猫ノ下雪乃さん。 (滝 )
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猫ノ下雪乃さん。

 特別棟の廊下を歩きながら見る中庭は、新緑に染まっている。

 つい数週間前まで校舎の角で(わだかま)っていた桜の花びらは一体誰がどこにやったのか、もはや影も形もない。いつしかズボンのポケットに手を突っ込む頻度も減り、俺は肩に背負った鞄を揺らしていた。

 奉仕部の部室が近くなってくると、前から見知った顔がやってくる。

 ──雪ノ下雪乃。

 俺の⋯⋯なんと言うのが正確な表現なのだろう。彼女の言葉を借りるなら、パートナーというのが、今のところの正しい表現だろうか。

 こうやって雪ノ下に廊下で会うというのも珍しいが、ある意味必然だった。今や奉仕部の部長は我が妹の小町であり、一番に部室の扉を開けるのは彼女の仕事だ。

 彼女の方も俺に気付くと、ふわりと微笑みながら歩みを進めた。やがて声を張らなくても言葉を交わせるほど近づくと、雪ノ下は鈴が転がるような声で言う。

 

「こんにちにゃ、比企谷くん」

「おう⋯⋯お?」

 

 うーん、そうそう。うちのパートナーはこんなにお茶目で⋯⋯ってそんなわけあるか。何かの冗談だろうかと思って雪ノ下の顔を見ると、彼女も彼女で不思議そうに首を傾げていた。

「⋯⋯変わった挨拶だな」

「え、ええ⋯⋯。でも、そんなつもりは」

 本気でさっきの言葉遣いの意味が分からないようで、雪ノ下の顔は朱に染まり始めていた。いや、なら言うなよって話なんだが。

 あれだな。きっと猫動画の見過ぎで猫の言葉で話してみたくなっただけだな。うん、きっとそうだ。

 俺はガラリと扉を開けると、雪ノ下と一緒に部室に入った。案の定先に来ていた小町は、いつもの長机に肘をついて片手にスマホを握っている。

「お、二人一緒なんて珍しい」

 小町は顔を上げると冗談めかして言うが、雪ノ下は先程の違和感からか取り合う様子はない。雪ノ下はその言葉に反応する代わりに、いつも通り簡単な挨拶を口にした。

 

「こんにちにゃ、小町にゃん」

 

 そう簡単でとってもキュートな⋯⋯って待って? またにゃんとか言ってるよこの子。可愛いから自重して?

「へ⋯⋯。こ、こんにちにゃ」

 小町は小町で、動揺しながらも乗っかっていた。君も可愛いから自重しなさい。じゃなくて。

「お兄ちゃん⋯⋯」

 俺が座るなり小町はこちらに椅子を寄せると、こっちこっちと手招きして耳打ちしてくる。

「あのさ⋯⋯。そういうプレイは二人きりの時だけにしてくれない?」

「ちげぇよ⋯⋯。俺にも意味分かんないんだっつーの」

 プレイとか生々しい言葉を使うのは止めようね。ほら、俺たちってジュブナイルでセンシティブだからさ。

 雪ノ下は自分で言ったことの意味が分からないらしく、またも首を傾げている。一体彼女に何が⋯⋯と兄妹揃って考え込んでいると、元気よく部室の扉が開かれた。

「やっはろー!」

 と、お決まりの謎挨拶と共に部室に入って来たのは由比ヶ浜だった。

 また「こんにちにゃ」とか言い出すのだろうかと思って雪ノ下を見ると、歯を食いしばるようにして彼女は口を噤んでいる。

 しかしそんな表情も、挨拶を返さないという行為も由比ヶ浜にとって違和感でしかないだろう。由比ヶ浜は挨拶が聞こえていないと思ったのか、雪ノ下の席の隣に座ると、至近距離でもう一度言う。

「やっはろー! ゆきのん」

「⋯⋯⋯⋯」

 雪ノ下は困ったような顔をして、俺の方を見る。流石にこの距離で無視はできないだろう。俺はうむと頷くと、雪ノ下はようやくその挨拶に返す。

 

「こ、こんにちにゃ、由比ヶ浜にゃん」

 

 直後、硬直する由比ヶ浜。しかしそれも一瞬の事で、次の瞬間由比ヶ浜は雪ノ下を抱き締めていた。

「⋯⋯嬉しい。ゆきのん、あたしにも冗談言ってくれるようになったんだ」

 違う。絶対に違うぞそれ。感動のベクトルが明後日過ぎる。

「ち、違うのよ⋯⋯。普通に喋っているつもりにゃのに、勝手に⋯⋯」

 まるで解せないとでも言うように、雪ノ下は右手で口を覆う。

 冗談でなければ何なのか。雪ノ下の困惑が伝播したように、由比ヶ浜もうーん? と首を傾げた。

 俺が口を開きかけたその瞬間、コンコンと軽いノックの音が響く。

「お疲れさまでーす」

 ノックの音から間髪置かず、ガラリと入ってくる人影が一つ。一色いろは本日もきゃぴるんゆるふわ〜っと部室に入るなり、定番地化している椅子へと腰掛ける。当然のようにそこにいるけど、一応部外者である。

「⋯⋯どうしたんですか?」

 俺たち黙りこくっているのが不思議だったのだろう。一色はそう言うと亜麻色の髪をさらりと揺らした。

 この状況を正しく説明するには、何もかもが足りていない。だからその身で以てお知り頂くのが早かろう。

 どうしたものか困惑している雪ノ下に、俺はもう一度頷きを返した。

 

「⋯⋯こんにちにゃ、一色にゃん」

 

 

 

       *       *       *

 

 

 

「つまり、さっき先輩と会った時からこんな調子だと」

「ああ、そういう事になるな⋯⋯」

 

 手短に状況を説明すると、一色はうーんと腕組みをして首を傾げた。

 本気で意味不明だし、本人も何がなんだか分かってもいない。現状を端的に話すならば、雪ノ下は猫語を話すようになった。以上。

「雪乃さんがお兄ちゃんに会う前に、何かありました?」

「⋯⋯いえ、特に変わったことは」

 雪ノ下は顎に手をやり暫しの回顧のあと、やはりというかそう言った。つまりは本人にもさっぱり、この状況の原因は分かっていないということだ。

「ってことは、先輩に会ったのが原因?」

「んな人をウイルスの発現元みたいに⋯⋯」

 一色にそんな意図はないと思うが、思わず俺は項垂れる。俺に人を猫化させる能力なんてあるかっつーの。

「でもそれなら、あたしたちも同じ状態になってなきゃおかしいよね⋯⋯」

 由比ヶ浜のフォローに、みんな揃いも揃って黙りこんでしまう。

 やはり、原因不明。

 どうしたものかと考えていると、ガタッと音を立てて雪ノ下は自分の座る椅子を由比ヶ浜の近くに移動させた。ただでさえ近くにいるのに、そうする事で彼女たちの距離はほとんどゼロになる。

「ちょっと、ごめんにゃさい⋯⋯」

 雪ノ下はそんなとんでもなく可愛い謝罪を口にしながら、由比ヶ浜にピッタリとくっついた。余りにも唐突で思ってもみなかった行動に、彼女以外の誰もが硬直する。

 ⋯⋯いや違うな。みんな瞳の中にハートマークを作って顔に「キュンです」と書いている。っべーわこの雪ノ下さん。恥じらいながらキュンキュンの実をばら撒くとは一体どういう了見だ?

「ど、どしたの、ゆきのん?」

「こうしていにゃいと、落ち着かなくて」

 そう言うと雪ノ下は、何を思ったのか由比ヶ浜の肩に頬擦りし始めた。⋯⋯いや、ホントに何やってんのこの子。

「あ⋯⋯っ。雪乃先輩、そんなことしたらファンデが──」

 そこまで言って一色は、言葉を失った。彼女の凝視する先の由比ヶ浜の肩口には、少しの色もついていない。

「は? マジかこの雌猫。ノーメイクでこのレベルとか狂ってる」

「うわぁ、相変わらず言い方やばいなーこの人」

 雪ノ下に驚愕する一色に、小町はドン引きしていた。いろはす言い方ー。

「ゆきのん⋯⋯」

 そして頬擦りを受ける由比ヶ浜は最初こそ戸惑っていたものの、今では恍惚とした表情すら浮かべて雪ノ下の頭を撫でていた。なんだこの尊い光景は。けしからんもっとやれ。

「⋯⋯どうしますこれ」

 一色の問いに小町は腕を組んでううむと考え込むが、その次の言葉が出てこない。一頻りうんうん唸ると、小町は苦し紛れに言う。

「やっぱりショック療法とかですかね」

「ショック療法⋯⋯。って、どんなショック?」

「⋯⋯目覚めのキス、的な?」

 ちらりちらりと、何かを訴えかけるように小町が俺を見てくる。やらないよ? それにショッキングな出来事にカウントされてる時点で、俺の扱いが分かるんだよなぁ⋯⋯。

「うわ、急に乙女発言とか引く」

「うぅ⋯⋯流石に今のは小町的にポイント低い⋯⋯」

 恥ずかしいことを言った自覚はあるのか、小町は頭を抱えて小さくなる。

 苦渋の提案も、まあ仕方のないことだろう。どうしてこうなったか不明では、解決策の案すらまともに出てこない。

「しかしまあ、このまま帰すわけにも行かないよな⋯⋯」

 雪ノ下は今もまだ実家から学校に通っているから、もしこの状態のまま帰宅すると厄介なことになりそうだ。良くて病院行き、最悪療養施設に収容なんてこともありえるだろう。行動はともかくとして、精神まで異常を(きた)しているわけではない彼女への対応として、それは忍びない。

「あ、じゃあ今日はうちに泊ま⋯⋯」

 由比ヶ浜は元気よく言い始めたかと思うと、途中で言葉を切った。

「ダメだ。今日はパパ、休みで家にいるんだった⋯⋯」

 その答えに、俺もうーんと腕組みをして俯いてしまう。

 由比ヶ浜の家に泊まるとなると、恐らく由比ヶ浜の家族とともに食卓を囲んだり、何かと顔を合わせることもあるだろう。ガハママはともかく、ガハパパがどんな反応や対応をするのか、まったく読めない。

「うーん、それを言うとうちもうまいこと誤魔化せる自信はないですね⋯⋯」

 一色も難しい顔をしながら、そう呟く。つまりは、今日のところは普通に家に帰すしかあるまい。

「帰る前に元に戻ればいいんですけど、それも難しそうですね」

 小町はそう言うと、自らの意見を肯定するかのようにうんうんと頷く。

「喋る時も、にゃって言ってしまわないような言葉を選べばいいんじゃないかな?」

 由比ヶ浜の意見に、俺もふむと頷きを返した。確かに「にゃん」とか「にゃー」とか言わなければ、怪しまれる事もないだろう。

「ゆきのん、『なにぬねの』って言ってみて」

「⋯⋯にゃにぬねの」

 恥ずかしそうな顔でまた「にゃ」と言ってしまう雪ノ下の姿に、一同顔が綻ぶ。いや、和んでいる場合じゃない。

「じゃあ、雪ノ下。あいうえおから順番に言ってみてくれ」

「ええ、分かったにゃ」

 その返答一つとってみても、普段の雪ノ下の立ち振舞いとのギャップから悶えてしまいそうになる。いや、ちょっと口元が緩んでしまうのは仕方のないことだから睨むのはやめよう?

「あいうえおかきくけこさしすせそたちつてと。にゃ、にゃにぬねのはひふへほまみむめもやゆよわをん」

「うーん、わっかんないですねー」

 五十音順に言ってみて貰ったが、確定なのは「なにぬねの」が「にゃにぬねの」になってしまうことぐらいだ。それにさっきの会話の例からいくと、「わかったわ」が「わかったにゃ」になってしまうように、言葉の組み合わせが発動条件であるらしい。

 時間のある限り色々と試してみるが、結局雪ノ下の猫化と言える現象は消えず、どんな時に猫言葉になってしまうかが少しだけ分かっただけだった。

「どーしよ⋯⋯。そろそろ完全下校時間だね」

 由比ヶ浜の声に時計を見上げると、時は既に夕刻。あと五分としないうちにこの部屋を出て、それぞれの帰途につかなくてはならない。

 ふと由比ヶ浜にくっついたままの雪ノ下に、一同の視線が集まる。さあ、どうしましょうか、この猫ノ下さん。

 

「ご心配には及びません」

 

 その視線に答えるように、小町は腕組みをしたまま頷いた。そして耳目が集まり切ったのを確認すると、俺を見ながら言う。

 

「兄が送って行きますので」

「⋯⋯はい?」

 

 

 







お読み頂きありがとうございました。
この話は憑依タグを着けた方がいいのだろうか……そんな事を悩みながらの投稿です。
短めの話をそこそこのペースで投稿して行けたらなと思います。


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公園でイチャついたりしていたら、誰に見られるかわかったものではない。

 完全下校時刻を過ぎた校内は、人影もまばらだ。

 しかしまばら、ということは、全くいないというわけではない。むしろ人の数が少ないせいで、より目立ってしまうということにもなり得る。そう、例えば──今この時のように。

 

「⋯⋯あのー、雪ノ下さん?」

「にゃ、にゃにかしら」

 

 さっきからすれ違う生徒のことごとくが、俺たちの姿を唖然として見てくるのだ。それは勿論、校内一の美少女と名高い雪ノ下雪乃が、一人の男子生徒の腕に自ら腕を絡めて歩いているからに他ならない。ついで言うと死ぬほど可愛い声でにゃんにゃん言いまくっているわけだが、それは俺だけが知っていればいい話だ。

 

「ちょっと、歩き難いんですけど⋯⋯」

「ごめんにゃさい⋯⋯。でもこうしていにゃいと、不安で⋯⋯」

 

 その言葉の通り、雪ノ下は俺の腕に絡みつきながらも、怯えるようにキョロキョロと辺りを見回しながら半歩後ろを歩いている。そんな様子も他人から見れば、中々に奇妙な光景だろう。遠巻きにも俺たちを見てくる視線が、ねっとりと絡み付いてくるようだった。

「まあ、いいんだけど⋯⋯」

 春も深まった昨今、完全下校時刻とはいえまだまだ辺りは明るい。できる限りさっさと敷地内を出たいのだが、こうも縋りつかれていては歩みも必然的に遅くなる。

 ようやっとと言った調子で学校を後にするが、やはり雪ノ下の足取りは重い。というかさっきより遅くなっている気がするし、俺の腕を抱きしめる力も強くなってきている気がする。

「⋯⋯ちょっと休んでくか」

 雪ノ下がこくりと頷きを返したのを見ると、学校から出てすぐのところにある公園に入った。休憩スペースのベンチに腰掛けると、雪ノ下はさっき由比ヶ浜にそうしたように、ピッタリと俺にくっついてくる。いつものサボンの香りが、俺の鼻腔を満たす。それでもって、近い。

「なあ、部室出てから変だぞ。⋯⋯いや、部室に来る前からだけど」

「仕方にゃいじゃない⋯⋯。さっきも言ったけれど、こうしてにゃいと落ち着かにゃいの」

 にゃんにゃん言いまくっている自覚はある所為で、雪ノ下はそう言いながら頬を染めていく。クソ可愛い。いや脳を(とろか)している場合じゃない。

 このあと俺は、雪ノ下を家に送り届けなければいけないのだ。いったい彼女のこの状況を、なんと説明すべきなのだろうか。そもそも説明した方がいいのか? あと雪ノ下家に行ったら、ご飯を食べていきなさいとか普通に言われそうなんだよなぁ⋯⋯。

「その、比企谷くん⋯⋯」

 一人思案に耽っていると、不意に雪ノ下が俺を呼ぶ。彼女は僅かな不安と哀願を乗せた瞳で、俺を見ていた。

「なんだ?」

 俺がその目を覗き込むと、雪ノ下はそっと目を逸らしながら言う。

「どこでもいいから、撫でて欲しいのだけど⋯⋯」

「ふぁっ⁉︎」

 どこでも⋯⋯というキーワードの可能性に、俺は思わず変な声を出してしまった。

 どこでも、どこでも⋯⋯って言ったら、普通は頭、だよな? でも俺、手汗やばない? 大丈夫? っていうかなんで撫でるの? 八幡、ゆきのんのことよく分かんないや⋯⋯。

「⋯⋯早く」

「お、おぉ⋯⋯」

 雪ノ下に催促されて、俺は右手で彼女の頭を撫でる。もちろんズボンで手汗を拭うのは忘れない。天使の輪っかを作る艶々の髪が、指の間で滑る。なんという撫で心地であろうか。こんなのこっちが昇天するまである。

「ふぅ⋯⋯」

 俺が撫で始めると、雪ノ下は安心し切った顔で目を瞑る。そしてピッタリと額を俺の肩口につけると、グリグリと押し付けてきた。

 なんだこの生き物⋯⋯。天使か? あ、そう。天使なのね。納得。

 もはや俺たちの姿は側から見れば、公園内でイチャつくバカップルに他ならない。それでも俺は安心しきった雪ノ下の表情を見ていたくて、結局彼女の髪を撫で続けるしかなかった。

「なあ⋯⋯」

 暫くそうしていると、俺の頭の中で一つの疑問が浮かんでくる。見ての通り、雪ノ下は言葉だけではなく、行動まで猫化しつつあった。であれば、これにはどう反応するだろうか?

「お手」

 そう言って俺は、空いていた左手を彼女の前に出した。雪ノ下はその言葉にジロリと一瞬俺を厳しい目つきで見るが、次の瞬間吸い寄せられるように俺の左手に鼻を寄せていた。

 すんすん、と俺の手のひらの匂いを嗅ぐ。そして──。

「──っ!」

 ペロリと、猫がそうするように雪ノ下は俺の中指の先を舐め上げた。少しザラ付きのある舌が本物の猫のようで、思わず背中が跳ねる。

「にゃ、にゃにをさせるのっ⋯⋯!」

「へ⋯⋯。いや、すまん。つい出来心で⋯⋯」

 流石に自分でもその行動は想像もしていなかったのか、雪ノ下はパッと俺から離れて距離を取る。何をさせるのって雪ノ下さん。あなたこそ何をしているのでしょうか? いや、ちょっと想像はしてたけど。

「まったく⋯⋯」

 雪ノ下はいつもの頭痛を抑えるポーズをしたかと思うと、次の瞬間にはまたピッタリと俺にくっつく。雪ノ下はさっきも自分で言っていたように、そうしていないと落ち着かないらしい。

「⋯⋯撫でにゃさい」

「あ、はい⋯⋯」

 再び催促⋯⋯というか命令されて、俺は雪ノ下の長い髪を指で梳く。さっきから心臓がバクバクとうるさくて仕方ない。

「⋯⋯比企谷くん」

 目を瞑ってされるがままになっていた雪ノ下は、ふと顔を上げると、上目遣いで俺を見た。一発退場レッドカード。反則級の可愛さに成仏しかけていると、雪ノ下は続ける。

「その⋯⋯。比企谷くんからも、して欲しいのだけど」

「⋯⋯何を?」

「これ⋯⋯」

 そう言うと雪ノ下は、俺の肩に頬をつけてスリスリと甘えてくる。

 あかん。

 これあかんやつだ⋯⋯また脳が蕩けてしまう。理性が死ぬ。思考が息絶える──。

「な、なんでだ?」

 思考回路が焼き切られてしまう前に俺が訊くと、雪ノ下はしっとりと濡れた瞳で俺を見ながら答える。

「だって⋯⋯。きっとそうしてもらったら、もっと安心できるから」

 そう言うと、雪ノ下はそっとその長いまつ毛を伏せた。ちょっと諦めが混じった表情に、俺は完全に心を鷲掴みにされてしまう。⋯⋯いや、たぶん結構前からだけど。

「い、いいのか? やったらやったで気持ち悪がられたりしたら、ちょっと立ち直れないんだけど」

「してと言っているのに、そんなこと言うわけにゃいでしょう⋯⋯」

 そうですか、言うわけにゃいですか⋯⋯。俺はゴクリと唾を飲むと、雪ノ下の肩に、彼女がさっきそうしたように額を擦り付けた。

 そしてそのままスーリスーリ⋯⋯。

 ──温かい。

 ──柔らかい。

 ──めっちゃいい匂い。

 雪ノ下の手が、俺の髪を撫でつける。まるで胎内にでも戻ったかのような深い安堵と、何もかも許されていくような感覚。

 これが雪ノ下の母性か⋯⋯。これは、いい⋯⋯。いや、控えめに言って至高だ。俺は最上の慈しみを受け、もはや何も考えられない。

 俺はそっと、目を瞑る。

 ピョコピョコと撫でつけられては起き上がってくるアホ毛で遊ぶように、雪ノ下は何度も何度も俺の頭を撫でつけるのだった──。

 

 

 

 

「あの、比企谷くん⋯⋯」

 雪ノ下にそう言われて目を開けると、もう辺りは暗かった。一体どういうことだ? さっき目を閉じた時は、まだ明るかったはず⋯⋯。

「⋯⋯もう十分よ」

「へ? お、おぅ⋯⋯」

 恥ずかしそうに言う雪ノ下から、若干の名残惜しさを感じながらそっと離れた。俺はポケットから携帯を取り出し、ロック画面で時刻を確認する。

 ⋯⋯⋯⋯ふんもげぇぇぇっ!

 もう一時間以上経ってるじゃねぇか⋯⋯。

「も、もう安心できたか?」

「えぇ⋯⋯」

 そう言って顔を真っ赤にした雪ノ下が立ち上がると、俺もふらふらする頭と身体を何とか起こして立ち上がった。

「そろそろ行くか⋯⋯」

 雪ノ下は何も言わずにコクリと頷くと、俺の後をついてくる。そしてもはやそうするのが当然かのように、俺の腕を絡めとりピッタリとくっつく。

 

「⋯⋯あのー、雪ノ下さん」

「ごめんにゃさい。離れるのは、まだ無理みたい⋯⋯」

 

 はぁーっと、深く息を吐く。

 こうなれば、仕方あるまい。

 俺は手の甲を握ってくる雪ノ下の手を握り返すと、一つの覚悟を決めるのだった──。

 

 

 




お読み頂きありがとうございました。
この二人は一生イチャついていればいいと思います。


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八幡、猫にキレる。

「⋯⋯と言うわけで、連れて帰って来てしまいました」

「はぁぁー⋯⋯。まあ、そうなるかもとは思ってたけど」

 

 ところ変わって、比企谷家のリビングにて。

 仁王立ちで腕を組む小町の目の前で、俺と雪ノ下は二人揃って正座していた。

 しかしこれはもう仕方ないと思うのだ。あんな状態で雪ノ下を家に届けたら、危惧していた事態になるのは必定。我が家であれば事情を知っている小町もいるし、リスクと言えばニアミスする可能性の低い両親だけだ。

 いつの間にやら我が家の最高権威者然としている小町は、ジロリと俺と雪ノ下を睨むと、腕組みをしたまま言い放つ。

 

「⋯⋯元いたところに戻してきなさい」

「そんな⋯⋯っ。ちゃ、ちゃんと面倒見るからっ!」

 

 なんてこと言うんだコイツ⋯⋯。こんな可愛い猫を放って置けるわけがないだろうが。

 ──とまぁ、茶番はこれぐらいにしておくことにして。

 

「ごめんにゃさい、小町にゃん⋯⋯」

 

 俺が仕切り直そうと口を開いた瞬間に、小町の言葉を真に受けていたらしい雪ノ下がしゅんと頭を下げた。どうやら本気で迷惑をかけていると思っているらしい。

「きゅーん⋯⋯」

 小町はというと、ものっそい愛らしい謝罪を受けて、ビクーンと背筋を伸ばしていた。彼女の胸は、ハート型のミサイルで穿たれてしまったらしい。

「いいよぉー! いい、いい! むしろ小町の方がごめんなさいでした! どうかうちに住んで下さいお願いします」

「落ち着け小町」

 小町は吉本新喜劇に出てくる芸人ばりにご寛恕(かんじょ)しまくると、がっしとばかりに雪ノ下の手を握っていた。何はともあれ、これで家族の承認は得られたと言っていいだろう。

「すまんが身の回りの物は、小町のを貸してやってくれ」

「それはいいんだけど⋯⋯。それにしても」

 小町はそこまで言うと、手を握ったまま俺と雪ノ下を交互に見る。

「まさかお兄ちゃんが、うちに女の子を連れ込むなんてね⋯⋯」

「いや連れ込むって⋯⋯」

 いやその言い方は語弊が⋯⋯などと言い訳しようとして、諦めた。小町の言葉の通りの状況過ぎて、弁明も何もできない。

「ひょっとして⋯⋯これがお持ち帰りというやつにゃのかしら?」

「うん、ちょっと黙っててね? 話ややこしくなるから。な?」

 俺が雪ノ下を諌めると、明らかにムッとして唇を尖らす。そういう仕草は可愛すぎるから控えなさい。

「まあ雪乃さんは小町の部屋で寝て貰うから、それはいいとして。あ⋯⋯」

 そこまで言って何かを思い出したらしい小町は、「ちょっと待ってて」と言い残してリビングを出ていった。そしてどったんばったん部屋を漁る音が聞こえてきたかと思うと、小町は肩で息をしながら俺たちの前に戻ってくる。

「お兄ちゃん、これ⋯⋯」

 小町は震える手で、俺に“それ”を渡してくる。

「お前⋯⋯。これを、どこで?」

「この前、友だちとディスティニーに行った時に」

 小町が俺に手渡した“それ”とは──おしゃまキャットのメリーちゃんのグッズである、猫耳。しかもちゃんと黒色バージョンでリアルな猫耳らしさもバッチリだ。

「雪乃さん。じっとしていて下さい」

 小町は俺の手の中から猫耳を取ると、そう言って雪ノ下の背後に回り込んだ。そして言われた通りにじっとしている雪ノ下に、すちゃっと猫耳を装着させる。雪ノ下はキョトンとしながら、着けられた猫耳を両手で撫でる。

「──小町」

「⋯⋯お兄ちゃん」

 俺たちは深く頷き合うと、ウインクばちこーんからのサムズアップ。

 アメイジング──完璧だ。これで雪ノ下さんはもう猫ノ下さんだ。もうねこのんしか勝たん。

「何故かしら⋯⋯。これ、すごく落ち着くわ」

 雪ノ下の方もまんざらではないようで、さっきから仕切りに耳を撫でていた。

「⋯⋯一応訊くが、しっぽまでは持ってないよな?」

「流石に持ってないなぁ⋯⋯。ネットで買う?」

「ネットショッピング。それある」

 ぴっ、と指を立てながらとても素敵な未来を思い描いていると、いつの間にやら近くに来ていた雪ノ下は、ぴったりと小町にくっついた。そして恥ずかしげに雪ノ下は、小町の二の腕をスリスリとさすり出した。

「え、待って。何この可愛い生き物。欲しい。お兄ちゃん、この子ちょうだい?」

「やらん。そして落ち着け」

 雪ノ下のマインドクラッシュにやられて見事に思考能力がフライアウェイしてしまった小町をどうどうと宥める。ツッコミどころが多すぎるし、そもそも雪ノ下は、俺のものなの? 思考の奈落に落ちるからやめておこう。

「あの⋯⋯。一応訊きますけど、これは何でしょう?」

「分からにゃいのよ⋯⋯。身体が勝手にそうしてしまうの」

 ちょっとだけ冷静になった小町が訊くと、やはり雪ノ下自身も困惑のままスリスリとくっつく。小町は暫くうーんと考え込んでいると、あぁ、と呟いた。

「分かりました! 餌⋯⋯じゃない、お腹空いてるんですね!」

「え⋯⋯。いえ、そんなつもりじゃ⋯⋯。確かに、空いているけれど」

 ほーんなるほど、と俺はひとりごちた。カマクラも腹減った時はスリスリしてくるもんな。

 ⋯⋯ということは、さっきからずっと雪ノ下は腹が減っていたいたということか。気付かずに随分経ってしまったから、雪ノ下には悪いことをしてしまった。

「ちょっと待ってて下さいね。雪乃さんの分もすぐ作りますから!」

「ごめんにゃさい⋯⋯。私も手伝うわね」

 小町と雪ノ下はそう言葉を交わすと、仲睦まじく台所へと向かう。

 これが文字通り猫の手も借りたいってやつかね、なんて思いながら、俺はエプロンを着ける雪ノ下を眺めるのだった。

 

 

       *       *       *

 

 

 夕食をとり終えると、暫しのまったりタイムである。

 

「⋯⋯⋯⋯」

 

 いや少し違うな。ぴったりタイムだ。俺と、彼女の。

「雪乃さん、そんな⋯⋯。ご飯を食べたらポイだなんて」

「違うのよ小町にゃん⋯⋯。身体が勝手にこうしてしまうの」

 ソファに座った俺にぴったりと寄り添う雪ノ下の姿を見て、小町は膝から崩れ落ちていた。雪ノ下さん、お腹は満たされたはずなのに何故スリスリしてくるのでしょうか。わたし、気になります!

「にゃおぉ⋯⋯」

 とそこに響く鳴き声は、もちろん雪ノ下のものではない。小町の足元に隠れながら、我が家の愛猫・カマクラは雪ノ下をじっと見ている。

 まあカマクラにしてみたら、居眠りから目覚めると知らない猫が! という状況だろう。いや、カマクラが雪ノ下を猫と見做しているかは知らないけど。

「にゃーん」

 そしてそんなカマクラに心配しなくても大丈夫、とでも優しく声をかけたのは雪ノ下だった。いや、これは声をかけたと言っていいのか? 可愛過ぎてちょっとよく分かんなかったから、もう一回言って欲しい。

「なおぉ⋯⋯」

「にゃん、にゃにゃ? にゃーん」

 威嚇するように唸るカマクラに、雪ノ下は害意がないことを伝えるように、微笑みながらカマクラに話かける。死ぬほど可愛い。

「んなぁ」

 しばしの間「にゃん」とか「にゃにゃーん?」とか猫言語で会話がなされると、ゆっくりとカマクラは雪ノ下に近付いていく。そしてカマクラはソファに上がってくると、ペロペロと彼女の手の甲を舐め始める。

「二人ともなに話してるのかな⋯⋯」

「さぁな⋯⋯。とりあえず雪ノ下が口説き落としたっぽいが」

 相変わらずにゃんにゃん言いながら戯れあう雪ノ下とカマクラが尊過ぎて、小町が話しかけてくれなければうっかりぽっくり尊死するところだった。

 しかし彼女にしてみれば、最近では写真でしか会えなかったアイドルにようやく会えたというところだろう。仲睦まじい姿は、やはり尊い。あれこれ、やっぱりぽっくり逝くのでは⋯⋯。

「あ、そうだ。お兄ちゃんあれの出番だよ。ネコリンガル」

「あー、あったな。そんなの」

 小町に言われ、俺は昇天しかけた思考に鞭打ちその胸に帰らせた。

 スマホを開くと、暫く使っていなかった件のアプリを立ち上げる。去年の夏休み、由比ヶ浜からサブレを預かった時にバウリンガルと一緒にインストールしたのだ。

 俺がスマホを向けると、カマクラが鳴く。

「にゃおーん。にゃー」(月が綺麗な夜ですね。私と踊って下さいませんか?)

 雪ノ下は微笑みを浮かべたまま、カマクラに答える。

「にゃん。にゃー。にゃんにゃ」(パーリラ、パリラ、パーリラ! フッフー!)

 

「⋯⋯お兄ちゃん、それ壊れてない?」

「壊れてるのはこのアプリ作ったヤツの頭だな⋯⋯」

 

 この役立たずめ、と画面をスワイプしてアプリを閉じると、それを見ていた小町が「あ」と声を出した。

「これ、アップデートあるみたいだよ」

 俺の横から小町はシュシュっとスマホを操作すると、ネコリンガルは最新版にアップデートされる。

 その間にカマクラはソファの背もたれ部分にひょいと飛び乗ると、雪ノ下の首筋辺りを舐め始めた。そして雪ノ下に向かって、囁くように鳴く。

「にゃおー⋯⋯」(へへへ⋯⋯どうだ? 彼氏に見られながら愛撫される気分はよぉ。ほら、可愛い声で言ってみな!)

 雪ノ下は頬を染め、顔を逸らしながら答える。

「にゃぁーん。にゃあ⋯⋯」(そんなこと、言えるわけ⋯⋯。あ、でも、感じちゃう⋯⋯)

 

「カマクラぁぁぁぁー! てめぇぇぇっっ!」

「おおおおおお兄ちゃん落ち着いてっ!」

 

 思わず立ち上がりカマクラに掴み掛かろうとすると、後ろから小町に羽交い締めにされる。

 止めてくれるな小町。俺はこいつと、決着をつけねばならない──っ!

 

「にゃにをしているのかしら⋯⋯」

 

 そして雪ノ下は頬に手を当てると、ジタバタと兄妹プロレスを始めた俺たちを不思議そうに見ているのだった。



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ねこのん、拗ねのん、可愛いのん。

本作は八雪派諸兄の思考能力をぶっ飛ばす為に執筆しております故、電車の中や職場、家族の前で読んで事故っても当方は責任を負いかねます。あらかじめご了承ください。


 激しい嫉妬と怒りの炎から解放されて暫し。

 俺と雪ノ下はそれぞれ風呂を済ませると、またリビングのソファに隣り合って座っていた。寝るにはまだ早過ぎるし、かと言って俺ひとり自室に引きこもってしまう訳にもいかず、俺はなんとなくつけていたテレビを見詰めていた。

 

「⋯⋯⋯⋯」

 

 そう、ひたすらに、じぃっとテレビを見ていた。雪ノ下に、じぃっと横顔を見詰められながら。

 流石に風呂上がりで熱いからか、ピッタリくっついてくることはなかったが、この絡みついてくるような視線は何なんでしょうねぇ⋯⋯。

「⋯⋯なぁ」

 なんか俺の顔についてる? と聞こうとした時だった。雪ノ下はソファから立ち上がると、テレビの前に座り込む。

「そこにいられると、テレビ見えないんですけど⋯⋯」

 俺がそう言っても雪ノ下がどく様子もなく、むしろ不満そうですらあった。小町から借用しているパジャマは雪ノ下には小さ過ぎるらしく、ヘソが見えそうになって目のやり場に困る。あとなんでまた猫耳つけてるの? 可愛いからいいんだけど。

 

「⋯⋯構いにゃさい」

 

 そして雪ノ下は、少しだけ拗ねた表情でそう言った。

 は? マジかこいつ。一体今日だけで何回俺の思考能力をぶっ飛ばす気だ? 可愛過ぎて心臓飛び出るかと思ったわ。

 ソファの上で身を丸めてゴロゴロと悶えていると、その様子ですら雪ノ下はじっと見つめてくる。⋯⋯なんだこのクソ可愛い精神的責め苦は。

「⋯⋯分かった。いいだろう」

 俺は姿勢を正し、平静を装ってそう言うと、ポンポンとさっきまで雪ノ下が座っていたソファを叩いた。小町も風呂に入っていていないから、丁度いい。彼女の希望を叶えつつ、一つ実験しようじゃないか。

 雪ノ下は尖らせていた唇を引っ込めると、そそくさと寄ってきて俺の脚を枕にしてソファに寝転んだ。まだしっとりと濡れている髪はヘアバンドでまとめられ、その湿り気をズボン越しに伝えてくる。

 ⋯⋯いや寝転べって意味でソファを叩いたんじゃないし想像以上に恋人感出ちゃって恥ずかしい上に下から見上げてくるとか可愛さ三倍マシになるから本当に気を付けて?

「こいつはどうだ?」

 期待のこもった目にドギマギしながら、俺は足元に転がっていた玩具の猫じゃらしを拾い上げた。雪ノ下がカマクラと遊ぶ為に、小町が貸し出していたものだ。

 カマクラはそんなに活発な性格じゃないからもう大して遊ばなくなってしまったが⋯⋯。猫ノ下さんなら、どうだろうか?

「ほれ」

 雪ノ下の眼前にそれを垂らすと、彼女は暫くそれを凝視していた。そして俺が僅かにそれを動かした瞬間、雪ノ下の猫パンチが飛ぶ。

「遅いな」

 俺がすんでのところでそれをかわすと、不敵に口角を引き上げる。

「にゃんですって⋯⋯」

 雪ノ下は体勢的に不利と判断したのか、起き上がるとソファに座ったまま俺に相対した。彼女の瞳の中には、メラっといつもの炎が揺らめいている。

「ほら」

「⋯⋯っ」

 ソファの背もたれに、座面に、俺のももの上に猫じゃらしを遊ばせては、繰り出される雪ノ下の手を避け続ける。猫じゃらしなんてものは、当然ながら長さがある分操る者の方が有利だ。

 雪ノ下の手を避け続けていると、彼女は段々本気になってきたのか、猫じゃらしを操る手に狙いを定めて手を出した。

「よっ」

 猫じゃらしを右手から左手に持ち替え、高く上げる。なおも雪ノ下は、手を出すのをやめない。

「⋯⋯⋯⋯」

 ついに猫じゃらしを持つ手を押さえられ、その瞬間俺たちの動きは止まった。

 俺の手を握り込む、雪ノ下の白く細い指。その長いまつ毛は本数が数えられそうなほどに近く、吐息は鼻の頭を掠めていく。炎の消えた瞳に捉えられて、目を逸らすことすらできやしない。

 

「あのー⋯⋯」

 

 不意にかけられた声にビクッと背筋が伸びる。

 パジャマ姿の小町は、ガチでキスする二秒前な俺たちを見て、ぐんにょりしていた。

「イチャつくんなら、部屋でやってくれませんかねぇ⋯⋯」

 いや、イチャつくって⋯⋯。

 違うもん! ぼくは猫ちゃんと遊んでいただけなんだよぅ!

「ただいまー」

 なんて脳内で幼児退行していると、そんなありえない声がした。

 壁にかけられた時計を見上げ、そして小町と目を合わせる。両親が帰って来るには随分早い時間だが、しかし間違いなく母親の声だった。

「お兄ちゃんっ」

「お、おぅ⋯⋯」

 とりあえずこの場でじっとしている訳にもいかない。小町に声をかけられると、俺は立ち上がって雪ノ下を引っ張り起こした。

「お母様が帰ってきたの? だったら挨拶を」

「いや、いい。やめてくれ⋯⋯」

 パジャマ姿で猫語を操る美少女に挨拶なんてされたら、俺が洗脳したとでも思われるのが関の山だろう。実の親にまで犯罪者扱いされちゃうのかよ。

「ここは小町が証拠隠滅しておくから、早く!」

 小町にグイグイ背中を押されて、リビングを出ると雪ノ下ごと俺の部屋に押し込まれる。

 ガチャと扉が閉まると、しんと静まり返った自室に雪ノ下と二人きり。あれこれ、なんで俺の部屋なの? 小町の部屋に匿ってくれればよくない?

「⋯⋯まあ、とりあえず適当に座っててくれ」

「ええ⋯⋯」

 とは言っても座れるところなんて勉強机の椅子かベッドぐらいなものだ。雪ノ下はベッドに腰掛けると、ポンポンとその隣を叩いた。どうやら隣に座れ、ということらしい。

 俺は雪ノ下から握り拳一つ分だけ間を空けて座ると、キョロキョロと部屋の中を見回した。我が愛読書『異世界に転生した(ちん)は痛いのは嫌なので防御力に極振りグングニルで出会ってひと突きで絶頂楽しい種付けハーレム作りに出会いを求めるのは間違っているだろうか』、略して『(ちん)』をどこかに置きっぱなしにしてはいないだろうか。なんだよ(ちん)って。

「と、とりあえずあれだ。小町も落ち着いたら迎えに来てくれるだろうから、待つしかないな」

 そう言ってみたが、声は上擦っていて緊張しているのがバレバレだった。

 ついでに言うなら多分小町は迎えになど来ないだろう。またも彼女の計略にはまったのだ、俺たちは。

「その⋯⋯」

 雪ノ下はそう言うと、俺の空けた握り拳一つ分を詰め、ぴったりとくっついて左の手の甲を握り込んでくる。近い。今日一日でだいぶ慣れたつもりだったのに、また手の中に変な汗をかいてくる。

「私をご両親に紹介するのは、恥ずかしい?」

「は⋯⋯?」

 その問い掛けに、俺は随分と間抜けな声で返してしまう。

 そんなわけ、ないに決まっている。こんな素敵な、かの⋯⋯こい⋯⋯? ⋯⋯俺のパートナーが恥ずかしいなんて、あり得ない。

 

「私じゃ、足りにゃいのかしら⋯⋯」

 

 うん、ちょっとシリアスになりかけてたのに「にゃ」とか言っちゃうせいで台無しだよ⋯⋯。

 俺は左の手を反転させると、雪ノ下の手を握り返した。

「なにも不足なんてないだろ。あるとしたら、俺の方だ」

 もしこんな状況じゃなくたって、両親に紹介しようものなら何を言われるか分かったもんじゃない。母親は雪ノ下が何か弱みを握られていると勘繰るだろうし、親父からは美人局(つつもたせ)を疑うように言われることだろう。あれ俺、両親からの信用ゼロでは⋯⋯。

「そう⋯⋯」

 安心したようにそう言うと、雪ノ下は俺のももを枕にしてベッドに寝そべった。いや、無防備過ぎるでしょ。

「あの⋯⋯」

「⋯⋯にゃに?」

「今日、甘え過ぎじゃない?」

「仕方にゃいのよ⋯⋯。こうしにゃいと、どうにかなってしまいそうにゃの」

 真っ赤な顔をして恥ずかしがりながら見上げられると、可愛過ぎてこっちがどうにかなってしまいそうなんですよねぇ!

 なんなのこの子、ナチュラルボーンキラーなの? 美人でかつ可愛いとかチートかましながらにゃんにゃん言ってくるとか殺傷能力高過ぎる。今日俺何回死ぬの? 死ねってかこれ。いや生きる。

「撫でて」

「あ、はい⋯⋯」

 雪ノ下はヘアバンドを取ると、まだ少しだけ濡れている長い髪を広げた。眼下に広げられた光景が女神過ぎる。

 俺が頭を撫で始めると、雪ノ下はそっと目を閉じた。見たこともないぐらい嬉しそうで、恍惚とした表情を浮かべる彼女の姿はまるで一枚の名画だ。

「比企谷くん」

 完璧な造形を持つ絵画の中の女性が、俺の名前を呼んだ。うっすらと開かれたその双眸(そうぼう)には、確かな熱が篭っている。そして──。

「⋯⋯好き」

 薄桃色の唇がその言の葉を紡いだ瞬間、俺は文字通りにぶっ倒れた。ベッドに上半身を投げ出して天井を仰ぐ。これ以上雪ノ下のことを見ていたら、次の瞬間何をしでかすか分からなかった。

「⋯⋯急にどうしたの?」

 どうしたもこうしたもない。猫化なんて特殊な状況とは言え、無防備過ぎるんだよ、この子⋯⋯。

「何でもない⋯⋯」

 雪ノ下は起き上がって見下ろしてくるが、俺は咄嗟に両手で顔を覆った。今、もの凄い気持ちの悪い表情をしているのが、自分でも分かる。

「⋯⋯可愛いわね」

 悶える俺に向かって、雪ノ下は笑み混じりにそんなことをのたまった。は? 可愛いのはあなたなんですが? 何これ俺完全に手玉に取られてない? もういいや絶対勝てないし。好きにして(諦念)。

 雪ノ下は倒れたままになっている俺の胸に丸めた手を置くと、寝床の寝心地を確かめでもするかのようにフミフミしてくる。いやこれ、確実に寝床として確認されてるな⋯⋯。

「にゃんだか、凄く眠くなってきたわ」

 ⋯⋯へぇ、そんにゃんですか。よくこの状況で眠くなれますね。でも猫だからしょうがないか。うん、俺の胸板を枕がわりにうとうとちゃうのは猫だから仕方ないよね。そんなわけあるか。

「⋯⋯ベッド、使ってくれ」

「ダメよ。あなたが寝床なのに」

 雪ノ下の頭をポンポンと優しく叩いて起きあがろうとしたが、ぐっと体重をかけられてしまって動けない。いや雪ノ下自身は軽いのだが、無理に退かせるなんてできなかった。

 雪ノ下は俺が起き上がれないようにパジャマの襟ぐりを掴みながら顔を寄せてくると、ふわりとボディソープの香りが鼻腔を満たす。え、近い。可愛い。死ぬ。

「──っ!」

 余りの神々しさ可愛さ尊さから目を逸らすと、湿り気とザラつきが俺の頬を撫でた。つまりところ、舐めた。雪ノ下が、俺の頬を。

「⋯⋯⋯⋯」

 俺がお口をパクパク絶句していると、雪ノ下はハッとして頬を染め始める。

「ご、ごめんにゃさい⋯⋯」

 どうやら先程の行動はまた無意識の物らしいが、よくよく考えてみて欲しい。俺はただの捻くれた高校生で、雪ノ下は超が付くほどの美少女であり、ここは俺の部屋で、二人はベッドに寝転がったままで、マイリトル八幡はガッチガチのバッキバキだ。俺の胸板に押しつけられている二つの膨らみには、俺の心臓が早鐘を打っているのが伝わっているだろう。

 ──もう、無理だ。

 俺はガバッと雪ノ下を起こすと、ベッドから起き上がった。

 

「雪ノ下──っ!」

 

 不安そうに見詰めてくる彼女を見て、俺はその先の言葉を失った。

 そうして俺は何も言わないまま、部屋を後にした。

 

 

       *       *       *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──八幡は走った。

 

 愛する人を守る為に。

 

 ──八幡はトイレに入った。

 

 愛する人を守る為に。

 

 ──八幡は擦った。

 

 愛する人を守る為に。

 

 ──八幡は放出した。

 

 愛する人を守る為に。

 

 ──八幡はトイレを出た。

 

 愛する人を守る為に。

 

 

 

 

 

 

 彼は賢者になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       *       *       *

 

 

 

「すまん、待たせた」

 

 俺が部屋に戻ると、ベッドに腰掛けたままだった雪ノ下は立ち上がりすぐさま俺の元にやって来る。もはやそうするのが当然かのように、ピッタリと俺にくっついた。

 

「心配したじゃにゃい⋯⋯。何も言わずに、急に出ていくんだもの」

「悪かった。でももう大丈夫だ」

 

 俺はキリリと表情筋を引き締めると、常にない程に爽やかな笑顔を浮かべながら雪ノ下の頭を撫でた。俺の笑顔が爽やか? そんなことあるの? あるのだ。何故なら俺は賢者だから。っていうかなに自然に雪ノ下の頭撫でちゃってんの? できるのだ。何故なら俺は賢者だから。

「⋯⋯」

 雪ノ下はもはやいつも通りといった(てい)で俺の肩口に額を擦り付けると、スンスンと鼻を鳴らした。そして知性と美貌の権化たるその人は、その可愛らしい唇でとんでもないことを言い放つ。

 

「イカくさい⋯⋯」

「────」

 

 ZEKKU.

 絶句しかできないわこれ。猫ノ下さん、鼻まで利くようになったのん?

 

「ききき気のせいじゃない?」

「いえ、確かに匂うにゃ⋯⋯。さきいか⋯⋯いえ、スルメイカでも食べていたの?」

 

 当然ながら何も食べてなどいない。むしろ食べてしまいそうになるのを必死に我慢していたのである。俺の努力(気持ちよかった)をイカ臭いの一言で無碍(むげ)にしないで欲しい。

「ああ、まあちょっと小腹が空いてな⋯⋯」

「そう⋯⋯。ちょっと気になるけど、まあいいでしょう」

 俺が適当ぶっこくと、雪ノ下は当然のようにベッドまで寄り添ってくる。しかしやっぱり、この流れは⋯⋯。

「あの、だな⋯⋯。俺は床で寝るから雪ノ下はベッドで」

「駄目だと言ったでしょう? くっついていないと、無理にゃのよ」

 そっかぁ、無理にゃのかぁ⋯⋯。俺も賢者モードとは言え、色々無理してるしそこまで持つかなぁというところなんですけれども。

 俺は努めて心を無にしてベッドで仰向けになると、あいも変わらず雪ノ下はピッタリとくっついてくる。俺の二の腕をちゃっかり枕にして、脇の辺りにまたささやかな膨らみが押しつけられる。やばい。俺の中の賢者が阿呆になる。いやもうなってるか? おーい賢者さん? 我即神也(われそくかみなり)。よかった。まだ大丈夫みたい。

「あの⋯⋯」

 リモコンで照明を落とすと、薄暗がりの中で雪ノ下は俺を見上げてくる。眠たそうに蕩けた目が新鮮で、うっかりキュン死にするかと思った。

「こんな状態とは言え、ごめんにゃさい⋯⋯。その⋯⋯色々我慢してるわよね?」

 あ、自分でも分かってましたか。というか今これを言われるという事は、トイレで云々かんぬん色々バレていらっしゃる?

 しかし、これなんと答えるのが正解か、もの凄く難しい質問なんですが⋯⋯。我慢してると言えば「やっぱり比企谷くんもそこら辺のお猿さんと同じなのね。いつから発情していたの?」なんて罵倒を食らいそうだし、していないと答えれば「私に魅力が足りにゃいのかしら⋯⋯」って可愛く凹まれてしまうやつじゃん。いやでも流石にこの状況なら、罵倒まではいかないか⋯⋯?

「してる⋯⋯けど大丈夫だ。お前の姉さんには『理性の化物』なんて二つ名をもらったぐらいだからな」

「あの人の話はしにゃいでちょうだい⋯⋯」

 陽乃さんの話題を出した途端に、雪ノ下は眠そうだった目を物憂げに伏せた。まあ噂してたらうっかりひゃっはろーって現れちゃうような人だからな。

「⋯⋯本当に大丈夫?」

 大丈夫じゃない、と言ったら、どうなるのだろうか。それこそ許されてしまえば、お持ち帰りもいいところである。

「大丈夫だ。安心して寝てくれ」

「そう⋯⋯。ありがとう」

 雪ノ下はそう言うと、上半身だけ起こすとふわりと顔を近づけた。あ、と思った瞬間には時すでに遅く、目を逸らすこともできずに全てを見届けてしまった。

 ──ペロッ、と。

 悩めかしく蠢く雪ノ下の舌が、俺の鼻を舐めるのを。恥ずかしそうな表情が、一瞬の内に歓喜の表情に変わっていくのを。

 

「おやすみなさい」

 

 そう言って彼女は、また俺の腕の中に収まると一頻り頬を擦り付け、やがて心底幸せそうな表情を浮かべて目を瞑った。俺の脇に触れたままの雪ノ下の膨らみが、規則正しく上下する。

 あかん。

 これあかんやつやで。

 俺の中の賢者が阿呆になってしまうではないか。おーい賢者さん? ヤァ僕ハチマンゆきのんとエッチしたいエッチしたいエッチしたい! あ、ダメだこいつ。

 

「雪ノ下⋯⋯?」

 

 やがて聞こえてきた寝息に俺は雪ノ下の方を見るが、返事はない。どうやら本気で寝たらしい。

 さてとそれじゃトイレに⋯⋯とそっと身を起こそうとすると、その瞬間雪ノ下の腕が俺の首に絡み付いた。起き上がることが、できない。

 

「比企谷くん⋯⋯」

 

 むにゃむにゃとやたらと甘ったるい声が、熱っぽい吐息が俺の耳朶を愛撫する。テントは既に、設営を完了している。

 

「好きぃ⋯⋯」

 

 ──嗚呼、頼む。

 お願いだ。後生だから。

 俺をトイレに行かせてくれぇぇ!

 

 

 



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比企谷八幡は噂される。

 

 翌朝の比企谷家の朝食は、洋食だった。

 チーンとトーストの焼ける音がして、小町は最後の一皿を運ぶと同時に着席する。

 

「じいぃぃ⋯⋯」

 

 そして見詰める先は俺の顔であり雪ノ下の顔である。俺は死んだ目でそれを受け止めると、ウインナーを嚥下した後に訊く。

 

「⋯⋯なんだよ」

「お兄ちゃん、ゲッソリしてない?」

「してるけど⋯⋯」

 

 するに決まってんだろ。一睡もできなかったし、賢者は阿呆になるし、本当に色々大変でした。まる。

 

「雪乃さんは、お肌がツヤツヤしているような⋯⋯」

「そう? 昨日、ぐっすり眠れたからかしらね」

 

 そう返す雪ノ下は、本当にいつも以上にお肌がツヤツヤのすべっすべであった。今朝がた起き抜けに雪ノ下から頬擦りされたことによって確認済みだから間違いない。朝から殺傷能力が高過ぎて一回死んだ。

「おかしいな⋯⋯。昨日は何もなかったはずなのに⋯⋯」

 小町はそう呟くと、トーストを千切りながら首を傾げる。やっぱりこいつ、確信犯だったか⋯⋯。

「雪乃さん、起きたら血がついてたとかなかったですか?」

「それはにゃいけれど⋯⋯。どういう意味?」

「やめろ小町⋯⋯」

 朝から妙に生々しい質問はやめて頂きたいものだ。このままいくと咀嚼中のものを盛大に吹き出す未来しか見えない。

「じゃあ⋯⋯。気持ちよかったですか?」

「⋯⋯? ええ、気持ちよかったけど」

「──ぶはっ」

「そ、そうですか⋯⋯」

 ほら見ろ、プチトマト飛んでったじゃねぇか。いやこれはわざとじゃない。あと小町ちゃんも自ら進んで勘違いしにいくのやめてね? 雪ノ下さんは⋯⋯まあこういう子だから仕方ないか!

 小町はいつもよりずっと急いで朝食を食べると、食器をシンクに片付けるなり鞄を引っ掴んだ。

「小町はちょーっと用事があるので、先に行きますね! 食器は帰ってきたら洗うので片付けだけお願いします!」

「え、ええ⋯⋯」

 ぽかんとしている俺たちを置いて、小町はさっさと出ていってしまった。そして残されたのは、向かい合って食卓につく俺たちだけだ。

「⋯⋯まあ、まだ時間あるから、ゆっくり飯食ってから行くか」

「そ、そうね⋯⋯」

 急に余所余所しくなる雪ノ下の態度が、どうにも面映い。二人きりになると、どうしても意識してしまう。

 彼女のことを。

 一緒に朝食を食べているという、このシチュエーションを。

「⋯⋯比企谷くん」

 そう声をかけられて、俺は口の中にあるスクランブルエッグを嚥下しようと急ぐ。

「学校、一緒に行きましょうね」

「⋯⋯おう」

 スクランブルエッグと一緒にその言葉の意味を飲み込むと、俺は小さくそう答えた。

 それはまあ、やぶさかではないというか、バラバラに登校しようとしてもまたくっついて来るんだろうなとか。

 だけどその前に、一つだけ釘を刺しておかなくてはならない。

「猫耳は外していけよ?」

「え⋯⋯」

 俺の指摘に雪ノ下は急に不安そうな顔になると、起きてからずっと付けっぱなしだった猫耳を撫でた。そんなに落ち着くのかよ、その猫耳。俺もちょっと付けてみようか⋯⋯いや、盛大に事故るに決まっているから止めておこう。

 

「つけていっちゃダメかしら⋯⋯」

「ダメなんだよなぁ⋯⋯」

 

 いいわけねぇだろ、と思いつつも、俺は制服猫耳姿の雪ノ下を心のスクリーンに焼き付けるのだった。

 

 

       *       *       *

 

 

 俺が教室に足を踏み入れた瞬間だった。

 数瞬前までは騒々しかった教室は一気に静まり返ると、無遠慮なまでの視線がいくつも刺さる。

 ⋯⋯なんだこの空気。いやこれは自意識過剰だろうか。きっとこれは天使が通ったとかいうやつだろう。そうか、俺の正体は天使だったか。

 

「⋯⋯おはよう」

「⋯⋯おう」

 

 自分の席に着くなり、不本意ながら本年度もクラスメイトとなった葉山が話かけてくる。それを合図にしたように、ようやく教室の喧騒が戻ってくる。

「はよはよ〜ヒキタニくん」

「⋯⋯おはよう」

 葉山と同じく先に登校していた海老名さんも挨拶をしてくれるが、どうにも含みのある表情を浮かべている。それは葉山も同じだし、時折こちらに視線を寄越してくるクラスメイト諸君もまた同じだった。

「なあ、なんかあったか?」

「さあ⋯⋯」

 俺が訊くと、葉山は用意でもしていたかのようにさらりと爽やかにそう言った。この反応は、何を訊いても話さない時のやつだ。

「私としては、ナニかあって欲しいんだけどなぁ」

 愚腐腐、と相変わらずの笑みを浮かべる海老名さんは、幸か不幸かこれが平常運転である。イレギュラーな雰囲気の中でのいつもの光景というのは、妙な安心感があった。

 葉山と海老名さんが話題を変えたのを合図に、絡み付いてきていた視線も離れていく。俺は一つ重たい息を吐くと、机に肘をついて目を瞑った。昨晩一睡もできなかったせいで、眠気も限界だ。

 俺はいつものように「おぉ」とか「うむ」とか意味のない相槌を打つことすら投げ出して、うとうとと微睡むのだった。

 

 

       *       *       *

 

 

 私が三年J組の教室内に足を踏み入れた瞬間に、喧騒が止んだ。

 この状況には既視感がある。これは二年程前、まだこの国際教養科に誰もが馴染んでいない頃、よくあったことだ。

 けれど 今日(こんにち)に至っては私が教室に入るだけで起こり得ることではなく、後ろに誰かいるのだろうかと思って振り返ってもそこに誰の姿もない。

 おかしな状況だ。それを言えば今の自分の状況が一番おかしいのだけど。

 登校する時はなんとか必要以上にくっつかずに歩けたのはよかったけれど、まさかそれぞれの教室に分かれるのにあんなに離れがたくなるなんて。

 

「おはよー」

 

 自分の席について授業道具一式を机に仕舞っていると、そんな朗らかな声が届く。クラスメイトの和田塚さんだ。このクラスの中では、一番よく話しかけてくれる相手だった。

「おはよう」

 そう返すと、彼女は私の前の席に座って顔を寄せてくる。もちろんそこは彼女の席ではない。教室の中で交わされる視線が、こちらに集まってくるのが分かった。

「あの、さ⋯⋯。ちょっと訊いていい?」

 何故だか、嫌な予感がした。

 悪意のない、そうであるが故に無遠慮な好奇が、その顔に浮かんでいたからだ。

「雪ノ下さん、ひょっとして彼氏できた?」

 教室中の耳目が集まりだしているのを察知したのか、和田塚さんは私の耳に口を寄せると小さな声で言った。その瞬間に色々な記憶が錯綜(さくそう)して、頬に熱がこもっていくのが分かった。

 まさか教室でこんなことを訊いてくるとは。今年の始め、葉山くんと噂になってしまった時ですらここまで直裁(ちょくさい)に訊ねられるはなかったのに。

「にゃ、にゃんでそう思うのかしら」

 しまった、と思わず口を押さえる。しかし和田塚さんは気にもしていない様子で続けた。

「あ、動揺するってことは本当なんだ」

 どうやら私のおかしな口調も図星と捉えられただけらしい。どちらにせよ、芳しくない状況には変わりはないけれど。

「どうしてその質問が出てきたのかしら?」

 気を取り直して訊き直すと、彼女はもう一度私に顔を寄せてくる。

「⋯⋯昨日、ヒキタニくん、だっけ? 男の子と一緒に帰ってたでしょ」

 その名前が出された瞬間、蹴り上げられたかのように心臓がどくんと高鳴った。あれを⋯⋯見られていた?

「昨日の部活帰りに見かけちゃってさ。雪ノ下さんてそういう噂少なかったから、意外で」

 クラスメイトの口から比企谷くんの名前が出てきた違和感よりも、見られていたという事実に思わず頭を抱えてしまう。その仕草もまた奇異に映ったのか、そわそわした視線が集まってくるのを感じる。

「ち、違うのよ、あれは⋯⋯」

 そこまで言って、続きを言うことを諦めた。ああしていないとどうしようもなかったと正直に言ってしまえば、それはただの惚気(のろけ)になるだろう。

「え? じゃあ付き合ってないの?」

「⋯⋯そういう訳じゃ」

「じゃあ、付き合ってる、と」

「⋯⋯多分」

 おそらくそれが、一番正しい答えだと思った。付き合うとかどうとか、何も言い交わしていないのだから。

「へぇ⋯⋯。雪ノ下さんって、そういうと絶対はっきりさせるタイプだと思ってた」

 それは私でも、そうだと思う。彼女の言うことも私の見方も、中々に正しくて、だからこそもどかしい。誰かさんの影響のお陰か、言葉に対して臆病になっている気さえした。

「じゃあね」

「待って」

 訊きたいことを訊ね終えたのか、そう言って立ち上がろうとした和田塚さんの腕を掴む。すんでのところで離席を阻止すると、今度は私の方から顔を寄せた。

「その、このことは⋯⋯」

「あ、うん。大丈夫。誰にも言わないから」

 そう小声で言うと、彼女は目だけでぐるりと周りを見た。

「でもあの噂、もう結構広まってると思うから、どこか他のところで聞いても私の所為にしないでね?」

 そう言われて、私は少しだけ顔を上げて視界を広く取った。ぐるりと視線を移動させていくと、男子を含めそのことごとくと目が合う。どうやら状況は思ったよりも悪いらしい。

「ええ、分かったにゃ⋯⋯」

「にゃ、ってなに。彼氏に言わされてるの?」

 口を押さえる私にひっそりとした笑みを向けると、和田塚さんは「じゃあ」と言って今度こそ私の前の席から去っていった。

 そうやってようやく纏わりつく視線が一つずつ離れていくと、少しだけいつもの光景を取り戻す。

 もちろんそれは、完全に元通りとはいかなかったけれど。

 

 

       *       *       *

 

 

 ざわざわとした喧騒で、俺は目を覚ました。

 午前中の授業をほとんど睡眠不足の解消にあてていたが、どうやら四限目にしてガチ寝してしまったらしい。時計を見上げるともう昼休みになって十五分ほど経っている。

 完全に購買パン争奪戦に出遅れてしまったが、飯抜きは流石に避けたい。そう思って教室の出入り口の扉を見ると、数人の女子生徒たちと目があった。その瞬間彼女たちは口元を抑えて何事かを囁き合うと、別の女子グループと入れ替わってまた見覚えのない女子生徒たちと目が合う。なんかキャアキャア言ってるな。動物園にでも来たのかな?

 なんだ、これ。葉山を見に来ているのかと思って彼の方を見るが、食べ終わった弁当箱を片付けているところだった。キャアキャア言われるような仕草ではない。

 

「おい、なんか見られてるぞ」

「ああ、君が(・・)ね」

 

 葉山はこともなげに、勘違いしようもないことを言ってくる。言っている言葉の意味は分かるが、この状況の意味が分からない。

「⋯⋯なんで俺なんだよ」

「まさかとは思うが⋯⋯身に覚えがないとでも言うのか?」

 含みのある言い方に、ちょっとイラッとしてしまう。八幡、こいつの喋り方、キライ。

「あー⋯⋯。私も昨日公園で見かけたんだよね」

 公園──というキーワードを聞いた瞬間、血の気が引いた。昨日、公園での出来事と言えば、思い当たる節は一つしかない。あれを、見られていただと⋯⋯?

「⋯⋯意外だったよ。まさか学校内で、あそこまで人目を気にしない行動をとるなんてね」

 葉山の言葉に、思い当たる節がもう一つ増えた。それもバッチリ見られていらっしゃる? え、無理。待って、無理しんどい。

「マジかよ⋯⋯」

「それはこっちの台詞だけどね」

 葉山の皮肉にすら何も返す気になれず、俺は頭を抱えた。昨日の出来事を思い返すたびに、血の気が引いていく。

「遂に吹っ切れたか?」

「遂にってなんだよ⋯⋯」

 それだといつかは吹っ切れるみたいな言い方じゃねぇか。いやなるのか? っていうか、もうなってるか。

「その⋯⋯。そんなに目立ってたか?」

 俺がそう訊くと、葉山は海老名さんと目を見合わせた。

 

「正直、目立っていたし──」

 

 葉山がそこで言葉を引き継ぐと、海老名さんはとてもいい笑顔で言った。

 

「めちゃくちゃラブラブだったね」

 

 隼人くんともしたらいいのに、などとのたまう海老名さんの言葉すら頭には入って来ず、俺はもう一度頭をかき抱いた。

 

 ──拝啓、昨日の俺へ。

 俺の平穏を、返せ。

 

 

 



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あたしも猫になる。

にゃんでやねん。


 

 放課後になり部室に向かう道すがらも、それはいつもの様子と一線を画していた。

 学年も男女も関係なく、視線という名の細い糸が何本も絡み付いてくる。それを引き千切りながら人の少ない道順を辿っていたら、随分遠回りになってしまった。

 

「⋯⋯うす」

 

 がらりと入口の扉を開けると、部室には既に全員揃っていた。ちなみに全員のうちには当然のように一色も含まれている。

「あ⋯⋯。やっはろー、ヒッキー」

 由比ヶ浜は雪ノ下に絡みつかれながら、いつもより控え目に謎挨拶を口にする。うーん、雪ノ下さんは今朝から何も変わってませんねぇ。知ってたけど。

「来ましたね、渦中の人が」

 そう言う一色の前で、小町はげっそりした表情で黙り込んでいた。小町も小町で色々大変でした、と言外に言っている。

「⋯⋯話を聞こうか」

 俺がそう言うと、何故か雪ノ下は由比ヶ浜に絡みつくのをやめて、椅子ごとこっちにやってきた。そして俺の真横に椅子を下ろすと、さっきまで由比ヶ浜にそうしていたようにピッタリとくっつき腕を絡めてくる。

「ヒッキーにゆきのんとられた⋯⋯」

「ごめんにゃさい、身体が勝手に⋯⋯」

「本当そういうの他所でやってくれませんかね」

 一色はそう言って砂糖でも吐きそうな表情をしているが、その他所に自ら突っ込んできてるのはあなたなんですよねぇ⋯⋯。ほら小町ちゃんも突っ込んで? と彼女の方を見るが、俺と雪ノ下の姿を見てまたゲンナリしていた。なんかゴメンね? 色々しんどいだろうけど我慢してほしい。

「⋯⋯それで、その渦中ってのは?」

 昼休み、葉山たちとの会話からなんとなく予想はついているが、それでも聞かねばなるまい。

「あー、はい⋯⋯。それなんですけど」

 さてどう言おうか、とでも言うように、一色は少しの間を取った。その僅かばかりの時間が不安なのか、雪ノ下は何も言わずに俺を見上げてくる。可愛い。あなたの上目遣いは心臓ぶっつぶしてきそうなぐらい可愛いので乱用は避けて頂きたい。

「雪乃先輩にどうやら彼氏が出来たらしい、と。昨日、ベッタベタくっつきながら下校する姿、結構な噂になってて」

 ほらやっぱり、と言うには随分とハードモードである。そこまで大勢に見られていたとは思えないが、少ない人数、限られた人にしか見られなかったからこそ、噂話は加速したのだろう。

「けどやたらと雪乃先輩の方からくっついていっているし、どこか怯えた感じがしたから、その相手の目つきの悪い男に弱みを握られているんじゃないか、と。それが噂の一つ目です」

 え、何その言い方。二つ目もあるってこと? 犯罪者扱いされてる噂だけでも十分ダメージ受けたんですけど⋯⋯。

「もう一つの噂は、学校の近くの公園でひたすら目付きの悪い男の方が雪乃先輩に頬擦りしていて、雪乃先輩も満更でもない様子だったから、やっぱり付き合ってるんじゃないかという話ですね」

「⋯⋯⋯⋯」

 ──終わった。

 海老名さんだけではなく、その他大勢⋯⋯かどうかは分からないが、人に見られた上に下級生たちにまで届くほどの噂になっているとは⋯⋯。

「ちなみに葉山先輩と一緒にいるところを見て正統派ヒーローの葉山先輩、ダークヒーローの比企谷先輩、なんて対比をする子もいましたね。クソ気付きやがったかボンクラどもめって感じですけど」

 ⋯⋯うん、人が白目剥きそうになっているところにしれっと何を言っているのかなこの子は。

 予想していた事態よりずっと悪い状況に頭を抱えていると、小町が低い声で呟く。

「その噂の所為で、『比企谷先輩って小町ちゃんのお兄さんなんでしょ』って、一日質問責めですよ。家ではどんな感じなのーとか。はぁ、面倒くさ、しんど⋯⋯」

「あー、うん。なんかごめんね? いやマジで⋯⋯」

 小町ちゃんいろは先輩の口調がうつってきてますねー。いやしかし実際兄妹の恋愛関係の噂なんて、学校で聞きたくないだろう。しかもアホみたいにベッタベタしてたなんて噂は、負うダメージがデカすぎる。

「早く元に戻らにゃいと⋯⋯」

 と、顔を真っ赤にした雪ノ下さんはそう言うけど、それが上手くいかないから現状困っているのだ。

 どうしたものかと考えていると、さっきから黙ったままだった由比ヶ浜はぎっと音を立てながら椅子から立ち上がる。

「よし、決めた」

 ほう⋯⋯これは由比ヶ浜さんが解決に向けて一丁やったるわって話、でいいのだろうか? 流石ガハマさん。略して流石浜さんだな。

 

「あたしも猫になる」

 

 Why.

 全然意味が分からない何故そうなる、と思っている内に由比ヶ浜は自分の椅子を俺の左隣に持ってくると、雪ノ下と同じように肩口に頬を擦り付けてくる。

 見上げてくる目は遠慮がちに俺を見詰め、丸められた手は俺の胸板を叩く。そして頬を赤らめながら、常よりもずっと甘い声でぽしょりと言った。

 

「にゃ、にゃーん⋯⋯」

 

 ⋯⋯は?

 なんだこの可愛いの。由比ヶ浜は犬属性じゃなかったのか? やるならやるで恥ずかしがってんじゃねぇよ可愛いな。こんなのキュン死に不可避で命がいくつあっても足りな──。

「比企谷くん?」

 横顔に突き刺さる視線の冷たさに、思わず怖気(おぞけ)が走った。

 え、これ俺が悪いの? 完全にもらい事故じゃない?

「うわぁ⋯⋯積極的に拗らせにいったよこの人」

「結衣さん⋯⋯頑張れ⋯⋯頑張れ」

 一部始終を見ていた一色はドン引きし、小町は何故か両手を組んで祈りを捧げていた。君は誰の味方なのかな?

「どうやら本気で元に戻す方法を見つけないといけないようだな⋯⋯」

 別に本気を出していなかったわけではないが、このままではまずい。学校で噂の的になるなんて想像もしていなかったが、この感覚はろくなものじゃないのだ。

 このトンデモ事態の解決の糸口は、悔しいがこの状況からでは見つけることができていない。そうなるとアイデアの源泉となるよう助力を求めることになるのだが⋯⋯この事態の解決に適任なのは、残念ながら一人しか当てがなかった。

「ちょっと外に出てくる」

 俺が立ち上がろうとすると、雪ノ下にぐいと腕ごと引っ張られてそのまま着座した。えぇ⋯⋯なんか次に言うこと分かっちゃったんですけど。

「勝手に離れにゃいで。どこかに行くのなら私も一緒にいく」

「いやー、それはちょっと⋯⋯」

 そう可愛く言われても、連れて行くわけにはいかない。これから繰り広げられるであろう会話の内容を聞いたら、きっと雪ノ下は呆れるだろうし。

「ちょっと電話してくるだけだから。少しぐらいなら我慢できるだろ?」

「まあ、少しぐらいだったら⋯⋯。では行く前に撫でてちょうだい」

「⋯⋯へい」

 さわさわ、と濡れ羽色の長い髪を撫でる。八幡、ちょっと慣れてきたよ! 八幡はレベルが上がった! 羞恥心が5下がった! ほーれ喉元かいかいでごーろごろ!

「ふ、にゃぁ⋯⋯」

 俯いたまま雪ノ下は、一体どこからその声を出したのか、マックスコーヒーの如き糖分過多な声を出す。ねこのんはレベルが上がった! 攻撃力が八万上がった! おいこれ一生勝てねぇだろあと俺なにやってるのバカなの死ぬの?

「じゃ、じゃあ、ちょっと行ってく──」

「待って」

 脳が蕩ける前に行ってしまおうと立ち上がる寸前、今度は左の腕を引っ張られる。えぇ⋯⋯何これ、無限ループ?

 

「あたしも撫でてくれたら、行っていい、よ?」

 

 Why.

 いやそんな赤い顔して上目遣いで言われるとですね、八幡さんとっても困っちゃうんですよ。はいそこ小町ちゃん、「キター!」って腕突き上げない。それにしても古き良き2ちゃん用語が死語扱いになってるし意味が分かるだけでおじさん認定には異論を唱えるしかないな。

「いや、由比ヶ浜にする理由ないだろ⋯⋯」

「じゃ、じゃあ邪魔する」

 ひしと絡みつく腕に力を入れると、由比ヶ浜はじっと俺を見詰めてくる。ダメだこのワンコ、じゃなかったニャンコ強すぎる⋯⋯。あと当たってるから。やらかいの当たってるから本当勘弁して下さいお願いします。

「分かったよ⋯⋯」

 諦めて由比ヶ浜の頭を撫でると、予想外にツヤツヤすべすべとした髪の感覚が新鮮だった。なんかこの子、雪ノ下ばりにトリートメントとか気を使ってそう。

「やべーなあのたらし。死ぬ時は隕石直撃とかで死ぬんじゃない?」

「勝手に兄の死因を決めないでください。っていうかいろは先輩、混じらなくていいんですか?」

「は? 自分から火傷しにいくわけないでしょ」

 うーん、いよいよ教室だけじゃなくて部室まで居心地が悪くなってきましたヨ!

 ということで、この場は一旦離れるのが得策であろう。

「ほら、人肌恋しくなったらこいつがいるだろ」

 俺は椅子から立ち上がると雪乃を促して由比ヶ浜の隣に、さっきまで俺の座っていた席に押しやると、当然のように雪ノ下は由比ヶ浜の腕に絡み付いた。いつもと逆だ。尊いからお前ら一生ゆる百合してろいやして下さい色々はかどるから。

「早く戻ってきてね」

「約束ね?」

 うーん、なんでガハマさんものっかって来たのかなぁ。

 本当にもう、可愛いから自重して欲しい。

 

 

 俺は部室を出ると、本校舎と特別棟を繋ぐ空中廊下のベンチに座り込んでいた。

 スマホをシュシュっと操作すると、幸か不幸か履歴の中からすぐにその名前を見つけることができた。その名前をタップしてからスマホを耳に当てると、ワンコールでその相手は電話に出る。

「我だ」

 俺はすっと息を吸うと、一息に吐いてから言った。

「⋯⋯一つ頼みがある」

「断る。美少女と校内でイチャコラこくクソボッチ崩れは逝ね」

 そして秒で切られた。なんだとこの野郎。言うに事欠いてクソボッチ崩れ呼ばわりは許さねぇ。

 速攻で再コールすると、今度はコール音すらせずに通話が開始される。

「待て。俺はボッチ崩れなんかじゃねぇ。現在進行形でボッチだ」

「戯言を。ボッチは学校中の噂になったりなどせん。我は詳しいのだ」

「別にボッチが噂の的になってもいいだろうが⋯⋯。いや全然よくないけど、それとボッチは関係ないだろ」

「では何故ボッチを自称する?」

「ボッチって言うのはあれだ、心の在り方だ。頼れる者は常に己が一人。心は雄弁、口は寡黙。不戦が故の圧倒的勝利。それがボッチだ」

「口が雄弁な上に今普通に頼ろうとしてたと思うんだが⋯⋯」

 素で突っ込まれた。いやぁバレちゃいましたか!

 電話の相手こと材木座はスピーカーの向こうで、大仰に溜め息をつく。

「まあ良い⋯⋯。話を聞こう」

「ああ、頼みってのはあれだ。お題に対して小説のあらすじを考えて欲しい」

「ほう?」

 小説、というキーワードに材木座の声色が変わる。まあやつの脳内では、小説イコールラノベに変換されているだろうが、それはそれで構わない。

「タイトルは『ある日突然美少女が猫化した件について』だ。できるか?」

「誰に物を言っているのだ」

 高笑いが電話口から聞こえ、思わずスピーカーから耳を離した。頼んどいてあれだが、うぜぇ。

「ちなみに納期は明日だ」

「⋯⋯は? 貴様は鬼か? 編集者か? 人の心がないのか?」

 いや編集者が鬼畜みたいに言うなよ。あれは仕事してるだけだろ。社畜使命を全うしてるって考えるだけで、同情しちゃうんだよなぁ⋯⋯。

「ということで、頼んだ」

「致し方あるまい⋯⋯。まあ我が貴様に救いの手を差し伸べるのはいつものことだ。今回も大船に乗ったつもりで待つがいい」

 うわぁ、やっぱこいつうぜぇ⋯⋯。

 しかし半分ぐらい本当だから、反論するつもりも起きなかった。こいつとの与太話に着想を得たりして解決策を考えだしたこともあるし、ことあるごとに手伝いを頼んでいたのは記憶に新しい。

 

「待てよ吉報! 答えは我の中にある!」

 

 そう言って材木座は一方的に電話を切った。これでとりあえずは、一歩ぐらいは前に進めたのだろう。

 さて、部室に戻るかと立ち上がって歩き出すと、ふと気付いてしまう。

 

 ⋯⋯あいつ、納期とか守れるのか?



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八幡、魔王城へ行く。

 完全下校時刻を越えれば、昨日先送りにした問題に直面することになる。

 それすなわち、猫化したゆきのん、通称ねこのんを彼女の実家まで送り届けることだ。流石に二日連続で外泊するというのは、普段の雪ノ下の行動からは異常と捉えられてしまうだろう。

 

「あのぉ、由比ヶ浜さん?」

 

 しかし。

 しかしである。

 そのミッションに於いて、何故由比ヶ浜さんも帰途を同じくしているのでしょうか。あとなんで俺の腕に絡み付いてくるの? とっても柔らかいんですけど。

 

「にゃに?」

 

 わざとらしくそう言うと、ふふっと由比ヶ浜は吹き出した。なんかこの子、楽しんでない?

 俺は「んんっ」と喉の調子を確かめると、しかつめらしい表情を作って言う。

「私はこれから、雪ノ下さんを家に送って行きます」

「なにその言い方⋯⋯。はい。知ってますけど」

 俺の口調を真似するように、由比ヶ浜は訝しげな顔をしてそう返す。

「どうして一緒に帰っているのでしょうか?」

 俺の問いに、右腕に絡み付いた雪ノ下が無言のまま俺を見ていた。責めるでもなく、ただの観察。そうであるが故に、得体の知れない恐ろしさを感じる。

「流石にゆきのんの家まではついてかないけど⋯⋯。だめ?」

 そんな風に駄目かどうかと問われると非常に答え辛いのだが、はっきり言って駄目である。何故ならばここは、学校だからだ。

 校舎を出てからというもの、部活帰りの生徒たちの視線は絡み付いて離れることを知らない。特に男子生徒からの視線は、まるで射殺(いころ)すかのようだ。

「駄目、っていうかさぁ⋯⋯」

 これ、また明日ロクでもない噂になってるやつじゃないの。雪ノ下と噂になるだけでも相当な心労だったのに。

「だって、ゆきのんばっかり噂の的になったら大変じゃない?」

 そう、だけれど。確かにこうすることでその的は分散するけれど。

 このまま行くと俺には二股疑惑がかけられ、炎上することは男子生徒たちからの視線で分かりきっている。

「むしろ余計におかしな噂立つ上に、お前まで巻き込んじゃうだろ」

「でもヒッキー、こういうの好きでしょ?」

「は⋯⋯?」

 由比ヶ浜の一言に、右隣からの凍てつくような冷気が流れてくる。おかしいな。絡み付いてくる腕も手も温かいのに、何故だか視線の刺さる頬が冷たすぎて痛い。

「だってヒッキーの好きな本に書いてあったし」

「俺の、好きな、本⋯⋯?」

「小町ちゃんが教えてくれたの。なんだっけ、題名がすっごく長いやつ。ハーレム作りしたいんじゃないの?」

 まさか小町のやつ⋯⋯我が愛読書『異世界に転生した(ちん)は痛いのは嫌なので防御力に極振りグングニルで出会ってひと突きで絶頂楽しい種付けハーレム作りに出会いを求めるのは間違っているだろうか』、略して『(ちん)』のことを、由比ヶ浜に教えたのか? っていうか読んだのかよ、あれ⋯⋯。

「そう。比企谷くんは私だけでは飽き足らずハーレムを作りたかったのね?」

 隣を歩く雪ノ下は、俺の腕に絡みつきながら永久凍土を思わせるような冷たい視線を送ってきていた。対する左隣の由比ヶ浜は「あたし全部読んだよー、えへへ☆」ってな感じでほんわかしており、まるで春の日差しの如く穏やかな表情を浮かべている。あらやだ、温度差が凄すぎて八幡風邪ひいちゃう!

「違う⋯⋯。誤解だ。誤解すぎる。俺は──」

「でも、主人公の人、言ってたじゃん。世の男でハーレムに憧れないやつはいないって」

「いやそれ、ただのフィクショ──」

「ヒッキーも、その⋯⋯色んな人としたいの?」

 あまりにもぶっ飛んだ問いかけに、知らないうちに脳が思考を放棄した。っべーわ、このガハマさんぱねぇ。物語に感化され過ぎでしょ⋯⋯。

「⋯⋯⋯⋯俺にそんな趣味はない」

「答えるまでに間があったわね」

 どういうことかしら、と雪ノ下は目だけを笑わせて俺を覗き込む。もちろんその瞳の奥はまったく笑っていない。怖いよ! 今までトップスリーに入るぐらい身の危険を感じるよ!

「やっぱそういうの好きなんじゃん」

 由比ヶ浜はそう言うと、絡ませてくる腕に力を込めた。俺の肘にあたっている柔らかいもののことは、もうスルーしておくしかないだろう。それにしても柔らかいな大きいな駄目だ全然スルーできてねぇ。

 それにしてもハーレムなんてものは物語の中だからこそ楽しめるのであって、仮に現実になったとしてそれを楽しめるのはよほどの強心臓だろう。そのうちどこかで火がついて傷害事件、最悪もっと酷い事件でこの世をおさらばになる可能性もある。

 

「⋯⋯俺はちゃんと否定したからな」

 

 俺がそう言うと、両の腕に込められた力が強くなる。

 しかし、まあ、うん。自分でも分かっている。

 両手に花状態でそんなこと言っても、説得力ないんだよなぁ⋯⋯。

 

 

       *       *       *

 

 

 バス停で由比ヶ浜と別れると、雪ノ下の案内のもとバスと電車を乗り継ぐ。

 運よく二人分空いていた座席に隣あって座ると、数瞬とおかずに雪ノ下は俺の腕に絡み付いてくる。側から見れば電車の中ですらイチャつく完全なバカップルである。

 

「あのさぁ⋯⋯」

「⋯⋯にゃに」

 

 小声で答える雪ノ下は、ベタベタにくっつきながらも軽く俺を睨んでくる。俺の言わんとしてることなど百も承知だから言うなと、その目が語っている。

 すっと背筋を伸ばして視界全体で車内を見ると、いくつかの視線が集まっているのが分かった。無理もない話だと思う。雪ノ下一人で乗っていてもそれなりに見られるのだろうが、そんな美人ちゃんが目つきの悪い男に付き纏うかのようにくっついているもんだから、その視線の強さたるや身体を突き抜けてなんなら車外まで飛んで行っちゃうレベル。本当もう、みんな外の景色でも見ててよぉ⋯⋯。

 

「⋯⋯なんでもねぇよ」

 

 本当はなんでもあるのだが、まあ学校の中でやられるよりはずっとマシだろう。

 やがてゆっくりと電車が次の駅でとまろうと減速すると、雪ノ下はくいくいと俺の袖を引いた。どうやら次が彼女の家の最寄駅らしい。

 そそくさと電車から降りて駅から出ると、ようやっと絡み付いてくる視線から逃れられる──が、その腕からは逃れられない。改札を通る時に一瞬離れた後に、雪ノ下は即座に俺の腕を取ったのだ。まあもう、分かってましたけどね⋯⋯。

 藍色の空の下を、二人で歩いていく。どうやらこの辺りは高級住宅街、とでも言うべきエリアらしく、一つひとつの家がでかい。家だけではなく、庭まででかい。

 さてどれが雪ノ下さんのお宅かしら⋯⋯と見回しながら歩いていると、ふとした疑問が湧いてくる。

 昨晩、雪ノ下はうちに泊まった。雪ノ下は無断外泊などするタイプじゃないし、家にはどう説明したのだろうか?

「そういや昨日うちに泊まった時、親御さんにはなんて説明したんだ?」

 そう訊くと、雪ノ下はキョトンとした顔をして俺を見てくる。

 

「普通に、比企谷くんの家に泊まると言ったけれど」

「」

「ちょっと、どうして黙るの?」

 

 マジか、こいつ⋯⋯。

 思わず絶句してしまった俺に、雪ノ下は腕を抱き締める力を強くして非難を向けた。

 まあ雪ノ下さん、嘘つけないもんね⋯⋯。っていうか許可しちゃったのかよ母のん。

「あと、今日はご飯を食べていくように母が言っていたのは伝えたわよね?」

「いえ、聞いてませんけど⋯⋯」

「あら、由比ヶ浜にゃんに気を取られて聞いていなかったのかしら?」

 にゃふふ、と雪ノ下は楽しそうに笑った。っていうかなんでそんなに嬉しそうなの?

 まあ雪ノ下を家まで送り届けることで、そう提案されるかも知れないことは想定してたからいいんだけど⋯⋯。いや、全然よくねぇな。むしろこの状況からお宅訪問の上に晩御飯をご相伴にあずかるという流れは完全に詰んでいる。

「ここよ」

 俺が超えるべきハードルの高さに途方に暮れていると、雪ノ下は立ち止まった。くっついたままだったせいで、急にブレーキをかけられてつんのめりそうになる。

「ははぁ⋯⋯」

 目の前に鎮座するのは、極道の妻とかに出てきそうな純和風の大きな門だった。メインの扉だけではなく潜り戸まであるし、高級住宅街の中にあってなお異様なまでの存在感を放っている。

 ⋯⋯っていうか本当にそっち系の家に見えるな。建築関係ってそういう関係の人間も多いと聞くし。⋯⋯本当に違うよね?

 

「行くわよ」

「おう⋯⋯」

 

 雪ノ下は名残惜しそうに絡めていた腕を離すと、当たり前だが自然にその門を潜った。

 こっちはもう、大魔王の座するラストダンジョンに挑むRPGの主人公の気分だ。

 

 ⋯⋯俺、無事に帰れるのかな。

 

 



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恋人同士、だから。

次回で最終話です!


「ただいま」

 

 雪ノ下は玄関に入ると、見える範囲には誰も居ないというのに廊下の奥に向かってそう言った。

「お邪魔します⋯⋯」

 続く俺もそれに倣って言うと、まるでそれが聞こえていたかのように廊下の奥から人影が現れる。和装の麗人の名前は⋯⋯そういや名前は聞いたことないな。雪ノ下の母親は俺と目が合うと恐ろしいほど柔和に微笑みを向けてくる。

「いらっしゃい、比企谷くん。やっと来て頂けたわね」

 表情は笑っているし、目だって笑っている。けど雰囲気は笑っていないというか、本当に俺が来訪したことだって喜んでいるかどうか分からないぐらい、内包しているものに深みを感じる。それにしても母のん、家でも和服なんですね。

「もうすぐ食事ができるところだから、待っていてね」

 少しだけ口調を砕けさせると、ついて来いと言わんばかりに颯爽と俺たちに背を向ける。俺は雪ノ下と一瞬目を合わせると、その背中に続いた。

 

 リビングに通されると、ソファに座るように促される。純和風の建物だったが、主室はリビングダイニングキッチンというものらしい。

 雪ノ下は着替えてくると言って自室に向かったので、今や二十畳以上はあろうかという部屋の中は俺と雪ノ下の母親だけという奇妙な空間になっていた。

「比企谷くん、苦手はものはある?」

「トマトは無理ですね」

「そう。なら今日の献立は大丈夫ね」

 秒で返した俺に、くすりと笑みを零すと雪ノ下の母親は調理台へと向き直った。その笑みは雪ノ下が時折見せる柔らかな笑みとよく似ていて、どうにも落ち着かない気分になる。

「お待たせ」

 そう言って雪ノ下はリビングに戻ってくると、俺とは半身分間を空けてソファに座った。

 ロングスカートに包まれた脚をもじもじしているのは、おそらく俺とくっつきたいのだろう。しかしいかに猫の習性と言えど、この状況において理性に勝るものはないらしく、すんでのところで我慢しているようだ。

「⋯⋯⋯⋯」

 ソファの座面の上で、遠慮がちに雪ノ下の手が伸びてくる。ちらとこちらを窺う目と視線がかち合うと、何ともむずむずした気持ちになる。猫ノ下さん、全然我慢できてないですね⋯⋯。

 しかし、まあ。

 幸いソファの背もたれの影になっているから、手を繋ぐだけならば向こうから見えることもないだろう。俺が手をすっと座面の上を滑らせると、おずおずと雪ノ下の手も近づいて──。

 

「ただいまー」

 

 そんな明るい声が、背後から突如として降ってきた。互いにしゅっと手を引っ込めると、声をした方を振り返る。その瞬間にっこりと笑いかけてくる声の主と目が合った。

「ひゃっはろー、比企谷くん。やーっと、うちに来てくれたね」

「ははは⋯⋯。どうもお邪魔してます」

 乾いた笑いを漏らしながら、陽乃さんに軽く会釈する。なんとなく想像してたけど、やっぱりこの人も同席するのか。いや、元々彼女の家なのだから当たり前と言えばそうなのだが。

「姉さん、どうして⋯⋯」

「どうしてって、こんな面白そうなイベントに来ないわけがないでしょ?」

 馬鹿げた質問をあしらうかのように、陽乃さんは雪ノ下の質問を一笑に付した。雪ノ下の口振りするからすると、彼女が元々住んでいたマンションには今も陽乃さんが住んでいるようだ。

 陽乃さんはぴったりとくっつくように雪ノ下の隣に座ると、それを避けるように雪ノ下は俺の方に身体をずらす。あれー、おかしいよ? 結局なんか近くなってるよ?

「ねえねえ、雪乃ちゃーん」

 甘えるような声を喉に絡みつかせながら、陽乃さんは雪ノ下の顔を覗き込む。

 

「彼氏の家で初めてのお泊まり、どうだった?」

 

 突然のぶっ込みに俺も雪ノ下も動きを止めた。キッチンまで聞こえるようにか、わざとらしいぐらいはっきりとした声は聞き逃しようもない。

「かれし⋯⋯」

 雪ノ下が口にしたうわ言のような言葉に、俺の思考は回転を取り戻す。ここはこいつに答えさせるべきじゃないだろう。うっかりにゃんにゃか言い出されても困るし、何より正直に話しすぎるとあらぬ誤解も生じかねない。

「泊まりに来たって言っても、小町の泊まりに来て欲しいってわがままに付き合ってもらっただけなので。実際小町のところに遊びに来たようなもんですよ」

 俺はキッチンに立つ雪ノ下の母親にも聞こえるように、ハキハキとそう答えた。すまん、小町。兄を助けてくれ。今度雪見だいふく奢るから。

「ご飯、出来たわよ」

 俺たちの会話を聞いていたかどうかは分からないが、ダイニングの方から雪ノ下の母親が呼びかける。はーいと軽く返事をした陽乃さんに付き従うように、俺たちも食卓についた。

 食卓に並ぶのは、懐石料理然とした和食の数々だった。鯛の切り身や色鮮やかなだし巻き卵、きっちりと蓋までしてある吸い物らしきお椀などはまるで料亭のそれである。

「比企谷くんが来てくれるのが嬉しくて、つい作り過ぎてしまったわ」

 呆気にとられる俺の表情から心中を察したのか、雪ノ下の母親は微笑みかけながらそう言った。ついってレベルじゃねぇぞこれ。

「いただきます」

 陽乃さんがそう言ったのを皮切りに、俺たちも口々に言って箸を手に取る。さてまずは⋯⋯と小鉢に盛り付けられた湯葉を口に運ぶ。

「え、うま⋯⋯。なんだこれうま過ぎる」

 味覚から伝わった衝撃に、思わずそう口に出していた。まじかよこれ、見た目だけじゃなくて中身も料亭ばりじゃねぇか。あんまり行ったことないけど。

「あら嬉しい」

 雪ノ下の料理の腕はやはり御師さんがよかったからなのか、などと一人納得していると、雪ノ下の母親はあどけないぐらいにころころと笑っていた。まあ褒められて悪い気はしていないだろうが、隣に座った雪ノ下はそわそわした視線を俺に送ってきている。言外にうっかりしたことを言うなと、目だけで伝えてきていた。

「昨日は雪乃がお世話になりまして。何かご迷惑になるようなことはなかったかしら」

 雪ノ下の母親は未だ箸を取らないまま、俺の方を見てそう言った。迷惑ではないけど、色々大変だったんだよなぁ⋯⋯。

「いえ、そんなことは。それよりもうちの妹のわがままに付き合わせてしまってすいません」

「あら、気にしなくていいのよ。雪乃も望んでしたことなのだし」

 そうよね、と雪ノ下の母親が視線を送ると、雪ノ下はこくこくと頷いた。ここは喋らない方が得策と踏んだか。それも雪ノ下らしい選択だ。

「ねえ、比企谷くんちで何してたの?」

 しかし何も喋らない雪ノ下に違和感を覚えたのか、陽乃さんは雪ノ下に向けてそう聞いた。

「そうね⋯⋯。比企谷くんの家の猫と遊んだりとか」

 雪ノ下の答えに、ふむと陽乃さんは一瞬言葉を溜め込んだ。しかしまた次の瞬間には、なんとも快活に言い放つ。

「つまりニャンニャンしていたってことだね」

 あまりにも図星過ぎて、豆の煮物を吹き出すところだった。

 確かににゃんにゃんしてましたね。本気で言い訳できないのが困る。結局同衾(どうきん)しちゃってるあたり、何もありませんでしたというのは色々あり過ぎてるし。

「仲が良さそうで何よりね」

 そう言う雪ノ下の母親は一見笑っているが、腹の内で何を考えているか分かったものではない。外堀を埋められた挙句に内堀にセメントを流し込まれているような気分だった。

 それっきり否定も肯定もせずに黙りこくっていると、六人がけのテーブルの空席に目がいく。雪ノ下の家は四人家族だったはずだから、俺が本来座っている席は彼女の父親の席なのかも知れない。

「お父さんなら出張中だから今日はいないよ」

 その様子を目ざとく見つけた陽乃さんが、俺に向けて言う。あー、超安心した⋯⋯。雪ノ下家に訪問するだけでも十分やばいのに、父のんと遭遇なんて本当やばい。語彙力皆無になるぐらいやばい。絶対殺される。

「そうですか」

 下手に社交辞令で「いやーお会いしたかったのに残念ですねははは」なんて言おうものなら、即座に先々の予定まで取り押さえられてゲームエンド。それが最近少なからずこの家と接触してきたことで得られた教訓である。雪ノ下家こっわ。

「ねぇ、比企谷くん」

 父のんとの邂逅がないと分かって胸を撫で下ろしたのも束の間、陽乃さんは愉快そうに口の端を持ち上げながら言う。

「ご飯食べ終わったら、お姉さんの部屋に遊びにおいで」

 こともなげに恐ろしいことを言い出した陽乃さんに戦慄していると、雪ノ下は彼女に向けて睨め付けると言うには余りにも弱々しい視線を送っていた。陽乃さんはそれを流し目で受け流すと、付け足すように言う。

「あ、もちろん雪乃ちゃんも一緒にね」

「あら、何かしら。まあ、若い人同士でしか話せないこともあるわよね」

 そう言って 慇懃(いんぎん)に俺に笑いかけてくるが、雪ノ下の母親の言っていることは陽乃さんに根掘り葉掘り訊いて来いと言っているようなものだ。やはり一筋縄でいかない雪ノ下家、恐ろしい⋯⋯。世にも奇妙な物語に寄稿したら採用されるんじゃないのこれ。

「いやー、流石に年頃の女性の部屋にお邪魔するのは⋯⋯」

「あ、私の部屋ってことが気になるなら、雪乃ちゃんの部屋でもいいよ」

「にゃにを⋯⋯」

 そこまで言って、雪ノ下は口を噤んだ。俺の方までひやりと背中に汗が滲む。

 しかし陽乃さんはそれを動揺と受け取ったのか、殊更に口角を引き上げる。

「あー、そうだよね。部屋には見られたくないものもいっぱいあるよねぇ。彼氏の隠し撮り写真とか、机の中に隠してたりして」

 けらけらと余りにも軽薄に笑う陽乃さんに、ぷるぷると頬を染め上げながら震える雪ノ下。

 いやいや雪ノ下がそんなことをするはずが⋯⋯。

 

「姉さん、黙って⋯⋯」

 

 無いよね? え?

 ⋯⋯おーい、雪ノ下さん?

 

 

       *       *       *

 

 

 食事を終えると俺たちは宣告の通り、陽乃さんの部屋を訪れていた。

 ぐるりと一度だけ見回した部屋の中は、まるで断捨離したてのように最低限の調度品しかない。──と思いきや壁だと思っていたそれはびっしりと中身の詰まった本棚だったりして、まるで文学少女の部屋と言った様相だ。

 

「さて、それじゃ色々聞いちゃおうかなー」

 

 陽乃さんはデスク前の椅子に座ると、俺たちにベッドに座るよう手を差し向けた。

 渋々ながらも他に腰掛ける場所もない俺と雪ノ下がベッドに腰を下ろすと、陽乃さんは一拍だけ間を取ってから問いかける。

「昨日、何があったの?」

「いえ、だから昨日は小町が──」

「私は雪乃ちゃんに訊いてるの」

 さっきと同じ言い訳を通そうとした俺の言葉を、ぴしゃりと陽乃さんは遮ってくる。雪ノ下が余りにも口数が少なかったが為に、何か裏があると踏まれているらしい。⋯⋯まあ、本当にあるんだけど。

 雪ノ下は口を引き結ぶと、陽乃さんの視線から逃れるように俯いた。その様子を、陽乃さんが見逃すわけもない。

「やっぱり何かあったんだ。正直に答えてくれたら、お母さんには上手く言っておけるかも知れないんだけどなぁ」

 むう、と俺が腕組みをしながら雪ノ下を横目で見ると、彼女とばっちり目が合った。致し方ない、と俺が頷くよりも少し先に、雪ノ下はこくりと小さく頷いた。

 

「信じられにゃいと思うけれど、全部話すにゃ⋯⋯」

 

 

 

 

 事の顛末を全て話を終えると、陽乃さんは意外にも疑いの言葉一つすらなく、腕を組み組み考え込んでいた。

 なんとも居心地の悪い沈黙が存分に流れ切ると、陽乃さんははっと目を開けて言い放つ。

「それって、雪乃ちゃんがしたいことが、現実になっているだけじゃないの?」

「いや、なんでそんな話に⋯⋯」

 ないよな、と雪ノ下の方を向くが、返ってくる答えはない。

 あの、なんで雪ノ下さんは黙り込んで両手を握り込んでいるのでしょうか。あ、でもこいつなら猫が好きすぎて猫になりたいとか思っていたりしそうだよな。

「比企谷くんとイチャイチャしたい気持ちが強過ぎたんだねぇ」

「⋯⋯⋯⋯」

 そんなことを言われてしまうと、今度はこっちが地蔵タイムである。なんつーこと言い出すんだこの人。

 はてさてそこのところどうなんでしょう? と雪ノ下の方を見ると、肩口がプルプルしているのが見えた。あー、うん、はい。八幡分かった。さっきからの流れで理解したので説明しなくていいです凄く恥ずかしいので。

「まあ、それはいいか。ところで比企谷くん」

 陽乃さんは俺の方に向き直ると、にんまりと唇で三日月を作った。隠すことすらしない嗜虐的な表情に、思わず背筋が凍りそうになる。

 

「雪乃ちゃんとは、付き合ってるってことでいいんだよね?」

「は⋯⋯?」

 

 予想だにしていなかった質問に、素っ頓狂な声が漏れる。この人、さっきから人を散々彼氏呼ばわりしておいて、なんのつもりだろうか。

「ちゃんと答えてくれたら、色々協力できるんだけどな」

「にゃっ⋯⋯。姉さん、さっきと話が──」

「私は上手く言っておけるかも(・・)知れない、としか言ってないよ」

 なんたる狡知(こうち)。しかしこれは、協力の言質を取っていなかった俺にも非があるだろう。

 陽乃さんの質問の「付き合っている」という言葉は、誰にもに通じる表現でありながらも、あまりに模糊(もこ)とした言葉のように思える。だから俺と彼女の関係性も、その言葉が意味する範囲には入るのだろう。

 だからそれを認めてしまうのは、きっとまちがいじゃない。けれど俺たちのことを、そんな枠に嵌めようとするのは──。

「早く」

「あ、はい⋯⋯」

 えぇ⋯⋯めっちゃ真面目に考えてるのに、それすらカットしてしまうのん? この流れをぶった斬られるのは消化不良気味なんですけど。

 ──しかし、まあ。

 まちがいではないのならば、それを伝えるべきなのだろう。元よりそれを認めることで、前進するものもあるのだろうから。

 

「お、お付き合いをさせて頂いております⋯⋯」

 

 もうちょっと他に言い方なかったのかよ、と自分で突っ込むが、やはり今の俺で捻り出せる言葉はそれぐらいだった。

 そっと雪ノ下の方を窺うと、またも目が合う。顔が赤い。多分それは、俺の方も。

「ふーん⋯⋯」

 折角正直にそう答えたのになんだその興味なさげな声は、と陽乃さんの方を見ると、興味津々の目とかち合った。っべーわこれ、この表情、後でめちゃめちゃ弄られネタに使われるやつじゃねぇか。

「じゃあ今度から私のことはお義姉(ねえ)ちゃんって呼ぶこと」

「それは無理です」

「否定が早いなー」

 実に愉快、とでも言うように、陽乃さんは俺の拒絶にすら上機嫌に笑って見せる。

 

「まあいいや。後は任せておいて」

 

 ね、笑いかける顔は確かにお姉さんらしくて、そしてそれ以上の存在で。

 俺は無敵の大魔王の前に、震え上がるしかないのだった。

 

 

       *       *       *

 

 

 雪ノ下の家を出ると、思っていたよりも冷たい風が頬を撫でつける。

 玄関まで送ってくれるのかと思っていた雪ノ下は、何故か俺と一緒に外に出て来ていた。必死に俺にくっつこうとしているのを我慢している様子なのも、どうにも解せない。

 

「なあ、わざわざ外まで送ってくれなくても」

「いいから」

 

 俺の言葉を遮ると、雪ノ下はつったかつったか先に行ってしまう。そして角を曲がると、不意にそこで立ち止まる。

 雪ノ下は遠慮がちにこちらを見詰めていたかと思うと、ひしといつも通り俺の腕を取った。いやいつの間にいつも通りになったのん?

「家の周りは監視カメラがあるのよ」

「ほう」

 やはり裕福な家というのは、高級住宅街にあってもセキュリティには余念が無いらしい。そこまでしなくてはならない理由は考え出すと止まらなくなりそうだからやめておこう。

「はぁ⋯⋯」

 雪ノ下はそう深く息を吐くと俺の肩口にぐりぐりと額を擦り付けた。立ち込める彼女独特の香りに、思わず心臓が乱れる。

「比企谷くん、その⋯⋯」

 俺は頭を撫でた方がいいのかなーどうなのかなーと考えていると、こちらを見上げてくる目に捕まった。その瞳の色は常よりずっと(いとけな)く、どこか懇願するような雰囲気を湛えていた。

「⋯⋯比企谷くんも、して貰っていいかしら」

「ああ、はい⋯⋯」

 昨日のあれですね、と俺は少なくない人に見られていたらしい昨日の行為を思い出した。流石に今日は、知り合いに見られるということはあるまい。

 立ったままだとやり難いなぁ、などと考えながら、昨日と同じように雪ノ下の肩に額をつける。気恥ずかしさに蓋をして、さっき彼女がそうしたようにぐりぐりとそれを擦り付ける。

「ふふっ」

 一瞬、誰が笑ったのかと思った。勿論この場にはそんな声を出すのは一人しかいなくて、そう思ってしまったのはあまりにもその声が明るかったからだ。

「比企谷くん」

 そう呼ばれて顔を上げた瞬間、ペロリと。

 頬を舐め上げられ、俺は一瞬硬直する。だけど一瞬だ。何故なら人間は慣れるから。どんな刺激的なことも非日常でも、繰り返されれば馴れざるを得な──。

「その⋯⋯。比企谷くんも、舐めて貰っていいかしら⋯⋯」

「────」

 俺の平常心は脆くも崩れ去り、ぴきんと頭にヒビが入ったような気がした。いや比喩ではなくて本当に割れてしまったかも知れない。

「⋯⋯どこを?」

「ほ⋯⋯。頬っぺた、を⋯⋯」

 頬を、と言うのに戸惑ったのだろうか。雪ノ下は恥ずかしそうにそう言ったが、むしろそっちの言い方の方が恥ずかしい。

「⋯⋯本気で言ってるのか?」

「⋯⋯残念にゃがら本気よ」

 奥歯を噛み締めるような表情を浮かべながらも、その意思は固いらしく俺から目を逸らすことをしない。

「参考までに、何故そうしないといけないか、教えて貰えますでしょうか⋯⋯」

「⋯⋯そうしにゃいと、離れられそうににゃいからです」

 そっかぁ、離れられにゃいかぁ。じゃあしょうがないね! 八幡、ペロペロしちゃうよ!

 ⋯⋯となるわけもなく、先程から変わらず俺の手足も視線も、硬直したままだった。雪ノ下もそれを言うのは相当に恥ずかしいのが、顔は真っ赤になっている。

「ちなみ気持ち悪がったりとかは」

「⋯⋯しません」

 ですよねぇ。これで「するに決まっているでしょう」とか言われたら人格疑うところだったわ。むしろ疑いたかった⋯⋯。

 ごくり、と唾を飲み込むと、真正面に雪ノ下を捉える。その顔は羞恥に濡れているのに瞳には期待がこもっていて、ぞわぞわした感覚だけが背中を走る。

「⋯⋯いくぞ」

「はい⋯⋯」

 そっと雪ノ下が目を瞑ったのを合図に、俺は顔を寄せる。まつ毛は震え、唇で彼女の吐息を感じる。

 そして、ペロリ、と。

 俺は雪ノ下の頬を舐め上げた。滑らかな舌触りだけが、いつまでも口内に残る。

 そして顔を離そうとした瞬間──ふわりと嗅ぎ慣れた香りが鼻腔を満たし、舌とは違う柔らかさが頬に伝わる。

 

「────」

 

 身体を離して、お互いを見つめ合う。

 カラッカラに乾いた口がひゅーひゅーと間の抜けた音を立てて、俺は唖然として彼女を見詰める続けることしかできなかった。

 こんなの、舌で頬を舐め上げるのに比べたら、なんでもない事のはずなのに。

 

「⋯⋯恋人同士、だから」

 

 俺の肩に両手を置いた雪ノ下は、元から赤かった頬を更に真っ赤にさせて、そう呟いた。思わず雪ノ下の肩に手を置くと、彼女は身じろぎしてその手から抜け出す。

 

「また明日。おやすみにゃさい」

 

 そう言って雪ノ下は、僅かな足音を立てながら俺の前から走り去っていった。

 ⋯⋯マジかよこいつ。またやりやがったな。やりっ放しの投げっ放し。ざわつくこっちの内心なんか、お構いなしだ。

 

 熱が触れた頬に手を当てると、未だに火照りは冷めやらない。

 多分ずっと、その熱は冷めやらない。

 



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「八幡のハーレムクソ野郎ぉぉーー!!」

 

 翌朝登校すると、学校の敷地内に入った瞬間から好奇の視線が集まってくるのを感じた。

 気のせいだと思いたいが、思い当たる節がある。残念ながら物凄くある。

 時折目の合う男子生徒からは何でこいつがみたいな表情をしているし、女子生徒はヒソヒソと何事かを囁き合ってはきゃいきゃい言っている。なんか悪口言われてる気分になるからやめてくれないかなぁ⋯⋯。いや実際悪口なのか? しかしまあ、思い当たる節の所為で何も言い訳はできない。

 

 やがて昇降口について下駄箱を開けると、その中に一通の洋封筒を見つけた。ラブレターなんかに使われそうな薄ピンク色のそれは、もちろん恋文などではないことは分かりきっている話だ。

 知っている。知っているぞ、俺は。きっとこれは、剃刀とか入ってるやつでしょ? 嫌がらせについては詳しいんだ。

 どこぞでこちらの様子を見ているやつが居ないか周りを見てみるが、人の波が途切れたところなのか周囲には誰もいない。意を決してえいやっ、と封を破り、封筒を逆さにする。──と、出てきたのは一枚の紙だった。

 

『死ね』

 

 Oh...

 余りに稚拙な一文に、俺は拍子抜けしてしまう。剃刀じゃなくてよかったぁ⋯⋯。あと生きるから。超生きる。今まで苦汁を舐め続けた人生だったから、甘い汁だけ吸いながら生きて行きたいと思いました。

 けどこれの原因は昨日のアレか、雪ノ下と由比ヶ浜に腕を取られながら帰ったからだよな。周りから見たら充分甘い汁吸ってるように見えるんじゃね? 学校内でも指折りの可愛いどころ綺麗どころと堂々二股なんて本当死ねって感じだよね。やだ八幡ったら手紙の主の気持ちが分かっちゃった!

 

「大丈夫か?」

 

 しゃがみこんで手紙の主に共感していると、不意に声をかけられる。見上げると葉山隼人が、紙に書かれた二文字を見て顔を(しか)めていた。

「おい止めろ、そんな顔すんな。自殺までは考えてねぇ」

「流石にそこまでは心配してないが⋯⋯」

 あ、そう。と相槌を打って、俺は紙を拾い上げつつ立ち上がった。振り返って見れば、また生徒の波が昇降口に押し寄せようとしていた。

 そのまま突っ立っているわけにもいかず、上履きに履き替えると教室に向かう。葉山は俺の隣に並ぶと、また同じ質問を投げかけてくる。

「大丈夫か?」

「何回訊くんだよ⋯⋯。ダメージ受けてるように見えるか?」

「そうは見えないが⋯⋯。君は隠すのが上手いからな」

 知った風なことを言われると、どうにもむず痒い。それが事実ならば尚更だ。

 教室に入って自分の席につくと、またも集まってくる視線を感じる。その視線一つひとつに目を合わせるとすっと逸らされるのは、なんとも落ち着かない気分だ。

「で、昨日のあれはどういうことだ?」

「また見てたのかよ⋯⋯」

 前の席に座った葉山は俺に顔を寄せてくると、周りに聞こえないように小さな声で問うてくる。どういうことかなんて、こっちが訊きたい。

「わざと見せているように感じたけどな。違うのか?」

「まあ、ある意味わざとだけど⋯⋯」

 俺が言うと、葉山は驚きに目を瞠った。そして次の瞬間には、その目に慈しみのようなものが浮かんでいる。

「結衣、頑張ってるんだな」

「頑張りが飛躍し過ぎだけどな⋯⋯」

 本当、ガハマさんってば大胆。そう言えば今頃由比ヶ浜の方も大変なんじゃないか──と思っていたら、興奮した鼻息が近付いてくる。

「三股をかけられあれはどういう事だと詰め寄る隼人くん⋯⋯。八隼伝説のドロドロ回来ましたワー!」

 酷く興奮した様子の海老名さんは、俺たちに近寄るなりブシャーと鼻血を噴射しながら後ろ向きにぶっ倒れた。あわや頭から着地するかと思われた瞬間、小さな影が彼女を支える。

「海老名ちゃん、ティッシュ、はい」

「おお〜⋯⋯。おとみ、ありがと」

 海老名さんを支えたその人は、おとみ⋯⋯とみ、とみ⋯⋯。そうだ、富岡さんだ。

 学級委員長でもある富岡さんは甲斐甲斐しく海老名さんを介抱すると、近くの席に座って遠慮がちに俺を見てくる。

「あのー、比企谷くん⋯⋯」

「⋯⋯なんでしょうか」

 なんだかとっても言いにくそうな口調に、俺も思わず畏まってしまった。ぞわりとした違和感が、背中を走る。おおよそこう言う時の悪い予感は当たるのだ。

「浮気はよくないと思います」

 瞬間、教室の中から音が消えた。っべーわ、おとみちゃん、ぶっこみやべー。べー⋯⋯。

「あれ? でも雪ノ下さんも一緒に居たなら、二股⋯⋯? 葉山くんも入れたら、海老名ちゃんの言うように三股⋯⋯」

「うんうん。ドロドロ底無し沼からの寝取り合戦、燃えるねー」

 もう⋯⋯もうやめて! どう考えても、俺が三股疑惑をかけられるのはまちがっている! 変なチェーンメールが回って来ちゃうから本気で止めて下さい特に最後の疑惑はマジでやめろ。

 俺が白化して消え入りそうになっていると、葉山はくつくつと笑いを漏らしながら、面白おかしそうに言った。

 

「モテる男は大変だな」

 

 ⋯⋯こいつ、絶対許さねぇ。

 

 

       *       *       *

 

 

 放課後になると、俺はチャイムが鳴るなり足早に教室を後にした。

 今日も今日とて昼休みに突き刺さる視線ときたら昨日より一層鋭さを増し、大変寿命の縮むひと時だった。ずるずる教室に残ってまた観察対象になるぐらいなら、さっさと去るのが一番だ。

 人目を避けながら、遠回りで特別棟へと向かう。続く空中廊下に差し掛かると、見慣れた二つの背中が見えた。背中まで伸びた清流の如き黒髪に、くるっと巻かれたお団子頭。雪ノ下は相変わらず由比ヶ浜に纏わりつくようにその腕を取っていて、大層歩きにくそうだ。

 特別棟へと向かう人影は俺たち以外にはおらず、足音で気付いたのか彼女たちは示し合わせたように振り向いた。

 

「⋯⋯比企谷くん」

「ヒッキー⋯⋯」

 

 そう言うと彼女たちはすっとその腕を解き、俺に道を譲るように二手に分かれた。何これ、俺はモーゼになったのん? と思っていると、あっという間に両腕を取られ、さながら連行されるエイリアンである。

「行きましょうか」

「うん!」

「えぇ⋯⋯」

 何これ、ここまで来るとネタじゃん。やるなら振り切って猫ノ下さんには「猫ゆーきの! 猫ゆーきの! ニャー!」とかやってもらいたい。いやちょっと想像しただけで悶えそうだったからやっぱりやらなくていい。

 それにしても、またこんなのを見られたら明日の下駄箱は今度こそ剃刀入りのラブレターが仕込まれるんじゃないの? そのうちそこらの木に呪いの藁人形を打ちつけられたりとかしたら、流石の俺もノーダメージとはいかないんですが。

 そう言えばこの子たちは大丈夫だったのかしらん? と考えながら歩いていると、大して距離もないからあっという間に部室に着いてしまう。両手が塞がっている俺の代わりに、由比ヶ浜が勢いよく入口の扉を開けた。

「やっはろー!」

「あ⋯⋯結衣さん⋯⋯」

 二人に引き摺られるように、部室に入る。そこに居たのは昨日から引き続きゲンナリしている小町と──何故か彼女に抱きつき頬を擦り寄せる一色いろはの姿だった。

 

「先輩っ! にゃーん!」

 

 そして一色は俺の姿を見るやいなや、椅子から飛び出すように立ち上がり、俺の胸に突進してきた。両隣の雪ノ下も由比ヶ浜も我関せずと抱きつき、額をぐりぐり俺の鎖骨のあたりに擦り付けてくる。

 おい、なんだこのあざといの。流石に「にゃーん」はわざとらしいだろところで何故俺は両側から液体窒素並みの冷たい視線を受けなきゃならないんだ? 絶対おかしいでしょ。

 

「はっちまーん! プロットができ⋯⋯ふんもげぇぇっ!」

 

 そんなカオスな状況の中に、混沌の渾名を欲しいままにするワナビ作家がバーンと扉を開いて現れる。真正面から一色、右舷左舷には雪ノ下と由比ヶ浜に絡みつかれる俺を見て、材木座は拳を握ってぷるぷると震えだす。

 

「この⋯⋯この⋯⋯っ! 八幡のハーレムクソ野郎ぉぉーー!!」

 

 そう言って材木座は部室を飛び出した。

 

 なんなの、これ。

 

 

       *       *       *

 

 

 やたらとくっついてくる一色を引き剥がし、飛び出して行ってしまった材木座を連れ戻すと、俺たちは部室の中で沈黙のまま顔を突き合わせていた。

 相変わらず俺の両腕は雪ノ下と由比ヶ浜に絡みつかれているし、小町は今にも俺に飛びつこうとしている一色をどうどうと取り押さえ、それを目の当たりにしている材木座はふしゅるるるると気味の悪い音を立てている。

「⋯⋯とりあえず、一色の方から話を聞こうか」

「って言われても、わたしもどうしてか分かんにゃいんですよね〜。お米にゃん、とりあえず離して?」

「駄目です。⋯⋯まあ、いろは先輩は部室にくるなりこんな感じですね」

 一色はそう答えながら、小町の手から逃れようと身を捩る。最初は小町にくっついていたところを見ると、どうやら演技ではなく本当に雪ノ下と同じ状況になっているらしい。

「何か変わったことはなかったのか?」

「変わったこと⋯⋯。とりあえず話すにももっと近い方がいいと思うのでそっち行っていいですか?」

「駄目です」

 俺の代わりに小町が答えると、隙あらば俺に飛びつこうとする一色を取り押さえ続ける。ここまでくるとあざといなんてもんじゃないな。

「仕方ない⋯⋯。材木座の話を聞くか」

「えぇ⋯⋯我仕方なし? 頼まれて来てるんですが?」

 材木座の力ない突っ込みをスルーすると、鷹揚(おうよう)に頷く。

「その出来たというプロットを読ませてもらおうか」

「ヒッキー、なんでそんなに偉そうなの⋯⋯」

「⋯⋯時々本気で人格を疑いたくなるのよね」

「ぬぅぅ⋯⋯釈然とせぬ。納得いかぬぞぉ⋯⋯」

 なんだかんだと文句も聞こえてくるが、材木座は読んで欲しいという欲には勝てないのかプルプルと震える手で原稿用紙を渡してくる。

 俺の出したお題、『ある日突然美少女が猫化した件について』のプロット。いわゆる物語のあらすじのようなものだ。

 

『私、花宮夢子は花も恥じらう高校二年生。成績は常に学年トップでラブレターは毎日来ちゃうぐらいの美少女だけど、私は恋愛になんて興味ないの。だって私の恋人は猫ちゃんだから! 人間なんてやめちゃって猫になって、そして猫さんと付き合いたい! そう思いながら今日も見かけた野良猫さんを撫で撫で。とってもいい気分で学校に向かっていたら、あれあれ? 頭の上に耳があるよ。なんで? 尻尾も生えてきてやだスカートがめくれちゃう! ああもう、これから私、どうなっちゃうの〜⁉︎』

 

 ⋯⋯これプロットじゃなくて次回予告だな。

 

「0点」

「酷評⁉︎ 鬼、悪魔、編集者!」

 

 俺の評価に反駁する材木座の声を聞きながら、しかしなるほどと頷いた。雪ノ下の方を見ると、俺は静かに問いかける。

「なあ。様子がおかしくなった日に、猫を触ったりしなかったか?」

「⋯⋯したわね」

 僅かな時間首を傾げると、雪ノ下はそう答えた。

「⋯⋯いや、前に何か変わったことはなかったかって訊いた時に『なかった』って言ってたよね?」

「猫ちゃんを撫でるのは特に変わったことではにゃいでしょう?」

 ああ、まあそうですね⋯⋯。猫大好きフリスキーだもんね、雪ノ下さん⋯⋯。

 俺は深く納得しつつ、今度は一色に問いかける。

「一色は?」

「ここに来る前、校内に野良猫がいるって呼ばれて、その対応はしましたね。まあ、ちょっと触ったところで逃しちゃったんですけど⋯⋯」

「ひょっとしてその野良猫というのは、毛が短くて真っ白の子かしら?」

「そうです、その子です」

 一色と雪ノ下の会話で、僅かな希望が段々と確信へと変わっていく。これは材木座先生、本当に答え見つけてきてしまったのかも知れない。

「探すか、その猫」

 俺がそう投げかけると、こくこくとそれぞれが頷きを返す。⋯⋯と、その中で構って欲しそうなわざとらしい咳払いが聞こえてくる。

「うおっほんおほほん。八幡よ、その前に我に言うことがあるのではないか?」

 ちらっ、ちらっと見てくるその仕草が大変鬱陶しい。いや、毎度世話になっておいて酷いな俺。

 しかし今回の材木座の働きは、労うのに十分値するだろう。仕方ない。奴が欲しがっている言葉を、素直に伝えてやることにしよう。

 

「お前も猫を探すの手伝ってくれ」

「酷使⁉︎ 鬼、悪魔、八幡!」

「いや八幡は悪口じゃないだろ」

 

 そうだよね? と俺が順繰りに視線を送ると、目が合うなり彼女たちはそっと顔を逸らした。

 あれ⋯⋯。悪口じゃないよね?

 

 ね?

 

 

       *       *       *

 

 

 白い猫を見つけたら、全員に場所を共有。取り逃がさないよう、単独行動はせず全員集合してから対処に当たる──。

 それだけ決めると俺たちは散開し、校内を(くま)くまなく調査すべく歩きまわる。いや、歩きまわりたいんだけど。

 

「あのー、雪ノ下さん」

「にゃに」

「⋯⋯大変歩き難いです」

「奇遇ね。私もよ」

 

 まあもう分かってたからいいんですけど⋯⋯。こうもくっつかれていると校内を調べ回るにも歩みは遅くなるし、これ見せびらかして歩いているようなものなんですよねぇ⋯⋯。

 幸い学校の内外を区切る塀伝いに歩いている分にはそれほど人に会うわけではないが、ここに来るまでにばっちり何人かの生徒に見られてしまっている。

「一色も我慢してくっつかずいられたんだし、気の持ちようでなんとかなるんじゃないのか?」

 同じ状態の一色は小町に連れられて半ば強制的にだが離れて行動しているし、何より昨晩雪ノ下の家に行った時はちゃんと意識的に離れることはできている。

 だから俺の言葉通り、なんとかはなるはずなのだ。ちらりと雪ノ下の顔を窺うと、深刻そうに顔を伏せていた。

 

「⋯⋯⋯⋯」

 

 MUGON.

 いや黙り込むのやめて下さいよ凄い気まずいじゃないですか。っていうか何も言わないというのは、ほとんど認めちゃってるんだよなぁ⋯⋯。

「⋯⋯否定は出来にゃいわね」

 ほらね、まあそういうことですよね。正直に答えてくれたあなたには八万ポイント進呈します。使い道は私とくっつく権利の取得です。もう持ってますかそうですか。

「その⋯⋯くっつくの、駄目?」

 俺の顔を覗き込み返すように雪ノ下は首を傾げると、幼気(いたいけ)な表情で問うてくる。きゅっと心臓の根っこの方を掴まれたみたいな気分になって、俺は数秒の間口をパクパクと動かすだけのカラクリ人形になっていた。

「⋯⋯駄目、じゃないけど」

「ならいいじゃにゃい」

 雪ノ下はふっと口元を綻ばせると、絡み付かせてくる腕に力を込めた。本当こいつ、何なんだよ。可愛すぎるだろ。

 いつの間にか止まっていた歩みを再開すると、塀沿いを歩いていく。植え込みの根元や木の上にも注意向けながら暫く歩くと、ポケットの中で携帯電話が震えた。それは雪ノ下も一緒だったらしく、自由になっている方の手で携帯電話を取り出して通知の中身を確かめる。

 

『ホシを中庭で発見!』

 

 ロック画面の中に、小町から届いた短いメッセージが表示されている。俺は雪ノ下と顔を見合わせると、中庭に向けて走り出──。

「待って」

 走り出そうとした俺の腕を、雪ノ下はぐいと引っ張ってその動きを封じ込めてくる。なんか身に覚えがあるぞこの状況。昨日もこんなことありませんでしたっけ?

 

「その⋯⋯。中庭に行く前に、抱きしめて欲しい、です⋯⋯」

 

 雪ノ下は顔を俯かせると、か細い声で、しかし聞き漏らせない程度に滑舌良くそう言った。前髪から覗く頬が、これ以上なく赤い。

「一応、理由を聞いてもいいでしょうか⋯⋯」

「だって治ってしまったら、もうこんなこと出来にゃいし、きっと言えにゃい⋯⋯」

 ぽしょぽしょと答えるその声が甘すぎて、耳に全神経が集中してしまう。お陰で何も、考えられやしない。

「⋯⋯いいけど」

 もうこうなってしまったら、結末は分かっている。彼女の望む通りのことをしないと、俺は一歩も動けないのだろう。

 さあ行くぞ、俺は雪ノ下を正面に据える。カプセルの中で謎の液体に浸かって回復を待っている人みたいに僅かに腕を広げると、雪ノ下は一歩だけ俺の方に踏み込んだ。ふわりと嗅ぎ慣れた、サボンが香る。

「⋯⋯⋯⋯」

 雪ノ下の腰に腕を回してそっと抱き寄せると、鳩尾の辺りに柔らかい感触が広がる。馬鹿みたいに心臓は早鐘を打ち、こんなに激しく動いてしまえばその鼓動が彼女にまで伝わってしまうかもしれない。

 いやしかし、それにしても。

 彼女のさっきの一言は訂正しておかなくてはなるまい。何故なら雪ノ下の言葉は、まちがっているから。

 

「あのさぁ⋯⋯」

「⋯⋯にゃに」

 

 こんなこと言うのは柄じゃないし、なんなら今すぐ死にたいレベルで恥ずかしい。だけどちゃんと言わなくては、抱擁を解くのも難儀しそうだった。

 

「別にもう、出来ないってことはないだろ。その⋯⋯恋人同士、なんだから」

「そ、そう、よね⋯⋯。ええ、分かっているつもり⋯⋯」

 

 背中に回された雪ノ下の腕に、ギュッと力がこもる。

 早く猫を捕まえなければいけないのに、猫に捕まって動けない。

 多分もう、一生捕まえられていて、逃れられないと思った。

 逃げるつもりも、ないけれど。

 

 

       *       *       *

 

 

「お兄ちゃん、おっそい。何してたの?」

「いやすまん、ちょっとな⋯⋯」

 

 中庭に到着すると、俺たちの姿を見つけた小町は腰に手をやりわざとらしく溜め息をついた。うっかりあれから五分も抱擁していましたなどと、例え妹相手だろうが言えない。むしろ妹の方が言えないわこんなの。

 見れば一色も由比ヶ浜も既に集合している。材木座は⋯⋯あ、連絡するの忘れてた。

 

「それで、どこだ?」

「あれ、あそこ」

 

 小町の指の先を見ると、件の白猫が生垣の中で丸くなっていた。どうやら午睡をお楽しみのようだが、こちらとしては都合がいい。

「あいつに触ったら猫化する可能性があるから、ここは雪ノ下か一色に捕まえて貰う必要があるな」

「ええ、私がやるにゃ」

 皆の前に来るとさっきまでのデレっぷりはどこへやら、雪ノ下は悠然と髪を払って見せる。語尾に「にゃ」がついてなきゃ、様になったんだけどなぁ⋯⋯。

「でも、触る前に起きちゃったらどうするの?」

「その時は校舎の角に誘い込んで、捕まえるしかないな」

 由比ヶ浜の質問に答えると、それを聞いていた一色もあい分かったと頷きを返した。

 一通りの作戦会議を終えると、雪ノ下はゆっくりと例の白猫ににじり寄っていく。一歩、また一歩。俺たちも息を殺し、その一挙手一投足を見守り続ける。

 そして雪ノ下の手が、あと数十センチで猫に触れるかという、その瞬間──。

 なんの音も立てていないはずなのにその白猫はぱっと目を見開くと、雪ノ下の姿を認めるやいなや猛然と走り出した。

 

「あ、ちょっ⋯⋯」

 

 一色が雪ノ下のすぐ横を走り抜ける猫に手を伸ばすが、すんでのところで避けられてしまう。これはまずい、と思った瞬間、一色のすぐ後ろから人影が飛び出した。

 

「任せて!」

 

 一体その華奢な身体のどこにそこまでの瞬発力を備えていたのか、由比ヶ浜は大きく一歩を踏み出し、猫に飛びかかる。スカートがちらりと捲れ上がり、白い太ももがに目が行ってしまいそうになるのを必死で逸らす。ちなみに下着はパウダーブルーとでも称すべき淡い青であった。

「やった⋯⋯!」

 由比ヶ浜が両手で猫を掴み上げたのを見て、小町が喜びの声をあげる。

 しかし、由比ヶ浜の様子がどうもおかしい。びくーんと固まってしまったかのように、猫を捕まえた時の格好のまま動かないのだ。

 当然その猫は、その隙に由比ヶ浜の手から逃れようと身を捩る。

「あっ、結衣さん⋯⋯!」

 由比ヶ浜の手から飛び出した猫を、小町は手を伸ばして受け止めようとする。しかし後少しのリーチが足らず、その手で触れただけで猫を捕らえることは叶わない。

 小町は手を伸ばしたまま固まっている間に、その猫は猛ダッシュで中庭の彼方へと駆けていく。俺が追おうと一歩踏み出した時にはもう、何十メートルも離され校舎の影にその姿が消えるところだった。

「ヒッキー⋯⋯」

 硬直が解けたのか、俺の方にやってきた由比ヶ浜は小さな声でそう言った。そしてひしと俺の腕にしがみつくと、うりうりと俺の肩口に頬を擦り付ける。⋯⋯なんかこれ、見たことある光景なんですが。

「由比ヶ浜にゃん?」

「ごめん、ゆきにゃん。身体が勝手に⋯⋯」

「おい、それって⋯⋯」

 対抗するように俺の腕を取る雪ノ下に対して、嬉し恥ずかしと言った様子で俺に頬をスリスリしてくる由比ヶ浜。こういう時の悪い予感は、当たるのだ。

「こ、小町⋯⋯」

「いろは先輩っ! にゃーん!」

「ちょっとお米にゃん、離して。先輩に抱き付けにゃい!」

 今にも俺に飛び付かんとしている一色に、辛抱堪らんと言った様子で後ろから抱きつき頬を寄せる我が妹。

 

「ゆきにゃん、あのね⋯⋯ヒッキー舐めてもいい?」

「由比ヶ浜にゃん、にゃにを言っているの?」

「はあ、やっと捕まえた⋯⋯。先輩、逃げにゃいで下さいね?」

「いろは先輩ぃ⋯⋯。お兄にゃんより小町とくっついて下さいよぉ⋯⋯」

 

 おかしい。

 こんなはずじゃなかった。

 あと一歩、もう少しだったのに──。

 

 

「どうしてこうにゃるんだぁぁぁ!!」

 

 

 中庭を突き抜けた俺の叫びに紛れて、どこからか「にゃーん」と鳴き声が聞こえた気がした。

 

 

 

 




あとがき

 最後までお読み頂きありがとうございました。
 これにて『猫ノ下雪乃さん。』完結です。

 私がこういったコメディなのかギャグなのかよく分からない話を書くと、大体とっ散らかって終わります。でもこういうオチの付け方が個人的には好きなので、許して欲しい。

 さて、次のお話はR-18の八結雪の予定です。
 ある程度書き溜めてから投稿する予定なので、暫く投稿はお休みさせて頂きます。

 ではまた次の作品で!


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