マンハッタンカフェの怪文書 (富岡牛乳)
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1.アザレア賞

4月。

天候は、晴れ。バ場は良。

阪神競バ場、第9レース、アザレア賞。

(俺、ここで何をしているんだろ・・・)

そう彼は思い、ぼんやりと目の前で走るウマ娘達を見ていた。

彼女たちが必死に走っている姿を余所に、この若きトレーナーの心は上の空だった。

彼の視線の先には、レース場の空にぽっかりと浮かぶ白い雲。風にゆったりと流され、鈍く、ゆるく、ただ漂う。

ただ重たくも流されるばかりのその白いわた雲達が、暢気にも見えたし、彼自身のことをあざ笑っているようにも、彼には見えた。

 

そんな最中実況が叫ぶ。

『さぁ、最終コーナーを抜けて!先頭に立ったのはジャストマイラブ!』

その実況を聞き

(俺のウマ娘じゃない)

と思う彼。

『外から差してきたのはシノブラフィック!その後ろにモニュメンター!』

と続く実況にも

(俺のウマ娘じゃない)

と再び思う彼。

『先頭は三頭の争いに持ち込まれました!さぁ、誰が勝つのか、ジャストマイラブ!シノブラフィック!モニュメンター!』

興奮する実況も彼には鬱陶しく聞こえた。

レースは白熱するが、彼の心は急速に冷めていく。

会場の熱気すらも煩わしく感じる土曜日の午後。

彼の担当するウマ娘は11着でレースを終えた。

 

 

 

翌日。

大阪から電車を乗り継いで帰ってきた彼とウマ娘だが、その長い旅路の間、会話をすることは殆ど無かった。

彼の担当する青鹿毛の長い髪のウマ娘は、電車の窓の外の景色をぼんやりと眺めるばかりで、トレーナーの彼も何も言わず、ただスマホを触ったり、うたた寝をしたりするばかりだった。

4時間30分以上の旅路を経て、兵庫県宝塚市・仁川駅から東京都府中市・府中本町駅にたどり着いた二人は、そのままコインパーキングに止めてあったトレーナーの車、型落ちの赤色の日産エクストレイルに乗り、トレセン学園美穂寮にまでたどり着く。

「ありがとう・・・ございました・・・」

そう言って、頭を下げるウマ娘に対し

「お疲れ様」

と型にはまった対応をするトレーナー。

やっと交したような、素っ気ない言葉達は、会話と言うよりただの合図のようだった。歩行者信号のメロディの方がまだ愛想がある程度に思えるレベルである。

 

そして車に乗り込み、その場を後にするトレーナー。

しばらく車を走らせる中、携帯から着信音が流れる。Bluetoothのイヤホンを嵌め

「もしもし」

と電話に出ると

『こんにちは、突然すみません。私です』

と、壮年の男性の声が耳に入ってきた。

「先生」

その声には聞き覚えがあった。彼がトレーナーになるために師事していた元トレーナーである。彼の記憶に寄れば、今はトレーナーを引退し、北海道にて一人暮らしをしているはずだ。

「お久しぶりです。どうしたんですか、急に」

『いえ、北海道から用事があって東京に来ていたのですが、ちょっと時間が余りましたので、よろしければ少し会えないかな、と思ったのですが・・・。急で申し訳ないのですが、ご都合が合えば幸いです』

物腰柔らかく丁寧なしゃべり口。

記憶の中の『先生』そのものの姿が目の前に現れるようで、彼の心についつい心に懐かしさが広がっていく。

 

その感情の流れのためだろうか、

「いえ、とんでもない!今どちらにいらっしゃいますか?」

と少し興奮気味に彼は話す。

『あぁ、よかった・・・。貴方は覚えていますか?東京競バ場の近くにある、古い洋食店・・・』

「もちろん!もちろんです!」

そこは先生の行きつけの店だった。師事していた頃によく連れて行ってもらった思い出の店。

懐かしい記憶。よく丁寧でもあり厳しくもあり様々な教えを授けられた、青春の記憶。

それが蘇り、彼の声音も明るくなっていく。

「では、今から向かいます!あと…そうだな、10分もあればお邪魔出来るかと思います」

『そうですか、慌てなくて結構です。こちらはこちらでちょっとお相手いただけてる話し相手もいますので。安全にお越し下さい』

そうお互い会釈をしあい電話を切った。

昨日のアザレア賞での記憶など、まるでなかったかのような気持ちで、彼は車を走らせるのだった。

 

 

 

東京競バ場近辺の洋食店にて。

「おいしいですか?」

「はい、とても・・・」

「それはよかった」

『先生』は、目の前のウマ娘が美味しそうにニンジンオムレツを食べるのを見て、にこにこと笑みを浮かべていた。

白髪のオールバック、丸眼鏡をし、真っ黒なガウンのような服を身に纏っている彼こそ、トレーナーのいう『先生』だった。

「ここのニンジンオムレツは絶品なんですよ。最近の若いウマ娘は知らないようですが、昔はよくここに担当のウマ娘と食べにきたものです」

「すごく・・・おいしいです・・・。また一人で来ます。ありがとうございます・・・」

目の前のウマ娘は深々と頭を下げた。顔は無表情ながらも、琥珀のような金色の瞳は輝いている。

(ずいぶんとお気に召したようだ)

と先生は、その瞳の色を見て、彼女の機嫌を察する。表情に出すのが苦手なだけで、案外素直なウマ娘なのかもしれないな、と感じた彼である。

 

店のチャイムが鳴る。誰かが来店したのを察し、店員が入り口のドアの方に向かった。

「いらっしゃいませ」

「すみません、ここで待ち合わせなのですが」

その声を聞いて

「あぁ、こちらですよ!」

と手を振る先生。

先生と目が合ったトレーナーは眼を見開き、笑顔を浮かべて彼の席の方に歩いてきた。

「先生!お久しぶりです!」

「君こそ、元気そうで何よりです」

先生もにこやかに笑い、2人は握手を交す。

ふとトレーナーが席の方に眼を移す。すると彼の笑顔が急速に冷えていった。

「マンハッタン、カフェ・・・」

彼女の名前を出すトレーナー。

彼女こそ昨日のアザレア賞で11着。彼の担当するウマ娘のマンハッタンカフェだった。

 

「少し近くをぼんやりと歩いていたのでね、つい話しかけてしまいました」

そう先生はにこやかな笑顔で話し、

「もしかして、君の担当なのですか、彼女は」

と続ける。

「えぇ、まぁ・・・」

きまりが悪そうに視線を逸らしながら、話すトレーナー。

すると

「ごちそうさまでした・・・。お金、これで足りるでしょうか」

といい、机の上に紙幣を置き、マンハッタンカフェは席を立とうとした。

それに

「いえ、大丈夫ですよ。私が払います」

と先生が言い、彼女が机の上に出した紙幣を彼女の前に差し返す。

「いや、先生、とんでもない。俺が払いますよ」

それを見たトレーナーは少し慌てた様子で先生にそう話すのだった。

 

マンハッタンカフェが去った後、トレーナーは彼女のいた席に座り、先生と向かい合った格好になる。

「最近のご様子はいかがですか?」

と尋ねる先生に対して

「まぁ・・・中々うまくいきませんね」

と、決まりの悪そうに返すトレーナー。

「今は誰を教えているのです?」

「彼女一人ですね。先ほど面会いただきました・・・マンハッタンカフェ」

それを聞き、

「ふむ・・・」

と神妙な様子で先生は腕を組んだ。

「・・・先生の目から見て、どうですか、彼女は」

「どう、と言いますと?」

「いやその・・・将来性があると言いますか」

その質問に対し、先生は両手の人差し指を立てて、×の字を作り、苦笑いを浮かべた。

「それを決めるのは私ではありませんよ。トレーナーである貴方と、彼女自身です」

「・・・はい、すみません」

うつむき加減にトレーナーが謝ると、

「・・・強いて言うなら、ですが」

と先生は言葉を続け、

「彼女の体重はどのくらいだと見ています?」

とトレーナーに話しかける。

「・・・・・・最近、少し痩せたかな、とは」

「私の見立てでは○○kg位ですね」

「そんなに痩せてますか!?」

その体重は彼が想定していたよりも大幅に痩せている見立てだった。

それを聞いて、体重を正確に把握できる程の関係をまだ作れていないのか、と教え子であった目の前の若きトレーナーを見た。

 

「率直に伺います。貴方、あの子とうまく付き合えているという自信がありますか?」

その先生の言葉に身を固くするトレーナー。

「トレーナーに一番大事なのは、ウマ娘との信頼関係です。それが築けないようですと、トレーナーがどんな優れた指導をしても、ウマ娘にどんな才能があったとしても、成果を出すのが難しい」

彼の硬い表情を見据えながら、先生は語りかける。

その一言一言がトレーナーの心に刺さり、曇天の重バ場のような心境を抱えた彼である。

「貴方の夢はなんでしたか?」

「・・・日本ダービーを勝つウマ娘を育てることです」

「変わっていませんね」

その言葉ににこやかとなりながらも

「あの子の今の状態ですと、日本ダービーはおろか、オープン戦も厳しいかも知れません」

と、厳しい言葉を投げかける先生である。

トレーナーはその言葉に何も言い返さず、何も言い返せず、下を向くばかりであった。

アザレア賞で11着。昨日の苦いレース結果が、彼の心に甦る。

現実を久しぶりに会った恩師に直面させられるのは、彼に取って非常に辛くもあり、そして情けないと思わせるものだった。

その表情を見ながらも

「ですが、ウマ娘とトレーナーの信頼関係が築ければ、話は別でしょう」

と先生は続け、

「そこで提案があります」

右手の人差し指を立てて『提案』の中身を話し始めるのだった。

 

 

 

翌日。月曜日。

授業も終わり、いよいよトレーニングがはじまる時間帯となり、マンハッタンカフェがトレーナー室にやってくる。

「今日も、よろしくお願いします・・・」

そう言い、頭を下げる彼女。

金色の瞳が鈍く彼を見つめていた。

「なぁ、マンハッタンカフェ。練習前に話がある」

と、トレーナーが切り出すと、彼女をソファーに座らせる。

「先日の」

先日のアザレア賞は11着で、と切り出そうとして、つい彼は言葉を引っ込めた。

彼女を傷つけるために話を持ってきたのでない、と寸手の所で気づいたのだ。

「先日、レストランであったおじさんいただろ?あの人、俺の先生なんだ」

と言葉を選び直し切り出すトレーナー。

「はい」

相変わらずの無表情でマンハッタンカフェは返事をした。

「その先生がな、俺とお前とで、先生のご自宅のある、北海道に遊びに来ないか、と誘われてる」

「・・・はい」

少しだけ、ためらいのあるかのような返事をするマンハッタンカフェ。

「先生もな、お前の事を気に入ったらしくてな。美味しいニンジンオムレツを作って待っている、だそうだ」

「ニンジン・・・オムレツ・・・」

その言葉を聞いたとき、少しだけ、彼女の瞳の淵に光がきらめいた。

「期間は・・・ひょっとしたら結構長くなるかもしれない。授業はwifi通じるし、リモートで受けるから問題ないが、どうする?」

と言葉を出すトレーナー。

先生曰く、課題は三つ。

一つ目に、彼女の体重が落ちすぎていること。十分な筋力と体力を身につけるため、しっかりとした食事と療養が必要とのこと。

二つ目に、彼女がどういうウマ娘か、トレーナーが測りかねていること。そのために共同生活が必要とのこと。

そして三つ目に、彼女と彼の信頼関係が築けていないこと。『信頼関係、これが一番重要です』という先生の言葉がいつまでもトレーナーの心中に残り続けていた。

この三つを解決するための手段こそが、先生の家での共同生活という提案だったわけだ。

「あの・・・」

「何だ?」

「その間、練習はどうするんですか?」

「先生のご自宅は北海道千歳市にあるんだがな、結構広い農場を譲り受けたものらしい。どうもウマ娘のトレーニング施設としても考えていたようで、トラックや坂道は整っていると伺っている」

その言葉を聞いて、

「安心、ですね」

少しだけ首を傾け話すマンハッタンカフェ。ほのかに口角が上がったようにみえたが

「そうだな」

トレーナーはそれに気づくことなく、視線を逸らしながら彼女の言葉に同意するのだった。

 

彼と彼女と彼の先生の、共同生活が始まろうとしていた。

 



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2.放牧

 

4月中旬。

アザレア賞を終えたマンハッタンカフェは、トレーナーの勧めにより、北海道のトレーナーの『先生』の家に行くことになった。

翌日を出発に備え、部屋にて準備をする彼女に

「カフェさん、何が手伝うごどはある?」

と尋ねるウマ娘がいた。

ふっくらした身体。丸い顔と瞳。岩手出身のユキノビジンである。

「大丈夫。ありがとうございます」

そうマンハッタンカフェは会釈して黙々と手を動かす。

「そっが~。北海道、いい旅行になるといいですね~」

「そうですね」

無表情なマンハッタンカフェの目尻が、少しだけ垂れていた。

「あたしの故郷の岩手も南に下ったところにあるんですよ~。あぁでも、今回は飛行機で行くんですよね?」

「はい・・・飛行機、乗るの初めてなので、少し緊張します・・・」

他愛のない会話をする二人。その会話の中にも明るい言葉が飛び交う。

それは未知の土地への興味と、新しい日常への期待に溢れているからに違いなかった。

 

 

 

翌日。朝7時。天気は曇り。

トレセン学園美浦寮前にて。

トランクケースを持ったマンハッタンカフェはぼんやりと空を眺めていた。

琥珀色の瞳に、霞がかった空が映り、橙の太陽の光が薄くたなびいている。

そんな最中、彼女の目の前に赤いエクストレイルが止まった。

そして、車から一人の男性が降りてくる。

「おはよう」

そう言って声を掛けたのは彼女のトレーナーだった。

「おはようございます」

彼女も軽く会釈すると、荷物を積み込み、車は走り出す。

助手席からマンハッタンカフェは朝靄のかかる町を眺めていた。

今日でこの町としばらくお別れだと思うと、普段見るその景色に妙な郷愁の感情を覚えてしまう彼女だった。

 

府中本町駅から谷保駅まで電車で。そこからリムジンバスに乗り換えて羽田空港へ。

そして羽田空港に着いたトレーナーとマンハッタンカフェは、新千歳空港行きの国内線にて北海道に向かった。

東京から北海道まで1.5時間。

短いフライトを経て空港に着いた彼女だがその顔は暗かった。

「マンハッタンカフェ」

それに気づいたトレーナーが声を掛けるが、全く彼女は気づかない。

「おい、マンハッタンカフェ」

と、強めに声を掛けてようやく

「・・・はい」

と力なく言葉を返す彼女である。

「大丈夫か?」

「・・・・・・はい」

真っ青な顔をして、明らかに不調そうな彼女である。

ここまで目に見えて具合が悪そうな彼女の顔を、トレーナーは見るのは初めてだった。

あまりの変化に、トレーナーは待合ロビーにて適当な椅子を見つけ、彼女を座らせる。

 

「気持ち悪いのか?」

「・・・・・・はい」

「しばらくここでじっとしていよう。先生には俺からちょっと遅れるって連絡しておくから」

「・・・・・・すみません」

うつむいて気持ち悪そうな格好をするマンハッタンカフェを置いて、トレーナーはその場所を離れる。

ふとマンハッタンカフェは、重たい頭を抱えながら、無機質な床を見て、なんだか情けない気分になっていた。

北海道まで来て、どうしてこんなに気持ち悪い気分になっているんだろう。何をしにここまで来たんだろう。これから大丈夫なんだろうか。

そういう不安の種が徐々に芽を出し始めたその時だった。

「マンハッタンカフェ」

トレーナーの声にゆっくりと顔を上げると、彼の手には紙コップが握られていた。ほんのりと焦げたコーヒーの香りが彼女の鼻に漂ってくる。

「ゆっくり飲んで」

そう言われ、コーヒーを手に取る彼女。口に含むと牛乳と砂糖のやさしさと甘さが口いっぱいに広がった。

「カフェオレ・・・だけど、これでよかった、か?」

少し自信がなさそうに、少し不安そうに、目の前の若いトレーナーはそう声を掛ける。

「・・・はい、おいしいです」

口の中で転がした暖かい甘みが、鼻から吹き抜けるやさしいコーヒーの香りが、彼女の身体の中をゆるく広がっていっていた。

 

 

 

空港のロビーにて二人を見て手を振る壮年の男性がいた。

彼こそが、トレーナーとマンハッタンカフェを招いた、トレーナーの先生だった。

「こんにちは、お二人とも」

にこやかな笑顔をした先生は、そう言って右手を出した。

「先生、お招きいただきありがとうございます」

そう言うと、トレーナーは先生の手を握り、軽く握手を交す。

そして先生はマンハッタンカフェの方を向かい合い、同様に右手を差し出した。

「これから宜しくお願い致します」

「よろしく・・・お願いします」

マンハッタンカフェは、軽く彼の手を握る。すこし視線を逸らしながら応じる彼女に、先生は暖かな視線を向けるのだった。

 

先生の車。古いパジェロで空港より走って30分程立った。

東京とは異なり、そこにある大地も、空すらも広く思える。平原が幾重にも広がるそんな景色をひたすら走るうち

「ここですね」

先生の家に車はたどり着いた。

赤い屋根のちょっと古味がかった木造のペンションのような二階建ての家。少し離れた所に離れがある。

敷地は広く、正面に家を見て、その奥には畑があるようだ。そして左側にはトラックコースと坂道が用意されている。

肝心のそのコースには、何やら複数の重機と人が入り、慌ただしく何かの作業をしているようだった。

先生が車を止めて、コースの方に歩き出す。

慌てて、トレーナーが助手席から降りると、それにつられるようにマンハッタンカフェも後部座席から降りた。

顔のいかつい、岩のような男が

「おーい、先生。こんなもんでいいか?」

と、にっかり笑って先生に話しかける。

「はい、少々お待ち下さい。確認致します」

そう先生は言うと、彼らが作業をしているコースを歩き出した。

そしてゆっくりと一周してくると

「はい、大丈夫です。ご協力ありがとうございました」

と、岩男に声をかける。

「いや、なぁに。お安いご用さ」

と彼は言い、他の男達に声をかけ、撤収準備を始める。どうやら先生に練習コースの整備を依頼された業者のようだった。

 

業者達が撤収する間、トレーナーとマンハッタンカフェは、家の方に案内された。

1階はリビングとダイニング、そして書庫。ユニットバスや洗面台も1階にある。

2階には4箇所ほど個室があり、広さは8畳ほど。ベッドと机もしつらえられており、一人でくつろぐには十分な部屋である。

あてがわれた各々の個室に荷物を置き、二人が再び表に出ると、既に岩男とその一行は、先生の家を後にし始めていた。

トレーナー、そしてマンハッタンカフェは彼らを見送った後、

「さて、お二人とも。到着して早々ですが、お手伝いをお願いしたいのですが、よろしいでしょうか」

と先生に声を掛けられる。

「はい!」

「はい」

各々の返事に『よろしい』というような態度で先生は頷くと、

「ご覧の通り、この練習コースはしばらく使っておらず、今整備をした所です。トラックと坂道は整備をしてもらい、練習するには十分ですが、他の箇所は全く手つかずです。お二人には、できる限りこの練習場を綺麗にして欲しいのですが、お願いできますでしょうか?」

と二人に声を掛けた。

「承知しました!」

「わかりました」

二人は早速ジャージに着替え、練習コースの整備に乗り出すのだった。

 

 

 

時間はあっという間に過ぎ、夕方になった。

広い大地に沈む夕日はどうしてこうも雄大に見えるのだろう、とぼんやり考えながらトレーナーは夕日を見ていた。

手にはほつれた軍手と使い古した木槌。

柵が所々傷んでいたので、それを直していたのだが、黙々と作業を進める内に、汗も汚れも身体にいい具合に染みついて、どこか心地よい疲れに彼は包まれていた。

少し風が吹き、紅に染まる大地に、草が擦れ合う音がして、遠くから軽トラックが走るエンジン音がかすかに聞こえる。

あぁ、ここは北海道なんだな、と自覚してしまう風景に見とれていると、

「お疲れ様です」

と後ろから先生が話しかけてきた。

「あ、お疲れ様です」

と返すトレーナー。

それに頷くと

「そういえば、マンハッタンカフェさんはどこなのでしょう」

と先生に聞かれて、そういえば、と思うトレーナーである。

確か彼女は雑草むしりをやっていたはずだ、と思いだし、

「おーい、マンハッタンカフェー!終わりにするぞー!」

と声を掛けるが、一向にその姿は見えなかった。

「アイツどこに行ったんだ・・・」

「ちょっと探してみましょうか」

トレーナーと先生は顔を見合わせ、広いトラックの周りを歩き出す。

トラック近辺は雑草だらけだったが、彼女がむしったのだろう、綺麗な土の色が現れ、歩道として十分機能する程度に仕上がっていた。

そんな彼女が作った歩道をしばらくして歩いて行くと、

「おやおや・・・」

「うぉ・・・」

トラックコースを3分の2ほど歩いたところだろうか、黙々と雑草をむしる彼女の姿があった。

どうやら後ろに居るトレーナーと先生の姿には一切気づいていないらしい。

「すごい集中力ですね、彼女」

と先生がこっそり耳打ちし、

「ちょっと、このまま眺めていましょう」

と、トレーナーに声をかけた。

 

夕日が地平線に飲み込まれ、紅色の大地がラピスラズリのような深い青色に変わっていく。

暖かな太陽の恵みが大地から消え失せはじめ、夜のとばりが広い大地に幕を下ろす。

そんな状況であっても、彼女は草むしりを辞めなかった。

すこし冷たい風が吹いて、トレーナーが身を震わす中

「はい、マンハッタンカフェさん」

と、先生が彼女に声を掛けた。

「・・・はい」

ようやく二人に気づいた彼女が振り向き、立ち上がると

「見て下さい、すっかり日が暮れてしまいました」

と、にこやかに話しかけた。

明けの明星のような大きな瞳が、先生を見つめている。

すっかり暗く沈んだ大地の中に、マンハッタンカフェの瞳が輝いている。

「よく頑張りました。今日はここまでにしましょう」

「・・・わかりました」

彼女は立ち上がり、先生はそれに頷いて、家路へと歩き始める。

彼女の作った道は、トラックコースを一周し、彼らを容易に帰るべき家への道筋を作り上げていた。

 

 

 

家に帰って各々着替えると、早々に夕食に預かることになった。

食卓に出てきたのは先生特製のニンジンオムレツと、炊きたてのご飯、じゃがいもの入った味噌汁と、ベーコンとほうれん草のソテーだった。

「食べる前にお祈りをしましょう」

という先生が手を合わせて眼を閉じる。

トレーナーもそれに習って慣れた様子で目を閉じると

「お祈り・・・」

とつぶやいたマンハッタンカフェも大きな瞳を閉じ、手を合わせた。

「はい、では食べましょうか」

静かな夜に、静かな食事の音がダイニングに響いた。

それは暖かくもやさしさを伴った柔らかい静けさだった。

 

「ここからこの共同生活についてルールを決めたいと思います」

食事も早々に終えると、先生がそう切り出した。

「食事は毎日私が作りますが、皿洗いはお二人に手伝っていただきたい。よろしいでしょうか」

二人はそれに頷き、よし、と先生が笑顔で頷いた。

「風呂掃除も同様ですね。三人で当番制にしましょう」

これにも二人に異存は無いようだった。

「あと、洗濯は・・・そうですね。私と貴方で交代で行えれば」

と、トレーナーを見て言い出したのもつかの間

「あの」

とマンハッタンカフェが声を上げる。

「はい、マンハッタンカフェさん」

「お洗濯、私もやりたいです」

その発言に少々トレーナーは面食らった。

マンハッタンカフェが自分から何かをやりたいと言い出すのを聞くのはこれが初めてだったからだ。

「どうでしょうか」

と、先生がトレーナーに請うと

「は、はい」

と返事をして

「お願いできるか、マンハッタンカフェ」

と改めてマンハッタンカフェにトレーナーは確認した。

彼女は真っ直ぐにトレーナーを見つめ、深く頷いたのだった。

 

「さて、練習ですが、お二人のお手伝いもあり、明日から取り組むことができますね。ただ」

といい、トレーナーを見る先生。

「あ、はい!」

「私の練習場は、ご覧の通り、芝が植えてありません。トラックコースにはウッドチップが敷かれています。芝のレース場とは具合が異なると思いますので、初日の練習は軽く行って下さい」

と先生はトレーナーに話しかける。

ウッドチップコースとは、走路の基盤の上に、粉砕された木片を敷きつめたバ場である。日本でも練習用バ場として多く用いられているが、その利点はダートコースに比べてクッションが数段よく、脚への負担が少ないことだ。また維持管理の面でも芝より秀でている。

「マンハッタンカフェ、いいか?」

とトレーナーが確認し、

「はい」

と彼女は応えた。

「こんな所でしょうか」

と、先生は一息つくと

「それでは、ここからは各自自由です。私は自分の部屋にいます。私の部屋は離れです。最近歳のせいか、早く寝てしまうことが多いので、ご用があれば、訪問前に電話して下さい」

といい、ダイニングから去っていった。

残された二人だったが

「それじゃ、俺も自分の部屋に行くから・・・」

「はい」

と、トレーナーも足早に自分の部屋に帰ろうとする。

部屋に帰る手前で

「あ、マンハッタンカフェ」

と、トレーナーが話しかけ、

「はい」

と応える彼女。

「明日から、よろしくな」

と、言う彼に対して

「はい」

と短く返事をし、彼女と彼の会話はそこで終わった。

ただ、その雰囲気は、決して暗くも無機質でもない、かといって明るさがあるわけでもない、どこか綿に包まれたようなものだった。

 

 

 

翌日。天気晴れ。

朝7時前。

「さっむ・・・」

4月の北海道の空気は冷える。

目覚まし時計で眼を冷ましたトレーナーは、布団のぬくもりに名残惜しさを覚えながらも、のろのろとベッドから出て立ち上がった。

2階から階段を降りてきたトレーナーに

「おはようございます」

と、先生が声を掛けた。

「先生、おはようございます」

と眼をこすって応えるトレーナー。

ダイニングに落ち着き、ぼんやりと先生の作ったコーヒーをすすっていると

「・・・そういえば、マンハッタンカフェは」

とトレーナーが先生に尋ねた。

「彼女なら」

それを聞いた先生はにっこり笑って親指を外の方に向けたのだった。

 

広い広い大地に朝日が昇っている。

肌寒い空気の中で刺すような包むような太陽の光が練習用コースを照らす。

「驚きましたよ。私と同じくらい早くから起きて、一緒にコーヒーを飲んで。早速走ってみたいと仰ったので、ちょっとだけ彼女に任せています」

先生とトレーナーは練習用コースを眺めていた。

そしてそこには軽く走り込みを行うマンハッタンカフェの姿があった。

青鹿色の髪をたなびかせて走る彼女。太陽の光にそれは照らされて、黒曜石のようなきらめきが、トレーナーの瞳に映り込む。

「マンハッタンカフェさん!朝ご飯が出来ましたよ!」

そう先生が声を掛けると、マンハッタンカフェはトラックを走る脚を止め、彼らの元に走り寄ってきた。

「どうですか?ウッドチップのコースは」

「やわらかくて、走りやすいです。脚が痛くありません」

そう言う彼女の瞳の奥には、金色の光がきらめいている

それを見た先生が

「どうします、『トレーナー』さん」

と、トレーナーに話しかけた。

トレーナーは活力がにじみ出ているような笑顔を浮かべ

「それじゃ、朝ご飯を食べたらちょっと本格的にしてみようか」

と彼女に話しかけた。

「はい」

とうなずく彼女の声色も、少しだけ、この広い世界に漂う張りのある空気のように、ぴんと張った絹糸のような響を含んでいるように、トレーナーには聞こえたのだった。

 



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3.治療

4月下旬。

マンハッタンカフェが彼女のトレーナーと北海道に来て1週間ほどが経過した。

そのうちトレーナーはマンハッタンカフェについていくつか気づかされることがあった。

1つ目に精神面。非常に集中力が高く、ひとつの物事に真摯に取り組める点。

2つ目に肉体面。朝から夜まで平気な顔をして練習に取り組めるタフさをもっている。

そして走りの面でも彼を驚嘆させる一つの事柄が、今、彼の目の前で起きていた。

「すごいですね」

坂道を走るマンハッタンカフェを見てと話す壮年の男がいる。トレーナーの師事していた『先生』である。

若きこのトレーナーとマンハッタンカフェは、先生の勧めで北海道の彼の農場に居候をしている。

先生は、以前はトレーナーをしていたが、歳を取り引退した男である。

長年何人ものウマ娘を見てきた先生からしても驚嘆するのは彼女の坂道に対する脚質だった。

 

「先ほどから坂道トレーニングを何本も行っていますが、彼女、ちっともペースが落ちませんね」

「そうですね」

笑顔を向けて、先生はトレーナーに話しかけた。

「いいですか、『トレーナー』さん。坂道が得意というのは大きなアドバンテージです。坂道は脚に負担がかかりやすく、かつスピードを殺し、スタミナを削りやすい。それに対してマンハッタンカフェさんは坂道を苦労としていないように見受けられます。これは他のウマ娘が悪戦苦闘する中で、彼女だけが何の苦労もなく、レース展開を進められるということです」

「はい、先生」

そう応えるトレーナーだったが、その心境は複雑なものだった。彼女がトレセン学園に入学して1年。それだけの間、彼女を見てきたが、この坂道が得意かどうかという見極めすら、彼には出来ていなかったのだから。それを彼の先生はたった1週間で見抜いてしまった。自分の無力さに少々傷つき、悔しくなるトレーナーである。

そんなトレーナーの様子に気づいてか

「何か言いたそうですね」

と優しく話しかける先生。

トレーナーが自分の心情を素直に吐露すると、少し先生は笑って見せた。

「それは貴方の勘違いですよ」

と前置きし

「貴方が彼女をちゃんと育ててきたから、基礎能力が出来てるんです。それが備わってなければ、坂道が得意かどうかの見極めすら怪しいと思いますよ」

と、先生は穏やかな口調で彼に語りかけた。

大海のような青空に、光り輝く太陽の光が、明るくも暖かく、北海道の広い大地を照らしていた。

 

一日が終わり、三人で夕食を済ませた後、先生はトレーナーを家の外に呼び出した。

「どうしたんですか、先生」

「いえ、二人だけで話したいことがありまして」

首をかしげるトレーナーに

「明日、マンハッタンカフェさんの洗濯当番の日ですよね?」

と先生は問いかけた。

「はい」

その質問の意図が分からず、途惑いの声色で返事をするトレーナー。

「いえ、一つ確認したいことがあるんですよ」

と先生は彼にその意図を話すのだった。

 

 

 

翌日。

朝、軽めのトレーニングを済ませたマンハッタンカフェは、三人で食事を済ませると

「お洗濯、してきます」

と言い、洗濯機のある流し場に向かった。

トレーナーと先生は何食わぬ顔でそれを見ていたが、少し時間をあけたのを頃合いに、二人で流し場に向かう。

洗濯機がモーターのうなりを上げて回っているその横で、何かをたわしでこすっているマンハッタンカフェの姿があった。

「マンハッタンカフェ」

そうトレーナーが話しかけると、びくっと身を震わせて彼女が反応した。

「練習靴、洗ってるのか?」

とトレーナーが話しかけると

「・・・はい」

と応える彼女。

「ちょっと、見せてみろ」

とトレーナーが話すが

「大丈夫です」

といい、彼女はかたくなに練習用の靴を手放さなかった。まるで何かを隠すような素振りである。

「貴方」

と先生が話しかけ、近くにあったバケツを指さした。

そこにはマンハッタンカフェの練習靴がいくつか水につけられていたが、その水の色が真っ黒に染まっている。そしてそれは練習の土埃の汚れだけではないことが一目瞭然の嫌な黒さだった。血の色である。

それを見て確信したトレーナーは

「マンハッタンカフェ、足を見せてくれないか」

と片膝を地面について話しかけた。

うつむき加減に無言を貫く彼女だったが

「頼む」

とトレーナーの真摯な声を浴びせられて、遂に観念したように無言で彼の前に足を差し出した。

靴下をゆっくりめくって見つかったモノにトレーナーは驚愕した。

足の裏の皮が破れている。そして爪もヒビが入り割れてザクロのような赤色が広がっている。

「今日の練習は中止ですね」

そう先生が言うと、すぐさま彼ら二人はマンハッタンカフェを病院に連れて行った。

 

 

 

「元々こういう脚質だったのでしょうね、彼女は」

そう医師に告げられ、トレーナーはため息を漏らした。

足の皮が薄く、そして爪が柔らかく痛みやすい、そんなウィークポイントを抱えた足。

そのことを彼女はずっと黙って、ひた隠してトレーニングに打ち込んでいた。

ちゃんとした治療をすれば痛みも治りもある程度は改善されるにも拘わらず、彼女はそれを表に出さなかった。

「彼女なりの気遣いだったのでしょう。奥手で、遠慮がちで、その割に自分の意思が強い子みたいですから」

そう先生に言われてもトレーナーの心は安らかではなかった。

どうしてもっと早く言ってくれなかったんだ。どうしてもっと早く気づけなかったんだ。

そんな思いが心の中にぐるぐると渦巻いている。

マンハッタンカフェが医師に治療を受ける中、トレーナーと先生は控え室の椅子に座っている。

 

「先生は」

「はい」

少し間を置いて

「先生は、いつ気づいたんです?」

とトレーナーは疑問を口に出した。

「おかしいな、と違和感を覚えたのは、私のウッドチップの練習場を走ったときですね。あのとき彼女は『痛くありません』と言いました。足に問題のないウマ娘なら『走りやすいです』『走りにくいです』と自分の脚質に対する感想を話すか、『地面が柔らかいです』とバ場に関する感想を漏らすはず。その時はただの違和感でしたが、彼女と一緒に過ごす内に、…なんとなく気づきましたね」

と先生が話す。その一方、心の中で、

(洗濯物の中に彼女の靴下がありませんでしたしね)

と付け加えた。

それを黙って聞いていたトレーナーだが

「・・・そう、ですか」

と力なくつぶやいた。

がっくりとうなだれるトレーナーの肩を、やさしく叩いた先生だった。

 

 

 

病院で治療を受け終わった頃には、すっかり夕方になっていた。

家に3人が帰ると真っ先に行ったのは、今後に関する話し合いだった。

ダイニングに3人が集まり、それぞれの椅子に腰掛けている。

「ここ1週間、貴方がたを見てきて、思ったことを率直に申し上げます」

と切り出したのは先生である。

「まず、『トレーナー』さん」

「はい」

「貴方は非常に一生懸命なトレーナーです。それは認めますが、自分の担当のウマ娘をしっかり見てあげてください」

「はい」

「見るというのは自分のトレーニングの方針をおしつけることではありません。ウマ娘が何が得意で何が苦手なのか、どんな性格をしていて、何を伸ばし、どんな補うべき点があるのか、それを把握することです」

「はい」

トレーナーが真摯に頷くのを聞いて、人差し指を立てて、×の字にし、彼に見せた。

『ダメな子だ』という先生の昔からのジェスチャーだった。

「そしてマンハッタンカフェさん」

「はい」

「貴方は忍耐強く、集中力もある。そして肉体的にも精神的にもすごいスタミナの持ち主です。希有な才能だと思います。しかし、自分のしたいことややりたいことを、もう少しトレーナーさんに伝えて下さい」

「はい」

「足の怪我をトレーナーに隠すなんて言語道断です。トレーナーは貴方に強く、速くなって欲しくて、貴方に愛情を注いでいます。うまく言葉にできなくてもトレーナーは何かの思いを感じ取ってくれるはずです」

「はい」

ほの暗い声で頷くマンハッタンカフェにも、先生は同様に人差し指を立てて、×の字にし、彼女に見せる。

「貴方がたはパートナーです。ウマ娘だけではトレーニングはできません。トレーナーはターフを走ることはできません。二人が同じ目標に手を取り合ってこそ、レースで勝つことが出来るのは、どのウマ娘も同様です」

そう言って一息つくと

「苦難は、皆で分け合いましょう」

と言い、先生はにっこりと笑って見せた。穏やかな牧師のような笑みだった。

 

 

 

それから、マンハッタンカフェとそのトレーナーの関係に、少しずつであるが歩み寄りの態度がお互いに見え始めた。

トレーナーはマンハッタンカフェに尋ねるように、意思を確認するように話す事が多くなった。

マンハッタンカフェはこうしたい、ああしたい、と自分の意思を俄に出すことが増えてきた。

それとともに、二人の練習に望む態度は、日に日に活気に溢れるようになり、お互い笑い合うことも増えてきている。

その姿を先生は、まるで自分の子どもが育っていくのを喜ぶ親のような眼で、暖かく見守っていた。

 

 

ある日の平日の昼過ぎのこと。

トレセン学園が昼休みとなる頃合い、マンハッタンカフェはユキノビジンにテレビ通話をかけていた。

級友と全くしゃべっていないのも少し気にかかったマンハッタンカフェが、ユキノビジンに自ら通話をかけたのだ。

彼女の中で何かの変化が起きている印でもあった。

『カフェさん久しぶり~』

そう言って手を振るユキノビジンに、あわせて手を振るマンハッタンカフェ。

『どうです~、北海道は』

「はい、楽しくやっています」

『あんらぁ~良かったですねぇ~』

「はい」

久しぶりにウマ娘達と話す、マンハッタンカフェの表情は心なしか柔らかく暖かいものだった。

それを感じたユキノビジンも、彼女の月夜の光のような優しい雰囲気にあてられて、つい心と顔が緩んでしまう。

そんな楽しそうな雰囲気を察してか、クラスの中にいた級友達が集まってくる。

それぞれ言いたいことを言い、しゃべる彼女たちを、マンハッタンカフェはいつもの聞き上手の態度で受け応えをしている中で

「うん?どうしたんだい、皆」

とハスキーボイスの声が、集団の中に入ってこようとしていた。

「あ!タキオンさん!」

とその声の主が分かった途端、少しだけ表情に陰りが出たマンハッタンカフェだった。

 



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4.富良野特別

5月最終週 日曜日。

北海道もすっかり春の暖かい陽気が差し込め、草木はその恵みに喜ぶかのように新緑を彩らせている。

マンハッタンカフェとそのトレーナーがこの広い大地にやってきて1ヶ月の月日がたった。

はじめはお互いの関係にどこか壁があった二人もようやく打ち解けてきてか、トレーニングにも少し活気が出てきたようである。

ただ今日はトレーニングをあえて行っていないようだった。

マンハッタンカフェとトレーナー、そして彼女らが居候しているトレーナーのかつての恩師は、テレビの前にいる。

東京競バ場、第11レース。今日は日本ダービーの日だ。

ファンファーレが鳴り響き、観客が歓声を上げる。

 

「今年も始まりましたね」

「そうですね」

先生とトレーナーはテレビを見ながらそう言った。

「誰が今年は勝つと思いますか、先生」

「そうですね…ジョウキセン、アマゾンポシェット…いや、ダンスフレイムですね」

「そうですか。俺はアマゾンポシェットだと思いますよ」

口々に楽しそうにどのウマ娘が勝つか予想する彼らを、マンハッタンカフェは黙って見ている。

窓の外からさす昼の陽気がうららかな日曜日。テレビを見守る三人の前でついにレースが始まった。

 

最初に逃げウマがぐいぐいと大逃げ。バ身を7-8馬身と飛ばして始まった。

「結構飛ばしてますね、先生」

「うーん、このペースで逃げ切れるでしょうか」

先生の予想は的中した。坂道を下り第4コーナー。どんどんとバ身が縮まり、ホームストレッチ前では既にバ群の塊が彼女の後ろに殺到していた。

『ジョウキセン!馬場の真ん中を通ってやってくる!!!さらに外側からはアマゾンポシェット!!!』

実況が叫ぶ。

真ん中を突っ切ろうとするのは、早仕掛けをした葦毛の留学生のジョウキセン。

そして尻尾を振り回して大外から飛んできたのはアマゾンポシェット。

必死ながらも楽しそうな顔をしかっとばすアマゾンポシェットの後ろにはダンスフレイムがなお食い下がっている。

『ジョウキセン!ジョウキセン伸びない!!!ジョウキセン伸びない!!!』

最後の直線200mを前にしてジョウキセンが失速。

そして

『アマゾンポシェット!!!そしてダンスフレイム!!!』

差しウマのこの二人が大外から他のウマ娘たちを大捲り。

『先頭はアマゾンだ!!!アマゾンだ!!!アマゾンポシェット!!!その後ろにはダンスフレイム!!!ダンスフレイム二番手!!!』

鋭い末脚がさしわたるアマゾンポシェット。それを必死に追うダンスフレイム。完全にこの二人の勝負になった。そして

『勝ったのは、アマゾンポシェット!!!二着にダンスフレイム!!!新時代の扉をこじ開けたのはアマゾンポシェットだぁぁぁああああ!!!!!』

アマゾンポシェットが1位。今年のダービーウマ娘が決まった瞬間だった。

歓声が彼女たちを迎え入れる。東京競バ場の熱気がテレビを通じて伝わってくる。

そして

「よっし!!!!」

「あらら…」

ガッツポーズを取るトレーナー。苦笑する先生。

この北海道の農場にも、テレビを介してレースに熱中する二人の大人。

マンハッタンカフェはこの時初めて見たのだ。自分のトレーナーが無邪気な子どものように笑うのを。

彼女はいつもレースを走っている。ターフの上が彼女の居場所。

観客が歓声を送るのを、目の前で見ることは今まで一度もなかった。

テレビから聞こえる歓声が、レポーターの声が、そして目の前でそれを応援する二人の大人の姿が、彼女の金色の瞳に、大きな瞳に、春の陽気のようなきらめきを宿らせた。

 

 

 

「レースに、出たい?」

「はい」

夕方になり、食卓を囲む三人。

いつもはあまり何もしゃべらないマンハッタンカフェが、そう口を開いたことに、少し面食らった顔でトレーナーは答えた。

「そうなんだ…そうなんだ!」

しかしそれも一瞬こと。すぐに喜びにあふれた表情になる。

何せ4月に行ったアザレア賞以来、彼女はレースに出ていない。日本ダービーの熱も残ってか、自分の教え子がレースに向けた意思を示すのは、トレーナーにとって素直に嬉しいことだった。

そしてレースに出よう、登録しておこうという気持ちが彼の心にもたげてきたその時だった。

先生が咳ばらいをする。

その咳払いに顔を向ける二人。

「いいですね、レースへの気持ちがあることは。しかし」

といったん言葉を区切り、先生はマンハッタンカフェとトレーナーを交互に見た。

「マンハッタンカフェさん。ここに来て、大体で結構です、体重はどの程度増えましたか?」

と穏やかな顔で彼女に問いかける。

はっとするトレーナー。ここに来た目的の一つに減りすぎた体重を戻すという目的があった、そしてそれをこの時すっかり忘れていたのだ。

「…あまり、まだ増えていません」

その答えに頷くと

「水を差すようで恐縮ですが、私はまだレースは早いと思います」

と静かに言い放った。

その言葉にうつむく二人。それを見て苦笑した先生は

「ですが」

と切り出し

「あと1.5ヶ月、様子を見るのがいいかと思います。7月の中旬ほどになりましたら、体重と筋肉の付き具合、仕上がり具合からレースに出るかどうか考えましょう」

と言葉を続けた。

そろそろ漫然と練習をせず、目標や締め切りをつけて練習に励んでもいい頃合いだった。その機会がウマ娘とそのトレーナーの心から自発的に出たのは、先生にとってもうれしいことだった。

「よし、カフェ!明日から頑張ろうな!」

「はい」

マンハッタンカフェを見て気合十分に声をかけるトレーナー。マンハッタンカフェも力強く頷く。

その様子を見た先生は

(心のほうはだいぶ仕上がってきているようですね)

と暖かい視線を二人に向けるのだった。

 

 

 

8月第1週。土曜日。

札幌競バ場。第12レース。富良野特別。

マンハッタンカフェはその日ターフの上にいる。

先生からの課題を見事クリアしたマンハッタンカフェは、この日、久しぶりのレースに出ることになったのだ。

「久しぶりのレースですが、あまり緊張していないようですね」

そうトレーナーに話しかける先生。

「そうですね」

そしてそれに固い声で答えるトレーナー。

(彼女より貴方のほうが緊張しているようですね)

と、先生は彼の様子を見やった。

まだゲートインしている最中にも関わらずトレーナーの表情は硬く、そして真剣な面持ちでターフに臨んでいた。

 

少し熱いくらいの日差しが照らす晴れの良バ場。

ゲートの中でぼんやりとマンハッタンカフェは、先生に言われたことを思い出していた。

「札幌競バ場には坂道がありません」

得意な坂道がないコース。

「そして今回貴方が出る富良野特別は、2600mの長丁場。コースは1周1640mですので、向こう正面からスタートし、最初のコーナーは第三コーナーにあたります。コーナーの数は計6回。コースを1周半走る計算ですね。」

走ったことのない長距離レース。

「ですが、私も『トレーナー』さんも、あなたが勝てると信じています。周りを見て、ペース配分を考え…、まずは、細かいことは申し上げません。あなたが思ったようなレースをやってみてください」

自分のレースをすること。

それだけしか彼らからは指示がなかった。だが、それで十分なように彼女は感じた。

『各ウマ娘、ゲートから一斉に飛び出しました!』

実況がレースの開始を告げた。

 

『最初に立ったのはハヤシセカイ!』

1周目第三コーナーに差し掛かり、先頭に果敢に立ったウマ娘の後ろに、バ群が連なる。

全12人のウマ娘たち。その中でマンハッタンカフェは十一番手に順位を付けた。

「大丈夫かアイツ…」

そう心配するトレーナーをよそに

「まだ始まったばかりです。様子を見ましょう」

と先生。

それでもトレーナーの面持ちは硬かった。思い出すのはアザレア賞の惨敗。ここで、北海道で3か月近くトレーニングを行ったにも関わらず、もしひどい負け方をしたら、という不安が脳裏にちらついて離れない。

そんな彼の気持ちをよそに、ウマ娘たちは第四コーナーを抜け一周目のホームストレート差し掛かった。

マンハッタンカフェは前を走るウマ娘たちを見ていた。ペースが速いわけでもなく、遅いわけでもない。普通のペースだが誰も仕掛けようとしないことに気づく。

それは最もなことだった。2600mの長距離をいきなり仕掛けて飛ばすのは愚行だと誰もが知っているからだ。

(もう少し、早く走れそう…)

そう彼女は考えじわりと位置を上げ始める。

 

『二週目の第一コーナーに差し掛かります!依然として先頭はハヤシセカイ!順位に大きな変動はありません!』

実況の通り、まだ様子を見やる彼女たちだが、マンハッタンカフェは九番手に位置を上げていた。

他のウマ娘たちの様子を確認するマンハッタンカフェ。

(まだ、みんな余裕がありそう…)

そう考えるとペースを合わせるように、他のウマ娘の後ろに位置をつける。

「あぁ…大丈夫かなぁ…」

不安そうな声を出すトレーナーだが

「まぁ、もう少し様子を見ましょう。あと1300mもあるんですから」

と泰然とした様子で彼の肩をたたいた。

 

第二コーナーを抜け向正面の直線に差し掛かる。依然として周りのペースに合わせるように走っていたマンハッタンカフェだが、少し違和感を感じ始めていた。

何かが前半と違い不協和音を奏でている。

(何だろう、この音…)

と思い、耳に神経を集中させ、それにすぐに気づいた。

(息遣い…荒れ始めてる)

一部のウマ娘たちの息遣いが乱れ始めている。長丁場に耐え切れなくなってきたウマ娘たちが出始めたのだ。

(この子と…この子と…、あとこの子も…)

前を走るウマ娘のうち、息が荒くなってきたウマ娘たちを特定すると、彼女は少しスピードを上げ、目の前のバ群の中に突っ込んでいった。

「あらら」

「あぁ~~…」

先生とトレーナーが同時に声を出す。

もうレースが佳境なのにバ群の中に突っ込んだ彼女を見て、思わず声が出てしまった二人である。

「ダメだ…外から差さないとルートが…」

力なくうなだれるトレーナー。彼が心配するのも最もだった。いくら体力があっても、トルクフルな足があっても、目の前にウマ娘の壁があればそれを生かすことができないのは、どのウマ娘でもあり得ることだからだ。しかし、そんな彼の思いを露知らず、マンハッタンカフェはウマ娘の中を走り続ける。

というよりも、トレーナーに見えてはおらず、彼女のみに見えている光景があった。

(ここ…空きそう…)

彼女が思うとその通りにルートが開く。

(この子は…そろそろ下がってくる…)

彼女がそう思うと、操られたかのようにウマ娘が下がる。

マンハッタンカフェには見えていた。どのウマ娘が限界で、どのウマ娘がどんなルートを通りそうか。どの道が開いて、どの道を進むのが険しそうか。

実はこの時だった。トレセン学園から遠く離れた、この北海道の土地で、彼女のレースへの読解力が開花した瞬間、それはこの時だった。

 

『さぁ!最後の第四コーナーを抜けて、先頭は依然ハヤシセカイ!!!逃げウマのハヤシセカイが必死に粘る!!!」

先頭を走る彼女を後ろから眺めるマンハッタンカフェ。

(この子…もうバテてる)

そのことに気づいた彼女はすぐさま加速にかかった。

第四コーナーを抜けた彼女の位置、なんと三番手。

「はぁ!?」

二番手のウマ娘が声を上げる。後ろから迫ってきた青鹿毛のウマ娘の差し脚が尋常でないことに気づき加速する。

『おおっと、ここで上がってきたのはスプリンガルとマンハッタンカフェ!!!』

二番手のスプリンガルが必死に粘る半面、マンハッタンカフェには余裕があった。

(いける…!いける…!!!)

心がときめく。足が躍る。

歓声きらめく最後のホームストレッチ。彼女の心も熱を持ち始める。

『先頭は変わってスプリンガル!!!それを追うのはマンハッタンカフェ!!!』

(まだまだ…速くなれる…!!!)

マンハッタンカフェの末脚が伸びる。彼女の目の前にはもうゴール板しか見えていない。

「うっそでしょ!?」

横に並びかけてきたマンハッタンカフェを見て、スプリンガルが必死に粘る。しかし

『先頭変わった!先頭変わった!!!マンハッタン!!!先頭はマンハッタン!!!』

マンハッタンカフェの脚は止まらない。

(まだいける!もっと!もっと!!!)

『マンハッタン先頭!!マンハッタン先頭!!!』

もう彼女はどのウマ娘も見ていなかった。見る必要がなかった。

200mの標識を通過する。

もう誰も自分には追い付けないと悟る。

後ろから聞こえる荒い息遣い。力のない足音。すべてがそれを彼女の確信に変えた。

そして

『一着はマンハッタンカフェ!マンハッタンカフェ!!!』

マンハッタンカフェは、余裕の走りで一着を取った。

 

トレーナーは彼の教え子が一着を取ったのを、あっけにとられたかのように見ていた。

バ群に突っ込んですり抜けて最後の直線では好位置の三番手。

そして余裕の末脚で後続2バ身差の勝利。

「これは…予想以上ですね」

と先生も目を見開いて笑う。

「貴方、彼女は、私たちが予想するより、遥かにすごい才能を秘めているのかもしれませんよ」

そう話す先生の声は少し震えていた。

マンハッタンカフェが観客席を見て、トレーナーと先生を見つけると、そちらに近寄ってきた。

それに気づいた先生は、右手の親指を立てて顔の前にかざし、にっこりと笑いかける。

それを見たマンハッタンカフェは、恥ずかしそうに、いつもの遠慮がちな彼女の態度で、控えめに右手の親指を立てて返したのだった。



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5.阿寒湖特別

5.阿寒湖特別

 

 

8月第1週、土曜日、19時。

札幌市内のレストランにて。

「マンハッタンカフェ、おめでとう!」

「マンハッタンカフェさん、おめでとうございます」

トレーナーと先生は、マンハッタンカフェの優勝に対してささやかな祝賀会を開いた。

そのレースは高々1勝クラスの一着に過ぎなかったが、3人にとってうれしいものだった。

「ありがとう…ございます」

少し照れくさそうに笑い、ニンジンジュースを握りしめるマンハッタンカフェ。

三人は乾杯すると、楽しそうに夕食を取り始めた。明るい食事の雰囲気が三人を包み込む中、

「さて、どうでしょう。もう一回同じ距離のレースに出るというのは」

と先生が切り出した。

「お、いいですね!…カフェ、どうする?」

と上機嫌な笑顔を浮かべ、トレーナーがカフェに問いかける。

「はい。出てみたいです」

と即答するマンハッタンカフェ。

「よし!」

と歯を見せて笑うトレーナーを見て、

(こんな風に笑う人だったんだ…)

と思うマンハッタンカフェである。大きな瞳が微笑みの瞼に隠れ、口元も自然と緩む彼女。

それに気づいてか、先生の顔にも喜びの色が明るく映っていた。

「さて、次のレースですが、2勝クラスの阿寒湖特別などいかがでしょう」

「阿寒湖特別、ですか」

「はい。次のレースは2週間後になり、少々タイトですが…。このレースに勝てればいよいよオープンクラスです。秋にオープンクラス昇格が間に合えば、色々なレースに出られる選択肢が生まれます」

「そう、ですね…」

魅力的な提案だった。だがここで、少しトレーナーは迷っているようだった。

「どうしました?」

「いえ、その…」

と言い淀み、マンハッタンカフェの方を向いた。

「カフェ、お前…足は大丈夫か?」

と少し真剣な面持ちで問うトレーナー。

一瞬目を見開いたマンハッタンカフェだが

「はい。大丈夫です。後からご確認ください」

と少し微笑んで答えた。

「ごめんな、ホテルに戻ったらすまないが足を見せてくれ。…先生も立ち会ってもらってもよろしいですか?」

そう言うトレーナーに対して先生は

「はい、構いません」

とにっこり微笑んで答えた。

(だいぶ、お互いの信頼関係が出来てきたようですね)

と先生は脳裏で思い、これならばもう大丈夫そうだ、と安心するのだった。

 

祝賀会を終えてホテルに帰る途中のこと。

酒が入り能天気になった頭を抱え、札幌の町の賑わいを見る。陽気な喧噪の風景をぼんやり眺めるうち、トレーナーの頭も自然とふわふわとした明るさを持ちはじめている、ネオンの光る街並みが万華鏡のように輝いているように、彼には見えていた。

「カフェ、滅茶苦茶食いましたね」

「そうですね」

目の前を歩くマンハッタンカフェの姿を見ながら二人は話す。

小食だった彼女だが、北海道に来てからというもの、日に日に食事の量が増えて、今やいっぱしのウマ娘の食欲と変わらなくなってる。

「それも、6月ごろから急に増えましたね」

という先生に対して

「そうですね、やっぱりレースに出たいって気持ちが強かったんでしょうね」

と返すトレーナー。

「まぁ、それだけではないとは思いますが…」

と先生が言うのに、腑に落ちないような顔をするトレーナー。

それを見て

「歳を取ればあなたにもわかりますよ」

と先生は返した。

少し頭をひねる彼だが、特に答えにたどり着くこともなく、そういうものか、と思うことにした。

そんな最中、ふと食事の量で思い出したことがあり

「そういえば、先生ってあんなに食事の量が少なかったでしたっけ?」

と問うトレーナーである。

祝賀会の先生の食事の量は確かに少なかった。半人前の食事を取ったか取らないかの量だった。

普段一緒に食事をとる彼らだが、日常の食事の量についても、先生のそれは遥かに少ないものだった。

その問いを一笑すると

「それも、歳をとればあなたにもわかるものですよ」

と答える先生。

「そういうものですかね」

「そういうものです」

何でもない話をしながら二人は歩く。

目の前のマンハッタンカフェが振り向いて、二人のところへやってきた。

「どうした?」

と問うトレーナーに対して、

「何でもありません」

と答えるマンハッタンカフェ。その彼女の態度を見て先生は微笑んだ。

三人は並んでホテルへの道を歩く。夜に光る月夜の光が、やさしく三人を照らしていた。

 

 

 

8月下旬。日曜日。

札幌競バ場。第10レース。阿寒湖特別。

バ場は良。天気は晴れ。最高のレース日和である。

前回の富良野特別と同じく、距離は2600m。

ゲートインしたマンハッタンカフェは、先生に言われたことを思い出していた。

「今回のレース、出来れば前半は先行策を取ってみてください」

と、いうそれだけの言葉。

前回は見事な差し脚でレースを完勝した彼女だが、その時は差し追い込みのポジションだった。

全体を見渡せることを考慮すると、差しのほうが自分には合っている気がするが、先生のことだ、何か教えたいことがあるんだろう、と彼女は思い、ぼんやりとその言葉を脳裏に焼き付ける。

そんな最中、ゲートが開いた。

阿寒湖特別が始まる。

 

『さぁウマ娘たち、一斉にスタートしました!』

阿寒湖特別2600m。前回同様コースを一周半する長い道のりのレース。そんな中、マンハッタンカフェは少し急ぎ足でスタートし、三番手に順位を上げる。

『さぁ、最初のコーナー、一周目の第三コーナーに差し掛かって、先頭はメグロエリート!二番目にウィーエルシェーロ!三番手にマンハッタンカフェです!』

レースの様子を見て

「律儀な子ですね」

と先生が漏らした。

「先生、なぜ今日は前半の先行策を提案したんですか?」

とトレーナーが問う。

「あの子の場合、相手の動きを見て予想する力が強いと思っていますが、それはある意味危険なことなんです」

その答えに

「どういうことです?」

と返すトレーナー。

「相手の見立てを誤ると、自分の判断に影響が出やすいということです。今回の先行策はちょっとした荒療治ですね」

「荒療治」

「はい、逃げや先行は後方の様子が把握しにくいのが怖いところです。差しや追い込みのウマ娘がどの程度体力を残しているのかを把握しづらい。その反面、レースのペースメーカーになれ、好位置を取りやすいという利点もありますが。今回は、あえて先行策を取ることで、逃げや先行のウマ娘の気持ちを理解してもらう、それが狙いです」

「実体験で、逃げ先行のウマ娘の走り方や心理を理解する精度を上げる、ということですか」

「そういうことです」

先生は微笑みながらそう答えた。そんな会話をする中で、ホームストレッチをかけていくウマ娘たち。

レースは早くも第一コーナーにさしかかろうとしていた。

 

マンハッタンカフェは順位を一つ下げて四番手で様子を伺っている。

(後ろから足音がする…)

前のウマ娘をマークしながらも、後ろからの足音に気を配る彼女。

音の大きさからして、そんなに距離が離れておらず、バ群になっているな、と考える。

それよりも先行のポジションに若干彼女は戸惑っていた。

スピードを上げれば前のウマ娘たちが気づき、彼女たちもスピードを上げる。かといって、スピードを落とせばバ群に沈むリスクを生む。

(このポジション…怖い)

と思いながらも彼女は走る。

そして向こう正面の直線にはいったときのことだった。

ふと不協和音がするな、と気づき、前のウマ娘たちを見てみると、一番・二番のウマ娘の息が少し乱れ始めていることに気が付いた。そして三番目のウマ娘、アストラディーゴの様子を見ると、その瞳に闘志が宿っていることに気づく。

(…ペースを上げさせられてる?)

と感づいた彼女は、少しペースを緩め始めた。

 

その様子を見て先生が

「あ、何かに気づきましたね」

と先生が言う。

「本当だ、順位が…」

とトレーナーが言ったのもつかの間、マンハッタンカフェがバ群に沈んでいった。

「あ”ぁ”!!!」

思わず悲鳴を上げるトレーナー。

それに苦笑して

「大丈夫だと思いますよ。前回2600mを走り切った彼女です。スタミナはまだ切れてないでしょう」

と、ゆがんだ顔をしたトレーナーに声をかける先生だった。

 

事実、マンハッタンカフェの体力は切れていなかった。

前のペース、というより、三番手のアストラディーゴが急かすように走るせいで、一番手・二番手のウマ娘のペースが上がりすぎてることを懸念したのだ。そしてバ群の中に入り、周りを確認すると、体力が有り余ったウマ娘が何人もいる。

(みんな、最後に差すのを狙ってる…)

そう気づくと、ポジションとコースを意識しながら、淡々と走ることに専念したのだった。

『さぁ第四コーナーを抜けて最後のストレート!先頭はメジロエリート!二番目にウィーエルシェーロ!このまま逃げ切ってしまうのか!?』

実況が叫ぶ。しかしレースはそううまくはいかなかった。

最後の直線に入ったとたん、急加速し始めるバ群のウマ娘たち。

『おおっと!!ここで後続がすごい勢いで追い上げてきた!!!』

必死に走る一番手と二番手。そしてそれを最後で差し切るつもりの三番手。しかし、後続の体力は有り余っている。その中にマンハッタンカフェもいた。

「無理~」

「む~り~」

あっという間に一番手と二番手がバ群に飲み込まれていく。

『最後のストレートで後続がすごい末脚!!!これは大混戦の模様だぁ!!!』

ウマ娘たちが一斉に駆け出し、最後の力を振り絞り始める。

元三番手のアストラディーゴが先頭に立ったが、彼女の体力も限界に近いようだった。顔から汗が吹き出し、目を見開き必死に歯を食いしばって走る彼女。

その後ろからマンハッタンカフェが加速し迫る。持ち前の読解力で、位置取りは完璧だった。

(このまま、差し切る!!!)

差しウマの本領発揮。最後の直線での急加速。しかし他のウマ娘たちも負けてはいない。全員が全員一着を取るつもりでゴール板めざして加速する。

そしてアストラディーゴも抜かれる。最後に残ったのはマンハッタンカフェ含め3人のウマ娘。

全員が全員、必死に走る。誰もが一番を目指して、そして

『一着はマンハッタン!!!一着はマンハッタンカフェ!!!』

どうにかマンハッタンカフェは一着を取った。二位との差はクビ差だった。

息を切らしてゴール板を駆け抜けた彼女だが、一着を取ったことに気づくと、顔の横で控えめに左手をサムズアップするのだった。

 

 

 

8月下旬。先生の農場にて。

マンハッタンカフェとトレーナー、そして先生は、レースを終えた翌日、千歳市の先生の農場に戻ってきた。

レースを振り返るため、ダイニングの机に座る三人である。

「結構、辛い課題でしたか?」

と問う先生に

「はい」

と答える彼女。少しその声色に硬さを感じ

「それはすみませんでした」

と先生は苦笑いをしながら頭を下げた。

「でもこれで二勝目だな、カフェ」

と嬉しそうに話すトレーナー。

マンハッタンカフェは少し自信ありげに気色ばんで頷いた。

 

「そうですね、これで晴れてオープンクラスです。おめでとうございます、マンハッタンカフェさん」

先生の言う通りだった。これで晴れてオープンクラス。重賞に出られるポジションにようやく彼女はなったのだ。

「次のレースはどうしようか、カフェ」

「そうですね…、どんなレースがあるんでしょうか」

楽しそうに話す二人を見て、先生が微笑み頷く。

(もう大丈夫そうですね、この二人はもう…)

先生は心の中でそう思った。4月に来たときは余所余所しく、お互いに壁を作っていた若いトレーナーと引っ込み思案のウマ娘。

それがお互いに心を開き、次のレースをどうしようか、と希望を持ち話している。

もうここも、この農場にいるのも卒業だな、と先生は思った。

 

既に課題はクリアした。この広い大地にある狭い空間に、この若人たちは縮こまる必要はないのだ、と彼は思い

「クラシックの最後の一冠が残ってますね」

と口に出した。

とたん、トレーナーの目が輝き

「き!菊花賞ですか!?先生!!!」

と興奮気味に彼は叫ぶ。

「マンハッタンカフェさんならいけると思います」

と言い、彼女を見る。

「菊花賞は芝3000mの長丁場です。オープン以下のレースとはいえ、2600mを走り切った貴方になら、十分可能性はあると思いますよ」

と先生はにこやかに話しかけた。

「菊、花賞…」

いきなりのG1レースの名前に戸惑う彼女。それもそのはず、昨日ようやくオープン戦に挑めるウマ娘になったばかりの彼女だ。戸惑うのも無理のないことだった。だが

「はい…挑戦、してみたいです」

とうつむきながらも自分の意思を明らかにした。

「よし!頑張ろうなカフェ!!!」

テンション高く、若いトレーナーが彼女に話しかける。

 

そして

「じゃ、先生!東京に早く戻りましょう!!!」

と先生に話しかける。

「え?」

その言葉に戸惑う先生。

「そうですね、はやく東京に行きましょう」

と、マンハッタンカフェも同調した。

「いや、私は…」

と困った顔をする先生。

もう自分の役割は終わった、あとは二人の力でも歩んでいける。そう彼は言おうとしたが、なぜか言葉が出てこない。

それは先生にも理解できない戸惑いだった。

二人をここから送り出し、それで自分の役目は終わりだと感じていたのに、それを良しとしない何かがある。

目の前のかつての教え子とそのウマ娘の姿に、言いようのない感情を、いつしか彼は胸の中に抱えてしまっていた。

(私は…このまま、この二人の行く未来が見たいのか…)

自分の想いにようやく気付いた先生は、困ったように、あきらめたようにため息をつき

「じゃ、行きましょうか、東京へ」

と微笑んで二人に答えるのだった。

 

 



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6.セントライト記念

9月第1週。

マンハッタンカフェとトレーナーは東京都府中市のトレセン学園に戻ってきた。4月に離れて以来、実に約4ヶ月ぶりの帰還である。

マンハッタンカフェとトレーナーは、先生にも一緒の飛行機で来ることを提案したのだが、

「長い時間、家を空けることになりますし、何かと準備がいります。私は後から行きますよ」

とのことで、まずは二人で帰ってきたのだった。

「久しぶりですね」

「そうだな」

トレセン学園の正門の前で校舎を見上げる二人。

ウマ娘たちの活気で溢れる学園は、出発前と比べて、明るくそして希望がありながらも、緊張感をもたらすような、どこか威厳のあるものに思えた。

「それでは、私は美穂寮に向かいます」

「あぁ、待って。送っていくよ」

「ありがとうございます」

二人の中に円滑なテンポで会話が流れる。これも北海道に行く前からすると、かなり考えられない変化だった。

二人を乗せた赤いエクストレイルは走り出す。

窓の外から見える景色に、少し懐かしさを覚えるマンハッタンカフェだった。

 

 

 

「カフェさん、おかえり~」

久しぶりの美穂寮。自分の部屋に帰ってきて出迎えてくれたのは、同室のユキノビジンだった。

明るくて柔らかい表情の彼女が出迎えてくれたことに、どこか安心感を抱くマンハッタンカフェである。

「ただいま帰りました」

「一人で寂しかったべ~」

ユキノビジンの目尻には輝くものがあった。

大げさだな、と思いながらも少しだけ口角が上向くマンハッタンカフェ。

「これ、お土産です」

「あぁ!ありがとうございますぅ!」

空港で買ったお土産を手渡すとユキノビジンは輝いた目をしてそれを受け取った。

上機嫌でお土産『ニンジンぽっくる』を封切るユキノビジンが

「北海道は楽しかったですか?」

と話しかける。

「はい。いい場所でした」

そう答えるマンハッタンカフェの表情は、どこか、旅に出る前より明るくなっているように彼女には思えた。

「そうですか~」

いい旅だったんですね、と心の中でユキノビジンは付け加えた。

ふとマンハッタンカフェの表情が暗くなり、

「でも飛行機は嫌いです」

と一言。

「あ、そうですか~…」

となんとも言えない困ったような笑みを浮かべるユキノビジンだった。

 

 

 

次の日。トレーナー室にて。

マンハッタンカフェとトレーナーは、パイプ椅子を並べて向かい合って座っていた。

「次のレースの話をしようか」

「はい」

授業が終わった後、早速次のレースの打ち合わせをすることにしたマンハッタンカフェとトレーナー。両者の瞳にはそれぞれやる気と闘志にあふれていた。

次のレース。それはもう決まっていた。菊花賞のトライアルレース、セントライト記念。

ここで一着を取り、菊花賞への優先出走権を得る。それが二人の目標となったのは、阿寒湖特別で勝利した後すぐのことである。

「セントライト記念は9月の中旬。もうあと2週間しか時間がないから、無理な練習はせず、仕上げに励もうと思うけど…どうだろう」

「はい、賛成です。トレーナーさん」

ふとトレーナーが腕を組み、

「中山競バ場を走ったのは…弥生賞以来だな」

と口に出す。

弥生賞、アグネスタキオンが一着を取り、マンハッタンカフェは四着だった。

マンハッタンカフェにとって、クラシック路線を諦めざるをえなかった、苦い思い出の残るレースである。

「今度は、一着を取りたいです」

そう口に出すマンハッタンカフェ。その眼には朝焼けの海に映る暁のような、仄かだが明るい光が宿っているようである。

北海道での生活を経て、どこか逞しくなったな、とトレーナーは思い、

「そう、その意気だ!」

と彼女に歯を見せて同意するのだった。

 

9月中旬、日曜日。

中山競バ場、第11レース。芝2200m、セントライト記念。

バ場は稍重。天気は曇り。

セントライト記念は最終局面に差し掛かっていた。

『さぁ第四コーナーを抜けて直線に変わります!先頭はマルタキサキ!続いてプレジャーとマンハッタンカフェ!!!』

先頭のマルタキサキだが、二番手のプレジャーに押されて体力の限界を迎えていた。

プレジャーが加速し先頭に立つと、マンハッタンカフェもそれに追いすがる。

(これで、差し切って終わらせる…!)

そう思い、姿勢を低くしたその時だった。

『大外からシンクカリュード!シンクカリュードが飛んできたぁ!!!ゴードンフォレストも続いているぞ!!!』

大外から2人の差しウマが飛んでくる。

最後の末脚には自信があるマンハッタンカフェ、ここから加速して踏ん張ろうとした。

しかし

『シンクウカリュード大まくり!!!先頭2人をごぼう抜き!!!』

最後の直線、なぜか足が動かない。

200mの高低差約3mの急坂。それは決して苦手なものではない。彼女にとって得意なものにも拘わらず。

どうして、と思うのも刹那、彼女の目の前には3人のウマ娘がゴール版へと向かっていき、

そして

『シンクウカリュード!!!シンクウカリュード!!!一着でゴォーーーール!!!!!』

一着を彼女は取りこぼした。

マンハッタンカフェは四位でセントライト記念を終えた。

 

「お疲れ」

レースを終えて、控室に戻ってきたマンハッタンカフェに、トレーナーはいつもの調子で話しかけた。

「はい…」

とうつむき加減に返事をするマンハッタンカフェ。

彼女の頭に、ぽん、とトレーナーが右手を乗せると、

「四着でした…」

と力なくマンハッタンカフェがつぶやくと、彼は立膝になって少し微笑んだ。

「ウィニングライブがまだ終わってないよ。足の調子は大丈夫か?ちゃんとステージに立てる?」

という彼に対して

「大丈夫です…」

とマンハッタンカフェは答えた。

トレーナー立ち上がって両肩を励ますようにたたくと、彼女をウィニングライブ用の控室まで見送った。

そして自分の控室に戻ってくるなり

「くっそぉぉぉぉおおおおお!!!!!!」

と悔しさを爆発させるのだった。

 

 

 

翌日。月曜日。

トレーナー室にて、トレーナーとマンハッタンカフェが打ち合わせをしている最中のこと。

「こんにちは」

そう言って顔を出したのは、丸眼鏡をかけた白髪のオールバックの壮年男性だった。

「先生!!!」

トレーナーが目を輝かせて彼を呼ぶ。マンハッタンカフェの琥珀色の瞳も輝きを伴って先生を捉える。

「すみません、色々手続きをしていたらセントライト記念には間に合いませんでした」

「いえ、こちらこそ…無理を言って申し訳ございません」

とお互いが会釈するのもほどほどに

「さて、マンハッタンカフェさん。この前のセントライト記念は残念でした」

と先生は切り出した。

「はい」

と先生をしっかり見て頷くマンハッタンカフェ。

それを見て微笑み頷く先生は続けて

「『トレーナー』さん、もう敗因の分析は行っていますか?」

とトレーナーに話しかけた。

「えぇ、カフェと一緒にある程度は」

そうトレーナーは言うと、2人でまとめたセントライト記念の反省点を話し始める。

 

トレーナーとマンハッタンカフェの分析はこうだった。

まず、第一に他のウマ娘がオープン級であり、実力が高かったこと。

今までの富良野特別・阿寒湖特別のウマ娘よりレベルが当然高かったのだが、そんなウマ娘たちと走る機会がここ数ヶ月無かったため、マンハッタンカフェの『読解力』以上の動きをされてしまい、うまくレース展開を作れなかった。

そして第二に、読解力が通じないことを焦るあまり、稍重のバ場に脚力を削られていたことにも気づけなかった。最後の直線は短い急坂というのはお互い頭に入れていたが、マンハッタンカフェの末脚は全く冴えなかったのだ。

「レース展開からすると、前半は中段に位置付け、最後のコーナー前では三番手と、決して悪い内容ではなかったんです」

と切り出すトレーナー。

「そうですね、私もテレビで実況を見ていました」

それに先生は同意した。

「一番手の逃げウマの体力が限界で、二番手のプレジャーが追い詰めていたのも、マンハッタンカフェは読んでいました、しかし…」

「彼女の読みより、彼女自身の脚力が削られていたのは想定外だった、という所ですね」

先生は二人の反省を、うんうんと頷きながら、自分の頭の中で整理するように聞いて

「うん、いい反省ですね」

と、笑顔で答えた。

「今後ですが、どうすればいいでしょうか…。レベルの高いウマ娘に揉まれるレースに参加し、経験値をためるしかないと思いますが…」

トレーナーが先生にそう問うと、

「しかし時間がありませんね、連日のレースでは、さすがのマンハッタンカフェさんでも潰れてしまいます」

先生は少し険しい顔をして、腕を組んだ。

ふと、先生はマンハッタンカフェの方を向き直り、

「マンハッタンカフェさん。ご学友に、併せウマや模擬レースを頼める子はいませんか?オープン級以上で、それなりの実力者で、クラシックに出ない子。そんな子が3人、少なくとも2人いれば、いい実戦経験が積めると思います」

と問いかけた。

突然の問いに少しうつむくマンハッタンカフェ。

一人はすぐに思いつく。同室のユキノビジン。桜花賞・オークスともに二着の実力者。

併せウマ・模擬レースの話も快く受けてくれるだろう。

そしてあと二人も思いつくが、その顔を思い浮かべると、少し心が重くなる彼女である。

その顔もすぐに思いつく。

一人は苦手とする人。

もう一人は少し話したことのあるだけの人。

どちらも頼むには気が引けたが

「お願いして…みます」

少し苦い顔をしながら、彼女はそう言った。

これも菊花賞のため、憧れのレースで勝つためなのだ。

そう思うと、多少の犠牲は致し方ないと、彼女は心の中で決意を固めた。

 

 

 

翌日。火曜日、夕方。

トレセン学園 練習場にて。

マンハッタンカフェとトレーナー、そして先生は、マンハッタンカフェが連れてきた2人のウマ娘と面会していた。

「よ、よろしくお願いします!」

そう少しはにかみながら言ったのは、彼女の同室のユキノビジン。

そして

「お願いするよ」

と言い、けだるそうな目をしてふらふら手を振るのは、今年の皐月賞ウマ娘のアグネスタキオン。

マンハッタンカフェの頼みを聞いて、練習に付き合うことを同意した2人のウマ娘である。

満足そうなトレーナーと先生の横で、マンハッタンカフェは今まで見せたことのない苦渋に満ちた顔をしていた。

アグネスタキオンとはそんなに深い仲ではない、とマンハッタンカフェは思っている。しかし、なぜかアグネスタキオンは彼女を気に入り、よくちょっかいを掛けてくるので、どうすればいいか普段から悩んでいる距離感のウマ娘だった。

さらに言えばアグネスタキオンはかなりの変人で有名である。そんなアグネスタキオンに何か頼み事をするなど、彼女にとってはかなり強い意志のいるものだったのだ。

「マンハッタンカフェさんのトレーナーさんですか?」

そう話しかけてきた、甲高いセキセイインコのような声を聞き、振り向いたトレーナー。

「あ、は…」

はい、と言おうとして、言葉が詰まる彼である。

目の前にいたのは身長2mを超えた筋肉隆々の大男。顔は異常なほど痩せこけている。見開かれた大きな眼球は血走っていて、瞳はなぜか蛍光色に輝いており、あと毛髪は一切なかった。

「初めまして、アグネスタキオンのトレーナーです。この度は併せウマのお誘いをいただきありがとうございます」

それに一切気にすることなく、アグネスタキオンのトレーナーは、異常なほど大きく黒い右手を差し出した。

「い、いえ、こちらこそ…」

と、差し出された右手に、おずおずと手を重ねる彼。

材木のような硬さのその手の感触に、この人が本気で握力を加えたら、自分の手は卵のように潰れるのでは、と、妙な想像を掻き立てられてしまう、マンハッタンカフェのトレーナーである。

そんな彼の思いを全くよそに

「タキオンはあの通り、実力がありながらもレースに全然出ようとしません。練習すらほどほどに済ませ、いつもよくわからない『研究』に没頭しており、ほとほと困っていたところでした。非常にこのお誘いに感謝しています」

と、早口でアグネスタキオンのトレーナーは彼に話しかる。

「そ、それは、どうも…」

それに対して、ひきつった笑いを浮かべて対応するのが精一杯の、マンハッタンカフェのトレーナーだった。

 



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7.菊花賞

10月下旬、日曜日。

京都競バ場、第11レース。芝3000m、菊花賞。

バ場は良。天気は小雨。

ついにその日がやってきた。

クラシック最後の戴冠、菊花賞が始まりを迎えようとしている。

『雲のカーテンに閉ざされたような京都競バ場に、ファンファーレが吸い込まれていきました。6万人を超える大観衆から大きな声援が興っています』

そう実況が告げる通り、小雨の天気にも拘わらず、場内の熱気は秋雨の肌寒さに負けることなく、強い猛々しさに満ちていた。

「大丈夫かなぁ、カフェさん」

そう心配そうに観客席から見守るのは同室のユキノビジン。

「大丈夫だと思うけどねェ。カフェの様子を見なよ」

隣には皐月賞ウマ娘のアグネスタキオン。彼女の視線の先にいるターフの上のマンハッタンカフェは、確かに落ち着き払っているように見えた。

 

「2000mの通過タイムですが、ハネダオーバーロードさんが勝ったときは2分8秒のペースでした。かなりのスローペースですね。エアシャカールさんが勝った時のタイムが2分4秒3、これが平均ペースと言われています。対して極端なのがセイウンスカイさんの2分2秒9です。因みにこのレース、逃げウマの彼女が最後に大逃げをしてとんでもないハイペースになりました。今回のレースは逃げウマのマイケルデポジットさんが先導することが予想されますので、2分6-7秒台で推移するスローペースになるのではないでしょうか」

そう甲高い声色で早口で捲し立てるのはアグネスタキオンのトレーナーである。筋肉質な禿げ頭の大男で、瞳孔が開ききった四白眼の瞳からは虹色の光が放たれている。

「は、はぁ…」

その予想を聞きながら愛想笑いを浮かべるユキノビジン。

アグネスタキオンは涼しい顔をしており、決して悪い人ではないとわかっているものの、人間離れしたその姿にはいつも緊張をしてしまうユキノビジンである。

「大丈夫ですか?」

壮年のオールバックの男性、トレーナーの恩師がそう話しかける。

「はい、大丈夫です」

そう言うマンハッタンカフェのトレーナーの表情は非常に硬かった。

この1ヶ月の間、やれるトレーニングはすべて行ってきた。

オープンウマ娘になりたてのマンハッタンカフェに足りていない実戦経験は十分に積んできたつもりだった。

しかしレースがどのような結果になるかはわからない。すべては3分後に決まる未来。

その重圧をただ抱えて見守るしかないトレーナーに対して

「彼女を信じましょう」

と一言、先生は言い、トレーナーの肩をやさしく叩くのだった。

 

 

 

ぼんやりとターフの上に立っているマンハッタンカフェとは対照的に、他のウマ娘たちはどこか緊張しながらも談笑をしている。

マンハッタンカフェとは違い、クラシック路線でしのぎを削ってきたウマ娘たちである。

お互いのライバル関係も、ターフの上での友情も、その緊張感にも慣れている様子であった。

「よっ!お前、初めて見るな」

そうマンハッタンカフェに話しかけてきたウマ娘がいる。

マンハッタンカフェにはその顔がはっきりと分かった。テレビで見たダービーウマ娘、アマゾンポシェットである。

「はい、マンハッタンカフェといいます。よろしくお願いいたします」

「マン…?」

アマゾンポシェットは少し頭をひねった。どうやら名前を覚えきれない様子である。

「まぁいいや!よろしく!」

とあっけらかんと笑う彼女。

「随分余裕だね」

そうアマゾンポシェットに話しかけてきたのは、彼女に惜敗を重ねているウマ娘、ダンスフレイムだった。

「おー!ダンス!」

「今日は私が勝つから」

「何言ってるの、菊花賞もアタシが貰うからね!」

「言ってなさい。絶対に今日は負けない」

アマゾンポシェットの視界にはすでにマンハッタンカフェの姿はなかった。

そんな彼女の様子を特に気にすることもなく、マンハッタンカフェの心は落ち着き払っているようだった。

 

各ウマ娘がゲートインしてついにレースが始まろうとしている。

『ダービーウマ娘、アマゾンポシェット!そのライバルのダンスフレイム!実力伯仲のウマ娘エアダフトパンク、そしてサンライズテンマ!いったい誰が勝つのでしょうか!!!』

既に実況も、レースが始まる前だというのに熱を帯び始めていた。

そして

『さぁ、一斉に各ウマ娘スタートしました!!!』

ついに菊花賞が幕を上げた。

 

菊花賞3000m。1週1782mのコースの向こう正面から始まり、それを1週半する長丁場。

最初に先頭を突っ切ったのは逃げウマであるマイケルデポジットだった。第三コーナーの坂道をぐんぐんと登り、その後ろにウマ娘が続いていく。

15人のウマ娘のうち、マンハッタンカフェは十番手に位置づけた。

他のウマ娘の後ろにつけながら、得意な坂を苦も無く登っていく。

(先頭との差は…そんなにない)

そう思い周りを見ると、皆が様子を見て走っているように見えた。

(ダンスフレイムさんは…最後方…)

皐月賞・日本ダービーとも2着だったダンスフレイムの様子をちらりと確認する。最後方からの追い込み策。それを取れるほどにペースがゆっくりであると彼女は気づいた。

ホームストレッチを抜けてもその様子は変わらない。観衆の大歓声を浴びながら走る15人のウマ娘。

「アマゾンポシェットー!!!」

「頑張れダンスフレイムー!!!」

「行けー!!!エアダフトパンク!!!」

人気ウマ娘を応援する声が観客席から飛んでいる。観客の声は力になる。各ウマ娘に活気と闘志があふれ始めていた。

「うわ、すごい歓声!」

と驚くユキノビジン。

「人気のウマ娘たちはすごいねェ」

と歓声を流すアグネスタキオン。

「貴方も出たらどうなのですか」

とアグネスタキオンに虹色の瞳を向ける彼女のトレーナー。

「頑張れ!マンハッタンカフェ!!!」

そして必死な顔で、教え子に声援を送るマンハッタンカフェのトレーナー。

そしてホームストレッチから彼女らの姿は消え、第一コーナーに差し掛かり始めた。

(ペースがだいぶゆっくり…)

そうマンハッタンカフェは思い、少しだけペースを上げた。順位を七番手にまで上げ、第二コーナーを出て向こう正面の直線に差し掛かる。

(ここからは、坂がある…)

と思い、第三コーナーに入り坂を上りながらも周りを確認するマンハッタンカフェ。

ふと周りのウマ娘を見ると、まだ皆に余裕がありそうだと感じる彼女である。

一方で先頭のマイケルデポジットを見ると、バ群が切れてだいぶ差がついていることに気が付いた。

第三コーナーの中頃、坂の頂上になってもバ身差はそんなに変わることがない。

(みんな…最後の直線で差し切るつもり…)

と考える一方、

(ペースがゆっくり過ぎる…逃げ切っちゃうかも、先頭の子)

と気づく彼女である。

持ち前の読解力をさえわたらせ、レースの展開を予想し始める。

(今度はセントライトの時みたいにはいかない…!)

思い出すのは1ヶ月間の練習。アグネスタキオン、ユキノビジン、そしてトレーナーとの練習の数々。

小雨の中で琥珀の瞳が鋭く輝く。

雨露に濡れた黒鹿色の髪がなびき、レースはついに最終局面、大歓声に彩られた最後の直線に差し掛かろうとしていた。

 

『先頭は依然としてマイケルデポジット!逃げる逃げる!!!』

ついに最後の直線に差し掛かった。先頭のウマ娘が逃げ切りの態勢を取り始める。

しまった、届かない、と後続のウマ娘も加速し始めた。そんな中である

『外からアマゾンポシェット!アマゾンポシェット尻尾を振りながら差を詰めてくる!』

ダービーウマ娘、アマゾンポシェットが急加速して飛んできた。

(このまま逃げ切らせてたまるかよ!)

ハイテンションな様子で目を見開き、笑みを浮かべて突っ込んでくる彼女。

そしてバ群の最後尾にはダンスフレイム。

(最後、追い込んで差し切ってやる!)

最後方からの距離、なんと20バ身差。それを何の意に返さないような韋駄天のような追い込み。

しかし

『マイケルデポジット逃げ切ってしまうぞ!?』

先頭のウマ娘も逃げ切りの体制。

(ここまで来たんだ!最後まで逃げきる!!!)

根性を絞り出すような逃げ足。

だがそれを追うように

『外からエアダフトパンク!!!それからマンハッタンカフェ!』

2人のウマ娘が突っ込んできた。

その直後、それはすぐに訪れた。

(えっ…)

必死に末脚を繰り出すエアダフトパンクを、黒鹿色のウマ娘が抜いていった。

『真ん中を割ったマンハッタン!大外からダービー娘!大外からアマゾンポシェット!!!』

(は…!?)

アマゾンポシェットは2着に躍り出た黒鹿色のウマ娘に追いつけないことにあっけにとられ始めていた。

『しかしマイケルデポジット!!!』

マイケルデポジットは逃げ切るつもりでいた。

しかし

(な…!?)

ゴール板手前、急加速した黒い影に抜かれたことに度肝を抜かれた。

 

菊花賞に参加した彼女以外の14人のウマ娘。

京都競バ場に集まった6万人の観客。

そして日本中のウマ娘と、競バファン。

その全てが彼女の名を覚えざるを得ない結果が現れる。

『マンハッタァァァァアアアアン!!!???』

実況が叫ぶ。場内に稲妻のごとき衝撃が走る。

彼女の名はマンハッタンカフェ。

マンハッタンカフェが、差しきって一着でゴール板を駆け抜けた。

 

京都競バ場に雷雲が立ち込め、落雷が降ったようだった。会場にどよめきと大歓声が渦巻いている。

『マンハッタンカフェ!マンハッタンカフェです!!!』

一着を取ったウマ娘の名を実況が叫ぶ。

『マンハッタンカフェ、左手を突き上げました!!!』

その親指は、天に向く。

その結果を誇るかのように。

『な・・・なんと、マンハッタンカフェであります!!!ダービーウマ娘、アマゾンポシェットも!有力ウマ娘、ダンスフレイムもエアダフトパンクも!まとめて負かしました!!!』

興奮する実況が叫びをあげる。

『場内はなんとも言えないどよめき!!!とっ・・・!とんでもないレースになりました!!!驚きました・・・!差しきったのはマンハッタンカフェであります!!!』

6万人の大観客が、番狂わせの結果に、驚きと興奮の入り混じった声を上げる。

クラシックに無縁だったウマ娘が、つい8月までオープン戦にすら出れなかったウマ娘が、菊の戴冠を得た事実に驚愕する。

「やりましたね…マンハッタンカフェさん」

先生はそう感慨深そうに頷いた。

「日本ダービーではありませんが、いいものでしょう。クラシック三冠の勝利というのは」

「はい、はい…!ぁりがとうございまず!ぁりがとうごじゃいまず!!!」

そう泣きじゃくるトレーナーの頭に手をやり

(お礼を言う相手が違いますよ)

と、彼の頭にやさしく手を乗せるのだった。

 

 

 

レースが終わり

「よっ、マンハッタンカフェ」

話しかけてきたのはダービーウマ娘、アマゾンポシェットだった。

「オマエ速いな!すげーじゃん!今までどこに隠れてたんだよ!」

「隠れてません…」

尻尾を振りながら興奮気味に話す彼女に対して、マンハッタンカフェの様子は表面上変わらないように見えた。

「今日はアタシの完敗だわ!」

負けたのにも関わらず、太陽のような笑い声を上げるダービーウマ娘。

「へへっ!覚えときなよ!」

といい、マンハッタンカフェの背中をばんばんと叩いた。

そして背中を向けて

「…次は負けない」

と、一言声をかけターフを去っていく。

その声色は、刃のように鋭く冷たいもの。

「…はい!」

去り行く背中を見て、マンハッタンカフェは張りのある声で応酬した。

小雨をもたらした雨雲が僅かな隙間を見せ、京都競バ場に天からの光が差し注いでいた。



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8.有マ記念

菊花賞が終わった。

大波乱と言われたこのレース。クラシック最後の戴冠を得たのはオープンクラスに昇格したばかりのウマ娘、マンハッタンカフェだった。

その夜の京都にて、関係者だけの祝勝会が開かれた。

マンハッタンカフェとそのトレーナー、そして二人を導いた先生、約1ヶ月間の特訓に付き合ったアグネスタキオンとそのトレーナー、同室のユキノビジン。

6人で開かれた祝勝会はさぞ賑やかで陽気すぎるものだった。

普段はそんな喧噪を嫌うマンハッタンカフェだが、今日ばかりはそうでもなかった。

大人しく引っ込み思案な態度が変わることはなかったが、もの静かにも心からその感情の彩りを心から楽しんだ彼女である。

楽しい時間が終わり、ホテルに戻る途中のこと。

トレーナーは目の前を歩くウマ娘たちを見ていた。

マンハッタンカフェに絡むアグネスタキオン。それを適当に流すマンハッタンカフェ。二人の様子を楽しそうに見守るユキノビジン。アグネスタキオンに目を光らせるアグネスタキオンのトレーナー。

思えば遠くまで来たものだ、と妙な感慨が彼をふいに襲った。半年前は弥生賞で負け、その後は1勝クラスすらまともに勝てず悩んだ日々。マンハッタンカフェとうまく付き合えず、言いようのない靄を心に抱えて過ごしていたあの頃。それらの記憶が遥か遠いもののように思えて仕方がない。

 

「今日は、本当にいいレースでしたね」

ふと先生が、そう話しかけてきて

「そうですね、先生」

満面の笑みで答えるトレーナー。

それに満足そうに頷くと

「このまま、どこまで行けるのでしょうか」

と少し空を見て先生はつぶやいた。

「どこまで、と言いますと」

と尋ねるトレーナーに対して

「いえ、ね」

と一区切りし、

「マンハッタンカフェさんはこれからもいいレースをすると思います。これからどのレースに出るのか、それを考えると楽しみなのですよ」

と微笑んで話す。

「俺もです」

トレーナーはそれに同意し、笑顔を返す。

先生はその様子を見て言葉を続けた。

「私の希望を言います。…春の天皇賞。彼女なら、マンハッタンカフェさんなら、名誉の春の盾をつかめる気がするのです」

「春の天皇賞、ですか」

「はい。今回の菊花賞であそこまで見事な勝ち方が出来ました。まだ、成長途中にも拘わらず、ですよ。春の盾をつかむその日を、いつか見てみたいものです」

どこか遠い目をして話す先生に

「取れますよ!カフェなら絶対!!!」

酒を含んだ少し火照った顔で、トレーナーはそう鼻息荒く話すのだった。

 

 

 

トレセン学園に登校したマンハッタンカフェを待ち受けたのは、同級生たちの熱烈な歓迎だった。

何せ菊花賞ウマ娘。仲のいいウマ娘たちが話を聞こうと彼女の席に押し寄せてくる。

「初めてのG1レースってどんなのだった!?」

「3000mってスタミナ持ったの!?」

「アマゾンポシェットさんってすごかった!?」

皆が皆、言いたいように質問をぶつけてくるのをどうにかかわし、一つ一つ自分の言葉で返すマンハッタンカフェ。

その度にどよめきが、叫びが上がり、彼女の席の周りだけ、黄色い空気と活気にあふれているようだった。

「モテモテじゃないか、カフェ」

その様子を廊下から見て呟くウマ娘がいた。アグネスタキオンである。

さも自分こそが彼女の理解者であるかのような素振りで、その輪の中には入らず、遠くからその様子を眺めている彼女である。

そんな中、

「何あれ?」

「ほら、菊花賞の…」

「あぁ…」

一部のウマ娘たちが、その様子を冷ややかに見て去っていった。

「ふぅん…」

アグネスタキオンは彼女たちを見て、何かに感づいたように、唇を意地悪そうに釣り上げたのだった。

 

 

夕刻、トレーナー室にて。

トレーナーとマンハッタンカフェは練習前にミーティングを開くことにした。

議題は勿論、次のレースについてである。

「次のレースの事だがな、先生と話してたんだ」

練習前のミーティングにて、トレーナーはそう切り出した。

「一つ目に11月最終週。ジャパンカップ。芝2400m。世界からの招待ウマ娘も加わり、日本と世界がぶつかり合うレースだな。このレースにはダービーウマ娘のアマゾンポシェットも出るという話だ」

「はい」

「二つ目に12月第1週。ステイヤーズステークス。芝3600m。G2レースだが、トゥインクルシリーズ最長のレースだ。長距離が得意なお前に合ってると思う」

「はい」

「そして三つ目に、12月最終週。有マ記念。グランプリレースだからに人気投票よって出走できるかが掛かってくるが…菊花賞ウマ娘のお前なら票は確保できるだろう」

「はい」

ふぅ、と一息つき、マンハッタンカフェを改めて見たトレーナーは

「さて、どのレースにしようか」

と問いかける。その瞳には未来への希望を宿しながら。

トレーナーに提案される前から、実はマンハッタンカフェの心は既に決まっていた。

出たいレースの名前。それが彼女の口から語られる。

「私は…」

 

 

 

12月最終週、日曜日。

中山競バ場、第9レース。芝2500m、有マ記念。

バ場は良。天気は晴。

快晴の師走の冬空の中、マンハッタンカフェはグランプリレースのターフの上にいた。

 

時はさかのぼり、11月初旬、ある日のこと。トレーナー室にて。

「まぐれだって言われてる?」

「はい」

まっすぐな眼をしたマンハッタンカフェが、トレーナーに打ち明けたのは菊花賞の後の周りの反応についてだった。

確かに多くの同級生はその勝利を喜んでくれた。しかし、一部のウマ娘から出ていたのは、あのレースは偶々運がよかっただけの結果だという辛辣な評価だった。

勿論、面と向かって彼女にそう言う者はいない。ただ、時間が経つにしれて、そのような陰口が彼女の耳に入ってきたのである。

偶々トレーナー室にいた先生は苦笑し、

「まぁ、そういうこともあるでしょう。8月の阿寒湖特別を経てようやくオープンクラスに昇格したウマ娘が、菊花賞優勝。その結果を信じがたいと思う気持ちも分かります」

と話した。

「だから、得意の非根幹距離の長距離レース、有マ記念で実力を証明したい、ってことか」

「…はい」

トレーナーの問いに、強く短く返事をするマンハッタンカフェ。その瞳には鋼の意思が宿っているようである。

トレーナーと先生は顔を見合わせ微笑みあい、

「十分な理由です」

「俺も先生と同意見だ」

と胸を張って彼女に返す。

まぐれでないことを証明するためのレース。それが年末のグランプリ、有マ記念。

トレーナーの夢、マンハッタンカフェの夢を叶えるために、その日に向けて練習が始まったのだった。

 

『トゥインクルシリーズを通してターフを盛り上げて参りました、良きライバルテイエムオペラオーとメイショウドトウ、二人のウマ娘のラストランとなりました、今年の有マ記念。G1ウマ娘6人を含む、13人がエントリーをいたしました。中山競バ場は快晴、無風です』

そう実況が穏やかに会場に語り掛ける。

今回の有マ記念、注目を集めているのは、ラストランとなるテイエムオペラオーとメイショウドトウの2人だった。

「雲一つない快晴だよ、ドトウ!ボクらのラストランにふさわしい快晴だね!」

ターフの上にて両手を広げ、空を仰ぐテイエムオペラオー。

「そうですね、オペラオーさん」

それににこやかに応じるメイショウドトウ。

ラストランにも拘わらず、彼女たち2人はいつもの様子で変わりない。

今回、中山競バ場に訪れた観客は11万3000人。その多くの視線が2人に集まっているようだった。

「あの…」

マンハッタンカフェが2人に話しかける。

「マンハッタンカフェです…。よろしくお願いします…」

と挨拶すると

「あぁ、君が今年の菊花賞ウマ娘だね。ボクがテイエムオペラオーだ。ヨロシク!」

と言い、手を差し出すテイエムオペラオー。

どうも、という感じに握手をするマンハッタンカフェ。

「メイショウドトウです。よろしくお願いしますね」

テイエムオペラオーの後ろから、豊満な体でお辞儀をするメイショウドトウに、彼女は軽く会釈をして返した。

テレビでは何度も見た2人のトップスターを前にして

(なんだか…不思議な感じ)

と思わず感じるマンハッタンカフェ。

今日はこの2人と走る。一着を取り、まぐれでないことを証明する。

それがどうだ、実際に2人を目の前にすると、現実なのか脚元が不安になる彼女である。

しかし、

「平常心だよ、マンハッタンカフェ君」

「そうですよ~」

とそれを見抜いたようにやさしく語り掛ける2人。

ぽかんとしているうちにゲートインが始まり、いつの間にかマンハッタンカフェはゲートの中にいた。

(平常心…か)

とぼんやりと言葉を反芻するうちに、場が静まり返り、そして

『ゲート開いた!スタートを切りました!』

年末のグランプリ、有マ記念が始まった。

 

 

 

『トゥザシャイニングが行きました!トゥザシャイニングが先頭です!』

先頭に立ったウマ娘の名前を実況が叫ぶ。

第三コーナー手前の外回りから始まり、一周1667mのコースを回る有マ記念。

最初は平坦な道故だろうか、バ群は切れず、一塊となり、先頭を追っていく。

『そしてテイエムオペラオーとメイショウドトウはどうだ!?メイショウドトウが先に行っています!!』

注目のテイエムオペラオーは七番手に対して、メイショウドトウは五番手。そしてマンハッタンカフェはテイエムオペラオーと並走し、八番手につけている。

ホームストレッチに入り、きつい坂が始まる。しかしさすがのグランプリ。どのウマ娘も大きく離れることはなく、一定の距離を保っていた。

その様子は変わらず第一コーナーから第二コーナーへ入るウマ娘たち。

第二コーナーからは下り坂。スピードが出やすいそのコーナーだが、ターフを走るウマ娘は皆、ライン取りを大きく外すことはない。

(すごい…みんな綺麗に走ってる…)

彼女にとって初めてのグランプリ。周りにいるのはほとんどがシニア級のウマ娘たち。全員がほぼ全員、コーナー巧者。当然といえば当然のことだったが、マンハッタンカフェにはそれが新鮮に思えてならなかった。

『向こう正面の中間に入りました!バ群の差は縮まり、13人が固まっています!!!』

そしてマンハッタンカフェにとって、今までにない、先頭から最後尾までにそこまで差がないレースである。

第三コーナー入り実況が叫ぶ。

『トゥザシャイニング先頭!!後ろから二番手のアメリカンワンダが押している!前をつくように走っています!!!』

二番手が前をせっつくように走っていることもあり、バ群は一層密集の度を高くしている。

ここで前を見渡したマンハッタンカフェ。持ち前の読解力を発揮しルートを開こうとするが、

(…あれ……)

その考えを止めざるを得ない事実に直面する。

(ルートが…ない…)

どこに行ってもルートがない。どこを走ろうとしても真ん中を突っ切れる気配がない。このままではバ群が壁となり、中からは抜け出すことができない。それが導き出した答えだった。

(いちか、ばちか…)

そう考えた彼女は敢えてスピードを落とし、十一番手に順位を下げた。

メイショウドトウは三番手、テイエムオペラオーは七番手。

そして第四コーナーに差し掛かった。ゴールまであと500m。最後の勝負の舞台がすぐそこまで迫っていた。

 

(今日こそは一番になります!)

気合十分で先行策を取るメイショウドトウ。

(ボクのフィナーレは誰にも渡さない!)

後ろからいつ差すかを狙うテイエムオペラオー。

一生に一度のラストラン。彼女たちの走りも冴えわたり始める。

そんな刹那だった。臨機応変にアウトコースへ膨らんでいるウマ娘がいることにテイエムオペラオーが気づいた。

第四コーナーを回りながら大きく外差し準備をする黒い影。

(マンハッタンカフェ君…!)

その正体はすぐに分かった。順位をわざと下げて、外から大まくりしてきた菊花賞ウマ娘。

(やるね、でも!)

テイエムオペラオーは眼を輝かせる。

不世出の歌劇王に差し脚で勝つということが、どれほど無謀なことなのか、それを教えてやろうという満面の笑みを浮かべて。

『最後のストレートに差し掛かります!』

最後のホームストレッチ。11万6000人の観客の大歓声の勝負の舞台が、メイショウドトウの、テイエムオペラオーの、マンハッタンカフェの目の前に姿を現した。

 

 

『トゥザシャイニングが僅かに先頭!僅かに先頭!』

粘る先頭のウマ娘。しかし彼女はもう限界だった。

十分なリードを作れず、後続にバ群が固まった時点で逃げウマに勝機はなかった。すぐに後続が襲い掛かってくる。

『メイショウドトウ!!!そしてアメリカンワンダ!!!』

中を走り抜けてきたのはメイショウドトウ。

(ここで突き放します!!!)

抜け出し準備を整えた彼女は最後の力を振り絞りにかかる。

そして

『テイエムオペラオーが外からやってくる!マンハッタンカフェもいい脚で伸びてくる!』

マンハッタンカフェが先行し、その後ろにぴったりとマークしたテイエムオペラオー。

(オペラオーさん…!)

後ろに感じる鋭い視線。それはG1レース7勝のウマ娘の威厳に他ならない。

(ここで、負けたくない…)

マンハッタンカフェは歯を食いしばる。

ここで負けたら、どうなる。

ここで負けたらまぐれだと証明してしまう。

それはダメだ。どうしてダメなんだ。

思い浮かんだのは顔だった。トレーナーの、ユキノビジンの、タキオンの、そして先生の。

(負けたくない…)

額から汗が噴き出る。

中山の坂が心臓を壊しにかかる。

(負けたくない…!)

それでも彼女の足は止まらない。

一歩一歩を踏みしめて大跳びに急坂を駆け上がる。

(絶対に負けたくない…!!!)

そしてその思いが

「絶対に負けたくないんだぁぁぁぁあぁ!!!!!!」

叫びとなってマンハッタンカフェの口から天に吐き出された。

 

 

『さぁテイエムは今日は来ないのか!?テイエムは今日は来ないのか!?』

テイエムオペラオーは必死に黒い影を追っている。

どういうことだ、と動揺を抱え、目を見開き、必死に前のウマ娘の影を差さんとする。

おかしい、絶対におかしい、全身全霊の末脚がなぜ伸びない。得意の差し脚が直線でなぜ生かせない。

(どうして差が縮まらない!!!!!)

心の中で叫ぶテイエムオペラオー。

しかし黒い影がどんどんと前を行く。まるで坂道などないかのように。

『200を切った!!!200を切った!!!』

張り裂ける心臓を抱えて走るマンハッタンカフェ。胃が痛い、肺が痛い、喉が痛い、そして何より足が痛い。

それでも彼女の足は止まらない。

『外側からマンハッタン!!!外側からマンハッタン!!!』

肉体の痛みなど超越するように彼女は走る。

体に走る痛みなど我慢できる。ただ心の痛みだけはもう我慢できない。

『テイエムは来ているが届きそうもない!!!』

「くそぉ!!!ボクだってぇ!!!!!」

必死に追いすがるテイエムオペラオー。最後のレース。最後の優勝。絶対に譲れない。このレースだけは絶対に譲らない。

そんな気持ちとは裏腹に、先頭に立ったマンハッタンカフェとの差は縮まらない。

「このっ!!くっそぉぉぉおおおおおおお!!!!!」

眼を剥いてテイエムオペラオーは叫んだ。

歌劇王の威厳を投げ捨て、泥臭く、なりふり構わない本性を露わにしてもそれは覆らなかった。

『勝ったのはマンハッタンカフェーーーーッ!!!!!』

歌劇王の目の前を、黒い摩天楼の名を持つウマ娘が駆けていく。

『世代交代を証明しました!!!マンハッタンカフェです!!!』

マンハッタンカフェはターフ掛け抜け、観客席に向かって左手を天高く掲げたのだった。

 

 

 

レースが終わり、ウィニングライブに入る前のこと。

「負けたなぁ」

「そうですね…」

舞台袖で、テイエムオペラオーとメイショウドトウは出番を待っていた。

ウィナーズライブが始まる前に、2人のラストライブが準備されており、会場までのつかの間である。

「秋の天皇賞でデジタル君に、ジャパンカップでアマゾンポシェット君に、そして今日はマンハッタンカフェ君に」

「お疲れさまでした、オペラオーさん」

笑いかけてねぎらいの言葉を述べるメイショウドトウ。

「あ」

と思い出したように目を見開き、

「大事な敗北を言い忘れていた」

とテイエムオペラオーはメイショウドトウの方を向いた。

「え?」

と戸惑うメイショウドトウに、テイエムオペラオーは笑いかけ、

「宝塚記念で、キミに」

と指を差す。

ふふっ、とメイショウドトウは嬉しそうに笑い、テイエムオペラオーも合わせるように笑い声をあげた。

 

「いいレースだったな、どのレースも」

「そうですね」

肩を寄せ合って二人は座り込む。

「もっと走りたかったな」

「そうですね」

すべてのレースを懐かしむように、二人は言葉をかみしめる。

「楽しかったなぁ、ドトウ…」

「はい…オペラオーさん…」

そう答えるメイショウドトウの瞳には大粒の涙があふれていた。

「泣くなよ、キミ」

というテイエムオペラオーだったが、

「オペラオーさんだって」

メイショウドトウが指摘する通り、テイエムオペラオーの声も鼻声で、顔は涙に溢れていた。

手を回したのはどちらからだろうか、それはわからなかった。

二人は抱き合っていつの間にか、お互いの涙をそれぞれの肩に流れ落としていた。

時代が終わる。新しい時代が始まる。二人の信念が、思い出が、感情が涙となり零れ落ちる。

もうすぐ、最後のライブの幕開けが、すぐそこまで迫っていた。

 

 

 

二人のラストライブが終わり、廊下を歩いているときのこと。

「マンハッタンカフェ」

テイエムオペラオーとメイショウドトウはマンハッタンカフェとすれ違った。

これからマンハッタンカフェのウィニングライブなのだった。

二人は手を差しだすと

「「優勝、おめでとう」ございます」

と声を合わせて彼女を祝福した。

「ありがとう…ございます」

うつむき加減に照れた様子のマンハッタンカフェ。

その様子を微笑みながら二人は言葉を続ける。

「年末のセンターの座を射止めるのはすべてのウマ娘の憧れだ」

「はい」

「私たちの代わりに、これからも夢の扉を開き続けてくださいね」

「はい」

一語一語をかみしめるように返事をするマンハッタンカフェに、二人は微笑みかけながら頷く。まるで子供を見守る親のように。

それもつかの間

「ボクらに代わって、君の王朝を作るんだぞッ!」

と指をさし、ポーズを決めるテイエムオペラオー。

ぽかん、とするマンハッタンカフェを見て、テイエムオペラオーとメイショウドトウはいたずらっぽく笑った。

「じゃ、行きましょうか」

「そうだねッ。ボクらの次の世界へ行こうか!」

そう言って二人は歩きだす。

マンハッタンカフェが来た方向へ歩き出す。

二人は振り返らなかった。そんな力強い後姿を、マンハッタンカフェはいつまでも見ていた。

 

 

 

ライブが終わって控室に帰ってきたマンハッタンカフェを出迎えたのは、トレーナーだった。

「お疲れ、カフェ」

そう微笑んで答えるトレーナー。

「いいレースだったな。ライブもよかったぞ。グランプリ優勝、おめでとう」

「ありがとうございます」

やさしい言葉、やさしい笑み。ただ妙な違和感が部屋に漂っていることに彼女は気づいた。

何かが足りない。何かが居ない。そしてその答えは、すぐに彼女の脳裏に浮かぶ。

「あの…先生は」

そう、今日、トレーナーとレース観戦に来たはずの先生の姿がなかった。

この部屋にいるのはトレーナーだけである。

「先生は」

そう言いかけ、トレーナーは口をつぐんだ。

しかし首を振り、重い口調で、言葉をつむぐ

「先生は病院だ。…先ほど、病院に運ばれた」

「え…?」

時間は、どの世界も一律に流れ出す。それは川の流れのように、緩やかに、そして残酷に。



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9.日経賞

千葉県船橋市。中山競バ場。

年末最後の大レース、有マ記念を終え、センターの座を手に入れたマンハッタンカフェ。

その栄光とは裏腹に、彼女の顔は曇天色の鈍い空のごとく、ひどく沈んだものだった。夕暮れなずむ、街の景色とは裏腹に。師走の空に広がる、穏やかな茜色とは対照的に。

トレーナーの車に乗せられ、向かうのは同市内の某総合病院。そこに緊急搬送させられた、ある年老いた男性のためだけに車は走る。夕日の光が少しずつ消え失せ、空の色が静かに濃い藍色に染まっていく。夜の香りを漂わせたその景色が、マンハッタンカフェの瞳に移り、琥珀色の瞳を枯野色に変えようとしているようだった。

 

 

 

病院についた二人は足早に総合案内に向かい、彼の居場所を尋ねた。

緊急外来に運ばれた彼は、現在治療中との旨を受け、緊急外来室のすぐそばの待合椅子に2人は腰かける。

消毒液の匂いがする建物の中で、2人はただ黙って待ち続けていた。

ロビーに人の姿が疎らになり、総合案内がブラインドを閉める時間帯となっても、2人はそこを動こうとしなかった。

廊下の電気が消え始める。人の気配が薄れていく。

そんな最中だった。

「あの…○○さんの、ご家族の方ですか?」

四角い眼鏡をかけた医師がそう声をかけた。

「…いえ、知り合いの者です」

家族、という言葉に勢いで同意しようとしたトレーナーだったが、寸手のところでそれを飲み込んだ。

「あの、容体はどうなんでしょう」

と問うトレーナーに対して

「ひとまず容体は落ち着いてはいますが…」

と医師が漏らした言葉に、2人は安堵の息を吐いた。しかし

「まだ小康状態です。…このまま入院されることを強くお勧めします」

と医師は続ける。

「分かりました。お願いします」

とトレーナーは言い、自分の身分を説明する。

状況を理解した医師は、トレーナーをひとまずの身元保証人として認め、入院の手続きと現在の経過を説明するため、診療室に彼を招いた。

「カフェ、少し待っていてくれないか?」

とトレーナーに言われ

「…はい」

と彼女は短く返事をする。

一人残された彼女の足に、鋭い痛みが広がりつつあることに、ようやく彼女自身は気づき始めていた。

 

 

 

医師による説明と入院の手続きを経て、それが全て終わるころにはすっかり夜遅くとなっていた。

「帰ろう」

とトレーナーに促され、マンハッタンカフェは黙って彼の車に乗り込んだ。

首都高速に乗り、府中市までの道を走る、赤いエクストレイル。

トレーナーは何も話さず、マンハッタンカフェも何も言わなかった。

40分ほど走るともう府中市にたどり着く。

まっすぐにトレセン学園 美穂寮に向かうと思いきや、車はコンビニに一旦入った。

ギアをパーキングに入れ、トレーナーはハンドルにもたれかかるようにうつむく。

その様子を黙って見ているマンハッタンカフェ。

どのくらいの時間がたったのだろう、車内に沈黙がひたすら流れ、そして

「悪性の、腫瘍だって」

ぽつり、とトレーナーが、力ない声で言葉を吐き出した。

「随分前から、あったんだって。医者が言ってた」

マンハッタンカフェは何も話さずその言葉を聞いていた。

何も話せず、その言葉を聞くしかなかった。

車内にすすり泣く若い男の声がする。エンジンの音だけが車内に木霊する。

「先生は…」

マンハッタンカフェが問いかける。

「先生は…大丈夫なん、…ですよね……?」

低い声で彼女は言葉を紡ぐ。縋るように、希望をたぐりよせるように。

しばらく沈黙が続いた。トレーナーは何も言えずうつむいたままだった。

だが枯れいる声で、絞り出したように、彼は言葉を遂に口に出す。

「そんなに、先は長くないって」

短い言葉。希望の光を打ち消す言葉。それが語られたとき、彼は車のハンドルを思いっきり叩いた。

静かな夜闇に響いたのは、絶望の足音だった。

 

 

 

翌日。

マンハッタンカフェを連れて、トレーナーは病院に向かう。

病人は先生だけではない。彼の教え子も重大な傷を負っていることに彼は気づいていた。

「裂傷がひどいですね、しばらくは安静になさってください」

そう医師に告げられたマンハッタンカフェ。

有マ記念での猛々しい走りと、華やかな大勝利の裏で、彼女の足もかなりの痛手を被っていた。

「通院いただくのも勿論お勧めしますが、自宅での療養も大切です。薬を出しますから、必ず毎日ケアを続けてください」

医師からそう告げられ、処方箋をもらい、薬局に向かう。

薬をもらって2人は車に乗り込み、美穂寮まで帰ろうとした。

「あの…」

と車に乗り込む直前、マンハッタンカフェが問いかける。

「どうした?」

と問うトレーナーに

「先生の所には…今日は行かないんですか?」

と疑問をぶつける彼女。

力なくトレーナーは笑い

「勿論行くさ」

と答えた。

マンハッタンカフェは視線をそらしがちに話しかける。

「あの…」

「ん?」

「私も…連れて行ってもらえませんか……?」

その言葉に頭を少し振ると

「…わかったよ」

とトレーナーは返したのだった。

 

 

病院に行ったところで、2人に出来ることは何もなかった。

面会謝絶の上で治療が続けられており、ただ医師にやんわりと帰されるのが関の山だった。

何もすることができないまま、医師に追い返されるように病院を出た2人は、力なく車に乗り込む。

そのまま府中市に戻るかと思われたが

「ちょっと、時間をくれないか、カフェ」

とトレーナーが話しかけてきた。

理由が分からないまま、彼女が車に揺られ、ついたのは不動産屋だった。

「先生の容体が落ち着くまでの間、トレーナー寮を出たいと思う」

そうトレーナーは彼女に告げた。

「正直、短期契約のアパートって高いんだけどな…。やれることはやりたいんだ」

不動産屋の前でそう話す彼に

「あの…」

とマンハッタンカフェが話しかける。

「どうした?」

「その……」

少し迷っている様子のマンハッタンカフェだったが

「私も…ご一緒したいです……」

意を決したように、しかしどこかためらいがちな様子で、彼女はそう告げた。

トレーナーは少し驚いたように目を見開いたが、彼女の頭に手を乗せて

「トレセン学園の許可が得られたらな」

と、やさしく告げたのだった。

 

 

 

2月上旬。夜。東京都某所。

両手にスーパーの袋を手に下げ、マンションに帰ってきた男がいる。マンハッタンカフェのトレーナーである。

腫瘍を抱え、寿命が短い自分の恩師を東京都内の病院に転院させて数日。彼の看病のためにトレーナー寮を出て病院に近いマンションを借りたトレーナーは、ようやくではあるがこの暮らしにも慣れてきたところである。

マンションの階段を使い、自分の部屋に帰り、チャイムを鳴らす。

するとドアが開き、黒鹿色の髪の毛のウマ娘が顔を覗かせた。

「…おかえりなさい」

「ただいま」

ウマ娘、マンハッタンカフェはチェーンロックを解除すると、彼を部屋に入れる。

その部屋はお世辞にも広くない。1DKの小さな部屋。2人で暮らすには少し狭い、そんな間取り。マンハッタンカフェに個室をあてがった分、トレーナーの寝床はいつもダイニングのソファだったが、それにも特に不満はなかった。

『私も…ご一緒したいです…』

そうマンハッタンカフェが言った、つまりトレーナーと一緒に暮らしたいという意思を示したのはしばらく前のこと。彼女の意思はかなり固く、それ故にトレセン学園に許可を得るために駿川たづなと面談したのだが

「駄目です」

と困ったような顔で断られたのも彼の記憶に新しい。

「特別な理由なく美穂寮を出ることは許可できません」

と言われ、事情を説明し、どうにかこうにか許可を貰ったが、最後までその表情は晴れることはなかった。

菊花賞と有マ記念を勝ったウマ娘の管理を学園外に出すのは、かなりのリスクを背負うというこという学園側の事情もあったためだ。それでも最後には折れてくれたトレセン学園には感謝しているトレーナーである。

「「いただきます」」

トレーナーとマンハッタンカフェが一緒にご飯を食べるのも、もう日課となっていた。

特に食事中、お互い何も言わないが、決して仲が悪いわけではない。マンハッタンカフェはそんなにしゃべる方ではなかったし、トレーナーも彼女のペースに合わせればいいと思っていたからだ。

お互い食事を済ませると、2人で皿を洗い、じゃんけんをして風呂の入る順番を決める。そのあとマンハッタンカフェの足の自宅治療を行い、そのあとはそれぞれ床に就く。

「…おやすみ、なさい」

「うん、おやすみ、カフェ」

物静かな夜。物静かな部屋の雰囲気。

そうして回っていく毎日の中で、次のレースへの日程も近づいてきていた。

 

 

 

「中々よくなりませんね、足」

そう医者に言われ、思わずトレーナーは体を固くする。

マンハッタンカフェの足は弱い。医者曰く「そういう脚質」らしいが、足の裏の皮が薄く、爪が柔らかく、傷みやすい足を彼女は抱えている。

有マ記念のその日から、彼女の足の様子は非常に状態の悪いものとなっていた。

阿寒湖特別の後も、菊花賞の後も、ある程度の足の痛みはあったが、それでもある程度は改善されていたにも関わらず、今回は回復が非常に遅かった。

「次のレースはいつを予定していますか?」

「…3月下旬の日経賞、です」

そう答えるマンハッタンカフェに

「…あまり無理をしないように。今後も経過を見ていきますが、ダメだと判断したらレースは回避してください」

と険しい顔をして答える医師。

「…はい」

とうつむき加減に話すマンハッタンカフェに、トレーナーはやさしく彼女の肩に手を置いた。

 

診療が終わり、家路へ向かう途中のこと。

「…先生、次のレースは見てくれるでしょうか…」

とマンハッタンカフェが車の中でつぶやいた。

診療の前に先生のいる病院に顔を出した2人。短い面会の中で、先生の顔は痩せこけ、病人特有の匂いが彼の周りからは漂っていた。そんな中で、

「すみません。もうレースを見に行くことは出来ないようです」

と先生が申し訳なさそうに語ったのを、2人はただ黙って聞くしかなかった。

「テレビがあるからな。ちゃんと見てくれるよ」

とトレーナーは言い、

「そう、ですよね…」

とマンハッタンカフェは、うつむき加減に答えた。

「だから、足、ちゃんと治そう」

「…はい」

短い会話。それで十分な会話。

2人の間には特に壁などはなかった。

しかしマンハッタンカフェの胸中には、妙な重苦しさが残り続けていた。

 

 

 

 

3月下旬。土曜日。

中山競バ場、第11レース。芝2500m、日経賞。

バ場は良、天気は小雨。

エントリーしたウマ娘は8人。G2レースにも拘わらず、異例の少人数のレースとなった。

それもそのはずである。グランプリウマ娘であるマンハッタンカフェがエントリーしたからだ。

中山競バ場で芝2500mと言えば、彼女が3ヶ月前に優勝した有マ記念と同じコースなのである。彼女がエントリーすると決まったとたん、他のウマ娘の回避が相次いだ。そしてレースが始まる前からマンハッタンカフェが優勝すると、誰もが思っていた。

 

 

『さぁ、レースが始まりました!』

8人しかいないレースが始まった。第三コーナーを固まって抜けていくウマ娘たち。

『先頭はサイホウライデン!マンハッタンカフェは外につけています!』

いつものように後方から様子を伺うマンハッタンカフェ。

第四コーナーを抜け、ホームストレッチにバ群が向かっていく。

歓声が上がる。

「マンハッタンカフェー!!!」

「行けー!グランプリウマ娘ー!!!」

いつもと違ったのはマンハッタンカフェへの声援ばかりなことだ。

菊花賞・有マ記念を経て、彼女への注目は、すでにスターウマ娘のそれへと変わっていた。

(あれ…)

その声援に妙な違和感を感じるマンハッタンカフェ。

しかし違和感の正体に気づけぬまま、ホームストレッチを駆けていく。

『8人が第一コーナーへと入っていきます!淡々とした流れです!』

坂を上り、8人の距離はそんなに離れていない。

そして向こう正面に入った。マンハッタンカフェは現在五番手。バ群の外側を通っている。

ある違和感にトレーナーは気づく。

いつもなら内側から眺めるはずのマンハッタンカフェがずっと外を通っている。良バ場とはいえ第11レースだ。内側は荒れている。足に負担が掛からないバ場を選んでいるのか、と思っているうちに、ウマ娘たちは第三コーナーに入り始めた。

『第三コーナーのカーブ!前が固まってきました!』

実況の言う通り、前方が広がるように、4人のウマ娘が先頭争いをし始めている。

それにつられるように、他のウマ娘たちもペースを上げ始めた。

(えっと…)

マンハッタンカフェの思考は全くまとまっていなかった。

皆が先頭争いをしようとしている中で、ずるずると外を回ってしまいそして

『八人が横に広がった態勢で最後の直線コースに向かいました!』

大外を走って直線コースを迎えた。

『先頭はどうか!?ポジティブバイオ!チョウハン!タップダンスシュー!』

ゴール板を目指して走るウマ娘たち。

『そしてちょっと遅れているぞ!マンハッタンカフェ!マンハッタンカフェ遅れている!遅れている!!!』

マンハッタンカフェ、現在六番手。

大歓声の上がるホームストレッチを必死に走る彼女。

しかし思ったように足が伸びない。

(どうして…)

と思ったのもつかの間、違和感の正体に気づく。

この観客の中には、先生はいない。大声援の中に、先生の存在はない。

そのことに気づいた瞬間、心臓が揺れる。目がかすむ。足の痛みが急速に蘇り始める。

そして

『先頭はどうだ!?ポジティブバイオ!チョウハン!タップダンスシュー!』

必死に足を動かすマンハッタンカフェだが、すでに時が遅すぎた。

『3人並んでゴールイン!!!』

目の前を他のウマ娘が駆けていく。失望と困惑の声が会場中から起こる。

『マンハッタンカフェ敗れました!マンハッタンカフェ敗れました!!!』

実況の声が彼女の心に刺さる。

小雨が嘲笑うかのように彼女に降り注ぐ。

マンハッタンカフェは六着で日経賞を終えた。

 

 

 

控室にて。

「お疲れ」

いつもと変わらない様子のトレーナーに、マンハッタンカフェは視線を逸らすように頷いた。

トレーナーは椅子に彼女を座らせると、靴を脱がせて包帯を取り足の状態を見る。

やはりその足の状態は芳しくなかった。

「ごめんな。少し痛いかもしれないけど、ここで薬塗るから」

「…はい」

手慣れた様子で湯を張り、床に膝まずいて血染めの足をやさしく洗うトレーナー。

その姿を何も言わず、彼女はじっと見ていた。

そんな中

「つめた…」

トレーナーの頬に冷たい水滴が落ちる。

ふと上を見上げると、その水滴の泉が彼を見下ろしていた。

「カフェ…」

そこにあったのは琥珀色の瞳から零れる大粒の涙。

「…トレーナー、さん…すみ、すみません…すみません……」

そして必死に取り繕うとする彼女の姿。

トレーナーの瞳に映ったのは小さな弱弱しいウマ娘。

とても菊花賞を走ったとは思えない、有マ記念で優勝したとは思えない、そんなウマ娘の姿。

まるで、1勝クラスのアザレア賞ですらまともになれなかったときの、と彼は思った瞬間だった。彼の両手が、マンハッタンカフェを包み込んだのは。

「カフェ……つらいよな…」

何が辛いのか。足の痛みなのか。心の痛みなのか。

だがトレーナーも辛いんだと、その時彼女は思う。なぜなら彼も泣いていたから。

マンハッタンカフェも彼の背中に手を回す。そして溢れた涙を止めることなくそのまま流し続ける。

ウマ娘とトレーナーはこの時、同じ気持ちだった。同じ感情の衝動を抱えていた。

世界を変える雫が、2人の瞳から流れ続けていた。

「なぁ、カフェ…。先生はもうここにはいないんだ…」

「はい……」

「でも先生は、お前のレースを見てるんだ……」

「はい……」

「このままだと、先生を心配させたまま、ひとりぼっちで逝かせてしまうんだ」

その言葉には言葉が返せない。ただ涙を流すだけのマンハッタンカフェ。

トレーナーは抱き留めた彼女の手をはがし、彼女の両肩を握った。

「俺たちだけで、勝てるって!先生を安心させてやるんだ!!!」

彼女の目の前には大人の男とは思えない、涙と鼻水に溢れたぐしゃぐしゃの顔のトレーナーの姿。

それを見て、彼女の瞳が緩む。透明な真珠のような涙があふれ出る。

『困難は、分け合いましょう』

マンハッタンカフェの頭の中に、先生から教えられた言葉が甦る。

 

運命の春の天皇賞が、もうすぐそこまで迫っていた。

 



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10.天皇賞(春)

3月下旬。夕方。日経賞が終わった次の日。日曜日。

トレーナーのマンションにて、マンハッタンカフェとトレーナー、2人だけの作戦会議が始まった。

リビングのソファに座らずトレーナーは胡坐をかき、マンハッタンカフェは膝を崩して、なぜかお互い床に座って向かい合っている。

「次の天皇賞まであと1ヶ月だ」

「はい」

「足の調子はどうだ?」

「思ったより…悪くありません」

不幸中の幸いか、日経賞での惨敗を喫したマンハッタンカフェだが、却って無理な負担が足に掛っていないようだった。

それに頷くと

「念のため、明日は医者に行くぞ」

とトレーナーは念押しした。

 

それに素直に頷くマンハッタンカフェ。その瞳の色は一年前とは全く違う光を帯びていた。

「カフェ、残りの1ヶ月、どうしたらいいだろう」

「えっと…」

トレーナーの言葉に少し戸惑ったマンハッタンカフェ。

少し考えた後、

「…練習を、もっとしたほうが…いい気がします」

と言葉を吐き出した。

「確かにそうなんだが、俺はそうは思わない。というか、無理をすべきでない、と思う」

とトレーナーは自分の意見を語りだす。

「まずは、足が万全にならないとお前の力が発揮できないと思うんだ。治療をつづけながら、足を万全にすることが第一じゃないかなって…」

少し自信なさげに頭をかきながら話すトレーナー。

目の前の若いトレーナーのどこか自信の足らない言葉に、妙な安心感を覚えてしまうマンハッタンカフェである。

 

「…いいと、思います」

すこし微笑みながら彼女はそう答える。

「そうか!」

「でも」

でも、という言葉に一瞬身を固くしたトレーナー。

そんな彼の態度を一切に気にする素振りなく

「でも、練習は全くしないんですか…?」

とマンハッタンカフェは問いかけた。

「あぁ…」

と少し安心したようにトレーナーはため息を吐き、

「練習は勿論するぞ。ただ、お前にも協力してもらわないと、出来ないトレーニングだがな」

とトレーナーは答えたのだった。

 

翌日。月曜日。

トレセン学園に登校した彼女が真っ先にしたこと、それは、ユキノビジンとアグネスタキオンに疑似レースを協力してもらえるようお願いしに回ることだった。

「お前のスタミナや脚質を考えると、あと1ヶ月でハードな練習をすることはないと思うんだ。ただ、レースの勘だけは磨いておいた方がいいと思う。だから、疑似レースができる相手をまた探しておいて欲しい」

そうトレーナーは前日に彼女に告げたが、その方針を守るためである。

ユキノビジンは少し涙目になって、協力に賛成してくれた。アグネスタキオンも、いつものように鬱陶しい絡み方をしながらも、最終的には協力すると言ってくれた。ただ彼女のトレーナーの背が縮んでおり、ゴブリンとグレイ型宇宙人を足して2で割ったような姿になっていたのが、非常に気にかかったマンハッタンカフェだったが、敢えて何も言わず彼女はアグネスタキオンの部屋を去った。

これで菊花賞の時と同じメンツがそろった。しかし、マンハッタンカフェの胸中はまだこれで十分とは考えていなかった。

「あと…もう一人…」

もう一人。彼女には心当たりがあった。少しだけ、雨の日に話したことのある人。結露した窓に絵をかいて遊んだだけの人。

そんな人が協力してくれるのかは、さっぱり見当がつかなかった。

しかし

「やれるだけ…やってみよう…」

そう思い、最後の一人を尋ねる決心をするマンハッタンカフェだった。

最初で最後の、春の天皇賞に向けて、最善手を打つためには、四の五の言ってられないという心を抱えて。

 

次の日の夕刻。

医者からは、マンハッタンカフェの足が快方に向かっていると判断され、安堵のため息を漏らした2人。

いざ練習に取り組むため、マンハッタンカフェと彼女の協力に応じて集まったウマ娘を見て、トレーナーは思わず絶句していた。

「よろしくおねがいします!がんばっべ!!!」

鼻息荒くそう言うのは、桜花賞、オークスともに2位のウマ娘、ユキノビジン。

「よろしく頼むよ」

手をふらふらと振り言うのは、今年の皐月賞ウマ娘、アグネスタキオン。

「よ、よろしくおねがいしますっ!」

トレーナーの目の前にいたのは、極限までそぎ落とした体をした黒いウマ娘。

それは、王者、メジロマックイーンの天皇賞三連覇を阻んだ、漆黒のステイヤー。

ヒールか、ヒーローか。悪魔か、奇跡か。

そのウマ娘の名は

「ラ、ライスシャワー……」

あまりの大物の登場に腰を抜かしそうになるトレーナーである。

「カ、カフェさん…?」

眼を白黒させたトレーナーがマンハッタンカフェを呼んだ。

「何でしょう…」

「お前、ライスシャワーさんと友達だったの…?」

「友達…というか、雨の日に一緒に絵を描いた、というか…」

ね、とマンハッタンカフェが、ライスシャワーの方を振り向くと、彼女も照れくさそうに頷いた。

「はぁ!?」

と、言っている意味が分からず困惑の声を出すトレーナーに、眉をしかめたマンハッタンカフェは

「…皆さん、練習、始めましょうか」

と、トレーナーを無視してターフに向かうのだった。

「おいちょっと、ちょっと待って!!!」

慌ててその後を追うトレーナー。

4月の暖かい日の光が、練習場に注いでいた。

 

 

 

4月下旬。日曜日。

京都競バ場、第11レース。芝3200m、天皇賞(春)。

バ場は良、天気は曇。

運命のそのレースがついに幕をあげようとしていた。

 

ターフの上にて佇むマンハッタンカフェ。

(菊花賞の時以来だな…)

と思いを巡らしているマンハッタンカフェに

「よぉ!」

と威勢よく話しかけてきたウマ娘がいる。ダービーウマ娘のアマゾンポシェットだ。

「アマゾンポシェットさん、今日はよろしくお願いします…」

と頭を下げるマンハッタンカフェに

「おーおー!!よろしくな!!!」

と元気いっぱいに話す彼女。

曇天の天候とは正反対の晴天のような笑みを浮かべている。

「そういや、菊花賞以来だよな~!お前と会うの!!!」

「はい」

「あんときはお前に負けたんだよなー、アタシ」

「あ」

何かを思い出したように、マンハッタンカフェの口が止まった。

それを見て満足そうに口角を上げたアマゾンポシェット。そして

「今日は負けない」

と言い、彼女は手を振って去っていった。

マンハッタンカフェはようやく気付いた。アマゾンポシェットも半年前の敗北を注ぐため、この舞台に降り立ったのだと。

誰もが勝ちたいと思うこの舞台。そんな春の京都にファンファーレが鳴り響いた。

 

 

 

『津波のような大歓声が京都競バ場に響きました。例年より今年の天皇賞は盛り上がりを見せているように思えます。雨は降らずバ場は良の発表。最高の舞台が整いました。もうすぐ、最も強いウマ娘を決める天皇賞のスタートです』

ゲートインしたウマ娘たち。その中にマンハッタンカフェもいる。

少し肌寒いくらいの気温。湿度の高い空気に混じる、張り詰めた糸のような緊張感。

静けさを伴う高揚感を胸に秘め

『さぁ、スタートを切りました!』

マンハッタンカフェの勝負の舞台が幕を切って降ろされた。

 

 

マンハッタンカフェはこのレース、注目を集めているウマ娘である。

菊花賞・有マ記念で優勝したウマ娘。このレースでは、ダービーウマ娘のアマゾンポシェット、菊花賞ウマ娘のハネダオーバーロードと並んで三強と言われている。

だから得意戦法も皆が知っている。差しウマであると。

しかし今日の彼女を見て、参加しているウマ娘が、会場中が、テレビの前の視聴者が全員度肝を抜かれた。

『好ダッシュを決めたのは、なんとマンハッタンカフェです!』

まさかのマンハッタンカフェ先頭。

(は…!?)

(ちょ、ちょっと待って…)

『これを制してタマモブライアンとアドバイアロンドが追い抜きます!』

慌てた2人のウマ娘が彼女を追い抜き、すぐに前につける。

2人のポジションは逃げ。いきなりポジションを取られたとなっては最初から展開が滅茶苦茶になる。それを恐れ、ペースを上げた。

『タマモブライアン一番手、アドバイアロンド二番手!それからマンハッタンカフェは三番手です!』

マンハッタンカフェは三番手。参加したウマ娘は11人とはいえ、依然としてその位置は先行策の位置である。

 

そうこうしているうちに、第三コーナー。一週目の坂に差し掛かった。

『一週目の第三コーナーから第四コーナーへ各ウマ娘抜けていきます!澱みのない展開で坂を下ってまいりましたが、マンハッタンカフェが予想以上に早め早めにいっている!』

前をせっつくようにマンハッタンカフェはペースをあげる。これではまるで先行ウマのポジションだ。

それを後ろから2人のウマ娘がじっくりと追っていた。

『その後ろにアマゾンポシェット!さらにその後ろにハネダオーバーロードと続いています!』

(面白れぇ!面白れぇな、アイツ!!!)

尻尾を振りながらアマゾンポシェットが楽しそうに笑う。

普段差しウマをやっているウマ娘が、3200mの長丁場で突然の先行策。その事実にテンションが上がり始めた彼女である。

(アタシもいっちょいくか…!)

ホームストレッチの大声援に迎えられ、スピードを出そうとしたその時だった。

 

突然、彼女の頭の中に水をかぶせたような、冷たさが走る。

(あ…?)

天性の野生の勘。それが彼女を救った。

ここで加速していけば、おそらく彼女と競ってしまう。体力のある彼女とレース序盤なのに先頭争い。

それはいわゆる、掛かりだ。

(まさか、アイツ…)

そう思ったのもつかの間、他のウマ娘が一人、アマゾンポシェットを、マンハッタンカフェを追い抜いて行った。

(やっぱりそうだ…、掛かりを誘発させようとしてやがる)

笑みを沈め、マンハッタンカフェの後ろにぴったりとつけたアマゾンポシェット。

(これはダメだ。アイツ、予想以上の曲者だ)

急速にアマゾンポシェットの頭が冷えていく。

彼女への認識を見直したアマゾンポシェットに、油断の気持ちはすっかり無くなっていた。

 

(何だ、気づいたのか…)

アマゾンポシェットの後ろから虎視眈々とマークするのは、2年連続で春の天皇賞三着のハネダオーバーロード。

アマゾンポシェットにここで掛かって貰えれば後半楽なものを、と思い、彼女はアマゾンポシェットと並行するように足を進めた。

バ群がまとまってホームストレッチを抜けていく。

先頭から後方まで、そこまでバ群の切れがない状態である。

『四番手にマンハッタンカフェ!五番手にハネダオーバーロード!六番手にアマゾンポシェット!三強がものの見事に中団を形成する体制となりました!!!さぁ、三強はいつ、どのような形で、動いていく展開になるのでしょうか!?』

実況が叫ぶ。まだレースは始まったばかりだった。

 

第一コーナーから第二コーナーへ進むウマ娘たち。

バ群は切れていないようにも見えるが、中団を引っ張るマンハッタンカフェに押されてか、先団のウマ娘たちは若干の焦りを生んでいるようでもあった。

そんな最中である。

(仕掛けるか…)

第二コーナーを抜け、向こう正面に入る瞬間、ハネダオーバーロードが加速した。マンハッタンカフェの外側につけ、内側へプレッシャーをかけるように並走する

内へ内へと走らされるマンハッタンカフェ。

差しウマにとって外を走るのが常道である。内からでは他のウマ娘が壁となり差しづらくなるのは、誰もが知っていることである。

そして直線の段階でポジションを決めてしまえば、スピードが落ちるコーナーでどうにかするのは難しい。あからさまにマンハッタンカフェは、目の前に壁を作らされるポジションを取らざるを得ない状況となっていた。

(へぇ…やるじゃん、センパイ)

そして、それを後ろから眺めるアマゾンポシェット。

『さぁウマ娘たちがついに第三コーナーに向かいます!』

そんな展開は変わることなく、第三コーナーへと差し掛かった。ここからは坂である。

『内々を通りましてマンハッタンカフェ!その外にハネダオーバーロード!そしてその後ろにアマゾンポシェット!ウマ娘たちの息遣いが、鼓動が聞こえてくるようであります!!!いよいよ坂の頂上に向かいます!!!』

依然として状況は変わらない。

マンハッタンカフェは内側を走らされ、ただのペースメーカーにされているように皆には見えていた。

(もういいだろう…)

第四コーナーに入り、下り坂になって仕掛けたのはハネダオーバーロード。

マンハッタンカフェを遂に抜き、外側から先団目指して加速する。

『ゴールまで800m!ハネダオーバーロード三番手に上がってきた!』

それを見たマンハッタンカフェも加速する。そしてそれに続くアマゾンポシェット。

いつ仕掛けるのか、とアマゾンポシェットがマンハッタンカフェを見守るが、いつまでもマンハッタンカフェは内々を走ろうとしている。

(おいおい、そんな位置取りで…!)

と思ったのもつかの間だった。

第四コーナー出口、直線のすぐ手前。

アマゾンポシェットは自分の目を疑った。

マンハッタンカフェの目の前のウマ娘が加速する。彼女の目の前に道が開ける。

(嘘だろ、オイ!)

アマゾンポシェットも同じルートを通ろうとするが、それは出来なかった。

その道はすぐにウマ娘たちによって塞がり、ウマ娘の壁が出来上がる態勢になるのがすぐに分かったからだ。

(くっそ!マジかよ!!!)

垂れウマだけは回避しなくては。

とんでもないものを目の当たりにして、臨機応変に大外から回り込むことにしたアマゾンポシェット。

この時点で大きなロスが出来ていることに、彼女は否応なしに気づかされていた。

 

 

 

「マンハッタンカフェさんの差し脚って、ちょっと変わってますね」

練習中のこと。ライスシャワーにそう話しかけられたマンハッタンカフェは、大きな瞳をしばたたかせた。

「そう、ですか…?」

と頭をひねる彼女に

「ち、違うんです!ライスとは違うなって言いたいんです!」

と慌てて顔の前で手を振るライスシャワー。

「ライスの場合は、誰かについていく、って脚なんです。多分グラスワンダーさんもそんな感じ。でもマンハッタンカフェさんって、そうじゃない…ですよね?」

「はい…」

確かにその通りだった。それには自覚がある。

自分の脚は、というより、目が脚の代わり。誰が下がってきて、誰が伸びていくか、なんとなくわかる。それで真ん中の通れる道が見えて、そこに突っ込んでいく。そんな感じ。そう彼女は自分の走りを振り返る。

いわゆるそれは大局観ともいわれる技術だったが、彼女はそれに名前を付けることは無かった。

「すごいんです、それって。マンハッタンカフェさんだけなんです。」

「そう、なんでしょうか…」

うつむく彼女に

「そうだよぉ、カフェさん」

汗だくになったユキノビジンが微笑みながら話しかけてきた。流石の実力者の彼女も、ステイヤー2人に追い回されて、お疲れのようである。

「カフェさんって、人には見えない何かが見えるんですよね。それって私たちじゃできないこと」

どこか誇らしげに、どこか優しげに、ユキノビジンは微笑む。

そのほっこりとした温かい笑顔に

「ありがとう…ございます…」

とうつむき加減に、照れたように言葉を滑らせるマンハッタンカフェ。

ユキノビジンとライスシャワーはその様子を見て微笑んだ。

「ねー!タキオンさんもそう思うでしょー!?」

練習場を振り返り、大声でタキオンに呼びかけるユキノビジン。

彼女の視線の先にはターフの上で寝転がっているアグネスタキオンの姿があった。

「なんだよぉ~…もう疲れたよぉ~…。モ…トレーナーくぅん…!もう休みたいよぉ…!!」

ステイヤー2人に追い回されてすっかり駄々っ子になっているアグネスタキオン。

その様子を察してか、察せずか

「おーい、お前ら休憩にするぞー!!!」

とビニール袋を手に下げたマンハッタンカフェのトレーナーが彼女たちに呼びかけた。

手に持っていたのはちょっと時期の早い氷菓。汗だくで練習する彼女たちには心地よい冷たい甘味。

アイスクリームを他のウマ娘たちと並んで食べながら、マンハッタンカフェは思った。

いつの間にか、周りに人がたくさんいる。皆が皆、楽しそうに充実した笑顔を見せている。

そしてその喜びの根源は、それぞれのウマ娘自身のためじゃない。自分を応援するためにここまでしてくれている。

先生は気づかせてくれた。自分の得意分野を、そして弱さを。

そしてトレーナーと一緒にお互いに、自分自身に向き合う時間をくれた。

それが重なり、つながって、今がある。これからがある。

この想いは無駄じゃない。彼の教えは、私の心に息づいている。

 

マンハッタンカフェは想いを抱える。

抱えて走るは京都の芝3200m。

もうすぐその時間が終わる。

想いの結晶は実るか実らないか、それは彼女次第。

第四コーナーが終わり、ついに長かったレースも終わりを迎える。

残り600mを過ぎ、最後の運命のホームストレッチがマンハッタンカフェたちの前に姿を現した。

 

 

 

急加速して中を割って飛んできた黒い影。マンハッタンカフェの全身全霊の末脚が爆発する。

一瞬で抜かれたのはハネダオーバーロード。

(なんて末脚…!)

と驚いたのもつかの間すぐに、彼女も差し脚を繰り出し縋りつこうとする。

まさかの真ん中からの差し。こんなルート決めは非常識だ、と思ったのもつかの間、

『真ん中を割ったのはマンハッタンカフェ!!!大外からはアマゾンポシェット!!!』

飛んできたのはアマゾンポシェット。

(菊花賞での借りを返しにアタシはここに来たんだ!!!)

一層の加速をし、一文字に駆けていくアマゾンポシェット。

『先頭はマンハッタン!!!マンハッタン先頭!!!あと300m!!!』

(私が勝つ…私が!!!)

誰も追いつけない差しの直線。マンハッタンカフェの脚は止まることなく伸び続ける。

『内でボーンクイーン!!!外からはハネダオーバーロード!!!アマゾンポシェット!!!』

それに食らいつく他のウマ娘たち。しかし黒い摩天楼は止まらない。

『先頭はマンハッタン!!!外からはアマゾンポシェット!!!』

(アタシが勝つ!アタシが勝つ!!!アタシが勝つんだぁぁあぁあああ!!!!)

根性を振り絞りアマゾンポシェットの足もきらめきを増す。しかし差が徐々に縮まりそうで縮まらない。

「こんのっ…!!!マンハッタンカフェェェエェエエエエ!!!!!!」

眼をむき、叫ぶアマゾンポシェット。

必死に追いすがる彼女の目の前を、黒い摩天楼が駆けていく。

『マンハッタンカフェーー!!!マンハッタンカフェーー!!!』

実況が叫ぶ。さもそれは、栄光をもたらす鐘の音のような響きで。

(私が、私たちが勝つんだ!!!!!)

その脚が強さを生んだ。か弱き、傷だらけの足が。皆の想いを継承した、その脚が。すべてを乗せて。

そして

『アマゾンは二着ーーー!!!ハネダは三着ーーー!!!』

マンハッタンカフェが一着でゴール板を駆け抜ける。

『マンハッタンカフェです!!!グランプリウマ娘です!!!菊の舞台で、菊の女王が復活を遂げました!!!』

栄光の大歓声に彩られた京都競バ場。

初めてG1レースを制した、思い出の舞台。

そこに大事な人の姿はない。しかし、一緒に想いを継いできたパートナーと友人たちの姿はあった。

トレーナーが涙を流しながら親指を掲げ、ユキノビジンとライスシャワーが手を握り跳ねあい、アグネスタキオンが斜に構えたような笑顔を見せ、アグネスタキオンのトレーナーの体が虹色に光っている。

「先生、やりました…」

涙声で彼女はつぶやいた。一筋の涙が頬を伝う。

そして、高々と左手を天に掲げ、親指を突き上げ、ターフを走り抜ける。

その空は菊花賞のあの日と同じようだった。曇天の空が切れ目を覗かせ、一筋の光が彼女のもとに注いでいた。

 

 

あの春の天皇賞から数年経った、そんな6月のある日のこと。

数年経っても、トレセン学園にウマ娘たちがトレーニングに励んでいる光景は変わらない。

マンハッタンカフェを受け持った、あの若きトレーナーもすっかり落ち着き、中堅どころのトレーナーとして、複数のウマ娘を担当する立場となっていた。

「くそっ…くそっ…!!!」

練習に打ち込むウマ娘の中に、ひと際真剣な、というより追い詰められたようなウマ娘の姿があった。

「どうかしたんですか、あの子…」

トレーナーに話しかけるのは背の低い黒鹿色の髪をした女性。帽子をかぶっているため耳は見えないが、どうやらウマ娘のようだ。

「あぁ…この前のオークスで二着だったんだ」

「…立派じゃないですか」

「いや…桜花賞でも同じ相手に二着でな…」

「なるほど…」

ふっとトレーナーは笑い、

「ちょっと、相談に乗ってあげてくれないか、マンハッタンカフェ副トレーナー」

と彼女、副トレーナーになったマンハッタンカフェに話しかけた。

「わかりました…」

金色の瞳に光をともらせ、彼女はそのウマ娘の方に向かう。

「クリムゾンディザイアさん」

「…なんですか、あなた」

「副トレーナーのマンハッタンカフェです。あまり練習に打ち込みすぎては身体を壊します…。一回、何をすればいいか見直しましょう」

その言葉に目を怒らせたクリムゾンディザイア。

そして

「駄目なんです!!!もっと練習しないと!!!そうじゃないと…そうじゃないと…ビューエルヴィスタに勝てないんですよ!!!」

とマンハッタンカフェを怒鳴りつけた。

ヴューエルヴィスタ。今年の桜花賞・オークスの二冠のウマ娘。そしてクリムゾンディザイアが負けた彼女最大のライバルである。

 

そんな彼女に

「立派ですね」

と、どこふく風な涼しい顔をして、マンハッタンカフェは返した。

「なっ!?」

馬鹿にしてるのかこいつと、口から怒りの言葉が出そうになったその時

「貴方と同じ立場のころ、私はクラシック路線に進みましたが、まともに1勝クラスにも行けませんでした。皐月賞にもダービーにも出られませんでした」

「えっ…」

突然の言葉に戸惑うクリムゾンディザイア。

「ですが、冷静に指導してくれた指導者がいて、4か月間自分や環境と向き合った結果、最後の一冠の菊花賞を戴冠することができました」

その言葉は静かで、落ち着いたもの。怒鳴りつけた自分が恥ずかしくなってしまうくらいに、心の広さを物語る声。

「貴方は私より優秀です…。ちゃんとオープンクラスに進み、そしてティアラ路線で2着を2回も取っている…。それだけでも十分貴方はすごい」

「副、トレーナー…」

彼女の声が少し緩んだものになった。

その間際、マンハッタンカフェは彼女の肩に手をやり、

「苦難は、分かち合いましょう」

と静かに微笑んで語り掛けた。

 

 

 

10月中旬。日曜日。

京都競バ場、第11レース。芝2000m、秋華賞。

バ場は良、天気は晴。

大歓声に彩られた秋の華の舞台。遅咲きの栄光の秋桜の花。それが遂に咲き誇った。

「カフェトレーナーぁぁああ!!!やりましだぁあぁ!!!」

控室に戻ってくるなり、マンハッタンカフェに抱きついてきたのはクリムゾンディザイア。

この日、ついにクリムゾンディザイアはティアラ路線最後の一冠を手にしたのだ。

「ありがどうごじゃいます!!!ありがとうございまずぅ!!!」

大号泣しながらマンハッタンカフェに縋りつく彼女の頭を、マンハッタンカフェはやさしく撫でる。

そのまま歓喜の涙を流す彼女に

「俺がトレーナーなんだけどなぁ」

と苦笑いをし、トレーナーは立ち尽くす。

わんわん泣き散らかすクリムゾンディザイアを、トレーナーとマンハッタンカフェ、2人の暖かい視線が包み込んでいる。

奇しくも今回の秋華賞、マンハッタンカフェが菊の女王となった舞台と同じ場所・同じタイミング・同じような状況だった。

そしてクリムゾンディザイアの戦法もマンハッタンカフェ同様、差しだった。

 

 

 

想いは引き継がれていく。

人から人へ。ウマ娘からウマ娘へ。

マンハッタンカフェとトレーナーの想いも、多くのウマ娘と新しいトレーナーに引き継がれていくだろう。

時にそれは血と汗と涙に溢れた、絶望と苦難の茨の道になるかもしれない。

しかしそれを乗り越えようとするウマ娘とトレーナーたちが、新たな想いを生み、新たな伝説をまた創るはずだ。

トレセン学園の三女神の像は、常にやさしい笑顔を携え、そこに在るのだから。

 

 

 

おしまい。



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