あれから10年経ちました。 続・使徒に憑かれた三号機の中のアスカを助けに言ったら僕がヴンダーの艦長になった件について (モーター戦車)
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第1話「ヴンダー、新たなる旅立ち」 Aパート

エヴァンゲリオン三号機の使徒汚染、それに伴い発生した第一次ニア・サードインパクト。これらを総称して『三号機事件』と言う。

 この事件は、汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオンへの決定的な不信を人類社会に引き起こし、それは大規模な政治的混乱へと発展した。

 国連はインパクト発動の原因が判明するまでエヴァの使用を禁止する決議を発令したものの、まもなく第3新東京市に第10の使徒が襲来。
 戦略自衛隊はこれに対し全力で迎撃を行ったものの、エヴァ以外の兵器では突破不能なATフィールドを持つ使徒に対し、通常戦力は無力であった。
 使徒とリリスの遭遇は不可避であったかと思われたが、土壇場で投入されたネルフの新戦力、空中戦艦Bußeにより第10の使徒は撃破され、当面の危機は去った。

 しかし、使徒と人との戦いに区切りがついてなお、人と人との争いは、終わるどころか熾烈を極めていった。

 混沌を極める情勢の中、それぞれの定義する『人類補完計画』発動を狙った各国ネルフ支部および各国正規軍は第3新東京市への軍事侵攻を開始。
 ネルフ本部地下の第二使徒リリスをめぐり、関東・東海地方を中心とした大規模軍事衝突、後に『第3新東京市戦役』と呼ばれる戦争へと発展した。
 
 その混乱を縫うように、何者かがネルフ本部ターミナルドグマに自律制御化されたエヴァンゲリオンMark.06を投入。その結果、第二次ニア・サードインパクトの発生を招くこととなった。

 しかし、サードインパクト発生を予期した反ゼーレ・ネルフ組織「ヴィレ」は、ラグランジュポイントに隠匿した無数の封印柱を大気圏外より投下、インパクトにより発生するであろう『地上の浄化』に伴うL結界の洪水より人類を護る結界地域を世界各地に展開する『アスクレピオスの杖』作戦を発動。

 人類生存可能地域が確保された結果、数億の人類が赤く染まった地球上に生残することとなった。

 そして10年の歳月が流れた。

 艦長碇シンジ大佐、副長式波・アスカ・ラングレー中佐指揮の元、第10使徒迎撃、第3新東京市戦役、今なお補完計画を狙うネルフとの戦いを経たヴンダーは、次なる戦いに備え、新たな乗組員を迎えることとなる。

 三号機事件より10年。碇シンジと式波・アスカ・ラングレーの新たなる旅路が始まろうとしていた。


 EVANGELION ∧ i : AAA Wunder S 3.33 『YOU CAN (NOT) TRIP.』Prototype

 

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 EPISODE:1 The Blazer

 Apart

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 この25年の間、三度に渡って発生した『インパクト』と呼ばれる特異異常現象。

 人知を超えた未曾有の災厄にともない発生した『L結界』と称される、あらゆる地球生命をLCLへと還元、コア化させてしまう正体不明の力状により完全に汚染され、赤く染まった太平洋。

 その只中、文字通り血のに染まった海の只中に浮かぶように、深く、しかし鮮やかな青に染まった、小さな丸い水域がある。

 

 旧アメリカ合衆国領、ハワイ州オアフ島周辺。

 

 反ゼーレ・ネルフ抵抗組織ヴィレが、地球上に保有する人類居住可能領域の一つである。

 

 かつての州都であるホノルル市は、現生人類が保有する最大級の都市の一つであり、南部に存在する旧米海軍軍港は、現在はヴィレが戦力を整備・開発する数少ない軍事設備として機能していた。

 

 また、地球上の各地に点在する、生存領域における人類生存支援を目的とした下部組織、クレーディトの一大物流センターとしての機能も担っている。

 

 地球上に残存する人類へ食料を初めとした生活物資を送り込む、残存人類文明を持続させ続けるための、いわば重要な心臓機能を果たしていた。

 

 セカンドインパクト後、日本海洋生態系保存研究機構をはじめ、各国ネルフ支部に潜伏し、再度発動されるであろうインパクトに備えていたヴィレは、この島を守護すべき、戦略目標の一つとしてみなしていた。

 

 ゼーレ及びその下部組織であるネルフへの決起こそ計画されていたものの、サードインパクトを阻止できる確率は、おそらく非常に低いものと予測されていた。

 

 このため、サードインパクトによって発生するL結界の地上への大規模侵食、すなわち『地上の浄化』により、地上の全生命が喪われる前に、人類のみならず、各種動植物がL結界の津波から逃れるための避難先、やがては反撃の拠点となるであろう居住地域・物資生産拠点の確保は、ヴィレにとって必須の課題であったのだ。。

 

 第3新東京市戦役勃発の際、戦役に伴う第二次ニア・サードインパクトの発生を予期したヴィレは、『アスクレピオスの杖』作戦を前倒しして発動。

 

 オアフ島は、宇宙空間のラグランジュ点各地に隠匿されていたアンチLシステム展開のための封印柱群が、作戦発動に伴いもっとも集中的に投下された地域の一つである。

 

 ニア・サードインパクトに伴い、月が何らかの特異的反応を起こすであろうことは予期されていた。

 事実、インパクト発生と連動するようにして月が地球へ異常接近を開始、低軌道へ遷移するという事態が発生した結果、地球と月の間の重力バランスが崩れてしまったのである。

 

 地球軌道上のほぼ全ての人工衛星が、この重力異常により地上と通信不能になる、あるいは軌道が歪み大気圏落下軌道に突入して喪失するなど、様々な要因により機能を消失。

 更にはラグランジュ点位置も変動するという事態が発生し、封印柱ユニット自体の予定地点への投入も、この月の異常接近に伴う重力変動の影響を受ける形となった。

 

 しかし、こうした想定外の状況に対応するため、投入用の封印柱ユニットは事前プランニングに基づき、ヴィレからの通信・誘導途絶時にも、AIを用いたスタンドアローンでの自律制御が可能なよう、非常用の慣性誘導装置が設計されていた。

 

 結果、これらの封印柱は、月の接近に伴う重力異常をセンサーによって察知後、進路・大気圏突入角等の数値を再演算、進路修正を行った。

 

 そして自らを世界各地の目標地域へ誘導、着陸させることに成功した封印柱群は、即座にアンチLシステムを展開。世界を満たすL結界の赤い大海嘯より、原生生命を護る、巨大なダムの如き結界を、地上の各地に無数に展開することに成功したのである。

 

 特にオアフ島周辺には、ヴィレが保有する中でも、寄りすぐりの大型封印柱ユニットが32本投入されていた。オアフ島周辺沿岸から10キロはなれた水域に、等間隔で投入されたそれらの封印柱は、逆噴射制動をかけながら着水し、起動。

 オアフ島全域を、島を囲む水域ごと包みこむようにして、巨大なアンチL結界が展開された。

 

 また、投入地点が陸ではなく、海であったことは、思いもよらぬ副作用を齎してもいた。

 

 セカンド・インパクトが発生した結果、L結界の発生源となっていた海中生物のコア化遺骸が、封印柱が展開するアンチL結界に弾き出されるようにして結界内部より押し出されてしまったのだ。

 

 これにより、本来反ゼーレ・ネルフ組織であったヴィレの隠れ蓑の一つであった、日本海洋生態系保存研究機構が、セカンドインパクト発生後、長らく研究・実験を続けていた、海洋再生オペの大規模な実施が可能な状態となっていたのである。

 

 そして、長年の海洋再生の努力を経て、オアフ島周辺の海域は、本来の海の青色を取り戻した。

 何もないLCLの海であったオアフ島近海は、海面から海底にいたるまで、今や多くの魚類や棘皮動物、貝類、海藻などが群生する、セカンドインパクト以前の、生命に満ち溢れた過去の姿を取り戻していた。

 

 その、目に涼しい、深い青をたたえた海面上。

 

 オアフ島南方、かつてパールハーバーと呼ばれていた、現ヴィレ軍港設備、その南方5キロ地点の位置に、奇妙な物体が存在している。

 

 浮かんでいる、という表現を用いるには、それはあまりにも巨大すぎた。

 全長が、ゆうに2kmを越える。

 

 それは一つの島に匹敵するサイズであるが、島だと思うものは誰一人存在すまい。

 その姿は、一言で言えば、異形である。

 

 両肩が異様に前方に張り出した水鳥とでも言うべき、左右に長い羽根を備えた三胴構造。

 さらに後端からは蛇の骨めいた、異様な白色のスタビライザー・テールが伸びていた。

 

 表面こそ人工物的な薄紫に塗装されていたが、全体的にゆるいカーヴを帯びた、有機的と言うよりはどこか怪物的な形状をしたそれは、現生人類が識り得ぬ太古の地球に存在していた怪物の、遺骸とも見える奇怪さである。

 

 かつてゼーレが、そして特務機関ネルフが、表向きは対使徒用の決戦戦艦として開発した、人類史上未曾有の大戦艦。

 しかし実際には、人類補完計画の要の一つとして建造された、ガフの守人級戦艦、一番艦Bußeが、この異形の物体の正体であった。

 

 この、人類補完計画のために建造された巨艦は、しかし、その本来の真逆の目的で運用されていた。

 そして、艦名も、それに伴い変更されている。

 

 ヴンダー。これが、今のこの戦艦の名となっている。

 Bußeという単語が持つ『贖罪』という意味を嫌った、この戦艦の副長を現在務める人物によって、ネルフへの叛乱、ヴィレへの所属変更時に、艦名が変更されたのだ。

 

 この一見禍々しい、しかしまぎれもない人類最後の希望の艦艇は、今、一時の棲家を見出した渡り鳥のように、静かに青い海の上で、その翼を休めていた。

 

 ヴンダー上部構造部、中央艦体部分と両翼の結節する中央点。

 

 全高51メートルの、戦略自衛隊にかつて在籍していた超大型護衛艦に備わっていた鐘楼、いわゆるパゴダ・マストに似た、基部から上方、後部へ緩やかなカーヴ形状を与えられたそれは、ヴンダー第一次改修時に新たに増設された大型艦橋であった。

 

 宇宙空間のみならず、深海での戦闘行動すら見据えた大型の艦橋は、展性チタニウム合金複合材を主材として形成されており、深深度L結界圧力に耐える完全密閉構造となっている。

 

 最上部には両翼各一基、後部一基、合計三基備えられた巨大なパラボラアンテナ状構造物を統括・管制するための、大型電算室が設けられていた。。

 

 セカンドインパクト以前に米国国家航空宇宙局が地球外知的生命体探査計画に運用していたものと同型のアクティブ/パッシブ式外宇宙探査ユニット群が、この巨大なアンテナ群の正体である。

 光学・音響・重力場・時空振・L結界内部のATフィールド振動等の、外部環境情報を、ヴンダーはこの巨大アンテナ群によって、地球曲率の限界まで探知することが可能となっていた。

 

 艦体側面・下部にも、防空・監視・索敵を目的とした各種センサー・レーダー・光学カメラ等が備えられているが、これらアンテナ群がヴンダーという艦艇にとって、最大の『目』であり『耳』であり、そして『触覚』でもあった。

 

 その下方フロア、現段階では完成こそしているものの、未だ本格試験が行われないままの第一艦橋、別名戦闘艦橋のさらに下にある通常航海時用の指揮機能を有した第二艦橋内部。

 

 各種電子計器が壁面せましと取り付けられたその巨大な部屋で一番目立つものは、天井部分より吊り下げられた、可動式有人指揮ユニットであった。

 古典的シャンデリアに似た、金属製の腕木構造デザインをしたそれは、シャンデリアで言えば椀木に相当する可動式アームユニットの先端に、艦長席および副長席、各科長席、戦術オペレーター用席をそれぞれ配している。

 

 副長席ではなく、今は人員が配されていない戦術オペレーター用の座席の一つに腰掛けながら、正面モニタにホログラフィック投影された、艦橋正面カメラの捉えたヴンダー前方の外部映像を眺めつつ、空中戦艦AAAヴンダー副長、式波・アスカ・ラングレー中佐は呟いた。

 

「ほんと、きれいな景色よね。サファイアが液体みたいになった青っていうか。

 セカンド・インパクト前は、これが当たり前だったなんて信じられない」

 

 10年前、まだ中学生として第三東京市立第壱中学校に通っていた頃、他人の誘いでクラスメイトと共に見学に行った、海洋生物研究所のことを、ふと思い出す。

 この青い海は、あの研究所が封印柱の術式を元に編み出した、海洋再生技術の賜物というわけね。

 

 自分の殻の中にある意味閉じこもっていたあの頃は、気にも留めていなかったけれど、彼らの地道な試行錯誤と苦悩と苦労は、ささやかとは言え、オアフ島全体を覆うほどの広さの海を再生させるという成果を、ちゃんと上げることができたってことなのだろう。それは、絶望の赤の只中で、なお諦めずにいる名も知らぬ人々が、今も生きてあがき続けている証明でもある。

.

 そういう景色と思えば、いよいよ素敵な景色に思えてくる。子供だった頃は、そんなこと、思いもしなかったけれど。

 

 ただ、きれいな景色だけれど、問題がなくもない。

 臭いのだ。海洋研究所の、小さな水槽とは違う、桁違いの広さの青い海からは、セカンドインパクト以降の世代が知らない、強烈な悪臭が放たれている。

 

 磯の臭い、というらしい。

 

 今はクレーディトの物流統括および、人類生存域拡大・環境再生の指揮を執っている加持リョウジに言わせれば、海の生き物が必死に生きて、そして死んだ臭いが由来なのだそうだ。要するに腐臭の類。

 慣れれば、それほど悪い匂いでもないよとヴンダー艦長たる碇シンジ大佐はいうけれど、個人的にはなんかほんと臭くて、胸を通り越して胃に来るから、なかなかブリッジから出る気になれないのよね、海に来ると。

 

 でも、たまのF作業、いわゆる海釣りでシンジが釣ってくる魚は美味しいのよね、などとも思う。昔第3新東京市に住んでいた頃は、あいつが焼く青魚が臭くてかなわず、何度も文句を言って挙げ句暴力まで奮った記憶もあるけれど、あれも一ヶ月ぐらいで慣れてしまった気がする。ちゃんとした調理器具で焼いた魚と醤油、それと大根おろしの組み合わせは、慣れてしまえばいかにも日本的でエキゾチックで、日本の主食であるところのごはんに良く合った。

 

 懐かしいわねえ、などと一つため息。今は加熱調理が難しいせいか、焼きで食べることはあまりなくて、シンジがF作業で釣ってきた魚はもっぱら刺し身やカルパッチョ、あとはアクアパッツァや煮つけが多い。

 

 大豆由来でない、合成タンパク質から無理やり発酵させた、今の代用品もいいところの粗悪な醤油でも、慣れてしまえば案外乙なもの。愛想もクソもない、ゲル状のトマトペースト食も、他の野菜ペーストと合わせ、アクアパッツァに使うと、ペーストのままだとろくに感じられなかった痩せた酸味と甘さがふくよかさを取り戻して、なんというか、「あ、トマトが生き返ってる」という感じで、年々味覚が薄らいでいる(正しく言えば、味わう価値を覚えなくなっているというべきかもしれない)とはいえ、なんというか口の中が幸せ、というかんじになる。

 

 美味しいということは、味覚がまだ残っている証。

 同時に、私がまだ人間であるという証でもある。楽しめるうちに、楽しめるものは楽しまないと。楽しめなくなる時が来ても、それは思い出として残るのだから。

 

 などと、過去の記憶の味を脳裏で改めて反芻しつつ、手元のコンソールを操作して、左側のサブディスプレイに、本日乗艦予定のヴンダー新規乗員のリストを呼び出した。

 

 30以上の大人がいなくもないが、ごく少数だ。大半は20歳以下ばかり、17才でも年嵩なほうで、14才の子供すら混じっている。

 12才の頃に戦場に立たされていた身の上、セカンド・インパクト後の東欧やバルカン半島で繰り広げられた救いようのない内戦を知る身の上からすれば、そういうこともあるだろうとは思う。けれど。

 

「子供ばっかりじゃない。訓練、本当に大丈夫なの?」

 

「仕方ないですよ、副長殿」

 

 右下方、戦術長用シートからヴンダー戦術長、日向マコト中佐が応えた。

 

「ニア・サードインパクト以降の人口減は深刻です。

 生き残りの大人世代は、持っている技能を最大限に活かして、今生きている人類を活かすための活動に専念してもらわなければならない。葛城総司令の本意ではありませんよ」

 

「ニア・サードインパクトの再発を抑止できなかった私達の咎、か。

 気がひけるわね、子供を使うのって」

 

「貴方に言われると妙な気分になりますよ。

 まだ使徒と殴り合っていた頃の貴女は、失礼ながら跳ねっ返りのヤマアラシもいいところの子供でしたよ、式波副長」

「そんなひどかった?」

「自覚なしですか」

 

 きょとん、とした眼差しを日向戦術長に向けると、分厚い眼鏡越しに呆れ笑いを多分に孕んだ視線が返ってきた。それに私は、苦笑で答える。 

 

「ごめん、正直ある。でも、14才ってそういう時期じゃない?

 

 そういう、難しい年頃の子が大勢乗り組んできたってこと。

 それこそ子供が労働力として当たり前に使わてた時代は知らないけれど、本来まだ学校に通ってたほうがいい時期よ。

 いっそ、働くにしても大人としてどう振る舞うかを、大人の背中から学ばないといけない時期よね。まだ社会の手絵、守られて、生き方を学校で、働くにしても職場で、人生の生き方を、友達や、大人を見ながら覚えていく時期のはずなのにね。

 

 他人を教育した経験はなし、子供いないから育児経験もないし、学校も第3新東京市時代にちょっと通ってただけで、人へのものの教え方なんて全然知らない。

 

 その前の『訓練』は……いえ、あれは訓練なんて呼べたものじゃないわ。ただのサバイバル、生存競争。より良い果実を作るため、他の果実を摘果するだけの、言わばただの作業、生産工程の一つにすぎなかった。そうして生まれた、消費のための果実に過ぎないものが、副長だなんて偉そうにしてる。

 

 必要なら、『死ね』と命じることさえできるのよね。冷たい方程式、ってやつ? トリアージでもいいけど。そんな命令であろうと、上官からの命令は絶対、戦死もありうる規律最重視のの戦闘艦艇勤務。

 これまで積み上げた戦果を権威に、上から目線で大人をやらないといけないってのがしんどいわよ」

 

 顔をしかめながら、未だに膨らもうとしない自らの胸元に視線を落とす。

 紅いプラグスーツの上に羽織ったヴィレ正規軍(反乱組織に正規軍もクソもあったものではないと内心思うが、もはや現生人類を代表する軍事戦力がヴィレしか存在しない以上、正規軍を名乗るほかないのだ)ジャケットに包まれた体躯は、大人と言うにはあまりにもか細い。

 ジャケットのポケットからメイクパレットを取り出して開き、蓋の裏側の鏡で私は自分の顔を見た。

 

 鏡の中の顔、その左目に、白いガーゼの眼帯をあてた14才の頃のままの自分の顔が映る。

 もう24才だというのに。

 三号機事件、またの名を第一次ニアサードインパクトを切欠として変質した肉体は、変わりゆく精神とは裏腹に、成長と加齢を完全に留めてしまっていた。伸びるのは、髪の毛と体毛、それに爪程度のものだ。

 

 せめて髪型でごまかせないかと思い、いろいろ工夫してみたけれど、正直どれもしっくり来ず、いま一つ似合っていなかったので、結局今は、ツーサイドアップに戻してしまっている。

 艦の運用都合上、どこからでも即座にヴンダーをシンクロ制御するために脳波の送受信を行う必要があるから、髪飾り代わりの紅い脳波インターフェイスも昔のように髪留めがわりに使っている。

 

 昔はエヴァパイロット自慢でつけていた。一種の見栄だ。他人と私を区別し、自分は違うのだと自分で自分を特別視するための大切なアクセサリー。

 

 あれはあれで他者と自分を隔絶し、自分で自分を特別視するため、他人を見下すための一種の儀式であったとおもうし、そういう意味ではホントに黒歴史。

 今もつけるたび思い出してしまうし、可能なら外したり、無理なら別デザインにしたいとすら思っているのだが、デザインが気に入らないから新型開発して、などという我儘を言うわけにも行かない。

 

 老いない外見、外したくても外せない頭の脳波インターフェイス、まさにエヴァの呪いといったところね。

 あるいは私とシンジという鳥籠に量子レベルで閉じ込められてしまった、第9使徒の呪いかもしれないが。

 

 それは、ともかく。

 

「30半ばの渋みのある男性に、年嵩の上官を見る顔つきで、おそろしく堅苦しく喋られる見た目は14才の女の子の構図って、事情知らない新人からみたら、いろいろきつくみえないかしらね。

 マジ、不安なんだけど」

 

「副長。気持ちはわかりますが、慣れていただかないと困ります。

 そもそも第3新東京市戦役以来、ヴンダーは艦長と貴女の二人で運用してきた船です。

 本来が有人を意図していないアダムスの器を、そうした存在への同調を可能とする、シンクロ運用で生かしてきたのは貴女たちです。。

 エヴァ同様、土台が人類が運用する通常兵器とは、異なる船です。

 それを通常艦艇のように、多大な戦力低下を承知の上で、多人数による運用へ切り替えるよう提言したのは貴女でしょう」

 

 いい出したんだから責任とれってことね。

 私は小さくため息を付いた。

 

「確かに提言したのは私だけど、アイデア元は艦長よ。

 リスク分散はしたほうがいいし、ヴィレクルーやクレーディトのスタッフには私や艦長、旧ネルフスタッフに内心反感持ってる人も少なくないし。

 

 要するに、私達が気に食わない、外部の人たちから見ると、人類を突然噛み殺すかも知れない危険な猟犬に首輪をつけてリードを持つ、『猟師』が居たほうが安心にみえるんじゃないかってことよね。

 

 ──忌々しい。

 

 けど、私もそう思えたし、いつもいつも艦長にばかり責任をもたせるわけにいかないもの

 だから、私から提案したってわけ」

 

「仕方ないですよ」

 

 日向戦術長とは別の声がした。

 左下方座席、ヴンダー戦術長補佐、青葉シゲル中佐が答えた。旧ネルフ時代からの顔なじみの一人で、信頼できるキャリアと実力をもったオペレーターの一人だ。

 

「ニア・サードインパクト以後の生存者には、エヴァのみならずエヴァパイロットまで禁忌の存在、死神を観るような目で居るものがいるのは確かです。

 どれだけ艦長と副長が実績を積んでも、疑う人間は疑いますし、嫌う人間は忌み嫌う。

 気に入りませんがね、正直」

 

 戦術長補佐の声には、僅かに憂慮の成分が滲んでいた。

 補佐とは言うが、階級が示すとおり、同格である。責任の所在を明白にするために仮に日向を上官としているだけである。

 

「ヘイトコントロールってやつ? まあしょうがないわよ、ヒトとも使徒ともつかないのに、最大戦力のヴンダーを任せておいていい気分にならない連中、多分死ぬほど多いもの」

 

 いい加減時代遅れだろうに頑なに変えようとしない、青葉のロングの髪を見つめながら、私はため息をつき肩を落とした。

 

 そう、本当に多いのだ。

 

 10年前、意識を取り戻してからも、いろいろあって封印柱に取り囲まれた使徒研究要封印ケージに艦長ともども軟禁という状態が、それこそうんざりするほど続いた。

 

 色々とあってようやく監視付きとは言え基地内部程度であれば歩き回ることを赦された私たちは、与えられた私室……といっても、補強された工事現場用のコンテナハウスを使徒覚醒時にそなえ爆弾まみれにした代物を、封印ケージ内部に設えられた、私室という名の処刑装置にほかならなかったけれど……ともかく拘束ベッドに四肢拘束なんてされずに暮らせるようになり、ミサトのマンションから運ばれてきた私物の開封をしたときのことを思い出す。

 

 衣類や人形だのの中に埋もれていた、私の携帯本体に残されていた伝言メッセージ。

 どこの誰ともしらない連中、あるいはクラスメイトの、怒りと哀しみに満ちた声。そのほぼ全てが私たちの生を呪う呪詛の嵐だった。シンジの携帯も以下同文。

 リダイヤルして言い返そうにも、携帯電話会社は基地局もろとも撤収するか、戦災に巻き込まれ、消失してしまっていた。

 

 ここまで私達が憎悪された理由は一つ。

 

 ネルフ本部に仕掛けることを目論んだどこかの国の誰かが、三号機事件の機密情報と映像、関与したパイロットの姓名、つまりは私と艦長の名前を報道機関へリークしたのだ。

 

 その後、エヴァおよびエヴァパイロット危険論が日本国内に沸騰。

 私達に対する怒涛の呪詛は、その些細な一端に過ぎなかった。今は冷静に見返せる思い出ではあるけれど、当時は随分傷ついたことを思い出す。

 

 ただ、その後、第二次ニア・サードインパクトが発生し、もう、私達は私事などにかまっていられなくなってしまった。あとは死にものぐるい。必死に闘い、必死に救い、救えた生命もあり、救えなかった生命もあり、生き残るために殺した生命も勿論ある。

 

 それで得られたものはといえば、多くの人々の畏怖。

 ただ、一握りの人間からの、信頼を得ることはできたのは、せめてもの慰めかも知れない。

 

 私の言葉を受けてか、いつの間にか傍らに佇んでいた、白衣の女性が応える。

 赤木リツコ技術班長。私たちを信頼してくれる、ヴィレ内部でも貴重な味方と呼べる人間の一人。

 

「もう少しヴィレのスタッフを入れられれば、違ったのかしらね。

 それこそリョウちゃんが入ってくれればよかったのだけれど。

 今のヴンダーのブリッジ要員、ほぼ旧ネルフ本部系だもの。不安要因と思われてもしかたないわ」

 

 彼女なりに思うところがあったのか、第二次ニア・サードインパクト以後はショートヘアにした金髪をなぜていた。ヴンダー技術班長にして、現在の艦長と私の科学者としての師匠にあたる。

 

 もう四十路も近い、けれど若さを残した、大人の色香漂う整った面立ちに、彼女は僅かに苦悩の表情を浮かべている。リツコのその様子に思うところがあったのか、私の後ろの座席でずっと沈黙を保っていた彼が、不意に口を開いた。

 

「加地さんには親の勤めを果たしてもらわないと困るんですよ、技術班長」

 

 響きがとても澄んだ、どこか儚い玻璃を思わせる少年の声。

 昔のようなおどおどしたところのない、冷静な声音。

 

 その声を聞くたび、肉体は変化せずとも精神が成長していることと、ある意味において、彼が昔の彼ではなくなっている寂しさをも思い知らせる。

 

 振り返り、見上げた。

 私とは逆の、右目に黒の眼帯をした、見た目は14才の少年。

 白の軍帽を、眼差しを隠すかのように、目深に被っている。

 

 上体にはヴィレ正規軍所属であることを示す軍用の、これも白のジャケットを羽織り、パイロット用のものとは違う、生地が厚く、所々に防弾機能を兼ねたシンクロ同期補助電極プレートが装甲板のように仕込まれた、独特のダークグレーの艦長用プラグスーツをまとっている。

 

 碇シンジのまだ細身の体躯は、男としては未成熟で、線が細く、実のところか細さすら感じさせるものであるのだけれど、身につけた艦長専用プラグスーツの、ところどころ角張ったシルエットが、相対的に奇妙なほど厳つい印象をを与えていた。あるいは、あの日以来微笑むことはまれにあっても、朗らかに笑うことのなくなった、硬質さを湛えた面立ちには、長年の戦闘経験がもたらした、何か底しれぬ深みがあった。

 

 AAAヴンダー艦長、碇シンジ大佐。

 24歳にして戦闘部門における位を極めた、並ぶものなき武勲の持ち手。

 

 10年前の不安定さ、薄い硝子を思わせるような危うさが失せたことを嬉しく思う反面、時折寂しさも思う。そも、冷徹という選択肢を選べるようになった彼のそれは、果たして成長と評していいものなんか、私自身まようところがある。

 

 実際のところ、彼の精神に軽く「触れ」れば、本質は変わっていないというのはわかるのだけれど、それを行うといらぬものまで見えるので、普段はなるべく控えている。

 戦闘中ならいざしらず、年がら年中精神を同調させるというのは、気持ちいい体験ばかりもたらすものではないことを、この世の誰より知っているのは、おそらく私と碇シンジ本人だろう。

 

「父母無しで育ったに等しいメンタリティだからこそ生じた、個人的経験からかしら?」

 

 リツコがシンジの居る艦長席を見上げ、軽く皮肉げに笑む。

 

「違いますよ」

 

 シンジは即座に否定した。

 

「生き残った生態系と人類の世話をやるほうが、多分向いているという話です。

 この海がここまで豊かさを取り戻したのも、あの人の尽力のお陰です。

 

 それに、あの人の場合、気が変わったらヴンダーを乗っ取って太陽系から逃げ出しかねないところがある。あの人、工作活動と奇襲・強襲は恐ろしく強いですからね」

 

「セカンドインパクト世代だもの。いろいろと人の出し抜き方が巧いのよ、加持くんは。

 そういえば、北上ミドリさん、だったかしら。ブリッジに配属になるそうだけど、よく通したわね、貴方」

 

「乗艦は本人のたっての希望ですし、能力は優秀です。

 基本的には日向さんの元で火器管制・各所ダメージコントロール指揮のアシストをしていただく予定です。

 

 資料を観る限り、訓練時の態度はよくないようですが、LCLガスを媒体としたブレイン・マシーン・インターフェイスによるオペレーションへの適性、シンクロを介さない非BMI式の手動入力、演算速度とも優れています。拒否する理由はありませんよ」

 

「恨みを買うのも上司の仕事。ミサトの真似?」

 

「艦長をやるというのは、そういうことでしょう。

 多くの人命を使い捨てていい代わり、その命の運用に関する責任の全ては僕にあります。つまりは仕事ですよ。昔のミサトさんと、同じです」

 

 リツコの昔とほぼ変わらない、嘲りと自嘲が入り混じったような独特の口調に、しかしシンジは落ち着いた口調で返す。大人の女の煽りに狼狽しないあたり、昔のシンジではないということを感じる。

 

「碇司令に似たのか、それともミサトに似たのか……どの道怒りも恨みも多すぎるほどに背負った以上、多少増えたところで何も変わらない。そういう諦観。いえ、頓悟かしらね。諦めという言葉を嫌う貴方にとっての」

 

 リツコが諦めたように、視線をつま先におとした。

 

「それもまた艦長の度量かもしれないけれど……顔、硬いわよ。あまり気を張らないことね。

 気持ちを入れすぎると視野が狭くなり、見落としが出る。貴方の悪いところよ」

 

「アスカにも、よく言われますよ」

 

 わずかに、シンジが苦笑した。

 実際そのとおりではあると思う。

 碇シンジという男は、もとより実行すると決めたときの実行力と決断力は強く、可能であるならば絶対にそれをなしとげるというところがあり、それが彼のあげた赫奕たる戦果へとつながっているところがあった。

 

 4年前、軌道上からの封印柱投入による北海道南部のL結界からの解放及び可住領域化、航空特化型エヴァンゲリオンMark.44A及び陸戦特化型エヴァンゲリオンMark.44Gによる逆侵攻への迎撃成功は、シンジの決断力に負うところが大きい。ただ、精神的に譲れないとなると何かしら意固地になるところがあり、その頑固さが10年前に失敗を招き、彼の心に深い傷を逐わせたことを、アスカはよく覚えている。

 碇シンジにとって、未だに認めがたい、最後の死者。

 

「そういうとこ目が効くのよね、リツコって。人間観察眼ってやつ?

 やっぱリツコが副長やればよかったのに」

 

 私は言った。冗談めかしてはいるけれど、正直本気でもある。

 もともと私はチームプレイよりシングルコンバットを好む傾向があり、そのことをかつては葛城ミサトに窘められもした。

 シンジや日向、青葉といったメンバーとは10年来轡を並べてきた仲であり、互いの呼吸も知れているからこそ連携できる。しかし、人を束ね、まとめるということが自分にできるのかどうか。

 

 天才肌の人間には、失敗しやすい人間の失敗の痛みを理解しづらいところがあると聞く。人を率いながら育て、管理するという立場が、私みたいな24才の、人間社会においてはまだ小娘もいいところの人間に、果たして務まるのかどうか。

 

 シンジと組んでいた頃はそういうことに悩むこともなかった。なにしろ戦闘中に限れば、お互い隠したくても隠せなくなる。思考よりも早く通じ合い、お互いがまるでもう一人の自分であるかのように動けた。鳥が飛ぶとき左右の翼を意識しないように。人で例えるなら、右脳と左脳が、それぞれ動作原理がちがうのに、有機的に連結して一つの意識のように挙動できるとでもいったところか。

 

 けれど、これからは、違う。たくさんの……本当にたくさんの他人が、このヴンダーに乗り組んでくる。

 いきなり、効率よく集団行動ができるわけもない。

 

 不慣れな新人のオペレーションに、思わず昔のような調子で罵詈雑言を浴びせないかどうか、私は自信を持てずにいた。

 しかし、リツコはあっさりと首を横にふる。

 

「艦長と貴方のユニゾン・ダブルエントリーの戦術展開速度を思えば、私が副長の立場になったとしても、追いつける気がしないのよ。勿論新しく入るスタッフもそうなのはたしかだけれど、戦闘キャリアでもあなた達の方が上。もともと戦闘に関しては本職でなし、彼らを鍛え上げ、使い物になるように、生き延びられるよう育て上げるのはあなた達の方がいいのよ。

 

 私はマギプラス、この艦の脳髄たる六弁の花の運用とフォロー、新規技術研究と遺産解析に専念させていただくわ。これもまた、本艦の生残生向上のため、必要なアプローチよ。わかってほしいわね。」

 

「つれないわねえ、リツコ」

 

 私はため息をつく。決断は最終的に艦長が行うとしても、必要なのは立案や決断に対する釘刺しなのだ。そういう計画に対するネガティブな気づきは、私よりもリツコのほうが巧い。

 

 艦長の判断の意図を正確に汲み取りつつ、その上で問題点を精査して、こういう言い方もどうかと思うけれど、つまり『ケチをつける』のが副長の最重要な仕事なのだ。感情な口喧嘩ではない、討論としての論理と論議のせめぎあい。マギシステムに植え込まれた異なる私の疑似人格同士の対話のような、建設的で効率的な議論、結論を積み上げ、それら結論を基として、さらなる論議の提議、その繰り返しの積み上げ。

 

 私と艦長の関係性と距離感は、他人のそれとは、だいぶ違う。読みすぎて手垢じみた、冒頭から結末までを知っている文庫本みたいな関係性。よく識っているからこそ、気楽な間柄で居られる。けれど、よく知りすぎているからこそ、相互の想定する外側の発想ということができないところがある。案外、倦怠期の夫婦とは、こういうものなのかもしれないという。お互いに馴染みすぎた、意外性のない、新味のない距離感。

 

 人間関係ならばそれでも構わない。ただ、作戦立案および検討にあたって、そういう馴れ合いの関係というのは、あまり望ましくない。

 その点は艦長も当然踏まえていて、だからこそ艦長が口を開いた。

 

「先任として忠告と提言をしていただければ充分ですよ。

 それに、研究職の方がリツコさんには似合っています」

 

 なるほど、先任ね。それならいいか。

 艦長の判断に私は納得する。艦長や副長という立場を無視して意見をずけずけ言える現場の人間としてふるまってもらえるなら、特に私に不満はない。

 そして、艦長の言葉は、リツコの気にもめしたようだった。

 

「そうね、もともとネルフには研究がしたくて入ったんだし、感謝しているわ」

 

 嬉しげに笑む。本来の性分が科学者なのだから、それに専念できるのが嬉しくてしかたないのだろう。

 まあ、色々あって私自身、自分の身体なんてものを研究しないといけなくなっているので現状リツコの弟子でもあり、またヴンダーの各機能把握でいろいろな分野に首を突っ込まないといけなくなってしまっているため、望むにせよ望まざるにせよ、軍人をやりながら学究の徒をやるという二足のわらじをシンジもアスカも強いられている。

 

 基本的に多忙な身の上であるのだけれど、困ったことに最近、そういう分野に魅せられつつある自分も居たので、実のところを言えばそういうことに専念できるリツコのことを、私は少しだけ羨ましく思っていたりもする。

 

 なにしろヴンダーという艦艇は未知があまりにも多く、研究対象として観るならばこれほど研究しがいのある艦艇はない。全長2キロ以上のオーパーツであり、100年かけても解明できるか不明な未知の集合体だ。それにずっと取っ組み合いができるのなら、それはきっと間違いなく楽しい。

 

 昔はパイロットバカ一代だったのに、変われば変わるもんよねと、私は薄く自分を笑った。

 

「艦長、オアフ島より内火艇、接近。接舷許可を求めています」

 

 日向戦術長の声が、私を現実に戻す。

 

 右パネルに、水面を切って進む内火艇の列が観えた。ヴンダーの新規乗艦者はひとまず500人を予定している。

 いつまでも二人体勢のヴンダー、そしてエヴァ弐号機と八号機頼みでは、補完計画を潰す前に、ヴァチカン条約無視で生産された各国ネルフ支部の残存エヴァ素体および、ネルフ本部で新規生産された各種自律行動型エヴァの狂った物量に間違いなく潰される。

 ヴィレ全体のの戦闘ノウハウの蓄積と、非エヴァパイロット以外の戦闘人員育成は火急であったし、また補完計画阻止に当たって、ヴンダーを初めとした正体不明の先文明遺物の研究も重要であった。

 

 カヲル野郎があの時残ってくれればよかったのに、と私は内心呻くが、彼には彼なりの考えがあるらしく、今は出奔中の身だ。少なくとも彼が『碇シンジの味方』であることだけは(死ぬほど腹立たしいが)確信できるので、ゼーレなりネルフなりが何事か仕掛けてくるときは、おそらく役立ってくれるだろう。

 

 それにしても、と私は思う。

 モニタを指で軽く撫ぜて画像拡大をかけた。

 

 先頭をいく内火艇の甲板に、10人以上の若者が立っていた。

 青い海が珍しいのだろう。表に出ているのだから、臭さに辟易しているわけでも船酔いしているわけでもあるまい。目を丸くしている男女の顔立ちは、若いというよりもむしろ幼さを残した呈で、あどけないとすらアスカには思えた。時代が時代、人類危急存亡の秋とは言え、やはり戦場に立たせていいのか、という気持ちになる。

 

「大人の尻拭いに付き合わせるのって、いい気分にならないわね」

 

「本人たちの希望だよ」

 

 どこか韜晦した口調で、艦長が答えた。

 

「動機はそれぞれあるだろうけれど、拒む理由はない。

 それに、ミサトさんの目線からすれば、万一のときはこの子達を連れてヴンダーで離脱してほしい、というのもあるかもしれないしね……ミサトさん、艦長になりたがってたのを、無理言ってヴィレの総司令に収まってもらったんだ。その程度の気持ちは忖度する必要があるさ。ちゃんと自分の子供の親を務めるのと、トレードオフだよ」

 

 韜晦というよりは、過去をみつめているのかもしれなかった。

 かつてヴンダーから見つめた、あの髑髏降り注ぐニア・サードインパクト再起の絶望の景色を。

 死ぬなと止めた碇シンジと私へ、葛城ミサトと加持リョウジが投げた、怨念とも哀しみともつかない視線を。

 だが、あの時、どのように思われ、恨まれ、生涯憎悪されたとしても、やはりシンジと私は止めただろう、という確信がある。

 

 父もいない、母もいない、LCLの虚無から生まれた得体のしれない自分。

 

 母が消えた日から過去を粉々に砕かれ、父に捨てられ、父がいない哀しみ、過去がない苦しみを誰にも理解されないまま、本来新天地たり得たかも知れない長野で虚無の生活に溺死しかけていた、碇シンジという壊れかけた少年。

 

 そして、ヴンダーの生体センサーは、葛城ミサトの中に、新しい生命の息吹を認めていた。

 だからこそ、どれほど憎悪されても、それだけは二人には許せなかったのだ。

 

「……親に親をやってもらわないと、子供はきついもの。

 案外、いなくてもうまくいくこともあるのかもしれない。けれど、私達はそれでだめになった。

 ミサトは自信ないみたいだけど……ミサトにはちゃんと親、やってほしいのよね。

 自信を持ってほしいし」

 

「ミサトさんには生き延びた全人類の親をやってもらってるようなものだよ。

 重いものを背負わせてしまったけれど、知る限りで他にお願いできそうな人が、いなかった」

 

 14才の私達、振り返りたい楽しい過去なんて何一つなかったがらんどうだった私達と、一緒にいようと手を伸ばしてくれた、優しい女性のことを思い出す。

 

 ミサト自身にとり、両親とはあまり思い出したくない存在であるらしいけれど、それでも私やシンジにとって、彼女が不快であったかと言うと、そんなことはなかった。

 むしろ、知らなかった光を見せてくれた人ですらあったようにおもう。

 けれど、戦いの場に居る彼女は、どこか自分の命すら度外視する危うさがあった。

 

 普段の陽気さがむしろ装いで、葛城ミサトという女性の内側には、どこか他人には触れがたい暗さ、見通せない闇があり、エヴァを運用しての作戦において、時折彼女が見せる奇妙な冷徹さと、時に捨て鉢とすらいえる、勝率が異様に低い作戦の決行は、おそらくその、彼女が人に見せたくない闇に由来しているのだろうと思う。

 

 誰にだってそういう闇はある。私にもあり、艦長にもある。

 けれど、葛城ミサトという女性は、その闇がとりわけ深いように私には思えた。

 自らを投げうってでも討たなければならないものがあるかのような、強い信念。犠牲を惜しまず、たぶんその犠牲に自分を選ぶことを、一切惜しまない。 

 その危うさが、私には怖かった。それは、シンジも同じだったのだ。

 

 ともあれ、今はミサトはヴィレ総司令として、加持リョウジさんはクレーディトの責任者として、生きる道を選んでくれた。もう残り少なくなったとは言え、人類の群れは未だ多い。居住地域は赤いL結界の海の中に、封印柱でこしらえたダムで、無理矢理にL結界の侵入を押し留めた、いつ崩れるかもわからない危ういセーフハウス。誰もがなにかしら恐怖を抱き、怒りを抱き、それら負の感情の向け先を探している日々が続いている。

 そういう人々を取りまとめ、不安を、怒りを、不満を聞き、受け止める、大人としての仕事を、ミサトは引き受けてくれた。あの人の性格を思えば、きっと前線のほうがよかったろうに、それでもミサトは、私達の意思を汲んでくれた。

 そのことが、嬉しかった。それは私達にはできない仕事で、想像を絶するほどに大変な仕事だ。

 それでも、ミサトは、引き受けてくれたのだから。

 

「そうね、それができるのは、私達みたいな壊れた、けれど自分が壊れていることに気づくことすらできずに、意固地になって固まっていたことに気づいてくれた、ミサトしかいないものね。

 そういうミサトが選抜して、送り出してくれた子供たちだもの。 

 きっと、期待しても──」

 

 と、私が呟いた瞬間。

 モニタの中で、それほど大きくない横波を受けた先頭の内火艇がグラリと揺れ……そのまま横転した。

 

「……」

「……内火艇、転覆。救助信号受信しました。

 ……ヴンダーに見とれてたそうです」

 

 急激に頭痛が痛くなる。決して大きくないとは言え横波は横波で、それに気づかず雑転舵で、しかも船の重量バランスも考えておらずみんなして甲板に登ってたということでうーんこの。

 

「──もしかしてヘビー級の馬鹿? よそ見運転で転覆って期待値だだ下がりなんだけど……」

 

「エヴァで待機中の綾波大尉、真希波大尉へ連絡。

 至急、転覆した内火艇の救助にあたれ。続く内火艇の進路を邪魔しないように。以上」

 

 艦長が冷静な口調で、ハンガーのエヴァで待機中のレイとマリに指示を下す。

 

「了解」

「アイアイ、了解ー!」

 

「……艦長、内火艇の操縦しくじる連中にヴンダー任せて大丈夫?

 主機担当……っても現状エヴァとアダムス予備パーツの寄せ集めで艦体動作とATフィールド発生にしか使えない主機もどきだけど、ともかく舵取らせたくないんだけど。

 重力制御とATフィールド制御しくじって自壊とか勘弁だからね?」

 

 真顔でそう思う。ヴンダーは巨大であるがゆえに、通常の空力等で飛ぶわけではない。

 補機のN2リアクター推進機は膨大な電力と推進力を生むが、それだけでヴンダーをコントロールしきれるわけではない。

 重力操作およびATフィールドを併用し、空間歪曲を適切に発生させることで推進を行う以上、その点のバランスを失敗すれば、最悪重力とATフィールドがそれぞれ別別のベクトルへ機体を『捻じり』、最悪、空中で自壊しかねない。

 

 この手のATフィールド利用の超加速は、エヴァで『走る』だけでもノウハウが必要なものなのだ。

 

 特にヴンダーで予定されている操作系はLCLガスによるブレイン・マシン・インターフェース入力が主力となる予定である。タッチパネルやキーボード、音声操作では入力操作に限界があるのだ。

 ただ、思考操作というのも難しい。雑念や奇妙なことを考えると、ダイレクトに影響が出る。

 無論操作系に制御システムとしてマギプラスを噛ませ、致命的な飛行エラーだけは発生させないよう保守は徹底する予定ではいるのだが、それでも不安なものは不安になる。

 

 ヴィレが現状当てにできるのはヴンダーとエヴァンゲリオン二機であり、欧州をL結界から開放する目処がない以上、ペーパープランとしては存在する、抗L結界人型決戦兵器ジェットアローンの量産も、生産工場の奪還と、人員補充ができなければ、夢のまた夢、夢物語。

 

 他の戦力と言えば重力操演式の旧式船舶や無人VTOL、また各国戦闘機ぐらいのもので、これらは操演のみでは限界がある。アダムス組織移植によるシンクロでの総遠距離の延伸も試験してはいるが、その手の機体はシンクロ能力がある私達以外にはまず操演不能。

 電波が通る環境ならばマギプラスによる自動操演もできるかもしれないが、高濃度L結界内部は条件一つであらゆる物理事象が異常を起こす、常識が通用しない地域である。

 

 そして、その手の操演能力やら操縦能力やらを身に着けてほしい彼らは、それら複雑な操縦系を有する戦闘兵器に比べればはるかに原始的で扱いやすいはずの内火艇なのに、L結界もない、しかも封印柱で波が安定した、静かな海で、よりにもよって転覆。

 

 大丈夫、なのだろうか。

 そう思って振り向くと、シンジが私の不安を見透かした家のように答えた。

 

「誰だって失敗から学ぶものだよ。

 僕だって最初の実戦はそうだった。誰だって最初は無様なところから始めるしかない。

 いつまでも無様なままじゃ困るけどね」

 

 そういって、ほんの少しだけ笑ってみせる。

 

「経験者は語るってやつ?」

 

「そういうこと。僕が初陣のときも、使徒の前で転んでも、案外なんとかなったよ。案外」

 

「常人に当てはめていい経験じゃないわよそれ」

 

 呆れ半分、諦観半分。

 私は深く感情の入り混じったため息をついた。

 シートから立ち上がる。

 

「副長、艦橋をでる。

 出迎えてくるわね。メンツ考えると、艦長より私のほうがいいでしょ」

 

「わかった」

 

 艦長の声を背中で聞きつつ、肩を丸め気味に私は艦橋から出た。

 本当に大丈夫かしらね。

 

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「多摩ヒデキ以下25名、ただいまとうちゃ……ぶぇぐじょい!!!」

 

 代表らしい若者の一人が、到着の報告をしながら敬礼しつつ、盛大にくしゃみをした。

 白ベストに黒いツナギのような全身インナーの、ヴィレ正規軍制服が、海水でずぶ濡れとなっている。

 

 そして私はと言えば、彼の目前で彼の敬礼を受けていたわけで、くしゃみもろとも放たれたツバを、必然としてまとめて顔面に食らっていた。

 

 えっとー、子供に見えるかもだけど一応上官なんだけど私。

 昔の自分だったら確実に側頭部めがけて意識が飛ぶ威力のハイキックを放っていただろうと思う。

 

 脳の中をぐるぐるするいろいろな感情が、脳裏の艦長の『そのうち慣れるから』、みたいな前に言われた言葉によって、とりあえず諦めの方向へと収束する。

 ポケットからハンカチをだして顔を拭いつつ、こめかみに指先を揃えて当て、答礼を返した。

 

「……式波・アスカ・ラングレー中佐です。

 本艦の副長を勤めてるわ。あなたたちの乗艦を歓迎します。

 一ヶ月は練習航海の予定だから、早いとここの艦に慣れてね。」

 

 うん、無難だぞ私。くしゃみぶっかけて謝りもしない男にグーが出ない。

 褒めて。だれか私を褒めて。いやほんとマジほめてマジ。

 

 つかこの下唇たらこのぼんやり若造はなぜくしゃみぶっかけて誤らずぼんやりしているのか。

 いやまて、低体温ショックかなんかかなこれ、意外と温かい海でも身体冷えるって聞くものね。

 

 青く塗装されたエヴァ弐号機から、搭乗用クレーンで降りて来ている途中の、白いプラグスーツ姿の少女の顔を見つめる。

 

「レイー、救助ミッション終わってすぐで悪いけど、バスタオル用意して。

 風邪引かれても困るわ。ハンガーのN603倉庫、救難者用のやつー!」

 

「了解、副長」

 

 小さい、本来は聞こえないようなつぶやきが、私の耳に『届いた』。

 私は副長ではあるが、同時にヴンダーの主機担当でもある。

 

 式波・アスカ・ラングレーという人の肉体と、ヴンダーという巨大な船の2つの肉体を同時に動かしているようなものだ。戦闘中ならともかく、いまは停止中であり、シンクロレベルは最低限で足りるので、主機へのエントリーへエントリーできずとも、各部動作維持には支障がない。

 もとよりアダムスの体内なのだ。エントリープラグをもちいたより深いシンクロ制御は、戦闘速度の工場において必須とすらいえるけれど、平常時なら、艦内で問題ない。マギプラスから放たれる擬似脳波のアシストもある。まあ、年がら年中ヴンダーと全力でシンクロしていたら疲れてしまうし、シンクロ数値が危険域に達すると形象崩壊の可能性すら発生してくる。

 

 それはそれとして、私はシンクロを用いて艦内各所の警備カメラやマイクなどから得られる情報を常に見たり聞いたりでき、このためレイのプラグスーツに仕込まれた喉頭マイクを通信回線越しに傍受することすらできる。いろいろと呪わしい身体ではあるが、こういうときは便利なものだ。

 

 白いプラグスーツのパイロットは、私の指示もしっかり聞いていたようで、私が指示した倉庫に向かい、やがて台車の上に大量のバスタオルと毛布を納めたコンテナを山積みにして私たちのところまで押してきた。

 

 毛布に関しては指示していないのだが、そういうところは意外と気が利くのだと、この10年で識りつつある。会ったばかりの頃は人形同然、私と同じネルフの繰り人形であり、逢うたび観るたびキレていたきもするけれど、もういい加減お互い、同じ釜の飯を食って長い。

 

 単に知らないことに対して変な反応をするだけであり、実際のところは好奇心旺盛で、言動こそ朴訥で愛想がないものの、これで気立てがよく、色々学んだのか気がかなり効く。毛布までは気が至らなかったので、レイも優しくなったなー、と思う。十年一昔、とはこのことだろう。昔のレイではないのだ。

 

 綾波レイは一通り新任たちに毛布とバスタオルを配り終えたあと、アスカ同様に新任士官たちへ敬礼した。

 

「……エヴァンゲリオン弐号機担当パイロット、綾波レイ。階級は大尉。

 人手が増えて本当に嬉しい」

 

 最後の言葉は実感なのだろう。

 実際、ここ数年、エヴァを搭載しておこなうミッションも増えたが、実際人手が足りない。

 良さそうな地域を見つけて封印柱を埋めに行くだけのミッションでも、物資運びからエントリープラグ清掃といった雑務まで、パイロットがやらねばならないほどの人員不足が極まった状況だったのだ。

 

 なので、実際のところ人員が増えたのは、素直に嬉しい。……今回のようなヘマ連打されたら、逆に仕事が増えちゃいそうだけど。

 

 転覆した内火艇の格納(ひっくり返った以上電気系は一通り見る必要があるだろう。今の人類にとっては、まともに動くエンジン付きボートの類すら大切なのだ)を終えた8号機からも、ピンク色のスーツをまとった少女、というには年重の、しかし女というには若い女性が降りてきて、新任士官に駆け寄ってくる。

 

「真希波マリ、エヴァンゲリオン八号機担当パイロット。階級は綾波さんと同じく大尉だにゃ♪

 よろしく♪」

 

 こっちはというと、特に敬礼はせず、楽しそうに手を新任士官に振っている。

 ブリッジクルー全員が規律の大切さを確認したあとで、規律もクソもない態度を取られるとやんぬるかなという気持ちにもなるが、真希波マリという女にそれができるわけがないというのは、この10年でヴンダーというか、真希波マリに関わった全員が理解していることだ。

 

 いつだってマイペース。ブラックホールに吸われても徒歩速度をやめないマイペース等速移動女。

 まあ悪い人間ではないが、他人に対して独特の距離感があり、なんというか面白く、しかし疲れる女性でもある。得意技がうざがらみなのでそういうやつなのだ。かといって嫌悪したくなるようなことはしてこないので、妙な人生経験の豊かさを感じさせる女性でもある。エヴァパイロットとしての腕もよく、狙撃から白兵戦までそつなくこなす。ただいきなりATフィールド噛みちぎりだすのは引いた。

 

 ATフィールド周りの技術は、パイロットの心理が強く影響がでるものであり、人によってアプローチ、破り方は色々と異なってくる。両手で開くように押し開いたり、叩き切ったりするのだが、彼女の場合エヴァで噛み付いてゴム膜かなんかのようにぶちぶち引き裂いていくのでわりとえげつない。獣か、みたいなところがある。そういう人なつこさと凶暴性がともなうところまで、どこか猫っぽい女性とアスカは評価していた。

 

 レイとはルームメイトで、ふたりとも本の虫であり、二人の部屋には死ぬほどの量の本がみっしりと詰まっている。無論戦闘機動をすると部屋の中を本がGで乱舞してえらいことになり、ベルト保護しなさい本棚なんとかしろ断捨離しろと言っているのだが、わりとふたりともそういうのを気にせず、床がいつもほんの洪水である。私が同居してたらどうなったのだろう。たぶん本に追いやられ、サラミみたいに本につぶされていたのだろうか。いや現実逃避している場合じゃなかった。

 

 私はしんどそうに体を拭いたり、寒そうに毛布にくるまる新任士官に向き直った。

 

「ヴンダーは全長2キロの超大型艦艇、物資不足の時勢だから、移動ベルトや、エレベータ含めた移動設備も充分でなし。

 無重力空間での作戦行動も想定されるから、二次元的じゃなくて三次元的に艦内を把握しとくと後々楽。

 で、無重力時の移動通路は無重力前提だから、有G環境を想定してないから、近道したいからってハッチこじ開けて通らないように。穴に落ちて転落死しても保証できないからね」

 

「「「了解」」」

 

 寒いせいなのか、地なのか、あまり覇気のない返答が返ってくる。

 うーん蹴りたさ。人類の存亡が双肩にかかってるってわかってんのかこいつら。

 果てしなく湧き上がってくる本能的なアレを噛み殺しつつ、私は説明を続けた。

 

「それと、お風呂はないけど共有のシャワーはあるから、身体ふいたら早いとこ着替えて温まりなさい。

 ホントは艦内案内とかもすませとこうかと思ったけれど、艦内で風邪引かれても困るから割愛。 

 士官クラスは二人で一部屋二段ベッド、曹長以下は3人一部屋三段ベッド。

 大きい船だけど狭くなるのは許してね、いろいろ詰まってるから居住区画拡張するのも大変なのよこの船」

 

 そう言いながら見回すが、やはりどっかしら目に覇気がない。

 現代っ子ということなのだろうか。ただ、事故直後ということも有るわよね。

 世代的に、ニア・サードインパクト以後生きるためだけに必死だった世代だ。

 泳ぐ練習なんてしたことがなく、まして海なんて全く知らなかったのだろう。

 昔のイギリス海軍の水兵みたいなものよね、まあ死人が出なかっただけまし。

 そう思い、まずは部屋で休んでもらうのが先決と考えた私は、

 

「それじゃあ、なにか質問ある? なければこれで解散で──」

 

 歓迎の言葉を締めようとして、不意の挙手に遮られた。

 

「副長さん。鈴原サクラ少尉です」

 

 真顔だった。顔がこわばっている。その眼差しに、なにか、決意のようなものを感じさせた。

 鈴原、という名字が記憶を刺激した。面立ちに、なにか懐かしいものを感じる。

 ああ、あいつの。そう言えば名簿にあったわね。

 

「一つ、質問、よろしくありますか」

 

 こわばった決意の顔。

 私が何者であるかを知っている顔。

 自らの心の中の気持ちを整理できず、我慢もできず、ただ問わずには居られない顔。

 

 ああ、いつものか。

 私は、内心で諦めながら口を開く。

 

「構わないけど」

 

「はい。

 副長と、艦長の、第一次ニア・サードインパクトについての見解を、お伺いしたく思います」

 

 僅かに関西弁のイントネーションを含んではいるも丁寧な口調。

 けれど、眼差しは、強い。聞かずには得られないという気持ちが、眼光に見えるようだった。

 

 過去のトラウマ、突然の人生の絶望的かつ不可逆の変化、それを齎したトリガーたる存在への率直な疑問。

 エースへの質問ばかりだった大学時代とは逆角度だが、似たようなものだ。

 

 正直に言えば、苛々する。

 私を観る気がない質問。自分のことしか考えてない、相手を考えていない質問。

 自分が納得する気しかない質問。少しだけ、昔の自分が顔を出す。

 一瞬迷った。けれど、副長であるならば、その問いに応じなければならない。

 

「鈴原少尉。申し訳ないけれど、そうした個人的疑問に対して答える場ではないわ。

 それに、どう答えても、貴方は納得はしないでしょう。だから、解答はしない。

 必要ないもの」

 

 その言葉に、鈴原サクラ少尉の表情がこわばった。目つきに一瞬怒りが走る。

 けれど、鈴原サクラの返答より先に、別の女性の叫びが走った。

 

「必要? あるにきまってんじゃん!」

 

 女の甲高い声音。明白な怒りを孕んだ、自分の感情に飲まれた声。

 髪をピンク色に染めた女が、眼光の敵意を隠す気配もなく、私のことを睨んでいた。

 

「……貴女は?」

 

「北上ミドリ。あんたらが起こしたニアサーのせいで、私らの家族全員死んだ口。

 たしかに、あんたにとっちゃ珍しくもないし、だから答える必要がない、そう言いたいわけ?」

 

 ああ、あんたが。あの。それなら、そうなるか。

 

「サクラも両親死んで、私ら全員、あんたらのせいで人生めちゃめちゃなんです。

 私やサクラだけじゃない、ここにいる全員、あんたたちには色々思うとこあるわけ。

 この真っ赤な地獄みたいな世界を生み出しといて、答える必要がない。

 あー、キミツジコーってやつですか? いいですよね上の立場って。不都合なことは黙ってればすむ。

 そういうの、チョームカつくんですけど」

 

 ああ、もういい。それなら、期待通りに踊ってやる。

 とはいえごめんなさいで平身低頭して気が済む連中じゃない。

 目の前で拳銃自殺したところでこの手の感情はどうにもならない。

 だから、期待通りに踊ってやる。こいつらが期待する、その逆位相。ある意味、こいつの想定通りの私を演じてやる。

 

「別に?」

 

「は!?」

 

「だから、別にって──」

 

 売られた喧嘩を買おうとして。

 直後、目の前に通信用ホログラムが出現した。

 エヴァにも搭載されていたホログラムを、艦内通信用に移植したものだ。

 

『副長。僕が代わる』

 

 無論、顕れたのはシンジだった。

 私より嫌われ、私より憎まれる、ネルフ本部首魁碇ゲンドウの息子であり。

 そして、私より、畏れられている。

 

 一瞬、北上ミドリの目に狼狽が走る。

 歴戦のヴンダー艦長としての覚めた碇シンジの眼光は、その怯みを見逃さなかった。

 

『感情任せの問答になると面倒だからね。誤解されてこじれられても困るから、僕が代わるよ。

 碇シンジ大佐。空中戦艦AAAヴンダー艦長。君たちの乗艦を歓迎する。

 副長の言葉だけれど、彼女が言ったとおり、どう答えたところで、君たちは納得しないと思う』

 

 そのままシンジは、直球で、まっすぐに。

 どうせ相手は自分が好きなようにしか受け取らない。

 だからこそ、事実だけを投げつけていく。

 

『この状況はゼーレ及びネルフによって仕組まれていた。そして、僕らはそうなるよう仕組まれた存在であり、意図せずして世界の現状を招いた。踊らされていた人形だよ。君の言うとおりに。

 けれど、気づいた以上、ゼーレやネルフの木偶で居続けるつもりは、僕らにはなかった。それから10年、こうして闘い続けている。結果、人類は絶滅を免れ、いまも生残を続けている。これは事実だ』

 

 ヴィレの汚れた英雄、ニア・サードインパクトの最初の引き金を引いたもの。

 しかしそれが仕組まれたものであると気づいた後、空中戦艦AAAヴンダーを操り、あらゆる脅威を殲滅し、第3新東京市をめぐり戦争状態へ突入した各国軍及びヴァチカン条約無視の複数のエヴァを殲滅、第3新東京市市民が脱出する時間を稼いでのけた。

 

 そして、ゼーレの暗躍の果てにセントラルドグマに投入された、自動操縦式へと改造されたエヴァンゲリオンMark.06により、サードインパクトが再発動した際、突入を辞さず、発動したサードインパクトは完全なるものとはならず、『アスクレピオスの杖』作戦によって構築された生存圏を破壊するほどの圧を、地球上を満たすL結界は得ることができなかった。

 

 そして、第3新東京市での戦闘状況が終了してからはヴンダーおよび、各種操演艦隊を最大動員して各地の生存者を避難所たる生存圏へ移送し続けた、生命の救い手であり、今を生きる人間を救った本物の英雄。

 少なくともヴィレが発行するサードインパクト関連の各種情報資料では、そういうことになっている。実際には、人類を救ったのは、私達では、ないけれど。

 

 けれど、艦長は構うことなく言葉を連ねる。

 

『僕はわからないが、式波副長がヴンダーの主機役を務めなければ、そもそもヴンダーはまともに動かなかった。おそらく第10の使徒との闘いで、人類は滅亡していたよ。

 

 あれから10年。今までの闘いで、あまりにも多くの犠牲が発生した。

 けれど僕らも君等も生きている。そして、生きている以上、僕は諦めない。絶対に。

 

 この言葉を君たちがどう受け取るかは、自由だ。

 無論恨み続けても構わない。それも自由だ。

 ただ、手は抜かないでくれ。この艦には人類の命運がかかっている』

 

 そして、シンジは感情をこめず、しかし一人ひとりの新任士官の瞳を見つめながら、語った。

 

『明日生きることより私的復讐を望んで乗艦したのなら、今すぐこの艦を降りてほしい。

 それはゼーレとネルフが片付いてからでもかまわないだろう。

 諸君らの奮励努力を期待する。以上だ』

 

 シンジのホログラムが敬礼し、答礼をまたず、かき消えた。

 重い沈黙が、格納庫内に満ちる。

 迂闊だった。10年人のために戦ってきて、成果も上げてきた。

 それでも憎みたい奴、憎まないと生きていけないやつは憎む。

 

「……私の言いたいこと、全部艦長に言われたわね。

 副長としても以上。私と艦長は10年一緒にやってきた。

 それが積み上げてきたものをみて、認められないなら退艦したほうがいいと思う。

 戦争が終わったその後なら、私的復讐にはいくらでも付き合う。

 それも艦長と同じ。

 

 副長からは以上。

 各自、思うとこいろいろあるだろうけど、ともかく風邪引かないうちにシャワー浴びて着替えて休みなさい。明日からは色々ハードだから覚悟するように。

 戦艦ぐらしが楽じゃないってこと、骨身でおぼえてもらうからね。

 いい? では解散!」

 

 私が先に敬礼した。

 そして漸く気づいたのか、全員が私に答礼する。

 

 戸惑いの気配はあったが、漸く目の前の14のガキが、自分より遥かにキャリアのある上官だと認識したらしい。悔しいけれど、これは自力ではなく、艦長のさっきの言葉の圧のお陰だろう。

 なまじっか優しくやっても、だめか。

 

 むずかしいわね、人を扱うって。ったく。

 まあ、だからシンジが艦長で私が副長なんだし。

 

 ていうか、見ててくれたのか、あいつ。

 気にしてくれてたのか。

 信頼されてなかったのが悔しいような、心配してもらえていて、危ないところを助けてもらったことへの嬉しさもあり、複雑な気分になる。

 

 敬礼を崩し、身を翻して歩み去ろうとして、ふと肩を叩かれた。

 甘い女性の匂い。おおきなおっぱいが背中に当たる感触。

 

「おつかれさんだにゃー。

 まあ、難しい年頃だし、副長は見た目が見た目だからしょうがないかもね。

 でもま、ちょっと妬けるかなー。夫婦仲いいねー奥さん♪」

 

「奥さんゆーな」

 

 苦い表情で返す。

 真希波マリという女、私のことをともかく奥さんとしか呼ばないのである。

 シンジはわんこくん。レイだけ綾波さん。

 なんでレイだけさんづけなのか。

 つか艦長にわんこくんはどうなのか。

 突っ込んでもなんかどうあがいてもわんこくん呼ばわりだしシンジは普通に流すのでなんかイライラする。

 真希波マリ相手だからしょうがないというのはこの10年でよく理解したとはいえ、なんかくやしい。

 

 あれか、他人を馬鹿にしたあだ名で呼ぶ癖があった中二時代の私のアレを真似してるのか。

 まあ、そうやって『奥さん』呼ばわり一発で、さっきの新任たちとのギスギスした感じが心から少し消えてくれたので、なんだかんだそういうのがわかるのが、真希波マリという女のいいところなのだ。

 なんだかんだ、多分新人士官の面倒も見てくれたり見てくれなかったりするのだろう。

 見たくないときは見てくれないのが困りものなのだが、まあこれも真希波マリだからしかたないのだ。

 少しだけ思い出した昔のギスついた私が霧散する。

 

 思い出す。

 私だって、切欠は三号機事件で、それからわりとものの観え方が代わるのに何年もかかった。

 いきなり相手が変わるのを望まないのが多分大事なんだ。

 慌てず騒がず、即座に成果がでなくても、じっくりと物事を育てていく。

 

 人でもモノでも、いきなり変えることは難しいのだ。

 だから、あの子達も今は敵意に満ちていても、そのうち変わってくるのだろう。

 私も変わり、シンジも変わり、レイも変わり、マリも変わってないようで実は変わっているのかもしれない。

 真剣に、でも楽天的に。我をうしなわず、怒るのは自分のストレス発散じゃなくて、必要な時に。

 私もまだまだ副長として勉強途上だ。

 でもそのうちいつかとどく。

 それぐらい楽天的に行こうと、艦橋へのもどり道、少しだけ考えた。

 

=====================================

 

 

「……なによあれ……まるで取り返しつくみたいな言い方じゃん」

 

 一人、また一人と自らに与えられた部屋へ去る一方、北上ミドリは一人格納庫に残り、呪詛を吐き続けていた。

 誰が聞いているわけでもない。だが言わずにはいられないのだ。

 

「諦めないって、何様よ!! L結界で死んだ植物、パッと見は生きてるようだけど全部死んでるんですけど!! 枯れてるんですけど!! 封印柱でL結界を退けても、そこにあったいのちは戻らないって、私達が知らないとでもおもってるわけ?! 馬鹿にしてんの?!」

 

 大切な人がその日のうちに消えて、たまたま自分は助かって、けれど食べ物が一日三食から一食になって、そのうちもっとひどくなって、人にも言えないようなことをして。

 

 あの英雄様たちはなんなのよ。私がクソみたいな生活して、ひたすら辛い時に大暴れして、そりゃアイツラのお陰で助かったのかもしんないよ、でもさ、あいつらはたぶん食べれてたじゃん、立派な戦艦に乗って、戦って、食べれてたじゃん、食べれなくて死んだ人たちだっているのに。

 あいつらその人達も取り返しつくっていいたいの?

 原因創ったの自分たちのくせに!

 

 壁を殴りつける。何度も。何度も。

 拳が痛い。けれど心はもっと痛い。

 まだ目が覚えている。いなくなった大切な人たちのことを目が覚えている。

 見える気さえするのに、二度と会えない。

 その痛みが、あまりに痛くて、だから壁を殴ってしまう。

 この痛さで私の心と身体の辛さ、全部消えてしまえばいいのに。

 

 けれど。

 不意に、壁を殴りつける彼女の拳を。太く大きな指と手のひらが受け止め、止めた。

 

「お前の気持ちも、わかる」

 

 筋骨粒々とした、スキンヘッドの、いかつい壮年男が、彼女を見ていた。

 憐れむ目つきではない。彼女の気持ちを見ていると、ミドリは直感した。

 

「だが、艦長たちの言うことも事実だ」

 

 その上で、彼は碇シンジの肩を持った。

 心が、濁る。昏い方向に。

 

「誰」

 

「高雄コウジ少佐。機関長を拝命した。今しがた第二便でついたばかりだ。

 この艦の艦長と副長に命を救われたヴィレクルーの一人だよ」

 

「命を、救われた?」

 

 ミドリの言葉に、高雄コウジと名乗った男は、懐かしげに虚空に視線を泳がせた。

 

「そうだ。第3新東京市戦役。あれは世界全ての軍隊が、ネルフ本部のリリスを狙って起こした戦争だった。

 それぞれの御大層な『人類補完計画』とやらを達成するための殺し合いだ。

 故に俺たちヴィレは、同調するネルフ職員とともに決起し、補完計画発動を阻止するため戦った。

 だが、戦略自衛隊は方針が定まらず、各国軍隊の攻撃は熾烈を極めた。

 

 ネルフ本部内部での戦闘も、事実上の同士討ちだ。

 識別のために腕に緑のバンダナを巻く必要があった。

 昨日まで同じ釜の飯を食っていた仲間を殺さなければならないやつも居た。

 

 そしてそういう辛さを一番背負ったのが、碇シンジ艦長だよ」

 

「……どういうことよ。辛さを背負ったって」

 

「本艦の主砲は20インチレールガン。2トンの巨弾を超音速で正確に、空中から目標めがけ投射できる。

 我々の血路を拓き、脅威を排除するため、艦長操るヴンダーは道を阻む全てを、20インチ砲弾で粉砕した。

 徹甲弾、榴弾、あらゆる方法でだ。

 歩兵や戦車を師団単位で吹き飛ばし、かつて本部で共に努めていた、しかし今は敵対する仲間を殺して、俺達の蜂起の成功と脱出まで導いた」

 

 訓練過程で嫌になるほど聞かされた、ヴィレ決起時の、碇シンジと式波・アスカ・ラングレーの英雄譚。

 原罪に汚れた人類を清めるためのインパクトの滅び、赤き死の洪水より人類をすくい上げた方舟の主。

 

 本来は『贖罪』の名を与えられていたこの船の名を否定し、『奇跡』、ヴンダーと名を改めたのは、式波・アスカ・ラングレーであったという。

 罪なきものなどこの世になく、故に人にもケモノにも贖う必要もなく。

 神を畏れ洪水より逃げる方舟ではなく、神の糾弾する罪を否定し抗うために武装としての神殺しの方舟。

 

 故に、ヴンダー。可能性が無限大に低くとも諦めぬという決意の名。

 すなわち奇跡を諦めぬという絶対の意志の具現として、彼女はその名を船に刻んだ。

 そのときのことを、眼前の男は思い出しているのだろうか。

 

「たしかに、成功とは言えんかもしれん。ニア・サードインパクトは再開してしまい、世界の多くがL結界に沈んだ。そういう意味では艦長たちの努力と覚悟は、徒労におわったのかもしれん。

 

 ……だがな、嬢さん。お前さんは生きてる。俺も生きてる。

 あの日の艦長の決断と行動がなければ、そこで終わりだったんだ。

 それがわからんわけでもあるまい。そうでなければこの艦に乗ることを志願なんてしない。違うか?」

 

「……」

 

 答える言葉を思いつかない。

 けれど同意したわけでもない。相手もそれは分かっているようだった。

 だが、その上で、こう考えるものも居るのだ、というのを、彼は伝えたいようだった。

 

「失ったのは、お前さんだけじゃない。艦長も、副長もだ。

 恨むなら、何も知らなかった艦長や副長ではなく、ネルフと、その上層組織のゼーレを恨め。

 相手を間違えるんじゃない」

 

「でも」

 

 そう。そんなことはわかってる。でも。

 言い返そうとして、今度は別の声がミドリを止める。

 

「ミドリ、もうええよ」

 

「サクラ……」

 

 鈴原サクラ。

 最初に質問を発した彼女は、兵科こそ違うとは言え、訓練生時代からの仲間同士だ。

 

「うちの父ちゃんも母ちゃんも目の前で爆ぜてもうた。

 艦長の言葉がほんまに信じられるか、それを見極めにきた。

 わたしはそうやし、ミドリもそのつもりやったのと違うんか?

 

 それに、嘘とばかりも言い切れないとおもうんよ。

 私も、一度、艦長に助けられとるし」

 

 知っている。

 よく聞かされた話だ。

 子供の頃、まだエヴァに乗っていたころの碇シンジに彼女は助けられたのだという。

 しかしそのとき、てひどい怪我を彼女は負った。

 手術には成功し、無事退院という日、それは起こった。

 ニア・サードインパクト。

 碇シンジが発動させた、地獄の始まり。

 

 そこから始まった混沌が全てを飲み込んだ。

 彼女を助けてくれた医師も看護婦も、医療システムも、全てニア・サードインパクトとその後の地獄に飲み込まれてしまった。だから、彼女は碇シンジを憎もうとした。

 

 だが、それは違うと兄に諭されたのだという。

 あいつがおらんだらおまえは死んでたいうんは、お前のいうたことやないか

 あいつががんばった、だから、ワイらはいきとる。そこ履き違えたらあかん。

 

 そう言われても、やはり彼女は、納得しかねる部分があったのだという。

 彼女を助けてくれた病院や医師、看護婦、たべられて当たり前だった食事があったなら助かった人々が大勢死んだのだ。其れを彼女は見たのだ。

 

 そして兄が、医師がいないならと、ヴィレが配布した薬物の分配役となり、やがて医師のマネごともはじめ、手当の甲斐なく死んでいく人々の哀しみと、怒りを一身に受け続ける姿を、だれやって苦しい時代やからこそ、そういう人間が必要やからなと。

 

 苦しみと哀しみ、怒りを引き受けながら、それでも誰かを治し続ける道を選んだ兄の姿を見て、では殺し続ける碇シンジはその対極ではないのか、彼は誰かを救ったと本当にいえるのか、兄より立派な人間なのかという、強い疑問が浮かんだのだという。

 

「……」

 

 北上ミドリは、沈黙する。

 

「ミドリだけと違う。この船に乗り組んだ皆、艦長と副長には、思うところがある。

 でも、あの人達がうちらを助けたのも事実。そして仇なんも事実。

 恩人で仇であるあの人が、今も闘い続けとる理由。

 少なくともうちはそれを見に来た」

 

 そして、鈴原サクラは、艦長のホログラムが投影されていた、今は虚空の空間に、視線を投げた。

 

「子供の頃、写真でみたときは、もっと優しい目をしとったし、気弱で、自信なさそうな顔やったよ。

 もう、ぼんやりとしか覚えとらん。けれど、強さよりも、なにか、優しさで戦っとるようやったと兄は言っとった。それが、今は、ああいう顔をする。強い、顔やと思ったよ。人間、10年も戦えばあないな顔になるんかね。人というより、兵器に半分心がなってもうたような顔。厳つくて冷たい顔やった。

 そうなるだけのことが、10年前にあった。だから、ああなってもうた。

 問題はそれの是非。艦長がああなってまで何を願うか、何をしようとしとるか。

 

 理由は違うにせよ、ミドリもそれを見極めに来た。そのために志願した。 

 このヴンダーを。競争率半端ないのを、必死で努力して、クルーになったんや。

 だから、見極めるまでは、よしや。な?」

 

 何も納得できていない。

 けれど、続けたところで意味もない。

 北上ミドリは、一旦、鉾をしまうこととした。

 その仕舞った鉾にきづいたのかどうか、高雄コウジが再び口をひらいた。

 

「世界がこうなった以上、誰の腹の中にだって辛いものはある。

 だが、俺達はその腹のものの苦しみを吐き出すために来たんじゃない。

 人類の腹の中の苦しみの源を掻き出しに、病根を打ち砕くためにこの船に乗ったんだ。

 お互い色々あるだろうが、そこだけは共有できる感情のはずだ。よろしく頼む。

 それでは、またな」

 

「高雄少佐、了解です。

 機関科はN2リアクター含め、激務や聞いとります。科員の人が倒れたら、いつでも頼りにしてくださいね」

 

 鈴原サクラが、ほほえみながら高雄コウジに敬礼した。

 高雄コウジも、中年男の太い笑みを浮かべながら、ややぶっきらぼうに答礼を返す。

 

「了解だ、鈴原少尉。そちらも激務なはずだ、なるべく互いに負担をかけんようにしよう。

 よろしく頼む。それじゃあな」

 

「はい。ヴンダーの主機と補機はヴンダーの生命線です。よろしうたのみます。

 それじゃ、ミドリ、行こか」

 

「……うん」

 

 言葉を返し、サクラについていきながら、北上ミドリは思うのだ。

 

 そう。

 たしかにみんな家族を失って、私が助かったのは、艦長たちの行動のおかげかも知れない。

 けれど、私の家族は、あの人のせいで帰らなかったんだし。

 それは絶対事実だし。そのことだけは絶対許せない。

 

 みんな、時代のせいだ組織のせいだっていうけれど、あいつの手が血まみれの、とんでもない虐殺者だってことわかってんの? 英雄なら人殺ししても許されるわけ? 私、そういうの絶対嫌なんですけど。

 

 

 

 それになにより。

 あいつはそこにいたのに。

 わたしの、たいせつな。

 おねえちゃんは──

 

 

 

 とうとう、目から溢れる。

 歩きながら。

 北上ミドリは、今はもううしなわれてしまった、たいせつなひとの柔らかな笑顔と、暖かな手のひらが頬を撫でる感触を思い出す。

 忘れたくても忘れられない。

 忘れてなどやるものか。

 あの柔らかさを、優しさを、暖かさを、うばわれたことを忘れるものか。

 歩みを止めず、声を押し殺しながら、ただ号泣した。

 

 許さない。私は、絶対に──赦さない。

 

 

 

=====================================

 

 疲弊しきった表情で、私、式波・アスカ・ラングレー副長は艦橋へ戻った。

 恨んでる人は恨んでると聞いたけれど、わざわざ私の居る艦選んで呪詛りにくるってのは……こう。

 まあ許せないやつは絶対許せないだろうし、そりゃそうだだろうけど。

 

「……こうも荒れてる子がいるってのは想定外だった。

 いや、乗らないでしょとか甘く見てたかも。

 シンジ、フォローさせてごめん」

 

 艦長席を見上げる。

 シンジが私をみた。少し、遠い目をしていた。

 自分が関わった戦火の過去を、見てでもいるかのように。

 

「人がたくさん死んだ。恨まれる時は恨まれるよ。

 僕だって父さんを恨んだ。なんてことをさせたんだって。こうなるのを知っていたのかって。

 

 でも、それでは何も解決しない。行動でしか解決できない。

 分かってくれる人は、分かってくれるよ。

 高雄さんだって、分かってくれたんだし」

 

「そういや、高雄少佐、第二便だったわね。

 挨拶しそびれちゃった。N2リアクター周りの運用、楽になるわねー。

 まあ、出会いは最悪だったけど。

 封印柱付き強襲艇でシンクロ中に突き刺さってくるからいやほんと……」

 

「加持さん、怖かったよねあの時」

 

「いやあんな余裕ない加持さん初めて見たわよ。

 もう一生見ないっつーか、見たくないわよね。勝てる気しないわ本気加持さん」

 

 二人して、笑う。

 辛い昔を昔話として笑うというのも、辛さを受け流す方法の一つであるというのは、わたしたちの一つの方法論だった。

 日向戦術長が、私達を振り返る。

 

「気持ちと憎しみは、言葉ではどうにもなりません。ただ、少なくともあの日決起した人々や、艦長や副長のお陰で拘禁から開放された人間は、お二人に感謝しています」

 

「あ、いや、いいけど……っていうか、さっきも言ったけど、なんかやりづらいわね。

 私のほうが日向さんより上官だと。

 前は私がパイロットで、日向さん達のオペレートに従う立場だったのに」

 

 私の言葉に、日向が首を振る。

 

「私としても、やりづらくありますが……しかし、かつてのネルフと異なり、ヴィレは軍事組織としての体裁を取っております。かつての司令施設のようなやり方はできません」

 

「自分も日向に同意です。

 あの様子を観る限り、艦長や副長への反感から、反乱を起こしかねない者もいると判断します。

 相応に引き締めてゆく必要があるかと」

 

 青葉シゲルが、日向を見てうなずいた。

 

「青葉戦術長補佐にそう言われるとね。

 一番そういうの似合わない人だけに」

 

「時節柄ですよ。俺だって、もう少し楽にやりたいし、昔の空気を懐かしむこともありますが……状況が許さんでしょう。

 葛城総司令が艦長と副長にこの艦を託したように、俺たちも艦長と副長に命を預けています。

 一蓮托生ですよ」

 

「そ。ありがと」

 

 私の言葉に、青葉が微笑む。

 

「それにしても副長どの、これは私語ですが、隨分柔らかくなられましたね」

 

 どこか、おもしろそうな目つきで青葉は私の事を見ていた。

 無理もない、と内心思う。

 客観的に見れば、たぶんエリート意識むき出しの余裕のない鼻持ちならない女だったろうから。

 内面は違うのだけれど、その頃の私は、そういう弱さを他人に絶対に見せないよう振る舞っていたし、他人に近づかれすぎても厭だったし、意図的に遠ざけるような振る舞いをしていたと思う。

 

 振り返れば、精神に余裕がなくなるように、あえてデザインされたような幼少期であり、訓練経験であり、いらないいのちとして選別され捨てられる、『居なくなる』のが恐ろしくてたまらなくなるようしくまれていた。生まれが生まれ。しかも生存確率100分の1以下のゲームを10年以上。

 心がおかしくならないほうがおかしい。

 

 それを、誰にも言えないし、言わない。 

 どうせ言ったところで分かってもらえないから。

 だから、一人で閉じこもる道を選んだ。

 

 せっかく鳥籠からでたのに、自分で鳥籠を作って、閉じ込めてしまった。

 エヴァンゲリオン弐号機も、鳥籠なんかじゃないのに、自分で鳥籠にしてしまった。

 

 そこしか居場所がないと定義してしまった。

 出口のない鳥籠の中には、いつしか鬱屈した想いが満ち満ちていた。

 

 ただそれは、第3新東京市を訪れてからの日々で、少しずつ内圧を弱めていったのは確かだ。

 問題は、抜けきる前に、あの三号機事件が起きてしまったことなのだが。

 ただ、それは呪詛であると同時に、有る意味福音でもあった。

 

「なんていうか、ほら、あれ、腹にいろいろ溜め込んでただけだから。自覚ゼロで。

 吐き出すだけ吐き出したら、なんかスッキリして。

 そんなかんじ。吐く相手ほしかっただけなのよ。そんだけ。

 二日酔いみたいなもんよ。とりあえず吐けばスッキリするやつ」

 

「どういう例えですか……」

 

「私の左の目玉に居る奴が、艦長と一時期脳みそつなげやがったもんだから、こう、否応なしにおえーって全部シンジにね。

 いやそういう意味ではシンジのゲロも私が全部ひっかぶったんだけど。

 

 疑似補完っっていうか、自他境界があの時曖昧だったからね。

 あんまり気分がいいものじゃないし、他の人に体験してほしいもんでもないわねアレ。

 他人に見せる必要ないものって、他人に見せる必要なってのがよく分かったわ」

 

私はその時のことを振り返った。

 多分一生覚えているだろう。

 

 私にとって、いろいろと曰くいい難い現象だったとおもう。

 他人が自分で自分が他人、他人を罵る自分を他人視点でみるというのは得難い経験であり、体験したくなく、今振り返ってもあのときの自分にはドン引きした。使徒に感情を励起されて壊れてたというのもあるのだろうけれど、なんかこうお互い殺すーみたいな感じで殺し愛みたいな体験はもうしたくない。

 質の悪いドラッグをキメて、バッド・トリップに入れば、また同じ体験ができるかもしれない。いえその手のドラッグを使ったことは一度もないし、今の体になってからは、ユーロ空軍時代のように、疲労をごまかすためのデキセドリンといったアンフェタミン系の除倦剤を使って目を覚ましつづける必要もなくなった。要するに二度と経験したくないのだ.

 

 挙句の果て、好きでやらかしたわけではないにせよ、世界も自分自身も滅茶苦茶なことになり、シンジともども1ヶ月ぐらい封印部屋送りになる有様になったので、本当に散々だったと思う。

 発見時、私もシンジもよほど滅茶苦茶な状態だったらしく、とくに伊吹マヤ整備長にはトラウマだったようで、私とシンジが回復し、いろいろあったあと再会したら、挨拶代わりにトラウマ嘔吐されたのは思い出だ。青葉戦術長補佐曰く『グロ画像』だったそうである。艦長も私も、その時の記録画像は未だに見ていないというか、ネルフ本部を巻き込んだ10年前のドタバタで、画像データが失われてしまった。とはいえ、別に見なくていい類のものだろうし、見ずに済んでよかったのかもしれない。

 

「マヤちゃんしばらくトラウマで二人の顔みれなかったもんな……っと失礼、油断すると口調が戻りますな。

 過ぎた話でした」

 

「そ、過ぎた話」

 

 不意に、シンジの座席脇コンソールからアラートがなった。

 シンジがモニタに目を滑らせる。 

 その顔が、曇った。

 

「今報告読んでた。よくない話がきたよ。 

 オアフ島観測所より通達、周囲のL結界に変動周波数値を観測とのこと。

 

 おそらくMK4シリーズ航空特化型、数は推定不能。

 時空振探知から、おそらく複数の飛行群が本島めがけ接近中」

 

 新人が来たばかりのタイミングで?

 内通者?

 いや、それはない。『人間』をつかうことを、ゼーレもネルフも久しく止めている。

 とすれば、何か他の原因があるはずだ。

 

 意識を足裏に送る。床下構造材の下の、アダムスの器の材質へ思いをとおし、私とヴンダーをつなげ、さらにマギプラスの演算機構へと私を連結する。

 マギプラスは、ネルフ本部にあったマギタイプコンピュータの独自改修版であり、私とシンジによる同時シンクロを目的として、第3新東京市戦役以後に追加増設したものだ。

 

 異なる私の疑似人格からなる3ユニット、同様に異なるシンジの疑似人格からなる3ユニットを連結した第7世代有機コンピュータであり、本来「異なる自分」どうしの討議によって演算するシステムに、「他人」として対のユニットを増設することで、更に演算能力と状況判断速度を向上させたものである。

 

 私とシンジの同時シンクロによるヴンダーの、戦闘速度向上の要となるユニットであり、ATフィールド推進や重力制御に依る空間歪曲推進等、ヴンダー以外では困難な推進法による推進を、高効率高精度で可能ともする、ヴンダーにとっては私とシンジ以外のもう一つの脳とも言える。

 

 そのマギブラスが、僅かな重力振と時空振をL結界から探知、それらを量子演算機能で一気に算出し、敵の概算位置と数を叩き出す。出力されたのは、クソみたいな数字だった。

 

「……少なくとも3個群、300以上か。

 量子フィールド迷彩をかけてたのに、ヴンダーの位置を気取られるなんてどういうことよ」

 

 私の無意識の呻きに、青葉戦術長補佐が答える。

 

「内火艇収容時にエヴァを運用した際、固有ATフィールドのL結界干渉を逆探知されたものと思われます」

 

 エヴァか。有り得る話だと思う。

 あらゆる生命がATフィールドを持ちうるこの世界において、エヴァのATフィールドは極めて出力が高く、なんとなれば空間・光学観測すら不可能とするほどなのだ。

 

 そういうものであるために、エヴァのパイロットは、エヴァの肉体を動かすため、アシストとして身体各部をアダムスやリリス由来の筋肉だけではなく、補助として無意識にATフィールドを力場として使用してしまうことがある。

 

 そういう意味合いではヴンダーのほうがよほどATフィールドの出力が高いのだが、フィールド表面に観測欺瞞するための量子変質を行わせることで、この種の探知から艦の位置を欺瞞することが可能となっている。第8の使徒が用いた欺瞞方法のの応用かつ発展形なのだけれど、フィールドの周波数帯が違う弐号機と八号機のフィールドがL結界にわずかに干渉した可能性が高い。

 

 フィールドが揺らした、僅かな時空の振動をおそらくオアフ島沖、封印柱の武庫川で偵察を行っていた、44Aのいずれかに探知されたのだろう。なにしろ連中、数だけは気持ち悪くなるほど居る。探知情報をL結界圧で伝播され、それこそ世界中からあつまってきたのかもしれない。

 

「やられたわね……」

 

 舌打ちする私に対し、シンジはあくまでも冷静だった。

 

「問題ない、量子迷彩の存在を前提として、44Aの無限に等しい航続距離を利して十重二十重に警戒網を敷かれていた以上、わずかでも本艦が動けば探知されてたよ。

 本艦が囮となれば人類生存圏から連中を引きはがせるだろうね。

 特定の匂いに飛びつくように仕込まれた連中だ、この機に殲滅し本艦の行動の自由を確保する。

 未訓練の新入りの皆には悪いが、転びながら覚えてもらうしかない」

 

「あんたみたいに?」

 

 無茶を言う、と内心思う。

 同時に、新入りたちが気の毒になる。

 

 こちらの手持ち戦力として数えていいのはヴンダーとエヴァ二機程度。

 

 重力操演で使える艦艇がパールハーバーになくもないが、これはそれら艦艇を保有する現地ヴィレ支部やクレーディトに許可を取る必要があり、こちらが使用できるようになった頃には、もう手遅れとなりかねない。

 

 あとは操演用無人VTOLが40機程度、ただこれは実質気を引くための猫騙しみたいなもので、的に対しての致命傷はおそらく与えがたい。無論、使い方一つにもよるのだけれど。

 

 ただ、むしろ艦長はこれを、訓練経験を実戦につなげさせる好機だと思っているようだった。

 どうみてもぼんやりしてたあいつらをいきなりエヴァ300機に晒すというあたり、思い切りがいい。よすぎる。同じ釜の飯を食って10年。付き合っていいかげん長いけれど、こいつはたまによくドSになり、そしてそのことに自覚がない。中学時代はこんな子じゃなかったのに。

 

 まあ、実際のところ、人は成長するものだし、一度成長した人格を、もとに戻すことなんてできない。

 それに、今更14才の、無垢で壊れたシンジに戻られても、困る。覆水盆に返らず、事象は何事も不可逆的。時の流れという因果律から、人はそうそうのがれられるものではないのだ。

 

 そのことを示すように、艦長はうなずく。

 

「こういう時代だ、どこかで訓練経験を実戦に結びつけるしかないしね。

 遅いか早いか、それだけじゃないかな。

 それに、僕だって、初めてエヴァにのったとき、訓練もなしで使徒を倒せたし、案外なんとかなるよ」

 

 そう言って、口の端だけを上げて私を安心させるように笑みを浮かべてみせると、艦長はコンソールの通信機能のスイッチをいれた。

 号令が、下る。

 

「総員第一種戦闘配置! これより本艦は出撃、接近する敵飛行群を叩く!」

 

 アラートが鳴り響く。

 おそらく休んでいいと言われ安心した新米たちが、いまごろ先達にしばかれながら現場に容赦なく放り込まれていることだろう。

 とくに整備班・ダメコン班はきついかもしれない。

 現場一筋10年以上、ヴンダー屈指の仕事の鬼。

 鬼より怖い伊吹マヤ整備長。

 

「まあでも艦長の滅茶苦茶な作戦判断よりマシよね」

「副長の無茶苦茶な戦術機動のがきついですよ」

 

 思わず出た言葉に、青葉戦術長補佐が真顔で答えた。

 シンジと私以外が乗るようになってからは手加減してるのにそれでもひどい?

 

 新米の子たち、大丈夫だろうか。 

 一抹どころではない不安が、脳裏となく胸となくよぎりまくった。

 

 シンジが笑っている。

 なにかいいアイデアを思いついたという顔だ。

 たぶん、今回もひどいことになるだろう。

 それも敵味方両方にとって。

 本気の碇シンジには、基本容赦という言葉がないのだから。



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第1話「ヴンダー、新たなる旅立ち」Bパート

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 EPISODE:1 The Blazer

 Bpart

 

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「ハードなのは明日からって話じゃなかったのかよ!」

 

「もー! メイクし直し大変だったんですけどー!」

 

「長良スミレ、入ります!」

 

 けたたましく流れるアラートとともに、艦長自らの総員第一種戦闘配置の号令を聞いた新人ブリッジクルーたち、多摩ヒデキ、北上ミドリ、長良スミレの3人が、慌ただしく艦橋に駆け込んできた。

 

 放送開始から5分といったところか。艦の広さと、初日ということを考えれば、早い方かもしれないわねと、内心で私は思う。

 

 とはいえ多摩ヒデキ少尉は初めての実戦ということもあってか、明らかに取り乱していた。

 北上ミドリ少尉など、明らかに化粧のノリが先程より良くなっている。多分一度メイクを落としてすっぴんになった後、第一種戦闘配置の号令を聞いてから慌ててメイクし直してから来たのだろう。

 いや何分でメイクすませたのあなた。

 このタイムなのをどう評価したものか。女性として、女を止めたくないのはわからないでもないけれど、あの、実戦である以上生命かかってるの理解してるのだろうかこの子は。

 

 長良スミレ中尉はというと、航海科員として、運用法を把握する必要のある、補機にしてヴンダーの生命線の一つであるN2リアクターを見学にいっていたはずだった。補機の位置はかなり後方であり、その距離を考えれば、5分はかなり早い。

 

 副長挨拶とそれに伴う騒動の際、私や艦長に向けた視線には感情がまるでなかったが、すくなくとも職務の面で手を抜くつもりがまったくない、実直真面目を絵に書いたような女性であることは間違いないようだ。この子は出物かもしれない。

 

「ブリッジクルー全員到着、と」

 

 新人が全員揃ったとなれば、私が艦橋でやることはない。

 

 これで新人が疲れて眠ってしまっているようなら、部屋にアラートかけて叩き起こしつつ、新人代わりに戦術科を手つだって、ヴンダーの主砲たる20インチレールガンや、左右複胴の艦首部ランチャーの火入れをやらなければならなかったかもいれないが、ともかくも人員が増えた以上、それは戦術科にまかせられるし、任せて業務に慣れてもらわないと困る。

 

 通常時であれば、艦橋だろうがどこだろうが、接触シンクロでヴンダー艦体の管制はある程度は可能となっている。けれど、それではどうしても精度を欠いてしまうわけで、通信速度の良い回線、主機に近い位置でエントリープラグを介してヴンダーとシンクロし、高速かつ高精度のオペレーションを行う必要がある。

 

「艦長、私、主機の面倒みてくる。後よろしく!」

 

「了解。副長、悪いけど時間がない。急いでくれると、助かる」

 

「言われなくてもわかってるってば!」

 

  

 艦長たる碇シンジの願うような視線に私は答礼して魅せつつ、艦長席の右隣にある副長席に座った。副長席、となってはいるが、ほかの座席と異なり、それこそエヴァのエントリープラグから引っ剥がしてきたようなエヴァの操縦座席そのもののシートが場違いに設置されたような見た目となっている。

 というか、見た目も何も、エヴァの操縦席そのものなのだ。

 

 私は素早くシートに体を滑り込ませると、ジャケットを脇に脱ぎ捨て、プラグスーツのみとなった。誤差では有るが、効率のいいシンクロを図るなら、余計な衣類は無いほうがいい。

 電源を押し、シートのOSを待機モードから通常モードに移行した。

 正面モニタパネルの「Entry」の部分を指で押す。

 

 背後から機械音。

 艦橋各座席を支持するアームとは別の、高張力チタン合金製のアームが副長席の背後に伸び、私の座るシートの背後をグリップする。

 

 同時に艦橋構造物と連結されたロックが解除され、私は自分が座ったシートごと後ろに引っ張られた。

 艦橋の後ろの専用ドアが開き、また底から別のアームが掴む。

 座席が左方向に180度回転し、今までとは反対の向き、アームの方向を見ることになる。

 そのまま垂直に下方向へ降下。

 

 目の前に巨大なトンネル状構造──ヴンダーの背骨にして生命線たる、脊椎部が姿を顕す。

 次の瞬間、シートが艦橋とは反対方向、主機の方向めがけて加速した。

 

 脊椎部上部に増設された、主機運転担当者専用の電磁レール移動システム。 

 

 6年前のヴンダーの大規模改装で、いちいち歩いて主機まで行ってられるかという私の不満やら、主機のエントリープラグに浸かりっぱなしは地味にしんどいという私の不満やらを受けて、ヴンダー上部艦橋から、主機エントリープラグまでを瞬時……とは言わないまでも高速で行えるよう、組み込まれたシステムである。

 

 地味に、2年前の改装でタッチパネル操作一つで、プラグまでの移動モードを起動できるようになったのがありがたい。

 それまでは保守だの電子部品不足だので、いちいちレバーだのボタンだのをアナログな形でいじくり回してようやくレールが起動したことを思えば、隔世の念がある。

 

 脊椎部は過度のL結界充満を防ぐため、要所要所が透かし窓構造となっており、ヴンダー中央を通る背骨だけに、それらの窓から艦内の人員が、第一種戦闘配置に備えて慌ただしく動き回る様が見て取れた。

 

 うん、本当に慌ただしい。

 つまり統率が取れていない。

 

 初日に充当された人員が5割6割いる状況で、統率が取れていたらむしろ気持ち悪いのだけれど、昔の自分が『こんなんだから私とシンジだけでやってればよかったのよ』と内心で顔を出す。

 

 とはいえそういう子供の我儘じみた不満が通る状況でもないという理性は流石に働くので、そのまま内心で不満を押し殺した。人類存亡の戦争、デートや旅行感覚でやっていいものではない。

 メリット・デメリット踏まえた上で、『大量のヒトを使って運用する』と決めたのだ。この不満は、将来こう実るだろうと思って植えたばかりの苗に、巨大な果実の実りを秒で求めるような愚かさだろう。

 

 とはいえ、遅い。

 艦内が広すぎて道に迷ってます、という風情のクルーもいれば、何故か殴り合いを始めているクルーまでちらりと見えた。都合500人以上だったろうか。その人数ならこういうこともあるのかもしれない。

 

「え当分、あてにできるのって私とシンジ、元司令部のみんなと高雄さんしかいないわね……」

 

 新人のいきなりの実戦投入に対し、改めて不安が湧いてしまう。

 とくに北上ミドリ少尉とは角突き合わせただけに、しばらくは距離を保ってお互い落ち着いてから再面談したほうがいいかな、後腐れはなくしたほうがいいと考えていたばかりだけに、『あなた化粧する余裕あったの……みたいなお気持ちになり、かなり気持ちのやり場に困りもした。

 

 自分を飾りたい気持ちもわかるけど、その、戦争よ? 何考えてんの? となる。今の子ってわかんないを24才にして味わうとは。 

 

 などと考えている間にも、シートは艦中央部、主機直上に差し掛かり、緩やかに加速が停止し止まった。

 下方向にシートが降下を始め、下方からハッチが開いた音が聞こえてくる。

 

 主機エントリープラグ上部ハッチが開いた音だ。

 

 降下感覚とともに、視界が円筒の金属で覆われ、一瞬闇で閉ざされるが、次の瞬間内部の照明が点灯する。

 同時に、座席下側からロック音が響き、座席がエントリープラグに固定されたことを私に知らせた。

 

 座席背部を掴んでいたアームが上に消えていき、同時に上部からエントリープラグハッチ閉鎖音が響く。

 

「エントリープラグ、LCL注水開始」

 

 音声入力で注水指示。下方から音もなくLCLの水面が足から足首、腹、胸、首、顔を包む。

 慣れるまでは地味に怖かった記憶があるが、もうかれこれ気体呼吸から液体呼吸への切り替えにも慣れた。口から肺の空気を出しながら、鼻でLCLを吸い込む。要領さえつかめば1秒とかからず肺がLCLで満たされ、むしろ空気を吸うよりも楽に身体が酸素を取り込みだす。

 

 LCLは有機物だけに、変な細菌が湧きでもしないかと昔はこわかったものだけれど、実際のところ、エントリープラグはコアユニットに近い。

 L結界密度の関係上、ATフィールドの弱い雑菌のたぐいは概ね分解されてしまうので、感染病の心配はない。むしろ皮膚常在菌が死滅する関係上、皮膚のケアのほうが大事だったりする。

 

 プラグスーツで守られている身体はともかく、顔の皮膚は結構荒れるのだ。

 とはいえ、肌荒れもなにも、負けて死んでしまえばおしまいなのだし、一度ヴンダーとシンクロしてしまえば、当分それも心配にはならない。

 

「シンクロ、スタート」

 

 言語セットアップ等も設定済みのため、速やかにシンクロを開始する。

 次の瞬間、気持ち悪いほどに視界が広がった。

 

 こればかりは10年経ってもなかなか慣れない。

 継ぎ目のない360度上面視界、さらに下面部も360度視界。

 死角というものが全く存在しない、人類の視野角を考えれば認識不能な範囲を、今の私は見ることができる。この広大な視界は、ヴンダーに取り付けられた各部カメラやセンサーより齎された情報を統合して作り上げられたものだ。

 各センサーの配置位置は、当然、取付箇所が違う以上、微妙に位置がずれているのだが、その映像情報のずれは、マギプラスが迅速に補正をかけることで、映像に歪みや破断は発生しないようにできている。

 

 ただ、どれほど『自然』な映像が出力されたとしても、このヒトでは本来ありえない巨大過ぎる視界には、やはり未だに慣れることができずにいる。

 ほら、何かの切欠で眼球の後ろ側がいきなり見えたら、嫌じゃない? 

 

 まあ、それは実際のところ、些末な問題の一つにすぎないわけで。

 ヴンダーとのシンクロというのは、他にも面倒が多々存在する。

 ヴンダーを形成するアダムス由来の組織で構築された艦体主材は、カヲル野郎言うところの「アダムスの器」であり、人類補完計画における祭具、ガフの扉と呼称される、高次元空間へつながる位相平面次元を固定するための祭具の一種として建造された艦艇なのだそうだ。

 

 このため、人と言うよりは、むしろ使徒のような見た目をしている。

 カンブリア時代に湧いて滅んだような奇怪な巨大生物とでもいうか。

 

 地味に、ヒトとはあまりにもことなる、この形状が厄介なのだ。

 人間の脳は、人の形を操るのに特化した作りとなっている。

 なので意識も、自然そういう人体の作りを前提としたものとなっており、ダイレクトにヴンダーに完全シンクロしようとすると、意識がてきめんに拒絶反応を起こすのだ。

 

 艦内の警備カメラや、各所聴音マイクといった、こまかい艦内装備を思考制御する分には、それこそリモコンや携帯電話を扱うような気軽さで操作ができる。それこそスイッチのオンオフ感覚の気楽さだ。

 

 けれど、『自らの身体としてヴンダーを認識する』となると、『魂の形とからだの形が別だから、魂の動きをからだがうまくうけとめられず、動きがちぐはぐになってしまう』。ふわっとした言い方になってしまったけれど、例えば、ある人間がいきなり意識を馬の体に植え付けられたとしたら、走るどころか歩くことも難しくなるだろう。筋肉の使い方、体重の支え方、地面の蹴り方、全部人間とノウハウが違うのだ。

 まして、ヴンダーは人間以上の異形なのだ。組織こそアダムス由来であるものの、艦体形状は人間どころかあらゆる動物とかけ離れている。強いて言うなら鳥に近いが、私の知る限り、胴体が3つある、トリマラン構造を持った鳥は存在しない。

 

 この難点を解決するため、ヴンダー制御にあたっては、まずヴンダーではなく、ヴンダーの主機たる、エヴァの素体とアダムスを寄せ集めた、模擬的に製造したエヴァンゲリオン(のような安普請のなにか)へ、エントリープラグを通じてシンクロをおこなう必要がある。

 シンクロしたエヴァンゲリオン利用主機は、エヴァであるためにATフィールドを発生させる。

 このATフィールドは、慣れれば自由自在にヴンダー艦体に伝導させることができる。そうして伝導したフィールドは私の位置をヴンダー各所に伝え、またヴンダー各所のアダムス構造体からの情報を私にフィードバックする。これによって、私はヴンダーの艦体を自由自在に制御することが可能となるのだ。

 

 構造としては、私という核がまずエヴァという殻を纏い、その殻が発生させる信号でヴンダーという更に外側の肉をあやつる形になる。この方式を、疑似オーバーラッピング制御という。

 

 さらに細かく触れるとアダムス構造体の性質やエヴァのATフィールドの性質を説明する必要があり、これらを研究する学問や資料としては、形而上生物学やゼーレの裏死海文書などがあるのだが、これらは科学論文というよりどうみても魔術書の類で、神がうんたらた運命がうんたらた人がうんたらたケモノがうんたらたで、読んでいて頭が痛くなる。

 

 もう21世紀なのにと悲鳴をあげたくなるところだけれど、よりにも寄ってこの私自身が式波シリーズという、そういうオカルト魔術儀式に科学を組み合わせた、よくわからない儀礼によって生産されたしろものなので、非常に複雑な心地になる。クローンと言うよりは、いわゆるホムンクルスというやつの同類になるのかもしれない。

 

 このあたりのことを考えると三号機事件でああなったのは、運がいいのか悪いのかわからなくなる。

 

 ともかく科学的思考を止めてオカルトをオカルトのまま「なんか動くからいいでしょ」と雑に儀礼だけ研ぎ上げてここまでわけのわからないものに仕立て上げた連中の首は、勝ってから全員しめあげたい。

 

 私はひとまず現実に戻ることにした。PCがフリーズしたけれど、理由わからないから再起動して巧くやる、みたいな手口を積み重ねて死ぬほど複雑にした挙げ句、世界の運命を分けのわからないどん詰まりにもってかれたケジメはつけないと気がすまない。

 

 とはいえ実のところ、ここまでセッティングしてしまえば、自然マギプラスとも意識のリンクが確立され、主機も動かしたので、後はアクセルを踏むだけなのだ。当分私がやることはない。

 

『副長より艦長、主機とのシンクロ確立終了。そっち、大丈夫?』

 

 艦長たるシンジの脳波インターフェイスを通じて、表層意識にダイレクトで通信を送る。

 

『了解。僕の方は少し問題が起きてる。

 戦闘艦橋への移行のことでちょっとリツコさんと揉めててさ』

 

 は?

 戦闘艦橋? それまだテストも訓練もしてないやつよね?

 

 うん。本気シンジはこれだからアレなのだ。

 訓練無しで使徒と殴り合って勝ったりするやつだけに、少し待てお前ちょっと考えなさいよを、本当にしょっちゅうやらかしてくれる。

 

『まって、今ちょっとそっち行くから』

 

 マギプラス、思考連動。

 艦橋内ホログラム機能及びスピーカー、それと聴音機能と監視カメラを作動させると同時に、私は意識を艦橋に『飛ばした』。

 

==========

 

 艦橋に『戻る』と、案の定赤木リツコ技術班長が、呆れたような、面白くないような視線をシンジに向けていた。

 

「乗員のLCLガスを用いた戦闘艦橋とのシンクロ・リンケージテストは、あくまでも訓練施設で行われたものよ。精神と艦橋構造体との親和性を確認するための、性能テストに過ぎないの。

 

 技術班のトップとしては、新人がいる状況だと言うのに、テストスコア以外に担保するものが何もない、しかも訓練は愚か、クルー同士の相互シンクロテストもしていない状態での、本格的なシンクロ併用による作戦行動は肯定できないわね。

 クルーの精神に不可逆的な変化が加わりかねない上、最悪本艦の喪失にも繋がりうる。危険過ぎる賭けよ、碇シンジ艦長」

 

 リツコの言うことももっともだ。

 いくらテストスコアが高かったとは言え、それが実戦性能の高さにつながるとは限らない。

 

 だが、あくまでもシンジの視線は冷めて、なおかつ冴えていた。

 無表情で無感情、それでも本気で、どこか面白がっているところがある。

 

「けれど、僕も一発勝負でしたよ。エヴァに乗るときは」

 

 リツコが眉をひそめる。

 実際、ろくに訓練もなしに何度も一発勝負で実戦に放り込まれたのが碇シンジというパイロットである。

 そして、状況がそれ以外の選択を許さなかったにせよ、一発勝負で彼を送り出さざるを得なかった大人の一人に赤木リツコが居る。それはリツコにとって、実は今でも結構な負い目のようだった。

 

 しかし、シンジには嫌味のつもりはなかったらしい。

 軽く首を横にふる。

 

「僕と副長でサポート入れます。

 ブレイン・マシン・インターフェイスによるオペレーションには独特の要領が要ります。

 こればかりは身体で覚えてもらうしかありませんよ。脳も身体のうちですから」

 

『しれっと私が当たり前に手伝ってくれるみたいに考えてないあんた』

 

 シンジの隣、リツコの反対側にホログラム投影し、スピーカーを通じて音声でツッコミを入れた。

 しかし、シンジはあくまで飄々としたものだ。

 

 やらなきゃわからないし、やればわかるぐらいの気持ちなのだろうか。昔は『僕にはできないよ』ばかり連呼してたやつが、随分えらくなったものだと思う。

 

 それとも、むしろ自分がそう言い倒していたからこそ、やってみたら案外できたという成功体験ができてしまい、他人もできるはずぐらいには多分こいつは思っている。

 

 そして、シンジが言うことにも一理あるのは事実だ。

 頭の中で、明らかに自分の脳細胞由来でない声がするという体験は、楽なものではない。

 

 ともかく脳に妙な負荷がかかる。感覚としては、寝付きが悪い日に、熟眠できず悪夢を見て目覚めたときのような疲労感がべっとりと脳にへばりつき、何もかも不快で一日休みたくなる類のアレだ。

 

 実際にはマギプラスで、脳同士を『繋ぐ』ときには、脳波情報内容の最適化と、整流が入る。

 更に言えば、思考シンクロを行うと、少なくとも私と艦長の場合、びっくりするほどに思考が冴え出す。

 

 2ギガしかメモリの無い古代のPCがあったとして、そのメモリが2テラバイトになったら、アプリの挙動は当然早くなる。それに近い。

 

 ついでにいえば演算も、マギプラスにアシストしてもらえる。人類には絶対に不可能な暗算、複雑に公式を組み合わせた高次方程式すら暗算できて、スパスパ演算結果をだせるのは、実のところ、すごい快感だったりする。12で戦闘機を乗りこなし、14で大学を卒業した身の上なので、自慢だけれど余人よりはるかに頭がいいという自負はある。

 そんな自分の頭が、マギプラスにアクセスしている最中は、さらに良くなるのだ。逆に言うとシンクロを解除すると、思考速度がとたんに遅くなった気分になり、一時的にけっこうしんどい気分になる。

 

 ただ、ろくに訓練もつんでいない人間にとっては、ただの脳への負荷実験としかおもえないのではなかろうか。人間の脳は、ニューロンを利用したデジタルな部分もあるけれど、条件に応じて各部が励起する、タンパク質を利用した、機械式演算を行うアナログコンピュータとしての部分もある。

 脳は本来それ自体が完成し、完結したものなのだから、本来外部機器との、直接的デジタルインプットやアウトプットができるようには作られていない。

 ただ、脳波が電磁的なものであるために、脳波インターフェイスで脳波を拾うことは可能で、基本的にあらゆるBMIは脳波検知で動作している。ただ、使い方については体、というか、実際に脳を使って覚えてもらうしかない。大抵のスポーツと同じで、動かしてみないとわからないのだ。

 

 問題は、マギプラスを介して、脳へ他人の意識がインプットとアウトプットがされる点にあり、言葉にすると、頭の中で自分では制御できない声がガンガン喚き立てている状態となるだろうか。

 

「自分の中に他人が入り込む感覚。耐えられるかしらね、あの子達」

 

 リツコも同様の懸念を覚えたようだった。

 

 実際、三号機事件の犠牲者たる私達はその点否応なしに慣れるはめになった。

 けれど、このシステムの先行テストをした旧司令部組は、運用に慣れるのに相当苦労しており、まだ整備長になるまえだった伊吹マヤさんは、初日普通に嘔吐して訓練拒否、なだめすかすのに旧司令部とエヴァパイロット全員で説得して、一週間かかったのを覚えている。

 

 ともかく、大変なのだ。

 だが、其れを踏まえて、碇艦長はやるつもりらしい。

 

「シンクロ同期率を極限まで下げます。

 以前のテストでは10%でしたが、今回のシンクロ率上限は3%程度、脳の中をよぎる雑念程度の規模で、むしろ他人の意識を『捉える』ために努力が必要になるレベルでしょう。エヴァなら指一本動かないシンクロ率ですからね。

 まちがっても自我損失による形象崩壊はありませんよ」

 

 あー。逆転の発想ね。

 他人の思念が頭の中に勝手に入ってきて、気持ち悪い具合悪い煩いとなるよりは、他人の思念の声をなるべく小さく、静かで負荷がかからなようにして、他人の声を『聴く』ことに専念させ、まず脳に受容体を作ろうという考えなわけね。

 脳細胞は可塑性が高い。一度生成されたら分裂増殖したりはしないものの、学習能力があり、また、損傷などで一部機能を失った場合でも、機能によっては、別の部分にその機能を代行させることもできる。

 BMIに関しても然りで、例えばサルの実験では、頭に電極を埋め込むことで脳波を探知し、その電極を介して原始的なビデオゲームを遊ばせたり、脳波に連動して動く給餌器を動かすこともできる。

 

 つまり、多少最初は苦労するけれど、脳という器官は、この手の入出力方法に対し、適合性が皆無というわけではないのだ。だからこそ、私達がエヴァやヴンダーとシンクロできているわけで。

 

 リツコも感心したのだろう、少し興味深そうな顔をした。

 

「乗艦希望した時点で、モチベーション自体はある。

 苛烈な訓練で萎えさせてやる気を無くさせるより、楽だけれど自助努力が必要な程度にはタスクを課するというわけね。それに、貴方とアスカの戦い方を、脳波の形で感じさせて、擬似的にBMIを用いた闘い方を、脳で体験してもらう。

 

 あなたたちの思考を感じることで、あなた達の自我がどのように成り立っているか感じ取ってもらい、あなた達の闘いへの真摯さを識ってもらえれば、不信を取り除く材料にもなりえるわね。

 面白いアプローチね。それなら賛成できるわ」

  

「はい。ブリッジクルーには、将来的にマギプラスともBMIでコミットしてもらうことになります。

 僕ら同様、マシーンによる脳機能の拡張に慣れてもらいます。

 勝率を僅かでも上げるために。この艦を志願した彼らが無駄死にしないための、いわば通過儀礼ですよ」

 

 なるほどね。

 ヒト相手に心を開けないのなら、ヒトに似てヒトならざるマギプラスに心を開くなんて夢のまた夢。

 言ってみれば、魂にUSBポートを作るに等しい行為。

 

 ただ、一度ポートを増設してしまえば、様々なタスクを他人の経験を『引き出して』行うこともできれば、マギプラスにバックアップすることも可能になるわけで、非常に便利、というのは私とシンジが今までの闘いで嫌になるほど学んできたことだ。

 

 私がどうでもいいなあと思いながら学んでほったらかしにしていた大学時代の科学知識を、シンジが思わぬ形で生かしたことも過去にあるのだ。

 

 それにしても、とリツコがため息を付きながら微笑する。

 

「ヴンダーとエヴァ二機を勘定に入れて、彼我戦力差100対1。

 それを通過儀礼と言うのね貴方は」

 

「いつもそうでしたよ、僕とアスカの戦いは。

 楽な戦いなんて一度もない。物事は何だって都合よく運びはしない。

 戦いに限ってくれるなら、どれほど楽な人生だったか。ぼくにはわかりませんよ」

 

「意のままにならないのが人生だからこそ?」

 

 リツコの言葉に、シンジが艦長として頷く。

 

「僕にとって、人生は戦争とイコールになりかけています。

 アスカにとっても。そして、彼らもいずれそうなるかもしれない」

 

「そうしたくないからこそ、手段を選ばない。そういうこと?」

 

「苦痛は一時に過ぎません。

 苦痛に怯えて何もできなかった疵は、一生残りますよ。

 人にとって一番痛む疵は、後悔に他なりませんから」

 

 私は一度、北上ミドリの席に視線を投げた。

 そしてあの日のことを思い出す。

 

 世界が絶望の赤に包まれた日。

 忘れたくても忘れられないあの日。

 碇シンジが決断し、けれどその決断が実らなかった日。

 誰もが傷つき、そして誰よりも碇シンジが傷ついたあの日。

 

「10年前。ニア・サードインパクトの後悔?」

 

「まさか。後悔はしていません。

 その選択は楽でしょうが──それは僕にとっての敗北を意味します。

 だから、絶対に後悔はしません」

 

 そう。碇シンジはそうなのだ。

 渚カヲルという男に言わせれば、必ずしもそうではないらしい。

 

 けれど、他の碇シンジなんて私は知らない。

 目の前の男は、使徒にまみれたエントリープラグを見て、怯みもせずに飛び込んできた、どうしようもない馬鹿なのだから。

 

 一度、私とシンジの自他境界が限りなく薄れたから、シンジの見た景色はよく覚えている。

 青い粘液に包まれ、コア状の物体すら出現していたエントリープラグ。

 辛うじて初号機を動かし、組み付いたあいつは、ダミープラグが起動する直前。

 

 自らの意思で初号機のエントリープラグから、出て。

 プラグスーツしかまとわない身体で。

 あいつは、この馬鹿は、その時「助ける」しか考えていなかった。

 

 結果が、このざま。

 あいつの右目、私の左目。

 黒い眼帯、白い眼帯。

 

 光子の量子実験のごとく、あれはどちらにいるのかが分からないモノになってしまった。

 平等に封印柱で封じた結果、捕捉すら困難な量子的存在に第9の使徒は成り果てた。

 

 いいことなのか、悪いことなのか。

 私一人が死んでいればよかったのか。何が良かったのか。

 本当にわからない。

 ただ、これだけは断言できる。

 こいつは、疲れ、へし折れ、なにもかももう嫌になって、投げ出そうとしたようにみえたとしても。 

 

「諦めていないのね。結論は出たに等しいのに」

 

 リツコの言葉に、碇シンジは頷いた。

 

 結局こいつは、こうなのだ。

 追い詰められて、辛くて、泣き言を言って、でもそれでも動いて、必死にあがいて。

 そして、少なくとも──私が、式波・アスカ・ラングレーが、今こうしてこいつを見つめられるのは、碇シンジがあの日諦めなかったからなのだと。

 だから、私は何も言わないことで、彼の意思を肯定した。

 

「観測しない限り、猫は死んでいない可能性がある。

 それだけのことです。

 

 通常艦橋、戦闘艦橋へ移行開始。移行後、直ちに隔壁閉鎖。

 LCLガス注入開始してください。エントリースタート」

 

 呆れるほどの頑固さと、強い意志を左目に眼光として宿し、

 碇シンジは命令を発した。

 数多の生命を預かる艦長として、立つのだという決意とともに。

 

 新規クルーたちが、信じがたいという顔で碇シンジを見つめている。

 多摩ヒデキは、純粋に驚いているようだった。

 長良スミレは、無表情なようでいて、目に僅かな狼狽があった。

 

 二人共、技術概念は知り、適性テストは受けていても、全く訓練なしのまま、実戦でいきなり艦艇の集団シンクロ運用を行うなど、想像もしていなかったのだろう。

 無理もない。できるわけがない、という気持ちでいるのかもしれない。

 

 北上ミドリはもっと分かりやすい。

 碇シンジの意識そのものが、自らの脳に潜り込んでくる。

 多分クソでも塗りたくられた方がまだマシであるに違いない。

 彼女はそう思うだろうし、ひょっとしたら世間は、そう思う権利が彼女にあると認めすらするかもしれない。

 少なくとも、碇シンジはそう認めるだろう。

 

 けれど、それでも北上ミドリは来た。

 ヴンダーに乗るという選択肢を、彼女は選んだのだ。

 

 ヴィレは致命的な人手不足で、下部組織のクレーディトも致命的な人手不足。

 そして態度はともかく、成績を見る限り、疑いなく北上ミドリの資質は本物だ。

 

 なのに、彼女はヴンダーを選んだ。

 

 それは碇シンジの指揮下に入るということであり、計画上、遅かれ早かれそのような計画で彼と向き合うことになるということでも有る。

 

 わからない。

 動機として思いつくのは、今はもういない彼女だけだ。

 あの子はもういない。そのことを恨むのはわかる。憎むのもわかる。

 でもなんで、シンジのところにわざわざ来たの? 殺すためならまだわかるけど……。

 

 私は軽く首を振り、かかえた思考を手放した。

 今は彼女にかまけているわけではない。

 

 オアフ島の存亡、この一戦にありという状況で、さらに艦長はこの一戦の先を踏まえて布石を打とうとしている。彼が艦長として振る舞おうとしている時に、私だけ人間としての思考を弄ぶ贅沢をしているわけには行かない。

 

 そして、物思いに耽っている間にも、艦橋は通常艦橋位置から、上方の戦闘艦橋位置へと移行し、『隔壁』が閉じようとしていた。

 

 黒い球形の隔壁。ヒトならざるものがつくりだした素材によって練られた、人造の黒き月。

 ヒトとヒトならざるアダムスをつなぐ叡智、その具象としての結実。

 戦闘艦橋への移行プロセスの進捗状況を、日向マコト戦術長が報告し続けていた。

 

「戦闘艦橋に移行完了、隔壁閉鎖、LCLガス注入終了、正常圧。酸素濃度問題なし。

 マギプラス、現在艦橋乗員の脳波パターン捕捉、調律中。

 終了まで1分」

 

 碇シンジ艦長がうなずき、下令した。

 

「総員、思考接続備え。

 日向戦術長は北上少尉、青葉戦術長補佐は多摩少尉をアシスト願います。

 

 シンクロ同期率が低いとは言え、本物の思考併用式でのオペレーションは彼らにとり初めての経験です。

 精神錯乱の可能性は否定できません。注意願います」

 

「了解」

 

 戦術長の言葉に日向戦術長が、青葉戦術長補佐が頷く。

 二人共、まだ訓練レベルではあるけれど、他の旧司令部メンバー同様、LCLガスを用いた集団シンクロ実験は何度も経験している。

 

 経験がある以上、どうすれば新人にそれをアシストできるかまでを、彼らは考えることができる。

 伊達に長年、戦術オペレーターとして前線を支えてきたわけではないのだ。

 つまり、ある程度、彼らに新人教育は投げることができるわけだ。

 

 ついで艦長は、医務室に通信をつないだ。

 

「医務科長及び医務科各要員は、交戦に伴う負傷者発生に備え、所定箇所で待機。

 鈴原少尉は医務室所定席に移動、艦橋要員脳波モニタリングをお願いします。

 

 マギプラスに記録されている要員の通常時脳波と戦闘時波パターンを比較。

 各員の同調拒絶による脳波異常発生に注意してください」

 

 相手が航空特化の44Aの群体である以上、場合によってはハイG環境での救出作業や、治療・救命・トリアージを強いられるかも知れない。

 

 そして、軍艦においては、人の命は、残念ながらそれぞれ値段が違う。

 とりわけブリッジクルーは、艦の人員の中でも高値の部類になる。

 

 艦において貴重な医療スタッフの一人を引き抜いて、脳波状態を監視させ保安を図る程度には。

 ヴンダーは空中戦艦だ。ブリッジがやられれば、あるいは私とシンジが二人共死ねば、制御を失い、落ちる。

 つまりは全滅。故に、ブリッジクルーには価値がある。

 将来的に万一私やシンジが死んでも、戦いを続けられる人々を育てることに価値があると、碇シンジは定めたのだろう。

 

 死ぬつもりなんて欠片もない、絶対に負けられない闘い。まして彼は諦めを知らない。

 だからこそ、自らが死んでもなお誰かが戦える投資を、行おうとしていることが、私には理解できた。

 つまりは死んでも諦めたくないのだと思う。

 

 もうそのあだ名で呼ぶこともなくなったけれど、こいつの根っこは掘り返せば、どこまでいっても諦めを知らないバカシンジなのだ。

 

 命を差別するなんて、誰より嫌いな男なのに、そういうことができるようになってしまった。

 10年の歳月か。闘いすぎたせいなのか。

 やはり諦めたくないバカシンジなだけなのか。

 

 どれもそうなのだろうし、どれも違うのだろう。

 彼の考えをどう思ったのかはわからないが、鈴原サクラの返答は、思いの外、素直なものだった。

 

「了解。艦長、脳波異常確認時の対応についてご指示願います」

 

「赤木技術班長が、予備オペレーター席より発作発生に応じ、脳波調律オペを行います。

 最悪でも全身痙攣と意識喪失で済みますから、闘いが終わったら搬送してください」

 

 至極冷静にきつい可能性を口にしながら、艦長はリツコを招いた。

 

「……赤木技術班長、通信士席へ。本来予定された運用ではありませんが、OSは共通です」

 

 リツコは苦笑しながらシンジを見た。

 子供をみる母親のような顔つきだった。あるいは母親代わりをやろうとしているのか。

 いや、ミサトの代わりとみるのが妥当なのだろうけれど。

 

 冷徹であろうと努力し、冷徹を自認しながら、究極のところで、どこか冷徹を演じきれないところがあるのが赤木リツコという女性だと、私にもなんとなくわかってきたところだ。

 

「無理を言うのね。技術班長了解、発作者発生に備え待機します」

 

 リツコが頷き、空いたままの通信士席に腰掛けた。

 手元の端末を操作し、医務室の鈴原少尉に通信をつなぐ。

 

 モニタに、緊張した面持ちの鈴原少尉の顔が浮かんだ。

 まだあどけない、ベレー帽に青いスカーフの少女。

 世が世なら、まだ学校に通っていたはずなのに、彼女が居るのは戦闘艦艇だ。

 モニタの鈴原少尉の瞳を見つめつつ、リツコが語りかける。

 

「鈴原少尉、戦闘時の艦橋要員の脳波記録はマギプラスが記録します。

 しかし、貴女自身も観察を忘れず、各要員の傾向を観察して。

 人の心の動きは機械では完全には読みきれないの。人が観察する必要があるのよ」

 

「了解です、技術班長。自信ないですけれど、やります」

 

 鈴原少尉の言葉に、リツコは励ますように微笑んだ。

 

「誰だって最初はそんなものよ。私もアシストするから心配しないで」

 

「鈴原、了解。艦橋要員脳波監視の任に付きます」

 

 緊張した面持ちの鈴原少尉の顔を写したウィンドウが、端末から消える。

 言う通り、任務に専念し始めたのだろう。

 

 直後、青葉戦術長補佐の報告が入った。

 

「L結界外の各無人観測ドローンより入電、敵飛行群、方位及び距離推定完了。

 敵3個飛行群、北方、南東、南西、距離7万2千。

 各個に単縦陣隊形を取りつつあり、本艦への到達時間、400秒後と推定されます」

 

 脳裏にマギプラスのデータをよぎらせる。

 渡り鳥というよりは、三次元で動く蟻の群れと表現したくなるような、うねるような単縦陣を、四方八方から集いながら、44Aらしき飛行体の群れが形成しつつ有る。

 

 それが、3つ。

 

 東洋の龍を思わせる、うねるような、長い曲線として、三次元的に私には認識された。

 行動パターンは単純だが、数が数である。

 

 厄介なことには、変わりないか。

 一度、意識を主機エントリープラグに戻した。

 副長として、私は状況を報告する。

 

『副長より艦長、艦体調整完了。重力・ATF機能、現状最大出力発揮可能。

 高雄機関長、補機の状況どう?』

 

 私の意識はマギプラスにつなげてある。

 無論補機の状態は認識しているが、それでも私は高雄機関長に問うた。

 彼の言葉から彼の見識を聞きたいというのもあるし、目線合わせもしておきたかったのだ。

 

「高雄機関長より副長、補機N2リアクター稼働正常。

 エンジン圧力80%、N2反応推進準備良し」

 

 短くもスマートな解答。

 短い間に、難儀なN2リアクターをあっという間に戦闘出力まで持っていくのは、機関長の腕の良さをものがたる。私は彼の言葉に対して覚えた感情をそのまま笑みに変え、エントリープラグ内モニタの機関長に答えた。

 

『副長了解。昔みたいにATオーバーロード運転するかもしれないから、その時は冷却アシストお願いね』

 

 ATオーバーロード、という言葉を聞いて機関長が苦笑した。

 

「機関長了解、修理がきかんほど壊さんように頼む」

 

 なるべくなら勘弁してくれ、という素直な感情が彼の顔に浮かんでいた。

 それはそうだと私はおもう。

 

 ATオーバーロード。

 

 N2リアクターは爆弾にも使われるN2融合反応を利用した強力な動力炉であり、莫大な電力と推進力を生み出す代わり、非常に繊細な制御が必要な動力機関である。

 

 人類が開発した、有史以来最高の推進機であり発電システムであるのだけれど、それほどの代物でも、本来ヴンダーが設計上、主機として想定している疑似シン化エヴァに比べ、出力面では比べ物にならない。

 実際、出力不足のために、危機に陥ったことが何度も有る。

 

  ATオーバーロード運転とは、そのN2リアクターの限界を限定的に越える方法だ。

 

  方法は簡単。

 ATフィールドで炉内を保護し、N2融合反応を補機の設計が想定する、限界以上のN2融合反応を起こし、瞬間的に莫大な出力と推力を生むというものだ。

 当然、ATフィールド制御を失敗すれば補機喪失にそのままつながり、またATフィールド保護を続けるにもにも限度がある。

 また、炉心は保護できても、炉心が発電した膨大な電力は、配線やコンデンサに負荷を与え、また推進ユニットにも過剰な負荷がかかり、目に見えない形で金属疲労等のダメージを蓄積させることとなる。

 機関長としては、なるべく切ってほしくない最後の切り札なのだろう。

 

  とはいえ、他に選択肢がない状況では切るしか無い。

 

『そこは艦長の運用次第。私だって替えが効かないことくらい承知してるわよ。

 いい加減、まがい物のポンコツ主機じゃない、本物の主機をいれたいとこよね』

 

「違いないが……副長、若い連中がいい顔すると思うか」

 

 今度は露骨に高雄機関長が顔をしかめた。

 疑似シン化エヴァ。それがインパクトを起こしうるトリガーであることを、ヴィレの隊員で知らないものはいない。

 とはいえ、勝ち目のない手札のまま、負けて皆が絶滅するよりは、皆が絶滅するかも知れない危険な手札を使って勝負に挑んだほうが遥かにマシだ。なぜなら。

 

『絶滅よりはマシでしょう。

 今のままのヴンダーでは、ゼーレにもネルフにも、勝てない』

 

 今のヴンダーに、主機──すなわち三号機事件を切欠として覚醒し、今は太平洋海底深く、ポイント・ネモと称される座標に厳重に封印されたエヴァンゲリオン初号機を入れるということは、エヴァパイロットと、覚醒エヴァと、私と艦長の目玉に潜む、使徒という贄の全てが揃うということになる。

 

 あとは『槍』さえあれば、最後のインパクト、そしてそれを利用した人類補完計画を発動させることができる。つまりは初号機という無限にも等しい動力を手に入れた結果として、それほどのリスクを負うべきか、否か。ニア・サードインパクトで多くを失った人々からすれば、否定的になるのも無理はない。

 

 けれど、実際のところを言えば、ゼーレとネルフは、私達のことをろくに敵視していない気配がある。なにしろ、相手にはとてつもない量のエヴァがあるのだ。叩き潰す気になれば、地球上のあらゆるヒトの生存圏を破壊し尽くすことも可能だっただろう。

 

 そのわりに、手筋が、甘い。

 甘いと言うか、44Aや44Gといった自律行動型のエヴァを大量に世界中にばら撒いて、管理するでもなく、組織された軍隊というより、群体生命のように、好きに振る舞わせている気配すら感じる。

 時間が来れば勝ちは確定しているとすれば、ただその決着のときを待っているのかもしれない。

 

 だが、現状のヴンダーでは、おそらく勝てないのだ。

 10年前、渚カヲルが告げたように、終わりが定まってしまうのかも知れない。

 

 けれど、あがきたい。だからこそ。

 高雄機関長も、それは分かっているようだった。

 

「違いない。……機関長より艦長、ヴンダー主機及び補機準備完了」

 

「艦長了解」

 

 艦長は頷き、次の命令を発しようとしたようだった。

 けれど、割り込むように艦長の端末に別の通信が入る。

 

『艦長、レフトハンガー、伊吹です』

 

「整備長?」

 

 艦長が首を傾げた。

 私も首を傾げた。

 現状、整備班は重力制御を行ってすら逃れられないハイG機動に備えて待避所にこもる段階のはずなのに。

 

『はい。グッドニュースです。鹵獲44A二機を利用したエヴァ弐号機専用フライトシステム、完成しました。

 エヴァ弐号機、空戦運用可能です』

 

 ……驚いた。そう言えばクレーディトが無人艦艇を輸送艦として用いるのに使うフローターとして、よく44Aを乗っ取ってカバーを被せたやつを使っていたけれど、どうもそれを2つほどせしめ、エヴァンゲリオン用の空戦用キャリアーとして魔改造していたらしい。こんなこともあろうかと、というやつ。

 それで弐号機。

 たしかに今の弐号機パイロットなら、と妙に納得がいってしまった。

 

「艦長了解。試験運転は」

 

『そんな暇ありません!』

 

 ……シミュレーションンもなし、試運転もなしか。

 

 昔の、まだどこか大人しくてナイーヴだった伊吹マヤさんを思いだす。

 それが今や、鬼より怖い整備長。

 

 変わればかわるというけれど、多分一番変わった人ではなかろうか。リツコの前では猫をかぶるのだけれど、なんというか、うん。変わるところは変わるし変わらないところは変わらないわよね、人間。うん。

 

「了解。綾波は?」

 

 艦長は普通にそれを受け入れたようだった。昔から無茶な代物を無茶に使わされ続けたせいか、こういう整備長のむちゃを割と普通に艦長は受け入れる。信頼関係なのか諦めなのか、今ひとつ判別が付きづらいやつだ。

 そして、その言葉に応じるように、今の弐号機パイロットが艦長の問いに答える。

 

『弐号機より艦長。私は大丈夫。

 それより、進言。試製AA刀の使用許可をお願い』

 

 そして、答えついでにレイのほうも無茶なおねだりを艦長に始めた。

 案の定伊吹整備長が眉をひそめる。

 

『レイ、AA刀の対ATフィールド性能はまだ未知数なのよ?

 フライトシステムは『おおすみ』フローターの応用だから問題はないけれど、あれは……』

 

 しかし、エヴァンゲリオン弐号機を駆ること10年、もう私よりずいぶん長く弐号機を扱っている綾波レイ大尉には、押し通したい理由があるようだった。

 

『材質強度があるなら、アンチATフィールド効果がなくても問題ない。

 武装、多いほうがいいもの』

 

「整備長、試製AA刀の使用許可を出します。持たせてあげてください」

 

 パイロットが『求める』ということは、必要だということが、艦長にはわかったのだろう。彼も元々はエヴァ乗りだ。そして、10年、綾波レイの戦闘データも見ている。彼女の言葉と要望の意味を悟ったからこその許可だろう。

 

 実際、あらゆる戦闘において、「あと一手が足りない」「あと一手ほしい」は非常によくあるやつなのだ。予備戦力はあるにこしたことはない。戦争の鉄則だ。

 こちらが無勢ならばなおさらのこと。だからレイが使えそうだから使いたい、となる気持ちは、私にもよく分かる。艦長の言葉で納得したのだろう、伊吹整備長も頷いた。

 

『伊吹、了解しました。また実戦でデータ取りになりますね』

 

『戦力が足りない以上、瀬戸際の航海になるのはいつものことです。

 綾波、試製AA刀だけど、マテリアルの性質上、精神汚染の危険がつきまとう。

 戦術科でモニタリングは可能な限りおこなうけれど、L結界内部では計測精度が担保できない。

 過剰デストルドー汚染が発生した場合、即座に試製AA刀を破棄。それが条件だ』

 

 モニタ上の綾波が、素直に頷く。

 なにしろ試製AA刀は素材が素材だ。エヴァを殺すために生まれたようなシロモノとすら言える。

 それでも使えるなら使うと言わんばかりに、綾波レイは平然と頷いた。

 

『弐号機了解。伊吹整備長、フライトシステム及び試製AA刀準備お願い。

 時間は?』

 

『サブフライトシステム移動とカタパルト設置に3分頂戴。

 悪いけど、試製AA刀は弐号機で直接取りに行って。

 あれ、大物すぎるからクレーンで取りに行くには時間がかかりすぎるの』

 

『伊吹整備長、弐号機了解。試製AA刀受領のため、弐号機起動。

 副長、レフトハンガーでの作業、出撃待機状態移行まで5分かかる。

 レフトハンガーの重力制御を作業可能域でお願い』

 

 5分よこせ、と来たか。

 キャリアと判断力に信頼はおいているけれど、発進・接敵まで数分、という状況で5分レフトハンガーを1Gに保てとは、なかなか無理を言ってくると思う。

 戦術運動を打ち消すようにレフトハンガーの慣性と遠心力、重力をまとめてコントロール。

 無茶言ってくれる。色々あった挙句の果ての信頼の証とは言え、重すぎる信頼もあったものね。

 

「5分……重力制御が半端になるじゃないの……了解、なるべく急いで。

 整備は作業終了後、速やかに待機所へ退避。

 相手は航空特化タイプ、派手に振り回すことになる以上、身体は座席にしっかり固定。

 アシストいれても5Gいくかもだから』

 

『伊吹了解、準備急ぎます。

 ……そこ、不満をいうな、口より先に手を動かせ! これだから若い男は!』

 

 ……また若い衆が伊吹整備長に泣き言を言ったらしい。

 伊吹さん、結婚できるんだろうか。

 というかする気無いのかな、あれは。

 

 まあ、本人の描く未来予想図と人生計画はいざしらず、人類世界の現状は非常によろしくない。

 まずは結婚生活を考えるだけの余裕がある未来をつくる必要がある、かしらね。

 生涯独身仕事一筋でもいいけれど、それだって人類世界が復興してなんぼだし?

 

「機関長より副長。補機推進制御だが、弐号機準備を踏まえる必要はあるか」

 

 高雄機関長が、補機運用担当として当然の質問をしてきた。

 私もすかさず答える。

 

『副長より機関長、構わず手荒く回しちゃって。

 反動はこっちで制御いれる、交戦前なら重力制御だけでなく、ATフィールドでアシスト入れられるもの』

 

 もうそろそろ発進まで時間がない。

 動きが雑な44Aとはいえ、アレだけ群れられると厄介だ。想定外の挙動を仕込まれていないとも限らない。

 必要なら手荒くぶん回したほうが、生き残れる確率が増えるやつ。

 

「機関長、手荒く了解。補機全力運転準備よし」

 

 高雄機関長も一通り準備が終わったようだった。

 ヴンダーが、徐々に戦闘艦としての体制を整え、目を覚ましつつ有る感覚。

 ヴンダーとシンクロしている私には、それがまるで自らの体が闘いを前にして昂りを覚えているかのように感じた。単に交戦を前に各部コンデンサへの充電や、補機熱量、脊椎部コア熱量が上昇しているだけなのだけれど、ヒトの体では発熱というより戦いの前の高揚のように思われた。

 

「日向戦術長、兵装及び火器管制準備いいですか」

 

「問題ありません。全兵装オールグリーン。いつでも火を入れられます」

 

 艦長の問いかけに、戦術長もまた全て準備を終えたことを答えた。

 

「わんこくん、ライトハンガー、八号機出撃待機中。

 緊急案件のため戦術プランなし。 

 まさにHow this spring of love resembleth,The uncertain glory of an April dayってとこ?

 高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変に対応するから、出番が来たらヨロシク~♪」

 

 どうやら、エヴァンゲリオン8号機、真希波マリの方も準備が終わっているようだった。

 どうも何かの本からの引用が混じっている気配だけれど、最後の文句からは『好きにやる』以外の意思が汲み取れない。戦術行動の説明になっていないのだけれど、真希波マリだからしかたがないか。

 

 それら全てに頷き、艦長が放送チャンネルを開き、ヴンダー艦内全てに響く命令を発した。

 

「ヴンダー総員に告ぐ。

 現在まだレフトハンガーにて弐号機整備班が作業中だけど、時間がない。

 

 本艦は直ちに発進、接近中の敵性エヴァ三個飛行群を叩く。

 実地訓練無しでの実戦とはいえ、地上での訓練経験を思い出し、各自の奮励努力を期待する」

 

 そして艦長からの通信が、私が座するエントリープラグ内部に響いた。

 

『副長、ATフィールド・重力複合制御、推進へ移行』

 

「副長了解。ATフィールド・重力複合制御、推進へ移行する」

 

 艦長の命令に頷く。

 N2リアクターが組み上げた大量の電力、それが讃えられたコンデンサの『堰を切る』。

 ヴンダーの脊椎に恐るべき規模の電流が一気に注ぎ込まれ、連結された恐るべき数のコア全てに『火を入れた』。

 空間と重力、全てを防ぎ全てを刻む、凄まじい権能がヴンダーに蘇ったのを感じる。

 今までの船体維持に用いていたそれなど微塵に思えるほどの、世界を歪める禍々しい力。

 私と『身体』は整った。

 

 最後は『脳』。

 艦長が命令を発した。

 

「艦橋総員、思考接続開始する」

「戦術長、思考接続了解。接続まで5秒」

 

 日向戦術長がコンソールを手早く操作する。

 ヴンダーの脳髄たるメインコンピュータ、マギプラスもまた熱を帯びた。

 ブリッジクルー全員の脳と『つながる』ため、電子の触手をLCLガスを通じ伸ばそうとし始めているのだ。

 

「5秒ですか!?」

 

 多摩少尉がいきなり踏まれた猫のようは悲鳴を上げた。

 心の準備がまだできていなかったらしい。覚悟の時間をもっとくれという顔。

 殻が尻から取れていないひよこを見る目になる。このくしゃみ男はこの後に及んで。

 いやま、他人の思考が脳に入ってくるの、最初は死ぬほど気持ち悪いから怖いのはわかるけど、戦闘前なんだからもうちょっと……男の子でしょあんた……。

 

 青葉戦術長補佐が呆れたような目を多摩少尉に注ぐ。

 

「諦めろ」

 

 多摩少尉がこの世の終わりみたいな顔をする。

 それを無視して艦長が戦術科の上長二人に最後の指示を下した。

 

「戦術長、戦術長補佐、火器管制権限を艦長席へ。

 戦術科員への火器管制情報諸元の脳波入力時の整波をお願いします」

 

「戦術長、シンクロ整波了解」

「戦術長補佐了解。鈴原少尉、モニタリング、くれぐれもたのんだ。赤木博士も、お願いします」

 

『鈴原少尉、了解しました』

 

 青葉戦術長補佐と鈴原少尉の会話に、リツコが安心させるように告げる。

 

「青葉くん、修正通電の準備完了。

 多少錯乱を起こしても私が補えるから、安心なさい」

 

「通電!? なんですか、それ!?」

 

 多摩少尉がおののくのが分かった。

 修正通電。要するに重度のうつ病やてんかん発作患者に行って脳波を修正する通電治療を、LCLガスを利用し、疑似カシミール効果によって脳内電位に直接干渉することで行うという施術。

 LCLガス環境でシンクロ拒絶パニックを起こした人間には割と効く。

 ただ、高確率で失神したり、身体が痙攣したりするのだけど、それを言ったら多摩少尉は余計おののくだろう。いらない説明はしないほうがいいやつ。

 

「すまんが答えている暇は無い。シンクロスタート!」

 

 カウント0。日向戦術長が容赦なく言葉をぶった切った。もうその暇がない。

 敵は体型を整え、こちらに殺到しつつ有る。

 封印柱結界を抜けられ、非汚染地域で戦闘するなどという最悪だけは避けなければならなかった。

 そして、もちろん艦長はそのことをよく分かっている。

 

「副長。主機最大出力。空間重力制御推進開始。

 艦首方向空間縮退、艦尾方向空間拡大始め」

 

「副長了解、時空間制御開始!」

 

 私の返答に答えるように、ヴンダーが『唸った』。

 艦首前方へ、膨大な電力を得た脊椎コアより錬成した縮退重力子を量子転移させたのだ。

 それは巨大な重力場を形成し、空間を周囲を巻き添えにして絞り始める。

 ヴンダーの前の海が『窪み』はじめたようなような感覚。

 

 逆に後方へは反重力子、負の質量を持つがゆえに惹きつける場ではなく拡大し弾く場として生成されたものを生成し、空間を『広げ』始める。

 

 ヴンダーは眼前の重力へ落ち、後方の反重力に押し出される。

 全長2キロの異形の船が、私の意思によって歪められた空間を、物理法則に乗っ取って『落ちて』行く。それは傍目には水平移動に見えるかもしれないけれど、物理学的には正面に生成された一時的重力井戸に『転落』し続け、そしてさらに後方の斥力場によって『押され続ける』。

 

 前方に小さなビッグクランチ(妙な表現だけれど、実際そのようなものなのだ)を生み出し、後方に小さなビッグバンを生み出す。それを連続的に行い、好きな方向へ『落ちて行ける』。なんなら空にだって『落ちられる』。全長2キロの巨大な船を自由自在に操るには、この程度ですら些末の奇跡でしかないのだ。

 

 そして、その根本を支える電力と、予備の推力を生み出すN2ドライブも、とうとう本気の運転を開始したようだった。高雄機関長から、力強い言葉が走る。

 

「補機全力運転開始、出力460万トンよろし!」

 

 ヴンダー下部、N2リアクター補機が恐るべき熱量と呼気を吐き始める。

 補機と言うが、現在人類が自らの技術でたどり着いた、最強の発電・推進装置であることに変わりはない。

 爆弾として用いれば巨大な都市一つをも消滅させうる、人のたどり着いた恐るべき閾値。

 効率において核融合の弐倍の効率を叩き出すが故に、N2リアクター。

 その恐るべき出力が、通常では稼働し得ぬ数のヴンダーの脊椎コアを励起させるのだ。

 前方に重力源。後方に斥力源。下部N2リアクタ推進全力。

 マギプラス、推定推力演算、終了。

 力強く。

 私はヴンダー副長として、ヴンダー艦長に報告する。

 

「空間重力制御補正および補機推力累計、推力1160万トン!」

 

  

 飛ぶわよ、シンジ。

 進路任せた!

 

 

 私は、脳裏で語りかける。

 そして、気配だけでシンジは頷いた。通じているから、それがわかる。

 14歳の頃のシンジとは違う、迷いのない背中を、私は脳裏で見た。  

 決意は、むしろ冷静な響きとなって、碇シンジ大佐より下令された。

 

「ヴンダー、発進」

 

『ヴンダー発進!』

 

 碇シンジと式波・アスカ・ラングレーの言葉が、重なる。

 

 刹那に、ヴンダーの恐るべき巨体は、大海を文字通り引き裂きながら、凄まじい速度で飛翔した。

 移動する巨大な重力源にして巨大なる斥力源、運命と空間を捻じ曲げる怪物が、人には視えぬ速度で大空へ駆け上がる。

 離陸というより跳躍。

 跳躍と言うより、それはむしろ発射であった。

 迷いなき弾道は、青く狭きヒトの楽園を抜け、封印柱結界の向こう、赤き結界満ちた辺獄の世界へと征く。

 

 空中戦艦AAAヴンダー。

 ヴィレ最強のヒトの牙。

 

 贖罪を捨て、奇跡の名を得た神討つ凶鳥は、原罪を断罪すべく迫る300余の、福音と呼ばれし御使いを討つべく飛んだ。



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第1話「ヴンダー、新たなる旅立ち」Cパート

 何か、例えがたい規模の、とてつもなく巨大なものが、『世界』に飛び込んできた。

 

『彼女たち』は、正面に突然発生した時空振動を、そのように感じた。

 それぞれの機体に備えられた機体管制コンピュータが、その時空振動の波形パターンを迅速に精査する。

 

 照合完了。

 ガフの守人級戦艦一番艦、NHGBußeと質量、波形共に一致。

 

 どれほどの時間、この紅い世界を漂ってきたか、彼女たちは記憶していない。

 そのための機能も、そのための思考も与えられていない。

 

 ただ、それを探し、見つけ、鹵獲ないしは破壊するためだけ生まれた、エヴァ44Aを運用するための制御装置として仕込まれたマテリアル、生きた自動操縦装置にして自動戦闘システムとしての機能以外を削ぎ落とされ、この世に産声を上げた存在だ。

 

 長き辺獄の放浪の旅路の終わりが来たのだと、彼女たちは理解した。

 皆の胸には、歓喜。誰からともなく、微笑し始めた。

 彼女たちをつなぐ通信システムに、意味をなさない笑い声が響く。

 

 他の『彼女たち』の群れも、あの船を目指し、迫ってきているようだった。

 他に2つ。

 

 一番近いのは、私達。

 

 あの船も、私達を目指している。

 

 機体管制コンピュータが、彼女たちの操る44Aに備えられていた唯一の兵装たる、コピーロンギヌスへ給電を開始する。

 

 祭具としての機能をオミットされたデッドコピーに過ぎないが、パイロットたる彼女たちのタナトスに感応しデストルドーを励起、その槍先に強烈なアンチATフィールドを発生させる。

 通常兵器の装甲のみならず、ATフィールドという通常兵器では突破不可能な心理障壁をも中和し貫く、万物を殺すためのみに生まれた偽りの槍。希望も絶望も司ることを赦されなかった、乱造されしただの処刑器具。

 

 その槍の齎す衝動に踊らされたか、あるいは彼女たち自身の本来の望みが叶う時が近づいたからか。

 彼女たちの想いに答えるように、エヴァ44Aは目標をめがけ、巨大な投擲槍の如く、音速を超えて加速した。

 

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 EVANGELION ∧ i : AAA Wunder S 3.33 『YOU CAN (NOT) TRIP.』Prototype

 

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 EPISODE:1 The Blazer

 Cpart

 

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「南西方面、敵飛行群、距離2万!」

 

 日向戦術長の声が艦橋に響くのを、私は聴音機を通じて聞いた。

 同時に、マギプラスを通じて、戦術長の思念がブリッジクルー全員の脳に伝播したのをモニタで確認する。

 シンクロ率をかなり低減したとは言え、自分の意思で発生したわけではない他人の声が頭に直接響くのは、決して快適な経験ではないはずで、ブリッジクルーの新人3人の脳波グラフには、早くも平常時とは異なる異常波形が発生していた。

 

 3人とも、頭の中に制御不能な他人の囁きが響くことに、混乱しているんだと気づく。

 私は素早く喉頭マイクを起動した。

 

『副長より艦橋総員へ。

 

 作戦行動時の提案や作業内容は、シンクロ状態に慣れるまで、まず音声で報告して。

 思考と声をなるべく合わせるの。

 声に自分の思いを添わせれば、聴覚が自分の声を聞き取って、自分の頭の中の声が静かになるわけ。

 聴覚野が自分の声を聞くぶん、前頭葉に余計な情報を入れる余裕ができて、他人の思念を聞き取りやすくなる。ともかく自分の考えは声で出す、そして脳内に響く他のクルーの声を『聞く』ことに集中する。

 

 あと、私と艦長の思考は、『聞く』んじゃなくて、私と艦長、マギプラスの間に流れる思考の波形を『眺める』感じで構わない。実戦だから、悪いけど思考も最大戦速、さすがに初心者に合わせてられない。

 ただ、なるべく『これぐらいのスピードで回す必要がある』っていう感覚は覚えてちょうだい。

 波形を見て取りながら、頭と身体の両方に、闘い方の『感覚』を刻み込む感じ。自分の体を制御する五感に、さらにヴンダーを感じる六つ目の感覚を追加するのがとりあえずの目標となるわ。みんな、いいわね。

 副長からのアドバイス、以上よ』

 

 思考と言葉を調節し、ブレがないようにしながら艦橋内に音声と思惟を同調させて伝えたけれど、新人たちに伝わるかどうか。ともかく、助言はしたのだしと意識を切り替える。 

 

「敵、距離1万5000。相対速度2000。

 主砲による撃破可能圏内に入ります」

 

 日向戦術長の報告に、艦長は頷いた。

 

「了解。主砲発射準備、弾種榴弾。

 起爆時間調定及び、主砲照準、発砲は艦長が行う。

 

 進路このまま。主機及び補機出力120%、増速せよ。

 ヴンダー最大戦速。全艦交戦用意!」

 

「何故撃たないんですか!?」

 

 多摩少尉が驚愕したような声を上げた。

 

 互いに音速を超える速度で突進している以上、もはや互いが交錯するまで分の時間すら無い。

 44Aの武装はATフィールド中和突破に特化したコピーロンギヌスのみ。

 防御の多くをATフィールドに頼むヴンダーやエヴァにとっては、天敵と言っていい兵装。

 

 多摩少尉は訓練過程でそれを知っていればこそ、発砲しないことに恐怖を覚えたのだろう。

 敵が遠くにいるうちに、無害なうちに脅威を排除してしまいたいという、本能からくる衝動。

 敵を撃つことで安心したいのだ。

 新兵がよく陥る、トリガーハッピーという症状に、彼が陥りかけているのは明白だった。

 

 実際のところ、L結界内部で、充分な観測なしに遠距離砲戦を行っても、まず当たらない。

 L結界内部は磁場、重力を含めたあらゆる物理法則に異常が発生してしまっている。

 

 例えば重力異常が酷いところだと、第3新東京市戦役で撃破されたVTOLの残骸が、地面へ落下することも赦されず、いつまでも落ちないまま、まるで見えない糸に宙吊りにされたかのごとく、浮かんだままになっていたりする。

 

 実のところ、こうしてヴンダーが直進できるのも、常時各種センサーで磁場・時空間乱れを観測しつつ、常時重力子や斥力子等で微細な乱れの補正を事前入力し、重力子および斥力子、ATフィールドで随時干渉を入れ、L結界を切り破るようにして進路を確保しているからだ。

 

 この海域はL結界が比較的薄いのでまだいいけれど、L結界圧力が高い地域だと、マギプラスを噛ませても大変であり、無人ドローン等を先行させて進路状況を確認する必要すら生じることもあった。

 

 そして、その影響は、もちろんレールガンで発射する砲弾も受けてしまう。

 大遠距離砲戦、アウトレンジを図って、雑に弾丸を目標めがけて打ち込んでも、高確率でL結界の物理法則異常に囚えられ、まずまともに当たらない。

 故に、大遠距離砲戦を行う場合には、L結界を前提とした演算が必須となる。

 

 けれど、流石に今の多摩少尉にそれを理解してもらうのは難しいだろう。

 自分自身の胸の中の不安を取り除くため、ともかく敵めがけて一刻も早く砲弾を撃ちたいだけなのだから。

 

「艦長には艦長の考えが有る!」

 

 すかさず日向戦術長が多摩少尉を叱咤した。

 その思念には戦術長の艦長への信頼の感情が強く含まれていたが、多摩少尉はそれを感じ取れただろうか。現状、彼の思考パターンを見る限り、その余裕は無いように思われた。

 

 いずれにせよ最初はそんなもの。経験を重ねれば、否応なしに慣れていくはず。

 その『次』を作るのが、私とシンジの仕事となる。

 

 敵エヴァ44Aの群れが単縦陣を描きながら、ヴンダーめがけ突進してくるのが、もはや望遠なしでモニタから確認できる距離まで迫っていた。

 

「敵、単縦陣で接近、彼我の距離5000!

 突撃態勢に入ります!」

 

 敵単縦陣が、蛇のようにうねる。

 

 敵の攻撃パターンは、私にも読めていた。敵単縦陣の先頭の機体がまずヴンダーに突撃してくる。

 これが迎撃、ないしは回避された場合、後続の機体がヴンダーの行動に合わせ、より回避困難なコースをとって突撃する。

 それが、単縦陣を構成する敵の機数分だけ繰りかえされる。44Aの突撃のいずれか一つでも直撃すれば、ヴンダーは撃沈ないしは無力化されるだろう。何しろ贋作同然の数打ちとはいえ、相手はロンギヌスの槍を携えている。ATフィールド防御が通じない相手だけに、シンプルながら極めて厄介な手法と言えた。

 

 すかさず艦長の指令が下る。

 

「艦首下げ40、敵下方へ潜り込む。

 地球重力に乗せ増速、両翼へ電力電動、制動重力子射出用意」

 

『副長了解、艦首下げ40。

 伊吹整備長、レフトハンガー、いける!?』

 

 派手な戦術運動に入る以上、問題は作業中のレフトハンガーだ。

 

 下手な艦体運動を行えば、重力制御が追いつかず、発生した巨大な遠心力なり、加速にともなって発生したGにより、例えば数十メートル上の『天井』へ『転落死』する整備員がでるかもしれない。航空機事故でも、不慮の急降下で、シートベルトを締めていなかった乗客や乗員が、旅客機の天井に叩きつけられて大怪我を負う、なんてインシデントがあったりする。ヴンダーほどの巨船でそれをやらかせば、巻き込まれたクルーは死を免れないと言っていい。

 そんな私の不安に答えるように、伊吹整備長の気合の入った返答が、通信回線に響いた。

 

『弐号機およびフライトシステム、カタパルトに固定完了、射出準備よし!

 ハンガー要員退避完了まであと20秒、今走ってます!』

 

 5分と言いながら4分で終わらせたか。

 さすがの伊吹整備長と舌を巻きながら、レフトハンガーの全センサーおよびATフィールド分布を観測する。

 ハンガー要員の作業状況及び位置、行動状態を把握した。それぞれ、各自の所定位置から、全力で待機所へ退避のために走っている真っ最中のようだった。

 

『了解、要員位置はこっちで捕捉して、その間ATフィールドと重力制御でもたせる!

 退避したら対G防御、ベルト忘れたら、悪いけど命保証できないからね!』

 

『整備長了解、ともかく走る。……走れお前達、死にたいのか!』

 

 若いのが何人か、へたばりかけたのだろう、通信の最後に伊吹整備長の叱咤が飛んだ。

 ……間に合わないか!

 

『艦長、副長はレフトハンガーの重力制御に専念する!』

 

 返答をまたず、私の思考の9割以上がレフトハンガー内部の重力制御のために、レフトハンガー重力制御系へ取り付いた次の瞬間には、もう艦長の思念がヴンダーの推進系制御を完全に掌握していた。

 ユニゾン・ダブルエントリーのみが可能とする、刹那の連携行動ってやつ。 

 

「艦長了解、重力バラスト60、一息に敵飛行群単縦陣の腹に潜り込む!」

 

 彼我相対距離、2000。ヴンダーが重力の助けを得て、さらに増速する。

 こちらへ食い込もうと突進を続け、推定一秒後にはヴンダー艦体へ直撃していたであろう隊列の、更に下へ潜り込む。

 

 突進を外された敵機先鋒が、狙いを外しヴンダー後方へフライパスを強いられ、遠ざかる。

 敵中列以降はヴンダーへの突撃進路を取るため、軌道修正を目的とした上昇をかけ、後列は逆に増速し、ヴンダーめがけ、先鋒に次ぐ第二波として突撃体制に移りつつ有る。

 

『副長、レフトハンガー総員退避終了しました!』

『副長了解! アイハブコントロール!』

 

 退避確認ができたならこっちのもの、号令をまたず、けれど艦長の……ああもう面倒、シンジの思念通り、私がヴンダーの制御を取り戻した。敵先鋒から後方まで、敵の全機体がヴンダーの距離2000メートル以内に接近している。

 

 ヴンダーの表層に張り巡らされたATフィールドに、わずかながら敵機群ATフィールドの余波が干渉し、さざ波、のように私の脳裏に『彼女たち』の思念を伝えた。

 

──ああ、意思を全く感じられない、虚無そのものの笑い声が聞こえる。

 

 マギプラスに照会をかけるまでもない。いつもの生体制御ユニットの群れのお出ましだ。

 アヤナミシリーズ、44A管制特化型。自我なき殺人特化人形。

 その戦術行動パターンも、もとよりそのように条件づけされた、DNAレベルでデザインされた、脳内の反射行動が織りなす擬似的な群体行動にすぎない。

 

──この船を捜索するために、彼女たちは何年この紅い空を飛び続けたのか。

 

 飛ぶ意味も知らない哀れな小鳥の群れ。

 きっと無知ゆえに知らないのだ。

 小鳥が迂闊に巨鳥に近づくということが、どれだけ迂闊で危険であるかということを。

 

 シンジと二人編み上げた戦術行動を、私は詠唱のように号令する。

 

『重力バラスト右翼移動、右翼上面、斥力場展開しつつ艦体をロール、右舷補機推力下げ60!

 進路維持しつつコースターン!』

 

「艦長了解、両翼より重力子散布。ロールに合わせ空間歪曲」

 

『歪曲開始、飛び方も知らない哀れな小鳥ども、重力井戸に落ちろってーの!』

 

 44Aの群れがヴンダーを再び囲い込もうとした刹那、ヴンダーは右翼を下げるようにしてローリングした。

 2キロの巨体からは想像もつかない、飛ぶことに特化した猛禽のような軽やかさ。

 そしてそれが、碇シンジが仕掛けた罠へと迅速に連携する。

 

 両翼よりばらまかれた大量の重力子が、ロールに合わせヴンダーを囲むようにドーナツ状の重力場を形成し、発生した重力が、ヴンダーの周囲を取り囲む44Aを一気に引き寄せた。

 

 ヴンダーはその巨大な質量があるから、この程度の重力場なら、前進のモーメントを利用した慣性飛行だけで進路が充分に安定する。

 

 けれど、ヴンダーよりも遥かに質量の小さい、44Aはそうは行かない。

 全長2キロの巨鳥の羽ばたきの、恐るべき重力の生み出した風圧に飲まれ、44Aという小鳥の群れが飲み込まれた。c字状に変形していた隊列が崩れ、擾乱され、敵機の全てがコントロールを失い、錐揉み状態に陥っていく。

 

 そして、私の操るヴンダーは両舷補機の推力を偏向させ、左舷補機推力で、さながら車でドリフトをかけるように、突進しながら空中で艦首の前後を入れ替えた。

 私は再び重力子散布をヴンダー周囲に行う。

 艦体各部の運動エネルギーのモーメントを安定させる。

 混乱している敵機の群れを艦正面に捉えた。

 

『副長より艦長、艦体安定完了!』

 

「艦長了解。

 ATフィールド攻性展開開始。

 マギプラス、榴弾起爆時の破片散布パターン演算終了。

 主砲、各個に照準。一番より順次発砲する」

 

 すかさず、シンジの思念が主砲に走る。

 ヴンダーの左右船胴上面に備わるこの艦の牙、45口径20インチレールガン連装砲四基の砲塔が、それぞれに僅かな円運動を行って旋回、各砲塔に備わった砲身がそれぞれ僅かずつ仰角・俯角を変えながら、シンジの狙う空間をめがけ照準を行う。

 砲身が、固定された。

 

「撃ち方、始め」

 

 無慈悲な号令が飛ぶ。

 コンデンサに蓄えられた膨大な電力が、砲身内部のレールに流れる。

 生じた膨大な電磁力が、直径51センチ、重量2トンの弾丸を、むしろ緩やかに押し出した。

 

 それぞれの砲身より、偏差をつけられて飛び出した榴弾8発が、崩れたc字型の、未だ機位を立て直せずにいる44Aの群れの只中に均等な間隔を置いて飛び込み、そして同時に炸裂した。

 

 もちろん、通常兵器の、まして榴弾なんて、本来ATフィールドの有るエヴァンゲリオンに通じる道理など無い。けれど、あの小鳥たちは、あまりにもヴンダーに近づきすぎていた。

 

 つまりヴンダーのATフィールド展開範囲内にあり、あの小鳥たちが発揮できるATフィールドなど、私とシンジのATフィールドならば容易に中和、消滅させられる。

 

 エヴァとしてはおよそ出来の良くない、飛ぶこと以外まるで取り柄のない脆弱な機体とコアが、人類世界でも稀有な巨弾、重量実に2トンにもなる、高性能爆薬を満載した超重榴弾の爆風と破片を防げる道理がない。

 さらに、敵編隊はなまじ単縦陣間隔を狭めていた。まとめて吹き飛ばしてくれと言っているようなもの。

 

 ……艦長がエヴァンゲリオン44A第一波、100機以上を殲滅するのに要した斉射回数は4回、榴弾32発だった。

 

「敵、第一波の撃破を確認」

 

 落ち着いた声で艦長が、戦闘状況に一段落ついたことをブリッジ要員に告げる。

 日向戦術長や青葉戦術長補佐、リツコは呆れたような、安心したような複雑な表情をシンジ、もとい艦長に向けていた。

 つい艦長と私だけでヴンダーを動かしていたころのノリで振り回してしまったけれど、思考パターンを見てもらえたか、正直不安になっている。

 

 まあ、マギプラスに戦闘データは記録してあるので、何度でもこの戦闘の『追体験』は可能になっている。

 新人の皆には、後でゆっくりと補修してもらえばいいかしらね。

 

 で、その新人3人はと言えば……それぞれに放心していた。

 

 多摩ヒデキ少尉は、この世で最悪のジェットコースターで20時間振り回せれたらこうなるか、というくらい魂が抜けきった表情で視線が泳いでおり、長良スミレ中尉は、どこか不安そうな表情を浮かべていた。

 彼女は航海科だ。つまり、将来的に『このレベルの操艦を期待している』と告げられたに等しいわけで、それが顔に出ているのだと思う。

 私達のように、エヴァでシンクロ制御が当たり前の状態でヴンダーに乗り込んだわけでない以上、不安になるのは仕方ないわよね。

 

 そして、北上ミドリ少尉はと言えば……一瞬だけ艦長に戸惑ったような視線を向け、そしてまた俯いた。

 LCLガスを通じてシンクロしているだけに、彼女の内側に怒りが有るのが、わかる。

 僅かに、本当に小さく、彼女の内心のつぶやきが、伝わった。

 

 

 こんな凄いのに。こんな強いのに。

 どうして、こいつらは。

 

 

 過去にとらわれているのは、明白だった。

 私達への怒り。けれどヴンダーへと乗り込んだ矛盾。

 おそらく、この気持ちへの整理が動機なのかもしれないと、ふと思う。

 

 根拠はない。

 

 けれど、態度はともかく、彼女の才能と努力は本物だ。

 訓練時の成績の伸び方が、それを物語っている。

 生き残るために幼少の頃訓練を積み重ねてきた私には、それがわかる。

 

 私と、動機は違うのだろう。けれど、彼女には譲れないなにかがあり、だからこそ、厳しく苦しい訓練に耐え抜き、ヴンダー艦橋要員に選ばれるほどの成績を達成した。

 ただ、それは今彼女に問うても聞けないだろう。明らかに思念を絞って、聴こえないようにした思念だった。それに、問うているタイミングでもない。

 

 私は気持ちを切り替える。

 私は艦長脇のホログラム像を通じ、艦長に視線で促した。

 艦長が頷き、日向戦術長に問う。

 

「日向戦術長、北方及び東方の敵飛行群の相対距離の報告願います」

 

「現在、敵両飛行群はオアフ島封印柱地域を迂回しつつ、本艦に接近中。

 北方敵飛行群との距離、64000。現在、上昇軌道を取っています。

 東方敵飛行群、距離42000。高度変化なし。速度、変わらず」

 

 報告を機器、思わず私は眉をひそめた。

 事前に仕込まれた単純なロジックを元に、突進するしか能のない連中が、上昇。

 航空戦において高度を敵より高く取ることには色々と意味がある。

 問題は、その『意味』を考える権能を与えられていないはずの連中が、それを行使してきたという点にある。

 

『上昇してるの? 本当に?』

 

 私の問いに、日向戦術長が頷く。

 

「はい、たしかに上昇しています」

 

『臭うわね』

 

 私の言葉に、艦長が頷く。

 

「時間をかけないほうがいいね。従来と手筋が違う。

 レフトハンガー、弐号機発進用意。

 東方飛行群を弐号機で叩き、北方の敵はヴンダーで引き受ける。

 8号機をサポートにつけたいけど、相手の動きに妙なところがあるし、フライトシステムは現状一機しかない」

 

『弐号機了解。東方の飛行群は私が引き受ける。

 艦長たちは北をお願い』

 

「了解。

こちら艦長、勘だけど、時間がない。

 N2セイリングによる強襲を仕掛ける。

 現状、北方の敵の動きが読めない。よって、迅速にこれを捕捉撃滅し、敵の罠が閉じる前にカタをつける」

 

『弐号機、綾波、N2セイリング了解。

 フライトシステムのATフィールドを併用し加速、東方敵飛行群に強襲をかける』

 

 レイから了承の旨の通信が届いた。

 N2セイリングとは、N2爆雷起爆時の爆圧と爆風を、ATフィールドを帆として受け止めて加速するという加速方式だ。風を受けて進む帆船と同じ原理と言っていい。風をN2爆雷で起こすだけのこと。

 

 質量が軽いエヴァ弐号機はもちろん、ヴンダーも受けるメリットは大きい。

 後方の空間拡張にまわしていた出力を、前方の空間圧縮によって生じる重力偏向加速にまわすことができるので、文字通り爆発的な加速を行うことができるわけだ。

 

 威力で言えばかつての核兵器すら凌駕する代物をただ加速だけのために使うというのは、滅茶苦茶のように聞こえるかもしれないけれど、そうでもしないと生き残れない闘いが過去、何度もあった。

 

 現状のヴンダーは、覚醒アダムスという本来の主機を欠いている以上、正直、出力に欠けているところがある。その不利を補うためには、手段を選んでいられない。

 

 それに、ここはL結界内部海域。物理法則異常のるつぼ。

 N2爆雷の爆風の影響は、L結界に擾乱されたあげく、オアフ島方面へたどり着いた余波も、封印柱のアンチL結界に阻まれる程度のものでしかないため、まずオアフ島には及ばない。

 

 一度艦長に視線を合わせると、艦長が頷いた。

 私はマイクのスイッチを入れ、全艦放送で乗員全員に告げる。

 

『副長より全艦に通達。

 艦長指示により、本艦はN2セイリング航行を実施する。

 先手を打つわ。悪いけど、G補正が効かない分、きついから覚悟しといて。以上』

 

「L結界内部とは言え、迷いが無いのね、式波副長。

 大量破壊兵器を、ただ推進のためだけに使う。狂気の沙汰よ」

 

 艦橋ホログラムの私を、リツコが呆れたように見ている。

 使徒のATフィールドでも防ぎきれない代物の爆圧を、ただ推進のために使う。

 確かに狂気の沙汰かも知れない。

 

『そう思われてもしょうがないわよね。

 でも、臭いから。向こうの想定するより早く叩く必要がある……ただの勘よ。

 こういう勘、無視するとだいたいろくなことにならないの。艦長と私の経験』

 

「経験者は語る、ということね。

 マヤにぼやかれるわよ。本体はともかく、人工区画は再生が効かないもの」

 

『直せる程度に収まるよう、努力はするわよ』

 

 思わずぼやく。

 修理が効くならいい。相手の狙いが読みきれない以上、下策は打てない。

 失策で誰かが死ぬ、という事態は、正直を言えば避けたいという本音もあった。

 

「不可能と無茶を履き違えないでね、これは忠告よ」

 

『人生の先達の意見ね、重みが違うわ。

 でも、どっちかというと、私よりもシンジに言ったほうがいいやつよ、それ』

 

「あの子は決めたらまず聞かないわ。

 多分父親に似たのね」

 

『違いない』

 

 私とリツコは、二人で揃ってため息を付いた。

 リツコにはミサト。私にはシンジ。

 危うい判断を平然と下せる無茶を人間にしたらこうなる、の権化のような相方を持ってしまった人間同士の奇妙な共感が、お互いの間に漂った。

 などという変な空気に、戦闘中を感じさせない気楽な通信がとどいた。

 

『エヴァ8号機、真希波よりわんこくんと奥さーん。

 8号機出番まだかなー?』

 

『だーかーらー奥さんいうなっちゅーの! 未婚だから!

 艦長、どうする?』

 

 ひとまず艦長に判断を仰ぐ。

 

「8号機はハンガーで待機。

 勘だけど、北は危ない。予備戦力は残しておきたい。

 現状、ヴンダーは正直防空火力が足りない。

 武装選定はマリさんに一任する」

 

『いつもの無茶振りりょーかーい。

 重力管理、任せたよ奥さん♪』

 

『……他に呼び方無いのか。まあいいわ、管理はきっちりやるから交戦時は安心して、副長以上!』

 

 乱暴に通信を切る。

 相変わらず多摩少尉が騒いでいるがどうでもいい。

 初日の初日で急展開の結果質問マンになる新人っているわよねーみたいなツラになりながら、立ったまま(といってもあくまでホログラム像であり、私自身は主機エントリープラグ内に浸かりっぱなしだ)艦長に視線を投げる。

 

『艦長、N2セイリング、いつでも行ける。

 全乗員に、対ショック、対閃光防御お願い』

 

「艦長より総員に告ぐ。

 本艦及び弐号機はこれよりN2セイリングにより北方、及び東方敵勢力を個別撃破する。

 

 弐号機はカタパルト射出後、所定位置にてフライトシステムで待機。

 戦闘科は予定通りN2爆雷を左胴艦首マルチミサイルランチャーに装填。

 誘導、起爆は艦長が執り行う。

 全艦、対ショック、対閃光防御用意」

 

『弐号機、了解。伊吹整備長、カタパルト発艦許可を』

 

 弐号機パイロットが、いつもどおりの感情のない声で、整備長に発艦許可を求めた。

 

『伊吹了解。無茶はしないでね』

 

 伊吹整備長が、少しだけ昔の、優しく弱かったころの声音に戻る。

 綾波レイというパイロットの危うさを、まだ覚えているからこそ、そう思ってしまうんだろう。

 

『分かってる。パインサラダを作って待ってて。チキンブロスでもいい』

 

 しかし、いつもどおりの無表情な声で、しかしどこか余裕を感じさせる気配を発しながら、綾波レイは平然と答えた。

 

『……了解。射出します。

 本当に、無理しないでね。危ないと思ったら、退避して。

 艦長命令じゃなくて、私のお願い』

 

『……弐号機、了解』

 

 伊吹整備長の真摯な言葉に対し、どこか不服そうな声音で答えるレイ。

 

 ……多分ツッコミ待ちだったんだろう。真希波マリに妙なものを見せられたか読まされたに違いない。

 なんというか、真希波マリとヴンダーで暮らし始めてから、あの子は稀に妙な言動をするようになった。 いい影響と捉えるべきか、悪い影響と捉えるべきか。

 

 とりあえず真希波マリに匹敵する扱いが難しい人間になられたら困るなあと思いながら、艦外カメラに視界を切り替え、フライトシステムに立膝で座した青い弐号機に視線を投げる。

 

 高効率バッテリー及び給電系の改良により、アンビリカルケーブルなしでも15分以上の交戦継続が可能となった弐号機綾波レイ仕様であり、過去に比べ、より長時間の作戦行動継続が可能となっている。

 

 その上、フライトシステムには追加のバッテリーとコンデンサ、さらに44A由来の、出力こそ限られるもののほぼ永続に近い給電により、パレットガンどころかポジトロンライフルなどの電力消費が激しい兵装でも、長時間の戦闘に耐えうる状態となっている。

 

 願わくばフライトシステムを壊さず帰還してほしいと思ってしまう。

 伊吹整備長が『グッドニュース』と先輩たる赤木リツコを真似て胸を張る程度には、出来のいい代物だ。44Aを二機、つまりは粗悪とは言えエヴァ4機分をユニットに使っているだけに、ATフィールドを補助に用いれば速力もかなり出せる。今ひとつアテにできない防空用無人操演ドローンよりは、遥かに有用な防空戦力足りうるだろう。

 それでも、必要であれば壊すときは平然と壊してしまうのが、綾波レイという女なのだが。

 次いで、高雄機関長からも要望が飛んできた。

 

『機関長より副長、補機へのATフィールド防御だが、可能なら電磁波帯域の防御も頼む。

 前の──もう10年も昔か、あのときのセイリングでは、かなりの部品を電磁パルスに持っていかれたからな。本艦が宇宙での行動も想定して作られて居るのは知っているが、乗艦前に資料を読んだ限りでは、部品供給の関係で、高電磁波を食らうと本体はともかく、居住区画の多くの電子部品が死ぬ。正直、内装や艤装のシールドが完全じゃないからな。すまんが、頼む』

 

 交戦時間自体はさほど長くないとはいえ、表情に僅かに疲れが滲んで見えた。無理もないわね、と思う。

 ヴンダーのN2リアクターの戦闘運用自体彼にとっては本当に久々なのだし、さらに実戦という人間にとっての異常状態は、10分を100分にも200分にも感じさせる、超高ストレス環境なのだから。

 

 先程の戦闘では、私が次から次へと思考スピードで繰り出す補機コントロールの無茶振りに対して、返信の言葉を返す暇すらないほどに、高雄機関長はそれこそ必死で補機の面倒を見てくれていた。

 

 お陰で、事前に想定していたより補機のダメージが少ないし、全体の蓄熱状態も、思いの外に低温だった。

 つまり、そのぶんまだ派手に回すことができる。

 

 補機からの給電を失ってしまえば、ヴンダーは身動きがまともに取れなくなってしまう。

 言ってしまえば石のタヌキだ。

 浮かぶしか能がないドンガラに成り果ててしまう。

 

 エヴァはパイロットの意志に答える祭具として生まれた側面が有るため、電力が切れてもなおパイロット次第で再起動することがある。

 

 けれど、異相次元への扉たるガフの扉の管制・維持が目的に創られた、所詮はアダムスの器でしかないヴンダーでは、暴走だの再起動だのは多分決して望めない。

 

 つまり、無茶のしすぎによる補機損失というのは、現状では絶対にさけなければならないわけで。

 

『副長了解。

 精密機器がある箇所の被爆は極力防御するから安心して。

 戦場で本気が出せなきゃ意味ないから、そこは保証する』

 

『安心した。理解してもらえているようで助かる。

 それでこそ、命を預けるに足りると言うもんだ。機関長以上』

 

『お互い様よ。

 補機がまともに動かなきゃ、私たちもまともに動けないもの。副長以上』

 

 そして、そうしている間に、艦長と戦術科の話し合いも終わったようだった。

 N2爆雷が左胴艦首マルチミサイルランチャーへ装填されたことを示すサインが、マギプラス内部、ひいてはヴンダー艦橋の各端末のディスプレイに送られる。

 艦長は状況を確認した上で頷き、全てが所定状況にあると納得したようだった。

 

「N2爆雷投射」

「戦術長了解。N2爆雷、本艦後方に投射します」

「艦長了解。投射直後より誘導を開始する」

 

 左胴艦首マルチミサイルランチャーより、N2爆雷弾頭を搭載した大型ミサイルが射出される。

 ミサイルは発射後僅かに直進した後、左方向へ旋回、起爆地点へむかい飛翔を開始した。

 

「N2爆雷起爆カウントダウン、開始」

 

『綾波レイ。エヴァンゲリオン弐号機、フライトシステムで出る』

 

 艦長の号令開始と同時、ミサイル発射のタイミングを待っていた、レイの操る青いエヴァ弐号機がフライトシステム諸共、電磁カタパルトで射出される。

 

 射出と同時に、弐号機を乗せたフライトシステムが、さらなる加速を開始する。

 フライトシステムの加速性能は、マギプラス上に上げられたデータ以上のようだった。レイのシンクロ率の高まりが、素体である44Aの出力を跳ね上げているのかもしれない。

 エヴァンゲリオン弐号機は、またたく間にN2セイリング前の待機位置にたどり着いた。

 

 そして私も、N2セイリングに向け、素早く準備を始め、終わらせる。

 乗員が被るであろうG負担緩和および、Gに持ちこたえられないだろう艦内構造の脆弱箇所のため、各所の重力制御に偏差を加え、特に危ない箇所には、斥力場による干渉スプリング場を設置しておく。

 

 さらにN2爆雷の爆圧を受けて加速するため、ヴンダー後部にN2爆雷の爆風と爆圧を受け止めるための大規模なATフィールドを形成した。

 

 機関長への要望を入れ、ATフィールドの位相を若干修正。

 電子機器にダメージを与える可能性のある電磁波のたぐいもシャットアウトできるよう、フィールド密度を上昇させ、電磁波の浸透を食い止められるよう備える。

 

 このため、私の側では前方へのATフィールド展開が不可能になっている状況だけれど、そこは艦長が巧くやるだろう。

 艦を操るパイロットが二人いるために、様々な方向へ様々な形にATフィールドを展開できるのが、ダブルエントリー方式の強みなのだ。

 将来的にはさらに枚数を増やせる。ATフィールドは心の壁。乗員それぞれが相応のシンクロ能力を確保し、ヴンダー脊椎部への干渉が可能となれば、ATフィールドの展開枚数も、必然として増えることとなる。

 もちろん、それはクルーの教育が無事進めばの話で、当分は私と艦長でATフィールド周りは制御する他ない。容赦なく艦長のカウントダウンが進む。

 

「3,2,1。N2爆雷、起爆します。総員、対ショック、対閃光防御」

 

 起爆座標に到達したN2爆雷が、艦長のカウントダウンがゼロになると同時、予定通りに起爆した。

 

 恐るべき閃光。

 セカンド・インパクトにおける各国動乱に置いて二度と消えない傷跡を大地に無数に刻んだ、核兵器を凌駕する恐るべき爆発が発生した。

 

 ヴンダー後部と、零号機下部に展開された巨大なATフィールドが、それを受け止め、恐るべき速度で両者を目的の戦場へ突進させる。

 後にハワイ沖防空戦と呼ばれるこの闘いは、最終局面へと移行しつつあった。



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第1話「ヴンダー、新たなる旅立ち」Īnterlude:【北上ミドリの記憶】

Īnterlude:START

 

 

『綾波レイ。エヴァンゲリオン弐号機、フライトシステムで出る』

 

 北上ミドリは、サイドコンソールの画面に映った綾波レイを目視した。

 表情の無い顔をモニタに見、表情の亡い声を聞く。

 自然、自分の顔が引き攣る。

 

 似ているを通り越して、本当に瓜二つだった。

 だから、否応なしに重ね合わせてしまう私が居る。

 けれど、根本が全く違うことも、声音と表情だけでわかる。

 ほんと、いやんなるほどに似てる。

 姉と慕ったあのひとに。

 けれど全然似ていない。

  似ているのは顔立ちだけ。がらんどうの表情、がらんどうの心無い声音。

  全部、なにもかも、違うのに。

  重ね合わせてしまう、自分が嫌になる。

 N2爆雷炸裂までのカウントの刹那、記憶が、遡行した。

 ・

 

 ・

 

 ・

【北上ミドリの記憶】

 

──いつから一緒にいたか、覚えていない。

 私達は、ずっと一緒に育ってきた。

 姉さんは7歳年上で、いつも一緒に遊んでくれた。

 血の繋がりはないけれど、その人は私にとって、姉さん以外の何者でもなかった。

 

 白い、どこか青みを帯びた髪。

 紅い目。

 アルビノ、というらしい。先天性で、染めたり不良になったりしたわけではなかったと言っていた。

 着飾るのが大好きで、いろんな服を着ていたけれど、子供なのでどれがどうというのは思い出せない。だから、通っていた学校の制服姿ばかり、専ら思い出してしまう。

 

 しなやかな手足によく似合う、シャープなカッターシャツ。

 クリーム色の柔らかなニットのスクールベスト。

 目の色と同じ、赤いネクタイ。

 グレーの、丈の短い(多分おしゃれな姉さんのことだから、自分で短くしてたのだと思う)プリーツスカート。

 

 それがおしゃれで、眩しく見えて、いつかそれを私も着たいと、幼心に思っていた。

 

 お互い一人っ子、家はもちろん隣同士。

 姉妹がいないし、姉さんも私も両親がネルフ関係者で、家にいないことも多かった。

 

 まだ幼かった頃の私が、夜、両親が不在で、寂しくて夜泣きしていたときに、いつの間にか私の部屋に入ってきて、こんばんわなんて言いながら、泣いている私を一晩中慰めてくれたこともあった。

 

 今思えば、私の父と母が、それとなく姉さんに様子見をお願いしていたのだと思う。

 

 実際、私を妹のように思ってくれていたのだろうし、両親が私を外食に連れて行ってくれるとき、姉さんもいつも一緒に来てくれた。

 

 よく考えてみれば、よその家の人間を、頻繁に家族の外食に誘うなんて、妙な話なのだけれど、その頃の私は幼かったし、疑問になんて思いもしなかった。

 

 ずっと一緒に居るのが当たり前だと、思って育ってきた。

 血がつながっているとか、いないとか、どうだってよかった。

 それくらい、私と姉さんは、互いを姉妹だと思って育ってきたのだ。

 

 大井レイ。

 それが、姉さんの名前。

 

 いつも、レーコ姉さんと私は呼んでた。

 レイ、という響きが、どうも気に入らないらしいのだ。レーコ、と呼ばれる方が、なんだかしっくりくるといつも言っていた。

 自分だけの大切なあだ名なのだとも。

 

 だから、姉は、父にも母にもレーコさんと言われていた。

 大人からもあだ名で呼ばれるというのも変な話だけれど、父母は姉のポリシーを大切にしてくれた。いつも忙しそうにしていたけれど、時間が有るときは、私とレーコ姉さんの面倒をよく見てくれていた、とても仲のいい両親だった。おしどり夫婦、という言葉が、多分しっくり来るんだと思う。その言葉を知った頃には、父母はとっくに死んでいたけれど。

 

 レーコ姉さんの両親は、父さんや母さん以上に忙しいらしくて、だからレーコ姉さんにとっても、ある意味私の父さんや母さんは、両親みたいなもののようだった。

 

 距離感が、とても近かった。

 

 おじさん、おばさんと呼ぶ、風船が弾むようなその軽い響きには、空気のような当たり前の親愛さが溢れていたように思う。

 だから、私の7歳までの記憶には、いつもレーコ姉さんと父さんと母さんが居るのが当たり前だった。

 

 私が初めて小学校に行くとき、自転車の後ろのチャイルドシートに乗せて、校門前で不安そうにしてる私に、行ってらっしゃいと見送ってくれたのは、レーコ姉さんだった。

 もちろん、その日、学校が終わったときは、レーコ姉さんが迎えに来てくれた。

 

 姉さんだって学校があるはずなのに、わざわざ来てくれたのは、私が気がかりだからサボったのかもしれない。そのあたりの理由はわからない。ともかく、私の初めての小学校の一日を終えたその時、レーコ姉さんが迎えに来てくれたのは間違いない。

 

 幼稚園時代の友達や、初めて逢う子や、先生たち、はじめての勉強らしい勉強を体験して、興奮気味に拙い言葉でそのことを話す私の話を、『いいクラスで良かったね』って、本当に嬉しそうだった姉さんの笑顔を、よく覚えている。

 

 とても澄んだ、いい笑顔。なんの曇りも、邪気もない顔。

 今日という日を楽しんで、明日も楽しい一日であることを信じて疑わない顔。

 悪い日だったとしても、明日は良くなるから、と普通に思っているそんな、楽観的な、セカンドインパクトから復興したとは言え、相応に厳しいあの時代にあの性格は、今の私に言わせるなら、かなり度の強い楽天家だったように思う。

 けれど、そんな視点は、まだ幼くて、現実をしらなかったあの頃の私にはまったくなかった。

 

 両親が夜勤のとき、レーコ姉さんはオムライスをよく作ってくれた。

 筋っぽくてあまり美味しくない合成肉を巧く刻んで、脂で炒め、玉ねぎやグリーンピースの缶詰を加えて更に炒めて、とても美味しいチキンライスに仕立てた後、ふわっと半熟の、黄身の甘さがとても活きた、黄金色の卵焼きを纏う、レーコ姉さんのオムライス。

 

 お店のオムライスより、レーコ姉さんのオムライスのほうが好きだった。

 他にも色々作ってくれたけれど、記憶に残ってるのは、あのオムライス。

 

 食事が終わったら、一緒に勉強もしていた。

 レーコ姉さんは優等生で、携帯でよく友達から勉強のことや、友人関係の悩みをよく聞いているようだった。私が宿題で悩んでいるときも、優しく、上手に教えてくれた。

 

 人の気持ちに寄り添うのが、巧い人だったんだと思う。

 たまに、学校のクラスメイトから携帯に電話がかかってきたときは、10分くらい、見たことのない顔で笑っていた。

 いつも見せたことのないタイプの、転がるような、おかしそうな笑顔。

 いつもとちょっとだけちがう、いつもよりさらに砕けた口調。

 

 私は気になって、聞いてみた。

 

「中学校って、楽しいの? 小学校より?」

 

「楽しいよ? 凄い楽しい。

 小学校より勉強大変だけどねー。でも、やり込んでみるとね、勉強も深みが小学校の頃よりあって面白いしさ、それに、友達もいろんな奴がいて、楽しいよ」

 

 多動性、とでもいうのか。

 身振り手振りを交えて、言葉だけじゃ足りないみたいに、中学生活の楽しさを伝えてくれた。

 ほんとうに楽しそうだったのだ。

 その楽しさを知ることは、私にはついに叶わなかったけど、それでもレーコ姉さんは楽しそうだった。

 

 土日の休みは、レーコ姉さんは友達と遊びに行ったりして、いないこともあった。

 けれどそういう日は必ずお土産をなにかしら買ってきてくれたし、その日何があったか、レーコ姉さんの友達がどんな面白いことをしでかしたかを、これも身振り手振りと顔真似をして、いい塩梅に話してくれた。

 

 色々と買い込んだ服を詰めた袋を脇において、ミドリにリップとかはまだ早いよね、なんていいながら、赤いきれいな髪飾りをお土産にくれた。姉さんはおしゃれが好きで、私の服も似合ってるとか、こここうするといいよとか、子供の私には理解できないおしゃれの工夫をしていた。

 

 今の17才の自分から見ると、猫可愛がりもいいところだと思ってしまう。つまり、あの人が私を本当に大切にしてくれていたという証拠だ。

 

 両親が忙しいから、多分私以外に、友達の良さを語れる相手がいなかったんだと思う。

 人の魅力を見つけるのが、巧い人だった。

 

 だから、話を聞いていて、姉さんが話したその人に会ってみたい、話をしてみたいとつい思ってしまう。

 けれど私はまだ子供だから、もう少し年をとってから、なんて思っていた。

 

 小学校最初の夏休み、といっても年がら年中夏みたいな時代だったけれど、ともかく夏休みに入ったとき、クラスの先生から、宿題として、朝顔栽培と観察をするよう言われた。 

 

 ラジオ体操、体操が終わってからの買い食い、朝顔への水やり。

 日々伸びていく朝顔のつるをみながら、朝顔って強いよねえ、なんて変なことを言っていた。結構雑に育ててもちゃんと葉っぱ茂らせて、きれいな花を咲かせて、種つけて、ほんと強いって、すごく褒めていたように思う。

 

 レーコ姉さんは、草花がとても好きだったのだ。

 アジサイ、ナツツバキ、クチナシ、ムクゲ、ヒルガオ、ブーゲンビリア。

 私の植物好きは多分姉さんのせいだと思う。

 

 いつも私に付き合ってくれる姉さんが、私を引きずり回すのは、だいたい山野の散策だった。

 一週間、二週間前に私の都合を聞いてくるときは、体から行きたくてたまらない、という気配が出ていたように思う。姉さん姉さんと呼んでいたし、頼りになる人だったけど、今の私が振り返るに、やはり好きなことを好きなだけしたい幼さが、レーコ姉さんには確かにあった。

 

 丁寧に私と自分に虫除けを塗った後、林の合間の、あんまり人がとおらない獣道みたいなところを通って、あれこれ植物や虫のことを教えてくれた。

 アスファルトと建物ばかりの風景を見慣れていたから、姉さんについて山を歩くのは、なんだか冒険してるみたいで、ちょっと私も興奮気味だったように思う。

 

 桑の実やアケビ、グミの実、はてはイチイの実も姉さんと食べた。

 コンビニのお菓子とはちがう、素朴な味わいは、あれはあれで美味しかった。

 

 山の只中で、直接木から取って食べる、というシチュエーションも、子供心には楽しかった。

 なにより、レーコ姉さんが一緒にいて、一緒に楽しく遊んでくれた。

 そういえば、農家の人に、作っている野菜のことを聞いたり、出来がいいですねなんていいながら、きゅうりを農家の人に分けてもらって、かじったこともあったと思う。

 

 畑で採れたての青いきゅうり。

 子供の舌に嬉しいものじゃないけれど、レーコ姉さんは美味しそうに食べてたし、そんなレーコ姉さんの褒めを聞いて、農家の人も嬉しそうにしていて、すると不思議と、私の舌にも、あの青臭いきゅうりが美味しく感じられた。

 

 他の友達も連れてきていい? と聞くと、レーコ姉さんはいいよ、と快諾してくれたし、一緒に行った友達も、やっぱり楽しそうにしていたように思う。

 家で一緒にゲームをするのも楽しいけれど、山遊びも楽しかった。

 潤いと楽しさ。人生の幸せの種類にアラカルトさの有る、贅沢な時代だった。

 

 そういえば、レーコ姉さんが同級生を連れてきて会う機会が稀にあったけれど、紹介してくれるときの場所は、概ね山だったように思う。

 よろしくね、と手を差し伸べてくる姉さんと同級生の女の子は、当時の私達よりずっと大人で、素敵だなと思ってしまった。

 

──10代の中学生に、大人を感じてしまう程度には、子供だったのだ。

 その頃の私には、本当になにもわかっていなかった。

 

 でも、楽しかったし、あの日々が何事もなく続いても、そのうち成長してしまって、見なくていいもの、汚いものも見えるようになっていったのかもしれない。

 けれど、その頃の私はそんな日々が終わるなんて、考えもしなかった。

 

 転んでいたいとき、クラスの男の子と喧嘩して泣いたとき、人が嫌になりそうだったとき、いつもレーコ姉さんがちゃんと話を聞いてくれた。

 

 父さんにも母さんにも聞いてもらったけれど、でも一番、そういう辛さを話したのは、レーコ姉さんだった。それが私には自然だったし、レーコ姉さんはちゃんと話を聞いて、ただかわいそうだねとか、辛かったねと言うだけじゃなくて、ちゃんと自分なりに考えて、この子はミドリのこれで怒ったんだよ、と、喧嘩した男の子の気持ちまで、話の中から汲み取って話してくれた。

 

 私が悪いでもなく、その子が悪いでもなく、多分こういう感じで喧嘩になったんだね、をちゃんと聞いて、いい悪いじゃなくて、ボタンの掛け違いだったということを、ちゃんと私にわからせてくれるひとだった。

 だから、その男の子には、お互いにちゃんと謝れて、また仲良しに戻れたのだ。

 

 レーコ姉さんは、そういう人だった。

 人間にとっての空気や酸素みたいに、私にとってあって当たり前、居て当たり前だった。

 

 7才の夏。

 あの日の夕暮れ時が、そんな日々の終わりの始まりだった。

 

 今でも思い出す。

 突然黒くなった空。

 満天を覆う、東方の方向から波紋のように幾重にも、円状に走る紅く輝く波紋の列。

 

 ニア・サードインパクトという言葉を知ったのは、その日から隨分後だったことのように思うし、そんな名前なんて、どうでも良かった。

 

 レーコ姉さんは、今までに見たことのない、自分の気持ちを必死に噛み殺す、つらそうな、とてもつらそうな顔をして、自分の両親と、私の父さんと母さんが、『事故』で死んだと話してきた。 幼い私には意味がわからなかった。どういうこと、と聞いたように思う。

 

 そこで、姉さんは、耐えられなくなったのだろう。

 突然、私を強く抱きしめてきた。

 

 少し苦しかった。

 けれど、それ以上に覚えているのは、姉さんの匂いだった。

 とても優しい、いい匂い。そんな匂いが、いつもよりも強くて。

 

 そして、とても震えていた

 何度も声を震わせて、声にならない声で何かを言っていた。

 

 姉さんの、たぶん泣き声を聞いたのは、それが生まれてはじめてで、そしてそれが最後だった。

 姉さんはずっと私を抱きしめていたから、泣き顔は見えなかったけれど、きっと、くしゃくしゃの顔をしていたんだと思う。

 

 そんなくしゃくしゃの悲しい顔を、私に見せたくなかったんだと思う。

 どれだけ姉さんが私を抱きしめて、どれだけ泣いていたかは覚えていない。

 

 けれど、ようやく私を離したときの姉さんは、穏やかに笑っていた。

 作り笑いだというのが、7歳だった子供にだってわかった。

 

 目尻が赤くて、まだ顔がひくついていて、けれど、それでも一生懸命に、私のために作った笑顔で。

 おじさんもおばさんももう帰ってこないけど、私は一緒にいるから。ミドリと一緒にいるから。だから、安心してと、まるで自分に言い聞かせるかのように、何度も何度も言ってくれた。

 

 その日から、何もかも、変わってしまった。

 まず、学校が休みになり、クラスメートや友達と会えなくなった。

 お金が役に立たなくなって、食事は配給制になってしまった。

 

 ご近所の人が一人、また一人と疎開して、私が住んでた街はがらっとして、まるでレーコ姉さんや私しか、居なくなってしまったようだった。

 

 玄関に誰かが来たとき、応対したレーコ姉さんが、怒声を張り上げるのを、聞いた記憶も有る。

 施設がどうとか、わたしがどうとか大人が言うのを、姉さんは必死に拒絶しているようだった。

 最後は喧嘩別れにでもなったのか、叩きつけるように玄関のドアを閉める音がした。

 

 私は驚いて、怖くて、少し泣いてしまった。

 姉さんは戸惑って、気まずそうにして、ごめんね、と謝ってきた。

 多分、私を怖がらせたことを後悔したから、謝って来たんだと思う。

 

 相手の事情を聞いて、物事をちゃんと理解できていた姉さんから、余裕が失われつつあったことに、私はその時気づくべきだったのかもしれない。

 

 気づいたところで、何ができるかもわからないけれど、わかることで、すこしでも姉さんを楽にできたかも知れないという、意味のない後悔が、今も胸に満ちている。

 私の知らない、家の外側の汚い世界、汚い人間、汚い運命から、姉さんは一人で、必死に私を守っていたんだと思う。

 

 TVもラジオも繋がらなくなった。

 携帯も使えなくなった。

 ついには電話も使えなくなってしまった。

 

 昔より美味しくなくなったご飯。

 けれど、それは配給だから、仕方なかったのだ。それに、多分他所より、私はいいものを食べていたと思う。姉さんは植物に詳しいから、美味しい野草を使って、とても足りないだろう配給のご飯を、うまくかさ増ししてくれていたと、今の私なら理解できる。

 

 ただ、その頃の私は、文句ばかり言っていた。

 育ち盛りで、突然ご飯が美味しくなくなって、しかも足りなくて、いつもお腹をすかせていて、姉さんに我儘ばかり言っていたのだ。7才の子供の自分の愚かさを恨みたくなる。

 

 それでも笑っていた姉さん。

 私の、生活苦が理由の八つ当たりを受けても、怒らなかった姉さん。

 

 私がそばにいて、私が生きていてくれるだけで、きっと姉さんは嬉しかったんだ。

 あの人は、そういう人だった。

 

 レーコ姉さんの父親と母親の記憶はほぼないけれど、きっとレーコ姉さんは、両親が大好きで、私の父さんと母さんも大好きで、あの日からもう会えなくなった、中学校のクラスメートも大好きだったから、私が居るだけで嬉しかったのだ。

 だから、私も、レーコ姉さんが未来もずっと私と一緒に居ることが当たり前だなんて、思うべきじゃなかった。

 

 焼けるような後悔と自分への呪詛が今もある。

 

 なぜ、あの日、止めなかったのか。

 なぜ、あの日、行かせてしまったのか。

 

 その日。

 姉さんは、一週間ぐらい出かけないといけないの、と私に、つらそうに話してきた。

 

 色々と大人の世界で揉め事が起きている気配は、幼い私も感じ取っていたけれど、とうとう姉さんに、それが降り掛かってきて、逃げられなくなってしまったらしい。

 

 一週間したら、戻ってくる。

 ご飯はネルフの職員の人が配給してくれるから安心して、一週間したら、絶対帰ってくるからと、姉さんはその日私に言った。

 

 外は危なくて何が有るかわからないから、私が帰ってくるまで気をつけて、鍵をかけて、外に出ないようにしてと、普段言わない注意や警告を、何度も念入りに私に言い聞かせた。

 

 そして少し待って、私が理解したかどうかを見て、私が頷くと、姉さんは私を安心させるように、あの優しい笑顔を浮かべてくれた。

 

「一週間したら、帰るから。お土産、持ってくるから」

 

 わかった、と私は答えたと思う。姉さんは安心したように頷いた。

 そうして姉さんは玄関を出て、黒いスーツを着たネルフの職員の人に案内され、車に乗り込んだ。

 

「留守番、お願いね」

 

 車の窓を開け、玄関にたつ私に姉さんが投げかけた、そんなたわいもない言葉。

 それが、私の聞いた、姉さんの、最後の言葉になった。

 

 

 

──それから何日か過ぎた夜。突然、地獄の釜が開いた。

 

 バカみたいに煩い、飛行機が飛び回る音が突然、深夜2時ぐらいだったろうか、ともかくとんでもない真夜中に響き渡り、私は驚いて目を覚ましてしまった。

 

 そして、何かが遠くで、花火みたいに爆発する音が始まって、それが一向に鳴り止まなかった。

 所々で、爆竹が破裂するような音もはじまり、その全てが、全く収まろうとしなくて。

 うるさくて、うるさくて、うるさくて、窓からよくわからないたくさんの光が入ってきて。

 

 そして、窓の向こうに見える遠い海。

 ヒトの姿をした、なにかとんでもなく大きなものが、何人も、海をかき分けるようにして、東北をめざして歩いていくのが見えた。

 

 汎用人型決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオン。

 ひどい名前。つけたやつの神経が信じられない。

 何が福音だ。

 兵器に福音なんて名前、普通はつけない。

 

 そして、17才の私は、その悪魔の馬鹿騒ぎ、醜い大人共のやらかした汚い最悪のゲームの名前を知っている。

 

 第3新東京市戦役。

 各国のネルフ支部が、それぞれの提唱する『人類補完計画』とかいうやつをやるためにしでかした、人類の大半を巻き添えにした、ホントにくそったれの戦争。

 

 民間人を巻き添えにした砲爆撃。戦車も戦艦も空母も航空機も惜しみなく投入され、はてはあちこちにN2爆雷が投下され、そこに避難した人たちもろとも地形を蒸発させ、クレーターに変えてしまった。

 そこにはもしかしたら、レーコ姉さんの同級生や友達、私の同級生や友達もいたのかもしれない。

 

 わからない。

 姉さんが待っていてと、留守番していてと言った、私が守らなきゃいけなかった家は、どこかから飛んできた砲弾だか焼夷弾だかのせいで屋根から燃え上がり、私は体一つで逃げなければならなくなった。

 

 家の前で、何もできずに、レーコ姉さんと私の居場所が燃えて、灰になっているのを見ているしかなかった。レーコ姉さんに、待ってると約束したのに。

 なのに、家が灰になってしまった。なくなってしまった。

 

 一週間程度続いたそれは、ネルフ本部地下のリリスという餌に、世界中の軍隊という軍隊、ネルフというネルフ、存在しなきゃよかった蛆虫どもの群れを巻き添えに、ついに第二次ニア・サードインパクトを引き起こしてしまった。

 

 そして、ついに赤い地獄が、ネルフ本部を中心に、全世界へと広がり始めた。

 

 L結界。

 

 人間を溶かしてLCLに還元してしまうか、あるいはコア化させ、まるで塩にでもなったみたいに崩れさせるかしてしまう、この地球を赤く染め上げた得体のしれないモノ。

 どこかのバカが、口が開いた地獄の釜の中身を、世界にぶちまけてしまったのだ。

 

 私は、灰になった家の前でひたすらレーコ姉さんを待っていたけれど、レーコ姉さんは来なかったし、よくわからない大人の人たちが、周囲の家々の生き残りを必死で探して回るついでに、私をそこから連れ去ってしまった。

 レーコ姉さんがくるの、レーコ姉さんがくるの、そういったのに、大人は私の話なんて聞かなかった。

 

 私をそこからつれさってしまって、赤く光る得体のしれない黒い柱が立ち並ぶ場所、空気が赤くない場所へ、私を引きずり込んでしまった。  

 

 死んだってかまわなかったのかもしれない。抗うべきだったのかも知れない。

 私はあの日、燃え尽きた家の前で死んでいたほうが幸せだったんだとさえ思う。

 

 レーコ姉さんが帰って来れなくなったことぐらい、わかる。

 私の学校の友達も、先生も、レーコ姉さんの友達も、全部、全部全部全部、あの赤い地獄が飲み込んで、とかして、コアにしてしまったから、死んだほうがきっと楽だった。

 

 だって、避難した場所も地獄だったから。

 

 足りなかった食べ物はさらにたりなくなり、普通に奪い合いになって、毎日誰かしら死んで、病気になっても医者も来なくて、ヴィレの治安組織をなのる連中は、銃をいつももって、後で第三村って言われる地域に居る全員を、まるで強盗予備軍みたいに威圧して、場合によっては暴徒化した人々を射殺さえしていたのを覚えている。必要だったのは理解できるけれど、目の前で人が射殺される景色は、私の網膜に、凄まじい恐怖と嫌悪感を伴って、どうしようもなく焼き付いてしまった。

 

 毎日人が死んで、埋める場所もなくなり、死んだ人たちの死体が山積みになって野ざらしになり、仕舞いには全部L結界が満ちた『外側』に放り出してしまうようになった。

 

 死体を放置すると結界内部で病原菌が蔓延しかねないから、というのは今の私にはわかるが、荒んだ私の心には、それがあまりにも憎らしくてならなかった。

 

 あまりにも憎くて、辛くて、ヴィレの治安部隊がなぜそうするのかが全くわからなくて、ひどいやつらだ、ご飯もくれない、死ねばいい、私も死にたい、でももしかしたらレーコ姉さんが生きてて、なんて儚い望みを抱くことさえあった。

 

 気が、狂っていたと思う。

 無人駅の建物の中で雨露をしのぎ、ガサガサしたパラシュートのキャンバス生地で朝の寒さをしのぎ、硬いコンクリートの上でごろ寝、クソみたいな味の非常食が一日一食あればいいほう。

 

 でも一番つらいのは、水がないことだ。

 水が、足りないのが、わかる。のどが渇いてしょうがなかった。

 配給の水がまるで足りないのだ。

 

 避難地域には川が流れていたけれど、「どの川が安全か、検査技術が確立されていない」と言われ、決して飲まないよう、ヴィレの人たちに言われていた。

 

 もちろん、我慢できずに、少し赤く染まった川に踏み出して、飲んでしまう人もいた。

 そして、飲んだ人たちは、例外なくLCLになって、地面に吸われて消えてしまった。

 ぐしゃぐしゃに濡れた服だけが、かれらの墓標がわりとなった。

 だから、怖くて川の水も飲めない。

 

 本当に憎くて、辛くて、苦しくて、空腹で、何を恨んでいいか分からない日々が、続いた。

 

 そうして、何人も死んで、何人も死んで、そうするあいだに少しずつバラックや、いろいろな廃物利用の建物が立ち始めた。

 

 生き残りの人々は避難所だった無人駅を出て、それらの建物をそれぞれ割り当てられ、少しずつだけど食事の量も増え、古着だけど着替えも届くようになった。

 

 私は、何人かの大人と、私と同じ年の女の子と、レーコ姉さんと同じ年の、少しがさつな男の人と暮らすようになった。その女の子が、鈴原サクラだ。

 

 世界がこうなった原因、諸悪の根源の正体を語ったのは、サクラだった。

 第一次ニア・サードインパクト、その爆心たる人間のことを。

 

 エヴァンゲリオン初号機パイロット、碇シンジ。

 エヴァンゲリオン弐号機パイロット、式波・アスカ・ラングレー大尉。

 

 式波なる女性は、その日、エヴァンゲリオン三号機のテストパイロットを務めていたのだそうだ。

 けれど、それには『使徒』と呼ばれる、人類と敵対する危険な存在が取り付いており、彼女はそれに取り込まれてしまった。

 

 使徒にとりつかれた三号機はネルフ本部のリリスを目指して進撃したが、それを迎撃したのが、初号機およびそのパイロットの碇シンジだったのだという。

 

 彼は、その時、三号機を攻撃することができず、代わりに彼女を救助するため、取り付いて、助け出そうとして、逆に使徒に取り込まれてしまったのだという。

 

 その後、初号機はダミープラグという、自動操縦システムを用いて再起動され、三号機ごと『使徒』を殲滅したのだというけれど、それがニア・サードインパクトを巻き起こしたのだそうだ。

 

 サクラは、生き残りのネルフ職員が、第三村で同僚と話したのを聞いたのだという。

 よくわからないが、碇シンジと式波・アスカ・ラングレーが使徒に憑かれ、諸共『ニエ』となることで、初号機が『カクセー』し、それが原因でニア・サードインパクトが起こったのだという。

 

 だとしたら、ふざけた話だと思う。

 もちろん今の私は、それが初号機の疑似シン化であり、もとよりネルフ本部の碇ゲンドウ司令は自らの望む形での『人類補完計画』遂行のためにそれを引き起こしたのだと知っている。

 

 けれど、その二人は、『ニエ』とか言うものになったのに、死ななかったのだ。

 生き残った理由は、よくわからない。

 今の私にとってもなお、それは開示されない機密情報。

 

 けど、あの二人が爆心地となったという事実は、変わらない。

 そして、私はその二人の顔を知っていた。

 

 姉さんと同じ14歳。

 特に、女の方は、たしかニュース番組でも偉そうに自らの乗るエヴァを自慢していたと思う。

 7才の自分にとってそんなニュースはどうでもよかったけれど、それでもぼんやりとはTVは見ていたから、その話を聞いて、急激にニュースの記憶が蘇り、名前が具体的な像を結んだ。

 

 その二人が、ネルフ本部という陰謀の渦中にいながら、止めることもできず、むざむざ世界をこんな赤い地獄にかえてしまったっていうだと理解した。

 

 サクラに言わせれば、碇シンジたちはあくまで利用されただけに過ぎず、彼がエヴァで『使徒』と戦わなければ、そもそも人類は滅んでいた、兄も自分も死んでいた、ということらしいけれど、私には納得できなかった。

 結局みんな死んじゃったじゃん、という憎悪だけが胸に膨らんだ。

 

 そして、私の憎悪の歯止めを破壊してしまったのが、ある日届いた、一通の手紙だった。

 1、2年前だっただろうか。生活が苦しすぎて、覚えていない。

 

 私宛の、手紙。

 村の外から届いた手紙に、一瞬姉さんからのものかと期待したけれど、記された名前は、別人のものだった。

 

『綾波レイ』。

 

 知らない、女。

 

 手紙には、バカみたいに簡潔で、愛想も何もない文章で、私の姉が、第二次ニア・サードインパクトの惨劇をギリギリのところで防いだこと、それによってみな救われたことが、簡潔に、けれど全く経緯がないまま記されていた。

 

 内容に関しては、おそらく『軍機』というやつなのだろう。書いても検閲され、墨塗りにされたことは、想像に難くない。少なくとも、レーコ姉さんがあの第二次ニア・サードインパクトを防いだ、ということを、私みたいな部外者に伝えることが許可されたことすら、奇跡だと、ヴィレに所属した今なら理解できる。

 

 そして、姉さんを守れなかったことを、簡潔に謝罪して、手紙は終わった。

 

『あなたのお姉さんのこと、守れなかった。

 ごめんなさい』

 

 その手紙を読んだあとのことは、よく覚えていない。

 たしか、気が狂ったみたいに叫んで、泣いて、泣いて、泣いて、泣いたと思う。

 手紙はグシャグシャに握りつぶして、多分、破ろうとしたのは覚えているけれど、結局破れず、ずっと持参している。

 

 その綾波レイという女の謝罪を受け入れたからなわけがない。

 

 その手紙だけが、『レーコ姉さんが世界を守った』『レーコ姉さんが私を守った』『レーコ姉さんのおかげで私は生きていられる』『苦しくて辛くても、それでも私が生きていられるのは、最後の最後で、レーコ姉さんが頑張ったから』を担保してくれるものだったからだ。

 

 そんなことを記した唯一のもの、レーコ姉さんとの最後の絆を、破り捨てることも、焼くことも、とても私にはできなかった。だから、代わりに、何度も泣いた。悔しくて、何度も地面を殴りつけた。

 

 えらそうな、連中。

 軍人だかパイロットだかしらない。『使徒』相手に命がけで戦ってたとか、知らない。

 訓練だって受けたんだろう。ニュースでそう言ってた。

 

 なのに、私を、世界を、ギリギリのところで助けたのは、そういう偉い、人を守るべき連中じゃなかった。

 あの、みんなに優しくて、いつも楽しそうに生きてて、幸せそうで、いつも私に笑ってくれてた、私のレーコ姉さんだったんだ。

 

 ごく普通の、ファッション好きで、植物が好きな、本当に普通の中学生の女の子にやらせていいことのわけがない。それをやるべきは大人なんだ。

 

 あのレーコ姉さんが、こんなクソみたいな世界のために、あんなクソみたいな連中のために、命をかける必要なんてない。可能なら私のほうが死にたかった、私なんかじゃなくてレーコ姉さんの方が生きるべきだったんだ、あんなに優しい姉さんが死んで、我儘な子供だった私が生きる世界なんて間違ってる。

 

 死にたいとさえ思った。

 

 不味い食事も厭だ、まともにねれない生活もいやだ、蚊よけもない、痒くてたまらない、L結界測定技術が確立してからは、無事な川が分かって水も飲めて、田んぼもできたけれど、それでも飲める水の量は限られる、世界はこんなにも暑くて喉が乾いて、汗が止まらないのに。

 

 だから何度も死のうとおもったのに、その度思い出してしまう。

 

 レーコ姉さんのあの笑顔。

 優しいオムライスの味。

 姉さんが連れて行ってくれた、あの空の青と雲の白、草木の緑に満ちた、素敵な世界。

 何もかも赤い地獄に染まる前の、レーコ姉さんがいる幸せな世界。

 あまりにも遠くなった世界のその優しさの理由の真ん中で、私の心の真ん中で、レーコ姉さんが笑っている。

 

 何があったか知らない。

 何があったか、わからない。

 

 けれど、きっとレーコ姉さんがどうしたか知らないけれど、守りたかった生命の一つが、私であるのは間違いないから。

 だって、あの手紙を書いた人は、私のことを知っていた。

 私宛に手紙を書いた。

 私に謝った。

 

 つまり、レーコ姉さんを知っている。

 レーコ姉さんの望みのかたちも。

 

 私に手紙が届くということ、そして私に謝るということは、レーコ姉さんと話をして、私のことを知っていたということ。

 レーコ姉さんは私や、友達のために、あの優しかった日々を取り戻すために死んだのか。

 本当に死んだのか。

 まだ生きていてくれないのか。

 

 手紙が担保する姉さんの死の事実。

 手紙が担保する姉さんの優しさ。

 それを、軍機だろうに、わざわざ私に教えてくれた人。

 

 何も、わからない。

 けれど、知らないといけないと思った。

 それまでは、死ねない。

 絶対に。

 

 レーコ姉さんの願いは何。

 何故レーコ姉さんが死なないといけなかったの。

 なぜレーコ姉さんは世界を『守れた』の。

 

 それら全てを知るまで、レーコ姉さんの遺志を知るまで、レーコ姉さんが命をかけて伝えたかったこと、やりたかったことを知るまで、絶対に私は死んでやらないって思えた。

 

 やがて年月が経ち、どこからか飛んでくる無人貨物船の物資で村がうるおい始めた頃、私はサクラと話した。

 ヴィレに志願しようと思う、と。

 

 ヴィレは人員不足らしく、14歳以上の男女を対象に志願者を募っていた。

 曰く、ネルフ本部は未だ健在であり、最後のインパクト、『フォースインパクト』の発動を虎視眈々と狙っているのだという。

 

 そのためには、たとえ子供のような年齢であろうと、戦闘員として雇用したいということらしい。

 なりふりかまっていられないのだろう。

 

 ヴィレ上層部には、元ネルフ本部の人員まで居た。

 そもそもがネルフ本部の『人類補完計画』に気づき、反旗を翻したのがヴィレの成り立ちであるという。

 だから、それは、我慢できる。

 気づけなかったから、贖罪する。そういうことなのだと思える。

 

 問題は。

 そのメンバーの中に、あの『碇シンジ』と『式波・アスカ・ラングレー』の二人が名を連ねている、という事実だった。

 

 この二人の名前は、赫奕たる戦果だの、なんだのかんだので飾りたてられプロパガンダされ、彼らのあやつるヴンダーとかいう戦艦は、世界最後の希望とすらいえるとか宣伝されていた。

 

 じゃあ、そんな強くて偉そうな連中が、第二次ニア・サードインパクトを防げなかったのは何故なのか。

 なんで当たり前の女の子が、そんなすごい武器を操る連中の代わりに死ななきゃいけなかったのか。

 

 お前らが起こしたことなんだから、レーコ姉さんの代わりにお前らが死ねばよかったのに。

 それなら許せた。私とレーコ姉さんを守って死んだなら、そっか、偉いね、も言えたかも知れない。

 でもこいつらは自分がやらかしたことにレーコ姉さんを巻き込んで、尻拭いさせて、レーコ姉さんは死んで、のうのうと生きてて。それが、絶対に、絶対に許せないから。

 

 だから、決めた。

 ヴィレに行く。

 そして、やらかした連中全員の首根っこ、いつかふんづかまえて、なぜああなったのか、なぜ世界がこうなってしまったのか、くびをしぼりあげる。

 殺すとか殺さないとか、どうでもいい。

 大切なのはレーコ姉さんだ。

 

 あのひとの、最後を。

 あのひとの名残を。

 何一つ余さず、知りたい。こぼしたくない。

 

 きっと何かをねがったから、こんなに残酷な世界で、けれど私は生きている。

 そこにあの人の意志があるなら、まずそれを知らないといけない。

 

 きっと軍機だ。だから、下っ端のうちは教えてもらえない。

 でも、絶対にたどり着く。そして識る。

 もしも、ヴィレの連中の言うことが本当で、『この世界に緑を取り戻す』というのが叶うなら、まずそれは絶対にやり遂げなければならないことなんだ。

 

 レーコ姉さんが大好きだった植物の緑。

 それは私の名前の色であり、心に残ったレーコ姉さんとの絆だ。

 あの人が、赤い世界で何もかも植物が枯れ果てた、なんて知ったら、どれだけ嘆くだろう。

 そんなのを強いる世界が絶対に許せない。だから抗う。

 L結界とかいう地獄の赤を、この地上から絶対に追い出してやる。

 

 私はL結界の赤が本当に嫌いだ。赤はレーコ姉さんの瞳の色だ。

 あの優しいまなざしの色だ。それを穢したあの結界は、絶対に滅ぼしてやる。

 

 世界にあの人の大好きだった緑を絶対に取り戻す。

 もしもあの世があるなら、そこからこの世界を見下ろして、きれいな緑色であることを確かめて、レーコ姉さんは笑ってくれるに違いないから。

 

 私はあの人の死に場所さえ知らない。だから葬式もしていない。

 もしあの人の遺骸が、形見が残っているのなら、それは、緑になった森に埋めたい。

 そうして初めて、きっとあの人は安らげるんだ。

 

 始末の付け方は、それから決める。

 

 碇シンジ。

 式波・アスカ・ラングレー。

 

 裁判無しで罪状は決められない。

 まずは識る。

 殺し方はそれから決める。

 

 二人への殺意だけを隠して自らの決意を告げると、鈴原サクラも志願すると言ってくれた。

 サクラなりに、あの二人には、なにか思うことがあるのは、薄々察しがついていた。

 

 鈴原トウジに言わせれば、碇シンジは、故なく人の死を願う男ではないらしい。

 そんなの関係ない。結果が全部。

 あいつ、守れなかったじゃんね。それで充分。 

 

 でも全部の事情をまだ知らない。知りたくもないけど、きっとその事情の中に姉さんの過ごした過去がある。それを知らなければいけない。知るすべは、多分ある。

 なぜなら、碇シンジ及び、式波・アスカ・ラングレーの名の下に、もう一つ名前が記されていたからだ。

 

 綾波レイ。

 私に手紙をくれた人。

 私に唯一、謝ってくれた人。

 

 碇シンジと式波・アスカ・ラングレーは、詫び一つよこしてこなかった。

 姉さんのことについて知ってるくせに。絶対に知ってるくせに、

 

 お前らが起こしたことなのに。

 綾波レイという女性は関係なくて、なのにあいつらが謝らないで、その人が謝罪の手紙を送ってきた。

 

 間違ってる。絶対違う。

 そんなの、許さない。だから。

 識る。まず、識る。全部、そこからだ。

 

 小学校の頃、男の子と喧嘩したとき、レーコ姉さんが、そうとは言わずとも教えてくれた。

 まず正しく知らないと、物事は解決しないって。

 

 だから、二人を見た瞬間撃ち殺す、というのは、残念だけど、なしにする。

 それは、レーコ姉さんのやり方じゃないし、レーコ姉さんも望まない。

 

 世界に、緑を取り戻す。

 全てを識るために、志願する。

 全てを識るために、いずれヴンダーに乗る。

 そして、絶対に、けじめをつける。

 

 それが、私の、北上ミドリの、今を生きるための道標だ。

 そして私はヴィレ入隊を志願し、訓練を受け、今に至った。

 

 記憶遡行。脳裏に焼き付いた様々の記憶は、けれど一瞬の走馬灯。

 弐号機プラグ内モニタに写った、綾波レイの名と姿が引き起こした記憶の惹起は一炊の夢。

 現実へと、急激に私の思考が戻る。

 

 

 

 

「3,2,1。N2爆雷、起爆します。総員、対ショック、対閃光防御」

 

 規定ポイントに到達したN2爆雷弾頭を搭載した大型ミサイルが、艦長のカウントダウンがゼロになると同時、予定通りに起爆した。

 とてつもない閃光と衝撃が、重力制御とモニタ光量制御を受けているだろうに、艦橋を薄く包む。

 同時に、凄まじいGが私の全身を襲い、シートに身体を押し付けるのを感じた。

 

 核融合弾頭を凌駕する威力を秘めたN2爆雷が炸裂し、その爆圧をATフィールドで防御しつつ、生み出された膨大なエネルギーを帆船の帆のように受け止めて前方への推進力へ変換し、とてつもない速度でヴンダーは突進を開始していた。

 

 ヴンダーが目指すのは北方。贅沢に8号機の護衛付き。

 そして、姉さんとそっくりなあの人が乗った弐号機は、護衛すらなしで東方方面の敵集団に単騎行。

 

 しかも、使う手段はN2爆雷。

 人類が保有する武装の中でも最強最大最悪の威力を持つ破壊兵器を、雑に推進力に利用して、あの人を一人で放り出す。

 

 護衛もなしで。

 各個撃破とかじゃだめなんですか?

 聞きたくなるが、どうせまともに取り合っちゃもらえないのは、最初の副長挨拶で理解している。

 

 そう言えば、今、ブリッジは思考シンクロ状態だった、ということを、Gの只中で思い出す。

 碇シンジという男の心の声も、もしかしたら、『拾える』かもしれない。

 訓練施設でのLCLガス使用での思考シンクロテストは、機械音声合成を脳できかされるやつだったけど、それを私はそれなりに優秀な成績でクリアしている。

 つまりは『聞ける』。

 

 なにか、つかめるかと思う。

 後背、やや離れた位置にある気配を『聴く』ように耳をそばだてる。

 多分、これが艦長の思考だろう、というものが、聴こえた。

 

 凪いでいる。

 冷たい。

 そして、硬い。

 

 断固たる意思、という印象。

 

 この瞬間、艦長が北での作戦のことしか考えていない、ということが、分かった。

 他の思考は、一切合切、していない。

 凄まじい速度でマギプラスと思考交換しながら、想定される敵の行動と、従来と異なる行動パターンについての類推ばかり。

 

 つまり、東方に放り出した綾波レイのことは、全く気にも止めていない。

 あんた、そういうやつなわけ。

 平然と他人を使い捨てられるわけ。

 

 私ももうヴンダークルーだ。

 綾波レイの素性ぐらい、ある程度は知っている。

 

 アヤナミシリーズ。

 ゼーレが『人類補完計画』遂行のために作り出した、人工の人間。

 

 エヴァに乗るために生み出された戦闘装置。

 ヒトめいた挙動をするのは、あくまでもその能力をヒトの域内に留めるためにすぎない。

 

 そこで、一つ矛盾が出る。

 他ならぬレーコ姉さんだ。

 

 レーコ姉さんは普通に育った。

 文字通り『普通に』だ。

 

 アルバムを見せてもらった。

 へその緒の話もしたことがある。

 そう。レーコ姉さんには『へその緒があった』。

 レーコ姉さんの家で、珍しくいたレーコ姉さんの母親に、何かの切欠で見せてもらったことがあるのだ。

 

 アヤナミシリーズはサルベージの産物だ。

 生産方法にもよるけれど、基本的には普通の人の腹からは生まれない。

 

 けれどレーコ姉さんは、ちゃんとレーコ姉さんのお母さんから生まれたのは、多分間違いない。

 私が識る限り、普通に生まれ普通に育ち、艦長や副長の二人のように、24才なのに体は14才のままなんて胡散臭いことにはなってなかった。

 

 なにかあるんだ。秘密が。

 レーコ姉さんが『犠牲』になった理由が、そこにある。

 

 艦長。

 ねえ艦長。

 

 聞いてるんでしょ?

 あんたが乗せるメンバーとか選抜したのはお見通しなんですけど。

 んで私がキレてるのも知ってるわよね?

 だから副長がボロ出しそうになったら即座に出てきたんだ。

 

 わかんないバカだと思ってるわけ?

 ねえ。何があったのよ。

 3%がどうだかしんないけどさ、あんたの気配を私がこれだけ感じるなら、あんたのセンスなら聴こえてるってわかってんの。

 聞けよ。おい。聞けよ、艦長。

 聞いてんだろ! 聞けよおい!!

 

──北上ミドリ少尉。

  もちろん、聴こえてるよ。君の過去の想起も含め、悪いけど概ね見せてもらった。

  この艦に乗る動機も、僕らへの怒りも。

  

 そっか、盗み聞きかよ。

 あんたみたいの、ほんと嫌なんですけど。人の思い出盗み見盗み聞き、最悪っしょ。

 クソ野郎って言っていいですか?

 

──好きに呼べばいい。

  他にはもれないよう、思念接続コントロールはしてある。

  副長は制御で手一杯だから、聞く余裕はないよ。

  無駄話はやめよう。結論から言う。

  彼女はまだ、死んでない。

  

 は?

 思わず、彼の精神を疑った。

 思考リンクだ。本音かウソかぐらいはわかる。

 こいつは、レーコ姉さんをきっと知ってる。逢ってる。

 きっと、なにがあったのかも。

 

 このシンクロ率ではこいつの思考の根っこまでは探れない、記憶を強制的にほじくり返すことはできない。

 軍機に関しては逆探できないよう、多分マギプラスを噛ませて、ブロックをかけている。

 だから忌々しいことに、こいつのみた領域までは行けない。

 

 そこまでの才能も、多分、私にはない。そこまでの領域に行けるやつは、エヴァに乗り込めるレベルの『仕組まれた』連中だけだ。

 常人では無理、そこは諦めるしかない。

 

 けれど、本音かどうか程度は、私にもわかる。

 こいつは諦めてない。

 心の響きが其れを伝える。絶対に折れないと決めた強い意志。

 何がどうすれば、魂がここまでの頑固さを、強度をもてるのかが理解できない。

 

 一つ可能性があるとしたら。

 それはこいつが惑わないために、一種の自己欺瞞として狂気を──起こった事実を認めないことで、自らを行動させ続けている可能性。

 意図的に自分を破壊して、そのようにしか機能しないよう魂を塑形してしまった、人間でありながら人間を止めた一個の運動機械としての概念。

 

 アヤナミシリーズの戦術行動の動機づけにそういう手段があったと記憶している。

 まさか、こいつ。

 

──違う。

  もちろん、綾波は諦めてる。だから、手紙を書いたし、それが届くことを、僕は認めた。

  沢山の人に窘められたし、事実機密漏洩でも有る。

  

  けれど、君にはある程度知る権利が有る。

  知らされないまま利用される苦しさは、僕もかつて味わった。

  だから君が僕らを憎悪するのも、僕は理解しているし、当然だと思う。

  

  ただ、僕は彼女を──大井さんを諦めてない。十年程度では諦めない。

  届かないなら、手をのばす。手が届かないなら、他の手段を使う。

 

  絶対に諦めない。絶対にだ。

 

  今、君に伝えられるのはここまででしかない。

  けれど、僕は本気だ。それは、わかってほしい。

  

 

 ……はは。

 わかるわけないっしょ。

 十年よ? どこに居るかしらないけどさ、綾波さんは諦めてるってことは、そういう場所にいるってことじゃん!

 L結界の真ん中かしらないけど、死ぬに決まってんじゃん!

 気休めいうなよ! ふざけんなよ! 私がどんだけ悲しくて辛かったか盗み見したくせに!

 

──全ては結果が示す。

  それまで、君は絶対に納得しないだろう。

  綾波を一人で東方の敵に当たらせたことで、君が僕に殺意を抱いたのも理解している。

  その上で、君は一つ、思い違いをしてる。

  

  綾波は、大井さんじゃないよ。

  綾波だから、東に行かせられる。

  

 

 アヤナミシリーズだから?

 ニンゲンじゃないから?

 使い捨ててもかまわないから?

 どうせ変わりが居る、作り直しがきくやつだから?

 だったらあんた、ネルフのクソどもと同じよ!

 

 

──違うよ。

  僕にとって、綾波は綾波だ。

  アヤナミシリーズじゃない。

  一個人としての綾波だ。

  だから、任せた。任せられる。放り出したんじゃない。任せたんだ。

 

  僕は北が本命と見ているけれど、相手には知恵の回る人がいる。

  想定外の布石を打ってくる可能性もある。

  待って時間を浪費するのは危険と判断した。

  だから、綾波に東を任せた。

  一つ、断言する。

  君が思うより、綾波は、強いよ。

  

 

……どうせ、もう東に飛んだあとじゃん。

 あんたは本気かもしれないけど、あんたが自分を狂わせた可能性を私、疑ってるから。

 いずれにせよ、あんたら親子だけは絶対に許さない。

 

『人類補完計画』を目論んだあんたの親父、碇ゲンドウ。

 ニアサー起こして私達の人生めちゃくちゃにして、私の家族も姉さんの家族もみんな死なせて。

 そして、レーコ姉さんを死なせて、自分はのうのうといきてる碇シンジ!

 

 あんたらだけは、絶対に許さない。

 納得もクソもない。

 自分を壊して、ましてや『諦めない』なんて気休めで丸め込むの、逆鱗じゃん。

 全部終わったら、殺す。姉さん殺したあんたを殺す。

 

 あんた言ってたよね。

 カタついたら、撃っていい。

 それ、艦長許可っしょ? あんた自身の。

 

 

──そうだね。全部終わったら、構わない。二言はないよ。

  伝えられることは伝えた。

  艦長からの交信は以上だ。

 

  

 北上少尉了解。地獄に落ちろ、クソ艦長。

 

   

 其れきり、艦長の思念は途切れた。

 研がれた冷徹な金属のように、冴え冴えと戦闘への思考を巡らせている。

 まるで演算器のような精密さで、十年の闘いの経験を、マギプラスの記録と照合しながら大量の戦術パターンを脳裏に構築しているのだ。

 

 ああ、わかってしまう。

 

 こいつは、半ばもう、人間をやめてしまっている。

 止めた理由はわからないけれど、まともな人間は、ここまで自分を機械に委ねられない。

 自我が半分、マギプラスに溶けてる。

 

 シンクロ制御の訓練過程で学んだやつだ。普通ここまで自他境界を曖昧にすると、人間は壊れる。

 L結界内部で人間が形象崩壊してLCLやコアに成り果てるのも、自分と世界の区別がつかなくなり、個体としての形態を保てなくなるからだ。

 

 L結界外部でも、ここまでやると、精神をやられる。

 支部によっては実験過程で発狂者を出しているなんて資料を読んだこともある。

 

 つまり、この艦長は自覚なく、発狂している可能性もあるってこと。

 冗談じゃない。ほんと。ほんと冗談じゃない。そんなやつに、命を預けないといけないなんて。

 バカにしてる。なにもかも。

 

 腰のホルスターには、全弾装弾ずみの拳銃がある。

 他のメンバーはどうか知らないけど、私にはわかった。

 

 碇シンジは、ヤバい。

 

 そういうヤバいやつなら、何もかも善意で、何もかも本気で、信じてしまうことができるかもしれない。

 まだ助けられると自己欺瞞しながら、レーコ姉さんを供犠にして世界をすくうとか。

 今しがた、綾波大尉を東方に、たった一人で送り込んだように。

 

 わからない。けれど、あんた、私の中ではワンアウトだから。

 

 赤い点滅を意識する。

 レーコ姉さんの死の真実を識ること、地球を緑に戻す決意がなかったら、きっと艦長を今撃ってた。

 まだ、できない。まだ、やらない。

 それは後でもいい。

 

 いまは戦闘を遂行し生き延びる。

 そのためには、この狂ってるかもしれない艦長の戦闘キャリアとやらを利用するしかない。

 そう、利用する。

 

 私の願う緑の世界と、姉さんを弔うために。

 そのために、仇だろうと利用する。

 ソレだけの地獄を、私だって7歳から舐めてきた。

 父さんと母さん、レーコ姉さんの形見すら、家と一緒に燃えてしまった。

 

 私には、もうコレしか残ってない。

 コレしか残ってない。

 

「ねえ、レーコ姉さん。

 教えてよ。なんで世界を守ったの? こんなひどい世界なのに。

 なんで私を助けてくれたの?

 

 ううん。

 

 艦長と副長。

 なんでこいつらまで助けたの?」

 

 

 皆、自らの業務に手一杯となっているために、北上ミドリのそのつぶやきを聴くものはない。

 彼女の胸の奥、憎悪と疑念、それが導き出す殺意はあまりにも深く。

 しかし、今日を死なないため、彼女は全力を尽くすと決めた。

 

 生き延びなければ、目的を果たせない。

 だから、今日に集中する。

 

 北上ミドリは感情を切り替えた。

 訓練されたオペレーターとしての自分に集中する。

 

 遅いか早いか、ただソレだけっしょ。

 碇シンジは、必ず殺す。

 

Īnterlude:END



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第1話「ヴンダー、新たなる旅立ち」Dパート

 西の私達の群れが、消えた。

 あっという間に。

 竜巻に巻き込まれた小鳥の群れのようにあっけなく、この世界から消え去ってしまった。

 

 碇シンジ。

 NHGBußeを操る、Bußeの主。

 彼が私達を消した。

 なんの迷いもなく。

 データベース上に存在する、彼のパーソナルデータではありえない行動。

 けれど、この10年の彼の行動パターンに合致する戦闘行動。

 

 優しかった彼はもういないのだ。

 そう。彼は私達を殺してくれる。迷いなく、容赦なく。

 

『それはとてもうれしいこと』

 

 それに、彼が私達を殺せなくて、彼とヴンダーを捕まえるなり、滅ぶなりしても、あの人が私達を消してくれる。殺してくれる。

 

 ようやく私達は消えることができる。

 

 それが私達の望みだから。

 ほしいものは絶望。無へと還りたい。

 

 この世界から消えたいの。いなくなりたいの。

 それが私達の唯一の望み。

 

 けれど、それはあの人が許してくれないの。

 碇シンジとBußeを見つけ、滅ぼすか、捕まえるか。

 さもなければ、碇シンジに殺されるか。

 

 それが私達に与えられた役目であり、そして運命。

 けれど、と彼女たちは思う。

 

 碇シンジのATフィールド波とヴンダーが、急激に別の彼女たちのいる方角、北を目指して突進を始めるのを、官女たちは認識した。

 そして、別のATフィールド波形を帯びたものが、彼女の方角目指して突進してくる。

 

 波形照合。個体同定。

 

 アヤナミシリーズ初期ロット。

 現所属組織、ヴィレ。

 エヴァンゲリオン弐号機担当パイロット。

 

 パーソナルネーム『綾波レイ』。

 私達の名を与えられた、最初の私。

 

 綾波レイ。

 それは私たちの一人だったもの。

 今、たった一人で私達に近づく貴女。

 

 貴女の望みは、いったい何?

 

=====================================

 

 EVANGELION ∧ i : AAA Wunder S 3.33 『YOU CAN (NOT) TRIP.』Prototype

 

 EPISODE:1 The Blazer

 

 Dpart

 

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 N2爆雷起爆カウントが進む中、綾波レイは弐号機及びフライトシステム後部に、N2爆雷の爆風から機体を保護するためのATフィールドを最大出力で展開しながら、深く自らを包むLCLを吸った。

 

 あの人の、匂いがする。 

 もう10年乗っているのに、プラグからまだ、消えない。

 

 弐号機の人の匂い。

 副長の匂い。

 式波・アスカ・ラングレーの匂い。

 

 不思議、と綾波レイは思う。

 エヴァンゲリオンという兵器は、機体とシンクロするパイロットごとにパーソナルパターンを記録したコアユニットが用意されており、搭乗者を変更するたび、それぞれのパイロット専用のものに、コアを換装する必要が生じる。

 

 無論、液体呼吸による呼吸機能強化、およびショックアブソーバーを兼ねるLCLも随時交換されているし、エントリープラグももう耐用年数を過ぎてしまって、昔のネルフのものではない。

 

旧ネルフ北米支部のエントリープラグを基にL結界耐圧値およびシンクロ効率を高めたヴィレ独自のものだ。

ちなみに、旧アメリカ合衆国ネバダ州レイチェルにある米国空軍基地を間借りした、ヴィレ兵器開発局本部で作られている。

 

 弐号機を構成する素体も都度都度損傷しており、各地のエヴァ予備パーツをもとに、入れ替えている。

 テセウスの船、という程ひどくはない。

 けれど、少なくとも、ロールアウトしたばかりの、新品の弐号機のままではない。

 なのに、あの人の匂いを私は感じている。それはとても不思議なこと。

 

 奇妙な感慨にふけりながらも、フライトシステムを構成する44Aコアユニットへもシンクロし、前方方向から機体全体、後方にかけ、弐号機とフライトシステムを包むようにショックコーン型にATフィールドを形成する。

 

 複数のコアへ一個人がシンクロするというのは、昔であれば考えられなかったことである。

 しかし、艦長と副長による、複数のコアの連結体であるヴンダー脊椎部へのシンクロ運用の長年の蓄積と研究、努力により、一個人による無数のコアユニットへの同時シンクロ技術が確立されている。

 

 

 綾波レイが、フライトシステムを構成する44Aを、ダミー制御や電気パルスによる機械制御でコントロールせず、彼女自身でシンクロ・コントロールできるのも、この技法によるところが大きい。

 

 ともあれ、超音速飛行に伴う機体の損壊は、避けなければならなかった。

 

 N2融合反応爆発で急加速をかけた場合、後方の爆圧と熱量だけでなく、急加速に伴い、機体正面に発生する、圧縮された大気にも備えなければならない。

 壮絶な速度で相対的に正面から飛来する大気の構成原子が弐号機正面に、灼熱の泥のように貯まり、弐号機を強烈に加熱し、さらに膨大な運動エネルギーで破損しようとするのだ。

 いわゆる断熱圧縮と呼ばれる現象である。

 大気圏に突入した隕石や人工衛星が破壊されてしまうのも、この現象によるものだ。

 

(イカロスの翼ってとこね。ヒトに赦されない速度で飛ぼうとするならば、翼は太陽ではなく、高熱高圧の大気によって焼かれるのよ。超音速飛行に限界があるのもそれで。戦闘機乗りの頃、よく悩まされたわ。

 エヴァにはATフィールドがあるけれど、決してATフィールドは万能じゃない。超音速戦闘を行う場合、この点はよく踏まえておいてね、レイ)

 

 本格的にヴンダーに乗り込み、艦載エヴァパイロットとして作戦行動を行うようになったころ、副長から受けたレクチャーの内容を思い出す。

 

 カウント、0。

 

 闘いに慣れた身体は、思考より早く襲いかかるGに備えた。

 閃光。

 周囲モニタが、一瞬白濁した。

 

 次の瞬間、壮絶なGが綾波レイの身体を、プラグ内のパイロットシートに押し付けた。

 全身の血が背中に引きずり込まれるような感覚、加速感。

 

 キロトン級のN2爆雷の爆圧が、弐号機とフライトシステム防備に回したATフィールドに届き、凄まじい速度で弐号機を直接『押して』いるのだ。

 

 現在の機体速度、秒速500メートル。

 時速にして1800キロメートル。

 マッハ1.5、戦闘機の戦闘速度に匹敵する速力までただ一瞬で加速したことを数値が示す。

 

 重力加速度にして、およそ51G。

 ヒトの肉体ならば即死を免れない壮絶なGの只中で、しかし綾波レイは生存し、その肉体は機能を続けている。

 コア・ユニットを解した思考重力制御及び量子単位でのATフィールド保護が、Gを強烈に緩和しつつ、さらに肉体組織を無理やり保持されているのだ。

 

 人間の身体は、脆い。脳など、それこそ豆腐のように柔らかく壊れやすいのだ。

 それを保護するのは、ひとえにエヴァという存在の超常の性能と、その超常を演算し駆使するマギベース戦術ユニットによる思考フィードバックの著しい効率化に拠るところが大きい。

 機械とヒトをつなぐことに拠る、能力の拡張。

 

 文明。

 生きたいという人の意志が、エヴァという超常の存在の出力を、さらなる高みへと押し上げている。

 例え滅びかけていたとしても、ヒトという種の生き汚さ、強さが健在であることを、自分がこうして生きている現実が教えてくれる。

 

 生きたいという願いが、ヒトをここまで突き進めてきた。

 今、滅亡の瀬戸際にあって、ヒトの先鋭として私が居るのがその証。

 

 数秒が過ぎる。

 N2融合爆発の発生させた衝撃波と爆圧が、範囲拡大にともない弱まり始めているのだ。

 フライトユニットの推進機各腕部および脚部、合計8基を駆動させ、重力偏向推進を開始する。

 

 相互速度を計算に入れ、相対速度マッハ2.2で敵性飛行群に接近しつつある。

 綾波は戦術を素早く脳裏で組み立てた。

 

(44Aの群れは単縦陣をくみつつ、こちらに接近中。

 超音速では左腕部増設ガントレット兵装ポートの、ボフォース70口径40ミリ連装機関砲を使うのは無理。

 それなら、上)

 

 綾波レイは、フライトユニットの機首を上げた。 

 空間の重力偏向ノズルを偏向させ、N2融合爆発の最後の運動エネルギーの余韻を活かし、機体を一気に敵編隊上方へ、自機の上下を入れ替えながら突進させた。

 突進する敵は、綾波レイの操る弐号機とフライトユニットに追随できず、そのまま直進を続けていた。

 

 敵編隊直上500メートル。

 ATフィールド中和可能距離。

 

 天を下、地を頭上に、綾波レイは逆しまに44Aの編隊を見つめる。

 敵44A先頭が、機首をあげようとする気配が見えたが、しかし、遅い。

 

「エヴァンゲリオン弐号機、敵編隊を捕捉。交戦、開始する」

 

 言葉が通信としてヴンダーへと発信された刹那、

 すでに綾波の操る弐号機及びフライトユニットは、敵編隊先頭めがけ急降下しながら、左腕部ガントレットに備えられた連装ボフォース40ミリ機関砲を構え、発砲していた。

 

 N2セイリングのGに比べれば、無に等しいレベルにまで緩和された降下のG。

 放った弾数は最小限。フルオート連射ではなく、機械制御で敵一機あたり3発、戦術システムアシストによる半自動照準のバースト射撃により丁寧に一機一機のコアを狙い、撃破していく。

 

 新型装薬、劣化ウラニウム徹甲弾頭を使っているとは言え、1、2発着弾すれば砕けてしまう程度の脆さ。量産性を重視した、粗悪品という表現がしっくり来る。

 

 単縦陣先頭から中央まで撫でるように放たれた無数の弾丸は、44A東部飛行群編隊陣形中央を貫くようにして弐号機が陣形下方へ突き抜けるまでに、15機が的確にコアを打ち砕かれ爆発、撃破されていた。

 

 その爆風で、当然のごとく44Aの陣形が乱れる。

 推進機による重力加速に、更に地球の重力を加えて加速しながら、さらに綾波は下降をかけた。

 

 一撃離脱。

 敵位置情報と行動パターンをモニタリングさせながら水平飛行に移り、次の最適攻撃ポイント算出を開始する。

 

=====================================

 

『弐号機、敵飛行群と交戦開始。

 東部方面群、弐号機の攻撃により戦力の15%を喪失した模様。

 弐号機、離脱しつつ再攻撃態勢へ移行中』

 

 日向戦術長の思考を絡めた音声報告が、主機エントリープラグ内に響く。

 

 さすがはレイ、と私は微笑った。

 プラグ内サブモニタに映し出された、青い弐号機とフライトユニットの仮想戦術行動パターン図には、それだけの合理と美しさがあった。

 

 まだろくに訓練も積んでいないのに、フライトユニットをまるで昔から使い込んでいたかのように鮮やかに乗りこなす。10年の歳月が、綾波レイというエヴァパイロットの才能を開花させた証が、無駄というものを削ぎ落とした、美しさすら感じる戦術行動パターン。

 

 教科書どおり、なおかつ敵が捕捉し難い一撃離脱行動。

 ミサイル時代のジェット戦闘機と言うよりは、古代のレシプロ機のような乗りこなしではあるけれど、ATフィールドを前提とした遠距離からの誘導兵器に拠る一方的な撃破が困難な空戦、そしてエヴァの質量による重力加速と、フライトユニットの存在を加味しても空中機動性がいいとはいいかねる性能を思えば、実に理にかなっていると思う。

 

 もうエヴァの操縦に関しては、レイの方が巧いかもしれない、とさえ思えた。

 あまりにも長くヴンダーのシンクロ制御に関わりすぎたせいだろう。

 ヴンダーという巨大な鳥を動かすのに慣れすぎて、ヒトの形をしたエヴァを、昔ほど巧く動かせる自信が正直ない。

 

 それに、と私は苦笑した。

 

 目玉の中に使徒を飼う身の上、インパクトのトリガーになった前科持ちが、再びエヴァに乗るわけにも行かないものね。結果、色々あって弐号機をレイに譲ったけど、この結果を見れば大正解。

 

 レイはいい仕事をしてる。

 じゃあ、こっちもそろそろ仕事の時間。

 

 正面戦術モニタに目を落とす。

 距離2万、相対速度1500。

 

 敵編隊はこちらへ向かいつつ、依然として上方へ機動中。

 頭を取りに来てるわね、と軽く舌打ち。

 

 地球の上で戦う以上、L結界による各種物理法則異常を踏まえても、多くの場所では下から上に登るより、上から下に落ちるほうが楽にできている。地球の重力のアシストを得られるからだ。

 ヴンダーには重力を操る権能はあるけれど、総和として、地球の重力に抗うように飛ぶより、味方につけたほうが楽な事にはかわりない。

 

 つまり正面の編隊は、ここ10年で会敵した44Aのぼんくら旧式と違って、何らかの更新が施されている可能性が高い。指揮能力の向上、戦術思考能力の向上、要素はいくらでも思いつくけれど、ネルフ本部が相手では、諜報でその辺りを探ることもできない。

 探りを入れたほうがいいか。

 

「艦長、副長より提案。

 正面44Aのフィールドパターン精査実施許可を求める」

 

『艦長了解』

 

「副長了解」

 

 本来ならいちいち艦長相手に許可をとったりはしないけれど、このミッションは新規ブリッジクルーと、艦橋のLCLガスを利用したシンクロ戦術運用訓練も兼ねている。

 

 口頭でこう報告しながらこう考える、頭の思考はこうまとめる、を新人たちは勿論、まだ完全にそれらの運用に熟達したとはいい難い旧ネルフスタッフの戦術長たちにも示す必要があった。

 OJTが巧く行けば行くほど、艦長と私が楽をできるようになる。私達の闘いは、戦って勝てばそれでいい、というものではない。少しでも余裕と時間を作らなければいけない。

 

 軍隊用語ではないけれど、報連相は大事なのだ。もちろんクルー・リソース・マネージメントも。

 

 昔の私みたいに、ムカつく相手にがーがー言って、パワハラ威圧で無理やりいう事聞かせていればいい時代は、とっくの昔に過ぎてしまっていた。

 

 マギプラスに思考をつなぐ。

 脊椎部艦首部を励起し、敵編隊がATフィールドを展開する以上、かならず発生させる空間ゆらぎ、ATフィールド波形の探知と精査を開始する。

 

 昔は使徒の識別にも使っていたやつで、使徒を探すにも便利なやつだし、勿論エヴァを探すのにも使える。ついでに言えばパイロットの個体識別すら、熟練すれば可能になる。

 

 エヴァのATフィールドは、パイロットのメンタル波形が如実に現れる。脳波パターンに似た波形を持ち、精査すれば指紋のように個体照合さえ可能で、例えば蓄積データが多いアヤナミシリーズであれば、ロット単位での照合も可能なわけで。

 

 L結界のノイズが有るけれど、近い。

 ATフィールド波形を精査するには充分な情報量を得ることができた。敵編隊からの無邪気な、アヤナミシリーズ独特の、希薄な自我が感じ取れる。

 

 そして、それ以外も。

 

 あたってほしくないビンゴ景品に限って当たる。世の中ってのはつくづくそう出来てるわよね。

 胸糞悪さを罵詈雑言として吐き出しそうになるのを抑えながら、艦長に結果を報告する。

 

「目標精査、正面編隊の大半は従来のアヤナミシリーズによる管制と認む。

 ただし編隊内部に異なる波形を確認、精査完了。

 波形パターン照合、合致率95%、パターンSと認む」

 

「パターンS、か。

 手筋を変えてきた……罠があるね。これは。

 ……副長」

 

「気にしないで。

 昔通った道、その再演よ。それはそれとして、あんたの父さん殴る理由、また一つ増えたわね」

 

『ああ、僕にも増えたよ。熨斗とナックルダスターもつけていい。

 経費で落ちるよ多分。ミサトさんも殴りたいだろうし』

 

 任務中だと言うのに、艦長が軽口を叩く。

 一言で言ってしまえば、笑いに昇華しなければごまかせない程に、碇シンジはキレていた。

 そして、キレているのは私も同じだ。

 

『パターンS。碇司令が?』

 

 リツコが信じがたい、という口調で首を打ち振るのが、艦橋内部カメラから見えた。

 

『パターンSってなんすか?』

 

 多摩ヤロウがよくわかっていない口調で質問を差し挟む。

 わかっていないのだから当然そういう口調になるけれど、思考シンクロ中にこれだけ私と艦長がキレているのにソレを気取れないのはある意味逸材だと思う。

 スコアはあいにく虚数だけど。

 N2セイリングのGで一人だけ速攻で気絶してたし。

 あと、思考と発声を一致させろと言うとろう、脳でぐちゃぐちゃ読み取りづらい考え方しながら口頭質問やめなさい、慣れてないだろうからからしょうがないけど。

 

『44Aの波形パターンは概ねアヤナミシリーズ固有のもので、これをパターンAと我々は呼称している。

 つまり、それとは異なるということだ。別の量産型が制御システムとして乗せられている。

 

 ヴンダーに乗り組んだなら、事前訓練資料に載っていただろう。

 シキナミシリーズ。

 ユーロネルフがかつて量産した、アヤナミシリーズとはまた別のエヴァンゲリオン運用特化型パイロット、その量産型だよ。つまりは副長と同型だ』

 

 私と艦長に代わり、青葉戦術長補佐がにがりきった顔で答えた。

 声音と思念に、露骨なしんどさを表しながら。  

 

 普段アヤナミシリーズばかり相手をしていて、シキナミシリーズを相手にするのは初めてであるがために、そういう反応がでてしまうのだろう。

 私の姉妹を手にかける心地になっているのかもしれない。

 でも、

 

「気にしないで、青葉戦術長補佐。

 あれは私じゃないし、多分自我も相応に削がれて、長期作戦行動に特化させてあるわね。

 44A用のアヤナミシリーズと同じよ。

 遺伝子単位でそう仕込まれ、そう挙動するように仕込まれた木偶。

 意志があるようにみえるかもしれないけれど、その脳機能の大半が、ネルフの作戦行動に都合よく機能するよう、意図的に不要な機能を損壊されたデザイナーズ・ブレイン、シリコンでできているかヒトの肉と遺伝子でできているかで、所詮制御システムでしかない。

 

 どの道、振り払う火の粉は払わないと、こっちが燃えて死んでしまうもの。

 容赦も人道も考えなくていい。撃滅あるのみよ」

 

『戦術長補佐、了解。任務に集中します。

 多摩、そうことだ。つまり新型が来た、という認識でいい』

 

『新型……マジすか……』

 

『マジだ。ともかく管制に集中しろ。

 それと、現在本艦艦橋は思考シンクロ状況にある。

 

 言葉と思考を合わせろ。

 

 マニュアル操作や言語入力より高速でのオペレーションを可能とするための思考シンクロ制御だ、脳みその使い方を変えるつもりで取り組め。艦長と副長の思考が一番強い、まだ早すぎて読み取れんだろうが、発声と思考合わせの参考になる。いいな』

 

『りょ、了解……』

 

 いまいち煮え切らない多摩少尉はともかく、青葉戦術長補佐が即座に思考を切り替えてくれたのはありがたかった。私とゲノムの作りは同じとは言え、双子だの三つ子だのがライン生産されたようなもの、頭の中身に至ってはヒトとして作りながら機能特化するよう意図的に発育阻害を入れている気配すら感じる。

 

 だから、切り替えてもらわないと困るし、切り替えてもらえたのでありがたい。

 それに、事前の指示通り、ちゃんと多摩少尉の面倒も見てくれる気配のようで、安心する。今の所資質の欠片も見えないけれど、ここにいるということは、幾重もの選抜を越えて、ヴンダーのブリッジクルーの座に登ってきたということをしめす。

 磨けば多分ものになるし、ものになってもらわないと、誰より艦長と私がこまる。

 

 それはともかく、この盤面に、シキナミシリーズを投入した理由がわからない。

 シキナミシリーズのゲノムコード自体は、ニアサード前に、ユーロネルフが日本のネルフ本部に私を譲渡する際、リツコに知らせない形で裏で入手していてもおかしくはない。

 コードさえあれば、コアにインストール&サルベージで、いくらでも改設計と増産自体は可能。なんなら単性生殖による増産も理論上は可能らしい。あまり想像したくない景色だけど。

 

 問題は意図。

 向こうは飛行特化型。そして私。

 そうか、ヴンダーとの戦闘は基本的に空戦か対空戦闘になる。

 つまり

 

「Scheiße!」

 

 思わずドイツ語で罵倒が出てしまう。

 多摩ヤロウの文句を言えないわねこれじゃと反射的に思いもした。

 けれど、まあ、ユーロのデータが渡ってるってことは、まだ私があの『幼稚園』に居た頃の思考記録だって腐るほど残ってる。

 意図が見えた。

 

「艦長。推定だけど、シキナミシリーズ搭乗型は指揮官機の公算大。

 マギプラスでの推定でも、85%での肯定。

 

 長期間駆動目的、機体制御特化の44A用アヤナミシリーズは、戦術思考能力が低いのが問題点で、私達がつけ込める弱点だったけれど、指揮官ユニットを用意して指揮をさせることで、それを補うことができる。

 

 戦術パターンは、ユーロ空軍時代の私の思考記録をベースで組んできてる可能性が高いから、集団戦はしてこないかもだけど、シキナミシリーズが戦術展開のための思考を行い、アヤナミシリーズがそれを受信して行動すれば、若干タイムラグがあるかもしれないけれど、当時の私と同レベルの戦術機動は駆使してくる公算が高い。警戒して」

 

『艦長了解。ライトハンガー、8号機及び無人VTOL、対空対空戦闘に備え、発艦用意。

 副長、こっちも手数を増やしたい。副長は無人VTOLの重力操演用意。

 操艦は艦長が担当する』

 

 私の提言に、艦長が素早く決断を下す。

 ATフィールド突破性能がない無人VTOLでも、44A相手なら嫌がらせ程度はできる。ライトハンガーの20機で、8号機と連携すれば、かなり状況を楽にできるはず。でも。

 

「重力斥力系は回して、艦内重力制御は副長持ち、了解。

 でも操艦大丈夫? 私抜けると、キレ落ちるでしょ」

 

『承知してる。だから、マギプラスのうち、ユニット・コクマーの権限を一時的に譲渡してくれると助かる。数打ちの44Aでも、コピーロンギヌスという牙は本物だ。コンマ秒の遅れが本艦の沈没に繋がりかねない』

 

 なるほど、マギプラスの保有割合を自分側に回すことで、艦長の自己演算力を底上げして、私が操艦からある程度抜けるわけね。

 

 マギプラスは、都合6つの第7世代有機コンピュータから構成されたマギタイプ管制ユニットの最新型であり、3つに艦長の、そして残り3つに私の疑似人格がOSとしてインストールされている。リツコの母親である赤木ナオコ博士の、人間のジレンマを利用した相補性演算システムの延長線にあるもので、自分自身だけでなく他人という要素を加えることで、演算能力を飛躍的に向上させたシステムとなっている。

 osが艦長と私の疑似人格であり、シンクロ制御とすこぶる付きで相性がいいのも、本システムのメリットだ。

 

 6つの各ユニットには名前がつけられており、艦長の疑似人格を持つユニットがそれぞれケテル、ゲブラー、ケセド、私の疑似人格をもつユニットがそれぞれティファレト、ビナー、コクマー。

 

 基本的に自分の人格をインストールしたマギユニットのほうがシンクロ制御が楽で効率がいいので、専ら自分の人格が入ったユニットを優先して使っている。

 

 さらに各マギユニット同士の討議による演算処理は、マギプラス自体のOSに任せていたのだけれど、今回、私が担当するマギのうち、コクマーを譲ってくれと言ってきたわけだ。

 

 ベーシックが私の疑似人格なので艦長の疑似人格のものより扱いづらいかも知れないけれど、ただまあ、私と艦長の関係性なので、そこはまず問題にはならない。

 どちらかと言うと、問題は私側のマギが減ずることによる、無人VTOLの重力操演の精度低下にある。そこが懸念事項。とすれば。なるほど、人員増。それなら多少演算能力が落ちても。

 

 私はリツコの端末と回線をつないだ。

 

「リツコ、一人だけ私とのシンクロレートを5%に上げたい。

 長良中尉と私の思考回線チャンネル。いける?」

 

『2%増なら、おそらく問題はないわね。いきなり実戦?』

 

 私の意図が読めたのだろう、リツコが呆れた顔をした。

 

「そう。艦長殿とおなじ、初手実戦。艦長には今思念承認とった。

 私がシンクロサポートするから、大丈夫よ。

 長良中尉、シンクロ環境だからもちろん聞いてるわね。

 

 長良中尉、重力操演のアシストお願い」

 

『──了解です、副長。

 しかし、私はシミュレートしか経験がありません。実機の運用は』

 

「大丈夫、最初は私が全機操作する。シンクロレート少しあげるから、機体のエンジンの回し方、ラダーの挙動、ほかにも色々あるけど、まあ感覚で覚えて。

 ユーロ空軍元エースの実力を信じなさい、っても10年飛行機そのものは飛ばしてないロートルだけど、ヴンダーが搭載してるタイプのVTOLなら要領はわかるし、何事もやってみてからよ」

 

 感情があまり感じられない、けれど緊張をはらむ長良中尉の思念を感じながら、私は努めて明るく長良中尉に語りかけた。気持ちもなるべく開く。

 

 この辺のシンクロのアレは、おそらく互いの気持ちをどれだけ開けるかだ。

 勘だけど、長良中尉にも思うところはある。ただ、北上少尉よりはきつくないし、任務遂行への真摯さも感じられる。訓練での操演の成績もいい。たぶん、いける。

 

『副長殿。何か、要諦はありますか』

 

 覚悟を決めたのだろう、実直そのものの思念と言葉が、長良中尉から届いてきた。

 やる気がある。いいわね、気に入った。

 

「そうね。尻」

 

『尻、ですか』

 

 意味がわからない、という長良中尉の反応を感じる。

 まあ、わかんないわよね。

 

 とはいえシンクロ制御なので、仮想とは言え、コクピットに肉体がある感じで行くほうが、なんというか私には楽なのだ。レッドアウトもブラックアウトもヴァーティゴも心配ない、快適な仮想肉体による空の旅全力エンジンぶんまわしコースは、案外楽しいものだったりする。

 

 でまあ、なんで尻かというと、戦闘機乗りの操縦の体重軸はそこだからだ。

 尻と言うか尾てい骨。足はフットペダル使うので重量かけられない、だから頭、首、腕、手、両足、操縦に使う全ての身体機能の運動エネルギーが尻にくる。

 行動を起こすのが尻、んで来た反動を流すのも尻。

 武道でいう丹田とか、腰とか、そんなところ。

 

 行動の重心であり起点であり根源なので、つまり私としては、空を飛んでてぶん回すときは意識は頭ではなくそこに軸というか、中心を置く。そうすると乱れない感じになる。

 まあ気の持ちようで精神論なので、長良中尉にはわからないだろう。

 

 そのへんは、やりながら覚えてもらうしかない。

 長良中尉の了解の声を聞きながら、不意に北上少尉の思念の乱れに気づく。

 次の瞬間、北上少尉が叫んでいた。

 

『弐号機周辺、敵行動パターン、変異!

 下方へ離脱した弐号機を追尾しつつ半包囲、データにない速度で加速しています!

 わっけわかんない、なんで44Aがこんな速いの!?  ありえないっしょ!』

 

 長良少尉に意識が行っていた一瞬に、敵の行動パターンが変わり、それを北上少尉が見逃さなかったのだ。なるほど、彼女の危険性を度外視して艦長が『乗せる』と決めたことはある。才能がある。

 

 いえ、ずっと意識が弐号機にいってたし、姉とレイを重ねた結果かもしれない。

 ともあれ、認識と報告は正確だった。

 

 実際、先程までレイの掃射と一撃離脱で混乱に陥っていたはずの44Aが、突然錐揉み状態から立ち直り、従来にはない加速度で弐号機を追尾しはじめていた。 

 フライトシステム搭載、しかも重力利用して位置エネルギーで加速もかけている弐号機に、44Aが突然追いつきだす理由。なにがある?

 

 私が思考するより早く、艦長が答えを口にした。

 

『まがい物でも、槍は槍。機体中央の槍にデストルドー探知させたんだね。

 生物の全てが持つ『死にたい』という衝動、アポトーシスすら嗅ぎ取るセンサー能力。オリジナル・ロンギヌスの模造にすぎないとはいえ、その励起を可能とした、かな」

 

 私のコクマーを得て演算速度があがったからか、状況分析速度が早い。

 絶望の槍ロンギヌス。希望の槍カシウスの対。それによる急加速と追尾能力ならば、たしかに44Aの突然の性能向上も理解できる。やってくれたわね。

 

 色々と違う、だいぶ違う。状況が違う、仕掛けられ方が違う。

 だから、面白い。

 不謹慎だけど、そう思ってしまった。

 

 北上ミドリ少尉が、血相を変える。

 

『意見具申、直ちに弐号機の撤退許可を!

 槍はわかんないけど、この速さで、相手がまだ8割いるのに突っ込まれたら、勝てないから!

 離脱させないとだめっしょ!』

 

『北上少尉、わかった。その意見具申は承認できない。

 

 互いの距離が離れすぎ、おそらくフライトシステム及び弐号機で全力推進をかけても、槍の権能から推定される速力から離脱することは不可能だよ。

 

 ネルフ本部より強奪したデータを見る限り、理論上ロンギヌスは独力で第二宇宙速度まで到達可能。デッドコピーにそこまでの性能はないだろうけれど、まず無理だ。

 綾波大尉には引き続き東部飛行群撃滅の任を継続してもらう』

 

『……あんた、やっぱりそうやって、アヤナミシリーズだからって、使い捨てて……!』

 

 北上少尉の怒りと殺意が、極限まで低減されたシンクロ環境であるのに、明確に感じられるほど膨れ上がった。彼女の意識は腰。たぶん、拳銃のホルスター。

 

『北上少尉!』

 

 咄嗟に日向戦術長が立ち上がって止めようとするのを、艦長が片手で制した。

 真っ直ぐに、北上ミドリ少尉を見つめる。

 無表情。真っすぐで、硬質で、けれど自らを疑わず、他人の言葉を聞く意思もある、強い、澄み切った瞳。

 

『違う。僕にとり綾波大尉は綾波大尉だ。

 彼女は彼女だ。他の誰にも彼女にはなれない。

 そこを取り違えてないでほしいし、そして君は綾波大尉を知らない』

 

「でも、85対1ぐらいよ数の差が! そんで、向こうは隠してた切り札切ったわけっしょ!?

 どうすんのよ!?」

 

 感情が御しきれていない北上少尉に、けれど碇シンジ艦長はどこまでも、静かだ。

 子に言い聞かせる親のような真摯さ。

 

『あれすら敵の新たな手の一端に過ぎない可能性もある。

 4年前の北海道でも、妙な手を使われて、僕たちは隨分きつい戦をしたけど、それでも勝てた。

 

 そうだな、言い換えようか。

 僕の言うことを信じたくないなら、信じなくても構わない。

 けれど、綾波レイ大尉は信じてほしい』

 

「ええ、そうね。

 北上少尉、私も艦長に同意よ」

 

『式波副長!?』

 

 突然私の声が脳裏に響いたので、驚いたのか、北上少尉が瞠目している。

 かなりシンクロ率を低減させているのに、反応がいい。

 良すぎる、というべきだろうか。それはともかく。

 

「あんたはわかんないわよね。

 でも、あの子が乗ってる弐号機は、そもそも私の乗機だった。

 意味分かんないかもしれないけれど、私にとって、そこだけが世界で唯一の居場所だったのよ。

 

 それを譲った。

 譲っていいと思えたのよ。

 

 弐号機を譲って、もう10年。それを、後悔したことはない。

 今までも期待に応えてもらってきたもの。だから、あんまり舐めないでほしいわね。

 綾波レイは、強いわよ」

 

 北上少尉が、目を瞬かせる。

 わからない、という表情だった。

 

 状況はどう見ても圧倒的不利。

 まして雑魚もいいところだったはずの44Aの突然の性能向上。

 それで、パニックを起こすのは、わかる。

 

 まして、彼女にとって、綾波レイという人間が、どうしても昔大切だった人と重なってしまうのもわかる。だからこそ。

 

 綾波レイとあの人はちがう。

 そして昔の綾波レイと、今の綾波レイも、違うのだ。

 

 この終わりゆく世界で、信じてもいい、頼ってもいい、任せてもいい、大切な仲間で、そして友達。照れくさくて言えたことは一度もないけれど、それでもあの子は、私にとってはもう友人だ。その友人を、信じてほしいし、私も信じている。

 

 彼女のキャリアと戦力。そして彼女自身が積み上げてきた、この10年の意思そのものを。

 

 送られてきた戦況データを元に描画された仮想映像の中、弐号機が重力推進を用い、前方への加速を維持したまま、フライトシステムごと機体の前後を入れ替える。左腕のボフォース連装40ミリ機関砲の火線が、突進する44Aの群れを次々に叩き落とした。

 

 しかし敵の数は圧倒的で、先程とはまるで加速が違う。

 44Aの群れは、弧を描き、左右側面から、正面から、上下から、あるいは後背に回り込み、確実に弐号機を刺し貫くため、四方八方から最後の躍進を開始し、おそらく50機以上の群れが殺到し──戦術行動映像が消える。

 あまりにも一箇所に密集したATフィールドにより、全ての通信の周波数帯が封殺され、弐号機からの通信が途絶。反応がロストした。

 

=====================================

 

 突然、弐号機を追尾する、後方の44Aの群れが加速した。

 脳にダイレクトに投影された、センサー範囲内の敵機が発揮する加速度は、明らかに過去のデータのそれを凌駕している。

 

 一瞬綾波レイは数値を疑ったが、弐号機ATフィールド振動および、空間状況モニタリングで即座に理由を察した。周辺空間のデストルドー値が異常を示していた。

 生命を死にいざなう衝動のパルスが、急激に上昇している。

 

 コピーロンギヌスの覚醒。

 紛いの槍でも、目覚めることはあるのね。

 

 まがい物の覚醒、そのことに妙な感慨を覚えながらも、綾波レイの脳の戦闘を司る部分は、即座に状況に対応すべく、すでに動作をはじめていた。

 

 空間縮退および拡大を用いた重力推進のベクトルは維持しつつ、弐号機左腕のボフォース連装40ミリ機関砲を後方に向けて全力で振るう。

 

 連装砲本体のみでも10トン、弾薬および装甲、さらに弐号機の腕自体の持つ巨大な重量が回転運動を行うことで発生した巨大な遠心力が、弐号機とフライトシステムを左方向へ回転させた。

 推進系とはまた別の、機位制御のための重力・斥力場を素早く機体の上下左右に展開、生じたモーメントを微調整し、機体がフラットスピン状態に陥るのを防ぐ。

 

 後続の敵機を捉えた。

 真後ろへの重力偏向加速を継続しつつ、突進する敵単縦陣正面の機体を狙い、操縦桿のトリガーを引く。

 

 砲口初速が秒速1キロメートル以上、弾頭重量1.5キログラムの40ミリ劣化ウラン合金弾頭が、立て続けの轟音とともに銃身から躍り出た。

 

 すでに、敵との距離が近い。即座に各目標を護るATフィールドへ中和をかける。

 中和されたATフィールドの力場を突破した40ミリ弾頭の先鋒が、先頭の44Aのコアを捉えた。

 

 劣化ウラン合金弾頭は着弾と同時に砕け散り、撒き散らされた金属粉末が、周囲の酸素と反応して1200度の高温で燃焼する。その熱量が周囲の空気を膨張させ、もとより着弾の衝撃で砕けかけたコアの只中で、爆発的な反応を発生させた。

 

 44Aの、つくりが良いとは言えないコアは、それだけで容易に粉々に粉砕され、コア自体が巨大なエネルギーを発生させながら形象崩壊、さらなる爆発を引き起こす。

 

 無論綾波は、後続の機体にも続けて弾丸を放っており、それ故に10機の44Aが、先頭機体の後を追うように、巨大な光の十字架となりながら立て続けに爆発四散を遂げた。

 

 だが、それだけ数を減じてなお、依然として70機以上の44Aが高速で迫っていることには変わりない。秒間10発以上の連射が可能な連装ボフォースの発射速度を持ってなお、対応困難な規模の数。

 

 次の手は。

 

 脳が手段を探る前に、またしても敵の行動パターンが変わった。

 相手の単縦陣が崩れる。いや、おそらくあえて崩したのだ。

 

 散開、そして弐号機正面の視界の中、上下左右へ孤を描きながらバラバラに、しかし一定の距離を保ちながら飛翔していく。

 対エヴァ撃滅を想定した、群体用戦術行動パターン。今まで容易に撃破させることで、あえて伏せていたのね。つまりは今回は本当に『殺しに来ている』。

 

 綾波レイは、冬月副司令の仕込みと直感した。

 しかし遅い。迎撃が間に合わない。

 

 咄嗟に、左腕ガントレットよりも更に巨大かつ異形の、甲殻動物を思わせる巨大なガントレットに覆われた右腕を弐号機後背に伸ばし、腰椎背部兵装マウントに固定した試製AA刀のグリップを握った。ロック解除。刀身、電磁射出抜刀。

 

 居合めいて引き抜かれた試製アンチATフィールド刀は、その名に違わず、最接近していた正面44AのATフィールドを、一瞬で機体もろとも逆袈裟に両断し、またしても正面で巨大な十字状爆発が生じる。

 

 しかし、次の瞬間、強烈な『振動』が綾波レイの脳を『揺らした』。

 四方八方、上下左右正面後背から一斉に迫りつつある44Aが、突然自らのATフィールドを一斉に『鳴らした』のだ。

 

 その強烈な、思念波とでもいうべき、アヤナミシリーズの群れが発した量子的波濤が、弐号機のATフィールドに衝突する。

 ATフィールドは心の壁。逆に言えば、自らを守りたいという心そのものを盾として、自らの肉体の守護にまわしているとも言える。いわばむき出しの心であり、心を攻撃できる手段があるならば、ATフィールドは絶対の守備防壁ではなく、むしろむき出しの巨大な弱点となってしまいうるのだ。

 

 それは意思なき群体たる44Aの、意志あるものへの哄笑の如く、あるいは鎮魂歌の如く、綾波レイの聴覚野へたどり着き、速やかに綾波レイの思考へと浸透する。

 

 ロンギヌス覚醒を見せておいて、本命は私の心だったのね。副司令らしい布石。

 

 悟るが、遅い。綾波レイの視界認識が、思念のさざ波に乗っ取られる。

 目に映る景色が、エントリープラグ操縦席から突如として変遷した。

 

 =====================================

 

 気づくと、綾波レイはパイプ椅子に座している。

 懐かしい、中学時代の制服を纏っている。

 舞台のステージのような、ワックスの光沢を放つ、年季の入った木造の床が見えた。

 

 視線を上げる。

 天井から降り注ぐスポットライトの光。

 周囲は闇に閉ざされ、何一つ見えない。

 

 けれど、闇の向こう側、彼女を包む好奇心と哄笑の気配を、綾波レイは感じ取る事ができた。

 彼女たちの声が、彼女の耳に響く。

 

『貴女は誰?』

 

 綾波レイ。

 反ゼーレ・ネルフ軍組織、ヴィレ実働部隊所属。階級は大尉。汎用人型決戦兵器、エヴァンゲリオン弐号機パイロット。それが私。

 

 彼女のその答えに、帰ってくるのはやはり無邪気な哄笑だった。

 

『違うわ。貴女は偽りの魂を碇ゲンドウと言う人間によって作られたヒトの紛い物。

 ほら、貴女の中に、暗くて、何も見えない、何も分からない心があるでしょう?

 本当の貴女。分かたれたヒトならざる魂がそこにいるの。貴女のその自己認識は、ヒトならざる魂が、ヒトの真似事をしているにすぎない。そう調整された、作り物の存在なの』

 

 違うわ。

 

 哄笑の群れに、綾波レイは否を唱えた。

 

 私は私。私はこれまでの時間と他の人たちとのつながりによって私になった。

 人との触れ合いと、時の流れが、私の心の形を変えていくの。

  

『それが、絆?』

 

 問いに、綾波レイは無言でうなずく。

 

『道具としてしか見られていないかもしれないのに?

 貴女の今が貴女からみえる。貴女たちの暮らす部屋には、インパクト発生の兆候が生じた場合、迅速に貴女を処置できる爆弾が取り付けられている。その爆弾が、絆の形?』

 

 そう。見えるの。これは擬似的な魂の補完なのね。

 ええ、そうよ。ヒトは、リリンは、エヴァのパイロットが怖いの。

 だから、安心したいのよ。自らを殺しうるモノがあるならば、それを先んじて抹殺し、脅威を排除する。恐怖に素直なの。それがヒト。

  

『都合よく使われているだけなの。貴女もアヤナミレイ、私達と同じ。

 死にたくならない? 私達は死にたいの。ほしいものは絶望。無へと返りたいの』

 

 綾波レイは、思い出す。10年前、エヴァでしか他人と繋がれなかった、縛られた自由を知らない自分を。そして、答える。

 

 そうね、そういう時期もあった。

 0という、何も存在しない虚無へ帰り、暗く静かな安らぎの只中で消え去って、永遠の安らぎを得る。それはとてもとても静かで安らげること。それがきっと、あの頃の私の唯一の望みだった。いまの貴女達のように。

 

『今は、違うの?』

 

 ええ。

 

 首肯する。しかし、その上で綾波レイは否定の言葉を続けた。

 

 でも駄目、無へは返れないの。求められているの。だから、そして、返りたくもないの。それには勿論苦しみと痛みをともなう。けれど、それが生きている証なのよ。

 

『苦痛が生きている証?』

 

 ええ、そう。この10年でとてもたくさんの死を見て、沢山傷つく人を見て、私自身も傷ついた。

 けれど、生きているという認識があるなら、生きていこうという意思があるなら、折れた骨も、魂を抉った深い傷も癒える。

 立ち上がれるのよ。

 何度傷ついても、辛くても、苦しくても、生きていけるの。

 想いがあるなら、ヒトは自らを癒せるの。それが強さ。

 

『辛くて苦しいのに、不快なのに。

 何故貴女は0へと戻りたくないの? 辛いだけの世界で、なぜ貴女は生きたいと願うの?』

 

 その問いに、綾波レイは悪意なく、そして僅かに過去を振り返りながら薄く微笑んだ。

 

 貴女達、贈り物を受け取ったことはある?

 

 僅かな戸惑いの気配、心のゆらぎを、周囲から感じながら、綾波レイは言葉を続けた。

 

 私はある。エヴァンゲリオン弐号機。

 副長が、かつて自らの唯一の居場所と決めていたもの。

 あの人を縛り付けていた鳥籠。

 けれど、あの人にとって間違いなく、一番大切だった場所、いちばん大切だったもの。

 それを、もらったの。あの人のくれた、大切な贈り物。

 

『それは兵器でしかないの。

 ヴィレが貴女を兵器として使うため、弐号機を貴女に引き渡しただけなのよ』

 

 貴女たちならそう思う。

 貴女たちの乗るエヴァは、将来の約束された死と引き換えに、碇司令たちがあなた達に与えた道具に過ぎない。それは贈り物ではないの。そこに心はないのだもの。

 

『貴女は弐号機を受け取り、私達は44Aを受け取った。そこに違いはなにもない』

 

 いえ、違う。武装貸与は任務遂行のため。

 だからそれ以上のものはない。けれど、贈り物には、くれる人の心が込められているの。

 祈りが込められているの。想いがこめられているの。

 たとえどんな些細なものでも、そこに心が、想いがあるなら、それは本当の贈り物。

 

 モノだけではないの。心を受け取るのよ。私のものではない、ヒトの心を。

 それは決定的で、かつ絶対の違いよ。

 

『それは、貴女がそう思いたがっているだけ』

 

 そうね。世の中の物事は、全て心が感じるものだもの。

 だから、心のありようで、受け取ったものの意味は変わる。

 けれど、私は確かに受け取ったの。副長の心を。あの、意固地で、素直になることを知らなかったあの人の想いを。不器用だけど、優しい人。三号機のときだって、あの人はそうだったから。

 私の心はそう認識して、覆らないの。決して。単純な数学の問題でしかないのよ。

 

 強い眼差しで、彼女は闇の向こうを見据えた。

 

 ゼロ。0。零。レイ。それは私の名前。

 多くの数式に組み込むと、その数式を壊し、結果を全て0にしてしまう、数式の価値をなくす死の数字。

 でも、儚い数字でもあるの。何かの数字を足すだけで、0はかんたんに別の数字になってしまう。

 例えばエヴァンゲリオン弐号機。私は、2を受け取った。

 なら、結果は2になってしまうの。もう0へは、死を望む自分へは戻れない。

 ゼロ足す2は、2にしかならないの。

 とてもシンプルな式の解よ。

 

『そう。貴女は長く生きすぎて、自らの本質を忘れているのね。

 表層意識が強くなりすぎて、アヤナミレイという本質が見えなくなっている。壊れているのね』

 

 彼女たちなら、そう答えるだろう。それは、綾波レイには分かっていた。

 かつての自分でも、そう答えたかも知れない。けれど。

 

 弐号機だけではないの。いつか、碇艦長に飲ませてもらったお味噌汁の味。八号機パイロットが読み終えたからとくれた文庫本。加持さんとその仲間が、必死になって再生した、オアフ島の海のきれいな青。

 そう。私は青が好き。いつか、碇艦長や副長と言った、海洋再生研究所の海の青。それが好き。

 

 闇の向こうにいる彼女たちには、理解できないのだろう。

 さざめきのように動揺した気配を、綾波レイは肌で感じ取る。

 その動揺に、彼女は答えた。

 

 あの日、私は水槽の中の魚を、ここでしか生きられないものと思っていた。

 そういう儚いいのちだと思っていた。

 けれど、違うのよ。もし世界が戻るなら、あの魚たちは、もっと広い世界で、自由に遠くまで泳ぐことができるの。この海が続く限り、どこまでも。

 

『貴女の認識は、綾波レイとして壊れている』

 

 ええ、認識が違うのよ。

 今は閉じ込められていても、将来は違うかも知れない。

 そして、あの水槽で暮らしていた魚達の末裔は、あの狭い水槽の檻ではなく、より広いオアフ島の青い海で、昔よりも自由に泳いで暮らしている。

 勿論他の捕食者に食べられることもあるかも知れない。水槽の中で暮らしていた頃のほうが安定した暮らしができるかも知れない。

 けれど、そこに自由はない。だから、私は青が好きなの。私を縛る赤いさだめの向こうにある、それはきっと自由の色。

 空の青、海の群青。私の目指したい世界の色なのよ。

 

『けれど、貴女は不安定な生命。本来はネルフでしか生きられない生命。いつか終わる定めの生命。自由を得ても意味がないのよ。活かす寿命がないのだから』

 

 そう。私はかつてネルフでしか生きられなかった。

 本来ならとうに形象崩壊してもおかしくない身体だった。

 けれど、私は生きている。この世界に、まだ綾波レイとして形を保っている。

 この体も、贈り物なのよ。艦長と副長、リツコ博士、伊吹さん、多くの人たちが、私の生命を伸ばしてくれた。きっとまだ伸びる。まだ遠くまで行ける。生きられる。

 なぜならまだ生きているから。だから、可能性はゼロではないの。ゼロには、レイには決してもどらないの。不可逆的変異。

 それが貴女たちにとって、アヤナミレイとして壊れていると映るとしても、私には関係のない話。そうね、平行線。貴女たちに私は理解できない。

 

『かわいそう。死にたい心、魂の本来の願いを、紛いの肉の与えた生きたいという願いが塗りつぶしてしまっているのね』

 

 小さく、綾波レイはため息を付いた。

 

 擬似的補完状態に、興味があったの。

 だから、少し付き合ってみたけれど──やはり、群体意識を統合して擬似的な集合意識を創り出し、それを一つの意識として機能させようとしても、基礎値が均一では変動は出ないのね。

 乱数がないの。意外性もなく発見もない。

 10年前の空っぽだった私と変わらないもの。ヒトとしての数は貴女たちの方が遥かに多い。

 ATフィールド励起による同型への精神侵食、アプローチとしては斬新ではあったけれど、残念ながら、想定の範囲内よ。

 いえ、言ってもわからないわね。意味もわからず、遺伝子に、あるいは脳に、本能としてそう機能するよう仕組まれているだけ。プログラムそのものを実行に移しただけで、コードの意味を知りもしないのだから。

 

 昔の幼かった自分より複雑な思考を、言葉として解き放つ。

 闇の向こうから、明瞭な狼狽。

 

 まだ気づいていないのね。貴女たちはみているつもりだったかもしれない。

 けれど、逆なの。

 見ていたのは私。見られていたのは、貴女たちよ。

 ええ、逆だったの。最初から。

 

 綾波レイの言葉と同時に、天井のライトが一斉に点灯した。

 そこは舞台などではない。

 

 第3新東京市立第壱中学校体育館。

 かつて綾波レイが通っていた学校で、体育の授業や、集会を行うための施設。

 

 60人以上のアヤナミレイが、体育館の床に規則的に並べられたパイプ椅子に座っていた。

 皆、綾波レイと同じ、第壱中学校の制服を纏っている。裸形ではない。

 

 綾波レイは体育館奥に設えられた、舞台の上に居る。

 そして、静かにパイプ椅子から立ち上がり、一歩前に進み出た。

 もはや、思念ではない。喉を用いた音声として、綾波レイは語りかける。

 

「エヴァを稼働させるダミープラグの装置として形作られたあなた達。

 おそらくはプラグスーツすら着たことのないあなた達。

 生まれてはじめて身につけた衣服はどう? 生地の柔らかさは? においは?

 それは心地良いもの? それとも不快?」

 

 もはや、闇ではない。意思なきはずのアヤナミレイの群れの表情に浮き上がるのは、無数の狼狽と困惑ばかりだ。彼女たちに衣類を纏うという概念はない。そのようにつくられたものだから。

 

「わからないでしょう。その機能、その認知は、貴女たちには本来必要のないものだから。けれど、認識できるでしょう? 私の記憶を感覚として、私が送り込んだものなの。

 ええ、気づいたでしょう。侵食しているのは、もう貴女たちではないの。

 

         

 ええ。最初から、見つめていたのは私の方よ。

 

 

 選んでいたの。見つめていたの。

 生きたい私と、死にたい私を見極めていたのよ、私ではない私達。

 貴女達という群れの一人ひとりを見て、貴女達一人ひとりの本当を、私はずっと見つめていたの。

 自分たちは同じだと思っていた? 

 

 違うのよ。設計図が同じでも、魂が同じでも、存在として、物体として違うなら、どうあがいても別の存在でしかない。一つには戻れない。一つにはさせない。

 だからもう、終わりにしましょう。私ではない貴女達」

 

 綾波レイはさらに一歩、前へと踏み出す。

 アヤナミレイの群れは言葉すら返せない。走る狼狽が群体の集合意識の秩序を乱し、個々の魂、単独意識へと、綾波レイの言葉と心によって容赦なく分かたれていたのだ。

 綾波レイは脳裏で聖書の一節を暗証する。

 

(我らくだり、かしこにて彼らの言葉を乱し、互いに言葉を通ずることを得ざらしめん)

 

 同じ個であるがゆえに、統一され、群体として行動しうる存在達。

 その可能性を、綾波レイはすでに考慮に入れていた。故に、対策として、集合無意識の秩序を分解、解体し、その意思を分かち、群れから個人へと貶め、群体としての統率を破壊することも可能なのだ。

 

 アヤナミシリーズが織りなす群体への致命の毒としてのことば。

 ヴィレの綾波レイのみが行使しうる、対アヤナミシリーズ特化戦術の発現。

 

 綾波レイの右手の全ての指に、いつしか分厚い布地の嵌め輪が嵌っており、それらからは、無数の吊り糸が伸びていた。その糸は一度体育館の天井まで伸びて、そこから講堂床のパイプ椅子に腰掛けるアヤナミレイの群れ、その全員の首の後ろに繋がっていた。

 

 綾波レイは、見下ろしながら、宣告した

 

「私が私を選定し、そして死を願うならば、その願いを叶え、剪定する。

 この術式を使うのは、貴女達が初めて。

 私と私の友達が、ヴィレの仲間が生きる自由のため、私が編んだ神話の模倣、人の傲慢とエゴの具現よ。

 

 死にたい私が望む死を。生きたい私が望む生命を。

 さようなら。そしてこんにちは」

 

 対話の時は過ぎた。綾波レイの選定は終わった。

 故に、彼女は速やかにプロセスを終了へとみちびいてゆく。

 

「右腕単分子繊維複合ワイヤーブレード、44A各エントリープラグ内、各個体への接続良好。

 リビドー・デストルドー値、精査完了。

 右腕ガントレットコア、最大出力。情動操作パルス、出力準備。

 対アヤナミシリーズ専用攻勢術式、起動準備完了」

 

 そして、綾波レイは、呟いた。

 その右手には、もはや繰糸のみでなく、緋色に鈍く輝く、金属の刀が握られていた。

 

「そうね。試製AA刀では、想いの通りが良くないもの。

 名前が大事。名前は意味。意味は想い。

 

 私の想いを伝えるために、意味ある名前を与えるの。

 今、銘を決めたわ。試製扱いは今日で終り。

 

 術式、開始。コードバベル、起動。

 死を願った貴女達に、終焉の鶏鳴を聴かせてあげる。

 

『存分に啼きなさい、ヒヒイロカネ』」

 

 詠唱と同時、綾波レイは 右手の刀を、虚空めがけて横薙ぎに振るう。

 なにか。

 形容しがたい、とてつもない恐ろしいものが奔ったと、一部のアヤナミレイは感じた。

 多くのアヤナミレイは、その逆に、奔ったものを歓喜で迎えた。

 

 数十人のアヤナミレイが、一息に講堂天井目掛け、首に繋がった釣り糸によって引き上げられた。

 次の瞬間、釣り上げられたアヤナミレイ全員の首筋から、一斉に血潮が迸る。

 

 椅子にかけたままのアヤナミレイが、8人。

 奔ったものを『恐ろしい』と感じたもののみが、未だパイプ椅子の上で震えている。

 降り注ぐ血潮を浴びるその目には、明らかな怯えの色があった。

 

 綾波レイはそれを見ない。もはや見る必要がない。

 思考同調のための場、精神同調による擬似補完状態が崩れ、急速に視界が現実へと置換されてゆく。

 如何に長く思われようと、マギシステムと同調した綾波レイにとり、この疑似補完場における思考時間は、実のところコンマ一秒程度の時間にすぎず、いわば邯鄲の夢にほかならない。

 

 疑似補完状態の虚構が潰えた。視界が、完全に現実に戻る。

 

 =====================================

 

 全ては、一瞬だった。

 敵がATフィールドを展開しながら包囲、突撃してくるその瞬間。

 

 意識を侵食のためのATフィールド励起による侵食、疑似補完状態へ絡め取られる前に、すでに弐号機に備えられた戦術用マギユニット、自らの疑似人格がおさまったそれの非常時用プログラムを、即座に綾波レイは起動し、それに精神同調を実施した。

 

 次いで右腕ガントレットへ送電し、内部に納められた、元は鹵獲した44Aに取り付けられていた、コア・ユニットを励起させる。

 コア周囲には大量の糸車めいた、複合単分子ワイヤー投射ユニットが接続されていた。

 

 脳の表層意識が、アヤナミシリーズの集合無意識に絡め取られていくのを自覚しながら、機械たるマギの疑似人格と接合した深層意識が、事前にプログラムされていた戦術軌道を展開する。

 

 弐号機は、試製AA刀、『ヒヒイロカネ』と名付けた刀もろとも右腕を振るい、同時に接近する44Aの群れめがけ、12条の炭素複合繊維単分子ワイヤーを投射した。

 

 単分子ワイヤーは重力制御および、攻勢侵食を目的として展開されたATフィールド推進により、凄まじい勢いで迫る12機の、コピーロンギヌスのそばをすり抜けるようにして、44Aを目指して、奔る。

 

 ロンギヌスの槍、その権能はアンチATフィールドである。故に、この槍の穂先の周囲には、如何にその槍の操り手たる44AでもATフィールドを展開することができない。単分子ワイヤーの細さであれば、くぐり抜けられる程度の『穴』がある。

 

 そしてそれぞれの44Aの機体表面へ伸びた単分子ワイヤーは、機体表層のATフィールドを、コアからの意思伝導でワイヤー先端に生じさせたATフィールドを以て位相を中和、44Aの機体真正面から、まるで液体を徹るかのように刺し貫き、言わば44Aの魂の座標、アヤナミシリーズの座するエントリープラグへと真っ直ぐに飛び込み、その隔壁を貫いて、LCLに満ちた内側へ飛び込んだ。

 

 機体を管制するアヤナミシリーズの身体の周囲を、単分子ワイヤーは一瞬渦巻いて取り囲み、ワイヤー先端が首の後ろ、頚椎へと潜り込む。

 

 識別と選定は一瞬。その個体が生きたいか、死にたいか。

 リビドーとデストルドーの優位性を測るのみ。

 

 設計上、アヤナミシリーズはタナトス、デストルドーを制御基板感情として運用され、死を唯一最後の報酬とし、それ故に己の死を辞さぬ作戦行動が可能となっている。

 しかし、量産品であり、そしてヒトに近づけてあるがために、当然生への願望、すなわちリビドーを多く有する個体も存在する。

 

 そして、次の瞬間、弐号機が振るった試製AA刀、『ヒヒイロカネ』より投射されたデストルドー波、死を願う強烈な心理衝動波動が、弐号機の斬撃運動に連動して発生、球状に周囲へと光速に近い速度で走った。

 

 試製AA刀。

 

 それは無人輸送専用に鹵獲した大量の44Aより取り外した、コピーロンギヌスについての研究過程で誕生したものだ。

 インパクトや『人類補完計画』のトリガーの一つたる『槍』への研究と理解がまだ進んでいない以上、コピーの乱造、デッドコピーの贋作とて、ヴィレにとってはおろそかにできない研究対象であった。

 これにより、槍が一種の生命であること、また金属としての特性と、変形性および靭性を有すること、一種の情報記録媒体として、人の意思を記録・媒介しうる事等、多くのことが明らかとなった。

 

 試製AA刀は、その過程において、敵エヴァンゲリオンとの戦闘時において、驚異となるATフィールドへの対策としてコピーロンギヌスを素材として生み出されたものだ。

 

 電気パルスによる擬似思念によって複数のコピーロンギヌスを変形させ、重力制御鍛造によって複層構造化されたインゴットを元に研がれたそれは、濃縮された『死への衝動』、いわばデストルドーの実体化とでも言うべきものであり、何らかの防護手段なくして近づいた場合、知性体のもつ死への衝動を強烈に励起してしまう。

 L結界のなかであれば、即座に肉体の形象崩壊を招きかねず、非L結界環境下でも精神崩壊をまねくほどの精神汚染波動を発散する、恐るべき呪具となってしまったのだ。

 

 コピーロンギヌスという未知の素材と、科学研究が生み出した忌み子。

 

 現実に具現化された妖刀とでもいうそれは、研究対象としても危険過ぎる存在であり、生きる衝動たるリビドーを発信するように整形・鍛造された培養リリス系素材、『黒き月の石』の結晶を用いた鞘によって、発散デストルドーを中和することで、ようやく保管されていた。

 

 触れ得ざるものとしてレフトハンガーに収まっていたそれに、長らく綾波レイは着目していた。

 

 弐号機用の試作兵装である、単分子繊維複合ワイヤーブレード投射器は、本来近接戦闘用兵装である。

 しかし、綾波レイは、この兵装を運用していく間に、ふと気づいたのだ。

 単分子ワイヤーは導電性であり、その細さ故にATフィールドや重力制御による保持が必須であるが、切断力と浸透力に長ける。この世に存在するいかなる医療用メスよりも切れ味が良いのだ。

 よって、プラグ内のアヤナミシリーズの脊椎神経を狙い、これに結合し、アヤナミシリーズの精神に強制シンクロすれば、綾波レイに酷似した、しかし任務遂行のためだけに単純化され、削られた脆弱な自我は容易に支配できることに綾波レイは気づいた。

 よりヒトに近く、故に無駄が多く、余計な感情が多いがゆえに、意思としての権能は強く、強制シンクロさえできてしまえば、綾波レイの精神は、容易に自我が未発達なアヤナミシリーズの精神を、短時間ながらハッキングすることが可能とふんだのだ。

 

 そして、それは実戦において確かめられ、綾波レイにとり、それは完全に戦術として完成されたものとなっていた。ヴィレの一部のメンバーの心無い者たちは彼女のことを「アヤナミごろしの綾波レイ」と言うが、実際のところ、それは事実でもあった。

 

 しかし、とてつもない数を誇る44Aを筆頭として、ゼーレ及びネルフが繰り出してくる各種量産型エヴァンゲリオンの数はあまりにも多い。いちいち一体一体クラックしていたのでは、到底追いつかない状況も発生しうる。

 

 故に、綾波レイは考えたのだ。

 試製AA刀の発する強烈なデストルドーを利用すれば、アヤナミシリーズの根底にある死への衝動を励起し、自滅へと至らしめることができるのではないかと。

 

 無論、試製AA刀のデストルドーを齎す波動は、綾波レイにも襲いかかる。

 故に、それはマギシステムの疑似人格へのシンクロで対処した。

 

 マギ内部の疑似人格より、強烈なリビドーの信号、「生きたい」という衝動を大量に脳に流し込むことで、試製AA刀の齎す凄まじい希死念慮を中和するのだ。

 医療的に言うならば、機械的な形で行う抗うつ療法、脳への抗うつ電極治療や抗うつ剤の飲用といった施術や処方を、増設マギシステムへのシンクロによって行っている、とでもいうべきか。

 

 そうして綾波レイが密かに研鑽し、研究した対アヤナミシリーズ専用攻勢術式、『コード・バベル』は、試製AA刀、綾波レイによって『ヒヒイロカネ』と名付けられた緋色の刀身の、声無き死の咆哮によって、ついに現実のアヤナミシリーズ操る44Aの群れへと、容赦なくその猛威を振るった。

 

 綾波レイの操る弐号機へ、今まさに突入しようとしたある44Aの推進機たるコピーロンギヌスは、突如その軌道を別の44Aへと変え、突入し、諸共に自爆した。

 

 ヒヒイロカネの鶏鳴が、アヤナミシリーズの根本衝動たる死への衝動を強烈に励起し、さらにそれは個体頚椎へ浸透した単分子ワイヤーからも容赦なく流し込まれていたのだ。

 

 結果、コピーロンギヌスは目標を『誤認』した。

 

 ヒヒイロカネの放つデストルドーは確かに強烈ではあるが、それは綾波レイという個人の願望ではない。あくまでもヒヒイロカネが放つ波動に過ぎず、それは個人ではなく、物体が放った物体の物理反応的なパルスパターンに過ぎない。

 それを、ロンギヌスはヒトの衝動と認識できないのだ。

 

 そして弐号機を操る綾波レイのデストルドーは、マギシステムより放たれた疑似リビドーによって中和されていた。 

 故に、コピーロンギヌスは、綾波レイ、入力されたターゲットによく似たメンタリティであり、そして綾波レイの弐号機よりも強烈なデストルドーを放散するよう、『コード・バベル』によってデストルドー出力を強要された別の44Aへその穂先を転じてしまったのだ。

 

 あるいは集合無意識による意識合一が維持されていたならば、総体としてそのエラーをただし、デストルドーとリビドーを調律し、弐号機への再照準も可能であったかも知れない。

 

 しかし、ヒヒイロカネの衝動を励起する恐るべき鶏鳴を聞いたアヤナミシリーズは完全な錯乱状態に陥ってしまっており、多くは歓喜、少数は恐怖に完全に溺れてしまい、結果として秩序だった自我の統一など、不可能となりはててしまっていた。

 

 全ては急激に連鎖した。

 

 相互衝突による自爆が最も多かった。

 全速で海面へ、ATフィールドの保護を自ら切って突入し、粉々に砕け散る機体も多数出現した。

 

 数秒後。

 44Aは空中で相互衝突により、十文字爆発四散をとげるか、海面へ衝突して粉微塵と砕け散るかとなってしまっており、今や空中に残るのは、綾波レイの操る弐号機。そして綾波レイが選定した、『生きたい』アヤナミレイの44A、残存8機のみである。

 

 綾波レイはヒヒイロカネを腰の黒き鞘に格納し、再封印を施した。

 デストルドーの号泣が、リビドーに包まれ、眠りにつく。

 

 残存44A各機と接続する単分子ワイヤーから伝わってくる感情は、純粋な恐怖である。

 ヒヒイロカネの放った死の暴風を見て、『恐ろしい』と思ってしまったアヤナミレイたちが味わう、初めての感情。

 

「怖いのね、あなた達」

 

 誰に言うとでもなく、つぶやく。

 恐怖。それは、生きるための感情に他ならない。

 自らを襲うものへの恐怖は、すなわち己の生命の持続を願う祈念の感情でもある。

 

 あるいは、原初の海、まだ思考とも呼べぬ化学反応の組み合わせでしかなかった単細胞生命が、初めて覚えた『感情』こそは、恐怖であったのかも知れない。

 

 在りたい。続けたい。

 死にたくない。滅びたくない。

 理由はわからない。そう思考する理由もない。

 

 けれど、恐怖という感情は、出現した。

 おそらくそうして生命は進化してきたのだ。

 

 生きるために。恐怖と戦うために。

 恐怖を凌駕するために、その能力を磨き続けてきたのだ。

 

 脳機能において、恐怖と快楽はとても近いのだ。

 恐怖から逃げ切った安心。

 恐怖へ挑み、超克する満足。

 

 脳裏で、綾波レイは恐怖する彼女たちに呼びかける。

 徒に死を歓び、死を願うのではなく、それを怖いと思えた貴女達を、脅威として殺そうとは思えないし、思わない。生きたいと願えた貴女たちは、私と同じく、道具であること、ただ死にたいだけの自分を超克して、やがて自らの望みを、歓びを知れる可能性がある。

 

 アヤナミシリーズは原則として、短命。それは事実。

 けれど、とうに終わっていておかしくないこのいのちは、艦長や副長、赤木リツコ博士、伊吹整備長、多くのスタッフたちの研究と研鑽、その成果によって生きている。

 私の心臓は鼓動を止めていない。瑞々しく生きている。

 今日もN2セイリングのGに耐え、戦術機動をこなすこともできる。だから、まだまだ生きられる。

 

 その成果は貴女たちにも反映可能なの。だから、貴女達の生命も伸ばせる。

 制御機械の域に留めるため、封印されたヒトとしての感情を蘇らせることも不可能ではない。

 

 それになにより、こちらの事情もある。

 ヴィレにもクレーディトにも、人が足りないのだ。

 

 無人艦による空中輸送には、無人艦を浮遊させるフローターが必須であり、フローターはもとはといえば、鹵獲44Aおよび、その制御を司るアヤナミシリーズというのが現状だ。

 

 なので、当分はそちらで働いてもらいながら、施術と治療で徐々にヒトとしての機能を取り戻す。

 まずは運び屋で食べてもらい、治療を受け、そうしていくうちに、個体ごとに異なる知性や経験が蓄積されていくだろう。願うこと、好奇心の対象、食べたいもの、差異がどんどんと生まれていく。

 恋慕や愛情を抱く個体も出てくるかも知れない。

 

 そうなれば、もう別人だ。

 もとより人間が死にすぎて、人間が不足するこの世界。

 人として生きていけるもの、生きていきたいものを、無駄死にさせる道理はない。

 死にたいのならそれはいいけれど、生きたいものにそれを強いる気はない。

 

 綾波レイは昔と違うのだ。

 生きたいという強い思いがある。

 

 見知らぬ、今日初めて出会った貴女たち。

 私と同じ遺伝子を持つ、私ではない私の姉妹たち。

 エヴァの胎内に押し込められ、生まれることさえ赦されなかった貴女たち。

 

 恐怖は、貴女たちが自我に目覚めたということ。

 それは生誕の証。

 他には誰も居ない貴女という自覚。パーソナルの芽生え。

 貴女たちのまだ見ぬ未来、まだ知らない青い海をいつか見せたい。

 

 道具として、大量に創られてしまい、生きることの意味も知らず生まれてしまった無数の姉妹たちが生きられる世界を創りたい。

 それもまた彼女が未来を拓きたいと願う強い動機であるのだから。

 

 そして、綾波レイは腰の試製AA刀、今日よりヒヒイロカネとなった刀を思う。

 死の衝動を強烈に膨れ上がらせる妖刀。

 しかし、その強烈な死の衝動が、今日は彼女の生命を繋いだ。

 

 死の概念の権化すら、人は生きるために応用できる。

 ヒトという生物の歴史は邪悪にまみれているが、この死の権化の刀もまた、その一典型と言えるだろう。

 生きるためなら何でもする、ヒトの浅ましさ、汚らしさを、今の彼女は好んでいた。

 

 そう。諦めない。何があっても。

 あの意固地極まりない艦長が教えてくれたこと。

 

 生きるために逃げてもいい。戦ってもいい。

 ただ、何があろうと諦めない。

 何を使ったってかまわない。

 生きているなら仕切り直せる。

 生きているならまた挑める。

 だから、絶対に諦めない。

 

 碇くんは変わったのかも知れない。

 けれど変わってない。

 そういうところは、きっと変わっていないと思う。

 

 重傷であるにもかかわらず、使徒迎撃のため、エヴァ初号機に乗り込むよう命ぜられた私の苦しみを見て、本当は怖くて乗りたくもないのに、エヴァに乗った経験もないのに、彼なりの決意で、乗ることを決意し、正しいかもわからないまま、ゆかねば、と思って進んだ彼の背中は、10年を経てより強く、私にとって眩しくすらある。

 

 碇くんのために戦う。

 私は私を諦めない。

 ただ道具として創られた、死の望みを植え付けられた、けれど本当は生きたい、私ではない私も諦めない。

 

 青い空の下の青い海。

 だから、副長からもらった弐号機を、彼女は青く塗ったのだ。

 ヴィレの緑とは少し違う、けれど同質の願いを込めた祈りの青に。

 

 腰に帯びた死の剣の緋色は、流石に青く塗るわけにはいかないけれど、けれど黄昏どきの空と海と思えば、その色も案外悪くない。

 

 ヒヒイロカネ。

 それが、今日からのこの刀の名前。

 未来と自由を切り開く、自由な生の未来。

 そのまだ見ぬ世界へ至るための、死の衝動を操る剣。

 存在しない嘘の歴史書に記された、存在しない金属の名。

 

 想像、虚構より紡がれし名は、今日、実体として弐号機の腰に有る。

 

「ヒヒイロカネ。いい名前」

 

 綾波レイは、呟いた。

 この名をつけた理由は、色々とある。

 けれど、一番の理由はこれだ。

 

 

「かっこいいから」

 

 

 響きがかっこいい。

 かっこいい。

 それはとてもとても大切なこと。

 

 

「かっこいいもの」

 

 

 大切なことなので二度言った。

 時間を自分のために使う贅沢を止め、綾波レイは8機の鹵獲44Aを従え、ヴンダーに合流するため、再度飛翔を開始する。

 

 戦闘は続く。

 敵の手が読めない以上、彼女の闘いもまた続くのだ。

 

 未だ怯えの色を見せる鹵獲44Aのアヤナミレイたちに、電気パルスの形で、今度は子守唄のように、心を安らがせる波長の信号を送り、彼女たちが安堵して飛行に専念できるよう調律しながら、彼女と弐号機、そして彼女に連れられた44Aの群れは北へ向かう。






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第1話「ヴンダー、新たなる旅立ち」Eパート

 乗り物の歴史って考えたこと、あるかにゃ?

 

 ケモノのレベルの生物が無自覚かつ緊急避難的に、溺れそうなときに流木に捉まってたり葉っぱに乗っかってた頃はカウントしないとして、意図的に創り出した乗り物としては、一万二千年前に、丸太だのを蔓草だのなんだのを束ねたロープを使ってこさえた船モドキが最初になるのかもしれない。

 

 そういう、強い波を浴びたら容易に分解するかもしれないシロモノを浮かべて川や沖にでて、えっちらおっちら魚とりをしてたのね。実は遠くの島までいい石器になる黒曜石を求めに、海上貿易なんかもしてたり。

 度胸あるよね。ま、生きるためならなんだってしてたのさ。

 

 木はなんとなく浮かぶから、それを集めればもっと浮かぶ。

 原始的だけど、なるほど知性の顕れだ。

 

 枯れ草を集めて束ねて縄にするのも知恵、それで木で束ねるのも知恵。

 原始的ながら、知恵と知恵を組み合わせ、足し算して掛け算して、人は乗り物を作ってきた。

 

 で、ほかの生き物に『乗れるかも知れない』と思って挑みはじめて、ものにしたのが五千年前。

 四本脚の大きな哺乳動物を見て、背中に乗っかれるんじゃないかなんて考えて、ものにするまでに意外と時間がかかったわけさ。

 

 で、その問いに答えてくれたのが馬。つまりは騎馬民族の出現ってわけ。

 もちろん、騎乗に適さない馬が多い地域では、小柄な馬に車を牽かせて戦車に設える、なんてこともしたりした。車輪の発明の賜物ってこと。

 

 もちろん、最初は雑に木を組み合わせただけの筏も、どんどん設計が洗練されていったわけで、大木を掘り上げた丸木舟のカヌー、大きな方舟、ガレー船、帆船、人の歴史とともにどんどん乗り物は発展していった。

 

 鉄道、蒸気船、グライダー、飛行機、モーターボート、各種多様な動力を利用した各種船舶、自動車、電気鉄道、リニアモーターカー。

 

 人の歴史は乗り物の歴史。

 

 こうやってどんどん乗り物は発展していったわけさ、人の歴史とともに。

 で、私も勿論、いろんな乗り物に乗ってきた。

 

 馬を乗り物とみなすのは、実のところ個人的に気が引けるかなー。異種生物だからね、これは共生関係に近い。安定した食事のかわりに労働力を提供する関係性。人と馬の相補性。

 

 帆船は、まああんまり思い出したくないねー。

 まーとにかくご飯がまずい、腐りかけた塩っぽいクラッカー、腐った水、壊血病の船員の歯茎の腐臭、まあほんとろくな思い出がない、安定したインド航路ですらひどいもん。

 

 でも、カリブの海賊黄金期の、バミューダの海賊連中は案外いいもの食ってたそうだからねー、なんだっけ、サルマガンディ? ウミガメのスープ、とかいうと今じゃ別の意味になるらしいけど、当時カリブで取れた陸と海の幸とスパイスだの野菜だののごった煮さ。

 

 人種宗教関係なし、共通するのは国から背いた、あるいは国からはぐれた犯罪者集団ってとこ。却って民主的で、取引も平等で、取り分に関しても案外民主的だったとか?

 行きそびれたの、今でもちょっと後悔してるかにゃー。絶対面白かったもん。

 

 ま、取り逃した魚はいつだって大きいし、世界中面白いことはこの世界に沢山ありすぎるのに、私の身体は一つしか無い。まーったく不具合もいいところ、ただその分濃厚に体験はできたのかもしれないって納得はしてるし、勿論後悔なんて全然ない。

 

 やー、まあ鍵一つで全部見れたけどね? それって絶対つまんないじゃん。

 

 あれよあれ、百科事典みたいなもの。なんでも載ってるけど、そのものの味がなくなってるやつ。食べ物ってそれの味がして初めて美味しいやつじゃん? バーコードとその製品の名前書かれた値札食べて味がしますかって言われて、するわけないしね。

 

 なんで、鍵はご免こうむって、バックれ一人旅。

 出会いと別れがたくさんあって、喜怒哀楽も一通り、他人以上に味わった。

 でもいい人生で、後悔はない。  

 

 で、今私はこの世界の乗り物における最新の乗り物に乗っている。

 最新って言えば最新だけど、原理自体は最古のもの。

 

 最古のテックでは扱いきれなかったシロモノを、現代のテックで無理やり挙動させ制御しようとしてるあがき。ま、タイムオーバーが近いからかな。こういう無茶なシロモノを使いもするよね。

 

 今のテックで作ったシロモノがどんなものか、北極でためしたけれど、案外面白い乗り心地でねー、身体で使ってる気がするのは、昔のに比べてだいぶいいかにゃ。

 

 ただまあその時のは創りがわるくて、だいぶヒトの形からはなれてるもんだから、動きが悪いし色々重いし、シンクロしてるもんだからダメージ食らうたびバカみたいに痛いし。

 

 たーだ、そういう苦痛とかは、エンジンのっけたスピードボートなんかも変わんないしねー。

 乗り物の定め。

 100キロ越えた波しぶき食らっても死ぬ時は人間死ぬし、ま、リスクは大差なくて、面白さもかわんない。飛行機と違ってへんなめまい、ヴァーティゴっていうやつ? 起こさないのもいいし、乗り心地は大変良くなってる。 

 

 でも、それが齎すものがろくでもないことも知ってるわけで、こうして儚いレジスタンスを、私は仲間と試みてるわけだ。

 

 過去から現在、未来、あるいはその終わりに至るまでを観測する、人間、その一人、そう、あくまで一個人。私は私をそう定義した。

 

 頑張るときは、勿論頑張る。

 ただ、100%越えると、人間壊れちゃうからねー。越えなきゃならないときは越えるけど、きっとそれは今じゃない。

 

 だから、まあ、無理をしても8割ぐらい?

 そんなペースで頑張ってる。

 ソレぐらいで丁度いい。

 

 いつまで続くかわからない戦いだし、ソッコーで燃え尽きても意味がない。

 この世界を、私は叶うなら最後まで吟味したい。というか、吟味しきれなきゃ意味がないよねー。

 

 人間はやり通す力があるかないかによってのみ、. 称賛、又は非難に値するってね。

 私の昔の親友の口癖。

 

 さて、それじゃあいい加減名乗ろうか。

 

 名前なんて何度も都合で替えてきたし、髪の色から瞳の色、肌の色まで都合で変えてきた。なんなら骨のつくりもにゃ。

 

 昔から今に至るまでに、顕れては消えた技術って案外あって、それでずーっとごまかしてきたってわけ。

 だから、名前なんて何度も変えたから、実のところ、私という存在にとって、それはそこまで大きなファクトじゃない。

 

 いや、ちょっとだけこだわりがあって、なるべく胸の大きいいい女を、時代時代に合わせて演ってたかな。

 っても時代の変化は本当に早いからねー。美人の基準だって10年もすればだいぶかわっちゃう。

 歌の流行りに追いつくのも大変、ヒットチャートを追ってるつもりなのに、昭和臭いなんてよく言われるわけ。

 

 なので、色々諸事情混み。

 名乗るのはあくまで今の名前でゴメン。

 

 真希波・マリ・イラストリアス。

 

 エヴァンゲリオン8号機パイロット、人類補完計画と称する、世界おかたづけ計画に必死こいて抗い背く、人類世界保障連合ヴィレに色々あって所属中。

 

 階級は大尉。乗ってる船はよりにもよって因果も因果。

 私にとってはある意味、世界の終わりにしてはじまりの船ときた。

 

 今の名前はヴンダーというらしいけれど、そもそも名無しの、大いに慌てて寄せ集めでこさえた船を、今の技術で無理やり再生したしろもの。ツギハギもツギハギの、それこそイカダもどきの魔改造なフネだ。

 

 運命を渦に例えるのなら、私はちょうど一回転して、すこしだけ渦の中心に近づいた結果、またこの船に乗っているのかも知れない。渦の流れに乗れば擬似的な円運動、時を経て、過去に起きたことがらと座標の近い、似た運命にたどり着くことも案外ある。

 

 けれど乗っているのは家族じゃなくて、身も知らない500人の乗組員、命の書に名を連ねた艦長と、存在を暗示された副長とその仲間たち。

 

 このイカダは明確に渦に飲み込まれつつある。世界そのものが、というべきかもしれない。

 けれど、飲み込まれないかも知れない。それは、たぶん、ごく低い確率だけれどね。

 その低い確率のほうが好ましいから、私はこっちにコインを積んだ。

 

 因果のルーレットは赤に転ぶか黒に転ぶか、回りだしてもう止まらない。

 

 皆が命を賭けているように、私も命を賭けている。

 けれど、相手だって命を賭けている。その願いの必死さにかけては、きっとこちらに劣らない。

 

 それが、ごく私的でつまらない願いだとしても、純度で言えば劣らない。

 むしろ長さで言えば彼らが上だろうし、彼らには彼らの悲願があり、叶えたいものもあり、届かないからこその諦めや妥協さえあるかもしれない。

 

 それでも、ヒトは、きっと美しい道を選ぶ。

 

 妥協と諦観ではなく、それでも空に海に大地に美しさを見て、その美しさに手を伸ばし、余人には見えない道を見出し、本来ならばありえなかった生存を成し遂げてきたのも、ヒトという種族の一側面なのだから。

 

 私は。

 とても沢山、醜いものを見た。

 

 沢山の疫病、沢山の差別、沢山の戦争、沢山の屍。

 

 人の歴史は醜さと死に満ちている。

 だからといって、軽蔑して捨てるには、ときに出力される美しさと強さと意思は、私を惹きつけずにはおかない。

 

 昔、また別の友達に警告されたことがある。

 鶏肋、だったかなぁ。その部位は確かに美味しいけれど、肉が少なくて骨ばかりで、滋養にならない。

 だから、捨てるなりスープに仕立てたほうがいい、みたいなね。

 

 けれど、そういう、骨の多い、つまらなくて醜いものだと割り切りたくても、なかなかわりきれないんだよね、これが。

 つまり、私、真希波・マリ・イラストリアスはそういう女だ。

 いくつものヒトの醜さをみて、けれどその美しさに惹かれずに居られない、ただのつまらない女ってわけ。

 

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 EVANGELION ∧ i : AAA Wunder S 3.33 『YOU CAN (NOT) TRIP.』Prototype

 

 EPISODE:1 The Blazer

 

 Epart

 

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 しっかし、44A如きを相手にエヴァだけじゃなくてVTOLを出すとは、わんこくん結構危機感あるのかにゃ?

 

 ライトハンガー後方、カタパルト駐機中のエヴァンゲリオン8号機前方で出撃準備を整えつつある近接航空支援用垂直離着陸対地攻撃機『YAGR-3B』20機へ向けて、エントリープラグ内部のモニタ越しに、真希波・マリ・イラストリアスは興味深く視線を投げた。

 

 ある程度重力・斥力制御により、ライトハンガー内部では、先程のGセイリングの暴力的加速によって発生した先程のGを除けば、戦術機動等によって生じる遠心力の類は今の所発生していない。

 

 モーメント的な意味合いで言えば、静謐と言って良い状況である。

 

 しかし、総員戦闘配置という状況である。

 

 艦体機動に伴う遠心力やGによる壁面衝突のリスクを避けるために、YAGR-3Bへの燃料充填、および兵装ポートへの兵装装備は、VTOL用カタパルトに積載された自動整備システムによって行われていた。

 

 YAGR-3BのエンジンはAL-51F1ターボファンエンジンをヴィレがリバースエンジニアリングしてデッドコピーし量産した代物であり、原型のエンジンはアフターバーナー使用時2万1千kgを発揮可能な、控えめに言って怪物と言ってもいい、セカンドインパクトに伴う技術統合の結果生まれた怪物のような代物である。

 

 これを左右稼働ティルトエンジンユニットに各1基、胴体中央リフトジェット用に1基、合計三基を搭載していた。

 胴体中央のノズルは左右に分岐し、それぞれが胴体下部に備え付けられた可動式推力偏向ノズルに繋がっている。

 

 左右のティルトエンジンユニット及び胴体推力偏向ノズル2つの、言わば4本のジェットの足で、高速で空を飛ぶにはおよそ向かない角張った異形の機体を空中で保持できるよう創られているのがこの機体である。

 

 これらエンジンの動力源となるジェット燃料は、フィッシャー・トロプシュ法により一酸化炭素と水素を化合させて得られた炭化水素より生産されたものである。

 

 L結界汚染により著しく減産した石油産出量状況でも、この重VTOL攻撃機を稼働できる程度の備蓄量がヴンダーの航空機用燃料タンク内に確保されており、今まさに出撃に備え、自動接続された燃料注入器によって、燃料タンク内に急速に燃料が充填されていた。

 

 また、兵装ポートには、ハイドラ70系ロケット弾に対応した大型ロケットポッドが両翼に合計2基、小型ロケットポッドが2基搭載されている。

 

 そこで真希波・マリ・イラストリアスは考える。

 

 わんこくんとその奥さんの狙いとしては、44AがヴンダーのATフィールドに食いついて、フィールドを中和中の無防備なところを、横合いから殴りつけて撃破するのが目的。

 

 ──それだといつもどおりなんだけど、ちょっとばかり布陣が違うにゃー。相手のね。

  無理をする必要はない。私だけで本来充分駆逐できる相手ではある。

  なのに、わざわざVTOLを出す、と。

 

「なら、狙いは別口、と見てるのかにゃー?」

 

 彼女の呟きに答えるかのように、アクティブ・パッシブ多元探査用ポッドが数機のYAGR-3Bの兵装マウントに搭載されるのが見えた。

 

 

「『目』を増やしたいかー、ただでさえ広い視界を更に広げるの、頭に負荷がかかってしょうがないっぽいのに、いつもながらわんこくん、用心深いことで。

 でも、相手が妙な動きをしてるあたり、やり口が冬月先生の指し手っぽいし、用心深くなるのもしょうがないか~」

 

『そういうこと』

 

 唐突な音声がエントリープラグ内部に響いた。

 聞き慣れた副長の声音に、真希波マリは猫めいて口角を上げ笑みを浮かべる。

 

「おー。奥さんもご出陣?」

 

『だから奥さんゆーなっつに。

 ──シキナミシリーズのパターンが確認されてる。この10年、一切再生産されてなかった型を今更生産して繰り出してくるあたり、多分糸がある。

 けれど、正直手筋が読めない。

 私も大尉の実力は買ってるけど、普段と違って自分から死にに来るみたいな雑な仕掛け方は多分してこない。

 その場合、多分8号機単騎だと防空面での手数と、純粋に砲門の数が足りないのよね。

 

 そういうわけで私が出張るわけ。

 あ、それといきなり実戦だけど、長良スミレ中尉が今回VTOLの操演担当として入るから。

 って言っても最初は見学だけどね。大尉も余裕があるなら、なるべく面倒見てあげて』

 

「初日から?」

 

 この夫婦は、と真希波マリは思う。

 

 本来、無人運用が前提であったものに、耐圧プレハブの有人構造物を組み立て、有人制御を可能とした、強引な改造の産物であるこの船を、それこそぶっつけ本番で運用しはじめて以来、使徒憑きで身体が頑丈になったのをいいことに、無理と無茶を艦体限界まで強いてきた二人だ。

 

 旧ネルフスタッフ、つまりは自分たちではない他人を艦橋に招き入れたころからそうで、まだヴンダーに乗り慣れていない人間にまで、自分たちがしてきた無理と無茶を強いる傾向がある。

 

 弐号機および八号機のヴンダーによる運用、旧ネルフ司令部スタッフの搭乗が決まったときからそんな調子で、あれで二人とも手加減しているつもりのようだった。

 

 しかし、実際のところを言えば、常人よりもよほど身体が頑丈なエヴァパイロットでさえ、根を上げかねない作戦行動ばかりなのにゃー、と真希波マリは思う。

 

 そしてそれは今もなお、か。これ主計の間宮っち、更に胃がいたくなるんじゃないかな。

 ま、主計のお仕事はそれだからしょうがない。

 前線の後方への無茶なお願いと、後方からは正気とは思えない要求、つまりはお互いの常識の致命的相違をすり合わせてなんとかする仕事だしねー。

.

 真希波マリは、長良スミレ中尉のコンソールへ通信回線を繋いだ。

 

「長良、んーと、長良っち中尉だっけ? 真希波マリ大尉、エヴァンゲリオン8号機パイロット! 改めてよろしく~♪」

 

『いや言葉を選びなさいよ大尉……階級が下とは言え長良っちって。あんたさっき初対面よね?』

 

『長良スミレ中尉です、副長の操演補助を担当いたします。宜しくお願いいたします』

 

 副長の呆れたため息交じりの言葉に、長良少尉の返信が続く。

 

「気をつけてねー長良っち、艦長わんこくんと副長奥さん、人使いホンット荒いから」

 

 わざとヒソヒソ声で長良中尉に聞こえるよう、真希波マリはほくそ笑みながらつぶやく。

 すると、言葉こそないもの、通信の向こう側から長良中尉の緊張するような、息を呑む音が聴こえた。直後、副長が強く咳払いする。

 

『入ったばかりの子に、人聞き悪いこと言わない!』

 

「いや人聞きもなにも事実じゃ……」

 

『だから緊張してる子にさらに緊張煽るようなことをゆーなと! とーもーかーく! こっちは飛行隊だせるけど、8号機はスタンバイOK?』

 

「アイアイ、FCSなら調整すんでるよー。っていうかいつもの40ミリじゃないんだ。30ミリだとちょーっち弾が小さいかにゃー、サイクルレートで補う感じ?」

 

 エヴァ8号機が二丁拳銃よろしく両手に下げた、30ミリGAU-8アヴェンジャー改ハンドマシンガンを、真希波マリはモニタ越しに見る。

 

 鉄板を四角くプレスしたような角張った外見の鼻面から、多銃身砲の砲口が除き、そこから後部に四角く破片防護用の装甲が伸びている。

 

 銃身の後端の開孔部から給弾ベルトが伸び、8号機腰椎の兵装マウントに取り付けた上下二箱の大型弾倉に繋がっていた。上の弾倉が右手の、下の弾倉が左手のマシンガンへ30ミリ劣化ウラン焼夷徹甲弾を給弾する方式となっていた。

 

『そら、新式弾薬つかったレイのボフォース40ミリよりかは弾頭の初速遅いし、それにこちとら貧乏所帯、あんまり無駄弾ばらまかれても困るのよね。

 

 サイクルレートは整備班に依頼して分間1800まで落としてあるけど、それでも秒間30発でるし、大尉好みに派手にばらまけるやつ。

 ジャケット内部工夫して、冷却は工夫してあるけど、そんでも2秒以上連射しないよーに』

 

「えー。みじかいー」

 

『艦載装備ならいざ知らず、エヴァも部類で言えば艦載機、機銃の類をバカみたいに連射してたらあっちゅーまに弾がつきるっつーの! しかもあんた熱管理も砲身交換も考えずに好みで景気よくぶっぱなすから、こないだとうとう砲身が膅中爆発起こしておしゃかになったじゃないの。

 

 またぞろ砲身壊したら、さすがの仏の間宮さんでも流石に鬼モードよ多分。少なくとも泣くわね。後方の兵站担当の連中が無駄遣い無駄遣いいって煩いのを、いつもネゴってくれてるの間宮さんなんだし、あんま無理させないだげて。いやほんとマジで』

 

 マリの不平そうな声に、副長の頭痛が痛そうな呆れ声兼宥め声が答える。

 

「でもわんこくんと奥さん、私たちには超無茶振るじゃん」

 

『振らなきゃ負けるし負けたら死ぬからしょうがないでしょ!ったく……』

 

 などと真希波マリが言う間に、YAGR-3Bへの全ての兵装の装備、燃料補給が終了した。

 

 各機体左側で各種メンテナンスアームと、それに接続されていた燃料・オイル交換用チューブが一斉に自動整備システム機器内部に格納されるのと同時、それらの機器がライトハンガー内部甲板下に、沈むように一斉に格納される。

 

『VTOL隊、出撃準備完了、長良中尉、準備いい?』

 

「え、はい、長良、操演準備問題ありません」

 

 無駄話は終わり、と言わんばかりの副長の言葉に、長良中尉の了解の声が続いた。

 

『OK、VTOL隊及びエヴァ8号機、発進準備完了。

 艦長、発艦許可求む』

 

『艦長了解。

 VTOL隊及びエヴァ8号機は出撃後、ヴンダーATフィールド圏内で待機。

 守りに回るのは気に入らないけれど、相手の情報が足りない以上、拙速はかえって危険だよ。敵の動きを見つつ、攻撃態勢を見せた敵へ、フィールド中和能力を保有する8号機が先制、VTOL隊はその支援。

 

 防空戦用に、機動補助の重力・斥力場を随時放出する。マリさん好みとはいい難い、地に足もつかなければ安全帯もない空間戦闘になるけれど、そこは我慢して』

 

『副長了解』

 

『長良少尉、了解しました』

 

「8号機了解~、ほんとは吊り操演、他人任せの重力制御でのんびりやりたいにゃ~」

 

 そんなマリの言葉に、艦長の冷静な否決の言葉が答える。

 

『……残念ですが、その要請への返答はネガティブ(否)ですよマリさん。

 本艦には十全と呼べる数の対空装備がありません。8号機にはいつもどおりの機動対空戦をお願いします。

 VTOL隊およびエヴァンゲリオン8号機、発進準備。交戦開始後の航空戦力の指揮は、副長に一任する』

 

『副長了解。

 VTOL隊は発艦後、ヴンダー上方10機、下方10機、180度に展開。

 

 展開後、多元探査用ポッドを起動する。戦術科各オペレーターおよび操演補助担当の長良中尉、妙な変化があったら随時報告!』

 

 いつもどおりの冷静な声に、溌剌と副長が応答を返し、続いて慣れた調子で各部署に通達を下していく。

 

『長良中尉、了解しました』

 

『戦術科日向、了解。

 戦術科各員、本艦の性質上、重力波を含め、各種センサーの検知するデータは、戦闘行動に伴って展開される重力・斥力場により影響を受ける。

 

 マギプラスがデータ補正を入れるが、最終的には各々の知識と経験、勘が頼みだ。

 波形パターンの揺らぎに異常が出たならば一つも見逃すな!』

 

 

 副長の指示への応答に、サブモニタ内の艦長が頷いた。

 

『全機、発進!』

 

 号令が、下る。それに、まず副長が答えた。

 

『YAGR-3B全機発進! 長良中尉はモニタのデータを目で追いながら、ともかく私の思考に集中!』

 

 かつての飛行機乗りとしての精神が騒ぐのか、いつも以上に気合の入った叫びが通信ラインに響き、次々に前方のVTOLが次々にカタパルトで牽引射出されていく。

 

 長良中尉へ思念を走らせるのも忘れてないね。随分暖かくて、柔らかい。昔はあんなに刺々しかったのに。

 旧司令部メンバーが居着いてから随分かかったけど、副長奥さんも人に指示出しするのにすっかり慣れちゃったなー、などと真希波マリは僅かに微笑む。

 

 10年前は、判断が遅い他人に合わせることなんて考えないタイプだったのにね?

 正しく言えば、他人を決して受け入れない、って方が正しいのかな。

 それが、ヒトを、他人を使う。

 その人の心情と心境を、不器用ながらも想像しながらだ。

 

 式波・アスカ・ラングレー中佐。

 10年前だったら、そんなことなんて絶対できなかったはずなのに。

 いつだってヒトは思いの外に成長を遂げる。

 時と経験が思いも寄らない方向に人間を変える。

 良い方にも、悪い方にも。

 

 ただ、悪い方に転んでも、それを元に改善を行うこともできるのがヒトだ。

 思いの外に頑固だけれど、けれど案外柔軟でもある。

 

 だから、見ていて飽きない。いつの時代も、誰を見ていても。

 人という命の強さってやつは、いつだって想定外の方向に転ぶものだし。 

 

 Mai si è troppo giovani o troppo vecchi per la conoscenza della felicità.

 今の君たちは幸せなのかな? わんこくん達。 

 

 真希波マリもエヴァ8号機に膝を曲げ、腰をやや落とした射出時の対G姿勢を取らせつつ、発艦に備えた。

 

 にしても左右のハンガー、推進系のないエヴァ専用に、わざわざ電磁カタパルトを設えたあたり、伊吹整備長の趣味なのか、艦長と副長独特の無茶苦茶な艦載機運用から生じた必然なのか。

 

 ま、両方なんだろうけどねー。

 

 それにこないだのヴンダー改装のとき、イズモ派閥がヤマト派閥に負けて、ヴンダーの生命種保管機能を下ろした分、いろいろ戦闘方面機能を拡張できるようになったのも大きいんだろうかにゃ。

 

 などと彼女が物思いに耽る間にも、右サブモニタに、デジタル音とともに、電磁カタパルトが発艦可能状態となったことを示すアイコンがあらわれた。

 

 つまりはVTOL隊が迅速に防空エリアへの移動を開始し、発進進路がクリアとなったわけだ。

 さすが副長、手際がいいねー。さて、こちらも行きますか!

 

「真希波マリ、エヴァンゲリオン8号機、発進!」

 

 左右の操縦桿を、僅かに前に押し、電磁カタパルトのロックを解除、進路上のリニアレールに通電する。

 ATフィールド保護がかかっているとは言え、それでもGによる負荷を真希波マリの全身が感じる。

 

 うん、この安定した加速感、やっぱり悪くない!

 

 バスや大型トラック、輸送機や爆撃機みたいに、身体で感じられない乗り物って、やっぱ、いまいちつまらない!

 

 そのあたり、この時代のエヴァははっきり言って一等級!

 なにしろ機体が身体そのものになる!

 身体そのものになるぶん、機体ダメージも痛みとして感じてしまうけれど、その痛みすら気持ちよく思えるほどに、シンクロを深めれば深めるほど、鋭く反応してくれる!

 まさに人機一体、ヒトが未知を手探りした果てにたどり着いた極地!

 

 ただ、ここから先が艦長は人使いが荒い!

 それこそ死ぬほど大変なんだけど、にゃ!

 

 視界の上下左右を覆っていたライトハンガー隔壁が、後方に流れ去る景色は一瞬で過ぎる。

 

 桃色と呼ぶには、まばゆいほどの鮮やかさのピンクでその全身を彩った、汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオン8号機は、暗い格納庫から躍り出て、今や赤いL結界が満ち変容した、しかし変わらず太陽が差す大気、大空の只中に踊りだしていた。

 

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 艦橋の操舵手席に座する長良スミレ中尉が副長の命令を聞いたとき、狼狽がなかったと言えば嘘になる。

 

 無論、彼女自身、YAGR-3B自体の実機訓練は受けていたし、訓練での飛行時間も300時間を越えていた。

 

 無人機化されたタイプについての遠隔操作についても、一通り訓練は受けており、機体の挙動自体は完全にものにした、と彼女自身は思っていた。

 

 しかし、その機体を、ヴンダーの艦体が生成する重力子や斥力子を利用しての重力操演制御で運用するとなると、まるで話が変わってくる。

 

 それも、マギシステムを併用した機械による自動制御のみではなく、オペレーターの手動・音声入力と思考入力を併用した、複合的でなおかつ複雑なオペレーティングによってである。

 

 長良スミレ中尉の思考シンクロ自体の経験は、実際のところ、シンクロ適合テストに軽い練習を行った程度で、それこそ素人に毛が生えたレベルしかない、というのが現状である。

 

 大型の艦艇を吊り上げ振り回すだけのシンプルな操演ならいざしらず、軽量で可動箇所が極めて多く、操作系が複雑極まりないYAGR-3B攻撃機、その複数機の同時制御の自信など、欠片も持てないというのが彼女の偽りのない本音だった。

 

 眼前の3Dモニタに目を落とす。

 

 すでに副長の操演でカタパルト発艦を終えたYAGR-3B20機は、カタパルト発艦を終えた直後、ヴンダーを包み込むように一斉にヴンダーの上下へ散開していた。

 

 ヴンダー上部に10機。それぞれのティルトエンジンユニットが、ガスジェットを全力で斜め下方に噴射しながら、自動車がバックするかのように、けれど機体が本来発揮しうる速度を越えた迅速さで、さながらヴンダーの巨大な冠、あるいは後光のようにヴンダー推進軸にたいして水平、艦橋を中心に等間隔をとって円陣を敷いていた。

 

 息を呑むほど有機的で、調律と統制の取れた動き。

 それぞれバラバラに動いているはずなのに、その鮮やかな運動は、まるで一個の生き物であるかのようにすら思われてならないほどに統率が効いていた。

 

 そもそも、各機の動きが、長良中尉の常識を完全に逸脱してしまっている。

 

 長良中尉の知っているYAGR-3Bは、もっと鈍重である。

 

 重く空力性能もいいとは言えない機体を、両翼ティルトエンジンユニットニ基と、胴体中央の推力偏向ノズル二基から発生するジェットの四足で無理やり地上を這うような機体だ。

 

 水平飛行もできなくはないが、出せて時速700から800キロがせいぜい。

 

 もともとが地上攻撃用にへばりつきながら戦車や歩兵を掃討するために設計された攻撃機であるのだから、さほど速力は求められない。空対空任務などもとより想定外の機体と言ってすらいい。

 

 それが、先程まで音速を遥か越えて飛行していたヴンダーから飛び出し、如何にヴンダー自体が重力場として働いているとはいえ、700キロ超えの速度で、しかもそれぞれが熟達したパイロットが乗り込んででもいるかのような編隊飛行でもって既定の迎撃位置に展開したのだ。

 

 無論、ジェットエンジンの推力のみで機動を行ったわけではない。

 ヴンダー自体が発生させる重力場のみならず、ATフィールド内部に放出された、局所的な小規模重力・斥力場を併用した運動であることは、長良中尉にも理解できている。

 

 しかし理解できているだけだ。3Dモニタ内部、ヴンダー上下各所にプロットされた赤の重力場反応と緑の斥力場反応は、まるで大気内部でブラウン運動によって蠢く微粒子のように場所を変え、それらは時に消失し、時に出現しながら、目まぐるしく位置を変えていく。

 

 さながら夜空の星ぼしが、好き勝手に運動と明滅を3次元的にはじめたような景色。

 

 つまりはヴンダーを包む巨大なATフィールド内部で、それだけの数の重力・斥力場変動が断続的に発生していることになる。

 

 ヴンダー自体も重力・斥力推進をかけているため、ATフィールド内部の大気を構成する分子は、それら重力に引き込まれ、あるいは斥力に弾かれ、さらには最低出力とは言えエンジンから吐き出されるジェットで、ヴンダー近傍の気流の状態は、もはや最悪のタービュランスも同然の状態だった。

 

 であるのに、一種の輪形陣を敷いたヴンダー上部に展開したYAGR-3B飛行隊は、重力・斥力場偏向制御と、ジェットエンジンのアシストで、またたく間に整然たる隊列を組みあげたのだ。

 

 無論、マギシステムに組み込んだ自動制御による補助はかけているだろうけれど、これが人間業であるというのがそもそも信じられない。

 

 まして、これから迎撃体制に入る以上、ヴンダーは戦術機動を開始するはずだ。

 

 当然その機動に合わせ、上面だけで10機、さらに上面同様、整然と展開を終えている、もう10機の下方に展開した編隊をも統御しなければならない。

 

 マギプラスの補助を受けてなお、それが人類一人に可能な行動とは、長良中尉には思えなかった。

 まして、今の式波副長はマギを一基欠いた状態であるという。その状況での航空管制が、この精度なのだ。

 

 自分にこれが、つとまるのか。

 黒く、強いわだかまりが長良中尉の胸の中を覆う。

 

 その影に答えるように、コンソール右上方に通信シグナルが点灯した。

 副長からの通信回線のコールだ。

 一瞬迷い、しかし長良中尉は通信回線を開いた。

 

『副長より長良中尉、VTOL全機所定位置に到達。

 とりあえず、いきなりここまでの精度は求めてないから、先ずは要領を掴んで。

 さっきも言ったけれど、私と貴女のシンクロレベル、閾値を5%まで上昇させる。

 

 今まで以上に頭の中に言葉というか、他人が入ってくる感覚に悩むかも知れないけれど、慣れてしまえばハグされてるようなものだから、悪いけど慣れて。

 副長より医務室、鈴原少尉。聞こえる?』

 

 副長が、医務室に回線をつないだ。

 

『長良中尉のモニタリングよろしく。思いの外、シンクロに対してみんな反応がいい。

 そうね、良すぎるのよ。低減させてこれなら、脳波の特変もあり得る。お願い』

 

『鈴原少尉、了解です』

 

 生真面目な表情を顔に作った鈴原サクラ少尉の顔が、一瞬サイドモニタに移り、消えた。

 

 いよいよ、か。

 知らず、首筋に汗がにじむのを感じる。恐怖か、緊張か、長良中尉には原因が判別できなかった。

 

 コンソール右上の点灯が、赤色に切り替わる。

 副長の声が、長良中尉に呼びかけてきた。

 

『行くわよ。シンクロレベル、上昇。VTOL全機、戦術行動開始、これより接近中の敵機迎撃に移る!』

 

『長良中尉、了解しま──』

 

 いいかけた言葉が、途切れた。

 なにか、奔流のようなものが、脳の中を走り抜けていく。

 

 強い。

 

 それが言葉であり、数字であり、空間情報を示すパラメータであり、エンジンおよびフライ・バイ・ワイヤシステムを含めた制御式が機械的に継続する状況対応への数値入力と演算の乱流であると、長良中尉は認識した。

 

 およそヒトの思考ではありえないソレを、視覚で捉えればよいのか、脳裏で捉えれば良いのか、耳で捉えれば良いのかわからず、一瞬、恐怖と混乱に陥りかける。

 

(落ち着きなさい)

 

 不意に、気配を感じた。

 匂い? 子供の。

 違う。気配だ。副長の言葉。ヒトの思念。それが、脳の奥を奔る。

 次の瞬間、ヒトからかけ離れた数字と文字の乱舞は脳裏からかき消えた。

 

(繋いだとき、私とマギプラスのシンクロ情報が見えたのね。

 いきなり頭にアレ流れたらそれは怖いか、

 注意不足だった。私の疑似人格有機コンピュータっても、基本はマシン。他人からみるとどうしてもね。次からは注意するわ。

 

 それはともかく、戦闘行動開始するわよ。各モニタのデータ諸元を肉眼で確認しつつ、脳内に流れる情報を同調させて。肉体の肉眼で確認した数字と、脳内に流れてくる感覚情報のすり合わせに慣れてくれば、自然とオペレーティング速度は向上してくる。じゃ、行くわよ)

 

『副長より北上少尉、敵編隊位置報告!』

 

 副長の通信音声が、長良中尉の肉体の耳朶を叩いた。

 長良中尉からも見て取れるほどに艦長と副長に憎悪を向けていた北上少尉は、とつぜんその副長から声をかけられるとは思っていなかったのか、少し驚きながら曖昧な報告を始めた。

 

「は、はい、上にいっぱい、下はすくなめでー」

 

『数字!』

 

「りょ、了解!

 概算数、L結界濃度変動により不明なるも、上に7割、下に3割、さっきと違って散開しています!

 

 敵集団散開状況、各種諸元データより、三機編成と推定、上方集団は本艦の展開状況を確認するように距離7000を保ちつつ右舷後方へ向け徐々に隊列を伸ばし、半包囲するように展開中。

 

 下方集団、3個群に別れ、正面、4時、8時、三方からやはり本艦を包囲するように、距離を保ちつつ下降中。現在本艦へ接近する兆候は見られません!」

 

『近づきすぎれば重力井戸に飲まれるのを知って、距離取って来たわね。

 

 こちらのロール範囲ぎりぎりまで接近して、槍を入れてくる、五月雨式で来る上にこちらは砲門もたりない、一挙殲滅は困難。

 なるほど敵も隊長つき、いらない知恵がついたわね。艦長、どうする?』

 

 一瞬、長良中尉は艦長席を見上げた。艦長はどこか苦そうな表情を浮かべ、白い軍帽を目深にかぶり直していた。

 

「気に食わないけれど、降下を続ける下方の敵に合わせ、本艦も降下する。下方に兵装が無いのは本艦の明確な弱点だ、当然敵も突きにくる。下面はなるべく見せたくないけれど……」

 

 その上で、艦長は明確に命令を発した。

 

「下面VTOL隊は直ちに上昇、本艦上面へ全機展開。下面空域防衛はエヴァ8号機単独で行う。

 8号機は直ちに降下、本艦直下800で待機。敵が攻撃を開始次第、各個に迎撃を開始する」

 

『ってわんこくん、下全部私任せー?!』

 

 8号機パイロット、真希波大尉の驚愕の声が通信回線に響いた。

 

「申し訳ないけどね。数に優位な敵が、一気呵成に来ない。狙いがある。

 だから少しばかり誘いをかけてみようと思うんだ。そういうわけだから、下は任せた」

 

『30対1、いつもの44Aなら大した相手じゃないけれど、ああいうふうに散らばってくるってーのは、つまり厄介ってことよねー、君はホント部下使い荒いよね、少しは仕事楽にさせてくれないと部下に嫌われるよー?』

 

「普通の仕事ならできるだけ汲んであげたいところだけれど、あいにく戦争だからね」

 

『しょーがないにゃー、8号機了解。それにしても射程1220メートルとは、カリッカリのインファイト。いっそがしー!』

 

 真希波大尉が通信を終えると同時、ヴンダー進路前方、重力中和領域に占位していた8号機が、潜り込むようにしてヴンダー下方へ曲線を描きながら機動した。

 

 長良中尉は、その機動の描く曲線に、式波副長の思念の動きを見る。

 

 ヴンダー前方、8号機が待機していた重力中和領域から、孤を描くように副長は斥力子をヴンダー船体より次々に射出、雨樋にも似た斥力場を形成した。

 

 それと同時にヴンダー前方の重力中和領域が消失、8号機が落下する。樋状に形成された斥力場の上を、地球の重力に引かれるようにして8号機が滑り、ヴンダー下方へとたどり着く。

 

 すかさず副長の思念が8号機の進路前に走り、クッションのように斥力場を展開、8号機がそれ以上斜め下方へ落下するのを抑止しつつ、重力・斥力場を変異させ、ヴンダー直下800メートルにひたりと8号機を静止させた。

 

 無論、その状況を長良中尉は副長より送られた脳の感覚だけではなく、コンソール状の3次元ディスプレー上に表示された重力変異マップ及び、各パラメータの変位を目視でも確かめている

 

 手際こそ素早い。けれど、目で追えない数値変異でもなかった。

 

 諸元データさえ入力できれば、おそらく副長ほど高速ではないにせよ、長良中尉自身でも行うこと自体は可能だろう。

 

 何よりも脳が、今しがた空間を『弾いた』副長の脳波の奔りを、自らの感覚のように覚えていたのだ。できるかもしれない、という気持ちが、彼女の中で高まっていく。

 

(OK、いいわね。やっぱり筋がいい。飲み込み早いじゃないの。

 そういう感じ。近づける力、突き放す力、その均衡を操るのが重力・斥力制御の要点。

 

 エヴァぐらい大物で重いのになると、重さ踏まえた上で相応の斥力の『足場』を組んでやってもいいし、勿論重力源で『吊って』もいい。他にも気流や、L結界圧の高い地域では、物理法則の変異を踏まえた上で実践しないといけないけどね)

 

 安堵の気配を纏う声音と響きが、長良少尉の脳に走る。不快ではない。

 下方に展開したYAGR-3B全機が、艦長の命令通りにシンプルに重力場の重力のみで釣り上げられてゆくのを、長良中尉は副長の思念越しに感じた。

 

 重力子と斥力子の併用ではない。重力子のみなら、地球の重力と重力子が互いの重力で引き合ってしまう。どうやって──思い立ち、正面2Dモニタ、艦外カメラ映像を操作し、求めるポイントを映し出すよう画像を操作した。

 そこに、ATフィールド揺らぎが見える。

 

(そう。ヴンダーのATフィールドで、疑似粒子化した重力子の高度を固定し、地球の重力に引かれて落下するのを防げば、重力だけで物体を引っ張り上げることもできる。

 

 ヴンダーの高度が低いときに使うと、地表の水だの土まで重力場が引っ張り上げちゃうから、使うのには意外と神経要るけれど、便利な手よ。。

 

 ATフィールド周りは、現状私と艦長持ちだけど、マギプラス経由でオペレーターが任意に操作・展開が可能となるよう計算式を組んでるとこ。

 まあでもそれは先の話で、今は重力、斥力制御方法の把握に尽力してちょうだい)

 

「了解です、副長」

 

 応答する声音に、意識せずして敬意がこもった。

 

 気配も声音も14の子供にしか見えない副長は、しかし10年のキャリアを積んだ軍人でもあるのだということを、長良中尉は改めて思い知る。敢えてシンクロ率を上げたのも、この身体によるダイレクトな経験を踏ませるためのものと思えば、納得がいった。

 

 無論、彼女もニア・サードインパクトでは相応に辛酸を舐めた。

 

 故に、北上少尉ほどではないにせよ、副長に対して思うところがないでもなかったが、未経験の自分に、重力・斥力制御の要諦を、端緒とは言え掴ませた彼女の心のかたちと有り様を、長良は手応えとして感じ取った。

 

 己にそうあれと、装い偽っているだけなのかも知れないにせよ。

 少なくとも、副長が教官たろうとして示した心根は、真摯であると彼女は受け取った。

 

 未だ未熟、まして実戦。

 一手過てば艦艇を、命を失うこの戦場で、副長は私を投資するに足る存在と認めているということだろう。

 

 ならば、受ける側も真摯でないといけない。

 心の中、副長が彼女の気持ちに気づいたのか、頷くような気配がした。

 

(よろしい。余裕がある内に、エヴァより軽いVTOLを回すのも感覚で覚えておいて。

 あれだけ軽いと気流もからむから、体感で覚えた方が早いわけ。

 L結界が濃い地域での復旧オペで、DSRVを下ろすときにも、重力操演を使ったりするから、将来的には大物から小物まで、幅広くやれるよう努力してくれるとありがたいわね。

 

 ま、油断ならない相手だから、今回は実習してる余裕はなさそうだし、ともかく私のやり口盗むのに集中! いいわね、長良中尉!)

 

「了解!」

 

 知らず、声に力が入る。

 視界の端、多摩少尉が驚いたような顔を向けるのが、長良中尉には見えた。

 

(それにしても、仕掛けて来ないわね……。ちょっと声出す)

 

 副長が一瞬思案し、長良中尉の脳裏に断りの言葉を投げた。

 次いで、北上少尉の通信回線から、式波副長の声が響く。

 

『こちら副長、上方の敵、半包囲隊形のまま動きを見せず。

 

 敵編隊の各隊編成分析官僚、44Aの3機編隊。隊形、ATフィールドのアヤナミシリーズが2機前衛、後方にシキナミシリーズが1機の逆三角隊形。

 

 突撃体勢、ってとこかしらね。これまでの敵のアヤナミシリーズの運用からして、アヤナミシリーズの44Aは空対空ミサイル代わり、シキナミシリーズの44Aが母機ってとこ? 

 

 シキナミシリーズの機体、改造を加えられてる可能性もあるかもしれないし、油断ならないっちゃならないけど、VTOLじゃ仕掛けるのは不利なのも間違いなしよね。ったく、焦らしてくれる。

 

 北上少尉、海面高度2000を切ったけれど、敵状況に変化はない?』

 

『レーダー等、特に状況に変化ありません。下方にも特に異変は──』

 

「下、か」

 

 艦長が、呟いた。

 

「謀られたかな」

 

『謀られたって──』

 

 副長が、疑念の声を投げる。

 

「第一波、第二波でこちらの現状と、対応能力を見た。

 その上で半方位しつつ、こちらを下に押し込んだ。そして、下には何もないわけじゃない。海がある。

 つまり本艦は押し込まれた形になる。それが狙いだね。

 

     ・・・・・・

 つまりは雷爆同時攻撃。8号機、直ちに上昇。

 戦術科はソナーブイを緊急投下、海中探査開始。敵はおそらく海中から仕掛けてくる」

 

「了解、ソナーブイ投下、直ちに探査開始!」

 

 日向戦術長がすかさずコンソールを操作、ヴンダー下部より無線多次元ソナーブイが投下され、赤い海へと着水し、潜航を開始した。

 

『上とか下とか忙しい! それにしてもこの詰めるような指し手は流石冬月先生かな。

 つくづくあの人は将棋が巧い』

 

 8号機が、再び副長の重力操演で艦上に舞いあがる。

 

 パイロットである真希波・マリ・イラストリアスの愚痴めいた言葉、しかしその声音は異様なほどに冷えていた。

 日向戦術長の切迫した叫びが艦橋に響く。

 

「海中航走音、多数! 音響データなし、速力、最大200ノットと推定! 音波ベクトルより、いずれも本艦を目指しています!」

 

『再度のN2セイリングによる急加速で離脱……はできないか、レイが取り残される、いつもの連中ならともかくシキナミシリーズ入りなら要警戒、鹵獲を考えている可能性は捨てきれない!

 

 ただでさえ少ないヴィレ保有のエヴァを捨てるわけにはいかない、まして儀礼転用可能の弐号機はネルフには渡せないってーのに! 速攻で各個撃破のつもりが、まんまと分断されたわね! やってくれる!』

 

 副長が苛立ちも顕に舌打ちをした。

 

 艦長は目深にかぶった軍帽の奥、眼帯で隠されていない左目を軽く閉じた。

 

「戦術長、アンチATフィールド反応および、現海域デストルドー値、リビドー値は」

「アンチATフィールド反応、確認できません。現海域デストルドー値は通常値、変動の気配なし!」

 

「槍ではないね。なら。

 VTOL隊及び8号機は引き続き上空を警戒。

 機関長、補機出力最大。 ATオーバーロードモード起動準備、補機供給電力及び推力、緊急発揮備え」

 

「航走音本艦に近づく! 海面から出ます! 5、4、3……!」

 

 青葉戦術長補佐の緊迫した叫びに、艦長が

 

「──ATフィールド、本艦下方に集中。総員、爆圧に備え。全艦対ショック防御」

 

 直後、海中から尖塔めいたものが恐るべき速度で45度の角度を取り、血潮めいた赤い海水をまといながら噴火の如く水面より踊りだした。

 それは回避する暇すら与えず音速を突破、巨大なるヴンダーの下面に多層展開されたATフィールド、その下端面と垂直に衝突した。

 

 その正体は、要塞都市にして古戦場たる第3新東京市の中枢、旧ネルフ本部にて製造された、不良品のエヴァンゲリオン2機を継ぎ合わせ、装甲剤によって尖塔状に加工された超大型対艦特攻魚雷である。

 

 航行用に備えられた1基の、本来は44A用に生産されたコアを動力源として、無限に近い航続力を発揮するそれは、海中航行時、進路上に展開したATフィールドによって微細な泡を発生させ、その泡の中を通過することによって、水の抵抗を限りなく極減する。

 

 スーパーキャビテーション効果。

 それにより、最大水中速力200ノットという、水中航行体としてはまさに桁外れの速力の達成を可能としていた。

 

 他の44A同様、Buße探索のため、L結界に満ちた海の中を長年航行し続けていた超大型魚雷を操る、そのナンバーすらなきアヤナミシリーズの一人は、オアフ島沖を示す座標への移動する内容の量子通信命令を受信した。

 

 彼女は、脳に刻まれた命令コードに従い、機体を『泳がせ』始めた。同時に、海中にアクティブソナーで音波を放つ。音波は彼女の同族に届き、その同族がまた音波を放つ。音波は連鎖し、周囲数百キロに展開する仲間への巨大な招集命令と変化した。

 

 彼女たちは、製造時に設定された目標の『におい』がする方向──オアフ島沖を目指し、進撃を開始する。

 

 そして、彼女は意識に連結された戦術システムが示す最適の射撃ポイントに到達。本体に結合された『爆薬』たる、4基の不良コアに通電、シンクロを開始した。

 

 4基の不良品コアは、不良品であるが故に即座に暴走を開始、主機たるメインコアが増幅したアヤナミシリーズのデストルドーに反応し、急速に臨界。

 

 それは不良品であるが故に、一つになろうという願望など一切もたない。

 心に宿すのは唯一つ、滅びたい、滅ぼしたいという願望のみだ。

 

 累計5つのコアが同時に起爆した。

 N2爆雷も凌駕するかと思わしめる、恐るべき衝撃波と閃光が、ヴンダー下方を保護するATフィールドに巨大な十字光となり炸裂する。

 

 巨大なるヴンダー、その脊椎が秘める無数のコアより出力されたATフィールドは、艦長の鋼めいた強靭の意志を得て、その恐るべき打撃に耐え抜いたが、フィールドで防いでなお、複数コアの異常臨界爆発という想定外の事象はフィールドを伝播し、急速に減衰しながらも、しかし衝撃波となってヴンダー艦体へと襲いかかる。

 

 全長2キロの巨体が、文字通り上方へ跳ね上げられた。

 先程実施したN2セイリングと同様の事象が、今度は敵の攻撃によって行われたに等しい状態と言える。

 

「咄嗟制動! 副長へ伝達! VTOL各機に緊急ATフィールド固定かける、相対座標維持!」

 

 叫びよりなお早く、碇艦長の意思が艦橋に、そしてヴンダーの船体に伝播し、膨大な量の重力子と斥力子が艦内艦外問わず吐き出され、発生した壮絶なGより乗員全員を保護しつつ艦内の繊細な箇所を斥力場により衝撃とGより保護をかける。

 

 さらに限定的に上面へATフィールドを展開、VTOL隊をフィールドで『絡め取り』、ヴンダーの突然の上昇によってVTOL隊がその位置に『取り残されない』よう、ヴンダーとの相対位置を保つ。無人機故に、パイロットの人名保護を考えずに済む分、むしろ艦長にとっては楽な部類の作業ですらあった。

 

 そして碇艦長がヴンダー外部に広げた重力子と斥力子の複雑極まる乱舞は波となり、重力波動とでもいうべきものを発生させ、コア臨界爆発に依って生じた衝撃波と干渉した。

 

 波というものは干渉し合うものであり、逆位相の波同士が干渉し合うと互いの波のエネルギーを相殺し合う。無論重力子と斥力子によって生み出された波はヴンダーの方向へも広がるが、これを艦長は断続的なATフィールドの生成と消失により可能な限り軽減させてのけたのである。

 

 結果、ヴンダーの受けた損害は、一部のクルーの負傷や、艦内居住用耐圧プレハブ部分の施工不良を要因とした脆弱箇所の破断および破損、弐号機及び8号機パイロット私室の四方の壁に設けられた本棚の中身の大規模崩壊により部屋の床とベッドが埋め尽くされる程度の被害で済んだ。

 

 本来ならば即座にATフィールド諸共ヴンダー艦体を破砕せしめるに充分であったはずの爆発エネルギーは、しかしてマギプラスとシンクロした碇艦長の、ヴンダーが展開したATフィールド内部に存在する物質、それを構成する素粒子規模での、想像を絶する規模の並列同時演算および重力・斥力場制動によって、遂に甚大なダメージをヴンダーに与え得なかったのである。

 

「戦術科、海中の動体数は」

 

 艦長の問いに、素早く日向戦術長が返答した。

 

「距離不明なれど音紋探知により個数推定終了、総数約60、スーパーキャビテーション現象に伴う表面気泡のため、海中敵性体の位置特定至難なれど、いずれも本艦を包囲する挙動を見せつつ、200ノットにて躍進中!」

 

「エヴァを無尽蔵に生産し、それをスーパーキャビテーション魚雷に仕立てる。

 父さんと冬月副司令らしくもない、『軍隊らしい』工夫だね。

 

 それなら、こちらも軍隊らしい仕事で応じるまでだ。

 

 艦長より副長、重力・斥力制御系を、8号機以外ヴンダーに回す。すまないけれどVTOLは自前のジェットで頼むよ。普段どおりに行かない以上、長良中尉にお願いしたい業務が増えた。重力制御に慣れてほしかったけれど状況がそれを許さない。

 

 長良中尉、君のYAGR-3Bの飛行時間は約300時間と記憶しているけれど」

 

「はい、艦長。本艦に乗務を命ぜられる前、たしかに訓練を受けておりますが……」

 

 長良中尉が、質問の意図を飲み込めず発した疑義の声に、艦長が僅かに頷いた。

 

「未経験に等しい重力制御を絡めたものではなく、手慣れたジェット推進系の方が、君は楽ができるだろうと踏んだ。無論楽ができるよう努力はする。本艦の『下』の心配はしなくていい。

 

 上空・水平方向の44Aの邀撃に専念してくれ。管制しきれないYAGR-3Bは都度無人運用時用の自動操縦に切り替えて構わない。副長、初日から新人を甘やかすのはよくないかも知れないが、状況が悪いからね。赦してほしい。

 ATフィールドロック解除、副長へVTOL隊操演権限を再移譲」

 

『副長了解。海面下に敵がいるんじゃしょうがないわよね。私が15機、長良中尉が5機の割合でいく。で、下はどうするのよ。手は?』

 

 副長の問いに、艦長が笑む。14才の頃は浮かべなかった不敵さが、その口角に僅かに滲んだ。

 

「僕はヴンダーを飛ばすのが副長ほど巧くはない。

 海鳥は猛禽ほど上手には飛べない、しかしこの状況には却って誂え向きじゃないかと思うんだ。 

 

 高雄機関長、高度を限界まで落とし、本艦は補機推力主体の航行へ切り替える。飛翔と進路制御に斥力子は使えるけれど、重力子系は使用不能と考えてほしい。補機、ATオーバーロード運転用意」

 

 艦長の言葉に、機関長席の高雄が不敵な笑みを以て答えた。

 

「久方ぶりだが、手荒く面白い采配を目論んでいるってとこですな。高雄機関長了解、リアクター内ATフィールド保護は艦長が頼みです、あまり無理をせんでくださいよ」

 

「貴重なN2リアクターを、この程度の戦いで使い潰すわけにはいかないからね。総員、急降下に備え。

 戦術科は海中内敵の探査に専心。高度10、海面ギリギリを這うことになる。

 外海です、L結界内部とはいえ荒れる時は荒れる。高波に翼が衝突しないよう厳に警戒を」

 

「艦長、一体何を……」

 

 多摩少尉が状況の進展についていけないという表情を浮かべながら口を開いた。

 その言葉に答えたのは、艦長ではなく副長の音声である。

 

『相手はトビウオ、こちらが猛禽みたいに慌ただしく飛んでも疲れるだけよ。

 何も羽ばたくだけが翼の使い方じゃないの。大気に乗り、風を掴み長く飛ぶ海鳥のような使い方もある。

 見てればわかるわ。それより多分艦長が、無茶な急降下かけるから、舌噛まないように総員要注意!』

 

「そういうことだ、多摩少尉。わざわざ敵が優位な位置につくまで攻撃を待ってやる必要を僕は感じない。水中速力200ノットとはいえ、空中に飛び出した後よりも動きは鈍い。つまり水中にいる内が狙い目だ。叩きやすいうちにこれを叩く」

 

「了解……」

 

 なにもかも飲み込めていない多摩少尉に一瞬碇艦長は視線を投げたが、再び眼光を正面にもどした。

 

「武装選定をどうなさるおつもりです。艦首ランチャーのN2爆雷ですか?」

 

 日向戦術長の言葉に、艦長はしかし頭を振った。

 

「強力だが効率がよくない。それに本艦の搭載するN2爆雷弾頭は、本来水中での運用を想定していない。

 今後を考えると節約したいというのもある。目標に対し使用する武装は、自弁するから問題ない。

 多分、理論上はいけるよ」

 

「また艦長殿の『理論上は』ですか」

 

 青葉戦術長補佐が、呆れたような笑みを浮かべた。

 

「貧乏所帯だからね、有り物で取り繕うしかない。いつものことだよ」

 

「いつもどおりのマニュアル皆無の思いつき、了解しました。お手並み拝見させていただきますよ」

 

 青葉のどこか楽しげな視線と、しかし唇に浮かんだ明確な苦笑に対し、艦長は微かな笑みで答える。一次は地上勤務と実戦部隊で部門が別れたことがあったものの、二人共かれこれ十年来の関係となる。互いの気心は知れていた。

 

「飛んでくるか、陸を歩いてくるかだけだった敵が、水中も意識してきた。シキナミシリーズ投入も含め、油断ならない状況といえるね。青葉戦術長補佐、データ収集および、事後は今戦闘における運用実績に基づいた兵装運用マニュアルの製作を。おそらく、今後必要になります」

 

「青葉戦術長了解。艦長のアドリブ演奏、俺は嫌いじゃないですよ」

 

「ありがとうございます。艦首下げ40、急降下。

 補機各部ATフィールド保護実施。

 機関長、補機ATオーバーロード開始します。推力および発電量向上、150%」

 

「機関長了解。補機出力、150%!

 機関長より機関科総員、補機はこれよりN2リアクターの設計限界を越えた運転状態となる、機関負荷および蓄熱監視を厳重に成せ! 核融合とは原理が違う、管理をしくじればATフィールド内部でN2融合反応の炎に飲まれて本艦が焼失するリスクがあることを忘れるな!」

 

 艦長の言葉を受けた高雄機関長が号令を叫ぶ。

 同時に、彼はコンソールタッチパネルを操作し機関N2融合反応燃料弁を全開と成した後、更にサイドコンソール端のアクリルカバー保護が施された、N2オーバーロード機能ロックボタンを、カバーごと拳で叩き割りつつ深く押し込んだ。

 

 補機が、本来設計された基礎設計を凌駕する恐るべきエネルギーが内部で生成され始めたのに呼応するように鳴動しはじめる。その鳴動が生み出す音響は、さながら補機が断末魔の苦痛に悲鳴を上げ続けているかのようでもあった。

 

 左右両舷に備え付けられた、それぞれの補機N2リアクターが、これまでスラスターより吐き出していた青い炎の光量を強め、それは壮絶な閃光を伴いながら、膨大な推進エネルギーを吐き出し始めた。

 

 同時に、大量の電流が艦体の大半を構成するアダムス組織へと流れ込み、重力子が産生され、それらは艦体中央へと集まっていった。

 日向戦術長が、警告の叫びを発する。 

 

「海中敵性体2、海面に近づく! 

 それぞれ右舷9時、左舷7時方向、相対距離2000! 目標本艦! 来ます!」

 

「両舷補機、出力全開、最大戦速! 一気に高度を落とす!」

 

 艦長の咆哮と同時、ヴンダーは頭を垂れるがごとくに俯角40度の角度を取り、獲物たる魚群を見つけたカモメのように、急激に海面を目掛け降下してゆく。

 

 音速に近づくか、と思われるほどの速度。海面から浮上、そのまま虚空へと跳ね上がった二基の自動索敵型対艦巡航空間魚雷とでもいうべきそれらはヴンダーを狙い、先程同様凄まじい急加速をかけたが、しかしヴンダーの下降速度はN2オーバーロード運転により得られた推力を利して、空間魚雷を制御するダミープラグの想定速度を凌駕する。

 

 結果、ヴンダーの上方100メートルを交錯するように魚雷二基が通過した。それらは管制制御でヴンダーを追撃スべく、孤を描きながら再びヴンダーを照準せんと機動した。

 

 しかし、その針路を演算していた式波・アスカ・ラングレー副長自らが操演する4機のYAGR-3Bが、待機空域より離脱しており、左右のスラスターを自在に蠢かせながら、2機づつに分派し空中を機動。

 空中を飛翔する空間魚雷二基に対し、前後方向から邀撃可能位置につけていた。

 

『的をはずしたのが命取りよ! 選定弾頭フレシェット、各機攻撃開始!』

 

 直後、飛翔するミサイル前後に展開したYAGR-3B各機が、翼下に懸吊した大型ロケットポッドより、各機二発のハイドラ70改ロケット弾を射出した。空中を推進するそれらはまたたく間に秒速700メートルへ加速し空間魚雷の前後に到達し炸裂。クロスボウの矢に酷似した金属の矢を超高速で空間魚雷目掛けて吐き出した。

 

 自らの防備を考えぬ、攻撃のみを目的として編まれた空間魚雷用ダミープラグは、もとよりATフィールドによる防備を想定していない。自らの死と目標の死のみを強い衝動として与えられているがゆえに、自らを護るリビドーを存在可能極小域まで抑えられているがゆえの、攻撃のみに特化した仕様であるがゆえの欠点である。

 

 結果、空間魚雷二機は前後より無数の矢に全身とコアを貫かれ、もとより爆発時の破壊力以外求められていない劣化コアはその衝撃に耐えることができず暴走、臨界を起こし起爆。虚空に虚しく十字光の華を咲かせた。

 

 しかし成果を味わう暇もなく、長良スミレ中尉の叫びが艦橋に響く。

 

「副長、上空の敵44A、3機編成3個分隊がヴンダー目掛けて降下開始!

 それぞれ12時、3時、6時方向!

 私の担当する機体群では邀撃間に合いません、副長の──」

 

 しかし、その叫びに答えたのは副長ではない。

 軽やかな、弾むような別の声が、通信開戦ごしに長良中尉へ応答する。

 

『ご心配無用長良っち! 斥力跳躍かける、戦術機動パターン送った、わんこくんよろしく!』

 

「艦長了解、斥力系諸元入力完了。8号機戦術機動に合わせ斥力場複数展開」 

 

 艦長の応答と同時、ヴンダー艦橋直上の虚空に佇むがごとく構えていた8号機が、何かに弾かれたように上空目掛けて飛び上がる。ヴンダー上方のアダムス構造体が産生した負の質量物質が甲板上より射出され、それらが発した斥力場が8号機を跳ね上げたのだ。

 

 斥力場は複数射出され、パイロットたる真希波・マリ・イラストリアスが発信した戦術機動パターンに応じ、それぞれ異なる座標から異なる出力の斥力を発し、8号機が起動する斥力の空間レールとでも言うべきものを形成した。

 

 そのレールにそうようにして、エヴァンゲリオン8号機は壮絶な速度で降下するヴンダーよりさらに速く、ヴンダー正面方向、逆三角形の隊形を取りながらヴンダーを目掛けて降下を仕掛けてくる44Aの分隊へ突進した。

 

 先頭をゆく2機が、僅かに針路を変える。機体正面をヴンダーではなく、8号機に向けたのだ。

 

「ほほーう、指揮官付き、状況判断が違うか、にゃ。ヴンダーではなく標的を私に変えてくるとは」

 

 呟きつつ、真希波マリは軽く舌なめずりをした。

 

「けど遅い」

 

 44Aが下面の『槍』を励起させるより早く、8号機は44A2機の直前、距離300メートルの位置に飛び込んでいた。巨人の両手の指が、GAU-8アヴェンジャー改ハンドマシンガンのトリガーを引き絞る。

 

 ただ一機で44AのATフィールドが同時に中和され、フィールドに生じた2つの『穴』に左右各30発の30ミリ劣化ウラン弾が躍り込み、8号機左右の44A各機の機体へと、僅か一秒の間に突き刺さった。

 

 44Aに食い込んだ劣化ウラン弾頭は44A外皮を貫く間に自己先鋭化現象を発生させ、機体を貫く運動エネルギーを先端部へ集約させていく。同時に、変形に伴う結晶構造の編成により運動エネルギーが熱エネルギーへと変換され、1200度を越える高熱を44Aを構成する体細胞内部で発生させた。さらに弾体表層で砕けた劣化ウランが酸化、激甚な燃焼反応を開始する。

 

 2機の44Aは体内に生じた破孔内部から、字義通り生きながら焼かれたに等しく、それのみでも44Aを屠り去るには充分な威力であったが、さらに弾丸の数発が各44Aのコアへと踊り込み、暴走、臨界。それが両機の致命傷となった。二機の44Aは先程ヴンダーを襲撃した魚雷同様、空中でまたしても巨大な二輪の十字華の閃光と化した。

 

 真希波マリはすかさず8号機のATフィールドを展開、爆風を防ぎながらその衝撃波を利用しN2セイリングの要領で加速、両機の爆発で機位を揺らがせた後続の指揮官機を無視し、斥力場のレールへと舞い戻り、規定通りの斥力による再加速を開始する。

 

 目指すはヴンダー3時方向よりヴンダーへ接近していた別の飛行分隊。

 しかし、直後に北上少尉の警告の声が響いた。

 

「正面、残存機付近、8号機後方にデストルドー反応検知! 正面の44A、『槍』を励起してます!

 ベクトル検知……目標、こっちじゃない? たぶん8号機と推定です! 突撃する気、これ!?」

 

「丁度いい。多摩少尉、本艦の主兵装である20インチレールガンの運用の要領を教えておこうと思う」

 

 ヴンダーを急激に海面目掛けて降下させながら、しかし僅かに艦首左方と艦尾右方に斥力場を展開しつつ、ヴンダー艦首を僅かに右方向へ傾けた艦長は、モニタ上の『槍』を励起しつつある44A指揮官機を見つめつつ、新任の戦術科少尉へ語りかけた。艦長の右手は、すでに艦長席の、肘掛けに相当するシンクロ操作ユニットの先頭部の球状シンクロ制御装置、通称アームレイカーを握り込んでいる。

 返答もできず、目をしばたたかせる多摩少尉に、言葉だけで艦長は語り続けた。

 

「44Aは飛行特化型、そのATフィールドは汎用型に比べ強力ではないけれど、通常兵器での撃破は本来困難だ。

 パイロット及び機体状態にもよるけれど、汎用型ならばさらに難しい。故に、砲撃による確実な撃破には少しばかり要領が要る」

 

 8号機が第一撃を完了させ、ヴンダー3時方向の敵へ針路を変更した時点で、既にヴンダー右胴上部一番砲塔は、アームレイカーを経由した艦長の思念に連動し、敵指揮官機へ旋回・照準を完了させていたのだ。その砲身は、敵指揮官機の機動に連動し、僅かだが生物的に運動を続けていた。

 艦長の言葉が続く。

 

「エヴァのATフィールドを突破するには、原則として接近・中和しての攻撃ないしは、ATフィールドを突破可能な運動エネルギーを持つ実体弾、あるいは光学兵器や反陽子砲を用いる必要がある。だが、それには大量の電力が必要となり、効率が良くない。そして、本艦脊椎ユニットには、通常のエヴァと異なり、大量のコアユニットが連結されている。本艦が通常のエヴァとは比較にならない規模の大きさのATフィールドを展開するのはそのためだ。

 そして、このATフィールドは、無論中和・攻撃にも転用することが可能だ」

 

 そして、艦長は『引き金を引いた』。

 その思念の流れが回路を奔り、一番主砲用コンデンサに封じられていた膨大な電力を解放、砲身内部の弾体加速用電磁レールに、膨大な電力を通電させ、砲弾へ浸透。電流は逃れる場所を求め、電流解放用のレールへと流れる。

 

 放たれる砲弾は、ただ一発。

 

 フレミング左手の法則に従って生じた凄まじい電磁力が、2トンの巨弾を瞬時に秒速3キロメートルまで加速させた。ヒトならざる動体視力をもつものならば、空中に踊りだした砲弾を導くように、無数の光の波紋──局所展開されたATフィールドが敵指揮官機目掛けて走るのがみえたことだろう。

 

「普通に撃った場合、砲弾は敵の前に、まず巨大な空気の壁に衝突する。どんな火砲にも射程が有るのは、重力はもちろん、大気という目標との間に横たわる膨大な質量が一種の防壁として作用するからだ。

 

 これを貫くため、まずATフィールドを使う。砲弾が空気に衝突する直前、砲弾全面にATフィールドを砲弾口径に合わせ、展開し砲弾進路上の大気を『弾く』。

 

 つまり空気抵抗をなくすため、砲弾進路上に真空の道をつくるわけだ。そして生成されたATフィールドを媒介し思念を展開、更にATフィールドを形成し、またかき分ける。

 これをヴンダー脊椎出力の叶う限り続け、射程を延伸する。

 

 君は知らないだろうが、第10使徒が敵性存在へ、腕部を使用してATフィールド浸透斬撃を放つ際に用いた原理の応用だよ。フィールドを収束することで中和力を格段に高め、複層化によりATフィールド捕捉範囲をも延伸できる。

 

 そして、ATフィールド射程内であれば、こちらのATフィールドの最後の仕事は敵ATフィールドの中和・弱体化となる。そして、弾体はその速度を保ったまま目標に着弾」

 

 漸く、艦長の説明が一段落した。

 無論、その言葉が終わる頃には、44A指揮官機は超超音速の砲弾、9ギガジュールのエネルギーの直撃により、跡形ものこさず粉砕されてしまっていた。

 砲弾の弾速が弾速である。それこそ、一瞬の出来事であった。

 

「着弾のとき、ATフィールド中和時に若干だが敵の行動を抑制することもできる。ATフィールド同士が干渉するからね。応用としては相手を近づけない、あるいは球状に展開し拘束する、いろいろだ。

 

 心の具象化だからね、形は容易に変えられる。もっとも一般オペレーター向けのATフィールド運用システムは現状まだ開発中だから、『こういう使いみちもある』ということだけ覚えておいてくれればいい。いずれ君に砲撃をお願いすることもあるだろうからね」

 

 艦体の機首上げを行いつつ、着水時に近い高度調節を行いながら、碇艦長は一連の砲撃についての説明を終えた。

 しかし、多摩少尉から奇妙な思考を感じる。それは困惑という言葉が、もっとも近い感情のようだった。

 

 言葉にも思念にも出さず、艦長は素早くコンソールに指を走らせ、多摩少尉座席コンソールモニタにメッセージを送った。彼はまだ思念シンクロに慣れていない。視界を用いた文字会話の方が彼には楽だろう。

 

【先程の砲撃に、なにか違和感でもあったかな、多摩少尉】

 

【いえ、違和感というか……指揮官機って、シキナミシリーズですよね】

 

 碇艦長は、視線を多摩少尉の座席に落とした。

 多摩少尉も、艦長を見ていた。困惑と、少し恐怖の混ざった目をしていた。

 続きのメッセージを、多摩少尉が送信してくる。

 

【副長と同じ人ですよね】

 

 言葉を選んでいるのだろう。ただ、彼の感情は碇艦長には容易に汲み取れた。

 知人と同じ存在を殺して、平然としていられる理由に、得心が行かないのだろう。

 

 多摩ヒデキ少尉。碇艦長は、彼の経歴に思いを巡らせた。戦闘経験、記録なし。

 つまりは兵士を志願しただけの、ごく一般的な男性。

 

『第三村』に比べ、比較的豊かな『生存圏』で育ったためだろう、犯罪経歴もない。ニアサードインパクト世代であるにも関わらず、微罪すらないというのは、この時代ではよほど生活に恵まれた地域の存在と言っていい。例えば4時間も待てば、必ず配給にありつける程度の裕福さ。誰かから奪わずとも生きて行けるだけの豊かさ。

 

 他人を殺してまで生き延びる必要がなかった、故に他人を殺すという行為に、妥当性を見出し難いメンタリティ。

 碇艦長は多摩ヒデキの心理をそう分析した。

 

 碇艦長の脳裏に、かつての自分の心理に走った言葉の残響が響く。

 

──人殺しなんてできない。誰かを殺して生き延びるよりは。

 

 その時の決断の果てに、この世界と自分がある。その決断に至るまでの自分の迷いに、多摩ヒデキ少尉の困惑が重なる。彼の疑念はそれ故か、と思う。

 14才のままの肉体の彼よりも、顔立ちこそ大人びているが、感じ取れる精神性には、過去の自分に似た幼さがあった。

 

 彼の年齢は、たしか17、8才だったろうか。

 昔ならば高校生。子供と言うには大人びているが、大人と言うには子供さが残る年頃。

 そういう扱いを受けられる年齢だった。

 少なくとも、碇シンジがかつて少年であったころ、14才だった時代はそうだったのだ。

 

 アスカなら、説明は『かかる火の粉は振り払うだけ』で片付けてしまうかもしれないけれど、と碇艦長は思う。

 そして、コンソールに指を走らせ、多摩少尉のメッセージに返信を送った。

 

【答えに時間が必要な問いだ。戦闘中の即答は難しい。終わった後に話そう】

 

 返答は待たない。

 碇艦長はヴンダーを水平飛行に移らせる。海抜10メートルという高度は、ヴンダーの巨体を思えば、恐るべき低空飛行と言って良かった。

 碇艦長は艦橋に号令を発する。

 

「これより本艦は表面効果利用にて航行します。

 主推進力は補機のみ。針路調整は補機スラスター角制御および,斥力場による当て舵によって行う。

 

 外海である以上、L結界領域内とはいえ波が荒い。10m級の波も珍しくない海域です。

 戦術科および航海科は海面を随時探査、高波に警戒。ATフィールドで防げるけれど、動力をそちらに無駄遣いしたくない」

 

「このAAAヴンダーをエクラノプランとして飛ばす、ですか。

 カスピアン・モンスターならぬ、ハワイアン・モンスターってところですな。

 相変わらず、いや昔以上に無茶をする艦長だ」

 

 高雄機関長が、不敵に笑む。

 もっとも、そのこめかみには、一筋の汗が伝っていた。

 

 表面効果は、航空機が地表、ないしは海面から翼幅の半分の高度となると発生する現象である。

 翼を用いて飛翔する航空機は、基本的にその翼を用いて『空気に乗って』飛翔している。

 言わば大気を押しつぶしながら足場を作り、その上を進んでいると言ってもいい。

 

 下に押された大気は「吹き下ろし」と呼ばれ、下向きの空気の流れとなり、本来であればそのまま流れ去って終りとなる。だが、地面や海面を低空で飛行する場合、この下向きの空気の流れが遮られ、翼下面と地面、海面の間の空気圧が高くなる。故に、翼の揚力が強くなり、より容易に『飛べる』ようになるのだ。

 

 しかし、表面効果はメリットばかりではない。水平尾翼を用いて機体を制御する形式の航空機の場合、中~高高度では吹き下ろしの気流を前提として尾翼が設計されているため、表面効果が出る高度では吹き下ろしの気流が水平に流れるため、尾翼の効きが変化してしまう。つまりは効きづらくなってしまう。

 

 巨艦でありながら航空機であり、更に言えば無尾翼で、空力設定を考えたとは合切思えない形状のヴンダーが飛翔できるのは、重力・斥力制御及びATフィールドによる気流調整に拠るところが大きい。もとより翼面効果など想定して飛ばす艦ではないのだ。

 

 まして、ヴンダーの操艦を担当するのは副長であり、艦長はむしろ作戦や砲撃に専念することのほうが多いのだ。

 艦長が副長よりも飛ばすのが巧くない、というのは、おそらく事実なのだろう。

 

(だが、本来がそのようにできていないこの艦を、このように飛ばせる存在が下手だっていうなら、艦長と副長以外は全員素人のターキーばかりってことになるんじゃないのか?)

 

 そう内心で高雄機関長は思う。

 

 何しろ、素人の群れ500人だ。

 全員がものになるまで、一年で済めば御の字だろう。空力、重力・斥力、ATフィールド、主機・補機制御、飛ばすだけで覚えなければならないことが大量にある。自分にしてからが、まず長いブランクを埋めなければならない。無茶な改装を入れたとも効いている。地球外移民を主張するイズモ計画派が勢力を弱め、ヴンダーより生命種保管用の『方舟』としての機能が取り除かれた第一次改装、さらに本格的な有人化を目的とした第二次改装。噂では、また別の改装が入ったとも聞く。

 何しろ昔と異なり、インターネットなど望むべくもない時代だ。高雄コウジですら、乗艦までに全ての情報を入手できたわけではない。ともかくも、昔より、さらに扱いづらい艦になったことは疑いないだろう。

 

 しかし、何のために、500人も。

 自らに敵が多いことを知らない艦長や副長ではない。そして、皮肉な話だが、『アスクレピオスの杖』作戦は、巧くいってしまった。結果、数億の人類が未だ生き延びた。

 

 3人人間がいれば、派閥ができる。それが数億。

 人種、言語、宗教、宗派。

 ヒトという種を分かち隔てる理由は、有史以来うんざりするほど出現し、そしてそれは今も変わらず、世を経て移り変わり続けながら何らかの形で存在している。

 

 憎悪か、政治か。

 艦長と副長は、フォースインパクト阻止を目的とするヤマト計画派閥と認識されている。また、同時に彼ら自身がインパクトトリガーたりうることは、三号機事件のおりのメディアへの情報暴露によって暴かれてしまっていた。

 

 如何に彼らの活躍によって人類が僅かずつとは言え再び生存域を広げ、文明を回復させる要因の一つとして機能したとは言え、彼らを仇と憎む人類は、万単位でも効かないほど存在するだろう。現に乗艦早々、艦長たちの側近となるべき艦橋スタッフが、艦長や副長に言葉で噛みつくなどという自体が発生してしまっている。

 

 無論、憎悪していなくても、食事と権利のためならば、人殺しも厭わない連中がくさるほどいる時代だ。『政治』のために、刺客を買って出たものすら混じっているかも知れない。

 

 少なくとも地球を諦め、火星なりなんなりでヴンダーの権能を利用して旧生命の生残を願うイズモ派閥にしてみれば、第二次改装によるヴンダー有人化を、艦長および副長の排除および、ヤマト計画破棄、イズモ計画再始動の好機とみなすこともできるだろう。

 

 いずれにせよ、今はこの戦闘を生き延びる必要がある。

 高雄コウジは思考を切り替える。

 

 水鳥、か。

 

 敵空間魚雷もおそらくエヴァベース、しかしリビドー・デストルドー諸元から空間魚雷群には指揮官型、シキナミシリーズなき非統制状態、タイミングを合わせただけの飽和攻撃とみなしてのこの機動だろう。

 

 敵が知恵の回るやつなら、水中からの奇襲を捨て、遠距離から浮上をかけ、上空から強襲を仕掛ける機会だろう。なにしろヴンダーは低空飛行で『楽に飛べる』かわりに、高度を失っている。44Aと連携し、立体的に波状攻撃を仕掛ければ、この状況は撃沈を狙う好機ともいえる。

 

 それを、してこない。つまりは上とした、44Aと空間魚雷は連携が取れていない。

 同時攻撃までは旧ネルフ本部で仕込めるが、連携はタイミングを合わせた、擬似的な連携が限度、までは見える。

 

 とはいえ、ヴンダー側もいつまでも飛べるわけではない。

 

 ATオーバーロードでの過負荷運転は、長時間使える代物ではない。基本構造の多くをATフィールドで保護でき、さらに本来の主機の出力を想定した、電気・推進系に余裕がだいぶある設計であるからこそ、この無謀にもほどが有る過負荷運転が可能となっているものの、どこかしら細かい消耗品が過負荷に耐えかね、壊れ続ける。

 

 その割に、VTOLを重力制御で派手に動かすでもなく、むしろ空を完全に副長たちに任せ、むしろ出力を絞るように艦長は艦艇を動かしている。

 

 碇艦長との再会は、高雄機関長にとり数年ぶりである。故に、その才がどのように変質したか、期待半分不安半分なところがあった。無論信頼はあるが、再会までに時間が経っている。

 危険な男に成り果てていなければいいがという思いもあれば、そうなっておらずとも、危険な男と見なされる振る舞いをしなければよいが、とも思う。

 

 さて、お手並み拝見だ、碇シンジ艦長。

 無茶に輪をかけてさらに無茶なのは昔通り。直感は、彼が他人の期待に答えてくれる男であると告げている。

 ならば、俺も仕事をせにゃならんな。補機N2リアクターに無茶をさせつつ、さらに長生きするよう機嫌をとってやらにゃあならん、いやはや、初日からやりがいのあるこった!

 

 高雄コウジ機関長は、自らの両頬を両手で叩き、活を入れた。N2リアクターおよびスラスター周りの状況を示す各種パラメータに、鋭く目を走らせる。

 

 そして、一つ気になった。

 

 ヴンダーの重力子系の産生数が止まっていない。重力・斥力推進全開時とほぼ変わらない数値となっていた。全力で重力子を産生しては、8号機の防空戦闘機動に必要な分以外、艦体中央アダムス構造部に。にろくに放出もせずかき集めている。

 

 更に言えば、電力もそうだ。とてつもない量の重力子と電力を、艦体アダムス構造部が喰らい蕩尽しているといってもいい。だが、アダムス構造部が空腹だから食い散らかしているわけではない。艦長が何らかの意図を持って、それらを 『使って』いるのだ。あるいは『作って』いるのか。

 

 ああ、わからんが、こいつァたぶん勝算ありだな。

 だが仕掛けるのに時間がかかる。だから副長と真希波大尉に上をしばらく支えてもらう、か。

 切れ味ァ少なくとも鈍っとらんようだ。高雄コウジは思わず笑んだ。

 

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『ヴンダーをWIGとして飛ばすのって贅沢よねー。

 重力・斥力制御が主力なのを、パワー不足の補機で飛ばすためとはいえ』

 

 呆れ半分で呟きながら、式波・アスカ・ラングレーこと私は、ヴンダー上空を舞う無人制御のYAGR-3Bの一機のカメラ映像と、ヴンダーのシンクロ制御を介して視界を手早くリンクした。

 

 視界がヴンダーの視点から、天高く舞うVTOLのそれへ入れ替わる。

 ヴンダーの『下』に44Aが回り込むリスクがなくなった分、防空戦闘は現状、かなり楽に進められている。

 

 高度が下がった分、L結界濃度が濃い海中でも、多次元モニターでの探査は容易になっているし、敵魚雷の速力の秘訣はスーパーキャビテーション原理を利用した超加速。あの魚雷、意図的にコアを『壊れやすく』作ってる都合上、たぶんだけど、急な方向転換はやりづらい。

 

 気泡を前方に発生させることで、水の抵抗を弱めて速力を発揮するという特性上、急激に転舵すれば泡の守りを失った状態で横腹に高速の海水を浴びることになるわけで。

 

 出来のよくないコア、判断力の悪さを考えるに、管制系は44A用以上に安普請の死にたがりに調整され、自殺願望を強められている気配。

 

 言わば自爆任務専用型アヤナミシリーズといったところか。ヴンダーの、多分ATフィールドの固有周波数帯の匂いを嗅ぎ、気付き次第、飛びつくように仕込まれているだけ。

 空間戦闘心得の類の、贅沢で高度な戦術運動や、まして連携戦術なんて仕込まれていない。

 

 となるとそういう生きた磁気感知機雷もいいとこのシンプル思考な連中を、どうやってここまで誘導して、擬似的とは言え上下両面からの連携を可能としたか。問題はそこ。

 

 シキナミシリーズ。指揮官機。ヴンダー主機。

 ATフィールド。固有波帯。におい。

 で、今ヴンダーの仕切りをやってるのは。

 

 急速に思考が結びついた。

 私と艦長だけなら情報交換はすぐにすむ、というかもう済んでいるけれど、他の艦橋スタッフにも、伝えておく必要はある。なので手早く艦橋内放送へ音声データを送った。

 

『副長より各員。

 推測するに、下の連中、ええもう面倒だから勝手に命名するけど、敵空間魚雷のターゲット。

 多分私のATフィールドの波帯に設定されてるわ。

 

 艦長がメインでヴンダーを制御するようになってから、下からの攻撃が鈍ったのも、私の匂いが薄まって、たぶん艦長のにおい、艦長のATフィールド波帯が優勢になったから。匂いが変わったってわけよ。

 

 理論上、衛星軌道上からでも、精度のいいアダムス組織系センサーを使えば、エヴァなりなんなりで増幅されたATフィールドなら探知は可能。

 

 ただ、多分そんな質のいいものを下の連中は与えられてない。

 だから、44A指揮官機とヴンダーの区別がつかなくなっちゃってとまどってんのよ、あいつら」

 

 告げながら、敵航空部隊の機動パターンを探りつつ、過去の運動データと照合する。

 案の定、高度2000以下にはまったく降りていない。

 距離の設定がそうなのだろう。それ以下まで落とせば、指揮官機のにおい、ATフィールド固有波帯を誤検知され、においの区別がつかない水面下の猟犬に食らいつかれる。

 

 多分イカリシリーズでもいればそちらに波長も合わせられたのかもしれないけれど、あいにく艦長はオンリーワンのホームメイドだ。インダストリアルに量産はできない。

 

『敵指揮官機は指揮機能だけじゃない、魚雷群の誘導も兼ねていたって推測。今交戦中の部隊が、シキナミシリーズ固有のATフィールド波形を利用して魚雷部隊を誘導したわけ。上がったり下がったり、交戦前から妙な運動してたのもそれが理由かしらね。

 

 長らく私が主機やってた以上、たしかにシキナミシリーズのATフィールドの気配はヴンダー探知に最適。ATフィールドは艦長に任せられても、主機まわりの波帯は消せない。ATフィールドは生きている証。主機系を動かすのもBMIオンリーってわけじゃなし、個体ATフィールドの波形変動との連動もあるし。BMIだけでいいなら『仕組まれた子供』なんて必要ナシなのよね、実際。

 

 それにしても、任務のための猟犬、兵器、そして贄。そういう目的で自分が生産されたと知識で知ってても、やんなっちんぐねー、お前はそういう道具ですよーって実感させられるの』

 

「手段を選ばなくなったというのは、いい兆候でもある。変化の兆候。潮目の変化と言っていい。

 まあ、この手を考えられるのは3人と、あとゼーレか。後で聞き出して……いや、全員だ。全員前歯折る。

 

 約束はともかく、主機を完全に静止させれば、空間魚雷が44A指揮官機に食らいついてくれる……かもしれないが、確実性にかけるし、僕が代わっている暇はないし、やれる自身も正直ない。

 とはいえ、習性が知れた以上は、下の連中の挙動も読める」

 

 艦長の狙いは一つ。海鳥としてヴンダーを飛ばす。その一点。

 最適解。副長として不満もない。問題は魚の撥ねさせ方なわけよね、艦長殿。

 

『艦長。15分?』

 

 私は艦長に必要な時間を聞いた。

 

「20分でもいい。早いなら10分でもいいけれど。

 補機が心配だ、オーバーロードには限度がある」

 

『早いほうが、いいわけね』

 

「ああ、早いほうがいい。概ね仕込みは済んでる」

 

『副長了解。8号機、長良中尉、話聞いたわね?

 シングルコンバット向けのパーソナルが、無理やり指揮官やらされてる。運用慣れしてないのが見え見え。

 しかも下が、味方というよりは地雷原。うかつに動けば命取り。

 

 艦長の話したとおり、補機にあまり無理はさせられない。向こうはうかつに飛び込めず腰が引けてる、弾も実質一機二発。どこまで経験と記憶をコピーしたか知らないけど、動き見る限りは劣化コピーよ。

 速攻で片付ける。8号機を主攻とし、VTOLでも食える限り食ってかまわないわ。

 5分、は無理として10分目標。最優先目標は指揮官機、下の連中の迷いを消す。魚、撥ねさせるわよ』

 

 一気に飽和攻撃を仕掛けてこない、その理由はなんとなく察せた。

 仕掛けた最初の編隊、その指揮官機がヴンダーに拠る精密砲撃により、一瞬一撃で粉砕されたことにおののき、怯えているのよね。

 

 自分の中の怖さの使い方を知らない。ヒトの感情、その本質はヒトという生物の生存の手段であるという前提を踏まえずに、知識と技術で調子に乗って感情を飼いならすことを知らない14才。ガキね。そして運もない。

 

 アヤナミシリーズだったら、10年の蓄積もある。鹵獲の余地もあったかもしれないけれど、シキナミシリーズの量産型実戦タイプは今回がお初でデータ不足。鹵獲の余地もないわけで。

 

 ええ、どうせ手下のミサイル代わりのアヤナミシリーズ44Aを小馬鹿にしながら使いつつ、自分の本音の死にたくなさにすら気づいてない。ただ怖いとだけ思ってる。使う機体が44Aだけれど、その飛び方で察しがつく。

 

 ヴンダー右舷、3時方向より接近中だった分隊は、艦長の砲戦講座中に、手早くマリの8号機が殲滅した。

 先に倒された分隊の倒され方を見て、焦ったであろう指揮官のシキナミシリーズが、8号機相手に進路を変え、アヤナミシリーズの前衛二機の『槍』を発動させたけれど、それはあまりにも早すぎた。

 

 励起自体は想定外とはいえ、使うとわかっているのなら、性質と性能は実のところ解析可能だ。贋作とは言えインパクトトリガーとなる可能性があるかどうか、可能な限り鹵獲した端から分析して調べ抜き、なんなら試製AA刀なんて副産物を鍛造するにいたるまで調べて調べて調べぬいた。

 

 武装として発動した場合の加速度、ATフィールド浸透速度に至るまで、性質その他演算済み。

 ミサイル宜しく発射することすらできず、本体ごと突っ込んで自爆するのが前提の粗悪品。

 

 最初の分隊の指揮官機が8号機相手に『槍』を励起したのも、殺されるぐらいなら相打ち、ぐらいの気持ちだったろう。自己満足のやけくそ、死にたくはないけれど負けたくもない、文字通りの自棄でしかないし、そんなものは狙い撃てるわけで、案の定軌道を読んだシンジのレールガンの餌食になった。

 

 そしてヴンダーではなく8号機を狙った3時方向の分隊も同様だった。奇策もなく包囲もなく隠れもせず、量子迷彩すら施さず、まっしぐらに死にに来るのだから、まっしぐらに射抜いてやるだけのことで、マリはそのようにした。

 

 そして、今度の指揮官機は右ロール運動で離脱をかけようと重力ローターで加速したところに、咄嗟のアドリブで艦長が足場として展開したATフィールドを蹴って、三角蹴りよろしく、脚力で急加速した8号機の飛び蹴りを浴び、粉微塵に四散を遂げた。

 

 二個小隊のまたたく間の殲滅劇の結果の狼狽した動き。それが動きに見える。わかる。

 自分では認められないけれど、内心では認めている自分と同レベルの、自分自身と等しいであろう自分が死ぬ。

 それがどれほど怖いか、私だから、わかる。哀れとは思うし、辛さもわかる。

 

『幼稚園』で自分と同じ顔をした子が『消える』だけでも怖かったのに、今回は目前で吹っ飛んで惨死されたわけで。

 

 そりゃまあ、怖いわよね。

 

 自分も死ぬかも知れない。跡形もなく吹き飛ぶかも知れない。

 その現実を見て、自分もそうなる可能性を認識したら、そりゃ怖い。

 

 機体の振り回し方からして、14才の頃のパーソナルが、各個体の脳に、塑形され、運用に都合よくインストールされていると踏んでいいだろうし。幼い頃から、うんざりするほど自分のスペックばかり試してきたから、動きでどの時期の『自分』がベースか、見当がつく。

 

 そもそもマギプラス開発・運用の時点で、自分のいろんな側面だのなんだのとずーっと向き合ってきたのだ。なので、いやでもわかってしまう。

 

 推定だけれど、パーソナルの時期的に、ネルフ時代に、私が弐号機を運用したり、シンクロテストしている間に密かにデータ取りして、アヤナミシリーズ同様に、量産に備え、人格データと記憶を保管したのだろう。

 

 あるいは他所から引っ張ってきたか。

 どちらか知らないし検討材料もないけれど、量産方式は見当がつく。私か、ないしは私の元になった細胞をベースとしてクローンを成体培養。

 

 そしてコア封入で一度情報化した後、サルベージを実施して、量産をかけたのだろう。一体ベーシックとなるものができれば、あとはLCLを基として、その成分を利用し大量生成をかけられる。

 

 あるいは三号機事件のとき、バラバラに解体された三号機に搭載されていた、私用のコアから直接サルベージをかけたのかもしれないけれど。あの事件の後はえらくすったもんだしたものだけれど、何しろ相手は碇ゲンドウ、どさくさ紛れにそれをキープしていてもおかしくはない。

 

 したくなくても同情はしてしまう。したくなくても想像もしてしまう。

 けれど、戦争だから容赦はしない。

 

 この私の手は、とうの昔にあの選別のときの、無数の私の血で血まみれになった。

 相手も同族同類だからと遠慮してくる類いで無いのも想像がつく。

 

 むしろ私のことをポンコツの旧式だとでも仕込まれてる可能性すらある。

 自己の唯一性を欲してやまない。消えない保証が欲しい。そういうのわかるんだけどね。いやほんとに。

 ただ問題は、そういう自分だからこそ、説得たぶん効かないんだろうな、って想像がついてしまうことなのだけれど。

 

 たぶん、量産したならそう仕込むし、そう躾ける。

 自我が皆無ではエヴァが動かせない。けれど、自我の強すぎる道具は、道具として使うには不便にすぎる。

 

 人格を意図的に欠落させ、病ませ、一種の偏執状態としてパーソナルの行動パターンを絞り、なんなら強迫観念も植え付け、行動の自由度をなくさせる。

 自認では自分の意志で動いているつもりになっている人形。

 しかし実際のところは、使い手が狙ったとおりに動くよう仕向ければ、猟犬として使うには丁度いいわけで。

 

 で、相手の投入したシキナミシリーズについての戦力評価だけれど、そこまで悪くない。

 人型の汎用性の高いまともな人型のエヴァだったら、きっと手こずったことだろう。

 

 今回の戦闘でも、突っ込んで死ぬよう仕組まれ、突っ込んで死ぬばかりのアヤナミシリーズだけで構成されていた群体に、分隊長を用意して分隊として編成し、多少なりとも組織だって活動できるようになっただけ、マシになったのは確か。

 

 兵器として運用しやすいようにするためか、あえて死にたがりに調整された後期量産型のアヤナミシリーズには、とかく戦術行動が単純と言うか、ときに自ら死にに突っ込んでくるような、自滅的なところがある。

 

 そういう連中を『死にたくない』パーソナルを持ったシキナミシリーズに率いさせるのは、まあ関係最悪なのは想像つくけれど、敵に回す分には割れ鍋に綴じ蓋。

 

 前のように群れで雑に単縦陣で集団自殺みたいに死にに来ない分、厄介になったとは思う。

 

 けれど、分隊になったところで、それ率いる小隊長がいない。

 群体よりちょっとまし程度、組織的脅威とはとても言えない。

 

 アヤナミシリーズとシキナミシリーズの数を揃えることで、攻性をもった群体にはなれても、軍隊には決してなれない。いや、ならせない。

 

 道具以上のパーソナリティを備えたもの、ヒトに近づきすぎたもの、他人をそばに置きたくない……他人を許容できない。あるいはネルフのトップの心の顕れか。

 

 碇ゲンドウ。断片でもパーソナルと過去経歴は知れている。証言も有る。その性格の分析には足りる。

 ごく一部の例外を除き、他者を疎み拒絶する、あの男らしい運用だし、その手駒として、案外丁度いいのかも知れない。ムカッ腹は死ぬほど立つけど。

 

 うん、敵首魁たる碇ゲンドウを首尾よく運良くとっ捕まえたとして、艦長が折る分の前歯、果たして残るか我ながら疑問ね。多分奥歯も全部折るかもしれない。

 

 長い思考。

 けれど、二基とはいえ、マギシリーズとのシンクロ思考であり、この思考も刹那の間に終わる。

 さて、始めますか。十数年ぶりの私殺し。

 

 私を殺し、他人も殺した。

 とっくの昔に私の両手は血まみれだけれど、それでも贖罪だけは絶対しない。

 世界の創りが基本的に脆いのだ。バッドエンドに陥りやすい。カヲル野郎のお墨付きだ。

 

 それに私に幸せは似合わないらしい。

 生憎生まれたときから、幸せなんてものに縁がない。

 

 だから、知ったことではない。幸せなんて知る気もない。

 ただ、楽しいは少しだけ分かる。気持ちいいも、美味しいも、まだ感覚で捉えられる。

 

 それでいい。その程度でいい。

 一命を賭して戦う理由なんて、その程度で事足りる。

 仮に艦長の策が間に合わなかったとしても、最悪の手は考えてある。

 なんのことはない。空間魚雷の目標、誘導目標はATフィールドの特定波形。

 

 いざとなったら仮設主機ごとヴンダーからパージすればいい。

 一度こっきり使えるデコイ。

 

 次の仮設主機設置までヴンダー運用は困難になるだろうし、補機のみでの戦闘は大変かもだけど、艦長ならなんとかしてくれる。

 

『8号機、VTOL隊全機、これより──』

 

 そう命令を下そうとした時。

 

「副長」

 

 唐突に、艦長からの声が、艦内放送で響いた。

 

「綾波大尉には随分長らく言ったことで、君に対しては初めてになる。

 シキナミシリーズの量産が再開されたとはいえ、君の代わりはいない。

 無論軍事的な意味ではない。君や僕が戦闘不可能になろうと、代替は用意する。その必要がある。

 そのための有人化改装でもあるしね。

 

 代わりが効かないのは、人間としての話だ。だから安易に自己を捨てるプランはなしだ。

 君の今の発案だが、艦長権限で却下する。それは、綾波の決意と努力の10年の否定だ。

 えこひいきで申し訳ないけれどね」

 

 まあ、そうなるだろうな、とは思った。

 こういう考えはすぐ伝わってしまう。

 碇艦長は案の定、主機パージ用爆圧ボルト機能を全部機能停止させてくれてやがっていた。

 

 そういうやつである。もう10年の付き合いだ。嫌でもわかる。

 妄執と意地で10年戦ってきた男は、本人も自認がある通りえこひいきな男だ。

 とはいえ、えこひいきする理由もわからなくもない。

 

 綾波レイが安易に自己愛を捨て他者愛に奔り、自らの命をなげうとうとしたことが何度あったか。

 自分の生を、戦いながらも認められるようになった時、戦ってきたアヤナミシリーズの中にも自分のように生きられる存在がいたのではないかと苦しんだことも知っている。

 

 その果ての今で、その果てにたどり着いたのが、あの子の今の戦い方だ。

 偽善か自己欺瞞か悩む段階を通り過ぎ、行動として染み付いた、綾波レイの人生なのだ。

 

 それに、自己犠牲をやられる辛さは、私も艦長もよく知っている。

 のわりに、しばしばこういう刹那的な考えをしてしまうのは、性分なのか、癖なのか。

 幸せが理解できない女だから、そういうところがよく思考から欠け落ちる。

 

『──わーってるっつーの、お互い長い付き合いだもの。

 最悪の時よ、あくまで最悪の時を想定しての。

 だいたいちょっと考えただけで、稟議も提議もしてないでしょ。

 

 しかも、この通信内容、全艦放送の必要ないじゃない。

 副長の立場とメンツ考えなさいよアンタ、丸聞こえだっつーの』

 

「聞かせたんだ。必要だから」

 

『はいはい』

 

 ため息を吐きつつ、一度咳払い。

 そして、改めて指示を下す。

 

『8号機、VTOL隊全機、これよりヴンダーを攻囲する敵航空編隊を撃滅する。

 数的不利だけど、動きは見ての通り、連携はこっちのほうが上。

 ATフィールドを中和可能な8号機を中核として、VTOL隊は牽制及び8号機の援護。

 

 アヤナミシリーズの44Aは言ってみればシキナミシリーズの44Aが懸吊する空対空ミサイルみたいなものだから、『槍』の励起に最大警戒。

 ただ、『槍』を起動する時は『槍』の影響で44AのATフィールドが甘くなる。

 指揮官機の挙動からして、励起はできても機体からの投射は不可能。つまりはVTOLのハイドラでも44Aを叩ける好機ってこと。

 長良中尉、研修でも習っただろうしさっきも見ただろうけど、操演の場合、無人だからYAGR-3Bはかなり無茶な操縦でも保つ。

 マンポイント、一番脆いヒトという部品を気にしなくていいのが無人機のいいとこ。

 そこんとこ気をつける! いいわね!』

 

「長良、了解しました。8号機支援を主軸として、敵『槍』励起を見逃さないよう尽力します」

 

『8号機了解ー。どうでもいいけど副長奥さん、全艦放送で夫婦全開をやらないでもらえるとありがたいにゃー』

 

 長良中尉の生真面目な返答に、真希波大尉の相変わらず物事を楽しむネコ科の動物のような愉悦のにじむ応答が重なる。

 夫婦節全開ってなんだ。

 

『だから夫婦じゃないし籍入れてないっつーの。戦闘中に緩むな!』

 

『だからそういうところが副長奥さんは奥さんなんだよ。わかる?』 

 

『10年腐れ縁であって奥さんじゃない! それこそあんたと夫婦漫才やっていい状況じゃないのわかれっつーの!』

 

 思わず声を荒げると、なぜか真希波大尉が深々とため息を付いた。

 

『いつまで無自覚だこの奥さんは。まあいい、奥さんで遊ぶのは後回し。

 わんこくん、斥力場おもいっきり! 全力で上吹っ飛んで敵中突破、後背取って上から叩くでいいかな?』

 

「艦長了解、斥力場、8号機下面に全力展開する。先程同様、必要なら『足場』も展開する。

 副長、長良中尉、無人VTOLの機動性は、副長の言う通り44Aを凌駕しうる。上は任せた」

 

『副長了解。改めて通達、防空隊の最優先目標は敵44A各飛行分隊の指揮官機!

 フィールド波形で敵指揮官機にマーカーを付けるから、可能な限り優先して撃破!

 ヴンダー防空隊、全機、上方へ向け吶喊!』

 

 艦長の言葉をトリガーに、気合を入れて私が叫ぶ。

 直後、爆弾の炸裂じみて放出された斥力を得て、8号機が敵包囲網中央たる上空目掛け、弾丸の如き速さで飛翔する。

 

 そして私と長良中尉の操るYAGR-3B総勢20機が、アフターバーナーを全開とし、AL-51F1ターボファンエンジン3基、6万3千キロの推力を持って8号機を追い、その周囲をカバーするように、上方へダイヤモンド隊形を取りながら追随する。

 

 状況推移を見届けた艦長の意識が、ヴンダー下方の海中を指向するのに私は気づいた。

 撃滅前に叩けるぶんは叩く腹積もり、か。しかしまあ、応急とは言えよくわからないものをこさえてくれる、そりゃ覿面に効くだろうけれど、クルーに運用やら原理やらどうせつめいしたものやら。

 

「上が乱戦状態となり、敵指揮官機が乱高下を繰り返すようになれば、下でまどっている空間魚雷の群れも本艦主機の判別がつくだろうね。こちらは準備済み。昔の漁業にダイナマイト漁というのがあったそうだけれど、これより本艦も同様の作戦行動を取る。

 

 戦術科、敵空間魚雷の海域へのプロッティング続行。攻撃方式が特殊であるため、攻撃は艦長の任意タイミングにて行う。

 総員、爆雷戦備え」

 

 私は艦長の思念を見た。

 空同様に自由に泳げるようでいて、しかし赤く命なき水だけで満たされた暗い世界。

 陸の上を生きる生命であるヒトが本来生きることを赦されない出口のない海。

 

 陽光遠き、風吹かぬ奈落。

 

 そこを艦長は、自死と他殺のみを唯一の願望とする、自爆するための生きた信管として生み出された彼女たちの、碑無き無銘の墓所にすることに決めたようだった。



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第1話「ヴンダー、新たなる旅立ち」Fパート

 パパは知らない。

 ママはいる。

 

 これは、誰が一番ママの娘にふさわしいかを決める儀式。

 

 期待はずれだったプロトタイプを射落として、あの船を落とすか奪う。

 それができた子が娘にふさわしい。

 

 これはそういうゲーム。

 まだ名のない姉妹である私達が、名を得たただ一人になるための選定の儀式。

 

 だから、協調なんて誰も考えていない。連携もしない。

 みんな、ママの唯一になりたい。

 

 だから、編隊を組んでいるとは言え、みんな最後には敵になる以上は出し抜き合い。

 勿論、私に負ける気なんてカケラもないけれど。

 姉妹で一番優れている自信が私には在る。私こそ、ママの娘にふさわしい。

 

 まだ名のない彼女はそう思いつつ、眼下の戦況を眺めた。

 NHGBußeの今の主とプロトタイプは、10年戦ってきただけあって、悪あがきが流石に巧い。

 

 水面下のアヤナミシリーズの魚雷を畏れず急降下をかけた。

 結果、海が邪魔となる。迂闊に低空飛行もできない。

 何しろあの魚雷の弾頭を務める人形には、ろくな知恵が与えられていないのだ、私たちとBußeの区別もつかない。

 

 さらには敵の8号機に撃破された連中を見て、狼狽──あろうことか新型の身でありながら、怯える個体すら出てくる始末。

 情けない、と憤るけれど、どうせ最後には敵対する相手、助けてあげる義理もない。

 

 無論その狼狽を見逃す相手ではなかった。

 すかさず、8号機を穂先に、敵防空VTOL部隊20機が、ダイヤモンド隊形を敷き、上空目掛けて吶喊を仕掛けてきた。

 

 まず垂直に包囲網へ切り込んできた8号機が、両手のサブマシンガンを振り回すようにして乱射、射程に入ったこっちの44AのATフィールドを片端から中和しながら叩き落とす。それだけで15機が叩き落された。

 

 そのまま8号機は中和可能範囲内の44AのATフィールドを中和しつつ、一気に包囲網後方、直上方向へすり抜ける。

 

 追撃はかけられない。8号機に後続する重VTOL隊が、すかさず追撃を仕掛けてくる。

 ATフィールドを中和されたばかりで再展開ができていない44Aに照準をあわせ、一斉にロケット弾を斉射してきた。

 鈍重な重VTOLとはいえ、VTOLだけに小回りは効く。照準から発射まではコンマ秒単位の速さ。

 ATフィールドを回復する前に無数のミサイルが炸裂し、大量のフレシェットの鏃をばらまき、さらに20機ほどが叩き落される。

 

 Der Grosse Schlag!

 

 私が相手なら快哉を叫ぶところだろう。一瞬でこちらの編隊の3分の1を撃破したのだから。

 狼狽は波紋のように姉妹たちに広がった。無論兵装たるアヤナミシリーズも同様。

 

 眼下、VTOLの群れがスラスターを稼働させ、即座に急速散開をかける。まるでなにかから逃れるかのように。

 そして、今度は上から鋼鉄の驟雨が振ってきた。

 

 言うまでもない、反転した敵8号機が落下しながら機銃掃射を仕掛けてきたのだ。

 さらに無数の44Aが上から下、背中から腹、コアを射抜かれ爆発する。

 

 咄嗟に重力制御機動でロールターンし、逃れようとする44Aの群れが複数でたけれど、無論下のVTOL隊がそれを見逃さない。

 再度のロケット弾斉射が、それら離脱を図った44Aの群れに襲いかかる。

 

 今度はATフィールドがフレシェットを防いたけれど、防いだとしてもフレシェットに押されるようにして、無数の機体が上に弾かれる。

 一瞬だがコントロールを失った以上、それらは落下中の8号機にとって当然好餌。

 再び無慈悲な鋼鉄の驟雨がそれら無防備な機体をフィールドもろとも打ち抜き、爆発四散せしめる。

 

 10年のキャリアは伊達じゃないってことかしらね、プロトタイプ。

 そうでなければ、狩りがいがない。

 

 私は緩やかに44Aを旋回させながら、様子を見る。

 馬鹿な姉妹のおもりなんてしてやらない。

 

 NHGBußeと、愛を知らない哀れなプロトタイプの首を手土産に、私はママの唯一になる。

 LCLの中、私は軽く舌なめずりをした。

 

 アスカ。漢字表記では飛鳥。

 プロトタイプなんかにはふさわしくない、いい名前だと思う。だから、その名前は私のもの。

 

 そう。私だけ。

 ママの娘としてその名前を名乗るのにふさわしいのは、この私だけなんだから!

 

 

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 EVANGELION ∧ i : AAA Wunder S 3.33 『YOU CAN (NOT) TRIP.』Prototype

 

 

 

 EPISODE:1 The Blazer

 

 

 

 Fpart

 

 

 

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「赤木技術班長、問題はなさそうですか」

 

 碇シンジ艦長は、通信士席の赤木リツコに語りかけた。

 

「各種数値を見参したけれど、私の見た限り問題はなさそうよ。

 この艦の権能なら可能とはいえ、よくでっち上げたわね。感心するわ」

 

 赤木リツコが呆れ半分の笑みを艦長に返す。

 

「師匠がいいですからね」

 

 艦長は軍帽をあみだにかぶり直し、コンソールに指を走らせる。

 彼と同期した4基のマギプラスにより、ヴンダーの下部各種センサーを爆雷戦用射撃管制装置として運用するための発射プログラムの構築が既に完了していた。攻撃可能。

 

「日向戦術長、敵空間魚雷展開状況知らせ」

 

「現在、敵空間魚雷十数基が水面下300メートルの位置で遊弋、各個に本艦へ接近中。

 吶喊体制に入ったものと思われます」

 

 日向の言葉に、艦長が頷く。

 

「艦長了解。本艦はこれより爆雷戦を開始する。起爆深度、水深100メートルに調停。

 ……爆雷、射出!」

 

 艦長の叫びと同時、ヴンダー中央胴体下面、通常は艦体制御用重力子射出に用いる射出孔の一つから、漆黒の『何か』が投射された。

 

 その漆黒のものはさながらレンズのように周囲の景色を歪めながら、赤い海面を大きく持ち上げ、その盛り上がった海面へたどり着き、そのまま水没する。

 

 それは無尽蔵に周囲の水を吸い上げながら地球の重力と惹かれ合うようにして落下、ちょうど深度100メートルで『限界』に達し、『蒸発』した。

 

『蒸発』に伴って発生した膨大な『熱』が、大量の海水を一瞬で蒸発させ、海中に巨大な『泡』を形成した。

 

 水分は、蒸発し気体化すると、その体積は1700倍となる。

 

 突如として海中に出現した水蒸気の巨大な泡は、必然として周囲の海水を押しのけながら急激な拡大を開始する。瞬間的に発生した海水の巨大な運動は、そのまま海中360度四方へ向かう恐るべき規模のと威力を祕めた衝撃波へと転化された。

 

 衝撃波を発散した泡は、その浮力によって海面へ向け上昇しながら、徐々に水圧に押しつぶされ、水蒸気の一部は冷却により再び液体の水へと戻ったが、それは全てではなく一部でしかない。

 

 気泡は水圧に押しつぶされ縮小したことで、再びバネのように反発力を取り戻し、急激な再拡大を開始、またしても、衝撃波を360度四方へ撒き散らす。

 

 いわゆる、バブルパルスと呼ばれる現象である。

 

 立て続けに発生した幾重もの衝撃波、破壊のために生み出された不可視の大嵐が、海中を遊弋していた十数基の空間魚雷へと襲いかかった。

 

 ATフィールドが衝撃波を一度は防ぐが、しかし衝撃波は泡の収斂と拡大のたび発生する。

 

 もとより防備ではなく自爆をこそ目的とした、劣化コアを基軸とした空間魚雷のATフィールドの強度は高いものとはいえなかった。衝撃波の破壊の嵐の前に、文字通り粉砕される。

 

 続いて魚雷を包む外郭が、脆い劣化コアが、メイン動力コアが、衝撃波の猛攻に耐えきれず破砕、本体もろとも全体が砕け散り、巨大な十字爆発を引き起こした。

 

 またしても水中に衝撃波が奔り、その熱エネルギーは海面にたどり着いた『泡』ともども、ヴンダーはるか後方の海上で、とてつもなく大きな一本の水柱を形成し、それはやがて巨大なキノコ雲を形成した。

 

 水柱と共に発生した凄まじい轟音が、ようやくヴンダーに届く。

 音響の凄まじさに、目を白黒させながら、多摩ヒデキ少尉は赤木リツコに質問を発した。

 

「い、一体なにが起こったんですか……?」

 

「本艦の権能の一つは重力制御。艦長は船体中央に電力を光子に変換し、艦体中央に集中させた重力子のところへその光子を運び込んで、これを重力子の重力によって縮退させたの。

 

 つまりは、純粋なエネルギーのみで生成された特殊ブラックホール、クーゲルブリッツがその正体。

 

 E=mc2。この有名な式は、質量とエネルギーを結びつける数式。故に、質量無きエネルギーのみでもブラックホールは理論上形成可能なのよ。

 

 クーゲルブリッツの生成には本来ならば太陽の放射する光量の0.1秒分の発散される光子が必要となるけれど、爆雷代わりに使うなら、それほどのエネルギーは必要ではない。

 

 あくまでも擬似的なもの、極小の特殊マイクロブラックホールでしか無いけれど、ブラックホールである以上、性質は同様よ。

 

 投射されたクーゲルブリッツは地球の重力と引き合いながら、艦長の計算通りに降下、ATフィールドの殻で庇護されたそれは深度100メートルでATフィールドから解放され『蒸発』したの。

 

 これによって発生したホーキング輻射を熱源として、水中で巨大な水蒸気爆発が発生。結果、付近の海域に展開する空間魚雷は根こそぎになった。そんなところかしら。

 

 音波探査が不能な状況だけれど、生き残りの敵空間魚雷も衝撃波に伴う海水の擾乱でまともに動けないでしょうね」

 

 赤木リツコの言葉に、艦長が頷く。

 

「向こうが同様の手を打ってくるなら、今後は本兵装で邀撃が可能となります。長持ちさせられないシロモノですから、現状はそのばその場で生成するほかありませんが、安定化と生産、保管、応用は今後の研究課題となりますね。

 

 以後、兵装を光子爆雷と命名します。

 青葉戦術長補佐、今戦闘終了後、マギプラスのログを参照し、運用マニュアルの製作および、戦術科各員への光子爆雷戦教育をお願いします」

 

「青葉戦術長補佐、了解しました。しかし、とんでもないシロモノを作ってくれたもんですね」

 

「アダムスとエヴァは、人類には本来製造不能の特異点のようなものですよ。しかしそれが生みうるものは、この世界の法則と技術で、ある程度解明と応用が可能です。

 

 なにしろ貧乏所帯ですからね、ありもので何事も対応する他ありませんし、作れるものは何でも作りますよ。幸い、それが可能なのが本艦の強みです」

 

 青葉の苦笑に、艦長が頷く。

 日向戦術長がその言葉に答えるように、戦術科全員へ号令を発した。

 

「多次元ソナー、再度投下します。戦術科各員、現状海水擾乱で音波探査は不能。敵空間魚雷ATフィールドの発するリビドー・デストルドー、重力波を主体として敵魚雷位置を特定せよ。投下!」

 

「日向戦術長は仕事が早い。助かります。

 高雄機関長、N2リアクターの面倒を引き続き見てあげてください。後一撃は必要です」

 

「高雄機関長了解、N2リアクター補助用マクスウェルシステム再設定、爆雷戦に対応し発電の最適化を実施する!」

 

 高雄機関長が艦長の指示に答え、素早くオーバーロード状態となっているN2リアクターの再調整に入る。

 

 下は片付く目処がついた。問題は、上だね。そちらもあの調子なら、ほどなく片付きそうだけれど。

 

 けれど、と艦長はつぶやいた。

 

「指揮官タイプを投入したにも関わらず、上の44Aが存外脆いね。このレベルのものであるなら、わざわざ投入はしてこない。

 ……冬月副司令は、まだ奥の手を隠していると考えるべきかな」

 

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『あらよっとーぃ!』

 

 8号機がばらまいた30ミリ劣化ウラン弾が、またしても3機の44Aを爆散せしめた。

 案の定派手に連射しやがったわね、と私はぼやきつつ、VTOL編隊を操演。

 ヴンダー包囲網を形成する敵44Aの各分隊へ向け、牽制のロケット弾を投射した。

 ATフィールドで防いでも、弾着の反動は消せない。一瞬とは言え機体が制御不能になる。なら、あとは真希波大尉の8号機がそいつを喰うだけ。勿論ATフィールドが中和状態になっていれば、VTOLの攻撃でも仕留める事が可能だから、それも積極的に狙っていく。

 

 アヴェンジャー改、銃身保てばいいんだけど。

 まあ壊れなきゃ伊吹整備長と間宮さんがなんとかしてくれるでしょ、ったくホント真希波大尉は問題児なんだから。

 それはそれとして。

 

『驚いたわね、もう操演に慣れたみたいじゃない、長良中尉』

 

 私はまた1機の44Aをロケット弾で叩き落とした長良スミレ中尉に通信を繋いだ。

 

『はい、副長。操縦経験が生きました。ボクシングの経験もですが』

 

『ボクシング?』

 

『はい。フィットネスと訓練目的で、少し。ジャブでガードさせ、8号機がストレートで仕留める。

 

 相手がガードを上げる……8号機が中和のみをかけた、無防備の44Aには迷わずボディを叩き込んで落とす。

 

 尻と言われまして、要するに腰かなと思ったので、発想を転換してみたんです。案外妙なものが応用できるものですね、実戦というものは』

 

 私の声に、長良中尉が答える。声音に僅かに喜色が混じっていた。

 初陣でここまで動ければ、機嫌もよくなるわよね。それに私も助かっているわけで、ホント長良中尉はいい出物だった。

 

 5機分の操演タスクをセずに済む分、思考負荷は当然減る。そのリソースを戦術運動や敵未来位置予測に回すことができるから、戦闘効率はより向上する。

 

 それも初陣、ぶっつけ本番でここまで私に合わせてくるんだから、天性の操演センスがあるのはもう疑いようがないわけで。

 

 VTOLを300時間程度の訓練期間でここまで動かせるセンスの持ち主なら、将来的にはヴンダーの舵だって預けられるかもしれない。

 

 そうすればこれまで操舵に回さざるを得なかった時間を、いろいろな将来のための研究に当てられるわけで、私としても助かるのだ。

 

『にしても、ボクシングかー。後で教えてもらえない? 私、色々やってたけど、ボクシングはかじったこと無いのよ』

 

『副長も格闘技をなさっていたのですか? エヴァパイロットの技能として求められたのでしょうか』

 

『それもあるけど趣味もね。体型維持したいし。そんな食べなくてもいい体だけど、身体のキレとか体重とか、ほら、維持したいじゃない?』

 

『何をなさっておられたんです?』

 

『キックとサバット、あと柔術。対複数目標を想定してクラヴ・マガ少々ってとこね。

 だから、なんかあると拳より先に足が出ちゃうのよ。なのでちょっとボクシングには興味あるわけ。身体の使い方違うしね』

 

『色々なさっておられたのですね。

 

 柔道家がボクシングを覚えると強くなると聞きますし、流儀を複数覚えるのは得るものが大きいのは私もわかります。

 

 訓練室の位置は既に確認しています、後で軽くお手合わせ願えればと』

 

『お手合わせって』

 

『副長はノウハウがあるようですから、スパーリングの方がよいかと思ったんです。ただ、蹴らないでくださいよ?

 

 私も戦自徒手格闘は仕込まれてるから多分対応できますが、そうなると日本拳法が混じるかもしれないので、多分ボクシングの鍛錬になりません』

 

『アイアイ。楽しみにさせてもらうわね』

 

『こちらこそ』

 

 8号機の真希波大尉がにゃにゃにゃにゃにゃーとか叫びながら派手に乱射して派手に敵機を撃墜する景色を眺めつつ、牽制と撃墜を繰り返しながら、私達は戦場真っ只中というのに、プライベートな会話に興じる。

 

 なんというか、思ったよりあっけないというか。

 

 高度2000ぐらいをキープすると、敵が露骨に攻めあぐねだす。そうなると8号機にとっては好餌もいい状態になるわけで、重力・斥力操演でトランポリンよろしく、跳ねては落とし跳ねては落としの繰り返し。

 

 向こうはこちらの無人機相手だと、中に誰も居ないので『槍』を励起できないし、だからといって8号機相手に『槍』を励起する場合、励起による加速前にVTOLのロケット弾で突きを入れて乱せば、あとはその隙に8号機が掃射を入れて叩き落とす。

 

 なんというか、あっけない。

 

 下の空間魚雷も、艦長が手ごねで作った光子爆雷で大半が吹き飛び、日向戦術長が残敵掃討すべく目下多次元ソナーヴイで索敵中。

 上空の敵も、残す所、あと5機といったところか。

 

 私のコピーなんだからもそっと頑張りなさいよを思わなくもないけれど、なんというか乗っている機体が悪い。

 

 44Aは武装が槍しかない、実質特攻とATフィールドしか能がないシロモノだ。ATフィールドの攻性投射くらいは応用でしてくるか? と思ったけれど、三号機前の私のデータが元なら無理だろう。できるなら、とうの昔に仕掛けてきてもおかしくないのだから。

 

 8号機がヴンダー目掛け落下していく。斥力による再上昇準備体制。こちらも損害なし。21対5、完封試合といったところか。

 

『OK、長良中尉。8号機の再上昇に合わせて仕掛け──』

 

 指示しかけたその瞬間、敵残余編隊のうち、3機の動きが、突如変化した。

 

 2機のアヤナミシリーズ操る44Aが、『槍』を励起したのだ。目標は8号機ではなく、ヴンダーでもない。

 敵機2機から放たれるデストルドー波の経路を咄嗟に視覚データ化し、その線を見て私は困惑した。

 

『あの44A指揮官機、味方を狙ってるの!?』

 

 言葉と同時、『槍』を励起したアヤナミシリーズの44Aが加速、別分隊の2機へと突進、それぞれが別の機体へ『槍』もろとも激突、空中で4機が一斉に爆発する。

 

 敵残機、1。

 味方を殺したの、あいつ。

 どういうことよ、これ。敵指揮官機、狂ったの?

 

 眼前の光景を理解できず、私は困惑した。

 ともかくも材料を脳裏に並べ、状況を分析する。

 

 シキナミシリーズの複数投入、それによる部隊の戦闘力の総合的向上が目的かと思いきや、実際殴り合いが終わってみると、さほど向上していない。つまりはコスパが悪い。

 

 なら、そっちが目的ではないということ。

 

 脳裏を過去の記憶ががよぎった。

 

 10年前。私が私になるための最後の戦い。

 数多の式波シリーズを選別し、優れた個体を選別するという、合理性に欠けた奇妙な術式。その産物たる私自身。

 

 胃の腑に、黒く重いものを感じる。

 

 同時に、敵44AのATフィールドが『揺れ』、ヴンダー外皮へとATフィールドを揺らす不可視の波を送り込んでくる。

 

 フィールド振動による思念通信波だ。

 もとより同型。周波数帯は最初から合っていて、脳髄に相手の言葉が速やかに染み込んでくる。

 

《やっと全員片付いた。手際がいいのか悪いのか。

 でも正直少し待ちくたびれた、そのあたりが、所詮プロトタイプってことよね》

 

 私と、同じ声、同じ思考。それは明白な嘲りを孕んでいた。

 内心で思わず舌打ちする。

 

『誰がプロトタイプですって?』

 

《あんた以外に誰が居るのよ。シキナミシリーズは、私のプロトタイプに過ぎなかったってこと。

 これまであんたらが散々おもちゃにしてきたNHGBuße、返してもらいにきたわ》

 

 私が返答するより先に、ヴンダーから一条の火線が走る。

 

 艦長が状況判断し、咄嗟にレールガンを撃ったのだ。

 無駄口長すぎ、44AのATフィールド出力では、ATフィールドを併用できない爆雷戦下の状況でも、その弾丸の威力だけで充分撃破可能よ。

 

 そう見込んだ私の予測は、しかし外れることになった。

 

 44Aを包む梱包が破れ、そこから赤い腕が迫り出している。その掌から発生した、44Aでは本来展開不能なはずの出力のATフィールドが、20インチ、2トンの巨弾を阻んだのだ。

 

 砲弾は、次の瞬間自らの運動エネルギーに耐えられず、ATフィールド表面で粉々に砕け飛散、爆発炎上する。

 

 その爆発と炎を浴びて、44A表面を覆う梱包材が剥がれる。

 現れたのは、赤いエヴァンゲリオン。それも、1機。

 

 頭部形状こそ三号機に似ていたけれど、カメラアイが2つではなく4つ、緑色に輝いている。

 

 背からX字上に44Aのフライトユニットが伸びているのがみえた。ウェポンラックは両肩のみでなく、おそらく融合したであろう側のラックが、腰の両サイドに装甲の如く移動している。

 

 その手には『槍』を握っている。

 ロンギヌスコピー。その長さが変化し、腹部懸吊時より、やや短くなっていた。槍自身に自己鍛造をかけさせ、短縮した分金属繊維密度を上げ、強度を増したのだろう。

 

『44Aは2機を1機として無理やり運用しているシロモノの筈──』

 

《バカね、オーバーラッピングの応用よ。

 

 44Aを形成する2機のエヴァをバラして単騎で使っても、粗製だから性能が落ちる。だからオーバーラッピングで片方を同化し、ニコイチにして粗製を真作に変えた。

 

 プロトタイプは頭が悪いわね。だから気づかない。

 そうね、こいつに命名するなら、エヴァンゲリオン試作4号機A型ってとこかしら?》

 

 嘲るような思念が、私の脳に直接響く。この声は戦闘艦橋にも流れていた。皆の思念に困惑が感じられる。LCLガスが充満したシンクロ運用状況だから、当然この波は艦橋要員全員に聞こえてしまうわけで。

 

 なにしろ私と同型だ、声も私と瓜二つ。思考パターンも同質ときた、紛らわしいったらありゃしないわよね!

 

 私の怒りを察したのか察してないのか、相手の煽る言葉は続いた。

 

《うん、やっぱりアンタに名前は勿体ない。私がもらって帰るわね。

 母さんの唯一の子供になるために殺すのは、後はアンタ一人だけだもの。

 

 ま、あんたはプロトタイプだから、名前なんていらないわよね? 旧式の粗製のシキナミシリーズなんかには勿体ないもの》

 

『面白いこと言うじゃない。名乗りなさいよ。殺すのは聞いてからにしてあげる』

 

《名乗っていいの? つまり、名前を返上するってことよね。

 そっちが先にくれるというなら、ありがたく頂いてあげるわ。

 

 私は翔覚・アスカ・ラングレー。

 

 選定を終え、ママの名を継ぐ唯一の真打ち。身体を使徒なんかに汚され、ママに由来するアスカの名を穢したプロトタイプは、ここで処刑してあげる。感謝してほしいところよね? 酷い人生みたいだったし》

 

『あげるなんて一言も言った覚えはないけど。

 それに、数は1対21、ヴンダー含めて22。

 海面下をうろつく空間魚雷を含めても、アンタの不利は覆らないわよ』

 

《数的不利? は。なんで私が単騎だと思ったの?》

 

 次の瞬間、ヴンダー上空、その恐ろしく広い範囲が白く変色し──六角形の無数の破片となり、砕けた。

 

『量子迷彩!?』

 

 高度6万メートルに突如として出没したそれは、ヴンダーよりも遥かに大きい。

 

 目測、全幅10キロ。体色、赤。かつて海に居たという海星に似た二つの翼の中央に、巨大な目のような文様。

 その背後には赤い光輪。すかさず各部センサーを動かし、突如出現した目標への精査をかける。

 

 その巨大な太古の海棲生物じみた体躯は、実のところ無数のエヴァンゲリオンが組み合わさって形成されている。バカげた数のエヴァによる、組体操のシロモノで、幅10キロの化け物を作り上げているわけだ。

 

 フィールドの波形パターンは──オレンジと青の明滅。44A同様に活動期間向上のため、紛いの使徒の要素をいれてあると私は気づく。

 

『第8の使徒、そのエヴァによる再現って──』

 

 これが副司令の本命か、と私は唸った。

 

 新たなるシキナミ──いや、あいついわくショウカクの選別、44Aをベースとした新たなるエヴァの鍛造。

 

 さらに紛いの第8の使徒による質量爆撃。 冬月副司令らしいいやらしさ、上に引きつけて下、下に引きつけて本命はやはり上!

 

 しかも足場は海ときた、以前のようにエヴァで支えるのは不可能だ。

 

 爆雷戦の最中ではヴンダーを上げられない、仮にむりやりヴンダーで支えたとしても、あの敵性エヴァが、44Aのような粗製ではなく、真作としてのエヴァの戦力を持ちうるなら、連携してヴンダーを襲撃する腹積もりなのだろう。

 

 第8の使徒と異なり、ギリギリまで引きつけてからの量子迷彩解除、ヴンダーの各種センサーのレンジと欺瞞可能距離も計算済みか。

 

 ったくいい性格してるわよねあの副司令! 対使徒戦闘ではずっと三味線ひいてたか、ホント最悪よあの爺さん!

 

 こちらの苛立ちを読み取ったか、哀れみ嘲笑うような思考が脳裏に響いた。

 

《本当は私一人で充分なんだろうけど、私のママは優しいの。

 NHGBuße鹵獲のために応援をくれたのよね。

 疑似使徒のL結界で、Bußeを構成するアダムス組織が、多少コア化しても構わないから回収してきなさいって。

 ほんと、その頭の悪さでよく10年生き延びてこられたわね、プロトタイプ?》

 

 相手の嘲笑を無視し、私は思念を艦長に走らせた。

 

(どうする、艦長。あの使徒もどきの落着まで時間がないわよ。

 あの大きさと質量が海に落ちれば、L結界下とはいえ巨大津波を発生させるには充分。

 

 ヴンダーと、こっちの主要拠点であるオアフ島を同時に狙って来たってことよね、これ)

 

(下はもう問題ない。問題は上とあの戦力不明のエヴァだ)

 

 艦長の思念と同時、ヴンダー後方に巨大な水柱が発生した。

 水柱の中に無数の輝きが見える。ギリギリのタイミングで、空間魚雷は撃滅できたようだった。

 

(でもN2オーバーロード、そろそろ限界よね)

 

(問題ない。『衝角』を使う電力と時間はあるよ)

 

(『衝角』を!?)

 

 私は呻いた。予算を分割、ヴンダー艦体の応急修理を装い、極秘裏に進められた、書類上は存在しない第三次改装。

 

 その主目的は『衝角』の増設。けれど、その使用にはヴィレ総司令の認可が必要のはず。

 

(承諾取る時間無いわよ!?)

 

(そのために名代としてリツコさんに乗ってもらっている。この状況だ。リツコさんの代理承諾と事後承認で納得してもらうしか無い。

 

 副司令はどうやら本艦の全性能を確かめたくてならないようだね。

 

 生命の書、そして数ある裏死海文書の中でも外典の中の外典のシナリオで現状は推移している。

 渚カヲル元司令曰く、今回は相当ろくでもないシナリオらしいけれど──関係ない。そんなもので悩む季節は通り過ぎたよ)

 

 かつて柔らかで繊細だった、けれどこの10年の闘いを経て鍛造された、硬い鋼のような心が、惑いなく私に答えた。

 

(副司令が見たいと言うなら見せてあげよう。向こうには『鍵』があるけれど、『衝角』が『鍵』の観測閾値内かどうかはわからない。

 

 もとより『鍵』の権能を超える手段の一つとして増設したものだ。どの道使うためのもの、使うべき時が来た。だから、使う。今を生きるヒトのために)

 

 そして、その決意は、声となって艦橋に響いた。

 

「『衝角』を使用します。本来葛城総司令の承認が必要ですが、現状その時間はありません。

 赤木リツコ博士、葛城総司令名代として決裁をお願いします」

 

 リツコは──諦めたような、笑みを浮かべていた。

 

「人の傲慢、その極み。私、反対していたのは覚えているわよね?」

 

「ええ、けれど時間がありません。あれが落ちればオアフ島が津波に飲まれます。

 そうなれば現人類生存圏は生残に必須の物流センターと戦力、そして文明存続のための人口を失います。

 時間がありません。決裁願います」

 

「──他に手はないわね。赤木リツコ、葛城ミサト総司令に代わり、『衝角』使用を承認します」

 

 リツコが首肯した。

 

「了解。8号機は直ちに着艦、VTOL操演停止、自立運転に切り替え、各個にオアフ島ヴィレ軍管区へ帰還指示。

 本艦は突撃形態へと移行。上空疑似第8使徒を殲滅。『衝角』を以て決着をつける」

 

 突撃形態。

 

 ヴンダーに本来備わっていた機能、統合体化──アダムスとしての本来の、ヒトとしての姿へと戻る機能を悪用した、『衝角』使用に特化した、ヴンダー決戦形態だ。

 

 危険すぎるがゆえにその存在を極秘とされた凶器を、碇シンジは使うと決断したわけだ。

 

 決意したのなら、もう、シンジは曲げないだろう。

 ならば、副長として考えるべきことは。

 

『VTOLと8号機抜きであいつを──』

 

《何か企んでいるようだけれど、その紛い物の出来損ないの主機を潰して乗っ取る!

 プロトタイプはこの海でおしまい、私がBußeの権能を掌握すればいい!》

 

 けれど、相手の邪気が脳裏を奔る。

 敵エヴァが、落下──いや重力制御でさらに加速をかけてる。

 

 かなり速い。海面すれすれを這うように敵が突進する。

 狙うはヴンダーの今の主機が備わる横腹か。

 乗っ取りに来たわね。

 

 艦長がレールガンを照準する、けれど『衝角』使用を踏まえればコンデンサ電力は無駄遣いできない、厄介な──

 

「問題ない」

 

 私の憂慮に答えるように、艦長が小さく呟く。

 

 その言葉に答えるように、別の気配──本来の『槍』の出力すら凌駕するかもしれない、圧倒的なデストルドーの不可視の線が、敵性エヴァンゲリオンを貫くように奔るのを私は感じた。

 

《何、これ──!?》

 

 敵の新型シキナミシリーズの意思が困惑する。

 

 それが『槍』の照準と咄嗟に気づいたか、即座にATフィールドを展開し、波の到来方向から想定される『槍』の進路に複数枚の光の波紋が出現する。

 

 昔の私は知らなかったろうに、艦長の砲撃からATフィールドの複層展開術式を学び取ったのかしらね。無駄に頭のつくりがいいけれど──

 

 描かれたデストルドーの線を伝い、視認すら困難な速度で、蒼い巨体が疾風のごとく、敵性エヴァンゲリオンへ迫るのを、ヴンダーの光学センサーが捉えた。

 

 フライトシステムの加速限界を越えた、N2セイリングでも併用したのかと思われるほどの速さで迫るそれが手にするは、緋色の刃金の巨大刀──!

 

『艦長、副長。少し遅れた』

 

 通信が入ると同時。

 蒼の巨人が、立ちふさがる複層ATフィールド、その最前列の一枚目掛け、渾身の刺突を繰り出すのを私はみた。

 

 試製AA刀。もとを辿れば、44Aの模造の『槍』であったものを鍛造整形した、生きる意思を断つ呪詛の刀。

 

 そして、あいつらは今日、『槍』の励起の仕方を見せてしまった。

 敵が見て学べるならば、無論こちらも見て学べるってことよね。

 

 刀でありながら『槍』としての権能を持つそれによる刺突は、無数の槍の鍛造体であるがゆえに、敵の粗製の『槍』よりも数段速い加速力を見せた。

 

 そしてその刀の本質はATフィールドを切り裂き貫くことにあり、複層展開されたATフィールドを問答無用で貫き砕きながら、敵のATフィールドの基、エントリープラグを目指し──

 

《アヤナミシリーズのプロトタイプ!》

 

 敵の意思が忌々しそうにうめきながら、ATフィールド解除と同時、両腰のウェポンラックから6本の超硬金属ニードルを射出、そのまま一気に上空へ飛び上がる。

 

 デストルドーの線が消えた。レイが状況判断し、試製AA刀の励起を解除したのだ。

 

 飛来する超硬金属ニードルを、蒼い弐号機が展開したATフィールドが迅速に防ぐ。

 

 赤い波紋の壁に遮られたニードルは、弐号機を貫くこと叶わず、虚しく赤い海へと落下していった。

 

《プロトタイプじゃない。私は綾波レイ。エヴァンゲリオン弐号機パイロット。あなたは誰?》

 

 右腕から伸びた単分子ワイヤーで、背後に牽引していたフライトシステムを再起動し、その上に弐号機を着地させながら、綾波レイは敵の思念に対して名乗る。

 

《プロトタイプはプロトタイプでしょう? 武器の弾頭にしか使えない、粗製の頭の悪い人形ども、そのプロトタイプ。

 

 それがアスカを名乗る個体にのみ搭乗が赦される弐号機に乗っている。ヴィレの野良犬共らしい。私に対するひどい侮辱よね》

 

《そう。貴女には関係ない。これは副長からもらったものだもの》

 

《プロトタイプ同士の譲り合いなんて関係ないわよ!》

 

 思念が凄まじい怒りを孕む。オーバーラッピングで強化した機体に乗ってもなお、弐号機への渇望感は残ったままなのか。

 

《私はプロトタイプじゃない》

 

 フライトシステムを飛翔させ、敵性エヴァへ接近しながら、弐号機が左腕の40ミリボフォース連装機関砲を頭上の敵機目掛けて連射する。

 

 敵が展開したATフィールドに弾丸は阻まれるが、敵の動きの軌道が着弾の衝撃で上方へ、直線的なものへと変わる。

 

 右手の緋色の巨大刀は、デストルドー負荷を抑えるためか、再び黒き鞘に納刀されていたけれど、敵はすでにあの刀の本質が『槍』であることに気づいている。

 

 だからだろう、弐号機に対して迂闊に踏み込めずに、40ミリ劣化ウラン弾への防御と回避に専念している。

 

 飛行能力こそあるとはいえ、10年前の私と判断力と技量に差があるとは思えない。

 

 アドバンスではなく、同型の再生産と見て良さそうね、アレ。

 差があるとすればATフィールド出力で、ヴンダーのレールガンを受け止めたときのそれの強度は、多分10年前の私を凌駕していた。

 

 基本設計、思考パターンは同じ。とすれば、違いは制御術式か。

 私は相手のパイロットに聞こえるよう、大きめの思念の波をフィールド振動で赤い敵性エヴァへ向けて送り込んだ。

 

『両親を知らない、寂しい私に親として現れ、希求させた……寂しさを埋めたい、親の胸に縋りたい、捨てられたくない。捨てられないためなら何でもする。なんでもできる。

 そういう強い猟犬を仕立て上げる、そのための選定の再演よね。

 

 そしてとうとう自分ひとりになったから、もう自分は一人で、だから親の娘だと胸を張れるって思ってるわけだ。

 

 母の愛を確信でき、心の欠落が埋まってのATフィールドの出力向上、ってなとこかしら? ママっ子なのね、アンタ。あんな女に──』

 

《ママを侮辱しないで! 所詮ママに愛されなかった、出来損ないのプロトタイプのくせに!》

 

 私の嘲りの意志に気づいた敵パイロットの意思が、私に向く。

 ──青い。やっぱりシングルコンバットにこだわる気質も10年前のそれ、しかしこの程度の煽りに乗るか。思わず笑みが浮かんでしまう。

 

『あんたバカ? 今の相手は私じゃないでしょ』

 

 私の言葉に応えるように、敵性エヴァ表面装甲に、40ミリ劣化ウラン弾が連続で着弾した。装甲材に弾丸が無数に食い込み、砕け、発火する。

 

 敵性エヴァの装甲材質は、オーバーラッピングを踏まえれば、変性している可能性が高い。強度については未知数と言える。

 

 しかしその表面に食い込み発火した劣化ウラン弾の破片は、1000度以上の熱で、装甲内側のエヴァの肉を焼いたようだった。

 

《こん畜生ーーーーーーーッッッ!!!!!!!!!》

 

 弾着の痛みと熱を味わった、敵パイロットの意思が苦痛の絶叫を上げる。ATフィールド中和可能レンジに入ったレイの弐号機が、フィールドを中和し、敵性エヴァに40ミリボフォース弾を複数命中させたのだ。

 

 折角積層防御を学んでも、即座に生かせなければ意味がない。

 

 私に気がそれてしまった結果、咄嗟に手癖の一枚展開で防御してしまったようで、一枚しか無い薄いATフィールドを中和するなんて、今の綾波レイには造作もない。

  

《戦闘に必要なのはシングルコンバット能力ではないの。副長と私が学んだことを貴女は学んでいない。甘いのね。シキナミシリーズの人》

 

《私をシキナミシリーズと言うなぁ!!》

 

 苦痛混じりの意思が憎悪に歪む。敵性エヴァは両肩のウェポンラックから超硬金属ニードルを弐号機目掛けて撃ち下ろすけれど、レイは既にそれを読んでいる。

 

 フライトシステムを軽く沈み込ませ、さらに弐号機の両膝を屈伸させ、身を沈ませてニードルの嵐を回避したレイは、すでにして腰マウントに接合されたプログレッシブナイフPK-01に手をかけていた。

 

 その動きはまさに攻防一体、フライトシステムで上昇をかけ、弐号機は敵機の懐へ飛び込みながら、同時に立ち上がるようにして身を相手へ目掛け伸ばす。

 抜き放ったPK-01の刃を、そのまま敵機の腹へと突き立てた。

 

 装甲と超振動刃が接触し、結果として壮絶な摩擦熱が発生、砕けた敵性エヴァの装甲の破片が、火花となり、さながら花火のように輝く飛沫をばらまきながら飛び散り続ける。

 

 そして、刃はとうとう装甲を貫き、深く敵性エヴァの腹の肉を抉った。

 

《ああああああああああああああああッッッ!!!!!!!!!》

 

 臓腑をえぐる苦痛とのシンクロに、敵パイロットが凄まじい悲鳴を上げた。

 咄嗟に敵性エヴァが弐号機を蹴り飛ばし、突き放す。そして左手で刺さったままになっていたPK-01を抜き、捨てた。

 

 敵性エヴァの傷口から、大量の血が迸る。けれど、それは僅かの間で止まった。ATフィールドで傷を塞いだか、それとも激怒と憎悪の感情が、エヴァの回復力を向上させたか。

 

 けれど、綾波レイの思念は、どこまでも涼しいものだった。

 

《艦長と副長は『衝角』の準備をお願い。

 来なさい、シキナミシリーズの人。遊んであげる。待たせてる子たちがいるから、あまり長くは無理だけれど》

 

《私は旧式なんかじゃない。

 プロトタイプの、駄作の粗製の人形のくせに……親の居ない人形のくせにィィィ!! 殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる!》

 

 激昂のままに振るわれた敵性エヴァの『槍』を、電磁高速抜刀された試製AA刀が即座に弾いてのける。

 

 レイは自分の仕事を認識している。あいつの相手はレイに任せていい。

 

 なら、私達も仕事を果たそう。

 私は真希波大尉の8号機の状況を確認した。8号機は既に着艦を終え、格納庫所定位置へ移動し、待機している。

 

『真希波大尉。悪いけど、使うわよ』

 

 私は彼女に通信を送った。彼女もリツコ同様、『衝角』装備に反対した人間の一人だ。

 理由は勿論、危険すぎるから。けれど艦長の勝利に必要だという信念を認めたミサトにより、第三次改装は承認された。

 

『ヒトの滅びを阻止するためとは言え、危険な火遊びだにゃあ。んにゃ、氷遊び?

 どっちでもいいし、この状況じゃ使うしか無い。でも、ホント気をつけてね? ホント危ないおもちゃだよそれ』

 

『わかってる。

 演算は完全にする。制御も。約束する』

 

 真希波大尉の警告に、私は頷く。危険だ。けれど、どれほど危険なものであろうと、この宇宙にソレは存在してしまっている。つまり、この宇宙は、残念ながらひどく脆いのだ。いつ砕けてもおかしくない。

 

 けれど、その脆い宇宙が、思いの外に長持ちしている。理論上、とっくに砕けていておかしくないのに。ならば、存在を保っている理由があるはずだ。

 仮説が成り立ち、それを計算に入れた上で艦長と私、そして整備帳が研究開発した『衝角』。前提が仮説、検証データはNASAのSETIでの超光速通信運用時のものしかない。

 

 そんなものが基となった『衝角』であるなら、リツコや真希波大尉が反対するのは当然と言える。けれど、頼らざるを得ない状況になってしまった。今はこの危ういシロモノに、全てを託すほかないのだ。

 

『……始めるわよ、艦長』

 

『艦長了解。コクマー・ユニット権限返還、操舵系を副長へ。主機及び補機、最大出力』

 

『副長了解、赤木リツコ総司令代理の承認を確認。ヴンダー、突撃形態へ移行! 両翼旋転! 艦体右胴および及び左胴、後部スライドかけ、中央胴体部への接合開始!』

 

 ヴンダー艦首を、重力・斥力制御で持ち上げる。

 艦首が、天を覆う、紛いの使徒を睨んだ。

 

 同時に翼の稼働機構が動作、羽ばたくようにして艦体基部下方へ90度曲がり、そのまま後方へ旋転した。

 

 翼が右胴と左銅に張り付き、その先端が後方へ伸ばされた形となる。

 

 更に右胴艦体と左胴艦体が後部へスライド、格納庫の中空構造へ、接合部が食い込む形で中央胴体への接合を開始した。

 

 右胴と左胴が後退接合されたことにより、ヴンダー独特の、怪鳥のような艦首が突き出た形となる。

 

 その首周りの装甲が開き、6枚の花弁のような超硬アダムス組織内包アモルファス合金ブレードがせりだした。

 

 合金ブレードが、ヴンダー艦首を覆うように包み、そして同時に螺旋に捻じれて変形、密封結合した。

 

 黒鉄のような光沢を放つ巨大な鋼鉄の螺旋の塔、ヴンダー最強最後の禁断の牙、艦首螺旋衝角が形成される。

 

 衝角が轟音を立て、電磁レール運動により、回転を開始する。

 支度は整った。

 艦長の命令が思念とともに奔る。

 

「全重力・斥力系制御、攻性運用開始。

 全電力、艦体アダムス組織へ注入。

 

 各種重力子・各種斥力子・正電荷疑似タキオン・負電荷疑似タキオン・疑似タキオン進路制御荷電粒子群、生成・散布開始」

 

 ヴンダー艦内に、怪物の悲鳴のような啼声が響く。

 

 ヴンダー艦体を形成する全アダムス組織に、補機が生み出す電力が注ぎ込まれ、人類の現代の科学技術力では本来生成不能であるはずの粒子・量子の群れが、次々に生成されていく。

 

 さらにヴンダー上部に備えられた巨大なパラボラアンテナ状構造物、かつてNASAが地球外知的生命体探査(SETI)のため開発・運用していた大型タキオン通信実験システム、現呼称『冷線砲』へ電力が供給されはじめた。

 

 ヴンダー艦体周囲素粒子の群れが、複雑な運動の果て、ヴンダー胴体の周囲を回転運動し始める。

 

 それら素粒子群を目掛け、三基の冷線砲が、パラボラアンテナ中央構造物先端部から、蒼い光線を照射し始めた。

 

 放たれた光線が、素粒子たちの回転運動に吸い込まれるようにねじ曲がり、溝を切ったレコードのような円を描く。

 

 それらはやがて三枚の、土星の輪を想起させる光輪となり、ヴンダー艦体を軸に回転運動を開始した。

 

 その光輪を見た北上ミドリが、息を呑む。

 

「これって、ニアサーのときのエヴァの……!?」

 

「違うわ、別物よ」

 

 恐怖の入り混じった北上少尉の叫びを、赤木リツコが冷静に否定する。

 

「この光輪は、ヴンダー艦体から放たれた重力子や斥力子、そして荷電された疑似タキオンによって形成されたものよ。

 

 荷電粒子と重力子・斥力子に拠る重力制御で、ヴンダーを中心とした一種の重力場を形成、円形状にレールを形成した後、冷線砲より射出した荷電疑似タキオンを撃ち込み続けているのが現在の状況。

 

 疑似タキオンは常に超光速状態で動き続けるけれど、荷電が可能であることから電磁場の影響を受けるため、重力・斥力制御で円運動させた荷電粒子を利用して収束させるの。

 

 正負電荷の発生させる電磁気力の反発力と吸着力を利用し、ヴンダーの生成した荷電粒子を重力制御することで、間接的に重力制御と閉じ込めを可能としているの。

 

 あの青い光は、荷電粒子によって形成されたサーキット内部を、正・負電荷の疑似タキオンが超光速で通過することによって発生したチェレンコフ放射に由来するものなのよ」

 

 艦長──シンジにも私にも、もう言葉を発する余裕がない。だから、リツコがわかってない連中に説明しているけれど、一体どこまで伝わるだろう。

 

 しかし書類にはそう記されているとは言え、いちいち『疑似』と大嘘を律儀につくあたり、リツコのリツコらしい所だと思う。あれはタキオンそのものなのに。

 

 とにかく、私とシンジは脳機能を全てのマギプラスユニットと接続し、自他境界消滅限界までシンクロ率を向上させ、各種素粒子及び投射結果演算をノイマン式・量子演算式併用で全力で行っている。

 

 本来ならば私とシンジの自我が完全に混濁してもおかしくない状態で、お互いの思念が、幾重にも演算結果を最高効率で譲り合えるよう、混ざり合っている異常な状況となっている。

 

 平たく言ってしまえば、私とシンジの思念状態は、コーヒーとミルクを混ぜて、スプーンで引っ掻き回したような状態だ。肉眼観測ではもうコーヒーとミルクの判別がつかないほどに、入り混じってしまっている。

 

 L結界が存在する状況での自他境界喪失は肉体の形象崩壊、すなわちLCL化を招きかねない、本当に危険な行為らしい。

 

 私達はその危険を回避するため、N2リアクターの制御用に用いられているマクスウェル・システムを併用していた。

 

 シンクロ状況でお互いの思考を形作る電子の粒子の一つ一つを「マクスウェルの悪魔」に類似した形式で情報付け・分別している。

 

 本来ならば自他が溶融して戻らないレベルで相互脳機能を交換している状況だけれど、それらの思考を形成する素粒子の流れを「一匹の悪魔」に観察させ、タグ付けさせ、区別させているのだ。

 

 素粒子レベルでグシャグシャに混じり合ったシンジと私の思考を選り分け、さらにはマギプラスによるシンクロ量子演算を加速させるアクセラレータとしての役割も果たしている。

 

 そもそもこの術式は、本来演算用でない、N2リアクター補機の発電アシスト用のシステムの転用であり、10年前、咄嗟に閃いたバカと無茶を試した結果生まれたものだ。

 

 こういう自我状態に成り果てて、なぜLCL化しないのか、形而上生物学では説明困難な事象であるらしいし、目玉の中にいる9番目の使徒が役割を果たしている可能性はあるが、ともかくコレのおかげで思考を極限までシンクロ演算しても肉体が溶解せずにすんでいるので、本当にいざというときにかぎって使っているのが現状。

 

 マギプラスの通常運用でもなお困難な演算を行い、極小単位から極大単位の現象に至る恐るべき規模の演算が奔る。

 

 閃転する螺旋衝角内部のアダムス組織も連動させ、螺旋円錐表面に、回転する電磁力場の螺旋状タキオン粒子射出レールを形成した。

 

 これが、最終的に生成された電荷タキオンを集約し、一種のレーザーとして目標に撃ち放つバレルとしての役割を果たすのだ。

 

 目標相対距離、15000。そして、演算は終了に至る。

 

「新冷線砲、発射」

 

 シンジの言葉を、私は聞いた。

 

=====================================

 

 艦長が言葉を紡ぎ、その言葉がトリガーとなり、3枚の光輪が艦首方向のものから順に回転する螺旋衝角に吸い込まれるようにして消える。

 

 タキオンを覆い、その針路を妨げていた各種素粒子が螺旋衝角先端部に至って消滅、衝角先端に運動エネルギー方向を誘導され、レーザー用に指向性を与えられた収束タキオンが解放され、破滅の光が撃ち放たれた。

 

 虚数の質量を持つタキオンの群れは、時間を逆行しながら超光速で上空の贋造の使徒へと着弾。

 

 同時に拡散し、タキオン場と呼ばれる、エネルギーが虚数状態の場を使徒を包むように形成、それと同時に凝集を開始した。

 

 タキオンの存在を許すがゆえに偽の真空たる世界に、凝集によって間隙を生成、いわゆる『真の真空』を創り出した。

 

 局所的に出現した真の真空は、周囲の偽の真空を引きずり込むようにして連鎖的相転移を開始した。

 

 真空崩壊、と呼ばれる現象である。

 

 相転移により偽の真空が真の真空へ移行する際に発生するポテンシャル差が、膨大なエネルギーとなり、さながら光の泡の如くに変化して贋造の使徒を飲み込む。螺旋より放たれた轟きが、天もろともに使徒の居た空間を穿ったのだ。世界を引き裂く禁忌の螺旋。

 

 即ち艦首螺旋衝角『轟天』。艦長の研究を元に基礎設計をおこなった担当者はこの恐るべき兵器をそう命名した。

 

 そして、本来であれば光速で広がり、全てを相転移させるまで終わらぬはずであった光の泡は、唐突に拡大を止め、まるで自身の内側に吸い込まれるかのようにして消失した。

 

=====================================

 

「なによ、あれ」

 

 シキナミシリーズを超えるものとして、『ショウカク』の名字を与えられた彼女は、呻く。

 

 一瞬前まで存在していたはずの上空の贋造の使徒が、突然の輝きとともに、跡形もなく消えていたのだ。

 

 画像及び各種データ解析も、『贋造の使徒がヴンダー目掛けて蒼い光線を放った』瞬間、跡形もなく消えてしまったことを示していた。

 

 また、ATフィールド検知システムも異常値を示していた。

 

 意思無き空間が、まるで突然意思を持ったかのように、ATフィールドを発散し、何かを押しつぶしてしまうかのような挙動を、贋造の使徒のいた空間付近で示していたのだ。

 

 あえて例えるならば、まるで体内に出現した癌細胞を、免疫システムが攻撃して殺してしまうような挙動に、それは似ていたかもしれない。

 

 それが何を意味するのか、ショウカクの名を与えられた彼女は理解できない。そして、それを理解する機会を失ったことも理解していなかった。

 

 突然の光景に絶句し、気を取られた彼女は、弐号機との至近距離戦闘である、ということをつかの間失念してしまっていた。

 

 それが、致命の隙だと彼女は思い出す。

 

 眼前に迫る蒼い弐号機目掛け、『槍』を咄嗟に振るうが、遅すぎた。

 その瞬間には既に綾波レイは攻撃準備としての納刀を終えており、黒き月の鞘に仕込まれた電磁抜刀機構を、再び作動させていた。

 

 エヴァ単騎の腕力では不可能な、恐るべき速度の電磁加速斬撃が、『槍』ごと彼女の操るエヴァの胸部およびコアユニットを両断する。

 

 両断され不安定化したコアが、ヒヒイロカネの放つ恐るべきデストルドー波を受け、急激に崩壊してゆく。

 

 そのコアにシンクロしていた彼女の自我と肉体、そして脳も、崩壊するコアにより増幅放射されたデストルドー波の直撃を受け、機能を停止し、彼女は己に何が起きたかも理解できないまま、完全な死を迎えていた。

 

 コアがデストルドー崩壊したために、爆発は発生しなかった。

 両断された赤いエヴァンゲリオンが、赤い海に落ちていく。

 

 綾波レイは一瞬まぶたを閉じた。

『槍』を持つ敵に手は抜けない。万一自棄を起こされ、ヴンダーに『投擲』されるようなことにでもなれば、それは最悪の結果を招くだろう。

 

 本当の新型だったら、生かせたかも知れないけれど、愛を得たと思って盲目になった貴女には言葉は通らない。そう綾波レイは判断した。

 

 私の術式ではまだ、生きたいアヤナミレイしか生かせない。

 シキナミシリーズの人、私達が生きるためには、貴女を殺すしかなかった。名前を呼べなくてごめんなさい。

 

 内心で死者への謝罪を告げると、フライトシステムをヴンダーとは別の方向へと向ける。

 

 死への恐れを知り、生きたいという感情が生まれた彼女たちの元へ。

 

 まだアヤナミレイ以外の名をもたない彼女の妹たちが、どこへ行けばわからないまま、彼女のことを待っている。

 

 ヴンダーへの応援に駆けつけるため、待機ポイントで待機するよう言い聞かせた彼女たちは、一度ヴンダーへと連れ帰る必要がある。

 

 一時離脱する旨をヴンダーへ通信すると、綾波レイは妹たちの待機する海域へ、フライトシステムを走らせた。

 

=====================================

 

「当海域における敵の殲滅を確認。N2リアクター、オーバーロード状態より通常運転へ移行。出力70%。

 

 突撃形態解除、通常形態へ。

 

 作戦行動を終了、本艦は準戦闘態勢へ移行します。

 艦橋内シンクロ同調解除、LCLガス放出。戦闘艦橋、通常艦橋へ移行してください」

 

 壮絶な演算を終え、流石に顔に疲弊の色をだした艦長が、各センサー系の情報を確認し、敵の増援の可能性が無いことを確認した上で、帽子を目深にかぶり直しながら、戦闘の終了を宣言した。戦闘が終わっても、戦後処理が残っている。全員即座に休息というわけにはゆかない。

 戦闘艦橋下部の隔壁が解放され、艦橋構造物が通常艦橋位置へと降下した。

 艦長の指示が、矢継ぎ早に飛ぶ。

 

「整備班は8号機の状態確認・整備を最優先。

 なお、弐号機よりアヤナミシリーズ8名の保護、エヴァ44A8機鹵獲の旨、通信を受けています。レフトハンガー・ライトハンガーにわけ、各4機駐機。主計科および医務科はアヤナミシリーズ受け入れおよび身体状況検査の準備をお願いします。

 稼働限界を迎えている場合、生命維持措置を行う必要がありますので、その場合はオペの準備を──」

 

 指示を下していると、不意に頭の上に手を置かれた。

 戦闘艦橋移動用キャットウォークづたいに歩いてきた赤木リツコが、艦長の頭を撫でているのだ。

 

「少し休んだほうがいいわよ、碇艦長。

 

 想定以上に無茶な演算になったわね。

 第10の使徒以来のバカげた演算だったもの。

 

 脳にどれだけ負荷がかかったかわかったものではないし、部署ごとの指示ぐらい各科長に任せなさい。

 

 そのための人員増でしょう? 

 何から何まで指示出ししていては、下がかえって動きづらいのよ。指示出しの経験を部下に積ませるのも艦長の仕事。

 

 そういうわけだから、あなたは少し部屋で休みなさい。これ、艦長付きの医者としての諫言よ」

 

「笑いながらキツイこといいますね、リツコさん」

 

 艦長が苦く笑う。

 

「あなたと副長、身体強度の高さをいいことに、限界を越えた無茶をするものね。普通だったらあれ、形象崩壊を起こしてないほうがおかしい状況よ。

 

 扱うものが扱うもので、起きた現象が現象であれば、無茶もしかたないけれど。NASAのSETIのデータサンプル通りの挙動を前提とした演算が、あの規模での運用で通じて、正直安心したわ。

 

 興味深い現象やデータも取れたし、あなた達の疲れが取れたら、そのことについて詰めましょう。

 

 とりあえず今は、休息なさい。それとも、総司令の名代として命令する必要があるかしら?」

 

「おとなしく休みますよ。アスカも心配ですし。

 バイタルデータは正常ですが、ヴンダーのアダムス組織の制御をかけたのは大半が彼女です。

 僕以上に無理がかかっているでしょうし、一度様子を見てきます。

 

 リツコさん、日向さん、青葉さん、高雄さん、すみませんが、あとをよろしくお願いします」

 

「戦術長了解」

 

「戦術長補佐了解。ホント、ちゃんと休んでくださいよ?」

 

「機関長了解。こっちのことは任せとけ」

 

 彼らの言葉に艦長が頷き、席を立つ。

 どこかふらついた足取りで、疲弊も顕にドアを開け、艦橋を退出した。

 

 日向戦術長が、苦笑を浮かべて呟く。

 

「艦長、完全に素が出てましたね。敬礼なし、階級も呼び忘れ。

 ボロボロに疲れ切ってますよ。それだけ無茶をしたということなんでしょうが。副長からの通信が止まってますし、心配でしかたないんでしょうね」

 

「そういうとこ、シンジくんはシンジくんのままなんだよ。

 腹はくくったし決断もできるようになった、でもまあ、そのへんは変わらない。

 艦長のいいとこだよ。だから葛城総司令もヴンダーを安心して任せられる。

 ま、御目付の赤木博士がいるからってのもあるだろうけどな」

 

 青葉戦術長補佐の言葉に、高雄機関長が頷いた。

 

「艦長が操るこのフネに乗ったのは久々だが、無茶をするところは変わらん。

 腹をくくったら強いところもだ。ただまあ、気を張りすぎるところが気に入らん。

 生真面目なんだろうが、もう少し気楽にやれるようになってくれりゃあいいんだが。

 長良、初の実戦で初の操演、ご苦労さん。どうだった」

 

 高雄機関長の言葉に、長良中尉が頷く。

 

「思いの外落とせましたし、やれそうです……といいたい所ですが、正直不安です。

 私は5機で手一杯のところを、15機軽々と動かしながら戦況分析もできるし、自分の同型の挑発にも乗らず、むしろ逆手にとってすらいました。

 いずれにせよ、副長は噂以上に有能な方のようです。趣味も合いそうですし、私はこの艦、案外好きになれるかもしれません」

 

「そうか、そりゃ良かった。副長は昔ぁそれこそ他人と見たら喧嘩を売らずに……」

 

「昔のことは昔のことよ、高雄機関長。昔のあの子は他人と見たら噛み付く臆病なヤマアラシだけれど、あれで昔からあの子は優しかったのよ」

 

「そういうもんか、まあ昔なじみで今師匠の、アンタが言うならそうなんだろうな」

 

 リツコの言葉に、高雄は笑んだ。とてつもない無茶な負荷をかけられた補機や動力伝達系にどれほどダメージが生じたかわかったものではないと内心思っているが、それはやりがいのある苦労でもある。

 

 なにしろ艦長たちの創意工夫と決断がなければ、この一戦でヴンダーは沈み、物流センターとしてのオアフ島は壊滅。

 

 人類は滅びへ一直線であったかもしれないのだ。その尻拭いぐらいは喜んでできるってもんだ、と高雄は内心ひとりごちた。

 

 一方、複雑な表情を浮かべているものも居た。

 北上ミドリ少尉である。

 

 これが碇シンジか。これが式波・アスカ・ラングレーか。

 ここまでできるっていうなら、あのいつもの大本営発表も、あながち嘘じゃないのかもしんない。でも。

 

「でも、姉さんは帰ってこなかったよね」

 

 助けられなかった。

 コレほどすごい船でも。あれだけやれる人たちでも。

 いや、姉さんが死んだから? それが理由でここまで強くなった?

 

 でも、あいつは諦めてないって。

 わからなくなる。

 

 しかも最後の攻撃は、起きた事自体よく理解できなかったけれど。

 ヴィレ総司令の承認が必要な武器って、一体どういうシロモノなのよ。

 

 10キロもあったバカでかいのが一瞬で消えるって、どういう武器よ、それ。

 

 相当危ない橋わたったんじゃないの。

 

 シンクロ状態だって、どう考えてもメチャクチャだった。砲撃演算中、あいつヒトの思考完全にやめて、機械なんだか副長なんだかわからない、かき混ぜたミルクとコーヒーみたいな思考になってた。それが、ちゃんともとに戻るって、どうなってんのあいつら。

 

 いろいろおかしいよ、あいつ。あいつ、わかんないけど、絶対危ない。

 

 10年前だって、そういう博打をやって、それに姉さんが巻き込まれたのかもしんないし。

 

 疑心が湧く。拭う気にもなれない。

 心に灯ったワンアウトのライトは、まだ消えないまま静かに光っている。

 

 ツーアウトまではいい。でもスリーアウトになったら?

 

 その時は。腰の拳銃が収まったポーチに、北上ミドリは手を当てた。

 

=====================================

 

 かつて使徒とエヴァによって呪われ、本来眠りを必要としない体となったはずなのに、今にも意識が消えそうなほどに疲弊した式波・アスカ・ラングレー中佐が操るヴンダーは、駆けつけた艦長の思考シンクロアシストを得て、オアフ島沖の停泊地へと帰還を遂げる。

 

 かくて、ハワイ沖防空戦と呼称される一連の戦闘は終結を迎えるに至った。

 

 本来局地戦でしか無い防空戦とはいえ、贋造の第8の使徒が落着し、大津波を発生させていたならば、オアフ島を守護する封印柱は津波の直撃をうけ、その倒壊と機能停止は必定であった。

 

 そうなればオアフ島は津波に依って完膚なきまでに全土を破壊された後、L結界に包まれて完全に潰滅し、人類生存に必要となる物資を送るためのセンターとしての機能を喪失していたことは疑いない。

 

 そして人類はまた一歩滅亡へ足を進めていたことであろう。

 

 AAAヴンダーは、遺憾なくその力を示し、そして新たな乗員たちはその力に瞠目した。

 

 数億の人類が生き残った以上、派閥闘争や政治は必然として生じている。

 

 無論、最後にヴンダーが放った恐るべき轟天の光芒を、フォースインパクト阻止のために暴走するヤマト計画派閥の危険性の現れとみなし、自らが仕える『本当の主』に伝える必要がある、と考える者たちも、新たな乗員の中には混じっていた。

 

 しかし、それらが伝えられ、状況への変動を引き起こすのは、当分先のこととなるだろう。ともかくも闘いは終わったのだ。

 

 オアフ島停泊地にヴンダーが停泊後、姿を見せない艦長と副長を訝しみ、主機エントリープラグ内監視カメラを稼働させた赤木リツコが目にしたものは、疲弊のあまり脳髄が稼働限界を迎えた、二人の使徒憑きたちの姿であった。

 

 LCLの只中、主機シートの上で眠る碇シンジ艦長の上で、艦長を椅子にするようにして、式波・アスカ・ラングレー副長も眠っていた。

 

「……寝るのなら、せめてプラグの外にしなさい」

 

 ヒトたることを半ば止めた肉体、その気になれば一ヶ月不眠でも問題ない脳機能を、どこまで酷使すればこのような状態になり果てるのか。

 

 呆れ果てた、と言わんばかりに赤木リツコは頭を抱えた。

 連絡を受けた医療科が駆けつけて二人をエントリープラグから引きずり出したのは、その10分後のことである。

 

 



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第1話「ヴンダー、新たなる旅立ち」エピローグ Aパート

 四方を影が覆うネルフ本部司令室は、さながら無辺であるかの如く、広い。

 

 光源となるものは、彼方の壁の一つに設けられた大窓、その向う側にあるエヴァンゲリオン第13号機建造施設が放つコアの赤黒い輝きのみだ。 

 建造施設の中で流動し、ときに固体となり、ときに液体となるコアが、エヴァンゲリオンとして塑形されていく響きのみが、司令室のなかに、なにか巨大な獣の心音のように響いている。

 

 司令席に座する男の左後方に佇み、苦い笑みを浮かべながら、冬月コウゾウネルフ副司令は、先程彼女から受けた報告を思い出していた。

 

「航空特化型エヴァ44A300機以上が全滅、特別攻撃仕様エヴァ44K全喪失にもかかわらず、何一つず戦果なしだ。さらにゼーレの贋造使徒までもが喪失とは。

 北海道の時といい、つくづくやってくれる。流石にお前とユイ君の息子だけのことはある、というべきか」

 

 彼らの遥か頭上、音もなく沈黙する7枚の黒き石版は、再び完全に沈黙している。

 

「そして老人たちの反応も相も変わらず、だな。時折目覚めては理由も説明せず命令を下す。

 今回のNHG Buße攻撃についても然りだ。子供に使いでも命じているつもりか知らんが、あまり気分が良いものではないな」

 

「対応する裏死海文書外典の因果係数、それを導き出すフラクタル次元値を、未だ算出できずに居るのだろう」

 

 机の上に両肘をつき、己の口元を隠すように白手袋で包まれた両手を鼻の下で組みながら、赤いバイザーで眼差しすら隠した男──現ネルフ司令、碇ゲンドウはつぶやいた。

 

「あらゆる鍵穴を解錠しうる鍵であろうと、鍵穴の性質がわからねば、それを開くことはかなわん。高次元の存在は下位次元への干渉が可能だが、下位次元には下位次元の理がある。その理を暴かねばシナリオの運用はできんよ。

 

 これほどまでに選定に手間取るのは類例がない。過去にない変数が生じたのだ。故に老人たちは未だに使用すべき裏死海文書を選定できずにいる。今回の命令も、文書選定に必要となる定数と数式を導き出すための観測行為だろう」

 

 その時、不意に軽やかな、およそこの部屋の薄暗い空気と似つかわしくない、軽やかで重みに欠けた少女の声が、室内にこもる空気を軽やかに揺らした。

 

「で、ゼーレの少年も10年前に姿をくらましたままと来てる。彼も老人たちに劣らないゲームプレイヤーでしょうに、布石を打つ気配が見えないのよね。今の今まで。

 ヴィレに肩入れしているのなら、向こうの動きにもう少し様子が見えてもよさそうなものだけれど、貴方の『鍵』でもまだ観測できていないのでしょう?」

 

 暗赤色のネルフ高官制服に身を包んだ、薄い栗色の神を腰まで伸ばした細身の少女が、司令席のデスク、その右端に腰掛けながら、ゲンドウへ振り返りつつ楽しげに微笑んだ。

 

 青い瞳に、無表情なゲンドウの顔が映る。弾む鞠のようなリズムで、軽やかな響きの言葉が、その小さな唇から躍り出た。

 

「どれほど彼、渚カヲルという人物がこの実験場で円環を繰り返したかは知らないけれど、どんな雑菌がシャーレの上でコンタミネーションを引き起こしたやら。

 かといって終わるまでは踊り続けなければならないし、生命の書に彼の名を連ねてしまった以上、彼がどれほど期待はずれの行動を取ろうが、結末までは実験を続けないといけない」

 

「君自身もその因子の一つだろう。式波・A・ラングレー博士」

 

 ゲンドウは、彼女の戯れるような言葉に即答した。

 

「君が40年前に検知した粒子。存在したならばこの世界の不安定性を示す、いわば破滅の指標となる、ヒトにとってはイマジナリーでしかなかった、時を遡る虚数の粒子。

 君と北米政府は、それが何を起こしうるかも考えず、実に無邪気に運用した。ヒトとはそういうものだ。トリニティ実験において、あるいは核反応が地球全土を焼き尽くしうると忠告する科学者がいてもなお、核爆発実験が断行されたのに近似する。それが禁じられた果実であればあるほど、手を伸ばす。

 知恵の実を喰らい知恵を得たがゆえの宿業、原罪だよ。

 その後、君は密かに諫言を受けて沈黙を保ち、ゼーレは君が知らずに手掛けた計画をセカンドインパクトを機に中断させることに成功し、その指し示す事実の隠蔽に躍起となったが……それでも気づく者は円環の存在に気づいた」

 

 感情を示さず、微動だにせず、赤いバイザーの男は言葉を連ねる。

 

「三号機をきっかけとした過早な初号機覚醒、結果ゼーレは第10の使徒排除のためNHG Bußeを投入することとなった。ニア・サードインパクト時のヴィレの動きの早さは、不完全ながらも彼らも文書に相当する知識を得たという根拠たりうる。ゼーレは彼らにとり、不都合なシナリオを引いたと見てよいだろう」

 

「貴方の目にはどう映るのかしらね、このシナリオ。『鍵』を使ったのであれば、貴方にもある程度は見えてはいるんでしょ?」

 

 挑発するような少女の姿をしたものの声音に、しかしゲンドウは表情を微動だにさせていない。

 

「私は全てのシナリオで失敗する定めにある。それは私自身の弱さに由来することもあれば、他人を計りそこねた結果であることもあり、あるいは自ら諦め、喪失を受け入れることすらありうるだろう。何れにせよ私は失敗してきた。どのシナリオでもだ。たとえゼーレを出し抜くことはできても、自分自身は出し抜けない」

 

「つまり、貴方にとっては賭ける価値のあるシナリオってことね?」

 

「否定はしない。君にとってはどうなのだ、式波・A・ラングレー博士」

 

「私にとって?」

 

 式波と呼ばれた彼女は、彼が唐突に発した問いに、一瞬だけ意外そうな表情を浮かべたが、やがて蒼い瞳に、慈愛のような潤みと、深い笑みを口角に湛えて答えた。

 

「私はいいのよ。この狭い実験場から出られるのなら、どこだって構わない。

 目指すのはガフの扉の向こう側、ヒトの身では入ることを赦されぬ、マイナス宇宙のその彼方へ。

 

【私たちは足を踏み入れる、炎に酔い痴れつつ。天なるものよ、そなたの聖所へと】。

 

 つまりはYES。私は貴方を手伝うだけで、貴方は貴方の願いへ手を伸ばす。私はそれについていくだけのことよ。

 win-winの関係性よね。お互い組んだ理由はメリットがあるから。貴方は貴方の計画を続けなさい、碇ゲンドウ」

 

「ヒトが本来歩み入れぬ彼方への到達という盟約は果たそう。君はよく働いてくれている。

 第9の使徒の過早使用および、第二の少女および第三の少年への同時汚染はゼーレにシナリオの再選定を強いたが、シキナミシリーズの再生産および今回の再投入で得られたデータは、それら悪条件を埋め合わせるに足るようだ」

 

「どのみちフォースインパクトのための使徒の贄と、その器となる存在は不可欠なのよね。

 第9の使徒は第三の少年の想定外の行動で扱いづらくなったけれど、シキナミシリーズの選定に伴う魂の原罪因子濃縮化、それによる贄としての性能向上は、今回の実験で再度証明できた。

 再生産したシキナミシリーズは、全開よりより少ない人数での選定が行われたにもかかわらず、使徒の器として運用するのに問題ないスペックが出ていたわ。貴方の提案に基づいた、育成術式の変更が功を奏した形ね」

 

 少女の姿をしたものの言葉に、ゲンドウはようやく頷いた。

 

「ゼーレが贋造した使徒、エヴァンゲリオンの群体の疑似使徒体も、ニアサードで消費されたリリスの再構成へ至るに充分なデータを提供してくれた。

 シナリオへの起用と運用は、ゼーレが見出すシナリオ次第だが、算出に至る数値は整い、乱数は集約されつつある。シナリオの基となる外典の解錠まで、そう間もあるまい。君の尽力に感謝すると同時に、今後の貢献に期待する」

 

「ええ。私も期待しているわ、碇ゲンドウ」

 

 応えると、式波の名を持つ少女は軽くゲンドウに会釈し、立ち上がるとそのまま司令室を歩み去った。

 

 コアの脈動が放つ赤い光に照らされた司令室に、しばしの沈黙の帳が降りる。

 そして、冬月コウゾウは口を開いた。

 

「式波・A・ラングレー博士。旧北米航空宇宙局所属。その後ユーロネルフにおいてシキナミ計画責任者として第二の少女選定を実施、ゼーレと結びついたのはユーロネルフにおいてか、あるいはそれ以前からか。

 お前は彼女を信頼しているのか、碇」

 

「彼女は我々と同じ、サトゥルヌスの類だ。己の願望を叶えるため、我が子を喰らい糧とすることを厭わない。

 人の善意は気まぐれに変わるものだが、悪意はそうは揺らがない。故にこそ彼女は信頼できる」

 

 冬月に視線を向けることなく、碇ゲンドウは答えた。

 冬月は顔を顰める。

 

「善意よりも悪意を信じるか。お前らしいがな。

 善意が信頼に足りないのではなく、善意が恐ろしい、の間違いではないのかね、碇?」

 

「何がおっしゃりたいのです。冬月先生」

 

「昔のことを思い出していただけのことだ、碇。

 まだユイくんと、彼女が居た頃のことをな。そしてユイくんを喪ったときのことを」

 

 ゲンドウは答えない。彼の心象を表すように、司令室には影が蟠ったままだ。

 冬月は、構わず言葉を続けた。

 

「ユイくんの葬儀が終わったあとのお前たちは、見られたものではなかったな。

 お前も、母の死を悟ったお前の息子も、荒れ果てていた。

 あれは、生活と呼べるものではなかった。お前たち親子はユイくんの死を受け入れられなかった。

 見かねた彼女が世話をしたが、お前たち親子は、そうすればユイくんが戻ってくるかと信じているかのように、食事を拒み、何もしようとしなかった。生きる行為の全てを放棄していた。息をし、鼓動するだけの人形のようだった。 

 碇。あの時お前が彼女を拒絶せず、受け容れていたならば、お前もお前の息子も、世界も、こうはならなかったのではないか?」

 

「彼女が見かねたのは私ではない。彼女が愛していたのはユイであり、ユイの息子であるシンジですよ。

 私はシンジのついでに過ぎない。なにより私は、彼女の好意に値する人間ではない。そのような価値は私にはない」

 

「その頑なな思い込みが彼女を傷つけた結果、彼女は我々の元を去った。そうは思えんか」

 

「仮に先生の言ったことが正しかったとして、私に何ができたというのです。

 その頃の私にも、そして息子にも、何一つ望みもなく、願いもなかった。

 あるいは飢えて病んだ心のまま、二人とも懈怠のうちに死ぬべきであったのかも知れない。

 そうすれば私も、息子も、今日の生の苦しみを味わうこともないまま、おそらく終わっていたことでしょう」

 

『鍵』の作用によるものか。冬月には、彼の言葉から感情を感じ取る事はできなかった。

 だが、その言葉の内容からは、どこか復讐にも似た響きがあった。

 

「それに、先生。お忘れですか。餓死しかけていた私に、セカンドインパクトの真実と、人類補完計画という希望を与えたのは彼女です。そして補完計画を知った私が、母の死を受け入れられないままにいた息子のため、ユイと、ユイにまつわる記憶の消去を依頼した時、彼女は応じた。

 そして施術後、息子が再び食事をできるまで介護を終えた後、彼女は姿を消した。ええ。私からも、息子からも、そしてユイからも、彼女は逃げ出したのです。

 いずれにせよ、定命の私に、永劫に近い時を生身として生きた彼女の心を測る術などありません。私に彼女を縛る権利もない。過ぎた話です。喪った機会は戻らない。我々はもはや我々の計画を遂行する以外に道はない。──違うか、冬月」

 

「歳を取ると、昔語りが増えるものだ。選ばなかった道、選べなかった道を振り返り、その可能性に思いを馳せる。

 希望や絶望とはまた違った、憧憬という名の病だよ」

 

「その病も、計画遂行の暁には癒える。問題はない」

 

 そうかね、と内心でのみ冬月は答える。

 

 司令室には、それきり沈黙が満ちた。ケモノの心音に似た、建造施設の脈動音のみがただ響く。

 碇ゲンドウもまた、彫像のごとく、同じ姿勢のまま動かない。頭上、円形に浮遊する、老人たちの墓標じみたモノリスのように静謐だった。

 

 それでも、冬月は内心で続ける。

 

 だがな、碇。仮にユイくんの魂が二度と還り得ず、それが死と同義であるならば、それは侵すべからざる安らぎではないのかね。無論、私にも彼女への再会への欲があり、その希望故にお前の計画に乗った。

 

 だが、それは彼女を傷つけてまで行うべきものだったのか。

 ユイくんがこの世界から消えた後の、彼女の辛さと苦しみと、その努力を観ていた。その努力が実らなかったことも、それがどれほど彼女にとって悲しいことであったかも。

 

 なあ、碇。お前は忘れてしまったかも知れないが、お前を見出したのはユイくんではなく、彼女だった。

 お前とユイくんが結びついたことを誰より喜んだのも、お前の息子が生まれた時、誰よりそのことを喜んだのも、彼女だった。

 ユイくんの葬儀の時、誰よりも悲しみ、泣いていたのも彼女だった。

 

 碇。私は女性には疎いが──女というものは、嫌いな人間の胸では泣かないものだ。

 あの葬儀の日、悲しみに耐えられず、お前の胸に顔を預け、お前を抱きしめ、泣きじゃくる彼女の背にお前が伸ばしかけた両手を私は観ていた。

 お前はあの日、彼女を抱きしめるべきだったのではないか。生活が壊れ、食事すら取れぬように成り果てる前に、お前もまた、彼女の胸にその悲しみを吐き出すべきではなかったのか。

 

 いや、これに関しては碇の言うとおりかもしれんな。お前はともかく、お前の息子がそれを受け容れられたかどうか。

 過ぎたことだ。もはやどうにもならない。これは、未練という染みで穢れ、古びた悲しみでしかない。

 

 だが、それを言うならば──なぜ、君は再び現れたのだ。

 

 冬月コウゾウは、かつて彼の教え子であった女性のことを思う。

 

 君が、碇やユイくんたちと老いてゆく道を選んだことを──加齢し、ただの人間として終わっても構わないとすら考えていたことに、私はあのとき、気づいていた。

 本来は不老の身のはず。成長しないはずの身体が、碇やユイくん達同様に成長し、変化していくということは、君がその道を選んだ、ということにほかならない。

 

 だが、あの日──ユイくんの息子が再び食事を取れるようになるのを確かめ、我々のもとから去ったあの日、病院から去る君の背中は、いつかの幼さを取り戻していた。時を巻き戻したかのように。

 

 それを、私は君の碇への、ヒトへの諦めの顕れと考えた。

 

 だが、その幼い姿のまま、10年前、君は再び現れた。

 そして、未だに我々に抗いつづけている。

 世界の終わりを座して観ていられなくなったのか。

 あるいは、ユイくんの息子が理由か。

 

 真希波マリくん。あるいは、イスカリオテのマリアと呼ぶべきか。

 我々は何を誤ったのだろうな。果たしてどうすべきだったのか。

 

 ユイくん。

 なぜ君は、皆に黙って、コアへ消える道を選んだのだ。

 何故。何故──

 

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 EVANGELION ∧ i : AAA Wunder S 3.33 『YOU CAN (NOT) TRIP.』Prototype

 

 EPISODE:1 The Blazer

 

 Epilogue Apart

 

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 オアフ島沖防空戦より一週間後。

 

 泊地たる蒼い海へ投錨したAAAヴンダーの周囲には、地球では最早貴重となった30万トン超級、全長300メートルを優に超える超大型タンカーが、何隻も群らがっていた。

 全長2キロをゆうに超えるヴンダーからみると、それらの船ですら小舟に見えるが、この星に残された動力存在では、ヴンダーを除けば、人類に残された最大クラスの輸送能力を誇る存在である。

 

 それだけの輸送力を誇る船舶複数隻が臨時に動員され、先日人員受け入れ及び物資搬入を終えたばかりのヴンダーに再補給が行われるということは、それ相応の被害がヴンダーに生じていたことを意味していた。

 

 それらのタンカーの甲板上に、重力操演の荷役浮遊船や、あるいは民間輸送艦「おおすみ」所属の輸送特化型エヴァ44Aの群れが取り付いては、複数のコンテナを増設クレーンアームで引きずりあげ、胴体下部マウントに接合したラックに納、ヴンダー左右胴体のハンガーへ運び込んでゆく。

 重要区画への装甲防御、超硬アダムス組織、ATフィールドによる三重の護りを施したヴンダーは、先の防空戦において、敵の攻撃による直接的な被害をほぼ受けていない。にもかかわらず、内部には修理を必要とする箇所が、大量に発生していた。

 

 損害がでたのは、主に動力伝達系及び、居住区画たる耐圧コンテナ区画および通路施設である。人口減の結果、有人化のための耐圧プレハブ増設工事の際の人員不足による、工事の施工内容の質の劣化露呈した状態となっている。

 また、工業生産を担う生存圏の生産するプレハブ構造物用の合金鈑等も、その品質が劣悪なものとなっており、ヴンダーの戦術機動に追随できず、各所で配管やパイプ、隔壁に破断・亀裂が発生しており、それらの修復が急務となっているのが現状である。 

 

 またN2オーバーロード運転により、補機N2リアクターにも、高雄コウジ機関長の必死の努力にも関わらず、無視し難いダメージが発生していた。ATフィールドに保護された炉心を始めとする主要区画はともかく、修復・交換が必要な部分があまりにも多い。

 

(ま、ちょっと艦長と副長が本気で動かしたらそれだけでボロボロになっちゃったってことだにゃー)

 

 などと思いながら、ライトハンガー前縁開口部、カタパルト延伸部脇の整備通路のフェンスに背を預けつつ、腕を組みながら頭上の青空を見上げた。

 しかも今回の戦闘で、離艦希望者が100人近くでたとも聞いている。

 

 間宮っち、主計科の人づてに総司令宛の報告書と、追加補給依頼の書類を渡してきただけで、あの戦闘以来、全然顔みせないけど、何しろ主計科、人員再配分から部屋の割り当て直し、修復作業に伴う人員労働時間管理やらなんやらで、今もてんやわんやなんだろうけど、間宮っちのが身体壊さないか心配だよねー。ほんとうちの艦長と奥さんは容赦ってもんがないにゃ。人類減ってるのに無理な施工して、それで無理な飛ばし方したらそれは壊れるよね。

 

 とはいえ相手はゲンドウ君、下手に手を抜ける相手じゃなし、武人の蛮用がきかなきゃ意味がないのも確か。

 うーん、痛し痒しだにゃー。さーてーさてさて。

 

 などと考えながら、視線をハンガー側に投げると、今の彼女の同居人が、白のプラグスーツに実験用の白衣を羽織った姿で、右手に大きめの金属トランクを下げたまま、わずかに距離を置いて、赤い瞳で無表情にマリを見つめているのが見えた。

 綾波レイ。AAAヴンダー所属。エヴァンゲリオン弐号機パイロット。

 真希波マリ同様、カタパルト前着艦エリアに到着する予定の、同じ待ち人を待ち待機中、といったところだ。

 

「ナミナミ、そんなに私が空見てるのが珍しい?」

 

 なんとはなしに声をかける。

 

「いえ。貴女が本を手にしていないのが珍しいと思っただけ」

 

「それ人のこと言えなくない?」

 

 真希波マリの問いに綾波レイは首を振ると、左手で白衣の腰のポケットから、掌に収まる程度の、白いプラスチックと液晶画面で構成された小さな端末を取り出した。顔が引き締まっている。

 

「大丈夫。艦内用のスマホがある。これがあればいつでもマギプラス内データベースの電書が読めるから」

 

「えー」

 

 真希波マリは思わず渋面を浮かべてしまう。

 

「ナミナミほんとスマホできてからそればっかだよねー。

 そのちっさい画面で文章読むの、目が疲れない?」

 

「何事も慣れ。ちょっと検索をかけるだけで、読みたいときに読みたい資料が読めるのはとても気持ちがいいこと。快適なの」

 

 無表情かつ無感情な応答。しかし語彙の選び方、顔の引き締まりかたからして、明らかな熱意。

 綾波レイはともかく現存する本の電子データ化に熱心で、手持ちの本を読んだ端から裁断してスキャンし、電子データにしてマギプラスに保存、誰でも見れる電子図書館を艦内サービスとして展開している。艦長と副長の承認つき、一次改装の頃から乗り込んでいる旧ネルフのブリッジクルーにも頗る付きで評判がいい。

 

 字が読めるのがヴンダークルーの条件なので、離艦者が100人程度ですんだのも、ナミナミがひっそりこういう福利厚生サービスをがんばったおかげかもにゃー、などと真希波マリは思ったりもする。

 

 人の蔵書まで裁断してデータベース化して艦内クルーにシェアしちゃったもんにゃー……裁断してバラされた時は3日ぐらい泣いたかも。でもその後、裁断前よりきれいになって復元されて戻ってきたからなんかよくわからない事言いながら抱きついて褒めたらドン引きされた記憶があるけど。何言ったんだっけ? まあいいか。

 にしても、である。

 

「わっかんないなあ。紙のにおい、重みがあってこその本だし、ページをめくらないと読んだ気しなくない?

 面白いけど今日はここまで! 続きが楽しみ! って栞を挟んで続きを楽しみにする興奮感とか、残りページが少なくなっていくのが目でわかる寂しさとか、読み終えて『読了』の箱に仕舞うときの達成感とかが無いじゃん電子書籍ー。

 なんかスクロールしたり、ぽちぽちしてめくったり……読んでる感と達成感がほらさー、そのさー」

 

「わかる。それはわかるけれど、人類世界は日々進化中。人類が減っても変わらないの。

 業務が忙しくてスキャンにしか手が回っていないけれど、人員が増えれば私にも余裕ができる。そうしたら、文字列ごとに即座に検索を入れたり、マギプラスの翻訳精度を上げて知らない言語の本でも容易に読めるようにしたり、わからない用語を軽く叩くだけで関連書を呼び出して調べられるようにしたい。現状艦内限定だけれど、時代はインターネットなの。変化を受け入れるしか無いわ」

 

「それはわかるけどさー……竹簡が紙に駆逐されたときみたいなパラダイムシフトなんだろうけど、こうねー、ロマンがさ……」

 

「わかるけれどロマンで知識は膨れないの。わかるけれど。変換期に生まれたことを喜んだり悲しんだりするといいと思う」

 

「ナミナミ、それ感情の方向逆じゃない?」

 

「悲喜こもごもを楽しむまたとない機会」

 

「それ用法正しいのかにゃー。いや混じってるって意味じゃ正しいけど」

 

 などとぼんやりとした日常会話を交わしている間に、待ち人が来たようだった。

 

 太陽を背に、丸く黒い影。

 ばらばら、と巨大なプロペラが空気を叩く派手な音を立て、何かが上空から舞い降りてくる。

 全長全幅4~50メートルほどの、どことなくパンケーキを思わせる円形の、深緑色に黄色のラインのモノコック構造機。

 機体後方に左右1セットずつの垂直・水平尾翼、胴体左右に可動式ティルトローターおよび、回転する大型プロペラが増設されている。

 しかし更に胴体左右および後方に突き出している重力制御ユニットは、そのモノコック構造内部にあるのがエヴァ44Aであることを雄弁に物語っている。

 胴体下部外皮が開き、衝撃緩衝用屈曲構造を備えた着陸脚部が4脚、機体下方へせりだした。

 そして、その機体は目前の着艦エリアに、緩やかに舞い降りる。

 

 待機所から甲板作業員が出てきて、速やかにフックワイヤーで機体を固定する。

 機体下方中央ハッチが展開し、44A用球形エントリープラグがせりだし、プラグ前方の搭乗用ハッチが開いた。

 内側から、ストレートの茶色のセミロングヘアを背中まで伸ばした、機体色同様、深緑色に黄色のラインの、やや厚手のプラグスーツを纏う14才程度の風貌の、顔立ちの整った緑色の瞳の少女が顔を出し、機体の係留作業中の作業員を物珍しげに見つめている。

 

「へー、ヴンダー、人員増やすとは聞いてたけどほんとに増やしたんだー。

 うれっしー、つまりあっしんとこも仕事が増えて商売繁盛じゃんねー!」

 

 叫び声を上げるなり、喜色も顕に笑顔を浮かべると、軽やかに展開したハッチから少女は飛び降りる。プラグスーツ腿に追加された開閉ポケットを開くと、ケースを取り出して開き、係留作業中の甲板作業員一人ひとりに何事か挨拶しつつ、なにかの紙片を渡して回っている。甲板作業員はひたすら困惑している気配だったが、少女はお構いなしである。

 

 クロちゃん、ホント元気になったにゃー。

 うーん教育の賜物か、あるいはそういう資質だったのか、ホント運命ってわかんない。

 

 その様子を見定めた綾波レイが、艦内用スマートホンの通話機能をオンにし、顔の横に当てた。

 

「鈴原少尉。『おおすみ』艦長、クロスレイ・SS・大隅中佐相当官到着を確認。

 待機中の皆の誘導をお願い」

 

『はい、了解です!』

 

 返答を確認してスマートホンを切り、白衣のポケットに戻す。

 

「えー、あの子達もう『おおすみ』行き!?」

 

 真希波マリは驚く。44A用に量産されたアヤナミシリーズは、自我が希薄であったり、肉体構造が人からややかけ離れており、非L結界地域だと容易に形象崩壊してしまうので、再調整に相応の時間がかかったはずだ。

 先々週までは最低でも一ヶ月程度の調整が医療科で必要、と記憶していたけれど。これ、なんかブレイクスルーでもあったかにゃ?

 

「人類世界は日々進化中。人類が減っても変わらないの」

 

 綾波レイの声音にはいつもどおり表情がなく、しかしマリの方へ左手を上げ、サムズ・アップしてみせた。

 つまりはナミナミが待ってたのはクロちゃんに会いたかったからとかじゃなくて、渡しものがあったからってことかな?

 

 などと真希波マリが物思いをしている間に、ようやく深緑色のプラグスーツの少女──空中輸送艦『おおすみ』艦長にして、民間物流企業『くろねこ運送』現社長、クロスレイ・SS・大隅中佐相当官がようやく真希波マリと綾波レイの存在に気づき、大仰に手を振りながら満面の笑顔で走り寄ってきた。

 

「おーっす、マリ姉さん、綾波姉さん、久しぶりーっす!

 いやーお二人ともお元気そうでなにより! あ、名刺新調したんですけれど要ります?

 いえ特に内容かわってないですけど」

 

「そう、名刺はいい。それより元気で良かった。不調はない?」

 

 綾波レイが、珍しく微笑みを浮かべながら言う。目つきも普段の表情なき自然体と異なり、柔らかい。

 母親が娘を見る目、とでもいうか、すくすく成長した妹を見る姉の目というか、ともかく家族を見るたぐいの優しい目だ。

 

「あっし? 綾波姉さんのおかげで絶好調っす! いやー施術でかわるもんですねー体調って。

 ご飯もなんか気のせいか美味しいですし! ペースト食ですけどこう香り? 風味?

 ていうかご飯! 最初口の中がヘンでおしまいだったのに、味がねー! 味! こう、身体が喜んでるのが味覚の変化で分かるのがねー、人生ですごいディスカバリーでしたよディスカバリー! 発見!」

 

「わかった。落ち着いて」

 

 流石の綾波レイも困惑気味になっている。うわー、いっつも以上にテンション高いなぁと思いつつ、理由を真希波マリは考えて、ふと彼女の髪を見る。それで、気づいた。

 

「あれ? もしかしてクロちゃん、それストパ?」

 

 真希波マリの言葉に、クロスレイ・SS・大隅中佐相当官が目をキラキラさせながら振り返る。

 

「さーっすがマリ姉さん! そうなんすよストパいれたんすよー、あっしほっとくと髪質がアレだからもさーってなっちゃうじゃないですかー、ここの副長さんやマリ姉さんがすっげー羨ましくてー、ウチ配線絶縁用の塩化ビニール製造工場とも取引あるんでー、そこ調べたらストパ液用の原材料扱ってたんですよー、そんでそこの社長にどうすかって持ちかけて商談成立! ただまあストパっても要領いるじゃないすかー、でー、誰かストパできる美容師さんいないかなって探したらなんと第三村に経験ある美容師さんがいたんですよー、んで社員ともどもノウハウ教えてもらってやーっとくせっ毛モサモサとおさらばってわけです! いえ失敗するとヤバいらしいすけどね、年単位でダメージ残るとかマジかうわこっわ」

 

「おちついて」

 

 流石のナミナミも困惑気味になるレベルのエネルギッシュさ、今や四捨五入して十年、物流の鉄火場最前線で働いてるバリキャリ女社長さんだもん、ほんと人の運命ってわかんないから面白いよねー、などと真希波マリは思う。

 

 などと言っている間に、黒ベレー帽に医療科所属を意味するヴィレ制服、白エプロン、膝下までのレギンスにスニーカーといった出で立ちの鈴原サクラ少尉が、彼女同様に医療科の制服を身につけた8人のアヤナミシリーズを連れ、3人のところへたどり着いた。

 

 アヤナミレイたちは、不安半分興味半分、という様子で身にまとっている医療科制服をしげしげと眺めたり、ところどころをつまんだり、手でこすったりしている。

 

 この一週間、LCL層でのリビドー輻射や、体内各所への幹細胞投与による身体安定オペや施術の間は、裸体か検診衣だっただけに、構造が複雑かつ頑丈で、身体をどこかしら締め付けるタイトなヴンダーの医療科制服やレギンス、靴下やスニーカーの感覚に慣れていないのだろう。

 

 ただ、心底不快そうな表情をしている個体が一人もいないあたり、不快さよりも興味のほうが勝っているのは、傍目にも明らかだった。 

 

「クロさ……いえ、クロスレイ中佐相当官、鈴原サクラ少尉です! アヤナミシリーズ8名引き渡しに……」

 

 ほんの一瞬、家族親戚に向けるような親愛の表情を表しかけた鈴原サクラ少尉が、慌てて真面目な表情を作り直し、クロスレイ中佐相当官に敬礼する。

 そんな真面目な様子の鈴原サクラ少尉をみて、クロスレイ中佐相当官は歯を見せて顔全部で笑顔と親愛を表現してみせた。

 

「クロさんでいーってばさっちん、第三村はお得意さんだし、あっしら昔ながらの仲じゃない。っつかさっちんにんな真面目られるとあっしが落ち着かないっつか」

 

「いえ、私もいい加減軍属ですし、こう、一応習慣づけておかないとよくない気がするんです。

 ほんまは私もそうしたいですけど、堪忍してください」

 

 そんなサクラの困り気味の笑みに、クロスレイ中佐相当官も苦笑で返す。

 

「さっちんはほんと真面目でいい子だねー、あっしが嫁さんにほしいくらいだよー。っていうかさーさっちんがヴィレ言ってからトージのやつ落ち着かねーったらなくて、ほら前線じゃん? いや今どこもヤバいけど危なくないかみたいでさー、こないだ仕事で医療器具届けたらめっちゃ言われてホント困ったっつーか」

 

「兄には本当に反対されましたからね、危ないし、人手も足りん言われましたし。

 けれど本当の医療学ぶの、今はえらいお金かかりますから、多分ヴィレで医官やったほうが安く技術身について、将来兄の役に立つと思うんです。それに兄は結婚したばかりですし、奥さんと二人の時間をなるべく」

 

「待って」

 

 二人の会話に綾波レイが割って入る。

 

「鈴原君、結婚したの?」

 

 綾波レイの言葉に、鈴原サクラが思い切り同様の表情を浮かべた。

 

「すみません。艦長たちには着任前日に行嚢郵便で送りましたけれど、綾波さんは稀に村に来られますから、直接お渡ししよう思ってたんですが、防空戦のどさくさで渡しそびれてしまいまして、すみません、ほんとすみません」

 

 鈴原サクラは慌ててエプロンのポケットから『綾波レイ様』と記された挨拶状を綾波レイに手渡した。

 

「そう。委員長と結婚したのね。良かった。あの二人、苦労してたけれど、好き合ってたのは知ってたから。

 ありがとう、手紙を届けてくれて。あなたが手紙を届けてくれたことが、私は嬉しい」

 

 綾波レイが、鈴原サクラに対してわずかに微笑んだ。

 鈴原サクラが目を見開き、驚いたように両手を振る。

 

「いえ、とんでもないです。

 うちの兄も、綾波さんにはえろう世話になったってずっと言っとりまして」

 

「私の力なんて微力。お礼は葛城総司令にお願い」

 

「でも、世話になったのは本当ですし。兄に代わってお礼を言います。ありがとうございました。

 第三村では私はあまりお話しできませんでしたけれど、これからよろしうお願いします」

 

「そう、ありがとう。これからもアヤナミシリーズの調整では医療科に頼ることになると思う。

 その時はお願い」

 

 深く頭を下げた鈴原サクラに、綾波レイは僅かな会釈で返した。

 そんな二人の様子を、クロスレイ中佐相当官が意外そうに見る。

 

「へー、綾波姉さん、さっちんとあんま話してなかったんだー、意外。

 ヴィレだと第三村との連絡員みたいなもんじゃん姉さん」

 

「私は専ら相田さんの家のお世話になっていたから、あまり村とは関わらなかったの。

  相補性L結界浄化無効阻止装置の状態を見て回ったり、第三村の発展状況や必要物資のレポートを纏めるのに忙しかったし。

 それに、私を見たら混乱する子もいる」

 

「あー、ガミちゃんか……私も最初会ったはねー……っていうかあの子、このフネで大丈夫? いやまじ」

 

「ミドリにはミドリの考えがあります。私もついてますから」

 

 綾波レイの言葉を聞いて困惑の表情を浮かべたクロスレイ中佐相当官に、鈴原サクラがきっぱりと言い切る。

 その真剣な目を見て、クロスレイ中佐相当官は目を細めた。

 

「んー、いい目するようになったねーさっちん。ヴィレの訓練の賜物かなー。

 でもさっちんも真面目で思い詰めるとこあるからさー、あんま気合入れ過ぎちゃだめよん?

 トージといいさっちんといい、君等なんつか情が深いからねー、『あ、入れ込み過ぎてる』って思ったらブレーキ踏まなきゃダメよいやマジマジ」

 

「気をつけます。そう言えばクロさん、髪型変えたんですね。前は伸ばしたらもさもさやったのに、癖がなくなって。

 シュッとしてすごい似合ってますよ」

 

「あー、さっちんは知らないかー、ストレートパーマって言ってねー、薬使って癖取る方法あるのよ。

 こないだネゴってようやく量産市販まで来たから、そのうちヴンダーでもサービス始まるんじゃない?

 500人? だっけ。入れたし理容師も入れてたし、多分そのうちさっちんも使えるようになるんじゃないかなー」

 

「ホンマですか?! 私も癖っ毛ちょっと気になってましたから、髪に癖ない人いいなーってずっと思ってたんですよー!」

 

「おーさっちんも気づいた気づいた。うーんネゴ大成功、あっし大勝利って感じ? ケアそこそこ手間いるけど、もさーっとして意のままになってくんない髪とグッバイできるの快感よマジで」

 

「二人とも昔からの付き合いだったし、二人の仲が良くて、うれしい。

 クロスレイさんがそうなれたのが嬉しい。それはそれとして、そろそろあの子達にも挨拶してあげて」

 

 そんな二人の様子を微笑ましげに見守りつつ、綾波レイが釘を刺す。

 

「まだ群体としての『アヤナミレイ』としての自覚しかなくて、自分が一人の人間であるという自覚がない子達だもの。内心で不安が渦巻いていると思うの。未だに『アヤナミレイ』以外を知らない子たちだもの」

 

「っといけねッ! 後輩引き取りに来たんだったーッ!」

 

 綾波レイの言葉に、慌ててクロスレイ中佐相当官がアヤナミシリーズたち8人の方を向く。

 不安そうに震えるアヤナミレイたち8人、16の瞳に、優しげな光を宿した緑の瞳を向けながら、クロスレイ中佐相当官はさきほど同様、目を細め、歯を出しながらにこやかに笑うなり、突然腰を落として左手を膝に載せ、右掌を前に突き出して真顔になった。

 

「そちらにいらっしゃるアヤナミさん方、お控えなすって。あっし、生まれは不明、育ちはヴィレ、ヤサは輸送艦『おおすみ』にござんす。

 姓は大隅、名はクロスレイ、人呼んで黒猫のクロと発する、ケチな物流屋でござんす。隅から隅までズズいとお見知りおきいただくよう存じやす!」

 

 全員があっけにとられ、クロスレイ中佐相当官を見た。流石の鈴原サクラもよく理解できていない顔をしている。綾波レイですら似たようなものであり、アヤナミレイたちにいたっては目の前に冒涜的タコ型宇宙人が出現したら多分人類は等しくこういう顔をするのではないかという恐怖に近い表情を浮かべていた。

 

 しかし、皮肉なことに、真希波マリにだけは概ね見当がついていた。

 

「クロさんさー、まーた変な映画みたでしょ。任侠もの? よく見つかったねこの時勢に」

 

「あー、やっぱマリ姉さんにしかわかんないかー。ほら、低圧L結界内部を探索してる冒険家気取りの古物商連中いるっしょ、んでそいつらがこないだレンタルビデオ店からがっつりビデオ300本ぐらい売りつけてきて思わず衝動買しちゃってー、たまたま見たヤクザ映画の名乗り? なんかツボに嵌っちゃってー、一回演ってみたかったんだけど、やっぱわっかんないわよねー……うーん使い所考えないと。第三村のじーちゃんばーちゃん相手か、日本以外の生存圏だとウケるかなーどーすっかなー」

 

 腕を組んで悩むクロスレイ中佐相当官に、綾波レイが冷ややかな視線を投げる。

 

「まだヒトへの理解が少ない人たちだから、多分言葉だとおもえてないの。真面目に挨拶してあげて」

 

「あっすみませんすみません。綾波姉さんのその目マジ怖いから許して」

 

 怯え半分笑い半分の笑顔をクロスレイ中佐相当官を綾波レイに返すと、再び怯えるアヤナミレイたちに向き直った。

 

「ではでは改めて挨拶するねー。あっしの今の名前はクロスレイ・SS・大隅。

 昔から今まで、ずーっと世界中を飛び回ってたんだー、そのへんは君たちとおんなじさ。

 元々の名前は、『アヤナミレイ』。

 つまり、君たちと同じ、アヤナミシリーズとして創られた存在の一人ってこと」

 

 その言葉に、さらに8人のアヤナミレイたちに動揺が走る。

 先程まで言葉を発せずにいたが、とうとう一人が言葉を発した。

 

「でも、あなた。髪の色が、ちがう。あなたはアヤナミレイじゃない」

 

 つづいて、回りのアヤナミレイ達も、続々と言葉を発していく。

 

「目の色も違う。あなたはアヤナミレイじゃない」

 

「アヤナミレイと考え方が違う」

 

「魂の波も違う。全部ちがう。アヤナミレイじゃない」

 

 そんな彼女たちの様子を見て、クロスレイ中佐相当官は、ひどく懐かしそうな表情を浮かべた。

 

「うんうん。あっしも最初はそんな感じ。っていうかアヤナミレイであることへのこだわりはあっしよりつよいかなー? 調整がかわったかねー。

 綾波姉さんの話だと、群体として一つの自我を形成して行動することを目的としたタイプらしいし、そうなると、群れが自分で自分は群れを構成する細胞にすぎないから、違いが気になってしょうがないわけだ。異物が混入すると反応する抗体反応みたいなもん? ほー、なるほどねーなるほどなるほど。じゃ、違いを一つ消してみよっか」

 

 意味ありげに笑うと、クロスレイは自分の瞳に指を軽く当て、引いた。

 緑色の、カラーコンタクトが乗っていた。

 カラーコンタクトに隠れていた瞳の色は、アヤナミシリーズ特有の、アルビノの赤だ。

 

「目の色が変わった。でも髪の色が違う。あなたはアヤナミレイじゃない」

 

「ほうほう。髪かー」

 

 その言葉を聞き、クロスレイはまた微笑んで、今度は髪をかきあげた。

 髪の付け根の色素が薄い部分が、毛根から5ミリほど伸びていた。

 その部分だけ、アヤナミシリーズ同様の、青みを帯びた白髪となっている。

 そして、カラーコンタクトをつけ直すと、改めてアヤナミレイたちに向き直って告げた。

 

「髪は染めたし、目の色はたっかいお金だしてカラコン作ってもらって変えたわけよ。

 で、心の波が違うって話だけどー、それは多分10年『生きた』からじゃないかなー?

 そんだけ生きるとねー、記憶から経験から、色々アタマん中、シナプスだっけ? に書き重ねられてくから、別モンになっちゃうわけさー。君たちはずーっとぼんやり44Aに乗ってただけだから、変化する機会に恵まれなかっただけでね。で、恵まれるとこんなもんってわけ」

 

「わたしたち、アヤナミレイじゃなくなるの」

 

 一人が、呆然とつぶやいた。

 

「そだよ?」

 

「怖い」

 

 もう一人が、震えながら身体を抱いた。

 

「私が私でなくなるのは、怖い」

 

「アヤナミレイじゃなくなるのは、怖い」

 

 その反応に、またしてもクロスレイが苦笑する。

 

「あまそうなんだけど、君たちは君たちのまんまでいいの。そうするとね、なんか勝手に変わっちゃうわけ。

 君たちは今は同じアヤナミレイって名乗ってるけど、脳みそから身体まで別なんだから、別人じゃん。 

 双子みたいなもんよ。一卵性双生児だって見た目そっくりDNA同じでも別人じゃん」

 

「じゃあ、あなたになるの?」

 

 一人のアヤナミレイの言葉に、クロスレイは首を振る。

 

「君とあっしは別人でしょ? なんないなんない、君は君のままだから安心しちゃって。

 でも名前はねー、ホント悪いんだけど、名前だけは変えちゃうんで、それは許して」

 

「どうして名前を変えないといけないの。私はアヤナミレイなのに」

 

「んー、綾波レイのオリジナルが居るわけよ。いや正確に言うとオリジナルのコピー。

 そのオリジナルコピー? が、こちらの綾波レイ姉さんってわけ。

 だから、アヤナミレイのまんまだと、姉さんと区別がつかなくて困るわけよ。君たちは姉さんじゃないじゃんね? ま、こっちのエゴっちゃエゴなんだけど、不便だしね」

 

 といいつつ、掌を広げ、綾波レイの方向を指し示して見える。

 その言葉に答えて、綾波レイが軽く頷く。

 

「そう。私が最初の綾波レイ。あなたたちの名前は、私の名前が製品の名前となっただけ。

 工業製品、道具としての名前。生きていくというのなら、ヒトとしての名前があったほうがいい」

 

 綾波レイは、アヤナミレイたちを静かに眺めた。

 

「それに、名前は呪い。アヤナミレイを名乗り続けるなら、名前の響きが、あなた達の魂の形をアヤナミレイに戻してしまう。名前にはそういう力があるのよ。その名前は、呪いなのよ。

 だから、別の名で祝うの。

 別の名前を与える。そして、あなたたちがひとりひとり、別々の人生を生き、別々の記憶を重ね、別々の出会いを果たしたとき、その経験と絆、記憶と、あなた達に与えられた名前が重なって、他の誰でもない、あなた自身になる」

 

 しかし、綾波レイの言葉に、アヤナミレイたちは首を振る。

 

「わからない。わたしたちはアヤナミレイとして生まれた。わたしたちには、わたしたちの区別がつかない。わたしたちは、アヤナミレイ。わたしは、アヤナミレイ。だから、同じもの。違うということがわからないの」

 

「そっかー。じゃ、ちょっとあっしが魔法を使ってあげよう」

 

 わからない、という表情を浮かべるアヤナミレイたちに、クロスレイ中佐相当官はいたずらっぽい笑みを浮かべた。困惑しているアヤナミレイの一人の前に歩み出る。そして、ポケットから何かの袋を出し、そこから一つの球形のものを取り出した。

 飴?

 真希波マリは少し訝しんだ。クロスレイは構わず続ける。

 

「はい、ちょっと口を開けてみて。これを口に含んで、舐める。飲み込んじゃだめよ?」

 

「それは、命令?」

 

「そだねー、最初は命令でいいや」

 

「わかった」

 

 飴玉を差し出されたアヤナミレイは、素直にクロスレイの差し出した飴玉を含み、舐めた。

 そのアヤナミレイの瞳孔が、広がる。驚きの表情を浮かべた。

 

「なにこれ。口の中が、変」

 

「どう感じる?」

 

「わからない。ぴりぴりする」

 

「それは、強いて言うなら『辛い』だねー。今のは生姜飴。風邪引いたときとかにいいよ。どう? 不快かな?」

 

「不快じゃない。わからない。でも、もう一つ、ほしい」

 

「そうかそうか。じゃあ、もう一つあげようか」

 

 そして、また一つ飴玉を差し出す。今度は命令という言葉を、クロスレイはつけなかった。

 しかし、そのアヤナミレイは目を幼児のように輝かせながら、その飴玉を素直に含んだ。

 そして、また目を見開く。

 

「違う。さっきのと、違う。さっきのぴりぴりがない。でも同じ味。同じ味なのに違う。

 わからない」

 

「そりゃちがうさねー。だって今の、はちみつ飴だもん。生姜入ってないから、辛くはないよね?」

 

「辛く、ない。じゃあ、この口の中の感じは、なに」

 

「『甘い』だよ。飴玉って、全部『甘い』んだ。甘いもので出来てるから。でも、同じ飴玉でも味は違うんだよ。『辛さ』がある生姜飴。『酸っぱい』がある梅飴、檸檬飴。しかも同じ『酸っぱい』でも、また違うわけさ。ちょっと、わかった?」

 

 他のアヤナミレイたちが、ざわつく。何かよくわからないことが起きている。

 目の前で、アヤナミレイが、アヤナミレイなのに、わたしたちとは違うものになっていく。

 

 目を大きく開き、無心に飴を舐め終えたアヤナミレイが、静かにクロスレイ中佐相当官を見つめた。

 そして、言う。

 

「アヤナミレイは『甘い』。でも、アヤナミレイにも『辛い』アヤナミレイ、『辛くない』アヤナミレイが居る。同じなのに違う。不思議。違うの? わたしたち。違っていいの?わたしたち」

 

「そうだよ。というか、もう違ってしまっているんだねぇコレが。

 気づいたかな? 君はもう、『飴玉を舐めたアヤナミレイ』。他の子は、『飴玉を舐めてないアヤナミレイ』。これだけで、変わっちゃうんだよ。もう、別人なんだねー、君たちは」

 

 飴を舐めたアヤナミレイは、何かを悟ったように、呟く。

 

「これが、『経験』? これが、『変わる』ってこと? こんなにかんたんに変わってしまうものなの?」

 

「そうだよ。それが経験。それが変化。人間って、これだけで変わっちゃうんだ」

 

 クロスレイは、どこか懐かしそうな表情で、そのアヤナミレイの言葉を受け止めた。

 

「じゃ、最後に。君には4つ選択肢がある。1つ、生姜飴をおかわり。2つ、はちみつ飴をおかわり。3つ、別の味の飴を試してみる。4つ、飴は好きじゃなかったから舐めたくない。ちなみにコレは、命令じゃないよー? 君の好きにしていい。あっしは命令しないからね」

 

「命令じゃないのに、決めていいの。私が、決めていいの」

 

「そう。君が決めていい」

 

 そのアヤナミレイは、少しだけ、考えた。そして、ほかのアヤナミレイたちを見た。

 

 どのアヤナミレイたちも、不思議そうに、彼女のことを眺めていた。

 彼女たちの目は、先程より大きく開かれ、その瞳は、奇妙な輝きに満ちていた。

 そして、飴玉を舐めたアヤナミレイは、静かに呟く。

 

「あの子達にも、食べさせてあげて。わからないけれど、これは、口に入れると、嬉しい。

 ……嬉しいの、私?」

 

「それは『美味しい』っていうんだよ。それが君の望みなんだね。

 あっしの示したどれでもない選択肢を選んだ。

 それが、君の決断で、君が決めたこと。おめでとう。それが君だけの決断。君が考え、君が決めたこと。命令じゃない。君の、君だけのオリジナリティなんだよ」

 

 そう告げて、クロスレイ中佐相当官は他のアヤナミレイに、飴を配り始めた。

 

「そういうわけだから、君たちも舐めてもいいし、舐めなくてもいい。

 もちろん、全部違う味だよ」

 

 アヤナミレイたちは、皆、飴玉を一瞬見つめ、そして飴玉を次々に含んだ。

 そして、目を見開く。生まれてはじめての感覚に。

 

「これが『甘い』なの?」

 

「これが『美味しい』なの?」

 

「わからない。ぴりぴりでもない。でも、なにか、ひりひりする。いやなひりひりじゃない」

 

「鼻がなにかを感じてる。これはなに? LCLのにおいじゃない」

 

「そうね。LCLのにおいじゃない。なにかいいにおいがする。嫌な匂いじゃない」

 

「……? 私のはLCLに近い味がする。何故? 何故みんなはLCLの味を感じていないの?」

 

 一人のアヤナミレイが、不思議そうな表情を浮かべた。

 その不思議そうな表情が、波紋のように周囲のアヤナミレイに広がっていく。

 

「LCLの味なんてしない」

 

「どういうこと?」 

 

「LCLの味がする飴があるの?」

 

「ああ、彼女が舐めたのは塩飴だね。含まれた塩分を、彼女はLCLの味だと思ったんだ。

 そう。塩味は、普段君たちが浸っているLCLに一番近い味がするのさ。浸透圧の関係上、プラグに使うLCLにはある程度は塩化ナトリウムが入るからね。だから、LCLの味だと思うわけだ。でも、LCL以外の味もするだろう? それが『甘い』だよ。みんな違った味を、今君たちは味わった。でも、同じ味も味わった。飴玉は『甘い』んだ」

 

 クロスレイ中佐相当官は笑みを浮かべた。

 

「それがわたしたち、アヤナミシリーズ。同じ『甘い』で作られたもの。

 けれど、実は一つ一つ、全部違うんだ。塩飴、生姜飴、梅飴、りんご飴、パインアメ、世の中には沢山の飴があるんだよ。今の君たちが別々の飴を舐めて、別々のアヤナミレイになったように」

 

 アヤナミレイたちは、何かを理解したようだった。

 やがて、一人のアヤナミレイが口を開いた。それは、先程皆に飴を舐めさせてあげてほしい、と言ったアヤナミレイだった。

 

「それで、あなたは……髪の色も、目の色も、名前も変えたの」

 

「うん、そうだよ。それは、気持ちのいいことだから。髪も目も、アヤナミレイのままでも良かったけどね。でも、なんか、変えられるって知っちゃうと、変えたくならない? もっと綺麗な自分になりたいとか、気分で。それにあの髪と目の色は、綾波姉さんのほうが似合うし、だったらあっしは自分の色が欲しいなーっておもってさ。いや姉さんはこんなことは考えやしないだろうから、これはあっし自身の欲なわけだ!」

 

 アヤナミレイの問いに頷きながら、かつてアヤナミレイであった女は笑顔で答えた。

 

「あっしのため、あっしが望む、あっしが可愛い、カッコいいと思えるあっしになる。今日は同じでも、明日は変わるかもしんない。で、明後日はまた変わってるかもしんない。ま、しんどいこともいろいろあっけどさ、楽しいこともいっぱいあるよ?

 だってきみたち、飴玉、美味しそうに食べてたじゃないか! 美味しいって、一度も味わったことなかったんじゃないかな? あっしはそうだった。で、君たちはこれから、どんどんそういう経験を積んで変わっていくわけ! 変わったその果てに、『やっぱりアヤナミレイの名前がいい』って思ったらそれでもいい。好きにしたらいい。それが、『自由』。命令がなくても、君たちは望んでアメを食べた。その程度のつまらない、ありふれた……でも、今まで君たちに赦されなかったもの。とても貴重で、とても大切なもの。

 それが、あっしたち……んにゃ、綾波姉さんが、自分の妹である君たちに与えたものの名前だよ」

 

「そう、あなたもそれを……『自由』をもらって、あなたになったのね。アヤナミレイではないあなたに。わたしにも、なれるの。アヤナミレイではないわたしに」

 

 かつてアヤナミレイであった女は、会心の笑みを浮かべながら、別のポケットから名刺ケースを取り出し、一枚の紙片を、先程から言葉を発し続けている、飴玉を他のアヤナミレイに配ることを望んだアヤナミレイに渡した。

 そのアヤナミレイは、紙片の文字を読み、目を見開いた。

 

「これは、なに。なにか、書いてある。『株式会社くろねこ運送 社長 兼 輸送艦おおすみ 艦長 クロスレイ・SS・大隅』。あなたの名前以外のことも、沢山書いてある。これは、なに」

 

「それは『名刺』さ。まあ、今じゃ廃れたシロモノだけど、あっしは趣味で作ってるし、案外商売がら役に立つ。人には名前以外にも沢山の情報があるんだ。立場とか、職業とか、色々ね。だから、その紙は、私がこういう人生を生きていますよ、っていうのを記した、あっしの人生の断片なんだよ。

 ま、ともかくクロスレイ・SS・大隅が今の私。間違ってもアヤナミレイじゃないよねー、すくなくとも、最初君たちが言ったように、アヤナミレイはこんな髪じゃないし、自分のことをあっしなんて言わないんだねェ。それが人生、それが自由。あっしのことをあっしって言えるあっしは、この世にきっとあっし一人なんだ。それが、嬉しいことなんだよね」

 

「あなたについて行ってと言われた。命令だと思った」

 

 最初に飴を舐めたアヤナミレイが、つぶやいた。

 

「けれど、ちがうのね。命令じゃないのね。ついていってもいい。いかなくてもいい」

 

「そうだよ。あっしについてきてもいいし、ついてこなくてもいい。それだけで、君は君になる。

 君が君で決めたから」

 

 最初にアメを舐めたアヤナミレイは、クロスレイ中佐相当官の目を、真っ向から見た。

 

「いいえ。ついていく。私は、私になりたい。

 いえ、もう、私は私なのね。

 今はアヤナミレイかもしれない。けれど、いつかは変わるし、もう変わっている。この積み重ねが、私を重ねていくのね。この甘さと認識が、私がアヤナミレイでありながら、アヤナミレイの枠を越えていく、最初の一歩になっていくのね」

 

「わかった。じゃ、君は決まりだ。君たちはどうする?」

 

 クロスレイ中佐相当官は、別のアヤナミレイ達を見た。

 彼女たちも、皆、心は定まったようだった。自分がもう、昔とは違っていること。口の中の甘さが、何かを決定的に変質させて、けれど自分は相変わらず自分のままであること。

 そして、そういう知らないことがたくさんあり、それを目の前のアヤナミレイであった人、クロスレイ・SS・大隅となった人が、今、答えとして立っている。

 私の知らない私になりたい。

 アヤナミレイたちは、皆、緩やかに頷いた。

 

 真希波・マリ・イラストリアスは、その有様を、どこか眩しげに見つめていた。

 彼女は、途中から状況の観劇に専念していた。

 

 違う味が詰まった飴玉のアソートセット。きっとこの世界ですらさほど高い値がしない、きっと安物の一袋。その程度のもので、ネルフによって群体として存在を定義されたアヤナミレイたちの自我を、クロスレイ・SS・大隅は解体し、今はアヤナミレイを名乗る、別々の別人にしてしまった。

 

「これだから、人間はわからない」

 

 兵器として生み出され、自滅して終わるはずだった生きた信管が、人生を生き始めようとしている。

 彼女たちの困惑を、思考を、そして兵器として運用するために抑制されていたヒトとしての機能を汲み取り、群体を孤へと分かつ術式。費用、飴玉一袋。

 コード・バベルにより『生きたい個体』を選別した結果とは言え──ん、もしかしてこの最後の『分割』まで含めての命名なのかにゃ?

 

「ナミナミは、ほんとすごいね」

 

 真希波マリは、静かにつぶやいた。

 

「生きたい子の、生きたいを見つけてあげられる。それって、すごい事なんだよ、ナミナミ」

 

──あの日。妻を、母を失い、絶望し、生きたいを見失っていた、一人の父と子を思い出す。

 

 私は、それを見つけてあげられなかった。

 だから、ゲンドウくんを、人類補完計画という形で、もう居ないユイさんに委ねてしまったし、そして、彼からは母親の記憶を奪い、悲しみの理由を消すことで、悲しみこそなくなり、食事は取れるようになったものの──彼の、碇シンジの人生は、台無しになってしまった。

 

 彼を最初に見つけたのは私で、彼のことが好きだった。

 彼は孤独が好きな人だった。けれど、寂しそうにもしているのが、なんとなくだけれど分かってしまった。

 だから、冬月先生を紹介し、冬月先生のゼミで、ゲンドウくんはユイさんと出会った。

 

 彼がユイさんのことを好きになった時、私はそれもいいとおもって、彼とユイさんのことを応援した。

 彼とユイさんが結ばれ、結婚した時、私は心からお祝いした。

 シンジくんが生まれた時、私は本当に嬉しかった。

 

 でも、ユイさんがいなくなってしまって、何もかもが壊れてしまった。

 私はユイさんが居なくなって、悲しくて、ひたすらに、彼の胸で泣いた。

 

 けれど、彼は泣けなかった。きっと、彼も泣きたかったろうに、彼は泣けなかった。

 そして、ゲンドウくんは、壊れてしまった。生きようとすることを、やめてしまった。

 

 シンジくんは、何も理解できなかった。母が居なくなったことが、理解できなかった。

 そして、もう二度と母が帰ってこないとシンジくんが、私とゲンドウ君の態度から理解した時。

 

 シンジくんも壊れてしまった。

 食べてくれなかった。生きようとしてくれなかった。

 

 私は、彼らの生きる理由を見つけてあげられなかった。

 妻にも母にも、なる覚悟が、なかったなのか。

 あるいはユイさんへの裏切りではないか、という後ろめたさだからなのか。

 わからなかった。でも、二人に死んでほしくなかった。

 どうすればいいのか、わからなかった。

 

 ゲンドウくんに人類補完計画のことを伝えるべきではなかった。

 シンジくんの記憶を削ぎ落とすべきではなかった。

 もし私が、今日の景色を知っていたなら。

 彼らの喪失の痛みの本質を、汲み取ることを諦めなかったなら。

 もしかして──

 

「いいえ、私の術式じゃない」

 

 綾波レイは、不意に真希波マリへ言った。

 

「あの『飴玉の魔法』は、クロスレイ中佐相当官の考えたもの。

 いえ、考えてすらいないのかもしれない。ああいう人だから、多分勘で分かってしまう。

 

 私にできるのはまだ生きたい個体の選定と、身体の存続・維持措置が限度よ。

 

 クロスレイさんは、凄いの。まだ、精神が発達していない頃から、世界中の生存圏を巡って、いろいろな人と出会った。まだあの人が、アヤナミレイであることを捨てきれなかった頃から。

 いろいろな人を助け、いろいろなものを運んだ。助けられた人もいれば、助けられなかった人もいる。

 運べるものもあれば、運べなかったものもある。

 

 あの人を助けたのは私。けれど助けただけ。

 あの人の仕事は運び屋。だから、とても沢山の人と出会い、とても沢山の世界を見た。

 私よりも、もっと多くの。だから、ああいうこともできる」

 

 綾波レイは、真希波・マリ・イラストリアスを見た。

 

「悲しい目。貴女らしくない目。

 何を悩んでいるかはわからないけれど……取り返しがつかないこと、埋め合わせがつかないことはいくらでも出てくる。それが人生。私にも、その後悔と傷があるの。10年前の傷。救えなかった。助けられなかった。だから、謝罪の手紙を書いた。たぶん、その手紙に意味はあまりなかった。

 現れた北上ミドリさんの目は、とても冷えていたから。むしろ、つらい思いをさせてしまったのかもしれない。生きたいを見つけてあげられなかったの。私も」

 

 静かに、真希波・マリ・イラストリアスを見つめながら、綾波レイは後悔をつぶやいた。

 

「ただ、取り返しがつかなくとも、埋め合わせがつかなくとも、それでも──生きているなら、その傷や、過去と、向き合うこともある。

 あなたも生きているのなら、いつか、そういう機会がくるかも知れない。

 私には巡ってきた。彼女はこの艦に乗った。

 だから、あの子たちとトランクの引き渡しが終わったら、大井さんが──レーコさんが、あの子へ──北上ミドリさんへ渡したかったものを、渡そうと思う。

 運び屋の仕事は渡すこと。クロスレイ中佐相当官が、今日あの子達に自由を渡したように。少なくとも、大井さんが渡したかった想いだけは、渡すことが、できるから。できることはそれが最後。私はそこで割り切ろうと思う。後は、彼女自身と、艦長で決めるしかないから。

 もし、貴女の胸の億に悔いに由来した傷があっても、それがもう取り返しがつかないことなら、どこかで、割り切るしか無いし、進むしか無い。決めるのは、貴女だけれど」

 

 真希波マリは答えない。

 ナミナミはたまに、他人の考えに、滑り込んで言葉を発することがある。無意識に心を読んでいるかのように。誰に対してもそういうところがある。彼女の設計がそのようにできているのか、あるいは彼女のオリジンであるユイさんの血統のなさしめることなのかもしれない。

 とはいえ、たしかにそうで、ナミナミの言う通り。

 たしかに、取り返しのつかないことを悩んでも、辛いだけだ。私らしく無い。

 ゲンドウくんやユイさん、シンジくんのことを考えると、知らず重くなる。

 過去が過去だから、仕方ない。いつか過去が精算を迫り収穫にくるとしても、それは私と彼らの問題だ。

 うん。いい景色をみて、不意に胸の傷がうずく日だってある。

 そういうことに、しておこう。

 

「??? 綾波姉さんとマリ姉さん、顔がシリアスしてましたけどなんかありました?」

 

 二人が会話している間に、自分のエヴァ44A改『フライングパンケーキ』の換装式後部顧客乗用ブロックへ8人のアヤナミレイを案内し終えたクロスレイ中佐相当官が戻ってきた。

 

「なんでもにゃーい。あの子達がちゃんとやってけそうで安心した、いっつもありがとねー」

 

「やー。綾波姉さんたちに助けてもらった生命ですからー。

 生きてて楽しいスから、あっし以外の子にも楽しく生きてほしいだけなんです、あっしは。

 運び屋、しんどいこともいっぱいあるけど、楽しいことも多いスし。

 いや運ぶだけなら肉体労働で疲れるだけのブラックっちゃブラックっスけどー、こういう時代すからね。生命そのものを運んでたすけるようなこともありますし。

 やりがいありますし、楽しいスよ。

 生きてますから。

 綾波姉さんたちが生かしてくれなかったら、今頃どう使い捨てられていたやら……わかんないっス。だからマリ姉さんと綾波姉さん、尊敬してんスよ。あっしは。ところでなんか、他にもなんか渡すもんあるっつってませんでした? 綾波姉さん」

 

「ええ、これ」

 

 綾波レイは、トランクをクロスレイ中佐相当官に渡した。

 

「アヤナミシリーズ用の身体安定剤。L結界に対する抵抗帯域を、プラス域からマイナス域まで、その上限・下限値を大幅に改善するものよ。服用式から注射式まで色々あるわ。詳しくはトランクの中の説明書を読んで。

 自分で実験したけれど、投与後1年安定している。人間の生存圏内から、封印柱外の低圧レベルL結界環境の長期間滞在でも、形象崩壊リスクをかなり軽減できるはずよ」

 

「1年? マすか?」

 

「マよ」

 

 あんぐりと口を開けたクロスレイ中佐相当官に、綾波レイは左手でサムズ・アップしてみせる。

 

「いや流石綾波姉さん、アヤナミシリーズの肉体研究じゃ右に出る人居ないってホントなんすねえ。

 ちなみにどういうもんなんすか?」

 

「体内バイオームの調律が主目的の、相補性l結界浄化無効阻止装置と海洋再生技術を組み合わせ、LCLを基礎として作った体質改善剤。」

 

「ばいおーむ?」

 

「体内細菌叢。今までは幹細胞を始めとした体細胞へのアプローチが多かったけれど、発想を変えてみたの。 人体というのは、動く海であり、栄養の塊だから、細菌やウイルスの棲家でもある。その多くが人体と共生状態にあり、どれが日和見菌なのかも完全には解析しきれていない、学術上の未知の沃野なのよ。

 海洋生態系保存研究機構の古いデータも役に立った。

 セカンドインパクト後の海洋生物の形象崩壊パターンを参考に、ネルフ脱出時にヴィレが確保したアヤナミシリーズの研究データを並べ、私の体細胞をサンプルとして実験を行った所、やはり身体維持とバイオーム維持には一種の相関性があった。

 人体は人体由来の細胞だけでは成り立たない。共生関係にある細菌やウイルスを無視しては語れないものであり、アヤナミシリーズもベースが人体である以上、その例外ではない。

 原理的には相補性l結界浄化無効阻止装置による海洋再生技術を組み合わせたもので、LCLの浄化無効処理プロセスを段階的に止めた体液状態の調整剤として機能、バイオームの賦活によりL結界・アンチL結界・体細胞崩壊といった形象崩壊を食い止める作用を果たすわね」

 

 無表情で早口に専門用語を並べ立てる綾波レイの言葉に、流石のクロスレイ中佐相当官も困り果てたという表情で真希波マリに視線を投げた。

 

「すみませんマリ姉さん、ウチでもある程度やってますし、医療関係もわかるすけどバイオーム関係となるとあっしァさっぱりで、綾波姉さんの言ってんの珍紛漢紛なんですがなんなんスかマジで。封印柱回りまで噛んでるあたりホント大丈夫スよね? 効くなら使いたいスけど胡散臭いもの服用や注射は流石に怖いッスよマジで」

 

「アヤナミシリーズに関してはナミナミと赤木博士が専門で私は専門外だにゃー。ま、私とナミナミは同居してるから、ナミナミがそれ使ってる様子は見てるし、身体も最近はすごい安定してる。傍目には効き目ばっちしって感じ?」

 

「マリ姉さんがそう言うなら安心ッス!」

 

「……」

 

 無表情な綾波レイの目がクロスレイ中佐相当官を見る。クロスレイがたじろいだ。

 

「いや綾波姉さんのこと信じてます! 信じてますけど最近使うテクノロジーとか発想が姉さんちょっとマッド入ってませんかですし、ウチの社員の子たちにも使うやつだから、あっし一人で説明できんもん使うの怖いんすッてば! 勘弁してくださいよ!」

 

「せつめいしょを よみなさい ぜんぶ かいたから」

 

 綾波レイのこめかみに気のせいか青筋が浮かんだ。

 

「すみません! 読みますから! 読みますから!」

 

 青ざめながら綾波レイに謝るクロスレイ中佐相当官に、鈴原サクラが苦笑した。

 

「あはは、ややこしいことゆうてますけど、食用酵母とか乳酸菌製剤の延長線上ですから安心してください。

 私も医務科ですからデータは目を通しとりますし、この一週間で使い方も見とります。身体の細胞だけじゃなくて腸内細菌も元気にしてくれる栄養剤みたいなもんですから、そない怖がらんでええですよ」

 

「おー、さっちんがプロっぽいことを。あんなに小さくて可愛い生き物だったさっちんが立派に……うっうっトージとあっしが手塩にかけて育てた成果が今開花……あっしの嫁になって……仕事ばかりで出会いと恋愛の暇がまるでないからもうさっちんに永久就職で……」

 

 わざとらしく号泣するように右腕で両目をこするクロスレイ中佐相当官に、鈴原少尉が冷ややかな視線を向ける。いつもの病気が出た、と言わんばかりの表情だった。

 

「クロスレイさんなんかあると誰にでも結婚して結婚していいますよね本当に。

 流石にヒカリさんおる眼の前でお兄ちゃんに求婚しだした時はドン引きしましたわ」

 

「えートージくん、いい男だしぃ。こう、当たったらいいなの宝くじ一枚買いみたいなー?」

 

「ヒカリさん普通にあの後誤解してお兄ちゃんめっちゃ苦労しましたからね」

 

「えっ。関東の人ネタが通じんで困るわー」

 

「クロスレイさん出生地不明のアヤナミシリーズですやんええかげんにしてください」

 

 流石の鈴原サクラ少尉も右手を開いたまま、クロスレイ側に甲を向けて振った。

 綾波レイが感心したように呟く。

 

「これがツッコミ。私、実物ははじめてみた。

 関西の人は本当にツッコミを入れるのね」

 

 綾波レイが、驚いたような表情で目を瞬く。

 

「仲良きことは美しいねぇ~♪」

 

 転落防止フェンスに背でもたれながら、オアフ島の青空を見上げる。

 先程胸をよぎった過去の痛みが、いつの間にか彼女──クロスレイ・SS・大隅という人間の朗らかさで、薄らぎ、消えてしまっている。

 真希波・マリ・イラストリアスには、その朗らかさが心地よいものとして感じられた。

 この痛みに満ちた時代で、そのように振る舞うには、相応の強さがいる。自分でもそのように振る舞うように心がけてはいるし、そういう生き方が身についてもいる。

 

 ただ、それでも痛みがよぎる過去というものはある。たまたま今日それを思いだし、そういう気分になってしまった。それを忘れさせる程度の朗らかさが嬉しかったのだ。

 なぜなら彼女は本来、ただの兵器の誘導装置、信管として消費される人の形をした部品に過ぎなかったのだ そういう存在が、人類社会に欠かせない物流を担う人物となり、なによりも今を楽しく生きている。その楽しさを更に膨らませようとしている。

 人は、生きている限り可能性がある。過去がどうあれ、私が今ここに立っているのは、間違いじゃない。私とナミナミが、9年前か、それぐらいに彼女をたまたま『助けた』ことが、彼女の今に繋がっている。

 どれほど絶望的な時代でも、人は笑えるのだ。人は人を笑わせられるのだ。

 先程まで痛んでいた胸が、今はもう、温かい。彼女の思いを、胸に覚えた感覚が保証してくれていた。

 

 その真希波マリの感情に応えるように、クロスレイが不意に真希波マリを見て、何か大切なものを友達に渡す子供のような表情を浮かべ、口を開いた。

 

「あ、そういえばですねー、マリ姉さん。いいやつ入ったんで、みんなにも見てほしくて、マギプラのデータベースに入れておきました! いや『ロボットモンスター』って映画なんですけど、やーこれが着包み雑使い回しの上にもうストーリーもダメダメでー、こう観ててふわ~って精神が飛んでく感じのやつなんすよ、観ててうわーッてなるぐらいキクんで、マリ姉さんも是非見てくださいね! あと次会うまでに感想! 綾波姉さんも! あ、商売は抜きっす、あっしからのサービスってことで!」

 

 うわぁ。

 流石の真希波マリも顔が引き攣った。綾波レイですら顔を引き攣らせている。あの綾波レイが。

 

 クロスレイ・SS・大隅という女性には、一つ重大な問題点がある。

 映画マニアなのだ。それも重篤な駄作映画マニア。

 世界中を「おおすみ」と44A改『フライングパンケーキ』で飛び回り、睡眠時間もさほど必要としないために、移動時間暇である彼女は、専らその退屈な時間を、世界各地で集めた映画を見ることで潰しているらしいのだが、その映画の趣味が最悪なのだ。

 気風がよく、気立てもいい。気も利く人だ。

 なのに9年この世界で過ごして、恋愛相手の一人もろくにできないのは、彼女の映画趣味に付き合った交際相手が、みな『無理』となって別れてしまうからであった。駄作映画趣味に関しては妥協のない、なんというかオタク気質なのも、より悪い方角へ拍車をかけている。

 万能の人間はそうそう存在せず、欠陥がない人間もない。とはいえアヤナミシリーズベースの器量よしの性格よし、いまや敏腕女社長という存在に、何故このような趣味がついてしまったのか、世界の運命はこれだからわからないものだと、真希波マリは絶望した。

 とりあえずちゃんと見て次あったときに感想を言わないと、彼女は凹むのである。本当に凹む。しかもヴンダーにとってくろねこ運送はL結界濃厚な地域でも補給に来てくれる稀有な民間の取引先でもあるので、邪険にもできない。

 そして彼女がオススメしてくる以上、内容はお墨付きと言っていい駄作映画だ。

 前回は確か『プラン9・フロム・アウタースペース』だったろうか。この時代にどこから見つけてくるのだろう。何しろ物流会社であり、独特の人脈があるのは察しがあるのだが、駄作映画探しのために、この時代作るのが楽ではない人脈をフル活用するのは、なんというか図太いと言うか、評価に困る。

 

 本当にヒトの世の中は、いろいろな意味で面白い。

 真希波・マリ・イラストリアスは、空から降り注ぐ陽光を浴びながら、深々と一つため息をついた。

 

 



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第1話「ヴンダー、新たなる旅立ち」エピローグ Bパート

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 EVANGELION ∧ i : AAA Wunder S 3.33 『YOU CAN (NOT) TRIP.』Prototype

 

 

 

 EPISODE:1 The Blazer

 

 

 

 

 Epilogue Bpart

 

 

 

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 式波・アスカ・ラングレーAAAヴンダー副長は、通常艦橋の副長席コンソールのメインモニタ上を流れる3Dホログラム動画を、片肘をつきつつぼんやりと眺めていた。

 

(ぱっと見はこちらのワンサイドゲーム。『轟天』使用は問題だし、派手に動かした結果、ずさんな改装で出たボロがざっと120箇所以上も出たけど、それは映像には出ない。ま、あとはヴィレ本部がなんとかするでしょ)

 

 ヴンダー各センサー、VTOL各機ガンカメラ、エヴァ弐号機、八号機各センサーが記録した動画データや、各種センサーのリアルタイム情報記録の閲覧が終わった。

 

 動画ウィンドウ脇の『AAAヴンダー オアフ島沖防空戦に於ける戦闘詳報』と名称が記された情報ファイルを指先でダブルタップして開き、一連の戦闘経緯についての報告、交戦した敵戦力および使用された敵兵器についての、ヴンダー各種センサーが捉えた各種計測データの書類情報にざっと目を通す。

 

 最後に、新冷線砲発砲後に発生した現象について、艦長及び彼女自身、そして技術班長である赤木リツコ、それぞれの推論の文書データを添付し、その最終確認を終え、シートに座ったまま手を組んで頭上に伸ばしつつ、掌ごと上半身を上に伸ばして軽く体を左右にひねり、長時間座っている事によって身体に生じたコリをほぐした。

 

 そして、通信士席で、彼女と同じ戦闘詳報ファイルを査読していた赤木リツコ博士の方を振り返る。

 

「どうリツコ? 内容的には問題ないと思うけれど」

 

「真空崩壊が発生した以上、新冷線砲が太陽系、ひいては銀河系をも崩壊させる破局の引き金を引いたことは紛れもない事実。

 けれど、本来宇宙全体を相転移させるまで拡大を続けるはずの事象は、突如として終息してしまった。過去に類例のない、つまりはアダム由来でもリリス由来でもないタイプのATフィールド波帯の発生および時空歪曲も確認されている。 

 つまりは貴女たちの言うところの、ボルツマン・エフェクト仮説通りの結果となった以上、新冷線砲の使用と世界の破局はイコールにはならない。むしろ、既に建造・就役が完了しているであろうネルフのNHG級空中戦艦、アダムスの器たちに対抗しうるヴンダーの数少ない切り札たりうるとすら言えるわね」

 

 ブラックのままのアイスコーヒーをストローで飲みながら、赤木リツコがモニタに目を落としたまま頷いた。笑みこそ浮かべているが、その表情には別の感情が複雑に入り混じっている。

 

 ボルツマン・エフェクトとは、現状AAAヴンダー艦長である碇シンジと副長である式波・アスカ・ラングレーが唱えているリビドー・デストルドー余剰次元仮説に基づいた空間効果を指す。

 

 これは、ビッグバン以来拡大を続けてきた宇宙そのものが、一個の生命であるという彼らの仮説に基づいたものだ。

 

 宇宙の大規模構造である銀河フィラメントが、一種の神経回路として、「重力」「電磁気力(電磁力)」「強い力」「弱い力」の4つの基本的法則に基づいて機能することで、宇宙という生命体は活動している。

 

 故に、宇宙および宇宙を構成する物質自体がATフィールドを保有し、宇宙生成および物体形成にこのATフィールドもまた強い作用をしているというものである。

 

 先の新冷線砲発砲により発生したタキオン場とその凝集によって発生した『真の真空』は本来真空崩壊と呼ばれる、世界構造そのものを成り立たせているDブレーンの崩壊を引き起こし、それはよりエネルギー状態の低い真空状態への不可逆的相転移を引き起こし続けるはずであった。

 

 しかし発生した真空崩壊は、拡大途中でまるで何かに押しつぶされるようにして拡大中途で消滅を遂げ、その際に未知の波体を有するATフィールドの反応をヴンダーのセンサーが捉えていた。

 

 現象としては、意志ある生命しか持たないはずのATフィールドを空間そのものが発生させ、光速で拡大する真空崩壊の泡を抑え込み、ATフィールドによって縮退させ、押しつぶしたとしか説明できない事象だった。

 

 これは艦長及び副長の唱えるリビドー・デストルドー余剰次元仮説を裏付けるものであった。

 

 真空崩壊等、現在の宇宙の安定状態を崩壊に至らしめる要因への生命的防衛反応の発生を彼らはボルツマン・エフェクトと命名し、その発生を予言していたが、はからずもその予言が的中した形となる。

 

「とはいえ、ボルツマンエフェクトがどれほどのタキオン凝集を抑え込めるかは依然として未知のまま。破局に至りうる可能性を孕んだ兵器の引き金を引いた事実には変わりない。イズモ派閥残党に、ヤマト派閥暴走をアピールする格好の材料を与えたことに変わりはないわ。

 当分はオアフ島防空戦については極秘にしたいところだけれど、退艦を希望した100名の中にイズモ派閥の内偵者が紛れていたのは確実。どう工作しようと情報が漏れると考えるのが妥当ね。

 それに『轟天』は書類上存在しないはずの兵装、極秘裏に行われた第三次改装の産物。ミサト、当分胃が痛い思いをするんじゃないかしらね」

 

『それ、本人に通信が繋がってる状態で言う?』

 

 ヴンダー艦橋正面上部大スクリーンに、長い黒髪の、40前とは思えない程に若々しい、顔立ちの整った美人が大写しとなった。顔を引き攣らせつつ、ジト目で式波副長とリツコを睨んでいる。とはいえ、片頬が引き攣りながらもかろうじて笑みを形作っているあたり、人類世界保障連合ヴィレ総司令、葛城ミサトは相当に複雑な心境であるようだった。

 

『44A300機以上撃墜、敵新型空間魚雷を鎧袖一触。

 本来なら士気高揚目的で戦勝報道の一つもして戦果を喧伝したいところだけれど、そのために例の衝角を使ったのは洒落じゃすまないのよね。

 オアフ島が潰滅するかも知れないので、しかたないから太陽系全部ふっとばしてお釣りどころか宇宙破滅の可能性があるシロモノぶっ放しました、よ?』

 

 葛城ミサトの言葉に、式波・アスカ・ラングレーは眉をひそめる。

 

「撃たなかったらAAAヴンダー及びエヴァ2機喪失。あの状況で撃たなければ、戦略的敗北は必定の状況よね。だから私は艦長の決断を支持したし、ミサトの名代のリツコも承認した。それでも文句あるわけ?」

 

 そんなアスカの言葉に、ミサトは応じるように渋面を消し、微笑んだ。

 

『いいえ、ただの家族への愚痴よ。面倒な仕事が増えたわねって。

 もし私が艦長だったとしても撃ってたわ。

 人類の未来、守ってくれてありがとう、アスカ。いつも面倒かけるわね』

 

 ミサトの頬にほほえみと、声音に10年前の親しみが戻っていることに、アスカは内心安堵を覚える。アスカもまた微笑を浮かべた

 

「どういたしまして。こっちこそ、いつも尻拭いまかせちゃって、ごめん。

 やれ『疫病神』だのなんだの陰口叩かれてる身の上で、艦長だの副長だのやれてるのはミサトのおかげだものね。感謝してる。ツカサくん、元気にしてる?」

 

 ツカサとは、葛城ミサトの子供の名前だった。

 

 加持ツカサ。第二次ニア・サードインパクト後に生まれた子供であり、父親は現クレーディト長官加持リョウジ。アスカの記憶が確かならば、今年で9才のはずだった。

 

 なお命名にあたっては苦労があり、葛城ミサトと加持リョウジは当初息子に『シンジ』とつけると言って聞かず、碇シンジとアスカの二人で必死に説得して名前を変えさせたという経緯がある。

 

 何しろ三号機事件で第一次ニア・サードインパクトを起こし、第二次ニア・サードインパクトへの道を開いた疫病神と認識されている人物の名前なのだ。

 

  将来そのことで苛められる、艦長と同じ名前は紛らわしい、等理由を並べ3日がかりで説得、シンジのジを漢字とすると「司」となり、ツカサと読めることから、その名で渋々ミサトたちが妥協することとなったという経緯がある。

 

『元気も元気、元気すぎて苦労してるわよ。勉強しなさいって言っても訓練のほうが大事とかいって射撃練習場に行ったり、最近言うこと聞いてくれないのよねえー。ペンペン二世とは仲がいいんだけど、仲良すぎて散らかし魔だし……』

 

 先程までの笑顔はどこへやら、またもやミサトは困惑と疲弊の渋面を浮かべる。そんなミサトの様子を見つめながら、リツコがどこか面白げな様子で言う。

 

「ツカサくん、もう9才だったわね。少し早い第二次反抗期といったところかしら。親がヴィレ総司令だから、色々とツカサくんなりに思うところがあるのかもね。身体の発育の早さに心がついていかなくて、色々乱れがちな時期なのよ。リョウちゃんは?」

 

「加持?」

 

 ミサトの渋面に、さらに怒りの成分が添加された。口調が明らかに早口になる。

 

『あいつったら、下部組織のクレーディト長官なのいいことに現場出放題で、育児私に任せっきりじゃない?

 で、たまに帰ってくるとツカサのこと甘やかすもんだから、たまに来て小遣い上げて子供甘やかす親戚みたいなヤツ? おかげですっかり父親のほうに懐いちゃって……あいつそういうの要領いいのよねぇ、こっちだって忙しいのに母親兼任してるんだから、あいつももっと育児に参加しろってーの、ほんっと加持のやつ……』

 

「リョウちゃんらしいやり方よね。昔父親と何があったか知らないけれど、たぶん自分の父親とは違うスタンスで父親をやりたいのね、リョウちゃん。まあ、仲が悪いよりはいいと思って、諦めるしか無いんじゃない? それに彼、多忙だもの」

 

 リツコの言葉に、ミサトが怒りで顔を真赤にした。

 

『多忙なのは私も一緒だってーの! 億単位の人間の各生存圏代表者の愚痴聞いて、ただでさえ不足気味の物資をどうにかこうにか分配して、それでも足りないってヘイト買って、やれ生産がどうだ資源残量がどうだ封印柱在庫がどうだで毎日陳情書類の山山山、やってらんないわよ!』

 

(うわー、仕事のストレスに育児ストレスが両方爆発寸前かしらねこれ……)

 

 ミサトの語気に思わずアスカは眉を潜めた。片頬がひきつる自分を自覚する。

 

 元々が前線肌の実務家タイプの女性だ。それが、政治家として立ち振舞い、慣れもしない派閥間の角逐の仲裁、彼女と敵対する派閥との暗闘、残存人類への本音とかけ離れた内容の演説を以ての鼓舞等々、およそ彼女が好まない仕事ばかりやらされている。

 

 その上、目下、9年前に生まれた子供の育児に悪戦苦闘で、彼女の亭主である加持リョウジは仕事を理由に家を離れがちとなれば、ストレスという爆薬を内部に溜め込むだけ溜め込んだ爆弾と成り果てていてもおかしくは無いのかも知れない。

 

 そんなアスカの表情に気づいたのか、慌ててミサトが笑顔を取り繕った。カメラに向かってか、違う違うと言わんばかりに両手を振る。

 

『まあ母親なのいいことに、総司令だっていうのにそこそこ定時退勤させてもらってるから、そういう意味ではマシはマシなのよ?

 総司令って言っても、実際のとこ決裁と責任取りが主要な仕事だし、ツカサとの時間も取れてるから、アスカは心配しないで。立場が立場だから、食事にも困らないで済んでるし、子連れ出勤制度もあったから、まだツカサが幼くて目が離せない時期は一緒にいてあげられたし。

  時代を思えば、贅沢な立場なのも確かだから、あんまり文句も言えないわよねー」

 

(愚痴を言うのは一種の甘えと分かった上で、言う程度には生活にもメンタルにも余裕があるか。それなら大丈夫かしらね、ミサト)

 

 ミサトの表情と態度からそれを気取り、アスカは少し安心を覚えた。

 

(母親やってくれるっていうわたしたちとの約束、今も守ってくれてるんだ。良かった)

 

 内心でそう呟きつつ、ふと気になったことをアスカは問うた。

 

「そういえば、ペンペン二世、急に調子崩したりしてない? 回してもらった凍結細胞ベースに再調整して生まれたクローン体だし、もし変調があるようなら──」

 

『大丈夫大丈夫、ツカサと仲がいいって言ったでしょう? 元気そのものよ。

 ──本当にありがとう。あの時は、余計な気遣いなんてしなくていいって言っちゃって、悪かったわね。わかってないのは、私の方だった。

 ペンペン、ずっとあなた達やツカサと楽しそうに過ごしてたけど、実はあの子もずっと孤独だったってことに、私、気づいてなかった。

 当然よね。あの子はペンギンで、わたしたちは人間。仲良くできても、同族ではないもの。きっと番いがずっと欲しかったし、ずっと子供も欲しかった』

 

 懐かしげに、そして哀しげに、葛城ミサトは目を細めた。

 

『ペンギンって、愛情深い生き物だったのね。知らなかった。種によっては、子供を喪ったとき、その喪失に耐えられなくて、他のペンギンの子供を奪おうとするって話、聞かされて驚いたわ。

 ──ペンペンも、そうだった。ヴンダーから送られてきた、まだ親の顔を見たこともない、あなた達が胚から培養した雛──ペンペン二世を見た時、見たことのない歓び方をしたし、わたしたちが餌を与えるのを拒んで、自分が食べた餌を直接ペンペン二世に与えもした。親のペンギンが食べて消化したものでないと、雛のペンギンはお腹が受け付けないのよね。

 元々は実験体で、ペンペンも親に育てられたことなんてなくて、同族を見たわけでもなければ、長らく飼育されて処分される寸前だった子。なのに、本能なのかしらね、同族の雛の育て方を、ちゃんとあの子は知っていた』

 

 ミサトがどこか遠くを見るような目で、何かを懐かしむような表情を浮かべた。自嘲のような、悲しみのような笑みが、その頬に浮かぶ。

 

『ペンギンの多くは愛情深い生物で、多くが妻と長く添い遂げる、なんて話も加持から聞かされたわ。ずっと一緒にいたのに、そんなことにも気づいてあげられなかった。

 わかったつもりで何も分かってなかった。

  あなた達がそのことを知って、ペンペンに子供が必要なんじゃないか、なんて提案にも、そんな時代じゃないって、頭ごなしに拒否さえした。切羽詰まってたとはいえ、嫌になるわよね。

 でも、あの子がペンペン二世に与えた素直な愛情が、私に親として子供にどう接すればいいか、教えてくれた。私みたいな女が、親をやれるか、不安で仕方なかった。

 でも、あの子は、老いて死ぬ前に、ただ素直に子供を愛して、尽くして、それで子供が育つことが幸せで、嬉しいって言うことを教えてくれた。だから、ツカサの親をやれてる。やれてるんだと思う』

 

「ミサトは昔から、親をやれてたわよ。処分される定めだったペンペンを助けもしたし、わたしたちのことを放っておくこともできなかった。シンジと私にとって、まともな人生と言えるものって、第3新東京市で、ミサトの家で暮らしてたときだけよ」

 

 アスカは過去を振り返る。

 

 選ばれず、捨てられ、居なくなることを恐れなくていい毎日。

 昨日と変わらない今日、今日と変わらないだろう明日が来ることを無邪気に信じられていたあの頃。

 自分の恋心に無自覚で、その感情の意味にも気づかないまま苛立って、苛立ち任せにどんくさいやつと彼のことを罵っていた。

 

 そんな幸せな日々はもう終わってしまった。けれど、それは残照として胸の中に残っていて、その暖かさは胸の中に残っているし、そしてその暖かさは今も生きているし、それで分かることもあれば、行動できることもある。だから、終わってしまったとしても、それはきっと絶望ではないのだと、今は素直に思うことができた。

 笑みこそすれ、目から哀しみの気配が失せない葛城ミサトに、アスカは微笑みながら言う。

 

「自信持って。ミサトのおかげでペンペンは幸せに生きて、きっと幸せに寿命を終えられた。ツカサ君もそう感じてた。あの子はペンペンと生まれたときから一緒に過ごしてた。こういう時代だから、彼にとってペンペンは最初の、そして貴重な友達だった。

 私、あの日、彼から聞いたの。通信ごしだけどね。

 ペンペンの死を看取った時、それがただの喪失じゃなくて、ペンペンに子供を託されたんだって思えたって、今度は僕が守る番だって言えたのも、ミサトが最初にペンペンを死の定めから救ったから。そしてミサトに人間としての生き方を教えてもらえた私が、友達を助けるためクローンの研究を始めた。その研究が、ペンペン二世を生んだ。それが今に繋がっている。因果は回る糸車、縁なのよ」

 

 ミサトに同居を命令されてから、一緒に暮らしたのは半年程度だったろうか。たったそれだけの時間が、今も胸で温かいから、戦えているという実感が、アスカにはあった。自分が壊れずに、自分を人間もどきだと、人形だと見限らずに済んでいるのは、あの日々が私の心を致命的な破断から護ってくれているからなのだと、信じられる。

 アスカは言葉を続けた。

 

「だから、大丈夫。ミサトの仕事や、わたしたちの戦いも、そういう形で沢山の人達を助けられている。ミサトの頑張りが、多分ミサトが知らないうちに、そういう思いをたくさん汲み上げて、救い上げることができている。だから、私達はミサトに人類を託したし、ツカサくんの──生き延びた人類の、親をやってほしかったし、親をやれてる。大変かもしれないけれど、それは多分、誇っていいやつ。誇ってほしいわよ。私だって、救われた口なんだから」

 

 その言葉に、モニタの向こう側で葛城ミサトは微笑んだ。

 

『ありがとう。そして、ごめんね。もう10年も経つのに、私はあなた達をその船に閉じ込めてしまっている』

 

「しょうがないわよ。第9の使徒はトリガーとして贄にされたとはいえ、その情報は幽霊のように、私とシンジの脳に刻まれているもの。ユーロネルフのエヴァ弐号機の改装プランにも、使徒の血を機体に流し込み、弐号機を強制的に使徒化するものがあった。

 つまり私もシンジも、やりようによってはインパクトのトリガーとして運用可能ということ。それに、最初のニアサードの引き金を引いたのが私達なのは事実だし、恨んでる連中も多い。全部片付くまでは、ヴンダーの中のほうが安全だもの」

 

 さらに言葉を続けようとするアスカの言葉に、不意に赤木リツコの冷えた言葉が割り込んだ。

 

「──そうね。今の人類がどうにかなる前に片付けば、だけど」

 

『どういう意味?』

 

 ミサトが、その言葉に怪訝そうな表情を浮かべた。アスカが目を伏せる。リツコは、義務的な、冷静かつ冷徹な表情のまま、ミサトの疑問に答える。

 

「戦闘艦橋のシンクロ運用時の脳波データを確認したの。私が艦橋側で計測したデータと、医療科で鈴原サクラ少尉が計測したデータを照合したのだけれど、シンクロ率上限を最低限に絞ったにも関わらず、多摩ヒデキ少尉以外は異様に高いシンクロ効率を示した。

 特に、北上ミドリ少尉は異常ね。本人は黙して語らないけれど、相手が言葉を発するより先に、艦長や他の脳波と彼女の脳波が信じがたいほどに同調していた」

 

 リツコの言葉に、ミサトが表情を陰らせた。彼女自身、察するものがあるのだろう。しかし、構うことなくリツコは続けた。

 

「N2セイリング中に至っては、言葉を発してこそいないものの、やはり艦長の脳波と異常な同調状態を示していた。艦長は、母親由来の因子を持って生まれた『仕組まれた子供』よ。だからこそエヴァとシンクロできた。彼女のそれはエヴァの稼働域にこそ達していないにせよ、恐らくは艦長と対話できるほどのシンクロを達成したと推定される──渚カヲル前ネルフ司令が残した言葉と符合すると見て良さそうね。私達人類が歩む2つの定め、そのいずれかに向けて、世界は急速に収束しつつある」

 

 リツコの言葉に、アスカが頷く。

 

「カヲル野郎、言ってたわね。

 知恵の実を食した人類に神が与えた選択は二つ。生命の実を与えられた使徒に滅ぼされるか、使徒を殲滅し、その地位を奪い、知恵を失い、永遠に存在し続ける神の子と化すか──生体組織の置換。知恵の実を持つ脆い肉が、完全ではないとは言え、サードインパクトの発動によって僅かずつだけれど生命の実の肉に置換されつつある、か。

 私達と同じ。全てのリリンがリリンもどきを経て『生命の実』の生命へと置き換わりつつある。L結界内部における、リリンの形象崩壊およびコア化は、その劇症の置換に過ぎないのよね、多分。封印柱内部にあってなお、一度サードインパクトの余波を浴びた以上は、私達エヴァパイロットほどではないにせよ、段階的に知恵の実由来の細胞の、死を前提とした新陳代謝による脆い生体活動ではなく、コアとコア組織を由来とした生体活動に置き換わってゆくことになる」

 

 成長と変化を止め、マギプラスと思考調節を用いない限り眠ることすら叶わない、呪われた我が身を思いながら、アスカは言葉を続けた。

 

「そして、脳の可塑性と思考は、脳細胞のタンパク質構造を用いたアナログ式制御と、脳神経回路を走る電流によるハイブリッド式、シナプスの可塑性と生体活動由来である以上、その新陳代謝が思考活動の重要な因子となる。

 完全に脳組織がコア及びコア由来物質に置換された場合、リリス由来──新陳代謝による思考活動はおそらく完全に停止するわ。

 つまりは新たな使徒として、思考する能力を失い、寿命を迎えた太陽が巨星化し地球を焼き尽くすまで、この惑星をさまよい続けることになる。ゾンビみたいにね。

 アヤナミシリーズやシキナミシリーズがエヴァとシンクロできるのは、サードインパクト以前の段階から『生命の実』の因子を体内に持つよう設計されていたから。だから、リリスやアダムス由来の意思無き生命、エヴァと思考を同調させ、我が身のように操ることができるわけで。

 そして、今回上限を最低限まで絞ったにも関わらず、本来それらの『生命の実』の因子を持たないはずのリリンであるブリッジクルーが、異様なシンクロ効率と意思同調数値をはじき出した以上、その進展が、私達の想定よりも加速している、と考えて良さそうね。

  滅びの子と定められ、栄光の王国に棲むことを許されず、太陽に灼かれるまで、あるいは灼かれてもなおこの世界の辺獄をさまよい続けることを定められた生命に成り果てる。ドーン・オブ・ザ・デッド。知恵の死はヒトとしての死に等しいものね。なるほど、カヲル野郎が『絶望のシナリオ』というわけだ」

  

 アスカの言葉に、リツコが頷く。

 

「ええ、そういう意味ではもうゲームは負けたと言ってもいいのかも知れないわね。10年前のニアサードで、リリスとの盟約が限定的とは言え達成されてしまった。ならば、遅かれ早かれ私達は知恵なき獣と成り果てる。遅くて10年、いえ、今回のブリッジクルーのシンクロ数値を参照する限り、5年かも知れない。それはあくまでも現状維持が前提で、ネルフの行動如何によっては、加速することも充分考えられるわ」

 

 リツコとアスカの言葉を聞いた葛城ミサトの眼光が、鋭さを取り戻した。

 諦め絶望するという言葉は、彼女の胸の辞書にはないことを、式波・アスカ・ラングレーはよく知っている。

 

『負ける確率だけを語っても仕方ないわよ。勝率が1%未満としても、確率を上げる努力を死にものぐるいでしなければ、奇跡は起きない。可能性は?』

 

「ゼロではないわね」

 

 リツコが頷く。

 

「綾波家。アヤナミシリーズおよびシキナミシリーズ量産前から存在した、エヴァとシンクロできる、生命の実の因子を宿した一族。

 L結界内部を探索し、綾波家の伝承を書き残した古文書を収集し、調査を行ったレイの報告が正しければ、450年以上前、イエズス会来日とともに訪れた修道女が、綾波家の直接の祖先。

 その後の豊臣政権・江戸幕府・明治政府初期のキリスト教弾圧から隠れながら現代まで血統をつないできた。まずゼーレの仕込みとみて間違いないわね。

『約束の日』、彼らの想定する神へのレジスタンスたる人類補完計画のため、彼らが長い年月をかけて用意してきた、供犠としての一族。その子孫が綾波ユイであり、そして彼女の息子である碇シンジ艦長。

 重要なのは、綾波家の人間は、生命の実の因子持ちであるにも関わらず、寿命があったこと。それがゼーレの仕組んだことであるにせよ、生命の実の因子に侵食されることなく、知恵の実の因子と共存しながら、人間としての生態を保った。けれど、もうサンプルは残っていない。

 碇ユイはダイレクトエントリー実験で初号機コア内部にて消失。分家筋の大井レイは、第二次ニアサードインパクトで贄として使われてしまった。ゼーレが大筋の計画に従い、彼らの望まない形で旧人類が生き残るのを防ぐため消費しつくした、と見るのが妥当かしらね。補完の未来に人類を収束させ、人類を肉体の枷から解き放つため」

 

 リツコの言葉に、アスカは苦り切った表情を浮かべた。14才の頃でであれば、悪態とともに唾を吐き捨てる程度のことはしたかもしれない。

 

「この世界の本質は悪であり、悪である物質に支配されるがゆえに善なる魂は物質の悪に汚染され悪に染まる。故に人は脆い肉の檻から開放され、純粋な精神として真善の世界、イデアへとたどり着かねばならない、ってとこ? 思うのは勝手だけれど、他人まで巻き込まないでほしいわね。ま、生命の実の存在である使徒という競合存在と、使徒への勝利が人の精神の死と宿命づけられているが故に、絶望してトチ狂ったのかも知れないけれど」

 

『いずれにせよ、綾波家筋を当たるのは難しい状況ね。二度に渡るニアサードで、9割以上の人類が失われてしまった時、仮に他の分家が存在したとしても家が絶えている可能性が高い。それに生きていたとしても、インパクトによって生命の実の因子が不活化され、もはやサンプルとして用をなさなくなっている、か。真希波・マリ・イラストリアスは、例外過ぎてサンプルとは成し難い。厳しいわね』

 

 顔の険しさを増したミサトに、リツコが応える。

 

「ただ、レイは足掻いているわね。少なくとも、捕虜にしたアヤナミシリーズの生体調整によって、知恵の実の生命としての旧生命の延命をあの子は考えている。実際、あの子が手掛けたアヤナミシリーズは低圧L結界環境にも、封印柱内環境にも適合し、本来の設計を遥かに超えて稼働し続けているし、成果ゼロでもないわね。もしもっと彼女に協力する科学者や、相応の予算、設備があれば、タイムリミットに間に合ったかも知れない」

 

『レイの成果は確かなものだけれど、人類数の絶望的減少の結果、研究者が致命的に減少し、結果として研究速度が鈍化、おそらくタイムリミットに間に合わない、か。キツイわね』

 

「そうね。正直デッドエンドと言っていい状況よ、私達」

 

 俯くリツコをアスカは見つめる。そして、口を開いた。

 

「でも、シンジは諦めてないわよ」

 

 アスカの言葉に、リツコが頭を振る。

 

「彼のそれは妄執よ。第二次ニアサードでリリス結界が発生した以上、大井レイは人の供犠としてカシウスにより消失したと断定できる。その犠牲が私達を生かしている、ということを認めたら、彼自身が動けなくなるだけだから、まだ助けられると信じる。その自己欺瞞によって、どうにか自分を稼働させている。

 一種の発狂と言ってもいいかも知れないわね。本来なら艦長から更迭したほうがいいのかも知れないけれど、彼の能力の優秀さは折り紙付きで、恐らく代替は効かないわ。先の防空戦でも、彼が艦長を務めていなければ、私達は敗北していた」

 

 俯いたリツコの表情は、複雑そのものと言ってよかった。碇シンジが彼女にとり良き弟子であることは事実であり、また学んだことの応用力も極めて高い。今回の爆雷戦一つとっても、師であるリツコの教えがなければ、着想に至らなかったことは疑いない。彼女にとり、疑いなく彼は愛弟子なのだ。

 しかしリアリストでもある赤木リツコにとり、碇シンジの大井レイへの妄執は、危険なものとしか思われないのだろう。それは、彼の父親である、碇ゲンドウの碇ユイへの執着に近似しているように見える。

 

 けれど、とアスカは思うのだ。

 

「単なる妄執じゃない。アイツには多分、アイツなりの根拠がある。

 アイツが心のなかに、私には見えないブラックボックス──心が繋がった存在に対してすら見通すことの敵わない、おそらくはアイツ自身にすらも見えるかどうかわからない一種の思考と記憶の暗黒領域を作って長いけれど、それは断言できる。

 それにアイツは碇ゲンドウとは違うわよ。AAAヴンダーの運用、私達だけでも良かったのに、旧ネルフ司令部のみんなを受け容れ、そして今度は500人の新人を受け容れた。

 あいつも私も、ネルフにとっては最重要ターゲット。状態が状態だから扱いづらいとは言え、第9の使徒の因子を持っている」

 

 リツコと画面向こうのミサトを見据えながら、アスカは静かに言葉を続けた。

 

「向こうがどのシナリオを使うにせよ、最後の儀式のトリガーとして私かシンジを使う可能性は否定できない。予防措置はしているけれど、それを使えば私達を用いたヴンダー運用は不可能になる。他の誰かが、ヴンダーを動かさなければならない。自分が居なくなっても、誰かに自分の夢を引き継いでほしい。それがどういう形であれ。アイツはそういう覚悟を決めた。だから、他人をヴンダーに引き入れた。彼らを、自分の後継者たりうる人びとを育てる覚悟を決めた。

 私達に子供を作ることは許されない。リリンもどきの段階をとうに越えた使徒もどきの番が交配して子孫を作った場合、何が生まれるかわかったものじゃない。

 それ自体が旧生命を滅ぼす新生命となる可能性もある」

 

 一瞬、アスカは目を閉じた。それを強いられた現実に逆上し、全てを呪った10年前を思う。遠い昔のようであり、けれどその悲しさは今も胸に強く焼き付いている。

 それは彼も同じで、だからこそ、ということが、アスカには誰よりも分かっていた。

 

「だから、子供の代わりに、技術と知恵を残すことに決めた。かれらがそれをどう使うにせよ、自分の想いと意思の形を残し、ヒトが生き残る可能性を少しでも上げたいと考えた。そういう決意よ。ジーン(遺伝子)で子孫を残すことが許されないなら、せめてミーム(意伝子)をヒトに残すという覚悟じゃないの。

 大井さんへの拘りは、その一つの現れでしかない。

 可能性がある限り、あいつはその全てを追求し、ゼロを観測するまで諦めない。そしてあいつは彼女の生還確率はゼロだと思っていないから、諦めてない。奇跡を信じず奇跡へ至る努力を諦めたものには、決して奇跡は起こらない。ミサトが教えたことよねこれ。

 それに、二人共知ってるでしょ。アイツ、こうと決めたらてこでも譲らない頑固者だもの。そしてその頑固さが意思の強さとなり、10年を戦い抜く原動力となり、その御蔭でいまも人類は生き延び続けている。誰がどう思おうが構わないけれど、私はシンジのその意志に賭ける」

 

『10年添い遂げた女の言うことだけあるわね、アスカ。

 自分に隠し事してるのが丸見えなのに、それでも相手を信じられるんだもの。

 ──本当に、大人になったのね、あなた達』

 

 苦笑するミサトの言葉に、アスカも笑みを返す。

 

「10年の腐れ縁で、ずっと同じヴンダーにいたんだもの。お互い外にも出られない。散々喧嘩もしたし、怒りを通り越して憎んだこともあった。

 とても沢山の喜怒哀楽をアイツと交わした。

 だから、信じると言うか、アイツのことは私が一番理解してるのよ。アイツが諦めないのなら、私も諦めない。それだけ」

 

「好きなのね、彼のことが」

 

 少しだけ笑みを浮かべたリツコの言葉に、しかしアスカは頭を振った。

 

「わからないわ。あんまり長いこと一緒に居て、お互い居て当たり前、みたいになってしまってて、お互いに必要でそうしてるのか、頭が繋がってるからやむなくそうしてるのかも、もうわからなくなっちゃった。

 アイツ、八方美人だし、ま、私には勿体ないくらいいいやつだし。

 だから、全部終わったら、自由にしてあげたいわよ。私はまあ、籠の鳥みたいなものだし、生まれもろくなもんじゃない。生まれてからこっち、ずっと戦うことばかり。其れ以外の景色をくれたのはミサトとアイツだけ。

 仮に万一うまくいったとして、人類のことだもの、ハッピーエンドとはならないでしょ? なにかしらドンパチは起こるだろうし、今もミサトは政治の場で鉄火場やってる。そんなのにいつまでも、アイツを付き合わせるのは、気がひけるのよ。

 自由の素敵さをアイツは教えてくれた。人としての楽しさもアイツが教えてくれた。だから、アイツの鳥かごになってしまってる自分が嫌だし、せめてアイツは自由にしてやりたいのよ。まだ叶わない夢だけど」

 

「添い遂げよう、とはおもわないのかしら?」

 

「まさか。戦いしか知らないシキナミシリーズなんて、アイツには似つかわしくないもの。それに、何もかもうまくいったとして、娑婆での生き方なんて私には想像できない。戦ってるほうが気楽なのよ。アイツ、無理してるけど、そういうのが好きなタイプじゃないし、無理して付き合わせる必要ないし。アイツのことを大事に思ってる子は私一人じゃないし、元々私は一人が楽だし。

 ま、全部片付いた後、振ってやるだけよ。アイツ、顔には出さないけど、疲れてるもの。私が『嫌です』って言えば、そうですかで別れてくれるわよ」

 

『アスカ、本音で言ってる?』

 

 ミサトの目が、詰問のそれになった。表情が少し険しくなる。

 

「わかんない。アイツが疲れてるように、私もそこそこ疲れてる。それだけよ。ずっとふたりで同じ場所だもの。一人で外の空気を吸いたい、そんな気分にもなるわ」

 

『信じてはいるけれど、近すぎて距離感がわからなくなってる。

 まあ外野の言うことじゃないけれど、そんな考え方だと幸せになれないわよ、貴女』

 

 彼女の言葉に、アスカは自虐気味に笑った。

 

「私には幸せは似合わないらしいから、それでいいのよ。

 それに、幸せがわからないの。

 幸せは数字にできないもの。楽しいや悲しいはホルモンの数値で計測可能かもしれないけれど、幸せって脳内物質だけで決まるものじゃないでしょ?

 そういう不安定なものを理解する必要ないし、あてにもしたくない。だからわからないままでいいの。

 そうね、こういう考え方だから、幸せが似合わないのかも知れないけれど」

 

『アスカ』

 

 モニタ向こうの葛城ミサトが、まっすぐに、式波・アスカ・ラングレーを見た。

 先程の詰問の表情は消え、柔らかな笑顔を浮かべていた。ヒトという種が家族に向ける、それは心からの親愛と、思いやりの笑みだった。

 

『あなたには言っておく。

 散々愚痴を言ったけれど、でも、少なくとも、今、私は幸せよ。

 加持が生きてくれた。加持の子供を授かって、産んで、育てることができた。

 ペンペンに家族を作ってあげられた。ペンペンの死を看取ることができた。

 ツカサとペンペン二世が仲良くしているのも嬉しいし、色々文句言いながら、日々大きくなっていくツカサを見守れるのが嬉しい。

 私は今、幸せなの。

 そして、私にその幸せをくれたのは、シンジくんと、あなたなのよ。

 そのことを、忘れないで』

 

 怪訝な表情を浮かべるアスカから目をそらさず、ミサトは告げた。

 

『幸せって、探しても見つからないの。それは、気づいたらなっているものだから。

 でも、それは、気づかないうちに逃げてしまうものでもある。

 いつかわかるわ、アスカ。だから、決めつけないで。あなたは私を幸せにできた。だから、あなたも幸せになれる。きっとね』

 

「どうかしらね。生まれてこのかた戦ってばかりだもの。気づく自信なんてない」

 

 どこか諦めたような、少しくすんで乾いたアスカの微笑みを見ながら、葛城ミサトは言葉を連ねる。

 

『自信なんてなくてもいいのよ。私だってなかった。

 いつの間にかなってるのよ。経験者は語るってヤツね。

 幸せって、そういうものなの。それだけは、信じてちょうだい』

 

 アスカにはわからない。もしかしたら、一生わからないかもしれない。

 ミサトの言葉にどう答えていいか、彼女にはわからなかった。

 けれど、葛城ミサトが、彼女の言う通り、本当に幸せであることだけは理解した。

 

 故に、式波・アスカ・ラングレーはミサトの言葉に黙って微笑んだ。

 自分自身のためではなく、葛城ミサトの幸福を喜んで。

 

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 艦橋構造体下部、中央艦隊後方の通路脇にその部屋はあった。

『テラフォーミング実験室』と明朝体で記されたプレートが貼り付けられたドアの前に、北上ミドリは佇んでいる。

 自室ベッドで休んでいる時、不意に艦内用スマホに届いたショートメッセージには、『預かりものがある。テラフォーミング実験室まで来て』とだけ記されていた。

 彼女からの急な呼び出しに、しばし惑った後、結局彼女は応じることを選んだ。

 しかし、ドアの前に来てなお、逡巡がある。

 レーコ姉さんに瓜二つで、けれど表情も態度も別人の彼女。

 レーコ姉さんを守りきれなかったことを、唯一謝罪してくれた彼女。

 会って、何を話せばいいのか。

 会って、何を聞けばいいのか。

 10年前のことであれば、聞きたいことはいくらでも浮かんでくる。

 けれど10年前の第二次ニアサードインパクトの真相については、現状多くが機密指定状態のままだ。

 いくらブリッジクルーになったとはいえ、権限がない以上、真実についての情報は、私が満足できるほど得られるわけがない。

 なのになんで来ちゃったんだろう、私。多分、イライラするだけなのに。

 断ればよかったのに。

 自分で自分の気持がわからないまま、解錠もノックもできず、ミドリはただドアの前で立ち尽くしていた。

 しかし、不意に目の前のドアが開く。

 蒸し暑い空気と湿気が、開いたドアの向こうから吹き付けてきた。

 風の中には、強い、土の匂い。姉と歩いた野山の記憶が、不意に脳裏に蘇る。

 そして、ドアの向こう。

 目の前に、麦わら帽子をかぶった、姉と瓜二つの顔がある。

 麦わら帽子、青みがかった白髪、汗の滲んだ額。姉と同じ赤いアルビノの瞳。

 ごくわずかの微笑みを、目元と口元に浮かべていた。転覆した内火艇の連中用のバスタオルを運んできた時も、交戦の際の音声でも、プラグ内の戦闘中記録映像でも、彼女は声音も顔も無表情なままだったし、アヤナミシリーズは意図的に感情が未発達のまま抑制されているという話をヴィレの訓練施設での講義で聞いていたので、彼女もまた感情が抑制されたままの存在なのかも知れない、という思い込みがあったのだ。

 汗じみた白いタンクトップ。ベージュのツナギを野良着代わりにして、ベルト代わりに袖の部分を腰に巻きつけ、縛るように前で結んでいる。穿いているのは黒いゴム長靴だった。

 彼女──綾波レイは、右手の土に汚れた軍手を外すと、静かに右手を差し出してきた。

 

「急な呼び出しだったのに、来てくれてありがとう。北上ミドリさん。

 あなたのことは鈴原君から聞いていたけれど、会う勇気が今まで持てなかった。

 ごめんなさい。会う機会も、話す機会も何度も会ったのに、今まで話、できなくて」

 

「いいですよ、別に」

 

 差し出された右手を見つめ、しかし自分は手を下げたまま、北上ミドリは目をそらした。綾波レイから、微笑みが消えた。

 

「どうせ会って話しても、艦長のこと問い詰めるだけだし、大尉さんも機密で話せないっしょ。じゃあいいですよ」

 

 どこか口調が捨て鉢になる自分が、嫌になる。艦長や副長とは違う。この人は多分悪くないのに。姉さんを守れなかったことを、謝ってくれた人なのに。

 綾波レイは、表情を消したまま、頷いた。

 

「そうね。艦長たちのことで、話をしても納得してもらえるとは思わない。

 だから今日は、レーコさんのことで呼んだの」

 

「レーコ姉さんのことで?」

 

「そう。あの人からの、預かりものがあるの。

 偶然だけれど、渡せるタイミングだったから。ついて来て」

 

 身を翻し、ミドリに背を向け、綾波レイは歩き出した。

 預かりもの。姉さんからの。10年前の。

 離れていく背を逃したくなくて、北上ミドリは慌ててついて行き、部屋の中へ歩を踏み出した。

 第三村を思わせる、蒸し暑い空気が頬を撫でる。

 土の匂いが、さらに深くなった。

 驚くほど照明が強かった。思わず目を細める。

 まるで日差しじゃん、と北上ミドリは思う。

 

「ごめんなさい。あなたのぶんの帽子も用意しておくべきだった。

 この部屋の照明は10万ルクスに設定してあるの。日本の真夏日程度の照度。

 元々は火星のテラフォーミング実験用の施設で、本来撤去予定だったのを、わがままを言って残してもらったの」

 

「わがまま?」

 

 問いながら、北上ミドリは四方を見渡す。

 正方形の部屋だ。天井までの高さは7メートル程度、部屋は一辺30メートル程度はあるだろうか。

 天井全体が発光しており、そこから放たれた強い光が、が格子状に敷かれた通路と、それら通路に区切られた数々の畑を照らしていた。

 

「ええ、わがまま。AAAヴンダーから生命種保存機構を撤去する際、本来この区画も撤去される予定だったの。元々はイズモ計画の人類移民先の第一候補だった、火星への移民実験を行うための、一種の実験場、バイオスフィアだったの。

 でも、火星には地磁気がほとんど存在しないから、太陽風や宇宙線への防護策を講じる必要があった。それに、重力も弱すぎる」

 

 通路と、構造を支えるための支柱などで区切られた、それぞれの畑でそれぞれに育つとうもろこしや、トマト、ナス、きゅうりなどの様子を見て回りながら、綾波レイは施設についての説明を続けた。

 

「そうなると、ヴンダーのアダムス組織を培養して地下都市を作るという話になるのだけれど、火星の土に大量に存在する過塩素酸塩の問題があった。

 それに基本的に、地球の生命種は1G環境前提で進化してきた。

 火星の重力は地球の3分の1程度。長期間暮らすとなると、居住生物のための重力制御が必須となる。地下都市で重力前提となるなら、月で良いのではないか、という話になったのだけれど、月も構成組織が原因か、内部からコア状物質が格子状に染み出して、地下都市開発が考えられない状態となってしまっている。他の惑星は論外であることが、イズモ計画中止、フォースインパクト阻止を主目的としたヤマト計画推進へヴィレが舵を切った理由。

 ごめんなさい、無駄話が過ぎた。ここよ」

 

 綾波レイが歩を止める。

 北上ミドリは、綾波レイの視線の先を見た。

 そこに広がっていたのは──

 

「すいか?」

 

「ええ、すいか畑。祭ばやしという品種。丁度、収穫の頃合いだったの」

 

 6メートル四方程度の畑を、つると複雑に先端が分かれた葉、そして敷き藁が埋め尽くしている。所々に、大きな縞模様の、鮮やかなビリジアングリーンの地に、黒緑色の縞が等間隔で走った大きな丸い玉状の果実が転がっていた。

 

「藁は第三村から送ってもらったものなの。敷き藁をしないと、果実が傷んでしまうから。玉回しは私以外にも、赤木博士にも手伝ってもらっていたの。あの人も、植物のお世話、好きだから」

 

「はぁ……」

 

 そういえば、基本的にヴンダーの食事は有機物循環・栄養添加で制作するペースト食がほとんどだったけど、たまにおかずにスライストマトがついたり、ピクルスや浅漬がついてくることがあったけど、ここで作ってたのね、などとミドリは考えた。

 超がいくつもつくほどの巨大な戦艦、空飛ぶ科学の要塞のようなシロモノの中に、これだけ広い畑があるということに、妙な非現実感を彼女は覚えている

 レーコ姉さんがこの景色を見たら、どう思うだろう。

 そんな事を考えていると、綾波レイが大玉のスイカの一つに触れて様子を見ていた。25センチはあるだろうか。実の上のつるにつけられた、日付を記したラベルを見、そしてそのすいかを持ち上げて重さを見た後、

 

「これがいい」

 

 ツナギのポケットから剪定ハサミを取り出し、そのすいかのつるを切り取り、綾波レイは大切そうにその果実を両手で持ち上げた。

 そして、北上ミドリに差し出す。

 

「これ。あなたに」

 

 ミドリは戸惑ったまま、両手ですいかを受け取った。

 余程身が詰まっているのだろう。重い。9キロはあるだろうか。

 本物のすいかなんて、何年ぶりに見ただろう。ニアサーの後は、配給のペースト食やオートミール、雑炊ばかり食べてきたし、ヴィレの訓練施設でも専ら食事はペースト食ばかりだった。飢えるよりはマシとは言え、味気なく食べごたえもないものばかり。

 これくらいのすいかとなると、今では手に入れるのは余程の社会的地位が必要となる。闇で売れば、きっと相当の金になるだろう。

 けれど、多分そういうことではないのだということが、ミドリには分かった。

 

「遅くなって、ごめんなさい。

 ようやく、あなたにこれを、届けることができた。

 10年かかってしまったけれど、これがあの人の望みだったから」

 

 10年。

 その言葉で、北上ミドリは理解した。

 

「レーコ姉さん、10年前、もしかして」

 

 そのミドリの言葉を聞いた綾波レイは、とても懐かしそうな顔をした。

 今ではないはるか昔、もう思い出になってしまった過去を見つめる目をしていた。

 

「今のクレーディトの長官、加持リョウジ長官と、私達と、あの人で、スイカ畑に行ったの。その頃はもう戦争の前だったし、あなたに持っていくお土産に、あの人は悩んでいた。それで、加持長官は、あの人に言ったの。丁度いい土産があるって。私達とあの人は、加持さんについて行って、スイカをもらって、みんなで食べたの。

 あの人はとても喜んでいた。こんなに甘くて美味しいすいかははじめてだって。絶対にあなたが喜ぶって、何度も言っていた。

 今はもうその畑はなくなって、すいかはあなたに渡せなかったけれど、種だけは残った。

 だから、わがままをいって、ここを残して、増やしたの。広いからすいかだけ、というわけにはいかなかったけれど。

 それに、すいかは連作すると病気になりやすくなるから、畑を変えながら栽培する必要もあった」

 

 何か、熱いものが、胸にこみ上げるのを、北上ミドリは感じた。

 この人は、10年前、レーコ姉さんと約束して。

 でも、世界があんなことになってしまったから、その約束を守れなくて。

 でも、その約束を果たしたくて、今まで、ずっと、姉さんが私に渡そうと思っていたすいかを、子孫という形で、この船の中で守り続けていたんだ。

 ミドリは、彼女の顔を見た。

 綾波レイの表情に、再び微笑みが戻っていた。約束を果たせた安堵からかも知れない。

 優しさを少しだけ含んだその笑顔は、レーコ姉さんのそれとはちがう。

 けれど顔は同じで、そして、その優しさも、たぶんきっと、よく似ていた。

 

「畑を変えながら種を増やして、育て方も加持リョウジさんに確認したの。最初の内は親つるや子つるの摘み方も、摘果の要領も、玉回しのタイミングもしらなかったから、実がうまく詰まらなかったり、甘くならなかったり、片面だけ白くなってしまったり、身が割れてしまったりして大変だった。

 けれど、ようやく満足できる物ができるようになって、あなたに渡すことができた。あの人との約束を果たすことができた。友達との、大切な約束だったから。だから、ちゃんとあの時と同じ味のものを渡したかったの。仕事をしながらだから、ちゃんと育てられるようになるまで、こんなに時間がかかってしまった。ごめんなさい、もっと早く渡せなくて」

 

「いいよ」

 

 ミドリは受け取ったスイカを、宝物であるかのように、大切そうに、落とさないよう抱きしめながら、顔を伏せた。

 

「いいよ。聞きたいこと色々あったけど、今日は大尉の言う通りにする。

 今日は聞かない。余計なことは忘れる。今日は。今日だけはそうする。

 だから、一つわがまま聞いて」

 

 自分でも声が震える。カッコ悪い。ダサい。分かってる。

 甘ったれた考えだ。ただの未練だ。そんなの分かってる。

 でも。この人なら。この人なら分かってくれる。だから。

 

「何?」

 

 問う声が、艦橋で聞いたときのそれよりも、やっぱり優しい。

 北上ミドリは思う。

 この人は姉さんじゃない。

 姉さんじゃない。

 姉さんじゃないけれど、この人なりに、10年、帰れなくなった姉さんの代わりに、その想いを引き継いで、私を思っていてくれたんだ。

 だから、いい。今日だけはダサくていい。

 ダサい。恥ずかしい。未練だ。

 でも、この人は、あまりにも姉さんに似すぎていて、性格からなにから違うんだろうけれど、きっととても優しい人で、そういう優しさに私はずっと飢えていたんだ。

 だから、今日だけ。今日だけだから。

 

「今日、今だけ。今だけでいいから、レーコ姉さんだと思わせてください」

 

「私はあの人じゃない。けれど、それがあなたの望みなら、それでいい。

 あなたは、あの人に、どうして欲しいの」

 

「頭、抱っこしてもらっていい?」

 

 少し身をかがめ、今はもう自分より少しだけ背が低くなってしまった、姉によく似た人の胸の前に、ミドリは頭を下げた。

 

「わかった」

 

 声とともに、不器用に、ミドリの頭の後ろに手が回されるのが分かった。

 綾波レイが北上ミドリの頭を抱き寄せ、胸に抱く。

 汗ばんだタンクトップ生地の濡れた感触と、未成熟な、けれど柔らかな、綾波レイの胸の感触を、北上ミドリは顔で感じた。

 汗の匂い。土の匂い。草の匂い。姉によく似た人の、姉によく似た体の匂い。

 10年前まで当たり前だった、草と土と姉の匂い。

 もう失われ、二度と嗅げない筈だった匂い。

 もう、限界だった。

 目から、何か熱いものが流れ出すのを、北上ミドリは感じた。

 何かをいいたくて、けれど声にならず、しわがれて歪んだ声が自分の喉から漏れる。

 この人は姉さんじゃない。

 姉さんじゃない。姉さんじゃない。

 わかってる。分かってるけど、この匂いはだめだ。

 こんなにも草と土の匂いが溢れた場所で、姉さんそのものの匂いを嗅いだら、だめだ。

 気が狂いそうな懐かしさ。郷愁。

 当たり前だったことが失われた事実はわかってる。

 でも、今だけは忘れる。

 この人も、今だけは姉さんになってくれるって言った。

 だから、もういい。今日は、もういい。

 10年味わい続けた孤独と苦痛、寂しさ、その前の楽しかった日々が何もかも胸の中でないまぜになり、胸の奥底で、熱となって破裂した。

 目から喉から、胸から、感情がほとばしり、決壊する。

 

「姉さん、姉さん、姉さん、姉さん、姉さん──」

 

 なんで私を置いていったの。

 第三村は辛かったけど、姉さんさえいれば、きっと我慢できたのに。

 サクラまで巻き添えにして、仇討ちのために乗った船なのに、なんで姉さんそっくりの人が居て、なんでその人はこんなに優しくて、姉さんの約束を、10年も守ろうと頑張って。

 

 すいかなんてもう何年も食べてない、ちゃんとした美味しいものなんて本当にずっと食べてない、けれど姉さんと食べたすいかの味なんてもちろん覚えてて、私すいか大好きで、種も気にせず食べちゃうくらいだったのを、姉さんは覚えてて、だから、お土産にって。

 

 死ぬ気じゃなかったんだ、ちゃんと帰ってくるつもりだったんだ。

 

 だからこの人は守りたくて、多分一生懸命で、守れなくて、そのことに耐えられなくて、だから手紙を書いて。

 そして姉さんとの約束も覚えてて、だから10年も律儀に、1からすいかの育て方調べて、育てて、努力して、私に渡せるよう、ずっと頑張ってて。

 ようやく、姉さんと食べた味になったから、これなら私が喜ぶからって、きっと。

 

 だから、この人は、今だけはレーコ姉さんなんだ。

 

 10年前、お腹が空いた、美味しいの食べたいって我儘言ってた私の我儘に、どうやったら答えられるかって一生懸命考えて、だから私にすいかをお土産に持ち帰ろうって考えた姉さんの想いをずっと護ってくれたこのひとは、姉さんじゃないけど、姉さんなんだ。

 だって姉さんの想いを分かって、姉さんの想いを果たしてくれた人で、こんなにも姉さんの匂いがして、本当は捨てられるはずだった草と土が生きられる場所をこの船の中に残してくれた人は、きっと草も土も大好きで、姉さんも草と土が大好きだったから。

 

 だから、姉さんでいい。今だけは姉さんでいい。

 

 私は大きくなってしまった。

 姉さんはこんなに腕が細かったんだ。華奢だったんだ。気づかなかった。

 そんなに私、大きくなっちゃったんだ。そんなに時間経っちゃったんだ。

 でも、この匂いは姉さんで、この包み込むような優しさも姉さんで。

 

 だから、この人は好きになれる。たぶん、好きになれる。

 姉さんだから。私の姉さんと同じ想いを持っていてくれる人だから。

 絵空事だと思っていたヴィレの理念。戦わせるために掲げていたお題目だと思っていた、あの言葉。

 

『この星に、再び緑を取り戻す』。

 

 そんなの無理に決まってるって、ずっと思ってた。

 もしかしたら上の連中はそうかもしれない。

 

 でもこの人は違う。

 私にだって分かる。この区画を維持するメリットは、AAAヴンダーにはない。

 ここの状態を維持するために、ATフィールドなり重力・斥力制御なりで保護しなければ、土から作物から、なにからひっくり返ってしまうだろう。

 今回の防空戦だって、戦術機動に入る必要なのにレフトハンガー人員避難が間に合わず、トラブルになりかけた。だから、ここを残す必要なんてない。

 

 でも、この姉さんに似た人、今は姉さんはここを守った。

 ここがないと、姉さんとの約束が守れないから。

 

 それだけじゃない。

 きっとこの部屋は、ヴィレがいつかたどり着きたい緑だ。

 人の作った緑。農耕。畑。

 それは自然ではないけれど、それでも、人と作物の共生関係であることには変わりない。

 自然の緑も、畑の緑も、この人は多分好きになったんだ。

 

 赤木博士、葛城総司令の名代でもあるというあの人が手伝っているのなら、上だって本当にあのお題目を信じてる人がいるんだってわかる。

 ここの緑に価値を感じて、ここという道標があるから、赤くない、緑の地球を目指して戦っている人たちだって、信じられる。

 

 姉さんの復讐のほうが、さっきまでは目的として強かった。

 でも、今、姉さんの匂いに包まれながら、この緑と土の匂いを嗅いで、心の優先順位が変わったのを感じる。

 この小さな世界。戦いのための船に、無駄と知りながら僅かに残ったこの緑が、たとえそれが非合理だとしても敢えて残したのだとしたら、それの理由はきっと挟持だ。

 だから、この船に乗って戦えるし、いつかその地球にたどりついたら、姉さんに、この人に、私も少しは胸を張れるだろう。

 

 そうして、北上ミドリは綾波レイの胸でずっと泣いていた。

 全ての感情を涙とともに流し尽くして、ようやく嗚咽が止んだ時、彼女は一つだけ質問を発した。

 

「大尉、姉さんのこと、どう思ってた?」

 

「ともだち。

 あの人はそういう人だった。自分そっくりな私に驚いていたし、コアサルベージで生まれたアヤナミシリーズの最初の一人と聞いてまた驚いていたけれど、そんなことはあの人にとってはどうでも良くて、だから私をともだちと呼んでくれた。

 生まれもエヴァも関係ないの。

 ともだちになりたいなら、ともだちって言えばいいの。

 それを教えてくれたあの人は、私にとって、ともだち」

 

「そうだよ、ね」

 

 わかってる。姉さんは、大井レーコは、人のことがよく分かる人だから。

 だから、生まれ方なんて関係なくて、誰とだってすぐ友達になってしまう。

 この船の誰をどう信じていいかもまだわからない。

 でも、サクラとこの人だけは信じられる。 

 だって、この人は10年間、私だって忘れかけていた姉さんの約束を覚えていて、それを果たしてくれたんだから。今の今まで忘れていた、姉さんとスイカを食べたときの思い出を、思い出させてくれたんだから。

 

 また、少しだけ北上ミドリの目に涙が浮かぶ。

 10年の間に、荒れ果て、やさぐれた心に、姉だった人の匂いが染み込んで、少しだけ、人としての暖かさが蘇るのを感じた。

 

 =====================================

 

 多摩ヒデキ少尉が訪れた艦橋では、艦長が唯一人、自らの席で何かを演算していた。

 この一週間で体力が回復したのか、寝食を忘れて(そもそも必要ない体らしいが)、先の戦闘を踏まえた新戦術や、光子爆雷の運用法などを研究しているらしい。

 

「あの、多摩ヒデキ、出頭しました」

 

 やむなく艦長に声をかけ、敬礼すると、ようやく艦長は気づいたらしい。

 

「忙しい中、呼び出してしまってすまない。

 退艦希望リストで、君だけ『保留』のままだったのが気になったし、君の質問にもまだ答えていなかったからね。気になったんだ」

 

 その言葉が問いかけでないことに気づかないほど、流石に多摩は鈍ではなかった。

 不精不精、応える。

 

「あ、はい。その……なんつうか、俺、このフネに要るのかなって……」

 

 正直に、口にした。

 先の戦闘では驚いたり気絶したりしているだけで、ろくに役に立てた気がしない。

 空間魚雷索敵だって、行ったのは戦術長と戦術長補佐だ。

 同期の北上ミドリ少尉は、なんだかんだと44Aの位置を報告し、曲がりなりにもオペレーティングに寄与していたにも関わらず、自分はほぼ何もできなかった。

 

 無力感ばかりが胸に募る。

 

 退艦したほうがいいんじゃないか、そう思いもした。

 しかし、まだ艦長に発した問いの答えを聞いていなかったということもあるので、ひとまず保留にしていた。保留の理由だって、その程度のものだ。

 自分が現状、つまらない役立たずであることを、思い知るばかりの初陣だったように思う。

 しかし、艦長は頭を振った。

 

「君はこの艦に乗艦してまだ一週間。ましてあの戦闘は勤務初日だった。

 初日は皆そういうものだし、まして君はまだ若い。僕より7、8才は若かったと記憶してる。

 気にしなくていい。僕の初陣の時は、正直もっと酷かった」

 

 そう言って、苦笑を浮かべる。

 艦長の初陣?

 たしか、第4の使徒に、いきなり訓練もなしにエヴァンゲリオン初号機で立ち向かい、結果は──撃破。

 多摩は力なく頭を振った。

 

「艦長、未訓練なのに勝ったはずですよね」

 

「ああ、公式にはそうなってるけれど……実のところ、覚えてないんだ」

 

「覚えてない?」

 

「うん。訓練を全く受けてないから、まともに初号機を動かせなくてね。そのまま一度転んで、使徒に捕まって……第4の使徒にパイルで初号機の顔を抜かれて、その激痛の後は何も覚えて無いんだ。あとは暴走状態で初号機が勝手に倒した。無意識の意思の現れとかなんとかかんとかリツコさんには後で言われたけど、ともかく自力で勝ったとはとうてい言えない、みっともないデビューだったよ」

 

 そう言って、見た目こそ14才なのに、ヴィレのジャケットと軍帽が奇妙に似合うだけの、艦長としての圧を確かにあのときは持っていたはずの人物は、まるで14才の少年のようにはにかんだ笑みを浮かべた。

 

「だいたいエヴァに乗る前だって、目の前に大怪我した女の子がいるし、戦わないと皆滅ぶって状況で、できるわけないできるわけないばかり連呼して……まあ、その大怪我した女の子を代わりにのせて戦わせるとかいう無茶苦茶な話になりだしたから、仕方なく乗ったんだ。自分が乗るのは嫌だったけど、大怪我した女の子が、体から血を流しているのに自分の代わりに戦って死ぬのは、もっと嫌だったから、乗った。

 でも、正直怖くてたまらなかったし、何もできなかった。LCLに浸かってたから気づかなかったけど、多分漏らしてたんじゃないかな。ともかく、それくらい怖かった。

 君はまだいいよ。少なくとも漏らしてない。

 N2セイリングのGで気絶するのは、未経験だからしょうがない。その後すぐ気づいたし、まずは経験して慣れればいい。それに、ブリッジクルーに選ばれる程度には、訓練成績もいい。とくに火器管制と砲術関連の成績は、自慢してもいいんじゃないかな」

 

 そんな艦長の言葉に、しかし多摩は首を横にふる。

 

「でも、どれだけ訓練の成績が良くても、いざって時に体が動かなくちゃしょうがないですよ……」

 

「第5の使徒相手だと無駄弾ばら撒いて無駄に視界悪くした挙げ句、救助した民間人がいるのに頭に血が昇って、残り稼働時間も少ないのに、プログナイフで突っ込んで死なばもろともした馬鹿なパイロットの自虐話でもしようか?」

 

「……」

 

 多摩は黙る。第5の使徒も艦長が初号機で撃破したはずだった。

 そんな彼の様子に、艦長は苦笑を浮かべた。

 

「それに、君にもいいところがある。

 この10年の人類世界はお世辞にも楽とは言えないし、治安が良いとも言えない。

 さらに一通り訓練を受けた。

 年を考えれば、少しぐらいイキがってもいいぐらいの年だし、軍隊なんだから、『敵に引き金を引く』ことに疑問を浮かべないよう訓練で嫌になるほど教わったはずだ。

 なのに、君は質問を僕に送ってきた。言い方は悪くなるけど……そうだね。とても『娑婆臭い』質問だったよ。そこが君のいいところだ」

 

「いや、よくはないでしょう。つい送っちまいましたけど、後で冷静に考えると、降りかかる火の粉なんだから、そのときはそう思っただけで……」

 

「思えたことが大事なんだ」

 

 恥じるように俯く多摩ヒデキ少尉を、艦長は片目を黒い眼帯で隠した隻眼で、まっすぐに見つめた。

 

「ああだから敵は殺して当たり前、こうだから敵は殺して当たり前。

 理由を作れば人間は引き金を引くのをためらわなくなる。

 そうしてくうちに感覚が麻痺すれば、敵も味方も蕩尽して当たり前、と考えるようになる。コラテラル・ダメージなんて用語もある。

 もちろんそれは必要だからこそ生まれた言葉で、殺し合いであるのならばそれは効率よく行われなければならない。けれど、犠牲を当然と考えるようになってしまったら、おしまいだ。

 感覚が麻痺すると、人命を銃弾よろしく蕩尽して当たり前、ということになる。効果がないのに鉄条網と機関銃陣地にいたずらに兵隊を突っ込ませ、死体の山を築き上げた一次大戦のようなことになるよ。

 まして、アヤナミシリーズとシキナミシリーズは人間の両親が居ない、戦闘用のデザイナーベイビー、エヴァを運用するために創られた生命だ。其れ以外のこともできるのに、それを強いられた生命でもある。弐号機パイロットが独自の術式で、可能ならばその点の認識ロックを解除して鹵獲を図っているのは、その点を危惧してのことでもある」

 

 艦長の隻眼に、僅かに怒りが灯る。

 

「アヤナミシリーズとシキナミシリーズなら人間じゃない、殺して当然、なんてなられたら、副長も弐号機パイロットも消費されて当然ということになる。少なくともネルフ側はそういう認識で両シリーズを生産・運用している。僕がヴィレに居るのはそれが理由の一つだ。

 人としての可能性を持った生命を、ただの道具として量産し蕩尽するというのは冒涜だ。看過できることじゃない。カルネアデスの板、冷たい方程式、やむなく殺人を侵す事はある。

 僕らが44Aに容赦しないのも、僕らが負けたら後がない上に、恐らくは停戦・終戦交渉の余地もなく、降伏することすら許されないからだからだよ」

 

 その言葉は多摩にも理解できた。

 彼も、10年前に発生した災厄と、その後の地獄を知っている。

 多摩ヒデキは他の生存圏、たとえば第三村よりはやや事情が良い地域で暮らしていた分、苦労は少なかったが、少なくともそのような地域でさえ最初の1、2年は地獄のような暮らしをしていた。日々の抑うつ、そして飢えを理由に殺し合いを始め、死体が路地に転がることも珍しくはなかった。そのように世界を変えてしまったネルフが許せない、という艦長の感情は、多摩にも理解できるものだった。まして、このひとは。

 

「先の仕組まれたニア・サードインパクトでは、9割以上の人類が消えた。僕は知らずに最初の引き金を引かされた。ただその時のことを後悔はしていない。副長を助けたという選択を。あの時副長を選ばなければ、この世界では恐らく第10の使徒に敗北していた。他にも勝てる世界はあるのかも知れない。とある人はそういう世界もあると言っていた。けれど、この世界では少なくとも副長が居なければヴンダーは飛ばず、僕と副長が揃わなければ第10使徒に敗北していたよ。

 だから副長は贖罪の言霊を否定した。だからこの艦はAAAヴンダーであり、間違ってもNHG Bußeではない。そして、君の問いだが、副長の同位体を殺して平気なのか、という質問と僕は認識している。それで、違いないかな」

 

 徐々に怒りの色合いを濃くしていく艦長の語気を受け止めながら、多摩はやや狼狽しつつ、頷いた。

 

「……はい。副長と艦長は、親しいように見えたので……」

 

「ああ、そのとおりだ。僕と彼女はもう10年このフネで暮らしている。

 そして、殺して平気かと言われたら、答えは、もちろんNOだ。

  平気なわけがない。

 僕は三号機の時、父に戦えと命じられた。それが副長の死につながると僕は考えた。挙げ句がこのザマと来ている。10年前に必要ならば副長を殺せと命じられた。侵食タイプに完全汚染されたプラグ状態だ、戦えは殺せと同義だった。使徒殲滅が当時のネルフの方針だった。使徒の殺傷はプラグ破壊とイコールだったよ。あの時僕はプラグを肉眼で目視した。コア構造物がプラグ周囲に出現していた。手遅れとひと目で分かったし、今の僕なら殺していたかもしれない。そのころはまだ14才だったから、取った選択肢こそちがったけれどね」

 

 碇シンジは、一度深く息を吸い、吐き出した。

 その吐息に、この10年彼が味わった鬱屈と懊悩、怒りが全て溶け出しているような錯覚を、多摩ヒデキは覚えた。

 

「そのときの命令への怒りと傷はまだ癒えていない。そこに試すようにシキナミシリーズを再生産し、送り込まれる。彼女と同じ存在を。

 弐号機パイロットの綾波レイが、アヤナミシリーズを鹵獲し、新たな人生を送れるようにするために、どれほど多くの努力をしたかを僕は知っている。

 その上で、大半のアヤナミシリーズは殺さなければいけない。そのように調節され、大半は説得も洗脳も不能だ。故に殺すしか無い。

 綾波が自分と同じ存在を殺さざるを得ないのがどれほど苦しいか、僕には想像もできなかった。まして治療さえできれば、アヤナミレイたちは概して聡明だ。捕虜として生きる道を選んだアヤナミレイたちは、皆新しい人生を選び、新しい名を得て、一生懸命に生きている。生きられるんだ。死にたがりに調整されているだけなんだ」

 

 碇シンジは、目を細めた。まぶたが怒りに震えている。

 

「綾波のことだけでも絶対に許せない。

 それに加えて、式波だ。お前があの時選べなかった選択肢を選べるか、選べなければ死ね、と踏み絵を踏まされた。だから、撃った。撃たざるを得なかった。僕は14才じゃない。24才で、そしてこの艦の乗員500人の生命を預かっている。ましてヴィレの戦力はひどく少なく、本艦はその最大戦力だ。本艦の撃沈は人類の敗亡を意味する。

 

 一人を生かすために人類を犠牲にはできない。冷たい方程式だよ。

 けれど、絶対に忘れないし、許さない。あいつは、僕にアスカを殺させようとした。そしてまたそれを試した。殺さざるを得ない状況で。だから、撃った。殺した。だから絶対に許さない。

 平気じゃないんだ。引き金を引くのは、楽じゃない。その向こう側に居る存在の可能性を知りながら、それでも引かなきゃならない」

 

 そこまで言い終えて、静かに碇シンジは、AAAヴンダー艦長は多摩ヒデキ少尉を見た。

 

「だから、君がそれに気づいて、素朴な質問をしてくれたのは、むしろ嬉しいんだ。

 人殺しが当たり前だと思って引き金を引ける人材には、引き金を任せたくない。

 一度戦場で暴力と殺人が常識になった兵士は、戦闘のない日常に戻るのに苦労するそうだ。所属していた組織によっては、金銭ではなく暴力と銃弾で支払うのが当たり前、と感じるようになるそうだけど……だからこそ、戦場だからこそ、引き金を引くのが当たり前の世界だからこそ、引かなくていい時に引かないことを決断できる人をこそ、僕は好ましく思う。

  

 この船は生き残り、勝利しなければならない。今を生きる人びとのために。

 けれど、僕と副長が運用し続ける限り、僕と副長さえ無力化すればヴンダーの撃沈ないしは鹵獲は容易、という状況になりかねない。

 

 僕は、たとえ僕が死んでもこの船が戦い続けられるようにしたい。

 もちろん死にたいわけじゃない。けれど、戦いだ。絶対に生き残れる保証はない。

 だから、もし僕が何らかの理由で戦死した場合に『次』を用意しておく必要がある。

 ヴンダーで戦い、ヴンダーの主砲と『衝角』を預けるに足りるひとびとを。

 有人化はそのためであり、そして僕が君に期待しているのも、そのためだ。

 楽な戦いにはならない。けれど、勝ちたい。そして、もしも引き金を誰かに預けなければならないときは、その引き金を引く重さの意味を知る人に預けたい」

 

 そして、静かに艦長は、多摩ヒデキ少尉に敬礼した。

 

「改めて。AAAヴンダーへようこそ、多摩ヒデキ少尉。君は兵士ではなく、人としてこの船に乗った。だから、願わくば、その素朴な最初の疑問を決して忘れないでほしい。無論僕らは、この背に多くの人命を背負っている。撃つべき時は撃たねばならない。

 けれど、引くべきでない時には、引かないことを選択する事ができる。それが、人間だ。

 人間の条件だ。それを捨ててしまえば、ただの戦争機械、虐殺者に成り下がる。

 君のあのときの質問を、僕は深甚に思う」

 

 多摩ヒデキは、戸惑った。

 そこまで考えた質問ではなかった。しかし、艦長の懊悩は、彼にもうっすらとだが理解できたし、その期待に答えたい、という心地にもなっていた。一人で背負えるたぐいの懊悩ではない。だからこそ、かれは500人の乗員を招いた。

 何よりも勝つために。全員で背負い、全員で互いの人間を保証しあい、そして10年の闘争にいつか終止符を打つために。

 おそらくはそうなんだ、と多摩ヒデキ少尉は理解した。

 右手の指先を伸ばし、己の右こめかみに当て、艦長の隻眼を両目で見つめながら彼は敬礼した。

 

「多摩ヒデキ少尉、了解です。艦長のご期待に答えられるよう、乗員として、人間として、最善の努力をしようと思います」

 

 会話が終わる。お互い、こめかみに添えた指先を離し、艦長は元の研究へと戻り、多摩ヒデキ少尉は自室に戻る。彼は帰室後、退艦希望名簿の項目を『保留』から『残留』へと書き換えた。

 

 

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 EVANGELION ∧ i : AAA Wunder S 3.33 『YOU CAN (NOT) TRIP.』Prototype

 

 

 

 EPISODE:1 The Blazer END

 

 

 

 TO BE CONTINUED

 

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第2話「北の地にて」 プロローグ

 EVANGELION ∧ i : AAA Wunder S 3.33 『YOU CAN (NOT) TRIP.』Prototype

 

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 EPISODE:2 No one is righteous,not even one.

 Prologue

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 航海艦橋へ向け、電磁レールによって低速上昇するトラム・リフト(ヴンダーの巨大な艦内を移動するために設えられた、エレベーター兼トラムの移動装置だ)の中で、私は艦長──シンジが黒のブリッジ要員用プラグスーツの上に纏った、白のヴィレジャケットの左腕に、黒のバンダナを巻き、結いつけていた。

 

「終わったわよ」

 

 結び目を確かめた後、私はシンジに言うと、自分が身につけた白のヴィレジャケットの左腕にシンジが結んだ、黒のバンダナを見た。

 

「ありがとう」

 

 シンジが私に答え、そして自分の腕に私が巻いたバンダナを見つめる。

 その視線が、やっぱり、硬い。

 私もシンジも、基本的に腕に緑のヴィレのバンダナを巻かない身の上ではあるけれど、今日ばかりは、いろいろな意味で例外となる。

 一ヶ月かけ、一通り乗員がものになるだけの訓練を終え、出立を明日に控えた今日は、あの日からちょうど10年が過ぎたことを意味する日なのだ。

 全艦への放送はあくまで音声のみとはいえ、こういう日の挨拶であるのなら、こういう儀礼的な服飾も必要になる。私も今日ばかりは普段の赤いプラグスーツではなく、シンジ同様白のヴィレジャケットと黒の艦橋要員用プラグスーツだ。

 

「顔、硬い。しゃんとしろ」

 

 私の言葉に、唇だけをわずかに歪めた硬い笑みでシンジは応えた。

 

「──どういう顔をしていいか、わからないんだ。

 訓示や命令の類なら表情を扮えても、今日は──嘘の顔は、できない。

 たとえ艦長として必要でも。いや、艦長だからこそ、かもしれない」

 

「自分を騙すことは出来ても、責任と背負った生命を、騙せないから?」

 

「うん」

 

 目深に被った軍帽を傾けるように、シンジが頷く。

 その脳裏に、つかの間彼の父親と、彼の母の墓の映像がよぎるのも、見えた。

 

「セカンドインパクト。三号機事件──第一次ニアサード。そして、第二次ニアサード。十億単位の人間と、それ以上の生命がコア化するか、死んだ。

 それはあんたの父親のせい。でも、贖罪だけは口にできない。それを自分の罪にはしない。あの日理不尽に死んだ人たち、旧生命、仕組まれ、騙された人々の罪を問う、Bußeの言霊を否定したあの日から、それだけは絶対に拒絶しなければいけない。だからこそ、何を言っていいかわからない。迷ってる。そういうツラよね、それ」

 

「うん」

 

 俯いた、やっぱり硬いシンジの顔つきを、私は半目で見つめる。

 

「私とあんただけなら、こんなことをしなくても良かった。ミサトに呼ばれても今日の式典の類への出席を、ヴンダー艦長の職責があると盾にとって拒否したあんただし、きっついのはわかるけど──人乗せるって決めたなら、ちゃんとやらないとだめよ。あんたが決めたことじゃない」

 

「うん」

 

「うん、うん、うん、ってアンタ、ホント大丈夫? 原稿も準備してないのに」

 

「わからない。でも、本音で話したい。

 それに、伝えたいことはあるから──多分、大丈夫だよ」

 

 そういって、また唇の端だけを曲げて笑う。

 アドリブ本番ぶっつけ勝負って、ミサトの作戦じゃあるまいに。

 私は半目のまま、シンジの胸板の真ん中を、右手の人差指で強く突いた。

 

「モヤッてるみたいだから、言っておく。

 乗員約400名、それぞれに事情がある。そのほぼ全員が、10年前に誰かしら、大切な人を失ってる。アンタも私もそう。みんなそう。今を生きてる人類で、10年前から今日に至るまで、誰も、何も失っていない人間なんて、多分殆どいやしない。

 でも、これだけは断言できる。10年前、少なくともアンタは一人救ってる。そこがアンタの起点で、それからアンタは頑張り続けて今日がある。誰が保証しなくても、この私が保証する。保証できる。だって、救われたのは私だもの」

 

 私の言葉に、何かを言おうと唇を動かそうとしたシンジの唇を、私はシンジの胸板に当てていた人差し指で塞ぐ。

 

「いいのよ。本来の碇シンジと式波・アスカ・ラングレーが死んでいる可能性とか、BM-02とか03とかどうでもいい。今ここにいる私は、今ここにいるアンタがいなかったら、存在してない。それは間違いないでしょ?」

 

「──そうだね」

 

 漸く、シンジが頷いた。

 

「何もかも懐かしい。でも、昨日のことみたいに覚えてる。

 誰かにあんなに正直になれたのは、生まれて初めてだったからね」

 

「お互い、隠し立てなしの大げんかだったもの。

 いいたい放題言って、あの日まで、お互い知りもしなかったお互いの過去に八つ当たりして、仕舞いにはあんた、私の記憶と精神のガワコピーして真似してるだけの第9使徒にまで喧嘩売りだして──ガキ丸出しだった。私の普段の態度にブチ切れてるくせに、私の過去を言う第9使徒が私を煽るのにまでブチ切れだすんだもの。支離滅裂よ。アレだってコピーの態度なんだから、自嘲みたいなもんなのに」

 

「僕に似てたから。だから、我慢できなかったんだ」

 

「削られたアンタ、そもそも両親がいない私。

 過去がなくて人生が完璧に歪んだもの同士。

 それが縁。

 傷の舐め合いがスタートってーのも、みっともない話だけど……ま、悪かなかったわよ。色々。アンタに何かを教えるのも、アンタに何かを教わるのも、お互いについて知り合うのも悪かなかった。

 だから、胸を張れ。碇シンジ。アンタに救われた人間は、きっと私だけじゃない」

 

「ありがとう、アスカ。──やってみるよ」

 

 白手袋で覆われた手で、視線を隠す目深でも、あからさまに目を出すあみだでもなく、しゃんとした形で軍帽をかぶり直しながら、眼帯に隠されていない左目に柔らかな光を湛え、シンジが言う。

 私は、黙って頷いた。

 トラム・リフトが、止まる。トラムのドアが、到着先のドアと一度密着し、そして開いた。その先にひろがるのは航海艦橋。

 私とシンジの到着に気づいたらしい、日向戦術長の声が向こうから響く。

 

「艦長、副長入室!」

 

 私の視線にシンジが頷くと、彼は艦橋へと踏み出した。私は自分が被った黒のベレー帽を直しながら、彼の背中に続く。

 平時のため、艦橋構造物および各座席は、航海艦橋の床面に全て設置しており、艦橋要員は全員が配置についていた。通常はハンガーに詰めているエヴァパイロット両名、綾波レイ大尉と真希波・マリ・イラストリアス大尉の両名も、今日は艦橋に姿を表していた。もちろん、ふたりとも黒のベレー帽、黒のプラグスーツに、白のヴィレジャケット、そして左腕に黒のバンダナを巻いている。これがヴィレの隊員が喪に服する時の正規の装束だ。といってもあくまで儀礼的なものであり、強制ではない。とはいえ、艦橋要員は、赤木博士に至るまで同じ服装だったけれど。

 レイはいつもどおりの無表情。真希波大尉も真剣とまではいかないまでも、緩んだ顔はしていない。

 つまり、今日はそういう日だ。

 艦橋に踏み入った私と艦長に、全員が一斉に起立し、敬礼した。

 リツコ、日向戦術長、青葉戦術長補佐、高雄機関長、長良航海長補佐、多摩射撃補佐。

 私達に思うところがある北上戦術・船務補佐や、普段敬礼などという堅苦しい行為は遊びで以外一切行わない真希波大尉でさえも、今日ばかりは例外はない。

 私と艦長は、彼等に目線を回しながら答礼し、艦長席へたどり着く。

 艦長は座席に腰掛けない。私は頷き、彼の傍らに佇んだ。

 私は日向戦術長に一度頷き、彼が首肯し返すのを見てから、おもむろにヴンダー全艦の通信回線を開いた。

 

『副長より総員に告ぐ。一ヶ月の訓練、ご苦労さま。

 10年目の今日だけれど、戦況・状況等鑑み、第二次ニア・サードインパクト慰霊祭は、例年通りの略式で執り行う』

 

 私の声が、ヴンダー全艦に放送回線を通じて響き渡った。

 この星が赤い地獄に包まれたあの日から、10年。本来なら、半舷上陸の一つも許してあげたいところだけれど、いつもどおり戦況がそれを許さない。けれど、略式でも、ヴィレでは必ず弔いは行っている。

 私達が十年前、守れなかった数十億、そして今を生きる数億の人々を忘れないための儀式だからだ。そして、私は艦長に視線を向けた。艦長が、頷く。

 

『これより艦長挨拶。総員、傾聴』

 

 私はいい終えると、艦長のプラグスーツの喉頭マイクに回線をつないだ。

 ゆっくりと、艦長が口を開く。

 

『艦長より、AAAヴンダー総員に告ぐ』

 

 一度言葉を止め、艦長は静かに視線を艦橋に巡らせた。そして、再び口を開く。

 

『まず、諸君がこの艦へ乗艦を決意し、この一ヶ月の訓練に耐えてくれたことに、心から感謝する。ありがとう。

 そして、本日この時を持って、第二次ニア・サードインパクトより10年の時が過ぎたけれど、まことに遺憾ながら、我々は勝利を得るに至っていない。先の防空戦も、防衛には成功したものの、空も、陸も、海も、宇宙も、そのほぼ全てが秘密結社ゼーレ及びその走狗たる特務機関ネルフの手中にあり、現生生命に残された生存圏は、あまりに少ない。

 また、この10年の間にも、ニア・サードインパクト以外の要因で、多くの生命が失われた。僕らの実力と尽力の不足故だ。けれど、ここでの謝罪はしない。

 なぜなら、僕らはまだ勝利していないが、未だ敗北していない。

 人類はまだ戦える。だから戦う。そして、勝つ。

 その先ならば、謝罪も贖罪も意味をなすだろう。

 けれど勝利の前のその行為は、ただの気休めにしかならない。

 誰一人、生命の一つも救えない』

 

 彼は一度息を吸い、天井を見つめた。

 

『その自由など、僕は自分に許さない。

 まして本艦に与えられた元の言霊は贖罪だ。

 なぜ贖罪なのか。今を生きる生命に何の罪があるのか。

 汝ら罪なしとするならば何故贖罪なのか。

 そもそも、補完とは何を意味するのか。

 均一化され、画一化され、苦悩も悩みも感情も無い、原罪無き汚れなき存在として、一にして多たる完全として永遠を生きる。なるほど哀しみも怒りもない。そして楽しさも喜びもない。

 

 つまりは無だ。

 なにもない。

 

 あの日の痛みも悲しみも。

 家族や友達を失った気持ちは尽く無価値であり、その後の10年の間に喪った物も尽く無価値であり、その後10年の間にそれでも築いたものも、尽く、彼等に言わせるならば、無価値なのだそうだ。

 

 その何もかもが、欠陥であるからこそ、人類は、生命は補完せねばならない。

 それが彼等の言う補完の定義だ。

 

 では、彼等の語る如き境地に、7万年前、残余二千人あまりとなった今の人類がたどり着いていたなら?

 結果は容易に想像がつく。人類という貧弱な生命は、いとも容易く滅亡していただろう。

 我々人類は、喜怒哀楽という感情を持ち、その感情に知恵を相補させ、生き延びるために生命を燃やした。感情を燃やした。それは多くの場合野蛮であり、そして多くの滅亡を産み、そして人類同士の壮絶な殺し合いさえ生んだ。

 ならば、人は邪悪なだけなのか。そうじゃないことは、諸君が一番知っていると思う。

 この十年、僕らは多くの邪悪を観た。少ない糧を、水を奪い合い、殺し合い、時に人間同士くらい合うことさえあった。

 けれど、殺し合うだけでも奪い合うだけでもなかった。譲り死んでいった人たちを知っている人もいるだろう。生きるために、自らを糧にしてくれと言って、死んだ人もいるだろう。

 少なくとも、僕には心当たりがある。

 そして、十年前、守りたかったのに守れなかった人がいる人々もいるだろう。

 僕にも守りたい人がいる。そして、救いうる生命がある』

 

 そこまで言い終えて、艦長は強い意思を秘めた目で、赤木リツコ博士を見た。

 リツコは、艦長に迷わず頷いた。

 艦長もうなずき返す。そして、告げた。

 

『葛城ミサト総司令より、ヴンダー乗員に限り、開示を許可された。

 ゼーレの補完計画は3段階に分かれている。

 海の浄化、セカンドインパクト。

 大地の浄化、サードインパクト。

 最後に、魂の浄化、フォースインパクト。

 

 彼等の計画は不完全ながらも第二段階たるサードインパクトを終えた。

 しかし、未だ以て魂の浄化たるフォースインパクトは発生していない。

 故に、セカンド・サードインパクトでコア化されたあらゆる生命種の魂の情報はATフィールドの形でL結界域に保存されている。つまり、まだ生きているんだ』

 

 艦長の言葉が響いた艦橋に、さざなみのような気配が走った。

 多摩少尉と、長良中尉の目には、驚愕。

 レイを始めとした旧ネルフ人員及び高雄機関長には、決意。

 真希波・マリ・イラストリアスが興味深げに笑う。

 

『つまり、葛城ミサト総司令のヤマト計画、その最終段階として構想されるヤマト作戦は、フォースインパクト発生による魂の不可逆変性を阻止することにあり、コア化した全ての生命は、L結界という赤き辺獄の虜として、ゼーレおよびネルフの神の如き裁決と執行を待つ、囚われた生命にほかならない。

 無論、ヤマト作戦は、死んだ生命は救えない。殺した生命も、殺された生命も戻らない。

 しかし、肉体が形象崩壊し、コア化したいのちであるならば、取り戻せる可能性はある』

 

 艦長の言葉に、眦に、感情が走り始めた。それは、怒りの色を帯びている。

 

『彼等にとり、我々といういのちは、L結界に囚われた生命は旧弊で野蛮なのだろう。

 野蛮上等。先進を気取る知恵深き彼等にとり、まさに忌むべきものを以て、このヴンダーは立ち向かう。

 過去現在未来に渡って刻まれ紡がれた、彼等の言う欠落そのもの、廃すべき蛮性、喜怒哀楽、愛情、憎悪、善良、邪悪、古き生命が刻んできた全てを以て、彼等の掲げる神の姿、その美しき理想図を、野蛮な醜き偶像を持って打ち砕こう。

 

 何も、偉そうな、難しそうなことを言ってるわけじゃない。

 あの日楽しかったこと、あの日嬉しかったこと。あの日悲しかったこと、あの日腹が立ったこと。みんな、そういうのはあるだろう。

 あいつらはその全部をゴミだと抜かし、奪い、殺したわけだ。

 君たちがどう思うかは知らない。

 ただ、無礼(ナメ)られている。過去から今、そして未来を生きたいと望む全てが、無礼(ナメ)られている。彼等、ゼーレとネルフが無礼(ナメ)るものこそ生命の意思。

 つまりヴィレ、意思の言霊にほかならない。

 

 勿論君たちが、僕、碇シンジという存在について色々思うところがあることは知っている。

 だが、それは後でもいいだろう。ナメた知恵者気取りのクソ野郎全員の前歯を残らずへし折って、流動食以外食えない身体にしたあとでもだ。

 もちろん、僕らが利用され、インパクトトリガーと成り果てたことは忘れていない。

 彼等は狡猾であり、僕らを利用、ないしは殺害を目論むかもしれない。

 

 故に、僕らは君たちをヴンダーへ受け入れ、この一ヶ月、寝ても覚めてもしごきあげた。

 以前のヴンダーは、僕と副長がいなくなれば滅びる定めのフネだったろう。

 だがそうではなくなりつつある。

 いずれ僕が死んだとしても、副長が死んだとしても、君たちのいずれかが後を継ぎ、この船を戦わせ続けるだろう。多少の肉を削いでも肉体が再生するように。

 一人二人死んだ程度で生命の蛮性は止みはしない。諸君もまた彼等にそれを教育できる存在たりうるよう尽力してほしい』

 

 一度、艦長は深く息を吐いた。そして、深く息を吸う。

 

『長い挨拶になってしまった。

 最後に、これを思ってほしい。

 十年前、あの日より前の思い出がある人々は、それを思い出してほしい。

 いい思い出だけじゃないだろうし、悪い思い出もあるだろう。

 そして、十年前。あの日からあった全てを思い出してほしい。

 辛いことや哀しいこと、腹立たしいことが山程あるだろう。

 そして、あの日を経た後ですら、胸に湧いたものはそれらだけではないはずだ。

 

 僕らの守るべきものは、それなんだ。

 僕らの思うべきものは、それなんだ。

 僕らが戦うに当たり、立つべき岩盤こそがそれだ。

 それが、ヴィレだ。ヴンダーはその手段に過ぎない。

 僕はそのために命じる。君たちはそのために戦う。

 僕が居なくなっても、一人ひとりに意思(ヴィレ)があるならば、生命は戦い続けられる。

 

 みんな、それを思ってほしい。

 その想いをかつて抱き、今は彼岸へと去ったために、思うことが叶わなくなった、この世から去ってしまった全ての生命のために。

 生きたい、生命を紡ぎたいというあらゆる生命種の願いのために。

 

 ──総員、黙祷』

 

 皆が、一斉に目を閉じた。私も、目を閉じる。

 頭の中、思うものは、不思議なほどになにもない。

 

 きっと、思うべきものは、本当は色々とあるのだろうけれど、それはいつも考えていることで、もう居ない人々に向き合う今この時、ああすればよかった、こうすればよかったという悩みは、不可解なほどに浮かんでこなかった。

 

 だって、戦いはまだ終わっていないのだから、後悔なんてしている暇がない。その時間が有るのなら、それを果たせなかった彼等のために使いたいし、彼等が生かしたかった、そして今を生きている人々のために、彼等の願いのために使いたい。

 だから、今思う後悔も、死者に託す願いも、今は一つも浮かんでこない。

 

 たぶん、それはあいつのせいなのだろう。

 十年前にあの男は、式波・アスカ・ラングレーを助けたのかもしれない。けれど、その行為は同時に、式波・アスカ・ラングレーという魂のあり方を、どうしようもなく破壊してしまってもいた。

 

 昔は一人でいいと思っていたのに、今はそう思わない。

 群れてもいい。群れなくてもいい。

 好きに選べるからこそ、自分から他人を望んでもいないのに引き剥がす必要を感じず、こうして誰かと群れていられるのだと思う。

 

 何故こうなったのか、私自身、完全にはよくわかっていない。

 けれど、昔より少しだけ自在。

 

 十年一昔、か。第二次ニアサードインパクトが、それだけの昔に沈んでしまったという話。

 あの頃の自分の姿が、ふと、まぶたの裏側に垣間見えた。

 今の私の生き方は決して器用なものではないけれど、その私に比べてさえ不器用で、本当の望みと正反対の行動ばかり取っていた、寂しがり屋のくせに、逆に孤独へ自分を陥れていた過去の自分。

 けれど孤高で、あるいはそのまま独りで完成する、という可能性を、あるいは選択していたかもしれない自分。

 

 いずれにせよ昔の話で、昔の自分。もう孤高の完成を選べない。

 独りでいいなんて思えない。つくづく壊れてしまったわよね、私。

 

 とても静かな気持ちになる。

 目を閉じている間、暗さだけがある。

 あいつの思いを感じないのは、きっとあいつも同じなのだろう。

 それはそうか。皆に言いたいことを、あいつはだいたい言い尽くしたのだから。

 

『黙祷、終了』

 

 あいつが、言う。

 私は目を開く。

 そして艦橋を見回した。

 艦橋のクルーが、それぞれにそれぞれの気持ちを目に込めて、私達を、艦長を見ていた。

 最後に、艦長が告げる。

 

『僕らは十年戦った。

 奪われるのも、護るのも、そろそろ飽きた。

 そろそろ奪う番だと思う。詳細は事後、副長より通達する。

 この一ヶ月の訓練の精髄を見せてほしい。

 艦長、以上』

 

 艦長が、言葉を終えた。

 最後の最後で丸投げ?

 ま、ずっとあいつばかり喋らせるわけにもいかないわよね。

 私はこのフネで二番目に偉いのだから、その分は仕事しないといけないもの。

 

『艦長指示により、副長より通達するわ。

 本艦は先の防空戦により露呈した強度不足箇所の修繕・改修・補給を、もうバレた第三次改装を行った生存圏、サンクトペテルブルク第二ジオフロントで実施する。期間は二週間を予定。

 全ての準備が完了の後、積極的攻勢作戦を発動する』

 

 私はいい終えると同時に、艦橋各座席及び艦内各部署の端末に、必要な事前情報を送った。

 やたら接近しているように見えて、実のところ重力波諸元等から、距離32万キロまで接近したものの、二度目のサードが半端に終わったせいか、そこで接近が止まって軌道が安定している月軌道と、さらに各ラグランジュ点、及び想定される敵防衛戦力が各モニタに表示される。

 

『ええ、攻勢防御の類じゃないわよ。艦長が言う通り、こっちが奪う番。

 戦略目標は衛星軌道及び月面。

 二度のニアサードによりコア化したとはいえ、月は未だ有用な拠点たりえる。

 また、制宙権をこちらが確保すれば、各生存圏同士の衛星軌道を利用した通信が回復し、拠点防衛戦力の統合運用および連携も可能となる。天秤のこちら側にだいぶ重しを乗せられる。

 戦術目標はネーメズィスシリーズ、この誘引と殲滅。

 連中が人を贄と求めるならば、こちらは神罰たる義憤の女神を血祭りに上げて反撃の狼煙となすってわけ。叩き潰すわよ』

 

 そこまで一気にいい終えて、私は少しだけ口調を明るく変えた。

 

『……ただ、みんな一ヶ月の猛訓練でいい加減死ぬほど疲れてるわよね?

 勿論私も疲れてる。移動座席抜きであらゆる経路を使って主機までマラソンの日々を過ごしたし、いい加減私もガタが来てる。

 工事期間中は、ヴンダーは動きたくとも動けない。

 よって、工事期間中はヴンダー乗員に半舷上陸を許可、というか命令ね。全体的に再施工だから、人残せないのよ。中に。

 現地での自由行動範囲は、後ほど主計から正式に通達。

 あと、もう一つお知らせ。

 あんたたちは都合一ヶ月勤務したので、給料が当然発生してる。

 サンクトペテルブルクについたら、お待ちかねの初任給を出すわよ。

 

 っても時節柄、共通通貨なんてないから現地通貨でだけど。防空戦の時に出たガタの応急修理から、訓練までがんばった分、色はつける。

 よく働いてよく報酬。働いた分はちゃんと給料払う、ヴンダーは昔の英国海軍じゃないってことよ。

 向こうは一代生産拠点。

 美味しいものから不味いビールまで、色々作って色々売ってるから、作戦前に美味しいもの食べて、ゆっくり休んで欲しい物買って思い出づくりをするように。

 ほら、さっき艦長も思い出が力になるって言ってたわよね。そういうやつ。

 行動可能範囲に関しては、給与情報カード配布時にこれも主計から通達ある。どんな国やどんな都市でも、民度低くて危険な地域ってのはつきもの。治安悪い地域だけでなく、向こうが機密にしておきたい、立ち入り禁止地域なんてのもあるから、当然そこにも潜り込まないこと。

 ヴンダーとサンクトペテルブルク、両方の規則を守って、豊かな半舷上陸ライフを楽しむように。間違ってもやらかして弁護士はどこだなんて状況を招かないように。これも命令よ。

 はい、副長以上。解散!』

 

 勢いよくいい終える。

 そして、どんなもんよ、みたいに自信たっぷりでリツコを見た。

 

 えっなに何もかも台無しよ台無し、みたいな呆れ疲れたその顔つき。

 一ヶ月働いたのよ? 初任給よ? 皆すごい疲れてるし、弔いは一通り終わったし、頃合いじゃない? 慰霊も大事だけど疲労を取るのと今を生きるのとモチベーションを与えるのも大事だし。

 などと思いながらリツコを見つめる。

 

「……あなた達が、ミサトに育てられたのを失念していたわね。

 ミサトもそうだけれど、あなた達も情動で動いたら色々台無しにする口というのを忘れていたわ。

 艦長も気持ちが入った途端、演説途中から言葉遣いが荒くなりだすし……ミサト、教育を間違えたわね」

 

 えっなんで。つーか旧ネルフメンバーの作戦ネーミングセンスとかよりよほどいいと思うんだけど。

 ミサトやリツコたちに任せると現地展開戦力に『カチコミ部隊』とかつけるでしょ。私も嫌いじゃないけどそのセンス。どうかしてるって思うだけで。

 

 つかなんでシンジも苦笑してんのよ。

 いや思い出の意味が微妙に違うってほら楽しいとか喜びとかが力になるって、アンタさっき言ってたじゃない、そういう意味じゃないの?

 そうだけど違う? わかんないわね。

 はいはいうるさい、後で録音聞き直しとくわよ、しょうがないわね。

 ま、それはそれとして。

 

 今度はレイに視線を投げる。

 レイは素直に頷いてくれた。

 

「……ブツの仕込みは充分。医療科とも連携して、現地のニーズにマッチしたソリューションを提供予定よ。四字熟語で言うと医食同源」

 

 医食同源て。

 

 いやまあそういうブツだけど、今回任せたやつ。

 レイは微妙に説明がアレね。まあレイは買い出し組だし、そのへんの現地説明は医療科がやってくれる予定だし、たぶん問題ないと思いたい。

 

 レイから少し視線をずらし、隣の真希波大尉の方を見る。

 

「真希波大尉、例によって、レイと組んで買い出しお願い。

 電子製品とかは、ニアサー前のが種類も物もいいこと多いし、そういうのにリバースエンジニアリングをかければ、失伝したメーカー特許技術を復元できるかもしれないし」

 

「任された! んで奥さん、エヴァパイロットって他より苦労してるしちょっとはずんでくんないかニャ?」

 

「わかってるわよ。まあ、アンタのことだし、あの街のことは私たち以上に知ってるんだろうし。 それに、向こうであれこれ、なんだっけ、わらすぼ長者? とかやって稼いで、大きくやるんだろうし、それで古書とかの贅沢品を大量にせしめるって腹はお見通し。前もアンタ、別のとこでやってたわよね」

 

 シンジが変な顔をする。わらすぼじゃなくてわらしべ? 発音の問題ようるさいわね。

 取引だからいいじゃない。わらだか魚だか知らないけど。

 一方真希波大尉はというとご機嫌の気配だ。

 

「っしゃー! 任されたよー! 色々向こうの自治政府が、公式には回しづらいもの仕入れて来るからニャ、期待して待ってて!」

 

「……つかほんといい加減奥さん呼びをね? 私結婚してないんだけど?」

 

「だって奥さんは奥さんじゃん……」

 

「……」

 

 もういい。まあマイペースなのでぐだぐだするのはいつものことだ。身体的にいじられないだけマシだと思っておこう。真希波大尉に油断すると、胸とか揉まれて発育を確かめられる。10年前で止まって成長せんっちゅーとるのに何なのよ。

 ちなみに真希波大尉に言わせると、どうもさわり心地とサイズがいいらしいのでつい揉んでしまうのだとか。

 うるさい。嫌がらせか。セクハラか。

 その成長止まるだか止めるだかする前に水牛かぐらい育ったりっぱなちちをはんぶんよこせと思ってしまう。そう言えばミサトもあの年なのに垂れないし大きいしだし、アラフォーなのに画像見る限り肌も綺麗だし、無い身の上からすると嫉妬対象ではある。成長すればねー! 私だってねー!

 

 まあ、それはそれとして、私と艦長も、予定通り道中での『輸出品』の生産工程を、そろそろ詰めておいたほうがいいかもしれない。

 以前からの定例業務ではあるし、造るものも工程も確定済みではあるけれど、都度使う技術は工夫して新しいものを試しているし、モノも毎回良くしている。

 先方もその方が間違いなく喜ぶし、実ンとこ、それがうまくいかないと、うちの子たちの賃金に響くやつでもある。

 

 まあ、いつもどおりにテストからはじめて、ある程度見込みがついたら、マギプラスで自動生産できる。そうしたら、私も艦長も、その間ぐらいは休めるだろう。

 

 諸々踏まえて24時間ぐらいだろうか。

 流石に私達も、年がら年中働いてないで、一日ぐらいはゆっくりしたいし。たとえ頭上にN2爆弾がある部屋でも、屋根があるだけましなのだ。

 少なくとも、子供時代よりは遥かにマシ。人道と権利のじの字もなかったし、あの頃。

 

 などとすっかり厳粛ムードが解けた艦橋の中。

 一点、私に突き刺さる、冷え切った視線があった。

 

 ……貴女はそうよね、北上少尉。今日は厳粛に過ごしたいとこ、勢い任せの給料話で壊されたら、姉を蔑ろにされたと、思うか。

 少し油断していたかもしれない。

 唇の蠢きが見える。

 

 やっぱり欺瞞じゃん。

 

 目つきと敵意が突き刺さる。

 そうよね。そりゃそう思うわよね。

 

 台無しにしたのは、たしかに悪かったと思うし、もうちょっとタイミング考えたほうよかったかもしれない。

 彼女にしてみれば、厳粛に弔うムードとか決意とかより、飯だ金だ休暇だで釣るのかってなるもの。たぶんあの子には私は汚い大人に見えてるし、少なくともただでさえ低い位階の位置が、かなり下がったのは疑いなさそうだ。

 

 ま、実際やることは汚い大人で、欺瞞だし。

 ちょっとばかり、わざとらしく浮かれて見せすぎたかなどと思いつつ、高雄機関長に視線を投げた。

 給料話で長良中尉とあれこれ話していた高雄機関長が、私の視線に気づいた瞬間、一瞬だけ私を見て、そして頷き、また長良中尉との会話に戻った。

 

 今度は艦長に視線を投げる。

 艦長が、先程の演説の情熱とも、さっきの私の給料話とも違う、どこか冷めた視線を虚空に漂わせていた。ただ、顔つきはオアフ島で釣りをしているときのような茫洋としたところがある。

 

 ま、そうよね。

 欺瞞で、釣り。

 艦長の言うフォース阻止も、魂の解放もまあ、嘘ではないけれど、現状は理論上止まり。それどころか、生命全てが形象崩壊せずともいずれ段階的コア化で使徒となり知恵を失いかねない瀬戸際に有る。

 

 ゼーレの言うところの旧生命、人類の強みは感情と、それによって駆使される知恵と工夫と勇気なのは、たしかに艦長の語ったとおりだ。

 

 ただ、その感情が刃となる場合、しばしばそれは敵ではなく味方に向けられるのも、また歴史では珍しいことではない。人に限らず、多くの生命は内ゲバをするし、なんなら共食いも当たり前。

 

 ヴンダーがクルーを受け入れてまだ一ヶ月。

 離艦者100名。嫌になってやめたやつばかりの訳がない。

 

 さて、鬼が出るか蛇が出るか。

 

 本命は地球外移民を望むイズモ急進派、対抗で大穴は……ゼーレないしはネルフの諜報員。

 後者の手をネルフは長らく取っていないけれど、向こうがシナリオとやらの段取りに手間取っている場合、調整にしかけてくる可能性は否定できない。

 

 わざわざヴンダーを、工事を理由に私と艦長二人だけにするという好条件、わかりやすい餌。フネが望みにせよ命が望みにせよ、なんかしら仕掛けてくるわよね。

 

 二週間の間に乗員をきっちり休ませて士気を上げつつ、こっちは自分らを囮にして釣りをやる。 あとは他にも仕事多数。

 

 重力斥力自在の、色々使える万能戦艦ヴンダーは、万能なだけに、この滅びかけた世界においては、果たすべき役目があまりに多い。

 億単位の人類を、ごくごく限られた土地に住まわせて、そして糧を確保し疫病も防ぎ、戦力を強化し文明を維持する。

 

 本当に楽な仕事じゃない。

 

 生存圏確立にあたっては、西に東に、あらゆるジャンルで奔走するのがヴンダーの定め。

 戦闘ばかりやっていられるなら、これほど気楽なことはない。

 パイロットに専念出来ていた14の頃とどちらがマシなのやら。

 

 艦長たる碇シンジほどではないにせよ、副長たる私もこの世界を相応に背負ってるし、相応の重いものを背負ってる。どう思われようが、生きたいし、生きてほしいし、生き延びさせたい。気楽な仕事じゃないのだ。

 ただ、たしかに気楽ではない、気楽ではないけれど……心のどこかで、楽しんでもいる。

 

 そういうところは、今冷えた面してる艦長の碇シンジも実のところ同じで、10年老けた結果として、それだけ多くの経験をつみ、多くの価値観を知り、多くの知識を得て、人生豊かになったということでもあり、そういうのは、色々あるにしても楽しい。

 

 まあ、現状、このフネも私達も、せいぜいが万能レベル。

 億や兆には到底至らず、全能などもちろん夢のまた夢。

 これほど便利な船であっても、実際使ってみるとあれこれと不満点が出てしまうのだ。願望器寸前の代物、本来今の人類には届き得ないエキゾチック物質すら産生しうる夢の船であるというのに、足りない能力が多すぎで困る。人の欲には限りがないのだ。

 

 ただ、どの生存圏にも思い出は有るし、生存圏なのだから、名前通りにどこまでも生きてほしい。

 

 サンクトペテルブルクはそういう思い入れがとりわけつよい街の一つだ。見た目といいやりくちといい、確かにそこまでして生き延びるのか人類、みたいな街だけど、それでも人は生きているし、色々発展してもいる。

 L結界対策や、避難民の収容・住居確保都合から、初期施工がどうしても乱暴になった街でもあり、その点は後悔がなくもない。ヴィレの計画に本来なかった急造の、過去遺産もいいところの建造計画を、対L結界を踏まえてマギプラスのシミュレートでブラッシュアップをかけ、将来の拡張性を踏まえて急ごしらえででっち上げた街だから、いろいろ問題がなくもない。

 ただ、拡張性が高くなるよう、垂直都市としての可塑性と改良・更新性能はかなり工夫したので、問題点は年々解決に向かっているし、もちろん昔より、住民が食べる食べ物もだいぶましになった。

 この都市が輸出する作物や食料のおかげで、億人単位の現生人類が生き延びているといっても、あながち嘘ではなかったりするのだ。

 

 それにサンクトペテルブルクの上層部は、私達に友好的な部類でもある。少なくとも、私達が、色々世間にだんまりで、螺旋衝角『轟天』を第二ジオフロントで密かに据え付けるのを黙認する程度には。

 

 何しろ、あの街の基礎たる第二ジオフロントをこさえ、垂直都市としての拡張性を跳ね上げたのもヴンダーだし、そういう恩は感じているのかもしれない。

 まあ向こうにしてみれば、こちらに恩を着せて、後々大きくむしり取る算段かもしれないけれど、そういうのも含めてフェア・ゲームだしフェア・トレード。

滅私の善意の贈り物は、個人同士ならいざしらず、政治勢力同士のものであれば、むしろ利権取引より高く付きやすい。後腐れなく支払って後腐れなくサービスを享受し合うドライさのが、距離感として実際気楽なのもたしか。

 

 まあ、それにしたってあの危険物施工に協力してくれる上に、今回の緊急施工にもイエスを返してくれるあたり、向こうのこちらへの期待度が伺える。

 ヴンダーという鳥籠に囚われた身の上でもなお、作れる縁というのはある。

 懐かしきあの街。この世界での人類の生存と、生き延びた人類の科学的成長のため、一役買っている重要な街。

 

『ヴィレの世界樹』とすら言われるあの威容、果たして幹をどれほど伸ばしたやら。それももちろん気になるところだ。

 

 それに、あちらはあちらで独自に抱えた技術者や科学者が相当数おり、色々とバイオテックから工学系まで、できる範囲で手広く研究してもいる。

 

 私達が思いつかなかった新しい知識や、ひょっとしたらどん詰まり気味の現状を打破しうる、ブレイクスルーもあるかもしれない。袖すり合うも他生の縁、基礎研究と論文と研究者と予算は概して多いほうが、新発見と文明の発達につながるものだ。

 

 人類は現状、正しく土壇場瀬戸際崖っぷちだけれど、やっぱり諦める気にならない。艦長が言うほどトライできないにしても、終わるまでは、明日へトライし続けたい。

 

 気がついたら、私にとって明日を生きていて欲しい人達も、子供の頃に比べ、随分増えてしまっているわけで。

 だから、どれほど難しくて、不可能に近いタスクにせよ、やれるものは、やれるところまでやりたいのが私の正直な気持ち。

 

 はじまりはたぶん10年前だろう。

 

 どっかのバカに色々あって壊されて、孤独になりたがりだった女が、すっかり他人を容れられるようになってしまったわけで。

 

 喜びと悲しみは二重らせん。いいことと悪いことは一緒に来るのが当たり前なのよね。

 つまりはまあ、今回の寄港も、私の人生にとって、きっと破り捨てられない大切な1ページとなるのだろう。

 

 私、式波・アスカ・ラングレーは、久々に赴く北の地へ、早くも思いを馳せ始めていた。

 

 






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第2話『北の地にて』Aパート

 EVANGELION ∧ i : AAA Wunder S 3.33 『YOU CAN (NOT) TRIP.』Prototype

 

 

 

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 EPISODE:2 No one is righteous,not even one.

 

 Apart

 

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──オアフ島防空戦より一ヶ月後

 

  北アフリカ リビア砂漠上空 PM12:10

 

 作業ポイント上空200メートルの位置で、私はヴンダーを静止させた。

 空に青、雲の白。地にはいい加減見飽きた赤の 砂漠。

 

「しっかし、いい加減にこの色味の世界、見飽きたわよね。

 赤、赤、赤、どこ行っても赤、空以外何もかも赤。うんざりするほど赤。

 火星でもあるまいに、赤色バーゲンセールにもほどがあるのよ。目が疲れるってーの」

 

 ヴンダー艦体、その各部に備えられたセンサーが捉えた映像に、私は思わず眉をひそめ、瞼を半ば閉じてしまった。

 

 ほぼ睡眠を必要としない疲れ知らずの肉体のおかげで、本来眼精疲労とは縁のない身体だし、そもそも眼球ではなくセンサーとのシンクロでダイレクトに脳で画像を認知しているわけだから、目が疲れるわけがないのだけれど、それはそれとしてここまで真っ赤だと、ストレスを目に感じてしまう。

 

 人間の精神と言うか、脳ないしは魂がそういう作りになっているから仕方ないのかもしれない。赤は交感神経を刺激し、精神を活性、興奮の方向に引張る色なのだ。壁を真っ赤に塗りたくった部屋だと、その作用のせいか、体温が上昇するという話もある。

 

 まして砂漠地帯ど真ん中で陽光が強い。つまり端的に言って視界が暑苦しい。艦橋内にはエアコンが効いているし、プラグスーツにも体温調節機能はあるけれど、何もかも真っ赤な世界に十年雪隠詰めなので、うんざり感がほんとパない。

 

 赤自体は好きな色ではある。自分を表す色、イメージカラーであり、己を体現する色だと認じていた。赤色の持つ強さと活性なイメージに憧れ、そういう存在になりたいと思っていたのかもしれない。

 

 けれど、あの結界のせいで何もかもが染まってしまった結果、この10年で完璧に見飽きてうんざりしてしまい、赤という色へのイメージ株価がじわじわ下落しつつあるのを自覚する。

 

 もし新型プラグスーツが支給されたら、いい加減色を変えるのも手だろうか。白はどうだろう。すっきりした色合いで、目も疲れなくていいかもしれない、あーでもレイとスーツの色かぶるか、などという実にどうでもいい願望が脳裏をよぎるあたり、多分少し疲れてもいる。

 

 防空戦を終えて以来、応急修復、訓練、訓練、研究、訓練、会議、訓練、訓練、訓練終了通常配置と見せかけて突然アラートが鳴って訓練、「リフト故障のため別ルートで主機まで移動されたし」とか私にも言ってくる始末なので容赦ないし、艦長自身も「艦橋大破のため予備発令所へ直ちに移動せよ」とか言って率先して猛ダッシュするので、部下としては皆従うほかない。とはいえそんな調子の情け無用が続いたものだから、半分以上人間をやめたこの身体でもさすがに精神的疲労を感じる。

 

 新人たちは余計だろう。

 

 平時に優しくして、いざ有事というときに動けず戦死されたり、と暇に任せてイジメの類が発生したりといった諸々のトラブルを避ける目的があるとはいえ、艦長が恨まれてないか心配になる毎日だったように思う。

 

 ともかく、ヴンダークルーは艦長の連日連夜の拷問じみた訓練で疲弊しきっていた。それは勿論私も例外じゃない、という話である。そんな疲れた精神状態なので、赤色が視界越しに心へ押し付けてくる圧が、いつもよりきつく感じられるのだ。

 

 赤は血の色、ヒトの色(正確に言うと人を含めたリリス系炭素生命全部のフィールド色だけど、細かいことは置いておく)。使徒の色である青の対極ということに光子スペクトル使徒解析法ではなっているんだけど、ほんとそれはそれとして、視界全部真っ赤はつらい。

 

 L結界を研究するヴィレの形而上生物学者たちの仮説では、この目に悪い赤の色合いは、単純にコアの色というだけでなく、それだけの数の生命をL結界が吸い上げたという意味になるらしい。肉体が形象崩壊した結果、L結界内を個体としての形状を失い、けれど混ざり合うことなく彷徨っているATフィールド、いわば魂の色で染まった結果、あの独特の赤い色合いになるのだそうだ。

 

 パッと見は均一に見えるけれど、あれでも魂が溶け合ったり混ざり合ったりはしていないのだそうで、コア化土壌を掘削すると、断面を雲母片のように煌きながら漂うものがみえたりする。それがかろうじて形を保った状態のATフィールド片、いわば魂の残滓とでもいうものらしい。

 

 肉体無しのまま亡霊のように、十年赤い荒野を彷徨う気分なんてあまり想像したくはない。とはいえ、理論上、肉体を形象崩壊で喪失した時点で感覚機能及び思考機能が消失するため、魂の自我機能がその時点で停止し、いわば失神状態になってしまうため、その種の苦痛は、おそらく、ない。

 

 とはいえ、いまだかつてL結界による形象崩壊から魂を復元できた事例はないわけで、未知の環境が人や他の動物の魂、ATフィールドに経年劣化や変性を生じさせない保証もない。

 ヴンダーの周囲を取り巻く、L結界に包まれた世界は、この10年、代わり映えせず赤いまま。

 

 何がどうなって、どういう理由で、こういうどん詰まりを世界が迎えなければならないのか、誰に聞けば答えをもらえるのだろう。

 

 ゼーレかネルフか、あるいは神様か。

 

 カヲル野郎曰く、円環と称される彼の多元世界観測遍歴でも、こうなるケースは少数事例らしい。そして、少数事例であるがために、彼にも具体的な要因は測りかねるようだ。

 

 多元世界だけに、それぞれの世界を構築する物理法則の数式が、同一式から成り立つように見えて、実のところいずれも微細に違い、そしてこの世界を織りなす各種乱数込み込みの物理数式は、諸々の物理作用の結果として、『人為的ないしは自然発生的に複数のインパクトが発生するとL結界が発生しうる』という塩梅に書かれていると推測できる。

 

 あくまで『推測』になってしまうのは、L結界の物理特性が判然とせず、現状では未だにL結界による世界干渉を数式化できずにいるためだったりする。

 

 L結界というものの物理特性を語るには、私と艦長、そしてリツコといった旧ネルフメンバーによって研究・提唱された、ATF次元についての説明が必要かもしれない。

 

 ATF次元というのは、人類が認識している縦横高さの三次元ユークリッド空間に垂直に交わるもう一つの次元であり、あらゆる物体、素粒子などの形象に対応している。

 

 人類が目にしているのは、いわばそれらの3次元の『影』に過ぎず、本当の姿はATF次元を加えた超ユークリッド立体というわけだ。とはいえそれを2次元平面、ないしは3次元立体として仮想的にモデル化・図形化するのは、具体的な定数や数式化がまるきりできていない現状では難しい。

 

 例えば超次元立方体のように、常に蠢く立方体を内包した立方体、といった比較的シンプルなモデルとして描画表現するのも不可能なくらいだ。人体に備わる視覚機能は、そうした超次元物体を認識するようにはできていないのもあるけれど、そもそも『これでだいたい計算できます』という、ATF次元の現象を表現できる敷がないのではモデル化もグラフ化もできやしないのだ。

 

 表現がし難い具体例でいうと、たとえばATF次元の具象化事例としては、エヴァのATフィールドがある。これはパイロットのメンタル次第で出力から性質まで変動する傾向があり、なんなら核融合爆発の手合を食らわせても破壊困難、けれどATフィールドを以て中和・無力化することが可能だ。とはいえ、その入力と出力の関係性はまるきり人外未知もいいところで、搭乗者の精神とエヴァのATフィールドが発揮する出力には関係性が有る事はわかっても、数値的ブレが凄まじく、到底定数や具体的数値化ができる段階には至っていない。

 

 ともあれ、地球上の生命は、このATF次元の齎しているであろう、いまだ解明されていない各種の物理法則を気づかないままに利用しているし、そういう人外未知の座標軸であるあら、この次元には面倒くさいところがある。

 

 本来、ATF次元は超弦理論で言うところの『閉じられた次元』、『余剰次元』であり、その内包する物理法則やエネルギー、影響は極めて限定的なものとなるはずで、働きは極めて(それこそ重力などよりも)遥かに弱い物理力であるはずなのだ。

 

 けれど、実際の所はそうなっていない。

 

 この世界においてはエヴァのATフィールドに代表されるように、分子間の「強い力」すら凌駕するような恐るべき強度を発揮する。核爆発や、その核爆発すら凌駕するN2融合爆発すら無効化せしめるのだから、その物理干渉力・影響力共に、桁外れと言える。

 

 さらにこの次元の値が負となる場合、この次元は振る舞いを変え、アンチATフィールドとしての特性を顕し、値が負の状態となっている空間域全てに働きはじめるのだ。

 

 アンチATフィールドは、ATフィールドの弱い生命のAT次元値を低減させ、ゼロ以下に落とし込んでしまうことにより個体の自我や肉体の維持を困難とせしめ、最後には形象崩壊と呼ばれる状態へと至らしめてしまう。

 

 十年前、第二次ニア・サードインパクトの際に地表を覆い尽くした高圧L結界、その内部で、多くの人々の肉体がLCL還元され液状化、衣類を残して消えてしまうなどという現象が多発し、それが当時生存していた人類の肉体の9割を『消失』させてしまったが、これがその具体例の一つと言えるだろう。

 

 形象崩壊の進行は、様々な形を取るけれど、多くの場合は肉体のLCL変換による液状化崩壊、ないしは高次元物質であるコアへの相転移、いわゆるコア化の2種類に仕分けられる。ビルや地殻、また植物を構成するセルロースなどはLCL化せず、コア化するのが専らだ。

 

 とはいえ、これが完全なコア化、完全な高次元物質への相転移でないのは間違いなく、コア化した物質自体の物理的特性が、コア化前とコア化後で変動していないあたりがその証明になるだろう。鉄であれば、磁石と引き合いもすれば曲がりもするし、ケイ素質などの岩石であれば砕けもする。

 

 L結界がATF次元に影響を与える事象であることは、人体の形象崩壊を踏まえ、確実と断定できるので、各種物質がその特性を保ったまま、ATF値だけL結界によって変性しただけの可能性が現状では高い。その証拠に、アンチLシステムによってL結界を退去(正確に言うともっとややこしく、現状のALS運用にあたっては相補性だの原罪だの浄化だのと宗教用語が飛び交いだすので、ここでは見た目の現象のまま『退去』と表現させてもらう)させると、まるで時間がそこだけ止まっていたかのように、全ての物体がL結界汚損前の状態へと戻るあたり、物体の特性は、L結界によりコア化を遂げても、概ね変質することなく保存されていると断定してよさそう。

 

 勿論、例外はある。動植物、いわゆる生命と称されるものは、L結界を退去させても、戻ってこない。各個人のATFを担保する肉体が形象崩壊でLCL化したため、魂──そのいのちを憑依させる依代がないから、もどってこれないのだろうと推測されている。

 

 形を保ったままの植物のばあい、生命を取り戻してもよさそうだけれど、そう都合のいい話はない。生体機能維持に必要な成分がLCL化してしまっており、見た目は瑞々しくとも、実際には死んでいる。葉を切断して組織を観察すると、セルロースの細胞の内側が溶融したLCLに満たされた状態となっており、色が緑色なのはLCL化を免れ、細胞壁内部に残置されたクロロフィルの色に染まっているからでしかない。

 

 ちなみに一人の人間が形象崩壊を起こした場合、肉体の大半がLCL化した後、ごく微量のコアが残るパターンが定番だ。この、残ったコアに関しては「魂が物質化したのでは」とか、ともかく大量の仮説があるが、魂についての科学的定義が不可能と断じてもいいレベルで困難であり、なおかつ仮説が山積み状態なので、ここでは説明しないことにする。

 

 この世界において『魂』が存在し、それが科学的に計測・定義可能であることは私とシンジが身を以て証明したところがあり、それはATF次元理論の確立によってより確かな論拠を得たけれど、肝心要のATフィールドが未だに謎だらけ過ぎて数式化どころかそもそもの定義自体が困難で、掴みどころのない状態となっているのだ。つまり、説明が面倒を通り越して、不可能な状態ってわけだ。

 

 私達含め、ヴンダーの研究グループ総掛かりで定義・検証したバカみたいな数の仮説と、それを説明するための数式はあるけれど、仮説止まりで確定していない、当たり外れがわからない宝くじの山を並べたてても仕方ないものね。

 

 L結界というのは、そういう意味では『ATフィールド次元が負の値を取った状態で安定化した空間の状態』と言える。厄介なのは、ATF次元は私達に認識できない高次元でありながら、私達の世界に強い力で干渉可能な『開かれた』次元軸であるために、この世界に甚大な影響を与えてしまう点にある。

 

 どれぐらい甚大かというと、セカンド・インパクトと、二度のニア・サードインパクトが代表例。

 

 いずれのインパクトでも、海や大地、空間のL結界への相転移にとどまらず、発生時にN2融合爆発を凌駕する物理的エネルギーを発生させ、地形の崩壊だの爆発的破壊だのを発生させてしまっている。

 

 そんな感じで、ATF次元絡みの現象というのは、恐ろしく厄介極まりない。説明が困難、を通り越して不可能、人外未知、未曾有不可解。ごくありふれた天外魔境。

 

 数式状の見た目からは、エネルギー保存則や対象性が、なにそれ美味しいのぐらい壊れてしまっているのだから、太刀打ちすること自体が困難というか、何もかも投げ出して、「そういうもの」と儀式化して説明を放棄して、ふて寝してしまいたくなるほどだ。

 

 とにかく、そういう滅茶苦茶な影響を与える強い法則をもたらす次元軸なので、この次元軸まわりがどうにかなってしまって、相転移を起こしてしまっているL結界環境では、重力を始めとした各種物理法則も容赦なく影響を受けてしまう。

 

 重力周りがとりわけひどく、セカンドインパクト前から地球上の重力は均一ではなかったけれど、L結界内部ではそれを通り越して、重力が中和されて0になっている空間だの、斥力に化けていて突然地球大気圏外へ放り出される空間だのがごろごろあって、しかもでたり消えたりする。

 

 わかりやすい事例は、第三村を維持する各種封印柱が作り出したアンチL結界の外側各地に大量に浮かんでいる各国軍の航空機だの、SF映画に出てくるアステロイドのように浮かんだ岩石や土砂などの浮遊密集帯などがある。

 

 重力異常が原因と推定されるけれど、ともかく、浮かんでいるのだ。空に。

 

 しかも同じポイントに。地球の自転に合わせるかのようなお行儀良さで、おとなしく空中に居座っている。風に流されることもなく。ああ気持ち悪い。

 

 学校で並ぶように地球は太陽の周りを公転しており、なおかつ自転しているわけで、重力関連の異常だけなら当然その座標にとどまることはなく、大気圏外に放り出されたり、あるいはどこかへ漂って行くのが必然なわけだけど、それらの浮遊物体は『重力? なにそれ。慣性? 知らない』と言わんばかりに浮かんでいるわけで。

 

 どれだけヘンか、よくわからないかもしれないから、地球と太陽の関係性で例えてみるわね。

 

 地球が太陽の重力の影響を受けなくなったり、逆に重力に反発する斥力を発生させた場合、当然地球は太陽系から離脱してしまう。斥力なら太陽の重力に反発してどっかに消えてしまう。

 

 斥力ではなく、太陽の重力の影響を受けなくなっただけの場合でも、やっぱり離脱してしまう。

 

 太陽は、生成時の物体運動の慣性や、他の重力源の影響で、宇宙を絶え間なく移動しているのだ。で、地球を太陽に紐づけているのは目に見えない重力の鎖のみ。

 

 で、地球が重力の影響を受けなくなれば、当然太陽に引っ張られることはなくなる。飼い主を嫌って逃げたいけれど、首に繋がれたリードが邪魔で、逃げられずにいる飼い犬みたいなもの。

 

 重力というリードがなくなれば、これ幸いと太陽から急激に離れてしまい、地球はあっという間に飛び去ってしまい、宇宙のどこかに漂う、孤立した惑星になってしまうだろう。自己発光せず観測不能な、ダークマターの仲間入り。

 

 で、第三村周りにふわふわ浮かんでいるVTOLこそが、さっき例えた『太陽の重力の影響を受けなくなったかどうにかなった地球』というわけ。重力の影響をうけなくなったなら、そこに静止しているのはおかしいのだ。

 

 せめて風に流される程度の可愛げがあればまだいいけれど、その気配もないし、地球の公転運動から抜けて大気圏外に出る気配もない。じゃあやっぱり重力に引かれているのか、というとそんなこともなく、地面に落ちてくる気配は一向にない。

 

 なによあれなんなのあれで、これも例によって仮説は大量にあるけれど、どの説も現状、例によって決定打に欠けている。

 

 おそらくは『エヴァがATフィールドで攻撃を防いだり、防ぐだけでなく対象をATフィールドで攻撃したりできる』のと同じノリで、ATF次元が物理干渉を加えた結果、重力からはときはなたれているけれど、未知のATF次元物理法則が働き、浮遊物体をその座標に固定しているのだろう、程度の推測がせいぜいってところなのだ。

 

 10年ヴンダーで世界中をうろつきながら各種任務ついでに探査をかけ、マギプラスで散々シミュレーションをかけてなお確定した式を算出できないのだから、煮ても焼いても食えない結界がL結界というわけ。

 

 結界の性質や影響を、もうすこし具体的に算出できれば、アンチLシステムや鹵獲44Aコアを使ってL結界に干渉を試みて、ちったあ使いみちを見つけ出す事ができるのかも知れないけれど、現状は肉体に有害なだけでクソの役にも立たない。強いて言うなら再利用困難なレベルで汚染された水の浄化には便利だったりするけれど。

 

 各生存圏は、循環させるだけ循環させ、再利用できる有機物は再利用しつつ、限られた生活用水を利用しているけれど、そのうち『これはもうどうしようもない』ぐらい汚染された下水がでてしまう。もうそうなってしまうと蒸留なりなんなりするしかなくなるのだけれど、蒸留にも相応の熱コストがいる。

 

 その辺のコストを削減するために、L結界の生体分解能を利用するのだ。

 

 アンチLシステムの外側の低圧L結界地域に、その汚染水をコンテナに放り込んで叩き出し、毒性がひどい有機成分をL結界の形象崩壊作用で分解しする。

 

 そのあと、コンテナを回収してアンチLシステムでまるごと除染すると、アミノ酸とか塩分とかの使いやすいミネラルや栄養素やらが溶けた状態になるので、これ幸いと再利用している。

 

 少し話を逸らすと、なんだってそうも生命に都合のいい『原始の海の生命のスープ』みたいな状態になるのかも謎がおおい。

 

 現在の地球生命が、概ね第二使徒リリス由来だからではないか、と言われていたりするけれど、そのあたり、古生物学の研究と合致しない部分があるので、面倒くさいのだ。

 

 おそらく形而上生物学あたりをつなぎに使えばそのあたりのミッシング・リンクを説明しきれるのではないか、なんて話もあるけれど、あいにく、古生物学者も形而上生物学者も、第二次ニア・サードインパクトで大半が形象崩壊してしまい、彼らの論文や書籍も回収困難な状態となってしまっている。

 

 真希波大尉あたりがこのあたり、地味に詳しかったりするけれど、過去にゼミで一通り習ったものを修めているだけで、古生物とリリスの関連性と、生物学史的全貌はと言うと「よくわかんにゃい」だそうで、どうにもならない。まあ、一人詳しい人間がいる程度では、学問というものはどうにもならない、という話なのだろう。

 

 さて、そらした話を元に戻そう。

 

 この水資源としての再利用も、アンチLシステム、漢字で書くと相補性L結界浄化無効阻止装置、短く書くと封印柱、この装置の操作を失敗すると細菌は死滅しても、毒性が凄まじいままの腐臭を放つ有機物がそのまま戻ってきたりするので、あーでもないこーでもないと表面の得体のしれない呪詛文様の励起パターンをいじくりまわし、いい感じに水と栄養になるよう試行錯誤して、いい感じに戻して再利用している。

 

 人類はとても生き汚いので、使えるものはL結界でも使う。使い方は、現状原始的もいいところだけれど、使っていけば色々見つかるものもあれば、分かる事も出てくるだろう。今はトライ&エラーの季節なのだ。

 

 さて、人体に危険なL結界を退去させるアンチLシステムだけれど、これも実のところ、ろくに分析が出来ていない人外未知の代物であり、表面の呪詛文字もろくに解読できていない。とりあえず電気を流すと発光すること、発光パターンを変移させることで現実の物理事象に影響を与えうる、というのは判明している。

 

 実のところ、アヤナミシリーズやシキナミシリーズの製造も、この呪詛文字によってLCLやリリスないしはアダムス組織、あとベースとなる体細胞の類を寄せ合わせ、シリンダーに呪詛文字発光投射で形象化することで行われていたりするのだけれど、これについても、説明すると本当に長いので割愛。

 

 まあ、この時代、一事が万事、何事に対してもこんなノリなのよね。

 

 なにもかも由来不明なものを私達はなんとなく「こうすればこうなる」と、ノリと感覚で使っている。遥かな昔、折れた木が水に浮かぶのを見た人類の祖先が、「これをうまく使えば川や海を渡れるのではないか?」と浮力の原理も理解していないのに、樹木や葦をつかって船を作り、海や川を渡ったように。

 

 人と世界の関わり合いなんて、いつの時代も、きっとそんな程度のものなのかもしれない。種が存続する限り、きっとこんな調子でトライアンドエラーを繰り返していくのだと思うし、私達は当然そうしている、というだけの話。

 

 ともかく、大規模L結界が最初に確認されたのが南極のセカンドインパクト。

 地上がこのざまになったのが二度のニアサードインパクト(2つ合わせて地上がこのざまなので、実質サードインパクトではある)の結果なので、今地球を満たすこのL結界が人為的産物なのは間違いない。

 

 誰かが地球の放射能汚染を企み、意図的に地球全体を巻き込むレベルの全面核戦争を起こさせたようなものだ。

 

 葛城理論に基づいた人類補完計画とその最初の実験としてのセカンドインパクト、私とシンジが知らずに引き金を引かされた第一次ニア・サードインパクト、そして第三新東京市戦役において、セントラルドグマに自律化けされたエヴァンゲリオンMark6が投入され、その後の諸々の結果発生した第二次ニア・サードインパクトによって、月までコア変異するレベルでのL結界汚染が発生しているわけであり、これら全てに人為が絡んでいる。自然現象の偶然でないのは間違いないと断定していい。

 

 世界はこうなるように、ネルフやゼーレによって仕組まれていたというわけで、私達はこの状態を発生させるために知らぬ間に利用されていたことになる。

 

 いずれにせよ、このくそったれL結界のせいで、世界の9割9分が、ただの人間であるならば、間を置かずしてコア化を遂げ、肉体が形象崩壊しLCLに還元されてしまう、現実のものとなった魂の辺獄となりはててしまった。

 

 いま眼下に広がるリビア砂漠の赤い大地も、旧生命にとって得るものなどなにもない、何ら益なき不毛の地でしかない。本来なら、だけれど。

 

 世界がどん詰まりであろうとも、生きているなら生きるため、死ぬまで足掻くのが人のサガであり、そして知恵の実のなんたらたる人類であれば、こういう地の果て、虚無同然の地域だろうと、使えるものを見出して、ぶんどれるものをぶんどっていく。

 

 それは、原始の海を漂う頃から、食えるもの吸えるもの全てを食らいつくし、飲み尽くし、不毛の地上に上陸して地球中に広がった、生き汚い炭素生命、その末裔たる人類の生きるための手段であり、そうしなければ生きられないという業というやつだ。働かなければ食べられない。食べられなければ飢え死にって事。 

 

 ともかく、オアフ島を出発して一日。猛訓練でくたびれたクルーが待望しているであろう休暇の前に、終わらせておくべき仕事は終わらせておく必要があった。

 

 私は一度深呼吸すると、視界と意識を艦橋の副長席に座する私自身の肉体へ戻した。艦長席を振り返り、報告する。

 

「副長より艦橋各員へ通達、L結界密度、作業可能閾値内。

 翼下懸吊封印柱展開準備。

 総員、結界退去オペ用意。さっさと一仕事、済ませてしまいましょ」

 

「結界退去オペって……こんな、なんにもない砂漠のど真ん中で、なにをやるんですか?」

 

 砲術士官席の多摩ヒデキ少尉が、私の方を振り返って問いかけてくる。

 

「なんもないからいいのよ。

 

 このあたりはL結界密度が薄くて、生物由来コアや、形象崩壊後の残置ATフィールドが少ない。というかほぼ皆無ね。

 

 セカンドインパクト以来の地球温暖化で、このあたりはずっと生命が生存困難な灼熱地獄だったわけ。

 

 つまりこの辺の地面の赤色は、地殻物質変質由来の、ろくに残置ATフィールドを含まないコアばかり。ああでもないこうでもないと封印柱の文様パターンを弄り回さずに、容易にL結界を退去させられるわけ。残置された生命の魂が、自らの肉体を崩壊させる原因になった赤き浄化の結界退去の妨害要因になるってのも皮肉な話だけれど。

 

 ともかく、そんなわけで、これから行うオペを考えると、この砂漠が一番都合がいいのよ。色々と。

 

 長話も何だし、詳しい説明はオペ進めながらするわね。そっちのほうが多分理解が早いし」

 

 多摩少尉の質問に答えながら、思う。

 

 一ヶ月の訓練で、こいつも動きはだいぶよくなったけれど、どこか娑婆くささが抜けないところがある。

 

 脳裏に浮かんだ素朴な疑問を、上官に向かって同僚に話すような口調で聞いてくるのだ。

 私や艦長の見た目が子供なもんだから、話しかけやすい、というのもあるのかもしれないけれど、気安いわね、と思わなくもない。

 

 ただ、このあたり、言い過ぎると、変に忖度し硬直されて肝心な時何も聞いてこず、ビビってやるべきときに何も行動を起こせなくなる、なんてのも、軍隊ではあるある話だから、正直注意したいところよね。パワハラ上司のパワハラは、組織にとって結構な有害だったりする。

 

 まだ猿の群れと大差ない時代ならそういうのも有効なのかもだけど、組織を構成する各個人の連帯や協力という意味合いでは、正直負の方向にしか作用しないものでもあるし。

 

 少なくとも、艦長は彼のことを気に入っている。私には見どころがあるのかしれない。まだ20前、時代が時代なら高校生なのだし、教えれば教えるほど伸びる年頃でもある。

 

 それに、見方を変えれば、わからないことを素直に聞いてくるのは間違いなく美点だ。

 

 わからないものをわからないまま進めてしまって当然にようにしくじりをやらかし、注意しても萎縮するだけで、なぜ失敗したかを理解せず、学ばず、同じやらかしをまた繰り返す手合というのは、案外世の中に多かったりするものなのだ。

 

 そう考えれば、こいつはだいぶマシな部類ではある。伊達や贔屓でブリッジクルーになったわけではない、ということにしておこうかしらね。

 

 多摩ヒデキ少尉についての個人的評定を済ませつつ、私は改めて艦長に視線を投げる。

 碇シンジ艦長は、こちらに視線を向け、軍帽をあみだにかぶり直すと、小さくうなずいた。

 

「結界退去オペの実行を許可する。

 みんな疲れているだろうし、いい加減硬い地面が恋しい頃合いだ。ついでの業務は早めに済ませてしまいたい」

 

「そうね。副長了解、結界退去オペ開始。

 長良中尉、直ちに重力操演を開始。

 翼下懸吊封印柱12基、等間隔で地面に垂直投下。

 地上5メートルで静止。

 展開パターン、半径500メートル、真円、柱間距離は等間隔。

 L結界圧の変動によって生じる位置遷移に関しては、随時副長およびマギプラスにて調整入れる。よろしく」

 

「イエス、マム。封印柱一斉投下。重力操演、開始します」

 

 長良スミレ中尉の、一ヶ月の訓練の疲労を感じさせない、張りのある返答が返ってくる。

 

 さすが戦略自衛隊の薫陶を受け、新人ブリッジクルーでも一階級上の中尉で入ってきただけあって、タフな女性である。

 

 ちなみに受けた訓練が相当タフだったのか、発想もわりとタフであり、この一ヶ月の訓練中、『敵組織による本艦への接舷強襲揚陸を想定し、艦内に催涙ガスを充満させ、その状況で操船および邀撃訓練を行ってはどうでしょう』などと提案されたときは、流石に顔が引き攣った。

 

 なんでも過去にそういう訓練を受けたそうで、ドラえもんとか歌いながら薄めてあるとは言え催涙ガスの真っ只中で白兵訓練とかしたらしい。皮膚という皮膚、気管という気管が死ぬほど痛くなる程度、と笑顔で言われ、うわー、ぱねー、陸さんぱねー、と元空軍での私は思ったりした。

 

 高高度低酸素対応のための減圧訓練とかは受けたことがあるけれど(低酸素状態なので脳が貧血状態というか、思考が本当に回らなくなる。昔は空戦中は思考能力が3割まで落ちるというけれど、あながち嘘ではなかったりするわけ)、少なくとも空気を吸っても激痛、息を我慢しても皮膚が激痛とか、体験したくない。

 

 多分艦長や私でも死ぬほど痛い思いをするだろう。謹んで提案を却下させていただいた。本格修繕前に艦内を催涙ガスまみれにするわけにも行かないし。

 

 それにしても、と私は眉をひそめる。

 

「マムて」

 

「米軍では女性の上官のことをマムといいますし、戦略自衛隊設立の経緯には米軍が絡んでいます。伝統に従ったまでですが?」

 

 長良中尉が不思議そうな顔を擦る。当たり前のことを何故聞くのか、と言わんばかりの口調に、私は小さく肩を落とした。

 

「いつもどおりに副長でいいわよ。正直母親ってガラじゃないしね」

 

 思わず眉をひそめる。

 

 何しろ生まれが生まれ、母親と言われてもピンとこない身の上なのだ。だから、ママ扱いはわりと個人的に抵抗感が有る。船は母親のメタファともいうけれど、いくらヴンダー主機担当とはいえ、私はあいにくフネそのものではない。

 

「了解しました。一度言ってみたかっただけですので、お気になさらず」

 

 いいたかっただけか、と喉まで出かけた言葉を飲み込む。

 長良中尉、よくも悪くもヴンダーに染まりつつ有るらしい。

 

 とはいえ、オペレーションそのものは実に速やかで正確だった。翼面下より投下された大型封印柱12基が、空中で綺麗に円を描きながら展開する。

 

 僅かなブレもない理想的な軌道を描きながら、封印柱の群れは、さながら環状列石のように、L結界の只中に均等な距離を置いて浮遊しながら立ち並ぶ。

 

 彼女はこの一ヶ月の猛訓練で、重力操演をものにした気配で、まるで自分の身体の延長線上のように、空中の物体を複数操ってのけている。初陣のオアフ島防空戦でこちらの無茶にあれだけ答えた女性だし、やっぱり才能があるのかもしれないわね。

 

 で、最後に問題児。

 私は多摩中尉の反対側の座席、北上ミドリ少尉に視線を投げた。

 

「封印柱、全基予定地点に投入を確認。

 北上少尉、全封印柱のアンチLシステム起動。展開地点の除染を開始して」

 

「了解」

 

 私の言葉に、北上少尉が硬い返答を返してくる。

 

 レイの話だと、割と気を許した相手には相当甘えたり、緩い態度を示すと言うが、私と艦長に対しては、恨みの感情がでるのか、反応が硬い場合が多い。

 

 もっとも本来、封印柱を用いたL結界除染はどちらかと言うと整備班の兼任業務であり、低圧地域とはいえ自分だけでL結界除染を行うことに、少しは緊張しているのかもしれない。とはいえ、ダメージコントロールの一環として艦内L結界圧上昇時の緊急除染訓練は何度も行ったわけで、ノウハウ自体は体に染み付いているはず。

 

 してみると、やーっぱ敵意が主要因か。

 

 本気の戦闘状態だったり、訓練で切羽詰まったりすると、素がでてしまうのか、口調にそのあたりの緩さをしばしば見せるだけに、こういうふうに私達相手だと露骨に態度が固くなると、気を許してないのがよくわかる。

 

 ただ、嫌っている相手の命令だろうと、手を抜かないところは好感が持てるかな。馴れ合うつもりはないけれど、自分の仕事はちゃんとやるというのは、プロ意識の現れだし、悪くないと思う。仲良しこよしの無能よりは、こっちのことを嫌っていても、有能で仕事に手を抜かない子のほうが、個人的には好ましいし。

 

 封印柱に関する結界退去オペを行う際の、精密な文様パターンコントロールに関しては、伊吹整備長をはじめとした整備班の方が遥かに熟達している。少尉はそのあたり、まだ経験一ヶ月、封印柱関連の操作に関しては、ダメコン訓練で経験を積んだとはいえ、まだまだ尻から殻が取れたばかりのひよこ同然の経験しかないはず。

 

 けれど、北上少尉の表情には、未熟と未経験由来の不安と戸惑いは感じられない。コンソールを操作する手付きにも、戸惑いは感じられず、また状況進捗を見る限り、誤操作由来のエラーも発生していない。

 

 彼女の操作によって、展開した封印柱が速やかに励起し、その表面を幾何学的なパターンの赤い明滅が走り出す。艦内配置のダメコン用封印柱とはノウハウこそ同じでも勝手が違うだろうに、手際がいいことこの上ない。

 

 たぶん整備班の結界退去オペの工程記録とマニュアルを、マギプラスのデータベースを通じて入手、事前に記憶・学習しておき、命令された際に行動できるよう密かに努力を積み重ねていたのかしらね。

 

 普段の表情や口調ほどには、不真面目というわけではないってことか。彼女もまた、伊達酔狂だけでブリッジクルーの座までのぼってきたわけではないようだった。

 

 ともかく、砂漠を覆っていたL結界がアンチLシステムによって払いのけられ、コア化していた砂漠から赤が失せ、ニアサードインパクト前の、元の黄色みを帯びた砂の大地が、封印柱アンチLシステム結界内部に姿を表した。

 

「アンチLシステム、展開終了。L結界圧、だいたい大丈夫です」

 

「……だいたい……ともかく大丈夫ってことよね。副長了解。」

 

 アバウト極まる報告にため息をつく。数字で言え数字で。

 

 報告がしばしばふわっとした印象の報告になるのが、北上ミドリという人材の難点である。数字でなく印象で報告してくるので、口頭報告が当てにならず、モニタの数字を見たほうが早い、なんてこともしばしばある。

 

 けれどオペレーティングにおける入出力において、概ねだけれどそつはない。口調にも手際にも疲労の気配が感じられないあたり、案外要領もいいのだろう。彼女の入力はスムーズそのもので、エラーのたぐいも発生していない。

 

 あまり考えたくはないけれど、人員の戦死・形象崩壊による脱落等の喪失を考えれば、この種の操作ができる予備要員は多いにこしたことはない。この艦は本来有人に作られていないし、今後想定される作戦行動の多くはL結界域内部でのものとなる。

 

 艦内有人プレハブ区画を保護するための封印柱が攻撃により損壊した場合、プラグスーツの身体形象維持には限度があるわけで、結界圧によってはその区画にいる全員が形象崩壊でお陀仏になってしまう。これを防ぐための迅速なダメージコントロール、非常用封印柱運搬・機動オペレーションやプレハブ損壊部分修復作業が必要となるわけで、そのためには封印柱操作技術保有者は大いに越したことはない。

 

 一ヶ月でこの腕前なら、今後、キャリアを積んでいけばますます良くなっていくだろうしね。

 

 多摩少尉はギリギリ合格ラインだけれど、女性の新人二人は、概ねどころか当たりと見なして間違いなさそうだった。ともかく、これにてすべて準備完了。

 

「L結界の排除を確認。作業工程、第二段階へ移る。重力・斥力操演システム、起動」

 

 私は手早くマギプラスにシンクロすると、情報記憶領域から作業工程を引きだし、作動させた。

 艦体を構成するアダムス組織、そして主機たる虚号機が補機N2リアクターからの電力を吸い上げ、大量の重力子と斥力子産生を司るアダムス組織群へと流し込み始めた。

 

 サイズとしては微粒子もいいところだけれど、それでも強力な重力源たる未知のエキゾチック物質が電力という形でエネルギーを得たアダムス組織によって次々に産生されていく。

 

 これらの物質には、それこそ第十使徒邀撃戦以来お世話になりっぱなしで、運用側としては蛮用に耐えるレベルには熟して枯れた技術すら確立されているのだけれど、実のところ使われている産生物質や素粒子に関しては、悲しいほどに研究がなされていない。

 

 核種だけでもおそらく数百種、それぞれ性質や特性が違うから、本来なら個別に命名・運用してきっちり研究したいところだけれど、生憎セカンド・ニアサードの両インパクトのせいで、未だに正式な固有名を与えられていなかったりする。

 

 あまりにも多くの科学者が、二度のニアサードとそれ関連の動乱と混乱で、死ぬか形象崩壊してしまった上に、無数の研究設備も都市ごとL結界のどん底に沈んでしまったので、これら各種のエキゾチック粒子について本格的かつ仔細に研究したくても、不可能に近いのが現状なのだ。

 

 とはいえ実地運用にあたっては、少なくともある程度のレッテル付けができていないと、操演その他の運用に用いること自体が不可能になるので、16進法の数字とコードの羅列で仮命名だけは済ませてある。

 

 各エキゾチック物質から発振される電磁波や重力、斥力などの値から電磁的特性、化学的特性などの細かい差異を多元センサーで観測・分析をかけ、マギプラスに精査させ、とりあえずこれとこれは別っぽいから別カテゴリで、と雑に仕分けもすませてあるのだ。

 

 作戦行動中は疑似イナーシャル・キャンセル用に重力子・斥力子をふんだんにばらまく必要があるため、各種諸元とそれが体細胞に与える影響のシミュレーションは必須だったりするし、最初の頃私とシンジだけが乗ってヴンダーを運用していたのも、実験用ラットとしての役目を果たすため、みたいなところがなくもない。当時は今より細胞が人間を辞めていなかったので、充分各種エキゾチック物質が人体にどう影響を与えるかの参考にできたのだ。(ただ、BM判定を受けた後、色々あってキレたシンジパンチで試作耐圧プレハブ用の超硬ジオクリート隔壁に亀裂が走るみたいなインシデントが起こる程度には辞めていたので、正直参考値ではあったりする)

 

 そして想定される各種作戦や作業必要に応じ、個々の物質ごとに産生プロセスを確立、組織内部に備蓄なども済ませてあるのだ。

 

 艦内が安定した1G環境を保てているのもこれら重力・斥力系の実用技術がある程度確立されていて、なおかつ人体への各種物質の影響も概ね検証済みだからで、だからこそ第二次改装で大幅な有人化へと舵を切れたわけ。

 

 とくに人工重力の安定は必須かつ最重要で、重力と斥力の総和で1G環境を作り出し、通常航行中であれば問題なく維持・安定させられるからこそクルーが内部で気軽に生活・移動ができている。

 

 これができず人工重力が不安定な状態になってしまっていると、極端な話、突然廊下に10Gの重力環境が発生して、運悪くそこに居合わせた人員が突然自分の体重が十倍になり転倒、『強く身体を打ち』殉職なんてことになりかねない。

 

 あるいはたまたま甲板に出ていたら、10倍の斥力が発生して青空めがけて射出、そのまま転落死なんてのも考えられるかもしれない。

 

 ともかく、運用が地味に大変、というのはわかってほしいわよね。大変だったのよ。私も艦長も旧司令部スタッフも、それこそ年単位をかけて、人手が足りないところにああでもないこうでもないって、死ぬほど頭ひねったってーの。

 

 ともかく、マギシリーズの高度な分析能力抜きでは絶対にここまでの柔軟な重力系制御の確立および発展は不可能だったろうし、なんというか先代のマギと後継のマギプラスには頭が上がらない。かといって、マギを量産すれば人間を完全代替! 人手不足全面解消! となるかというと、どれほどマギが優秀でも、そういうのは実は無理だったりする。

 

 マギプラスを構成する各ユニットには、運用しやすいよう疑似人格が植え付けてはあるけれど、だからといって会話ができるわけでもない。

 

 そもそも人間の脳機能のコンピューティングへの応用を主眼に開発された脳型コンピュータ、というのがマギシリーズの一連の計画のそもそもの成り立ちなのだ。

 

 まず、ヒト脳細胞を元に作ったのでは頑丈さが足りず、それに人道面での問題が発生するので、人工脳細胞を作るのが、最初の課題になった。

 

 このため、各種の化学触媒を用い、珪素ベースの半導体物質や、ヴンダーが産生するエキゾチック物質のうち都合のいい導特性を持つものを組み合わせ、ヒト細胞より強度の高い人工脳細胞を作り上げた。

 

 次に、この脳細胞の成長・機能維持と、贋造ニューロンの生成・抹消などによる配線替えを可能とする、人工脳・脊髄液を作った。水ガラス、シリコンオイル、ヴンダーから生まれたよくわからないけどなんかこういう挙動はするらしいそういう謎の物質、そういうものをごたまぜにした、『ともかくそう動いてくれる』都合のいい、マギプラスシリーズの維持と生育、修復を司ってくれる人工体液だ。

 

 これに関しては専門書が何冊書けるかしれたものでないほど苦労した。リツコが。なので、リツコが暇になり、気が向いたら何らかの著作を書くかも知れないけれど、現状人類は存亡の危機なので、当分その暇は訪れない。リツコは気の毒だと思うけれど、そのあたりの忙しさは私たちも大差ない。纏まった暇がほしい。

 

 ともかく、これらの技術の開発の成功により、脳同様の成長性をもちながら、デジタルなインプット・アウトプットを可能としつつ、ヒト脳より物理的強度を高めつつ、電磁パルス攻撃や太陽風、宇宙船といった危険な電磁波や、L結界による物体相転移変性への耐性を高めたものが、マギシリーズの最新型にしてヴンダーの脳髄、私達が誇る叡智の結晶にして私と艦長とリツコの誇り、マギプラスなのだ。

 

 まあ誇りではあるんだけれど、私と艦長の都合のいいサボり場だったり、レイが実益と趣味を兼ねて世界中のありとあらゆる書籍データを詰め込んでいたり、クロさんがどこから探し出してきたのかわからない量のクソ映画データを詰め込んでいたり、そのクソ映画をデジタル補正で高画質4K化したり、私が趣味で名作からクソゲーからなにから電子データ化して詰めて、艦長やヴンダークルーと遊んだり、青葉さんと艦長が趣味で持ってきたけど劣化したカセットテープだのCDだののデジタル音楽データをこれまた高品質化したり、マギシリーズ最新型でメンテが旧マギに比べて容易でアクセス簡単データ容量たっぷりとはいえ、どいつもこいつも私用がすぎるといわれればごめんなさい。いや暇なときは暇なのよ航海中って! しかも中途半端な小分けの暇だから思いっきり一週間休みますとか出来ないし! わーい6時間暇になったーとかだいたい一桁よ一桁! 半端でなにもできやしない! でも6時間やることないわねーってぼんやりしてるのって意外ときっついし、暇つぶしが大事なときってほんと大事なのよ! こちとら一応人間のはしくれ、年がら年中研究やシゴトばかりしてらんないっての!

 

 ステイステイ。落ち着け私。

 

 で、マギプラス生成にあたって、ベースとして諸事情によりヒト脳をわりと辞めている艦長や私の脳をサンプルとして設計がされた。私と艦長の脳は、思考がつながっていると言うか、脳内で生成される電子が常に量子もつれ状態で互いの脳に生成されるという奇妙な特徴があったりする。

 

 これによって私と艦長は思考がリンクしているわけだけれど、このリンク機能をマギプラスを構成する各端末同士で持たせることができれば、データリンクやインプット・アウトプットの面で非常に便利であり、なんならこの特性を利用して、高量子ビット数の量子コンピューティング処理だってできるようになるのだ。

 

 でまあ、計測された電子状態を元に擬似人格を形成、OSとしてインストールされたわけなので、艦長や私からすると、とてもシンクロしやすいものになっている。え? どうやって量子もつれするような電子生成を可能にして、同調・接続を可能にしたかって? ……混ざりもの状態でこの辺は大丈夫かな、な脳細胞をちょっと取って培養して一部補助。うん。これ以上は機密なのであしからず。

 

 いざという時自分の脳の拡張メモリや拡張演算装置として運用することさえできるけれど、会話ができたりとか、強いAIよろしく本物の自我があります、というわけでもない。

 

 これこれこのタスクをこなしてと指示書を出して、その種の処理を任せると勝手に成果物をあげてくれる優秀な部下、けれど戦略判断はできません、といった味がある。

 

 生成過程が生成過程だけに、量子コンピュータおよびノイマン型コンピュータを統合したすこぶるつきの優秀な演算システム、ビッグデータの取り扱いは大得意。

 

  なんならシミュレーションから状況予測、砲撃諸元の算出、L結界による物理事象変動予測等、人間には到底不可能な規模の演算を可能とする強力なシステムではあるけれど、これ程に高度なコンピュータを持ってしても、入力数値の差異や演算式選定ミス、センサーの故障、データの統合エラーといった細かな要素から、結果として演算を失敗し、現実にそぐわない数値をはじき出す事がある。

 

 この世にある単語で、完璧の二文字ほど、幻想の二文字に近い単語はないってことなのよね。

 

 なので、そうしたトラブルに対応すべく、相応の数の人員をブリッジに配置しなければいけないわけで。

 

 マギプラスは重機にも似て巨大な演算力を持っているけれど、巨大な力というのは、得てして微細なエラーを『些細なことだから無視しちゃいますね』と度外視してしまう。というか、そうしないと小数点以下を無限に演算してしまうため、そこで演算が止まってしまうのだ。

 

 なので、どこかで『その桁から上は繰り上げね』と処理する必要がある。円周率のようなものだ。約3だったり、約3.14だったり、精度上げたいならいくらでも桁は増やせるけれど、あまり増やしてると計算が地獄のように大変になるのは、ヒトも機械もかわりない。

 

 ただ、微細にすぎないようで実はそれが致命的エラーというのは充分ありうることだったりする。マギプラスはヒト脳がベースとは言え、基礎はあくまで演算システムであり、現象よりも数字を見るところがある。なので、ヒトから見ると「なんでそんなボーンヘッドするの!?」みたいなことをやらかしたりする。

 

 たとえばロボットを作ったとする。

 

 で、このロボットの歩行プログラムを手早く作りたいからと、ロボットの仮想モデルを生成し、これに二足歩行できるよう二足歩行方法を学習させてね、というふうに自己学習式シミュレーションを実行させたとする。

 

 ここでマギプラスが勘違いしたり、あるいはシミュレーション設定者が条件設定を間違えると、24時間後に自己学習成果を見たところ、『歩くより転がるほうが効率がいい』と言わんばかりに仮想現実内のロボット仮想モデルが延々前回り受け身を続けている光景が出現していたりするのだ。

 

 そういうのの良し悪しが、コンピュータにはわからないところがある。

 

 なので、そういうところはきちんと人間が補ってやる必要があるのだ。つまりは相補性。

 

 現状人の数が10分の1になるということは、専門家や科学者の数も10分の1になったということで、共同研究等を乗算として考えるなら、人類の科学研究能力は100分の1にも1万分の1にも減衰したと考えられるかもしれない。まさに唾棄すべき悲しい現実。

 

 なので、そういうのを補うためにマギプラスは必要だし、かといってマギプラスがあっても人間は不要になりません、というお話なわけ。

 

 それはそれとして。

 

 ブリッジクルーの鮮やかな仕事のおかげもあり、無事、重力・斥力操演の準備が整ったので、それら重力子と斥力子をばーっと砂漠にばらまいた。

 

 それらの微細な重力源と斥力源は、地球重力や散布された別の重力子と斥力子と相互作用しつつ、地表へ向かって落ちていく。

 

 もちろん斥力子は重力に対応した斥力を司るので、重力めがけて落ちるなんて嫌だー! と反発して上昇しようとするわけだけれど、それは困るので、質量として0であるため重力を有さず、しかしながら絶対的といえるほどの物理干渉力を有する針ATフィールドを各斥力場ごとに展開して固定する。ビリヤードのキューを想像してほしい。本体部分がATフィールド、先端部分が斥力子を格納したまた別口のATフィールドでできたキュー。

 

 その構造をもってして、地球の重力に反発したくてたまらない斥力子を、うるせえだまれ落ちろ落ちやがれで無理くり地べたへ押し込んでいく。なにしろヴンダー、こちとら全長2千m超え、推定重量2億トン、ちょっとやそっとの斥力がジタバタしようと、この恐るべき質量に保持されたATフィールドに抗えるものではない。

 

 重量だけれど、アダムス組織なので色々変動するため、あくまで推定値になるのは勘弁してほしいところ。なにしろ電流流して「かくあれかし」と思うだけで、充分物質に干渉しうるだけの重力子を産生する代物なので、重力・斥力制御を行うだけでも色々各部の重量が変わってしまうやつなのだ。

 

 通常形態ですらそのざまなので、突撃形態へ変形すればますます変わってくる。いわゆる排水量とかそう言うので測れないところがあり、エヴァと使徒、そしてアダムスが可視化された対称性の破れ、動く法則破断、受肉した特異点と呼ばれる所以だったりするのよね。

 

 そんな塩梅で、ATフィールドの針、を食らって、いやいやリビア砂漠の地べたに押し付けられた斥力子が跳ね上げた大量の砂漠の砂を、今度は落ちて地球に吸い付きたくてたまらないけれど、これまた針状ATフィールドによって落下を阻まれ、空中に位置を固定された重力子が、ズルズルと砂を吸い上げる。

 

 あー、久々にビリヤードやりたいわね。あれなら艦内でもできるし、マギプラス利用のシンクロシミュレートでもいいけれど、実物の台で遊ぶというのはまた感覚が違う。

 

 それに中学校時代、まだバカシンジだった艦長含めた3馬鹿やヒカリ、あと加持さんあたりまで巻き込んで、皆で遊んた思い出があるのだ。あれをやろうと最初にいい出したのは誰だったか、今では艦長も私も思い出せない。私じゃないのは確か。その頃の私は自分から他人づきあいしたがるタイプじゃなかったもの。

 

 ただ、そのときは認めていなかったけれど、無意識ではそういう他人との付き合いが楽しかったし、待機だ迎撃だ実験だで時間がとれない中、ゲームセンターだけ夜遅くまで開いてるのをいいことに、艦長を引っ張って練習に行き、店長に無理を言ってマッセとか馬鹿みたいに練習したのを思い出す。

 

 ネルフ勤務と学校でプライベート時間が削られるってーのに、それでも必死に練習した理由は……あー、そうだ。トウジだ。

 

 あの洒落くさい遊びを洒落臭いと言って拒む中学生当時の時点でおっさん臭いことこの上なかったあのトウジが、トウジのくせに死ぬほど強くて腹たったからだ。

 

 何が腹立つって芋ジャージのくせにあいつ店長からトウジだけはマッセやっていいよくらい球捌きが絶妙で、球に奇怪なスピンを加えて打つもんだから、球が気持ち悪い曲がり方して綺麗に番号順にポケットに落下し、あいつが本気だすとナインボールの場合あいつの番でだいたい終わる。

 

 年中芋ジャージオンリーなあたり含めてガサツ極まる性格といい見た目といい、融通きかない体育会系の権化みたいなメンタルのくせに実は運動神経は大したことがなくて、短距離走は早いけどバスケットだと一人バタバタ走り回っておしまい、シュートもろくにキメられない下手くそのくせに、ともかくビリヤードだけはやたらあいつは巧かった。

 

 あまり腹が立つから私も真似しようとしたら、店長に素人はラシャ痛めるからマッセ禁止ね、とやんわり言われてさらにキレ散らかしたのを覚えているし、ヒカリに文句言おうと思ったらヒカリはヒカリで鈴原の新しい魅力を見つけた、みたいにひっそり目をキラキラさせててその日は無様に只管キレ散らかしていた。

 

 ケンスケはケンスケで、トウジみたいな妙な器用さとスキルはないんだけど、ともかくあいつは手堅くて、ミスショットがなかったのよね。サバゲの影響と、トウジとの付き合いもあるんだろうけど、ともかく手堅くてミスショットがない。慣れもあるんだろうけど、バンクショットをほぼ外さないからこいつもほんと相手をしてて性質悪かった。

 

 あとバカシンジにねっとりと加持さんが絡みついて手とり足取り初心者向けビリヤード講座してて、ホモ変態ばーかばーか死ねみたいな無様な捨て台詞を吐きつつ、仕舞いにはすねて自動販売機脇でグンペイやってた負け犬状態な14才の私の思い出が蘇る。

 

 いやゲーセンに来て携帯ゲーム機を遊ぶんじゃない当時の私。ゲーセンなんだからゲームをやりなさいゲームを、と思い出の自分に言ってもしかたないか。

 

 たしかあの店、エイリアンvsプレデターとかパワードギアとか稼働してたのに。もったいない。あ、ヴンダー6年目ぐらいにレイが私と艦長がヴンダーで遊べるものって除染してコア化状態から戻した基盤持ってきて、苦心してマギプラスに接続して、艦内イントラネットで遊べるようにしてあったりする。福利厚生は大事なのよ。私と艦長は籠の鳥なので、割と正直娯楽に飢えているので本当に有り難かった。

 

 それはそれとしてビリヤードだけれど、その後もなんだかんだ皆で遊ぶ機会はあったし、密かに練習もしたけれど、トウジにはついにリベンジを果たせずじまいのまま、現在に至る。

 

 ああいう性格でああいうの興味もってるわけがないと思ってたトウジがそういうのをやるのが先ず意外だったけれど、いろいろ縁があったのかもしれない。それに、あいつの今の仕事は手先の器用さに他人の生命がかかっている。つまりそれくらい昔から手先があいつは器用だったのだ。

 

 そういえば、中学校のみんなで、みんなでサバゲやったこともあったわね。

 

 回数はそんなに多くない。

 

 たしか、サバゲしにでかけたのは2回くらいだったと思う。ケンスケがたまには一人じゃなくて皆でサバゲをやりたいと愚痴ったらしく、それをシンジから聞いたミサトが妙に乗り気になってしまって、わざわざ車を出してくれたのだ。

 

 あげく箱根の山奥の、多分ネルフ所属の特殊部隊の訓練場だとおもうんだけど、そこをミサトが演習名目で貸し切りにしてしまい、本来軍隊が使うようなご立派な演習エリアで電動ガン振り回して、皆で盛大にお遊びの撃ち合いをやらかした。

 

 慣れてないシンジは、当然位置バレバレで身を隠すことも考えず、うろうろしてるもんだから即ヒットで退場。単細胞の突撃バカのトウジも音で位置バレして即ヒット。

 

 だから、その日何回かフラッグ戦やったけど、だいたい私とケンスケが主力でやり合うことがおおかったのよね。まあ専門訓練受けてる私のほうが直接の撃ち合いは強いし、CQBレンジなら、エアガン使うまでもなくナイフキルでヒット取れたし。

 

 ただ、ヒットとりにいくことに夢中になってて、フラッグ防衛から意識が飛ぶボーンヘッドをやらかしてしまった。脳みそシングルコンバットはこれだからダメ。

 

 キルしたケンスケ相手に勝ち誇ってる間に、ケンスケの指示で密かにフラッグ狙いにいってたヒカリにフラッグとられて敗北、ゲーム終了。ケンスケを始末したらあとはヒカリだけだし、と油断していたので、戦術で勝って戦略で負けたとはこのことだと思う。

 

 あのときは腹が立つやら悔しいやらでほんとみっともないぐらいキレ散らかして、次の試合からほんと素人相手に本気出して勝ちにいったのは覚えてる。

 

 ってもあいも変わらずシングルコンバットで他人を頼みにしない猪突もいいとこだから、どれだけ動きが良くても、いい感じにケンスケが指示出しした他の連中の牽制射が邪魔で進撃できずしばしばあしらわれたっけ、いえ突破できるときは突破したわよ、ブッシュくぐって迂回突破。一応そういう訓練受けてたし。余技だけど。意地よ意地。

 

 あれも今思い出すと(当時の私は気づいてなかったけど)結構楽しかった。

 

 要所要所で戦闘推移を見たミサトが、チームバランス見てバランサーとして入ってくれて、わざと切られ役よろしく動くこともあれば、電動ハンドガン一丁で単騎駆けフラッグアタック成功で、負けが込んでやる気をなくしかけてたシンジやトウジのやる気を戻したりしてた。

 

 他人に気を使わないがさつさがむしろ演技。実のところは気を使いすぎでそれが大げさ大仰になるのがミサトのミサトらしいとこで、だからあのときも結構気を使ってくれてたんだと思う。

 

 もしあのあとも機会があって、シンジやトウジの腕が上がったら、ケンスケと同じチームでやっても面白かったかもしれない。

 

 そういやケンスケが造る昼食、いかにもミリオタって感じの野戦食で、そのときは私、たしか『レーションかよ』みたいな反応したんだった。

 

 でもあいつ、いろんな軍隊のレーションをどっからか仕入れてきて、美味しいのをなるべく出すようにしてたのよね、今にして思えば。

 

 軍隊ごっこだ不謹慎だなんだかんだと死ぬほど口でバカにした記憶があったけど、みんなでわいわいたべると、ちゃんと美味しいやつはちゃんと美味しかった。

 

 そういうあいつのミリオタぶりは、第三村立ち上げから維持に至るまでずっと役立って、今でもレイの話では随分そういう知識と経験をフル活用しているんだそうだ。

 

 さほど付き合いが長くないとは言え、私が人間らしく生きられた時代の、ごく短い間とは言え友達だった男二人の妙な取り柄が、妙な形で生きている。

 

 人間のどういう要素がどういう風に未来へ繋がっていくかなんてわからない。意外な強みが意外な形で発揮されることもある。人生は驚きの連続なのは、10年ヴンダーに缶詰の今でさえしばしば思うことだ。

 

 何もかも懐かしいし、叶うならまた会って、何でもいいから楽しいことをして遊びたいとも思う。

 

 とはいえ私も含め、みんないい年をした大人で、14の頃のように遊ぶわけには行かない。

 

 それに何より私とシンジ──艦長は、三号機事件の張本人。第三村に顔を出したとして、面白い顔をしない村民も多いだろう。

 

 昔艦長が試しに半舷上陸した時は、12.7ミリ対物ライフルの狙撃のお出迎えを複数の狙撃ポイントから受けたくらい。まあイズモの連中に予定が漏れた、と考えるのが妥当かもしれない。

 

 ニアサードで家族を喪った人々による私的復讐の線もある。まあ、未だに犯人が判明していない時点で色々察しがつきもする。まあ、『疫病神』ということだろう。

 

 なんなら手紙でやり取り、ってのも手かもしれないけれど、あいつにあの疫病神どもから手紙が来ている、というだけで、トウジ自身に妙な悪評が立ちでもしたら申し訳が立たない。

 

 昔から第三村へ連絡員として行き来し、なんなら村の維持や復興、苦情対応をやってきたレイや、食料から生活必需品まで、あらゆるものを運んで村の機能を維持し続けたクロさんのようにはいかないのだ。自らに罪なしと自認はできても、他者の汝ら罪ありという意識は、こちらでどうこうできるものおじゃないわけで。

 

 ま、なくしたものは戻らない、過ぎた日々も帰ってこない。過ぎた夏より来たる秋よね。

 

 ともかくビリヤード台に関しては、半舷上陸予定のレイにお願いしておこう。多分あの街なら、ラシャの予備やキュー含めて手に入るはず。その程度には繁栄しているものね。

 

 艦内サバゲ……は流石に無茶か。事故死者出かねないし、たぶんゲームの内容的にこの一ヶ月で艦長が訓練という名の身体で死ぬほどわからせ体験をさせたので、そのトラウマで楽しいどころかもういやだになるクルーが大量発生するのは想像に難くない。 

 

「……なんか砂を空中に次から次へ引っ張り上げてますけど、なにやってんすか?」

 

 どこかぼーっとしたところのある響きを帯びた若い男の声が、私をあまりにも長すぎる回想から引き戻す。

 

 やってしまった。

 

 何をやっているのか気になったのか、多摩少尉の顔の作りはいいけれど、人格のせいかどこか緩さのある顔立ちが、シートに腰掛けたままシンクロしていた私の顔を見下ろしていた。

 

 説明すると言われて説明もなく、行っていることが重力操演機能を利用した意味不明かつ壮大な砂遊びなので、流石に聞かずにはいられなくなったのだろう。

 

 やってしまった、というのは、艦長と私の二人でやってたころの悪い癖で、単調な作業にかんしては、マギプラス任せのほうが楽でミスもないので、自分でやらず大半をマギプラス任せにして、なにがしか別のことに手を付けてしまうというものだったりする。

 

 マギプラスから作業プロセスのデータを呼び出して艦長や私の脳を通過させ、ヴンダーに「考えてるのは私ないしは艦長」と思い込ませて作業に専念させるのだ。

 

 で、私達自身の脳の9割9分はというと、別の作業に当たったり、各種研究の論文を書いたり、さもなければマギプラス内部に構築した暇つぶし空間で艦長と遊んだり、二人で映画を見たりして、仕事をしながら堂々とサボるなんてことをしたりが普通だった。

 

 そんな悪癖があるものだから、つい、いつもの癖で作業中に回想にふけってしまったのだ。軍人というより社会人失格かもしれないなどと、ふと思う。娑婆に帰れるかしらね私。マギプラス抜きの社会生活してる自分が、正直想像つかないわよ。

 

 3次元CAD設計でレンダリング中みたいなもので、レンダリングが終わるまで暇で仕方ないから何かしら別の仕事をこなすようなものといえば伝わるだろうか。ともかくそれくらい、することがなくて暇なやつ。CAD設計以外のたとえだと、そうね。目の前で勝手に回る、回転によって何かの仕事をしているらしいけれど、その仕事の正体も回転する理由も不明な無人回転奴隷バーの、回転の見守り作業とか。あと交通量調査ただし一時間ぶっ続けとか。

 

 それくらい、暇。とはいえサボりはよくないわけで。今回の主目的は教育なわけだし、オペしながら説明する、といいながら、見て学べと言わんばかりに放置はよくない。仮にも中佐で指揮官格、人を入れると決めたんだから、こういうところはちゃんと直さないといけないわよね。。

 

 一呼吸挟んで思考を切り替える。さて、どう説明したものやらと思いつつ、私は脳裏で言葉を練りながら口を開く。

 

「艦長演説の後、皆に給料出すって言ったじゃない?

 

 でも現状、世界全部で通用するような便利な非兌換通貨なんてないし、だから根本は物々交換で、向こうの現地通貨を仕入れる必要があるのよ。

 

 みんなの給料だけじゃなくて、ヴンダーの修繕に必要な修繕物資や施工機械のレンタル費用諸々、現地オペレーターの人件費、停泊場所を借りるだけでもこの巨体だから相応に代償が必要なわけ」

 

 私の言葉を聞いた多摩少尉が、一瞬首をひねったが、すぐに見当がついたようだった。

 

「物々交換ってことは、仕入れですか。

 とはいえ、なんていうか、見た感じ、さっきから集めてるのってただの砂っすよね。これって売り物になるんスか?」

 

「砂ってだけでも案外売れるのよ。何しろ人が入れる領域が限られる時代だし、ただの砂でも各生存圏にとっては垂涎の一品だったりするのよね。

 

 昔じゃ値段がつかないような木材一つでも、現状じゃほんと高級品。木材っぽいのでも、大抵が二酸化炭素なんかをマテリアルに触媒作用で合成した炭化水素ベースのフェイクで、天然物なんて超が付くほどの貴重品、貧乏人に手が出るもんでなし。

 

 要はなんでもかんでも貴重貴重、そういう時代だからこそ、どの生存圏でもたかが砂、されど砂みたいなもんで、ヴンダーが全力で砂だけ持ってっても結構な価値になるのよね。

 

 これから行く先は大きな生存圏だから、ただの砂でも建造物用の骨材としてひっぱりだこだし。ただ、もちろんそれだけじゃ、必要経費が賄いきれない。それで、わざわざ遠回りしてリビア砂漠まで来たってわけ。っていうか、ここの砂くらい細かいと摩擦係数が低すぎて骨材に使えないっていうのもあるから、当然目的は別口だけど」

 

 多摩少尉が得心したような表情を浮かべる。

 

「L結界を退去させやすい分、作業の面倒が少なくて済むので、相対的にコスト安、すか。

 でも他にもなんか理由ありそうスね、その言い方だと」

 

「気づきがいいわね。

 

 少尉の言う通り、他所の砂漠じゃなくて、ここを選んだのには相応に理由があるのよ。

 リビア砂漠は砂漠としては高齢で、かなり成熟が進んだ砂漠。

 

 長い歴史のある砂漠は、熱変化による風化作用と、風が原因の摩擦の2つの作用から、割れたり表面がすり減って研磨されたみたいな状態になってるわけ。形状は粒ぞろいの球状がおおくて、砂粒は0.1ミリから1ミリ大。見たほうが早いかしらね」

 

 私は手元のタッチパネルを操作して、リビア砂漠の砂サンプル画像をモニタに表示し、多摩少尉に見るよう右手に人差し指で見るよう促した。多摩少尉が覗き込む。

 

 細かく粒ぞろいで、しかも球状の、ごく僅かに黄色みをおびた、けれど透明な無数の砂粒の映像を見て、多摩少尉が感心したように呟く。

 

「サンプル画像で見ると、結構透明なんすね。丸くて、粒はもっと小さいスけど、子供のころ食べた菓子に同封されてた脱酸素剤のシリカゲルに似てるッスね」

 

「そう。成熟してるってのはそういうことで、ずっと砂漠地帯だったから、表面から他の成分が風化なり摩滅なりでなくなってしまって、91%がほぼ石英質。石英の大半は二酸化珪素だから、珪素をマテリアルとした工業素材作成に丁度いいってこと。

 

 ほんとはもっと南のボツワナのカラハリ砂漠あたりがもっと珪素質割合はたかいんだけど、ルート的にそこまで遠回りしたくなかったし。

 

 まあ、いくら純度が高いって言っても9割程度だから、1割は余分は混じってるわけ。重金属とか、あとはなんだかんだ混じってる塩化ナトリウムとかね。そういう成分があると、モノの仕上がりが悪くなるのよね。

 

 だから、マテリアルとして使うための下ごしらえとして、重力・斥力操演やATフィールドを利用して粉砕したり不純物を取り除いたりするわけよ。つまり、こう」

 

 重力場や斥力場、ATフィールド、そうした諸々の力場の相互作用の結果として、ヴンダー下方70メートルの位置には艦底に平行に、いくつもの砂が固まった砂球が、直径一キロのリング状に配置されている。

 

 私の脳波による音声無き号令に応じ、そのリングが超高速で回転を始める。一見シンプルなリングが回転しているだけにみえるけれど、実のところ単純に回転しているのではなく、土星の輪のように幾重もの輪で形成されていて、それぞれの輪の回転速度がそれぞれ違っていて、輪を形成する砂同士が干渉するよう配されてたりする。

 

 そして外見的には輪が浮遊しているようにしか見えないけれど、実のところはATフィールドの針と重力子を組み合わせた構造物がさっき言ったようにハリネズミ状態で配されており、これがぐるぐると速度差をつけて回転することで土星の輪のような摩擦粉砕リング構造を形成しているのだ。

 

 このへんのぐしゃぐしゃしたATフィールド変形は、今は無き第6の使徒の形象変形記録をかなり参考にしたやつで、昔からなんだかんだとお世話になっていたりするのだ。戦闘以外の用途で使うとは、あの頃はおもっていなかったけれど。

 

 ともかく、高速の回転で粉砕珪素質成分から重元素を追い出すように遠心分離をかけつつ、また別の重力ATフィールド針を下ろして砂を吸い上げにかかる。

 

 モニタに映し出された作業進捗状況や、リング内の光スペクトル分析による元素位置の変化を見て、多摩少尉が感心したようにうなずいた。

 

「粉砕をかけることで、重元素の粒だけでなく、砂を構成する珪素質の内側の不純物も取り去ってるわけですか。

 

 ATフィールドの絶対強度も併用しているから、粉砕度も高い。時折網みたいなパターンでフィールドを展開してるのは、粉砕した砂の分子単位の仕分けと不要成分の除去が目的スかね? いえ、工業はさっぱりわからないスけど、ヴンダーの操演とATフィールドは、こういうふうにも使えるんスね。驚きましたよ。こういう使い方は考えたこともなかったっス」

 

 む。さっぱりと言う割に、見ただけでそれなりに言い当ててくるか。こいつはこいつなりにATフィールドの挙動や展開方法を勉強してるってことね。

 

 流石にヴンダーのアダムス組織が産生するエキゾチック物質の「なんかこの元素に特性が類似してる」という点を利用し、ATフィールドで位置固定かけて触媒反応をさせて珪素を純化している、まではわからなかったようだけど。というか砲術屋がそこまでひと目で当てたらそれはそれで怖い。

 

 内心で多摩少尉を少し見直しつつつ、私は彼の言葉に頷いた。

 

「そ。戦うばかりがヴンダーの仕事で無し、この10年、人類生存圏の維持発達のためのあらゆる物資の調達・供給、科学分野の研究もヴンダーの大切な仕事なのよ。

 

 人口だけじゃなくて科学者も減って科学設備も減ってアレも足りないコレも足りないだもの、私だって本来軍隊勤務の戦争屋が、何の因果か研究職と二足のわらじ。

 

 ま、そのへんはうちの艦長とエヴァパイ二人も同じだけど」

 

 ぼやく私に、けれど多摩少尉が不思議そうな顔をした。

 

「でも副長、説明してる時楽しそうっだったスよ」

 

 一瞬彼の言葉の意味が飲み込めず、あっけにとられた気分になる。

 

 艦橋内カメラを使ってシンクロ操作で脳裏にカメラ映像を移すと、変な顔をした自分が見えた。きょとんとした顔というのはこういうのをいうんだろうか。

 

 楽しい、か。楽しいね。うーん。

 

「楽しい、まあそうね。楽しんでないって言えば嘘にはなるわよ。

 

 これをこうすればあれがよくなる。あれをああすればあれがよくなる。問題点だらけの世の中だから、問題点はわかりやすいし、そこを何とかできて目に見えて状況が改善されれば、誰が褒めてくれなくても誇らしいっていうか、やった甲斐があるってなるじゃない」

 

 当たり障りない言葉を選んで返しているような、それが本音でもあるような、妙な気分になってくる。

 

 この10年、この世界のために私達やヴンダーにできることなら、それこそなんだってやったと思う。

 

 重力異常で漂っていた新型機を軍用機も民間機も区別なしで回収、除染してリバースエンジニアリングをかけ、ニアサードの結果として失伝状態になっていた各種新技術を機体から回収したり。

 

 そういった技術を応用して、まだ各国で試作研究段階だったパルスデトネーションエンジンをマギプラスのシミュレーション上とはいえ設計をモノにして、研究・生産力のある生存圏に回したり。

 

 ともかくそんな調子で、あれこれと色々成果をあげ、相応に感謝されたり褒められたりするのは、悪い気分がしない。

 

 また、そうしたノウハウの積み上げは、あるとき想像もしていない、本当に意外なタイミングで利用できたりする。基礎研究の積み重ねは、妙なタイミングで化学反応をおこし、パラダイムシフトを引き起こすものだ。逆に言えば、充分に材料が揃わないと、その種の反応と転換は絶対に生じないわけで、今日もこうしてあれこれそれこれ、せっせと積み重ねているのだ。

 

「あれこれ手掛けていると、妙なタイミングで妙なものが役に立ったりすることがあるのよ。わかりやすいのがこの間の艦長の光子爆雷ね。特殊ブラックホールのホーキング輻射エネルギーを利用した即興の爆雷戦。装備がないなら造ればいいし、それができるフネだし。

 

 ただ私は飛ばすのは巧いけれど、ヴンダーの創造という面での権能をああいう形で咄嗟に発揮はできないわね。

 

 ま、一長一短、バランス取れてて丁度いいのかもしれない。飛ばす方のエンジン廻りのテックなら、私も一家言……と自慢するほどのものではないけれど、自信あるし。パイロット専念からいつの間にやらエンジン設計ってのも皮肉な話だけど」

 

「戦って勝てばいい、ってだけじゃないってことスか。訓練施設で聞いていた話と、任務内容が随分違う気がします」

 

「いいのよ。研究者が少なすぎるからやってる非常のことだし、今は与えられた職掌を十全にこなすことを覚えてくれればいい。この種の生産・研究なんかは、余裕できてからでいいから。

 

 だいたいアンタ、世が世ならまだ高校生でしょ? まだまだガキ時分だってのに、それでブリッジクルーまで上がってきたんだから上等よ上等。ま、この間の防空戦ではだいぶビビってたみたいだけど、初陣じゃしょうがないわよね」

 

「いや、それ言われるときっついス。艦長には気にするなって言われたスけど。

 

 それより、さっきから回してる珪素純化円環構造体? スか、A環からE環まで概ね珪素純度99%オーバーになったみたいスけど、これからどうするんですか?」

 

 っと、年上づらしてる場合じゃなかったわね。

 

 モニタに目をなげると、概ねリング内径部分は次工程に移っていい純度となっているようだった。

 

 思考の一部をマギプラスと同調させ、次工程に移行しつつあることを確認しつつ、私は多摩少尉への説明を再開した。

 

「次はねーー」

 

「わんこくーん、奥さーん、リビア砂漠に着いたってホントかにゃー?」

 

 説明を遮るように、唐突な乱入者の気配。

 

 軽やかな足音とともに艦橋に乱入する気配一つ。

 

 そちらに視線を投げると、猫じみた素早さで長い髪と羽織った実験用白衣をなびかせながら、艦橋前方の窓へ走り寄っていくピンク色のプラグスーツのちちとしりがでかい女の姿。能天気という言葉があるけれど、彼女に関しては全身天気という言葉を使ったほうがいいくらい、機嫌が悪い時を見たことのない女、真希波・マリ・イラストリアス。

 

 うわーっホントに砂漠だーっ結界ないのにあかーいっ、なっつかしーなどと楽しそうな騒ぎ声が、無邪気に艦橋内に響き渡る。L結界を排除して、なお赤みがある砂丘景色に、どうも真希波大尉は妙に思い入れがあるのか、いつも以上のテンションの高さの気配を感じる。

 

 なにやら圧倒されたような表情の(無理もない)多摩少尉が、おずおずと真希波大尉に言葉を投げた。

 

「真希波大尉、テンション高……じゃなくて、すごく嬉しそうっスね」

 

 その多摩少尉の言葉に、目から星でも溢れるんじゃないかぐらい瞳を輝かせながら、真希波大尉がこちらの方を振り返ってくる。

 

「わっかんないかなー! だってここリビア砂漠だよ? この様子だと当分暇そうだし、宝探しとか行きたいじゃん!」

 

 じゃん。じゃないってーの。L結界除去区域、まるっと砂しかないわよ。このへん。いやほんと。

 

 別口の可能性が脳裏をよぎるけれど、それは意図的に無視した。

 

「大尉、L結界内部に、お宝がありそうな場所なんてないですけど」

 

 多摩少尉の言葉に、私は頷き、言葉を続けた。

 

「それにヴンダー周囲のアンチLシステム効果範囲は、今まさに重力斥力の乱流状態で、それに加えて原料加工のためのATフィールド針が乱舞中、超がつくほど危険だってーの。

 

 アンチLシステムの外側は、圧こそそれほど高くないけれどL結界の赤い海だし、土台虚無もいいとこの砂漠オブ砂漠ってのに、一体どこに行きたいってのよ」

 

「だから宝探しだって多摩君に奥さーん! 昔からリビア砂漠と言えば名物のほらアレ! ね!」

 

 テンション上がりすぎて言葉でない病にでもなったのか、出てきた言葉が名刺ではなく形容詞。喜びが溢れすぎて挙動がおかしくなった猫とか犬とかペンギンとかみたいな挙動。A10神経オーバーフロー中みたいな。A10神経機能高いとシンクロ率上がるし、そういう意味ではエヴァ向きなのだろうか。

 

「副長、やっぱ既婚だったんスか?」

 

「やっぱじゃないし未婚、艦長とはミサトのせいの腐れ縁。あんたまで勘違いしないの!」

 

「いえ俺、艦長って言ってないスけど」

 

 その言葉を聞いた瞬間、顔が熱くなる。

 

 はず。恥ずッッッ!!

 

 いえこういう時こそ冷静さが大事よね。セルフコントロール。セルフコントロール。

 

 吸ってー。吐いてー。大地を感じるようにー。今飛んでるけど。地面遠いけど。ともかく大地を感じるようにー。

 

 よし。セットok。血圧、脈拍正常。

 

「……なんかそう言われるのよ。陰謀よ陰謀。

 

 諸事情で艦長と雪隠詰めくらってこのフネで10年だし、揶揄の類よ。そういうんじゃないから気にしないで」

 

「多摩くん、奥さん副長はこう言ってすぐ逃げるのが癖。騙されないでよん♪」

 

「よん、じゃないわよ!!」

 

「それはそれとしてアレ回収しにいきたいー。 ほら、リビアって言ったら、ね?

 

 副長奥さん、下船許可申請ッ! んー、もしかして意見具申の方がよかったかにゃ?」

 

 私の咆哮など気にも止めていない気配でさらりと流しつつ、執拗に要求を貫いてくる。真希波大尉が自分の欲望に正直なのはいつもどおりとは言え、この状況を理解してそれを言ってくるのだからメチャクチャだと思う。

 

 44Aはこの間大量に叩き潰したし、航海中の索敵データやL結界内部波動探査を踏まえて、ここにはまず来ないとはいえ、一応このフネが軍艦だという自覚は持ってもらいたい。

 

 それに一応準戦闘配置ではあるわけで、万一に備えて規則通り待機していてほしいわよ……っても真希波マリに通じるわけもなく。とうとう私は諦めて、彼女に確認するように問うた。

 

「まさかリビアングラス探しに行きたいとか言わないわよね」

 

「行きたいけどにゃ?」

 

「あんたバカ!? けどにゃ、じゃないわよ!?」

 

 至極当然のように頷かれ、思わず全力でツッコミを入れてしまった。

 

「副長、リビアングラスってなんですか?」

 

「ガラスよ、天然ガラス。極めて珪素純度が高いこの砂漠でだけ取れる特殊な珪素塊」

 

 多摩少尉の質問に、ため息混ざりの返答を返す。

 

 リビアングラスとは、リビア砂漠で稀に発見される、天然ガラスの事を言う。

 

 色は黄色から黄緑、深緑色と様々で、黄色系の天然ガラスというのは珍しいらしく、古代エジプトのファラオにも珍重されていたそうだ。

 

 その証拠に、副葬品にリビアングラス製のスカラベや装飾品が見つかっているのだという。

 

 そして真希波マリはと言うと、ここまで私が簡潔にまとめた地の文の文字数を、それこそ乗算で、あとさらに10のN乗がつくぐらいの勢いで、およそ常人には理解が難しいレベルの、異様に鮮明な歴史解像度のナレーションでもって、リビアングラスの素晴らしさについてまくしたてはじめていた。

 

 分間何文字? わからない。書き起こし文字数万単位? 想像したくない。マイペースで、テンション高いときは高い子なんだけど、普段ここまで熱弁を振るうことなんないだけに、流石の私も声がでないし口が挟めない。

 

 ヒトラーの電動ノコギリことアレでもここまで弾幕浴びせてこないわよという勢いなので、私も多摩少尉も思わずたじろぐ。

 

 エヴァのパイロットを辞めても声優かナレーターになれるんじゃないか、ぐらい言葉の滑舌がよく詠唱が早く、しかもそれだけ口調が早いのにちゃんと聞き取れ感情もこもっている。

 

 才能か。才能ね。なんたる才能の無駄遣い。

 

 一瞬で5メガバイトぐらいの文章情報量を脳みそに詰め込まれ咀嚼困難になり、途中にバビロン捕囚とかファラオがどうとかラムセス二世がオジマンディアスでモーゼがエヴァンゲリオンして海が割れ約束の地にいたりクレオパトラが愛した宝石とか情報過多で脳が混乱し内容がとぎれとぎれでかつ錯綜しているけれど、ともかく彼女にとって、それが思い出の一品であることまでは理解した。思い出といっても多分二千年以上前の話だけど。

 

 ってかアンチLシステムエリアから出たら、何もかもが赤いアレに埋もれちゃってるけれど、それを掘ってまわってさがすのだろうか。ちょっとどころではなく広大極まるリビア砂漠を。

 正気だろうか。気長なのだろうか。コア化が怖くないのだろうか。

 

 でも真希波マリだしやりかねない。私は内心で頭を抱えた。

 

 またしても背後から足音。

 

 多摩少尉の表情にわずかだけれど緊張が走る。そして、敬礼。 

 

 助け舟到来。私と多摩少尉のやり取りを無言で観察してたみたいだけど、イレギュラー出現なので流石に出張るつもりになったらしい。

 

 多摩少尉に答礼した碇シンジ艦長が、苦笑しながら会話に割って入る。

 

「見ての通り、副長が丁度硅砂の加工中だ。砂の回収過程で、その種の物体が出てくる可能性はあると思う。

 

 センサーを効かせておく。もし出てきたら、操演で選り分けておいて、確認が取れたらマリさんの手元に届くように手配しておくよ」

 

「ほんと!? 副長奥さんわんこくんベリーありがとう~!」

 

 そこの真希波人類史とともに生きてきました考古学大好き女マリイラストリアス、目をうるませるのをやめろ。

 

 なんか人外じゃないのかぐらいの勢いで駆け上っているのか跳躍してるのかわからない勢いでこっちへ突進するのをやめろ。

 

 てか艦長に抱きつくな。あげく頬ずりをするな。見せつけるように胸を押し付けるな。階級を考えなさい。空気読め。あとシンジ、今大尉のおっぱいの感触でエロい想像をしたわね後で覚えてなさいよ。

 

 分かってる。真希波マリはいつだってやりたいようにやる。

 

 ブレーキ不可能ネコ科女だってことは、この10年で否応なしに理解している。

 

 ってーかシンジ、助け舟とひとまずの状況収拾はありがたいけど、見つからなかった時どうすんのよ一体。クソ映画感想を聞けなかったときのクロさんぐらい凹むわよ真希波大尉。 

 

 ……ああ。はいはい。リビアングラスはテクタイトやトリニタイトの類で、隕石由来の超高熱で変性して出来たと推定されるやつだから、最悪ATフィールドで圧かけて無理やり贋造できる、と。

 

 そうね。この辺の砂漠は熟成してて、他の砂漠と違ってほぼほぼケイ素質だからパチモノはいざとなればこさえらえるけど。

 

 そういうこすっからいとこ父親に似てきてない? あんた大丈夫?

 

 まあいいけど。見つからなかったら真希波大尉、絶対4日ぐらいしょげてるし。

 

 などとぐだぐだした空気が流れている間にも、マギプラスによるほぼほぼオート制御で、空中を旋転する砂粒の精錬が進んでいく。もちろん、重力操演により、順次下方から追加原料の硅砂も吸い上げられている。

 

 幸い、それらの硅砂の中に、砂ではなく石ころより大きなサイズの、それらしき質量が混ざっていたので、レフトハンガーに連絡を送り、重力制御で放り込んでおいた。

 

 さっき艦長に脳内返答したとおり、リビアングラス生成過程の一説として、一種のテクタイトであるというものがある。テクタイトというのは、隕石が衝突した際にその高熱で蒸発した珪素が、冷えて再度固化したガラスの事を指して言う。このリビア砂漠は古く熟成が進んだ砂漠なわけで、その中に大きなものが紛れているとすれば、砂漠形成時から後、何らかの理由で紛れ込んだリビア砂漠外部由来のものである可能性が高い。

 

 もちろん通りかかった自動車の残骸だの、砂嵐で吹っ飛んできた他所の石だのの可能性は否定できないけれど、センサー群を利用して光学スペクトル解析をかけた限りでは、高純度珪素塊である可能性が高く、運が良ければリビアングラスかもしれない。

 

 もちろん、砂嵐か何かで紛れ込んだ砂岩の塊の可能性のほうが高いし、他にも砂漠に雷が落下することで珪石が溶融、そのまま固体化したフルグライト(雷管石)の可能性もある。

 

 リビアングラスは磨くと黄色なり緑なりの色味を帯びた透明のガラス質だけれど、フルグライトはそれほど綺麗なものでもなく、なんかこう凸凹した奇怪な骨みたいな外見で、リビアングラスのような綺麗なものではない。

 

 ただフルグライトならフルグライトで喜びそうよね、真希波大尉。雷管石の漢字名のとおり、砂漠に雷が落ちるとできる物質で、雷の通った経路に沿って形成された石英ガラス物質であり、この特徴から「雷の化石」と呼ばれることもある。

 

 博覧強記の真希波大尉、こういうのには目がないだろうし、コレクション目的以外なら、半舷上陸の際に換金したりするかもしれない。真希波大尉は然るべき博物館なりオーナーに預けることで部屋の余剰スペースを消費せずに済み、取引相手はレアな鉱物をコレクションできて嬉しい。

 

 長いこと生きてきただけあって、そういう交渉に意外なほど長けているのが真希波大尉で、だからこそ半舷上陸時にあれこれとお使いを頼んでいるわけだけど。

 

 まあ、ハズレならハズレで、真希波大尉がわざとらしく凹んで凹んだムーヴで楽しそうに(矛盾しているようだけれどそういうことをよく彼女はやる。楽しいからだと思う)じゃれ突いてきて鬱陶しさ半々困り半々みたいな気持ちになるだけだし。いや正直作業のジャマだけど、言葉でいうほど不快ではなかったりもする。

 

 ただそういう時必ず顔におっぱいを押し当てるのをやめてほしい。自慢か。おっぱい自慢か。こっちは一向に大きくならないのに。

 

 それはそれとして、作業の続きに戻る。

 

 取引するモノの出来しだいで、クルーに支払う給料やら、受ける工事の質やらが変わってくるわけで、戦闘でこそないけれど、地味に重要なミッションでもある。経済は人を活かしもすれば殺しもする。手を抜いちゃいけないわよね。

 

 

 続きやるわよ、と多摩少尉に目配せをすると、彼も気づいたようで、こちらに視線を戻してきた。

 

 私は先程までの情景を脳裏からさっと洗い流すと、再び作業に先進する。

 

 純度はとっくに程よい塩梅になっていたので、ヴンダー下部の格納庫予備ハッチを解放した。

 格納庫内部、ハッチ上に満載されていたポリエチレンの大袋が、重力に引かれて落下する。

 

 それらはヴンダー下方を旋回する、粉砕された砂の輪の中に飲み込まれた。

 

 無数の砂の奔流によって袋は一瞬にして原型を留めずに砕け、中身が砂に入り交じる。

 

 巨大な白色の砂のリングが、一気にして光を通さない暗黒色へ染まった。

 

「墨でも混ぜたんスか?」

 

「そんなとこ。墨汁じゃなくて炭素粉末だけど。これをケイ素粉末と均質になるまで混ぜてーと」

 

 多摩少尉の問いに答えつつ、重力制御によって旋転する黒いリングの軌道に、さらに別個に立体整形ATフィールドを展開する。形状はやや特殊で、細かく溝を切った円錐螺旋歯車機構とでもいうべきもの。

 

 さてここからは前回と手順を変えた新方式。なので、ひそかに思念で艦長にヘルプを請う。

 針状ATフィールドによる重力制御に加え、大型整形ATフィールド制御はやや脳負荷がきついし、それにこのあたりは生産物の質を高めるため新たに演算し直した新方式でもある。

 

 将来的にはマギプラスや、クルーの意思を出力元としたATフィールドを利用して全自動生産まで持ち込みたいけれど、それへの挑戦は次回作戦か次次回作戦以後の話になる。

 

 了解の思念を感じ取った。とりあえず5%、といったところか。

 

 艦長も寄港に向けて色々準備している真っ最中で、普通に歩いて話しているようでも、それはマギプラス等をあわせた彼の思考能力の1割程度で、残り9割はあれやこれやとヴンダー艦体内部の精査や工事施工の下準備、艦内イントラネットを利用した各部署との同時打ち合わせなどに用いられている。

 

 会議4つぐらいこなしつつ工事の準備のため艦内をドタバタ思考が走り回りつつ本人は一見艦橋でまったり過ごしているように見えている状態なので、色んな意味で人間をやめてるなーと思うけれど、その点は私も言えたことでは多分ないので、言わないことにしておく。思った時点でどのみち伝わってしまうし、言うだけ疲れて意味がない。

 

 ともかく艦長の助けを得たこととで、ATフィールド形成能力が1、2割増しくらいには向上した。

 

 お互い本気を出せばもっとあげられるけれど、それは頭が疲れるので、さすがにやらない。長丁場なのに無駄に急いで疲れても仕方がない。

 

 螺旋歯車機構の周囲を覆うように、内側に溝を切った、中央に空洞のある直方体ATフィールド場を艦長に展開してもらう。その直方体の内側の穴は、さきほど私が整形した円錐にフィットするサイズに設定しておく。

 

 そして、この2つを組み合わせ、混合物リングの軌道上に移動させると、円錐の広い側から炭素とケイ素粉末の混合物が慣性にしたがって流れ込むように配置した。

 

 そして、私は円錐螺旋ATフィールドを、立方体フィールドの中でくるくると回転させる。

 

 構造と原理を、一言で言ってしまえば、ATフィールドで作ったコニカル式コーヒーミル。

 

 違うのはコーヒー豆の代わりに、ケイ素と炭素が合い挽きにされるところで、土星の環のように展開された硅砂と端子の混合物が、ATフィールド製コニカル式ミルに一気に吸い込まれていく。

 

「都合数千トンぐらいの砂を、一気に処理できるもんなんスね……」

 

 モニタの中の各種数値を見て、感心ながら多摩少尉が頷く。

 

「ま、試しだから、最初はそんなもんよ。新方式だからモノがちゃんと仕上がるか、実地にやってみないとわからないところはあるし」

 

 答えつつ、艦長とマギプラスの補助を受けながら、ただでさえ微細な粉末に成り果てたケイ素を分子分解かレベルまでさらに摺り砕き、ATフィールドを利用して酸素が交じって無用な酸化が発生しないよう気をつけながら、丹念に丹念に轢く。

 

 そして、電気の導体になりうる金属分子をさっと電磁場を走らせATフィールド表面に吸着ないしは弾いて、フィールド内部に取り込んで除去した。

 

 良いマテリアル生成にはしっかりした不純物排除。

 

 こういうの、スープと同じでアク取りが大切なのよね。不要な物質は徹底的に弾く。

 

 そして最終的に、反対側の円錐先端の方向から排出。

 

 当然、原子同士の摩擦により、多大な熱が発生するけれど、この熱を逃さないのが秘訣で肝心。

 

 熱々のケイ素・炭素混合物が一定量吐き出されたタイミングで、逃さずATフィールドで包み込む。そうしてできた無数の梱包物を、ATフィールド制御と重力・斥力制御の併用で癒着させ、それを繰り返し、雪だるまのようにどんどん大きくしていき、おもむろに、おにぎりを両手で握りつぶすように、全体を包むATフィールドを絞り込む。

 

 真空断熱状態で逃げ場を失った熱エネルギーが、強烈な圧力と、断熱圧縮により、相対的に高温となり、混合物をさらに加熱する。

 

 各種センサーで混合物の状態を解析。仕上がり、よし。

 

 あと2、3回ミルで挽いて、またぞろ断熱圧縮をかけ、各種センサーで結晶構造を仔細に確認、分解・加圧・均質化が終了すれば、多分上物に仕上がるはず。

 

 今回の取引相手であるペトラ自治政府の需要はクロスレイ中佐相当官を通じて確認済みだし、それに答えられる仕上がりにはなっている。

 

 半日後には一揃い、各種結晶構造ごとの確認用サンプルを準備する事ができるだろう。

 

「よし、いい出来。去年のに比べても純度高いし、やっぱ経験と蓄積って大事よね」

 

 私は満足してうなずいた。

 

「副長、結局ここの砂を使って作ってたやつってなんなんですか?」

 

 多摩少尉の問いに、私は笑みを浮かべて答える。

 

「炭化ケイ素よ。モース硬度13で硬いから研磨剤によし、融点2730度だから防火建材によし。

 

 ちょっと製法いじれば高温に耐える繊維にもなって、頑丈で熱に強い配管によし。科学的に安定しているから酸にもアルカリにも強い。ま、色々便利なやつなんだけど」

 

 私はスラスラと答えながら、モニタに炭化ケイ素の物質としての特性のデータを表示しつつ、そのまま説明を続けた。

 

「なんといっても、電気的に半導体なのが大きいのよね。

 

 しかも炭化ケイ素製デバイスは従来の純ケイ素、まあシリコン製デバイスよりバンドギャップが高いのよ。純ケイ素だと1.12eVに対し、炭化ケイ素だと3.26eVまでいける。

 

 より高い電圧と周波数で動かせるし、通電で発生する熱、つまりロスも少ない上に高温に良く耐えるし、しかも熱伝導性がいいから放熱にも優れてると、いい事ずくめ。

 

 工業的に生産すると雑晶や夾雑物が混ざらないよう苦労するし、なんならウェハーに仕立てるのも硬度が硬度だから一苦労なんだけど、その点ヴンダーはATフィールドと重力・斥力制御でいくらでもインチキが効くのよね。

 

 それこそ分子単位で粉砕・分解・再結晶まで可能、加熱加圧も自由自在だから、2Hから4H、6Hと各種ポリタイプ単結晶を、時間のかかる結晶成長式じゃなくてダイレクトに整形できるのは、うちの明確にして他所の真似できない強みなわけよ。

 

 何しろどこもかしこも世界中、L結界だらけで鉱物採掘もままならない時代だし、各種マテリアルの生産と配分は生存圏維持に最重要。

 

 扱う品物の種類は多いほうがいいから、うちとしても将来的にはダイヤモンド半導体素材のの大規模生産と供給に切り替えたいわね。

 

 パワーデバイスとしてはやっぱりダイヤが最強だし、それに宇宙空間での作戦を考えた場合、なるべくタフなマテリアルを使いたいし。とはいえ強烈に加圧すると当然熱を帯びるし、その状態で酸素に触れさせると覿面に燃えちゃうし、どういう構造にするかも色々あるのよねアレ。炭素を超高圧で圧縮すれば作れるものではあるんだけど、用途別に達成したい結晶構造からなにからちがうわけで、まあ課題山積。

 

 というわけで、今の所、マテリアル形成方法を完成させることができてる炭化ケイ素が主力生産品の一つになってるの。

 

 ともかく、こういう形で各地にお安く電化製品素材供給するのもヴンダーの大切なお仕事。ただただ戦うだけが人類を守る手段じゃないってこと。わかった?」

 

「副長、訓練の時の戦闘指導より喋りますね……」

 

 一通り説明を終えた私に、半分呆然とした表情で多摩少尉が言った。

 

 またぞろ顔が熱くなる。あー、巧く行き過ぎて、調子に乗って少し喋りすぎたかもしれない。

 

 本来なら年単位で莫大な予算をかけ、専用の重工業機械を制作するところを、やっつけのATフィールドやら重力操演やらの組み合わせで成し遂げられたわけで。

 

 シミュレーションで何度も事前チェック済とはいえ、事前の段取りがぴたりと嵌って想定通りの成果が出ると、やっぱりテンションが上ってしまう。いくらシミュレーションを徹底しても、なにかごく微細な要素を見落とした結果として結果が伴わず、見るも無残に大失敗、なんてのは科学工業あるあるで、その失敗を積み重ねて次の成功へ向かうのが本来の筋道。とはいえ一発成功はテンション上がるわよね。会心の仕事ってやつ。

 

 人生で感じる喜びの大半が戦闘だの研究だの製造・生産だったりする現状を思うと、こういう癖がついてしまったあたり、仕事人間になってきた証で、悲しい業というべきかもしれない。とはいってもこの10年このフネに缶詰だし、プライベートが映画鑑賞とかゲームとか以外にないのが悪い。

 

 全長2キロの巨艦とはいえ、セントヘレナ島より遥かにヴンダーは狭いのだ。どれだけ艦内が広かろうと、だいたい見たしだいたい知ってる。ただ、晩年のナポレオンよりはやれることがいっぱいあるだけ遥かにましだ。

 

 愚痴はともかく、私は多摩少尉の目を改めてみた。

 

「そのうち貴方にもこの手の作業をやってもらうわけだし、OJTみたいなものだと思ってほしいわね。半分ぐらい自慢なのは認めるけど、さっきもいったとおり、取引のためにはこういう製造業務やマテリアル研究も必要なのよ。

 

 崇高な理念、果たすべき使命、人類救済という大義だけでみんな動いてくれるなら、世論コントロールだ人員管理だ士気向上だの苦労なんてないもの。実際、正義のためにお前のもの全部よこせ正義のためだ、なんて言われても、取られる側にしてみればたまったものじゃないしね。大義があっても、やってることは説教強盗と同類。それって最悪じゃない?

 

 ま、そういうわけで渡すものは渡してるし、貰うものは貰ってるからWIN-WIN関係。気持ちよーく受け取って気持ちよーくお渡しする、それで後腐れなく、かくて世はこともなしってこと。わかった?」

 

 昔の苦労を思い返し、私は思わずため息をつく。

 

「それに、なるべくヴンダーで品質の良いマテリアルを準備したい、っていうの、他にも理由有るのよね。現状、工場も企業も生存圏ごとに散り散りばらばらで、商売の面での競争もなし、殿様商売で充分食えるもんだから、どこのパーツも高かろう悪かろうばかりで、いざ使ってみたらカタログスペックの半分もいかないことが多すぎるのよ。

 

 ほら、こないだの防空戦でも、いざ終わって艦内チェックしたら、あれこれ壊れて滅茶苦茶になっててひっどいことになってたじゃない。忘れた?」

 

「本当に大変でしたね……」

 

 私の言葉が聞こえたのか、操舵席の長良中尉がため息をつく。

 

「マジで大変でしたね……」

 

 多摩少尉が、その言葉に頷きながら、疲れた視線を遠くに投げていた。

 

 二人の気持ちはわかる。

 

 何しろ、艦内のいたるところで電装系の故障だのショートだのが数えるのも嫌になるほど発生し、オアフ島の修理工だけでは足りず、乗員総出で手伝って応急修理をする羽目になったわけで。

 

 餅は餅屋、業者任せで修繕を済ませたくても、その餅屋の施工結果が一度の作戦行動であちこちズタボロでまずあてにならず、持ってきた餅も本物の餅だか怪しい。

 

 質を保ちたいのなら、ヴンダークルー側で全部チェックを入れる必要が生じてしまって、実際そうした結果、本格訓練前からクルー全員が疲弊の極地に陥る、なんて間抜けなことになっていた。

 

 居住区画のプレハブ構造を形成する鍛造合金が予定強度の60%しか出ていなかったり、どこの中古屋から引っ張ってきたのよとなるゴム被膜が寿命で風化寸前の配線まで使用されていたぐらいで、ズタズタのボロボロでいずれショート不可避なゴム配線束を目撃した高雄機関長はどこの関羽雲長かぐらい顔を真赤にしており、人相はたぶんスクショが魔除けに使えるぐらいになっていた。

 

 仁王も失禁するわねアレ。機関科全員に同情したくなる。基本普段豪放ではあるものの振る舞いは優しい人だけに、そういう人が常時あの顔は多分怖いもの。いや本気で殺しに来たときはもっと怖いけど。表情がなくなって眼光が殺意だけになるっちゅーか。二度とごめんよ。

 

 会話の流れで気づいたのか、多摩少尉が再び私に視線を向けてきた。

 

「そういえば、あの島の設備じゃ追いつかないからって、本格的な修理を別の生存圏で入れるって話でしたけど、今作ってるやつ、そのための修理用資材の素材にもなるんスか?」

 

 む、勘がいい。話してて思ったけれど、素直だし御しやすいわよねこいつ。

 

 素朴なのと、あとたぶん女性経験がないのか、女性にくしゃみぶっかけて平然なのは未熟だし無礼だけど経験ないなら致し方無しとしておいて、私は彼の言葉に頷く。

 

「ご名答。基礎技術がアレでも、素材がマシになるだけでだいぶ違うのよね、こういうの。

 いまや人類人口が10分の1だし、レベル下がるのはしょうがないけれど、そのせいでこのフネが沈んだらホント何もかもおしまいになるし。

 

 あとまあ、全部が全部ヴンダーの修理用ってわけでもないのよ。向こうが都市拡張や電子機器製造に使ったりする分もある、ってーかそれが8割ね。

 

 徴用じゃなくて取引の形にしてるわけよ、なにしろただでさえ質が悪くなりがちなのを、素材くれてやるから働けで、実質タダ働きだと当然作業担当企業も人員もやる気なくすし、そうなると当然製造部品の質も、修理作業の質も下がる。

 

 そうなるとまた一ヶ月前の二の舞になるわけで、それはなるべく避けたいってのもあるのよ」

 

「副長、ほんと色々気を使ってるんスね……」

 

 わかるマン多摩少尉の同情の混じった言葉が胸に刺さる。

 

 昔みたいに自分のことだけ考えて、自分の殻に引きこもって、自分も周りもいじめるトガリハリネズミをやっていられればそれは楽だったかもしれないけれど、そういう贅沢を時代が許してくれないというのがあった。

 

 人類の10分の9が失われたとはいえ、まだ残余は数億人いる。

 

 彼らに、彼女たちにに衣食住を段取りして文明を維持しろ。そしてネルフやゼーレと戦うための象徴になれ、世界を支える力になれ、かくかくしかじかなのであれやれこれやれお願いしますと、このフネに託されたミッションは、大小各種とりそろえ、とにかく凄まじいことになっている。

 

 正直なところを言えば、キャパシティオーバーもいいとこなのよね。

 

 いくら私と艦長が人間やめかけてるったって、限度ってのがあるってーの、と文句の一つもいいたくなるけれど、やらなきゃ滅びるからお願いしますと言われればしょうがないわけで。

 

「まあ、仕事だからしょうがないのよ。

 粗品っても、向こうも建屋の拡張工事したがってるから、電子系マテリアル以外にも色々作らないといけないし、あと24時間はここに居ずっぱりになるわね」

 

「色々作るって、まだ造るんスか!?」

 

 驚いた表情を浮かべた多摩少尉に私は頷く。

 

「色々よ。ジオポリマーコンクリートに必要なケイ酸ナトリウム。

 

 超高強度ガラス繊維、マルチコア光ファイバー。

 

 持ち込み炭素は弐号機の単分子ワイヤーにも使ってる建材補強用炭素繊維を作るのにもつかうし、その繊維を使って超高強度ガラス・炭素繊維複合材も作る。

 

 あと老朽箇所の補習・解体に出る廃棄コンクリートを利用して先方がこさえてる再生コンクリートだけど、この辺も商売の狙い目なのよね。

 

 コンクリート打設の時、コンクリに混ぜておくと、ひび割れが生じた時に目を覚まして炭酸カルシウムを発生させてひび割れを治すバクテリア粉末なんてのも、うちのラボでつくってるのよ。

 

 もっとも、そっちの補修バクテリアの方はレイが開発・生産担当だけどね。この10年で、すっかりあの子もバイオティクスのプロだし、真希波大尉もレイのことアシストしてくれてるし。

 

 各製品の最終的な質の担保は、リツコが技術から製品から全部精査・検品してくれるし。

 

 ま、そうやってものになった諸々の品物を、ヴンダーの全長2キロの巨体に満載して持ってくわけ」

 

「……さっきも言ってましたけど、艦長や副長たちって凄いっつか、ほんと色々多彩っスね」

 

 軍艦の副長やエヴァンゲリオンのパイロットって、そこまでする必要あるのか、みたいな複雑な表情を浮かべる多摩少尉。

 

 その言葉に、思わず疲れた顔をして俯いてしまう私。

 

 いやカメラ越しで自分の顔すぐ見えちゃうのよね。なので演じたつもりでも『疲れ丸出しじゃないのよ』が見えてしまう。そういう意味では、肉体にいながらも半分肉体にいないような状態なのだ。よく10年狂わなかったな-と思う。いやもう狂ってるのかも知れない。

 

 少なくとも、認知がヴンダー管理に特化しつつはあるのはまちがいない。何もかも無事終わったとして、私も艦長も、無事に娑婆にもどれるんだろうか。正直な所、自信がない。

 

「好きで多彩やってるわけじゃないわよ、いえ、楽しいは楽しいけれど、ほんっと科学者と研究者と施設がたりないし、インターネット死んでるから通信連携共同研究も絶望的だし、嫌でも多彩やんないといけないし、とはいえ、ここじゃないとできないような研究もできるし、人類が未だたどり着いていない真実を解明したり、新発明をつくれたり、充実してるとこもある。

 死ぬほど楽しいけれど死ぬほどつかれるし、うんざりするほど疲れるけれど、うんざりするほど楽しい。

 

 ただ、こういう矛盾した心理状態に陥ってる時点で、疲れ切ってるのも確かだし、たまにはたっぷり休暇取りたいわよ。

 みんな半舷上陸、上陸通り越してお泊りしてもokよっても、私と艦長はヴンダーで留守番強制だし。

 まあ、工事中に変なの入ってきて小細工されても困るし、工事施工中は艦内がちょっとどうかぐらいL結界まみれになるわけで、私達以外に残ってもらうわけにはいかないし。名誉の戦死じゃなくて、なんか残ってたら床の染みになっちゃいましたとか、残された家族にどう説明すりゃいいのって話よ、ホント」

 

「ほんっと大変すね、艦長と副長……」

 

「ご理解くださり感謝の極みよ。色々疲れる仕事なのよね」

 

 などと職場のデスマに疲弊した女上司と部下みたいな会話を楽しんでいると、艦橋後ろのドアが開く音がした。

 

「鈴原少尉、入ります。昼食の配食に来ましたー」

 

「綾波大尉、入室します」

 

「まいどー! いつもニコニコ以下省略! クロスレイ・SS・大隅中佐相当官、お昼と聞いてお相伴に預かりに参りましたー!」

 

 声の方を振り返る。

 

 医務科の制服とエプロンに身を包んだ鈴原サクラ少尉が温冷配膳カートを押して、艦橋に入室してきたところだった。

 

 その後に、白のプラグスーツの上から白の実験用白衣を纏った綾波レイ大尉と、茶色のファーのついたフライトジャケットに濃緑色のプラグスーツという出で立ちのクロスレイ・SS・大隅中佐相当官がぞろぞろと続いてくる。

 

「配食ご苦労さま。広いヴンダーの中、歩き回らせちゃって悪いわね。

 ホントは主計科の職掌なのに、医務科の貴女まで手伝わせちゃって」

 

「いえ、ごそっと人が抜けた分忙しいですけれど、平時は医務科もそこまで忙しくはないですし」

 

 日向戦術長や青葉戦術長補佐に、蓋付き重箱やお吸い物の乗った昼食トレイを配りつつ、楽しげな様子で鈴原サクラ少尉が言う。その顔つきのほがらかさを見る限り、彼女の笑顔に嘘はなさそうだ。少なくとも、北上少尉ほど私達のことを敵視している気配は、彼女からは感じられなかった。

 

 いい兆候と受け取るべきなのかもしれない。いつもニコニコ楽しい職場、というのもあれだけれど、言いたいことも言えないほど人間関係がギスギスするのは、ヒューマンエラー発生の一大要因なのだ。

 

 例えば、昔まだ飛行機での旅行が当たり前だった頃、重大事故要因として、権威的で威圧的な上司に部下が忠告できず、結果、重大事故ファクトを見逃して墜落という案件は多いし、昔の軍隊ではうつ病になった水兵が、自殺のために弾薬庫で自爆して全乗員諸共戦艦轟沈、なんてことも歴史の中では起こっている。ヴンダーをそういう憂き目には合わせたくない。

 

 それにしても、昼食にわざわざ三人で艦橋に来る。

 

 面子が医務科新人、バイオティクス科学者兼パイロット、物流担当兼貿易商。このとりあわせ、ってーことは。

 

 期待で思わず笑みが浮かびそうになるのを我慢しながら、私は聞いた。

 

「レイ、もしかして今日のランチって、今度ペトラに本格的に技術供与するっていう例のアレの産物?」

 

 私の言葉に、レイは頷いた。

 

「そう。何度かテストはして好評価は得ているけれど、大規模投入と展開は今回が初めて。ペトラへのサンプル引き渡しと技術供与前に、多角的な視点から評価を済ませておきたい。その一環としての人体実験」

 

 さっきまで心のなかで上がっていた期待が、ちょっと下がった。

 

 人体実験て。

 

「あんたね、ちったー言葉選びなさいよ……」

 

「……Menschenversuch」

 

 小首を傾げながら綾波レイがドイツ語で言い直す。

 

「意味変わってないわよそれ!?」

 

 同居人の悪影響なのか、それとも14才まで密かに病に苦しんでいた結果として、成長が抑制されていた感情が身体の回復とともに急激に発達したらしき影響なのかわからないけれど、最近のレイのユーモアはなんというか非常に独特なものがあり、対応に困るものがある。

 

「副長さん、安心して食べられることは医療科で確かめていますから、安心してください」

 

 レイの言動が微笑ましく感じられたのか、やや苦笑気味に鈴原少尉差し出してきたトレイを右手で受け取った。

 

「鈴原少尉が言うなら安心かしらね」

 

 言いながら、トレイの上に乗った食器群をしげしげとながめる。

 

 蓋がついた黒い重箱。香の物の乗った小皿、艦内醸しの醤油が入ったプラスチックの小瓶。

 

 こんな食器ヴンダーにあった? なかったわよね。ということは、わざわざオアフ島で間宮さんを介して仕入れたのか。今日のために。いや気合入りすぎじゃない? ともかく医務の鈴原少尉が言うなら、多分腕が2本増えるとかそういうことはないのだろう。

 

 さて、ランチタイムとなれば、講義もここまででいいかしらね。私は視線を多摩少尉に向けた。 

 

「多摩少尉、各種マテリアルの製造過程は、材質や生産物が異なるにせよ、基本的にはATフィールドや重力・斥力操演の応用よ。

 

 今後この種の業務を私や艦長の代わりに行って貰う場合は、マギプラスを利用した全自動工程で各種マテリアルの製造を行う方式で、言ってみれば生産ラインの監視業務の形になると思う。

 

 ATフィールド形成や重力・斥力操演時の異常の監視がメインになるくらいまでは簡素化する予定。

 

 あなたの本業は砲術屋で、その過程でATフィールド併用の砲戦を行うわけだし、フィールド運用の応用でやれるまではこっちで持っていく。できるようになったら、協力お願いね。

 

 それじゃ、食事も届いたし、あなたも席に戻っていいわよ。勘だけど、今日のは多分格別。レイの表情見る限り、期待していいやつ。ともかく副長以上。多摩少尉、お疲れ様」

 

「了解。ご指導ありがとうございます」

 

 私の言葉にさっと背筋を伸ばして敬礼を返し、席へ戻る背中を見る。

 

 こないだ艦長となにか話したみたいだけれど、それで何か心理的変化でもあったのかしらね。一ヶ月の訓練期間、基本教育は戦術長と戦術長補佐、たまに艦長で教育してたけど、有事に備えて操艦系の訓練兼ねて私が当たっても良かったかもしれない。やっぱりちゃんと話をしてみないと、人間ってほんとわかんないわね。紋切り型で決めつけて行動するとろくな目に合わない。この10年で私が散々味わった学びだ。

 

 それはそれとして、いつもとは違う気配のランチに少しだけ心が躍る。

 

 味覚は現状4割と言ったところで、胃腸が空腹信号を送ってこず、いよいよ食事不要が近づいてきたわねというきもちになる。

 

 ただ、食事を味わうに当たっては、なるべくちゃんと味わいたい。まだ人の組織が残っている以上、食欲がなかろうが、ちゃんと栄養を送ってやらないと、一層侵食が進むようだし。なので食欲を得るために、マギプラスを介して疑似空腹信号を脳に送る。

 

 また、味わうにあたっては味覚情報を舌で感じた後にマギへ一度量子通信転送し、シグナルを増幅して脳に再転送することで10割程度、まだ人間として暮らしていたころの感覚レベルまで戻せたりする。

 

 ただ、食べてから味がフィードバックされるまで、コンマ秒単位とはいえラグがある。この違和感を緩和するには、よく噛んで、ゆっくり食べ、ゆっくりと味わうのが肝心なのよね。。

 

 こうすることで胃腸にも負担がかからない。胃薬のお世話にならなくてもすむわけで。傾向と対策とノウハウの蓄積は、いつの時代も大事なのだ。まあ、10年前から胃薬のお世話になる必要を一切合切覚えたことなんてないけれど。ほんっと無駄に頑丈になってくれたもので、ありがたがるべきか呪うべきなのかイマイチわからない。

 

 左手で正面モニタ群の並ぶ操作パネル下段から、テーブル兼用の作業用ボードを引き出し、トレイを乗せる。鈴原少尉が、保温鍋からお吸い物をレードルで茶碗によそって差し出してくる。

 

 私は軽く会釈してそれを受け取った。いかにも和、というニュアンスのだしの匂いが、過去の記憶を呼び起こし、郷愁を誘った。

 

 ん、でも、なんだかだしの匂いが記憶と違う。中学時代の艦長が使っていただしとは違うだしなのだろうか。いろいろあって嗅覚が、少し昔と変化したせいかもしれない。

 

 マギプラスシンクロによる嗅覚信号再分析と解像度周りのズレかもしれない。そうだとしたら、もう少しいじったほういいかしらね。勿論マギプラスはそういう用途で使うためのものではないことは承知しているけれど、私が食事を美味しく食べられることによる士気向上には戦略的なアドバンテージがある。中長期的に見て。多分。

 

 ともかくヴンダーの食事といえば、一枚物のトレイに、べこべことペースト食や添え物の野菜を盛り付けるためのくぼみがついた、効率最重点で愛想も素っ気もないフードトレイで供されるのが専らなのだ。

 

 こういう、きちんとした弁当だかお重だかで供されると、妙に懐かしい気持ちになるし、ひどく贅沢をしている気分にもなる。

 

 サイズこそあの時より小さいとは言え、こういう立派な形の重箱を見たのは、ひょっとしたら10年前の海洋生物研究所を見学に行った時、艦長が気合い入れてみんなの昼食をこさえてきた時以来かもしれない。

 

 この種の食器は、一枚トレイを洗浄するだけですむ普段のペーストのアレより遥かに無駄が多く、盛り付けの手間もかかれば、食べ終えた後洗う手間暇もかかる。そのあたりの労働コストを踏まえると無駄、贅沢の部類だと思う

 

。けれど、効率だけで食生活を続けて平気なら、みんな栄養とカロリーだけとれればいいやのペースト食にうんざりしないわけで、こういうシーンの「贅沢」に食器もまた一役買うということを、レイはわきまえているようだった。

 

中学校時代、シンジが押し付け気味に渡した弁当の容器を返してきたとき、仕切りのバランや使い捨てのカップまでもが洗われて中に入っていたそうだから、そのあたりに感動の原体験があり、だからこそ食器に拘ったのかもしれない。もちろん、防空戦からこっち、激務に激務、訓練に訓練を重ねたヴンダークルーへの彼女なりの労いの気持ちもあるだろう。

 

 彼女の表情を見る限り、いつもの無表情ながらも眼光は強い。

 

 つまり気合と自信は充分といったところ。それじゃ、レイの研究成果を拝見といこうかしらね。

 

 私は重箱の蓋を開けた。

 

 開封と同時、酢の匂いが漂う。さては酢飯か。

 

 重箱いっぱいに敷き詰められた酢飯の上には、彩りの大葉、その脇にわさび、見慣れない赤と薄桃色の刺し身がそれこそみっしりと敷き詰められていた。

 

「海鮮丼、だっけ? セカンドインパクト前の日本で、よく食べられてたってやつね」

 

 10年以上前に読んでいた雑誌には、上流階級向けの和食レストランで、スシと一緒に上流階級向けに出してるところもある、なんて記事があったような気がする。

 

 私はしげしげと重箱の中身を眺める。

 

 刺身といえば、10年前、陸上で養殖されていた海由来の魚をミサトが飲んだ帰りにお土産で持ってきたのを食べたのが初めてだったように思う。あのときは、それほど美味しいものとは思わなかった気がする。抵抗感の方が強かったろうか。ただ、その後何度か食べる機会があり、そうして魚を生で食べることに、段々と慣れていった。

 

 いろいろあって、そういう時期が唐突に終わりを告げてからは、年がら年中ペースト食、付け合せでついてくる生野菜がドレッシングなしでもうれしくて美味しいみたいな時代が長らく続いた。

 

 結果として生魚の刺し身は、たまに食べられる超贅沢品、ありていに言って私の好物のカテゴリに分類されている。これは艦長の趣味が釣りで、釣りができる海域に停泊した時はよく釣りに行く癖があり、釣果の調理にあたっては、焼きが難しいから専ら刺し身や煮物になりがちなのが原因でもある。

 

 にしても、これは何の刺し身かしらね。

 

 赤いのとピンクのきめ細かいのはマグロとして、桜色を帯びた白身の刺し身がわからない。

 比較対象として思い浮かぶのは、艦長がオアフ島のF作業で釣って刺し身に仕立てた、マヒマヒだかシイラとかいう魚の刺身、あるいはコガネシマアジの皮目が金色じゃないやつのような、どちらでもないような。

 

 わからないのがもう一つ。色は薄桃色、太さ1.5センチぐらいの、やや透明な白い薄桃色のなだらかな角のない円筒の身なのだけれど、魚の身ではなく、なにか頼りなくふるふるした見た目をしていた。

 

「えーと……?」

 

 わからないわねこれ。原始時代のチューブワーム?

 

 生まれてこの方、色々な事情から紙学問で色々読んだり調べたりはしているけれど、魚、特にセカンドインパクトで一度絶滅した海洋生物に関しては、からきしの私だ。

 

 他の乗員のことも考えれば、景気のいいリアクションの一つもしたいところだけれど、絶滅種の失伝レシピではリアクションのしようもなく、どうしていいか困ってしまう。

 

 そんな様子の私に気づいたのか、リツコがすっかり自分の席にしてしまった予備オペレーターシートから声をかけてきた。

 

「きめ細かい赤と、深く筋が入った脂の多いピンクの刺身が恐らくクロマグロ。

 

 幹細胞からの培養とは思えないほど組織分化ができているわね。

 

 桜色の刺身はマダイ、この丸く白い筒は、報告書によると、おそらくエビね。

 

 確かアマエビの細胞ベースと書類には記載されていたけれど、エビ特有の赤い模様がないのは、培養過程が原因かしら。

 

 ともかく、ペースト食と農園の野菜が申し訳だった頃を思えば、格段の進化よ。見事な仕事ね、レイ」

 

 セカンドインパクト以前に生まれた世代だけに、海の食べ物の味を知っているのか、リツコが見当をつけた具材について、すらすらと説明を述べていく。

 

 リツコのその言葉に、レイは視線を返した。

 

「赤木博士の言う通り。アマエビに関しては、殻剥きの手間を考えて、殻が生成されないよう培養をかけたけれど、そのせいか、身の表面にアマエビ特有の赤い文様が出なかったのは今後の課題。ただ、味そのものには成分的に問題ないわ。

 

 今回提供するにあたっては、いずれの培養細胞も、その細胞死と死後硬直、体組織の自己分解のタイミングを見計らっている。酸化防止のため、培養ケーシング撤去タイミングにも注意し、細菌汚染に注意しつつ、各種アミノ酸生成状態を最善の状態で提供している。安全率はほぼ完全とおもってもらっていい」

 

「あー、あっしが言うのもなんですけどね、綾波姉さん」

 

 自信満々に言い切るレイに、壁面の、かつて避難民収容用に設えられた非常用座席をあてがわれたクロスレイ中佐相当官が、頬と片眉をやや困り気味に引き攣らせながら言った。

 

「自信がものすごいのと研究者として気合入ってるのはそりゃもうすんごい伝わるんですが、その、食べ物スから、もーちょっと聞き心地のいい言葉選んだほうがいいと思うスよ営業的に。

 

 こう、戦闘や研究なら誤解のない正確な言葉で伝えるのが大事ですけど、食べ物なんで。

 ちょっと細胞死と死後硬直とか自己分解とか、専門職はともかく素人さんにはパワーワードすぎゃしないスかって」

 

 その言葉に、レイが感心したように頷く。

 

「その視点はなかった。営業職関係の参考書は蔵書にないし、使うこともなかったからその概念がなかった。失念していた。ありがとう。ペトラにあればいいのだけれど」

 

「いや、このご時世にあるスかねえ……」

 

 なんというか非常に困った表情をクロスレイ中佐相当官が浮かべていた。私にもビジネスのことはわからないけれど、おそらく人間相手の宣伝行動だから流行り廃りが激しいところはあるのだろう。フット・イン・ザ・ドアみたいな基礎テクニックは有効だろうけれど、そのあたりの骨子になるようなテクニックが載った本であれば、たぶんもうヴンダー艦内にある。

 

「L結界外部の書店跡に探索……モスクワなら」

 

 

 さすが大元の綾波レイ、微動だにしない重さでズレた発言を連打してくる。

 

 真剣顔で思慮モードに入ったレイに対し、こめかみに一筋汗を垂らしながら「やめとけ」をどうやって伝えようか非常に悩んでいるのが傍目にも丸わかりのクロさんがなんとか口から言葉を絞り出す。

 

「そこまでして取りに行く必要あるスかね……営業文句も流行り廃りがあって足の早いジャンルっスし……」

 

 あのクロスレイ中佐相当官が呆れ、もとい圧倒されている。もっとも四捨五入して十年は外部連絡員もやっていたはずなので、意図的にズレた発言をしている可能性も高いだけに、厄介かつ図太く育ってしまったのかもしれない。うん、人生で色々死線をくぐってきた女だけに色々違う。

 

 色々違うのはいいけれど、幹細胞培養系は再生医療から食糧生産に至るまで幅広く使えるものだけに、取引先全員ドン引き顔面コバルトブルーな営業ミスだけはしないでほしい、と願わなくもない。

 ペトラとの連絡要員かつ物資運搬要員として、クロさんを呼んで正解だったわねこれ。

 

 多分、レイの事務的でイノセントでエキセントリックな説明を、いい感じに緩和してくれると思う。緩和してほしい。いえ、これ多分、クロさんにいっそ営業と説明丸投げしたほういいわね。

 

 相応にクロさんに手間賃代わりの報酬を上積みする必要があるだろうけど、レイに変な営業されて、せっかく高値で売れるものを安値で買い叩かれたら、いろいろ困るわけだし。クロさんのヘルプで値段を吊り上げられるなら、それに越したことはない。多忙なクロさんが引き受けてくれればの話だけど。

 

 仕事の話は仕事の話しとして、いい加減今日のランチと向き合おう。

 

 あのべたべたの忌まわしい、自分トマトでーす、緑黄色野菜練りミックスでーす、プリンだと思ったか、甘くないトウモロコシだよ! なわかりづらくて美味しくない栄養だけはあるペースト食ではない、せっかくの贅沢なランチなのだ。もーほんっと食べ飽きて、毎日こればっか続くなら、いっそもう水でもいいかもしれないとなりかけていた忌々しいアレではない。

 

 それに培養肉とはいえ、それぞれの細胞が幹細胞から分化して、生きてきたことには間違いないし。せっかくの生命、美味しく食べなければもったいない。レイが誠心誠意こめて続けた、研究成果の精髄でもある。そのありがたみを忘れちゃいけないわよね、この艦の副長として。

 

 私は拝むように両手を重箱の前であわせた。

 

「いただきまーす」

 

 すっかり癖になった日本式の食前挨拶を終えると、刺し身に適量の醤油を回しかけ、わさび(といっても多分農園で育てられたホースラディッシュを原料にして、艦内で加工したものだろう)をまずはマグロの赤身刺の一枚の上に箸で乗せ、酢飯とともに頬張り、噛みしめる。

 

「!?」

 

 ぇ。

 

 ぅま!?

 

 なにこれ。ぅま。え?

 

 うぉー。信じらんない。ほんとに?

 

 今の私の4割味覚が、ちゃんと味を得るまでにはコンマ秒のズレがある。だから最初は味がボケ気味に入ってくるのだけれど、そこに初手でここまで舌に来るというのはすごい。

 

 濃い甘みというか、旨味がほんとうにヤバイのだ。

 

 僅かな酸味がまたアクセントで、これがマグロの香り? というのが鼻に抜けていく。

 

 ホースラディッシュを使ったまがい物とはいえ、わさびを軽く添えてやると、香りが絡まって実に乙な味になる。もちろん酢飯との相性など語るべくもなく最高で、マグロと酢飯と醤油とわさびで四乗。足し算ではなくて乗算。足し算ごときであるはずがない。

 

 ただ、相応の美辞麗句で称賛しようにも、あいにく私の舌は味わうので完全に限界となっており、結果として見事なまでの失語症に陥ってしまっていた。

 

「えっこ。なに? は?」

 

 美味しさを表現する言葉がでない。よくわからない。とにかく、美味しい。さては罠か。

 

 私が目を白黒させているのを見て、満足したのか、無表情のままレイが私を振り返り、右手の親指を立ててきた。いつもどおりの無表情だけれど、その目つきで会心の笑みであることがわかるやつ。

 

 レイも適当な予備座席に腰掛け、左手で蓋が開いた重箱を持っている。

 

 もっとも、中身は野菜の緑色。

 

 大豆もやしを茹でたか漬けたのと、茹でたほうれん草がたっぷりと。その上にいりごま。そのまた上に何か、木くずのようなものを削ったものが大量に。

 

 この味なら自信満々も納得いくけれど、レイはまだ刺し身や肉類がダメらしく、その辛さは理屈としてわかってはいても、あまりのもったいなさに、思わず私はため息を付いた。

 

「昔の体調考えれば苦手意識あるのもわかるけれど、レイもこれだけ美味しいなら、チャレンジしてみればいいのに。あんたが思う以上に美味しいわよ、これ」

 

 私の言葉に、レイは頷く。

 

「ええ。でもまだ生は少し自信がない。だから少しアプローチを変えている。

 

 この上の削り節がそう。

 

 これもマグロよ。半年ほど、一部のサンプルを利用して枯節にする実験をしていたの。体内バイオームの研究、その一環の名目で」

 

 そのレイの言葉に、リツコが目を剥いた。

 

「まさか、クロマグロをマグロ節に!? ありえないわ! マグロ節は本来混獲したキハダマグロの幼魚を使って製造するもの、それをクロマグロでなんて」

 

 ……よくわからないけれど、セカンドインパクト世代からすると、ありえない超贅沢な加工を施していたらしい。綾波レイは侮れない。わかっていたけれど、リツコがこれほど驚くのだから、きっと相当のアレなのだろう。綾波レイがアレなのはいつものこと。それはそうだけど。

 

「味に関してはお吸い物を飲んでもらえればわかる。いつまでも私が味噌汁しか作れない女と思われても困るもの。ここで乗員の胃袋を掴んで士気をあげていく。

 

 みんな、一ヶ月の訓練で疲れているし、ねぎらいの意味合いと、今後も食生活に希望が持てるということを示す必要があるから。

 

 暗い気持ちでどうせ明日も明後日もペースト食と諦らめてしまうと、描く未来像も冷たく味気なくなるの。

 報いの経験があれば、今日一日が辛くても、いつかまた美味しいものが食べられると思えるし、多分心がぽかぽかして、目指したい未来もぽかぽかになるの。多分そう。多分」

 

 一理ある。実際、私も散々言ったように、味気もなにもあったものではないペースト食にはうんざりしていたし、メシマズ艦艇の汚名を浴びた結果、またぞろ乗員が百人単位で大量離脱して民間に流出の惨劇は繰り返したくない。

 

 ともかくお吸い物にも自信ありのようなので、クロマグロ赤身の余韻が残る口で、お吸い物を軽く飲み……。

 

「ぅま!? 上品!?」

 

 あまりの美味に、またぞろ言語野が機能停止した。

 

 いかにも和、という塩梅の、驚くほど品がある香り。

 

 ニアサード前にコンビニやスーパーで市販されていた、とりあえずグルタミン酸ナトリウムでごまかしとけみたいな、適量を明確にオーバーしたやつに、なんかの化学だしと、あと香料を9割入れてごまかした、得体のしれない合成ダシなどとは比べ物にならない美味しさ。

 

 ともかく旨味が強く、なのにくどくなく、軽やかに飲めて品があり、そのくせ後を引く美味しさ。

 

 ほんとうによくわからない。なにかこの世界のものではない美味を飲まされた気分になっていた。

 

 先程から言動が完全にフードポルノになってしまっているけど許してほしい。何しろこちとら毎日毎日ペースト食、酷いときにはカロリーバー型レーションだ。

 

 そういう食事未満実質餌ばかりの生活は、本当に辛い。

 

 いや帆船時代みたいに腐ったクラッカーと酒と腐った塩漬け肉ばっかで壊血病まったなしの明日死んでもおかしくない生活よりよりマシでしょと言われるとそうだけれど、美味しいって言う栄養がないと心が死ぬのよね、本当に。

 

 てーか咀嚼感がなくてまるで食べた気がしないのもペースト食生活の厭なところで神様仏様ちゃんとしたプチトマトさまとか崇めながら付け合せ野菜を食べ、ちゃんとした歯ごたえに泣く羽目になる。1ヶ月試すとそうなるのよ、ペースト食。

 

 それはそれとして、なんというか異次元の虹彩を飲まされましたみたいな表情で固まった私に、得意げな無表情(この娘はそういうよくわからない表情を浮かべるのが得意で、余人にはわからないけれど慣れてくるとああいますごい自慢気にしている自慢モードだがとてもわかるようになってくる。

 

 といっても、そういう表情を浮かべられるようになったのは、心身が癒えきったごくごく最近のことで、中学時代はそんなこと、全く気づくことができなかったし、多分彼女にもそんな余裕は存在しなかっただろう。彼女にも色々あるのだ)でこの謎の吸い物について語り始めていた。

 

「しっかり乾燥・発酵させた枯節だから、軽い塩だけで味が決まるの。

 

 旨味としては鰹節同様、イノシン酸が主体だけれど、カツオほど癖がない魚で、さらに旨味と甘味がつよいから、それがぐっと凝縮されて味の強さになるの。だから味付けは軽くで充分。

 

 お吸い物には培養エビ肉を使った海老しんじょう。ネギでは多分強いから、加えた葉物は水菜」

 

「い、いつのまにかやるようになったわね……」

 

 十年前、二人きりのエレベーターでお互いの指の傷の数を見比べた時のことを思い出す。

 

 その頃は知らなかったけれど、ろくに何も食べられない身体で、それでも美味しいものを食べられることは幸せだと思いだして、それでせめて誰かと誰かに仲良くなってほしかった、それだけが残る僅かな望みだった、彼女のあの頃。

 

 あとで食事会と言いながら、味噌汁だけ寸胴で作っていたと聞いたときはおかしさで笑いそうになったけれど、実のところそれ以外受け付けない身体に成り果てていて、戻すわけにはいかないから味噌汁だけと思うと、笑うにも笑えない彼女の本気さと真摯さがある。また彼女らしく少しズレてもいるやつだ。

 

 ホント身体が治ってよかった、と思う。そのせいで喪ったものもあるようだけれど、きっと得たもののほうがおおきいとわかる。昔と変わらないように見える無表情、昔と変わらないように見える眼光、けれどその端々に、中学時代にはなかった豊かで複雑な感情が見える。それは同時に、彼女がもう14才の未熟な少女ではないことを意味してもいる。

 

 十年一昔とはよくいったものね、と思う。料理というかレシピ再現の腕の進化の度合いが色々おかしい。

 

 つまりはそれだけ根を詰めたし、それだけいろいろな人に美味しいを伝えたいという気持ちが、一品一品にこもったということなのだろう。何しろ料理のはるか前、この刺し身がまだ何者でもない幹細胞だったころから、培養をかけ、これくらい美味しくなるように、丹精を重ねた結果がこれなのだ。そこにこもる彼女の気持ちと仕事への熱意を感じずにはいられない。

 

 で、お吸い物を食べればわかるということは、その一見青いおひたしだけが乗ったように見えるレイのお重には。

 

「あー、その野菜丼みたいなの、あんた結構工夫したわね。肉は食べられないけど肉だしは大好きですって変な味覚だし」

 

 私の戯れ言葉を聞いて、レイが再び私を見る。

 

「ええ。本枯マグロ節の削り節と、別に取っただしを加えて調味してある。 

 

 ほうれん草ともやしはナムルに仕立てたのだけれど、ヴンダーで仕入れている合成鶏ダシではなく、本枯マグロダシをふんだんに使い、胡麻油といりごまのバランスを考えて作ったものよ。

 

 思いつく限りのあらゆる手段で、せっかくの命はもれなく全部食べつくす。いつか貴女が言ったこと」

 

「まだ覚えてたの? それ」

 

 あまりの懐かしさに、思わず苦笑してしまう。

 

「ええ、覚えているの。とても大事な思い出だから」

 

 無表情なレイの言葉に、思わず苦い笑いが出た。海洋再生施設見学の時のことを思い出す。

 まだ若いと言うより幼くすらあった私が、様々な抑圧と、他人への拒絶と欣求という自己矛盾と、その自己矛盾故に全てのものを全うに受け取れない認知の歪みから来る強烈なストレスを基として、彼女が『食べない』ということが逆鱗に触れ、感情に任せて叫んだ言葉。幼く拙く、私にしてみれば子供時代の恥の思い出ですらある。

 

 けれど、それを大切な教えや思い出にカテゴライズされてしまうと、どう反応していいか困ってしまう。

 

 もっとも、反応なんてする必要はないのかもしれない。レイがどう思って、どういう形であのときの叫びを受け取ったにせよ、それが綺麗な輝きを今も放って居るのなら、わざわざ土足で踏み入って、間違っているから歪んでいるからと、勝手に彼女にとって持つ意味を変えて台無しにするのは、どうも良くない事のように思える。

 

 今は遠く過ぎ去りし日々。この吸い物の味と美味しさも、あの日の私の、その時は自分自身でも原因を理解していなかった、苛立ち任せの叫びから繋がったものなのだろうか。

 

 だとしたら、本当にこの世の縁と運命は奇妙な作りをしている、と私は思う。

 

 そんなわけで、どう反応したものか困ってしまった私は、レイからひっそり視線をそらしつつ、首を巡らせて私以外のブリッジクルーの反応はどうかと様子を見る。

 

 日向戦術長と青葉戦術長補佐は、目をみはりつつも、その表情には、どこか懐かしそうな気配があった。

 

 私より年嵩の、セカンドインパクト世代の人たちだ。恐らく子供時代に、マグロを始めとした海産物の刺し身を食べたことがあるのだろう。彼らが満足しているのが容易に伺えた。

 

 リツコもひどく上機嫌な様子で重箱の中身を頬張っている。

 

 真希波マリ大尉に至っては、この艱難辛苦の時代において、なおも回復しさらに伸びようと先を目指す人類文明の偉大さについて、何事かよくわからない強い強い感動を覚えているようだった。目の潤みと輝きが、もはや少女漫画のヒロインのそれと成り果てている。そういえばセカンドインパクト前の食事について、多分この艦で一番知悉しているのは彼女だ。

 

 よほどお気に召したのだろう。猫に鰹節、真希波マリに海鮮丼。二度と食べられない味が帰ってきた。私の失われた黄金が帰ってきた。そういうことなのかもしれない。

 

 ともかく年長組には大好評、と見ていいか。真希波大尉は年長ジャッジに加えていいのかよくわからないけれど。相当長生きしている気配なのに、いまいちその年季を感じさせないのが真希波大尉のユニークなところだと思う。

 

 反面、逆に今死ぬすぐ死ぬもう死ぬ地獄みたいな苦悶の表情を浮かべている人物が二人ほど居た。多摩ヒデキ少尉と長良スミレ中尉の二人だ。口の中で地雷だか爆弾だかが炸裂したかのような凄まじい形相と成り果てている。

 

 原因は……あれか。わさびだ。この子たち、世代的にきっとわさび知らないんだ。

 

「多摩少尉、長良中尉、その緑のやつ、死ぬほど辛いから、一気に食べない方いいわよ」

 

 私の多分遅すぎる助言に、多摩少尉と長良中尉が涙目で私を振り返る。

 

 まだ言葉も出ない状態のようだけど、二人共顔をしかめて私を睨んでいた。もっと速くいってほしかった、といった様子である。いやま、食べた後の忠告だから、そら遅すぎるし恨まれるわよね。うん。知らない身の上にしてみれば、知ってるなら言えって話よ。常識とジェネレーションのギャップの悲劇はやはり時代を問わないのだ。

 

 まあ、ニアサー世代が知るわけ無いわよね……美味しい丼の中に巧みにしかけられた殺人トラップでも踏んだような気分なのだろう。

 

 その様子に気づいたのか、まず多摩少尉の方にカートを押して向かいながら、鈴原サクラ少尉が二人に困ったような同情の笑みを浮かべつつ語りかけた。

 

「多摩さん、長良中尉、辛い成分は揮発性ですから、鼻から息吸うて口から吐くと、気持ち辛さが和らぎますよ。

 

 舌が落ち着いたら、お吸い物で口を直すとええです。お吸い物とわさび、相性抜群ですから」

 

 涙目状態の多摩少尉と長良中尉が教わった通りに呼吸しつつ吸い物を啜ったのをみて、二人のお吸い物のお椀におかわりをレードルで注ぐのを見ながら、私は少し感心した。

 

「鈴原少尉、詳しいわね。私も昔、知らない時、一度それでやらかしたのに」

 

「第三村の川沿いの上流で、水わさび育てとるんですよ。

 

 イワナもそこで取れますから、燻製気味に焼き干しまして、味噌汁なり吸い物にして、わさびの葉の刻んだんや、茎のおろしたんを入れるとええ味になるんです。

 

 毎日雑炊ばかり食っとっても飽きますし、うちがそうやって工夫するとお兄ちゃんえらい喜んでくれて、子供ながらに作りがいもあって、誇らしゅうなっとったもんです。

 

 ちゃんとしたわさびって、うちら……私たちにはちょっとした贅沢だったんですよ」

 

 私の言葉に、鈴原少尉が振り返り、どこか懐かしそうな表情を浮かべながら私を見た。

 

「そっか。せっかくだから聞いておくけど、トウジ、元気してた?

 

 レイからはある程度聞いているし、結婚の挨拶の手紙ももらったけど、もう十年会ってないから」

 

「お兄ちゃん、色々大変でしたけれど、ずっと頑張っとりましたよ。

 

 いうて、私もここ数年は訓練生活で会うとりませんから、もっぱら手紙のやり取りですけれど、今は医者見習いとして、色々やっとるそうです。

 

 うちは正直、お二人には色々思うところありましたけれど、お兄ちゃんは、ずっと艦長さんのことも副長のことも信じとりましたし、感謝しとりました。お兄ちゃんは、大人になりましたけど、うちから見ると、なんも変わっとりません。

 

 それに、おふたりとも、艦長と副長なら、もうエヴァに乗らんのでしょう。

 

 この一ヶ月、ずっと様子見て、うちは安心しとります。

 

 前の防空戦でも、インパクトも起こさず、オアフ島も無事で、頑張っておられました。だから、お兄ちゃんが言う通り、お二人は仇でもありますけれど、それ以上に人類の恩人と思ってます」

 

「恩人、ね」

 

 鈴原少尉の言葉に、思わず私は苦笑いを浮かべた。

 

 最初に会った時の、真摯で強い、どこか反抗の色合いがあった彼女の眼光は、今は優しさを帯びている。土台がそのように優しく出来た女性なのだろう。医療班から報告された現状の彼女の人事評価は、その懸命さと努力、協調性の高さを示す人材である、という内容になっていた。

 

 もっとも、僅かに複雑な心地も私は覚えている。もうエヴァには乗らない、か。

 

 彼女は確か、第一次ニアサードインパクト……三号機事件、私達が引き金を引いたあの事件で両親を喪っていた。だから、彼女の言う『仇』という言葉の意義は字義通りなのだ。そのうえで、二度と私達がインパクトを起こさない、と彼女は思いたいのだろうし、この一ヶ月の戦いでその確信を深めたのだろう。

 

 あるいは、そう思わないと、精神的に耐えられないのかもしれない。

 

 何れにせよ、彼女が彼女なりのやり方で、両親の仇である私達と向き合おうとしていることに間違いはない。だから私は、彼女に対し、微笑みを返した。

 

 けれど、そういう温かい空気が気に入らない人間もいるようだった。

 

 一瞬だけれど、尖った視線を私は感じる。

 

 瞳の焦点を向けないようにしながら、視界の中の、視線を投げてきた位置に居る人間を見る。

 

 北上ミドリ少尉。彼女が正面に向き直る前に、僅かに見えた横顔は、敵意に似た厳しさを帯びていた。今ブリッジに流れている温い、馴れ合いめいた空気が、どうやら彼女には気に入らないようだ。

 

 どうしたものか、と一瞬私が考えた瞬間、いつの間にか海鮮丼を食べ終えていたクロスレイ中佐相当官が席を立ち上がり、北上少尉のもとに向かっていた。

 

 そして、カラーコンタクトの入った緑色の瞳で彼女を見つめ、語りかける。

 

「ガミちゃん機嫌悪いねー。もしかして口に合わなかった?」

 

 いつもどおりの気さくな口調。北上少尉が、不精不精という様子でクロスレイ中佐相当官に振り返る。

 

「美味しかったから機嫌悪いんじゃん。

 

 第三村じゃ、昔から、ずっとみんなろくなもん食べてなくて、私達がヴィレに行くときだって、たまの川魚とか、雑炊とか、梅干しとかばっかりなのに、ここじゃこんなもの食べてるのって、何様って」

 

 そう来たか。彼女の訓練期間は2年だっただろうか。

 

 配給が整ってきた頃とは言え、食事の質の面では、到底満足できない時期に、彼女はヴィレを志願したはずだ。実際のところ、食事にありつくためだけにヴィレに志願する人間は、食に事欠く生存圏においてかなり多くの割合を占める。

 

 飢えがもたらすものとは、文字通りの苦痛なのだ。

 

 私も昔、『選定』の個体選別の際に、そういう訓練の一環として飢餓状態を味わった。

 

 とにかく、つらい。

 

 栄養が足りず、意識も思考も朦朧とするのに、どういうわけか感覚だけは鈍らない。

 

 栄養不足で筋肉が萎縮し、体を動かすと、身体を支える力がないものだから、骨と骨が擦れ合うのか、スカスカになった筋肉組織が悲鳴を上げるのか、それだけで全身が痛くなる。

 

 勿論空腹も渇きも日々耐え難くなる一方で、それらは一向に楽になってくれない。

 

 歴史上、飢餓状態になった村落や都市で、しばしば人肉食が横行したというのもわかる。

 

 あの苦痛から逃れるために、人間は、いや生物というものは、なんでもできてしまうのだ。

 

 そんなささくれた北上少尉の思いを嗅ぎつけたのかもしれない。クロスレイ中佐相当官が小さく微笑んだ。

 

「ガミちゃんガミちゃん、昔の第三村はそうだったけど、ちょっと情報古くさいね。

 

 第三村の飯ってさ、もうだいぶマシになってんだよ? こういうと悪いけどサ、ここの普段のペースト食のが遥かに不味いんだよね」

 

 北上少尉が憤懣をブリッジ中にぶちまけだす前に、クロスレイ中佐相当官が軽く頭を振りながら言う。流石に長年いろいろな人々相手に商売してきた商売人と言うべきか、北上少尉が艦橋の空気を悪くしかねない、けれど彼女にとっては正当な過去の苦しみの告白を始めるのを、それとなく押し止めたかたちとなった。

 

 そして、北上少尉の目に走った疑問の色に応えるように、中佐は言葉を続けた。

 

「ガミちゃんがヴィレに入ったあと、第三村西側に封印柱が増設されてね。

 

 東側、ガミちゃんたちが住んでた旧村落エリアを自然・生態保護区として、西側に保護区での各種研究成果や、生態系の特色を生かした大型垂直農場ビルの建築が始まったわけ。

 

 あっしの会社も、建材やら封印柱やら運んで、そりゃ忙しかったけどがっぽり儲けさせて貰って……ま、商売の話は置いとくか。

 

 ともかく着工1年で、地下3階分と地上2階ぶんの垂直農場は稼働可能になったから、一気に食糧生産量が増大してね。肉から野菜からいろんなもんが流れ込んで、だいぶ第三村も食生活からなにから、暮らし向きがすっかり良くなったわけさネ」

 

「一年で?! そんな早く工事が進むわけないっしょ!? どうやって!?」

 

 信じられない、という表情を浮かべた北上少尉に、クロスレイ中佐相当官が意味ありげな笑みを浮かべた。

 

「ヒント。

 重力・斥力操演を最大限に活用した、馬鹿げた規模の大規模工事。

 

 工事用の建材から、工業製品用マテリアルまで馬鹿みたいな量を一気に作っちゃうインチキができるフネ。最後に、それを含めてメチャクチャな量を航空輸送できる、地球最大級の飛行艦艇ってのが、どっかにござんしてね?」

 

「……」

 

 北上少尉も気づいたようだった。恐ろしく不満そうな、けれどそれを言い出せない、という表情になっている。

 

「そう。AAAヴンダー。重力・斥力操演で封印柱運搬から設置とL結界除染、地盤整備、掘削、資材運搬から一気にやっちゃったかんねー。

 

 その頃はまだ艦長さんと副長さんと、赤木さんたちか、それくらいしか居ない状態での運用と工事施工だったけど、それでも基礎工事はあっという間さね。

 

 地盤改良も岩盤到達まで地べたひっくり返して改良剤と混ぜ合わせてこれまたあっという間、ついでに持ち込みの基礎柱打設もあっという間で岩盤までしっかり固定して捨てコン。 

 

 そこから炭素ワイヤーやらPPメッシュやら地下まわりから地上フロアまでの炭素繊維系代替鉄筋までガーッと張り巡らせて、プラモ感覚で空中で汲み上げた型枠を設置で。

 

 あとはクレーディトの復興・再開発部門の建築家が群れできて配管から電装系まで一通りやったところで一度撤収、ヴンダーが特殊ジオポリマーを端から型枠に流し込んで気泡をミクロン単位で追い出しつつウォームプレスで熱と圧力かけて一気に硬化。固まるまで3時間ちょい。

 

 ほんと、いろいろこのフネおかしいよねえ?」

 

 そう言って、クロスレイ中佐相当官が苦笑しながら話を続ける。

 

「まあヴンダーも建築ばかりやってるわけにいかないし、残りの材料と仕事はクレーディトとあっしらに丸投げして、結果あっしらもいっちょ噛みできたから大儲けできたけど、まあ平和になったらこのフネヤバイ商売敵なわけ……っといけない、話脱線したネ。

 

 ま、そんなこんなであっという間に超巨大垂直農場が第三村西側地区に建立と相成ったわけでー、当然第三村もその余録で食事と仕事にだいぶ困らなくなったわけさ!

 

 最近は旧第3新東京市跡を都市鉱山と見なして、携帯封印柱と起動用バッテリーとノーパソ抱えて色々ぶんどりにいく、冒険者気取りの連中相手の、安宿商売、ドヤだったかな、そういうのも村の東の外れでやったりして、この二年で随分第三村も変わっちゃってねー。ま、景気よくなったわけよ、色々と。

 

 そんで、いいかげん村じゃなくて町に変えようか、なんて話もでてるくらい。

 

 ただ、ガミちゃんが住んでたあたりは環境保護区として残されてる状態だから、あんま変わってないけどね。

 

 昔ながらの水田と建物。ただ最近はエアコンも普及して、どの家もだいぶ快適になったかな?

 

 トージくん、まあクッソ忙しいのは商売柄しょうがないけど、今年は熱中症の人が減ったってちっとは喜んでたねェ。全く文明様様ってやつ。あっしんとこも配達・施工で儲かるし」

 

 その言葉に、妙に得心した表情で鈴原サクラ少尉が頷く。

 

「あー、もしかして手紙でお兄ちゃんが最近もししんどくなったら帰って来い帰って来いて、ようけ書いてくるようになったん」

 

「そ。もともとトージくん、さっちん猫っかわいがりしてたけどさー、もともと人手不足だったとこに、第3新東京市外部市街地の都市鉱山目当てで、除染可能な電気製品だのなんだのを廃墟から漁る連中が湧いたもんだから、そういう連中がやらかして怪我して担ぎ込まれるようになっちゃって、そんで忙しくなっちゃってねー。

 

 携帯封印柱だって安くないってーのに、コア化して停止状態の不発弾を、なに考えたんだかうっかり除染してドカンで重症なんてのまで担ぎ込まれて来るんだから、そりゃトージくんも忙しくなって、あっしが顔出すと、いーっつも疲れた顔してるわけよ。

 

 ま、そのかわり医療所に新しいマシン何台も入れて建屋も拡張したし、垂直農場ビルが栽培し始めた薬用植物とその製剤が搬入されるようになって、医薬品不足もマシになったし、住人の栄養状態も良くなったかんね。

 

 昔みたいに栄養失調でバタバタ、なんてこともなくなってきたし。ま、疲れちゃいるけどトージくんとしては悪くなさそーだし、そこは安心していいよさっちん。

 

 多分、手紙の文面がいろいろ口うるさいんだろーけど、妹思いの顕れだと思って勘弁したげて」

 

「お兄ちゃんなー……もう奥さんおるんやからいい加減妹離れしてほしいわー。ヒカリさんに変な迷惑かけとらんか心配なってもうてかなわん」

 

 呆れたような表情を表情を浮かべつつも、鈴原少尉がくすりと笑う。

 

 兄の現状を聞き、忙しいながらも元気にしていると知って、喜んでいるのだろう。口ほどには多分兄離れできてないわよね鈴原少尉。その嬉しそうな顔でわかるわよ。

 

 一方、北上少尉はと言うと、唇を不満そうに尖らせている。

 

「そんな事言われても、実際見ないと大本営発表じゃん。1年2年で良くなったって言われても、私らそんなの見てないし」

 

「ガミちゃんはまだ垂直農場ビルって見たことないもんね。

 

 それはこれからこのフネが行く先のビル……ってか、アレをビルにカテゴライズしていいものかわかんないけどね、ま、ともかくアレみれば疑問ふっ飛ぶんじゃないかな。第三村のはあそこまで大きくないけど、機能としては似たようなもんだから、設計と運用はあの街の施設運用データを元にしてるし。

 

 何しろ人類に残された生存圏でも有数の大都市にして、人類が築き上げた最大級のメガストラクチャ。ヴィレ幹部曰く『緑のジッグラト』。『バーブ・イリ』。『カ・ディンギル』なんてあだ名もあったかなー?

 

 ま、この辺は生存圏ごととか、あの街と取引する会社ごとで色々勝手に呼んでるやつだから気にしなくていいかな。メソポタミア系のあだ名で呼ばれるの、あの街の名前考えるとどうなんよ、とかは思うけど、艦長たちが参照した元設計の名前が名前だし、そういう変な名前で呼ばれんのもしゃーない。

 

 まあね、ともかく、でっかい。

 

 ガミちゃん、見たら絶対びっくりすんよ? 

 

 L結界の赤い洪水の只中、アンチLシステムの堤防でかろうじて波を食い止めてその穴の底で生活してますみたいな状態になってるのが、今の生存圏の共通した現状なわけだけど、堤防で作った細い穴のどん底で、どうやって人類が数億も生き延びるだけの生産力を維持してきたか、文明を維持しているか、その回答の一つがズバリあの街」

 

「ええ、クロスレイ中佐相当官の言う通り」

 

 クロスレイ中佐相当官の言葉の後を継ぐように、レイが言葉を続けた。

 

「人類生存圏、最大の食料生産拠点にして、生命研究機関たる巨大都市。この間の衝角据え付けが極秘裏に行えたのも、あの都市の施設のおかげ。

 

 実のところを言えば、第三村で行われている農業用の種子の多くも、あの都市からもたらされたもの。日本列島は爆心地地域だから、作物の種子の多くがその被害を被り、多くの種が失われてしまった。それを補ったのが、あの都市の遺伝子コレクション。

 

 その歴史は古く、旧世紀時代、とある植物学者が世界中から集めた作物種子を由来とするの。

 それは第二次世界大戦という地獄、そしてセカンドインパクトという新たな地獄を越え、貴重な遺伝子バンクとして現代まで受け継がれていた。

 

 通称、バビロフ・コレクション。

 

 種子を集めた植物学者の名を冠した遺伝子バンクよ。

 

 彼は政争に破れ、時の権力者の増悪を買って獄死。

 

 彼の部下だった研究員は、戦争の只中、飢えた独ソ兵と民衆に包囲され、自らも餓死の苦しみに苛まれながら、それでも種子と種芋を守り続けた。その惨劇はセカンドインパクトでもなお繰り返されたけれど、やはり研究員たちは同じく身命を賭してそれを守ったのよ。

 

 それを食べれば生き延びられるということは彼らにもわかっていた。けれど、彼らは自らが生き延びることよりも、遺した種子がより多くの人々を生かすことをこそ想い、そして望んだ。生命を賭けたのよ。

 

 そして、サードインパクトにあたって、ヴィレはこれを防衛・保守することを最優先目標の一つとして掲げ、これの護持に成功した。結果人類は、彼らの想いが守った作物の種子を増やし、今を生きるための糧として、生存圏を維持し続ける事ができている。

 

 人類に遺された大いなる穀倉地域としての巨塔、この艦に次ぐ生命の秘跡を探る工房都市、それがペトラ。

 

 ええ。

 

 そうであるからこそ、私達ヴンダークルーにとって、最大の商売相手たりうる。

 

 人類史上類例を見ないメガストラクチャ、数多の人類人口を宿す巨大構造物だからこそ、あらゆる物資の需要が圧倒的にある。つまりビッグビズ機会。それはとても大切なこと」

 

 北上少尉が、目をしばたたかせる。突然『ビッグビズ』とか言われた意味が、分かっていないようだった。意味がわからない、という様子で口を開く。

 

「ビッグビズって……この艦は軍艦ですよね? ビジネスとか関係なくないですか? っていうかそれヴンダーのクルーによる私用じゃないんですか?」

 

 私用、という言葉をややいいづらそうに言う辺り、明らかにこの子はレイには好意を向けている気配だった。

 

 ただ、彼女には分かっていない。というか私と多摩少尉の会話聞いてなかったのかしらねこの子。いや私の声を可能な限り耳にしたくないのかもしれない。任務以外で。

 

「私用じゃないよ」

 

 不意に、艦長が口を挟んだ。北上少尉が、一瞬顔を険しくする。

 

 しかし、構わず艦長は言葉を続けた。

 

「現在、第三村やオアフ島、ペトラといった各生存圏はL結界によって分断されており、L結界による物理法則異常を原因とした電波擾乱により、電離層反射波を利用した大遠距離無線通信は不可能な状況となっている。

 

 ケーブル敷設による通信回線設営も、コア化のため、現在設営の目処がたっていない。

 

 さらに制宙権をネーメズィス・シリーズ各機に奪われている状況のため、生存圏同士の相互連絡は、現状民間流通企業や本艦を始めとしたL結界航行可能艦艇によって直接行わなければならない状況となっている。

 

 結果、各生存圏は現状、生存圏毎にその運営体制に最適化した経済体制を確立せざるをえなかった。つまりは協調したくとも、運送会社を介した伝書鳩レベルでの手紙のやり取りが限度である以上、それぞれが生きやすいよう、なるべく独自に採算が取れるよう体制を立ててしまった、ということだよ。

 

 何しろ無線通信はおろか、衛星通信もインターネットもない状況だ。だから食料や物資の配分も、現状はヴィレ及びクレーディトに拠る計画経済を主管とせざるを得ない。

 

 ある意味で、18世紀の帆船時代より酷いかもしれないね。各種業務の民間委託が物流関係に限定され、その権限も限定的で、加入するには軍属になることが条件となっているあたりに、今の人類社会の難しさがある。

 

 このため、現状では信頼できる強い国際通貨が存在しない状態だ。ヴィレが徴用の際に用いる軍票があることはあるけれど……まあ、現地経済、つまりは闇市のたぐいだけれど、そういった場所では現地の地域貨幣が重んじられ、ヴィレの軍票はそうした場所では使い物にならない。

 

 必然的に、各生存圏に本艦が修繕や補給を依頼する場合には、軍票ではなく物々交換での取引に頼むこととなる。となると、本艦の権能と研究成果を全力で用いて資本とし、価値のある物資や成果物を取引材料として準備する必要があるわけだ。

 

 クロスレイ中佐相当官にわざわざ足労を願ったのも、先方、つまりはペトラが『欲しい物』を確認するため、伝書鳩役をやってもらうためなんだ。これこれこれだけの物が欲しいという依頼を受け、分かりましたとこちらでサンプルを用意し、クロスレイ中佐相当官にサンプルと輸出予定数を届けてもらう。

 

 そして満足した先方から、本艦は代償としてサービスをいただくわけだ。 今回の場合、本艦が受け取るサービスは、AAAヴンダーの損傷箇所の修復、および本格戦闘運用を可能とする補強工事が主体となる。

 

 あの街にはそれを可能とする巨大港湾設備と技術があり、本艦はそれを必要としている。オアフ島でも時間をかければ不可能ではないけれど、ペトラのほうが早く終る。このあたりは先程多摩少尉に副長が説明していたね」

 

「修理を行うために向こうに支払う報酬として、物々交換で向こうにとって価値があるものを渡す必要があるってやつならさっき聞こえてます。

 

 ただ、人を使うために金や報酬で釣るやり口が気に食わないだけです。そういうの、軍艦の艦長が好き勝手差配していいことじゃないっしょ」

 

 北上少尉、聞こえてたの。ってか、そういう余録みたいのをせしめよう、ってのが気に食わないのね。潔癖か。

 

 ただ、そんな北上少尉の言葉に、あくまで艦長は柔らかい口調で答える。

 

「そうだね。けれど概ねの都市で闇市は機能しており、それはヴィレの配給制のみでは成り立たない現地経済を補うものとなっている。

 

 当然そうした商業行為にあたっては、現地通貨はヴィレ軍票より効果を発揮する。綾波大尉が研究した幹細胞系の各種技術のペトラへの先行供与や、各種建材やマテリアルを始めとした交易行為は、当然人類圏全体の生存性を高めるための投資だ。

 

 無論君の言う通り、余録を願わず、善意だけで無償でこれを行うことに対し、僕自身は異存はないけれど、先方としては相応の代償を支払いたいと考えているそうだ。少なくともそういう事になっている。これをないがしろにすることはいわば彼らの善意を踏みにじることだ。

 

 そして、なにより本艦の修繕・構造強化工事中、本艦は作戦行動を取ることが出来ない。当然だが工事中の軍艦は動けない。

 

 それに、工事が各所に入る以上、クルーを本艦内部には配置できない。居住用耐圧プレハブに手を入れる以上、工事区画には大なり小なり脊椎区画由来のL結界が生じる。危険なんだよね。

 

 故に、僕と副長を除いたクルー全員には、ペトラ到着後、半舷上陸してもらうこととなる。

 

 工事期間は、そうだね、少なく見積もっても2週間程度となるだろう。

 

 その際の宿舎への人員配置及び、ペトラ市街における行動範囲、行動規則については、間宮主計長からの支持に従ってもらう。

 

 なお、その際現地での各種行動に必要となる現地通貨も各員に配給される。先日、副長が言っていた給料だね。

 

 現地通貨配給に当たっては、ペトラ自治政府発行の指紋・血管認証式の電子カードを配給することとなる。むろんカードに登録された金額以上の現地サービスは受けられないため、管理には厳に注意するように」

 

 北上少尉が、敵意を通り越し、とうとう汚い大人を見る目つきで艦長を見はじめた。

 

「現地政府発行の闇取引に使える現地通貨を艦長権限で勝手にやりくりって、いいんですかそれ。艦艇の私的運用、ここに極まれりって感じなんですけど?」

 

 しかし、その言葉に対し、軍帽を目深にかぶった碇シンジ艦長はむしろ笑みを以て答えた。

 

「非常時においてヴンダーが咄嗟に行動を行わなければならない場合、AAAヴンダーは、ヴィレ総司令の名代として本艦に乗艦している赤木リツコ博士の代理承認により、独断での行動を取ることが可能となっている。これは葛城ミサト総司令及び、加持リョウジクレーディト長官がヴンダー艦長に認めた正式の権限だ。

 

 本艦の損傷状況は応急修復こそ成ったものの、速やかな修復工事施工が必要であることには変わりなく、そして本艦が人類最大最強の戦力である以上、この修理が焦眉の急であることは言論の余地のないことだ。これを達成するために、本艦は全力を以て当たらねばならない。

 

 また、現地経済状況の把握及び、現地通貨の流通状態、およびヴィレ軍票の取り扱い状態についての調査も重要と成るだろう。諸君らの各種経済行動はこの調査行動に該当すると僕は思っている。 

 

 つまり本艦のこの行動は完全に合法であり、一切問題がないと思ってほしい。

 

 ああ、もちろんどうしてもというなら、その現地通貨を使って、半舷上陸中も延長訓練を受けられるよう手はずを整えてもいる。この一ヶ月の訓練に飽き足らず、さらなる熱意を以て自らを理想に捧げる決意があるならば、僕としてはその決意を喜ばしく思うし、拒みはしない。

 

 旧ソ連時代からロシア連邦、セカンドインパクトを経てヴィレ決起にいたるまで活躍し続けたスペツナズの末裔たるペトラ軍警は、恐らく希望者に非常に熱心に訓練を施してくれるだろう。

 

 この一ヶ月で疲弊した肉体の限界を、ロシア式という異なる方式で更に確かめてみるというのは、人生において、きっと得難い体験になるだろうね」

 

 そして、碇シンジ艦長は満面の笑みを浮かべた。

 

 まだあどけなさの残る整った顔立ちにおよそ似つかわしくない、腹黒タヌキの笑みってやつだ。実質脅迫じゃない。

 

 艦長の言うことを要約すると、2週間給料つけて休みをやるから異国での休暇を3食宿つきで満喫してこい、さもなきゃ泣く子も鬼も等しく黙るロシアの最精鋭特殊部隊スペツナズの伝統式訓練2週間コースで泣いたり笑ったりできなくするぞってこと。

 

 米海兵隊とかだとたまたま飛び込んだヤブに蜂の巣があって刺されまくっても悲鳴上げるな頭上げるなと叱るそうだけれど、それがかのスペツナズとなればさらなる苛烈も想像できるわけで、多分陸軍訓練受けていてもきついやつだ。ましてヴンダーのクルーはヴンダーで戦うために訓練されており、使う筋肉とかノウハウが全部違うので、普通の歩兵訓練でも一週間ぐらいできつくなる。使う筋肉が違うから、覿面に疲れるのだ。まあ一言でいうと休むか拷問かってこと。シャレにならないわよねつくづく。

 

「あんた、マジで言ってんの……?」

 

 流石の北上ミドリ少尉も、これには思わず言葉を飲んだ。

 

 何しろ戦後の応急修理も大変だったろうけれど、その後の訓練も、多分彼女にとってはきつかったろうなーと思う。なにしろ艦長は訓練に手を抜かなかった。

 

 結果、新人からベテランまで、このバカでかいヴンダーの中を、ひたっすらに走り詰めオペレーションしづめダメコン訓練しづめだった。誰でも疲れる。人間なら疲れる。というか半分人間辞めてる私も疲れたのだから相当だろう。

 

 緊急訓練と称し、艦長の思いつきで『二番主砲への艦橋からの命令系統切断、直ちに二番砲塔へ向かい手動制御で砲戦を継続せよ、なお被弾によりトラム使用不能のため、通常通路で移動せよ』とかやりはじめ、狭く曲がりくねった通路を1キロ全力ダッシュなどがあり、これはただの一例に過ぎないわけで。

 

 もちろん、被弾や緊急事態を考えた場合、絶対に必要な訓練ではあるのだけれど、当然肉体の酷使を伴う。最初一週間は、乗員のほぼ全員が呪われたかぐらいの筋肉痛に襲われていた。

 

 文句を言おうにも艦長は当然自分も訓練対象としていて、訓練に必要であれば自分でも走るし、私ももちろん走らさされたし、およそ部下であれば万人に容赦がないプログラムなので、乗員としては従うほかない。

 

 もっとも、このあたりの、可能な限り平等に訓練でしごきあげる、というのには、相応に意味があったりもする。軍艦という閉鎖環境においては、しばしばストレス発散のための、地位を笠にきた私的制裁が、しばしば発生する。軍隊の宿痾のようなものだが、艦長はその生い立ちの都合上、この種のアレが死ぬほど嫌いときているのだ。

 

 よって、その兆候を見出した場合、容赦なく保安科に報告、要員を派遣していろいろ容赦なく問題を解決するため、疲労とストレスでいじめに走るぐらいならまだ訓練で発散したほうがまし、という状況に持ち込むのが目的という側面もあった。

 

 あと、多分恨むなら僕を恨んどけ、みたいなのも多分ある。くっそキツイ訓練させやがってこの野郎と共通して恨む相手がいれば、その敵意と怨念で人間案外結束して、恨みのベクトルが定まるために喧嘩が減る、みたいなものはあるし、碇シンジ艦長という男は、三号機事件以来、色々あって赤の他人に恨まれるのにすっかり慣れてしまっており、むしろそれが仕事とさえ思っているふしがある(私にはそこのところが少し気に食わないのだけれど、言っても思っても聞くやつではない)。

 

 ともかく、そういう男が提供する『追加訓練』が拷問と同じ意味を持つことは、ヴンダー乗員全員が思い知っていることである。私に言わせると多分その想像の倍でも甘いと思うけれど。

 

 ともかく、二週間の追加拷問か、二週間給料付きで三食宿付きで休むかだ。

 それこそ、選ぶまでもない。

 

 純朴でナイーブだった14才の少年が、10年がかりで戦場とポストアポカリプスの現実にしばきあげられ続けた結果がこれである。戦闘のみならず、上層部や、各生存圏との容赦ないタフネゴシエートなど、まだ私と艦長だけで運用していたころから、ほんとうに色々苦労してきたので、本当にいろいろ容赦が無くなってしまった。

 

 逆に言えば、14才の頃から色々味わいつつ、それでも全力を尽くしてきたという証拠でもあるわけで、だからこそ昔から碇シンジを知る旧ネルフスタッフの信頼が厚いものとなっているわけだけど。

 

 特に高雄機関長は戦自時代からの叩き上げの人なので、艦長のこういうやり口は、むしろ好ましく感じられるもののようだった。私もその口で、『選別』のアレはともかく、空軍に配属されてからも、やたらめったら走らされたり鍛錬させられたりしたので、その延長線上、と思っている。

 

 どれほど訓練がしんどくとも、それで生存確率があがるなら、それこそ望むところなわけで。

 

 今回、乗員に色々段取りして休暇と給与を与えたのも、修理で暇になるというのもあるけれど、「相応に働けば相応に報酬を与えるし、福利厚生もしっかりしますよ」という乗員への明示の意味合いもある。

 

 あのクソ艦長、と愚痴混じりに恨まれる程度ならいいけれど、本気で暗殺を考え出したり、さもなくば精神がアレして弾薬庫で楽しい火遊びを始め、乗艦乗員諸共まとめて一緒に心中したい、という病んだ願望を抱かれ始めたら本当に困る。適切に報酬と休みを与え、適切にストレスを発散してもらうのも、大事な仕事の一つだったりする。

 

 何しろ長い戦いなのだ。

 

 人類救済と勝利の条件が現状は実質不明な以上、この戦いがいつまで続くかわからない。

 

 他に懸絶した英雄なら、自らの望む正義遂行、理想の達成とかだけを動機に動き続けられるのかもしれないけれど、あいにく大抵の人類は、そういう方法で一年もめちゃくちゃに使った場合、精神なり肉体なりに深刻な影響が出かねない。軍隊においても、クルーリソースマネージメントは大事なのだ。

 

 ただ、それでもまだ北上少尉は思うところがあるのか、モゴモゴと口を動かして言葉を選んでいる気配だったけれど、そんな彼女に、真希波マリ大尉が、突然後ろから抱きついてきた。

 

「ほっほーう。ガミっちとしては素直に艦長の命令を聞くのは死んでもいや、とはいえスペツナズで二週間地獄の訓練も嫌なわけだー、なるほどなるほど~♪」

 

 半目で目を笑わせながら、猫のように意味ありげに口元に笑みを浮かべている。

 

「えっちょっ何!? いやそうですけど急に抱きつかれても困るんだけど~!? 

 

 っていうかこの背中の感覚何!? デカ!?」

 

 北上ミドリが先程までの敵意はどこへ言ったのか、突然の真希波マリ大尉の接触ボディランゲージに困惑している。主に外見年齢の割に豊満に育ちすぎたおっぱいの感触に。

 

 まあ、あれ、プラグスーツ越しでも大きいのわかるし、実際抱きつかれるとびっくりする。

 

 というかあんだけ育ってからの肉体年齢固定がうらやましい。おっぱい魔人め。おっぱいの魔女め。

 

 こちとらなにしろサイズがサイズだ。栄養が行くのは専ら髪とか爪ばっかりで一向に膨らんでくれないのだ。

 

 まあ、私的かつ一方的でどうでもいい類の、お遊び怨念行為はともかくとして。

 

 それはともかく、明らかに獲物を見つけたぞな気配の真希波大尉が、レイの方に視線を投げた。

 

 それに気づいたレイが、頷く。その頷きに、真希波マリが笑みを深めて応え、バタバタ暴れる北上少尉をハグしたまま、視線を艦長に投げかけつつ叫んだ。

 

「艦長わんこくん、進言進言!

 

 私とナミナミ、クロちゃんと一緒に先発でペトラに行く予定だったよね? 人員一名追加したいんだけどいいかにゃ~? 追加人員はガミちゃん少尉、名目は現地調査要員!

 

 クロちゃんは多分ペトラについたら取引きとネゴで一旦お別れだしさ、現地調査、人手多い方絶対いいって!」

 

 私は呆れ気味に片眉をしかめた。

 

 エヴァパイ2人抜けるのは、不意のネルフによる襲撃のリスクを考えれば、たしかに穴なのだけれど、そこのところはペトラ防空艦隊から護衛を受けられることになっていたので問題ない。

 

 空中戦艦ソユーズ、アルハンゲリスク、ガングートを主力とした防空艦隊所属の艦艇は、いずれもフローターユニット化された44Aを複数装備しており、それらのユニットを利用して、限定的ながらATフィールドを駆使した防御および中和攻撃が可能となっていた。フローター化にあたり、コアがマルチコア仕様となっているため、フィールド出力は44Aよりも高く、その出力はオペレーターに左右されるものの、かなりの防御性能を誇る。

 

 また、ペトラの防衛戦力としては、無人防空空軍が存在し、無人化された空軍機は、重力波リレー通信方式により、ペトラ都市区画および、ペトラ防衛軍空中艦隊所属艦艇から、一定距離までは遠隔操作が可能となっていた。

 

 そして、全ての機体にではないが、L結界排除用の懸架型小型封印柱を装備した機体も存在し、これによってL結界を退去させ、物理法則異常による機体喪失リスクを低減しつつ、部隊の邀撃能力の向上が図られている。

 

 低圧L結界地域では充分な戦力であり、44A相手であればヴンダーや他の空中戦艦が、主砲で仕留めきるまでの時間稼ぎと牽制等の支援の役割は望めるだろう。

 

 それに、先日の防空戦でかなりの数の44Aを叩くことが出来た。当分はネルフもおとなしくしている……といいけれど。

 

 楽観的要素、悲観的要素を色々脳裏で並べて色々考え、最終的に、まあいいかという気持ちになった。

 

 あの二人にも、なんだかんだと色々働いてもらっている。

 

 エヴァパイロットとしてのみならず、研究に、艦内の娯楽提供に、各地L結界域探索にと、大活躍なのだ。

 

 たまには休みも必要だろうし。

 

 それに、チェックやメンテを入念に入れたいのはヴンダーだけではないというのもあったりする。

 

 艦内で相応にメンテナンスや改修、修復は行っているとは言え、航空機で言えばオーバーホールに相当するような、全体的なダメージ状況確認と修復の機会は、このところ全く取れていない。艦内だけでは把握しきれない損傷が、色々と各所に積もっている可能性は否定できない。特に拘束具兼装甲周りは、可能であれば修繕・交換を済ませておきたい。

 

 相手が相手だけに、油断は大敵だけれど、ヴンダーを修繕するこの機会に、エヴァも修復し、保有戦力を万全にして、有事に備えておきたくもあるわけで。

 

 それに、北上ミドリ少尉のこともある。

 

 彼女の精神状態を見る限り、乗艦当初よりマシになったとはいえ、それでも条件と理由が揃えば艦長や私に銃口を向けかねない。防空戦中、激昂気味の彼女が、殺意にかられて拳銃に意識を飛ばしたのは、まだ記憶に生々しく残っている。

 

 仕事自体はできる女性であり、またヴィレの理想を本気で実現したいと思っているのも多分間違いない。

 

 喪った家族のことを思うと激情にかられる傾向があるとはいえ、少なくともこの一ヶ月、他の乗員から得られた証言を集める限り、むしろ彼女は、ぎりぎりのところでよく自らを律しているとすら思える。普通ならもう艦長なり私なりに一発二発撃って軍法会議沙汰でもおかしくないのだ。

 

 二回のニアサードで荒廃した人心を思えば、彼女はよく自らの激情に耐えている。

 

 その点を踏まえるなら、一度レイや真希波大尉に預け、様子を見るのも手かもしれない。私と艦長のツラを水に済む場所での、休息と気分転換が必要だと思える。疲弊は理性を腐らせる毒なのだ。

 

 私は艦長の方を振り返る。

 

 艦長は頷いた。

 

「艦長了解。北上少尉の調査要員としての同行を許可する」

 

「ちょっと、なんで勝手に決めんのよ!」

 

 北上少尉が反射的に反論するけれど、真希波大尉が北上少尉に抱きついたまま一向に離そうとしない。

 そして、真希波大尉は止めとばかりに言葉を放った。

 

「残念ながらヴィレは軍隊の端くれ、上官命令なんだにゃー」

 

 実に残念だという顔をしながら首をふるけれど口が笑っている真希波マリがそこに居た。

 

 助けを求めるように北上少尉がレイに視線を向ける。

 

 レイは北上少尉に頷くと、プラグスーツの上から羽織っている白衣のポケットから何かをとりだし、指先で吊り下げてみせた。

 

「大丈夫。問題ないわ。移動手段はある。私の車がある以上、あなたは自分の足で歩く必要はない」

 

 レイの指先には、銀色に輝く彼女の愛車の鍵がつままれ、ぶら下がっていた。

 

 うん。そうよね。お気に入りの愛車持ってかないわけ無いわよね。半舷上陸の友だものね。

 

「そういうことじゃなくて……」

 

 増援なしと気づいた北上少尉の眉がハの字に曲がる。

 

 せめて道連れ、と北上少尉は鈴原少尉の方を見るけれど、鈴原少尉は申し訳無さそうな笑顔を浮かべながら首を振った。

 

「ごめんミドリ、うち無理やわ。

 

 ヴンダーの医療科は予定あってな、現地医学界と、綾波大尉の幹細胞治療含めた研究成果の共有やら、過去研究成果を使った治療で得られたエビデンスやら、現状の問題点やらのカンファレンスで、3日くらい忙しいねん。先行って、楽しんできてな。カンファ終わったら、うちも合流するさかい。 

 

 真希波大尉、綾波大尉、ミドリのことをよろしくお願いします」

 

 そう言って、真希波大尉とレイにぺこりと頭を下げる鈴原少尉。基本敬語だけど、心理的距離感が近くなるとトウジと同じ口調になるのねこの子。

 

 むー、と北上少尉が唇を尖らせる。

 

「合流ってサクラ、連絡どうすんのよ」

 

 その問いかけに、クロスレイ中佐相当官がにこにこ顔で応える。

 

「ガミちゃんガミちゃん、乗艦時に渡されたスマホあるっしょ?

 

 あれ、ペトラでも使えるから大丈夫だよー、帯域ヴィレで確保してあるやつだから。

 

 メールもヴィレ隊員同士なら使えるし、艦内クルー同士限定だけど、連絡アプリも使えるよー。連絡はどうとでもなるからから大丈夫大丈夫」

 

 そう言って、今度は鈴原少尉の方を向く。

 

「さっちん、向こうの仕事終わったらメールくんない? あっしもそんぐらいには多分頼まれごと終わってんだろうし、あっしが迎え行くよ。そしたらガミちゃんたちと合流しよ。こことも取引ながいし、色々いい店知ってんだー」

 

 早く連れてきたくてたまらないが表情にまで出ている中佐、というかもうこれはクロさんだけど、クロさんの様子に目を輝かせる鈴原少尉。

 

「ほんまですか! クロさんおすすめの店って絶対いいとこですよね!

 

 第三村のみんなにお土産送れへんかな……ともかくふつつかものですが、よろしゅうお願いします!」

 

 鈴原少尉の表情が純真な子供のそれに戻っている。

 

 白砂糖が黄金より貴重みたいな子供時代を過ごせばそうもなるか。んでクロさんは鈴原少尉にはどうもベタ甘にしてた気配なので、村では決して手に入らない素敵なものを持ってきてくれるし、しかも若いのに女社長一代のバリキャリできっぷもよく、なんというか憧れのお姉さん、みたいのはあったのかもしれない。

 

 そういう人とお出かけは、まあ、それは嬉しいのかもしれないわね。第三村以外の場所へ行けるのも楽しい、みたいな気配を感じなくもない。何しろ年頃の女の子だし、こういう時代だからこそそういう機会は逃したくない、みたいのは有るのだろう。多分。

 

 それはそれとして、ふつつかものって何。クロさんの女房志望か。

 

 いやこれノリがいいだけね多分。なんだかんだでトウジの妹、血統かもしれない。

 

 そんな様子で両手を胸の前に組んで目をキラキラさせている鈴原少尉の前で、任せとけと言わんばかりにきれいな歯をだしながらにこやかに男前風笑みを浮かべつつ親指を立てて見せるクロスレイ中佐相当官。髪の色が茶色で、瞳の色が緑なのを除けば見た目はレイと変わらないはずなんだけど、表情がコロコロしゃきしゃき気持ちよく変わるあたり、どうみても同一人物に見えないのが面白い。人に人生あり、といったところだろう。

 

 一方、完全に外堀も内堀も埋められて包囲状態逃げ場なしの北上少尉は、相変わらずうーうーきまり悪そうに唸っていたが、やがて諦めたように頭を垂れた。

 

「あーもー……大尉……っても二人共大尉だし。北上ミドリ少尉、しゃーないのでお二人に同行しまーす。ネルフがぴんしゃんしてるのに遊びに行くのもどうかって話だけど、命令だからしょうがないし」

 

 不精不精の様子の北上少尉を見て、真希波大尉が意味ありげな色を、眼鏡の奥の瞳に浮かべた。

 

「ミドリっちー、息抜きするのも仕事のうちだにゃ♪」

 

 チェシャ猫めいて口角を吊り上げ、真希波マリが北上少尉に笑みを向ける。

 

「後少しで勝てる、なら全力出したり我慢したりもいいけど、まだまだ先見えないしー、そういう時は息抜きも大事だよ? 楽しむ時は楽しむ、戦う時は戦う、怒る時は怒る。中途半端にどのスタンスも取ろうとすると、身体も心もガチガチになっちゃって疲れるしねー。

 

 ミドリっち、マイペースなようで頑固で真面目な時真面目だし、気を抜ける時は抜いたほういーよー。

 

 それに多分、君の知らない世界の人間も見たほうがいい」

 

「どういう意味ですか?」

 

 北上少尉が不審そうに眉をひそめる。

 

 けれど、目の色に僅かに虚を突かれたような驚きの感情が、僅かにのぞいていた。

 

 真希波大尉の青空の青のような色の瞳が、眼鏡のレンズ越しに、北上少尉の瞳をまっすぐに見る。

 

「この世界は昔より狭くなってしまったけど、それでも君を驚かせるには充分なほど広い。

 

 違う街、違う歴史、違うメンタリティ。

 

 ミドリっちが思うよりこの世界にはいろいろな考えの人達がいるんだニャ」

 

 そう言いながら、ふと真希波大尉は、北上少尉から視線をそらした。

 

「君がヴィレのミドリを貫きたいのは知ってる。

 

 だからこそ、君に最初にあの街を、あの街の今を見てもらいたい。さっきのナミナミの話、聞いてたでしょ? 知り得ない未来のために、当時誰も価値を認めない種子や種芋の遺伝子コレクションのために、命をかけ、死んでいった研究者たちの話。

 

 その人達の願いと想い。ミドリっちの願いと想い。似てるんじゃないかニャ、なんてね」

 

「そこまで真面目になる必要もないと思うけれど」

 

 そんな真希波マリの様子をみながら、綾波レイが声を彼女たちに投げた。

 

「守りたい理由は人それぞれ、守りたいものも人それぞれ。

 

 ただ生命だけを守れればいいは、ぽかぽかしないのよ。ムダも不完全も好きだから。

 

 よければ、今日のお昼の感想、教えてほしい」

 

 そう言って、レイが北上少尉をじっと見つめた。

 

「どうって」

 

 北上少尉は、やや戸惑いながら、いつの間にか空になっていた重箱を見た。

 

「そりゃ、美味しかったですよ。第三村じゃこんなの、食べられないし」

 

「そう。嬉しい。おいしいは、ぽかぽかする。美味しいから、幸せになれる。

 

 けれど、『おいしい』は生きていくだけなら、無駄なのよ。生存だけを目的にするなら、旧式のおおざっぱなセンサーはいらない。

 

 栄養だけがあればいいの。いえ、それすらも不要とできるかもしれない。

 

 けれど、それはぽかぽかしない。人の体は、そういうものを喜び、欲しがるように出来ているから。そういうムダと余分が人の生活に余裕を与える。

 

 文化、ということ。人の魂の余裕の証、楽しいという気持ちへの欣求。から真希波大尉は貴女を誘った。私も、貴女に来てほしい。あの街には、貴女が見るに値する無駄が、とてもたくさんある。

 

 人類補完計画が定義する新時代においては旧生命と共に駆逐されるさだめの、あなたの知らない多くの無駄が。

 

 それは私が守るべきものであり、私が碇司令と戦う動機なの。切り捨てない。虚無へは還らない。無ではなく有を望む。それがネルフの綾波レイではない、ヴィレの綾波レイの望み。

 

 貴女は、どう?」

 

「ーー」

 

 空になった重箱に、北上少尉は視線を落としていた。

 

 やがて、半目でレイを見返す。

 

「こういうのエゴで無駄じゃん、贅沢じゃんって思ったけど、美味しいは美味しかったし。

 

 で、さっきのクロさんの話と、綾波大尉の話合わせると、そのうち第三村の皆も、これ食べられるってことっしょ?」

 

「そうよ。一連のサードで廃棄物扱いされたものを奪い返す、これも一つのレジスタンスなの。本当にささやかでつまらない抵抗。でも千里の道も一歩からという言葉もある。

 ヴンダーで技術を確立し、ペトラで大量生産方式を施行し、第三村の垂直農場に導入する。そうすれば第三村のみんなも食べられるようになる。半年か一年かはわからないけれど。

 

 ただ、イカは待って。イカが意外と難しいの。見た目が」

 

「イカ? イカって海の生き物ですか?」

 

 北上少尉がまた目を瞬かせる。また話が飛んだ。レイの悪い癖だ。

 

 真希波大尉が顔をすこしひきつらせながら説明に入る。

 

「海の生き物で、足がいっぱいあるんだけど、生でも焼いても刺し身にして美味しい生き物ってとこだニャ。

 

 ナミナミ、組織生成に手間取ってるみたいだけど」

 

「厚みを出しすぎると栄養が行き届かないし、丁度いい厚みでも、栄養の与え方一つで過剰運動して筋組織が壊れて白濁して、鮮度落ちや見栄えが悪くなる原因になるの。繊維構造も食感を踏まえると無視できない。もう少し待って」

 

「待ってって言われても、食べたことないんだけど……」

 

「タコも養殖は環境負荷を考えると……培養……でもまずはイカ。多分苦手だと思うけれどイカ徳利に日本酒。日本酒は戻ってきたからイカを何とか……」

 

 なにか大切なことに気づきかけたっぽいけどイカに気づきを破壊されひたすら困惑する北上少尉と、どうもイカ筋組織培養問題に意識が吹っ飛んでしまった気配のレイ。

 

 真希波マリはというと、こうなると手の出しようがないとわかっているのか、スマホの電源を入れて誰かに連絡を入れ始めていた。多分間宮さんに北上少尉同行の件を連絡しているのだろう。10年レイのバディをやっているだけ会って対応が柔軟(?)だ。

 

「まあ、護るものは大事な方が護りがいがあるってことなんスよねえ」

 

 苦笑しながら、誰に言うでもなくクロスレイ中佐相当官が言う。

 

 一ヶ月の猛訓練の疲労からか、久々の本物のごちそうのおかげか、艦橋にそこはかとなく穏やかな空気が漂う。多摩少尉は満足そうな表情を浮かべながら、食べ終えたクルーの空の重箱を回収し、キャリーカートに戻していた。

 自発的? 意外と気が利くのね。話は通じるやつだったけど、案外気も効くのかしらね。最初のときやってくれたのは、体が冷えてて余裕がなかったのかも。余裕ないとやらかすのよね、人間って。

 

 リツコなど、いつの間にか世はなべてこともなし、という済ました笑みを浮かべながら、鈴原少尉が注いだお茶を入れていた。

 

……いつの間に湯呑だの急須だのを仕入れたのか。うちの農園、茶葉そだててたっけ。まあいいか。

 

 私も最後のアマエビと酢飯を口に放り込んで咀嚼し、エビの甘さと美味しさの名残を暫く楽しんだ後、艦長を振り返った。艦長も満足げな様子で、多摩少尉に重箱を渡していた。

 

 お互いの視線が合う。

 

 ま、クルーの空気は問題なし。いい感じに平和、レイの食事もいい方に作用してる。

 

 リビア砂漠からペトラまで、この艦にとっては決して遠い距離ではない。だから道中の問題はない。北上少尉ですら長期半舷上陸に納得したのだから、乗員全員、艦長の指示通りに下船してくれるだろう。

 

 上陸後の宿舎や人員の面倒は、リツコや間宮さんに見てもらえばいいとして。

 

 一ヶ月の訓練を耐えたみんなには、嬉しい初任給と、二週間の休暇。医療科は一週間ほど仕事があるけれど、その分手当積み増ししているから我慢してもらうとして。

 

 問題は、居残り組よね。

 

 修繕工事期間中の残存人員は、私と、艦長。

 

 久々の二人きり、か。

 

 私は一度、高雄機関長に視線を投げる。 

 

 視線に気づいた高雄機関長が、先程まで浮かべていた笑顔を消し、真顔になって頷いた。

 

 私も頷きを返す。

 

 気配に気づいたリツコが、私を見てきた。

 

 私はリツコに言う。

 

「リツコー、悪いけど、しばらく私らに変わって艦橋の仕切りをお願いできる?

 

 物資生産中で、別段私達が艦橋に詰める必要もないし、私と艦長、今のうちに24時間休憩を取ろうと思うのよ。

 

 多分ペトラに入ってから修繕関連のネゴと、あと修繕中、この間みたいに手抜き施工されないか交代で監視する必要があるし、それ考えると、正直、工事中はまともな休みが取れないのよね。

 

 各種物資の生産の細かい制御についてはマギプラスに移管するし、支障はないと思う。

 

 正直一ヶ月の訓練で私達もヘトヘトだしね。

 

 防空戦からこっち休んでる暇なかったし、久々に美味しいもの食べたし、たまにはゆっくりしたいわよ」

 

 私の言葉を聞いたリツコが、湯呑から口を離し、うなずいた。

 

「そうね、あなた達、先日の防空戦で二人揃って昏倒するなんて事になっていたし、本来なら検査入院が必要なのにそのまま応急修理と猛訓練だもの。

 

 本来なら、あなた達にも一週間以上の休息が必要とも思うけれど、現状それは難しいわね。各種製造工程の概要は受け取っているし、作業の進捗管理は私とマヤ、それにマギプラスで見るから安心なさい」

 

「師匠格にモノを頼むの、気がひけるけれど、私達もいい加減クタクタだし。艦長も、それでいいわよね?」

 

 私はリツコに答えると、艦長に視線を投げた。勿論、艦長は日向戦術長や青葉戦術長補佐ではなく、ヴィレ総司令の名代でこそあるものの、本来ヴンダーへの指揮権限を有さないリツコへ艦橋と作業工程の仕切りを任せたことの意味を理解している。

 

 艦長は、軍帽を目深に被り直すと、私とリツコへ向かって頷いた。

 

「そうだね、僕も少しは休憩を取ったほうがいいかもしれない。それと日向戦術長と青葉戦術長補佐、それに高雄機関長も、訓練中ほぼ休みなく勤務しておられましたね。リビア砂漠を出発したら、さほど長い時間ではありませんが、44Aによる空襲を警戒する必要がある空域を通過する必要があります。皆、少し休んだほうがいいかもしれません」

 

 艦長の言葉に、日向戦術長が敬礼を返す。

 

「了解しました。日向戦術長および青葉戦術長補佐、これより24時間の待機に移ります。いいな、青葉」

 

「……青葉了解。おとなしく待機しますよ」

 

 日向戦術長の言葉に促され、青葉戦術長補佐が艦長へ不精不精の響きを帯びた返答と敬礼を返す。

 

 高雄機関長の返答はなかった。もう艦橋に彼の姿はなかった。私の目配せの直後、トイレにでも行くかの呈で、それとなく艦橋を抜け出していたからだ。

 

 状況を全てわきまえた上で、艦長は頷いた。

 

「では、艦長および副長、これより24時間の休憩に入ります。リツコさん、すみませんが後を頼みます」

 

 艦長の言葉に、リツコがうなずく。口元だけに笑みを浮かべていたものの、リツコの眼光は硬質な物だった。その眼光同様、彼女の言葉の響きも、また硬さを帯びていた。

 

「艦長。くれぐれも気負い過ぎないようになさい。あなたは我を通すために無理を己に強いすぎ、その過負荷で判断を誤る。あなたの経験よ」

 

「きついですね、リツコさん。了解です。気をつけますよ」

 

 苦い笑みを浮かべながら、艦長が頷く。皮肉な笑みほどに気分に余裕がないのは、思考を見なくても、彼が食事前まであみだに被っていたのに、いつの間にやら目深に軍帽をなおしているあたりで、わかる人間にはわかる事だった。

 

 なにか胸の内で噛み殺したいことがあるとき、あるいは気分が単に悪い時、彼は軍帽を目深にかぶる癖がある。現実に目を向けたくないという無意識の願望の現れなのかもしれないけれど、癖の類なのでこればかりは心が繋がっている私にも正確な理由はわからなかった。

 

「それじゃ、副長。行こうか」

 

「了解。あとお願いね、リツコ」

 

 リツコが無言で頷く。

 艦長が席を立ち、トラム・ポートであるハッチへと向かう。私も席を立ち、彼の後へと続いた。

 

 彼がハッチの前へたどり着くと同時、トラム・リフトが到着する。

 

 彼は振り返ることなく、トラムへと乗り込んだ。私も彼に続いて乗り込む。

 

「艦長・副長退室!」

 

 日向戦術長の声を背に聞きながら、私はトラムのハッチを閉じた。脳波で行き先を艦長室に指示する。

 

 艦長と私は向い合せで、それぞれトラムの壁に背を預けながら、僅かな間、お互いを見つめた。

 

 艦長の顔が、暗い。艦橋を出て、二人きりになったから、もう演技をする必要がなくなったからだろう。艦橋にいる間、食事前までわりと明るかったのに、急に暗くなったあたり、食事中にマギプラス記憶領域に届いた機密情報が要因だろう。

 

 私はその様子を見て少し考え、そして口を開いた。

 

「湿気たツラ。余裕ないわね。加持さんから来た情報が理由?」

 

「そうだね。加持さん以外からも、だけど」

 

 私の問いかけに、艦長が頷く。

 

「ってことは、クロさんが持ってきた補給物資の中に混ざってた、別ルートの諜報情報ね。

 

 ペトラ防衛軍参謀本部情報総局。あの生存圏、あくまでヴィレとの関係は同盟、協力の範疇というスタンスを崩してないものね。

 

 ユーロロシア支部と軍が揃ってネルフ本部と、ゼーレに操られた各国軍へ叛旗を翻し、サードインパクト阻止を主眼とした蜂起・邀撃作戦『クロマニヨン』の主力を担ってた。

 

 結果セントラルドグマじゃ国連軍から離反したロシア軍の主力戦車T-90Mと、国連軍のT-80UNが殴り合う、なんて景色まで現出しもしたし」

 

 ふと、私はあの日のセントラルドグマに広がっていた景色を思い出す。

 

 活動を再開したリリス。

 

 降下を終えリリスへの接近を図るMark6と、その進撃を一秒でも遅らせるため砲撃を続ける戦略自衛隊の10式改と在日米軍のM1A3エイブラムス。

 

 その背を守るように、戦力で上回る国連軍を迎撃するロシアのT-90M。

 

 勿論戦略自衛隊や在日米軍の全てが叛旗を翻したわけではないし、国連軍を形成する各国軍とその糸の操り手であるネルフ支部の群れは、各個に想定する補完計画遂行という意味合いでは最終的に対立する間柄ではあったけれど、サードインパクト発動という意味合いでは共闘関係にもあるため、まずは邪魔な叛乱軍を殲滅するという意味で、意思統一が取れていた。

 

 戦自と在日米軍反乱組、そしてユーロロシアが展開した機甲戦力は絶望的抵抗を強いられていて、ついでに言えば、ヴンダーが到着した時点で制空権は完全に国連軍が掌握していた。

 

 あの狭い空間を雲霞のごとく飛び回る国連軍のYAGR-3B相手に、叛乱戦力側は車載の対空自動銃座や、展開する随伴歩兵のスティンガーや91式携帯地対空誘導弾を以て絶望的な対空戦闘を繰り広げていたわけで、有り体に言って地獄のような景色だったように思う。

 

 超常の存在たるリリスと、覚醒ないしは使徒との一体化を意味する光輪を背負ったエヴァンゲリオンMARK6が相互に歩み、蠢く神話じみた景色の中、インパクトを防ぐため、あるいは己が望むインパクトをまだ起こせると信じるがために殺し合う現代兵器とそれを操る人間の群れの姿。

 

 仮にロシア軍が国連側についていたなら、Mark6相手には蟷螂の斧に過ぎないとしても、その後の混乱状況におけるネルフ本部の叛乱に与した職員の脱出やネルフ本部設備の略奪およびヴンダーへの移送、住民避難後で無秩序状態にあった各生存圏の治安維持人員確保も困難であったろうし、あまりそのIFは想像したくない。

 

 そういう意味では彼らとは轡を並べた中でもあるし、だから残存人類の内紛の再来にあたり、加持さんからの情報のみを当てにせず、ヴィレとは別個に活動する現ペトラ生存圏自治政府の助力を仰ぐシンジの判断は、私には正しいように思われた。片目では物事の立体感が掴めない。両目で捉えてはじめて立体感と距離感を得られる。勿論、諜報という場面において、目玉の数は多いに越したことはないけれど。

 

 私の言葉に、艦長が少しだけ目を伏せ、そして言葉を返してきた。

 

「彼らの状況判断のおかげで、『アスクレピオスの杖』が間に合った事を思えば、感謝してもしきれないよ。潰し合いの果てにゼーレの補完のダシにされるのを見きっての行動だから、彼らの影の長さと腕の長さはソ連時代から変わらないんだろうね。意思統一のために相応に血を流したとも聞いてるし。

 

 それと、今回の件に関してはロンドンの伝手も頼ったよ。彼らが集めた情報も同様。

 

 加持さんは僕らに回した情報以上の動きをしている。あの人の部下が、クレーディトによる各生存圏への食料供出活動に乗じて、分散したイズモ派閥諸勢力と接触を図った形跡が認められる」

 

 艦長の言葉に、私は頷く。

 

「GRUとMI6のお墨付き。つまり加持さんがあんたに開示した手札の他に、まだ伏せたままの開示されていない手札がある。何らかの目論見と仕込みが有るのは間違いないと見ていいわね」

 

 冷戦以来暗躍し続けた諜報組織の古豪二組織が同一の結論を出した以上、加持さんおよびクレーディトは、黒とは断言出来ないにせよ、限りなくグレーな存在と見なさざるを得ない。私もシンジもそう結論せざるを得なかった。

 

 ヴィレのバックアップ組織であり、各生存圏の維持のため浮遊船舶を以て各地域を独自に渡り歩く権限を持つクレーディトの長である加持さんであれば、その種の暗躍も可能だろうし。

 

 艦長のツラが暗くなるわけだ。

 

 ちなみに、私達が二人きりの状況で、脳波による意思疎通で済ませられるところを、わざわざ音声を使って会話しているのには実はそれなりに理由がある。

 

 本来言葉はいらない間柄ではあるけれど、それに頼ってばかり居ると、言葉の発し方を忘れてしまいそうな心地にお互いなってしまう。それに、無言での思考対話はお互いの心が仔細に見えすぎて、よくない。

 

 心と心が通じあう、というといいことのように聞こえるけれど、本当にお互いの心が繋がってしまっている私達にとって、それは必ずしも良いことだけを齎しはしない。

 

 これは相手の気に障るだろうな、と黙っておきたいことでも、思っただけで伝わってしまう。結果てひどい喧嘩になったことが、この10年でどれだけあったか。だから、あえて思考を使わず、言葉に頼り、言葉に思念を添わせて語り、それに相手の真情をみる、というルールが、私と艦長──碇シンジとの間にはあった。

 

 心に浮かぶ想いというのは、往々にして条件反射的なもので、いわば生の感情の現れでしかない。それが相手の真であると思いこむと、ろくなことにならない。さらに喧嘩をして顔を合わせたくない、少し気持ちを整理したい、という状態でも、私達は離れることができない。頭のどこかに相手がいて、必ずその意思は見える。最初の数年は手ひどい暴力を伴う喧嘩をよくしていたように思う。

 

 そんな過程を経て、まず相手が条件反射的に発生させた感情は、お互いひとまず流す、という事に決めていた。瞬間瞬間の感情は、たしかにその瞬間の本音ではあるかもしれない。けれど人間の心は、感情だけで出来ているものではなくて、理性といった後天的な知性によって塑形され、初めて形作られるものだと、最近の私達は理解している。

 

 どれだけ感情が納得できず、怒りを叫んでいようと、理性が相手にも理がある、むしろこの怒りは間違っている、とブレーキをかけ、自分を説得するということは、だれでもある。

 

 そうやって感情と理性の間に現れる出力こそが心なのだろう、ということが、私と彼の学びつつあることだ。気持ちが見えていなければ見えていないで感情を荒れ狂わせ、感情が見えたら見えたでそれに条件反射で反応して、感情を荒れ狂わせた私自身の悔恨でもある。感情という言う炎に任せれば、自分の心が焼き尽くされる。理性と知性で制御して、初めて本当の「心」が出力され、人生を生きる動力炉となるのだ。

 

 そういう意味で言えば、艦長──碇シンジは、今ちょうど感情と理性が全く逆の結論を出力し、その摩擦に耐えかねている、という状態になっていた。

 

「気に食わない、か。そりゃそうよね。セカンドインパクトで激減した人口が、さらに十分の一まで減って、フォースインパクトをこのまま迎えた場合、旧生命は新生命のマテリアルとされてしまって、実質滅滅するって状況。

 

 そういう状況だってのに、やれフォースインパクト阻止だ、むしろ外惑星移民だと争い合い、人間と人間が殺し合う。

 

 人類史あるあるとはいえ、バカバカしい話よ。くだらない。けれど、今更な話でもある。

 第二次ニアサード……あるいはもうサードか、どっちでもいいけど、あの日あんたは諦めない道を選んだ。他人に引き金を引き、殺してでもたどり着きたい未来を求めて」

 

「うん」

 

 彼は帽子を目深にかぶり、俯いたまま頷いた。

 

「まあ、あんた、相変わらず自分が殺した、で済ますとこあるけど……あんた一人で引いた引き金じゃない。誰かがどこかで、あの絶望の中、もう来ないかもしれない明日を掴むために必死であがいたし、その過程で誰かを殺さざるを得ない。戦争だったもの。そしてそれは続いている。あんたは救世主でもなければ、奇跡の担い手でもない」

 

 言いながら、私は一歩彼に近づいた。

 

「どこにでも居る、つまんないごく普通の、ちょっと意地っ張りが過ぎる男。本当は誰一人殺したくないって感情を、理性で捻じ曲げて引き金を引いている男。そういうやつだもの、あんたって。

 

 未来への布石を毎日必死に考えながら考えながら、その過程で過去に囚われ、本当はもっといい、冴えた方法があったんじゃないか、そうやって自分を追い詰め続ける困ったやつよ」

 

 彼は答えない。私はもう一歩彼に近づきながら、ため息をつき、頭を振る。

 

「もういい加減言い飽きたけど、あの日の引き金、あんた一人で引いたわけじゃないわよ。私もあの時ヴンダーに乗っていたもの。

 

 それに、誰かを殺したのはあんたと私だけじゃない。ネルフ司令部のみんあ皆も、あの戦役の只中、生き延びるため、誰かを殺すしかなかった。戦争だからしょうがない、で納得する性格じゃないのは知ってる。

 

けれど、そういう自己卑下は、あの日生きるために殺さざるを得なかった皆への侮辱でもある。わかってると思うけど……来るんでしょ、イズモの連中。狙い通りに。だからそんな辛気臭い面になってるのよね」

 

「……うん」

 

 私は歩を止め、自分の腰に両手を当て、目を閉じた。彼の脳裏にイメージされた顔でわかる。それは帽子も目深になる。

 

「イズモにとっては最大で、なおかつ最後になるかもしれない好機。だからこそ今回は本気で奪取に来る。いえ、奪取できなくともいいのよね。この一ヶ月の訓練で、ヴンダーの操艦に私達は必須ではない、というのが立証されつつ有るし、それは第二次改装の目的でもあったわけだけど、彼らにとっても好都合。

 

 現状、私とあんたを欠いた状態の場合、ヴンダーの戦闘力は8割減ずる。つまりネルフへの武力対抗は実質困難、これはフォースインパクトの阻止を目的としたヤマト作戦を遂行不能にするに事足りる。少なくとも連中はそう考えたし、そういう情報があんたにも入ってきている。確定したのよね?」

 

「そうだね。複数の伝手からの、諜報に基づいた情報だ。まず間違いないと思っていい。手段までは不明だし、プレイヤーの数さえ不明だけれど、間違いなく来る」

 

 彼はようやくのことで『うん』以外の言葉を発した。罠を張る以上、当然彼なりの計画があり、その過程で何が発生し、どういう要素が絡んでくるかまで、当然彼は踏まえている。

 

 ただ、感情が納得できていないだけなのだ。ましてその情報発信者もまたゲームプレイヤーである可能性を踏まえれば、なおさら彼なら納得できないだろう。

 

 私は目を開き、彼を見つめると腕を組み、再び口を開いた。

 

「加持リョウジ現クレーディト長官。ネルフとゼーレの狭間で独自の諜報活動を行いつつ、密かにサードインパクト発生に備えていたヴィレ設立の立役者の一人。

 

 人類をL結界発生時の赤い大海嘯から守る盾の計画『アスクレピオスの杖』及び、ネルフないしはゼーレによるサードインパクト遂行の予兆があった場合、これに叛逆、サードインパクト阻止を図る剣の計画『クロマニヨン』両作戦の立案者でもある。

 

 そして、サードインパクト発生時、彼は確かにその両作戦を発動させた。私達がこれから向かうペトラは、彼が密約を結び彼の要請に応じ、各国ネルフに反旗を翻した人々が護り抜いた街でもある。

 ともかく、あの人の目論んだ『アスクレピオスの杖』と、『クロマニヨン』の両作戦なくして、今日の人類の生残はなかった。けれど──」

 

 彼が頷いた。

 

「そうだね。加持さんの本当の狙いはそのどちらでもなかった。

 

 ゼーレのシナリオを知る加持さんの結論は、人類によるゼーレのシナリオ阻止は不可能という諦観の結論であり、だからあの人にとって、あの日の最大の狙いはこのヴンダーだった。

 

 インパクトによって失われるさだめの旧き生命を運ぶための方舟として建造されたこの船の強奪こそが加持さんの計画の本命だった。この艦の巨体ではネルフ本部に常駐できなかったし、重力・斥力併用操艦の影響を踏まえて、本部からやや離れた、大島沖に停泊せざるを得なかった。ヴンダーの発する重力・斥力の影響はあの段階ではまだまだ未知数だったからね。

 

 だから、第三新東京市戦役発生時、各国ネルフ支部が投入してきたナンバーレス・エヴァンゲリオンおよび44A初期ロットに僕らは気を取られ、その邀撃に忙殺され、知らず本部から離れる形になっていた。

 

 そのタイミングで、加持さんは仕掛けてきた。

 

 ヴンダーへの強襲揚陸及び奪取、インパクト影響範囲外への旧生命の脱出、播種の船としてヴンダーを星系外へ脱出させることが加持さんの本当の望みだったからね」

 

 電磁レールに沿って、静かにトラムが下降していく。何度かレールを切り替えながら、ヴンダー下部最奥、N2爆雷保管庫へと向かっているのだ。

 

 艦長室はその只中にある。第九の使徒は第一次ニアサードインパクトによって消失したと考えられるものの、私達というイレギュラーな生存者二名の脳がリンク状態にあり、さらに虚号機を経たヴンダーへのシンクロ、その他諸々の現人類には不可能な域の現象を引き起こした以上、第九使徒の再現となりうる可能性は否定できないと多くの人々が考えていた。

 

 だから、そうした疑念を抱く人々のためにいくつかの対策が講じられた。たとえ使徒であっても即座に燻蒸可能な量のN2爆雷格納庫に艦長および副長である私達の居室を設ける、というのもその施策の一つだった。効果があろうがなかろうが、ともかく脅威がある場合、それに対してなんであれ対策を欲するのは、人間のサガというものかもしれない。

 

 私は小さくため息を付き、彼の言葉に自分の言葉を続けた。

 

「ゼーレの多世界観測及び、無限に等しい多世界観測によって生じる膨大な情報量を演算しうる超チューリング計算力を以て、自らを擬似的上位次元者としてこの世界に再臨させる『ネブカドネザルの鍵』の権能、その権能を以て遂行されるインパクトの阻止は不可能と考えていたものね、加持さん。

 

 けれど、地球で生まれた多くの生命が、地球以外の環境に適合できる可能性が限りなく低いこともわかってたっての、今ならわかる。

 

 あの時はあの人なりの信念で行ったと思っていたヴンダー強奪計画も、実のところは自暴自棄な、億が一の可能性にかけた、不可能に等しい生命脱出計画だった。なによりヴンダーは本来の主機を未だ欠いている状態で、全力発揮とは程遠い。

 

 星の海を押し渡ろうにも、虚号機はともかく補機N2リアクターが持たない。生命保管機能も主機を欠いては十全に遠いもの。耐圧プレハブも劣化するし、N2リアクターが故障すれば宮殿も止まり、ATフィールドを喪失する。そうなれば、アダムス組織はともかく、保管された生命種は、強力な宇宙線に耐えられない。

 

 所詮デスパレートで自己満足、多分かなわないけれど、もしかしたら叶うかもしれない、という甘ったれた自棄でしかなかった。それが絶望だとわかるから、責める気にはなれないけれど。それに、あの人の剣と盾の計画がなければやっぱり私達はゲームオーバーを迎えていた。あの人の計画があったからこそ、旧生命はこのL結界の只中で、かろうじて持ちこたえ、文明を継続できている。

 

 あの人の中に絶望があり、結果として一か八かのエクソダスへ賭けたのだとしても、両計画を立案・実行するにあたって手抜きは決してしなかったし、その結果数億という人命が救われたのは厳然たる事実よ」

 

「そうだね。だからこそ、面倒でもある。加持さんは第三次改装には反対の立場を取っていた。あの人も『轟天』と新冷線砲の危険性を無視できなかった。光速で拡大する世界の破滅は、インパクトの齎す補完よりもなお最悪のシナリオと言っていいからね。

 

 一応、新冷線砲はオアフ島を守った。それは事実だ。けれど、冷線砲が生み出したタキオン場の凝縮は真空崩壊を限定的にせよ引き起こし、本来ならば世界は安定な真空へと相転移を遂げ、不安定な今の世界は全て崩壊するはずだった。

 

 真空崩壊は僕らの想定通り、余剰次元より開放されたATフィールド干渉・修復作用により防がれたけれど、それが発生したことには代わりはない。それを加持さんがどう受け取ったかで悩んでるんだ」

 

 彼の言葉に、私は一時沈黙した。やがて、トラム・リフトが停止する。N2爆雷保管庫へ到着したのだ。

 

 けれど、彼も、私も、動かなかった。

 

「つまり、あんたはあの人がまたゲームプレイヤーとして振る舞うリスクを考えてるのよね。葛城ミサトの夫で、葛城ツカサの父親。あんたにとって身内に等しい存在、守りたい人間だからこそ心が苦しい。心が痛い。14才のあんたなら、多分決断出来なかったかもしれない。

 

 でも、あんたはゲームを始めてしまったし、あんたのシナリオ通りに日向さんや青葉さん、高雄機関長と保安科も動き始めた。それをあんたは止めなかったし、止める理由もない。宇宙軌道を奪いに行くこの機に、未だ地球脱出を諦めないイズモとの有形無形の抗争を片付ける好機だもの。

 

 14才のあんたならともかく、24才のあんたはヴンダーの艦長としてそう判断した。あとは感情の問題。他人の犠牲を許容でき、そこそこ術策と言えるモノを巡らせる様になった自分が、あの父親とどう違うのか、っていう自己嫌悪と葛藤。理性がどれだけブレーキをかけても、感情の火は消せないもの。だから苦しむ。あんたらしいわよ」

 

 私の言葉に、彼はまた俯いて沈黙した。とはいえ答えは丸見えで、彼の葛藤も丸見えだった。

 

 あの日使徒に乗っ取られた三号機をパイロットごと殺せと命じたも同然の父親に、いよいよ僕は近づいているんじゃないか、仮に加持さんがこの一件を機に、僕を坐視できない危険と見なしたなら、僕はその時どうすれば。

 

 あの人なら、やりかねない。そういう危うさがあの人には有る。そしてそう判断する理由を与えてしまったのも僕だ。

 

 いやわかっている。わかっているんだ。

 

 とうの昔に僕の手は血まみれだ、身内殺しも他人殺しも変わらない、人殺しの光帯は永遠に心から拭えない。わかってる。この箱庭に外はない、その時点でイズモ計画は有る意味で破綻してしまっている。納得しろと言われて納得させられる手札も今はない。

 

 妙な事を目論まずUS作戦を決行すべきだったのか、いや、仕組まずとも現状を思えば絶対にボロは出た、配線一つとってもあの劣化具合だ、一度粗出しをする必要は絶対にあった。そして粗がでればどのみち修繕は必須で、プレハブの設計面での破綻の見直しと、作戦行動に伴って生じた細々とした不具合の再調整を行えるのは、ペトラ地下の、僕らが築いたあのジオフロント2、その地下港しかない。

 

 つまり僕が仕組まずとも彼らは仕掛けてきただろうし、そしてその情報を伝えてきたのも加持さんだ。仕掛けてくるのはおそらく間違いない。問題は加持さんがそれを踏まえてゲームに乗るかどうかだ。

 

 僕はそれが怖い。それが何を引き起こし、何を齎すか。それが怖くて怖くて仕方ないんだ。 

 もしあの人が、またあの日のように襲ってくるとしたら。僕は。

 

 多分、対処はできる。でも。あの日のように引き金を引いてしまったなら。

 

 もちろん、憎悪の群れに取り巻かれるのはもう慣れてる、誰かを憎まないとやりきれない気持ちは誰にだって有る、僕だって父さんを憎んで恨んで立っている。その意味では僕も、僕を憎む人たちと同じなんだ。

 

 でも、そういう僕を憎む人々の群れに、僕の行動が原因でミサトさんが加わったなら。彼女の子供が加わったなら。僕は、一体どうすれば。

 

 無言で顔を伏せ、何度も心のなかで繰り返す。五月蝿いからやめなさい、と私が言ったところでどうなるものでもないのは、私自身がよくわかっている。

 

 それは彼の感情。彼の魂の心臓が送り出す、気持ちという血液の本流にほかならない。それを止めるのがどれほど難しいかなんて、無自覚な孤独に苛まれ、他者を嫌いながら他者を誰よりも希求した、そんな自己矛盾に苦しみ続けた私が、きっと誰よりも知っている。

 

 無言で俯く彼の顔、軍帽のつばで隠れて見えない彼の目のあたりを私は見つめた。

 

「ほんと、バカシンジのバカは変わらないわよね。昔からそう。自分のあり方、他人とのあり方にいつだって苦しみ続けてる。

 

 ホントあんたらしいわよ。もう答えを出して行動までしてる、命令も出して他人も動かしてるのに、それでも苦しがってるんだもの。ほんとバカよね」

 

 る表情は努めて無表情に。声音の感情も殺して平板に冷たく。昔本気で喧嘩をしていた頃、彼から私がそう見えていたように、私は振る舞う。

 

 そう思った時点でバレバレかもしれないけれど、構わない。束の間でもあの日々を彼が思い出してくれるならそれでいい。

 

 私の言葉に、彼が僅かに顔を上げた。瞳が僅かに凍てつく。

 

 魂が繋がっていても、条件反射というのはなかなか消えない。本当に殺意を宿した怒りを表した私の記憶が、彼の中に束の間蘇ったのだろう。あのころは、でもこいつもしっかり反発してきたっけ。気持ちが繋がってるからこそ本気であいつも怒って、衝動的に私の首絞めだして。第九使徒に狂わされた私が初号機にこいつを重ねて首を締めずにいられなかったような。

 

 それは多分、子供同士の理屈も何もないただの逆上のぶつけ合いだったんだと思う。嫌いもすれば憎悪まで行ったかもしれない。けれど、なんだかんだでお互いまだこの船に乗っている。

 

 本当に憎んでいて、繋がっている心が本当に鬱陶しくて、居なくなって欲しいなら、最後の解決手段がお互いに有るのだから。けれど、それをお互い最後まで出来なかったし、望まなかった。だから、こうして今、同じトラムに乗っている。 

 

 だから、今は違うのよね。自分の気持ちを殺し切る事もできず、かといって気持ちのままに我儘を振り回すことも出来ず、逆上という形でしかほんとうの意味で他人に心を委ねることが出来なかった14才の碇シンジはもう居ないのだ。多分もう少しだけ成長して、だからこそ結論を出しながら、それでも苦しむ彼が居る。

 

 踏ん切りがついてないわけじゃない。そんなものは、きっとこいつのなかでついている。万が一の時、想定した最悪が訪れた時、それでもなお最善のため力を尽くすため、理性と理論に飲み込まれ、ただ合理のままに人を殺せる機械と成り果てないために、自らを苛む道を選んだのだ。一度引き金を引いてしまったなら、割り切ってしまったほうが楽なのに。なんて馬鹿げた自己矛盾。本当にこいつらしいと思う。

 

「そういうとこが、あんたらしいわよ。一度手を血で染めたなら、二回も三回も同じことなんてならずに、その苦しみの意味を踏まえて苦しみ続ける。

 

 あんたの父親ぐらい割り切れればいいのに、それが出来ないとこ。ヴィレとしてここで膿を出し切り、US作戦とその先に向け、対立勢力をここで叩き潰す必要がある合理もわかってるくせに。

 

 そのくせ、だからこそ、あんたは苦しんでいるんでしょ? 

 

 その苦しみを捨て、合理の機械に成り果てたら、助けられたかもしれないものを、合理の示すシナリオに従って、唯々諾々と殺してしまうかもしれないから。ゼーレやネルフがシナリオを遂行するときのように」

 

 また、彼が顔を伏せる。感情を理性で隠そうとして、巧く行かないカオス。繋がっているのだから見えてしまう。そんなところは見せたくない、というのが丸わかり。懊悩をあなすけに言われた憤懣からか、僅かに下唇を噛みしめている。僅かな痛みが私の唇にも走った。

 

 だから、私は言葉を続ける。

 

「それをやらないために、自らが仕組んだ策謀に自らが絡め取られず、最後の瞬間まで自らが策謀から自由であるために、シナリオ遂行の装置となりはてないために苦しんでいる。多分、そこがあんたにとってのデッドラインなのよね。

 

 ヒトならざるBM-03と、人間たる碇シンジを分かつ一線。

 

 でも、それって一人で抱えなくてもいいやつじゃない。だからあんたはバカシンジなのよ」

 

 碇シンジへ近づくための最後の一歩。心が繋がってるだけに、こういうのは仕掛けのタイミングが難しい。年々こいつは小賢しくなっていくから。

 

 けれど、こいつが自分の憂いに硬直している今だったら、不意の一つもつけるだろう。私は彼の両頬へ、包むように手を伸ばす。

 

 そして。

 

「あんたがしんどいのはわかってる。うんざりするほど。ってか、うんざりしてんのよ」

 

 彼が噛み締めた唇の両端を、両手の人差し指と親指で無理やりつまんだ。

 

「だから、笑え。嘘でもいいから。こういうふうに。さっきクルーに演じてたように、体で自分の心を騙せ。心って奴、体の形に従うのよね。作り笑いでもそれが自分に向けたものなら、案外心に効いたりするのよ」

 

 無理やり上に引っ張り、家族の葬式の最中ですみたいな面をしたこいつのツラをいじくって、無理やり笑顔を形作らせる。

 

「辛いのはわかってる。しんどいのも分かる。でもあんたの中ではすることは決まってる。

 

 だいたい、ことが起こるのは当分先じゃない。。あんたは打てる手は打った、釣りで言えばルアーもおもりも仕掛けて釣り糸垂らしてる状況じゃない。

 

 魚がかかるまで動きようがない。違う?」

 

 言いながら、シンジのさっきまで湿気ていたツラを見る。私の手で歪められた唇の端と頬はともかく、目は何が起こったのかわからないという色を浮かべていた。

 奇襲成功ね。少しだけ気分がすっとする。こいつなりになんやかんや言いたい気持ちが心の中に浮かぶのが見えるけれど、自主的に言葉にしないまま霧散させているのが見える。私は彼の唇の端から指を外さずに続けた。

 

「そういうセルフ拷問、そういうタイミングでは必要なのはわかる。けど、今やる必要なんて全然ない。そういうとこがバカなのよ。

 

 なんかあるとあんたはすぐ『僕は辛いです』『しんどいです』って顔をして、それでホントに心がしんどくなるから始末に負えないわよね。

 

 性分とは言え、あんたのそういうとこ、よくないとこよ。

 

 だから、笑いなさいよ。

 

 長野や第三新東京市に来た時みたいな、他人を騙すための作り笑いじゃなくて、自分をそういう気分に持ってくための作り笑い。自分の心を笑わせるための作り笑い。誰よりも、自分のためにまず笑いなさい。

 

 その瞬間がいずれ来るにせよ、いま浸る必要のない感情ならとっとと切り替えたほうがいい。私もそうやってドツボハマりがちだから、私自身気をつけてるし。少なくとも、今のあんたに必要なのは内罰じゃないわよ。これは断言」

 

 

 言いながら無意識に唇をなめる。僅かな血の味を舌が覚えていた。私は口の中なんて怪我してないので、これはこいつの血の味だろう。

 

 出血するほど強く噛んでたのか。感情の自家中毒にも程があるわよ、バカをやりたがるバカシンジ。

 

「エヴァパイロットやってた頃と違うのよ。あんたは艦長で、私は副長。主機付きならわからないけれど、今のヴンダーはどっちが欠けても巧く飛ばない。まして、武装から何から準備するのは間宮さんだし、艦載機やらエヴァやらを整備するのは伊吹整備長、エヴァを操るのはレイと真希波大尉。

 

 今回の件では日向さんや青葉さん、高雄さんも動いてくれてる。青葉さんはこういうヨゴレ嫌いだから不精不精だけど。

 

 他人をヴンダーに乗せる、それも数百人、と決めた。だから艦長として責任を果たしたい。それはまっとうよ。でも、艦長だけで艦は動かない。あんたも承知のハズじゃない。一人で背負うんじゃないわよ。加持さんがなんかやらかす可能性が否定できないっての、私だってあの時一緒に襲撃受けたから気持ちはわかる。あと、多分あのときは仕掛けて来た側の高雄さんもわかってる」

 

 シンジの表情から驚きが失せた。

 

 代わりに現れたのは苦笑いだった。苦笑したくなるのもわかる。

 

 本来ならこういう説教はあいつの仕事だ。でもそれをあいつ自身がサボったのだから、この艦の副長がその役目を代行してあげないといけないわけで。

 

 ただこのバカは頑固の塊だから、口で言っても心で言ってもわかりゃしない時がある。だから不意打ちのアドバイス。心や口で言ってわからないなら体でわからせるだけよね。ついでにきっちり説教はしておかないと。私は言葉を続けた。

 

「作戦も艦と同じ。あんた一人じゃ何も出来ない。あんたのそういう苦しみは人間の証。けれど、あんた一人で専有されても困る奴よねそれ。

 

 百も承知で私達はあんたのプランに乗った。

 

 だから罪があるとすれば私達全員だし、こっちは任務真面目に果たして修理してるだけ、イズモが仕掛けて来るとすれば向こうが悪い。何事もなければ空振りで、無事修理してUS作戦よね?

 それでいいじゃない。それでもまあだ罪悪がどうだなんだ悩むなら、晒し物にしてある艦名の銘板の残骸に八つ当たりに行ってもいいし。あんたの脳みそにあの贖罪のクソ言霊がまだ残ってるようなら、綺麗に除霊しないと私が鬱陶しい思いをするもの。

 

 やっぱ10年前、12.7ミリ跳弾無視して乱射して銘板の文字潰した程度じゃ足りなかったかしらね。間宮さんとこからc4ガメてくる? あれぐらいなら綺麗に銘板だけぶっとぶし、強度的にプレハブ隔壁は保つでしょ」

 

「いやいいよ、艦長と副長がつるんで突然艦内で爆破テロ起こしましたとか、始末書でも済みそうにないしね」

 

「そお? リツコあたりは事前に言えば許可くれるわよ。リツコも私と同じで『ネルフに騙されたー!』ってキレ散らかしてた口だし、まあ私とあんた含めて謀反組全員そうじゃない? 休暇前の花火大会よ。艦内花火大会」

 

「アスカ、絶対C4盛りすぎるじゃないか」

 

「そんなことないわよ。現状の恨み込めてドラム缶1本分ぐらい」

 

「さすがに通路吹っ飛ぶ量だからねそれ」

 

「つまんない男ー」

 

「面白いつまんないで修理代増やされたら流石に間宮さんもキレるからね? いや切れる前に真顔で除隊願出されるかもだけど」

 

「ヴィレにそんな制度ないでしょ、ヴンダー下船許可出したのも、あれフネが特殊すぎるからの特例だし。間宮さんは当てはまらないでしょ。というか逃げられたらこのフネの終わりきった地獄の経理状況誰が片付けるのよ」

 

「だから間宮さんにやめられたら困るから花火大会は工事後まで我慢してよアスカ。整備の時銘板切り取って、改めてN2爆雷を適切な場所で爆破するから。ミサトさんの許可もとって録画。名目は……US作戦勝利祈願でどうかな」

 

「N2爆雷はやりすぎじゃない?」

 

「いやどうせUS作戦だと使えないし。N2爆雷。ケスラーシンドロームが危ないから。ぼちぼち製造年月的に怪しいのあるしそれでこう。2発贅沢に同時起爆で」

 

「……あんたのほうが怨念深くない?」

 

「怨念? そんなの、あるに決まってるじゃないか。父さんだのゼーレだのがああだこうだで人類の運命がどうだから補完だかしらないけど、まんまとトリガーに使われるし、BM-03扱いで人権なしで軟禁生活だし、恐る恐る上陸チャレンジしてみたら情報漏れてインパクトトリガー野郎死ねで対物ライフル複数からの集中狙撃だ。 恨むなっていうほうが無理じゃないか、こんなのって」

 

「あったわねーそんなの……ぎりぎりヴンダーのATフィールド圏内で良かったわ。対物ライフル集中射は流石に人としての人生終了しそうだもの。肉体がジャムになりかねないし、運良かったわよあんた」

 

「最悪の中の最善の類だよねその幸運」

 

「ないよりはマシよないよりは。幸運っていうか悪運だけれど、運はあったほういいわよね」

 

「ちがいない」

 

 14才の頃に戻ったような、たわいない会話を交わし合う。シンジの心が緩んで、辛さが薄れて来たのを感じる。ほら、作り笑いでも案外効くもんでしょ、バカシンジ。

 

 思いの外シンジは強く唇を噛んでいたようで、気持ちが落ち着いたせいか、さっきよりこちらに伝わる痛みがひどくなってきた。

 

 

 人間やめかけの筋力で人間やめかけた体組織を噛み締めた結果として人並みに唇に傷ができてしまったのだろう。艦長室にワセリンがあったと思ったから、軽く手当したほうがいいかもしれない。

 

 ともかく、シンジの眼に、すこし愉快さのようなものがまじりだした気配で、私は密かに安心する。ドツボにハマるときはドツボにハマるので、危ないときは危ないのだ。

 

 まあ、シンジに言わせると「アスカにだけは言われたくない」だろうし、困ったことにそのあたりの壮絶な認知歪みと思い込みの深さについてはとても自覚がある。あえて例えるなら勘違いヤマアラシスタンピート。ほんとまいっちんぐよね。

 

 よくもまあシンジもヒカリも、あの頃の私相手に友達を続けてくれたものだと思う。あとトウジとケンスケ。それにあの頃はこっちの心の中しれっと見えてたっぽいレイも。

 

 あの頃のレイ、私とロクに会話したこともないのにいきなり「貴女にはエヴァに乗らない幸せも有る」とか言い出すあたり、多分本当にそういうのはあったのだろう。

 

 割とあの頃のわたしは、シンジ相手に心理的に色々とざわざわしていて、神経が尖って、アンバランスになってたのよね。

 

 まあ、余裕で言ったらレイの方が、もっと直接的な意味で余裕がなかったようなんだけど、その頃の私は自分の中で様々な方向に荒れ狂う感情への対処でいっぱいいっぱいで、気づく余裕なんてなかったし。

 

 ともかく生まれ方が変で育ちがバトルロワイヤル生存ゲームだから、14才の頃は色々大変な性格だったのだ。まあ今がマシになったかと言うとそれはよくわからない。

 

 ずっと娑婆に出てないヴンダー監禁ぐらしなので、娑婆の基準がわからない。昔よりは柔らかくなったみたいなことは言われる。それなら案外娑婆でも生きていけるのかもしれない。

 

 と。

 

 突然、トラムの天井からびー、という警告音がなった。

 

 お前ら乗りすぎだとっとと降りろの警告音だ。ヴンダーは巨大な船なので、各区画に移動するトラムリフトは乗員にとって重要な足であり、タクシー兼鉄道のような機能を果たしている。

 

 なので、こうやって専有していると容赦なくトラムリフトの交通管理システムによって警報を鳴らされるわけだ。 

 

 シンジと二人、一瞬天井を見上げる。

 

「降りようか」

 

 シンジが苦笑を続けながら言う。ただ、頬に緊張はない。心も先程よりは明らかに安らいでいた。

 

「そうね」

 

 私も頷く。

 

 シンジが身を翻してトラムを出、私も続いた。

 

 私達が出た瞬間、ハッチが苛立ったように締まり、慌ただしくトラムがレール沿いに上昇していく。なにしろ400人からいる艦だ。昔の戦艦ほど人員がいないのにサイズは未曾有の巨艦の上に三胴構造。いちいち歩いて移動していられないし、変形して資材・弾薬運搬にも使われたりする。

 

 というか、トラムリフトは元はと言えば各砲塔や各設備に弾薬や必要物資を移送する無人輸送システムで、その無人輸送システム自体、この艦が種を保管する方舟であった頃に装備されていたコンテナ移送機能の拡張・魔改造の結果として整備されたものだったりする。

 

 基礎設計と部品製造と組み立てがニアサー前、まだ沢山の人類が働いていた頃に製造・施工されたものなので、他の拡張区画と異なり基礎設計がしっかりしている。なのでトラムリフトだけは防空戦を経ても損傷や故障が発生せず、防空戦の後も艦内移動や物資運搬に大いに力を尽くしてくれている。マンパワーとか需要とか量産効果を踏まえると、やっぱり人口って大事よねを痛感せざるを得ない。

 

 まあ、それはそれとして、実に一ヶ月ぶりの休息になる。8時間ぐらいはマギプラス利用の強制睡眠で脳を休めるのに費やすとして、残り16時間。さてどうやって楽しむか。

 

 ずらずらと威圧的に並ぶN2爆雷カーゴの狭間の廊下を艦長室に向かって歩きつつ、顎に指を当てて考え込んでいると、不意に先を行くシンジが立ち止まり、振り向いた。

 

 笑っている。心にはまだモヤが残っているようだけれど、ともかく休んでる間は棚上げにして忘れる事に決めたようだった。

 

 なんだかんだで24才、艦長の重責にひっそり潰れかけていたとはいえ、助言を受ければセルフコントロールの一つもできる。

 

 こいつもちっとは精神的に成長してるのよね。と思いつつシンジを見つめ、言葉の続きを待った。

 

「今思い出したけど、そう言えばペトラへの納入品に、第三村からの物資もあってね。例によって『一本』多いようなんだ。久々の休暇だし、どうかな。久々に一杯」

 

 そう言って、どの映画から拾ってきたのか、昔臭く右手の指で輪を作って、軽く傾ける仕草をしてみせる。

 

「おっさんくさい誘い方ね。でも提案は悪くない。

 

 乗員受け入れから防空戦、応急修理、訓練でほんっと暇なかったもの。ほんっと寛ぎたかったし」

 

 見てくれが14歳であることを思えば、艦内規律的によくないのかもしれないけれど、私もシンジももう年齢的には成人済み。もどきを通り越した体とは言え、増幅をかければ、酒の味も、酔いも楽しめる。第三村で一本多いってことは、いつものあいつのあれよね多分。

 

「ケンスケも律儀なんだかどうなんだか。手紙なり、クロさん介して謝罪の一言も言伝で伝えるなりすればいいのに、あんたへの詫び代わりと言わんばかりに酒だけ送ってくるんだものね。娯楽に限度があるフネだから、ありがたくはあるけれど」

 

「ニアサーのあと、まだ携帯が生きてた頃、留守電に恨みつらみを全力で吹き込んでたからね、ケンスケ。

 

 軍事マニアだから、子供でもパイロットをやれるエヴァに憧れてたし、僕に憧れてたなんてことも言ってた。でも、二アサーが起こって、アスカも僕も戻ってこなくて、色々調べて、マスコミに三号機事件の情報が流れる前に、真実を掴んで、我慢できなくなったんだと思う。

 

 どうやったか知らないけど、多分ネルフ本部に勤めていた親御さんから情報を仕入れて居たんだと思う。今思うと、三号機の事も、機密事項なのに何故かケンスケは知ってた。

 

 だから真実にたどり着けたし、アスカのことを満足に助けられなかった事を、随分恨んでいたようだったよ。誰かを恨まなきゃやってられなかったんだろうし、恨める相手が、助けられなかった僕しか居なかった」

 

「助けられなかった、ね。あいつ視点ではそうなるか。つか私のことでそんな怒ってたんだ、ケンスケ。ちょっと意外」

 

 私の言葉を聞いたシンジが、一瞬ひどく懐かしそうな目つきをしたあと、困ったような苦笑を浮かべた。

 

「アスカ、気づいてなかったんだ。

 

 ケンスケは多分、アスカが好きだったんだよ。憧れとないまぜで、ケンスケ自身も気づいてなかっただろうけどね。

 

 今更こういうのもなんだけど、僕らとアスカの初対面って、お互いに印象最悪だったし、トウジなんて電車の中でもずっと愚痴ってた。

 

 なのにケンスケだけは君の経歴をずっと言ってて、凄いすごすぎるとか一人だけはしゃいでて。サバゲのときも、君とやり合いながら楽しそうにしてただろ? キャンプまがいの野戦食づくりも、ケンスケ、楽しそうにやってた。

 

 もしかしたら、アスカが初恋だったのかもしれない。今思い出してみると、ケンスケは他の女子に声をかけるなんてしなかった」

 

「今更言われても困るやつよ、それ」

 

 言われて心から困惑する。中学生活が強制終了、それから10年会ってない。

 

 そういえばレイが第三村に行くときはケンスケの家(無人駅を改造したセルフビルドハウスだそうで、あいつらしいマニアックさだと思う)に泊まっているそうだけれど、レイの報告や語り口、印象の範囲では、レイの知る限り、村の誰とも男女のそれに発展した気配はないようなのよね。

 

 女に興味ないのかな、と思っていたけれど。そういえばあいつ、20過ぎてから結構いい男になってたわよね。幼さが抜けて、いい感じに精悍さが入って。あいつなりに味わった苦労が、20代のあいつの風貌に顕れているように思えた。

 

 話では、あいつのサバゲオタクなところが、人々の生存に随分役立ちもしたらしい。ニアサー直後もサバイバル知識を生かした飲料水確保なんて真似をして、アンチLシステム内に避難した村人の渇死の予防に随分貢献したというし。

 

 でも女性の気配が全然ないということは、まさか私にまだ未練……はないわよね。自意識過剰。

 

 などと考え込んでいると、僅かに嫉妬の気配を感じた。言うまでもなくシンジの感情で、当然シンジにも混ぜモノになった結果として、成長できなくなったことへのコンプレックスはある。

 

 そこに成長したケンスケの顔写真を思い起こしながら恋愛話を添えていい男になったわね、などと女としての率直な感想を言われれば、コンプレックスを刺激されたりするのも分かる。

 

 でも初恋話持ち出したのはあんたの方よ、と思念を放り投げてやると、ぐうのネも出ないのか、流石にあいつの嫉妬が黙った。

 

 それにしても嫉妬ね。うん。まあ、そういうのを思ってもらえる程度には、想ってもらえてるってことなのかもしれない。その割に……まあいい。これも今ぶつぶつ言ってもしょうがないことだし。

 

 そんなことより、大切なのはケンスケが届けてきたっていう気持ちを込めた一瓶よね。

 

「ともかく、ケンスケなりにあんたに詫びの気持ちを込めた一品なら、有り難くいただかないといけないわよね。合成じゃないちゃんと米と米麹から仕込んだサケ、今日日は本当に貴重だし」

 

 嫉妬の鉾を収めたシンジが笑いながら頷く。

 

「麹周りでは綾波も随分協力したそうだからね。第三村は自然の菌が自然の形で生態系を形成している貴重な生存圏の一つだから、自分の研究の進捗にもつながるし随分本気を出したらしい。味は良いそうだよ」

 

「そのせいか知らないけど、レイもすっかり酒飲みになっちゃったわよね。将来肝臓が心配よ。まあ今日のマグロの技術の延長で、いざとなったらまるっと幹細胞培養でこさえて取り替えるなんて言い出しそうだけど。

 

 それはともかく、飲むならつまみは期待していいのよね?」

 

「それは心配しなくていいよ。綾波が『試験』してほしい試作品リストから見繕ってある。被検体になるのはBMシリーズの役目であり、いの一に各種結果と成果を味わえるのは特権だ。

 

 培養でムラが出ちゃったから、綾波が今日出すのを諦めた培養スルメイカ、味自体は悪くないって話だし、せっかくだから刺し身にしたりして色々試そうと思うんだ。

 

 イカそうめんは薬味とつけダレを工夫して、刺し身はオーソドックスに醤油と山葵。

 

 焼きはガスじゃないからこんがりとはいかないけど、話だと肉に厚みがないから、IHヒーターでも火を通せる。

 

 味付けは……醤油もいいけれどマヨネーズに七味でも美味しいらしいね。あとは菜園のキュウリ。突き出しにシンプルにもろきゅうがいいよね。味噌は綾波から融通してもらって、ほかには……」

 

 そういえば自前で味噌仕込んでたわよねレイ。

 

 手前味噌という言葉があったけれど、大豆がなんとかなるようになりだしてから、まず最初に『研究の一環』と称して味噌を仕込み出したのは何年前のことだったろう。

 

 海洋再生施設の時の思い出の味とは言え、執念と執着にも程がある。長らく薬だけが食べ物ですみたいな生活から、僅かの間人間らしい食事ができる時期を過ごして、その直後に第三新東京市戦役からの第二次ニアサー、そしてペースト食ばっかの日々がつづいたので、持ち上げられてまた突き落とされたみたいな気分だったのかもしれない。

 

 食事の美味しさを教えておいてペースト地獄の仕打ちに落とすのね、運命はみたいな怨念すら感じる執着と神への叛逆。その成果としての海鮮丼。海鮮丼といえば今日の吸い物。あれ美味しかったわね。

 

「シンジ、そういえば今日の吸い物に使ってたっていうまぐろ節、あれで何か一品どう?

 適当な葉物を茹でて代用鰹節代わりにまぶしたら多分絶対美味しいわよ、いえもったいない使い方の気もするけど、使ったことない食材だから変な使い方して事故を起こしたくないし」

 

「そうだね、鰹節代わりにあれを使うの、贅沢だけど間違いないし、日本酒にも合う。悪くない考えだ。そうなると……」

 

 私の提言に真顔で考え込むシンジ。いいわよその調子。将来何が待ち受けているにせよ、この24時間は休んで構わないし、だからリツコが艦橋に詰めてくれているし、日向さんたちもシンジに代わって準備を進めてくれている。 

 

 のんびり休める貴重な24時間。将来悪いことがあるにしても、それへの対応は決めたのだから、今を楽しんで悪い道理はないわけで。

 

 そう言えばトウジとヒカリの結婚挨拶の手紙、定型文の手書きのトウジの真面目くさった挨拶の他に、ヒカリの私信も添えてあったっけ。別に日本語で構わないのに、わざわざドイツ語で書いてあったのよね。

 

 10年ぶりに届いた友達からの手紙の文面が、脳裏をよぎった。

 

『親愛なる式波・アスカ・ラングレー様

 

 人生は良いことと悪いことの繰り返しだと、改めて思いました。

 

 ニアサー以後は大変で、嫌な思いもしたけれど、それでも、良いことも沢山あったと思います。

 

 アスカには打ち明けてたけれど、ずっと鈴原くんのことが好きだったし、こうして結婚できたことは幸せだし、そのことを貴女にこうして伝えられることを、とても幸せに思っています。

 

 これからずっと楽しいことも辛いことも、彼と一緒に味わっていけるのが嬉しいし、たとえ話すことが叶わなくても、貴女にこうして私の今を伝えられることも嬉しいの。

 

 だから、私も鈴原くんと同じ気持ちです。

 

 アスカや碇くんたちが頑張ってくれたから、こうして今までの人生で一番幸せな瞬間を生きて迎えられたから、本当に感謝しています。

 

 アスカが今どういう人生を生きているのかわからないけれど、あなたは大変だった分、幸せになる権利があるんじゃないのかなって思っています。

 

 中学校時代のアスカは、いつもどこか辛そうなところがあったから。けれど、あれこれ文句をいいながら、少しだけ楽しそうにしていたのを、今もよく覚えています。

 

 ひょっとしたら、もうアスカは、あなたなりの幸せを見つけているのかもしれません。それならこの手紙は余計なお世話になってしまうけれど、そうであるのなら、本当に嬉しく思います。

 

 けれど、まだ見つけていないのなら、貴女がいつか一瞬でも、幸せだと思えるときが来るように、いつも心から祈っています。貴女が私達の今のために、どれだけ頑張っているか、夫も私も断片的とは言え聞き知っているから。

 

 いつか、労苦が報いられるよう祈って、筆を置きます。

 

 

 貴女に沢山の幸せが訪れますように

 

 一番の親友より

 

 洞木ヒカリ』

 

 幸せ、ねえ。思わず私は苦笑を浮かべた。

 

 ミサトといい、結婚して旦那ができると、そういうのを実感したり、逆に失敗して求めちゃったりするのかしらね。

 

 幸せも不幸も、なんだか私の中では曖昧で、正直感じ取れないというか、実感が沸かないのだ。神様ぐらい意味が判然としない概念だと思う。

 

 ただ、一つ言えるのは。

 

 その時、彼の声が、不意に聞こえた。

 

「概ね方針は決まったし、配送の段取りもマギプラスに入力が終わったよ。

 

 ただ、睡眠時間以外の16時間を食事や酒に費やするのはもったいない。

 

 一ヶ月ぶりの休みだし、アスカと二人きりで過ごすのも本当に久しぶりだからね。楽しい時間にしたいんだ」

 

 もの思いから現実に視線を戻せば、あいつがN2爆雷ラックの狭間の通路の真ん中、帽子をあみだにかぶり直しながら、笑っている。

 

 確かに私には幸せはわからない。けれど、『楽しい』は昔より遥かに鮮やかで、誰かと食べる食事の美味しさも取り戻せた。

 

 今はとりあえずこの程度。こいつとの付き合いも色々思うところはあるけれど、それはそれとして、不快なら一緒の部屋に住んだりしない。

 

 まあ、それはそれとして。

 

 微笑むシンジに近づきながら、軽く踏み込んで、さっと素早く右手を伸ばし、つばをつまんで軍帽を奪う。またも驚くシンジの脇をすり抜けて、私はわざとらしく大股に歩きながら私達の部屋に向かいつつ、後ろのシンジへ振り返りながら言ってやる。

 

「休暇のときは艦長も副長も階級もなし。かたっ苦しいし疲れるもの。あとヴィレのジャケットもプラグスーツもとっとと着替える。勤務中はずっとこの格好だし、お互いこんな格好じゃ仕事中みたいで休んでる気がまるでしないわよ。

 

 この間、私がぶつくさ言ってたら、真希波大尉が気を利かせてあんたと私にっていい感じの部屋着を何着か見繕ってくれたわよね、ペアルックはちょっとだけど、お互い適当に寛げそうなのに着替えましょ。僕は艦長です、みたいな感じでどでんと座られてたんじゃたまったもんじゃないし」

 

「了解だよ、副長」

 

「だから艦長副長ぬき、命令じゃないっつうの!」

 

 艦長どのの皮肉めいた返事に強めに文句を言いながら、我知らず笑みがこぼれてしまう。

 

 セントヘレナ島より狭いヴンダーぐらしとは言え、実のところ案外悪くない。少なくとも、私自身はそう思っている。

 

 N2爆雷保管庫のど真ん中、一応艦長・副長の部屋だけに、他のクルーよりも広くて、昔のワンルーム程度の狭さ簡素さとは言え調理設備まである贅沢さ。バスつきのシャワーだってあるし。

 

 シンジはレイの試作品をどう美味しく作るかで、今はプランニングに全力投球モードだけど、それも概ね片付きそうだし。

 

 映画を見たければ、部屋からでもシンクロでマギプラスのデータベースに登録した映画を視覚に投影して見ることもできる。

 

 なんならもうひと手間かけて、部屋の大型モニタにわざわざリンクを繋いでお互いの目でのんびりながめるなんて贅沢をしてもいいし。得意分野は違うけれど、あれこれ保管したゲームで遊んでも良い。得意ジャンルが違うから、対戦型より協力プレイできるやつのほうがいいかもしれない。HOIだとシンジが圧勝するし、スマブラだと私が圧倒だし。接待されると体質上丸わかりでお互い腹が立つので、そういうの抜きでやれるのがたぶんいい。

 

 ともかく、なにをするにせよ。

 

「とっとと帰るわよ、シンジ。せっかくの休み、一分一秒惜しいしね。

 

 コンマ秒まで余さず残さずきっちり楽しみきらないともったいないもの!」

 

 ともかくも、このさきに陰謀の闇がどれほど待ち受けているにせよ、今という時間にまでその刃を届かせることはできないようだし。

 

 だとすれば。

 

 映画にゲーム、料理に酒。タイミングがあうならレイや真希波大尉を誘ってもいいかもしれない。あの二人も、出立準備までは間があるだろうし、スケジュールが噛み合うなら、2人でなくまずは四人で試食会ってのもいいかもしれない。

 

 まあ、四人で飲みをするのなら、そのあと二人で飲み直して二人でのんびりの時間は入れるけれど、それはそれとして。

 

 これから迎える24時間が、私にとって、ほんとうにひさびさの楽しい時間になるのは、もう約束されたようなものだった。



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第2話『北の地にて』Interlude:挫けない唄 前編

EVANGELION ∧ i : AAA Wunder S 3.33 『YOU CAN (NOT) TRIP.』Prototype

 

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 EPISODE:2 No one is righteous,not even one.

 

 Interlude:Indomitable song

 

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 後に聞かされた話だが、私はどうもアヤナミシリーズ初期ロットの中では、とりわけ出来が悪い個体であったらしい。

 

 と言っても、生命体としての出来ではなく、ゼーレやネルフが人類補完計画に用いるにあたって適さないという話であり、生命体としてはむしろ健康な部類だった。

 

 ゼーレやネルフにとり、アヤナミシリーズとはリリスとヒトの狭間にあってエヴァとヒトを繋ぐためのヒトの姿をした祭具であり、ゼーレの計画のための、神の運命を自らが望む運命へ導くため、個体としての運命を仕組まれた子供を指す。

 

 そういう意味合いで言うならば、つまり私はヒトに近すぎた。本来であれば不良品として破棄されていた個体というわけだ。

 

 ただ、先方にも、生産で支障でも生じたか知らないが、ともかく都合があったのだろう。

 

 14年前、LCLシリンダーでの睡眠保管状態から解放されたばかりで、まだ自我が充分覚醒しないまままま月・宇宙往還機に乗せられタブハベースを出立した私は、10才相当の肉体年齢で、ユーロネルフロシア支部に、研究用個体という名目で送り込まれた。

 

 今にして思えば、多分私はあの第三新東京市戦役の混乱を深めるために投入された、数多アヤナミシリーズセカンドロットと同様の役目を担わされていたのだろう。

 

 とどのつまりは、第三新東京市戦役をなるべく賑やかにするためだけに生まれて死ぬ、無名のエキストラとしての出演者だ。

 

 数多のネルフ支部が、それぞれに提唱する、自分たちだけが美しいと密かに夢想する独自の『人類補完計画』を遂行し、同時に他支部の『人類補完計画』発動を妨害擦る必要を感じていた。

 

 彼らは三号機事件後の第三新東京市でのPKO活動名義で軍事力を現地に展開、ハコネというごく狭い寸土に築かれた、使徒迎撃専用要塞都市の奥底に安置された、旧生命種の祖先たる第二使徒リリスを手に入れんと、一斉に軍事行動を開始した。

 

 その結果として発生した、ごく短期間ながら壮絶を極める、手段も犠牲もいとわない、慈悲なき戦争状態の混沌へと、第三新東京市は引きずり込まれたのだ。

 

 人類史上でも有数の、短期間で終わった戦争の一つではある。

 

 しかしこの戦争で用いられたのは、各支部が何処からか大量に仕入れたナンバーレス・エヴァンゲリオン。人類史上最強の、あらゆる兵器を無効化するATフィールドという鉄壁の守りを有した決戦兵器であり、しかもそれぞれが特定の儀礼条件を達成すれば、世界全てを書き換えることで今の世界を過去へ葬りうる、兵器というよりもはや呪具、祭具とでも言うべき代物だった。

 

 疎開しそこねた、ないしは疎開の必要がないと思っていた近隣都市の住民は、容赦なく爆撃や砲撃、流れ弾の犠牲となった。

 

 そして、とうとう最後には地球全土を巻き込み、歴史上最も多くの被害者を出した戦争とも言える。一応『犠牲者』ではないらしいが、本当にそうか、怪しいものだ。

 

 ともかく各国の軍隊と各支部の補完計画を託されたエヴァンゲリオン同士が、展開した国連軍所属の軍隊同士が、狭苦しいハコネという山がちな土地にひしめき合い、殺し合った、

 

 何のことはない、要は各支部上層部のパラノイア共がそれぞれに抱く、エゴと理想の押し付け合いと否定しあいだ。

 

 ゼーレにとっての私とは、その馬鹿げた戦いに、他のネルフ支部のセカンドロットたち同様、ロシア支部のエヴァとしてロシア軍と共に参加し、ゼーレとネルフが定めたサードインパクト遂行のため、他支部の意図を相互に潰し合うように動いてくれればいい程度の存在だったのだろう。

 

 エキストラとはそういうことだ。配役としての名前すらない、無数のアヤナミレイの一人として、盤を賑わせ、ゼーレの望む状況と運命を決定づけるためのその他大勢。

 

 あの胡散臭いカジという男が、第3新東京市戦役よりだいぶ前に、世界の真実として、副司令に渡した情報は、本当に世界の真実だったということだ。

 

 通りでほかの初期ロット達と異なり、管理はロシア支部に丸投げ状態、その運用についてろくすぽゼーレから口出しがなかったはずだ。

 

 何しろ私は欠陥品。使いみちのない廃棄物だが、だからこそストーリーのカバーに丁度いい代物でしかない。

 

 ゼーレないしはネルフによって、祭具たる役目を演じるよう定められたアヤナミシリーズは、リリスとヒトの狭間の存在であらねばならず、故に生命として極めて曖昧であり、そう長らくは形象を保つことが出来ない。

 

 故に、アヤナミシリーズは、その存在を維持するため、各ネルフ支部に与えられた形象維持施設や、あるいはプラグスーツ等の補助が必須となる。

 

 しかし、私はと言うと、そうした諸々の施設の利用を、ほぼ必要としなかった。要するに元気すぎたのだ。

 

 基本的に何をしようが構わないエキストラの群れに、アヤナミシリーズの真実から世間の目をそむけるために投じた、『人間として生きられる』アヤナミレイ。

 

 エヴァパイロットの真実から最も遠い、決して奇跡を起こし得ない、エヴァとのシンクロができるだけが取り柄の、出来損ないの欠陥品には、その程度の役目がお似合いと思ったのだろう。

 

 公的には、いずれバチカン会議を経てロシアへ正式に貸与・配備されるであろう、対使徒用の決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオンを操れる希少な存在として、マルドゥック機関から先行配備された専属パイロットという体裁となる。

 

 いわば使徒が怖い、エヴァがほしいとぐずる子供を宥めるために、そのうちエヴァを上げるから我慢して頂戴と渡す、ヒトの姿をした飴玉といったところだろうか。

 

 ただ、そんなことはプルコヴォ国際航空宇宙港に宇宙往還機が到着した時点で、ようやく脳に仕込まれた自我が本格的に発動し始めたばかり、という有様だった私には、知るよしもなかったのだ。

 

 当時の私が保有していた『データ』と呼べるものは、出荷時に脳に仕込まれ、月から地球への旅路の過程で解凍・インストールされるよう設定されていた、10才相応の知識と行動パターンぐらいのものだった。

 

 いわば買って電源を入れられたばかりのパーソナルコンピュータのように、私はがらんどうだったのだ。機密情報のきの字も知らない、記憶がないだけのただの子供だ。

 

 本来のアヤナミシリーズであればリリスのいわば分霊ともいうべき権能により、末裔たるヒト相手であれば行える他者意思把握も、欠陥品なので私は持ち合わせていなかった。

 

 あの状態の私は、誰がどう見ても、記憶喪失病みの10才の子供であり、リリスがどうの、奇跡がどうのというよくわからない事柄とは、まるで無縁の、どこにでも居る子供にしか見えなかったことだろう。

 

 ここはどこ?

 

 この乗り物はなに?

 

 体が妙に重いのはなぜ?

 

 意識が機能し始めたあたりからは、同乗していたロシア支部の担当医務官に、質問の嵐を投げていた気がする。

 

 その医務官も、私については、せいぜいが『個体クローニングされた人造パイロット』程度の説明しか受けておらず、またメンテナンス方法もそれに準拠した程度しか教わっていなかった。

 

 後日、ユーロネルフから下賜された私用の呪詛文様式LCL形象固定装置についても、せいぜいが怪我や火傷を直すのに使うと便利なもの、程度に解釈していたし、与えられた説明書もそのような代物だった。まあ、徹底的に真実から、遠ざけられていたわけだ。

 

 まあ、医務官に言わせると、月に到着してからは、悪い意味で驚きの連続であったらしい。

 

 なにしろ使徒という未知の生命体にして、現用兵器では全く歯が立たないらしい存在への決戦兵器、建造予算が国の2つや3つ簡単にひっくり返る程度の兵器の化け物、人造人間エヴァンゲリオンの専属パイロットだ。

 

 よほど特殊な存在なのかと気を引き締めて臨んでみれば、引き渡されたのはどう見ても10歳児。特徴といえるのは、遺伝子の関係か髪と目がアルビノ特有のそれで、あとは日本語話者であることぐらいだ。

 

 特にエヴァパイロットとして特殊な教育を受けた形跡も会話からは嗅ぎ取れず、子供特有の、無邪気な好奇心に任せた言動を連発し、エヴァについての質問をしても『わからない』『知らない』『エヴァって何』などと返答したそうだから、多分内心暗澹たる気分だったことだろう。

 

 とはいえ、そんなどう見てもアルビノだけが特徴のただの子供を、プルコヴァからサンクトペテルブルク近郊のロシア支部指令所に連れ帰り、到着早々に施設のエントリープラグを利用してシンクロテストをしてみたところ、一応エヴァを起動できる程度のシンクロ率を達成したので、一安心はしたそうだ。

 

 私の引き渡しにあたって、結構な金額のやりとりや、マルドゥック計画へのさらなる金銭・船舶貸与等の、マルドゥック計画の真実にはふれようのない、けれど国としてかなりの負担となる協力等、色々な取引を強いられたそうなので、それで引き取ってみたらただの子供でした、ではたまったものではあるまい。

 

 そんなわけでシンクロテストを終え、月に送り返されることもなく、ロシア支部に無事受領された私は、第一発令所に招かれ、奇妙な歓迎の儀礼を受けた。

 

 ヒトとして目覚めたばかりもいいところの私は、当然右も左もわからない異国に放り込まれた孤児もいいところの状態だったので、ただひたすらに困惑していたそうだ。

 

 そんな私の前に、とても大きな丸い黒パンを乗せたトレイを両手で持った、亜麻のブラウスに、ロシアの伝統的装束であるサラファンというワンピース・ドレス(色は赤だったと記憶している)を纏ったロシア支部の若い、長い、すこし黒みを帯びた金髪を三編みに結った、肌が白く、とても端正な顔立ちをした、いかにもロシア人(もちろん当時の私が彼女をロシア人と認識していたわけではなく、きれいなひとがきた、だれ、程度の困惑しか心にはなかった)女性職員が歩み寄ってきた。

 

 その女性職員は、私でも背を伸ばさずに手を黒パンに伸ばせるよう、その場に座り込んでトレイを私に差し出し、親愛さを込めた笑顔を私に投げかけながら、言葉を発してきた。

 

「Я-Виктория. Очень приятно Рей」

 

「やー、びくとーりや、おーちん、ぷりやーとな、れい?」

 

 その頃の私には全くロシア語がわからなかったため、相手の言葉をオウム返しに答えながら、しげしげとトレイに乗った大きな大きな黒パンと、その上に盛られた塩を見つめた。

 

 相手の女性職員が、にこやかに私に目を細めると、私の隣に佇んでいた私の担当の医務官に、困惑気味の視線を投げかける。

 

 医務官はやや挙動不審な様子で一瞬目を泳がせたけれど、滑舌のあまり良くないロシア訛りの日本語で私にたしか、こう言った。

 

 その黒パンをちぎり、上に乗せてある塩を少しつけて食べて下さい、遠くからきたお客様を迎えるこの国の習慣です。

 

 そのように言われて(実際にはもっと拙く酷い、聞き取りづらい日本語だったはずだが、昔のこと過ぎてよく覚えていない)、私は素直に従い、黒パンをちぎり、ひとつまみ塩を取って、食べた。

 

 実のところ、それは私の人生で初めて食事をした体験であるわけなのだが、アヤナミシリーズについてほぼありとあらゆる情報を秘匿された状態も同然の医務官にそんなことがわかるわけもない。

 

 なので、当然私の反応は、先程にも勝る凄まじい困惑となって表れた。

 

「口の中がへん、もそもそする。舌に別のかんじがある。これはすっぱい? これはたべものなの? それにこのこな、舌がひりひりする、これはしょっぱいなの?」

 

 私が投げかけた疑問まみれの日本語を聞き、医務官は少し苦笑した。トレイを持った女性職員に、ロシア語で何事かを話しかける。

 

 女性職員は軽く微笑むと、トレイを近くにあったオペレーター席のサイドデスクに置き、そのサイドデスクの引き出しを開いた。

 

 そうして赤ん坊が印刷された紙に包まれた、小さな板切れを取り出し、まず表面の包装紙、ついで内側の梱包の銀紙を丁寧に剥がす。

 

 そうして表れた黒茶色の板を、割れ目に沿って割り、そのひとかけらを私の開いた左手をとり、手のひらの上に乗せた。

 

 そして、彼女は一度手にした板をサイドデスクに置くと、再び座り込んで私と視線を合わせ、自身の空いた左手を自身の右手で指差し、空の左手から何かをつまみ上げるような仕草をし、そのまま口へ運び、口を何度か私に開閉してみせた。

 

 食べてみて、ということらしい、とその時の私は認識した。

 

 私は左手の上に置かれた小さな黒い欠片を僅かな時間、じっと眺めていた。というのも、初めてモノを口にした経験が、快適と感じられず、口の中でむしろ不快と感じられたからである。

 

 今の私にはわからないが、10年前の私であれば、おそらく味覚は日本人のそれに近かっただろう。

 

 黒パンを日常的に食べる民族以外は、酸味があり、密でどっしりとして麦の豊かな味がし、食べごたえがあり旨い黒パンを、意外にもさほど美味しいと思わないようだ。おそらく、白パンのように柔らかくなく、甘味もないからだろう。

 

 ともかく、当時の私がその時の体験から、モノを口に入れる行為がイヤになりかけていたのは間違いない。子供は物覚えがとても早いが、同時に自らの体験に素直で、嫌だと思ったら是が非でも嫌だとなってしまうところがあり、だから育児は大変なのだ。

 

 それはそれとして、目の前の女性職員が何度も食べるふりを繰り返すものだから、それならとりあえず一度は、となった私は、その黒い欠片を口に入れた。

 

 最初の一瞬は、そのまま『板が口の中に入った』という感想を覚え、やはり口にものを入れるのは良い行為ではないのではないかと確信し始めた矢先、口の中で体温と唾液により、それが緩やかに溶け始めた。

 

 その時の感動は、正直言葉に言い表し難い。一度痛い目をみてから、今度は逆に口の中が天国になった、とでもいうか。

 

 濃縮された『甘い』『おいしい』という感覚の人生はじめての体験は、それこそ雷に打たれたような驚きと感動を私に齎し、どうも一分ほど咀嚼し口の中で舌をしきりに動かしながら、その割に目も身体も金縛りのように硬直させて立ち尽くしていたらしく、当時の職員に言わせれば『この子は本当に大丈夫なのか』『エヴァパイロットとして生まれた子供だから普通の人間と色々違うのだろうか』という不安と困惑を、当時その場に居た全員に、強烈に惹起したそうだ。

 

 実際、コアからのサルベージなり、リリス組織から形象化されるなりで生産されるアヤナミシリーズであるわけだから、普通の人間とは色々違うのが本来だが、それはそれとして人として作られた部分はあり、またその人としての要素が濃すぎる欠陥品であった私は、全く問題なくその味を感動とともに受け入れる事ができた。

 

「わからない。さっきのものとぜんぜん違う。これが『おいしい』なの? わからない。ただ、もっとほしい。もっと」

 

 そういって、目を大きく見開き、表情こそないものの、瞳を好奇心と感動でいっぱいにして輝かせながらおかわり(無論、当時の私にその概念はなかった)をせがむ私に、クローニングで生まれただけに色々と性格と育ち方が変わっているようだが、本質的にはエヴァに適正があるだけのごくごく普通の子供らしい、とスタッフは安心したようだった。

 

 その板切れをもらっては口に運び、そのつど感動に硬直する私を見て、これはパイロット育成というよりも、出勤スタッフ交代交代、総掛かりでの育児になると、皆腹をくくり、覚悟を決めたらしい。

 

 人民を使徒の脅威から守るための任務として、風変わりな子供を育てる事になったロシア支部の人々の気持ちについては、わからない。

 

 まっとうに育った20代の、良識も常識もある成人を、戦場で使える上に生き残れるようにするまで育て上げるまででも大変なのだ。

 

 さらにそれが、素質があるのでこの子を前代未聞空前絶後、現代文明では全ての解析は不可能である、謎深きヒト型決戦兵器の専門職たるパイロットに貴方方が育て上げなさい、などという要求をされたとなれば、正直思考を拒否したくなる。

 

 いくら操縦が思考操縦式、ヒト型であるからシンクロできるならば自分の身体を動かす延長感覚で動かせる兵器であると言っても、作戦に合わせ行動を管制するためには大量の専門用語とその意味を教える必要がある。

 

 当時ロシア支部が握っていた汎用人型決戦兵器についての開示情報と、着任当時の私の非常識ぶりを考えれば、仮に使徒が来たとしても(無論、使徒の目的は第二使徒リリスであるわけで、第三新東京市に一種のデコイとして据えられたリリスへと本能的に近づいてゆく特性があり、故にこそ使徒迎撃専用要塞都市として第三新東京市が整備され、機能していたわけで、ロシア支部へ襲来するわけがないのだが、その事実を秘匿された時点で、当時のロシア支部の置かれた孤立状態が察せられる)何も考えず市街地で使徒と大暴れした挙げ句、市内各地の重要史跡を踏み潰し砲撃で破壊しなどという大惨事を引き起こしかねないところがあった。

 

 エヴァンゲリオンという兵器にはそれほどの力があり、そしてそのような恐ろしい力を与えるには、私はあまりにも幼すぎたわけで、皆、口にこそしなかったが、内心途方にくれていたことだろう。また、当然私に対して抱いた印象や感情も、人それぞれに違っていたはずだ。

 

 しかし、その場に居た大人たちは、先程の板をくれた女性職員や、月まで私を迎えに来てくれた医務官も含め、みな一様に同じ表情を浮かべていた。

 

 あるいは本来のアヤナミシリーズとしての機能が備わっていたなら、彼らが浮かべた上っ面の表情の内側、その心を直接汲み取ることが出来たのかも知れないが、当然、欠陥品の私にはそんな能力は備わっていなかったし、当時の私に欠陥品としての自認はなかったわけで、彼らの当時の心の状態を知るすべなどあるはずもない。

 

 何かを言われ、医務官が下手な日本語で訳し、私が女性職員が次々に割って渡してくる板を食べることに夢中になり、上の空で見当外れの答えを返していく奇妙な一時が流れたあと、ふと私は思ったのだ。

 

 彼らは、一様に同じ表情を形作っている。

 

 板切れの正体も、美味しいの意味もわからない当時の私は、それでも直感的に思ったのだ。

 

 こんなにも口の中が良くなるものを与えてくれたひとたちが、先程まではてんでばらばらだったのに、今は皆揃いも揃っておなじ顔つきになっている。

 

 みんな同じ顔になっているということは、なにか意味があるのかも知れない。

 

 無論、それにどの言葉を当ててはめればいいか、当時の私に分かるわけがなかった。だから、とりあえず意識して、彼らの顔の形を、自分の顔の筋肉を動かし、意識的に真似をした。

 

 両頬に少し力を入れ、頬を釣り上げ、眉の端を下げ、目を細めて、そうやって、その場にいる大人たちの一人ひとりの顔を見つめた。巧く真似をできるよう、一人ひとりを観察しながら。

 

 そして、最後にパンと板切れをくれた女性職員が、また板切れをひとかけら割って私に渡そうとしたタイミングで、私は彼女の、欠片をつまんだ手を、両手で挟み込むようにした。

 

 そして、彼女の手の暖かさを無意識に感じながら、彼女の両目を見つめ、今まで見てきた大人たちの表情を色々見比べ、多分これが一番よさそうだ、という形に、自身の表情を作って、向けた。

 

 彼女の表情から一瞬その表情が消え、そして、次の瞬間、もっと深く、私が真似をしている表情が浮かび上がった。私は、たぶんその時初めて『嬉しい』という感情を、言葉の意味も知らずに感じ、一層自らが形作っている表情を深めたのだ。

 

 巧く真似できたかどうか、今となってはわからない。もちろん、彼らに聞いたことはない。今となっては聞きたくとも、聞くすべがない人々も多い。

 

 ただ、彼らの印象を知るヒントはある。

 

 それは、当時の私のあだ名だ。

 

 呼び始めたのは、私に板切れ──アリョンカ・チョコレートをくれた女性職員、戦術オペレーターのヴィクトーリヤで、それを真似始めたのが私の主任医務官だ。そのままそのあだ名は、あっという間に支部に浸透していった。

 

 なぜなら、私がそのままその表情を気に入ってしまい、その表情で居るとなぜか気分がいいので、四六時中浮かべるようになってしまったのだ。

 

『笑顔のアーニャ』。

 

 ロシア支部着任の日以来、長らく私はそのあだ名で呼ばれるようになった。

 

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 以降の日々は、長かったようにも、短かったようにも感じる。

 

 私は生活の中で徐々に(医務官どのに言わせると、驚くほどの速さで、だったらしいが)ロシア語を身に着けて使いこなす様になっていたし、笑顔以外の表情を知り、その表情と心、言葉の相関性を脳内で結びつけ、笑顔以外の表情も浮かべるようにはなった。

 

 ときにはヴィーテニカと、まだこの国がソヴィエトであった頃から存在する老舗のカフェチェーン、『セーヴェル』で紅茶やコーヒー、ケーキに舌鼓を打った。

 

 それにしてもネフスキー大通りにはあんなにも沢山の『セーヴェル』があったのに、なぜモスクワでは見かけなかったのだろう。訓練や勉強で忙しく、モスクワに行った機会は多分指二本で数えられる程度しか行っていないし、モスクワ人とペテルブルクの人々では話し方からライフスタイルまで随分違いを感じる。

 

 当時の私は『セーヴェル』スメタンニク──ロシア風サワークリームのケーキだ──を月に複数回は食べないと生きている気がしなかったので、支部がモスクワになくてよかったと思っていた。『セーヴェル』はチョコレートケーキも最高で、他にも美味しいケーキが無数にあり、多忙な私にとってそれは常に脳が欠乏を訴える糖分を補充するための必要行為であったのだ。

 

 そんなにカロリーを摂取したら太るのではないか、と思われるかも知れないが、まったくその心配はなかった。

 

 肉体年齢で言うと、12才(ついでにいうと、書類上の年齢も12才ということになっていた。本当にその年、その日に『生産』されたかは、今はどうにも知りようがない)を越えたあたりから、エヴァでの戦闘行動に対応するため、生身での軍事訓練を受けるようになったのだ。

 

 その訓練の激烈さといったら、宇宙港から昔の事は覚えていないが、こんなことになるのなら、月とやらで一生目覚めることもなく、ずっと眠っていればよかったと生まれてきたことを後悔するほどだった。

 

 行軍訓練が2時間程度、の場合むしろ青ざめる。長いほうが(こちらもくそったれに悪いが)まだ良い。

 

 短いということはろくでもないルートをろくでもない重装備で急いで踏破しつつ、それに並行して射撃戦などの訓練を行わなければならないことを意味する。

 

 軍服、ヘルメット、ボディアーマー、小銃、くそったれ狙撃銃(これで訓練をするということは、相手の予想を絶対に裏切るためのあらゆる選択肢を選べるよう、狂人でも想像しないような馬鹿げたルートを速やかに行軍できるよう訓練させられるのと同義だからだ)、拳銃、必要に応じスコープだのの、弾薬、装弾済みマガジン、手榴弾、レーション諸々をスリングベルトやらポーチやらホルスターやら背嚢やらに詰め込み、指定訓練地域までヘリなり車なり徒歩なり、必要に応じて移動させられる。

 

 銃などの装備に関しては体格の関係上、私の身体で大人の装備を扱うのは無理があるとわざわざ専用の小型のものを設えてくれてはいるが、握りやすく取り回しやすいというだけで、背嚢だのなんだのを利用して、全てを呪いたくなるほど、骨と足と腰に来る重さになる。

 

 そしてくくりつけた各種重量物のせいで、身体の皮膚となく肉となく、擦ったり削ったり、火傷のようにしてしまったり、仕舞いには内出血を通り越して本当に外傷にしてしまう、体にぎりぎり食い込んでくる忌々しいベルトだのスリングだのに怒りながら、登山趣味もないのに道なき荒廃した山岳を登ったり下ったりを必要に応じて繰り返していた。

 

 きっと教官は、エヴァに乗る前に私に滑落死なり転落死を遂げてほしいに違いないと信じたくなるような、本当に酷いクソルートを馬鹿げた速さで踏破させられたのだ。

 

 訓練開始前に、指定されたターゲットを狙撃するミッションはまだいい。

 訓練に必要ならわざと虚言を言うことすらある、信用不可能な観測手の言葉を元に、全身の五感を使って目標を捉えて狙撃を成功させる程度ならまだいい。

 

 一番最悪なのは、セカンドインパクト以来の温暖化で、泥濘の地獄に成り果てた、かつては永久凍土であった沼沢地や、腐った水が流れる河川を進軍ルートにされたときだ。

 

 水から泥からなにから汚臭や腐臭が漂い、汚らしいアオコだの名前も知らない藻だのが漂う只中をかき分けながら進む経験をしたものは、今の世界に何人残っているのだろう。

 

 背の高い草が生えてそこに身を隠して進めるなら、葉こそ鋭いが装具を工夫すれば肌を守れるし、まだいい。

 

 国家予算が弾け飛ぶ程の超高額兵器専属パイロットたる私が、間違ってもその超高額兵器をクソのようなミスで喪失しないよう、あるいは私のミスでロシアの重要施設や歴史遺産が、狙撃誤射で爆発四散しないよう、世界最高のサディストたる訓練教官殿は、恐れ多くも私などのために全力で知恵を絞られたにちがいない。

 

 さて、腐った水が流れる河川や、腐ったクソのほうがまだましな沼沢地という、身を隠して進める障害物がない地形において、果たしてどうすれば発見されずに進めるのか?

 

 決まっている。

 

 永久凍土というだけに、どんな古代動物の死骸、おそらく腐って跡形もなく泥と混ざったマンモスが混ざっているかもしれない汚泥なり、この中を進むぐらいなら腐った小便の方がまだマシなほどに汚れ腐った水の中を進むのだ。

 

 こんなところを通るやつは狂人か間接的自殺志願者、あるいはバカか特殊なマゾヒストだろうぐらいにどんな用心深いやつでも思い込み、警戒対象から外れるような場所を進むのが、教官殿の愛情深い教えというわけだ。、

 

 その中なら、監視兵や赤外線等の各種探知センサーから、私の姿を隠すことができる。

 

 無論、病原菌だの寄生虫だのに私が食いつかれ、とてつもない病気に罹患するリスクはある。

 

 しかし金額の秤で測るならば、私の勝ちは、エヴァの重さで瞬時に太陽系外まで弾き飛ばされる程に軽い。少なくとも、あの素敵な素敵なメニューを考案された訓練教官殿は、そのように認識しておられるようだった。

 

 そう言えば、セカンドインパクトとやらは海の浄化とやらであり、それで海洋生命がコア化され生命が消失したわけだが。

 

 だったらあの泥沼もそうしてくれればあんな思いはせずに済んだが、生憎セカンドインパクトを起こした阿呆は、反動で生じた温暖化で、とろけてしまった永久凍土が、どれほど不潔で汚らしいものとなるかを、すっかり考え忘れていたらしい。

 

 本当に繰り返しになるが、あれと大便なら大便を迷わず選ぶと言いたくなるほどに、腐臭と多分病原菌で汚れた、数百万年前のなにかの死体が混ざったおそるべきヘドロになるべく深く顔を突っ込み、アオコが浮かんで居る程度ならましな、妙にとろとろと粘液質で奇妙に異様な臭気を発する、腐乱した水の中に潜って身を隠し、どう呼吸するかを以前受けた『指導』を元に知恵を絞り、必要ならシュノーケルまで使いながら行軍するのを想像してほしい。

 

 勿論、万一見つかればやり直しだから私も必死だ。

 

 こんな場所に、一瞬一秒とて居たくない。泥も水も最悪だが、シベリアが夏の頃だけ湧いていたのが、セカンドインパクトとやらのせいで、年がら年中湧くようになった蚊が最悪だ。

 

 ロシアには蚊が居ないと思う者もいるかも知れないが、それは大きな誤りだ。シベリア等のかつて永久凍土だった地域は昔から蚊の楽園だ。雲と見紛うほどの密度で大量に蠢きながら、一度獲物を見つけると一斉に飛んできて、軍服の上からだろうとかまわず吸い付き血を吸うのだ。

 

 巨大さが他所とは違う。幼虫である剛毛まみれのボウフラの時点で1.5センチもある化け物だ。最初など、アクアリウムのメダカと見間違えたほどに大きい。

 

 それが成虫になればどうなり、その針がどれほど長く鋭くなるか想像が付くだろう。

 

 なお、訓練上使うことはなかったが、後で聞いたところ、あらゆる最新の殺虫剤も蚊よけも無駄だそうだ。

 

 まさにシベリアで長年語り継がれた真の伝説と言える。

 

 だが、その伝説を凌駕する存在もおり、ルートによっては真の恐怖たるブヨやアブが襲撃してくる。あれは図体がでかい分、蚊の雲よりも黒く、煩く、恐ろしい。

 

 奴らは針が短い分、きっと欲情した男よりも、布地で隠れていない肌を探すのが巧みだろう。そうした場所を狙ってきて、刺されると恐るべき激痛が走る上に、そこが、まるで鈍器で殴られでもしたかのように腫れ上がる。

 

 刺されすぎて発熱し、泥濘の中に倒れた事もあった。そのまま死ねれば楽だったのだが、エヴァほど高くないとは言え、一応私も相応に高額らしく、即座にMi-24クロコジールが飛んできて私を回収してくれた。

 

 その後一時間以内に、あの優しいが気弱な私専属の医務官殿があの忌々しい調整槽のLCL(その時は本当に死んだほうがマシだと思ったのだ)に私を放り込んで、さらに数時間。

 

 すると半分程度には症状が軽減しており、様子を見て、翌日には訓練が再開される。もちろん訓練は教官殿が私の技量に納得するまで行われる。やはりこの人はサディストなのだなと思ったものだ。

 

 ああ、ついでに言えば、奴らは沼だけでなく、温暖化を生き延びたタイガにも湧く。ついでにいうと森林地帯にはあの呪わしいヒル殿が奇襲の機会を待っておられるので、もはや害獣大決戦の様相を呈してくる。

 

 そもそも奴らの大概が、分厚く進化したロシアの哺乳類の頑丈極まる毛皮をぶち抜いて、栄養に溢れた暖かな赤い血をすするの手段を磨いてきた連中だ。奴らに取り人間の皮膚などスメタナ(ロシア風クリームチーズのことだ)のような柔らかさだろう。

 

 ただ、今の私には、下手に訓練で優しくしすぎて、訓練過程を制定するにあたり何らかの想定外の漏れがあり、その漏れが原因で戦死でもされたら溜まったものではないというのはよくわかるので、だからこそあのような忌々しい、小児趣味の変態のサディストの拷問趣味者でさえ青ざめるような訓練スケジュールを組めたに違いない。

 

 だから、そんな過程を踏んでいけば、拳銃を用いたチーム式の交戦訓練など、実に気楽なものだった。

 一応ボディアーマーなり防弾ベストを狙うとは言え、容赦なくお互いの身体を狙って実弾で撃ち合う程度なので、苦痛がなくて、気楽でいい。

 

 狙いがそれて『戦死』などということもありうるし、防弾装備で防いでも、強烈な衝撃で骨が折れたかと思うほど痛むし、時に本当に折れていることもあるが、くそったれ沼沢地に顔面を埋めるより遥かにマシだ。あるいはいかなるセンサーより目ざとい、ブヨ教官殿数百数千匹による偉大な教育行為よりは。

 

 まあ、このような塩梅だから、運動量は凄まじく、太る心配だけはなかった。

 

 支部に来たばかりのころは、支部の皆が親であり友達のように皆が接してくれ、皆のいとしごとして、愛と共に育てられたのに、今の渡しときたら、地獄に落ちた咎人扱いもいいところじゃない、と、誓いも忘れて毒づいて、何もかもを呪ったものだ。

 

 そして、気安い間柄の相手には、普通に八つ当たりをして、文句を言いもしたし、私の医務官どのには奴らのあれはどうにかならないのかと怒り狂った猫のように言葉で噛み付いた記憶もある。

 

 ただ、実のところ、感情はともかく、理性はかろうじて納得していたのだ。本当にかろうじて、ではあるのだが。まあ、だから、毒づくと言っても、子供が親に甘えて甘ったれるようなものだった。

 

 私も11才の頃くらいから、娑婆の普通の生活や楽しいバラエティ、アニメーション、ドラマや映画に親しみつつ、さらに歴史も学んだ。

 

 ロシアという国が過去どのように、何と戦い、何を襲い、何を攻め、何を守ったか、そうしたものを学ぶのも、私の重要なタスクと支部の人々には認識されていたのだ。

 

 重要なのは、敗北というものが、この世界に何を齎すか、その一点にある。

 

 ロシア支部は、ロシア政府やロシア軍との繋がりが、他国支部よりもかなり深いものだった。(おそらくそのあたりに、ユーロネルフ各支部で最も外様に置かれた理由があるのだろう)このため、教育は、ロシアの義務教育をベースとし、ロシア史が多かったように思う。

 

 つまりは一通り、通史を覚えさせられたわけだ。

 

 ロシアの祖は、リューリク1世ということになっている。ただ、あまり記録が残っていない。伝説の類もあまりないが、ともかく彼が、ロシアの始まりということになっているようだ。

 

 その後、ウラジーミル1世によりキリスト教を以て東ローマと繋がるが、しかしその栄華も、時代とともに廃れた。

 

 そして分裂、紛争という、世界のあらゆる地域の歴史で見られる時代の只中、突如として世界史に大嵐のごとく出現したあの恐るべきチンギス・ハン率いるモンゴル人による侵攻を受けたのだ。

 

 カルカ河畔の戦いでルーシ諸侯連合軍は、大軍の驕りと連携の甘さを突かれ大敗。

 

 ヴォルガ・ヴルガール人たちが敗北を知らぬモンゴル人を一度は打ち破り一矢報いたが、数年後モンゴル人は再び彼らを襲撃し打ち破り、彼らの国を滅ぼし、ヴォルガ川下流にサライの都と黄金の陣幕を針、ジョチ・ウルスを建国、モンゴルへの帰還ではなく定住を始めた。

 

 いわゆるタタールの軛の始まりだ。国家の『敗北』がいかに恐ろしいものを齎すか、私が最初に触れたきっかけだと思う。

 

 この征服過程において多くの人命が失われたかは不明だ。50万とも人口の半分とも言われるが、定かではない。

 

 モンゴル人は従うものには寛容であり、信教の自由を許し、支配もまた緩やかなものではあったが、それはあくまでも従うものにのみであり、彼らは支配するもの・服従するものに、それを拒むならばどうなるかを教えるため、逆らうものには全く容赦せず、殺戮と破壊の限りを尽くし、そしてそれを大いに喧伝したのだ。

 

 多くのルーシの公国が一族を皆殺しにされ、聖職者は聖堂ごと焼かれ、女子供は殺され、都市は金穀畜獣全て価値あるものを略奪された上で、全て残ったひとびとの骸ごと焼き払われた。

 

 故にかつての都キエフは、焼け焦げた廃墟に物言わず動かぬ髑髏の住人が散らばる廃都と化した。ヴォロネジの街は砕かれ、その再建は400年後の事となる。

 

 またジョチ・ウルスが寛容な姿勢を見せるとも、その傘下の遊牧民族は、他の地域でもそうであるように、容赦なくルーシの諸侯から、人々から奪い、そして殺した。

 

 故にルーシの多くの都市と都市が分断され、孤立し、村落も同様であり、商業や社会の長き停滞を招いたと言われる。

 

 このタタールの軛とその影響についてはには、様々な史観や分析の対立がある。

 

 だが、私がエヴァンゲリオンのパイロットとして、この史実より学ぶべきものはただ一つのみだった。

 

 チンギス・ハンと彼の子息たちに率いられたモンゴル人は、まさに恐るべき征服者であった。だが、もっとも残虐な説を取るとしても、彼らの虐殺には限界があった。

 

 恐怖の異名で知られるイヴァン4世とオプリーチニキとて、やはりその虐殺には限度があった。

 

 ロシア帝国の歴史もまた、血まみれており、搾取に呻く農奴と人民の痛苦の歴史は、新たな思想に基づいた新たなる国家、共産主義者達による革命により終わるかと思われた。

 

 しかし、それはやはり新たな帝国を生むことにしかつながらず、それはスターリンによる大粛清という、恐るべき自国民の自国民に拠る相互虐殺を生みさえしたのだ。

 

 さらにその状況下において、東方に民族の活路を見出したアドルフ・ヒトラー率いるファシストに拠る侵攻を迎え、独ソ戦という人類の戦争と虐殺の歴史に於ける一つの金字塔を打ち立てることとなるが、それらの、幼かった私には理解し難い殺戮行為ですら、やはり、限度というものがあったのだ。

 

 では、私が戦わねばならぬ存在である使徒に敗れたらどうなるのか?

 

 曰く、現在の人類の武装では決して打倒できぬ敵手。

 

 曰く、本来の地球の支配者であり、彼らの勝利によりこの地球を満たすすべての生命は過去のものとなり、虐殺や粛清の粋を超えた、抹消の域へと至るとも聞いた。

 

 正直なところ、生命の抹消などと言われても、まるで見当がつかなかった。あの日までは。

 

 具体的な年齢と日にちまでは覚えていない。

 

 ただ、その日、教育・訓練の一環として歴史を学ぶ過程で、この国でかつて行われた様々な圧政と侵略、虐殺の歴史を私は知った。

 

 先程のべた、スターリンの大粛清の話が、私にとっては一番恐ろしかった。

 

 夜のドアノック。

 

 ドアを開けようが開けまいが、結局NKVDにようしゃなく踏み込まれ、そこに住まう人々は、皆どことも知れぬ場所へ連れて行かれてしまう。

 

 そしてその多くは帰ってこない。

 

『殺される』のだという。

 

 まず、殺されるという概念が私にはわからなかったので、教官役の職員に、その意味をまず聞いた。

 

 教官役の職員は、随分困った顔をした後(いたいけな子供に殺人の意味を教えたい大人はそうそう居るまい)、それは、誰かの手によって、誰かがこの世から消されるということだと答えてきた。

 

 人が消されるということもわからなかったので、聞き直した。

 

 すると、教官はやや黙ったのち、その人が永遠にいなくなり、もう誰にも二度と会えない場所へ行ってしまうことだと言った。

 

 私は、わからないなりに、そのことが何を意味するかを想像した。

 

 たとえばそれは、あの優しい支部のみんながいなくなるということだろうか。

 

 いつも気難しそうな顔をしている高齢のスラヴ人の、白髪でひげもじゃの副司令。

 

 私が発令所で遊んでいると、遊び場ではないと叱ってくるから、当時の私は少し苦手にしていたけれど、たまたまエレベーターに乗り合わせた時、少し困ったように顔をしかめて、支部の皆は良くしてくれるか、と聞いていたので、うん! と元気よく答えると、そうか、と初めて嬉しそうな、少しはにかんだ、けれどとてもいい顔で、私に微笑んでくれたのを、今でもよく覚えている。

 

 いつも優しくて素敵なヴィーテニカもだ。

 

 何故かいつもおろおろして、よく怒られているけれど、お休みの日にはヴィーテニカと一緒にレニングラード動物園のような、楽しさと不思議さが詰まった色々な場所へ連れて行ってくれた医務官も。

 

 そうした人たちが、いなくなる。

 

 死ぬとはそういうことであり、そういうことが、過去に起こったのだという。

 

 3人消えただけで、その頃の私であれば、ショックを受け、悲しくて、ずっと泣き暮らしてしまたことだろう。

 

 まして大粛清では60万人という恐るべき数が、処刑という形で消されたのだ。その恐ろしさが、私にはまるで想像できず、けれどここが根こそぎ消えたら、という想像に直結し、それは幼い私に、心臓を凍った手で直接掴まれたような、恐ろしさをもたらしたのだ。

 

 私がそうなったらどうなるのだろう。

 

 消えるってどういうことだろう。

 

 それを考えると、わからないけれど、心がすくみ上がり、身体が震え、なぜか涙がこぼれだして、どうにもならなくなった。

 

 仕舞いには自分の部屋に逃げ込み、鍵をかけてベッドに潜り込んでしまったが、幼く想像力が豊かな私は、教育の際に語られた、NKVDによる夜のドアノックと連行、トロイカ裁判からの処刑の話を思い出し、一人で居ることさえ我慢できなくなった。

 

 きっと、あれが私の人生で、初めて恐怖という感情を自覚した瞬間だと思っている。

 

 その、初めて感じた感情に耐えられなくなって、とうとう部屋を飛び出し、知っている人の影を探し、広い支部中を走り回って、一人休憩室の椅子に腰掛け休んでいたヴィーテニカをみつけ、迷わず駆け寄った。

 

 涙を流しながら抱きつく。

 

 そのまま、胸で荒れ狂う恐怖を吐き出さずにはいられなくなり、その感情を、ヴィーテニカに浴びせるように泣き叫んでいた。

 

 今日、歴史の勉強で大粛清の話を聞いた、恐ろしい、なぜあんなに人が死んだのか、人があれほど人をけせるのかわからない、ここの人たちはみんなこんなに優しいのに、どうしてあんなことになるのかが理解できない、ドアノックが怖い、ドアノックが怖いと、人が幼子として覚える率直な恐怖を彼女に訴え、全部言葉と一緒に吐き出してしまいたくて、私は言葉だけではなく、涙までずっと流し続けていた。

 

 けれど、ヴィーテニカは言ったのだ。

 

「怖いのね、アーニャ。訓練とはいえ、あんなものをあなたの年で知れば、魂まで震え上がるのはとてもわかる。

 

 でも、この世界には、もっと怖いものが居るの」

 

「もっと怖いものって、なに?」

 

 わたしの問に、ヴィーテニカは答えた。

 

「使徒。あなたはまだ教わっていなかったのね。

 

 私達が集められた理由であり、あなたが戦わないといけない敵、それが使徒なの。

 

 私も正直、話半分の気持ちでいた。

 

 けれど、エヴァンゲリオンという巨大兵器の存在を知ったし、そのパイロットとしてあなたが現れた。

 

 それにこの基地に備えられている、あきらかに今の時代の科学の粋を超えた、幾ばくかの機材も、使徒が本当にいるのかもしれない、という気持ちに私をさせるし」

 

 話がわからない、というよりも理解したくないがために、幼い私は首を打ち振った。

 

「でもヴィーテニカは、『使徒』という怖いものは、みたことがないのよね? そんなものがあらわれたなら、テレビでニュースになっていてもいいのに、わたしは、全然見たことがないの」

 

 そういって頑是なく言い張る私の両肩に手をおいて、静かにヴィーテニカは見つめた。少し悲しげな顔をしていたと思う。目が少し、憂いで潤んでいた。

 

 優しく、面倒見がよいヴィーテニカの事だ。私のような子供が『戦わなければならない』という現実に、多分納得できていなかったのだろう。

 

「でも、使徒がいる証拠はあるのよ。

 

 アーニャは、ネヴァ川の遊覧船に乗るのが好きよね。鳥がいたり、魚が居たり、あなたは生き物をみると、なにか宝物を見つけたように、いつも大はしゃぎで話しかけてくる。

 

 そう、ネヴァ川には生き物がいる。つまり生きているのよ。でも、ネヴァ川の先は違うでしょう?」

 

 彼女の言葉に、幼い私は頷きつつ、ふと首をかしげた。

 

「真っ赤な海。そういえば、ネヴァ川や運河には、生き物がたくさんいるのに、浜辺にも海にも、生き物が一匹も居ない。どうして?」

 

 一瞬ヴィーテニカは口をつぐんだ。少し考え込み、そして、口を開く。

 

「セカンドインパクト。南極への巨大隕石の衝突が齎した大災害とされているけれど、多分、嘘なのよ。

 

 私達ロシア支部は、ユーロネルフ各支部でも末端に属するから、エヴァや使徒に関する真実の多くは明かされていない。

 

 けれど、起きたことがら──海洋生物全て、微生物レベルに至るまでの死滅と海洋成分からのコア化物質の検出が、『使徒』に由来するものだとしたら。

 

 それと同じことが再び『使徒』によって引き起こされた場合、今度は地上全てが、海と同じようになってしまうかも知れない。そのために、あなたや、エヴァがあり、そしてこの支部が組織されたと考えれば、納得はできる」

 

「でも、そんな話、私は聞いてない。ヴィーテニカが考えた話じゃないの?」

 

 けれど、ヴィーテニカの瞳は、どこまでも真摯で、まっすぐに私を見つめていた。

 

「あまり、人間をお金に換算するようなことはいいたくない。ましてあなたのことを。

 

 けれど、あなたにかかっている予算は、一つの国の軍隊を動かすのに充分な金額がかかっているの。エヴァの運用に関しては、もっとかかるという試算書類も届いているのよ。この国が、傾くほどの。

 

 あなたはいい子で、とても優しい子。生まれ方は他の子とは違うけれど、そんなことはどうでもいい。大好きな私のアーニャ。

 

 私、一人っ子だから、姉や妹や、兄弟に憧れてたところがあるの。

 

 あなたは私にとって、きっと神様が巡り合わせてくれた妹。血が繋がってないなんて、些末なことでしかない。

 

 だから命をかけて戦ってほしくなんてないし、戦わせたくもないの。けれど」

 

 そういって、アーニャは、本当に悲しそうな顔をしながら、笑った。それは、私の初めて見る顔だった。

 

「アーニャは知らないと思うけれど、セカンドインパクトの後、とても沢山の人が死んだわ。

 

 世界中が暖かくなってしまって、寒い時期になるととても寒かったペテルブルクも、その例外ではなくなってしまった。

 

 凍っていた大地が溶けて、道路や鉄道が使えなくなったし、疫病も流行りだした。永久凍土に閉じ込められていたままだった病原菌が、たまたま生きていて、それが人々の間で流行し始めた。

 

 酷い病気だったわ。

 

 

 それだけじゃない。あなたが多分今日習ったように、人と人との殺し合い──戦争が起こった。気候の激変で、この地球に生きている人間が充分生きていけるだけの食べものが作れなくなって、人は、食べ物をつくれる土地を、食べ物そのものを奪い合った。

 

 ええ、あなたが知って、とても怖かったと言ったあの大粛清よりも、もっと沢山の人達が、疫病で、戦争で死んだの。

 

 私の両親も家族を失ったって聞いている。お墓にも、行ったことがある。墓標が多すぎて、どれが誰の墓かさえわからないくらい、広くて大きな、厭な、悲しい場所だった」

 

 彼女は、小さく息をついた。そして、再び口を開く。大粛清よりも多く、という言葉に、固まってしまった私から、目を決して離さないままに。

 

「副司令は、ご両親と、奥さん、息子さん夫婦とお孫さんたち、つまりご家族全てを亡くされたそうよ。あなたと同じくらいの孫娘もいたって。

 

 だから、副司令はあなたに優しいの。エヴァのパイロットとしてふさわしい訓練を行うよう望んでいる司令に対して、のらりくらりと躱しながら、あなたをここに来てからの2年、あなたが子供らしく頑張れるよう、色々根回ししていたの。

 

 決して言うな、伝えるな、と副司令に言われていたけれど、あなたには、伝える必要があると思う。でも、副司令には内緒よ、アーニャ」

 

 言いながら、彼女の瞳が潤む。

 

 ヴィーテニカは、一度強く目を閉じた。一筋、光るものが左頬を伝ったのを覚えている。

 

 そして、意を決したように、言った。

 

「うん。こんなこと、言いたくない。伝えたくない。ずっと、あなたには笑顔のアーニャで、ただの子供で居てほしかったから。

 

 けれど、相応に上から圧力は来ているし、副司令のごまかしも、きっといつか限界が来る。

 

 あのセカンドインパクトと、それに纏わる災害で、とても沢山の人が死んだ。

 

 もしも、それが『使徒』によって再び引き起こされるというのなら、私達は絶対にそれを防がないといけない。

 

 そう、何をしても。何を犠牲にしてでも。

 

 そして、認めたくないけれど、本当に厭で厭で仕方ないけれど、『使徒』と戦えるのは、汎用ヒト型決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオンと、それを動かせるあなただけなのよ。

 

 本当に、ひどい話。嫌になる。

 

 これから、あなたの訓練は、もっともっときつくなる。

 

 今後の訓練過程を見たの。抗議はしたけれど、通らなかった。必要だからって。私達が勝利するために」

 

 とうとう、彼女は視線を私に合わせられなくなり、下方にそらした。

 

「だから、あなたは私たちを恨むかも知れない。こんな辛い目に合わせるなんて、酷いって。

 

 恨んでくれていい。そういう酷い目に合うのを防げなくて、黙認してしまって、本当は私達大人の仕事なのに、あなたみたいな子供に背負わせるなんて馬鹿げてる。でも、セカンドインパクトの再来が訪れるから、それを防げるというのなら、きっと私は悪魔とだって手を結べる。

 

 とても悲しい顔で、確かに居たはずなのにもう居なくなってしまって、二度と会えない人たちの写真を見つめて、涙を流す人たちを出さないためなら、私はなんだってする。

 

 しないといけない。いけないのに!」

 

 とうとう、ヴィーテニカは叫んでしまった。

 

 私のためだけの言葉では、多分なくなってしまっていた。

 

 ずっと彼女が私のよき姉であるため、押し隠していた、わたしのさだめを、彼女が決して認められず、だからこそこのように定めた世界を呪うかのように、彼女は言いながら、泣いていた。

 

「あなたは、エヴァのパイロット。

 

 司令に言わせれば、兵器であり、備品であり、消耗品。人として扱う必要がないモノだそうよ。

 

 ええ、たぶんそう割り切ったほうがいいの。

 

 そのはずなのに、あなたはとても可愛い子供で、いい子で、セカンドインパクトからずっとこの街に漂っていた、悲しみと死がどこかただよう軋んだ空気を、私に忘れさせてくれて、あなたを迎えてからのこの一年、とても楽しくて幸せだった。

 

 あの司令、アーニャを人間として扱うなって? 冗談じゃない。いたいけで可愛い子供は、本当ならもっと、こんな武器と陰謀にまみれた場所じゃなくて、もっとふさわしいところで、つまらなく平凡に生きたほうがいい子なのに、どうして!? 

 

兵器で備品、消耗品で扱えって、意味がわからないわよ!」

 

 怒りと悲しみ、嗚咽と怒号の混合物と成り果てた、彼女の告白を聞きながら、私はいつしか大粛清の恐怖を忘れていた。

 

 覚えていたのは、多分、困惑だったと思う。

 

 どうすれば、私はヴィーテニカの涙を、嘆きを止められるだろう。そんなことを、確かぼんやりと考えていた。

 

 それほどにヴィーテニカの言葉は止まらなかったのだ。雪の代わりに訪れるようになった、長い雨期の飴のように果てしなく、とめどなく。

 

「クローン生成かもしれない、人格を与えられたつくられた存在かも知れない、でもこの一年で、アーニャはこの子なりに頑張って勉強して、ずっと重苦しかったこの基地の空気を、その笑顔で軽くしてくれたじゃない、セカンドインパクトからこっち、ずっと辛くて、笑顔なんてろくになかったのに、支部の皆を笑顔にしてくれたじゃない!

 

 最初は嘘の愛想笑いでも、この子が居たから、この子が幸せそうに、楽しそうに、こんな場所なのに過ごしてくれていたから、私達は守るべきものを見失わずに住んで、こんな辛い世界でも、まだ守るべき価値がある、守らないといけないって思えた! 

 

 冷や飯食いでバカにされても構わない、政治なんて知ったことじゃない、まだ生きてくれている家族を、大好きな街を、故郷を、守りたいってそう想えたの!

 

 そんな、そういうこの子のあり方って、戦うべき存在じゃないわよ、本当は私達大人が守るべき存在じゃない、そのはずなのに!」

 

 ああ、それがヴィーテニカがずっと思っていて、けれどだからこそ私には隠し続けたかった本当なんだ、と私はその時、直感的に理解した。

 

 彼女は、身の回りの喪った人々の話をした。

 

 けれど、自分自身が喪った人については話さなかった。

 

 それは、彼女だけで抱えていたい、他の人にまで預けたくない、自分だけで背負っていかないといけない辛さだから。

 

 他人に、まして私の背中にだけは、決して背負わせたくない悲しみだから、どれほど悲しみと怒りに苛まれようと、それだけはきっと言いたくなかったのだ。

 

 そもそも私には、彼女は何も背負わせたくなかった。生き死にの場所に出してはいけない、と思っていたのだ。それは、人間の大人として、彼女の良心が忌み嫌い、拒絶したくてたまらなかったことだったのだろう。

 

 きっと、彼女にとって私は戦わせるべきものではなく、守るべきものだとしか思えないからなのだ。

 

 どれほど理性と計算で説得しようと、それだけは、彼女の良心にとて、きっと譲れないことなのだ。

 

 けれど、ロシア支部にエヴァが届いて、それを動かせるのは私だけなのだ。

 

 そんなどうにもならない齟齬、はねのけたいのにはねのけられない憤慨と感情が、彼女の内側で、私が来てからずっと、消えない炎のように、彼女の良心を焦がしていたのだ。

 

 今にして思えば、ヴィーカ、私の優しいヴィーテニカは、私に執着しすぎていた。人として動作する程度の人格は与えられていても、およそ常識のなかった私は、出会ったばかりのときは、当然赤の他人でしかない。だから、相応に他人程度に扱えばよかったのだ。

 

 なのに、彼女は、明らかに距離感を間違えた。むしろ望んで一線を踏み越えた感がある。支部に居室を与えられ、外で暮らすことがなかった私の面倒を、本当にまめに見てくれていたのだ。

 

 それは即ち、人員不足のロシア支部、ろくに帰宅もできないほどの激務のただ中で、時間をなんとか無理やり作り出し、私のために割いていたことを意味する。

 

 たまの休日くらい、家に帰って寝たい、家族と、あるいは大切な誰かと、『使徒』の出現とともに終わる、もう有限となってしまった平和な時間を過ごしたい、そう思わなかったわけがない。

 

 なのに、そういう大切な時間でさえ、私を動物園に連れて行ったり、『セーヴェル』で一緒にケーキを食べたり、普段着る服まで自分の給金を使って、ネフスキー通りの子供向け服を売っている色々な服屋を巡って買ってくれた。

 

 その執着の理由は知らない。けれど、彼女はきっと、彼女がセカンドインパクト後に喪ってしまったとても大切な何かを、あるいは誰かを、私の中に見て、重ねていたのかも知れない。

 

 一度喪った痛みを、私を愛することで癒やしていたのかも知れないし、だからこそ、私が兵器として、戦いの一単位として運用され、消耗されるのに、本当に我慢ならなかったのだと思う。

 

 私の戦闘における消耗と喪失は、そしておそらくは彼女がネルフで戦うと決意した動機は、おそらくそれなのだろうと思う。

 

 それを味わいたくない、誰にも味あわせたくない。

 

 私をエヴァで戦わせるということは、彼女のそういう決心と祈念を、みずから裏切ることにほかならなかったのだろう。

 

 喪失を埋め合わせるための代償行為、と言ってしまえばそうかも知れないが、それは野暮というものだろう。

 

 そう名付けてしまえばそういうものになってしまう。だから、そんなことはどうでもいい。

 

 私と、そしてヴィーテニカにとって大切だったのは、お互いにとって、お互いがとても大切だということで、だから、私は多分、その時、ヴィーテニカがずっと悲しそうにしているのが、一向に泣き止もうとしないのが、本当に辛くて、嫌だった。

 

 だから、私は言ったのだ。

 

「ヴィーテニカ、違う」

 

 私の言葉を聞いたヴィーテニカは、ずっと堪えていた感情を止め、涙で赤く腫れた目で私を見た。何が違うの、と彼女は言葉ではなく、目で訴えていた。だから、私は答えたのだ。

 

「私には、お父さんというのもいないし、お母さんというのもいない。ほとんど顔を出さないから会ったこともないけど、司令さんのやりかただと、ヴィーテニカと、こういうお話もできなかった。

 

 私がエヴァのパイロットとして作られたのも、ここに来たのも、医務官さんと、そして何よりヴィーテニカがここにいたのもたまたまで、偶然だから、だから、私は嬉しいの」

 

 私が『嬉しいの(я счастлив)』という言葉を発した瞬間、彼女の全身は、一瞬こわばって、そして、とても大きく見開いた。

 

 涙に潤んで、濡れたガラス玉みたいになった青い瞳が、信じられない、という様子で、じっと私を見ていた。そんなヴィーテニカの様子が私はなぜか面白くて、だから言葉を続けていく。

 

「だって、そもそもエヴァのパイロットとして作られなかったら、ヴィーテニカと私、会えなかった。

 

 アリョンカチョコレートも食べられなかった。

 

『セーヴェル』のスメタンニクがない人生なんて考えられない。

 

 にんにくの効いたスメタナソース味の、鶏肉と野菜がいっぱい詰まったシャヴェルマだって食べられなかった。

 

 レニングラード動物園で、私の知らない沢山の動物を見ることも出来なかった。どこを目指すでもなく、いろんな運河をのんびりと遊覧ボートで医務官さんとヴィーテニカと過ごすことも出来なかった。

 

 それは、私にとって本当に幸せなことなの。

 

 エヴァのパイロットとして作られたから、ここにこれて、ここで暮らせたの。一年、そんなに長い時間じゃないのに、思い出すのも大変なくらい思い出ができた。

 

 ヴィーテニカが守りたいって気持ちも、だからわかるの。

 

 私が知っている街はここだけで、そして私はこの街がだいすきで、ヴィーテニカも、支部の皆もだいすきだから。

 

 だから、守りたいっていう気持ちは分かるし、それがお手伝いできるって、とても嬉しいこと。

 

 だって、ここの皆は私に幸せをくれたから。

 

 みんなにとってそうでなくても、私にとってみんなは家族なの。

 

 だって、親の居ない私に、この一年、とても優しくしてくれて、色々教えてくれて、ワガママも聞いてくれて、育ててくれたもの。

 

 ここのみんなが、私にとって、お父さんで、お母さんで、お姉ちゃんで、お兄さんなの」

 

「違う。違うの。それは違う、アーニャ!

 

 私達は結局、最後には貴方を、兵器として、道具として──」

 

 胸に満ちた何事かの重さに耐えられなくなったのか、両膝を床について屈し、うなだれながら必死に首を打ち振り、否定しようと叫ぶヴィーテニカの首に、私は少し背伸びをして、ぎゅっと彼女を抱きしめた。

 

 その時の、涙で濡れた彼女の、冷房で冷えた肌の感覚は、今でもはっきりと覚えている。

 

 ヴィーカ、だめ。こんな冷たい気持ちを隠していたらだめ。それは間違った気持ちなのに。

 

 そんな冷たい悲しさは、ヴィーカらしくないし、私の心は温かいのに、ヴィーカの頬がこんなに冷たいなんて、へんだし、わからないけど、まちがってる。

 

 子供心に、そんなことを考えていたろうか。

 

「それでもいい。

 

 ヴィーテニカがこの街を守りたいのと同じ。

 

 ネフスキー大通りのいつもいく『セーヴェル』のおばさん、私達の顔を覚えてくれて、私に会うとにこにこしてくれて、大きくなったねっていってくれるの。

 

 ヴィーテニカが守りたいのって、あのおばさんもでしょう?

 

 そんなの、私だって守りたい。

 だって、この街が、大好きだから。

 

 この支部の皆と、ヴィーテニカと、医務官さん、それに、知らなかったけど、私のために副司令は、よくしてくれていたんでしょ?

 

 あの人だけ、いつも怒るからちょっと苦手だった。

 

 でも、ヴィーカのおかげで大好きになった。私にしか出来ないお手伝いがあるなら、私、喜んでやる。

 

 だから、ヴィーテニカは泣かなくてもいいし、怒らなくてもいい。だって、ここに来れて、私は幸せなんだから、ヴィーテニカはもう、泣かなくていいの」

 

 私に首を抱かれながらその言葉を聞いたヴィーテニカの体は、ひどく震えていたように思う。

 

 頬が少しだけ暖かさを取り戻して、なのに、ヴィーテニカはとうとう言葉さえ出なくなって、ひどく嗄れたうめき声を上げながら、私の背に両手を回して強く抱きしめ返してきて、その目から溢れ出す涙が、彼女の頬だけでなく、私の頬まで濡らした。

 

 だから、その時の私は、ひどく困っていたように思う。

 

「どうして泣くの? ヴィーテニカ。私、ひどいこと言った? 間違った?」

 

 困惑して呟いた私の言葉に、彼女は一度頬を離して、私の視界の外で首を振ったようだった。

 

 涙にあえぎながら、絞り出した言葉を、今でもよく、覚えている。

 

「違うの。嬉しいの。嬉しいからなのよ、アーニャ」

 

 それだけを何とか絞り出して、彼女は私が痛みを覚えるほどに強く私の身体を抱きしめ、あとはただ、ひたすら2つの言葉を繰り返していた。

 

 ありがとう。(Спасибо)

 

 ごめんなさい。(Извините)

 

 なぜお礼を言いながら謝るの? と子供心の疑問に任せて問うても、彼女はずっと私を抱きしめ、震えながら、ただその言葉を繰り返していた。

 

 その理由も、その頃の幼い私には、全く理解できなかった。

 

 ただ、その時は、少しだけ嬉しかったように思う。

 

 ずっと大好きだった、母にも姉にも等しい人をお手伝いできる、子供としての純粋な喜び。

 

 子供は、概して強いられた手伝いというのは嫌がるものだ。

 

 しかし、自発的に手伝いたいと言う時、手伝えると、それは概して喜びとなる。褒めてやるとなおさらだ。認めてほしいという気持ちが、満たされるからなのだろう。

 

 そして、彼女がそれでもなお謝り続けた理由も、今の私なら、わかるのだ。

 

 そんなことがあって、ヴィーテニカや支部の皆の気持ちと願いを知っていたから、私はどんな厳しい訓練にも耐えられた。

 

 いや、流石にあの地獄の方がまだマシな行軍訓練や戦闘訓練に関しては相当医務官殿やヴィーテニカにさんざ愚痴りはしたが、その程度だ。なにしろ12才の子供が、発育時期にそれはどうなのだ、影響がでるのではないか、というほどハードな訓練をやらされたのだから、愚痴程度は勘弁してほしいと、当時の私なら言うだろう。

 

 11才から12才、13才。

 

 年を重ね、訓練では、エヴァは身体の延長で脳波コントロール擦るものらしいからとりあえず軍隊での鍛錬を積めとなり、前に述べたようなくそったれ訓練ツアーを施された後、相応の練度を得たとみなされ、特殊部隊志願の奴らと肩を並べることを許された。

 

 なお、当然軍隊で過ごす時間が伸びた結果として、口が年々悪くなり、医務官殿とヴィーテニカには呆れられ、なおかつ大仰に嘆かれたものだ。

 

 人間、いつまでも天使のような幼子で居られるわけではなく、なおかつ男が多い軍隊ぐらしが長引き、ナメられたら負けだと思うようになれば、口が悪くなるのも必然といえる。

 

 また、11歳ぐらいまでは基地に来たばかりのようにショートにして、毎日丁寧に整えていたが、訓練が厳しくなるにつれ、疲弊とともに女の子らしさを維持するのが面倒くさくなり、髪を伸ばして後ろで雑にまとめるようになった。

 

 ショートヘアでも、格闘訓練のときであれば、掴まれるときは容赦なく掴まれる、かといって丸坊主は地味に手間がかかる。あれでこまめな刈り込みが必要らしいので、やめておけといわれたのだ。

 

 色々勘案した上で面倒臭さを最優先して結局馬のしっぽのように、後ろ頭に結いつけてしまった。

 

 いわゆる総髪というやつだ。

 

 頭の後ろに垂らしているから、当然つかみを狙われるときは狙われるが、逆にその動きを読んで返り討ちにしやすくはあったし、長すぎて洗うのが面倒なのを除けば、悪くなかった。

 

 なお、前髪も後ろ髪と一緒にまとめられるように、将来を踏まえて雑に伸びるがままにしていたら、どうも致命的なほどだらしなく見えたらしく、『女の子らしさぐらい保ちなさい』と、珍しくヴィーテニカがお冠になった。なので、前髪はある程度伸ばして、それなりに女性らしく見えるよう、常に整えるようにはしていて、それは今でも習慣となっている。

 

 右肩下がりにずるずると、軍人ズレしていく私を見かねたらしい。まあ、たしかにあのころは、訓練疲れが身だしなみの悪さに直結していたので、ヴィーテニカが怒るのは当然かも知れないが。

 

 それと、担当する兵器がヒト型兵器である以上、各種武装の運用技術や格闘技術は必須となるので、武術・思考法としてのシステマも学習・鍛錬させられた。

 

 着衣に拘らず、型や構えに拘らず、作法、慣習に拘らず、呼吸を保ち、凪いだ目、凪いだ心で事象を眺める。

 

 戦場という抗ストレス環境では、極度の緊張と不安が心に襲いかかる。目の前に死のリスクが迫れば、恐怖、あるいは激昂などの心理状態に陥り、後先を考えず、全力で対処したくなるのが、生き物というものだ。

 

 だからこそそういう状況にあって、肉体はノルアドレナリンをはじめとしたストレス・ホルモンを発生させ、非常自体に対処しようとする。

 

 ただ、こういう状態は、当然だが、体と心を張りつめさせてしまう。

 

 緊張が過ぎれば、余裕がなくなる。テンションを上げすぎたギターの弦のようなものだ。

 

 そういう状態の心と体は物事に対処する余裕をなくし、最悪の場合、切れる。無論、それは戦場では死とイコールとなる。

 

 そして戦場ではそうした危機が、潮のように立て続けに訪れる。それへの備えを身につける必要があるのだ。

 

 だから、まず呼吸を学ぶ。あらゆるメンタルケアの技術で示されるように、呼吸のコントロールは心身に実によく作用する。

 

 ただ、当然戦場で運用するにあたっては、戦闘状況でも呼吸を保てなければ意味がない。

 

 鼻から吸い口から吐き、呼吸を楽に行う。

 

 これを筋力トレーニングを行いながら保ち、突然鞭打たれても保ち、腹にナイフ(刃引きしたダミーだ)を不意に刺されても保ち、訓練時のパートナーの体に拳をついて腕立てをしながら保ち、逆に自分が腕立ての台にされながら保つ。

 

 腕立ての際には、顔、胸、腹、太ももなどに拳を置き、痛みを与えるのを主眼に置く。パートナーにもそのようにされ、当然流し方を覚えないうちはとてつもなく痛い。

 

 なにしろ痛い状態でも自在さを保つのが目的なので、痛みを容赦なく与えあわないと意味がないのだ。なので、流せるようになるまで鍛錬する。

 

 こうして心を柔らかく保ち、むしろ緩やかに、自在に、柔らかく置き、風に揺れる草のように、時にいっそタンブルウィードのような軽さにする。

 

 不動心というが、実のところ、あまりそれに拘るのは良くない。

 

 大地のような不動と言うと何やら強そうだが、あまりにも不動な状態の心に拘ると、それが身心にぎゃくに硬直を齎し、体は固まり、速度を、自在さを喪う。

 

 だから、ゆるゆると柔らかく、強くとも7割で備え、3割の余力を残す。硬い大木は、地震でへし折れるのだ。柔らかく柔軟であれば、折れない。

 

 柳のように、いや、踏まれてなお折れぬ雑草のしなやかさで、襲いくる不安、恐怖、怒りを見つめ、眺め、斯くの如し、と現実事象を客観しながら、7割でこれを打ち、3割は緩やかに次を予測するなり、不意の状況に備え周囲を眺めるなりする。

 

 この調子で行うので、構えは脱力が主眼となり、無構えから力みなく、曲線の動きをもってよどみなく動かす。

 

 太極拳の纏絲勁とかいうやつが、がおそらく近いのだと思う。

 

 全身の筋肉と関節、骨格の可動域を把握しつつ、なだらかに動かしながら、例えば打撃にあたっては掌を開いたまま体を揺らし、速筋を使って力みを入れず、8の字風に上体をウィービングさせながら打つ。

 

 拳を握りこむ場合はあくまで打つ過程、その刹那で行うに留める、あくまでも力まない。

 

 蹴り技を用いる場合も同様だ。

 

 おもいきり力む場合、知らず遅筋をも使ってしまう。これが、よくない。

 

 遅筋は長時間の間、強い出力を出し続けることができる筋肉だが、遅筋というだけに瞬発力には欠ける。

 

 故に用いるのは瞬間的に出力を出せる速筋となる。瞬間的に力を発揮でき、脱力も瞬間的に行えるので、速筋がいい。

 

 武器を用いる場合も同様だ。武器を持った場合、握った手と手首が関節となり、その先まで手が伸びたようなものだ。

 

 当然全身のバランス状態が変わるので、このあたりを意識しつつ、速筋のバネを自在に効かせ、打ち、突き、あるいは斬る。

 

 また、打撃を受けるにあたっても、このあたりを意識する。体が固まっている状態で打撃を受ければ、その威力を全て体で受け止めることになる。当然、痛い。

 

 だから脱力の必要があるのだが、それだけでは不十分で、相手の打撃塩梅を見、そして己の体勢と筋肉、関節、骨格、体のバランス状態を踏まえ、それらを連動させ、円運動ないしは螺旋の運動を以て受けることで、敵の一撃のエネルギーを柔らかく、かつ分散しながら受け止め、吸収してしまう。

 

 類型進化というべきか、これも中国武術に同様の概念があり、化勁と言う。勁、つまりは敵の打撃エネルギーを敵の意図せざる位相へ流し、化けさせてしまうわけだ。

 

 そうやって攻防の柔らかさとウェートバランス、心身の重さの位置と状態を把握しながら、当然敵の状態も把握する。

 

 敵が打撃を放つならば当然相応に力を発するわけで、力んで固まりもすれば、重量バランスも偏る。当然、偏っているわけであるから、手を取って転びやすい角度に軽くねじるだけで転ぶ。

 

 軽く足を払うだけでもいい。このあたりは柔道やサンボあたりでも同様であるが、これを拳や足を用いた打撃や、武装に拠る攻撃にも応用していく。

 

 例えばナイフであれば全体を全ての指で強く握るのではなく、親指と人差指を除いた三本の指で握る。

 

 刺突に当たっては手首を軽く返して肘で突きこむ。

 

 肘からナイフまでを槍にするような印象で突くとよい

 

 頸動脈や手首を狙って斬る場合、敵の挙動と身体状態を見つつ、自由な人差し指と親指を用いてナイフを持ち替えつつ調整、流れに合わせ柔軟に身体を振るい、最適な位置に刃を持ち込み急所を斬る。刃味を活かせるなら、無駄な力はいらないのだ。

 

 そのように、人間相手に様々な鍛錬を積み重ねて、14才になるころには、ユーロネルフが試験用に使うだけ使い倒した中古のチューブだらけの赤いプラグスーツや、簡易テスト用ではない、本格的なシミュレーション機能もある、まともなシンクロ訓練用のエントリープラグなども回ってきた。シミュレーションレベルとは言え、これでまともなエヴァ操縦の訓練ができるようになったわけだ。

 

 とはいえ、エヴァの訓練にあたっては、「このハンドルを握って、自分の体を動かすように思って下さい」という内容であったので、まったくもって拍子抜けした。

 

 相手も、使徒がどういうものかわからないので、量産モデルのエヴァ相手で、こうなるともう体を動かさないだけで、普段の対人戦闘とあまり変わらなくなってくる。

 

 ATフィールドが出るような念をする訓練もした。

 

 殺意とか、そういうのに近いようだ。

 

 ともかく強い意志の力であるほどフィールドの出力が高まるようで、実は地味に、苦手だったのだ。

 

 あくまで当時のテストスコアだが、瞬間瞬間の出力は高いわりに、どうも強度の高いATフィールドを中和するのは苦手なようになっていた。というか思う頃にはもう体が動いていないと命取り、みたいな訓練ばかりしていたのが、どうも良くなかったらしい。

 

 あの頃は偏執狂になったほうがAT中和するのはフィールド出力が上がるのだろうか、でもそういうのはなんだかいやだ、そういう自由じゃないのは嫌だ、と真剣に悩みもした。実際にはちょっとしたコツの違いであり、慣れた頃には、自分の体の動きに合わせるようにそのあたりの出力を出せるようにはなっていた。

 

 そのような塩梅で日常は進み、軍隊訓練2割、エヴァパイロットとしてのシンクロテストとシミュレーション訓練7割、ヴィーテニカや医務官殿とのお出かけ休日1割、という慌ただしい訓練と、たまの休息を楽しんでいた。

 

 ヴィーテニカ達もようやく本業である戦術オペレーターとして、戦闘管制の訓練も始まり、シミュレーション過程では、彼女の指示管制で動くことも多かった。

 

 そんな調子で、ロシア支部もようやくある程度ネルフ支部らしくなってはきたものの、最大の問題が一つあった。

 

 肝心要のエヴァが来ないのだ。

 

 ロシア政府大統領から、ロシア支部司令まで、国連からバチカン、ユーラシア各地のネルフ支部のを束ねるユーロネルフ支部までひたすら行脚して陽性したものの、ああだこうだと言い訳をされ、来ないものは来ず、各国2機までというバチカン条約の制限とはなんだったのかとなるぐらい来ず、ともかく梨のつぶてだった。

 

 国連軍やらなんやらに、戦闘機だの大型輸送機だのを相応に回したにもかかわらず、もらえるのは空手形ばかりであり、だんだん支部にもそういう意味で、よくない白けた空気が漂い始めた。

 

 そのような空気が、さらに良くないことを招いてしまったのだ。

 

 おりしも、ネルフ北米支部を始めとして『高額に過ぎるエヴァではなく、安価かつ機体性能の素性も知れている工業製品で代替すべきではないのか』という議論が発生していたころだった。

 

 実のところ、これらの反対論はあくまで額面のものであり、つまるところ黙ってほしければ早くエヴァを配備しろ、というエヴァに関連する各機関への間接的な要求であったわけだが、当然そういう風土が形成されれば、それを機会に便乗しようとするものが湧く。

 

 日本政府の一部省庁の支援を受けた日本重化学工業共同体が企画・試作を行ったものの、試運転等のトラブル等から日本政府の当時の内閣と及びネルフ本部に袖にされた後も諦めなかった主任開発者が、どの伝手を頼ったのか、ユーロネルフ支部に営業をかけたのだ。

 

 そして、ユーロネルフ支部は特にエヴァ不要論には組していないにも関わらず、何を考えたか、基礎設計の改良を前提として、ユーロ圏における開発・生産を承諾したのだ。

 

 以後、急ピッチで試運転時のトラブル原因の改修、ユーロドイツが実用的商業用モデルの開発に成功した新型動力炉搭載により電力問題を解決された機械式汎用ヒト型決戦兵器ジェットアローンがロールアウトすることとなった。

 

 これに食指を伸ばしたのが、いい加減エヴァの順番待ちに飽きた、ロシア政府の大統領だった。

 

 セカンドインパクトによる凍土融解により深刻な被害を受けていたものの、かつての大国であり、ベタニアベース運営にも積極的に協力してきたにも関わらず、干されていたも同然の状態であったから、つまるところ政治的に追い詰められており、焦っていたのだ。彼の支持率は低下していた。

 

 ユーロ所属国各支部におけるロシア支部の相対的な地位の低さを勘案し、なおかつエヴァに携わる国連関連省庁からの連絡も梨のつぶてとなれば、ともかくも代替兵器がほしい、というのが本音であったろう。

 

 また、IPEAの資料によれば、エヴァは当時の人類が保有する最強の兵器であるN2爆雷すら通じないATフィールドを有する。これを撃破可能な戦力は、同じATフィールドを有するエヴァか使徒だけだ。

 

 即ちエヴァの保有数はそのまま国家の軍事力を意味するものとなるわけで、これに対抗しうる戦力が喉から手が出るほど欲しかった、というのは、エヴァを手にできておらず、なおかつセカンド・インパクト後の災害、内戦や侵略等の動乱を経験した結果として、国家生存のために必要であれば暴力も辞さずの腹が座った各国の偽らざる本音であったことだろう。

 

 ともかくも、驚くほどの素早さで、ロシア政府は主任開発者であるトキタとユーロネルフを説得、ともかくもジェットアローン初期ロット3機の購入契約に成功し、大統領はそれを成果として喧伝した。エヴァンゲリオン1体に比べ3体と、費用対効果を新聞媒体で自慢していたように思う。

 

 そして、第4使徒が出現する1ヶ月ほど前だったろうか、製造が完了した新型ロボット3機がロシアに納入された。

 

 されたはいいが、納入されたジェットアローンには、生憎いくつか問題があった。

 

 まず、到着したジェットアローンには、N2リアクターが搭載されていなかった。動力源がなかったのだ。

 

 理由はと言うと、N2リアクターのロシアへの輸出に、ユーロドイツが反対の立場に回ったのである。

 

 N2リアクターの軍事転用による国際秩序悪化の懸念、というのがその申し分であった。

 

 セカンド・インパクトに伴う急激な温暖化により国土の多くが沼沢地と成り果て、鉄道や道路等の陸上インフラから、食糧生産に至るまで甚大な被害を被ったロシアは、たしかにインパクト後、国内外に甚大な数の紛争を経験することとなっていた。

 

 しかし、そうした後ろ暗い血みどろの歴史はセカンド・インパクト以後いずれの国家も大なり小なり経験しており、いわば難癖にほかならない。

 ましてセカンドインパクト被害からの復旧・復興を踏まえ、独力での迅速な国力回復は不可能と判断したロシア政府はいくつもの苦渋をやむなしと飲み込んでユーロ入りを果たしていたのだ。

 

 その上で、一度ユーロ圏の総意としてジェットアローン購入に許可がだされたにもかかわらず、突然ドイツが掌返しをしたのには、当然相応の理由がある。

 

 セカンドインパクトがもたらした温暖化は、北極海からの海氷の完全消失という結果をもたらしており、これは地球のアルベド(反射能)の変化と温暖化の悪化をもたらしていたが、政治的にはこれはまた別の、致命的かつ不可逆な変化をもたらしていた。

 

 即ち、北極海の通年安定航行可能化だ。

 

 つまりロシア北部沿岸と北アメリカ大陸北岸を一直線に航行することが可能となったわけであり、突如として生じた巨大な新規シーレーンの可能性は、当然各国に相応の思惑を生じさせたわけだ。

 

 北極海の安定航路化の恩恵により、経済回復を果たしたいロシアは、北極ベタニアベースでのマルドゥック計画に積極的に協力、監視司令艦ウラル2世の無償貸与等を行ったものの、これがアメリカ・英国・カナダ等の各国を警戒させることとなった。

 

 またN2リアクターがロシアに齎されることで、この技術の民間転用とロシアの復興加速が図られ、ロシアの他一句としての復権と、北半球パワーバランスの不可逆的変化を齎すのではないか、との懸念が、旧NATO構成国の水面下での協力を加速、それらの結果としてドイツによるロシアへのN2リアクター供与の輸出停止措置と相成ったようだった。

 

 人間という生物は、いかなる危機の時代でも同族争いを楽しむというのは私も歴史で学んでいたものの、その典型例の当事者として被害を被るとは思ってもおらず、空のままのエヴァ専用ハンガーで話を聞いたときは、怒りを通り越してひたすら笑っていたように思う。

 

 私もこの頃になると、もう幼かった頃の面影は長い軍隊生活とそれに伴う若干の人生観の変化でだいぶ失せており、流行りの音楽番組よりアネクドートの類のほうが面白いし笑えるという、少女としてどうなのか、という悲惨なメンタリティに成り果てていた。

 

 口調に関しては、まあ、ご覧のとおりであり、昔は愛らしかったのにね、と基地に来た頃のことを冗談半分、本気の慨嘆半分で言われるのが通例になっていた。

 

 仕方がないのだ。娑婆であればセクシャルハラスメントで訴えるような案件の冗談を受け流したり、なんならこちらから絡んでいくような軍隊訓練生活がしばしばあり、特殊部隊の面々から『エヴァが届かず首になるようなら、後のことは心配せずともよい』と遠回しに入隊を打診される程度には人脈が出来ている状況だったし、私も冗談半分本気半分でそのときはぜひ、と答える有様となっていた。

 

 エヴァ抜きエヴァパイロットという状況で、一部省庁では予算の無駄飯ぐらいとしてやり玉に上がっていたようだったから、14才にして政治的渡世と根回しが必要になっていたのが悪いとも言える。

 

 まあ、しばらく後にその全てがどうでもよくなってしまったわけだが。

 

 それはそれとして、届いたジェットアローン3機には、もう一つ問題があった。

 

 無人機であるにも関わらず、情報記録システムに、脳髄にしてジェットアローンの命にして意思、魂たるAIがまったく入っていなかったのだ。

 

 これも理由はN2リアクター絡みであり、電源にしてパワーリソースであるN2リアクターの制御系が管制システムのAIや各部制御用OSに組み込まれており、これらもN2リアクター輸出停止に関する云々、と難癖をつけられた結果であった。

 

 つまり、脳みそもなければ心臓もない、なんなら神経系を動かす制御系すら入っていないヒト型の鉄の塊を3つもとてつもない高額で買わされたに等しく、エヴァよりは流石に安いとはいえ、安物買いの銭失いでごまかすには高額に過ぎ、この件がプラウダの紙面に乗った3日後に大統領が辞任する騒ぎとなってしまった。

 

 セカンドインパクトにより領土こそ大きいものの、人口減と既存インフラの実質的壊滅という一大惨劇に見舞われた元大国にふさわしい弱り目にたたり目といえる。

 

 神よ、ロシア経済はいつ良くなりますか?

 

 などと我が祖国が愉快な政治的喜劇を演じている間にも、時計の針は容赦なく過ぎていった。

 

 第3新東京市に、第4使徒出現の報を聞いたのは、ロシア支部第一発令所を利用しての会議の最中だった。

 

 燃やす前のウィッカーマンの如き張りぼてのジェットアローンと、エヴァという肉体を制御するためのシステムであるエントリープラグの連結、パワーソースの別途確保によるジェットアローンの戦力化について、ああでもないこうでもないと、その方法は個々が問題だ、それでは破壊された場合放射能汚染が発生すると、喧々諤々の真っ最中だった。

 

 その時、私は確か、訓練スケジュールの都合で、赤のベレー帽、緑を主体としたデジタルフローラ迷彩服を着たままで、インナーはマルーン(紫がかった赤)色の横縞のテルニャシュカだったと思う(着心地がいいのだ)。

 

 会議中、ネルフ本部より使徒の出現及びその迎撃の成功の報が届き、(同じネルフ所属であるにも関わらず、使徒迎撃成功まで情報を秘されたあたりにも、我がロシア支部がどれほど蚊帳の外に置かれていたかを端的に物語っていた)その迎撃戦闘の映像データが回ってきた。

 

 司令が国連会議に出席中で不在とはいえ、本来の敵である使徒の情報は急ぎ確認すべきであるという副司令判断に基づき、会議を中断。

 

 そのまま皆で戦闘内容を確認した際、第4使徒の圧倒的な防御性能に、息を呑んだことを覚えている。

 

 本当に、あらゆる通常兵器が通用しなかった。いかなるミサイルも、レーザー誘導爆弾も、いかなる巨砲の砲撃も、あれにたいしては無力だった。

 

 N2爆雷の恐るべき暴熱すらアレは耐えたのだ。

 

 体表に熱変形の痕跡こそあったものの、それはあの存在の活動に、なんら支障をきたしていないように思われた。

 

 そして、その戦闘に投入された、本来試験型でしかないはずのエヴァンゲリオン初号機は、作戦初動こそ試験型故の機能不全か、あるいはシンクロ不調からかは不明だが、出撃後まもなく転倒、補足され頭部大破という損害を負ったものの、その後の作戦行動における運動性は圧倒的であった。

 

 データにはあり、シンクロテストでそのように運用してきたとは言え、ビルの如き巨体がそうそう早くは動くまいと、皆が思っていた。パイロットである私自身も内心そう思っている有様であったのだ。 しかし、現実は違っていた。

 

 巨体であれば、速度に限界があろうに、そんなものは関係ない、と言わんばかりに、ヒトというよりも、むしろ肉食の哺乳類の如き敏捷さで、それは使徒に襲いかかり、文字通り、圧倒したのだ。

 

 国連軍と戦略自衛隊の総力を上げた邀撃でも損害を与えられなかったATフィールドすら、あれはたやすく無力化していた。

 そして、第4使徒は突如として変形、初号機を包み込むようにして自爆。

 熱エネルギー量にして戦術N2爆雷の爆発に匹敵する威力の爆発と熱線にさらされたも関わらず、大破を免れ、回収されていた。

 

 少なくとも映像で見る限り、あの規模の爆発に巻き込まれながら、装甲鈑にすら傷一つ、熱変形さえしていなかった。

 

 映像が終わったのち、ロシア支部発令所の人々は、長らく沈黙していたと思う。私自身も、失語症になったかと思うくらい、言うべき言葉がわからずにいた。ヴィーテニカの顔面は、かろうじて気丈さを保っていたものの、それが演技に過ぎないことが容易に見て取れるほどに青ざめていた。

 

 本当だったのだ。

 

 使徒は居た、そして本当に来てしまった。

 

 それが、なにをどうやるのかはわからないが、N2爆雷すら通用しない以上、アレを捨て置けば、ヒトの時代はどうあがいても終焉する。

 

 既存生命が死滅するか否かはわからない。

 

 しかし、あれほどの戦力が今後出没し続けるならば、ヒトの時代は確実に終焉する。

 

 仮に生き延びられたとしても、それは使徒の目の届かぬところで、中世さながらに農業や森林資源を利用し、ほそぼそと生きながらえてゆくだけのことで、野生動物に比べ明確に肉体面で劣る現生人類が文明に頼れぬのであれば、それはやはり緩々とした滅亡の道しか残されていないということは、誰の目にも明らかであるように思われた。

 

 映像が止まってから、一体、何分たっただろうか。30分だろうか。あるいは、一時間だろうか。

 

 ともかくも、それほどの沈黙のときが流れ、我々は信じがたい現実を前に、身じろぎ一つ出来ずに居た。

 

 そして、副司令が静かに立ち上がった。正面モニタに、心臓も頭脳もない、虚ろの鉄巨人たるジェットアローン3機の映像が映し出される。

 

 彼の呻きが、静かに響いた。それには絶望の色があった。

 

「無理だ。この機体では、奴らに勝てない」

 

 そして、老いたる副司令は、静かに発令所内の全員を見渡した。

 

 他支部より軍との繋がりが強いだけに、実のところ副司令の経歴は、大したものであったのだ。

 

 セカンド・インパクト以降、ロシア国内各地で頻発した内戦を、空挺部隊を迅速に展開して次から次へと鎮圧してのけたのが、動乱の時期における、彼の赫灼たる戦歴の筆頭となる。

 

 ついで、ロシア衰退に乗じて国境侵犯を図った周辺諸国を彼は相手取った。

 

 既存道路が気候変動による泥濘化で使い物にならなくなった状況にもかかわらず、空軍戦力およびエクラノプランで第一撃をかけて頭を抑えつつ、ホバークラフトから軽車両まで用いてルートを探査した。

 

 そうやって、既存の機甲戦力及び砲兵戦力で、発見された踏破可能な迂回路を通過し、赤軍以来の伝統たる機動戦によって挟撃、ないしは包囲を仕掛けたのだ。

 

 敵の多くは既存地図を元に進撃を仕掛けてきたため、逆にそれが命取りとなり、沼沢地にスタックして苦しんでいただけに、想定外の進路を進撃奇襲された敵は、面白いように壊乱したという。

 

 この混乱状況ならばと夜盗のように襲いかかってきた中央アジア・東欧諸国家(いずれも飢えており、略奪目的の感すらあった。それだけ、セカンドインパクト直後の世界は地獄だったのだ)を撃退し、そのためにロシア陸軍時代は『火消し』と異名をとった、かつての陸軍中将は、何かを求める目をしていた。

 

 その顔色は青ざめていたが、その視線には、しかし明確な意思があった。

 

 その意思を、私は過たなかった。答えられるのは私だけだ。

 

 そう。この機体では、勝てない。絶対に。

 

 予定通りN2リアクターが搭載され、AIが備わった万全の状態ですら、おそらくATフィールドを貫けない。現在の装備では、致命的に火力が不足している。

 

 つまりは第4使徒戦の正確なデータが必要だ。あらゆる物理事象への、科学的分析が必要となる。軍事機関でありながら、科学研究機関でもあるネルフの端くれの、面目躍如をやらねばならない。

 

 切り口は、一つだけある。

 

 N2爆雷は通じなかったが、しかし全く影響を与えなかったわけではない。少なくとも第4使徒体表が融解し、奇妙な形象変形を招いた以上、ATフィールドは『絶対』ではない。熱か、あるいは電磁波か、そのいずれかはわからないが、あれを「通れる」ものはある。あれは絶望の、絶対の壁では決してない。

 

 人類の歴史は絶望の歴史だ。

 

 噴火や隕石落下を要因とした気候変動、疫病、戦乱、飢餓。

 

 あらゆる獣の中で最も弱いにも関わらず、それでもなお今まで生き延び、なんとなれば地球全土まで広がったヒトという種の武器と呼べるものは、ただ一つ。

 

 私は副司令の視線を見返し、はっきりと言った。

 

「副司令のおっしゃるとおりです。今の我々では、勝てません。無論この機体では勝てません。あくまでも今の話ですが」

 

 14才の私は、そう言い切った。そしてこう思っていた。

 

 今は勝てない。絶対に。けれど、絶望したら、勝ち目はきっと見えなくなる。それに、材料はある。それが本当に僅かだとしても。

 

 ヒトが持つ武器とは何か。ヒトがその身体性能において、絶望的に不利であるにも関わらず、それを覆し、今という未来まで、滅亡を免れたのは何故か。

 

 諦めなかったからだ。飢餓にも、病にも、気候変動にも屈せず、それでもくじけず、生き延びようとあがき続けたからだ。

 

 エヴァ専用のパイロットとして作られた、14才の子供にすぎない私。

 

 どれほど鍛えられようが、一個人としては歩兵一人程度の戦闘力しかない私。

 

 とどのエヴァがなければ何も出来ない私。

 

(だから、何?)

 

 14才の私は、その時内心でそう言い捨てた。

 

 ここに来たばかりの時。

 

 意味もわからず食べた黒パンと塩。

 

 まだ自我が目覚めたばかりで幼かった私には意味がわからなかったその儀式の意味を、14才の私はもう、知っていた。

 

 ロシアと言う国はその歴史の大半を、実質的内陸国として過ごしてきた。

 

 民は貧しく、贅沢など夢のまた夢。皆飢えており、黒パンは大切な糧であった。

 

 その大切な、きょうはこれだけ、明日はこれだけ、と考えながら食べないと飢えてしまうかもしれない、貴重な糧を以て、遠方からの客を迎えることを、彼らは飢えより重んじた。全員ではないにしても、そのような人たちはいたのだ。

 

 それに、貴重なのはパンだけではない。塩もだ。

 

 塩は、古代から貴重だった。あのローマ帝国において、貨幣として使われ、兵士へ給与として渡されるほどに。

 

 塩田技術のあったローマですらその有様だったのだ。岩塩の採掘可能な地域を除けば、内陸において、塩ほど貴重なものはない。アフリカなどでは、塩が手に入らないからと、草を焼きその灰を食事に用いて、塩分不足を補ったとも聞く。

 

 それは、ユーラシア北部も同様だった。海辺ではない地域にあって、塩はとても貴重なものであり、生活に必須であるがゆえに、支配者たちは高額の税金をかけ、それはますます大切で貴重なものとなった。

 

 そういう貴重な糧、貴重な塩、自分たちが明日餓えるとも、今日来た稀人を目一杯にもてなすべく、それを以て他者を歓待する。

 

 この国の歴史は必ずしも優しさだけで出来ては居ない。圧政、粛清、民族虐殺、差別、そうした諸々の悪に満ちている。

 

 けれど、それだけではない。

 

 このサンクトペテルブルクの地に、ピョートル1世が要塞を建設する前から、彼らはそうして、客を迎えてきたのだ。

 

 アラビアや、ユダヤ民族にも、同様の習慣がある。私には想像もつかないほど古い習慣。私がどうやっても知り得ない、遥か昔から続いてきた、それはヒトという種族のもつ善性の現れ。

 

 その伝統を以て、無から意識を生じさせたばかり、意思の産声を上げたばかりの私は歓待された。

 

 ならばその塩とパンこそが私にとっては乳飲み子として初めて呑んだ乳となるだろう。

 

 エヴァのパイロットだからこそとはいえ、今の今まで、時に優しく、時に厳しく、愛し育んでくれたこの街、この国こそが私の故郷だ。

 

 記憶すらない、私を生産した月のクローン生産拠点など、ただの生産地という意味しか持たない。

 

 故郷とは、即ち私という存在の育まれた場所であり、私という魂と記憶、知恵の起源をこそ指す。

 

 この街で目覚めた意識の過ごした年月、4年。この街を愛するには充分な時間であり、そしてそれだけの年月、彼らは私に糧を与え、育んでくれた。

 

 年齢も問題ではない。

 

 元よりエヴァのパイロットとして生まれた身の上。仮にエヴァがなかろうと、一歩兵程度の戦力しかなかろうと、糧を貰い、知恵を貰い、給与すらもらった。これで働かないというのなら、それは詐欺というものだろう。

 

 まして、私は誓ったのだ。

 

 私は、全員をもう一度、見回した。

 

 この基地に来たばかりのときのように、けれどあの時より数段力強く、この4年という年月で、私がどれだけ力強くなったかを示すように、口角を曲げ、笑う。

 

 それは、決してあの日のように、愛らしくはなかっただろう。けれど、今の空気を抱えて呆然と佇むなど、この私が立てた誓いと、その誓いが齎す誇りが、決して許せはしないのだ。

 

 だからこそ、力強く表情を作りながら、14才の私は、そのとき不敵に言い放った。

 

「はい。今は勝てません。

 

 まして、我が国の政治的困窮を思えば、バチカン条約で保有数を制限されたとは言え、その機数さえ満たされていない現状で、ユーロネルフがエヴァを回してくる可能性は低い。

 

 経済力を思えば、我が国でのエヴァンゲリオン独自建造という道はない。

 

 まさに八方塞がり。

 

 けれど、それがどうしたというんです」

 

 意図的に、野卑な言葉を選んで言い放つ。

 

 この街を楽しみ、無邪気な少女であれた季節に、可憐であった自分自身に、惜別の辞を告げるように、これから訪れる鉄火の季節を物思いながら。 

 

「私には、退転の道は有りません。

 

 あの日知らなかったパンと塩の意味を、今の私は知っています。

 

 そして、N2爆雷は完全に無効化されたわけではなく、少なくとも体表を融解させることは出来ていた。

 

 ならば、かのATフィールドは、完全な鉄壁ではありません。熱は届いている。まして、あれは死んでいます。

 

 あの存在は、決して踵無きアキレスでは有りません。つまり、殺せば必ず死にます。

 

 あくまで未知未解明。そして未知は未知であり、必ずしも不可能を意味しません。

 

 私が、そして貴方方が戦うべき敵が来た以上、私に敗北は赦されない。エヴァがなくとも、あるいはエヴァを手に入れ、戦いのなかそれを失おうと戦い続け、勝利し続け、打倒しなければならない。

 

 あの日頂いた、パンと塩に誓って、私という存在に貴方方が注いでくださったものが、無駄ではなかった証を立てなければならない。この体を形作る血と骨に誓って、これは絶対です。

 

 次の使徒がいつ来るかも不明である以上、状況は火急と認識します。

 

 今戦うすべがないのであれば、戦うすべを見出す戦いを、我々はただちに始めねばなりません。これが、私の意見具申です。副司令」

 

 笑顔のままに、決然と、14才の私は言い放つ。

 

 もとよりこのための道具。このための武器たる身の上だ。

 

 4年の歳月。充分に幸せな時間を生きた。そして、私の知らない、私と同じく、ささやかな、けれど大切な日々を享受している人々がこの世界には沢山いる。

 

 この街だけで500万。この国全体ならもっと多い。ましてこの世界なら単位は未だ数十億。これを守る。

 

 そのために私は鍛えられてきたし、この国は歴史上何度となく苦しみを味わい、そして再起を遂げてきた。

 

 諦めなどしない。くじけない。

 

 14才の私は、決意していたのだ。守る理由を脳裏に描いて。

 

『セーヴェル』でいつも親切にしてくれるおばさん。恐ろしく精悍で、訓練のたび学びをくれる特殊部隊の人々。

 

 不器用で、けれど優しい副司令。

 

 私が訓練で無茶をして体を壊すたび、苦労して私を治療してくれた医務官どの。

 

 そして、誰よりも、私を愛してくれた、姉にして友人、ひょっとしたら母にも等しいかも知れない、親愛なるヴィーテニカ。

 

 私が大好きな人、私に人生をくれた人、私が道具であり武器であることに、内心誰よりも憤ってくれた人。

 

 他ならぬあなたに、幼い私は、たとえ幼さゆえにせよ、あの日笑顔で誓ったのだ。

 

──そんなの、私だって守りたい。

  だって、この街が、大好きだから。

 

 であれば、必ず勝利しなければならない。

 

 あなたが決して教えてくれない、あなたが喪ったなにかの再演を、決して繰り返さないために。あなたにその景色を、二度と見せない、そのために。

 

 使徒は強い。恐ろしいほどに。この国を訪れた全ての厄災、暴君をすら凌駕するほどに。

 

 既存の手段は全て通じず、勝利のすべなど、まだ欠片の、そのまた欠片程度しか見えない。

 

 それでもなお、私は勝つ。今は手がなくとも、明日に、明後日に、術を見つけて、必ず勝つ。私ではなくとも、ロシア支部の誰かが見つけてくれる。私はその時そう信じた。

 

 そして、その時の私は、こう思ったのだ。

 

 そのために今、何も出来ないたった今、もしもできることがあるとしたら、それはきっと、笑うことだ。大変かもしれない。辛いかも知れない。滅びるかも知れない。でも、それは今じゃない。

 

 この生命は、まだ生きている。皆にもらった幸せな日々は、胸の中に息づいていて、その世界は、ロシア支部を出れば、サンクトペテルブルク中に広がっていて、今も脈々と続いている。

 

 あれを舐めてはいない。あれを恐れていないと言えば、嘘になる。

 

 あれがここにきたらどうなるか、そんなことは用意に想像ができる。

 

 14才の私はその時、実に無邪気に思っていたのだ。

 

『笑顔のアーニャ』。

 

 アヤナミシリーズとして生まれた女に、笑顔とあだ名をくれたあなたと、私にその表情をくれた、支部の人々に、今度は私が笑顔を返す番だと、心からそう信じていたのだ。

 

 今は絶対ムリだとしても、明日、勝てるアイデアが思いつくかも知れない。明日無理なら、その次の日に。

 

 多分、その時、私は、きっと無意識に気づいていたのだ。

 

 笑顔がくれる暖かさが、私という存在を、どれだけ変えてくれたのかを。

 

 笑う。

 

 あの日、私を囲んでいた表情を、意味もわからず、顔だけで真似たものが、どれほど心を暖かくするかを。

 

 14才だったあの日、発令所には、絶望が満ちていた。勝てるのか、という重い不安が満ちていた。

 

 その時点で、負けている。

 

 次いつ来るかはわからないけれど、一度来たならきっとまた来る。

 

 戦うのは今じゃない。その前に気持ちが負けていたら、負けたままで、勝てはしない。

 

 現実で勝てない。でも、心は勝てる。

 

 諦めで自分を苦しめて、心を、発想を重くしたら、見えたかも知れない勝ち目さえ、きっと見えなくなってしまう。

 

 自分を痛めつけながら覚えたシステマが教えるように、心の自在さを保つ。

 

 そして、可能性を見出す。可能性が見えたなら、その可能性を広げ、穿ち、貫き、勝つ。

 

 何度でも、繰り返す。何度でも。

 

 セカンドインパクトに続くもの。

 

 サードインパクト。

 

 使徒が齎す、人を滅ぼす破局。

 

 絶対に、防ぐ。絶対に。

 

 本当は、国なんて大したものは、きっと意識していなかったのだ。

 

 あの日パンと塩を以て迎えてくれたこの支部の人々と、私が過ごし、愛したこの街を守りたいというだけのことなのだ。14才の私は、そのためなら、血の一滴、骨の一片になるまで砕け散ろうが構いもせずに戦い抜き、必ず勝つと決めたのだ。

 

 絶望は死んでからすればいい。それまでは、ただ、無心に考え、無心に探す。見つかるまで、頑張る。見つからずに敵が来たら、見つかるまで時間を稼ぐ。五臓六腑が砕けても、髪の先まであがいて、誰かが勝つ手を見つけるまであがいてやる。

 

 まだ未来を知らない14才だからこそ誓えた、本当に無知で無垢で、だからこそ純粋な決意だった。

 

 副司令が、私の言葉に、漸く頷く。

 

 皆、笑いはしない。けれど、眼光は先程より、強い。

 

 ただ、ヴィーテニカだけが、ひどく悲しそうにしていたのは、今でもはっきりと覚えている。

 

 いまなら、彼女がそんな辛い顔をしていた本当の理由がわかるのだ。

 

 何も知らない無垢な幼子として、きっと彼女が喪った、大切なものと重ねていた存在が、このようなことを言い放つ。

 

 兵士のような顔をして、兵士のようなことを言う。

 

 必勝を明言したのだ。つまり戦いに赴くことを誓ったのだ。

 

 ただの少女たらんとする道を、己の言葉で切り捨てたのだ。

 

 幼く無邪気で柔らかな笑顔は、男ですら耐えかねる鍛錬の果て、少女に似つかわしくない不敵で不遜な笑みに化け。

 

 柔らかく整っていたショートヘアは、潤いのないバサバサした、申し訳程度に前髪を整えただけの、実用性しか考えていない総髪と成り果てているし、服装も14才の分際で、パイロットだから程度の理由とは言え、階級は特務中尉、被っているのは、こっちは少なくとも伊達ではない赤のベレー帽だ。

 

 あれこれと一緒に買った女の子らしいブラウスやスカートも、赤いサラファンも、13才ごろから、ヴィーテニカたちとの私的外出の時を除いて、着なくなってしまった。

 

 それこそが今の私の起点なのだろう。

 

 あのような場で、あのような絶望の敵と、それに対するにあまりにも貧弱で滑稽な状況で、それでも一人、道化で構わぬ、笑ってしまえ、けれど決して諦めるなと、大の大人が群れている中に、小娘風情が、何様のつもりか偉そうに叫んだのだ。

 

 言った言葉は、戻らない。叫んだ誓いは、守らねばならない。

 

 それは、カラクリを知っている今となっては、ひどく滑稽な誓いだった。使徒がペテルブルクにくるはずがないのだ。そのように世界は仕組まれていた。知らないからこそ思い込んでいた、知らないからこそ頑なに誓った、番外の駒の滑稽な誓いと、仕組んだ人々なら思うかも知れない。

 

 けれど、今でもそれは神聖な誓いで有り続けている。あの日のあの思いは、決して、無駄にはならなかったのだから。

 

 だから、あの日の映像がもたらした絶望に、14才の小娘が、本音度外視の作り笑顔で抗った、あの日あの時あの瞬間こそが。

 

 いずれアレクサンドラ・イヴァノヴァを名乗る、無自覚な出来損ないの綾波シリーズ初期ロットにとって、暖かな小春日和のような日常と、自らの意思で決別を告げた瞬間だった。

 

 

 

──To be continued.



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第2話『北の地にて』Interlude:挫けない唄 中編

 結局のところ、人類は、その時一度敗北を喫した。

 その事実は覆しようがない。

 だから、その時の決意は、どうしようもなく無駄で、滑稽であったのかも知れない。

 

 そもそも、使徒が第3新東京市以外を目指すことはありえない。

 

 与えられた『使徒撃滅』という目的すら、ネルフ本部およびゼーレにとっては本来の目的を遂行するための戦術的な目標に過ぎなかった。彼らの本来の目的は、私達には隠蔽されていたのだ。完全に蚊帳の外に置かれていた。なんとも間抜けな話だと言われれば、まさにそのとおりだと思う。 

 

 その事実を我々に告げたのは、リョージャ・カジンスキー……もとい、リョウジ・カジと名乗る男だった。

 

 佇まいから表情まで、全てが嘘くさく、胡散臭い男。

 

 美点と呼べるのは顔立ちが整っているぐらいのもので、それも無精髭で台無しになっていた。

 

 妙に流暢なロシア語、仕草のすべてが演技のようで、他人に対して演じているのか、自分自身に対して演じているのかもわからないところがあり、真実という言葉がきっとこの世で最も似合わない男であるように、そのときは思ったものだ。。

 

 その胡散の権化が、定期監査を名目にロシア支部を訪れたのは、第3新東京市戦役勃発の、たしか半年前だった。

 

 主席監察官の肩書を持つ、本来ならばネルフのため、組織全体の秩序を保つ立場にある男が、むしろ陰謀を企め、ネルフが隠す真実を暴けとと言わんばかりに、『世界の真実』と題された大容量記憶媒体を、ロシア支部副司令に手渡してきたのだ。我々を『信頼できる存在』と思った、だから託す、と副司令に対して言ったらしいが。

 

 冗談にもほ、どというものが有る。

 

 国家としてのロシアには、古代からランドパワー国家特有の無慈悲な権勢欲と、故あれば寝返る獣性に定評があるのだから。私が言うのもなんだが、祖国の歴史にはそのような要素がつきものだ。企んだろくでもない陰謀の数で言えば、かの大英帝国にも劣るまい。

 

 ネルフ本部の(形式上とはいえ)指揮系統の下にありながら、時にロシア政府の直属機関として立ち振る舞う事を辞さないような支部を、『信頼できる』と言う時点で、腸に色々と本音を隠し持っているのはむしろ明確であるように、話を聞いたときは思えた。

 

 きっと神経がどうかしているか、彼自身が『信頼できない存在』であるかのどちらかに違いない。当時の私はそう決めつけていた。

 

 ともかくその情報を受け取り、自室にて一人で内容に目を通した副司令が、その後信頼できると判断した支部のメンバーを支部で一番『清潔な』会議室に極秘裏に集めた。

 

 そして、彼のもたらした『真実』を私達に話して聞かせ、画像および動画データを見せ、その内容についてのリョウジ・カジンスキーの分析と、副司令なりの考えを話したのだ。

 

 セカンド・インパクトおよび、ニア・サードインパクトの真実と、その目的。『人類補完計画』。ヒトを含めた旧生命をマテリアルとした、来たるべき新生命の創造。それを達成すべく、あらゆる文明、あらゆる大国を隠れ蓑として、有史以来暗躍し続けた秘密結社ゼーレの存在。

 

 そのグノーシス主義をこじらせた独自の思想を以て、原罪を捨てろ考えるのやめろ行動やめろ、罪の穢れのない永遠の楽園に導いてやる、というのだから恐れ入る。

 

 猫にはオモチャでもネズミには涙という格言がある。強者たる彼らは満足かもしれないが、精神の働きを凍結され、記念碑よろしく宇宙が滅ぶまで、エヴァもどきの新生命の細胞となって永久保管というの は、ぞっとしない運命だった。

 

 ロシアという国は、国土が広く、またその気候の苛烈さからか、様々なカルト宗教の楽園になりやすいところがある。その手合で一番有名な人物を上げれば、ラスプーチンとなるだろうか。また、ソ連時代など大真面目に超能力を研究していたという事実もあった。(今にしてみれば、それも案外ゼーレ絡みだったのかもしれない)陰謀の国だ何だと言っても、どこかしら馬鹿なイワンな国ではあるのだ。

 

 ともかくそういうインチキな手合がおおい、騙されるなよ、みたいな冗談半分の忠告は、ロシア支部職員同士でよく交わされていた。

 

 今にして思えばエヴァだの形而上生物学だのなんだの、ネルフも大概の組織であったが、エヴァに関しては現物が実際完成して報道されてもいたし、私というパイロットも届いたのだから、疑う余地がそのぶん少なかった。

 

 実際、私自身も、自分自身の宗教性や儀礼性など、考えもしなかったのだ。特殊部隊でさんざんしごかれて、その種のオカルトよりも、ナイフや銃弾、仲間をこそ信仰する癖がついてしまっていた。

 

 本来1G環境に最適化されたいのちであるヒトを何故月でクローン培養した上でわざわざデリバリー対応、クローン培養プロセスも極秘とくれば、相応にオカルト案件であると想像してもよかったのかもしれないが、お前はそういう存在なのだぞ、と突然いわれて信じられるだろうか?

 

 無理を言わないでほしい。初期ロットには等しく備わっているらしい読心力の類も、私にはなかったのだから。

 

 使徒という存在に関しても、エヴァという兵器がある以上、そういう超常の怪物がいても不思議はない程度に思っていたところがある。

 

 しかし、驚くべき事に、副司令は、彼のもたらした『真実』を信じるつもりになったようだった。

 

「彼と、彼のもたらした情報は信頼に値する」と断言した時、ヴィーテニカが浮かべた絶望の表情をよく覚えている。

 

 当時の私は何故このような与太話を真顔で信じるのだ? と思ったが、副司令やヴィーテニカは、おそらく私の知らない真実を、彼らなりに探り、片鱗を掴んではいたのだろう。

 

 怪しいと思って調べていたところに、突然解答が降って湧いたわけだ。あんな運命をヒトに齎すために我々は存在し、ヒトではなくその行いのためにこそ奉仕させられていたのだ、と伝えられれば、絶望するのも無理もない。

 

 彼女が人生を捧げると誓った組織に裏切られたのだ。果たしたかった理想を踏みにじられたのだ。

 

 たとえ使徒を殲滅したとしても、彼女が内心誓っていた、『護りたい』という想いは、願いはかなわないと知らされたのだ。むしろ、加害者に加担してしまったのだとすら、彼女は思ってしまったのかも知れない。

 

 使徒を捨て置いても人は滅ぶ。しかし、使徒を倒しても、人は滅ぶ。あるいは滅んだも同然の状態となる。

 他のメンバーも、実のところ、表情はヴィーテニカと、大なり小なり似たようなものだった。

 

 副司令ですら、表情を殺したその顔に、深い絶望が眉間に皺となって顕れていた。

 

 それで、自分がその得体のしれない儀式のための、ヒトの形をしたオカルトの祭具でありと知らされた、14の時の私はどんな顔をしていたか?

 

 そんなものは、言うまでもない。私は──

 

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 EPISODE:2 No one is righteous,not even one.

 

 Interlude:Indomitable song

 

 Second part

 

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10年前

 

 

第3新東京市戦役勃発より51時間後

 

サンクトペテルブルク南西 キンギセップ近傍

 

ルーガ川西方10キロ地点 午前3時

 

 

 

 サージャ・アヤナミは、闇に満ちた昏いエントリープラグの操縦席で目を覚ました。

 

 座席正面の液晶パネルと、そのパネルの左右のサブスクリーンだけが、僅かに緑色の燐光を発している。

 

 濃緑色に染まった第二世代型プラグスーツのゴムとプラスチックの合いの子のような触感の皮膜状生地に覆われた腕の、手首を取り巻く手錠じみた突起部の液晶モニタに目を落とす。

 

 血圧、心拍数、酸素濃度、血糖値、形象状況、いずれも異常値を検出せず。

 

 勿論、疲労感もあれば、度し難いほどの眠気もあった。なのしろ、この12時間というもの、ろくな休憩もなしに戦い続けていたのだ。

 

 流石に交戦時間が交戦時間であったため、武器・弾薬の補給および、彼女が用いる濃緑色のエヴァ、その強化外骨格たるJAヘヴィアーマーのメンテナンスが必要となっていた。

 

 それに、ロシア支部との通信がジャミングが原因か、あるいは支部施設の損壊(支部もユーロ連合空軍の空襲を受けており、熾烈な防空網を突破した対地ミサイルやレーザー誘導爆弾により、何度も被害を受けていた)により途絶状態となっており、仮眠を終えた今も、通信は回復していない。

 

 セカンドインパクトによるルーガ川の増大と、ソ連時代の報復とばかりにロシア国内の混乱に便乗して押し寄せてきたバルト三国連合軍との国境紛争によって廃棄された、かつてキンギセップと呼ばれていた無人の市街地、そこに築かれた、ロシア陸軍がレニングラード軍管区の戦力をかき集めて編成した緊急展開部隊の野戦司令部へ、彼女と彼女のエヴァは、一時後退し、仮眠をとっていたのだった。

 

 ロシア支部より非常事態、つまりは支部がの際のエヴァの運用・整備を事前委託されていたロシア軍によって、補給・修理・整備を行っている間、彼女は次いつ取れるかもわからない仮眠をとることに決め、そして現在に至っている。

 

 目覚め心地と気分はといえば、最悪に近い。

 

 シンクロをカットし、360度内部スクリーンの電源を落とし、プラグ内部を暗くして眠っていたとはいえ、仮眠が取れた時間は30分程度。これでは疲労が取れるはずもなく、無論睡眠が足りているはずもなかった。

 

「やむを得んな」

 

 14才という年齢に似つかわしいとはいい難い、2年間繰り返された特殊部隊との、訓練をふくめた公私の交流によって、完全に染み付いてしまった男言葉でつぶやくと、首の左肩側やや後ろにある窪みに指を当て、スイッチを入れた。

 

 電気マッサージに似た刺激と痛みが、頸部に走る。

 

 スイッチを入れたことにより、エントリープラグおよび、頭部シンクロ用ヘッドセットからパイロットのバイタル・脳内電位状態のデータをプラグスーツの背中側に備えられたバックパックがパイロットの身体状態を診断した。

 

 そして、バックパックユニット内部の診断AIは、彼女の身体状態を調べた上で、疲弊状態で脳の処理能力が低下した彼女の『性能』を回復・維持すべく、頸部迷走神経に電気刺激を加え始めた。

 

 彼女が座席モニタに目を落とすと、整備作業の進捗状況は既にして95%を示していた。あと数分で出撃可能となるだろう。

 

 つまり寝直すには短い時間だが、寛ぎ、精神を立て直すには事足りる程度の時間はある。

 

 鼻からLCLを吸い込み、口から吐き出すという、システマの訓練を恒常的に受けているうちに習慣となってしまった平常心維持のための呼吸を繰り返すうちに、彼女は徐々に眠気と疲労感が脳から退いていくのを感じた。

 

 電気刺激を受けたことによる覚醒状態は、12時間後にピークに達する。その後覚醒作用は減衰しながら最大で19時間は継続することになるだろう。

 

 その19時間で片付いてくれればいいが、と彼女は思う。

 

 その時間で状況が片付かない場合、おそらく自己判断か、バックパックのバイタル状態確認機能によって、通称『ホット・チョコレート』の隠語で呼ばれる非常時用薬剤を血管内に注入する羽目になる。

 

 ドーパミン系に作用して強い覚醒作用を齎すデキストロ・アンフェタミンを主剤とし、ブドウ糖、各種アミノ酸、クエン酸ナトリウム、各種ビタミン等が添加されたこの薬剤は、疲労の極地に達した脳と肉体を再賦活し、また空腹感を消失させるのだ。

 

 電気刺激程度では脳活性が追いつかず、自らの意思ではもはや稼働不能になってしまった肉体であろうとも、この薬剤の投与によって、戦力として活動可能な状態へ戻ることができるが、この薬剤は当然劇薬の類である。非常に強い依存性と、そして危険な副作用があった。

 

 何度も使用すれば当然依存状態に陥り、中毒患者の末路は、その大半が追跡妄想を始めとしたせん妄状態、抑うつ、幻覚、錯乱等である。

 

 つまりろくなことにはならない上に、回復からは長期間のリハビリと療養を必要とするのだ。

 

 さらに使用時は、薬理作用により異常な興奮状態と、強すぎる集中力を発揮してしまうようになる。歩兵が銃を持ち何かを照準する時、スコープがなくとも一種の視野狭窄状態に陥ることは知られているが、それよりさらに視野が狭まってしまう。これもまた、致命的な副作用と言えた。

 

 また、一種の全能感が発生することもしばしばある、と彼女は聞いている。戦闘中に身動きできないほどの睡魔に襲われるのも危険だが、酷い躁病を発したような精神状態に陥り、万能感に導かれるままに、自信満々の気分で疑いもせず、致命的失敗へ繋がりかねないような、普段であれば絶対に侵さない行動を取りかねないというのも、戦闘においてはやはり致命的なことこの上ない。

 

 同じ『チョコレート』であればアリョンカのほうがまだいいと彼女は思う。

 

 この国に来て以来、彼女は完全にあの味の虜であり、ミルクと砂糖たっぷりのコーヒーでアリョンカを齧りながら読書にふけるのが彼女にとっての休日の過ごし方でも5本の指に入る至福のひと時なのだ。

 

 この動乱の発生は、彼女が当分その至福の時間を過ごす機会を得られなくなってしまったことを意味し、エヴァのパイロットとして給与と住まい、食事まで得てきたわけであるから、それら権利に対する義務は当然果たさねばならないとはいえ、内心では憤懣やるかたない。

 

 なにしろ、その『お預け』の時間は、あの詐欺師の如きカジンスキーの言う真実が正しいとすれば、年単位、10年で済むかどうか、というほど先になるようなのだそうだから、腹が立ちもすれば怒りもする。

 

 幸い状況が状況であり、八つ当たりする相手には事欠かないのが、救いといえば救いだろう。

 

 作業の進捗状況は95%。『八つ当たり』をする相手と、自軍の状況を確認する時間はあるだろう。

 

 彼女はシンクロ制御で無線通信機能を再起動、ジャミングの類がないことを確認してから、有線小型基地局車両やECM・ECCM能力を付与され、電子戦機能を有した通信中継ドローンによって展開された、ロシア軍の戦術イントラネットに接続した。

 

 自らの周囲にいくつかの3Dホログラムディスプレイが展開され、戦場状況を示す簡略化された地図情報と、自軍・友軍、そして敵軍の展開状況がそこに映し出された。

 

 一通り眺め、サージャは苦笑しながら呻いた。

 

「なんとも壮観なことだな」

 

 彼女のエヴァが、敵軍の先鋒を撃破し、僅かに生じた時間的間隙を利して一時後退、補給を受け休息を撮っている間に、敵の新たな増援が到着したようだった。

 

 撃破した先鋒を構成していたのは、ソ連時代からの報復のつもりか、セカンドインパクト以後発生した国境紛争の捲土重来のつもりか、ユーロ連合軍先鋒として押し寄せてきたバルト三国軍であり、そして空には所蔵不明、おそらくはゼーレの放ったのエヴァもどき──両手足にローターをつけ、頭部から口吻の如き赤い槍を生やした、エヴァを使って巨大シベリア蚊のレプリカを拵えたような、奇妙にも程がある粗製のエヴァどもであり、撃って撃って撃ちまくり、陸軍と共同してバルト三国軍及び、30機ばかりのシベリア蚊エヴァどもの撃退に成功した矢先も良いところだから、疲労感が否応なしに募ってしまう。

 

 現れた戦力の規模を考えれば、増援と言うよりは、むしろ敵軍の本隊というべきかもしれない。

 

 敵陸上戦力前衛部隊、その主力戦車はレオパルト2A7V。

 

 北方よりサンクトペテルブルク市街及び、ネルフロシア支部方面へと飛来しつつ有る航空機は、索敵情報が正しければ、ユーロファイターEF-2000にF/A-18E/Fアドバンスドモデル。

 

 雀蜂どもは、おそらく戦術N2爆雷搭載可能型だろう。撃墜のリスクを冒して、非ステルスのスーパーホーネットをわざわざ展開してくるということは、市街地やロシア支部施設、そして展開するロシア軍に対し、それを躊躇なく使用するという決心の現れに他なるまい。

 

 そして陸上戦力と空中戦力、その尽くに、伝統のタッツェンクロイツ(黒十字)が描かれているとなれば、敵軍の氏素性については疑いようもなかった。

 

 二次大戦の雪辱を晴らしたいのはバルト三国やウクライナ、ジョージアなどの、ソ連時代からロシアに長年恨みをつのらせていた周辺諸国のみかと思っていたが、どうやら他にも居たようだ。

 

 しかしまさか、かのオーストリア人の伍長殿の真似事を子孫が始めるとは。

 

 それとも更に遡って、あの支配欲だけはかろうじて偉大といえる、かの傲慢なるヴィリー、ヴィルヘルム二世の亡霊でも取り憑いたか?

 

 あるいは嘗てのドイツ騎士団の伝統に則り、現代の東方十字軍として異端と邪教を狩る熱意と義務感に、突如駆られたのかもしれない。

 

 まさか、この期に及んで『第四帝国』などという妄想を抱いてはいるまいな? まあ、実際のところは、ゼーレの隠れ蓑である国連のプロパガンダに踊らされただけだろうが。

 

 彼女はいよいよ以て、皮肉の色合いを濃厚に帯びた笑みを深めた。

 

 親愛なるろくでなしのリョージャ・カジンスキー。

 

 例の『真実』とやらの情報を聞かされた時、黙示録だかラグナロックだか、ノアの洪水の再演のような戦争になるとは覚悟していたがな。

 

 しかしまさか、第二次大祖国戦争まで勃発するなどとは。そんな話は聞いていなかったぞ?

 

 ゼーレの連中は、どうやらこの地に展開するロシア人全てに、政治的与太話を書いた葉書をアルメニア・ラジオ局へ投函させたくてたまらないらしいな。ここまで与太を盛られると、さすがの私とて笑みが冷える。

 

 ああ、もっともアルメニアはソ連崩壊時にロシアから分離独立を遂げたが。今はたしか、日和見を決め込んでいたか。もっともあの国はろくに資源がない、コニャックと旧さが売りの内陸国だ。

 

 ろくに戦力がない以上、そうせざるを得ないのだろうがな。

 

 彼女は無線通信機能の通話機能をオンにし、周波数をキンギセップに設営されたロシア軍前線司令部へ合わせた。

 

 必要な情報収集と状況報告は、実のところイントラネットだけで全て片付くのだが、この歴史的因果と皮肉と諧謔に満ちた状況について、少し誰かと話をしたかったのだ。

 

 脳裏で無線のスイッチを入れるようにイメージして無線をつなぎながら、声を発する。

 

「ノブゴロド、こちらツィガーニ。あと後数分で再出撃可能。

 

 起きてみれば伍長殿の後継者共が押し寄せて来ていて思わず笑ってしまったが、南部軍管区からの増援はどうなっている?

 

 政府高官および、軍上層部のゼーレ内通者は排除済みとGRU(ゲーエルウー、ロシア連邦軍参謀本部情報総局の略語)から聞いている。

 しかし、これほど我々が圧迫を受けている状況で、Su-30SMの一機も送って来ないとは呆れたものだ。彼らはいささか、祖国防衛の熱意と忠誠に欠けているのではないか?」

 

 彼女の言葉に、おそらく20代後半程度と思われる、アルファベットの『O』を『A』に置き換える傾向が強い、モスクワ訛り丸出しの、声音が妙に若い司令部付士官の声が応答してきた。

 

「ツィガーニ、こちらノブゴロド。機会主義者はゲルマン民族のみではないようだ。

 かの偉大なるスルタンの末裔の国が、ここ200年ほど埃を被っていた鍋とスプーンを戦旗と掲げ、露土戦争の復讐に来たそうでね。

 まさにセカンドインパクトの再来の如きということさ、ニア・サードインパクトの続きにふさわしいじゃないか。

 それにしても、君のその言葉遣いはどうにかならないのかい? 声音に残った幼さを除けば、14才の乙女とは到底思えない」

 

 忠告じみた内容のわりには、どこか面白がっているような言葉使い。

 

 モスクワ男にしてはユーモアのあるやつだと内心思う。

 

 彼女自身も疲弊こそあれど、どこか状況を楽しんでいる心境をそのまま声音に表して応えた。

 

「服装によって迎え、才能によって送る(Встречают по одёжке, провожают по уму.)というだろう? 言葉遣いで取り繕おうが、中身はどうにもならんのだ。

 むくつけき特殊部隊の連中に混じって、男でもなく女でもなく、一人前のただの軍人として、あの恐ろしいシベリア蚊曹長とブヨ曹長を相手に来る日も来る日も演習だ。同僚の人間どもも容赦などしてくれん。

 14だろうが一人前あつかいだ。実にありがたいことで涙が出る。

 彼らに見下されんように振る舞い、冗談の一つも交わしあえば、嫌でも彼らの流儀が、心と舌に染み付いてしまう。

 お上品なお嬢様役など、とうていやっておれんよ」

 

「なるほど、娑婆では娑婆の言葉、軍隊では軍隊の言葉ということかい。

 しかし君は、娑婆にもどっても、そのような言葉を好んで使っていると聞く。君の担当の戦術オペレーターと医官殿が大変嘆いていたというのは、僕ですら知っているんだが」

 

 大仰かつ芝居臭い軽口を叩いてくるやつだな。

 

 馴れ馴れしい、とサージャは呆れた。とはいえ、戦況は良いとは言えない状況で、明日には人類史が終わっていてもおかしくない、まさに冗談のような状況だ。軽口の一つも叩かなければ、やっていられないのかもしれない。

 

 などと考える間にも、通信回線向こう、顔もわからない男の軽口は続いている。

 

「ほんとうに愛らしい子猫のような娘だったそうだけど、恐ろしい軍隊が鍛え上げ、すっかり野蛮で恐ろしい豹に育ててしまったなどと、それはもう酷い悲しみようだったらしいね。

 話半分に聞いていたけれど、この12時間の君の奮闘と君の言葉遣いを思えば、なるほど嘆くのも当然のことかもしれない」

 

 その言葉を聞き、流石にサージャは少しむくれた。野蛮な豹とはたとえにも程があると思う。せめて山猫程度にしてほしいものだ、と思いつつ、彼女は回線越しに彼へ言葉を返した。

 

「それはロシア支部と国家親衛隊内部の機密情報のはずだが、いつからロシア陸軍に漏洩していたのだ? どうやらゼーレだけではなく陸軍もロシア支部に内偵を行っていたようだな。副司令に報告せねばなるまい」

 

「ツィガーニ、自ら漏洩しておいて内偵も何もないんじゃないかな。

 ロシア男が喰うケーキはレバー・ケーキだけというわけでなし、ましてロシア軍はソヴィエト時代以来、伝統的に女性が多い軍隊だ。

 14才のアルビノの少女という時点で良くも悪くも目立ってしまう。可愛い女の子ならなおさらだ。

 それがあの赤いベレーを被ったデジタルフローラ迷彩姿で『セーヴェル』の窓際に腰を据え、スメタンニクやチョコレートケーキを、それこそ胃袋に底がないのか、と呆れるほどに平らげる。

 そして、馴染みの店員や連れのネルフ職員に、ガサツ極まる男言葉で大声で話して、目立たないと思うほうがどうかしている。

 内偵を疑う前に、君自身がネフスキー大通りの風物詩であるという自覚を持った方が良いと思うよ」

 

 その言葉に、彼女は流石に一瞬眉をひそめた。想定外だった。 

 

「そうなのか? 貴重な意見だな。言われてみれば軍服姿の女性の姿を、あまり店内に見かけなかった気もする。私ぐらいのものか。そうか。

 しかし生憎、生まれが生まれで育ちが育ちでな、同年輩の友人と話す機会を持てなかった。おかげで女らしい言葉遣いがわからん。ヴィーカを真似るのは、色々違うしな。性格の作りが違う。

 そうだ、思いついたが、女性らしさを加えるため、モスクワ訛りを真似るというのはどうだ? ノヴゴロド。良い思いつきのように思うが」 

 

 笑みを浮かべながらサージャは言った。通信回線向こうの士官の声が、流石に一瞬口ごもる。ややあって返ってきた声音は、やはり軽妙なものではあったが、若干の憤懣の気配があった。

 

「ツィガーニ、古さと伝統だけが取り柄のサンクトペテルブルク育ちの女にそれを言われたくはないよね。モスクワ生まれにそれを言うのは本物の戦争になるから、よしたほうがいい」

 

 軽薄の権化のようなこの男にも、怒るということがあるのだななどと思いつつ、彼女はまたしても笑みを深めた。

 

「なに、14の小娘らしく、男をからかって戯れてみたかっただけのことだ、ノヴゴロド。

 

 むあkし、どこぞに亡命したロシア人が、とある少女に恋い焦がれ破滅する中年男の話を書いて以来、その種の物語は、ある種の男どもに常に評判であると聞くからな」

 

「ツィガーニ、君がかなりの乱読家で、見る映画も種類を選ばないという噂は本当のようだね。ひどい知識の偏りようだ」

 

「正直に言えば好き好んで演じているところもある。

 私の基となった細胞提供者の女性の生まれた東方の島国で流行している、ある世代の少年少女が患う、精神的病が由来かもしれん、確かツーニィビョと言ったかな。あるいはチーニボゥだったかもしれん。綴りが色々違い、発音がよくわからんのだ。

 正直私もSNSで見ただけなので詳しくは知らんが、大人への憧れと大人になりたくない心の自己矛盾、一種の屈折を示す、精神的文化がどうたらた、だそうだ」

 

「ツィガーニ、君は支部だけではなく学校へ行き、この国の同世代の少年少女達と過ごすべきだったよ。なんともひどい偏りぶりだ。

 子供の成長において、同世代と同じ時間を過ごし、情緒や言葉遣いを共有することの大切さが君と話しているとよく分かる。もちろん、君自身が望んだわけではないだろうけれど」

 

「貴重なご意見痛み入る、ノヴゴロド。育児に悩む季節が訪れたら参考にさせてもらう。それと、割と私が望んでやっているので、その点は訂正させてもらうぞ。

 しかし、私の側から無線を送っておいてなんだが、小娘の他愛ない戯言にこうも付き合ってくれるとは、随分と貴官も暇なのだな」

 

 彼女の言葉に対する応答には、若干自嘲の響きがあった。

 

「大祖国戦争以来、人口減に苦しんでいたところにセカンドインパクトだからね、人間ではなく機械を使えるならば、可能な限り自動化したいと言うのが軍上層部の偽らざる本音だよ。

 技術が進む度、人が機械に置き換えられる。結果として僕は暇になり、こうして君とひと時のおしゃべりを堪能できるというわけだ。何しろ、今やイントラネットと各種戦術プログラムが、かつてオペレーターが行っていた報告や情報分析を高速で自動処理してくれるからね。

 司令部付士官という存在は、平時はともかく戦闘中は、君が思うほど仕事がないんだ。

 戦闘記録をつける役目さえ、今は機械が担っている。単純な記録であれば、機械の方がよほど正確なのだから、仕方がないけれど」

 

「なるほど、スマートテクノロジア時代の悲しむべき現実ということか、ノヴゴロド」

 

「そんなところさ、ツィガーニ。バカな兵隊が自前のスマートホンを戦場に持ち込んでsnsに自部隊の位置を示す情報を世界中に流さないか、自軍の電波を監視して、いちいち注意するなんてバカバカしい仕事ができもしたけれど、量自体は減っている。

 手に入れたばかりの情報をまとめた用紙を片手に駆け込んで、汗も拭わず緊迫した面持ちで指揮官に戦況を報告し、それを聞いた指揮官や参謀がその場で激論を始める、というなんていう戦争映画でよく見た景色も、今は昔の物語でね。

 もっとも、戦況しだいでは、突然現在に姿を顕すこともあり得るかもしれないけれど。

 何はともあれ、楽しい会話の時間もそろそろおしまいのようだ。君の愛機が待ちくたびれたとせっついているよ」

 

 話に夢中になっていたわけでもないのだな、と思いつつ、彼女は正面モニタに現れた『整備完了』の文字を眺めた。装備された武装は『EM-226』440mm回転式多砲身機関砲である。

 

 ベルト給弾式とはいえ、弾のサイズが弾のサイズだけに、そう連射できるものでもない。

 

 おそらく、あの空飛ぶエヴァもどきのシベリアンスキー、いや女かもしれんからシベリアンスカヤかもしれんが、あの脆い蚊の化け物どもに使うにはもったいなさすぎる。過剰火力も良いところだろう。それに無駄に銃身が長いので、取り回しもあまりよくない。

 

 とはいえ、副司令がネルフ本部の対使徒戦闘の進捗を見て抜け目なく交渉し、結果として回ってきた、ネルフ本部が不要とみなした余り物だけに、贅沢は言えんな。 

 

 FCS周りを軽く眺める。弾種は徹甲榴弾一種類だが、電子信管が用いられているので、起爆タイミングは彼女が自在にできる。

 

 ほう、いい弾じゃないか。 

 

 気に入った玩具を見つけた猫のような表情になりながら、彼女はノヴゴロドに言葉を返した。

 

「ノヴゴロド、エヴァもどきどもには些か勿体ない、贅沢な得物だな。都合がいい。

 現状、前線が圧迫されている。CAS(近接航空支援)要請だの砲撃支援要請だののアイコンが増えすぎて地図表示を切り替えると真っ黄色ときた。

 まったく、表示が多すぎて、地形が見づらいにも程がある。

 このアイコン共を根こそぎ掃除せねばなるまい。

 ついては、戦術管制を願えるかノヴゴロド。暇なのだろう?」

 

 その言葉に、通信回線が一瞬沈黙した。ついで、妙に引き攣った唸りが聞こえる。想定外の申し出に、思わず笑ってしまっているようだ。そして僅かな間をおいて、ノヴゴロドは返答を返してきた。

 

「ツィガーニ、ノヴゴロド了解だ。

 ネルフロシア支部からは、事前に君を可能な限りバックアップするよう、要請が来ているからね。けれど、良いのかい?」

 

「構わん。携帯武装はありがたいが、自爆ドローンも良いところのエヴァもどき共には過剰火力で、本物の使徒相手にはフィールド中和をかけねば火力不足。

 つまるところ、箸にも棒にもかからん代物だ。適切な相手に適切に投入した方が良い。

 ああ、人道だの人殺しがどうのと、くだらんことを言わんだろうな? 

 あのエヴァもどき共には、どうも白痴とされた私の姉妹が詰まっているようだし、となれば私は人殺しの姉妹殺しだ。つまりどの宗教だろうが地獄の類に送られる罪をとうに犯したというわけで、今更気にしても仕方あるまい。

 それに、ここを抜かれてタイムオーバーとなれば、ペテルブルクの数百万市民は根こそぎ虐殺だ。それは絶対に看過できん」

 

 司令部付士官との通話を継続しつつ、彼女は正面パネル右脇に配されたボタンを押す。

 

 エントリープラグのOSが彼女の搭乗するエヴァンゲリオンを起動させるべく、各種プログラムを動作させ始めた。

 

 JAヘヴィアーマーの胴体各所に配されたバッテリーが、エヴァ胸部コア・ユニットに給電を開始する。エヴァの肉体が目覚め始めた。

 

「シンクロスタート」

 

 サージャが発した音声を切っ掛けに、機体とエントリープラグのOS、そして彼女の思考のリンクが確立される。自らの肉体感覚に、今ひとつ、エヴァの身体の感覚が重なった。

 

 一種の輻輳状態となるのを彼女は感じた。エヴァが自分なのか、自分がエヴァなのかが、やや曖昧になっているような感覚である。 自分自身は核として確かにあるのだが、まとっているエヴァの肉体が別個に有り、どこまでが自分で、どこまでがエヴァか曖昧になっている部分があるのだ。

 

 そして操縦席の周囲、エントリープラグ内壁をくまなく覆うパネルモニタが一斉に発光する。そうして幾種類もの幾何学的な文様を映したのち、夜の黒、白の輝きと赤い炎を用いて描かれた、地上の地獄としての戦場の景色を映し出した。

 

 闇に沈むキンギセップ前線司令部や、前線の至るところで火を吹く火砲、火の尾を引きながら敵軍目掛けて放物線を描きながら突進し、あるいは我が方の部隊目掛けて飛来するミサイルやロケット弾と思しき無数の飛翔体、それらが着弾し爆発する閃光、そして、その炸裂によって燃え上がる何か。

 

 あの赤い輝きの中で、何人もの兵士が命を失い、あるいは肉と血の屑と成り果てて飛散しているのだ。

 

 巨人たるエヴァの有する高い視座より、その黙示録的な風景を眺めながら、彼女は唇の端を引き攣らせるようにして微笑んだ。

 

 ドイツ人ども、本当に大祖国戦争の復讐のつもりらしいな。好き放題にやってくれるじゃないか。

 

 小銃や機関銃の発砲は、機体各部センサーの暗視レベルを上げていない現状では見えなかった。おそらく敵味方双方とも、レーザーポインターや曳光弾の使用を控えているのだろう。見つかる危険が増えるからだ。 

 

 微光暗視装置や熱線映像装置が彼我共に充実した現状では、レーザーや曳光弾の類の使用は、敵に自らの位置を暴露する結果を招きかねない。

 

 夜間戦闘という状況下であれば、イントラネット接続用端末の発する極短時間発振される低出力電波(ロシア軍は有線式無人小型移動基地局を実用化しており、これにより兵士が使用する情報端末の発する電波の低出力化に成功していた)ですら、敵装備によっては逆探知される恐れがあった。

 

 そして、電子製品の出来については、敵主力たるドイツ軍が使用する装備の方が、彼女が属するロシア軍のものよりも、遥かによい。

 

 冶金技術はともかく、ロシア製電子製品は、ソヴィエト以来、西側の後塵を拝する状況となっており、この懸絶をセカンドインパクト以後も未だに埋められていない、というのがロシア工業界の偽らざる、しかし悲しむべき現状であった。

 

 そして、各地に展開する各部隊は、逆探知されるリスクを度外視し、今は砲兵支援ないしは近接航空支援の方が重要と言わんばかりに、有線式移動無人基地局を介して自部隊がいかに苦境に陥っているかを、電波の声で訴え続けていた。

 

 それにしても、敵が多い。

 

 しかし、数十分前までエヴァ紛いの飛翔体相手が主体とはいえ前線にいた彼女が知る限り、おそらく新たに出現したドイツ軍および東欧諸国の連合軍の合計戦力は、少なくとも我が方の三倍以上は存在するように思われた。攻者三倍の法則というやつか?

 

 二次大戦における人口の大量喪失と、ソヴィエト連邦政府の失政、また近代国家の宿痾である人口減により、セカンドインパクト前ですら1億程度にまで人口が落ち込んでいたロシアは、セカンドインパクトとそれがもたらした動乱により、さらに5000万人の人口を喪っており、当然これらの被害は軍を構成する兵士や将校の減少にそのまま直結してしまっていた。

 

 結果として、ロシア軍は現状でもなお、セカンドインパクト前の規模を取り戻せずにいる。インパクト以後の飢餓と不況によって食い詰めた若者たちはセカンドインパクト前よりも軍勤務を志向するようになってはいたものの、全体の人口と経済規模も縮小した現状では、雀の涙も良いところだ。

 

 幸い、現状、敵は第3新東京市において始まりつつあるらしき、何らかの得体のしれない人類補完とやらの儀式の方が重要なのか、主力にして決戦兵器たるエヴァンゲリオンを前線に展開していない。シベリア蚊の似非エヴァで充分と判断し、まっとうなエヴァは尽く東方の島国に、全機送り込んでくれていればよいのだが。

 

 エヴァ紛いの自爆ドローンのような飛翔兵器は、もっぱら彼女の搭乗するエヴァばかりを狙ってくるため、これらは現状、味方にとってさしたる脅威となっていなかった。彼女は後退する前に、その飛翔兵器の第一波を殲滅する事に成功している。

 

 そして彼女のエヴァは、今回の整備と補給により、どこの馬鹿が設計開発したのかもわからぬ、馬鹿げた口径を誇る巨大な多砲身機関砲を用いての作戦行動が可能となっていた。

 

 汎用ヒト型決戦兵器とはよく言ったものだ。

 

 おそらく敵軍はその主力の多くを第三新東京市に展開しているだろうに、我軍は控えの予備軍の寄せ集めである敵軍に包囲・圧迫されつつある。

 

 このまま行けば我軍は尽く殲滅されるだろう。

 

 となれば、現状を打開する決戦戦力が必要であり、それが彼女の役目となるわけだ。少なくとも彼女というパイロットを手に入れるため、高額のカネを消費した彼女の今の祖国は、それを望んでいる。そしてそれは、もとより彼女自身の望みでもあった。

 

「この手を穢し、数多の命を奪うとも、それによりさらなる多くの命を救う。ブディストたちの言う一殺多生だ。

 元より護民こそが我が勤め。そのために給料もいただいてきた。そういうわけだ、地獄の道案内を頼むぞ、我がヴェルギリウス殿」

 

「ツィガーニ。ダンテが44センチの巨砲を持って煉獄に踏み入るなんて話は生憎読んだことがないな。『神曲』はもう少しおとなしい内容だったと記憶しているが」

 

「私は臆病だからな。

 煉獄の亡者に襲われるかもしれんのだから、護身用の得物は必要だろう? 

 なにより、私にとってのベアトリーチェたちはまだ生きてサンクトペテルブルクにいるのだ。およそ数百万人ほどな。

 ともかくツィガーニ、出撃準備完了だ。ノヴゴロド、進路どうか」

 

「ノヴゴロドよりツィガーニ、貴機の進路より全ての人員および、整備車両の退避を確認した」

 

 男の言葉に、サージャ・アヤナミは頷いた。

 

「ツィガーニ、進路クリア了解。D2リアクター起動は出撃より1分後とする。

 この巨体だ、無駄なあがきかもしれんが、赤外線探知はなるべく避けたい」

 

「ノヴゴロド了解。貴官の健闘と無事の帰還を祈る、ツィガーニ・グロズヌィ(恐るべきジプシー)」

 

「そこはグロズヌィではなくオパスィ(危険なる)だろう、ノヴゴロド? 確かに今の私に求められていることとは、かの恐るべきツァーリの再来となることかもしれんが」

 

「危険なら敵が警戒して強くなるかも知れないけれど、恐怖なら竦んで弱くなるかも知れない。験担ぎだよ、恐るべきツィガーニ」

 

「なるほど、ものは言いようだ」

 

 士官の冗談めかした言葉遣い、しかしその声音の裏に、祈りに似た気配を彼女は嗅ぎ取っていた。状況が不利なのだ。先程の軽口すら、案外必死に絞り出した、演技であるのかもしれない。

 

 ならば声音と態度だけではなく、いっそ愛機の掌に、拳を打ち付ける程度のサービスと余裕はしめしてやるべきか?

 

 もっとも今、彼女の愛機は映画のカイジュウでも相手にするかのごとき大砲の化け物を抱えており、そのような仕草を行う余裕はない。

 

 なに、やつも私より年嵩の男であれば、自前で奮起することだろう。

 

 眠気が取れたとは言えない脳、疲弊を訴える体。

 

 それを押して、サージャは不敵に笑った。

 

 周囲から作業員が撤収しているのを最終確認した後、思考操作で爆圧ボルト起爆スイッチを入れる。

 

 彼女の機体、その全身を包むJAヘヴィアーマーに繋がれた、数多の給電用アンビリカルケーブルが、爆圧ボルトの爆発消失に伴い、一斉に支えを喪って落下し、給電制御系が外部系から内部系に切り替わる。

 

 彼女は迅速に電力系の操作を開始した。

 

「JAヘヴィアーマー内蔵バッテリー、全基連結。機体及びD2リアクターへの全力給電開始。

 機体運転レベル、戦闘出力へ移行。

 ザーシャ・アヤナミ少尉は、これよりエヴァンゲリオン・ツィガーニを以て、接近する敵戦力の邀撃行動を開始する。

 敵軍が、かの伍長殿の再来たらんとするならば、此度はネヴァ川の河岸すら拝ませはすまい。このルーガ川の絶対防衛線を以てご退場いただくとしよう!」 

 

「ツィガーニ、こちらノヴゴロド。絶対防衛線などという話は、ロシア支部より聞いていないが、そのような取り決めがあったのか?」

 

 彼女の決意に満ちた咆哮を聞いた司令部付士官から、困惑に満ちた通信が届いた。それに対し、ザーシャはあくまで快活に返答する。

 

「特に意味はない! 私が勝手に決めた、ただの気概の顕れだ! よっていちいち気にするな!」

 

 右手でエヴァから伝わる多砲身機関砲の銃把の感触と、その重みを確かめながら、彼女は言い放った。

 

「ツィガーニ。

 エヴァは規格外の決戦兵器のため、基本的に独自行動を基本とするとは聞いていたけれど、軍と共同作戦なんだから、少しはこちらの都合を考えてほしいところだ。必要ならこの司令部は戦況に応じ、臨機応変に後退する必要があるんだからね」

 

 呆れ果てるのを通り越し、疲弊すら滲んできた感のある士官の言葉に、彼女は平然と言い返す。 

 

「は、川を背負って布陣した時点で、軍は何があろうと敵に此処を抜かせぬつもりだろうに。いわゆる背水の陣というやつだ。

 歴史で言うなら、そうさな、国防人民委員令第227号といったところか?

 実に愉快極まる。歴史とはアイロニー(皮肉)に満ちている、そうは思わないか、ノヴゴロド?」

 

「一歩も下がるな(Ни шагу назад)ときたか。やっぱり君は娑婆の学校で青春というやつを過ごすべきではなかったんじゃかな、ツィガーニ。

 いや、今更遅いか。話通りなら、我々が最善の勝利を掴んだとしても、僕らがこれまで当然と思っていた生活は、過去のものと成り果てるんだろうし」

 

「だがな、そうであるとしても、私はそれを断固として行うぞ。

 一歩も下がるなという命令であるなら、むしろ前進して窮地を打開する。

 後背の民を守り、前衛の味方を扶け、敵を討つ。

 すなわち護国と護民を果たすこと。

 その盟約を以て、私はこの国の民たることを赦されているのだからな」 

 

 サージャ・アヤナミはそう断じた。

 

「なあ、ノヴゴロド、

 古来より武人や軍人の類はこれをこそ喜ぶものだろう? まさに本懐というやつだ。

 少なくとも私が読んできた古今の書物にはそう記されていたし、それにあれだ。先程言ったように、ネルフ本部のある極東の島国のインターネットの、数多ある少年少女向け小説にもそのように記されているようだ。少年少女が色々やらかしつつ、苦難に挑み戦い、勝利を掴む。古今の物語の多くはそのようなものだ。

 最近はナローとも言うらしいな。だが、やはりチーニボウの方が舌に馴染む。思うに、これは案外、後世ではチェーホフと並んで評価されるのではないか? 

 つまり物語を思い、思う物語の如くに生きる。

 これぞまさに青春だろう。そうは思わんか?」 

 

「ツィガーニ、僕はその手の文化は知らないが、君はどうも何か致命的な誤解をしているように思う」

 

 士官がとうとうため息を発しだすのを愉快そうに聞きながら、左右のエヴァ野戦整備用超大型重機構造体が待機位置まで後退しているのを確認しつつ、サージャは答える。

 

「誤解でかまわん。私が人生を楽しめればそれで良いのだ」

 

 進路クリア。エヴァとJAヘヴィアーマーの全身に電力が注がれ、それをサージャの肉体の感覚は、活力として認識した。無論疲弊自体はあるが、それ以上の高揚がある。 

 

 イメージするまでもなく自然に、自らの足で歩むように、エヴァの恐るべき巨体が、右足を踏み出した。

 

 この巨人を我が身のごとく操ることに、彼女は完全に慣れていたのだ。シンクロスコアは問題ではない。自在かつ充分に操れることこそが至当であり、そしてそれは達成されている。

 

 エヴァの巨体を持ってしても度し難いほどに重い44センチ多砲身機関砲の重みすら、いまは愛しく思えるほどの高ぶりがあった。

 

 明らかに睡眠が足りていない心身状態が齎す高揚だ。

 

 しかし薬物性の高揚よりは遥かにマシだろう。それに、44センチの巨砲を好き放題に操る事に勝る高揚を与えるものが、この世にはたしてどれほどあるか、という疑問もあった。

 

 もう一歩、と思った刹那、不意に軍司令部側の通信回路越しに、何らかの慌ただしいやり取りがなされるような響きが音声データとなり、プラグ内のLCLを揺らした。やや遅れて、泡を食った司令部付士官の声が流れてくる。

 

「ツィガーニ、こちらノヴゴロド、まだ聞いているか?

 たった今、サンクトペテルブルク上空で警戒中のA-100から連絡が入った!

 西南西、12時の方向、おそらくは君と君のエヴァを目掛け、真正面から敵飛行型エヴァの大群が接近しつつある! ともかく位置データを回す!

 少なくとも50機以上、単機では不利だ!

 今、空軍で君を支援できる飛行隊がないか確認──」

 

 士官の言葉を聞きながら、彼女はモニタ上の戦術スクリーンのちずに新規表示された敵戦力の位置と速度を確認した。時速600~700キロといったところか? ならばここでぼんやりしているという選択肢はない。

 

 防空戦闘で陸軍同様に多忙を極める空軍とあれこれ話をつけている間に、あのシベリア蚊どもは、このエヴァを探知して殺到することだろう。

 

 そうだな。最大戦速で突っ込めば、ちょうどこの司令部の前方7キロ地点、前線部隊とこの司令部の中間地域、気象異常で沼沢地と化したあたりで会敵することになるだろうか。

 

 それなら、実に好都合だ。案外私は幸運だな。

 

「ノヴゴロド、まことに残念だが暇がない。それに単騎駆けは戦の華だろう?

 それに私が思うに、これらはおそらく都合がいいのだ。得体のしれぬ巨人とて、風車と思えば恐れるに足らん。私は征くぞ、ノヴゴロド。

 エヴァンゲリオン・ツィガーニ、吶喊する!」

 

「待て、ツィガーニ! ラ・マンチャの騎士の物語なら認識が逆──ああ、どうせ聞かないか、畜生、君の幸運を祈る!

 交信終了、以後はC4I主体とした映像戦術管制に移行する! 目視で随時状況を確認してくれ!」

 

 司令部との音声通信が終了した。

 

 今度こそ彼女のエヴァは左足を踏み出した。

 

 そのまま、大地へ脚を叩き込むようにして蹴る。

 

 そうして、大股で歩み始めた。

 

 右足。

 

 左足。

 

 右足。

 

 左足。

 

 正面に闇の黒、その中を無数の火線となってよぎる砲火、爆発の輝き。陣地を抜け、かつて人の住む場所であったビルや家の廃墟の只中を、彼女のエヴァは歩み、その歩みはまたたく間に加速し、ついに疾走となる。 

 

 その疾走もさらに疾く、大気を裂き轟音を放つ有様、地を走っているにも関わらず、もはや翔ぶが如き様相を呈していた。

 

 彼女は愛機を走らせながら、背中を意識する。

 

 背中に、もう一つ、心臓があるイメージ。

 

 彼女の全身から一度古び栄養を喪った血を吸い上げ、新たなエネルギーを得て蘇った、新鮮な血を送り出すもの。

 

 彼女の体の外側にある、けれど神経と血管でつながっている、恐ろしく剛い鋼の心臓。それが軋みを上げながら、恐るべき力で伸縮を開始するという認識を、彼女は後背に編み上げる。

 

「DDリアクター起動。

 重水素ペレット、投入。

 核融合用レーザー照射システム起動。

 疑似心室、拍動開始」

 

 機械が自動的に行うプロセスに、彼女の心の動きを添わせる。 

 

 この炉心は、機械だけでは機動しない。臨界維持に必要な圧力と熱量維持は、彼女がエヴァを介して炉内に展開する球状ATフィールドの存在が前提となっているのだ。

 

 虚ろの心臓に投じられた一粒の重水素燃料ペレットを、球状ATフィールドが包み込み、一瞬という言葉すら追いつかない速度で強烈に断熱圧縮した。

 

 ただそれだけで燃料ペレットの温度は数千万度にまで達したが、それでもなお、燃料ペレットは発火しない。核融合とは、それほど容易く起きるものではないのだ。

 

 故に、それを強引に燃やすためのさらなる熱量の投入が必要となる。

 

 そのための、点火用レーザー照射システムだ。

 

「点火(ザジガーニイ)!」 

 

 サージャの叫びに機械が呼応する。思考操縦は我が身を操るが如くであり、あまりにも事象は有機的に連動した。 

 

 ペレットを絞り上げていたATフィールドが消失し、次の瞬間、発振器から放たれたレーザーが、最早縮退の域にまで締め上げられたペレットを恐るべき熱出力で焼き始める。 

 

 さながら核弾頭の爆縮レンズにも似て、四方八方から射出された超高熱のレーザーが、重水素燃料ペレットを情け容赦なく炙りぬいた。 

 

 熱に耐えられず、物理法則に則って膨張しようとするペレットを、しかし再度展開した球状ATフィールドが、膨張を赦さずに、再び容赦なく元のサイズまで絞り上げる。

 

 そして再びフィールドが消失し、再び膨張しようとしたペレットに対し、再びレーザーが放たれる。 

 

 その超高速の、ヒトには認識することすら困難な高速の繰り返しは、敢えて例えるなら人外の速度で拍動する、心臓のメカニズムに似ていると言える。

 

 その類似性故に、ロシア支部の技術陣はこのエヴァンゲリオンのATフィールドを利用しての強引な燃料加熱プロセスを、『疑似心室』と名付けたのだ。 

 

 高熱高圧の地獄の中で、重水素同士が核融合反応を開始する前提となる温度と圧力の条件が完全に満たされ、原子核同士がとうとう融合を開始した。

 

 核融合反応に伴い、膨大な量の電荷を帯びた陽子、高熱の中性子とヘリウムが、融合した重水素から生成される。 

 

 それら全てが膨大な熱と光を解放しようと先程より遥かに強い力で膨張を開始した瞬間、再び炉内に重水素燃料ペレットが打ち込まれ、同時に球状ATフィールドが展開した。

 

 そして、再投入されたペレットもろとも、核融合反応で生み出された恐るべきエネルギィとヘリウム、中性子と陽子、その尽くを逃さずに再度絞り上げ、再縮退に至らしめる。   

 

 そして再びのフィールド消失とレーザー再照射。円環のごとく続くサイクル。心臓のごとく自然に、永劫に繰り返す煉獄の拍動。 

 

 そして、その煉獄のサイクルの中、一つの幻影のように、小さな恒常核融合プラズマの青白い火が、炉心中央で安定する。 

 

 球状ATフィールドの発生から逃れた、電荷を帯びた陽子が、炉心を取り巻くブランケットに受け止められ、直接電流へと変換されはじめた。 

 

 ブランケットは中性子をも吸収し、その放射線が外部に漏洩するのを抑止する。

 

 それと同時に、中性子とヘリウムが持つ膨大な熱エネルギーは炉心外部へと伝導され、高性能熱電素子により直接電力変換され、あるいは流体として過給器により取り込まれた空気を用いた熱膨張タービン式発電システムにより、これも尽く電力へと変換されていく。 

 

 冷却と発電用に圧縮空気を用いるというおよそ合理とは程遠い様式でありながら、その発電効率は実に80%に達し、その最大出力は巨大都市の一日の電力需要を満たしてなお、余りある域に達した。 

 

 脳と心臓を得られず、故に不要とみなされ蔑まれた、ジェットアローン。その予備パーツを利用して形成したエヴァンゲリオン用倍力装甲甲冑。 

 

 その甲冑に搭載される、N2リアクターの実現により不要とみなされ、ペテルブルク市内の核融合研究施設に放棄されるままになっていた、かつては未来の希望であったはずの球状トカマク式DD反応核融合炉。すなわちD2リアクター。 

 

 そして非公式にロシア支部へ送り込まれたナンバーレス、正規品とは規格が異なる、そして実のところは『決して奇跡を起こしえない』前提のもとで建造された各支部を欺瞞するための小細工の道具、正規品にして祭具たる番号付きに明白に劣る、番号も名も与えられていないエヴァンゲリオン。

 

 不要、廃棄物と見なされたものたちの三位が、己に与えられた境遇へと復讐するかの如く、遂に一体と成って動く。 

 

 それを操るは、ロシアというかつての大国を騙すために送り込まれた、アヤナミシリーズ初期ロット、最劣等のアヤナミレイであり、肉体は最もヒトに近く、しかしそうであるがゆえに、ヒトの心へ踏み入れぬ欠陥品。 

 

 そうだ。この身は欠陥品。 

 

 我が操るも欠陥、劣等、時代遅れと見なされた廃棄物であり、欠陥持ちの骨董品。あるいは脳も心臓も与えられなかった鋼の屍であったもの。そういうものの寄せ集めにすぎない。 

 

 だからこそサージャ・アヤナミは笑う。それが愉快でたまらないからだ。14才の少女の感性を、訓練と義務感と、彼女の趣味が歪めてしまい、このような歪んだ個性を得るに至った。それも愉快でたまらない。

 

 エヴァの全身を構築する筋肉が、そしてジェットアローン由来の各部動力機構が連動し、膨大な運動エネルギーを生み出して、機体を正規品たるエヴァのカタログスペックをも凌駕する速度で疾走させた。 

 

 市街であった地域を抜ける。 

 

 かつては森であり、野原であり、畑であった、今は無残なヘドロの沼沢地と変じた地域を、いかなる原理に拠るものか、彼女のエヴァは大地が鋼で出来ているかの如くに疾駆する。 

 

 すでにサージャ、彼女と同調したエヴァの両眼および機体各部センサー群は、接近する飛行型エヴァ、シベリア蚊の如く機首から赤い槍を生やした異形のエヴァの姿を捉えていた。

 

 助走は充分、敵は空。

 

 この大地は死に絶えた泥濘であろうとも、彼女と彼女のエヴァに取り、それは我が身を空に射出するに事足る鋼の大地となる。 

 

 機械じかけの重装甲に覆われた、エヴァの巨大なる右脚が、最後の踏み込みを行う。膝を屈し、刹那に恐るべき規模の動力を大腿に、脹脛に、くるぶしに、爪先に蓄え、そして。

 

「攻撃目標発見。

 エヴァンゲリオン・ツィガーニ、交戦開始(フォモルカ)!」

 

 サージャ・アヤナミ少尉の叫びと同時、右脚に蓄えられた力が刹那に解放された。

 

 与えられたその運動エネルギーはあまりにも膨大であり、故にツィガーニと称されたエヴァは、その巨体・その重量を思わせぬほどの瞬間的加速で持って、接近する敵性エヴァの群れを目掛け、宇宙を目指すが如き加速度で以て跳躍した。

 

 跳躍に至る最終加速により、ATフィールドに阻まれ断熱圧縮された大気は熱を帯びている。故に、赤外線帯域視覚をもつものには、エヴァンゲリオン・ツィガーニは、まばゆい発光体と見えるのだ。

 

 故に、その有様は、さながら地ではなく天へ堕ちる流星の如くであり、地上からもし眺めた者が居たならば、ヴォストーク8K72Kロケットと言うよりは、むしろ、『月世界旅行』という名の小説において、月を目指すために打ち上げられた有人砲弾をこそ、きっと想起させたことだろう。

 

 

続く



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第2話『北の地にて』Interlude:挫けない唄 中編 その2

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 EPISODE:2 No one is righteous,not even one.

 

 Interlude:Indomitable song

 

  Third part

 

 

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旧ナルヴァ市 ナルヴァ河東岸より5キロ地点

 

欧州自動車道 E20号線付近

 

 

 一瞬の照準速度差で、丘陵を利して接近していたドイツ軍主力戦車たるレオパルト2A7Vを、自らが指揮するT-90Mプラルィヴ主力戦車の125ミリ滑腔砲より放ったヴァクーム1装弾筒付徹甲弾、その劣化ウラン弾芯による零距離射撃によって撃破したアントン・ヴォルチコフ曹長は、突如後方から聞こえた爆音を聞き、思わず身をすくめ、無言で呻いた。

 

 そして数秒後、衝撃波や熱線の類が来ず、先程の恐るべき爆音が、N2反応爆発由来によるものではないことを確かめ、恐る恐る車長席に設けられたサブモニタを点灯させ、砲塔に搭載された全周囲視察装置を起動する。

 

「なんだ……?」

 

 タレット上のセンサー群を回転させ、ヴォルチコフ曹長は用心深く、360度四方を探る。

 

 N2融合反応爆弾でないのは幸運だった、と内心思う。そうであれば、彼と、彼が偶然から指揮することになったT-90Mは、今頃地上から熱エネルギーによって蒸発していたことは疑いない。

 

 だとすれば、さっき後方から聞こえた爆音はなんだ? 前線に向かう途中だった誰かが、敵の自走砲の間接射撃でやられて誘爆でも起こしたか。だが音の質が違う。弾薬庫誘爆の音は、もっと。

 

 わからない。彼は思わず首を打ち振り、ため息をついた。

 

 わからないといえば、この突然始まった戦争自体、何もかもがわからなかった。 

 

 なんとも馬鹿げた話だと彼は思う。

 

 ネルフ本部と、その黒幕である秘密結社(本当にそのようなものがこの世に存在したのか、と彼は唖然としたものだ)ゼーレが画策していた『人類補完計画』。

 

 その、旧生命種にある種の破滅を齎すという、得体のしれない計画に関する映像や音声情報を添付した各種情報が、まず動画サイトを通じ、インターネットに氾濫した。 

 

 それらは国連各組織が、この数十年世界各地で繰り広げてきた、各種の非人道行為を伴う実験の数々の暴露等、オカルト雑誌かイエローペーパーにでも乗るのがお似合いの与太話ばかりであったが、しかし、精査すれば容易に真実であると確信できる程度には丁寧に、状況証拠や、場合によっては『本物の』ニュースソースを伴った証拠によって、情報の強度を担保されたものとなっていた。 

 

 そして、それらの情報を、世界中の大手マスコミが困惑しながらも、TVや新聞、ネットニュース等、彼らの持つ全ての手段で報道を開始したあたりから、この世界はセカンドインパクトが再発したかのように、加速度的に滅茶苦茶になり始めてしまったのだ。 

 

 ロシア大統領によるネルフ本部及び各国ネルフ支部への糾弾。 

 

 ユーロネルフロシア支部副司令による、ロシア支部司令がゼーレと共謀して行っていたスパイ行為。その行為への断崖及び、ロシア支部のユーロネルフ離脱宣言。 

 

 更にそれらの声明の発信に伴い、ロシア政府及びロシア支部の連名で、全人民はサンクトペテルブルクへ直ちに避難を開始するよう、ロシア国内全土および、世界各国にいまだ滞在するロシア国民へ迅速に勧告された。 

 

 そして、それに応じるように、ユーロに所属する国家が尽くロシアへ対し戦線を布告したのだ。

 

 彼らに言わせるならば、ロシアの声明は尽くが欺瞞であり、ロシアこそが新たなるインパクトを画策しているということになっているようだった。 

 

 そうして、魔女が薬草や忌まわしいものを片端から叩き込んで煮込んで煮詰めた薬鍋の如き情報のカオスは、またたく間にインターネットやメディアを通じて世界中に感染し、とうとう、こうしてユーロ連合軍対ロシア軍の全面戦争という、熱戦の形へと変貌を遂げて、ヴォルチコフの身に襲いかかっていた。 

 

 第4親衛戦車師団に属していた、彼が砲手を務めていたT-90M主力戦車も、容赦なく西から押し寄せるユーロ連合諸国軍の、五月雨式に押し寄せる鋼鉄の嵐の如き攻勢を防ぐために出撃を余儀なくされ、その結果、その戦車に乗っていた人員のうち、彼一人が生き延び、別の戦車に乗り換える羽目になってしまっている。 

 

 戦術イントラネットの情報が事実であるならば、空は比較的優勢であり、支援こそ得られないものの制空権はある程度ロシア側が握っているものの、敵の砲兵による火力投射は凄まじく、後方へ退くどころか、敵に降伏することすら至難な状況である。 

 

 ヴォルチコフ曹長も、本来であれば逃げることも叶わず、周囲に情け容赦なく降り注ぐ、敵味方の苛烈な砲撃に巻き込まれて死ぬか、あるいは逃げ回っているうちに、気象異常であちこちに発生した、かつては永久凍土であった底なし沼にはまり込んで、浮き上がることも出来ずに溺死を遂げていたことだろう。 

 

 その意味では、彼は幸運と言えた。 

 

 たまたま車長が居ないために迷走していた別のT-90Mが、彼を拾い上げてくれたのだ。 

 

 彼が乗り換え、車長を務める羽目になったそのT-90Mは、島嶼、ろくな実戦経験がなかった、とある若い新入りの車長に指揮されていた。 

 

 そしてその若者は、あちこちから打ち込まれるあらゆる種類の砲撃や銃撃(戦車というものは最前線に立つがゆえに、あらゆる攻撃の対象とされやすい)に精神が耐えられず、あまりの恐怖に錯乱してしまったのだ。 

 

 全ての人類にとり、現代の戦場とは過酷なものであり、至近距離に落ち、あるいは戦車の装甲で弾かれた砲弾の爆発音は、あまりにも容易に人間から正気を奪ってしまう。 

 

 その若い車長もまた、そのような戦争の風物詩、恐怖に錯乱した挙げ句、訓練を受けた軍人ではなく、訓練を忘れたか弱い人間に、不幸にも戻ってしまった一人であった。 

 

 そうした状態に成り果てた人間は、正常な判断を下せない。 

 

 恐怖に狂った彼は、逃げ出したくてたまらなくなってしまい、とうとう車長ハッチをあけて脱出しようとしてしまった。 

 

 四方八方から砲弾が打ち込まれる状況で、それはおよそ賢明とは言えない判断だったと言える。そして彼はハッチを開け、上体を出した直後、敵155ミリ自走砲の放った榴弾の至近弾の炸裂によって発生した恐るべき速度の爆風と弾片の嵐を浴びた。彼の肉体は、生憎それらの恐るべき暴力に耐えられるほど、頑丈には出来ていなかった。 

 

 物理法則の必然により、上半身を血と肉と弾片が混ざりあったジャムのようなものに変えてしまった車長は、当然その瞬間に絶命、戦死を遂げた。

 

 結果、砲手と操縦手は、どう行動すればいいか、わからなくなってしまい、どこへ逃げれば良いかもわからず、砲撃の只中を彷徨うことになってしまったのだった。

 

 そして、ヴォルチコフ曹長にとっても、そのT-90Mの砲手や操縦手にとっても幸運なことに、彼らは比較的近い距離に居たため、偶然、砲撃が止んだ刹那に、遭遇することができたのだ。 

 

 ヴォルチコフ曹長が、下半身以外がひき肉のように成ってしまったかつての車長の肉体を、かろうじて残っていたズボンのベルトをつかみ、引きずり出して乗り込むまで、撃破されずに済んだのは、実のところ奇跡と言える。

 

 なにしろ、彼らが邂逅するまで、そのあたりにはドイツ軍主力及び、損害が少なかったために再編を必要とせず、前線に残置されたバルト三国軍砲兵部隊の情け容赦ない榴弾と徹甲弾と地対地ミサイルによる猛撃、鋼鉄と炎の豪雨が降り注ぎ、吹き荒れていたのだ。

 

 それが、敵集団が猛攻のため一時的な弾薬欠乏と、また突進に伴う陣形の乱れを立て直すため、補給及び、部隊の再配置を行うため、一時的に攻撃を停止したのだ。

 

 この間、彼らのいた地域のあたりだけ鉄火無き、ある種の凪いだ無風状態が発生しており、ごく短い間ながら、敵弾や爆風によって生命を失うリスクなく、ヴォルチコフと車長を喪った砲手と操縦手は合流することが出来たのだ。

 

 もっとも、そのような敵側の事情が偶然的に作用して、生き延びることができたのだということは、彼らには当然知るすべがない。

 

 そして、車長に置き去りを喰らい、この世に取り残されてしまった砲手と操縦手にとり、本当に幸運だったのは、ヴォルチコフ曹長が開戦の半年前に、常に人員不足に悩んでいたロシア陸軍によって、予備要員として車長の訓練を受けていたことだ。

 

 よほどの無能でない限り、いや無能であるにせよ、指揮官というものは原則として存在したほうが良い。

 

 また、残留人員にヴォルチコフ曹長以上の階級のものがおらず、車長として実に優秀な能力を有していたのは、奇跡のたぐいであったとすら言える。

 

 ヴォルチコフの話を聞いた砲手と操縦手は、迷うことなく、直ちに彼を新たな車長として受け入れた。

 

 そして彼は、臆病なほど用心深く、しかし時に恐れを知らぬような大胆さで、実に見事に戦車を機動させたのだ。

 

 敵も味方も混交し、ロシア軍戦術イントラネットシステムを確認してもなお抜けられぬ戦術の霧(豪雨という方が正しいかも知れない)の只中で、孤立した肉食獣のように戦車を機動させ、4輌のレオパルト2A7Vの撃破に成功した事実こそが、ヴォルチコフが車長として得難いほどの人材であることを物語っている。

 

 彼が軍に入る前の職業が猟師であり、セカンドインパクト以後明らかに減少したシカやイノシシ、飢えるが故に人里への襲撃をためらわなくなったヒグマといった野生動物を相手に、猟銃のみで渡り合ってきたことも、かれの戦場で勘働き鋭く立ち回る事ができた要因であったかもしれない。

 

 そして、彼の猟師としての勘が、訴えていた。

 

 先程の後方の爆発音は、何か常識では考えられない異常な事態のたぐいであり、この状況をひっくり返しかねない何かが起こったのだ、それを利用しなければ生き延びられない、そのように、霊感とでも言うべきものが叫んでいたのだ。 

 

 だから、彼は冷静に、しかし必死で周囲の状況を探った。

 

 その現象の招待が、彼らにとっての危機であれば、脇目も振らず、直ちに後退しなければならない。

 

 しかし好機をもたらすものであれば、それに乗じ、前進したほうが生存できる可能性が上がるかもしれない。

 

 だから彼は必死に戦場の情報を、目で、耳で、かき集めた。

 

 可動式の監視システムを利用し、抜け目なく周囲の景色に異常がないかを確認しつつ、戦術イントラネットシステムのモニタに時折目を滑らせ、確認することも忘れない。 

 

 情報更新速度の低下がひどく、役たたずとなっている時間のほうが多かったが、それでも時折、奇跡的なタイミングで敵車輌および歩兵部隊の位置を表示することがあったので、無用の長物と切り捨てるには惜しい。 

 

 実際、撃破数のうち、2輌はイントラネットから得た不可視域に潜伏する敵戦車への間接射撃によるものだ。 

 

 そして、その戦術イントラネットのモニタに、なにか、友軍であることを示す緑色の三角が、奇妙に長い文字列とともに表示された。 

 

『Евангелион Цыгане(エヴァンゲリオン・ツィガーニ)』

 

「味方のエヴァだと!?」 

 

 思わず、ヴォルチコフ曹長は瞠目する。彼もまた、汎用ヒト型決戦兵器人造人間エヴァンゲリオンの存在は知っていた。整備価格だけでも国家が揺らぐ規模の予算がかかるという話も聞いている。 

 

 それがただの兵器ではなく、ネルフ本部やゼーレというらしい、彼にはよくわからないがフリーメイソンやイルミナティのて愛らしい連中が引き起こす儀式の道具であり、それによってセカンドインパクトやニア・サードインパクトが引き起こされた、というのも、インターネットや先日のニュース報道などで知っていた。 

 

 その、情報という形でしか存在を知らなかった怪物、現実では一度も遭遇したことのない得体のしれない巨人兵器が、彼らのすぐ後方にいると、戦術イントラネットの情報モニタは示しているのだ。

 

 位置、約1キロ後方。

 

 上空2千メートルの位置にて交戦中。

 

 先程、サンクトペテルブルクの方角を目掛け、彼らの上方を擦過していった所属不明、機種不明の敵航空部隊のようななにか(ような何かというのは、これらがまともな空軍のような機動を一切合切取らないからだ)に取り囲まれ、四方八方から攻撃されているようにみえる。

 

 一対四〇。数的劣勢。しかも敵の動きが俊敏なのに対し、味方のエヴァの動きは、明白に鈍重なものであった。

 

 数的不利は明確な上に、地図上の光点の動きを見る限り、味方のほうが遥かに動きが悪い。

 

 こりゃ、多分、落とされるな。

 

 それなら逃げたほうがいいか?

 

 かれは一瞬迷った。そして迷った次の瞬間。

 

 突然、ヴォルチコフの喉に巻かれた喉頭式通信機が振動し、何者かから通信を受けていることをヴォルチコフに伝えた。

 

 戦車兵用ヘルメットをつけていても装着できるよう、薄手に作られながら、外部の爆音から鼓膜を保護する性能をも持ち合わせた通信用ヘッドセットから、コール音が聞こえる。

 

 その響きは、ロシア軍固有のものだ。

 

 そして車長用戦術ディスプレイには、コールをかけてきている相手がほかならぬその味方の巨人であることを示す文字が表示されていた。

 

 Евангелион Цыгане(エヴァンゲリオン・ツィガーニ)。

 

 畜生、主の導きか、それとも魔女の婆さんの呪いか?

 

 無視して後退する手もあるかと思ったが、後退して良くなる要素も、前進してよくなる要素も現状ない。

 

 ならば、今必要なのは、彼の生死を左右する類の情報であり、そのような情報をもたらすものは、認めがたいが、その得体のしれない化け物に乗った、得体のしれないコール相手だろう。

 

 問題は、相手に対してどう名乗るかだった。当然この車輌にも所属等を示すコールサインがあるはずだ。

 

 しかし、そのコールサインを用いていた車長は戦死をとげ、かといって、自分がかつて登場していたT-90Mは既に現世では残骸となりはて、冥府へ向けて進撃している最中と来ている。撃破された戦車のコールサインを使うわけにもいかない。

 

 迷った末に、彼は自らの姓名と階級を以って、得体のしれない相手がかけてきた通話に出ることに決めた。喉首を抑えるようにしてマイクのスイッチを入れる。

 

「エヴァンゲリオン・ツィガーニ、アントン・ヴォルチコフ曹長だ。

 生憎こちらは非常に忙しい、あんたも忙しそうだが、一体なんの用事だ? デートか何かのお誘いか?」 

 

『ヴォル……チョク? 曹長、ツィガーニだ。

 デートか。それは魅力的な誘いだな。初めて受けたぞ。

 戦場でなければセーヴェルでさんざん奢ってもらうところなのだが。

 いや本当に生まれて初めて誘われたのだぞ、神かけて。

 しかもタイミングがタイミング、地獄の戦場のど真ん中ときた、人生とは実に面白いものだな!』

 

 突然飛び込んできた、覇気こそあれど小娘そのものの、転がる玉のような軽い響きを帯びた声に、彼は一瞬唖然とした。

 

 しかも、名前を間違えている。彼の名はヴォルチョクではなく、ヴォルチコフだ。おそらく、余裕があるようで、実のところ交戦で忙しく、名前を聞き間違えたのかもしれない。

 

 ともかく、名前はどうでもいい。ついでに言えばデートもだ。

 

「ツィガーニ、俺はヴォルチコフだ。ヴォルチョクじゃねえ。

 用事を先に言え、用事を! 俺は忙しいんだ!」

 

「デートではないのか。なんだ、甚だつまらんな。

 なんということもない、前線へむけ戦いながら近づいてみれば、何やら先走ったか、敵前衛に食い込んだまま、孤立している友軍戦車が見えたものでな。貴官の指揮する車輌に近い無人小型移動基地局は撃破されており、戦術イントラネットの速度が低下、敵の位置も即座に表示されん状態と見た。それでは不便だろうと思ってな。

 いや、今ちょうど、貴官の車輌を目標に、敵砲兵が狙いを定め始めているようで、そろそろ撃ち始める頃あいだ。私なら今すぐ300メートルほど後退するな。そこに身を隠すのに程がよい廃屋がある。

 赤外線探査程度なら、案外逃れられるかもしれんぞ?」

 

「マジかよ!? 操縦手、全速後退! 

 300メートル後方! 急げ!」

 

 彼は慌てて命令を発した。

 

 是も非もない。先方は戦術イントラネットの情報が正しければ、空中にいる。彼の位置よりも視点が高く、見通しが遠くまで効く位置にある。

 

 そういう位置にいる存在が、そのように警告してきた以上、狂人を相手にしているのでもなければ、疑う余地など微塵もない。大慌てで全周囲視察装置を利用し、操縦手の正面モニタにリンクして後方視界を提供しっつう、脇目も振らず後退をかけたその5秒後に、答え合わせが始まった。敵が攻撃を再開したのだ。

 

 戦車は、それがあらゆるものを撃破しうる脅威であるがゆえに、戦場ではありとあらゆる兵科から狙われる。孤立していて撃破しやすく見えるなら、なおさらのことだ。

 

 敵の自走砲のものらしい大口径弾による砲撃が、先程まで自車のいた位置に降り注ぎ、巨大な爆発を引き起こし、泥を、土砂を盛大に空中へと巻き上げるのが、監視システムのカメラ映像に映し出された。つまり後退しなければ、今頃あれに巻き込まれて死んでたってことかよ。ヴォルチコフ曹長は、冷や汗が首を伝うのを感じた。

 

 さらに地対地ミサイルまでもが数発落下しているようで、さらに巨大な規模の爆発までもが発生していた。ドイツ人共、たかが戦車一台に贅沢しやがる。まさか、このあたりの獲物が、俺たち以外、ほぼ絶滅したっていうのか?

 

 ああ、たぶん、きっとそうだ。

 

 畜生、さっきの小娘の声が言ったとおり、絶滅したからこそ最後の獲物を狩りに来たんだろう。

 

 四輌も奴らの豹を食らった戦車だ、当然脅威とみなされてるだろうし、本気で殺しに来る。畜生!

 

 単独の戦車に好き放題にやられたのがよほど悔しいのか、敵軍は凄まじい火力を彼の戦車に集中しており、結果、あたりの視界は巻き上げられた土砂や砲煙で、濃霧のようになっていた。

 

 いくらなんでも連中、やりすぎだ。

 

 通信で言われた予備陣地たりうる廃屋へ逃れるなら、この攻撃と硝煙に紛れるほかないだろう。いくらエンジンや車体に工夫を施しても、戦車というやつはどうあがいても歩兵よりも目立つのだ。 

 

「車長! 後方に家が見えます! あれが話のやつですか? えらいボロボロだ、多分セカンドインパクト以来ほったらかしですよ、あれは!」

 

 彼の念慮に答えるように、後方の映像を見たらしい操縦手の叫びが聞こえた。

 

「構わねえ、突っ込め! 誰も住んでねえなら構うことはねえ、僅かでも良い、身を隠す!」

 

「了解!」

 

 彼の指示を聞いた操縦手が、迷わず後方へT-90Mを突進させてゆく。

 

「壁にぶつけます! 捕まってください!」

 

 その声を聞き、咄嗟に近場の手すりを握り、衝撃に備えた。

 

 凄まじい衝撃が車体に走り、それによって彼の全身が前方、つまりは戦車が突進していた方向と逆方向へ投げ出されそうになった。それは全身を固定するベルトによって免れたが、首を捻挫するかと心配になるほどだった。

 

 しかし、代償として周囲が暗く、静かになり、敵の砲撃もそれで止まった。撃破と判断されたか、あるいは用心深くこちらを探しながら押し込んでくるか、だろう。ともあれ、数秒か、数分かわからないが、今は命が助かったことになる。

 

「逃げ込めましたね、車長」

 

 操縦手が、安堵したようなため息と共に彼に言ってきた。そういえば、俺はこいつの名前も聞いていなかったな。軍曹であることしか知らねえ。まあいい、ともかくそのとおりだ。そういやあ、救いの主よろしく言葉を投げてきたあの小娘は、いま──

 

『ヴォルチョク曹長? こちらツィガーニ。無事逃げ込めたようで何より』

 

 今もまさに交戦中と思しき状況で、戦術イントラネットのモニタの、簡略化された戦術マップの只中、35機程度の空中の敵に囲まれ交戦を続けながら、彼女は実に気楽な口調で通信を送ってきた。

 

『一つ甘えてもかまわんか? 間抜けにも敵は我が空軍と敵空軍が五分なのを良いことに、どうも頭上警戒が留守になっているようだ。あるいは私が忙しく見えるだけかもしれん。

 つまり、あれだ。

 好き放題そちらを砲撃して、発砲炎と火線によって自分の位置を露わにした、かくれんぼが下手くそな、あの世で奴らの先祖が見たら、その間抜けさに号泣すること疑いなしの連中に、一つ出迎えのプレゼントをしてやろうかと思ってな。

 敵味方の間柄であり、なんなら殺し合いの最中ではあるが、連中は実に勤勉だ。占領したら農業でもしたいのか、泥を砲弾で耕すのに余念がない。奴らは良き軍人たるまえに、まずよき農夫で在りたいようだ。

 そういう連中には報いが必要だろう? ここは、ジェド・マロースの真似事の一つもしてやらねばなるまい。

 私はもらったことはあっても、贈り物を配ったことはなかったのでな。一度やってみたかった』

 

「別に構わんが、あんた何を──」

 

『ツィガーニ了解。構わんのだな。なに、シベリア蚊もどきごときにくれてやるには惜しい大物があり、おそらく着地後には、重くて長くて邪魔になるのは明白なのだ。

 使い所を考えていたところに、実に丁度いい間抜け共が出てきたからな、ここで綺麗に掃除してやろうと思う。耳を塞いだほうがいいぞ、有史以来最大のバラライカによる演奏だ。気をつけんときっと鼓膜をやる。警告したからな?

 ツィガーニ、砲撃開始する』

 

 砲撃?

 

 今、あの小娘は空戦の真っ最中じゃねえのか? 

 

 そのような疑問が、彼の脳裏をよぎった直後。

 

 後方に向けられたまま停止している全周囲視察装置、そのカメラ映像が映し出されたモニタには、彼の戦車が突っ込むまでは壁だった木材や石材、漆喰が散らばる廃屋の一室の景色が映っていたが、その景色が、さながら稲妻が落ちた時のように、閃光により照らし出された。

 

 直後、雷の炸裂に似た、恐ろしく巨大な爆音が響く。

 

 煩いなどという言葉では追いつかない、彼が今まで聞いたこともない、破滅的な轟音であった。

 

 廃屋と戦車の装甲という二重の守りがなければ、音圧で即死していたかもしれない。音はエネルギーの波であり、強すぎる音は、時に衝撃波となって人間を殺しうるのだ。

 

 その殺人的な恐るべき轟音が、彼らの耳朶を、車輌の外側から容赦なく叩く。輝きは時に連続で、時に単発で訪れ、その直後に強烈な雷鳴の如くに爆音が響く。

 

 空中から、ツィガーニを名乗る巨人が、おそらく発砲しているのだ。それも、戦車砲などとは比較にならない、得体のしれない巨砲の類を、想像もつかぬほど高速で。

 

 となれば。

 

 ややあって、前方、はるか遠くから、次々に着弾と炸裂を示す、遠雷のような爆音が響いた。味方がN2融合兵器の使用を決断したのか? と疑うほどに左右の広い範囲、それこそあちらこちらから、地獄の轟音の闇雲な連打が続く。

 

 何がバラライカだ、気が狂った怪力の人食い鬼が狂ったままに太鼓を闇雲に連打しても、きっとこうはならねえぞ!

 

「いったい、あいつ何しでかしてんだ!」 

 

 彼は戦術イントラネットを操作した。

 

 さきほど彼女が言う通り、近場の無人小型移動基地局は撃破されたようであり、回線速度の遅さはそのためか、と理解した。しかし、他にも距離こそあれど、無人小型移動基地局はある。

 

 それら残存する基地局の、複数と同時にアクセスし、なんとか廃屋の周囲の映像や、上空の映像を得られるよう、各地に残置された監視カメラ画像を自らの座席を囲むモニタに出力し──そして、今度こそ、ヴォルチコフは絶句した。

 

 映像には、全身濃緑色の、中世の騎士が纏う鈑金甲冑の如き装甲に全身を固めた、友軍のエヴァらしき巨人が映し出されている。

 

 一時期、映像媒体を通じて『最初の実戦型エヴァンゲリオン、正式タイプ』としてパイロット共々報道されていた(そういえばあのパイロットも小娘で、しかもドイツ人だったなとヴォルチコフは思い出した)、あの赤い装甲をまとったエヴァンゲリオン弐号機とかいう化け物が、全身をつつむ分厚い装甲の上から、さらに鎧を身にまとったならば、このような異形になるかもしれない。

 

 濃緑色の鋼鉄の騎士は、空中にいる。

 

 空中で、土台代わりの何かを踏みしめながら、どうもガトリングガンのたぐいであるらしい大砲の化け物、作った人間の正気を疑うような代物を、右手だけで軽々と振り回しながら、敵軍が展開する西の方角目掛け、情け容赦なく発砲を続けていた。

 

 モニタに表示されたデータが本当なら、あの大砲の化け物は、直径440ミリの砲弾を撃っている。

 

 弾頭重量、実に1発1.3トン。

 

 それは、砲弾と言うには、あまりにも馬鹿げた巨大さと言えた。

 

 なにしろ彼の戦車の主砲の口径は125ミリしかないのだ。戦車としては充分大口径なのだが、それすら「しかない」と表現せざるを得ない時点で、ひたすら気が狂った巨弾といえる。

 

 敵主力戦車を食らうに充分な威力があるヴァクーム1装弾筒付徹甲弾の重量は、諸々込みで0.03トンしかない。30キログラムだ。そしてキログラムに直すならば、あの化け物がぶっ放している弾は13000キログラム。

 

 それを構成する金属と、火薬の量があまりに馬鹿げた妄想じみた非現実的な量であることは、軍人でなくとも想像できるだろう。陸上兵ではなく、海上の戦艦で漸く装備できる程度の火砲といえる。

 

 そんな化け物じみた大砲を束ねて多砲身機関砲にでっちあげ、機関砲であるからと、そんな馬鹿げた弾丸を、おかまあいなしにあの化け物鉄巨人は乱射しているのだ。

 

 世界と自分、狂っているのはどちらなのか、わからなくなる景色だった。

 

 エヴァというものは、以前のニュースに拠ると、使徒という人間と敵対する怪物を倒すために開発されたようだが、その使徒という化け物を倒すのには、あんな大砲の化け物が必要になるのか?

 

 第二次世界大戦で戦艦が海の上から仕掛ける艦砲射撃に匹敵する火力投射を、何を考えたかあの巨人は、敵軍の頭上から爆撃か砲撃かもわからぬような仕掛け方で行っている。そして、用いられている徹甲榴弾の、1発あたりの破壊半径は、モニタに示されたスペックシートによれば、地表で起爆した場合、半径250メートル程度。

 

 ただ1発で、直径にして半キロ、500メートルの円の敵を吹き飛ばせるのだ。田舎の都市の中央市街地が一撃で消滅する破壊規模といえる。そのような恐るべき代物を、あの鉄巨人は砲撃できるのをいいことに、敵軍目掛けてあちこちにデリバリーしてまわっているのだ。さきほど通信で言ったように、さながらジェド・マロースになったつもりで。

 

 ああ、そういえばジェド・マロースは、冬将軍に例えられることもあったな。

 

 昔から冬将軍はロシア人に容赦がないと専らの評判だが、ロシアに攻めてきた敵には、より一層容赦がない。伝統というやつだ。タタールの軛をロシアにかましたモンゴル人だって、北過ぎる地域は寒すぎて、攻めることができなかったらしいからな。

 

 それにしたって、いくら冬将軍殿でも、ここまで短時間にこんな無茶苦茶な殺戮行為ははやらねえだろ、とヴォルチコフ曹長は呆然と思う。

 

 250メートルという破壊半径は、あくまで地上で起爆した場合の数値だ。相手が歩兵などの『ソフトターゲット』であれば、上空で弾頭を起爆することで、より広範囲の、より多くの敵に、砲弾の破片と爆発に伴う爆圧を、さながらシャワーの如く降り注がせ、殺傷することができる。上から降り注ぐのであれば、露天の塹壕や防御陣地は、守りの意味をなさなくなってしまうのだ。

 

 そして、戦車や装甲車というものは、上面や下面にそれほど多くの装甲を貼らない。戦車砲の砲弾は、主に正面、場合によっては横から来る。故に最優先は正面、次に側面、後面は一番ガードが薄く、底面や上面はそのまた次だ。

 

 つまるところあの砲弾の化け物にとっては、戦車だろうが装甲車だろうが兵隊だろうが、等しくソフトターゲットに過ぎない。破片の一つが命中するだけでも、高確率で無力化されることだろう。

 

 自走砲や自走ロケット砲、移動式ミサイルに至ってはなおさらだ。あれらの兵科が装備する車輌には、装甲など全く存在せず、そして誘爆しやすい弾薬や、炎上しやすい固体燃料なりなんなりが、車体や周囲に山のようにある。燃やしてくれと言わんばかりに。 

 

 最遠方で15キロぐらい向こうまで、あの恐るべきグリーン・ジャイアントはエンドウ豆やトウモロコシの代わりに砲弾を配るのが義務であると思い込んで、実に砲撃を行っているようであり、彼方の敵地のあちこちで、花火のように砲弾が咲き、赤熱した破片が降り注ぎ、そしてその下で多くの兵隊や各種車両が犠牲になっている。 

 

 時折誘爆した弾薬やロケット、ミサイルが地上に閃光を咲かせ、さらに車体からこぼれたであろう燃料に引火し、火災と成って被害を広げていく有様は、端的に言って地獄そのものと言えた。誰かが撮ってたら映画の参考にするかもしれねえな、とヴォルチコフは益体もない感想を抱いた。 

 

 そして、その地獄を拡大するのに熱心な鉄巨人が空中の足場にしているのは、おそらくは敵のものであろう、四肢を翼のように広げた、白いエヴァのような巨人であった。 

 

 白い鳥のような巨人を踏みしめたロシアの緑の鉄巨人は、左手首から、なにか鎖に似たものを、飼い犬の首につけたリードのように伸ばしていた。 

 

 ヴォルチコフは、半ば呆然となりながら、ふとその映像を拡大し、そして、またしても唖然となった。 

 

 伸びているのは、犬の首輪につけるような、普通の縄状のリードではなかった。

 

 それは、V字型の楔のような刃を、モニタの表記が正しければだが、超高強度炭素繊維ワイヤー三条で連結した、巨大な蛇腹剣が伸びることによって形成された、刃だらけの鎖のようなものであった。 

 

 緑の鉄巨人は、それを手首から伸ばすようにして射出し、白い巨人の頸部に突き刺し、楔の部分を肉だか骨だかに引っ掛け、曲芸師が暴れ牛に立ち乗りするような塩梅で、両足と伸ばした楔刃と炭素繊維ワイヤーでもって、巧みに白い空飛ぶ巨人を乗りこなしているのだ。 

 

 おそらくは緑の鉄巨人に匹敵するであろう強さを誇るはずの白い巨人も、首に刃を突き刺されながら無慈悲に踏みしだかれつつ、大砲の化け物による『支援』砲撃の土台にされる、などという無法な運用は想定していないのだろう。

 

 時折振り落とそうとするような挙動をとっては、その都度緑の鉄巨人がそれに反応して楔のリードを引っ張り、あるいは左右の足を踏みこみ、あるいは背中を蹴りつけて無理やり空中でバランスを戻して水平体制を崩させない。

 

 そのような暴力を受けつづけた白い巨人は、次第に弱っていくようで、徐々に推進力を失い、高度を下げていく。

 

 すると、濃緑の鉄巨人は、白い巨人の頸部に鎖のリードを突き刺したまま、その背中から真上の方向へ思い切り跳躍した。そして、あのガトリングの化けものを、近場に展開するユーロ連合軍の戦車大隊や、砲兵大隊へ素早く照準し、砲撃を速射で放ってこれらを殲滅してのけた。

 

 まさに秒殺というやつだ。あの一掃射で、500人か1000人か、あるいはもっと多くかわからないが、それぐらいは戦死を遂げたことだろう。 

 

 そして連続砲撃で発生した、あまりにも巨大な反動を利して空中を機動しつつ、身をひねり、ブレイクダンスのように脚を振るいながら、その反動で首に楔が刺さったままであるため、あの暴力的にも程がある濃緑色の鉄巨人のとらわれびとのままとなっていた、白い飛行巨人を、楔のリードを伸ばしながら、右腕に力を込め、全力で振り回す。 

 

 そうやって砲丸投げのように、踏み台にしていた哀れな白い巨人を円状に旋回運動を強要して加速させると、濃緑の鉄巨人へ接近し突撃を仕掛けようとしていた別の白い巨人に向かって、おもむろに投擲した。

 

 当然接近してきた白い巨人は、とてつもない遠心力によって吹っ飛んできた、弱りきった白い巨人と相互に衝突する。さんざん踏まれ、背中という背中を蹴られ、砲台の基礎がわりにされ、弱りきった方の巨人の頭から、長く槍のように伸びた口吻のようなものが、衝突した相手の巨人のちょうど胸板のあたりに突き刺さる。

 

 そして両機は、さながら天に記された青い十字架のように、N2融合爆発の類かと疑うほどの輝きを放ちながら、空中で同時に爆発した。 

 

 そのような、およそ説明し難い景色が繰り広げられる一方で、エヴァンゲリオン・ツィガーニなる濃緑の鉄巨人はと言えば、より上方の別の白巨人の背へ、投擲の反動を利して、万事計算済みといわんばかりに着地を成功させていた。 

 

 当然、その白い巨人は、背中に突然乗ってきた、濃緑の鉄巨人を振り落とそうとする。しかし鉄巨人はそれを赦さず、白巨人の頸部目掛け、左腕をボクシングのジャブのように振るった。

 

 敵を投擲した直後、左腕部装甲内に巻き戻されるように格納されていた楔のリードが、一瞬長剣のような形状となり、拳の上面に展開される。 

 

 その剣は展開の勢いのままに、V字上の楔の連なりとなって真っ直ぐに伸び、白い巨人の頸部を容赦なく貫いた。直後、伸びた楔の連なりが、なにか得体のしれない赤い輝きを帯びた。リードを構成する楔が、90度の角度で、互い違いに、十字状に捩れる。

 

「ああやって内側でよじって、引っ掛けてやがるのかよ……」

 

 ヴォルチコフは思わず呻く。指に突き刺さった返しつきの釣り針を引き抜く時、ひどく痛い思いをして大泣きした子供の頃の思い出が脳裏に蘇った。あれのもたらす痛みは、おそらく釣り針の返しなど比べ物にならないほどだろう。

 

 それが首に突き刺さり、己の肉の内側で捩れる痛みなど、想像するのもおぞましい。

 

 あの白巨人が痛みを感じるかなど、ヴォルチコフの知ったことではないが、ただ、少なくともアレで突き刺され、肉を抉られた挙げ句、背中で鉄巨人の重量を強制的に支える羽目となるのは愉快な経験ではないだろう。

 

 さらには44センチ砲の連続砲撃の衝撃と、砲口から発生し続ける轟音で聴覚を苛まれ続けるのは、およそ人道とは程遠い拷問の類のように、彼には思われてならなかった。敵ながら気の毒になる、とはまさにこのことだろうなと彼は思う。

 それでもあの白い巨人の群れは、あの濃緑の鉄巨人をよほど倒したくてならないのだろう。それぞれに運動しながらタイミングを図り、そのうちの一体が、濃緑の鉄巨人を目指し、まっすぐに突っ込んでいく。

 

 しかし、それは当然読まれていた。 

 

 濃緑の鉄巨人は、素早く両足を踏ん張ると嫌がる足場の白巨人の背を蹴りつけ、下方へ押し込むようにして高度を下げることにより、突撃してきた白い巨人の、赤い口吻の一撃を躱す。 

 

 そして、重量が千トン以上あってもおかしくない多砲身機関砲を、突然片手で下に振るい、その質量の物理運動によって、凄まじい反動モーメントを発生させた。 

 

 その反動を用い、濃緑の鉄巨人は、その巨大さと重量をまるで感じさせないバレリーナのような鮮やかさで機体を旋回させ、右脚を軸とし、巨大な装甲で覆われた左足でもって、後ろ回し蹴りを繰り出した。 

 

 その一撃は恐るべき鋭さと素早さで弧を描き、踵が白巨人の胸部を打つ。 

 

 おそらくは、そこが白い巨人の弱点なのだろう。蹴られた白巨人の胸板装甲が穿たれ、なにか球のようなものが露出し、直後に砕け散った。そして、胸を蹴られた白い巨人は、またしても青白い閃光を放ちながら爆発四散する。

 

 その爆発の隙を突けると思ったのだろう。

 濃緑の鉄巨人の、機関砲を構えた右肩目掛け、突進して口吻を突き刺そうとした別の白巨人が現れた。 

 

 しかし、鉄の巨人に、油断はなかった。鉄巨人は足場の白巨人の首へ左足を伸ばし、蹴りつけるようにして踏み込んで、白い飛行巨人の頭を軽く下げる姿勢を無理やり取らせる。そして軽く上体をかがめ、ボクシングで言うところの、ステップインの姿勢を取った。

 

 結果、敵の一撃は、鉄巨人が上体を沈めたために、むなしく空を切り、その赤い口吻は鉄巨人の背の後ろへすり抜けることとなる。そして、後背を擦過しつつある、今まさに攻撃してきた白い巨人を、濃緑の鉄巨人が見逃す道理はない。

 

 濃緑の鉄巨人は、即座に右手の機関砲を別の陸上目標目掛け乱射し、巨大な砲撃反動を発生させた。そして腕力だけでなく、脚から生じさせた力を腰の閃転に載せ、いかなる巨砲の巨弾をも凌駕するかも知れないほどに運動エネルギーを孕んだ右肘の一撃を、背を擦過する白巨人の胸ぐらに、突き刺すようにして叩き込んだのだ。

 

 打撃によって生じた、砲撃にも勝るおそるべき轟音が、あたりを揺るがした。さながら毒針のごとき致命の肘打ちを受けた白い巨人は、その反動で軽く吹き飛び、耐えられずにゆらゆらと地上へ向かって落ちてゆく。

 

 そして地表近くでまたしても十文字爆発を遂げ、滅んだ。

 

 一時が万事。

 

 その調子で濃緑の鉄巨人は、地上へとてつもない大口径弾の雨を降らせてゆく。

 

 その片手間に、次々に突っ込んでくる白い巨人を、肘で、膝で、爪先で、踵で、チョップで、拳で迎え撃ち、いともたやすく叩き落としてゆくのだ。 

 

 白い飛行巨人は、その気になれば自爆が可能なようだった。そして、それを試みたものもいた。

 

 しかしその予兆を見て取ったのだろう、鉄巨人は先程の要領で素早く砲丸投げの砲丸にしてしまい、別の鉄巨人に叩きつけて諸共に爆発させた。

 

 当然、その間黙って落ちているわけがなく、鉄巨人は、ボリショイ・サーカスのピエロでも真似できないのではないかと言うほどの軽業で、まんまと別の白い甲巨人に、例の伸びる楔の鎖をもってして突き刺し、取り付き、乗り移る。

 

 また、相手の位置の関係で乗り移れない場合、濃緑の鉄巨人の行動は、より無慈悲なものとなった。

 

 腕の蛇腹のような楔のリードを下方から素早く射出し、離脱しようと腹を見せた空中の白い飛行巨人の腹なり首なりに、楔のリードの先端を突き刺す。 

 

 そうやって蔦から蔦へ飛び移る映画の野人のような要領で、空中を自在に運動し、振り子の要領で体を刺した相手の上方へはねあげて、いとも容易くの背に乗ってしまうのだ。

 

「あいつ、特殊部隊(スペツナズ)の出か何かか?」

 

 思わず呻いたヴォルチコフの言葉を抜け目なく聞いていたのだろう。実に自慢げな少女の声が、通信回線の向こうから聞こえてきた。

 

『おっしゃるとおりだ、ヴォルチョク曹長。自慢だが、これでも国家より赤いベレーを頂いている。だからエヴァを壊すなりしてネルフを首になっても、私は食い扶持に困らんのだ。

 その時は内務省で雇ってくれると、既にして内定が決まっているからな。縁故採用というやつだ。羨ましいだろう」

 

「マジかよ」

 

 ヴォルチコフは思わず呻いた。

 

 ロシアにおいて、軍人がかぶる赤いベレー帽といえば、特殊部隊に入隊していることを示す証である。軍人として不名誉なことをすれば、それは直ちに没収される。

 

 それを得ることによって昇給することはないが、しかしそれを持つものはいくつになろうと名誉あるものと見なされる。いわば誇りと栄光の証であり、証明書すら発行され、なんなら普段から身につけて、誇ることすら許される代物だ。

 

 それが事実であるならば、声音と、そして戦術イントラネットの映像データを見る限り、どうも一応は14才の子供であるらしいあの少女は、ロシアの特殊部隊入隊試験の際に行われる、正気を疑うようなカルト的な訓練や試験をこなしきったということになる。

 

 防弾装備をしているとは言え、味方同士で実銃で撃ち合う訓練をやり、普通に自動車爆弾の実物を用いるだけでなく、その爆発を前提にして訓練するという、死体を作りたくてたまらないやつでなければ組まないようなプログラム。それをこなしたのだ。

 

 つまり、いかに声音や見てくれが少女であろうが、彼女はおそらく、ナイフ一本あればヒグマでも仕留めかねない人間の姿をした怪物ということになる。

 

 そういう、同じ人間なのか果たして怪しい存在が、あの緑の鉄巨人を自由自在に振り回しているからこそ、あのように無茶苦茶な機動をやらかすのだ、ということを彼はようやく理解した。

 

 呆然と、思う。

 

 国が揺らぐほどの大金がかかる兵器であれば、それは確かに化け物に預けるのも筋だろうが、それにしたって、あれは、やりすぎじゃねえのか。

 

 いや、良いのか。戦闘前のブリーフィングじゃあ、この戦いで人類の存亡がどうのこうのらしいし、そういう場では、ああいう化け物みたいな女が必要なのかもしれねえ。 

 

 そして気づけば、少女と、少女が操る緑の鉄巨人は、つい先程まで彼の後方にいたはずが、破壊と惨殺をばら撒きながら好き放題に空中を嵐のように暴れまわりつつ順調に前進を続け、無数の白い巨人と、地上の無数の兵器や敵兵を、食べ放題パーティのような感覚で次々に血祭りに上げながら、とうとう敵地との境界たる西のナルヴァ川、その上空を越えた。 

 

 その空域は、その地域は、もはやロシアではない。 

 

 そこは地図の上ではエストニアであり、かつてナルヴァと呼ばれ、やはりセカンドインパクトに伴う水害や疫病によって、放棄された街だ。ユーロ連合軍がロシア侵攻のため、拠点として陣地化した地域へ、彼女と彼女の鉄巨人は踏み入ろうとしているのだ。

 

 当然、ナルヴァは無人であったのを良いことに、完全に陣地化されているため、それまで隠匿されていた無数の対空砲火が一斉に火を吹く。

 

 しかし、どういうわけか、それらは濃緑の鉄巨人と、白い巨人の腹側やや下方に展開された、赤く発光する薄膜のような力場に阻まれ、一発も通らないようだった。

 

 その癖、濃緑の鉄巨人は、これ幸いとばかりに発砲した敵対空陣地目掛け、一発一発、丁寧に巨弾を放ち、陣地を蹂躙し、崩壊させていく。

 

 挙句の果て、とうとう最後の一体に成り果てた、足場にしている白い巨人から、楔のリードを把握したまま、飛び降りた。その下方には、ユーロ連合軍が陣地化した、前線の拠点たる旧ナルヴァ市街地がある。鉄巨人はもはやその上空までたどり着いてしまっていたのだ。

 

 濃緑の鉄巨人は、落下しながら、上昇して一時離脱しようとする白い巨人を、強引に空中で見をひねりながら振り回す。さながら縦回転の動きの旋風と化しながら、白い巨人と己を繋ぐ紐帯たる、楔のリードを伸ばしていった。

 

 リードによってハンマー投げの球状ハンマーよろしく振り回される白い飛行巨人の速度が、これまでの惨たらしい戦闘行為でも見られなかったほどに加速する。白い飛行巨人にかかっている遠心力の凄まじさを、ヴォルチコフは想像したくなかった。20Gではすまないだろう。人間ならば潰れトマトになる程度の力はかかっているはずだ。

 

 緑と白の二体の巨人は、そのように旋回しながら重力に引かれて落下していった。

 

 当然、縦に振り回された白い巨人が、先に地面に接触する。というよりも、叩きつけられたという方が正確だろう。

 

 落着時の終端速度は、おそらく音速を超えていた。濃緑の鉄巨人によって、旧市街地の中央目掛け、陣地破壊用穿孔爆弾代わりに叩き込まれたのだ。 

 

 白い飛行巨人は、叩きつけられた勢いのまま、口吻とそれが生えた頭部から真っ直ぐに地面に突き刺し、そのまま一瞬で地中へとその全身をめり込ませ、爪先まで50メートルか、100メートルほど、軟泥に石を落としたような滑らかさで潜り込んだのち、巨大な十文字爆発を引き起こした。

 

 その地点の地下に隠匿されていたと思しき弾薬にでも引火したか、それこそ核爆発を疑う規模の巨大な爆発とキノコ雲が発生する。そのおぞましい火薬爆発の輝きは、かつて人が暮らした廃墟を、更に惨たらしく彩った。

 

 数十機の巨人の群れによって、空中で戦われていたギリシア神話のティタノマキアの如き闘争を、一対数十という戦力不利など関係ないとイワンばかりに容易く覆した濃緑の鉄巨人は、驚くべきことに、まだ空中に有った。 

 

 白い飛行巨人を地面に叩きつけた反動が、落下の勢いを若干相殺し、故に未だに鉄巨人は浮遊している。

 

 おそらく、何かを狙っているのだ。ヴォルチコフは、理由もなく革新した。

 

 何を狙うんだ。 

 

 この期に及んで、ここまでやって、まだ何かをやるってのかあの小娘は。

 

 ヴォルチコフが呆然と見つめるモニタの映像の中、鉄巨人は、むしろ驚くほどの緩やかさで落下していく。落下してくる鉄巨人目掛け、火砲が必死に抵抗すべく発砲するが、それは尽く無意味だった。すべてが、あの薄赤く輝く力場に弾かれ虚しく爆発する。

 

 その、全ての弾丸を防いだ赤い力場が、落下の瞬間、恐ろしく広い範囲に広がった。

 

 直後、鉄巨人は着地した。それに伴い、およそ直径500メートル範囲の、鉄巨人の下にあった建物やその他の何もかもすべてが、鉄巨人が脚下に展開していた六角形の力場によって、まったく同時に押しつぶされ、地面に押し込まれるようにして、尽く平らに整地されるのが見えた。

 

 おそらくその地点に居たユーロ連合軍の司令部要員や兵士も、展開された赤い力場に押しつぶされたことだろう。

 

 あの巨体、そして体の重量を思えば自身も地面にめり込んでも不思議ではないのに、いかなる加減によるものか、鉄巨人は悠然とナルヴァ旧市街地であった、押しつぶされた円状の平野、その中央に佇んでいる。 

 

 直後、弾薬が切れたか、虚しく空転していた巨大なる多砲身機関砲を、緑の鉄巨人は手放した。

 

 回転砲身を守っていた、濃緑のハンドガード装甲に、白のペンキで描かれた「Беспощадный(無慈悲)」の文字を、ヴォルチコフ曹長は呆然と見つめる。

 

 ユーロ連合軍の抵抗が、止まっていた。 

 

 つい先程まで圧倒的にロシア軍にとって不利だったはずの戦場は、突如として出現した濃緑の鉄巨人の、無法という言葉すら生ぬるい猛撃によって、カイジュウ映画のカイジュウが暴れたい放題に暴れた市街地のごとく悲惨なありさまとなっている。 

 

 平原の、湿地帯の、河川のあらゆる場所で何かが燃え、時折残置された弾薬に引火でもしたのか、どこかしらで何かが爆発し、そして炸裂している、まさに燃える地獄と成り果てたのだ。『神曲』のヴェルギリウスですら、このような景色は知らぬと断じるであろう。 

 

 この情景をもたらした少女の声が、通信回線ごしに響く。まるで平静であり、驚いたことに、どこか楽しんでいるような気配すらあった。 

 

『撃ちすぎたか、流石に弾切れだな。

 弾薬の再生産は望めんだろう。EM-226回転式多砲身機関砲殿、短い付き合いだが見事な働きだった。故障一つ起こさぬとは、おそらく設計が良いのだな。大したものだ。敵戦力打倒の功績に免じ、退役を許可する。ゆっくり休め』

 

 福音の名を与えられし濃緑の鉄巨人の操り手たる少女は、巨砲の最終進化系の如き怪物へ別れの挨拶を告げる。

 

 そして、緑の鉄巨人は、突如大出力の電波を発した。

 

 VHF波、150MHz帯。すなわち、国際VHFである。国際的に利用される共用チャンネルの一つで、主に船舶で利用されてきた無線周波数帯だ。

 

 つまり、敵味方問わず、この場にある全ての人間に告げるべきことがあると、彼女は波帯で訴えているのだ。ヴォルチコフ曹長は、慌てて非常用の無線のチャンネルを、その周波数帯に合わせた。

 

 恐れ知らず、屈することをきっと知らぬ、ともすれば不遜で不敵でさえある声音の少女の言葉が、車内に響き渡る。

 

『マイクテスト。うむ、この程度でいいか。我が母国あるロシア軍の諸兄、および我が国へ攻めきたるユーロ連合軍の諸君。我が名はサージャ。サージャ・アヤナミ。人類の脅威たる使徒の殲滅のため、母国たるロシアへ、パンと塩を以て迎えられた女だ。

 ユーロ連合軍の諸君、貴官らが何を聞かされて来たかは知らんが、助かりたいならば降伏せよ。

 我々は、サードインパクトによって発生する赤い大海嘯への防ぎを構築しつつある。

 戦い続けるならば、人類生存を阻む脅威と認定する。つまり、諸君らを使徒とみなす。

 わかるな? 人類存続、使徒殲滅はネルフの義務である。よその支部と本部が放り出そうが、我らには関係ない。ロシア支部以外が全て義務を放り出したとしても、我々はネルフとして、人類生存を阻む脅威全てを、何者であろうが躊躇なく粉砕する。躊躇なくだ』

 

 軽やかさのある声でありながら、しかし容赦なく少女は告げた。

 

『我らに使徒と認定されたくなくば、直ちに降伏せよ。

 あるいはこのくだらぬ戦争にいまだ未練があるならばかかってくるがいい。容赦なく使徒として殲滅する。使徒ゆえに人扱いは受けられず、墓も残らぬと知れ。

 これより決断のための思考時間を与える。制限時間15秒!』

 

「短すぎだろ!!」

 

『14!』

 

 ヴォルチコフの言葉が聞こえているだろうに、少女は決断的に無視したようだった。

 

 カウントは無慈悲に減少していく。

 

 濃緑色の鉄巨人、その巨大な小手の上面から、太く短い、大砲が伸びた。

 

 25口径短砲身125 mm電熱化学砲。開発コード2A51M。次期主力戦車用に開発された主砲の短砲身改造モデルであり、その初速は条件次第ではマッハ7を超える代物だった。

 

 敵するならば戦うのみ。

 

 多砲身機関砲のハンドガードに記されていた文字そのままに、敵対する道を選ぶものを容赦なく彼女は殲滅するつもりのようだった。

 

続く

 

 



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第2話『北の地にて』Interlude:挫けない唄 中編 その3

 浮遊感。それが彼女が感じた最初の感覚である。

 そのアヤナミレイは、LCLの中で目を覚ました。

 

 彼女に取り、これが生まれてはじめての覚醒であったが、それは彼女にさしたる感慨を与えなかった。覚えているのは強い倦怠感ばかりだ。

 

 薄暗い赤色の非常照明が照らす暗いエントリープラグの中、生まれて初めて見えるものは、人造人間エヴァンゲリオンとつながる、ただそれだけのために作られた、彼女の人生の始まりにして終わりの場となる操縦席。

 

 そして操縦席とエントリープラグとを形作る、数々の鋼の部品である。

 

 黒いプラグスーツに包まれた自分自身の、赤子とも成人とも言い難い体を、彼女は朦朧とした意識のまま見つめた。

 

 そうして、あらかじめ自身の造り手によって記憶野に刻み込まれた記憶を探り、自らの存在意義を確認する。

 

 徐々に、彼女の意識が覚醒し始め、14才の少女相当の意識と認識が稼働し始めた。

 

 仕組まれた記憶が、これから為すべき事を彼女へ認識させる。

 

 本来、順調にシナリオが進行していれば、彼女は覚醒することもなく、予定通りにサード・インパクトが発動し、この肉体は生を終えているはずだった。

 

 しかし彼女は目覚めており、こうして意識を持って活動している。

 

 それは、目覚める必要が生じたから。

 

 命令を、実行する必要が生じたから。

 

 そう、彼女は理解した。強い諦観が胸をよぎる。これから先に待ち受けるのは、ごく短く、かつ無意味で無価値な、幕引きのための後始末をするだけの人生なのだから。

 

 彼女が確たる認識を得るのを待っていたかのように、操縦席正面のモニタが起動する。

 

 黒い画面の表面にノイズが走った。

 

 赤い文字が映し出される。

 

『ONLINE SEELE 01 SOUND ONLY』。

 

 同時に、厳しく、しかし老いさばらえた老人の声が、エントリープラグ内に響き渡った。

 

『目覚めたか。45番目のアヤナミレイ』

 

 自身の主の声であると、彼女の自我と記憶が同時に認識する。彼女は頷いた。

 

「問題ありません。いつでも命令を遂行できます」

 

『約束の時が来た。大地の浄化たるサードインパクトの発動は疑いなく行われるであろう。

 しかし、その完遂を望まぬ者たちの抵抗の規模が、シナリオの想定する閾値を越えて強い。

 想定を越えた数の原罪ある人類が、罪の浄化からの逃避を企てている。

 サードインパクトの後に発動されるフォースインパクト、魂の浄化による補完。

その布石たる駒としての域を越え、群体としてのエゴを維持する規模の勢力を保つようならば、人類補完計画の遂行に影響を齎しかねん』

 

 老人の声に、アヤナミレイと呼ばれた彼女は頷いた。

 

「了解。命令に従い、目標を殲滅します」

 

 その言葉に応じるように、彼女と全く同じ顔をした存在の顔がモニタに映し出される。

 

 しかし、彼女は強い違和感を覚えた。

 

 記憶に植え付けられたイメージとしての『アヤナミレイ』と、様々な部分で強く印象が異なっている。

 

 例えばそれは、頭の後ろで乱雑に結いつけられた長い白髪。

 

 例えばそれは、わざとらしく斜に被った赤いベレー帽。

 

 何より写真の中の表情に、強い違和感を彼女は覚えた。

 

 そのアヤナミレイであるはずの存在は、傷を負ったのか、頬や首のところどころに絆創膏を貼り付けていた。

 

 そのくせ、今が本当に楽しくてならないと、そう言わんばかりに瞳を輝かせ、両の口角を上に吊り上げている。

 

 笑顔。

 

(笑っている。何故)

 

 ()()()

 

 ()()()()()()()

 

 単語としてその言葉を知っていても、その感覚を体験したことのない彼女は、目標とすべき存在の笑顔と紐付けられた『楽しい』という言葉に、奇妙な戸惑いを覚えていた。

 

 脳裏をよぎったその感覚をかき消すように、プラグ内のLCLを、老人の威圧的な声が強く揺らした。

 

『それはアヤナミシリーズ初期ロットの一人。33番目のアヤナミレイ。

 魂の因子があまりにもヒトに近づきすぎた存在。

 イレギュラーの産物だ。

 アヤナミレイとしての運用が不可能な不適格品であるために、状況調整の駒として用いたが……想定以上の変異を遂げている。

 我々の計画を阻害しかねぬ、危険因子と成り果てた。

 搭乗するナンバーレス・エヴァンゲリオンとともに、必ず殲滅せよ』

 

 その言葉とともに、通信が途絶え、再びエントリープラグ内は、赤い薄闇に包まれる。

 

 シートに座したまま、彼女は僅かに俯いた。

 

 彼女と機体とのシンクロは未だ確立していないため、彼女と、彼女の搭乗するエヴァを包む世界の情報は入ってこない。

 

 それでも彼女はアヤナミレイであるがゆえに、彼方で数多の人々が殺し合っている気配に気づいていた。

 

 多くの生命が地上の様々な場所で、痛みと恐怖、息苦しさに苦しみながらATフィールドを崩壊させ、崩壊してゆく魂の気配を感じていた。

 

 文字通りに魂消るその音ではない断末魔、絶望と恐怖の叫びの数があまりにも多い。

 

 それは暴風の唸りさながらに、無数が一つの大渦と化したかのようで、一人ひとりの悲鳴を識別・認識するのが困難なほどだ。

 

 死を恐れる人の本能。生命の本能。

 

 ヒトという種族は泣きながら生まれ、そして泣きながら死ぬのだ。

 

 脳裏に仕込まれた言葉がよぎった。

 

 不完全で不安定な群体、それを構成する一つ一つの生命は、総体としての群体から顧みられることもなく、苦しみながら死んでいく。

 

 旧き生命が宿痾として病む、その定めを終わらせる。

 

 その存在をすべてマテリアルとし、新たな時代を永劫として生きる補完の儀式、その完遂により、生と死という生命に定められた苦痛を終わらせる。

 

 此処の旧生命は、永遠を生きる母たちを形成する、一つの細胞となる。

 

 さながら永遠に生まれることがない胎児のように、現世の苦痛を味わうことなく、母たちの中で永遠を過ごすことになるだろう。

 

 そう。全てが上手く行っていれば、私は覚醒することなく、現実を生きることなく、まどろみの只中で新生命のマテリアルの一つとなることが出来たはずなのに。

 

 頭をよぎるこの感情が、不快であると彼女は気づく。

 

 その不快の原因は、きっとあの輝くいのち。

 

 彼女は、その末期の叫びの嵐の只中で、溌剌と躍動しながら輝く、一つの魂の気配、今を生きるいのちの、声ならぬ声をも感じ取っていた。

 

 そのいのちは、彼女の持つ魂によく似たかたちをしている。

 

 けれど本来あるべきアヤナミシリーズの有り様とは真逆に、それは感情を踊らせていた。

 それはとても原始的で野蛮な感情。

 

 戦いの興奮に躍動し、痛みすら喜びと変えて勇躍する。

 

 とても熱くあたたかい、真っ赤に燃える激しい炎のようないのち。

 

 老いて冷え、死にゆく定めであったにもかかわらず、別の恒星を貪欲に啜りくらい、絶望の夜空を否定して輝きはじめた中性子星のようなありかた。

 

 根本はアヤナミレイであるにも関わらず、そのたましいのうねりはあまりにも野卑な喜びに満ちている。

 

 あの老人が語ったように、それは、あまりにも人間に近すぎた。

 

 彼女はきっと、今も笑っているのだろう。

 

 そうなのね。コレが、欠陥品。

 

 彼女は私ではない。アヤナミレイではありえない。

 

「終わる世界。もう用済みの貴女。

 用済みの人類。そして用済みになる私。

 辛いのに、苦しいのに、それでも生き足掻くのね、貴女は。

 ──わからない。

 なぜそうまでして安らぎを拒絶して生きようとするの?

 生きたところで、苦しみしか残っていないのに」

 

 彼女はモニタに映し出されたままの笑顔に問う。

 

 無論、ただの写真が答えるわけもない。

 

 それでも、彼女は心で問い続ける。

 

 問う。問い続ける。

 

 いずれ出会い、そして殺し合う定めにある、もうひとりの自分自身の虚像へ、心で問いを投げ続ける。

 

 ヒトとしての喜びを抱いて輝く、彼女の心の芯が45番目のアヤナミレイには見えている。

 

 だからこそ、疑問は深まるばかりで、止まろうとしなかった。

 

 どれほどいのちが輝こうと、その表層の輝きを見透かせば、そこにはリリスを基とした、根幹たる魂の核、ATフィールドの原型《アーキタイプ》を見通せる。

 

 それは、やはり冷たく青い色。

 

 他人と異なるその冷たさ、彼女の魂の起点たる場所は未だにアヤナミレイで、そこには彼女が輝きの内側に秘めた痛くて辛く、悲しい思い出がたくさん詰まっているというのに。

 

 何故ヒトを装うの?

 

 何故ヒトのふりをするの?

 

 生きるのが辛かったのに。

 

 痛かったのに。悲しかったのに。

 

 何故。

 

 何故。

 

 何故。

 

 何故。

 

 無論、そのいのちは、アヤナミレイとしては欠損した個体故に、彼女に答えを返しはしなかった。

 

 リリスより分かたれた分霊たる存在でありながらあまりにもヒトに近いが故に、そのいのちは、とりわけ強くその権能を与えられた彼女の魂の発する問いにさえ気づくことはなかった。

 

 きっと、直接言葉で語りかけなければ、永遠に彼女の問いかけに気づくことはないだろう。

 

 ともかくも、あのいのちは44Aの第一波、その全てを情け容赦なく破砕してしまった。

 

 その胎にいるアヤナミレイたちもろともに。

 

 第二波、量産型エヴァによる空陸同時攻撃をも凌ぐようなら、おそらくその中途で介入し、戦うことになるのかもしれない。

 

 語りかけ、問うならば、きっとその時なのかもしれない。

 

 ()()

 

 ふと、彼女は自分自身の思考を奇妙に思った。

 

 ただ命令を果たすだけ。

 

 生きるのは不快だから、その不快を終わらせるため、目標のいのちの鼓動を止めるだけ。

 

 それが私の役割。命令。

 

 それなのに。

 

 必要もないのに、何故、そんな事を考えたの、私。

 

 最後の問いは、自分への問いとなった。

 

 問おうと考えてしまう自分への疑問であり、問いである。だから、答えられるのは自分だけだ。

 

 自分でもわからない問いを、自分自身に問うのは意味がない。それでも脳裏に疑問は浮かぶ。自分の魂が求めているかのように。

 

「あのアヤナミレイに、私の心が引かれている? 何故」

 

 用済みの、もうすぐ終わりになるこの世界で、何故。

 

 通信が絶え、音も絶えた。

 

 LCLが音もなく循環し、彼女の髪を揺らし、頬を、耳を撫ぜる。

 

 エヴァンゲリオンという巨人に埋め込まれた、人造の金属の子宮たるエントリープラグ、その操縦席でいつしか膝を抱え、畳まれた己の下肢に顔をうずめながら、彼女は、なおも問い続けた。

 

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 EPISODE:2 No one is righteous,not even one.

 

 Interlude:Indomitable song

 

 Fourth part

 

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『13( тринадцать )!

 12(двенадцать)!

 11(одинадцать)!』

 

 国際VHF無線波を通じ、少女のカウントダウンが無慈悲に続く。

 

 流石に拙いと思ったヴォルチコフ曹長は、カウントダウン完了と同時に掃討行動を開始する気満々の気配で、変あらば即座に駆け出さんとばかりに身構える濃緑の鉄巨人の姿をにらみつつ、直通回線でパイロットに呼びかけた。

 

「ツィガーニ! 落ち着け馬鹿、止まれ!

 慈悲がねえにも程があるそのカウントを中止しろ!」

 

『9(девять)。

 何故だヴォルチョク。

 降伏する気がないのなら、叩き潰さんと撤退の後に再編され、然る後に全力で反撃を受けるだろうに。

 それを思えばこの勧告は、我らが母国の大地よりも寛大であり雄大、偉大とすら私は思うのだが』

 

「降伏の判断を下せる連中は、お前が今しがた良くわからん力上で持って、真っ平らに踏み潰しちまっただろうが!

 ましてあの無茶苦茶な砲撃だ、大抵の連中は砲弾神経症起こしててもおかしくねえ。

 すぐに判断できるわけねえ状態で、制限時間15秒は短すぎだ、お前、少し落ち着け!」

 

『8( восемь)。

 すまん忘れていた。

 そう言えば、連中の司令部と思しきところが丁度いい着地点だったもので、ATフィールドを展開して概ね潰してしまったのだったか。

 とはいえ敵増援の可能性もある。妥協の余地がまるでないな』

 

「わからず屋のトンカチ頭かよ!?」

 

 少女──エヴァンゲリオン・ツィガーニパイロット、サージャ・アヤナミ少尉の、今にも獲物に襲いかかりたくて仕方がない、興奮した猫の鳴き声にも似た響きがある言葉に、思わず頭を抱え込みそうになりながら、ヴォルチコフ曹長は考えた。

 

 実際、唐突に侵攻を仕掛けてきたのは向こうであり、当初は劣勢であった戦いの只中で、相応に戦友を殺されてもいる。

 

 正直なところを言えば、カウント終了まで待ち、彼女が残存兵に対して行うであろう屠殺行為に唯々諾々と参加するほうが楽なのだろう。

 

 しかし、これだけ何もかも叩き潰したあとで、虱潰しの残兵殲滅を仕掛けるのは、慈悲がないのに程がある、という考えも浮かぶ。

 

 向こうにも(未だに信じがたいが)ロシア政府その他の発表を信じ、本音を言えば戦いなど放棄して助かりたい、という連中も多いことだろう。

 

 先程の馬鹿げた大火力砲弾のシャワーを浴びればなおさらのことだ。

 

 そういう連中の助かりたい意思を無視して履帯で踏みにじるというのは、流石に寝覚めが悪い。

 

 一度キンギセップの野戦司令部に判断を仰ぐよう説得する手もあったが、この娘っ子が、軍隊が機能するにあたって必要とする、かったるい手続きを嫌う、どちらかと言えば独断専行を好む手合なのは間違いない。

 

 現場判断で人類の脅威なので使徒認定しましたで何もかも済ませて、何もかもぶっ飛ばしてしまうのが目に浮かぶ。

 

 しょうがねえ、俺が自分で考えて、手を打つしかねえのかよ!

 

 ヴォルチコフは内心で、神や悪魔や運命や魔女の婆さんや、ついでに暴走もいいところのエヴァンゲリオン・ツィガーニとそのパイロットを罵りながら、T-90Mの車長席に備え付けられた無線機を操作した。

 

 波帯は150MHz帯、国際VHF波帯だ。チャンネルは……あの女、全部のチャンネルを使ってやがる!

 

 構わず彼は無線をONにした。使用するチャンネルは、彼女同様、同波帯の全チャンネル。

 

 発信した電波がエヴァンゲリオン・ツィガーニの発する電波と輻輳を起こし、音声が途切れるかもしれないが、この際構わない。

 

 カウントの邪魔にはなるだろう。

 

『あー、ユーロ連合軍で降伏勧告の通信波とカウントダウンを聞いてる連中に告ぐ!

 こちらロシア軍第4親衛戦車師団第237親衛戦車連隊所属、ヴォルチコフ曹長!

 この女は本気だ、降伏したいなら白旗を掲げて出てこい、白旗がねえならせめて武器を捨てて、両手を上げてトーチカなり塹壕なりから出てくるんだ!

 さもなきゃ、さっきみたいに馬鹿げた砲弾の雨を貴様らめがけて降らせかねんぞ!』

 

 実際のところ、例のガトリングガンの化け物を、ツィガーニはもう手放しているのだが、ユーロ軍の連中の大半は気づいていないだろう。

 

 何しろ夜間戦闘なのだ。暗視装備や戦術ネットワーク機能を喪失してしまえば、夜闇に視界を阻まれ、敵戦力の状態を探るすべが失われてしまう。

 

 まして相手は未知数の改造エヴァとなれば、先程のガトリングガンより物騒な攻撃手段を持っていたとしてもおかしくないのだ。ヴォルチコフ自身がそう思うのだから、ユーロ軍の兵士は余計にそう思うことだろう。彼は言葉を続けた。

 

「口が悪くてすまんが、これは善意だ! ともかく殺し合いはもうゴメンだ、もうやりたくねえって連中は降伏しろ!

 あの女、本当に何やらかすかわかったもんじゃねえぞ! さっき見ただろ! 以上だ、通信終わり!』

 

 言うだけ言って、無線を切る。相手が返答可能かどうかはわからんが、あとは祈るほかない。

 

 

『7(семь)。

 そう言えば降伏方法について伝えるのを忘れていたな。助かったぞ』

 

「助かったぞじゃねえよ!?

 つか迎え入れ方も考えてねえだろ、その調子じゃ!]

 

『6(шесть)。

 ノヴゴロドの奴──つまり後方の野戦司令部がなんとかするだろう。問題ないな!』

 

「やっぱり考えなしかよ、ド畜生!」

 

 何が悲しくて、戦場のど真ん中で学校のガキのような会話をしなければならんのだと思いながら、ヴォルチコフは操縦手に身を隠していた廃屋からT-90Mを進発させ、ナルヴァ方面へ前進させるよう命じた。

 

 命令を聞いた操縦手が、無精無精の気配で指示に従う。

 

 V-92S2Fディーゼルエンジンは、ソ連時代から蓄積されたロシア重工業界の冶金技術の高さを示すように、安定したエンジン音を響かせ始めた。

 

 この音なら当分は大丈夫だろうとヴォルチコフは判断する。

 

 もっとも、戦闘開始からずっと最大出力で酷使され続けた状態だ。

 

 さらに廃屋の壁への衝突と、それが齎した衝撃で、音に聞こえずとも、その構造に相応にダメージを負ってはいるだろう。

 

 戦闘が終わったら、一通りの確認と、メンテナンスが必要だろう。

 

 戦車という代物は、その図体と装甲や主砲由来の重量故に、あちこちに無理がかかっており、戦場で最も故障しやすい車種でもあるのだ。(もっとも、各国主力戦車の中ではT-90Mは軽量な部類ではあるのだが)

 

 廃屋を出たT-90Mは、時速50キロの速力で、ツィガーニが降らせた滅茶苦茶な砲撃で、月面とも沼沢地ともつかぬ有様と成り果てた、荒野の只中を疾走していく。

 

 操縦手の腕がよくて良かったとヴォルチコフは心から思う。

 

 何しろ、大地のそこら中に、隕石クレーターのような巨大な弾着痕が発生しているのだ。

 

 いうまでもなくツィガーニが雨あられと無慈悲に降らせた440ミリ砲弾のせいである。

 

 そこは、様々な事情から、T-90Mの幅広の履帯でも踏破困難であり、なおかつ危険極まりない、恐ろしく柔らかな泥濘と成り果てているのだ。

 

 大質量砲弾が引き起こした巨大爆発によって、土壌が瞬間的に加熱乾燥されると同時に、衝撃波によって細かく粉砕されながら空中に巻き上げられ、もろともに巻き上げられた水や、かつての人体、戦闘機械だった鉄屑と混ざり合いながら、重力に引かれて落ち、砲弾クレーターの曲面に沿って流れ落ちた結果、形成された底なし沼。

 

 中央部の泥濘は、ソ連崩壊以後のロシアにちゃっかりと根付き、国民にすっかり親しまれる対象となった、あのマクドナルドのシェークほどに柔らかいだろう。

 

 つまり、固形物が乗れる状態とは言えない。まして重量50トン近いT-90Mなど、簡単に飲み込んでしまうだろう。

 

 そういう代物が、エヴァンゲリオン・ツィガーニが放った砲弾のみならず、ユーロ連合軍とロシア軍が放った砲弾の数だけ、地上のあちこちに大小さまざまな形で存在しているのだから、そこを行軍する者にとって、大地は悪夢の権化とでもいうべき状態となっているのだ。

 

 このような、辺獄もかくやという場所を、赤外線モニタリングや車外カメラを駆使し、そこらじゅうに発生した沼沢地に沈むことなく、的確にナルヴァ方面へ車体を突進させているのだから、本当に大した腕の操縦手だとヴォルチコフは思う。

 

 問題は現状の前線の状況だが──ヴォルチコフは車長用の車外監視システムを起動し、彼は前方の映像を車長用モニタに投影した。

 

 熱線映像装置、微光暗視装置、いずれの暗視装置にも、小さな人型の者がいくつも、両手をあげながら彼らの側──ロシア軍陣地の方向へ近づいてくるのが見える。

 

 ヴォルチコフ曹長は思わず安堵のため息を漏らした。前方に佇む巨人、エヴァンゲリオン・ツィガーニに再び音声通信回線をつなぐ。

 

「ヴォルチコフよりツィガーニ、無駄弾を撃たずに済んで良かったな」

 

『ヴォルチョクか。せっかくだ、電熱化学砲の試射も済ませておきたかったが、降伏するというのでは仕方あるまい。

 第三新東京市の状況次第だが、ことが最悪の形で進展した場合、彼らも貴重な残存人類、我らの朋輩となるだろう。

 ……しかしまあ、無防備かつ無秩序に、戦場のあちこちから這い出してくるものだ。

 降伏に当たって、隊伍の一つも組めばよかろうに。奴ら、もう少し統制がとれんのか』

 

「どっかの誰かが1.3トンの巨弾をばらまいて、その爆発で何もかも滅茶苦茶にしちまったからな。

 衝撃だけで塹壕に居ても脳みそやられて発狂しかねんし、身を守るものがなかったら即死間違いなしの一撃なんだぞありゃあ。それを束で撃たれたら、悪魔だってビビって腹見せて降伏する。

 どいつもこいつも降伏開始してるのに、その旨の通信すらないレベルで統制がとれんのも、佐官クラスが軒並み全滅したせいかもしれんだろ」

 

『そういうものか』

 

 どこか拍子抜けしたような気配の返答が返ってくる。彼女としては、もう少し苛烈な戦場を想定していたところ、思いのほかに戦いが一方的なものになってしまったので、それが意外であったのかもしれない。

 

 自分があの砲撃のなかに生身でいたらどう思うか、少しは想像してほしいもんだが。呆れながらヴォルチコフは嘆息する。

 

 ともかく、一度戦闘に一区切りついた以上、この物騒なお嬢さんとの会話もぼつぼつ仕舞いだろう。ヴォルチコフが所属していた大隊も、この車輌が所属していた大隊も、いずれも壊滅してしまっている。

 

 恐らく再編がかかり、移動命令が下ることだろう。軍隊は組織として行動して初めてその戦力の真価を発揮できるものであり、壊滅状態で指揮官もいないまま、てんでバラバラに行動しても、各個に撃破されるのが落ちだ。

 

 いや、エヴァンゲリオンだけは別か。

 

 あの恐るべきツィガーニを思い出しながら彼は苦笑する。

 

 汎用人型決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオン。

 

 なるほど、たしかに決戦兵器だ。局地戦とは言え、単機で戦局全部ひっくり返しやがったからな。

 

 さて、こういう状況だ。司令部も音声命令じゃ指示が追いつかねえだろうが、戦術イントラネットシステムあたりにはぼちぼち新しいデータがアップデート……。

 

 脳裏でつぶやきながら、彼は戦術イントラネットの戦況表示を見ようとし──ふと、地面が僅かに揺れたような気がした。

 

「地震?」

 

 ヴォルチコフは首をかしげる。

 

 確かに、揺れているのだ。車体の計器類の数値変動が、明確にそれを物語っていた。

 

 この地域でも、地震が起こることはたしかにある。

 

 しかし、地震と言うには奇妙な揺れ方をしていた。

 

 僅かな振動が、ずっと長く続いている。

 

 ふと、ヴォルチコフの脳裏に、怒り狂った巨人が地面を蹴って地団駄を踏んでいる幻想がよぎった。連想したのだ。

 

 は、何を馬鹿な、と内心の理性が呟く。

 

 だが、その馬鹿な存在を、俺はさっき見たばかりで、なんならそれのパイロットとも、回線越しに話を続けている。

 

「おい、まさか──ツィガーニ!」

 

『無論気づいている、こちらは背が高いからな!

 北西方向だ!

 空のエヴァもどきの次は、陸のエヴァもどきと来たか!

 フィンランド湾の赤い海の只中を這いずってご登場とは恐れ入る、随分張り込んでくれたものだ!

 ヴォルチョク、そちらに映像を回す! 状況判断しろ!』

 

 ツィガーニの両眼が捉えた映像情報が車長席のモニタに映し出され──ヴォルチコフは絶句した。

 

 その数、100か、200か。

 

 巨大すぎ、多すぎるがゆえに、とっさに数を数えられない。

 

 例えて言うならば、巨大な蜘蛛に似ていた。

 

 皆、一様に這いずっていた。

 

 胴体こそ、先程まで上空を舞っていた、あのシベリア蚊じみた白い飛行型エヴァンゲリオンのそれに酷似している。

 

 機体色が白なのも同じだ。

 

 だが、一方が一方を背負うように、ケーブルのようなもので乱雑に絡め合わせられ繋がれた二つの胴体、その上方の側には両手足と頭がない。

 

 下の胴体には手が4つ、足が4つ、さながら蜘蛛のごとくに生えていた。

 

 そして下部胴体の両肩からは、騎士兜を思わせる形状をした、これも白い頭部が、左右に一つずつ生えている。

 

 そしてその頭部は顎部が可動式となっており、上顎から、直線の、短剣を思わせる長い牙が二本、下顎のはるか下側まで伸びていた。そのために、頭部の有様は、絶滅した古代の剣歯虎を何処か思わせる。

 

 それら巨大なる悍しい異形の群れが、四対の手脚と一対の首を蠢かせながら、時速100キロを超える速度で突進してくる有様は、かつてテレビで見た、津波の映像を彼に想起させた。

 

『……いかん!』

 

 不意にツィガーニのパイロットが、呻いた。

 

 直後、猛烈に映像が揺れ始める。カ迫りくる白い波濤目掛け、エヴァンゲリオン・ツィガーニが突進を開始したのだ。

 

「待て! ツィガーニ!」

 

 咄嗟にヴォルチコフはツィガーニのパイロットを制止した。

 

「一人で突進するなっつってんだ! 味方との連携を──」

 

『ユーロ軍の兵が投降中なのだぞ!』

 

 先程までの余裕が消失した焦りの声音で、ツィガーニのパイロットが叫ぶ。

 

「敵の心配をしている場合か!」

 

『投降せぬなら使徒、投降したならば人と告げた!

 人ならば守る、それがネルフだ!』

 

「落ち着け!

 ツィガーニ、お前が撃破されたらこっちはもうエヴァがねえんだろ、そうなったら手詰まりなんだ!

 野戦司令部の指示を待て、この画像、司令部にも回してんだろ!」

 

『司令部の指示待ちができる状況か!』

 

 言葉の応酬をしている間に、ツィガーニから送られてくる映像に、不意に変化が生じた。

 

 白い巨人の波濤から、3機程が、さながら波から分かれた飛沫のように飛び出した。

 

 獲物を見つけた肉食動物のさながらに、八本の手足を四足獣のように巧みに組み合わせ、更に速度を上げている。

 

 そしてその進路は、エヴァンゲリオン・ツィガーニの方向ではなく、ツィガーニからみてやや右方向へと逸れていっていた。

 

 ツィガーニ以外の、なにか別の獲物を見つけたかのように。 

 

 察したのだろう。ツィガーニのパイロットが自機の進路を飛び出した三機の方向へ向け、さらに疾走速度を加速させる。

 

 突進する白いエヴァ、恐らくは陸戦用と思われる三機の姿がみるみる迫り──そして、それ故に、その三機が目指すものも、カメラに映った。

 

 視界の効かない夜間とはいえ、微光増幅モードとエヴァに搭載された戦術コンピュータにより補正がかけられたことにより、それが人の群れであることが、ヴォルチコフからも見て取れた。

 

 フレックターン迷彩服を着込んだ兵士の群れだ。

 

 先程押し寄せてきた、ドイツ連邦共和国陸軍の残存兵の群れだろう。数は、二、三十人ほどか。

 

 発砲音。

 

 ツィガーニが、カメラ──視線をそれら残存兵に向けたまま、視界の隅を疾走する白い陸戦用エヴァ三機目掛け、何かを撃ったのだ。おそらく先程言っていた電熱化学砲だろう。

 

 だが、砲撃と同時に陸戦用エヴァの間近に六角形の赤い輝きが走る。ATフィールドだ。その守りゆえに、陸戦用エヴァは突進を止めない。

 

 そして、三機は再び一斉に跳躍し、ドイツ連邦共和国軍の兵士たちを取り囲むように着地する。

 

 次の瞬間、それらのエヴァは胴体ごと突っ込むように、一斉に長い牙を生やした二つの頭、その顎を歩兵たちの集団へと叩き込むように押し込んだ。

 

 あれでは、生き残るまい。そう呆然と思いながら、ヴォルチコフは我知らずつぶやいた。

 

()()()()()()()()()()()()……!」

 

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 その景色を見た瞬間、サージャ・アヤナミの理性は音もなく爆ぜ飛んだ。

 

 半ば泥土と化した大地の代わりに己のATフィールドを足場とし、疾走の勢いのままに、踏み込んだ。

 

 愛機たるツィガーニの右足に自機の重量を載せ、瞬間的に力を込めて蹴り込み、バネ仕掛けのような素早さで、低く、鋭く跳躍する。

 

 数千トンを遥かに凌駕する巨体が、弾丸の如くに、捕食を終えたのか向き直ろうとする白い陸戦用エヴァ、その横腹目掛け突進した。

 

 同時に上半身を左へ捻りつつ、電熱化学砲を格納しながら右の拳を繰り出す。

 

 跳躍と拳撃の動きは連動し、着地のブレーキがかかる寸前に右の拳はエヴァンゲリオン・ツィガーニの現在の全重量を載せた最大威力で以て、その陸戦用エヴァの右横腹に炸裂する──はずであった。

 

 しかし、またしても赤く輝く力場が形成され、1.7テラジュール、TNT爆薬300キロに匹敵する運動エネルギーを一点に収束させた、未曾有といえる超絶の拳撃ですら、その障壁を抜くことは叶わない。

 

 ATフィールド。人の科学では貫くこと叶わぬとされる、絶対障壁。エヴァンゲリオンを無敵たらしめる心の壁。

 

 獲物の方からきたと言わんばかりに、ATフィールドの主たる陸戦用エヴァは右側の首をツィガーニの側に向けようとした。

 

 だが頭を向け切るより速く、ツィガーニの右腕、その上側マウントから多節鎖状連結ブレードGD7が、電磁射出機構により射出される。

 

 サージャ・アヤナミを介してツィガーニが発生させた収束ATフィールドを纏った赤い長剣は、瞬時に陸戦用エヴァのATフィールドを侵食突破した。

 

 同時に刃は速やかに分割され、ATフィールド変形機構により鎖鞭刃と変じ、その切っ先が陸戦用エヴァの横腹へ伸び──突き刺さる。

 

 人ならざる、苦悶じみた咆哮を陸戦型エヴァの双頭が発した。

 

 だが、その瞬間には突き刺さった鎖鞭刃の先端がATフィールドにより拗じられ、深く肉に食い込んでいた。

 

 ツィガーニは鎖鞭を形成する各セグメントをつないだ、3条の超強度炭素ワイヤーを、長剣への携帯変形要領で急速に引き込んだ。

 

 着地直前であったツィガーニの巨大な体は、食い込んだ刃部とそこから突き出したATフィールドの棘の方向へ急激に引き込まれた。

 

 ツィガーニは刃が食い込んだ陸戦エヴァの右真横に左足から着地。そのまま右足を思い切り振り上げ、無数の手足の間を縫うようにして、陸戦型エヴァの鳩尾を思い切り蹴り上げた。

 エヴァの重量と筋力に加え、JAヘヴィアーマーの質量と可動機構のパワーを加えた恐るべき蹴撃は、ATフィールドを中和しながらその土手腹に突き刺さる。エヴァ二体分にもなる陸戦エヴァの巨体が、垂直方向へと浮かんだ。

 

 そのままツィガーニは右腕を全力で右方向へ振るう。

 

 鎖鞭刃の先端が食い込んだままの陸戦型エヴァは、その挙動によって今度は右方向に振り回され、跳躍し飛びかかろうとしていた別の陸戦型エヴァの左胴体へと、鎖砲丸の如くに叩きつけられた。

 

 ツィガーニへ飛びかかろうとしていた陸戦用エヴァは為すすべもなく吹き飛ばされ、代わりにその場へ攻撃用砲丸代わりに使われた陸戦用エヴァが落下する。

 

 ATフィールドを張る余力もないのか、半ば泥濘化した地面に半分埋もれた状態となった陸戦用エヴァから、ツィガーニは鎖鞭刃を引き抜いた。

 

 同時に、展開状態を維持していた左腕下部の25口径短砲身125 mm電熱化学砲を連続で発砲する。

 

 放たれた徹甲榴弾ニ発は、サージャが展開した攻性圧縮ATフィールドによって穿たれた陸戦型エヴァのATフィールドを容赦なく突破、マッハ6を超える速度で陸戦型エヴァの背中に立て続けに着弾する。

 

 表面に施された白色装甲を容赦なく貫いた徹甲榴弾は、肋骨の隙間を抜けて体内に潜り込み、内部で炸裂。

 

 相応の爆発エネルギーと、大量の金属破片をエヴァの体内に撒き散らした。後背部側のエヴァの内臓が容赦なく蹂躙され、陸戦型エヴァが苦悶のためか、全身を引きつらせ、痙攣する。

 

 その景色をみて、漸くサージャが言葉を発した。つい先程まで無表情であったその顔(かんばせ)に、再び笑みが戻っている。

 

 しかしその眼光は、右片頬だけを吊り上げた、憎悪すべき獲物を睨む肉食獣を思わせるような異様な輝きを帯びていた。

 

「ヒトを模したヒトのための決戦兵器があろうことか獣のごとくにヒトを喰らい、攻撃を受ければ巨体に似合わず人並みに苦悶する。

 なるほど、ヒトの次世代たるインフィニティ、その雛形としてのエヴァというカジンスキーの与太話、まんざら嘘でもないらしい」

 

 そのまま彼女はごく自然にツィガーニの機体を振り向かせ、その勢いを利して後背目掛け、右後ろ回し蹴りを放っていた。

 

 飛びかかろうとしていた残りの一機がATフィールドを中和突破したツィガーニの右踵を左頭部にまともに喰らい、虚空を吹き飛び、大地に落下した。

 

「しかし手の内を何度も見せたというのに、こうも学びがないでは獣と変わらん。

 これで次世代知性体のプロトモデルとはな。生まれてすぐ脳を捨てるホヤの類にでも退行したいのか?」

 

 呆れ返りつつ蔑みながら、迫りくる大量の陸戦用エヴァ、その白い波濤をサージャはツィガーニの眼を通して観た。

 

 サージャ・アヤナミは考える。

 

 本来であればツィガーニは飛行型の白いエヴァもどきによって撃破済みという算段だったのだろう。

 

 となれば奴らの役目は後始末。

 

 本来であれば無人の野を行くが如くにルーガ川を突破、サンクトペテルブルクとロシア支部を蹂躙、という算段だったのだろうな、とサージャは読んだ。

 

 それが証拠に、ともかくエヴァンゲリオン・ツィガーニばかりを狙ってきた飛行型は一切合切ロシア軍やユーロ連合軍に目もくれなかったというのに、あれらは行きずりの土産とばかりに投降しようとしていたユーロ連合軍、その一角たるドイツ連邦軍の兵士に惹かれ、食らいついた。

 

 捕虜は守らねばならない。彼らは投降を決めた。ならば彼らは守るべきヒトだ。

 

 そして迫りくるエヴァの陸戦型こそは、むしろヒトの脅威であり、速やかに迎撃・制圧する必要がある。

 

 しかしあの陸戦型は獰猛であり、飛行型より明らかに節操がない。どうする?

 

 彼女は状況判断した。

 

 ツィガーニの胸にあるコアに働きかけ、己の心を限界まで広げるようにイメージし、それにより、ツィガーニが展開するATフィールドを、限界まで拡大したのだ。

 

 いつかロシア支部を訪れ、試験を眺めたリョージャ・カジンスキーに言わせれば、サージャとツィガーニが発揮しうるATフィールド出力は、アヤナミシリーズ初期ロット正規品たるネルフ本部のアヤナミレイと、零号機の組み合わせで発揮しうる出力に比べ、七~八割程度しかないとのことだった。

 

 サージャが欠陥品であるからなのか、ツィガーニが粗製のナンバーレス・エヴァであるからなのか、或いは彼女がロシアで暮らした日々と訓練が影響したからなのかはわからない。

 

 ともかく、エヴァの性能とATフィールドの出力・性質は、登場者の精神の有り様に著しく影響を受けるらしい。

 

 だが、低出力ではあるものの、ATフィールドの自在さには、彼女は相当の自信があり、そして彼女はその自在さを利用した。

 

 さながら己の心の内を、世界へ向けて叫ぶがごとくに、自機のATフィールドを炸裂した霧のように爆発的に拡大させ、世界へ浸透させたのだ。 

 

 拡大だけを目的としたがゆえに、それは防壁や圧力としての役目を果たさず、ただ吹き抜ける風のように空間へと広がっただけであったが──果たして、効果は覿面だった。

 

 突進する白い波濤を形成する多くのエヴァが、ツィガーニの方角へ進路を変える。

 

 やはりヒト由来ATフィールドを嗅ぎつけたな。

 

 サージャは笑みを深めた。

 

 本部がリリスを寄せ餌として使徒を第3新東京市へ誘い込み邀撃をかけていたように、あれらはヒトのATフィールドの匂いを嗅ぎつける。そのように躾けられた掃除屋だからだ。

 

 そして彼女はアヤナミシリーズとしてはヒトとしての因子が濃すぎる欠陥品であり、そうであるがゆえにそのATフィールドには多分にヒトとしての因子がふくまれるのではないか、と彼女は瞬時に仮説を立てた。

 

 そして、エヴァとはパイロットのATフィールドを増幅する心の器である。

 

 ヒト食いの獣にヒトの臭いを嗅がせてやれば、食らいつく。理の当然。しかし、単純にすぎる。本当に獣だな。或いはヒトのケダモノとしての側面を強化したとかいうやつか?

 

 あのシベリア蚊もどきどもは各個撃破出来たが、この数にまとめて来られるとなると面倒だ。果たしてどこまでやれたものか。

 

 まあ、やるだけのことだな。サージャは内心で呟く。

 

 どのみちアレはヒトの敵だ。ろくな知恵すらない、ヒトでもエヴァでもない使徒もどきだ。人類の敵であり、ロシアのネルフに属する彼女が殲滅すべきものだ。

 

 故に数で劣ろうと、彼女の心に怯みはなかった。

 

 白い巨大な贋造の蜘蛛、使徒もどきの波濤が、彼女のエヴァたるツィガーニ目掛け、包み込むように迫ってくる。各個撃破から砲撃訓練、今度は乱戦と来た。

 

 全く忙しいものだ。だが、それほど恐ろしくもないのは、連中に知恵の欠片も感じないからか。いつぞやの銃撃戦訓練でアルファ部隊と実弾訓練をしたときのほうがまだ恐ろしかったかもしれない。

 

 なるほど、死人が普通に出るような馬鹿げた訓練にも意味があるものだ、とサージャは妙に静かな心で感心する。

 

 波濤は眼前。陸戦型、その一機一機の目視も、もはや暗視機構なしで個々に識別可能なほど。

 

 会敵まで、残り数秒。彼女は笑みを深めた。

 

 両腕上部、近接戦闘用多節鎖状連結ブレードGD7『セプノーイ・メッチ(Цепной меч GD7)』同時展開。

 

 セグメント連結状態となった二本の長剣が、鎧の小手に当たる部分のスリットから高速で伸び、展開される。

 

 狩りの支度は整った。

 

「Давай(来い)!!」

 

 己の実力を理解せぬタイリクオオカミの群れを睨むシベリア羆の如く、彼女はケダモノのように笑いながら、LCLの只中で思い切り咆哮した。

 

続く



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