今日のメインディッシュである小さめのアジフライの、自分割当て分の最後のひとくちを、やはり最後まで残しておいたタルタルソースを乗せて口に運ぶ。
サクサクの衣とふっくらした魚の身のハーモニーを、ソースやしょうゆで楽しく味わった後、最後にようやくここにたどり着いた。
口の中いっぱいの幸せがここに結実する。
ちなみに付け合わせの千切りキャベツとプチトマトは、しょうゆマヨネーズとごまドレッシングで既に平らげてしまっている。
「…ねえ翔、アンタ参戦する?」
そうして自分の空になった皿を、とりあえず傍に退けながら、これから起こる事について隣の席に問いかけると、あまり似合わない眼鏡の位置を直しながら、ひとつ下の弟が首を横に振った。
「僕は結構。姉さんは?」
「アタシもいいや。怪我したくないし」
アタシの夕食感動超大作は素晴らしい余韻を残して完結している。
ここに『続編に乞うご期待!』的な、無粋な予告編は見たくない。
「…逆に姉さんが参戦したら、丸く収まる気もするけどね」
アタシの答えに弟…翔が、よくわからない事を言いながらフフッと笑った。
眼鏡の奥の切れ長の目が細められ、唇が緩く弧を描いて形作る笑みは、よくよく見れば女の子みたいに綺麗で、女である私が少し負けた気になる。
時代遅れな形の眼鏡と、猫背で俯く癖のせいで、ぱっと見にはひどく冴えない印象を受けるけど。
勿体ないといつも思うが、一応これは家庭の事情で、目立つ事は極力避けねばならないから仕方ない。
「いいか、全員、両手は膝の上だ!
1、2の3だからな!!」
と、翔の言葉にツッコミを入れようとしたところで、私と反対側の翔の隣から、張りのある声が響いた。
反射的にそちらを見れば、その声の主である1歳上の兄・
更にテーブルの反対側の方から、何やら妙な殺気が膨らんできて、アタシ達はその戦いが、既に始まっている事を見てとった。
「なんで頭数ピッタリに作らんのだ、このアホが」
「しょうがねえだろ、なんでか、1個余っちまうんだから」
そんな事を囁き合っているのは、祖父と父。
その隣でアタシの向かい側に座る、ふたつ下の末の弟・龍が、それを呆れたように視界の端に捉えつつも、実際の視線はテーブルの真ん中に注がれていた。
……そこにあるのは大皿に1枚だけ乗せられた、今日のメインディッシュのアジフライだ。
「1、2の、3!!」
唐突に凱の声がかかり、アタシと翔以外の箸が、猛スピードで大皿に向かう。
その勢いに皿が弾かれて、アジフライが宙を舞う。
全員が追いかけたそれを最初に掴んだのは、末の弟の大きな手だった。
「り、龍〜〜っ!」
「テメエ〜〜っ!!よくも俺のアジフライを〜〜!」
「おい!少し自重せんか!
昨日のハンバーグも貴様だったじゃろうが!!」
「うるせえよ。勝ちは勝ちだろ…姉ちゃん、半分齧るか?」
「要らない」
…そう、これは我が家のいつもの食事風景。
正確にはみんなが一通り食べ終わった後に行われる恒例行事だ。
父さんのつくるおかずはいつも何故か、人数分割当てに対して1個余るので、その最後の1個をめぐって祖父ちゃんと父さんと兄弟たちの、醜い争奪戦が繰り広げられる。
というか、こうなるのが判っているのだから、余ると判った時点でその分は龍のお弁当用に冷凍しとくとか、いっそ作る者の権限を行使して父さんが先に自分で食べちゃえばいいのにと思うのだけど、そこは本人的に主義に反するらしい…いや知らねえわ。
あと、なんでじゃんけんとかの平和的解決ができないのかも判らない。
…そう思うならアタシが作ればいい?
いや、それについては家族全員から禁止令が出されている。
アタシとしてはそんな大袈裟なと思うのだが、奴らに言わせるとアタシの家事スキルは壊滅的らしい。
料理をすれば材料がなんであっても毒物を錬成し、掃除をすれば必ずなにかを破壊、スイッチ押すだけの洗濯でさえ洗濯機がありえない異常動作を起こすからと、家族全員からなにも触るなと厳命されている。
うん、今どきの家電はまったくもって脆弱だね!
…この割とダメダメな一家、
その秘密とともに一族の血に流れる『
ちなみに17歳というのが一族の血の節目であるらしく、肉体が『
そしてアタシ達兄姉弟は全員年子なので、この近年は長男の凱から末の龍までの間、4年連続で儀式が行われた事になる。
・・・
「唯〜!田中さんから電話だぞ。
……確か、担当編集の人だったよな」
「え?あーうん、わかった。今行く〜」
…けど、その日の夕食後、かかってきた電話で告げられた内容を聞いた時は、ちょっと面倒だなと思いはしたものの、あんな出来事が待っているとは思いもしなかった。
一族としての自覚は持っていると自分では思っていたけど、その覚悟は足りてなかったのかもしれない。
☆☆☆
「龍〜、駅まで一緒に行こ〜!」
現在高校3年生、今年になって拳法部の主将になったという龍は、多分今の我が家で、一番規則正しい生活をしている。
今日も早起きして庭で自主トレーニングの後、朝食をとり、更に部活の朝練の為に1時間も早く学校へ向かう、その弟の背中を小走りで追いかけ声をかけると、いつの間にかアタシの頭ひとつ分より、確実に位置の高くなった頭が振り返って、その目が瞠かれた。
「…どうした姉ちゃん。
今日は出かけんのか?珍しいな。」
…弟にそう言われるくらい、アタシは普段、家に引き篭もりがちだ。
ぶっちゃけ、アタシは見た目が幼い。
なんでか胸だけは標準以上にあるんだけど、ほかは背も低いし何より童顔で、平日の日中とか夜は、ひとりで歩くと必ず補導員に声をかけられる。
それが煩わしいし、服もそれほど持っていない事もあり、つい外出が億劫になってしまうのだ。
だからどうしても出なきゃいけない時は、できるだけ凱や父さんに同行を頼むんだけど、今日に限って2人とも予定があり1人で出るしかなかった。
…これでも既に成人しとるわ!
こないだ誕生日迎えてハタチになったから、飲酒も喫煙も解禁だわ!
お酒はともかく煙草は吸わないけどね。
アタシの場合、能力使う際に色々支障出るから。
まあ、そんなわけでせめて同じ方向に向かう高校生の弟に、今こうして声をかけているわけなんだが。
「いつも来てくれる担当の田中さんが、交通事故で足骨折したとかで、今月はうちに来られないから、編集部に直接、原稿届けに行かなきゃいけないの。
『
高校生の頃から同人活動に血道をあげていたアタシは現在、太公望書林館という出版社が発行するヤングアダルト系月刊誌で、『原 主水』の名で小説を連載している……要するにエロ小説家だ。
いや馬鹿にするなかれ!現在我が瑪羅門家の主な収入源が、アタシの書いてるこの小説なのだから!
なにせうちは古くからある寺とはいえ、檀家もなければ参拝客もほとんど居ない貧乏寺。
父は一応陶芸家で、茶碗や皿など細々と作って売ってはいるが、それだけだと一家の食費だけでカツカツだ。
更に長男の凱は失業中、次男の翔は一浪して予備校通い、末の龍はまだ高校生な上食べ盛りとくれば、アタシが支えていかなければ、一家の財政は破綻する。
2年前に趣味の小説が編集者の目に留まり、今年に入って連載の仕事を貰えたのは本当にラッキーだった。
なにせ、先述した通りこの幼い見た目が災いして、高校を卒業してすぐに高収入をうたう職種…要するに夜のお仕事の面接を手当たり次第に受けたものの、どんなに盛っても『中学生が無理して化粧してるようにしか見えない』と言われ、ひとつとして採用には至らなかったのだ。
お金が必要だというのに職が決まらず、ほとほと困り果てていた時、アタシが以前参加していた同人誌をたまたま見た今の担当編集の田中さんが、『この人には才能がある』とアタシを探してくれて、成人誌で何本か短編を依頼された(大体、原稿落とした作家さんの穴埋め)末に、連載してみないかと大抜擢を受けて今に至る。
…田中さんがアタシの書いたもののどこを見込んでくれたのかは、本人に聞いても『瑞々しい感動と、その中に迸る官能』と全く意味がわからない言葉しか出てこないのでいまだに謎なんだけど。
…だって、アタシがその同人誌に書いてたのって、ぶっちゃけBLだかんね!
「…原稿なんて、郵送じゃダメなのかよ。
大体その大荷物、何?」
割とめんどくさそうに言いながらも、アタシが追いつくまで足を止めてくれた龍は、ゼーハー言いながら近づいたアタシの、背負ったリュックを指差して問う。
アタシの身体がちいさいせいもあるが、中身が十数冊の書籍である為、重さもかなりだがとにかく見た目の嵩が大きいのは、自分でもわかってるけど。
「…原稿はすぐに編集に回して、今日中に印刷所に持ってかなきゃいけないそうだから」
「…つまり、締め切りギリギリまで引き延ばしたって事だよな」
「荷物は今回の話の為に借りてた資料。
これも本当は田中さんに持ってってもらうつもりだったんだけど」
「それこそ郵送でいいだろ!なんの修業だよ!」
そんなアタシの答えに、呆れたように龍はつっこんできた。
それからため息をひとつ吐いて、大きな掌をこちらに差し出す。
「…たく、しょうがねえな。貸せよ。持ってやるから」
「いやいや、いいよ重たいし!
それにこんないかがわしいモノを高校生男子に持たせるわけには!!」
「姉ちゃんの書くモノがいかがわしいのは今に始まった事じゃねえだろ。
…断言してやる。姉ちゃんがそいつを背負い続けてたら、駅に着く前に間違いなく潰れる」
…そう、口は悪いが龍は優しいのだ。
言外にチビって言われてんのはさておき。
アタシの答えを待たず、龍はアタシからリュックを奪うと、その重さなどないかの如く、スタスタ迷いなく歩き出した。
ほんと、いつの間にこんなに逞しくなったんだろう。
「駅に行くって事は、電車の時間とかあんだろ?
トロトロしてると乗り遅れるぞ。
俺は駅までしか持ってやれねえから、電車の中では足元か席に置いて、到着駅からはタクシー使え。
ほら、行くぞ!」
「過保護か!」
嬉しいが、これでは姉の面目が立たないのではなかろうか。
いずれは頼らせてやろうと心に決めて、アタシは重みから解放されて軽くなった足で、弟の背中を再び追いかけた。
☆☆☆
「……ねえ、ひょっとして、唯?
瑪羅門唯じゃない?」
「えっ?」
出版社のビルに無事辿り着き、問題なく原稿を届け資料の本も返して、すっかり身軽になったアタシが帰りの駅に向かっていた時、聞き覚えのある声で名を呼ばれた。
「やっぱ唯だ!久しぶり〜!!」
反射的にそちらを振り返ると同時に、声をかけてきた人物は、その姿すらまだ特定できないうちにアタシの前に回り込むと、アタシの手を掴んでブンブン振り回す。
そこで初めて顔を見ることができ、アタシは思わず目を瞠いた。
「…もしかして、真希センパイ?」
「そうよ、永森真希!
こんなところで会えるなんて奇遇〜!!」
アタシの手を握ったまま、満面の笑顔で頷く長身のスレンダー美女は、アタシの高校の2年先輩で、アタシにとっては恩人とも言えるひとだった。
☆☆☆
…瑪羅門家には母親という存在がない。
父さんの妹だったアタシの生みの母が、未婚で育てていた3才のアタシを残して事故で亡くなり、アタシが瑪羅門家に引き取られて養子縁組で娘となった時には、兄弟達の母親も既にこの世のひとではなかった。
…だからだろう、瑪羅門家唯一の女となったアタシが、目を離せば死ぬとばかりに、殊更大事に育てられたのは。
男ばかりの家族の中、紅一点で可愛い可愛いで育ったアタシが、現実の自身のレベルを知って女として初めての挫折と絶望を味わったのは、年頃の娘を男の目に触れさせたくないという親馬鹿ジジ馬鹿に従った形で入学した私立の女子高校の入学式での事だったが、まあそれはいい。
ただ、その時点で己の女の子としての限界を知ったアタシが、その後はすっかり己を飾ることを諦め、空想と創作の世界に逃避したことが、結果としてこの後の事態に繋がる。
趣味は読書と小説の執筆、見た目も地味で友達もろくに作らなかったアタシが、学年の上位カーストのグループに目をつけられて虐めのターゲットになったのは、高校1年の二学期が半ばを過ぎた頃からだった。
虐めと言っても身体的な危害を加えられたわけでも、犯罪まがいのことを強制されたわけでもない。
そもそもアタシは彼女たちの存在を視界に入れないようにしていたので、ハブにも脅しにも屈せず己の世界に没入し続けるアタシに対して、彼女たちができたのは地味な嫌がらせ程度のものだったが、それでも積み重なればそこそこストレスになるわけで、そのストレスはますますアタシを、創作の沼へと引き込むこととなる。
ある時、教室に忘れた創作ノートが紛失し、数日探して見つからなかったので諦めていたところ、焼却炉のそばに落ちていたのを拾ったと言って、表面が靴跡と落書きで汚れたそれを届けてくれたのが、3年生だった真希センパイだった。
当時バスケ部の部長だった彼女は、いわゆる女子高での王子様枠で、全校生徒の憧れの存在だった。
その彼女がそれを手渡しながら、何故かガシッと手を握ってきた時は、さすがのアタシも思わずドキッとしたのだが、そこに更に、
「ごめんね、実は中身、読んじゃったの!
最初は持ち主を特定する為に開いただけだったんだけど、読んでくうちに引き込まれちゃって、返すのもこんなに遅れちゃってごめんなさい。
それでね!アランとバルドーが駆け落ちのように寮を飛び出した、その先がどうしても気になるから、お願い!続き書いたらまた読ませて!!」
と、虐めグループも含めた教室の皆が注目する中で懇願されたのには、それ以上に動揺した。
…それ以来真希センパイは、まるで連載誌の担当編集者の如く、その時期書いていた初めてのBL小説『千の夜を君と越えて』の続きを催促しに、アタシを頻繁に訪ねてくるようになり、それと共に虐めグループのアタシへの接触がなくなると同時に、同じ嗜好を隠していた子が話しかけてくるようになって、アタシのぼっちスクールライフは、そこで終了することとなった。
3年生だった真希センパイはその翌年の春に卒業していったが、ささやかな卒業祝いとして『千の夜を君と越えて』の完全版を、しっかり製本してプレゼントした事は言うまでもない。
☆☆☆
「ねえ、立ち話もなんだし…唯はこのあと暇?
久しぶりの再会だしこの近くに、この時間もう開いてるカフェがあるから、そこでゆっくりお茶しない?ケーキくらいなら奢るわよ?」
満面の笑顔でそう言う真希センパイは、高校時代はベリーショートにしていた髪を伸ばしてゆるふわロングにイメチェンし、女性らしい柔らかさを全面的に押し出している。
美人なのは変わらないが、当時彼女に憧れていた同級生は、今見たら泣くかもしれない。
けどアタシも話をするようになって知った事だが、本来の彼女はハ○ーキ○ィ、た○みのももゼリー、花ならガーベラとかすみ草が好きという、内面は普通に女の子らしい感性の持ち主だった。
「アタシは普通に暇ですけど…センパイは時間大丈夫なんです?」
そんな事を思い返しながら嬉しい提案に頷きかけ、確認のために問うてみる。
今日は平日、現在の時間は午前9時半を少しまわったところ。
大体の社会人は、これからお仕事が始まるくらいの時間だろう。
だが真希センパイは笑いながら、割とサラッととんでもない事を言う。
「大丈夫じゃなきゃ誘わないわよ。
私、夜勤明けで帰るところだったし」
「そうか、センパイはナースだったっけ…つか、それは帰って寝てくださいと言いたい!
けど再会とケーキの誘惑に抗えない!!」
アタシの答えに、センパイは我が意を得たりとばかりににんまりと笑うと、アタシの手を引いて歩き出した。
・・・
「大丈夫大丈夫。
今日はもう終わりだし明日休みだし。
あ!今夜同僚と合コン行くんだけど唯もおいでよ!」
「どんだけ頑丈なんスか!!」
センパイが連れてきてくれたカフェ(というかどうやら本業はパン屋らしく、そこにカフェコーナーが併設されている形らしい。だから朝早くから開いてるんだね!)で席につき、それぞれの注文を終えた後で、やはり彼女の体調を心配して問うと、そこに返ってきたのはタフ過ぎる答えだった。
やはり運動部の部長まで経験したナースは体力が違うと、この時のアタシはつっこみつつも素直に感心していた。
あと合コンの誘いは丁重にお断りした。着るもの無いし。
「…じゃあ、まだ小説は書いてるんだ。
それでお金稼いでるなら、一応夢は叶ったんだね」
互いの近況を報告しあった後、モーニングセットのフレンチトーストをフォークで口に運びながら、真希センパイがしみじみと『良かったねー』と呟く。
正直、自分の小説の最初のファンだと自称してくれる彼女に、胸張って報告できる状況ではなかっただけに、偏見なくそう言って貰えるのは有り難かった。
「まあ、大っぴらに言える内容じゃないですけどね。
アタシ的には、やっぱりピュア系BL書きたいですし」
それでもちょっと照れ臭く、口に入れたチョコバナナタルトのクリームを、コーヒーで胃に流し込む。
ぶっちゃけ、エロ小説家にあるまじき話だが、アタシには実際の恋愛経験がない。
だから書くためにあれだけの資料を必要とするわけで、実際に経験していないのに、無駄な知識ばかり蓄積されていく気がする。
それと、身近にいる男性がデリカシーのない身内ばかりなので、既に三次元の男性には夢を抱けなくなっている。
どうせリアリティのない恋愛を書くのであれば、とことん美しく純粋な世界を書きたい。
プラトニック・ラブとは『肉体を超えた愛』を意味する言葉で、本来は男性同士の恋愛を指す言葉だったのだから!
「あ〜、まだ本分はそっち系なのね。ちょっと安心したわ」
「腐海と共に生きる事を決めてます」
「ナ○シカかい!」
…そんなしょうもない会話を3時間ほど続けた後、再会を約束して別れたセンパイとアタシはそれぞれの帰途に着いた。
…この時のアタシは、これがまさかセンパイとの今生の別れになるなんて、思ってもみなかったのだ。
「…深夜未明、東京都○○区の路上で、女性が倒れているのを近所の住民が発見して、110番通報しました。
…女性は搬送先の病院で死亡が確認されました。
…女性は○○病院勤務の看護師、永森真希さん、22歳。
…永森さんは、発見場所付近のビルから落下したものと見られており、事故と自殺の両面から捜査を…」
いつも通りの騒がしい朝食の席で、つけっぱなしのTVから流れてきたそのニュースで、アタシが真希センパイの死を知ったのは、あの再会の日から2ヶ月後のことだった。
つづく…
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中編
普段はどこへ行くにも凱の中学時代に着ていたジャージで過ごしているアタシも、世話になった先輩の通夜である今日ばかりは黒のワンピースとジャケットに身を包み、読経の声が続く中、焼香を終えて一礼する。
アタシを支えるようにして付き添ってきてくれた凱も、アタシの後に続いて席に戻ってきた。
最後に会った時にはロングヘアだった彼女だが、白い花に囲まれた写真はショートヘアだった高校時代の時のもので、一見ボーイッシュな雰囲気の中に、不思議と垣間見える嫋やかさも兼ね備えていた真希センパイの、その魅力が存分に溢れている笑顔の写真だ。
あの日見た笑顔の記憶がその写真と重なる。
拭った涙がまた溢れてきて、ハンカチの湿ってないところを無意識に探していたら、寄り添っていた凱の手に頭を掴まれ、抱き込むように引き寄せられた。
いつもならば『汗臭い、離せ』とばたばた暴れるところだが、今は分厚い胸の固い感触を、やけに心強く感じる。
普段まず着ることのないスーツを汚してしまうのは申し訳なく思ったが、どうせこの後クリーニングに出す筈だと開き直って、涙に濡れた頬を遠慮なくぐりぐりと擦り付けた。
我が家の男どもは大体アタシに対して過保護だが、中でも筆頭はこの兄だと思っている。
3才のアタシが引き取られてあの家に来た日のことを、覚えているのは兄弟の中では凱だけだ。
何せアタシ本人ですら割と朧げだったりするわけで、更に下の翔は2才、龍に至っては1才だったから、彼らが覚えているわけがない。
(ついでに言えばアタシと翔は便宜上1才違いと言ってはいるが、実際には半年ちょいくらいしか離れていない。アタシが当時のことを朧げにでも覚えてるのは、物心つくのが平均的な子供より早かったのに加えて、母の死という、幼い子供には衝撃的な出来事があったからだろう)
その頃の、亡くした母を恋しがって、或いは突然変わった環境に戸惑って泣いてばかりいたアタシを、一番間近に見ていたせいで、凱はアタシが泣くとその頃の事を思い出すようだ。
こんなに体格差が無かった当時も、泣くたびにぎゅーと抱きしめられて、頭を撫でられていた記憶がある。
彼だって男ばかりの兄弟の中に、いきなりできた『妹』に戸惑っていた筈だが、その頃の凱は、むしろ今より『
いや、やってる事は4歳児だった頃と変わらないのだから、退化したのではなく単に成長していないだけなのだろう。
…それはそれで問題だとは思うが。
「…おまえが世話んなってるって聞いて、確か俺も、いっぺんだけ挨拶したっけ。
俺が覚えてるのは写真の頃の顔だけど、今の顔見たら、全然印象違うな」
…懐かしい記憶にトリップしていたのは、多分現実逃避だったのだろう。
ハッとして、埋めたままだった兄の胸から顔を上げ、言われた言葉に答えを返す。
「うん…アタシもこの前会って少し驚いた。
髪も長くして、服装も女性らしくなってるし、元々美人だったけどあの頃よりますます綺麗になってて」
「最後のは俺にはわからねえけど。
顔は絶対おまえの方が可愛いし…ってまあ、こんな時に言う事じゃねえな。忘れろ」
…うちの兄は兄馬鹿が高じた挙句、頭だけでなく目まで悪くなったらしい。
けど考えてみれば、アタシを助けてくれた事に絶対礼を言うんだと、凱が言い張ってきかなかった時に一番心配だったのが、凱がセンパイに一目惚れして迷惑をかける可能性があるという事だったのに、実際に会ってもそんな事にならず拍子抜けしたんだった。
凱の感性はあの頃には既におかしかったようだ。
…翔みたいな綺麗な作りではないにせよ、顔だちだけ見れば決して悪くないのに、この兄はなんでこんなに残念なんだろう。
「…おまえの恩人で、いい人だったのは知ってる。
けど、友達の質はあんまり良くなかったみたいだな」
そして、そんな兄は棺の方に目を向けて、何故か眉根を寄せて気になることを口にする。
どういうことかとその顔を見上げると、凱はアタシから僅かに目を逸らした。
…これは、アタシに聞かせたくない話をする時の態度だ。
「…俺の後に焼香した女、恐らく薬物常用者だ。
すれ違った時、独特の匂いがした。
ついでに言えば、棺の近くまで寄った時に、微かだが同じ匂いがしていた。
…この香の匂いに紛れて、常人には嗅ぎ取れないだろうがな」
「まさか!」
凱が告げた言葉に、アタシは反射的に声を上げた。
一瞬、弔問客の視線がこちらに集中し、アタシは再び兄の胸元に引き寄せられる。
「…声を抑えろ」
頭の上から低声で囁きながら、凱の手が再び頭を撫でた。
確かにこの体勢なら、悲しみのあまり取り乱したアタシが兄に宥められている様子に、周囲からは映るだろう。
「…確か、故人は看護師だと言っていたな?」
「そう。○○病院の…ねえ、あり得ないよ、凱。
真希センパイは、ナースの仕事に誇りを持ってたの。
万が一にでも職務に支障が出るような悪い習慣が、身につくようなひとじゃない。間違っても」
そう言うアタシを、何か痛いような目で見下ろした凱は、それ以上は何も言わずに、アタシの頭を撫で続けた。
セットした髪が乱れるから、そろそろやめて欲しい。
☆☆☆
古よりの定法に則り、絵馬に託して訴えのあった者に裁きを下す為、その情報を共有して、訴えに誤りがないかの確認を行った上で裁きを決定する。
それが、この寺の本堂にて行われる『瑪羅門家族会議』である……通常であれば。
常と違うのは、この件が他者からの訴えによるものではなく、あくまでアタシの私的な感情により強引に開廷させたもので、定法よりの手順で行われているものではないからだ。
「永森真希、22歳。○○病院勤務の看護師。
6月10日深夜に、英集ビルの屋上から落下して死亡。
屋上に彼女のものと思われる靴とバッグが揃えて置かれていた。
そして彼女の勤務する病院では2ヶ月ほど前から、特定の薬品の盗難が相次いでおり、その容疑者として名前の挙がっていたひとりでもあった。
彼女の体内からは同じ薬品の反応が出ており、これらの事実から警察は、盗難に関わった事による罪の意識に耐えかねての自殺と、一旦は判断したのだが…」
「……全部、あり得ない。
薬物の使用も、盗難も、そもそも自殺だなんて、真希センパイに限って、絶対」
父が集めてきた情報(どのようにして集めているのかはまったくの不明だ)が、皆が組んだ円陣で読み上げられ、感情のこもらないそれに、アタシが反論する。
だが、この場においてどちらの意見が重要視されるかは明白で、確たる証拠も揃えていないアタシの言葉に、説得力などありはしないのは理解している…けど、それでも。
納得できなかったのだ。
示唆された可能性、どれひとつとして。
「唯よ。人は変わるものだ。どんなに変わらぬと信じていようとな」
そのアタシに祖父が穏やかに、かつ厳かにそう言うのを、キッと睨みつける…と、
「まあ待てよ、ジジイ。…なあ姉ちゃん。
姉ちゃんが、彼女が自殺じゃないと思う根拠は?
そう断言するからには、何かあるんだろ?」
円陣の、アタシのほぼ反対側で、皆が儀式用のフードつきローブを着用(一応慣例としてアタシも従ってはいるが、何の意味があるのかいまいちわかってない)する中、学生服のままこの場に列席している龍が、今にも祖父に突っかかりそうなアタシを、制するように問うてきた。
全員の視線がこちらに集中し、アタシの発言を促す。
言っていいものか躊躇したものの、黙っていたら話が進まないと判断して、アタシは口を開いた。
「……彼女のお母さん、難病を一度克服してるの。
けど、そこに至る治療ってのが相当苦しかったらしくて、何度も自殺しようとしたらしいのね。
けど、ある時お母さんの担当だった看護師さんが、『あなたに生きてほしいと願ってこんなに頑張ってる真希ちゃんを置いていくのか、大切な人を苦しめてまで選ぶほど、死ぬ事に価値があるのか』って言って、お母さんを思いとどまらせてくれたんだって。
結局お母さんは治った後、数年後に別の病気で亡くなったそうなんだけど、それでも最後まで生きる事を諦めずにいてくれたから、そのひとにはとても感謝してるんだって。
自分が言いたかった事をわかってくれた事が、それをお母さんに伝えてくれた事が本当に嬉しくて、ナースの道を選んだのは、そのひとみたいになりたいからだって言ってた。
同時に、自分もいつかは死ぬから、生きてる間にお母さんが出来なかった、ひとつでも多くの楽しいことと正しいことをして、そのたくさんの経験をお土産に持って、笑ってお母さんに会いにいくんだって言ってたの。
アタシと知り合う前の話で、アタシの知ってる真希センパイからは想像もつかなかったけど、その経験があったからこそ、アタシの好きなあのひとが作られたんだと判った。
…だからその彼女が、自ら死を選ぶなんてあり得ないんだよ。
お母さんに胸張って会いにいけないような死に方を、自分で選ぶなんてことは」
…アタシが拙い説明をしている間、龍は腕組みをしながら、考えるように目を閉じていた。
その目が、再び開かれて、強い視線が真正面からアタシを捉える。
「…なるほどな。
確かにそれを聞けば、姉ちゃんが全部あり得ないっていうのも納得できた。
…俺はこの世で一番罪深いことは、母親を泣かせることだと思ってる。
姉ちゃんの知る真希センパイって人は、その事をよくわかってる人だったんだろうぜ。
状況は確かに彼女に不利になるものしかない。
けど、俺は姉ちゃんの目を信じるぜ」
「龍……!」
言いたかった事が通じた嬉しさに、アタシは思わず円陣の中を横切って、龍のもとまで駆け寄ると、彼の右手を両手で掴んだ。
普段から鍛えている龍の腕は、アタシの身体を危なげなく受け止め、空いていた左手が、更にアタシの手に重ねられる。
そのアタシ達の後ろから、別の声がかかった。
「…確かに人は変わる。
けど、決して変わっちゃいけないものもある。
少なくとも唯はそれを信じてるんだ。
俺もこの件は、違う視点からの調査が必要だと思う」
「そうですね。
とりあえずは凱が見たという、薬物の匂いがしていた女性の特定をすべきではないでしょうか。
通夜に参列していた事を考えれば、全くの他人ではないのでしょうし、同じ匂いであったということで、全く関与していないと考える方が無理があります」
言いながら凱と翔が、アタシ達を囲むように近づいてきて、繋いだままのアタシと龍の手の上に、それぞれの手が重ねられる。
どうでもいい事だが、翔は家族会議の際は大体いつも敬語になる上、状況によっては一人称まで変わる。
「皆、逸るな。まだ先がある。
…盗難にあっていたのは、かの病院で吸引性の麻酔薬として主に使用されている、塩酸バリトニウム*1という薬品だった。
検死の結果、永森真希の体内から検出されたのも、この成分だ。
この薬品は経口摂取した場合、全身に痺れと脱力、量によっては肺機能の麻痺が生じて、最悪の場合死に至る劇薬。
しかも単体なら極端な苦味とエグ味がある。
自殺の為、精神を穏やかにするのに口にするならば、もっと効き目が優しく緩やかなものを、彼女ならば入手する手段はいくらでもあろう。
そして、彼女の体内から検出されたものの濃度を考えると、落下の直前に飲んでいたにせよ、普通の人間なら立っていられる状態ではなかった筈だという。
ビルの上に綺麗に置かれた靴とバッグが、こうなると逆に不自然であるし、彼女の腰の位置より高い屋上の安全柵を、越えられる状態とはとても思えん。つまり……」
「他殺の可能性が濃厚である…ということですね」
父の言葉のあとを引き継いで、翔が口を開いた。
「そういう事だ。
そうなると犯行に気がついた彼女が真犯人と接触し、口封じのついでにその罪を着せられたと考えるのが自然だろうな」
「………っ」
そこに語られた新たな可能性に、アタシは思わず呻いてしまう。
と、そこに不得要領な顔をした凱が、挙手しながら声をあげた。
「待ってくれ。その塩酸…なんちゃら?
本当にその効能で間違いないのか?
俺が焼香の時にすれ違った女からは、同じ傾向の、更に強い匂いを感じたんだぞ?
少なくとも、あの女は普通に歩いていた。
生命活動を行なってる肉体と、死体という違いはあるにせよ、あの女は恐らく同じモノを、故人以上に摂取してる筈だ」
確かに、凱の鼻に間違いがないのであれば、常人が立っていられない以上の量を摂取して、普通に歩いて焼香できるのはおかしい。
そもそも麻酔薬、しかも経口摂取には向かない味でもあるそれを、常用するのもおかしな話だ。
だが父は、凱の質問も想定内であったようで、更に話を進める。
「それについては、確証はないが思い当たる事がひとつある。
最近、夜の街で売買されている、BCLと呼ばれるカプセル薬がある。
認可されていないがよく効く睡眠薬として、また一方では鎮静効果のあるドラッグとして、裏で盛んに取引されているようだ。
これは確かに最初のうちはよく眠れるが、続けるとむしろ無くては眠れなくなり、依存性が非常に高い薬だという。
これの主な原材料となるのが、例の塩酸バリトニウム。
思うに貴様が見たという女は塩酸バリトニウムそのものではなく、BCLの常用者だったのではないかな?」
鎮静効果のある、依存性の高いドラッグ。
その常用者と思われる女性の存在と、原材料となる薬品の盗難。
ここから導き出される推論は。
「もしかしてその女性が、薬物依存の状態にさせられて、売人に、薬が欲しければ材料の塩酸バリトニウムを、病院から盗むよう指示されたんだとすれば…」
「そしてその現場を永森真希に目撃され…口封じに彼女を始末した、というところだろう」
「酷い……!」
やっぱりセンパイは盗みなんてしていなかった。
それどころか、犯人を説得してやめさせようとしていた可能性がある。
というか真希センパイの性格を考えれば、もうそれ以外ないようにすら思えてきた。
彼女はそのひとを守ろうとしたか、自首を勧めたかしたに違いない。
だとすれば、真犯人は真希センパイの身近にいる人…恐らくは同じ病院の看護師の誰かだろう。
信じていたひとに裏切られて殺されるなんて…そこまで考えて、ふと何かが引っかかった。
なにか忘れてる気がする……なんだったっけ?
「あと、永森真希の通夜で、貴様等の後に記帳していたのは、同じ病院の、同僚看護師のグループだったそうだ」
…昼間アタシが家族会議の要請をしてから夜までの短い時間で、本当にどうやって父はここまで調べ上げたのか。
というか……そう、『同僚』!
そのキーワードに、開かずにガチャガチャとノブを回していた状態の記憶のドアがようやく開いた。
「アタシとセンパイが再会したあの日、夜に同僚のひとと一緒に合コンに参加するって言ってた。
アタシも誘われて断ったもん。
プライベートでも親交があるほどの間柄のひとが、もしそんな事に手を染めてたなら、真希センパイは警察か上司に訴える前に、そのひとと話をする選択をするかも。
…その時一緒だった『同僚』のひとが誰だったか、調べられないかな?」
「松田祥子、22歳。
同僚の中でも一番仲が良く、時折互いの家にも招きあったりしておる間柄らしい」
もう既に調べてたのか父!
そういう重要な情報を小出しにしてくるのやめてくれないかな父!
だがつっこむ間もなく、父はため息をひとつ吐いて言葉を続ける。
「だが盗難の件はともかく、永森真希を殺害したのは、その女ではなかろう」
「どうして?」
「…………………」
…なんだろう?
いつもはものをはっきり言う父が、なんだかとても言いにくそうにしている。
「…永森真希の身体には、直前に行われたらしい性行為の痕跡があったそうだ」
え…それってつまり……
「そもそも女とはいえ意識のない脱力した者を、ビルの屋上の安全柵を越えさせることも、女1人では難しい筈。
その上、犯人は意識のない永森真希に性的暴行を加えた後に、それを行なったものと思われるのだ。
それはつまり、少なくとも1人は確実に、男の関与があったという事」
「そんな……」
ここにきてセンパイが、最初に思っていたよりも更に酷い事をされていた事を知って、アタシはその場にしゃがみ込んだ。
激しい怒りに眩暈がして、身体が震える。
許せない……真希センパイをそんなめに遭わせたやつが。
アタシの怒りに呼応して、肉体の奥の『
思わず自分の身体を抱きしめると、更にその外側から、何かがアタシを包み込んだ。
「もうやめろっ!
そんな話、これ以上唯に聞かせんな!!」
……凱の匂いと固い腕に包まれた瞬間、アタシの中から溢れ出そうになった『
「…もういい、唯。おまえはこの件から手を引け。
後は俺たちで片をつける」
いつも通りにアタシを甘やかす時の凱の仕草に、アタシは徐々に落ち着きを取り戻す。
そうだ。怒りに我を忘れるなど、冷徹な闇の執行人として、あってはならない事。
アタシはゆっくりと、凱の腕の中から顔を上げると、兄の顔を見上げて首を横に振った。
「…大丈夫、凱。アタシは平気。
元はと言えばアタシが持ち込んだ件だもの」
だがアタシの言葉に、凱がその太い眉根を寄せる。
「おまえは俺たち兄弟とは違う。
瑪羅門の血は引いていても、親父に引き取られさえしなきゃ、瑪羅門の宿命とは無関係に生きられた筈の女だ。
そのおまえまで、俺たちのように手を汚す必要はない」
…アタシを気遣っての発言とわかってはいたが、アタシはその言葉にカチンと来た。
「…『俺たち兄弟』、ね。
凱はアタシを、妹とは思ってくれてないんだ?」
そんなわけはないと知っている。
この兄がどれだけアタシを溺愛してくれているか、これまで一緒に暮らしてきて、文字通り嫌というほど思い知らされてきたのだ。
……けど、だからこそ、我慢できなかった。
アタシが睨みながらそう言った言葉に、凱は一瞬ハッと目を瞠いた。
そして次には、合わせた視線を逸らしながら、もごもごと否定の言葉を口にする。
「……っ、違う、そういう意味じゃ…」
「仲間外れは寂しいよ、『
……これは、アタシの仕事。
自分の仕事は、最後まで責任持って果たすよ。
アタシだって瑪羅門家の娘なんだからさ」
「唯…」
それでも何か言い募ろうとする、その手を突き飛ばすようにして振り払ったアタシは、凱から1メートルほどの距離を取った。
と、自由になった肩に、今度は別の手が置かれる。
「唯の言う通りだ、凱」
「親父……!!」
「唯は、その身に確かに瑪羅門の血を引く者。
俺の妹が生んだ、ただ一人の娘なのだ。
血の宿命は、嫌でも付いてまわる。
こやつもそれを自覚しておるのだ。
その覚悟に水を差すような事を言うものではないわ」
…見上げた父は、何か痛い事を思い出したような顔をしていた。
アタシは母を亡くしたが、彼は妻を亡くした後に妹まで亡くしている。
瑪羅門家の女は短命だとして、風にも当てぬよう育てる一方で、父はアタシにも血の宿命に従い、戦う力を与えてくれた。
戦いを知る事は、その中に身を投じる事、即ち死に自身から近づく事ではある。
けれど同時に、己を守る手段を得る事でもある。
それはまさに、父にとっても『覚悟』であったのだと思う。
その、肩に置かれた手から勇気をもらって、アタシは再び、凱と目を合わせる。
「凱。薬物の匂いがしてたって
「……多分見りゃ判ると思うが…何故だ?」
唐突に切り出された話に、凱は明らかに戸惑いつつも、少し考えてから言葉を発する。
アタシはそれを聞いて頷いた。
「明日、松田って
そんなに仲のいい間柄だったなら、一緒に映った写真も、遺品に残ってると思うんだ。
センパイん家、今はお父さんしか居なくて整理も進んでないと思うから、お線香上げるついでに手伝ってきて、その上で写真も貰ってくるよ」
ある意味野生的というのかもしれないが、凱は直感的な部分に優れている。
彼がそういうのであれば、顔を見ても判らないという事はないだろう。
それだけ聞けばもう充分、これ以上は話すこともないと、アタシは兄に背を向けて、そのまま本堂を後にした。
「待て、唯!」
凱の声が背中にかかったが、それは敢えて無視した。
…センパイの事ではなく、兄の言葉に傷ついて泣きそうな顔を、今は見られたくなかった。
・・・
「なんだかんだで、姉さんは兄さんを一番頼りにしてるんだから。
あんな言い方したら、そりゃあ傷つくよ」
「……けど、あいつは女だ。
俺たち男が守ってやらなきゃ…」
「妹だと思っていないという指摘だけは事実のようだな。
貴様にとって唯は『妹』ではなく『女』か」
「なっ…!ジジイ、何言ってやがる。俺は…」
「今更だろ。兄貴が昔っから姉ちゃんを好きなのは、本人以外は全員知ってる」
「逆に、なんで姉さんは気づかないのかってレベルだよね」
「……っ、」
「唯が守られるだけの女である方が、貴様にとっては都合が良いか?
だが、雛はいずれ翼を広げて飛び立っていくものよ。
飛び去る鳥を止められはせぬ。
唯を手放したくないというのであれば、本当の気持ちを告げ、貴様自身が鳥籠となるより他に手はなかろうて。のう?」
「唯が受け入れ、その鳥籠に収まるかは、また別の話だがな。
ゆめゆめ、無理無体に手を出そうなどとは考えるなよ。
その場合、俺も父親として、飢えた野獣から娘を守らねばならんのでな」
「誰が飢えた野獣だ!」
「まあまあ。それよりとりあえず謝ってくれば?
姉さんは意地になるタイプではあるけど、下手に出られるのに弱い方でもあるから、謝ればあっさり許してくれると思うよ?
あと、姉さんがひとりで写真なりなんなり入手して、後から兄さんに見せるよりも、2人で松田看護師の住まいを見張って、直接彼女の顔を確認する方が、手間が省けていいんじゃないかな」
「そもそも姉ちゃんを一人で外に出せねえって、いつも刷り込んでるのは兄貴だろ」
「刷り込んでるとか言うな!」
☆☆☆
…昨夜、アタシの部屋を訪ねてきた凱に土下座せんばかりの勢いで謝り倒されたアタシは、その後の彼の提案に従って、あくる早朝、一緒に松田祥子のアパートを見張っていた。
部屋のドアからゴミ袋を持って姿を見せた、少し下ぶくれの丸顔だが目鼻立ちは整った、充分可愛らしい童顔に、凱がアタシに向けて頷く。
「間違いない。あの女だ。
……で、これからどうする?」
問いかけてくる兄の、ちょっと無精髭が浮かんだ顎に若干視線を取られながら、自分でもちょっとあざといかなと思う角度に首を傾ける。
「今から話を聞いてみようと思う…一緒に、居てくれる?」
「当然だ!」
昨夜アタシを怒らせた事が余程効いたものか、うちのチョロい兄はちょっと頼っただけで顔をパッと輝かせる。
…許したわけじゃない、けど、こういうところはちょっと可愛いと思う。
まあそんな事は意識の片隅に放り投げて、アパートのすぐそばのゴミ置き場に、彼女がゴミを置いてフタを閉めたところで、声をかける。
「おはようございます」
「おはようござ……っ!?…い、ます。
…よ、良かったら、うちにあがって、お茶でもどうぞ……?」
顔を上げた瞬間、アタシの視線…
この様子を他の誰かが見ても、仲の良い知り合いを自ら招き入れたようにしか見えない筈だ。
だが本人は己の意志と無関係に動く身体に、その目が明らかに狼狽していた。
彼女の導きに従って、アタシと凱は松田祥子のアパートに足を踏み入れる。
アタシ達が部屋に上がり、彼女は玄関に施錠してから、ゆっくりとアタシ達を振り返った。
その目には、あり得ないことが起きている恐怖が、ありありと顕れていた。
一応この話は、原作でいうと長兄の裁きエピソードが入るあたりの順番になります。
ただあの話だけよくよく見たら、凱の年齢設定と友人達との思い出の年表がおかしなことになってるので、この時空ではなかったことになってます。
(友人達は『大学を卒業後に一流企業に就職』して、凱と会うのは『5年ぶり』と書かれているが、凱の年齢が21歳なので、5年前だと16歳になってしまい、3人がいつも一緒にいて、高校時代を拳法部に捧げていた発言と矛盾する。また、2人が先輩だったとも考えたが、それだと凱の2人に対する態度がくだけすぎてるので、やはり同学年と考えるのが自然。またあの話だけ数年後の話であるとも考えたけど、龍がまだ学生服着てるのでそれもないと判断して、色々悩んだ末になかったことにした。爆)
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後編
「あなた方…一体……!?」
アタシは『
もっともこの方法だと、兄弟たちがやるように直接触れて送り込むよりは、効果が薄く持続時間も短い為、時限式に操る事ができるわけではないが、最初に
案の定、アタシを振り返って視線を合わせた松田祥子は、それ以上は何もできずにその場に固まる。
「瑪羅門唯。永森真希の、高校の後輩です。
こっちはアタシの兄。
付き添いで真希センパイの通夜で焼香した時に、貴女とすれ違ったって言ってるから、多分はじめまして、じゃないですね」
もっともあの日と違い、2人ともまったくの普段着のアタシ達兄妹、ひょっとしたら見覚えていてもわからないかもしれないけど、そんな事は今はどうでもいい。
「…松田祥子。
今から貴女は嘘をつくことも、沈黙を通すこともできず、問われた真実を話すしかできない。
話して。真希センパイと何があったのか」
「え?……あ、あ、あっ……!」
アタシに視線を捉えられた松田祥子は、自らの身に起きた更なる異変に気付き、呻き声をあげた。
だが、その抵抗に意味はない。
──瑪羅門秘法義・
たった今、アタシの視線から送り込まれた『
どんなに必死に口を閉ざそうとしても、アタシに問われれば答えるしかないのだ。
「答えて。貴女が、真希センパイを殺したの?」
「………違う!私は殺してないわ!!
私は彼に頼まれて、真希を呼び出しただけよ!」
…やはり男の存在があった。
この『彼』の言い方は、単に男性の三人称ではなく、その示す人物、恐らくは彼女とは親しい間柄だ。
いわゆる『彼氏』というニュアンスの。
彼女が視線を逸らそうとするのを許さず、それが離れる前に、更に『
「…その『彼』っていうのは?
名前、年齢、プロフィール。
その他の情報も貴女がわかる範囲で、細かく正確に」
「…権藤雅彦。年齢は31歳。
製薬会社の、重役と言っていたわ。
詳しくは聞いていない。
彼とは、真希と一緒に参加した合コンで知り合ったの」
やはりあの合コンだったか。
そう思うと同時に、もしアタシが真希センパイの誘いに乗っていたら、もしかしたらこの悲劇は起きなかったのかもしれないという、考えても詮ないことが不意に頭に浮かんで消えた。今更だ。
「初めて会ったのに何故か気が合って、ずっと不眠に悩まされてたのに、その日は気付いたら彼のベッドで、ぐっすり眠ってしまっていたわ。
…こんなに身も心も許しあえる人と出会えるなんて運命だと思った」
……正直そこら辺の情報は要らないんだが、細かく正確にと指示してしまったのはアタシなので、これは聞くしかない。
「そのうち、彼と会う日はよく眠れるのに、会わない日は一睡も出来ない事に気がついて相談したら、よく効く睡眠薬を薦められた。
まだ認可されていないから、表立って宣伝はできないけど、効果は確かだと。
…でも彼は、最初のうちは頼めば快く薬をくれたのに、そのうち渋るようになったの。
けどそれは、原料の薬品が不足してるからで、欲しがる人は多いのに数はまだまだ少ないからだと。
原材料は病院で使われている麻酔薬の成分だから、なんとか都合できないかと私に頼ってくれたわ。
私も、今ではあの薬がないと仕事にならないから、病院から薬品を持ち出して彼に渡した。
…けど、それを真希に気付かれてしまったのよ。
彼女、今ならば自分は気付かなかったふりをするから、今すぐ盗むのをやめて自首しろと言ってきたの。
いつまでもは待たない、続けるつもりならば、自分が告発すると。
…怖くなって雅彦さんに相談したら、自首の前にもう一度相談したいと真希を呼び出せって。
そこから先は、彼がなんとかするからって。
だから……」
「センパイが殺されると判ってて、薬欲しさに見殺しにしたんだ?友達だったんだよね?」
…けどやっぱりそれ以上はもう聞きたくなくて、アタシは結局口を挟んだ。
「薬欲しさにじゃないわ!
私は雅彦さんを愛してるの!
彼は私の運命の
彼を守る為なら、私は…」
…アタシは、恋というものを知らない。
官能小説家にあるまじき事だが、それが事実だ。
けど、彼女の告白を聞いて、そんなもの一生知りたくないという思いに、一瞬囚われた。
誰かを好きになる事で、ひとはこんなにも醜くなるのだろうか。
自分を大切に思ってくれた友達を、あっさりと差し出せるほどに。
その男は、彼女という存在があるにもかかわらず、殺すつもりの真希センパイを穢したというのに。
…否、恐らくは。
「アンタのその症状は間違いなくその薬…BCLってやつの副作用だな。
最初のうちはよく効くだけだが、そのうち無いといられなくなる。
思うに最初にそいつに会った時には一服盛られてたんだろう。
…とんだ運命の男だったな」
アタシのその思いを読み取ったものかどうかは知らないが、凱がそんなタイミングで口を開く。
つまり、そういう事だ。
松田祥子の気持ちはともかく、その男は彼女を、単に都合のいい存在としか思ってはいない。
…否、都合よく、彼女を作り替えた。
彼女の気持ちを利用して。
「……何ですって?」
そう問う彼女自身も、薄々気がついているだろう。
それでも、愛の為と思い込まなければ正気を保てないほど、彼女は追い詰められている……何故だか、その事がアタシにはよくわかって、胸が苦しくなった。
その権藤という男と知り合うまでは、彼女は紛れもなく、真希センパイの親友だったのだろうから。
…と、次の瞬間唐突に、凱の纏う空気が変化した。
「確かに恋は、人を変えるという。
だが、変わっちゃいけないものもある……それが、友情だ。
永森真希は、アンタを救おうとした。
その友情をアンタは裏切った…その罪は贖うべきだ」
…この瞬間、いつも見る残念な兄はそこにはいなかった。
裁きを下す直前の、闇の執行人の顔。
それは妹のアタシですら、ぞくりと背筋が凍るほどに冷酷で、それでいて怒りに満ちた表情だった。
「……が、凱!?」
「心配すんな、唯」
だが次の瞬間には、凱はアタシに微笑みかけながら、自身の髪の毛を一本抜く。
そうして指先で摘んだそれに、彼自身の
それは一瞬にして細く鋭い一本の針になり、凱は躊躇う事なくそれを、松田祥子に向けて投げ放った。
「ひっ……!!?」
それは彼女の肉体に、ほんの僅かな痛みをも、与えるものではなかった筈だ。
だが……一拍置いて、驚愕の表情を浮かべたまま、彼女はその場に崩折れた。
──瑪羅門秘奥義・怒髪針。
凱の得意技であるそれは、
「…これが瑪羅門の裁きだ。
目覚めた時、アンタに俺たちの記憶はない。
アンタは罪悪感に耐えきれず、その足で警察に行き、今言ったのと同じ事を警察で自白するんだ。
…俺の妹がアンタを死なせたくないと思った、その情けに感謝するんだな。
本来、瑪羅門家の家訓に従えば、唯を泣かせた罪への制裁は、この程度では済まないのだから」
「その家訓アタシ知らないんだけど!?」
思わずつっこんだアタシの肩を抱くようにして、アタシと共に彼女のアパートを後にした凱は、もういつものアタシに甘い『
…つか、どうしてわかったんだろう。
アタシが、彼女を殺したくないと、一瞬思ってしまったこと。
…そういえば、凱は恋を知っているのだろうかと、埒もない事をふと考えたのは、これよりかなり後になってからだ。
・
・
・
だが。
警察がこの後、彼女の自白を聞く事はなかった。
松田祥子は、最寄りの警察署に向かう途中の路上で轢き逃げに遭い、運ばれた先の病院で死亡が確認されたからだ。
☆☆☆
「権藤雅彦、31歳。
広域指定暴力団・多野権興業に所属。
情報によれば、以前は片栗粉をカプセルに入れ、深夜に街を徘徊する若者に高値で売るようなケチな小悪党だったが、ここのところはBCLを売り捌いており、それで随分と羽振りが良いらしい。
また2ヶ月前、永森真希と松田祥子が参加した合コンに奴も参加しており、権藤と交際し始めた松田祥子が、奴の指示で薬品を持ち出していた事は、松田本人の証言とも一致するゆえ、間違いなかろう」
アタシ達が持ち帰った情報をもとに、父が調べてきた更なる情報が、再びの瑪羅門家族会議で開示される。
今度はその男の写真も入手できたようで、その四角い紙片の中で笑っている男は、ぱっと見には人の良さそうなイケメンに見えた。
…女性と一緒に写っている何枚かの、彼女たちに笑いかけながらもどこか見下したような表情さえなければ。
「つまり、この男が永森真希殺害の実行犯であり、この件の黒幕という事ですね」
「確定はしておらぬが、それに相違あるまい」
アタシがそんな事を考えている間にも、翔の問いかけに父が頷き、更に言葉を続ける。
「松田祥子を轢き逃げした車は盗難車だった。
ガラスにはスモークが張ってあり、目撃者の証言でも、運転していた者の姿は判らなかった模様。
恐らくは権藤本人か、その指示を受けた人間であろう」
彼が実際に手を下したかどうかまではわからないって事か。けど。
「細かいことは、本人に訊けば済むことでしょ。
アタシがヤツに接触して、吐かせる。
それが一番手っ取り早いし……今度こそアタシが、真希センパイの無念を晴らしてみせる」
父の手から引ったくった写真と資料を手に、アタシは円陣を離れて本堂を出る。
その背中に、凱の声がかけられた。
「…任せろって言っても、聞かないんだろうな」
「これは元々、アタシの仕事だからね。
松田祥子の時と違って本当の仇だし、むしろコイツはアタシの方がやりやすい筈だよ」
…凱は、アタシが裁きを最後まで遂行するのを好まない。
彼曰く、やり方が気に入らないから、見たくないのだそうだ。
松田祥子の時はついてきてくれたが、今回はきっと来ないだろう。
一旦自室に戻り、クローゼットを引っ掻き回して、ギリ使えそうなワンピースを発見して身につける。
自分が買った記憶はないので、恐らくは貰ったか何かで入手したものの、自分に似合うと思えなくてしまいこんでいたものだろう。
実際、セクシーでありつつ上品さを損なわないデザインのそれは、アタシが着るとなんというか、幼児に着せるビキニの水着みたいな、なんとも微笑ましい印象になった。
まあ、とりあえずアホっぽい女の子に見えれば充分だ。
そういう頭の軽い女の子に薬を分け与えて、己が欲望を叶えようとする屑と、これから接触するのだから。と、
コンコン
「姉さん、僕だよ。今、大丈夫?」
「翔?」
自室のドアをノックする音が聞こえるとほぼ同時に、掛けられた声に反射的に相手の名を呼ぶ。
メイクの途中だったが、弟相手に気取ることもないと判断してドアを開ける。
翔はアタシを見下ろして一瞬ぎょっとした顔をしたが、次の瞬間には笑みを浮かべて入室の可否を訊ねてきた。
頷いてドアの内側に招き入れる。
「こんな事だろうと思った。
姉さん、天災的にメイクの才能無いよね…」
割とサラッと毒吐きながら、翔はアタシを鏡の前に座らせた。
更にもうアタシの許可を取る事なく拭き取り用の化粧水をコットンに含ませて、今施したばかりのメイクを容赦なく拭き落としていく。
それから軽く粉だけはたくようなベースメイクを施された後、眉とアイラインを描き足して、瞼と口元に淡い色を乗せられたら、確かに頭が良さそうには見えないが充分可愛い10代後半くらいの女の子が、鏡の中で首を傾げていた。
…実はセンパイの通夜の時もファンデーションを塗ったあたりで止められて、ポイントメイクは彼に全部してもらったのだが……そうか。
どうやらアタシが自分でメイクすると、この弟的に見るに耐えないものになるらしい。
けど、完璧に仕上げた筈のアタシをじっと見つめて、翔は少し不満げな顔をする。
「…というか、それ今着るんだ」
翔の視線はどうやら、ワンピースの方に向いていたらしい。
「え、おかしい?着替えた方がいい?」
翔の呟きに、アタシは思わず自身の身体を見下ろしてから、鏡の中の自分にもう一度目を向ける。
正直、普段中学生にしか見えないと言われるアタシが、翔にメイクされた状態の今ならば、龍の同級生くらいまでは見た目年齢が上がっており、これならばこのワンピースを着ていても、さっきまでのイタ微笑ましい感が薄れるような気がしていたので、これでも似合わないとしたら些かショックだ。
だが、翔は少しだけ考えてから首を横に振ると、いつもの優しげな、けど本心の読めない微笑みを浮かべた。
「……いや。ならそれに合わせて髪もアレンジするから、じっとしてて」
…結局なにが不満だったのか聞けぬまま、髪はねじりを加えたハーフアップにされ、これほぼ特殊メイクじゃね?ってくらい印象の変わったアタシが、慣れないヒールの高いミュールを履いて家を出たのは、夕刻を過ぎてからの事だった。
夜の街は、ここから目を覚ます。
☆☆☆
「キミ、ひょっとしてまだ未成年じゃない?」
「……ハタチです」
「未成年の子は大体そう言うんだよね」
…本当のことしか言ってないんだがな!
権藤の行きつけだという店に足を踏み入れ、何人かの誘いの声を適当にあしらって、最後の1人にキレられたのを助けてもらい、並んで座ったカウンター席で、その男が写真と同様に、小馬鹿にしたような笑みを向けてくる。
実際、キレてきた最後の1人はこの男の仕込みだと、例の情報から薄々判っていたし、こんな古臭い手に引っかかる馬鹿な娘と思ってるのは間違いない。
…松田祥子は本当に、こんな男のどこに惹かれたのだろう。
一緒にいて気がつかないもんなんだろうか。
確かにナースやってる女性は、他の職業と比べて離婚率やカス掴む率が高いとよく言われるけど(偏見)、少なくとも真希センパイは、こういう男は歯牙にも掛けなかったはずだ。
『唯のお兄さん、素敵だと思うわよ、私は。
唯のこと、とても大事に思ってる事が見てて判るもの。
…仕事、仕事で全く家庭を顧みなかった、母が病に倒れる前の父の姿を、まだ忘れられないからかしら。
私、身近なひとを大切にできない男に、全然魅力を感じないの。
どんなに見た目が良かったり、周りから尊敬される仕事をしていたり、お金持ちだったりしたとしても』
きっかけは忘れたが、珍しく凱と兄妹喧嘩をした次の日(今思えばあれは凱の17歳の誕生日の次の日だったから、あの儀式で
『…だからかなあ。唯の小説の男のひとたちが、みんな魅力的に思えたのは。
前に挨拶に来てくれたお兄さんを見た瞬間、『ヒューバートだ!』って密かにテンション上がったもの。
唯はこのひとに大切にされて育ってきたんだって、見た瞬間に納得したのよねえ』
…今思えば、多少の迷惑がかかる事になったとしても、凱がセンパイに惚れてくれた方が良かった。
てゆーか、何で惚れてくれなかったんだと、割と理不尽な怒りすら兄に対して覚える。
ちなみにヒューバートというのは例の『千の夜を君と越えて』の登場人物のひとりで、主人公であるアランの実の兄であり、ヒーローであるバルドーとの未来のない恋に翻弄される弟を、何度も諭しつつも見守って、ストーリー半ばで彼らを守る為に命を落とすキャラクターなのだが、書いた人たるアタシとしては、凱とは『兄』という立場以外何ひとつ共通点はないと思う。
…まあ、そんな事は今はどうでもいい。
なんにせよあの微笑みはこの先、彼女が認めた、愛し愛される男に向けられるものだった筈だ。
その未来を、その手で閉ざしただろう男。
どす黒く渦巻く憎悪を必死に隠して、アタシはその男から、殊更に拗ねた顔をわざと背けた。
…そうしながら、
「…ほんとは19歳です。
もうすぐ誕生日だから、そんなに変わらないでしょ」
「はいはい、そういうことにしといてあげる。
じゃ、ささやかな誕生日の前祝いに、おじさんが一杯奢ってあげるから、なんでも好きなもの飲んでいいよ」
子供を宥めるように…というか、彼からすれば本当に子供を宥めている感覚なのだろうが、そんなことを言いながら、カウンターの奥の
アタシが身に纏って、少しずつ周囲に張り巡らせた
──瑪羅門秘法義・
香りに変換した
今この場で何をしようとも、後になってここにいる全ての者の記憶に、アタシが残ることはない。
そして人間の記憶は割と柔軟というかいい加減なので、アタシの存在だけスカッと記憶から抜けていたとしても、辻褄の合うように脳が変換してしまうものなのだ。
惜しむらくは技の特性上、異性にしか効果がないのだが、アタシが店に入るより2時間も前から、警備員に擬態した弟たちが、この建物の前で密かに入場者制限をしているから、今この店の中には、権藤の身内の男性しかいない。
「そう?なら遠慮なく…BCL入りのカフェオレを」
アタシが彼にしか聞こえない声量でそう告げると、権藤はハッと目を瞠いて、ほぼ反射的にアタシに向き直る。
その合わせた視線を、アタシの
ここから先、アタシの
「権藤雅彦…単刀直入に聞くよ。
アンタ、永森真希と松田祥子を殺したね?」
アタシの質問に驚愕の表情を浮かべた権藤は、それでも何か否定の言葉を言おうとしたらしかった。
が、次には自身の身体が、自身の意のままにならない事実に気付いて、その
顔貌自体が変わった訳ではないのに、その顔は先ほどまでとは全く違い……なんというか、酷く醜悪に見えた。
恐らくは。
権藤は意のままにならぬ自身の口の動きに、それでも抵抗しようとしたのだろう。
その行動こそが、己が裡に隠したものがあるという証拠になると思いもせずに。
もはや何も答えずともその表情で、彼は全てを肯定していた。
「…そっ、そうだ。2人ともオレが殺した。
祥子のやつ、薬欲しさに最初のうちは言うことを聞いて、薬品を病院から持ち出してたのに、あの永森って女にバレて、もうやらないとか言い出しやがったから、オレが始末してやるから安心しろって言って、呼び出させたんだ。
呼び出しに応じて来たあの女に、祥子がコーヒーに混ぜてあの薬を飲ませ、朦朧とさせてからオレと入れ替わった。
顔も身体も最高で、殺しちまうのは惜しかったけど、な」
…そして紡がれた真実は、その表情以上に醜悪だった。
なんでオレの口が勝手にこんな事を!的なことを思ってるのが丸わかりの引き攣った顔で、権藤は犯行の全貌を口にする。
今の状況をどう思っていようが、この場面で口にした以上、それが本心だ。
尚、先程の
だが視覚と聴覚は生きているので、のちに残る記憶は、彼が酔って自身の罪を告白したように改竄されるだろう。
「…っ、正直、合コンで見た時は祥子より興味があったから、事後の写真でも撮った上で脅迫して、祥子と同じように使おうかとも思ったんだが、祥子から聞いてた性格を考えたら、脅されたら間違いなく警察に駆け込むタイプだ。
泣く泣く諦めて服を着せて、あのビルの屋上まで運んで、突き落としたっ……う、ぐうっ」
自分の行動にまだ抵抗しようとする権藤の視線に、新たな
「…いま『祥子と同じように』って言ったね。
ひょっとして松田さんも脅してたの?」
「いいや。勿論、最初はそのつもりで、酒に薬を入れて飲ませて、ホテルに連れ込んで犯してやった。
あの合コンの日、たまたま知り合ったあいつが看護師だと聞いて、使えると思ったからな。
けどアイツは薬のおかげで、合意だと思い込んでた。
しばらくストレスでよく眠れなかったのに、オレの腕の中なら信じられないくらいよく眠れたとか言って、都合よくオレに懐いてきて、結局、撮った写真は使わずじまいさ。
なら惚れさせた上で薬で離れられなくして、利用するのが一番いいと思った。
不眠とストレスに効く薬だと最初にタダで渡してやって、数回目からは原材料が足りないからもう渡せないと、欲しければ材料を持ってこいと言って、薬を病院から持ち出させた……くっ!
なんでオレの口が勝手に…ガキ、おまえの仕業か!?
おまえ一体何なんだよ!」
松田祥子には名乗ったが、こんなクズに教えてやるほどアタシの名は安くはない。
「なんで、松田さんまで殺したの?」
答える代わりに、新たな
「な、永森の死後はしばらく薬の持ち出しも出来そうになかったし、あの女ともそろそろ切れ時と思ってたから、警察の調べがアイツに届く前に始末した。
アイツの事だ、警察に厳しく問い詰められたら、黙ってる事なんてできやしない。
オレの事を警察に喋られたら、身の破滅だからな。
薬だけじゃなく少なくない金も渡して、完全にオレに惚れ切ってたし、身体の相性も悪くはなかったから、せいぜい長く可愛がってやろうと思ってたが…ああ、くそっ!止めろ!!」
こういう、女をはなから見下してる男にとっては、何が起きてるか完全には理解できないものの、小娘の思い通りにさせられている状況は、それだけで屈辱的なのだろう。
この期に及んでも尚、懇願を命令口調でするその態度に、この男は生きてる限り決して変わることはないと確信させるに充分だった。
「…止めて欲しい?そうだよね、いいよ。
聞いといてなんだけどこっちももう、これ以上アンタの醜悪な告白も聞きたくないし。
終わりにしてあげるよ。サヨナラ、『おじさん』」
「………っ!?」
アタシは彼に呼びかけながらその首筋に腕を回し……動けないその唇に自身のそれを重ねる。
──瑪羅門秘法義・
何故か、指先に
☆☆☆
「………ん?」
突っ伏したカウンターから顔を上げた権藤雅彦は、自分が眠っていた事に気がついて首を傾げた。
そんなに、酔い潰れるほど飲んだだろうか。
周りをみれば同行者は既に居らず、マスターも奥に引っ込んで調理でもしているものか、今は姿が見えない。
どうやら疲れているらしい。今日は帰ろう。
この店には月初めにある程度の金額をまとめて先払いしておいてあるから、勝手に帰ってしまっても問題はない。
権藤がそう判断して席を立つと、瞬間、脳裏に不思議な呪文が響き渡った。
──
それと同時に権藤は、自身の身体が自身の意志とは無関係に動くのを、閉じ込められた意識の中で認識した。
フラフラと店の外に足を進めた彼は、次には手を挙げてタクシーを止める。
「○○町、英集ビルまで」
運転手にそう告げて、動き出す車の窓から、流れていく景色を視界に捉えながら、彼は顔に出す事すらできない恐怖に震えた。
告げた目的地で料金を支払い、なんの滞りもなくタクシーを降りた権藤の足は、エレベーターで最上階へと昇った後、そこから非常階段で屋上へと向かう。
──あの女を殺した時と、同じルートで。
それを思い出した時、まさかと権藤は思った。
たどり着いた屋上で、吹き上げるビル風を受けながら、下の道路を見下ろして、まさかが確信に変わる。
一旦腰掛けるように、安全柵を越えた彼の足は、次の瞬間それを蹴って、反対側の足を何もない空間に踏み出した。
支えるものもなく身を躍らせた権藤の身体は、当然重力に従い自由落下して……
最後の瞬間まで、彼は意識を失うこともできず、通りのアスファルトにその身を叩きつけられた。
☆☆☆
「姉さん」
反対側の道路にできた人だかりを視界の端から追い出して、やはり慣れないミュールのヒールに苦戦しながら歩いていたら、後ろから聞き慣れた弟の声がかけられた。
振り返ると声をかけてきた翔だけでなく、龍もその後ろで微笑んでいる。
こうして見るとうちの弟、2人とも結構なイケメンだと思うんだが、モテた話は聞いた事がない。
「お疲れさん…なんだ、そうしてるとオンナみたいじゃねえか」
などと思っていたらいきなり末の弟が、憎まれ口を叩いてくるのに、こいつがモテない理由はここだと確信しながら言葉を返す。
「もともと女だっての。
わかってるよ、似合わないってことくらい。
言われなくても、帰ったら元に戻すし」
「…似合わねえなんてひとことも言ってねえだろ」
彼の軽口に返した言葉だったのに、龍は何故か心外だというような表情を浮かべる。
その隣で翔がクスクス笑いながら言葉を継いだ。
「龍の今の言葉を人間の言葉に訳すると『ちゃんと化粧やオシャレしてりゃこんなに可愛いのに』になるんだよ、姉さん」
「……は?」
もとの言葉からはかなり離れた翻訳に、一瞬変な声が出た。
一拍置いて龍の方に目をやると、一瞬合った視線を逸らしながら、指先で頬をかく。
……その頬が少し赤らんでいる気がするのは、街灯の光の加減だろうか。
「人間の言葉って何だよそれ…確かに言いたいのはそんなような事だったけどさ」
「え……龍、アンタ熱でも」
思わず額に手を伸ばす。と、
「ねえよ!」
伸ばした手はあっさり掴まれて、何故かそのままアタシは、龍の腕に抱き込まれた。
……ぐぬぬ、動けぬ。
「大体このワンピース、俺と翔が誕生日に、金出しあって買ってプレゼントしたやつだろ。
凱はそん時、金無くて出せなかったけど、一応は3人で一緒に選んだんだぜ」
「え…そうだったっけ」
耳元に囁かれるその言葉に、アタシは思わず自身の身体を見下ろした。
その頭の上に、翔のがっかりしたような声がかかる。
「やっぱり気付いてなかったんだ…」
メイクの時の不満げな表情はこのせいだったかとようやく理解して、アタシは2人に頭を下げた。
「……ゴメン、初披露がこんな場面で」
せっかくのプレゼントを箪笥のこやしにしていた上に、ようやくの御披露目が裁きの場だなんて。
怒られても仕方ないなと思いつつ顔を上げると、弟たちは『仕方ないな』という顔で、笑って肩をすくめていた。
「いいよ。僕のメイクとも合わせられて、一番可愛い状態で見られたから。ね、龍?」
「そうだな。いつ着てくれんのかと思っててやっと見れたし。
姉ちゃんに絶対似合うと思ったから、野郎3人婦人モノの店で、恥ずかしい思いしてまで買ったんだから、すぐ着替えるとか言わずにもう少し鑑賞させろよなー。
…うん、メッチャ可愛いぜ、姉ちゃん」
少し揶揄うような含みを帯びたその口調に、アタシは自分を抱きこむ龍の、その手の甲を思い切り抓った。
・・・
「寄り道して、3人でラーメン食べて帰ろっか。
今更だけどワンピースのお礼に、姉ちゃんが奢るからさ!」
照れを通り越して気まずくなり、空気を変えようと提案すると、翔が何かかわいそうなものを見るような目をした。
「せっかくオシャレして、食べにいくのはラーメンなんだ…」
「なんか文句あんの?」
正直、慣れないオシャレについてはもう触れてほしくないのに、そんな事を残念そうに言う翔を睨む。
「俺は賛成。
塩バターコーンチャーシュー麺、大盛り。
それに餃子、チャーハン付きで」
「そんなに食べんの!?」
逆に嬉しそうな顔で食べたいモノを告げてくる龍にツッコミを入れると、翔が挙手しながら発言してきた。
「あ、チャーハンはいいけど、僕も餃子は欲しい。
あと、凱兄さんは?呼ばなくていいの?」
「アイツはこの場に居ないのが悪い。ほら、行くよ!」
若干の不満をこめてそう答え、アタシは弟たちに背を向け、近くに見える店を指差して先導した。
・
・
・
「…惚れた女が他の男とキスしてる場面なんて、男としては見たくないの当然だと思うけどな…」
「凱兄さん、救われないよね…」
アタシの背中を見つめながら、弟たちがそんな事を言っていたのを、アタシは知らなかった。
『瑪羅門の家族』は、実は結構うろ覚えでした。
極!!で登場した時に、『あれ?ここって四兄弟じゃなかったっけ?』という、うろ覚え特有の記憶違いに気づいたのがこのネタの原点だったと思います(爆
唯を2番目に配置したのは、兄弟の年齢で唯一そこが空いてたからという。
そうでなければ一番上か一番下にしてました。
しかも実は父親が魔修羅の末端の男で、魔修羅と瑪羅門両方の血を受け継いでいる、的な裏設定もあったんだけど、どうせそこまで書かんのでどうでもいいことにします(激爆
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