲れ切ってないかい?」

 

 言葉をさえぎりながら開いた部屋の扉。

 やってきたのはミスターシービー。

 そう、シービーだ。時々僕のことを変わった名前で呼ぶ彼女。今日の場合はニンジンの収穫作業をしたからキャロット呼びみたいだ。

 さて。この息苦しい状況にやってきた今を改めて喜ぼうと思う。

 

 シービーが来た! 扉が、扉が開いてミスターシービー! と僕の心の中では救世主のように彼女は美しく輝いている。

 彼女は中等部2年だけれど、結構話題が合うこともあって同年代のようにふれあえて僕と最も仲がいいウマ娘だ。

 

「教官が君を呼んでいたよ」

「ありがとう、シービー! それじゃあ、僕は行くから」

 

 シービーに声をかけられた僕は、逃げ道ができたと喜びながら勢いよく部屋を出ていく。恐怖から逃げれる気持ちとシービーに感謝する気持ちを胸に抱きながら。

 そしてシンボリルドルフに対し、不機嫌にされない話題を近いうちに探しておこうと考えながら。

 

 

 ◇◆◇

 

 

 今日も失敗した。

 私は副教官と仲良く話をしたいだけなのに。

 部屋に残ったのは私と、面倒見のいいシービーだ。

 先輩ではあるけど、形式ばったのは嫌だと言われたから名前は呼び捨てで敬語をしないで話せる人だ。

 

「ルドルフ、副教官と雪山で凍えそうなほどの辛い雰囲気だったけど何かあった?」

「いつもの心配をしただけだ。来てくれて助かったよ」

「あー、今日もやらかしちゃったかぁ」

「あぁ……成長しない自分が恥ずかしくてたまらないよ。彼を見ると頭で考えていたことが全部消えてしまうんだ。さっきだって一緒に農作業をしていたウマ娘に嫉妬して辛くあたってしまったぐらいなんだ」

「それは難しい気持ちだね」

 

 シービーは困った笑みを浮かべて私に近づくと、さっきまで副教官が座っていた椅子を指差して「座っていい?」と聞いてくる。

 私は少しだけ腰を浮かばせると、副教官が使っていた椅子へと座り直す。

 自分とは違う温かさが残る椅子は、ちょっとだけ落ち込んだ気持ちを癒してくれる。

 シービーは微笑みを浮かべると、私が座っていた椅子へと座った。

 

「ほんと、ルドルフは副教官のことが好きだね」

「一目惚れだからな。それから彼自身のことを知るともっと好きになった。真面目で気遣いがよく、彼が多くの人に頼られている姿なんて―――」

「待った、ストップ。長くなるでしょ、それ」

「あぁ、すまない。以前も語ったのに同じことを言いそうになるなんて」

「それはいいの。ルドルフが嬉しそうな姿を見るのは好きだからね。でもそんなに好きなら告白してから距離を詰めるっていうのもあるけど?」

 

 好きで好きでたまらない。

 あの人の声が、匂いが、仕事をしている時の雰囲気。

 最初の頃以来、自分に向けられない笑顔。

 でも、だからこそ仲がよくない今では無理なんだ。

 

「…………今日は名前すら呼んでくれなかった。今の状況でそれをしてしまうと、余計に嫌われると思わないか?」

「あの人はいい人だから、ルドルフがなんできつくなっているかを伝えられれば大丈夫だと思うけど」

「私が来るといつも怯えて緊張する。私が飲み物を持ってきても口をつけず、笑顔を向けた時にはひどく怯える。そんな彼に私は伝える勇気がないよ、シービー」

「それならさ、少し自分を変えてみるのもありじゃない?」

 

 シービーはゆっくりとした動きで、私のおでこを人差し指で軽く押してきた。

 自分を変える?

 そうすれば、彼は私のことを見てくれるんだろうか。

 

「変えると言っても見た目じゃなくて、中身のことね」

「シービーみたいに明るくフレンドリーに、ということか」

「ダメだよ、それじゃあ。アタシはアタシでルドルフはルドルフだから。人の真似をしてもうまくいかないよ」

「だったら何をすればいい。私には思いつかないんだ」

「たとえば、ギャグを言って笑わせるとか」

「ギャグ」

 

 その意外な言葉は、私はシービーが言ったことを繰り返して口に出すほどに考えたことのない答えに戸惑ってしまう。

 

「そ、ギャグ。お堅い雰囲気のルドルフに親しみやすさを出すにはそれがいいかなって。あ、別にアタシが言ったからってこれが答えじゃないからね?」

「いや、貴重な意見はありがたい。私には考え付かなかった。ひとまずそれをやって、ダメだったら新しいのに挑戦すればいい」

「恋する乙女の精神は強いね」

「あの人を私に惚れさせるには頑張らないとね。9歳差は意外にも大きな壁だ。親しくなった後は、私を女性として認識してもらいたいものだね」

 

 私は椅子から立ち上がると、さっそく思いついたギャグをシービーに見せるため、本棚へ行って副教官が置いてあるチョコ板を手に取ると冷蔵庫へ行く。

 その冷凍庫部分の扉を開き、チョコ板を入れる。

 そして私は笑みを浮かべて力強く自信を持ってシービーへと顔を向ける。

 

「チョコ冷凍」

 

 シービーは一瞬ぽかんとしたものの、小さく声をあげて笑ってくれた。

 

「お堅いイメージがあるルドルフが言うと、ギャップ差があっていいね。うん、いいと思うよ」

「そうか! これなら副教官も意外に思ってくれるか!?」

 

 副教官と1番仲のいいウマ娘であるシービーがこう言ってくれている。つまりは好印象を持ってもらえる確率が高い!

 嬉しさのあまり、私は一気にシービーに詰め寄ると両肩に手を置いて感激を伝えるように肩を掴む。

 

「顔が近い、近いって。はじめは変に思うだろうけど続けてやれば、あぁ、続けてといっても適度な間隔でね?」

「そのあたりは気をつけるとも」

「私はいいと思ったけど、反応が悪かったらすぐに引くんだよ?」

「……これがダメだったら私は元の私に戻ってしまうんだが」

「いや、他にも色々とあるよ? 耳かき、ASMR的なささやき、マッサージ、ご飯を作ってあげる、お菓子をプレゼントとか。でも1番は……」

「1番はなんだ? 難しいのか?」

「んー、まぁ、ルドルフが照れ隠しの説教やにらみをしないで、素直に好意を伝えられればいいんだけど」

「……努力する」

 

 彼の顔を見ると、考えていたことが全部吹っ飛んでしまう。

 そして恥ずかしがっている弱い私を見せたくないあまりに、彼のささいな失敗や欠点を見つけては説教をしてしまう。

 また彼が他のウマ娘と一緒にいたときは、胸のあたりが針で突き刺したように痛く、痛みをごまかすために他のウマ娘への態度に文句をつけてしまう。

 彼は優しい人だというのに、自分がうまくできないのが恥ずかしい。

 考える時間の多くは彼のことで、彼のことを思い出すだけで尻尾が自然と興奮で揺れてしまう。

 




素直になれない恋する乙女という方向性で書いていたんです。
でも思ったより厳しくなって。


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24.ナリタブライアン『熱は指先からやってくる』

R15


 狭いトレーナー室にいるのはスーツ姿の俺と、今日は休みのために長袖制服姿なブライアンのふたりだけ。

 窓を開けて網戸で部屋を涼しくしている、10月にしては暑い日。

 窓の外から聞こえるトレーナーやウマ娘たちの声を耳にし、俺たちはお互い静かに過ごす。

 ブライアンはソファーで力なく座り、マヤノトップガンに渡された女性向けファッション誌を興味なさそうに読んでいる。 

 俺はというと、机に向かっって過去のトレーナーたちがウマ娘と不純異性交遊で処分を受けた始末書を読んでいる。

 同じ男性として女性の魅力に負けないようにしないといけない。

 メディアやファンによって、人生が大きく変わるからだ。ウマ娘への恋愛ごとは好意的に見ることが多いと言えども。

 健全な恋愛ならいいが、行き過ぎたのはよくない。

 

 始末書だけでなく、恋愛に関連する提案書も持ってきてある。

 男女共にトレーナーが育児休暇を取った時の担当しているウマ娘の扱いについての提案書も興味深い。

 それと提案書なのに、カレーのレシピしか書いていないとはどういうことだと不思議に思う。レシピを書いた人は多数のウマ娘を育成して、これがよく役に立ったとあとがきにはあったけど。

 これらはウマ娘との関係について役に立つ。 

 

 俺は担当ウマ娘であるブライアンには女性的魅力はまったく感じないが、将来チームを持ったときに今から気をつけておかないとボロが出てしまう。

 学園にいるウマ娘と恋愛するなら、相手が成人年齢である18歳を過ぎてから堂々と付き合うのがいいとも文書に書いてあった。

 考えると、理想の関係は友達以上恋人未満という関係なんだろうか。

 すでに結婚や恋人がいてもウマ娘は恋愛に積極的な子が多いから対策をしておかないとまずいと強く書かれている。

 トレーナーが気づかないだけで、ウマ娘はあなたに恋をしているかも、とも書かれてある。

 

 ブライアンが俺に恋ねぇ……。

 首だけをブライアンが座るソファーへ向けると、ブライアンはわずかに目を合わせて不審そうな目で見つめ返してきたあと、すぐに読書へと戻った。

 今の反応だけでも、友情以上の気持ちは俺に感じてないだろう。よくて兄とかだろうか。

 ブライアンがイケメンで男装が似合いそうだから、俺からすれば弟にも思えるし。

 それに俺とブライアンの年齢差は10歳差。27歳になるおっさんではなく、若くて気が強い男のほうが好みのはずだ。

 ブライアンと恋愛に関する話はしたことがないから、好みは推測になるが。

 ブライアンを眺めつつ、部屋を通っていく心地よい秋風を感じながら紙をめくる時、不意に紙の端で指を切ってしまう。

 

「いっ……てぇ……」

 

 その痛みについ声を出してしまうも、ブライアンがいる手前、恥ずかしくないようになんとか声を抑えることに成功する。

 小さい傷ながらも痛む右手の人差し指を見ていると、傷口から血がにじみはじめて薄く血が指先から流れ始めていく。

 

「どうした」

「指を切っただけだ」

 

 これなら浅い傷だから保健室に行かなくてもいい。

 自分でちょいと手当すればいいが、医療キットはどこにしまっただろうか。

 

「なんだ、治療しないのか」

「なぁ、医療キットはどこにしまったかわかるか?」

「ないのか? ……仕方ない」

 

 ブライアンはあきれたため息をつき、雑誌を置いて立ち上がると乱雑に置いてある棚へ目を向ける。

 でもウマ耳をぐるぐると動かしながら何か考え事をしたあとに、俺をまっすぐに見つめてくる。

 なんでか恥ずかしがるような顔をしたあと、ピンとウマ耳をまっすぐに立てては椅子に座っている俺のすぐ目の前へ足早に来る。

 じっと俺を見下ろしてきたあとは、が血を流している両手でそっと握ってきた。

 

「待て、何をするつもりだ」

「怪我をしたらすぐに治す。お前だって私に口うるさく言っているじゃないか」

「それとこれとは違っ―――」

 

 ブライアンは俺の言葉を最後まで聞かず、すばやく俺の指を自身の口へと入れた。俺が抵抗する時間もなく。

 温かく、ぬるりとした舌の感触は背筋にびりりと電流が走り、初めて体験する気持ちよさがあった。

 

「ん……む……、ん……」

 

 俺の指を口に入れてから目をつむっているブライアンは、時々色っぽい声を出しながら傷口を丁寧になめてくれる。

 だが、そのブライアンが色っぽくて俺はつばを飲んでから大きく首を動かして視界から外す。

 今までブライアンのことを綺麗、かわいいと思ったことはあった。だが、こういう色っぽく感じたのは初めてだ。

 別に性的なことをしているわけでもないのに。

 ただ治療として指をなめているだけ。それだけなんだ。

 

「もういいんじゃないか、ブライアン」

 

 興奮してきた自分を抑えながらそう言うと、ちらりと視線を動かすと口の動きを止めたブライアンと目が合った。

 ブライアンはゆっくりと口を開けて俺の指を離してくれる。

 でもまだ掴まれたままの指。

 その指からはブライアンの唾液がしたたり落ちている。

 指はてらてらと鈍く光っていて、いやらしい気分がちょっと増えてくる。

 

「こういうのは血が止まるまでじゃないか。お前の味がまだ感じられる」

「血だ。俺の味って言うな。もう十分だからやめてくれ」

「お前、恥ずかしがっているのか?」

「…………別に」

「ふむ。いいことを聞いた」

 

 獲物を見つけたかのごとく素敵な笑みになると、また俺の指を両手で押さえたまま口の中へと入れていく。

 今度は目を開けながらで、俺の反応を見ながら動きを変えている。

 傷口とは違う部分をブライアンの小さな舌が熱く絡み、歯列は甘く指を挟んでくる。

 もう止血というレベルではなく、ただの指舐めになってしまっている。

 

「はぁ……、んっ……、あぁ……♡」

 

 歯を離すと今度はぴちゃぴちゃと音を立て、ブライアンは熱い吐息をこぼしながら唇で小鳥がついばむようにキスをしてくる。

 俺はもう力を強く入れて抵抗できないほどに快感を受け入れはじめると、ブライアンに引き寄せられた俺の指は爪先からゆっくりとブライアンの中へ入っていってしまう。

 でも指は先端部分を舐めるだけ。

 けれど俺の指を愛おしく舌を這わせてくる。

 

 やばい。これはやばい。この不器用だけれど、一生懸命な舌遣いは。

 まるで恋人にするかのような、いや、恋人でもここまでやるレベルは物凄く深く愛しているってことじゃないか?

 高校生の時に付き合っていた女の子はいたが、軽いキスまでだった。卒業と同時に別れて以来、女性とは縁がなかったものの、今どきの子はこれぐらい普通にやるものなのか!?

 それとも生徒会か? または姉のビワハヤヒデが教えたのか?

 ……もしくはオレが知らないだけで男を作っていたのだろうか。

 ブライアンが恋人を作ったとしても気にはならないはずなのに、もし作っていたらと考えると今だけはすごく気分が沈んでしまう。

 俺を見つめていたブライアンは、俺の気持ちの動きに気づいたのか、指から口を離してくれた。

 

「お前は勘違いしているようだが、これはエアグルーヴからやり方を聞いたんだ。こんなことをしたのはお前が初めてだからな」

「やり方って……。そもそもこういうのをするなよ。恋人にやってやれ。俺はお前のトレーナーだぞ? 誰かに見られたらどうしてくれる」

「ここに来る奴なんてそうはいないだろう? お前が静かにしていれば問題ないさ」

「問題があるってーの」

 

 また指を舐めようとしてきたブライアンの顔を左手で抑えると、やっとブライアンは手を離してくれた。

 俺はスーツのポケットからハンカチを取ると、自分の右手をよく拭いていく。

 ブライアンは制服のそでで男らしく自分の口を拭いた。

 ブライアンの口元はてかてかと光って色っぽく、赤くなったほっぺた、走った時とは違う熱い吐息。

 それらをつい見てしまい、心臓がドキドキしてしまう。

 ついさっきまでブライアンに『女』を感じなかったというのに。

 

「しかし、これはいいことを知った」

「なにがだよ」

「お前は私と契約した2年間、弱みを見せなかった。だが、今回のは初めて見れた」

 

 得意げな笑みを浮かべるブライアンを見て、俺は静かに切れた。

 指舐めという、えっちなことをしての感想がそれかと。

 こういうのはよくないことだと教え込まないといけない。

 そう、指を舐めるのは恥ずかしいことだと。

 

 

 ◇◆◇

 

 

 私の担当トレーナーは弱みを見せることがあまりない。

 だから弱みを見たくて、今がいい機会だと思って指を舐めた。

 またいつもの嫌がらせに対抗できる手段が欲しかったとも言うが。

 こいつはよく食事制限を指示してくる。おかげで寮の食事は肉抜きなのが多い。

 肉がない分はカフェテリアや外で買い食いすればいいものだが、食べられない時があるのは不愉快だ。

 別に嫌いというわけではない。 色々と私のわがままを聞きつつも、私のために頑張っている姿を見てきている。

 

 ただ、今回は私の肉制限から反抗したくて今回のことをした。

 やろうと思った時はそういう理由だったが、やり終えた今は体が震えるほどの気持ちよさと満足感がある。

 私の舌で、大人の男であるトレーナーを支配したという感覚があって。

 ……それだけじゃなく、むらむらした気持ちもあるんだが。

 たまに姉貴が読む大人の女性向け小説では、私の今の状態は『発情』したとも言うらしい。

 どうしてもこいつの唇に目が行ってしまう。キスしたいと。

 普段、そう思うことはないが今だけはすごく男として意識してしまう。

 いや、今でなくても私に優しくしてくれる時は意識する。

 

 雨や泥で体が汚れたとき、髪や尻尾をタオルで拭いてくれた時は嬉しさと気持ちよさが。

 そういう時は頭を撫でられたい、力いっぱい抱きしめて欲しいとも。

 正直、付き合いたいという想いはある。でも今は走ることが優先だ。私が学園を卒業するまでトレーナーがフリーでいてくれるとありがたい。

 指だけでこれだけ気持ちいいのなら、その先は走ることと同じぐらいのいい気分になるだろう。

 

 私は指舐めを終え、心が満足して自然と出た笑みを浮かべながらそういう考えに達した。

 こいつのそばにずっといたいという気持ちと一緒に。

 その一緒にいるよりも先に、口についたよだれを落とすのが先だが。

 

「さて、私は少し口を洗ってくる」

「待て。他に言うことはないのか」

「別にないが?」

「……それなら仕方がない。お前に今のはよくないことだと教えてやる」

 

 静かに、けれど力強い言葉を言ってトレーナーは私の左手を両手で握ってきた。

 私は何をするのかと不思議に思い、変なことをしてくるようなら力任せに振り払えばいいと考えされるがままになる。

 トレーナーは私の手に顔を近づけると、指と指の間を舐め始めた。

 立っている私を罰するかのように力強い上目遣いで見つめてきながら。

 

 よく叱ってくる怒りの表情とは違い、色気があるそれを見ていると背中がぞくぞくと電気が走り、気持ちよさを感じる。

 指の方はくすぐるように舌でつついてきて、舌の温かさとぬめぬめした感触が変に気持ちがいい。

 

「お前、んっ……、やめ、あぁっ♡」

「ブライアンがさっきやってきたのと似たのをやってるだけだ。恥ずかしいことはもうやるなよ」

「ぐっ、お前に、やらっれぱなしには、んっ♡」

 

 文句を言おうとするも快感で言葉が止まってしまう。

 それでもこいつに屈したと思われるのは気に入らず、あえぎ声が出ているのを恥ずかしく思いながらも返事をする。

 そうしたら次は手の平を舐めてきて、音を出しながらぺろぺろと舐めてきた。

 左手で口元を押さえ、漏れ出そうになる快感の声を必死に我慢する。

 

「わかった! もうお前の指は舐めない! だからやめてくれ!」

 

 自分から逃げるほどに体には力が入らない。

 腹の奥が熱くなってきて、段々と興奮してきてしまう。

 これ以上されると今より恥ずかしい姿を見られると思い、私は降伏した。

 でも次は今と違う方法で弱みを見つけてやるとの決意も一緒だが。

 言葉だけは降伏した私を、トレーナーは疲れた様子ながらも満足したように私の手から口を離す。

 

 さっき使ったとは別のハンカチをポケットから取り出して私の手を丁寧に拭いてくれる。

 ハンカチを2つ持っているとはなんと用意がいい。

 と、紳士的すぎることにあきれていたが考えてみれば、

 私がトレーナー室でフライドチキンやホットドッグを食べたあとは、口を拭くのはこいつの仕事だった。

 自分から弱みを先に見せている気がしなくもないが、担当ウマ娘の世話をするのはトレーナーとして当然だから問題はない。

 

 段々と荒い呼吸と興奮がわずかに落ち着いてくると、不意に視線を感じる。

 顔を向けた先には、網戸越しには1人のウマ娘がいた。

 そいつは何かと私に絡んでくる、ジャージ姿のマヤノトップガンだった。 

 

「マヤ、みちゃった……。これはカレンちゃんに教えなきゃ!」

 

 見られていたことに少し驚きはしたものの、そいつは私と目が合うとすぐにいなくなってしまった。

 そのままいなくなるのを目で追ったあと、雑誌を読み直そうとソファーへ向かうものの、トレーナーの叫び声によって止められる。

 

「ブライアン、行け!」

「追う必要があるのか?」

「ある! だからマヤノトップガンを連れてきてくれ!」

「私だけじゃなく、あいつにも手を出そうと? このロリコンめ」

「放っておくと変な噂がつくだろうが! 連れてきたらお願いごとをなんでも聞いてやるから!」 

「言ったな? その言葉、忘れるなよ」

 

 私は別にこいつとの噂なら問題はないが、トレーナーは世間体が気になるらしい。

 あまり気乗りはしないものの、こいつに言うお願いごとを何にしようか考えながら、部屋から出て後ろ姿が遠くなった奴を追いかけ始める。

 だが、興奮して全力を出せないために追いつけなかった。

 翌日、私とこいつが大人な関係で恋人同士だとトレセン学園で広まった。

 でもこれで私のトレーナーに手を出す奴はいないだろうと安心した。

 ……お願いごとを聞いてもらえなかったのは残念だったが。



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25.サイレンススズカ『スズカと終わらない景色を見続けたい』

少し重い話。


 新緑の色が美しい葉桜の時期が来ている5月1日。

 今日は普通の日だけども特別な日だ。

 それは俺の担当ウマ娘であるサイレンススズカの誕生日だから。

 誕生日という日に朝から降り始めた強めの雨は、テレビの気象予報によると分厚く黒い雲は晴れることがなく、今日いっぱい降るらしい。

 放課後は俺が担当しているウマ娘たちを連れ、スズカが行きたがっていた山でランニングをする予定だった。

 でも雨が強いと風邪を引くことや、すべって転ぶこともあるから中止だと朝の段階で伝えている。

 自分のせいではないけど、スズカを喜ばせることができないというのは強い罪悪感がある。

 スズカの誕生日プレゼントを買い忘れたということもあって。

 

 失敗に落ち込み、ひとり静かにトレーナー室で椅子に座っては窓越しにしとしとと降り続ける雨をぼぅっと眺めていく。

 今は昼前である授業時間のため、学校全体が静かだ。

 部屋にある暖房を設定しているエアコンの音がよく聞こえるほどで、スーツを着ているだけだから暖房がないと今日は寒い。

 

 先輩トレーナーたちは今が冬かと思うような厚着をしているけど、俺は27歳という若さだからか寒さはほどほどにしか感じない。

 ただ、雨が降って静かだとなんだか気分が落ち込んでしまう。

 窓の外に見える向こう側はグラウンドだが雨だから誰もいない。今のように雨音とエアコンの音しか聞こえないとつい自分のことを考えてしまう。

 トレーナーとして能力が低い俺は、1勝ウマ娘をひとりだけ育てたあとは色々なトレーナーのところを巡り渡ってサブトレーナーの勉強をしていた。

 トレーニングの指導はウマ娘に向いているメニューを組めているとは自分では思えず、日々頭を悩ませている。

 怪我をさせないことを強く考えているせいもあって、過保護になってしまうところとか。

 よくないのは走りだけじゃなく、ダンスやボーカルもだ。

 怪我をせず、楽しくライブなどをやっていくということが俺の基本方針だから。

 

 こういう方針、俺でも人並み以上にできていることもある。

 それは一生懸命勉強した化粧と、動画投稿サイトでやっている企画だ。スズカのペン回し解説講座やタイキの色々なものをなんでも焼いてしまうバーベキューなどの動画人気は評判がいい。

 そのふたつがあるから、自分にわずかな自信を持ってトレセン学園での仕事を続けられている。

 あと担当ウマ娘がスズカだけでなく、他にタイキシャトルといった3人のウマ娘が契約を結んでくれているのはありがたいことだ。

 あまりにもウマ娘たちからの評判が悪ければ学園側から退職勧告が通知されるが、何もないのは彼女たちのおかげだ。

 全員が寂しがり屋というのが少し気になるが、時々遊びに出かけ、バーベキューを短期間で何度もやってはついつい甘やかしてしまっている。

 

 学園側からすごく褒められていることがひとつあって、それは公私を区別してウマ娘たちと接しているのがいいと。

 トレーナーの中にはセクハラやパワハラや暴力沙汰になるのもあり、たまに週刊誌やテレビで報道されることもある。

 若くて美人な子たちが多いウマ娘を見ていると、手を出したくなる気もわかる。

 

 でも俺は絶対に手を出さないと決めている。

 トレーナーと教え子の恋愛なんて面倒なだけだ。

 恋人関係になったら未成年に手を出したという問題が起き、学園卒業後に付き合う、結婚しようと思ってもそれまで我慢ができないからだ。

 特に問題となりそうなのがウマ娘を恋人にしたら、その子だけを優遇や甘くしてトレーニングに支障が出そうだから。

 隠れて付き合い、他の子たちにも平等に接することができるのなら問題はないのだろうが。

 俺の好みは年上女性で胸が大きくおおらかな性格だから、ひとまずそういうことは考えなくて済むからありがたい。

 

 こうやって恋愛について無駄に考えてしまうのはやる仕事がないということもあるが、つい昨日届いた手紙も関係がある。

 差出人は地方のトレセン学園で仕事をしている友人からで、結婚式をするという知らせだ。

 そいつは『子供なんかに手を出すわけがないだろ?』と自信たっぷりに言っていたというのに。

 仕事机の上に置いてある手紙や同封されたウマ娘と一緒に写っている写真をちらりと見て、大きなため息をついてしまう。

 

 こうやって恋愛のことを考えてしまうのは、全部あいつが悪い。

 あいつも俺と同い年なのに教え子のウマ娘が学園を卒業するのを待って結婚をやるなんて。

 9歳年下だぞ? そんな年下の子に恋愛感情なんて出るものかと疑問だ。

 妹みたいに思うというのならわかる。

 お願いされればスズカとふたりきりで遠くの場所に行くし、タイキが大好きなバーベキューは月に1度やっている。

 だが、学生相手に恋愛関係はなぁ……。

 俺自身、結婚したいという気持ちはある。愛する人と暮らし、子供が欲しいというのが。

 でも友人のようになりたくはない。

 

 もし俺がスズカやタイキに恋愛感情を持ったらどうなるか、と考え始めてしまうが自分で自分のほっぺたを強く叩いて恋愛を頭の外へと追い出した。

 乱れた心を落ち着かせるために雨を集中して眺める。

 窓にポツポツとあたる音、ザッーと地面にあたる音、それらが聞こえると不思議と気分は落ち着いていく。

 3階にあるトレーナー室の窓から、落ちてゆく雨をただ見ているだけでも意外と飽きないものだ。

 

 ぼーっと雨を見ていると、コンコンと扉をノックしてくる軽い音が聞こえてくる。

 部屋にある壁掛け時計を見ると午後12時だった。

 授業終了の時間を教えるチャイムの音はここまで聞こえず、知らないうちに昼ご飯の時間になっていたことに気づく。

 

「入っていいぞ」

「失礼します。ご飯を食べに来ました」

 

 やわらかい笑みを浮かべて入ってきたのは、菓子パンや総菜パンを5つとペットボトルのジュースを持ってきたスズカだ。

 スズカに限らず、俺が担当しているウマ娘は時々こうしてお昼ご飯を食べにやってくることがある。

 

 俺より少し低い身長をしているスズカのウマ耳は緑色の覆いをつけていて、明るいさらさらとした栗毛の髪には白いカチューシャ。

 右耳には緑と黄色の小さなリボンを付けている。

 ワンピースタイプの青を基調としたセーラー服の制服を着ていて、走りやすそうな小さい胸元には大きな青いリボンと蹄鉄の形をしたブローチがついている。

 下は白色に青いラインが入っているスカート。太ももまである白いニーソックスな制服に皮靴のローファーだ。

 服は綺麗にアイロンがかけられていて、靴もよく手入れされているから几帳面だなと見るたびに思う。

 几帳面さは物静かな性格から来ているんだろう。

 走ることに関しては俺と強い口調で言い争うこともあるが、基本はおしとやかなお嬢様と言った雰囲気だ。

 メジロのお嬢様たちに混ぜても違和感がないくらいに。

 そういう上品な雰囲気がある青い目をしたスズカは茶色の尻尾を嬉しそうに揺らしながら、部屋の隅に置いてあるパイプ椅子を手に取って俺の前へとやってくる。 

 

「今日は来るのが早いな」

「前もって買っていたんです。ソウマさんと早く食べたくて」

 

 やわらかく微笑むスズカは俺のことをソウマと下の名前で呼んでくる。

 これは前にサブトレーナーとしていた時から続いていて、名前の方が他の人と間違わずに呼べるからという理由だ。

 そうスズカが呼ぶ影響で他の娘たちも俺をそう呼ぶようになってしまった。

 名前で呼ばれるとトレーナーではなく、歳の離れた兄と妹のような関係に思える。

 

 呼び方のせいかスズカやタイキといったウマ娘たちとは他のトレーナーと比べると仲が良すぎる気もする。

 指導能力が足りない俺にとっては、仲良くできるのも自慢できることだから問題が起きていない今はこの関係でいたい。

 トレーナーの中には俺よりも親密にしている人がいるから、その人たちを超えないようにすればいいと考えている。

 自分の担当ウマ娘にお兄ちゃんやお姉さまと呼ばせている人もいるらしい。

 いったいどんなプレイをしたいのかトレーナーの性格が気になるところだ。

 

 スズカは俺の机の前にパンを置いてから持ってきた椅子へと座る。

 やってきたスズカはすぐにご飯を食べるかと思っていたが、不思議そうに首を傾げて俺を見つめてきた。

 

「私が来る前は何をしていたんですか?」

「外を見ていただけだ」

 

 と、今も雨が降り続いている外を見る。

 するとスズカは立ち上がると、俺に体がくっつくほどのすぐそばへとやってきては同じように外を見始める。

 スズカから髪のいい匂いと、俺の太ももの上に尻尾を置いてきたのが気になってしょうがない。……スズカは俺を同年代の女子と同じように扱っているんじゃないかと気になってしまう。

 俺が変に意識してしまうから、太ももの上に置かれた尻尾を雑に手で振り落とす。

 でもすぐにスズカはまた同じように尻尾を俺の上へふわりと置いてくる。

 

「……スズカ」

「どうかしましたか?」

 

 スズカは俺の迷惑そうな声を気にもせず、ちょっかいを出していることが実に楽しそうだ。

 こういうからかいモードに入ったスズカは無視するに限る。

 振り落とす、乗せる、というのを2度続けたあと、3度目に乗せてきた時には小さくため息をついてスズカの好きにさせることにした。

 もうスズカに何をされても気にしないようにして、ぼんやりと窓に強くあたるぐらいに降ってきた雨を気にしながら外を見る。

 

「……雨しか見えませんけど楽しいですか?」

「飽きはしない。雨が落ちるとこや雨音なんかは心が落ち着くからな」

「わかります。ランニングで火照った体に雨があたると冷たくて気持ちがいいですから。雨音は周囲の雑音を消して走ることに集中できますし」

「ランニングジャンキーのお前と一緒にするな」

 

 いつでも走ることしか考えていないスズカにあきれた声をぶつけるが、スズカは楽しげだ。

 スズカといえば走ることを第一に考えているウマ娘だが、彼女のことを理解する出来事があった。

 スズカと知り合うきっかけになった2年前の夏合宿。

 あの頃のスズカは最初のトレーナーの教えに従い、今やっている大逃げを抑える走りをしていた。

 だが、それでストレスが溜まり無茶な自主練をしている中で左足の筋肉断裂。

 入院が終わり、治ってからの復帰レースでは全力を出せずに負けて落ち込んでいる時期のことだった。

 

 

 ◇◆◇

 

 

 始まりは2年前の夏だった。

 あの時の俺は担当するウマ娘がいなく、教官やトレーナーたちの補助をする仕事をして日々を過ごしていた。

 ウマ娘を育てる能力が自分には足りず、このままトレセン学園にいては気分が落ち込むだけだと辞めることを考えていた。

 そんな時に夏合宿で見て欲しい子がいると以前お世話になった、チームを持っている先輩トレーナーから頼まれたのがきっかけだ。

 スズカの2人目のトレーナーだが、先輩は自分じゃスズカに対応しきれないと言ってきた。

 だから、ウマ娘が怪我をしないことを第一に考えている俺へと助けを求め、俺はそれに応じた。

 辞めようとしていたところだが、辞める前に怪我で苦しんでいる子になんらかの助言や優しさをぶつけたかった。

 俺がトレセン学園で誰かのためになった、という自信を持つために。

 

 夏合宿に行く前日に俺へ見てもらいたいウマ娘がいる寮のラウンジを使い、夕方にふたりで顔合わせをした。 

 赤いジャージを着ている子の名前はサイレンススズカ。

 デビュー戦を勝つも2度目のレースで筋肉断裂をしても頑張り、復帰レースをしたウマ娘。

 でもレース結果はよくなく、それ以降レースに出ず日々暗い顔で練習を続けている。

 雰囲気はと暗くテーブル越しにソファへ座っている彼女はこの世界のすべてがどうでもいい、と言っているかのように俺は感じとれた。

 

「明日からの夏合宿で君を見ることになった者だ。名前は―――」

「名前を聞く必要はありません。サブトレーナーのようなものでしょう?」

 

 目を合わせることなく、静かで小さな声でそう返事をしてきた。

 最初から拒絶してくる子にどうすればいいか悩む。

 俺たち以外の周囲には楽しそうな声が聞こえている中、ここだけはとても冷えた空間に。

 その後も練習ややる気について話しかけたが、まともな返事が返ってきたのは最初だけだった。

 それだけならやる気も向上心もない子と判断する。

 

 だけど何かが気になった

 自分でも理由はわからないものの、彼女は走ることをあきらめていない。

 翌日から夏合宿は始まり、俺は受け持った子について考え、行動する日が始まった。

 サイレンススズカのトレーニングを俺が担当し、練習内容や食事についても指示を出す。

 スズカは何も言わず、俺に従ってはくれた。

 冷たい目をし、誰の助けをも必要としていないような、暗く重い雰囲気を出しながら。

 一生懸命で、だけど辛い表情で練習をするサイレンススズカ。

 

 そんな彼女が気になり、俺はサイレンススズカと同じチームの子や友達たちから話を聞いた。

 怪我をした時と後の様子や走り続ける理由。彼女は昔からああだったのかと。

 みんなが色々なことを言った。でも意見の方向性は3つだった。

 

 サイレンススズカをやる気がないと見ている子がいた。

 サイレンススズカはやる気があると見ている子がいた。 

 なんとか助けて欲しいと俺にお願いしてくる子がいた。

 

 サイレンススズカは人とあまり話をしなく孤立している。でも気にかけている人がいる。

 色々な人の話を聞き、サイレンススズカとはどういうウマ娘かと練習の時間やそれ以外の時間で考えるようになった。

 夏合宿の間は彼女のことばかり考えていた。

 でも彼女の心へふれようとはしなかった。

 今までまともにウマ娘を育てられなかった俺が手を出して悪化したらどうしようという想いがあって。

 でも決めた。

 3週間ずっと悩み続けてから俺がやりたいことを。

 

 決心をしてからスズカと話すきっかけを作れたのは夏合宿が始まって4週間が過ぎた頃。 

 夕食を終え、長風呂をしたあとに海風へとあたりたくなり上着を着こんで夜の海へと向かう。

 夜空は雲が少なく、満月に近い月が地面を明るく照らしてくれている現在。

 夏とはいえ、夜の、それも海ともなれば風が冷たくて震えるほどに寒い。

 ジャージの上にはパーカーを着ているものの、長時間いると風邪を引いてしまいそうだ。

 そうまでして海に来たのはスズカに対する指導がうまくいかないため、気分を変えたかったから

 

 でもそのおかげでチャンスが巡ってきた。

 砂浜でスズカがひとり寂しそうに座っているのを見つけたからだ。

 スズカは両ひざを抱えて抱きしめているように座り、顔は吸い込まれそうなほどの黒く、けれど月明かりで綺麗な海を見つめていた。

 俺はしゃりしゃりと砂を踏みしめる音を鳴らしながら、スズカから人ひとり分ほどの距離を開けて座る。

 

「サイレンススズカ、ここに座ってもいいか?」

「はい。構いませんよ」

 

 あぐらで座り、スズカと同じように海を見つめる。

 時々横目でスズカの様子を確認する。

 ジャージの上にフリースを着ているスズカは何度も見てくる俺が気になったらしく、文句を言いたそうに不満げな様子でにらんできた。

 

「私に何か用事でもありますか?」

「そういうわけじゃないが」

「私はあなたと仲良くしたくはありません」

「俺はしたいがな」

「私のトレーナーに言われたからですか。だったら何も言わずに練習を見ていてください。何もしていなくても、あなたの指導はよかったと言いますから」

「俺自身の意思で来たし、君の助けになりたいんだ」

「じゃあなんですか。私の担当になりたいとでも?」

「違う。ただ、他の子が心配していたから気になっているんだ。君が走れなくなっている今を」

 

 夏合宿の間、見ているあいだに俺も強く心配しているようになった。そういうことを言うよりも先にスズカは勢いよく立ち上がると、まっすぐに歩いて海の中へと入っていく。

 何をするのかと慌てて俺も立ち上がり、波打ち際まで行ったところでサイレンススズカは美しい栗毛の髪をなびかせて振り向いた。

 海に膝まで浸かり、俺を強くにらみつけて。

 

「他の子たちが私を気にしている? それがなんだって言うんですか。あなたは人の意見を気にして動いているんですか?

 私は悲しまれるようなウマ娘ではありません。

 調子が悪いのはまた筋肉が断裂したらどうしようと考えてしまうだけで、それさえなくなれば私は先頭で走り続けます。

 いつでもどんなレースでも! 私が、私だけの景色を見るために!!

 私は走りたいだけなんです。でもこのままだと学園を辞めることになって、どうしようかわからないんです。

 サイレンススズカはもう走れない。そう噂をされてどんなに苦しいかわかりますか?

 はじめは誰もが私の走りを気に入ってくれた。でも今は誰もいない。それは今、私と契約してくれているトレーナーさんも。

 私の苦しみが全部なくなってしまえばいいのに、と今も思って……。

 もう、私、ここからどうすればいいか……」

 

 悲痛な想いと叫びに俺の心が痛む。

 夏合宿まで接点がなかった俺たちだ。俺がどう心配し、声をかけても警戒し、いらだつのは当然だ。

 落ち込んでいたら優しい言葉をかけようと思ったが、それは意識の彼方へと投げ捨てる。

 今までは夏合宿中になんとかできればいいと思っていた。

 でも俺では依頼された期間だけではどうにもできない。

 サイレンススズカは変わらない。

 彼女は自分の力で変わっていくことを望んでいた。

 俺ができることは邪魔をしないだけ。そう思えてくる。

 

「早く私を心配したらどうですか。この冷たい海は私の足に悪いですよ?」

 

 自虐的な笑みを浮かべるサイレンススズカを見ると、俺は月を見上げてから意思を決める。

 仕事のことなんてどうでもいいと。

 ただこんな悲しそうに笑い、誰も頼ろうとしない子に手を差し伸べたかった。

 目の前にいて、助けを求めてこないサイレンススズカを。

 

 俺はサイレンススズカとまっすぐに目を合わせ、服が濡れることも構わず海の中へと入っていく。

 スズカは俺が近づくとうろたえたように少しずつ後ろへと下がる。

 

「なんですか、あなたは。私に何をさせたいんですか。何を期待しているんですか。私は1勝しただけの強くないウマ娘なんですよ?」

「お前の強さなんかどうでもいい。俺はお前が、サイレンススズカというウマ娘が苦しむ姿で走って欲しくないだけなんだ」

「それはあなたの自己満足じゃないですか。私のことを考えていないというのがはっきりしましたね」

「そうじゃないというのを知って欲しい。夏合宿が終わってからも俺はお前を近くで見ていたいんだ」

 

 悲鳴のようにも聞こえる、俺を拒絶する声。

 だが俺はそれを聞いても前へと進み、一緒にやっていきたいと言いながら近づいていく。

 

「近づかないでくだ―――」

 

 俺に向けての言葉を言い終える前に、サイレンススズカは足を取られたのか驚きの表情をしながら海の中へと勢いよく倒れ込んでしまう。

 それを見た俺は慌てながらも急いで近づき、水の上へ出ようともがいている右手を握る。

 はじめは俺の手を振りほどこうとしてきたが、すぐに俺の手をしっかりと握ってくれた。

 俺はサイレンススズカを引っ張り上げて立たせると、手を握ったまま力強く砂浜へと向かって引っ張っていく。

 そうして波打ち際までたどりつくと、手を離す。

 乾いた砂浜まで行って倒れ込むように座る俺たち。

 

「サイレンススズカ」

「……いちいちフルネームで呼ばないでください。呼ばれる身としてはあまり気分がよくありません。これからはスズカと呼んでください」

 

 冷たい風で体を震わせながら名前を呼ぶと、サイレンススズカは、スズカは恥ずかしそうにしながらスズカと呼ばせてくれた。

 

「あなたがそんなにも私を心配してくれるのなら任せます」

「なに、俺に任せてくれればG1に勝つ……とまでは言えないが、怪我をさせないように気をつける」

「そこは勝たせると言ってください。かっこ悪いですよ」

 

 そういってお互いに小さく笑いあい、そしてくしゃみをした。

 海に入るまでとは違い、スズカの信頼を得て。

 自分でもこれほどスズカに入れ込んでいるとは思わず、月明かりに照らされているスズカは妖精を連想するかのように幻想的で、すごくきれいだ。

 そんな姿を見て、一瞬だけときめいてしまい口説きそうになったのは内緒にしておきたい。

 そのあと俺たちは仲良く風邪を引き、練習を再開したのは3日後からだった。

 しっかりとホテルで体を休めている間に、スズカは自身のトレーナーから話を通して俺がスズカの担当ウマ娘になって欲しいということになった。

 俺はその話を受けてスズカの担当トレーナーになった。

 正式な契約変更は学園に戻ってからになるが。

 

 夏合宿が終わり、朝の4時に起きてしまった俺はせっかく起きたから、と着替えて朝日を見に行くことにする。

 まだ日が昇っていない海は暗く、今日が帰る日だからトレーナーや練習しているウマ娘の姿はいない。

 波打ち際からだいぶ離れた砂の上に足を抱きかかえるようにして座る。

 ぼぅっと暗い海を見て考えるのはスズカのことだ。

 契約して後悔はない。俺がまたトレーナーとしてやっていこうと思えたことに感謝している。

 でもスズカほど才能が眠っていそうな子に、俺がうまく指導できるのかと不安だ。過去のレース映像や練習風景を見るとG1を勝てそうなほどに思えて。

 自分が怪我をしないことを重視しての育成方針だが、スズカの能力を引き出せるのか不安でたまらない。

 スズカのおかげで救われた気持ちになるが、勝手に不安になって落ち込むなんて情けない。

 大きなため息をつき、気分が低くなっていると波音に混じって砂を踏みしめる音が聞こえてくる。

 その音はどんどんと近づいてきて、俺の真横まで来る。

 

「隣、座ってもいいですか?」

「ああ」

「では失礼します」

 

 横を見ると俺からひとり分ほどの距離を取ってスズカが膝を抱えて座ってきた。

 俺の目をじっと見つめ、口をゆっくりと開く。

 

「何か悩みごとですか?」

「……お前のことで悩んでいたんだ。俺はあまりウマ娘を育てるのが上手じゃない。これから先、お前が不満に思うようだったら契約変更をする」

「言いませんよ、そんなこと」

「ずいぶんはっきりと言うんだな」

「今だから言いますが、このままだと学校を辞めるしかないと思っていたんです。ですから面倒な私を拾ってくれるあなたがいて感謝しているんですよ」

「責任が重いんだが?」

 

「とても重いですよ? あれだけ情熱的な言葉を言ってくれて、私みたいな面倒な子を拾ってくれるんですから」

「心配で見ていられなかったんだ」

「それでいいと思います。もし私と同じように苦しんでいる子がいたら助けてあげてくださいね」

「気が向いたらな」

 

 そう言って暗い海を見る。時間的にはもうすぐ日の出だ。

 せっかく寒いのを我慢してここにいるんだ。その瞬間を見逃したくはない。

 スズカも俺から視線を外し、同じように暗い海を見ているのがわかる。

 でもすぐにスズカから言葉が出て来た。

 

「……あの、これから何と呼べばいいですか?」

「トレーナーと呼べばいいだろ」

「いえ、その、トレーナーと呼ぶのは少し嫌な気分があって」

 

 最初のトレーナーが原因で、スズカが大怪我をしてしまった。だから嫌悪感を持っているんだろうか。

 

「好きなように呼んでいい」

「ええと、それじゃあ……ソウマさん?」

「名前を知っているのか」

「昨日、ちょっと調べたのでそれで、今のように呼んでいいですか?」

「スズカの好きにしてくれ」

「ありがとうございます、ソウマさん」

 

 なんだろう、このくすぐったい感じは。

 美人で年下の子から下の名前を呼ばれるのは。

 年下が趣味ではないが、ちょっとばかり照れてしまう。

 

 このよくわからない気持ちはフタをして放っておこうと考えていると、太陽が水平線の向こう側から淡い光と共に顔を出す。

 スズカがきっかけでまたトレーナーとして仕事ができる今回は日の出の記憶と共に長く記憶するだろう。

 救い、救われた俺たちの関係を忘れないように。

 スズカが学園を卒業するまではトレーナーを続けようと心の中で誓った。

 

 

 ◇◆◇

 

 

 そんな2年前の夏合宿の時があって今の俺がいる。

 あれからスズカがきっかけで、俺が気になったウマ娘は3人増えた。

 精神が不安定で飛び降り自殺未遂をした子やトレーナーを殴って退学になりかけた子たちを。

 今ではみんな仲良くやっていると思う。

 困った子にはよく話をし、どうすれば問題を解決できるか一緒に悩んだりもした。

 それぞれの癖に合わせ、シューズや蹄鉄といったものは俺が自費でオーダーメイド品を購入。

 今ではどの子も3勝以上しているという、以前の俺なら考えられないほど良い成績だ。

 スズカはG1を勝てていないものの、G3やG2のマイルと中距離を勝てる素晴らしいウマ娘になってくれた。

 スズカだけでなく、他の子たちも重賞を勝つといった成績を残し、嬉しい限りだ。

 あの夏合宿が終わってから、俺も猛勉強をした甲斐があったというもの。

 

 レースやライブに関する勉強だけでなく、コミュニケーションも積極的に取っていて小さな心配でも相談に乗っている。

 その中でもスズカは特に好意的で、俺を見つけると嬉しそうに駆け寄ってくるし、暇さえあれば俺が仕事をしているだけなのにそばにいてくれたり、もっと役に立とうと考えているらしく料理を練習し始めた。

 それが犬に懐かれているみたいで微笑ましく思う。

 

 あの夏の時とは違うが、今と同じようにふたりきりで静かな状況だと似ているなと思ってしまう。

 今日が5月1日で誕生日プレゼントを忘れてしまったことに気づいて、焦っているのを思い出さなければ。

 去年はお祝いしたんだから、今年もしないというのはおかしい。これも全部結婚したと手紙を送ってきた奴が悪い。

 以前から自慢や惚気話を話してきた奴が!

 

 そう怒りをぶつけて、でもやっぱり忘れた俺が悪いと落ち込む。

 するとスズカがじっと俺を見つめてくる視線を感じて顔を向ける。

 

「なんだ」

「いえ、色々と表情を変えていたのでどうしたのかなと思いまして」

 

「スズカと仲良くなった夏合宿のことを思い出したんだ。それで次には友人の結婚式とスズカの……いや、3つ目は忘れてくれ」

「私がなんですか? 何か忘れたんですか? 今日という日に関連する何かが」

 

 スズカはからかうような笑みを浮かべ、尻尾で俺の足をぺしぺしと軽く叩いてくる。

 このわかってやっているスズカはかわいらしくあり、こんなやりとりができるのも仲良くなった証拠のひとつと言えるだろう。

 だからこそ、今なら言える。その後は苦笑して許してもらえると!

 

「あー、怒らないで欲しいんだがスズカのプレゼントを忘れてしまったんだ」

「プレゼントですか」

「去年は渡したから今年もと思っていたんだが」

「仕事で忙しかったとか、なにか気になることがあったんですか?

 

 スズカは怒りもせず、叩いてくる尻尾の動きを止めると心配そうに俺を案じてくれる。

 

「2日前に親友から結婚式の招待状が来てな。自分の人生について考えていたんだ。でも家で考えると落ち込むだけで、学園でなら気分が変わるかと思って」

 

 俺は机の上に置いてあった手紙を取り、スズカへと手渡す。

 手紙を受け取ったスズカは、招待状や同封された写真を見ていくうちに優しい笑みを浮かべている。

 

「良かったじゃないですか。でも、なんでこれを見て落ち込むんです?」

「俺も結婚を考える歳だなと思って」

「結婚、ですか?」

 

 なぜか、少し緊張しているスズカから返された手紙を机の上に置くと、椅子に深く腰掛けると天井を見上げて目をつむる。

 

「俺も結婚を真剣に考える歳か、と考えてはいるが。そのうち恋人ができるだろという甘い考えじゃ結婚をしないで人生終わりそうだからな」

「でもトレーナーさんなら今のままで自然と流れで結婚するかと思いますけど。ほら、トレセン学園のトレーナーは高収入ですし、女の子はたくさんいますから」

「学生、女トレーナー、学園関係者とたしかに女性は多いな。でも職場恋愛をすると面倒なことになるし、ウマ娘の子たちは恋愛対象じゃない」

「そんなに限定すると出会いがなくなってしまうと思いますけど。近くを見るのも大事ですよ?」

 

 目を開けて天井からからスズカへ顔を映すと、すぐ目の前にスズカがいて俺を見下ろしていた。

 それは威圧感があり、いつも穏やかなスズカらしくない雰囲気だった。

 別に変なことを言ったわけじゃないはずだ。

 言ったことを思い返すが、問題になるようなことはない。

 

「近くで妥協するよりも理想を大事にしたいね。たとえば恋人にするなら、胸が大きくて優しく包容力がある人がいい」

 

 そう言うとスズカはすぐに自分の胸へ両手を当て、自身の胸元をじっと見たあとに俺へ冷たい目を向けてくる。

 無言の抗議を受けているが、それに構わず俺は言葉を続けていく。

 

「合コンをしたほうがいいかもしれない。今まではスズカたちと自分の勉強で忙しかったが、余裕が出て来たからな」

「……私を捨てるんですか?」

「違う。結婚前提の恋人が欲しいだけだ。捨てるというようなことは言ってないぞ?」

「でも、それって私じゃない人と一緒にいるってことじゃないですか。嫌です、そんなの。私はあなたの隣にいて、ずっと一緒に同じ景色を見ていきたいんです」

「まぁ恋人ができたら今のようにみんなで出かけてるとか、バーベキューをやる機会は減るだろうが」

 

 スズカは今まで見たことのない不満そうな表情をし、尻尾をぶんぶんと強く振って俺の足へとぶつけて来る。

 にらみつけてくるのが少しばかり怖く、かといってなだめようにもなんと言えばいいのかわからない。

 すごく落ち着かないままスズカと見つめあっていると、スズカはふと何かをひらめいたらしく首を勢いよく振って窓の外を見た。

 そうして耳や尻尾が落ち着いたかと思えば、雨降っているのに窓を勢いよく開け放つ。

 突然、窓を開けた理由を不思議に思っていると俺は、スズカに腕を力強く掴まれて上半身を窓の外へと放り投げ出そうとしてくる。

 だが、危ないということだけに気付いて必死に両手で窓枠を掴んで俺は抵抗をした。

 

 叫ぶことも考える余裕すらなかった。

 スズカは俺の左腕を掴み、腰のベルトを持って落とそうとする。

 冷たい雨が頭に降り注ぎ、見える景色は3階下にあるアスファルトの地面。

 状況がよくわからないが、混乱した頭で落とされないよう抵抗するのでいっぱいいっぱいだ。 

 ここから落ちれば、死ぬというのに頭は落ち着きをすぐに取り戻してくる。

 でも俺が抵抗しているとはいえ、ウマ娘が本気ならもう落ちているだろう。

 

「ずいぶんと冷静なんですね。もっと慌てるかと思いました」

「それはこれが現実的じゃないからだ」

「現実じゃない? 私がこうしてソウマさんを落とそうとしているのに」

「スズカの言うとおり、これは現実だ。でも現実的じゃない」

「……私にはその違いがわかりません」

 

 現実的じゃない。

 それはスズカのような、がんばり屋で寂しがりで甘えたがりの子がこんなことをするとは思えないからだ。

 実際に俺を突き落とそうとしているが、今の状況は夢を見ているかのような気分がちょっとだけある。

 スズカへ顔を向けると、突き落とそうとしているのに困惑して今の状況に困っているみたいだ。

 そんな顔をするということは俺を落としたいのが本気ではないとわかって安心する笑みが浮かぶ。

 

「……なんで笑うんですか」

「スズカが優しい子だと思ったからだ」

「優しい? こんなことをしている私が優しいですか?」

「ああ。それでスズカは俺にどうして欲しいんだ?」

 

 スズカは俺の質問に返答をせず、目をそらして床を見ては考え始めた。

 俺はせかすようなことはせず、スズカが答えを出してくれるのを待つ。

 だが、内心はスズカが手を離すことで落ちてしまうということに恐怖感がある。

 死ぬのなら、苦しまずに死にたいなとスズカから目を離して地面を見つめ、雨が当たった冷たさと恐怖で体がぶるりと震える。

 

「私はあなたと一緒にいたいだけなんです。授業やトレーニングが終わってからもずっと一緒に」

 

 小さな声でつぶやいた言葉。

 次の言葉をしっかり聞き取ろうとスズカへ顔を向けると、恥ずかしそうに目をそらしたスズカが俺の体を慌てて引っ張り上げて部屋の中へ入れてくれる。

 それから窓を閉めると、上半身がずぶぬれな状態で座っている俺へとしゃがみ込んで目を合わせてきた。

 

「あの……大丈夫ですか?」

「あぁ、問題はない」

 

 色々と言いたいこと、聞きたいことはあるが今それをしてしまうと興奮した精神が話をしている途中で怒鳴り声になってしまいそうで言うのを我慢している。

 意識的に深い呼吸を始めると、スズカは「ごめんなさい」と一言言ってから立ち上がって俺の机へと行く。

 机の上にあるペン立てに手を伸ばし、ゆっくりとした動きで手に取ったのはカッターナイフ。

 カッターから刃を出すと、両手で握り直してから首筋の動脈へとゆっくり向けていく。

 

 そんな様子を見ると、すぐさま慌てて体を動かしてスズカが持つカッターナイフに手を伸ばして体当たりをする。

 どうしてスズカがそういうことをするのかわからない。

 でも今は話をするより先に、スズカが血を流すということを見たくないという気持ちが。

 

「あっ」

 

 それは小さな声だ。

 どことなく安心した気持ちが入った、小さな悲鳴。

 遠くでカッターナイフが落ちる硬い音が聞こえた。

 俺の体の下にはスズカがいて、押し倒した格好となった。

 スズカの首元に顔を埋めた状態で、フローラルな髪の香りが俺を落ち着かせてくれる。

 が、今はそれどころじゃない。スズカの頭の両脇に手を置いて体を起こすとスズカに怪我がない様子に安心をする。

 

「何をしているんだ、お前は!」

 

 つい怒鳴ってしまったが怒る気持ちはなく、むしろ心配だ。

 今のスズカは心が不安定で、だけど大事なスズカに対してどうすればいいかわからず、怪我がなかったことにひとまず安心して力強く抱きしめてしまう。

 俺に抱きしめられているスズカは声にならない泣き声を出したあと、抱きしめ返してくれた。

 でもその力は強く、抱きしめてくる力は痛いが我慢する。

 

「ごめんなさい。今まで一緒にいたのに、遠くに行ってしまうのが嫌なんです」

 

 耳元でささやかれるスズカの悲しい声を聞き、俺は静かに頭を優しく何度も撫でていく。

 しかし、困ったことになった。

 これは依存という状態になっているのか。スズカが俺によく甘えてくるのは気になっていたが。

 でも他の子たちと一緒にいても、その子たちに対して怒るなんてことはなかった。

 

「私を救ってくれた恩があるのに、それを……」

「こっちも唐突に結婚だなんて言って悪かった。だが、俺だって恋人が欲しいんだ」

 

 今まで仲がいい女友達はいたものの、お互いに恋愛感情を持っていなくて恋愛関係には発展しなかった。

 だからドラマのような熱い恋がしたい。

 大人だと好きという感情だけで恋ができないと聞いたことはあるが。だからこそ、恋愛感情だけでの恋が―――。

 

「私にしませんか?」

「……すまん。もう1度言ってくれ」

 

 自分が理想の恋愛を考えていると、突然スズカが理解しがたいことを言ってきた。

 

「恋人にしませんか、と。私はソウマさんのことを1人の男性として好きです。ですから、その、付き合ってみるというのをおすすめしますけど」

 

 今まで考えてなかったことを提案され、一瞬硬直してしまうが、聞きなおすと具体的に提案してきた。

 スズカの表情を見るため、腕を離して顔を見ようとするがスズカは離してくれない。

 

「あの、恥ずかしいので顔を見られるのは困ります」

 

 俺がなんらかの答えを出すまで解放してはもらえなさそうだ。

 昼休みの時間が終わってチャイムが鳴るまで待とうと思ったが、それはまだ遠い。

 だから考える。

 スズカのとてもささやかな大きさの胸を感じながら。

 

 恋愛というのは対等な関係であってこそだと俺は思っている。

 こういう今のように、俺が結婚しようかと考えただけで取り乱す精神状態なのはよくない。

 そんな状態で付き合っても長続きはしないだろう。

 教え子としては好きだが、女性という意味では何の感情も持っていない。

 男としてはっきりとした返事をしよう。俺はスズカと付き合えないと。

 

「スズカ、俺は―――はっくしゅ!!」

 

 深呼吸をし、スズカに文句を言われる覚悟を決めて言おうとしたのに、ついくしゃみが出てしまう。

 上半身にたっぷりと雨を浴び、スーツは思い切り濡れているから、こうなるのも当然だが。

 タイミングが悪い自分に嫌気がするが、改めて言おうとするとスズカが腕から解放してくれた。

 

「すみません! 私、自分のことばかりで。あの、今すぐ保健室に連れていきますね!」

 

 返事をする前に、スズカは体をぐるりと反転させてから俺の膝裏と背中を持ってお姫様抱っこをしてくる。

 そして勢いよくトレーナー室を出ていくと小走りで廊下を走り出す。

 人生で初めてお姫様抱っこをされたが、恥ずかしさを感じるよりも先に来たのは恐怖だった。

 自分で速度をコントロールできず、スズカの首に両腕を回して耐えるしかない。

 途中、すれちがいに俺へ会いに来ただろう弁当を持ったタイキシャトルと遭遇する。

 

「タイキ! トレーナー室から替えの下着と服を保健室に持ってきてくれ!」

「What!?」

 

 スズカに抱きかかえられている今、これ以上説明する余裕がなく、角を曲がり階段を下りていく。

 まるでジェットコースターのような気分で保健室にたどりついたあとは保険医の薦めもあってベッドで寝ることになった。

 スズカは俺を心配して一緒にいるといったが、保険医が追い返してお昼ご飯を食べに行く。

 少ししてからはタイキから服を受け取ったあと、ジャージに着替えた俺はベッドでぼぅっとしている間に寝てしまった。

 昼のは短時間の出来事だったが、考えることが多くて疲れていたから。

 

 ―――時間が経って放課後。

 学園内のざわめきで目を覚まし、ぼんやりとした頭であたりを見回す。

 するとスズカが椅子に座って俺をじっと見てきていた。

 

「うわぁ!」

「元気そうで安心しました」

 

 小さく息を吐き安心した様子のスズカだが、俺はもうびっくりして心臓がドキドキだ。それに寝顔を見られたことも恥ずかしい。

 体を起こし、靴を履いてベッドから立ち上がると俺たち以外は誰もいない保健室を見渡す。

 

「あの、お昼のことはすみませんでした」

「ああ、いや、構わない。次に何かある時はお互い丁寧に話し合うということが必要だな」

「ソウマさんが恋人を作りたいと言ったときに自分を抑えられなかったんです。ひどいことをしたと自覚をしています。……私にお詫びができればいいのですが」

 

 下を向いて落ち込んでいるスズカにお詫びなんていらない、と言うのは簡単だ。

 でもそれだとスズカが納得しないし、ここで罰もなしということになるとまた同じようなことが起きるかもしれない。

 

「あの……私を嫌いにならないでください。捨てないでください。もうしませんから」

「スズカ」

 

 優しい声をかけ、俺を見上げてくるスズカの両肩を掴んでベッドの上へと優しく押し倒した。

 

「怪我をしても頑張っている君を嫌いになんてならないよ。今回はちょっとだけ興奮してしまっただけだろう?」

「でも私は面倒で迷惑な女と思っていませんか?」

「時々はあるけど、そんなのは人同士でならいくらでもあることだ」

「でも……」

「スズカ、目を閉じて」

 

 俺の言葉にきょとんとした様子だが、すぐに言葉の意味に気づき、顔を赤くしたスズカは勢いよく目を閉じた。

 俺はスズカの顔に向かって、ゆっくりと近づいてく。俺の気持ちを伝えるために。

 そして、おでことおでこをコツンとくっつけ、顔を離す。

 

「……キスしてくれないんですか? 今日は私の誕生日なのに」

 

 唇がくっつきそうなほどの近い距離で、スズカは不思議そうに声を出す。

 

「プレゼントにキスを欲しがるだなんてスズカはえっちだなぁ」

「え、あの、えぇ!?」

 

 苦笑しながらスズカの上から離れると、キスをされると思い込んでいたスズカは赤くなった顔を両手で隠してしまった。

 スズカとキスするのは早い。そういうことをするのは俺がスズカに恋愛感情を持った時だ。

 良くて妹のような、という感情しか向けられないスズカにはおでこをくっつけるだけで十分だ。

 

「恋人ができたらスズカには言うし、ウマ娘を優先してもいいという女性と付き合う予定だから少しは安心してくれ」

「……恋人ができなかったら私を選んでくださいね?」

「その時に考えさせてくれ」

「ちょっとでも私を恋人にしたいと思ったら声をかけてもいいですからね」

 

 こうも恋愛に積極的なスズカを見ると、偽装恋人でもいいから1度作ってスズカを落ち着かせたほうがいいんじゃないかと強く思う。

 たとえば、たづなさんや桐生院さんのような大人の女性と。

 

「私がこうして学園を辞めずに済んでいるのはソウマさんのおかげなんです。私のすべてはソウマさんの物だということを覚えていてください」

 

 両手の指の間から、恥ずかしそうに俺の顔を熱がこもった目で見つめてくるスズカに俺は照れて顔をそむけてしまう。

 努力家で放って置けないスズカのことを俺はこれから考えていく。

 俺の担当ウマ娘、サイレンススズカを結婚前提で恋人にしたいかということを。



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26.サイレンススズカ『スズカは彼を追う』

 ファミレスで賑やかな時間の午後6時。

 11月の今、この時間帯はすっかり暗く、夕食を食べる人たちでにぎわい始めている。

 テーブル越しに座っている、俺のスズカの間には重く静かな緊張感がただよっている。

 まわりにいる人たちは楽しく食事をしていて、話を楽しんでいるというのにスズカの目は俺の精神を圧迫するかのように見つめてくる。

 目をそらしたいが、そらした瞬間に何か罵倒されそうな気が。

 食べることを理由に逃げたいが、今は頼んだ料理が届いていなくなく水しかない今は逃げる道なんてものはない。

 

 19歳の俺は2歳年下である妹のように扱っている幼馴染のスズカに呼び出され、トレセン学園の正門前で嬉しそうに待ってくれた制服姿のスズカと合流。

 でもその後はすぐにウマ耳が後ろに倒れて機嫌が悪くなった様子で、肩を並べてファミレスまで歩いていく途中にきちんとした会話は1度もなかった。

 スズカがトレセン学園に入学する前はよく俺に甘えてくる子で、スズカが進学する時は俺と離れ離れになるのを寂しがっていた姿は可愛かった。

 今年から俺が専門学校へ通うために、地方からやってきた時はすごく張り切って東京案内をしてくれ、昔のように甘えてくれた。

 2年ぶりに一緒に過ごせるね、と言ってきたときは兄と妹のような関係を再開できるとお互いに喜んでいた。

 

 なのに今はどうだ。

 甘えたがりで寂しがりの妹なスズカはどこにもいない。

 何が理由かわからないが、スズカが怒っているのなんてずいぶんと久しぶりだ。たぶん、6年か7年ぶりなぐらいに。

 走るのが大好きなスズカが練習をしないで、俺と話すのを優先するというのは何か重要な問題があるのはわかるんだが。

 

「電話で言っていた、ミコトくんに告白してきたウマ娘って誰のことなの?」 

「あぁ、それのことか。それは内緒にさせてくれ。スズカとの仲が悪くなったら俺の気分が悪くなる」

「言って。大事なことなの。もしミコトくんと付き合ってしまったら、その子はミコトくんを好きになったことを後悔するだろうから」

 

 俺の名前を大事そうに呼ぶスズカはすっごい威圧感をかけてきながら、真面目な表情で言ってきたのは俺を罵倒する声だった。

 機嫌がどうかわかるウマ耳の位置は真上になっていて、心が落ち着いているのはわかるから歩いているうちに怒りが減ったようで安心した。

 しかし、好きになったら後悔するような存在の俺とはいったいなんだろうかと落ち込んでしまう。

 そこまで見た目も性格も悪くないとは思っているんだけど。

 身長は167㎝と高くはないけれど、見れる顔だし筋肉もそこそこにある。

 性格はスズカに嫌われないぐらいだから悪くはないはず。

 

 好きな女性の好みはスズカと違って巨乳だけど、えっちな本はアパートの部屋に置いていないから問題ないし。

 そういうのは全部スマホに詰め込んでいるから大丈夫だ。

 だからスズカが言うほど、俺を好きになって後悔するようにはならないと自信を持って言える。

 言えるけど、スズカにそのことについて聞くのは怖いため、変に反論しないことにした。

 

 親同士が親友同士だったから、小さい頃から俺たちは知り合い、仲良くやってきた。

 保育園の頃からずっと面倒を見てきたからか、小学校を卒業するまでは俺にべったりだった。そんなスズカがかわいくて甘やかすぐらいに。

 スズカが走りに行きたいと言えば、雨や雪が降っても付き合ってあげた。

 スズカのためにスポーツ理論を勉強したことも。その結果がスポーツ心理学を学ぶ専門学校を選んだくらいにスズカを中心に俺の人生は動いている。

 

 ……スズカがトレセン学園に行くまでは、俺の言うことをよく聞く素直な子だったのに。

 反抗期になったのか、今は俺のことをなんでも知りたがるようになって、少し悲しい。

 時々、昔のようなスズカが恋しくなる。小学生のスズカなんて走ることしか考えない素直な子で最高にかわいかった。

 

「今、何か変なことを考えていなかった?」

「いや、別に」

「それならいいけれど。それで、相手の名前は?」

「言えない」

「高等部? それとも中等部?」

「それも言えない」

「……じゃあ何のことなら言えるの?」

 

 スズカがひどく冷たい目で俺を見つめてくる。

 それは俺が金髪で巨乳な女の子が好きという性癖がバレた時と同じくらいに。

 バレた時は高校生で実家に暮らして、俺の部屋で待っていたスズカにグラビア写真集やエロ本を捨てられた。

 それ以降、俺はスズカに見られないようスマホで見るように気をつけ始めた。

 今もあの時と同じ状態のスズカだから、返事次第では何かの被害を受けそうだと冷や汗が出る。

 実家に変に報告されたら親に怒られて仕送りを減らされるかもしれない。

 

 でも告白してきたタイキシャトルの名前をスズカにには言いたくない。告白したことを言わないでと言われていることもあって。

 何よりも、その子はスズカとすごく仲のいい友達だから。

 もし名前を言ったら、その子とスズカの仲が変わってしまったら俺はひどく後悔する。

 特にスズカと仲のいいタイキシャトルのことだから。

 

 タイキシャトルは魅力的な女性だ。

 会話をするのは楽しいし、明るい性格は好感を持てる。

 それでも告白を断ったのは、恋人になる相手として見れなかったから。

 これからも仲のいい友人でいたいとタイキには言った。

 

「告白は断ったって教えただろ?」

「それは聞いたけど、気になるの。私のミコトくんに告白する子はどんな子だろうって」

「私のって。いつからお前のになったんだ、妹」

「妹って呼ぶのなら兄らしいことをして欲しいわ」

 

 小さく微笑むスズカを見て、この緊張した空気は終わったと一安心する。

 もう少しでストレスによって胃痛がするところだった。

 深いため息をつき、リラックスモードに入ろうとしたときに店員さんが頼んだメニューを持ってきた。

 ファミレスでは軽く食事をし、帰ってから夕食を食べようという話だったからチーズがたくさん乗ったミックスピザ1枚とフライドポテトの盛り合わせだ。

 俺はスズカより先に、店によって切り分けられたピザを1ピースだけ手に取るとスズカの機嫌を取るために口元へとピザを持っていく。

 

「スズカ、口を開けてくれ」

 

 スズカは驚いた顔で耳をピコピコと動かすと、機嫌良さそうに小さな口を開けてくれる。

 小さい時から機嫌が悪くなったときは、こうすれば機嫌を直してくれた。

 それは今でも有効みたいだ。

 俺はスズカの口の中へとピザの1ピースを3回に分けて入れていく。嬉しそうに食べていくスズカの姿を見ると、東京に来て大人びたと思ったけど子供だなとなんだか嬉しくなる。昔と同じ関係を続けれそうだと思って。

 でもスズカ。言葉では言わないけど、最後に口の中へ入れたときに強引に俺の指まで口に入れるのはやめて欲しい。

 唇の感触で心臓がドキドキとしてしまうんだが?

 好みのタイプでもないのに。小学校の時だって同じことをしてたのに、成長しただけでこうなるとは。

 家に帰ったらお気に入りの巨乳ウマ娘グラビア動画を見て心を落ち着けないといけないな。

 

「告白はどこでされたの?」

「その話はしない流れじゃなかったのか」

「だから名前を聞くのはやめたでしょう? それぐらい教えてくれてもいいと思うけど」

「俺のプライバシーを尊重して欲しいし、こういう場所では言いづらい」

 

 こっちの話を誰も聞いてはいないだろうが、不特定多数がいる状況で恋愛関係の話をするのは落ち着かない。

 自分から恥ずかしい話をするなんて、いったい何の露出公開プレイだと思う。

 そういうのは人が少なく、落ち着く場所でしたいところだ。

 

「それなら私の部屋に行く?」

「スズカは寮暮らしじゃないか。一般の人は入れないだろ。許可があったとしてもスペシャルウィークさんがいるだろ」

 

 スズカのことだから、なんとかして許可を取りそうだ。だからスズカと同室で2回だけ会ったことのある子の名前を出して穏やかに断りを入れた。

 そう考えて言った言葉をスズカは不思議そうな顔になる。

 

「スペちゃんは他の人に言いふらさない子よ? それと短時間の許可なら取れるけど。私にとってミコトくんは大事な人だから」

「あー……じゃあ、許可が取れたら遊びに行くよ。恋愛の話とは別件で」

「絶対だからね?」

 

 スズカは右手の小指を出し、俺も小指を出して指切りの約束をする。

 こっちに進学で来る前から、スズカは私の部屋に来てとよく言っていた。だから1度行けば今後誘いがあっても断りやすくなる。

 しかしスズカはここまで俺にこだわる子だっただろうか。

 以前までは俺の恋愛ごとにはまったく興味がなかったのに。こういうのを言うようになったのは高等部になってからだから、スズカも恋愛に興味があるお年頃?

 だとすると、俺のスマホの中身は何があっても死守しないといけない。

 性癖がバレたら、ひどく冷たい目で見られる。そうなったら、俺はショックを受けて雨が降った日に傘も差さずに出歩き、傷ついた心を落ち着かせるだろう。

 ……そうなったらそうなったで、新しい女性と巡り合えそうな気がする。

 具体的に考えるなら、雨の中で散歩するイケメンで三冠を取ったウマ娘とか。

 

 それからはなんでかお互いにピザやポテトを食べさせ合う流れになった。

 なんでだ。恋人でもないのに、こんなことをすると将来恋人が作れなさそうな伏線に思えてくる。

 途中から1人で食べれると断ったものの、スズカは「名前」と一言つぶやけば、俺はスズカを怒らせないために従うしかなかった。

 

 しかし、あれだ。なんかスズカに色気を感じてしまったのが悔しい。

 スズカの見た目は綺麗だが、色気がないのが特徴と思っていただけに。

 それを感じたのはスズカが差し出した俺の指を舐め、俺の口へとポテトを食べさせてくれるときに指まで入れて来た時だ。

 今まで小学生と変わらない感じだと思っていた。でも今は歳相応の色気が出ている。

 そもそも指を舐めたり突っ込んでくるのはいったい何をしたいんだ。

 

「どう?」

「何がだよ」

「こうされるとドキドキしない?」

「何の影響を受けたかの心配はする」

「こういうのって女の子にされたらドキドキするものじゃないの?」

「ちょっとだけなら」

 

 俺の返事にスズカは不満そうな顔になると考え込む様子でポテトを食べていき、ふと思いついたのかティッシュで手を拭くとすぐに俺の隣へとやってくる。

 そして俺へと密着しながら顔を近づけてくる。

 ささやかながらも感じる胸の感触。

 ブラ越しでも意外と柔らかさは感じるんだな、とその感触を味わいたくなる。

 だが、スズカの顔が近づいてきたのであとずさろうとするも、腰にスズカの手を回されて動くことはできない。

 強引にキスをしてくるのか!? と身構えているとスズカの口は俺の耳へと近づけられた。

 そうしてスズカの息遣いを感じると、吐息のような声で静かにささやいてくる。

 

「これならドキドキするでしょ」

「こういうのはファミレスでするもんじゃない」

「なら、ふたりっきりでならいいの?」

「……今日のスズカはやけに積極的だな」

「それはそうよ。ねぇ、私がさっき言った、ミコトくんを好きになったら後悔するって意味を知りたい?」

「俺が女性に気遣いできないってことだろう?」

「ううん、違うの。ミコトくんを好きになった人は、私を敵に回すってことになるから」

 

 その言葉を聞き終わると、怖くなった俺はスズカの肩を両手で強く押し返して距離を取る。

 スズカは俺に押されるまま距離を取ってくれるが、以前として体は密着したままだ。

 

「敵って。物騒なことを言うなよ」

「別に刃物で刺すということじゃないけれど」

「そういう言葉自体が物騒なんだよ。……それでお前を敵に回したらどうなるんだ?」

 

 そういうとスズカは背筋がぞくっとするほど色っぽい笑みを浮かべ、笛のように綺麗に透き通った声で言った。

 

「2度とレースを走れなくなるだけよ」

 

 怒っている様子でもなく、ただ相手を潰したいという純粋な想いは怖く感じた。

 妹のように思い、付き合いのスズカだが今のように悪意を感じることは1度もなかった。

 それだけに怖く、深呼吸を2度して心を落ち着けると意識して明るく振る舞いからかおうとする。

 

「俺のことを好きすぎるだろ、スズカは。なんだ、俺と付き合いたいのか?」

「ええ、付き合いたいわ。本当はこの気持ちを抑えて告白してくれるのを待っていたんだけど、それだとミコトくんは私を好きだって気持ちに気づかないで変な女にだまされちゃうでしょう?」

 

 さも当然のことのように動揺もなくスズカは言うと、自分の席へと戻って小さい口にポテトを入れて食べていく。

 

「普段はトレーナーさんが食事を指定してくるから、こういうジャンクフードをたまに食べるのはおいしいわね」

「スズカが気に入ってくれるならよかったよ」

「もし私が恋人だったら入るお店は変わってた?」

「いいや。スズカが恋人だったとしても気遣いは変わらないな。きっとここだったよ」

「よかった。私はミコトくんの特別なのね」

 

 嬉しそうの笑顔を見せる姿はさっきまでと違い、1人のかわいい女の子にしか見えない。

 するとさっきのは幻覚だっただろうかとも思いたくなる。

 女の子の嫉妬は怖く、誰かと付き合うことになった時にはスズカにきちんと話し合いをしようと考え、食べ終わったあとは寮へとスズカを送っていった。

 

 スズカを送り、帰る時にふと思った

 タイキシャトルの告白を断った理由は無意識のうちにスズカのことを考えていたからか、と。

 普段は恋愛相手として意識したことはないが、女性に対する基準はスズカを元にしていたことに気づいた。



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27.アドマイヤベガ『アヤベのおっぱいホットアイマスク』

 仕事というものは時間が空いたときに追加でやるものだ。

 僕はそう思っているが、もし誰かがそれを知ったらワーカーホリックやトレセン学園はブラックなのかと聞いてくる人が多いと思う。

 ウマ娘が好きすぎて仕事をするほどに充実感を得られるタイプの人間なら、同じ思考になるに違いない。

 そんな考えのもと、僕はウマ娘たちがテスト期間で練習をしない時期に自分から仕事を増やしていく。

 

 春の5月。

 新緑が芽吹き、生命の力強さを感じる季節。

 試験が終わり、放課後なのにウマ娘たちの声が少ない今は仕事に集中しやすくて実にいい。

 担当ウマ娘が3人いて、どの子もG1を勝ってくれているトレーナーの今日から新しい商品企画の資料を眺めていた。

 レースを走るウマ娘の多くが同じような商品ラインナップだけれど、ウマ娘によっては変わった商品を作ることもある。

 オペラオーの等身大彫像、メイショウドトウがデザインしたタヌキのぬいぐるみ等が。

 こういうウマ娘独自の色があるものを考えるのは実に楽しい。

 

 ここ数日は徹夜で入学した子たちの誰をスカウトしようかと繰り返し資料を見続けていたせいか、目に隈ができて体には疲労が溜まっている。

 だけど、ウマ娘のことを考えるだけでそんなことは気にならない。元気があるなら、次の新しい仕事をやらないと!

 まぁ、こういう無理をするのは20代である今だけだと思うけど。

 

 我ながら仕事に人生を捧げていると強く実感する。仕事が恋人である今は、仕事をしている時間が最高に楽しい。

 そういうことを思いながらトレーナー室でスーツを着て仕事をしていると、ドアにノックの音が響く。

 

「開いてるよ」

「お邪魔するわ」

 

 椅子に座り、机でノートにアイディアを書いていた僕がドアへ顔を向けて声を出すと、高等部1年のアドマイヤベガが部屋へと入ってきた。

 長袖制服姿の彼女は僕が仕事をしていた様子を見ると、一瞬だけ眉をひそめた。

 首筋の位置にある、いつものローポニーな髪型。右耳にだけしている青い耳カバーが特徴的でふわふわな物がすごく大好きな子。

 そんな彼女、周囲に合わせてアヤベと呼んでいる子は僕の担当ウマ娘だ。

 

「何か用があったかい?」

「あなたのことだから、仕事をやりすぎていると思って。目にくっきりとした隈があるじゃない」

 

 物静かでどこか憂いを帯びているアヤベは、聞いていて落ち着く声で不満げに僕へと声をかけてくれる。

 スカウトした頃は僕のことを気にせずになんでも1人でやろうとする彼女に戸惑いながらも、嫌われない程度に声や練習メニューの提案を続けていた。

 その甲斐があってか、今ではこういうふうに心配してくれることがある。

 

「ストレス溜めて仕事はしていないさ」

「ウマ娘が好きすぎるあなたにそんな心配はしていないわ。ただ、倒られたら私が困るから」

 

 僕に近づいてきたアヤベは、僕の顔を両手で押さえつけるときつくにらんでくる。

 そうして10秒ほど経ってから手を離すと、ひどく大きなため息をついてはトレーナー室に敷いてある畳へと向かう。

 洋室であるにも関わらず畳があるのは、歌舞伎好きなウマ娘の子が『和室成分が欲しい!』と言ったから導入したもの。

 2畳ほど置いてあるところに靴を脱いで上がると、アヤベは正座をして座った。

 

「ほら、こっちに来て」

「何が『ほら』なんだ。僕は仕事があるんだけど」

「あなたに休んで欲しいだけよ。仕事をしすぎて死んだ、なんてことがあったら夢見が悪いわ」

 

 そう言いながら、無表情ながらも尻尾と耳がゆらゆらと動いてそわそわしているアヤベは、自身の太ももをぱしぱしと叩いてこっちへ来いと伝えてくる。

 なんで太ももなんだろう。僕がそこでアヤベのむちむちとした太ももを枕にして寝ろと?

 僕とアヤベはトレーナーと担当ウマ娘ではあるけど、恋人関係ではない。

 だというのに、僕を休ませようとしているのはそれほどひどく見えるからだろう。

 男として膝枕というのは魅力的で憧れるけど、1度やってしまうとこれからの関係が変になりるかもしれない。

 そう、だからこそ非常に魅力的ながら断るしかない。

 

 仕事を続けたいから断ろうと口を開きかけたけど、アヤベの耳や尻尾が急に怒りを表現し始めて断りづらくなった。

 無理に続けるよりもアヤベがいるあいだだけ休憩をして、そのあとに仕事をすればいいか。

 僕は仕事を切り上げる決心をすると、アヤベのいる畳の上へと向かう。

 靴を脱いでアヤベと向かい合い、けれど1人分の距離を取った状態であぐらをして座ると、にらまれてしまう。

 

「それは膝枕しにくいんだけど?」

「女性に慣れていない身としてはどうすれば正解かわからなくて」

「別に恥ずかしがらなくても。私だって恥ずかしいけど、男の人は女性の膝枕にあこがれるって聞いたから」

「それは誰から?」

「カレンよ。ウマスタで知識を得ているのか、意外と男性の気持ちを理解しているの。ほら、こんな機会は2度とないから私の太ももで寝なさい」

 

 目をそらしながら少し頬を赤くし、かわいいことを言うアヤベ。

 その様子が普段の落ち着いた雰囲気とは違い、珍しい姿につい笑みを浮かべてしまう。

 僕が高校生だったら、すっごい挙動不審になるところだけれど大人の男としては大丈夫だ。

 もっとも28年も生きていながら、女性に膝枕をしてもらったのなんて親以外ないけれど。

 内心はわくわくと緊張が入り混じっているけど、表面だけは冷静になれていると思う。

 1度深呼吸して心の安定度を高めてから「わかったよ」と返事をしてから膝へ横向きで頭を預けようとしたものの、そうなる途中で僕の動きは両手で力強く止められた。

 

「……アヤベ?」

「えっと、その。縦向きになってくれない?」

「膝枕って横向きだと思うんだけど」

「オペラオーが男性を癒す、とっておきの方法を教えてくれたから、それをやってあげたくて」

「へぇ。そんなのがあるんだ。じゃあお願いするよ」

 

 縦向きの膝枕でどうやって癒してくれるのかが気になり、僕はアヤベの言うとおりに体を倒して頭を預けた。

 普通の膝枕と違い、正座したふたつの太ももの間に頭を置くのは初めてだから、すごくドキドキする。

 練習で鍛えられた太ももは固く筋肉質だ。でも女性だからなのか、それでも柔らかさを後頭部に感じる。

 それだけでも新鮮で未知の感触に驚いた気持ちになるけど、それよりももっと驚いたことがある。

 

 ――おっぱいだ。

 そう、おっぱいである。

 目の前には男が心の底から求めてやまないおっぱいが!!

 

 ただでさえ希少価値がある女子高生の胸で、愛すべき担当ウマ娘アドマイヤベガの胸がすぐ近くに!

 アヤベはこちらを無表情、いや、ちょっとだけ恥ずかしげに僕を見てくる。

 でも胸が大きいせいで、顔よりも胸のほうが見える範囲が大きい。具体的に言うなら視界の半分がおっぱいになっている。

 誰かのおっぱいを下から見るなんてことは初めてで、こんな近距離で見るなんてとてつもなくドキドキする。

 僕が太ももの上に頭を置いた位置を調整しようと身じろぎをした時に、少しとはいえ揺れるおっぱいから目を離せない。擬音で言うのなら『たゆん』というような。

 

 ……男ってのはなんで揺れるおっぱいってこれほど集中して見てしまうんだろう。

 練習の時も揺れるのをつい見てしまい、からかわれることがあるし。

 その時は距離があるし、きちんと意識の区別をつけているから興奮なんて滅多にしないけれど。

 

 だけど、これは別だ。至近距離で気を遣わなくてもいい今この瞬間。

 今だけは自分の欲望に正直になってしまっていいんじゃないだろうか。

 いや、だからといってちょっとは落ち着かないと。

 ウマ娘が追い込むペースのごとく段々と興奮していく気持ちを抑えるために、目の前の素晴らしい景色よりも後頭部に感じる素敵な感触に意識を集中しよう。

 

 トレセン学園指定の白いニーソックスと生足の感触。

 何かに例えるなら、低反発枕のような。それでいて温かく、幸せな気分になれる。

 他の物に代用はできない、G1ウマ娘の膝枕というのは。

 そもそも男というのは女性の体を見るだけで心の疲労は回復するもので、おまけにこれほどおっぱいが近いとその回復力は通常よりもはるかに高い。

 ずっと仕事をしてきたせいで疲労がたまっていたからか、おっぱいを見て膝枕をされていると意識がぼうっとしてくる。

 ふわふたとなっている意識と視界の隙間で大きいおっぱい越しにアヤベの顔が優しく微笑むのが見えた。

 珍しいものを見た。

 別におっぱいの向こう側に人の顔が見えるということではない。それも珍しいけど、アヤベが優しく微笑むのなんて前に見たのは一か月ほど前だと思う。

 アヤベは自分にも僕にも厳しいから。

 

「私の足はどうかしら?」

「よく鍛えられているよ」

「……他に言うことは?」

「いや、何も」

 

 アヤベの体から感じる香りや、おっぱいが見える景色がいいだなんて素直に言うと怒られて契約解消すらありうるので黙っておく。

 こうして僕の体を心配してくれるだけでとても嬉しい。

 僕的にはこれで満足しているけど、アヤベは不満らしい。

 褒め方によっては僕が危ないから、これ以上はやりたくないんだけど?

 それでも問題ない褒め方について悩んでいると、アヤベが何度も大きな呼吸をし、深刻そうな顔をしている。

 僕が知らない間に失礼なことをしたかな、と悩み始めたときにアヤベは服を脱いだ。

 

 そう、トレセン学園指定である制服の上をだ。

 あまりの出来事に思考が追い付かず、僕目の前で教え子のストリップを呆然と眺めるしかなかった。

 そもそも、アヤベが服を脱いで何をしたいかがまったくわからない。

 

 制服を畳の上に置く音がやけに響いて聞こえ、ブラひとつの姿になったアヤベは顔をすごく赤くしている。

 ブラは黒のレースやデザインが複雑についたおしゃれなものだった。ウマ娘たちは普段スポブラを常用しているから、こういうのもつけるんだなと新しい知識を得たことが嬉しい。

 いや、違う、そうじゃない。

 見るべきはミルクのような肌の白さだ。普段はジャージや勝負服の下に隠れている肌なんて見ることがないから、こうも白く繊細で綺麗な肌をしていたのかと驚く。

 そういうことを考えるよりもなんでこんなことをしたんだ、アヤベは!?

 僕の理性がなかったら胸を揉んでいたかもしれないぞ!?

 ……でも女性経験がなくて臆病なものだから、触る気なんて起きないけど。

 

「あの、アヤベ?」

「目をつむって。早く」

 

 体をかがめたことによって近づいたアヤベは僕に何も言わせないまま緊張した声で指示してくるので、急いで目を閉じる。

 すると温かく柔らかいものが両目の上へと置かれた。

 ブラの質感があるけれど、それ以上に驚くものがある。

 ブラの感触の向こう側、おっぱいのやわらかさだ! ブラ越しでもマシュマロのようなモチモチフワフワ感触! ブラがなかったら、もっといい肌触りなんだろうけど、それを要求したら僕はダメな大人になってしまう。

 その感情を必死で抑えつつ、静かにおっぱいの感触と温かさを楽しんでいると 汗の匂いはそれほどなくアヤベの体臭がする。

 それがボディソープなのかはわからないけど、安心する香りだ。

 

「あー、これはいったい?」

「何も喋らないで。動かないで。疲れた人にはこういうやり方がいいって言われて」

「これ、なんて言うやり方?」

「ホットアイマスクだけど。……その、胸でやるから、おっぱいホットアイマスクって言うそうよ。私の胸はサイズが85だから、目を包み込むには充分な大きさだと思うわ。

 本物のホットアイマスクは温度が40度。ウマ娘の体温は37度から38度だから少しだけ低くはあるけど」

 

 早口でそう言うアヤベ。

 心の中でオペラオーのことをたくさん褒める。今度会った時に、君は世界で一番だと大声で褒めておこう。

 だってアヤベがこういうことをしてくれるのが嬉しく、おっぱいの感触が味わえてよかった。と、いうことだけじゃなくてアヤベがこういうふうに気遣ってくれるのが嬉しかったから。

 いつもは言葉だけでそっけなく、やってくれても栄養ドリンクを机の上に置くだけだったのがこうも変わってくれるなんて。

 

 じんわりと目の奥深くまで浸透していくような温度。

 連日酷使していた目の疲れが癒されていくようだ。

 実際に温めることで血行がよくなるけど、誰かにしてもらうというのは精神面でとてもいいと理解する。

 ただ、こんな姿を誰かに見られたら変態どころではないけど。

 

「それで、どうかしら」

「いいものだね。今日にでもホットアイマスクを買ってくるよ」

 

 胸の感触と匂い、アヤベがこうしてくれる嬉しさを言葉に出さず、ホットアイマスクとしての感想を言う。

 素直に感じたままに、アヤベのおっぱいは最高だなんて言ったものなら、引いた目で見られるに違いない。

 普段ならそれでも耐えられるけど、こうして癒されている時にそうされたら僕の心は崩壊してしまう。

 

「そうじゃなくて……。私の胸はあなたにとっていいものかしら」

「アヤベに優しくしてもらえるのは嬉しい。幸せだよ、とても」

「そう。それなら私も恥ずかしいのを我慢した甲斐があったわ」

 

 部分的に今の気持ちを伝えると、アヤベは尻尾をぶんぶんと動かしていて、嬉しさと恥ずかしさと落ち着かない気分だというのがわかる。

 よかった、素直に受け入れて。無理に断ったら、ここまで覚悟を決めたアヤベの好意を拒否するひどい男になるところだった。

 

「けど、どうしてこんなことを? あ、嫌とか怒っているわけじゃないけど」

「頑張ってくれているあなたのために何かしたいと悩んでいたら、カレンさんが男の人にこうやれば喜ぶと聞いたから」

「ありがとう、アヤベ。仕事を頑張れるよ」

「頑張りすぎはよくないと思うの。私や他の子にもできる仕事なら任せてくれてもいいし」

「僕が好きでやっていることだからなぁ。趣味と仕事を一緒にやっているし」

「趣味も仕事……。それで息抜きできるの?」

「おいしいご飯を食べればやれるさ」

 

 それにこのおっぱいがあるなら、いくらだって頑張れる。

 頑張れるが、今は脳が働くことを拒否している。

 おっぱいに目が包まれる幸せを受け取っていたいと。

 それから僕とアヤベはお互い何も言わず、静かな時間を過ごしていく。

 

 聞こえるのはお互いの息遣いと、時々動く尻尾が畳をこする音だけ。

 目が温かくなり、アヤベがそばにいる安心感から段々と眠くなってきた。

 こんなに素晴らしいことをしてもらっておいて寝るのは失礼と思いながらも、徹夜でやっていた仕事の疲労が一気にやってきている。

 

「少し寝てもいいかな」

「30分後に起こせばいいかしら」

「ああ。お願いするよ」

 

 そう言った僕は起きる意思をなくし、おっぱいホットアイマスクをしてもらったまま意識を落としていく。

 そして眠りに落ちる瞬間、ほっぺたを優しく撫でてくれる手を感じた。

 アヤベとさらに仲良くなれて嬉しいと思いつつ、僕は彼女の香りとアヤベの膝、そして素晴らしいおっぱいに包まれながら夢の世界へと旅立った。



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28.シンボリルドルフ『ルドルフの男』

いつも誤字報告をしていただきありがとうございます。すごく助かっています。


 担当ウマ娘であるルドルフがクラシック三冠という偉業を達成し、その疲れかジャパンカップでは3着に終わったあとの11月終わりの日。

 日頃の練習で疲れたのか、携帯電話にはメールで『体調が悪いため3日だけ休ませて欲しい』と連絡があった。

 疲労は見抜いていたものの、俺が練習を控えるように言ってもやりたいと言ってきていたがやっぱりダメだったらしい。

 

 様子を見に行きたいがルドルフが俺に気を使うだろうから、ルドルフが休んでいる間は教官の補助として中等部のウマ娘たちの練習を教えていた。

 ただ指導するだけでなく、ジャージに着替えた俺は男1人、ウマ娘に混じってゲート練習を実践して教える。

 普段からルドルフと堅苦しい話ばかりで、女の子なのに華を感じられないトレーナー生活をしていたから中等部という若い子に教え、慕われるのは気分がいい。

 

 別にロリコンというのではなく、女の子と話をしているという部分が重要なんだ!

 ルドルフとはビジネスライクな付き合いというか、職場の同僚と同じ感覚になってしまっている。初めての担当で距離が近いと厳しくできないと思ったからで。

 まぁその結果、週刊誌なんかのゴシップに悩まされるのがないのはよいことだけど。

 3冠を達成しても抱き着いてくるというわけでもなく、笑顔と感謝の言葉だけ。

 

 20代中盤の若い男ゆえに、ルドルフに抱き着かれて胸の感触を知りたいという下心があったが、感謝が言葉だけなのは少し寂しかった。

 三冠を取ったんだから強く喜んでもいいのに。

 でもそれはそれ。これはこれと、ルドルフの3冠達成後は目標を達成したため後進の育成を始めている。

 ルドルフはあまり手がかからないことと、生徒会業務の時は俺の手が余るからだ。

 

 それにルドルフのやりたいことである『百駿多幸。創ろう、 全てのウマ娘が幸せに暮らせる世を』の手助けをしている。

 若いウマ娘の女の子とふれあいたい俺としてもお互いに得をする状況だ。

 他にも将来的にはルドルフ以外の子を育成する勉強にも役立っている。

 

 そんなことを思って疑似的ハーレム気分を味わいながら複数のウマ娘たちに走り方を教えている時だ。

 ルドルフと同室の子が心配そうな顔で俺のところへやってきたのは。

 なんでもルドルフの3日間にわたる体調不良は嘘で、実際はメンタル面の、つまりはなにかしらの理由でひどく落ち込んでいるとのこと。

 ルドルフなら自分の弱い姿を見せたくないだろうとスマホでメッセ―ジを送っただけだったが、精神については考えていなかった。

 経験が浅い新人トレーナーとはいえ、悩んでいたことに気づかなかったのは情けなく思う。

 

 教えている子たちに中断することを伝え、後日また練習の時間を割くことを伝えて他の教官に任せる。

 そうしたあとは急いで学園の売店でお土産として色々なパンを5つほど買う。

 ビニール袋に入ったパンを手に持ち、早歩きでルドルフが暮らしている美浦寮へと向かう。

 

 寮母さんに事情を伝え、ルドルフがいる3階の部屋前へと行く。

 この時間帯は多くのウマ娘が練習にいっているため、寮は静かだ。外からはウマ娘たちがランニングする足音が聞こえるほどに。

 寮へ来るのは初めてであり、誰もいないのはよかった。

 女性しかいない場所はどことなく甘い匂いで満ちている気がして、俺という異質がいるのになんだか違和感がある。

 またルドルフの私生活を見るのも初めてであり、なんだか緊張してしまう。

 

 思えば、ルドルフと一緒にどこかへ出かけるのは靴や練習道具を見るだけで寄り道なんてのはしたことがない。

 だから今この瞬間、ルドルフの部屋をノックするのは今までの距離を取った関係性から歩みよろうとする。

 

 が、何度かノックをしても返事はない。

 そうすると強引ではあるが、どうしても話をしたいために寮母さんから事前に預かっていた鍵でドアを開ける。

 

「ルドルフ、何か悪いのなら俺に相談を──」

 

 部屋を開けたと同時にルドルフの香りがし、ベッドに腰掛けて冬制服姿の驚いたルドルフがいた。

 そんなルドルフを見たと思ったら枕が顔面へと勢いよく飛んできて俺はぶっ倒れる。

 枕とはいえ、ウマ娘の力。倒れて当然だ、と痛む顔と後頭部と背中の痛みを感じながら廊下の天井を見上げる。

 

「入るなら声をかけろ! いくらトレーナー君といえども許されないことだ!」

「悪かった。ルドルフなら平然としていると思ったんだよ。……いや、ひどく落ち込んでいると同室の子が言っていたから配慮すべきだったか」

「落ち込んでいなくても気にするべきだと思う。それと君は私をなんだと思っているんだ」

「精神が大人で落ち着いているウマ娘」

「……そう評価してくれるのは嬉しいが、私が女性だというのを忘れていないだろうか」

 

 廊下で倒れたまま返事をしていると、大きなため息をついたルドルフがスリッパを履いて近づいてくる足音が聞こえてくる。

 苦笑している俺を見下ろすルドルフは、どうにも女性というか女の子という感じがしない。同性の大人という気がする。

 普通、男が無断で鍵を開けたら怒るとか大声を上げると思う。

 それにスカートの中が見えそうな角度ではあるが、なんか嬉しくない。これがさっきまで指導していた子なら嬉しく思うんだが。

 枕をルドルフに投げ渡してから起き上がると、部屋に戻るルドルフに続いて部屋へと入ってドアを閉める。

 

 寮の部屋はベッドや机が2つずつと一般的な配置。

 でもそんな他と代わり映えのない部屋でも気になったのがある。

 それはベッドの脇にあるサイドテーブルに置かれた深緑色のパジャマだ。

 丁寧に畳まれているが、こういうのが置かれているとついつい注目してしまう。

 

「君はそれに興味があるのかい?」

「いや、別に」

 

 そっけなく返事をしたものの、男としてはどうしても見てしまう。それは女性として認識していない相手でも。

 いつも使っている服。それを脱ぎ着しているところを想像すると……なんかえっちな妄想さえも起きない。

 ルドルフはしっかりしている子のせいか、色気があまり感じられない。同じ生徒会のエアグルーヴはえっち成分が高めなんだが。

 

「そう戸惑いもなく言われると、女として自信をなくすのだが」

「俺とお前はそういう関係じゃないだろ。俺がお前に下心を持って契約したわけじゃねぇっての」

「ああ。そこは安心するが、私以外の女の子には興味を持っているじゃないか」

「なめんじゃねえよ。契約した相手に変な目で見るわけねぇだろ。……同室の奴にお前が調子悪いのは精神だと聞いたが、もしかして女扱いしないのが今になって気になったのか?」

「平気虚心。私はいつだって心は落ち着いている」

 

 声は普段どおりに落ち着いているものの、耳や尻尾の動きはぶんぶんと強く動いている。

 ルドルフといえども、感情の揺れはこうして表へと出てしまう。

 だが、それは俺が予想していなかったことだ。

 今になって女扱いして欲しいだなんて困る。

 女として意識しないようにしていたから良い関係になれていたものの、かわいい子だけじゃなくイケメン系女子が好きな俺としては大変だ。

 

 担当ウマ娘であるシンボリルドルフに惚れてしまうという問題があるからだ!

 胸のサイズは86もあって俺好みだ。身長は165㎝と俺に近い高さなのは不満だが、それらは顔の良さで中和している。

 そうだよ、顔がいいんだよ。とにかく顔がいいんだ、こいつは。

 ルドルフがメイド喫茶や執事喫茶にでもいたら通い詰めて指名し続けるほどに好みなんだぞ、くそったれめ。

 

 こうして考えると、結構好みの見た目だから女扱いはしたくなかった。

 おまけに性格もさっぱりしているのも気楽に付き合えているのがいい。

 ……意識すると女性として興味が出てきてしまう。

 

「マジか。やめてくれよ、ルドルフ」

 

 俺の嫌がる声を聞いたルドルフはベッドに座り、落ち込むため息をする

 そんな姿を罪悪感が沸くも態度ははっきりさせよう。

 勘違いして仲が悪くなったら嫌だ。ここは素直に失恋させておく。

 

「気づいたのはつい最近なのだが、どうやら私は君が好きらしい。恋心は愛へともう変わっている。これから先、恋人として一緒にいたいのだがどうだろうか?」

「そういうのはやめ──」

 

 断る言葉を言い終える前に、ルドルフの前に立っていた俺の腕をつかむと力強く引っ張られる。

 その引っ張られた先はベッドの上で、顔から突っ込んでしまう。

 でも羽毛布団が柔らかいおかげで痛さはない。突然のことにわけがわからなく、そして意外にもいい匂いを感じて動けない。

 このまま匂いを感じていたいが、俺は匂いフェチな変態じゃない!

 

「何をするんだ!」

「君が誰かに取られる前に行動しようと思ってね。今だって私の知らないウマ娘の匂いをつけているじゃないか」

「それは教官の補助をしてウマ娘たちのトレーニングを指導しているからだろ」

 

 起き上がろうとするも手で背中を押さえつけられている。

 自由に動く顔を横にして文句を言うが、ルドルフは困り顔だ。

 

「私の恋の好意を素直に受け取って欲しいものだが」

「恋愛感情じゃなきゃ問題はない」

「せめて女の子扱いはして欲しい。将来的には恋愛にしたいところだが、それぐらいはいいじゃないか」

「今までどおりでないと俺のほうがダメなんだっての。わかってくれ!」

「そのダメな理由を正直に言ってくれ。そうしたら押さえている手をどけよう」

 

 レースをする時のように真面目な様子になったルドルフを見て、俺は誤魔化そうとする気もなく言うことにする。

 この言葉を言った瞬間、ルドルフにはトレーナー変更の可能性があるかもと知って。

 

「お前を女の子として見るようになったら、俺が甘やかして練習メニューが変なのになるからだ」

「どうしてそうなるんだい? 何も変わらないだろう? 男尊女卑をしているということでもないのに」

「……お前を好きになるからだ」

「今は私を好きでないと? 単なるビジネスの関係だったのか?」

「ルドルフは人として好きだが、女の子と意識すると……」

「なんだ、続きを早く言ってくれないか」

「…………恋をするから嫌なんだ」

 

 愛の告白をしたのと同じ意味の言葉になってしまう。あまりの恥ずかしさにルドルフから視線を外し、羽毛布団に顔を埋める。

 ルドルフの匂いがし、なんか落ち着くなぁと自然に深く息を吸ってしまうのは悪くない。

 8歳下であるルドルフに、まして担当のウマ娘に恋心を持つのは契約、社会人としてもよくないよなぁと落ち込む。

 

 だが、仕方ないだろう。ルドルフのそばにいたら恋をしてしまう。

 一見して完璧に見えるがドジっ子な姿はかわいい。

 下級生から怖がられる対策として、ダジャレを言うという謎の選択をするぐらいにあほ可愛い。

 シリウスシンボリと口喧嘩する姿やトウカイテイオーを甘やかす時なんて見ていて微笑ましく思う。

 

 かわいい姿だけでなく、生徒会業務をする姿や生徒の相談、レース時なんかは真面目な姿がイケメンですっごくいい。

 もし俺が女だったとしても惚れるぐらいにルドルフは人として素敵だからだ。

 

 恥ずかしいことを告白し、もだえているとルドルフは俺を押さえていた手を離す。

 次の瞬間にはベッドに倒れ込んで俺をぎゅっと抱きしめてくる。

 ルドルフのブラ越しとはいえ、つきたてのお餅のようなやわらかいおっぱい。そして温かさ、髪の甘い匂いで幸せ感がいっぱいだ。

 まぁ、なんでこうなる? という疑問も頭いっぱいで喋る余裕もないが。 

 

「私とトレーナー君は相思相愛ということか。挙式はいつにする? シンボリ家総出で準備をしよう!」

「いや、待て。将来的にルドルフを恋愛的意味で好きになるかもしれないけど、なんで挙式になるんだ」

「好きになる。挙式がダメなら婚約をしよう。他のウマ娘に取られたくないからな」

 

「ここ3日、部屋にこもって考えていたんだ。目標である3冠を取ったあと、次はどうすればいいかと」

「それはいいことだ。それでその答えは出たのか?」

「ああ、君と一緒にいたいと。今まではビジネスパートナーという関係は楽ではあったが、2年間一緒にいて君が欲しくなったんだ。君に褒めてもらいたいそばにいたい。声を聞いていたいんだ」

 

 尻尾がばっさばっさと激しく動きテンションが高いルドルフ。

 そのルドルフの顔は今にもキスしそうなほど近くにあり、俺の心臓はばっくばくだ。

 恋愛経験は多少あるものの、こうも迫られたのは初めてで大人だというのに気分は高校生の思春期に戻ったかのような。

 ルドルフと見つめあい、硬直しているとふと髪を撫でられる。

 片手で撫でてくる手つきはひどく優しくて、それだけでルドルフへの好感度が急増する。

 

「待て、髪はさわるな」

「君の汗の匂いは悪くないぞ?」

「そんなことをすると今すぐ惚れてしまうじゃないか。……いや、だから待てって。両手でさわるな!!」

「自分の気持ちには正直になると人生は楽しくなると私は思っている」

「俺の場合はトレーナーと担当ウマ娘という関係がある。だから時間を置いて俺たちの関係を考えたほうがいいと思うんだ」

 

 そういうと思案顔になったルドルフに、俺は安心して深い息をつく。

 このままだと勢いでルドルフと恋人になってしまうとこだった。恋人関係、それ自体は悪くないものの急になるのではなくじっくり関係を深めていきたい。

 今までの付き合いは女の子として見なかったため、俺の気持ちが混乱しっぱなしだからだ。

 

「恋愛についてシービーに聞いたことがある」

「ミスターシービー?」

「そうだ。彼女の両親はトレーナーと担当ウマ娘だったという。だから在学中に恋人になった実例があるから、世間や学園は問題にならないと思うんだ」

 

 ルドルフのことだからレース以外に興味はないと思っていたが、なんかすごく勉強しているぞ!?

 努力家で何事にも全力で取り掛かるのが、恋愛にも適用されるのか!!

 

「それにマルゼンからは好きになったら攻めていけと言われてな。男と女でやることは少女漫画やTL漫画で学習済だ。安心して欲しい」

「いや、待ってくれ。親の許可を得てからにしてくれ。君はシンボリという名家で結婚相手は決まっていたりしないのか?」

「なるほど、親か。確かに私たちの想いだけでは無理だな」

「そうだろう?」

「少し待ってくれ」

 

 落ち着かせることに成功したことに安心し、ルドルフは俺から名残惜しそうに体を離すと、サイドテーブルに置いていたスマホを手に取ってテレビ通話を始める。

 その通話は俺にも聞こえ、相手はなんとルドルフの母親だ。

 背中に冷や汗が出て、話の流れを間違ったかと後悔する。

 テレビ通話のため、ルドルフとルドルフ母とのやりとりがよく聞こえる。話の内容はトレーナー君との恋愛と、親に認めて欲しいというもの。 

 

 あまりにも展開が早く、話に介入することもなくて呆然としている間に通話が終わってしまった。

 スマホをテーブルの上へと戻したルドルフはひどく満足げな様子で俺を笑顔で見てくる

 

「2日後の土曜日に家へ行くことにしよう。父もきっと来る」

「あー……どういう用件で会いに行くんだ?」

「お付き合いについての了承を得る。なに、安心してくれ。母は私たちを応援してくれているし、父は1日あれば落とせるだろう」

「いや、だがなルドルフ。まだ問題があるんだよ」

「ふむ? 言ってくれたまえ。私としてはそう大きなものがあるとは思っていないんだが」

「年齢だよ。今のままだと俺は未成年に手を出したとして学園から追い出される」

 

 ルドルフと付き合うことは嬉しいが、心の安定のために時間が欲しい。

 心がピュアな俺としては時間をかけてお付き合いをし、婚約だとか結婚とかいうのを考えていきたい。

 だが、俺の願いとはうらはらにルドルフは速攻で話を進めていきたいらしい。今だってにんまりとした笑みを浮かべている姿は恐ろしくもある。

 

「来年の3月13日に私は18歳となる。法律的に成人だ。つまりは君が危険視していた女の子ではなくなり、大人の女性となるわけだ」

「つまりはその日に?」

「そう。婚約をメディアに発表しようと思う。そうしてこそ私は安心する」

「別に俺は結婚自体は嫌がっているわけじゃないぞ? ゆっくりやっていきたいのがダメなのか?」

「ダメだ」

「なんでだ」

 

 俺から顔をそむけ、恥ずかしそうにするルドルフ。

 そういう姿は見ることがほとんどないから新鮮であり、かわいくもあり、いわゆるひとつのギャップ萌えという言葉が頭に思い浮かぶ。

 

「……君は魅力的だから他の子にいつ襲われるか心配なんだ。君が他のウマ娘へ指導しているのは良いことだが、私は私に自信がなくてな」

 

 俺が襲われる前提なのか。普通は男が襲う側では。いや、ウマ娘の場合だと力任せで男を襲うこともあるが。

 まぁ、こんなにも女性に想われているのはよいことではあるが。

 

「さてルドルフの悩み事は解決し、用件も済んだことだ。俺はウマ娘の指導に戻るよ」

「いや、まだだ」

「何か問題があったか?」

「あるとも。私の寂しさを埋めるのと、私の匂いを君につけるということが」

 

 身の危険を感じ、慌てて起きようとするもルドルフに押し倒されてしまう。

 こんなにもルドルフが恋愛に関する行為に積極的だなんて!

 誰だ、教えた奴は。シービーか、マルゼン? もしくはむっつりスケベっぽいブライアンか!?

 

「安心するといい。この時間は練習の時間だ。多少声をあげても問題はない」

 

 そう言ったルドルフは俺の足に足をからませ、手は恋人繋ぎをしてくる。

 それからは同室の子が練習から帰ってくるまで俺は抱きしめられ続け、ルドルフの匂いしかしない体となった。




前話のアンケートで、男性がおっぱいに求めてるものは大きさだと思っていたけど1番はやわらかさだと知って驚きました。
2番目は形で、大きさは3番目だなんて。


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29.フジキセキ(百合)『王子様は恋する子』

百合


 瑞々しい葉桜が目に優しい4月の中頃。

 この時期はトレセン学園に新入生が入り、未来にたくさんの希望を持っている子たちがアタシの目にまぶしくうつる。

 あんな元気でなにもかもが楽しいと思えるような姿なのは。

 そう思うのはトレーナーとしての仕事を頑張りすぎて、うまく疲労が抜けないからかもしれない。

 

 25歳でトレセン学園所属の新人女性トレーナー。

 それが私の職業。

 担当ウマ娘は高等部2年のフジキセキと専属契約を結び、でもフジキセキのために自分で仕事を見つけ、作っては学園の校舎内にあるトレーナー室にこもって静かに仕事をしていた。

 安いパイプ椅子に座り、安っぽい合板性の机に向かっては読書を。

 読むのはスポーツをやるウマ娘に関する栄養学の本だ。

 

 ウマ娘は人よりもたくさんの栄養と量を必要とするため、何を食べるかの指示やアタシ自身が何を作って持っていくかを日々勉強している。

 トレーナーによってはヘイキューブという、植物を圧縮してブロック状にした食べ物を中心にして与えることもある。

 栄養がバランスよく入っているそれは栄養管理が楽だけど、食べていてつまんないし、食事は心の癒しだからアタシは使っていない。

 実際に食べたことがあるけど、そんなおいしくないし。

 

 フジキセキとの朝練後から4時間ほどをずっと悩んでいるけど、料理は奥が深すぎる。

 将来、アタシが結婚をした時に旦那の料理を毎日すると考えると今から気が滅入る。

 まぁ、そもそも恋人なんてのはいないけどね! 見た目の影響で男性からの人気も低く、だからといって自分が過ごしやすい恰好でいたいし。

 スーツを着ているとはいえロングヘアで染めた金髪なせいか、「レディースっぽいね!」とフジキセキ以外に教えた子や同僚たちから言われているし。

 目つきだって悪いし、胸のサイズは70という小ささは受けが悪い。

 

 独身で人生が終わろうとも、トレセンでトレーナーをしている限りはそれもいいかなと枯れ始めている近頃。

 段々と気分が落ち込んできたところで授業終了のチャイム音が鳴る。

 腕時計を見ると時刻は12時。

 カフェテリアに行ってテイクアウトで何かおいしいものを買ってこよう。

 今日はいつもより豪華にして!

 

 そうして買ったものはオムライスと缶コーヒー。

 いざ贅沢をしようと思ったものの、贅沢のやり方を忘れるほどにフジキセキやウマ娘関連の道具に金をつぎ込んでいたためにお金の使い方がわからなかった。

 昔は肉や甘いものをたくさん買ったというのに。

 心が老齢化しつつあるのにショックを受けながら、元気に廊下を走っていくウマ娘たちを見ると、若いっていいなだなんて思ってしまう。

 

 アタシだって女子高生の頃は同じように元気だったと自分を励ましながらトレーナー室へ戻ると、そこには制服姿のフジキセキがいた。

 イケメンな顔立ちと女心をくすぐる言葉遣いで女性人気が非常に高いフジキセキはソファーに座っていて、目の前にあるテーブルにはかわいらしい小袋がひとつ置いてある。

 その中身は手作りっぽいビスケット。

 

「待っていたよ、トレーナーさん」

「待たせてごめんね。お昼を買いに行っていたから」

 

 ご飯を食べるために仕事机へ向かう途中、フジがふんわりと尻尾を動かして微笑みながら手招きをしてくるのでちょっと距離を開けて隣へ座ると弁当をテーブルへと置いた。

 

「何か用事があったの?」

「調理実習でビスケットを作ったからね

「フジのことだから、後輩たちにあげると思っていた」

「それは別に用意していて放課後にあげるさ。誰よりも大事な君には1番にあげたかったんだ」

 

 ウマ耳をピンとまっすぐに立てつつ、まぶしく輝く白い歯を見せては太陽のように光り輝く笑顔を見せてくる。

 それは女のアタシでもときめきそうでセリフと喋り方がかっこよく、ファンの人が見たら興奮のあまりに倒れてしまいそう。

 ううん、絶対倒れるに違いない。

 

「そういうセリフは好きな人に言うものよ?」

「私はトレーナーさんのことを心の底から好きだよ」

 

 そう言ったフジキセキは私の手の上に手を重ねていうけど、いつも手や体をさわられるアタシはあまり気にしないことにする。

 恋はしたいけど、恋愛対象は男性なわけで。フジがこの言葉のとおりにアタシを好きだったとしてもアタシは恋愛的な意味で好きにはなれない。

 なかなか恋愛できない自分にため息を出しつつ重ねられた手をもう片方の手で外すと、アタシはオムライスが入ったお弁当箱のパックを開け、一緒についてきたスプーンで食べ始めていく。(一緒についてきたケチャップの小袋はアタシが開けると爆発するので放置)

 

 甘いふわとろ玉子によって閉じ込められた、酸味があるケチャップライスが口に入ると幸せがすぐにやってくる。

 庶民的な味だけど、こういうのは最高級なステーキと同じくらいに感激できる。

 

「フジもお昼を食べてきたほうがいいよ。話があるなら食べ終わってからのほうが安心でしょ?」

 

 ふたくちほど食べたあと、食べるアタシをじっと見つめてくるフジへと声をかける。

 フジはアタシが放置していたケチャップの小袋を手に取って開けると、私のオムライスへと文字を描き始める。

 その文字は『LOVE』と。

 よくドラマや漫画で描かれるのが多い文字ではあるけど。なんか食べづらい。

 ニコニコと笑顔を浮かべて私の反応を待っているフジをあえて無視し、Lの部分をスプーンでまるごとすくって食べる。

 

「うん、おいしい」

「私の愛が入っているからね」

「うん、ありがとー」

「もっと感激して欲しいな」

 

 お腹が減って棒読みで返事をすると、苦笑するフジ。

 会話よりも今はオムライスが優先。

 ゆっくりと味わうオムライス。うん、この黄色いふわふわは最高ね。

 

「そんなにおいしいのなら今日は私もオムライスにしようかな」

「これ、甘いよ?」

「甘いのは得意じゃないけど君と同じものを食べれば、同じように幸せな気分になれるんじゃないかと思ってね」

「オムライス、子供っぽいって言わないんだね」

「私が? そんなことは言わないさ! 好きな食べ物があるのは素敵なことだからね」

 

 おおげさに両手を広げて感情表現するフジの手をよけながらアタシはオムライスを食べ続けていく。

 フジが人気ある理由のひとつとして人をバカにすることがないというのがある。

 他には親切でおせっかい。誰かが困ってくれると助け、悩み相談に乗って励ます。

 それはファンやウマ娘の子たちだけではなく、アタシにも同じことをしてくれる。

 契約を結んで3年目。

 色々と辛いことがあったけど、先輩や同僚から暴言や嫌がらせを受けても仕事を続けられるのはフジのおかげ。

 トレーナーと担当ウマ娘という関係だけど、その関係の前に親友とアタシは勝手に思い込んでいる。

 休みの日になれば一緒に買い物へ行き、お互いに愚痴をこぼす気安い関係。

 

「フジはいっつもアタシに優しいことを言ってくれるねぇ」

「言葉だけじゃなく、トレーナーさんのお腹にも優しいさ。この作ってきたビスケット、今日のおやつに食べて欲しいな」

「手を合わせて感謝してから食べるよ」

「いつもお世話になっているんだ。もっと気楽に食べてくれて構わないよ」

「それじゃあ、近いうちにアタシも何か作って持ってくるよ」

「私と君の仲だ。気にしなくてもいいよ」

「……やっぱりこういう関係はいいなぁ。親友みたいで」

 

 と、優しい言葉に感激しているとフジは少し表情を曇らせた。

 何か変なことを言ったっけ? とオムライスを食べながら考える。

 今の流れで変なことは言っていないし、親友というのは時々言っている。だから別に変なことじゃない。

 

「トレーナーさんとの関係ももう少しで3年目になるけど、私のことは親友と思ってくれているんだ?」

「うん。こういう関係性がアタシは好きだけど、嫌だった?」

「そんなことはないさ。……親友か。担当ウマ娘とトレーナーじゃなく、親友ならいい関係性って言えるかな」

「言えるよ、絶対に。アタシとフジは最高に仲良しさんだからね」

 

 落ち込んでいたフジだったけど、仲がいいというのを強調していうと笑顔を戻してくれた。

 一瞬落ち込んでいた原因はわからないけど、仲がいいのは間違いないからね。

 時々中等部の子に走り方を教えることもあるけど、担当を増やすわけじゃないと常々言っているし。

 でも不安に思っているなら言葉だけじゃなく、何かの行動にすればいいかなぁと考えていると私のすぐそばへとやってくるのに気付く。

 肩同士がくっつくほどの距離で何をするのか見守っていると、両手で優しく私の手からスプーンを取る。

 そうしてフジは手に持ったスプーンでオムライスをすくうと、私の口元へと持ってきた。

 

「ほら、口を開けて」

「それは恥ずかしいんだけど?」

「私が後輩の子にいつもしているのを見ているじゃないか」

「いやぁ、見てるからって慣れはしないなぁ」

 

 遠慮をしてもやめる気配がないフジに、アタシは一瞬だけ目をそらしてから覚悟を決めた。

 考えてみれば初めてフジに食べさせてもらうな、と思いながら口を小さく開くと、フジはスプーンを口の中へと入れてくれる。

 フジのイケメンで王子様スマイルなかっこよさがすぐ間近にあるせいでオムライスの味はわからない。

 このイケメンめ!!

 もしフジが男の子だったら惚れていて、今すぐにでも告白をしていたよ!?

 一緒にいて楽しいし、ずっといても気疲れしない人というのはとても貴重。どれくらいかというとクラシック3冠レベルぐらいに。

 

 フジの顔に見惚れかけていると、ふたくち目を口の中へと放り込んでくる。

 2回目ともなると、心がちょっとだけ落ち着いてオムライスの味がわかるようになってきた。

 でも、だからといって『あーんして』と言われると理性が溶けてくる。

 このイケメン王子様系ウマ娘め。いったいアタシの心をどうしてくれるんだろうか。

 

「ふふっ、トレーナーさんのかわいい姿を見るのは嬉しくなるね」

「フジの前ではかっこよくいたいんだけどねぇ」

「私だけに見せてくれれば問題ないよ」

「そういうのは後輩ちゃんたちに言ってあげて」

「トレーナーさんにしか言わないさ」

「罪な女め」

 

 そこらへんにいる男がこういうセリフを言うなら全然気にしないところだけど、フジならすっごい似合っている。

 大体の行動がかっこいいで作られている男よりもイケメンなフジに逆襲したくなる。

 いったいどうすればいいのかなぁと考えていると、フジによって食べさせてもらっていたオムライスはなくなってしまっていた。

 食べ終わった容器とスプーンを捨てに行くフジを見送り、戻ってきたときに思いついたことがある。

 さっきと同じように肩がふれるほどの距離にやってきたフジを動揺させたくて私は行動に移す。

 

「フジ、こっち見て」

「どうし──」

「よしよし」

 

 突然、フジの頭に片手を置いてわしゃわしゃと髪をかき混ぜるように髪型がくずれる撫で方をする。

 普段から私に対して優しく、またはかっこよく対応してくるので怒った姿が見たくてやった。

 だというのに、フジは私にされるがままに乱暴な手の動きを受け入れている。

 嬉しそうに動く尻尾。耳を倒して撫でやすい状態にしたフジはどことなく嬉しそうだ。

 

 違う! こういうフジが見たかったわけじゃない! と思いつつも結構フジの髪をさわるのは気持ちがいい。

 跳ねている髪は別として、他の部分は絹糸のようにさらさらでずっとさわっていたくなる。

 いったいどうやっているんだろう。私だって髪には気をつけているものの、宝石のように光る黒髪はすっごくうらやましい。

 

「突然どうしたんだい?」

「なんかフジを褒めたくて。でも撫でるのが雑になっちゃってごめんね?」

「なに、トレーナーさんが撫でてくれるなら気にしないよ。普段は私の方からさわるばかりだから、こうしてもらえるのは嬉しいよ」

 

 言われてみると、フジから手を繋いでくることや手の平にキスをしてくることはよくある。

 でも私からさわるといったことは滅多にない。契約してからだと片手で数えられるぐらいに。

 目をつむり、手の感触を味わっている姿を見ているとなんだか変な気持ちになってくる。

 まるで恋愛をするかのようにドキドキとしてしまう。

 

 これは恋なんかじゃない。普段とのギャップ萌えでときめきかけているだけ。

 物足りない。もっと色々なフジを見ていきたいと思う。

 今まで一緒に過ごしてきた2年と少しはアタシ自身から接することは少なかったから。

 フジが一方的になんらかのアクションをし、それに反応する。それがいつものことだった。

 でも今はアタシがやったことによってかわいいフジをもっと見たい。かっこいいフジが1番だけど、かわいいのも。

 

 そう思ったアタシは目をつむっているフジに気づかれないよう、そっと静かにウマ耳へと口を近づける。

 そして──。

 

「ひゃあっ♡」

 

 ふぅっ、と優しく息を吹きかけた。

 その様子はなんてかわいいの!?

 いつものイケボな声じゃなく、普通の女の子らしい高い声。

 あまりにもフジらしくない、でもフジらしい声に背中にゾクゾクとした強い感覚がやってくる。

 この満足感ともっとフジの女の子らしい部分が見たくてこのまま息を吹きかけ続けていく。

 フジの恥ずかしがって赤くなっていく様子を見ていくのは幸せだ。

 

 初めてこんな感覚を味わった。

 それをもっと知りたくて、逃げようとして立とうとするフジを押し倒す。

 本来のウマ娘の力なら人の拘束からなんて簡単に逃げ出せる。

 でも力が抜けていて、アタシがやっていることに嫌悪感を持っていないらしい今ならいける。

 表情だってとろけていているし。

 

「もうやめてくれないか……?」

「えっ、あっ、ごめん!!」

 

 フジの嫌がった声を聞き、理性が溶けていたアタシだけど冷静へなるのは一瞬だった。

 流れに乗ったまま、フジをいじくりたいと思ってしまったのはひどく後悔をする。

 すぐにフジの体の上から離れようとしたけど、アタシの背中に回された手はそうはさせてくれない。

 

「ねぇ、トレーナーさん」

「ごめん、フジ」

「謝らなくていいよ。悪いと思っているのなら、ひとつお願いがあるんだ」

「いいよ、なんでも言って」

「そのまま動かないで」

 

 フジがそう言った瞬間、フジはアタシの背中に回していた手に力を入れる。

 そうして抱きしめられる形で密着し、キスをした。

 唇同士がふれるだけの優しく、人生で最も緊張と恥ずかしさ、遅れてくる喜びと戸惑い。

 突然すぎることに自分の気持ちは整理がつかない。

 

「好きだよ」

「えっと、あの、アタシはフジのこと……」

「親友と思っているんでしょ? そこから私は関係を深くしたいんだ。君をもっと知りたい。さっきみたいに私へ何をしたいのかを教えて欲しいし、私も君のことを知りたい。

 トレーナーとウマ娘という関係じゃなく、君という個人を知りたいんだ」

 

 恋愛対象としては見れない。

 そう言おうとしたけど、このときめく気持ちはいったい何?

 心臓は痛いほどに高鳴っている。

 

「女同士だけど、私はどうしても君が欲しくてたまらないんだ」

「あの、アタシは男の人が好きなんだだけど。だからフジは──」

「安心して。強引なことはしないから。今日、この瞬間から好きになってもらえるよう努力するよ」

 

 多くの女の子を落としてきた王子様スマイルを向けられたアタシは、今までフジに魅了された子と同じように一瞬で恋に落ちる。

 落ちてしまった。

 だけどアタシは意識して気をつけないといけないことがある。

 王子様じゃなく、1人の女の子としてのフジキセキと一緒にいたいってことを。



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30.ダイワスカーレット『アタシは1番という言葉に嘘をつく』

 アタシがスズカさんの恋人、彼氏であるマサキさんを知ったのは学園が夏休みに入る少し前の日だった。

 その日はチームスピカの中で脚質に逃げ適性がある2人で走った休憩の時間。

 スピカの中で最も女の子らしいから、と相談にのったのがきっかけ。

 そして、マサキさんの写真を見た瞬間からアタシの初恋が始まる。

 スズカさんの彼氏だということを理解しながら。

 

 その人はスズカさんと幼馴染で、スズカさんを追いかけるようにしてスポーツ推薦で東京へとやってきた。

 スズカさんとマサキさんは同い年の17歳。

 アタシより二つ上なのに、なぜかどちらの相談にもよく乗ることがあった。

 それというのも恋愛に興味が薄いのに、告白を受けて恋人関係になったスズカさんが悪いことが多いんだけど。

 恋人同士になって3年だと言うのに、まだ恋愛の段階が進んでいなくて手を繋いだことしかないと知ったときの驚きぶりは20秒ほど固まってしまった。

 そんなの小学生ですら先に進んでいるのに。

 

 あまりにも進展がないことを知ったアタシがスズカさんに参考資料(高校生が主人公の少女漫画)を押し付けて渡すぐらいには心配をした。

 それがなんでかスズカさんにお願いされ、2人のデートに付き合うことが始まった。

 マサキさんを知って3ヶ月たった9月末。

 スズカさんの話だけで知っていた人は、とても輝いて見えた。

 身長は163㎝のアタシよりもわずかに高いぐらいで、体型は陸上部ということもあって筋肉質でよかったけど。

 でも顔立ちは特別いいというわけでもないのに少女漫画の主人公のようにアタシの心はときめく。

 

 初めて会った時から、スズカさんにだけでなくアタシにも優しくしてくれた。人に優しくするのは当然とばかりで、アタシたちだけでなく知らない人であろうとも声をかけて助けようとする。

 間違っていれば、その人のためになるように叱る。

 その優しさは、自分に兄がいればこんな感じかなぁと考えるぐらいだった。

 

 学校で彼の話をすると、あの人の優しさはスズカさんにいいところを見せたいだけじゃないの? と聞き、慈愛の笑みを浮かべたスズカさんは1人でいた時でも同じようなことをしていたと言った。

 それはアタシが直接見たものではないけど、1年前にスズカさんがこっそり隠し撮りした動画を見てアタシも同意見へ。

 幼稚園から一緒に過ごしていたスズカさんが言うには、ゴミが落ちていれば急いでない時でなければ拾うし、人間だけでなく動物に対しても優しさをを与えて懐かれる。

 自分のものではない花壇に管理人の代わりとして水をやり、誰も見ていないのに清掃活動をしているのはよくあることらしい。

 ただ、不満があるとすれば自分のことを大事にしないからよく怪我をするのが不満で、自分に優しくしないのが嫌だと言ったけど。

 

 私は動画や話を聞いて思った。そんな人がこの世界にいたのかと。

 それからスズカさんの付き添いで会い、一緒に遊び、スズカさんなしでも時々会うように。

 そうして段々と意識して恋愛感情が芽生え、けれどスズカさんの恋人に好きだという気持ちを知られないように抑え続けていた。

 彼の1番になりたいと願いながらも。

 

 ◇

 

 あの人が泣いたのを初めて見たのは今日が初めてだった。

 トレセン学園の感謝祭で一般の人とウマ娘がふれあえる春のイベント。

 スズカさんとマサキさんが学園内でデートをする、というのをマサキさんから聞いて私が助言。

 それがうまくいっているかを知りたくて探していたときにそんなシーンに遭遇した。

 空は天気がよくて晴れているのに、2人の空気はじめじめと湿っている。

 2人は遠くから喧噪が聞こえ、人気がないベンチにひとりぶんほどの距離を開けて座っていた。スズカさんは制服で、マサキさんはチノパンに長袖のシャツを着ている。

 見つけた瞬間、いったいどんな会話をしているのかとワクワクしながら私は近くの茂みにしゃがんで隠れると、目をつむって声に集中する。

 聞こえてきた声は楽しいものではなく、悲しさを含んでいるものだった。

 

「───だからね、マサキくん。私はトレセン学園にいる間は走ることに集中していたいの」

「それは俺とランニングもダメなのか」

「うん。今は大事な時期だから。メッセージや電話だけじゃダメ?」

「デートもか?」

「私は上を目指したいから。しばらくの間、待っていて欲しいの」

「スズカがそういうなら我慢する。……俺たちは恋人同士だよな?」

「私はそう思っているけど、違った?」

「いや、違わない! 俺はスズカの恋人。……恋人でいいんだな?」

「そうよ? 私は告白されたから受け入れたんじゃなくて、マサキくんを好きだから恋人になったの」

 

 3人でいるときは楽しい雰囲気なのに、私がいないときはお互いがお互いに恋人だということを確認するほどに冷えたような。

 2人の声は別れる寸前のような気がする。私は恋人なんていたことがないけど、ドラマや映画では今のようなシーンを何度も見たことがあるから。

 愛しているのに、こんなにも冷たく接しているスズカさんにいらだちがある。

 マサキさんという、大事にしてくれる彼氏がいるのにそっけない態度のことを。

 恋人として付き合っているのに、スズカさんに合わせて手を繋ぐとこまでしか進まないようにしている男の子は貴重だと思うのに。

 普通、男の子は女の子に対して肉体関係を迫ることが多いというのに。相手のことを大事にしてくれる彼のことをスズカさんはもっと感激してもいいと思う。

 

 2人がどんな様子で話をしているか気になった私は目を開けると、茂みに顔を近づけては葉っぱの隙間から2人の様子を見る。 

 ここに来たときと距離は変わっていなく、恋人というよりも普通の友達というようにしか見えない。

 気遣いができる、素敵な男の子なのに大事にしようとしないスズカさんにイライラしちゃう。

 彼氏のことなんてどうでもいいんじゃないかって。

 

 でもそれはアタシの感覚で見ているからだけであって、アタシが知らないところで優しくして───と思ったけどそうでもないことを思い出す。

 スズカさんはメッセージの画面を見せてきては返事をどうすればいいか聞いてくることがある。だから普段からどんなやりとりかがわかる。

 言葉で表現ではなく、行動で表現する人だと思うから仲がよくないのは偶然、今だけだったと思う。

 そう信じていらだちを抑え、深呼吸を1度して気持ちとブンブン振り回してしまっている尻尾の動きを落ち着ける。

 

「スカーレットと会ってくる」

「それがいいわね。あの子、マサキくんと会うのを楽しみにしていたから」

「……俺がスカーレットと感謝祭を2人で楽しんでもいいのか?」

「ええ。2人が楽しんでいるのは嬉しいから」

「そっか……スズカがそういうなら楽しんでくるよ」

 

 少し落ち込んだ様子を見せたマサキさんは勢いよく立ち上がると、その背中に手を伸ばしかけて寂しそうに見送るスズカさんの視線を背に受けながら校舎へと向かっていった。

 それを見届けたアタシは、好奇心でのぞき見をした自分に嫌悪感が出て立ち去ろうとしたけど、スズカさんが隠れているはずのアタシを見てきて冷や汗が出始める。

 その表情には先ほどの寂しさはなく、クールで無感情な顔。

 

「怒ってないから出てきて。尻尾が動いた音が聞こえたから、いるのはわかっているのよ」

「すみませんでした!!」

 

 このまま隠れ続けることはできないと判断し、即座に立ち上がると腰を直角に近いほどに曲げて頭を下げる。

 見られたくない場面を見てしまったことに、これからどんな罵倒が来るかと恐怖しながら待つ。

 でも私の恐怖感とは違い、かけられた声は違ったものだった。

 

「見ていたのはスカーレットだったの。怒っていないからこっちに来て」

 

 と、穏やかな声をかけられたので顔を上げるとスズカさんが座っているベンチの横をぽんぽんと叩いている姿が見える。

 表面は言葉どおりだけど、内心どうなっているかわからないアタシは逃げたいところ。

 けど、逃げても結局はスズカさんと話をする機会があるから、心を落ち着けるためにゆっくりと近づいて恐る恐る隣へと座る。

 距離は2人ぶんほどを開けて座ると、スズカさんはまっすぐにアタシを見つめてきた。

 

「さっきのを聞いていて、私が冷たいと思ったの?」

「えっと、正直に言わせてもらってもいいんですか?」

「そのほうがありがたいわ。私自身も何か間違っているとは思うんだけど」

 

 その言葉を聞き、恋愛感情がなくなってきたんじゃなくて不器用なだけなんじゃないの? と感じた。

 思えばスズカさんは少し言動がずれている。考える優先順位が走ることに集中しすぎているからだと思うけど。

 それを考えた上でアタシは自分が思ったことを素直に言う。

 

「恋人に対して冷たいかな、と思いました」

「そう。冷たいのね、あの言い方は」

「だって好きな人に対して距離を取るのはそう感じても仕方がないと思うんです」

「でも私は走りに集中し続けていないとマサキくんに甘えちゃってダメになるから」

 

 その悲しい表情は、まるでレースに負けたときのようなひどい落ち込み具合。

 さっきマサキさんと話をしていた時には分からなかった感情が、アタシの前だと隠すことなく教えてくれる。

 自分自身の気持ちを上手に伝えていれば、さっきのようなケンカ別れしそうな雰囲気にはならなかったと思うのに。

 

「でもスズカさんほどの才能があるなら大丈夫かと思いますけど」

「今の話にそれが関係するのかしら」

「しますよ! 何かを犠牲にしないと欲しいものが取れない人は能力や問題解決に行くまでの考え方が足りないだけなんです! 普段から努力しているスズカさんは恋人に甘えるぐらい、いいえ、恋人に甘えないと逆に無理をし過ぎてダメになります!」

「そこまで?」

「そうです! このまま走るのに集中しすぎると骨折しそうなぐらいに!!」

 

 マサキさんはアタシの好きな人。

 このまま放っておけば段々と仲が悪くなって2人が別れる確率が増えると考えるアタシがいる。

 でも好きな人だからこそ、スズカさんと幸せになって欲しい。

 誰かを好きになるという気持ちを軽く扱っているスズカさんにいらだっているということもあるけど。

 

「……そう、それなら考えてみようかしら」

「考えるんですか」

「考えるわ。だって、これからの私のことだもの。私は器用じゃないから、きちんと自分の気持ちに整理をつけておいたほうがいいと思うの」

 

 スズカさんのすぐに行動しない言葉に、荒れる気持ちをぶつけてしまう。でもスズカさんは感情のおもむくままではなく、決断をするための時間が必要らしい。

 アタシだったらこうするという考えになって言葉が出てしまうけど、恋愛をする速度はみんな違う。

 これ以上アタシがスズカさんに何かを言うのは違うかもしれない。

 

「そう思っているなら安心しました。まったく冷や冷やしましたよ」

「ありがとう、スカーレット。あなたがいてくれて本当によかったわ」

「やめてください。2人が別れるのが嫌なだけなんですから」

「わかったわ。もしスカーレットが好きな人に対して行動するとなったら助けるから」

 

 そう言われて、アタシの暗い気持ちが浮かび上がっている。

 アタシの好きな人はスズカさんの恋人だからもらってもいいですか、とか。略奪愛ってどう思いますか、と言いたくなりそうに。

 スズカさんの言葉にどう返そうか悩んでいると、スズカさんは穏やかに微笑む。

 

「心の底から好きな人がいるなら私は止めないわ。こうして恋愛の話をスカーレットと一緒にする時間はとても好きだもの」

 

 それはまるでアタシがマサキさんを好きだという気持ちに気づいているような。

 恋愛に関することは鈍いと思っていたけれど、実はアタシがそう思っているだけで鋭いんじゃないかと冷や汗が出る。

 その微笑みの向こう側に、アタシの気持ちを知っているかもしれないと。

 少女漫画やスズカさん以外なら好きな人を独占したくて他の人を排除しようとするかもしれない。

 でもスズカさんは違うと思う。

 いかに気持ちよく走るかを考えるこの人は、恋愛も同じように考えているかもしれない。

 つまりは自分が幸せな空間を作っていたい。今の言葉を言うと、3人で恋人関係を作ろうと言っているかのようにアタシは思ってしまう。

 

 どうしよう。

 アタシの思っていることが当たっていたら、それは嬉しい。

 自分が好きな人の1番でいたいという気持ちはあるけど。

 頭の中でどうすればいいかをぐるぐると考え、スズカさんの好意と優しさに満ちている笑顔を見ていると気づいたことがある。

 恋する乙女、その中でも恋人がいる人は精神が大人になるんじゃないかってことを。

 

 アタシは恋愛を漫画やドラマでしか知らない。幸せのひとつとして、自分だけの恋人が隣にいることは素敵なことだと思う。

 でも幸せという意味で考えれば、好きな人を独占するよりも3人でいたほうが楽しいかもしれない。

 実際、スズカさんに誘われて3人で遊んだ時はすごく楽しかったから。

 

「その、アタシは……」

「どんな答えでも私はスカーレットの答えを尊重するわ。だから教えて欲しいの。あなたは恋をしているかを」

「アタシは、恋は、恋をしていて……えっと、今じゃなくて後で話をさせてください!!」

 

 スズカさんの優しい言葉と笑みに、つい自分の気持ちを言いそうになったけど今じゃない。

 私はマサキさんとどうなって行きたいかの気持ちがはっきりしていない。

 好きだというのは自覚している。その好きの後のことはまだ考えきれていない。

 マサキさんとどうなりたいかを。

 恋人になりたい?

 片想いのまま友人になりたい?

 3人での恋人関係?

 

 答えが出なく、アタシは勢いよく立ち上がってそこから走っていなくなる。

 行き先はどこでもいい。

 ただ自分の気持ちを落ち着かせたかった。

 

 そうして走っていると偶然にも噴水のあたりでマサキさんを追い越し、声をかけられる。

 

「あ、スカーレット!!」

 

 好きな人に名前を呼ばれ、胸が高鳴る。そして急ブレーキをかけて勢いよく彼の元へと行く。

 

「偶然ね、マサキさん。感謝祭は楽しんでいる?」

 

 アタシは今日初めて会ったかのように、実際に会うのは初めてだけどスズカさんと冷たい会話をしていたことを知らない振りをして返事をした。

 

「楽しいよ。テレビで見たウマ娘がいて感激するし、執事喫茶に行ったときはすっごいイケメンなウマ娘がいて驚いたよ」

「浮気はダメよ?」

「しないって! ただかっこいいウマ娘がいるなぁって思っただけで!! それにさっきまでスズカと一緒にいたから浮気じゃないのは証明できるし!」

 

 さっきまで落ち込んでいたのに、わたわたと元気に慌てる姿がとてもおかしい。

 普段から落ち着いていて優しいのに、ちょっとからかうだけでこんなふうになってくれるんだから。

 

「ホントかなぁ? 心配だからアタシが一緒に回ってあげるわ!」

「いやいや、俺はスズカ一筋で……あー、まぁスズカと会うまで頼むよ」

「アタシに任せておきなさい!」

 

 苦笑するマサキさんの右隣に行き、一緒に出店を見ながら歩いていく。

 こうして隣にアタシだけがいるというのは嬉しいけど、スズカさんのことをいつも考えているというのを聞くと胸が痛くなった。

 

 ◇

 

 春の感謝祭が終わった2日後。

 学園での授業が終わったアタシはルームメイトでよく口喧嘩をする、まぁそこそこ仲のいいウオッカと一緒に学園の外をランニングしていた。

 今日はスズカさんは珍しく練習を休んでいて、スズカさんの私生活はどんなふうになっているかと話をしながら走っている時だった。

 河原の土手を走っているとき、遠くの斜面で制服姿のマサキさんとスズカさんが見える。

 

「休憩しましょう、ウオッカ」

 

 特に疲れてもいないけど2人の様子を見たくて強引に休憩を取ったアタシは、ウオッカが文句を言ってくるのを流しながら2人をじっと見つめる。

 感謝祭で見たときと違い、距離を開けて座ってはいない。肩がくっついている。

 笑いあっている姿からして、仲良くなっているのを見られたのは嬉しい。

 きっとスズカさんは走ることだけじゃなく、彼氏であるマサキさんのことをよく考えるようになったみたい。

 今、スズカさんの方から背中に手を回して抱きしめているし。

 3年もの間、手を繋ぐだけだったのに仲が進展している。2人とも素敵な笑顔だ。

 そんな様子を見ていると、心がほのぼのと穏やかな気持ちになる。──私が彼を好きになっていなければ。

 

 今まで大事に扱っていなかったのに。アタシなら走ることだけじゃなく彼のことをずっと考えるのに。

 スズカさんのように手を繋ぐだけじゃなく、キスもその先も。

 アタシがもし隣にいたのなら。

 そんなことをどんどんと想像し、自分が人の不幸を願うのが嫌になって急に走り始める。

 ウオッカが呼び止める声を無視して、アタシの好きな人が仲良くしている場所とは逆の方向へ。

 

 ◇

 

 好きな人が恋人であるスズカさんと仲良くしているのを見てから、どことなくスズカさんの恋愛相談には以前ほど集中して考えることはしなくなっていた。

 自分が告白をすることもなく恋は終わってしまったのだと理解をしてしまったから。

 そもそも好きになった時からスズカさんという恋人がいたから始まるも何もあったのではないのだけど。

 

 5月も終わりになり、1カ月経っても自分の恋の炎は燃え尽きないでいた。

 片想いはいまだ続いており、スズカさんとマサキさんとの3人で遊びに行くことも続いていて。

 でもアタシは以前と行動を変えていた。

 前は積極的にマサキさんとふれあい、話をする行動を取っていた。今はスズカさんとうまく行くように話や場を整えるように。

 

 そういう気持ちになる土曜日に学園の外で1人ランニングをしていると、住宅街でジャージを着てアタシと同じようにランニングをしているマサキさんの後ろ姿を見つけた。

 マサキさんが住んでいる寮は学園からは距離があるけど、ランニングをするなら学園の近くまで来ることがあるから珍しいと思う。だからスズカさんがいないなら仲良くしてもいいよねと自分の行動に理由をつける。

 

「マサキさん!」

「おぉ!? あぁ、なんだスカーレットか。驚かさないでくれよ」

「ランニング中に驚かさないようにするのは難しくありません?」

 

 息を切らしているマサキさんは立ち止まり、アタシは彼のすぐ横へと行く。

 

「自然と前に来て振り返る、俺が気づくまで後ろで走るとか」

「そもそも偶然ならどうやっても驚くと思いますけど」

「それもそうだな。今日は1人みたいだけど、一緒に走る?」

「いいんですか!?」

 

 ふたりきりでのランニング。実質的にデート!

 練習という意味ではマサキさんの走る速度じゃダメだけど、こういう時じゃないと一緒にいれる時間がないからすごく喜んじゃう。

 

 

「そこまで喜んでもらうほど楽しいものじゃないけど。ここから遠回りな感じで学園正門まで行こうか」

「はい、ぜひ!」

 

 そうして一緒に走る時間はずっとこうしていたいと思うぐらいに居心地がよく、会話がなくても静かな時間は楽しい。

 そうして過ごしているとどうしても考える。

 この人といるだけでやっぱり楽しく、恋人として欲しいという気持ちも。

 

 

 それから1日考えた。

 短い時間だと思うけど、以前から抑えていた気持ちを表へ出そうと決心しただけだから気持ちの整理さえつけば、すぐに答えは出た。

 次の日には学園の休み時間にスズカさんを人気のないところに呼び出して伝える。

 アタシの恋心のことを。

 

「アタシ、マサキさんが好きです! だからスズ──」

「なら一緒に恋人になりましょう?」

「……待って。待ってください。どうしてそうなるんですか? そこは怒るところじゃないんですか?」

「だって、私はスカーレットのことも好きだもの。3人でいる時間はとても好きだから、それがずっと続くならいいと思って」

 

 その言葉に混乱しかない。

 向かい合って立つスズカさんは怒ることも嫌がることもしていない。

 なんでなの?

 普通、恋人というのは1対1でなるものなのに。

 それが1対2という男女の数。こういうのは男の人からすればハーレムというものになるんだったっけ?

 まぁそういう愛の形もあるけれど。今の時代、恋愛の形はとても自由で結婚をしなくてもパートナーという関係で一生を過ごしていくこともあるけれど。

 でもアタシは戸惑ってしまう。

 スズカさんがさも当たり前のように、アタシがこういうことを待っていたかのように余裕を持って言うんだから。

 情報を処理しきれないアタシは、スズカさんに何か言わなきゃと焦りを持った気持ちがあり、今の言葉で気になったことを聞く。

 

「え、スズカさんは女の子もいける人なんですか」

「そういう意味じゃないの! 恋愛的な意味では男の人が好きだけど、スカーレットとはこう、友達の、そう親友的な意味で好きというようなね!?」

 

 その言葉の焦り具合からして、本心から女の子が恋愛感情として好きではないと理解する。

 アタシは女の人に対してはそういう気持ちがないからよかった。男の人への恋も最近気づいたばかりなのに、女の人への気持ちも求められたら対応できない。

 スズカさんぐらい美人で落ち着いた人ならアリかなぁ……と考えるけど。

 でも今のアタシはマサキさんにひどく惚れている。

 スズカさんの女の子がどうよりも、3人で一緒にという提案は心が惹かれるものがある。

 

 このままだとアタシは恋人持ちのスズカさんから略奪愛をする嫌な奴になる。かといって、おとなしくして2人がいちゃらぶするのを眺めるのはもっと嫌。

 つい先日まで進展がなかったのに、抱きしめるという段階に進めばキスも近いうちにやっちゃうに違いない。

 スズカさんが女の子じゃなくて男の子、マサキさんがいかに好きかということを語る言葉を半分だけ聞き流しながら3人で付き合うということを考える。

 

「スズカさん、また3人でデートしましょう」

「……私たちとずっと仲良くしてくれる?」

「マサキさんがアタシとそうしたいと思ってくれているのなら」

「それなら問題ないわ。スカーレットと3回目のデートから3人でいたいと私がずっと言っていたから。だから学校はさぼりましょう?」

「そんな前から計画していたんですか。というかマサキさんも了承済みですか。いえ、そもそもこれから授業がありますよ?」

 

 アタシは結構な心構えをしてきたというのに、スズカさんは前から3人で付き合いたいと思っていたとか。

 これは心が広いと言えばいいのか、自分の気持ちに素直でいたいということか。

 彼の隣に自分だけが、自分が1番でいたいと思っていたけど、そんな気持ちは揺らいでいく。

 

「今はこっちの方が大事だから。3人で学校を抜け出しましょう」

「え、でも、アタシは優等生として真面目に授業を──」

「マサキくんがスカーレットのことを前から気になっていて告白したいって」

「さぼりましょう。今すぐ。何か問題があってもウオッカがなんとかしてくれますから」

 

 スズカさんへ早口で返事をし、アタシの好きな人がアタシを好きになってくれたことは嬉しくてたまらない。

 しかも告白してくれるとか!

 少し自分の気持ちを素直に聞くならば、確かに彼の1番になりたかった。でもそうしないと恋人になれないと思ったからであって。

 あの3人で過ごせる時間なら1番でなくてもいいかと思う。

 ずっと居心地のいい幸せな時間を過ごせるのなら!



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31.ナリタブライアン(百合)『私のモノになればいいのに』

百合


 残念ながら私はウマ娘ではなく、美人な女の子として生まれてしまった。

 ウマ娘は美人な顔を当たり前に持つと言われている人種だけど、私は人の身ながらウマ娘以上に美人と言われている。

 お母さんがかつてG3を勝利したウマ娘。

 そのウマ娘の血を引いたから美しく生まれる可能性は高いというのが世間一般の認識。

 美人に生まれたのはいいことだ、と周囲や世間の人は言う。

 私はそうは思えない。

 

 この自分の美人さを憎んだことがある。

 小学生でも顔がいいというだけで男性たちに告白されることが多いということだけじゃない。

 ウマ娘でもないのにお母さんよりも美人なため、お母さんに嫉妬されているからだ。

 お父さんが私をよくかわいがっていることもあって、お母さんはことあるごとに言うことがあった。

 『人なのにウマ娘より美人だなんて』『ウマ娘を母に持つのに、人とはいえ運動能力がなさすぎる』と。

 まぁ、何もないところで転ぶほどに運動能力がないのは私も理解しているけど。

 

 お父さんは中央トレセン学園で優秀なトレーナーとして働き、家にいないことが多かったからお母さん親と一緒に過ごす時間が多かった。

 そのため、私は幼い頃からお母さんの機嫌を気にしながら、身を小さくして生きてきた。

 お母さんは気に入らないことがあると、私に愚痴、苦情、文句を言ってくる。時には暴力行為も。

 人の身に対してウマ娘の力はとても強力で、私が嫌がっても押さえつけていうことをきかせる。力加減は絶妙で骨折や骨にヒビなんてのは1度もなく、時々内出血があるだけ。

 

 そんなお母さん親が嫌で、お父さんに助けを求めたがダメだった。

 お父さんはお母さんのことを信じ切っていて、私の話を聞いてもわがままだと信じ込んでいた。

 妻が大好き過ぎるのかウマ娘は全員が優しい生き物だと思っているお父さんはむしろ私のことを叱った。

 『変なことを言ってお母さんさんを困らせるんじゃない』と。

 

 私は手のかからない子として生きてきたからか、困ったように言ってきたお父さんに見捨てられたと思った。

 頼れる相手もいない。家では母を恐れ、小さな物音や影にすら恐怖を。

 そんな日々をおびえて生きていくのはつまらなく、早く大人になって知らないところへ行きたいと思いながら平和そうに笑って過ごしていくクラスメイトを見ていった。

 私が成長して家事をできるようになっていくと、時間に余裕がお母さんは男遊びをするように。

 日頃から、お父さんが浮気していないか心配で、知らないウマ娘の匂いや毛をつけていると怒鳴りあいのケンカがよくあった。それが遊び始めた理由だと思う。

 お母さんはウマ娘だから美人で、日頃から美容を頑張っていたために男受けはよかった。旦那がトレーナーだからお金回りもいい。

 時々お母さんを迎えに来る男性を見たことがあり、その時のお母さんはまるで10代の少女のように若返ったように思えた。

 お父さんはお母さんが若い男の人と会っていることに気づきながらも、自分の仕事に文句を言わないのならそれでいいと放っていた。

 両親はそれぞれが生活を楽しみ、私は静かに生きてきた。

 

 でもそれが変わった日が来た小学校5年生の時に両親が離婚したからだ。

 原因はお母さんの不倫がばれたこと。

 お父さんは怒ったけど、お母さんは不倫をした理由を言った。

 私のお父さんが若いウマ娘の匂いをつけて帰って来るのが我慢できなかったらしい。それを知って結婚したのに。

 でもそれは理由付けであり、本当は若い男のほうに入れ込んだというだけ。

 お母さんは、初めての恋で結婚し、恋愛経験が少ないから恋愛に夢を見て生きていきたかったかもしれない。

 お母さんの理由を聞いたお父さんはもう怒りもせず、離婚を認めた。

 そうしてお母さんは私とお父さんを捨てて去っていった。

 

 お母さんがいなくなっても寂しい気持ちにはならず、もう怒られないのと自由な時間が増えるということにすっきりとした気持ちでに。

 でも家にいない時間が多いお父さんは娘である私が寂しがっていると思ったらしく、お母さんがいなくなって広くなった3LDKのマンションへ帰ってくる時間は早くなった。

 それと同時に自分の担当ウマ娘を家に連れてきては私の話し相手や遊び相手、時々家事の手伝いをさせることも。

 今まで小学校の友達との付き合いがなく、ひとりぼっちが多かった私はそれが嬉しかった。

 お父さんに対する不信感はあったものの、ウマ娘たちを連れてきたことだけは高く評価している。

 

 ウマ娘たちと交流を重ね、私の心が豊かになっていく時に運命の出会いがあった。

 それは中学1年生の時。

 いつも連れてきている担当ウマ娘のように、新しいウマ娘をお父さんは連れてきた。

 その子はまだ中等部1年生の子で、まだお父さんの担当ですらないのに気に入ったというだけで自分のウマ娘扱いをしている。

 そのウマ娘の名はナリタブライアン。のちにクラシック3冠を制覇することになるウマ娘で、口にくわえる植物が話題になりやすい子。

 

 彼女は鼻にテープ(スポーツ用の鼻腔拡張テープというものらしい)を付けた、黒髪ポニーテールで獲物を前にした猛獣みたいな目つきをしていた。

 多くのウマ娘を間近で見たけど、堂々たる姿に私は一目惚れをした。

 今まで告白はたくさん、50回目までは数えていたけど告白されても恋愛感情やドキドキすることはなかった。

 

 でもこの瞬間から、告白してきた人の気持ちがよくわかる。

 誰かを好きになるというのは、その子のことしか考えられなくて理性じゃどうしようもできないって。

 他のウマ娘にも強い目をした子はいたけれど、その子は芯がある強さを持っていた。勝つためならどんな努力でもする。

 そんな強さがあるブライアンは同じ年齢だとお父さんは言っていた。

 私の中学校でもこんな子はいない。これほど自身の心を強く持ち、気高くいるのは見たことがない。

 興味を持った私は興奮する気持ちを必死で抑えて話をすると、どうやら渋々連れてこられたようで私と会って話をするのは早く走る勉強になると言われて連れてこられた。

 

 いったい何のことだとお父さんに苦情を言いたい。

 私は中学で園芸部に食事していて、体育の授業で走って褒められたのはない運動音痴に何ができるんだろう。

 頭を痛めながらも、一目惚れした子と仲良くなりたくて色々なことを一緒にし、話をした。

 はじめはつまらなそうに料理や掃除を一緒にし、一方的に話しかける私が好きな草や花の話を聞いていた。

 一方的に話しかける関係でも、ブライアンは時々反応してくれるからそんな生活が私は楽しい。

 でも出会って半年ほど経った時に、ブライアンが「これ以上お前といて得るものはない」と言ってきた。

 

 惚れている相手とはいえ、そう言われた私はぶちぎれた。それはお母さんが私を無価値だと言ってたのを思い出して。

 その時は秋で、私は園芸部で育てた陸稲の稲をドライフラワー用にと持ってきた。

 それを10本ほどをまとめた束を、不意をついてブライアンの口へ強引に突っ込み、怒りが収まった。

 かっこいい美少女な外見をしているのに、口から稲穂を生やしている姿が間抜けすぎて。

 私に突っ込まれたブライアンは、最初は怒っていたけど次第に気分よさげになっていた。

 あとで聞いたところ、稲穂を口にくわえると気持ちが落ち着くらしい。

 

 それをきっかけとして、私は一方的に話をするんじゃなくブライアンとお互いのことを話すようになった。

 ブライアンは速さを求めるのではなく強さを求めて走っていると聞いたけど、私にはその違いがわからない。

 早くてレースに勝てば強いってことじゃ? と言えば、ブライアンは鼻で笑ってきたのでぽかぽかと叩いた。

 

 

 ◇

 

 

 ブライアンとの運命的な出会いから5年。

 美人な見た目を生かすためにアルバイトで雑誌モデルというのを始めた私は高校生となり、美人に磨きがかかっていた。

 イケメンなブライアンと並んでも負けないよう美容には気を付けている。

 腰までまっすぐ伸びたつややかな黒髪に雪のように白い肌。

 見た目は清楚だから仕事の評判はいい。

 人なのにウマ娘を超えるほどに美人と雑誌で書かれるぐらいに綺麗な私。

 モデルを始めてからは中学の時よりも男性に告白されることが増え、生徒だけにとどまらず教師など大人にも範囲が広がった。良く行くコンビニやスーパーでもそういうのが増えて告白を断るのが実に面倒。

 女性たちは嫉妬するし、彼氏持ちの人は男を奪った、と私が寝取ったふうに文句を言っている子がいて嫌になる。

 

 男性なんてのは存在だけで問題を増やす要素だ。男性さえいなければ、女性たちと仲良くできてトレセン学園の子たち以外に女友達ができたと思う。

 お父さんだけは例外で、私のお母さんが関係しなければ誠実で信頼できる唯一の男性。離婚してすぐは不信感が強かったけど、今では私の話をしっかり聞くようになって信頼できるようになった。

 そうして信頼できるお父さんを得たから、男性はお父さん以外いなくてもいいと思う。

 

 17歳になった私とブライアンは親友と言えるほど仲が良くなり、学校やレースでの愚痴。恋バナすらも気楽にできる関係になれた。

 出会った時からあるブライアンに対する私の恋愛感情は、沸き立つマグマのようにぐつぐつと大きくなっている。

 告白してカップルとなり、独占して仲良くしたいけど我慢し続けている。

 なぜなら、ブライアンは私のお父さんに恋愛感情を持っていることと、女性が恋愛的な意味でまだ好きじゃないから。

 お父さんは41歳で年齢差を理由にブライアンの恋愛は否定しない。ただ、ライバルが自分のお父さんだというのは複雑な気持ちだ。

 ブライアンが私の義母さんになる光景を想像すると嬉しいけど、自分の隣にいてくれないのは寂しい。

 いったいどっちが私とブライアンにとって最大の幸福を得られるんだろうと日々悩んでいる。

 どっちになったとしてもブライアンと一緒にいられるのは幸せなんだけどね。

 

 そして11月後半になっている今日は親友が1人で家にやってくる。家にお父さんがいなく、夕方に練習を終えたブライアンが。

 そう、1人で。つまりは、だ。

 ふたりきりでいちゃいちゃできるということ!!

 我がお父さんよ、残業ありがとう! いつもご苦労様です! 

 

 と、そういうウキウキ気分で高校から帰ってきた私はブレザーの制服からジーンズにトレーナーとラフな格好で夕食の準備をしている。

 ブライアンは肉が好きだから、肉を中心とした料理を作っている。もちろん健康のために野菜も混ぜて。

 出会った頃は極度の野菜嫌いだったけど、今は少しだけ嫌がるけど食べられるようになった。そうしたら、なんでか姉のビワハヤヒデにすごく感謝されてサイン入りグッズや高級バナナをたくさん渡されたけど。

 

 ブライアンとの過ごした時間を思い出していると、チャイムの音がなる。

 時刻は午後7時を過ぎたとこ。

 料理の手を止めた私は着けていたエプロンを外すと、急いで玄関へ小走りで行く。

 そしてすぐにドアを開けると、そこには肩からバッグを下げてジャージ姿でいつもの無愛想面をしたブライアンがいた。

 

「いらっしゃい、ブライアン」

「入らせてもらうぞ、マホ」

 

 お互いに下の名前で親しく言うようになった今。マホと私の名前を呼んでくれるのが嬉しい。

 初めて呼んでもらった4年前の時は嬉しさが2日間も続き、ブライアンに会わせてくれたお父さんへ感謝を伝えるために弁当が超豪華お重3段重ねになったほどに気持ちがあふれていた。

 

「あ、入る前にちょっと待って。……お風呂にする? ご飯にす―――」

「私は腹が減っているんだ。そういうジョークよりも飯だ。肉はあるんだろうな?」

「今日のお肉は期待していいよ! 奮発して高級な和牛を買ってきたから! せっかくだし、私と一緒に焼く?」

「マホが焼いてくれ。私よりもうまくできるだろ」

「うん、まっかせて!」

 

 ブライアンが来てテンションが高くて大声な私に対し、ブライアンは顔をしかめながらも丁寧に対応してくれる。

 昔だったら舌打ちをしていらだっていたのに。

 仲良くできていることに喜び、一緒にリビングに行く。それからブライアンを楽しませようとキッチンへ急いで戻る。

 冷蔵庫から生のお肉を出し、焼く準備をしているとブライアンはソファーへとどっかり座った。

 

「シャワー入ってもいいよ?」

「マホを置いて先に入れるわけがないだろ。私のことは気にしなくていい。こっちは勝手にやってる」

 

 私へ顔も向けずに言ってくると、テレビを付けてバラエティ番組をつまらなそうに見始めた。

 初めての人がこういう態度を見ると、あまりにも愛想のなさに怒るけど、これこそブライアンだ。

 人の顔色を気にせず、自分のしたいことを素直にする。周囲を気にせず、自分のスタイルを維持する姿はかっこよくも見える。

 でもそういうそっけない言葉だけど、大事なのを忘れてはいけない。

 

 ブライアンが優しいということ。それは私を置いて先にシャワーを浴びない。

 それというのも 私とブライアンは一緒に体を洗いあうぐらいの仲良しだから。今日のように来る時は必ず一緒にシャワーを浴びている。

 温泉や銭湯で一緒に入るというのはよくあることだろうけど、自宅でのシャワーとなれば珍しいに違いない。

 一緒に入る理由のひとつとして私に髪や尻尾を洗わせてくれる。

 洗うきっかけとなったのは、ブライアン本人がめんどくさがりで3年と半年前に注意した時に私が洗ってもいいと許可をくれた。

 はじめは嫌々で一緒に入ることも少なかったけど、今となってはうちに来たら一緒に入るのが当たり前に。

 ブライアンの鍛えられた美しい体をすぐ近くで見れるのは、世界広しといえど私だけ! ……でもないけど。見せてくれる人数がとても少ないから、これほどに仲がいいのを誰かに自慢したい。

 

 まぁ、お父さんやビワハヤヒデさんには自慢したけど。お父さんは無愛想が基本なブライアンがそれを許すなんて、と驚いていた。姉であるビワハヤヒデさんはすごく、とてもすごく悔しがりながらうらやましがっていた。

 ビワハヤヒデさん自身もブライアンと一緒にお風呂に入ろうと誘ったものの、そっけなく断られているとか。

 妹と一緒にお風呂に入りたいからといって、私に秘訣を聞いてきても特にないから困る。

 

 ブライアンも私に甘えてくるのと同じぐらいにビワハヤヒデさんに優しくすればいいのに、と思う。でも自分だけ特別ということに嬉しさで少しだけ変な笑い声をあげ、肉を焼き始めると同時に別のフライパンで野菜も焼く。

 そうして肉と野菜を焼きつつ、前もって作っておいたおかずを冷蔵庫から出して準備していた時に気づいた。

 実のお姉さんより私に甘えてくるブライアンは、実質的に姉妹なのでは? と。

 そう、実姉よりもたぶん仲がいい。つまりは世界で1番ブライアンと仲がいいということの証明だ!

 この見事な方程式が形成される関係性で、私は誰よりも仲良しだと思う。

 前にブライアンと一緒に雑誌で『レースを支える親友』というテーマでインタビューされたぐらいだし。他にも単独でモデルという私としてブライアンを語るコーナーも。

 インタビュー以外にもドキュメンタリー番組のウマ娘大陸で私は登場した。

 ブライアンにせっかくだから出ろ、と言われて。ブライアンに私という女がいるというところを印象付けるため、喜んででたけど。

 テロップで大人気モデル&親友という肩書きで初めてのテレビ出演をした私。

 雑誌のインタビューとは違い、ブライアンにご飯を作るところやいちゃついて遊ぶところを動画で流してくれたのは永久に記録しておきたい。

 テレビで私たちの仲がいい関係をアピールできたけど、全国放送で私の知名度が上がった代償として周囲の人がうるさくなったのはやっかいだ。

 

 テレビやインタビューの内容は好評で、気性難すぎて短いコメントしかすることがないブライアンが、長々と私について語ってくれたことはファンどころか担当トレーナーであるお父さんですら驚いたほどだ。

 そんなに関係がいい私たちだけど、気分よく浮かれているのはここまでにしておかないといけない。

 その理由として、今日ブライアンがここにやってきたのは恋愛相談だからだ。

 お父さんへと恋恋勝負を仕掛けたいということで。

 あと1か月と少しで今年も終わり、クリスマスが近くなってきたところでお父さんとの関係を近づけたいらしい。

 今までお父さんに対して恋愛という意味での反応はよくないけど、なんとか1人の女性として見てもらいたい。そういうことを恥ずかしそうに言うブライアンはかわいい。

 

 かわいいけど、違う。実の父とはいえ恋敵を助けなきゃいけないのか。

 大事な親友で愛するブライアンのためだから、渋々、いや、積極的に助言や状況を整えてあげている。

 ブライアンはお父さんの何もかもを愛しているけど、不器用だからうまく攻めきれていない。

 お父さんの方はブライアンを娘のように思っている気がする。1度だけでも女性ということを意識させれば、年齢差を気にさせなければうまく行きそうだと思う。

 本当は自分に恋愛感情を向けて欲しいけど、ブライアンは同性に対して恋愛感情がないのは今まで接してきて嫌というほどわかっている。

 押し倒してキスをしたいけど、そういうのは違う。向こうからも同じぐらいに愛して欲しい。そもそも襲ったとしても簡単に力で負けちゃうし。

 そもそも私は自分の気持ちを隠し、大好きな人の恋路を応援すると2年前から決めている。

 

 今日の自分はブライアンとお父さんの仲がうまくいくように助言や手助けをする。

 それ以外ではいつも通りにいちゃいちゃする予定だけど。

 ピンク色の妄想をしながら料理を作り終えると、お皿へ盛り付けてテーブルへと持っていく。

 肉を皿に盛りつけた時にはブライアンはテレビを止め、椅子に座ってテーブルで待機してくれている。

 焼いた肉にかけたソースの匂い+ジューシーな見た目をしているのが嬉しいらしく、ピコピコと揺れるウマ耳。早く食べたいとふりふり揺れている尻尾。

 目線はステーキに釘付けだ。

 ブライアンのそんな姿が微笑ましく、あったかい気持ちのなりながらフォークとナイフ、お米にお茶を用意して私が座るとご飯の準備は完了した。

 

「それじゃあ、いただきます」

「いただきます」

 

 私とブライアンは同時に両手を合わせ、色々なものに感謝する挨拶をすると夕ご飯を食べ始めていく。

 我ながらステーキは上手に焼けたと自分を褒め、高い肉は脂身がおいしいなと思いながら向かい合わせで食べているブライアンを眺める。

 ブライアンは肉時々付け合わせの野菜を食べつつ静かに、けれど豪快に大きくナイフで切り分けてはうきうきしながら口へと入れる姿が実にかわいい。

 レースでは、目にうつる全てが敵、という雰囲気なのに今だけは歳相応だ。こういう姿を見せるのは私の前でしかいない。

 今だけは私だけの彼女。独占しているということに満足感で心はいっぱいになる。

 

「どうした、マホ。食べていないが体調でも悪いのか?」

「ううん、そんなことはないよ。食べっぷりが気持ちよくて見ていただけ」

「そんなのいつも見ているだろう? 食べている様子を見ても面白くないだろ」

「私が作ったご飯をおいしく食べてくれるのは嬉しいよ。いつもそう言っているでしょう?」

「……私にはわからんな。自分で料理を作るよりも、食べるほうが断然いい」

「でも男の人には女性の手料理というのは、心にぐっとくるらしいけど」

「それ以外でトレーナーを落とせばいいだろ。料理はマホが作るから問題なんて何もない」

「問題ありだと思うけどなぁ」

 

 自信たっぷりに言い切る姿に対し、私は少しだけ不安に思っている。

 今の時代、女性は料理ができて当たり前という概念は悪とされている。だからブライアンが料理をしなくてもいいとは思うけど。

 それにお父さんはお母さんと離婚してから料理の勉強を始めたし。

 ……少し考えてみれば、ブライアンの食べる姿が好きな私としてはこのままのほうがいいかもしれない。

 私に料理をねだってくる姿はすっごくかわいいから。

 

 ブライアンの食べる姿を見ながらご飯を食べ終えたあとは一緒にシャワーを浴び、色違いのお揃いパジャマに着替える。

 自分の髪よりも先にドライヤーでブライアンの髪を乾かし、クシを通すのは至福の時間であり、髪を下ろしたブライアンと過ごす今からが今日のメインとなる。

 それは恋バナだ。ブライアンの恋愛対象が私のお父さんとはいえ、好きな相手が恋する乙女の顔になったのを見るのは好きだ。

 1番いいのは、その恋愛対象を私に向けてくれることなんだけど。

 わざと失恋させて私に依存させるということも考えたけど、そんなのは悪い人がやることだ。女性向けラノベでもそういうのは滅多にない。

 少女漫画だとそうさせるのは時々見るけど。

 

 歯磨きなんかの寝る準備を済ませたあと、一緒に行くのは私の部屋。

 この部屋にはブライアンからもらったサイン入り色紙や公式グッズ。他のウマ娘たちから渡された者たちで満ちている。

 勉強やウマ娘以外の元はいなくなったお母さんの部屋に置いてあるから、好きなものに囲まれる幸せ。

 とはいえ、好きなウマ娘グッズがある部屋じゃなく寝起きできる環境は十分に整っている。

 2人で寝れるぐらいに大きなベッド。1人で寝づらい時に使う抱き枕。クッション類もしっかりと。

 ごちゃごちゃせず、清涼感がある部屋で私とブライアンはベッドに背を預けな肩をくっつけて座り、話をしている。

 内容は恋愛。私の父をどうやってブライアンの女性的魅力に気づかせるか。

 

 ブライアンがお父さんへとやった恋愛的行動はたくさんある。

 ふたりきりでお買い物、一緒に食事を食べる、練習後に服を脱いで下着姿を見せつける、褒める、ボディタッチを増やして信頼を示すなど。

 今までの行動でわずかずつお父さんの意識はブライアンに向かいつつある。

 ブライアンがお父さんを好きでいる限り、私は全力で応援しているから段々と結果が見えてきたのはすっごく嬉しい。

 でも時々私の心が痛む。

 たとえお父さんとはいえ、私以外の人で恋する乙女の顔を出すというのは。

 それを見ても私は表情に出さない。好きな人が幸せになって欲しいのは当たり前。

 

「ねぇ、お父さんのことって今はどう見えているの?」

「どう、とは。信頼できるトレーナーということか?」

「違くて。こう、目にするとドキドキするとかそういうような」

「……そうだな。仕事で忙しいのか、目に隈ができた顔。自信ありながらも打たれ弱い姿を見ていると、あいつには私が隣でいて引っ張ってやろうという気になる。あの人の匂いや体温を近くで。

 前に、トレーナー室で1人ぽつんといたときなんかは心に来た。

 普段トレーナー室は誰かしらウマ娘がいるものだが、外は練習をしている音がうるさい。だが1歩トレーナー室に入ると、そこだけ喧噪から切り抜かれた世界。そこで椅子に座り、小難しい顔で見ている真面目な姿は実にいい。

 私にはもうこの人しかいないと感じる」

「青春してるねぇ、ブライアン」

「青春、だろうか。私はただ恋をしているだけだが」

「いーや、青春だね。そんな恋する乙女な様子で、ゆるゆるな顔をしているのはそうとしか言えないよ」

 

 照れてはにかむ笑顔がすごくいい。

 厳しい顔つきが多いブライアンだけど、今だけは歳相応な少女のように好きな男性への感情を語ってくれた。

 こんな姿を見れば、大多数の男女は恋に落ちるしかない。私は出会った時から恋に落ちていて、今は愛がある。

 まぁ、1番の問題は想い人が私の恋人じゃなく、義母になる可能性のほうがが高いことだけどね!

 私の気持ちはしまっておくとして、お父さんは年齢差を気にしすぎているから、自分の気持ちへ正直になってくれればいいのに。私の勘では担当ウマ娘以上の感情を持っていると思っている。

 

「こんなにも私を喜ばしてくれるマホは最高の親友だ」

「私もそう思っているよ」

「ああ。これからもずっと親友であり続けたい」

「……そうだね」

 

 親友でありたいという気持ちは嬉しいけど、自分の恋心を否定されたようで返事が遅れてしまう。

 落ち込み、暗い気分になってしまいそうなところだけど気分を上げていく。

 だって今は楽しく話をする時間なんだから。

 

 シャワー上がりでロングヘアになったブライアンは私と髪の長さが同じで、手を絡め合って楽しく話をするのは楽しい。

 はじめは女同士の付き合いという経験がなかったのか、ブライアンは困惑していたけど今は大丈夫。

 ふたりきりの、幸せな時間を過ごしていたけど時刻が夜の11時を過ぎるとブライアンがぼんやりとし始めてきた。

 練習のあと、のんびり過ごしたあとはこうなることが多い。

 

「もう寝る?」

「いや、まだマホと話を……」

「私はやだよ。ブライアンが眠いのに我慢させるなんてこと。ほら、一緒に寝よ?」

 

 ブライアンに無理をさせず、気持ちよく寝てもらいたいと考える私は勢いよく立ち上がると、ブライアンの両手を引っ張って立ちあがらせる。

 今日のために洗って干したばかりの真っ白なシーツに、ふわふわのタオルケットと羽毛布団。その中にブライアンを入れて端っこへと押していく。

 枕にブライアンの頭をそっと優しく乗せることも忘れずに。

 そうして部屋の明かりを消し、LEDの小さくてやわらかいオレンジ色の光が広がる部屋。

 

「お邪魔しまーす」

 

 自分のベッドだけど、ブライアンが寝そうになっているときに入るから毎回小さく静かな声で言うことにしている。

 ベッドの中へと入った私は仰向けになっているブライアンから、こぶしひとつ分だけの距離を開けて同じく仰向けの態勢になる。

 もうひとつの枕に頭を預け、顔を動かしては眠る寸前顔を見る

 

「おやすみ、ブライアン」

「あぁ、おやすみ、マホ」

 

 ひどく小さな声でそう言ったかと思うと、目をつむったブライアンはすぐに規則正しい寝息をあげている。

 その寝顔を1分は見つめたあと、天井をぼんやりとみつめる私。

 まだ眠気は来ない。早く寝ようと思うほどに寝られなくなるのはどうしてなんだろうと思う。

 明日の朝にブライアンの寝顔を朝日の下で見るために早起きしないといけないのに。1度も早く起きたことがないので今回こそはと思っているのに。

 幸せなことを考えようとするも、頭に浮かんでくるのは私にとって辛いこと。

 今年のクリスマスかクリスマスイヴで告白をする予定のブライアン。その結果がどうなるか気になるけど、私以外の人に告白するというのは想像しただけで気分が悪い。

 あのブライアンが私以外にかわいい照れ顔を見せるだなんて。

 愛しているのに、自分の物にはならないのが辛い。特にさっきのやりとりを思い出すと、気持ちが嵐のように荒れ狂う。

 

 親友。親友という言葉は嬉しくも嫌。

 特にずっと親友であり続けたいと言われたことは。

 そんなことを言うってことは、親友以上の関係にはなれないってことでしょ?

 恋人になりたい私を、本人は知らずのうちに止めてくる。

 今まで抑えてきた。この恋心を。でも無意識に可能性すら消してくるのは、ひどい女のよう。

 ブライアンは罪作りな女性だ。

 クールな雰囲気、ぶっきらぼうでファンサも時々にしかしない。でも男性からも女性からも人気が高い。

 走る姿だけでなく、炎のように髪を振りながら踊る姿は目に焼き付く。

 

 ブライアンへの気持ちが高ぶった私は静かに体を起こし、ブライアンの体へとまたがる。

 両手はブライアンの頭の脇へ置き、まるで押し倒したかのような姿勢に。

 静かに寝ている今なら、私の好きなようにできる。

 私がオレンジ色の光をさえぎり、私によって影ができると自分の物になったかのように思ってしまう。

 起こさないように気をつけながら、私はドキドキと高鳴っていく心臓の鼓動を感じながら言葉をゆっくり吐き出していく。

 今まで気楽に言うこともあった。でも今だけは親友としてではなく、愛する人へと送るもの。

 

「好きだよ」

 

 私だけの物にしたい気持ちを言葉に込めて。

 

「大好き、ブライアン」

 

 これから先、うまくいったらブライアンはお父さんの物になる。うまく行かなくても少しずつブライアンは私の心から離れていく。

 大好きな人が幸せになっていく姿を見るのは嬉しい。

 好きな気持ちは抑えられないけど、お父さんと仲良くなっていく姿を見れば恋心は落ち着いていくと思った。そうして私も男の子に対して恋愛の興味が出てくると。

 でもそんなことはなかった。ただ辛いだけ。

 

 ブライアンの耳元へ口元を寄せると「好き」と一言。くすぐったかったのか、ウマ耳をぴくりと動かした。

 こんなに愛をささやいても静かに気持ちよく寝ている。

 普段はぶっきらぼうで、ブライアンには力で勝てない。

 でも今なら。今、この瞬間になら何でもできる。

 

 それはキスであっても。

 

 誰かに唇を取られるよりも私が先にもらいたい。

 私もキスは初めてだから、問題ないよねと思ってしまうほどに欲望と理性がせめぎ合う。

 おでこやほっぺたじゃなく、唇にキスしようと顔を近づける。

 ブライアンの息遣いを感じられる距離になり、ひどく緊張しながらもじっと唇を見つめて深く深呼吸をし……キスをやめた。

 寝ている相手に一方的なキスはできない。たとえ気づかれなくても、こんなのは親友のやることじゃない。恋人になれなくても私は親友であり続けたい。

 ブライアンから顔を離し、深呼吸を2度したあとブライアンの上からどいて寝ることにする。

 最初に寝ていた場所へ戻ると、仰向けじゃなくブライアン片腕を取って顔に押し付ける。

 私よりも筋肉がついている腕。その感触はやわらかくはない。

 

 自分のやったことに対し、未遂とはいえど罪悪感がすごい。

 さっきまでの熱は時間と共に消えていき、私は目を閉じて意識を失い眠りの世界へと行く。

 それからどれほどの時間が経ったかわからない。

 ふと、声が耳に聞こえて一瞬だけ意識が浮かび上がる

 

「お前はいい子すぎる」

 

 優しい言葉がぼんやりと聞こえた。

 割れ物を扱うかのように、そっとふれるだけの私の頭を撫でてくれる手。

 大事に、大事にされる関係。想いを隠し、表に出せないのは嬉しいけど、それゆえに私は辛い。

 でも私のことを考えてくれることが嬉しく、心が幸せになって私はまた眠りにつく。



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32.シンボリルドルフ(百合)『ルドルフに恋をして、ルドルフと恋をする』

百合


 彼女とすれ違ったとき、あたしは初めて恋をした。

 今までの人生で男性の人に恋はしたことはなく、かといって同性の女の子にときめくなんてことはなかった。

 でもあの子は特別だった。

 入学式の時にすれちがったっていうだけなのに。

 あとから彼女のことを知り、有名なシンボリ一族のシンボリルドルフということがわかった。

 当時の私はサブトレーナーだったから、自分の立場を利用して彼女のデータをじっくり眺めては見た目だけでなく高い能力に関心を持つように。

 それ以上は行動を起こすわけでも追いかけるわけでもなく、自分の感情を抑えていた。

 あたしの推しの子。

 

 2度目に大きくときめいたときは中等部2年になっていて、自動販売機で欲しいジュースが売り切れで悩んでいたら話しかけてくれた。

 売り切れていたジュースは他の場所にあると教えてくれ、さらには場所まで案内してくれるという。

 見た目から好きになっていたけど、面倒見がよく、低めで落ち着く声はさらに私の心を熱くしてくれる。

 目的のジュースを買ったあとは、もっとシンボリルドルフと話をしたくてジュースをおごってあげてやや強引に話をした。

 そんな誘い方が下手でもシンボリルドルフは優しく話し相手になってくれた。

 好き。

 

 3度目は選抜レースの時。

 もう今までよりも人生で最高に喜び、ときめいた。

 中等部3年となったルドルフとはそこそこ仲がよくなり、気軽に名前を呼びあっては学校内で出会えば話をする程度の仲にはなっていた。

 同じ女性ということもあって親しくなりやすかった。年齢はあたしのほうが10歳年上だったけど、話題を向こうから合わせてくれて助かる。

 他の中等部の子と比べて精神が大人びているから、周囲の子とは話しづらかったらしい。

 大好き。

 

 

 そして現在。

 あたしは校舎内のトレーナー室にいる。

 10月の終わりとなった今は紅葉は散り終わり、あったかい肉まんやホッカイロが必需品となるぐらいの寒さだ。

 放課後の今、外が寒いから暖房を強く設定しているトレーナー室には、4日前に菊花賞を勝って3冠ウマ娘となったルドルフがいる。

 彼女は、ソファに座ってテーブルに置いたノートパソコンにカタカタと文字を打ち込んでいた。

 その仕事は雑誌に載せる記事用の文章だ。

 真面目な顔のルドルフは素敵だなぁ! と心の中で静かにときめく。

 あたしの人生最大の幸運はルドルフをスカウトできたこと。レースでの3冠もそこそこ嬉しいけど、今では片思いの恋愛相手となったルドルフといるだけで幸せ。

 それ以上の喜びなんてあるだろうか?

 

 ない。

 合コンの時でさえも喜ぶことはなかった。

 イケメン俳優が出る映画で心が喜ぶことはあったけど、1番はルドルフだ。

 今だって同僚の愚痴を聞きながらも、ルドルフの横顔からは目を離さない。

 ルドルフはトレセン学園の冬用長袖な制服を着ている。

 髪は全体に茶色、おでこ付近は濃い茶色でそのまんなかに白い一房がメッシュとしてある。

 そんな特徴的な髪色は遠くからでも簡単に判別できるほどに特徴的だ。

 特に髪が素晴らしい。髪形は腰まで伸ばしているが、あたしの担当ウマ娘になるまでは少しだけしか気にかけていなかった。

 

 でもあたしが担当になったからには、ひとめぼれした子をさらに美人にしたくてたまらない欲があるから遠慮せずに解放した。

 おかげでルドルフはあたしが教えた髪の手入れをするようになり、雑誌で髪が美しいウマ娘ランキングの2位に入れた。

 髪以外にも肌や爪のお手入れもやるように言い、本人は「ここまでしなくてもライブやインタビューの時に化粧をすればいいだけじゃないか」なんて言っていたけど許せるわけがない。

 ルドルフにはいつだって美人でいて、多くの人がルドルフに心を奪われて欲しいから。

 あまり乗り気でないルドルフを説得する時には、皇帝という通り名があるのなら立派にするべきと言って押し切った。

 

 そうして、化粧であたし好みの見た目にしたルドルフは実に素晴らしい。最高だ。

 ただ、気になるところもあるけど。それは身長差。

 あたしの身長は145cmだというのに、ルドルフは165cmと高身長。

 こんなに差があるからこそ気になる。それはあたし自身の体が悪いこともあって。

 あたしの身長145cmでバストサイズは90と昔からロリ巨乳と言われていて腹が立つ。そう言ってくる男には容赦なく急所攻撃をしてやったが。

 相手が女の場合はにらみつけるだけにしているけど。

 

 まぁ、29歳の今となってはスーツを着てショートヘアにしてくるからロリっぽさがなくなって言ってくる奴は減ってきて嬉しい。

 今、あたしに電話越しで愚痴をこぼしてくる腐れ縁の男はいまだに言ってくるのでしょっちゅうケツを蹴っ飛ばしてやっているが。

 ルドルフを見て心を癒やしながら適当に聞き流していたが、気になる言葉が言った。

 やつは緊張しながらも、大胆な告白をあたしへとしてきたのだ!

 別に愛があるものなんかじゃない。

 

 なんと、このバカはあたしと恋人だと嘘をつきやがってくれたのだ。

 それもついさっき。時間にして電話がかかってくる直前の5分前。

 すぐさま急所に蹴りをお見舞いして土に埋めたくなるが、深呼吸をしてから怒りを収めて理由を聞く。

 こいつはG1トレーナーでふたりのウマ娘を育ててあり、なんらかの問題がメディア的な理由で発生したかもしれないからな。

 場合によっては理事長の力を借りるかもしれない。

 心が瀬戸内海のように広いあたしは「そうした理由はなんだい?」と優しく問いかけた。

 そいつは安心して理由を語ってくるが、聞いていくうちに怒りでスマホを握りつぶしそうになってくる。

 

 なんでもファインモーションとエイシンフラッシュが国外旅行で家族へ会いに行かせようとしてくるから、身の危険を感じた。だから逃げるために、恋人がいるからもう無理と断ったらしい。

 相手はと問い詰められ、あたしの名前を出しやがった。あたしの名前をだ!

 なんであたしが恋人にされなきゃいけないんだ。

 嘘だとしても片思い相手がいるあたしはすごぉく嫌だが、他にも感情的な問題以外でもっと大きな問題が起きている。

 

 それはふたりのウマ娘から敵対されるということだ。アイルランドの王女とスケジュールの鬼。

 ふたりが組み合わされば、四六時中あたしの生活を調べられ色々されるに違いない!

 あとふたりの親友からもなんかされるだろうし。

 これはもう命の危機だ。

 だというのに、こいつは軽い感じで言ってくるし罪悪感のかけらも感じていない。

 そもそもお前自身が、気のある振りをして距離感を取らないのが悪いんだっての!

 どこの漫画の鈍感男だ!! ハーレムを作りたいのか!? そうなら勝手にやってくれ!

 

「あたしを面倒なことに巻き込むんじゃねぇ!! 男なら堂々と向き合えっての! このあほんだらぁぁぁぁ!!!」

 

 あまりにもあたしへの軽い扱いとこれからの面倒ごとにぶちぎれ、通話を終えると力いっぱいにスマホを壁に投げつけようとする。

 だが、ルドルフが心配する視線をあたしへと向けてくるのでソファへと投げつける。

 強く投げつけられたスマホはソファの上でバウンドし、床へと落ちる。

 そのスマホはルドルフが拾ってテーブルの上へ置いてくれる。

 なんて優しい子なんだ。

 怒りのあまりにもっと叫びたくてたまらないけど、ルドルフが一緒にいる今はこれ以上みっとものない姿は見せたくない。

 まったく。片思い相手と一緒に静かにいられる今の生活があのバカ男に崩されてはたまらない。

 

 イライラを抑えるべく部屋をぐるぐると5周ほど右回りをして少しだけ落ち着いたが、これからどうしようかとため息をつく。

 ひとまず何か案を考えようとルドルフと同じソファへと座る。

 ただし一人分の距離を開けて。

 本当は体をくっつけるとか抱き着きついて癒しを得たいけど、そうすると大人としての威厳がなくなるし、いきなりの身体接触は嫌われるからしない。

 ルドルフをぎゅっと力いっぱい抱きしめたいというのに!!

 それほど好きなのに、なんで男と恋人なんていうことにされているんだ。

 ……少し時間が経って気分が前向きになったらファインモーションとエイシンフラッシュを探して誤解を解きにいこう。

 あのふたりと話をすると考えるだけで気持ちがつらくて溜息が出てしまう。特にファインモーションは王族ということもあって護衛の人からにらみつけられるのは怖いし。

 

「困っているようだが、私が助けになるのなら助けさせてくれないか。明るい姿が魅力的なトレーナー君がそんなにもなるとは心配で仕方ないんだ」

「助けてくれるんだ?」

「もちろん。トレーナー君が困っているのなら、助けたいんだ」

 

 あたしを心配してくれるルドルフの顔は、いつものキリッとしたイケメン顔と違って不安そうに困った表情なルドルフが最高にかわいい。

 これがギャップ萌えってやつなのね。

 そんな困り顔を見続けていたいけれど、担当ウマ娘であり片思いをしている相手に心配をかけすぎたくはない。

 

「助けては欲しいけど……」

「まずはどんな問題か教えてくれないか? 私の力が足りないなら生徒会やシンボリ家を巻き込んでもいい」 

 

 レース関係でなら素直に助けを求められるけど、あたしの人間関係の問題だから自分で解決したほうがいいよね。

 それにルドルフって堅物というか真面目だから、話をしたら大きな問題になりそうだし。

 でも何も言わないのも心配させすぎるし……。

 いったいどうしようか悩んでいると、ルドルフはあたしの太ももにに手を置くと近づいて無言であたしを見つめてくる。

 

「あの、ルドルフ?」

 

 大好きなルドルフが太ももに手を置いてきて、スーツのズボン越しに手の柔らかさや温かさを感じる。

 そして近くでじっと見つめられると、心臓がときめきでドキドキと鼓動を強くするし、なんかむらむらしてくる。

 手がえっちに感じられるんだけど。

 ゆっくりと顔が近づいてくれるのにあたしは耐え切れず、ルドルフのおでこに手の平を当てて押し返す。

 

「わかった、わかったって! 言うから下がって」

「ありがとう。君の悩みは私の悩みも同然だからね。言ってくれなかったらどうしようかと思ったよ」

 

 安心した笑みを見せてくれたルドルフは、押し返したあたしの手を両手でぎゅっと優しく握ってくる。

 もうやばい。こんなに好意的であたしの体を色々とさわってくると勘違いしそう。

 ルドルフは女の子が好きという話は今まで1度も聞いたことがないのに、もしかして頑張れば恋人になれるんじゃ? なんて考えちゃう。

 

 あたしはルドルフに手を握られたまま深呼吸をし、さっきの電話の内容を伝える。

 そうすると段々ルドルフの笑顔がなくなり、耳を後ろに倒しては歯を食いしばって怒った様子になってきた。

 おおぅ、1か月ぶりに怒る姿を見たけど、あいかわらず迫力がある。いや、前回あたしが渋々合コンの人数合わせで行ったとき以上に怒っている。

 あの時は断り切れなかったあたしが悪く、片思いしているのに男と飲んだから自己嫌悪だった。ちょっと時間が経ってから帰ったとはいえど。

 今回はあたしが原因ではないから、前回と違って今回はルドルフの顔を安心して見れる。

 予想した以上に怒りすぎているけど、それがまたかっこいい。少年向け漫画でよくある戦闘シーン前やシーン中と同じぐらいに最高。

 

 今日の短時間で仕事をしているとき、心配してくれる、怒っているという多くの表情を見られたのは幸せだ。

 その点で腐れ縁の男には感謝している。デメリットである、あのふたりのウマ娘を抑えないといけないのには頭が痛くなるけど。

 問題の本人にやらせると、逆に問題が広がっちゃうだろうし。

 

 今頃、ファインモーションはあたしの情報を手に入れるべく行動していると思う。

 エイシンフラッシュはあたしの行動を調べて予測シミュレートをしていそう。何かをするにしても行動パターンがあると便利だからね。

 情報収集まではいいけれど、その実行前には問題を解決したい。

 まぁ、現段階でもコイバナ好きな女子学生だから噂は広まりつつある……いや、噂が広まるとあたしとの恋仲が確定するからしないかな。

 だから、そこは気にしなくていいと思う。

 大事なのはあたしがあいつと恋人関係でない証拠と説明。それらはなかなかに骨が折れる。

 高校生の頃から友達になり、それが今でも続く。もう13年ぐらいも仲がいいとなれば、恋人になって当然だと誤解しやすいし。

 ……困った。

 

「どうしようかなぁ」

「解決案はあるのだろう? そうでなければ落ち着いてはいないだろう、君の場合」

「あるよー。あるんだけど、リスクがあるからねぇ。あとはあたしの覚悟だけ」

 

 ひとつめは高校の時からの写真を見せて、それを丁寧に説明。昔はあいつ以外の男とも写真を撮ったことがあるし、好みのタイプじゃないと言えばいい。

 でもそれだけだと時間がかかるし、解決したとしても疑念はずっと続く。

 

 ふたつめは、あたしには恋人がすでにいるということにする。そして、説明はあの男はふたりと一緒の旅行から逃げたいためにあたしを利用した、と。

 これが実行できるなら1番楽ではあるけれど。偽装恋人を作る場合は周囲への影響が強い。

 ルドルフという三冠ウマ娘を育てたトレーナーだから、どういう男とくっついたかという興味がメディアにあるからだ。

 これが問題としてメディアが楽しめるものなら、こぞって取り上げるだろうし。

 

 それに大きな問題がひとつある。

 片思い相手であるルドルフを無視して、嘘とはいえ恋人を作ったということにあたしの心が耐えられない。

 そもそも男と恋人になるという、考えるだけでも嫌だ。

 すごい男嫌いというわけでもないが、ロリ巨乳としてスケベな目と言葉、強引にさわってきたことには今でも嫌悪感と恐怖がつきまとっている。

 嫌なことを思い出していると変な顔になったらしく、ルドルフが怒りを収めて心配をしてくれる表情になった。

 

「私も手伝う案があって、それを提案してもいいだろうか?」

「言ってみてよ。ルドルフだから私には考えつかなかったことかもしれないし」

「そこまで期待されると困るのだが……。つまりは男と恋人関係でないことを明確かつ素早く伝えたいということだろう?」

「そういうことだけど、あのふたりのウマ娘の場合は国際問題になりそうだから困っているんだよね」

「ならば、私を恋人にしているということにすればいい。トレーナーと担当ウマ娘というのは昔から恋人関係になりやすいからな。私と君がそうなっても自然な流れだろう?」

 

 そう言うとルドルフは私との距離を縮めて、体と体を接触させてくる。

 ソファの上だと急に逃げられなく、突然のことにあたしは硬直するしかない。

 大好きな人がこうも簡単にくっついてくると脳内はパニックだ。

 こんなに近づくと想いが爆発するから、くっつきたくはなかったんだけど。

 

 まぁ、そんなことを思ってももう遅い。

 今は幸せと緊張で心臓と脳がいっぱいいっぱいだから。

 こうやって冷静に考えているけど、それは突発的な出来事で現実感がないから。

 心以外の部分は顔は熱いし、ルドルフの顔が近くて目を合わせられない。

 挙動不審度が全力全開なあたしだ。

 

 幸せが絶頂なあたしはルドルフに感謝の言葉を、いやこれ以上くっついてると気を失いそうだから離れて欲しいと言いたい。

 でも口は開いても言葉は何も出てこない。

 ルドルフが首をかしげながらも柔らかい笑みで見てくる。

 誰か助けて。ここで気を失うのは恥ずかしい!

 

「君が何も言わないから続けるが、この関係の証明として写真を取ればいいんだ。ただ普通に仲良しでなく恋人っぽさを感じるものをね」

「でも、それ、それはルドルフの、迷惑に」

「迷惑になんてならないさ。困っている君を助けられるのなら嬉しいことなんだ」

 

 なにこのイケメン。世の中の男どもにこういう優しさを持って欲しい。

 合コンで会う男はいかに自分が素晴らしいかを言葉だけで自慢げに話すからうざったいだけ。

 でもルドルフは気遣いもあり、行動で表現してくれる。

 もう両想いじゃないの、これって。

 

「それじゃあ、助けてもらおうかな。どんな写真を取ればいい?」

「相手が君と付き合いの長い男だから、普段の君がしないポーズの写真を撮ろう」

 

 そう言ってルドルフは太陽が差し込んでくる窓の前へと行く。

 スカートのポケットからスマホを取り出すと、あたしへと体を向けて待っている。

 ルドルフと写真を撮るのはレース時の勝った時だけで、プライベートで撮るのなんて1度もなかったなぁって思いながらルドルフのそばへ行く。

 するとルドルフの左隣へ行くと、左手であたしの腰に回して抱き寄せてくる。

 それに驚いて固まっていると、ルドルフは右手で手をいっぱいに伸ばしてスマホの位置を調整している。

 

 なにこれやばい。ソファの時とは違い、上半身だけでなく足まで密着してくる。

 そう、ルドルフの生足とだ。今さらながら自分がスーツを着ていることを残念がる。

 これでタイトスカートとかなら、よりくっつけるのに。まぁ、その場合だとタイツを履くから生足密着とはならないけど。

 身長差が20㎝差があるから、下から見上げるともうかっこいいの言葉しかない。

 

「ふむ。どうにも印象が弱いな。以前、雑誌に載っていたのを参考にしようか」

 

 あたしがルドルフにぼぅっとみとれていたら、一度あたしから体を離すと軽く抱きしめあう姿勢にされる。

 そして驚くべきは胸の位置だ。

 あたしのおっぱいの上にルドルフのおっぱいが乗っている!!

 たしかにこれなら印象が強い。身長差があり、なおかつ大きいサイズでないとできないポーズ。

 

「あとはフジキセキがやっていたやりかたを……少し恥ずかしいが耐えてくれ」

「え、これ以上恥ずかしいのがあるの? あたしが社会的にやばかったりする?」

「いや、そういうわけではないが……私が少し恥ずかしくてな。安心してくれ。送るときは君に確認してもらう」

「それならいいけど」

「では君の了承も得たことだし、さっそく撮ろうか」

 

 ルドルフは伸ばした手をやや天井側に向け、手の位置を固定する。

 そうして撮影ボタンを指へ伸ばす。その直前、あたしのほっぺたに生暖かい感触がする。

 驚いて一瞬だけ硬直したあと、撮影する音が聞こえた。

 ルドルフが抱きしめたのを離したから、自分のほっぺたに手を伸ばしてさわって気づく。

 キスされたんだと。

 嬉しさと驚きで声にならない叫びをあげると、あたしから目線をそらし口元を手でおおって恥ずかしそうにしているルドルフ。

 

「なんでキスしたの……?」

「その、これだと私と君が間違いなく恋人関係だと思うだろう!? ほら、撮影した画像だ!」

 

 ルドルフは慌てながら早口で言い、あたしと目を合わせないままスマホの画面を見せてくる。

 その画像はぼぅっとスマホへ顔を向けているあたしと、恋人のようにあたしを抱きしめてほっぺたにキスをしているルドルフの姿があった。

 あたしとしては片思い相手にこういうふうにされるのは嬉しいという気持ちでいっぱいだけど、堅物なルドルフがこうういうのをするなんて。

 もしかして結構あたしのことを好きなのでは? トレーナーと担当ウマ娘という関係じゃなく、友人以上的な何かで。

 画像を見終えると、ルドルフの横顔をじっと見つめる。

 ルドルフは視線を感じてか、一瞬だけあたしと目を合わせるとまた目をそらした。

 

「問題がないなら、ファインモーションとエイシンフラッシュのふたりに送ろう。……よし、送った。これで問題は解決だ」

「ありがと。これで安心して生活を送れるけど、なんでキスをしたの?」

「キスをしたのはだな……君が男と恋人だと思われるのが嫌だったんだ。女性が女性を恋愛という意味で好きなのは変だと思うかもしれないが、どうか軽蔑しないで欲しい」

「……もうダメ。我慢できない。好き、大好き。ルドルフを愛してる!!」

 

 今までは年齢や立場を気にして理性で我慢していたけど無理。こんなかわいく恥ずかしがっているのは最高にかわいい。

 こんな姿を見たら我慢するほうがおかしいと思う。

 同性愛的な感情をルドルフも持っているらしいし、時間をかけて仲良くなっていけば恋人になってくれそう。

 

 あたしの言葉にルドルフは口を開け呆然としているけど、ピンと立った耳はあたしの言葉を聞き逃しはしないというのを感じて嬉しくなる。

 これからは今以上の関係になっていきたい。

 世間の反応は気にしすぎない。自分の気持ちに正直でいたい。

 それにもう状況は待ってくれないし。

 男と恋人になった誤解は、ルドルフにキスをされた写真を送れば一発でわかってくれるに違いないから。

 そして、今日これからあたしたちはもっと仲良くなる。

 ゆくゆくは同棲を目指して!



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33.サイレンススズカ『深い愛は満たされない』

トレーナーがスズカから積極的な好意をぶつけられる話。
キスあり。


 恋人のサイレンススズカが帰ってくる。

 それを知ったのは、アメリカ遠征中のスズカがBCターフで2着に終わった翌日のことだった。

 スズカ本人からの電話で レースはアメリカのG1ウマ娘デイラミに負けて落ち込んでいた。でもアメリカ最後のレースが終わったから俺にようやく会えることを喜んでいた。

 アメリカ遠征中は信頼できる現地のトレーナーに任せていて、その間は俺に会うと甘えがきちゃうだろうからと遠征をして以来会ってはいない。

 

 遠征へ行ったのは秋の天皇賞で左足の靭帯を痛めたのを治し、大阪杯を走ってから5月へアメリカに。

 GIレースは6月と9月。そして今回11月のはじめにあった。

 

 だけど、もう我慢をしなくていい!

 遠距離恋愛で電話だけというのは寂しくて、スズカとは別にいる担当ウマ娘の子にスズカを重ねて見ちゃっていた。

 会ったときにはなによりも優先してスズカといちゃいちゃしよう。でも健全な範囲で。

 恋人とはいえ、トレーナーで28歳の大人である俺と18歳で高等部のスズカだからメディアや学校に疑われないように気をつける必要がある。

 

 まぁ、いちゃいちゃしたいとはいえ、スズカがアメリカに行く前は恋人繋ぎをするだけですごく恥ずかしがっていたからキスもしなさそうだが。

 愛する人と付き合って1年以上キスすらしたことないのは、我ながらよく我慢できていると思う。

 

 好きであるからこそ相手の都合を考えていきたい。スズカ的にはそういう大人の関係は卒業してからとも言っているし。

 だから自分の男的な欲望を抑えてやってきた。

 ただ、寂しさだけは我慢しきれず、その間はスズカの親友であるタイキシャトルとよく会ってはスズカという共通の話題で盛り上がることが何度も。

 

 タイキと会っているうちに、バーベキューパーティをしようぜ! という流れになって俺主催で会費制なアメリカウマ娘限定のBBQもやった。

 それを月に2回やって、スズカがそばにいない寂しさをにぎやかさでまぎらわせていた。

 そういう集まりを浮気だと疑われないようスズカにも電話で伝え、スズカと仲のいいフクキタルやスペシャルウィークといったウマ娘の発言もテレビ電話で伝えている。

 抱き着き癖のあるタイキがテレビ電話中に出る時はすご みのある声で浮気をしているかを疑われる、俺とタイキ。

 静かだが怒りを感じるスズカの声に近くで聞いていた他のウマ娘も震え上がるということもあった。

 

 そんなことを思い出しながら、今はトレセン学園の正門前でスズカを待っている。

 本当は空港へ迎えに行きたかったが、1度寮に戻って準備した姿で会いたいと言われた。

 準備した姿ってなんだよ、と飛行機に乗る直前の会話でそう返事をしたものの、笑ってスルーされてしまっている。

 スズカのことだから空港近くを走りたいとか、そういう理由な気がする。

 そうだとしたら走るのが何よりも好きなスズカらしい。ある時は俺と一緒の時間を過ごすのと、走るのはどっちがいいかすごく悩んで俺を一緒に走らせるなんてことをさせてきたし。

 

 しかし、まだ来ないのだろうか。

 トレーナー室で電話を受けてから30分は経つ。

 放課後になっている時間の11月は寒く、ずっと立っていると風邪になってしまいそうだ。

 でも会うまではスーツ姿のまま我慢していたい。

 

 寒さで体を震わせ、学園沿いに走っているウマ娘を眺めていると、正門の正面側からスズカが寮から出て姿勢よく歩いてくる姿が見えた。

 それは300mほどの遠さで、こっちへと向かってくる時間が実に待ち遠しい。

 てっきりスズカはジャージ姿で来るもんだと思っていたが、トレセン学園の冬服の上から白色のニットを身に着けて以前よりもおしゃれ度があがっているのに驚く。

 前は制服の中に何かを着る、スカートの下にジャージを履くという楽な姿だったというのに!

 

 最後に直接会ってから半年が経つと、おしゃれ意識が変わるのかと感心してしまう。これが成長か。自分で気になったのか、アメリカで誰かに教わったのか。

 そのどちらでもいいが、こういうふうに普段から見た目に気をつけ始めると美人度が上がるだろうから嬉しい。

 

 それに段々近づいてくる姿を見続けていると、化粧もしているっぽいのがわかる。

 いつもはライブかデートの時しか見ていないから、こういう綺麗な姿を見る機会が増えたのは実に嬉しい。

 スズカの姿を見てから俺は自然と笑みが出ているが、美人になっている姿を見て変に気持ち悪い表情になっていないかが心配だ。

 

 両手で軽くほっぺたを叩き、その姿を走っているウマ娘に変な目で見られるも気にしない。

 スズカが段々近くに来るにつれて、俺は深呼吸をし心構えをする。

 その理由は、スズカが抱き着いてくるときは勢いが強いからだ。

 前なんて勢いがよすぎて壁に頭をぶつけるという、かっこ悪い姿を見せてしまった。

 だから、今度はそうならないようにしていたんだが……。

 

 スズカは近づいてきても速度をあげるようなことはなく、俺のすぐ目の前まで普通に歩いてきた。

 あのいつでも走ってくるスズカが歩いてやってきた。それだけで俺は驚きだ。肌や髪の手入れもよく、ほのかに香水の香りがする。

 これがアメリカ遠征で成長した姿ということなのか!?

 

「直接会うのはひさしぶりですね」

「ああ。会えて嬉しいよ」

「私もです」

 

 はにかむ笑顔を見せてくれたスズカは俺の横に来ると、片手に手を絡ませて恋人つなぎをしてくる。

 その握った手を軽く振り、しっかり繋がれていることが嬉しそうだ。

 俺も恋人らしいことができて嬉しいが、今は驚きが多くて喜ぶのに困惑する。

 アメリカへ行く前は恋人つなぎなんてしたら顔を真っ赤にしていたのに、今はそうでもない。

 堂々と好きアピールしてくると逆に恥ずかしくなるんだが!

 

「どうしたんですか?」

「いや、スズカと手をつなげて嬉しいんだ」

「前とは違ってしっかりできるようにしました。トレーナーさんが私をもっと好きになってくれるようにって」

「俺は元からすごく好きだぞ、スズカ」

 

 お互いに見つめあっていると、ふと周囲から10人以上もの視線を感じる。

 足を止めたウマ娘たちが生暖かい、または好奇心いっぱいで俺たちを見てくる。

 学園公認で付き合っているため、健全な関係なら問題ないはずだがこうもウマ娘が多いと恥ずかしい。

 

「ふふ、ありがとうございます。でも4日前のレースでは負けてしまったたので、好意が下がっているか心配したんです」

「俺はスズカがやたらと走りたがるのが好きだし、雨や暴風があろうと走ることの意欲が下がらないのが好きなんだよ。それくらいで下がるもんか」

 

 たとえスズカがタイムオーバーで負けたとしても、恋愛感情の気持ちは下がるわけがない。

 もしレースをしなくなったとしても。走る姿に心を奪われたのは確かだが、内面のクールに見えてドジっ子なところがいいから。

 スズカは俺の言葉を聞くと、耳と尻尾をぶんぶん振り回して恋人繋ぎから俺の腕へと抱き着く姿勢へと変わる。

 胸へと抱きかかえられた腕は、ほのかに感じれる胸のふくらみがなんだか嬉しい。

 こう、服越しに感じるささやかな胸の柔らかさ。それで喜ぶと男って単純すぎると我ながらあきれてしまう。

 でも胸なら誰のものでも気になるが、恋人になるとそれ以上に気になる。

 

 気になるがここまで積極的すぎると、心配してしまう。

 前は恋人として腕を組みたいと言ってやってきたときは、恥ずかしさで5秒も持たずに終わったっていうのに。

 ここまでやってくると、いったいスズカに何があったんだと心配してしまう。してくるのは嬉しいんだが。

 

「……あの、腕を組むのは嫌ですか?」

「そういうわけじゃないが。今までと違いすぎるから驚いてな」

 

 スズカに連れられるようにして、正門前から学園の中へと向かってゆっくり歩いていく。

 途中、バーベキューで知り合ったアメリカウマ娘とすれ違いざまにからかわれ、適当にあしらう。

 

「私がいない間、新しい子と仲良くなったようですね」

「前に電話で言ってただろ。タイキと一緒にアメリカウマ娘たちとバーベキューをしているって。それに参加している子だよ」

「……私が向こうでひとりなのに、女の子に囲まれて楽しんでいたんですよね?」

 

 一瞬、声が低く俺の腕をにぎるむ力が強くなって背筋がひんやりとしたが、考えると日常生活的に女の子に囲まれている日々を過ごしているからどうしようもない。

 この場合はどう反応すればいいんだ、と困っているとスズカが俺を見ておかしそうに笑っている。

 

「今のは心臓に悪いんだが」

「そう言いたくなったぐらいに寂しかったんです。アメリカへ行ったのは私の希望ですが、どうにかしてトレーナーさんを連れて行きたかったです」

「別の担当を見ないといけないし、アメリカは詳しくないんだ。地元の人に任せたほうがいい」

「それはわかっているんですけど。……私以外の子を好きになっているんじゃないかって」

「そうはならない。と言っても言葉じゃいくらでも言えてしまうよなぁ」

「ですから信用する方法のひとつとしてアメリカにいた時、友達になった子から聞いたものがあるんです。遠距離恋愛でも安心する方法を」

「ほぅ、それはどんなのだ?」

 

 安心できるのならなんだってやってやろうと思っていると、 急に立ち止まるスズカ。

 いったいどうしたんだと不思議に思ってスズカの顔を見ると、スズカは背伸びをして俺の首へと両腕を回してくる。

 そうして目をつむって吐息の熱を感じさせながら唇を俺のへと合わせてくる。

 いつものように軽く唇を合わせるだけの軽いキス。

 

 周囲に人がいる中では少しだけ 恥ずかしいがスズカがしたいならそれくらいは気にしないようにしよう。

 スズカからの軽いキスを2度ほどされたあと、口の中へとスズカの舌が入ってこようとする。

 突然のことに驚き、体がビクリと大きく震えてしまう。

 慌てて体を離そうとするもスズカはしっかり抱きしめてくるから離れられない。

 スズカらしくない行動を心配して言葉を言おうと口を少しだけ開けた瞬間に舌が入ってくる。

 

「……ん、んんっ!」

 

 初めてのディープキスらしく焦った雰囲気だったが、少しして舌先がふれあい始めると落ち着いた。

 それから次第に俺の反応を楽しむかのよう舌のラインをゆっくりなぞるようにし、それから舌をからめながら左右へと微妙に動かしていく。

 俺とスズカの体温は舌を通して混ざり合っていき、ディープキスは脳がとろけそうなほどに気持ちいい。

 ずっとキスだけをしたくなるほどに。

 

 今までスズカとディープキスなんてのはしたことがない。

 だからこそ、それほど寂しかったんだろうかと考える。

 俺は大人ということもあって、寂しさを抑えることができる。でもまだスズカは子供だ。

 ディープキスで呼吸がしづらく、辛くなりながらも相手の気持ちを考えていなかったことに気づく。

 

 スズカはどんな気持ちでキスをしているんだろうかと思うと、その表情は俺の目をしっかりと見て、真剣でどことなく寂しさを思わせるものだった。

 キスで気持ちよさを感じながらも、自分だけのものにし続けたいという意思を感じる力強いもの。

 俺はその勢いにのまれ、抵抗が少なく強引さがあるキスをされていく。

 そのキスはスズカからの香水が全身にうつされる気がする。

 

「はっ…、ん、ぁっ、ん、んん…、す、きぃ…。ん……っ…』

 

 あえぎ声を至近距離で聞くと、もうドキドキとムラムラがやってきてたまらない。

 キスをしながらスズカは俺の理性にやばいことを言ってくるが、それを感じるよりも息苦しくなってスズカの腕を2度ほど軽く叩く。

 俺が苦しんでいるのに気付いたスズカは素早く体を離してくれるが、その時に口もとによだれが垂れ、顔が赤くなってほてった顔がなんともえろい。

 

「……はぁ。すごく気持ちよかったです。キスってこんなにすごかったんですね」

 

 まだ子供のくせになんという色っぽい表情をするんだ。

 海外経験でこんなにもするなんて!

 スズカにときめきながらも荒い息を整えていく。

 

「スズカが満足してくれたなら嬉しいよ。で、教えて欲しいんだが」

「いえ、満足していないのであとでもっとしましょう。それで何を教えて欲しいんですか?」

「ディープキスなんてのは誰に教わった? タイキやフクキタルがこういうキスを教えそうにはないんだが」

「ええと、アメリカで出会った子たちとコイバナをしたときに教わって……。これなら遠距離恋愛をしていても忘れられないって言っていたから……」

 

 ポケットからハンカチを出してスズカの口と俺のを拭いていくと、俺から目をそらして恥ずかしそうにする。

 これだ。これこそが俺の知っているスズカだ。

 積極的にキスをしてくるスズカというのもいいが、こういうおしとやかというか、恥ずかしがる姿があるのも実にいい!

 

「いい友達を持ったもんだ。話の続きはトレーナー室で聞こうか。これ以上ここにいると、恥ずかしくてな」

「……え? なんで恥ずかし──」

 

 言葉の途中、あたりを見回すと俺が言ったことに気づいて言葉を止める。

 さっきのキスは道のどまんなかでやっていたこともあり、結構な数のウマ娘が足を止めてみていたからだ。

 ざっと数を数えると11人。さっき走り去っていった子も入れるとプラス4あたり。

 放課後からある程度時間がたち、練習の時間となっている今だから少なかったのはいいが。

 学園の風紀を乱している気はするから、怒られるのを覚悟しておこう。

 

 俺がこれからのことについて考えていると、あたりを見回していたスズカは顔を真っ赤にしてすごく恥ずかしそうにしている。

 その恥ずかしがりの顔はすごくかわいい。

 再会したときの大人びたのもいいが、スズカはこっちのが似合うな。

 

「私、走ってきます! あとでトレーナー室で会いましょうね!!」

 

 大きな声で叫ぶようにしていい、結構な速さで校舎の中へと入っていった。

 スズカがいなくなると、周囲のウマ娘たちも元のトレーニングに戻っていく。

 一部、俺と顔見知りの子は興味津々で近づいてきたが。 

 

 俺に恋人がいたというのは聞いていたけど、本当にいたとは思わなかったとか。タイキと仲がいいから、あっちが本命だと思っていましたっていうのが。

 スズカが遠征に行ってから知り合った子だから、そう思うのは仕方がない部分はあるが。

 まぁ、今回の件で俺の恋人が誰かははっきりしたし、これからそう思う子は減っていくだろう。

 もしかして、スズカは恋人が誰かをはっきりさせたくて人通りがあるところでキスをしたのかもしれないな。

 そんなところもかわいい。



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34.メジロアルダン『恋愛に演技はあるが愛情は真実がある』

 12月の半分を過ぎ、クリスマスや年末が近づいてきた近頃。

 きっちりスーツを着て身だしなみを整えた俺はトレセン学園の昼休み中、トレーナーである俺は担当であるメジロアルダンと親戚なメジロパーマーを校舎内にあるトレーナー室へと呼び出した。

 パーマーはメジロ家でとても話をしやすい子であり、時々悩み事相談に乗ってもらっている。

 トレーナー室ではエアコンの暖房でしっかりと暖めてあり、実に過ごしやすい室温だ。

 そんな部屋で俺とパーマーはテーブルを挟んでソファに座ってはお互いに真面目な顔をして見つめあっている。

 

 悩み事はウマ娘との結婚についてどう思っているかだ。

 はじめは今まで相談したことのない恋愛ごとだからか、うろたえていたパーマーだが10分ほどかけて落ち着き、今では俺が結婚相手にふさわしい男かどうか見定めている気がする。

 冬仕様の制服を着たパーマーは肩まである長さのポニーテールと外ハネを揺らし、時々俺から目を離して体を揺り動かしながら悩んでいる。

 

 今回はいつものアルダンについての相談では最も重い話だ。

 それというのも、アルダンが結婚や婚約について話を軽く振ってくることが増えてきて、時々好きと軽い様子で言ってくるから、そういうことについてメジロ家の方針やメジロのウマ娘はどういったことか気になるからだ。

 俺が女なら同性同士は結婚できないよ、と言えたんだが男であり年齢が29歳だから実に悩ましい。

 結婚したいなという願望はあるものの、担当ウマ娘に手を出してしまったら、これからトレセン学園で仕事がしづらくなるなんて不安がある。

 

 そもそもとして11歳も年下の子を好きになりかけている今も問題があるような気がするが。

 世の中、愛に年齢なんて関係ねぇ! だなんて言う人もいるけど、やっぱり気になるものだと思う。

 

「それでパーマー、はっきりと言って欲しいんだが」

「や、まだ待ってよ。これさ、私の一言でふたりの人生が変わる勢いっしょ。私としてもどう言うのがただしいのかわからなくて……。おばあさまに聞くのが1番だとは思うんだけどね」

「あの人にそんなことを言ったら何が起こるかわからん。度胸がない男と言って笑ってくれてもいい。俺は小心者だから、ゆっくり慎重にやらないと落ち着かないんだ」

「そういうのはキミのいいところだと思うけどさ、恋愛なんてもっとシンプルでいいんじゃない? 名門のメジロ家といっても恋愛には寛容だよ? 身分がどうのこうのって言わないし」

「……だよな。やっぱり俺の気持ち次第ってことではあるんだ」

 

 深くため息をつき、テーブルにあるアルダンからのラブレターであるピンクのかわいらしい封筒を見ながら自分自身の覚悟が足りてないことに落ち込む。

 そんな俺を見たパーマーはフォローしようとしてくれたのか口を開いたものの、何も言わないままだった。

 俺と真正面に向き合ったパーマーは天井を見上げ、悩んだ声を出しながらもすぐに明るい表情で俺へと向けてくる。

 

「どういうのが自分にとって幸せか、で考えればいいんだ! そういう基準なら難しくないっしょ!」

「幸せか。考えすぎても答えが出ないだろうし、それだけで考えればいいか」

 

 何が幸せかという定義を考え始めるとまた別の悩みになるだろうから、今までアルダンと一緒にいた時にいて楽しかったことをを思い出す。

 レースで勝ったことを喜んだ時は当然として、スーパーのカラフルなチラシを見て買い物に行ったときは実物の商品と値段でこれはお得な商品か? とふたりで悩んだ時は楽しかった。

 一緒にごはんを食べる時も楽しかったな。誕生日になったらごはんを食べに行きましょうと言われて、ついて行った先がメジロのお屋敷だったのは驚いたが。

 アルダンにとっていい食事メニューをふたりで考えている時、病院食が最高なのではという結論に達して病院食を調べては作ったこととか。

 

 ……なんか半分ほど恋人っぽいことをしているような気がする。

 エアコンの暖房だけが響く静かな部屋で幸せだったことを思い出していくと、俺が気にしている年齢差以外では恋愛感情として好きなんじゃないかと気づく。

 一緒にいて楽しいし、いる時間が当たり前だ。

 それはトレーナーと担当ウマ娘という関係だけでなく、休日も一緒に過ごすほどに。誘うのはアルダンからでもあり俺からの時もあった。

 今まで担当していたウマ娘では休日に遊びに行こうという気持ちは一切なかった。

 だからこそ、今までの違いを自分で明らかにしていくと、なんだか恥ずかしくなってくる。

 

 自覚なしで惚れていたことを今になって気づいて。

 アルダンより大人なのに、自分の気持ちがわからないなんて。

 向こうから好きという直接的な言葉を言われていたのに、パーマーに言われてからでないと自分のことを考えようとしなかったのが悲しい。

 今まではただ面倒なことになりそうだという思いだけで逃げていたんだと気付いて。

 

 自分の恋愛感情に向き合うことに決め、今日の放課後に自分の気持ちを伝えることを決意。

 ただ恋人として付き合うのは最低でもトレセン学園を卒業したあとだ。そうでないとメジロ家からレースを走らせると誓った大事な子供を預かった責任を果たせない。

 

 昨日渡されたラブレターからは、愛の言葉と俺とどうなっていきたいか。

 アルダン自身の将来への希望と、俺に迷惑をかけたくないことが書かれていた。

 ここまで愛してくれるなら、向き合うしかない。

 

 相談に乗ってくれたパーマーに感謝の気持ちを伝えようとすると、ふとパーマーの耳が勢いよくドアへと向く。

 その動きに釣られ、ドアに顔を向ける。

 何の様子がないまま5秒ほど待つと、遠くから聞こえるウマ娘たちの元気な話声に紛れながら足音がやってくる。

 俺にはそれが誰の足音がわからないものの、パーマーの表情を見ると絶望した様子で耳もしょんぼりと下に垂れている。

 その様子から俺はアルダンが来たとわかった。

 

 普段ならパーマーと一対一で会うことはあるが、それはアルダンに伝えたうえでだ。

 しかも毎回練習が終わって会っているから、昼休みの時間にこっそりとだなんて何かをたくらんでいると思われてもおかしくない。

 場合によっては浮気として認識、いや、まだ付き合ってはないが。

 

 アイコンタクトでパーマーにごまかしてくれと頼み込むも、勢いよく首を横に振られる。

 悪いことをしたわけじゃないのに、この罪悪感。

 アルダンのことを相談するためとはいえ、年頃の女の子と密室は変なふうに思われても仕方がない。

 俺とパーマーがこっそり恋人関係になっていたとか。

 

 ひとまず言い訳と謝罪の言葉をどうしようか悩んでいるとノックの音が響く。

 ノックのリズムと間隔から間違いなくアルダンだ。

 

「トレーナーさん、いらっしゃいますか? 仕事でお疲れと思い、差し入れを持ってきました」

「あぁ。入っていいぞ」

 

 素直に答えるとパーマーが悲鳴をあげそうな表情になるが、これは仕方がないだろう?

 居留守を使っても気配でばれるだろうし、隠そうとしたほうが状況が悪くなる。

 恋愛事においては嘘をつくというのは、メリットよりもデメリットのほうが非常に大きいから。

 それに俺たちは悪いことをしていないんだから、堂々としていればいい。

 そうパーマーに目で伝えると、声を小さく出してため息をついた。

 

「それでは失礼します。……あら、パーマーが来ていたんですね。お邪魔でしたか?」

 

 缶コーヒーを持って穏やかな笑顔で入ってきたアルダンは冬仕様の制服を着ている。

 髪は腰まで伸びているのをラモーヌのように後ろでシニヨンの髪型でまとめ、他は普段のように自然に流している。

 それは秋のトゥインクル・シリーズファン大感謝祭で演劇をした、男装の時の髪型だった。

 

 演劇が終わってからもアルダンは時々こういうふうにロングヘアじゃなく髪をまとめる時がある。

 普段のお嬢様という雰囲気じゃなく、シリウスやルドルフに負けないイケメンな女の子だ。

 メジロ家では一番のイケメン美少女だと断言できるぐらいにいい。

 アルダンの髪に見惚れながらも、怒っていない様子に安心する。

 

「いや、話はさっき終わっていたから大丈夫だよ」

「そうそう! ちょっとした悩み事の相談だったんだよ! ふたりの邪魔しちゃ悪いから私はかえ──」

 

 即座に帰ろうと立ち上がったパーマーの肩を押さえて力づくで座らせたアルダン。

 その目は不思議そうに俺たちを眺めていて、パーマーは力なくうなだれてしまっている。

 これは静かに怒っている!! アルダンの担当になって2年目になるが、いまだに怒っている時の様子がわからない。

 

 しかし、よかった。パーマーがこの部屋にいてくれて。怒られるなら一緒のほうが被害が少なくなりそうだ。

 そういう悪い思考をして表情を変えずにいると、アルダンは缶コーヒーをテーブルへ置いてからじっと俺を見たあとに後ろへと下がって距離を取る。

 うついむいてからから、顔をあげると表情は辛く苦しそうで、見ていてこちらが悲しくなりそうになっている。

 

「ハムレット、第三幕第一場」

 

 そのセリフは秋の感謝祭で演じた劇であり、ハムレット役をしたアルダンの台本の読み合わせに付き合ったから内容を覚えている。

 静かながらも力強くつぶやかれた言葉。 その言葉と共にアルダンは小さく一歩を踏み出し、両手を力なさげに少し開いていく。

 突然はじまっていく劇。

 ハムレットは一言で言うと、主人公である王子の復讐劇だ。

 

 そして第三幕は『生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ』のセリフで有名で1度は聞いたことがあるという人が多いであろう場面だ。

 これから演じていくアルダンは俺への問いになりそうなことを感じさせてくれる。

 この作品を俺とアルダンのどちらとも知っているからこそ、演劇の力を借りて伝えたいことがあるんだろう。

 パーマーは今の展開についていけず、静かに俺たちふたりを見つめている。

 

「生きるか、死ぬか、それが問題なんです」

 

 元々のセリフをアルダン自身の言葉へと変え、深く悲しみを持った声。

 そしてアルダンは両腕で自分の体を強く抱きしめて床へと視線をゆっくり落とす。

 

「どちらがウマ娘らしい生き方と言えるのでしょうか。

 自分だけを大事にして運命から逃れて静かに生きるか。それとも足を壊すとわかっていても必死に走り、すべてのことを終わらせるのと。

 いったいどちらが! いっそ死んでしまったほうが楽かもしれません。死ぬとは眠ること。1度、眠ってしまえばトレーナーに対する想いも解放されるでしょう。

 でもそうしたら私は強く思い残すことがあるんです。

 パーマーが私のトレーナーとこっそり会っていて、情熱的な愛をささやいていたかと思うと死んでも死に切れません」

「え、ここで私なの!? そんなことはしていないって!」

 

 パーマーの名前が出ると同時に俺とアルダンは同時に振り向く。

 それが怖かったのか、パーマーは驚いた声をあげてソファの上でアルダンからあとずさっていく。

 このパーマーに話を向けた時にやっと気づく。アルダンは別に怒っているわけでなく、俺とパーマーを驚かせたかったのだと。

 俺への気持ちも改めて伝えながら。

 

 元の言葉からアルダン風に言葉を変えていき、シーンを部分的に省略しながら動きや言葉を続けている。

 これが即興なら、アルダンは実に冷静だ。

 でも唐突に名指しをされたパーマーは困惑するばかりだ。

 一見して、パーマーに恨みを持っているふうな演技を見せられたら、その反応も当然だ。

 アルダンの演技も以前より上達しているし。

 以前、演劇を披露した時よりも動きがなめらかになり、感情を表現する時の動きが大きくなって見る人からはわかりやすくていい。

 

「死の眠りの中で、どんな夢が訪れるかわかりません。これが私を悩ませているのです。

 私の想い人への片思いを知りながら、どうやって奪っていくのでしょう。

 かなわぬ恋の痛みに、親友の裏切り。これらにどうして心が弱い私が耐えられるのでしょうか。

 高いところから身を投げ出すだけで、この人生からさよならができるのに」

 

 省略はいいとして、元よりずいぶんと過激になっているんだが。どう話を終わらせるんだ。

 最後のほうのセリフでは、パーマーを真剣に見つめながらソファーへと座り、距離を詰めていくアルダン。

 

「取っていないって! 恋のお悩み相談をしていただけ!! 大丈夫、トレーナーさんはアルダンのことを好きだって言ったから!!」

 

 続けて言葉を言おうとするアルダンに対し、パーマーはさっきまで相談していたことを全部ぶちまけてくれていた。

 アルダンはその言葉を聞くと、パーマーに迫ることをやめて今度は俺の隣へとやって座ってくる。

 肩がふれるほどの距離ではアルダンからシトラスな香りがただよってくる。

 

 上目遣いで俺を見てくる今の姿は高校2年生にしては色気がある。

 目と目が合い、俺が動けないでいるとアルダンは俺の腕へと顔を押し付けてくる。

 そのふれあいに心臓がどきりと動き、緊張してしまう。

 そんな気持ちの揺れを抑えるのを意識しつつ、なんでもないことのように言葉を出す。

 

「アルダン、最近はどうやって過ごしている?」

 

 ハムレットの独白から続ける形で、オフィーリアの言葉を言うと、アルダンは少し考えてから口を開く。

 俺がオフィーリア役でハムレット役というのは性別が違っている気がするが、ささいなことだ。

 大事なのは演じるキャラクタの役割だから。

 

「聞いてくれてありがとうございます、トレーナーさん。私は元気ですよ」

「アルダン。昨日、渡された手紙の返事を伝えようと思うんだ。どうか今から聞いてくれないか?」

 

 セリフを今の状況に変え、告白の返事を返そうとしたがアルダンは俺から顔を離したあとにパーマーを見てからそっと目を背ける。

 

「手紙を渡した覚えはありません。きっと誰かのいたずらでしょう。私はトレーナーさんに今、ここでの強制はしたくないのです」

「アルダン、ハムレットは終了だ。本当はな、もう少し雰囲気のいいところで言いたかったんだ。悪い話じゃないから聞いてくれ」

「……わかりました」

 

 俺はテーブルに置いてあった封筒をスーツのポケットにしまい、1度深呼吸をしてソファの上でアルダンと向き合った。

 

「アルダン、俺は年齢差やメジロ家から大事なお子さんを預かっていることに悩み、自分の気持ちを押さえていたことに今日、気づけたんだ。

 俺はアルダンと一緒に同じ時間を過ごしていきたい。

 担当とウマ娘というだけでなく、それ以上に。最もそれをするのはアルダンが卒業をしてからになるが。……どうだろうか?」

 

 そう言った途端、表情は真面目な顔つきだがアルダンは耳をピンとまっすぐに伸ばし、尻尾は高く持ち上げられてふんわりと左右に振っている。

 アルダンの返事を待つも言葉はなく、ただ俺の太ももを軽く手で叩いてくるだけだ。

 

「アルダン?」

「次の言葉を早く言ってください。それだけじゃ足りませんし、これ以上私を焦らしても何も得はありませんよ」

 

 ここから何を言えと? 俺はアルダンの返事を待っている側だというのに。

 なんだ、他につけたす言葉ってあるのか? 自分の気持ちに正直になったからいいと思うんだが。

 それとも付き合いたいってのは今すぐがいいというのか? それをすると学園やメジロ家の方々と問題になるんだが。

 

「……これ、私がいなくてもちょっと時間があればくっついたんじゃない? 恐怖の味わい損な気がするパーマーさんなんだけど」

 

 顔が真顔なアルダンに太ももをぺしぺし叩かれ続けながら、言葉に悩んでいるとそんなことを視界の片隅でパーマーが言ってくる。

 そうだ、パーマーがいたのを完全に忘れていた。

 パーマーにはお世話になり、怖い思いをさせてしまったので何か感謝の気持ちを送っておかないとな。

 ヘリオスとセットでパーマーたちを高級料理店に連れていけば、なんとかなるはずだ。

 

「トレーナーさんはもしかして私だけじゃなく、パーマーも好きなのですか? 1対1の関係になれないのは残念ですが日頃からお世話になっているパーマーなら──」

「待って、待って待って!? 私、トレーナーさんに親しみはあるけど、そういう恋愛感情じゃないから! だから、そういう言葉を言いながらにらんでこないでってば!」

 

 ソファから勢いよく立ちあがったパーマーはおびえを見せながら、ドアの前まで言って悲鳴のような言葉で言う。

 

「アルダンのトレーナーさんも早く好きだって伝えてよ! このままだと私、ひどいことされるから!」

 

 もしかしてアルダンが俺に待っていたのは好きという言葉か?

 思えば、今まで言われてはいたが俺が言ったことは1度もなかった。

 さっきの会話もアルダンと一緒にいたいとは言ったが、それだけで自分の気持ちを直接的な言葉で表現してはいない。

 

 

「あー、アルダン。パーマーに言われてからなんだが、気づいたことがあるんだ。聞いてくれるか?」

「それなら聞きたくありません。あなた自身に気づいて、自分の意思で言って欲しかったんです。

「じゃあ言わなくていいのか」

「いえ、言ってください。そうでないと私は怒りますよ?」

 

 これ、どうすればいいんだ。

 ひとまずはふたりきりにならなきゃいけない。俺はパーマーに視線を合わせると目で謝罪の気持ちを向ける。

 するとパーマーは小さくうなづくと、すぐさま部屋から出ていった。ただし、扉だけは静かに閉めて。

 

 パーマーが廊下を走っていなくなる音を聞いたあとは、不満げな顔になっているアルダンをどうしよう。

 さっきと違って耳は不満げに後ろへと倒れていて、尻尾はぶんぶんと勢いよく振り回している。

 今さら雰囲気をよくなんてできないし、できたとしても学生の子とこんな昼間から学園で何かするわけでもないし。

 消去法で考えるなら、勢いで色々と進めてしまおう。

 

 俺は怒った様子のアルダンに近づき、アルダンの両腕を巻き込みながら背中に手を合わせて強く抱きしめる。

 顔は見えないが、抱きしめていると段々とアルダンが落ち着いてくるのがわかる。

 それと同時に、俺の頭に耳を押し付け、首元に鼻を当ててなんでか匂いを嗅いでいるのも。

 

「アルダン」

「はい」

「色々と遠回りはしているが、好きだ。一人の女性としてお前を見ている」

「……はい。私もあなたが好きです」

 

 ついに言った。たくさん周囲を気にしていて、自分の気持ちと行動を縛っていたが言ってしまえば、もう楽な気持ちしかない。

 自分の感情に嘘をついたままというのは、とてつもなく精神に負担がかかる。

 こうして素直に自分の気持ちを伝えられるようになり、受け止められるようになったのは嬉しい。

 ……嬉しいが、すっげぇ恥ずかしい。

 抱きしめるというのは今回が初めてなこともあるし、女性として今まで見ようとしなかったから意識し始めると緊張と興奮で心臓の鼓動がうるさい。

 体を鍛えていても女性だから柔らかさがあるし、髪だけでなく体全体からいい匂いがする。

 

 そしてなによりも大きい胸の感触がもうすんごい。語彙力がなくなってしまうが、とにかくすごいのだ。

 前の身体計測ではバストサイズ87だから、ボリュームがすごい。

 離れようと思っても、自分の体にあたる胸の感触が気持ちよくて、ずっとこのままでいたい。

 

 今日恋人関係になったとしてもアルダンを大事にしてゆっくりと関係を進めていきたくはあるが。アルダンの魅力に飲み込まれてしまいそうだ。

 ここからどうしようか、昼休みが終わるチャイムの音があれば自然と離れられるかと悩んでいるとアルダンの両耳が立ち上がり、ドアのほうへと向く。

 いったい何があるのかと思い、そっと首を回すとわずかに開かれたドアから6つの目が俺たちを見ていた。

 

「やばっ、ばれたよ!?」

「少女漫画そっくりで素敵でした!」

「お熱くていいわね」

 

 パーマー以外は余裕のある言葉を残し、ライアンとラモーヌの3人は即座にドアを閉めて小走りで立ち去っていった。

 これ、メジロ家だけでなく学校中に広まりそうだなぁ。あとで不順異性交遊って言われて理事長に怒られそうで落ち込んでしまう。

 

「大丈夫ですよ、何かあっても私とメジロ家の力であなたは安全ですから」

 

 俺はアルダンと穏やかに時間を過ごしていきたいが、急速に外側からの力によって関係が進んでしまいそうだ。

 来年中に結婚とかはないよな? 将来的に結婚をするとは考えているが、まだ独身という自由な時間を楽しんでいたいんだ。

 でもアルダンの余裕がある声を聞くと、もうなるようにしかならないとあきらめがつく。

 アルダンが一緒にいてくれるのなら、すべての困難は乗り越えていけそうだから。



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35.ファインモーション『かわいそうな1人の少女』

少し曇らせ成分があります


 すてきな人と恋愛がしたいな、と早朝にベッドから体を起こすとそんなことを思った。

 そう思うにいたったきっかけはお姉さまが日本へ来て、私がいるトレセン学園の感謝祭に来た時。

 なんでも一目で恋に落ちた相手が見つかったって喜んでいた。

 もう少し仲が深まったら私にも紹介してくれるとのこと。

 今までお姉さまは恋愛に興味がなかった。なのに、一瞬でそんなふうになる恋愛ってどんなものだろうと私は不思議に思った。

 

 物語では恋に落ちる描写というのはいくつも読んだことがある。

 私を守ってくれるSPの人たちにも恋愛について聞いたことも。

 

 でもわからなかった。

 一人の人を本気で愛するなんてことは、どういうことかってことを。

 人によって恋愛を表現してもらっても、みんなは違うことを言う。

 恋をしてその時になったらわかるよ、とみんなは同じことを言う。

 アイルランドの王族である私は恋愛は親が決めるものだと思っていたけど、姉さまやお父様、お母さまは私が好きになった人を迎えてもいいと言ってくれた。

 

 それを聞いてから、私は深く考えずに走ることを考えて過ごしていた。

 トレセン学園で新人であるトレーナーとカップラーメンが縁で契約をし、勝ったり負けたりのレースをしていた。

 今は契約して2年目の冬。

 

 恋に気づいたのは進路希望調査票を渡され、考えた時。

 王族の一員として王国のためになる仕事をするのは当然だけど、それ以外にやりたいことって何があるだろうって考える。

 それで頭に浮かんできたのが『お嫁さん』という言葉。

 いっかい考えてしまえば、もう頭の中はそれしか考えられなく顔が熱くなる。

 自分のトレーナーである、あの男性だけしか思い浮かばなくて。

 

 今までは国とレースのことだけ考えていた。

 それだけを考えていれば、何も問題はなかった。

 なのに、頭のなかがぐちゃぐちゃとこんがらがってしまう。

 

 この恋愛感情はどうすればいいんだろうって。

 私はいずれ日本を離れ、アイルランドに戻らないといけない。

 トレーナーは日本でウマ娘を育てる仕事を続けていきたい。

 

 私はこの気持ちに答えが出せるの?

 レースならゴール板があり、そこを誰よりも1番に着けば勝ち。

 でも恋愛にゴールなんてのはない。

 そもそもゴールっていうのはあるの?

 

 恋人になること? 結婚? 出産?

 トレーナーとそんなことができたらと嬉しく思う反面、私が見る現実は暗く重いことしか教えてくれない。

 まわりの人は自由に恋愛していいと言うけど、相手のことはどうすればいいんだろう?

 こんな気持ちになったことは初めてだし、どうすればいいかわからない。

 誰かに相談するとしても慎重にならないといけない。

 王族の一員としてウワサになっただけでも多くのメディアが報道する。それはきっと相手の迷惑にもなってしまうから。

 

 だから私は考える。

 お昼休みになると進路希望調査票を握りしめ、ひとり中庭のベンチに座る。

 寒風に吹かれ、制服越しに寒さを感じながら私の意識はぐるぐるとまわっている。

 恋愛はどうすればいいの? 恋や愛ってなに?

 そんなことをただひたすらに考える。

 考えても正解なんて出ないのに。

 

 でも答えが出ないほうがいいかもと思う自分がいる。

 正解が出たら行動をしなくちゃいけない。

 正解がわかったから満足する自分じゃないのは知っているから。

 

 ぼぅっとベンチから灰色の曇り空を見上げ、チャイムの音が聞こえてくる。

 初めて授業をさぼるのが決定した今。

 視界の端にSPの人たちが心配そうに来るけど、私は片手で大丈夫と返事をする。

 SPの人たちには申し訳ないけど、今はひとりで悩んでいたい。

 

 悩んでいる間にも、私の好きな彼。

 トレーナーと一緒に過ごした時間を思い出す。

 レースに勝って抱き着いたこと、一緒に熱々のラーメンを食べたこと。

 SPの人たちと一緒に鬼ごっこで遊んだ楽しい記憶が次々とよみがえってくる。

 

 トレーナーの隣にいて、楽しい時間を過ごし続けたいなと思う。

 手に持っている進路希望調査票を空にかざし、私の"正解"が書かれていない空欄を見続ける。

 見続けても何も思いつかず、耳と尻尾を不機嫌に力強く揺らす。

 何も思いつかない。

 今すぐ答えを見つけなくてもいいけど、もやもやしたままなのは嫌。

 

 だから正解を作り出そう!

 

 思い立ったらすぐに行動。私は進路希望調査票を丁寧に折りたたんでスカートのポケットに入れると走り出す。

 向かう先はコース近くにあるトレーナー室。

 慌てて私を追ってくるSPたちの足音を聞きながら、私は好きな人と会えるという嬉しさでわくわくが止まらない。

 

「トレーナー!」

「おおぅ。どうした、ファイン。今の時間は授業中だろ。なにかあったのか?」

 

 ノックもなしで勢いよくトレーナー室の扉を開ける。

 そこにいたスーツ姿のトレーナーは机に向かい、ノートパソコンをさわっていて、驚いた顔で私を迎えてくれた。

 でもすぐに優しい言葉で私を心配してくれる。

 そんなふうに言われた瞬間に、もうさっきまでのもやもやとした気持ちはなくなり、暖かい気持ちでいっぱいになる。

 

「そりゃもう、すっごくあったよ!」

「俺で助けになるなら言ってくれ」

「トレーナーじゃないと助けにならないんだよ!」

 

 そう言ってポケットから私をさんざん悩ませてくれているものを取り出し、トレーナーの机の上に力強く、でもそっと静かに置く。

 

「進路か。G1を勝ったから胸を張ってアイルランドに帰れるし、悩む要素はあるのか?」

「それがあるんだよ。あと1年もしないうちに帰ることになるけど、そこにトレーナーがいないの!」

「別に帰国しても電話ぐらいはいいんだが」

「あ、いいの? それならしちゃうけど──tって、それは嬉しいけどそうじゃないの!!」

 

 目をぱちくりとまばたきし、話についてこれないトレーナー。

 それを見て、私だけが一方的に話を進めて、何の説明をしていないのに気付く。

 部屋には私とトレーナーだけのふたりだけ。話の補足をしてくれるのは誰もいない。

 私はひとつ深呼吸をすると、悩んでいる問題をどう説明するか考える。

 じっと静かに考えているあいだ、トレーナーは私へと体を向けておだやかな顔で待ってくれる。

 

 ……問題を考える時はどんな時もシンプルに。

 物事は単純化して考えれば答えが見つけやすいもの。

 

「トレーナーは醤油と塩、どっちのラーメンを食べたい気分?」

「え、ラーメンの話? いや、物事を単純化しての考えか? ……定番の味か幅広い味があるという違いになるなら、ひとまず幅広く考えたほうがいいと思う」

 

 話の前提もなく、突然こんなことを言ってくれたけど、トレーナーは私を理解してくれている。

 そう、まさしく醤油と塩の違いはそこなの!

 シンプルに考え、聞いたからこそ新しい答えが出てくる。

 

「私はね、うどんが食べたいの」

「選択肢に入ってなかったんだが?」

 

 トレーナーは困惑しているけど、今、私の思考はすっきりとしている。

 私が言ったどちらの味でもなく、日本発祥であるうどんこそ大事にするべきもの。

 好きなラーメンに例えて考え、でも言っているあいだにうどんが食べたくなった。

 つまりは日本が恋しく、アイルランドに帰るときでも心残りが強いと思う。

 

「それでファインの悩んでた答えは、うどんというので解決したのか?」

「うん。1人で悩んでいた時はいくら考えてもわからなかったのに、トレーナーに聞いたらわかっちゃったの。すごいよね!」

「俺が役に立てたのなら何よりだ。それでこれからどうする? 今の授業時間だけならここでサボるか?」

「いいの?」

「よくはないが、たまにはいいだろ。こういうのは学生のうちじゃないとできないからな」

 

 私に向かって、しかたないなぁという苦笑いと共にソファを指さす。

 その指が差した先にあるソファーにぼふんと体を放り投げるようにして座る。

 

「次にチャイムが鳴ったら帰るんだぞ」

「はぁーい」

「よし。じゃあ、俺は仕事をしているから適当に何かしているといい」

 

 トレーナーは私に背を向けると、手を動かしてカタカタとキーボードの音を鳴らしていく。

 その仕事をしている姿を見るだけで、胸がどきどきとしてくる。

 好きになったことを気づけば、その人の色々なことが気になっちゃう。

 いつもは気にしていない作業の姿なのに、今は気分がうきうきとしちゃう。

 

 でも私と走る契約が切れたときは、こういうのもなくなっちゃう。

 そう思うと、胸の奥がずきりと痛む。

 トレーナーは私のことを女性扱いはあまりしてくれない。

 たとえるなら、手のかかる妹のような。

 SPの人たちには女性として対応しているのに。

 そう考えるとずいぶん失礼じゃない?

 

「なんか怒っている気配を感じているんだが」

「怒ってませーん」

「あー……そうか。それじゃあ練習後は油そばを食べに行かないか?」

「行く!」

 

 そっけない言葉で返事をしたのに、いらだちがばれている。

 それでいて、私の気分をよくするように考えてくれるトレーナーは気配りができていい。

 私より8歳年上だからかなぁ。これが大人っていうものなのね。

 

 私の元気な返事を聞いたトレーナーは安心したように仕事へと戻っていく。

 そんな姿を見ていると、私のいとおしいという気持ちが段々と高まる。

 この人とずっと一緒にいたいという気持ちも。

 普段はそっけないけど、私だけに対しては表情をころころと変え、心配してくれる。

 それを他の人たちには見せたくない。

 私と契約が切れれば、アイルランドに帰ればトレーナーは私以外の子と居続ける。

 

 それはイヤ。私のそばにいてほしい。

 トレーナーが私だけを選んでほしい。

 そうするにはどうすればいいかと考え、なら女性としてみてくれるアピールが必要だと気付く。

 うん、これは名案ね! そうと決まれば、すぐに実行!

 すっきりと、だけれど心の奥底ではにごった気持ちを持って私は勢いよく立ち上がる。

 

「ねっ、トレーナー」

「なんだ、ファイ──」

「んっ」

 

 身をかがめ、座っているトレーナーと同じ高さになる私。

 そして肩に手をあて、唇へとキスをする。

 漫画では目を閉じてするけど、そういう作法も忘れて目を開けたまま。

 そうしたら、トレーナーが驚いて見開いた目が見れた。

 

 これほどにまで近づいたことはなく、トレーナーの目って近くで見るときれいだなぁなんて思う。

 顔はそんなに美形ではないけど、大人の落ち着きと心の広さが私の心をつかんで離さない。

 キスをしたときはどっちも動きがなくなり、胸いっぱいに嬉しさが広がる。

 G1のレースを勝った時か、それ以上に心が跳ね上がって心臓の鼓動が聞かれていそうなほどにドキドキしている。

 ほんの2秒にも満たない、わずかな時間のキス。

 

 でもその瞬間は1分にも感じる長さだった。

 

「悩み事の答えがこれだって今わかったの。だからキスしちゃった。あ、もちろん初めてだからね?」

 

 キスしたことがあまりにもはずかしく、早口でそんなことを言う。

 トレーナーも私と同じように恥ずかしく思っているといいなと表情を観察していると、片手で口元を押さえてどことなく気まずそうな様子。

 

 キス失敗したかな。歯と歯がぶつかったわけでもないし……。口臭に問題があるわけでも……あぁ、リップを前もって塗っておくんだった!

 今の唇はすべすべしてないから不満だったのかな!?

 私は初めてでもトレーナーは何度も経験しているかもしれない。前に恋人がいたって言っていたし!

 

「あの、下手だった? もう1回してもいい?」

「……これが答えなのか?」

「うん。将来、私はどうなりたいか。それを考えた結果がキスなの。あなたが好きという気持ちはあったから、それを伝えただけだよ」

 

 今まで言えなかった告白。それを伝えることができた私はすっきりとした気分。

 言葉にすれば、自分はこの人と結婚をして一緒にいたいという気持ちがおなかの奥から実感する。

 体の全部でこの人に私の好きを伝えたい。だって私はすっごい嬉しいのに、トレーナーの目はまだそうなっていないから。

 

「もう1回キスをするね……?」

「待て、俺はファインとは──」

 

 トレーナーが何か言う前に私は自身の唇でふさぐ。

 私の両肩に手を押し当て押し返そうとしてくるけど、トレーナーの首に両腕を回して強く抱き着く。

 そうするとキスもより密着して、呼吸する隙間もないほどに。

 さっきのさわるだけのキスとは違い、今のわたしは大胆になっている。

 キスの時間が長くなるほどに満足感が増え、ふわふわとした気持ちへ変わっていく。

 

 変わった気持ちは幸せ。それ以外は何も考えたくはない。

 祖国や王族、レースのことなんか今だけは全部忘れる。

 考えるのは目の前にいる、私だけのいとおしい人。

 

 進路なんてものは、トレーナーが一緒にいればなんだってできそう。

 私と結婚すれば王族になるんだし、その権限を生かして向こうでウマ娘への指導も好きな時にできるだろうし。

 うん、とっさに思いついたにしてはとってもいい案だと思うの!

 

「トレーナー、好き。大好き。私が結婚できる年齢になったら結婚しよう?」

「やめてくれ!」

 

 キスをやめて話をすると、荒い息をついたトレーナーは私の言葉を否定してくる。

 それは照れ隠しなんかじゃなく、本気で嫌がるような。

 目の前のことに驚いた私は抱きしめる腕の力が弱まり、立ち上がったトレーナーは私から離れていく。

 

 私を押しのけて立ち上がったトレーナーはそでで口もとを力強く拭き、失望した目を向けてくる。

 なんでそんな目で見るの? 今までこういうのはなかったじゃない。

 

「こういうのはダメだ、ファイン。俺はおまえの気持ちに答えられない」

「それって私をひとりの女性として見れないってこと?」

「いいや、違う。女性として見ているが恋愛感情はない。教え子というだけだ」

 

 一瞬にして世界の色が落ちていく。

 さっきまでの嬉しい恋の気持ちやキスのやわらかさ。それらのことを忘れて心が冷たくなっていく。

 立っているのも難しく、お尻から床に座り込んでしまう。

 

「えっと、その、強引だったよね。ごめんね? だから、そんなことを言わないで欲しいな」

「ファイン。今のことは事故だと思って忘れる。明日から今までどおりの関係でいて欲しい」

「なんで……なんでそんなことを言うの? 私たちは相思相愛でしょう!? 私のわがままや甘えるのに付き合ってくれたじゃない!」

 

 悲しくて悲しくて涙が出て。

 泣きながら言うけど、トレーナーは私に冷たい顔を向けるだけ

 

「それは担当ウマ娘としての付き合いもあるが、妹を相手にするようにしただけだ。俺は今の関係がいいんだ」

「でも私はあなたと一緒にいたいの! これから先もずっと!」

「進路希望は家族と相談したほうがいい。今のファインには落ち着く時間が必要だ」

「あ、トレーナー……」

 

 突き放すように言い、部屋を出ていくトレーナーの背に向けて私は力なく手を伸ばすが、トレーナーはそれに気づかず部屋を出ていく。

 伸ばした手は何もつかめず、床へと落ちていく。

 

 私には何もなくなった。今まで大事にしてきた関係が壊れた。

 私が壊してしまった。

 私のそばにいて欲しかっただけなのに。

 

 座ったまま動けない私は涙を流し、泣き声をあげてしまう。

 そして、すぐに部屋の外からSPの人たちが心配して声をかけてくるけど、私は泣き声のままに「放っておいて!」と叫ぶ。

 机に置いていた進路希望調査票はいつのまにか、床に落ちていた。

 きっとトレーナーがいなくなった時に落ちたんだと思う。

 その紙は空欄のままで、今の私と同じ。

 何もなくなってしまった。

 

 振られた私は恋愛において失うものはなくなった。

 だからこそ立ち上がる。

 初めての恋。

 好きになった人への想いを忘れたくなくて!

 

 そのためなら色々な力を使おう。失敗したのは準備をしていなかったから。

 レースだって練習して能力を上げただけじゃだダメ。走るコースを勉強し、戦術を選ばないと。

 今回の私はそれが足りなかった。

 まずはアイルランドに連れていくのを目標にしよう。

 そして、日本では外堀を埋めるという言葉を意識して私しか選べないようにしちゃえばいい。

 でもひとまずは化粧や色っぽい仕草を覚えないと。トレーナーの心がときめく、トレーナー好みの私になる!

 

「隊長! 隊長はいる!?」

 

 涙をごしごしとそででぬぐった私はトレーナー室の扉を開け、そう叫ぶ。

 さぁ、これから忙しくなるね!



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36.アドマイヤベガ『アドマイヤベガをあまやかしたい』

 11月はじめの菊花賞はナリタトップロードの勝利で終わった。

 そのレースには僕の担当ウマ娘である、アドマイヤベガも参戦して6着。

 でもなぐさめる言葉は何もない。ダービーを勝ったときと同じく「おつかれさま」とシンプルに言う。

 他になにか言葉があるだろ、と多くの人に言われるだろうけど僕とアドマイヤベガの関係はビジネスライクなもので、レースやライブに関すること以外は話をしない。

 彼女は1人でいることを好んでいて、自分自身に関わって欲しくないことを望んでいた。

 契約条件にも最低限の接触と干渉というのがあり、それを満たすことができたが新人トレーナーの僕だった。

 

 サブトレの経験を積んでいたとはいえ、新人の僕と契約してくれたのはありがたいことだ。

 契約した担当ウマ娘とは仲良く話をしていきたかったけど、求める関係性というのはそれぞれが違うもの。

 ウマ娘がそれを望むのなら、合わせるというのがトレーナーというものだと僕は思っている。

 契約だけでなく、練習に必要なものだったら全部の要求を受け入れるとかそういうのを。

 それを僕は実践していて蹄鉄や練習用シューズ、自室で使う筋トレ用道具。他ウマ娘が練習しているメニューの内容を渡している。

 担当ウマ娘のためなら、たくさんの苦労と金銭の出費ぐらいなんともないぜ! という精神だったが練習メニューを手に入れるのは大変な思いをした。

 練習メニューが欲しいトレーナー相手には自腹で食事代を払って接待。お互いの持っている知識や技術の交換。あとはひたすら愚痴を聞き続けるというのもあった。

 

 でもそういう苦労と金銭の出費でアドマイヤベガの要望をすべて満たしている。

 練習メニューを作るのに失敗することもあるけど、そういう努力もあって契約してから2年がたっても、何かに追われるかのように自分を追い込み続けている彼女との契約は続いている。

 

 けれど菊花賞が終わったあと、何かに脅迫されているかのように走っていたアドマイヤベガの表情がやわらかくなった。

 理由はわからない。

 普段からアヤベを見ているのに、そのきっかけが何かきづけなかった自分が情けなく思う。契約で彼女自身のことを深く知らないようにしていたとはいえ。

 

 でも僕の助けがなくても解決できたのはいいことだ。今は楽しく走れているから、そんな姿を見れて嬉しいし。

 問題が解決したからか、僕の指導に対する返事も以前の冷たく短い言葉ではなく、ちょっとだけ優しくなった。

 たとえば助言をした時に『そんなの、わかっているわ』と言っていたのが『あなたもそう思うのね』と。

 他のウマ娘にも冷たかったが、今ではナリタトップロードやカレンチャンと仲良くしている場面を見ることが多い。

 

 だからこそ、僕も少しだけ仲良くなりたいと思う。

 レースや練習が終わったときにすごく褒めたかったから、関係性をちょっとだけ変えてレース後や練習の結果がよかった時に甘やかしたい。

 菊花賞が終わって2週間がたって、以前よりも僕は彼女に近づきたいと思った。どれくらいあやまかしいかという目標も決めて。

 

「頭をなでられるぐらいになりたいなぁ」

 

 昼休み中のトレーナー室でテーブル前のソファーに座っている僕は静かにつぶやく。

 関係性を変えようとしたのは先輩トレーナーたちから、冷めた関係だと契約を解消されやすいと聞いたから。

 他にもビジネスライクな関係だとウマ娘を育てる楽しみもなくなり、トレーナー側としても苦痛になるとも。

 それを知っていた僕は、今こそ甘やかそうと思うのだ。

 菊花賞のあとでで愛想が良くなったいまだアドマイヤベガと!

 それに愛称でも呼びたいこの頃だから。

 

 深呼吸して来るのを待ち遠しく思いながら、先輩方の意見をメモした手帳をスーツのポケットから取り出す。

 そこに書かれているのは『ウマ娘の態度を気にしろ』という意見だ。

 男には気づきづらい行動や仕草のサインを注意深く見ようと言ってくれた女性トレーナーの言葉は最も大事にしている。

 不満が行動や仕草だけでなく言葉に出てきたら、かなり高い状態でたまっていることらしい。

 そんな僕へのアドバイスは、担当ウマ娘になった運命の出会いを信じろというものが第一だった。

 

 好感度が高いとわかる要素はボディタッチが多い、連絡が多い、周囲45㎝以内に近づくなどのことがメモ帳に書かれてある。

 それらと共に女性への言葉遣いや行動にどう気をつけるべきかも。

 やけに熱心に教えてくれた女性トレーナーにはあとでお菓子の詰め合わせでも送ろう。

 

 とりあえずは必要なことしか話をしない関係性はダメだということらしい。

 そんな冷え切った関係だと、ケガや調子が悪くても自分自身で解決しちゃうからとのこと。

 ……心あたりしかない。アドマイヤベガはいつも何かに追われていた。

 僕に教えてくれない何かに恐怖を持って、いや、恐怖じゃなく悲しみと後悔の感情のようだった。

 

 それを解決できないままに苦しみながらレースを続け、菊花賞を走って解決していた。

 今の僕はただレースを管理していただけだから、僕を担当として選ぶ必要性はない。

 ダービーを勝ったことがある今、足を少し痛めているとはいえベテランのトレーナーに変える可能性があるかもしれない。

 まぁ、僕がダメなら変えてもいいというあきらめの心は持ってはいるけど。

 あきらめが早いのは男らしくないけど、役に立ってなかったのは事実だから。

 

 どうせダメな気がするけど、それならそれでアドマイヤベガと楽しい会話のひとつはしておきたいところ。

 小さくためいきをつき、手帳を見ると『女性はさびしさに弱い! 信頼関係を作るには満足感や安心感を与えろ! スキンシップと甘やかしは最重要!』という内容のが要約すると書いてある。

 

「今までは遠慮をしていた。僕が邪魔になるかもしれないって。でも僕から行動をしなきゃ変わらない」

 

 決意したあとはメモ帳に書いたことを読み、スマホで甘やかしかたを調べる。

 言葉のかけかたや表情などを。

 調べてやりかたがわかったあとは、実際にやってみよう。

 もし嫌がられたら全力でジャンプ土下座をするしかないけど。

 

 放課後になると、トレーナー室にノックの音が響く。

 それに返事をすると、ジャージ姿でカバンを持ったアドマイヤベガがいつも通りの無表情。

 彼女はソファー前のテーブルにカバンを置き、僕をちらりと見てから部屋を出ていこうとする。

 このまま見送るれば、いつもと何も変わらない。

 だから、僕はここで声をかける。

 

「アドマイヤベガ、その、寒くなってきたが体調は悪くないか?」

「……悪くないけど。どうしたの、そんなことを聞くなんて」

 

 ドアノブに手をかけて出ていく直前に声をかけたからか、整っているまゆをひそめて不満そうに返事を返す。

 こういう時は不機嫌にさせないよう、会話を続けなかったが一度決意したからには会話を続けよう。

 

「今まで君と向き合ってなかったから、変わろうと思ったんだ」

「別に私と仲良くなろうとしなくても契約は解除しないわよ」

「そういう心配もあるけど、僕は君と話をしたいんだ、アドマイヤベガ」

「まぁ、別にいいけれど」

 

 そう言ってアドマイヤベガはテーブルを挟んで僕の向かい側においてあるソファへと静かに座って手や顔を見つめてくる。

 

「それで話って何?」

「これということはないんだけど、アドマイヤベガのことはレースやライブ以外のことでは何も知らないから」

「私自身、あなたに気持ちを向ける余裕がなかったのはあるけど、これからはお互いのことを知ったほうがいいわよね」

「よかった。そう思ってくれて。アドマイヤベガ自身もそう思っ──」

「名前」

「名前?」

 

 僕の言葉をさえぎり、はっきりと言ったことが不思議に思う。

 いつもは僕が言い終えてから言葉を言うのに、今日はそうじゃなかった。

 アドマイヤベガは、部屋の中を一周ぐるりと見渡す。

 

「アドマイヤベガなんて毎回呼ぶのは長いでしょ。短くよんでもいいと思うけど」

「他の子と同じようにアヤベって呼べばいいかい?」

「ええ。それでいいわ。仲良くするなら、まずは名前からでしょう?」

「わかったよ、アヤベ」

「なんか変な感じねこれ」

「普段言うことないから、言った僕が恥ずかしいんだけど」

「いい大人が名前を呼んだだけで何を言っているのよ。それじゃ私は走ってくるわ。話はまたあとでしましょう」

「いってらっしゃい、アヤベ」

「……ええ、行ってくるわ」

 

 名前を呼んでから意外そうに返事をし、いつもどおりに部屋を出ていく様子を見ると会話は成功したと思う。

 嫌がる様子もなく、耳と尻尾は不機嫌そうじゃなかったし。

 契約を結んで2年。ようやく彼女のことをアヤベと愛称で呼ぶことができたのはすっごく嬉しい。

 彼女の親友であるカレンのことはカレンと呼べて話ができているだけに。

 

 アヤベとはもう少し話をしたかったとこだけど、愛称で呼べたことがうれしくて満足してしまう。

 急に変化をさせるのではなく、ゆっくりでもいい。

 今はただ、名前を呼べた嬉しさをかみしめよう。

 

 しかし26歳にもなって女の子の名前を呼べただけでうれしくなるとは。

 まだまだ純粋な気持ちを持っているんじゃないのか、僕は。

 子供っぽさがあるカレンと違い、落ち着いた雰囲気が大人なのが好みだからうれしいのかもしれない。僕自身の見ためがかわいいとウマ娘たちから言われることが多いから余計に。

 アヤベと仲良くなれたことに感動し、この感情を持ったまま気分よく仕事机に行くと、パソコンを立ち上げて仕事を始める。

 

 アヤベのグッズ展開や他のウマ娘のレース動画を見て考えていると、ノックの音が聞こえる。

 返事をすると、汗を少しかいたアヤベが外の冷たい風と一緒にトレーナー室へと入ってきた。

 

「足の調子はどう?」

「問題ないわ。明日からは練習内容を重いのにしてちょうだい」

「わかった。明日の放課後までにメニューを作っておくよ」

 

 仕事をする手を止めてアヤベと話をすると、アヤベは僕の目の前へと歩いてくる。

 いつもならすぐにタオルや消臭スプレーを使うのに、こんなのは初めてだ。

 それに何かあるならはっきりと言うアヤベは不安そうに耳や尻尾を動かしている

 

「えっと、アヤベ?」

「……その、あなたの手は荒れていると思うの。だから手を出して」

「手? まぁいいけど」

 

 よくわからないまま手を出すと、アヤベはジャージのポケットから手のひらより少し小さいハンドクリームのボトルを取り出す。

 そのボトルを仕事机に置いてからふたを開けると、中身を取り出して僕の手を持ち上げてからつけていく。

 

「これはいったいどういうこと?」

「あなたに優しくしたくなっただけよ。ほら、手を上げてちょうだい」

 

 言われるまま手を持ち上げると、アヤベは恥ずかしそうにしながら両手で僕の左手にハンドクリームを塗ってくれる。

 こうやってふれられるのは初めてで、手がちっちゃいとかいう気持ちを持ちながらドキドキする。

 女子高生にこうしてもらえるの初めてで、いや、それ以前に今までの経験からも女性に塗ってもらうことなんてなかった。

 だからこそはずかしい。

 今まで仲のいい女の子はいたけど、恋人という関係まではならなかったからこういうのはなかった。

 

 僕がアヤベを甘やかそうとしているのに、これだと逆じゃないか。

 大人の男としてそれでいいのかと思うところもあるけど、ウマ娘との関係は人それぞれだと聞くし、優しくされるのもありだと思う。

 でもさ、少し思うことがあるんだ。

 誰もいないふたりっきりの部屋で、会話もなく恥ずかしそうにハンドクリームを塗ってくる姿を見るとアヤベがとてつもなくかわいい。

 今まで女性として見ないように意識していただけに、心がときめいて仕方がない。

 これがギャップ差という奴か!

 

 クールな子がかわいい姿を見せてくれるのは、その子への印象がぐっと心へ響き渡る。

 だけど、これは普段の恩返しというか感謝の気持ちなだけで恋愛感情はないはずだ。

 ないに違いない。今まで事務的な話しかしなかったんだから。

 トレセン学園で楽しい会話をしている子はカレンだけだし。あの子とはお互いの知らないアヤベの話なんかで盛り上がっている。

 

「あなたの手、結構おおきいのね」

「そりゃ大人の男だからね」

「……私、お父さん以外の男の人の手をさわるのは初めてよ」

「がさがさしているだろう?」

「そうね。これからはふれる機会があるだろうし、自分で手入れをして欲しいわ」

 

 待ってくれ。

 これはいったいどういう意味なんだ!?

 ふれる機会ってなんだ。今までよりも仲良くしてくれるっていうのはわかるんだけど。

 顔を見るとからかっているわけでもないし、おだやかな顔で手の平から手の甲。指先にまで丁寧に塗ってくるんだけど。

 

 それに時々僕とアヤベの細い指をからめてくるのなんかはどう反応すればいいかわからない。

 なんでこんなに好感度が高いんだ。男への興味ってだけじゃここまでしないと思うし。

 カレンがなにかしたのか!?

 

 今すぐカレンに電話をしたい気持ちになりながらも、ハンドクリームからただよってくるバラの匂いが気分を落ち着かせてくれる。

 そうして静かに塗られている手を見つめながら、気になることが浮かんできた。

 僕は今までカレンにアヤベのかわいいところや心配しているところを言ってきた。本人には言わないで、とは伝えてはいるけど。

 カレンにアヤベのことを言うのは寮内でもアヤベのことを見てほしいという気持ちと、誰かにアヤベのことを言いたかったから。

 事務的な関係とはいえ、人と接する限りはその相手のことに対して色々と思うことが出る。

 いいところや悪いところ。それらを本人に言ってしまわないよう、カレンへと相談や愚痴を言っている。

 俺の心が広く大人の精神を持っていれば、そういうことは自分の中で解決できるんだけど。

 

 考え事をしている間、左手は塗り終わっていて今度は反対側の手も塗り始めた。

 僕はアヤベの整っている顔をみつめながら、お返しにどう甘やかそうか考える。

 事前では言葉や行動でやろうと思ったけど、プレゼントをあげればいいか?

 でもあげる理由はないし。アヤベの好きな物はふわふわ系のものっていうのは知ってはいるんだけど。

 そもそも半端な製品だと、ふわふわマスター(カレンが呼んでいる)からすれば、不満がきてしまいそうだ。

 記憶にあるなかでふわふわ製品といえば、猫のような手触り感がある毛布っていうのが売っていたなぁ。

 もう持っているかもしれないけど、クリスマスの日にプレゼントするか。僕にダービー勝利をくれてありがとうって。

 

「私の顔がどうかしたの?」

「いや、特に何も」

「何もなかったら見ないでしょう? 思うことがあったら、はっきり言って欲しいんだけど」

 

 口に出したらアヤベのクールな顔がかっこいいだなんて言ってしまう。

 今のところ悪くない雰囲気なのに、そんなことを言ったら嫌がられてしまうかも。

 顔しか見ていないのね、とかそんなことを。興味のない異性から顔がいいだなんて言われても、気持ちがいいものじゃないだろう。

 だからといって他に理由を作るほど、僕は器用じゃない。

 むしろ不器用で隠しごとができないからこそアヤベには評価されている気がする。

 

 レースやライブの練習で悪いと思ったところは口に出てしまうし、僕の表情を見ながら練習するアヤベは『わかりやすくてありがたいわ』なんて言ってきたこともある。皮肉じゃなくて素直に褒めたと受け止めたい。

 だからこそ、小さく不満な様子を見せているアヤベには素直に言うしかない。

 

「きれいだと思ったんだ」

「何がよ」

「君の表情が」

 

 堂々とそんなことを言う自分に恥ずかしくなるが、言われたほうのアヤベは僕の言葉には動じていない。

 僕が気に入っているクールな雰囲気がある表情を変えないまま、ハンドクリームを塗るのを終えてくるりと背中を向けてくる。

 ……これ、怒ってないか? 耳を見れば怒ってはいないようだけど。小さな怒りか、不満のどっちかはあると思う。

 

「休憩をしたから走ってくるわ」

「待って、スポドリを飲んでから行って……行っちゃった」

 

 背中を向けたまま、棚に置いてあるタオルを取るとアヤベは僕が止める声を無視して外へと出ていった。

 今まで事務的なことしか話さなかったから、雑談だとどういうことを言っていいかがわかりづらい。

 甘やかすよりも先に、普通の会話ができるのが先だな。

 カレンとはあまり怒らせることもなく話ができるんだけど。あとナリタトップロードもやテイエムオペラオーとも。

 

 

 翌日はアヤベを怒らせないための事前準備をした。

 それはカレンからアヤベに何をしたらあまやかして喜ばせられるかというのを。

 同室で仲がいいカレンから僕がやりたいことを提案し、それにセリフを指導してもらったから今日は怒られないはず。

 いや、怒られないだろう!

 なんたってカレンだ。乙女心に関しては僕よりも非常に詳しい。

 

 そしてあまやかすのはトレーニングが終わったあとのシャワー後だ。

 その時ならシャワーを浴びた安心感と汗のにおいがなくなっているから、アヤベをあまやかす最高のタイミングだと。

 これが成功するかしないかで、これからの関係性が決まる。

 ダメだったら今のままのシンプルな関係でも悪くはないんだけど。

 今回はアヤベのためではなく、俺自身のわがままだ。それは担当ウマ娘と雑談ができるようになりたいっていうのと、美人な子と楽しい話がしたいからという理由で。

 

 今の時間は午後の6時。陽はすっかり落ち、今は学園のシャワー室に行っている。

 浴び終わった後はトレーナー室に来て、今日のトレーニングについての話を軽くして解散だ。

 話をする時間はだいたい5分にも満たない。その時間内でどうあまやかす過程に持っていくかはいまだ未定だ。

 

 こんな無計画だってことを聞いたらカレンに怒られるだろう。笑われるだろう。

 だがな、仕方がないだろう?

 いきなりあまやかそうっていうんだから! 今までの関係性を変えたいとはいえ、そんなことをする仲じゃないし!!

 カレンが言うには空気を気にせずやっても大丈夫とは言われているけど、それは女の子同士だからできることじゃないのかと不安になってくる。

 相談した時は謎にテンションが高かったからカレンの勢いに押されたけど。

 あぁ、アヤベが走ったG1のレースと同じぐらいに緊張してきた。

 

 ソファーに座りながら落ち着きなくうつむいていると、昨日と同じようにノックをしてアヤベがやってきた。

 練習時のジャージから制服に着替えなおしたアヤベ。その髪と尻尾はふんわりしている。

 ドライヤーやシャンプーって偉大だというのを、毎回こうやって実感してしまう。

 

「今日も練習おつかれ」

「別に私自身のためにやっているだけだもの。それとも無駄なメニューでもあったかしら?」

「いいや? アヤベが気になっているところがあるなら変えるけど」

「気になるところがあるとすれば、私はそんなに足を痛めてないから次の大阪杯までレースがないのが気になるわ」

「今までのレース、特に前回の菊花賞では足を痛めていたからね。アヤベは問題ないって言っていたけど、休ませたいんだ」

「そう。それならいいわ。それじゃあ今日はもう終わりね?」

「あー……ひとつだけ用事があるんだ」

「なに?」

 

 僕は大きく深呼吸をして立ち上がると、アヤベに嫌われるかもしれない覚悟をして近づく。

 嫌われた時にはカレンに苦情とアヤベと1年間の並走をさせてやる。カレンの女トレーナーも巻き込んで、他にもアヤベの役に立つ色々なことを!

 これからアヤベをあまやかせる嬉しさと嫌われるかもしれない可能性。それらで感情のコントロールが難しくなってくる。

 アヤベの目の前に立ち、俺より20㎝低いアヤベの姿を見下ろす。

 アヤベの身長は157㎝であり、不思議そうな目を俺に向けてくる。

 

「えっと、どうかしたの?」

「アヤベ、すまない」

 

 そう言って片手でアヤベの頭をなでていく。

 ポニーテールの髪型をしているアヤベの耳と耳の間の神をさわると、さらさらだ。

 ……シルクの手触りってこういう感じだっただろうか。ポニーテールのさきっぽまで全部さわりたくなってくる。

 髪フェチというわけじゃなかったけど、前髪と後ろ髪も同じくさらさらだ。

 さわっていて気持ちよく、ずっとさわっていたくなる。

 

 日本人女性の髪の毛は約0.08mmだ。尻尾の場合は平均0.04mmだけど、0.03mmから0.08mmと幅がある。

 学校の授業で習ったことを鮮明に思い出してしまうほどにアヤベの髪は衝撃的だ。

 さらに細い尻尾の毛もさわりたくなるけど、それはあまやかしではなくセクハラにしかならない。耳にある毛もさわると最高だし、耳かきもやりたいところだ。

 

 アヤベに夢中になりつつ髪の毛に想いをはせながらさわっていると、アヤベが両手で手をつかんで止めてきた。

 もうさわれないという残念な気持ちと、やりすぎたという気持ちの両方がやってくる。

 

「なによ、急にこんなことして」

「あー、アヤベをあまやかそうと思ってな。今まではG1を勝っても褒めたことがなかっただろう?」

「それは私が事務的に対応して欲しいと言ったからじゃない。だから褒めなくてもいいわよ。それに私みたいな愛想が悪くてトレーナーを振り回すウマ娘なんて面倒なだけでしょ」

「でもそんなアヤベが好きだよ。しっかりとトレーニングする努力家は見ていて気持ちがいいし。それに菊花賞が終わったあとの、気持ちに余裕ができた今のアヤベも好きだ」

「…………好きだなんて、ずいぶんと簡単に言ってくれるわね」

 

 じとーとした目で不審人物を見るかのようなアヤベの視線を受けて気づく。なんで僕は好きだとを言ったんだ?

 ただアヤベをあまやかしたかっただけなのに。

 髪がとてもさわり心地がよかったから、無意識で自分の感情を伝えてしまった。

 この気持ちはライクかラブかがわからない。

 

「僕はアヤベのことが好きなの?」

「なんで私に聞くのよ。自分のことでしょ」

「さっきの言葉は聞かなかったことにして欲しいんだ」

「別にいいけれど。次にそういうことを言うときは自分の気持ちを知ってから言えばいいと思うの」

 

 アヤベは小さなためいきと共に、僕の手を目のアヤベ自身の目の前に持っていってはぷにぷにと手をもんでくる。

 僕に目を合わせず、じっと手を見つめる姿は怒っていないっぽいので安心だ。

 でも左右の耳はばらばらに動いていて、落ち着いていないのがわかる。

 あまやかす予定どころか担当ウマ娘を不安にさせてしまった。

 今日は失敗してしまったけど、途中まではよかった気がするから次の時もカレンに相談しよう。

 

「まぁ、今日も無事に一日が終わってなによりだ」

「……本当に無事なのかしら」

 

 無事に終わったことにさせて欲しい。

 だから、じとーとした目で俺を見つめないでくれ。無意識で好きだなんて言ってしまったのは恥ずかしいんだ。

 あと、そろそろ手を離して欲しい。

 アヤベは僕の手を1分ほどぷにぷにとさわってから、トレーナー室に置いてあるバッグを持って部屋を出ていった。

 今日はアヤベの頭をなでたけど、嫌がられなくてよかった。これで次も同じことをしても大丈夫そうだ。

 しばらくは自分の好きという感情を無視して、アヤベをあまやかしたい。好きなものがあれば食べさえ、行きたいところがあれば連れていく。

 そうして、今までの事務的な関係で我慢していた想いを発散するんだ。

 ただ、照れた様子がまったくないのはさすがアヤベといったところか。

 

 

 ◇◆◇

 

 

 ウマ娘の私とトレーナーの彼と契約はお互いに関わりを薄くするビジネスライクのものだった。

 必要以上に仲良くせず、事務的で冷たい関係。

 これからもそれは変わらないと思っていたけど、今日になって急にあまやかしてきた。

 

 その理由はなにかと考えてみると、私の雰囲気がやわらかくなったからだと思う。

 菊花賞を終えた私は、私の代わりに亡くなった妹と仲直りができた気がしたから。

 だから優しくしたかったんだと思う。

 でも菊花賞が終わったあと、私はトレーナーのことを考え始めた。

 よくこんな愛想も悪く、自分勝手に練習内容を求め、変える私を怒らなかったなと。それはトレーナーが私に対して"走るウマ娘"としてしか見ていないからだと思っていた。

 

 でも最近はトレーナーに対して興味が湧いた。今まで興味を持っていなかったぶん、結構強く。

 まずは観察をすることにした

 すると、私みたいに愛想がないと思っていたのに結構かわいいところがある。

 ブラックコーヒーは飲めないし、好きな食べ物はタコさんウインナー。私以外のウマ娘と話す時はまるで同じウマ娘かのように気楽に話をしてもらっている。

 今まで他人のことは興味がなかったから、自分のトレーナーが他のウマ娘たちと仲がいいのに驚く。

 他の子に私のトレーナーの評判を聞くと、苦労をしても私のために色々な苦労をしていたのがわかる。他のトレーナーだとあまりしないことを私のトレーナーがしていたのを始めて知る。

 

 トレーナーは私の要望を全部満たしていたのに当時は『新人なのになかなかできる人だな』とだけ思っていた。

 でもそれらを得るまでの苦労していた過程を知ったとき、私の心はなんだかもややもとした気分にな。

 私が一番近くでずっとそばにいたのに、何も気づかなかった。あの人のことを見ようとしなかった。

 そこは後悔している。気づいてから2日間ほど、私のことを大事にしないなんてという逆恨みまでするように。

 でもそうしたことで気づいたことがある。

 私は自分で知らないうちに、トレーナーのことをずいぶん気にしていたんだなと。

 

 今となっては匂いや声が気になって仕方がない。

 それと表情も。笑顔ひとつ取ってみても、気分によって差があるのを見つけるのが楽しい。

 なんでこんなに気になっているんだろうと不思議に思ったけど、わからなかった。

 そこで同室のカレンさんに相談したら、とてもいい笑顔で「それは恋だよ、アヤベさん!」と言われて顔が熱くなったのが恥ずかしくて、カレンさんを毛布でくるんで勢いよく床に転がした。

 

 自分がトレーナーに恋していることに気づいたのが4日前。

 そして今日は予想もしなかったことが次々と起きた。

 

 練習前にトレーナー室に来たら、名前をフルネームから愛称で呼んでくれたこと。

 シャワー後に頭を優しくなでてくれたこと。

 

 そのふたつに深い衝撃を受けた。

 それと私がトレーナーにハンドクリームを塗ろうと思ったことも。

 菊花賞前だったら、トレーナーと契約解除をするぐらいのことをされたのに。

 今となっては嬉しいだけのことをしてくれた。

 仲良くなる時間や意識ははなくても、一緒に過ごした時間は気づいてみれば多くて信頼から愛情に変わっていたのを自覚した日。

 トレーナーにされたことが頭の中がいっぱいのまま、私は寮へと戻る。

 

「アヤベさんおかえりなさい! 少し休んだら一緒にご飯を食べに行きません?」

 

 部屋に戻ると制服を脱ごうとしていたカレンさんから元気に声をかけられたけど、私はそれどころじゃない。

 いっぱいいっぱいの私はカレンさんを無視して、持っていたバッグを床へ放り投げてから顔から自分のベッドに倒れこむ。

 日頃から布団乾燥機でいい状態に仕上げている布団はやわらかく、毛布のふわふわとした感触がとても素晴らしい。

 このふわふわ感は私の悩みを抑えてくれる気がする。

 

「えっと嫌なことでもありました? アヤベさんのトレーナーさんが何かやっちゃったりとか」

「何もされてないわ!」

 

 心配そうに声をかけてくるカレンさんに力強く返事をしてしまう。

 いつもならこういうふうに力を入れないのに。

 そんな返事をしたからか、カレンさんが近くに寄ってくる気配を察して顔を動かす。

 私の目の前には、にまにまと嬉しそうな笑みを浮かべているカレンさんがいた。

 

「なによ」

「トレーナーさんと何かあったんです?」

「ないわ」

「本当ですか?」

「ええ」

 

 笑みを浮かべていたカレンさんだけど、私がそっけなく言うと笑みを浮かべたまま離れていく。

 ここで今日されたこと、したことを言ってしまうと長くからかわれる。

 別に嘘じゃないとも言える。

 トレーナーと担当ウマ娘の日常的なやりとりと言えば、それだけだから。

 

 カレンさんも自分のトレーナーとは恋人に近いやりとりをしていると言っていたし。

 でも同性同士なら恋人というよりも、姉と妹のような関係な気もするけど。

 

「アヤベさんのトレーナーさんは素敵な人ですよね。自分の担当でもない子や私にもしっかりと相談に乗ってくれますし。なによりもかわいい顔なのが高評価!」

「それが?」

「アヤベさんとトレーナーさんが仲良しな姿を見せないと、誰かに取られるかもしれませんよ」

「……私はあの人を縛ったりしないわ。そこそこ優秀なんだから、他の子と契約してもかまわないわ」

「いえ、恋愛的な意味でですよ?」

 

 私とトレーナーは余計な会話をしないで今までやってきた。

 でも今日になってトレーナーは私と親しくなろうとしてきて、それを悪く思っていない自分がいる。

 以前なら親しくなるなんてのは邪魔にしか思えなかったけど、心に余裕ができた今ならそうは思わない。

 だからこそ私以外のウマ娘があの人と仲良くするのは我慢できる。

 

 でも私以外の子と仲良くなって恋人になり、いつもとなりにいるのを想像したらムカムカとした気持ちが出てくる。

 自然と私の耳は後ろへとしぼられ、私以外のウマ娘を見ないで欲しいなんて気持ちになる。

 

「やっぱり恋をしたんですね!」

「勝手に変なことを言わないで。私は恋なんてしていないわ。ただ、頭からあの人が離れなくて、声や匂いが恋しくなるだけよ」

「うんうん。アヤベさんも恋をするとかわい──わぁ!?」

 

 カレンさんが変なことを言い始めたから全力で枕を投げつけたけど、上手にキャッチしては私を暖かい目で見てくる。

 時間が経つほどに、彼のことが頭から離れない。

 これが恋というのなら、なんてやっかいなものなんだろう。

 

 恋の病という言葉があるけれど、今ならワクチンも薬もないものなんだって理解ができる。

 これから彼と一緒にいる時間を増やし、仲良くなるという自然治癒しかないんだってことも。



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