滅国の魔女、御身の前に。 (セパさん)
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忠誠の儀

 【こうしてお姫様は幸せに暮らしました。】

 

 ……もし自分の人生が御伽噺(おとぎばなし)となるならば、間違いなくこの言葉で締めくくられるだろう。

 

 そんな事を考えながら、そして〝幸せに暮らし続ける〟ためには今まで以上の努力が必要であると自分を律しながら、ナザリック初の現地人領域守護者、ラナー・ティエール・シャルドロン・ライル・ヴァイセルフは、今正に幸福を噛みしめていた。

 

 

「はい、クライム。あ~ん。」

 

「ら、ラナー様!わたしはもう食事程度なら自分で食べられる程度には回復……」

 

「だめよ。クライムはまだ小悪魔(人外)になって日が浅いのですから。人間の身体から突然変化したのだもの、何があるかわからないでしょう。」

 

「で、で、でわ!お言葉に甘えまして!」

 

 (かゆ)の入った(さじ)と一緒に悲し気な笑顔を向けてあげると、可愛らしい子犬は赤面しながらもぎこちなく口を開き、粥を咀嚼(そしゃく)する。リ・エスティーゼ王国第三王女だった時の部屋よりなお一層絢爛豪華な一室。

 

 ラナーとしてはベッドがひとつと机がある程度の狭い部屋がよかったのだが、このナザリックという場所で一番狭く粗末な部屋が――拷問目的の牢獄や他の階層にあるという樹や氷で造った部屋は別として――この部屋らしい。

 

 余計な装飾品は全て排除して、もっと狭くならないだろうか……。なんて思うが、掃除にやってくる一般メイドたちからそれとなく得た細やかな情報を分析したところ――もちろん悟られるような真似はしていない――【至高の御方々】が定めた部屋を勝手に改造することは大罪にあたる事がわかった。

 

 ただ、自分はあの魔導王陛下へ正式に臣下の儀を行った後、この部屋の【領域守護者】という地位が与えられるらしい。どの程度の自由が許されるか確認しておく必要があるだろう。もし自分の功績がアルベド様や魔導王陛下に認められ、ナザリックへ膨大な利益を献上出来たならば【褒美】が与えられるかもしれない。

 

 ……事実、魔導王陛下は家臣たちへ【褒美】を与えることに対し寛容で推奨している節がある。これも一般メイドや上司であるアルベド様の言葉の端々から得た情報を基に導き出した結論だ。

 

 本来は魔導王陛下が如何に慈悲深いか、そしてどのような点を気を付ければ良いか、どのような困りごとが予想されるかという話だったが、情報のねじれをほぐしてみれば(おの)ずと違和感が累積され真実が見えてくる。

 

 とはいえ、ここは比喩でも何でもなく〝化け物の巣窟〟。自分の常識は今まで以上に疑ってかかるべきだろう。何より直属の上司たるアルベド様のご機嫌を損ねる真似や、智謀の怪物たる魔導王陛下に失望される真似だけは絶対に避けなければならい。

 

(いけないわね。わたしはこんなに満たされて、こんなにも幸せなのに、どんどんとワガママになっている。)

 

 クライムの瞳を堪能しながら、ラナーは今後について更なる夢を膨らませていた。

 

 

 

 ●

 

 

 

 ラナー様があの悪辣な魔導王と取引をしたのは自分の助命……否、復活のためだったという。代価は〝ラナー様の全て〟。永劫の時を生きる小悪魔(インプ)となり、魔導王のため働くことだ。ラナー様はあのアダマンタイト級冒険者【蒼の薔薇】が頼りにするほど聡明な頭脳を持たれている。

 

 魔導王はその頭脳と叡智を自らのために欲したのだろう。

 

 自分の何処がラナー様を御護りする従者だと叫びたくなった。万死という言葉さえ稚拙に思える大罪だ。しかしお優しいラナー様は、一従者に過ぎない自分だけでも生き延びて欲しいと考えて下さった。自分もラナー様の為に、永劫の時を人外として生きる。それこそラナー様に出来る、唯一の贖罪だ。

 

 復活によって力が出ない自分を献身的に看護して下さり、ある程度力が戻った段階で、自分にも【人外化】の術が施された。眠らされて行われたので、どのような術式であったかは解らない。

 

 ラナー様は小悪魔(インプ)と化してもそのお優しさ、慈悲深さに変わりはなく、化け物の巣窟で疎外の目に遭っても宝石のような笑顔を湛えておられる。ならば自分も〝ラナー様の従者〟として変わらない立場を貫けばいい。

 

 あの魔導王に従属するとラナー様が決めたのならば、自分も従うだけだ。自分の全てはラナー様のためにある。何も変わりない事ではないか。

 

 小悪魔(インプ)化に身体が慣れていないため、小さな翼もぎこちなくしか動かせず、身体の自由も上手くいかない。ラナー様は、そんな自分に変わらず手厚い看護を続けてくれている。

 

 もし不死を得た自分に命の終わりがあるならば、この女性のために捧げたい。

 

 クライムはラナーの笑顔を見て、決意と覚悟を固めた。

 

 

 

 ●

 

 

 

 アインズはナザリックにやってきた、色々な意味で頭のおかしい女とそのペットとの【臣下の儀】を1時間後に控え、憂鬱な溜息を吐いていた。

 

 

「デミウルゴスやアルベド並みに優秀って……。もう俺が凡人ってバレるの怖いよ。最悪殺すって手も簡単に打てないし、頭脳労働がアルベドやデミウルゴスに偏り過ぎていたのは確かに問題だったからなぁ。」

 

 正直ナザリックの利益を考えればラナー(あの頭のおかしい女)を受け入れることはメリットしかない。しかしNPC(仲間たちの子供)がアインズに忠誠を誓う意味と、あの女が忠誠を誓う意味はまるで異なる。

 

「それにアルベドの言っていた〝あの女のペットに従属の試練を〟って何すりゃいいんだよ。」

 

 ラナーのペットが本当にナザリックへ従属したか確かめるため簡単な儀式を――なんて直前に言われたのだが、アインズからすれば「そんな話聞いてないよ!?」と問い詰めたくなる一言だった。

 

 一番簡単なのは、セバス叛乱疑惑でも行った事……。そのペットに〝横に居る女(ラナー)の首をこの剣で斬り落とせ〟と命令し、横にコキュートスやセバスあたりを控えさせるか、あの女をパンドラズ・アクターに化けさせておくことだ。

 

 しかし歯向かわれれば厄介なことになりかねないし、失敗した場合デミウルゴスたちの計画を台無しにしてしまう。

 

 そして悩んでも答えが出ず時間が無い時、自分はどうすればいいかアインズはこの長い長い支配者ロールである程度学んでいた。

 

「アルベドか?あの女のペットに対する試練だがな、演目はあの女に書かせろ。そうだな……〝わたしが満足する内容〟を実施出来る能力があるか、あの女への最後の試練でもある、臣下の儀の5分前に伝えておけ。」

 

 ……そう、丸投げだ。

 

 

 ●

 

 

 

 玉座の間で、ラナーとクライムは玉座に鎮座する死の支配者(オーバーロード)アインズ・ウール・ゴウンに跪いていた。

 

「拝顔の栄に浴しなさい。」

 

 アルベドの言葉と共に、二人が同時に顔を上げる。

 

「ラナー・ティエール・シャルドロン・ライル・ヴァイセルフ。御身の前に。」

 

「ラナー様の従者。クライム。御身の前に。」

 

「ふむ。二人の忠誠、嬉しく思う。しかしわたしは未だ二人を完全に信用している訳でない。何しろ貴殿らからすればわたしは母国を滅ぼし、人外へ変えた張本人だ。特にそこの少年とは殺し合いをした仲であるからな。」

 

 クライムの身体が無意識に震える。ここまではアインズの思った通りだ。問題はここから……

 

「そういう訳で、貴殿が本当にわたしへ忠誠を誓ったのかテストをしたい。アルベド。」

 

 アインズは顎をしゃくり、アルベドへラナーの発案した〝ナザリック入りテスト〟を話すよう促す。どんな内容かはアインズも聞いていない。アルベドは一礼をして、クライムへ凛とした威厳ある声で内容を告げた。

 

「あなたは今からアインズ様が〝良い〟と言うまでこの縄を持ち続けていなさい。」

 

 その瞬間、ラナーの身体が浮き上がった。空を飛んだわけではない、突如首に縄が掛かり宙に吊られたのだ。そして空中には滑車があり、ラナーを縊死させうる絞首刑の荒縄はクライムが握っている。

 

「がぁ……いや……はぁああ!」

 

 ラナーがその細腕で抵抗しようとするも、藻掻けば藻掻くほど縄は首へまわり声にならない悲鳴だけが木霊する。

 

「ラナーさ……」

 

 クライムは自分が握っている縄が護るべき主を苦しめている事に一瞬で命令を忘れそうになるが、ラナーの瞳を見て歯を食いしばり、荒縄を握り続ける。そして一瞬目を背けかけ、覚悟を決めたのか悲壮な面持ちでラナーを見つめた。

 

「どうした?苦しそうだな?わたしがその縄を持ってやっても良いのだぞ?」

 

「いいえ、結構です!魔導王陛下!」

 

「無理をするな。自らの主を自らが苦しめるなど、わたしとしても心が痛む。」

 

「問題……御座いません。」

 

 とりあえず悪役ロールをしてみたが、「うん、こいつら何やってるんだろう?」というのがアインズの正直な感想だ。この女にアインズでは一生理解できないだろう倒錯的な性癖があることは情報として得ていたが、レベルが高すぎてついていけない。

 

 しかしアルベドをみれば〝滑稽ですねアインズ様〟と言わんばかりの視線を送っている。ある意味アインズの最初に考えた〝ラナーを斬ってみろ〟に近い忠誠の確かめ方だが、どんな脳みそをすれば5分でこんな真似思いつくのやら。

 

「ふむ。もうよい。手を放せ。」

 

 アインズの言葉と共に、クライムは握っている縄を手放し、ラナーは地に落ちる。そして喘鳴に近い深呼吸を行っていた。

 

「よかろう。これを以って貴殿の忠誠に偽りなしと判断する。今後、ナザリックのために励んでくれたまえ。」

 

 アインズは鷹揚な言葉の裏で〝ヤベーのが来たなぁ〟という認識を強めていた。

 

 

 ●

 

 

「ラナー様!ご無事ですか!わたしは……わたしは……。」

 

「最初に言ったでしょうクライム。忠誠を確かめるために、あなたは傷つくかもしれない。でも躊躇はしないでと。」

 

「しかし……。なんてことをわたくしは!」

 

 ラナーとクライムだけが残された玉座の間。ラナーは自分を苦しめた罪悪感に押しつぶされそうなクライムの瞳にゾクゾクとした快感を覚える。なにより、クライムは自分を絞首刑にしている際も目を背けなかった。ラナーを以ってしても読み取れないほど様々な感情を宿した瞳も捨てがたい。

 

 ああ、幸せなお姫様の生活はこれから始まるのだ。そう思うとラナーは演技ではない笑顔が漏れ出そうで仕方が無かった。



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ラナーと鮮血帝の邂逅

「――――っ!!」

 

 言葉にならない艶めかしい嬌声が仄暗い寝室に木霊する。紅潮した顔に乱れた息とつややかな黒い長髪はその麗しい美貌も相まって、男性の理性を簡単に破壊する絵面となっている。……もっとも幸いというべきか、この場にそんな哀れな男は居なかったが。

 

 アルベドは今日も今日とて愛しのアインズの寝室へ赴き日課(・・)を行っていた。やはり愛する者のベッド上とは格別で、仕事が終わり自由な時間が出来ればいつもここに居たいとさえ思う。もし一人ではなく、愛しの主が寵愛を下さるならば、何だってしてみせよう。

 

「はぁ……はぁ……くぅ!」

 

 本日の日課(・・)も終わり、乱れた息を整え、紅潮した顔が平静を取り戻して頭が冷えるとアルベドの表情に悔しさが滲み出る。

 

 以前コキュートスが〝勝利の酒と敗北の酒の味の違い〟を語っていた……とデミウルゴスに聞いた時は、いまいちピンと来なかったが、今ならばなんとなく理解できる気がする。

 

 ナザリック外からの初にして恐らくは最後となる現地人領域守護者〝黄金の姫〟が来てから、以前から懸念されていた頭脳労働におけるナザリックの人材不足はかなり軽減された。これは【守護者統括】【魔導国宰相】アルベドとしては喜ぶべきことなのであろうが……。

 

「本当に不愉快な女……。大人しくペットと戯れていればいいのよ。」

 

 あの女は、既にナザリック内の言語――アインズ様が美しいと一番好む言語――を完璧にマスターし、直属の上司たるアルベドの内政仕事のみならず、外交面ではデミウルゴス、財政面ではパンドラズ・アクターの手伝いをするなど、数多の功績を残している。

 

 その優秀性は、こと【魔導国内の下等種に適用する案件】だけに限れば、愛しの主へ二つの案――自分の発案とあの女の発案――を著者機密で採択を仰いだ場合、勝敗は4:6……アルベドが4となるほどだ。これであの女が愛しのアインズ様に恋慕の情など抱いていようものならば、自分は彼女を殺さずにいられただろうか?

 

 当然ナザリック内での管理上における知識は、アルベドに勝る者など愛しの主を除いて居ないだろう。だが、下等種を間近で観察してきた期間で言えば、悔しいがあの女に軍配が上がる。それも元リ・エスティーゼ王国の貴族社会などという愚者による醜悪な滑稽劇の中にいたならば尚更だ。

 

 下等種が何を望み、どのようにすれば動き、如何に愚者を愚者のまま操るか熟知している。……それにアルベドがあの女に抱いている嫌悪は恐らく【嫉妬】だ。

 

 あの女はナザリックを利用して見事に自分の夢を叶えた。アルベドは大罪と知りながら、想像してしまうことがある。それは栄えあるナザリックの繁栄とも愛しのアインズ様のお考えとも違う凋落的な不敬の極み。

 

 この世界がどんどんと狭くなり、偉大なる主以外の全てが死に絶え、たった一部屋に主と自分が二人っきりとなった時……。その時初めて愛しの主は自分だけをみてくれるのではないかという破滅願望を孕んだ悖戻(はいれい)だ。

 

 早々に不敬な想像を頭から打ち払い、あの忌まわしい部下とペットに褒美をやらねばならない。今日はアインズ様が自分の案ではなく、あの女の案を採択した屈辱的な日だ。悔しいが敗北から学ぶことがあると、アインズ様の金言を反芻し、己を律していくほかない。

 

「意図的に魔導国内で犯罪に身を(やつ)す愚か者を確保するため【賭博罪】の規制を大幅に緩和する案……。下等種の経済的破滅を狙うならば、意図的にこちらで賭場の確率をコントロールする方がいいはずなのに、何故アインズ様はあれほど嫌悪感を示したのかしら?あの女の確率論は確かに優秀だけれども……。」

 

 アインズがイカサマ賭博を聞いて〝運営が遠隔操作するガチャ〟を想起した事情など知る由もないアルベドは偉大なるアインズ様の御考えに届かない自分を呪いながらも、忌まわしく優秀な部下の元へ指輪を使い転移した。

 

 

 

 ●

 

 

 アルベドが去ったベッドと机と鏡しかない粗末な部屋。【たった一部屋の領域守護者】ラナー・ティエール・シャルドロン・ライル・ヴァイセルフの守護領域にして、居住区画でもある一室で、ラナーは垂れていた頭を上げて、歌い踊り出したい衝動を抑えきれずにいた。クライムが戻ってきたら押し倒して××××してしまいそうだ。

 

 アルベド様が直々に来訪し、褒美として3日の休みを頂くことが出来た。他の守護者やメイドに至るまで、この地は【休むことは悪である】という風潮があるが、頂点に君臨するアインズ・ウール・ゴウン様は部下に休暇を与えることに寛大で、むしろ推奨している節がある。

 

 最初はアルベド様の怒りを買うので自分たちも休暇の褒美を辞退していたが、アインズ様は押し付けるように休暇をとらせたがる。ラナーとしても机で計算するより、(クライム)と戯れ癒される時間が欲しいので、今では辞退せず積極的に褒美を頂くことにした。

 

「失礼いたします。ラナー様!ただいま戻りました!」

 

 ノックの音と共に扉の外からクライムの声が聞こえてくる。ラナーは返事をする前に急いで鏡の前で【クライムの知る笑み】を作成し、熱に浮かされた脳みそを沈静化させる。

 

 クライムは最初、ラナーの返事を待ってから入室していたが、一度ラナーが暗号作成の仕事に熱中しすぎ、ノックの音を聞き逃してクライムがほぼ丸2日間扉の前で立っていた事件があってから――それはそれで可愛いのでどうするか迷ったが――5分間返事がなければ入室を許可している。

 

「あら、クライムお疲れ様。入って大丈夫よ。」

 

 ラナーは自分のコンディションを3分で整え、ベッドに座り(たお)やかな声で入室を許可した。

 

「はい!失礼いたします。」

 

「今日も訓練だったのですね。疲れたでしょう、一緒に座りましょう?」

 

 本日も愛しの子犬の瞳が輝いている事に安堵と満足と恍惚の感情を覚えながら、ラナーは座っているベッドの横にクライムも座るよう促す。その瞬間クライムは赤面し、ぎこちない足取りでラナーの横に座る。何度逢瀬を重ねようとクライムは従順さも純情さも陰ることが無い。やはり自分にはクライムしか居ないのだと確信させられる。

 

「ラナー様。先ほどアルベド様より直々に3日の休暇を賜る光栄を頂きました。ラナー様の御立場が悪くなることを考えますとその場でわたしが返答は出来ませんでしたが、辞退いたしましょうか?」

 

 ラナーは笑顔の裏で舌打ちをする。ふたりの時間に水を差すような真似をしたのは確実に嫌がらせだろう。いくらアルベド様とはいえ、アインズ・ウール・ゴウン様の決定は覆せない。とはいえ、休暇を取ることを不満に思っていることは確かだ。

 

 個人的には直属上司のアルベド様の心証は悪くしたくないが、絶対支配者たるアインズ様の御慈悲を固辞し続けるほうがマズい。改めて自分の置かれる立場にげんなりとするが態度に出さず天真爛漫で能天気な姫を演じる。

 

「まぁ!実はわたしも先ほどアルベド様から同じことを言われたの。きっとクライムが頑張っているおかげね。」

 

「いえ、ラナー様の御力があってのことです。そしてこの手紙を一緒に渡されました。ラナー様でしたら読めば分かるだろうとのことでしたが……。」

 

 クライムが渡してきたのは意味を成さない文字列としか思えぬぐちゃぐちゃの文字。……ラナーが以前作成した魔法を用いない暗号文章で、恒河沙(10の52乗)×恒河沙(10の52乗)の素数を用いた数式を基盤として作成された、アルベドとデミウルゴスの二人をもってして2行の文章を解読するのに1分6秒、暗号そのものの完全解読に7分を要した代物だ。エ・ランテルを中心としてナザリック外の通信の一部で実用されたと聞く。

 

(あの女……完全に当て付けね。)

 

 この地では脳内で愚痴をこぼす事すら危険と解っていても、あからさまな挑発が続きすぎ、思わず悪態をついてしまう。そこに書かれていたのは……

 

(簡単に休暇は貰えないか……。それにしても厄介払い?いいえ、嫌がらせ?発案者がアインズ様かアルベド様かで対応の変わる案件だけれども、情報が少ないわね。)

 

「ラナー様、申し訳ございません。一体何が記されているのでしょうか?」

 

 笑顔を曇らせたラナーを心配するクライムの瞳をみて癒されながら、ラナーは決定した休暇前の少し厄介な一仕事を告げる。

 

「アルベド様はわたしたちが3日間休暇をする前に、一つ外でお仕事を頼みたいご様子なの。でも外だなんて、こんな姿になったわたしを皆怖がるでしょうね。」

 

 花が萎れたように演技をすると、予想通りクライムが慌てだす。

 

「そのようなことはありません!例え種族が変わろうと、ラナー様のお優しさは不変であると、誰よりもわたしが知っています!」

 

 背筋にゾクゾクとした倒錯的な快楽を覚えながら、ひとまず満足したラナーはクライムに目的の仕事を告げる。

 

「行き先はバハルス帝国。現在は魔導国の属国となったあの恐ろしい鮮血帝の治める国よ。」

 

 

 

 ●

 

 

 

 バハルス帝国皇帝ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス――――クライムの記憶が正しければ、自らの血族や貴族を粛清し、リ・エスティーゼ王国と対峙していた、名君と認めざるを得ない人物だ。流石の鮮血帝もあの魔導王の前に膝を屈し魔導国属国の指導者と化したらしいが、虎視眈々と復讐の機会を狙っているに違いない。

 

 クライムはラナーと共に狭い馬車――引いているのは馬ではないが――に乗り、黒子のような衣装を纏っている。……当然だろう。自分もラナー様も既にこの世にはいないものとされているはずだ。それなのに、今更にラナー様と顔合わせをする意味はなんだろうか?

 

「どうしたのクライム?難しい顔をしているわよ?」

 

「は、はい!わたくしの力で彼の鮮血帝からラナー様をお守りできるか緊張してしまい……。」

 

 従者としてあるまじき弱音の発露をしてしまった。自分たちは既に人外と化した身、それだけでも討伐されるには十分な理由がある。あの鮮血帝がラナー様を人質とした場合、自分は命を捨ててでも御護りしなければならない。

 

「大丈夫よ、クライム。ジルクニフ様だってきっとお話の通じる方ですから。」

 

 ラナー様は相変わらず人を信じすぎる。そのお優しさが陰ることが無い事は従者として嬉しいが、今は別だ。

 

「さぁ着いたわ。姿を隠しましょう。」

 

 そう言ってラナー様は全身を覆うように小悪魔(インプ)の羽が隠れるドレスを纏い、ピンクのベールで顔を覆う。受けた命令は【鮮血帝と話をしてくること】だけ。それが何を意味するか解らない自分の無能が憎らしい。

 

 そうして馬車を降り、会議室に通されると噂に名高い鮮血帝――ジルクニフが余裕を持った表情で椅子に座っていた。

 

「魔導国より遠路はるばるようこそお越しくださいました。本日は極秘にして他言無用の使者様とのことで、秘書官も外しております。」

 

 まるで忠誠を誓う騎士のように跪く鮮血帝だが、油断はならない。自分たちが姿を現した瞬間からが本番なのだから。そしてクライムの予想は的中する。姿を現したラナーとクライムを見て、ジルクニフはクライムでも解るほど動揺し、顔を引き攣らせている。

 

「こ、これはこれは……。ラナー……元王女とお呼びしてもよろしいでしょうか?」

 

 明らかに声色が変わったのはラナー様が小悪魔(インプ)の姿だからだろう。ラナー様がどのような

想いで人外として生きる決断をされたか知りもしない癖に。そんな怒りがクライムを襲う。

 

「いいえ。今のわたしは魔導王陛下へ忠誠を誓った身。気軽にラナーとお呼びください。」

 

 慈悲深い主は鮮血帝の反応を気にも留めていない様子で声を掛ける。しかしお優しいラナー様のことだ、内心ではひどく傷ついているに違いない。クライムは思わず鮮血帝に殺気を向ける。

 

 そしてしばしの沈黙が流れ……。

 

「ではラナー様。現在のバハルス帝国について少々お話をさせてください。」

 

「ええ、ありがとう。」

 

 鮮血帝はこの一拍の間で何を考えたのか。属国バハルス帝国の現状についてを滔々と語り始めた。

 

 

 

 

 ●

 

 

「帝国でのお仕事大変ご苦労様。例の皇帝についてのあなたの私見は大変興味深いわ。では守護領域に帰還次第72時間の休暇を褒美として与えます。解っていると思いますが、ナザリックを出てエ・ランテルを散歩する際は事前に報告し、幻術の装備を忘れないように。」

 

「かしこまりました。アルベド様。」

 

 慈悲を称える微笑みに対するは宝石のような笑顔だが、その間には思わず後ずさりしたくなるようなオーラが立ち込めていた。……実際アルベド付きのメイドが少し顔を強張らせている。

 

 しかしそれも一瞬のことで、ラナーは自分の守護領域に向かってスキップするように歩み始める。鮮血帝を前に自分を護るクライムの瞳は実に愛らしかった。もっともっと愛でてやりたい、自分の非力を悔やむナザリック内のクライムも素敵だが、姫を護る騎士としてのクライムの眼もまた甲乙つけがたい。

 

 そしてあの眼がこれから逢瀬による罪悪感と快楽と背徳感で歪む姿は想像するだけで絶頂しそうだ。もっとクライムを知り尽くしたい。この世には自分の脳でも知らない事が、まだまだ沢山ある。

 

 世界一幸せなお姫様は、これから訪れる幸せを胸に、偽りの無い笑顔を浮かべていた。




 別視点はこちらから

https://syosetu.org/novel/255582/6.html


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倒錯的なお茶会

 〝食べたら効くはずの無い毒に当たりそう〟

 

 それがソリュシャンの目の前にいる元人間に対する印象だった。

 

 アインズ様より賜った大商人の我儘な令嬢を装っての情報収集で、至高の主が目を付けたのがこの女。てっきり計画の一部に利用して切り捨てるのかと思いきや、のうのうと栄えあるナザリックに……それも〝領域守護者〟なんていう肩書を引っ提げて入ってきた。

 

 あのセバス様の拾ってきた下等種は【慈悲】と【幸運】でナザリックにて〝メイド〟という地位を手にしたが、この女は【生まれ持った能力】と【実力】で〝領域守護者〟という地位と不老不死の異形種という2つを自ら掴み取った。

 

 自分ならここまで上手く立ち回れただろうか?……答えは当然〝(いな)〟だ。

 

 だからこそ〝一度会って化けの皮を剥ぎ立場を明確にしてやろう〟と、この場をセッティングしたはずなのだが……。

 

「まぁ!こんなに香り高い紅茶、王室でも飲んだことがありませんわ。」

 

「当然でありんす。下賤な人間界と比較しようなど、それ自体が不敬。とはいえ、これほど上手く紅茶を入れる能力を有する者はわらわの眷属か副料理長くらいでありんしょうが。」

 

「是非わたくしにもご教授頂きたいものです。」

 

「お前のペットにでも振舞うんでありんすか?わらわには理解できんせん。」

 

 共同発案者でありこの部屋の主であるシャルティア様は、最初こそ(いぶか)し気に目の前の女と接していたのだが、いつの間にか話が〝アインズ様の正妃は誰になるのだろうか?〟という内容に誘導された。

 

 そしてあの女がシャルティア様に何か耳打ちしたかと思ったら(てのひら)を返したように態度が変わり、ソリュシャンが来室しても中々出てこない最高級の茶葉をあの女へ振舞っている有様だ。――あの女はアルベド様の部下なのだから、シャルティア様の肩を持つ立場はマズいだろうに、何を話したのだろう?

 

(……精神の異形種、ラナー・ティエール・シャルドロン・ライル・ヴァイセルフ。山の天気よりも機嫌の変わりやすいシャルティア様とこうも早く打ち解けるなんて。)

 

 ソリュシャンはカップを傾けながらハイライトの消えた瞳で、目の前の小悪魔(インプ)の形をした化け物を見据える。

 

「<魅了>の効果がある下着でありんすか?」

 

「そうです。位階魔法の<魅了(チャーム)>が掛かっているという意味ではなく、シャルティア様の素晴らしい魅力をより上げるという意味も含めた<魅了>です。」

 

「下着のような形の装備ならばぺロロンチーノ様が遺された中に沢山ありんすが……。」

 

「椅子として魔導王陛下がシャルティア様に御掛けになった際、シャルティア様はどの下着を纏っておりましたか?きっとそこにヒントがあるはずです。」

 

「あの時は……。なるほど!そういう事でありんすか!」

 

 二人の会話は留まることが無い。むしろ自分が部外者になったのではないかと錯覚してしまうほどだ。これでは本来の目的がどこかへ行ってしまう。ソリュシャンは話の流れを戻せないか思索に(ふけ)る中……。

 

「……それでソリュシャン様は、魔導王陛下からどのような寵愛を賜りたいのでしょう?やはり受け身となるでなく、至高の御方へ尽くして差し上げたいですよね?」

 

 急に話題を振られ、動揺が悟られないよう装いつつ、2人の話を聞き流していた自分を心の中で叱咤する。そしてこの女の問いにどう答えるべきか頭をフル回転させた。

 

 質問の意味を咀嚼したと同時に、なんて悪辣な質問であるかと歯噛みする。ソリュシャンには暴走した前科がある以上〝いいえ、そんな大層なことは考えていません〟と言う訳にもいかず、〝はい、その通りです〟と言う訳にもいかない。

 

「ソリュシャン、わらわは側室を認めないほど狭量ではありんせん。素直に認めなんし。」

 

 友軍に背後から刺された……。そんな錯覚がソリュシャンを襲う。

 

「も、もちろん至高の御方々の頂点に立たれていた方!もし、万に一つでも寵愛の一欠片を賜れましたら、アインズ様へ尽くしたいのは当然の事です!」

 

 その言葉を聞いたシャルティア様とあの女がお互い見合って笑顔を浮かべる。片やニヤリと、片や宝石のような笑みだが、本質は同じだろうと直感が告げていた。

 

「ソリュシャンには人間が与えられていんす。溶かして食べているあれらを使って実験をして欲しいんでありんすが。」

 

「実験……でございますか?」

 

「ソリュシャン様は不定形の粘液(ショゴス)の能力を使って、苦痛ではなく、全身を隈なく精査し〝快楽〟の実験をしてほしいのです。」

 

「……しかし、下等種風情とアインズ様を同じにするのはあまりに不敬で愚かの極みです。」

 

「この地にナザリックが転移した際、最初に魔導王陛下が行ったことはアルベド様の胸を揉まれたというお話でしたよね?」

 

 その話は知っている。何しろアルベド様自身が恍惚とした表情で何度も自慢していることだ。

 

「魔導王陛下の深淵なる御考えはわたくし如きが理解出来るほど自惚れておりません。しかし仮説を立てることは出来ます。魔導王陛下がみなさまを〝至高の御方々の結晶〟と認識されている以上、みなさまから正妃や側室をとることを良しとされない可能性がございます。」

 

 シャルティア様の顔が驚愕に彩られている。そして、おそらくは自分も……。

 

「しかし至高の御方々の結晶であらせられるみなさまはとてもお美しく、高潔であられます。その狭間で、魔導王陛下は孤高の葛藤をされているのではないでしょうか?」

 

 〝何故アルベド様だけ最初寵愛を賜ったのか〟

 

 これはナザリック女性陣が何度も話し合ったことだが、あの完璧を形にした主の心の内までは考察していなかった。……いや、出来なかったというべきだろう。アインズ様は至高の御方々のまとめ役であらせられた。当然自分たちにとって神であるぺロロンチーノ様やヘロヘロ様の統率をとる御立場であった。

 

 であれば、自分たちに手を出すことは、アインズ様の御立場からすれば神々で交わされた契約の悖戻(はいれい)となってしまう可能性がある。

 

「では……。わたしたちは永遠に……。」

 

「いいえ。その絶望は、アルベド様の例が解消してくださいます。魔導王陛下は〝自分で考える事〟〝練習の重要性〟を常々説かれておられる。つまり、みなさまの努力は必ず魔導王陛下が見ておられ、そのお心を変化させることが出来るかもしれないのです。」

 

 その瞬間、シャルティア様の目つきが変わった。おそらく自分もだろう。アインズ様は常に数手先を読まれ、一手一手に幾つもの考えを持たせる智謀の王。最初、アルベド様の胸を揉まれた行動も、アインズ様なりに自分の御立場を配慮した上で、自分たちにも正妃や側室となる素質があることを暗に示して下さったのかもしれない。

 

 他の重大な――それこそ極秘裏に必要な実験であれば、あれほど口が軽いアルベド様の胸を揉む必要などなかったし、他言無用の命令を下したはずだ。

 

「なるほど、ラナー様。いえ、ラナー。アインズ様の寵愛を受ける際初心(うぶ)な娘でいるなど不敬の極みだわ。あなたの提案、乗ってみましょう。」

 

 ソリュシャンは〝敬語を廃して接して欲しい〟というラナーの言葉に反発していた。〝領域守護者〟と〝戦闘メイド〟だからという理由をつけていたが、心を許していない証拠としてだ。しかし、ここにきてその考えを覆す。――この女は利用できる。自分の夢を叶えるためにも。

 

 〝下等種を使った実験兼練習〟は有効な手段だ。ソリュシャンならラナーが言ったように【文字通り隈なく】実験出来るだろう。……おそらくラナーはその実験結果をペットとの逢瀬に使うつもりだ。

 

 だからこそ信用できる。この女の頭脳ならば、下等種に行った実験と練習の結果をアインズ様へ献上出来るレベルまで高められるかもしれない。

 

「あらいけない、お話に夢中になりすぎたわね。紅茶が冷めてしまいますわ。それでシャルティア様、下着や道具をいくつかお借りしても本当によろしいのですか?」

 

「もちろんでありんす!さぁ、ソリュシャン。ぬしも選ぶのを手伝いなんし。」

 

「畏まりました。……ラナー、よろしくね。」

 

「ええ、こちらこそ。」

 

 先ほどまでの宝石の様な笑みはどこへやら……。この笑みがこの女の本質なのだろう。ソリュシャンはアインズ様のお認めになった【現地人領域守護者】に薄ら寒い感情と同時に頼もしい感情を覚えた。



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スパリゾートでの一場面

・稚作【オーバーロード単発短編集】より〝スパリゾート ラナー様&クライム編〟のクライム君視点です。

・完全新作ではございません。

・あとがきにラナー様視点を貼っております。

・以上を踏まえたうえでお読みください。


 ここはナザリック第9階層【スパリゾート】。

 

 リ・エスティーゼ王国の湯浴み場など比較にならないスケールであり、大河の如く流れるお湯、柑橘の皮や炭を浮かべた木製の巨大な湯船、泡の湧き出る不思議な湯船、四方八方から水が噴射されるマッサージのような湯船、入ると身体が痺れる電気風呂なる場所、〝サウナ〟なる蒸し風呂、果ては謎の妖しい光を発するよく解らない浴場までありとあらゆる浴槽が完備されている。

 

 とはいえクライムは何度も【スパリゾート】に足を運びながら、それらの設備を一度も使ったことが無い。なぜなら……

 

「いいお湯ね。クライム。」

 

「さ、左様でございますね!ラナー様!」

 

 本来〝スパリゾート〟は男湯と女湯で分かれているのだが、現在クライムとラナーが浸かっている〝露天風呂〟だけは常時男女混浴が許されており、クライムは「一人で入るのは寂しいから」というラナー様のご命令で、スパリゾートを使用する際はいつもここに呼ばれていた。

 

 一糸まとわぬ姿となったラナー様を凝視するわけにはいかないが、ラナーをお護りする立場である以上明後日の方向を見ているわけにもいかない。毎回クライムはそんな二重拘束(ダブルバインド)に翻弄され脳が混乱してしまう。そんなクライムの葛藤をよそに、ラナー様は温泉を楽しんでいるようだった。

 

 この世界には【花見】や【月見】など、露天風呂には様々な楽しみ方があるらしく、露天風呂の周りにある荘厳な木々や満開の花々、星々の照らす夜景など、実際業務を一瞬忘れそうになるほど素晴らしい景色で彩られている。

 

 特に露天というだけあり、空を見上げれば墳墓の中……地下でありながら、満天の星を模したであろう夜景が煌めいていた。ラナー様はその星空を見上げ、何かを思索している様子だった。

 

(ラナー様は一体何を御考えなのだろう?)

 

 ラナー様は王女だった時分、国家機密の地図よりも精密なリ・エスティーゼ王国地図を作製したことがある。なんでも部屋の窓から星の位置を見て空と地上を結ぶ線のズレを計算した……なんてことを蒼の薔薇の面々と話していたが、クライムに出来ることは理解を放棄する事だけだった。

 

 やはり自分とラナー様では視点がまるで違う。

 

 そして突如ラナー様は何かイタズラを思いついた悪童のように、天真爛漫な口調でクライムに話しかける。

 

「そうそうクライム!流れ星の素敵な言い伝えを知っている?」

 

「流れ星……ですか?」

 

 クライムの常識で考えると、流星といえば【誰かの命が消えようとしている象徴】というのが一般的で、素敵という言葉とは程遠い。しかしラナー様が間違いを言うはずもない。となれば自分の常識が間違っていたのだろう。

 

「流れ星が消えるまでの間に3回願いを唱えると、その願いが叶うんですって。何処かに流れ星があるのかもしれないわ。」

 

 クライムはそう言って空を見上げるラナー様につられて星空を見上げる。すると一筋の流れ星が見えた。その瞬間、今さっき聞いた話を実行に移す。クライムの願いはあの日から常にひとつだけだ。

 

「ラナー様を御護りできますように!ラナー様を御護りできますように!ら……あぁ……。」

 

 クライムは切迫した様子で早口に願いを口にする。しかし3度言う前に夜這い星は儚く消えてしまった。クライムは落胆した様子で目を伏せ……、、ラナー様は小悪魔(インプ)の羽を小刻みに震わせて、クスクスと可愛らしい笑みを浮かべていた。

 

 どうせならば早口言葉の練習をしておけばよかったと思うがもう遅い。

 

「ふふ、クライムの気持ちはとても嬉しいわ。……そうそう、翼の後ろがどうしても上手く洗えないのよね。クライム、背中を流して貰えるかしら?」

 

 クライムの身体が硬直し、思わず目を泳がせてしまう。しかしラナー様は気にした様子も無く、クライムに背を向けた。背中を流すと言ってもここにはスポンジや布などが無い、となると【背中を流す手段】はひとつしかない。

 

「はい!大切な従者の役目……でしたね!し、失礼します!」

 

 つまり、クライムの想いのこもった手のひらだ。思わず手が震えてしまう。伝わるのは翼の裏にある柔らかな背中の温もり。恐らく赤面し頭がふらふらとしてきたのは、湯に浸かり過ぎたせいではないだろう。

 

「あふぅ……。」

 

 クライムの手の動きに合わせ、蕩けるような吐息がラナー様から漏れるたび、なにやらいけない事をしているような倒錯に襲われる。だが〝これは従者の役目だ〟〝決して邪なことではない〟と暗示をかけるように脳内で反復し自らを律する。

 

 実際アルベド様からスパリゾート内でマナー違反があれば獅子の顔をした湯を出しているゴーレムが襲い掛かってくると聞いている。ラナー様を危険にさらす原因が自分であるなど許されるはずがない。

 

「ありがとうクライム。とても気持ちいいわ。」

 

 振り返るラナー様の笑顔は湯で上気し、【肖像画が描けない】と謳われた美貌は妖しささえ醸し出し、その玉体は宝石など比較できないほど一層煌めいている。

 

 一通り背中を流し終えたクライムは、精神的消耗から深呼吸を行う。しかしこれで終わりではない事は何度か経験済みだ。ラナー様から決定的な一言を告げられる予感がして……

 

「そうだ!じゃあ、今度はわたしがクライムを綺麗にしてあげる。」

 

 その予感は見事に的中する。自分はどんな顔をしていただろう。何度経験しても覚悟が決まらない、かといって拒否など出来るはずもない。

 

 クライムにとって行楽地(リゾート)とは己を試される試練の連続となる場所であった。




・ラナー様視点はこちら【 https://syosetu.org/novel/255582/9.html 】となります。


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初めての1つが終わるとき

 クライムは重い重い(まぶた)をゆっくりと開く。耐えきれないほどの倦怠感が襲い、戦闘の訓練で気を失ったのだろうかと一瞬思考するが、天井の景色からここは魔導王がラナー様へ与えた居住区画――<守護領域>と皆は言っている――と判断した事からその可能性を否定する。

 

 才は無いが努力と稽古を惜しまぬクライムは、亡き戦士長と、同じく恐らくは亡くなったであろう自分に稽古をつけてくれた天才剣士の言葉を思い出す。

 

(手負いの状態で、それでも動かなければならない場合、焦らずにまずは身体の可動箇所を確認。)

 

 腕や指先の稼働に問題はないが、足腰の脱力感が著明で二足歩行はおろか、起き上がることもしばらくはままならないだろう。そしてこうなった心当たりを考え……

 

 ボン と頭から湯気を出す勢いで赤面し、身体が硬直する。

 

(ラナー様はお仕事に入られたのだろうか?)

 

 従者としてあるまじきことだが、クライムより先にラナー様が目を覚まし仕事に励んでいる事は多々あった。しかしラナー様が仕事をしている際に必ず聞こえるペンを走らせる音が聞こえない。

 

 ラナー様はこのナザリックでクライムには読めない文字で、もし読めたとしても理解できないであろう数式や文字列をペンで紙に走らせているはずだ。

 

 違和感を覚え周囲を見渡すと……

 

「ラナー様!!」

 

 ラナー様がクライムの寝ているベッドの横で茫然自失としている様子が目に入り、気合と根性だけで飛び起きる。喜怒哀楽のどれでもない顔はクライムですら初めて見る顔だ。

 

(精神支配を受けている!?だとすればわたしはどうすれば!)

 

 このナザリックでは何故かナザリックに属する者が<精神支配>を受けている状態を見つけた、又は目の前で誰かが行われた際のマニュアルが充実している。クライムの場合、早急にラナー様の安全を第一に考え、<巻物(スクロール)>を用いて逃げる事に専念し、即座に緊急報告を行うよう指導された。

 

 しかしここはラナー様の私室。誰が何のために? 思えば昨日の晩からラナー様の様子が少しおかしかった。……どのようにおかしかったか思い出すと気合だけで支えている身体が崩れ落ちそうになるので、頭から振り払う。今はそれどころではない。

 

 クライムが疑問と困惑に苛まれていると、ラナーの瞳に光が戻る。

 

 「ラナー様!ご無事ですか!?」

 

 「ええ。大丈夫……よ。クライム。」

 

 いつもと様子の違うラナー様を見て、クライムはますます混乱の渦中に叩き落された。

 

 

 

 ●

 

 

 

 ラナーがクライムと共に変異を希望した種族は<小悪魔(インプ)>である。

 

 それにはもちろん理由があり、人間種のように欠かせば命を失うという訳ではないが、食欲・睡眠欲・性欲が強大な力を有する悪魔よりも強く残存する。

 

 言い方に語弊はあるが、異形種の不老不死・驚異的生命力と、人間種の欲望と煩悩の良いとこ取りが出来る種族というのがラナーの導き出した考えだ。

 

 もちろんメリットばかりではない、異形種としてはかなり力が弱く、下手をすれば横にクライムがいようとこの墳墓で無限に沸き出すアンデッドはおろか、冒険者をやっている人間にすら討伐されかねない。ラナー単身なら魔導国で飲んだくれているゴロツキにさえ力では勝てないだろう。

 

 しかしナザリックがラナーに求めているものは自身の頭脳。であるならば、ペンと紙があれば事足りると考え、ラナーは数ある異形種からこの種族を選択し……自身の選択に間違いは無かったと実感している。

 

「うふふ。ご主人様を放置して寝入ってしまうなんて、悪い従者ね。」

 

 ラナーは時折小刻みに痙攣しながら恍惚の表情を浮かべ、寝入ると言うより気絶しているクライムの頬を人差し指でつつく。辛辣な言葉に反し、その声色は柔らかく、浮かべる表情は笑顔だ。

 

 昨日はラナーが自分の部屋にシャルティア様とソリュシャン様を呼んだ際、クライムがシャルティア様の美貌とソリュシャン様の豊満な胸に目が移らないよう律している姿を見て嫉妬に狂ってしまい、夜に少しやりすぎてしまった。

 

 ソリュシャン様から以前依頼した人間を用いた〝快楽実験〟――もちろんクライムには解らないように隠語と暗号で話をしていた――の進捗状況を聞いて実践したくなったせいもあるだろう

 

 クライムが泣こうが叫ぼうが喚こうが……聞こえないとばかりに、笑顔のまま愛情を注ぎ続けてしまい、クライムは拷問じみた刺激で失神し、更なる強烈な刺激での覚醒を繰り返す天国(無間地獄)に叩き落され、途中から素っ頓狂な悲鳴とも嗚咽ともつかない声を上げ――〝逃げないで〟と命令すれば拘束せずラナーの愛情(ごうもん)を受け入れたのは可愛かった――最終的にはだらしなく舌を出したまま泡を吹いて完全に動かなくなった。

 

 ラナーはクライムとの間に残っている〝初めて〟を指折り数える。彼女の頭脳なら本気で思考すれば瞬きの合間だが、それはあまりにも無粋というものだ。

 

(初めてのデートはこの前の〝褒美の休暇〟で出来たから次はその記念日。わたしの手料理は……本当の意味ではまだね。クライムの手料理も食べてみたいわ。記念日にはプレゼントの交換も……クライムなら恐縮しちゃうかしら。手を打っておかないと。それと……)

 

 指折りの往復が100回を超えたあたりで数えるのを止め、胸に手を当ててクスクスと笑う。

 

 最も大切にしている2つの〝初めて〟は未だ温存しており、どちらも寸前に留めている。いつの日にするかは、ラナーの頭脳を以ってしてもあまりに取り返しの付かない計算でする気が起きない。

 

「やはりクライムが目覚めた初日に済ませるべきだったかしら。ズルズルといつの日にするか迷い続けるのも……。」

 

「らあぁさふぁ……」

 

 ラナーは夢の中でさえ自分を思う可愛い子犬にゾクゾクと快感を覚える。もっと近くで顔をみたい。そう近づいた刹那だった。予感はあった、ラナーは拒むという選択肢をとることも出来ただろう。しかし先ほどの思考が逡巡を呼び、一拍動作が遅れ……

 

 あっという間に、<大切にしていた初めてのひとつ>は奪われてしまった。

 

 突然の出来事、大切にしていた初めてのひとつを唐突に奪われながらも、ラナーに怒りはない。同時に彼女の頭脳は3つの事を脳裏で考えていた。

 

 1つ キスを漿果(しょうか)といった味覚や(たかぶ)りなどの精神的高揚に例えた吟遊詩人(バード)は大嘘つきであるということ。ラナーは例える言葉を探し、その聡明な頭脳は即座に例える事象などこの世に無いという結論を出した。

 

 2つ 神官や神学者、哲学者が幾星霜にもわたって議論し続けていた幸福の神秘が今まさに自分の身に舞い降りているということ。

 

 3つ 物心ついたときから【化け物】と言われ続けてきた自分が偽りでない涙を流すならば、今を逃すと一生ないであろうということだった。

 

 

 ●

 

 

「…さま!ラナーさま!」

 

 ラナーはクライムの声で正気を取り戻す。自分は今どんな顔をしているだろう。鏡は無いが、幾多の演技をしてきた経験から自分が無表情となっていることを悟る。そしてラナーにしては大慌てで〝クライムの知る笑み〟を作成した。

 

「ええ。大丈夫……よ。クライム。」

 

 駄目だ、頭が多幸感に支配されている。今日は仕事なんて出来そうにない。クライムは恐らく、自分に精神支配か何かが掛ったのだと誤解しているのだろう。その誤解は後々解くとして、ひとつ確認しなければならない事がある。

 

「ごめんね、クライム。ちょっと疲れが出ていたみたい。クライムより先に起きたのだけれど、少しボーっとしてしまったわね。」

 

「いいえ!本来であればラナー様をお護りするわたくしがラナー様を差し置いて寝入るなど恥ずべきことです!」

 

 やはり……クライムには自分がしたことの自覚が無い。ならば今回は<不慮の事故>であり、まだ<初めて>として取っておいていいだろうか?

 

 どのみち自分を翻弄した躾のなっていない悪い犬には折檻が必要だ。失神や発狂を防止するマジックアイテムを借りることはできるだろうか?

 

 そのためにはこの素晴らしい余韻に浸らず仕事を片付けなくてはならない。なによりもその現実が腹立たしい。

 

 ラナーはクライムに慈悲深い笑みを向けながら、初めて自分を翻弄した悪い子犬にどんな躾をしてやろうかとその明晰な頭脳で考えていた。



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覚悟の再会

「では少し留守にさせていただきます!ラナー様!」

 

「ええ。今日も訓練なのね。行ってらっしゃいクライム。」

 

 ラナー様はそう言ってクライムの頬に優しく口づけをした。リ・エスティーゼ王国の王女と従者だった時分では考えられない事であり、何度経験しようと慣れるはずもなく赤面し言葉に詰まってしまう。護るべき主からこれ以上ない形ある忠義の礼を賜ったのだから何か言わなくてはと思うのだが……

 

「あ、ありがとうございます!ラナー様!よりラナー様の御役に立てるよう精進いたします。」

 

 そんな気の利いた言い回しができるほどクライムは器用ではない。従者としての礼を行うしかない自分が歯がゆい。それでもラナー様は気にされた様子も無く、お優しい笑みを(たた)えておられる。

 

 クライムにもわかるほど少し寂し気な様子を見ると後ろ髪をひかれるが、周りが化け物だらけのこの墳墓で、従者たる自分が弱いままでいるわけにはいかない。

 

 クライムが魔導王へ忠誠を誓う際願った事は、【自分に稽古をつけて欲しい】というものだった。それに際し、自分に才能は無い事、ある程度の武技が扱えること、中でも<脳力解放>は自分のオリジナル武技であることなどを包み隠さず話した。

 

 魔導王は鷹揚に頷き、自分に興味を持ってくれた様子で――「ほうお前は〝レア〟なのだな」という何を言っているか解らない事を呟いていた――クライムに稽古をつける約束をしてくださり、リ・エスティーゼ王国に居た時分の訓練など鼻で嗤えそうな過酷な訓練をアンデッドや亜人、異形種たちと行っている。<小悪魔(インプ)>の身体になっていなければとっくに身体か精神に変調を来していただろう。

 

 ラナー様の守護領域を出ると、相変わらずその先は、廊下の先が見えないほど広大な空間が広がっている。見上げるような高い天井には、シャンデリアが一定間隔で吊りさげられ、白を基調とした壁や、大理石の床は隅々まで清掃が行き届いており、宝石のように光が乱反射して輝いていた。

 

 荘厳と絢爛さを兼ね備えた、正しく神の住まう別世界であり、その都度圧倒されてしまう。リ・エスティーゼ王国の王宮となど比べるべくもない、既に手遅れと解っているが、これほどの力を有していることを上層部に進言出来る立場だったならば……などという後悔と慚愧(ざんぎ)の念がクライムを襲う。

 

 しかしクライムが一番大切にして護りたい存在……ラナー様がご無事であった幸運に感謝するほか無いだろう。心を切り替えて塵ひとつない廊下を歩く。途中、美しい顔をしたメイドたちがクライムに一礼する。これも一挙手一投足が王宮に居たメイドと比べ物にならない見惚れてしまう程の洗練された優雅な動作だ。

 

 メイドの一礼に丁寧な返礼をしながら歩を進めていく中……

 

 今さっき返礼をしたメイドの一人に違和感を覚え、思わず振り返る。

 

「あの……ツアレさん?……もしかしてツアレさんですか!?」

 

 そこに居たのは以前稽古をつけて頂いたセバス様やブレイン様と共に、八本指の娼館襲撃で救出を行った女性だった。しかし〝素朴な村娘〟といった印象だった彼女に何があったのやら、メイド衣装に身を包んだツアレさんはクライムの記憶と大きく異なり、髪は綺麗に整えられ、肌艶も良くなり、その凛とした立ち姿は別人と見まごう……いや、最早別人と言っても過言ではないだろう変身を遂げている。

 

「クライム様ですよね。あの時は大変ご迷惑をお掛けしました。詳細はセバス様から聞いております。いつかお礼をと思っていたのですが、〝まだその時ではない〟とセバス様に……。この地で何度もお会いしておりながらお声かけもできず申し訳ございません。」

 

「セバス様がいらっしゃるのですか!?この……」

 

 〝この化け物の巣窟に〟と言いかけ、クライムはその言葉を飲み込む。自分の軽率な一言でラナー様に害が及ぶなどあってはならない。そしてツアレさんの一言から会ったのが初めてではないということに大きなショックを受ける。自分の目はどれだけ節穴なのだ。

 

「はい、セバス様はアインズ様の家令(ハウス・スチュワード)に御座います。」

 

 あのセバス様が何故魔導王に?クライムの頭にある相関図が辻褄を無くしていく。魔導王はラナー様に行ったように、セバス様に対しても権謀術数を以って配下に組み入れたのだろうか。あれほど強く優しい御仁だ、ラナー様の頭脳を超える欲深い魔導王が野放しにするはずがない。

 

「もしよろしければ……セバス様にお会いする事は叶いますでしょうか?」

 

 クライムは平静を装ったつもりであったが、その声は自分でも解るほど悲壮な決意がこもっており、ツアレさんは悲し気な様子で一拍置き何かを考え……

 

「アインズ様の御許可が下りれば可能であるかと。」

 

 再び凛とした顔つきに戻り、〝この地ではそれが当たり前である〟とばかりにあの魔導王の名を口にした。

 

 

 ●

 

 

 〝遂にこの時が来てしまった。〟

 

 セバスは<伝言(メッセージ)>を受け取り、鋭い眼光の間に皺を寄せる。何の因果か以前エ・ランテルの街で出会い、即席の稽古をつけ、ツアレ奪還の助力を貰った少年クライム。

 

 彼が……正確には彼の主人である【黄金の姫】が彼を連れてナザリックにやってきたことは知っている。もちろんどのような経緯を経てナザリックにやってきたかも……。

 

 セバスはあの少年はともかく、精神の異形種と称される【黄金の姫】を好きになれなかった。自分たちが八本指の娼館襲撃で救出した他の元娼婦全員を謀殺し、リ・エスティーゼ王国と魔導国の戦争……否、大虐殺では9割が彼女の筋書きで進んだという。何を考え行動しているのか全く理解できない危険な女だ。

 

 デミウルゴスに抱く嫌悪感とは全く別の……それこそ理解不能な存在を前にした原始的で強烈な嫌悪感をセバスは【黄金の姫】に抱いている。たっち・みー様より〝鋼の執事〟として創造された自分がこんな事を認めたくはないが、今抱いている感情を人は〝恐怖心〟と呼ぶのかもしれない。

 

 【黄金の姫】は間違いなくツアレに害をなす存在となるだろう。ツアレは既にエ・ランテルにおいてメイド主任の座に就き、自分が四六時中守れる立場にいない。そう考えると【黄金の姫】とは会わせる気にもならなかった。もちろん以前の失態から学び、エ・ランテルで起こった事の全てはアインズ様に伝えている。

 

 慈悲深い主はクライムに稽古をつける計画を立てる際「以前師事したならばセバスが適任と思ったのだが……」という前置きをしつつも、自分が彼とまだ会いたくない我儘を受け入れて下さった。自分の勝手な行動による失態を咎めぬばかりか、図々しくもツアレの助命まで叶った。

 

 そんな自分に更なる慈悲を掛けて下さったアインズ様には尊敬の念を深めるばかりだ。

 

(しかしツアレがメイド修行のためナザリックへ戻ってきている時点で遅かれ早かれ、彼との再会は時間の問題でした。わたくしは逃げていたのでしょうね。恥ずべき事です。)

 

 ツアレの存在に最初に気が付いたのが【黄金の姫】でなかっただけまだ良かったのかもしれない。セバス直属の部下である以上、あの女とてツアレを謀殺させる真似など出来ないだろうが、デミウルゴスと比肩する頭脳を持つ女だ、どんな目に遭うか分かったものではない。

 

 そんな思考をしている間に、<伝言(メッセージ)>で指定された会議室の前に辿り着く。セバスの覚悟は既に固まっている。ノックの後、ゆっくりとドアノブに手を掛けた。

 

 

 

 ●

 

 

「お久しぶりですね。クライム様。」

 

「セバス様!」

 

 クライムはツアレを通し、セバスに会いたいという願いを魔導王に伝え、その願いを叶えることが出来た。しかし詳細については全く知らない事ばかり。どのような経緯があってセバス様は魔導王に忠誠を誓っているのか……。ラナー様の例もある。場合によっては心の傷に塩を塗る真似となるが、クライムはどうしても無視できなかった。

 

「まさかクライム様がナザリックへいらっしゃるとは……。世間と言うのは本当に狭く、(えにし)とは怪奇なものです。」

 

「セバス様、わたくしに敬語など……。」

 

 クライムがそう口にするとセバスから極寒の瞳が……以前稽古をつけてくれた際の殺意に近い波動が飛んでくる。

 

「クライム様は【領域守護者】の従者であられます。執事(バトラー)であるわたくしがアインズ様や貴方様の主の許可なく敬語を廃するなど出来るはずが御座いません。……そしてこの地において【領域守護者】という肩書きはそれほど重いものなのです。従者でしたら自覚をお持ちください。」

 

 立ち上がったクライムが思わず椅子に座り込んでしまう。今目の前にいるのは〝自分の知っているセバス様〟ではない。まさか悪魔が化けているなんてことは無いだろうが、あの見知らぬ少年を助け、図々しくも自分に稽古をつけて下さり、ツアレさんの安否を心の底から心配していたセバス様とは違う。

 

「……申し訳ございません。気が立っていたようですね。今のところ敵意は御座いません。お茶をお淹れしましょう。」

 

 本来なら一言お礼をいうか、自分が淹れますと言う場面だろうが、クライムは頭の整理が付かず、ただ頷くことしか出来なかった。そして卓に湯気を立てた紅茶と焼き菓子が置かれる。

 

「さて、何からお話しましょうか。」

 

「せ、セバス様はいつからこのナザリックへ……?」

 

「いつから……というのは難しい質問ですね。わたくしはこの地で至高の御方々に忠誠を誓う家令(ハウス・スチュワード)として創造されました。であれば〝最初から〟というべきでしょうか。」

 

「セバス様は……リ・エスティーゼ王国がこうなることを最初からご存じだったのですか?」

 

「わたくしがアインズ様の叡智に届くはずが御座いません。」

 

 クライムはセバスの言葉の意味を咀嚼する。つまり自分たちに会った時点では瓦礫の山になることなど予想していなかったという意味で間違いないだろう。

 

「では、あの時少年を助けたことも、わたしに稽古をつけてくれたことも、ツアレさんを助けたことも魔導王陛下のご指示だったのでしょうか?」

 

 クライムの身体が無意識に震えてしまう。あの優しさも、全ては魔導王の掌の上だったのだと思うと恐ろしくてしょうがない。

 

「いいえ。あの一連の件は全てわたくしの……そうですね失態です。アインズ様のご命令とは全く関係の無い、御方々へ忠誠を誓う、家令(ハウス・スチュワード)としてあってはならない恥ずべき行為でした。」

 

 セバスの眼を見るが、その瞳からはどんな感情も読み取る事が出来ない。

 

「何度も言うようにわたくしはアインズ様の忠実なるしもべ。アインズ様がご命令すれば貴方だろうと躊躇なく殺しますし、実際わたくしはアインズ様のご命令でツアレを一度殺そうとしております。」

 

「……!?何故そのようなことを!」

 

「もう一度言った方がよろしいでしょうか?〝アインズ様のご命令だから〟です。貴方もナザリックで生きる決意をされたのでしたら、この言葉を絶対に忘れてはなりません。」

 

「わたしが魔導王陛下に〝ラナー様の首を刎ねろ〟と命令されれば……」

 

「躊躇なく実行しなさい。もっとも、アインズ様は慈悲深い御方です。絶対とは言いませんが、そのような命令が下る事はまずないでしょう。しかし、貴方の護るべき主と無辜の民を天秤に掛け、どちらを殺すか選択しなければならない機会が訪れる確率は高いですね。」

 

 脅しや脅迫ではなく、起こり得る現実を淡々と述べている。そんな様子にクライムは激情を覚え、セバスを睨みつけてしまう。殺される覚悟でセバスの胸倉を掴み、〝何故魔導王に忠誠を誓う〟のか問い詰めたい破滅を(はら)んだ衝動に駆られる。しかしその問いをすれば間違いなく殺されるか、下手をすればラナー様に害が及ぶ。

 

 思えばセバスの偽悪的な発言の全てはクライムにその質問をさせないための優しさだったのかもしれない。いや……そうとしか思えなかった。睨みつけたセバスの鋭い瞳の奥に、悲しみの感情が透けて見えた気がしたためだ。

 

「わかりました……。セバス様。御忠告感謝いたします。」

 

「クライム様。あなたは本当にお優しくお強い方です。母国を滅ぼした敵国の仲間だったわたくしを責める権利があなたにはあったのですが。」

 

 クライムは思わず小さく笑ってしまった。

 

「お優しさも強さも、セバス様には負けてしまいます。」

 

 セバスはクライムの言葉に意表をつかれたようで、少し目を見開く。そして極寒の瞳は解氷し、笑顔を浮かべた。

 

「折角淹れたお茶が冷めてしまいましたね。なにやら訓練を行っているとのこと。もしわたくしに時間が出来たのならば是非また手ほどきをさせていただきたいのですが。」

 

「はい!願ってもないことです!」

 

「では話題を変えましょう。わたくしはお茶を淹れなおしてまいります。」

 

 

 

 ●

 

 

 

(なるほど、魔導王陛下の最側近、その直属の部下……。厄介ね。こちらから手を出す訳にはいかないわ。)

 

 ラナーは訓練から戻ってきたクライムから話を聞き、その内容からナザリック内における人物関連図を形成していた。

 

 【ツアレニーニャ・ベイロン】――愛しのクライムが命がけで悪漢の巣窟から救い出す攫われた姫という立場を奪った忌まわしい女。その女がナザリックでメイドをしているという情報は早々にラナーは掴んでいた。

 

 殺してやりたい――否、殺すなど生ぬるい、そんな慈悲さえ掛ける気にならない人間の筆頭だ。人間として幸せを手に天寿を全うするなど許されるはずがない。

 

 それ故、ラナーはまずクライムを使って情報収集を行うことにした。彼女がこの地に戻ってきている時間帯とクライムが鉢合わせとなるよう何度も仕組んでようやく実を結んだ。正直に言ってしまおう、お手上げだ。

 

 彼女を殺そうと動けば間違いなくセバス様が黙っていないだろうし、魔導王陛下より愛想を尽かされ最悪用済みとなり殺される。

 

 考えられるのは不可抗力を装った嫌がらせくらいだが、リ・エスティーゼ王国の王宮でメイドたちがクライムに散々行っていた稚拙な行為だと思うとそんな気も起きない。

 

(本当、思い通りにいかないことだらけね。これが〝人生〟というのならば、わたしは本物の異形種になって初めて【人間】になったのかもしれないわ。)

 

 ラナーは生まれて初めて〝挫折〟という感情を味わっていた。人間たちはこのやり場のない怒りをどこにぶつけていたのだろう?だが、ラナーにとっては考えるまでもない。早く仕事を片付けてクライムと戯れる。それ以上の幸せなど、この世に存在するはずがないのだから。



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幸せ者と愚か者

「なるほど、ローブル聖王国の〝顔なし〟……ネイア・バラハは元々ナザリックに居た異形種ではなく、魔導王陛下が創り出した駒だった訳ね。」

 

 ラナーは仕事を早々に片付け、自室でクライムに読まれても大丈夫なよう暗号化された文章を読み、ローブル聖王国で行われたナザリックによるヤルダバオト襲撃についてを学んでいた。

 

 とはいえ、ラナーはリ・エスティーゼ王国に居た時分からヤルダバオトの正体は知らされていたので、ローブル聖王国に現れたと聞いた時点で彼の国がどのような結末を辿るかはある程度予想をし、見事に的中させていた。

 

 未知の化け物……〝女教祖顔なし〟を除いて。

 

 まずラナーの予想していた事だが……

 

 ・完全に滅ぼされる……この可能性はまずないだろう。国家戦略を組み立てる上で、未知に溢れた宗教国家スレイン法国に対し、飛び地の領土を持つ利益は計り知れない。

 

 魔導王陛下はその力に驕ることなく智謀を弄する傑物だ。ラナーを以ってしても謎に包まれる強大な国家に一手打っておくことは当然の事。ましてスレイン法国ほどではないが、宗教色の濃い国家がアンデッドの国に篭絡された衝撃は大きなものだ。

 

 

 ではどのように魔導国の領地とするか?

 

 

 ・ヤルダバオトが灰燼に帰した地に軍を向ける……この可能性は排除していいだろう。魔導王陛下は国家間の大義名分を無視する御方ではない。それこそ魔導国の軍がヤルダバオトを倒したとしても、他国との戦争の火種を自ら作るようなものだ。

 

 ・救援要請で軍を差し出す……正直一番の王道だが、ローブル聖王国がアンデッドを不俱戴天の敵としている事が仇となる。聖騎士で構成される正規軍が認めないはず。正規軍が壊滅し、国の体を成さなくならない限り頼る事は無い。ならば除外だ。

 

 ・配下が単身で助けに赴く……〝漆黒の英雄〟を初めとして、魔導国には一騎当千の化け物が勢ぞろいしている。特に一度ヤルダバオトを撃退したモモンの力は地獄の渦中に居るローブル聖王国からすれば喉から手が出るほど欲しい逸材なはず。しかし〝冒険者〟というモモンの立場がネックだ。民たちは魔導国にではなく〝モモン〟に感謝し、統治や占領に大幅な時間がかかる。それは他の配下でも同じこと。

 

 ・一国の王(魔導王陛下)が単身他国を助けに行く……どこの吟遊詩人(バード)が唄う冒険活劇かと笑いたくなるが、この可能性が一番高いと考え、ラナーの予想は見事に的中した。

 

 まずローブル聖王国が救援を求めるにあたり、使者団を送るならば確実に聖騎士の軍だろう。そして聖騎士の魔導王陛下に対する認識は〝一国の王〟ではなく<忌々しいアンデッド><滅ぼすべき怪物>だ。そんな人物が母国に災い成す大悪魔と衝突してくれるというならば忌避感は覚えない。相打ちとなって両方滅んでくれればこれ以上のことはないだろう。

 

 そして傀儡政権を樹立させて北部と南部を対立、やがて内戦に発展させ友好国の混乱沈静目的に魔導国は大手を振って軍を動かす。ここまではラナーも予想していたことだが、未だリ・エスティーゼ王国の王女だった時に、目を疑うような報告が飛び込んできた。

 

 〝魔導王陛下を絶対の神と信仰する宗教団体〟というローブル聖王国の歴史からすれば確実にあり得ない数万人を超える集団と、【顔なし】なる女教祖だ。

 

 魔導国……いや、ナザリックには数万人を永続的に精神支配する化け物までいるのか?と疑ってしまった。だがそんなそんな存在がいれば、リ・エスティーゼ王国であんな茶番劇を行う必要などなかっただろう。

 

 調べれば魔導王陛下についていた聖騎士見習の少女だという。しかしナザリックはそれこそ〝数万人を永続的に精神支配する化け物〟を得たことになる。精神支配というのは数ある状態異常の中で最も厄介な代物と言っていい。何しろ「死ね」と命令するだけで相手の命を奪えるのだ。

 

(マズいわね。利用価値を考えればわたしより数段上。デミウルゴス様は〝駒〟と仰っていたけれど、魔導王陛下が自ら造り上げた駒という立場は、わたしの考える〝駒〟と質が異なる。……本当に常識を疑うという作業は難しいわね。それに〝顔なし〟はシズ様と懇意にされていたという。魔導王陛下の反応はまるで……)

 

 ……まるでレエブン侯の子に良き友人が出来、自慢をしていた時のようだった。なんてナザリックの者には口が裂けても言えないだろう。ラナーの頭脳を上回る智謀の怪物だ、全ては演技で何らかの罠かもしれないが、〝顔なし〟とシズ様の友誼について問うた時、魔導王陛下は喜ばしく思っているような印象だった。

 

 下手をすれば今後の動向次第で〝顔なし〟はナザリックの後輩になりかねない。しかし彼女が有する能力をラナーは認める事が出来なかった。

 

(わたしのクライムが、わたし以外の女の言葉に心動かされるなんて……絶対に耐えられない。)

 

 ナザリックには【黄金】と讃えられた自分の美貌さえ霞む、文字通り人外の美女が溢れている。それでもクライムは自分を一番に見てくれており――たまに目移りしたときはうっぷん晴らしも兼ねて徹底的に〝躾〟をしている――相手側もクライムを本気で奪おうとしていないことなど分かっているので何とか耐えられる。

 

 だが〝同じ元人間〟〝ナザリック外の者〟〝年の近い少女〟にクライムの心を一瞬でも奪われるなど、考えるだけで憤死しそうだ。ましてあの純粋なクライムだ、洗脳なんてされたらラナーは立場や役割を考えず〝顔なし〟を殺すことだけに頭が支配されてしまう。

 

 そうなればクライムとの永劫の幸せが途絶えてしまう。それだけは絶対に避けなければならない。

 

 ローブル聖王国を併呑すれば嫌でも自分は〝顔なし〟をどのように役立てるか計画を練る立場になるだろう。もしかすれば顔合わせをしないといけないかもしれない。その時自分はいつものような演技が出来るだろうか? ただ考えるだけでこれほど心乱されているというのに……。

 

 〝如何にクライムと顔なしを会せないようにするか〟

 

 その完璧な答えが出ない。ラナーはその艶やかで麗しい金髪をわしゃわしゃとかき回す。自分がこれほどやり場のない怒りに翻弄されるのは生まれて初めてかもしれない。

 

「ラナー様!お気を確かに!どうされたのですか!?」

 

「!!」

 

 ラナーの背筋が凍りつく。いつの間にかクライムが訓練から戻ってきており、ノックの音を聞き逃し、入室を許してしまったようだ。平常心のラナーならあり得ない大失態だ。

 

 何処から見られていた?どんな顔をして振り向けばいい?様々な思考が脳内で奔走し、その聡明な頭脳を以ってしても完璧な答えを出せない。しかしクライムは表情さえ作れていない自分を強引に振り向かせ、その純粋な瞳を向けてきた。

 

「ラナー様!酷く怯えていらっしゃいますが、どうされたのですか!?」

 

 ……自分が怯えている?少なくともクライムの目には素の自分はそう映ったらしい。【怯える】――なんとも懐かしい、そして忌まわしい記憶。

 

 クライムの純粋な瞳に見据えられ追想するのは、自分は正論を述べているというのに〝精神に変調を来した子供〟と不気味がられ、周りは愚者ばかりなのかとこの世に絶望し、自分の世界だけに閉じこもり緩慢な死を遂げようとした頃の記憶。誰もわかってくれないならば、自分は自分とだけ会話する。今ならば愚かと理解できる空虚な記憶だ。

 

 そして今見据えられている瞳に全てが満たされた。この瞳こそラナーの全てだ。思わず演技や計算もなくクライムを抱擁する。

 

「ら、ラナー様!?」

 

 愛しのクライム。可愛いクライム。私だけのクライム。……かつての、結ばれる前の自分がどれだけ恵まれていたか実感してばかりだ。〝頭は良いが能天気でお人好しなお姫様〟を演じていれば、クライムをバカにする者、邪魔する者はすべて排除出来た。

 

 自分はクライムと本当の意味で、最高の形で結びつくことが出来た。後悔なんてないと思っていた。だが、自分がこれほどの愚か者に堕ちるなど、自分でさえ想像できなかった。

 

 ラナーは最高の幸せ者となった。ラナーはもっと、わがままになってしまっていた。



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クライムの残酷な試練

 身体がおかしい。

 

 ラナー様の御部屋にはベッドが一つしかなく、1人で眠るのが寂しいからというラナー様のご希望で、クライムは従者として誠に不敬ながら、就寝を共にさせていただいている。そんなクライムだが、今日はどうにも無視出来ぬ身体の変調を覚えて仕方が無かった。

 

 クライムは自分の鼓動が隣で眠る護るべき主にまで聞こえるのではないかという程の動悸と、精神の昂りからくる過呼吸を気合と根性だけで抑え込もうとしていた。小悪魔(インプ)となった己の身体も(やまい)というものは訪れるのだろうか?

 

 もし感染性の疾患であるならばラナー様の御傍から離れなくてはならない。しかしラナー様の執筆された文書を取りに来たのが偶然神官職を持つメイドであり、診断してもらったところ、その結果は【異常なし】というものだった。

 

 身体が熱い。薄い寝巻しか羽織っていないが、それすらも脱ぎ捨てたくなるほどだ。

 

「どうしたの?クライム?」

 

「ひぅ!!い、いいえ!何でも御座いません。ラナー様。」

 

 ラナー様が心配そうに自分を見つめる。従者として主に心配をかけるだけでも大罪だというのに、クライムはあり得ぬ失態に消えてしまいたい程の罪悪感を覚える。あろうことか主の言葉が風に乗り、吐息となって首筋に当たり身体が無意識に跳ねあがってしまった。

 

 あり得ない、あってはならない、何かの間違いだ。クライムは脳内で何度も何度も何度も自分に言い聞かせる。

 

 ……自分がラナー様に劣情を抱いているなど、絶対に何かの間違いだ。

 

「クライム。やっぱり様子がおかしいわ。わたしに出来ることがあれば〝何でも言って〟頂戴。」

 

 ラナー様は本当に憂慮を孕んだ慈悲深い表情で、心の底から自分を心配して下さっている。しかし自分が心の奥底で理性を総動員させ封印している下卑た願望など、間違っても晒せるはずがない。

 

 自分はラナー様の忠実なる従者。それ以上でもそれ以下でもないと、クライムは脳内でひたすらに理性と煩悩の闘争を繰り広げていた。

 

 

 ●

 

 

 ナザリック第9階層のBARで、ラナーは副料理長の元、カクテル作りの勉強をしていた。

 

 この褒美を賜るためラナーは7日7晩飲まず食わずの不眠不休で――小悪魔(インプ)の体になったので飲食も睡眠も娯楽のようなものだが――非常に珍しい事にクライムの瞳さえ碌に見ることも無く仕事に熱中し……

 

 【輸送便のゲーム理論による生物学・行動心理学のデータ予測に基づく効率化】【アンデッド作成の作物を忌避する魔導国民並びに他国民の心理に介入する穏健なる提案】【人間と異形種の包括的ヘルスプロモーションの有用性および長寿命化における弊害と本論文の問題に対する反駁】【魔導国民種族別活動遂行尺度の開発並びに信頼性・妥当性の検証】……etcetc.

 

 兎に角アルベド様から与えられた任務のほかに、ナザリック・魔導国の利益となりそうな論文や数式を思いつく限り書き続けた。本来ならいくつかのアイデアは温存しておき、急事のために備えておくべきだっただろう。

 

 何よりあまりにも行動が露骨すぎ、アルベド様から〝この女は魔導王陛下から褒美を賜ろうとしている〟と嫌悪感を持たれる――実際持たれただろう――デメリットもある。

 

 しかしラナーは雛鳥のように口を開け褒美が来るのをどうしても待てなかった。そうしてラナーの努力は実を結び、魔導王陛下から褒美の休暇と<望むもの>の一つを勝ち取った。

 

「なるほど、この分量で酒精(アルコール)と果汁を攪拌(かくはん)……<すてあ>させるのですね。」

 

「はい、〝比較的作りやすいもの〟をお望みということですので、基本的なカクテルではあるのですが……」

 

 茸生物(マイコニド)の副料理長は【黄金の姫】の呑み込みの早さに舌を――そんなものはないが――巻く。以前セバス様が拾ってきたツアレという下等種にも飲み物作成の基礎・基本は教えたが、頭の出来が根底から異なっているのだろう。

 

 最初飲み物の開け方すら解らなかった【黄金の姫】は一度自分が見本をみせ、2,3度練習させただけで、計量器さえ使うことなく副料理長と寸分たがわぬ配分でカクテルを作成している。問題は……

 

「あの……。ラナーさん?その得体の知れない水薬(ポーション)は?」

 

「これですか?これは……」

 

 その瞬間、【黄金の姫】は宝石のような笑顔から、副料理長さえ後ずさりしたくなる不気味な【精神の異形種】としての笑顔に変貌する。

 

「カルネ村の薬師が作った<精強剤><興奮剤>というものだそうです。一番強力なものを魔導王陛下からご下賜頂きました。」

 

 ……この女は栄えあるナザリックの飲み物に異物を混ぜるつもりだ。そう思うと副料理長は強い嫌悪感を覚えるが、顔に感情を出すことの出来ない自分が今はもどかしい。

 

「〝知性ある異形種に精神的高揚効果のある水薬(ポーション)が効くか?〟そして〝酒精や他の果汁に混ぜても効果が薄れないか?薄れない組み合わせはどれか?〟という実験です。アルベド様もこの実験に許可を下さいました。」

 

 既に【黄金の姫】は自分が覚えるであろう忌避感に対し、根回しまで済ませていた。守護者統括殿の太鼓判があるならば自分如きが(とが)める訳にもいかない。〝何故堂々と飲めと命令しないのか?〟という疑問が残るが、相手はナザリック3大知者に比肩する精神の異形種。自分の質問など煙に巻かれてしまうだろう。

 

(本当、何を考えているのか解らない不気味な女です。)

 

 この女は自らの作ったカクテルに水薬(ポーション)を入れて口に含み口腔内に空気を混ぜテイスティングを繰り返し、その都度 「この程度なら……いえ」「酒精で成分が懸濁(けんだく)することはないと言っていたから……」 などと呟きながら微調整をしている。

 

 こうなれば副料理長に出来ることは一つも無い。今はアインズ様のご命令である〝この女に飲み物の作り方を教える〟という仕事を全うし、それ以外の感情は全て遮断しようと決意した。

 

 

 

 ●

 

 

 7日ぶりにクライムと囲む晩餐をラナーは素直に楽しんでいた。リ・エスティーゼ王国ではクライムと一緒の卓で食事を楽しむなど出来なかっただけに、この喜びは何度経験しても陰ることが無い。

 

 クライムは毎回〝畏れ多い〟と固辞するが、寂しさを孕んだ笑顔を向けてやればガチガチに緊張しながらも同じテーブルに着いてくれる。並ぶ料理は王宮の贅を凝らした晩餐会すら稚拙と嗤える、ラナーですら味わったことのない造形美から味まで全てが桁違いの料理ばかり。

 

(本当は手料理を振舞いたいのだけれど、その楽しみは今度ね。)

 

「さぁクライム。久々の食事を楽しみましょう。」

 

「は、はい!ラナー様!」

 

 ナイフとフォークの使い方すら危なっかしいクライムは、ラナーの食事作法を見よう見まねで模倣しおっかなびっくり食べている。クライムは自分に合わせて7日7晩不眠不休の絶飲食状態だ。別に死ぬわけではないが、人間の残滓として自分と同じように、空腹や精神的疲労を覚えているはず。

 

「ラナー様!この度はお仕事、本当にお疲れ様でした!」

 

「ええ、ありがとう。特別に飲み物を用意したわ。〝カクテル〟というらしいの。とても美味しいわよ。」

 

「これはまた……美しいお酒ですね。」

 

 ラナーは琥珀色に輝く美酒の入ったグラスをクライムに向ける。〝乾杯〟という魔導国の風習だ。

 

 クライムは慌てて自分もグラスを持ち、ラナーのグラスよりも下に傾け軽快な硝子のぶつかる音を鳴らす。……そして〝美味なる酒〟をラナーに合わせて一気に飲み干した。

 

 これで計画は万全だ。ああ、食事の終わった後が楽しみだ。ラナーは笑顔の裏で今後の展開に胸を膨らませていた。

 

 

 そして食事は終わり……。ルプスレギナ様を通じ、水薬(ポーション)が万全に効いている事を確認し終えたラナーはクライムと同じ床に就く。

 

 クライムを抱擁すれば鼓動の音が容易に感じ取れ、呼吸は荒くなっている。クライムの瞳は今まで見たことの無い罪悪感に押しつぶされそうな瞳で、同時に獣欲を理性で抑え込んでいる強い葛藤の瞳だ。待てを食らった犬の瞳にラナーはゾクゾクと快感を覚える。

 

「どうしたの?クライム?」

 

「ひぅ!!い、いいえ!何でも御座いません。ラナー様。」

 

 少し吐息をかけてやると、身体が面白いように跳ねあがっている。薬の効果で耐えきれない程の煮えたぎるような獣欲を覚え、それを理性と忠誠心で抑え込んでいる様には愛おしさしか感じない。

 

「クライム。やっぱり様子がおかしいわ。わたしに出来ることがあれば〝何でも言って〟頂戴。」

 

 ……今クライムが何をして欲しいかなんて解りきっている。だがクライムの口からは絶対に出てこないだろう。邪念を振り払うように大きく首を横に振るだけだ。

 

「そう、無理はしないでね。」

 

 そのままクライムの太ももをラナーのきめ細かい指が一つ撫でる。羽で触れるような優しい優しい刺激だが、今のクライムにとってはどんな激痛よりも残酷な刺激だろう。悲鳴にも似た声を噛み殺している姿にラナーは絶頂すら覚えそうになる。

 

 最高の意地悪をしてみよう。ラナーはクライムを優しく抱擁し、そのまま目をつぶって狸寝入りをした。クライムの身体がもじもじと動いている。ああ狂おしいほど愛おしい。このまま黙っていればクライムは自分を襲うだろうか?

 

 ……悲しいが絶対に無いだろう。明日は一日休みだ。可愛がるのは朝からでいい。今は寝相による不可抗力を装って吐息を掛けたり、軽く〝暴発〟しないよう触れる程度に留めよう。理性と忠誠心だけで本能と闘う忠犬を楽しみながら、ラナーは世界一幸せな狸寝入りを行っていた。



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避難訓練 序章

 ラナーの守護領域のドアからノックの音が響き、ラナーは入室を許可する。

 

「ただいま戻りましたラナー様!」

 

「あら、おかえりクライム。」

 

「はい、本日も充実した鍛錬を行えたと考えます。復活により失った力も順調に取り戻しており、この調子でラナー様をお護りする従者として相応しい者になれればと!」

 

「そう。……ところでクライム。【絵画の価値】って、値段で決まると思う?美術性で決まると思う?それとも画家で決まると思う?」

 

「ラナー様?一体何のお話でしょうか。」

 

「芸術品の中でも、宝石や金細工と違って【絵画】とは面白いものね。リ・エスティーゼ王国の貴族たちはその芸術性も解らず、見栄のため値段と画家だけで絵画の価値を決めていた。本当に愚かな話だと思うわ。わたしは、例え他人に理解されなくても自分で飾りたい、常に傍に置きたいと決めたものにこそ価値があると思うの。まぁ、本物の風景に勝る風景画などこの世にないと言うのがわたしの持論なのだけれど……貴方様はどう思われますか?」

 

 クライムは目をパチクリさせた後、顔に手を当てて不敵に笑った。

 

「おお!ラナー嬢(フロイライン・ラナー)!なるほど!【絵画】と例えられてしまいましたか。機知と皮肉を孕んだ面白い意見表明です。少し悪戯が過ぎましたかね?流石はアインズ様がお認めになられた精神の異形種。こうも簡単にわたくしの千変万化を見破るとは!」

 

「わたしの犬はそんなに賢い瞳をしておりませんので。もっと愚直でそして純粋です。遅くなりましたがご挨拶を失礼いたします。お初にお目にかかります、パンドラズ・アクター様。」

 

 ラナーは椅子を降りて跪く。ナザリックの財政面における責任者であり、デミウルゴス様やアルベド様に比肩する頭脳を持つ存在として知識には入っており、幾つか財政面の草案を提出したこともある。だが、こうして直に会うのは初めてだ。

 

 アルベド様やデミウルゴス様に比肩する頭脳を持つ御方ならば、ラナーが跪いた意味についても正しく理解してくれるだろう。

 

 パンドラズ・アクターも跪いたラナーを見て、自分が悪戯をしに来た高位のドッペルゲンガーや幻術による擬態でない事を看破し、取り返しのつかない動作に移した彼女の頭脳と胆力を再評価する。

 

 名乗ってもいない相手の名前まで出した以上、間違いだったなら無礼千万と罰せられてもおかしくはない。【黄金の姫】にとって彼女の頭脳が導き出した答えというのは、自分が命を懸けるに十分であると自覚していなければ出来ない行動だ。

 

(もっと慎重な方であるとアルベド嬢やデミウルゴス殿から聞いておりましたが、随分と傲岸不遜な行動を取りますね……。ペットを遊ばれ感情的になっているのでしょうか?いえ、それもありますが、自分の弱みをこちらに改めて差し出したとみるべきでしょう。なるほど面白いお嬢様です。とはいえ……)

 

「……行動が軽率過ぎますね。アインズ様はそのような慢心こそ(いと)われる御方。まぁ今回はわたくしにも麗しのお嬢様に無礼を働いた非がありますし、ラナー嬢(フロイライン・ラナー)の胆力に免じてギリギリ60点の及第点と致しましょう。」

 

 そう言ってクライムの形はグニャグニャと姿を変え、シズ様曰く〝ぐんぷく〟なる衣装を羽織った埴輪顔の奇妙な異形種がコートを颯爽(さっそう)(ひるがえ)して現れた。

 

「御忠告感謝申し上げます。」

 

 ……やはり自分の稚拙な演技など筒抜けか。そうラナーは畏怖を募らせる。〝気が付いていない演技〟なんてしていれば60点さえもらえなかっただろう。

 

 【些細なミスも許されない】ことと【些細なミスを恐れて保身に走る】ことは似ているようで全く異なる。相手に合わせてこのような危ない橋の一本も渡らなければならないのがラナーの立場だ。

 

 【パンドラズ・アクター】……このナザリックにおいて唯一魔導王陛下の御手で創造されたという特殊な存在であり、〝漆黒の英雄〟や魔導王陛下の影武者を務める底知れない御方。

 

 いずれ顔合わせをするだろうことを見越して、ラナーはパンドラズ・アクター様の情報をシズ様から聞いたり、ラナーに依頼される書類仕事内容……事務的に徹するアルベド様や機能美の塊を書面にするデミウルゴス様と違い、まるで朗読劇や戯曲の台本を思わせる文面で依頼内容が来ることなどを総合して性格を考察し、対面に際し何千パターンものシミュレーションをしていた。

 

 この御方は今行ったような演技じみた言動や、〝自分の命をBETする〟といった舞台設定を好まれるというのがラナーの導き出した答えであり、行動に間違いはなかったことに安堵を覚える。初対面として上々とはいかないまでも、失望はされなかっただろう。

 

 ……それにしても魔導王陛下が御手で創造された御方がこの方だというならば、リ・エスティーゼ王国の最後に魔導王陛下が自ら悪役を演じたのは、自分を縛り付ける計画だけでなく、趣味も入っていたのではないかと邪推してしまう。

 

「さて、この度訪れた目的ですが、ナザリックで〝避難訓練〟を行うことになりました。」

 

「避難訓練……でございますか?」

 

「はい、〝もしアインズ様と連絡が取れなくなった場合〟〝アインズ様が急務によりナザリックをしばらく離れる場合〟〝アルベド嬢がナザリックへ長く戻れない仕事に就いた場合〟など、書面でいくつも提出されているのは御存じと思いますが、アインズ様は完璧を求める御方!書面通りに機能するかの練習を欠かさず行っているのです。」

 

「なるほど、流石は魔導王陛下です。」

 

「それで今回の避難訓練の内容なのですが……。」

 

 いちいちシュバシュバとポージングを変えないとこの方は死ぬのだろうか?とさえ思うほど、話す度に様々な動きを披露している。シズ様が「…………ちょっと〝うわぁ〟と思う方」と言っていた意味が少しわかった気がする。

 

「【アインズ様もアルベド嬢も居ない状態で魔導国を運営しなければならず、かつ急務の使者が来た場合】となります。つまりわたしがアインズ様の影武者を行い、貴方様には〝魔導国宰相代理〟を行っていただく運びとなりました!」 

 

 ラナーは急に訪れた重責に無意識に身体を震わせてしまった。



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避難訓練 ① 一室での葛藤

 大変なことになってしまった……。

 

 パンドラズ・アクター様の去った部屋で、ラナーは頭を抱えていた。訓練とはいえ自分がアルベド様の代理を行うなど、それこそ一挙手一投足の失態すら許されぬ。今のラナーには荷が重すぎる職責。

 

 〝魔導国宰相〟ならまだしも、〝全領域守護者並びに階層守護者統括〟という、初めて聞いた時は疑問符を浮かべた地位がナザリックにおいてどれほど意味のある肩書であるか、この地に来るまで正しく把握できていなかった。

 

 直属の上司がそんな魔導王陛下の右腕とも言える御立場というだけでも厄介だというのに、その代理など自分に務まるはずがない。

 

(下手を打てば、わたしもクライムもまとめてエサか玩具かモルモットね……。)

 

 自分は既にナザリックへ首輪を差し出している。ラナーの想像する最悪の事態など遥かに凌駕する地獄の所業が、自分だけならまだしも、クライムに行われるなど考えるだけで悪寒が止まらない。歯をガタガタと震わせながらも、ラナーは状況を整理する。

 

(避難訓練と仰っていたけれど……。つまりは急事に際しての事前演習。今回は万全でなかろうと、せめて失望はされず、改善点を魔導王陛下やアルベド様にご納得いただける内容まで考察できること。何が起こるか解らない事だらけだわ。魔導王陛下は情報収集の重要性を説かれている御方。まずはアルベド様とパンドラズ・アクター様より集められるだけ情報を集めなければ。しかし、魔導王陛下がわたしに何を求めているのか解らない。行える全力を尽くし、天命を待ち、天命がわたしに味方するのを祈るしかないわね。)

 

 ノックの音が鳴り、ラナーは平静を演じる。乾いたノックの音色が今のラナーには神より賜る福音にさえ思えた。そして普段ならばクライムが入るのを待つところだが、思わず扉に向かって駆け出してしまう。

 

「クライム!お帰りなさい!」

 

「ら、ラナー様!どうされたのですか!?あの、その……」

 

 クライムの手を引っ張り抱擁する。何度も何度も頬に唇を落とし、赤面しながら困惑しているクライムに癒される。

 

(大丈夫よクライム。あなただけはわたしが守ってあげるから。)

 

 クライムを抱きしめその純粋な瞳を見据えると、今までの震えも悪寒も嘔気も嘘のように消えていく。ラナーはクライムの身体に痣が出来るほどに抱きしめる。

 

 覚悟を決めるしかない。全ては【幸せに暮らし続ける】ために。

 

 

 

 ●

 

 

 大変なことになってしまった……。

 

 アインズは癖になりかけている溜息の真似事をしかけ、寸前で留める。以前ローブル聖王国で自分の無能な行動を正当化するため用いた方便である【避難訓練】だが、この度アルベドとデミウルゴス、パンドラズ・アクターの3人が知恵を合わせ、本格的に実施されることと相成った。

 

 今回の想定は【ナザリックにアインズもアルベドもおらず、帰還時期は不明。連絡しかとれない状態】というもので、魔導国的には【王も宰相もいない】ナザリック的には【絶対支配者も守護者統括も居ない】という本格的な緊急事態だ。

 

(本当はそんな状態作らないのが一番なんだけれど、俺も結構行動が身勝手だし、アルベドだって暇じゃないからなぁ。それにシャルティアを洗脳した存在といい、〝リク〟といい、この世界は未だ未知に溢れている。考えたくないがアルベドにもしものことがあれば、復活までの時間は不在であるし、そうなればみんなは俺を安全な場所に幽閉するだろう。国家運営では相手を(たばか)るため平静を装う必要があるかもしれない。確かに考えられる中で一番起こり得る危険だ。)

 

 この訓練がおこなえるようになった理由としてはラナー(あの頭のおかしい女)の影響が大きい。ナザリック3大知者に並ぶ駒を得たことで、パンドラズ・アクターがアインズの影武者を行うだけでなく、〝アルベドの代理〟となりえる存在が出来た。

 

 ラナー(あの頭のおかしい女)の正しい使い方は一室に閉じ込め、その頭脳をフル活用させることなのかもしれない。【黄金の姫】は元々知名度が高く、多くの唄にもなっている。実際に顔を知っている存在は多くないとしても、表舞台に立つよりも存在を秘匿し続ける方がいいかもしれない。正直どちらにメリットがあるかは解らない。しかし……

 

(シャルティアをドワーフの国に連れて行くとき〝様々な可能性を〟なんてご高説垂れたのは俺だ。)

 

 だからこその訓練なのだともわかる。NPC(仲間の子供)たちは確実に変化している。アインズの言葉からそれこそ〝自分たちで様々な事〟を考え、自立していく姿は喜ばしい。

 

(それはわかるよ、でもさ……)

 

「本来であれば引継ぎなど万全を期すべきか迷ったのですが、緊急事態を想定しこのような形をとらせていただきました。これはパンドラズ・アクターにも知らせていません。二人は一切の情報を0から構築し、自ら動くこととなります。アインズ様へ最善の報告が出来ない愚かな我々を御赦しください。」

 

(避難訓練で本当に家に火をつけてどうする!!)

 

 アインズは今、護衛の八肢刀の暗殺蟲(エイトエッジ・アサシン)や当番のメイドを身の回りから外し、アルベドと二人きりで――それも何故かソファーで横並びだ、アルベドの距離が凄い近い――9階層の一室に引きこもっている。遠隔視の鏡(ミラー・オブ・リモート・ビューイング)以外にも、無数のモニター画面がアインズの眼前に広がっていた。



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避難訓練 ② 権力の委託

「魔導王陛下もアルベド様も、既にいらっしゃらないのですか……。」

 

 ラナーは避難訓練に際し最善を尽くすため情報収集や引継ぎを行おうと考えたが、早速出鼻を挫かれた。既に【訓練】は始まっているらしい。幸いパンドラズ・アクター様とは連絡が取れ、会議室で話す事は叶ったのだが……。

 

「はい。わたくしも一杯食わされてしまいました。わたしたちはこれから我が神の与え給う試練に挑まねばなりません。」

 

 どうやらパンドラズ・アクター様にとっても事前予告無く魔導王陛下とアルベド様が雲隠れしたことは予想外であるらしく、声に緊張を宿している。自分を試す演技の可能性も捨てきれないが、今考える優先順位はそこではない。

 

「魔導王陛下へ<伝言(メッセージ)>を送り、陛下のご決断をナザリックの者へ周知致しましょうか?」

 

 ラナーはこのナザリックにおいて一番に抑えるべきポイントを具申する。ナザリック最大の異様性は多様な強者が揃っていることでも、莫大な財を持っていることでも、人外の知者が多数いることでもない。

 

【魔導王陛下を頂点とした、上意下達の一糸乱れぬ組織であること。】

 

 それがナザリック最大の長所であり、最大の弱点だ。

 

 普通組織と言うのはどれだけ名君が治めていようと、部下の忠義が厚かろうと、軽口や陰口のひとつはこぼれるのが当たり前。しかし、この地は誰しも魔導王陛下のため働くことを自身の存在意義と考えており、命令は絶対。裏切り者の存在など心配する時間が無駄なほどだ。【個】の集合体とはそれだけで脅威だというのに、これだけの化け物たちが一つの目的に邁進しているなど恐怖でしかない。

 

 だが、権力がひとつに集中しすぎているのは大きな危険を孕む。あの智謀の怪物たる魔導王陛下は、その危険性が解っているので、今回のような訓練を徹底しているのだろう。もし本当に魔導王陛下と一切の連絡がとれず姿も見えない……崩御なされた可能性まであるとなると、ナザリックがどのように暴走するか、ラナーの頭脳を以ってしても見当が付かない。

 

「ええ、最優先事項ですね。もし通信すら繋がらなければ別の手を打たなければなりません。」

 

「では僭越(せんえつ)ながらわたくしが……。」

 

 ラナーはそういって<伝言(メッセージ)>を宿した巻物(スクロール)を起動させようと考え……

 

 今回の訓練は確実に自分の能力を重点的に見られているだろう事を思い出す、ならば積極的に動くだけではダメだ、慎重性こそ重視すべきだと判断する。

 

「パンドラズ・アクター様。〝確実に魔導王陛下へ繋がり、防諜が万全〟なマジックアイテムは御座いますでしょうか。」

 

「はい、用意しておりますよ。予想外の事態でも……いやだからこそ軽率な行動は控えるべきですからね。」

 

 〝危ないところだった……。〟そう思いながらラナーは簡素なペンダントを受け取り、改めて<伝言(メッセージ)>を送る。

 

 <伝言(メッセージ)>が繋がるまでの数秒で幾多もの可能性を奔走させ、意思の力だけで震える身体を支える。

 

 そして……。

 

《どうしたかな?》

 

 繋がった!とりあえず〝魔導王陛下と一切連絡がとれない〟という最悪の事態だけは避けられそうだとラナーは一瞬安堵しかけ、今の場面もおそらく魔導王陛下はご覧になっていると自らを律する。

 

「魔導王陛下、ラナー・ティエール・シャルドロン・ライル・ヴァイセルフで御座います。」

 

《ご苦労。時間が無いので今後はラナーでいい。わたしとアルベドだが、急務によりしばらくナザリックへ帰還出来なくなりそうだ。未知の敵が監視している可能性もある<伝言(メッセージ)>も最小限に抑えてくれ。》

 

「畏まりました。魔導国の王城を訪れた者やナザリックで謁見を希望する者に対しては、陛下が不在であるとお伝えいたしましょうか?」

 

《ふむ……。一国の王が期間も定めず不在であるというのは不味いな。パンドラズ・アクターと貴女で魔導国の混乱を招かず現状維持に努めることは可能か?》

 

「陛下のご命令であれば最善を尽くします。」

 

《わかった、ではわたしの影武者をパンドラズ・アクターに、貴女にはアルベドの代理を行ってもらおう。》

 

「それはご勅命ということでよろしいでしょうか?」

 

《そうだな……。ではアインズ・ウール・ゴウンの名において勅命を下す。今この時を以ってパンドラズ・アクターをナザリック地下大墳墓統治者並びに魔導国魔導王代理、ラナーを魔導国宰相並びに全領域守護者統括代理とする。デミウルゴスには二人の補佐を最優先とするようわたしから言っておこう。》

 

 ……やはり魔導国だけでなくナザリック(化け物の巣窟)の管理もしなければならないのか。ラナーは手に汗を握る。

 

「ご勅命承りました。……アルベド様がお近くにいらっしゃるのでしたら、簡単でも引継ぎを頂きたいのですが。」

 

《少し待て……。…………。〝わたしに恥をかかせるな〟とのことだ。では幸運を祈る。》

 

 そういって<伝言(メッセージ)>は途切れた。ラナーの背中に冷や汗と脂汗がブワっと吹き出す。明るい展望がまるで見えない最悪の任務と言っていい。地位や王位・爵位に執着していたリ・エスティーゼ王国の貴族たちの気持ちなど全く理解できなかったが、自ら責任ある立場に就きたいなど、今となれば彼らは狂人だったのではないかとさえ思う。

 

「パンドラズ・アクター様、魔導王陛下からご勅命を賜りました。」

 

「…………。」

 

「パンドラ様?」

 

 ラナーから見ても、パンドラズ・アクター様の身体が震えているのがわかる。一体どうしたというのだろう?

 

「お、お、お、OHOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!わたくしが!?父上の!?だ、だ、だ、代理!?そんな大役、役者に過ぎないわたくしがあああああああああああああ!!」

 

「ぱ、パンドラ様!落ち着いて下さい!」

 

 この方も自分を試す首脳側(バンカー)にいるのではないのか?何故こんなに取り乱しているのだろう?ラナーはこの世の終わりを告げられたような慟哭とも思える絶叫に困惑しつつ、腹筋が千切れるのではないかというほど後ろに仰け反っているパンドラ様から恐る恐る距離を取る。

 

ラナー嬢(フロイライン・ラナー)!父上……じゃない、アインズ様はわたくしに影武者ではなく〝ナザリック地下大墳墓統治者並びに魔導国魔導王代理〟とご命令されたのですよ!!貴女でしたらその意味がわかるでしょう!?」

 

 ラナーは即座にパンドラ様の絶叫の意味を理解した。〝影武者〟と〝代理〟の大きな違いは決定権の有無。つまり先ほどの勅命でパンドラ様は、あの智謀の怪物を本当の意味で演じなければならなくなったのだ。ナザリックにおいてこれほどの重責はない。

 

 自分に対するテストだけと自惚れていた己がどれだけ自意識過剰だったかと恥ずかしくなる。魔導王陛下は自分の創造した息子に対してもテストを行うつもりだ、そして失態に慈悲をかけるような真似はしないだろう。無能ならば自らが創造した息子だろうと切り捨てることを厭わない本物の怪物だ。

 

「パンドラ様、お気持ちお察し致します。まずは皆に状況を説明しなければなりません。まず各守護者、そしてセバス様、七姉妹(プレイアデス)の皆さまには早急にお伝えする必要があるかと具申いたします。」

 

「そうですね……。その仕事はラナー嬢(フロイライン・ラナー)にお任せしても?」

 

「畏まりました。〝魔導王陛下〟」

 

 ラナーは一礼して、パンドラ様に現状を把握してもらう一言を発する。ラナーの一礼に、パンドラ様は卒倒しそうに(おのの)いている。……こうなれば二人に上下関係などあってないようなものだ。ラナーとパンドラ様は、〝どちらかでも失態を犯せばお互い最悪の事態に陥る〟という運命共同体となってしまったのだから。



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避難訓練 ③ 多事多難

「この度魔導王陛下より〝魔導国宰相並びに全領域守護者統括代理〟の大役を(おお)せつかりました、ラナー・ティエール・シャルドロン・ライル・ヴァイセルフに御座います。改めてご説明させていただきますが、現在ナザリックには魔導王陛下とアルベド様は居ない……ということになっております。魔導王陛下のご帰還まで、皆様と意見を交換したくわたくしはこの場に立っております。」

 

 ナザリック十階層玉座の間。ラナーは【あまりにも畏れ多いから】と玉座の前に立っている魔導王陛下に変身したパンドラズ・アクター様の横に立ち、階層守護者やセバス様、七姉妹(プレイアデス)の方々や、化け物たちを前にしていた。

 

 とはいえ偽物の魔導王陛下に跪く者は一人としておらず――ラナーには全く見分けが付かないが――椅子を用意して各々(おのおの)腰掛けてもらっている。

 

 正直に言ってしまおう、視線が痛い。このナザリックにおいて自分の命がどれだけ軽いかは自覚している。そんな存在がいきなり〝あなたたちの上司です〟なんて言われれば誰だって納得できないだろう。このままでは議論さえ始まらない。そう判断したラナーは覚悟を決めて一拍置き、大きく深呼吸を行い……

 

「アインズ・ウール・ゴウン魔導王陛下のご勅命に従えぬ、信念なき者は速やかに去りなさい!信念ありし者は留まって議論に参加しなさい!」

 

 ラナーの覇気を孕んだ渾身の一言で、敵意にも似た視線が一気に薄れる。

 

 自分如きが魔導王陛下の聖名を口にした事で反感を買う恐れのある賭けだったが、流石に階層守護者ともなると勅命の重さは弁えているようだ。ラナーは安堵と同時に、改めて魔導王陛下の力に畏怖を覚える。

 

 そう、普段ならクライムと一部屋さえあれば他は何も望まない、自分を侮蔑しようが差別しようが好きにすればいい。しかし、今だけは自分の言葉に従ってもらわなければ困る。

 

「へぇ、思ったより度胸があるではありんせんか。この程度の殺気で気を失うようならなぶってやろうと思っていんしたが。」

 

「お姉ちゃん、なんだか思っていた感じと違うね。元人間だからもっと弱いのかと……。」

 

「なんか生意気~~。でもまぁアインズ様がお決めになったならしょうがないよね。」

 

「アインズ様ノゴ命令ニヨリ守護者統括代理ノ地位ヲ任サレタダケアル。タダ知恵ガ回ルダケデハ無イヨウダ。」

 

 ……何とか第一関門は突破と言ったところだろうか。デミウルゴス様を見ると、小さく頷いている。

 

「では改めまして、皆様に意見を求めます。お話はまず魔導王陛下よりお願いします。」

 

 パンドラ様は黄金に輝く荘厳な杖をカツンと鳴らす。

 

「皆に話す事の1つ目であるが……ナザリック防衛の原則に基づき、ナザリックの警戒レベルを本来であれば最大限まで引き上げるところ。しかしそうなると各自の仕事に支障が出るだけでなく、魔導国そのものが機能不全となる。故に、プランJ……防衛の一番槍であるシャルティアと階層守護者3名を必ずナザリックに残し、各自連絡を密にしつつ業務に従事する方向を取りたいと考える。」

 

「ふむ、妥当でしょう。わたくしは賛成です。」

 

「どう思う、お姉ちゃん?」

 

「え?う~ん。ナザリックさえ無事なら何とでもなるんだから一番防衛するべきとは思うけれど……。アインズ様の御計画に支障が出ることは不敬だよね。パンドラやデミウルゴスが考えたならちゃんと回るだろうしとりあえず賛成かなぁ。」

 

「此度ノ想定ハ、アインズ様ガ無事デ連絡ガ取レル前提ナノダロウ?ナラバ賛成ダ。」

 

「わらわはお留守番でありんすか……。まぁ言いたいことはありんすが、反対する理由はありんせん。」

 

「では決定だ。二つ目、わたしはわたしの役目をそのまま遂行する。ラナー。」

 

「はい、魔導王陛下。本日のご予定としてカルネ村の薬師ンフィーレア・バレアレ、同じくカルネ村よりルーン工匠ゴンド・ファイアビアド、エ・ランテル冒険者組合長アインザックとの謁見を予定しております。この予定を崩さない方向で考えておりますが、ご意見を願います。」

 

「わらわ達ならまだしも、下賤な人間やドワーフ如きがパンドラの変身を見抜けるとは思いんせん。」

 

「えっと……。ぼくもそう思います。」

 

「イヤ、ソレハ早計ダ。イズレノ3人モ、アインズ様ガ御自ラ御計画ヲ立テ目ヲ掛ケテイタ者達。本来デアレバ褒美ガ必要ナ発明ヤ発見ノ報告デアッタラドウスル?」

 

「「あぁ……。」」

 

「わたしもコキュートスの意見に一部賛同だ。信賞必罰の常を誤るなど不敬の極み。しかしアインズ様のご帰還が何時になるか解らない以上、あまり長引かせてはあらぬ風評が立ち、他国に邪推されてしまう。ルーン工匠は秘匿の存在なのでいくら長引かせても問題ないが、少なくとも薬師と冒険者組合長の謁見は行うべきだろう。しかしコキュートスの懸念に対策は必要だね。アインザックから画期的な発明の話が出る可能性はほぼ無いが、あの薬師は別だ。手に負えない発明を見せられた場合は、アインズ様へ<伝言(メッセージ)>で即座に報告することを忘れないように。」

 

「では予定を変更し、カルネ村の薬師ンフィーレア・バレアレ、エ・ランテル冒険者組合長プルトン・アインザックとの謁見を行いますが異論のある方はおりますか?」

 

「……ぼく、なんだか難しくてよくわからないや。でもデミウルゴスさんが良いって言うなら、大丈夫なのかな。」

 

「こらマーレ!ちゃんと自分で考えなさい!ナザリックが他の国如きにご機嫌伺いなんて癪だけれど、わたしは賛成。」

 

「ウム。デミウルゴスノ案デアルナラバ異論ハ無イ。」

 

「わ、わらわもありんせん。」

 

「では3つ目、モモンの不在についてだが……」

 

 

 ●

 

 

 玉座の間で都合4時間かけた会議の議事録を一言一句不備無く纏め終えたラナーは、9階層の会議室ではしたなくも椅子の背もたれに思いっきり寄りかかっていた。早くクライムに会いたい。流石に【守護者統括代理】がペットを連れて歩く訳にもいかないので、無理とは解っているが横に置いておかないと自分の精神が摩耗し、やがては喪失してしまいそうだ。

 

「……なんとかまとまったでしょうか、〝魔導王陛下〟。」

 

「ええ、玉座の間での一喝は見事でしたよ。あれが無ければ誰もあそこまで真剣に話をしてくれなかったでしょう。」

 

 文字通り命懸けの行動はどうやら当たりを引いたようだ。恐らくあのまま手を(こまね)いていたとしてもデミウルゴス様が議題が回るよう誘導して下さっただろうが、そうなれば自分は本当の御飾人形になってしまう。その先に待っているのは〝用済み〟と言う緩慢な破滅だ。

 

「大切なものを守りたいならば命だって賭けの道具にしなければなりませんから。手段が剣か魔法か……わたくしの場合、脳みそと演技であるというだけです。」

 

「なるほど、演技を道具とする気に食わない女と思っていたのですが、少しばかり貴女の評価を改めなければなりませんね。自分が心の底から憎い人間だろうと目的のためならば利用する精神はとても大切です。」

 

「やはり隠し通せないものですね。」

 

「先ほどの一喝に用いた言葉、ローブル聖王国の〝顔なし〟ネイア・バラハ嬢が演説で用いた言葉の引用ですよね。報告にあがっておりましたので、わたくしも目を通しております。」

 

「デミウルゴス様以外知識に無かった事は幸いでした。」

 

 〝魔導王陛下〟が「さて」と呟き、弛緩していた雰囲気が一変する。

 

「ではそろそろ謁見の時間だ。わたしを失望させるなよ。」

 

「もちろんで御座います。〝魔導王陛下〟。」

 

 

 ●

 

 

 エ・ランテルにある玉座の間、謁見はナザリックではなく魔導国内で行うこととなった。……パンドラ様はナザリックの玉座には最後まで座られなかったが、こちらには躊躇せず腰を下ろした。やはりナザリックの玉座とは特別なのだろう。

 

「アインズ様、エ・ランテル冒険者組合長アインザック様がお見えになりました。」

 

 ……曰く〝アインズ様当番〟なるメイドが(たお)やかに扉から入ってきて用件を伝える。彼女たちにも〝今玉座に座る魔導王陛下〟の正体は魔導王陛下から事前に知らせているが、ラナーの観察眼を以ってしても言動に変わりはない。

 

 影武者と言うのは本来最側近以外味方であろうと誰にも知らせないものなのだが、〝尽くす〟ことそのものに喜びを感じているのだろうか。

 

「ご苦労。通せ。」

 

 冒険者組合長プルトン・アインザック……直接面識はないが、かつては名をはせた冒険者であり、「未知を発見する冒険者」という魔導国の構想に共感を覚え、魔導王陛下と懇意にしている男だ。ラナーには面識がなくても、向こうは自分を見たことがあるかもしれない。

 

 そのためラナーは艶やかな金髪を結い、伊達メガネを掛けている。小悪魔(インプ)となっているなど向こうも想像外であろうし、変装としては十分だろう。

 

 扉が開くと年の割にガッチリとした体躯の屈強な男が礼服を着込んで歩き、臣下の礼を取る。そこそこ様になっている見事な動作だ。〝魔導王陛下〟は顎をしゃくりラナーに合図を送る。

 

「許可が出ました。拝顔の栄に浴しなさい。」

 

 晴れ晴れとした、それでいて決意に固められた顔立ちをしている。

 

「魔導王陛下、この度は貴重なお時間を頂戴し、感謝申し上げます。」

 

「うむ、久方ぶりであるな、息災であったか?」

 

「はい、この通り元気にやらせていただいております!登録冒険者も1000の大台までもう間もなく。閑古鳥が鳴いていた組合にも活気が戻り、わたくしの後任も育っております。」

 

「それは何よりだ。モモンのように強く高潔な存在が我が国から芽生えてくれれば、これほどの喜びはない。それにしても決意を固めた者特有の飄逸(ひょういつ)な顔立ちではないか。」

 

「いやはや、陛下にはバレてしまいますか。……実はアゼルリシア山脈周辺の遺跡にアダマンタイトの鉱脈と思われる特徴がみられたのです。更には200年以上前の遺跡であることから歴史的価値は計り知れません。」

 

 ……その情報はラナーも知っている。しかしアダマンタイト如きの弱い鉱石に時間を費やすのは無駄というのがナザリックの方針だ。そしてこの男のやけに晴れ晴れとした表情の理由を理解する。理由が理解出来ただけで、行動心理はサッパリ理解できないが。

 

「ああ、霜の竜(フロスト・ドラゴン・ロード)の……オラサーダルク=ヘイリリアルの縄張りであった場所のことか? 彼の竜はわたしが滅ぼしたが、あの地には未だ霜の巨人(フロスト・ジャイアント)といった脅威が存在する。なるほど、それがお前の選択であるならば、わたしは貴殿の意思を尊重しよう。」

 

「全てお見通しですか。ええ、わたしの過去の仲間たちと赴く予定です。出立の前に魔導王陛下へご報告できればと。」

 

「わたしが貴殿を復活させる……。なんて事を期待しているわけでも無いようだな。ふむ、冒険者組合が機能するよう引継ぎは万全に行い、未知へ赴くとよい。〝真なる冒険者〟よ。」

 

 アインザックは〝魔導王陛下〟の一言に感銘を受けたようで、深々と頭を垂れる。

 

「では良い旅を。武運を祈る。」

 

「魔導王陛下が退室いたします。」

 

(全て魔導王陛下の手のひらの上……か。)

 

 ラナーはそのまま〝魔導王陛下〟の退出を確認し、頭を垂れ続け感極まっている様子のアインザックをモルモットを眺めるような目で見ていた。

 

 

 ●

 

 

「なるほど、あの人間を〝運営者〟から〝指導者〟へ立場を変えさせ、最高責任者の成功体験から未知へ赴かせるカナリアを量産させる御計画だったのですね。霜の巨人(フロスト・ジャイアント)とて霧の竜を滅ぼしたアインズ様の御力を理解できないほど愚かではありません。アインズ様の下賜された短剣を見れば魔導国の人間であることは一目でわかる。あの人間は強かさも持ち合わせております、引き際を弁え、余程愚かな行為をしない限り目的を達成し帰還出来るでしょう。」

 

「う、うむ。しかし時に人間は他人どころか自分ですら予想外の行動をとる。少し賭けの要素は強いがな。」

 

「お戯れを。アインズ様が愚者の行動さえ完璧に読まれることはリ・エスティーゼ王国の一件で我々一同感服した次第に御座います。」

 

(いや!何考えてんだアインザック!短剣渡したのは何となく似合いそうだからであって、冒険に行けって意味じゃないよ!いや、今のアルベドの話を聞くと死ぬ可能性は低いのか?俺の頓珍漢な意見を鵜呑みにせず否定してくれる貴重な存在だ、バハルス帝国では顔つなぎもしてくれたし、魔物のエサっていうのはあまりいい気分じゃないからな。)

 

「それにしても先ほどの会議は見事な滑稽劇でしたね。わたくしの部下が暴走した時は肝を冷やしましたが、寛大な采配に感謝いたします。」

 

「なに、アルベドの代理を任せているのだ。あれくらい想定の範囲内だ。」

 

(んな訳ないじゃん!本当何考えているのか解らない女だ。守護者全員の前で一喝なんて俺でも出来ないぞ!?やっぱ生まれながらの王族って能力が違うんだなぁ。……ジルクニフと違って勉強になる点は全くないけれど。それと今更だけど……。)

 

「次は何が起こるのか。楽しみですね、アインズ様。」

 

(アルベドの距離がどんどん近くなってくるんだけれど!!なんかもたれて来てるし!!)

 



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避難訓練 ④ 墳墓での暗闘

【背後から刃を突きつけられた状態で、地雷原を全力疾走させられている。】

 

 それが現在ラナーの覚える率直な精神状態であり、与えられている任務だ。ラナーは後ろから浴びる強烈な殺気で遠のきそうな意識を、心の片隅でクライムの瞳を想い何とか支えていた。

 

 冒険者組合長プルトン・アインザックとの謁見を無難に終えたラナーは、ンフィーレア・バレアレとの謁見時刻まで時間があるため〝魔導王陛下〟と共に一度ナザリックへ帰還していた。待っているのは【守護者統括代理】の仕事……ナザリック(化け物の巣窟)の管理だ。

 

 玉座の間でしか発動出来ないと言う<ますたーそーす>なる空に浮かぶモニターから――流石に訓練でナザリックの心臓部となる重大機密を扱う権限までは与えられず、高度に造られた模造品だが――ナザリックに属する者やナザリック内の把握をおこなう、本来魔導王陛下とアルベド様以外あのデミウルゴス様やパンドラ様すら代理で操作したことがないという、望んでもいない大役中の大役を任されていた。

 

 誰か一人でも精神支配などの状態異常に陥っていないか、空欄(死亡)となっている者はいないか、シモベの種類や数に変化は無いか、ナザリック維持コストに急激な変動は起きていないか、起動中の様々なトラップに異常はないかのチェックを行う。

 

(黒字となっている者が精神支配などによって反旗を翻した者、空欄は死者。……こちらに問題はないわね。維持コストについてもパンドラ様から得られた情報を分析するに大きな変動はみられないみたい。)

 

 ラナーは今まで書類上の仕事として自分に与えられた情報と自習で得た知識を総動員させ、情報分析を行っていた。少し後ろではデミウルゴス様が紳士然として立っているが……

 

(玉座の間での会議なんて比較にもならない殺気だわ。模造品にわたし(部外者)が触れることにさえ、これほどの嫌悪感を抱くなんて、それほど特別なものなのでしょうね。)

 

 いや、それこそパンドラ様が最後までナザリックの玉座に座らなかったように、自分だけでは無く、それこそ階層守護者クラスの御方でも本来であれば触れるなど畏れ多い、万死に値する行為なのかもしれない。だが命令である以上遂行するほかない。ラナーは焦らずに、急がずに、だが休むことなく<ますたーそーす>と格闘していた。

 

 

 ●

 

 

「落ち着けアルベド、この女がショック死してしまう。」

 

「申し訳御座いません、アインズ様。不肖の部下が粗相を起こそうものならば、如何に玉座の間を汚すことなく殺すべきかと力が入ってしまいました。」

 

 アインズとアルベドは玉座の間で、課金アイテムまで用いた完全不可視化を用いラナーの動向を目の前で見つめていた。この女のことだ、ただの不可視化では感知される危険がある。流石にこればかりはモニター越しで吞気に見ている訳にはいかない。

 

 ……何しろラナーが操作しているのは、正真正銘本物の<マスターソース>であり、偽物と思っているのは操作している本人(ラナー)だけなのだから。

 

 これはアインズの実験であり、正直今回の避難訓練で1番大きな収穫だ。

 

(ラナーに<マスターソース>を開くことは出来ず、デミウルゴスに開いた振りをさせたが、結局<マスターソース>をオープンさせることが出来たのは不可視化したアルベドだった。玉座の間でなければ開けないのは実験で確定していたが、【守護者統括代理】を任せたラナーでは開くことは不可能……。しかし一度開いてしまえば、意図的な操作はこの女……元現地人でも可能なのか。他の者……例えば明確な敵対の意識を持つ者や他の異形種でも同様に操作が可能か実験を行う必要があるな。精神支配のワールドアイテムが確認されている以上、対策は絶対に必要だ。)

 

 ユグドラシルではどこでも開けた<マスターソース>が玉座の間以外で開けなくなったことを始め、どの程度転移による変化が起きているか未知のままとするわけにはいかない。ただでさえこの世界には<生まれながらの異能(タレント)>というぶっ飛んだ能力がある。情報の心臓部を覗き見されるなど、崩壊と同義だ。

 

(それにしても、この女の処遇はどうするべきか?)

 

 実験のためとはいえナザリックの最高機密を操作させているのだ、しかもあの女の頭脳ならば一度目に通した内容を忘れるなどあり得ないだろう。<記憶操作(コントロール・アムネジア)>で偽りの記憶を植え付けるか、そもそも忘れさせるべきかというところだが……。

 

(最後まで偽物と思い込んでいるか本物と看破しているか……。デミウルゴスに要相談だな。それにしても<マスターソース>の扱いがどんどん早く正確になっているな。呑み込み早すぎだろ!!)

 

 最早アインズには超高速で流し読み……いや、デタラメにキーボードを叩き画面をスライドしているようにしか見えない速度でラナーは<マスターソース>を扱いきっている。横に居るアルベドが何も言わないあたり、扱いについても正確なのだろう。

 

 急事の際【アルベド代理】が本当に務まるかもしれないと本気で思ってしまう。そう考えれば記憶を消してしまうのはもったいない。玉座の間でしか発動できない特性上、アルベドを玉座の間から離す時間が作れることはナザリックにとっても大きなメリットだ。しかしデメリットも大きい。どのみち今のアインズでは判断がつかない。

 

「これ以上の実験は不要だろう。アルベド、中止させろ。」

 

「畏まりました。アインズ様。」

 

 アルベドが心底安堵した様子で一礼し、デミウルゴスに<伝言(メッセージ)>を送る。

 

 

 ●

 

 

「そこまでで結構です。さて、ご報告を頂いても?」

 

 ラナーはデミウルゴス様の言葉で操作の手を止め、3度深呼吸を行う。その間に自分の結論に対し理由を求められた場合、提示する根拠を数千億ほど脳内でまとめる。

 

「現在ナザリックは魔導王陛下へ緊急の報告を行う急変事項はなく、正常に機能していると愚考いたします。」

 

「なるほど……。…………。まぁ及第点でしょう。お疲れさまでした、守護者統括代理殿。」

 

 デミウルゴス様が手をかざすと<ますたーそーす>を模倣した画面がパチンと消える。何とか地雷を踏むことなく走破出来たようだ。そのまま膝を折りたい程の疲労感がラナーを包む。

 

「ありがとうございます。デミウルゴス様。」

 

「そろそろ謁見の時間。パンドラズ・アクターが待っているはずなので行ってあげなさい。」

 

 ……クライムに一目会う時間すらないか。と、ラナーは内心項垂れるが、態度には出さず深々と一礼をして、本日最後の謁見者、ンフィーレア・バレアレとの謁見に際し幾多ものシミュレーションを行っていた。

 

 【ンフィーレア・バレアレ】……今までの知識を総合して考えると<ナザリック特異点の一人>といっていい。

 

 〝ありとあらゆるマジック・アイテムが使用可能〟というな類いまれな<生まれながらの異能(タレント)>を有し、この世界に無かった新たな水薬(ポーション)を発明した天才薬師。また既にナザリックの一員となった自分を除けば〝モモン〟の正体が魔導王陛下であることを知っている唯一の現地人。

 

 正直最初は何故ナザリックに監禁し幽閉して研究に従事させないのか、魔導王陛下の深淵なる御考えがサッパリ理解出来なかった。〝感謝と言う鎖で縛る〟と魔導王陛下は仰っていたが、ンフィーレアをカルネ村に放置する事だけを考えれば、メリットとデメリットがまるで釣り合わない。

 

 しかし視点を変えればお考えに届かないまでも、見えてくるものは多数ある。

 

(だからこそカルネ村にあれほど強力な軍備とドワーフの技術力を下賜されたのでしょうね。様々な実験を行う場所として機能する他、敵対勢力にナザリックの存在を仄めかしつつも決定的な情報を秘匿できる。カルネ村の住民は魔導国だけでなく、他国への移動も自由に行わせることが可能。利益を追従させ、尚且つ現地人としての行動が出来るメリットを優先された……。また、カルネ村にはンフィーレア・バレアレを初めとする重要人物が揃っており、襲撃の予兆を読み取る事が出来る。なるほど、魔導王陛下はカルネ村を言うなれば〝第0階層〟とみなしていらっしゃるのかしら。)

 

 となればこれから謁見する人間への評価を変えなければならない。相手は〝魔導王陛下と懇意にする薬師〟ではなく〝第0階層領域守護者の夫〟だ。自分とどちらの命の価値が重いか、考えるまでも無い。

 

「畏まりましたデミウルゴス様。では、御前失礼いたします。」

 

 そう言ってラナーは本日最後となる【魔導国宰相代理】の仕事へ向かっていった。

 

 

 ●

 

 

「アインズ様、御身が御傍に居ながら臣下の礼もとれずにいた不敬なるわたくしを御赦しください。」

 

 アインズとアルベドは完全不可視化を解き、即座に跪いたデミウルゴスの前に立つ。

 

「構わん、実に興味深い結果を見せてもらった。まずはデミウルゴス、あの女の能力について忌憚なき意見を述べよ。」

 

「はい。恐れながらわたくしはナザリックの内政については門外漢であるという前提に御座いますが、職務遂行能力だけをみればまだ伸びしろのある人材であるかと。」

 

「ふむ、アルベド。お前はどうみる?」

 

「平時である事を確認できる、という点であれば及第点ですが、突発的な異変が起きた際に適切な行動は取れないでしょう。まだまだ力不足です。」

 

 アルベドは厳しい意見を言うが、アインズはそこまであの女に求めていない。新入社員に会社の最重要機密をいじらせ「何故完璧に出来なかった。」なんて叱る上司がいたらパワハラを通り越し狂人の類だ。むしろナザリック最大知者の二人が無能と評価を下さなかった時点でラナー(あの頭のおかしい女)の価値を改めなくてはならない。

 

「なるほど、流石は二人が見込んだ人材だ。優秀な事は伝わった。その上で……ふむ。ふふふ。」

 

 アインズは二人の前で考え込むそぶりを見せ不敵に笑った。予想通りアルベドとデミウルゴスの顔に緊張が走っていた。ぶっちゃけ何も考えていないし、何も可笑しいことはない。だがこうすることで……

 

「アインズ様!あの女に記憶操作も防諜(カウンター・インテリジェンス)も施すことなく外へ行かせたのはそういう事だったのですか!」

 

「デミウルゴス!控えなさい!これは本来わたしの仕事なのよ!」

 

「ほぅ、二人が何に気が付いたか聞かせてもらおうか。」

 

 二人の脳内にしか存在しない【凄く優秀なアインズ】が何を考えているのか知る事が出来る。まるでポーカーで役なし(ブタ)の手札に全財産を投資する行為だが、こうでもしないとあの女の処遇をどうすべきか判断がつかない。

 

「あの女は<支配(ドミネート)>や<魅了(チャーム)>などの精神支配の魔法の術中に、自身が精神支配を受けている事を看破する頭脳を持っております。」

 

 アインズは早速〝何それ怖い〟と考えてしまう。確かにどちらも精神操作の効果中に起こったことは記憶として残るが、〝今自分は支配・魅了されている〟とまでは思えないはずだ。夢の中で「あ、これは夢だ。」と思うようなものだろうか?ラナー(あの頭のおかしい女)の異名【精神の異形種】という言葉を思い出す。

 

「<魅了(チャーム)>ならば効果はかなり薄れますし、<支配(ドミネート)>でも本来あり得ない不気味な独り言をつぶやきます。しかし術に完全に抗うことまでは出来ません。そこから導き出される意味は……」

 

「デミウルゴス!そこまでになさい!……そこで相手に二つの疑惑を抱かせることが可能かと。まずは法国の人間のように〝魔導国の者に術をかけても対策が施されているのではないか〟そして〝偽りの記憶を話しているのではないか〟という致命的な瑕疵となります。あの女は普段の精神状態であれば、<マスターソース>が本物であったことを看破出来たでしょう。しかし殺気にあてられ正常な判断が出来ておらず、後に思い返したとしても確信に至ることは難しいかと愚考いたします。」

 

「あの女はアインズ様のため即座に自害できぬ愚か者ですが、囚われとなった際、釣り餌として機能させる意味を持たせたのですね。仮に敵対勢力があの女から情報を得ようとしても、相手は勝手に堂々巡りの疑心暗鬼に陥る……。彼の法国は数度質問をすれば死に至る施術で対策をしておりましたが、【相手に如何に偽りの情報を与えるかが勝利への道】……正しくアインズ様の仰っていた通り、捕らえた身としてこれほど不気味なことは御座いません。」

 

 アインズは二人の説明に対し鷹揚に頷いた。……そしてラナー(あの頭のおかしい女)の価値を更に改める。

 

(アルベドの代理を任せられるかもなんて考えたが、少なくとも俺の側近は無理だ。色々な意味で扱いきれん。)




・<マスターソース>のオープン条件と操作については【玉座の間でしか開けない】以外、完全に捏造設定です。アルベドは扱いなどについても熟知している描写があり、アインズに許可を得ている様子もなかったので開けそうと考察しました。

 これは【守護者統括】のスキルなのか、NPCなら誰でも開けるのか。そもそもアインズしか開けないのか。操作はアインズとアルベド以外でも出来るのか……色々興味深いですね。


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避難訓練 ⑤ この瞳のために

 クライムはラナーに与えられた守護領域内、その扉の前に立っていた。

 

 〝避難訓練〟なるナザリックの定例行事で、自分の主たるラナー様が、あの魔導王の右腕であるアルベド様の代理という大役を任された。本来であれば自分が一番近くでお護りしなければならないのだが……。

 

(自分の非力が憎い……。自分のどこがラナー様の従者だというのだ。)

 

 クライムは恥辱と屈辱に(さいな)まれ、割れんばかりに歯を食いしばっている。【魔導国宰相並びに全守護者統括代理】という地位は、リ・エスティーゼ王国を蹂躙した化け物達でさえ易々と護衛を行える業務ではなく、それこそセバス様クラスの最高位……機知・強さ・礼節の揃った、文字通り人知を超えた存在でなければ側仕えすら務まらないという。

 

 そんな無慈悲な現実を、悲痛な顔をしたラナー様から告げられたクライムは、主の御心を痛めてしまった不甲斐なさと罪悪感で自害という言葉さえ頭を(よぎ)った。

 

 しかし自分の命はラナー様があの魔導王に自分を明け渡してまで救済されたもの。勝手に死ぬなど赦されるはずがない。自分に出来ることはラナー様が不在である間、守護領域を代理で護ること、そして主の無事な帰還を待ち続けることだ。

 

 今は本当の意味でラナー様を御護り出来ない自分でも、出来る最大限を行おう。大任を終え、心痛めたラナー様のご帰還を従者として一番に跪座し(いた)わること。

 

 今のクライムに出来る事はそれだけだ。無事に扉が開き、ラナー様のご帰還を待つ。まるで一刻一刻が無限と思える時間を、クライムは祈りを捧げることしかできない自分の不甲斐なさに押しつぶされそうな心持で耐え続けていた。

 

 

 ●

 

 

 エ・ランテルの王城へ戻ったラナーは本日最後の謁見者、ンフィーレア・バレアレが〝魔導王陛下〟に跪く姿を見て、〝魔導王陛下〟の正体を看破していない事に安堵を覚える。冒険者組合長であったアインザックと違い、こういった儀式に不慣れなのだろう、一挙手一投足がぎこちない。

 

「許可が出ました。拝顔の栄に浴しなさい。」

 

 本来であれば無作法とならないようゆっくりと顔を上げるのだが、跳ね上がる勢いで顔を上げ、髪に隠れた瞳は燦然と輝いている。

 

「お久しぶりです!ゴウン様!」

 

「ああ、そちらも息災のようだな。貴殿と話すならば過剰な形容句を省いた方が良いだろう。早速だが報告を聞かせてもらおうか?」

 

「はい。……えっと、その前に横にいらっしゃる方は、初めましてでしょうか。どうもンフィーレア・バレアレと言います。カルネ村で薬師をしております。」

 

 ンフィーレアはとってつけたような臣下の礼を崩し、おもむろに立ち上がってラナーにペコペコとお辞儀をしはじめた。一国の王を前にした謁見の儀ではあり得ない行動で、魔導国どころかリ・エスティーゼ王国ですら無礼千万と叩き斬られてもおかしくはない。バハルス帝国でこんな真似しようものならば〝鮮血帝〟の異名が表す通りの末路を辿るだろう。

 

(魔導王陛下に呼ばれ二人きりで話す事と〝謁見の儀〟の区別が出来ないほど礼儀知らずとも無能とは思えない。事実何度も謁見を行い、水薬(ポーション)発明の功績を讃えられ唯一ナザリックへ客人として招待されている。魔導王陛下との接触回数は上から数えられるほど多い人物。ならば普段から謁見でも魔導王陛下がこの無礼な態度を許している……と見るべきでしょうね。やはりナザリックにおいて、この男は特異点……。)

 

「お初にお目にかかります。わたくし新しくナザリックで創造され働くこととなりました、〝ソルシエール〟と申します。以後お見知りおきを。」

 

 宝石のような笑顔を向けて、ラナーは堂々と偽名を(かた)る。髪を結い伊達メガネをかける簡単な変装しかしていないが、ンフィーレアは自分が反旗を翻した国の元王女であることに気が付いていないようだ。

 

 ……カルネ村はナザリックの敵対勢力が本格的に侵略を考えた際、一番に襲われる可能性が高い。その際ンフィーレアは殺されず囚われの身となるだろう。以上を考察すると、自分の正体を明かすか否かの二者択一ならば、〝魔導王はアンデッドだけでなく、自分のような存在さえ容易に創造出来る〟〝もしくは【自分はナザリックのため創造された】と思い込ませる能力を有している〟という欺瞞情報を植え付ける――後者は本当に可能だが――メリットの方が高いと考えた。

 

「そ、創造ですか。……なんだかゴウン様とお話をするたびに、常識が削れていく音がしてしまいます。」

 

 目の前の薬師はラナーの嘘をいとも簡単に受け入れた。今後カルネ村関連で仕事をする際は、自分の嘘に矛盾が生じないよう行動しなければならないだろう。カルネ村の管理をしているルプスレギナ様にも後ほどご説明をしなければならない。

 

「なに、わたしの力を以ってすれば難しい話ではない。とはいえ、この話は他言無用で願いたい。さて、話が逸れてしまったな。本題に入ろう。」

 

「はいゴウン様。まずこちらをご覧いただければと思います。」

 

 ンフィーレアが〝魔導王陛下〟へ渡したのは、見たことの無い緑色の水薬(ポーション)だった。不思議と毒々しさは無く、以前コキュートス様とお話した際淹れていただいた【まっちゃ】なる飲み物に似た色をしている。

 

「<道具上位鑑(オール・アプレイザル・マジックア)……>ん、んん! ほう、見たことの無い水薬(ポーション)だ。どのような効用があるのかな?」

 

 未知のアイテムを前に暴走しかけた〝魔導王陛下〟にラナーが冷たい視線を送り、本人も我に返ったらしく〝魔導王陛下〟の職務を全うする。

 

「はい!以前ゴウン様から頂きました〝黄色の水薬(ポーション)〟から着想を得て、僕が様々な水薬(ポーション)を作成させていただいている事は御存じと思いますが……」

 

 その話はラナーも知っている。何しろこの薬師が開発した<精力剤>や<興奮剤>はクライムとの遊びにもたびたび利用させてもらっている程だ。

 

「その応用で、【精神を一定時間安定させる】水薬(ポーション)が出来上がりました。麻薬のような依存性は現在確認されておらず、【異常が起こってから治癒する】のではなく【異常を予防する】という画期的な発明であり、是非ご報告すべきかと!」

 

「……この水薬(ポーション)はわたしが渡している素材で作ったものなのか?」

 

「はい、ゴウン様と以前お話させていただいた範囲内、本来お返しすべき……言い方は悪いですが、余り物を使用させていただきました。成分はゴウン様から頂いた材料と手に入る薬草や薬石半々といったところでしょうか。」

 

 〝魔導王陛下〟は緑の水薬(ポーション)をしげしげと観察している。

 

「……いや、【精神を一定時間安定させる】という説明は間違っていないが正解でもないな。この水薬(ポーション)にはまだ低レベルの者にしか作用しないという欠点こそあるが【精神系魔法の効果を弱体化させる】効用を有している。ラ……ごほん、そこの者。この水薬(ポーション)の価値について意見を述べよ。」

 

 ラナーは突然意見を振られ、魔導王陛下が手にしている水薬(ポーション)の価値を改め、質問の意味を咀嚼し、話すべき事象の結論を出す。……この薬は劇薬だ。あのスレイン法国ですら精神支配の魔法には死で対策するしかなかったが、効果を弱めるという手札は例え効用を発していなくても相手に疑心暗鬼を生む。

 

 しかし魔導国内の冒険者相手であろうと、安易に流通させられない。魔導国では裁判に精神支配の魔法を使用しているのだ、下手をすれば魔導国の司法制度そのものを根本から見直す必要が出てくる。どの程度情報操作を行うべきか、内政ではアルベド様、外交面ではデミウルゴス様との意見交換が必要となる。自分が軽々に結論を断言できるものではない。

 

「はい魔導王陛下。我が魔導国の軍は多くがアンデッドで構成されており、元々状態異常に陥る者は多くありません。しかしながら、意識や感情を有する人間種・異形種を多く配下としており、一時的でも状態異常の効果が弱まるのであれば、そのメリットはあまりにも膨大で計り知れず、ここで全てを述べるには時間が足りません。具体例は後ほど書面で提出をさせていただきます事を御赦しください。一刻も早い効用時間・適応レベルや種族の実験、そして散剤化や錠剤化、解毒剤の研究を行うべきと具申いたします。同時に敵対勢力に渡れば、アンデッドの有する精神耐性無効化を初めとした【状態異常】の研究を(はかど)らせる危険があり、国家機密として徹底的に秘匿すべきと愚考いたします。」

 

 暗に【この薬師を本格的にナザリックへ幽閉させましょうか?】という意味を含んだ提案を行う。事が大きくなり、自分や〝魔導王陛下〟では判断が付かない。一刻も早く魔導王陛下へご報告し指示を仰ぐべきだろう。しかし、ラナーは先ほどから違和感を累積させるばかりであった。

 

「なるほど……。では書面は2日以内にまとめアルベドへ渡しておいてくれ。さて、ンフィーレア君。また込み入った話になりそうだ。近日中に使者を送る、そうだな……。また我が王城に家族水入らずで来てくれたまえ。あの可愛い義妹も連れてね。」

 

「えっと……。そこまでの、はい……。」

 

「すまないが帰りは馬車という訳にいかなくなった。シャルティアと連絡をとり、カルネ村までの<転移門(ゲート)>を開かせろ。」

 

「畏まりました。魔導王陛下。」

 

 ……いつの間に。ラナーは<伝言(メッセージ)>を起動しながら脳内で何度も逡巡していた。目の前にいるのはパンドラ様の化けた〝魔導王陛下〟ではない。正真正銘本物だ。時を止める魔法が操れる事は確認済みであったが、その間に入れ替わったのだろう。パンドラ様が時間停止を行い、その間に陛下と<伝言(メッセージ)>のやりとりをした可能性も捨てきれないが、あの魔導王ならばそんなまどろっこしい真似はしないだろう。

 

 歪曲した楕円の空間が出来上がり、薬師がカルネ村に帰ったことを確認したラナーは、即座に臣下の礼をとる。

 

「魔導王陛下、我々が力不足なばかりに足を運んでいただく不敬な事態となり慚愧の念に堪えません。」

 

「ほう、いつから気が付いていた?」

 

「……恥ずかしながらつい先ほど。入れ替わったのは、おそらく彼の水薬(ポーション)をご覧になっている間からかと。」

 

「ふむ……。こちらこそ避難訓練を行っている二人の能力を疑う真似をして済まない。これはわたしのワガママだ。未知の水薬(ポーション)にどのような効果があるのか一刻も早く手に取ってみたくなったのでな。」

 

「当然の事に御座います。」

 

「さて、わたしが出てしまった以上、訓練はここまでとしよう。【守護者統括代理】の責務、見事であったぞ。貴女の有能性を改めて見せてもらった。総括は玉座の間で行おう。」

 

 晴れて【守護者統括代理】という大任が解け、ラナーはそのまま崩れ落ちそうになる。しかし〝避難訓練〟は総括が終わってようやく終了だ。ラナーは残り少ない精神力を振り絞って、心に喝を入れる。この感覚をおそらくクライムが度々口にしていた【根性】と言うのだろう。

 

 

 ●

 

 

 ラナーは【避難訓練】の総括を終え、褒美と罰の両方を魔導王陛下から言い渡された。褒美は【魔導国宰相及び守護者統括代理】を失態なく全うしたことに、罰は【魔導王陛下が直接出なければならない力不足に対して】。魔導王陛下は罰は必要ないと仰って下さったが、アルベド様がどうしても〝罰は必要〟と譲らなかった。

 

 とはいえそんな重い罰ではなく【例の水薬(ポーション)に対する私見】をアルベド様に提出後、5日の守護領域での謹慎(ナザリック内であれば移動は自由)。褒美は5日の休暇という、ラナーからすれば実質10日の休暇を賜ったようなものだ。

 

 ラナーは自身の守護領域である一室の扉を開く。

 

「お帰りなさいませ、ラナー様! 【魔導国宰相代理】の重責、大変お疲れ様でした!」

 

 クライムが即座に跪き、自分を出迎えてくれる。気持ちは嬉しい、でも……今は顔を伏せないで欲しい。ラナーは慈悲深い笑みという最低限の演技だけを行い、クライムの目線までしゃがむ。

 

「顔を上げて、クライム。」

 

 しかしラナーの命令でもクライムは顔をあげようとしない。従者の責務を果たせなかった罪悪感に苛まれているのだろう。……今は力ずくでもクライムの顔を上げてしまいたい。

 

「もう一度言うわ。顔を見せて。」

 

 憂い気な声色は演技だっただろうか本音なのだろうか。自分ですら判断が付かない。しかし、ようやくクライムはラナーと顔を合わせる。ああ、この瞳だ。この世の全てを対価としてもいいとさえ思える多幸感がラナーの全身を巡る。今までの重責も疲労感も全てが溶けて消えていく。

 

「ねぇクライム。」

 

「はい!なんでしょうか、ラナー様!」

 

 そのままラナーはクライムの唇に口づけをした。以前不可抗力で奪われた<大切にとっておいた初めて>の一つだが、初めてを交換するならば今しかないと思ったためだ。クライムの顔が真っ赤に染まる。ああ、愛おしい。

 

 この瞳を護るためならば、自分はなんだってしてみせよう。




・【避難訓練編】終了となります。「せっかくだから長編にチャレンジしてみよう!」と書いてみましたが、④で書いたラナーから見たンフィーレアを⑤で書くべきだったとか、パンドラ要素をもう少し入れたかったなど反省点も多いですが、またネタが思いつきましたら挑戦してみます。

・今後はまたしばらく単発の短編が続くと思います。


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イヤーエステサロン クライム

・至って普通の整容行為について描写した日常風景です。


 【美容室】帰りのラナーは守護領域で鏡の前に立ち、改めて自分の姿を確認していた。リ・エスティーゼ王国でも一流の床屋に自身の整容を任せていたが、比較にならない完璧な出来栄え。しかしラナーは〝ヘッドマッサージ〟や〝耳掃除〟といった他のオプションを全て断り、散髪と結髪のみを頼んでいる。

 

 何故ならば……

 

「じゃあクライム。お耳の掃除をお願いしてもいいかしら?」

 

「はい!畏まりましたラナー様!」

 

 ……クライムに行ってもらう方が何億倍も気持ちがいいことを知っているからだ。

 

 流石にクライムは散髪の能力までは有しておらず、身だしなみを整える上で最低限度は化け物(ナザリックの者)のお世話にならなければならない。最初こそ〝あまりにも畏れ多いです〟と全力で固辞していたが、悲し気な笑顔を向けて〝じゃあ、化け物(ナザリックの者)のお世話になる〟と遠回しに言ってあげれば目の色を変えて自分の役目だと自覚してくれた。

 

「で、ではラナー様!始めさせていただきます!」

 

 ベッドに座るクライムの膝に頭を乗せ、ラナーは膝の温もりにそのまま寝入りたくなる安寧を覚える。しかしクライムの手が自分の耳に触れるとその眠気は覚醒へ、覚醒は快感に変貌していく。

 

「んあ……。はぁ……。」

 

 カリ……っと耳道内に木の乾いた感覚が過ると、ラナーの背筋に電撃が走ったような強烈な快感が襲う。思わず(とろ)けるような息が漏れてしまい、毎回声を隠す演技さえ忘れてしまう。なにより……

 

「ら、ラナー様。その……。い、い、痛みませんでしょうか?」

 

 まるで背徳的な行為のような錯覚に陥っているクライムの緊張と倒錯感に満ちた声を聴くと更に快感が増すため、〝耳掃除〟中は素直に快感に身を委ねるようにしている。もちろん目の前に鏡を置き、クライムの瞳が見られるよう準備も忘れない。

 

「……ん。……く、あ、はぁ………。ぃ……。」

 

 こしょこしょこしょこしょ、カリ……カリ……、つぅ~~~~~~。

 

 と愛しいクライムの操作する木の棒が耳の中をすべっていくたび、ラナーは思わず垂れてしまいそうな自分の涎でクライムの膝が汚れないよう演技しなければならない。その我慢があまりにもどかしい。自分の全てをさらけ出すのは流石に品が無く〝クライムの知るラナー〟ではない。だが快感に身を委ねている今、声まで抑える真似はしない。

 

 そして、そんな自分の姿を見て、顔も耳も真っ赤に染める可愛い犬の姿にゾクゾクと二重の快感を覚える。息づかいも荒くなっており、頭の中はさぞ倒錯的な葛藤でいっぱいになっていることだろう。世界で今一番幸せなのは自分だろうという傲慢な考えさえ浮かぶ。

 

「ラナー様……。お、終わりました。」

 

 左右の〝耳掃除〟を終え、クライムは息を荒くしながらラナーに告げた。しかしその瞳は未だ倒錯的な背徳感と恐怖に怯えた両方を湛え、顔を真っ赤に染めている。

 

 そう、まだ半分しか終わっていないのだから。

 

「ありがとうクライム。とても気持ちよかったわ。今度はわたしがクライムの耳掃除をしてあげる。」

 

 笑顔を向けて無邪気に話すと、案の定クライムが全身を赤に染め上げ全力で拒否をする。何をそんなに怖がっているのだろう。確かに何度か耳掃除をした事でクライムの弱点は〝すべて知り尽くして〟いる。

 

 クライムがここまで怯えているのは、前回の〝耳掃除〟で、自分のドレスをヨダレでベトベトに汚したせいだろうか?いくら命令しても全身身悶える事を我慢出来なかったせいだろうか?それとも気が付かないふりをしてあげたが〝粗相〟をしでかしたせいだろうか?

 

「さぁ横になって、クライム。」

 

 今度はラナーがベッドに座り、慈悲深い笑顔のまま膝をぽんぽんと叩く。命令しているというのに、クライムは凍り付いたように赤面し固まったまま動かない。飼い主の言う事を聞けないなんて悪い犬だ。ラナーはこの細く短い木の棒で徹底的に〝躾〟をしてやろうと心に決めた。



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思春期の従者

 ナザリック第十階層【最古図書館(アッシュールバニパル)

 

 司書長を仰せつかっている骸骨の魔法使い(スケルトン・メイジ)ティトゥス・アンナエウス・セクンドゥスは、珍しい客が来たと興味深く観察を行っていた。あのペットの主人ならば既にナザリックで用いられる文字を完璧にマスターし、常連と呼んで差し支えない頻度で訪れるが、ペットが単身訪れるのは初めての事だ。

 

 主人のお使いで来ているのだろうか?とも考えたが、あの女は一度目を通した書物の内容を完璧に記憶できる能力を有しており、本の貸し出しをした覚えは一度もない。ならばペットが自発的に訪れているのだろう。シモベの司書からどのような本があるかおっかなびっくりとした様子で聞き出している。

 

「あの!す、す、すみません!これらを翻訳してもらうことは出来ますでしょうか!?」

 

 そんな事を考えていると例のペットが溢れんばかりの本を抱えて、司書長のもとにやってきた。

 

「はい、確認しますので少々お待ちください。」

 

 内容は戦記・戦術の歴史を記したものから、五輪の書や葉隠といった戦う者の心構えを記したもの……。仮にも領域守護者のペットだ、これらはまだわかるが、「ランチェスターの法則」の数式モデル、果ては弾性体を用いた応用物理学の専門書など、この少年の頭では絶対理解が出来ないだろう書物が紛れていることが不可解だ。

 

 しかしその疑問はひとつの書物を見て氷解する。【歴史的見地から考察する房中術】……。

 

 司書長がこの本を手に取ると、ペットは顔を真っ赤に染め上げている。要するに小難しいタイトルの本はカモフラージュで、この書物が本来の目的だ。至高の御方々の遺したる書物をカモフラージュに使うなど不敬であると叱りたいところだが、何故かそんな気が起きない。自分を創造して下さった至高の御方の影響だろうか?

 

「……翻訳を希望ですね。十数分で終わりますのでお掛けになってお待ちください。」

 

 どうせ目録から誰が何を借りたかなど、すぐにバレるというのに。更に言うならば、あの【精神の異形種】と称される小悪魔(インプ)の形をした化け物相手に、生命体を想定した房中術の指南書なんぞ、何の意味も無いだろうに……。そんな事を考えながら司書長は、翻訳を担当する部下に、あの得体の知れない化け物のペットから受け取った書物を託した。

 

 

 

 ●

 

 

 クライムがラナー様と逢瀬を重ねるようになって久しい。本来従者である自分が護るべき主と逢瀬を行うなど不敬以外の何物でもないし、リ・エスティーゼ王国にいた時分では、想像はおろか妄想することさえ出来ない、絶対にありえない出来事と思っていた。

 

 しかしあの戦争と言う名の大虐殺で血族を喪い、懇意にされていた蒼の薔薇のみなさまとも離れられ、このナザリック(化け物の巣窟)で寂しい思いをされておられるのか、食事も(ねや)も共にさせていただき……やがて身体を―― 最後の一線こそまだ超えていないが ――重ねる関係となってしまった。

 

 だがクライムは女性経験どころか、ラナー様以外の女性と仕事以外で碌に話しをしたことさえない。なんならクライムほどの年齢の男子ならば一度は手に取るであろう〝その手の本〟さえ読んだ経験が無く、同年代の友人もいなかったので〝その手の話〟に花咲かせたこともない。

 

 色々な意味で初心なためか、逢瀬の際は確実にラナー様が主導となって下さり、クライムはほぼ受け身となっている状態だ。従者として、男性の威厳がどうこうなど不敬なことは考えてはいないが、やはりラナー様に身悶えさせられ続けるのは如何なものだろう?と疑問を覚え、【ラナー様にもご満足いただくため】自ら勉強する決心を固めた。

 

 しかし、クライムに(ねや)での手練手管を教授してくれる方などいるはずもなく――セバス様に相談しようか迷ったが、恥ずかしすぎてやめた――【この世のあらゆる知識が内包されている】という【最古図書館(アッシュールバニパル)】へ赴き、剣士としての心構えを記した本と一緒に〝そっち〟の自習もしてみることにしたのだが……。

 

「えっと……。 【クラウゼ末端球】は数ある感受性神経のなかでも、特に敏感で反応しやすく、快感を得やすい神経であり、真皮の他にも粘膜、特に口腔内や舌禍に多く神経感覚器が備わっている。それ故キスは……」

 

 階層と階層を繋ぐ仄暗い階段に座り、蝋燭の灯りを頼りに、翻訳された【房中術】の本に目を落としていた。図解を用いた説明が多くあり、戦闘におけるの急所と〝そっち〟の急所とは結構似ているのだな。なんてことを考えながらも、記されている内容があまりにも専門的すぎて、クライムは得た知識を実践で活かせる自信がなかった。

 

 ……クライムはラナー様が自分との逢瀬に何を求めていらっしゃるのかを考える。人恋しさを自分に求められておられるならば、自分が勝手な行動を取る事こそ不敬なのではないかという今更な考えも過る。いままでの逢瀬について記憶を蘇らせ……

 

(な、何事も勉強し精進することは大切な事!!)

 

 ラナー様の前で(とろ)けきって無様な姿しかみせていない事実に赤面し、改めて房中術の書物に目を落とす。

 

「おや?ラナーのペットではありんせんか。」

 

「しししゃしゃしゃ!シャルティア様!!」

 

 クライムは勢いよく飛び上がり燭台を大きな音を立ててひっくり返し、壁にぶつかりながら階段から数段転げ落ちた。横に積み上げていた翻訳されていた写本が盛大に舞う。シャルティア様はそのうちの一枚……よりにもよって房中術の書物の写本を手に取ってしげしげと眺めた。クライムは心臓を握られた様な恐怖感に近い羞恥心に襲われる。

 

 しかし……

 

「何が書いてあるのかサッパリ解りんせん。ぬしもいい加減ナザリックの言葉を覚えなんし。」

 

 ……どうやらシャルティア様はリ・エスティーゼ王国の言語を読めないようだった。興味を失ったようで、手にした写本を投げ捨てている。安堵で思わずため息を吐く。

 

「とはいえ何を読んでいたのかは興味がありんすねぇ。さぁわらわの目をよーくみて。」

 

「ひぃ……。はい……。」

 

「<魅了の魔眼>」

 

 

 ●

 

 

「あらお帰りなさい、クライム。」

 

「は、はい!ただいま戻りました!ラナー様!」

 

 嫋やかな笑顔や慈悲に溢れた優しい声色とは裏腹に、ラナーの感情は怒髪天に達していた。

 

 それもこれも【楽しい玩具で遊べた】といった様子のシャルティア様から伝言(メッセージ)が届いたことを発端に、クライムが〝何処で何をしていたか〟〝何処で誰に何をされたか〟全て把握しているからだ。

 

 自分の為に【房中術の書物】を借り受ける。これはかわいいので許そう。しかし、愛しのクライムがシャルティア様に魔瞳で操られるなど、許せることではない。本来であればシャルティア様にぶつける怒りだが、ナザリックで自分如きが階層守護者に危害を加えられない以上、理不尽なことに殺意に近い怒りのすべては軽率な行動をとったクライムに向いていた。

 

 一体どんな気持ちでこんな軽率な行動をとったのか? 操られている間はどのような気分だったのか? シャルティア様に自分の劣情を曝露した気持ちは?……等々、聞きたいことは枚挙に暇がない。

 

 徹底的に尋問して、二度とこんな真似をしないよう〝躾〟をしないといけない。ラナーに拷問官のような能力はないが、幸いクライムはシャルティア様から〝とあるアイテム〟をお借りしている。……と言うより、ラナーがお願いして――本来望んだものは無かったが似た効果を発揮するものはあった――貸し出しを許可してもらった。

 

 それは【汗や涙といった分泌液の排出を控えなければならない】場合に用いる、今一何時何処で何に使うか解らなかったというマジック・アイテム。

 

 クライムはこのマジックアイテムを〝自分が逢瀬でラナーと対等に立てるアイテム〟と勘違いして身に着けている。……笑顔の裏でラナーはクスクスと嗤う。

 

(発狂と失神を防ぐマジックアイテムも併用しないといけないわね。ああ、夜まで待てないわ。早く仕事を片付けないと。褒美の休暇はまだ3日残っていたわね。申請が直前になるけれども、賜ることは叶うかしら?)

 

 絶頂に達する寸前で生殺しを食らう行為は、欲望と忠誠心の葛藤に戸惑うクライムの【最大の弱点】の一つだ。

 

 戯れでさえあれほど蕩け、甘く悲鳴をあげるのだ。マジックアイテムによって強制的に遮断されるなど、どれほどの苦しみだろう。

 

 一晩なら忠誠心と理性でおさえこめるだろうが、それ以上続ければ、クライムはどれほど蕩けた瞳をして泣き喚き、どんな無様な瞳で自分に甘く懇願をするだろう。

 

 そんなに房中術を学びたいなら、飼い主たる自分が見本を見せてあげよう。以前の褒美でとっておいた<興奮剤>と<精力剤>の準備もしなければ。

 

 凛と立つクライムがこれから快楽と絶望に歪む姿を想像するだけでラナーの背中にゾクゾクと稲妻が走るような快感が襲う。同時に先ほどまで抱いていた怒りが再燃していく。

 

 不条理な八つ当たりを受けたクライムだが、結果的に【ラナー様を非常に満足させる】という願いだけは叶えることができた。



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ラナー様とお勉強!!

 ラナーはいつものドレス姿ではなく、伸縮性のある太ももを大胆に出したスカートと、南方の【スーツ】に似た上着・ジャケットを羽織り、艶やかな金髪を綺麗に纏め結い伊達メガネをかけていた。

 

 以前【避難訓練】で行った簡素な変装だが、この衣装はナザリックにおいて〝女教師〟を連想させるものらしい。

 

 ナザリックにおける神々【至高の41人】の中で女教師の一面を持っていたという〝やまいこ様〟により創造された、アンデッドでありながら怜悧(れいり)な印象を持ち合わせている七姉妹(プレイアデス)のまとめ役ユリ・アルファ様に似た格好をしている訳だが、確かに【教師】と言われても違和感を覚えない。

 

(う~ん。本当は〝クライムに勉強を教える〟のではなく〝一緒に勉強〟をしたかったのだけれど……。これは露骨すぎて不適切だわ。この衣装の正しい使い道は……クライムが失態を犯した際にとっておきましょう。シャルティア様からまた玩具や衣装を借りられるかしら?)

 

 ラナーは伊達メガネと髪を結っていたリボンを外し、改めて思索に耽る。以前聞いた吟遊詩人(バード)の唄……文官を志す若く貧しい男女の友人同士が試験に臨むため青空で勉学に励み、やがて恋仲になっていく話を思い出す。そのようなシチュエーションも悪くはないが、ピンと来ない。

 

 ……ラナーがここまで逡巡しているのは、魔導王陛下から〝簡単でいいので、クライムにナザリックの言語を教えてやって欲しい〟と頼まれ、クライムもその提案に同意したためだ。つまり【クライムに勉強を教える事】が仕事となってしまい、ラナーからすればいずれ行おうと思っていた<初めて>を奪われた気分であまり愉快ではない。

 

 そのため【仕事】として請け負いつつ〝少しでも楽しく教えられないか〟と考えていた。

 

 クライムが最も手早く確実にナザリックの言語を身に着ける方法は至って簡単だ。自分が意図的にナザリックの言葉以外話さず、文字も王国語を書かないようにすればいい。そうすればあの可愛い子犬は自分の気持ちを汲み取るため死ぬ気で言語を習得するだろう。実際クライムはこの方法で、王国語をラナーに教わりながら無学な孤児とは思えぬ早さで習得した。

 

 ただこの方法では、習得内容に齟齬や知識の偏りが発生してしまい、魔導王陛下の要求する〝簡単〟の水準を誤る可能性が生じる。

 

 魔導国の国民と同程度なのか、それともナザリックのシモベと同程度なのか、ペットなのでその中間か……。陛下は愚者に要らぬ知恵をつける真似を良しとしない。

 

 そもそもナザリックの言語はラナーの頭脳を以ってしても全てを把握しきれないほど複雑怪奇だ。全く同じ文字列でも前後の文章によって意味が180度変わるなど珍しくなく、言語学的規則……主語・動詞・形容詞・目的語等々の順番などあってないようなものだ。

 

 暗号のためあえて難解で不合理に構成されたのではないかと疑うほど、公用言語の利便性からは逸脱している。だからこそ魔導王陛下は一番美しい言語と好んでいるのだろう。

 

(魔導王陛下の〝簡単〟の水準は、一定の言語学的規則の理解、ひらがなを用いた文字の読み書き、四則演算ができる程度……かしら。)

 

 ラナーは生活の利便性を高められ、それでいて知識が暴走しない程度の言語的理解の範疇を定める。……あとは教え方だ。自分が子供の頃宮廷学者に習ったような、退屈で凡庸で不愉快極まりない講義を愛しのクライムに行う気など微塵もない。

 

(そうだ!シャルティア様の御部屋にあったあの衣装をお借りできないかしら?)

 

 

 ●

 

 

 敬愛すべきラナー様から直々にナザリックの言語を教わる光栄を賜ったクライムは、特別に用意されたラナー様と対面できる程度の小さなガラスの円卓に座り勉学に励んでいた。

 

 ……何故か礼服にも似た上下黒色に金のボタンのついた詰襟の衣装を着せられ――ラナー様曰く〝勉学をするために必要な衣装〟であるらしい――ラナー様は、大きな襟のついた白い独特の衣装を纏っている。

 

 ラナー様が艶やかな髪をかき上げると、大きく開いた胸元に佩用された赤いリボンが揺れ、慌てて下を見ればガラス越しに太ももをあらわにさせた、下着が見えそうなほど短いスカートが目に留まり、クライムは目のやり場に困ってしまう。

 

「ここまでが、ナザリック語の基本〝ひらがな〟と〝数字〟よ。解らない事はあるかしら?」

 

「いいえ!御座いません!」

 

「なら良かったわ。喉が渇いたでしょう?折角用意したから〝こーら〟を飲みましょう。」

 

 ガラスの円卓には軽食や菓子、飲み物が置かれており、いつでもつまめるようになっているが、クライムは貴重な知識を学んでいる身で手を出す真似は出来ない。しかしラナー様とご一緒しないということも不敬と感じ、グラスから口の中が突き刺さるような刺激を持つ甘味を味わう。

 

「よくできたクライムにご褒美よ。あ~ん。」

 

「い、いただきます!」

 

 ラナー様がそういって差し出したのは、芋を細切りにして油で揚げた軽食だった。とはいえクライムの知る芋の味と全く異なり大地の豊穣な風味と塩気を味わえる至極の一品。……ラナー様は自分が緊張で空回りをしないよう心配りをしてくださっていると思うと、その気持ちだけで胸がいっぱいになる。

 

「じゃあ次はクライムが自分の名前を書けるように勉強しましょう。」

 

「いえ!わたくしはその前に、ラナー様の御名前をこの手で書けるようになりたいです!」

 

 その瞬間ラナー様の身体が少しビクっと震えた事にクライムは狼狽する。ラナー様の御考えを踏みにじる不敬を働いてしまったのではないかと怯えてしまうが……

 

「そう。とても嬉しいわ。でもわたしの名前はとても長いわよ?基礎・基本は教えたからここでテストしてみましょう。一度書いてみて。合格点に達しなかったらそうね……」

 

 ラナー様は悪戯を考える子供のように無邪気な笑みを浮かべておられる。

 

「この円卓にある食事の代金をクライムに払ってもらおうかしら?」

 

 クライムは刃を突き付けられたような緊張感に襲われる。これほどの美味・甘味など、一体どれほどの値がつくか解ったものではない。ナザリックではリ・エスティーゼ王国のように通貨制度ではなく――全ての施設が無料で使えるのでもらっても意味はない――必要なものが欲しい場合、クライムは労働による対価で支払うこととなる。

 

 つまりあの魔導王がこの美味なる菓子につけた値段と同等の働きをしなければならない。下手をするとラナー様の御傍から長く離れないといけなくなる。クライムは取り返しのつかない選択をしてしまったと後悔するが、ラナー様のご指導の成果を信じるほかない。

 

「では……。ら、な、ー、て、い、え、え、る……」

 

 クライムは筆を止め深呼吸をする。ラナー様がまだ笑っているということは、間違ってはいないはずだ。

 

「んん。……し、や、る、ど、ろ、ん、ら、い、る」

 

 震える右手を左手で抑え、何度も深呼吸を行う。王族の名前を間違えるなど、リ・エスティーゼ王国の従者だった時分でも打ち首か晒し首は避けられない行為だ。

 

「う、あ、い、ぜ、る、ふ。……か、書き終えました!ラナー様!」

 

 ラナー様は悲痛な面持ちで、クライムの書いた半分ミミズが這ったような文字を見つめている。心臓が止まってしまいそうなほどの緊迫感で失神してしまいそうだ。しかし、ラナー様は表情を一転させ笑顔となる。

 

「うん、合格。うふ、クライムったら汗だく。甘いものでも食べて一休みしましょう?」

 

「はい!畏まりました!」

 

 クライムは命令されるまま、楕円形の菓子を手に取って、勢いよく食べすぎ喉に詰まらせ、そのまま〝こーら〟を口にして口腔内を刺すような刺激に咽こんで混乱してしまう。

 

 ……ラナーは何かの書籍で見た〝お勉強デート〟なるシチュエーションを楽しみながら、四苦八苦する子犬の様子を愉快気に眺めていた。



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急いては事を仕損じる?

 ラナーは恭しく扉を閉め守護領域まで戻る道のりの廊下を、険しい顔で思考しながら歩き始めた。

 

 たったさっきまで第九階層にある魔導王陛下の執務室へ直接の呼び出しを受けており、一体どんな失態を犯してしまっただろうとか恐懼し訪れていたのだが……。以前の避難訓練で自分がカルネ村の薬師に(かた)った偽名……【ソルシエール】についてを尋ねられた。

 

 この名前はリ・エスティーゼ王国王女の時から知っていたのか?他に知っている可能性がある者はいないか?という話だったが、【魔女】を意味するナザリック語の1つとして最近知識に入った事、咄嗟に思いついただけで深い意味は無かったと話すと、魔導王陛下は一気に興味を失ったようで、二度とこの偽名を使わないよう厳命された。

 

(魔導王陛下はわたしの騙った偽名にどのような意味を見出されたのかしら?一番考えられるのは、陛下が最も警戒されている事案の1つ〝ぷれいやー〟の存在……。しかし聞いたことのない名前だわ。マズいわね。一刻も早くこの失態を払拭しなくては。)

 

 叱責されることは無かったが、その事実が逆に恐ろしい。失望され自分の価値を下げたかもしれないと考えたラナーは焦燥感に駆られながら、失点を取り返す方法を模索していた。

 

 

 ●

 

 

(そこまで期待はしていなかったが、やはりハズレか……。)

 

 アインズはラナー(あの頭のおかしい女)が使用した偽名について、ひょっとすれば他のプレイヤーの存在を探せる糸口になるかもと少しだけ希望を抱いていたが、残念ながら何の収穫もなかった。

 

 ……魔女職のクラス持ちやNPCに【ソルシエール】なんて名前を付けるなど、妖精職にシルフやウィンディーネ、吸血鬼職にヴァンピールやカーミラと名付けるようなもの。

 

 つまりは過去にユグドラシルのプレイヤーが遺した痕跡か、現存するプレイヤーからの存在発信か挑発か罠か……何かしらの信号である可能性が高い。ラナー(あの頭のおかしい女)が以前から知っていた名というならば、その来歴などの私見を語らせようと思ったが……。なんてことはない、ナザリック入り後に得た知識でしかなかった。

 

(偽名ひとつ使わせるにしても、こちらは警戒をしないといけないか。ナザリックが表に出た以上、過敏になる必要はないが、無駄に手の内を見せる愚かな真似はしたくない。)

 

 ユグドラシルでのギルドVSギルドとは違う、五里霧中での権謀術数渦巻く存亡を賭けた情報戦。アインズは未経験であるが、シャルティアを洗脳した勢力や〝リク〟などの敵対組織が同じとは限らない。後手に回るのはもうご免被るが……

 

(俺にはぷにっと萌えさんのように大局的な戦略や戦術を駆使する頭脳はない。)

 

 この考えに至れば自分の無能を呪いたくなるばかりだ。転移し未知に溢れていた最初こそ、アインズはナザリックのため自分で情報を収集し様々な試みを行う必要があった。だが魔導国という国まで建国し、ナザリックが表に出たあたりでアインズが本当の意味で出来ることはほぼ皆無となった。過去の仲間たちが如何に偉大だったか痛感する。

 

(そう考えるとヤルダバオトってどんな意味があるんだ?う~ん今更聞くのも……ん?)

 

「……どうしたアルベド?」

 

《 アインズ様、不肖の部下が御身へ直接お話ししたい儀があるとのことです。わたくしの独断で一蹴することも出来ないため、畏れ多くも不肖の部下の提案をお耳に入れたく 》

 

(早っ!?え、なに?もう何か思いついたの!?俺と話し終えて10分も経ってないぞ。)

 

 アインズは伝言(メッセージ)を受け取り、思わず時計を見る。まだ守護領域にさえ戻れていないはずだ。アルベドに報告をした時間も考えれば、その思考時間は本当に一瞬としか思えない。その上でアルベドでさえ判断に困る提案を思いつくなど、一体どんな深読みをされたのだろう。

 

「ああ、聞かせてもらおうか。」

 

《 〝モモンが吸血鬼の情報を欲している〟というアインズ様の御計画から、魔導国はモモンに最低限のバックアップをする体裁をとりつつ、一定の距離を置くことで、モモンの裏切りを釣り餌とし、シャルティアを精神支配した勢力の情報収集を行う計画は御存じの通りと思いますが…… 》

 

 アインズは早速〝知らないよ!?〟と大声を張り上げたくなる。無限にハンコを押し続けた意味不明な書類のどれかに混ざっていたのだろう。【見知らぬ書類にサインをしてはいけない】という先人たちの有り難い御言葉に真っ向から対立したツケであると考えれば、いよいよ自己嫌悪にさえ陥ってしまう。しかし……

 

「ああ。あの計画か。それで?」

 

 もちろん知らないなど言えるはずもなく、了解済みの体で話を進めないといけない。

 

《 はい。その計画に付随し、〝吸血鬼に関連した呪いのアイテム〟が見つかり、魔導王陛下はモモンに下賜した。……という噂を流す作戦を提案しております。 》

 

 いよいよアインズの頭では理解できない話となっていく。どのようなメリットがあるのかサッパリ解らないが、アルベドが自分に採択を仰いだ以上一考に値する案なのだろう。

 

 しかし、ラナー(あの頭のおかしい女)と二人きりで話すというのは、デミウルゴスと話すよりもリスクが高い。アインズは小考し……。

 

「なるほど。その話を詳しく聞いてみたい。あの女のほかに、アルベドとデミウルゴス……そして、当事者であるシャルティアにも一応来てもらおう。1時間後にわたしの執務室まで全員を集められるか?」

 

《 畏まりました。即座に手配致します。 》

 

 いつもの手段が使える保険を準備し、アルベドとの伝言(メッセージ)を切った。

 

 

 ●

 

 

 一時間もしない内にアインズの執務室へ指名した全員が集まり、アインズへ跪いていた。

 

「魔導王陛下、この度はわたくしの愚案を拝聴していただくためお時間を下さったことに感謝を申し上げます。」

 

「構わん。さて、お前の考えたナザリックの利益となる話を聞かせてもらおうか?」

 

「はい。〝赤い靴〟に御座います。」

 

 ……アインズが最初に〝回りくどい言い回しや説明は好かない〟と言ってしまったためか、その説明はひどく端的で、一体何を意味したいのかわからない。〝説明は全て終わりました〟と頭を下げられても困る。しかしデミウルゴスやアルベドを見れば、難しい顔をして考え込んでいた。アインズの沈黙を怒りと捉えたのか、提案者(ラナー)は再度顔を上げ、再び口を開いた。

 

「もちろん真実・空論・虚言・挑発の配分を誤れば、今までの陛下の御計画を台無しとする危うい賭けであることは……」

 

「黙りなさい!アインズ様の思索を邪魔するなど、万死に値すると知れ。……申し訳ございませんアインズ様、不肖の部下には後ほど教育を施しておきます。」

 

 折角どんな考えか聞けそうだったのだが、アルベドが説明を途中で遮断させる。アインズは保険を掛けておいて良かったと心底思うと同時に、あわあわとしているシャルティアへ心の中で謝罪した。

 

「アルベド、それには及ばない。今は全ての無礼を許そう。何より当事者であるシャルティアが置いてけぼりではないか。」

 

「あ、アインズ様!まこと申し訳ないでありんす!わらわの事までお考えいただき……。」

 

「そういう事だ。わたしの認識と齟齬が無いかの確認も含め、優しく教えてやってくれ。」

 

「「 ではわたくしが…… 」」

 

 アインズがいつもの手段を使おうとすると、デミウルゴスとアルベドが声を揃え、お互い火花を散らしている。しかし程なくして、二人で無言の会話でもしたのかデミウルゴスが話し始める。

 

「ではまずわたくしから……。1つ目は、【履けば死ぬまで踊り続ける】赤い靴の伝承ですが、この地では類似した話さえ確認されておりません。しかし〝呪いのアイテム〟という概念は存在し、この地における一般的な強大勢力であれば、【何故魔導王は解呪をせずモモンに危険なアイテムを下賜したのか?】という疑問を抱かせます。考えられることは〝モモンは魔導王に真の意味で忠誠を誓っていない、魔導王もモモンを心の底から信用していない。〟又は〝解呪しない条件はモモンの希望であり、モモンは条件次第で魔導国に見切りをつける可能性がある〟ということです。他国が危険を承知でモモンに離反を提案する誘い水として効果を発揮させる一手になるかと。」

 

「うむ。」

 

(赤い靴ってアレか!最終的に足を切り落として、その足が踊り続けたっていう御伽噺だ。)

 

「とはいえ、これだけでは愚かな敵対勢力を炙り出す効果しか御座いません。……2つ目の狙いこそ最も重要な点かと。それはプレイヤーの存在。本来であれば一考にも値しない噂話に反応した勢力についてです。【赤い靴】は無知蒙昧なる者が偉大な神を貶め、罰を受ける象徴。先ほどこの女も言いましたが、〝手の内で上手く踊れ〟と、アインズ様の深謀遠慮を以ってしても狡猾に姿を隠し続ける者達に対する挑発の要素が強く御座います。相手は〝未知を放置する〟か〝危険を承知で真相を確かめるか〟の二者択一を迫られます。前者であれば、1度でも未知を放置した焦燥感を相手に与え、後者であれば膠着した現状を打破する糸口になるかと。」

 

 〝ここまで合っておりますでしょうか?〟とデミウルゴスが緊張した様子でアインズを伺う。何時もであればアインズとの答え合わせを至高なる仕事と喜ぶ節のあるデミウルゴスが……だ。

 

 ユグドラシル時代、ナザリックは1500人の大侵攻により、第八階層まで攻め込まれた経験がある。必然的にデミウルゴスの守護領域たる第七階層も突破された訳で……プレイヤーの脅威というものを身に染みて実感しているのだろう。

 

 アインズはデミウルゴスの説明を漠然としか理解出来ていないが、ひとつだけ理解する。……この提案は決して穏健なものではなく、【劇薬】であると。

 

「ではデメリット、いえ正確な表現ではありませんね。全てがメリットとデメリットを混在させたものです。その説明はわたくしが……。【赤い靴】の話を知るプレイヤーが〝うわさ話〟を聞いた場合、〝モモン〟も〝ヤルダバオト〟も全てがアインズ様の手の内であった可能性・疑惑を強く植え付けることとなります。しかし所詮はうわさ話、確信に至ることは出来ません。先ほどデミウルゴスが話した【膠着した現状を打破する糸口】とは、言い方を変えると〝覗き見の好きな相手〟の蠢動を許すこととなります。」

 

「えっと、つまりアインズ様がモモンへ〝吸血鬼に纏わる呪いのアイテム〟【赤い靴】を渡したうわさを流すことで、良くも悪くも静かに見ていたプレイヤー同士のあれやこれやが変化する……ということでありんしょうか?」

 

 シャルティアは目をぐるぐると回しながらデミウルゴスとアルベドの説明を自分なりにまとめる。二人は〝そんなことしか解らないのか〟と怪訝な視線を向けているが、アインズの認識もシャルティアと相違ない。だがいつものように〝二人の考えすぎ〟とも言い切れない。

 

 アインズがこの地でユグドラシル時代やリアル世界でしか知りようのない知識を持つ相手を見つけた場合、その相手には最大限の警戒をするだろう。相手がどのような反応をするか解らない以上、アインズが出すべき答えは……。

 

「未知を天秤に掛けた博打は好かないな。とはいえ、一考に値する案だ。より精密にナザリックの知者たる3者……いや4者で深く話し合い、様々な可能性を考慮した上、改めて話を聞かせてもらおう。」

 

 ……先延ばししかない。ここで〝そう仰ると思い!〟なんて更に難しい話が出てこない事を祈る。だがその懸念は杞憂に終わり、4人は深々と臣下の礼をとった。

 

 パンドラズ・アクターから計画の進捗状況をさりげなく聞き、他言無用の上、ある程度説明もしてもらおう。アインズは今回の一件で、今後増えるであろうプレイヤー関連の話をする場合〝いつもの手段〟は使えない可能性があることを心のメモ帳に深く刻んだ。

 

 

 ●

 

 

 〝 焦り過ぎた…… 〟

 

 ラナーは自らの守護領域に戻り猛省していた。

 

(功を焦って破滅する愚者など、山ほど見てきたと言うのに……。)

 

 本来であれば、一度アルベド様に話をした上で、十分に考察を行い魔導王陛下に自分の考えを持っていくつもりだった。だが、アルベド様に伝言(メッセージ)を送った瞬間から【わたしの一存でその話は進められない】と、何も考えが煮詰まっていない状態で陛下のお耳に入ってしまった。

 

 少し慎重に考えていればあり得ぬ失態。今ラナーが守護領域に戻ってこられた事は、幸運と慈悲が味方したからに他ならない。魔導王陛下は自分の愚案などとうに見通していたはず。……でなければあの場にシャルティア様を呼んだ理由に説明が付かない。

 

 陛下はどのような作戦でも情報の共有を重要視される。あの場でシャルティア様は自分の計画に要領を得ない解釈しかされていなかった。すなわち、計画に大きな穴があり、運に頼る要素が多いことを知らせる目的だったのだろう。

 

(やはり〝ぷれいやー〟の情報とはナザリックにおいても特別。しかし一蹴されなかったのは幸いだわ。それに〝4者で話し合う〟ようにご命令を下さった。)

 

 ナザリックの三大知者と肩を並べ話し合うなど、少しでも無能な姿を見せてしまえば即座に〝用済み〟となる重責。同時に自分の存在価値を維持させる格好の場所。ナザリックに来てからラナーは綱渡りと大博打の連続だ。

 

 しかし【命懸け】が当たり前のナザリック(化け物の巣窟)において、〝命の価値が低い〟自分が【領域守護者】という肩書を維持するためには、文字通り他者よりも多く命を賭け続けなけばならない。

 

(もし天命がわたしを見放したならば……。)

 

 あの皇帝のように命乞いの準備などする気は起きない。そんな事をするくらいならば、心中を決意しクライムの瞳を眺めてこの世を去りたい。しかしそんなワガママは許されないだろう。目が覚めれば間違い無く想像することさえ(おぞ)ましいこの世の地獄が待っている。

 

(クライム……自分の思い通りにいかない世界というものは面白いものね。)

 

 クライムはリ・エスティーゼ王国の王城で他の兵士やメイドたち、王侯貴族からこのような扱いを常に受けていたのだろう。全ては自分の為に。ならば次は自分がクライムのために……

 

 それも悪くないと、お姫様は静かに微笑んだ。

 



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クライムとラナー様の心理戦

「どうしたのクライム?ゆっくり焦らず選んでいいのよ。」

 

「はい!申し訳ございません、しばしお待たせ致します!」

 

 クライムは全身から滝の様な汗を流しながら、テーブルの対面に座るラナー様の一挙手一投足……表情筋や目の運び、瞬きの回数や全身の筋肉の微弱な反応、果ては〝気の運用〟と呼ばれる意識の流れまでも読み取ろうとする。

 

 才能は無いが血反吐を吐くような努力の賜物で、【人間の戦士】としては中の上といった領域に……本物の小悪魔(人外)となり、ナザリック(化け物の巣窟)で修練を行う事で、更に一段上の高みに足を踏み入れたクライムだが、まだまだ修行不足であることを実感する。……護るべき主の御心ひとつ読み取れないなど、正に従者失格だ。

 

「これにします!」

 

 クライムはラナーが持つ2枚のカードの内、1枚を選んで内心祈りを捧げる気持ちでそのカードを見る。……スペードの8、何の変哲もないトランプの絵柄が、クライムには嘲笑する道化師のカードよりも不吉に見えた。

 

「そ、揃ってしま……揃いました。ラナー様。」

 

「あら、またジョーカーがわたしに残ってしまったわ。わたしが【罰ゲーム】ね。」

 

「いけませんラナー様!もう3度目になってしまいます!次はわたくしが!」

 

「ダ~メ。〝勝負で決まったこと〟なんだから結果は絶対よ。あーあ、次は勝てると思ったのに。」

 

 本日はラナー様が休暇を賜っており、それに合わせてクライムも修練を休み守護領域でラナー様と共に過ごしていた。ラナー様がご用意されていたのはクライムの知識では【賭博の道具】であるトランプと、【罰ゲーム】と書かれた様々なカードの入った白い箱。

 

 そしてクライムは【交互に相手の手札から1枚選び絵札を合わせていき、最後にジョーカーを持っている人が負け】というゲームでラナー様と勝負をすることとなり、望んでもいない3連勝を飾る事となってしまった。

 

 1度目の勝利で畏れ多くもラナー様に肩のマッサージをしていただき、2度目の勝利では〝10分間椅子に座り団扇で扇いで〟頂いた。間違っても従者が主に行わせるものではない。クライムは次こそは絶対に負けなければならないと、それこそ戦闘を行う心持でラナー様との〝勝負〟に挑んだのだが……。

 

「また負けちゃったわ。次はどんな【罰ゲーム】かしら。」

 

 またもクライムはこの単純にして究極の心理戦に〝勝って〟しまった。いや、思い通りにならなかったという意味ではこれ以上ない敗北を喫したと言える。ラナー様は少し拗ねた様子ながらも、楽し気な笑顔を浮かべ罰ゲームの内容が記されたカードの入っている白い箱に手を伸ばす。

 

 どうかラナー様のご負担にならない【カードが引かれますように】とクライムは祈りを捧げる。

 

「えっと……。【負けた人が勝った人に10分間ベッドの上でくすぐられる】ですって。」

 

 クライムは思わず卒倒しそうになる。ラナー様の玉体に手を触れる大罪は〝既に犯して〟しまっているが、何十・何百と重ねようがその畏れ多さが陰ることなどない。

 

「【罰ゲーム】なら仕方ないわね。じゃあクライム。遠慮せずに……。」

 

 そう言ってラナー様はベッドに移動し、休日故いつもよりも簡素なドレスをはだけさせ、その玉体の〝最低限〟だけを隠す姿となる。

 

「は、はい。ラナー様!!」

 

 クライムは〝これは負けられなかった自分に対しての罰だ〟〝固辞してはラナー様に恥をかかせてしまう〟と心の中で言い聞かせ、ラナー様の御身体に指を這わせる。

 

「ん、ぁあ。」

 

 畏れ多さが先行したためか、くすぐるというよりも、フェザータッチといった指の動きにラナー様はビクりと身体を震わせ、小さく嬌声をあげる。【罰ゲーム】の紙にはご丁寧に〝どこをくすぐるか〟まで指南が記されている。

 

 首筋から脇、横腹、大腿の付け根、太もも……。〝人をくすぐる〟なんてしたことのないクライムはそのままフェザータッチの要領でラナー様の身体に指を滑らせていく。そのたびラナー様は身体を大きくくねらせ、嬌声はどんどんと増していき、自らの指を噛み声を抑えようとしている。その姿にクライムの脳内は罪悪感と倒錯感と羞恥心に溢れ、自然と息が荒くなる。

 

 大腿の付け根をくすぐるとラナー様は電撃が走ったように身体を大きく仰け反らせた。〝イケナイ事〟をしているとしか思えない倒錯感と、〝ラナー様の玉体に触れるため、ドレスに自分の手を入れる〟という未経験の不敬な行為に対する畏れ多さがクライムの混乱に拍車をかける。

 

 これほど長い10分は初めてかもしれない。クライムは早く時が過ぎてくれないかと心から願い……。

 

 ジリリリリという刻み時計の音が鳴り響く。クライムは息も絶え絶えに、慌てふためきラナー様の玉体から指を離した。ラナー様は未だ呼吸が乱れている様子で、ベッドの上で深呼吸を行っている。そして大きく深呼吸を行い……。

 

「次こそは負けないわよ!さぁクライム。テーブルに戻りましょう。」

 

 〝まだこのゲームが続くのか……〟と内心絶望的な気持ちになりながら、〝次こそ絶対に負けなければならい!!〟と決意を新たにし、テーブルへ戻った。結果を言うと、次のゲームはクライムの気持ちが通じたのか、〝負ける〟事が出来た。

 

「やっと勝てたわ!じゃあクライムが罰ゲームね!」

 

 ラナー様は無邪気に勝利を喜んでいらっしゃる。クライムは安堵しながら【罰ゲーム】のカードが入った箱から一枚を引き……顔面から血の気を失った。

 

【負けた人が勝った人に10分間ベッドの上でくすぐられる】

 

 これほど大量にあるカードの中から二度連続で同じ内容を引くなどどれほどの確率だろう。クライムは声が出ず、恐る恐るラナー様へ引いたカードを見せる。

 

「あら、じゃあクライムにはさっきの仕返しをしなくちゃ。」

 

 無邪気に笑うラナー様の白魚のようなきめ細かな美しい十指が、まるで別の生物のように動く……いや、クライムには(うごめ)いているような錯覚に陥る。

 

「さぁクライム。ベッドに寝て頂戴。」

 

 誠に不敬な話であるが、ラナー様の悪戯じみた笑顔が、クライムにはまるで拷問官が浮かべる邪悪な嘲笑のように見えてしまった。そうしてクライムの地獄のような……枚挙に暇の無い失態の数々に、後に思い出すことも(はばか)られる10分間が始まろうとしていた。




・ラナー様視点を書いてみました。任意でお読みください。

【https://syosetu.org/novel/255582/19.html】


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少年への考察

 絢爛豪華な調度品の置かれた応接室。机の上に置かれたティーカップにはまだ新しい(しずく)が付いており、談笑の後を思わせる。しかし部屋に満ちる気配は決して穏やかなものではなく、常人であれば意識を手放すほどの殺気に(あふ)れていた。

 

「さぁどうぞ、クライム様。何時でも打ち込んで来てください。」

 

 身体に一本筋が通ったような瀟洒(しょうしゃ)で凛とした立ち姿は、正に魔導王陛下の最側近である家令(ハウス・スチュワード)という大役に相応しく、クライムは訓練用の剣――それでも人間だった頃使っていた代物以上の一級品だ――を手に、無意識に震える剣先と身体を抑え込もうとする。

 

 未だセバス様に敬語で話されるのは強い違和感を覚えるが、【領域守護者の従者】という身分はクライムが想像する以上に大きな肩書であるらしく、セバス様でさえ軽々に廃することが出来ないとのことだった。

 

 戦闘態勢のクライムに対し、セバス様は後ろで手を組み直立不動の体勢を崩さない。それは驕りでも傲慢でもなく、本物の強者にのみ許される行為……。実力に絶望的な開きがあることは身をもって実感している。事実ただ睨まれているだけで、体力も精神力も急速に摩耗していく。

 

「クライム様は以前、自分の能力に対し〝才能がない〟と自嘲気味に仰っておりましたが、それは大きな間違いです。(あゆみ)は遅くなろうとも、成長に上限など御座いません。事実アインズ様でさえ、本来の能力では圧倒的に不利となる相手に対し、戦術・戦略を組み入れ見事勝利を収めておられます。至高の御方でさえ勝利のため邁進する中、シモベたる我々が自分の限界を定めるなど、万死に値する【恥】と知りなさい。……クライム様に命を懸けてでも護りたい主がいるならば尚更です。」

 

「はい!セバス様!」

 

 セバス様より激励を受け、クライムは精神を統一し、渾身の一撃を放った、クライムにしては会心の太刀筋だったのだが……。

 

「な!?」

 

 クライムの初撃は一歩も動かぬセバスに届くことさえなく、あっけなく空を斬る。覇気に圧され間合いを誤り、その様子はまるで見えない巨人の手に全身を押されるかのようだ。クライムは大きく崩れた重心を急いで整えつつ、二撃目を打ちこもうとするが……

 

「初手が首を狙った一撃でしたら、次は胴でしょうか……」

 

 二撃目の前に、セバス様より鋭い殺気を当てられ重心が更に大きく崩れ情けなく酔歩してしまう、何とか転倒を防いで次に繋げようとするが

 

「次は飛び上がっての<武技>ですかな?」

 

 再びセバスから局所を狙った殺気を込めた鋭い視線が飛んでくる。そしてクライムは透明人間に投げられたかのように体勢を崩し、勢いよく背中を地面に叩きつけられた。

 

「言いたいことはご理解いただけましたか?」

 

「……わたくしの剣筋は、読みやすいのでしょうか。」

 

「はい。恐らくクライム様の素直で一途な……悪く言えば愚直な性格にも起因しているのでしょう。わたくしでなくともクライム様と同格程度の熟練戦士であれば、予測はそこまで難しくないはずです。」

 

 クライムは才能がない分、基礎・基本を重点的に修練し、ようやく人並み以上の実力を身に着けた。やはり自分は戦士長やブレイン様とは持っているものが違う……。そんな自己嫌悪に陥ってしまっているクライムに、セバスは優しく声をかける。

 

「しかし素直な事も基本に忠実な事も、悪い事ばかりではありません。むしろ大変素晴らしいものです。何事も基礎・基本に忠実だからこそ、発展が可能……。まだまだ伸びしろを有している証左となります。事実アインズ様はあなたという剣士を非常に高く評価しておりました。」

 

 恐らくこのナザリックではこれ以上ない褒め言葉なのだろうが、クライムの心境は複雑だ。リ・エスティーゼ王国の最後……あの場でどの行動が最適解であったか、今更無駄と知っていても考えてしまう時がある。そして必ず〝何をしても無駄だった〟という結論に至ってしまう。どんな奇策を弄そうと、全身全霊で逃げようと、圧倒的強者の前で弱者が出来る事など皆無であることを嫌というほど思い知った。

 

「死を決意し、護るべき主のために立ち向かって死ぬ。シモベとしてこれ以上の誉れは御座いません。羨望を覚えるばかりです。」

 

 セバス様は目を細め、優しい声色でクライムに(さと)す。お世辞でもなんでもなく、本心からの言葉であることはクライムにも伝わった。魔導王陛下に剣を向けたクライムに対するナザリックの者の評価は著しく低い。しかし……

 

「そう言っていただけると救われるばかりです。わたくしの軽率な行動がラナー様へ害をなすなど、あってはなりませんから。」

 

 ……誰でもない魔導王陛下がクライムの(とが)を赦したため、面と向かって嫌悪感を顕わにする者はおらず、中にはセバス様のように好意的に捉えてくれる方もいる。本来であれば主であるラナー様もまとめて永劫〝死〟という慈悲すら与えられぬ大罪であると知らされたときは、生きた心地がしなかった。

 

「そうですか……。さて、以前の稽古……いえ、既に実戦でしたね。その時もお伝えしましたが【怯え】は大切な感情です。クライム様は【怯え】を厭うあまり、忠誠心で押し殺し自分を暴走させる節が御座います。上手くいけば相手の奇をてらう行動となりますが、下手をすれば手玉に取られ先ほどの二の舞となるでしょう。」

 

 クライムは先ほどセバス様の視線と殺気だけで手玉に取られた不覚を思い出し、不甲斐なく歯噛みしセバスに純粋な目線を向けた。

 

 【本当に不思議な少年だ。】

 

 セバスは改めてクライムの瞳を見て思う。魔導国は偉大なるアインズ様の御慈悲で弱者も商いを行う契機に恵まれたり、安全に暮らす改革が進められているが、この世界というのは未だ生まれや身分、強さ、賢さといった〝力〟が絶対であり、力無き者は悪事に身を(やつ)し薄暗がりを這い回るか、奴隷や娼婦、農奴として虐げられ生涯を終えるか……それでもまだ良い方だ。

 

 ツアレや目の前の少年のように、少しでも人生の歯車が狂っていれば薔薇色の記憶など何一つ無く人生を終えることも決して珍しい話ではない。それ故アインズ様より命令されたエ・ランテルの視察中にも、セバスの強さに憧れ、稽古や弟子入りを志願する者は――【目立たないよう行動しろ】とのご命令だったのでもちろん全て断った――後を絶たなかった。

 

 唯一の例外が目の前の少年だ。〝なぜ、あなたは強くなりたいのか?〟

 

 その問いに、今の様な純粋な瞳を向け、万感の思いが籠った端的な決意の言葉が返ってきた記憶は新しい。あの純粋な瞳を無視すれば、自分を創造してくださった たっち・みー様 への冒涜となるのではないかと考えてしまうほど、〝ただ力に憧れる者〟とは違う瞳。

 

 この少年には確かに武や勉学の才能こそないが、他のとんでもない……それこそ<生まれながらの異能(タレント)>のような力を持っているのではないかと疑ってしまうほどだ。

 

(しかし従うべき主があの女であるという事には驚かされましたが……いえ、それはお互い様でしょうか。)

 

 セバスはつまらない事を考え苦笑してしまう。それよりも今は武の訓練だ。目の前の少年がいくら強くなろうと、コキュートスの管理する蜥蜴人(リザードマン)たちやハムスケに比肩するのがせいぜいだろう。

 

 それでも〝偉大な存在に少しでも近づき並び立てる者になりたい〟〝偉大な方の御傍に仕えるに相応しい者になりたい〟と願う少年の思いを誰が笑えよう。

 

「いいですか、クライム様。弱点さえも武の技法とするのです。〝怯え〟と言う感情は飼いならせば危険探知の能力、言うなればセンサーとなります。0か100だけで物事を考えてはなりません、先ほどのように……」

 

 その思いこそ、ナザリックに生きる者の総意なのだから。



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暇に任せて書いた忠犬の取扱説明書

・原作オバロ、くがね先生と異なる文体を使用しております。【アンチ・ヘイト】のつもりで書いていませんが、そんなの無理という方はバックしてください。

・紹介文にも記していますがこの話は特に〝そっち系〟を想起させる話となっております苦手な方は急いでバックしてください。

 以上を踏まえたうえでお読みください。



 与えられた仕事も終わり、愛しの犬はわたしとは別のお仕事に行っているので、暇に任せた戯れに筆を執ることと致しました。わたしの可愛い犬との遊び方、そして躾の方法をご紹介してみましょう。

 

 ……もっともこの文章は誰にも読ませるつもりはございません。わたしが記憶喪失にでもなれば別かもしれませんが。

 

 わたしの犬は頑張り屋さんで、比較的おとなしい性格をしております。ですが、非常に恥ずかしがり屋さんで、自分の欲望を押し殺しているときが多くあります。可愛いですね。

 

 主人であるわたしはそんな可愛いワンちゃんが我慢のしすぎによるストレスから精神が崩壊しないよう、適度に遊んであげる必要があります。

 

 

【環境整備と運動】

 

 わたしの犬は四六時中わたしに絶対の忠誠を誓ってくれているので、ベッドもテーブルも一つ、あとは運動が出来るスペースがあれば環境としては十分です。現在の生活区域に関しては一緒に寝て、一緒に食事がとれる最低限の広さがあるので問題ないでしょう。

 

 忠誠心と正義感の強いわたしの犬は、無辜(むこ)の民が理不尽に虐げられるこの世の救済の無い現実に強い不快感を覚え、罪悪感に苛まれてしまう悪い癖があります。

 

 事実、母国が死屍累々となり瓦礫の廃墟と化した世界を知り、一時期は精神の摩耗と紊乱が著しく、落ち着かせるのが大変でした。

 

 しかし気持ちを切り替えさせるには、新しい任務を与えるのが一番です。【自分を護ってほしい、1人にしないで欲しい】という新しい任務はわたしの希望とも合致し、ワンちゃんは無事に立ち直る事が出来ました。しかし、未だ脳裏に悪夢が過っている様子、そんな時は〝遊び〟を提案してあげています。

 

 一緒に身体を動かしてみたり、頭を使ったカードゲームを行ったりと様々です。特にわたしの犬は運動が大好きで、守護領域内にも運動が出来る程度のスペースを残しております。たまに飼い主たる自分も「一緒に運動がしたい」と声を掛けることもあります。簡単な拳闘の練習――ボクササイズと言うそうです――や剣技の御稽古なんかが最近では楽しかったことですね。

 

 昨日も丸めた紙を使って剣の練習をしていました。剣なんてお父様を殺す時にしか握った事がないので、色々な技があるんだなと勉強になります。チャンバラごっこという遊びだそうですが、わたしの犬は友達がいなかったので、こんな経験も初めてだそうです。ワンちゃんとお互いの初めてを交換しあうのはとても楽しいです。こうやって一緒に汗を流すと次項に記す【保清・整容】に誘導もしやすくなるのでいいことずくめ。

 

 

【保清・整容】

 

・洗体

 

 基本〝スパリゾート〟の露天風呂に誘っております。他の設備も魅力的ですが、男女の混浴が出来ないので、わたしの犬がオスである以上仕方がありません。一時的にでも監視のゴーレムに男女の錯覚をさせるマジックアイテムが無いか今度シャルティア様に聞いてみましょうか。

 

 犬をシャンプーするのはとても楽しい行為のひとつです。本当はお風呂場で〝色々な事〟をしてみたいのですが、ゴーレムがマナー違反を監視しており、下手をすると襲われるので愛でるだけにしておりもどかしい限りです。

 

 現在〝セーフ〟となる行為として、〝翼の後ろや背中を香油(ボディーソープ)で念入りに優しく洗ってあげる〟〝脇腹や太ももといった神経の多い箇所に指を這わせ滑らせるように洗う〟〝不可抗力を装い身体を密着させる〟ことが確認されています。

 

 ワンちゃんは顔を真っ赤にして大変混乱した可愛らしい瞳をみせてくれます。腰が砕けそうな快感を必死に我慢しようとしていますが、強烈な刺激による身体の不随意運動までは抑えきれない様子。恥ずかしがっている様子を眺めるのは至極の時間と言えるでしょう。獣欲から息が絶え絶えになっていく様など絶頂すら覚えそう。洗いっこは犬も飼い主も幸せな時間ですよね。

 

・耳掃除

 

 耳の中……耳道と呼ばれる器官は汚れが溜まりやすいと同時に敏感な〝粘膜〟です。あまり頻繁に行うと、耳を傷つけてしまう恐れがあるので少し期間を置いて実施しましょう。

 

 使用するのは細く短い木の棒だけです。

 

 膝に犬の頭を置いて耳の中と純粋な瞳が見やすいように工夫しましょう。先ほども記しましたが、耳の中とは【粘膜】であり、主に掃除してもらうのが恥ずかしいのか犬が【耳掃除】を嫌がることが多くあります。これから耳掃除をするという〝合図〟を決めておくと、犬も自分がこれからどんな目に遭うか覚悟が決まるようです。

 

 わたしは〝耳の中に優しく吐息をかける〟ことを合図にしています。ワンちゃんは全身を雷で打たれたかのように声をかみ殺して身悶えます、本番はこれからだというのに。

 

 最初は耳道内に木の棒を優しく這わせましょう。だんだんと顔が蕩けていき、全身が脱力しビクビクと震え始めます。 ある程度耳の中をほぐしてあげた後は〝弱点〟をカリカリっと刺激してあげます。

 

 すると一転し全身が痙攣したように身悶えはじめ、恥も外聞もなく素っ頓狂な声をあげて、ヨダレをたらし始めてしまいまいます。本当なら逃げたいのでしょうが、わたしの膝の上で【拘束】は完了しているので無駄な事。口に手を当てて声とヨダレが漏れないよう努力し身体を丸めだしたら、今度は〝弱点〟をこしょこしょとくすぐり、強制的に緊張をほぐしてあげましょう。

 

 緊張と緩和の繰り返しで犬の身体と脳内は大混乱に陥り、わたしのドレスをヨダレでベトベトに汚し、呂律の回らない声でひたすら謝罪と思わしき言葉を口にします。最終的に〝粗相〟をしてしまうこともありますが、気が付かないフリをしてあげましょう。やっているこちらも絶頂を覚えたことを悟られないように必死なのですからお互い様ですね。

 

【躾】

 

 いくら可愛い犬でも、悪い事をしたら【躾】を行うのが飼い主の役目です。心を鬼にしないといけません。他のメスと話をしたり楽し気にしていた時などはしっかりと主従関係をその身に刻み込みましょう。

 

 とはいえ痛いことはあまりしません。愛しい犬を嬲る趣味はないので、個人的には精神を徹底的に追い詰め、わたしのことしか考えられなくしてあげる方法が大好きです。

 

 まずは犬の方から〝躾けて欲しい〟と思わせるよう誘導することから始まります。最初は一緒にベッドを共にすることさえ、主人に対して畏れ多いと全身を真っ赤に染めて拒否するポーズを取りますが、寂しい笑顔を作ってあげれば素直に一緒に寝てくれます。

 

 そのあとは頬や首筋に口づけを落としたり、身体を密着させます。身体の緊張がほぐれていき、口数が減り、モジモジと動き出すまで続けます。息が荒くなっていき、瞳に罪悪感を宿し始めたら〝躾をしてもいい〟サインです。

 

 わたしの犬は〝弱点〟だらけで毎回どのように躾をするか贅沢な悩みをしてしまいます。冒頭に記した〝ストレスから精神を崩壊させない方法〟と真逆ですが、最近の好みは沢山〝マテ〟をさせることです。

 

 ワンちゃんはわたしと同じ部屋で衣食住を共にすることになったので〝自分を慰める〟事が出来なくなりました。沢山沢山愛でてあげつつも、〝本当にしてほしいこと〟をしないでいると、凄く憐れみを誘う瞳でわたしをみつめ、頭の中はわたしのことでいっぱいだろうと思えば何とも言えない快感が全身を包みます。

 

 この前はそれが楽しくて何十日も〝マテ〟を続けてしまい、ようやく〝本当にしてほしいこと〟をしてあげたらそのまま気絶し、翌日ベッドから起き上がれなくなっていました。凄く凄く可愛かったです。

 

 ああ、余白がなくなってしまいそうです。わたしの可愛いワンちゃん。あなたのことをもっともっと、沢山知りたいです。



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屈辱の昼餐

 ラナーとクライムは幻術による変装を行い、魔導国首都エ・ランテルにある王城を訪ねていた。

 

 対応するのはエ・ランテルの王城でメイド主任を任されている、美しいというよりも可愛らしいといった表現が似合う二人よりもやや年上の女性。ツアレニーニャ・ベイロンは、ナザリックの一般メイドにも劣らない見事な礼節を見せて二人に対応した。

 

「ようこそお越しくださいました、ラナー様、クライム様。」

 

「ええ、本日はお招きありがとう。早速だけれども魔導王陛下からのご命令を遂行させていただけるかしら。」

 

 ラナーからすれば殺してやりたい人間の二大巨頭に入る忌々しい女を前に、必死で笑顔を作り能天気な姫の演技を行う。クライムとこの女が楽し気に話す様子など見ようものならば、卵の薄皮一枚で抑えている様な殺意が暴走してしまいそうなので、クライムには一歩下がらせて自分が率先して〝仕事の話〟をしている。

 

 【命令の遂行】という言葉を強調したのも、仕事なので仕方がないと自分に言い聞かせるために他ならない。何しろ今回賜った仕事と言うのは……。

 

「はい、ではお料理をお持ち致します。粗末なものですが、忌憚の無いご意見をいただければ幸いです。」

 

 この忌々しい女の手料理を食べてその味を評価しろという、ラナーからすれば恐怖公の眷属を食べる方が数億倍もマシと思える拷問のような仕事なのだから。命乞いに近い必死の説得……いや、最早懇願により、何とかクライムの口にこの女の手料理が入る事は無くなった。それでも目で見て匂いを嗅ぐだけでも到底許せない。出来れば連れてきたくなかったが、流石にそこまでは許されなかった。

 

 そもそもナザリックには料理を作れる者がほとんどいない。自分が知っている限りでは料理長とユリ・アルファ様くらいだ。<すきる>というものが無いらしく、あれほど聡明なアルベド様やデミウルゴス様でさえ、芋を蒸かすような簡単な料理すら作れない。更に言うならば〝人間(かとうしゅ)に対し下手に出る〟という接遇や演技が出来る者もまた少ない。

 

 今までは料理長が素晴らしい食事を作り一般メイドが接遇するという形で完璧な対応を行い乗り切っていたのだが、〝あまりにも完璧過ぎる〟という選択肢しか取れない事態は弊害を呼ぶ。

 

 魔導国は既に多くの力を見せている。食材ひとつ調理法ひとつとっても格が違うことは、魔導国だけでなく、バハルス帝国やローブル聖王国、最近国交を回復させたドワーフの国を行き来する商人や旅人を通じ、既に各国へ知らしめられた。その上で、今後王城に招く客が全員王族や重要人物ならば問題ないが、ただの使者にまで最上級の料理を提供するのは不自然極まりない。

 

 少し聡い者ならば〝料理の出所〟や〝不自然に美しいメイド〟という情報から要らない憶測を与えてしまうだろう。そういう意味で【ツアレ】という人間のメイドは、不自然なほど美しい訳でもなく、そこそこの料理も出来、見事な接遇も努力の賜物であると感じさせる。まさに【魔導国首都、エ・ランテルのメイド主任】という立場に相応しい、ナザリックと魔導国を区別させる上で重要な駒なのだ。

 

 その上で、元人間で王族でもあった自分が、現地の食材・調理法とナザリックの食材・調理法を比較し、〝どの程度の地位の者〟に〝どの組み合わせ〟を提供させるかアセスメントを行わせる適任者である理屈も理解できる。ただそれは【私念を除けば】という条件付きだ。

 

(魔導王陛下から直々にこの仕事を賜ったということは、わたしが如何に公私を分け業務を遂行する能力があるか試されていると考えた方が良いわね。)

 

「大変お待たせ致しました。わたくしにはまだ〝コース料理〟を作る技術が無く、単品の品が脈略無く続きますが宜しくお願い致します。」

 

 ラナーがそんなことを考えているうちに、テーブルの上に料理が置かれる。こうなれば仕方がない、腹をくくって目の前の【仕事】以外の感情は遮断しよう。

 

 一皿目は深めの皿に入ったスープであり、小さく切られた根野菜や葉野菜、腸詰が半透明なスープの中を泳いでいる。見た目に関しては及第点、香辛料を贅沢に使っているためか薫りも良い。

 

「【ポトフ】という家庭料理となります。」

 

「うわぁ……。美味しそうですね。」

 

 折角覚悟を決めたばかりなのに、後ろに居るクライムが料理の香りに反応しラナーを刺激する。ナイフとフォークを使う料理でなくて良かった。ナイフがあればツアレの心臓に突き立てたい衝動と格闘しなければならなかっただろう。

 

「ありがとう。ではいただきますわね。」

 

 ラナーは一切の邪念を捨て目の前の料理に没頭するため匙を取る。そしてスープを口に運んだ。本人は家庭料理と言っていたが、見た目同様〝一般家庭では絶対に出ないだろう豪華なスープ〟であった。ツアレは農奴の生まれであり慰み者とされ娼婦にされたと聞く。〝一般の家庭〟なんてものをそもそも知らないのだろう。

 

(調理者の腕というよりも、素材の味が比重を置く類いの料理ね。使者やそこまで重要でない客人に出すならば及第点かしら。)

 

 王宮の食卓に並んでも遜色ない、それでいてナザリック産ほど相手を驚愕させない料理として最適であると判定を下す。そのうえ〝専属の料理人ではなく、メイド主任の手料理〟という事実は相手に混乱を招かせる一手となるだろう。

 

「では二皿目を失礼します。〝ハンバーグ〟という料理です。お肉は牛肉と豚肉の合い挽きを、味付けはトマトソースにさせていただきました。」

 

 まるで未知の料理のように紹介されたが、ラナーからすれば見慣れた料理。とはいえ調理法が異なるのか、ラナーの記憶よりもふんわりとした印象を受ける。ラナーは用意されたナイフとフォークを手に取る。既に感情の遮断は完了したので、先ほどの様な失態を思い浮かべることはない。

 

(美味……というよりも優しい味といったところかしら。子供が一緒だった場合や年齢の低い相手には丁度いい品ね。それにしても……)

 

 ラナーは二皿目を食べたあたりで累積される違和感が確信に変わろうとしていた。目の前の女が作った料理を食べた際に、自分の中の悪感情が増していく感覚を覚えたのは単純に私念によるものと考えていたが、それだけでは説明のつかない……

 

 それこそ自分の思考基盤、その根底が変わってしまうような違和感を覚えた。ラナーは食事の手を止め思考する。

 

ツアレ(この忌々しい女)奴隷(スレイブ)のクラスを有している。〝奴隷(スレイブ)に作らせた料理を食べる〟という行為は善悪の……確かカルマ値と言ったわね。その数値に変調を来すのかしら。)

 

 一番ツアレの手料理を口にしているであろうセバス様がその事実に気が付かないのは〝ツアレ(この忌々しい女)が恋慕の情を抱いているセバス様相手に喜んで作っている〟からだ。つまり無理やり……仕事で仕方なく作った手料理の場合、相手のカルマ値を微弱ながら悪に傾かせる効果がある……可能性がある。

 

 もしラナーの考察が正しければ【ツアレの手料理】の価値は一気に跳ね上がる。ツアレのクラススキルを知らない相手ならば〝魔導国は食べ物で思考基盤を永続的に変えることが出来る〟という欺瞞情報を相手に与えられ、人々から消えつつある荒唐無稽な懸念……【魔導国の食材を食べるとアンデッドになる】という上層部なら一笑に付す話に信憑性を持たせることが可能だ。

 

 しかしそれを知るはある程度知識のある敵対勢力、今更危機を覚えて魔導国の友好国にこの話で一手を打とうとしても〝オオカミ少年〟だ。

 

「とても美味しかったわ。ありがとう。少食でごめんなさい、もうお腹が膨れてしまったわ。」

 

 ラナーはツアレに笑顔を向け、お礼を言う。目の前の女は目に見えて安堵している様子だ。帰ったら忙しくなる。流石は魔導王陛下、本来なんの使い道も無いと思っていた<奴隷(スレイブ)>というクラスにここまでの意味を持たせるとは……。

 

(本当、わたしよりも利用価値の多い人間ばかりで嫌になるわね。)

 

 ラナーは最初覚えていた怒りも忘れ、魔導王に改めて畏怖を募らせた。



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太陽と忠犬

 クライムは真っ暗な廊下を記憶と勘だけを頼りに歩いていた。

 

 もちろんナザリックの照明が消えたわけではなく、訓練で不覚にも<盲目化(ブラインドネス)>の魔法を食らい、一時的に視力の全てを失っていた。厄介なことに<魔法持続時間延長化(エクステンドマジック)>の宿った魔法であり、普通ならば数時間もすれば戻る視力だが、視力の回復には丸一日はかかるという。

 

 何時だか真の達人は目で見えず、耳に聞こえぬ敵さえも斬り捨てると聞いたが、もちろんクライムはそんな高みにいない。それでも歩きなれた帰路ならば誰の手も借りずラナー様の元へ戻れるだろうかと……半ば強がりで聴覚と嗅覚と研ぎ澄まし、ゆっくりと手探りで廊下を歩いていた。

 

(視力を失った中でどのような動きをすれば良いか、いい鍛錬になった……。しかしあの程度の魔法に翻弄されるなど、まだまだ修練が足りない。)

 

 思わず自分の未熟さに歯噛みする。全てはラナー様を御護りするために修練を重ねているというのに、五感のひとつを奪われただけで自分の身を守ることさえままならない。己の定めた道の険しさを痛感するばかりだ。

 

 そんなクライムの耳に、聞き間違えるはずのないやや切迫した足音が響きわたる。

 

「クライム!大丈夫!?訓練で視力を失ったと聞いたわ。痛みはない?怪我は……。あ、ごめんなさい。わたしが誰だか解る?」

 

「もちろんです!例え五感のひとつを失おうと、わたくしがラナー様を見誤るはずが御座いません。」

 

 ラナー様の憂慮を孕んだ御声に対して即座に臣下の礼をとる。これほど優しく慈悲に溢れた主へ何度も心労をかけるなど、何て出来損ないの従者なのだ。

 

「いいのよ、クライムが無事なら……。さぁ、お部屋に戻ってゆっくり休みましょう。」

 

 地に伏していた手に、小さく温かな手が重なる。そして優しく手を引かれ、クライムは不甲斐なさを嘆くと同時に主の慈悲深いお心遣いに万感の情を抱き、ラナー様に導かれるまま歩を進めていった。

 

 【従者クライム】が内心で己を叱咤すると同時に、ラナー様に手を引かれ歩く現状を【思春期の少年クライム】が夢ではないかと心弾ませる。

 

 ここがリ・エスティーゼ王国の王城であったならば、なんて不敬な話であるかと、自分の喉を剣で貫かなければならなかっただろう。平民以下であった自分が第三王女たるラナー様の従者であり続けるには、一切の失態を見せる訳にもいかなかった。

 

 しかし〝ラナー様と手をつなぎ歩く〟ような妄想をしたことが無いかと問われれば嘘になる。クライムにとって自分の手を引く女性とは神であり、憧れであり、光であり、己の道しるべとなる太陽のような存在。

 

 決して手の届かない、絶対に結ばれない、結ばれてはならない存在が自分如きの手を引いてくれている。思わず嗚咽と涙さえ押し寄せる中、クライムは激情を意思の力で抑え込んでいた。

 

「左に曲がるわね。……着いたわクライム。手を離すわね。」

 

 しかし何事にも終わりはやって来る。クライムの手から柔らかな温もりが離れていき、再び暗闇が訪れた。しかし先ほどまでの張り過ぎた弦のような緊張感も、暗闇に対する孤独から来る恐怖感も無い。鼻孔をくすぐるのはラナー様の<守護領域>特有の絶間なく溢れる何ともいえない良い香り。

 

 お部屋に香を焚かれているのは【侵入者が居た場合どのような行動をとったか解る様に】だそうだが、専用のマジックアイテムをあの魔導王から下賜されているのだろうか?クライムには才が無いのでマジックアイテムなのか普通のお香なのか区別がつかない。

 

 以前ラナー様の不在時に<守護領域>を訪れたのがどのメイドで、どの時間にどのような行動をとったのか一挙手一投足を部屋を開けた瞬間にピタリと当ててみせ、シャルティア様とソリュシャン様を驚愕させていた。

 

 ……それ以降、自分がラナー様の不在時に〝迂闊な行動〟がとれなくなったなど、口が裂けても言えない。リ・エスティーゼ王国時代自室で行っていた【不敬極まる行為】など言語道断だ。

 

「じゃあクライム、訓練の汗を流しましょう。お風呂は難しいから身体を清拭するわね。」

 

 クライムが思考に耽っている間に、ラナー様はお湯を準備されていたらしく、桶から水音響かせベッドの方向から声を掛けてこられる。自分の身体が赤くなる音が聞こえてくる。

 

「いけませんラナー様!この通り身体は無事ですので!御手を煩わせるわけにはまいりません!」

 

 ラナー様に清拭をしていただくのは初めてではない。最初に目が覚め小悪魔(インプ)となる前の復活直後、呼吸以外の全てを手厚く看護していただいた。〝もうあのような無様な姿をみせないよう〟訓練をしているのに、訓練の結果ラナー様の手を煩わせるなど本末転倒もいいところだ。

 

「その汗や泥はわたしのために頑張ってくれた証拠なのだもの。それに慣れても居ない状態で目をつぶって身体を拭くのは大変でしょう?横になって。」

 

 表情を見ることは叶わないが、きっと慈悲深い笑顔を浮かべておられるのだろう。躊躇してしまうクライムの手を再びラナー様は優しく取ってベッドへ誘導する。そしてクライムはあっという間に服を脱がされ成すがままに清拭をされる。

 

 最早こうなれば何の抵抗も許されない。全身、隈なくラナー様の御慈悲に甘える。

 

「どう?クライム。かゆいところはない?」

 

「はい! ございません!」

 

「そうそう!執事助手のエクレア様から〝完璧に綺麗になったか確かめる方法〟を教わったの!このナザリックでは綺麗にした責任者が必ずするんですって。」

 

 エクレア様はクライムも知っている。従者として掃除の基礎・基本を徹底的に教え込まれ、その教育は〝掃除〟という行為ひとつとっても他国とくらべものにならない厳しさであり……

 

「ラナー様!?」

 

 クライムは自分が掃除を仕込まれた際に言われた衝撃的なセリフを思い出し、現在の状況と統合し、脳裏に浮かんだあまりの倒錯的な光景に飛び上がろうとした。しかしその前に強烈な衝撃が脳を直撃する。

 

 布よりも重圧で柔らかく、湯よりも温かい妖しいぬめりが身体を這いまわって……。



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因縁の場所 ①

 クライムが身に着ける鎧は虹色に揺らめく魔法の光をまとっており、腰に提げた剣もリ・エスティーゼ王国の秘宝、剃刀の刃(レイザーエッジ)に勝るとも劣らない一級品。しかしこれほど装備を整えようと、死の覚悟を決めようと、情けないことに己の意思に反し身体が言う事を聞いてくれず、過緊張から震えが止まらない。

 

 楕円形で構成された異空間を前に――<転移門(ゲート)>という最高位の転移魔法らしい――クライムは武者震いからか恐怖からか、鎧から金属音をカチャカチャと鳴らし続けている。

 

「大丈夫よクライム。わたしたちは魔導国……いえ、ナザリックからの使者なんですもの、いきなり襲い掛かってくるなんてことはないわ。」

 

 顔を強張らせすぎたか、ラナー様は宝石の様な笑みを浮かべて自分を励ましてくれる。だが今のクライムにとっては、敬愛すべき主からの慰めの言葉すら現状の再認識にしか聞こえない。相変わらずラナー様は疑う事を知らず、人の善性を信じすぎる。

 

 ……これから自分たちが訪れる場所はリ・エスティーゼ王国にとっての悪夢、【魔窟】カルネ村だというのに。

 

 ラナー様の異母兄弟、ザナック殿下と王位継承を争っていた第一王子、バルブロ・アンドレアン・イエルド・ライル・ヴァイセルフはこの村を最後に、共に引き連れた5000の兵もろとも忽然と姿を消し、遺体すら見つかっていない。

 

 第一王子に……引いてはリ・エスティーゼ王国へ反旗を翻した開拓村だというのに、魔導王の大虐殺によって調査に割く兵力もなく碌な精査も出来ておらず、聞こえてくるのは風のうわさともつかない荒唐無稽な浮説や流言の(たぐい)ばかり。

 

 曰く〝悪霊犬(バーゲスト)を片手で捻り潰し、剥がし取った髑髏の杯で血を飲み干す将軍がいる〟。

 

 曰く〝無数の強大なゴブリンを手足のように使役する〟。

 

 曰く〝村ひとつで王国や帝国を攻め滅ぼせる軍事力を有する〟。

 

 ……そしてその将軍はまだ若き女性である。

 

 リ・エスティーゼ王国にいた時分から、何処までが誇張された話なのかクライムに判断はつかなかった。というよりもあの魔導王の力を見ていなければ鼻で嗤うような一考にも値しない話だっただろう。しかし第一王子と5000の兵が神隠しの如く姿を消したことは紛れもない事実であり、あの大虐殺と戦士長の一騎打ちを見た後ではとても笑えない。

 

 そしてナザリックに入ることで、あの〝カルネ村〟は魔導国が建国されるより以前に魔導王が目をかけ支援していた村だという真実を知り、全ての辻褄が(おぞ)ましい造形となって形成された。

 

(バルブロ殿下の行方不明にあれほど御心を痛めておられたラナー様の心境はどれほどのものか……。それに殿下の血族と知られればラナー様の命も危ない。もしもの際はラナー様が逃げられるだけの時間を作らねば……)

 

 クライムは決意を新たにし、小悪魔(インプ)用に仕立て上げられた翼を出すため背中を大きく開いたやや扇情的とも思えるドレスをまとったラナー様を先導するように、覚悟を決め<転移門(ゲート)>を潜った。

 

 

 正門前に転移したクライムは自分の想像が如何に甘かったか痛感する。強固であることを思わせる巨木を使った城壁に囲まれた大きな集落は、明らかに木製ではない建物や、紫の煙を出す煙突、おそらくは鉄以上の硬度をもつ金属によって造られた物見櫓(ものみやぐら)など、明らかに【村】と言うには無理がある光景が広がっており、高度な技術をもっていることが外からでもわかる。

 

 クライムが呆然としている間に、強固な正門が開かれる。クライムよりやや年上であろう素朴な村娘といった様子の女性、前髪で目が隠れた男性……そして強者の風格を漂わせたゴブリンにオーガといった魔物が自分たちに向かって一糸乱れぬ一礼をした。

 

「ようこそカルネ村へ。ゴウン様よりお話は伺っております。わたくしはカルネ村の村長、エンリ・エモット。こちらが夫のンフィーレアです。」

 

「お初にお目にかかります。わたくし新たに魔導王陛下のもと働くこととなりましたラナーと申します。横に居るのがわたしの従者クライムです。」

 

 ラナー様はドレスに土がつくことも(いと)わず、片膝をついて【エンリ将軍】に挨拶をする。その様子を見て一拍遅れ自分も片膝をついて礼を行う。そしてクライムはまたも混乱の渦中に叩き落された。

 

(エンリ村長の近衛……あの凶相のゴブリン、恐らくは一体だけでもデス・ナイトよりも強い。逆立ちしても勝てるはずがない。足止めしてラナー様を御守りする時間さえ作れるかどうか……。)

 

 薄々解ってはいたが、バルブロ殿下も率いていた5000の兵ももうこの世にはいないだろう。ひょっとすればオーガのエサになったかもしれない。せめて弔いの出来る場所だけでも聞き出せればと思ったが、こちらからその話題を出す真似はしないほうがいいだろう。わざわざ竜の尾を踏む所業は主の命を危険にさらす。

 

(ラナー様も恐らくはバルブロ殿下の死を確信されたはず……。どれほど御心を痛められているか。)

 

 クライムは何も出来ない自分の無力さに歯噛みする。

 

「そんな!顔をあげて下さい!わたしはそんな立派な者ではありませんから!」

 

 エンリ将軍は赤面し、あわあわとラナー様の行動に戸惑っている。自分は弱者であるという演技だろうか?クライムには挑発としか思えない発言だった。その言葉を聞いてラナー様は礼を崩し立ち上がったようだが今の自分は顔を即座にあげられない。

 

 恐らくは目に殺気と恐怖心と嫌悪感を宿しており、心を落ち着かせるのにもう少し時間が必要だ。

 

「エンリ、ゴウン様からは顔合わせの予定しか聞いていないけれど、折角だから村の案内をしようよ。」

 

「ありがとうございます。ではよろしくお願いいたしますわね。」

 

 上目でンフィーレアなるエンリ将軍の旦那を見る。声に張りも無く疲れ果てたように肌が乾燥しており、まるで<生気吸収(エナジー・ドレイン)>でも受けたかのように眼も虚ろだ。

 

 ……何故かクライムはンフィーレアなる男性に親近感を覚えた。



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因縁の場所 ②

「……と、ここまでが大まかなカルネ村の設備になりやす。エンリの姐さん。こんなものでよろしいですかい?」

 

「ええ、ありがとうジュゲムさん。」

 

「わぁ素敵な施設ばかりなのですね!治癒魔法が無料で受けられるなんて聞いたことがありませんわ!」

 

「カルネ村は四大神の大神殿に属していませんからね。移住者の方にも一番驚かれます。まぁ僕もそんな話を聞いたら何の罠かと疑ってしまいますが。」

 

 絶句……。驚愕や称賛の例えは数あれど、脳が理解のキャパシティーを超えると精神の基軸が麻痺して言葉すら出なくなるらしく、クライムはただただ茫然とする。

 

 クライムはラナー様と共に、自分の胸程の背丈をした、大剣を背負ったゴブリンからカルネ村の案内をされていた。

 

 まずクライムの常識からすればゴブリンが知性ある生物として――小悪魔(インプ)になった自分が言うのも変な話だが――会話が成り立っていることに驚愕を覚え、5000は居るというゴブリン軍団の多様性と強さに恐怖し、その強者を統べるエンリ将軍閣下に畏怖の念を覚えた。

 

 更にはカルネ村の内部はリ・エスティーゼ王国の城下町さえも霞むほどマジックアイテムの普及が進んでおり、ドワーフの技術力によって建設された建物は、どれも全て見惚れるほどの造形美と機能美を持ち合わせている。

 

 更には信じ難いことに無料で治癒魔法が受けられるというゴブリン神官の在籍する神殿、ほぼ確実に3日後までの天気を予測できるという天候予報部署、治癒の位階魔法ではどうにもできない解呪が行えると言う聖堂、挙句の果てに娯楽を提供するという野外音楽堂まで完備されていた。

 

 どう考えても軍事技術を無理やり転用した歪な形状をもった設備ばかりであり、エンリ将軍の近衛をしている凶相のゴブリンは認めたくないが完全武装したガゼフ戦士長と同格か……下手をすれば上回る実力を感じる。それが13体……

 

 間違いない。この村を敵に回せばリ・エスティーゼ王国が健在していた時分でも一方的な虐殺が起こるだけだっただろう。クライムはナザリックに入ってから何度目か数える気にもならない常識の削れる音を聞いていた。

 

 ……いざとなればゴブリンと闘ってラナー様を御護りするどころの話ではない、クライムの力では数秒の足止めさえ叶わないだろう。自分の考えの甘さに頭を振る。如何に相手との【対面】という仕事を終え、害されることなくラナー様の守護領域に戻る事が出来るか。それが目標となってくる。

 

 相手の逆鱗が何処にあるのか解らない以上、失礼な態度や言動には一層注意しなければならないだろう。広場にはあの魔導王の石像が綺麗に保たれ飾られており、尊敬が見て取れることから少なくともナザリック内同様、魔導王を悪く言う行動は厳禁だ。

 

 クライムは談笑の輪を乱さないよう気配を薄め、決意を新たにした。

 

 

 ●

 

 

(ゴブリンたちは強大な力と非常に高い知性を持つ。けれど、【料理】や【簡単な治療】は専門職の一部を除いて不可能。典型的な【えぬぴーしー】ね。しかし忠誠は魔導王陛下ではなくエンリという女に誓っている。多形種が共存していて、移住者も歓迎……。敵国側ならば移住者に間者の一人でも紛れ込ませる好機のはずだけれども、不自然な対立や不和は無し。相手も相当慎重なようね、魔導国……いえ、ナザリックとの関連性は把握されていると見た方がいいかしら。しかし魔導王がこれ以上ない形ある褒美として家臣を与えるなど、この女はどんな偉業を築き上げたというの?……いえ。)

 

 ラナーは笑顔の裏でカルネ村のアセスメントを行っていた。以前よりラナーは魔導王陛下がカルネ村を【ナザリック第0階層】とみなしている節があると考察した。現地における様々な実験が行えると同時に、敵襲の予兆を一番に把握できる。

 

 そして生半可な敵ならばカルネ村だけで討ち取れるほどの実力を有し、魔導王陛下への忠誠もナザリックの者には劣るがかなり高い。少なくともどんな強敵が来ようと、武器を捨てて逃げる事は無いだろう。

 

 調べたところによるとカルネ村はナザリックがこの地に転移し、魔導王陛下が最初に目を付け助けたのがこの村であり、エンリ将軍とその妹であるという。

 

(未知の世界に転移し数日も経たぬ内に、ンフィーレア・バレアレとこの女の関係を見抜いていた?いえ、流石の魔導王陛下でも……)

 

 エンリ・エモットを【幸運にも魔導王陛下の叡智を賜ったただの村娘】と思い込んでいる者はナザリックにも多い。この村の管理を任されているルプスレギナ様はもちろん、あの聡明なデミウルゴス様でさえ……

 

 しかし【あのンフィーレア・バレアレが恋慕の情を抱いている女性】であることを最初から知っていたとすれば話は大きく変わってくる。ポーション作成の才能、ナザリックさえも崩壊させうる〝ありとあらゆるマジック・アイテムが使用可能〟というな類いまれな<生まれながらの異能(タレント)>。この男を手札に置くメリットは計り知れない。

 

 上司であるアルベド様を除き、【愛情】という鎖がどれほどの力を有するか正しく理解できる者はナザリックにいないだろう。富も地位も名誉も全てが茶番と思えるこの世で最も強力な鎖だ。

 

 実際エンリがいなければンフィーレア・バレアレがカルネ村に移住する事は無かっただろう。命を助けた恩で移住させられても、永住を決める決定打にはならず、新たなポーションの作製という偉業も夢に終わったかもしれない。

 

(本当に底知れない御方……。)

 

 自分が突然未知の世界に転移させられ、ここまで落ち着いた数手も数十手も先を見据えた手が打てただろうか?……答えは当然【(いな)】だ。ラナーは改めて魔導王陛下の叡智に畏怖を募らせる。

 

 ラナーは自分とエンリ将軍、ンフィーレアを天秤に掛け、どちらの命に価値があるか考察し……羽よりも軽い自分の命の価値に落胆を覚えた。

 

(クライムがエンリ将軍を未知の化け物と捉えている事が救いね。少なくともクライムと表面上仲良く話していてもわたしから芽生えた殺意を表に出さず我慢できる。……我慢か。ふふ。)

 

 ラナーはそんな事を考えると同時に、いつの間にか【妥協】なんてものを学んでいる自分に内心苦笑する。

 

(もう少し探りをいれてみようかしら。)

 

「貴重なお話をありがとうございます。魔導王陛下に忠誠を誓う若輩者として、先達たるエンリ村長に色々お話を聞いてみたいのですが、その願いは叶いますでしょうか?」

 

「そんな、先達だなんてわたしは大層な人間ではありませんから!」

 

「是非女性水入らずでお話してみたいのです。魔導王陛下の御城にいる皆様は聡明で素晴らしい方々ばかりですが、やはり若輩者のわたくしでは恐縮してしまいまして。」

 

 ラナーは横目でゴブリンたちの反応を見る。迂遠(うえん)な表現だがナザリックの者を(いと)う言葉を放ったのだが、誰も不快感を抱いている様子はない。やはりゴブリンたちの忠誠の全ては魔導王陛下ではなくエンリ将軍に向いていると考えて問題無いだろう。

 

(やはりゴブリンたちが急事に命懸けとなるのは魔導王陛下ではなく、エンリ将軍のため……。しかしエンリ将軍は魔導王陛下に心酔している様子。村民たちやカルネ村は将軍の家臣であり領土、侵略を許さない理由がナザリックと異なる。その差異を見極めなければ。)

 

「では、役に立つかわかりませんが、わたしでよければ色々と聞いて下さい。あ、話しにくいでしょうから護衛は外しますね。応接室を使うので門番をお願いします。何が聞こえてきても他言無用で。」

 

「でしたらこちらも……。そういう訳だからクライム、少しお話をしてくるわ。カルネ村の色々なお話をクライムも聞いて後で聞かせて。」

 

 クライムは心底焦燥した様子でラナーを見つめる。ああ、愛おしい。自分を一人で行かせることに反対したいのだろうが、理外の魔窟で厄介事を招く言動は控えたい。そんな二重拘束が瞳から透けて見える。ひとまずクライムの瞳に癒され、ラナーは【第0階層守護者、血濡れの小鬼将軍】との対面に挑むことにした。

 

 

 ●

 

 カルネ村応接室、()の一つも無い一級品の木材が使用されており、位階魔法によって多彩な(ろう)が塗られ光沢を放ち、絢爛豪華といって差し支えない内装となっている。机に置かれている焼き菓子が残り数枚になったあたりで、ラナーとエンリの会話は大きく弾んでいた。

 

「やっぱり男の人って辛そうな声を出すのが普通なのね……。良かったわたしが変なのかと思った。」

 

「素直じゃないんですね。甘く蕩けた声で〝やめて〟と言われた時本当に止めたらとても切なそうな顔をするじゃありませんか。ふふふ、わたくしあの顔が大好きなのです。」

 

「してみたことがないわね。恥ずかしい話だけれどもこっちも熱くなっちゃって……。」

 

「それはそれで旦那様も幸せだと思いますよ。でも色々な方面から責めたてるのも面白いです。例えば……。」

 

 粗方カルネ村の村長になるまでの経緯を聞き終えたラナーは、エンリ将軍の【幸運】の一言では片づけられない魔導王陛下との付き合い方や目に留まる方法を聞き終え――特に妹君だというネム様の話はとても参考になった――あとは雑談でもと思っていたのだが、エンリ将軍から惚気話を聞いているうちにこちらも触発されてしまい、あれよあれよと言う間に夜の営みにまで話が発展してしまった。

 

 恐らくエンリ将軍に相談できる相手などいなかったのだろう。堰を切ったように不安や女性として大丈夫なのかなど、実に人間らしい様子を見せて赤面しながらラナーに色々と相談をしてきている。

 

 これは仲良くなれるチャンスかもしれない。ラナーは将軍閣下からの相談に対し懇切丁寧に自分の経験談も混ぜて対応していた。



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因縁の場所 ③

 クライムはこれまでのカルネ村の対応から、ラナー様に理不尽な暴力が振るわれる恐れは薄いと考えつつも、御傍にいられない焦燥を隠せずにいた。

 

 相手はこれほど強大なゴブリンを手足のように扱う噂に名高き血濡れの小鬼(ゴブリン)将軍、温厚であることは話の中で伝わったが、相手が本気で自分たちを殺す気になれば一瞬の出来事だろう。ましてここは将軍閣下の管理下にある村……生殺与奪の権限が握られている状況とは気分のいいものではない。

 

(しかし、ラナー様も決死の覚悟でエンリ将軍との対談に向かわれた。わたしもラナー様の御役に立てるよう、少しでも情報を集めなくては!)

 

 カルネ村の案内の中、最初は多様な異形種が手を取り合う摩訶不思議な光景に圧倒されてしまったが、落ち着いて見回すとクライムでも覚える違和感はいくつもあった。その中で最たるものが……

 

「アーグ様……この村とエンリ将軍は本当に素晴らしいのですね。」

 

「そうだろう!この部族の皆も親切だし、他からの移住者に荒くれ者が居たって一喝してひとまとめにしちゃうんだ!おいらもエンリ将軍と腕相撲したことあるけれど両手使ったってビクともしなかったんだぞ!」

 

 小さいながら知性を感じさせるアーグなるホブゴブリンに話しかけると、エンリ将軍の〝強さ〟に惹かれた瞳を浮かべる。だが……

 

「ええ、素晴らしい御方です。……その上で、気分を害す質問でしたら申し訳ないです。ジュゲム様はどうしてエンリ将軍に仕えているのです?」

 

 突然話題を振られた大剣を背負ったゴブリンが当惑した様子で、小考し始めた。

 

「お客人、何でったってあんたそりゃあ……」

 

「「エンリ」の姐さん)将軍)だから」ですよ……って!?」

 

 クライムはジュゲムというゴブリンの心を読むかのように声を被せた。クライムの周りが一瞬、無数の針で突き刺されるような敵意に包まれるが、一瞬で霧散する。クライムに悪意があって放った言葉でないと伝わったのだろう。

 

「お客人、知っている事を聞くのは失礼だとわたしは教わったんですが、小悪魔(インプ)の常識は異なるんですかい?」

 

「いえ、ジュゲム様……だけではないですね。わたしと同じ心持の方が幾千人もいらっしゃるようですので、不思議に思い失礼を承知でご質問させていただきました。ご不快を招く真似をして申し訳ございません。謝罪いたします。」

 

 クライムはジュゲムというゴブリンや強者の風格を持つ近衛のゴブリン、神官や聖騎士、騎獣兵や弓兵といったゴブリンたちに〝普通の村人〟とは違う、自分と同じ瞳の輝きを見て取った。

 

 自分も「何故ラナー様に仕えるのか?」と問われれば、同じ答えを返すだろう。人が息をするように、鳥が空を飛ぶように、魚が水の中を泳いでいくように、他人に言葉で説明できる明確な理由などなく、持ち合わせる忠誠に理屈や損得勘定も存在しない。

 

 恐らく魔導王に忠誠を誓う者たちも同じだろう。改めてエンリ将軍という理外の存在に畏怖を募らせる。しかしアーグを始めとした一部の異形種や人間の村人、オーガやドワーフにその瞳は感じない。その差異はなんであるかクライムは疑問を持った。

 

「クライム殿はよい目をお持ちですな。クライム殿の疑問にはわたくしが答えても?」

 

 綸巾をかぶり、羽扇を手にする髭をはやした理知的なゴブリンがやや驚愕した様子でクライムに声を掛けた。周りのゴブリンたちから異論はなく、そのままクライムは【軍師】を名乗るゴブリンに一礼をする。

 

「エンリ将軍閣下は我々の造物主様なのです。クライム殿が疑問を持った事はアーグ君やオーガ、ドワーフと我々の違いでしょう。エンリ将軍をこの村の(まつりごと)を治める為政者として尊敬こそすれ、我々とは忠誠を誓う理由が違うのです。」

 

「ぞ、造物主……。」

 

 クライムのエンリ将軍に対する畏怖の念が、魔導王を前にしたような根源的な恐怖に変わる。あの得体の知れない女はどれほどの力を隠し持っているのだろう。今すぐにでもラナー様のもとへ駆けつけ、共に脱兎のごとく逃げ出したい衝動に駆られる。しかしラナー様から命じられている【情報収集】の任務を放棄する訳にはいかない。

 

 クライムは相手の【地雷】を踏み抜く恐れと任務を天秤に掛け、意を決し一つの質問を口にした。

 

「カルネ村には5000の兵による襲撃があったと聞いています。その首謀者は今、どちらへ?」

 

 

 ●

 

 

「そう、バルブロお兄様の行方はやはり解らないのね。」

 

 魔窟カルネ村から無事ラナー様の守護領域に戻れたクライムは、自分が得た情報をラナー様へと伝えた。軍師を名乗るゴブリンは〝落としどころが無くなるから〟という理由でバルブロ殿下をあえて逃がしたという。クライムに嘘を見抜く頭脳も能力もないが、未だ行方不明になっていると聞いたゴブリンたちは一斉に驚いており、全員が全員名役者とも思えないので、嘘の確率は低いだろうと考えた。

 

(ラナー様はやはりお優しすぎる。自分を王位継承の道具としか見ていなかったあの男に対しこれほど傷心されるとは……。)

 

 王族や貴族ともなれば親兄弟だろうと敵とみなす冷酷さが必要なことはリ・エスティーゼ王国の中で学んだことだ。ラナー様にはその能力があまりにも欠落している。お優しさが陰ることのない事は従者として嬉しい限りであるが、このナザリックで生きるならば、冷酷さも持ち合わせなければならないだろう。

 

 もしラナー様のお優しさが変貌したとして、自分はどのような感情を覚えるだろう。そんなことを一瞬考えたが、天地が逆転することはあってもそんな事はあり得ないだろうと即座に脳内で否定する。

 

 ……もしもラナー様に〝誰かを救い誰かを切り捨てる〟。そんな選択の機会がやってくるとすれば、その業は従者たる自分が背負わなければならない。

 

 例え自分の命と引き換えになろうとも。クライムは自分の〝造物主様〟に対し、改めて仄暗い決意を新たした。



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アルベドリベンジ

 アルベドはあの忌々しい部下……ラナーの記した提案書に目を通し、自分の草案と比較して愛しの主はどちらを採択するだろうかと思考に思考を重ねていた。しかし焦燥が思考を鈍麻させ、普段のアルベドであればあり得ないような愚鈍な案ばかりが脳内を奔走する。

 

死罪相当の罪人(モルモット)を確保するため、意図的に経済的な破滅者を作り上げる……。富くじを利用して身の丈に合わない大金を持たせて破滅させ、やがて犯罪へと走らせる。バハルス帝国では特赦という形で微罪で収容されているが犯罪傾向のすすんだ囚人を解き放つ。……いいえ、アインズ様はもっと洗練されたシンプルな提案を好まれる。これではまたあの女に負ける。くっ……。」

 

 偉大なアインズ様の治める魔導国で軽々に重大事件など起こっては愛しの主のお顔に泥を塗るも同然、そのため死罪相当の罪人(モルモット)は誰の目から見ても【情状酌量の余地もない愚か者】【この世に存在する価値のない命】でなければならない。その点でいえば、あの忌々しい女の案は実に効率的かつシンプルなもの。

 

 〝【金貨の預かり証明書】を法律によって強制通用力を定める〟というものだ。

 

 この手法は元を正せばバハルス帝国の銀行が発行していた小切手である【金券版】の応用であり――そのアイデアも元を正せばラナーの発案を基軸としてジルクニフが採用したものだが――〝幻想の富〟を産む魔法のような手段である。

 

 何しろ〝【金貨1万枚の預かり証明書】〟というエクスチェンジ・ボックスに入れればゴミにもならないような木の板や紙切れが〝実在する金貨1万枚〟と同じ価値を持つようになる。極論すれば【実在しない幻想の富】が倍に増えるようなものだ。

 

 もちろん後に本物の金貨へ変換させるのだから、一時的なものでしかないが〝国家が法のもと安全性を持たせる〟となれば話は別だ。〝いつでも本物の金貨に変えられる〟という安心感から、【預かり証明書】が基軸通貨と同等の価値を持つようになり、〝幻想の富〟は加速度的に増えていく。

 

 しかし人間の欲望とは際限がない。やがて【預かり証の預かり証】【預かり証の預かり証の預かり証】【預かり証の預かり証の預かり証の預かり証】とどんどんと幻想へ溺れていくことは目に見えている。

 

 そして国家経済が紊乱(びんらん)(おちい)る前に法で証明書の補償に規制を掛ければ〝ハズレを引いた〟人間は、誰にも同情されぬまま〝欲をかいた愚か者〟として凋落し、こちらで自死を防げばやがて犯罪に手を染めるだろう。

 

 正に魔導国の経済を活発化させ、同時に死罪相当の罪人(モルモット)の確保も出来る一石二鳥の案だ。だからこそアルベドは焦る。そして時は迫り……

 

「あ、アインズ様へご報告へ……行かなければ……。」

 

 アルベドは手負いの獣を思わせる歯軋りと深い息を吐きながらベッドから起き上がり、バインダーを手に指輪を起動させた。

 

 

 ●

 

 

 コン コン コン とノックの音が鳴った。

 

「入るわよ。」

 

 クライムが鍛錬に出ており一人パンドラズ・アクターの財政計算を任されていたラナーは勢いよく椅子から降りて頭を垂れ姿勢を正し、嫋やかな笑みと演技を瞬時にこなす。

 

「はい、アルベド様。」

 

「そう改まらなくていいわ。頭を上げなさい。」

 

 ラナーがゆっくりと顔を上げるとそこにはいつものように慈悲深く天使を思わせるアルベドの笑顔があった。しかしその笑顔は自分の笑顔と同じ仮面であることをラナーは知っている。だがその上でも……ラナーからみてアルベドの笑顔はどこか自信に満ちて勝ち誇っているような印象を覚えた。

 

「あなたの提出してくれた【金貨の預かり証明書】についてですが……。アインズ様は時期尚早であると判断をされました。しかしアイデアはとても良いと仰っておりましたので、いずれ私やデミウルゴスと協議しより完璧なものと致しましょう。」

 

 ラナーは笑顔の演技を崩さないまま内心で大きな衝撃を受ける。自画自賛となるが、金貨や銀貨は希少な物質である以上、物理的な有限性がある。今後魔導国が繁栄するならば有限性のある物質に依存する経済の危険性は計り知れない。そのための布石と思ったのだが……

 

「アインズ様が望まれるのは全ての種族が永遠に被支配者でいたいと思われる蜜で浸したような世界。我々の尺度でものを考えるのはあまりにも不敬というものね。」

 

 途中からアルベドはラナーにではなく、神域を見据え独り言を話しているかのようであった。ラナーもまた、あの智謀の怪物は自分の危惧をどのような形で解決するのだろうかと恐懼に近い念を覚え、ひとつブルリと震えた。

 

 

 ●

 

 アルベドの去った玉座の間で、アインズは支配者然とした態度を崩さないまま、また問題を先延ばしにしてしまったと後悔していた。未来の自分がなんとかしてくれるだろうと丸投げして実際なんとかなっているのは奇跡以外の何物でもないと解ってはいるのだが、成功体験とは恐ろしいもので、兎に角今日決めなくていいならば明日以降でいいと思ってしまう。

 

 それに今回のアルベドの提案には未来へ丸投げしたい明確な理由があった。

 

(この世界で紙幣か……。絶対俺の顔だよな。え?勘弁してくれない?)

 

 

 



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装飾と完成

「下等種とは洗剤の作製も碌にできないのですか!?タイルを磨く際の洗剤は水20ℓに対し薬液は12ml、便器ならば25mlを徹底!分量機材は水平に、目線はメモリに対し真っすぐに!清掃手順もまるでなっていません!スポンジの繊維ひとつひとつから汚穢(おわい)をこそげとるように!もっと丁寧に!もっと美しく!ここでティーパーティーを開きたいと思えるほどまで綺麗に!」

 

「はい!エクレア・エクレール・エイクレアー様!」

 

 執事服に身を包んだクライムは、執事助手エクレアの指導のもと一心不乱にナザリックのトイレ掃除をおこなっていた。とはいえ、クライムから見れば既に何処を掃除していいのか皆目見当がつかないほど光り輝いており、〝自分の垢や髪の毛で逆に汚れるのではないか?〟と心配するほど荘厳な空間だった。

 

 ……現在クライムが剣の鍛錬を休んでまでペストーニャ様やユリ・アルファ様から礼儀や接遇、エクレア様から掃除やベッドメイキングなどの実務を学んでいるのは本人の希望があったためだ。

 

 クライムはラナー様の壱の従者としてこのナザリックで魔導王に忠誠を誓った。そしてナザリックでの生活を送るうち、【領域守護者】という肩書がこの地においてどれほどの重責を持つか理解し、その従者が自分しかいない異様性を自覚した。

 

 ラナー様は姫としてこの世に生を受けた。それもそこらの小国ではなく、リ・エスティーゼ王国という大陸に覇を唱えていた大国の第三王女として。ラナー様は母国滅亡に伴い、愛してくれた父親も、友人である蒼の薔薇のアインドラ様たちも、絢爛豪華な調度品も、専従の召使(めしつかい)も、専用の馬車も、大切にされていた花園も全てを失った。……ラナー様を道具としか見ていなかった王子二人はこの際どうでもいい。

 

 そしてラナー様はただ一室で、ペンと机・小さなベッドだけを与えられ、魔導王のためその聡明な頭脳を利用されるだけの立場となった。それでも慈愛に溢れた主は、自分を蔑む怪物たち(ナザリックの面々)にも笑顔を絶やさない。しかしいつお疲れが限界に達し、その御心が壊れてしまうか……想像するだけでクライムは恐怖で気が狂いそうになる。ただでさえ現在の状況は、自分の復活というラナー様の慈愛の代償なのだ。

 

 少しでもいい、ラナー様の理解者である自分がラナー様の身の回りの全てを行える領域まで存在価値を高めたい。例えば部屋の清掃ひとつとっても、いままではナザリックに属するメイドが行っていた。しかし最初に気が付くべきだった。

 

 あの【守護領域】……ラナー様に与えられた御部屋には部外者の立ち入る隙などないほどに、自分が完璧な存在にならなければならないことを。

 

「ふむ……。流石はエクレア。ツアレの指導の時といい、素晴らしいものです。」

 

「セバス様!」

 

「やぁセバス。わたしには完璧と程遠いレベルに見えるが、やはり愛しの彼女とは違うのかい?」

 

「彼の場合、メイド主任を拝命されたツアレとは目的が違いますので。」

 

 間違っても直属の上司に話すものではない口調で応対するエクレアだが、セバスは気にした様子もせず飄々と受け流す。いずれナザリックを支配すれば上下関係など逆転する……と考え行動するよう御方々に創造されている彼の言動はむしろナザリックの一員として歓迎すべきことである。

 

 セバスは目を輝かせて自分を見つめる少年……否、少年だった小悪魔(インプ)を見る。それは英雄を見つめる瞳であり、自分たちが至高の御方々に、決して届くことなど叶わないと解りつつも近づこうとする瞳だ。

 

 その瞳にセバスはいたたまれなくなってしまう。あの大虐殺の真相を知りながら嘘を吐き続けている自分。間違ってもそんな存在に向けられる瞳ではない。彼は巧みに騙され続けている。もし真実を洗いざらい彼に話せば、彼はどのような反応を示すだろう。しかしそんな真似は絶対に出来ない。

 

「邪魔をしました。それではクライム様。身体が鈍らぬよう後ほど軽く手ほどきをいたしましょう。そうですね……」

 

 セバスは胸ポケットから懐中時計を取り出してエクレアに目配せをした。

 

「ああ、掃除の指導ならばあと2時間で終わる予定だよ。」

 

「……では3時間後、いつもの部屋で。」

 

「はい!ありがとうございます!セバス様!」

 

 ……しかし真の幸せとは案外そのようなものなのかもしれない。セバスは釈然としない気持ちを抱えたまま、純粋な瞳に耐えきれないとばかりにクライムに背を向け去っていった。

 

 

 ●

 

 

 中心線のズレたアシンメトリーのシーツが敷かれたベッド――素人目には解らないだろうが――の上で、ラナーはまるで初めてトランポリンで遊ぶ子供のように舞い上がっていた。

 

「あは!ん―――!」

 

 スンスンと匂いを嗅ぎ、枕を抱きしめ、ゴロゴロと転がるその姿はクライムにはとても見せられない、それ故留守の内に堪能する必要があった。【ベッドメイキング】の完成度で言えばナザリックの完璧なメイドたちはおろか、王城の専従メイドの域にも達していない、しかし完全に毒気の落ちた清潔で整然としたベッドなぞ比べる事さえ烏滸(おこ)がましい【完璧】な空間といえた。

 

 何しろクライムが片付け、掃除し、洗濯をし、干して乾かし、その手で敷いたベッドの上だ。軽く見ただけで1437はある洗い残しも、754あるシワも、ラナーからすればクライムとの愛の証。

 

 今まで他の女の手垢がついたベッドで寝るなど不愉快極まると薄々思ってはいたが、愛する犬が自分の為にしてくれた行為が形になるという事がこれほど脳を快感に染め上げるとは思いもしなかった。

 

 だがこのベッドはまだ完成ではない。まだ舞台装置が整っただけだ。

 

 コン コン コン とノックの音が鳴り、ラナーは熱に浮かれた脳を冷却し、やや衰弱した顔の演技が完璧であることを確認する。

 

「おかえりなさい、クライム。」

 

「ただいま戻りました!ラナー様!」

 

 そこには何時もの鎧姿ではなく執事服に身を包んだクライムがいた。自分のために身を挺して戦う犬の姿もいいが、奉仕のため全身全霊を尽くす姿も甲乙つけがたい。

 

「早速でごめんなさい。さっき悪夢を見たの。少し傍に居てくれるかしら?」

 

「かしこまりました。」

 

 これで誘導は成功。ベッドの上という舞台装置にやっと材料が揃った。

 

「クライム大丈夫?この地での奉仕者の仕事は凄く厳しいと聞いたわ。その……掃除した場所を無理やり舐めさせられたり……。」

 

「それは……その……。」

 

 〝想像して眩暈がした〟演技をすると案の定可愛いワンちゃんは慌てふためく。クライムは自身を不潔な存在と認識して傍に居てもいいのか不安を覚えたのだろう。動揺の瞳が可愛らしい。

 

 ラナーはその不安を取り除いてあげるようクライムの頬に唇を落とす。匂いから察するに部屋へ戻る前徹底的に歯磨きし、手洗いし、清拭したことが伺える。なんとも健気な犬だ。

 

「……ああ、わたし。まるでクライムが汚いかのようなことを言ってしまったわ!そんなことはないの!本当よ!」

 

「いえ、ラナー様!えっと、ま、まず着替えをさせていただきます!!」

 

 クライムが否定も肯定も出来ないことを言うと、案の定混乱してくれた。

 

「離れないで、クライム。ゆっくりここで服を脱いで。」

 

「え……あ、は……」

 

 もしこのベッドがケーキの土台だとすれば、クリームと果実が装飾されることで完成する。

 

「クライムは汚くなんてないわ。ほら……。」

 

 そのクリームと果実は……二人の愛によるもの。ラナーはそう確信し、赤面し硬直するクライムに対し即座に行動へ移した。



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嫉妬と試練

 薄白い塵埃(ほこり)に覆われた、瘴気に満ち満ちた石造りの一部屋。

 

 魔化の施された鎖で両手をYの字に吊るされたクライムは、全身に(ほとはし)る熱とも冷気と付かない耐えがたい痛みに(まぶた)をいっぱいに見開き絶叫を嚙み殺した。自分の身体を見回すと創傷や糜爛(びらん)があちらこちらに散見され、自害防止のためだろう口には枷が嵌められている。

 

 息を整えようとするも、気道には未だ乾ききらぬ血の塊が絡みつき呼吸もままならない。

 

 自分が何故このような状況に陥ったのか記憶を探るも、薄っすらと拷問を受けた記憶だけが蘇る。ただこれほどの拷問に掛けられた痕が残っているというのに、記憶が摩耗しているのは不自然極まる。記憶操作の魔法を掛けられた可能性も視野に入れなければならない。

 

 何より……

 

(ラナー様!ラナー様はどちらへ!?)

 

 クライムを焦燥させるのは自らの主であり神、ラナー様の安否だ。

 

「目を覚ましたか異形種よ。」

 

 邪気に溢れ、怨嗟と憎悪に満ちた声がクライムの耳朶を打つ。拷問官なのだろう、スッポリとローブを羽織っており、顔を見ることは出来ないが背丈は人間の男性ほどだろうか。

 

 ――スレイン法国、評議国、元リ・エスティーゼ王国……様々な可能性がクライムの脳裏に過るが、そんなことは今重要ではない。【明らかにこちらへ敵意と悪意を持った者】という認識で十分だ。

 

「はぃあほふへひは。」

 

 クライムは口枷をはめられている事も忘れ思わず相手に問う。ラナー様の名を口に出さなかったのは我ながら奇跡だと思う。相手がラナー様の所在を知らず、囚われたのが自分だけならば要らぬ情報を相手に与えていた。

 

「はいあ?ハハハ。ああ、何が目的かと?アインズ・ウール・ゴウン魔導国の内部事情について話して貰おうと思っていたのだが、<支配(ドミネート)>も<魅了(チャーム)>も通じない。こればかりは魔導王の隠匿魔法に舌を巻くばかりだ。おまけに拷問でも口を割らないのだからこちらはお手上げだよ。なので作戦を変更することにした。」

 

 あまりに歪で邪悪な笑い声が轟き、ゾっと悪寒が走る。

 

「魔導国に連絡し、君と引き換えに魔導王から直接情報を引き出すとしよう。要求を吞まず君ごと滅ぼすようならばそれはそれでこちらの益になる。」

 

 元リ・エスティーゼ王国の人間として「そんなことはやめておけ」と言いたくなる狂人の戯言を聞きながら、自分の現在の身分を整理する。魔導王は自分如きの命など塵芥ともみていないだろう。自分に人質としての価値などない。

 

 だが、あの慈悲深きラナー様が自分が囚われた一報を聞いたならば事態は変わる。あの悪辣な魔導王にどんな願いをしてでも自分の救出を願うだろう。そうなればただでさえ肩身の狭い思いをされているラナー様はあの化け物の巣窟でどのような目に遭わされるか分かったものではない。ともすれば配下の監督不行き届きとして重い罰が課される可能性まである。

 

(ラナー様。一度復活の叶ったお命でありながら……申し訳ございません!!)

 

 クライムはそのまま自身に武技<斬撃>を発動させた。発動部位は上腕部と前腕部を繋ぐ上腕骨の骨頭。鎖で遠心力を使い勢いをつけ、両腕の第一関節をブチブチと生々しい音を立てながら切断する。

 

「ラナー様!おさらばです!」

 

 そして狼狽する人間に目もくれず、恐らくは焼き(ゴテ)を熱するための炉であろう真っ赤に燃え上がった紅蓮のマグマへ身を投げ込んだ。

 

 

 

 パチン

 

 

 

 幻術を解いたアインズは目の前で気絶している少年を前に、一体どう落としどころをつけようかとがらんどうの脳みそをフル回転させていた。アルベドは陽炎のように怒りのオーラを漂わせているし、ラナー(頭のおかしい女)はガタガタと震えているし……。

 

 これはアインズの実験の一環であり、以前【自分(NPC達)が人質となりアインズへの交渉に使われたらどうするか?】という問いに全員が【迷惑にならないよう即行自害します】と答えた事を思い出し、〝ではNPC(仲間たちの子供)ではないシモベや現地人の配下、POPモンスターならどうするか?〟と今回の実験を行った。

 

 一口にシモベと言っても単純労働に従事する者からナザリックの内政を管理するものまで幅広い。それに本来ナザリックに居なかった蜥蜴人(リザードマン)やハムスケなど、今後も増えていくだろう現地人のシモベについても理解を深める必要がある。

 

 結論を先に言えば、元々ナザリックで創造された者たちは問答無用で自害した。そして恐ろしいことにハムスケや蜥蜴人(リザードマン)たちも筆舌に尽くしがたい拷問を受けながら――もちろん幻術だが――誰も口を割らなかった。記憶も消してさぁ実験終わりというときに問題となったのが、目の前の少年だ。

 

 この少年(クライム)にかけた幻術は【筆舌に尽くしがたい拷問を受けても口を割らないか?】【自分を人質に魔導国との交渉に使われたらどうするか?】というシチュエーションで、他のシモベたちと競う程の早さで即行……それもアインズさえ予想だにしていないエクストリーム自害を敢行した。ただ問題となったのが先ほどのように……

 

「いと尊き御名前ではなく、あなた如きの名を最期に……。あなたのペットは教育がなっていないのでなくて?」

 

「も、申し訳ございません。魔導王陛下!」

 

 アインズの名ではなくラナー(頭のおかしい女)の名を口にしたこと。アインズとしては全く気にも留めていないし予想もしないエクストリーム自殺まで敢行した狂信具合には若干引くほどだ。

 

(というかなんでアルベドはこんなに拘っているんだ?ペットなんだろ?別にいいじゃん。ザリュースたちに幻術をかけた時だって最期は家族の名前を叫んでいたし……。)

 

 やはり守護者統括として仮にも【領域守護者】の従者がナザリック基準に達していないのは我慢ならないのだろうか?

 

「よいアルベド。例えばの話だがシャルティアの眷属がナザリックの為に死ぬとするならば、わたしではなくシャルティアの為を思うだろう。それと同じこと。結果が全てであり過程をそこまで重んじる必要はない。」

 

「ですがアインズ様!」

 

「……わたしは満足のいく結果を観測させてもらった。それで納得できないのか?」

 

 権威で圧力をかける真似は好きではないが、この少年にナザリック基準を求めるのは酷というものだろう。アルベドは花が萎れたように怒りのオーラを収めて一礼する。

 

「ではこの少年の記憶を消して……」

 

「それには及びません、魔導王陛下。今回の失態に対し、クライムには記憶を残存させわたくしからの再教育を以って罰とさせていただきます。」

 

(えーー)

 

「まずクライムをニューロニスト様の……」

 

「それには及ばん。」

 

 アインズは前々から考えていた〝先方様の裁量にお任せします〟の支配者ロールを、鏡の前で練習した角度のまま言い放つ。

 

「貴女の手腕に期待している。話はこれでお終いだ。」

 

 ●

 

( あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 あの女 )

 

 いざという時のために精神の昂りを強制的に沈静化させるマジックアイテムでも貰っておけばよかった。などと思っても後の祭り、ラナーはクライムと転移で守護領域に戻るや否や演技すらも忘れて身を焦がしそうなほどの憎悪に支配される。

 

 ラナーが〝クライムを拷問実験の道具にする〟とアルベド様からお達しがあった際、一体自分はどんな粗相をしでかしただろうと戦慄したが、アルベドがクライムを使いラナーに行ったことは〝憂さ晴らし〟だ。自分が上位者であり、何時でも自分たちを始末できるという……生殺与奪の権限を再確認したに過ぎない。

 

 思えば最近のラナーは成果を上げ過ぎていた。特に以前魔導王陛下が階層守護者たちを集めて他種族を理解させるために使ったと言う【てぃーあーるぴーじー】なるものをこの地で人気の戯曲をベースにシナリオやルールを再構築し――パンドラズ・アクター様の御力も借りた――大々的に普及させた際には褒美の休暇を賜ったばかりか、晩餐会まで用意された。

 

 そして功績を上げれば上げるほど――特に魔導王陛下の関心を惹くもの――アルベド様の機嫌が悪くなっていくことにも気が付いていたが、無能を晒せば処分されるという二重拘束(ダブルバインド)によって、ラナーはどの道を通っても誤りである袋小路に追い詰められた。

 

(次はない、失態を見せると幻術では済ませないと見せつけたかった?いいえ、魔導王陛下に恋慕の情を抱かれているアルベド様の嫉妬……と見るべきでしょうね。)

 

 確かにラナーはナザリックへ入るにあたり相手へ首輪を差し出した。だが理不尽な理由で弄ばれれば手綱を握られた家畜だって怒り吠えるものだ。ラナーはやり場のない激情を持て余し、気が狂いそうになってしまう。

 

「ら、ラナー……さぁ」

 

「クライム!大丈夫!?」

 

「えっと、わ、わたしはまた、え、あ、復活……を……?」

 

「違うのよクライム、これは全部わたしのせいなの。」

 

 目覚めたクライムの前で自分は本当に演技が出来ているだろうか?リ・エスティーゼ王国の王女だった時分では絶対に有り得ない失態を犯しつつもラナーはクライムに抱き着き、これまでの状況を説明する。

 

「そうだったのですか。……わたくしの軽率な一言があったがために申し訳ございません。」

 

 クライムの忸怩たる思いのこもった純然たる瞳にラナーは煮えたぎる激情を落ち着かせ、今後についてを考える。まず贖罪としてニューロニスト様の部屋へクライムを送ることは魔導王陛下自身が却下した。恐らくは自分への依存が強まるだけと判断された。……というか激しい拷問の後優しく看護したい自分の下心を見破られただけだろう。

 

(まず考えるべきは魔導王陛下の仰っていた【手腕】ね。陛下はクライムがわたしの名を呼んだことを不愉快と思っている様子はなかった。であればわたしに求められていることは……。ああ!)

 

「ラナー様!お気を確かに!」

 

 力無く崩れていくラナーをクライムが支え、ラナーの瞳に涙が浮かぶのが見えた。

 

(わたし自身首輪の差し出し方が足りないと仰っているのね。そうね、クライムがどのようにすれば苦しむのか実践……いえ幻術でも構わないわ。それを示さないとならない。例えばクライムが身動きの取れない中わたしが嬲られる場面を見せられたり、他の男と恋仲に落ちたり、存在そのものを忘却されたり、目の前でわたしが為す術無く殺されたり……。)

 

 あは♪

 

 そんな場面を見せられたクライムはどんな瞳をしているだろう。幻術と知った際、安堵しながらも罪悪感に苛まれるのだろう。幻術とはなんて素晴らしいのだろう、何せ全部嘘なのだから。

 

「……クライム、あなたにはとても残酷な事をしなければならないわ。」

 

「はい!覚悟の上です!」

 

 凛とした忠犬の瞳はどのように歪んでいくのだろう。嘘と知ってもクライムが自分を愛して変わらない瞳を向けてくれるならば……。

 

 ラナーの演技の涙の中に、ほんの少しだけの歓喜の涙と、極々微量自分でも認知出来ない理解不能な感情の涙が混じっていた。



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魔法があるならば

「あら、クライムお帰りなさい。今日も訓練お疲れ様。」

 

 ナザリック初の現地人領域守護者、ラナー・ティエール・シャルドロン・ライル・ヴァイセルフは計算の手を止め、即座に宝石のような笑顔を形成し愛しのクライムが帰還したことを素直に喜んだ。

 

「いえ、この地でわたくしが鍛錬に励めることも全てラナー様の献身があってこそ。従者として恥じ入るばかりです。」

 

 ああなんて健気な犬なのだろう。クライムの真っすぐな瞳は忸怩たる思いの宿った複雑なものであり、ラナーはその瞳に倒錯的な快楽を覚える。少し悪戯心の芽生えたラナーは机に置いてあったワインボトルに一瞬目を向けた。

 

「そうそうクライム、ちょっと剣を構えてもらってもいいかしら?」

 

「剣……ですか?畏まりました。」

 

 クライムはラナーに言われるがまま腰に提げていた訓練用の剣を構える。まさか主に刃を向ける訳にもいかず、剣先は天井を向けて。その刹那だった。

 

「う~んちょっと遠いわね。もっと近くにきて。」

 

「は、はい。」

 

「このくらいかしら……えい!」

 

 ラナーがクライムの剣に向けてガラス製と思わしきワインボトルを棍棒のように振りかざしてきた。あまりの予想外な行動にクライムの脳内が危険信号を発し、様々な思考と感情が入り乱れ奔走する。このまま剣を持っていればガラスは割れ、飛散する欠片がラナー様の玉体を傷つけてしまう。

 

 しかし突拍子の無い行動に脳が身体に運動の信号を送ってくれない。剣とボトルの衝突する瞬間がスローモーションとして脳に焼き付くばかり。これから生じるであろう破砕音と四散するガラス片からどうラナー様を守ろうかと思考を切り替えていた瞬間……

 

 ガギィン!

 

「え!?へ?」

 

 クライムの予想を裏切り、剣から伝わってきた衝撃は金属製の鈍器で殴られたかのような異質なものだった。

 

「うふふ、クライムったらおかしな顔。」

 

 クスクスと笑うラナーが手にするグラスボトルをよく見ると、側面に光る3つの文字が刻まれていた。恐らくはセバス様から聞いたことのある【ルーン】と呼ばれる技術だろう。あの魔導王がその価値を見出し、現代では失われた技術の復活を目論んでいると聞く。

 

「い、悪戯が過ぎます。ラナー様……。」

 

 過緊張から全身の力が緩和していくような脱力感に精神を侵されたクライムは情けなくもそのまま膝から崩れ落ちそうになってしまう。

 

「ルーンのお話を伺った時、日用生活用品に応用してみるのはどうかしらと提案をしてみたの。例えばこれはただのガラスなのだけれど、ルーンを刻めば金づちで叩いてもビクともしないのよ。魔法と同じで、何も武器を作る事だけが利用法ではないでしょう?みんなの生活が便利になるために使われるべきだと思うの。」

 

 その一言にクライムは感銘を受ける。ラナー様はやはり民の幸せを想い、民の利便性を第一に考え様々なアイデアをあの魔導王へ提言しているのだ。そのお心に胸が熱くなる。

 

「ただ今はルーン工匠の絶対数が少ないから、すぐに実現は出来ないみたい。とても残念だわ。それに職人気質なルーン工匠たちは武器以外にルーンを刻む作業に不慣れで難しい顔をするらしいの。」

 

「いえ! そんな些末な問題は一時のことに過ぎません! ラナー様の民を思う御心は必ず成就いたします!」

 

 不老不死となった自分が【時間の問題】と言い切るのは、まるであの悪辣な魔導王を讃えているかのようで癪だが、永劫の時が流れようとラナー様のお優しさが陰る事など無いと確信しているが故の言葉だ。

 

「ありがとう、クライムがそう言ってくれると嬉しいわ。」

 

 実際低位の魔法詠唱者(マジック・キャスター)によって魔化の施されたマジック・アイテムは一定時間で効力が激減し、やがては無力になるものも数多い。しかしルーンは如何に低位の工匠が刻んだ文字であっても永続的な効果を発する事がわかっている。生活魔法にルーンを用いる提案をした際、魔導王陛下は大変に満足そうな反応をされていた。

 

「クライムはどんなものに魔法がかかっていたら幸せだと思う?」

 

 場所をソファーに移し、ラナーはクライムに屈託のない笑みで問いかける。自らの太陽、神ともいえる存在が気兼ねなく話しかけてくれている事実にクライムは緊張から身体を強張らせてしまう。

 

「い、いえ!わたしが簡単に思いつくものなど、ラナー様でしたら……。」

 

「そんなこと無いわ、クライムはわたしを過信しすぎよ。」

 

 ラナーは笑顔を湛えたままソファーの隣に座るクライムの返答を待つ。クライムには慈悲深いいつもの笑顔から圧のような波動を勝手に感じ、思考が空転してしまう。

 

 まず思いつくのは包丁や鍋、保温機といった家庭用品であるが、ルーンは現状量産が出来ない。ならば却下だ。次に馬車や荷台といった運搬交通。<浮遊板(フローティング・ボード)>を初めて見たときでさえクライムは御伽噺の世界でしかなかった魔法の力に心を震わせたものだが……

 

(ドラゴンや幽霊船が悠々と荷物を運んでいる魔導国では不適当か。)

 

 今更魔導国に<浮遊板(フローティング・ボード)>如きと類似した低位階魔法を見て驚く民は存在すまい。可能性を除外する。

 

(やはりわたしにはラナー様のような能力は……あ!)

 

「読解や筆などいかがでしょうか? もちろん量産はできませんので、教会のように特定の個室に魔法の筆と魔法のルーペを置くと言うのは? 未だ識字率の低い中、相手に気持ちを伝えられる場所となるはずです。」

 

 実際幼少期ラナーに拾われ、ラナーに抱く心模様を言葉にすることも文字にすることも出来ず焦燥とも取れない甘く苦しい感情を覚えた記憶は新しい。(ふみ)に認め渡したい相手がいる。しかし文字を書く手を持っていない。そんな自分の苦しみを誰かが味わっているならば解消してあげたいと思ったのだ。

 

 その瞬間、ラナーはお腹を抱えプルプルと震えだす。

 

「ら、ラナー様!?どうされたのですか!?」

 

 ラナーの笑顔はいつもの慈悲を湛えたものではなく、本当に可笑しくて仕方ない感情を抑え込んでいるように見えた。

 

「いえ、クライムらしいと思って。」

 

「お、お恥ずかしいです。」

 

「そういえば、クライムが初めてわたしにくれた手紙……。王城と共に消えてしまったわね。」

 

 嘘である。現在レベルにして80以上の盗賊職でも無ければ開錠できない秘密の宝箱へ大切に保管している。間違ったスペルに左右や上下が反転した文字、おかしな文法。しかしその中に秘められた膨大にして健気な思い。思い出すだけでラナーの背筋に電流を走らせる。

 

「一体どんな内容だったかしら?今ここで思い出してもらえる?」

 

「いえ!そんな!」

 

 クライムの顔が一気に真っ赤に染まる。さて、どのように遊んであげよう。最早ラナーの脳内は狼狽し恥ずかしさに悶えるクライムの瞳でいっぱいであり、ルーンのことなど微塵も入る余地が無かった。



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禁忌への挑戦

 ナザリック地下大墳墓 第六階層「大森林」。 欝蒼(うっそう)と茂る木々が支配し、時折魔獣の咆哮(ほうこう)が波動となって木々の葉を揺らす、森というよりも樹海という表現が適当とも言える場所。

 

「……ラナー様!ドレスに泥がついてしまいます!やはり身支度を改めて出直すべきでは?」

 

「大丈夫よ。これは外出用のドレスですもの。それに休暇は有限なのですから、アウラ様とマーレ様の御許可を頂いた今のうちに【冒険】をたのしみましょう。」

 

 頭から音符が飛び出ている様にも錯覚するほど楽しんでいるラナーを見ると、クライムも(いな)とは言えず、静かに一礼し、ラナーに万が一の危険が無いか周囲を注視する。

 

 ラナーもまた、天真爛漫な演技とは裏腹に心臓が握りつぶされそうなほどの心情をクライムの瞳で緩和していた。

 

 今ラナーは魔導王陛下より休暇を賜り、今回の休暇で【冒険】なる行事を行おうと提案をした。しかしラナーの目的は第六階層の魔獣を見る事でも、森林浴を楽しむことでも、ましてや蟲毒(こどく)の大穴を眺めることでもない。

 

 御隠れとなった至高の41人と呼ばれるナザリックにおける絶対的な神。その一柱たる死獣天朱雀様の遺されたる秘宝が第六階層にある可能性を発見したからだ。

 

 ラナーが〝遺された暗号〟の存在に気が付いたのは最近の事。

 

 【最古図書館(アッシュールバニパル)】で知識を集めているうちに、段々と違和感が累積するようになった。それこそラナーの頭脳を以ってしても読み解けない難解な暗号を用いた秘匿が施されており――解決の鍵となる数式が発見できないのも一つの要因だ――【至高の41人】とナザリックの皆が崇める神々が記した書物である可能性の高い書がいくつか散見された。

 

 死よりも恐ろしい永劫の地獄を天秤に掛けた危険な賭けと知りながらも暗号を読み解くうち、ラナーは【禁忌の暗号】である可能性が高いと考えるようになり、同時にナザリックの謎を深める結果となった。

 

 例えば至高の御方々が一人、ブループラネット様の記された【天体に関する考察】。そこには〝この黒い空の先には何があるのだろう〟という記述がみられている。抒情的な詩や詠と解釈する事も出来るが、気候そのものを変える第11位階魔法……いや正しくは超位魔法を操る魔導王陛下のお仲間にしては不自然すぎる一文だ。

 

 <官能的>とされる情報をはじめ、政治制度、文化慣習、社会動向に関する知識があまりに少なく、あえて多数の書物に知識を分散するか、暗号化されているものがあまりに多すぎる。

 

 おそらくナザリックのあった世界というのは、独裁に近い過剰な専制君主制でありながら、公民権運動や社会運動が活発……又は活発だった、という大きな矛盾を孕んだ歪な世界だったのだろうと考察できる。いや、そもそも【世界はひとつしかない】という常識から疑わなければ説明が付かない事柄も数多い。

 

(本当、ナザリックに来てからわたしの頭から常識が削られる一方ね。)

 

 正直に言えばラナー自身秘宝になど全く興味はない。それこそ【触らぬ神に祟りなし】。ただ一室で与えられた仕事をこなし、クライムが横に居ればそれだけで世界一幸せと胸を張って誇れる。

 

 それでも命懸け……いや、【用済み】の危険を冒してまでこんな真似をしているのは、【自分の考察が本当に合っているのか?】という答え合わせでしかない。

 

 禁忌の暗号を読み解けるということはナザリックにおいてこれ以上ない劇薬だ、ラナーの考察が本物であった場合、知識の活用法について身の振り方を本格的に考えなくてはならない。もしすべてが勘違いであり、ラナーの空回りであれば自分はただの道化師だ。

 

 今現在、あの智謀の王、魔導王陛下からアクションは無いが、その事実がまた恐ろしい。一度禁忌に手を出す覚悟を持った以上、中途半端は一番の愚策。

 

 故にラナーは、暗号が本物か偽物か、そのどちらであるか確信を持ちたかったのだ。

 

「ラナー様、随分変わった木が御座いますね。」

 

(あった!)

 

 生い茂り栄えた大森林を抜けると木々にのまれた廃村が広がっており、ひとつ異色を放つ存在が聳えていた。それはまるで箱のように立方体となっている樹木であり、高さはクライムと同じくらいだろうか。

 

「不思議ね~。どうやったらこんな風に育つのかしら?」

 

 ラナーは気楽な様子を演技し、樹木を観察する。……間違いない。他の樹木と比較し含まれている〝でーた量〟が桁違いだ。その瞬間だった。

 

 パァン! と空気が破裂したような炸裂音が轟く。

 

(やはり、最初から監視付きか……。)

 

 件の樹木から発した音ではない。ラナーは驚く演技を行うが、その脳裏では自分のこの地における信頼の無さに改めて――確信していたこととはいえ――ゲンナリとした気持ちを抱く。

 

「ちょっと~。アインズ様のご命令だからここ(第六階層)をうろつくのは許したけれど、無断で変な真似をすることまでは許してないよ?」

 

 そこには鞭を手にしたアウラが不機嫌そうな顔をして(たたず)んでいた。子供じみた怒りの表情と諭すような口調に反し、溢れ出るオーラは殺気に近いものがあり、まるで喉笛に刃を突き付けられたかのようだ。

 

「あら、申し訳ありませんアウラ様。余りにも不思議な形をした木でしたので。」

 

 ラナーは天真爛漫な演技を崩さずアウラに弁明をする。同時に横に居るクライムは剣こそ抜かないが臨戦態勢に入っており、場の空気は重いものとなる。気持ちはとても嬉しいのだが、ラナーとしてはアウラ様の心証が悪くなるのでクライムには大人しくしていてほしいものだ。

 

「正直に聞きたいんだけどさ、何を(たくら)んでいるのか教えてくれない?あんたがただ能天気に第六階層へ遊びにきたとは思えないんだよね。心当たりがない……なんて言わせないよ?」

 

 アウラ様はアルベド様やデミウルゴス様のような人知を超えた知者ではないが、鈍い御方でもない。むしろ少女らしい第六感というべきか、直観力という意味では誰よりも鋭いかもしれない。……だからこそ下手な根回しなどせず、この場で駆け引きする方法を選んだのだが。

 

「隠していた訳ではないのですが……誤解を招く行動をして申し訳ございません。以前シズ様と歓談をした際、第六階層に不思議な木が生えていると聞いたことがあったものですから。なんでもシズ様でもその不思議な木の正体は解らないと仰っておりましたので、こうして【冒険】をしてどのようなものか見てみたかったのです。勿論、魔導王陛下の御許可は頂いております。」

 

「ふぅん。」

 

 アウラはラナーの一言一句、一挙手一投足を怪訝な目で見つめていた。それでも嘘は言っていないと判断したのだろう。突き付けられていた殺気がみるみる薄れていく。

 

「なら最初からわたしかマーレに聞けばいいじゃん。これは祠って言って、至高の御方々が御造りになられたもの。ギミックじゃないからシズが知らないのも当たり前だね。」

 

「なるほど!でしたらその〝ほこら〟の中には何が入っているかアウラ様は御存じですか?」

 

「それを知って、あんたはどうするの?」

 

 先ほど霧散した殺気が蘇り、緊迫した空気が廃村を支配する。アウラの殺気を浴びてなお、ラナーが湛えるのは宝石のような笑み。

 

「魔導王陛下へご確認したところ、自分で確かめるようご下命を受けましたので、わたくしへ給う試練と判断し、〝ほこら〟の中身を精査したいのです。」

 

 アウラはラナーの言葉を咀嚼(そしゃく)していく。アインズ様の名前を出した以上、言葉に嘘はないだろう。……この判断は他の仲間たちとの信頼と違い、この女がそこまで愚かではないという確信があるからだ。

 

 全く何を考えているのか解らない。何処まで知っており、何のためにこの場所へきたのか。祠の知識は本当にシズから得たのか。そして何より、〝知ってどうするつもりなのか?〟アウラの中の疑念がどんどんと膨らんでいき、目の前の笑顔を湛える下等種が得体の知れない化け物であるかのような錯覚へと陥ってくる。

 

(でもアインズ様が許可を出した……。ということはこの女(ラナー)の行動も手のひらの上、ってことだよね。)

 

 常々アインズ様は〝自分で考える事〟の大切さを説いており、このような思考停止に陥るのは愚かの極みとわかっている。だが、どう対応すべきかの正解が見つからない。無下にも扱えないし、ましてこれ以上脅すわけにもいかない。……しかしながら〝このように考えるだろう〟と思考を誘導されているようで気味が悪い。

 

「わかった。本来神聖なものなのだからあなた如きが見られるものじゃないけれど、しっかり見なさい。祠の中身は……」

 

 

 ●

 

 

 ラナーは自身の守護領域にある椅子に座り、ぬいぐるみ代わりにクライムを抱きしめていた。クライムは顔を真っ赤にしながら色々と言っているが、今回の【冒険】を振り返る上で失態が多くあったことを考えると思考が悪循環に陥りそうなので、精神衛生を保つうえで必要な行為だ。クライムの戯言は無視してそのまま抱きしめていよう。

 

(〝ほこら〟の中にあった人間と思わしき絵画を揮毫(きごう)なされたのは本当に死獣天朱雀様? 一体どういうこと? 魔導王陛下のお仲間は皆異形種であり、人間種などいなかったとお聞きしている。)

 

 ラナーの思考がどんどんと哲学的な命題へと発展していく。それは【神が居たとすれば、神は別の〝神〟を信仰しているのだろうか?】という観測のしようも考察のしようもない解決不能な大難題。

 

 魔導王陛下へ【冒険】の顛末をお話したところ、〝ああ、なるほど〟と少しだけ微笑み、詳細については伏せるよう厳命された。

 

(アウラ様との関係を悪戯に悪化させただけで終わってしまった。これ以上の詮索は危険だわ。禁忌に手を染めて命があっただけ良かったと考えましょう。)

 

 ラナーはこれ以上の思考は無駄であると判断し、クライムとの幸せを維持するためにも禁忌の暗号については〝本当の最終手段〟と位置づけることとした。

 

 

 ●

 

 在りし日のユグドラシル。第六階層大森林、植物に覆われた廃村。

 

「いやぁ、流石はブループラネットさん。今は失われた気象の移り変わりをここまで再現するとは。」

 

「いえいえ、死獣天朱雀さんが天文学に関する様々な資料を送って下さったお陰です。なんとお礼をしていいやら。」

 

「お礼なんていらないよ。知識は熱意と心を持つ人間が活用すべきだ。それにしても……【天地創造】なんてまるで神様じゃないか。大きく君の祭壇でも建ててはどうかね?」

 

「勘弁してください。侵攻してきたプレイヤーに〝なんだこれ?〟って思われますよ。」

 

 【困り顔】のアイコンがピコンと浮き上がり、かぶさるように【悪戯笑い】のアイコンがピコンと浮かぶ。

 

「しかし天地創造の神様が不在というのもよろしくないね。大地を治めるためにも祠くらいは立ててはどうだろう。」

 

「あの不自然な木ですね……。なんとなくわかっていましたよ。って!?朱雀さん!?これわたしですけれど、わたしじゃないです!」

 

「あはははは。なぁに、誰が見るわけでも無い。それにわたしの下手な絵では誰のことかサッパリ解らないさ。」



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【小噺】異形の魅了

・原作オバロ、くがね先生と異なる文体を使用しております。【アンチ・ヘイト】のつもりで書いていませんが、そんなの無理という方はバックしてください。


 あら、ご機嫌麗しゅう御座います。今夜は特別な日でございますから、何でもお答えいたしますよ。……ええ、わたしにとって特別な日なのです。何しろ貴方様という素敵な御友人が出来た記念なのですから。

 

 わたしに友人?あら、なんだか奇妙な違和感を覚える話ですね。何故貴方様をとても親しく感じ、こんなにも口が軽くなっているのでしょう……。そもそもわたしに友人などできるはずが……。

 

 いえ、あれ?折角出来ました素敵なご友人を疑ってしまいました。申し訳ありません。

 

 随分とおかしな顔をなさっておりますね、何か聞きたいことがあってお話に来たのでしょう?そんなビックリとした顔をなされるとこっちが困惑してしまいます。わたくしの現在の主人ですか?それは……ええっと、わたくしのご友人でしたらその程度既に知っているはずのような気もしてしまいます。

 

 そう、わたくしが現在仕えている主人は、主人は……。何だか思考が堂々巡りをして、考えがまとまりません。どうしてしまったのでしょう、こんな経験は初めてです。こんなにも素敵なご友人がわたくしの前に現れたというのに。

 

 ああ、友人が出来たことで心が舞い上がっているのかもしれませんね。まあ、そんなに怖い顔をしないでください。貴方様の御心を裏切るほど、わたくしは薄情者ではございません。

 

 いいえ、ちっとも埒のあかない話じゃありません。わたしのご友人なのですから、わたしがどんな人間かはご存じでしょう?……ああ、もうわたしは人間では無かったですね。そう、わたしの主人は、わたしの夢を叶えてくださり、わたしの智謀など遥かに凌駕する偉大な御方。

 

 名前は……あら?わたし、先ほど何を話したでしょうか?そうそう、貴方様がわたくしの大切な初めてのご友人だということでした。それにしても、どうしたことでしょう。貴方様のご希望にお答えしたいのですが、声がピッタリと咽喉(のど)(つか)えてしまって、名前が出てくれないのです。まるで催眠術にでも掛かっているような……。

 

 思い出しました。わたしに友人など出来るはずがないと言う話でした。唯一わたしの心を満たしてくれるのはあのワンちゃんだけ……。ええ、ワンちゃんです。

 

 そんな話はどうでもいい?あら……?わたくしの友人なのに、わたくしの事を理解してくださらない?ますますおかしくなってきました。

 

 たとえ友人である貴方様でも、わたしのクライムを〝どうでもいい〟と仰るなら容赦はいたしませんよ。とはいえ、到底わたしやクライムでは貴方様を殺すことは出来ないでしょう。

 

 あらあら、いけません!ご友人に対して殺すなどと失礼なことを!

 

 どうするつもりかと? まず貴方様はエルダーリッチであり、強い一種の狂信者であられるご様子。その上で貴方様の信仰されますご主人をお調べし、お調べし……

 

 何故わたくしは友人である貴方様のことを何も知らないのでしょうか?う~ん、溶けて無くなっていた辻褄がどんどんと繋がってまいりました。わたしは今、<魅了(チャーム)>または<支配(ドミネート)>に精神を侵されているのですね。

 

 ではわたくしが今するべきことは自分で自分の記憶を改竄(かいざん)することですね。……二重人格ではございません、ただ意図的に乖離性離人症状を引き起こしてみようかと愚考したまでです。

 

 ああ、ダメダメいけませんわ。親愛なるご友人である貴方様にそんな不遜な態度をとるなど無礼で御座いますね。さて、御主人についてでしたね。わたくしの主人は……より正確に言うのであれば望みの代償として首輪を差し出している相手はアインズ・ウール・ゴウン魔導王陛下です。

 

 ……え……何故ですか……。何故そんなに気味悪いものを見るような反応をされているのでしょうか?まだお話しすることが沢山あるのでしょう?貴方様も結局わたくしを裏切るというのですか。そうですか。

 

 ところでわたしは何時まで貴方様という偽りのご友人の茶番にお付き合いしなければならないのでしょう。魔法に精神が侵されているとはいえ疲れが出てまいりました。早くクライムに癒されたいです。




・ラナー様が<魅了>とか受けたらどうなるかな~。とかいう妄想でした。


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【短編】shall we dance

・アニメ最終話のミュージカルなラナー様が可愛すぎて勢いで書いた、今は反省している。


「……仮面舞踏会、でございますか。」

 

「ええ、ローブル聖王国から教祖〝顔なし〟、もといネイア・バラハ女史が魔導国へ来訪されることは聞いていますでしょう?歓迎の式典において大まかなスケジュールは決まっているのだけれど、舞踏会については開催の是非も含めて未だ審議中らしいの。もし開催するのだとすれば仮面舞踏会の可能性が有力と聞いているわ。」

 

「それはまた奇妙な話ですね。」

 

 クライムが知るのはあくまで今は無きリ・エスティーゼ王国の常識でしかないが、他国から賓客を迎えるならば舞踏会とは切っても切り離せない行事だ。とはいえ貴族同士の権謀術数渦巻く見栄の張り合いという意味合いが強く、魔導王を頂点とした上意下達の一糸乱れぬこの地においては不似合いな行事だとも思う。

 

 ……だからこそ〝なら最初からやらなければいいんじゃないか?〟という意識が強く、何故審議にそこまで時間が掛かっているのか皆目見当がつかない。それにこれほど個性あふれる存在が多くいる地だ。仮面を付けたところで意味を成すとも思えない。

 

「仮面を付けることによって、魔導王陛下の御前においてはどのような種族も平等……。ということを建前とされているのでしょうね。ネイア・バラハ女史は〝顔なし〟の二つ名が示す通り伝道活動において奇抜な仮面を外すことなく、その素顔は教団のごく一部の人間しか知らないとされているわ。 おそらく、ヤルダバオト襲来において女性としてそのお顔に忌むべき傷跡か呪いの類が残ったのでしょう。」

 

「ヤルダバオト……。」

 

 クライムは苦悶に満ちた複雑な表情を滲ませ、拳を握りしめる。王国の悪夢、悪辣なる魔皇、英雄モモンにより危機を免れた記憶よりなお一層脳裏に過るのは更なる絶望、魔導国の進軍だ。リ・エスティーゼ王国はあのままヤルダバオトに蹂躙されていたほうが王家には再興の道があったのではという〝もしも〟をどうしても考えてしまう。

 

 もちろんローブル聖王国で起こった悪夢を思えばそれも夢物語と分かる。それでも魔導王とどちらが絶望的であったか……。

 

「クライム。わたしたちはあの場で最善の手を尽くした。その選択に間違いはないわ。」

 

 ラナーの慈悲に満ちた手に拳を握られたクライムは、自分の葛藤が一番に護るべき主を憂顔にさせている事実に気が付き、頭を振って思考を切り替える。

 

「それにしても舞踏会……。わたくしは参加する機会に恵まれなかったわね。どんなリズムなのでしょう。こうかしら?」

 

 即興のデタラメな……というには、余りにも可憐で洗練された美声が軽快な律動となり歌となり守護領域全体を支配する。そして歌は踊りを伴って、クライムに手が差し伸べられる。

 

「わたしでよければ……一緒に踊りましょう? 一緒に歌いましょう?」

 

 畏れ多さもある、先ほどの逡巡を払拭出来たわけでも無い。だが差し伸べられた手を拒絶する理由はクライムには無い。過去を悔やみ悩む不毛な時間を、自らの慈悲深く聡明な主は同じ時間を未来へ向かう時間へ変えて下さった。そのお心が何よりもうれしい。

 

「こんなわたくしで……本当によろしければ。」

 

 ラナーとクライムは左右の十指を交差させ、片や洗練された動きで、片や酔歩するように踊る。美声の中に混じる雑音(ノイズ)のような歌声も、誰も気にする人は居ない。

 

 踊る二人はどちらも幸せだ。クライムが望む全てが、そしてラナーが望んだ全てがただ一室で繰り広げられていた。

 



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