モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- (浅木原忍)
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プロローグ
第1話 銀色に輝く


 わたしは、自分の生まれた国のことを知らない。

 赤ん坊の頃の記憶なんてあるはずがなく、その国の言葉も話せはしない。お父さんとお母さんの思い出話と――そして、テレビで見た、世界最高峰のレースでしか、わたしはその国のことを知らない。

 砂漠の国の、砂とターフを駆ける世界のウマ娘たち。

 それは世界のウマ娘が憧れる、世界一のレース。

 わたしがその国について知っているのは、ただそれだけだ。

 

 走り続けていれば、いつか――わたしも、その場所にたどり着けるだろうか?

 

       * * *

 

「期待ッ! では君たちの活躍を楽しみにしているぞ、新人トレーナー諸君ッ!」

 

 9月下旬、東京、府中。東京レース場に隣接する、日本ウマ娘トレーニングセンター学園。

 壇上で扇子をはためかせて胸を張る、小柄な姿――秋川理事長の挨拶が終わり、体育館が拍手で満たされる。私も手を叩きながら、ついにこの日が来た――と改めてひとつ深呼吸した。

 トレセン学園。トゥインクル・シリーズで活躍することを目指すウマ娘の養成機関であり、中高一貫の教育機関でもある。大学を卒業後、URAのトレーナー養成校に通うこと2年。資格試験を無事一発通過し、中央のトレセン学園への配属を勝ち取れたのは多分に幸運の産物だった。決して自分は養成校の同期の中でも優秀だったわけではない。正直なところ、試験の一発通過も中央配属も、今日この日が来るまでは夢かドッキリではないかと疑っていたところだった。

 それだけにプレッシャーもないではないが――それよりも。

 

「皆さん、本日はお疲れ様でした。これにて式典は終了となります。皆さんには1ヶ月後の選抜レースを通して、専属のトレイニーとなるウマ娘と契約し、トゥインクル・シリーズへとウマ娘を導いていただくことになりますが、それまでは選抜レース出走を目指すウマ娘たちの合同トレーニングの補佐をしていただくことになります。ぜひ、自分がこの子を支えてあげたいと思えるウマ娘を見つけてあげてくださいね」

 

 理事長秘書の駿川たづなさんが、にこやかな笑みとともに私たちを案内する。

 ぞろぞろと体育館を出た私たち、同期配属となる新人トレーナーの目の前に広がったのは、学園の広々としたトレーニングコース。そして、そこを駆けるジャージ姿のウマ娘たちの姿だった。

 誰もが必死に自分を追い込んで、コンマ一秒でも速く、速く、速くあろうとする。走ることが本能といわれるウマ娘たちの、そのひたむきな姿に――私は背筋に、ぞくぞくとしたものが走るのを感じていた。

 ――ああ、楽しみだ。

 もちろん、何の実績もない新人トレーナーの私は、そもそも担当ウマ娘を見つけられるかどうかも定かではない。ウマ娘たちだって実績のあるトレーナーについてほしいだろう。それでも、夢の舞台に一番近いところに来たのだと思うと、握りしめた拳が震えてくる。

 ウマ娘の走りに魅せられた者のひとりとして、私は彼女たちの夢を、後押ししてやりたい。彼女たちが、夢の舞台で輝けるように――。

 私が、いや、私だけじゃなく今ここで、同じようにコースのウマ娘たちを眺める同期たちは、皆同じ気持ちだろう。

 そうして、私を含めた何十人かの新人トレーナーたちがずらりと並んでコースを眺めていると、それに気付いたトレーニング中のウマ娘たちがこちらに視線を向けてきた。

 彼女たちも、専属のトレーナーがつかなければデビューできない立場だ。新人とはいえ、トレーナーがこちらを見ているとなればやはり気になるのだろう。トレーニングに集中していたウマ娘たちも一度足を止め、少しこちらを気にしてから再び走り始める。アピールなのか、こちらに手を振っている子もいる。――と。

 そんな中に、ひとり。こちらの視線に気付かない様子で、足も止めず、こちらに目も暮れずに走り続けているウマ娘の姿が見えた。

 ボリュームのある芦毛と、よく日に焼けた褐色の肌。周りの雑音をシャットアウトして、黙々とストイックにトレーニングに励んでいるのか――いや。

 遠目にちらりと見えたその子の横顔は、楽しそうな笑みを浮かべていた。

 そう、走るのが楽しくて楽しくて仕方ない――そんな、子供のような純粋な笑み。

 ぱっちりとした大きな瞳を輝かせて、脇目も振らずにトレーニングコースを楽しそうに走る、名前も知らないそのウマ娘の横顔が、なんだかやけに、印象に残った。

 

       * * *

 

 それから2週間ほどは、トレセン学園でのトレーナー見習いとしての慌ただしい新生活に手一杯で、なかなか個々のウマ娘に注目するどころではなかった。

 ようやく仕事のリズムが掴めてきて、余裕が出てきた10月上旬の日曜日。私はトレセン学園に隣接する、東京レース場を訪れていた。

 今日のメインレースはGⅡ、芝1800メートルの毎日王冠。3週間後の天皇賞(秋)や、11月のマイルチャンピオンシップといった秋のGⅠ戦線を目指すシニア級の有力なウマ娘が集まる、GⅡの中でも注目度の高いレースである。特に今年は、5月のヴィクトリアマイルの勝者・ネレイドランデブーと、6月の安田記念の勝者・トンボロが共に秋の始動戦にこのレースを選択、二強対決に大きな注目が集まっていた。

 東京レース場は、いつの間にかGⅡとは思えない大観衆で埋まっている。いよいよパドックに、メインレースの出走ウマ娘が姿を現す――というところで、飲み物の買い出しから戻る途中の私の耳に、騒がしい女の子たちの嬌声が聞こえてきた。

 

「クマっち、エーちゃん! ほらほら、もうビー姉の出番来ちゃうじゃん! 早く早く!」

「そ、そんなに慌てたら危ないよ、コンプちゃん」

 

 私の横を、小柄な栗毛のロングヘアーのウマ娘が駆け抜けていき、栗毛をベリーショートにしたウマ娘がそれを追いかける。トレセン学園の制服を着ていたので、ふたりとも学園の生徒なのだろう。知り合いが毎日王冠に出るのだろうか。

 

「ま、待って~、コンプちゃん、エチュードちゃ~ん……わわわっ!」

 

 と、さらにもうひとり、私の背後からやってきたウマ娘が、私にぶつかりそうになってよろける。咄嗟に身体を捻ってその手を掴むと、そのウマ娘は大きな瞳をきょとんと見開いて私を見上げた。

 褐色の肌をした、芦毛のロングヘアーのウマ娘だった。腰のあたりでロールした長い髪を揺らすその姿に見覚えがある気がして、私は目をしばたたかせる。

 

「あっ、ご、ごめんなさい!」

「ううん、そっちこそ大丈夫? この混雑の中でウマ娘が走り回ったら危ないよ」

「はい、ごめんなさい! コンプちゃん、待ってよ~」

 

 ぺこりと私に頭を下げて、それからそのウマ娘はまた小走りに先程の少女たちを追いかけていく。どうやら友達同士で一緒に観戦に来ているようだが……。

 ――人混みの向こうで、友達に追いついたその子の横顔を見て、私は思い出した。

 あの子だ。トレセン学園に配属されたあの日、新人トレーナーの群れに目もくれず、楽しそうに走っていた――あの子。

 

 

 

 なんとなくその子のことが気になって、私はその三人組の後ろ姿が見えるあたりからパドックを眺めることにした。パドックには出走ウマ娘たちが順番に姿を現していく。一番人気はやはり、ヴィクトリアマイル覇者のネレイドランデブー。仕上がりの良さそうな姿に、ファンからも歓声があがる。

 しかし、3人組の目当ては一番人気ではないらしい。

 

『9番、ビウエラリズム。7番人気です』

「あっ、ビー姉! がんばれー!」

 

 そのウマ娘がパドックに姿を現した瞬間、3人組の一番小柄な子――コンプちゃん、と呼ばれていたウマ娘が両手をぶんぶん振って大きな声を上げる。距離的にその声が届いたわけではないだろうが、パドックのビウエラリズムが微笑んで手を振り返した。

 どうやら彼女たちは、身内の応援に来ているらしい。しかし、こんな遠いところから見なくても、選手の身内であれば控え室や地下バ道にも入れるのだが……。

 ビウエラリズム――手元のスマホで今日の出走表を見る。前走は先月の京成杯オータムハンデキャップを3着。戦歴を見ると、マイルで条件戦を2勝、OP特別を1勝しているが、重賞では2着が最高のようだ。あまり大負けもしておらず、安定して掲示板には入るものの、なかなか勝ちきれない――そういうタイプのウマ娘らしい。

 

「うー、よく見えない!」

 

 小柄なウマ娘がぴょんぴょんと飛び跳ねている。他のふたりも観客に視界を塞がれて、どうにかパドックがよく見える場所を探そうと視線をさまよわせていた。

 見かねて、私は3人に近付く。たぶん、地下バ道への行き方を知らないのだろう。

 

「あの……君たち、トレセン学園の生徒だよね?」

 

 私がそう声を掛けると――三者三様の反応が返ってきた。

「ふえ?」芦毛のウマ娘が、きょとんとした顔で振り返り。

「ひゃぁっ!?」ベリーショートのウマ娘は、怯えたように芦毛のウマ娘の背後に隠れ。

「のわっ、不審者!」小柄なウマ娘が、身構えて険しい顔で私を睨み付ける。

 思わず私はホールドアップ。こんなところで不審者扱いされてはたまらない。

 

「こ、コンプちゃん、い、いきなり不審者扱いは失礼じゃないかな……」

「知らない人から声を掛けられたら不審者だって思えってママがいつも言ってるもん!」

 

 頬を膨らませる小柄なウマ娘。と、芦毛のウマ娘が私の顔を見て「あ」と声をあげた。

 

「さっきの……。コンプちゃん、このひと悪いひとじゃないよ?」

「えー?」

「わたしがぶつかりそうになったとき、転びそうになったの支えてくれたもん。さっきはありがとうございました!」

 

 ぺこりと芦毛のウマ娘が改めて頭を下げる。毒気を抜かれたようで、小柄なウマ娘は唸りながら口を尖らせつつ、まだ私を不審そうな顔で見つめる。

 やれやれ。私は襟につけている、学園のトレーナーの証であるバッジを3人に見せる。

 

「あ……そのバッジ、学園の……と、トレーナーさん……?」

「えー!? 不審者じゃなくて!? わわわっ、ごっ、ごめんなさい!」

 

 ベリーショートのウマ娘が最初に理解してくれ、小柄なウマ娘が慌てた様子で頭を下げる。「いやまあ、配属されたての新米だけどね」と私は肩を竦めた。

 

「ふえ? トレーナーさんってことは、私たちスカウトされるの?」

 

 きょとんと芦毛のウマ娘が首を捻る。

 

「ヒクマちゃん、それは選抜レースの後の話だよ……」

「いやいや、きっとこのあたしの実力を噂に聞いて選抜レース前から唾をつけにきたんでしょ! さすが目が高いトレーナーね!」

 

 小柄なウマ娘がドヤ顔で胸を張るが、残念ながら彼女の名前も私は知らない。

 

「いや、そういうわけじゃ……」

「えー!?」

「ええと、3人とも、身内が出てるなら地下バ道で応援の声かけに行かない? 今から行けば間に合うと思うけど……そのあとはもっと近くでレースも見られるし」

 

 私の言葉に、3人は顔を見合わせ、

 

「いいの!?」

 

 目を輝かせて身を乗り出してくる。

 私が頷くと、「やったー!」と満面の笑みでハイタッチし始める。ここまで喜ばれるとは、声を掛けた甲斐があるというものだ。

 

「じゃあ、案内してあげる。……でもその前に、名前、教えてくれないかな?」

 

 そう問いかけると、3人はこちらを向き、

 

「あたしの名前はブリッジコンプ! 伝説を作るウマ娘になるから、スカウトするなら今のうちだからね!」

 

 小柄なウマ娘が、またドヤ顔で胸を張り、

 

「……え、えと、リボンエチュード……です」

 

 ベリーショートのウマ娘は、おどおどと顔を伏せたまま消え入りそうな声で名乗り、

 

「わたし、バイトアルヒクマ! よろしくね、トレーナーさん!」

 

 褐色の肌をした、芦毛のウマ娘は――満面の笑顔で、そう名乗った。



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第2話 光さす場所

 東京レース場、地下バ道。ターフの歓声はまだ遠く、ひんやりとした無機質な通路は、華やかなレースの光景とはひどく対照的だ。パドックからコースへ向かうウマ娘たちは、ここでそれぞれに気持ちを入れ直し、光差すターフへと駆け出していく。

 そんなウマ娘たちを見送り、声を掛けるために、担当トレーナーはもちろん、許可を得たウマ娘の姿もここにはある。私は観客席で見かけた3人のウマ娘を連れて、そのひんやりした空間に足を踏み入れていた。

 

「うわあ、前に見学で来たときとは全然雰囲気違う!」

「……レース前だもん。あのときはレースのない日だったし……。あ、あんまり騒いだら迷惑だよ、コンプちゃん」

 

 ブリッジコンプがはしゃいだ声をあげ、リボンエチュードがそれを諫める。バイトアルヒクマは、興味津々といった様子で大きく目を見開いて、あたりをキョロキョロと見回していた。地下バ道なんて、見回してもそう面白い空間じゃないと思うけれど……。

 ともあれ、他の毎日王冠出走ウマ娘がそれぞれにレース直前の時間を過ごす中、私たちはほどなく、ビウエラリズムの姿を見つけた。担当トレーナーの姿は見えない。参ったな、と思う。できれば彼女の担当トレーナーに話は通しておきたかったのだけれど……。

 

「ビー姉!」

「え? あらあら~、コンプちゃん? クマちゃんとエチュードちゃんも、わざわざこんなところまで来てくれたの~?」

 

 ブリッジコンプが駆け寄り、振り返ったビウエラリズムは驚いたように私たちの姿を見つめた。ここに来るまでに話は聞いていたが、彼女はブリッジコンプの姉なのだそうだ。

 

「そちらは~?」

「学園のトレーナー。案内してくれたの!」

「あらあら~、コンプちゃんがご迷惑お掛けしてすみません~」

「いや、誘ったのは私なので……。迷惑ではありませんでしたか」

「いえいえ~、気合いが入り直しました~。コンプちゃん、お姉ちゃん頑張るね~」

「うん! 負けるなビー姉! GⅠウマ娘なんか差しきっちゃえ!」

「あの……お、応援してます……」

「ふぁいとー、おー!」

 

 3人の声援に、ビウエラリズムはゆっくりと頷くと――その顔に浮かんでいた穏やかな笑みが消え、引き締まった表情でコースへ通じる光の方へ向き直った。その背中はもう、レースへ挑むウマ娘の、覚悟を決めたもののそれだった。

 わざわざ声を掛けに来るまでもなかったのかもしれない。当たり前か。負けるために走るウマ娘はいない。どんなウマ娘だって、レースに出る以上は、一着を目指しているのだ。

 その背中が、光り輝くターフへと消えていくのを、3人は黙って見送っていた。勝負に向かうウマ娘の雰囲気というものを、この3人も彼女たちなりに肌で感じたのだろう。

 

「ビー姉、すごい気合い入ってた……ううっ、今度こそ勝てるぞー!」

「……うん、きっと勝てるよ」

 

 ぶるるっ、と拳を握って震えるブリッジコンプと、静かに頷くリボンエチュード。

 そして、バイトアルヒクマは――。

 

「……ヒクマちゃん?」

「う、うううう~~っ、走りたいっ! わたしも走る~っ!」

 

 突然、万歳するように両手を広げ、そしてターフの光の方へ走り出そうとする。

 

「わっ、だ、ダメだよヒクマちゃん! 出走選手以外はコースは立入禁止だよ!」

「あー、まーた始まった、クマっちのいつもの」

 

 慌ててリボンエチュードが羽交い締めにし、ブリッジコンプが呆れ顔で息を吐く。

 

「う~っ、離してエチュードちゃん、わたし走りたい! 走る!」

「走ってもいいけどコースに出ちゃダメだってば……!」

 

 じたばた。もがくヒクマと抑えるエチュードを、私は目をしばたたかせて見つめた。ウマ娘が本能的に走りたがるものであるのは理解しているけれども――。

 光差すターフを見つめる、バイトアルヒクマの瞳は。

 今までに私が見た、どんなウマ娘の瞳よりも、キラキラと輝いている。

 

「あー、クマっちテンション上がると状況関係なくあーなっちゃうの。気にしないで」

 

 ブリッジコンプが私にそう言って、「ビー姉の邪魔しない!」とバイトアルヒクマの頬を引っ張る。

 

「いひゃいいひゃい~、う~、コンプちゃんひどい~」

「はいはい、落ち着いた?」

「むー……」

「ほら、トレーナーも呆れてるよ」

 

 ――そんなことはない。とは、口には出さなかったけれども。

 走りたい、という衝動を持て余したように両手をぶんぶん振るバイトアルヒクマの姿に、この子のトレーナーは苦労しそうだなあ、と思った。

 そしてその苦労は、きっととても楽しいだろうな、とも、思った。

 

 

 

 ともあれ、その後は関係者用のコースにほど近い最前列のスペースを確保して、私たちはレースの様子を見守った。3人は柵から身を乗りださんばかりに、目の前で繰り広げられる第一線のウマ娘のレースを、一瞬たりとも見逃すまいと見入っていた。

 

『さあ3番ネレイドランデブー逃げる逃げる! 後続を5バ身以上離して第4コーナーへ! 後続は追いつけるのか!

 さあ直線に入る! 来た来た来た、内を突いて7番トンボロがすごい勢いで上がって来た! 外からは13番ガーリースマイル、9番ビウエラリズムも追い込んでくる!

 しかし抜けた抜けた、トンボロ速い速い! ネレイドランデブーにみるみる迫る! さあ坂を上る! 後ろは伸びない! これは完全に二強の一騎打ちだ!

 トンボロ先頭か! しかしネレイドランデブーも差し返す! これは大接戦だ!

 2人並んで、ゴールインッ! どっちだーッ!?

 ネレイドランデブーかトンボロか、ややネレイドランデブー体勢有利か! 3着争いも接戦!

 ……掲示板!』

 

 どよめきの中、掲示板に数字のランプが灯る。

 1着――3番、ネレイドランデブー。

 それを確かめて、スタートから先頭で逃げ切ったウマ娘が高々と拳を突き上げ、僅かに及ばなかった2着のウマ娘がばったりと芝生の上に倒れこんだ。勝者と敗者が分かたれる、残酷な一瞬に、スタンドから大歓声が湧き上がる。

 そして、その影で――9番、ビウエラリズムの番号は、掲示板の一番下、5着に辛うじて映り込んでいた。膝に手を突いて、ビウエラリズムはその掲示板を見つめている。

 

「あああー、ビー姉5着かぁー!」

「……残念だったね。いけそうだったのに……」

 

 ブリッジコンプががっくりとうなだれ、リボンエチュードも肩を落とす。重賞未勝利のウマ娘が、GⅠウマ娘2人の出てきたGⅡで入着なら充分に健闘したと言っていい――というのは、外野の見方に過ぎない。私自身、別に担当ウマ娘でもないにもかかわらず、彼女たちと一緒に応援し、そして勝てなかったことに悔しさを噛みしめていた。

 ――これが、自分の担当ウマ娘だったら。勝てなかったことへの責任を、トレーナーとして背負うのだ。その重さを感じて、私は小さく身震いする。

 そう、十数人が出走するレースで、勝つのは常にただひとり。だからこそ、勝ち続けるウマ娘は讃えられ、スターと呼ばれる。その影には、なかなか勝てずに足掻く、数多のウマ娘たちがいるのだ。誰もが必死に1着を目指しているのは同じなのに、レースの後には、結果というどうしようもなく残酷な審判が下される。

 私は――その重さに、耐えられるのだろうか……。

 知らず知らずのうちに拳を握りしめていた私は、ふと、レースが始まってからバイトアルヒクマが一言も喋っていないことに気付いた。彼女の方を振り向くと――。

 

「………………あ」

 

 バイトアルヒクマは。

 どこまでも、どこまでも綺麗な銀色の瞳を輝かせて。

 ただ真っ直ぐに――ターフに差す光だけを、見つめていた。

 

「うっ、う~~~~っ、すごい! すごいすごいすご~~~いっ!」

 

 そして、また彼女のテンションが爆発する。

 

「すごい! これがレース! これがトゥインクル・シリーズのレースなんだ! すごいすごいすごい! わたしも、わたしもここで走りたい! 走りた~~いっ!」

「うあ、また始まった!」

「ヒクマちゃん、だ、ダメだってば! コースに出ちゃダメだよ~!」

 

 ブリッジコンプがのけぞり、柵を跳び越えてコースに出ようとするバイトアルヒクマを、リボンエチュードがまたしがみついて止める。

 

「コンプちゃん、エチュードちゃん、すごいね! レースってすごい!」

「……クマっち、ちゃんとビー姉の応援してた?」

「し、してたよ! してたけど、それはそれとして! わたしもレース出たい! 早くトゥインクル・シリーズで走りたい! すごいレースで走りたい! 明日からでも!」

「ヒクマちゃん、私たちどんなに早くても、トゥインクル・シリーズに出られるのは来年からだよ……? まず選抜レースでトレーナーさんについてもらわないと……」

「来年! うううっ、長いなあ……。うー、我慢できない! わたし、学園戻って走ってくる!」

 

 と、バイトアルヒクマは踵を返してあっという間に人混みの中に消えてしまう。

 

「え? あ、ヒクマちゃん! ど、どうしよう? コンプちゃん」

「いいよもう、クマっちはほっといて。それよりあたしたちもビー姉迎えにいこ」

「う、うん……あ、あの、トレーナーさんは」

 

 リボンエチュードに見つめられ、「ついていくよ」と私は頷く。そうして二人を連れて地下バ道へ通じる関係者口の方に向かうと――。

 

「あ、コンプちゃん、エチュードちゃん、ふええええ、出られないよぉ~」

「……何やってんの、クマっち」

 

 関係者口を通してもらえず、足止めを食らっているバイトアルヒクマの姿があった。

 ――やっぱり、この子のトレーナーは、なかなか大変そうだ。

 苦笑いしながら、私はそう思った。



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第3話 選抜レース

 トレセン学園の一大行事、選抜レースは年に4回行われる。選抜レースの模様は一般にも公開され、出走ウマ娘の身内はもちろん、デビュー前のピカピカの新人ウマ娘をチェックしに訪れる熱心なウマ娘ファンも少なくない。レースには実況もつき、さすがにテレビ中継こそ無いものの、ネット配信も行われている。

 しかし何より、選抜レースの最大の目的は、トレーナーが担当ウマ娘を探し、担当ウマ娘がトレーナーを探す場であるということだ。トゥインクル・シリーズには専属トレーナーがつかない限り参加できない。どんなトレーナーだって素質あるウマ娘を担当したいものであるから、高い能力を見せたウマ娘にはトレーナーが列を為す一方、何度選抜レースに出てもトレーナーがつかず、夢破れて学園を去るウマ娘も少なくない。

 中央のトレセン学園に入学できるというだけでもウマ娘の中では充分にエリートなのだが、それをさらに容赦なく篩いにかける場。それが選抜レースだ。ウマ娘たちの戦う勝負の世界は、既にここから始まっている。

 ――そしてトレーナーにとっても、担当ウマ娘を見つけられるか、大勢のウマ娘の中から信頼関係を結べる相手と出会えるか、やはり容赦ない戦いの場なのである。

 正直なところ、新人トレーナーの私が、何のアテもないところから担当ウマ娘を見つけられるかと言われると、甚だ心もとない。だけども――。

 

「あっ、お疲れ様です!」

 

 呼びかけられて振り向くと、同期のトレーナーの姿があった。

 

「桐生院さん。お疲れ様です」

「ドキドキしますね、選抜レース。緊張もしますけれど……でも、楽しみです」

 

 私の隣に並んでターフを見渡す彼女は、桐生院葵。数々の名トレーナーを輩出してきた桐生院家の出で、養成校の試験も首席で突破し、新人ながら既にその名が知られているエリートトレーナーだ。無名の私とは本来縁のない人のはずなのだけれど、なぜか彼女の方から私に声をかけてきて、それ以来同期の友人としての付き合いが続いている。

 

「桐生院さんでも緊張しますか」

「もちろんですよ。……貴方は落ち着いてらっしゃいますね」

 

 不思議そうに桐生院さんが私を覗きこんでくる。私は苦笑して首を振った。

 

「いや、そうでもないですが……まあでも、そうですね。ひとり、気になってる子がいまして。まだちゃんと走りを見たことはないんですが、スカウトしたいと思っています」

「そうなんですか! ……実は私も、ひとり気になっている子がいるんです」

「お互い、その子の担当になれるといいですね」

「はい……そうなりたい、です」

 

 ――そう、私はもう、あの子をスカウトしようと、ほぼ心に決めていた。伝手も何もない新人トレーナーだから、他に選択肢がないんだろうと言われれば返す言葉はない。誰もが注目する有力ウマ娘の列には、私が割り込む余地はないだろう。……同期の雑談を耳にした限りでは、彼女の名前はそういった最有力ウマ娘の中には無かった。

 だけど、いや、だからこそ。――あんなキラキラした瞳で走りたがる彼女が、レースでどんな走りを見せるのか。私は純粋に、それを楽しみにしていたのだ。

 ――と、そこへ。

 

「あれ? あっ、この前のトレーナーさん!」

 

 噂をすればなんとやら。バイトアルヒクマが、私の近くを通りかかって足を止めた。体操服に4番のゼッケンをつけて、相変わらず楽しそうな笑顔を浮かべている。

 

「やっぱり来てたんだー。わたし、このあと走るんだよ!」

「うん、知ってる。芝の1600だよね」

「うん! がんばって走るから、見ててね! それじゃねー!」

 

 大きな瞳を輝かせて、バイトアルヒクマは大きく手を振って走り去っていく。その背中を見送って、――さて、と僕は手元の、今回の出走表を見下ろした。

 バイトアルヒクマ。彼女の名前は、芝1600メートル部門の第4レースにエントリーされている。短距離、マイル、中距離、どこを目指すにしても素質の見極めにちょうどいい距離だ。先日彼女と一緒にいたリボンエチュードも、同じ芝1600メートルの第5レースにエントリーしている。小柄で気の強いブリッジコンプは、中長距離志望らしく、芝2000メートルにエントリーしていた。

 

「……ひょっとして、今の子ですか?」

 

 桐生院さんが私の顔を覗きこむ。私は笑って誤魔化し、そして出走表に並ぶ名前を眺めた。――彼女の出る第4レースには、ふたつ、私も耳にした名前が並んでいる。

 

「おっ、来たぞ来たぞ!」

 

 と、近くのトレーナーたちが一斉にざわめき、その視線がコースに現れたひとりのウマ娘に集まった。もちろん、それはバイトアルヒクマ――ではない。ボブカットにした鹿毛を、額を大きく見せるように前髪を短く切りそろえた、長身のウマ娘である。凛とした表情で、小走りに現れたその姿に、トレーナーや観客のざわめきが大きくなる。

 

「エレガンジェネラルだ! エレガンジェネラルが来たぞ!」

「見て、あの長身と長くて引き締まった脚。走る姿勢も変なクセがなくてブレがない。その上性格も極めて真面目な優等生。惚れ惚れするような素材だわ。あの子は間違いなく再来年のクラシックの主役よ」

「本人はティアラ路線志望なんだろ? いいトレーナーがつけばトリプルティアラも夢じゃないんじゃないか」

「いやいや、もうひとり化け物がいるんだよ、今年のティアラ路線志望の新人には。――っと、噂をすれば、もうひとりも来たぞ」

 

 そんな声の中、エレガンジェネラルの後ろから、欠伸を噛み殺しながら歩いてくるウマ娘の姿がある。栃栗毛のショートヘアを後ろで短いテールにした、褐色肌のウマ娘。噛み殺していた欠伸が盛大に漏れて、その音にエレガンジェネラルが振り返った。

 

「もう、ジャラジャラさん! 選抜レースの前ですよ、もっとしゃきっと!」

「んなこと言ったって、眠いもんは眠いんだって。あたしはまだ寝てるっつってたのに、無理矢理起こしたのはジェネじゃんかさあ」

「いっつもそう言ってギリギリまで寝てるジャラジャラさんが悪いんです! 選抜レースのときまで遅刻寸前なんて絶対ダメですから! 貴方のおかげで私まで何回遅刻しそうになったと思ってるんですか」

「別に、いつも先行っていいって言ってんのに」

「そういうわけにはいきません。ルームメイトに遅刻の常習犯になられたら私まで迷惑なんですから。って、今はそういう話じゃないです! 眠そうな顔で選抜レースに出る人がいますか!」

「うるさいなあ。だいじょぶだいじょぶ、レースまでには眠気も覚めっから。……あふ」

 

 エレガンジェネラルに口うるさく怒られている、褐色肌のウマ娘は、ジャラジャラ。不真面目そうな態度だが、これでいてその素質は既にエレガンジェネラルと並び称され、今日の出走ウマ娘の中でも最も注目を集めているひとりだ。身体は決して大きくないが、全身のバネがものすごく、スタートで一気に加速してそのまま独走する逃げ脚質のウマ娘と聞いている。

 

「あっちはなんだか扱いにくそうなウマ娘だなあ」

「でも、素質はホンモノだって話だぜ。なんでもネレイドランデブーに併走を申し込んでクビ差だったっていうんだから」

「マジかよ? 今度のマイルCSでも本命の?」

「そうそう。さすがに向こうは全力じゃなかったとしても、デビュー前でネレイドランデブーのペースについていけるウマ娘なんて考えられるか?」

「彼女もティアラ路線志望なのよね。今の段階でエレガンジェネラルと果たしてどっちが強いのか、今日の選抜レースではっきりするということね」

 

 ――そう、この2人がまさに、今日の選抜レースの大本命だった。今の時点で既に、再来年のトリプルティアラの本命と目される、優等生のエレガンジェネラルと、気ままなジャラジャラ。2人は揃って、芝1600メートルの第4レースにエントリーしていた。そう、バイトアルヒクマと同じレースである。

 この2人相手に、あの子はどれだけ戦えるのだろう?

 バイトアルヒクマの姿を探すと、いた。見覚えのあるウマ娘ふたりと何やら話している。体操服姿でもすぐに解った。先日も一緒だったリボンエチュードとブリッジコンプだ。

 

「う、うう……緊張するよお……。みんな見てる……ど、どうしよう、ヒクマちゃん、コンプちゃぁん」

「そんなの、この場の全員あたしにひれ伏させてやればいいの!」

「おー、コンプちゃんふぁいとー! わたしもがんばるー!」

「……うう、このふたりに相談したのが間違いだったぁ……。で、でも、ヒクマちゃん大丈夫? なんだか、ヒクマちゃんと一緒に走るの、凄い人たちみたいだよ?」

「ふえ、そーなの? おおー、たのしみー!」

「そうそう、クマっちその意気! エーちゃんも見習う! 最強のウマ娘になるなら選抜レースぐらい圧勝楽勝、100バ身差ぐらいつける意気でいくの!」

「ひゃ、100バ身は物理的に無理だよ絶対……。ヒクマちゃんはなんで緊張しないの?」

「え? だって、楽しみだもん! あーっ、早く走りたい! うーっ、もう走る!」

「クマっちは順番まだだってば」

 

 走りだそうとしたところを、ブリッジコンプに体操服の裾を掴まれて、バイトアルヒクマはじたばたと両手両足を動かして呻く。――どうやら、この選抜レースの舞台でも彼女は相変わらずらしい。

 と、そこへ会場内へアナウンスが流れる。

 

『芝2000メートル、第2レース出走者は第2コースでご準備ください』

「おっと、あたしの出番だ! じゃ、クマっち、エーちゃん、行ってくるね! ズバッと逃げ切ってくるから!」

「おー! コンプちゃんがんばれー!」

「が、がんばってね……」

 

 意気揚々とコースへ向かうブリッジコンプを、ふたりが手を振って送り出す。――と、そのブリッジコンプの前に、立ち塞がる影があった。

 鹿毛を2本の三つ編みにしたウマ娘が、ブリッジコンプの前に仁王立ちする。

 

「ふっふっふ、待ってたぞブリッコ! 今日はボクがお前をたおーっす!」

「ブリッコ言うな、ツルツル滑太郎! アンタなんかに負けるあたしじゃないのよ!」

「滑太郎言うな! ボクの名前はデュオスヴェル!」

「滑ってんじゃん」

「滑ってない! むがー、ブリッコのくせにー!」

「あたしはブリッジコンプだっての! ブリッコ言うな!」

 

 睨み合うふたり。まるで子供の喧嘩だ。出走表を見ると、ブリッジコンプと同じ芝2000メートルのレースに、デュオスヴェルの名前があった。

 

「もー、スヴェルちゃん、喧嘩しちゃダメですよ」

 

 と、その後ろからまた別のウマ娘が顔を出す。栃栗毛を二つ分けのボブカットにしたそのウマ娘は、デュオスヴェルの三つ編みを引っぱる。「ぐげ」とデュオスヴェルが呻いた。

 

「オータム! なにすんの!」

「スヴェルちゃん、犬と喧嘩は火事も食わないんですよ」

「オータムさん、それなんか色々混ざって間違ってる」

「あれ? そうでしたっけ? まあいいです。ほらスヴェルちゃん、寮に帰りますよ」

「ボクこれから選抜レースだよ!」

「ああ、そうでしたそうでした。寮に帰って選抜レースを見ましょう」

「ちがうー! ああもう、先行ってるからブリッコ! 今日はボクが勝ーつ!」

 

 脱兎のごとく逃げだしていくデュオスヴェル。ブリッジコンプは肩を竦めて、オータムと呼ばれたそのウマ娘に会釈しつつ「だからブリッコ言うなー!」と追いかけていく。オータムと呼ばれたウマ娘は、頬に手を当てて困ったようにそれを見送っていた。

 

 ――なお、その芝2000メートルの選抜レースでは。

 ブリッジコンプとデュオスヴェルのふたりが序盤から張り合うようにして完全なオーバーペースでぶっ飛ばした挙げ句、コーナーで勢い余ってふたりとも盛大に逸走。ふたりとも何とかコースには戻ったものの、デュオスヴェルは走る方向を間違え、ブリッジコンプは完全にスタミナが尽きてヘロヘロのまま、ブービーとビリでゴールインしていた。

 

       * * *

 

 そんな微笑ましい(?)一幕はさておき。

 いよいよ本題の芝1600メートル、第4レースの出走が近付いてきていた。

 選抜レースでは本格的なものではないが、ウマ娘のゲート適性も見せるために簡易ゲートが使われる。ウマ娘にはなぜかこのゲートに入るのを極端に嫌がったり、ゲートが開く前に体当たりしてしまったりする子がいるため、ゲート試験がある。これをパスしないと選抜レースには出られないのだが、試験はパスできても本番になるとゲート難を発症してしまう子は珍しくない。

 そもそもゲートは、ウマ娘によるレースが始まった頃に、ウマ娘が本能的に合図を待てずに走り出してしまって公平な競争がなかなか成立しなかったため、障害物としてスタート地点に長い棒を渡して、それが落ちるのをスタート合図としたのが始まりとされる。目の前に何もないターフがあると走り出したくなるのはウマ娘の本能らしく、狭いゲートを嫌がるのも広々とした芝の上こそが彼女たちの世界だからなのかもしれない。

 さて、あのレースを前にしての落ち着きの無さだと、バイトアルヒクマはひょっとしたらかなりのゲート難では、という心配はあったのだが――。

 ……結構落ち着いている。

 すんなりゲートに入ったバイトアルヒクマは、身体を捻って軽くストレッチをしている。本番が近付くとかえって冷静になるタイプなのだろうか。表情は相変わらず、勝負の前とは思えないほど明るい。

 レースは10人立て。本命のふたり、ジャラジャラは最内の1番、エレガンジェネラルは大外の10番に入った。バイトアルヒクマは4番。逃げ脚質だというジャラジャラがおそらく内からレースを引っぱるのだろうが――さて、バイトアルヒクマはいったいどんなレースをするのだろう?

 期待と、一抹の不安を胸に――。

 

『さあ、注目の芝1600、第4レース! 今回の選抜レースでも一、二を争う注目度のふたりが対決します! 1番ジャラジャラ、10番エレガンジェネラル! 最内と大外のこの2人に、間の8人は対抗できるのか? さあ、ゲートイン完了――スタートです!』

 

 ゲートが開き、10人のウマ娘がターフへと駆け出していった――。

 



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第4話 夢は世界のウマ娘!

 大方の予想通り、先陣を切ったのはジャラジャラだった。弾丸のようにゲートを飛び出し、あっという間に先頭に立つ。その瞬発力に、観客がどよめく。私も目を思わず見開いていた。これはもう、他のウマ娘とはバネが違う。

 

『やはり飛び出したのは1番ジャラジャラ! ためらうことなくハナを主張して逃げを図ります! 続くのは外から10番エレガンジェネラル! やはり注目の2人がレースを引っぱります! 二バ身離れて内から4番バイトアルヒクマ、その外6番オリジナルシャインがそれに続いていく!』

 

 そのジャラジャラに負けない好スタートで、大外からすっと上がってきたのはエレガンジェネラル。こちらは一歩一歩力強くターフを踏みしめるようなパワーのある走りだ。逃げるジャラジャラをマークするように、1バ身差の外目を追走していく。

 そして、バイトアルヒクマはそこから2バ身半ほど離れたところで3番手を争っていた。前目につける先行策で2人を追っていく――いや。

 あれは――ただ、走れるのが嬉しくて飛び出したら前に出ただけか……?

 そう、バイトアルヒクマはやはり、ひたすら楽しそうに走っていた。遠目にも彼女が、ウマ娘らしい前傾姿勢で走りながらも、今にも笑い出しそうな表情をしているのがわかる。ウェーブした長い芦毛が、切り裂く風になびいていて流れる。銀色の風――。

 この選抜レースの芝1600は、東京レース場と同じ左回りだ。直線の長さもほぼ同じ。先頭のジャラジャラが第3コーナーに入る。ジャラジャラのペースがかなり速く、後方のウマ娘は既に完全についていけていない。なんとかついていけているのは2番手のエレガンジェネラル以下、せいぜい5番手までだ。

 

『さあ前5人と後ろ5人が大きく離れました! 依然としてジャラジャラが快調に逃げていきます! 800メートルを通過、タイムは……49秒、切ったかもしれません! 選抜レースでこれはすごい! ああっと6番オリジナルシャイン後退していく! このハイペースについていけません、前4人の争いだ!』

 

 一般に、ハイペースのレースは後方有利とされている。先行組が脚を使い切ってしまうからだが――これは違う。完全に、先行組が地力で後ろを圧倒しているのだ。

 

『残り600メートルの標識を通過して直線に入る! さあ逃げるジャラジャラ、ここでエレガンジェネラルが仕掛けてきた! ぐんぐん伸びる! だがジャラジャラも粘る粘る、後ろ2人はどうだ!』

 

 直線に入り、エレガンジェネラルがスパートをかけた。このハイペースについていって、まだ仕掛ける脚が残っているのか――。だが、ジャラジャラも粘る。あれだけ飛ばして脚色が衰えない。――この2人、完全に格が違う。

 そのマッチレースを見ながら、私はぞくぞくと二の腕に鳥肌が立つのを抑えられなかった。すごい。いや、前を行く2人だけじゃない。あれが将来GIを勝つウマ娘の走りだとしても――。

 

『後ろ2人も食らいついていくが、さすがに苦しいか! 抜けた抜けた、完全に二強のマッチレースだ! さあ坂を上る! 逃げるジャラジャラ、追うエレガンジェネラル、並んだ並んだ、エレガンジェネラル差すか、ジャラジャラ粘るか、どちらも一歩も譲らない! すごいレースだ! 2人並んでゴールッ!』

 

 まるでGIのように熱の入った実況に、ゴールの瞬間、観客からも大歓声があがる。そして、私たちの周りのトレーナーたちは、一様にどよめいていた。

 

『勝ったのはジャラジャラ! 僅かにクビ差でエレガンジェネラルを抑えました!』

 

 そのアナウンスに、ジャラジャラが不敵に拳を突き上げ、エレガンジェネラルが悔しそうに首を振る。

 

「すごい、すごいぞあの2人! どっちも怪物だ!」

「この選抜レース、伝説になるぞ……!」

 

 誰もが、ほぼ同時にゴールを駆け抜けたジャラジャラとエレガンジェネラルのふたりを見つめている。どっちが勝ったかはほとんど問題ではなかった。頭抜けた走りを見せたふたりに、大歓声が注がれる。

 

『3着は7番ミニキャクタス、4番バイトアルヒクマは4着でゴール! あとは大きく離されて――ようやくゴール!』

 

 その歓声の傍らで、3着には7番の小柄な鹿毛のウマ娘が4バ身差で駆けこみ、バイトアルヒクマはさらに1バ身差の4着でゴールしていた。

 よろよろと立ち止まり、膝に手を突いて荒い息を吐く彼女の姿を見ながら、私は鳥肌の収まらない二の腕をさする。

 1600メートルでの5バ身差。それは決定的なまでの力の差だ。彼女はまだ、あの怪物ふたりには及ばない。だが――5番手以下は、さらにそこから10バ身は離されていたのである。

 5バ身差とは、タイムでおよそ0.8秒。その差は大きい。大きいが――。ジャラジャラの叩き出したタイムは、デビュー前にして既に重賞戦線で出てもおかしくないものだった。それに最後まで脱落せずについていったバイトアルヒクマ。――彼女だって、充分すぎるポテンシャルを秘めている。

 私は手元のストップウォッチを見る。バイトアルヒクマの上がり3ハロンのタイムが、そこに表示されている。――この子は、ひょっとしたら大物になるかもしれない。

 

 

 

 着順とタイムが確定すると、案の定、トレーナーたちはジャラジャラとエレガンジェネラルのところへ一気に集まっていく。あの走りを見せられれば、誰だってあの2人をスカウトしたいと思うだろう。

 

「うおっ、なんだなんだ?」

「スカウトに決まってるでしょう、ジャラジャラさんが勝ったんですから」

「うえー、いやこんな大勢で来られても困るって。ジェネ、あとは任せた!」

「あっ、ジャラジャラさん! なんで逃げるんですか、スカウトされるための選抜レースでしょう! って、えっ、ちょ、ちょっと待ってください、私もですか?」

 

 大挙して押し寄せるトレーナーにジャラジャラが逃げだし、エレガンジェネラルがあたふたと対応する、その喧噪を横目に見ながら――私は、バイトアルヒクマに歩み寄った。

 レースの終わったターフの上にひとり残り、深呼吸するように顔を上げて空を仰いでいた彼女は、歩み寄ってくる私に気付いて振り返る。

 

「あっ、トレーナーさん!」

「おつかれさま。選抜レース、どうだった?」

 

 私がそう訊ねると、彼女は――その銀色の瞳を大きく見開き、こちらに身を乗り出して。

 

「す――っっっっっごく、楽しかったぁ~~~~っ!」

 

 ばっと大きく両手を広げて、満面の笑みでそう歓声をあげた。

 

「あのねあのね、芝生がすっごく綺麗でね、風がすごく気持ち良くて、もうどこまでだって走っていけそうだったの! 前を走ってる子がすっごく速くてね! 一生懸命追いかけてったら、ぐんぐん前に進んでいってね! いけるいけるって、こんなに気持ち良く走れたの初めてだよ! これなら負けないって、絶対追いつけるって、一着でゴールするんだって、絶対絶対、勝てるって思った――んだけど……」

 

 目を輝かせて、夢中になってそう語っていたバイトアルヒクマの口調が、不意にトーンダウンする。

 

「どれだけ走っても……全然追いつけなくて……どんどん、先のふたりの背中が遠くなっていって、わたし、すっごく楽しかったのに、すっごく気持ち良く走れたのに、今までで一番速く走れたはずなのに、全然、前に、出られなくて、」

 

 そして――バイトアルヒクマのその笑顔が、くしゃりと歪んだ。

 

「うっ、……ううううううっ、う~~~~~~~っ! くやしい! すっごく、すっごくくやしい! 勝てると思ったのに! 絶対勝てると思ったのに! 全然追いつけなかった! 楽しかったのに! すっごく楽しかったのに、すっごくくやしい!」

 

 目尻に涙を浮かべて、彼女は両手をぶんぶんと振って、ぎゅっと唇を引き結ぶ。

 その表情を見た瞬間、私は――たぶん、トレーナーとして以上に、この子の。バイトアルヒクマという、変わった名前のウマ娘の、ひとりのファンになっていた。

 勝ちたい。この子を、あの2人に勝たせてあげたい。今はまだ5バ身の、いやひょっとしたらそれ以上の力の差がある。でも、この子なら――。

 この泣き顔を、本当の笑顔にしてあげるために、私にしてあげられることがあるのなら。

 

「――だったら、一緒に、あの2人に勝とう!」

 

 私の言葉に、バイトアルヒクマはきょとんと顔を上げた。

 

「ふえ? え? それって――えと、わたしを、スカウトしてくれるってこと?」

 

 私が頷くと、彼女は両手を広げてのけぞる。

 

「え、えっとえっと、ええええええっ!? い、いいの? わたし、あんなに離されて負けちゃったんだよ?」

「たった5バ身差、1年あれば埋められる! 君ならきっとできる!」

「ほ、ホント? わたし、1着になれる?」

「なれる! なろう! あのふたりを倒して、トリプルティアラのウマ娘になろう!」

 

 気付けば、私の方が身を乗り出していた。無意識に彼女の手を掴んでいた私を、バイトアルヒクマは目をしばたたかせて見つめ返し――。

 

「……世界のウマ娘にも、なれる?」

「世界?」

「うん。世界一のレースに出られる、ウマ娘になれるかな、わたし」

 

 ――世界一のレース。フランスの凱旋門賞、イギリスのキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス、ドバイのドバイワールドカップ。世界の超一流ウマ娘たちが集まる、間違いなく世界最高峰のレースたち。

 世界のウマ娘――ああ、なんてワクワクする響きだろう。新人トレーナーが抱くには大きすぎる夢かもしれない。だけど、それが彼女の夢なら。その大きな夢を、私は一緒に背負いたい。

 

「なろう! 世界のウマ娘に!」

 

 私の返事に――バイトアルヒクマは。

 その顔に、私があの日、最初に彼女を見た瞬間から目に焼き付いた、笑顔を浮かべた。

 満面の、ただただ前と夢だけを見つめる、その笑顔に、私は夢を見たのだ。

 

「うんっ! よろしくお願いします、トレーナーさんっ!」

 

 

 

 こうして、バイトアルヒクマと、世界のウマ娘を目指す日々が始まった――。



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第1章 デビュー目指して!
第5話 バイトアルヒクマ登場!


 いよいよ今日から、バイトアルヒクマとトゥインクル・シリーズに挑む日々が始まる。

 目下のところ、まずは6月以降のジュニア級メイクデビューへ向けて、本格的なトレーニングを積んで行くことになる。トレーニングの指導はもちろんのこと、その成長具合と適性を見極めながらデビューの日程を決め、その先の目標へ向けてのスケジュールを組み立てていくのが、トレーナーである私の役目だ。

 ひとくちにトゥインクル・シリーズでの活躍と言っても、その形は多種多様だ。特にクラシック級においては、皐月賞・日本ダービー・菊花賞の三冠路線を目指すのか、桜花賞・オークス・秋華賞のティアラ路線を目指すのか、どちらに進むかが非常に重大な決定になる。中長距離が適性に合わないようであれば、NHKマイルカップ、安田記念、マイルチャンピオンシップを目標にしたマイル路線や、九月のスプリンターズステークスを目指す短距離路線に進むことになる。

 さらにその先、三冠路線に進んだウマ娘にとっては、シニア級では春と秋の天皇賞制覇が栄誉になるし、ティアラ路線ならヴィクトリアマイルとエリザベス女王杯がそれに替わる。どちらの路線にしても海外挑戦を意識するならジャパンカップ。そしてもちろん、ファンによって選ばれる六月の宝塚記念と年末の有馬記念に出走することは、ファンあってのトゥインクル・シリーズにおいて何よりも大きな意味をもつ。

 もちろんこれはGⅠ級の素質を持ったウマ娘の話であるが、バイトアルヒクマにはそれだけの素質があると私は確信している。いずれにせよ、やはり最も大きな目標を定め、それに向かってステップを踏んでいけるように逆算して目標を立てていくのが無難だろう。

 そんなわけで、まずはバイトアルヒクマと、目標についてもっと具体的に話し合おうと思っていたのだが――。

 

「…………来ない」

 

 トレーナー室に来るように伝えてあったはずだが、時間になってもバイトアルヒクマが現れない。何かあったのだろうか? まさか、初日からいきなりサボりでもあるまいし。そんな不真面目な子には見えなかったが……。スマートフォンに連絡も入れてみたが、電話に出る気配はない。

 ……ひょっとしたら、どこかで時間を忘れて走っているのかもしれない。

 レースを見ているとき、レースで走っているときの彼女のあの、キラキラした銀色の瞳を思い返せば、それは充分にありそうなことに思えた。

 やれやれ、仕方がない。入れ違いになったときのために、ドアに書き置きを張り紙しておいて、私はトレーナー室を出て彼女を探しに行くことにした。

 

 

 

 まずは中等部の教室の方に向かってみたが、とうに授業は終わっており閑散としていた。グラウンドでは大勢のウマ娘がトレーニングしているが、あの特徴的な長い芦毛と褐色の肌は見当たらない。となると――。

 カフェテリアへと向かってみると――いた。設置された大型テレビの前に立って、身じろぎもせずに画面を見つめている。どうやら、テレビで何かを見ていて約束の時間を忘れたらしい。しかし、今日は平日だ。ローカルシリーズのレースでも見ていたのだろうか?

 

『ファイフリズムとドラグーンスピア、ドバイへ向けた2人の挑戦は続く――』

 

 ちょうど番組が終わったところらしく、画面がCMに切り替わる。直前に聞こえてきた名前には聞き覚えがあった。ファイフリズムとドラグーンスピア――。

 ああ、と思い当たる。どちらも先日、3月のドバイワールドカップに招待されたダート路線のウマ娘だ。手元のスマホを見ると、ちょうどこの時間のワイドショーで、ふたりの特集が放送されていたらしい。

 

「ヒクマ」

 

 背中に声を掛けると、バイトアルヒクマはきょとんとした顔で振り返り――私の顔を見て、目をまん丸に見開くと、壁に掛かった時計を見やって「あーっ!」と口元に手を当てて叫んだ。約束の時間を過ぎていることを思い出してくれたようだ。

 

「ごっ、ごめんなさいトレーナーさん! あうう……」

「いや、いいんだけど。――ひょっとして、君が言っていた世界一のレースって、ドバイワールドカップのことだった?」

 

 頭を下げるヒクマに私がそう問うと、彼女は少し困ったように眉尻を下げた。

 

 

 

 場所は変わって、トレーナー室。

 

「わたし、生まれたのはあの国なの。赤ん坊の頃に日本に来て、それからはずっと日本だから、向こうの記憶は全然ないし、向こうの言葉も全然話せないんだけど」

 

 世界一のレースに出られる、世界のウマ娘。

 あの選抜レースの日、彼女が語ったその夢の話を、まずはしてもらうことにした。

 

「でもね、お父さんとお母さんからあの国のお話はいつも聞いてたの。砂漠の中の大都市、そこで開かれる、世界で一番大きなウマ娘レースのこと。わたしのお母さんもね、そこで走ったことがあるんだって!」

 

 ドバイミーティング。3月にアラブ首長国連邦最大の都市ドバイで開かれる、国際招待ウマ娘レースだ。開催されるレース全てがGⅡ以上、国際GⅠレースが1日に5つも開かれ、世界中から最強を自負するウマ娘が集まる、まさに世界最高のウマ娘レースである。

 その中でも最後のメインレース、ダート2000メートルのドバイワールドカップは、まさに世界一のレースと呼ばれるに相応しい規模と人気を誇る。日本では芝に比べてダートの注目度はあまり高くないが、それだけにダート路線のウマ娘にとっては、ドバイワールドカップに招待されることは最大の名誉であり、そこで勝利することは日本ダート界の大目標と言ってもいい。過去、ドバイワールドカップを勝利した日本のウマ娘はただひとりしかいないのだ。

 

「だから、ドバイワールドカップに出たい?」

「あ、ううん、違うの違うの!」

 

 私がそう問いかけると、ヒクマは慌てたように首を横に振る。時間を忘れるほど、ドバイワールドカップに挑むウマ娘の特集に見入っていたのだから、そういうことなのかと思ったが――。

 

「わたしが出たいのは、同じ日の芝のレースの方! 芝2410メートルの、ドバイシーマクラシック! お母さんが走った世界一のレースで、わたしも走りたい!」

 

 なるほど、そういうことか。

 ドバイシーマクラシックは、ドバイワールドカップのひとつ前に行われる、ドバイミーティングの第八レースだ。世界一かどうかはさておき、世界的な大レースであることに変わりはない。

 バイトアルヒクマ――最初に聞いたときにはアルバイトするクマかと思ってしまったが、彼女の名前はアラビア語で「知恵の館」を意味する。アラブ生まれ日本育ち、アラビア語の名前を持つウマ娘が、母の走ったドバイの舞台に挑む――。

 ドバイのメイダンレース場を走るバイトアルヒクマの姿。それは――なんて、挑み甲斐のある大きな夢だろう!

 

「わかった! 一緒にドバイを目指そう!」

 

 私が拳を握りしめて頷くと、ヒクマはその目を大きく見開いて、それから満面の笑顔になって頷いた。

 

「うん! がんばるぞー! えい、えい、おー!」

 

 目を輝かせ、元気いっぱいに右手を突き上げるヒクマ。その天真爛漫で曇りのない瞳を見ていると、この子のトレーナーになれて良かったと、そう思うのだった。

 

 

 

 とは言うものの。

 現実的に考えて、ドバイミーティングに参加できるとすれば、早くともシニア級の2年目のことになる。それまでに、まずは国際GⅠレースに招待されるぐらい、国内で充分な実績を積まなければならない。

 

「で――とりあえず、クラシック級はティアラ路線を目指すってことでいいんだよね?」

 

 ドバイシーマクラシックは大目標として、そこへ向かってどんな風にステップを踏んでいくかが重要だ。

 先日の選抜レースで4着に終わったバイトアルヒクマだが、その上位2着を争ったのが、この世代の大本命と言われているふたりのウマ娘。ジャラジャラとエレガンジェネラルだ。エレガンジェネラルは既にトレーナーが決まり、ティアラ路線を目指すことを正式に表明している。ジャラジャラはまだトレーナーが決まっていないそうだが、本人はティアラ路線志望を元から公言しているそうだから、決まり次第正式表明となるだろう。

 あのレースで見せた頭抜けた素質からしても、このふたりが世代を牽引することになるのはほぼ間違いない。強敵ふたりが待ち構えているティアラ路線を敢えて選ばずとも、今のところズバ抜けたウマ娘はいないと言われている三冠路線に向かうという選択肢もあるが――。

 

「うん! だってあのふたりともティアラ路線なんだよね?」

「ジャラジャラと、エレガンジェネラルね」

「だったらわたしもそっち! この前は負けちゃったけど、今度は勝つぞー!」

 

 迷いなくバイトアルヒクマはそう言い切る。強い相手との勝負を避けるという考えはハナから存在しないらしい。天真爛漫に見えて、その実、この子はかなりの負けず嫌いなのか。それとも本当に無邪気に自分の才能を信じているのか――。いずれにしても、本人がそれを望むなら、応えてあげるのがトレーナーの役目だろう。

 

「じゃあ、ジュニア級の目標は、12月の阪神ジュベナイルフィリーズだね」

「わ、GⅠだ!」

 

 阪神JF。年末に阪神レース場で行われる、翌年のティアラ路線に向かうウマ娘の、ジュニア女王決定戦だ。トリプルティアラ第1戦の桜花賞と全く同じ、阪神の芝1600メートル。おそらく、ジャラジャラもエレガンジェネラルもまずはそこを目指すだろう。

 

「トレーナーさん、いきなりGⅠって大丈夫なのかなあ?」

「いや、もちろんまずはデビューして、いくつかレースに出て実績を積むのが前提だけどね。あのふたりに追いつくなら、そのぐらいの意気込みでいこう!」

「うん、わかった! よーし、GⅠに出るぞー!」

 

 えい、えい、おー! とまた気合いを入れるバイトアルヒクマ。何にしても、やる気があるのはいいことだ。それじゃあ、目標の共有もできたところで、今後のトレーニングメニューについて――。

 

「う~~~っ、走りたくなってきた! トレーナーさん、わたし走ってくるね!」

「え? あ、ちょっと、ヒクマ!?」

 

 昨日のうちに作っておいたトレーニングメニュー表を出そうとした瞬間、バイトアルヒクマは勝手にトレーナー室を飛び出していってしまった。「GⅠに出るぞー! がんばるぞー!」という彼女の歓声がどんどん遠ざかっていく。

 目標は大きく、やる気も負けん気も充分。なのだけれども……。

 ――やっぱり、この子のトレーナーをするのは、結構大変かもしれない。

 改めてそう思いつつ、私は慌ててその背中を追いかけるのだった。

 



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第6話 自分の走り方

「よーし、ヒクマ! 坂路もう一本行こうか!」

「はーい! いってきまーす!」

 

 バイトアルヒクマとトレーナー契約を結んで1ヶ月。メイクデビューへ向けたトレーニングはまずまず順調に進んでいた。練習態度は真面目だし、こちらの指導の吸収も早い。集中力がありすぎてときどきこちらの声が聞こえなくなるのが玉に瑕だが、思っていたよりも手の掛からない子である。タイムも少しずつ伸びており、自分の指導でウマ娘がちゃんと成長していると実感できて、トレーナーとしても毎日が楽しい。

 

「ふいー……。よーし、坂路おしまい! トレーナーさん、次はなにするの?」

「そうだなあ……」

 

 思案していると、「おーい! クマっちー!」と背後から聞き覚えのある声。

 

「あ、コンプちゃん、エチュードちゃん! やっほー!」

 

 ヒクマが笑顔で手を振る。振り返ると、彼女の友達であるブリッジコンプとリボンエチュードの姿があった。ふたりとも体操服姿。どうやら合同トレーニングが終わった足で、そのままヒクマの様子を見に来たらしい。

 ふたりとも、先日の選抜レースに参加していたが、ブリッジコンプは派手な逸走もあって最下位、リボンエチュードもあまり見所なく6着に終わっており、どちらもまだ専属トレーナーは見つかっておらず、次回の選抜レースを目指して同じ立場のウマ娘たちと合同トレーニングに励んでいる。

 

「ちょうどいいタイミングだし、休憩しようか」

「はーい!」

 

 ヒクマが笑顔でふたりのところへ駆けていく。友人同士の休憩時間を邪魔しない方がいいだろう、と私がひとりで一息入れていると、「トレーナーさーん!」とヒクマがとって返してきた。

 

「どうしたの?」

「エチュードちゃんが、トレーナーさんになにか相談したいんだって」

「リボンエチュードが?」

 

 思わぬ言葉に、私は首を傾げた。

 

 

 

 リボン家といえば、数多くの名ウマ娘を輩出してきた名門である。

 ヒクマのトレーナーになってから知ったのだが、リボンエチュードはその名前が示す通り、リボン家のお嬢様らしい。

 

「お、お嬢様なんてそんなことないのに……私なんか、リボン家の落ちこぼれだし……。スレノディさんに比べたら全然……」

「あーもう、まーたエーちゃん後ろ向きモード入っちゃってるし」

 

 視線を俯けて消え入りそうな声で言うエチュードに、ブリッジコンプが口を尖らせる。

 スレノディ、というのは、去年デビューして今年はトリプルティアラに挑む、リボンスレノディのことだろう。小柄ながら既にジュニア級の重賞を勝利している。昨年末の阪神JFでは2着に敗れたものの、強烈な追い込みを見せて勝者のテイクオフプレーンとクビ差の接戦を演じ、今年のティアラ路線でも主役のひとりと見なされている。

 しかし、そんな名門の出なら選抜レースでももっと注目されていそうなものだが、周囲のトレーナーの間でもリボンエチュードの名前はほとんど挙がっていなかった。単に本人の自己評価が低いだけ、というわけでもなさそうだ。

 

「とゆーわけで、エーちゃんのこの後ろ向きな気性をなんとかしたいの!」

「こ、コンプちゃん、そんなこと言われても、ヒクマちゃんのトレーナーさんだって困ってるよ……」

 

 おどおどと、小柄なブリッジコンプの背後に隠れるように身を縮こまらせるエチュード。

 

「次の選抜レースで結果出さなきゃなんだから、頼れるものはなんでも頼るの! 大丈夫、クマっちの相手できるトレーナーならきっとなんとかしてくれるから!」

「コンプちゃん……うう……」

 

 ブリッジコンプの陰から、上目遣いに私を見やるエチュード。やれやれ、何やら頼られてしまった。それにしても、ブリッジコンプはヒクマをどんな問題児だと思っているのか。いや、彼女はヒクマのルームメイトなので、ヒクマの天真爛漫ぶりに普段から主に振り回されているのだろうけども。

 それはともかく、リボンエチュードである。一度選抜レースに出たことがあり、まだ専属トレーナーがついていないウマ娘であれば、トレーナーが個人的にアドバイスを送ることは禁止されていない。技術的なことであればこちらも指導するにやぶさかでないが、しかし、本人の気性の問題となると……。

 実際、そもそもの気性がレース向きでないウマ娘というのは確かにいる。バ群に囲まれるのが極端に苦手だったり、掛かり癖がありすぎたり、やたらと他のウマ娘に対して攻撃的だったり……。気性難で知られながら活躍した有名ウマ娘はたくさんいるが、それは「気性難なのに活躍した」からこそ知られているのだ。

 気性は生来のものだから、一朝一夕に変えられるものではない。持って生まれた性格ばかりはどうしようもないのだ。しかし――。

 

「とりあえず、併走してみようか。ヒクマ、大丈夫?」

「うん、いいよー!」

「え、あ、ええと……い、いいんですか……?」

「ヒクマのトレーニングにもなるしね。よろしく」

 

 私が頷くと、リボンエチュードは「……はい」と俯いたまま頷いた。

 

 

 

 というわけで、ウッドチップコースを借りてヒクマと併走させてみることにした。何しろ私はリボンエチュードの走りをちゃんと見たことがないのである。それではアドバイスも何もあったものではない。

 

「よーい、スタート!」

 

 ブリッジコンプの合図で、ふたりが同時に走り出す。前に出たのはヒクマだ。エチュードのことは気にせず好きに走って良い、とは伝えてあるが、そもそも走り出すと周りの声が聞こえなくなるヒクマである。指示するまでもなかったかもしれない。

 リボンエチュードは、その2バ身ほど後ろを追走していく。先行型のヒクマはスタートから結構速めのペースで飛ばしているが、置いていかれることもない。コーナリングも綺麗だ。だが――。

 ウッドチップコースにいた他のウマ娘たちが、ふたりの併走に注意を向け始める。コーナーを曲がりきったあたりで、ゴール付近にギャラリーが集まり始めた。

 エチュードの様子が変わったのは、そのあたりからである。直線に入ってヒクマがスパートをかけるのとは対照的に、エチュードは急に視線を彷徨わせ、脚色が鈍った。みるみる差が開いていく。

 ――結局、ゴールしたときには7バ身ほどの差がついていた。

 

「ゴーッル!」

「はあっ、はぁ、はぁ……うう、やっぱりヒクマちゃん速いなあ……」

 

 ゴール後も余力を残しているヒクマとは対照的に、エチュードは完全に息が切れていた。スタミナが無いのか、あるいはヒクマのペースについていくだけで脚を使い切ってしまったのか。……直線に入った途端に落ち着きをなくした彼女の様子が気に掛かった。

 ギャラリーは既に、またそれぞれの練習に戻っている。……ひょっとすると、彼女はヒクマとは逆に、他のウマ娘のことが気になりすぎるタイプなのかもしれない。集中力がない、と言ってしまえばそれまでだが、序盤にヒクマのペースについていったのも、ヒクマの背中を追おうとして掛かってしまったのだとすれば、あの脚色の鈍り方も理解できる。

 

「どお? トレーナー」

 

 スタート地点からこちらに走ってきたブリッジコンプが、私を見上げる。私は顎に手を当ててひとつ唸った。さて、どうしたものか。

 

「……リボンエチュードって、ひょっとしてかなり人見知りであがり症?」

「わっ、さすがトレーナー。大正解!」

 

 ブリッジコンプが目を見開く。まあ、初対面のときからの様子で、そうではないかと思っていた。ウマ娘としては、あまりレース向きとは言えない気性には違いない。

 しかし、序盤のヒクマのペースについていける脚はあるわけで、しっかり直線まで脚を残してレースに集中できれば、どんな走りを見せるのかを見てみたい、と思える。となるとやはり、問題は本人の精神的な部分になってくるわけだ。

 さて、そうすると……。

 

「ねえ、ブリッジコンプ。君、全力で逃げるタイプだよね?」

「え、あたし? とーぜん! 最初から最後までずーっと先頭走って勝つのが最強のウマ娘に決まってるじゃない!」

 

 ブリッジコンプはドヤ顔で胸を張る。それで選抜レースではデュオスヴェルと張り合って派手に逸走したわけだが、そのことは言うてやるまい。

 

「今はちょっと疲れてそうだから……そうだなあ、明日の夜、寮の門限の後に、今度は君とエチュードで併走させたいんだけど、いいかな? 寮長には私から話を通しておくから」

 

 私の言葉に、ブリッジコンプはきょとんと目をしばたたかせた。

 

 

       * * *

 

 

 そんなわけで、翌日の夜。寮の門限を過ぎているので、既にウッドチップコースに他のウマ娘たちの姿はない。

 そんな中で、ブリッジコンプとリボンエチュードが軽くアップをしている。私はバイトアルヒクマと、その様子を見守っていた。

 

「あ、あの、トレーナーさん……。ご迷惑お掛けしてすみません……。でも、あの、どうしてこんな時間に……?」

 

 不思議そうな顔をするエチュードに、私は曖昧に微笑み返す。

 

「まあ、とりあえず走ってみて。ただし――ブリッジコンプ。今回は君の方が先にスタートするから。思いっきり全力で飛ばして。エチュードは2回目の笛でスタート」

「オッケー! 了解!」

「は、はい……」

 

 ふたりがスタートラインにつく。今回は私がスタートを指示した。1回目の笛でブリッジコンプが勢い良く飛び出す。0.5秒ほど間を空けて2回目の笛。慌てたようにリボンエチュードがスタートした。

 レースだったら致命的とも言える出遅れ。逃げるブリッジコンプはどんどん飛ばして前へ前へと進む。追いかけようにもその背中は既にあまりにも遠い。エチュードは困ったように遠ざかるブリッジコンプの背中を見送り、一度首を振ってから顔を上げて走って行く。昨日ヒクマと併走したときより、ずいぶんゆったりしたペースだ。だが、表情からすると投げやりになっているようには見えない。むしろ、雑念が消えたように見える。

 一方、どんどんカッ飛ばしてコーナーに入ったブリッジコンプは、コーナーの終わりあたりから明らかに脚色が鈍り始めた。既に息が上がっている。――なるほど、彼女はスプリンターだな、ということをついでに確かめつつ、エチュードに視線を戻すと、絶望的に見えていた差がぐんぐん詰まっていくのがはっきりと解った。

 コーナーを抜けて直線に入った瞬間、ブリッジコンプの背中が見えることに、エチュードが驚いたように目を見開くのが見えた。そして――。

 その表情が引き締まり、ぐっとスパートがかかる。一気に加速。自分のペースで充分に脚を残して走ったエチュードは、そのまま一気にブリッジコンプを抜き去った。「えええっ、嘘ぉ!」とブリッジコンプの悲鳴。

 

「ゴールッ!」

 

 バイトアルヒクマが待つゴールへ、リボンエチュードは一気に駆け込む。ブリッジコンプは5バ身ほど離されて、へろへろになりながらゴールした。

 ぐえー、と呻いてばったりウッドチップに倒れこむブリッジコンプ。その先で、リボンエチュードは何か信じられないものを見たような顔で、呆然と夜空を見上げている。

 

「エチュードちゃん、すごいすごい!」

 

 ヒクマがキラキラと目を輝かせて、そこへ駆け寄る。エチュードはきょとんと目をしばたたかせた。ヒクマがエチュードの手を握り、エチュードはその手をおずおずと握り返す。

 

「……あ、あれ? 私……勝った、の?」

「そうだよ! エチュードちゃんの勝ち!」

「うーっ、なんでよー! あんなに離してたのにー!」

 

 じたばたと悔しそうにもがくブリッジコンプ。エチュードは私の方を振り向いた。私はただ、小さく笑って頷く。

 リボンエチュード。彼女の本来の脚質は、おそらくリボンスレノディと同じ追込だ。最後方でマイペースに走って脚を残し、直線一気の勝負に賭ける。他のウマ娘を気にせず、目立たない後方から一気に抜け出すレース。

 とはいえ、そこまで私が教えるのはやり過ぎというものだろう。あとは彼女が自分の走り方を見つけ、それを伸ばせるトレーナーに出会えるかどうかだ。

 

「勝った……私、勝ったんだ……!」

 

 ヒクマの手を握りしめたまま、勝利を噛みしめるように身を震わせるエチュード。

 その喜びを、力に変えてくれればいい。トレーナーとして私が願うのは、ただそれだけだった。



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第7話 将は完全なる勝利のために

エレガンジェネラルさん回です。


 そんなつもりではなかった。

 決して、そんなつもりはなかったのに。

 

『――馬鹿にしないで!』

 

 頬を張られた痛みとともに、その声が今も、記憶の奥底にこだましている。

 

 

       * * *

 

 

 エレガンジェネラルの一日は、ぐうたらなルームメイトを叩き起こすところから始まる。

 

「ジャラジャラさん、朝ですよ、いい加減起きてください!」

「ううん、あと5ヶ月……」

「冬眠でもする気ですか! ああもう、本当は起きてるんでしょう!」

 

 思い切り毛布を引っぱって剥ぎ取ると、その勢いのままに毛布の主が、ごろごろと回転してベッドから転げ落ちた。

 

「ふげっ。うぐぐ、ジェネってば起こし方がだんだん乱暴になってきてない? 優雅な将軍の名前が泣くよ」

「ジャラジャラさんが早起きして優雅な朝を過ごしてくれる方だったら私も苦労しません。あと将軍って呼ばないでください」

 

 鼻の頭をさすりながら、床から起き上がったルームメイトのジャラジャラを、エレガンジェネラルは腰に手を当てて見下ろす。「おーこわ」とジャラジャラは首をすくめた。

 

「ほら、早く顔を洗って、制服に着替えてください。ジャラジャラさんの分までアイロンかけておきましたから。課題とかはちゃんと鞄に入ってますか? もう遅刻ギリギリは嫌ですからね」

 

 きびきびとジャラジャラの支度を手伝うジェネラルの姿に、ジャラジャラはパリッとアイロン掛けされた制服を受け取りながら、呆れたように息を吐く。

 

「なんつーかさあ」

「なんですか?」

「まるであたしのオカンだよな、ジェネ」

「ジャラジャラさんが手の掛かる子供なのが悪いんです! 嫌ならせめて自分のことは自分でしっかりやってください! ああもう、寝癖立ってますよ!」

「これはあたしのトレードマークだっての!」

 

 アホ毛を撫でつけようとするジェネラルから逃げ回るジャラジャラ。

 トレセン学園栗東寮の一室では、そんなドタバタが毎朝の恒例行事になっていた。

 

 

 

 トレセン学園は教育機関でもあるので、午前中は中学・高校相当の授業が行われる。昼休みを挟み、午後はトレーニングの時間。専属トレーナーのついているウマ娘はトレーナーからの個人指導、そうでないウマ娘は合同トレーニングに向かう。

 問題は、トレーナーからスカウトを受けているにもかかわらず、専属トレーナーを決めていないウマ娘だ。そもそもトレーナーをえり好みできるウマ娘などそういないわけだが、数少ないそういったウマ娘は、基本的にはトレーナーが決まるまで自主トレーニングということになる。

 既に専属トレーナーが決まっているジェネラルは、廊下をきびきびと待ち合わせ場所に向かう。その背後に、ついてくる褐色の影がひとつ。

 

「……ジャラジャラさん」

「おん?」

「どうしてついてくるんですか」

 

 振り向いて軽く睨むと、ジャラジャラは後頭部で手を組んで、にっ、と笑った。

 

「いーじゃんか、トレーニングするのは同じだろ? 自主トレするにしても、ひとりでやってっと張り合いなくってさあ。別に邪魔はしてないつもりだぜ?」

「だったら早くトレーナーを決めればいいじゃないですか。いつまで引き延ばすつもりですか? そろそろ実はデビューする気ないんじゃないかと疑われていますよ」

 

 腰に手を当てて、ジェネラルは嘆息する。――あの選抜レースで、記録的なタイムで1着を争ったふたりには、トレーナーのスカウトが殺到した。ジェネラルは一週間かけてじっくり吟味しトレーナーを決めたが、ジャラジャラはあれからしばらく経つのに、未だにトレーナーたちのスカウトから逃げ回っている。

 まあ、ジェネラル自身もあのスカウトの大群を整理して捌くのは一苦労だったから、ズボラなジャラジャラが逃げたくなるのはわからなくもない。しかしそれにしたって、スカウトされるための選抜レースで、自分に勝ったジャラジャラがいつまでも態度を保留しているというのは、内心少々苛立たしい。

 あと100メートルあれば追い抜けた自信はあったが、結果は結果だ。ゴールを先に駆け抜けたという事実がレースでは絶対である。だからこそ、ジェネラルとしてはジャラジャラにもさっさとトレーナーを決めてもらって、トゥインクル・シリーズできちんと決着をつけたいのだ。せっかく同じティアラ路線志望だというのに、これでジャラジャラのデビューが1年遅れにでもなったら目も当てられない。

 

「お前こそ、よくあれだけのトレーナーの中から1週間で決めたよな」

「1週間でも時間を掛けすぎたぐらいです。1日も無駄にしたくはありませんから」

「はいはい、なんでもスケジュール通りでないと気が済まない優等生さんはそーでしょーとも。でも、ウマ娘の方から自分のトレーニング方針について具体的な計画書の提出を求められたのは初めてだって、トレーナーたちも呆れてたぜ」

 

 そんなことを言われても困る。トレーナーは担当ウマ娘が結果を出せなければ次の子に移ればいいだけだが、こっちは一度きりの競争人生をトレーナーに託すのだ。その相手を決めるのに、どれだけ万全の準備をしても充分ということはない。

 だからジェネラルは、自分をスカウトしてきたトレーナー全員に、自分のトレーナーになるにあたってどのような育成プランを考えているか、書面での提出を求めた。少なくとも、選抜レースを一度見ただけで碌なプランも持たずに声を掛けてきたようなトレーナーはこれで篩にかけられる。事実、実際に書類を提出してきたのは、レースの後に自分を取り囲んだ数十人のトレーナーのうち、10人ほどだった。

 その10人の提出してきたプランを数日かけてじっくり読み込み、最も具体的で納得のいくプランを出してきたトレーナーを、ジェネラルは選んだ。そうして実際に指導を受けてみて、自分は間違いなく正しい選択をしたと思っている。

 ジュニア級は6月のうちにメイクデビュー。順調にそこを勝ったら、オープン特別か重賞をひとつふたつ挟んで年末の阪神JF。クラシック級はそのまま桜花賞に直行、トリプルティアラに挑む。タイトルを獲れれば年末には有馬記念に挑戦。シニア級は大阪杯から始動し、大目標はヴィクトリアマイルとエリザベス女王杯のシニアティアラ二冠。もし自分にそこまでの才能がなく、どこかで躓いた場合のプランも、トレーナーはそれぞれ用意してくれている。やるべきことが明確であるのは良いことだと、ジェネラルは思う。

 ――だが、このルームメイトは。

 ジェネラルが読んでいたトレーナーからの育成プランを勝手に覗き見した挙げ句、あろうことか。

 

『こんな、最初から自分のウマ娘人生ガチガチに決めちまって、面白いかあ?』

 

 そんなことを、言い放ったのだ。

 

「ジャラジャラさんは」

「ん?」

 

 足を止め、ジェネラルは背後のジャラジャラを振り返った。

 

「どうしてトレーナーのスカウトから逃げ続けるんですか」

「――逃げてるわけじゃないよ。まだあたしが納得できるスカウトがないってだけ」

 

 ジャラジャラも立ち止まり、ひとつ嘆息した。

 

「碌にトレーナーの話を聞いてるようにも思えませんけど」

「聞かなくたってわかんだって。どいつもこいつも、トリプルティアラだ、ヴィクトリアマイルだ、エリザベス女王杯だ、いや天皇賞だ、宝塚だ、有馬だってさあ。――あいつらが語ってんのは、全部自分の夢なんだよ。あたしのじゃない」

「――――」

「別に、トレーナーがあたしにトリプルティアラなりエリ女なり天皇賞なり獲らせて、GⅠウマ娘を育てた名トレーナーって呼ばれたいってのは構いやしない。それであたしが速く走れるならWIN-WINの関係ってやつだよ。――でも、トレーナーの夢を勝手にあたしの夢みたいに語られても困るんだよな」

 

 ジャラジャラの言葉に、ジェネラルは眉を寄せる。――ウマ娘としてトレセン学園に入学し、トゥインクル・シリーズに出る以上は、そういったGⅠレースで勝つことを大目標にするのは、当たり前ではないのか。

 

「……じゃあ、ジャラジャラさんの夢って、なんなんですか」

「おっと、そいつは乙女の秘密ってやつ」

「ふざけないでください」

「別にふざけちゃいないんだけどな。――ま、あれだ」

 

 と、ジャラジャラは不意に走り出し、ジェネラルを追い越してグラウンドの方へ向かう。

 

「あたしは別に、三冠路線でもティアラ路線でもどっちでも良かったんだよ。どっかの誰かさんと出会うまではね。――そーゆーこと」

 

 そして、ジェネラルの返事も聞かずに、ジャラジャラは勝手に走り出してしまう。その背中を呆然と見送り――ジェネラルは、胸の前でぎゅっと拳を握りしめた。

 瞼を閉じると、あの選抜レースの光景が蘇る。あとほんの数十センチ。されどその数十センチの差が、レースでは厳然と勝者と敗者とを分かつ。

 届かなかったあの距離を、トゥインクル・シリーズで埋めて、追い越したい。

 逃げ続けるあの背中を、自分の背後に追いやるためには――万全の準備をして、万全のトレーニングを積んでいかねばならないと、解っている。

 彼女が同じティアラ路線を走るのであれば、絶対に。

 どんなレースでも、自分は完璧な走りをしなければならないのだから。

 そうして、勝ち続けなければ、自分は、

 

「――――ッ」

 

 脳裏に浮かびかけた過去の幻影を振り払って、ジェネラルは急ぎ足にトレーナーの元に向かった。今はただ、デビューへ向けて研鑽を積むだけだ。

 更衣室で着替えを済ませ、グラウンドで待っていたトレーナーへ駆け寄る。眼鏡を掛けた無表情な担当トレーナーは、時間ピッタリに現れたジェネラルの姿に頷いた。

 

「今日のメニューは見ているね。始めようか」

「はい。よろしくお願いします」

 

 無駄口を叩かない、無駄に感情を露わにしないこのトレーナーのことを、ジェネラルは気に入っている。この人となら、何にも煩わされることなく、ただ勝つため、完璧に勝つために走ることができると、そう思う。

 誰にも文句は言わせない。ティアラ路線で、勝つのは自分だ――。



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第8話 走る理由は

ジャラジャラさん回です。


 謝らないで欲しかった。

 誰のせいでもない。まして彼女が悪いわけでは、絶対にない。

 誰よりも悔しかったのは、悲しかったのは、彼女自身だったはずなのに。

 ――ごめんなさい、と。

 謝られてしまったら、あたしは。

 あたしは――。

 

 

       * * *

 

 

 選抜レースの直後はあれだけうろついていたトレーナーたちが、気がつくと潮が引くようにジャラジャラの周囲からいなくなっていた。

 いくら選抜レースで優れたタイムで勝利したといっても、いつまで経ってもまともにトレーナーのスカウトの話を聞かず、逃げ回っているような気性難のウマ娘にこだわっているより、他のもっと素直なウマ娘のところに向かった方がトレーナーの方だって指導しがいもあるだろう。自分の他にも才能あるウマ娘はいるのだ。

 

「やれやれ、やっと落ち着いて走れる」

 

 トレーニングコースで大きく伸びをして、ジャラジャラはストレッチを始める。選抜レース以来、必ず誰かが隙あらば自分をスカウトしようと狙っていて、好きに走ることも出来なかった。これでようやく自由だ――。

 準備運動を終え、まずは軽くぐるっとコースを一周――と走り出したジャラジャラの視界に、こちらをじっと見つめるひとりのトレーナーの姿が映る。

 ……いや、まだ諦めの悪いのがいたか。

 まあでも、ひとりぐらい見ている程度なら気にもならない。そのトレーナーのことは意識から締め出して、ジャラジャラは黙々と走り込みを続ける。

 隣のダートコースを見やると、エレガンジェネラルが専属トレーナーの指示でダッシュをしているのが見えた。求道者のような表情で、どこまでも生真面目にトレーナーの指示に従うその姿を見ながら、――もう少し気楽に走れんもんかねあいつは、とジャラジャラは思う。

 生真面目で几帳面なジェネラルの性格は本人の生来のものだとしても、走っている間ぐらい、もっと自由な気分でいればいいのに、とジャラジャラは思う。前に誰もいないターフを走る気持ちよさ。自分たちウマ娘が走るのは、結局のところその瞬間のためではないだろうか?

 そう、自由に、ただ何からも自由に走るため――。

 

「…………」

 

 ジャラジャラは小さく首を振って、コースがカーブしてジェネラルの姿が視界から外れたのを機に、ルームメイトのことを頭から振り払う。そうするとまた、視界にあのトレーナーの姿が映った。

 コースの周囲の芝生に腰を下ろし、ただじっとこちらを見つめている。――さて、他のトレーナーが手を引いた今ならという安易な考えでやってきたような輩なら逃げればいいだけの話だけれども。

 正直なところ、ジャラジャラは選抜レース以来の騒ぎで、この学園のトレーナーたちにいささか失望していた。自分の名誉欲を、こっちの走る理由と勝手に同一視して押しつけてくるのは、心底勘弁してほしいと思う。

 GⅠのタイトルが欲しくて走ってるんじゃない――とジャラジャラが言ったところで、彼らは理解しないだろう。

 しかし、トレーナーが見つからなければトゥインクル・シリーズへの出走は許可されない。どうしたものか――と、内心ではそろそろいささか本気で困っていたところだ。

 ……まだこちらを飽きずに見つめているトレーナーの姿が見える。

 ひとりぐらい、あたしの走る理由に付き合ってくれる物好きが、いてくれてもいいじゃないか。――そう期待するのは、儚い望みだろうか?

 

 

 

 そうして自主トレを続けていると、その途中で聞き覚えのある声がかかった。

 

「おーい、ジャラジャラちゃん」

「ランデブー先輩。なんすか?」

 

 声を掛けてきたのは、芦毛の長いサイドテールを揺らしたウマ娘。ネレイドランデブーである。マイル戦で無敵の強さを誇り、既に桜花賞、ヴィクトリアマイル、マイルチャンピオンシップとGⅠを三勝している、現役の超一流ウマ娘だ。ジャラジャラは選抜レースの少し前、恐れ知らずに彼女に併走を申し込んだことがある。結果は当たり前ながら普通に負けたが、それ以来ランデブーはジャラジャラのことを気に入ったようだった。

 そのランデブーが、傍らに他のウマ娘を連れている。栗毛のショートヘアに、短いサイドテールを結んだウマ娘は、緊張気味の様子でランデブーの背後に隠れるようにしていた。

 

「この子、マルシュアスっていうんだけど、ちょっと併走付き合ってあげてくんない? たぶんあんたの同期になる子だから。この子は三冠路線だけどね」

「へえ――いいっすよ」

「じゃ、あとよろしくー」

 

 走り去っていくランデブーを見送り、ジャラジャラが視線を向けると、マルシュアスはびくっと身を竦ませる。……怖がられる覚えはないが。

 

「あっ、えっと、よろしくお願いします」

「おう、よろしく。で、なんぼ走る? 1600? 2000?」

 

 ぺこりと頭を下げたマルシュアスにジャラジャラが問いかけると――その顔から怯えが消え、勝負に向かうウマ娘の顔つきになった。ジャラジャラは思わず口の端を釣り上げる。いいねえ。いい顔だ。こういう顔をしたウマ娘が相手なら、張り合いがある。

 

「2000で」

「オッケー。言っておくけど、あたしは飛ばすよ?」

「大丈夫です。ランデブーさんで慣れてます」

「結構結構」

 

 ランデブーが目をかけているということは、相応の実力はあるのだろう。三冠路線志望なら、対戦する機会はシニア級まで無いかもしれないが、それは別に構いはしない。強い相手が増えるなら大歓迎だ。

 ジャラジャラが軽く屈伸をしていると、何やら視線を感じる。振り向くと、マルシュアスが目を輝かせて、ジャラジャラの姿に見入っていた。

 

「……なに?」

「お……大人っぽい!」

「あ? なんだって?」

「先輩! ジャラジャラ先輩と呼ばせてもらっていいですか!」

「はい? ちょっと待って、あんた何年?」

「中等部2年です!」

「同い年じゃんか!」

「年齢は関係ないです! 大人っぽいウマ娘さんは全て私の中では先輩です!」

 

 目をキラキラさせて身を乗り出してくるマルシュアスに、ジャラジャラは頭を掻く。

 ――なんか、変なのに捕まっちまったなあ……。

 

 

       * * *

 

 

 結局あのトレーナーは、ジャラジャラが自主トレを切り上げるまでその場を動かず、ただじっとこちらを見守り続けていた。

 併走を終え(当然ジャラジャラが勝った)、同い年のくせに「先輩、先輩」と呼んでまとわりついてくるマルシュアスのトレーニングに付き合ってやっているうちに、気が付いたら陽が暮れていた。まあ、トレーニングに付き合ってくる相手がいるのはジャラジャラとしても張り合いがあるので構わないのだけれども。

 そろそろ寮の門限が近い。マルシュアスは先に帰らせて、ジャラジャラが後片付けを終えてトレーニングコースを出ると、ようやくそのトレーナーが、すっとこちらに近付いてくる。

 おいでなすった。さて――今度のトレーナーは、何を目指そうと言ってくるやら。

 ジャラジャラが無視して通り過ぎようとすると、トレーナーはこちらを呼び止める。

 

「なに? まだあたしのことスカウトしようとする諦めの悪いトレーナーがいたとは驚きだね。みんな逃げちまったのに」

 

 足を止め、ジャラジャラは振り返ると、値踏みするようにトレーナーを見つめた。

 

「それで? あんたはあたしにどんなGⅠを獲らせたい? トリプルティアラ? 天皇賞? 有馬記念? それともあれか、夢はでっかく凱旋門賞とか言っちゃう?」

 

 ジャラジャラがそう問いかけると、トレーナーは、しかし首を横に振った。

 

「それを本当に君が走りたいなら、どんなレースにも連れて行く」

「――――」

 

 思わぬ言葉に、ジャラジャラは目を見開く。――どんなレースにも、だって?

 

「……へえ? 言っておくけど、あたしは気まぐれだよ? オークスに出られるのに、同じ日の新潟の韋駄天ステークスで走りたいとか言い出すかもよ?」

「構わない」

「……はい? 本気で言ってる?」

「ああ。だって君が走りたいのは――何を、じゃなく、誰と、なんだろう?」

「――――――」

「君が、一番戦いたい相手と戦えるレースなら、どこにだって連れて行く。そこで、最初から最後まで先頭で逃げ切る君の姿を、見たい」

 

 その瞬間。背筋に電流のようなものが走って、ジャラジャラは小さく身震いした。

 

 

 ――いた。なんだ、ちゃんといるじゃないか。

 あたしの理由を、走る目的を、理解してくれるトレーナーが!

 

 

「その言葉、二言はないね?」

「ない!」

 

 力強く言い切ったトレーナーの言葉に、ジャラジャラは拳を握りしめ、身震いした。頬が緩むのを押さえきれない。待っていたんだ。あたしはこの瞬間を――。

 これでやっと、あいつと戦える。あの世話焼きで、口うるさくて、嫌になるほど几帳面でクソ真面目な――初めて、こいつを全力で叩き潰したいと思った、最強の敵。

 あいつを――エレガンジェネラルを倒しに行ける。

 

「じゃ、決まりだ! あたしのトゥインクル・シリーズ、あんたに託した!」

 

 握りしめた拳を、ジャラジャラはトレーナーへと突き出す。

 

「見てな、トレーナー。このジャラジャラさんが、誰にも文句のつけようのない、最強伝説を作ってやる!」



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第9話 クラゲと白毛

 金曜日の夜。ヒクマとのトレーニングは夕方で切り上げ、トレーナー室で事務作業を片付けていると、部屋のドアがノックされた。

 

「あ、いたいた。トレーナーさん!」

「ヒクマ? どうしたの、そろそろ寮の門限じゃ」

 

 現れたのはヒクマである。ぱたぱたと尻尾を揺らしてこちらに駆け寄ってきたヒクマは、私の机に身を乗り出してきた。大きな瞳にじっと見つめられ、私は思わずたじろぐ。

 

「な、なに?」

「トレーナーさん、あしたトレーニングお休みだよね?」

「う、うん、さっき伝えたよね?」

 

 明日は一日オフだとヒクマに伝えてあった。ちなみに日曜は午前中トレーニングして、午後は中山レース場にGⅡを見に行く予定である。

 

「それでね、コンプちゃんとエチュードちゃんと、明日一緒に遊びにいこうってお話してたの! ね、トレーナーさんも一緒にいこ!」

「え、私も?」

 

 思わず目をしばたたかせる。何も休みに友達と遊ぶときまでトレーナーが付き添うこともないと思うのだが……。

 

「トレーナーがいたらお邪魔じゃない? 友達同士で楽しんでおいでよ」

「ううん、そんなことないよ! それにコンプちゃんが、トレーナーさんも誘おうって」

「ブリッジコンプが?」

 

 意外だ。大人しいリボンエチュードが言い出すならともかく、ブリッジコンプは休日ぐらい大人の目から逃れて思い切りはしゃぎたがるタイプだと思ったが。

 私はちらりと時計を見やる。……まあ、急いで今ある仕事を片付ければ、明日一日ぐらいなら身体を空けられるか。

 

「わかった。じゃあそこまで言うならお供しようかな。待ちあわせは何時?」

「やったあ! えっと、9時に校門前!」

「了解。じゃ、それまでに仕事片付けておくね」

「うん! それじゃあね、トレーナーさん!」

 

 と、バイトアルヒクマはくるりと踵を返す。――え、ちょっと待って、それだけ?

 

「ひ、ヒクマ、用件それだけ?」

「え? うん、そうだけど」

「……それぐらいなら、わざわざここに来なくてもスマホにメッセージ入れてくれれば」

「あ、そっか! そうすればよかったんだ」

 

 ぽんと手を叩いて、ヒクマは感心したような顔をする。……なるほど、ブリッジコンプから「トレーナー誘おう」と言われてその場で寮を飛び出してここまで走ってきたらしい。今頃ブリッジコンプがいつも通り呆れているだろう。

 

「えへへ、まあいっか、走って気持ち良かったし! それじゃトレーナーさん、また明日ね! おやすみ!」

「あ、ああ、おやすみ」

 

 やれやれ、いつもながら嵐のようだ。嘆息しつつも、私は目の前の仕事に向けて気合いを入れ直す。――さて、寝坊や寝不足にならないように、日付が変わる前に仕事を終わらせてしまうとしよう。

 

 

       * * *

 

 

 そんなわけで、翌日。

 

「ごめんごめん、お待たせ」

「あ、トレーナーさん! おはよー!」

「……お、おはようございます」

「遅いー! もう置いてこうかと思った」

 

 待ちあわせの時間に2分遅れで校門前にたどり着くと、ヒクマがぶんぶんと笑顔で大きく手を振り、リボンエチュードはいつも通り控えめに会釈し、ブリッジコンプは腕を組んで口を尖らせた。3人とも休日なので私服姿である。普段は制服とジャージ姿しか見る機会がないから、なんとも新鮮だ。

 中学生の女の子3人の休日に、大人の私が付き合うのはやっぱり場違いな気がするが、まあ保護者として監督責任を果たすことにしよう。

 

「それで、今日はどこ行くの?」

「エーちゃんの希望で、池袋のサンシャイン水族館!」

 

 ブリッジコンプが答える。池袋なら、電車で1時間ぐらいか。でも、サンシャイン水族館って確か都内の水族館の中でも入館料が高い方だったような……。中学生でも1000円以上したと思うんだけど。

 ブリッジコンプが上目遣いにねだるように私を見上げる。――ああ、なるほど、そういうことですか。それでブリッジコンプの方から私を誘えと言ってきたわけだ。やれやれ、まあ中学生を水族館に連れて行くぐらいの給料は貰っているけども。

 

「了解。じゃあ、電車賃と入館料は私が持つよ」

「え、そ、そんな、いいんですか?」

「いいのいいの。今日は私が3人の保護者だから」

「やったー! さすがクマっちのトレーナー、器がデカい! バケツぐらいある!」

「わーい、トレーナーさんありがと!」

 

 気まずそうなエチュードと、無邪気に両手を挙げて喜ぶコンプとヒクマ。その笑顔を見ていると、まあ多少のわがままは許せてしまうのだった。

 

 

 

 そんなわけで、やってきたるは池袋、サンシャイン水族館。

 

「わー、おさかないっぱーい!」

「見て見てヒクマちゃんコンプちゃん、マンボウかわいい」

「かわいいかなあ? あたしはイルカとかペンギンの方がいいなあ」

「コンプちゃーん、ほらイカさんかわいいよー」

「えー? エーちゃんもクマっちもセンス変!」

 

 女3人寄ればかしましいとは言うものの、きゃいきゃいとはしゃぐ中学生のテンションにはあっという間についていけなくなる。普段は引っ込み思案なリボンエチュードまでやけにはしゃいでいて、私ももうトシか……とちょっと絶望的な気分になった。

 まあしかし、担当ウマ娘が友達と青春を満喫している姿は悪くない。水槽を泳ぐ魚たちの姿に熱心に見入るヒクマの楽しそうな横顔を見ていると、多少無理をしてでも仕事を片付けてきて良かったな、と思う。まあ、この子はいつもだいたい楽しそうだけども。

 エチュードも人見知りなだけで、3人できゃいきゃいはしゃいでいる、あの笑顔の方が素なのだろう。これから厳しいレースの世界に身を投じる彼女たちだけれど、こうやって子供らしい楽しみを満喫する心の余裕は常に持たせてあげたいものだ。

 ――でも、それはそれとしてあのテンションにはついていけそうにない。

 3人から少し離れて周囲を見回すと、クラゲの展示エリアが目についた。そちらに足を向け、ふわふわと水槽を漂うクラゲを眺める。ああ、いいなあ。私も何も考えずにぷかぷか浮いてるだけのクラゲになりたい……。

 そんな年寄りじみたことを考えていると――ふと、私と同じようにクラゲの水槽をぼんやりと眺める、ひとりのウマ娘の姿が目に留まった。

 真っ白な髪の毛と尻尾。芦毛……いや、あの白さはウマ娘でも非常に珍しい白毛だ。その横顔に見覚えがある気がして、私は目を細める。白毛のウマ娘――。

 ああ、そうか、あの子だ。同僚たちの間でも、先日の選抜レースで珍しい白毛のウマ娘が話題になっていた。ただ、ウマ娘レースの世界では白毛のウマ娘が活躍した前例がほとんど無いので、その子は才能はあると言われながらも、どのトレーナーもスカウトに二の足を踏んでいるような空気があった。

 そんな白毛の子をスカウトしたのが――同期の、桐生院トレーナーである。間違いない。あの子は桐生院トレーナーがスカウトした子だ。確か名前は……。

 と、私の視線に気付いたのか、白毛のウマ娘がこちらを振り向いた。小さくぺこりと会釈する。――あれ、私のことを認識している?

 思わず、その子のところへ歩み寄る。彼女はもうこちらを振り向くことなく、ぼんやりした顔でまたクラゲの群れに見入っていた。

 そばに寄ってはみたものの、なんと声を掛けていいかわからず、私も隣に立ってクラゲを見上げる。青い光の中で、ふよふよと形を変えながら漂うクラゲたち。……沈黙。ううん、はしゃぐ中学生のテンションも疲れるけれど、完全な沈黙もそれはそれでなんというか……。

 

「……クラゲ」

「え?」

「クラゲ、好きです……」

「……あ、うん。私も」

「…………ぶい」

 

 無表情にピースサイン。……ええと、同意を得られて嬉しいという意思表示だろうか?

 

「えと……君、桐生院トレーナーのところの子だよね?」

 

 私が確認すると、彼女はクラゲの水槽を見つめたまま、こくりと頷いた。

 

「……ハッピーミークです」

 

 ああ、そうだ、そんな名前だった。確か選抜レースでは、芝の2000メートルでマルシュアスというウマ娘と競り合って2着だったはず。三冠路線かティアラ路線か、どちらを志望しているのかはまだ聞いていないが、どっちにしても特に問題がなければヒクマと同期デビューということになるから、どこかで対戦する機会もあるかもしれない。

 

「ひとり? 桐生院トレーナーは一緒じゃないの?」

「…………」

 

 私の問いに、ハッピーミークは小さく首を横に振る。ひとりで休日をのんびり水族館で過ごしているらしい。お邪魔しちゃ悪いかな、と思っていると、ハッピーミークは不意に私を見上げた。

 

「…………」

「な、なに?」

「…………なんでもないです」

 

 またミークは視線を水槽に戻す。……何を考えているのか全くわからない子だ。桐生院トレーナーは、この子とちゃんとコミュニケーションを取れているのだろうか?

 

「トレーナーさーん? あ、いたいた!」

 

 と、そこでヒクマが私を探しにやってきた。ハッピーミークと並んでいる私の姿に、ヒクマは足を止めてまん丸の目を見開く。

 

「あれ? ミークちゃん?」

「…………」

 

 ぺこり。ミークもヒクマの姿を認めて小さく会釈した。

 

「知り合い?」

「うん、おんなじクラスだよ! ミークちゃん、このひと、わたしのトレーナーさん!」

「…………」こくり。

「トレーナーさん、ミークちゃんってすごいんだよ! 芝でもダートでも、どこ走ってもとっても速いの!」

「へえ」

 

 芝とダート、両方で一線級の走りができるウマ娘というのは滅多にいない。口さがない者にはダートを芝の敗者復活戦みたいに言う者もいるが、適性の問題であって優劣の問題ではないのだ。その両方を走れるというのは希有な才能である。

 

「おーいクマっち、トレーナー、なにしてるの、置いてくよー!」

 

 と、そこへブリッジコンプの声が掛かる。「あ、うん、今いくー!」とヒクマが答え、「いこ、トレーナーさん」と私の手を引いた。

 

「あ、うん。……じゃあね、ミーク」

 

 ハッピーミークに片手を挙げて挨拶すると、

 

「……ぶい」

 

 ミークはまたピースサインを返してきた。彼女なりの親愛の表現らしい。

 

「ぶい」

 

 私もピースサインを返す。すると、無表情なミークの顔に、ほんの微かだけれど、笑顔が浮かんだ――ように見えた。

 そしてまたミークは私から視線を外し、クラゲの水槽に無言で見入る。

 その横顔をぼんやり見ていると――。

 

「……むー、トレーナーさん! ほら、ペンギンさん見にいこ、ペンギンさん!」

 

 バイトアルヒクマが、軽く口を尖らせて私の手を引いた。

 ……ん? ひょっとして、私が他のウマ娘と一緒にいたから拗ねてる?

 いやいや、それはいささか自意識過剰か。まあでも、確かに私はヒクマのトレーナーなのだから、クラゲより白毛よりも、担当ウマ娘の方を見ていないと。

 

「わかったわかった。ペンギンね」

「うん! ここのペンギンさん、空飛ぶんだって! 楽しみ!」

 

 はしゃぐバイトアルヒクマに笑い返して、私はその手に引かれるままに歩き出した。



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第10話 リトル・インビジブル

 無視されるのにも、気付かれないのにも慣れている。

 誰も私に注目なんかしない。私はいつだって、群衆に埋没した名無しのウマ娘A。

 あの華やかな世界は、私なんかにはあまりにも遠くて。

 

 ――だけど、それでも。

 たとえ誰にも気付かれなくても。

 私はそこで、走りたいと願ってしまった。

 

 

       * * *

 

 

「模擬レース?」

「うん。他に誰もいないコースを走ってタイムを計るのと、実戦のレースとは全く別だからね。どれくらい力がついたか確かめるのに、模擬レースを組もうと思うんだけど、対戦相手の希望はある? できれば5人ぐらいでやりたいから、誰か勝負したい相手がいれば、私が交渉してくるよ」

 

 ある日のトレーニング後、私はバイトアルヒクマにそう提案した。

 タイムが順調に伸びているとは言っても、他のウマ娘と一緒に走る本番のレースとは全く別物だ。デビュー前のヒクマはまだ公式レースには出られないが、少しでも実戦形式で経験を積ませておきたい。それは他のデビューを目指すウマ娘も同じはずだから、よほど極端に実力差がない限り、模擬レースの提案は歓迎してもらえるはずだ。

 

「勝負したい相手かあ……うーん」

 

 ヒクマは顎に指を当てて首を傾げる。

 

「エチュードちゃんとコンプちゃんでもいいの?」

「うん、そのふたりは私も元から声を掛けようと思ってた。あとふたりぐらい」

「あとふたり……」

 

 ヒクマはちらりとグラウンドを見やる。そこでは、エレガンジェネラルとジャラジャラが何か言い合っている姿があった。ヒクマの同期デビュー予定組の中でも一番の注目を集めているこのふたり、寮ではルームメイトらしく、プライベートでも仲が良いらしい。

 

「挑んでみる?」

「う、ううん、それはもうちょっと後にとっておく!」

 

 ヒクマは慌てて首を振った。おや、ヒクマなら「うん! リベンジだー!」とか言い出すかと思ったのに。まあ、あのふたりに下手に挑んで自信を無くされても困るといえば困るのだけれど。

 ひょっとして既に、実力差を思い知ってしまってあのふたりに勝とうという意欲を失いかけているのでは……と私が危惧していると、

 

「だって、あのふたりに勝つならGⅠで勝ちたいもん! GⅠまで全力で鍛えて全力で勝つぞー! えいえいおー!」

 

 全くそんなことはないようだった。笑顔で右手を挙げるヒクマに、私はほっと息を吐く。この底抜けの前向きさは、ヒクマの最大の美点だと思う。

 

「結構結構。じゃあ、他に誰か挑んでみたい相手はいる? 先輩とか」

「うーんと……あ!」

 

 視線を巡らせたヒクマが、ふと何かに気付いたように目を見開いた。

 

「あの子! トレーナーさん、わたしあの子と走ってみたい!」

「え、どの子?」

 

 ヒクマがグラウンドのどこかを指さすが、誰を指しているのかわからない。

 

「わたし、声かけてみるね!」

 

 と、ヒクマはそちらへ走り出してしまう。ウマ娘の足に追いつけるはずもないが、私も慌ててその後を追いかけた。

 

「おーい、ねえ! ねえ、そこのあなた!」

 

 ヒクマが追いかけているのは、どうやらグラウンドの隅を黙々と走っている鹿毛のウマ娘のようだった。ヒクマの声が聞こえていないのか、その子は振り向く様子もない。

 

「ねえ、ねえってば! ねーえ!」

 

 ヒクマがしつこく呼びかけると、ようやくそのウマ娘は足を止め、訝しむようにこちらを振り返った。……ん? どこかで見たような……。しかし、なんだか印象の薄い顔立ちのウマ娘だ。鹿毛の髪を短いツーサイドアップにしていること以外は、目を離した瞬間にどんな顔だったか忘れてしまいそうな……いや、名前も知らないウマ娘に対してこれはいささか失礼な物言いである。反省。

 

「……もしかして、私……?」

「うん! あなた、選抜レースで一緒だった子だよね? わたしの前で3着だった!」

「…………そう、だけど」

 

 鹿毛のウマ娘は、困ったようにこくりと頷く。

 ――ああ、言われて思いだした。バイトアルヒクマは選抜レースでジャラジャラとエレガンジェネラルに5バ身離された4着だったが、その1バ身前を3着で駆け抜けた鹿毛のウマ娘がいた。名前は……なんだったか。ヒクマの陰から内を突いてすっと抜け出し3着に入った、小柄なウマ娘だったという印象しか残っていない。今ヒクマと並んでいるのを見るとそれほど極端に小柄でもないし、本当にこの子だったのか、確証が持てなかった。

 近くにこの子の担当トレーナーらしき姿はなかった。まだ担当がついていないのだろうか。ジャラジャラとエレガンジェネラルには及ばなかったとはいえ、ヒクマに先着したのだし、あのふたりが強すぎただけでタイム自体は充分にその場でスカウトされておかしくない数字が出ていたはずだが……。

 私がヒクマをその場でスカウトできたのは、あのふたりのパフォーマンスが規格外すぎて、ヒクマまですぐに注目が集まらなかったという幸運が大きい。3着の彼女は、逆にそれが不運になって見逃されてしまったのだろうか。

 

「ね、ね! わたしと模擬レースしよ!」

 

 ヒクマが身を乗り出してそう訴えると、鹿毛のウマ娘は目を見開いて後じさる。

 

「…………私、が? あなた、と?」

「うん!」

 

 ぱちぱちと瞬きした鹿毛のウマ娘は、それから首を横に振った。

 拒絶――いや、違う。困惑して視線を彷徨わせている仕草だった。

 

「なん、で?」

「え? なんでって、だって選抜レースのとき一緒に走ったでしょ? わたし、あなたに負けちゃったから、今度は勝ちたいもん! だから勝負!」

 

 ぐっと拳を握りしめるヒクマに、鹿毛のウマ娘は、何か信じられないものを見たような顔をして――すっと視線を逸らした。

 

「……人違い、だから」

「え?」

「……ごめんなさい」

 

 そう、呟くように言って、鹿毛のウマ娘は拒絶するようにくるりと踵を返す。

 ヒクマは、きょとんと目をしばたたかせて――。

 

「違うよ! 絶対あなただよ! ねえ――ミニキャクタスちゃん!」

 

 その名前を、呼んだ瞬間。

 びくりと、鹿毛のウマ娘――ミニキャクタスは、電流に打たれたように立ち止まった。

 そして、もう一度、おそるおそるという様子で、こちらを振り返る。

 

「……私の、名前……」

「うん! ちゃんと覚えてるよ! ミニキャクタスちゃん! ねえ、キャクタスちゃんって呼んでいいかな?」

 

 ヒクマはミニキャクタスに駆け寄り、その手を掴んでぐっと身を乗り出す。

 その大きな瞳に魅入られたように、ミニキャクタスは呆然と見つめ返して。

 

「………………う、ん」

 

 ただ、条件反射のように首を縦に振っていた。

 

 

       * * *

 

 

 翌日。模擬レースの会場になる芝コースには、噂を聞きつけたギャラリーがちらほら集まっていた。今回の参加者6名のうち、担当トレーナーが既に決まっているのはヒクマだけだが、先日の選抜レースに出ていなかった注目株がひとり参加を表明しているということもあって、トレーナーの姿も何人か見える。

 

「ううう……なんだか思ったより人多いんだけど……」

「いいじゃん、ここでクマっちに勝って、次の選抜レース前にあたしが最強ってこと見せつけてやるんだから!」

 

 相変わらずおどおどとしたリボンエチュードと、強気に拳を握るブリッジコンプ。もうすぐ次回の選抜レースがあるので、ふたりとも実戦経験を積んでおきたいのだろう。模擬レースへの参加を打診すると一も二もなく快諾してくれた。

 今回の模擬レース参加予定者は6名。ヒクマ、エチュード、ブリッジコンプ。それからヒクマが勧誘した、あのミニキャクタスという鹿毛のウマ娘。そして、残りふたりは――。

 

「ふははー! 残念だったなブリッコ、最強のボクが来たからにはお前に勝ちはなーい!」

「げっ、滑太郎! ちょっとトレーナー、あとふたりってこいつなの?」

「うん、昨日この子から直接打診があって」

「おいこら滑太郎言うな! ボクはデュオスヴェルだ!」

「そっちこそブリッコ言うな! あんたなんか500バ身離してぶっちぎってやる!」

「コンプちゃん、500バ身は無理だよ……」

 

 ドヤ顔で胸を張って現れ、さっそくブリッジコンプと口喧嘩を始めるのはデュオスヴェル。先日の選抜レースのときもブリッジコンプに突っかかり、レースで一緒に派手な逸走をしていた、鹿毛を三つ編みにしたウマ娘だ。ブリッジコンプとは、本人たちは犬猿の仲と言い張っているが、傍から見ているとトムとジェリー的な喧嘩友達にしか見えない。

 

「はいはいスヴェルちゃん、喧嘩はダメですよ?」

「ぐげっ! オータム、三つ編み引っぱるのやめろってばー!」

「だってこうしないとスヴェルちゃんが止まらないんですもの。あ、バイトアルヒクマちゃんのトレーナーさん。スヴェルちゃんのわがまま聞いてくださってありがとうございます。私ともども、今日はよろしくお願いしますね」

 

 私に向き直って丁寧にお辞儀したボブカットのウマ娘は、オータムマウンテン。デュオスヴェルのルームメイトだそうだ。

 昨日、私がエチュードとコンプに模擬レース参加を打診したのを横から聞きつけ、「ブリッコが模擬レース出るならボクも出る!」とデュオスヴェルが直談判してきたのである。で、それを止めに来たオータムマウンテンともども、私の方からせっかくだからと参加をお願いしたのだった。

 先述の注目株というのが、このオータムマウンテンである。なぜか前回は選抜レース参加を見送ったが、合同トレーニングでは好タイムを連発しており、その悠然とした走りっぷりから、次回の選抜レースでは目玉のひとりと見なされている。

 

「こちらこそよろしく。君の噂は聞いてるから、こちらとしても楽しみにしてるよ」

「あらあら、それは恐縮です。ではお近づきのしるしに、どうぞ」

 

 と、オータムマウンテンはジャージのポケットから何かを取り出す。受け取ってみると、小さな木彫りの像だった。……なんだこれ? 猫……だろうか?

 

「……これは?」

「はい、タヌキです」

「タヌキ……? あ、ありがとう?」

「どういたしまして~。私の木工アートが噂になってるなんて照れてしまいますね」

 

 ――はあ。私はよくわからないまま、その猫だかタヌキだかわからない木彫りの像をポケットに仕舞った。……まあ、トレーナー室の机にでも飾っておこう。

 さて、これで5人。あとひとり――昨日、ヒクマが勧誘したあの子は、ちゃんと来てくれるだろうか。昨日の様子だとあまり乗り気ではなさそうだったが……。

 私がストレッチするヒクマの方に視線を向けると、ヒクマは何かに気付いたように顔を上げ、両手を大きく振った。

 

「あっ、おーい! キャクタスちゃーん!」

 

 ヒクマが声を掛けた方を振り返ると――いた。昨日のあの鹿毛のウマ娘が、驚いたように目を見開いてヒクマの方を見ている。そして、それから俯きがちに、足早にこちらへと駆け寄ってきた。

 

「来てくれてありがと! 今日はよろしくね、キャクタスちゃん!」

「…………うん」

 

 ヒクマの笑顔から視線を逸らすように俯いたまま、小さく会釈だけをしたミニキャクタスは、それから私の方へ歩み寄ると、ほとんど聞き取れないような小声で言った。

 

「……よろしく、お願いします」

「あ、ああ。こちらこそよろしく」

 

 私が頷くと、彼女はすっと離れてひとり、コースの隅でストレッチを始める。意識して視線で追わないと、すぐに見失ってしまいそうだった。……なんというか、ものすごく影の薄い子である。口数も少ないし、オータムマウンテンとは別の意味で何を考えているのかよくわからない。

 ともあれ、これで6人が揃った。全員が準備体操を終えたのを見計らい、私はその場のウマ娘たち6人に声を掛ける。

 

「今日は集まってくれてありがとう。コースは芝1600、天候晴れ、バ場は良。枠順はクジで決めるから順番に引いてね」

 

 用意したクジを引いてもらう。結果――。

 1番、ミニキャクタス。

 2番、ブリッジコンプ。

 3番、デュオスヴェル。

 4番、バイトアルヒクマ。

 5番、オータムマウンテン。

 6番、リボンエチュード。

 決定した枠順通りに、6人がスタートラインに並ぶ。ゴール判定は、近くにいたギャラリーのウマ娘に頼んでやってもらうことにした。

 

「それじゃあ――体勢完了。よーい――スタート!」

 

 私が右手を振り上げると同時、6人のウマ娘が一斉にターフへと駆け出した――。

 



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第11話 模擬レース!

 芝コースに人だかりが出来ているのに気付いて、ジャラジャラはウォーミングアップの手を止めて振り返った。

 

「なにやってんだ、あっこ」

「模擬レースだそうですよ。私たちと一緒に選抜レースで走った子が出ているようです」

 

 近くでストレッチしていたエレガンジェネラルが答える。別に一緒にトレーニングしているわけではなく、たまたまウォーミングアップを始めた場所が近くだっただけである。

 

「ほーん。ちょっくら見物してくっか。トレーナー、ちょっとぐらいはいいだろ?」

 

 ジャラジャラが視線を向けると、トレーナーは苦笑交じりに頷いた。「余裕ですね」とエレガンジェネラルは渋い顔。

 

「なんだ、お前は見に行かないのかよ?」

「まだライバルの情報収集をする時期でもないでしょう。今は自分のトレーニングを優先するべきです」

「模擬レースやるって情報は仕入れてるくせにか?」

「たまたま聞こえてきただけです」

 

 どうだか。ジャラジャラは肩を竦めて、芝コースの方へ足を向けた。

 

 

       * * *

 

 

「いっくぞー!」

 

 スタートと同時、一気にダッシュを決めて先陣を切ったのはやはりブリッジコンプだった。選抜レースや、リボンエチュードとの併走でも思ったが、スタートの思い切りの良さとダッシュ力には目を見張るものがある。

 

「あっ、このっ、待てブリッコ!」

 

 やや出遅れたデュオスヴェルが、強引に前に出てそれを追っていく。やはりこのふたりが暴走気味にレースを引っぱる展開になるようだった。

 バイトアルヒクマはそのふたりの後方、2バ身ほど離れたところで追っていく。その内側、半バ身ほどの差でミニキャクタスが息を潜めるように追走する。

 リボンエチュードとオータムマウンテンは、さらに3バ身ほど後方からのスタート。悠然としたペースで走るオータムに、エチュードはぴったりとくっついていく。

 400メートルを通過したあたりでデュオスヴェルがブリッジコンプに追いつき、激しくハナを主張し合う。潰し合い上等の競りかけも結構だが、大丈夫だろうか。

 バイトアルヒクマは、横にぴったりとついているミニキャクタスをさほど気にする様子もなく、ハイペースで飛ばすブリッジコンプとデュオスヴェルについていく。それでいい、と私は頷いた。ジャラジャラとエレガンジェネラルに勝つなら、先行型のヒクマはあのジャラジャラのハイペースの逃げについていって、楽に逃げさせないことが肝要だ。

 先頭のふたりがコーナーに入る。選抜レースでは競り合いに夢中になって派手に逸走したふたりだが、さすがに学習したようで、内を行くブリッジコンプがやや先行しながらコーナーをカーブしていく。

 バイトアルヒクマは2バ身差をきっちりキープして追走。ミニキャクタスはその後ろでじっと機をうかがっている。後方のオータムマウンテンとリボンエチュードはマイペースに走っており、かなり離されていた。もう10バ身ほど差がついているだろうか。

 800を通過。残りは半分。まだ先頭ではブリッジコンプとデュオスヴェルの競り合いが続く。この右回りの芝コースは、阪神レース場を模して3コーナーから4コーナーが坂になっていて、中間の800を過ぎたところからがゆるやかな下りだ。下りで脚を浪費せず貯められるかが鍵になる。

 ブリッジコンプのペースが明らかに速い。下りで必要以上に加速してしまっている。ややブリッジコンプに離されるが、ヒクマは慌てずにペースを保っていた。よし、それでいい。何も考えずに走っているようで、この子にはレースの勘所を押さえる地頭がある。

 

「はぁっ、はぁっ――ううううっ!」

 

 ブリッジコンプの息が上がった。下りでの加速で、コーナーの終わりで大きく膨らんで失速する。それを待っていたように、デュオスヴェルが直線に入ったところで一気に前に出た。

 

「おっ先ー! ふははー! いつまでもボクの前を行けると思うなよー!」

「あああっ! くそっ、くそぉぉぉっ! うううう――っ」

 

 ブリッジコンプはもう脚が残っていない。悔しそうに顔を歪めながら後退していく。残り400。それをかわして――バイトアルヒクマが2番手に上がった。直線に入って、一気にスパートをかける!

 

「げっ! なんか来た! こっちくんなー!」

 

 前に出たデュオスヴェルだが、ハイペースの逃げで消耗しているのはそちらも同じだ。みるみる迫ってくるバイトアルヒクマに、慌てながら歯を食いしばって逃げる。

 行け。私が拳を握った瞬間、ヒクマの右足がぐっとターフを踏みしめ――加速。

 

「いっくよー!」

「くああああっ! ちっくしょおおおお!」

 

 伸びを欠くデュオスヴェルに一息に並び、一気にバイトアルヒクマが先頭に立った。

 心底楽しそうな笑顔で、バイトアルヒクマは前に誰もいないターフへ躍り出る。

 行け、行け、そのまま行け!

 私がそう、祈るように身を乗り出した瞬間――。

 

 残り100。

 バイトアルヒクマの内から――その小さく身を潜めた影が、閃光のように駆け抜けた。

 

「――ッ!」

 

 ヒクマが目を見開く。ほんの一瞬、並ぶ間さえなく、電撃のごとく刹那。

 ミニキャクタスが、信じられない加速でヒクマを抜き去った。

 速い。ぞくり、と背筋に冷たいものが走って、私は身震いする。

 なんだ、あの末脚は。あれが――あんな末脚の持ち主が、今までほとんど誰にも注目されずに、選抜レースの後もひとりで黙々とトレーニングをしていた? そんなバカな!

 あっという間にミニキャクタスの背中が遠ざかる。ヒクマだって全力のスパートをかけているのに、スピードがまるで違う。そして――。

 

「スヴェルちゃ~ん、お先に失礼しますね」

「うえええ、オータムぅぅぅ」

 

 残り50メートルを切ったところで、いつの間にか後方からオータムマウンテンが悠然と追い込んできていた。ゴール寸前で、ヒクマはオータムにもかわされ――。

 

「ゴールッ!」

 

 ゴール判定担当のウマ娘が右手を挙げた。

 1着、ミニキャクタス。2着、1バ身半差でオータムマウンテン。バイトアルヒクマは――さらに半バ身差で3着。以下、デュオスヴェル、リボンエチュードが続き、最後にブリッジコンプがへろへろになりながらゴールした。

 ブリッジコンプとデュオスヴェルが仲良くそのまま芝生に倒れこみ、リボンエチュードも膝に手を突いて荒く息を吐く。オータムマウンテンがデュオスヴェルに歩み寄り、「大丈夫ですか~?」と手を差し伸べていた。

 そして、バイトアルヒクマはゆっくりと足を止め――。

 

「…………」

 

 ターフに立ち尽くした、ミニキャクタスを見やる。ミニキャクタスは一着でゴールしたことに対する喜びも、それ以外の何の感情もその顔に浮かべることなく、ただぼんやりと空を見上げていた。

 遅れて、ギャラリーから歓声があがる。見物していたトレーナーの何人かが、「ちょっと待って、あの子誰?」「なんだあの末脚……」「オータムマウンテンに勝ったぞ」「あんなウマ娘いたか?」とどよめいていた。

 その歓声とどよめきの中――ヒクマは、ゆっくりとミニキャクタスに歩み寄る。ミニキャクタスがそれに気付いて、困ったような顔で振り返った。

 その顔を、正面から見つめたヒクマは――。

 

「……キャクタスちゃん」

「――――」

「すごいね! すごいすごい! なにあのスピード、どうやったの!?」

 

 その目を大きく見開いて、興奮した顔で、ミニキャクタスの手を握って身を乗り出した。

 ミニキャクタスは目をしばたたかせ、そしてまた、心底戸惑ったように視線を逸らす。

 

「……別に、なにも」

「う~っ、また負けちゃった! でも、次は負けないよ! 絶対負けないから、また勝負しようね! ね!」

 

 笑顔でぶんぶんと握った手を振るヒクマに、ミニキャクタスは困惑しきった様子でただ目を伏せる。――あの子は、他人から構われることに慣れていないだけなのかもしれない。

 

「うーん、あの末脚は予想外でしたね~。残り50メートルで全員追い抜けるはずだったんですけど。完敗です」

 

 と、そこへ頬に手を当てながら、オータムマウンテンが歩み寄る。

 

「クマさんもいい走りでした~。クマさんはティアラ路線でしたっけ?」

「えと、そうだけど、クマじゃないですー! バイト・アル・ヒクマ!」

「そちらは? あなたはティアラですか? それとも三冠?」

「…………まだ、決めて、ないです」

 

 オータムに話を振られ、ミニキャクタスは絞り出すように答える。

 

「あらあら、三冠路線に来られたら困っちゃいますねえ。こんな強いライバルがいたんじゃ大変です。できればティアラの方に行っていただけると助かりますね~。じゃあ、私はこれで。クマさんも今日はありがとうございました。楽しいレースでしたよ~」

 

 飄々と手を振って、オータムマウンテンはぐったりしているデュオスヴェルを連れてコースを去っていく。「クマじゃないですってばー!」とヒクマは口を尖らせてそれを見送っていた。

 ――そうして、さらにそこへ。

 

「ちょ、ちょっと君、いいかな?」

「お話させてほしいんだけど!」

 

 見物していたトレーナーたちが、ミニキャクタスの元へ集まってくる。あの走りを見たら当然だろう。ミニキャクタスは突然自分の周囲に集まってきた人だかりに、パニックになったように視線を巡らせ、

 

「……わ、私も、し、失礼、します」

 

 そして――逃げ出すように、その場から走り出してしまう。

 

「あっ、待って!」

「追うぞ! あんな才能逃がせるか!」

 

 トレーナーたちが慌てて追いかける。ぐんぐん遠ざかるミニキャクタスの背中に、ヒクマは大きく手を振って、声を張り上げた。

 

「キャクタスちゃーん! また勝負しようねー! 約束だよー!」

 

 その声が、ミニキャクタスの背中に届いていたかどうかは、定かではない。

 

 

 

 ビリに終わって地団駄を踏んでいるブリッジコンプを、リボンエチュードがなだめている。それを横目に見ながら、私はヒクマに歩み寄る。

 

「お疲れ様。どうだった?」

「あ、トレーナーさん! うん、楽しかった、すごく楽しかったよ! でも――」

 

 大きく両手を挙げて、笑顔でそう答えたヒクマは、けれど次の瞬間、

 

「う~~~~~っ、また負けたぁ! 悔しい! 前より速くなったと思ってたのに!」

 

 ぎゅっと目を瞑り、ぶんぶんと両手を振って悔しがる。――うん、この素直な感情表現ができるなら、ヒクマは大丈夫だ。私は頷いて、ぽんぽんとヒクマの頭を撫でた。

 

「速くなってるよ、ヒクマは」

「え? トレーナーさん、そうなの?」

「うん。選抜レースのときよりタイムは良かった。大丈夫、ちゃんと成長してる」

 

 私がストップウォッチを見せると、ヒクマの顔がぱっとほころぶ。

 

「あ、ホントだ! よーし、じゃあもっと頑張って、次はキャクタスちゃんに勝つぞー!」

 

 えいえいおー! と拳を突き上げるヒクマに、私も一緒になって拳を振り上げる。

 

「そうだ、次は勝つよ! ヒクマ!」

「うん! 絶対勝ーつ!」

 

 このヒクマの底抜けの前向きさに、一番勇気づけられているのは、私自身かもしれない。

 この子を勝たせてあげたい。1着でゴール板を駆け抜けるヒクマの姿を見たい。

 デビュー戦まで残り数ヶ月。やれることはなんでもやろう。私はそう、心に誓った。

 

 

       * * *

 

 

 芝コースの方で歓声があがる。どうやら模擬レースが決着したらしい。

 エレガンジェネラルがウォーミングアップを終え、そろそろトレーニングを始めようとしていたところへ、見物に行っていたジャラジャラが戻って来た。

 無視してトレーニングを始めても良かったが、ジェネラルは一応声を掛ける。

 

「……どうでした? 模擬レース」

「お? おお――」

 

 問われたジャラジャラは、不意を打たれたように顔を上げ、そして――心底楽しそうな、攻撃的な笑みを浮かべて、ぱん、と拳を打ち鳴らした。

 

「すげえ面白い奴がいたぜ。ティアラ路線に来ねーかな、あいつ」

「――へえ。どちらの方です? 名前は?」

 

 前評判の高いオータムマウンテンのことだろうか。ジェネラルが問うと、ジャラジャラはきょとんと目を見開き、それからばつが悪そうに頭を掻いた。

 

「しまった、名前聞くの忘れてたや」

「……何をやってるんですか、ジャラジャラさん。もういいです」

 

 ジェネラルは嘆息する。そこへトレーナーから声がかかり、ジェネラルは踵を返して自分のトレーニングに向かった。

 

「あいつ、なんて名前だったんだ? あーもう、顔もよく思い出せねえ」

 

 そしてジャラジャラはしきりに首を捻り、1着になったウマ娘の顔を思い出そうとしていた。

 

 

       * * *

 

 

 ミニキャクタス、というその名前を彼女たちが認識するのは。

 その名前が、このふたりと並び称されるようになるのは、もっと後の話になる。

 

 そして、それからさらに後のウマ娘ファンたちは、飽かぬ議論を繰り返すことになる。

 ――あのティアラ最強世代のうち、最も強かったのは誰だったのか?



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第12話 最強のひとり

 小さい頃から、あたしが一番足が速かった。

 誰もあたしの前を走れない。あたしは誰かの背中なんか追いかけない。

 ずーっと、ずーっと、あたしが一番。あたしはいつだって、誰よりも先を走るんだ。

 だってあたしは、世界で一番足が速いウマ娘なんだから。

 あたしは――最強のウマ娘なんだから。

 

 もちろん、現実はそうじゃない。

 あたしは、ちょっと足が速いだけの、たくさんいるウマ娘のひとりでしかない。

 そんなことは、この学園に来たその日に思い知っている。

 

 でも、そうなのだとしても。それがなんだっていうのだ。

 あたしは最強だ。最強のウマ娘だ。

 今がそうじゃないなら、これからそうなるんだ。

 

 そう自分に言い聞かせないと、走り続けていられなかった。

 

 

       * * *

 

 

 夜。仕事を終えてトレーナー室を出たところで、スマホにバイトアルヒクマからメッセージが入った。最近ようやく、直接走ってくるのではなくまずスマホに連絡を入れることを覚えてくれたので、こちらとしてもありがたい。

 

《トレーナーさん、門限過ぎちゃったんだけどコンプちゃんが戻ってないの》

 

 という文面に、どうしよう、のスタンプ。そういえばブリッジコンプは、ヒクマのルームメイトだったか。時計を見ると、確かに寮の門限を過ぎている。

 

《ブリッジコンプのスマホにメッセージは入れた?》

《入れたけど既読つかないの》

 

 心配だよー、というスタンプ。

 

《そろそろ寮長さん点呼に来ちゃうし》

《わかった。私の方で探してみる。見つけたらそっちの寮長に連絡しておくから、ヒクマは待ってて。いいね?》

 

 栗東寮の寮長の連絡先は、ヒクマと担当契約を交わしたときに教えてもらっている。

 

《わかった。ありがとうトレーナーさん、よろしく!》

 

 お願いします、というスタンプを送ってくるヒクマに苦笑しつつ、仕方ないな、と私はブリッジコンプを探しに向かった。

 

 

 

 グラウンドをざっと見渡してみたが、それらしい姿は見当たらなかった。

 となると屋内か。寮の門限を過ぎても、屋内のトレーニングルームやプールはまだしばらく開いている。トレーナーの監督下であれば、門限後のトレーニングも許可されるからだ。とはいえ、夜遅くまでのスパルタトレーニングが珍しくなかったのは昔の話で、現代は効率を重視したトレーニングが主流だが……。

 そちらに足を向けてみるが、トレーニングルームは既に閉まっていた。となるとプールか? 向かってみると、まだ明かりがついている。中を覗くと、がらんとしたプールにひとりだけ、黙々と水を掻くウマ娘の姿があった。

 ざぶん、と水から上がって、ぽたぽたと雫を垂らしながら首を振る小柄なウマ娘に、私はゆっくりと歩み寄る。間違いない、ブリッジコンプだ。

 

「ん? ……あれ、クマっちのトレーナー? なんでここに……」

 

 私に気付いて目をしばたたかせたブリッジコンプに、私はプールの掛け時計を指さす。

 時計を見上げたコンプは、「あっ!」と口元を押さえて声を上げた。

 

「あーっ、しまった門限過ぎてる! うわ、寮長に怒られるぅ!」

 

 慌ててコンプは走りだそうとして――濡れたプールサイドで脚を滑らせる。

 

「わわっ」

「危ない!」

 

 咄嗟に私は手を伸ばして、その小さな身体を支えた。体当たりされるような格好になったが、なんとか踏ん張って押さえる。

 近くで支えてみると、思った以上に小さな身体だった。150センチもないこの身体で、時速60キロ以上のスピードで走るウマ娘という存在の不思議さを、改めて思う。

 

「……あ、ありが、と」

 

 照れくさそうに頬を染めて、ブリッジコンプは濡れた手で私のシャツを掴んだ。私は苦笑して、それからスマホを取り出すと、栗東寮の寮長の番号に電話を掛けた。

 

「――ああ、どうも。バイトアルヒクマのトレーナーです。実はブリッジコンプの自主トレに付き合ってあげていたら門限を過ぎてしまいまして……。はい、どうもすみません。しっかり私が送り届けますので、はい、はい、ありがとうございます」

 

 寮長が話の解るウマ娘で助かった。私が電話を切ると、コンプがきょとんと私を見上げている。ぽたぽたと、濡れた栗毛から滴った雫が足下を濡らしていた。

 

「トレーナー……あたしのこと、庇ってくれるの? なんで?」

「なんでって言われても……時間を忘れるぐらい真剣に努力してるウマ娘が、そのせいで怒られるのは忍びないってだけだよ。まあでも、夜のプールでひとりで自主トレは感心しないな。何かあったときに助けがいないのは危険だよ」

「……う、ごめんなさい」

 

 存外素直に謝るブリッジコンプ。その濡れた髪をぽんぽんと撫でてやると、「な、撫でるなー! 子供扱いするなー!」とぶんぶん手を振り回して怒りだした。うーん、年頃の女の子の扱いは難しい……。

 

「まあ、とにかく自主トレはここまで。身体拭いて着替えておいで。風邪引くよ」

「……ん」

 

 頷き、ぱたぱたとシャワー室へ駆けていくブリッジコンプ。もうすぐ次の選抜レースだ。前回の選抜レースで結果を出せなかったブリッジコンプが、自分を追い込むのはまあ理解できるが、何事にも限度はある。

 ――そういえば、彼女は前回の選抜レースでは芝2000メートルに出ていたけれど、次回はどうするのだろう? 何度か走る姿を見た限りでは、彼女の適性は短距離のように思うのだが……。

 

 

       * * *

 

 

 制服に着替えたブリッジコンプを連れて、プールを後にする。普段は強気に胸を張っているブリッジコンプだが、今は少しばつが悪そうに俯きがちに歩いていた。

 

「ヒクマも心配してたよ」

「……ん、クマっちには部屋に戻ったら直接謝っとく」

 

 プールで泳いでいる間、鞄に入れっぱなしにしていたスマホには、ヒクマからのメッセージが大量に残っていたらしい。それへの返事を入力しながら、コンプは頷く。

 

「次からは、門限ギリギリまで自主トレするなら私に声かけて。見ててあげるぐらいはできるから」

 

 私がそう言うと、コンプは顔を上げて、きょとんと私のことを見た。

 

「え、なんで? いいの? あたし、トレーナーの担当ウマ娘でもないのに」

「まあ、ヒクマの友達だしね。この前はヒクマの模擬レースに付き合ってくれたし」

「…………」

 

 模擬レースのことを口に出すと、コンプはぎゅっと口を引き結んで俯いた。――先日の模擬レースでも、ブリッジコンプは先頭で逃げたが、途中でスタミナが尽きて最下位に終わっている。1200メートルまでは素晴らしいスピードを出せるが、1600を走りきるスタミナはまだ彼女には身についていないのだ。遅くまでプールで泳いでいたのも、おそらくはその自覚があるからなのだろうが……。

 

「……あのさ、トレーナー」

「うん?」

「正直に答えてほしいんだけど。――あたしのこと、バカだって思ってる?」

「え?」

「適性もないくせに、マイルも走りきれないくせに、意地張ってめちゃくちゃに先頭走って、それでスタミナ尽きてヘトヘトになって、最後はビリッケツ。……バカみたいだって、思ってるでしょ?」

 

 足を止めて、ぎゅっと拳を握りしめて、その小さな肩を震わせて。

 ブリッジコンプは、絞り出すように、そう口にした。

 

「わかってる! わかってるの! 自分がバカだってことぐらい! でも、でもっ、それしかできないんだもん! あたしはっ、あたしは――」

 

 吐き出すようにそう叫んで、ブリッジコンプはまたぎゅっと唇を引き結ぶ。

 

「あたしは――最強のウマ娘に、なるって決めて、ここにいるんだから……!」

 

 

 中央のトレセン学園に入れる時点で、ウマ娘としては充分にエリートだ。

 しかしそれはつまり、ここが全国から選ばれたエリートの集合体であるということ。

 誰もが大きな夢を抱いて、この学園の門をくぐる。

 けれど、その夢を抱き続けることができるのは、選ばれたほんの一握りだけ。

 多くのウマ娘は、地元で一番だった自分が、このトレセン学園では何ら特別な存在ではないという現実に打ちのめされ、夢を見失う。

 それは、才能と実力が、厳然と勝者と敗者を分ける残酷な世界の宿命だ。

 ……新人トレーナーの私も、その事実は理解している。

 しかし、理解しているだけの私に――いったい、何が言えるというのだろう?

 

 

「……ねえ、ブリッジコンプ」

 

 私が呼びかけると、ブリッジコンプはゆっくりと顔を上げた。

 

「君の目指す『最強のウマ娘』って、どんなウマ娘?」

「――そんなの、三冠ウマ娘に決まってるじゃない!」

 

 身を乗り出して、ブリッジコンプは叫ぶ。――確かにそうだろう。皐月賞、日本ダービー、菊花賞。一生に一度しか挑めないクラシック三冠。それを制覇した三冠ウマ娘とは、紛れもなく『最強』の称号に他ならない。

 

「あたしは、三冠全部逃げて勝つの! 最初から最後まで、あたしが先頭で! 最初から最後までずっと一番前を走って勝つのが、最強のウマ娘に決まってるんだから!」

 

 三冠全て、逃げ切って勝つ。それを実現したウマ娘は、未だひとりもいない。

 確かに、それができれば、『最強』と呼ばれるに相応しいかもしれない。だけど――。

 唇を噛みしめて、現実を受け入れるのを必死に拒否するように、ブリッジコンプは私を睨むように見上げる。

 彼女自身も、きっとわかっているのだ。

 ――ブリッジコンプ。彼女の適性は、おそらくスプリンターだと。

 距離適性は努力で克服できるという考え方もあるが……それは結局、距離適性を努力で克服できる才能を持ったウマ娘だけに許された権利だろう。

 私は、彼女にそう言ってあげるべきだろうか? 努力で適性は克服できると?

 それとも、諦めてスプリントを目指せと、そう言ってあげるべきだろうか?

 

「――――」

 

 いや、たぶん、それはどっちも正しくはない。それなら――。

 

「……ちょっと、寮に戻る前に、寄り道しようか」

「え?」

「見せたいものがあるんだ」

 

 私の言葉に、ブリッジコンプはきょとんと首を傾げた。

 

 

       * * *

 

 

「ねートレーナー。こんな時間に担当でもないウマ娘をトレーナー室に連れ込むって、見つかったらなんかマズかったりするんじゃないの?」

「誤解を招く言い方はやめようね……」

 

 ブリッジコンプを連れてきた先は、私のトレーナー室である。私はブリッジコンプをパイプ椅子に座らせて、部屋のモニターにとあるレースの映像を映し出した。

 ――それはある年の、短距離GⅠ・スプリンターズステークス。

 ウマ娘ファンの間では、今も伝説のレースとして語り継がれている一戦だった。

 

「トレーナー? なに見せようっての?」

 

 私はその問いに答えず、映像を再生する。説明抜きですぐにレースが始まる。スタート直後、抜群のダッシュでひとりのウマ娘が先頭に躍り出た。そのまま後ろを2バ身離して、どんどん逃げる。逃げる。逃げる。

 コーナーを越えて直線に入ると、そのウマ娘はさらに加速した。後ろは誰も追いつけない。6ハロンの電撃戦だというのに、直線でみるみる差が開く。メイクデビューにGⅠウマ娘が出てきたような、圧倒的な、あまりに圧倒的な実力差。

 ――最終的についた差は、短距離GⅠではおよそあり得ない6バ身差。言うまでもなく、スプリンターズステークス史上最大バ身差である。

 そのあまりにも圧倒的な、他のウマ娘にとっては絶望すら届かないパフォーマンスに、ブリッジコンプはあんぐりと口を開けて見入っていた。

 

「……え、ちょっと待ってトレーナー。今の、ホントにGⅠ?」

「GⅠ。スプリンターズステークス」

「いやいやいや、あり得ないでしょ! なにあれ! あんなのアリ!?」

 

 呆然と、ブリッジコンプは今見たものが信じられないという顔で首を振る。――良かった。有名なレースだから彼女は知っているかもしれないと思っていたが。このレースを初めて見たときの衝撃は、私も忘れられない。私もリアルタイムでは知らない時代のレースだが、短距離GⅠでこんな圧勝劇があるなんて――と。

 

「中長距離でどのウマ娘が最強かっていうのは、ウマ娘ファンの間では永遠の論争の種だ。三冠ウマ娘は何人もいる。無敗の三冠ウマ娘だって複数いる。GⅠを一番勝ったウマ娘か。年間全勝のウマ娘か。海外の大レースで勝ったウマ娘か――みんなそれぞれに思い入れがあって、特定の誰かが最強って結論は絶対に出ない。――でも」

 

 私は映像の中で、力強くガッツポーズするそのウマ娘を見やった。

 

「《短距離最強》は、議論の余地なしだよ。誰もが認めてる。彼女こそ史上最強だって」

「――――」

 

 私の言葉に答えず、ブリッジコンプはぶるりと身震いしながら、その映像に食い入るように見入っていた。

 

「最強……あれが、最強……」

 

 握りしめたブリッジコンプの拳が、小さく震えていた。

 その横顔を見れば、もう私が言うべきことは何も残っていないとわかったから、私はそっと立ち上がってトレーナー室を出た。部屋の中からは、映像を頭から再生し直している音声が聞こえてくる。

 廊下の窓の外、夜空を見上げて、私は息を吐く。

 

 ――私はひょっとしたら、ひどく残酷なことをしたのかもしれない。

 ひょっとしたらブリッジコンプも、努力で距離適性を克服できる才能を持っているのかもしれない。その夢の形を変えさせる権利が、私にあったとは思えない。

 だけど、せめて。

 彼女が、ウマ娘として悔いのない競走生活を送ってくれるといい。

 ヒクマと一緒に走るブリッジコンプの姿を見てきた私にできるのは、そう祈ることだけだった。



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第13話 3人いっしょに!

 再び、選抜レースの日がやってきた。

 既にトレーナーの決まっているヒクマは、今日は友人たちの応援である。私もその付き添いで、選抜レースの会場に足を向けていた。

 実績のあるトレーナーは一度に何人ものウマ娘をまとめて指導するので、既に担当がいても新たな才能を求めて熱心に選抜レースに足を運ぶが、新人の私にはまだ荷が重い。今回は純粋に、ヒクマと一緒に応援しようと思う。

 

「エチュードちゃん、ふぁいとー!」

「う、うん……がんばるよ、私」

 

 リボンエチュードは、今回も芝1600メートルにエントリーしている。発表されたメンバーには目立った強敵はいない。この前のヒクマやミニキャクタスとの模擬レースではブービーだったとはいえ、相手が悪かっただけでタイムは決して悪くなかった。自分の走りができれば、結果は出せるはずだ。

 

「落ち着いて。周りのことは気にしないで、自分の走りたいように走ればいいよ。なんだったら直線の間は目を瞑って走るぐらいのつもりで」

「そ、それは危ないと思います、トレーナーさん……でも、はい、やってみます」

 

 大きく深呼吸するリボンエチュード。その姿にニコニコと頷いて、それからヒクマはストレッチするブリッジコンプに歩み寄った。

 

「コンプちゃんも、がんばってね!」

「言われなくたって。見てなさい、新生ブリッジコンプの最強伝説は、ここから始まるんだから!」

 

 いつも通りのドヤ顔で胸を張るブリッジコンプ。彼女は――今回は、芝の1200メートルにエントリーしていた。

 私の視線に気付いて振り向いたブリッジコンプは、私にびしっと指を突きつける。

 

「さあ、トレーナーも目かっぽじって見てなさいよ! もはや今までのあたしじゃないんだからね! 華麗に1000バ身差つけて逃げ切ってやるんだから!」

「――ああ、楽しみにしてるよ」

 

 私はただ、その言葉に頷く。――三冠という夢を一旦振り切って、短距離路線に向かうこと。それについてブリッジコンプの内面にどんな思いが渦巻いているかは、私には知りようもない。けれど、彼女の目は死んでいない。なら、今はそれで充分だと思う。

 ――そういえば、と私は今回の出走ウマ娘一覧を見る。ミニキャクタスの名前は、今回のレースにはなかった。あれから噂を聞かないが……あのあと担当トレーナーは無事に決まったのだろうか?

 そんなことを思っていると――突然。

 

「おいこらブリッコ! お前なんで短距離に出てるんだよー!」

 

 と、いきなり飛び込んでくる怒声。振り返ると、デュオスヴェルがすごい勢いでこちらに突進してくるところだった。ブリッジコンプを睨み付けたデュオスヴェルは、それから何かに気付いたように声をあげる。

 

「はっ、そうかお前、1200と2000と書き間違えたんだろ! ばーかばーか!」

「アホスヴェルじゃないんだからそんなことしないっての」

「なんだとー!」

 

 うがー、と叫ぶデュオスヴェルに、ブリッジコンプはびしっと人差し指をつきつける。

 

「残念だけど、最強のあたしはあんたなんかと張り合ってるヒマはないの! あんたが三冠でボロ負けしてびーびー泣いてる間に、あたしは最強の短距離ウマ娘になってるんだから、あたしの名前が歴史に刻まれるところを隅っこで眺めてなさい!」

「――――~~~ッ」

 

 声にならないうなり声をあげて、デュオスヴェルはぎゅっと拳を握りしめる。

 

「ちくしょー! なんだよばーか! バカブリッコ! 勝手にしやがれー!」

「言われなくたってあんたの許可なんかいらないっての! アホスヴェル!」

 

 踵を返して走り去るデュオスヴェルを、ブリッジコンプはしっしっと追い払う仕草をして、呆れたように息を吐く。

 

「……ふん、アホスヴェル」

 

 そして、それだけ呟いて、私にも背を向けてストレッチを再開した。

 私がその背中をぼんやり眺めていると、「すみませ~ん」と声を掛けられる。

 

「どうもこんにちは。スヴェルちゃんがまたご迷惑おかけしたようで~」

「ん、ああ、いや別に」

 

 振り返ると、オータムマウンテンが頬に手を当てて小首を傾げていた。

 

「コンプちゃん、短距離に切り替えたんですねえ」

「……ええ、まあ」

「スヴェルちゃん、一緒に張り合う相手がいなくなって寂しいんですよ。あの子、ひとりで大逃げするより誰かに競りかけられた方が負けん気の出るタイプですから。ライバルだと思ってた子にいきなり別の距離に行かれちゃったら、残念な気持ちはわかります」

「…………」

「あ、いえいえ、別に路線変更は自由ですから責めてるわけじゃないですよ~。ただ、スヴェルちゃんがとーってもさみしがり屋で、ブリッジコンプちゃんが短距離に出るって聞いてからもう毎晩毎晩さみしくてベッドですんすん泣いてるってことだけ」

「オータム! なに言ってんだばかー!」

 

 あ、デュオスヴェルが戻って来た。慌ててオータムマウンテンの口を塞ぐスヴェルに、オータムはもがもがと何か言いながら首を傾げる。

 

「デマ広めるなー!」

「ええ? 私のベッドに潜り込んですんすん泣いてたじゃないですか」

「わーっ! わーわーわー! オータム! もうブリッコのことなんかいいからあっち行くぞあっち!」

「あらあら、お騒がせしてすみません~。ではでは」

 

 顔を真っ赤にしたスヴェルに手を引かれ、オータムマウンテンは全く悪気のなさそうな顔で去って行く。――あれがルームメイトじゃ、どっちも大変そうだな、と私は思った。

 

 

       * * *

 

 

 さて、この選抜レースの結果は、さほどくだくだしく語ることもない。

 芝2000の第1レースに出たデュオスヴェルは単独で大逃げを打って、勝手に潰れるのを待って控えすぎた後続を寄せ付けずにそのまま会心の逃げ切り勝ち。

 同じく芝2000の第2レースに出たオータムマウンテンは、相変わらずマイペースに最後方を走り、第4コーナーからじわじわと順位を上げ、余裕のある走りっぷりでゴール手前で悠然と差し切って1着。

 どちらもレース後、さっそくスカウトしようとするトレーナーに囲まれていた。

 

 

 そして、リボンエチュードとブリッジコンプは――。

 

『外からリボンエチュード! リボンエチュードが追い込んでくる! 先頭集団を捉えた! そのまま――差し切ってゴールッ!』

 

「いっけー! エチュードちゃん! そこ、あとちょっと――やったあ!」

 

 落ち着いて後方に控えたエチュードは、貯めた足を一気に直線で解き放ち、大外からの追込で、団子になっていた先頭集団をゴール寸前でまとめて抜き去った。堂々のアタマ差での1着。私はヒクマとハイタッチで喜びを分かち合う。

 ゴールしたあと、エチュードは自分が勝ったということが信じられないように周囲を見回したあと、立ち止まって口元に手を当て、感極まったようにしゃがみこんだ。

 

 

 続いて、芝1200メートル。

 

『ブリッジコンプ逃げる逃げる! 外からバイパーピアース、シルバーベリーも追い込んでくるが、しかし譲らない! 粘る粘るブリッジコンプ――見事に逃げ切ったッ!』

 

「コンプちゃーん! やった、やったよトレーナーさん! すごーい!」

「――ああ、よくやったな、ブリッジコンプ!」

 

 ぴょんぴょんと飛び跳ねるヒクマの横で、私も拳を握りしめる。

 歯を食いしばって逃げ切ったブリッジコンプは、そのまま前のめりにターフに倒れこみながら、大きく右手を突き上げた。誇らしげに、見たか、と言わんばかりに。

 

 

       * * *

 

 

「ふたりとも、おめでとー!」

「わっ、ヒクマちゃん、く、苦しいよ」

「クマっち、ちょっと、あたしたちヘトヘトなんだから、今はクマっちのテンションに付き合ってる余裕ないの!」

 

 レース後。ヒクマに抱きつかれてもがきながらも、エチュードもコンプも晴れやかな笑みを浮かべていた。私も手を叩きながらふたりに歩み寄る。

 

「おつかれさま。ふたりとも、1着おめでとう」

「あ、トレーナーさん。……あの、本当に、ありがとうございましたっ」

「トレーナー! ちゃんと見届けたでしょーね、あたしの最強っぷり!」

 

 ヒクマにしがみつかれたまま、エチュードは深々と頭を下げ、コンプはいつものドヤ顔で胸を張る。ふたりとも本来の力を出すのに微力ながらでも役に立てたなら、私としても嬉しい。どちらも強い勝ち方だった。スカウトの声は必ずかかるだろう。

 

「ヒクマ、これからふたりにはスカウトの声がかかるだろうから、祝勝会は後でゆっくりやろうね」

「あ、うん!」

 

 ぱっとヒクマはふたりから離れる。――と、エチュードとコンプのふたりが、少し困ったように顔を見合わせた。

 

「……コンプちゃん、やっぱり迷惑なんじゃないかなあ……」

「あのさ、エーちゃん。いきなり知らないトレーナーに声掛けられて、人見知りのエーちゃんがまともに対応できるとはあたしには全然思えないんだけど」

「ううっ……」

「あたしだって、いきなり知らないトレーナーに声掛けられるより、こっちの方が絶対いいもん。大丈夫だって、わざわざ他でもないクマっちをスカウトする物好きよ? あのクマっちのテンションに毎日付き合えるトレーナーなら大丈夫だって」

「う、うん……って、それはさすがにヒクマちゃんにもトレーナーさんにも失礼じゃないかな……?」

 

 ――はて、何の話をしているのだ? 私が首を捻っていると、ふたりは不意に姿勢を正して、私へと向き直り――そして、同時に私へ頭を下げた。

 

「と、トレーナーさん、あの、えっと……」

「あたしたちの、担当トレーナーになってください!」

 

 ――――。

 思わぬ言葉に、私は咄嗟に答えを返せず口ごもった。

 頭を上げたふたりは、真剣な顔で私を見上げる。その視線に、ぞくりと腕が震えるのを感じながらも、頭のどこかで冷静な自分が問いかける。――お前、そんな余裕あるのか?

 

「……わ、私が? いや、でも私はもうヒクマの担当で……」

「何人も担当ウマ娘持ってるトレーナーいっぱいいるじゃん! あたしたちふたりぐらいなんとかなるでしょ? ね!」

「いや、そう言われても、私は入ったばっかりの新米だし」

「……あの、この前、トレーナーさんのおかげで、自分の一番走りやすい走り方がわかった気がするんです。だから、あの、これからも、トレーナーさんに見てほしくて……」

「だいたい、あたしに短距離選ばせたのはトレーナーでしょ! 責任取りなさいよ!」

 

 すごい勢いでブリッジコンプが詰めてきて、エチュードもすがるように訴えてくる。いや待ってほしい、どうすればいいんだ? 正直なところ、ヒクマひとりのことを考えるだけでも結構手一杯なのに……。

 いやでも確かに、ふたりに私の方から指導めいたことをしたのは事実である。一度手を出したなら最後まで責任を取れ――というのは、言い方はアレにしても、理はある。

 それに――私だって、出来ることなら……。でも、私はひとりでそこまでの責任を負えるのか? ヒクマひとりだけでも、これからいくらでもやることがあるのに……。

 

「ほえ? あれ、トレーナーさんがふたりの担当になったら、わたしどうなるの?」

 

 ヒクマが首を傾げると、コンプが呆れ顔で振り返った。

 

「3人一緒に担当してもらうに決まってるでしょ、クマっち!」

「え、それって……つまり、これからはコンプちゃんやエチュードちゃんと毎日一緒にトレーニングできるってこと?」

「その通り!」

「わ、ホント!? トレーナーさん、わたしもそれがいい!」

 

 ヒクマまで諸手を挙げて喜びだしてしまう。そう言われても、はいそうですかと簡単に決断できる話ではない。ほとほと困り果てていると――。

 

「あら、どうしました? 何かお困りですか?」

「あ、たづなさん……」

 

 横から助け船が来た。理事長秘書で、学園のトレーナーたちの相談役を務めている駿川たづなさんである。「事務的なことで困ったことがあったらたづなさんに聞け」は、学園の新人トレーナーが最初に先輩から教わることだ。

 ……その後、小声で「ウマ娘への指導については、体調管理面に関すること以外は聞くな」とも耳打ちされるのだが。どういう意味かは今のところよくわからない。

 ともかく、私が状況を正直に伝えると、「あらあら」とたづなさんは頬に手を当てて首を傾げた。

 

「確かにトレーナーさんがひとりで複数のウマ娘を担当するのは、ルール上は問題ありません。そもそもそうしないとトレーナーさんが足りませんからね……。ウマ娘の方からの逆指名も、トレーナーさんの同意があるのでしたら問題はありません。ですけど、新人トレーナーさんがいきなり同期のウマ娘を3人も受け持つというのは……」

 

 やはりたづなさんもすぐには判断しかねるらしい。風向きが悪そうと感じたのか、エチュードが俯き、コンプが口を尖らせる。――と。

 

「――許可ッ! その件、このわたしが認めよう!」

「理事長!?」

 

 いつか聞いた、あの力強い二字熟語が聞こえてきた。私とたづなさんが振り返ると、秋川理事長の小柄な姿がそこにある。ぱたぱたと仰いでいた扇子を閉じて、理事長はそれをびしっと私に突きつけてきた。

 

「質疑ッ! 新人トレーナー君、トレーナーとウマ娘の間において、最も大切なものは、いったい何かッ? 君たちを歓迎した際、わたしはその話をしたはずだッ!」

「え? ええと――」

 

 配属式での理事長の話を思い出す。あのとき、理事長がした話は――。

 

『忘れないでほしいッ! ウマ娘の力は、君たちトレーナーとの絆によって引き出されるということをッ! つまり――』

「――信頼」

「大・正・解ッ! よくぞ覚えていた、素晴らしいッ! 天晴ッ!」

 

 扇子を広げ、理事長は満面の笑みを浮かべる。帽子に乗った猫がにゃあ、と鳴いた。

 

「そう、ウマ娘とトレーナーの間に最も大切なもの、それは信頼ッ! トレーナーがウマ娘を信じ、ウマ娘がトレーナーを信じることであるッ! そして、君はこのふたりから、その最も大切な信頼を勝ち取ったッ!」

 

 理事長のその言葉に、私はエチュードとコンプに向き直る。ふたりは真剣な顔で、こくりと頷いた。――私がしたことなんて、そんなに大したことではないはずなのに。

 

「ですが理事長、やっぱりいきなり新人さんに3人というのは――」

「本分ッ! たづな、我がトレセン学園は何のためにある?」

「……ウマ娘の才能を伸ばし、トゥインクル・シリーズの舞台に羽ばたかせることです」

「正解ッ! 何よりも優先されるべきは、まさにそれッ! 学園はそのために、万全のサポート体制を準備する義務があるッ! 新人にして3人のウマ娘から信頼を勝ち取る有望なトレーナーをサポート出来ずして、何のためのトレセン学園かッ!」

「――はい、仰る通りです、理事長!」

 

 たづなさんが手を合わせ、感激した顔で理事長を見つめる。――気が付いたら、見事なまでに外堀を埋められてしまった。これではもう、断りようがないではないか。

 

「確認ッ! 新人トレーナー君、君はウマ娘の信頼に応える覚悟があるかッ!? 君を信頼してついてくるウマ娘を、信じてレースに送り出す覚悟はあるかッ!」

 

 理事長に扇子を突きつけられ、私はもう一度、エチュードとコンプを正面から見つめ直した。――そんなことは、言われるまでもない。

 リボンエチュード。ブリッジコンプ。今日の選抜レースだけじゃない。その前の併走や模擬レースで、私は確かにこのふたりにも、確かな才能の煌めきを感じていたのだ。既にヒクマを担当していなければ、ふたりのどちらだって、今日迷わずスカウトしていた。

 いくぶん緊張した面持ちのふたりに――私は、右手を差し出した。

 

「ふたりとも――私なんかでよければ、是非、スカウトさせてほしい」

「――――は、はい! よろしく、お願いします!」

「当ッたり前でしょ! トレーナー、このブリッジコンプをスカウトできたこと、光栄に思いなさいよ! 絶対後悔させないんだから!」

 

 ふたりは、力強く、私の右手を握り返した。

 

 

 ――こうして、私は一挙に、同期の3人を担当することになったのだった。



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第14話 幽霊みたいな

「わーい、今日から3人で練習だね!」

「う、うん。よろしくね、ヒクマちゃん。……トレーナーさんも、えと、よろしくお願いします……」

「ホントに大丈夫? なんか今さら不安になってきたんだけど」

 

 選抜レースの翌日から、さっそく新たにふたりを追加で担当する日々が始まった。

 リボンエチュードとブリッジコンプ。成り行きでバイトアルヒクマとその親友ふたりをまとめて担当することになったわけだが……。

 

「ふたりともよろしく。ヒクマと一緒に頑張ろう」

 

 可能な限り真面目な顔を繕いつつ、私はふたりに手を差し出す。――実のところ寝不足でかなり眠かったが、担当初日からそんな顔を担当ウマ娘に見せるわけにもいかない。

 改めてふたりと握手を交わし、私は自分が担当する3人を見回した。

 

「さて――まずは、具体的な目標を確認したいんだけど。ヒクマは、ドバイシーマクラシックへの出走。そのために、当面はトリプルティアラを目指す。このままいけば6月にデビューして、年内の目標は今のところは12月の阪神JF」

「うん! めざせ世界のウマ娘!」

 

 無邪気に拳を突き上げるヒクマ。彼女のドバイへの夢は、親友のふたりは既に知っているらしく、納得顔で頷いている。

 

「ブリッジコンプ。君は――短距離最強を目指す、んだよね?」

「当然! あ、でも短距離以外も諦めたわけじゃないかんね! まずは短距離で歴代最強になって、そのうちマイル以上でも最強になってやるんだから!」

 

 ブリッジコンプはいつものドヤ顔で胸を張る。何にしても、目標とモチベーションが高いのは悪いことではない。私は頷く。

 

「短距離歴代最強を名乗るなら、大目標は当然、年末の香港スプリントだね」

 

 香港スプリント。12月に香港の沙田レース場で開催される、世界最高峰のスプリントレースだ。あの日コンプに見せたあのウマ娘は、日本のウマ娘として初めて香港スプリントを優勝し、そして連覇している。ここで勝てば、紛れもない短距離歴代最強の一角に名乗りを上げられるだろう。

 

「いいじゃない、あたしも行くわよ、世界!」

「おー、コンプちゃんも世界のウマ娘になろー!」

「よし。でもまあ、それは早くてもシニアになってからだね。とりあえずは――今年、ジュニア級の目標だ。順調ならデビューは8月頃として……11月の、京王杯ジュニアステークスを目指そう」

 

 1400メートルのGⅡレースだ。1400以下のジュニア級レースでは最も格の高いレースであるし、クラシック級以降でマイルにも挑むか、それとも1200に専念するかの見極めにもなる。

 

「オッケー。ま、そのぐらい軽く勝ってあげるから、見てなさいよ!」

 

 拳を握りしめるブリッジコンプ。――彼女のそんな自信家な言動は、自分自身を鼓舞するための暗示なのだろうけれど、それで力が出せるなら、それでいいと思う。

 

「リボンエチュード。君は? どんな路線で走りたい?」

 

 それから私は、リボンエチュードに向き直る。そういえば、彼女の具体的な目標についてはまだ聞いたことがなかった。選抜レースでは芝1600に出ていた彼女だが、そのままマイル路線、距離を伸ばしていって三冠路線、あるいはヒクマと同じティアラ路線――選択肢は多様にある。

 リボンエチュードは、私の問いに困ったように俯いて、ぎゅっと唇を結んだ。

 

「エチュードちゃん」

 

 ヒクマが声をかけると、エチュードはゆっくり顔を上げ、小さく頷く。

 

「あ、あの……私も、ヒクマちゃんと同じ、ティアラ路線に、行きたいです」

「――そうか。理由を聞いてもいい?」

 

 私としては、担当ウマ娘同士を同じ路線で競わせるのは、できれば避けたかった。親友同士で同じレースで競い合うのは、実力伯仲したライバル関係になれれば素晴らしいが、もし埋めがたい実力差がついてしまえば、それはあまりにも残酷だ。

 今のところ、ヒクマとエチュードの実力は、この前の模擬レースを見てもヒクマに分がある。もちろんそれは、これからの成長次第で充分に逆転しうる差だとは思うが。

 

「あの、ええと……その」

 

 知らず私の顔が少し厳しくなってしまったのか、エチュードは萎縮したように俯いてしまった。ブリッジコンプが私をジト目で睨む。私は肩を竦めるしかない。

 

「……ノディ姉さ……いえ、あの、スレノディさんが……」

「リボンスレノディ?」

「…………はい」

「エーちゃんの従姉妹」

 

 横からコンプが補足してくれる。昨年の阪神JF2着、今年はステップレースを使わず桜花賞に直行を表明しているティアラ路線のウマ娘、リボンスレノディの名前は、そういえば以前にもエチュードが口にしていた。

 

「スレノディさんみたいには、なれないかもしれないけど……でも、私も、スレノディさんみたいに……自分のこと、ちゃんと、リボン家のウマ娘だって、思えるように、なりたい、です」

 

 ――多くの名ウマ娘を輩出している名門、リボン家。そこに連なるウマ娘であるという重圧が、このエチュードの人見知りで引っ込み思案な性格を形作ってしまっているのかもしれない、と思う。

 だとすれば、果たして彼女にとってひとつの理想なのであろう従姉妹と同じ道を進ませるのは、正しいのだろうか……。

 頭の片隅でそう思いつつも、私は頷いた。

 

「解った。じゃあ、ヒクマと一緒に来年のトリプルティアラを目指そう。順調に行けばヒクマと一緒に阪神JFも行けるかもしれないけど、ステップレースはいくつもあるから焦らず、来年の桜花賞に照準を合わせていこう」

「……はいっ」

 

 胸の前でぎゅっと拳を握りしめるエチュード。

 よし、とりあえず3人とも目標は決まった。新人トレーナーの私が、一気に3人も担当ウマ娘を抱え、その3人全員にGⅠを目指させようなんていうのはとてつもない高望みかもしれない。でも、ヒクマもエチュードもコンプも、それだけの力はあると私は思う。誰よりもまず、私が彼女たちの力を信じてあげなくては。

 

「よーし、じゃあトレーニング始めるよ。3人とも、今言った目標に向けて自分がどうなりたいか、そのために今の自分には何が足りないか、しっかりイメージして考えながら取り組んでいこう!」

「うんっ!」「おー!」「……お、おー」

 

 元気の良い3人……いや元気なふたりと小声のひとりの声が、グラウンドに響き渡る。

 

 

       * * *

 

 

 担当ウマ娘が3人になって良かったと感じることといえば、やはりヒクマがひとりでトレーニングしていた頃と違って、3人いるとやれることにもいろいろと幅が出てくることだろう。同期の仲間が一緒にトレーニングしているという環境はヒクマにとっても張り合いがあるようで、いつも以上に熱の入ったトレーニングになった。

 

「よーし、3人とも今日はここまで! エチュード、コンプ、大丈夫?」

「……は、は、はい……」

「うあああ、専属トレーナーのメニューって合同トレーニングよりずっとキツぅ……」

「だいじょぶだいじょぶ、ふたりともそのうち慣れるよ! ふぁいとー!」

 

 熱が入りすぎたか、エチュードとコンプは完全にへばっている。ヒクマもつられていつもより多めのメニューをこなしたが、平気な顔をしている様を見ていると、やはり選抜レースを一発通過した2ヵ月のアドバンテージは今の段階では大きい。

 けれど、エチュードもコンプもしっかりついてきていた。これならヒクマの言う通り、しばらくすれば慣れるだろう。

 

「じゃあ、今日は解散。明日も同じ時間から始めるから、特にエチュードとコンプは今日はゆっくり休むこと。きっちり休んで体力回復するのもトレーニングの一部だからね」

「は、い……はぁ、はぁ……はぁぁぁぁ……」

「いや、もう言われなくても今日は動けないってぇ……あーもう無理、死ぬぅ……」

 

 ばったりと大の字に芝生に倒れこむコンプと、座り込むエチュード。やれやれ、回復するまでもう少し見ててあげないとダメか。私は備品のクーラーボックスから3人にスポーツドリンクを手渡す。

 

「わ、トレーナーさんありがと!」

「あ、ありがとうございます……」

「うううう、トレーナーが天使の顔した悪魔に見えるぅ……。ヘロヘロに追い込んでおいて優しくするの、マッチポンプって言うんだってぇ……」

「人聞きの悪いこと言わない。いらない?」

「いるー!」

「ガブ飲みしないようにね」

 

 私の注意も聞かず、スポーツドリンクに飛びついたブリッジコンプは、思いっきりガブ飲みして噎せていた。やれやれ。

 

 

 

 さて、もちろん物事は良いことばかりではない。

 担当ウマ娘が3人になったということは――つまり、私の仕事量も3倍に増えたということである。ヒクマひとりだけでも大変だったのに、先が思いやられることこの上ない。理事長とたづなさんはサポートしてくれると言ったけれど、忙しいだろうたづなさんの手をそう頻繁に煩わせるわけにもいかないだろう。

 そんなわけで――3人を担当するにあたって学園に提出する各種書類をトレーナー室で作っていたら、今日も深夜になってしまっていた。

 

「うううっ、キツ……。徹夜は避けないとなあ……」

 

 昨日も2時間ほどしか寝ていない。徹夜に耐える程度の体力はあるつもりだが、睡眠不足は注意力も判断力も奪う。担当ウマ娘にしっかり休むように言っておいて、自分が寝不足でふらついていては説得力も何もない。

 ひとつ息を吐いて、私は一旦作業の手を止めて、ふと選抜レースのときに気になったことを確認してみることにした。

 ――ミニキャクタス。模擬レースでヒクマに勝った、あの存在感の薄いウマ娘。あの子はちゃんとトレーナーが決まったのだろうか?

 学園のデータベースには、在籍する全ウマ娘のデータが入力されている。担当トレーナーが決まり、今年6月のメイクデビュー解禁以降にデビュー予定のウマ娘のリストは、トレーナーIDでいつでも閲覧できる情報だ。

 そこにアクセスして検索してみると――あった。ちゃんと、デビュー予定のウマ娘一覧に、ミニキャクタスの名前がある。担当トレーナーの名前は……小坂。知らない名前だ。

 ジャラジャラとエレガンジェネラルの名前もリストの中にある。そしてもちろん、バイトアルヒクマと、登録されたばかりのリボンエチュードとブリッジコンプの名前も。その3人の名前の横にある担当トレーナー欄の自分の名前に、私はひとつ頷いた。

 よし、あとちょっとで今の作業は終わる。今日はここまでやったら切り上げて少しソファで仮眠しよう。今日も自室には戻れそうにないな……。せめてウマ娘たちが授業を受けている午前中寝ていられれば楽なのだが、社会人はそういうわけにもいかないのである。

 気合いを入れ直しに、ちょっと飲み物でも買ってこよう。私はトレーナー室を出て、自動販売機にコーヒーを買いに向かった。

 

 

 

 そうして、自販機の明かりを前に、缶コーヒーをちびちび飲み。

 空き缶をゴミ箱に放って、トレーナー室に戻ろうと、廊下の暗がりに足を踏み出したときのことである。

 ――真っ黒な影が、廊下の奧から、こちらにゆっくりと向かってくるのが見えた。

 な、なんだアレは? こっちに近付いてくる。闇に溶けるような黒い影……。

 ……そういえば、夜の学園といえば怪談話がつきものだけれど、まだ夏には早いだろう。

 狼狽えているうちに、影はみるみる近付いてくる。

 闇の塊のような、真っ黒な――。

 

「ひっ」

 

 思わず身の危険を感じ、私は息を飲んで後じさった。

 ど、どうする? 逃げるべきか? けど、足が竦んで動けない――。

 

「…………あの」

「はっ、はい!」

 

 突然声をかけられ、素っ頓狂な声が出た。その私の声にびっくりしたように、真っ黒な影はびくっと足を止める。

 ――そして、自販機の明かりが、その黒い影の姿を照らし出した。

 

「………………す、すみません……驚かせて……しまいましたか……」

 

 幽霊みたいな消え入りそうな声でそう言ったのは――長い黒髪の女性だった。ほとんど目元まで隠れるぐらいに前髪を伸ばして、俯きがちな猫背の……人間の女性。頭に耳がないので、少なくともウマ娘ではない。

 

「……あ、あ、あなたは?」

 

 人間だとわかってほっと一息つき、呼吸を整えつつ私がそう訊ねると。

 

「あの……私、この学園のトレーナーの……小坂、といいます……」

 

 黒髪の女性は、ぼそぼそした口調で、そう名乗った。

 ――小坂トレーナー? はて、つい先程そんな名前を目にしたような……。

 小坂……小坂?

 

「…………ひょっとして、ミニキャクタスの?」

「…………はい。あの子の担当トレーナーです……。……あなたは、バイトアルヒクマさんのトレーナーさんですよね…………」

 

 幽霊みたいな小坂トレーナーは、前髪に隠れた目で、私をじっと見上げた。



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第15話 自分はここにいるのだと

ミニキャクタスさん回です。


 新人トレーナーの小坂御琴がそのウマ娘に目を留めたのは、他の多くのトレーナーと同じく、たまたま開催されているのを見かけた模擬レースでのことだった。

 正直なところ、小坂には自分がなぜ中央のトレセン学園に採用されたのかが未だにわからない。試験の出来はそう悪くなかったと思うが、面接は生来の内気と引っ込み思案のせいでボロボロだった。緊張してほとんど過呼吸状態で、自分が何をどう答えたのかもほとんど記憶にない。かといって、面接を担当していた理事長に、なぜ自分を採用したのかと問いただす度胸もあるはずがなかった。

 そんな性格であるから、選抜レースの際も「ド新米の自分なんかにスカウトされたらウマ娘もいい迷惑ではないか」と気後れしてしまい、担当ウマ娘が見つからずにいた。このままでは担当ウマ娘を持てず、かといってこの性格で集団指導などできるわけもなく、早々にクビになってしまうのでは……と落ちこんでいたところに、その模擬レースを目にしたのである。

 衝撃を受けた。

 直線で抜け出した芦毛のウマ娘の陰から、一瞬で加速して突き抜けた、その鹿毛のウマ娘の走りに。選抜レースで見た、どのウマ娘の走りよりも、腕に鳥肌が立つのを感じた。

 運命、だったのだと思う。

 幽霊みたいと揶揄される長い黒髪で目元を隠す小坂だが、霊感の類いは全くない。スピリチュアルなものは基本的に信じていない。けれど、それでも。彼女は、そのウマ娘の、内でじっと身を潜めて、一瞬で抜け出す走りに、何か直感的な運命を感じた。

 この子の担当トレーナーになりたい、と。

 

 

 けれど、それで小坂の生来の性格が変わるわけではない。

 そのウマ娘はまだ担当が決まっていなかったようで、模擬レース後にはさっそく大勢のトレーナーに追い回されていた。そうなるともう、小坂のあきらめ癖が顔を出す。あれだけのスカウトをよりどりみどりの状態なら、ド新米の自分なんかが声を掛けたって迷惑なだけだ。そう思い込んで、小坂はとぼとぼとグラウンドを後にした。

 そうして、その日の業務を終えて、帰宅しようとした夜――。

 温かい飲み物を買おうとした自販機の前のベンチに、そのウマ娘が座っていた。

 ぽつねんと、たったひとり、誰にも気に留められることなく。

 小坂は固まった。突然訪れた千載一遇の機会に、どうすればいいのか咄嗟にわからなかった。けれど――その子の、目を伏せて、俯きがちな横顔に、どうしても声を掛けたくなった。彼女にとっては、極めて珍しいことに、能動的に。

 だから小坂は、温かいココアを自販機でふたつ買って、そのウマ娘の隣に腰を下ろした。そして、ココアのひとつをそのウマ娘の手元に置いた。

 ウマ娘が顔を上げた。小坂は自分のココアに口をつけ、ココアのカップをそっとウマ娘の方に押し出した。ウマ娘は戸惑ったように小坂とココアを見比べて、湯気をたてるカップを手に取り、口をつけた。

 そうして、ふたりとも無言でそのココアを飲み干して。

 そのウマ娘が立ち上がろうとした瞬間、小坂は咄嗟に、無意識に、その手を掴んでいた。

 ウマ娘が、信じられないという顔で、小坂を見つめた。

 そして――次の瞬間。

 そのウマ娘の瞳から、ぼろぼろと――大粒の涙が溢れ出していた。

 

 

       * * *

 

 

 ミニキャクタスは、物心ついたときから、存在感が極めて薄かった。

 小学校の教室では、いつも隅でひとりきり。積極的に無視されているわけではない。誰も空気のように自分の存在を気に留めない。教師すらも、当たり前のように自分の存在を素通りした。出欠で名前を読み飛ばされても、班分けでどの班にも入れずにいても、そのこと自体に気付かれなかった。どんなときも、自分はいてもいなくても何も変わらない、徹底的に無意味で無価値な存在でしかなかった。

 そんな自分が目立てる場所は、走っているときしかなかった。自分は誰よりも足が速かった。だけどそれも、ウマ娘としては当たり前のことでしかない。人間よりウマ娘の足が速いのは、やはり空気がそこにあるように、当たり前のことでしかなかった。だから、ミニキャクタスは走っていてさえも、誰の目にも留まらなかった。

 テレビの中では、同じウマ娘が、トゥインクル・シリーズで華々しい活躍をしている。

 レースに出られれば、自分も誰かに、気付いてもらえるだろうか?

 トレセン学園を受験したのは、ただそのためだけだった。

 ただ、誰かに気付いてほしいだけだった。

 自分がここにいるということを。

 

 

 けれど、そうして入学したトレセン学園でも、ミニキャクタスはやはり、空気のような存在でしかなかった。自分と同じぐらい足が速く、自分よりもずっと華やかなウマ娘が大勢いるトレセン学園では、なおさらミニキャクタスは空気以外の何物でもなかった。

 誰も話しかけてこない。そもそも、ミニキャクタスというウマ娘がこの学園に在籍していることを、ミニキャクタス自身しか知らないのかもしれない。

 そう思ってしまうほどに、ミニキャクタスはずっとひとりだった。

 

 

 選抜レースに出れば、何かが変わるかもしれないと思った。

 けれどそこでも、前を行くふたりの背中に追いつけず、目立たない3着。強い、本当に強いウマ娘の、華やかな背中はあまりにも遠かった。レースの主役としてスポットライトを浴びるウマ娘と、ミニキャクタスという誰にも気付かれない空気のようなウマ娘との間には、4バ身差という着差以上の絶望的な距離しかなかった。

 そのはずだった。そのはずだったのに。

 

 

『違うよ! 絶対あなただよ! ねえ――ミニキャクタスちゃん!』

 名前を。

 同じレースに出た、自分の名前を、覚えてくれているウマ娘がいた。

『すごいね! すごいすごい! なにあのスピード、どうやったの!?』

 自分の手を掴んで、キラキラした目で、自分を見つめてくる、ウマ娘がいた。

 バイトアルヒクマ。その子の名前が、ミニキャクタスの脳裏に刻み込まれた。

 自分の名前を、誰かが覚えていてくれるなんて、初めてだった。

 ――他人の名前を自分から覚えたいと思ったのも、初めてだった。

 

 

 その子に誘われた模擬レースで、ミニキャクタスはこの学園に来て初めて1着を取った。

 先頭で、前に誰もいないゴールを駆け抜けるのは、全身が震えるような快感で。

 それに浸っているうちに、バイトアルヒクマに手を掴まれて、顔を覗きこまれて。

 何がなんだかわからないうちに、いつの間にか大勢のトレーナーに囲まれていた。

 ――今まで誰にも気付かれなかった自分に、皆が注目している。

 その事実に脳がパンクして、ミニキャクタスはその場から逃げだしてしまった。

 あんなに誰かに気付いてほしいと願っていたのに、いざ大勢の他人から視線を向けられると、それはとんでもない恐怖だった。そんなはずはないのに、なぜか責められているような気がした。自分なんかが一着を取って、目立っていいはずがないのに――。

『キャクタスちゃーん! また勝負しようねー! 約束だよー!』

 だけど、芦毛のあの子の、楽しそうな声だけは、耳からどうしても離れなかった。

 

 

 逃げ回っているうちに、いつの間にか自分を探しているトレーナーの姿はどこにもなくなっていた。ミニキャクタスの周囲には、慣れ親しんだ静寂だけがあった。

 自販機の前に置かれたベンチに腰掛けて、ミニキャクタスは息を吐いてただじっと俯いていた。そうすると、近くを通り過ぎる誰も、もう自分のことを気にも留めなかった。自分を追い回すトレーナーがいたことなんて、まるで夢だったみたいに。

 ああ、そうだ。これが自分のあるべき姿だ。

 あの模擬レースでの勝利も、あの芦毛の子のキラキラした瞳も、彼女が自分という存在を覚えていてくれたことも、スカウトされそうになったのも、全部夢だ。

 ほら、だってもう、誰も自分に気付かない。

 キャクタス、という自分の名前は、サボテンのことだ。ミニキャクタス。小さなサボテン。温室に咲き誇るきらびやかな花の片隅で、誰にも注目されることなく、棘で身を覆っている、ちっぽけなサボテン。

 そんなもの、いてもいなくても同じ。誰も、サボテンなんかに気付きはしないのに。

 

 

 それなのに。

 また、自分の手を掴む人がいた。

 自分を見つめてくる、人がいた。

 温かいココアを差し出して、自分の手を掴んで、何かを訴えるように見上げてくる、名前も知らない人がいた。

 ――その瞬間、ミニキャクタスの中から、堰を切って感情が溢れ出した。

 それは涙になって、もうどうしようもなく、止められなかった。

 

 

 気付いてほしかった。

 認めてほしかった。

 名前を、呼んでほしかった。

 ――自分は、ここにいていいのだと、そう言ってほしかった。

 

 

       * * *

 

 

 深夜の学園で、幽霊めいた風貌の女性トレーナーに話しかけられた、その翌日。

 

「トレーナーさーん、おまたせー!」

「こんにちは。今日も、よろしくお願いします」

「よーっし、今日は何やるの? もう昨日みたいにヘバったりしないんだから!」

 

 午前の授業を終え、ヒクマ、エチュード、コンプがジャージ姿でトレーニングコースにやってきた。いつも元気なヒクマはもちろん、エチュードとコンプも、昨日の疲れを残している様子はない。その様に頷きつつ、私はぐるりと視線を巡らせた。――約束の時間はそろそろだが、どこにいるのだろう?

 

「トレーナー? なーにキョロキョロしてんの」

 

 ジト目でブリッジコンプに睨まれる。「いや」と私は肩を竦めた。

 

「実は今日は、先方からの依頼でもうひとり、一緒にトレーニングに参加させてほしいってウマ娘がいてね」

「え? トレーナー、ちょっと、あたしたち3人も抱えておいてまだ担当増やす気? どんだけ欲張りなのよ」

「いやいやいや、その子はもうちゃんと担当トレーナーいるから――」

 

 私が首を振ったそのとき、不意にヒクマがその瞳をぱっと見開いた。

 

「あっ、キャクタスちゃーん!」

 

 そして、ぶんぶんと両手を頭上で振る。その視線の先を振り向くと、

 

「……………………すみません、お待たせしました………………」

「おわぁっ!?」

 

 いつの間にか、背後に小坂トレーナーと――ミニキャクタスがいた。ま、全く気配に気付かなかった……。このふたり、忍者か何かか。

 

「え、ちょっと、あのふたり、いつからいたの?」

「……あれ、あの子、模擬レースのときの……?」

 

 コンプとエチュードが顔を見合わせる傍らで、ヒクマがぱっとミニキャクタスに駆け寄り、顔を上げたミニキャクタスの手を掴んで身を乗り出した。

 

「キャクタスちゃんも担当トレーナーさん決まったんだね! おめでとう!」

「…………え、あ、ええと……あ、ありが、とう……」

 

 ずい、と顔を近づけるヒクマに、キャクタスはまた気圧されたように後じさる。

 

「あれ? じゃあ、トレーナーさんの言ってた、一緒にトレーニングする子って……」

 

 首を傾げたヒクマに、私は頷いた。

 

「エチュードとコンプにも改めて紹介するよ。こちら、この前の模擬レースに参加してくれたミニキャクタスと、担当の小坂トレーナー。私たちと一緒にトレーニングさせてほしいっていうんだけど、3人とも、いいかな?」

「わ! やったやった! キャクタスちゃんと一緒にトレーニングだ!」

 

 ぴょんぴょんとヒクマは飛び跳ねて喜ぶ。その姿に、ミニキャクタスが驚いたように目を見開いて、呆然とヒクマを見つめていた。

 

「……わ、私なんか、一緒で、いい、の?」

「え? だって友達みんなで一緒にトレーニングした方が楽しいよ!」

「…………とも、だち?」

「うん!」

 

 何のてらいもない、ヒクマの真っ直ぐな言葉に、キャクタスは固まってしまっていた。

 そして、「……とも、だち」と反芻するように呟いて――顔を真っ赤にして俯く。

 

「あー、クマっちの必殺ゼロ距離ストレートアタックだあ。エーちゃんもアレで落ちたんだよねえ、クマっちに」

「……あ、あはは……。ヒクマちゃん、相変わらずだなあ……」

 

 コンプが肩を竦め、エチュードは何か身に覚えがあるのか苦笑している。

 そんな姿を私が微笑しつつ見つめていると、不意に横に小坂トレーナーがやってくる。

 

「…………今日は、ありがとうございます…………」

「あ、いえいえ。こちらとしてもあの子の走りを間近で見られるのは有難いですから」

「…………こちらこそ…………。勇気を出して、貴方に相談して良かったです…………。キャクタスちゃん…………ずっと自分からバイトアルヒクマちゃんに話しかけたいと思っていたようですから…………。あんな嬉しそうな顔…………初めて見ました…………」

 

 ――ミニキャクタスと小坂トレーナーの間に、どんな出来事があって、ふたりが契約することになったのかは、私には知るべくもない。

 けれど、俯きがちでぼそぼそと喋る、よく似た雰囲気のこのふたりは、何か通じ合い、理解し合うところがあるのだろう。ミニキャクタスは、一番いいトレーナーに巡り会えたのかもしれない。

 はしゃいでぴょんぴょん飛び跳ねるヒクマに、手を握られたまま真っ赤になって身を縮こまらせるミニキャクタス。その姿を見ながら、私は思う。

 ――ミニキャクタス。彼女がもし同じティアラ路線を目指すなら、ジャラジャラとエレガンジェネラルに並ぶ強敵になるだろう。

 彼女がヒクマにとって、リボンエチュードと並んで、ともに高め合う最良のライバルになってくれればいい。――私が願うのは、ただそれだけだった。

 



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第16話 世代2強の平凡な日常

「あ~~~、疲れた」

 

 トレーニングを終え、シャワーを浴びて汗を流し、寮の部屋に戻ってきたジャラジャラは、そのままばったりと自分のベッドに倒れこんだ。ベッドの柔らかさが睡魔を誘う。目を閉じてその誘惑に身を任せていると、無粋な声が自分を呼んだ。

 

「ジャラジャラさん、課題ちゃんとやりました?」

「……ジェネ、人がせっかく開放感に浸ってるところに水ぶっかけないでよ」

「何が開放感ですか。貴方を縛れる人なんて誰もいないでしょうに」

 

 腰に手を当てて呆れ顔でジャラジャラを見下ろすのは、ルームメイトのエレガンジェネラルである。ジャラジャラは寝返りを打ってジェネラルを見上げた。

 

「後でジェネが写させてくれりゃいいじゃん」

「ダメです。課題はちゃんと自分でやってください」

「ケチー。だいたいなんで課題なんか出るんだよ。あたしらトゥインクル・シリーズで走るためにこの学校来てるってのに」

「トゥインクル・シリーズで走る前に、私たちは中学生。義務教育の身ですよ」

「真面目かー! この優等生ー!」

「ジャラジャラさんが不真面目なだけです。ほら起きて。写すのはダメですけど、手伝うぐらいはしてあげますから」

「ひゅー、さすがジェネちゃん優しい」

「……やっぱり全部自力でやってください」

「ああん将軍閣下、ご慈悲を~」

「将軍って呼ばないでください!」

 

 口を尖らせるジェネラルに、ジャラジャラは笑ってベッドから身を起こす。

 

「わかったわかった。じゃああたしが課題終わらせたらなんかご褒美くれ、ご褒美」

「……ご褒美って、なんですか?」

 

 訝しんで眉を寄せるジェネラル。その短くした前髪の下、広く露わになったおでこに、ジャラジャラが手を伸ばすと――ジェネラルはびくっと身を竦めて、その手から逃れるように身を引いた。ほのかに顔が赤い。ジャラジャラはにやりと笑う。

 

「な、なんですか、ジャラジャラさん」

「そのおでこ、いっつも気になるんだよなあ。ちょっと触らせて」

「いっ、嫌です! ジャラジャラさん、何か目つきが怪しいですよ!」

「ふっふっふ、よいではないか~」

 

 顔を赤くして逃げるジェネラルの反応が面白くて、ジャラジャラはわきわきと手を動かしながらジェネラルに迫る。狭い寮の部屋の中、追いかけっこはそう長く続かず、

 

「うりゃっ」

「ひゃっ」

 

 ジャラジャラがジェネラルをベッドに押し倒して、「ひっひっひ、捕まえた」と覆い被さる。「こ、これじゃレースと立場が逆です!」とわけのわからないことを言うジェネラルを押さえつけ、その短い前髪に手を伸ばし、

 

「もしも~し? 何の騒ぎかしら~?」

 

 その瞬間、ガチャリと部屋のドアが開いた。

 ジャラジャラが鍵をかけ忘れたドアの向こうに現れたのは、隣の部屋のウマ娘、オータムマウンテンである。オータムは、ジェネラルをベッドに押し倒したジャラジャラの姿にその目をまん丸に見開くと、頬に手を当てて「あらあらあら~」と微笑んだ。

 

「お邪魔してしまいましたか。どうぞごゆっくり~」

「ちっ、ちが、誤解ですー!」

 

 笑顔で立ち去ろうとするオータムの背中に、ジェネラルの悲鳴が響き渡った。

 

 

       * * *

 

 

「オータム、隣の部屋なにしてたんだ?」

「スヴェルちゃんは知らなくていいことですよ~」

「なんだよそれー!」

 

 頬を膨らませるデュオスヴェルに、オータムマウンテンはただ笑っていた。

 

 

       * * *

 

 

 昨日のドタバタ以来、ジェネラルが口を聞いてくれない。

 翌日のトレーニング後。寮の廊下を歩くジェネラルの背中を、ジャラジャラは小走りに追いかける。

 

「おーい、ジェネ」

「…………」

「ジェネちゃーん、昨日は悪かったって」

「…………」

「なあ、謝るからさあ」

「…………」

「なんか答えてくれませんかね、将軍閣下」

「…………」

 

 どうやらわりと本気で怒っているらしい。今朝は自分を起こさず先に行ってしまったし、将軍という女の子としては厳つい名前を気にしているジェネラルが、その呼び名に対しても反応しないのはよっぽどだ。どうしたもんかなあ、とジャラジャラは頭を掻く。

 やっぱりアレか、押し倒したのがマズかったか。いやしかし、おでこぐらい触らせてくれてもいいだろうに、あんな過剰反応されたら弄りたくなってしまうではないか。自分のことは棚に上げてジャラジャラは思う。

 しかし、無視されっぱなしも癪に障る。謝罪もさせてくれないのではどうしようもない。

 よし、くすぐってやろうか、とジャラジャラは両手をわきわきと動かし、ジェネラルの背後からその脇腹に、手を――。

 伸ばそうとしたところで、不穏な気配を感じたジェネラルが足を止めて振り返る。

 

「…………」

 

 ぱっと両手を後ろ手に組んで、視線を逸らし口笛を吹くジャラジャラ。

 それを軽く半眼で睨んで、ジェネラルは再び前を向く。

 ジャラジャラは再びその脇腹に狙いを定め、

 振り返る。口笛。ジェネラルは「……ああもうっ」と大きく息を吐き出した。

 

「ジャラジャラさん」

「お、やっと口聞いてくれた」

「何をしようとしてるんですか。小学生ですか貴方は」

「童心を大切にしてるんだよ、あたしは」

「そんな童心は中学生になったときに捨ててください」

 

 嘆息して首を振るジェネラル。自分よりやや背が高いジェネラルから、そういう風に言われると、なんかますます癪に障る。同い年のくせして年上ぶってこの、とジャラジャラは頬を膨らませ、

 

「隙ありっ」

「ひゃっ」

 

 そのジェネラルの顔に手を伸ばして、頬を両手で挟み込んだ。

 

「な、なにするんですか、ジャラジャラさん」

「ほらほらジェネ、怒ってばっかいるとシワが取れなくなるぞ? 笑って笑って」

「誰のせいだと思ってるんですか! 放してくださいっ」

「ほれ、にーっ」

 

 ジェネラルの口角を持ち上げるように、その柔らかい頬を両手で弄り回しながら、こいつのほっぺためっちゃ柔らかいな? とジャラジャラは思う。

 

「ジェネ、誤解は解いておきたいんだけどさあ、あたしはいっつもジェネに感謝してんだよ? ジェネのおかげで遅刻しないで済むし」

「自分で起きてくださいよ……」

「つまり、これはあたしなりの感謝と親愛の表現なわけ」

「……ジャラジャラさんは距離感がおかしいんです」

「そうかあ? このぐらい普通のスキンシップだろ?」

「まずスキンシップを普通だと定義しないでください。欧米じゃないんですからっ」

 

 ジャラジャラの腕を掴んで、ジェネラルはその手を引き剥がそうとする。ジャラジャラはそれに抗うように、ぐっとジェネラルの顔に自分の顔を近づけた。

 間近に迫ってきたジャラジャラの顔に、押さえたジェネラルの頬が赤くなる。

 

「あの、ジャラジャラさん、近いですからっ」

「いや、こーして見るとジェネも可愛い顔してんなーって思って」

「なっ――――~~~~~ッ」

 

 息を飲んで、ジェネラルは真っ赤になって身じろぎする。

 

「じゃっ、ジャラジャラさん! いい加減にしてください!」

 

 ぎゅっと目を瞑るジェネラル。いやホントに可愛い反応するなあ、とジャラジャラがそれを楽しんでいると、

 

「――あ」

 

 ばったり、その場に見覚えのある顔のウマ娘が現れた。

 ――いつぞや、ネレイドランデブーから預けられて併走した、マルシュアスである。

 マルシュアスは、真っ赤な顔で目を閉じたジェネラルと、その頬を両手で包んで顔を近づけているジャラジャラという、その場の光景に目をまん丸に見開くと、

 

「お……大人だああああああああ!」

 

 口元を両手で覆って、そんなことを叫びながら、真っ赤になって脱兎のごとくその場を走り去っていった。

 

「…………」

「…………」

 

 ジャラジャラとジェネラルは、固まったままその背中を見送って。

 

「ごっ、ごごごっ、誤解ですってばー!」

 

 エレガンジェネラルのその悲鳴は、やっぱり相手に届くことはなかった。

 

 

       * * *

 

 

 リボンエチュードが寮の部屋で課題をやっていると、ルームメイトのマルシュアスが息せき切らせて部屋に駆け込んできた。エチュードは目を丸くする。

 

「ど、どうしたの、マルシュちゃん」

「え、エチュードちゃん……や、やっぱり、大人って進んでるんだね……」

「???」

 

 真っ赤になってベッドに倒れこんでじたばたするマルシュアスの姿に、リボンエチュードはわけがわからず、首を捻るしかなかった。



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第17話 名門の名を受けて

 ――あの、リボン家のウマ娘。

 私には、いつだってその名前がついて回った。

 

 何人もの名ウマ娘を輩出してきた名門。この家のウマ娘であるからには、それに相応しい強さと気品を兼ね備えていなければならない。

 そして、私にはたぶん、それに値するだけの、才能はなかった。

 

 ――あのリボン家のウマ娘なら、きっとすごい才能の持ち主だろう。

 知らない誰かが、勝手にそう期待して。

 ――あのリボン家のウマ娘なのに、なんだ、この程度なのか。

 勝手にそう失望して、去っていく。

 私には、その背中をどうすることもできない。

 

 どうしてそんな名門に、私みたいな平凡なウマ娘が生まれてしまったのだろう。

 どうして私には、リボン家に相応しい才能がないのだろう。

 どうして――どうして。

 

 ねえ、教えて。

 どうすれば、私を認めてくれるの?

 

 

       * * *

 

 

 ミニキャクタスがトレーニングに参加するようになって数日。

 同期の強力なライバルが加わって、ヒクマたちのトレーニングにもますます熱が入る、――はずだったのだが。

 

「…………それじゃあ、おつかれさまでした…………」

「…………」ぺこり。

「あ、ああ、おつかれさまでした」

 

 小坂トレーナーとミニキャクタスがトレーニングコースを後にするのを見送りながら、ああ、まただ――と私は頭を掻く。今日も結局、淡々とメニューをこなして淡々と終わってしまった。これでは3人でやっているのとほとんど何も変わらない。

 とにかく、小坂トレーナーもミニキャクタスも全然自己主張をしてくれないのである。私たち3人がトレーニングしているところにやってきて、淡々と一緒にメニューをこなして、黙々とトレーニングして終わり。それなので、ヒクマが「キャクタスちゃーん」とまとわりついていないと、ふたりともどこにいるのか見失ってしまいそうなほどに存在感が薄い。

 ミニキャクタスに積極的にまとわりついているヒクマはともかく、エチュードとコンプとの間には明らかに距離があって、ふたりとも無口なミニキャクタスとどう接したらいいのか困っている様子だった。そもそも積極的に話しかけているヒクマさえ、リアクションを返してもらっているのかどうかも定かでない。

 どうしたものか――と私が考えていると。

 

「クマっち、クマっち」

「ん? なーに、コンプちゃん」

 

 ブリッジコンプが、ヒクマに手招きして何か耳打ちする。ヒクマはぱっと顔を輝かせて、「わかった! 伝えてくるね!」と駆けだしていった。

 

「……何?」

 

 私が訊ねると、コンプはひとつ肩を竦める。

 

「トレーナー。明日トレーニング休みよね?」

「ああ、うん」

「ちょーっと親睦深めに行ってくるから、多少カロリーオーバーしても許してくれる?」

 

 両手を合わせて、いたずらっぽく笑ってコンプは私を見上げる。――ああ、なるほど、そういうことか。同世代の女の子同士の話は当人たちに任せるべきだろう。

 

「……解った。任せるよ」

「さっすがトレーナー、話がわかるぅ!」

 

 ぐっと親指を立てるコンプ。いや、そっちから言い出してくれて助かったのは私の方だ。ミニキャクタスのトレーニング参加は向こうの希望だし、私からコンプやエチュードに対して要求はし辛かったところである。

 

「ごめん、なんか気を遣わせたみたいで」

「あー、いいのいいの。言いだしっぺはエーちゃんの方だし」

「…………」

 

 ブリッジコンプの言葉に、リボンエチュードが恥ずかしそうに俯く。

 意外だ。人見知りなエチュードの方からミニキャクタスと関わりを持とうとするとは。

 

「……あの子、昔の私みたいで……あ、いや、今の私もそんなに変わらないですけど……」

 

 なんか放っておけないと、そういうことか。

 

「ただいまー! キャクタスちゃん、オッケーだって!」

 

 と、そこへヒクマが戻ってくる。「よし!」とコンプがサムズアップ。

 

「……一応、私も同伴しようか?」

「トレーナー、ウマ娘4人のケーキバイキングに付き合う元気ある?」

「…………無いね」

 

 想像するだけで胸焼けしそうだ。

 

「正直でよろしい。ま、あたしに任せときないって」

 

 どんと胸を叩いて、ブリッジコンプはいつものドヤ顔を浮かべる。

 

「なんたって、美味しいスイーツ食べて笑顔にならない女の子はいないのよ!」

 

 

       * * *

 

 

 ヒクマたちのトレーニングは休みでも、私の雑務まで休みになるわけではない。

 そんなわけで土曜日。私はトレーナー室で朝から仕事を続けていた。

 つけっぱなしのテレビでは、今日のレースが流れている。一息ついてコーヒーでも淹れようかと立ち上がったところで、テレビから歓声が聞こえてきた。

 

『さあ、本日のメインレース! 桜花賞トライアル、GⅡチューリップ賞のパドックです』

 

 おっと、もうそんな時間か。チューリップ賞は桜花賞と同じ阪神レース場の1600メートル。3着までに桜花賞の優先出走権が与えられるトライアル競走だ。時期的にも前哨戦にちょうどいいため、阪神JFからチューリップ賞を経て桜花賞というローテーションは、ティアラ路線のウマ娘の王道と言っていいルートである。

 もちろんティアラ路線に向かうヒクマとエチュードも、来年は走ることになる可能性が高いレースだ。スイーツを食べながらでも見ておくように伝えてあるし、この中継ももちろん録画している。明日にでもレースの模様を一緒に検討する予定だ。

 そうしてインスタントのドリップコーヒーを淹れながらテレビを眺めていると、トレーナー室のドアがノックされた。

 

「開いてますよ」

 

 声だけで返事しておく。誰だろう?

 

「失礼いたします。……エチュードちゃんのトレーナーさんのお部屋はこちらでよろしかったでしょうか?」

 

 ドアを開けて丁寧に一礼しながら入ってきたのは、小柄な栗毛のウマ娘だった。ウェーブしたボブカットの栗毛を揺らしながら、頬に手を当てて首を傾げる。――はて、どこかで見たような……。

 

「そうだけど、君は……あっ」

 

 思わず私はテレビを振り返る。そこには今日の1番人気のウマ娘が、パドックで観客に手を振っていた。

 

『さあ本日の圧倒的1番人気! 阪神ジュベナイルフィリーズ覇者、ここまで3戦3勝。今日ももちろん逃げ宣言、彼女に追いつけるウマ娘は果たしているのか! 7番、テイクオフプレーン!』

 

 ――そうだ、間違いない。目の前にいるのは、今テレビで歓声を浴びている、今年のトリプルティアラ大本命と阪神JFで鎬を削ったあのウマ娘。

 

「はい、リボンスレノディと申します。どうぞお見知りおきを」

 

 リボンスレノディは優雅に一礼し、穏やかに微笑んだ。

 

 

 

「ええと、それで今日はどんな用件で? エチュードなら友達と出かけているけれど」

「はい、それは存じております。ですから今日、こうして御挨拶に伺いましたの。エチュードちゃんには私が来たことは、内緒にしておいていただけます?」

 

 そのまま、ふたりでチューリップ賞を観戦することになった。

 

「インスタントで申し訳ないけど」

「あらあら、大丈夫です。こう見えましてもプレーンさんのおかげで色々と体験しておりますのよ。缶コーヒーとか。あれはなんとも不思議な飲み物ですわね」

 

 浮世離れした笑みを浮かべるスレノディ。エチュードはあまりお嬢様という感じがしないが、こちらはいかにも名門リボン家のお嬢様という感じだ。

 テレビ画面では、チューリップ賞のゲート入りが進んでいる。テイクオフプレーンがゲート入りを嫌がって、係員に背中を押されてゲートに収まる。

 

「相変わらずゲートがお嫌いですわね、プレーンさんったら」

 

 苦笑しながら、スレノディはコーヒーを啜り、少し不思議そうな顔をして首を傾げた。それから私の方を振り向くことなく、テレビに視線を向けたまま口を開く。

 

「トレーナーさんから見て、エチュードちゃんは、どうでしょう?」

「どう……か」

 

 私はひとつ唸る。ゲートが開き、レースが始まる。テイクオフプレーンがあっという間に先頭に立ち、後続を一気に突き放していく。

 

『さあ今日も行きますテイクオフプレーン、大逃げです! 早くも後続に3バ身!』

「……リボンエチュードは、今の自分を一生懸命乗り越えようとしている。それが間違った方向にいかない限り、私はその背中を後押ししてあげたいと思ってる」

 

 内気で人見知り。俯きがちで、いつも元気なヒクマとコンプの影でおどおどしている。リボンエチュードの普段の印象を一言で言えばそうなってしまう。

 けれど、あの子はそんな自分を変えたいと願っている。自分に誇りを持ちたいと思っている。レースで勝つことで彼女が自分に自信を持てるようになるなら、私は彼女を勝たせてあげたい。――そう思う。

 

「……エチュードちゃん、私と同じティアラ路線に行くと伺っておりますけれど」

「ええ、本人の希望で」

「それは――トレーナーさんから見て、間違った方向ではない、と?」

 

 スレノディは、私の方を振り向いて、そう問いかける。

 私はその問いに、すぐには答えられなかった。――正直なところ、エチュードをティアラ路線に向かわせるべきなのかは、まだ迷いがある。

 ただ――。

 

「大事なのは、エチュード本人が、自分の選択を納得できるかどうかだと思う。そうして、あの子がなりたい自分の姿を、見つける手助けをしてあげられればいいと、思う」

 

 ――自分のこと、ちゃんと、リボン家のウマ娘だって、思えるようになりたいです。

 エチュードはそう言っていた。名門の出身という重圧や、周囲の目に、エチュードが今まで悩まされ苦労してきたであろうことは想像に難くない。

 だけど、それでも。エチュードは、私なんか、といじけてしまわずに、顔を上げようと努力している。誇れる自分でありたいと願っている。

 彼女がそれを得るために、私が何をしてあげられるのかは、まだわからないけれど。

 あの子が自分ではどうにもならない環境に振り回されてきたのであれば――せめて私ぐらいは、彼女の真摯な願いを聞いてあげられる大人でありたいと、そう思う。

 

『逃げる逃げるテイクオフプレーン、まだ後続を5バ身以上ちぎって、さあいよいよ直線だ! 仁川の舞台はこれから坂がある!』

 

 テレビでは、テイクオフプレーンが先頭を独走したまま直線に入る。

 

「……なるほど、大変よくわかりましたわ」

 

 私の答えに満足したのかしていないのか、スレノディは画面を見つめたまま、静かに頷いた。

 

『後ろの娘たちは伸びてこない! 差が詰まってこない! 強い強い、強すぎるテイクオフプレーン! ――圧勝! 大楽勝です! 無敗の桜花賞へ向けて視界良好!』

 

 圧巻だった。終始単独の大逃げ、余裕の走りで4バ身差の完勝。他のウマ娘が競りかけて潰しに行くことすら許さない。これがトリプルティアラを勝つウマ娘の走りだと言わんばかりに、ゴール後に両手を広げるトレードマークの飛行機ポーズで観客席へ向かってジャンプするテイクオフプレーン。阪神レース場に大歓声が響く。

 

「強い……」

「当たり前ですわ。こんなところで負けてもらっては困りますもの」

 

 私の呟きに、スレノディはにこやかな笑みを浮かべたままそう応える。

 そして、立ち上がると私に向き直り、にこやかな笑みを浮かべた、

 

「トレーナーさん。――安心しましたわ。エチュードちゃんが、いいトレーナーさんと巡り会えたようで。私の心配は杞憂だったようですわね」

「…………」

「どうか、あの子をよろしくお願いいたします」

 

 そうして、深々と頭を下げる。私はなんと答えたものか、ただ頭を掻くしかなかった。

 

「あ、それと……」

 

 と、スレノディはテーブルのコーヒーカップを手に取ると、困ったように眉を下げた。

 

「……あの、すみません。お砂糖とミルクをいただけますかしら?」

 

 

       * * *

 

 

 結局、スレノディは砂糖とミルクをたっぷり入れてコーヒーを飲み干し、トレーナー室を立ち去っていった。結局何をしに来たのかよくわからなかったが、彼女なりの判断基準で、どうやら私はエチュードの担当トレーナーとして合格判定を貰えたらしい。

 エチュードはどうか、と聞かれて、普通はもっと具体的に彼女をどう育成するのか、展望を語るものだと思うけれど、私の口をついたのはただの印象でしかない。それで満足してもらえたというのは、つまりスレノディはそういう一般的なことを聞きたかったのではなかったのだろう。

 ……それもそうか。従姉妹だって言ってたものな。

 要するに、妹を心配してきた姉だったわけだ。監督者として信任を得られたことを、とりあえず喜んでおくべきなのだろう。

 そんなことを考えていると――不意に、スマホにメッセージが入った。

 

『ケーキバイキング、美味しかった!』

 

 ヒクマからだ。そのメッセージには、1枚の写真が添付されている。

 右からヒクマ、ミニキャクタス、エチュード、コンプの4人で並んで、身を寄せ合った自撮り写真。ヒクマとコンプはいつもの元気な笑みでピースサインし、ミニキャクタスもヒクマの隣で控えめに笑い、その隣でエチュードは――照れくさそうにピースしている。

 微笑ましいその写真に、私は安心して頷いた。

 ――うん、エチュードもミニキャクタスも、きっと大丈夫だ。

 



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第18話 桜の空を飛べ





 4月。いよいよ、春のクラシック戦線の幕が開く季節がやってきた。

 その開幕は、トリプルティアラ第1戦、桜花賞。阪神レース場、芝1600メートル。

 

「ヒクマとエチュードにとっては、来年の目標だ。しっかり現地で見ておこう」

「うん!」

「は、はいっ」

 

 というわけで、私はブリッジコンプも含めた担当ウマ娘3人を引き連れて新幹線で大阪へ。阪神レース場の大観衆の中、トレセン学園関係者の席を確保する。

 

「…………あの、今日はありがとうございます…………同行させていただいて…………」

「…………ありがとう、ございます」

「いえいえ」

 

 小坂トレーナーとミニキャクタスも一緒である。先月にケーキバイキングで親睦を深めて以来、ミニキャクタスとの合同トレーニングは実を結び始めていた。

 ミニキャクタスのトレーニングに対する姿勢はとにかくストイックで、朝も夜も、トレーナーが止めなければいつまででも黙々と走っている。そんなキャクタスの姿勢に感化されたか、ヒクマたちもいっそうトレーニングに熱が入ってきている。もちろんオーバーワークにならないよう、適宜私が様子を見ているけれど、すぐ傍に誰よりも黙々と努力するミニキャクタスがいることは、3人にとって「自分もあのぐらいやらなければ追いつけない」という良い刺激になっているようだった。

 

「エーちゃん、ホントにノディさんに挨拶しなくていいの?」

「う、うん……。レース前で集中してるところ、お邪魔しちゃ悪いし……」

 

 リボンスレノディの控え室に行って声を掛けてこようかとは私も提案したのだが、エチュードは首を横に振った。スレノディはエチュードのことを心配しているようだけれど、エチュードからすると、既に華々しい注目を集めるスレノディには気後れを感じているのかもしれない。

 と、エチュードのスマホに何か通知が来たようで、取りだして画面を覗いたエチュードは、不意にくしゃりと顔を歪めて苦笑した。

 

「……もう、ノディ姉さんったら……」

《お姉ちゃんがんばってくるね 見ててね~》

 

 画面を覗かせてもらうと、そんな文面とVサインの絵文字。レース前の気負いとは無縁のその明るいメッセージに、ほっとその場の雰囲気が和んだ。

 と、そこへ桜花賞の出走ウマ娘が、コースに姿を現し始め、スタンドが歓声で揺れる。

 

『咲き誇る桜が女王の誕生を待ち望む! クラシック第1弾、桜花賞! 女王の頂きを目指し、阪神の芝1600を駆け抜ける18人のウマ娘たちがターフに姿を現します!』

『絶好の良バ場ですし、いいレースが期待できそうですね』

『楠藤さん、やはりテイクオフプレーンとリボンスレノディ、二強の争いでしょうか』

『そうなるでしょう。昨年の阪神ジュベナイルフィリーズを見る限りでも、やはりこの2人が今年の世代では頭ひとつ抜けています。おそらく今回もテイクオフプレーンが大逃げを仕掛けるでしょうが、リボンスレノディはそれに惑わされず、しっかり直線まで足を貯めていきたいところですね』

『――あっ、現れました! お聞き下さいこの大歓声! ここまで4戦4勝、前走のチューリップ賞も4バ身差の圧勝! 阪神JFに続いて無敗のGⅠ2勝目へ、そして狙うは無敗のトリプルティアラ! 圧倒的1番人気、3番テイクオフプレーン!』

『前走は格の違いを見せつけてくれましたからね。今回は何バ身離して逃げるのか、それとも誰か共倒れ覚悟で競りかけにいくのか。いずれにしても彼女がレースを作ることになるのは間違いないでしょう』

 

 勝負服姿でターフに駆けだしてきたテイクオフプレーンが、スタンドの大観衆へ笑顔で手を振り、蒼天を見上げて指を一本立てる。

『おーっと、これは早くも一冠奪取宣言かー!?』

『自信満々といった表情ですねえ』

 

 中継の実況と解説も盛りあがる中、私のそばの3人も三者三様にターフを見つめる。

 

「すごい……GⅠなのにあんな余裕……」エチュードは羨むようにそれを見つめ、

「いいなあ、あのパフォーマンス! あたしもやろっかな」コンプは不敵に笑い、

「う~~~っ、楽しそう! わたしも走りたい!」

 

 いつも通りウズウズと身を震わせるヒクマの頭を、「来年ね」と私は撫でてやる。

 そして隣の小坂トレーナーとミニキャクタスは、ただ眩しそうにターフを眺めていた。

 

『さあそして、2番人気、前走の阪神JFはテイクオフプレーンにクビ差の2着! 最もテイクオフプレーンを追いつめたウマ娘、13番リボンスレノディです! 最後方からの驚異の末脚は桜花賞でも炸裂するのか!』

『阪神JFからの直行でレース間隔が空いてるのがやや気がかりですが、仕上がりは良さそうですね。同じ舞台で昨年末のリベンジなるか、期待しましょう』

 

 リボンスレノディがターフに姿を現す。

 遠目ながらも、その姿には先日、トレーナー室で見た穏やかな顔とは明らかに違う、レースへ向けた気迫が見て取れる。

 

「ノディ姉さん……」

 

 リボンエチュードが、祈るように胸の前で手を組んだ。

 

「スレノディさーん!」

「がんばれー!」

 

 ヒクマとコンプも声援を張り上げる。数多の歓声が入り乱れるレース場のざわめきの中に、ファンファーレが鳴り響き、ウマ娘たちがゲートに収まっていく。

 またしてもテイクオフプレーンがゲート入りを嫌がってやや悶着したが、係員に押されてゲートに収まり、体勢完了。

 

『いざ、桜の栄冠へ――スタートしました!』

 

 

       * * *

 

 

 テイクオフプレーンは幼い頃、飛行機になりたかった。

 乗りたかった、のではない。飛行機になって、空を飛びたかったのだ。

 休日のたびに親にせがんで、飛行機に乗る予定もなく空港に行っては、ジェットエンジンの轟音を響かせて滑走路を疾走し、ふわりと空へ浮き上がってみるみる遠ざかっていく飛行機のシルエットを、展望デッキから一日中飽きることなく眺めていた。

 自分も飛行機みたいなスピードで走れば、きっと飛行機になって空を飛べる。

 幼い頃は、無邪気にそう信じて、いつも飽きることなく走り回っていた。

 

 今はもう、ウマ娘は空を飛べないということを、当たり前に理解している。

 だけど、だからこそ、テイクオフプレーンは飛行機が好きだ。

 あの巨体が宙に浮き、何にも遮られない雲の上を行く。乗客になって、機内の小さな窓から、豆粒のような地上の光景と、それを覆う雲を見ているだけでも、幼い頃の憧れを忘れずにいられる。

 だから、新幹線の方が楽だとどれだけ言われても、プレーンは飛行機で関西に乗りこむ。羽田から伊丹までのたった一時間のフライトでも、空を飛ばないと気分が上がらない。

 そして、空を飛んできた自分は無敵だ。

 誰よりも速く、あの蒼天まで駆け抜けてやる。

 ただそれだけを念じて――プレーンは、今日も走り出す。

 

『さあ行った行った! やはり行きますテイクオフプレーン! どんどん軽快に前に出て、あっという間にハナを主張していきます!』

 

 自分の前に誰かがゴチャゴチャ詰まっているなんて、到底我慢がならない。プレーンはいつだって真っ先に先頭に飛び出す。

 先頭で風を切り始めると、自分の足が宙に浮いた感じがして、自由な気分になる。

 誰にも邪魔されない。空はあたしだけのものだ――。

 

「いっくよー! ポジティブレート、ギアアップ!」

 

 先頭に飛び出したところで、プレーンはさらに加速して、2番手以下を一気に突き放す。5バ身、6バ身と差が開く。プレーンのスタートダッシュについてこられるウマ娘はいない。無理に競りかければ間違いなく自分が先に潰れてしまうハイペース。そんなリスクを犯してまでプレーンを潰しにくる度胸のあるウマ娘などいるはずもない。

 

『やはり今日も大逃げだ! テイクオフプレーンがどんどん差を開く!』

 

 快調に飛ばしながら、プレーンは一度だけちらりと後方を視線だけで振り返った。――はるか後方、ごちゃごちゃとまとまった集団に隠れて、あの子の姿は見えない。しかし、おそらく去年の阪神JFと同じく、最後方をマイペースに走っているのだろう。

 ――リボンスレノディ。あの阪神JFで、プレーンは初めてレースで、すぐ後ろに迫ってくるウマ娘の気配を感じた。そんなことは今までなかった。プレーンがスタートからハイペースでブッ飛ばせば、誰もついてこられなかったのに。

 仁川の坂を上りきったとき、外からすぐ後ろに、あの小柄な栗毛は迫ってきていた。

 1600だから逃げ切れたが、あと200、いや100あったら逃げ切れたかどうか。自分が間違いなく勝ったという実感を持ちきれなかったのも、あれが初めてだった。

 大人しそうな顔をして、こちらを視線で射殺さんばかりに睨み付けてくるリボンスレノディの、あの表情に、プレーンは――震えた。

 ――勝ちたい。この子を、有無を言わせぬ圧倒的な勝利でねじ伏せて、空を飛べるのは自分だけだと知らしめてやりたい。

 

『リボンスレノディは現在、後方2番手で3コーナーカーブ。テイクオフプレーンは後続を5、6バ身離して独走しています。さあ残り800を切って4コーナー!』

 

 もう一度ちらりと後ろを見て、プレーンは僅かにほくそ笑む。――皆、かかった。

 阪神JFも、前走のチューリップ賞も終始ハイペースで飛ばしての逃げ切り。誰もがプレーンは今回も同じ走りをすると思っている。

 けれどプレーンは、先頭に立って後続と差をつけた時点で、少しペースを緩めていた。

 直線まで足を残さなければ、スレノディから逃げ切れるかどうかわからない。いつもよりペースが緩いことに後ろが気付かなければ、自分の勝ちだ――。

 

『おっとリボンスレノディが上がってきた! 外から早めに進出してきます!』

 

 だが。大外から徐々に上がってくる、その栗毛の白い勝負服がちらりと見えた。

 プレーンがペースを緩めたことに気付いて、仕掛けてきた。それに釣られるように、他のウマ娘もペースを上げてプレーンとの差を詰めてくる。

 

『さあ後続との差が詰まってきた! その差は3バ身、2バ身、テイクオフプレーンはこのまま捕まるのか!?』

「あちゃー、さすがに最後までは引っかからないかあ……。でも」

 

 もう遅い。息は充分入れられた。プレーンは晴れ渡った空を見上げ、

 

「さあ、行っくよ――出力全開、ゴーアラウンド!」

 

 直線に入った瞬間、ターフを踏みしめた足が――宙を舞うように、再び加速する。

 

『いや、譲らない譲らない! テイクオフプレーン、再び加速して後続を突き放す! 抜けた抜けた、やはりテイクオフプレーンの独壇場か!』

 

 そんなわけないだろ、とプレーンは思う。

 来る。あいつは必ず来る。

 

『外からリボンスレノディ! 大外からリボンスレノディが来た! すごい脚で追い込んでくる!』

 

 ――ほら、来た!

 

「待ってたよ、ノディ!」

 

 阪神JFのときには背筋があわだったその気配が、けれど今は嬉しくて仕方ない。

 

『残り200! リボンスレノディが迫る! テイクオフプレーン逃げる! 仁川の坂を上る! やはりこのふたりの一騎打ちだ! プレーンの無敗か、スレノディの意地か!』

 

 4コーナーからのゆるやかな下りのあとの、残り200の急坂。

 メイクデビューから4度目ともなれば慣れたものだ。

 残した脚で、一気に駆け上がる。スレノディの気配は――。

 まだ、後ろだ。

 

『リボンスレノディ迫る! 迫るが! 届かない! またも届きません! テイクオフプレーン、今1着で――ゴールインッ!』

 

 ゴール板を駆け抜けたとき、プレーンの視界には、ただ青空だけが広がっていた。

 




X3年 桜花賞

その馬は二度、空を飛んだ。

誰にも縛られることのない、逃げの美学。

地上から手を伸ばしても、その背中には届かない。

桜の空へ羽ばたいた、芦毛の翼。

その馬の名は――


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第19話 勝者と敗者と、それを見る者と

 阪神レース場、地下バ道。

 3人を引き連れてそこへ向かうと、担当トレーナーに肩を叩かれているリボンスレノディの姿があった。俯いていたスレノディが、顔を上げてこちらを振り向く。

 その顔を見た瞬間、リボンエチュードがぶるっと身を震わせる。

 

「……エチュードちゃん。ごめんなさい、お姉ちゃんまた負けちゃいましたわ」

「ノディ、姉さん……っ」

 

 ぽろぽろと、エチュードの目尻から涙がこぼれ落ちる。スレノディは、自分よりも背の高い妹分の頬に手を伸ばして、力なく微笑みながらその涙を拭う。

 

「もう……泣かないで、エチュードちゃん。わざわざ阪神まで応援に来てもらって、それでエチュードちゃんを泣かせちゃったんじゃ、お姉ちゃんがマドリガルさんやヴィルレーさんに怒られちゃいますわ。ただでさえ、同じコースで同じ相手に同じ負け方なんて、情けない姿を見せちゃいましたのに……」

「ううん、ううんっ……ノディ姉さん、格好、良かった……っ」

 

 ごしごしと目元を擦りながら、エチュードは必死に首を横に振る。

 

「そーよ! ノディさん全然負けてなかった! あと100メートルあれば勝ってた!」

「うん! すごかった!」

「ふふ、ありがとう、コンプちゃん、ヒクマちゃん。でも、負けは負けですから」

 

 穏やかに微笑むスレノディ。そんな微笑ましい光景を横目に見つつ、私はスレノディの担当トレーナーに「お邪魔してすみません」と頭を下げる。向こうは「構いませんよ」と笑ってくれて恐縮の極みである。

 

「トレーナーさん、次のオークスは絶対に勝ちますわ。三度はありません」

 

 スレノディがその表情を引き締めて、担当トレーナーに向き直る。スレノディのトレーナーは力強く頷いた。

 ――と、そこへ。

 

「おーっと、その勝利宣言、撤回するなら今のうちだよ?」

「プレーンさん。取材はいいのですか」

「疲れてるから早めに切り上げてきたよ。ま、ここはまだウェイポイント、巡航高度をオートパイロットで飛行中の段階だかんね。まだまだこれから、これから」

 

 現れたのは、この桜花賞の勝者、テイクオフプレーンである。

 プレーンは飄々と笑って、それからエチュードやヒクマに視線を向ける。

 

「ノディの妹とお友達の後輩ちゃんだっけ? やっほー。生桜花賞、どーだった?」

「あ、ええと……あの、えと……」

「すごかった! わたしも早く桜花賞走りたい、です!」

 

 縮こまるエチュードの代わりに、ヒクマが両手を挙げて満面の笑みで答える。

 

「お、そこの可愛い芦毛ちゃんはティアラ志望? いいね、来年のエリザベス女王杯で待ってるよ。そのときにはあたしは最低GI6勝してるだろうから、そんな歴史的トリプルティアラウマ娘と戦えることを誇りに思いたまえ」

「オークスと秋華賞と今年のエリザベス女王杯と来年のヴィクトリアマイル、全部勝つ宣言ですか……相変わらず自信家ですこと、プレーンさん」

「ついでに有馬記念と大阪杯と宝塚記念も勝っときたいねえ。お、それだけでもうGI9勝だあ。走れたら安田記念も勝って十冠ウマ娘になっとこう」

「残念ですが、そんな大それすぎた野望は次で終わりですわ。オークスで貴女の無敗もトリプルティアラも阻止させていただきます。府中の2400、今までのように逃げ切れるとは思わないでくださいませ」

「だからこそ、そこを逃げ切ったらカッコイイじゃん? 優しいプレーンさんは、ノディに稀代のシルバーコレクターとして歴史に名を残す権利をあげるからさ。トリプルティアラ全部2着とか逆にすごいよ?」

「誠に残念ですが、プレーンさんのことは桜花賞が最後の輝きだった早熟ウマ娘として世間に忘却させて差し上げますわ」

 

 スレノディとプレーンの間に、バチバチと火花が散る。

 

「……あの、普段は仲良いんですよ? ノディ姉さんとプレーンさん……」

 

 エチュードが、こそこそと私に耳打ちしてくる。わかるよ、と私は頷いた。こんなマイクパフォーマンス、仲が良くなければできまい。

 と、バ道の向こうからプレーンを呼ぶ声。プレーンの担当トレーナーが来たらしい。

 

「あ、やば、トレーナー来ちゃった。じゃーノディ、あたしはこれからトレーナーの奢りで祝勝大阪食い倒れツアーだから、次は府中で会おう!」

「普通に学園に戻ったら寮で会いますわ!」

「あっはっはー、じゃね! 後輩ちゃんたちも、来年はここに来られるようにがんばりなよー!」

 

 大きく手を振って、プレーンは軽快にバ道を駆けていく。

 それを見送って、スレノディも笑った。

 

「それじゃあ、私もトレーナーさんと打ち合わせがありますので、失礼させていただきますわ。またね、エチュードちゃん、ヒクマちゃん、コンプちゃん」

「あ……うん、えと、お疲れ様、ノディ姉さん」

「おつかれさまー!」

「ばいばーい」

 

 担当トレーナーとともに立ち去っていくスレノディを見送り、私は3人を見やる。

 

「じゃあ、私たちも帰ろうか」

「……はい」

「トレーナー、あたし串カツ食べたい!」

「わたしお好み焼きー!」

「はいはい、遅くならない程度にね。……と、そういえばミニキャクタスと小坂トレーナーは……」

「あ、わたし迎えに行ってくるね!」

 

 ヒクマがこちらの返事も待たずに駆けだしていく。迎えに行くも何も、向こうが先に帰っていなければどうせ合流することになるはずだが……。小坂トレーナーからは特に連絡はないので、たぶん待ってくれているはずだ。

 

「まったくクマっち、せっかちなんだから」

 

 呆れ顔で肩を竦めるコンプに、私とエチュードは苦笑するしかなかった。

 

 

       * * *

 

 

 同じ頃。

 

「やー、すげえ勝負だったなあ」

「……そうですね。ジャラジャラさんみたいな逃げウマ娘に対して阪神でどう戦えばいいのか、とても参考になりました」

「ジェネ、もうちょっと素直に名勝負を楽しもうぜ?」

「ジャラジャラさんこそ、何も考えずに見てたんですか? 何のために現地まで来たんですか。来年の本番に向けて学ぶためでしょう」

「あたしはただ逃げるだけだかんな。ジェネみたいにゴチャゴチャ作戦とか考えるよりかは、このGIの雰囲気を感じられりゃそれでいいんだよ」

「逃げウマ娘が全員、ジャラジャラさんみたいに何も考えずに飛ばしてるだけでもないでしょうに……。今日のテイクオフプレーンさんの逃げを見て何も感じないんですか?」

「来年のエリ女で戦えると思うとワクワクするぜ」

「……この人は……」

 

 別に示し合わせたわけでもなく、偶然近くで観戦していたジャラジャラとエレガンジェネラルは、そのままなんとなくいつも通り一緒にいるのだった。

 

 

       * * *

 

 

 帰りの新幹線。小坂トレーナーとミニキャクタスを交えた6人で3人掛けの席を回転させて6人ボックス席にして、私たちは東京への帰路につく。

 

「さて――改めて、桜花賞、どうだった? ヒクマ、エチュード」

「すごかった! わたしも来年がんばるよー!」

 

 いつも通り無邪気な笑みを浮かべるヒクマに対し、エチュードは自信なさげに俯く。

 

「……正直、まだ自分が、あそこで走れるなんて、想像もできないです……。ノディ姉さん、あんなに速かったのに、それでも追いつけないなんて……」

 

 そう答えるエチュードの頭を、「大丈夫」と私はぽんぽんと撫でてやる。

 

「――ミニキャクタスは、どう思った?」

 

 私が話しかけると、じっと黙って俯いていたミニキャクタスは、びくりと身を竦める。小坂トレーナーが「キャクタスちゃん……」と心配そうに見つめ、キャクタスはその顔にゆっくりと首を振って、顔を上げた。

 

「……来年は、私が、あそこで、勝ちます」

 

 静かな、けれど力強い宣言。そうする自分の姿を思い描くかのように目を閉じて、キャクタスは膝の上で両の拳をぎゅっと握りしめる。

 

「うん! キャクタスちゃんもエチュードちゃんも、一緒に来年の桜花賞、走ろー!」

「ヒクマちゃん……」

「…………っ」

 

 ヒクマが身を乗り出して、エチュードとキャクタスの手を掴んで重ねる。ふたりとも驚いたようにヒクマの顔を見つめ、その無邪気な笑顔に――ゆっくり、頷いた。

 

「えい、えい、おー!」

「……お、おー!」

「……おー」

 

 ヒクマの元気な声と、控えめなふたりの声が重なる。その姿を見ながら、私は小坂トレーナーと微笑んで頷きあった。

 エチュードにとっても、キャクタスにとっても、きっとこのヒクマの明るさは、エネルギーをくれるはずだ。誰にとってもそれがいい方向の結果をもたらしてくれればいい。

 ――しかし、それはそれとして。

 

「むー、あたしだけ仲間はずれなんですけどー」

 

 頬を膨らませるブリッジコンプに、私は苦笑する。

 

「コンプは……来年のこの時期なら、3月のファルコンステークスと、5月の葵ステークスだね、目標は」

「どっちもGⅢかあ。なんで短距離にはクラシック三冠がないのよ。理不尽ー! せめて高松宮記念がクラシックから走れたらいいのに」

「まあまあ。そのぶん、サマースプリントシリーズもあるし。たくさんレースに出て、秋のスプリンターズステークスで最強の称号を証明できるぐらいに勝ちまくろう」

「当然! 任せときなさいよ! クマっちたちがのんびりティアラ路線走ってる間に、あたしは短距離重賞勝ちまくってやるんだから!」

 

 いつものドヤ顔で胸を張るコンプに、皆が笑顔で頷く。

 ――こうして夢を語っていられるのは、ひょっとしたらデビュー前の今だけかもしれない。けれど、それでもいい。夢はちゃんと口に出して、明確な目標に変えることが大事だ。

 来年の桜花賞には、ヒクマとエチュードを揃って送り出せるように。私もその夢を、改めて具体的な目標として口に出す。

 

「よし、来年の桜花賞、行くぞ!」

「おー!」

 

 

       * * *

 

 

 同時刻、同じ車両の数列後ろ。

 

「むにゃ……んん、あれ、ムニっち、そろそろ着いたぁ?」

 

 膝の上で寝ていたチョコチョコが目を開けて眠そうに欠伸をする。ユイイツムニは、読んでいる文庫本の活字から視線を外さずに答えた。

 

「……まだ。……前の方、うるさかったなら車掌さんに注意してもらうけど」

「んーん、別にぃ。……じゃ、もっかい寝るねえ。おやすみぃ」

 

 再びチョコチョコはユイイツムニの膝に頭を預けて、すぐにすやすやと寝息を立て始める。その芦毛を左手で撫でつつ、ユイイツムニはちらりと車両の前方に視線を向けた。

 誰が乗っているのかは知らないが、高松宮記念とかスプリンターズステークスとか、ユイイツムニにとっても他人事でない単語が聞こえてくる。同じく桜花賞を見に来た短距離路線のウマ娘が乗っているのだろう。

 ……まあ、どうでもいいか。ユイイツムニは文庫本に視線を戻し、活字の中の連続殺人事件の世界に意識を飛ばした。

 

「むにゃあ……」

 

 膝の上のチョコチョコを、猫のように撫でながら、ユイイツムニはもったいつけて推理を語らない名探偵の大仰な台詞回しを目で追っていく。

 

 

 

 ユイイツムニと、ブリッジコンプ。

 数ヶ月後のメイクデビューで戦うことになるふたりが、このとき同じ車両に乗り合わせていたことに、特に運命的な意味など無かった。このときは、まだ。

 

 

       * * *

 

 

 そして、1ヶ月後――5月、東京レース場。

 トリプルティアラ第2戦、オークス。

 

『さあ直線! バ群はばらけた! 坂を上る! テイクオフプレーン逃げる! 来た! 来た! 内からリボンスレノディ! バ群を割って突き抜ける! テイクオフプレーン粘る! リボンスレノディ迫る! とらえた! とらえた!』

 

「いっけえええええええ!」観客席で、ヒクマとコンプが叫ぶ。

「ノディ姉さん……っ!」エチュードが、身を乗り出してその名前を呼んだ。

 

 それに応えるように――スレノディが、内からプレーンを抜き去っていく。

 

『並ばない! 並ばない! 抜いた! 抜いた! かわした! かわした! リボンスレノディだ! 三度目の正直だ!』

 

 鬼気迫る表情で、ゴール板を先頭で駆け抜ける、小柄な栗毛の姿。

 その2バ身後ろを、悔しそうに叫びながらテイクオフプレーンが駆け抜けていく。

 

『阪神の雪辱は府中で晴らす! 三度は負けられないリボンスレノディ! テイクオフプレーンの無敗街道を打ち砕いたのは、やっぱりリボンスレノディだ!』

 

 立ち止まったリボンスレノディが、観客席を振り返り、優雅にぺこりと一礼する。

 大歓声の中、ミニキャクタスを揉みくちゃにしてはしゃぐヒクマとコンプを苦笑しつつ見ながら、私はボロボロと泣いているエチュードの頭を、ただ撫でてやっていた。

 



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第20話 デビュー戦へ向けて・1番人気!

 日本ダービーが終わり、6月。いよいよジュニア級メイクデビューの季節がやってきた。

 

「というわけで、ヒクマのデビュー戦が決まったよ。何事もなければ、再来週の日曜、東京、芝、1600だ」

 

 トレーニング後にそう伝えると、エチュードとコンプがヒクマの方を向き、「わっ」とヒクマは目を輝かせる。

 

「やったー! デビューだ!」

「おめでとう、ヒクマちゃん……!」

「エーちゃんまだ早いって。再来週だよ」

 

 そう言うコンプも我がことのように嬉しそうな顔をしていて、私も頷く。ヒクマの担当になって約半年。とうとうこのときが来たか、と私としても感慨深いものがある。

 思えばこの子たちと最初に出会ったのも、学園のすぐ隣にある東京レース場だった。ここから道は始まっていく。バイトアルヒクマとの、トゥインクル・シリーズが。

 トリプルティアラ、そしてドバイシーマクラシック。新人トレーナーにはあまりに大それた目標だが、ヒクマとならきっと走り抜ける。誰よりもまず、私がそのことを信じて、この子を夢に向かって送り出してあげたい。

 

「トレーナー、あたしはまだなの?」

「コンプとエチュードは7月の終わりか8月の頭で調整中。もうちょっと待ってね」

「むー、あたしも早くデビューしたい!」

「まあまあコンプちゃん、トレーナーさんの判断だから……」

 

 地団駄を踏むコンプを、エチュードがなだめる。と、ヒクマが私に抱きつくように駆け寄ってきて、その大きな瞳で私を見上げた。

 

「トレーナーさん! デビューしたらいっぱいレース出られるんだよね!」

「ん、ああ、うん――」

 

 レーススケジュールのプランは色々と考えている。デビュー戦で勝てた場合、勝てなかった場合。まずは1勝を挙げないことには始まらないが、そこを突破した後は順当に条件戦からステップアップを目指すか、いきなり重賞に格上挑戦するか。勝ったときの内容次第ではあるが、色々な道が考えられる。

 

「わたし、いろんなレース出てみたい! いっぱい走るよ!」

「――よしよし」

 

 私は苦笑して、ヒクマの頭をぽんぽんと撫でる。走りたがるのはウマ娘の本能だ。実際、昔は間隔が空くとウマ娘のレース勘が鈍ると言われ、毎月のようにどんどんレースを走らせるのが主流だった。しかし、レースごとに万全に仕上げて全力疾走するという行為は、それ自体にウマ娘の身体に大きな負担をかける。脚を故障して志半ばで引退を余儀なくされた名ウマ娘は数え切れない。

 そのため、現在ではある程度の以上のレベルのウマ娘であれば、走るレースを絞って、そのぶん長く活躍させてあげるのがトレーナーの間でも主流の方針になっている。特にGIでウイニングライブを勝ち取れるレベルのウマ娘であれば、前哨戦もほとんど使わず、クラシック以降はほぼGIだけに絞って走るのも珍しくない。

 ただ、それもウマ娘本人の気性によりけりではある。しっかり休ませた方が結果を出せるウマ娘もいれば、とにかく走らせた方がいいウマ娘もいたりするわけで……。

 ヒクマがどちらのタイプなのかも、これから本格的に見極めていかなければいけない。

 

「とりあえず、今のところは年内に4戦するつもりで予定を立ててるから。レースの結果次第ではあるけれどね」

「4戦……ってことは、えーと?」首を捻るヒクマ。

「2ヵ月に1戦」コンプが横から口を出す。

「えー、もっと走りたい! 毎月でもいいよ!」

「その意気や良しだけど、ヒクマ。ヒクマの目標は、とにかくレースでたくさん走ることだったっけ?」

「う」

「ドバイ、行くんだよね。無理して怪我したら、元も子もないよね?」

「うう……。うん、わかった」

 

 ちょっと不満げに引き下がるヒクマ。レース間隔についてはデビュー戦の後にもう少しゆっくり話し合った方が良さそうだな、と思う。

 

「あ、キャクタスちゃんにもデビュー決まったって伝えなきゃ!」

 

 ぱっと意識を切り替えて、ヒクマは荷物からスマホを取りだしてミニキャクタスに連絡し始める。この切り替えの早さはヒクマの美点……ということに、しておこう。

 

 

       * * *

 

 

 さて、トレセン学園ではデビュー前のウマ娘については、学園の方針としてマスコミの直接取材は基本的にNGということになっている。デビューすれば立派なアスリートだが、デビュー前のウマ娘はいち学生に過ぎないのだから、というわけだ。実際、この方針がなければ有力ウマ娘は学園に入った途端マスコミに囲まれっぱなしになってしまう。トゥインクル・シリーズというのは、この世界でそれだけの人気のある娯楽なのだ。

 その直接取材が部分的に解禁されるのが、デビュー直前のこの時期。メイクデビューの出走が決まると、マスコミからプロフィールアンケートやデビュー戦へ向けた意気込みのコメントが求められるようになる。まだ見ぬ推しウマ娘を求めてメイクデビューを観戦するファンへ向けて、ウマ娘が自分をアピールする、公式では最初の場だ。

 合わせて本人の顔写真、選抜レースのタイム、担当トレーナーなどの情報も学園から公開され、それらを元にメディアはまだ情報の少ないメイクデビューの記事を作っていくことになり、ファンはそれを元にレースの推しウマ娘を選んでいくことになる。

 

 レース2日前の金曜日。ヒクマの出走するメイクデビューの枠番が確定した。

 9人立ての4枠4番。居並ぶウマ娘の中で、ヒクマはというと――。

 

「わっ、クマっち1番人気じゃん!」

「ええー? わたしが?」

 

 スマホで出走表を見ていたコンプが声を上げ、ヒクマとエチュードが覗きこむ。

 私も既に確認していた。何しろまだ競争実績がない以上、メイクデビューの時点での人気は水物、実力よりも知名度や印象が優先みたいなところはあるが、それでも1番人気というのは立派なものだ。

 ウマ娘情報を専門に扱うウマ娘ネットでは、メイクデビューの特集記事も出ている。

 

「ええと……『1番人気はバイトアルヒクマ。母はドバイで活躍したウマ娘で、自身もアラブ生まれという珍しい経歴の持ち主。変わった名前はアラビア語で〈知恵の館〉を意味する。昨年12月の選抜レースでは、注目を集めるジャラジャラとエレガンジェネラルに挑み4着も好タイム、模擬レースでも好走し仕上がり順調。新人トレーナーと二人三脚でトゥインクル・シリーズに挑む』……だって。ヒクマちゃんすごい、写真も出てるよ」

「えへへー」

 

 照れくさそうに頭を掻くヒクマ。と、コンプが肩を竦めた。

 

「……あのさークマっち、記事の掲示板に書いてあること言っていい?」

「ほえ? なあに?」

「『ウマ娘なのにクマ?』『バイトある日熊って着ぐるみのバイトしてるのか』『バイトで寝不足で目元に隈が出来てるのかと』『くまくまカフェでバイトしてそう』『バイトアルヒクマ、レースアルヒウマ』『誰が上手いこと言えと』――」

「わたしクマじゃないよー! ウマ娘だよー!」

 

 やっぱり言われる宿命である。ヒクマの抗議の声が、トレーニングルームに響き渡った。

 

 

       * * *

 

 

 ともあれ――あっという間に、その日はやってきた。

 6月18日、日曜日。東京レース場。春の5週連続東京GIも終わり、春を締めくくる来週の宝塚記念へ向けて中休みといった風情の時期ではあるが、東京レース場には今日も早くから大勢の観客が詰めかけている。

 その歓声もまだ遠い、出走ウマ娘の控え室。

 

「……緊張してる?」

 

 体操服に身を包み、4番のゼッケンをつけたヒクマは、珍しくじっと押し黙っている。私のかけた声にも返事はない。

 いつも明るく能天気なヒクマでも、さすがにデビュー戦ともなれば緊張するのか。緊張をほぐしてあげようと背中を叩こうとした瞬間、

 

「――よしっ!」

 

 と、いきなりヒクマが大きな声をあげ、ぐっと両手を握りしめた。

 思わずのけぞると、ヒクマは振り返って「あ、トレーナーさん!」と今頃私の存在に気付いたように声を上げる。その顔には緊張した様子はなく、いつもの元気いっぱいな笑顔が浮かんでいた。

 

「珍しく静かだから緊張してるかと思ったけど」

「ほえ? ううん、ドキドキはしてるけど大丈夫! すっごい楽しみ!」

 

 両手を大きく広げ、ヒクマはダンスのリズムでも取るみたいに身体を揺らす。

 

「ねえトレーナーさん。ホントに作戦とか特になしでいいのかな?」

「ああ。ヒクマの走りたいように走っておいで。選抜レースや模擬レースと同じ1600メートル、充分練習は積んできてる。いつも通り気分良く走れれば、きっと大丈夫」

「うん、わかった!」

 

 直線が長く、差し・追込が有利と言われる東京レース場だが、ヒクマには先行策でそのまま押しきれるだけの力があるはずだ。自分の走りができれば、結果はついてくる。

 私の言葉に頷いたヒクマは、トコトコと私のすぐ目の前に歩み寄ってきて、その大きな瞳で私を見上げた。褐色の肌に、キラキラと輝くヒクマの銀色の瞳。私は――そう、この子の真っ直ぐな、この瞳に惹かれたのだ。

 

「あのね、トレーナーさん」

「うん」

「……んと、やっぱり、レースのあとで言うね!」

「え、なに? 何か気になることでもある?」

「ううん、ちゃんとレースで勝ってからにするっていうだけ!」

 

 言いかけた言葉を急にはぐらかしたヒクマに、私は首を捻る。

 

「大丈夫? 何か不安があるなら今のうちに――」

「だいじょぶ、だいじょぶだよ!」

 

 心配して覗きこんだ私に、ヒクマは大きく両手と首を横に振る。しかし、そうはぐらかされると気になる。まさか脚に違和感とかあるのだったら大事だし――。

 レース前の不安要素は取り除くに越したことはない。私のその気持ちを感じ取ったのか、ヒクマは困ったように「うう~……」と唸り、それから。

 

「えと、じゃあトレーナーさん、ひとつだけお願いしていい?」

「うん、なに?」

「……頭、撫でてほしい」

 

 ちょっと照れくさそうに、上目遣いで言ったヒクマに。

 なんだ、そんなことか。私は苦笑して、その頭をぽんぽんと撫でてやった。

 

「えへへ~……」

 

 ヒクマは嬉しそうに、尻尾をぶんぶん振る。ウマ娘というより、なんか犬っぽい。

 

「よーし、じゃあトレーナーさん、わたし行ってくるね!」

「ああ。――楽しんでおいで、ヒクマ」

「うん! いってきまーす!」

 

 見送りはここまででいいだろう。控え室を出てパドックへ向かうヒクマを、私は手を振って送り出す。

 

 第5レース、メイクデビュー東京、芝、1600メートル。

 バイトアルヒクマのトゥインクル・シリーズが、ここから始まる――。

 



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第21話 メイクデビュー!

 私がパドックに向かうと、エチュードとコンプが最前列を確保して迎えてくれた。

 

「遅ーい! もうクマっちの出番来ちゃうよ!」

「ごめんごめん。ふたりとも、ヒクマに声かけなくていいの?」

「トレーナー、あたしルームメイトよ? クマっちに言いたいことはとっくに全部言ってあるっての」

「……私も、レース場に入るときに伝えたので、あとは見守ります」

 

 なるほど。私が頷いてパドックに目をやると、ちょうどヒクマの出番だった。

 

『4番、バイトアルヒクマ!』

 

 アナウンスとともに、ヒクマが元気いっぱいにパドックに駆けだしてくる。ジャージの上着を脱ぎ捨て、笑顔で観客に向かって大きく手を振った。

 

『本日の1番人気です、4番バイトアルヒクマ』

『元気のいい姿を見せてくれましたね。初めてのレースの緊張もなさそうです。どんな走りを見せてくれるのか、楽しみにしたいと思います』

「バイト? クマ?」

「変な名前ー」

「でも、なんかいいな、明るくて」

「がんばれー、アルバイトクマー」

 

 聞こえてくる観客のそんな声に苦笑しつつ、皆が今日のレースでちゃんと名前を覚えていってくれればいいと思う。

 ……と、そういえば、小坂トレーナーとミニキャクタスは来ているのだろうか?

 

「…………ヒクマちゃん、いつも通りで安心しました…………」

「おわっ! こ、小坂トレーナー、いたんですか」

 

 いつの間にか背後に小坂トレーナーが立っていた。相変わらず心臓に悪い人である。

 真っ昼間のレース場でも、長い黒髪で目元を隠した小坂トレーナーの周囲だけ、なんだか薄暗く感じるのは気のせいだろうか……。

 

「…………はい、キャクタスちゃんが来たいというので…………。同じティアラ路線のライバルの戦いですし…………でも今日は素直にヒクマちゃんを応援します…………」

「それはどうも……ミニキャクタスは?」

「地下バ道に…………。ヒクマちゃんに声を掛けにいきましたよ…………」

 

 

       * * *

 

 

 地下バ道で、ミニキャクタスはバイトアルヒクマが通りがかるのを待っていた。

 静かなバ道で、冷たい壁にもたれて待ちながら、レース直前に自分なんかが声を掛けて迷惑じゃないだろうか、そもそも声を掛けられるだろうか、気付いてくれるだろうか――と詮無い思考がぐるぐると頭をよぎる。自分は、観客席の隅っこで黙ってレースを見ていれば、それでいいのではないか。こんなところまで、友達面して出しゃばるほど、自分はあの子にとって特別な存在なのか? そんなはずはない。自分なんかが――。

 でも――そう思ってしまっても、この場からは立ち去りがたかった。

 せめて、せめて一言だけでも、バイトアルヒクマに、自分から言葉を掛けたかった。

 ……自分が、誰かに対してそう思えることに、ミニキャクタスは戸惑っていたのかもしれない。

 

「あれ? あっ、キャクタスちゃーん!」

 

 地下バ道に、明るく大きな声が反響して、ミニキャクタスは顔を上げた。

 ゼッケンを身につけた体操服姿のバイトアルヒクマが、笑顔でこちらに駆けてくる。

 

「キャクタスちゃんも来てくれたんだ! ありがと!」

「…………あ、う……うん」

「見ててね! わたし、がんばるから!」

 

 ミニキャクタスの手を掴み、バイトアルヒクマはその大きな瞳で覗きこんでくる。近い距離。その目の眩しさに喉がつっかえて、ミニキャクタスは何も言えなくなってしまう。

 言いたいことは、伝えたいことは、頭の中をいくらでもぐるぐるしているのに。

 それがどうしても、言葉になって出てきてくれない。

 何から話せばいいのか、どんな声を掛ければいいのか。考えれば考えるほどわからなくなって、なにひとつ言葉にできなくなってしまって――。

 金魚のように口をぱくぽくさせて、そして泣き出しそうな気持ちで俯いたミニキャクタスに、ヒクマが不思議そうに首を傾げた。

 

「キャクタスちゃん?」

「…………ご、ごめん、なさい…………」

 

 ああ、違う。何を言っているんだ。謝りたいんじゃない――。

 そう思っても、もう混乱しきったミニキャクタスの口からは、自分の意志とは無関係に、その場から逃げ出そうとする言葉がこぼれ落ちそうになって、

 

「キャクタスちゃん!」

 

 ヒクマの大きな声に、顔を上げる。

 こちらを覗きこんだヒクマは――笑顔で、右手の小指を差し出してきた。

 

「約束しよ!」

「…………約束?」

「うん! わたし、キャクタスちゃんに追いつくから! 今はまだキャクタスちゃんの方が速いけど、絶対追いついてみせるから! 一緒におっきなレースに出て、また勝負しようね! 約束!」

 

 どこまでも、どこまでも眩しい笑顔。

 その笑顔に、ミニキャクタスはおずおずと、その小指に自分の右手の小指を絡める。

 

「ゆびきりげんまん、うそついたらニンジン千日間食べちゃダメっ!」

 

 指が離れる。その指切りが、ミニキャクタスの中のもやもやした感情も、全て断ち切ったような気がした。

 

「じゃ、わたし行くね!」

「――ヒクマちゃんっ」

 

 踵を返しかけたヒクマを、ミニキャクタスは呼び止める。

 

「…………私も、負けないから……っ」

 

 言いたかったことは、この十倍ぐらいあったはずだったけれど。

 その一言で、全部伝えられたような、そんな気がした。

 

「うんっ!」

 

 そしてヒクマは、手を振ってターフの光の中へと駆けていく。

 ――ああ、なんて、なんて眩しいんだろう。

 目を細めながら、ミニキャクタスは思う。

 自分も――いつかあんな風に、光り輝けるんだろうか……?

 

 

       * * *

 

 

 東京レース場のターフ。今までは観客席から眺めるだけだった場所に、バイトアルヒクマが立っている。ヒクマは晴天の空を見上げて、大きく深呼吸するように両手を広げた。

 エチュードやコンプ、それからミニキャクタスや小坂トレーナーとともに見守る私は、今さらながらに口の中が渇いてくるのを感じていた。大丈夫、今のヒクマの力なら――そう信じてはいても、何が起こるかわからないのがレースだ。

 きっと勝てる、という確信は、勝ってくれという希望に変わり、いや勝敗はいいからとにかく無事に走りきってくれれば――という祈りにまで変わってしまう。トレーナーの自分が予防線を張ってどうするのだ、ヒクマを信じてやらなくては――と思っても、心臓の音がやけにうるさい。

 自分の指導は間違っていたのではないか? あの選抜レースで感じたヒクマの才能を、自分は本当に引き出せているのか? もし、もし――それがただの幻想でしかなかったとき、私はいったいヒクマに、どんな顔をして向き合えば、

 

「…………勝ちます、ヒクマちゃんは」

「――――」

 

 囁くような声に、私は振り向く。隣に、いつものように存在感を消すかのように佇んでいるミニキャクタスの声だった。

 

「……勝ってくれます、必ず」

 

 ぎゅっと柵を握りしめるミニキャクタスの言葉に、「――ああ」と私は頷く。

 頑張れ、ヒクマ。ここはゴールじゃない。スターティングゲートだ。

 君の夢に併走する道は、ここから始まるんだから――。

 

 

『さあ、今年も新たなウマ娘たちの物語が幕を開けます。第5レース、メイクデビュー東京、芝、1600m、9人立てです。バ場は良と発表されています。3番人気は7番シルバーサザンカ、2番人気は1番ドリーミネスデイズ。そして1番人気は4番バイトアルヒクマ。解説の楠藤さんは誰に注目されていますか?』

『やはり1番人気のバイトアルヒクマですね。先週のメイクデビュー中京で注目株のエレガンジェネラルが期待に応えて圧勝してみせましたが、昨年末の選抜レースでそのエレガンジェネラルや、来週にデビューを控えているジャラジャラと競い合いました。あの時点ではまだ上位ふたりとは力の差がありましたが、どこまで伸びてきたか注目です』

『さあ全員ゲートに収まりました。体勢完了――スタートです!』

 

 ゲートが開く。9人のウマ娘が、ターフに飛び出していく。

 すっと前に出てハナを切ったのは、背の高い鹿毛のウマ娘。2番人気のドリーミネスデイズだ。そして、その後ろ。2番手につけたのが――長い芦毛を揺らす、見慣れた姿。

 

「よーし、いいスタート!」

 

 コンプが叫ぶ。思わず私もほっと息を吐いた。絶好のスタートで、逃げの手を打つ有力ウマ娘にぴったりついていく好位置を確保。先行型のヒクマにとっては理想的な出足だ。

 他に競りかけるウマ娘はなく、残りの7人は府中の長い直線勝負に賭けるのかヒクマから5バ身ほど離れたところに集団を形成する。形としてはドリーミネスデイズとヒクマがふたりで大逃げしているような格好になった。

 

『さあ先頭はドリーミネスデイズ。それをぴったりマークしてバイトアルヒクマと人気のふたりが先行してレースを引っぱります。そこから5、6バ身離れて中団グループ。3番人気シルバーサザンカは現在5番手か』

『ちょっと後方は人気のふたりを自由に行かせすぎじゃないでしょうかね』

『3コーナーにかかります。ペースはやや速いか。さらに差が開いて7、8バ身。ドリーミネスデイズがちょっと後ろを気にしています。おっとシルバーサザンカが上がっていく。早めに仕掛けてきたか』

『追ってきましたね』

 

 大欅の向こうに一旦ウマ娘たちの姿が消える。再び現れ、4コーナーへ。

 ヒクマは――まだ2番手で機をうかがっている。先頭のドリーミネスデイズが、やや掛かり気味にペースを上げていく。

 残り600を切った。4コーナーを越え、府中の長い直線に入る。

 

『さあ直線に入った。先頭はドリーミネスデイズ逃げる、3バ身ほど離れてバイトアルヒクマ、シルバーサザンカが外から迫る!』

 

 ヒクマが顔を上げた。内ラチ沿いを行くドリーミネスデイズ。そのやや外を回ったヒクマの前には、もう視界を遮るものはない。

 

「――行け、ヒクマ!」

 

 思わず、私がそう叫んだ、次の瞬間。

 ヒクマの身体がぐっと沈み込んで、――加速。

 

『バイトアルヒクマが伸びてきた! 坂を上る! ドリーミネスデイズ苦しい! 並んでかわした! かわした! 外からシルバーサザンカ、内からエンコーダーも追ってくるがバイトアルヒクマ完全に抜け出した! これは強い!』

 

「いっけええええ!」コンプとエチュードが身を乗り出して叫ぶ。

 ミニキャクタスが、柵を握りしめて食い入るように見つめる。

 そして私は――息をするのも忘れて、目の前を駆け抜けていくその横顔を見つめた。

 そこには。その横顔に浮かんでいたのは。

 ただただ、走れることが楽しくて仕方ないという、満面の笑顔。

 

 ――ああ、これだ。私が見たいのは、これからもずっと見続けたいのは、この顔だ。

 バイトアルヒクマに、この笑顔で走り続けてほしい。

 私が願うのは、たったそれだけのことでしかないんだ――。

 

『後ろを突き放して――今ゴールッ!』

 

 歓声の中、その笑顔が先頭でゴール板を駆け抜けていく。

 コンプやエチュードやミニキャクタスがそれぞれに喜びを表現する中で、私は改めて、ひとつの確信を噛みしめていた。――バイトアルヒクマと出会えて、良かった。

 

『バイトアルヒクマ、人気に応えてメイクデビュー、堂々の快勝です! これはこの先が楽しみなウマ娘の登場だ!』

 

 実況の声と、観客の歓声が、府中の青空に響いて消えていく。



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第22話 デビュー戦の後に・次は札幌!

 バイトアルヒクマ、メイクデビュー完勝。

 その歓声の中、ヒクマは――。

 

「……あれ、おーいクマっち、ちょっと、どこ行くの!」

「ひ、ヒクマちゃん……あれ、ゴールしたの気付いてないんじゃ……」

 

 ゴール板を駆け抜けたヒクマは、なぜかそのままペースを落とすことなく、全速力で第1コーナーを曲がっていってしまう。

 

『おや? バイトアルヒクマが一コーナーを曲がってどこへ行くんでしょう?』

『まだレース続いてると思ってるんですかね?』

 

 観客がざわめく中、第2コーナーまで来たところでようやく我に返ったようで、ヒクマは戸惑ったように脚を緩める。そしてキョロキョロとあたりを見回して、ゴール板をとっくに通り過ぎたことにようやく気付いたように、慌てて踵を返して戻ってきた。

 

『バイトアルヒクマ、やっぱりゴールを間違えたようです』

『あっはっは、ゴール前で勘違いしなくて良かったですね』

 

 観客から微笑ましい笑い声があがり、実況と解説も笑っている。ようやく正面スタンド前まで戻ってきたヒクマは、掲示板を見て自分が勝ったことを確かめて、それから恥ずかしそうに客席に向かって手を振った。観客席から温かい拍手。

 

「まったくもー、なにやってんだか」

「あはは……」

 

 呆れ顔のコンプと苦笑するエチュードの傍らで、私は笑顔で手を叩きながら――そんな、ゴール板を通り過ぎてなおスパートを続けたヒクマの姿に、ひとつ思う。それは前々から、薄々感じていたことだった。

 ――ひょっとしたらこの子に、1600は短いんじゃないか?

 

 

 

 ともあれ、地下バ道にヒクマを迎えに行くことにした。

 小坂トレーナーを残し、コンプ、エチュード、ミニキャクタスを連れて地下バ道へ。敗れたウマ娘たちが、ある者は悔しそうに、ある者はサバサバした表情で戻っていく中、光溢れるターフから戻ってきたヒクマは、こちらを見つけると、

 

「あっ、トレーナーさーんっ!」

 

 だっと勢い良くこちらに駆け寄ってきて――そのまま、私に飛びついてきた。

 

「おわわわっ」

 

 全速力ではないとはいえ、ウマ娘のタックルをまともに食らって私はよろめく。後ろに立っていたコンプとエチュードが慌てて私の背中を支え、どうにかそのまま押し倒されるのは回避したが、まさかいきなり抱きつかれるとは思わなかった。

 

「やったよ! わたし勝ったよ! トレーナーさん!」

「あ――ああ。おめでとう、ヒクマ! どうだった? 楽しかった?」

「うんっ! レース楽しい! もっと走りたい!」

「よしよし」

 

 大きな目をキラキラ輝かせるヒクマの頭を、私はまた撫でてやる。ヒクマは気持ちよさそうに目を細めて、尻尾をぶんぶん振っていた。

 

「……なーんかトレーナー、大型犬にのしかかられてる飼い主みたい」

 

 コンプが呆れ顔で言う。私もちょうどそんな気分である。

 まあ、何はともあれ初勝利だ。勝ちっぷりもタイムもデビュー戦としては文句なし。これは本格的に、トリプルティアラを目指すのは現実的な選択肢になってくるだろう。

 

「クマっち、汗まみれでトレーナーにくっついてたら汗臭いって思われるけどいいの?」

「うえ? あわわ、ごめんなさいトレーナーさん!」

 

 コンプがそう言うと、ヒクマは慌てて私から離れる。気にしなくていいのに。

 

「……ヒクマちゃん、おめでとう」

「ん、おめでと、クマっち」

「うん、ふたりともありがと! えへへ」

「ま、勝ったからいいけどさあ。ゴールした後どこまで行く気だったの?」

「あ、あれはえと、楽しくてつい……うう」

 

 ヒクマは恥ずかしそうに身を縮こまらせ、その場に和やかな笑いが広がる。

 

「あ、キャクタスちゃん!」

 

 と、ヒクマはミニキャクタスに気付いて、そちらに駆け寄った。

 

「えへへー、ぶい!」

「……ぶ、ぶい」

 

 ヒクマのVサインに、ミニキャクタスもおずおずとVサインを返した。――レース前の地下バ道で、このふたりにどんな会話があったのかはわからないけれど、それがヒクマの力になったのであれば良かったと、そう思う。

 

 

 

 小坂トレーナーの元に戻ったミニキャクタスと別れ、選手控え室に戻ると、ヒクマは「う~~っ」と身を震わせた。

 

「トレーナーさん! 次のレースいつ? もっと走りたい!」

「クマっち、さっきまでレースしてもうそれ? 疲れてないの?」

「あはは、ヒクマちゃんらしいなあ……」

 

 苦笑するコンプとエチュードの傍らで、私は頷く。――あの走りを見せられたら、私だってすぐに次のことを考える。予定していたいくつかのプランはあったが――今日のレースで改めて感じたことを、確かめてみたい。

 ヒクマの適性は、もっと長い距離なのではないか? 1600を快勝してまだ走り足りずにスパートし続けるヒクマの豊富なスタミナと、府中の上り坂を苦にしないパワーは、より長い距離でこそ輝くのではないだろうか?

 ティアラ路線の王道、阪神JFと桜花賞が1600だから、今まで当たり前に1600をヒクマにも走らせてきた。けれど、その次には一気に2400に伸びるオークスが待っている。そして何より、ヒクマの大目標はドバイシーマクラシック。2410メートルのレースだ。そこを目指すなら、国内ではやはり、ジャパンカップか有馬記念――。

 

「ヒクマ。もっと長い距離を走ってみない?」

「ほえ? え、もっと長く走っていいの?」

「ああ。よし――夏は思い切り鍛えて、9月頭の札幌ジュニアステークスに出よう!」

 

 私がそう言うと、ヒクマよりもエチュードが驚いた顔をした。

 

「うん、出る出る! あれ、でも札幌ジュニアステークスってどんなレース?」

「……GⅢだよ。芝の1800メートル」

「わ、重賞だ!」

 

 ヒクマも目を丸くする。デビューからいきなり2戦目で重賞というコースは、ヒクマも予想していなかったらしい。

 

「トレーナーさん、いきなり重賞って、大丈夫なんですか……?」

 

 心配そうにエチュードが問う。私は力強く頷いた。

 

「今日の勝ちっぷりを見たら、むしろ当たり前の選択だよ。1800でヒクマがどれだけ走れるかも見てみたいし――ここでも勝てるようなら、ちょっと考えもあるんだ」

 

 ――ティアラ路線は、桜花賞まで中距離レースの選択肢が極端に少ない。特に阪神JFからチューリップ賞を経由して桜花賞という王道路線を行くと、2400どころか2000メートル以上自体をオークスで初体験するということになりがちだ。オークス前にティアラ路線で2400を走らせようと思えば条件戦ぐらいしか選択肢がなく、結果を出すほどにオークスへ向けた事前準備は難しくなる。そこがオークスの難しさなのだが……。

 試してみたい。ヒクマが、どれだけ走れるのかを。

 

「どうかなヒクマ。GⅢ、挑んでみる?」

「――うん! わたし次もがんばるよ! よーし、次は札幌だー!」

 

 笑顔で高々と拳を突き上げるヒクマ。いつかどこかで壁にぶつかるとしても、怖いもの知らずのこの前向きさを、忘れないでほしいと思う。

 

「う~~っ、よーし! 学園戻ってトレーニングしてくる!」

「あ、ヒクマ!」

 

 と、いつもの調子で控え室を飛び出していこうとするヒクマ。しかしそれを読んでいたように、ドアの近くに回り込んでいたコンプがその襟首を捕まえる。

 

「ぐえ。こ、コンプちゃん、なにするの~」

「クマっち、この後何あるか完全に忘れてるでしょ」

 

 ジト目でコンプに睨まれ、「ふえ」とヒクマは首を捻る。私も苦笑した。

 

「ウイニングライブ」

「あ! そうだった! わたし一着だったから、わわ、センターだ!」

「シャワー浴びて着替えておいで」

「はーい!」

 

 シャワー室の方へ駆けていくヒクマ。それを見送りつつ、私はコンプに耳打ちする。

 

「……ねえコンプ。ヒクマって、ライブは大丈夫?」

 

 ベテラントレーナーの中には自分でダンスの指導までやる人もいるそうだが、私はそこまで手が回らないし、歌と踊りはそもそも指導できるような能力はないので、そっちの指導は学園のダンストレーナーに任せている。トレセン学園のカリキュラムには歌唱とダンスの授業があるので、そっちで基礎は積んでいるはずだし、練習の合間にダンスレッスンの時間も確保してはいたが……。

 私の問いに、コンプはただ黙って腕を組んで目を伏せた。

 ……大丈夫だろうか?

 

 

       * * *

 

 

 メイクデビューのウイニングライブ、その曲目はその名もズバリ「Make debut!」。

 私はエチュードとコンプと、3人でサイリウムを持って、ステージのヒクマの勇姿をハラハラしながら見届けた。

 肝心のセンターのヒクマはというと――振り付けがやや大ぶりで勢い余り気味になり、ぎこちなくはあったものの、一生懸命さがよく伝わるライブであったと思う。

 ただ――ライブの終盤、最後のサビで、センターの3人でステージをぐるっと一周走り回る、その場面で。

 

『――へぶっ』

 

 ヒクマが盛大に脚を滑らせてすっ転んだときには、思わず私たち3人は天を仰いだ。

 けれど、慌てて立ち上がってステージの中央に戻っていったヒクマに。

 

「がんばれー!」

「しっかりー!」

「名前覚えたぞー! バイトアルヒクマー!」

 

 客席からそんな、温かい歓声が飛び交っていて。

 私はコンプとエチュードと、顔を見合わせて笑い合った。

 

 ヒクマの元気いっぱいの歌声が、東京レース場のステージに響き渡っていく。

 

 

       * * *

 

 

「キャクタスちゃん…………ウイニングライブ、見なくて良かったの…………?」

 

 隣接する東京レース場からかすかに聞こえてくるウイニングライブの音楽と歓声を聞きながら、小坂御琴はミニキャクタスにそう訊ねた。てっきり、バイトアルヒクマのウイニングライブは一緒にサイリウムを振るのだと思って用意もしていたのだが。

 

「…………はい」

 

 キャクタスは短くそう答え、それからトレーニングの手を止めて、小坂を振り返った。

 

「あの子……レースの前、私に……追いつきたいって、言ったんです。……必ず追いつくから、大きなレースで勝負しよう……って、約束、しました」

 

 俯いて、訥々と、キャクタスは語る。

 

「……トレーナーさん。私は……本当に、あの子の前を、走れているんですか……?」

 

 ――選抜レースでも、模擬レースでも勝ったじゃない。小坂はそう言いかけて、口を噤む。たぶん、そういうことではないのだ。

 バイトアルヒクマ。いつも明るく前向きなあの子のおかげで、ミニキャクタスは前よりも少しだけ、自分を表に出すようになったと小坂は思う。阪神JFを見に行った後の新幹線で、キャクタスが「勝ちます」と宣言したのを聞いたとき、小坂は驚いたものだ。この子が自分の中の闘争心を、あんなにはっきり口に出したのは初めてだったから――。

 だけど、そんな内に秘めた強い闘争心と同時に、この子はひどく根深いコンプレックスを抱えている。自分とよく似た――誰も自分に期待も注目もしていない、自分は誰かの目標になれるような、そんなキラキラした存在ではない――という。

 キャクタスから見れば、誰とでも仲良くなって、いつも前向きに走っているヒクマの方が、ずっとキラキラした存在に見えているのだろう。今日のレースぶりを見れば尚更だ。今日の勝利で、バイトアルヒクマは一躍、このジュニア戦線の注目株になったはずだ。

 まだデビューしていないキャクタスが、そんなヒクマの前を走れていると思えない……という気持ちは、痛いほどわかる。

 ――でも、だからこそ。

 

「なら…………それを、自分の力で、証明しましょう…………キャクタスちゃん」

「――――」

「キャクタスちゃんの方が強いって…………私は信じていますから…………。その約束を守った上で…………追いつかせはしないって、背中を見せつけてあげましょう…………」

「――――はい」

 

 頷くキャクタスの手を、小坂はぎゅっと握りしめる。

 ――バイトアルヒクマに勝つ。ふたりの、最初の目標が定まった瞬間だった。

 



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第23話 乙名史記者の直接取材

「ほえ、取材? わたしに?」

「うん。『月刊トゥインクル』から」

 

 ヒクマのデビューから10日ほど過ぎた6月末。先日、ヒクマのデビュー直後に私のところに取材に来た乙名史記者から、改めてヒクマに直接取材したいという話が来た。

 

「え、『月刊トゥインクル』って、あの『月刊トゥインクル』ですか……?」

「業界最大手専門誌じゃん! 発行部数50万部!」

「詳しいね、コンプ」

「子供の頃から愛読者だもん。親が毎号買ってたから」

 

 なるほど。かくいう私も学生時代から愛読している雑誌だ。この時代、速報性では雑誌は到底ネットに敵わないが、『月刊トゥインクル』の強みはその圧倒的な情報量にある。主要レースはもちろんのこと、未勝利戦やローカルシリーズまで余さずフォローし、全部のデータをじっくり見ていたら1ヶ月でも足りないというレベルの情報が詰まっている。歴代の名ウマ娘の連載コラムや、引退したウマ娘のセカンドキャリアを追う企画、最新のトレーニング理論、過去の名ウマ娘の無名時代の知られざるレースを発掘する連載などなど、読み物も面白い。ウマ娘専門誌はとりあえず『日刊ウマ娘』と『月刊トゥインクル』を買っとけ、と言われる鉄板雑誌である。

 

「ほへー。え、そんなすごい雑誌がなんでわたしに?」

「うん。それなんだけど――」

 

 と、私はちらりとトレーニングコースへ視線を向ける。そこには、取材の解禁された記者たちがたむろしている一角があった。彼らのお目当ては当然ながら――。

 

「うへ、またこんな記者だらけかよー。宝塚記念終わって、みんなそんなにヒマなのかねえ。他に取材するウマ娘なんていくらでもいんだろーに」

「注目してもらえるうちが華と言いますよ、ジャラジャラさん」

「デビューで神童、ジュニアで天才、クラシックになったらただの人――ってか? 頼むからジェネの方こそそうならないでくれよ。張り合いがなくなっちまう」

「その言葉、そっくりそのままお返ししますから」

 

 どちらもデビュー戦を前評判通り圧勝したふたり。ジャラジャラとエレガンジェネラルだ。ジャラジャラは宝塚記念と同日のメイクデビュー阪神、1800でスタートから他をぶっちぎる大逃げを図り、そのまま余裕の逃げ切り勝ち。エレガンジェネラルはヒクマの1週間前、中京レース場の1600を、涼しい顔をして7バ身差の楽勝である。

 デビュー前からぶっちぎりの世代二強と見られていたふたりが、改めてその強さを見せつけたデビュー戦だったわけで、デビュー直後のウマ娘とは思えない記者の数がそのデビューの鮮烈さを物語っている。私の同僚トレーナーたちの間でも、あのふたりがいるんじゃ今年ティアラ路線でデビューさせるのは可哀相じゃないか、と言う者までいる始末だ。

 

「あのふたりと、選抜レースで戦ったヒクマとを、3人あわせて《今月のMake debut!》のコーナーで特集したいって、記者の人がね」

 

『――素晴らしいですっ!! 強敵がいる路線を避けるのではなく、敢えて強敵に挑むことでより高みを目指す、挑戦者の心を忘れないその姿勢! 担当ウマ娘の夢を叶えるためならたとえ火の中水の中、世代最強の栄光を掴み取るためならばどんな艱難辛苦も乗り越えて、担当ウマ娘のために24時間365日の全てを費やすお覚悟だなんてぇ……素晴らしいですっ!!』

 いや、そんなこと言ったっけ……?

 

 そんな乙名史記者のよくわからない発言はともかく――《今月のMake debut!》は『月刊トゥインクル』の名物コーナーである。毎月、その月にデビュー戦か未勝利戦を勝利したウマ娘の中から、注目株をピックアップして特集する――というシンプルなコーナーだが、このコーナーで特集されたウマ娘は重賞戦線で活躍する率が高く、出世記事として知られている。自分から「特集してくれ」と担当を売り込みに行くトレーナーもいるとか。

 

「ただ、これだけは言っておくよ。たぶん記事の中では、ヒクマは『世代二強に挑戦する、もうひとりの注目株』みたいな扱いになると思う。それでもいい?」

 

 まず間違いなく、記事のメインはジャラジャラとエレガンジェネラルのふたりだ。ヒクマはあくまで3番手、世代二強に挑もうとする伏兵がいる、みたいな扱いの記事になるだろう。あれで負けず嫌いなところがあるヒクマがそれを、果たしてどう思うか――。

 

「え? うん、いいよ!」

 

 だけど、ヒクマはあっさり頷いてしまう。――本当にわかっているのだろうか?

 

「クマっち。あのさ、わかってる? 取材受けていざ記事が出たら、あの二人の添え物扱いで記事の隅っこにちっちゃく載ってるだけ――なんて扱いだったら、クマっちが傷つくんじゃないかって、トレーナーはそう心配して言ってるのよ?」

「こ、コンプちゃん、そんなはっきり……」

 

 私が言いにくいことをズバっと口にしてくれるコンプである。一応、乙名史記者からは3人を同じ分のスペースで公平に扱います、という言質は取っているが、それでも記事の中身まではあまりトレーナーが口出しできる話でもないわけで。

 

「ふえ? だってわたし、まだあのふたりに勝ってないし。でも、トリプルティアラでちゃんと勝つもん! キャクタスちゃんにはちゃんとライバル宣言したけど、あのふたりにはまだだから、今のうちに勝つぞーって宣言しておく!」

 

 ぐっと両拳を握りしめて、ヒクマは勇ましくふんすと鼻を鳴らす。どうやら私の心配は杞憂だったようだ。ヒクマの、負けず嫌いなところをこうやって常に前向きなエネルギーに変えるメンタルは、私個人としても見習いたいぐらいである。

 

「じゃあ、記者の人に取材OKって返事しておくね」

「うん!」

「……すごいなあ、ヒクマちゃん」

「すごいってーか、単に周りから自分がどう見えてるかとか全然気にしてないだけのよーな気がするんだけど、クマっちの場合」

 

 羨望の眼差しを向けるエチュードと、呆れ顔のコンプ。ふたりの頭を、私はぽんぽんと撫でてやる。

 

「ふたりも、来月のデビュー戦で勝って特集してもらおう」

「え、あ……えと、は、はい……」

「そりゃ当然あたしは勝つけど! 撫でるなー!」

 

 エチュードは恥ずかしそうに身を竦め、コンプはぷんすこと両手を振り回す。しまった、ヒクマが頭を撫でてやると喜ぶから、ついふたりにもそうしてしまったけど……。年頃の女の子の扱いは難しい。

 

 

       * * *

 

 

 そんなわけで、乙名史記者の取材当日。

 ヒクマのフォローと監督、あと乙名史記者がまた何か変なことを言い出さないか見守るために取材に同席させてもらったのだが……。

 

「それでは、お母様も走られたドバイシーマクラシックの出走が大目標と?」

「はい! 世界のウマ娘になります!」

「すっ……素晴らしいですっ!! 遠い生まれ故郷のターフで、母から娘へと繋がる世界の夢! 記者の立場を超えて、いちウマ娘ファンとして応援させていただきますっ!!」

 

 決まり文句らしいその発言こそあったものの、乙名史記者はヒクマの言うことを妙に拡大解釈することもなく、取材はごくごく平穏に和やかに進んだ。

 私のところに来たときの、あの妄想気味の発言はなんだったのだろう……?

 

「では……最後に。今回の特集では、ヒクマさんも選抜レースで戦ったエレガンジェネラルさんとジャラジャラさんと、ヒクマさんと3人を紹介いたしますが、ふたりに対して何か一言」

「はい! トリプルティアラで絶対勝ちます!」

「すっ……素晴らしいですっ!! 同期の強敵ふたりに臆することなき挑戦者の心! 新人トレーナーさんとの二人三脚で、世代最強から日本最強、そして世界最強のウマ娘へ! 大いなるその夢を支えるために、どんなことでもなさるのですねトレーナーさん!」

「え、私ですか!? いやまあ、やれるだけのことはやってあげたいと思いますが」

「素晴らしいですっ!! ヒクマさんだけでなく三人のウマ娘の担当をこなしながら、さらにライバルの情報蒐集にも余念なく、ヒクマさんがトリプルティアラの戴きを手にするために万難を排し、生活の全てをヒクマさんの夢のために費やすなんてぇ」

「ほえ?」

 

 ――訂正。この人の妄想癖は、ウマ娘じゃなくその周囲の人間に向かうらしい。

 

 

 

 ともあれ無事に取材は終わり、乙名史記者を見送ったあと。

 

「お疲れ様、ヒクマ」

「ん……う~、緊張したぁ」

 

 声を掛けると、ヒクマはほっと息を吐き出した。私は目を見開く。取材はいつも通り元気よく受けていたと思っていたが……。

 

「……ヒクマでも緊張するんだね」

「ふえ? するよー! コンプちゃんもそうだけど、トレーナーさんもわたしのことなんにも考えてないとか思ってるでしょー!」

 

 むー、と頬を膨らませるヒクマに、私は「ごめんごめん」と謝りながらその頭を撫でる。ヒクマは「えへへぇ~」と頬を緩めて尻尾を振った。……私がこういうことを言うと甚だ問題がある気がするが、なんというか、機嫌を直すのが簡単すぎて心配になる。

 

「トレーナーさん。わたしだっていろいろ考えてるんだよ?」

「たとえば、どんな?」

「…………」

 

 私が訊ねると、ヒクマは急に押し黙って、私を上目遣いに見上げる。

 

「……トレーナーさん、わたしの担当になって、大変じゃない?」

「え?」

 

 私は目をしばたたかせ――ああ、と思い至った。乙名史記者の妄想発言を真に受けたのか。まあ、確かにヒクマの担当になって以来、生活の全てとまでは言わないまでも、大半をヒクマ(とエチュードとコンプ)のために費やしているのは事実だけれども。

 私は苦笑して、わしわしと強くヒクマの頭を撫でてやる。「ふやぁ」とヒクマは撫でる私の手を押さえて、恥ずかしそうに身を竦めた。

 

「楽しいよ、ヒクマと一緒に夢を目指すのは」

「ふえ……」

「今はヒクマの夢が、私の夢だからね」

「……あう」

 

 小さく呻いたヒクマは、私が手を離すと、私を見上げて、ぐっと拳を握りしめた。

 

「トレーナーさん。わたし、ぜったいトリプルティアラで勝つよ! それで、日本でいちばん強いウマ娘になって、ドバイに行って、世界のウマ娘になる!」

「――ああ。絶対なろう! 世界のウマ娘!」

「うん!」

 

 改めて「えい、えい、おー!」とふたりで気合いを入れ直す。

 桜花賞まで残り10ヶ月。乙名史記者の妄想発言ではないけれど、この子の夢のために私にできることを、もっともっと探していこう。

 このキラキラした笑顔を、トリプルティアラのウイニングライブのセンターで見られるように――。

 



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第24話 短距離カルテット

 7月。無事にリボンエチュードとブリッジコンプのデビュー戦が決まった。

 

「というわけで、ふたりとも月末の札幌だよ。コンプは土曜日の第5レース、芝1200。エチュードは日曜の第5レース、芝1800」

「おおー! ふたりともおめでとー!」

 

 ぱっと両手を挙げて喜ぶヒクマ。それに対するふたりはというと、

 

「おめでとうは勝ってからでいいって、ふふん」

 

 腕を組んでいつものドヤ顔のコンプと、

 

「……が、ががっ、がんばり、ます……っ」

 

 デビュー戦という単語だけで既に緊張気味のエチュードである。なんというか、相変わらず対照的というか。コンプは気分よく先頭を走らせてあげれば大丈夫だろうから、とりあえずはエチュードの方が平常心でレースに向かえるようにしてあげないと。

 

「というわけで、ふたりとも今日から本格的に実戦的なトレーニングを取り入れていくよ」

「ばっちこーい!」

「は、はい……」

「コンプは何はさておき、スタートの練習。逃げるなら出遅れは致命傷だからね。コンプはスタートは上手いけど、本番に向けてさらに確実性を上げていこう」

「オッケー。ま、ハナ切っちゃえばあとはあたしのもんだからね!」

「頼もしいな。エチュードは、周りに惑わされずに自分のペースで走る練習。落ち着いて一番タイムの出せるラップを身体に刻み込んでいこう」

「……わかりました」

 

 コンプもエチュードも、目下レースでの最大の課題は掛かり癖だ。コンプは前に誰かが走っていると無理をしてでも抜かずにいられない気性だし、エチュードは近くのウマ娘のペースにつられて自分のペースを乱してしまう癖がある。大勢で走るレースでは、いかに冷静に自分の走りができるかが勝負を分ける。

 その点、ヒクマの最大の才能は、周りのことなんか気にせず自分の一番気持ちいい走り方をレース中でも自然にできてしまうことだろう。走っていると周りのことが目に入らなくなるヒクマの性格は、今のところレースではいい方に作用している。

 ともあれ――。

 

「というわけで、助っ人を呼んだんだけど」

「助っ人ぉ?」

「ふわっはっはっはー! ブリッコ! ボクに勝負を挑んでくるとはいい度胸だなー!」

「げっ、アホスヴェル!」

「スヴェルちゃ~ん、勝負じゃなくて合同トレーニングですよ、略してゴングです」

 

 いや、合同トレーニングをゴングとは略さないと思うが。

 そんなわけで、合同トレーニングを依頼したのは以前の模擬レースでも相手になってくれたデュオスヴェルとオータムマウンテンである。どちらも同期の三冠路線で8月にデビュー予定のこのふたり、どういう経緯でかふたりとも同じトレーナーが担当についていたので、話を通しやすくて助かった。私はその担当トレーナーと挨拶を交わす。

 

「ちょっとトレーナー、なんでことあるごとにスヴェルが出てくんのよ」

「仲良いんでしょ?」

「よくない!」

 

 ぶんぶんと両手を振って抗議するコンプ。そうは言っても、コンプの負けん気を最大限に発揮するには、デュオスヴェルと一緒にトレーニングするのが最適だと思ったのだが。

 

「というわけで、ゲートも借りてきたから、コンプはデュオスヴェルとスタートの練習。最初の200メートルで先頭に立ってた方の勝ちね」

「ふうん、ま、いっか。その勝負ならあたし負ける気しないし」

「なにー! あとであほ面かかせてやるぞブリッコ!」

「吠え面って言いたいの? てゆか、あんたスタート下手でしょアホスヴェル」

「むきー! 見てろ、絶対泣かしてやるー!」

「誰が泣くか!」

 

 いつも通り仲良く言い合いを始めるコンプとデュオスヴェル。その姿に苦笑しつつ、私はエチュードとオータムマウンテンに向き直る。

 

「エチュードは、オータムと併走ね」

「あ、ええと、よろしくお願いします」

「はい、よろしく~。お近づきのしるしに、これをどうぞ」

「あ、ありがとうございます……あの、これは?」

「東京レース場型クッキーです。あ、中山型の方が良かったですか~?」

「ご、ごめんなさい、違いがよくわかりません……」

 

 オータムの方は相変わらず何を考えてるのかよくわからないが、模擬レースでも選抜レースでも、彼女は非常に正確なラップでの走りを見せている。同じ追込スタイルのエチュードにとっては、オータムの均一なペースでの走りは大いに参考になるはずだ。

 というか、エチュードの併走相手としてオータムを貸してほしいとお願いしに行ったら、向こうのトレーナーからもデュオスヴェルのスタート練習相手としてコンプを貸してほしいという話になったのが、今回の合同トレーニングの発端だったりする。

 

「トレーナーさん、わたしはー?」

 

 と、ヒクマが手を挙げる。

 

「ヒクマは……ええと、あれ?」

 

 小坂トレーナーとミニキャクタスにも声を掛けておいたのだが……。

 

「あ、キャクタスちゃん!」

 

 やっぱり先に見つけるのはヒクマなのである。例によっていつの間にか来ていた小坂トレーナーとミニキャクタスに、私は慌てて会釈。

 

「というわけで、ヒクマはキャクタスと一緒ね」

「はーい! あ、キャクタスちゃん、デビュー決まった?」

「……え、あ、うん」

 

 例によって距離感の近いヒクマにたじろぎながら、ミニキャクタスは頷く。

 

「ホント? ね、いつ? 応援行くよ!」

「…………月末の、新潟」

「そっか! じゃあ――ってあれ、月末?」

 

 ヒクマが私を振り返る。小坂トレーナーに確認すると、ミニキャクタスのデビュー戦はどうやらエチュードと同じ日の新潟第5レース、芝1800になるらしい。

 

「あ、そうなんだ……うう、ごめんねキャクタスちゃん、その日だとわたし、コンプちゃんとエチュードちゃんの応援で札幌だよ……」

「そんな……気にしないで」

 

 慌てたように、ミニキャクタスは首を横に振る。

 

「でも、レースは必ず見るから! 札幌から応援するね! 新潟まで届くぐらい!」

「あ……ありが、とう……」

 

 顔を赤くして俯くミニキャクタスの手を握って、ヒクマは満面の笑みを浮かべる。

 微笑ましいいつもの光景に目を細めつつ、さて、と私は手を叩いた。

 

「それじゃあ、今日はよろしくお願いします。みんな、始めよう!」

『おー!』

 

 

       * * *

 

 

「よぉーっし、これで5連勝! どーお? 身の程思い知った?」

「ちっくしょおおお! あと200メートルあればボクの勝ちだぞー!」

「あんたゲートの中で落ち着いてないからスタートのタイミング逃すんでしょーが」

「ゲートなんか嫌いだー!」

 

 ――トレーニングコースから、そんな騒がしい声が聞こえてくる。

 グラウンドの外周をランニングしていたソーラーレイは、隣を走るバイタルダイナモが、その騒がしい声の方へと視線を向けたことに気付いた。自分もちらりと視線を向けると、ゲートの前で、栗毛の小柄なウマ娘と、鹿毛を三つ編みにしたウマ娘が口喧嘩をしている。ダイナモの眼鏡がキラリと光った。

 

「レイさんレイさん!」

「んー? どったの委員長?」

 

 ダイナモがその方向を指さす。ソーラーレイは今気付いたように振り向いてそちらに目を細める。

 

「喧嘩の現場を発見しましたよ! 学級委員長として仲裁に行ってきます!」

「えー? あれ喧嘩かなあ? なしよりのなし……いやありよりのあり。うん、委員長、マジやばたん、ありゃー委員長の出番だよぉ」

「了解しました! こらーっ! そこ! 喧嘩はいけませーん!」

 

 嬉々としてダイナモはそのふたりの元へ走って行く。手を振ってソーラーレイがそれを見送っていると、後ろから走ってきたふたつの影が呆れ顔でソーラーレイを見やった。

 

「お、ユイチョココンビじゃん。ちょりーっす」

「レイちゃん、なーにやってんの? あ、また委員長けしかけて遊んでるんだ」

 

 現れたのはユイイツムニとチョコチョコである。チョコチョコはトレーニングコースの方に目をやり、突然割り込んできたバイタルダイナモに、栗毛と鹿毛のウマ娘がきょとんとしている様を眺めている。

 

「あはは、まーたやってる委員長。あの使命感どっから来るんだろーねえ、ムニっち」

「…………」

 

 話を振られたユイイツムニは、ちらりとトレーニングコースを見て、すぐに興味を失ったように視線を逸らした。その反応を見て、相変わらず無口なやっちゃなー、とソーラーレイは思う。

 以前、『ユイってさあ、三つ編み眼鏡の本好きで無口って、何もそこまでわかりやすい図書委員キャラしなくてもいーじゃん?』とチョコチョコに言ったら、『ムニっちもレイちゃんには言われたくないと思うなあ』と返された。なんでだ。

 ソーラーレイ、バイタルダイナモ、ユイイツムニ、チョコチョコの4人は、同じクラスの同じ短距離志望の4人組である。ユイイツムニとチョコチョコのふたりは既に担当が決まってデビュー待ち、ソーラーレイとバイタルダイナモは目下次の選抜レースを目指してトレーニング中の立場だ。できれば4人一緒にデビューしたいなあ、とソーラーレイは思っている。

 というか、ダイナモはともかく、ユイイツムニとチョコチョコには負けたくない。かたやヒマさえあれば図書室で本ばっかり読んでる、レースで走ってるより小説でも書いてる方が似合いそうな文学ウマ娘。かたや、そのユイイツムニの膝の上でいつも昼寝ばかりしている能天気なサボり魔。同じ芦毛とはいえ、このふたりがなんで仲が良いのかも、ソーラレイにはわりと謎だが――。

 納得いかないのは、同じクラスの短距離志望組の中でも、このふたりが明らかに頭ひとつ抜けて強いことである。

 

「任務完了、帰投しました! 学級委員長として、無事喧嘩の仲裁に成功しましたよ! さすが私! 世界平和の使者!」

 

 と、そこへバイタルダイナモが戻ってくる。ドヤ顔で胸を張るダイナモに、「おー、さすがは大宇宙の秩序を統べる委員長殿」とチョコチョコが笑って手を叩く。

 

「おや、チョコさん! お目が高い! もっと褒めてください! さあユイさんも、偉大なる学級委員長たる私を讃えましょう!」

「……チョコ、私は先行くから」

「あ、ムニっち、逃げる気ー? 待ってよー」

 

 ダイナモを完全にスルーして、ユイイツムニは走り出してしまう。チョコチョコもそれを追っていき、ドヤ顔のまま取り残されたダイナモは「あれ?」と視線を巡らせる。

 

「そんな! レイさん、ユイさんはどうして私を褒めてくれなかったのでしょう!?」

「あー、そりゃアレよ、マジ卍」

「はい、よくわかりませんが、もっと委員長として努力せよということですね!」

「そそ、バイブスあげてこー」

「了解です! では参りましょう!」

 

 勝手に納得して走り出すダイナモを、ソーラーレイは笑って追いかける。

 ホント委員長は見てて飽きないよぉ、と思いながら。

 

 

       * * *

 

 

 このとき、バイタルダイナモが仲裁(?)しに行った2人組のうちの片方、栗毛のウマ娘――ブリッジコンプと。

 仲裁された側であるコンプが困惑顔で見送ったバイタルダイナモと、遠くからコンプたちを見ていた様子の3人組――ソーラーレイ、ユイイツムニ、チョコチョコと。

 

 この5人が、翌年以降の短距離路線を色々な意味で賑わす存在になることを、この時点ではまだ、誰も知らない。



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第25話 ダンスレッスン

 ウイニングライブ。レースを勝ち抜いたウマ娘が、ファンと喜びを分かち合うステージ。そのセンターに立つことは栄誉であり、トゥインクル・シリーズを走るウマ娘には、ただレースで勝つだけでなく、ライブでも相応しいパフォーマンスを見せることが求められる。

 現実的な話をしてしまえば、スポーツとしての人気と同じぐらいに、見目麗しいウマ娘が歌って踊るウイニングライブのアイドル的要素は、トゥインクル・シリーズの人気を支えている重要な要素なのだ。ファンは推しのウマ娘がセンターで歌う姿を見たくて声援を送るのであるからして。

 かくしてトレセン学園のウマ娘には、学生としての学業、アスリートとしてのトレーニングとともに、歌とダンスのレッスンも課せられる。指導者の私が言うのもなんだが、10代の女の子たちによくもまあこんな過酷な要求をするものだ。いや、気力充実して1日の長い10代の、人間より体力面で大きく勝るウマ娘だからこそ、こんなハードスケジュールをこなしてなお自由時間を遊ぶ元気が残るのかもしれない。

 さて、前にも言ったが私は歌とダンスに関しては全くの門外漢である。トレーナー養成校ではそちらの基礎も一応学んだが、トレーナーの基本的な役目はあくまでもアスリートとしてのウマ娘の指導と管理。歌とダンスに関しては学園の専門指導員に任せておきたい。

 ……とはいえ、さすがに全くそちらにノータッチというのも無責任である、

 メイクデビューのウイニングライブで転んでしまったヒクマを見て、少しぐらいはライブ練習の様子も見てあげるべきだろう、と思い直したのが先日のこと。

 というわけで――。

 

「はい、ワン、ツー! ワン、ツー!」

 

 レッスンが行われているダンススタジオを、覗いてみたのだけれども。

 ――鏡の前で真剣に振り付けの練習をしているウマ娘たちを見ていると、やっぱり門外漢の出る幕はないと思ってしまう。

 ヒクマとコンプ、エチュードの姿もすぐに見つかった。それぞれまだ、動きにぎこちなさが見てとれる。まあ、デビュー前ならこんなものかもしれないが……。

 

「ブリッジコンプさん、テンポが速すぎ! 曲のリズムにちゃんと合わせて! リボンエチュードさんは動きが固い! もっと思いきって! バイトアルヒクマさんは逆に思い切りすぎ! 一生懸命なのは認めますけど、動きが大げさすぎます!」

「は、はひぃ~」

 

 ……大変そうだなあ。声を掛けるとしても、終わったあたりで出直すか。そう思い、そっとその場を離れようとしたところで、

 

「はい、では休憩!」

 

 ダンス担当トレーナーが手を叩いて、ダンススタジオに弛緩した空気が流れる。ヒクマたちも大きく息をついてこちらを振り返り、――「あ」と目が合った。

 

「トレーナーさん!」

 

 ぱっとヒクマが笑顔をほころばせて駆け寄ってくる。見つかってしまったからには仕方ない。私が手を挙げると、コンプとエチュードもこちらに気付いて、「うえ」とコンプは呻き、「はう」とエチュードは恥ずかしそうに身を竦めた。

 

「みんなお疲れ。はい差し入れ」

「わ、ありがと! トレーナーさん、いつから見てたの?」

「いや、ついさっき来たところだよ」

 

 3人にスポーツドリンクを差し入れつつ、ダンス担当トレーナーと挨拶を交わす。

 

「どうです? ヒクマたちは」

「3人とも筋は悪くないんですけどね……。一生懸命で許してもらえるのはジュニア級までですから、あんまり甘やかさないでくださいね」

 

 釘を刺され、私は頭を掻く。まあ確かに、ウイニングライブで転んでも許してもらえるのはメイクデビューまでだろう。

 

「トレーナー、どしたの急に。今までライブの練習は我関せずだったじゃない」

 

 スポーツドリンクを飲みながら、コンプがジト目で私を見つめる。

 

「いや、3人がどんな風に練習してるのかぐらいは見ておこうと思って」

「クマっちが転んだの見て、単に全くノータッチもまずいかなーって思っただけでしょ?」

「ぐ」

「別にトレーナーに歌とダンスのセンスまで求めてないってば。トレーナーはあたしたちが速く走れるようにしてくれればいーの」

 

 飲み終えたスポドリのペットボトルを私に突き返して、コンプは素っ気なく言う。ううん、なんか怒らせてしまったか? と私が頭を掻くと、

 

「え、どしたのコンプちゃん? さっきまでトレーナーさんに恥ずかしくないライブ見せるんだっていっぱい頑張ってたんだから、練習の成果見てもらおうよ」

「ちょっ、クマっち、言うなー!」

 

 ヒクマの言葉に、コンプが真っ赤になってその口を塞ぎにかかる。私が目をしばたたかせてコンプを見やると、コンプはヒクマを羽交い締めにしたまま顔を伏せて唸る。

 

「うぐ、むぅ、くるひいよコンプひゃん」

「うーるーさーいー! クマっちはもうちょい場の空気を読めってのー!」

 

 吼えるコンプに、私は思わず笑みを漏らして、その頭をぽんぽんと撫でる。

 

「わかった、じゃあコンプのダンスは本番まで楽しみにしておくね」

「む……って、だからトレーナー、撫でるなってばー! 子供扱いするなー!」

 

 ヒクマを放して、コンプは両手をぶんぶん振って抗議する。まったく、かわいいなあ。微笑ましい気持ちで手を放し、それから私はエチュードに向き直る。

 

「エチュードはどう?」

「……が、がんばります……」

 

 恥ずかしそうに顔を伏せるエチュード。――問題はこっちだろうなあ、と私は思う。

 人見知りであがり症のエチュードは、はたしてライブの観客の前でちゃんと歌って踊れるのだろうか。まあ、デビュー戦前に余計な心配かもしれないが、もしライブが不安でレースに集中できない、なんてことになったら笑い話にもならない。

 とはいえ、生来の性格はなかなか一朝一夕に変えられるものでもないわけで。

 

「エチュードちゃん、わたしたちの中で一番上手だよ!」

 

 ヒクマが言い、コンプも頷く。

 

「エーちゃん、やっぱ名家の生まれだから小さい頃から基礎が叩き込まれてる感じ」

「そ、そんなことないよ……全然……」

 

 ふたりの言葉に、エチュードはますます赤くなって俯いてしまう。

 ダンス担当トレーナーをちらりと見やると、そちらも頷いた。なるほど、やっぱりエチュードの問題はメンタルか。古来から緊張をほぐす方法は色々あるものだけれども……。

 そういった小手先の対策よりも、必要なのは成功体験だろう。ちゃんと自分は人前でもしっかり歌って踊れる、という――。

 

「ヒクマ、ヒクマ」

「なあに? トレーナーさん」

 

 寄ってきたヒクマに、私は小声で耳打ち。

 

「……エチュードとカラオケ行ったりする?」

「うん、3人でよく行くよ。エチュードちゃん歌も上手いの」

「ふたりの前だとちゃんと歌えるんだ……なるほど」

 

 頷いて、「よし」と私は皆に向き直った。

 

「今日はこのあとのトレーニングは早めに切り上げて、ライブに向けて歌の練習がてら、カラオケ行こうか!」

「わ、行く行くー!」

「え、トレーナーのおごり?」

「もちろん。練習だからね」

「やったー! さすがトレーナー、太っ腹!」

 

 ヒクマとコンプが諸手を上げて喜ぶ。エチュードを見やると、エチュードは困ったように視線を彷徨わせて、それから「……は、はい」と消え入りそうな顔で頷いた。

 

 

       * * *

 

 

 というわけで、やってきたるは駅前のカラオケ。

 

「トレーナー、料理頼んでいい?」

「……食べ過ぎない程度にね」

「あ、わたしも何か食べるー! エチュードちゃんはほら、歌って歌ってー」

「え、わ、私から……?」

 

 ヒクマからマイクを押しつけられて、エチュードは目を白黒させながらタッチペンを手にしばし悩んで、それからリモコンで曲を入れる。

 流れ出したメロディーに、エチュードはマイクを手に立ち上がって、私の方を振り向き、

 

「…………~~~~ッ」

 

 慌てたように、リモコンの演奏停止ボタンを押していた。曲が止まり、カラオケの画面が勝手に流れる宣伝動画に切り替わる。

 

「エーちゃん、なにしてんの?」

「ま、待って……ヒクマちゃんかコンプちゃん、先に歌って……。い、いきなりは、やっぱりちょっと……。せめて、お料理来てからとか……」

 

 身を縮こまらせて、エチュードは言う。ううん、私がいるだけでダメか。

 でも、このぐらいは乗り越えてもらわないと、ライブのステージには立ちようもない。

 

「エチュードの歌、聞きたいな」

「はうっ」

 

 私の言葉に、エチュードはびくっと身を竦める。

 

「うん、エチュードちゃん、歌って歌ってー」

 

 ヒクマが部屋に備え付けてあったタンバリンをしゃんしゃんと叩く。

 

「エーちゃん、恥ずかしがって歌わないのが一番恥ずかしいってば」

「ううう……」

「エチュードが歌わないなら、私から歌おうかな」

 

 とりあえず、緊張をほぐしてあげないとダメかな。そう思って私は別のマイクを手に取る。本当はヒクマたちの歌のトレーニングなのだから、私が歌っても仕方ないのだが。

 

「え、トレーナーさん歌うの? わ、聞きたい!」

「期待しないでよ?」

「トレーナー、何歌うの? 無理してウケ狙いとかしなくていーかんね」

「うーん……何にしようかな」

 

 リモコンで曲を検索しながら考えていると――ふと、隣にエチュードが腰を下ろす気配があった。振り向くと、エチュードは恥ずかしそうに俯きながら、マイクを私に向けて差し出す。

 

「……あ、あの、トレーナーさん……」

「うん?」

「い……一緒に、歌って、ください……」

「――了解。じゃ、さっきの曲でいい?」

「…………はい」

 

 エチュードがさっき演奏停止にした曲を、もう一度入れ直す。これなら私も歌える曲だ。

 

「お、いきなりトレーナーとデュエットなんて、エーちゃんやるぅ」

「そっ、そういうんじゃなくて」

「ほえ? そういうってどういうの?」

「ヒクマちゃんは気にしないでー!」

 

 顔を赤くしてエチュードがわたわたとしているうちに、曲のイントロが流れ出す。

 私はマイクを手に立ち上がり、エチュードも私の隣に立った。私はなるべくエチュードの視界に入りにくい少し後ろ目に控えて、マイクを構える。

 恥ずかしそうにこちらへちらちらと視線を向けながらも、今度はエチュードはちゃんと歌い始めてくれた。ヒクマがタンバリンでリズムを取り、コンプも手拍子を取る中で、私はエチュードと同じ曲を歌う。

 カラオケの狭い部屋に、私の聞き苦しい歌声を掻き消すように、エチュードの綺麗な声が響き渡る。

 

 まあ、それはいいのだけれども。

 ――エチュードの歌唱力と自分の歌唱力の歴然とした差に、歌い終わったときには私の方がちょっとブルーになっていた。

 

「と、トレーナーさん? あの、えと……」

「トレーナー、気にしない気にしない。トレーナーがステージで歌うわけじゃないから」

「慰められると余計に辛いんだけど!?」

 

 コンプに肩を叩かれ、私はそう吼えるしかなく。

 

「そんなことないよー。トレーナーさんもいっぱい歌おー!」

 

 相変わらず明るいヒクマの横で――エチュードも、楽しそうに笑っていた。



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第26話 メイクデビュー札幌・ブリッジコンプvsユイイツムニ

 7月29日、土曜日。前日にはるばる飛行機に乗って、やって来たるは北海道、札幌市。札幌レース場は、北海道大学のすぐ近くに位置している。

 

「思ったより暑いな、札幌……」

 

 トゥインクル・シリーズのレースは基本的に日中に行われる。夏場にGⅠレースが開かれないのは、暑さ対策もあってのことだとかなんとか。新人ウマ娘も、夏場は涼しい札幌や函館でデビューさせる方が良いとはよく言われ、だからこそ私もコンプとエチュード、ふたりのデビュー戦を札幌で組んだのだが……。

 本日の札幌の最高気温は32℃。予報では明日も31℃。両日とも快晴。しかもメイクデビューの第五レースは正午過ぎという真っ昼間である。良バ場なのは結構なことだが、直射日光が照りつけるターフはいかにも暑そうだ。まあこれでも、35℃とか言っている東京や関西よりは若干マシではあるが……。

 

「コンプ、大丈夫?」

「ぜーんぜん。あたし、暑いのは平気だもん」

「元気だなあ、若者は」

「トレーナー、そーゆーこと言うと老化が早まるんだって」

 

 いつも通りナマイキなコンプに、私は肩を竦める。まあ、少なくとも緊張はしていないようで何よりだ。

 レース前の控え室。私はヒクマとエチュードと、最後にコンプに声を掛けに来ていた。

 

「コンプちゃん、応援してるからね!」

「がんばってね、コンプちゃん」

「まっかせときなさい! なんたってあたし、一番人気だもんね!」

 

 いつも通りドヤ顔で胸を張るコンプ。そう、このデビュー戦、コンプは9人立ての1番人気に推されていた。レース前から逃げ宣言をしているのも、起伏が少なく直線が短いため先行有利とされる札幌の芝1200という条件に合っていると思われたのだろう。

 

「さてコンプ。今日の作戦は?」

「スタートダッシュ決めて逃げ切り!」

「そう、他のウマ娘のことなんか気にしなくていい。全力で先頭走っておいで」

「言われなくても! 見てなさいトレーナー、あたしの華麗なる逃げ切り勝ちを! ブリッジコンプ最強伝説の始まりを目撃させてあげるんだからね!」

 

 時間だ。自信満々の顔で、コンプはパドックへと駆けていく。ヒクマとエチュードが手を振って見送る中、私はひとつ小さく唸った。

 ――コンプにはああ言ったけれど、果たして自由に逃げ切らせてもらえるだろうか。

 

「どうしました……? トレーナーさん」

「ん、ああ、いや、私の方が緊張してるのかな」

 

 エチュードが少し心配げに私を見上げる。私は笑って誤魔化しつつ、熱中症対策の塩飴を口に放り込み、改めて今日の出走表を見た。

 ブリッジコンプの力に疑問はない。自分の走りができれば勝てると信じている。だが。

 ――ひとり、気になるウマ娘がいた。コンプと同じく、選抜レースで好タイムの逃げ切り勝ちを収めている、芦毛のウマ娘。レース前のコメントでは特に逃げ宣言などはしていないが、果たしてコンプを、素直に逃げさせてくれるだろうか……?

 一風変わった、そのウマ娘の名前を、私は見つめる。

 ――6枠6番、ユイイツムニ。

 

 

       * * *

 

 

『今年初の真夏日になりました快晴の札幌、暑さをはね除けて新たなウマ娘がターフに飛び出していきます。本日の第五レース、メイクデビュー札幌。芝1200メートル、9人立て。6ハロンの短距離戦です。3番人気はサオウノヴェル、2番人気はユイイツムニ、1番人気は逃げ宣言のブリッジコンプ。楠藤さん、注目のポイントは?』

『選抜レースや模擬レースの映像を見る限り、上位人気ふたりがともに先行逃げ切り型ですね。ブリッジコンプとユイイツムニ、どちらがハナを切るかが勝負の鍵になるのではないでしょうか。直線の短い札幌ですから、仕掛けのタイミングが重要ですよ』

『なるほど、さあ1番人気の3番ブリッジコンプがターフに姿を現しました』

「コンプちゃーん!」

 

 いつも通り、関係者席で最前列に陣取った私たち。ヒクマが大きな声を上げ、コンプがそれに気付いてぐっとサムズアップを返す。いつも通り、落ち着いているようだ。

 

「あの子かわいいね、ブリッジコンプだっけ?」

「ママー、あのウマ娘さんすごくきれいな髪の毛してるー」

「応援してるぞー!」

 

 観客席からもそんな声があがる。実際、コンプは客観的に見ても文句のつけようのない美少女だ。綺麗な栗毛の髪に幼さと凜々しさが同居する顔立ち。小柄な体躯とあわせ、なんというか「愛らしい」という概念をそのままウマ娘にしたようである。1番人気に推されたのも、見栄えが人気を後押ししただろうことはまあ、否定できないところだ。

 けれど、このレースでそれに恥じない実力があるというところを、見せてくれるはずだ。

 

『そして、最後に現れたのが6番、ユイイツムニです。ブリッジコンプとはほとんど差の無い2番人気。果たしてどんなレースを見せてくれるでしょうか』

 

 ――来た。あの子だ。私は目を細める。

 芦毛を二本の三つ編みにして、眼鏡を掛けた、やや色黒のウマ娘。コンプと違って、決して目立つ容姿ではない。だが――。

 

「唯一無二って、またすごい名前だなあ」

「でも、なんか地味じゃない?」

「いや、それがどーも逸材だって噂だぞ。ベテラントレーナーがすごい惚れ込んでるとか」

 

 周囲からはそんなざわめき。観客席のそんな反応を意に介することなく、ユイイツムニは淡々とストレッチを済ませ、ゲートに入っていく。コンプもゲートに入り、全員が収まって、体勢完了。

 

『全員ゲートイン、体勢完了。――スタートです!』

 

 

       * * *

 

 

 緊張はなかった。あれだけ練習したんだ、スタートのタイミングは完璧だ。照りつける真夏の日射しも、いっそ気持ちいいぐらいに気分を高めてくれる。

 ゲートの中で軽くジャンプして肩の力を抜き、コンプは気合いを入れ直す。

 あたしは勝つ。最強伝説を作るんだから、メイクデビューぐらい勝って当然。クマっちはあんな楽勝だったんだ。あたしはもっと差をつけて圧勝してやる!

 考えるだけで楽しみだ。ゲートが開くのが待ちきれない。スタートの構えを取って、コンプは目の前に広がる札幌のターフを見つめる。

 

『全員ゲートイン、体勢完了。――スタートです!』

 

 ゲートが開いた瞬間、勢い良くコンプはターフへ飛び出した。

 よし、スタートは完璧! 手応えとともに、コンプは一気に前に出る。あっという間に視界から並んで走る他のウマ娘の姿が消え、最初の200メートルの手前で悠々とコンプは先頭に立った。

 よし、あとは残り1000メートル、全力で走りきるだけだ。誰もあたしには追いつかせない。追いつけるわけがない。このまま余裕で逃げ切り、大楽勝――。

 コンプがそう思った瞬間――すっと、その横に迫ってくる影があった。

 

「っ!?」

 

 コンプが左に視線を向けると、そこにはぴったりと自分に並んで走る、芦毛のウマ娘の姿があった。三つ編みを揺らし、陽光を眼鏡に反射させたそのウマ娘は、ユイイツムニ。

 

『さあ逃げ宣言の3番ブリッジコンプ、好スタートから押していって早くも先頭、そこにぴったりと横につけたのが6番ユイイツムニ。人気のふたりが共に逃げを図ります』

「――あたしの前、走ろうとするんじゃないっての!」

 

 先手を取られてたまるか。コンプはペースを上げて前に出ようとするが、ぴったりとユイイツムニは外からくっついてくる。積極的にコンプの前に出ようとするわけではなく、さりとてコンプの後ろに控えるわけでもない。完全に真横についての併走――。

 ――あたしを競りかけて潰そうって? 上等じゃない!

 コンプがさらにペースを上げると、ようやくユイイツムニは半バ身ほど後ろに控えた。視界から目障りな三つ編みが消えて、コンプはやっと息を吐く。

 

「アホスヴェルみたいな三つ編みしちゃって、ったく――」

 

 なんであたしと逃げで張り合おうとする奴はどいつもこいつも三つ編みなのだ。三つ編みのウマ娘は嫌いだ。理不尽な怒りを抱きつつ、コンプは先頭で3コーナーに入る。

 札幌のコーナーは比較的緩やかだ。小回りが苦手なコンプにはありがたい。残り600の標識を越える。あっという間に残りは半分。1分で決着する6ハロンのレースは、視界の景色のように一瞬で流れていく。

 

『さあ600を通過して先頭はブリッジコンプ! ユイイツムニは外からぴったりとそれをマークして追走します。3番手集団はその2バ身後ろ。逃げるふたりを捕らえられるか、4コーナーを曲がって残り400、札幌の短い直線に入ります』

 

 芝を踏みしめる足下の感触はいい。まだまだ走れる!

 4コーナーを曲がりきれば、もうゴールはすぐそこだ。

 残り300。コンプは後ろを突き放そうと、ラストスパートをかける。

 強く芝を踏みしめ、遮るもののないゴールへ向かって、一直線に――。

 

 その視界を、芦毛の影が覆い隠した。

 

「なっ――」

 

 半バ身後ろに控えていたユイイツムニが、直線でスパートして追い抜いてきたのだと理解するのに数秒を要した。抜かれた――あたしが?

 

『おーっとここでユイイツムニが仕掛けた! 一気にブリッジコンプを抜いて先頭!』

「な、なによ、このぉ――っ!!」

 

 ここからだ。ラストスパートだ。脚は残ってる、あたしの前を走らせなんかしない!

 両足に力を込めて、コンプは前へ、前へと脚を踏み出す。

 気持ち良く脚は伸びている。調子はいい。疲れてもいない。

 ちゃんと加速していることが、身体に感じる風でわかる。

 どう考えても、自分が勝てる流れのはずだ。先頭で逃げて、ラストスパートでもうひと伸び。これであたしに追いつけるウマ娘なんていない。いないはずなのに――。

 

「なんっ、で――」

 

 差が、縮まらない。

 半バ身前を走るユイイツムニとの差が――全く、詰まらない。

 

 みるみるゴールが迫る。まだ前にはユイイツムニの背中。

 そんな。そんなバカな。あたしは最強なのに。短距離で最強伝説を作るはずなのに。

 こんな、いきなりこんな、デビュー戦で――。

 

「負ける、もんかああああっ!」

 

 叫んで、コンプは必死に身体を前に倒して走る。

 掛け値無しの全身全霊。全力を絞り尽くして、先頭に出ようとする。

 ――それでも、ユイイツムニとの差は詰まらない。

 それは絶望的な、あまりに絶対的な半バ身差。

 

『ユイイツムニ先頭! ブリッジコンプも粘る、粘るがしかし、ユイイツムニです! ユイイツムニ譲らない! 譲らずそのまま――ゴールッ!』

 

 ゴール板を駆け抜けたとき。

 ブリッジコンプの視界には、ただその、芦毛の三つ編みが揺れていた。

 

『勝ったのはユイイツムニ! ブリッジコンプも粘りましたが、それをぴったりマークしたユイイツムニが、見事にメイクデビューを勝利で飾りました!』

 

 ――歓声が、ひどく遠く、コンプの耳に響いていた。



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第27話 敗北は次への力

 ブリッジコンプ、1番人気で迎えたデビュー戦は、半バ身差でユイイツムニの2着。

 悪い結果ではない。タイムはデビュー戦なら普通は勝っているものだったし、レース展開もほぼ理想的だった。直線でユイイツムニに突き放されず粘った内容も、負けてなお強しと評されるに値するものだった。

 中盤の競り合いも決して掛かってしまったというほどではない。ただ、相手が強かった。結局のところ、敗因はそれに尽きる。

 ――しかし、本人がそれに納得できるかどうかは別の話だ。

 

「コンプ」

 

 レースを終え、戻ってきたコンプは、視線を落としてぎゅっと唇を引き結んでいた。

 駆け寄ろうとしたヒクマとエチュードを制して、私はゆっくりとコンプに歩み寄る。

 ――負けてしまったときに何と声をかけるべきか、頭の中ではいろいろシミュレートしていたけれど、コンプのその表情を見たら、事前の想定なんて全部吹き飛んでしまった。

 レースの勝者はひとり。勝つのは決して簡単なことではない。だからこそ、ひとつの負けで俯いている暇はない。それは正論だけれど、だからといって負けた悔しさが消えてなくなるわけではないし、その悔しさを失ってしまったら、上を目指すことなんて出来はしないのだ。

 だから私は――俯いたコンプの頭に、ぽんと手のひらを載せた。

 

「お疲れ様」

「――――~~~~ッ」

 

 両の拳を握りしめて、肩を震わせたコンプは――きっ、と睨むように私を見上げた。

 

「トレーナー!」

「うん」

「来週! 未勝利戦組んで! 小倉でも新潟でもどこでもいいから! 絶対勝つから!」

「――解った。でも、さすがに連闘はダメ。来月下旬ね」

「そんなの待てない! 未勝利戦なんてさっさと突破して、あいつ倒しに行かなきゃ――」

「解ってる。ユイイツムニを倒しに行こう。11月の京王杯ジュニアで」

「――――ッ」

「あと3ヶ月ある。次で未勝利戦を勝って、9月末か10月頭に条件戦ひとつ勝って、京王杯ジュニアだ。ユイイツムニはきっと出てくる。必ず倒しに行こう」

 

 ぐしぐしとコンプの頭を撫でてやると、コンプはもう一度大きく肩を震わせて、

 

「――撫でるな~っ!」

 

 両腕をぶんぶん振り上げて抗議する。よし、いつもの調子が戻ったようで何よりだ。ヒクマとエチュードが駆け寄ってきて、コンプに声をかける。あとはふたりに任せることにして、私はそっと離れた。

 負けはしたが、たぶん勝利以上の収穫のあったレースだった。この負けで、コンプはもっと大きく強くなれるはずだ。そのために、私もできる限りのことをしよう――。

 そう目を細めていると、ウイナーズサークルの方から歩いてくるウマ娘の姿が目に留まった。――ユイイツムニだ。ウイナーズサークルでのインタビューを終えて戻ってきたところらしい。

 コンプがその姿に目を留めて、ヒクマとエチュードを振り切ってそちらに駆け寄る。

 

「ちょっと、そこのあんた!」

 

 呼びかけに、ユイイツムニは応えない。足を止めることなく通り過ぎようとする。

 

「ちょっと、あんたよあんた、そこの三つ編み眼鏡!」

 

 その言葉で、ようやくユイイツムニが足を止めた。無言でコンプを振り返る。

 

「11月の京王杯ジュニア、そこであんたのこと絶対倒すから! 絶対出てきなさいよ!」

「…………」

 

 ユイイツムニは、眼鏡の奥の目を怪訝そうに眇めて――そして、無言で踵を返す。

 

「あっ、こら、無視すんなー!」

 

 地団駄を踏むコンプをスルーして、ユイイツムニの背中は遠くなっていく。「うがー!」と吼えるコンプを、ヒクマが慌ててなだめに行った。

 それを眺めながら、私は不安そうに俯いているエチュードへと歩み寄った。

 

「エチュード」

「……トレーナーさん」

 

 ヒクマの勝利と、コンプの敗北。明暗の分かれた親友ふたりのデビュー戦を見て、エチュードはどう思っただろう。その内心はただ推し量ることしかできないが、泣いても笑っても明日はエチュード自身のデビュー戦だ。

 

「怖い?」

「…………っ」

 

 私の問いに、エチュードはぎゅっとスカートを握りしめて、「……はい」と頷いた。

 私は、その頭をぽんぽんと撫でてやる。

 

「じゃあ、今のうちに怖がれるだけ怖がっておこう」

「――え?」

「そうすれば、明日には怖がるのに飽きちゃってるよ」

「――――…………」

 

 怖がることはないとか、開き直れとか、口で言うのは簡単だけれど、言われてそうできれば誰も苦労はしないのだ。自分の競走人生のスタート地点、怖がらないヒクマやコンプの方が珍しい。

 怖がって、怖がって、でも挑むしかない。エチュードの性格的に、ヒクマやコンプの真似はできないのだから、エチュードなりの開き直り方を、エチュード自身が見つけるしかないのだ。

 

「……トレーナーさん」

「うん」

「あの……恥ずかしい、です」

「あ、ごめん」

 

 ヒクマが撫でてやると喜ぶから、どうも癖になってしまっている。ぱっと手を放すと、エチュードはますます身を縮こまらせて、消え入りそうな声で言った。

 

「…………は、恥ずかしいけど、嫌、じゃ、ないです」

「え?」

「明日……もし、勝てたら……あの、ヒクマちゃんみたいに……褒めて、くれますか?」

「――――ああ、もちろん」

 

 頷いた私に、エチュードは――スカートから手を放し、その両手を拳の形に握りしめた。

 

 

       * * *

 

 

「や、ムニっち、デビュー戦おつかれ~」

「……チョコ」

 

 担当トレーナーとの軽い話し合いを終え、控え室まで戻って来たユイイツムニを出迎えたのは、親友のチョコチョコだった。控え室のドアの横、後頭部で腕を組んで、壁にもたれたチョコチョコに、ユイイツムニは足を止める。

 わざわざ札幌まで来ているのは、ふたりとも、同じトレーナーの担当だからである。というか、先にユイイツムニがスカウトされ、担当を決めあぐねていたチョコチョコが「ムニっちと一緒の方が気楽でいいや」とユイイツムニの担当に自分を売り込んだのだが。

 

「トレーナー、なんだって?」

「……次、カンナステークスだって」

「てことは、次は中山かあ。で、その次が京王杯ジュニアか、ひょっとしたら朝日杯?」

 

 ユイイツムニは頷く。トレーナーが自分に期待していることは理解している。次走はスプリンターズステークスが開催される中山の1200を経験させて、順調ならそのまま東京1400の京王杯ジュニアステークス。もしマイルもいけそうなら、12月の朝日杯FSも視野に入れる――というところか。

 スプリントだけではどうしても出られるレースが限られる。マイルもいけるなら、クラシック級の春はNHKマイルカップに挑ませたいというのが、トレーナーの本音だろう。

 

「さっすが、期待の星は違いますなあ。ま、あたしは年内に重賞出られればいーや。同じ担当のウマ娘をわざわざ同期の期待の星にはぶつけないだろーし」

「…………」

 

 飄々と言うチョコチョコに、ユイイツムニは目を眇める。――口ではそう言っておいて、チョコチョコの実力は同級生でルームメイトのユイイツムニが一番よくわかっている。全く、謙遜もいいところだ。同期で一番のライバルは、間違いなくこの親友になる。

 ――今日のレースまでは、ユイイツムニもそう思っていた。

 

「でもさあ――」

 

 と、チョコチョコが不意に顔を引き締めてユイイツムニを見やった。

 

「ムニっちも安穏とはしてらんないよねえ、今日のレース見たらさ。ムニっちに直線で突き放されずに最後までついてきた子、初めて見たよ」

「――――」

 

 言われるまでもない。そんなことは、あの子と一緒に走った自分が一番よくわかっている。直線で抜け出した瞬間、これであとは突き放すだけだと思った。――なのにあの子は、あの栗毛のウマ娘は、最後まで食らいついてきた。

 最後の直線200メートル、ユイイツムニが全力でスパートして、全く差を広げられなかったのは――あの子が、初めてだった。

 半バ身後ろに、ぴったりと食らいついてきたその気配は、忘れるべくもない。

 

「……さっき、あの子に言われた」

「お? なんて?」

「京王杯ジュニアで再戦しろって」

「――どうすんの? ムニっち」

 

 試すように、チョコチョコは笑みを浮かべてユイイツムニを見やる。

 答えはひとつだ。考えるまでもない。

 

「叩き潰す」

「――あはは、そうでなくっちゃねえ」

 

 心底楽しそうに、チョコチョコは拍手するように手を叩いた。

 

 

       * * *

 

 

 一方その頃、ブリッジコンプの控え室。

 

「――あーっ!」

 

 シャワーを浴びて汗を流し、着替えようとロッカーを開けたブリッジコンプは、そこに掛かっている衣裳を見て、大事なことを思い出した。

 

「どしたの? コンプちゃん」

 

 ドアを薄く開けて、ヒクマとエチュードが覗きこむ。

 コンプはその衣裳――ウイニングライブ用の衣裳を手に、固まっていた。

 

「……1着になることしか考えてなかったから、2着の振り付け全然練習してない」

 

 その言葉に、ヒクマとエチュードは顔を見合わせる。

 ウイニングライブは3着までステージに上がる。2着のコンプは、1着のユイイツムニの横で踊らないといけないのである。

 

「だ、大丈夫……! 私が覚えてるから、今から練習すれば間に合うよ……!」

「じゃ、わたし1着やるから、合わせてやろ!」

「ううっ、助かるぅ……」

 

 ――そうして、全レース終了後のウイニングライブの時間までを、ブリッジコンプはひたすら「Make debut!」の2着の振り付けの練習に費やすことになるのだった。



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第28話 メイクデビュー札幌・リボンエチュードの場合

 7月30日、日曜日。今日も札幌は快晴の真夏日である。

 第5レース、メイクデビュー札幌、芝1800メートル。リボンエチュードはデビュー戦を16人立ての4番人気で迎えていた。

 

『7番、リボンエチュード、4番人気です』

 

 エチュードは、パドックでジャージを脱ぎ捨てるパフォーマンス自体は、ちゃんとこなしたものの。その後、ファンに自分をアピールすべきところでは、大勢の観衆を前に怖じ気づいたように俯いてしまう。いつものあがり症が出てしまったようだ。

 

『ちょっと緊張気味でしょうか、元気がないですねえ』

「リボンってことは、リボン家か?」

「そうそう。オークス勝ったリボンスレノディの従姉妹だって」

「へー。でもその割にあんまり名前聞かないなあ」

「リボン家だからってみんながみんなGⅠ級のウマ娘ってわけでもないしなあ。なんか気が弱そうだし、性格がレース向きじゃないんじゃないの?」

 

 周囲の観客からも、口さがないそんな声が聞こえて来る。ブリッジコンプが口を尖らせて文句を言おうとするのを、私はなだめる。

 

「あーもうエーちゃん、あれで大丈夫かなあ」

「大丈夫だよ、エチュードちゃんもいっぱい練習したんだし!」

「そりゃ、クマっちぐらい何も考えずにいられたらエーちゃんだって楽だろうにね」

「……あれ? 今わたし褒められたの? 貶されたの?」

 

 首を捻るヒクマに苦笑しつつ、私たちはエチュードが引っ込むのに合わせてパドックから芝コースに面した最前列へ移動する。

 

「ヒクマは次、札幌ジュニアステークスで走るコースだ。エチュードの応援しながらでいいから、自分が走るイメージを掴んでおこう」

「うん!」

 

 ほどなく、パドックから移動してきたウマ娘たちが続々とターフに姿を現す。主流の中距離路線に繋がる1800メートルのデビュー戦ということで、16人立てとヒクマやコンプのときに比べて人数が多い。その中に紛れるようにして現れたエチュードの姿は、この中では取り立てて目立つものではなかった。

 でも、それは今だけだ。レースが終わったときには、きっと――。

 

『4番人気のリボンエチュード。5月に同じリボン家のリボンスレノディがオークスを制しましたが、彼女もティアラ路線を目標としているそうですね』

『名門の新鋭、どんな走りを見せてくれるか期待しましょう』

 

 緊張気味の顔で何度も深呼吸をしているエチュードは、ゲートへ向かって踵を返そうとしたところで最前列の私たちに気づき、こちらへと歩み寄ってきた。

 

「……トレーナーさん」

「まだ怖い?」

「……はい、少し」

 

 小さく身体を震わせるエチュードに、私は柵越しに手を伸ばして、その頭を軽く撫でた。エチュードは小さく呻いて、顔を赤くして俯く。

 

「大丈夫。私もヒクマもコンプも、ここで待ってるから。怖くなったら、私たちだけ見て走っておいで」

「――――」

 

 手を放すと、エチュードはゼッケンの前でぎゅっと手を握りしめて。

 

「あの……トレーナーさん、もし、勝てたら、その」

「うん」

「…………や、やっぱり、終わってからにします」

 

 何か言いかけたのを、首を振ってエチュードは打ち切り、顔を上げた。

 

「行って、きます」

 

 その表情は、まだ緊張気味ではあったけれど――戦うウマ娘の顔になっていた。

 

「エチュードちゃん、ふぁいとー!」

「勝っちゃいなさいよ!」

 

 ヒクマとコンプの声援に頷いて、エチュードはゲートへと向かう。

 その背中を見送っていると――不意に、私の隣に誰かが来た気配があった。

 隣を見やると、中折れ帽子を被ってサングラスを掛けた、小柄な栗毛のウマ娘の姿がある。なぜかこの暑い中にトレンチコートを羽織っていて、露骨に怪しい。コートと帽子の隙間から見えるウェーブの掛かったボブの髪型に見覚えがあった。……まさか。

 

「……スレノディさん?」

 

 コンプが先に気付いて声をあげる。帽子にサングラスにコートのウマ娘はびくっと身を竦め、それから、

 

「だ、だだだ、誰のことでしょうかしら? 私はただの通りすがりのウマ娘ですわわわ?」

 

 露骨に狼狽しながら首を振る。――いや、バレバレである。

 私たちの反応に、困ったようにそのウマ娘――リボンスレノディは、サングラスをずらして帽子の下の素顔を晒した。

 

「……どうしてバレてしまいましたの?」

「いや、バレバレですって」

 

 呆れて肩を竦めるコンプ。ヒクマは今気付いたのか、「あ、スレノディさんだ!」と目を丸くしていた。

 リボンスレノディは秋へ向けて合宿中と聞いていたが、わざわざ合宿を抜け出して応援に来たらしい。それもそうか、と思う。同じリボン家の後輩のデビュー戦なのだ。

 

「すみません、エチュードちゃんにはこの通りすがりのウマ娘が私だということは内緒にしてくださいまし……。私が来ていると知ったら、エチュードちゃんに余計な気を使わせてしまいそうですから」

「いや、ここにいたらどうせ気付かれると思うけど」

「ええ? そんな、完璧な変装をしてきたはずですのに……」

 

 どこがだ。この暑い中、トレンチコートを着ているのは怪しすぎる。

 

「プレーンさんは『変装っていったらやっぱりこうでしょ!』と仰いましたのに……。でも、この季節にコートはやっぱり暑いですわね。困りますわ、プレーンさんったら」

 

 コートを脱いで腕に掛け、スレノディはぱたぱたと首元を手で仰ぐ。どうやらテイクオフプレーンの入れ知恵らしいが、真に受ける方も真に受ける方では……。

 

 と、そんな馬鹿な話をしている間にファンファーレが鳴り響く。私たちはゲートの方へと視線を向けた。出走ウマ娘が次々とゲートに入っていく。

 

『全員ゲートイン、体勢完了。メイクデビュー札幌、芝1800――スタートです!』

 

 ガコン、とゲートの開く音とともに、リボンエチュードがターフへ飛び出した――。

 

 

       * * *

 

 

 一周が短い札幌レース場では、1800のレースでもコースを一周する。

 緊張からか若干出遅れたエチュードは、そのまま第1コーナーで最後方に控えた。

 それはいい。ただでさえ16人立てで、選抜レースや模擬レースよりごちゃつく展開になるところだ。他のウマ娘を気にしすぎるエチュードは、下手に好スタートを切ってバ群に包まれてしまうより、少し出遅れて最後方をのんびり走る方がいい。

 ただ――芝の関係でスローペースになりやすいと言われる札幌だというのに、レースは予想外の展開になった。

 

『おーっと先頭のふたりがどんどん飛ばしていきます! あっという間に5バ身、7バ身、大逃げだ! 先行集団もそれを追いかけていきます! 序盤から縦長の展開だ!』

 

 真っ先に飛び出したふたりのウマ娘が、そのまま玉砕覚悟としか思えない破滅的な大逃げをかけたのである。どうやら競り合って互いに掛かってしまったらしい。その上、その逃げっぷりを見た先行集団まで掛かってしまい、メイクデビューとは思えないとんでもないハイペースのレースになった。

 2コーナーを曲がって向こう正面。800メートルの通過タイムが――。

 

『800を通過! タイムは47秒、切ったかもしれません! これはとんでもないハイペースだ! 先頭からしんがりまで何バ身離れているのかとてもわかりません!』

「メチャクチャだ……!」

 

 そのまま先頭は1000メートルを58秒台で通過していく。GⅠでも飛ばしすぎと言われるペースである。メイクデビューで出すラップではない。

 そんな超縦長の展開で、最後方を走るエチュードと先頭の差はもうバ身ではなく、10メートル単位で計った方がいいほど離れている。いくらなんでもこのまま先頭が逃げ切ることはないにしても、この差はあまりにも……。

 

「うーわー、いくらあたしでもあそこまで破滅的な逃げはやらないって……」

「トレーナーさん、エチュードちゃん大丈夫?」

 

 ヒクマが心配そうに私を見上げる。

 ……いや、大丈夫だ。私は最後方を走るエチュードの姿に目を細める。

 落ち着いている。先行集団の暴走には我関せず、オータムマウンテンとの併走で身体に刻み込んだラップでしっかり走っている。集団が縦長になりすぎて、もうエチュードにとっては掛かるどころの状況ではないのだ。前が全員潰れてくれれば、これなら――。

 

『さあ3コーナー、残り600! だんだん隊列が詰まってきたが、しかし札幌の直線は短いぞ、後ろの娘たちは間に合うのか?』

 

 やはり、逃げたふたりが揃って残り600で明らかに脚色が鈍った。だが――それを追いかけてしまった先行集団もやはり脚が鈍り、暴走についていかなかった後方集団が徐々に追い上げてきて、みるみる隊列が詰まっていく。

 残り400。エチュードはまだ最後方。中団で脚を残していたウマ娘が、総崩れになった先行集団を割って先頭に躍り出る。

 

『さあ残り300を切って直線に入った! 逃げたふたりは完全にバ群に沈んだ! 抜け出すのは誰だ!』

「行け、エチュード!」

「エーちゃん、いっけええええ!」

「エチュードちゃん!」

「……エチュードちゃあああん!」

 

 私たちが声をあげた瞬間――最後方のエチュードが、大外からぐっと加速する。

 ベリーショートの栗毛が、観客席の目の前を一気に駆け抜けていく。

 

『外からリボンエチュード! 最後方から一気にリボンエチュードが上がってくる!』

 

 総崩れになった先行集団を一気にかわして、エチュードはまっすぐ先頭へ――。

 

『――ゴールッ!』

 

 大歓声とともに、エチュードがゴール板を駆け抜けたとき。

 ――あと1バ身、中団から差したウマ娘の背中が、まだ前を走っていた。

 

 

       * * *

 

 

 1着と1バ身差の3着。それが、リボンエチュードのデビュー戦の結果だった。

 ゴールして、ゆっくりとペースを落として立ち止まったエチュードは、掲示板の自分の番号を確かめて、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。

 それは、届かなかった悔しさなのか、最後方から3着まで届いた驚きなのか――。

 勝ったウマ娘がガッツポーズする横で、エチュードはぼんやりと視線を彷徨わせる。そして――私たちに気付いて、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。スレノディが慌てて私の背後に隠れる。何をしているのだか。

 

「エチュード」

「……トレーナー、さん……」

 

 息を切らせたまま私を見上げたエチュードは、くしゃりと顔を歪めた。

 

「…………ごめん、なさい…………負け、ちゃい、ました…………」

 

 ぎゅっと目を瞑って俯き、絞り出すようにそう口にしたエチュードに。

 私が、何か声を掛けるよりも、先に。

 

「リボンエチュード!」

「最後の末脚、すごかったぞー!」

「かっこよかったー!」

「次がんばれ! 応援するぞー!」

 

 私たちの周囲の観客から、そんな声があがっていた。

 はっと顔を上げたエチュードに、私たちの周囲の観客から自然と拍手が湧き上がる。

 私とヒクマ、コンプ、それに背後に隠れたスレノディも、皆で手を叩く。

 その拍手に包まれて――エチュードはまた、くしゃりと顔を歪ませて。

 

「……あ、ありがとう、ござい、ます……っ」

 

 ぺこりと、その場で大きく頭を下げた。

 上がり最速。札幌の短い直線で、最後方から一気に3番手までごぼう抜き。

 負けはしたが、あのメチャクチャなレース展開に惑わされずに自分の走りをして、結果を出した。何の文句があるだろう。

 

「エチュード。――今までで一番の走りだったよ。お疲れ様」

 

 私は柵から手を伸ばし、エチュードの汗の滲んだ髪をくしゃくしゃと撫でる。

 エチュードは泣き笑いのような顔で、ただされるがままにしていた。

 

 ――そのあと、隠れていたスレノディが見つかって、他人の空似と言い張るスレノディと、苦笑するエチュードとの間でちょっとしたドタバタがあったのは、まあ、語るまでもない一場面である。

 

 

       * * *

 

 

 レース後。控え室のテレビで、新潟第5レースの中継が流れていた。

 

『さあ残り100メートル、並んだ、並んだ、内か外か、いや内からもうひとり来た、もうひとり来た、2番のミニキャクタス! ミニキャクタスだ!』

「キャクタスちゃん、いっけー!」

『かわした、かわした、そのままゴールッ! ミニキャクタスです! 最後、内から抜け出した5番人気のミニキャクタスがまとめて差し切りました!』

 

 控え室で固唾を飲んでそのレースを見守っていた3人の歓声が、ぱっと弾ける。

 直線で抜け出して競り合うふたりを、最後の100メートルで3番手集団の陰からすっと抜け出してクビ差で差し切り勝ち。――模擬レースでヒクマが差し切られたときを思い出すようなレースで、ミニキャクタスはデビュー戦を勝利で飾った。

 テレビの中で、控えめに手を振るミニキャクタス。その姿に、私は目を眇める。

 決して圧倒的な内容ではない。僅差の、タイム的にも地味な勝利だ。――彼女の実力は、こんなものではないはずだが。

 

「トレーナーさん、キャクタスちゃんやったね!」

「……ああ」

 

 勝ちは勝ちだ。ミニキャクタスも、これからジュニアの重賞戦線に出てくるだろう。ヒクマと、ジュニアのうちからぶつかることになるかもしれない。

 ……それでもやはり、あの走りが、彼女の力ではないはずだ。

 どうしても、そんな違和感が、頭から拭えなかった。

 

 

       * * *

 

 

 そして、全てのレースが終わり、ウイニングライブ。

 3着だったエチュードは、ステージに上がる権利を手に入れている。

 

「……うう、わ、私、似合わないよ、この衣裳……」

「そんなことないない! エチュードちゃん似合ってるよ!」

「エーちゃん、観客はニンジンだと思って!」

「わ、そんなにたくさんニンジンあったら食べきれないよ」

 

 ライブ衣裳に着替えて、恥ずかしそうに身を縮こまらせるエチュード。レース本番よりも、むしろエチュードにはこっちの方が難題だったかもしれない。

 しかし、トゥインクル・シリーズで走り続けるなら、ウイニングライブから逃げるわけにはいかないのだ。

 

「エチュード。最前列にいるから、私たちのことだけ見て踊ればいいよ」

「……トレーナーさん」

「大丈夫。エチュードならやれる」

 

 エチュードの手を握ってそう言うと、エチュードはかーっと顔を赤くして俯き、

 

「――は、はいっ」

 

 ぎゅっと唇を引き結んで、顔を上げた。私は頷き、「行っておいで」と送り出す。エチュードは頷き、小走りにステージに向かっていった。

 それを見送りながら――そういえば、レース前にエチュードが「レースが終わったら」と言っていたのはなんだったのだろう? と少し首を捻っていると、コンプが何かジト目で私を見上げているのに気付いた。

 

「……なに? コンプ」

「べっつにー。トレーナーが無自覚だとエーちゃん大変そうだって思っただけ」

 

 後頭部で腕を組んで視線を逸らすコンプに、私は首を傾げるしかなかった。

 

 ――その日のウイニングライブは、ぎこちなく、たどたどしかったけれど。

 それでもエチュードは、あがって固まってしまうこともなく、ちゃんとステージを踊りきった。

 私たちは最前列でサイリウムを振りながら、それを見届けて。

 札幌の熱いデビュー戦は、そうして終わりを迎えたのだった。

 

 バイトアルヒクマ 1戦1勝 メイクデビュー東京(芝・1600) 1着

 ブリッジコンプ  1戦0勝 メイクデビュー札幌(芝・1200) 2着

 リボンエチュード 1戦0勝 メイクデビュー札幌(芝・1800) 3着

 

 これはまだ、始まりの一歩だ。



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第2章 ジュニア戦線!
第29話 ジャラジャラ襲来!


 トゥインクル・シリーズのサマーレースも、8月には後半戦に入る。早めにデビューを迎えたウマ娘たちのジュニア戦線が盛りあがってくる季節でもある。

 リボンエチュードとブリッジコンプの2戦目となる未勝利戦は、ともに8月26日の札幌に決まった。エチュードが第1レースの芝1800、コンプが第2レースの芝1200。メイクデビューと同条件なので、ふたりとも気楽に走れるだろう。

 そしてその翌週、9月2日には、バイトアルヒクマの第2戦、GⅢ札幌ジュニアステークスが待っている。

 

「よーし、3人とももう一本いこう!」

「はーい!」「オッケー!」「わかりましたっ」

 

 デビュー戦を済ませ、正式にトゥインクル・シリーズでの戦いが始まった3人。デビュー戦の明暗こそ分かれたが、それぞれにレースを体験して、改めて気合いが入ったのだろう。トレーニングにも熱が入っていて、いいことだ。

 今日はいないが、ミニキャクタスとの合同トレーニングもちょくちょく続いている。ミニキャクタスの次走は9月、中山芝1600の1勝クラスの条件戦、アスター賞らしい。あの模擬レースで見せたミニキャクタスの素質からすれば、オープン特別や重賞に格上挑戦してもいいと思うのだが、小坂トレーナーには彼女なりの考えもあるのだろう。

 

「よーし、15分休憩ね」

「ふひー、疲れたぁ」

 

 コンプが芝生に倒れこみ、汗を拭うヒクマとエチュードに私はスポーツドリンクを手渡す。そうして一息ついていたところに。

 

「よう、やってるな!」

 

 野太い声がかかり、私は振り返る。角刈りで筋肉質のトレーナーがこちらへ手を挙げていた。学園の中堅どころである、棚村トレーナーだ。見た目通りの熱血指導タイプだが、同時にウマ娘の自主性を尊重する方針でも有名で、素質はあるが扱いにくい気性のウマ娘のやる気を引き出す指導に定評がある――という評判を耳にしている。

 その傍らには、見覚えのあるウマ娘の姿。――彼の担当ウマ娘であり、ヒクマの同期となる、目下ティアラ路線における最大の強敵のひとりになるだろうウマ娘。選抜レースでも戦った、ジャラジャラだ。

 

「棚村トレーナー、お疲れ様です。何か?」

「ああ、そっちの担当の、うちのジャラジャラと一緒に『月刊トゥインクル』で取材されてたのがいるだろう」

「バイトアルヒクマですか?」

 

 私がヒクマの方を振り向くと、ヒクマが視線に気付いて首を傾げた。

 

「ジャラジャラが併走したいって言うんだが、構わないか」

「ジャラジャラが?」

 

 意外だ。同じ選抜レースで走ったとはいえ、あのときのヒクマは勝ったジャラジャラに5バ身も離されていたし、まだデビュー戦を勝っただけで向こうが注目するような実績を挙げたとも言えない。『月刊トゥインクル』の8月号で一緒に特集記事に載ったのだから名前ぐらいは覚えられていてもおかしくないが……。

 

「こちらとしてはありがたい申し出ですが……」

 

 世代トップ候補との併走なんて機会は逃したくないが、ヒクマの意見も聞いてみないと、と振り向くと、ジャラジャラがヒクマに歩み寄っているところだった。

 

「おーい、アルバイトスルクマってのはあんたかい?」

「ほえ、わたし? てゆか、違いますー! クマじゃないです! バイトアルヒクマ!」

 

 目をしばたたかせたヒクマは、ぶんぶん両手を振って抗議する。

 

「わかった、覚えた覚えた。バイトシテルクマ」

「バイト・アル・ヒクマ!」

「あー、もうクマでいいだろ?」

「クマじゃないですー!」

 

 頬を膨らませるヒクマに、ジャラジャラはぐっと拳を突きつけた。ヒクマはきょとんと瞬きする。

 

「あんた、トリプルティアラであたしに勝つんだって? 雑誌で読んだよ」

「ほえ? あ、『月刊トゥインクル』!」

「その実力、ちっと確かめさせてもらおうと思ってね。併走いいかい?」

「え、あ、うん! いいよ! ……えと、いいです?」

「同期だろ。タメ口でいいよ、クマ」

「クマじゃないですってばー! じゃなくて、クマじゃないのー! バイトアルヒクマ!」

 

 ――どうやら当事者同士で話がまとまってしまったようだ。それならまあいいのだが、ジャラジャラとエレガンジェネラルに挑むのはもう少し先にする、と前にヒクマは言っていたのだが、良かったのだろうか?

 

「ヒクマもOKみたいですので、よろしくお願いします。……でも、どうしてヒクマに?」

「ジャラジャラの希望でね。エレガンジェネラル以外にも、戦いたくなるような同期のライバルが欲しいらしい」

「はあ」

「いや、正確にはジェネラルの他に気になってるのがもうひとりいるらしいんだが、名前が思いだせないとかなんとか……。ともかく、デビュー戦で快勝した同期の注目株の実力を確かめたいんだそうだ」

 

 なるほど、それでヒクマに目をつけたというわけか。同世代の最有力ウマ娘の目に留まったのを光栄に思うべきか、既に選抜レースで戦ったことを忘れられているのを悔しく思うべきか……。まあ、選抜レースではジャラジャラはずっと先頭を走って、ヒクマは影も踏めなかったのだから、視界に入っていなかったのも当然かもしれない。

 

「君のところの彼女、デビュー戦見させてもらったよ。うちのジャラジャラも、王寺のところのエレガンジェネラルもスルーして、即決で彼女をスカウトしたんだって? 新人にしちゃあしたたかな目利きだ」

「……いや、別にそんな」

 

 私がヒクマをスカウトしたのは、有力ウマ娘に他のスカウトが群がるのを見越しての一本釣りなんて戦略的なスカウトではないのだが……まあ、そう見られても仕方ないか。

 ちなみに王寺というのは、エレガンジェネラルの担当トレーナーである。私はあまり関わりはないが、熱血で自主性尊重の棚村トレーナーと違い、管理主義の理論化肌のトレーナーと聞いている。見た目もその評判に違わぬクールな眼鏡青年だ。

 閑話休題。私は棚村トレーナーにひとつ会釈して、ヒクマに歩み寄る。

 

「ヒクマ、いいの? 勝負するのは後でにするって言ってなかった?」

「え? あ、うん。でも向こうから一緒に走りたいって言ってくれたし!」

 

 向こうから挑まれる分には構わないというわけか。無邪気に見えるヒクマだけれど、あのふたりに対して自分から挑むのにはやはり気後れするところがあるのかもしれない。

 

「おっしゃ。1600の右回りでいいかい?」

 

 ジャラジャラがパンと拳を打ち鳴らす。1600の右回り――阪神JF、そして桜花賞の条件か。桜花賞はこちらも目標だから異存はない。

 

「芝じゃなくウッドチップだぞ、ジャラジャラ!」

「わーってるよ!」

 

 棚村トレーナーが声をあげる。条件は決まった。

 ――選抜レースの5バ身差から、果たしてどれだけ距離は詰まっただろうか?

 あるいは、もっと差をつけられてしまっているのだろうか……?

 

 

       * * *

 

 

 スタートはコンプ、ゴールはエチュードが務めることになり、ウッドチップコースにヒクマとジャラジャラが並ぶ。ちらほらとコースには見物人が集まり始めていた。まあ、目当てはジャラジャラの方だろうが。

 

「それじゃ、よーい、スタート!」

 

 コンプが右手を挙げると同時、ふたりがコースへと飛び出す。やはりジャラジャラのスタートダッシュは凄い。全身がバネのように勢い良く飛び出していく。

 だが、スタートならヒクマだって負けてはいない。ぴったりとジャラジャラの後ろにつけた。ジャラジャラはちらりと背後に視線をやり、何か不敵な笑みを浮かべる。

 

「ほう――」

 

 私の隣で腕組みをしていた棚村トレーナーが、感嘆したように息を吐いた。

 

「ジャラジャラのスタートに平然と食らいつくか! こりゃあ――ははっ、ジャラジャラも楽しそうだな! 結構結構!」

 

 呵々と笑う棚村トレーナーの横で、私は拳を握りしめる。

 ジャラジャラはウッドチップコースでもお構いなしに、ハイペースで飛ばしている。ヒクマは1バ身後ろを追走。よし、良い形だ。今の風向きは直線の間は向かい風。相手が先頭で風を受けてくれるならそれを利用するに越したことはない。

 ジャラジャラをぴったりマークして後ろにつけ、風よけにしながら好位で追走、脚を残して直線で差し切る――先行型のヒクマがハイペースで逃げるジャラジャラに対抗するとすれば、基本はそういう形になるはずだ。

 特に指示したわけではないが、ヒクマはそのことをちゃんと解っている。やっぱりこの子は、レースに対する直感と集中力には目を見張るものがある。

 もちろん他のウマ娘もいる実際のレースではそう上手くいかない。たとえばエレガンジェネラルも基本は同じことを考えるはずだから、好位の奪い合いは熾烈にならざるを得ないだろう。だが、今は一対一の併走。走りたいように走っていい。

 となれば、あとはスタミナと仕掛けのタイミングの勝負――。

 

「いっけー、クマっち!」

 

 スタート地点から離れて観戦に戻って来たコンプが声をあげる。コーナーに入ったヒクマは、綺麗なコーナリングで最内を回っていくジャラジャラを、やや外目から追う。距離を若干ロスして少し差が開いたが、4コーナーに入れば徐々に追い風に変わる。

 コーナーを抜け、直線に入った。ヒクマの視界が開ける。

 ――行け!

 私が心の中でそう叫んだ瞬間、ヒクマがぐっと前に出た。

 

「よーし、抜いちゃえー!」

 

 コンプが拳を突き上げる。それに応えるように、ヒクマがジャラジャラに並ぶ。

 そしてそのまま、先頭へ躍り出る――、

 

 瞬間、ジャラジャラが、隣に視線をやって――獰猛な笑みを浮かべた。

 直後、加速。

 

「――ッ!」

 

 抜けない。抜かせない。ヒクマもスパートをかけているのに、ジャラジャラは半バ身前に出て、そのまま弾丸のように前傾姿勢で突き進む。

 なんてスピード。道中は控えて流して直線スパート、なんてレースのセオリーに真っ向から牙を剥くように、ジャラジャラはハイペースで飛ばした脚でなお加速する。

 ヒクマとの差が、1バ身。1バ身半。ヒクマは歯を食いしばって食らいつくが、その差は詰まらない。むしろ、残酷に開いていく。

 ――強い。改めて実感する。これがジャラジャラ。これが世代最強候補。

 この背中を捕らえなければ、トリプルティアラには届かないのだ――。

 

「ごっ、ゴール!」

 

 エチュードが旗を揚げたとき、先頭で駆け抜けたジャラジャラと、届かず敗れたヒクマの着差は、およそ2バ身だった。

 

 

       * * *

 

 

「はぁっ、はぁっ、はぁ――」

 

 ゴールしたヒクマが、膝に手を突いて荒い息を吐き出す。

 

「ほっ、ほっ、ほ――」

 

 乱れた息を整えるように空を見上げたジャラジャラが、踵を返して、汗を拭うヒクマへとゆっくりと歩み寄った。

 

「おおい、クマ」

「……クマじゃ、ないって、ばぁ」

「次、どのレースに出るんだ?」

「ほえ? えと、来月の札幌ジュニア」

「ふうん――ティアラ志望だろ? 年末は阪神来るのか?」

「う、うん、その予定……」

 

 顔を上げたヒクマに――ジャラジャラは。

 にっ、と、底抜けに楽しそうな、無邪気な子供のような笑みを浮かべた。

 

「もうちょいだな」

「……え?」

「次にあたしと走るときはもっと鍛えてこいよ! そしたら全力で叩き潰してやる!」

 

 そう言って拳を突き出したジャラジャラに、ヒクマはきょとんと目をしばたたかせ、

 

「む~~~っ、次は絶対負けない!」

 

 頬を膨らませて、拳を突き出し返した。

 グータッチをするわけではない。それとは対極の宣戦布告。

 けれど、それを交わすジャラジャラとヒクマは――どこか非常に、楽しそうに見えた。

 

 

 

「お疲れ様、ヒクマ」

 

 ジャラジャラと棚村トレーナーが辞去するのを見送って、私はヒクマに歩み寄る。

 

「あ、トレーナーさん。……うー、また負けちゃった……」

 

 ヒクマはしょんぼりと肩を落とし、悔しそうに拳を握りしめる。

 前は5バ身差、今回は2バ身差。長足の進歩だ。――そう励ますのは容易い。

 ただ、たぶんヒクマもわかっている。この2バ身差は、今回詰めた3バ身ぶんより、遥かに遠い距離だということを。

 ――たぶん、阪神JFまでの4カ月では、まだ届かない。競りかけを許さないハイペースでの逃げ切りを仕掛けるジャラジャラに、正攻法で勝つのは、今のヒクマでは難しい。

 もちろんレースに絶対はない。何が起こるか解らないのがレースだ。だが、向こうのミスやアクシデントを期待する時点で精神的に負けている。

 だけど。

 桜花賞までの8カ月。それだけあれば――追いつくことも、不可能ではないはずだ。

 

 デビュー戦の走りを見たときに思い浮かんだ、ひとつのプラン。

 ティアラ路線のウマ娘なら、普通は選ばないローテーション。

 ――次の札幌ジュニア次第だけれど、本格的にそれでいくことを考えるか。

 このローテを走らせてみようと考えるのは、私が物知らずの新人だからだろうか?

 だが、ヒクマの大目標はドバイシーマクラシックなのだから――。

 

「トレーナーさん?」

 

 ヒクマがきょとんと私を見上げる。私は思考を切り替えて、ヒクマの頭を撫でた。

 

「次、絶対ジャラジャラに勝とう。そのためには、まず来月の札幌ジュニアだ」

「あ、うん! よーし、次は負けないぞー!」

 

 拳を突き上げるヒクマに、私も倣って高く手を挙げる。

 手を伸ばせば、届くはずだ。そう信じるように、高く、高く。



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第30話 あたしより強い奴はどこにいる

 退屈だった。

 誰も追いついてくる奴がいない。スタートからゴールまで、何の緊張感もない一人旅。ただのタイムトライアルと変わらない。これじゃあただの公開トレーニングだ。

 トゥインクル・シリーズも、デビュー戦じゃこんなものか。過大な期待はしていなかったけれど、それでも軽い失望があった。

 あいつ以外に、あたしをワクワクさせてくれる奴はいないのか?

 

『次のレース、どうする?』

 

 だから、トレーナーにそう問われたとき。

 

『あー……阪神JF直行でいいか、トレーナー?』

 

 ひどく投げやりに、あたしはそう答えた。戦いたい相手はひとりだけ。そいつが確実に出てくる大舞台以外に、自分が走る意味のあるレースがあるとは思えなかった。

 

『スカウトしたときの約束だからな。出走レースの選択は君の希望が優先だ。ただ、デビュー勝利だけだと除外の可能性はあるぞ』

『……』

『走りたいレースが出来たら言ってくれ。それまでは阪神JFに向けてみっちり鍛えるメニューを組んでおく。――今日の走りは最高だった。君をスカウトして良かった』

 

 ――その言葉に、あたしは返事をしそびれてしまった。

 

 

       * * *

 

 

 6月のデビュー戦を終えてひと月ちょっと。

 ジャラジャラは――端的に言って、退屈していた。

 

「……はあ」

 

 自室のベッドに寝転がって、無為に天井を見上げながら溜息をつく。

 すると、それを聞きとがめたルームメイトが、読んでいた雑誌から顔を上げた。

 

「なんですか、ジャラジャラさん」

「別に」

「貴方に溜息なんかつくような繊細さがあったとは驚きです」

「ナチュラルにひでーこと言うなあ、ジェネ」

 

 身体を起こして向き直ると、エレガンジェネラルは雑誌を閉じてこちらに身体を向けた。読んでいたのは『月刊トゥインクル』の8月号のようだった。ジェネラルのことだ、別に自分のインタビュー記事を眺めてニヤニヤしていたわけではなく、あの雑誌の多すぎるデータの細部まで目を凝らして頭に叩き込んでいるのだろう。

 

「それで、そちらはいつになったら次走を決めるんですか?」

 

 と、ジェネラルは単刀直入に切り込んでくる。ジャラジャラは鼻白んで頬杖をついた。溜息の理由がお見通しなら聞くなと言いたい。

 そう、デビュー戦からひと月。ジャラジャラはまだ、2戦目の予定が決まっていなかった。と言っても、別に怪我でもなければゲート審査に引っかかったわけでもない。出走数をなるべく絞ろうというトレーナーの意向――というわけでもない。

 端的に言えば、ジャラジャラのわがままの結果である。

 

「んなこと言われてもなあ。これといって走りたいレースがねーんだもん」

 

 後頭部で腕を組んで、ジャラジャラはぼやく。ジェネラルは大げさに嘆息した。

 

「そんな理由で次走を決めないウマ娘は、トレセン学園広しと言えどもジャラジャラさんだけですよ? 条件戦でもオープン特別でも、なんでも走ればいいじゃないですか」

「勝って当たり前のレース走って何が楽しいんだよ」

「――そこまで傲慢な理由で次走を決めないのも貴方だけですから」

 

 じろりと睨まれ、ジャラジャラは肩を竦める。事実を述べているだけだというのに。

 ジュニア級の間に走れるのは、ジュニア級限定戦だけだ。ジャラジャラにとっては、自分より強い相手がいないことが解っているレースになんて、出る気がしないというだけの話である。

 かと言って――。

 

「だったら、新潟ジュニアステークスに来ればいいでしょう。相手になりますよ」

「あたしは好物はできるだけとっておく派なんでね」

「――光栄です、とは言いませんよ」

 

 エレガンジェネラルの2戦目は、8月下旬のGⅢ新潟ジュニアステークスに決まっている。ジェネラルによれば、その後は10月のアルテミスステークスを挟んで年末の阪神JF。それどころかクラシック級までのローテーションをデビュー前から決めているらしい。RTAのチャートかよ、とジャラジャラは思う。

 まあ、ジェネラルならどちらも余程のことがなければ勝つだろう。3連勝で意気揚々と阪神JFに乗りこんできたところで、鼻っ柱を叩き折ってやる――ということは、ジャラジャラも決めてはいるのである。

 ただ、相手がジェネラルだけというのは、やはりいかにも寂しい。阪神JFで格付けが済んでしまったら、その後は誰を倒しに行けばいいのか。シニア級のウマ娘と戦えるのはクラシック級の夏からになる。せめてもう2、3人は、倒したいと思えるライバルが同期に欲しいところだ。だが、学内を見渡してもなかなか見当たらない。

 以前、ひとり面白いのを見かけたのだが、いかんせん顔も名前も思いだせない。かといって闇雲にそいつを探すのも馬鹿馬鹿しいし、どうしたものか――。

 

「彼女はどうですか?」

 

 と、ジェネラルは手にしていた雑誌を差し出してきた。なんだよ、と受け取ってみると、ジャラジャラも受けた新人ウマ娘インタビュー記事である。雑誌は送られてきたけれど、自分の言ったことが自分の写真とセット活字になっているというのはどうも落ち着かなくて、並んで載っているジェネラルのところを流し読みしただけだった。

 

「これあたしとお前の記事じゃんか」

「もうひとり、一緒に載っている子ですよ。選抜レースでも一緒に走った子ですけど、覚えてませんか?」

「選抜レース? ジェネのことしか見てなかったからなあ」

「……そういう微妙に誤解を招くようなことは言わないでください」

 

 何の話だ。首を捻りつつ、ジャラジャラは雑誌の記事に目を落とす。そこには、変わった名前のウマ娘が、緊張気味の顔でインタビューを受けていた。

 ざっと流し読む。母親の走ったドバイのGⅠへの出走を目指すというそのウマ娘は、インタビューの最後にこんなやりとりをしていた。

 

 ――来年のティアラ路線には、ジャラジャラとエレガンジェネラルという注目のウマ娘がいます。選抜レースでも既に戦われた相手ですが、ふたりに対して意気込みのほどを。

 ――トリプルティアラで、絶対勝ちます。

 

「ふうん」

 

 まあ、雑誌のインタビューでこう聞かれれば、こう答えるのは普通だろう。しかし、選抜レースで一緒に走ったと言われても、全く印象に残っていない。まあ、自分はずっと先頭を走っていたのだから、迫ってきたジェネラル以外は元より眼中になかったが。

 

「彼女のデビュー戦の映像を見ましたけど、強い勝ち方でしたよ。この後はジュニアの重賞に出て、阪神JFにも出てくるんじゃないかと思いますが」

「どれどれ」

 

 手元のスマホで、そのウマ娘の変わった名前を検索してみる。映像はすぐに出てきた。6月のメイクデビュー東京、芝1600。

 ――へえ。

 その映像の走りを見て、少し興味が湧いた。こんなのと同じ選抜レースで走ってたのか。こいつは思わぬ原石かもしれない。実物の走りを改めて見てみたくなった。

 ジャラジャラはすぐに手元のスマホで、担当のトレーナーに電話をかける。

 

「あ、トレーナー? 同期のさあ、バイトなんとかってのと併走してみてーんだけど、そいつのトレーナーに話つけてくんない? ……そうそう、月刊トゥインクルに載ってたそいつ。頼むわ」

 

 通話を切って顔を上げると、ジェネラルが呆れ顔でこっちを見ていた。

 

「迅速果断というか、考えなしというか……」

「薦めたのはジェネじゃんかよ」

「そうですけど。まあ、同室で腑抜けた顔されてるよりはいいです。手頃な獲物を見つけた動物みたいな顔の方が似合ってますよ、ジャラジャラさんには」

「……ジェネ、そりゃ口説き文句か何かかあ?」

「な、なんですかその反応は」

 

 顔を赤らめるジェネラルに、ジャラジャラは頬杖をついて目を細めた。

 

 

       * * *

 

 

 そうして翌日。そのウマ娘――バイトなんとかクマに、ジャラジャラは併走を申し込んだ。結果は言うまでもなくジャラジャラの勝ちである。だが――。

 

「どうだった? ジャラジャラ」

 

 併走のあと、出迎えたトレーナーの顔を見上げて、ジャラジャラは。

 ぱん、と拳を打ち鳴らして、堪えきれずに笑みを漏らした。

 

「ジェネの見る目は確かだったよ。――あのクマ、化けるよ、トレーナー」

 

 担当トレーナーと拳を上げて気合いを入れ直しているらしいバイトアルヒクマをちらりと見やり、ジャラジャラは目を眇める。

 レーススタイルはジェネラルと似ている。逃げる自分をぴったりマークして、ハイペースに果敢についてくる先行押し切り型。ただ――。

 向こうが先にスパートをかけて、並びかけてきたとき。

 ちらりと見たその横顔に浮かんでいたのは――どこまでも楽しそうな笑顔だった。

 ジェネラルだったら、レース中にあんな顔は見せない。すました顔で淡々と自分を追い、どこまでも涼しい顔で迫ってくる。

 自分のハイペースはついてくるだけで疲弊するはずだ。それを、涼しい顔をしているだけでなく、あんなに楽しそうに追ってくる奴は――初めて見た。

 今回の距離、芝1600ならまだ負ける気はしない。だが、もっと距離が伸びれば。あるいは8ヶ月後、桜花賞でぶつかるときは――どうなっているだろう?

 ――こうでなくちゃ。せっかくのトゥインクル・シリーズ、同期に強い奴がいなきゃ、張り合いがない。ジェネラル以外にも、強い奴は多ければ多いほどいい。

 それでこそ、全部まとめてねじ伏せる楽しみがあるというものだ!

 

「楽しそうで何よりだ」

 

 腕を組んで、トレーナーは嬉しそうにうんうんと頷く。その顔を見上げて、ジャラジャラは小さく笑みを漏らした。

 ――まったく、こんなわがままな気性難のウマ娘に、こんなに嬉しそうに付き合ってくれるなんて、なんつー物好きなトレーナーだ。自分のことながら、そう思う。

 しゃーねーな。トレーナーのために、重賞ひとつぐらい勝っといてやるか。

 

「トレーナー。阪神JFまでの間に、新潟ジュニアと札幌ジュニア以外で、なんか適当なマイルか中距離の重賞あるか?」

 

 出るならジェネラルと、あのバイトなんとかクマの出てくる重賞以外だ。

 あのふたりを、ジュニアのGⅢなんて半端な舞台で倒しちまうのは、勿体ない。倒すならGⅠ。阪神JFと、トリプルティアラで叩きのめしてやる。

 そのジャラジャラの言葉に、トレーナーは待ってましたとばかりに拳を握る。

 

「10月の府中1600、サウジアラビアロイヤルカップでどうだ?」

「いいじゃん、それで頼むわ。あいつら倒すにしても、あたしもひとつぐらい箔つけてかねーとな」

 

 もう一度拳を打ち鳴らすと、トレーナーは満面の笑みを浮かべて頷いた。

 

「解った。――ジャラジャラ」

「なんだい?」

「俺は、君のその顔が見たかった。――もっともっと見せてくれ」

 

 トレーナーのその言葉に、ジャラジャラは目をしばたたかせて。

 そして――にっ、と笑って、トレーナーに拳を突き出す。

 

「トレーナー。――だったらもっともっと、あたしより強い奴と戦わせてくれよな!」

 



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第31話 未勝利戦!

 本格化し始める、夏のジュニア戦線。

 来年のクラシック戦線を争う有力ウマ娘たちは、続々と結果を出しはじめていた。

 

『さあデュオスヴェル逃げる逃げる! 後続を突き放したまま一人旅だ! これは後続はもう無理でしょう! デュオスヴェル快勝!』

 8月6日、メイクデビュー札幌(芝1800)、1着デュオスヴェル。

「はっはっはー! 見たか! ボクがデュオスヴェル様だー! 覚えとけー!」

 胸を張って呵々大笑するスヴェルのドヤ顔が、翌日の日刊ウマ娘の紙面を飾った。

 

『外からオータムマウンテン! オータムマウンテンが来た! 先頭集団をまとめて撫できってゴール!』

 8月13日、メイクデビュー札幌(芝2000)、1着オータムマウンテン。

「はい、札幌のスープカレーがとっても美味しかったので、いいデビュー戦でした~」

 オータムのとぼけたレース後インタビューは、ネットで話題を呼んでいた。

 

『エレガンジェネラル強い! 圧巻のレコードタイム! 見事2戦目で重賞制覇です! 来年のトリプルティアラの本命はやはりこのウマ娘か!』

 8月27日、GⅢ新潟ジュニアステークス(芝1600)。1着エレガンジェネラル。タイムはレコード、1:33.01。

「重賞制覇もレコードも栄誉ですが、まだここは通過点ですので。次は10月のアルテミスステークスです。そして12月の阪神JFに挑みます」

 重賞勝利に喜ぶでもなく、当然のことのように淡々と今後の予定を語るエレガンジェネラルの姿に、ファンはやはり来年の本命はこの娘だと語り合った。

 

 そして、デビュー以降、なかなか2戦目の決まらなかったジャラジャラは――。

「2戦目はサウジアラビアロイヤルカップ。それから阪神JFに向かいます」

 棚村トレーナーから正式にそう発表があり、実力はエレガンジェネラルと同等かそれ以上とも言われる、トリプルティアラ有力候補の重賞初挑戦に注目が集まった。

 

 

       * * *

 

 

 もちろん、私たちも負けてはいられない。

 少し時間を巻き戻し、エレガンジェネラルが新潟で2戦目に挑んだその前日、8月二26日。私たちは再び札幌の地に乗りこんでいた。今回は未勝利戦なので、土曜日の朝も早くからの第1レースと第2レースである。

 

「ったく、アホスヴェルに先越されて散々バカにされたじゃないの! 今日勝ってさっさと未勝利戦なんか突破するんだからね!」

「コンプちゃん、まだ言ってる……」

「エーちゃんも! 今回はエーちゃんが先なんだから、勝って弾みつけてよね!」

「う、うん……がんばるよ」

 

 コンプに言われ、エチュードはぐっと拳を握りしめる。

 

「エチュード。今回は前回みたいな無茶苦茶な展開にはならないと思うけど、多少外を回っていいから4コーナーから早めに仕掛けていこう」

「……はい」

 

 頷くエチュードの背中を押して、ターフへと送り出す。ヒクマは「エチュードちゃん、がんばれー!」とぶんぶん手を振っていた。

 

 

 

 ――しかし、何事もそう上手くはいかない。

 レースは前回とは違って、積極的に逃げるウマ娘がおらず、ゆったりしたペースで流れる展開になった。先行勢が牽制しあってスローペースになり、バ群がみっしり詰まったまま4コーナーに入る。

 エチュードは最後方にいるので、バ群に埋もれていない。外に持ち出せばこの集団をまとめてかわせる。エチュードもそう思ったのか、すっと外に持ち出してペースを上げた。よし、そのまま行け――。

 だが、次の瞬間、予期せぬことが起きた。

 コーナーでもみ合ったバ群の中団から、弾き出されるように外にもたれてきたひとりのウマ娘が、上がろうとしたエチュードの進路を塞いだのだ。

 接触するような距離ではなかった。しかしエチュードはそれを避けようとして、さらに大きく膨らんでしまう。

 

「ああああー!」

 

 コンプとヒクマが悲鳴をあげる。大幅に距離をロスしてしまったエチュードは、直線で必死に追い込むが、スパートをかけた先行勢には届かない。

 ――5着。

 審議のランプは灯らなかった。斜行なのか外に持ち出したのか微妙なところだったし、どちらにしてもエチュードに危険が及ぶような走りではなかった。そもそもエチュードの進路に割り込んだウマ娘はそのまま失速して最下位だったので降着のしようもない。

 後方待機している以上、他のウマ娘の走りで進路をブロックされるリスクがあるのはやむを得ない。残念だが、これもレースだ。

 掲示板で自分の着順を確認したエチュードは、ただ悔しそうに俯いて体操服の裾を握りしめていた。

 

 

 

「……ごめん、なさい。また、ダメでした、私、」

「エチュードの責任じゃない。ぶつかって転倒したりしなくて良かったよ。レースはこういうこともある。むしろ、あんな不利を受けても入着できたんだ。次、がんばろう」

 

 泣き出しそうな顔で控え室に戻ってきたエチュードの頭を、くしゃくしゃと撫でてやる。けれどエチュードの表情は晴れないまま、ぽろぽろと泣きだしてしまった。そりゃあ悔しいだろう。気持ちはわかるけれど、ええと、しかしこの状況、どうすれば……。

 私がおろおろして、ヒクマに助けを求めようと視線を巡らせると、

 

「……トレーナー、ちょいちょい」

 

 と、コンプが私の横に寄ってきて、背伸びして何事か耳打ちしてきた。

 

「クマっちにするみたいにハグしてあげれば一発で泣き止むと思うけど?」

「ええ? いや、あれはヒクマの方から」

「いいからいいから、別に変な意味に取ったりしないから」

 

 コンプに背中を叩かれ、私はよろめいて一歩エチュードとの距離を詰める。エチュードが目元を拭って顔を上げた。

 ……いいのか? 引っ込み思案なエチュードにそれはさすがに嫌がられない? そうは思うものの、横からコンプが無言で促してくる。ええい、ままよ。

 

「エチュード」

 

 おそるおそるその背中に腕を回して、もう一度頭にぽんと右手を載せながらエチュードの細い身体を抱き寄せる。

 

「その悔しさは、今の自分を責めるんじゃなく、次のレースにぶつけよう」

 

 気恥ずかしさを覚えつつも、エチュードの耳元でそう囁いてやる。――と。

 

「……エチュード?」

 

 反応がない。腕の中のエチュードを見下ろすと、

 呆然と目を見開いて、私を見上げたまま固まっていた。

 

「え、エチュード? 大丈夫?」

「わ、エチュードちゃんしっかりー!」

 

 私が手を離すと、ふらふらよろめいたエチュードをヒクマが慌てて支える。エチュードは、はっと我に返ったように目をしばたたかせると、また慌てて私から視線を逸らし、顔を覆って控え室の隅にしゃがみこんでしまった。

 

「あっちゃー、さすがにまだエーちゃんには刺激が強すぎたかぁ……」

 

 コンプが呆れた様子でそんなことを呟き、ヒクマが「エチュードちゃん、どしたの?」とその背中をさすっている。……ええと。

 やっぱり嫌がられてしまった……。と、とりあえず謝ろう、とエチュードに歩み寄ろうとすると、後ろからコンプに手を掴まれた。振り向くとジト目で睨まれる。

 

「……ちょっとトレーナー、もしかしてエーちゃんに謝ろうとしてる?」

「え? いやだってそんなの当たり前――痛ぁっ!?」

 

 ウマ娘の脚力で足を踏んづけられた。お、折れる! 骨折れるから!

 

「謝る必要ないから。というか謝ったらトレーナーの足の指折るから」

「なんで!?」

「いーからエーちゃんのことはもう大丈夫だからそっとしておいてあげるの!」

「痛い痛い、ホントに折れる折れる!」

 

 ぐりぐりとジト目のコンプに足を踏まれて、私はわけもわからず悲鳴をあげるしかなかった。

 

 

       * * *

 

 

 第2レース、芝1200。

 

「エーちゃんの仇はあたしが取ってくるから!」

 

 コンプはそう言って、意気揚々とレースへと乗りこんだ。前走の健闘もあって今回も1番人気。そして――。

 

『逃げた逃げたブリッジコンプ、直線でもまだ粘る粘る! 後ろを寄せ付けない!』

「いっけー! コンプちゃーん!」

「いけ、コンプ!」

「……コンプちゃん!」

 

 私たちの声援に、しかし振り向くこともなく真っ直ぐ、前だけを見て。

 

『1着でゴール! ブリッジコンプが人気に応えて快勝です!』

 

 抜群のスタートから一度もハナを譲ることなく、後続を2バ身離したまま余裕の逃げ切り勝ち。そう、これがブリッジコンプの実力だ。

 

「見たかーっ! どんなもんよ!」

 

 高らかに右手を突き上げて勝ち鬨をあげるコンプに、札幌の観衆の歓声が降りそそいだ。

 

 

 

 ブリッジコンプはこれで未勝利戦を突破。リボンエチュードはまた未勝利戦に挑むことになった。エチュードの未勝利戦はいろいろ選択肢があるからいいとして、問題はコンプの次走である。

 11月頭の京王杯ジュニアまで2ヶ月強。直行するかもう1戦挟むか、悩ましいところなのだが、いかんせんこの期間、ジュニアの1400以下で既に勝ち抜けたウマ娘が出られるレースの選択肢は極端に少ない。まさか来週の小倉ジュニアステークスと連闘するわけにもいかないし、そうなると選択肢はほぼふたつになる。

 

「さて、コンプ。次はどうする? 選択肢は3つだ。ひとつめはこのまま11月の京王杯ジュニアに直行。ただ、未勝利戦勝っただけだだと抽選で除外される可能性がある。まず確実にフルゲートになるだろうからね」

「だったら他に何か勝てばいいんでしょ? あとふたつは?」

「ふたつめは9月下旬の中山の1200、カンナステークス。最後のひとつは9月末、阪神の1400、ききょうステークス。この2つのどっちかで勝てば間違いなく京王杯ジュニアには出られる」

「ふうん、どっちでもいいけど?」

「――ユイイツムニはどうやら、カンナステークスの方に出るらしい」

 

 私の言葉に、コンプは唸って押し黙った。

 ユイイツムニ。メイクデビューでコンプを破った、芦毛に眼鏡を掛けた寡黙なウマ娘。次走がカンナステークスということは、間違いなく京王杯ジュニアに照準を合わせているはずだ。1400を試して、結果次第では年末には朝日杯FSか阪神JFを狙っている可能性もある。

 

「――それなら阪神。あたしが先に1400で勝ってあいつに差をつけてやるんだから!」

 

 コンプは顔を上げ、そう言った。私も頷く。そっちの方がいいと思っていたところだ。

 勝てるかどうかはともかくとして、1400を今のコンプが全力で走りきれるか。京王杯ジュニアに向けての試金石としては、ききょうステークスの方が都合が良い。

 

「よし、コンプは阪神のききょうステークスだね。エチュードは――そうだね、その次の週、10月上旬の東京、芝1800の未勝利戦がいいと思うんだけど……エチュード?」

「あ、は、はい! がん、ばり、ます……」

 

 私が話を振ると、エチュードは恥ずかしそうに俯いてしまう。

 ――ううん、やっぱり断りもなくハグはまずかったよなあ……。

 参ったな、どうしよう……。不用意なスキンシップでエチュードとの間にできてしまった距離をどうすればいいのか。誰か教えてほしい。

 

「トレーナーさん、どしたの?」

 

 頭を掻く私を、ヒクマが不思議そうに見つめる。ああ、エチュードのことも大事だけど、来週はヒクマの札幌ジュニアステークスだ。

 

「ヒクマは――いよいよ来週だ、がんばろう!」

「うん! 絶対勝つよ!」

 

 両手を挙げるヒクマの頭をぽんぽん撫でると、ヒクマは嬉しそうに尻尾を振る。

 ――ううん、やっぱり年頃の女の子の扱いに正解はなくて難しい……。



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第32話 リボンエチュードの憂鬱

 未勝利戦での敗戦の翌日、日曜日。

 午前中のうちに札幌から東京へ戻ってきたリボンエチュードは、バイトアルヒクマ、ブリッジコンプとともに学園の前でトレーナーの車から下りた。

 

「それじゃあ、各自お昼食べて少し休んで、3時からトレーニングね。レース開けのコンプとエチュードは軽めに。ヒクマは昨日休んだぶんみっちりやるよ。時間になったらジムに集合」

「はーい」

「らじゃー」

「…………」

「エチュード?」

「あ、はっ、はい! 3時集合……です、ね」

 

 ぼんやりしていたエチュードは、トレーナーの言葉で我に返った。

 

「大丈夫? レースで疲れてるなら今日は休みにする?」

「い……いえ、大丈夫、です」

 

 俯いてエチュードは首を横に振る。車の窓からそれを見上げたトレーナーは、少し心配そうに眉を寄せていた。その視線に顔が熱くなって、エチュードは視線を逸らす。

 ああ……昨日から何やってるんだろう、私。あれはその……そういうんじゃなくて、ただトレーナーさんは、私を慰めようとしてくれただけで……。私はあくまでトレーナーさんの担当ウマ娘、トレーナーさんはトレーナーさんなのに……。

 

「無理はしないように。何か心配事があったらすぐ言って。じゃあ、また後で」

 

 トレーナーの車が走り去る。手を振っていたヒクマが、エチュードの方を振り返った。

 

「エチュードちゃん、どうしたの? 昨日からずっとぼんやりしてるけど……」

「え? あ、あの、えと……」

 

 ヒクマのぱっちりした瞳に覗きこまれて、エチュードはたじろぐ。

 ――そんなこと言われても、ヒクマちゃんになんて答えれば。

 

「クマっち、クマっち」

 

 と、コンプがヒクマの袖を引くと、振り向いたヒクマに何か耳打ちした。

 

「ほえ? でもコンプちゃん」

「いーから。じゃエーちゃん、あたしたち先に寮戻ってるね」

「コンプちゃん? ほええ、エチュードちゃん、またあとでねー」

「あ、えと、うん」

 

 コンプに背中を押されて、ヒクマは寮へと戻っていく。ぽかんとしながらそれを見送り――門前にひとり残されたエチュードは、じりじりと照りつける東京の青空を見上げた。遠くからトレーニング中のウマ娘たちの声がしている。それを掻き消すみたいに鳴き続ける、蝉の声がやけにうるさい。

 ……どうしたらいいんだろう、私。

 ニンジンみたいな形の雲に向かって呟いてみても、答えてくれる声はない。

 

 

       * * *

 

 

「あ、エチュードちゃん、おかー。遠征おつかれ」

「……ただいま、マルシュちゃん」

 

 寮の自室に戻ると、椅子に座って爪にマニキュアを塗っていたルームメイトのマルシュアスが顔を上げて笑顔を向けてきた。ねぎらうだけで、昨日の未勝利戦の結果には触れずにいてくれるのが、今のエチュードにとってはありがたい。

 レースとかトレーニングの話題は、寮の部屋には持ち込まない――というのが、この栗東寮に入ってマルシュアスとルームメイトになったその日に、彼女から提案されて交わした約束だった。マルシュアスいわく、

 

『オトナはオンとオフをしっかり区別するの。トレーニングもレースも真剣にやって、プライベートはプライベートで全力で楽しむのがオトナのウマ娘なんだって! ランデブーさんが言ってた!』

 

 ――ということで、寮でのマルシュアスはウマチューブで音楽を聴きながら流行のファッションやカフェをチェックしたり、ウマスタ映えするアイテムを探したりしている。高等部のネレイドランデブー先輩のような、オトナっぽいウマ娘になる。マルシュアスの行動原理は一にも二にもまずそれなのである。

 そういう考え方から――なのかどうかはよくわからないが、マルシュアスは同室のエチュードに対してもあまり踏み込んでこない。他人に対する距離感がやたら近いヒクマに普段から振り回されているので(もちろんそういうヒクマが好きだから一緒にいるのだが)、寮に戻ると適度な距離を置いてくれるマルシュアスがいてくれるのは、エチュードにとってもありがたいことだった。

 ともかく。荷物を置いて、エチュードはそのままベッドにうつ伏せに倒れこんだ。

 枕に顔を埋めて、溜息を枕で押し殺す。

 ――昨日の未勝利戦。勝ちたかった。負けたくなかった。ちゃんと結果を出して、トレーナーの期待に応えたかった。

 だけど、結果は5着。不利があったと言われても、結果が全てだ。トレーナーに慰められてしまうと、余計に自分が情けなかった。親友ふたりが勝ち上がって、自分ひとりだけが未勝利戦に居残りになってしまったのだから、尚更だ。

 泣くつもりなんてなかったのに、気が付いたら涙がこぼれてしまっていて。

 ――それで、そのあと。

 

「……うううう」

 

 トレーナーに抱きしめられてしまった。

 レースを走り終えたばかりで汗まみれの身体で、その腕に包みこまれてしまった。

 ――思い出しただけで、呻き声をあげてじたばたと暴れたくなってしまう。

 恥ずかしい。恥ずかしすぎる。

 いきなりあんな風にされたら――どうしたらいいのか、わからなくなってしまう。

 そんな意味じゃないってことぐらい、頭ではわかっているのに。

 背中に回されたトレーナーの腕の感触と、その身体の匂いとが蘇って。

 叫びながらベッドの上を転がり回りたいけれど、さすがにルームメイトがいる前でそんなことをできるわけもないので、エチュードはただ枕を強く握りしめる。

 わかってる。トレーナーにとって自分はただの担当ウマ娘のひとり。しかも押しかけるみたいにして無理に担当になってもらったのに、3人の中でひとりだけ結果を出せないでいる困ったウマ娘でしかない。トレーナーの一番の期待はヒクマに向いていて、自分はそのオマケなんだってわかっているのに――。

 それなのに。それだからこそ。勝ちたかったのに。

 勝って、私だって、トレーナーさんの期待以上のものを見せたかったのに――。

 

「ねーねー、エチュードちゃん」

 

 と、マルシュアスの声がして、エチュードは枕から顔を上げる。

 

「この色、どうかな?」

 

 マルシュアスは両手を胸の前で広げて、マニキュアを塗った爪をこちらに見せる。濃いめの紫。……正直に言って、ちょっとケバケバしいとエチュードは思った。

 

「……ちょっと、色、濃すぎるんじゃないかな……」

「うーん、やっぱりそう? オトナっぽく見えるかなあって思ったんだけど。ラメとか散らしたらいい感じにならないかなあ」

 

 紫に染まった自分の爪を見下ろして、マルシュアスは首を傾げる。

 それから、手をひらひらさせながらエチュードへと向き直った。

 

「それで、エチュードちゃん、どしたの? なにか悩み事ならこれ乾くまで聞くよ? あ、レースで勝つ方法とかそれ以外でなら」

 

 ごく自然な調子で、マルシュアスはそう訊ねてくる。エチュードは目をしばたたかせて、ベッドの上に座り込んで枕をぎゅっと抱きしめた。

 ――確かに、ヒクマちゃんやコンプちゃんにはとてもじゃないけど相談できないし……。

 このモヤモヤした気持ちをどこかで吐き出さないと、この後のトレーニングでもトレーナーと顔を合わせられる自信がない。溜息を吐き出して、エチュードは口を開いた。

 

「……ええと、あのね……」

「うん」

「昨日のレース、負けちゃったんだけど……。私、悔しくて、そんなつもりなかったのに、泣いちゃって……そしたら、トレーナーさんに、その」

「うん」

「……抱きしめ、られちゃって」

「――――」

「それから、トレーナーさんの顔、今日までずっと、まともに見られなく、て」

 

 抱きしめた枕に顔を埋めて、そう吐き出したエチュードに。

 

「――――」

「……マルシュちゃん?」

 

 マルシュアスの反応がなく、エチュードが枕から顔を上げてそちらを伺うと。

 

「……お」

「お?」

「オトナだああああっ!」

 

 突然、マルシュアスは椅子の上に正座して、びしっと背筋を伸ばした。

 

「エチュードちゃん、いや、エチュード先輩! その恋バナ、もっと詳しく聞かせていただけますでしょうか! トレーナーさんへの想いを自覚したのはいつ頃から!? その瞬間に恋が芽生えちゃった系!? 今後の告白のご予定は!?」

「えええっ!? な、なんでいきなり先輩? 同い年だよ……? っていうか、違、こっ、恋バナ、とか、そういうんじゃ、なくて、私、その、」

「そのシチュエーション、ウマ娘ものの少女漫画でいっぱい見たよ! ほら、『疾風のリューン』でリューンがスランプに陥ったのもトレーナーへの恋心を自覚できてなかったからだし! 引退レースの有馬記念優勝したリューンにトレーナーがプロポーズするシーン良かったよね! ランデブーさんもあのシーン好きだって言ってた!」

「ま、漫画じゃないよ……。私、そんな、そういうんじゃ、」

「エチュードちゃんのトレーナーさんってあの人だよね? そっかぁ、エチュードちゃんはとっくにもうオトナの階段を上り始めてたんだね……。あたしも早くオトナにならなきゃ! エチュード先輩! どうぞお幸せに!」

「だ、だから違うってばぁぁぁぁ……」

 

 エチュードの悲鳴が、栗東寮の片隅にこだまして消えていく。

 

 

       * * *

 

 

 午後3時。集合場所のジムに3人が集まっても、肝心のトレーナーの姿がなかった。

 

「あっちから言っといて、もう時間過ぎてるじゃない。既読つかないし、トレーナー、なにやってんだか」

「わたし呼んでこよっか?」

 

 呆れ顔のコンプに、ヒクマが手を挙げる。「そうね、」とコンプは言いかけて、それから首を振って、エチュードに向き直った。

 

「エーちゃん行ってきてよ。トレーナー室で昼寝でもしてるんでしょーから、どうせ」

「え、わ、私?」

「クマっちは来週に向けてみっちりやるんでしょ? トレーナー来るまで自主トレ、自主トレ。あたしが見ててあげるから」

「ほえ? う、うん、わかった」

 

 コンプがエアロバイクの方へとヒクマの背中を押しながら、エチュードを振り向いてウインクしてみせる。いや、そんな風に気を遣われても……とエチュードが抗議する間もなく、自分がトレーナーを迎えに行かねばならない流れになってしまっている。

 どうしよう、と助けを求めても、コンプはもうヒクマの背中を叩いて促していて、こちらを見ていない。見ていても助けてはくれないだろう。……行くしかないようだ。

 仕方なく、エチュードはジムを出てトレーナー室へと向かう。廊下を歩きながら、寮でマルシュアスに言われたことが頭をぐるぐるしていた。

 ――この気持ちは、トレーナーへの恋愛感情なのだろうか?

 自分でもよくわからない。……わからないけれど。

 ……抱きしめられたときとか、頭を撫でられたときとか。

 胸がきゅっと苦しくなって――自分で自分のことが、よくわからなくなってしまう。

 この気持ちがもし、マルシュアスの言うように、恋というものだとしたら――。

 

 たぶん、それは叶わない気持ちだ。

 ――だって、トレーナーさんは、ヒクマちゃんのことを一番に見ているんだから。

 トレーナーさんに直接スカウトされたヒクマと、押しかけるみたいにして担当になってもらった自分とでは、スタート地点が決定的に違っている。

 ――私なんかが、トレーナーさんを好きになったって……。

 その気持ちが、叶うなんて、あり得ない。

 

 名門、リボン家の落ちこぼれ。

 人見知りであがり症で、内気で気弱で、後ろ向きな自分。

 キラキラした穢れのない瞳で、どこまでも走ることを楽しんでいるあの子の明るさに、励まされることもあるけれど――同時に、どうしようもなく眩しく思うこともある。

 ――私は、ヒクマちゃんみたいには、なれないのに。

 あんな風に、真っ直ぐな瞳で前だけを見続けることなんて、できないのに。

 そんな自分が。なにひとつ彼女に勝てるところのない自分が――。

 トレーナーだって、そんな自分に、そこまでの期待をかけてなんて……。

 

 嫌なことばかり考えているうちに、トレーナー室の前まで来ていた。

 このまま踵を返して立ち去りたい衝動に駆られたけれど、それに反して手はドアに伸びている。おそるおそる、ドアに手を掛ける。鍵はかかっていない。

 

「……トレーナー、さん?」

 

 そっと、部屋の中を覗きこむと――。

 ノートパソコンを開いた机に突っ伏して、寝息を立てるトレーナーの姿があった。

 コンプの言う通り、眠ってしまっていたらしい。足音を忍ばせて、エチュードはそっとトレーナー室に足を踏み入れる。トレーナーのそばに歩み寄って、どうしよう、とりあえず揺り起こしてあげるべきだろうか……と、考えていたところで。

 

「んん……」

 

 トレーナーが身じろぎして、その腕がマウスに当たり、スリープモードになっていたパソコンの画面が立ち上がった。

 

 ――画面に映っていたのは。

 途中で止められた、昨日のエチュードの未勝利戦の映像だった。

 

「ん……あ、あれ? うわ、しまった、寝てた!」

 

 と、突然がばっとトレーナーが身を起こし、エチュードは驚いて後じさる。目を擦って時計を見て、「うわ、3時過ぎてる!」と慌てて立ち上がったトレーナーは、次の瞬間、そこにエチュードがいることに気付いて目をしばたたかせた。

 

「エチュード?」

 

 きょとんと瞬きするトレーナーの頬には。

 下敷きにしていた紙の文字が写りこんで、変な模様になっている。

 ――それを見て、思わずエチュードは小さく吹き出していた。

 

「トレーナーさん。……あの、顔」

「え? うわ……あっちゃー。ごめんエチュード、迎えに来てくれたんだよね? ごめん、顔洗ったらすぐ行くから、それまで各自で始めてて」

「……はい、わかりました」

 

 トレーナーは慌てた様子でばたばたと机を片付け始める。

 エチュードは、机に散らばった資料をちらりと見やった。

 全部、昨日のレースの資料だった。来週のヒクマの札幌ジュニアSのものではなく。

 ――そういえばトレーナーさん、帰りの飛行機でも寝ていたっけ……。

 ひょっとして、昨日のレース後から……ホテルでもずっと、昨日のレースを洗い直していてくれたのだろうか? 来週のヒクマの初重賞よりも、自分の未勝利戦の敗因分析の方を優先して……飛行機で睡眠時間を確保して、まだ足りずに寝落ちするぐらいに?

 

「トレーナー、さん」

 

 思わずエチュードは、部屋を出るところだったトレーナーを呼び止める。

 

「なに?」

 

 顔に文字を写したままで振り返ったトレーナーを見つめて、エチュードは。

 ――何かたくさん言いたいことがあったはずなのに、結局何も言えなくなってしまった。

 だから、たった一言だけ。

 

「……寝癖、ついてますよ」

 

 全然関係ない、そんなことしか言えなかった。

 

 

 

 ――トレーナーさん。

 勝ちたい。次は、次こそは、絶対に、勝ちたいです。

 そうしたら。ちゃんと勝てたら。未勝利戦だけじゃなく、その先も――もし、勝ち続けることができたら。

 リボン家のウマ娘として、胸を張ることができるぐらいの結果を、出せたら。

 そのときは――。

 

 そのときが来るまでは。

 今のこの気持ちは、胸にそっとしまっておこう。

 誇れる自分になりたい。胸を張って、自分の気持ちに素直になれるようになりたい。

 目を瞑って、ぎゅっと手を握りしめて。エチュードはただ、そう願った。



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第33話 札幌ジュニアステークス、そして

 9月2日。前週に続いて訪れた札幌は、東京から見るとすっかり秋の気温である。

 サマーシリーズの最終週。今日のメインレースはGⅢ、札幌ジュニアステークス、芝1800メートル。ジュニア級の1800メートル以上の重賞はこれが初戦だ。そのため三冠路線、ティアラ路線を問わず、早めに勝ち上がった中距離適性のウマ娘がここを目指してくる。後のGⅠウマ娘も多く輩出している出世レースのひとつだ。

 世間で華やかな注目を集めるのはGⅠウマ娘だが、その頂きに手が届くのはトレセン学園のウマ娘の中でもほんの一握り。GⅠどころか重賞に挑むことにすら手が届かずに学園を去るウマ娘も少なくはない。

 デビュー2戦目でその舞台に立てるヒクマは、間違いなくその「一握り」に近い方にいる。デビュー戦の力強い勝ち方もあって、2番人気に推されていた。

 

「今日の相手は、みんなメイクデビューか未勝利戦を勝ち上がってきたウマ娘だ。デビュー戦よりずっと手強い」

「うん」

「――でも、ヒクマはもうジャラジャラやエレガンジェネラルや、ミニキャクタスと何回も走ってきたんだ。いつも通り走れば大丈夫。気負わずいこう!」

「うん! えへへ、重賞だ! 楽しみ!」

 

 レース前の控え室で、ヒクマはご機嫌な笑顔で身体を揺らす。舞台が重賞になっても、この子はレース前の緊張や重圧とは無縁らしい。そのいつも通りの笑顔を見ていると、レース前にあれこれ気を揉んで張り詰めたこちらの神経も柔らかくほぐれて、ヒクマならきっと大丈夫だ、という気持ちになるから不思議だ。

 

「トレーナー、クマっちに気負わずとか自信を持ってとか言っても仕方ないって。クマっちってば器が大きすぎて緊張するような繊細な神経が脳まで届いてないんだから」

「えへへ~……あれ、いまわたし褒められたの? 貶されたの?」

「クマっちは強者のメンタルの持ち主だって言ってるの。エーちゃんに爪の垢煎じて飲ませたいわ」

「うう……」

 

 呆れ顔のコンプと、縮こまるエチュード。わたしは苦笑して、ぽんとヒクマの頭に手を乗せた。ヒクマは目を細め、嬉しそうに尻尾を振る。

 ――なんだかこれ、レース前のルーティーンになりそうだな。まあ、これでヒクマのやる気が出るなら、いくらでも撫でてやろう。

 

「……やっぱりクマっちって、ウマ娘ってより犬よね」

「犬でもクマでもないよー!」

「エーちゃんもほら、あのぐらい積極的に行かないと」

「こ、コンプちゃん……!」

 

 ウマ娘も3人寄れば姦しいのはいつものことだ。苦笑しているうちにレースの時間が近づいてくる。

 

「よし! じゃあわたし、行ってくるね!」

「うん、ゴール前でみんなで待ってる」

 

 ヒクマの背中を押して、ターフへと送り出す。ヒクマの銀色の芦毛が、札幌の日射しに煌めいて揺れる。ターフへ駆けていくその背中に目を細めて、私は思う。

 あの背中は、どこまで行けるだろう。

 夢見る生まれ故郷、ドバイのターフまで、届くだろうか。

 

 

       * * *

 

 

 レースは、期待以上の――私自身、ここまでか、と驚くほどの結果だった。

 

 今回も好スタートを決めて、3番手の好位につけたヒクマ。積極的に前を引っぱるウマ娘がおらず、レースはスローペースで流れる展開になり、集団がごちゃついたままコーナーへ向かう。

 こういう展開になると、前目につけていたヒクマは視界を遮るものがないぶん有利だ。4コーナーに入ったところで、気持ちよさそうにヒクマは前のウマ娘ふたりをかわして、一気に先頭に躍り出る。

 

『おおっと、バイトアルヒクマが早くもここで仕掛けました! 4コーナーで抜け出して先頭! そのまま札幌の短い直線に入ります!』

 

 直線に入って、加速はなお止まらない。ぐんぐん伸びるヒクマに、後続は食らいついていくのが精一杯。

 その加速に、私はぶるりと身震いする。それは期待した以上のものだった。

 間違いない。この子には1600は短かったのだ。この子の脚は、1600を過ぎてなお伸びる。

 これなら、ヒクマの適正距離は2000、あるいはもっと――。

 

『バイトアルヒクマがなおも突き放す! 強い、これは強い!』

 

 歓声の中、私とコンプ、エチュードが拳を突き上げて迎える目の前を――ヒクマの銀色の芦毛が、先頭を風のように、光のように煌めいて過ぎて行く。

 風か光か。かつて芦毛の名ウマ娘に贈られたその言葉のように。

 

『ゴール! 1着はバイトアルヒクマ! 2戦目で見事札幌ジュニアステークスを制しました! タイムは……1:48.4、これはレコードにあとコンマ2秒!』

 

 掲示板に表示されたタイムに、観客もどよめく。レコードには届かなかったが、1分48秒台自体、なかなか出ないタイムだ。

 2着とは4バ身差。文句のつけようがない完勝だった。

 

『先週の新潟ジュニアステークスを制したエレガンジェネラルに続く、ティアラ路線の対抗バはこのウマ娘か! いやあ楠藤さん、バイトアルヒクマ強かったですね』

『強かったですねえ。4コーナーで早めに仕掛けてから直線での素晴らしい伸び。いやあ、これは来年のトリプルティアラが楽しみになってきました』

「ホントにあっさり勝っちゃうんだもんなあ。クマっちすごいわ」

「うん、ヒクマちゃん、すごいなあ……」

 

 喜ぶを通り越して呆れ気味のふたりの横で、私は興奮を鎮めようと両手を握りしめる。

 ――見たい。ヒクマが、どこまでいけるのかを見届けたい。

 

 

       * * *

 

 

「トレーナーさ~~~んっ!」

「わぷっ」

 

 例によってレース後。ウイナーズサークルでの勝利インタビューを終えたヒクマは、その足でこちらへ駆け寄ってくると、そのまま飛びかかってくる。今度は私も構えていたのでどうにか受け止められた。

 

「わたし、勝ったよ!」

「うん、よくやったよヒクマ。最高だった。ヒクマは楽しかった?」

「えへへへ~、うん!」

 

 首元を撫でてやると、ヒクマは気持ちよさそうに目を細めて頬ずりしてくる。まあなんというか、いつものことながら無邪気というか……。

 

「クマっち、重賞制覇おめっと」

「おめでとう、ヒクマちゃん」

「ありがと! ぶい!」

「トレーナー、重賞勝ったからこれでクマっち、もう条件戦卒業よね?」

「ん? ああうん、そうだね。晴れてオープンウマ娘だ」

「ほえ? え、トレーナーさん、わたしもう条件戦出られないの?」

「うん。ここから先は全部オープン特別以上」

「ほえー」

 

 ウマ娘は、その実力に応じたレースに出るように、勝利したレースのグレードに応じてクラス分けが為されている。未勝利、1勝クラス、2勝クラス、3勝クラス、そしてオープンの5段階。3勝クラスまでが、いわゆる条件戦。オープン特別と重賞がオープンクラスにあたる。

 このクラス分けは、レースの勝利に応じて獲得できる《ファンポイント》で決まる。細かい説明は省くが、メイクデビューを勝った時点でヒクマは400ファンPtを獲得して1勝クラスのウマ娘だった。今回は重賞を勝ったので、1600ファンPtが加算され、累計2000ファンPt。ファンPtが1600を超えるとオープンウマ娘となり、条件戦には出られなくなる。

 

「ん~、なんだかもったいない気がしてきた……」

「クマっち、そーゆーことはあんまり大きな声で言わないの」

「ほえ?」

「はいはい。――さてヒクマ、ちょっと話があるんだ。今後について、控え室で話そう」

「あ、はーい!」

 

 私の言葉に、ヒクマは笑顔で頷いた。

 

 

 コンプとエチュードも連れて、私たちは控え室に戻り――。

 

「さて、ヒクマ。今後のことだけど」

「うん! 次のレースもがんばるよ!」

「それなんだけど。――ヒクマ。阪神JFじゃなく、ホープフルステークスに出ない?」

 

 私は、前々から温めていたプランを打ち明ける。

 

「――はっ!? ちょっとトレーナー、本気?」

 

 最初に反応したはコンプだった。その目を見開いて、私を見上げる。

 当のヒクマはといえば――不思議そうに首を捻っている。

 

「ほえ? ホープフルステークスって、たしか三冠路線のレースじゃなかったっけ?」

「……うん。中山の芝2000メートル。皐月賞と同じ条件のレースだよ」

 

 エチュードが言い添えながら、やはり不思議そうに私を見ている。

 ――ティアラ路線からの、中山2000メートル、GⅠホープフルステークス挑戦。

 ジュニア戦線の早い段階で結果を出したティアラ路線のウマ娘は、12月のGⅠ、阪神ジュベナイルフィリーズを目指すのが、当たり前の選択だ。桜花賞と同条件で開催される阪神JFは、トライアルのチューリップ賞と並んで、桜花賞に直結する最重要レース。トリプルティアラを本気で狙うなら、普通はここに出る。

 だが、それは決して、絶対に阪神JFでなければならないことを意味しない。別に朝日杯FSだっていいし、ホープフルステークスに出たっていい。少なくとも、ティアラ路線から朝日杯やホープフルSに出てはいけないというルールはないのだ。ただ慣例的に、常識的に、ティアラ路線なら阪神JFと決まっているだけで。

 

「え、トレーナーさん、わたし三冠路線いくの? 桜花賞じゃなくて皐月賞出るの?」

「いや、そうじゃない。あくまで来年の目標はトリプルティアラ。桜花賞、オークス、秋華賞。ふつうは桜花賞と同条件の阪神JFに行くものだけど――桜花賞の次には2400のオークスがある。阪神JFに行ったら、もう事実上オークスまで2000以上を走る機会はない。東京と中山で勝手は違うけれど、オークスを見据えたら、今のうちに2000を走れる機会を逃したくない。――たぶん、ヒクマは1600よりも2000の方が、もっと強く走れると思う。ヒクマ、今走ってみて、どうだった?」

「ほえ?」

「今日の1800。ゴールしたとき、もっと長く走りたいって思った? それとも、もうヘトヘトでこれ以上走れないって思った?」

「――ううん、わたし、もっと走れるよ! 2000メートルどんとこーい!」

 

 両手を挙げて、ヒクマは元気よく飛び跳ねる。レース直後とは思えない元気ぶりに、私は頷く。やっぱりこの子の距離適性は、マイルよりも中距離だ。

 それなら、トリプルティアラの本命はやはりオークスだ。東京、芝、2400。

 ヒクマの大目標、ドバイシーマクラシックとほぼ同距離の、伝統のクラシックディスタンス。ヒクマの夢への道の通過点は、樫の女王の頂きこそ、相応しい。

 

「いやでもトレーナー。ティアラ路線でそんなローテ、聞いたことないんだけど」

「常識外れなのは承知してるよ。ホープフルSには三冠路線の有力ウマ娘が揃うから、ジャラジャラとエレガンジェネラルが間違いなく出てくる阪神JFと比べても、決して楽になるわけじゃないし――もちろん、桜花賞を捨てるつもりもない。来年はチューリップ賞に出て、桜花賞前にちゃんと阪神の1600も走っておこう。そうして万全の準備を整えて、あのふたりと、きっとトリプルティアラには出てくるミニキャクタスも。トリプルティアラで、全員まとめて倒すんだ!」

 

 私の言葉に、ヒクマはその大きな瞳をまん丸に見開いて。

 

「――うん! わかった! よーし、ホープフルSにいくぞー!」

 

 ヒクマは元気よく右手を掲げる。――良かった。受け入れてもらえなかったらどうしようかと思っていたところだ。

 決してジャラジャラとエレガンジェネラルから逃げるわけではない――ということを、どう言えば納得してもらえるかとあれこれ考えていたのだけれど……。杞憂だったか。

 

「あれ、でもトレーナーさん、ホープフルSって年末だよね? あと3ヶ月もあるよ。わたし、もっと走りたい! 前に年内は4戦するってトレーナーさん言ってたし!」

 

 と、ヒクマが私に詰め寄ってくる。――うん、そう言うと思ってた。

 もちろん、そのつもりでローテを考えている。

 

「解ってるよ。――11月に一戦挟もう。東京1800のGⅡ、東スポ杯ジュニアステークスはどうかな。ここも三冠路線の有力ウマ娘が出てくる出世レースだ。デビュー戦でも走った府中だし、オークスにも繋がる」

「おー! うん、それでいいよ! よーし、ホープフルSめざしてがんばるぞー!」

 

 よし、決まりだ。次走はGⅡ東スポ杯、そして年末にGⅠホープフルS。

 どこまで行けるか。ヒクマがどれだけの走りを見せてくれるのか。――たぶん私自身が、一番楽しみで仕方なかった。

 

「なんてゆーか、クマっちは怖いもの知らずってゆーか、ねえ」

「ヒクマちゃん、どんどん遠くに行っちゃうなあ……」

 

 呆れ顔のコンプと、目を細めるエチュード。私はふたりに歩み寄る。

 

「エチュード。そう思うなら、追いかけよう。レースみたいに、最後方からトリプルティアラというゴールでヒクマを捲るつもりで。次の未勝利戦に勝ったら、エチュードもデイリー杯ジュニアステークスに挑戦しようか」

「え、ええっ!? い、いきなりそんな、私がGⅡなんて……」

「GⅠの桜花賞、目指すんでしょ?」

「……うう、か、考えさせてください……」

 

 エチュードは俯いてしまう。ううん、発破をかけるつもりだったけど、かえってプレッシャーをかけてしまっただろうか……。

 どうしよう、と隣のコンプを見やると、コンプはただ目を逸らして肩を竦めていた。

 

 

       * * *

 

 

 同日夜、トレセン学園カフェテリア。

 

「あら、スヴェルちゃん、今日のレースのニュースですよ~」

「んぅ? むぐ、んぐ……今日ってなんかやってたっけ?」

 

 一緒に夕食をとっていたオータムマウンテンとデュオスヴェルは、カフェテリア内に設置された大型モニターに視線を向けた。流れ出したのは、今日のトゥインクル・シリーズの結果を伝えるスポーツニュースである。

 

『スポーツです。まずはトゥインクル・シリーズ。ジュニア級GⅢ、札幌ジュニアステークスが札幌レース場で開催され、バイトアルヒクマ選手が重賞初制覇を飾りました』

「あ、ブリッコの仲間のやつだ。あいつもう重賞勝ったのかあ」

「模擬レースでも強かったですもんね~。スヴェルちゃんあっさり抜かれちゃって」

「言うなー! 次は勝ーつ!」

「お箸を振り回すのはお行儀が悪いですよ~。それに、ヒクマさんはティアラ路線ですから、私たちとは対戦機会はなかなかないと思いますけど~」

 

 言いながら、ふたりはレースのダイジェスト映像を眺める。札幌の短い直線で後続との差を開いていく強い勝ちっぷりに、オータムは感心した顔で頷いた。

 模擬レースで戦ったときより、間違いなく強くなっている。ついたトレーナーさんが良かったんでしょうね~、と、そのときまでは他人事のように考えていた。

 ――だが。

 

『さて、ティアラ路線をデビュー時から表明しているバイトアルヒクマ選手ですが、今日のウイニングライブ後、今後の予定として意外なローテーションを表明しました』

「ん?」

 

 スヴェルが目をしばたたかせる。映像の中では、バイトアルヒクマと担当トレーナーが、メディアの記者に囲まれてインタビューを受けていた。

 

『次はやはり、阪神ジュベナイルフィリーズでしょうか』

 

 記者の質問に、バイトアルヒクマが困ったようにきょろきょろと視線を彷徨わせ、トレーナーがそれに代わって答えた。

 

『いえ、次走は東スポ杯ジュニアステークス。それから年末のホープフルステークスに向かいます』

「――――」

 

 オータムとスヴェルは顔を見合わせる。画面の中の記者も一様にどよめいていた。

 

『それは、三冠路線に転換するということですか?』

『いえ、あくまで目標はトリプルティアラです。来年はチューリップ賞から桜花賞に向かうつもりでいますが、その前にオークスを見据えて東京レース場と、2000メートルを経験させておきたいので。もちろんどちらも、ただ経験を積ませるだけで終わるつもりはありません。全力で勝ちに行きます』

 

 自信ありげなトレーナーの発言と、その横で拳を握るバイトアルヒクマの姿に、フラッシュが瞬く。

 

『三冠路線のウマ娘が集まるレースへの参戦を表明したバイトアルヒクマ選手。ティアラ路線のウマ娘としては異例のローテーションです。どうなるか楽しみですね。では、本日のその他のレースの模様をお送りします』

 

 アナウンサーがそうまとめて、この話題は終わった。箸を止めて画面に見入っていたスヴェルは、我に返ったように猛然と夕食を掻きこみ始める。

 

「スヴェルちゃん、そんなに慌てて食べたら喉に詰まりますよ~」

「むぐっ、むぐ、むぐっ、うっ、んんんっ」

「ほら、言ったじゃないですか~。はいお茶どうぞ」

「んっ、ごく、ごく……ぶはっ、こんなん黙ってられっかー! ティアラ路線からこっちに殴り込んでこよーなんて、いい度胸だ! このデュオスヴェル様が思い知らせてやる!」

「そうですね~。スヴェルちゃんは模擬レースのリベンジしないとですね~」

「だから言うなー! 模擬レースはノーカン! ボクはまだ無敗だぞ!」

「1戦1勝も無敗は無敗ですけど~。大丈夫、スヴェルちゃんが負けても私が仇を取ってあげますから、心おきなく玉砕してきてください~」

「なんでボクが玉砕する前提なんだよー!」

 

 カフェテリアの一角に、デュオスヴェルの騒がしい声が響き渡る。

 

 

 

 デュオスヴェル。次走は9月末、中山の芙蓉ステークス。

 そして11月、東スポ杯ジュニアステークスへ出走予定。

 

 オータムマウンテン。次走は11月の京都ジュニアステークス。

 そして年末、ホープフルステークスへ出走予定。

 



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第34話 ミニキャクタスの決意

 バイトアルヒクマの札幌ジュニアステークスを、ミニキャクタスは小坂トレーナーと一緒にトレーナー室のテレビで観戦していた。

 文句なしの圧勝。画面の中で笑顔で観客席へ手を振るバイトアルヒクマの姿に、ミニキャクタスはぐっと唇を引き結んで見つめる。

 湧き上がった感情は――嬉しさよりも、まず、悔しさだった。

 先に行かれた。先を行かれた。重賞初制覇。これでヒクマは、一躍トリプルティアラの有力ウマ娘に躍り出た。それなのに――自分はいったい、何をしているのだろう。

 デビュー前の選抜レースも模擬レースも、今となっては何の意味もない。デビューしたウマ娘にとっては、トゥインクル・シリーズで残した結果が全てだ。デビュー戦勝利という自分の実績だって、同期のウマ娘全体の中では今のところは上位だということは解っているけれど、追い抜かれてしまった、という思いばかりがこみ上げてくる。

 いや、自分が前を走っているという認識自体が、そもそも幻想、思い上がりに過ぎなかったのか。そうなのかもしれない。所詮、自分なんて――。

 誰にも注目されない、誰にも気付かれない、南国の白い花が咲き誇る温室の、隅っこに置かれた、小さなサボテンでしかないのに。

 

「…………キャクタスちゃん…………」

 

 膝の上で握りしめた手に、そっと隣から伸ばされた手が重ねられた。顔を上げて振り返ると、小坂トレーナーが長い前髪の下から、キャクタスを見つめていた。

 

「……トレーナー、さん」

「…………焦る必要は、ないですよ…………。キャクタスちゃんが負けたわけじゃないんですから…………。直接対決で、勝てばいいんです…………」

「…………」

 

 直接対決で勝つ。――そんなことが、本当にできるのだろうか?

 そもそも、自分なんかが、あの子と同じ舞台に立てるのか?

 ヒクマはこの後、間違いなくGⅠ戦線に向かうだろう。同期の中でも一握りのウマ娘だけが立つことを許される最高の舞台に。そこに――自分は、そもそも立つことを許されるのだろうか?

 ああ、ダメだ。キャクタスは目を瞑って首を振る。考えれば考えるほど、思考は負のスパイラルに落ちこんでいく。

 そもそも――友達の晴れ舞台での勝利を喜べない自分は、最低じゃないか?

 こんな自分を見つけて、声をかけて、友達と言ってくれたヒクマなのに。

 その勝利を素直に祝福できずに、僻んでばかりいる、卑しい思考回路――。

 こんな自分が、あの子の友達でいる、資格なんて、

 

「――ッ……トレーナーさん、私、走ってきます」

「あ……キャクタスちゃん」

 

 トレーナーの手を振り払うようにしてキャクタスは立ち上がり、そのままトレーナー室を飛び出した。廊下を駆け抜けて外に出て、そのまま学園の敷地の外まで駆け出して、ただがむしゃらに走って行く。

 多くのウマ娘がランニングする河川敷を、レース並のスピードで駆け抜けていく。追い抜かれたウマ娘たちが驚いた顔をするが、それにも構わずキャクタスは走る。

 だけど、走っても走っても、モヤモヤした気持ちは一向に晴れることはなく。

 ――自分はいったい、どうしたいんだろう。

 ヒクマに勝つ、という目標を立てたはずだったのに、あの子の背中がもう手が届かないほど遠くにあるような気がして。

 どうすればいいのだろう。走っても、走っても、答えが見つからなかった。

 

 

       * * *

 

 

 同日夜、札幌市内のホテル。

 

「んー……」

「どったの? クマっち」

 

 ベッドに腹ばいになってスマホを弄っていたヒクマが唸るような声をあげ、隣のベッドに寝転がっていたコンプは振り返った。

 

「キャクタスちゃんに『勝ったよー』ってメッセージ送ったんだけど、既読つかなくて」

「スマホも見ないでトレーニングしてるんじゃないの? 次走、来週じゃなかったっけ」

「あ、そっか」

 

 ヒクマは納得した様子で頷く。コンプは手元のスマホでレーススケジュールを確認した。確かミニキャクタスの次走は1勝クラスのアスター賞。来週、9月9日の土曜日だ。

 

「キャクタスちゃんのレースって中山だよね? 土曜日応援行こうよ!」

「んー、あたしは日曜ビー姉の応援あるからなあ。同じ中山だけど」

 

 来週、コンプの姉のビウエラリズムがGⅢ京成杯オータムハンデキャップに出るのだ。なんとこのレース、姉のサマーマイルシリーズ優勝がかかっている。ビウエラリズムは、初戦の米子ステークスで久々の勝利を挙げたあと、中京記念4着、関屋記念5着で着実にポイントを積み上げていた。中京記念と関屋記念の勝ちウマ娘は京成杯AHに出てこないため、5着に入れば優勝が確定するのだ。

 姉が夏場に中3週で4戦という過酷なローテをこなしてでも掴み取ろうとしている、優勝の二文字。シニア級2年目、未だ重賞未勝利の姉が栄冠を掴み取るところは、妹として見届ける義務がコンプにはある。

 

「じゃあ両方応援行こうよ!」

「そりゃ行けるならあたしも行きたいけど。先週今週と2週続けて3人で札幌遠征して、トレーナー、来週も2日続けてトレーニング休ませてくれると思う?」

「う、うー……そっかあ……」

「ま、一応トレーナーにあとで確認取っとこっか」

「ん、そうだね」

 

 

       * * *

 

 

 翌日、日曜日。晴れないモヤモヤを抱えたまま、ミニキャクタスはランニングを続けていた。走っても走っても、詮無い思考を振り払えない。自分がいったいどうしたいのか、これからヒクマとどう接したらいいのか――何も答えが出ないまま。

 普段のキャクタスであれば、黙々と走っていれば、誰も声をかけてはこない。せいぜい小坂トレーナーだけだ。――だけれど、今は。

 

「あ、キャクタスちゃん見っけ!」

「――――ッ」

 

 背後から、あの子の声がした。思わず立ち止まって振り返ろうとしてしまい、しかしどんな顔で彼女の顔を見ればいいのかわからなくて、キャクタスは逃げるように足を急がせる。――逃げられはずもないのに。

 

「あれ? 聞こえなかったのかな……。おーい、キャクタスちゃーん!」

 

 大きな声。どうして、他の誰にも気付かれないような自分を、あの子は遠くからでもすぐに見つけて、あんな大きな声で呼んでくれるのだろう。

 それが――そのことが、嬉しいのに、今は苦しい。

 

「キャクタスちゃんってばー。むー」

 

 追いかけてくる足音。ペースを上げるのは簡単だった。だけどそうすることは、あまりにも逃げていることが露骨になりすぎて、そこまで明確に彼女を拒絶してしまうことも、キャクタスには出来なかった。

 結局は、その優柔不断によって、向き合いたくない現実が追いついてくる。

 

「キャクタスちゃーん! つかまえたー!」

 

 視界に、並んでこちらを覗きこんでくる彼女の――バイトアルヒクマの大きな瞳が飛び込んできて、キャクタスはゆっくりと足を緩めて立ち止まる。ヒクマも少し行ったところで足を止めて、こちらを振り返った。

 

「えへへ、ただいま!」

「…………」

 

 おかえり、と。その一言すら上手く言えなくて、キャクタスは無言で頷くしかできない。視線を足下に落としたままでいると――そこに、何かが差し出された。

 ビニール袋に包まれた、四角い紙箱。《札幌レース場限定 蹄鉄型クッキー》の文字が見えた。

 

「はい、おみやげ!」

「…………え、私、に?」

「うん、私からキャクタスちゃんに。キャクタスちゃんにお礼言いたかったし!」

 

 ――お礼?

 袋を受け取って、きょとんとキャクタスは目をしばたたかせる。――と、ずいっとヒクマが顔を近づけてきて、キャクタスは思わず身を引いた。

 

「改めてキャクタスちゃん、たくさん一緒にトレーニングしてくれてありがと! キャクタスちゃんに追いつきたくていっぱい頑張れたし、おかげでわたし、重賞勝てたよ!」

「――――」

「えへへ、これでちょっとは、キャクタスちゃんの背中に近づけたかな?」

「――――――――ッ」

 

 キャクタスは息を飲んで、ビニール袋の持ち手を握りしめたまま俯いた。

 何を言っているのだ。もうとっくに、自分は追い抜かれてしまっているのに――。

 それなのにどうして、そんなキラキラした瞳で、私なんかに、追いつきたいなんて。

 そんな、おかしなことを言うの――。

 私の方が、とっくに置いて行かれて、しまっているのに。

 

「…………」

「キャクタスちゃん?」

「…………ヒクマちゃんに、私、もう……とっくに、追い抜かれてるよ……」

 

 絞り出すようにそう答えたキャクタスに、ヒクマは。

 

「ほえ? え、そんなことないよ! だってまだキャクタスちゃんに勝ってないもん!」

「――――ッ」

 

 そんなこと。もう、一緒に走らなくたって、そんなことは。

 

「わたし、トリプルティアラでキャクタスちゃんに勝つから! そのためにね、ホープフルステークスに出るんだ!」

 

 キャクタスは顔を上げた。――なんだって?

 

「……ホープフル、ステークス? ……阪神JFじゃ、なくて?」

「うん! このあと東スポ杯に出て、それからホープフルステークス! それで春になったらチューリップ賞に出て桜花賞!」

 

 ――キャクタスは、ヒクマの異例ローテの話題を、この時までまだ聞いていなかった。

 だから、思いがけないその言葉に、ただ呆然と瞬きするしかできない。

 ティアラ路線からホープフルステークス? 阪神JFではなく、敢えて三冠路線のウマ娘が集まる中山の2000メートル……。明らかにマイルの桜花賞ではなく、2400のオークスに照準を合わせたローテーションだ。

 ぞくり、とキャクタスは身震いする。

 この子は本気だ。目先の桜花賞ではなく、もっと先を見据えている。いや、このローテーションを考えたのは、あのヒクマのトレーナーだろうけれど――。

 1800の札幌ジュニアS、東スポ杯から2000のホープフルSと距離を伸ばして中距離に備えつつ、チューリップ賞に出て桜花賞対策もする。1600の桜花賞も、2400のオークスも勝ちに行く。そのために組まれた常識外れのローテを、どこまでも底抜けに明るく、楽しそうにヒクマは語る。

 ――それを、私に、勝つために?

 

「ヒクマ、ちゃん……」

「えへへ。だってまだまだがんばらないと、キャクタスちゃんに勝てないもん!」

 

 どうしてだろう。

 どうしてこの子は、いつだってこんなにも真っ直ぐなんだろう。

 そんなに真っ直ぐな、キラキラして目で、こんな私なんかを見つめてくれるんだろう。

 ――その瞳に見つめられると、キャクタスは泣き出したくなってしまう。

 あんまりにも眩しくて。綺麗で。

 そんな輝きは、自分には決して、手が届かないはずなのに。

 

 届くのだろうか?

 本番のレースで、ヒクマに勝てれば、そんな輝きに、自分も手が届くだろうか?

 こんな自分が、この子のように、輝けるのなら。

 

 ――勝ちたい。

 この子に、勝ちたい。

 模擬レースなんかでの仮初めの序列ではない。本当のレースで。本当の力で。

 勝って、手に入れたい。こんな輝きを。真っ直ぐな、眩しいばかりの煌めきを。

 

 そうだ。今の立ち位置なんか関係ないのだ。

 直接対決で、GⅠの大舞台で、勝った方がレースの主役だ。

 それまでどれほどみすぼらしい、誰の目にも留まらない小さなサボテンでも。

 勝ちさえすれば、きっと花だって咲かせられるのだから。

 

「…………ヒクマちゃん」

「うん」

「おみやげ、ありがとう……。それから、重賞制覇……おめでとう」

「うん、えへへ、ありがと!」

「私も……来週のアスター賞、勝つから」

 

 自分に言い聞かせるように、キャクタスは拳を握りしめる。

 そう、勝つのだ。自分も勝って、この子みたいに――。

 

「うん、応援行くね!」

 

 ヒクマの言葉に、キャクタスは顔を上げ――唇を引き結んで、首を横に振った。

 何の衒いもなく、この子がそう言えるのは、無邪気か――それとも、傲慢か。

 負けたくない。この眩しい笑顔に――負けたく、ない。

 

「ううん――応援は、いい」

「え? でも」

「――私は、ヒクマちゃんから、応援する相手じゃなく……勝ちたい、倒したい相手だって、思われたい……から」

「――――――」

 

 ヒクマはそのまん丸の目を見開いて、そして。

 ――どこまでも、楽しそうに、力強く両手を握りしめた。

 

「うん、わかった! キャクタスちゃんは――友達だけど、ライバルだもんね!」

「……うん。ヒクマちゃんは、私の……ライバルだから」

 

 ライバル。競い合う相手。倒したい相手。

 絶対に負けたくない相手が、今、目の前にいる。

 

「……実績では先に行かれちゃったけど、レースでは、私が、勝つから」

「うん! 私だって負けないよ!」

 

 握りしめた拳を差し出してきたヒクマに、キャクタスは唇を結んで、自分の拳をぶつける。強く、その腕を押し返そうとするぐらいに強く。

 ――負けない。負けたくない。勝ちたい。この子に、絶対に勝つ。

 この子だけじゃない。誰にも負けない。絶対に負けない。

 勝つ。勝つんだ。どんなレースも――全部、勝つんだ。

 口の中だけで、キャクタスはそう繰り返し続けた。

 

 

       * * *

 

 

 小坂御琴は、担当のミニキャクタスを探していた。

 昨日のバイトアルヒクマのレースを見てから、ミニキャクタスの様子がおかしい。何かと思い詰めがちなところのある子だけれど、それが何か悪い方に向かっている気がした。

 あの子の中に秘められた強い闘争心。それがレースに向かうならいいけれど、もし自分自身を傷つける方向に進んでしまったら――。

 おろおろとしながらトレーニングコースの周辺を探し回っていると――。

 

「あ…………キャクタス、ちゃ…………」

 

 見覚えのある鹿毛のツインテールと、芦毛のロングヘアーが見えた。ミニキャクタスと、バイトアルヒクマだ。何事かふたりは話していて、そしてヒクマが手を振ってキャクタスの元を立ち去っていく。

 後に残されたキャクタスは、ただその場にじっと佇んでいた。

 

「…………キャクタスちゃん?」

 

 その背中に歩み寄った小坂は、びくりと身を竦めた。

 キャクタスの背中から溢れ出す、オーラのような気迫に。

 ――こんな姿は、この子のトレーナーになって、初めて見た。

 

「……トレーナー、さん」

 

 くるりと、キャクタスが振り向いた。いつもは気弱そうに伏せられている目に、今は殺気にも似た、底知れない闘争心が燃えていた。

 こんな……ここまで。この子の中には、どれほどの負けん気が眠っているの……?

 息を飲む小坂を見つめて、キャクタスは口を開く。

 その決意を、人知れぬ宣戦布告を、その口から告げる。

 

 

「――来週のアスター賞に勝てば、私もホープフルステークスに出られますか?」

 



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第35話 勲章は遠きにあれど

 9月9日、土曜日。中山第9レース、ジュニア級1勝クラス、アスター賞。

 

『残り100を切って、内からひとり、ミニキャクタスが抜けてきた、届くか、届くか、届いた、ゴール! どうやらミニキャクタスが差し切りました! 連勝です!』

 

 4番人気のミニキャクタスは、混戦の中でギリギリまでバ群に埋もれていたが、残り100メートルですっと抜けだし、内から加速してアタマ差で差し切り勝ち。

 2連勝。だが、デビュー戦に続いて地味といえば非常に地味な勝ち方で、彼女の真の実力はまだベールに包まれたままと言えた。

 ――本人から現地応援を断られたというヒクマは、それでもテレビの前で歓声を送り、その勝利に喜んでいた。

 ミニキャクタスの次走はまだ発表されていないが、2連勝なら文句なく阪神JFに出られるはずだ。おそらくはホープフルステークスを選んだヒクマより一足先に、ジャラジャラとエレガンジェネラルに挑むのだろう――と、このときの私は、そう思っていた。

 

 

       * * *

 

 

 翌日――9月10日、日曜日。中山第11レースは、サマーマイルシリーズ最終戦である。

 GⅢ京成杯オータムハンデキャップ――私はいつも通り3人を連れて、中山レース場に観戦に訪れていた。いや、正確にはブリッジコンプの付き添いとしてだが。

 今日のこのレースには、コンプの姉――ビウエラリズムの、サマーマイルシリーズ優勝がかかっているのだ。

 

「ビー姉、今まで条件戦とGⅠ以外で掲示板外したことないから大丈夫だと思うけど……。あー、あたしまで緊張してきた」

「すごいよね……。もう2年ぐらい、出たレースでほとんど掲示板に載り続けてるんだもん……」

「それなのに重賞未勝利ってあたりがねえ、ビー姉らしいっちゃらしいんだけど。いつも肝心なところで抜けてるんだもん、ビー姉って」

「ねーねー、5着以内に入れば優勝なんだっけ?」

「そ。GⅢだしビー姉の掲示板力なら大丈夫……のはず! ビー姉! がんばれー!」

 

 柵から身を乗り出すコンプに、エチュードが「あ、危ないよ」とその裾を引っぱる。ヒクマもその横で「ふぁいとー」と手を振っていた。

 その声援に気付いているのかいないのか、ビウエラリズムはじっとゲートを見つめている。そして、ひとつ大きく深呼吸すると、ゆっくりとゲートへと足を進めていった。

 

 サマーマイルシリーズ。GⅠのない夏のトゥインクル・シリーズを盛り上げるために行われている、指定されたレースの着順で決まる累計ポイントを競うイベントだ。

 スプリント、マイル、2000の3部門があり、マイルの指定レースは6月のリステッド競走・米子ステークス、7月のGⅢ中京記念、8月のGⅢ関屋記念、そしてこの9月のGⅢ京成杯オータムハンデキャップの4レースである。リステッド競走は1着に8ポイント、2着4ポイント、3着3ポイント、4着2ポイント、5着以下1ポイント。GⅢは1着10ポイント、2着5ポイント、以下4、3、2、1ポイントと同様に続く。この合計ポイントで優勝を競うわけだが、優勝資格があるのはどれかのレースで1着を取り、合計で12ポイント以上を獲得したウマ娘に限られる。

 全部出るとなると中3週で4カ月連続のレースとなり、夏場ということもあってかなり過酷なスケジュールになるので、そもそも2つ以上に出るウマ娘自体決して多くない。しかしビウエラリズムは、なんとGⅠの安田記念を見送ってまで、この4戦全てに出走するローテを組んだ。

 初戦の米子ステークスを勝利し、中京記念4着、関屋記念5着とポイントを重ね、合計13ポイントで現在トップ。既に優勝資格も満たしている。中京記念と関屋記念の勝ちウマ娘は出走していないため、他に優勝の可能性があるのは、中京記念2着で5ポイントを獲得済みのイズカリというウマ娘だけだ。同点なら同時優勝なので、イズカリが1着を取っても、ビウエラリズムは5着以内に入れば優勝である。

 そしてコンプの言う通り、ビウエラリズムは重賞未勝利ながら、とにかく安定して掲示板に入ることでじわじわと名が知られてきているウマ娘だった。ここまで23戦5勝ながら、掲示板を外したのはメイクデビューと条件戦、GⅠ安田記念での計3回だけ。昨年はGⅠマイルCSでも5着と健闘している。――思えば、ヒクマたちと最初に出会った昨年の毎日王冠でも、彼女は5着だったっけか。

 シニア級の2年目。京成杯AHは去年も3着に入っている好相性のレース。枠番も内枠の2枠3番と悪くない。5着以内とは言わず、重賞初制覇の勲章が、何を置いても欲しいところだろう。

 

『GⅢ京成杯オータムハンデキャップ、全員ゲートイン、体勢完了――スタート!』

 

 

       * * *

 

 

 スタートしてすぐ、ビウエラリズムはやや後方の内寄りにつけた。イズカリは同じような位置でやや外目。まだバ場も目立って荒れてはおらず、緩やかな下り勾配のコースを、先行組が集団になって早めのペースで引っぱっていく中、ビウエラリズムはその集団の4バ身ほど後ろを余裕を持って走っている。

 いいポジショニングだ。あの位置なら先行集団のバ群に埋もれる危険が少ない。上手く4コーナーで外に持ち出して集団をかわしていければ――。

 考えることは、同じポジションを走るイズカリも同じだったようだ。3コーナーから徐々にイズカリが進出して前との差を詰めていき、ビウエラリズムもそれに続く。

 

『さあ5コーナーを回って先頭は最内を回っていくジュエルガーネット、外からイズカリ、さらにその後ろからビウエラリズムが追い込んでくる』

 

 直線。粘る先頭、固まったままの先行集団に、外を回ったイズカリが並ぶ。ビウエラリズムはさらにその外。混戦のまま中山の急坂を上る。

 

『イズカリ先頭、ジュエルガーネット粘る、大外からビウエラリズム!』

 

 残り50メートル。並んだ。先頭は3人がほぼ横一線。

 

「ビー姉ええええ! いっけええええ!」

 

 コンプがずり落ちそうなほど身を乗り出して叫ぶ。

 私は、ヒクマとエチュードとともに、息を詰めて見守っている。

 

『ビウエラリズム、イズカリ、ジュエルガーネットも差し返す!』

 

 ――普段のおっとりした表情とは別人のように、歯を食いしばって。

 ビウエラリズムが、ゴール板の前を駆け抜けていく。

 

 歓声の中、掲示板の一番上に点滅したウマ番は――。

 

 

       * * *

 

 

「それじゃあ皆、ビー姉のサマーマイルシリーズ優勝を祝して――かんぱーい!」

『かんぱーい!』

 

 同日夜、トレセン学園内、ビウエラリズムの担当トレーナーのトレーナー室。

 そこで開かれたささやかな祝勝会に、私たちは参加させてもらっていた。

 なぜかコンプが乾杯の音頭をとり、私たちはジュースで乾杯する。トレーナー室の壁には、コンプが前日から用意しておいた《ビウエラリズム サマーマイルシリーズ優勝 おめでとう!》の垂れ幕。

 その真ん中で、ビウエラリズムは照れくさそうににんじんジュースのグラスを抱えるように手にしていた。

 

「コンプちゃん、トレーナーさん、みんな、ありがとうございます~。……本当は、勝って優勝決めたかったんですけどね~」

「それでも優勝は優勝! 4戦全部走って全部掲示板入りなんだし、ちゃんと最初の米子ステークスは勝ったんだからビー姉はすごい!」

 

 ――結局、ビウエラリズムはアタマ差届かず、イズカリの2着だった。それでも5ポイントを積み上げて、文句なしのサマーマイルシリーズ制覇である。胸を張るべき成績だ。

 

「ふふ、ありがとう、コンプちゃん」

 

 ビウエラリズムがコンプの頭を撫でる。普段は撫でられるのを嫌がるコンプも、姉の手には心地よさそうに身を任せていた。……私に撫でられるのが嫌なだけか?

 

「トレーナーさん、このにんじんハンバーグ美味しいよ!」

「ヒクマちゃん、ちょっとそれ取り過ぎじゃない……?」

「こらヒクマ、ビウエラリズムの祝勝会なんだからあんまりがっつかない」

「あ、ごめんなさい……」

「あらあら、いいのよ~。ヒクマちゃんも重賞制覇おめでとう。エチュードちゃんもいっぱい食べてね」

「い、いいんですか……?」

「わーい! ありがとうございます!」

 

 主役の許可を得て、遠慮なく料理に手を伸ばすヒクマ。エチュードが困ったように視線を彷徨わせ、私はビウエラリズムとその担当トレーナーにすいませんと会釈するしかない。ふたりは笑って頷いていた。

 

「それにしても、ヒクマちゃんはすごいわね~。私なんか4年走ってまだ届かないのに、ジュニア級の2戦目でもう重賞勝っちゃうなんて」

「あ、えと、えへへ~……」

 

 ヒクマは料理の皿を手に、困ったように頭を掻く。その姿に目を細めて、ビウエラリズムは――軽く目を伏せて、おもむろに口を開いた。

 

「……私ね、このサマーマイルシリーズでダメだったら、今年で引退しようと思ってたの」

「ビー姉?」

 

 コンプが目を見開いて姉を見上げる。ビウエラリズムは微笑んで、それから担当トレーナーの方を見やった。

 

「でも、重賞はまた勝てなかったけど、優勝はできたから。……コンプちゃんたちの走ってるのを見て、もうちょっと頑張ってみようって、そう思ったの」

「ビー姉……」

「お姉ちゃんとして、妹とその友達には、負けてられないなって~。……もう1年がんばれば、来年、どこかでコンプちゃんと一緒に走れるかもしれないから」

 

 コンプが目を見開く。――ビウエラリズムの主戦場はマイル。コンプはスプリント。だが、その中間の1400メートルなら……確かに、戦う機会はあるかもしれない。

 

「かもしれない、じゃないの、ビー姉!」

 

 と、コンプがビウエラリズムにぐっと拳を突きつける。

 

「あたし来年、ビー姉と一緒のレースで走るから! 約束!」

 

 そして、コンプは小指を差し出した。ビウエラリズムは目を見開いて――そして、くしゃりとその顔を、泣き出しそうな、笑っているような、そんな顔に歪めて。

 

「……うん、約束、コンプちゃん」

 

 その小指に、小指を絡めて――指切りをした。

 

 

       * * *

 

 

 祝勝会がお開きになった後。栗東寮の入口まで3人を送ると――コンプとエチュードを先に行かせて、ヒクマがその場に残って私を呼び止めた。

 

「トレーナーさん」

「うん? なに?」

「……んん、あの、えと……うう~」

 

 ヒクマは俯いて、もごもごと口の中で呟き、それからこめかみに拳を当てて首を振る。何かモヤモヤとしているのに、それを上手く言語化できない――という様子で。

 私はそんなヒクマに歩み寄ると、その頭にぽんと手を載せた。

 ――たぶん、それはきっと。親友の姉が4年走って届かない目標に、自分があっさり2戦目で届いてしまった、その現実に対する戸惑いなのだろう。ビウエラリズムが重賞未勝利なことも、自分が重賞を勝ったことも、事実としては理解していても――今日の彼女の表情を見るまで、その事実が実感を伴わなかったのだろう。

 しかし、それがトゥインクル・シリーズの世界というものだ。未勝利のまま学園を去るウマ娘、何年も条件戦であがき続けたまま引退するウマ娘――そんな敗者たちの上にしか、勝者は存在できないのだから。

 

「ヒクマ」

「んに……」

「レースに勝てるのは、いつだってひとりだけだ」

「……ん」

「だから、勝った者は、それを喜んで、胸を張ってなきゃいけない」

「――――」

 

 ヒクマが顔を上げる。私はその芦毛の髪を、くしゃくしゃと撫でた。

 

「勝つ喜びを噛みしめて、胸を張って、悔しかったら自分の背中を追いかけて来いって、負けた相手に示さなきゃいけない。それが、勝った者の務めだと、私は思うよ。――だからビウエラリズムも、ヒクマが勝ったのを見て、もっと頑張ろうって思ったんだ。ヒクマが嬉しそうだから。勝つことの喜びを、ヒクマがいっぱいに見せたから」

「…………ふえ」

「次の東スポ杯、勝ちたい?」

 

 私の問いに、ヒクマは顔を上げ――。

 

「――うんっ」

 

 力強く、頷いた。よし、と私はぽんぽんとその頭を叩く。

 

「勝とう。胸を張って、いっぱい勝って喜ぼう。ヒクマ」

「うん!」

 

 ぐっと拳を握りしめて、ヒクマは両手を振り上げる。私は微笑んで、ヒクマと一緒に夜空を見上げた。初秋の空に、星が瞬く。

 夏は終わりだ。秋が来る。――ジュニア戦線の大一番が、徐々に迫ってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 ビウエラリズムとは、日本ウマ娘トレーニングセンター学園に所属する、トゥインクル・シリーズシニア級の掲示板力に定評のあるウマ娘。美浦寮。

 主な勝ちレース:X2年洛陽ステークス(L)、X3年米子ステークス(L)

 

 ジュニア級11月のメイクデビュー東京(芝・1600)でデビュー。出負けして7着に敗れる。続く12月の未勝利戦(中山)は1着と半バ身差の3着、初のウイニングライブを勝ち取るも、ジュニア級は未勝利で終える。

 クラシック級になり、休養を挟んで3月の未勝利戦(中山)で初勝利を挙げる。重賞に登録はするものの除外続きで条件戦を走り続けることになったが、1勝クラスでは5着、2着ときて7月の石狩特別に勝って2勝目。2勝クラスでも8着、4着ときて10月に寺泊特別を勝って3勝目を挙げた。12月にようやく重賞初挑戦となるGⅡ阪神カップに挑み5着。

 

 シニア級では2月の洛陽ステークスを勝利してオープンウマ娘となると、ダービー卿チャレンジトロフィー(GⅢ)2着、谷川岳ステークス(L)2着と好走を続け、GⅠ安田記念に出走したが、さすがに面子が厳しかったか9着。

 夏は休養に充て、9月の京成杯オータムハンデキャップを3着。続く毎日王冠はネレイドランデブーとトンボロの2強対決の陰で地味に5着。GⅠマイルチャンピオンシップに挑み、出走メンバー唯一の重賞未勝利で最低人気の17番人気ながら、ネレイドランデブーの5着と健闘した。

 

 シニア級2年目は京都金杯から始動。惜しくもクビ差の2着。続く阪急杯4着、読売マイラーズカップ5着ときて、安田記念は回避し、サマーマイルシリーズに照準を合わせて調整。米子ステークス(L)で久々の勝利を挙げると、4戦全てに出走し、中京記念4着、関屋記念5着、京成杯オータムハンデキャップ2着と全戦で掲示板入りを重ね、見事サマーマイルシリーズ優勝を果たした。

 

 通算24戦5勝[5-5-2-12](X3年9月現在)。未だ重賞未勝利ながら、デビュー以来掲示板を外したのは僅か3回。派手なレースはないものの、オープン特別だろうとGIだろうといつも地味に掲示板にいるマイル戦線の善戦ウマ娘として、着々とファンを増やしている。

 

(UmaUma大百科より抜粋)



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第36話 ブリッジコンプの休日

 休日。買い物に出てきて駅前を歩いていると、ゲームセンターの入口に見覚えのある後ろ姿を見かけた。クレーンゲームにかじりついている、あの栗毛は――。

 

「むぅぅぅぅ……」

「コンプ?」

「わあっ!? と、トレーナー?」

 

 やっぱりブリッジコンプだ。声を掛けると、私服姿のコンプは尻尾をピンと逆立てて振り返る。そんなに驚くこともないと思うのだが。

 

「な、なにしてるの、こんなところで」

「いや、買い物に来ただけなんだけど。ヒクマたちは中?」

 

 ゲームセンターの中に視線をやると、コンプはやれやれと肩を竦める。

 

「トレーナー、あたしだって別に24時間365日クマっちと一緒なわけじゃないってば。たまにはひとりになりたいときもあるの」

 

 まあ、確かにそれはそうかもしれない。ルームメイトで同級生、担当トレーナーも一緒となれば普段はほぼ一日中一緒にいるわけで、いくら仲が良くても休日ぐらい自分の時間が欲しくなるのも当然か。

 

「トレーナーこそ、たまの休日、デートする相手のひとりぐらいいないわけ?」

 

 ジト目でそう詰められ、今度は私が肩を竦めるしかない。

 

「今はコンプたちのことで手一杯だから、それどころじゃないよ」

 

 混じりけなしの本心である。今日だって家に帰ったら、録画してあるレース映像を消化して情報収集しつつ、3人分の今週のトレーニングメニュー作成に、学園に提出する書類作りエトセトラが待ち構えている。とてもではないがそんな余裕はない。

 

「ふうん?」

 

 何か怪しむようにコンプは私を見上げる。何か怪しまれるような理由があっただろうか。心当たりがないのだが。

 困惑しつつ、私はコンプがかじりついていたクレーンゲームの筐体を見やる。大物を何回も連コインして少しずつずらして取るタイプの筐体のようだ。中に鎮座しているのは、大きな緑の猫……猫だろうか? たぶん猫じゃないかと思われる、右耳に赤いリボンをつけた妙に目つきの悪いキャラクターのぬいぐるみ。大きさはクッションぐらいあるから、クレーンゲームの獲物としては確かに大物だ。

 

「あれが欲しいの?」

「へっ!? あ、い、いやべべべ別に、そういうわけじゃ」

 

 しどろもどろになるコンプ。そう言うわりに、随分熱心に筐体にかじりついていたようだが。どれ、と私は腕まくりして、ポケットから財布を取り出す。

 

「トレーナー? え、なに、やるの?」

「任せなさい。こう見えてもクレーンゲームは得意なんだから」

「……ほんとぉ?」

 

 疑いの眼差しを向けてくるコンプ。念のため、近くの両替機で1000円札を1枚両替して、100円玉を筐体に積み上げる。これでも学生時代はウマ娘ぬいぐるみハンターとして鳴らしたものだ。これならたぶん1000円以内で取れるだろう。

 トレーナーとしての沽券を賭けて、この勝負、負けられない!

 

 

       * * *

 

 

 30分後。

 

「……トレーナー、もう諦めた方がよくない?」

「いや、あとちょっと、あとちょっとなんだから――うあああっ」

 

 ぐらっと揺れたぬいぐるみは、しかしあと一歩落ちきらずに残り続ける。うう、まずい。落下口近くまでずらしていくところまでは順調だったのに、もう少しのところで何か引っかかったようで、そこで完全に沼ってしまった。あとほんのちょっとで落とせそうなだけに諦めがつかない。

 

 まずい、財布の中の1000円札が尽きた。残るこの100円で落とせなければ1万円を崩すしかないか……。って、この1万円は今日の買い物予算、いやここで引くわけにはいかない!

 

「でえええいっ」

 

 手元のラスト100円を投入する。――が、焦りで目測が狂った。アームはあらぬところへ下りていく。いかん、これではダメだ――。

 だが、1万円札を財布から取り出しかけたとき。

 

「あっ」

「あ?」

 

 狙いを外したアームが、ぬいぐるみの尻尾に引っかかった。その途端、突っかかりが取れたかのように――ぐらっとぬいぐるみが傾き、

 ガコン。

 

「――――」

 

 私はコンプと顔を見合わせて、取り出し口を覗きこむ。そこには、ごろんと緑の猫のぬいぐるみが腹ばいに転がっていた。

 

「…………大勝利ッ!」

 

 思わず秋川理事長みたいなことを言いながらガッツポーズ。やった、よくやった私。この30分の苦労が報われた――。

 

「あのさあ、トレーナー。……賭け事とか絶対やらない方がいいよ?」

「……うん」

 

 仰る通りです。ぐうの音も出ません。何千円費やしてしまったのか考えたくない。いかん、こんなに熱くなるつもりでは……。

 達成感から一転、担当の前でなんというか人としてダメなところを見せてしまった自己嫌悪に沈んでいると、取り出し口からぬいぐるみを拾い上げたコンプが、それを両手で抱えて私を見上げた。

 

「トレーナー」

「うん?」

「……はい、これ」

 

 と、コンプはそのぬいぐるみを、私へと差し出す。

 

「取ったのトレーナーだから、この子はトレーナーの」

「え? でも」

「いいからっ」

 

 無理矢理にコンプはぬいぐるみを私に押しつけてくる。いや、私はコンプが欲しがっているようだったから取ろうとしたのだけど――。

 目つきの悪い猫(?)のぬいぐるみを見下ろし、それからコンプを見やる。私から視線を逸らしたコンプは、けれどどこか名残惜しそうにちらちらと横目でぬいぐるみを見ていた。……なんだ、やっぱり欲しかったんじゃないか。

 私は苦笑して、「はい」とぬいぐるみを、再びコンプに差し出した。

 

「や、だからそれはトレーナーのだってば」

「うん、だからこれは私からコンプへのプレゼント。今さらだけど、初勝利おめでとう」

「――――」

 

 目を見開いたコンプは、差し出されたぬいぐるみをおそるおそる受け取ると、それに顔を埋めるようにして、ぎゅっと抱きしめた。

 

「……あ、ありがと……トレーナー」

 

 いつもの元気のいい声ではなく、もごもごとしたその声に、私は微笑する。やれやれ、財布には痛かったが、喜んでもらえたなら何よりだ。

 思わず頭を撫でようとすると、コンプはばっとその手をガードするようにぬいぐるみを持ち上げて、それから――にっと満面の笑みを浮かべて、私を見上げた。

 

「じゃ、トレーナー。休日に出かける相手もいない可哀相なトレーナーに、このブリッジコンプちゃんが付き合ってあげる!」

「え? いいの?」

「ほら、行くよ!」

 

 と、コンプは片手にぬいぐるみを提げ、もう片方の手で私の手を握って歩き出す。ウマ娘の力で引っぱられて、私は引きずられるしかない。

 

「ど、どこいくの?」

「あたしだけ初勝利のお祝い貰うなんて不公平だから、クマっちの重賞制覇のお祝いと、エーちゃんが次の未勝利戦勝ったときのお祝いも買わなきゃダメでしょ! 予算はこの子にトレーナーが突っ込んだ金額が基準だかんね。大丈夫、あたしがふたりの喜びそうなの見立ててあげるから!」

「――わかったわかった」

 

 コンプに引きずられるままに、私は歩き出す。やれやれ、予定外の出費だが、まあいいか。3人が喜んでくれるなら、それが一番だ。

 

「……でもこれ、ちょっとエーちゃんに悪いかなぁ……」

「え?」

「なんでもない! ほら、あんな店、あたしと一緒じゃなきゃ入れないでしょ」

「……なるほど確かに」

 

 コンプが指さしたのは十代女子向けファンシーショップ。なるほど私ひとりでは入りにくい店だ。苦笑しながら、私はコンプの手を握り直す。

 と、コンプはいきなり足を止め、私の方を振り返り、

 

「コンプ?」

「……なんでもないってば!」

 

 ぷい、とまた前を向いて、ずんずん歩き出した。――私の手を強く握ったままで。

 

 

       * * *

 

 

 同日夕刻、栗東寮、バイトアルヒクマとブリッジコンプの部屋。

 

「あ、コンプちゃんおかえりー」

「ただいま」

 

 コンプが帰宅すると、テレビを見ていたルームメイトのヒクマが振り向いて手を振った。テレビにはレースの映像が流れている。

 

「何見てんの?」

「ん、今日の中山のレース。12レースがホープフルステークスと同じ条件だから見ておきなさいってトレーナーさん言ってたから」

「ふうん」

 

 普段何も考えてないようにしか見えないヒクマだけれど、こういうところは真面目なのである。いつだって楽しそうに笑って走っているけれど、トレーニングにしろ研究にしろ、決してレースを侮っているわけではない。真面目に全力にレースで走ることを楽しんでいる。コンプはヒクマのそういうところが好ましいと思う。

 エチュードと一緒に、今のトレーナーに逆スカウトを申し込んだのも、ヒクマと一緒なら楽しく真剣にトレーニングできるだろうと思ったからだ。まあ、おかげで平日は朝から晩までヒクマのテンションに付き合う羽目になるので、ちょっと疲れるけども。

 

「コンプちゃんはどこ行ってたの?」

「ん、別に。ちょっと駅前ぶらぶらして遊んできただけ」

 

 そう答えて――コンプは自分のベッドに腰を下ろすと、袋詰めしてもらったあのぬいぐるみを取りだした。ベッドに寝転がって、目つきの悪い緑の猫を持ち上げて見上げる。

 ……こんなのにあんなに熱くなっちゃって、さあ。

 別にそんな、かわいいと思ったわけではないのだ。ただ、わりと簡単に取れそうに見えたのでちょっとやってみたら熱くなってしまって、財布の中の小銭を使い果たして両替に行くべきか悩んでいたらトレーナーに見つかってしまって……。

 トレーナーまであんなに熱くなることないのに、ねえ。そうは思うけれども。

 

『初勝利おめでとう』

「――――~~~っ」

 

 ああもう、何を考えているのだ、あたしは。コンプは首を横に振って、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる。……いやまあ、別に、嬉しくないなんて言ってないけど。トレーナーがくれたものだと思ったら、なんかちょっとかわいく見えてきた……とか、そんなこと別に思ってないですけど。

 誰に言い訳しているのか自分でもわからず、コンプがベッドで悶々としていると、

 

「あれ、コンプちゃん、なにそれかわいい! 見せて見せてー」

 

 ヒクマがテレビを消してこちらに身を乗り出していた。

 ――思わず、コンプはぬいぐるみを抱きしめたまま、ごろんとヒクマに背中を向けた。

 

「ダメ」

「えー?」

「これはあたしの」

「むー、コンプちゃんのけちー」

「……あとでどうせクマっちの分もあるんだから」

「ほえ? なにか言った?」

「なんでもない!」

 

 ぬいぐるみを強く抱きしめて、コンプはそこに顔を埋める。

 ――別に、そんな、そこまで嬉しいってわけでもないんだから。

 クレーンゲームのぬいぐるみひとつぐらいで、幸せになっちゃうほど、自分がチョロいウマ娘だなんて……そんなこと、ないんだから。

 ていうか、そんなのエーちゃんに悪いし……って、なに考えてんのあたし!

 

「コンプちゃーん? どしたの? 眠いの?」

「なんでもないってば!」

 

 覗きこんでくるヒクマから逃れるように、コンプはベッドの上を転がって、

 

「――へぶっ」

 

 ベッドから転げ落ちた。

 

「わ、コンプちゃん大丈夫?」

「ああもうっ、トレーナーのアホー!」

「ふえ? なんでトレーナーさん?」

「いいの! 全部トレーナーが悪いの!」

「???」

 

 首を捻るヒクマの前で、コンプはただぬいぐるみを抱いて吼えるしかなかった。



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第37話 ききょうステークス・ブリッジコンプvsチョコチョコ

 9月30日、土曜日、阪神レース場。

 翌日に中山でのスプリンターズステークスを控えたこの日、阪神のメインレースはダートの中距離GⅢ、シリウスステークスだ。と言っても、私たちの出番は当然そこではない。

 第9レース、ジュニア級オープン特別、ききょうステークス、芝1400メートル。11月の京王杯ジュニアステークスへ向けた、ブリッジコンプの第3戦である。

 

「ねえトレーナー。スヴェルの奴も今日なのよね?」

「デュオスヴェル? うん、そうだね。中山の第9レース、芙蓉ステークスだよ。こっちの10分前の発走だから、コンプが応援するのは難しいかな」

「別にアホスヴェルのこと応援する義理なんかないから! あいつが勝ってあたしが負けるわけにはいかないってだけ! またバカにされちゃたまんないもん」

 

 ふん、とそっぽを向いてコンプは口を尖らせる。なんだかんだ言って、デュオスヴェルが芙蓉ステークスを勝つとは思っているわけだ。口喧嘩ばかりしているけれど、お互い実力を認め合ってこそのことなのだと改めて思う。

 だからこそ、コンプが短距離路線に向かったとき、デュオスヴェルはだいぶ不満げにしていたのだろう。クラシック三冠でコンプと鎬を削るつもりでいたのなら、梯子を外された気分になるのも無理はない。

 

「そうだね。デュオスヴェルも認めるしかないような結果を出して、コンプが最強だって証明してあげよう!」

「別にあいつに認められる筋合いなんかないっての!」

 

 素直じゃないな、全く。私が苦笑していると、「それに」とコンプは胸に拳を当てた。

 

「あの三つ編み眼鏡にも、負けるわけにいかないもん」

 

 ――ユイイツムニ。デビュー戦でコンプに勝利したあのウマ娘は、先週の中山のオープン特別、カンナステークスを楽勝で逃げ切っていた。レース後には正式に京王杯ジュニアステークスへの出走を表明している。

 目下のコンプの目標は、ユイイツムニへのリベンジだ。そのためにも、まずはこのききょうステークスで、今までより200メートル長い1400メートルを経験しておくことは大事になってくる。

 たかが200メートル、されど200メートル。1400を想定したトレーニングはしてきたが、トレーニングと本番は全くの別物だ。今のコンプが、レースでこの距離を走りきれるのか。今日は大事なその試金石になる。やや気がかりなのは、昨日の雨でバ場が稍重になっていることだが……。

 

「よし、コンプ。今日の作戦は?」

「もちろんスタートダッシュ決めてそのまま逃げ切り!」

「そうだね。でも、今日は今までより200メートル長い。だから」

「コーナーで息入れて、最後の坂まで脚を残せっていうんでしょ? わかってるから! 序盤は飛ばしてコーナーで息入れて直線スパート、練習してきたから大丈夫だって!」

「よろしい。ゴールでヒクマとエチュードと待ってるよ」

「まっかせなさい!」

 

 笑顔でブリッジコンプはパドックへと駈けだしていく。その背中を見送りながら、私はぎゅっと拳を握りしめた。

 

 

       * * *

 

 

 パドックでのパフォーマンスが終わり、本バ場入場。

 

「コンプちゃーん、ふぁいとー!」

 

 ヒクマとエチュードと、例によって最前列から見守る。今日のコンプは2番人気。そもそも短距離レースは逃げ・先行有利なだけに、前走の逃げ切り快勝はなかなか高く評価してもらえたようである。

 今回のききょうステークスは8人立ての少人数レースだ。全員がターフに姿を現したところで、ターフビジョンが他レース場のレースを流し始める。

 中山第9レース、ジュニア級オープン特別、芙蓉ステークス。

 阪神の芝1400は向こう正面からのスタートなので、コンプのいる場所からはターフビジョンは見えない。映像の中、ゲートが開いて――やや出遅れた鹿毛の三つ編みが、強引にバ群を突き破るように無理矢理前に出て行く。

 デュオスヴェル。相変わらずスタートが下手だが、押して押してで強引に先頭に立ったスヴェルは、そのまま明らかに飛ばしすぎのペースで後続を引き離した。先行勢はあのペースでは早晩バテるだろうと見越してか、無理に追おうとはしない。

 だが、その後の1000メートルの通過タイムは、思ったほど早くはなかった。後続を充分に突き放した時点で、スヴェルはややペースを落としていたのだ。意識的な調整か、はたまた後ろを突き放して安心したのか。

 いずれにせよ、3コーナーにかかって、後続がじわじわと差を詰めてくる。4コーナーで捕らえられそうになったところで、しかしスヴェルもスパートをかける。

 結果、抜かせそうで抜かせない、粘りの走りでスヴェルは中山の短い直線を駆け抜けた。最後は坂で追いかけてきた先行組が力尽き、外から飛んできた差し組を振り切ってゴール。

 終わってみれば、先頭で悠々と逃げて道中で息を入れ、最後に脚を残して粘り勝ちという逃げウマ娘の理想的なレース運びでの快勝である。どこまで狙ってやったのかは定かではないが、大したものだ。

 

「おー、スヴェルちゃんすごーい」

「やっぱり強いね……。ヒクマちゃん、次ひょっとしたら戦うんじゃないかな」

「ふえ? 東スポ杯?」

「うん、それかホープフルステークス」

「あ、そっか、スヴェルちゃん三冠路線だもんね! よーし負けないぞ!」

 

 ヒクマとエチュードがそんなことを言い合う中――ビジョンの映像が切り替わり、引き締まった表情でゲートに向かおうとするコンプの姿が映し出され。

 芦毛のウマ娘が、コンプの背中に声を掛けるのが見えた。

 

 

       * * *

 

 

 ――ふん、ま、デカい口きくんだから、そのぐらいやってくれなきゃ困るんですけど。

 場内に流れた音声で、どうやらデュオスヴェルが勝ったらしいとわかった。コンプは息を吐いてゲートに向き直る。別に応援していたわけじゃない。負けたらバカにし返してやろうと思ってたのにアテが外れただけだ。まあいいや。これであたしが負けたらまたあいつにバカにされる。そんなのは御免だ。ここはきっちり勝って、京王杯ジュニアであの三つ編み眼鏡に――。

 

「お~い、そこの栗毛の子。ブリッジコンプだよね?」

 

 突然聞き覚えのない声を背後からかけられ、コンプは訝しんで振り返った。

 そこには、芦毛を後ろで短いふたつのテールにした、日焼けした肌のウマ娘がいた。ゼッケン番号は5番。同じレースの出走ウマ娘だが、名前はなんだっけ。相手の名前なんていちいち覚えていない。

 

「……どちらさま? 学園のどこかで会ったっけ?」

「やー、すれ違うぐらいはしてると思うけど、実質初対面じゃない? あたし、チョコチョコ。よろしくぅ」

 

 ぴっと指を顔の前で2本立てて、チョコチョコはにへらと笑う。

 やっぱり覚えのない名前だった。コンプは首を捻る。

 

「あたしの自己紹介は必要ないみたいだけど、なに?」

「ふふ、いいねえその傲岸不遜な態度。ムニっちに宣戦布告したってゆーから、どんな子かと思ってたけど――こりゃまた」

 

 そこで言葉を切って――チョコチョコのその締まりのない笑みが、急に変貌した。

 

「叩き潰し甲斐がありそうだよ」

「――――ッ」

 

 ぞくり、とコンプは背筋に鳥肌が立つのを感じて、それを悟られまいと、きっと強くチョコチョコを睨み付けた。

 

「……ひょっとしてあんた、あの三つ編み眼鏡の仲間?」

「んーまあ、そんなトコかなあ。同じトレーナーの担当だしねえ。まあでもだからって、別にムニっちの差し金で嫌がらせに来たとかそんなんじゃないからさあ、安心してよ」

「そんな姑息な奴だったら、こっちから宣戦布告取り下げるわ」

「はは、そりゃそうかあ。ま、てなわけでこれはあたしからの宣戦布告」

 

 と、チョコチョコは親指を立てて、自分の胸を指差す。

 

「ムニっちに宣戦布告するなら、まずあたしを倒してからにしてもらおっか」

「――なにそれ。ラスボス前の中ボス?」

「あはは、違う違う。あたしは、ラスボスの寝首を掻こうと虎視眈々と狙ってる裏ボス。――ムニっちを倒すのは、あんたじゃなくあたしだって話さあ」

 

 けらけらと笑い――「じゃーねー」とチョコチョコは手を振ってゲートへと向かう。

 その背中を見送って、コンプは詰めていた息を吐き出すと、小さく呟いた。

 

「……なに? あいつ」

 

 

       * * *

 

 

 不可解な宣戦布告を受けようが受けまいが、レースは始まる。

 

『体勢完了。ジュニア級オープン、ききょうステークス――スタートしました!』

 

 ゲートが開くと同時、ブリッジコンプは勢い良く飛び出した。よし、今日もスタート大成功。あっという間に視界から他のウマ娘が消え、コンプは悠々と先頭に立つ。

 稍重というバ場発表で足下が若干柔らかい気がするが、気のせいかもしれない。特に気にするほどのことじゃないない、とコンプは前を向いて向こう正面の直線を駆け抜けていく。身を切る風が気持ちいい。よおし、今日も絶好調――。

 

 ――ぞくり、と。

 突然、背中にまた冷たいものが走って、コンプは思わず振り向いた。

 自分の左手やや後方に――あの、芦毛のウマ娘がぴったりと貼り付いている。

 

『さあ今日も先手を取って逃げます3番ブリッジコンプ、それを5番チョコチョコがぴったりマークして追走していきます。3バ身離れて3番手――』

 

 ――ふうん、あたしをマークしようっての? だったら!

 コンプは脚に力を込めてペースを上げる。中ボスだか裏ボスだか知らないが、こんなところで出てくる敵に構ってる暇なんてないのだ。コーナーまでに振り払ってやる。

 

 そう、思っていたのに。

 ぞくぞくとする背筋の感覚が消えない。

 振り返ると、奴は涼しい顔をしてそこにいる。

 

 ――何なの、コイツ。

 あの三つ編み眼鏡とは違う。あいつは一旦抜いてやったら、あとは死んだふりみたいに気配を消していて、直線で突然するっと抜け出してきて押し切られてしまった。

 だけど、こいつは――ビシビシと、殺気のような気配をこっちにぶつけてくる。

 ほらほら、あたしはここにいるよ、逃げないの? ――とでも言わんばかりに。

 

「くんのッ――」

 

 息を入れよう、というトレーナーの言葉は、頭から消えてしまっていた。息なんて入れてる場合じゃない。ちょっとでもペースを緩めたら、こいつは涼しい顔であたしを抜き去って、そして二度と追いつけない――。

 ――何を考えてんの、あたし。

 負けるって? このあたしが? こんなところで?

 ナメんじゃないっての、あたしは――あたしは、最強になるんだからッ!

 

『先頭ブリッジコンプがかなり飛ばしていますが、チョコチョコも半バ身後ろをぴったりと追走して3コーナーから4コーナーへ』

 

 振り切れない。

 全力で逃げているのに、まるで自動追尾みたいにぴったりとついてくる。

 差が開かない。開けない。なんなの、なんなのよコイツ――。

 

『さあ直線を向いた、ブリッジコンプ先頭で粘る、チョコチョコ食らいつく』

 

 食らいつく? そんなんじゃない。そんなかわいいもんじゃない。

 こいつは――あたしを、喰い殺そうとしている。

 

「っ、くあああああっ!」

 

 コンプは雄叫びを上げて逃げた。逃げようした。

 

 だが。だけど。

 ゴールが、遠い。

 まだあんな、坂の上。

 1400メートルって、こんなに長かったの――?

 

 坂にさしかかったときにはもう、脚が前にいかなくなっていた。

 それを見越していたように、芦毛のふたつのテールがすっと前に抜け出して、コンプを置き去りにしていく。

 その背中に、手を伸ばすだけの気力が、もうコンプには残っていない。

 

 坂が、長い。

 こんな長い坂を、登り切れる気が、しない。

 

『チョコチョコ抜けた抜けた、ブリッジコンプは苦しい! 後続も追い込んでくる!』

 

 もう、雄叫びをあげる力も、コンプには残っていなかった。

 

 ――ゴール板を駆け抜けたとき、自分が何着だったのかも、コンプには解らなかった。

 



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第38話 勝てなくてもいいレースなんて

 5着。掲示板入りではあるが、8人立てでの5着である。完敗、と言ってよかった。

 敗因ははっきりしている。勝ったチョコチョコに完全にマークされ、息を入れるべきコーナーで掛かってしまい消耗、直線の坂でスタミナ切れ。ずるずると最後方まで沈んでもおかしくなかったが、むしろ5着に踏ん張ったと言った方がいい失速だった。

 自分のレースをさせてもらえなかった。競り合う相手がいると暴走してしまうコンプの掛かり癖が悪い方向に出てしまった。それに尽きる。

 ライバルと目すユイイツムニが同じ逃げのスタイルである以上、今後もあの子に挑んでいくならこういった展開のレースは避けられない。1400を走りきる厳しさも含め、完敗ではあったが、これも必要な経験だったと割り切るしかないだろう。

 ――コンプを出迎えたら、そういう話をしよう、と私は思っていた。

 デビュー戦で敗れたときも、コンプはすぐに切り替えていた。今回も敗因ははっきりしているのだから、切り替えて次のレースへ向けて気合いを入れ直そう、と。

 そう、励ましてあげればいいと。

 そんな風に、私は軽く考えていた。

 

 だけど。

 

「コンプ――」

 

 ターフから戻って来たコンプの表情を見た瞬間に、私は、全ての言葉を失ってしまった。

 俯いて、血が滲みそうなほどに強く唇を噛みしめたその顔。

 いつも強気に笑っているコンプの、見たことのない表情の前では。

 

 ――切り替えよう。

 ――次に向けて、課題ははっきりした。

 ――これも必要な経験だったんだ。

 

 そんな、浅薄な言葉は全て、何の意味も持たなかった。

 

「……トレーナー、ごめん。……しばらく、ひとりにさせて」

 

 私の横を通り過ぎる瞬間、コンプは低い声でそれだけ言った。

 その小さな肩に、私はそれ以上、どんな言葉も掛けられないまま。

 控え室のドアが閉じる音を聞きながら、私は呆然と立ち尽くしていた。

 

 

       * * *

 

 

 チョコチョコが勝者インタビューを終えて控え室に戻ると、ドアの横にユイイツムニがもたれて文庫本を開いていた。こんなときまで本読んでなくてもいいのになあ、と苦笑しつつ、チョコチョコは「ただいまーっと」と手を挙げる。

 

「……ん、お疲れ様、チョコ」

 

 本に栞を挟んで閉じ、ユイイツムニは顔を上げた。チョコチョコはにっと笑う。

 

「やー、ごめんねムニっち。あの子、あたしが先に叩き潰しちゃって。……あふ」

 

 レースの疲れで眠くなってきた。チョコチョコはひとつ欠伸を漏らす。

 ――ブリッジコンプ。デビュー戦でユイイツムニに食らいついた姿を見たときには、ひょっとしてなかなかのものかと思ったが、終わってみれば大した相手じゃなかった。せっかくトレーナーに志願してこのレースに出させてもらったってのに、拍子抜けである。

 あの栗毛の生意気そうな顔が、坂で失速して後退していくときの絶望的な表情は、なかなかゾクゾクしたけれども。我ながら性格悪いな、とチョコチョコは思う。

 まあでも、ムニっちにライバル宣言なんて身の程知らずなことをした向こうが悪い。ムニっちのライバルは、他の誰もいらない。このあたしだけで充分だ。

 

「……別に。これで潰れるようなら私の見込み違いだっただけ」

 

 ユイイツムニは無表情にそう答える。む、とチョコチョコは眉を寄せた。完膚なきまでに叩き潰したつもりだったのに――まだムニっちは、あの子を見切ってないのか。それだけ、デビュー戦で食いつかれた印象は強かったのかもしれない。

 

「おう、チョコ。いいレースだったぞ」

 

 と、そこへふたりの担当トレーナーが姿を現した。スキンヘッドにサングラス、いかつい顔立ちでスーツを着るとその筋の人にしか見えないことを気にしているトレーナーは、少しでも親しみやすい格好をしようと今日はアロハシャツを着ているが、やっぱりその筋の人にしか見えない。

 

「あ、トレーナー。ふぁぁ……まあ、こんなもんっしょ」

「余裕だな。期待以上だ。どうする、このまま朝日杯FSに向かうか?」

 

 欠伸を漏らしつつ手を振ると、トレーナーの思わぬ言葉に、眠気が少し覚めた。

 

「おお? ムニっち差し置いていきなりGⅠ行っていいのぉ?」

「今日の走りを見たらな。ユイイツムニもどうだ、いっそ京王杯ジュニア見送ってこのまま阪神JF狙うか?」

「あたしとムニっちでジュニア級マイルGⅠ両獲り狙っちゃうわけ? 大それた野望ー」

 

 チョコチョコは肩を竦め、ユイイツムニはあまり興味なさそうに首を傾げた。ムニっちはなんてゆーか、無欲なんだよなあ、とチョコチョコは思う。

 正直、三度の飯より本を読んでいる方が好きにしか見えないユイイツムニが、どういうモチベーションでレースに挑んでいるのか、よくわからないところがある――。

 

「まあ、阪神JFにゃエレガンジェネラルとかいうティアラ路線のバケモンが来るからなぁ。ユイイツムニでも勝てるかどうか――」

 

 スキンヘッドの後頭部を撫でながら、トレーナーは言う。

 その言葉に、ユイイツムニの眉が上がった。

 

「出ます」

「お?」

「阪神JF、目指します」

 

 短いユイイツムニの言葉に、トレーナーはニヤリと笑う。

 

「――おお、そうか。ようし、それなら京王杯ジュニアはもう出なくても」

「そっちも出ます」

「あ? 間隔詰まるぞ、できれば俺としてはそれは避けたいんだが――」

「出ます」

「……わかったわかった、じゃあ京王杯ジュニアも勝ってこい!」

 

 断固とした口調で言い張ったユイイツムニに、トレーナーは呆れたように頷く。

 そして――ユイイツムニは、ちらりとチョコチョコの方を見やった。その視線に、チョコチョコはぞくりと背筋が泡立つのを感じた。

 こいつは――ムニっちからの、挑戦状だ。

 

「トレーナー。あたしも京王杯ジュニア出ていい?」

「ああー?」

 

 チョコチョコが声をあげると、トレーナーはあんぐりと口を開けた。

 

「お前まで何言い出すんだ、チョコ。お前とユイイツムニで潰し合ってどーする。朝日杯FSの前に前哨戦叩きたいってならデイリー杯でも――」

「そりゃトレーナーとしちゃ、あたしとムニっちで潰し合われちゃ困るのかもしんないけどさあ。あたしはムニっちと勝負したいんだよねえ。ねえムニっち」

 

 チョコチョコが視線を向けると、ユイイツムニは無表情のまま頷いた。

 

「……受けて立つ」

 

 その言葉に、「だーっ」とトレーナーはスキンヘッドを掻いた。

 

「わかったわかった、好きにしろ! ったく、ワガママな担当だなお前ら!」

「あたしたちでジュニアGⅠ獲りたいってゆートレーナーのワガママ聞いてあげてんじゃん。ねえムニっち」

 

 呆れ顔で言うチョコチョコに、ユイイツムニも頷く。トレーナーは息を吐いた。

 そんなトレーナーに、チョコチョコは笑って言う。

 

「ま、大丈夫だってトレーナー。京王杯はあたしとムニっちで、1着2着独占するから」

 

 

       * * *

 

 

 トレセン学園には、負けたウマ娘がその悔しさを叫んで発散するという、大きな洞の切り株がある。

 こんなところ、自分には用のない場所だと思っていた。

 自分は最強なのだから。負けた悔しさを叫ぶことなんてない。

 ずっと勝ち続けて、最強のウマ娘の名をほしいままにして――。

 

 そんなこと。

 ただの空想だって、本当はとっくに解っていたはずだったのに。

 

 ききょうステークスの惨めな敗北から、新幹線でその日のうちに東京へとんぼ返りする間、コンプはずっと黙りこくっていた。ヒクマやエチュードが声を掛けてきても、何も答えなかった。答えられなかった。

 口を開いてしまったら、何もかもが壊れてしまいそうだったから。

 今まで必死に自分に言い聞かせ続けて、信じ込もうとしていた幻想が、全部。

 

 ――そんなもの、今日のレースでとっくに壊れてしまったのに。

 

 陽の暮れた土曜日の学園内にウマ娘の姿はほとんどない。寮の前でヒクマとエチュードと別れ、コンプはその切り株のところへ足を向けていた。

 この切り株に向けて何かを叫んでいるウマ娘の姿は、何度となく目にしている。

 自分がそのお世話になる日が来るなんて、思わなかった。

 思いたくなかった。

 現実なんか、知りたくなかったのに。

 

「………………~~~~ッ」

 

 切り株の淵に手を掛けて、その虚ろな穴を覗きこんだ瞬間。

 堰を切ったように――必死に堪えてきた感情が、全部溢れ出した。

 バカみたいな量の涙が、切り株の洞の中に吸い込まれていく。

 両手も両足もガクガクと震えて、身体を支えられず、コンプはその場に膝をついた。

 

 解ってた。

 本当は解ってたのだ。

 自分が、最強でもなんでもないことなんて。

 せいぜい、そこそこ程度に強いだけの。決して頂点には手が届かない、その遥か手前で満足するしかない、そのレベルになんとかたどり着けるかというウマ娘でしかないと。

 解っていた。最初から、解っていたのに――。

 

 三冠ウマ娘という大それすぎた夢は、そもそも夢でしかないと解っていた。

 それが無理でも、短距離なら。スタートダッシュから逃げることしかできないあたしでも、それが圧倒的に有利な短距離でなら、最強になれるんじゃないか。

 そんな、描いた儚い希望も、今日のレースで完璧に砕け散った。

 たった1400メートルも走りきれず。徹底的にマークされて、相手の狙い通りに潰された。振り切ることも抑えることもできず、為す術もなく蹂躙された。

 完敗。惨敗。勝てない。あいつに――あのチョコチョコとかいうウマ娘に、勝てる気がしない、と思ってしまった。

 その瞬間、コンプの中で何かが折れた。

 自分を奮い立たせてきた、「最強の自分」という幻想は、粉々に砕け散った。

 

 最強になんか、なれない。

 あんな奴らがうようよいるような世界になんて――手が届く、はずがない。

 

 感情は言葉にならなかった。ただ赤ん坊のように、コンプは切り株の洞に向かって泣きわめくしかできなかった。

 たった1敗。誰だって負ける。無敗で引退するウマ娘なんて、早期に故障で引退したウマ娘ぐらいだ。――そんな常識的な言葉なんて、なんの意味も価値もない。

 最強、という、ブリッジコンプというウマ娘の足を立たせていた土台が壊れたのだ。

 もう、何もないところから、いったいどこへ走っていけるというのだろう――?

 

「――――」

 

 ざく、と草を踏む足音がして、コンプは泣きはらした顔のまま、顔を上げた。

 ――そこに、トレーナーの姿があった。

 

「トレー、ナー……」

 

 声は泣きわめきすぎて掠れていた。腫れぼったい目をしばたたかせるコンプを、真剣な表情でじっと見つめながら、トレーナーはこちらに歩み寄ってくる。

 慰めの言葉なんかほしくない。コンプは切り株の淵を握りしめる。

 今慰められたら、完全に、何もかも、壊れてしまう。

 最強じゃないあたしなんて――もう、走る意味なんて、ない、のに。

 

 だけど、トレーナーは。

 切り株を挟んだコンプの向かい側で、切り株の淵に手を掛けて。

 その洞を覗きこんで――叫んだ。

 

「――ごめん、コンプ!! 私は――トレーナー失格だぁぁぁ!!」

 

 ぽかん、とコンプは口を開けた。

 何を。いったい何を言っているのだ、トレーナーは。

 負けたのはあたしで。ただ、あたしが弱いだけで――。

 

「今日のレース! 誰より私に、勝ちたいって気持ちが足りなかった! コンプはこんなに勝ちたがってたのに! 私は、負けても課題が見つかればそれでいいと思ってた! 今日のレースを、本番に向けての叩き台としか思ってなかった! コンプを最強のウマ娘にするって約束したのに! 私はコンプとの約束を蔑ろにしたんだ! ごめんなさい、ごめんなさいコンプ! 全部私の責任だ! トレーナー失格だ――ッ!!」

 

 がつん、とトレーナーが切り株の洞を叩いた。その拳から血が滲むのを見て、コンプは息を飲む。

 

「ちょっ――ちょっと、トレーナー、落ち着いてよ、トレーナーってば――」

 

 さっきまで心を埋め尽くしていた絶望感も吹き飛んで、慌ててコンプはトレーナーに駆け寄る。その右手を掴むと、トレーナーはぎゅっと目を瞑って、コンプを振り返った。

 

「……コンプ。レースの後のコンプの顔を見るまで、私は、そんなことにも気付かなかったんだ。ひとつの負けが、コンプの夢にとってどれだけ重いか、考えもしなかった。ごめん。本当にごめん。――こんな私は、コンプのトレーナーに相応しくない」

「――――」

「許してなんて言えない。担当ウマ娘の気持ちも理解してやれない、こんなダメトレーナーよりも、コンプにはもっと、」

 

 ――何を。

 何を言うのだ。

 そんなこと――言わせない。

 

「――何言ってんのよっ、バカトレーナー!」

 

 思わず、コンプは叫んでいた。トレーナーが目を見開く。

 

「あたしをっ、あたしの夢をっ、短距離最強にしたのはトレーナーでしょうがっ! 責任取れって言ったじゃない! こんなところで投げ出すなんて、それこそトレーナー失格じゃないのよ! ――あたしに悪かったと思うなら、この5着は若気の至り、短距離最強ウマ娘のジュニア時代のお茶目なやらかしで済ませられるように、あたしを本当に短距離最強のウマ娘にしてみせなさいよ――ッ!!」

 

 そうだ。

 最強のウマ娘になりたい、というあたしの夢を、笑わずに聞いてくれた。

 どんな距離でも無茶苦茶に逃げて玉砕することしかできなかったあたしを、ちゃんとマトモに戦える舞台に導いてくれた。

 そんなトレーナーが、ダメなわけない。失格なわけ、あるはずない。

 あたしは――あんただから、ついてきたのに。

 トレーナーとだから、最強になれるって、信じてきたのに。

 

「あたしは、あたしは最強のウマ娘になるんだから! 絶対、絶対に最強になって、あんたとあたしの選択が間違ってなかったって、胸を張って笑ってやるんだから――ッ」

 

 涙を拭って、コンプは胸を張る。顔を上げて、夜空を見上げる。

 最強になんて、なれないなんて――そんなこと、あるもんか。

 トレーナーと一緒なら、あたしは絶対、最強になれる。

 最強にならなきゃいけないんだ。トレーナーのくれた夢を、叶えるために。

 

「……コンプ」

 

 くしゃりと、トレーナーの顔が歪んだ。

 そして、ゆっくりとトレーナーは立ち上がると、血の滲んだ右手を、コンプの頭に差し伸べようとして――自分の手が汚れていることに気付いて、困ったように手を彷徨わせて。

 

「うん――私はそうやって、胸を張って笑ってるコンプが好きだよ」

「――――――なっ」

 

 な、なななっ、何を言い出すのだいきなり!

 突然のストレートな言葉に顔が熱くなる。いや、そんなこと言われても、トレーナーにはエーちゃんがいるわけで、いやエーちゃんは別にまだそういうわけじゃないけど、いやでもやっぱりエーちゃんの気持ち考えたらあたしは――って違う、そうじゃない!

 

「な……っ、そっ、そーゆーこと、あたしに言ったって何にも出ないからねっ!」

 

 顔が熱いのを誤魔化すように、コンプはぷいとそっぽを向く。

 トレーナーが少し笑った気配がして、そして。

 

「コンプ。――京王杯ジュニア、出よう」

 

 トレーナーは、はっきりと、そう言った。コンプは息を飲む。

 

「……本気? こんな情けない負け方しておいて、あたしにまた1400走らせるの?」

「ああ。今日の敗因ははっきりしてる。だから、次は勝てる」

「――――」

「勝てる。勝つんだ。ユイイツムニとチョコチョコに。強いライバルを倒さなきゃ、最強なんて名乗れないでしょ?」

「――勝てると思うの? あたしが、あいつらに」

「勝つんだ」

「――――」

「だってコンプは、最強のウマ娘になるんだから」

 

 なれる、でもない。

 なれると信じてる、でもない。

 最強のウマ娘になるんだ、と、確定した未来を語るように、トレーナーは言った。

 

「――――~~~ッ」

 

 その顔を見上げて、コンプはぎゅっと目を瞑る。

 ――ああもう、このバカトレーナー。そんな顔して言われたら、信じちゃうじゃない。

 あんな情けない負け方したのに、それでもまだ、最強を目指していいんだって。

 最強になる資格は、あたしにまだ残されてるんだって――。

 

「……ったく、しょーがないんだから! トレーナーに辞められたらクマっちもエーちゃんも困るだろーから、あたしが最強になってあげるしかないじゃないのっ!」

「コンプ」

「だからトレーナー、二度と自分は失格だとか相応しくないとか言うんじゃないわよ! あたしが最強のウマ娘になって、あんたが最強のトレーナーだって証明してあげるんだからね!」

 

 その言葉に、トレーナーは顔をくしゃりと歪めて。

 

「……ありがとう、コンプ」

 

 と、また右手をコンプの頭に伸ばしかけて、困ったように途中で手を彷徨わせる。

 コンプはそれを見て、呆れ混じりの溜息をついて――ポケットからハンカチを取り出すと、出血は既に止まっていたトレーナーの右手に巻き付けて結んだ。

 

「これは返さなくていーから、あとでちゃんと消毒しなさいよ」

「……ごめん」

「謝るなっての! はい、これでよし。――だから」

 

 コンプはトレーナーの右手を離すと、その頭をトレーナーに向けて差し出した。

 ――クマっちと違って、撫でられるのは、子供扱いされてるみたいでヤだったけど。

 まあでも、うん。今ぐらいは……いいかな。

 

「……今だけ、このブリッジコンプちゃんの頭を撫でる権利をあげる」

 

 上目遣いに見上げると、トレーナーは目を見開いて、それから嬉しそうに笑う。

 ――ああもう、そんな嬉しそうな顔するんじゃないっての!

 そう思った瞬間、トレーナーの手がくしゃくしゃと髪をかき乱してきて。

 ……クマっちが喜ぶ気持ち、ちょっとわかる……かも。

 コンプはそう思ってしまった自分を、なんとか振り払おうとしながら、ただトレーナーの手にしばらく身を任せていた。



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第39話 はじまりの夢は

 負けを悔やんでいる暇はない。前を向く限りは、走り続けるしかないのだ。

 

「コンプ! まずは京王杯ジュニアまでに、1400を掛かってもバテないスタミナをつける! はい、坂路あと5本!」

「いや、そんな簡単に言われてもー! うひー、トレーナー、鬼ー!」

「エチュードはスパートのタイミングで焦らないように、もっと瞬発力をつけよう! そのためにはもっと体幹をしっかり鍛えること!」

「は、はひぃ……」

 

 改めて気合いを入れ直し、コンプの京王杯ジュニアと、週末のエチュードの未勝利戦に向けてトレーニング。ちょっと気合いを入れすぎたか、コンプもエチュードもへろへろだ。ふたりとも芝生の上に座り込んでスポーツドリンクを喉に流し込んでいる。

 

「トレーナーさん、わたしはー?」

 

 で、ヒクマはふたりと同じメニューをこなしつつもまだまだ楽しそうだ。この疲れ知らずの元気さが、ヒクマの一番の才能かもしれない。

 

「うん。コンプ! 休憩終わったら、ヒクマと併走してくれる?」

「うへー、まだ走るの? いやまあやれって言うならやるけど!」

「よしよし。――さてヒクマ。次の東スポ杯には、デュオスヴェルが出てくることが決まったよ」

「おー、スヴェルちゃんと走れるんだ! 楽しみ!」

 

 ヒクマが両手を挙げ、座り込んでいたコンプが顔を上げる。なんだかんだ言って、やっぱりスヴェルのことは気になるらしい。

 先日の芙蓉ステークスを快勝したデュオスヴェルは、東スポ杯を経て朝日杯フューチュリティステークスに向かうと担当トレーナーが明言した。同じトレーナーが担当しているオータムマウンテンは、側聞したところによると京都ジュニアステークスを経由してホープフルステークスに向かうらしい。

 つまり、東スポ杯からホープフルSに向かうヒクマには、このふたりが立ちはだかることになる。そして奇しくも――このふたりの脚質は、ヒクマのそばのふたりとよく似ているのだ。

 デュオスヴェルは強引にでもハナを切って突っ走る逃げウマ娘。オータムマウンテンは後方からマイペースにいつの間にか上がってくる追い込みスタイル。タイプ的にはそれぞれコンプ、エチュードと近い。

 つまり、3人で併せて走ることがそのまま、ヒクマにとっては東スポ杯とホープフルSの有力ウマ娘対策になる。そして、何より――。

 

「デュオスヴェルは強引にでも前に出て逃げるタイプだ。――つまり、ここでしっかりデュオスヴェル対策をしておくと、それはそのまま、トリプルティアラでのジャラジャラ対策に流用できる」

「あ、そっか!」

「まあ、対策と言っても、要はヒクマのいつも通りの走りを前目で、逃げるデュオスヴェルに離されずにぴったりついていく――それができれば大丈夫。というわけで、ヒクマは逃げるコンプにくっついていく走りをしっかりやってみよう」

「はーい!」

「で、コンプ。自分の課題はわかってるよね?」

「……競りかけられたときの折り合い」

 

 ぶすっと口を尖らせてコンプは答える。その通り、ききょうステークスの敗因はそこだ。マークされ、競りかけられても冷静に自分のペースで走ること。前に誰かがいると抜かずにいられない性格はそう簡単に変えられないとしても、とにかくコンプは相手が自分をマークして来る状況や、同じ逃げウマ娘と競り合う状況でしっかり折り合いをつけ、適切なペース配分ができるようにならないといけない。

 

「よろしい。というわけで」

「クマっちにマークされながら自分の走りをしろってことでしょ?」

「理解が早くて何よりだよ。休憩が終わったらふたりとも、相手のいる状況で自分の走りをしっかりやってみよう!」

「はーい!」

「了解」

「……あの、トレーナーさん、私は……」

「エチュードは引き続き体幹トレーニングね。あと――」

 

 私はエチュードを見下ろし、ふむ、とひとつ唸ってその背中に手を当てた。

 

「ひあっ!?」

「ほら、また猫背になってる。もっと普段から意識して背筋を伸ばして――エチュード?」

「は、はひ……」

 

 背中を軽く押してやると背筋が伸びたのはいいが、何やら固くなっているエチュードに、私は首を捻り。コンプが何か、処置なしとでも言いたげに肩を竦めていた。

 

 

       * * *

 

 

「はい、じゃあ今日はここまで! おつかれさま!」

「おつかれさまでしたー!」

「ぐへー、つかれたー」

「コンプちゃん、大丈夫……?」

 

 トレーニングを終え、大の字で倒れこむコンプを、エチュードが心配そうに覗きこむ。苦笑しつつそれを見守っていると、背後から「トレーナーさん!」と声が掛かった。振り向くと、駿川たづなさんが段ボール箱の積まれた台車を押しながら手を振っている。

 

「たづなさん。どうしました?」

「はい、学園に届いた荷物なんですが」

 

 と、たづなさんは台車に積まれた段ボール箱から大きなひとつを持ち上げる。宛名を見ると私宛の荷物だ。はて、と考えて、数日前にトレーニング用品をまとめて注文していたことを思い出す。それが届いたのか。

 

「どちらに運びましょう?」

「ああ、お手数おかけしました。それなら自分でトレーナー室に持っていきますよ」

「大丈夫ですか? 重たいですよ」

「いえいえ、こう見えても私だって鍛えてますので――重ッ!?」

 

 たづなさんが軽々と持ち上げていたので、軽い気持ちで段ボール箱を受け取ると、予想外の重さに腕が抜けそうになった。なんとか気合いを入れれば持てなくはないが……。

 

「……た、たづなさん、意外と力持ちですね」

 

 こんな重いものをあの細腕で軽々と持ち上げていたとは、理事長秘書、侮りがたし。

 

「大丈夫ですか? やっぱり私がお運びしましょうか」

「い、いえいえ、このぐらい……」

 

 ここで「すみませんお願いします」とたづなさんに返すのは、担当ウマ娘たちの手前いささか情けないものがある。意地を張って、ふんぬ、と抱えていると、

 

「……あ、あの、トレーナーさん。私、手伝います……」

 

 エチュードが私に駆け寄ってきた。おや、と私は少し意外に思う。この状況で手伝いにくるとすればヒクマか、呆れ顔のコンプだと思っていたのだが……。

 

「エチュード? いや、大丈夫……」

「大丈夫そうに見えないですよ……。あの、任せてください……」

「で、でも、これ結構重いから」

「ウマ娘は人間より力持ちですから。無理しないでください、トレーナーさん」

 

 真剣な顔でエチュードに言われ、私のプライドは悲鳴を上げる二の腕の筋肉に屈した。

 

「……ごめん、お願い」

「は、はいっ」

 

 段ボール箱をエチュードに手渡す。エチュードは「よいしょ」とその段ボール箱をしっかり抱え、ふらつくこともなくしっかり支えた。――ううむ、人間とウマ娘の身体能力の差は重々承知している身だけれど、華奢なエチュードが自分よりずっと力持ちという現実をこうもはっきり見せつけられると、いささか複雑な気分である。

 

「じゃ、エーちゃん、あたしたち先戻ってるね。トレーナー、おつかれさま」

「おつかれさまー! でもコンプちゃん、わたしたちもお手伝いしなくていいの?」

「いーのいーの、エーちゃんのお邪魔しない!」

 

 コンプがヒクマの背中を押して寮の方へと戻っていく。

 

「えと……トレーナー室に運べばいいですか?」

「うん、ありがとう。じゃあ一緒に行こうか」

「はひっ」

 

 こくんと頷くエチュードを伴い、たづなさんに会釈して私たちは歩き出した。

 

 

 

「大丈夫? 交替しようか」

「い、いえ、平気です。……えと、こうやって抱えてると、背筋も伸びるので……これもトレーニングだと思って、やります」

 

 大きな段ボール箱を抱えて、エチュードはゆっくり階段を上る。担当ウマ娘に重い荷物を持たせている罪悪感を覚えつつ、私はその隣を歩く。

 

「心がけはいいけど、無理しないでね。週末はレースなんだし」

「……はい。今度こそ、勝ちたいです」

「大丈夫、エチュードなら勝てるよ。勝ってデイリー杯に出よう」

「は、はい……」

 

 そうなれば、11月は3週連続で担当ウマ娘が重賞に挑むことになる。4日のコンプの京王杯ジュニア、11日のエチュードのデイリー杯、18日のヒクマの東スポ杯。息つく間もないスケジュールになるが、新人トレーナーの私がそんなチャンスを得られるだけでもとんでもない僥倖だ。

 ヒクマがすごい才能の持ち主なのは間違いないが、コンプとエチュードだって決して資質では負けていない。ゆくゆくは3人ともGⅠウマ娘に――というのは、新人トレーナーの無謀な野望かもしれないけれど。

 ヒクマの「世界のウマ娘」、コンプの「短距離最強」という夢に応える自分であるなら、そのぐらい大それた野望を抱くぐらいでなければと、今は改めて思う。トレーナーが夢を大きく持たずして、担当ウマ娘が大きな目標を掲げられるはずもないのだから。

 

「ねえ、エチュード」

「はい」

 

 ――君の一番大きな夢は? と訊ねかけて、私は言葉を飲みこんだ。エチュードなら、たとえ何か目標があっても、まだ未勝利戦も勝ち抜けていない自分がそれを語るなんて、と縮こまってしまいそうな気がした。

 だから、代わりに。

 

「私が初めて現地で見たGⅠは、イッツコーリングがジュエルスフェーンに勝ったエリザベス女王杯なんだけど、見たことある?」

「……あ、はい」

 

 阪神JF、桜花賞、秋華賞、ヴィクトリアマイル連覇と、ティアラ路線の国内GⅠを5勝し、最後は香港マイルを勝利した、ティアラ路線史上最強マイラーとも呼ばれるジュエルスフェーン。その同期のイッツコーリングは、トリプルティアラでは桜花賞で惨敗しただけの地味な条件ウマ娘でしかなかったが、シニア級になってから力を付けて重賞を勝ち、GⅠでも好走を見せるようになり、シニア級2年目のエリザベス女王杯で直線マッチレースの末、ジュエルスフェーンをクビ差で差し切って、GⅠウマ娘の戴きを手にした。『どちらも女王の冠は譲れない! スフェーンの意地か、コーリングの執念か、どっちだ!?』の名実況でも知られる、エリザベス女王杯史上屈指の名勝負だ。

 

「あのレースのあと、勝ったイッツコーリングが、ターフでトレーナーと抱き合ってふたりで声を上げて泣いていて……それを負けたジュエルスフェーンが爽やかに笑って見守っているのを、現地で見て――ウマ娘のトレーナーになりたい、って思ったんだ」

「…………」

「あんな風に、全身全霊でウマ娘と夢と喜びを分かち合って、同じ夢に向かってひた走るトレーナーになりたいって、ね」

 

 ――ああ、そうだ。そんな夢を抱いて、私もこのトレセン学園の門をくぐったのだ。

 日々の忙しさ、目の前の担当ウマ娘のことにかまけて忘れかけていた自分の原点を改めて思い出して、私は目を細めてエチュードを振り向く。

 

「エチュードとも、そんな風に一緒に走っていきたいと思ってる」

「――――」

 

 エチュードはびっくりしたように目を見開いて、それから段ボール箱に顔を伏せるようにして黙りこんでしまった。……しまった、改めて思うとこんな話をするにしても、いささか唐突すぎる。そりゃエチュードだって反応に困るだろう。

 

「あ、いや、ごめんね、いきなり変な話して」

「い、いえ、そんな……」

 

 エチュードは慌てたように、段ボール箱を抱え直そうとして、

 がくん、とその足が、階段の段差を踏み外した。

 

「――――ッ」

「エチュード!」

 

 ぐらりとエチュードの身体が傾いだのを見て、私は咄嗟に手を伸ばす。危ない、このままではあの重たい段ボール箱ごとエチュードが――。

 ゆっくりと、段ボール箱を抱えたままのエチュードの身体が階段の下へと傾いでいくのを、スローモーションのような視界の中、必死で私は支えようとして、

 

「――危ないっ!」

 

 突然、そこに第三者の声が割り込んだ。

 そして、目にも留まらぬ速さで階段を駆け上がってきた影が、しっかりとエチュードの背中を両手で支えた。ぐっとその手がエチュードの背中を押し、私は前に倒れかかってきたエチュードの身体を受け止める。

 

「あっ、あわっ、わわわっ」

 

 私に受け止められたエチュードが、段ボール箱の向こうで今頃慌てたような声をあげた。

 

「だ、大丈夫? エチュード」

「……はっ、は、はひ」

 

 エチュードの呼吸が乱れている。私も心臓が止まるかと思った。あのまま階段を転落していたら無事では済まなかったはずだ。後ろからエチュードを支えてくれた誰かは大げさでなく命の恩人である。

 私が顔を上げると、その影と目があった。やはりというか、学園のウマ娘である。

 ――というか、ものすごく見覚えのある顔だった。

 

「危ないところでしたね……。大丈夫でしたか、リボンエチュードさん」

「え……?」

 

 名前を呼ばれて、エチュードも驚いたように振り返る。

 

「怪我はしていませんか? 週末はレースなんですから、大事をとって保健室に行った方がいいかもしれませんよ」

 

 心配そうな顔でエチュードを覗きこんだのは――。

 

「え……エレガンジェネラル、さん?」

 

 おそらくもう、学園内に、少なくともトレーナーの間では知らぬ者のない――ジュニア級の怪物ウマ娘。――エレガンジェネラルだった。



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第40話 優雅とは優しく雅びと覚えたり

「私が持ちましょうか、そのお荷物」

「え? いや、しかし」

「いいですから。どうぞお任せを」

 

 というわけで、どういうわけか、自分宛の荷物を他人の担当ウマ娘にトレーナー室まで運んでもらうことになってしまった。

 

「いや、申し訳ない」

「いえいえ、構いませんよ。リボンエチュードさんは大丈夫ですか?」

「はっ、は、はい……」

 

 段ボール箱を抱えたエレガンジェネラルに視線を向けられ、エチュードが背中を丸めて縮こまる。普段から人見知りなエチュードだけに、同期の大物の前では縮こまってしまうのも無理はない。いずれはレースで対決するかもしれない相手なのだが……。

 

「バイトアルヒクマさんのトレーナーさんですよね。お部屋はどちらでしたっけ?」

「ああ――」

 

 トレーナー室の場所を答えて、私とエチュードはエレガンジェネラルと三人で歩き出す。

 しかし、こうして並んで歩いてみると、ごくごく穏やかな物腰の普通の少女という感じだ。前髪を短く切りそろえたストレートボブの鹿毛も、几帳面な優等生という評判通りの印象を与える。レース中に見せる圧倒的な強者のオーラは、ほとんど感じられない。

 

「しかし、ヒクマはともかく、私やエチュードのことまで覚えていてもらえてるとは」

「とんでもない。同期の顔と名前を覚えておくぐらいは当たり前です。リボンエチュードさんは、名門リボン家の方ですしね」

「…………」

 

 エチュードはますます縮こまる。名門の出身であるということについては、エチュードの内心はいろいろ複雑なようだが、それはエレガンジェネラルに言っても仕方ないことなので、私としてもなんとも返しようがない。

 

「それに、トレーナーさんは有名ですよ。新人でいきなり3人もウマ娘を担当して、既に3勝、ひとりは重賞勝利なんて並の新人ではない――とトレーナーさん……あ、私の担当の王寺トレーナーが言っていました」

 

 ……いや、正面からそう言われるとさすがに面はゆい。私は頭を掻いた。結果が出ているのは私の手柄などではなく、ヒクマたちの力だけれども。

 そんなことを言っているうちに、私のトレーナー室にたどり着く。鍵を開けて、部屋の中に段ボール箱を置いてもらい、私は改めてエレガンジェネラルに頭を下げた。エチュードも私の隣で慌てたように頭を下げる。

 

「ありがとう。君がいなかったらエチュードが怪我をしていたかもしれない。本当に助けられた」

「あっ、ありがとうございました……」

「いえいえ、たまたまですから。怪我がなくて良かったです」

「何か、お礼をさせてもらえない?」

「そんな、とんでもないです」

「いや、そう言わずに。このままだとこっちの気が収まらないから」

 

 大げさではなくエチュードの命の恩人である。せめて何かお礼をしなければ。私がそう言い募ると、エレガンジェネラルは「そうですか……そこまで仰るなら」とひとつ首を捻った。

 

「そうですね。同期のライバルの担当トレーナーさんに借りを作ったままというのもなんですし……。じゃあ、ひとつだけよろしいですか?」

 

 

       * * *

 

 

「はい、はちみつドリンク、硬め、濃いめ、多めです」

「ありがとうございます」

 

 学園の入口近くには、よくはちみつドリンクのキッチンカーが営業している。値段は高めだが長年に渡ってウマ娘たちに愛されており、誰が作ったのか「はちみーを舐めると足が速くなる」という謎の歌も一部で歌い継がれている。

 エレガンジェネラルが希望したのは、そのはちみつドリンクのオプション全部盛りであった。1500円。一介の中学生には確かにいいお値段だが、既に重賞ウマ娘である彼女ならトレーナーからそのぐらいのお小遣いは貰っていそうなものだが……。

 

「そんなものでよかったの?」

「はい。この全部盛り、一度やってみたかったんです。いただきます」

 

 ストローに口をつけてはちみつドリンクを飲んだエレガンジェネラルは、頬に手を当ててとろんと幸せそうな顔をする。まあ、喜んでもらえたなら何よりだけども。

 

「エチュードも飲む? 私が出すよ」

「え、い、いいんですか……?」

「遠慮しなくていいから。エチュードも全部盛りにする?」

「い、いえ……じゃ、じゃあ、柔らかめの、あとふつうで……」

 

 注文して手渡すと、エチュードはおっかなびっくり受け取って、「あ、ありがとうございます……」と消え入りそうな声で言って口をつけ、

 

「……ふわぁ」

 

 とろんとその顔が幸せそうに崩れた。甘いもので幸せになるのはみんな一緒か。

 私ははちみつの匂いだけでお腹いっぱいなので、近くの自販機で買ったブラックの缶コーヒーを啜っていると、エレガンジェネラルがエチュードに歩み寄る。

 

「リボンエチュードさん」

「はっ、はひ」

「そんなに緊張しないでくださいよ。同学年じゃないですか。それとも私、怖い顔でもしてます? ジャラジャラさんからは『もっと楽しそうにしろー』とか言われるんですけど」

「そ、そんなことは……その……」

 

 エチュードは困ったように縮こまってしまう。ヒクマやコンプといるときは明るく笑っているエチュードだけれど、慣れない相手の前だといつもこうだ。この人見知りも、もう少しなんとかしてあげたいものだが……。

 

「そちらはどの路線を目指しているんですか? デビューから1800を走ってますけど、バイトアルヒクマさんがティアラ路線ですから、貴女は三冠路線でしょうか?」

「…………っ」

 

 来年のトリプルティアラ最有力候補の前で、自分もティアラ路線志望です、なんて言えたら人見知りではないのである。エチュードが助けを求めるように私を見た。私は息をついて、エチュードの肩に手を置く。エチュードが顔を赤くして俯いた。

 

「いや、エチュードもティアラ路線だよ。だから――君とはライバルになる」

 

 私がそう言うと、エチュードはびくっと身を震わせた。たぶん、まだ未勝利戦も突破できていない自分がエレガンジェネラル相手にライバルだなんて、あまりにも畏れ多い――とか思っているんだろうなあ、と私は内心だけで苦笑する。

 

「週末の未勝利戦に勝ったら、来月のデイリー杯。そこでの結果次第では、阪神JFに行こうと私は思ってる。ヒクマはホープフルステークスに行くしね」

「と、トレーナーさん!?」

 

 エチュードが目を見開いて私を見上げた。

 

「言ってなかったっけ? 週末勝って、デイリー杯で掲示板に入れたら、阪神JF出よう」

「そっ、そそそ、そんな、私が……そんな」

 

 ぎゅっと空になったはちみつドリンクのボトルを握りしめるエチュード。大言壮語と笑われるだろうか? いや――この子は、エレガンジェネラルはそういうタイプじゃない。私はそう感じたからこそ、敢えて宣言したのだ。

 正直なところ、エチュードのローテーションをどう組むかはずっと悩んでいた。いや、今もまだ悩んでいる。条件戦からゆっくりステップアップさせて、少しずつ自信をつけさせてあげるべきか。それともどんどん重賞に格上挑戦させて、高いレベルで切磋琢磨させるか――。

 たぶん、今の段階ではどちらが正解と言い切ることはできない。でも、実績の少ないうちから同世代の最高レベルの戦いを経験できるのはジュニア級、せいぜいクラシック級の春までだ。レベルの違いに打ちのめされて完全に自信を失ってしまう危険性もあるけれど、身近にヒクマという同世代トップクラスの注目株がいる状況で、エチュードは今のところ挫けることなく頑張っている。たぶん、この子の芯は、エチュード自身が思っているほど弱くないし、その実力だって決して、卑下するようなものではないはずだ。

 まだエチュードは、ジャラジャラやエレガンジェネラルには勝てないかもしれない。けれど、今のうちの同世代のトップと戦っておく経験は、きっと大きな糧になる。私はそう思う。

 ――もちろん、最初から負けるつもりで走らせたりはしない。挑むからには、全力で勝つための努力を尽くす。負けてもいいレースなんてないんだと、ブリッジコンプにそう誓ったように。1着でゴールを駆け抜けるエチュードの姿を見るために、私は私にできる限りのことをしよう。

 

「そうですか――。それは、対戦できるのを楽しみにしています。貴女の後方からの追込、仁川の坂で迎え撃ちますよ、逃げるジャラジャラさんと一緒に」

「――――は、は……はい……」

 

 エチュードは私にも聞こえないほどの声で、俯いたままそう答えた。

 エレガンジェネラルは、そんなエチュードの姿にも優しく微笑み、そして私を見上げ。

 

「そうだ、バイトアルヒクマさんにも伝えてくださいますか?」

「ヒクマに?」

「はい。『ジャラジャラさんが貴女のことをお気に召したようですので、桜花賞で対戦するのを楽しみにしています。ホープフルステークス、同期のティアラ路線代表として、三冠路線に負けないよう頑張ってください』――と」

「……解った。伝えておくよ」

 

 トリプルティアラ最有力候補からの、事実上の挑戦状だ。ジャラジャラに続いて、エレガンジェネラルからもヒクマが意識されていることを、私は少し誇らしく思う。

 

「はちみつドリンク、ごちそうさまでした」

 

 優雅な所作でぺこりと頭を下げ、エレガンジェネラルは「それでは」と踵を返す。

 ――と、そこで彼女の制服のポケットで、スマホが音を立てた。

 

「っと、すみません。――ジャラジャラさん? なんですか、電話なんて――はい? ちょっとジャラジャラさん! どういうことですか! 今どこにいるんですか! ああもうっ、今度は何をやらかしたんですかっ、詳しく説明してください!」

 

 電話に出たエレガンジェネラルは、それまでの穏やかな微笑みが剥がれ落ちて、手の掛かる子供を相手にしている母親のような顔になり――そのままスマホを持ったまま走り出してしまう。私とエチュードはぽかんとそれを見送った。

 ジャラジャラとエレガンジェネラルがルームメイトなのは知っていたが、なんというか、苦労しているのだなあ、と詮無いことを思っていると――。

 

「……あの、トレーナーさん」

 

 と、エチュードが俯いたまま私を呼んで、私は振り返る。

 エチュードは、ぎゅっと胸の前で拳を握りしめて、エレガンジェネラルが走り去っていった先を見つめていた。

 

「……どうして私のこと、名前だけじゃなく……走った距離や、脚質まで覚えられてたんでしょうか……?」

 

 言われてみれば、確かに。メイクデビューと未勝利戦がどちらも1800だったことも、エチュードが最後方からの追込スタイルであることも、エレガンジェネラルは知っているようだった。今のところのエチュードは2戦0勝、既におおぜいデビューしている同期のウマ娘の中でも、決して目立った存在ではないのに。

 私だって他のウマ娘の情報収集はしているが、たまたま学園で見かけた任意のウマ娘の戦績と脚質をすぐに諳んじるのは、目立った活躍のあるウマ娘でもないと困難だ。

 

「エレガンジェネラルが、エチュードにも注目してるってことじゃない?」

「そっ、そんな、そんなこと……! ある、はず……」

 

 エチュードは真っ赤になって俯いてしまう。しかし、それ以外には、それこそエレガンジェネラルが同期全員の全レースを細部まで詳しくチェックして頭に叩き込んでいるという、いささか非現実的な可能性しか考えられない。そんな日がな一日レース動画を眺めているような重度のウマ娘マニアでもあるまいに。

 

「対戦を楽しみにしてるって、言ってくれたよ、エレガンジェネラルは」

「――――っ」

「どうする? エチュード」

 

 私はその肩を叩いた。エチュードはぎゅっと唇を引き結んで――。

 

「……週末の未勝利戦、がんばります」

「うん、まずはそこからだね」

 

 私はぽんぽんとエチュードの短い髪を撫でる。エチュードは恥ずかしそうに俯きながら、ぎゅっと握りしめた自分の拳を見つめていた。



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第41話 〝褐色の弾丸〟

 10月7日、土曜日。東京レース場、第2レース。ジュニア級未勝利戦、芝1800。

 エチュードは14人立ての大外14番。東京の芝1800はスタートしてすぐ斜めに2コーナーに入るため、内枠有利とされているレースだ。だが――。

 

「トレーナー、エーちゃんになんて言ってきたの?」

 

 いつもの関係者席の最前列。柵に手を掛けたコンプが、私を見上げて問うた。

 

「ああ――思いっきり、大外をブン回そうって」

「ええ? 前回外に弾き出されて負けたのに?」

「だからこそだよ。他のウマ娘のことなんか気にしないで、誰にも邪魔されないぐらい大外を好きに走ればいいと思ってね、エチュードは」

 

 もちろん、大外を回るとそのぶん他のウマ娘より長い距離を走ることになり不利になる。それでも、追い込みのエチュードにとっては、少々の距離のロスよりも前を塞がれるリスクを避けた方が、おそらくエチュード本人の気性的にもいいと思ったのだ。

 今日のエチュードは状態もいいし、やや入れ込み気味な感じはしたが、気合いも入っている。今日の出走メンバーの中でエチュードは2番人気だが、1番人気とはほとんど差がない。デビュー戦の末脚を誰にも邪魔されずに発揮できれば、後方からでも東京の長い直線で差し切れるはずだ。

 

「だから、私やヒクマやコンプの方に向かって走っておいで、って」

「あー、うん、確かにエーちゃんにはそれがいいかもね」

 

 何かちょっと含みのありそうな言い方で、コンプはそう言いつつ。

 

「エチュードちゃん、がんばれー!」

「クマっち、そんなに身を乗り出したら落ちる――って、わああっ」

「はわわわっ!?」

 

 柵から身を乗り出しすぎて落ちそうになったヒクマを、私たちは慌てて支えるのだった。

 

 

       * * *

 

 

 レースが始まる。エチュードは好スタートを決めて、今までの最後方よりやや前め、中団あたりの外につけた。走る距離は長くなるが、皆が有利な内を取り合うぶん、前を遮るウマ娘はいない。

 

『2コーナーを回って向こう正面、2番人気のリボンエチュードは随分外を回っています』

『バ群を怖がっているのでしょうかね』

 

 開幕週の第2レースということで、バ場は綺麗なものだ。そのためレースは、先行勢がやや飛ばし気味のハイペースで流れていく。高速バ場の展開の中、エチュードは3コーナーで外を回ったぶんやや位置を下げた。

 

「あんな大外回ってたら流石に無理だろ」

 

 観客からそんな声が聞こえてくる。――いや、大丈夫だ。

 双眼鏡を覗く。4コーナーへかかるリボンエチュードの表情が見える。

 前を向いている。他のウマ娘を気にしている様子はない。いい、それでいいんだ。

 思いっきり外を回れ。誰もいないところを走れ。エチュード――君の道は、そこにある。

 

『さあ残り600の標識を越えて直線、1番人気フンアープが逃げる。大外リボンエチュード、14番リボンエチュードが外ラチ近くから上がってきた』

 

 直線に入った瞬間、エチュードがぐっと加速したのが、誰の目にもわかった。

 ハイペースで消耗した先行勢の脚色が鈍り、バ群がばらける中、ほとんど外ラチ沿いに近い位置を駆け抜けていく、栗毛の姿が、目の前を。

 

「エチュードちゃん!」

「エーちゃん、いっけええええ!」

「――エチュード!」

 

 駆け抜ける瞬間、ちらりとエチュードが私を見た気がした。

 そして――その横顔が、先頭でゴール板を駆け抜けていく。

 

『届くか、届くか、差し切った! どうやらリボンエチュードが差し切りました! 大外から見事な直線一気で初勝利です!』

 

 身を乗り出して、私たちは手をたたき合う。その視線の先――ターフで足を止めたエチュードは、呆然としたように掲示板を見上げて。

 そして、こちらを振り向いて――ぺこり、と頭を下げた。

 東京レース場のスタンドから、あたたかい拍手が降りそそぐ。

 

 1着、リボンエチュード。勝ちタイム、1:49.6。上がり3ハロン、34.0。

 

 

       * * *

 

 

「おめでとう、エチュード!」

「と、とととっ、トレーナーさっ、ん……っ」

 

 地下バ道にエチュードが戻ってきた瞬間、私は矢も楯もたまらず駆け寄ると、その華奢な身体を抱きしめた。汗に濡れたベリーショートの栗毛をくしゃくしゃと掻き回してやると、腕の中でエチュードが「あうあうあう……」と何事か呻いている。

 

「……あ、ありがとう、ございます……。私、勝て、ました……っ。トレーナーさんの、おかげです……っ」

「ああ、おめでとう! よくやった!」

 

 身体を離して、エチュードの手をぎゅっと握りしめる。エチュードは顔を赤くして伏せ、けれどぎゅっと、私の手を握り返してきた。

 

「あれ、エーちゃんが機能停止してない? おー、エーちゃんも成長したんだなあ……」

 

 後ろでコンプが何か感慨深そうに頷き、ヒクマが「エチュードちゃーん!」と飛びかかるようにエチュードに抱きつく。

 私は手を離して、喜びを分かち合うのはあとは3人に任せることにした。何はともあれ、これで3人とも無事に勝ち上がりだ。そして来月には、3週連続での重賞挑戦が確定である。ヒクマ、コンプ、エチュード。3人とも――本当に、私なんかにはもったいないウマ娘だ。改めてそう思う。

 

「トレーナー! ウイニングライブまで時間あるんだし、エーちゃん着替えたらお昼食べがてら、先にどこかで祝勝会やっちゃお!」

「いいね。でも、今日のメインレースまでには必ずスタンドに戻るからね」

 

 ウイニングライブは今日の全レースが終わってからだ。第2レースが終わったばかりの今はまだ11時。メインレースまでには4時間以上あるので、レース場内でゆっくり祝杯をあげる時間もあろう。

 ただ、今日のメインレースだけは絶対に見逃せない。特にヒクマにとっては。

 

「メインレース?」

 

 ヒクマが首を捻り、コンプが呆れたように肩を竦める。

 

「クマっち、忘れたの? 今日のメインレース、サウジアラビアロイヤルカップ」

「あ、えと、たしかジュニア級のGⅢ! あれ、誰か出るんだっけ?」

 

 やれやれ。私は苦笑しつつひとつ息を吐く。

 

「――ジャラジャラだよ」

 

 

       * * *

 

 

 同日、15時35分。

 東京、第11レース、ジュニア級GⅢ、サウジアラビアロイヤルカップ。芝1600のマイル戦。本バ場入場を終えたウマ娘たちが、ゲート前に集う。

 

『さあ今日の1番人気、3番ジャラジャラです! 6月のメイクデビュー阪神は軽く流して5バ身差で逃げ切り勝ち。約3ヶ月ぶりのレースですが、世代トップクラスと語られるその実力は果たしてどれほどのものか?』

 

 ターフに姿を現したジャラジャラは、余裕の表情で軽くストレッチをしている。他のウマ娘たちが、その姿を警戒心も露わに見つめていた。

 今日のサウジアラビアロイヤルカップは11人立て。ジャラジャラはその中でも前評判とデビュー戦の勝ちっぷりから圧倒的1番人気だ。当然、他のウマ娘からは徹底的にマークされる立ち位置であるが、そんな他の警戒心を涼しい顔で受け流し、ジャラジャラは得意げな顔でゲートへと向かう。

 

「ヒクマもエチュードも、いずれ戦う相手だ。間近でしっかり見ておこう」

「はーい!」

「……は、はい」

「コンプも、同じ逃げウマ娘として参考になると思う」

「はいはい、見届けますってば」

 

 エチュードの軽い祝勝会を終えて関係者席に戻ってくると、第2レースのときはまだまばらだった観客の姿も随分と増えている。ジュニア級の重賞は、出走ウマ娘の知名度もまだまだ低いので、例年ならそこまで注目度の高いレースではないが――観客の多くは、おそらくジャラジャラを見に来ている。

 まだデビュー戦を勝っただけの2戦目のウマ娘とは思えないこの注目度は、やはりエレガンジェネラルの存在が大きい。既にこの世代でも頭ひとつ抜けたという評判のエレガンジェネラルが、ジャラジャラを最大のライバルと見なしていることは、ウマ娘ファンの間でも知られつつある。はたして重賞でも評判通りの強さなのか、はたまた前評判倒れに過ぎないのか――。皆、それを確かめに来ているはずだ。

 

「お疲れ様です」

 

 と、私の隣にひと組のウマ娘とトレーナーがやってきた。声を掛けられ、横目に頷きかけて、私は思わず目を見開く。ヒクマとエチュードとコンプも、それぞれ声をあげた。

 

「え、エレガンジェネラルに、王寺トレーナー?」

 

 王寺トレーナーは銀縁眼鏡の奥の切れ長の瞳を細めて軽く会釈をし、エレガンジェネラルは両手を前で合わせてぺこりと優雅に一礼する。

 

「こんにちは。リボンエチュードさん、初勝利おめでとうございます」

「あ……あっ、ありがとう、ございます……」

 

 エチュードの未勝利戦もどこかで見ていてくれたらしい。頭を下げるエチュードにエレガンジェネラルは穏やかに微笑み、それからターフへと視線を戻す。

 

「ジャラジャラを見に?」

 

 いや、訊くまでもなかったか。私が頭を掻くと、エレガンジェネラルはひとつ鼻を鳴らして、「別に、応援しに来たわけではないですけれど」とすまし顔で答えた。

 

「今朝、随分と大口を叩いていたので、それに見合わない走りをされても困りますから」

「……どんな、と聞いてもいい?」

「『お前の新潟でのレコードのことなんか、今日限りでみんなの記憶から消し去ってやるかんな』――だそうですよ」

 

 その口調は、呆れているというよりは――そのぐらいはジャラジャラならやるだろう、という確信に満ちているように聞こえた。

 王寺トレーナーは何も言わず、腕組みしてターフを見つめている。あまり関わる機会のない人だが、その鋭い目つきといい、やっぱりとっつきにくそうな人だと私は思う。

 

「始まりますね」

 

 ともあれ、ファンファーレが鳴り響く。全てのウマ娘がゲートに収まった。

 

『ジュニア級GⅢ、サウジアラビアロイヤルカップ――スタートです!』

 

 

       * * *

 

 

 後に、このサウジアラビアロイヤルカップは、こう語られることになる。

 その日、東京レース場にいた数万の観客は、ひとつの時代の始まりを目撃した――と。

 

 スタートと同時、弾丸のように飛び出したそのウマ娘は。

 競りかけてマークしようとする他のウマ娘を軽くあしらうように、はるか前方へ。

 

『さあやはりジャラジャラがハナを切って逃げを図ります。早くも後続に2バ身、3バ身と差をつけていきます』

 

 後続を5バ身離しての大逃げ。――そこまでは誰もが予想した展開だった。

 だが、3コーナー、4コーナーにかかるにつれ、歓声はどよめきに変わる。

 後続との差は詰まらない。むしろ開いていく。開き続ける。直線に入ってなお、後ろは必死に追っているのに、ただひとりだけが軽々と先頭を駆け抜けていく。

 ただただ、どこまでも一人旅。誰も鈴をつけにいくことも、勝負をかけにいくことすらできない。他のウマ娘が止まって見えるほどに、次元の違う走り。

 弾丸のように飛び出し、弾丸のように突き進む、褐色の鹿毛。

 

『後ろからは誰も来ない! 誰も来ません! 8バ身、9バ身、強い強い、強すぎる! これはもう圧勝、大楽勝です! すごいウマ娘が現れた!』

 

 ジュニア級のGⅢとは思えない、実況の興奮ぶりが、全てを物語っていた。

 

 

 ただひとり、先頭を駆け抜けたそのウマ娘のあと。

 2着のウマ娘がゴール板を駆け抜けたのは、約2秒後。

 タイムはジュニア級芝1600メートルレコード、1:31.9。

 トゥインクル・シリーズの歴史でも、25年ぶりとなる平地重賞での着差「大差」。

 推定12バ身差の圧勝だった。

 

 

 後にティアラ最強世代と呼ばれることになる、X4年クラシック世代。

 ジュニア級2戦目にして、その筆頭に名乗りを上げた、そのウマ娘に。

 翌日の《日刊ウマ娘》の見出しは、彼女の代名詞となるその二つ名を捧げた。

 

 ――「褐色の弾丸」と。



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第42話 先輩たちのつかの間の

「〝褐色の弾丸〟ね。――まーた面白そうな子が出てきたなあ。ねえノディ」

 

 10月8日、日曜日。トレセン学園カフェテリア。

 読んでいた《日刊ウマ娘》をテーブルの上に放りだして、テイクオフプレーンは向かいに座るリボンスレノディを見た。お茶を啜っていたスレノディは、顔を上げて呆れたように溜息をついてみせる。

 

「プレーンさんったら、随分と余裕ですこと。来週は秋華賞ですのよ? 後輩のことなど気にしている場合ですかしら」

 

 言いながら、スレノディは啜っていた緑茶に砂糖とミルクを追加する。緑茶に砂糖とミルクを入れるなとプレーンは言いたいが、言っても聞きやしない。

 

「今からピリピリしてたら身が持たないって。誰かさんのおかげで無敗のトリプルティアラの可能性もなくなっちゃったし、ま、気楽にいきましょってなもんだって」

「私が悪いみたいに言わないでくださいまし」

「んなこと言ってないじゃん。オークス負けたのはあたしの実力だもん、それは潔く認めてるんだよ、プレーンさんは。あんときのノディはあたしより強かった、それだけ」

 

 悔しくないといえば嘘になる。「オークスを逃げて勝つのは、ダービーを逃げて勝つより難しい」――そんなどこの誰が言ってんだか知らない風潮なんか、自分が蹴飛ばしてやろうと思っていたのに、結果はその風潮を自ら立証してしまったのだから世話はない。

 桜花賞の1600から、一気に800メートルも伸びる2400のオークス。その800メートルの絶望的な長さは、走ってみた者にしかわからない。府中の直線525メートルが、走っても走っても終わらない気がした。だらだらとどこまでも続く坂に喘いでいるうちに、ひたひたと後ろから迫ってきたこの栗毛の足音。

 

「だからこそ――秋華賞はノディを倒すことにだけ集中できるわけだしさ」

 

 テーブルに肘を突いて、プレーンはスレノディの方へ身を乗り出す。砂糖ミルク入り緑茶を啜ったスレノディは、しれっとしたすまし顔で、

 

「そんなこと言ってると、他の誰かに足元を掬われますわよ。だいたい、私を倒すも何も、貴女はただ逃げるだけでしょうに」

「あ、そいつは聞き捨てならないなあ。ノディ、逃げウマ娘をただ何も考えず先頭走ってタイムトライアルしてるだけだと思ってんの?」

「あら、違うんですの? オークスで残り200でバテて私に抜かれたどこかの逃げウマ娘さんなんか、もう少し考えてペース配分すればよろしかったですのに」

「直線ヨーイドンしか能のないスローペース症候群患者が言ってくれるじゃん?」

 

 見えない火花が散る。逃げのプレーンと追込のスレノディ、根本的にレース観が違うのでこの種の言い合いはいつものことだ。プレーンは最も強いのは逃げて勝つウマ娘だと信じているが、スレノディば逃げて勝つのはレースの駆け引きができない、あるいはする気がない脳筋ウマ娘に過ぎないと言って憚らない。逃げには逃げなりの駆け引きがあるというのに、まったく。

 

「おやおや、秋華賞の1番人気と2番人気が本番前にさっそく場外乱闘? いいけど、ほどほどにね」

「ランデブーさん? あ、ども」

 

 ふたりの間にスポーツドリンクのペットボトルが置かれた。顔を上げると、ふたりの2年先輩にあたるネレイドランデブーが穏やかな微笑みを浮かべている。

 昨年のヴィクトリアマイルとマイルCSを制したランデブーは、今年の春シーズンは高松宮記念から始動の予定が、2月にトレーニング中の怪我で全休になっていた。今月下旬の富士ステークスで復帰して、来月のマイルCSで連覇に挑む予定だと聞いている。

 

「お怪我の具合は、大丈夫なんですの?」

「ああ、うん、もう全然。ホントは今日の毎日王冠に間に合わせたかったんだけどねー。トレーナーが万全を期そうって言うから」

 

 飄々と言いながら、ランデブーは椅子を引いて腰を下ろし、ペットボトルに口をつける。

 

「ふたりとも、秋華賞のあとはどうするんだっけ?」

「エリザベス女王杯から有馬記念の予定です」

「同じくですわ。……なんで1年中プレーンさんと同じレースを走り続けないといけないのですかしら」

「それはこっちの台詞なんだけど? オークス勝ったんだからジャパンカップでも行けばいいじゃん」

 

 嘆息するノディに、プレーンは肩を竦める。プレーンは秋のローテを決める際に、京都に行けるエリザベス女王杯を自分からトレーナーに希望したのだが、まさかスレノディまで同じローテを選ぶとは思わなかった。

 

「私はそれでも良かったのですけれど、トレーナーさんが有馬記念に出ようと熱心でして」

「どっちにしたって、ふたりとも平然とハードなローテ組むねー。今どきそのローテ走るウマ娘もなかなかいないよ?」

 

 ランデブーが苦笑する。確かに、使い詰めを避けるのが主流の現在、秋のGⅠ戦線で3つのGⅠに出るウマ娘がそもそも今は少ない。勝ち負けになるレベルのウマ娘であれば尚更のことだ。

 

「勝てそうなレースがあるのに出ないなんて勿体ないじゃないですか。あたし庶民なもんで、貧乏性が身についちゃってるんですよ」

「貧乏性の庶民が、関西遠征にわざわざ飛行機を使うんですの?」

 

 肩を竦めたプレーンに、スレノディがジト目を向けてくる。む、とプレーンは口を尖らせた。

 

「お嬢様のノディにはわからないかもしんないけど、貧乏人がなけなしの稼ぎで楽しんでる趣味を否定しないでほしいなあ。あたしの夢は引退したらマイル修行がてら、1年中ひたすら飛行機乗り続けて世界のあらゆる空港を制覇することだかんね」

「プレーンさんのその趣味、いつ聞いても全く意味がわかりませんわ……」

「ランデブーさんはわかってくれますよね、飛行機の楽しみ!」

「私はロケットの方が好きだなあ。宇宙なら行ってみたいけどねー」

 

 そんなことを言い合っていると、ランデブーがテーブルの上の《日刊ウマ娘》に目を留めて取り上げる。

 

「おお、ジャラジャラちゃん一面かー。凄かったもんねー、昨日のサウジRC」

「あら、ランデブーさん、お知り合いです?」

「デビュー前に私に併走挑んできた子でねー。そのときから大物になりそうな予感はしてたけど、いやー、度肝抜かれちゃった。ふたりともうかうかしてらんないよ? ま、今はまだ後輩のこと考える時期でもないか」

 

 そう言いながら、ランデブーは紙面を捲り、途中の記事に目を留める。

 

「あれ? このリボンエチュードって子……」

「従妹ですわ」

「ああ、そうなんだ。昨日初勝利かー。ノディちゃん、おめでとうって伝えておいて」

「ありがとうございます。私も安心したところですわ」

 

 ランデブーとスレノディのその会話に、プレーンもその子の顔を思い出す。

 

「桜花賞とオークスのときにノディのとこに来てたあの子? そっか、無事にデビューしてたんだねえ。あれ、そういやあの子と一緒にいたかわいい芦毛の子、前になんか話題になってなかった? あの、なんか変わった名前の」

「バイトアルヒクマちゃんですか? ええ、エチュードちゃんのお友達で、同じトレーナーさんの担当ですわよ。確か札幌ジュニアSを勝ったあと、ティアラ路線なのに阪神JFじゃなくホープフルSに向かうと宣言してましたわね」

「へー、そりゃ珍しい。ま、確かにティアラ路線にその〝褐色の弾丸〟がいるんじゃ、同期のティアラ路線の子はなかなか大変そうだもんねえ」

 

 何の気なしに言ったプレーンの言葉に、スレノディが不意に憂鬱そうに小首を傾げた。

 

「それなんですのよ」

「うん? 何が?」

「エチュードちゃん。ティアラ路線志望なんですの。それで、昨日勝った未勝利戦が、サウジアラビアRCと同じ府中で」

「あ、そりゃメインレース現地で見てるねー」

「そうなんですの。エチュードちゃん、私から見ても充分に才能ありますのに、どうも自己評価が低くて……。同期のすごい走りを見て心が折れちゃったりしていないか、ちょっと心配で。でも、デビューして担当トレーナーさんもついているあの子に、私があまり干渉するのもどうかと思いますし……」

 

 頬に手を当てて、スレノディが心配そうに俯く。全く、秋華賞の1週間前に従妹のメンタルの心配とは、どっちが余裕なんだか。プレーンは息を吐く。

 

「だったら、遠くからでも様子見てみれば? 今はトレーニング中みたいだし」

 

 と、スマホを弄りながらランデブーが言った。

 

「ランデブーさん? どうしてエチュードちゃんが今なにしてるかなんて……」

「リボンエチュードって名前、聞き覚えあると思ったら、私に懐いてる後輩のルームメイトだったから。その子に聞いてみたら、朝からトレーニングしてるって」

 

 それはまた、なんと奇遇と言うべきか。スレノディが目をしばたたかせ、プレーンは「トレセン学園は狭いですね」と肩を竦めた。

 

 

       * * *

 

 

 長い芦毛のウマ娘と、小柄な栗毛のウマ娘が坂路ダッシュをしている。それを見守るトレーナーの傍らで、リボンエチュードは体幹トレーニングをしているようだった。昨日レースをしたばかりだから、今日は軽めのメニューということだろう。

 レース観戦用の双眼鏡から目を外して、傍から見たらこの光景わりと不審者だよねえ、とプレーンは息を吐く。その横でスレノディは、じっと双眼鏡を覗きこんでいた。

 

「ノディ、もういいんじゃないの? 真剣にトレーニングしてるみたいだし」

「ちょっとプレーンさんは黙っててくださいませ!」

 

 強い口調で遮られ、鼻白んでプレーンは土手の草むらに腰を下ろす。

 秋華賞1週間前にふたりして何してるんだか、と思い、そもそもノディの従妹の様子を見るのに自分が付き合う理由も意味も特に無かったということに今さら気付いて、当たり前のようにノディと一緒に行動している自分に嘆息する。

 リボンスレノディ。何の後ろ盾もなく裸一貫でこの中央トレセンに乗りこんだ庶民のプレーンとは違う、名門の期待を背負ったバリバリのお嬢様。教室で初めて顔を合わせたときは、こりゃ住む世界が違う人種だわと思った。

 それが寮で隣の部屋になり、トレーニングしているとやたらとよく顔を合わせ、気が付いたら同期デビューすることになり、なんやかんやで今となっては自他ともに認める同世代最大のライバルになってしまった。

 最初は、苦労知らずのお嬢様なんかに負けてたまるか、と思っていた。今ではもう、名門生まれには名門生まれの苦労があることも知っている。それぞれに背負っているものがあって、だからこそ負けられないと、プレーンは思う。

 スレノディは強い。どれだけ引き離しても、気が付いたらこの小柄な栗毛がゴール前ですぐ後ろに居るプレッシャーは、逃げてみなければわからない。スレノディの強さ、怖さを一番よく知っているのは自分だ。プレーンはそう自負している。だからこそ――。

 ――ノディが自分を見ていないのが、ちょっとムカつく。

 

「むむむ……エチュードちゃん、やっぱりあのトレーナーさんのこと……。あれは絶対、そういう表情ですわよね……。ううん、従姉としてどうすれば……」

「ノーディーイー」

 

 プレーンは、スレノディの無防備な背筋を指でつーっとなぞった。

 

「ひああああああっ!? ななななっ、なにしますのプレーンさん!?」

 

 びくっと身を逸らして悲鳴をあげ、スレノディは顔を赤くしてこちらを振り向く。プレーンはその頬に手を伸ばして――スレノディの顔を両手で挟んで、真剣な顔でスレノディの顔を覗きこんだ。

 

「……ぷ、プレーン、さん?」

「ノディ。――あたしのこと見てよ」

「あ、あの、ええと」

「あたし以外の誰かに夢中になるなんて許さないよ。ノディはあたしだけ見てればいいんだ。あたしはいつだってノディに背中を見せてるのに」

「――――あ、あの、」

「……なーんつって」

 

 ぱっと手を離し、プレーンは笑う。

 赤面して混乱して固まったスレノディの顔なんて、なかなかいいものが見られた。今のは記憶のメモリーに刻んでおこう。プレーンがニヤニヤ笑いながら頷いていると、からかわれたと気付いたスレノディが顔を真っ赤にして頬を膨らませる。

 

「ぷ、プレーンさん! からかわないでくださいまし! 今の少女漫画の台詞でしょう!?」

「あ、お嬢様のノディもああいう庶民的な漫画読むんだ?」

「読みますわ! 大ファンですわ! 今の台詞どういう文脈で捉えろと仰いますの!?」

「えー? うん、ノディに任せるわ。じゃっ、あたしはもう行くから」

「ちょっとプレーンさん! お待ちなさい!」

 

 双眼鏡を振り回しながらスレノディが追いかけてくる。その姿から逃げ回りながら、やっぱりこうじゃないとね、とプレーンは心の中だけで笑う。

 あたしが逃げて、ノディが追いかける。来週の秋華賞も、来月のエリザベス女王杯も、それから先も――。

 ずっとそうであればいい、と思ったことは、もちろん誰にも明かさない、プレーンだけの秘密だった。

 



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第43話 秋華賞とレース研究会

 10月15日、日曜日。京都レース場、第11レース、GⅠ秋華賞。

 

『残り200、リボンスレノディこれはもう無理! テイクオフだテイクオフだ! テイクオフプレーンだ! 快晴の京都の空に芦毛の翼が舞いあがった! やっぱり強かったテイクオフプレーン! 二冠達成!』

 

 2バ身差をつけた会心の逃げ切り勝ちで、テイクオフプレーンが桜花賞との二冠を達成。リボンスレノディは2番手も追い込みきれず3着に敗れた。

 

 

 ――私たちはそれを、トレーナー室のテレビで観戦していた。

 

「ああー、ノディさん負けたぁ……」

 

 コンプとヒクマががっくりと机に突っ伏し、エチュードが目を伏せてぎゅっと膝の上の拳を握りしめる。私は息を吐いて、「パトロールビデオを見ようか」とテレビの画面を手元のノートPCに切り替え、URA公式にアップされたパトロールビデオを再生する。

 

「さて、テイクオフプレーンとリボンスレノディの作戦を見てみよう。京都の内回りコースのポイントは、3コーナーにある淀の坂だ。この下りで勢いがつきすぎて4コーナーで大きく膨らんでしまうと、この通り距離的に不利になる」

 

 パトロールビデオを見るとよくわかる。何人かのウマ娘が外に大きく膨らんで、直線に入ったところでバ群がばらける。膨らんでしまったウマ娘はそのまま下位に沈んでいた。

 

「テイクオフプレーンの作戦はわかりやすいね。コンプ、わかる?」

「スタートから大逃げ仕掛けて坂までに貯金作って、坂では抑えて最内の経済コース、ってことでしょ?」

「正解。見ての通り、プレーンは明らかに上り坂からペースを緩めてる。ラップもそれを証明してるね。そして序盤に作った余裕を活かして、下り坂で他のウマ娘を引きつけて足を貯めつつ、一番内の最短コースを通って直線に余力を残した。理想的なレース運びだね。勝因は完璧なスタートダッシュを決めたことだ。これで誰も鈴をつけに行けなくなった。序盤のこのペースで無理に行ったら自分が潰れちゃうからね」

「できるもんなら、あたしもそういうレースしたいわー」

 

 コンプが机に突っ伏して呻く。ペースの速い短距離で、このテイクオフプレーンの逃げの再現は難しい。コンプの場合は、誰かにマークされる状況での折り合いを身につけていくしかないだろう。

 

「一方、リボンスレノディも基本的な考え方は同じだ。直線入口でバ群がばらけるのを見越して、外に膨らまないように後方から最内を通った。プレーンが完璧なダッシュからの大逃げを決めた以上、外を回したら勝てないという判断は正しいと私も思う。ただ、」

 

 ここ、と私は4コーナーの終わりから直線入口のところの映像を繰り返す。

 

「スレノディの敗因は、プレーンが緩めたペースに後続が思ったより早く追いついたことで、内を通った集団が直線に入っても固まって、思うように前が開かなかったことだ」

 

 残り400の標識のところで、スレノディの前には数人のウマ娘が固まって、その進路を塞いでいた。50メートルほど進んでからようやく隙間を見つけたスレノディがこじ開けて前に出るが、この50メートルが致命的だったと言っていい。

 

「エチュード。スレノディはどうすればよかったと思う?」

 

 私に問われ、エチュードは「……えっと」と口元に手を当てて考え込み、それから「あの、映像……戻してもらえますか?」と言った。

 どうやら気付いているらしい。私が映像を4コーナーに戻したところで、エチュードが「あ……そこです」と声を上げる。

 

「ここ……外に隙間が開いたんですけど、ノディ姉さんは内で詰まったままで……」

「よく見てたね。その通り、結果的にはスレノディが勝つには最内に囚われずに、ここでもう外に出していくべきだった。京都の直線は平坦で短いから、プレーンを捉えるならここで多少膨らんでも前に出て行くべきだったね。ただ、この瞬間に直線で前が開かないことを瞬時に予想して作戦を切り替える判断が現実的にできるか――というと、まあ相当に難しいだろうし、こっちに回っても前が塞がる可能性はあった。結果論になってしまうね」

「えと、つまり、スタートダッシュ決めた時点でプレーンさんの勝ちってこと?」

 

 ヒクマが首を傾げる。「そこまで単純でもないけれどね」と私は苦笑した。

 

「スレノディの誤算は、誰もプレーンに積極的に鈴をつけにいかなかったことだろう。他のウマ娘がここまで自由にプレーンを逃がしてしまったのが誤算だったのは間違いない。プレーンがオークスも勝ってトリプルティアラ王手をかけていれば、もっときついマークがついただろうけれど、オークスでスレノディが勝ったことでマークが分散したというのもあると思う。先行勢はプレーンが淀の坂で消耗して潰れると予想したのかもしれないけれど、その判断も結果を見る前なら間違いとは言い切れない。オークスでは実際プレーンはスレノディに差し切られたわけだしね」

 

「うう~?」ヒクマがこめかみに手を当ててゆらゆらと首を振る。

 

「つまるところ、どの判断が正解だったかは結果が出るまではわからないってことだよ。スレノディの作戦に大きなミスはなかった。状況が上手くプレーンの有利に作用した、と言うべきかもしれない。そういう意味では運が良かったと言えるけれど、その運を引き寄せたのは、やっぱり最初の完璧なスタートダッシュだ。あれでプレーンはレースを自分の思う通りに進められたわけだ――」

 

 そうしてしばらく、4人で秋華賞のレースの検討を続けた。こうして実際のレースから駆け引きを学ぶのも、大事な勉強だ。

 

「う~、よくわかんなくなってきた……。レース中にこんなに考えられないよぉ」

 

 ヒクマが知恵熱を出したような顔で頭を抱える。

 

「このへんにしておこうか」

 

 私は苦笑して映像を止めた。実際、短いレースの間ではここまで検討してきたようなことを一瞬で判断しなくてはいけない。考えているようでは遅いのである。

 

「プレーンもスレノディもここまで具体的には考えていないし、ヒクマだって今までのレースで同じことができてるんだよ」

「ほえ? そうなの?」

「うん、ヒクマ、レースでの位置取りとか仕掛けるタイミング、どうやって決めてる?」

「えと……なんとなく、気持ちよさそうなところ!」

「そう、その『なんとなく気持ちよさそう』って感覚が大事だ。ぐるぐる考えている暇があったら、ヒクマはその直感に従うべきだね。ヒクマのその直感は、今まで検討してきたようなことを感覚としてヒクマが理解してるってことなんだ」

「ほへー」

「トレーナー、だったら今までの検討会は何だったのよー」

 

 コンプが唇を尖らせる。私は苦笑した。

 

「いろんな駆け引きや展開を頭に留めておけば、その直感の精度が上がるってことだよ。選択肢は多いに越したことはない。コンプもエチュードも、これからもいろんなレースを見て、いろんなレースを走って、レースへの感覚の精度を高めていこう」

 

 はーい、と3人の声が唱和する。――偉そうに教えているけれど、私自身がレースを走るわけじゃないから、私のこれも結局はトレーナー学校で引退したウマ娘の話を聞いたりして、頭で理解しているに過ぎない。

 本当に、こういう指導でいいんだろうか。結果が出てみないと正解がわからないのは、ウマ娘への指導も同じだ。――溜息をつきたくなる気持ちは、もちろん三人の前で表に出すわけにはいかないのだけれども。

 

 

       * * *

 

 

「それにしてもエチュード、本当に現地に応援に行かなくてよかったの?」

 

 3人を栗東寮に送りがてら、私はエチュードにそう訊ねる。京都までスレノディを応援に行く? と事前に確認はしたのだが、エチュードが「……いいです」と首を振ったので、今日のテレビ観戦になったのである。

 

「……はい。今は、自分のことに時間を取りたい、ですから」

 

 ぎゅっと拳を握りしめて、エチュードはそう答える。きゅっと引き結んだその口元には、今までより強い意気込みが込められている。

 ――正直なところ、意外だった。エレガンジェネラルの前で、阪神JFに出よう、とエチュードに提案したのが上手く行くかは、五分五分だと思っていた。かえってエチュードを萎縮させてしまうんじゃないか、と。

 おまけに、首尾よく未勝利戦を勝ち抜けた直後の、あのサウジアラビアロイヤルカップである。阪神JFに出るとすれば間違いなく戦うことになるジャラジャラの、12バ身差の圧勝。あれを見せられて、エチュードは戦意を喪失してしまうのではないか――。

 そんな心配は、けれど、どうやら杞憂だったらしい。

 

「エレガンジェネラルさんに……恥ずかしい姿は、見せたく、ない、です」

 

 ――対戦できるのを楽しみにしています。

 エレガンジェネラルのその言葉は、私が思った以上に、エチュードを発憤させたようだった。世代最強候補からの激励を受けて、尻尾を巻いて逃げ出すわけにはいかない。そんな秘めたる闘争心、勝負にかける心の強さを、エチュードはちゃんと持っている。未勝利戦の気迫溢れる末脚も、そのたまものだとしたら――エレガンジェネラルには本当に感謝しないといけないな、と私は思う。

 私は黙って、ぽんぽんとエチュードの頭を撫でた。エチュードは恥ずかしそうに身を竦める。と、前を歩いていたコンプが振り返り、何かニヤニヤとこちらを見上げた。

 

「トレーナー、なーんか最近エーちゃんと距離近くなーい?」

「こ、コンプちゃん!」

「クマっち、うかうかしてるとエーちゃんにトレーナー取られちゃうよー?」

「ほえ? トレーナーさんはわたしのじゃなくて、わたしたち三人のトレーナーさんだよ? ね、トレーナーさん!」

 

 いつものほわほわした笑顔で、ヒクマは私を見上げる。私が微笑してヒクマの頭を撫でると、ヒクマは「えへへ~」と目を細めて尻尾を振り、コンプは呆れ顔で肩を竦める。

 ――と、そこへ。

 

「あっ、いたいた、エチュードちゃーん!」

「マルシュちゃん? どうしたの」

 

 ボブカットの栗毛の、サイドを片側だけ短く結んだウマ娘が、エチュードに駆け寄ってくる。覚えのない顔だ。「誰?」と私がコンプに訊ねると、「エーちゃんのルームメイト」と答えが返ってきた。なるほど。

 

「あ、エチュードちゃんのトレーナーさんだ! どうも、マルシュアスです! エチュードちゃんがいつもお世話になってます!」

 

 マルシュアスと名乗ったウマ娘は、私に元気よくそう挨拶をすると、私の返事も待たずにエチュードに向き直って、その手を掴む。

 

「エチュードちゃん、あたし、デビュー決まったよ! 来月のランデブーさんが出るマイルCSと同じ日、メイクデビュー京都!」

「え、ホント? おめでとう!」

「いぇーい! これであたしもオトナの第一歩! エチュードちゃんたちより出遅れたけど、すぐにオトナなウマ娘になるからね!」

 

 エチュードと手を取り合って、ぴょんぴょんと飛び跳ねるマルシュアス。なんというか、エチュードとは対照的にテンションの高い子である。

 

「これであたしのトレーナーさんがヨボヨボおじいちゃんじゃなかったらなぁ……」

 

 と、なにやらマルシュアスは私を見上げて、それからエチュードを見やる。エチュードは顔を赤くして「マルシュちゃん!」と口を尖らせた。

 

「あ、だいじょぶだいじょぶ、エチュードちゃんのお邪魔はしないよ! オトナはそのへんわきまえないと! じゃ、あたし先に部屋戻ってるねー!」

 

 そう言い残し、マルシュアスは嵐のように走り去っていく。……ルームメイトならどうせ部屋でエチュードと会うだろうに、どうしてわざわざ寮の近くでエチュードに報告していったのだろう。そんなに急いで報告したかったのだろうか?

 まあ、ともあれ――来月デビューなら、エチュードたちとは同期ということになる。

 

「また、ライバルが増えたね」

「……マルシュちゃんは、三冠路線で皐月賞獲りたいって言ってますから……」

「あれ、そーなの? マルちゃんってたしかネレイドランデブーさんに憧れてるんじゃなかった? それならティアラ路線じゃないの?」

 

 コンプが首を捻る。ネレイドランデブーといえば、2年前の桜花賞ウマ娘であり、去年のヴィクトリアマイルとマイルCSを制した現役最強クラスのマイラーだ。今年は怪我でまだ一戦も走っていなかったと記憶しているが……。

 

「コンプちゃん、マルちゃんって呼んだらマルシュちゃん怒るよ……。たしか、ランデブーさんから『他人の後を追うんじゃなく、自分の道を行くのがオトナだよ』って言われたって前に聞いた気がする……」

「だから三冠路線? ふーん」

 

 どの路線に進むかも、いろいろな選択の仕方があるものだ。三冠路線で皐月賞が大目標というのは珍しい気がするが、ネレイドランデブーが桜花賞ウマ娘だからだろうか?

 ――そして、その選択が正しかったのかどうかも、結果が出てみないとわからない。

 私は改めて、自分が担当する3人を見回す。

 

 バイトアルヒクマ。ティアラ路線。ただし、ジュニア級の最大目標はホープフルS。

 リボンエチュード。ティアラ路線。ジュニア級の最大目標は阪神JF。

 ブリッジコンプ。短距離路線。ジュニア級の最大目標は次走、京王杯ジュニアS。

 3人とも、納得のいく結果を得られればいい。――私にできるのは、そう願いながら、全力を尽くすことだけだった。



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第44話 〝姫将軍〟

 10月28日、土曜日。東京は朝から雨が降り続いていた。

 

「今日1日止まないってよ。こんな雨の中でレースやんのか? 大変だな、ジェネも」

「雨でバ場が悪くなるのは週間予報が出たときから解ってましたから。ジャラジャラさんもいずれは体験することになりますよ」

 

 寮の部屋で支度をしながら、エレガンジェネラルはルームメイトの言葉に応えた。実際、そのつもりで準備していたから何も問題はない。いつも通り、万全を期してレースに挑むだけのことだ。

 トレセン学園に隣接する東京レース場のレースは、寮の自室でゆっくり支度できることがありがたいと思う。デビュー戦は中京、2戦目は新潟、遠征で調子を崩すほどナイーブではないつもりだが、いつも通りでいられるというのは、やはり心理的に楽だ。

 

「ジャラジャラさんは来るんですか?」

「ん? 来てほしいのか?」

「別にそんなことは言ってません。風邪でも引かれたら面倒だと思っただけです」

 

 ニヤニヤと笑うジャラジャラに、ジェネラルは嘆息する。

 

「この雨の中、カッパ被って見るのも面倒だな。どーせお前が勝つだろ?」

「レースは何が起こるかわかりませんよ。手強そうな相手もいますしね」

「自分で言うなよ。負けることなんか考えてもないくせに」

 

 重バ場、不良バ場のレースはジェネラルも初めてだ。ジャラジャラの言う通り、負けるつもりはないが、いつも通りの自分の走りができるか、という不安はないでもない。

 私は本当に、今日のレースに向けて万全の準備ができているだろうか? 足元が不安な状況で走るトレーニングを、もっと積んでおくべきではなかったか? 雨の中でのトレーニングは王寺トレーナーに止められたけれど、やはりやっておくべきではなかったか……。

 ――いや、当日になって考えても仕方ない。できる限りのことはした。対戦相手全員のデータも頭に入っている。レース展開のシミュレーションも万全だ。

 大丈夫。私は今日も、万全を期してレースに挑める。

 

「それじゃあ、行ってきます」

 

 部屋のドアに手を掛けると、ベッドに寝転んだままのジャラジャラが声を上げる。

 

「ジェネ」

「なんですか」

「怪我と情けないレースだけはすんなよ」

「――言われるまでもありません」

 

 振り返らず、ジェネラルはドアを閉め、顔を上げて歩き出した。

 

 

       * * *

 

 

 午後3時。雨は弱まったが、バ場は不良。メインレースまでに回復することはなさそうだった。第9レースまでのウマ娘たちも、不良バ場に苦しんでいる。

 

「エレガンジェネラル」

「はい」

 

 控え室。体操服に着替えたジェネラルは、トレーナーと向き直った。

 銀縁の眼鏡に切れ長の眼をした、いかにも切れ者という風貌の王寺トレーナーは、今日も無表情に近い顔でジェネラルを見下ろす。担当トレーナーが彼に決まってから1年近くになるが、未だにジェネラルは彼が笑ったところを見たことがない。デビュー戦も新潟ジュニアSも、勝って当然という顔で頷くだけだった。

 別に、そのことに不満はない。王寺トレーナーの指導は論理的で的確だ。自主性の尊重なんていう甘言に囚われず、しっかり担当を管理しつつ、最新のトレーニング理論を迅速に取り入れ、効率的な指導に徹するスタイルはジェネラルの気性にも合う。

 

「本番は阪神JFだ。今日は足元が悪い。無理をして故障したら元も子もない。――雑音に惑わされるな」

「わかっています」

 

 サウジアラビアロイヤルカップの圧勝で、ジャラジャラが一躍世代のトップクラスに躍り出た。今日ここで自分が負ければ、阪神JFはジャラジャラの一強ムードということになるだろう。ジャラジャラに、情けない姿は見せられない。――だからといって、今日ここで無理をして故障したら本末転倒だ。

 トレーナーとしては、ここまで不良バ場になるとわかっていたら回避させるべきだった、と考えているのかもしれない。眼鏡の奥の無表情の裏で、たぶんこの人は何より怪我を心配している。――そう、彼は冷たそうに見えても冷徹ではない。

 それがわかっているから、ジェネラルも安心して、彼に自分の競走生活を託せる。

 

「無理はしません。無理をせず、それでも勝ちます」

 

 ジェネラルのその言葉に、トレーナーは静かに頷いた。

 

 

       * * *

 

 

『阪神ジュベナイルフィリーズ前哨戦、府中1600、GⅢアルテミスステークス! 来年のティアラ路線を占う重要なこの一戦に、女王の戴きを目指す16人のウマ娘が挑みます。圧倒的1番人気はやはりこのウマ娘、新潟ジュニアステークスをレコード圧勝、来年のトリプルティアラ大本命! 14番、エレガンジェネラル』

 

 ――ふうん、あれが噂のエレガンジェネラルか。

 雨の中、泥のようなターフに悠然と姿を現したエレガンジェネラルの姿を見つめて、彼女は小さく鼻を鳴らした。短く切りそろえた前髪の下、決然と前を見るその表情は、確かに〝将軍〟の名に相応しい決然とした凜々しさをたたえている。

 でも、いかにも都会のお嬢様って感じだ。綺麗に舗装された道しか走ったことのなさそうな姿。こんな泥まみれのぐちゃぐちゃの足元で、まともに走れたりするものか。

 その点、アタシはいつだって、ド田舎の野道を泥まみれになって駆け回ってきた。こういう道悪には、自信がある。ひ弱な都会っ子なんかに、負けてなるものか。

 

『2番人気は、2番エブリワンライクス。前走のメイクデビュー中京は、今日と同じ雨の重バ場の中、直線で後方から豪快な差し切り勝ち。阪神JFへ向け、主役の座に名乗りをあげる一戦となるでしょうか』

 

 彼女はターフから観客席へ手を振る。ベリーショートにした栃栗毛の髪に当たる雨の冷たさも、今は気にならない。

 将軍だか弾丸だか知らないが、トリプルティアラの主役になるのは、アタシだ。

 そう意気込んで、彼女は拳を握りしめ、もう一度エレガンジェネラルの方を見やる。

 ――エレガンジェネラルが、彼女のことを見つめていた。

 

「――――ッ」

 

 その静かな、こちらを見定めるような視線に、彼女は僅かにたじろぐ。

 決して睨まれたわけではない。ただ見つめられただけだ。

 それなのに――なんだ、この、圧迫感は?

 つい、とすぐにエレガンジェネラルは視線を逸らした。まるでこちらに興味などもう失ったかのように。圧迫感が消えて、彼女は思わずほっと息を吐き――それから、エレガンジェネラルの無表情に、奥歯を噛みしめて拳を握りしめる。

 なんだよ、アタシが気圧されたっていうのか?

 そんなはずはない。見ていろ、この泥に足をとられて直線でバテたところを、後ろから豪快に差し切ってやる。

 エレガンジェネラルがゲートに入る。彼女もその後を追って、ゲートに足を進めた。

 狭苦しいゲートは嫌いだ。早く、広いターフを走り抜けたい。

 まだか。まだか。早く、早く――。

 

『全員ゲートイン、体勢完了――スタートしました!』

「――ッ、しまっ」

 

 ゲートの中で苛々していたせいで、一瞬反応が遅れた。慌てて彼女は走り出す。

 

『ややばらついたスタート、2番エブリワンライクスが出遅れたか』

 

 大丈夫、この道悪なら道中は間違いなく超スローペース、多少の出遅れはリカバリできる。冷静さを取り戻した彼女は最後尾につけて前方を伺った。

 ――いた。外枠スタートのエレガンジェネラルは前方、3番手から4番手あたりの外目を走っている。予想通りの先行策、泥を被らないように前がいない外を回す作戦か。いかにも都会っ子らしい。

 朝からの雨、ここまでの10レースでバ場はすっかり荒れている。皆が走りたがる最内は特にぐちゃぐちゃだ。彼女の前を行くバ群の集団も、3コーナーにさしかかると荒れた内を避けて外に持ち出し始める。

 だったらアタシは――誰も行かないところを行く!

 じっと後方で息を潜めた甲斐があった。前が開いた。荒れた最内のコーナーがぽっかりと、彼女の前に開ける。――ここから差し切る!

 

『さあ4コーナー、エレガンジェネラルはいい位置につけている。おおっとバ場の荒れた最内からひとり、エブリワンライクスが上がってきた!』

 

 ああ、慣れた感触だ。地元のぬかるんだ野道を思い出す。嫌いじゃない、こういうの。

 目の前には誰もいない。あとはあの、ゼッケン14の背中まで一直線だ――。

 

『直線に入ってエレガンジェネラルがここでもう抜けてきた、一気に加速して後続を突き放すが、内からエブリワンライクスが迫る!』

 

 スローペースで慣れた道悪、脚は充分すぎるほど残っている。府中の直線入口でもう先頭に立つなんて、後ろから差してくださいと言っているようなものだ。何が将軍だ、トリプルティアラ大本命だ。あの坂で差し切る!

 ぐっと脚に力をこめ、彼女は先頭を走る14番のゼッケン目がけて加速する。

 その背中が、徐々に迫って、

 

「――――――――ッ」

 

 こない。

 全力で加速しているのに、その背中に近付けない。

 そんな、そんなバカな、全力でスパートしているのに、この府中の長い直線、この不良バ場の中、先行策で押し切れるほど甘くはないはずなのに、

 遠い。

 ゼッケン14番の背中が、あまりにも遠い。

 

『坂を上る、エレガンジェネラル粘る粘る、エブリワンライクスが必死に追うが、しかしエレガンジェネラルだ、エレガンジェネラルやっぱり強い! なおも突き放す!』

 

 前をゆくその脚が跳ね飛ばした泥が、彼女の2番ゼッケンを汚した。

 雨と泥が口の中に流れ込んで、溺れそうな気分になる。

 脚は進んでいるのに、会心の走りができているはずなのに。

 それでも、それなのに、――どうして、前をゆく背中が、遠ざかっていくのだろう。

 

「ちっ――くしょおおおおッ!」

 

 強い。強すぎる。

 これが、エレガンジェネラル。

 世代最強と目される――力強いその走りは、戦場を駈ける勇ましき将のごとく。

 

『エレガンジェネラル、今ゴールッ! 2着はエブリワンライクス、上位人気ふたりの堅い決着となりましたアルテミスステークス!』

 

 よろめくように脚を止め、膝に手をついて荒い息を吐く。火照った身体を、降りしきる雨が容赦なく冷やしていく。

 口の中にまで飛び込んだ泥の苦味を噛みしめながら顔を上げると、そこには涼しい顔をして、観客席に向かって優雅に一礼する、エレガンジェネラルの横顔があった。

 この不良バ場で、あの走りをして、レース後に表情ひとつ変わらないのか。

 ――強すぎる。あの背中は、遠すぎる。

 膝に手を突いたまま、エブリワンライクスは砕けそうなほど奥歯を噛みしめた。

 

 倒す。絶対、あのすまし顔の将軍を討ち取ってやる!

 来年のトリプルティアラまでに、絶対に、絶対に――ッ。

 

『不良バ場もなんのその、エレガンジェネラル、力強く2バ身半差の快勝です! 阪神JFへ、そして来年のトリプルティアラへ、姫将軍の進撃が止まらない!』

 

 エブリワンライクスの、そして敗れた他の14人の悔しさと絶望と諦観とを背中に受けて。エレガンジェネラルはただ、雨の中に静かに佇んでいた。

 

 



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第45話 桐生院葵の憂鬱

 11月の重賞戦線を目前に控えたある日。

 仕事を終えて帰宅しようと学園内を歩いていると、ばったり桐生院トレーナーに出くわした。何やら悩ましげな顔をして歩いていた桐生院トレーナーは、私に気付いて驚いたように顔を上げる。

 

「お疲れ様です。桐生院トレーナーもこれからお帰りですか?」

「あっ、お、お疲れ様です。は、はい、そうなんですけど……」

 

 と、桐生院トレーナーは困ったように口ごもった。傍から見ているだけで、悩み事オーラがダダ漏れである。参ったな、と私は頭を掻いた。

 

「……何かお困りですか? 力になれることがあるなら」

「いっ、いえ、そんな、これは私とミークの問題ですから――」

 

 言いかけて、桐生院トレーナーは慌てたように口を噤む。やっぱりそうか。

 ハッピーミーク。桐生院トレーナーがスカウトした、世にも珍しい白毛のウマ娘だ。そういえば、私がヒクマをスカウトしたのとそう変わらない時期に桐生院トレーナーが担当に決まったと記憶しているが、もう11月になる現在もデビューの噂が聞こえてこない。

 何しろあの子は希少な白毛、芦毛よりもさらに白いので、グラウンドでトレーニングしていてもよく目立つ。遠目に見ている限りでは、怪我をしているとかそういう様子もなさそうに記憶していたが……。まあ、仕上がりのペースはウマ娘次第だし、極端なゲート難などでなかなかデビュー許可が下りない場合もある。ジュニア級の間にデビューが間に合わず、クラシック級になってようやくデビューするウマ娘も決して珍しい話ではない。

 とはいえ、桐生院トレーナーがどう思っているかは別の問題だ。

 

「……あの、すみません。やっぱり、ちょっと相談に乗っていただけませんか?」

 

 桐生院トレーナーは、そう言って上目遣いに私を見上げた。

 

「はい、もちろん構いませんが、私から言い出してなんですけど、私でいいんですか?」

 

 よく考えたら、担当ウマ娘のことで悩みがあるとしても、名門・桐生院家の出身である彼女ならば、他に相談相手がいくらでもいそうなものだが……。

 

「いえ! あの、是非お願いします!」

 

 と、桐生院トレーナーはやけに力を入れて言う。

 

「はあ、わかりました。喜んで」

 

 これも同期のよしみであろう。私が頷くと、桐生院トレーナーはほっと息を吐き出した。

 

 

       * * *

 

 

 てっきり、桐生院トレーナーのトレーナー室で話をするのかと思いきや――。

 

「お酒、飲まれるんですね。意外です」

 

 なぜか私たちは、こぢんまりとしたバーのカウンターに腰を下ろしていた。桐生院トレーナーに案内された店である。

 

「……あ、いえ、あの、実は……こういうお店、自分で来るのは初めてで……」

 

 と、桐生院トレーナーはみるみる縮こまってしまった。

 

「養成校時代にお世話になった大先輩トレーナーさんに、何度か連れてきてもらったんですけど……。いつもちょっと飲むだけですぐ頭が回らなくなってしまって……」

「下戸なんですか!」

 

 それでなんでバーなのだ。

 

「あの、その先輩が、よくこのお店で同期のトレーナーさんといろいろ話し合ったって、そう伺ってまして……だから、その……」

 

 ……なるほど。それで思いついたのがこの店だったわけか。

 私たちの話が聞こえていたらしいバーテンダーも、困ったように苦笑している。私はバーテンダーに手を挙げて、彼女にはノンアルコールカクテルを出してもらうよう頼んだ。

 

「それで、相談というのは?」

 

 出てきたノンアルコールカクテルに、「美味しい」とびっくりしたように目を見開く桐生院トレーナーに、私は自分のカクテルを傾けながら口火を切った。

 

「あっ、はい!」

 

 と、桐生院トレーナーは私に身体ごと向き直ると、膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。

 

「実は、ミークのことなんですが……」

「はい」

「……あっ、そうです。あの、ええと、今さらなんですが、バイトアルヒクマさんの重賞制覇と、担当ウマ娘全員の勝ち上がり、おめでとうございます」

「え? あ、はあ、ありがとうございます」

 

 いきなり話を変えられてしまった。私が頭を掻くと、桐生院トレーナーは「本当に、すごいですね……」とどこか遠い目をして私を見つめた。

 

「……私、自分が自惚れているなんて思っていませんでした。けれど、世の中には本当にすごい、ウマ娘の才能を見抜いて引き出す天性の力の持ち主がいるのだと、そう思い知らされました。私は、まだまだあまりに未熟だと、毎日突きつけられる思いです」

「い、いやいやいや、そんな大層なものでは。運が良かっただけで……」

 

 褒め殺しは勘弁してほしい。私が慌てて首を振ると、桐生院トレーナーは大げさに私に向かって頭を下げる。

 

「厚かましいお願いとは承知していますが、どうか私にも、その指導法についてご指導ご鞭撻のほどをっ」

「あの、いやその、頭を上げてください」

 

 人に何かを教えられるような立場ではない。こっちだっていっぱいいっぱいなのだ。できるのはせいぜい、こうして一杯飲みながら相談を聞くぐらいである。

 

「それで、ハッピーミークの何についての相談なんですか?」

「あっ、す、すみません! ええと、その……」

「……彼女に何か問題が? レースに出たがらないとか、ゲート試験に通らないとか」

「いえ! そんな、ミークには何の問題もないんです。むしろ問題がなさすぎるのが問題といいますか……その、こんなのはトレーナー白書にも書いていなくて……」

 

 トレーナー白書ってなんだろう。問題がなさすぎるのが問題とは、また哲学的な……。疑問に思いつつ、私は話を促す。

 桐生院トレーナーは、意を決したように口を開いた。

 

「わからないんです」

「……何がです?」

「あの子の適性が、です。……私は、ミークにどんな路線を走らせたらいいんでしょう?」

 

 私は、思わず目をしばたたかせた。

 

 

       * * *

 

 

『ミークちゃんってすごいんだよ! 芝でもダートでも、どこ走ってもとっても速いの!』

 

 ――そういえば以前、ヒクマがそんなことを言っていた記憶がある。

 しかし、ウマ娘の適性なんて、走らせてみないとわからないものだ。トゥインクル・シリーズの歴史を振り返っても、ずっと芝で走っていたがシニア級からダートに転向した途端覚醒して砂の女王に君臨したウマ娘や、逆にそれまでダートしか勝ったことのなかったウマ娘が突然芝GⅠを勝った、なんて例はいろいろあるわけで……。

 ブリッジコンプのように、短距離向けの優れたスタートダッシュ能力があり、道中のペース配分が苦手でそれ以上の距離を走るには明らかにスタミナ不足――みたいなわかりやすい例にしたところで、コンプが中距離の選抜レースやマイルの模擬レースで逃げからの撃沈という実例を示してくれたからこそ、私も「短距離がいいんじゃない?」と提案できたわけである。

 

「それは……やっぱり走らせてみるしか」

「走らせたんです。いろいろなトレーナーさんにお願いして、ダートの1200から芝の2400まで、さすがにまだ芝の3000は走らせてないですが……」

 

 そりゃそうだ。普通、ジュニア級で走らせるのは2000まで。クラシックディスタンスの芝2400すら、ジュニア級のウマ娘にはハードすぎると言われる距離である。

 

「見てください。過去六回行ったミークの模擬レースの着順とタイムです」

 

 と、桐生院トレーナーがノートPCを取りだして画面をこちらに向けた。「いいんですか?」と一応確認しつつ、私はそのデータを見て――我が目を疑う。

 

「……どう思われます?」

「これは……いや、本当ですかこれ?」

「本当だから困ってるんです!」

 

 にわかには信じがたい。が、これが事実なら、桐生院トレーナーが混乱するのも無理はなかった。私だってこんなウマ娘を前にしたら、途方に暮れるしかないだろう。

 本当に、ミークはあらゆる距離を走っていた。どの模擬レースにも、シニア級の重賞クラスの名前がある。さすがに全勝ではないが――芝1600、芝2000、芝2400、ダート1600、ダート1200、そして最後は芝1200。全て、このままメイクデビューに出せばまず楽勝、クラシック級の重賞でも勝ち負けになりそうなタイムが出ていたのである。

 

「最初は、普通に芝1800からデビューさせて、クラシック三冠を目指すつもりでいたんです。最初の2回の模擬レースはその予行演習のつもりでした。……2回目で、2000を走ってもまだミークが平然としているので、この子はひょっとしたらステイヤー向きなんじゃないかと思って、3回目の2400を走らせてみたら、まだ平然としてるんです。それで、春の天皇賞を大目標にしよう、と思ったんですけれど……」

「次にダートを走らせたのは?」

「トレーニングの一環でダートを走らせていたら、あるトレーナーさんの目に留まって、是非うちの子と模擬レースしてほしいと言われてしまいまして……。これも経験だと思って引き受けたんですけど、勝ってしまいまして……。その模擬レースを見た他のトレーナーさんから、次はダートの1200をお願いされまして、それも勝ってしまって……」

「まさかと思って芝の1200も走らせてみたら……?」

「はい、そこでもこのタイムです」

 

 無茶苦茶だ。どんなウマ娘にもバ場適性、距離適性というものがある。ダートを芝の二軍扱いするような風潮が全くないとは言わないが、芝で強いウマ娘がダートでも強いとは限らないし、スプリンターの才能とステイヤーの才能は全くの別物だ。人間だってマラソンランナーに100メートル走を走らせはしない。

 普通に考えれば、やはりどれかのバ場・距離に真の適性があって、他はどこかで頭打ちになってしまうのだろうが……。しかし、このタイムを見る限りでは、なるほどいったいどれが適性なのか全くわからない。少なくとも、このタイムを見てこの子の適性を答えよと言われたら私もお手上げである。

 なるほど、11月になってもデビューが決まらないわけだ。桐生院トレーナーは、ミークにとって最良のローテーションを組むために、デビュー前になんとしても彼女の適性を見極めようとしているのだろう。

 しかし、それで才能を発揮できるレースに出られなくなっては本末転倒だ。既にデビューできるだけの力があるなら、デビューさせてあげるべきだと私は思うが……。

 

「ハッピーミーク自身は、なんと言っているんですか?」

 

 こうなれば、あとは本人の希望次第ではないだろうか。私がそう思って問いかけると、桐生院トレーナーは「え?」と顔を上げ、きょとんと私を見つめた。

 

「彼女の希望ですよ。どの路線を走りたい、どのタイトルを獲りたい、あるいは誰かと戦いたいとか――ここまで何でも走れるなら、あとはもう本人が最もモチベーションを保てる路線で走らせてあげるべきだと思いますが、ハッピーミークはなんと?」

 

 結局、一番大事なのはそこではないかと私は思う。コンプを短距離路線に向かわせるのに、「短距離歴代最強」という目標が必要だったように――どんなに適性に合致していても、本人が納得してモチベーションを保てなければ、せっかくの実力も発揮できまい。

 けれど――桐生院トレーナーは、全く予想外の言葉を聞いたかのようにぽかんとしていた。……まさか。

 

「ひょっとして……本人と話し合い、してないんですか?」

「い、いえ、だってあの子、本当に素直で、なんでも私の指示通りに――。それに、トレーナー白書にも、ウマ娘はまだ精神的に未熟だからトレーナーがしっかり導いてやらねばと……だから、私が」

 

 そういえば、一度だけ水族館で会ったハッピーミークは、なんだかつかみどころのないぼんやりしたウマ娘だった。……それは単に、本人の気性的に、強い自己主張が苦手なだけなのでは?

 ミーク自身の希望を聞かずに、桐生院トレーナーが勝手に悩んでいるのだとしたら……。ミークは、桐生院トレーナーが自分に向き合ってくれるのを待っているのではないか?

 

「話し合うべきだと、思います」

「――――」

「ハッピーミークが何を目指したいのか、ちゃんと本人の話を聞いてあげるべきかと。こんなところで私に相談するより、桐生院さんが相談すべきは、自分の担当ウマ娘ですよ」

 

 大きく目を見開いた桐生院トレーナーは、スマホを取りだして画面をじっと見つめ、そして急に立ち上がった。

 

「すみません、学園に戻ります! 今日はありがとうございました!」

「はい」

 

 もう寮の門限は過ぎているが、まだ消灯時間ではないはずだ。慌てて店を飛び出していく桐生院トレーナーの背中を見送りながら、カクテルを傾け――。

 ……あれ、この店の値段そういえばあまりちゃんと見てなかったけど、財布の中身大丈夫だっけ……?

 

 

       * * *

 

 

 翌日。ハッピーミークが今月下旬の京都でデビューし、勝てたらそのまま朝日杯FSを目指すと、桐生院トレーナーから連絡があった。

 三冠路線とマイル路線、まずは両にらみと見えるが……とりあえず、ヒクマやエチュードとぶつかるのは当分先になりそうである。

 

 しかし、そろそろ他人のことにも構ってはいられない。

 11月。私にとって、そして担当の3人にとって、いよいよこのジュニア戦線の行方、そしてクラシック級での目標を左右する正念場の3連戦がやってくる。

 11月4日、ブリッジコンプのGⅡ京王杯ジュニアステークス。

 11月11日、リボンエチュードのGⅡデイリー杯ジュニアステークス。

 そして――11月18日、バイトアルヒクマのGⅡ東スポ杯ジュニアステークスだ。



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閑話 占いなんて当たらない

第2回モブウマ娘総選挙に投稿したリボンエチュードちゃんの怪文書です。
おかげさまで怪文書部門を受賞しました。ありがとうございます。


「エチュードちゃんエチュードちゃん、見て見て」

 

 寮の部屋で朝の支度をしていると、ルームメイトのマルシュアスちゃんがスマホを差し出してきた。

 

「なに?」

「今日の星座占い。年上の人から何かいいことがありそう、だって。ラッキーカラーは青!」

 

 マルシュちゃんと私は誕生日が3日違いで、星座も一緒だ。

 でも、年上の人から、って……。

 

「これってさー、つまり担当のトレーナーさんから何かいいことがあるってことだよね!」

「ふえ!? そ、そんな、こと……」

 

 思わず、左耳の耳飾りに触れる。私のそれは――青と黄色のストライプ模様。

 トレーナーさんから、いいことって……ええと、それはその……。

 

「エチュードちゃん、これはチャンスだよ! きっとトレーナーさんとふたりっきりになって、いい雰囲気になっちゃったりして、オトナの一歩を踏み出す大チャンス!  あたしもルームメイトとして応援してるから!」

「ま、マルシュちゃんっ」

 

 いけない想像が頭の中にわきあがってきて、私は慌ててそれを振り払った。顔が熱い。

 うう、こんなこと考えちゃって、今日はどんな顔してトレーナーさんに会えばいいんだろう……。

 

 

 

 悶々としていてもトレーニングの時間はやってくる。ヒクマちゃんとコンプちゃんと3人、いつものようにグラウンドでトレーナーさんと合流する。

 へ、平常心、平常心……。占いなんて当たらなくて当然だし、当たったとしてもいいことって、別に私が想像しちゃったようなことじゃないはずだ。せいぜい、トレーナーさんがトレーニングのあとにはちみつドリンクを奢ってくれるとか、そういう……。

 

「エチュード? 聞いてる?」

「はっ、はひ!」

「どうしたの? もし体調が悪いなら――」

「だっ、だだだ、大丈夫です……っ」

 

 トレーナーさんに顔を覗きこまれ、私は思わず視線を逸らした。顔が熱い。うう、マルシュちゃんのばか……。

 ただでさえ普段からトレーナーさんに近くにいられると平常心じゃなくなっちゃうのに、これじゃあホントにどうしたらいいかわからない……。

 

「はいはいエーちゃん、あたしとストレッチしよ」

「え、あ、うん」

 

 と、コンプちゃんが助け船を出してくれる。ううっ、助かった……。

 

「じゃあ、わたしはトレーナーさんとだね!」

「はいはい、怪我しないようにしっかりね」

「はーい!」

 

 ヒクマちゃんは、いつものように無邪気に尻尾を振ってトレーナーさんにじゃれついている。わたしはコンプちゃんに背中を押してもらって柔軟をしながら、トレーナーさんとの距離感の近いヒクマちゃんのことを、ちょっと複雑な気持ちで見つめる。

 ……私もあんな風に、トレーナーさんに甘えられたらなあ……。

 って、ううっ、なに考えてるの私! そんなの、恥ずかしくてできるわけ……。

 

「エーちゃん、クマっちが羨ましいのはわかるけど、そんな物欲しそうな顔して見なくても」

「わ、私そんな顔して……してた……?」

「してるしてる。クマっちと替わってもらう?」

「ううう……無理ぃ……」

 

 コンプちゃんまで意地悪なことを言う。私はぎゅっと目を瞑って、余計な思考を振り払うように足の爪先へ指を伸ばした。

 

 

 

 そうこうしているうちに、いつものトレーニングも終わり。

 

「はい、今日はここまで。おつかれさま」

「はーい! おつかれさまー!」

「ふぃー、つかれたぁ」

 

 トレーナーさんが解散を宣言して、私はほっと一息つく。あのあとは専らランニングにダッシュに坂路にと、トレーナーさんが物理的にあまり近くにいなくて残念なような助かったような……。

 結局、占いにあったような「いいこと」なんて特になかった。うん、やっぱり占いなんてそんなものだよね……。

 

「エチュード」

「は、はひっ」

 

 いきなりトレーナーさんに名前を呼ばれ、私は思わずピンと尻尾を逆立ててしまう。

 トレーナーさんは真剣な顔で私に歩み寄ってきて、私の前でしゃがみこんだ。

 

「ちょっと脚見せて」

「えっ、あ、えっと、えと」

 

 私が何か反応する前に、トレーナーさんの手が私の脚に触れて、私の思考はそこでショートしてしまう。

 い、いきなりで何がなんだか……。

 

「……やっぱり。蹄鉄、だいぶすり減ってるね」

「…………え?」

「今日の走り方見て、ちょっと違和感があったんだ。怪我かと心配したけど、蹄鉄の問題なら良かった。明日、新しいの買いに行こうか」

「――――」

 

 ぽかん、と私は思わず立ち上がったトレーナーさんの顔を見上げた。

 シューズの蹄鉄が? そんなの、私、自分でも全然気付かなかったのに……。

 

「え、今日のエーちゃんの走り、そんな変だった? あたし全然気付かなかった」

「わたしもー」

 

 コンプちゃんとヒクマちゃんが不思議そうな顔をこちらに向ける。

 

「そんなに見てすぐわかるぐらい変だったらもっと大事だよ。ほんのちょっとの違和感だったけど、はっきりしてよかった」

「…………」

「トレーナー、ほんとよく見てるのね、あたしたちのこと」

「そりゃまあ、みんなの担当だからね」

 

 当たり前のように、トレーナーさんはそう言う。

 ――走ってる私自身が気付かないような違和感まで、たちどころに見抜いてしまうぐらいに、トレーナーさんが私のことを、そんなによく見ている……なんて。

 ああ、もう。そんなの、担当ウマ娘だから、それだけのことでしかないはずなのに――。

 ……なんでこんなに、顔が熱いんだろう。

 

「エチュード。明日大丈夫? 一緒に買いに行こう」

「え? あっ、はっ、はい!」

 

 私は思わず背筋を伸ばして答える。

 ――えっ、ということはつまり、明日はトレーナーさんと、その、スポーツ用品店デート……。

 

「あ、トレーナーさん、わたしも一緒に行っていい?」

「クマっち、ちょい」

「ほえ? なにコンプちゃん」

「うん、3人とも一緒に行こう。何か必要なものあったらまとめて買っておこうね」

 

 ――うん、ですよね。わかってる。わかってるけど。

 コンプちゃんは呆れ混じりに肩を竦めていたけれど、私はそれでも充分だった。

 トレーナーさんの横顔を見上げて、私は目を細める。

 

 ……占いも、たまには信じてみてもいいのかもしれない。



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第46話 ただ唯一の

 チョコチョコが彼女と初めて出会ったのは、トレセン学園に入学して、美浦寮の自室に足を踏み入れたときのことだった。

 誰もいないと思って部屋に入ったら、ベッドに腰掛けて本を読んでいるウマ娘の姿があってぎょっとした。その芦毛を三つ編みにして、眼鏡を掛けたやや色黒のウマ娘は、誰かが部屋に入ってきたことにも気付かないように、本の世界に没頭していた。

 ――トレセン学園にも、こんな見るからに図書委員みたいなタイプいるんだなあ。

 意外に思ったが、しかしこの中央のトレセン学園に入学を許されたということは、目の前で黙って文庫本のページを捲っているウマ娘も、走りでは相応の実力者ということだ。まあ、趣味は人それぞれ、読書家のウマ娘がいたって別に悪いわけじゃない。

 

「こんちわー」

 

 声をかけてみる。――無反応。無視かい! と憤慨して、チョコチョコはもう一度、今度は大きめに声を上げる。

 

「おーい、もしもーし」

「…………」

 

 完全シカト。本のページから目を離すそぶりすらない。よほど集中しているのか、それともルームメイトとすらまともに交流する気がないのか。後者だったらこの先どうしたもんかね、と思いつつ、溜息をついてチョコチョコは自分の荷物をもう片方のベッドに置いて、ごろんと寝転がった。

 ふあああ、と欠伸が漏れる。横になったら眠くなってきた。入学当日、朝からゴタゴタしててくたびれた。夕飯の時間まで一眠りしよう。チョコチョコは隣のベッドで一心不乱に本を読み続けるルームメイト(?)を横目に見ながら目を閉じ、あっさりと睡魔に意識を手渡した。

 

 

 

 1時間半後。

 チョコチョコが目を覚ますと、そのウマ娘は全く同じ姿勢で本を読み続けていた。変わっているのは、本の残りページだけ。チョコチョコが伸びをしている間に残り僅かのページを読み切ったそのウマ娘は、ほおっと息を吐くと、ぱたんと文庫本を閉じて、

 そこでようやくこちらを振り向いて、眼鏡の奥のその目をまん丸に見開いた。

 

「………………誰?」

「いやそれ今訊く!?」

 

 思わず突っ込んだチョコチョコに、そのウマ娘は心底不思議そうに首を捻り、部屋のドアの方と、チョコチョコの方とを交互に見やると、顎に手を当てて考え込む。

 

「……これは、密室トリック? 人間消失ならぬ、密室へのウマ娘出現……」

「いや、普通に入ってきただけなんだけど」

「……私はずっとこの部屋にいた。つまりこの部屋は衆人環視の密室」

「いや衆人じゃなくてあんただけだし、だいたい声掛けたってば。そっちが本に没頭してて気付かなかっただけじゃん」

 

 なに言ってんだこいつ、と思いながらチョコチョコが言うと、そのウマ娘は「……なるほど」と納得したように頷いた。

 

「私自身が信頼できない語り手になっていた……。京極夏彦的トリック」

「意味わかんないんだけど」

「……密室の謎は解決した。問題ない」

「謎なんかそもそも何もないっての!」

「謎はある。……貴方が何者か。この推理は初歩。……貴方はウマ娘。着ているのはトレセン学園の制服。ベッドの上の荷物。……つまり、貴方は私のルームメイト」

「そんなん見れば誰でもわかるっての!」

 

 こいつ、変な奴だ。チョコチョコは確信する。そんなチョコチョコのツッコミを無表情に受け流して、そのウマ娘は居住まいを正してこちらに向き直った。

 

「……私は、ユイイツムニ。よろしく」

「唯一無二? そらまたご大層なお名前で……。あたしはチョコチョコ」

「……よろしく、チョコ」

 

 いきなり名前を縮められてしまった。いやまあ、子供の頃からの愛称だから違和感はないが、このユイイツムニとかいう大層な名前のウマ娘の距離感が掴めない。

 

「あー、うん、よろしくぅ……ふぁぁぁ」

 

 まだ寝足りない。欠伸を漏らしたチョコチョコに、目をしばたたかせたユイイツムニは、何を思ったのか、読み終えたその文庫本を差し出してきた。

 

「……え、なに?」

「眠気覚まし」

「え、その本の背で頭叩いて目覚ませとかそういう?」

 

 チョコチョコの言葉が全く理解できないという風にユイイツムニは首を捻る。

 

「……? 本は読むもの」

「いや、それむしろ睡眠導入剤だから。あたし活字読むと3ページで眠くなるの」

「…………?」

「ちょっと、この話の流れでなんであたしが『こいつ何言ってんだ? 正気か?』みたいな目で見られないといけないわけぇ?」

 

 やっぱりこいつ変な奴だ。差し出された物騒なタイトルの本を丁重に受け取り拒否して、チョコチョコはもう一度ベッドに寝転がる。ちょっと起きるのが早かった。夕飯まではまだ時間が空いている。ならもう一眠り……。

 と、ユイイツムニが立ち上がる気配がして、寝転がったまま視線を向ける。ユイイツムニはいきなり制服を脱いでジャージに着替えると、黙って部屋のドアの方へ向かって歩き出した。

 

「ふぁ……どこいくの?」

「走ってくる」

 

 返事はそれだけ。音をたててドアが開閉され、ユイイツムニの姿が消える。それをぼんやり見送って――溜息をついて、チョコチョコも起き上がった。

 もう一眠りは夕飯の後にしよう。その前に、あの変な奴の走りを見てみたかった。ただの変な奴なのか、それとも――。

 チョコチョコもジャージに着替え、ユイイツムニの後を追って寮の部屋を出た。

 

 

 

 グラウンドに出ると、ウッドチップコースの片隅でストレッチしているユイイツムニの姿が見えた。チョコチョコが駆け寄ると、ユイイツムニは不思議そうな顔で振り向く。

 

「……何か?」

「や、どーせなら併走お願いしていい? ルームメイトの実力、気になるからさあ」

「…………構わない」

 

 無表情にユイイツムニは答える。何を考えてるんだか本当によくわからない奴だ。ともあれ、チョコチョコも軽くストレッチして、先に走り出したユイイツムニを追って、ウォーミングアップがてらウッドチップコースをぐるりと一周、軽く流す。

 良い感じに少し身体があったまった。立ち止まったユイイツムニの背中に追いつくと、チョコチョコはコースの反対側を指さす。

 

「じゃ、このコース半周、反対側のあのへんまで」

「……」

 

 こくり。無言で頷くユイイツムニ。よし、とチョコチョコはコインを一枚取り出す。

 

「これが地面に落ちたらスタート。いくよ」

 

 ピン、と指で弾いたコインが、回転しながら地面に落ちていく。ぐっと体勢を構えて、コインが音をたてた瞬間、チョコチョコはウッドチップを蹴って走り出し――。

 横から、同じ芦毛の影が、風のようにチョコチョコの前に出た。

 

「――――ッ」

 

 チョコチョコは目を見開く。一瞬で、視界の前であの芦毛の三つ編みが揺れていた。スタートダッシュにはちょっと自信があったのに――隣のこいつは、それよりも速く。

 ぐっと脚に力を込め、チョコチョコはその横に並ぶ。そして、ちらりと横目で、その横顔を見やった。

 その表情は――それまでの、ぼんやりとした無表情ではない。

 スピードの先にあるものを見通すような、引き締まった走者の顔。

 

 眼鏡の奥の瞳は、ただ前だけを見て。

 その脚は、風のように大地を蹴る。

 ――唯一無二。

 その名前に恥じないスピードに、チョコチョコはついていくだけで精一杯だった。

 

「あーっ、負けた負けたぁ、あたしの負けぇ」

 

 正確なゴールなんて決めていなかったけれど、勝敗は明らかだった。ペースを緩めたユイイツムニの背中をようやく追い越して、チョコチョコはそのままばったりとコースの外の芝生の上に倒れこみ、仰向けに空を見上げる。

 ――入学初日に、いきなりこれかあ。自分が最強だなんて自惚れていたつもりはないけれど、いきなりルームメイトがこんな強敵とは、先が思いやられる。

 

「……大丈夫?」

 

 ユイイツムニが、しゃがみこんでチョコチョコを覗きこんでくる。その顔は既に、何を考えているのかよくわからない、ぼんやりした無表情に戻っていた。

 

「強いね、あんた」

「……チョコも強い。抜かれるかと思ったのは初めて」

「そりゃどーも。光栄だよぉ……ふぁぁ」

 

 抜けなかったのだから褒められても嬉しくない。このままふて腐れて寝てしまいたかった。チョコチョコが目を閉じると、不意に横にユイイツムニが腰を下ろす気配がした。

 目を開けてそちらを見やると、芝生に座ったユイイツムニが、こちらを見ながらぽんぽんと自分の太ももを叩いている。

 

「……え、なに?」

「枕」

「……はい?」

「膝、貸してあげる」

「…………」

 

 なんだこいつ。初対面でいきなり膝枕? 距離感が掴めないにも程がある。

 けれど、眼鏡の奥からじっとその瞳に見つめられると、なんだかそうしないといけないような気がしてきて――気が付くとチョコチョコは、その膝に頭を載せていた。

 ……存外、その枕は、自分の後頭部にフィットしてしまった。

 ユイイツムニは何を言うでもなく、じっと黙ってこちらを見下ろしている。

 その視線が落ち着かなくて、チョコチョコは目を閉じたまま口を開いた。

 

「……ね、なんて呼べばいい? ユイイツムニ、って、呼ぶには長いっしょ」

「…………周りは、だいたい『ユイ』って呼ぶ」

「ユイかあ。……ユイねえ」

 

 目を開けて、チョコチョコは頭上に手を伸ばし――ユイイツムニの頬に触れた。

 むに、と予想以上に柔らかいその感触に、チョコチョコは小さく笑って。

 

「じゃあ、あたしはあんたのこと、ムニって呼ぶ」

「……ムニ?」

「そ。ムニ……んーと、ムニっち。ムニっち、むにむにー」

「…………」

 

 頬を引っ張ると、ユイイツムニは困ったような顔で目をしばたたかせた。

 その顔を見て――チョコチョコは思う。こいつ、変な奴だけど――かわいいじゃん、と。

 

 

       * * *

 

 

 思えばその日からずっと、チョコチョコにとってユイイツムニは、ただひとり倒すべきライバルだった。ルームメイトとか友人とか、そんなことより何より先に、あの最初の一日に見せつけられた背中こそが、追い抜くべき目標だった。

 

「やー、存外早く来たねえ、直接対決。許してくれたトレーナーに感謝しとくかぁ」

「…………」

 

 11月4日、土曜日。東京レース場。

 GⅡ、京王杯ジュニアステークス。芝1400メートル。

 ターフに足を踏み出して、チョコチョコは秋の日射しに目を細めた。ユイイツムニはいつものように無言。相方の無口にも、もう慣れたものだ。

 今日この日のために、今まで走ってきたのだ。トゥインクル・シリーズの本番、レースでこのルームメイトを、入学初日に自分の自信とかプライドとかをまとめて無表情に叩き折ってくれたこの宿敵を、なんとしても倒すために。

 ムニっち以外の相手なんて、ハナから眼中にない。ムニっちに勝つ。逃げるあの背中をゴール前で差し切る。それ以外に考えるべきことなど、何もない。

 トレーナーはこのレースを、来月の朝日杯FSと阪神JFへ向けた単なる叩き台と見ているのだろうけれど――チョコチョコにとっては、そっちの方がどうでもいい些事だった。まあ、そんな口実のおかげでこんなに早く直接対決の機会を貰えたのだから、GⅠなんてもっともらしい目標が存在することには感謝しておくけれども。

 

『さあ1番人気ユイイツムニ、2番人気チョコチョコが相次いで姿を現しました! ともに来月のジュニア級GⅠ参戦を表明している同門のこのふたり、デビュー3連勝を決めるのは果たしてどちらか? それとも別の伏兵が現れるのか?』

 

 伏兵なんて、そんなもんいるわけじゃないじゃないか。今日は実質、あたしとムニっちのマッチレースだ。他の誰にも、邪魔はさせない。

 無表情に軽いストレッチをするユイイツムニの背中を、チョコチョコは見やる。レースが近付くほど口数が減り表情が消えるこの相方の背中には、今はもうオーラが感じられるほどの気迫がみなぎっている。そうでなくっちゃ――倒しがいがない。

 ぱん、とひとつ拳を打ち鳴らして、チョコチョコは気合いを入れ直し、ゲートへと視線を向けた。泣いても笑っても、あのゲートが開けば、一分ちょっとで決着がつく――。

 

「――ちょっと」

 

 と、そこへ無粋な第三者の声が割り込んだ。

 眉を寄せてチョコチョコが振り返ると、そこには。

 小柄な栗毛のロングヘアーのウマ娘が、こちらを睨むように見つめていた。



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第47話 京王杯ジュニアステークス・リベンジ!

 向こう正面のゲート前。ブリッジコンプが、ユイイツムニとチョコチョコに歩み寄っていくのが遠目に見える。

 私はそれを双眼鏡で覗いていた。コンプがユイイツムニに指を突きつけて何か言っている。リベンジ宣言、宣戦布告――そんなところだろう。意気込みはいいが、空回りしないといいのだけれども……。

 今日の京王杯ジュニアステークスは、18人立てのフルゲート。ともに2連勝で乗りこんできたユイイツムニとチョコチョコがほとんど差のない1番人気と2番人気。コンプは前走の敗北で1400は厳しいと見られたか、9番人気の低評価だ。

 

「コンプちゃーん! がんばれー!」

 

 ヒクマが両手をぶんぶん振り回して声をあげる。エチュードはぎゅっと柵を握りしめて真剣な顔で向こう正面を見つめている。それから――。

 

「コンプちゃん、いい顔していますね~」

 

 私と同じく双眼鏡を覗いていたビウエラリズムが、ほっとしたように息を吐いた。

 

「前回負けちゃってどうなるかと心配してましたけど、あれなら大丈夫そう。良かった」

「わかる?」

「わかりますよ~。姉ですから、コンプちゃんのドヤ顔が自信か虚勢かぐらいの区別は。目元が揺れてませんから、今日は自信があるんだってわかります」

 

 私は頷く。意地っ張りのコンプだけれども、目元の感情はごまかせない。今日のコンプは、ユイイツムニとチョコチョコを、絶対に勝つという強い気持ちで睨み付けられている。前走での敗北で折れかけた心は、もう大丈夫だ。

 

「わたしもいっぱい併走して練習したもんね!」

 

 ヒクマが言い、私は笑ってその頭を撫でた。レース展開は解っている。コンプとユイイツムニがハナを切って逃げ、チョコチョコがそれをマークする展開。他にもメイクデビューや未勝利戦を逃げ・先行で勝ち抜けてきたウマ娘はいるが、コンプがいつも通りのダッシュをつけられれば、ハナを切れるはずだ。

 あとは、ヒクマとの併走で練習してきたことをちゃんと本番で出せるか。ユイイツムニとチョコチョコの競りかけに対して、きちんと折り合って1400を走りきるスタミナを保つ。それさえ出来れば――。

 勝てる。勝てるはずだ。私にできるのは、そう信じて見守ることだけだった。

 

 

       * * *

 

 

「お? なんだ、出てたんだ? 前回あんなボロ負けしといて、諦めが悪いねえ」

 

 振り返ったチョコチョコが、鼻で笑うように肩を竦めてみせる。

 安い挑発だ。コンプはそれを無視して、振り向きもしない芦毛の三つ編みに身体を向け、チョコチョコにはただ横目を流して鼻で笑い返してやる。チョコチョコが眉間に皺を寄せたのを見て、コンプは少しすっとした気分だった。

 しかし、それはそれとして――この眼鏡に無視されるのは気に食わない。

 

「ちょっと、そこのあんた。三つ編み眼鏡!」

 

 大声で呼びかけて、ようやくユイイツムニが眼鏡の奥から視線だけでコンプを振り向く。コンプはその顔に、びしっと指を突きつけた。

 

「メイクデビューのときの宣言、忘れてないでしょうね。今日は約束通り、あんたを倒しにきてやったんだから、ありがたく思いなさい!」

「…………」

 

 無視。ユイイツムニはこちらに興味などないとばかりに、無言で視線をゲートに戻した。

 ――なるほど、こいつはこういう奴だ。メイクデビューのときの反応からも予想はしていたからダメージはない。ないが、それはそれとして。

 絶対、こいつには負けたくない。

 

「いやはや――よくもまあ、そこまでデカい態度取れるもんだね? 感心するよ?」

 

 呆れたように、横でチョコチョコが大げさに肩を竦めてみせる。コンプは、ふん、と鼻を鳴らして腰に手を当てた。

 解っている。傍から見ればこれが、ひどく滑稽な虚勢だということぐらい。

 だったらその虚勢を、あたしは全力で張り通してやる。

 

「あんた誰だっけ?」

「はあ?」

「あたしはこの三つ編み眼鏡を倒しに来たの。前座の中ボスの名前なんていちいち覚えてらんないっての」

「――言ってくれるじゃん? その中ボスにボロ負けしたのはどこの誰だったっけ?」

「1ヶ月前の戦績なんかでマウント取って、みっともない。恥ずかしくないの?」

「――――」

「今のうちに負けたときの言い訳考えておきなさいよ、これ以上恥かかないように」

 

 それだけ言い残して、コンプはふたりを追い越して、真っ直ぐにゲートへと向かう。

 ――言ってやった言ってやった! あー、すっとした!

 晴れ晴れとした気分でコンプはゲートに収まる。外枠のあのふたりとは離れた内枠なので、あとは気兼ねなく走るだけだ。

 これで前回と同じようなボロ負けしたら、恥ずかしいなんて話じゃない。何がなんでも勝たないといけなくなった。頬を叩いて、コンプは気合いを入れ直す。

 勝つ。絶対に勝つ! そして、あたしが最強だって証明するんだ!

 

『全員ゲートイン完了、GⅡ京王杯ジュニアステークス――スタートです!』

 

 

       * * *

 

 

 ゲートが開いた。18人のウマ娘たちがターフへと飛び出す。

 ダッシュをつけてハナを主張したのは、やはり大方の予想通りのふたりだった。

 

『さあ先行争いですが、やはり行きましたブリッジコンプが先頭。ユイイツムニがぴったりその横につけて、このふたりがレースを引っぱります。1バ身後ろにチョコチョコ』

 

 よし、いいスタートだ。相変わらずコンプのスタートの良さは天性のものがある。

 府中の1400はスタート直後に上り坂があるから、序盤のペースはあまり速くならない。手元のストップウオッチを見ながらラップを確かめる。やはり前走のききょうステークスよりペースは遅め。坂路はみっちりやってきたから、坂への対応は大丈夫そうだ。このぐらいのペースで逃げていければ、今のコンプでも1400は保つだろう。

 あとは中盤の折り合いだ。やはりユイイツムニがすぐ横につけ、後ろでぴったりチョコチョコがマークしてくる展開。メイクデビューとききょうステークスの合わせ技のような状況である。ふたりに競りかけられて、コンプは自分の走りができるのか――。

 

「だいじょぶだよ、トレーナーさん!」

 

 横からヒクマの声がして、私は視線を向けた。ヒクマは向こう正面を走るコンプたちの姿を、柵から身を乗り出すようにして見つめながら、「いけー!」と声をあげた。

 

「一緒にがんばったんだもん! コンプちゃん、そのまま逃げ切っちゃえー!」

 

 ぶんぶんと腕を振るヒクマ。――ああ、そうだ。心配するより、信じるのだ。

 ブリッジコンプが、あのふたりを倒せると。短距離最強のウマ娘になれると。

 誰よりも、私が信じずしてどうするというのだ。

 

「いけええええ!」

 

 コンプたちがコーナーに差し掛かる。私はそう声を張り上げた――。

 

 

       * * *

 

 

 無心になんて、なれるわけがない。

 クマっちとの併走トレーニングで、そのことは嫌というほど思い知った。

 すぐ真横、すぐ真後ろ。自分の近くを誰かが走っていると、とにかく引き離したくなる。誰にも走りを邪魔されたくない。誰かに貼り付かれている状態で、何も考えずに自分の走りに徹することなんて、どうしてもできない。

 クマっちがちょっとでも抜こうとしてくれば、どうしてもペースが上がってしまう。

 折り合いを付ける――自分のペースで走るということが、こんなに難しいなんて。

 この1ヶ月、ただただその難しさを痛感させられ続けてきた。

 自分は不器用だ。頭でわかっていても、身体がそれについていってくれない。本能がどうしても、先頭を走りたい、誰もいないところを走りたいと訴えてくる。それはどうしても、抑えようがなかった。

 

 

 トレーニング中。また掛かってバテた自分に、トレーナーが困ったように言った。

 

「コンプのその気性と闘争心を、本当は直線で発揮できればいいんだけど……」

「逃げるんじゃなくて……抑えて好位追走しろってこと?」

「できる?」

「……無理」

「だよね。――よし、コンプ」

 

 と、トレーナーは学園の、東京レース場を模したトラックにコンプを連れ出して言った。

 

「府中の3コーナーと4コーナーを曲がる感覚を、徹底的に身体に覚えさせよう。それこそ、目を瞑ってても曲がれるぐらいに」

 

 ――それが言葉通りの意味だと教えられたのは、今日の控え室でのことだった。

 

 

『さあ4コーナー、先頭は依然ブリッジコンプ、外からユイイツムニ、そしてチョコチョコが差を詰めてきた』

 

 ――きた。トレーナーの言った通りだ。4コーナー入口でチョコチョコがちょっかいをかけてくる。こちらを焦らせて、直線まで息を入れさせないように競りかけてくるはずだと、トレーナーの予測が完璧に当たった。

 あの気に食わない芦毛のふたつ結びポニーテールが、視界の脇を掠める。

 意地の悪い笑みを浮かべたあいつが、こっちを煽りに来ている。――ああもう、ホントこいつ腹立つ!

 ああ、ダメだ。挑発に乗ったら向こうの思うつぼ。トレーナーの言ったその対策は、

 ――ったく、もう、どうなっても知らないんだからね!

 コンプは心の中だけで悪態をついて、そして。

 思いきって、内ラチ沿いにコーナーを曲がりながら――目を閉じた。

 

 視界が暗闇になる。周囲の足音とスタンドの歓声だけが聞こえてくる。

 目を閉じているから、何も見えない。けれど、身体は自然と走り続ける。

 ――ふうっ、とコンプはひとつ息を吐いた。

 目を閉じた時間はほんの数秒。ゆっくりと、コンプは目を開ける。

 ユイイツムニとチョコチョコの、芦毛の髪が前方に揺れていた。

 

『おっとここで先頭が入れ替わった、ユイイツムニが先頭、それにチョコチョコがぴったりついてブリッジコンプが3番手に下げました。残り600を通過!』

 

 抜かれた。――いや、抜かせてやったんだ。

 ちらりとチョコチョコが視線だけでこっちを振り向くのが見えた。その顔を見ても、落ち着いている自分に、コンプは驚いていた。

 

 ――4コーナーでチョコチョコが仕掛けてきたら、数秒でいい、目を閉じてごらん。

 ――え、なにそれ? レース中に危ないでしょ、そんなの!

 ――大丈夫、そのときコンプは先頭を走ってるはずだから。コーナーを曲がる感覚はこの1ヶ月みっちり叩き込んできた。自分を信じて、目を閉じて数秒、集中してごらん。

 

 控え室でのトレーナーの言葉を思い出す。

 ああ、そうか。息を入れるって、こういうことだったんだ。

 抜かれるんじゃない。抜かせてやる。

 先頭を走りたいのに走れないと思うから掛かってしまう。

 相手が自分を抜き去っても、それが計画通りだと思えば――こんなに気が楽だなんて。

 

『さあ直線に入った、ユイイツムニ先頭、チョコチョコが追ってきた、ブリッジコンプは苦しいか』

 

 ――苦しい? バカ言ってんじゃないっての。

 今までで、一番楽なラストスパートだってば!

 コンプは力強く、ターフを踏みしめて――加速する。

 

『中団グループはまだもがいている、逃げるユイイツムニ、チョコチョコが並んで、その内からブリッジコンプ! ブリッジコンプが再び伸びてきた!』

 

 もう直線。あとはこいつらを抜いてゴールに飛び込むだけ!

 近付いてくる。ユイイツムニの12番のゼッケンと、チョコチョコの13番のゼッケンが、はっきりと近付いてくる。

 前は、必死に走っても遠くなるだけだった、このふたりの背中に――届く!

 

『並んだ! 並んだ! 3人横一線だ!』

 

 坂の途中で、あのふたりに追いついた。

 チョコチョコが横目にこちらを見て、信じられないという顔をした。

 ユイイツムニは、すまし顔でただ前だけを見ていた。

 ブリッジコンプは、そのふたりを振り切るように、雄叫びをあげて坂を駆け上がる。

 

「最強は、あたしだあああああっ!」

 

『ブリッジコンプかわすか、ユイイツムニ粘るか、外からチョコチョコも差し返す! ユイイツムニ、チョコチョコ、ブリッジコンプ――横並びで今ゴールッ!』

 

 ゴール板を駆け抜けたとき。

 コンプの耳に聞こえていたのは、ただスタンドから響き渡る大歓声だけだった。

 



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第48話 〝最強〟はその先に

『勝ったのはユイイツムニ! 四角先頭から粘りに粘っての逃げ切りでデビューから3連勝です! 2着チョコチョコはアタマ差届かず、3着ブリッジコンプもハナ差の接戦でした京王杯ジュニアステークス!』

 

 ターフの歓声が遠く響く地下バ道。光を背にして、小柄な栗毛がこちらに歩いてくる。

 ヒクマとエチュード、それからビウエラリズムとともに、レースを終えたブリッジコンプを迎えに来た私は――まだ、コンプにかける言葉を決めかねていた。

 3着。道中逃げからの4コーナーで一旦下げて、府中の長い直線で粘って食らいつき、1着とアタマ差、2着とハナ差なのだから、負けてなお強しと評されるに相応しいレースだった。何も恥じることはない。胸を張るべき3着だ。

 ただ――それでも負けは負けである。〝最強〟を目指すコンプにとって、おそらく今できる最高の走りをした上で、それでもあのふたりに届かなかった事実は――。

 もう、あんなコンプの顔は見たくなかった。けれど、結果は結果だ。自分の指導の足りなかった部分は甘んじて受け入れるしかない。その上で、これからどうするか――。

 そう、あれこれ思い悩んでいたのだけれど。

 

「トレーナー」

 

 コンプに呼ばれて顔を上げ――その顔を見て、私は目を見開いた。

 てっきり、悔しさに唇を噛んでいるかと思っていたのだけれど。

 私を見上げるコンプの顔は、どこかスッキリした、納得のいったという晴れ晴れとした表情だった。

 そんなコンプは、私の顔を見て、困ったように苦笑する。

 

「ちょっとトレーナー、なんて顔してんのよ。泣きそうじゃない」

「……いや、そんなことは」

「ありがと。あたしの分まで悔しがってくれて」

 

 そう言って、コンプは胸元に拳を当てる。

 

「あたしは悔しいけど、ちょっとスッキリした。今までで一番いい走りができたって自分でもわかる。それでもあのふたりに届かなかった。これが今のあたしの実力」

「コンプ」

「認めるしかないでしょ。――今のあたしはまだ、全然最強なんかじゃない」

 

 その言葉を。ききょうステークスのときは認められずに震えていたその言葉を、どこかサバサバとコンプは口にする。

 ただ――その顔は。

 私を見上げたその大きな瞳は、全く、光を失っていなかった。

 

「でも、デビューからずっと勝ち続けるだけが〝最強〟じゃない。でしょ?」

「――――」

「デビューから華やかじゃなくてもいい。泥臭くたっていい。――最初は負け続きのパッとしないウマ娘が、ライバルを順繰りに倒していって〝最強〟に成り上がるサクセスストーリーの方が、かっこいいじゃない」

 

 にっ、とコンプは満面の笑みで、握りしめた拳を私に突き出した。

 その笑顔の下の覚悟に、私ができることは、ただ力強く頷くことだけだ。

 ――そう、今はまだ最強ではないなら、これから最強になろう。

 

「うん、そうだ。あのふたりを倒して、最強になろう」

 

 コンプの拳に、私は自分の拳を打ち合わせる。それから――その手で、コンプの頭をくしゃくしゃと撫でた。

 

「おつかれさま、コンプ。――いいレースだった」

「――――」

 

 その瞬間。

 むっと口を尖らせようとしたコンプの表情が、くしゃりと崩れた。

 張り詰めていた糸が切れたように――その顔が、ぐしゃぐしゃに歪んでいく。

 

「――――~~~~~ッ、勝ち、たかった……ッ! 悔しいっ、悔しいよぉ……っ!」

 

 笑顔に封じ込めていた感情が、涙になってボロボロと地下バ道の床にこぼれ落ちていく。

 

「コンプ……!」

 

 私にできたことは、ただその小さな身体を抱きしめて、その感情の奔流が収まるまで、じっと細い肩を包みこんであげることだけだった。

 ――腕に包みこんだコンプの身体は、本当に小さくて。

 ヒクマとエチュード、ビウエラリズムの3人は、ただ何も言わず、コンプが泣き止むまでじっとその場で待ってくれていた。

 

 

       * * *

 

 

 ――ああもう、恥ずかしいったらない!

 今後のことは学園に戻ってから話し合おう、とトレーナーに言われ、シャワーを浴びて着替えたブリッジコンプは、泣きはらした顔を念入りに洗って、控え室の鏡の前で表情を引き締めた。

 泣くつもりなんてなかったのに、トレーナーにねぎらわれた瞬間に化けの皮が剥がれてしまった。トレーナーだけじゃなく、クマっちやエーちゃん、おまけにビー姉まで見てる前であんな醜態、ああもう一生の不覚である。おまけにトレーナーには思いっきり抱きしめられて、うっかりその胸の大きさに安心なんかしちゃったりして――。

 って、何考えてんのあたしは! ぶんぶんと首を振ってコンプは余計な考えを振り払う。そりゃまあその、別に嫌だったわけじゃないんだけど……。って、だからそういう考えは今はなし! 終了!

 鏡に映った自分の姿を見やる。目の赤みはもう引いた。泣いてしまった痕跡はない。ライブ衣裳の着付けもバッチリ。よし、ブリッジコンプちゃん通常モード!

 3着に入ったので、今日はこのあとウイニングライブがある。あのふたりと一緒に歌って踊らないといけないというのは悔しいが、レースが終わればノーサイド、どんなに悔しくてもライブは笑顔で、がトゥインクル・シリーズの掟である。全く、レースの順位でライブの立ち位置が決まるなんてこんなルール、考えたやつは絶対性格が悪い。

 ともあれコンプが選手控え室を出ると、

 

「あ」

「――あっ」

 

 よりにもよって、あのふたりと出くわした。どちらもライブ衣裳に着替えていて、どうやら同じくライブ前の控え室に向かうらしい。

 行き先が同じだからって、一緒に肩を並べて歩く義理もない。先に行きなさいよ、とコンプが顎をしゃくると、それに反してふたりとも足を止める。

 

「――何よ」

 

 大口叩いて負けたことをバカにされるのか。業腹だが言い返しようがない。負けは負けだ。何を言われたって、言い訳する方が格好悪い――。

 

「……次、どのレース出るの」

 

 初めて聞く声。それが三つ編み眼鏡――ユイイツムニの声だと気付くのに一瞬の時間を要した。……こいつ、ちゃんと喋るんだ。当たり前か。ライブでは歌って踊るんだし。

 

「――まだ決めてない」

 

 次のクラシック級短距離重賞は3月のフィリーズレビューかファルコンステークス。と言ってもフィリーズレビューは桜花賞トライアルだから、短距離路線で行くならファルコンステークスを目指すことになる。

 でも、その前に自分はまず1勝クラスの条件戦だろう、とコンプは思う。今日のレースで1400でも走れる自信はついたけれど、4戦1勝のままじゃ、こいつらに挑む前に抽選で除外されかねないわけだし。

 

「……そう」

 

 ユイイツムニはもうこちらに興味を失ったみたいに視線を逸らす。そして、壁際に寄ると、片手に持っていた文庫本を開いて読み始めた。コンプは目をしばたたかせる。え、なんでここで本読み始めるの、こいつ。

 ……こいつ、プライドが高くてこっちを見下してるんじゃなくて、ひょっとしてただ単に死ぬほどマイペースなだけ?

 

「ムニっち、その本ステージまで持ってく気ぃ?」

「…………」

 

 チョコチョコも呆れたように声を掛けるが、ユイイツムニは微動だにしない。呆れたように肩を竦めたチョコチョコは、それから腰に手を当ててコンプを振り返った。

 

「はあ、ムニっちの見る目の方が正しかったってのはなんかこー、釈然としないなあ」

「あによ」

「3月のファルコンステークス。次、そこで今度こそ叩き潰してやるから」

 

 それだけ言って、チョコチョコは「ほら行くよぉムニっち」とユイイツムニの肩を強引に押して歩き出す。「ふぁぁぁぁ」と大あくびしながら、本を読み続けるユイイツムニを引きずるように歩くチョコチョコの背中を、コンプはぽかんと見送った。

 ――何よ、つまり挑戦者として認めてやったってわけ?

 何様のつもりだ。あいつ、やっぱりムカつく!

 ふたりの背中が見えなくなったところで、憤然とコンプは歩き出す。――と。

 

「ブリッジコンプさ~ん」

 

 間延びした声が背後からかかる。訝しんで振り返ると、意外な顔がそこにあった。

 

「オータムさん?」

 

 デュオスヴェルのルームメイト、オータムマウンテンである。ぱたぱたとこちらに駆け寄ってきたオータムの姿に、コンプは思わず周囲を見回した。――デュオスヴェルの姿はない。あれ? てっきり今度はスヴェルの奴が負けた自分をバカにしに来たのかと……。

 

「ああ、スヴェルちゃんなら、怒って帰っちゃいました~」

「……見に来てたんですか、あいつ」

「ええ~。コンプちゃんに声掛けにいかないのって私が聞いたら、もういい、ブリッコなんて知らない! って。今頃学園のどこかで拗ねてると思います~」

「はあ」

 

 なんであいつが怒るのだ。コンプが眉を寄せると、オータムは苦笑する。

 

「スヴェルちゃん、楽しみにしてたんですよ~。今日、コンプさんが勝てば、朝日杯FSでコンプさんと対決できるかもしれないからって~」

「――――」

 

 思わずコンプは目を見開いた。――そういえばあいつ、ホープフルSと同条件の芙蓉ステークス勝ったくせに、なんでホープフルSじゃなく朝日杯FS目指すんだろう、とは思ってたけど……。

 

「……え、あいつ、まさかそのために朝日杯に?」

「あ、いえいえ、それはどっちかっていうとトレーナーさんの意向なんですけど~。芙蓉ステークスは素質だけで勝てたけど、あんな強引な勝ち方のできない短めの距離でもうちょっと経験積んだ方がいいって~」

 

 ――なんだ、そりゃそうか。コンプは息を吐く。

 だいたい、1400でいっぱいいっぱいの今の自分に、マイルは荷が重い。今日の結果がどうあれ、トレーナーが朝日杯FSに行こうと言うことはなかったはずだ。

 ……でも、そうか。

 短距離路線に向かった以上、中長距離の三冠路線を目指すデュオスヴェルとは、もう二度とレースで戦うことはないと思っていた。でも――あいつがマイルに出てくれば、そしてあたしがマイルも走れるスタミナをつければ……可能性がないわけじゃないのか。

 って、誰があいつと戦いたいなんて! んなわけないでしょうが!

 ぶんぶんとコンプは首を横に振る。今倒すべきはユイイツムニとチョコチョコのふたり。芦毛の三つ編み眼鏡であって、鹿毛の三つ編みバカのことなんて考えている暇はないのだ。

 

「あたしの前に、クマっちに勝てるかどーか心配したら? って伝えてやってください、アホスヴェルには。次、再来週の東スポ杯なんでしょ?」

「承知しました~」

 

 クマっちがアホスヴェルなんかに負けるとは思わないけど――ま、あいつが情けない走りするようだったらどやしつけてやろ、とコンプは思い、それからオータムを見上げた。

 

「……で、オータムさんは何しに来たんです? まさかアホスヴェルが怒ってたって伝えるためだけに?」

「いえ、まあそれもあるんですけど~。スヴェルちゃん素直じゃないですから~。私からははい、今日のレースは残念でしたけど、ライブがんばってください~」

 

 と、オータムが何かを差し出してくる。手のひらでそれを受け取ったコンプは、そこに載せられたものに眉根を寄せた。

 麻雀牌ふたつ。白の牌に、「K」と「O」のシールが貼られていた。

 

「KO牌です~」

「…………………………ありがとうございます」

 

 コンプはレース以外では人間関係に無駄な波風を立てない主義である。

 にこにこと笑い続けるオータム。心底邪気のないその笑顔に、コンプは。

 ――なんであたしの周囲はこんなのばっかりなのよ、と、心の中だけで溜息をついた。



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第49話 デイリー杯ジュニアステークス・重圧

 11月11日、土曜日。京都レース場。

 GⅡ、デイリー杯ジュニアステークス、芝1600メートル。

 

「今日は今までより1ハロン短いマイル戦だけど、問題は3コーナーの淀の坂だ。外を回るにしても、焦ってコーナーで仕掛けると距離ロスがますます大きくなる。だからコーナーはぐっと我慢して、直線で勝負を……エチュード、聞いてる?」

「はっ、はい!」

 

 控え室。レースを前にしたエチュードは、一目でわかるほど緊張していた。初の重賞、初のメインレース。あがり症のエチュードが入れ込むのも無理はないが……。

 

「落ち着いて。大丈夫、エチュードならやれる」

「……はい」

 

 ぎゅっと胸元で拳を握りしめて、エチュードは俯く。私はぽんと、その短い髪に手のひらを載せた。エチュードが上目遣いに私を見上げる。私は笑って頷いた。

 

「ヒクマとコンプと、ゴールで待ってるから」

「がっ……がんばり、ます」

 

 目を瞑り、何度も自分を奮い立たせようとするように拳を握り直すエチュード。場を和ませるジョークのひとつでも言えればいいのだろうけれど、あいにく私はそういうのは不得手だった。何度も深呼吸するエチュードの背中を、ぽんと叩く。

 

「行っておいで」

「――はいっ」

 

 ぎこちなく私に一礼して、パドックへ向かって駆けていくエチュード。――どこかで開き直ってくれればいいんだけど。私にできることは、そう心配することだけだった。

 

 

       * * *

 

 

『6番人気、10番リボンエチュード。前走の未勝利戦は道中から大外を回りながら上がり最速の末脚で最後方から差し切る、見た目に似合わぬ豪快なレースぶりでした。重賞初挑戦、どんなレースを見せてくれるでしょうか』

 

 パドックから明らかに、今までと違った。人が多い。たくさんの人が自分を見ている。その視線に、エチュードの頭からはパドックでのパフォーマンスがぽっかり抜け落ちてしまった。

 

『緊張しているようですね。落ち着けるといいのですが』

 

 おろおろと視線を彷徨わせていると、こちらに身を乗り出しているブリッジコンプの姿が目に入った。コンプが何か指図するように制服の上着を引っぱっているのを見て、ようやくエチュードは上着を脱ぎ捨てるパフォーマンスのことを思い出す。

 脱ごうとすると、上手く袖が抜けず引っかかってしまい、悪戦苦闘していると観客席から笑い声があがった。ああ、もうこの場から、今すぐ逃げ出したい――。

 永遠にも思える時間がようやく終わり、次のウマ娘と入れ替わりで逃げるようにエチュードはパドックを後にする。緊張と恥ずかしさとで泣き出しそうな気分になりながら地下バ道を歩いていると、

 

「エチュードちゃん」

 

 声を掛けられ、顔を上げる。――こんな恥ずかしい姿を、一番見せたくない人がいた。

 

「……ノディ、姉さん」

 

 リボンスレノディがそこにいた。どうしていいかわからず、エチュードは立ち止まってしまう。固まったエチュードに、ゆっくりとスレノディは歩み寄った。

 背の低いスレノディは、心配そうにエチュードを見上げる。

 

「……エチュードちゃん」

 

 そっとエチュードの手を取って、きゅっと握りしめるスレノディ。

 

「お願いしていいかしら。お姉ちゃんのぶんまで、がんばって」

「――――」

 

 エチュードは小さく息を飲んだ。――4日前。スレノディは、明日のエリザベス女王杯の出走を回避していたのだ。秋華賞の疲労が抜けず、万全の状態で有馬記念に挑むため、というのが理由だった。――ネットの口さがない声に、「関西でテイクオフプレーンに3連敗じゃあなあ」と言われていたのも、目にしている。

 出ようと思えば出られるんですのよ、とスレノディは苦笑していた。――でも、今の状態で出てもプレーンさんには勝てない。それがわかりますの、と。

 それがどれだけ悔しいのか、エチュードの手を握るスレノディの手の小さな震えから伝わってくる。――エチュードは、その手を握り返した。

 

「……行ってきます、ノディ姉さん」

「はい、行ってらっしゃい」

 

 スレノディが微笑む。その笑顔に見送られ、エチュードは顔を上げてターフへ向かう。

 恥ずかしい思いは、ここまでだ。レースでは、絶対恥ずかしい走りはしない。

 ノディ姉さんの分も。――自分を重賞に送り出してくれた、トレーナーさんのためにも。

 光さすターフへ、エチュードは脚を踏み出す。その瞬間――。

 

 

 歓声が、まるで重力のように、エチュードの身体にのしかかってきた。

 振り返る。見上げた京都レース場のスタンドに、人、人、人。

 今までの、昼間のメイクデビューや午前中の未勝利戦とは、明らかに数が違う。

 メインレースを待ち焦がれる大観衆の歓声に――エチュードは。

 

「――――」

 

 圧倒されて、そして。

 ――そこから先のことは、ほとんど何も、覚えていない。

 

 

       * * *

 

 

「トレーナー、エーちゃんホントに大丈夫?」

「心配だけど、信じよう」

 

 私は双眼鏡を手に、スタンドからターフを見つめた。2コーナーのポケットにあるゲートに、ウマ娘たちが入っていく。エチュードは12人立ての外枠10番。この前の未勝利戦同様、バ群を避けて外を回りやすいのは利点だけれど……。

 

「大丈夫だよ、エチュードちゃん強いもん!」

 

 ぐっと拳を握りしめてヒクマは言う。ああ、確かにそうだ。エチュードの実力は決して低くない。本人の自己評価が低すぎるだけで、本来の力を発揮できればこのレースでも勝ち負けになるはずだ。

 問題はメンタル。――いっそ、スタートは思い切り出遅れるぐらいでいい、と私は思う。あの緊張をほぐすには、もう本人が開き直るしかない。定位置の最後方につけて、自分の走り以外の雑念から自由になってくれれば――。

 

『全員ゲートイン完了。GⅡデイリー杯ジュニアステークス――スタートしました!』

 

 ゲートが開く。ウマ娘たちが一斉にターフへ飛び出す。エチュードは――。

 

『綺麗に揃ったスタートになりました。さあハナを切るのは誰か』

 

 好スタートを決めたウマ娘たちが先行争いを始める。――その中に見慣れたベリーショートの栗毛があるのを見て、私は思わず「ダメだ」と叫びそうになった。

 

『4番手にリボンエチュード、今日は前目につけました』

「え、トレーナー、先行策指示したの?」

 

 きょとんと私を見上げるコンプに、答えることもできずに私は奥歯を噛みしめた。

 後ろから上がって来たウマ娘に押されるように、エチュードが内に押し込められていく。その姿が完全に中団のバ群に包まれて見えなくなり、そのまま3コーナー。

 

『おおっとリボンエチュードが早くも上がって先頭に立とうかという勢い』

 

 バ群に揉まれる中から、あがくようにエチュードが3コーナーの下り坂でもう抜け出してきてしまう。ダメだ、仕掛けるにはいくらなんでも早すぎる。先頭にとりついたエチュードは、そのまま直線入口で外に膨らんで、

 ――その脚は、誰が見ても明らかなほど、残り300メートルでぴたりと止まった。

 そうなればもう、あとはずるずると沈んでいくだけ。あっという間に、エチュードの姿はバ群の中に飲みこまれていく。

 あああああ、と隣でコンプとヒクマが悲鳴をあげるのを聞きながら、私はぎゅっと拳を握りしめ、唇を噛みしめるしかなかった。

 

 12人立ての11着。

 リボンエチュードの初重賞は、苦い挫折の味しかしないレースだった。

 

 

       * * *

 

 

 地下バ道に戻って来たエチュードの顔は、ただただ蒼白だった。

 茫然自失した様子で、ふらふらと歩いてくるエチュードを、私は出迎える。ヒクマとコンプには遠慮してもらった。今のこの状況で、結果を出している同期の友人に慰められるのは、エチュードにとって一番辛いだろうから。

 

「おつかれさま、エチュード」

 

 私が声を掛けると、エチュードは、はっと我に返ったように私を見上げて。

 そして、自分自身をかき抱くようにして、小さく震えた。惨敗という現実を、ようやくその頭で認識したように、その脚ががくがくと震えて、崩れ落ちそうになる。

 

「エチュード!」

 

 私はその華奢な身体を支えた。私の胸元に顔を押しつけたまま、エチュードは言葉もなく、私のシャツを掴んで、ただ泣くでもなく震え続ける。

 ――私の責任だ。エチュードのあがり症のことはずっと把握していたのに、ここまでのレースでそれなりに対応できていたせいで対策を怠っていた。同期の最強格から名前を覚えられ、私が阪神JFへ行こうと発破をかけたことも。切磋琢磨する親友ふたりが結果を残していることも。最初から背負っているリボン家の名前も。――エチュードに自信にしてほしかった全てが、逆に重圧になって、エチュードを押しつぶしてしまった。

 その結果がこれだ。道中、完全に自分を見失って掛かりっぱなし、見本のような直線で力尽きての失速。後悔してももう遅い。

 

「トレー、ナー、さ、わた、し」

 

 ひっく、ひっくと喘ぐように、エチュードは何か声を絞り出そうとする。

 私は――その身体を抱きしめて、背中をさすってやることしかできない。

 

「……これで終わりじゃないんだ。また、いちから出直そう」

「ごっ……めん、なさ」

「謝らなくていい。――謝らないで、エチュード。君が弱いんじゃないんだから。私のせいだ。全部、私の責任だから」

「そっ、んな、こと、な――っ、うっ、うううううう~~~っ」

 

 ようやく、感情の行き場を見つけたように、エチュードの口から嗚咽が漏れる。

 その背中をさすり続けながら、大丈夫、大丈夫だと、私はエチュードの耳元で囁く。

 

 ――大丈夫。悔しくて情けなくて泣けるなら、君は大丈夫だよ、エチュード。

 強くなろう。心も体も、今よりももっと強くなろう。

 この負けを、そのバネにするために。



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第50話 欲しいものは

 11月12日、京都レース場。GⅠ、エリザベス女王杯。

 

『さあいざ変則トリプルティアラへ離陸準備完了。7戦6勝、関西では6戦6勝! 1番人気テイクオフプレーン、今日も逃げ切りへ視界良好!』

 

 ――いやあ、これで負けたらノディに何て言われるかなあ。

 ゲートへ向かいながら、プレーンは心の中だけでそう独りごつ。

 秋華賞の快勝と、リボンスレノディの回避で、並み居るシニア級のウマ娘たちを差し置いてのダントツ1番人気。不安要素は200メートルの距離延長だけ――。外野は好き勝手言ってくれるけれど、勝って当たり前はさすがに言い過ぎだとプレーン自身思う。

 もちろん、負ける気はないけれど――。

 ゲートの手前で足を止め、プレーンは背後を振り返った。

 そこに、これまでの四度のGIにいつもいた、あの栗毛の小柄な姿はない。

 ――今日は、追いかけてくるノディはいないのだ。

 頬を叩いて、気合いを入れ直す。ノディがいようといまいと、いつも通り逃げるだけ。強敵はノディだけじゃないのだ。シニア級のGIウマ娘だって複数出てきている。ここで勝って、名実ともにティアラ路線の現役最強ウマ娘になる。

 まだまだ、着陸するのはずっと先だ。もっと上へ、上へ、勝ち続けて、飛び続けてみせる。飛行機みたいに、この身体の燃料が尽きるまで。

 

『体勢完了。――スタートしました!』

 

 ゲートが開く。エンジンスタート、スロットル全開!

 テイクオフプレーンの長い芦毛が、京都のターフに舞いあがる。

 

 

       * * *

 

 

 同時刻、京都レース場外、緑の広場。

 歓声を遠くに聞きながら、リボンエチュードはぼんやりと芝生のベンチに座っていた。

 ヒクマとコンプ、それからリボンスレノディは、トレーナーと一緒にエリザベス女王杯を観戦している。エチュードだけがひとり、レースも見ずにここにこうしてぼんやりと座り込んでいる。すこんと晴れ渡った空を見上げて。

 そうすることを、トレーナーは許してくれた。

 これは昨日の、初の重賞挑戦、ブービー惨敗という現実に、向き直るための時間。

 ――わかっていたつもりだった。自分にそんな才能なんてないことぐらい。

 いつだって比べられてきた。比べられて、そして自分は下の方だった。

 名門、リボン家のウマ娘。その名前を背負うのは、自分よりずっと才能のある、そう、クラシックを勝てるような、従姉のようなウマ娘であって。

 誰も、私に期待なんてしていない。

 誰も、私に注目なんてしていない。

 他のウマ娘の前で萎縮してしまう性格がレースに向いてないと言われた。闘争心がないと言われた。視野が狭いと言われた。ズブい――エンジンのかかりが遅いと言われた。

 そもそも中央のトレセン学園に入れるのか。入れたとしてトレーナーがつくのか。デビューできたとして勝てるのか、良くて条件戦が関の山では。

 そんな風に陰で言われていたことを、知っている。

 中央のトレセン学園を受験して、無事に合格したときだって。

 ――あの子はレースの世界に行くより、別の道を歩ませた方が幸せなんじゃない?

 そんな風に、優しさから心配されていたことを――知っている。

 

 いじめとか陰口とか、そんな話ではないのだ。

 ただ、優しさから心配されていたことぐらい、わかっているのだ。

 厳しいレースの世界には向いていない。レースだけがウマ娘の幸せじゃない。

 みんな優しいから、そう案じてくれていただけだと、わかっている。

 でも――たったひとり。

 ノディ姉さんだけは、そんなことない、と言ってくれた。

 

『エチュードちゃんは才能ありますから。大丈夫、トレセン学園でもやっていけますわ』

 

 そう言って、ノディ姉さんだけが、背中を押してくれたから。

 だからこうして、自分は今、ここにいる。

 

 だけどやっぱり、周りの声の方が正しかったのだろうか。

 自分なんか、やっぱり、誰にも期待されるに値しないウマ娘でしかなかったのか。

 

 ――あのひとが、期待してくれたのに。

 この学園でも、こんな自分に、期待してくれるひとがいたのに。

 トレーナーさんは、自分が重賞で結果を出せると。

 そうしてGⅠにだって挑めると、信じて送り出してくれたのに。

 

 膝の上に、あのひとがくれた初勝利のお祝いがちょこんと置かれている。

 なんてことのない、中ぐらいのサイズの猫のぬいぐるみ。荷物にこっそり忍ばせて京都まで持ってきたお守り。

 1ヶ月前。さすがにぬいぐるみは子供っぽかったかな、と困ったように言いながら、トレーナーさんは「おめでとう」と、初勝利を祝ってくれた。

 ――嬉しかった。泣きそうなぐらい嬉しかった。

 自分を心から信じて、期待して、祝福してくれるひとがいる。

 そのことがどうしようもなく嬉しくて――どうしようもなく、そのひとのことを。

 たぶん、本当に、好きになってしまった。

 

 だから、勝ちたかった。

 リボン家のウマ娘として、よりも、何よりも。

 あのひとのために。自分を信じて期待してくれたあのひとに応えたかったのに。

 胸を張れる自分に、なりたかったのに――。

 

 ぬいぐるみを抱えるように背中を丸めて、エチュードは呻く。

 時間の流れが、どうしようもなく遅い。

 エリザベス女王杯が終わったら、みんなで東京に帰るのだ。そうするとまた、トレーナーさんと顔を合わせないといけない。

 でも、どんな顔をして会えばいいのかわからない――。

 

 そうして悶々としていると、ポケットの中のスマホが通知で震えた。

 のろのろと手に取ると――あのひとからのメッセージが入っていた。

 

《レースが終わったから、今から迎えに行く。帰る前に、少しふたりで今後の話をしよう》

 

 

       * * *

 

 

『先頭はテイクオフプレーン! 譲らない譲らない、テイクオフプレーン1着! リボンスレノディのためにも負けられない! 8戦7勝、堂々3つ目の戴冠です!』

 

 大方の予想通り、エリザベス女王杯はテイクオフプレーンの快勝だった。これでティアラ路線の変則トリプル、GI4勝目。年度代表ウマ娘は厳しいかもしれないが、三冠路線のタイトルが今年はバラけたので、最優秀クラシック級ウマ娘はほぼ当確だろう。

 

「いや、つっよ……」

「プレーンさんホントに強いねー! すごいすごい!」

 

 コンプは呆れたように息を吐き、ヒクマは興奮してぶんぶんと腕を振る。

 

「当たり前ですわ。プレーンさんですもの」

「なんでノディさんが自慢げなの?」

「私の宿敵ですもの。――って、この体たらくじゃそろそろ言えなくなりそうですわね」

 

 ふふんと胸を張ったスレノディは、それから少し自虐的にそう言って頬を掻いた。

 

「もうGⅠ4勝ですか。本気で十冠ウマ娘狙うおつもりかしら。あと2年、阪神と京都のGⅠ3つずつ勝てば十冠ですもの、やりかねないのが怖いですわね、プレーンさんなら」

 

 大阪杯と宝塚記念とエリザベス女王杯を全部連覇か。そんなことをやったら、トゥインクル・シリーズ史上最強の関西の女王として百年ぐらい語り継がれそうだ。

 ともあれ、ヒクマに現地でエリザベス女王杯を見せるという今回の遠征のもうひとつの目的もこれで済んだ。本当はエチュードにも見せるつもりだったのだが……。

 昨日の敗戦をまだ引きずっている様子のエチュードを、さて、果たしてどう励ましたものか。私が頭を悩ませていると、スレノディが私の袖を引いた。

 小柄な彼女は、何か言いたげな目で私を見上げる。私は頷いて、ヒクマとコンプの方を振り向いた。

 

「ふたりとも、私はスレノディと一緒にエチュードを迎えに行ってくるから、先に外で待っててくれる?」

「はいはい、了解。じゃクマっち、その間にお土産買ってこ」

「え、あ、うん、わかった!」

 

 ヒクマとコンプの姿が観客の雑踏に消えるのを見送って、私はスレノディに向き直る。スレノディはぺこりとひとつ頭を下げた。

 

「……エチュードのこと?」

「はい。……昨日のエチュードちゃんのことについては、私も非常に反省していますの。あの子に余計なプレッシャーをかけてしまいました。エチュードちゃんの性格的に、ああいうのは逆効果だってわかっていたはずなのに、自分があの場に立てない悔しさで目が曇ってしまっていましたわ。あの子のお姉ちゃん失格です」

 

 しょんぼりと肩を落とすスレノディ。

 あがり症のエチュードに、本人の自己評価以上の期待を向けて発破を掛けるのは、過度のプレッシャーになってしまって逆効果――というのは、昨日のレースでの完全に自分を見失った、有り体に言えばテンパってしまった姿でよくわかった。

 しかし、だからといって勝てなくてもいい、なんて程度の気概で結果が出せるほどトゥインクル・シリーズは甘い世界でもない。あの人見知りとあがり症を、どうやったら克服させられるのだろう。

 

「……元を質せば、私のせいなんですの」

「え?」

「エチュードちゃん、小さい頃から、周りに何かと私と比較されてしまって……。本当はエチュードちゃんだって私に負けない才能ありますのに、もともと優しくて周りの反応に敏感な子ですから、そういう周囲の気配を自分自身でも信じ込んでしまっているところがあると思いますの。……実際、リボン家の期待があの子よりも私に向いていたことは、私自身自覚しておりましたから。だからって私にもエチュードちゃんにもどうしようもないことではあるんですけれど……」

 

 優秀なきょうだいと比較され続けて、根が卑屈に育ってしまう――人間社会でもよくある話といえばよくある話だ。

 

「だからたぶん、エチュードちゃんは自分が期待されるっていうことに慣れてなくて、その期待を裏切ってしまうのを人一倍恐れたんじゃないかと思いますの」

「……期待を裏切ったら、私からも見捨てられるかもしれない、と?」

「もちろん、本心からトレーナーさんをそう疑っているわけではないと思いますわ。でも、リボン家という名前を背負ってしまった以上、そういう恐怖は私自身にもありますから。もしオークスを勝てていなかったら、私もこんな風に偉そうなことは言っていられませんでしたわ。……トレーナーさん」

 

 きゅっと唇を引き結び、スレノディは私を見上げる。

 

「エチュードちゃんを、決して見捨てないでくださいますか?」

「そんなの、当たり前だ」

 

 何の躊躇もなく、私は即答した。――誰が、見捨てたりするものか。

 私の答えに、スレノディはふっと表情を緩め――「ありがとうございます」と、深々とその場で頭を下げた。

 

 

       * * *

 

 

 どうしよう。トレーナーさんと何を話せばいいんだろう――。

 そうおろおろと考えているうちに、広場に見覚えのある姿が現れて、エチュードは慌てた。もうトレーナーが来てしまった。どうしよう、どうしよう――。

 

「あ、いたいた。エチュード!」

 

 こちらに気付いて、トレーナーが小走りに駆け寄ってくる。エチュードは慌ててベンチから立ち上がり――その拍子に、ぬいぐるみが手からこぼれて芝生を転がった。

 トレーナーがそれに目を留めて、足を止めて拾い上げる。

 

「これ、私が初勝利のお祝いにあげた……。持ってきてたんだ」

「……あ、あの」

 

 恥ずかしくて、トレーナーの顔が見られない。エチュードは顔を伏せる。

 と、その視界に、草を払ったぬいぐるみが差し出された。

 

「はい、大事にしてくれてありがとう」

「――――」

 

 言葉を返せず、エチュードはただそのぬいぐるみを受け取って、ぎゅっと胸元に抱き寄せる。何かにすがるように。

 そんなエチュードの前に立って、トレーナーは。

 

「エチュード。次走はいろいろ考えたけど、来年の1月13日、1勝クラスの菜の花賞でどうかな。中山の芝1600だ」

「……はい」

 

 GI阪神JFは見送り、1勝クラスの条件戦。是非もない。昨日の敗戦を見れば当たり前の判断だ。そう、ジュニア級のうちに未勝利戦を勝ち抜けられただけで充分ではないか。重賞なんて高望みしないで、自分はそのぐらいで頑張れば――。

 

「よし。まずは目の前の階段を一歩一歩、確実に上っていこう」

「はい……」

「それでね、エチュード。――何か、欲しいもの、ある?」

「……え?」

 

 思わず、エチュードは顔を上げた。トレーナーは、少し困ったように頬を掻く。

 

「物で釣るみたいでなんだけど……次、エチュードが勝てたら、今度はそれよりもっと、エチュードが欲しいものをプレゼントしてあげようと思って」

「――――」

「何か、欲しいものないかな。したいことでもいいよ。エチュードの希望を聞かせて」

 

 そんな。

 いきなり、そんなことを言われても――。

 

「なんでもいいよ。気軽に言ってくれれば。……そんなぬいぐるみとかじゃなくて、もっと年頃の女の子らしいものとか欲しいよね」

「いっ、いえっ、そんな! そんなこと、ない、です……」

 

 思わず声をあげてしまい、エチュードはぎゅっとぬいぐるみを抱きしめる。

 

「……こ、これ、嬉しかった……です。本当に……ぬいぐるみ、好き、です」

「そう? それなら良かったけど……」

 

 欲しいもの。したいこと。――私の?

 私が欲しいもの。私がしたいこと。……私、が。

 エチュードは上目遣いにトレーナーを見上げた。トレーナーは優しく微笑んで、エチュードを見つめている。その眼差しがひどく気恥ずかしくて、エチュードは視線を落とした。

 ……なんだかいけない想像が頭を巡りそうになって、慌てて振り払う。

 ああもう、何考えてるんだろう、私。そんな状況じゃないはずなのに――。

 トレーナーさんに、そんなこと言われたら、私、

 

「すぐ決められないなら、トレセン学園に戻ってからでもいいけど」

「あっ、あのっ」

 

 踵を返しかけたトレーナーを引き留めるように、エチュードは思わずその上着の裾を掴んでいた。トレーナーが目を見開き、エチュードはぬいぐるみを抱えたまま俯く。

 ……どうしよう。トレーナーさんがいきなりそんなこと言い出すから、どんどん余計なことばかり考えてしまう。変な妄想が頭の中をぐるぐるする。

 欲しいものなんて、そんなの。

 したいことなんて、そんなの――トレーナーさんとなら、いくらでもある。

 

「……ま、また、ぬいぐるみ、ほしい、です……」

 

 結局、口から出たのはそんな言葉だった。

 

「わかった。じゃあ、次はそれよりもっと大きいのを買ってあげる。どんなのがいい? 猫、犬、それともペンギンとか……」

「とっ、トレーナーさんと、一緒に買いに行きたいです!」

 

 もう、自分でも何を言っているのかわからなかった。言ってしまってから、自分が何を口にしたのか理解して、エチュードは自分の顔がものすごく熱くなるのを感じる。

 そんなエチュードに、トレーナーはただ優しく笑って。

 

「うん、了解。じゃあ、次勝ったら、一緒にぬいぐるみ買いに行こうね」

 

 ぽんぽんと頭を撫でられると、もう恥ずかしすぎて消えてなくなってしまいたかった。

 ――あ、あああっ、こ、これ、ひょっとして、デート……?

 私、トレーナーさんに、デートしたいって言っちゃった……?

 あああああっ! ど、どうしよう、レースで勝てたらトレーナーさんとデートだなんて、そんな、そんな……どうしよう!

 

「よし、じゃあヒクマたちが待ってるから、行こうか」

 

 トレーナーが踵を返して歩き出す。

 エチュードは、真っ赤になった顔を隠すように、手にしたぬいぐるみに顔を埋めるようにして、その背中に隠れるように歩き出すしかなかった。

 

 ――だから、それまで自分の頭を締めていたモヤモヤが全部、トレーナーとのデートの件に掻き消されてしまったことに、エチュードは最後まで気付かなかった。



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第51話 東スポ杯ジュニアステークスへ向けて・宣戦布告!

 月曜日。いつも通り、トレーニング用トラックで私は3人を迎えた。

 

「よし、コンプ。前にも伝えた通り、次の目標は1月7日の中山1200、1勝クラスの朱竹賞だ。3月のファルコンステークスへ向けて、まずはここをしっかり勝ち抜けるよう万全の準備をしていこう」

「あったりまえ! 条件戦なんかで躓いてる余裕ないもんね!」

 

 コンプは拳を打ち鳴らす。気合いが入っているようで何よりだ。

 

「エチュードは今日は軽めの調整。レースの後だから無理はしないようにね」

「はいっ」

 

 一生懸命に背筋を伸ばして、エチュードはそう答える。レースの後の落ち込みも、どうにか払拭できたようで私としても一安心である。

 

「で、ヒクマ。いよいよ今週末、東スポ杯だ。最終追い切り、みっちり行くから覚悟するように!」

「おー! がんばるぞー!」

 

 この11月の重賞3連戦もいよいよ今週末、土曜日の東スポ杯ジュニアステークスで締めくくりだ。コンプは健闘の3着、エチュードは無念の11着。やはりそう簡単に勝てるほど甘い世界ではないが、ふたりともこの経験を糧にしてくれたと信じたい。そして――ヒクマは、ここを勝って3連勝で堂々とホープフルステークスに送り出してあげたい。

 ともあれ、まずは準備体操のストレッチから。今日はヒクマとエチュードが組んだので、私はコンプの背中を押してやる。

 

「トレーナー、昨日エーちゃんに何言ったの?」

 

 と、小声でコンプがそう問いかけてきた。

 

「ん? いや、次は1月の条件戦に出ようって」

「そうじゃなくて、エーちゃんって一度落ちこむと結構引きずるのに、今回はあれだけ落ちこんでたのが一発で立ち直ったんだもん。何したの?」

「何って……いや、次の条件戦勝ったら、何か欲しいもの買ってあげるって言っただけなんだけど」

「……ふうん? エーちゃん、それになんて?」

「ぬいぐるみ欲しいから、一緒に買いに行こうって約束したよ」

「――あ、そーゆーこと。なーるほーどねー」

 

 どこか呆れたようにコンプは息を吐く。はて、コンプは何が言いたいのやら。

 

「コンプ?」

「いや別にー。でもトレーナー、なんでまた急に、そんなわかりやすいニンジンぶら下げる作戦に出たの?」

「……エチュードは、周りの目を気にしすぎてると思ったからね。ただただ、自分のためだけに走っていいと思うんだ。リボン家とかそういうしがらみを抜きに、自分が欲しいもの、自分がしたいことのために。とりあえず、そのためのニンジンかな」

 

 誰かの期待が重圧になってエチュードを押しつぶしてしまったなら、それに応えるため以外の走る理由を作ってあげられればいいと思った。それでプレゼントしか思いつかない自分が少々情けないけれど、とりあえず上手く行ってくれたのなら良かったと思う。

 

「ふうん……。それがニンジンになるって自覚はあるんだ、トレーナー」

「ん? どういう意味?」

「なーんでもない」

 

 ちょっと拗ねたようにコンプは屈伸しながら口を尖らせる。なんだろう、コンプもぬいぐるみ買ってほしかったのだろうか。

 

「でも、エチュードがそんなにぬいぐるみ好きだったっていうのは意外だったかな」

「……ん? トレーナー、今なんて?」

「え? いやだから、エチュードはぬいぐるみ好きなんだなって」

「…………はぁ~~~~っ、まったく、これだからトレーナーは」

「ええ? 私なにか変なこと言った?」

「知ーらない」

 

 ジト目で睨まれ、そしてコンプは大げさに溜息をついて視線を逸らした。いや、いったい何を責められているのかさっぱりわからないのだけれど……。

 首を捻りながらコンプの背中を押していると、コンプが視線だけで振り向く。

 

「……あたしには何かないの?」

「ん? コンプもまたぬいぐるみ買ってほしいの?」

「別に、ぬいぐるみとは言ってないけど」

「わかったわかった。コンプにも次の条件戦勝てたらお祝い用意するから。何が欲しい?」

「……ん、考えとく」

 

 視線を逸らして、コンプは「ん~~~っ」と爪先へ指を伸ばす。やれやれ。まあ、そのぐらいのことでモチベーションが高まってくれるなら別に構わないのだけれど――。

 

 

       * * *

 

 

 ともあれ、そうしていつも通りのトレーニングをこなしていると。

 

「やいやいやーい! クマはどこだー!」

 

 聞き覚えのある声が割り込んできて、私たちは足を止めて振り返った。のっしのっしとこちらに歩いてくるのは、もはや見慣れたデュオスヴェルである。後ろには保護者のようにオータムマウンテンがいつも通り付き添っている。

 

「あ、アホだ」

「アホいうなー! 今日はブリッコなんかに用はないんだぞ!」

 

 コンプにとうとう名前のスヴェルまで略されてしまったデュオスヴェルは、噛みつくように吼えると、それからヒクマを見つけてびしっと指を突きつける。

 

「やいクマ! 今日はこのボクが直々に宣戦布告にきてやったぞ!」

「ほえ? わたしクマじゃないよお! ヒクマ!」

「どっちでもいい! 土曜日の東スポ杯、お前なんか絶対倒してやるからな! デュオスヴェル様のクマ退治だ!」

「む、わたしだって負けないもん!」

 

 ヒクマはぐっと拳を握って意気込む。そんなヒクマに、スヴェルは自信ありげなドヤ顔。

 

「ふっふっふー、ボクは賢いからな! 知ってるんだぞ!」

「ほえ、なにを?」

「ティアラ路線から東スポ杯を勝ったウマ娘は、ひとりもいなーい! つまり、クマ! お前は勝てないってことだぁー!」

 

 ――いや、それは単にティアラ路線から東スポ杯に出るウマ娘が滅多にいないだけである。普通、阪神JFを目指すなら同じマイル戦で、エチュードのように1週前のデイリー杯か、エレガンジェネラルが勝った3週前のアルテミスステークスに出るのだ。わざわざ1800の東スポ杯に出る理由はないだけである。

 

「それ、私が調べて教えたんですけどね~」

「言うなよオータムー! とにかく! この最強のデュオスヴェル様に勝てると思ったら大間違いだー! お前なんか、三冠ウマ娘になるボクの敵じゃなーい!」

 

 はっはっはーと笑うデュオスヴェル。――要するに、オータムマウンテンに教えてもらった知識を披露したかっただけらしい。子供だなあ、と私は苦笑。

 

「ほえー。トレーナーさん、そうなの?」

「ん? ああうん、そうだね。東スポ杯が重賞になってからだとティアラ路線のウマ娘が勝ったことはない。前身のオープン特別時代にはいくつかあるけど」

「じゃあ、わたしが勝ったらはじめてってことだね!」

「そうだね。もちろん、ホープフルSを勝ったティアラ路線のウマ娘もいない」

「よーし、じゃあわたしが両方のはじめてになるよ!」

 

 うん、この前向きさこそヒクマだ。ぽんぽんと私がその頭を撫でてやると、ヒクマは気持ちよさそうに尻尾を振る。

 

「うぬぬぬぬぅ」

「スヴェルちゃん、帰ります~?」

「ぬがー! 勝つのはボクだって言ってるだろー! 東スポ杯はボクのもんだー!」

 

 ブンブンと両手を振り回すスヴェル。「はいはいもういいでしょ、アホスヴェル」とコンプが呆れ顔で止めに入る。――と。

 

「おや、それは聞き捨てなりませんね」

 

 今度は知らない声が割り込んだ。振り向くと、栃栗毛をストレートロングにし、眼鏡をかけたツリ目のウマ娘が、眼鏡のツルに指を当てながらこちらに歩み寄ってくる。

 

「……どちら様?」

「はじめまして、プチフォークロアと申します。9月にデビュー戦を勝利いたしまして、今週末は東京スポーツ杯ジュニアステークスに出走予定です」

 

 私の問いに、眼鏡のウマ娘は聞かれていないことまで答える。

 

「デュオスヴェルさんにバイトアルヒクマさんとお見受けいたしますが」

「ほえ? あ、うん」

「なんだおまえー! おまえなんか知らないぞー!」

「それは仕方ありません。まだデビュー戦を勝っただけですから、自分の知名度などたかが知れていることは承知しています。ですが、これから貴方たちは私の名前を脳裏に刻むことになるでしょう。まずは東スポ杯、私が勝たせていただきます。いえ、このレース、私が勝つことはもはや定められていると言っていいでしょう」

 

 眼鏡を中指でクイッとやりながら、プチフォークロアは不敵にそう言い放つ。随分と自信ありげだ。それほど強いのだろうか、この子。名前を耳に挟んだ記憶は、あるような、ないような……。

 

「なぜなら――この私の名前が、プチフォークロアだからです!」

 

 ミステリーで犯人の名前を指摘する名探偵のごとく、ビシッと彼女はそう言った。

 

「…………」

「……ほえ?」

「なにいってんだおまえ?」

「わからないのですか? なんと嘆かわしい……。いいですか、東京スポーツ杯です」

「……ああ~、そういうことですか~」

 

 私もヒクマもスヴェルも、ついでに言えば蚊帳の外のコンプもエチュードも首を傾げる中、ひとりだけオータムマウンテンがぽんと手を叩いた。

 

「そうです。東京スポーツといえばオカルトや都市伝説まで扱う夕刊紙。そして私の名前はプチフォークロア、これはいわゆるサインレースというもの。私ほど東スポ杯の勝者にふさわしいウマ娘はいないと言えましょう!」

 

 ――サインレースとは、要するにレースの結果が出たあとに、その結果と繋がるような直近の出来事を結びつけて「あれが結果を予告していたんだ!」と言い出す予言メソッドである。後知恵バイアスとも言う。

 

「というわけで、私のことはどうぞ都市伝説のロアちゃんとお呼びください。以後、お見知りおきを」

「お、おお……?」

「ロアちゃんだね! わたし、ヒクマ! クマじゃないよ! あと東スポ杯も負けないからね!」

「もちろん、東スポ杯の1番人気と2番人気が確実視されるおふたりは詳しく存じ上げております。実は本日は敵情視察に参りました次第です。バイトアルヒクマさんのトレーナーさんですね? 偵察させていただけますか」

「……いや、いいけど、偵察って普通はこっそりやるものじゃ?」

「なるほど、それは検討に値する見解です」

 

 眼鏡を光らせて大真面目な顔で頷くプチフォークロア。

 

「……というか、せっかくだから3人で追い切りがてら軽く併走でもする?」

「おー! やるやるー! 負けないよー!」

「いい度胸だなー! 勝つのはボクだぞー!」

「受けて立ちましょう。もちろん私が勝たせていただきますが」

「あらあら、私は東スポ杯出ませんけど~、せっかくですから混ぜていただけません~?」

 

 オータムマウンテンも手を挙げて、併走というより模擬レースになってしまった。まあ、直接ライバルの力を確かめるいいチャンスが来たと思おう。

 ……しかし、なんというか、三冠路線は変わった子ばっかりだな。

 自分の担当のことは棚に上げて、私はそんなことを思うのだった。

 

 

       * * *

 

 

 なお、模擬レースの結果は。

 

「私の勝ちですね~。失礼しました~」

「うう~、負けたぁ。ホープフルじゃ負けないよ!」

「なるほど、これは作戦を練り直す必要がありますね。偵察完了です」

「うーがー! ボクが最強なんだぞー!」

 

 ――まあ、だいたいそういう順位であった。やっぱり、目下最大の強敵はオータムマウンテンということになりそうである。

 



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第52話 東スポ杯ジュニアステークス・まさかの!

 11月18日、土曜日。東京レース場。

 GⅡ、東京スポーツ杯ジュニアステークス、芝1800メートル。

 

『クラシックへの登竜門、東スポ杯ジュニアステークス! 数多くのGⅠウマ娘を輩出してきたこの出世レースに、今まさに世代の頂きへ駆け上がっていこうとする14人が挑みます!』

「クマっちー! アホスヴェルなんかに負けたら承知しないかんねー!」

「ヒクマちゃん、がんばって……!」

 

 東京芝1800のスタート地点は2コーナー脇のポケット地点。ゴール前の観客席にいる私たちの声は、ゲートのヒクマには届かないだろう。けれど、応援しているという事実は届いているはずだ。双眼鏡を覗きながら、私は頷く。

 

『さあ1番人気、札幌ジュニアステークスは4バ身差圧勝。2戦2勝でティアラ路線から殴り込み、三冠路線のウマ娘たちに挑みます、5番バイトアルヒクマ!』

 

 今日も前走の勝ちっぷりが評価されてか、滅多にないティアラ路線からの参戦ながらヒクマは1番人気に推された。

 そして、それを不満げに、ヒクマのことを睨んでいる鹿毛の三つ編みがいる。

 

『2番人気はデビュー戦、芙蓉ステークスと逃げ切り連勝、今日も変わらず逃げ宣言! ティアラ路線の刺客には負けられない、2番デュオスヴェル!』

 

 デュオスヴェルはヒクマとかなり僅差の2番人気。1番人気を取れなかったことがたいそう腹立たしいらしく、またヒクマに何か指をつきつけて宣戦布告しているようだった。ヒクマはいつもの笑顔で平然とそれを受け止めている。呑気というかなんというか。

 何にせよ、デュオスヴェルが逃げ、ヒクマがそれを追う展開になるのは確実だ。問題はデュオスヴェルがどの程度のペースで逃げるのか。スローならぴったりマークしていけばヒクマなら差し切れると思うが、ハイペースの大逃げを仕掛けてきた場合、2000メートルの芙蓉ステークスを逃げ切ったデュオスヴェルのスタミナは侮れない。仕掛けのタイミングが重要になってくる。

 それと――先日宣戦布告してきた、あの栃栗毛の眼鏡のウマ娘も気になるところだ。

 私が双眼鏡を向けると、ヒクマとスヴェルが言い合っているのを、そのウマ娘――プチフォークロアは静かに見つめていた。

 

 

       * * *

 

 

『5番人気は11番プチフォークロア。前走は中山の短い直線で大外から力強い差し切り勝ち。府中の長い直線で末脚勝負に持ち込めるか』

 

 ――おそらくは、そう甘い勝負にはならないでしょう。

 眼鏡の位置を直しながら、プチフォークロアはゲートの前でそう考えていた。

 先日の模擬レースで観察した結果、展開は予想がついている。デュオスヴェルが逃げ、バイトアルヒクマがそれをマークする。今回の面々でも、地力はこのふたりが頭ひとつ抜けている。ふたりとも、直線の長い府中でも粘れるだけのスタミナがある。おそらく安易な後方待機では差し切れない――ということは既に解っていた。

 ――それならば、私は前目でバイトアルヒクマさんの後ろにつけましょう。バイトアルヒクマさんを風よけにして可能な限り消耗を抑え、ゴール手前で差し切ればいいのです。

 不利な外枠、前目を取るにはスタートが大事。確実にいいスタートを決めなくては。

 

「あっ、ロアちゃーん!」

 

 と、ヒクマがこちらに気付いて駆け寄ってきて、ロアは目をしばたたかせる。

 

「この前は模擬レースしてくれてありがと! 今日はがんばろうね!」

「……いえ、こちらこそ良い勉強になりました。今日はよろしくお願いいたします」

「うん! 負けないよ!」

 

 邪気のない笑顔で拳を握るヒクマに、毒気を抜かれてロアは慌てて首を振る。底抜けに明るいその笑顔は、これから重賞に挑むという緊張感は露ほども見えない。こちらは初重賞、常に頭の中でレースのことを考えていないと脚が震えそうだというのに――。

 ――なるほど、レース前からこの余裕ですか。このメンタルが彼女の強さなのかもしれませんね。あやかりたいものです。

 ロアはそう咳払いして納得し、ゲートの方へ向かうヒクマの長い芦毛を見送る。

 ――こちらこそ、負けはしません。

 顔を上げ、ロアもゲートへと向かって歩いて行く。

 

 

       * * *

 

 

 ――ちっくしょー、なんでボクがあのクマに負けて2番人気なんだよ!

 ゲートの中で、デュオスヴェルはまだ憤りを抑えきれないでいた。

 ボクは最強なんだ。三冠ウマ娘になるんだぞ。こんなところでクマなんかに負けてたまるか! 今日も最初から最後まで、先頭で逃げ切ってやる!

 スヴェルは横を見やる。5番のところに、バイトアルヒクマの横顔が見えた。

 のほほんと楽しそうな顔でターフを見つめるその表情に、スヴェルは唸る。

 

「うがー!」

 

 スヴェルは思わず、ゲートの中で両手を振り上げて吼えた。

 

 ――次の瞬間、ゲートが開く音がした。

 

 

       * * *

 

 

『全員ゲートイン、体勢完了。――スタートです!』

 

 ゲートが開く。ターフにウマ娘たちが飛び出していく。

 湧き上がった歓声は――しかし即座に、大きなどよめきに変わる。

 

『ああっと! ひとり大きく出遅れた! デュオスヴェルです! 2番デュオスヴェルが出遅れ最後方だ!』

「はあっ!? なにやってんのよあのバカ――」

 

 隣でコンプが素っ頓狂な声をあげる。私も思わず双眼鏡を落としそうになった。

 ヒクマが好スタートを決めて先頭集団につけたのはいいのだが、問題はその前を走っているべき鹿毛の三つ編みがずっと後方にいることだ。しまった、確かにデュオスヴェルはあまりスタートが上手くないが、こんな大出遅れは予想してなかった――。

 逃げウマ娘にあの出遅れは致命的だ。もうデュオスヴェルのレースは九分九厘終わったと言っていい。あそこから先頭に出るなんてのはもう折り合いとかそういうレベルではない暴走になる。あの気性でバ群に揉まれながら直線勝負は無理だろう。

 どうするヒクマ? いっそこのまま先頭で逃げるか? それとも別のウマ娘をマークするか?

 私が考えているうちにも二コーナーを回り、ヒクマは流れのままに先頭に立った。先頭集団は5人、ヒクマがそれを引っぱる格好だ。ヒクマの2バ身後ろを、プチフォークロアが追走してくる。他の先行組も、どうやらヒクマをマークする作戦に切り替えたらしい。

 双眼鏡を握り直し、向こう正面を走るヒクマの横顔を見やる。

 ――不安そうな表情はない。いつも通り、楽しそうに走っている。

 その顔を見て、私はほっと一息つく。――よし、大丈夫だ。

 あの表情で走れているなら、ヒクマの天性のレース勘を信じて、任せて大丈夫だ――。

 

 そう思った次の瞬間、ふたたびどよめきが東京レース場に響き渡る。

 まだレース中盤、盛り上がるような場面ではない。何が――と私は双眼鏡をヒクマたちの後方に向けて、がくんと顎が落ちるかと思うほど口を開けていた。

 ――出遅れ最後方のデュオスヴェルが、最終直線と勘違いしているかのようなペースで、どんどん大外から上がって来たのである。

 

『おおっと出遅れたデュオスヴェル、行った行ったどんどん上がっていく! 800メートル通過は48秒台、平均ペースですがさあもう先頭集団に取りつく勢いだ!』

「んな無茶苦茶な……! なにやってんのよアホー!」

 

 コンプが叫ぶが、そんなことはお構いなしに――。

 

『並んだ並んだ、そしてそのまま先頭だ! デュオスヴェル、3コーナーで先頭、そのまま大逃げ体制だ! これは暴走か、それとも勝算ありなのか!?』

 

 

       * * *

 

 

「どけどけどけどけどけどけえええええええ!」

 

 後方からそんな声が響いてきて、プチフォークロアはぎょっとして振り向いた。

 ――デュオスヴェルさん!?

 思わず目を疑う。スタートで大出遅れしたはずのデュオスヴェルが、大外からものすごい勢いで上がってきていた。まだ道中なのに、完全にラストスパートのようなペースで上がってくる。

 後方で中団につけたウマ娘たちも狼狽している。長距離レースでスタミナに任せて中盤からロングスパートを仕掛けるウマ娘はいるが、1800の前半でこんなのは完全な暴走だ。いくら大出遅れで逃げ損ねたからって、無茶苦茶である。

 

「ボクの前を走れると思うなよおおおっ!」

 

 ――いや、出遅れたのは貴方でしょう!

 思わず走りながらそうツッコミを入れたくもなるというものだが、ともかくデュオスヴェルはお構いなしに先頭集団に取りついてきた。ロアの隣を走っていたウマ娘がその勢いに気圧されたように下がっていく。

 そしてデュオスヴェルは、そのまま一気に先頭に出てさらに突き放しにかかった。もうとっくに半分を過ぎて3コーナーである。残り800。追ったらダメだ。こんな暴走、どう考えても直線で潰れるだけである。

 ロアは前を走るバイトアルヒクマを見やる。向こうもわかっているようで、デュオスヴェルの暴走についていく様子はない。――よし、どっちにしろ同じです。デュオスヴェルさんは放置してOK。私は変わらずバイトアルヒクマさんをマークすればいい――。

 

『さあ大変な展開になりました、隊列は乱れたまま4コーナー、デュオスヴェル逃げる逃げる、バイトアルヒクマは現在3番手』

 

 後方はデュオスヴェルの暴走に混乱してぐちゃぐちゃになっていた。先行組からもひとり慌てた様子でデュオスヴェルを追いかけていったが、あの子も潰れるだろう。まだ仕掛けるには早い。バイトアルヒクマさんも仕掛けるなら直線――。

 ――えっ?

 

『おおっとバイトアルヒクマここで追い出した! 4コーナーで仕掛けてきました! 逃げるデュオスヴェルを追っていきます!』

 

 ロアが視線を前に戻した瞬間、バイトアルヒクマの背中が加速する。

 ――直線の長い府中で、四角から仕掛けるんですか!?

 唖然として、ロアは数秒躊躇した。どうする? 追うべきか? デュオスヴェルは待っていれば潰れるはず、こんな早仕掛けは釣られて掛かってしまっただけに決まっている、ついていったら自分も潰れる――。

 ――いや、しかし、バイトアルヒクマさんのスタミナを考えると、ここでついていかないと追いつけない!

 このまま静観して直線勝負でもウイニングライブ圏内は確保できる。だが、勝ちに行くならついていくしかない。躊躇を振り払い、遅れてロアも加速した。

 前をゆくバイトアルヒクマの長い芦毛が揺れる。あの背中を捉えるには、あの背中と同じ土俵に上がるしかない――。

 ――ああもう、作戦がめちゃくちゃです!

 叫び出したいけれど、そんな余裕などあるはずもなかった。

 

 

       * * *

 

 

「うわ、クマっちもう仕掛けた! え、早くない?」

「ヒクマちゃん……!」

 

 4コーナーを曲がって、ウマ娘たちがこちらに駆けてくる。先頭は大暴走のデュオスヴェル、2番手のウマ娘は既に顎が上がっていて、3番手でヒクマが追ってきた。プチフォークロアがそれを追走して直線へ。

 常識的に考えれば、ヒクマの仕掛けは早すぎる。500メートル以上ある府中の直線、あんな暴走をしたデュオスヴェルは勝手に潰れるのを待つのが当然の判断だ。

 だが――。

 一度外した双眼鏡をもう一度目に当てる。先頭を走るデュオスヴェルの表情が見えて、私は息を飲んだ。

 ――なんてことだ。ヒクマの早仕掛けの判断は、たぶん正しい。

 先頭を駆けるデュオスヴェルの表情は、まだ力尽きていない。あんな大暴走をして、まだ余力を残しているのか。それでこのバ身差なら、早めに追わないと逃げ切られる!

 

「行け! ヒクマ! それでいい! そのまま一気にいけ!」

 

 私が叫ぶと、コンプとエチュードが驚いた顔で私を見上げた。

 

『残り400、坂を上る! デュオスヴェル逃げる逃げる粘る粘る! 外からバイトアルヒクマ! バイトアルヒクマが来た! 内からプチフォークロア、バイトアルヒクマ、デュオスヴェル苦しいか、バイトアルヒクマかデュオスヴェルか、プチフォークロアも追いすがる! 後ろは苦しい! この3人の争いだ!』

 

 大歓声。その降りそそぐ中、直線を先頭で3人が駆け抜けていく――。

 

 

       * * *

 

 

 残り200。

 あとちょっとだ。あと少しでゴールだ。どんなもんだ。出遅れたってボクの前を走れる奴なんていないんだ。ボクは逃げ切る。逃げて逃げて逃げ切ってやるんだ!

 デュオスヴェルは歯を食いしばって走る。後ろを振り返る余裕なんてない。あのクマも変な眼鏡も、コーナーで突き放したはずだ。逃げ切ってやる。絶対逃げ切る――。

 

 残り150。

 足音が、した。

 背後から、迫ってくる足音が。

 ターフを軽やかに蹴立てて、追いかけてくる足音が。

 

 残り100。

 風になびいて羽根のように、銀色の芦毛が、スヴェルの横目に広がった。

 そして、それを羽ばたかせるように――。

 バイトアルヒクマが、底抜けに楽しそうな笑顔で、スヴェルを追い抜いていく。

 

『並んだ、並んだ、かわした! かわした! バイトアルヒクマだ! バイトアルヒクマ先頭だ! デュオスヴェル、内からプチフォークロアも迫るが、しかしバイトアルヒクマだ強い強い!』

 

「ちっ、くしょおおおおおおおおおおおっ!」

 

 残り50。

 バイトアルヒクマの背中が遠ざかり、もうひとり、栃栗毛の眼鏡が横に迫ってくるのを感じながら、デュオスヴェルはそう叫ぶしかなかった。

 

 残り0。

 ゴール板の前を、芦毛のウマ娘が先頭で駆け抜けていく。

 

『バイトアルヒクマ、後ろを突き放して今ゴールッ!』

 

 デュオスヴェルは、自分に向けられたものではない大歓声を聞きながら、倒れこむようにゴール板を駆け抜けるしかなかった。



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第53話 次はGⅠ・ホープフルステークスへ!

『勝ったのはバイトアルヒクマ! 早めの仕掛けが功を奏した鮮やかな差し切り勝ちでした。これで3戦3勝、堂々の重賞連勝! ティアラ路線初のホープフルステークス制覇へ、そして来年のトリプルティアラへ、本命はあの2強だけじゃない!』

 

 歓声の響き渡る東京レース場。そのウイナーズサークルで。

 

「トレーナーさーん!」

「ヒクマ!」

 

 三度目ともなれば、もうこちらから待ち構える準備はできている。飛びかかるように抱きついていたヒクマを受け止めて、私はその頭をわしわしと撫でてやった。

 

「勝った勝った! やったよー!」

「ああ、よくやった! おめでとう! よーしよし、さすがヒクマだ!」

「えっへへー」

 

 目を細めて私の首筋に頬をすり寄せるヒクマ。この人懐っこさにも慣れたものだ。よーしよしよし、と大型犬を手懐けるように撫でていると、

 

「ヒクマさん」

 

 こちらに歩み寄って声をかけてくる影。最後にデュオスヴェルをアタマ差でかわして、ヒクマと1バ身差の2着に突っ込んで来たプチフォークロアだった。

 

「あ、ロアちゃん!」

「おめでとうございます。完敗でした」

 

 どこかサバサバとした表情でそう言うと、ロアは眼鏡の位置を直しながら、

 

「ひとつお聞かせ願いたいのですが、なぜあんな早いタイミングで仕掛けたのですか?」

「ほえ?」

「4コーナーからもうスパートをかけたでしょう。普通、直線の長い府中でやることではありませんが」

「あ、えっと……」

 

 ちょうどいい。それは私も訊きたかったところだ。結果的にあそこから早めに仕掛けたおかげで粘りに粘ったデュオスヴェルを差し切れたわけだが――いったいヒクマはなぜあそこで仕掛けようと判断したのだろう?

 

「んとね、スヴェルちゃんに抜かれて、どうしようって思ったんだけど、わたしのこと抜いてったときのスヴェルちゃんが楽しそうだったから」

「……楽しそう?」

「うん! そのままどんどんスヴェルちゃん先行っちゃうから、わたしも追っかけなきゃって思ったの」

「――なるほど。今後ひとつの判断基準として参考にさせていただきます」

 

 あまり釈然としていないような表情でロアは頷く。――おそらく、抜いていったときのデュオスヴェルの表情から、スヴェルのスタミナには余裕があるとヒクマは直感的に判断したのだろう。そこでセオリーに囚われない早仕掛けでの追走を選べるあたり、やはりこの子には天性のレース勘がある。

 

「今日はありがとうございました。ですが、ホープフルステークスは負けませんよ」

「うん! わたしも負けないから、次もよろしくね!」

 

 握手を交わして、ロアはその場を立ち去っていく。その背中を見送って、それから私はまだゴール板の前に大の字に倒れこんだデュオスヴェルを見やった。

 残り100メートルでヒクマに、ゴール寸前でプチフォークロアにもかわされたが、それでも粘りに粘っての3着。逃げウマ娘が大出遅れからの向こう正面大暴走で無理矢理先頭に出て、直線の長い府中で逃げ粘って3着というのは、見方によっては勝利したヒクマ以上に恐るべき内容だった。

 芙蓉ステークスの走りから、スタミナと勝負根性があるのは感じていたが、ここまでとは。もし完璧なスタートを決めてハイペース逃げをかけられていたら、あっさり逃げ切られたかもしれない。

 次走は1600の朝日杯FSと聞いているが、デュオスヴェルのこのスタミナが活きるのは2000以上の距離だろう。向こうのトレーナーにも考えがあるのだろうが……。まあ、結果はともかく今回のような大暴走レースをしているようでは、まずこの気性とスタート下手をどうにかするのが先決と考えているのかもしれない。

 もしスヴェルがホープフルSに狙いを変えてきたら、次もまた強敵になるだろう。もちろん、ヒクマのロングスパートについてきて2着に突っ込んだプチフォークロアも。そして何より、来週の京都ジュニアSに出てくるオータムマウンテンが、順当ならば連勝で乗りこんで来る。今日の勝利は会心だが、先の戦いはますます厳しくなりそうだ。次はGⅠなのだから、当然といえば当然だが――。

 

「っと、ヒクマ、ほら、インタビュー、インタビュー」

「あ、はーい!」

 

 インタビュアーが声を掛けるタイミングを失って困っているのを見かけて、私はヒクマの背中を押してやる。――ともあれ、今はとりあえず、この勝利を喜ぼう。

 

 

       * * *

 

 

「スヴェルちゃん、大丈夫ですか~?」

「うう、うぅぅぅぅ~~~~ッ」

 

 精根尽き果てたという足取りで戻ってきたデュオスヴェルを、オータムマウンテンは担当トレーナーの岬美咲とともに出迎えた。今にも叫び出したいのを堪えるように唇を噛んで、拳を握りしめたスヴェルに、岬トレーナーがゆっくりと歩み寄る。

 

「スヴェル君! 悔しいかい? 悔しそうだね!」

「そんなのっ、見りゃわかるだろー!」

「はっはっは、その通り! 私も悔しい! 今日は勝てたレースだったのだからね!」

 

 いつも通りの芝居がかった大仰な動作で、岬トレーナーは目元に手を当てて天を仰ぐ。劇団員からウマ娘のトレーナーに転向したという変わり種の経歴をもつ彼女は(岬美咲という変わった名前は本名である)、中性的な顔立ちと口調とナルシスティックな動作で、変人トレーナーという評をほしいままにしていた。

 

「スヴェル君! キミは賢いから、どうして負けたかは解っていようね!」

「ぐっ、ぐぅぅぅ」

「キミ自身が解っているなら、私はそれ以上そのことを責めるつもりはないよ! むしろあんな大出遅れをやらかしても勝負を投げなかった、その勝負根性を褒め称えたい! あんな無茶なレースをして三着に粘れるんだから、キミの才能は本物だよスヴェル君!」

 

 スヴェルが目を白黒させる。負けて悔しいという気持ちと、トレーナーに褒められて嬉しいという気持ちのどっちを表に出したらいいのかわからなくなっているようだ。オータムは頬に手を当ててそんな様子を見守る。

 

「だからこそ! だからこそだ! キミにはもっと短い距離で、レースに対する集中力を養って欲しいと思っていたわけだ! しかし、今日の負けでキミは痛感しただろう! 闘争心は大事だけれど、それで集中力を欠いては意味がないと!」

「うぐぐぐぐ」

「さあデュオスヴェル君、今私はキミに問おう! キミは今日のような失敗をまた繰り返すようなアホかね? それとも、この失敗を糧に成長する勇者かね?」

「アホ言うなー! ボクは最強なんだぞ! 次は絶対負けない! 絶対勝つ!」

「よろしい! ならば、ホープフルステークスまで改めてみっちりスタートの特訓だ!」

 

 びしっ、と指を突きつけてそう言った岬トレーナーに、スヴェルはきょとんと目をしばたたかせた。オータムも「あらあら~」と思わず声を上げる。

 

「ホープフル? トレーナー、次は朝日杯って言ったじゃんか!」

「それは昨日までの話だよスヴェル君! 次の機会を逃せば、あのバイトアルヒクマ君との対決の機会は来年秋、下手をすると再来年までないだろうね! 三冠ウマ娘を目指すキミが、ティアラ路線のウマ娘に負けっぱなしでいいのかい?」

「よくない! あいつ絶対倒す!」

「その意気だ! キミのその闘争心を、次は勝利へ繋げようではないか!」

「あったりまえだー! 見てろクマ! 首を洗って待ってろー!」

 

 両腕を突き上げてスヴェルは吼える。「うむ!」と岬トレーナーは腕を組んで頷き、それから無駄に優雅なターンでオータムに向き直った。

 

「オータム君! というわけで、ホープフルSは担当ウマ娘同士の直接対決になってしまうが、構わないかな!」

「あらあらあら~、もちろん望むところですよ~。スヴェルちゃんの実力は私が一番よくわかってますから~。負けるはずないのでまったく構いません~」

「なんだとー! オータム!」

「はっはっは! お互い親友同士の切磋琢磨でさらに強くなりたまえ! 本番は来年のクラシック三冠なのだからね! キミたちふたりで三冠を独占できると信じているよ!」

「ボクがひとりで独占するんだよ! オータムに渡すもんか!」

「あらあら~、じゃあ三冠ともスヴェルちゃんと同着になれば公平に六冠ですね~」

「はっはっは! それはさすがに八百長を疑われるからやめてくれたまえ!」

 

 元気を取り戻したスヴェルと、呵々大笑する岬トレーナーに、オータムは目を細めて頷いた。

 

 

       * * *

 

 

 その日のうちに、デュオスヴェルとプチフォークロアの次走がホープフルステークスになることがそれぞれの担当トレーナーから発表された。当初朝日杯FSと発表されていたスヴェルが今日の走りでホープフルSに狙いを変えるのは予想できたので驚きはない、が。

 

「え、結局アホスヴェルのやつホープフル来るの?」

「なんだか、すごいメンバーになりそうだね……」

「わ、またスヴェルちゃんとも走れるんだ、楽しみ!」

 

 ささやかな祝勝会の最中、そのニュースで盛り上がるヒクマたちを見ながら、私は心の中だけで嘆息する。――楽に勝たせてはもらえなさそうだ。

 まあ、何はともあれ次はいよいよGⅠである。ジュニア級GⅠはクラシック級以降のそれとは重みに差があるとはいえ、GⅠの舞台に立てるというだけでも、トレセン学園の数千人のウマ娘のうちほんの一握りしか掴むことのできない栄誉だ。

 新人の私が、1年目から担当をGⅠに送り出せる。その栄誉と畏れを噛みしめながら、私は幸せそうににんじんハンバーグを頬張るヒクマを見やる。

 

「? トレーナーさん、なあに? あ、にんじんハンバーグ食べる?」

「いやいや、ヒクマが全部食べていいよ」

 

 ――ああ、楽しみだな。

 ヒクマがGⅠの舞台でどんな走りをしてくれるのか。何よりも、誰よりも、私が一番楽しみだった。

 

 

       * * *

 

 

 同日夕刻、トレセン学園トレーニングコース。

 ――まだだ。まだ足りない。もっと、もっと、もっと!

 

「キャクタスちゃん……!」

 

 突然、視界に黒い影が飛び込んできて、ミニキャクタスはゆっくりと足を止めた。担当の小坂トレーナーが、長い髪の下から心配そうにこちらを見つめている。

 

「……今日は、このあたりにしておきましょう……」

「…………いえ、まだ」

「ここまで、です」

 

 思いがけず強い口調で制止され、キャクタスは俯いて「……はい」と頷いた。

 トレーナーが視線を落とし、キャクタスの足元に屈み込む。見れば、シューズが破けて爪先が見えていた。……ああ、また履きつぶしてしまった。何足目だったか……。

 

「…………明日、また新しいのを買いに行きましょう……」

「……すみません」

「いいんですよ……。でも、身体のケアもしっかりしましょう……怪我をしたら元も子もありませんから……」

「…………はい」

 

 トレーナーの差し出したタオルで汗を拭って、キャクタスは息を吐く。

 

「……あの子は、勝ちましたか?」

「勝ちました……。3連勝です。すごいですね……バイトアルヒクマさん」

「…………勝てると、思いますか」

「……勝てます。キャクタスちゃんなら」

 

 本当にそうだろうか、と思う。自分なんかが本当に、あんなキラキラした子と同じ舞台で輝けるのだろうか。誰にも気付かれないような自分が……。

 わからないから、ただミニキャクタスはがむしゃらに走るしかなかった。

 走って、走って、これ以上できないというところまで追い込んで――そうしないと、自分に納得できそうになかったから。

 

 

 1ヶ月後、12月28日。

 ジュニア級GⅠ、ホープフルステークス。

 三冠路線のジュニア級チャンピオンを決めるこの一戦に――ティアラ路線からもうひとり参戦するウマ娘がいることを、まだ当人たち以外、誰も知らなかった。



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第54話 遠い故郷に見る夢は

 11月19日、日曜日。

 

『マルシュアス逃げる逃げる、しかし後続との差が詰まってきた、これは苦しい!』

 

 リボンエチュードのルームメイト、マルシュアスが出走する第五レースのメイクデビュー京都、芝2000メートル。GⅠ3勝の名逃げウマ娘であるネレイドランデブーに憧れるという彼女は、果敢な大逃げ戦法を採ったが、直線で粘りきれずに次々とかわされていった。大逃げも意図したというより、道中明らかに掛かっていた結果なので完全なスタミナ切れであろう。結局、11人立ての6着という平凡な結果に終わった。

 トレーナー室のテレビでそれを見ていた私は、ひとつ息を吐いて立ち上がった。無茶な逃げを打てば普通はああなる。やはり昨日のデュオスヴェルがおかしいのだ。だからこそ、ホープフルステークスでのデュオスヴェル対策を、改めて考えておかないといけない。トリプルティアラでのジャラジャラ対策にもなるわけだし――。

 ヒクマには、今日は一日お休みだと伝えてある。昨日のレースの疲れをゆっくり癒して、明日からまたホープフルSへ向けて調整だ。私もしっかり準備しなくては。

 とりあえず、作業にかかる前にお茶でも淹れよう。トレーナー室備え付けのコンロでお湯を沸かし、ティーバッグの緑茶を淹れて啜りながら資料を眺めていると、

 

「トレーナーさーん!」

 

 聞き慣れた騒がしい声と足音とともに、トレーナー室のドアが開いた。部屋に飛び込んできたのは、満面の笑顔のヒクマである。

 

「ヒクマ? どうしたの、今日はお休みって言ったよね?」

 

 私は目をしばたたかせ、それから現れたヒクマが私服姿であることに気付く。いや、日曜なのだから制服でないのは当たり前だが、ジャージでもないということはトレーニングしに来たというわけでもないのか。

 白のワンピースにデニムのジャケットを羽織り、ポシェットを提げたヒクマの姿は、明らかにこれからどこかへ遊びに行こうという外出スタイルである。

 ぱたぱたと尻尾を振って駆け寄ってきたヒクマは、私の机に手を突いて身を乗り出す。

 

「ね、トレーナーさん! お休みだから、遊びに行きたい!」

「……うん、どうぞ。エチュードとかコンプと一緒に行っておいで」

「ちがうのー! トレーナーさんと遊びに行きたいの!」

「え、私と?」

 

 なんでまた。私が首を捻ると、ヒクマは私の横に回り込んできて、ぐいぐいと腕を引っぱり始めた。ウマ娘の力で腕を引っぱられると痛いというか椅子から落ちる落ちる。

 

「わ、わかったわかった。エチュードとコンプは外?」

「んーん、わたしとトレーナーさんだけ!」

「ええ?」

「コンプちゃんとエチュードちゃんから聞いたよ! トレーナーさん、エチュードちゃんが次のレースで勝てたら一緒に遊びに行く約束したんだよね?」

「……ああ、うん、そうだね」

「だからわたしも! トレーナーさんと遊びに行きたい!」

 

 無邪気な笑顔でそう言われてしまい、私は頭を掻く。――なるほど、原因はたぶんコンプかエチュードのどちらかだろう。エチュードとの約束の話を聞いて、ヒクマが無邪気に『いいなー』と言って、ふたりのどちらかが『昨日勝ったんだから、クマっち(ヒクマちゃん)もトレーナーさんにお願いしてみたら?』と返したのがありありと想像できる。

 やれやれ。まあ、山場の3連戦も終わって急ぎの仕事もないし、まあいいか。

 

「そうだね、じゃあ、改めて昨日勝ったお祝いしようか」

「やったー!」

 

 両手を挙げてヒクマははしゃぐ。ぴょんぴょんと飛び跳ねる姿に、私は苦笑。

 

「じゃあ、どこ行きたい? 何か欲しいものでもあれば、まあ、常識の範囲内でなら買ってあげるよ。重賞勝利のお祝いに」

「んー、えっとね――」

 

 ヒクマは顎に指を当て、ひとつ首を傾げた。

 

 

       * * *

 

 

 で、ヒクマとふたり、やって来たる場所はというと――。

 

「……しかし、なんで羽田空港?」

 

 目的地を聞いたら返ってきた答えがそれである。まさか、この昼過ぎから飛行機で日帰り旅行というわけでもあるまいに。

 既に何度も札幌遠征をしたから、羽田への道は慣れたものだ。車を出してご機嫌なヒクマを助手席に乗せ、府中のトレセン学園から約40分。

 

「トレーナーさん、こっちこっち!」

 

 空港に着くと、ヒクマは元気よく私を引きずっていく。ヒクマにははっきり目的地があるようで、迷いのない足取りでどこかへと向かっていく。私はそのテンションに、ひいこら言いながらついていくしかない。もう若くないな、自分……。

 いささか遠い目になりながら、そうしてヒクマに連れられてやって来たのは――。

 

「わぁーっ、すごい、飛行機いっぱい!」

 

 国際線のある第3ターミナルビルの展望デッキである。フェンス越しに駐機場と滑走路を見渡せるその場所には、ジェットエンジンの轟音が絶え間なく響き渡っていた。

 

「ヒクマ、そんな飛行機好きだったっけ?」

 

 少々意外に思いながら、フェンスへ駆け寄るヒクマを追いかける。今までも札幌遠征のときに羽田は利用してきたし、乗った飛行機内ではいつも通りはしゃいでいたけれど、特別飛行機が好き、という風には見えなかったが……。

 

「ねーねートレーナーさん、あの飛行機どこ行くのかな?」

 

 滑走路から飛び立っていく飛行機をヒクマは指さす。

 

「ん? あれは……フランスエアだから、パリじゃないかな? もし凱旋門賞に出るなら、乗ることもあるかもね――」

 

 そこまで口にして、ああ、と私は理解する。そういうことか。

 私は手元のスマホで検索してみて、ひとつ苦笑する。

 

「ヒクマ。残念だけど、今日はドバイ行きの便は飛んでないよ」

「ええー。そんなあ」

 

 なるほど、それが目当てだったのか。私もヒクマの隣に立って、滑走路を行き交う飛行機たちを眺める。日本と世界を繋ぐ空路の発着地。

 ドバイシーマクラシック。ヒクマの大目標であるその世界的大レースに向かう日が来たら、私たちもここから飛び立つことになるのだろう。遠い中東、砂漠の中の大都市にあるメイダンレース場を目指して。

 デビューから3連勝。ヒクマの競走生活はここまで、予想を遥かに上回る順調ぶりだ。この調子で結果を残していければ、その大目標も決して夢物語ではない。ヒクマがここに来たがったのは、その夢が近付いているという実感が欲しかったのだろうか。

 

「トレーナーさん、西ってどっち?」

「あっち」

「じゃあ、ドバイもあっちだね!」

 

 私が指さした方に、ヒクマは手をかざして目を眇める。遠く遠く、八千キロ先の砂漠の都市がここから見えるはずもないが、それでも確かに、ヒクマと出会ったあの日から、着実にそこへと近付いていっているはずだ。

 また一機、滑走路から飛行機が離陸していく。世界のどこかへと旅立っていくその機影をぼんやり眺めていると、ヒクマがくいくいと私の袖を引いた。

 

「トレーナーさんトレーナーさん」

「うん?」

「昨日の夜ね、お母さんから電話あったの。わたしが勝ったの、すっごく喜んでくれてた」

 

 フェンスの向こうを見つめたまま、ヒクマはそう口を開く。

 ヒクマの母。かつてドバイでレース生活を送ったウマ娘で、GⅠでの最高成績はドバイシーマクラシックでの4着。引退後に結婚してヒクマを産み、間もなく夫とともに日本に移住。現在はアラビア料理店を経営しながら、合間に日本人向けのアラビア語教師や翻訳をしている――というプロフィールは、ヒクマの担当として頭に入っている。

 

「ホープフルステークスは、絶対中山レース場まで見に来てくれるって!」

 

 くるりと振り返り、ヒクマは満面の笑みを浮かべて私を見上げる。

 

「GⅠだもんね。娘の晴れ舞台だ、お母さんも誇らしいと思うよ」

「うん!」

 

 嬉しそうにぐっとガッツポーズして、そして両手を大きく空に向かって広げた。秋晴れの高い空に手を伸ばすみたいに、ヒクマは背伸びして、

 

「お母さんね、日本に来てから一度もドバイに帰ってないんだって」

「そうなの?」

「うん。わたしが小さい頃からずっとお店が忙しかったからって。だからわたしも、お父さんとお母さんの話と、飾ってある写真でしかドバイは知らないんだけど」

 

 西の空を振り仰いで、ヒクマはぎゅっと拳を握った。

 

「だからね、わたしがドバイシーマクラシックに出て、お母さんをドバイに連れてってあげるの! それでね、わたしが勝ってお母さんにトロフィーをあげるの! 世界のウマ娘になって、わたしのお母さんは世界一のお母さんだよってみんなに紹介するんだ!」

 

 キラキラと。その目を真っ直ぐに輝かせて、ヒクマはそう言った。

 ――そうか、それがヒクマの夢なんだ。

 ドバイシーマクラシックに出る、世界のウマ娘になる――それはつまり、故郷を離れて日本でがんばって自分を育ててくれた母親の、叶わなかった夢。メイダンでのGⅠ勝利を、母親に届けてあげること。

 私は目を細め、ヒクマの頭をぽんぽんと撫でた。

 

「ヒクマは、お母さんが大好きなんだね」

「えへへ、うん!」

「ヒクマのお母さんのお店、行ってみたいな」

「うん! じゃあ今度トレーナーさん案内してあげるね! お母さんのアラビア料理、とっても美味しいんだよ!」

 

 ふふふぅ、と自慢げに鼻を鳴らすヒクマの頭を、私はわしわしと撫でてやる。ヒクマは気持ちよさそうに尻尾を振って、私にじゃれついていた。

 ――どこまでも純粋で、どこまでも真っ直ぐ。

 その綺麗な銀色の芦毛のように、キラキラとしたヒクマの瞳。

 ずっと、こんな笑顔でこの子を走らせ続けてあげたい。

 

「う~~~~っ、うずうずしてきた!」

 

 と、ヒクマはぶるりと身を震わせて、

 

「トレーナーさん! ちょっと走ってくるね!」

「あっ、こら! こんなところで走ったら危ないから!」

 

 勝手に走り出してしまうヒクマを、慌てて私は追いかける。ウマ娘の脚に追いつけるはずはないのだけれども――。

 

「トレーナーさーん! 見て見て! なんか変な形の飛行機いるよ!」

 

 反対側の角まで走って行ったヒクマは、フェンス越しに滑走路を見下ろして目を見開き、ぶんぶんと私に手を振る。

 ――やれやれ、この落ち着きのなさはほんと、出会ったときから変わらないな。

 苦笑しながら、私はその背中へ小走りに駆け寄っていった。



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第55話 トレセン学園生徒会長

 11月25日、土曜日。京都レース場。

 第5レース、メイクデビュー京都、芝1600外回り。

 

『内から抜け出して来たのはハッピーミーク! 並んでそのままかわしてゴール! 白毛のウマ娘、ハッピーミークが差し切りました!』

 

 バ場・距離適性がわからないという理由でなかなかデビューの決まらなかったハッピーミークだったが、京都のマイル戦で無事にデビュー勝利を飾った。

 次走は予定通り、中2週で朝日杯FSに向かうという。緊張気味に取材に応える桐生院トレーナーと、相変わらず何を考えているのかよくわからないハッピーミークのぼんやりした顔をテレビで眺めながら、私は心の中で桐生院トレーナーにエールを送った。

 

 

 同日、第11レース、GⅢ、京都ジュニアステークス。

 

『外からオータムマウンテン! 1番人気オータムマウンテンが先頭集団をまとめてかわしてそのまま1バ身、2バ身、突き放したゴール! 人気に応えました快勝です!』

『前残りのスローペースをものともしませんでしたね。驚きました』

 

 前評判通り、1番人気のオータムマウンテンが悠然と外からまくって勝利。先行有利のスローな展開で、後方からするするとロングスパートをかけて悠然と上がっていき、平坦な京都の直線で大外をまくって2バ身半差をつけたのだから、着差以上の実力差を見せつけたと言っていい圧勝だった。やはり強い。

 

「にしんそば、美味しくいただきました~。来年の秋は湯豆腐を食べに来ますね~」

 

 レース後、そんなとぼけた本人のコメントとともに、改めて担当の岬トレーナーがオータムマウンテンのホープフルステークス参戦を表明。これで、ホープフルステークスに参戦する有力ウマ娘の情報はほぼ出揃ったことになる。

 

「東スポ杯組対、京都ジュニア組、か」

 

 東スポ杯のウイニングライブ3人、ヒクマ、プチフォークロア、デュオスヴェル。これにオータムマウンテンを加えた4人がおそらくは四強という形になるだろう。もちろん、前評判通りにはいかないのがレースだ。未だ見ぬ伏兵にも注意しておかなくては。

 コーヒーを飲みながら私が資料を整理していると、不意にトレーナー室の扉がノックされた。誰だろう。ヒクマならノックもせず入ってくるだろうし、エチュードかコンプか。

 

「どうぞ」

 

 返事をすると、がらりと扉が開き――非常に見覚えのある、けれど直接面識があるわけではない、あまりに有名な顔が現れて、私は思わず背筋を伸ばしていた。

 

「失礼する。バイトアルヒクマ君の担当トレーナーはキミか?」

「り……リードサスペンス会長?」

 

 長い栃栗毛を揺らし、日に焼けた顔にこちらを見定めるような眼力のある微笑を浮かべて――九冠ウマ娘、トレセン学園生徒会長、リードサスペンスは私を見つめた。

 

 

       * * *

 

 

 リードサスペンス。既にトゥインクル・シリーズの一線は退いているが、その名前は近年のトゥインクル・シリーズにおけるひとつの伝説だった。

 4年間の現役生活で、通算16戦12勝。うち、クラシック三冠、秋シニア三冠、天皇賞(春)連覇、有馬記念連覇のGⅠ9勝。世界的に1600から2000のマイル~中距離戦が主流になり、長距離レースが不遇といわれるこの時代に、距離が長くなるほど圧倒的な強さを見せた至高のステイヤー。その無限のスタミナが生む異次元の末脚で他のウマ娘を置き去りにし、特に三冠がかかった菊花賞での8バ身差圧勝と、シニア級一年目の天皇賞(春)の7バ身差の大楽勝は、「あまりに強すぎてサスペンスがない」とまで言われたほどだった。

 実際、あまりに当然のような顔をして勝ち続けたため、リードサスペンスのレースで一番印象に残っているのは、1年下の善戦ウマ娘・ドカドカにアタマ差敗れ十冠と三連覇を逃したラストランのシニア級2年目有馬記念というファンは多い。それまでGⅠで善戦を続けていたが重賞未勝利、それどころか「主な勝ちレース:クラシック級未勝利」のままだった通算1勝のドカドカが、壮絶なマッチレースの末にリードサスペンスの猛追を振り切ってレコード勝利を挙げた伝説の有馬記念は、私自身、あのとき現地でその瞬間に立ち会う幸運に恵まれた15万人のひとりなのである。

 そんなわけで、私にとってはある意味で秋川理事長よりも雲の上の存在である。思わず立ち上がって最敬礼しかけた私を、リードサスペンスは苦笑交じりに軽く手を振って制する。私のような反応には慣れているという仕草だった。

 

「そう緊張しないでくれ。もう現役を退いたとはいえ、私だって学園のいち生徒だ」

「……いや、そう言われても」

 

 中央のトレセン学園、その生徒会長というのは、単なる学校の生徒会ではない。文字通りの意味でウマ娘界の顔であり、トレセン学園においては事実上、理事長に次ぐ地位の役職である。トゥインクル・シリーズを主催するURAのトップに匹敵する権限を持ち、ウマ娘界のスポークスマンとして何かと表舞台に立つため、本人の実績もあってまさに国民的な知名度を誇る。それだけに生半可な実績では務めることは叶わず、歴代の生徒会長は全てクラシック三冠か、トリプルティアラを達成したウマ娘だ。

 既に引退して数年になるリードサスペンスがまだ学園に学生として籍を置いているのも、今のところ彼女のあとに三冠ウマ娘が出ていないからである。本来はとっくに卒業している年齢のはずだが、トレセン学園における「生徒会長」とはそういう役職なのだ。

 

「後任がなかなか出てこないおかげで、いつまでも学園に居座る羽目になっているだけだ。さっさと後輩に譲って自由になりたいよ」

 

 私の淹れたコーヒーにミルクと砂糖をかなり多めに入れながら、リードサスペンスは冗談めかしてそう言った。意外と甘党らしい。

 

「それで、生徒会長がどうしてこちらへ?」

「――今年の新人は、将来が実に楽しみな子が多い。我々生徒会も注目している」

 

 コーヒーというよりカフェオレになったカップの中身に口をつけ、リードサスペンスはそう切り出した。

 

「ティアラ路線からホープフルステークスに挑む、キミのところのバイトアルヒクマ君も、もちろんそのひとりだ。デビュー3連勝、重賞連勝。全くの新人トレーナーのところからこんな逸材が出てくるとは、驚いた。しかもいきなり同期3人を同時に担当して、ほかの2人も既に勝ち上がらせているというのだから」

「……いや、それは彼女たちの努力と才能の結果で」

「その才能を引き出すには、トレーナーが正しい方向の努力へ導いてやらないといけない。トゥインクル・シリーズはウマ娘とトレーナーの二人三脚、トレーナーがウマ娘の力を引き出してやってこそのものだ。キミが謙遜する必要はない」

「は、はあ、ど、どうも……」

 

 雲の上の九冠ウマ娘に褒められてしまった。背中がくすぐったいなんてレベルではない。

 

「ティアラ路線のジャラジャラ君、エレガンジェネラル君。三冠路線のオータムマウンテン君、デュオスヴェル君。他にもまだ、これからクラシック戦線へ向けて伸びてくる逸材も隠れているだろうが――誰が勝つにせよ、『ジュニア級GⅠを勝ったウマ娘は早熟で伸び悩む』という風評を打破する活躍を期待しているし、皆、それだけの力があるウマ娘だとみている。今年のジュニア級GⅠは、例年以上に盛り上げていきたい」

「はあ」

「というわけで、だ。――バイトアルヒクマ君に、ホープフルSのCMに出て欲しい」

 

 思わず、私は目をしばたたかせた。

 

 

       * * *

 

 

「CM? え、CMってあの、テレビのコマーシャル? クマっちが?」

「ほへ? え、わたしテレビに出るの?」

「テレビにはもう出てるでしょーが、レースとかその後のインタビューとかで」

「あ、そっか」

「でもヒクマちゃん、すごいよ……! テレビのレースCMなんて」

 

 翌日。トレーニング前にリードサスペンス会長からの打診を伝えると、3人はきゃいきゃいとはしゃぎだした。

 GⅠレースの宣伝として、そのレースで上位人気が見込まれるウマ娘が広告塔に起用されるのはトゥインクル・シリーズではいつものことである。たとえば今年のトリプルティアラでは、そこら中でテイクオフプレーンとリボンスレノディの二強対決を押し出したポスターやCMを見かけたものだ。

 

「クマっちで大丈夫なの? 演技とかできそーにないけど、クマっち」

「いや、別に演技するわけじゃないから……。今までのレース映像に加えて、レース前に勝負服で走ってる姿を撮影して使いたいって」

「勝負服!」

 

 3人は顔を見合わせる。――そう、ヒクマの次走はGⅠ。つまり、これまでの体操服にゼッケンではない。ヒクマだけの専用の勝負服を着用しての出走になる。

 GⅠで自分だけの勝負服を着用するのは、トゥインクル・シリーズを走るウマ娘の大きな目標のひとつだ。ヒクマたち3人も、デビューが決まった時点で、勝負服のデザイン案は本人の希望を聞きつつデザイナーと打ち合わせ、既に発注が済んでいる。ヒクマは札幌ジュニアSを勝った時点で年末に確実に間に合うように頼んであったので、12月になれば届くはずだ。

 

「そっか、勝負服届くんだ! たのしみ!」

 

 ヒクマがぶんぶんと尻尾を振ってご機嫌に身体を揺らす。

 

「いいなー、クマっち。あたしなんか最速で来年の9月だもん」

「勝負服かあ……」

 

 コンプは肩を竦め、エチュードはどこか遠い目。……エチュードもデイリー杯で結果が出ていれば阪神JFに向けて急ぎで勝負服を仕立ててもらう予定だったが、今はそれを言っても仕方が無い。来年の春、桜花賞で着られるようにしてあげたいものである。

 

「ヒクマちゃん、どんなデザインにしたの?」

「えへへ、ないしょ! ね、トレーナーさん!」

「あたしにも見せてくれなかったもんなあ、クマっち。なんか恥ずかしいデザインじゃないでしょーね、トレーナー?」

「いや、それは大丈夫だよ。私もチェックしたし」

 

 デザイン案と実際の仕上がりはまた別だろうけれども……。何にしても、私もヒクマの勝負服が届くのは楽しみだった。

 

「よーしヒクマ、CMに出ても恥ずかしくないレースをするために頑張ろう!」

「おー!」

 

 

       * * *

 

 

 同じ頃。ジャラジャラと担当の棚村トレーナーの元にも、同じ用件でリードサスペンスが訪れていた。

 

「阪神JFのCMねえ。めんどくせーなあ」

「こら、ジャラジャラ」

「そう言わないでくれ。サウジアラビアロイヤルカップのあの圧勝劇で、今年の1番人気はまず間違いなくキミなんだから」

 

 九冠ウマ娘の前でも動じないジャラジャラに、リードサスペンスは苦笑する。

 

「もちろん、エレガンジェネラル君にも既に依頼して承諾を受けている。キミとエレガンジェネラル君が最も大きく扱われることになるはずだ」

「……ジェネも出んのか。しゃーねーなあ、じゃあ出てやるか。トレーナー、あたしの勝負服ってもう出来てんのか?」

「ああ、明日届くはずだ」

「じゃ、明日試着ついでにちゃっちゃと済ませちまおう。会長さん、それでいいか?」

「ああ、問題ない。阪神JFは再来週だから、こちらも早めに撮影を済ませられるとありがたい。今年のティアラ路線では、私はキミに一番注目している。よろしくお願いするよ」

 

 そう言って、リードサスペンスは軽く手を振ってその場を立ち去る。その背中を見送って、棚村トレーナーは溜息をついた。

 

「全く、物怖じしないと言えば聞こえはいいが、せめてもう少し礼儀もだな」

「ジェネみたいなこと言うなよ、トレーナー」

「伝説の九冠ウマ娘、学園の会長からの打診に『しゃーねー、出てやるか』と答えられるジュニア級のウマ娘は初めて見たよ」

 

 トレーナーの言葉に、ジャラジャラは後頭部で手を組んでひとつ首を捻る。

 

「なーんかあの会長さん、他人って気がしねーんだよな。運命的な何かを感じるっつーか」

「やれやれ……ま、そのクソ度胸とマイペースさと、自分に対する揺るがない自信が君のいいところだが」

「トレーナー、それ褒めてんのかあ?」

「褒めてるんだ。君のそういうところに惚れ込んでスカウトしたんだから」

「大概トレーナーも物好きだと思うけどな。――さて、トレーニング始めっか」

 

 12月10日、阪神ジュベナイルフィリーズ。

 12月17日、朝日杯フューチュリティステークス。

 そして12月28日、ホープフルステークス。

 ――ジュニア級GⅠ戦線が、始まる。



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第56話 勝負服と挑戦状

 リードサスペンス会長から、ヒクマのCM出演打診があった翌日――。

 11月26日、日曜日。2週間後の12月10日に開催されるGⅠ、阪神ジュベナイルフィリーズの特別登録ウマ娘がURAから発表された。

 「○○賞」や「○○ステークス」といったレース名が冠されるレースのことを「特別競走」といい(ちなみにメイクデビューや未勝利戦、条件戦などで、特にレース名がつかないものは「一般競走」という)、特別競走には出走のための特別登録が必要になる。GⅠの特別登録の〆切は2週間前。その後、出走を回避しないのであれば開催週の木曜日に改めて二度目の特別登録を行い、フルゲートを超過した場合はファンptがボーダーライン上のウマ娘たちの中で抽選が行われ、出走メンバーが確定することになる。

 つまるところ、この2週間前までの特別登録を行わなければ、そのGIに出走することはできないわけなのだが――。

 

「……あれ?」

 

 トレーナー室でそのメンバー表を見ていた私は、違和感を覚えて眉を寄せた。

 阪神JFのフルゲートは18人。特別登録は20人なので、回避がなければ、メイクデビューか未勝利戦の1勝のみのウマ娘からふたりが抽選で落ちることになる。それはいいのだが――。

 大本命のジャラジャラ、対抗のエレガンジェネラルの名前は当然ある。京王杯ジュニアでコンプを破ったユイイツムニの名前もあった。――だが、何か足りない。

 何が足りないんだ? と首を捻って――ああっ、と思わず私は声をあげていた。

 

「ミニキャクタスがいない……?」

 

 そうだ、あの子の名前がないのだ。存在感の薄い子だけに、まさか名前を見落としたかと何度か登録メンバー表を確認したが、やはりその名前は見当たらない。

 ミニキャクタス。彼女はヒクマと同じティアラ路線志望と言っていたはずだ。メイクデビューと、9月の1勝クラスのアスター賞を勝っているので2戦2勝、登録さえすれば間違いなく抽選なしで出走できたはずである。

 夏場まではヒクマたちと一緒にトレーニングに励んでいたミニキャクタスだが、アスター賞以降は小坂トレーナーともども姿を見せていなかった。どうもミニキャクタスの方から、同じ路線のライバルになるんだから、仲良しとして手の内を明かし合うのはこのあたりまで、とヒクマに対して線を引いたらしい。

 それから2ヵ月、ミニキャクタスと小坂トレーナーはてっきり阪神JFに照準を合わせているのだとばかり思っていたのだが……。

 ジャラジャラとエレガンジェネラルという二強との対決を避けて、桜花賞への出走を確実にするために、年明けのフェアリーステークスあたりに照準を合わせているのか? 確かに、出走に必要なファンptは重賞2着以内でないと加算されないので、阪神JFは出たとしてもあの二強相手では3着までが限界だから避ける、という考え方もないわけではないだろうが……。それとも、故障で回避なのか?

 

「小坂トレーナーに確認してみるか……」

 

 スマホを取りだし、小坂トレーナーにメッセージを送ってみる。

 

《ミニキャクタスは阪神JFに出ないんですか?》

 

 ――返信が来たのは、その日の夜だった。

 

《すみません、企業秘密です》

 

 一緒に、ごめんなさい、のスタンプ。小坂トレーナーがあの前髪に表情を隠しながら、何と答えるべきか数時間迷った挙げ句にこのメッセージを返してきたのが何となく察せられる文面で、私はスマホを見ながら嘆息するしかなかった。

 

 

       * * *

 

 

 ミニキャクタスの動向は気になるが、それはそれとして――。

 12月2日、土曜日。待ち望んでいたものが、手元に届いた。

 

「わあ……! ヒクマちゃん、似合うよ、すごい」

「おおー、なんかあれ、RPGの主人公にこんな格好のキャラいなかったっけ?」

「えっへへー、かっこいいでしょ!」

 

 ヒクマの勝負服である。届いたそれをトレーナー室でさっそく試着して、ヒクマはご機嫌にマントをたなびかせながらその場をくるくると回ってみせた。

 青いターバンを頭に巻き、白いゆったりとしたワンピースに、肩から青いマントをひるがえす。全体として、ヒクマの故郷である中東の民族衣装をイメージした勝負服だ。白のワンピースにワンポイントとして入れられたピンクのラインがいいアクセントになっている。夢は砂漠の都市ドバイへ――というヒクマの目標が、非常によく伝わる勝負服だと思う。私もヒクマのその姿を見ながらうんうんと頷いた。

 

「似合ってるよ、ヒクマ」

「えへへー。勝負服、わたしの勝負服! えっへへー」

 

 今にも歌い出しそうなご機嫌ぶりで、ヒクマは落ち着きなく身体を揺らし、トレーナー室の姿見に自分の姿を映してご満悦の様子だった。勝負服はこれから、ヒクマの競走生活のシンボルになる服だ。本人が気に入ったなら何よりである。

 と、トレーナー室のドアがノックされた。「どうぞ」と答えると、姿を現したのは、

 

「失礼するよ。――おや、ちょうどいいところだったかな」

「うおあっ、かっ、会長さんだ!」

「わっ、わわわっ、リードサスペンス会長……!」

 

 生徒会長、リードサスペンスである。コンプがびしっと背筋を伸ばして直立不動になり、エチュードもガッチガチに固まってしまった。そんな後輩の様子に、リードサスペンスはちょっと淋しそうに苦笑する。

 

「そんなに緊張しないでくれないかな。別に取って食いはしないんだから」

「ほえ、ふたりともどうしたの?」

「ちょっとクマっち、生徒会長の顔忘れたの? 伝説の九冠ウマ娘! 入学式のときに挨拶してたし、今でも何かあればウマ娘関係の番組とかニュースにしょっちゅう出てくるでしょ!」

「えーと……」

「ヒクマちゃん、こ、この人だってば……」

 

 エチュードが横からスマホで勝負服姿のリードサスペンスの写真を見せる。ヒクマはその画面と目の前のリードサスペンスを見比べて、その大きな目をいっぱいに見開いた。

 

「わわっ、ほんものだ!」

「偽物がいたら困るんだけどね。そうか、制服姿だとピンと来ないか。メディアに出るときは基本現役時代の勝負服だしな。……まあ本当はもう、この制服を着るような歳じゃないしな、私……」

 

 トレセン学園制服の冬服の袖を引っぱり、リードサスペンスはしみじみとそう呟く。

 

「まあ、それはともかくとしてだ。バイトアルヒクマ君だね。トレーナーから、ホープフルステークスのCM撮影の件は聞いているかい?」

「あ、はい!」

「よし。さっそく今日これから撮影したいんだが、構わないかな」

「おー!」

 

 笑顔で両手を挙げるヒクマ。物怖じしないというか、何も考えてないだけなのか……。

 

 

 

 ともあれ、勝負服を着たままのヒクマを連れて、リードサスペンスの案内のもとトレーニングコースに出ると、既に撮影機材がセットされ、何人かの勝負服姿のウマ娘がいる。

 

「あっ、ブリッコ!」

「げっ、アホスヴェル!」

「ふっふーん、どーだ、ボクの勝負服! カッコイイだろー!」

 

 ドヤ顔で胸を張ったデュオスヴェルの勝負服は、白と黒を基調にしたシンプルな騎士服風のものに、両腕に盾のデザインがあしらわれている。

 

「うわー、かっこつけ」

「なんだとー!」

「はっはっは! 私のデザインだよ! スヴェルとは北欧神話で太陽神ソルの熱から大地を護る盾、太陽の前に立ちし者! 常に前を走るスヴェル君にピッタリだろう!」

 

 びしっとポーズを付けて高笑いするのは、デュオスヴェルとオータムマウンテンの担当トレーナーである岬トレーナーである。相変わらず変な人だ。

 

「あらあらあら~、ヒクマさんも素敵な勝負服ですね~」

 

 岬トレーナーの背後から現れたオータムマウンテンは、黄緑にピンクのラインが入った、女子ゴルファーを思わせるポロシャツにショートパンツ、サンバイザーというデザインの勝負服を身に纏っている。

 

「あ、オータムちゃん! オータムちゃんもかわいいね!」

「うふふ~、お父様にデザインしていただきました~」

「オータム君のお父上はプロゴルファーだからね!」

 

 なるほど。

 

「皆さんお揃いですね。撮影よろしくお願いします」

「ロアちゃん! ロアちゃんもいたんだ、かっこいい!」

 

 プチフォークロアはぴっちりしたライダースーツ風の衣裳である。青とピンクの組み合わせはパッと見ではケバケバしいが、プチフォークロアの明るい栃栗毛の髪と組み合わさると不思議と似合って見えた。寒いのか、首には青いマフラーを巻いている。

 

「まだ勝負服が届いていない子もいるから、今日のところはここにいるメンバーで撮影だね。……おや? ひとり足りないな」

 

 リードサスペンスがそう言って、きょろきょろと周囲を見回す。

 

「他にもいらっしゃるんですか~?」

「ああ、既にデビューから2連勝を挙げている子がね。あの子も変わり種のレース選択で印象に残っていたんだが……」

 

 と、リードサスペンスはヒクマの方を見やる。ヒクマは「?」と小首を傾げた。

 

「そうそう、バイトアルヒクマ君。君と同じ、ティアラ路線からの参戦だ。既にトリプルティアラへの特別登録が済んでいる子が、君を含めてふたりもホープフルステークスに登録してきたのだから、驚いたよ」

「ほへー」

 

 私はヒクマと顔を見合わせる。ヒクマの他にも、ティアラ路線からホープフルステークスに参戦してくるウマ娘がいるとは。いったい誰が……2連勝?

 待て、この時点で2連勝を挙げている、ティアラ路線のウマ娘となると……。

 

「…………すみません、お待たせしました…………」

「おわあっ!? こ、小坂トレーナー!?」

 

 背後から幽霊のような声。驚いて振り向くと、長い黒髪に表情を隠した小坂トレーナーがそこに立っていた。――私は息を飲む。ということは、やはり。

 

「あっ、キャクタスちゃん!?」

 

 ヒクマがそのまん丸の目を大きく見開く。

 小坂トレーナーの背後――黒のラインが入った水色のレオタードにサボテンの棘をイメージしたような図柄をあしらい、同色のショートパンツ、黒いシュシュつきの水色のアームカバーという出で立ちで、ミニキャクタスはそこに佇んでいた。

 この場に揃った面々の華やかな勝負服に比べると、非常に地味な――温室の片隅に置かれたサボテンの鉢のような、控えめともとれる勝負服。

 それを身に纏って、ミニキャクタスはゆっくりとヒクマの元に歩み寄る。

 

「キャクタスちゃん、あれ? え? 勝負服ってことは……」

「……私も、出るから。ホープフルステークス」

 

 胸の前でぐっと拳を握りしめ、ミニキャクタスは強い眼差しでヒクマを見つめ。

 

「――ヒクマちゃんに、勝つために、出るから」

 

 それは友人へというよりも――宿敵へと向けたような、宣戦布告の言葉。

 その言葉、ミニキャクタスからの挑戦状を受けて――ヒクマは。

 

「――キャクタスちゃんと走れるんだ! やったあ! うん、わたしも負けないよ!」

 

 満面の笑みを浮かべて、ミニキャクタスの手を掴んでぴょんぴょんと飛び跳ねた。

 ミニキャクタスは、驚いたように目を見開き、そして困ったように目を伏せる。

 デュオスヴェルが「だれだっけ?」と首を傾げ、オータムマウンテンが「前に一緒に走ったじゃないですか~」と苦笑し、プチフォークロアが「ふむ」と眼鏡を煌めかせる。

 

「…………そういうことです…………。隠していて、すみませんでした…………」

 

 隣の小坂トレーナーがぼそぼそとそう言い、私は肩を竦めた。

 

「なるほど。――でも、うちのヒクマは負けませんよ」

「…………キャクタスちゃんだって、負けません。…………バイトアルヒクマさんを倒すために、頑張ってきたんですから…………」

 

 ――なるほど。アスター賞を勝った時点で、最初からこの予定だったということか。

 私は頭を掻きながら、ミニキャクタス対策、考えないとなあ――と息を吐き出す。

 

 12月28日、ホープフルステークスまで、あと4週間。



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第57話 寒がりギャルと学級委員長

 12月3日、日曜日、阪神レース場。

 

「うおっ、寒っ! 勘弁してよ、やってらんないっしょー、こんな寒い中でさあ」

 

 体操服に着替えてパドックの待機スペースに出たソーラーレイは、冷たい風に両腕をさすりながら震えた。快晴の良バ場だが、風が強くて体感温度が低いのである。なんでよりにもよってデビュー戦が12月なのだ。もっと早く8月ぐらいにデビューしたかった。まあでもそれは、選抜レースで結果を出すのが遅れた自分が悪いのだけれども。

 

「レイさん! ウマ娘は風の子、走っていればすぐに身体も温まりますよ! 前進、邁進、猪突猛進です!」

「委員長は元気だねえ」

「学級委員長ですから! 皆の手本として立派に――へっくし!」

「あーもう、委員長も寒いんじゃん。はいティッシュ」

「ありがとうございます! レイさんの心遣いにはいつも尊敬の念を禁じ得ません!」

「いちいち大げさだし、委員長は」

 

 デビュー戦に向かうという緊張を全く感じさせない学級委員長――バイタルダイナモの能天気な笑顔に、ソーラーレイは苦笑する。

 第5レース、メイクデビュー阪神、芝1200メートル。もともと同じ短距離路線志望で、同じ選抜レースでそれぞれ別のトレーナーにスカウトを受けたレイとダイナモは、何の因果かデビュー戦まで同じレースになってしまった。レイが3番人気、ダイナモは5番人気。まあ、こんなものだろう。

 しかしこんな寒い中、無理して怪我でもしたら元も子もない。デビューが他のウマ娘よりやや遅くなったとはいえ、未勝利戦は来年の九月ぐらいまであるんだし、焦ることもない。今日は勝てたら勝つ、無理そうなら無理はしない、ぐらいでいいよねえ――とレイのモチベーションはいささか低めだった。元より寒いのは苦手なのだ。この季節はコタツでゴロゴロしていたい。

 その一方、ダイナモはふんすふんす、と鼻息も荒く、明らかに入れ込んでいる。まあ、この委員長のテンションが高いのはいつものことだけれども。

 

「ふっふっふ、しかしレイさんには申し訳ありませんが、今日はこの優秀な学級委員長、この私、バイタルダイナモの伝説の始まりですので!」

「おー、委員長がんばー。応援してるよー」

「レイさんも一緒に走るんでしょう!」

「あたしはもういいやー。寒くてやる気ゼロ」

「いけませんよ! 記念すべきデビュー戦なんですから! さあ、レイさんもトゥインクル・シリーズへ、前進、躍進、勇往邁進です!」

「その言い回し気に入ってんのぉ?」

「偉大なる学級委員長の名を受け継ぐ者ですので! 私も皆の手本となる優秀な学級委員長として前進あるのみなのです!」

 

 ――かつてトレセン学園には、ひとりの偉大な学級委員長がいたという。その学級委員長は、あらゆるバ場・距離・コースのレースに精通し、皆の手本となった極めて優秀、そして誰からも愛された委員長であったというが、何よりも彼女は偉大なスプリンターであったそうだ。

 圧倒的なスピードで、スプリント戦の絶対王者として君臨したその学級委員長は、まだマイラーとスプリンターの区別もろくにされていなかったような時代に、その1400以下の距離での圧倒的すぎる強さから、彼女が勝てる重賞が少なすぎることが問題視され、現在の短距離路線の整備に繋がったのだとかなんとか。

 バイタルダイナモは、その伝説の学級委員長に憧れている。自分の強さに絶対の自信を持ち、常に背筋を伸ばして胸を張って誇り高く学園を闊歩し、皆の模範として誰からも愛され尊敬され、レースでは目にも留まらぬスピードで1200メートルを駆け抜けたというその委員長を範として、自分もそのような偉大な学級委員長たらんと日々努力しているのだそうだ。

 レイにはなんだかよくわからないが、まあ、ダイナモ委員長は見ていて面白いので、そのまま面白い委員長でいてほしいと思う。

 

「というわけで、今日は完璧な作戦を立ててきました!」

「作戦?」

「はい! スプリント戦はやはりスピードが命! 逃げ・先行が有利で、後方待機は不利です! つまり、スプリント戦は何よりもスタートが大事!」

「うん」

「なので、ゲートが開く前からダッシュするつもりで行こうと思います! ゲートが開いた瞬間にもう走り出していれば、勝利は約束されたも同然! まさに完璧な作戦です! あまりにも隙がなさすぎて負ける姿が思い浮かびません! さすが私!」

「おー、すごいよ委員長ー」

「そうでしょう! もっと私を褒め称えて構いませんよ! レース後にはこのレース場の全ての観客の皆さんが私という学級委員長を祝福してくださるはずですから!」

 

 はっはっは、とドヤ顔で胸を張って高笑いするダイナモ。

 

「でさー、委員長」

「はい、なんでしょう!」

「パドックの出番。係の人がさっきから呼んでるよぉ?」

「おおっと! これは失礼しました! ありがとうございますレイさん! では学級委員長、皆の前で御挨拶をして参りますね!」

 

 呆れ顔のレース場の職員の方へ、ダイナモはダッシュで駆けていく。ダイナモのハイテンションに付き合っていたら、こっちもなんだか寒さを忘れていた。まったく、季節を問わないあのエネルギー、少し分けてほしい。いや、分けられたら疲れるだけかも。

 息を吐いて、ソーラーレイは自分の九番のゼッケンをつまんだ。

 ――デビュー戦、かあ。

 今日が自分のデビュー戦だということは、調べれば誰でもすぐわかることだ。――観客席に、あのひとは来ているだろうか……。

 いや、余計なことを考えるのはやめよう。レイは首を振って顔を上げる。

 

「……ううっ、やっぱ寒っ。委員長ー、早く戻ってきてよぉ」

 

 バイタルダイナモならぬバイタルカイロが欲しくなる。委員長は体温高そうだから戻ってきたら抱っこさせてもらおう、とレイは思った。

 

 

       * * *

 

 

 さて、レースの結果はというと。

 スタートから中段後方につけたソーラーレイは、集団を避けて外を回して直線の坂で先行集団を追い込んだが、外回しの距離ロスが響いて1着からは1バ身半離された4着。

 そして、バイタルダイナモはというと――。

 

『あーっとひとり大きく出遅れた! バイタルダイナモが出遅れました!』

 

 5番のバイタルダイナモが、ゲートが開く前に突進してゲートに身体をぶつけ、「ぐえっ」と呻く声が、9番のレイのところまで聞こえた。そのまま大幅に出遅れたダイナモは、ゲートに激突したダメージも抜けきらなかったようで、いいところなく12人立ての12着。要するに最下位の惨敗だった。

 

 

 

「あーさむさむ、早く東京帰りたいわー……っと、委員長、おつかれー」

「あ、レイさん! おつかれさまでした! 今日はお互い残念でしたね!」

 

 4着なのでウイニングライブも関係ない。さっさと東京に帰ることにしてトレーナーとレース場を出ると、同じくトレーナーを同伴したバイタルダイナモと出くわした。

 

「ゲートにぶつけたとこ、大丈夫ぅ?」

「ご心配おかけしてすみません! なんともありませんが、一応念のため、これからトレーナーさんと病院です! なんともないですけど!」

 

 ふんふん、と両腕を振って元気アピールをするダイナモに、後ろでダイナモの担当トレーナーが困り顔をしていた。レイは苦笑する。

 

「いやあ、ちょっと走り出しを早まりましたね! 失敗しました! でも、今日はレイさんも4着でしたから、他の皆さんも速かったということでしょう!」

 

 いやあ、あたしだって別にそこまで本気で全力を尽くしたわけじゃないんだけど――とは、一応後ろにいる自分のトレーナーの手前、口には出さない。

 

「失敗は仕方ありません! 病院で異常がなければ年末、ホープフルステークスの日にまた阪神の未勝利戦に出してもらえることになりましたから、次がんばります!」

「委員長は前向きだねえ」

「皆の模範たるもの、一度の敗戦でくよくよしてなどいられませんから! レイさんもきっと次は勝てますから、がんばりましょう!」

「んー、まあ、それなりにねー」

 

 それでは! と担当トレーナーに促されて去って行くバイタルダイナモを手を振って見送り、ソーラーレイは寒空にひとつ息を吐き出した。

 ま、いいか。帰ろ帰ろ。こんな寒い中に突っ立ってたら風邪引いちゃうし――。

 そう思いながら再び歩き出すと――今度は何やら、見覚えのある2人組の姿を見かけた。

 

「……あれ、ユイチョコ?」

「お? レイちゃんじゃん。デビュー戦どうだった? 委員長は?」

 

 ユイイツムニとチョコチョコである。なんでまたこのふたりがわざわざ阪神に――と思いかけて、ああ、とレイはすぐ理解した。ふたりとも、来週と再来週のGⅠ――阪神JFと朝日杯FSに出るから、その下見だろう。

 

「4着。委員長はゲートに身体ぶつけて病院」

「ありゃりゃ。じゃあ、委員長にお大事にって伝えといて」

「遅いっしょ、今さっきまで委員長そこいたんだからさあ。ま、元気そうだったよ」

「あ、そーなの? ま、委員長はいつだって元気だよねえ。ムニっちも少しは委員長の元気分けてもらえばいいのに」

「…………」

 

 チョコチョコに話を振られても、いつも通りユイイツムニは無言でスルー。ホント無口なやっちゃなー、とレイは息を吐く。

 

「で、そっちは来週と再来週の下見ってわけぇ? レースもないのにわざわざ大阪まで来るなんて、さすがGⅠに出るウマ娘は違うじゃん」

「ま、そんなとこ」

 

 と、そこでその筋の人にしか見えない風貌の、ユイチョコの担当トレーナーがふたりを呼び、「行こ、ムニっち」「…………ん」とチョコチョコがユイイツムニを促して、ふたりは軽くこちらに手を振ってレース場の方へと小走りに駆けていく。

 その姿を見送った途端――急に悔しさがこみ上げてきて、「あー!」とソーラーレイは空に向かってひとつ吼えた。

 ――あー、くそ! あたしのことなんざ眼中になしかよ!

 わかってる、相手はもう2勝3勝を挙げてGⅠでも上位人気になるだろう上澄み、こちとらデビュー戦4着の有象無象だ。メイクデビューが始まってから半年、あっという間に差がついてしまった。そんなことはわかってる。選抜レースで早めに結果を出せなかった自分の自業自得だ。

 だけど、悔しい。こんなことを言えた立場でないことはわかっていても、同期の同級生から、ライバルとして完全に眼中になし、みたいなスルーを受けると――。

 

「トレーナー!」

「な、なに?」

 

 オタクっぽい風貌をしたレイの担当トレーナーは、急に雄叫びをあげてこちらを睨んだレイに怯えたように身を竦めた。

 

「次、あのふたり出てくるレースって何さ?」

「え……ユイイツムニとチョコチョコ? ……阪神JFと朝日杯FSの結果次第だと思うけど……。マイル路線に行くなら、春の目標は桜花賞とNHKマイルだろうけど……」

「短距離なら?」

「……さ、3月のファルコンSか、5月の葵S、かな」

「じゃ、あたしもそのふたつまでに未勝利戦と1勝クラス勝てばいいっしょ?」

「え? そ、そのふたつに、出るなら、うん」

「出る。絶対出てあいつらに勝つ!」

 

 待ってろユイチョコ。絶対あんたらの鼻っ柱叩き折ってやるっしょ!

 寒空の下、突然やる気を爆発させたレイの姿に、トレーナーは目を白黒させていた。



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第58話 阪神JF・それぞれの前日

 12月9日、土曜日、朝。トレセン学園栗東寮。

 

「ジャラジャラさん、まだ支度しないんですか?」

「んあー、あたしは午後の新幹線だからもうちょい寝てるわー……」

 

 ベッドの中から返ってきた気怠げな答えに、エレガンジェネラルはひとつ嘆息した。

 

「私は先に行きますから、ホテルも違いますし面倒見られませんからね。遅刻しないでくださいよ。GⅠで1番人気が遅刻で競走除外なんてことになったら前代未聞ですからね?」

「おかんみたいなこと言うなよジェネ」

 

 言わせているのはどっちだ。呆れながらジェネラルは荷物の再確認を始める。昨晩のうちに全て荷物は支度してあったが、改めてスーツケースの中身を昨日作ったチェックリストと照らし合わせていく。

 よし、問題なし。万一に備えて少し荷物が多くなったが、まあ問題ないだろう。パンパンのスーツケースを詰め直していると、いつの間にかジャラジャラが起き上がってベッドの上にあぐらを掻き、呆れ顔でこちらを見ていた。行儀が悪い。

 

「昨日から何回目だよ、荷物確認してんの」

「万全を期しているだけです」

「神経質すぎるっての。だいたい1泊2日の関西遠征でなんでそんなに荷物パンパンになるんだよ。旅行はもっと身軽にするもんだって」

「ジャラジャラさんがいい加減すぎるだけでしょう。手ぶらで行く気ですか?」

「勝負服はトレーナーに預けてっから、手ぶらでも平気だぜ」

「勝負服ぐらい自分で運んだらどうなんですか、全く」

 

 せっかくの勝負服だというのにこれである。このルームメイトはレースに対する敬意というものが欠けているとジェネラルは常々思う。

 勝負服。トレセン学園に入学する全てのウマ娘が、自分だけのそれを着てGⅠを勝つ姿を夢見るものだ。ジェネラルだって例外ではない。これを着て、ウイナーズサークルに立ち、ウイニングライブのセンターを務める。そのためにこの学園に来たのだ。自分で念入りにアイロンをかけた勝負服を、形を崩さないよう気を付けながらスーツケースにしまう。

 

「……なんですか、ジャラジャラさん」

 

 視線を感じて振り向くと、ジャラジャラが頬杖をついて目を眇めている。

 

「将軍って呼ばれると怒るくせに、なんで勝負服は軍服風なんだよ、ジェネ」

「ジャラジャラさんがふざけてそう呼ぶからです。私は自分の名前自体には誇りを持っていますから」

 

 ジェネラルの勝負服は、緑を基調にした軍服風のデザインである。細かい部分はデザイナーに一任したが、あまりゴテゴテした飾りはつけず、優雅さと気品を感じさせるスマートな仕上がりで、ジェネラル自身も満足している。

 それに対して――以前、CM撮影のときに見たジャラジャラの勝負服ときたら、水色のインナーに黒のレザージャケット、黒のソフト帽という基本スタイルはともかくとして、ジャケットに名前の通りにジャラジャラと鎖飾りをぶら下げて、なんとも邪魔くさそうにしか思えなかった。

 

「まあ、ジャラジャラさんの勝負服は重くてかさばりそうですからね。トレーナーさんに同情します」

「なんだよ、かっこいいだろ?」

 

 ばーん、とジャラジャラは右手を銃の形にして、片目を瞑ってこちらに射撃のポーズを取ってみせる。〝褐色の弾丸〟という、〈日刊ウマ娘〉がジャラジャラにつけた異名は、本人もわりと気に入っているらしい。勝負服のデザインも、ジェネラルはよく知らないが、アニメのガンマンが元ネタだとかなんとか。

 

「レースは格好で走るものじゃありませんから」

「見た目は大事だよ。ボロを着てれば心もボロ、錦を着てりゃ心も錦。GⅠでしか勝負服着られないってのも、つまりはそういうことだろ?」

 

 そうなのだろうか。そうなのかもしれない。ウマ娘の勝負服はどんなデザインでも、たとえ一見してレースには不利そうなものであっても、着ると不思議な力が湧いてくるのだという。中には大きな招き猫を背負ってGⅠを勝ったウマ娘もいたとかなんとか。それは冗談かもしれないが――まあ確かに、届いた勝負服に初めて袖を通したときに、気分が高揚しなかったと言えばジェネラル自身も嘘になる。

 ただ、それは同時に重圧でもある。立派な、満足のいく勝負服。袖を通す以上は、それに恥じないレースをしなければならない。

 ジェネラルはジャラジャラを見やった。――今の段階で発表されている投票順位では、ジャラジャラが圧倒的な1番人気。ジェネラルは少し離された2番人気だった。悔しいが、『お前の新潟のレコードなんか過去にしてやる』という宣言通り、あのサウジアラビアロイヤルカップの記録的な圧勝、12バ身差ジュニア級レコードという衝撃は、ジェネラルの世代一番手という評判を過去のものにしてしまった。

 だから明日、GⅠという舞台で、それを取り戻すことが、自分に課せられた使命。

 将に、敗北は許されない。

 

「それでは、行ってきます」

「おう、明日阪神でな。2着の振り付け、ちゃんと練習しとけよ」

「――その言葉、そっくりそのままお返ししますから」

 

 立ち上がり、スーツケースを引いてジェネラルは歩き出す。

 向かう先は、阪神のターフという戦場。

 一発の弾丸ごときに、将軍の歩みは止められないということを、証明するために。

 

 

       * * *

 

 

 同日夜、宝塚市内ホテル。

 

「――ああ、お母ちゃん? うん、今ホテルの部屋さあ」

 

 エブリワンライクスは、ハンガーに吊した勝負服を見上げながら、故郷の母親へと電話を掛けていた。

 

「うん、いやあ、ホントにGⅠ出るんだなあって。アダシみでった田舎っぺがさあ。うん、あの写真コ送った勝負服着て走るんだあ。嘘みてだべ?」

 

 東京にいる間は標準語で喋るのに慣れたけれど、実家の家族と話していると、自然と故郷の訛りとイントネーションに戻ってしまう。そのことが今は心地よかった。

 

「テレビでも地上波で中継あるはんで、みんな見ででけろ――あ? は? なに、こっちさ来てる? みんなして明日レース場さ来るって? わいは、どんだんだっきゃ! なんもわざわざ関西まで来ねくても――ああ、いや、うん、わい、めやぐだの……」

 

 ライクスは思わず頭を掻いた。これはますますもって、情けないところは見せられない。

 明日の阪神ジュベナイルフィリーズは、世間的には二強とその他大勢という風潮だ。サウジRCでとんでもない圧勝をかましたという片方はよく知らないが、もう片方はライクスもよく知っている。

 ――確かにあいつは、エレガンジェネラルはとんでもなく強い。2ヵ月前のアルテミスステークスで、そのことは痛いほどよく知っている。走り慣れた雨の泥んこバ場で、こっちが全力を出したのに全く追いつけず、そしてレース後も涼しい顔をしていたあの背中。

 あいつが今のところ離された2番人気というのだから、ぶっちぎりの1番人気というのはいったいどんなバケモノだというのか。正直、想像もつかない。

 トレーナーからも、阪神JFは回避する? という相談があったのは事実だ。登録数がフルゲートを超えたレースに出走できるかは、その時点でのファンptによって決まる。そしてファンptは、たとえGⅠでも2着以内でないと加算されない。ライクスはメイクデビュー勝利とアルテミスS2着で現在1000pt。今のままでも桜花賞に出られる可能性は充分あるが、確実な出走を目指すなら2着以上は厳しそうな阪神JFは回避して、年明けのフェアリーステークスあたりで2着以内を狙うというのは、理屈としては理解できる。実際それを狙って阪神JFを回避したウマ娘も何人かいるようだ。

 でも、アルテミスSであんな負け方をして、阪神JF回避じゃ完全にあいつから逃げたみたいじゃないか。どうせ桜花賞に出るならぶつかる相手だ。向こうからすれば自分など眼中にないかもしれないが――逃げるよりも、立ち向かいたい。

 ライクスのその希望が通り、結果、ライクスは今、宝塚市にいる。

 

「……うん、どーもめちゃくちゃ強えのがふたりいるんだ。そう、片方は前のレースで負けたあいつ。……うん、でもあれから2ヵ月、アタシだって鍛えたんだ。けっぱるべ。けっぱって勝つべ。見てでけろ」

 

 拳を握り、自分に言い聞かせるようにライクスはそう口にする。

 そう、勝つ。エレガンジェネラルに勝つ。もうひとり――ジャラジャラとかいう一番人気にだって勝つ。都会っ子なんかに負けてたまるか。田舎者の意地、見せてやる。

 

「ん、妹だぢに替わる? うん――ああ、うん、お姉ちゃんだど。うん、お姉ちゃんのかっこいいどこ、見せでやっからな!」

 

 電話の向こうから、母に替わって妹たちの騒がしい声。懐かしいその声に目を細めて、ライクスはそれからしばらく、ホテルの窓から見える夜景の先の故郷に思いを馳せていた。

 

 

       * * *

 

 

 同ホテルの別フロア。

 

「はいダーメ、ムニっち、この本は没収」

「…………あ」

 

 分厚い文庫本を取りだして読み始めようとしたユイイツムニの手から、チョコチョコはその本を取り上げた。ユイイツムニが眼鏡の奥で目を見開いて、それから口を尖らせてチョコチョコを見上げる。チョコチョコは腰に手を当ててひとつ嘆息。

 

「今からこんな分厚いの読み出して、夜ふかしして調整失敗で明日の阪神JF負けたってなったらシャレにならんでしょーが」

「……トレーナーは、平常心でいろと言った。それには読書が一番……」

「だったらせめて1時間ぐらいで読める薄いやつにしなっての! なーんでわざわざこんな分厚いのにするのさ。ていうか新幹線で読んでたのはどーした」

「……あれはもう読み終わった」

「だったら今日はその1冊で終わり! これは明日のレースが終わってから!」

「………………チョコのいじわる」

「拗ねてもダメだかんね。ムニっちがベッドの中で本読んで夜ふかしの常習犯なのも、今まで何度もトレーニング中それで眠そうにしてたのもトレーナーにちゃーんとバレてんだから、あたしはそのお目付役でここに来てんの」

「…………裏切り者」

 

 頬を膨れさせても睨んでもダメである。ムニはチョコの手から文庫本を取り返そうとするが、そうはさせない。ひらひらとチョコはムニの手から逃れ、文庫本を手にしたままベッドの中に潜り込む。

 

「ふあああ……。んじゃ、この本の身柄は朝まであたしが預かったから、おやすみムニっち。ちゃんと寝るんだよぉ」

 

 チョコは部屋の電気を消してムニに背を向ける。……寝入ったふりをしていると、背後でムニがごそごそと荷物を漁る音。そして枕元の明かりがつく音。……ページをめくる音。

 

「3冊目あるんかい!」

 

 チョコは飛び起きて、ムニの手から本を取り上げようとした。しかし今度はムニが本を抱きかかえるようにしてベッドに潜り込んでしまう。こいつ何がなんでも今日中にもう一冊読む気だな? こうなってしまうとムニが依怙地なのはチョコが一番よく知っている。

 

「……100ページ、いや、50ページだけ」

「それ絶対止まらなくなるやつでしょーが!」

 

 前科が大ありである。むー、と唸るムニに、チョコは大げさに溜息をついた。まったく、このルームメイト、本のことになると完全に子供である。これでレースの才能に恵まれまくっているんだから、ウマ娘の神様は何を考えているんだか。

 

「じゃあ、しょーがないなあ」

 

 チョコはそう言って、もそもそとムニのベッドに潜り込んだ。ツインの部屋なのでベッドは当然ふたりで寝るサイズではない。狭い。ムニが怪訝そうにチョコを見やる。

 

「あたしが読み聞かせてあげよーか。それならムニっちも途中で寝るでしょ」

「……子供じゃない」

「だったら素直に本を閉じて寝る! 明日はGⅠだっての! それとも遠足前日の小学生みたいに興奮して眠れないとか言い出すわけぇ?」

「……わかった、寝る」

 

 しぶしぶとムニは眼鏡を外してベッドサイドに置いた。よしよし、とチョコは頷いて、ふあああ、ともうひとつ欠伸。やれやれ、早く寝たいのはこっちの方だというのに。

 

「…………チョコ、自分のベッドに戻っていい」

「いや、これで電気消したら絶対あたしのが先に寝るでしょ。そしたらムニっちはきっとこそこそと暗い中で本を読み始めて寝不足に加えて視力を落とす、間違いないから」

「…………」

 

 こら、図星を突かれたみたいな不満げな顔をするんじゃない。

 

「だからこーやって」

 

 と、チョコはムニの身体を抱き枕にするようにしがみついた。

 

「よし、これで安心。もー寝るしかないよ、ムニっち。観念しなー」

「…………」

 

 溜息をついて、ムニはチョコの胸元に顔を寄せて目を閉じた。よしよし、とチョコはその芦毛の髪を撫でて、……なにやってんだあたし、と思いながら欠伸を漏らす。

 まあ、なんだ。――ライバルにこんなところで負けられちゃつまんないから。

 ユイイツムニというウマ娘は、自分にとって最強のライバルでいてほしいのだ。

 短距離だろうが、マイルだろうが。――どんな距離だって。

 ムニっちが強くなきゃ、あたしだって張り合いがないんだから――。

 

「ふぁぁぁぁぁぁ……んじゃ、おやすみ、ムニっち」

「ん……おやすみ、チョコ」

 

 チョコチョコはユイイツムニの身体をホールドしたまま目を閉じる。

 睡魔はあっという間にチョコチョコの意識を刈り取っていって、抱き枕にされたユイイツムニが自分の胸元でどんな顔をしていたのが、チョコが知ることはなかった。

 

 

       * * *

 

 

 12月10日、GⅠ、阪神ジュベナイルフィリーズ、当日人気。

 1番人気、4枠7番、ジャラジャラ。

 2番人気、2枠3番、エレガンジェネラル。

 4番人気、1枠1番、ユイイツムニ。

 7番人気、6枠12番、エブリワンライクス。



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第59話 阪神ジュベナイルフィリーズ・前哨

 12月10日、日曜日。街中には数日前から、この日のメインレース、GⅠ・阪神ジュベナイルフィリーズのポスターやCMが溢れていた。国民的、世界的な人気スポーツであるトゥインクル・シリーズ。その最高峰であるGⅠは、毎週だってお祭りなのである。

《次代の女王へ。 阪神ジュベナイルフィリーズ》

 全出走ウマ娘の勝負服姿が並ぶポスターの中でも、中央で向き合う1番人気と2番人気のふたりは、個別のポスターやCMまで作られている。

《褐色の弾丸が、ターフを貫く ジャラジャラ》

《姫将軍、進撃は止まらない エレガンジェネラル》

 サウジアラビアロイヤルカップでの大逃げ大差レコード圧勝で皆の度肝を抜いたジャラジャラがぶっちぎりの1番人気。やや離されて、無傷の3戦3勝、新潟ジュニアSをレコード勝ちしたエレガンジェネラルが2番人気。世間的にも、今年の阪神JFはこの二強の一騎打ちというのが大方の予想である。この二強を避けて阪神JFを回避したウマ娘が何人もいたぐらいだ。

 ともかく。さすがにヒクマのホープフルステークスを控えて、呑気に関西まで遠征観戦に行く余裕はない。というわけで、私たちはトレーナー室でテレビ観戦である。

 

「まあ、あたしだってクマっちのこと間近で見てるから、そのふたりが頭抜けて強いのは見てればわかるけど。二強とその他大勢、みたいな風潮はちょっとムカつくんだけど」

 

 レース前の特集番組を見ながら、コンプがそう口を尖らせる。

 

「ユイイツムニね」

「てゆーか、あいつにここであっさり惨敗でもされたらあたしの立場がないじゃない。ったく、勝たないと承知しないんだからね!」

 

 応援してるのだかしてないのだか。私は苦笑する。

 京王杯ジュニアSを勝ち、こちらも無傷の3連勝で乗りこんできたユイイツムニは、ここまで1200、1200、1400からの距離延長という点が懸念されてか4番人気だった。ジャラジャラとの逃げ対決も見所だが、コンプとの対決を見る限りだと、ユイイツムニは他に逃げウマ娘がいれば強引にハナを切るよりも、横について併走するのを選ぶタイプだ。おそらくジャラジャラが先頭で逃げる形になるだろう。

 問題はジャラジャラがどのくらいのペースで逃げるのか、エレガンジェネラルがどのくらいの位置でそれを追うのかだ。

 サウジRCのジャラジャラは、驚異のハイペース逃げで追おうとした先行勢は総崩れ、後方待機勢は離されすぎて何もできないという、まさにスピードの暴力で他を全員すり潰したと言っていいレースだった。ハイペースは後方有利、なんていう常識は、超ハイペースで大逃げして上がり3Fも全体2位なんていう非常識なウマ娘の前には何の意味もない。もちろん、圧倒的な一番人気だ。他のウマ娘もジャラジャラに徹底マークをかけてそう楽には逃げさせまいとするだろうが……。

 

「あっ、はじまるよー!」

 

 本バ場入場とともに、テレビには阪神ジュベナイルフィリーズのロゴが大写しになる。ヒクマはいつも通り楽しそうに目を輝かせ、エチュードは真剣な顔で画面に見入った。

 私もひとつ息を吐き出して、画面を見据える。ヒクマの来年の目標が、果たしてどれだけの高さにあるのかを確かめるために。

 

 

       * * *

 

 

 15時35分、阪神レース場。天気、晴れ。バ場・良。

 ゲートを前に、出走する18人のウマ娘は、それぞれ思い思いにレースへ備えていた。

 

 

 

 ――いよいよ来たんだなあ、GⅠ。

 エブリワンライクスは大きく深呼吸して、ターフに散らばる他のウマ娘たちを眺めた。煌びやかな勝負服を身に纏い、ある者は楽しげに、ある者は緊張した面持ちで最後のストレッチをしている。

 阪神1600のスタートは向こう正面なので、スタンドの歓声は遠いが、それでも過去2戦のレースとはスタンドの観客の数も、歓声の質も全く違う。これが誰もが注目する、トゥインクル・シリーズの最高峰のレースだということを、ひしひしと感じる。

 ライクスはスタンドの観客席へ目を細め、手を振った。さすがにこの距離からでは、地元から駆けつけたという家族がスタンドのどこにいるのかはわからないけれど、家族がこの場所で見てくれているということは、どれだけ心強いだろう。

 ――よっしゃ。お姉ちゃんけっぱるはんでな!

 妹たちが見ているのだ、情けないレースはできない。頬を叩いて気合いを入れ直し、ゲートに向かおうとしたところで。

 

「おーい」

 

 背後から呼びかけられ、訝しんでライクスは振り返った。誰だろう。今日の出走メンバーに、気安く話しかけられる覚えのある顔はなかったと思うが……。

 

「――――っ」

 

 振り返った先にあったのは、1番人気のジャラジャラの顔だった。ジャラジャラは目を眇めて、値踏みするようにじっとライクスの顔を覗きこむ。ライクスは気圧されて軽くたたらを踏んだ。な、なんだべ? なしてわのごと――と思わず地元の訛りが口に出そうになる。

 

「……や、違うな。悪ぃ、人違いだわ」

「は?」

 

 ライクスがきょとんとしているうちに、ジャラジャラは肩を竦めてひらひらと手を振りながら背を向けて立ち去っていく。

 ――なんだば!

 なんなんだいったい。人違いって、こんなときになんだっていうのだ。

 ライクスは短い髪をぐしゃぐしゃと掻いて、もう一度頬を叩いて気合いを入れ直した。こっちの調子を外そうとする策略か? まあ、なんでもいい。何が人違いだ、アタシには関心がないってんなら、その認識はこのレースで覆してやる。

 憤然と、ライクスは拳を握りしめた。

 

 

 

「何やってるんですか、ジャラジャラさん」

「いやー、確かあんな感じの色した奴だったと思ったんだけどなあ」

 

 7番人気のエブリワンライクスに声をかけ、すぐに戻って来たジャラジャラの姿に、エレガンジェネラルは眉を寄せる。ジャラジャラは肩を竦めた。

 

「前に走ってるの見た奴だよ。顔も名前も忘れたけど、面白そうな奴だと思ったからこのあたりに出てきてるんじゃねーかと思ったんだけどなあ」

「顔も名前も忘れた相手をこんなタイミングで探してどうするんですか。――レースで余計なことにうつつを抜かしているようなら、私の相手にはなりませんよ」

「ん、なんだ妬いてんのかジェネ? なーに、安心しろ。今日のあたしはお前しか見てねーよ。ま、お前に見せるのは背中だけだけどな」

「変な言い方しないでください。――先に行きます」

 

 相変わらずどこまでも軽い調子のジャラジャラにひとつ嘆息して、エレガンジェネラルはゲートへと向かう。

 そう、敵はただひとり。他のウマ娘を侮るわけではないが、何をさておいても、このレースの全てはジャラジャラの走りにかかっている。

 あらゆるレース展開は、事前にトレーナーとシミュレートしている。ジャラジャラがスタートで出遅れるとか、転んで競走中止なんていうあり得そうもない事態まで検討済みだ。万全の準備をしてきた。その上で、なお勝てるという確信を持てない相手はただひとり、ジャラジャラのみ。

 彼女を潰すことが、このレースに勝つための絶対条件。他人に玉砕覚悟の競りかけなど期待しないし、今日のメンバーからそんな展開は考えにくい。だからこそ。

 ――貴方を潰すのは、私ですから。

 ゲートに入る。視界の先に広がるのは、阪神レース場の芝生のみ。

 さあ、行きましょう。――この将の名にかけて、絶対の勝利を掴み取るために。

 

 

 

 ――ふうん、GⅠともなりゃ、あいつでも緊張すんだな。

 エレガンジェネラルの背中を見送って、ジャラジャラはひとつ鼻を鳴らした。

 いつもならジャラジャラの軽口に、もう一言ふたこと文句が返ってくるところだが、今日のジェネラルはさすがに少し固くなっている。ま、それで走りに影響が出るようなタマじゃあないだろうけども――。

 自分もゲートに向かいながら、ジャラジャラはぐるぐると腕を回した。

 ――いや、他人のことは言えねーな。あたしも結構、昂ぶってら。

 そう、トレセン学園に出会って、あの口うるさいルームメイトの走りを見たあの日から、今日このときを自分はずっと待っていたのだから。

 エレガンジェネラル。この自分がただひとり、叩き潰したいと思った相手。

 GⅠの栄誉なんざどうでもいい。ジェネラルと、万全の状態で真剣勝負ができる。それ以上に求めるものなんて、あたしにはない。

 顔に笑みが浮かぶのを、ジャラジャラは堪えきれない。

 ――さあ、戦おうぜ、ジェネ。あたしの背中に、追いつけるもんなら追いついてみせろ。

 

 

 

 ゆっくりとゲートに向かいながら、ユイイツムニはひとつ大きく息を吐き出した。

 横目に、2番人気のエレガンジェネラルが3番のゲートに入っていくのが見える。少し遅れて、7番のゲートに1番人気のジャラジャラ。

 1番のゲートに収まって、ユイイツムニは1度目を閉じた。

 ――レースには、唯一絶対の答えがある。勝利と敗北という、不変の真実が。

 目を開ける。真実への道筋は、この1600メートル先にしかない。

 ――名探偵、皆を集めてさてと言い。

 さて、それじゃあ解き明かしに行こう。勝利という、唯一無二の答えを。

 

 

 

『全員ゲートイン、体勢完了――』

 

 

       * * *

 

 

 阪神レース場、スタンド4階、来賓席。

 

「会長、ここにいたんですか」

「うん? ああ、ドカドカ。キミもここで観戦するか?」

 

 ターフを見下ろす窓際、椅子に腰を下ろしていたリードサスペンスは、背後から呼びかける声に首だけで振り返った。生徒会書記、ドカドカの小柄な姿がそこにある。

 ぽんぽんと自分の膝を叩くリードサスペンスに、ドカドカは困ったように口を尖らせる。

 

「……もう、わたし、子供じゃないんですから」

「私の膝の上はお気に召さないかい?」

「お気に召すとか召さないとか、そういう問題じゃないです……もう」

 

 少し顔を赤くして頬を膨らませるドカドカに、リードサスペンスは笑って立ち上がる。

 

「じゃあ、私も立って観戦するとしようか」

「いえ、そんな……どうぞ、会長はお座りのままで」

「いや、こんな高いところから椅子に座って後輩の走りを見下ろしていると、自分が偉くなったと勘違いしそうだからね」

「……充分偉いですよ、会長は」

「社会的な認識じゃなく、私自身の気概と組織としての理念の問題さ。トレセン学園生徒会は権力者じゃない。現役のウマ娘たちの競走人生に奉仕するための組織なんだからね。私が現役だった頃に、先代の会長たちがそうしてくれたように」

「……先輩たちへの恩返し、ですか」

「そういうことだよ。ドカドカ、キミが私のラストランの有馬記念で、主役の座を奪ってくれたみたいにね。いや、あれは最高の恩返しだった。最高の状態で全力を尽くして、ひとつ下の挑戦者に敗れる。王者と呼ばれた者として、あれほど気持ち良く引退させてもらえたのは今振り返っても幸せだった」

「あ、あれはその……別にそんなつもりじゃ……。それにその、その後のことは……」

 

 リードサスペンスの軽口に、ドカドカは恥ずかしそうに縮こまる。リードサスペンスはぽんぽんとドカドカの頭を軽く撫でて笑った。

 

「というわけでドカドカ、そろそろ会長になる気はないか?」

「む、無理です無理です! そんな、わたしなんか……通算2勝のウマ娘が会長だなんて、ただの笑いものですよぉ……」

「私の引退レースで勝ったウマ娘が何を言うんだ。勝つのが当然で面白くないとか言われた私より、皆に愛されて、なかなか勝てない者の苦しみも知っているキミの方が会長に相応しいと、私は常々思っているんだけどね」

「無理ですってばぁ……。わたしは、リサさ、会長のサポート役で充分です……」

 

 真っ赤になってますます縮こまるドカドカに、やれやれとリードサスペンスは肩を竦め、眼下のターフへと視線を戻した。

 

「仕方ない。じゃあ、新しい会長候補の誕生を期待するとしよう」

「……あの子ですか? 会長が目をかけている……ジャラジャラさん、でしたっけ」

「ああ。サウジアラビアRCの走りを見ると――彼女は、トゥインクル・シリーズの常識を変えてくれそうな気がするんだ」

「常識を、ですか? まあ、確かにサウジRCは凄かったですけど……。でも、噂に聞く限りだと、彼女、あんまり生徒会長とかそういうタイプの性格じゃなさそうですよ? むしろ、今日の2番人気のエレガンジェネラルさんの方が真面目な優等生って話で……」

 

 そこまで言いかけて、ドカドカが不意にリードサスペンスを見上げた。

 

「なんだい?」

「……いえ、そうですね。トレセン学園の生徒会長は別にそんな真面目な優等生でなくても務まるんでした」

「おいおい、それじゃあ私が不真面目な落第生みたいじゃないか。皆に近寄りがたい堅物だと思われているこの私に向かって」

「みんなはリサさんの本性を知らないだけですから」

「ふふ、そうだね。私が隙を見せていいと思えるのはキミだけだよ、ドカドカ」

「――だからそういうところですっ!」

 

 くいっと指先でドカドカの顎を持ち上げてやると、ドカドカは真っ赤になって両腕を振り回した。全く本当に可愛いなこの子は、とリードサスペンスは笑う。

 

「もう……ほら、レース始まりますよ」

「おっと、そうだそうだ」

 

 視線をターフへと戻す。最後のウマ娘がゲートに入り、そして――。

 

『いざ、次代の女王へ! GⅠ、阪神ジュベナイルフィリーズ――スタートしました!』

 

 ゲートが開き、18人のウマ娘が一斉にターフへ飛び出した。



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第60話 阪神ジュベナイルフィリーズ・弾丸vs将軍

 ゲートが開いた。18人のウマ娘が、ターフに飛び出す。

 

『揃ったスタートになりました、さあハナを切るのは、行った行った、やはり行きます7番ジャラジャラです! 好スタートからあっという間に先頭!』

 

 やはり、出遅れるようなミスは犯さない。先陣を切るのはジャラジャラだ。抜群のスタートダッシュで先頭に躍り出る。弾丸、の異名に恥じないロケットスタート。

 

『それを追うのは内から1番ユイイツムニ、そして3番エレガンジェネラルが3番手』

 

 最内枠のユイイツムニも好スタートを決めて、前を塞がれないうちに先頭争いに加わる。そしてそれにぴったりくっつくように追走するのがエレガンジェネラル。あとはその後ろに先行集団が固まった。

 ジャラジャラがサウジRCのようなハイペース大逃げを仕掛けるなら、同じペースで競りかけるのは自滅覚悟になる。それよりは、もうちょっと常識的なペースで走るだろうエレガンジェネラルの背後を取ってマークしよう、というのが他のウマ娘たちの思惑のようだ。3番手につけたエレガンジェネラルの背後の位置取り争いが激しくなる。

 強いウマ娘のすぐ後ろを取るというのはレース運びの定石だ。マークした相手のペースに合わせられるし、相手が強いので壁になることもなく進路を取りやすくなる。エレガンジェネラルの後ろを取ろうというのは、判断としては正しいはずだ。

 だが――。

 

『さあ隊列はやや縦長の展開、先頭はジャラジャラ、2バ身離れてユイイツムニ、外からエレガンジェネラル。人気の3人がレースを引っぱります』

「……あれ? ねえトレーナーさん、なんだかみんな速くない?」

 

 ヒクマが小首を傾げた。私も気付く。阪神の芝1600はスタートから3コーナーまでの直線が長いので、あまり先頭争いにこだわる必要がなく、隊列が固まった時点でペースは多少緩むのが普通だ。阪神JFはジュニア級のレースだけにみんな経験が浅いので、先頭争いの勢いのまま速めのペースで流れることも多いが――。

 

『最後方に12番エブリワンラクスといった体勢で3コーナー、先頭ジャラジャラ、それを見るようにユイイツムニとエレガンジェネラル、800の通過は――45秒、切ったかもしれません! これはかなり速いペースです!』

「なっ――」

 

 実況が驚いた声をあげ、私も思わず息を飲んだ。阪神JFで、半マイル通過が44秒台? 無茶苦茶だ。普通は47秒台である。44秒台なんて、スプリンターズステークス並のペースじゃないか!

 並のウマ娘なら、間違いなく直線で失速して沈没する破滅的なハイペースである。だが、もしジャラジャラが、このペースで逃げ切るような力の持ち主だとしたら――。

 ぞくり、と私は背筋が寒くなるのを感じた。

 ――ひょっとして、私はヒクマとエチュードを、とんでもないバケモノと同じ世代にデビューさせてしまったのではないか?

 

 

       * * *

 

 

 おかしい、とエブリワンライクスは最後方で感じていた。

 みんな、やけにペースが速い。アタシは良バ場のレースは初めてだ、最初は良バ場ならみんなこのぐらい飛ばすのかと思ったけれど――。

 

『いい? ライクス。あなたは2戦とも道悪でかなりスローペースのレースだったから、今回は今までとは全く違うペースのレースになると思うわ』

 

 レース前、トレーナーに言われたことを思い出す。

 

『でも、周りにつられちゃダメ。最後方でもいいから、自分が一番走りやすいペースで走りなさい。どんなに強い逃げウマ娘でも、仁川の坂ではどうしたって脚が鈍る。あなたは坂道は得意でしょう? じっくり脚を貯めて、坂で勝負。いいわね?』

 

 ――うん、わがってっけどさあ。

 先頭を走る1番人気のあいつが、もうどれだけ前にいるのかもよくわからない。こんな距離、追いつけるのか? アタシももっと前に出て、追っていった方が――。

 いや、抑えろ。トレーナーを信じて、末脚勝負に持ち込むんだ。

 ――ああもう、走りやすすぎて落ち着がね!

 良バ場の芝は脚が軽すぎる。戸惑うライクスは、ペースを抑えようとしてコーナーで内に寄っていった。

 バ場の荒れた最内に脚がかかり、――ああ、と心が落ち着くのを感じる。

 ここだ。この荒れた内側。やっぱりアタシには、このぐらいの方がちょうどいい。

 他のウマ娘たちは荒れた内を避けて、最内を開けながらコーナーを曲がっていく。

 ――よし、ここだ。ここを通って、坂で差し切る!

 4コーナーへ向かう。ライクスは最後方で、荒れた芝をぐっと蹴り上げた。

 

 

       * * *

 

 

 ――どうします、ジャラジャラさん。もっと飛ばしますか?

 ジャラジャラの1バ身半後ろにぴったりつけて、エレガンジェネラルは眼前で揺れるポニーテールをじっと見つめた。

 ジャラジャラが好スタートでハイペース逃げを仕掛けた場合。2着でいいなら中団待機。勝ちにいくなら自分が潰れるリスクを覚悟して、ジャラジャラについていく。それがレース前、トレーナーと様々なレース展開をシミュレーションした結果の結論だった。

 

『全てのレースで無理に勝ちに行くのは合理的とは言えない。GⅠとはいっても、本番は来年のトリプルティアラ。阪神JFはその前哨戦に過ぎない』

『解っています。――その上で、だからこそ、勝ちに行くことが合理的だと思います』

『その理由は?』

『ジャラジャラさんのペースに私がついていけるか。競りかけられたときにジャラジャラさんがどう対応するか。それを実地に確かめる機会は、おそらくここだけです。それに、どんなにハイペースで逃げても私がついてくる、という意識を彼女に植え付けるのは、今後の戦いでもメンタル面で有効に作用すると考えます。以上の点から、長期的に見て、このレースは積極的に勝ちに行くべきと判断します』

『――いいだろう。合理的なレース運びが常に勝利に対して合理的とは限らない。ジャラジャラを一番良く知っているのは君だ。君自身の熟慮の結果としてそれが答えなら、このレースはエレガンジェネラル、君自身の試金石になる。――もし振り落とされて惨敗するようなら、クラシック以降のレーススケジュールは白紙に戻す。いいか?』

『構いません』

 

 いつも無表情な王寺トレーナーの、冷徹とも取れる言葉。けれど、ジェネラルには解っている。それがトレーナーなりの優しさだということぐらいは。

 ――だから私は、それに応えます。トレーナーさんが信じてくれた自分に恥じない走りで、ジャラジャラさんを必ず、直線で捉えて差し切ってみせます。

 ――そう、この位置。1バ身半差。この位置がベスト。近付きすぎず、離れすぎず、彼女からは自分がぴったりついてきていることがわかる距離。このハイペース逃げなら、可能な限り直線までに差を開いておきたいのがあなたの本音のはず。私がここにいるというだけで、ジャラジャラさん、貴方にとっては最大のプレッシャーのはず。そうでしょう?

 それからジェネラルは、自分の半バ身前でジャラジャラに食らいついている、芦毛の三つ編みの後ろ姿を見た。4番人気、1枠1番のユイイツムニ。

 ――よく食らいついていますね。これが1200のスプリント戦なら、彼女はもっと積極的に前に出てそのまま逃げ切るのでしょう。けれど、これは1600のマイル戦。スプリント並みのペースで飛ばすジャラジャラさんに、どこまでついていくべきか迷っているのがわかります。そして――そんな迷いを抱えていては、彼女には勝てない。

 ユイイツムニは潰れる。食らいつけるのはどんなに長くても1400まで。

 後ろをちらりと見やる。ジェネラルの背後を取ろうとしていたウマ娘たちは、皆もう顎が上がっている。完全に、このジャラジャラのハイペースについていけていない。中団の前目につけた面々は、おそらく残り400で全員沈没。

 ――結局、貴方と一騎打ちですね、ジャラジャラさん。

 残り400のハロン棒が見えた。もうすぐ直線。エレガンジェネラルは一瞬息を入れ、そして最内の荒れたバ場を避けながら、最もバ場が綺麗な内側の経済コースを回っていく。

 

 ――さあ、勝負です、ジャラジャラさん。

 貴方の背中、仁川の坂で、捕まえて見せます――。

 

 

       * * *

 

 

『さあジャラジャラ逃げる逃げる、ユイイツムニとエレガンジェネラルが食らいついて残り400、直線に入りますが、後続との差が開き始めた! 4番手以降はもうこのペースについていけない!』

 

 ジャラジャラの常識外のハイペースと、それに果敢についていったエレガンジェネラルとユイイツムニ。上位人気の3人が超ハイペースで先行したのに引きずられ、後続のほとんど全てのウマ娘が掛かってしまった。

 このレースの展開を端的にまとめれば、そういうことになる。何しろ最後方のエブリワンライクスの半マイル通過タイムですら、本来の阪神JFなら先頭が通過するタイムなのだ。そんなハイペースに巻き込まれた先行勢は当然のこと、後方待機組すら普通なら先行したウマ娘のペースで走っていたのだから、もはや総崩れである。

 サウジアラビアロイヤルカップの再現だ。道中はスローペースで流して直線で末脚勝負、なんて常識にドロップキックを入れるようなレース展開。もう4番手以降は誰も脚が残っていない。サウジRCとの違いは――このジャラジャラの殺人的ハイペースについていっているウマ娘が、ふたりいるということだけ。

 

『さあジャラジャラ先頭、2番手はエレガンジェネラル、最内ユイイツムニは脚色厳しいか! その後ろはもう誰も来ない――いや、内からひとりエブリワンライクス、追い込んでくるがまだ10バ身以上ある!』

 

 あああああっ、とコンプが悲鳴をあげた。

 エチュードが息を詰めて画面を見つめた。

 ヒクマが、目をまん丸に見開いて身を乗り出した。

 そして私と――阪神レース場で、そして中継で、このレースを見ていた全ての人々は。

 ただただ、あまりにも、あまりにも圧倒的なふたりの争いに、声もあげられなかった。

 

 

       * * *

 

 

 前を行っていたウマ娘たちが、へろへろになって下がっていく。

 それを横目に見ながら、ライクスはコーナーの最内を通って一気に前へと抜け出した。

 直線に入る。あとは先頭の連中を差し切るだけ――。

 どうだ、我慢して脚を貯めたアタシの勝ちだべ!

 そう思って、視界が開けた瞬間。

 

 ライクスの目の前にあったのは。

 あまりにも、絶望的に遠い、ジャラジャラとエレガンジェネラルの背中。

 もうひとり、食らいついていた芦毛の三つ編み眼鏡のウマ娘が力尽きて下がってくる。

 それを坂、残り100で追い越しても――差し切るはずだった、あのふたりの背中は、あまりにも、あまりにも遠すぎた。

 

 強くなったと思っていた。

 2ヵ月前のアルテミスSより、自分は確実に強くなったと思っていた。

 それなのに――それなのに。エレガンジェネラルの背中は、もっと遠くなっていて。

 もうひとり、それと同じぐらい遠い背中が、あいつと競い合っている。

 

 絶望すら追いつかない。悔しさすら届かない。

 あまりにも絶対的なその距離は、遠く、遠く。

 

 ライクスの叫びは声にすらならず。

 ゴール前の一騎打ちに釘付けの観衆の、大歓声に呑まれて消える。

 

 

       * * *

 

 

 残り200。

 仁川の坂で、ユイイツムニの顎が上がった。脚が止まった。歯を食いしばって三つ編みを揺らすその顔が、愕然とした表情のままエレガンジェネラルの背後に流れ去っていった。

 だが、完全に振り落とされた芦毛のウマ娘のことも。残り100でその芦毛をかわして背後で3番手に上がって来た栃栗毛のウマ娘のことも。もう、エレガンジェネラルの視界には存在しない。

 ジェネラルの視界にあるのは、ただジャラジャラの背中だけ。

 捉えた。捕まえた。あと少し。勝利を掴むまで、あとほんの数メートル。

 ぐっと力強く坂を踏みしめて、ジェネラルはその横に並びかける。

 ――このまま差し切らせてもらいます!

 勝利を確信して、ちらりと横目に、ジャラジャラの横顔を見た。

 視線が合った。

 ジャラジャラは――どこまでも楽しそうに、獰猛な笑みを浮かべていた。

 

『残り200、ユイイツムニ後退! ジャラジャラとエレガンジェネラル、抜けた抜けた、やっぱりこのふたりの一騎打ちだ! 後続との差はもう6バ身、7バ身!』

 

 ――待ってたぜ、ジェネ! そうじゃなくっちゃな!

 坂を駆け上がりながら、すっと外から横に迫ってくる気配を感じて、ジャラジャラはその昂ぶりに身を震わせた。

 抜群のスタミナ。正確に刻むラップ。末脚の切れ味。そして勝負根性。その全てをこいつが兼ね備えていることを、誰よりも自分が一番よく知っている。

 エレガンジェネラル。こいつに勝つには、こいつに自分のレースをさせないこと。そしてあたし自身が、自分のレースに徹することだ。

 だから逃げた。全力で逃げた。ペース配分なんざ一切考えずに、1600を走りきれるギリギリ限界、全力のペースで逃げた。そう、これがあたしの走りだ。

 お前はついてくる。あたしを楽に逃げさせないためにプレッシャーをかけにくる。

 それがあたしにそう仕向けられたと、内心わかってるんだろう?

 ――お前はあたしを潰しに来たんだろうけど、潰されたのはお前の方だよ、ジェネ!

 このハイペースで、お前の末脚は封じた。あとはスタミナと勝負根性だけの勝負だ。

 そして、それだったら、お前には絶対、負けはしない!

 視線を感じた。並んできたジェネラルが、こちらを見ていた。

 その視線に、ジャラジャラは昂ぶりのままに、唇の端を吊り上げる。

 ――さあ、抜けるもんなら抜いてみなよ!

 坂を上る。脚は止まらない。逃げ切る。このまま逃げ切る――。

 

『ジャラジャラか、ジェネラルか、後ろからエブリワンライクスも来ているが、ジャラジャラか、ジャラジャラ逃げ切るか、ジェネラル差すか、内か外か――ッ!』

 

 残り50。

 ジャラジャラと、エレガンジェネラルが、ぴったり横一線に並んだ。

 ジャラジャラが高く、雄叫びをあげ。

 エレガンジェネラルが、硬く歯を食いしばって。

 大歓声の中を、他の全てを置き去りにして、ふたりのウマ娘が駆け抜けていく。

 全てを貫く、褐色の弾丸と。

 全てをねじ伏せる、姫将軍。

 もつれるように、ふたりの身体が、ゴール板を駆け抜けていく――。

 

『内か外か、内か外か、僅かに内かっ――――ゴールッ!』

 

 紙吹雪が、阪神の蒼天に舞いあがった。



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第61話 阪神ジュベナイルフィリーズ・勝者と敗者

 ゴール板を駆け抜けて、ジャラジャラはゆっくりと足取りを緩めた。

 勝った、という感覚があった。逃げ切った。おそらくアタマ差――数十センチ、自分が先にゴールした。その確信を確かめるように、ジャラジャラは掲示板を振り返った。

 ――『7』の数字が、着順の一番上に点灯していた。

 自分の左隣で、エレガンジェネラルが同じように足取りを緩めながら、掲示板を振り返りもせずに唇を噛む。ジャラジャラは足を止め、頭上に広がる蒼天を振り仰いだ。

 そこへ――スタンドの、大歓声が降りそそぐ。

 

『すごい、すごいレースでした! ジャラジャラとエレガンジェネラル、死力を尽くした追い比べ! 勝ったのはジャラジャラ! 7番ジャラジャラです! 僅かにアタマ差、3番エレガンジェネラルを最後振り切りました! 3着エブリワンライクス、そしてタイムは――なんと1:32.0! これはレコードの赤い文字!』

 

 スタンドから祝福の紙吹雪が舞うのを、半ば呆けたようにジャラジャラは見上げる。

 その大歓声の中、観客席からターフに飛び降りてこちらに駆け寄ってくる影ひとつ。

 

「ジャラジャラ!」

「ちょっ、トレーナー?」

 

 担当の棚村トレーナーだった。大柄で筋肉質な棚村は、その太い腕でジャラジャラの身体を、子供を扱うように高く高く持ち上げる。

 

「やった! やったな! 最高だ! すごいぞ君は!」

「おっ、おいおい、やめろって、ガキじゃねーんだから!」

 

 トレーナーに幼子のように高い高いされて、ジャラジャラは慌ててもがく。棚村は構わず、ジャラジャラを抱えたままでスタンドに振り返った。

 

「ほら、見ろ!」

 

 ――ジャラジャラ! ジャラジャラ! ジャラジャラ!

 スタンドから、万雷の拍手とジャラジャラコールが湧き上がっていた。

 

「お、おいおい、なんだこれ、盛り上がりすぎじゃね? クラシックでもグランプリでもねーぞ、これジュニア級GⅠだぜ?」

「それだけ今の君の走りが凄かったってことだ! ほら、皆に応えてやれ!」

 

 走り終えたばかりの自分よりも興奮しきっているトレーナーの声に苦笑しつつ、ジャラジャラはスタンドを見上げる。何万人という人々の顔、顔、顔。

 その視線が、声援が今、自分だけに降りそそいでいる。

 ――はは、なるほどこりゃ、悪くねーや。

 ジャラジャラは右手を銃の形に構えて、片目をつむり、スタンドに向ける。

 

「BANG!」

 

 放たれた弾丸は、大歓声に変わって阪神レース場に響き渡った。

 

 

       * * *

 

 

 スタンドの歓声を遠くに聞きながら、エレガンジェネラルはゆっくりと地下バ道を歩いていた。シューズの蹄鉄がバ道を叩く硬い音が、ひどく耳につく。

 目の前に、スーツ姿の王寺トレーナーが、いつもの無表情な瞳を眼鏡の奥で細めて佇んでいた。足を止め、ジェネラルはトレーナーの顔を見上げる。

 

「まず、君の考える敗因を聞こう」

「……ここまでのハイペースは想定外でした。ジャラジャラさんにプレッシャーをかけているつもりで、彼女のペースに巻き込まれて最後に残すべき脚を使わされてしまいました。……着差はアタマ差でも、内容は完敗です」

「私も同意見だ。――お互い、ジャラジャラのレース勘に対する見積もりが甘かった。彼女はこちらの考えているより、ずっと切れ者のようだな」

「はい。――悔しいです」

 

 勝つために策を巡らせた時点で、既にジャラジャラの術中だった。冷静に、自分本来の走りをすれば良かったのだ。勝利のために万全を期すということ自体――ジャラジャラに勝つことに対する執着心それ自体を突かれた。完敗、という他ない。

 だが――しかし、だとすれば。

 ジャラジャラがハイペース逃げで自分の脚をすり潰しに来たということは。自分が最初からペースを守った走りをして、末脚勝負に持ち込まれることを、ジャラジャラが恐れていた、ということも意味する。

 だとすれば、この敗戦にも意味がある。いや、これが意味のない敗戦ならば、次の舞台に立つ資格など、最初からないのだ。

 

「エレガンジェネラル」

「はい」

「スケジュールに変更はない。ここまで4戦、実戦経験は充分。前哨戦は必要ないだろう。次走は桜花賞、直行だ」

「――わかりました。次は必ず、勝ちます」

「よし。ライブが終わったら、今日のレースを徹底的に検討し直すぞ」

「はい」

 

 眼鏡を光らせてそう言ったトレーナーに、ジェネラルは力強く頷いた。

 

 

       * * *

 

 

「お姉ちゃん!」「ねーちゃん!」

 

 スタンドの歓声の中に、聞き慣れた妹たちの声を聞き分けて、エブリワンライクスは膝に手を突いて芝生を見下ろしていた顔を上げた。

 スタンドの最前列、トレセン学園関係者席の柵から身を乗り出すように、家族がこちらに手を振っている。その隣にはトレーナーの姿。どうやらトレーナーが関係者席に家族を連れて来てくれたらしい。ライクスは荒れた呼吸を整えながら、ゆっくりとそちらに歩み寄った。

 

「……みんな、ごめんなあ。お姉ちゃん、負けちまった」

「ううん、お姉ちゃんかっこよかった!」

「最後のごぼう抜き、すごかったべや!」

「んだんだ。GⅠで3着だ、うぢのライちゃんがなあ、こったに立派さなってなあ……」

「お母ちゃん、なんも泣ぐごどねーべさ!」

 

 ハンカチを目元に当てる母親に、ライクスは苦笑して、柵越しに家族の手を握る。

 ――こんなに近くで家族が見守って、自分の走りを喜んでくれている。そのことはただただ、嬉しかった。

 

「そうだライちゃん、3着だはんでこのあどライブ出るんだべ?」

「ええ? あ、んだ、ライブ出るよ」

「わい、すげえなあ! みんな、お姉ちゃんこれからライブ出るんだあ! はえぐいい席取らねばまいねべさ!」

「わ、ライブだライブだ!」

「最前列取るべ取るべ!」

「へばの、ライちゃん! わんど先にライブ会場の方行って待ってらはんで!」

「あ、ちょっと、わい、わの投票権持ってればそったに焦らなぐでも席取れるべ――」

 

 ライクスの制止も聞こえていないようで、家族はあっという間にその場を移動し始めてしまう。わい、せっかちだの――とライクスは息を吐いた。

 

「ライクス」

「……トレーナー」

 

 と、そこでトレーナーに名前を呼ばれ、ライクスは振り返る。トレーナーは優しく微笑んで、ぽんぽんと柵越しにライクスの肩を叩いた。

 

「まずはお疲れ様。――タイムは1:33.0。従来のレコードと遜色無いタイム、こんなレースでなければ圧勝しててもおかしくなかった内容だわ。よく周りに惑わされずに、自分の走りを貫けたわね。胸を張るべき結果よ」

 

 そのねぎらいの言葉に――ライクスは、素直に頷きかけて、失敗したように顔を歪めた。

 胸を張るべき結果。そうだろうか。そうなのだろう。GⅠで3着。ウイニングライブの舞台に上がる権利を得た。そう、充分だ。ウマ娘として一生誇りに出来る栄誉だ。

 そのはずなのに――全然、胸を張るなんて、気分にはなれない。

 

「……6バ身も離されて負けて、胸なんか張れねーべさ」

「ライクス」

「負けだ! ボロ負けだ! レースはタイムトライアルでねえ! なんぼいいタイムだって、勝だねばまいねべさ! あんな、あんな遠ぐでゴールされて、喜べるわげねべさ!」

 

 感情の昂ぶるままに、ライクスは地元の訛り丸出しでそう叫んでいた。

 その言葉に、トレーナーはすっと目を眇め――くしゃくしゃと、ライクスの短くした栃栗毛をかき乱した。

 

「その気持ち、忘れちゃダメよ」

「……トレーナー」

「もっと強くなりましょう。そして、あのふたりに追いつき、追い越しましょう。今度は胸を張って、家族に『お姉ちゃん勝ったよ』って笑って伝えるために」

「――――ッ」

 

 ぶわっ、と感情がこみ上げてきて、ライクスはそれを堪えるように柵を強く握りしめた。トレーナーは柵越しに、そんなライクスの方を抱いて、背中をさすってくれていた。

 

 

       * * *

 

 

 5着。

 残り200で力尽きたユイイツムニは、後方から追い込んできたウマ娘ふたりにかわされて、なんとか掲示板に残るのが精一杯だった。

 俯いて地下バ道に戻って来たムニを出迎えたのは、トレーナーひとりだけ。

 

「……チョコは?」

「先に東京に帰るとさ。『今はあたしの顔なんて見たくないでしょ』だと」

「…………」

 

 返す言葉もなく、ムニは俯いたまま目を閉じて拳を握りしめる。

 負けたこと自体よりも――チョコチョコを失望させたということが、重たかった。

 

「強かったな、あのふたり。――あのペースで1600は、キツかっただろう」

「…………」

 

 トレーナーの言葉に、ムニは答える言葉を持たない。

 距離適性を言い訳にはしたくなかった。ただ、自分の力が足りなかった。それだけだ。

 ただ、それを自分から口にするのは、何か違うと思った。――普段から小説という言葉の世界に溺れているのに、こういうとき、言葉は無力だと思う。

 名探偵のように、全てを論理的に説明できればいいのに。

 

「どうだ。――1200でも、勝てなかったと思うか?」

「――――」

 

 ムニは顔を上げた。トレーナーが、そのいかつい顔で、真っ直ぐ自分を見下ろしていた。

 

「…………思わない」

「勝てたか?」

「1200なら」

 

 思い返す。今日のレースが1600でなければ、ハナは切れずとも1200で先頭をかわして抜け出せる。――そのイメージは、確実に持てた。

 

「1400ならどうだ?」

「……勝てた、と思う」

 

 少し、言葉が揺れた。……イメージしても、そこまでの確証は持てなかった。

 

「よし。――ムニ、次はフィリーズレビュー、行くぞ」

「――――桜花賞トライアル?」

 

 ムニは目をしばたたかせる。GⅡフィリーズレビュー。阪神、芝1400。3着までに桜花賞の優先出走権が与えられる、トライアル競走。

 

「桜花賞はどうでもいいんだ。まずはその『思う』を、確信に変えに行くぞ」

「――――」

「その後どうするかは、それからだ。桜花賞であいつらにリベンジするか、それともスプリンターズステークスで1200の最強を目指すか。――お前次第だ」

 

 トレーナーの言葉に、ムニは胸元に手を当てて、目を伏せる。

 レースには絶対の答えがある。だけど、そのレースの選択には、絶対の正解はない。

 

「……わかりました」

 

 どちらにしても、自分の競走人生は、唯一無二。

 今、ユイイツムニが名探偵のように解き明かすべきは――自分の進むべき道だった。

 

 

       * * *

 

 

 ――同時刻、トレセン学園、トレーナー室。

 

「……あたし、走ってくる」

 

 レースの決着を見届けてすぐ、コンプは席を立ってトレーナー室を出て行った。自分が二度挑んで敵わなかった相手が、距離延長もあったとはいえ力尽きて5着――そんな結果を見せられたコンプの気持ちは、私には想像することしかできない。

 エチュードは心配そうにそれを見送って、それから私の方を困ったように見やった。私は首を振って、今はそっとしておいた方がいい、と伝える。エチュードは俯いて、膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。

 ただの観客として見るならば、阪神JFの歴史に残る、今年のGⅠ戦線でも屈指の名勝負だった。だが――私たちはもう、それを純粋に楽しめる立場ではない。

 憧れるには近すぎる。目標にするには――遠すぎる。

 それほどのレースだった。ジャラジャラと、エレガンジェネラル。このふたりは、本当の怪物だ。間違いなく、トゥインクル・シリーズの歴史に名を残すウマ娘になる。どちらかのデビューが1年ズレていれば、今日のこの阪神JFで、間違いなくトリプルティアラは確定だと言われただろう。それほど、このふたりの強さが頭抜けていることばかりを見せつけられた。

 3着のエブリワンライクスとは6バ身差。4着5着はその3バ身後ろ。6着以下はさらに5バ身後ろ。――GⅠでつく着差ではない。その昔、桜花賞で大差勝ちを記録したウマ娘もいるが……そのレベルのウマ娘が同世代にふたりいる。無茶苦茶だ。

 

「ヒクマ」

 

 私は、画面に釘付けになっているヒクマの後ろ姿に声を掛ける。このレースを見せられて、ヒクマは――。

 

「…………~~~~~~っ、すごいすごいすごい!」

 

 突然立ち上がって、振り返ったヒクマは――そのまん丸の瞳をキラキラと輝かせて、心底楽しそうに、ぶるりと身体を震わせた。

 

「トレーナーさん、あのふたり、ほんとにすごかったね!」

「あ、ああ」

「う~~~~っ、負けないぞ! わたしも走ってくる!」

「あっ、ヒクマ!」

 

 私が止める間もなく、「わたしもがんばるぞー!」と声をあげながら、ヒクマはトレーナー室を飛び出していく。エチュードとふたり、私はぽかんとその背中を見送って――それから、エチュードと顔を見合わせて、思わずふたりで笑っていた。

 ――ああ、まったく。そうだ、ヒクマはそういう子なのだった。

 相手が強ければ強いほど、その目を輝かせて、目標に変えることができる。

 その底抜けの前向きさに、今までも何度も、私の方が励まされてきたじゃないか。

 

「……トレーナーさん。私も、走ってきていいですか」

 

 エチュードが、顔を上げて私を見上げて言った。

 その顔に、もう畏れや怯えの影はない。私も頷いて立ち上がった。

 

「よし、一緒に行こうか」

「は、はいっ!」

 

 エチュードを連れて、私もトレーナー室を出て歩き出す。

 壁は高い。どうやら想像以上に高い。しかもこの壁は、だんだん高くなっていく。

 だけど、誰よりもまず、私がそれを登り切れると信じなくて、どうするのだ。

 ヒクマとエチュード。ティアラ路線に挑むふたりが、その壁を越えられると。

 ――あの高い壁を乗り越えたら、その先に見える景色はきっと、ヒクマの瞳よりもずっと輝いているはずだと、そう信じて。

 

 

       * * *

 

 

 同日夕刻、阪神レース場、ウイニングライブ控え室。

 

「……ジャラジャラさん、なんで短パンの方の衣裳着てるんですか。それ、三冠路線のウマ娘用でしょう?」

「あのスカート苦手なんだよ、ヒラヒラしててさあ」

 

 ウイニングライブ用の衣裳は、下半身が短パンのものとスカートのものと2種類ある。ティアラ路線のウマ娘は基本、ライブではスカートの方を着用するものなのだが、ジャラジャラはなぜか短パンの方に着替えていた。

 まあ確かに、絶対にスカートを穿かなければいけないというルールはないが。ルームメイトの相変わらずの自分勝手ぶりに、ジェネラルは溜息をつく。控え室内ではもうひとり、3着のエブリワンライクスがそのジャラジャラとジェネラルのやりとりを見ながら、自分の衣裳のスカートの裾をつまんで、自身の姿を鏡に映して唸っていた。

 

「……アダシも、似合わねーがなあこれ……」

 

 何やら訛りのある口調でそんなことを呟くライクス。ジャラジャラはそんな3着のことは気にも留めない様子で、パイプ椅子に足を組んで頬杖をつく。行儀が悪い。

 

「だいたいさあ、阪神JFはマイル戦なのになんでライブ曲がENDLESS DREAM!なんだよ。本能スピード歌わせろよ、マイルなんだから」

「何言ってるんですか。最初から解ってたことじゃないですか」

「あーゆー曲はあたしのキャラじゃねーって」

「キャラとかそういう問題じゃないでしょう。来年、トリプルティアラで3着に入ったら、彩Phantasiaを踊るんですよ?」

「……そーだった。あー、やっぱあたし三冠路線行くかなあ。winning the soul歌いてえ。それともUNLIMITED IMPACT歌いにダート行くかなあ」

「ライブ曲で路線を決めないでください。カラオケで好きに歌えばいいでしょう、もう」

「いーよなジェネは。なに踊ったってそれなりにサマになんだから」

「……褒めてるんですか? それ」

 

 ジェネラルの問いにジャラジャラは答えず、脚でリズムを取りながら鼻歌でENDLESS DREAM!を口ずさむ。なんだかんだ言って、ジャラジャラもしっかり歌と一着の振り付けの練習はしてあるのだ。要は気恥ずかしいというだけのことなのだろう。

 ウイニングライブはトゥインクル・シリーズに出るウマ娘の義務であり栄誉。センターを取れなかった悔しさはジェネラルも否定しないが、その舞台に立てること自体は誇りに思いこそすれ、恥ずかしがることではないだろうと思うのだが。

 

「時間でーす!」

 

 レース場スタッフの声がかかり、ジャラジャラとジェネラルは同時に立ち上がる。

 

「……うーん、アタシ、スカート似合わねーがなあ……」

 

 ライクスはまだ、鏡の前でスカートをつまんで悩んでいた。



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第62話 憧れの人は遠く

 ウマ娘に生まれたからって、みんながみんなレースの世界を目指したいわけじゃない。

 少なくとも、小学生の頃のマルシュアスはそうだった。レースなんて汗臭いしんどそうな世界より、もっとキラキラしたオトナの女性の世界に憧れていた。オトナっぽいファッションに身を包んだ雑誌のモデルや、テレビの芸能人。そういう世界で活躍するウマ娘になりたかった。

 トゥインクル・シリーズだって歌ったり踊ったりするじゃない、と周りは言うけれど、走って勝つ才能と、歌ったり踊ったりする才能は別だと思った。走るのが速いから歌って踊る権利が得られるなんてどう考えても変だ。それだったら純粋に、歌と踊りが上手いからステージに立てる歌手やアイドルの方が偉いに決まっているではないか。

 駆けっこなんて子供の世界じゃない。自分はオトナの世界のオトナのウマ娘になるのだ。マルシュアスは、そう信じて疑わなかった。

 自分が、レースの世界に足を踏み入れるなんて、これっぽっちも思っていなかった。

 

 全てがひっくり返ったのは、小学6年生の春先のことだ。

 当時京都に住んでいたマルシュアスは、日曜日、両親に連れられて阪神レース場に来ていた。親戚の子がその日の何レースだかに出るとかで、その応援に駆り出されたのだ。と言っても、マルシュアスはその親戚の子のことはほとんど知らなかったし、レースになんて興味なかったので、レース場で退屈を持て余していた。

 母も若い頃、中央のトレセン学園に在籍していたことがあるウマ娘なので、レースに興味を示さない娘に、なんとかレースの魅力を伝えたいと思っていたのだろうが、そういう親からの押し付けは子供にはひたすら鬱陶しいものである。親戚の子の応援はおざなりに済ませ、もう帰ろうよ、と親に訴えると、『桜花賞だけ見ていきましょう』と言われた。

 そう、その日はGⅠ桜花賞の開催日だった。レース名ぐらいは知っていたけれど、どんな大レースだろうと関係ない。どうでもいい、早く帰りたい――そう思っていた。

 それなのに。

 僅か1分半のそのレースが、文字通りマルシュアスの人生を変えてしまった。

 

 ずらりと並んだ選手たちの中にひとり、小学生かと思うほど小柄なウマ娘がいた。

 その芦毛の小さなウマ娘は、ゲートが開くとともに、すーっと先頭に躍り出た。

 そのウマ娘の姿を、ぼんやり目で追っていたマルシュアスは――ゴールが迫ってもなお、その小さな姿が先頭のまま、後ろを突き放してゴール板を駆け抜けたそのときには、その目をまん丸に見開いて息を詰めていた。

 

『逃げた逃げた逃げ切った! なんとなんと、ネレイドランデブーだ! 勝ったのはネレイドランデブーです! 8番人気ネレイドランデブー、鮮やかな逃げ切り勝ち! 小さな身体で大金星! 桜の女王はネレイドランデブーです!』

 

 うっすらと桜色がかった芦毛のサイドテールを揺らす、その小さなウマ娘の姿に、マルシュアスは釘付けになっていた。

 スタンドの歓声の中、立ち止まって自分の勝利を確認したそのウマ娘は、礼儀正しくスタンドに向かってぺこりと一礼し、そして控えめに手を振った。

 ――格好いい、と思った。

 小さな姿で、一度も先頭を譲らずにゴールまで駆け抜け。大げさに喜ぶでもなく、控えめに手を振るその姿は――どんなテレビや雑誌で見たオトナのウマ娘よりも、格好よく見えた。小さな、自分と同じ小学生かと見まがう小さな姿が、大きな、とても大きなオトナに見えた。

 親にせがんで、ウイニングライブまでレース場に残った。両親はそれまで退屈を持て余していた娘が突然ライブを見たがったことに困惑していたけれど、マルシュアスはとにかく、あの小さなウマ娘の姿をもう一度見たかった。

 そして――ウイニングライブのセンターで、彩Phantasiaを誇らしげに踊るそのウマ娘の姿は、マルシュアスの世界を全く別の色に塗り替えてしまった。

 

 ネレイドランデブー。

 その日から、マルシュアスにとって、「オトナのウマ娘」とは、彼女のことになった。

 自分が目指すべき「オトナ」とは、ネレイドランデブーのようなウマ娘だと。

 そう、規定されてしまったのだ。

 

 

       * * *

 

 

 12月16日、土曜日。

 阪神レース場、第7レース。ジュニア級未勝利戦、芝2000メートル。

 

 ――よし、今日こそ、ランデブーさんみたいに華麗に逃げ切って勝つぞ!

 デビュー戦は逃げ切れず6着だったけれど、今度は負けるものか。

 絶対逃げ切って勝つんだ。――そう意気込んで、マルシュアスは挑んだものの。

 

『直線に入る! 先頭入れ替わってマルシュアスは後退!』

 

 ――なんで、なんで、なんでよおおおおっ!

 直線入口で捕まり、あとはずるずる後退。

 喘ぐばかりで脚は前に進まず――結果は、15人立ての11着だった。

 

 

「ふぉっふぉっふぉっ、まあ、気を落としなさんな。次頑張るんじゃな」

 

 ウマ娘のトレーナーに定年退職はないのだろうか、と思ってしまう担当トレーナーは、気楽に笑ってマルシュアスを出迎えた。このおじいちゃんトレーナーは、一言で言えば極端な放任主義者である。少女漫画でよくあるウマ娘とトレーナーの恋にも憧れていたマルシュアスが、こんなヨボヨボおじいちゃんのスカウトを受けた理由はただひとつ。彼がネレイドランデブーの担当トレーナーだったからだ。

 スカウトは受けたものの、しかしマルシュアスはこのトレーナーからほとんどまともな指導を受けた覚えがない。トレーニングとかレースについて教えてくれたのは、専らランデブーである。

 そもそも全く期待されていないのかもしれない、とちらりと思う。自分がスカウトされたのも、ランデブーさんの口添えでしかなかったのか。……そう思っても、デビューから2戦して結果が6着と11着では、口答えもできやしない。

 はああ、と溜息をつきながら地下バ道を歩いていると、見慣れた小柄な姿が視線の先にあって、マルシュアスは思わず背筋を伸ばした。

 ランデブーだ。恥ずかしさにマルシュアスは視線を落とす。今日もわざわざ阪神までランデブーさんが付き添ってくれたのに、11着……。合わせる顔がない。

 

「おつかれさまー、マルシュちゃん」

「…………すみません、また負けましたぁ…………」

「大丈夫大丈夫、そういうこともあるよ。私だってほら、オークスは12着だったし?」

「GⅠじゃないですかぁ……。未勝利戦で11着のウマ娘がGⅠ出られるわけないじゃないですかぁ」

「デビュー戦12着で日本ダービー勝ったウマ娘だっているから、ね?」

 

 ぽんぽんと肩を叩かれ、余計に情けなくなる。ランデブーはデビュー戦をあっさり勝って、桜花賞の前にクイーンカップも勝ってるというのに。ルームメイトのリボンエチュードちゃんだって未勝利戦を勝ち抜けて重賞にも出たのに。皐月賞まであと4ヵ月しかないのに、こんなんじゃクラシックなんて夢のまた夢だ。

 あたしもレースで、ランデブーさんみたいにキラキラしたオトナのウマ娘になりたい。ただそう願ってこのトレセン学園に来たのに、現実はかくも厳しい。

 マルシュアスは顔を上げる。ネレイドランデブーの顔が、自分の視線の下にある。

 2年前の桜花賞で憧れたオトナのウマ娘は、実際に向き合ってみると本当に小さかった。憧れのひとが自分より明らかに背が低いということに最初は戸惑いもした。でも、こんな小さな身体でGⅠを3勝しているランデブーの凄さが、レースの世界に飛び込んで改めてよくわかった。オトナというのは身体の大きさじゃないのだと、そう教えてくれたのがランデブーなのだ。

 だからこそ、ランデブーのようなオトナのウマ娘になりたいのに。

 どうすれば、オトナになれるんだろう――。

 

「ねえ、マルシュちゃん」

「は、はい」

「こんなときになんだけど、大事な話があるんだ。いい?」

「え? は、はい、なんですか?」

 

 不意に真剣な顔でランデブーに見つめられ、マルシュアスは背筋を伸ばした。

 大事な話? なんだろう、ひょっとしてランデブーさんが海外遠征するとか――。

 

「私ね、来年のヴィクトリアマイルで引退する」

「――――へ?」

「来年はシニア級3年目だしね。怪我もしたし、マイルCSも負けちゃったし、そろそろ引き際考えないとって思ってたんだ。勝っても負けても、来年のヴィクトリアマイルで引退。もうトレーナーにもそう伝えてあるから」

 

 ランデブーの言葉の意味が、咄嗟に理解できなかった。

 引退。いんたい? 誰が? ランデブーさんが? 引退? 引退ってつまり、トゥインクル・シリーズから? レースで走るのを――やめちゃう、ってこと?

 

「え? え、ええ、ええええっ!? ちょっ、ちょっと待ってくださいよランデブーさん、なんでっ、なんで、引退なんてそんな!」

「普通だよ? 私ぐらいの実績積んでれば、むしろ今年いっぱいですっぱり引退する方が普通。それがヴィクトリアマイルまで粘ろうっていうのは、私のわがまま。かわいい後輩がデビューしたし、もうちょっとだけ現役にしがみつきたくなったんだけどね」

「――――」

「でも、来年いっぱいは長すぎかなって。だから、ヴィクトリアマイルまで」

「そ、そんな、来年の5月じゃ、あたし、ランデブーさんと一緒のレースには」

「うん、出られないね」

 

 ――そんな。

 なんでそんな、あっさり、笑って言うんですか。

 あたしは、ランデブーさんみたいになりたくて。

 あなたに憧れて、この学園にきて。あなたと同じトレーナーに師事して。

 来年の6月以降なら、シニア級のウマ娘と戦えるようになれば、ランデブーさんと同じレースで戦うことだってできるって――。

 漠然とだけど、きっとそうなると、そうなれると思っていたのに。

 あの日憧れた、オトナのウマ娘と同じ舞台に立てば、あたしもきっと、ランデブーさんみたいなキラキラしたオトナのウマ娘になれると、そう思って――。

 がらがらと足元が崩れるような感覚に襲われて、マルシュアスは気を失いそうになる。

 理想が。目標が。目の前にあるはずの、走る理由そのものが――どこかへ消えてしまう。

 

「……もう、そんな世界が終わるみたいな顔しないの」

「あ痛っ」

 

 デコピンされた。痛い。額を押さえて視線を戻すと、ランデブーは。

 ――今まで見たことがないほど厳しい顔をして、マルシュアスを見上げていた。

 

「今日のレース見て確信した。私、マルシュちゃんを甘やかしすぎたなって」

「え――――」

「嬉しかったよ。私のレース見てトゥインクル・シリーズに出たいって思ってくれたこと。私みたいになりたいって言ってくれたこと。私は少なくとも、ひとりのウマ娘に夢を与えられたんだって、そのことはすごく誇らしかった」

「――――」

「でもね、マルシュちゃん。――前にも言ったけど、私は私で、マルシュちゃんはマルシュちゃん。――マルシュちゃんは、どんなに頑張ったって、私にはなれないんだよ」

 

 ランデブーの手が、マルシュアスの短いサイドテールに触れた。

 ランデブーの長いサイドテールに憧れて、でも髪の毛の長さが足りなくて、こんなぴょこんとしたサイドテールにしかならない髪型。

 そもそも自分は栗毛で、ランデブーは芦毛だから、形だけでしかないのだけれど。

 せめて、せめて少しでも、憧れの人みたいになりたかったのに。

 

「だから、明日からマルシュちゃんが勝つまで、私はしばらく個人で調整する。マルシュちゃんのことはトレーナーに任せるから」

「え、え、え――――」

「私がいたら、マルシュちゃんはいつまで経ってもキラキラした夢の世界から抜け出せないだろうからね。――マルシュちゃんが戦う相手は、憧れじゃなく、現実なんだよ」

 

 そして、突き放すようにマルシュアスの肩を押して。ランデブーは、くるりと踵を返した。その背中はマルシュアスの全てを拒絶していて、マルシュアスはただ、金魚のように口をぱくぱくさせることしかできない。

 

「まあ、そういうことじゃ。明日からはビシバシいくぞい」

 

 いつの間にか背後に来ていたトレーナーが、地下バ道を杖で打ち鳴らしてそう言った。

 でも、その言葉はマルシュアスの耳にはほとんど届いていなかった。

 



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第63話 朝日杯フューチュリティステークス・敗者と敗者

 12月17日、日曜日、阪神レース場。

 GⅠ、朝日杯フューチュリティステークス。

 

 

 失望しなかったと言えば嘘になる。

 1週間前の阪神JF。残り200メートルで先頭争いから振り落とされ、突き放され、さらにふたりにかわされて5着に沈んだライバルの姿なんて――見たくはなかった。

 最強の敵でいてほしかった。

 自分が最大のライバルと見定めた相手には、無敵の、無敗の、絶対王者でいて欲しかった。――なんていうのは、子供じみたわがままなのだと、内心では解っていた。

 距離適性という壁を、言い訳になどしなくても。

 トゥインクル・シリーズには、いくらでもバケモノたちがいるのだ。

 誰だって負ける。絶対王者と呼ばれたあのリードサスペンス会長だって、生涯に4敗しているのだ。

 でも、それでも、わがままだとしても。

 ライバルを、ユイイツムニを最初に倒すのは、自分でありたかった。

 

 そして、だからこそ、自分が負けるわけにはいかなかった。

 直接対決の京王杯ジュニアステークスでは届かなかったけれど。この朝日杯FSを自分が勝って、まずは実績でムニっちの背中を追い越してやる。

 そうでもしなければ、沽券に関わる。

 だって――これで負けたら、めちゃくちゃ格好悪いじゃないか。

 ライバルが自分のいないところで負けたことに拗ねて、ふて腐れて。

 それで自分も同じ条件のレースで負けたなんて、笑い話にすらなりはしない。

 ただの恥さらしである。そんな恥さらしになるわけにはいかなかった。

 いかなかったのに――。

 

『チョコチョコをかわして抜けた抜けた、メイデンチャームだ!』

 

 負けた。劇的でも大敗でもなく、どうしようもないほど普通に負けた。

 道中3番手で先行し、直線で2番手に上がって、いざ仕掛けようとしたところで、すぐ後ろを走っていた長いツインテールの鹿毛のウマ娘にあっさり抜き去られた。残り200メートルで一気に脚が重たくなって、その背中をそれ以上追い込めずに、もうひとり、内から飛んできた白毛のウマ娘にかわされた。

 先頭から2バ身半差離された4着。――ウイニングライブにも立てない、撃沈というほどの惨敗でもない、あまりにも中途半端な敗北だった。

 

 

 

 レース後、選手控え室。

 トレーナーに出迎えられて、チョコチョコはただただ大きく溜息をついた。

 

「おつかれさん。――よくやった、とは言われたくなさそーな顔だな」

「…………はぁぁぁぁ、ごめんトレーナー、ちょっとしばらく放っておいてくんない? あたし今めちゃくちゃ自己嫌悪中だからさぁ」

「ジュニア級のGⅠ4着でそこまで落ちこむ奴は初めて見たぞ。ま、先週のムニも大概だったがな」

「だってさー、今のあたしめちゃくちゃ格好悪いじゃん……あー、これがあれかあ、穴があったら埋まりたいってやつかぁ。穴の底で不貞寝したいわぁ……」

「ま、確かにそうだな。格好悪いな」

 

 む、とチョコチョコは眉間に皺を寄せて顔を上げた。慰めてほしいとは思わないが、自分で思っていることでもトレーナーに言われるとカチンとくる。

 見た目の怖いトレーナーは、呆れ顔でチョコチョコを見下ろした。

 

「誰だって負けた姿は格好悪いもんだ。――だけど、負けた自分を格好悪いと思えなくなったら終わりだぞ、チョコ。負けて仕方ない、まあまあよくやった、自分はどうせこんなもんだ――なんて思った瞬間から、魂が腐り出すんだ。そう考えた方が楽だからな」

「…………」

「格好悪い自分を直視するのはしんどいだろう? だけど、まずはそいつを認めなきゃ、それ以上先には進めないんだ。――格好良くなりたきゃ、もっと強くなれ、チョコ」

「軽く言ってくれるなあ。ふぁぁぁ……」

「お前な、トレーナーがいいこと言ってるときに欠伸するやつがあるか」

「ごめんトレーナー、いいこと言ったのは理解してるから、あたし不貞寝するぅ」

「こらこらここで寝るな! 次の選手が使うんだから、さっさとシャワー浴びて目ぇ覚ましてこい!」

 

 トレーナーに追い立てられて控え室を出る。レースが終わると眠くなるのはいつものことだ。欠伸を噛み殺しながらシャワールームに向かおうと歩き出すと――。

 

「……チョコ」

「げっ……ムニっち」

 

 ユイイツムニが、本も読まずに廊下の壁にもたれてこちらを見つめていた。

 今一番会いたくない相手である。先週は自分が空気を読んで新幹線すら別にして先に帰って、部屋で先に寝て翌朝まで顔を合わせないようにしてやったというのに、なんでこっちが負けたときはわざわざ待ち構えているのだ。

 

「……やー、参ったね。今のチョコチョコさんは世界で一番格好悪い醜態晒してるからさあ、どんな罵詈雑言もウェルカムよぉ。はいどーぞムニっち、あたしを存分に罵るがいいさぁ」

「…………チョコってマゾ? 谷崎潤一郎でも読む……?」

「読書家でしょぉ! 発言の文脈ってもんを読みなさいってのぉ!」

「チョコを罵る理由がないから、文脈の意図が掴めない。だから言葉通りの意味に取った」

「……あ、左様で」

 

 がくっとチョコチョコは肩を落とす。なんというかもう、このルームメイトの頭の中は未だによくわからない。ふたり揃って負けた現実をどう受け止めているのやら――。

 いや、それを言ったらトレーナーにああ言われたそばから、冗談にすり替えようとしている自分の方がどうかしているか。ああ、本当に情けない。

 

「あー……埋まりたいわぁ……」

「どこに?」

「なんでもいいよぉ、今のチョコチョコさんは人生最悪の自己嫌悪モードなんで放っといてぇ……」

「わかった。……じゃあ帰る」

「本当に発言の文脈読まないやっちゃなぁ!」

「……じゃあ、どうしてほしいの、チョコは」

 

 眼鏡の奥から睨まれて、チョコチョコは、う、と言葉に詰まった。

 ――あたしは、ムニっちにどうしてほしいんだろう?

 慰めてほしいのか? いや、それはあまりに情けなさすぎる。罵倒して欲しいのか、別にマゾじゃない。――じゃあ、失望されたかったのか?

 ああ、本当にあたしってば身勝手だな。自分がどうしたいのかも、相手にどうしてほしいのかも全然わからないままに、ただ無体なことばかり言って――。

 最強のユイイツムニと、それを最初に倒す自分という、描いていた競走生活の理想像があっさり崩れた、それだけでこんなに動揺してるんだから、本当に――格好悪い。

 

「あああああ……ムニっちぃ」

「……うん」

「あたし、格好悪いねえ……」

「……うん、私も格好悪い。ふたりとも格好悪い。言い訳のしようもなく負けたから」

「負けたねえ……1600、キッツいねぇ……。強い相手、いっぱいいるねぇ……」

「……うん。だから、来年からもう一回、強くなり直そう」

「ムニっち……」

「9月のスプリンターズステークス。私とチョコで、1番人気と2番人気で勝負」

 

 その言葉に、チョコチョコは顔を上げた。真っ直ぐに自分を見つめる、ユイイツムニの視線があった。

 ――ああ、まったく、本当に。

 このルームメイトは――やっぱり、あたしが倒してやらないといけないんだ。

 

「それ、1番人気は譲らないって宣言?」

「……当然」

「言うねえ。次、フィリーズレビューだっけ? じゃ、あたしはファルコンステークスだ。ちゃちゃっと勝って、そうだなぁ、サマースプリントと合わせて、スプリンターズステークスまでに重賞3つ獲って、1番人気は貰うよぉ」

「……私も、譲らない」

 

 拳を握りしめて、チョコチョコはユイイツムニとそれを打ち合わせる。

 自己嫌悪、終わり。ここからやり直し、まき直しだ。このルームメイトに、なんとしても倒したいと思われる存在であるために。今の格好悪い自分を、胸を張れる自分にするために。――俯いている時間なんて、ないのだから。

 

 

       * * *

 

 

 同じ頃、別の控え室。

 

「お疲れ様でした、ミーク。デビュー2戦目のGⅠ挑戦で3着なんて、大健闘ですよ!」

「…………ぶい」

 

 桐生院葵は、いつも通り無表情なハッピーミークをねぎらっていた。

 先行策から抜け出して押し切ったメイデンチャームは1バ身半捉えきれなかったが、中段後方から上がり最速の末脚で、内の狭いところを上手く抜け出して3着。ミークのレース勘と鋭い末脚という武器が、GⅠレベルでも充分通用すると確かめられた。

 中2週のローテでこれなのだから、重賞制覇は遠くない。葵はスケジュール帳を捲って、改めて今後のローテを考える。目標はやはり皐月賞か。

 

「どうしましょうかミーク、やっぱり目指すならクラシック、皐月賞ですよね! 中山の2000を経験するならやっぱりトライアルの弥生賞……いや、来月の京成杯って手もありますね。ああでも、このまま流れに乗って1600のシンザン記念の方がいいでしょうか。それとも共同通信杯か、きさらぎ賞か……。重賞にこだわらず、ジュニアカップとか若駒ステークスできっちり1着を獲りに行くのも……ううん」

 

 そこまでまくし立てて、それから葵は我に返る。――ああ、しまった、またやってしまった。自分ひとりで頭でっかちに……。

 同期のあの人から言われたばかりではないか。ミークと話し合うべきだと。

 

「ミーク! ミークはどのレースを走りたいですか?」

「……いっぱい走って、いっぱい勝てれば、なんでも……」

「そうですよね! たくさん走りたいですよね! でも、あんまり間隔を詰めるのも怪我の元ですし……そうですね、まずは2月の共同通信杯を目指しましょう!」

「……ぶい」

 

 無表情にピースするミークに、葵はうんうんと頷く。

 純白の白毛、純白の勝負服。白毛のウマ娘は、ティアラ路線では過去に例があるが、三冠路線でクラシックを制した例は未だない。

 ハッピーミークのその白が、クラシックの冠に輝く姿を、葵は瞼の裏で思い描いた。



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第64話 クリスマスのレディ

 阪神JFと朝日杯FSが終わり、暦も12月下旬。

 12月22日、金曜日。夕刻の府中駅前、カフェでコーヒーを飲んでいたリボンスレノディは、近付いてくる気配に顔を上げた。トレイにカップを載せてこちらを見下ろす影がひとつ。

 

「や、お待たせ」

「待った気がしませんわね。街中貴方の顔だらけですもの」

 

 嘆息して、スレノディは窓から街並みを見やる。クリスマスムード真っ盛りの駅前、そのあちこちに、今週末の有馬記念の宣伝ポスターが飾られ、街頭モニターにはURA謹製の有馬記念CMが流れている。それらに一番大きく映っているのが、今スレノディの目の前にいる、ファン投票1位のウマ娘だ。

 

「大人気ですわね、プレーンさん」

「いやー、さすがに街中これだけ自分の顔だらけだと小っ恥ずかしいよ。まともに顔も出して歩けやしないもん」

 

 スレノディの言葉に、サングラスの位置を直しながらテイクオフプレーンが苦笑して答えた。トレードマークの長い芦毛を、アップにして帽子の下に隠した変装モード。スレノディも、今日は伊達眼鏡を掛けて変装している。お互いすっかり顔が売れてしまったので、町歩きも大変なのだ。特にグランプリを控えた今の時期は。

 スレノディの向かいに腰を下ろしたプレーンは、「はちち」と言いながらコーヒーを啜る。それを見ながら、スレノディはひとつ息を吐く。

 

「それで、明後日には有馬記念のこんな時期に、トレーニング後にこんなところに呼び出して、何の御用ですの?」

 

 お互い有馬記念に向けた最後の追い切りも終わり、あとは軽めのメニューで日曜日に向けて調整するだけ。それが終わったところで、プレーンから「時間あったら私服で駅前来てよー」とメッセージが入った。

 それでのこのこ出かけていく自分も自分ですわね、とスレノディは内心だけで嘆息。そんなスレノディの内心を知ってか知らずか、プレーンはいたずらっぽく笑った。

 

「何の御用って、つれないなあノディ。この季節、クリスマス前の金曜の夜、お誘いの意味なんてひとつしかないじゃん? イブはどーせそれどころじゃないんだしさ」

「……プレーンさんからデートに誘われる覚えはないのですけれど」

「うわー、傷ついたー。あたしはこんなにノディを愛してるのに」

「馬鹿なことを仰ってないで、本当の用件を早く仰ってくださいませ」

 

 大げさにテーブルに突っ伏すプレーンに、スレノディは肩を竦める。と、顔を上げたプレーンは、ずれたサングラスの位置を直しつつ「いやいや」と首を振った。

 

「冗談とかじゃなくてさ。普通にデートのお誘いなんですけど?」

 

 スレノディは目をしばたたかせた。まさか本気とは。

 

「……それは、有馬記念2日前にすることなんです? 25日でいいじゃないですか」

「有馬の前だからじゃん。次の日じゃ、勝ったあたしが負けたノディを慰めデートになっちゃうよ?」

「逆でしょう。着外に撃沈したプレーンさんを慰めて差し上げるためのデートでしたら、私もやぶさかでありませんわ。府中2400で力尽きるプレーンさんに、中山の2500で負ける気はいたしませんもの」

「言ってくれるなあ、ファン投票9位さん」

「ファン投票1位で当日投票1番人気でなかったら恥ずかしいですわね」

 

 いつもの言い合い。むう、とお互い睨み合って、そしてどちらからともなく、吹き出して笑い合う。

 

「やめやめ、デートのときまで場外乱闘するもんじゃないや」

「デートのお誘いを受けると答えた覚えはありませんけれど」

「え、まさか本気で受けてくんないの?」

 

 愕然とした顔で目を見開くプレーン。本気で断られるとは露ほども思っていない顔だ。スレノディは何度目かの溜息をつき、苦笑する。

 

「冗談ですわ。どうせプレーンさんのことですから、イブはレースでそれどころじゃないから前倒しでクリスマスパーティしてしまおうとか、そういうお誘いだろうと思いましたし。それすら嫌でしたらここまで来ません」

「ああん、やっぱ以心伝心だねえあたしたち。結婚する?」

「しません。それで、どちらに行かれますの? 門限もありますから、あまり遠くは拒否させていただきますけれど。羽田空港とかは無しですわよ」

 

 以前、プレーンに調布飛行場と羽田と成田を1日で回る空港ツアーに連れ回されたことがある。飛行機に興味がないスレノディにとっては何が面白いのかさっぱりであった。

 

「いやー、実は特に決めてないんだよね」

「……相変わらずいい加減ですこと」

「どこか行きたかったわけじゃなくて、ノディとゆっくり話したかっただけだからさあ。来年になったらたぶん、こうやって馬鹿話する機会もほとんどなくなるから」

「――え?」

 

 プレーンの言葉の意味が掴めず、スレノディは顔を上げる。そんなスレノディの反応に構わず、プレーンはコーヒーを飲み干して立ち上がった。

 

「ま、ちょっと外歩こっか。寒いけど」

「あっ、ちょっと、待ってくださいまし、プレーンさん!」

 

 慌ててスレノディはプレーンを追いかける。レースでも日常でも、いつもこうですわね私たちは、と内心で思いながら。

 

 

       * * *

 

 

 電飾に煌めく金曜夜の駅前の通りには、家族連れやカップル、友達連れの姿が数多い。それぞれに楽しく幸せな週末の夜を過ごそうという人々の中で、スレノディはマフラーに口元まで埋めながら、コートのポケットに手を突っ込んで歩く隣のプレーンを見やる。プレーンはその視線に気付いて振り向き、にっと笑った。

 

「いやー、しかしノディも少しは世間慣れしたもんだね。カフェでひとりで注文して待ちあわせができるようになったんだから」

「……あまり恥ずかしいことを思い出させないでくださいまし」

 

 スレノディは口を尖らせる。――トレセン学園に入るまで、チェーンの喫茶店なんて利用したことがなかったのだ。スレノディにとって、お茶やコーヒーはリボン家の屋敷の庭やテラスで使用人が淹れてくれたものを飲むものだった。

 店に入っても席への案内は来ないし、席で待っていても注文を取りにくるウェイターもいない。カウンターに自分で赴いてそこで注文しなければならないということに気付くだけでも相当な時間がかかった自分に、プレーンが「ふえー、ノディってガチお嬢様なんだねえ……」と呆れ顔をしていたのを思い出す。

 今ではもう、プレーンにいろいろ庶民的な店に連れ回されたおかげで、まごつくこともない。ひとりでバスにだって乗れるし、牛丼屋にだって入ることができるようになったのだ。最初に券売機で食券を買うというシステムだってちゃんと理解した。いろいろと貴重な体験をさせてもらったという意味では、感謝していなくもない。

 

「リボン家ももうちょい、世間の風に当たった方がいいんじゃないの? あーでも、単にノディがリボン家の中でも特別浮世離れしてるだけかなあ。ノディの従姉妹のあの子はもうちょっと常識的っぽいし」

「世間知らずで申し訳ございませんわ」

 

 ふん、とそっぽを向くと、プレーンは「拗ねない拗ねない」と苦笑する。

 

「そんなガチお嬢様がさ、あたしみたいなガチ庶民風情に付き合ってくださいますことに、テイクオフプレーンさんは感謝いたしてございますことよ?」

「慣れない言葉遣いはするものではありませんわ、変ですわよ」

「うーん、やっぱお嬢様の世界は奥が深い」

 

 肩を竦めるプレーンに、スレノディは白く息を吐き出す。

 と、プレーンが軽くたっと駆けだして、スレノディの前に出て振り返った。小柄なスレノディを、プレーンが正面から見下ろす。

 

「最初はさ、なんだこの苦労知らずのお嬢様、こんな奴に負けてたまるかーって、庶民代表のプレーンさんはそう思ったのですよ」

「……勝手にルサンチマンを向けられても困りますわ」

「ま、そいつは仰る通り。――そんなあたしも今じゃこうしてさ、名残を惜しんでノディをクリスマスデートに誘うまでになっちゃったわけですよ」

「――――」

 

 名残を惜しんで。

 それはまるで、別れの挨拶みたいではないか。

 

「プレーンさん? ――まさか、有馬記念で引退するとか仰るわけじゃないですわよね?」

 

 眉を寄せたスレノディに、プレーンは目を見開き、「いやいや」と首を振った。

 

「さすがにそんな、もったいないこといたしませんって。あと2年は走るよ」

「だったら――」

「でも、ノディと直接対決するのは、ひょっとしたら明後日が最後かもしんないからさ」

「――――――」

 

 ああ、そうか。やっぱり、そうなるのか。

 プレーンがエリザベス女王杯を勝った頃から、薄々感じていた予感が確証に変わって、スレノディは目を伏せた。

 関西遠征に、わざわざ羽田から伊丹へ飛行機で行くほどの。引退したら世界中の空港を回りたいと言うほどの飛行機好き。そんなプレーンが、クラシック級であれだけの実績を積んだ以上、シニア級になって選ぶローテーションなど、想像は容易い。

 

「海外遠征、ですか。ドバイ、香港――秋は凱旋門、それともアメリカのBCですかしら?」

「ははっ、さすがノディ、あたしのことを一番よくわかってる」

 

 ぱちぱちと手を叩いて、プレーンは笑う。

 まるでいつもと変わりのない、明るく能天気な笑顔。

 

「来年のローテはもう決まってるんだ。3月のドバイシーマクラシック、4月の香港クイーンエリザベス2世カップ。夏は一旦日本に帰るかもだけど、秋はBCフィリー・メアターフと、年末の香港カップ。いやー、飛行機めっちゃたくさん乗れそうで楽しみ」

「レースより、長時間飛行機に乗る方が目当てなんでしょう、プレーンさんは」

「もち!」

 

 当たり前のようにいい笑顔で頷かないでほしい。本末転倒もいいところである。

 

「だからまあ、ノディと戦えるのは明後日がたぶん最後。ノディはどうせ国内でヴィクトリアマイルとエリザベス女王杯のシニアティアラ2冠目指すんでしょ?」

「…………ええ、そうなりますでしょうね」

「だから、その前にノディと、こうやってデートしときたかったわけ。トレセン学園入って何が良かったって、何をさておいたって、ノディと出会えたことが一番だから」

「――――」

「あ、照れた? はっはっはー、ノディってばかわいいなーもう!」

「ふざけないでくださいまし!」

「いやあ、本気も本気なんだけどね」

 

 口を尖らせて唸ったスレノディを、不意にプレーンは真剣な顔で見つめ返す。

 

「正直さ、トレーナーから海外遠征しない? って言われたとき、わりと迷ったんだよね。ノディと国内で戦い続ける、追いかけてくるノディから逃げ続ける競走生活も、あたしにとっちゃ充分すぎるぐらい魅力的だったし。秋華賞の頃には本気でそう思ってたし――エリ女でさ、ノディがいなくて、張り合いがなかったのも事実だったしさ」

「…………」

「でも、やっぱり海外行けるってなったら、行きたくなっちゃってさあ」

「……飛行機で?」

「飛行機で!」

「つまり、なんだかんだ言って、私より飛行機なんですわね」

「あはははは、拗ねない拗ねない」

「拗ねてません!」

 

 首を振ったスレノディの頬に――不意に、プレーンの手が伸ばされる。

 両手で頬を挟まれて、スレノディは目をしばたたかせた。冷たいプレーンの手。吐き出される白い息が、電飾に煌めく夜気の中に溶けていく。

 

「だから明後日、あたしはノディに勝つよ。もうノディには負ける気がしないって確信を得てから、思いっきり海外で暴れてくる」

「――――それはつまり、明後日私に負けたら、海外遠征を止めると?」

「いやあ、負けてもたぶん普通に行くけどね。トレーナーが超乗り気でさあ、これで行かないって言ったらたぶんトレーナーから契約切られちゃう」

「台無しですわ!」

「あっはっは、まあそういうわけだからさ――」

 

 呵々と笑って、そして――プレーンは、サングラスを外して、こつん、とスレノディの額に、自分の額を合わせた。視界がプレーンの顔で埋まって、スレノディは息を飲む。

 

「先頭で、ノディが追ってくるのを待ってるから」

「――――」

「楽しませてよ、最後まで。あたしの最大のライバルさん」

 

 そう囁いて、ぱっとプレーンは身体を離し、そしてくるりと踵を返す。

 

「よーっし、んじゃあ景気づけに、とりあえずラーメンでも食べに行こっか! 寒いしお腹すいたし!」

「なんでそこでラーメンですの!? クリスマスデートですのよ!」

「だーってレストランの予約なんかしてないもーん。ほーらノディ、庶民的なクリスマスを楽しもうじゃん」

「クリスマスにラーメンは庶民的感覚としても変ではありませんの!?」

 

 勝手に駆けだしてしまうプレーンを、スレノディは慌てて追いかける。

 クリスマスイブ2日前の夜空に、ふたりの白い息が溶けて消えていく。



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第65話 有馬記念・夢の舞台

 12月24日、日曜日、クリスマスイブ。中山レース場。

 GⅠ、有馬記念。

 

『年末の大一番、夢のグランプリ、有馬記念! あなたの夢、私の夢は叶うのか!』

 

 大観衆の詰めかけた中山レース場。ファン投票で選ばれた栄誉あるウマ娘16人が挑むグランプリ、有馬記念。トゥインクル・シリーズの歴史においても、数々の伝説のレースが繰り広げられていた夢の舞台だ。

 ホープフルステークスを4日後に控えてはいたが、さすがにその舞台に担当の身内が挑むとあれば、日帰りで行ける中山であるし、テレビ観戦で済ませようとは言いにくい。何より有馬記念の雰囲気を、直で3人に感じてほしかったというのもある。

 というわけで私は、ヒクマの最終追い切りを済ませ、ヒクマ、エチュード、コンプを連れて中山レース場に来ていた。独特の緊張感とお祭り気分とがない交ぜになった、有馬記念の日の中山の雰囲気は、いつ来ても気分が沸き立つものを感じる。

 

『今年のオークスウマ娘、5番人気は7枠14番リボンスレノディ! エリザベス女王杯を回避して仕上がり万全、テイクオフプレーンを倒した唯一のウマ娘として、グランプリの舞台で秋華賞のリベンジなるか!』

「ノディ姉さん……!」

「ノディさーん、がんばれー!」

 

 リボンスレノディがこちらの声援に気付いてか、ゲートの前で軽く手を振る。ぶんぶんと手を振って身を乗り出すヒクマと、「落ちる落ちるってばクマっち」といつものようにそれを支えるコンプ、そして祈るように手を組むエチュード。

 今年の有馬記念は、シニア級の世代がやや手薄だが、今年のクラシック世代のGⅠウマ娘たちが揃った。5番人気のスレノディに続いて、4番人気は今年の皐月賞ウマ娘、天皇賞(秋)も3着のトゥージュール。3番人気は菊花賞ウマ娘のアレイキャット。

 そして、僅差で1番人気と2番人気を分け合ったのが――。

 

『これが引退レースです、2番人気、5枠9番オボロイブニング! 今年はリードサスペンス以来となる天皇賞(春)連覇。悲願のグランプリで引退の花道を飾れるか!』

 

 歓声に手を振るのはオボロイブニング。2年前の菊花賞、昨年と今年の天皇賞(春)を制した現役最強ステイヤーだ。有馬記念は過去2年とも2着、この引退レースでの勝利はまさに悲願である。今年の宝塚記念は3着、天皇賞(秋)は5着に敗れたとはいえ、実績から言えば、圧倒的1番人気でもおかしくない。

 だが、1番人気は別にいる。

 

『そしてさあ、現れました! お聞き下さいこの大歓声、今年のファン投票ぶっちぎりの第1位、そして今日も1番人気! 桜花賞・秋華賞・エリザベス女王杯の変則トリプルティアラ、蒼天を翔ける芦毛の逃亡者、1枠2番テイクオフプレーン!』

 

 地鳴りのような歓声が、中山レース場を震わせる。

 

「うわ、プレーンさんすっごい人気。いいなー」

 

 コンプが圧倒されたように口を開ける。テイクオフプレーンはもはやすっかりスターウマ娘だ。エリザベス女王杯で並み居るシニア級ウマ娘、とりわけ今年の大阪杯を勝ち宝塚記念2着のテューダーガーデンに完勝したことで、これが三冠路線のウマ娘との初対決にもかかわらず1番人気である。見栄えのする芦毛に、レースでも目立つ逃げウマ娘で圧倒的に強いとなれば人気が出ないわけがない。勝利後の飛行機パフォーマンスは子供に大受けして、世代を問わず大人気である。

 そんな大歓声に向き合って、テイクオフプレーンは手招きするように両手を振る。

 

『ユー、ハブ、コントロール?』

 

 スタンドの観客の大合唱。それに応えてテイクオフプレーンは操縦桿を引くような仕草をして、両手を広げてその場を軽く一周してジャンプ。そして右手を掲げて、

 

「アイハブコントロール!」

 

 大喝采。パフォーマンスであっという間に観客を魅了してしまったプレーンを、スレノディが呆れた様子で見つめているのが私たちの席からもよく見えた。

 

「いいなー、あたしもなんかあーゆーの考えようかなあ」

「もっと強くなったらね」

 

 コンプの頭をぽんぽんと撫でると、「人前で撫でるなー!」とコンプは口を尖らせる。ヒクマは楽しそうに目を輝かせ、エチュードは何度も深呼吸していた。

 

「大丈夫? エチュード」

「は、はい……。ノディ姉さんより、私の方が緊張してちゃ変ですよね……」

「まあ、気持ちはわかるけどね。有馬記念はお祭りだ、楽しもう。ヒクマみたいに」

「ほえ? トレーナーさん、呼んだ?」

 

 振り向いたヒクマに、私はエチュードと顔を見合わせて笑い合う。

 

 

 ターフのウマ娘たちが、ゲートへと向かっていく。緊張感が高まっていく。

 

『体勢完了。夢のグランプリ、有馬記念――スタートです!』

 

 ――夢の舞台が、幕を開ける。

 

 

       * * *

 

 

 そして、夢が終わるのは一瞬だ。

 

「ええと、それでは皆様、メリークリスマスですわ。乾杯」

『かんぱーい!』

 

 有馬記念のウイニングライブが終わり、夜。トレセン学園に戻ってきた私たちは、リボンスレノディの慰労会を兼ねたクリスマスパーティに招待されていた。会場はスレノディの担当トレーナーのトレーナー室。リボン家のスレノディなら、実家でもっと盛大なパーティが開かれるのではないかと思ったが、ごくごくささやかなものである。

 

「だって3着ですもの。あんまり盛大にやっても恥ずかしいですわ」

「そんなこと……! 有馬記念で3着なんてすごいよ、ノディ姉さん。ライブもかっこよかったし……」

「ふふ、ありがとう、エチュードちゃん」

 

 言い募るエチュードに、スレノディは目を細めて微笑む。

 

「ほらほらビー姉もなんか食べなって」

「あらあらコンプちゃん、余所様のパーティでそんなに欲張っちゃダメよ~」

 

 コンプは強引に連れてきたビウエラリズムに料理を山ほど取り分けている。困り顔のビウエラリズムに、スレノディが歩み寄った。

 

「いえいえ、どうぞどうぞ。たくさん食べてくださいませ。コンプちゃんのお姉様のビウエラリズムさんですわよね。うちのエチュードちゃんが、いつもコンプちゃんのお世話になっております」

「あらあら~、どうもご丁寧に。こちらこそコンプちゃんがいつもエチュードちゃんにご迷惑をおかけしてばかりで」

「いえいえ、そんな。エチュードちゃんってば引っ込み思案ですから、そちらのコンプちゃんにいつも引っぱっていただけているおかげで毎日楽しそうで」

「いえいえ、こちらこそ~。コンプちゃんってば放っておくとどこまでも突っ走ってしまいますから~、エチュードちゃんがいいブレーキになってくださってまして~」

「あらあらまあまあ、エチュードちゃんってば」

「あらあら~、うちのコンプちゃんもそれはもう」

 

 のんびりした姉同士の妹トーク空間が発生してしまった。コンプがチキンにかぶりつきながら、「ビー姉とノディさん、なんかものすごい似たもの同士っていうか、キャラ被ってない?」とぼやく。そう言うコンプの友達にはもうひとり、「あらあら~」と手の掛かる子の面倒を見ているのか見ていないのかよくわからない子がいたような。

 

「トレーナーさんトレーナーさん、にんじんケーキ食べる?」

 

 と、ヒクマがケーキを皿に取り分けてこちらに駆け寄ってきた。「ああ、ありがとう」とその皿を受け取ると、ヒクマは私の隣に腰を下ろして自分のにんじんケーキを幸せそうに頬張る。

 

「ヒクマ、まあクリスマスだからあまり厳しいことは言わないけど、レース前にあんまり食べ過ぎちゃダメだよ。明日以降はあんまりハードなトレーニングしないんだからね」

「うっ、うう~、わかった……これ1個で我慢する」

 

 ホープフルステークスは4日後だ。クリスマスで食べ過ぎて調整失敗では目も当てられない。名残惜しそうに残りのケーキを睨むヒクマの頭を、私はぽんぽんと撫でてやった。

 

「そうそうクマっち、ホープフル勝ったらトレーナーがなんでも奢ってくれるんだから、今は我慢よ我慢」

「ていうかコンプも、年明けたらすぐ朱竹賞なの忘れてないよね? 再来週だよ?」

「うぐっ」

 

 山盛りの料理の皿を手に固まるコンプ。皆の笑いが弾ける。

 ――と、そこへ。唐突に、トレーナー室のドアががらりと開いた。

 

「ちょっとちょっとノディ! パーティやってるなら言ってよ! なーんでこのプレーンさんをのけものにするかなー!」

 

 そんなことを言いながら憤然と乗りこんできたのはテイクオフプレーンである。

 

「プレーンさん? どうしたんですの」

「どーしたもこーしたも、クリスマスイブにあたしをのけものにするとはどういう了見かってーの! あたしはノディのなんなのよー!」

「あらあら、有馬記念の後だと負けた方の慰め会になるから事前にクリスマスデートしてしまおうと仰って一昨日私を連れ回したのは貴方でしょう? ねえ、1番人気4着さん。それともウイニングライブも取れなかったのを私に慰めて欲しかったんですの?」

「そーよー、慰めてノディー。もープレーンさんは傷心なのよー」

「ちょ、ちょっとプレーンさん!」

 

 テイクオフプレーンが、スレノディの胸にすがりついて、スレノディは慌てた様子で困り顔を左右に向ける。プレーンは「んー、ノディの胸は背丈のわりに顔の埋めがいがあるなあ、あたしにちょっと譲ってよー」と呟いて、真っ赤になったスレノディが「プレーンさん!」とその頭を叩いた。

 

 

 ――そう、有馬記念の結果はといえば。

 

『テイクオフプレーン逃げる、逃げる、しかし来た! 来た! 内からオボロイブニング、外からリボンスレノディ、間を割ってアレイキャット! オボロイブニングとらえた、オボロイブニング先頭だ! これが王者だ! これが王者の去り際だ! オボロイブニングです! オボロイブニング有終の美! 引退レース、見事に悲願のグランプリ制覇!』

 

 勝ったのは中山の坂の終わりでテイクオフプレーンを差し切った2番人気オボロイブニング。プレーンは必死に逃げ粘ったが、最後に菊花賞ウマ娘アレイキャットと、大外からリボンスレノディが急襲して、オボロイブニングの1バ身後ろで2着争いはこの3人がほぼ横並びでゴール。アタマ差とハナ差でアレイキャットが2着、リボンスレノディが3着、そしてテイクオフプレーンはわずか数センチ差で4着に敗れていた。

 クラシック級のティアラ路線のウマ娘が、有馬記念をあわや逃げ切り勝ちというところまで行ったのだから負けてなお強しの内容ではあったが、4着は4着である。着順の上でも、3着のスレノディがオークス以来の直接対決2勝目なのであった。

 

 

「いやー、オボロさんに負けたのはまー仕方ないんだけどさあ、3着には残れたと思ったんだけどなあ。最後、首の上げ下げでノディに負けたうえにライブまで逃すんだからもー、悔しい! 納得いかーん!」

 

 にんじんサラダを皿に山盛りにして掻きこみながら、プレーンは「うがー!」と叫ぶ。呆れ顔のスレノディは「ドカ食いは下品ですわよ」と腰に手を当てて、

 

「それで、私に負けて海外遠征はどうするんですの?」

 

 そう問うた。私の隣でヒクマがぴくんと耳を立てて顔を上げる。

 

「ん? ああ、予定通り行くよ。トレーナーも『結果は残念だったけど内容は充分だった』って納得した顔だったし。あ、それともノディ、やっぱり寂しくてあたしに国内に残ってほしかった? やー、ノディの愛が重くてプレーンさんは幸せ」

「誰もそんなこと言ってませんわ!」

 

 からからと笑うプレーンに、スレノディが顔を赤くして口を尖らせる。

 

「え、海外遠征? あの、プレーンさん、海外に行かれるんですか……?」

 

 エチュードがそう問うと、「ん? ああうん、トレーナーからの正式発表は明日あたりかなー」と頷いた。

 

「今日の結果で2400いけるってなったから、来年はまずドバイ。ターフじゃなくて、ドバイシーマクラシックの方に出るよ。そのあと香港」

「ドバイ!」

 

 まん丸の瞳を大きく見開いて、ヒクマが立ち上がった。

 

「お? どしたの、かわいい芦毛ちゃん。――あ、そいえば中東生まれなんだっけ?」

「うん、ドバイシーマクラシック! お母さんの出たレース!」

「こらこらヒクマ、落ち着いて。――そう、この子の大目標なんだ。ドバイシーマクラシックは」

 

 ヒクマをなだめながら、私はプレーンにそう答える。「はー」とプレーンは頷き、立ち上がってヒクマへと歩み寄った。

 

「えーと、ヒクマちゃんだっけ?」

「はい!」

「よーし、んじゃ同じ芦毛の先輩として、あたしがまず来年勝ってきてあげる。ヒクマちゃんは来年クラシックだよね? じゃ、そこであたしと同じぐらい勝って、再来年勝ちにおいで。あたしが前年覇者として迎え撃ってあげるから」

「――――うんっ!」

 

 目を輝かせて、ヒクマはぶるぶるっと身体を震わせた。

 

「う~~~~~~っ、トレーナーさん、わたし走ってくる!」

「あっ、ヒクマ! こら、今日のトレーニングもう終わりだって!」

 

 トレーナー室を飛び出していくヒクマ。私はそれを慌てて追いかけながら、けれどこればっかりは仕方ないか、と苦笑する。

 夢の舞台。ヒクマのそれは年末のグランプリではなく、はるか中東の砂漠の街。

 そこに向かう道が、ただの夢ではなく、現実の道筋として初めて見えたのだ。

 

「ヒクマ!」

 

 建物の外まで来て、グラウンドの前に佇んだヒクマの背中に追いついた。ヒクマは冬の夜空に白い息を吐きながら、「えと、西はあっちだよね!」と西の空を見上げる。

 夜空に満天の星。その輝きは、砂漠の街へと繋がっている。

 

「トレーナーさん、わたしもプレーンさんみたいに――再来年、行けるかな?」

 

 変則トリプルティアラ、クラシック級までにGⅠ4勝。

 テイクオフプレーンが積み上げた実績という目標は、とんでもないハードルだ。

 けれど、ただトリプルティアラを勝つというだけじゃない。

 それだけ勝てば、シニア級1年目からドバイに届くという――明確な道しるべ。

 いや、もちろんそれは決して絶対条件じゃない。GⅠ未勝利でドバイに行ったウマ娘もいるし、中には重賞未勝利で挑んだウマ娘だって過去にいるのだから。けれど、シニア級1年目で挑むとなれば、やはりGⅠ勝利は最低条件だろう。

 トリプルティアラで勝って、ドバイへ行く。

 ――それは、夢じゃなく、これから現実に変えていく目標なのだ。

 

「ああ。行こう、ヒクマ。再来年だ。ホープフルステークスを勝って、トリプルティアラを勝って、胸を張って、再来年ドバイに!」

「――うんっ! うぅぅ~~~っ、がんばるぞーっ!」

 

 両手を高く夜空に突き上げて、ヒクマは叫んで走り出した。

 こら、準備運動もしないでこの寒い中で全力疾走したら怪我するから――と私はまた慌てて、その背中を追いかける。

 

 

 ホープフルステークスまで、あと4日。



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第66話 ホープフルステークス・いざ、GⅠ!

 12月28日、木曜日、中山レース場。

 GⅠ、ホープフルステークス。

 

『さあ、今年最後のトゥインクル・シリーズ、今年最後のGⅠレース! ジュニア級中距離王者決定戦、ホープフルステークスです! 実況はわたくし白坂、解説はおなじみ楠藤克也さんと太田澄乃さんでお送りします。今年のホープフルは魅力的なメンバーが揃いましたね、楠藤さん』

『はい、楽しみですねえ』

『楠藤さんの注目は?』

『やはり、バイトアルヒクマですね。ティアラ路線からの参戦という異例のローテーションですが、デビューから3戦3勝、いずれも非常に強い勝ち方でした。長くいい脚を使えますから、2000メートルの距離延長も問題ないと思います』

『なるほど。太田さんはどうでしょう』

『岬トレーナーが自信満々で送り出してきたふたり、オータムマウンテンとデュオスヴェルを推します。特にオータムマウンテンの前走、あのスローペースを最後方から涼しい顔をして捲った京都ジュニアステークスを見て、来年のクラシックの本命はこの娘だと確信しましたね! ただ、今日のレースの鍵を握るのはデュオスヴェルでしょう』

『前走の東スポ杯ではゲートで入れ込んで出遅れ、向こう正面で一気に先頭まで上がる大暴走をしながら粘りに粘っての3着でした』

『はい、前にウマ娘がいると先頭に出たがって折り合いを欠くウマ娘というのはよく見ますが、彼女はその後の粘りがすごい! あれだけ折り合いを欠いて3着に粘るなんて普通はあり得ませんから、潜在能力は計り知れません。気性面の問題はありますが、上手くゲートを出てハナを切れれば、スタミナと勝負根性でそのまま逃げ切ってしまうことは充分あり得ます。彼女がどんなペースで逃げるのかが、このレースの鍵だと思います!』

『なるほど。東スポ杯でそのデュオスヴェルをかわして、バイトアルヒクマの2着に突っ込んだプチフォークロアはどうでしょうか、楠藤さん』

『東スポ杯ではバイトアルヒクマをマークしましたが、仕掛けが遅れて届きませんでしたね。まあ東スポ杯の展開は特殊でしたし、こちらも長くいい脚を使えるタイプですので、周りに踊らされず自分のレースに徹すれば、充分に勝機はあると思います』

『ありがとうございます。他、萩ステークス2着のオントロジスト、百日草特別を逃げ切り勝ちしたドリーミネスデイズなど、楽しみなメンバーが揃いました今年のホープフルステークス。来年のクラシック戦線へ向けて、輝く一等星となるのはどのウマ娘か! まもなくパドックの様子をお届けします!』

 

 

       * * *

 

 

 5番人気、6枠11番、プチフォークロア。

 

 

「今回も5番人気ですか。まあ、今の私の知名度でこの評価なら上々でしょうね」

 

 控え室で当日投票の結果をスマホで確認し、ロアはひとつ息を吐いた。「前走の東スポ杯の内容が評価されたということだろう」とトレーナーは言う。

 その言葉に頷きつつ、着差以上の完敗でしたけどね、とロアは内心だけで呟いた。それでもあの2着が評価されたとすれば、むしろあのメチャクチャな走りで3着に粘ったデュオスヴェルのおかげなのだろう。その事実は、デュオスヴェルが3番人気という評価に表れている。まともに走れば実力はデュオスヴェルの方が上。それが今の自分の評価だ。

 いいでしょう、とロアは眼鏡を光らせる。でしたらその評価は、この大舞台で覆してみせましょう。この名の通りの伝説は、ここからスタートさせてみせます。

 

「それで、どうする? 今回もバイトアルヒクマをマークするか?」

「いえ、前回で彼女と同じ土俵では勝てないことがわかりましたし、彼女は他のウマ娘がマークしてくれるでしょう。――それに、デュオスヴェルさんという不確定要素が今回もありますので、作戦の決め打ちは危険。レースが始まってから誰がどう動くかを見て、高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変な対応が最善と判断します」

「要するに行き当たりばったりってことだな」

「良い意味でということでしたらその通りです」

 

 おそらく自分は、スタミナではデュオスヴェルに、末脚の伸びではバイトアルヒクマに敵わない。オータムマウンテンは模擬レースでの様子や前走の映像を見た限り、最後方からいつの間にか上がってきている得体の知れない相手だ。

 そんな面々に自分が対抗できるとすれば――おそらく、自分はそう強くマークされないという立場を活かして、上位人気組の隙を突くしかない。

 

「全員をマークはできませんから、最後は他力本願。信じる者は儲かります」

「それは漢字の覚え方だ」

「私は儲けものの勝利でも構いませんよ。勝った者が勝者ですから」

 

 眼鏡を光らせるプチフォークロアに、トレーナーは「お前は頭がいいんだか悪いんだか、物事を深く考えてるんだか考えてないんだかわからん」と肩を竦めていた。

 

 

       * * *

 

 

 1番人気、1枠2番、オータムマウンテン。

 3番人気、5枠10番、デュオスヴェル。

 

 

「ぬがー! また人気であいつに負けたー!」

「あらあら、前走負けたんですから仕方ないですよ、スヴェルちゃん」

「はっはっは! 担当がGⅠで1番人気と3番人気とは誇らしいよ!」

 

 吼えるデュオスヴェルをなだめつつ、高笑いする岬トレーナーに、オータムマウンテンは頬に手を当てて小首を傾げた。

 

「というか、私が1番人気とは思いませんでしたが~。てっきりヒクマさんかと~」

「オータム君の実力をきちんとわかっている、ファンは見る目があるということだね!」

「ちがーう! ボクが最強だぞー! みんな見る目がないんだー!」

「はっはっは! そう思うならこのレースで証明するのだね、スヴェル君! 逃げウマ娘最強説を唱えるトレーナーは少なくないよ! キミがそれを実証するといい!」

 

 ぶんぶん両手を振り回すスヴェルに、岬トレーナーはびしっと謎の決めポーズで指を突きつける。

 

「あったりまえだー! スタートだって練習してきたんだ、今日は最初っから逃げる!」

「じゃあ、私は一番後ろから、バテたスヴェルちゃんを坂で追い抜き予約しますね~」

「バテるもんか! ここはもう1回走ったんだぞー!」

「ふふふ、そうだねスヴェル君! 今回の出走メンバーで中山芝2000の経験があるのは君だけだ! そのアドバンテージを無駄にしてはいけないよ! そしてオータム君! 君に私から言うことは特にない! 君は君の走りをする、それだけで強いと私は確信しているからね!」

「あらあら、過分なお言葉ありがとうございます~。ご期待に応えてみせますね」

「トレーナー、ボクとオータムとどっち応援してるんだよー!」

「どっちにも勝ってほしいし、どっちにも負けてほしくない! 当たり前だろう!」

 

 口を尖らせたスヴェルに、岬トレーナーは不意に真剣な顔でそう答え。

 オータムとスヴェル、ふたりを肩を抱くように腕を回した。

 

「担当同士を同じレースで戦わせるというのは辛く苦しい! どうあっても勝てるのはどちらか片方なのだからね! だが、それがトゥインクル・シリーズというものだ! だから私から言えるのはひとつ! ふたりとも、悔いのないレースをしてくることだよ!」

 

 その言葉に、オータムとスヴェルは顔を見合わせ――。

 

「――おー! 絶対勝ーつ!」

「はい、私かスヴェルちゃんがちゃんと勝ってきますから、安心して待っててください~」

 

 それぞれに、そう応えた。

 

 

       * * *

 

 

 10番人気、2枠3番、ミニキャクタス。

 

 

 ミニキャクタスが待つ控え室に脚を踏み入れた瞬間、その場に満ちた気配に、小坂御琴は思わず息を飲んで足を止めた。

 こちらに背を向け、静かに呼吸を整えている、ミニキャクタスの細い背中。

 そこに――青い闘志の炎が燃えているのが、見える。

 

「…………キャクタスちゃん」

 

 おそるおそる声を掛けると、ミニキャクタスはその闘志の気配を消すことなく、ゆっくりと振り返った。普段はあどけなさを残す顔を厳しく引き締めたその表情には、この3ヶ月、鍛え抜いて研ぎ澄まされた、針のような鋭さがある。

 まだ成長途上、レース慣れしていないジュニア級のウマ娘がする顔ではない。歴戦のシニア級ウマ娘のように、ミニキャクタスは深く呼吸して、拳を握り直す。

 ――また成長途中のこの子を、ここまで追い込んで鍛える必要があったのだろうか?

 小坂の脳裏を、ふっとそんな危惧がよぎる。

 見る限り、ベストコンディションでこのレースを迎えられたと思う。トレーナーとして、今の自分にできることは全てした。最高の仕上がりだ。――だが、それは裏を返せば。

 これで勝てなければ、根本的に実力か適性が足りていないという、残酷な現実を突きつけるだけ。――そうなったとき、この子の負けん気は、闘志は、折れずにいられるのだろうか。

 ミニキャクタスの小柄で華奢な身体は、張り詰めて、いつ折れてしまってもおかしくないような――そんな不安を、小坂に抱かせる。

 

「……さっき、ヒクマちゃんを見ました」

「…………」

 

 不意にキャクタスが口を開き、小坂は息を飲む。

 

「…………何か、お話しましたか?」

「いえ。――たぶんもう、あの子と友達ではいられないので。勝っても、負けても」

「…………そんな、こと」

「ヒクマちゃんには、感謝しています。私を見つけてくれた。私の名前を覚えていてくれた。名前を呼んでくれた。……友達だって言ってくれた。嬉しかったです。でも」

 

 一度、目を伏せて、そしてキャクタスは。

 

「だからこそ――たとえ嫌われたとしても、私はあの子に勝ちたい。ヒクマちゃんの夢を叩き潰してでも、私は――勝ちたいと思っていますから。だから」

 

 ――友達では、いられないと。

 そう口にするミニキャクタスに、小坂は何と答えたらいいのかわからない。

 きっとバイトアルヒクマは、このレースがどんな結果でも、キャクタスを嫌いになったりはしないだろう――そう思うけれど、それは今言っても詮無いことだ。

 

「……10番人気の私がこんなことを言っても、滑稽なだけかもしれませんけれど」

 

 ふっと呟くミニキャクタス。小坂は咄嗟に強く首を横に振った。

 10番人気。ここまで2戦2勝という戦績だけを考えれば不当な低評価に見える。だが、前走のアスター賞から3ヶ月ぶり、前走は同じ中山とはいえ400も短い1600。メイクデビューも2戦目も、勝ち方もタイムも、倒した相手も目立ったところはない。ティアラ路線からの参戦という話題性は、バイトアルヒクマが全部持っていってしまった。

 勝ってはいるが、強さを示す要素がない、未知数の伏兵。それが今のミニキャクタスの客観的な評価だということは、小坂も解っている。解っているからこそ――。

 

「…………誰が笑っても、私はキャクタスちゃんを笑いません。誰も気付かなくても、私はキャクタスちゃんを見続けます。――誰も信じなくても、私は…………キャクタスちゃんが勝つと、信じています」

 

 その言葉に、ミニキャクタスは顔を上げ。

 ――そして、不意にその顔を、泣き出しそうに歪めて。

 

「ありがとう……ございます。――勝ってきます」

 

 そしてまた、その背中に近寄りがたいほどの闘志を滲ませて、歩き出す。

 小坂はただ、祈るようにその背中を見送った。

 祈ることしか、もうトレーナーにできることはないのだった。

 

 

       * * *

 

 

 2番人気、3枠6番、バイトアルヒクマ。

 

 

「どうしたの、ヒクマ」

「ん~~~」

 

 レース前の控え室。いつもはうきうきと楽しそうな顔をしているヒクマが、今日は何やら難しい顔をしていた。さすがにGⅠともなれば、ヒクマでも緊張するのだろうか。

 

「あ、トレーナーさん! んとね、さっきキャクタスちゃん見かけたの」

「ミニキャクタス?」

「うん。今日はがんばろーね、って声かけようと思ったんだけど……キャクタスちゃん、すごい怖い顔して、わたしに気付かないで行っちゃった。大丈夫かなあ? 怪我したりしてないかな?」

 

 ――やれやれ、GⅠ前に、同じレースに出る友達の心配か。

 私は苦笑して、ヒクマの頭をぽんぽんと撫でる。

 

「ミニキャクタスの心配をするのは、ヒクマじゃなく小坂トレーナーの役目だよ」

「んに……」

「今は自分のことだけ考えて。なんたってこれからGⅠなんだから。お母さんも見に来てるんでしょ?」

「あ、うん! そうだね! えへへ、GⅠだ! キャクタスちゃんもスヴェルちゃんも、オータムちゃんもロアちゃんもいるし、楽しみ!」

 

 ぱっとその顔がいつもの笑顔に戻って、私はほっと息を吐く。少なくとも、GⅠだろうとヒクマはいつも通り、緊張とは無縁のようだ。

 

「よし、ヒクマ、目標は?」

「ドバイシーマクラシック!」

「そのためには?」

「プレーンさんと同じ、クラシック級でGⅠ4勝!」

「まずは今日」

「勝つぞー!」

 

 笑顔で拳を高々と掲げるヒクマ。そのキラキラした瞳に、私は頷いて、ヒクマの右手に自分の右拳を合わせて打ち鳴らす。

 夢に向かうために、勝ちたいという気持ちは、誰にも負けていない。

 大丈夫。ヒクマなら勝てる。この子はいつだって、私の想像を超えてくるから。

 

「ヒクマ。今日もコンプとエチュードと、ゴールで待ってるよ」

「うん! 一番先頭で行くから、待っててね、トレーナーさん!」

 

 そして、ヒクマは夢の舞台へ向かって走り出す。

 私はその後ろ姿を、眩しさに目を細めながら見送った。

 

 

       * * *

 

 

 15時25分。

 ホープフルステークスが、始まる。



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第67話 〝不可視の棘〟

 関係者席に戻ると、最前列をキープしていたコンプとエチュードが手を振る。

 

「トレーナー、おかえり」

「ヒクマちゃん、どうでした?」

「大丈夫、いつも通りだよ」

 

 ふたりに笑い返し、それから私はスタンドを振り仰ぐ。このどこかに、ヒクマの母親も見に来ているはずだが……。身内なのだから最前列の関係者席に案内しますよ、とヒクマを通じて伝えてはいたのだが、遠慮されてしまったのだ。ヒクマに似ず控えめな人なのかもしれない。

 ビジョンにはゲート前に集まった出走ウマ娘たちが映し出されている。ヒクマがミニキャクタスの背中に声を掛けようとしているのが見えた。しかしミニキャクタスはよほど集中しているのか、それを拒絶するようにゲートへと歩いて行く。

 困ったようにそれを見送ったヒクマは、けれどすぐに別の、背の高い鹿毛のウマ娘を見つけて楽しそうに何か話しかけていた。あれは……6番人気のドリーミネスデイズか。メイクデビューでヒクマと一緒に走った、2番人気で逃げていたウマ娘だ。デビュー戦は直線で失速して惨敗していたが、その後未勝利戦と一勝クラスの百日草特別を逃げ切り勝ちしてここまで来たのだから立派なものである。

 楽しそうに尻尾を振るヒクマの後ろ姿に、ドリーミネスデイズがその長身を丸めるようにして、タレ目を恥ずかしそうに伏せている。

 逃げるのはおそらく、デュオスヴェルとこのドリーミネスデイズのふたりになる。今までのコンプとの走りを見る限り、デュオスヴェルも競りかけてくるウマ娘がいると折り合いを欠いて掛かってしまうタイプだ。ただ、前走を考えればそう簡単に潰れてはくれないだろう。

 何にせよ、デュオスヴェルが無事にゲートさえ出れば、おそらくはハイペースの展開になる。そうするとこれまで先行策で勝ってきたヒクマよりも、前走を後方待機から捲って勝っているオータムマウンテンが有利。彼女が僅差ながらヒクマを上回って一番人気なのも、展開をそう読んでいるファンが多いのだろう。

 でも、ヒクマならそんな常識だって打ち破ってくれるはずだ。

 私はそう信じながら、ぎゅっと柵を握りしめた。

 

 ウマ娘たちがゲート入りしていく。出走ウマ娘はフルゲート18人。

 オータムマウンテン。デュオスヴェル。プチフォークロア。ドリーミネスデイズ。

 ――そして、ミニキャクタスと、バイトアルヒクマ。

 

『体勢完了。輝きを放つ希望の星へ――ホープフルステークス、スタートです!』

 

 

       * * *

 

 

 ガコン、とゲートが開いた瞬間、プチフォークロアの両隣のふたり――10番のデュオスヴェルと、12番のドリーミネスデイズがダッシュをつけてハナを奪いに行く。

 それ自体はロア自身、予想していた展開だ。だが――。

 

「どけどけどけえ――っ!」

「――――っ」

 

 ふたりに挟まれて進路を塞がれるような格好になって、ロアはダッシュがつかないまま出負けして最後尾に追いやられた。ごちゃっと前方に集団が固まる。

 ――しまった、参りましたね、これは。

 既にデュオスヴェルとドリーミネスデイズの背中はバ群の向こうに隠れた。バイトアルヒクマの姿も見えない。元よりそのつもりはなかったが、これではマークのしようもない。

 ちらりと横を見る。同じく最後方の内ラチ沿いを、オータムマウンテンが走っている。

 ――まあ、いいでしょう。なら、こちらをマークしてペースメーカーに使わせていただきます。デュオスヴェルさんが最初から飛ばしていくのなら、私は後方待機で末脚勝負と参りましょう。

 ロアはひとつ息を吐き、オータムマウンテンに身体を合わせるようにして併走する。オータムが一瞬こちらをちらりと見て、また涼しい顔で前を向く。

 ――どうせならこのまま、オータムさんを内のバ群に押し込んで、私は外から差し切らせてもらう格好になれば最高ですが。

 高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変に。ロアは眼鏡を光らせ、前を見つめる。

 

 

『まずまず揃ったスタートになりました。さあ注目の先行争いですがやはり行った行った、10番デュオスヴェル、今日はダッシュをつけてハナを主張します! それに並んでいくのが12番ドリーミネスデイズ、少し離れて6番バイトアルヒクマは3、4番手』

 

 

 ――はっはっはー! どんなもんだ! ボクが本気出せばこんなもんだ!

 先頭に飛び出して、デュオスヴェルはスタート直後の坂を気分よく駆け上がる。

 この前の東スポ杯は失敗したけど、今日は完璧だ。やっぱりレースはこうでなきゃいけない。先頭で風を切れなきゃレースじゃない。ボクの前を走っていい奴なんていない!

 あとはこのまま逃げ切るだけだ。誰にも抜かせない。オータムもクマも関係ない。ボクが最強だ。このデュオスヴェル様が最強なのだ!

 1コーナーに差し掛かる。気分よく内を回ったスヴェルは――けれど、外から自分に覆い被さるみたいに並びかけてくる、背の高い影に気付いた。

 12番のドリーミネスデイズ。大柄な鹿毛の長い髪が、コーナーをカーブするスヴェルの視界をちらちらと覆う。

 ――なんだこいつ、鬱陶しい!

 そいつの姿を視界から消そうと、スヴェルは少しペースを上げる。しかしドリーミネスデイズは離れずぴたりと併走してくる。

 ――うがー! ボクに競りかけようなんて、ブリッコみたいな奴だな!

 貼り付いてくるドリーミネスデイズを振り切ろうと、スヴェルは無意識にペースを上げていく。

 隊列が、縦長になっていく。

 

 

『向こう正面、先頭から見ていきます。先頭デュオスヴェル、外から並んでドリーミネスデイズ、3バ身ほど離れてそれを追走するのが――』

 

 

       * * *

 

 

 手元のストップウォッチを見る。800メートル通過は――どうやら、47秒台。

 やはり、ホープフルステークスとしてはかなりのハイペースだ。デュオスヴェルがドリーミネスデイズに競りかけられてペースが上がっている。ヒクマはそれを追走する先行集団の一角にいるのだがだが――。

 

「ちょっとちょっと、なんかクマっち囲まれてない?」

 

 コンプが柵から身を乗り出す。逃げるデュオスヴェルとドリーミネスデイズを見るように前目につけた先行集団は、ヒクマを含めて5人ほど。その中で、ヒクマは集団に押し込められるようにしてがっちりマークされていた。

 マークがきつくなるのは予想していたが、思った以上にヒクマに貼り付いてくるウマ娘が多い。なんとか前方のスペースは確保しているが、すぐ手前の外を走っているウマ娘が前に出て内に寄せてくれば塞がれてしまう。

 ヒクマも、本能的にそれがわかっているのだろう、手前のウマ娘が前に出ようとすると視線を向けて牽制している。いや、単に相手の動きが気になっているだけか――。

 

「いや、大丈夫。――このハイペースなら、相手の方が保たない」

 

 1000メートル通過。59秒台。

 このペースなら、並のウマ娘なら直線で脱落する。今ヒクマをマークしている面々は、このデュオスヴェルとドリーミネスデイズが作ったハイペースについていくだけでいっぱいっぱいのはずだ。ヒクマは進路を確保しているから、このままなら前が壁になる心配も薄い。そうなると怖いのは、最後方に控えているオータムマウンテンとプチフォークロア、それから――。

 ミニキャクタスはどこだ? 私は双眼鏡で隊列を見渡す。

 ――いた。中団の内ラチ沿い、ヒクマたち先行集団を見るような目立たない位置で息を潜めている。あの子はどこで仕掛けてくる?

 

 

『最後方オータムマウンテン、ここで徐々に前との差を詰めていきます、外並んでプチフォークロアもそれに続く、さあ残り800を切って3コーナー、依然として先頭はデュオスヴェルとドリーミネスデイズが並んでカーブしていく――』

 

 

       * * *

 

 

 すうっ、と。

 何が起こったのかわからないうちに、いつの間にかオータムマウンテンが前にいた。

 ロアは思わず瞬きする。――えっ、どうして? いつの間に?

 同じペースで走っていたはずだ。オータムマウンテンを横に見ながら、足並みを揃えて、身体を合わせて走っていたはずなのに――内ラチに押し込めようとしていたはずのオータムマウンテンが、すっと外に持ち出すように、ロアの前に出てきている。

 スパートをかけたような気配はなかった。しかし既に3コーナー、残り600を切っている。ここからロングスパートですか――なら、私も!

 ロアも脚に力を込めて、オータムマウンテンの後を追う。

 

 

『オータムマウンテン外から上がって来た、4コーナーにかかってデュオスヴェル先頭譲らない、ドリーミネスデイズは少し苦しくなったか! そしてバイトアルヒクマ! バイトアルヒクマが先頭との差を詰めてきた!』

 

 

 ――さてさて、そろそろ上がっていかないとですね~。

 先頭でコーナーを曲がっていくスヴェルの姿を遠目に見ながら、オータムマウンテンは少しずつ脚を速めた。おおよそ予想通りのペース。スヴェルのスタミナがどの程度保つかも見当がつく。ここから上がっていけば、坂の頂上で差し切れる。

 隣のプチフォークロアが慌てたように追ってくるのを感じながら、オータムは外を回って中団後方の集団に取り付き、のんびりと捲っていく。――もちろん、のんびりと、というのはオータム自身の感覚に過ぎない。追い抜かれたウマ娘たちが目を見開いて、オータムの背後に下がっていく。

 大外を回ると、先を行く集団もよく見える。スヴェルを追っていた先行集団が、ペースについていけなくなったのだろう、崩れてばらけた。その中で――ひとり、長い芦毛の姿だけが、逃げるスヴェルに食らいついてスパートをかける。

 先行集団から抜け出したのは、バイトアルヒクマ。

 ――さすがですね~、ヒクマさん。でも、勝つのは私です。

 少しずつ、少しずつペースを上げる。焦る必要はない。中山の直線は短くとも、最後にあの急坂がある。スヴェルもヒクマも、そこで差し切れる。

 ――そういえば、あの子はどこでしょうか~?

 中団のウマ娘たちを追い抜きながら、ちらりとオータムは内ラチの方を見た。

 あのウマ娘。模擬レースで、全員を追い抜いたと思った瞬間、すさまじい加速で突き放された、あの小柄な鹿毛のウマ娘。彼女もこの集団のどこかにいるはずだが――。

 ――見えませんねえ。まさか沈んだとも思えませんけど~。

 どこにいるのかわからない。仕方なく、オータムは視線を前に戻した。沈んだかもしれない相手を気にしても仕方ない。まずは、スヴェルとヒクマを差し切ることに集中しよう。

 ――さあ、スヴェルちゃん、どこまでがんばれますか~?

 

 

『残り400を切った! 先頭デュオスヴェル逃げる逃げる、ドリーミネスデイズを振り切って先頭、2バ身リード! 中山の直線は短いぞ! ドリーミネスデイズ後退、それをかわしてバイトアルヒクマ2番手、そして外からオータムマウンテン! 外からオータムマウンテンが来た!』

 

 

       * * *

 

 

 デュオスヴェルとの競り合いに負けて、ドリーミネスデイズが力尽きて下がっていく。ヒクマに貼り付いていたウマ娘たちも既に4コーナーで力尽きて後退した。先頭に残ったのは、逃げるデュオスヴェルと追うヒクマ。

 中山の短い直線に入る。大歓声。必死の形相で逃げるデュオスヴェルの後ろから、バイトアルヒクマがやってくる。

 

「ヒクマ!」

「ヒクマちゃん!」

「いけーっ、クマっち! アホスヴェルなんかブッ差しちゃえー!」

 

 いける。先行策で逃げるスヴェルを捕らえた。このままかわして押し切り、ヒクマの勝ちパターンだ。このハイペースでも、ヒクマのスタミナならまだ余力があるはず。いける。勝てる!

 ヒクマがぐっと強く踏み込んで加速。デュオスヴェルの背中を捕らえる。

 行け、行け、行け!

 祈るように私は拳を握る。ヒクマがデュオスヴェルに並びかける。

 ――そのとき、ヒクマの表情が見えた。

 

 ヒクマの顔は、いつものあの、楽しそうな顔ではなく。

 歯を食いしばって、最後の力を振り絞ろうとする――隣のデュオスヴェルと同じぐらいに、限界いっぱいの表情。

 私は息を飲む。――ヒクマ。思ったよりずっと消耗している。デュオスヴェルのハイペースに先行策でついていったことが。そしてあるいは、がっちりと他のウマ娘に囲まれてマークされたことが――ヒクマのスタミナを、予想以上に削っている。

 それでも、それでもヒクマはデュオスヴェルに食らいつく。並ぶ。デュオスヴェルも叫びながら粘る。必死の追い比べ。

 残り200。中山のあの急坂に差し掛かる。

 ――そこへ、大外から、悠然と迫ってくるあの姿。

 

『デュオスヴェル、デュオスヴェル粘る、バイトアルヒクマかわすか、デュオスヴェル凌ぐか、外からオータムマウンテン! 外からオータムマウンテン! プチフォークロアは伸びない! 上位人気3人の争いだ!』

 

 坂を上る。大外から捲ってきたオータムマウンテンが並びかける。

 3人がほぼ横一線。食らいついてきている何人かの集団は3バ身後ろ。

 粘るデュオスヴェル。食らいつくヒクマ。差し切ろうとするオータムマウンテン。

 私もコンプもエチュードも、もう声を失ってそれを見守るしかない。

 

 オータムマウンテンが、僅かに前に出た。

 デュオスヴェルが雄叫びをあげた。

 ヒクマが、最後の力を振り絞るように坂を駆け上がった。

 残り100。

 先頭――オータムマウンテン。

 

『先頭オータムマウンテンだ、オータムマウンテン、いや、しかし、しかし!』

 

 次の瞬間。

 実況アナウンサーが、何が起きたのかわからないといった様子で、叫んでいた。

 

『――内からもうひとり! 内からもうひとり誰か来た!』

 

 

       * * *

 

 

 その瞬間。

 何が起こったのか、中山レース場に詰めかけた数万の観衆の誰ひとりとして、おそらくは理解できていなかった。

 デュオスヴェル、バイトアルヒクマ、オータムマウンテン。上位人気3人の熾烈な追い比べ。後ろの集団は2、3バ身離されて残り100、もう追いつく見込みはない。

 そのはずだった。

 

 閃光のように。

 疾風のように。

 ――坂の終わりで、その不可視の棘は、集団の最内から、突然現れた。

 

 別次元の加速。

 スヴェルも、ヒクマも、オータムも。誰もが止まって見えるほどの、一瞬の。

 全てを置き去りにする、電撃のような急加速で。

 そのウマ娘の姿は、一瞬集団から抜け出たと思った刹那、横並びで走るヒクマたちの陰に隠れて、再び見えなくなった。

 

 だから、それが誰だったのかを知っていたのは。

 おそらく――数少ない機会で、彼女のあの末脚を、見たことがある者たちだけ。

 そして、彼女のその末脚を信じて送り出した、担当のトレーナーだけだった。

 

 

 このときまで、誰も彼女の名を知らなかった。

 このときはまだ、彼女が後に伝説を創ることを、誰も知るよしもなかった。

 

 X4年クラシック世代の、最強は誰か。

 後の尽きせぬ議論は、彼女の存在なくしてあり得ない。

 伝説は、このX3年ホープフルステークスから始まる。

 

 そのウマ娘の名は――ミニキャクタス。



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第68話 ホープフルステークス・舞台の上と、観客席と

 その瞬間を、エレガンジェネラルとジャラジャラは、学園のカフェテリアに設置されたモニターで、他の大勢のウマ娘たちとともに見ていた。

 周りのウマ娘たちが、何が起こったのかわからないといった様子でどよめく中で、ジェネラルは背筋に冷たいものが走るのを感じて、ぶるりと身を震わせた。

 そのウマ娘の名前も、当然ジェネラルは頭に入れていた。自分とジャラジャラと、バイトアルヒクマが走った選抜レースで、バイトアルヒクマに先着する3着に入ったウマ娘。デビュー2連勝で、トリプルティアラにクラシック登録済み。おそらく桜花賞に出てくるだろうと、前2走の映像も見ていた。だが――。

 ――なんですか、あの末脚は。

 今見たものが信じられなかった。何かの見間違いではないかと疑った。そのぐらい、その加速は、そのスピードは、あまりにも常軌を逸していた。

 最後方からぐんぐん加速して追い込んできたならまだわかる。だが、そのウマ娘は道中は中団、残り100でも先頭から3、4バ身差の6番手あたりでじっとしていたはずだ。

 それが、一瞬で。100メートルを走り抜ける6秒前後、たったそれだけの時間で。

 先頭から1秒弱の差を――消し去ってしまった。

 同期のめぼしいウマ娘の情報は全て頭に入れていたつもりだった。トリプルティアラでライバルになりそうなウマ娘の目星は全てついていたと思っていた。その上で、あのウマ娘のことは、やや注意、ぐらいの枠にしか入れていなかった。

 信じられない。あんな怪物が――これまで、ほとんど注目されていなかったなんて。

 あんな末脚を隠して――この学園に、息を潜めていたなんて。

 

「――――ッ」

 

 がたっ、と隣で椅子が大きな音をたて、ジェネラルはびくっと顔を上げた。隣に座っていたジャラジャラが、その目を大きく見開いて、モニターを凝視していた。

 

「見つけた……! あいつだ! いつだかの模擬レースで見たやつ! こんなところにいやがったのか……!」

 

 ぐっと拳を握りしめて、ジャラジャラはぶるりと身を震わせる。

 その顔に、獰猛な笑みを浮かべて。

 

「やっと、やっと見つけたぜ! その顔、名前、もう忘れねえぞ――ミニキャクタス!」

 

 

       * * *

 

 

 全てのウマ娘が、ゴール板を通過してなお。

 中山レース場は、歓声ではなく、ただただ、低いどよめきに充ちていた。

 誰もが今見たものを信じられず、その小さな背中を視線で追っていた。

 ゆっくりと足を緩めたそのウマ娘は――ぼんやりした表情で、掲示板を振り仰いだ。

 ――掲示板の一番上に、点灯した数字は。

 オータムマウンテンの2ではなく。

 バイトアルヒクマの6でもなく。

 デュオスヴェルの10でもなく。

 3。2枠3番――ミニキャクタスの番号だった。

 

『なんと! なんと! ミニキャクタスです! ミニキャクタスがすごい脚! 最内から現れた10番人気ミニキャクタスが、上位人気3人をまとめて撫で切りました!』

 

 その結果が表示されてなお、どよめきは止まない。

 興奮と祝福の歓声というよりも――それは、あり得ないものを見たという困惑。

 

『信じがたい末脚! とてつもない加速でした! まさかまさかのミニキャクタス! 3ヶ月半ぶりのレースで大仕事! オータムマウンテンもバイトアルヒクマも、デュオスヴェルもまとめて打ち破ったのは、ティアラ路線からのもうひとりの刺客でした!』

 

 立ち止まったミニキャクタスが、呆然と掲示板を見上げている。

 その横で、デュオスヴェルが力尽きたように芝生の上へ倒れこみ。

 オータムマウンテンが、困ったような顔でミニキャクタスを見ながら通り過ぎ。

 ――ヒクマは、大きく息を切らせながら立ち止まって、掲示板を見上げた。

 

 そこに示された着順は。

 

『2着はクビ差でオータムマウンテン! 3着はどうやらデュオスヴェルが粘りました、バイトアルヒクマは僅かに届かず4着!』

 

 4着。上から4番目に表示された自分の番号――6を見上げるヒクマの背中を、私とコンプ、エチュードの3人はただ、観客席から見ていることしかできなかった。

 

 

       * * *

 

 

 ――勝った。私が……勝った?

 掲示板の一番上の、自分の番号。ミニキャクタスは見間違いではないかと何度も瞬きをしてそれを確かめた。何度瞬きしても、3の数字は消えなかった。

 観客席を振り返る。遠ざかっていた周囲の音が戻ってくる。

 それは、歓声ではなく。困惑のどよめき。

 誰も知らない、無名のウマ娘が、番狂わせを起こしたことに対する――戸惑い。

 ――ああ、私が、勝ったんだ。

 その反応を受け止めて、ミニキャクタスはようやく、本当に自分が勝ったのだと理解した。観客のほとんど誰も、それを望んでなどいなかったという事実とともに。

 解っていた。皆が望んでいたのは、ヒクマのような、キラキラした華のあるウマ娘が、人気に応えて勝つ姿だ。自分のような、誰の目にも留まらないような、誰にも存在に気付かれないような、無名のウマ娘は、番狂わせすら望まれていない。

 でも、それでも、それだからこそ、勝ちたかった。

 たとえ誰にも望まれなくても、喜ばれなくても。

 こんな自分を友達を呼んでくれたあの子の、大きな夢の邪魔にしかならないとしても。

 負けたくなかった。勝ちたかった。――そして、勝った。

 だから、この冷ややかな反応は勲章だ。これでいい。嫌われてもいい。勝ったのだから。嫌われることをわかって勝ったのだから――ただ、自分の負けず嫌いを押し通しただけなのだから。これで、いいのだ――。

 

「――キャクタスちゃん!」

 

 声がした。名前を呼ばれた。キャクタスは顔を上げた。

 観客席の柵を乗り越えて、ターフに駆け込んでくる、真っ黒な姿があった。

 

「…………トレーナー」

 

 小坂トレーナーだった。こけつまろびつ、芝生に脚をとられながらよたよたと駆け寄ってきた小坂トレーナーは――そのまま、キャクタスの華奢な身体を抱きしめた。

 

「おめでとう……! おめでとう、キャクタスちゃん……!」

 

 その腕が、強く強く自分を抱きしめて。

 耳元で囁かれた、彼女の震えた声に――キャクタスの身体から、力が抜けた。

 ――ああ、たったひとり。

 たったひとりだけ、ここに、私の勝利を喜んでくれるひとが、いた……。

 

「…………トレーナー、私…………勝ち、ました」

「うんっ…………うんっ、おめでとう…………おめで、とう……っ」

 

 ひっく、ひっくとしゃくりあげる小坂トレーナーの背中を、ミニキャクタスはさする。

 目を閉じて、ああ――とその温もりに身を任せて。

 これで充分。これだけで充分だ。トレーナーが、喜んでくれれば――。

 

「……キャクタスちゃんっ」

 

 もうひとつ、後ろから、キャクタスを呼ぶ声がした。

 小坂トレーナーの腕の力が緩む。解き放たれたキャクタスは、少しよろめいて、

 おそるおそる――背後を、振り返った。

 

 そこに、バイトアルヒクマが立っていた。

 自分が負かした、友達だった子がそこにいた。

 その顔を見るのは、怖かった。

 覚悟していたはずなのに――嫌われるのは、怖かった。

 自分を見つけてくれた、名前を呼んでくれた、ヒクマちゃんに。

 倒したいと。彼女に勝ちたいと、ただそれだけを考えてこの3ヶ月、彼女を倒すことだけを目標に走ってきたのに。

 ――いざ本当に勝ってしまうと、どうしたらいいのか、わからなかった。

 だからミニキャクタスは、どんな言葉も覚悟して、ぎゅっと目を閉じた。

 お願い。そのままいなくなって。――もう、無理して、友達でいようとしてくれなくていいから。だから――。

 

「――おめでとう、キャクタスちゃんっ!」

 

 手を握られて、キャクタスは目を開けた。

 目の前に、バイトアルヒクマの――いつもと変わらない笑顔があった。

 

「すごかったね! キャクタスちゃん、全然見えなかった! あとちょっと、あとちょっとだって思ってたら――ゴールにキャクタスちゃんがいたからびっくりしたよ!」

「……ヒクマ、ちゃん? なん、で、」

「ううう~~~っ、また負けたぁ! 3回目なのに、またキャクタスちゃんに勝てなかった! くやしいっ! くやしいくやしいくやしいっ! すっごくくやしいっ!」

「――――――」

「でもっ、でもでもっ、くやしいけどっ、おめでとうっ、キャクタスちゃん! やっぱりキャクタスちゃんはすごいよ! わたし、桜花賞では絶対負けないから! 次こそキャクタスちゃんに、絶対勝つから!」

「ヒクマ、ちゃ」

「だから、また一緒にトレーニングしようね! わたし、もっともっと強くなって、キャクタスちゃんに絶対追いつくから! 今度は絶対抜かせないから!」

「――――――ッ」

 

 ぶんぶんと。掴まれた手を振られて。

 身を乗り出してくるヒクマに、キャクタスはのけぞりながら。

 不意に――拍手の音を聞いた。

 

「おめでとうございます、ミニキャクタスさん~。うーん、また計算外の末脚を見せつけられてしまいましたね~」

 

 オータムマウンテンが、微笑んで手を叩いていた。

 それにつられるように――もういくつかの、拍手の音。

 

「完敗です。貴方のようなウマ娘を完全にノーマークでレースに臨んだとは、このプチフォークロア一生の不覚でした。いちから出直しますので、また戦いましょう」

 

 プチフォークロアが。それから――他の出走ウマ娘たちも。

 キャクタスを――勝者を讃え、祝福するように、手を叩く。

 

「なんだよー、みんなして! くっそー、ボクは祝ったりしないからなー!」

「スヴェルちゃん、レースが終わったらノーサイドですよ~」

「うっさーい! くっそー、あのクマには勝ったのにオータムに負けるし、またティアラ路線の奴に負けたし、納得いかなーい!」

 

 デュオスヴェルだけがぶんぶん両手を振り回して癇癪を起こし、皆が笑う。

 キャクタスはただ、どうしていいかわからずに視線を彷徨わせ、そして。

 顔を上げると――いつの間にか、その拍手が、観客席にまで広がっていた。

 

「おめでとう、ミニキャクタス!」

「覚えたぞー、ミニキャクタスー! 桜花賞応援するからなー!」

「そのままジャラジャラもエレガンジェネラルも倒しちゃえー!」

 

 客席からあがる、あたたかな声に。

 ミニキャクタスは、その瞳を大きく見開いて――。

 ただ、深く深く、観客席に向かって一礼した。

 

 どよめきだった声は。

 勝者への祝福となって、暮れの中山に響き渡っていく。

 

 

       * * *

 

 

「おかえり、ヒクマ」

「おつかれ、クマっち」

「……おつかれさま、ヒクマちゃん」

「あっ、トレーナーさん! コンプちゃん、エチュードちゃんも!」

 

 地下バ道。コンプとエチュードを連れて出迎えた私に、ヒクマはとことこと笑顔で駆け寄ってくる。勝ったわけではないから、いつものように飛びついてはこないけれど、思ったよりもその顔は、負けたことにショックを受けてはいないように見えた。

 僅差の4着。タイム差では勝ったミニキャクタスと0.1秒差でしかない。しかし、その0.1秒が、あるいはそれ以下の数十センチ、数センチが残酷に勝者と敗者を分ける。それがトゥインクル・シリーズだということを――改めて思う。

 

「どうだった、ヒクマ? 初めてのGⅠは」

「うん、楽しかった! スヴェルちゃん速いし、オータムちゃん後ろからぐんぐん来るし、キャクタスちゃんすごかったし――楽しかった、けど」

 

 目を輝かせてそう言って、けれどヒクマはすぐに顔を伏せて、

 

「う~~~~~っ、やっぱりくやしい! 勝ちたかった! あとちょっとだったのに! あとほんのちょっとだったのに! すっごくくやしい!」

 

 やり場のない気持ちを持て余したように、ぶんぶんと両腕を振った。

 私は頷いて、その頭をいつもより軽く、ぽんと叩くように撫でる。

 

「よし、じゃあその悔しさは、来年のクラシックにぶつけるよ、ヒクマ!」

 

 ヒクマが顔を上げる。私は手を離すと、ヒクマの顔の前でぐっと拳を握った。

 

「まずは3月のトライアル、チューリップ賞! そして4月の桜花賞だ! ジャラジャラもエレガンジェネラルも、ミニキャクタスも、今度は全員まとめて倒しに行こう!」

「――うんっ! よ~っし、次は絶対負けないぞーっ!」

 

 両腕を突き上げて、ヒクマは吼える。その顔にはいつもの、キラキラと輝く笑顔が戻っている。後ろでコンプが「相変わらず単純」と肩を竦め、エチュードが苦笑する。

 初GⅠ、ティアラ路線からホープフルステークスに殴り込んで、三冠路線の有力ウマ娘と互角に渡り合っての4着。胸を張るべき結果だけれども、それで満足してはいけないし、するつもりもない。ヒクマの夢はもっともっと、大きく遠いのだから。

 この負けは、必ずクラシックの糧になる。

 私も、そうなるように、ヒクマと一緒に走りぬけていくのだ。

 年が明ければ、クラシック級。――トリプルティアラの戦いが、始まるのだから。

 

 

       * * *

 

 

 陽の暮れた中山レース場に、華やかなライトの光が満ちる。

 ウイニングライブのステージに、今日のメインレース、ホープフルステークスの上位3人の姿があった。

 ミニキャクタス、オータムマウンテン、デュオスヴェル。

 センターのミニキャクタスは、いささか緊張気味なのか硬い表情。オータムマウンテンはいつも通りマイペースな笑みを浮かべ、デュオスヴェルは3着のポジションが不満なのか軽く口を尖らせている。

 ――その姿を、私はヒクマたちとともに、観客席でサイリウムを手に見上げていた。

 

「キャクタスちゃーん、がんばれー!」

「ねえトレーナー、自分の負けたレースのウイニングライブ見に行くもんなの? 普通」

「まあまあコンプちゃん……ほら、キャクタスちゃんとオータムさんと、スヴェルちゃんの応援しよう、ね?」

「他のふたりはまあいいけど、なんであたしがアホスヴェルのライブの応援しなきゃなんないのよ!」

 

 サイリウムを振るヒクマを呆れ顔で見るコンプに、エチュードがサイリウムを差し出して、コンプが吼える。私はそれを苦笑しながら横目に見つつ、ステージを見上げる。

 ジュニア級GⅠのウイニングライブ。曲目は「ENDLESS DREAM!」。

 ――トレーニングの合間に、ヒクマがこの曲の振り付けの練習をしていたのを、私は知っている。このステージに立つために、頑張ってきたことを――知っている。

 急にこみ上げてくるものがあって、私はぎゅっと目を閉じた。

 ――立たせてあげたかった。この観客席じゃなく、あのステージの上に。

 何が足りなかったのだろう。ミニキャクタスとオータムマウンテンに差し切られた残り100メートル。ゴール板でデュオスヴェルに届かなかったあと数十センチ。どうすればその僅かな、けれど絶対的な差を乗り越えて、ヒクマをあのセンターに立たせてあげられたのだろう。あのセンターで楽しそうに踊るヒクマの姿を――見られたのだろう。

 見たかった。センターで歌って踊るヒクマの姿を。

 私が一番、見たかったのに。

 

「どしたの? トレーナーさん」

「――ああ、いや、なんでも。ほら、曲始まるよ」

 

 ヒクマが私を見上げて小首を傾げる。私は首を振って笑い返し、そしてステージに曲が流れ始めた。暗闇の中に色とりどりのサイリウムの光が踊る。

 その光の中に――ミニキャクタスの歌声が響く。

 ステージ背景の大きなビジョンに、ミニキャクタスの姿が映る。

 ちょっと硬い表情で、けれど一生懸命に歌って踊る、ミニキャクタスの姿が――。

 両サイドでは、オータムマウンテンが余裕の表情で、デュオスヴェルがちょっともたつきながらも一緒に歌とダンスをこなしていて。私たちはそれをただ見上げて――。

 

「……ヒクマ?」

 

 隣でサイリウムを振るヒクマの横顔をふと見やって――私は気付く。

 ヒクマの頬に、一筋、透明な雫が伝っていることに。

 

「ふえ? ……あ、あれ?」

 

 私に声を掛けられて振り返り、そこで頬に手を当てて、ヒクマはようやく自分の頬が濡れていることに気付いたように、ぱちぱちと目をしばたたかせた。

 その大きな目から、また一滴、つうっ、と頬を伝い落ちる。

 

「あれ? あれれ? なんでかな? トレーナーさん、わたし――」

「ヒクマ」

 

 私は思わずヒクマの肩を抱いた。ヒクマはごしごしと目元を擦って、ミニキャクタスに向かってサイリウムを振ろうとして――ひっく、とひとつしゃっくりして、そしてぎゅっと私の上着を掴んだ。

 観客席の暗さと歓声に紛れて、その微かな嗚咽は、私にしか届かない。

 私はそっとヒクマの頭を抱き寄せて、ライブが終わるまで――ヒクマの微かな震えが治まるまで、じっとその小さな肩を支えていた。

 

 ――もっと強くなろう、ヒクマ。

 今度は、あのステージの上から、この観客席を見下ろせるように。

 

 歌声は、中山の夜空に響き渡って消えていく。

 

 

       * * *

 

 

【担当ウマ娘 ジュニア級戦績】

 

 バイトアルヒクマ、4戦3勝。

 6月、メイクデビュー東京、1着。

 9月、GⅢ札幌ジュニアステークス、1着。

 11月、GⅡ東スポ杯ジュニアステークス、1着。

 12月、GⅠホープフルステークス、4着。

 次走、3月、GⅡチューリップ賞。

 

 ブリッジコンプ、4戦1勝。

 7月、メイクデビュー札幌、2着。

 8月、札幌未勝利戦、1着。

 9月、OPききょうステークス、5着。

 11月、GⅡ京王杯ジュニアステークス、3着。

 次走、1月、朱竹賞(1勝クラス)。

 

 リボンエチュード、4戦1勝。

 7月、メイクデビュー札幌、3着。

 8月、札幌未勝利戦、5着。

 10月、東京未勝利戦、1着。

 11月、GⅡデイリー杯ジュニアステークス、11着。

 次走、1月、菜の花賞(1勝クラス)。




ここまでお読みいただきありがとうございます。
というわけで、第2章ジュニア級終了です。
ここまで連載開始から7ヶ月、34万字、文庫本(40字×16行)で800ページ超……。
おかしい、これからクラシック級編とシニア級編があるはずなんだが……。
本人は楽しんで書いてますが、読者の方にもお楽しみいただけていることを祈るばかりです。

いったいどれだけ書けば終わるのか見当もつきませんが、物語はシニア級1年目まで続く予定です。
ヒクマたちX4年クラシック世代の物語に、今後もお付き合いいただければ幸いです。


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第3章 クラシック戦線・春!
第69話 アラビア料理店の看板娘


 1月1日。

 枕元のスマホの着信音で目が覚めた。誰だ、正月早々朝っぱらから……。私はのそのそとベッドから手を伸ばし、スマホを手に取り、相手もろくに確かめず通話に出る。

 

「はい、もしもし……」

『あっ、トレーナーさん! おはよー! あけましておめでとー!』

「ヒクマ? あ、ああ……おはよう。あけましておめでとう」

 

 元気いっぱいの声に目が覚めた。私は身体を起こし、部屋の寒さにぶるりと身震いしながらベッドを出る。時計を見ると朝の8時。電話の向こうのヒクマに聞こえないように欠伸を噛み殺す。

 さすがに年末年始ということで、担当の3人は全員、昨日の段階でそれぞれの自宅に帰していた。と言っても、ゆっくり三が日いっぱいお休みにしているのはレース明けのヒクマだけで、年明けすぐにレースが控えているコンプとエチュードは今日の昼過ぎには学園に戻って来て、3時からトレーニングというスケジュールである。

 

『あれ、トレーナーさん、ひょっとして起こしちゃった? ごめんね』

「いや、大丈夫。ヒクマこそ実家はどう? ご家族とゆっくりできてる?」

『うん! えへへ、お母さんにもお父さんにもいっぱい褒められた!』

 

 電話の向こうでヒクマが尻尾を振っているのが目に見えるようだ。そりゃあ、ご両親にしてみれば自慢の娘だろう。ヒクマの素直で甘えん坊で人なつっこい性格は、ご両親に愛されて育ったたまものなんだろうなあ、とぼんやり思う。

 

『あ、それでね、トレーナーさん!』

「うん?」

『お母さんがね、一度トレーナーさんに挨拶したいんだって! 良かったら今日これからお店に来てもらって、せめてお昼でも食べてってもらおうって言ってるんだけど』

「今から?」

 

 もう一度時計を見て、ヒクマの実家の住所を思い出す。お店、というのはヒクマの母親が経営しているというアラビア料理店のことだろう。今からなら――うん、支度して車を出して向かって、お昼を御馳走になっても、3時までには充分に学園に戻れるか。

 大切なひとり娘の競走生活を預かっている身であるし、一度ヒクマのご両親にはきちんと挨拶したいところでもあった。ちょうどいい機会だろう。

 

「うん、わかった。私は大丈夫だよ。今から朝ご飯食べて支度して……そうだね、10時ぐらいにはそっちに着けるかな?」

『ほんと? やった! じゃあお母さんにそう伝えるね!』

「うん、よろしく。じゃあ、またあとで」

『うん、待ってるね!』

 

 通話を切り、私はひとつ息を吐く。やれやれ、予定外の展開だけれど、まあいいか。

 ひとつ伸びをして、とりあえず眠気覚ましにシャワーでも浴びることにした。

 

 

       * * *

 

 

 そんなわけで、ナビを頼りにやってきた先は――。

 

「……ここか」

 

 近くの駐車場に車を止め、アラビア文字と英語が並んだ看板を見上げる。マンションの一階が店舗になっているようだった。《準備中》の札が下がったドアに手を掛けようとすると、中からいきなりドアが開いて私はのけぞる。

 

「あっ、トレーナーさん! あけましておめでとう!」

 

 ドアを開けたのはヒクマだった。「もう3回目だよ、新年の挨拶」と私は苦笑しながら、ヒクマに促されて店の中に足を踏み入れる。――と。

 

「あらあらあらあらあら、どうもどうもどうもどうも!」

 

 すごい勢いでまくし立てるように、こちらへずんずんと歩み寄ってくる、エプロン姿の芦毛のウマ娘。ヒクマと違って芦毛は短くしているけれど、はっきり面影がある。

 

「あけましておめでとうございます! はじめましてヒクマの母です!」

「あ、ど、どうも、あけましておめでとうございます、はじめまして――」

 

 いきなり手を握られてものすごい勢いで距離を詰められてしまった。ヒクマに似た大きな瞳でこちらを覗きこんでくるヒクマの母。ヒクマの距離感の近さ、というかパーソナルスペースの狭さはどうやらこの母親譲りらしい。

 

「いやあもううちのヒクマがいつもご迷惑をお掛けしてすみません! 大変でしょうこの子の面倒見るのは! 昔っから落ち着きのない子で! ちょっと目を離すとすぐぱーっと駆けだしてどこか行っちゃうような子なもので!」

「い、いえいえそんな、こちらこそお嬢さんを担当させていただきながら今まで御挨拶もせず失礼を――」

「いいんですよそんな! ウマ娘のトレーナーさんが忙しいことなんて百も承知ですから、私たちも落ち着きのないこの子の面倒見てくれるトレーナーさんがいるかどうか心配してたぐらいですから、もううちの子に目をかけてくださっただけで感謝感激、その上あんな立派な姿まで見せていただいて、ありがとうございますありがとうございます!」

 

 ぶんぶんぶんとものすごい勢いで腕を振られてちぎれそうである。いやはや、この娘にしてこの母ありというか――いかにもヒクマの母親という感じの女性だ。

 

「もう、お母さん、トレーナーさん困ってるよ」

「ああ、ごめんなさいごめんなさい! ついテンション上がっちゃって、私も娘のこと言えませんね! ほらヒクマ、トレーナーさんにお茶お出しして! ささ、どうぞどうぞ、うちの店の自慢のメニュー用意しますから!」

 

 厨房の前のカウンターの席に案内される。椅子に腰を下ろすと、ヒクマがエプロンをつけてトレーに載せたティーカップを運んできた。

 

「はい、トレーナーさん、お茶」

「ああ、ありがとう。……ハーブティーか何か?」

「うん、カルダモンティー。食事の前に飲むと消化がよくなるんだよ」

「へえ。……ヒクマ、そうやってお店の手伝いもしてたんだ?」

「えへへ、うん。学園に入るまではいつもお手伝いしてたの。似合う?」

「うん、似合うよ」

「えへへ~」

 

 エプロンをひらひらさせて、くるりとその場で回ったヒクマは、嬉しそうに顔をほころばせる。それから私の耳元に口を寄せて、

 

「……お母ちゃん、うるさくてごめんね?」

 

 そう囁いた。私はハーブティーを啜りながら小さく苦笑する。

 

「大丈夫、ヒクマで慣れてるから。そっくりだね、お母さん」

「ええ~? わたし、あんなにうるさいかなあ?」

 

 口を尖らせてヒクマは首を傾げる。テンションが上がったときの様子はそっくりだと思うが、私は笑うだけにしてヒクマの頭をぽんぽんと撫でた。

 それから、ぐるりと店内を見回す。中東をイメージしたのであろう装飾や小物で彩られた店内の壁には、何枚もの写真が額に入れられて飾られている。砂漠の写真、高層ビルの並ぶ都市の写真、民族衣装を着た人々の写真。――それから、私もテレビで見たことがある、あの砂漠の都市にあるレース場の写真。

 立ち上がって、私はその写真を見上げた。ドバイ、メイダンレース場。そのターフで、勝負服姿の芦毛のウマ娘が、トレーナーらしき男性と並んで写真に収まっている。今よりも長いその銀色の芦毛は――。

 

「それ、お母さんがドバイシーマクラシックに出たときの写真」

 

 ヒクマが隣で同じ写真を見上げて言った。――なるほど、これがヒクマの夢の原点か。

 写真の中で、若かりし頃のヒクマの母は、少し緊張した面持ちで胸に拳を当てている。

 

「あらやだ、お恥ずかしい。いつまでも若い頃の栄光にすがってるみたいで恥ずかしいんですけどねえ、その写真。こっちじゃ昔のドバイのウマ娘のことなんて知ってる人もまずいないですし。でも外そうとするとヒクマが『ダメー!』って言うもので」

 

 厨房の中で手を動かしながらヒクマの母が言う。

 

「だってお母さんが一番かっこいい写真だもん! 外しちゃダメだよ!」

「そんなこと言われてもねえ。お母さんはそこにヒクマの写真飾りたいの。ほら、メイクデビューのライブとか、東スポ杯勝ったときの写真とか」

「そっちの方が恥ずかしいよぉ~。昨日帰ってきたとき近所の人たちに聞いたよ? わたしがレース勝ったあと、毎回店中わたしのレースの新聞記事とか写真とかで埋め尽くしてるんでしょ?」

「だってその方がお客さんも喜んでくれるもの! みんなヒクマのことが大好きなんだから! ヒクマのレースのときはみんなそこのテレビにかじりついて大騒ぎなんだから」

 

 頬を膨らませるヒクマに、母親が笑って答える。

 

「ヒクマは学園に来る前から人気者なんですね」

「そりゃもう、うちの看板娘ですから! お客さんたちは、俺たちのヒクマちゃんが日本中のみんなのヒクマちゃんになっちゃうってさみしがってるけどね~。お母さんは鼻が高い!」

 

 呵々と笑う母親に、ヒクマが照れくさそうに身を縮こまらせた。あのヒクマも、この母親相手ではたじたじか。微笑ましい母子のやりとりに、顔がほころぶ。

 ――と、カランカラン、とドアベルが鳴った。

 

「おう、あけましておめでとう! ヒクマちゃん帰ってきてるって?」

「おー、ヒクマちゃん! でっかくなったなあ! お? そこにいるのは――」

 

 どやどやと店の中に入ってきたのは、どう見ても近所の住人の皆さんである。

 

「こらこら、まだ準備中だし、今はヒクマのトレーナーさん来てるの!」

「なに、ヒクマちゃんのトレーナー!?」

 

 店に入って来た集団がざわめき、そしてあっという間に私は取り囲まれていた。

 

「あんたがトレーナーさんか! 養成校出たばかりの新人だって? 若いなあ!」

「おうおう、ヒクマちゃんに怪我でもさせてみろ、タダじゃおかねえぞ!」

「ヒクマちゃんだけじゃなくて友達も担当してるんだって? 大丈夫なのかい?」

「あ、あの、ええと――」

 

 ご近所の皆さんに詰め寄られ、私はホールドアップしてたじろぐしかない。

 

「もー、みんなストップ! トレーナーさん困ってるでしょ!」

 

 ヒクマがエプロンを翻して割って入ると、ご近所の皆さんはぴたっと静止し、瞬く間にその表情が孫でも見るかのように緩んだ。

 

「おー、ヒクマちゃん、ホープフルステークス惜しかったなあ!」

「お母さんが店休みにするから、みんな中山まで行ってスタンドで応援してたんだぞ!」

「ヒクマちゃんの勝負服かわいかったねえ」

「トレセン学園はどうだい? 積もる話聞かせておくれよ!」

 

 あっという間に向こうの興味は私からヒクマに移る。

 

「もー、みんな座って、注文取るからー! お母さん、もう営業中ってことにしちゃう?」

「やれやれ、しょーがない! みんな正月から暇持て余しすぎだよ! トレーナーさん、そういうわけだからうるさくてごめんなさいね!」

 

 ヒクマがご近所さん軍団をテーブル席に促し、ヒクマの母が腕まくりする。私は苦笑して、伝票を手に注文を取りに走るヒクマの後ろ姿を見つめた。

 ――たくさんの人の愛情をいっぱいに受けて育ったから、ヒクマはあんなにも、周りを元気にしてくれるような子に育ったのだな。そんなことを思う。

 

「……トレーナーさん」

 

 と、そのざわめきの中で、厨房からカウンター越しに、ヒクマの母の声がした。

 

「あの子……ヒクマは、ドバイに行けると思います?」

「――――」

 

 その問いに、私は――迷うことなく、頷いた。

 

「行けますよ。必ずヒクマを、ドバイにつれて行きます。――GⅠウマ娘として」

 

 その答えに、ヒクマの母は――その顔を隠すみたいに伏せて。

 

「……うちの娘を、どうか、よろしくお願いします」

 

 そう、深々と頭を下げた。

 私はただ――「はい、確かに」と頷くだけで、それに答えた。



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第70話 もう一度一緒に

 1月3日、水曜日。

 

「たっだいまー! トレーナーさん、コンプちゃん、エチュードちゃん、あけましておめでとー!」

「はいはいあけおめ、ってわぷっ、ちょっとクマっち、のしかかんないでよ!」

「あけましておめでとう、ヒクマちゃん。……実家、どうだった?」

「うん! みんな喜んでくれてた! わたしもエネルギー充填120パーセント! トレーナーさん、う~~~っ、今日からまたいっぱいがんばるよ! めざせ桜花賞!」

「ああ、がんばろう!」

 

 ヒクマが学園に戻ってきたのを、私たちはトレーナー室で出迎えた。昨日一昨日と、コンプとエチュードのふたりだけでトレーニングをしていたが、やっぱりヒクマがいるとぐっと場が明るくなる。

 

「でも、その前に――みんなで初詣行こうか」

「初詣! うん、行く行く!」

 

 普段の騒がしい日常が戻ってきたのを実感しながら、嬉しそうに尻尾を振るヒクマの頭をぽんぽんと撫でる。コンプが何やらエチュードの脇腹をつつき、エチュードが困ったように首を横に振っているのはなんだかよくわからないが、何にしても、やっぱり私たちの中心にいるのは、この太陽のように明るい笑顔なのだった。

 

 

 

 というわけで、学園の近所にある神社にやってくる。学園の近所だけあって、多くのウマ娘が必勝祈願に訪れる神社だ。私たちの他にも、正月休みから戻ってきて初詣に来たのだろうウマ娘たちの姿がちらほら見えた。

 さて、担当3人分の必勝祈願である。ここは奮発せねばなるまい。私が財布から1万円札を出すと、コンプが目を丸くする。

 

「え、トレーナー、なに、そんな大富豪だったっけ?」

「いや、気持ち的にね。ヒクマとエチュードがトリプルティアラで、コンプが短距離GⅠで勝てますように――なんて欲張ったお願いするんだから、奮発しないと」

 

 そう言いながら1万円札を賽銭箱に投じようとすると――横から手が伸びてきて、ぱっと1万円札を攫われた。なんだ、なんて大胆な賽銭泥棒か――と思ったら、その手の主はコンプである。不満げに口を尖らせて、コンプは1万円札をひらひら揺らす。

 

「トレーナー。つーまーりー、あたしたちのGⅠ勝利は賽銭箱に1万円投じないと叶わないような大それた無謀なお願いだって思ってるわけ?」

「え、いや、そんなつもりじゃ――」

「神頼みに1万円使うぐらいなら、蹄鉄とかサプリとかトレーニング器具とか買うのに使いなさいよ! というわけでこの1万円は没収! お賽銭なんて奮発しても100円でじゅーぶん! あたしは100円でGⅠ勝ってあげるから見てなさいっての!」

 

 そう言って、コンプは1万円を羽織ったコートのポケットに仕舞い、100円玉を賽銭箱に放って手を合わせる。――まあ、確かにコンプの言うことも一理あるか。神頼みより有効な使い方など、いくらでもある。

 神社の人の視線が微妙に痛かったような気がしないでもないが、100円を投じて神様に手を合わせる。――ヒクマ、エチュード、コンプ。3人とも、目標を達成できますように。

 ヒクマとエチュードもそれぞれ手を合わせ、それから3人でおみくじを買った。

 

「やったー、わたし大吉!」

「……小吉です」

「ちょっとー、なんであたし凶なのよ!」

 

 なんだかいかにも3人らしい結果を引き当てる姿に、私は顔をほころばせる。

 この子たちのクラシック級の1年が、幸いなものでありますように。

 神頼みとはまた別に、私はただ、そう祈った。

 

 

       * * *

 

 

 学園に戻り、ジャージに着替えてグラウンドへ。コンプは7日の朱竹賞へ向けて最終追い切りの頃合い、エチュードも14日の菜の花賞へ追い込んでいく時期だ。年明け早々だが、のんびりしている暇はない。

 

「よし、それじゃあ3人とも、今年の目標は? ヒクマ」

「うん! トリプルティアラとエリザベス女王杯、ぜんぶ勝ーつ!」

 

 ぐっと拳を掲げて、ヒクマは大きくそう宣言する。来年のドバイへ、テイクオフプレーンと同じGⅠ4勝。壮大な目標だが、どれかひとつ勝てれば、なんて意気込みで勝てるほど甘くないだろう。全部勝つ。そのつもりでいいのだ。

 

「コンプは?」

「あの三つ編み眼鏡と二つ結びとを倒して、スプリンターズステークス勝って、年末の香港スプリントで短距離最強になる!」

 

 ユイイツムニとチョコチョコか。ふたりともジュニア級GⅠで距離の壁に跳ね返された結果だっただけに、おそらくは短距離戦線に目標を定めてくるだろう。ということは、これからもあのふたりとの対決は避けられない。あのふたりを倒すことは、そのままコンプの目標に直結する。

 

「エチュードは?」

「わっ、私は……その、ええと……つ、次の、菜の花賞、がんばります……っ」

 

 壮大な目標を立てる友人ふたりに気圧されたのか、小さく身を竦めながら、ぐっと胸の前で拳を握るエチュード。――うん、まあ、エチュードの場合はそれでいいのかもしれない。まずは自分に自信を持てるように、目の前の目標からひとつひとつ。ヒクマやコンプのような大きな夢を見つけるのは、その後ででもいいはずだ。

 

「よーし、3人とも、目標のために今の自分に何が足りないか、どんな自分を目指すのか、しっかり考えて、目的意識を持って取り組んで行こう!」

 

 はーい、と3人の声が唱和する。

 

「じゃあ、コンプとエチュードはレースに向けて最後の追い込み、みっちりいくよ。ヒクマはまだ次のレースは先だから、今のところは軽めの調整ね」

「えー。トレーナーさん、わたし思いっきり走りたい!」

「クマっち、実家で正月太りしてお腹ぷにぷにになってない? まずダイエットしなきゃ」

「なってないよー!」

 

 コンプがヒクマの脇腹をつつき、ヒクマが口を尖らせる。その様子に苦笑しながら、私は周囲を軽く見回した。――約束だと、そろそろ来てもいい頃だと思うのだが。

 と、ヒクマがその大きな目を見開き、ぱっと手を振る。

 

「あっ、キャクタスちゃん!」

「………………どうも、あけましておめでとうございます…………」

「おわあっ、小坂トレーナー! いたんですか!」

 

 また突然背後に現れた小坂トレーナーに、私はのけぞる。その隣には――ミニキャクタスが、少し気まずそうな顔をして、手を振るヒクマに小さく右手を挙げていた。

 

「あ、あけましておめでとうございます。……ええと」

「…………はい、また、よろしくお願いします」

 

 小坂トレーナーは、そう言って長い黒髪を揺らしてぺこりと頭を下げる。ミニキャクタスも一緒に一礼。ヒクマが「ほえ?」と首を傾げる。

 

「え、トレーナーさん、もしかして……」

「うん。昨日、小坂トレーナーとミニキャクタスから連絡があってね。――また、一緒にトレーニングさせてほしいって。みんな、いいよね?」

 

 私の言葉に、ヒクマたちは顔を見合わせ――そして。

 

「やったあ! またキャクタスちゃんと一緒にトレーニングだ!」

 

 ヒクマは諸手を挙げてミニキャクタスに駆け寄り、その手を掴んで顔を寄せる。例によってゼロ距離まで詰め寄ってくるヒクマに、ミニキャクタスがたじろぐようにのけぞる。

 

「あけましておめでとう、キャクタスちゃん! またよろしくね!」

「……う、うん……あけまして、おめでとう……よろしく」

 

 恥ずかしそうに顔を伏せるミニキャクタス。コンプとエチュードは、そんな様子にいつも通りに小さく苦笑していた。

 

 

       * * *

 

 

 ミニキャクタスとの合同トレーニングは4カ月ぶりだけれど、そのブランクを感じさせないほどに、ミニキャクタスはすぐ3人に馴染んだ。いや、主にブランクなんて完全に無関係という調子でミニキャクタスを引っぱるヒクマのペースに、最初はこわごわという様子だったミニキャクタスがあっという間に巻き込まれた、という方が正しい。

 いかにもヒクマらしいな、と思う。ホープフルステークスで自分を負かした相手にも、気にせず笑顔で距離を詰めていく。負けが悔しくないわけがない。そんなことはあのライブの観客席でのヒクマの様子でわかっている。と言って、レースの結果と日常の友人関係は別、と割り切っている――というのとも少し違う気がする。

 

「よーし、一旦休憩!」

 

 手を叩くと、コンプが「ぐえー」と大の字で芝生に倒れこみ、ヒクマがしゃがみこんで「コンプちゃん、だいじょぶ?」とその頬をつつく。エチュードがスポーツドリンクのボトルを差し出し、受け取ろうと身を起こしたコンプが、覗きこんでいたヒクマと思いっきり頭をぶつけた。「だ、大丈夫? ふたりとも」とエチュードがおろおろし、ヒクマは「うう~」と涙目で呻き、コンプは「あったー」とそのまま芝生に再び倒れこんだ。

 そんな様子を苦笑しながら眺めていると――不意に横に誰かが来たような気配を感じて、私は振り返った。また小坂トレーナーがいつの間にか……と思ったら、違う。隣にいたのはミニキャクタスである。

 

「……あの」

「うん?」

「……ご迷惑お掛けして、すみません。私のわがままで、お世話になったり、何のお礼もしないまま離れたり、またこうして図々しく戻って来たり……」

「いやいや、全然。こっちとしては、ヒクマの目標になる相手とまた一緒にトレーニングできてありがたいという気持ちしかないんだけど……」

 

 答えながら、そういえば小坂トレーナーとはときどき話すけど、この子自身とちゃんと話すのは初めてだな、と思う。普段は存在感も薄く、木訥とした様子のこの子が、レースで見せるあの電撃のような末脚。そのギャップも含めて、なんだかよくわからない子だな、というのが私の率直な印象だった。

 ヒクマを倒すためにホープフルステークスを選んだということは小坂トレーナーから聞いている。その目的通りにホープフルステークスを制してGⅠウマ娘になった彼女が、次に標的にするのはジャラジャラとエレガンジェネラルだろう――と思っていたので、小坂トレーナーから、『…………キャクタスちゃんが、もし良かったらまたヒクマちゃんと一緒にトレーニングしたいと言っているんですが』という相談を受けたときには正直なところ、私も驚いたのだ。私としては、今後はその背中を追いかける相手になると思っていただけに、向こうからまた近付いてくるとは……。

 

「……目標……私が、あの子の……?」

「ん? うん、君を倒さないと、トリプルティアラには届かないからね」

「…………」

 

 私の答えに、ミニキャクタスは無言で俯いてしまう。

 

「…………あの、ウイニングライブのとき」

「ホープフルステークスの?」

「……はい。…………ヒクマちゃん、泣いてました……よね」

 

 私は頬を掻いた。まさか見られていたとは……。

 

「……ステージの上からでもわかるぐらい目立ってた?」

「い、いえ……。ヒクマちゃんのこと、目で探してたから……なんです、けど」

 

 恥ずかしそうに俯いて、ミニキャクタスはぎゅっと拳を握りしめる。

 

「…………ホープフルステークスで勝ったとき、私、ヒクマちゃんに……嫌われても仕方ないって、そう、思ってました。……私だったら、もし負けていたら、悔しくて、悔しくて、それまで通りに友達でいられる自信が……無かった、ので」

「…………」

「だから……ヒクマちゃんから、『おめでとう』って言われたとき……悔しくないの? って思ったんです……。悔しいって、ヒクマちゃん言ってましたけど、でも、負けた直後に私に『おめでとう』って言える程度の悔しさで……結局、その程度の覚悟でレースに臨んでるような子なんだって……そんな、風に、傲慢なこと、考えていました」

 

 ――ああ、と私は黙って、心の中だけで頷いた。

 そういうことか。ミニキャクタスについて、いろいろなことが腑に落ちた。

 この子は――とんでもない負けず嫌いで、同時にとんでもなく繊細なのだ。

 アスター賞のあと、ホープフルステークスまでヒクマと距離を置いたのも。つまりは、ただ――勝負の世界で友達と傷つけあいたくなかった。それだけのことなのだろう。

 

「でも……あの場で、ヒクマちゃん以外の子たちからも『おめでとう』って言われて……ライブの観客席で、泣いてるヒクマちゃんを見て――自分の心が、どれだけ狭かったのか、思い知らされました……。みんな、負けて悔しいなんて当たり前で……でも、それでも、自分を負かした相手を素直に讃えられる……そのぐらい、戦う相手に、敬意を持って勝負に臨んでるんだって……。覚悟が全然足りてないのは、私の方だったって……。自分が負けたくないってことしか考えてなかった私は……ちっぽけだなあ、って、ライブのあと、すごく……恥ずかしくなりました……」

 

 私は、ミニキャクタスの頭にぽんと手を乗せていた。ミニキャクタスが驚いたように顔を上げる。私は目を細めて、小さく頷く。

 

「……それでも、また、ここに来てくれたんだよね?」

「――――っ、……はい」

 

 ぎゅっと目を瞑り、ミニキャクタスは吐き出すように言う。

 

「もう一回……今度は、ちゃんと……ヒクマちゃんと、友達に、なりたい……です」

 

 私は頷いて、ぽん、とミニキャクタスの背中を押した。たたらを踏むように、ミニキャクタスが小さくよろめて、数歩、ヒクマの方に足を踏み出す。

 ヒクマが、こちらに気付いて、いつもの笑顔で大きく手を振った。

 

「キャクタスちゃーん!」

 

 ミニキャクタスが目を見開き、ちらりと私を振り向いた。私は頷き、「行っておいで」ともう一度その背中を押す。

 ミニキャクタスは、ぐっと意を決したように、ヒクマの方へ駆け寄り――さっそく、ヒクマにゼロ距離まで詰め寄られて、その目を白黒させていた。

 その姿を見ていれば、ヒクマの気持ちについて、私が余計な差し出口を挟む必要なんてないことがわかる。――最初からヒクマは、ミニキャクタスのことをずっと友達だと思ってるし、「ちゃんと友達になる」必要なんて最初からないんだよ――。そんなことは、私が言わなくたって、ヒクマのあの笑顔が全て示しているのだ。

 

「…………ありがとうございます」

「おわっ、小坂トレーナー」

 

 いきなり背後から声をかけられて、私は飛び上がる。――ミニキャクタスも大概だけれど、本当にこの人は心臓に悪い……。

 

「……キャクタスちゃんが、私以外の誰かに、あんなに自分のことを話したのなんて……初めて見ました……。……すごい、ですね……」

「いや、ただ彼女が懺悔したくて、でもさすがにヒクマに直接は言えないからでしょう。大樹のウロ代わりにでもしてもらえたなら、光栄ですよ」

 

 本当は懺悔する必要すらないことなのだけれど。勝負の世界で、たったひとつの勝者の地位を奪い合う立場である以上、馴れ合うべきではないというミニキャクタスの考え方は理解できる。そんなことは気にしないで友達になろうとするヒクマと、たぶんどっちが正しいということでもないのだ。

 ただ――私は、ヒクマとミニキャクタスが友達でいてくれた方が、きっとふたりとも強くなれると思う。だから、ふたりには友達でいてほしい。それだけのことなのである。

 ヒクマが笑い、ミニキャクタスが恥ずかしそうに顔を伏せる。けれど、ミニキャクタスのその表情は、さっきよりも随分柔らかい。

 その顔が、たぶん今、あの子たちにとって最適な答えなのだろう。そう思った。

 



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第71話 〝四強〟

 〝ティアラ四強〟。

 ミニキャクタスが制した年末のホープフルステークスのあとから、SNSやメディアには自然発生的にそんな文字が踊るようになっていた。

 もちろん、ジュニア級GⅠの成績がそのままクラシックでも通用するわけではない。ジュニア級GⅠ組が伸び悩み、春の前哨戦やトライアルで台頭してきたウマ娘がそのままの勢いでクラシックを獲る――というパターンの方がむしろ多いぐらいである。

 だが、年明けの段階で既にそう言われてもおかしくない程に、その4人がジュニア級で見せたパフォーマンスは飛び抜けている。

 阪神JFで他を圧倒しレコードの死闘を演じた、ジャラジャラとエレガンジェネラル。

 ホープフルステークスで並み居る三冠路線の注目株を撫で切った、ミニキャクタス。

 それから、ホープフルSでは僅差の4着に敗れこそしたが負けてなお強しのパフォーマンスを見せた、バイトアルヒクマ。

 全員が、クラシックは桜花賞に向かうことを宣言している。この4人が春に向けてさらに伸びてくるならば、トリプルティアラ史上最高レベルの四強対決になるだろう。この四強に割り込む新たなウマ娘の台頭はあるのか。4月の桜花賞では、いったいどんな戦いが繰り広げられるのか。ファンからもメディアからも、注目はますます高くなっている――。

 

 

「……だってさ、クマっち。四強だってよ、四強」

「ほへー。キャクタスちゃん見て見て、キャクタスちゃんも名前出てるよ」

「…………う、うん」

 

 1月4日、木曜日。トレーニングの休憩時間に、コンプがスマホで見つけたネットの記事を見せて回っている。私もその記事は見ていたが、なんというか、ヒクマの担当としては光栄と受け取るべきか、明らかに4番手扱いなのを悔しがるべきか――。まあ、事実としてホープフルステークスで負けている以上、現状の評価がミニキャクタスより下になるのは仕方ないけれども。

 

「…………正直なところ、だいぶ、プレッシャーです…………」

 

 小坂トレーナーが、私の横で俯きながらボソボソと言う。

 

「キャクタスちゃんが、勝てたのは……私の力なんかではないですから……。私は、キャクタスちゃんという才能をたまたまスカウトする幸運に恵まれただけで…………」

 

 いやいや――と返そうとして、自分も周囲からなんやかんや言われるたびに同じようなこと言ってたな、と気付いて私は頭を掻いた。まあ実際、私もヒクマ、コンプ、エチュードという3人もの才能と巡り会えたのは幸運以外の何物でもないと思っているけれども。

 そして実際、担当が持ち上げられるのがプレッシャーだというのは、私自身ひしひしと感じているところだ。勝てばウマ娘の才能、負ければトレーナーの責任――というのはトレーナーの立場というか役割を端的に示した言葉である。レースに負けた責をトレーナーが背負うのは、繊細な10代の少女であるウマ娘に対して大人として世間の雑音からの盾になるということ。トレーナーはウマ娘の才能を伸ばすだけでなく、その才能を守るためにいる――というのは、養成校で耳にタコができるほど聞かされた言葉だ。

 そして、だからこそ、今は上手くいっていても、この先もそうとは限らない。一度きりの彼女たちの競走人生を背負うということ……。考えるほどに胃が痛くなるのは、私が新人だからだろうか。だけど、まだ10代の少女たちの青春を預かっているのだからこそ、無責任にはなりたくないと思う。小坂トレーナーも、同じ気持ちなのだろう。

 

「……胃が痛いですね、お互い」

「…………胃薬、要りますか…………?」

 

 苦笑して、そして小坂トレーナーと一緒に小さく溜息をつく。――ジャラジャラとエレガンジェネラルの担当の棚村トレーナーと王寺トレーナーは、どちらも既に実績のある中堅トレーナーだ。先輩トレーナーのふたりは、このプレッシャーとどう付き合っているのだろう。あるいは、同期の桐生院トレーナーは……。

 そんなことを思いながら、私たちのプレッシャーなど知らぬ顔ではしゃぐヒクマたちに目を細めていると――。

 

「あっ! やーっと見つけたぞ、そこのお前、えーと、ミニキャラメル!」

「失礼じゃないですか。ミニキャクタスさんですよ、ジャラジャラさん」

「ああそうだそうだ、なーんか頭の中でごっちゃになるんだよな、ミニキャク……キャクタス? あーもう言いにくいんだよ!」

 

 そんな声がいきなり割り込んできて、私は目を見開いた。ヒクマもその目を大きく見開き、名前を呼ばれたミニキャクタスがびくりと身を竦める。

 現れたのは、四強の残りふたり。――ジャラジャラとエレガンジェネラルである。

 

「すみません、ジャラジャラさんが失礼します」

 

 エレガンジェネラルがこちらに礼儀正しく頭を下げ、ジャラジャラはそれに構わず、のしのしと大股でヒクマとミニキャクタスに歩み寄った。そして、じっとジト目でミニキャクタスの顔を覗きこむ。ミニキャクタスが気圧されたようにのけぞった。

 

「よーし、今度こそ覚えた! もー忘れねーぞ、ミニキャクタス!」

「いい加減にしたらどうですか。不審者以外の何物でもありませんよ」

「いててて、こらジェネ、耳引っぱんなって! いてーって!」

 

 エレガンジェネラルに耳を引っぱられ、ジャラジャラが悲鳴をあげる。エレガンジェネラルは溜息をついてジャラジャラの前に出ると、優雅に一礼した。

 

「大変失礼いたしました。ミニキャクタスさんとバイトアルヒクマさんですね。選抜レースの際はお世話になりました。エレガンジェネラルと申します。改めまして、以後お見知りおきを。あちらの無礼者はまあ紹介せずともご存じかと思いますので、何か無茶苦茶なことを言い出したら適当にスルーしておいてください」

「ひでー言い草だなあジェネ」

「言われたくなかったらもう少し常識を身につけてください」

 

 口を尖らせるジャラジャラに、腕を組んで溜息をつくエレガンジェネラル。そんな様子に、ヒクマとミニキャクタスは顔を見合わせる。

 

「どうも申し訳ありません。以前、模擬レースをされていたでしょう。オータムマウンテンさんやデュオスヴェルさんも交えて。ジャラジャラさんがあれを見ていて、ミニキャクタスさんのことが気になっていたのだそうですけれど、先日のホープフルステークスまで顔も名前も思い出せなかったそうで――記憶力までいい加減な人で本当にすみません」

「もう覚えたんだからいいだろ。あんな走り見せられちゃ、忘れようにも忘れらんねえ」

 

 ぱん、とジャラジャラは拳を打ち鳴らして、その右拳をミニキャクタスへ突き出す。

 

「お前、桜花賞来るんだろ?」

「………………はい」

 

 ミニキャクタスは目をしばたたかせ、それからぐっと唇を引き結んで顔を上げ、短くそう答えた。――その表情には、普段の木訥とした影の薄い彼女のものとは思えない、静かな闘志がみなぎっている。まるで、ホープフルステークスの前のときのように。

 

「よっしゃ。ジェネと、そこのクマと、全員まとめてあたしがねじ伏せてやる。今日のところは、その宣戦布告だ。つまんねー怪我とかすんじゃねーぞ!」

「わたしクマじゃないよー! バイトアルヒクマ!」

「あー、うん、覚えてるっての。バイトツキノワグマ」

「バイトアルヒクマだってばー!」

 

 ヒクマがむー、と口を尖らせて両手をぶんぶん振りながら抗議する。「あーわかったわかった」とジャラジャラが頭を掻いていると、不意にミニキャクタスが、その胸元に拳を突き出した。ジャラジャラが目を見開く。

 

「…………桜花賞。勝つのは、私ですから」

 

 静かな、けれども決然としたその声音に、ジャラジャラの顔に――獰猛な笑みが浮かぶ。

 

「――いいねえ、そのツラ。ゾクゾクくるぜ。そうこなくっちゃな!」

 

 もう一度拳を突き返すジャラジャラ。――蚊帳の外に置かれたヒクマが唸る。

 

「むーっ、わたしだって負けないもん! 桜花賞、絶対勝つよ!」

「すみません、バイトアルヒクマさん。ジャラジャラさん、今は彼女のことしか目に入っていないようですので。――負けた者同士、今は静かに牙を研いでおきましょう」

 

 エレガンジェネラルが溜息交じりに横から声をかけ、ヒクマはきょとんと振り返る。

 

「あ、えと、エレガンちゃん? ジェネラルちゃん?」

「どちらでも、お好きなように」

「じゃあ、ジェネラルちゃんって呼ぶね! わたしのことも、ヒクマでいいよ!」

「わかりました、ヒクマさん。知恵の館、良いお名前ですね」

「えへへ~。ジェネラルちゃんも名前かっこいいね!」

「恐縮です。――今はああですが、ジャラジャラさん、ちゃんとヒクマさんにも一目置いてますから。以前に併走をお願いされませんでした?」

「あ、うん。一緒に走ったよ!」

「ジャラジャラさんが自分から行ったということは、貴方も彼女のターゲットに入っているということですから。――もちろん、私も貴方のことは前々から注目していました。桜花賞で一緒に走れるのを楽しみにしています」

「うん、わたしも楽しみ! ジャラジャラちゃんもジェネラルちゃんもすっごく強いもんね! でも、わたしだってこれからもっと強くなるもん!」

 

 ぐっと拳を握って言うヒクマに、エレガンジェネラルは微笑んで頷き、それからジャラジャラに視線を向ける。

 

「で、ジャラジャラさん。用が済んだのでしたらトレーニングのお邪魔ですよ。そろそろ戻らないと私もトレーナーに叱られてしまいますが」

「あー? いいだろもう少しぐらい」

「いえ、それにですね――」

 

 と、エレガンジェネラルがぐるりと周囲を見回す。

 ――そこにはいつの間にやら、結構な人数のギャラリーが集まっていた。取材に来ていたらしい記者の姿も見える。明らかにティアラ四強勢揃いの写真を撮りたくてウズウズしている様子だ。

 

「うげ、なんだこのギャラリー」

「今年のティアラ路線の四強が集まってるんですよ? 当然の反応です」

「ったく、勘弁してくれよ。悪ぃ、邪魔したな! じゃ、あたしは逃げっからジェネ、後は任せた!」

「あっ、ジャラジャラさん! また貴方はいつもそう毎回毎回――それでは、私も失礼させていただきます。お邪魔してしまい申し訳ありませんでした」

 

 脱兎のごとく逃げ出すジャラジャラと、律儀に挨拶を欠かさずそれを追いかけていくエレガンジェネラル。――やれやれ、なんというか、嵐のようだ。

 

「ぐむむ」

 

 と、完全に蚊帳の外だったコンプが何やら唸っている。

 

「コンプ?」

「あーもう、言えた立場じゃないのは解ってるけど、なんていうか立場の違いを思い知らされたってゆーか……うーがー、あたしだってそのうち自分の力でこれだけギャラリー集められるようになってやるんだから!」

 

 吼えるコンプに私は目を細めて、「そうだね」とぽんぽんと頭を撫でた。「撫でるなー!」とコンプがぶんぶん手を振り、私は笑って手を離す。

 

「せっかく人が集まってるんだ。今のうちに最終追い切りでコンプの走りを見せておこうか。エチュード、併走お願いするね」

「あっ、はい!」

 

 同じく蚊帳の外だったエチュードに声を掛ける。――エレガンジェネラルはエチュードにもちらりと視線をやって目礼していたので、無視されていたわけではない。エチュードがそれをどう受け取ったかは私にはわからないが――少なくともエチュードの表情に曇りはないように見える。

 追い切りの準備を始めるコンプとエチュードの様子を見ていると、隣にヒクマが歩み寄ってきた。ミニキャクタスは――何か、小坂トレーナーと話をしているようだ。

 

「トレーナーさん」

「どうしたの、ヒクマ」

 

 振り返ると、ヒクマはぐっと拳を握りしめ、ぎゅっと唇を引き結んで私を見上げた。

 

「わたし、もっと強くなりたい! ――四強じゃなくて、一番になりたい!」

 

 その言葉に――私は、思わず目を見開いた。

 ホープフルでの敗戦。あの記事での4番手扱い。――そして、ジャラジャラが明らかに、ヒクマよりもミニキャクタスをターゲットにしていたこと。それらをヒクマがどう受け止めているのか――その答えが、今のヒクマの表情の中にあった。

 レースではいつも、誰よりも楽しそうに走るヒクマだけれど。

 ウイニングライブの観客席でのあの涙。それから、今のこの表情。――負けて悔しいという気持ちも、傷つくだけのプライドも、この子の中にはちゃんとある。

 改めて目の前にしたその事実に――私は、顔を引き締めて頷いた。

 ――そうだ。走るのはヒクマ。勝つのも負けるのも、ヒクマ自身なのだ。

 支える私が、戦う前から胃が痛いなんて弱音を吐いているようでは――この子の夢を、未来を、一緒に走って行けるはずがないではないか。

 

「――よし、ヒクマ! 明日から、今までよりもっとハードに行くよ!」

「うん! どんとこーい!」

 

 ヒクマは笑顔で拳を掲げる。私も頷き、拳を合わせた。

 そうだ。四強じゃない。その中の一番になるために。

 ジャラジャラも、エレガンジェネラルも、ミニキャクタスも倒して。

 トリプルティアラの、世代の頂点に立つために。

 ――桜花賞まで、あと3カ月しかないのだから。

 



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第72話 朱竹賞・挑むための条件は

 1月7日、日曜日。中山レース場。

 第9レース、クラシック級1勝クラス、朱竹賞(芝1200メートル)。

 

『さあ直線を向いて7番ブリッジコンプ先頭、リードは1バ身半!』

「行け、コンプ!」

「コンプちゃーん! あとちょっとー!」

 

 柵から身を乗り出す私たちの前を、ブリッジコンプが12人のウマ娘を引き連れて、中山の急坂を先頭で駆け上がってくる。

 通り過ぎるその一瞬、その顔に浮かんでいたのは――力強い、余裕の表情。

 ぶるりと背筋が震えた。その顔を見た瞬間、勝った、と私も確信した。

 コンプは――はっきり確かに、強くなっている。

 

『譲らない譲らない! ブリッジコンプ、そのまま1着で――ゴールインッ! 圧倒的1番人気に応えましたブリッジコンプ、完勝です!』

「おおおっしゃあ! どんなもんよーっ!」

 

 ゴールした直後から高々と右拳を突き上げて、コンプはスタンドの歓声に応える。

 ハイタッチで喜び合うヒクマとエチュードの横で、私は拍手しながら、すごい子たちだ、と改めて噛みしめていた。

 京王杯ジュニアSで僅差の3着というコンプの実績は、今日のメンバーの中では頭ひとつ抜けていたのは間違いない。そのことは、ぶっちぎりの1番人気という評価に裏打ちされている。しかし、人気通りに勝つことがどれだけ難しいか。

 今日も抜群のスタートでハナを切り、そのまま自分のペースで逃げて押し切り勝ち。他のウマ娘からもマークされる断然の1番人気で完璧に自分のレースをこなしたコンプの力は、やはり既に重賞クラスだ。担当の贔屓目抜きに、そう確信を持てる。

 それなら後は――どのレースを選ぶか、になる。

 もっとも、スプリント重賞の数を考えれば、選択肢は多くないわけだが……。

 

 

 

「お疲れ様、コンプ。オープン入り、おめでとう」

「ふっふーん、ま、あたしにかかればこんなもんよ!」

 

 控え室。ドヤ顔で胸を張るコンプの頭を撫でてやると、「撫でるなー!」とまた吼えた。

 2勝クラスの条件戦が始まるのは6月から。それまでは、1勝クラスを突破したコンプは立派なオープンウマ娘である。ここから先、6月までに出られるレースはオープン特別かリステッド競走、そして重賞だけとなるわけだ。

 

「ったく、こんなのブリッジコンプちゃんの最強成り上がり伝説の通過点なんだから! ま、この程度で大げさに喜んだりしないところ、トレーナーもわかってきたじゃない」

 

 ふっふーん、と鼻を鳴らすコンプ。ゴール直後に自身が思い切りガッツポーズしていたことは突っ込まないでおいてあげよう。

 

「そうだね。まだまだこれからだ。――というわけでコンプ、次のレースだけど」

 

 私がメモ帳を開くと、コンプは機先を制するように私に指を突きつけた。

 

「3月のファルコンステークス! 決定事項!」

 

 反論は許さないから、と言わんばかりの顔でコンプは私を見上げる。やれやれ、と私は肩を竦めた。

 昨年7月のデビュー戦から半年で5戦目。正直なところ、そろそろ休養を挟みたいタイミングだった。5月の葵ステークスまで休みを入れて、葵ステークスの結果が良ければサマースプリントシリーズを経てスプリンターズステークスを目指す――というのが常識的なローテーションだとは思うが。

 

「どうしても?」

「あったりまえでしょ! あの二つ結びから出てこいって言われたんだから、尻尾巻いて逃げるなんて選択肢は無いのよ!」

 

 去年の京王杯ジュニアSの後で、チョコチョコから「ファルコンステークスで再戦」と言われたという件は既にコンプから聞いていた。

 おそらくチョコチョコは、ファルコンステークスを叩いてNHKマイルカップに向かうはずだ。朝日杯FSでやや距離不安は見えていたが、4着はマイル戦線を断念するほどの結果ではない。それなら、まず間違いなくチョコチョコがいない、おそらくはユイイツムニも出てこないだろう5月の葵ステークスが最も、今のコンプにとっては勝つ見込みが大きい重賞になるはずだ。

 わざわざ強敵がいて、距離も長いファルコンステークスに挑むより、もう少し楽で休みも取れる葵ステークスの方が――。トレーナーとしての冷静な部分が、私自身にそう訴えかけてくる。

 けれど、コンプの瞳を見れば。――そんな消極的な言葉を今コンプにかければ、返ってくるのは間違いなく失望だとわかる。結局、トレーナーとの間で夢を共有できていないのだと、コンプにそう思われることだけは、ダメだ。コンプのトレーナーとして、彼女の夢を、〝最強〟を叶える――それが、コンプとの間に誓った約束だから。

 そもそも、こんなことでいちいち迷っている時点で、本当の意味では私はコンプと夢を共有できていないのかもしれない。でも、ウマ娘を導くトレーナーとして、ウマ娘の夢は尊重しても、その夢に私自身が溺れてしまってもいけないのだと思う。

 

「解った。じゃあ、次走は3月のファルコンステークス。――ただし」

「うん?」

「条件というか――現実的な問題として、ね。最低でもファルコンステークスで2着に入れなければ、スプリンターズステークスへの挑戦は厳しくなる」

「――――」

 

 コンプが小さく息を飲んだ。――そう、チョコチョコが出てくるファルコンステークスを避けたかった大きな理由はそこなのである。

 現在のコンプのファンPtは900。今はオープンウマ娘とはいえ、6月になれば2勝クラスの条件ウマ娘だ。そして、シニア級のウマ娘との戦いになるスプリンターズステークスにクラシック級で出走するには、ファンPt的には最低でもそれまでに重賞をひとつは勝っておかなくては厳しい。

 夏にはサマースプリントシリーズがあるとはいえ、ファルコンステークスを落とせばそこへの出走もおぼつかなくなる。今のコンプが9月のスプリンターズステークスを目指すなら、6月までに何としても重賞で2着以内を取ってファンPtを加算し、6月以降も晴れてオープンウマ娘として重賞に挑める体勢を整えなければならない。クラシック級でスプリンターズステークスに挑むというのは、それだけの難題なのだ。

 京王杯ジュニアSでの僅差の3着という結果は、内容は胸を張れるものであっても、クラシック級のレース選択の上ではあそこでファンPtを加算し損ねたことが重くのしかかる。ファンPtが加算されるか否かで、重賞での2着と3着は天と地ほどの差があるのだ。

 

「その上で、もう一度訊くよ。ファルコンステークスでいいんだね?」

「――あったりまえでしょーが!」

 

 けれど、コンプは私に拳をつきつけて、きっと睨むように私を見上げた。

 

「あんまりこのあたしを見くびるんじゃないの! 上等じゃない! 2着以内なんてケチ臭いこと言わない、きっちり勝ってやるんだから!」

「――解った。じゃあ、ファルコンステークス、勝つぞ!」

「おー! 見てなさいトレーナー、その心配、杞憂すぎて思い出すだけで顔から火が出るって後悔させてあげるからね!」

 

 胸を張るコンプに、私は頷く。

 コンプがそう言うのであれば、あとは私にできる最善を尽くすだけだった。

 

 

       * * *

 

 

 同時刻、トレセン学園栗東寮。

 

「学級委員長バイタルダイナモ、ただいま戻りましたー!」

「おー、おかえり委員長ー」

 

 寮の自室で今日のレース中継を見ていたソーラーレイは、騒がしいルームメイトの声に振り返った。日曜の自主トレに出ていたダイナモは、ほっほっと息を弾ませながら部屋の中に駆け込んでくる。

 

「やや! レイさんはレースの研究ですか! 勉強熱心で素晴らしいです! 花丸です!」

「別にぃ、そんな大したもんじゃないって。休みでヒマだから眺めてただけ」

「休んで体調を整えるのも大切ですからね! レイさんの未勝利戦は来週ですし! 小倉でしたよね? さすがに現地には行かれませんが、このダイナモ、勝利のバイタルをレイさんにお届けできますよう府中の地から全力で応援します! ダイナモ応援団です!」

「あははー、気持ちだけ受け取っとくよぉ。委員長はいい子だねえ」

「学級委員長ですから! 同期のライバルも対戦相手でないときは友達として、ルームメイトとして応援するのは当然の務めです!」

 

 屈託のないダイナモの笑顔に、やっぱり委員長には敵わんなあ、とレイは心の中だけで嘆息する。器がでかいのか、単に何も考えてないだけなのか。ダイナモのようになりたいとは思わないけれど、常に一切ぶれないダイナモのメンタリティには敬意を払っているレイであった。

 

「ま、委員長はもう勝ち抜けた身だしねえ。あたしもまあ、がんばるさー」

「いえいえ、まだまだこれからですよ! 次は1勝クラスを勝ち抜けなくては!」

 

 ――そう、バイタルダイナモは昨年末、ホープフルステークスと同日に行われた阪神の未勝利戦を勝ち抜けていた。デビュー戦はゲートに身体をぶつけ最下位の惨敗だったこともあり、未勝利戦では16人中12番人気という低評価。それが中団追走から直線であっさり抜け出して他を寄せ付けず1バ身差の快勝である。この委員長、ちゃんと走りさえすれば強いのだ。

 委員長も勝ち抜けて、これであたしだけ次の小倉の未勝利戦も負けたら立場ないなあ、とレイはまた心の中だけで嘆息する。クラシックとは縁のない短距離路線、焦る必要はないとトレーナーは言うけれども……。

 

「やや! レイさん、あれはブリッジコンプさんですよ!」

「え、誰?」

 

 ダイナモの言葉に、レイはテレビの画面に視線を向ける。先ほどやっていた、中山の第9レースのリプレイが流れていた。クラシック級1勝クラスの朱竹賞。綺麗な尾花栗毛をなびかせた、小柄なウマ娘が先頭で逃げ切り1着。――あれ、言われてみればなんか記憶に引っかかる顔だ。

 

「誰だっけぇ、委員長」

「去年の京王杯ジュニアですよ! ほら、ユイさんとチョコさんの3着だった!」

「――あー、あ、あいつかぁ!」

 

 思い出した。京王杯ジュニアステークスで、ユイイツムニとチョコチョコに食らいついて3着だったウマ娘だ。レイの知る限り、同世代の短距離路線で今のところユイチョコに張り合えるウマ娘はいないと思っていたが――そう、負けたとはいえかなりの接戦、逃げでユイイツムニと張り合って粘った姿を覚えている。

 

「さすが、1勝クラスで足踏みするような方ではありませんでしたか! ユイさんチョコさんも強敵ですが、さらなるライバル登場ですね! 私たちも負けていられませんよ!」

「負けてられないっつーか、まず勝たないと始まらないっつーか、ねえ」

 

 せめて、小倉はもうちょっと暖かいといいのだけれども。寒いとやる気が出ないのだ。

 

「では、この優秀な学級委員長が必勝の作戦をレイさんに授けてさしあげましょう!」

「おー? なになに?」

「かつて偉大なる学級委員長は仰いました! スピード! 瞬発力! 学級委員長! 全てが揃った学級委員長は最強であると! つまり、レイさんも学級委員長になれば最強です!」

「……いや、あたし学級委員長なんてガラじゃないし、そもそもうちのクラスの委員長は委員長じゃんさあ。あたしが委員長になったら委員長が委員長じゃなくなるよぉ?」

「はっ!?」

 

 レイのツッコミに、ダイナモは目を見開く。

 

「い、委員長でなくなる……私が……!? 私が学級委員長でなくなったら、私は学級委員長でいられなくなるということですか!? 学級委員長でない私とはいったい!?」

「ど、どうどう、落ち着いて委員長、だから委員長はずっと委員長だよぉ」

「はっ、そうです! 私が! 私こそが学級委員長! では、レイさんは他の委員長になるとよろしいかと思います! 風紀委員長とか!」

「無茶言わないでよぉ、委員長」

 

 委員長という単語がゲシュタルト崩壊しそうだ。委員長に「学級委員長でなくなる」はNGワード。心の中の注意事項として、レイは深く刻み込んだ。



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第73話 URA賞・ジャラジャラの場合

「おめでとうございます、ジャラジャラさん! 棚村トレーナー!」

 

 1月8日、月曜日。ジャラジャラがトレーナーとウォーミングアップをしているところへ、理事長秘書の駿川たづなが笑顔で駆け寄ってきた。

 おん? とジャラジャラが顔を上げると、トレーナーが満足げな顔で頷く。なんだ? 突然お祝いされるような覚えはないのだが――。

 

「URA賞、最優秀ジュニア級ウマ娘の受賞が決まりました! あ、正式発表は11日なので、まだオフレコですが――」

「決まりましたか。ありがとうございます、たづなさん」

 

 トレーナーは予期していたようで、当然、という顔をしながらも口元が緩んでいるのがわかる。――URA賞ねえ。そういやそんなもんあったな、とジャラジャラは思い出す。

 ジャラジャラの薄い反応をどう解釈したのか、トレーナーが「やったな」と肩を叩いてきた。ジャラジャラは息を吐いて後頭部で腕を組む。

 

「んな喜ぶようなことかあ? 年度代表ウマ娘ってんならまだしも、最優秀ジュニア級なんて要はジュニア級GⅠ勝った奴にあげるだけの賞だろ?」

「そんなスレたウマ娘マニアみたいなこと言うな、本人が。それに、ジュニア級GⅠを勝った3人の中で君が一番強いと評価されたってことだぞ」

「んなもん、実際に走ってみねーとわかんねーだろ。ま、負ける気はしねーけどな」

 

 ――そう、特にあの、ミニキャラメルとかミニキャンドルとか……えーと、そうだ、ミニキャクタスだ。ったく、覚えにくい名前だな、とジャラジャラは息を吐く。

 ホープフルステークスを勝ったあいつ。あの、明らかに他とは次元の違う加速力の末脚。あいつとまだ戦ってもいないのに、ジュニア級最強とか勝手に持ち上げられても反応に困る。桜花賞であいつを叩き潰した後ならまだしも――。

 

「ほぼ満票での受賞だったようです」

「ほぼ?」

 

 たづなの言葉に、棚村トレーナーが眉を寄せる。

 

「はい、ティアラ路線初のホープフルステークス制覇を果たしたミニキャクタスさんにも何票か。けれどやはり、ジャラジャラさんの重賞2戦連続レコード勝ちはやはり相当な衝撃だったようで、なんと年度代表ウマ娘にもジャラジャラさんへの票がありました!」

「本当ですか! すごいぞジャラジャラ、ジュニア級で年度代表ウマ娘に票が入るなんて何十年に一度のことだぞ!」

「ほーん」

「……いや、うん、君に各種栄誉について世間一般の常識的な反応は期待してないが、それにしたってせめてもうちょっとこう、何かないのか?」

 

 がくっとうなだれるトレーナーと、困り顔のたづなに、ジャラジャラは息を吐く。

 

「何かっつわれてもなあ。マスコミ向けのコメントならトレーナーが適当に考えといてくれよ。最初に言ったろ? あたしは別に勲章が欲しくて走ってんじゃないって」

「その一貫性には感心しているところだよ。君は本当に栄誉には興味がないんだな」

「他人に褒められたくて走ってるわけじゃねーからな。じゃ、とりあえずあたしは軽く走ってくっから」

 

 軽く屈伸をして、ジャラジャラはトレーナーの返事も聞かず走り出す。

 ――勝ち続けると、こーゆー雑音も増えるわけだ。めんどくせーなあ。

 溜息を噛み殺し、かったるい気分を吹き飛ばそうとするように、ジャラジャラは脚に力を込めて加速した。

 

 

       * * *

 

 

「おかえりなさい。URA賞おめでとうございます」

「――なんだよ、オフレコじゃなかったのか? もう公表されてんのかよ」

 

 トレーニングを終えて寮の部屋に戻ると、ルームメイトから開口一番にそう言われて、ジャラジャラは大げさに溜息をつく。エレガンジェネラルは、そんなジャラジャラの反応に、いささか不服そうに眉を寄せた。

 

「小耳に挟んだだけです。まあ、結果は当然なので当てずっぽうで言っても同じことですけれど――全く嬉しそうじゃありませんね、ジャラジャラさん」

「木曜に記者会見、日曜に受賞パーティだってよ。かったりー。ジェネ、代わりに出てくんねえ? お前そーゆーの得意だろ。賞も譲ってやっからさ」

「人を目立ちたがりみたいに言わないでください。それとも負けた私に恥の上塗りをさせようという嫌がらせですか?」

 

 口を尖らせるジェネラルに、ジャラジャラは肩を竦めてベッドに倒れこんだ。

 

「あーめんどくせー。今からでも受賞辞退できねーかな」

「世代頂点の勲章を、会見とパーティが面倒臭いという理由で返上しようとしないでください。他の全ての同世代のウマ娘の立場がないですから」

「勲章見せびらかして喜ぶ趣味はねえよ」

「まあ、貴方の信念は貴方の勝手ですけど。くれぐれもパーティをぶち壊しにするような子供みたいな真似はしないでくださいね。ルームメイトとして恥ずかしいですから」

「そこまでガキじゃねーって」

 

 実はちょっとだけ、パーティすっぽかしたり、貰ったトロフィーをその場でゴミ箱にシュートしたらどーなかっな、と考えた。考えたけれども、そういうパフォーマンスで無頼を気取って自己演出するようなタイプと思われるのも面倒臭い。

 本当に、心底栄誉なんてどうでもいい。ただ強い相手と戦って勝ちたい、そのために日本で一番強いウマ娘が集まるトゥインクル・シリーズに参加しているだけなのだ。なのに、今後も勝つたびになんやかんやとこの類いのことに巻き込まれ続けるのだろうと思うと気が重い。興味のない映画のハシゴに付き合わされるようなものだ。拷問である。

 

「昔、ジャラジャラさんみたいな変わったウマ娘がいたそうですよ」

「おん?」

「トゥインクル・シリーズで走りながら、勲章や栄誉には全く関心を示さず、ウマ娘の肉体の限界を追及することしか頭になかったというウマ娘。自分勝手な振る舞いで何かとトラブルを起こしてはマスコミに叩かれ、それを実力で黙らせたと聞いています」

「ほおん。いつの時代もいるんだなあ、あたしみたいなはみ出し者が」

「はみ出し者でいられるのは、はみ出し者でも許される実力があったからという話です。そうやってはみ出し者を気取っていられるうちが華ですよ」

「――痛いところ突くなあ、ジェネ」

 

 ごろんと仰向けに寝転び、「あー、しゃーねーなあ!」とジャラジャラは頭を掻いて起き上がる。

 

「ま、あたしみてーな気性難に付き合ってくれるトレーナーへの義理もあるかんな。しゃーない、せいぜい猫被ってやっか」

「そう、それでいいんです。ジャラジャラさんの信念は、ジャラジャラさんが大事に抱えてさえいればいいんですから。周りにどう見られようが、私は貴方がどういう人なのかよく知っています。ジャラジャラさんが何を求めて走っているのか、他の誰が知らなくても貴方と戦う私が知っている。それでは不十分ですか?」

 

 小首を傾げて、ジェネラルは言う。ジャラジャラは振り向き、その顔を見つめた。

 

「……あのさー、ジェネ」

「なんです?」

「なんか愛の告白みてーだなと思って。お前あたしのこと好きすぎだろ」

「なっ――なななっ、何を言うんですか!」

 

 真っ赤になって吼えるエレガンジェネラルに、ジャラジャラは呵々と笑った。

 

 

       * * *

 

 

 1月11日、木曜日。X3年のURA賞が発表された。

 年度代表ウマ娘と最優秀シニア級ウマ娘は、天皇賞(春)と有馬記念を制して引退の花道を飾ったオボロイブニング。

 最優秀クラシック級ウマ娘は、変則トリプルティアラのテイクオフプレーン。

 単純にGⅠ勝利数ならテイクオフプレーンの方が多いが、年度代表ウマ娘がオボロイブニングに決まったのは、有馬記念で直接対決を制したのが大きな決め手だったのだろう。

 ――そして最優秀ジュニア級ウマ娘は、阪神JFを含め3戦無敗、25年ぶりの平地重賞大差勝ち、重賞2戦連続レコード勝ちと強烈なインパクトを残したジャラジャラ。

 

「……結果はわかっていましたけれど、キャクタスちゃんが獲れなくて、悔しいです……」

 

 ヒクマ、エチュード、コンプ、そしてミニキャクタスの4人でのトレーニングを見守りながら、小坂トレーナーはそう言った。気持ちは解る。私は頷いた。

 ティアラ路線から初のホープフルステークス制覇。3戦無敗は同じだし、ミニキャクタスの勝利も充分に歴史的な偉業だったが――さすがに、ジャラジャラの勝ち方があまりにも派手すぎた。それでもミニキャクタスにもいくつか票が入ったのだから、見ている人はちゃんとミニキャクタスのあの驚異の末脚を評価したということだろう。

 ヒクマが勝てていれば、4戦4勝であるいは――とも思うけれど、それは本当に言っても詮無いことである。

 

「今年の最優秀クラシック級ウマ娘を目指しましょう、お互い。それに合わせて、コンプが最優秀短距離ウマ娘を獲れたら最高ですね」

「……そうですね……お互い、頑張りましょう……」

「賞賛ッ! 目標を高く持つ、その意気や良しッ!」

「おわあっ!? 理事長!?」

 

 いきなり背後から声を掛けられて、驚いて振り向けば、秋川理事長の小柄な姿がある。帽子の上に猫を載せた秋川理事長は、笑顔で手の扇子を私たちに向けた。

 

「それに今年からは、君たち昨年デビューのトレーナーにも、最優秀新人トレーナー賞、そして最優秀トレーナー賞の受賞資格が与えられるッ!」

 

 思わず、私は小坂トレーナーと顔を見合わせる。

 最優秀新人トレーナー賞――URA賞のトレーナー表彰部門だ。受賞資格は最初の担当がデビューして2年目を終えてから5年以内。担当ウマ娘が優秀な成績を残した新人トレーナーに贈られる。

 

「期待ッ! 君たちふたりと桐生院トレーナーは、現在のところ今年の最優秀新人トレーナー賞の有力候補ッ! 楽しみにしているぞッ!」

 

 はっはっは、と笑いながら理事長は扇子を仰ぎつつ立ち去っていく。その背中をぽかんと見送って、私たちはトレーニングに励む担当たちに視線を戻した。

 

「…………だ、そうですけど…………」

「まあ、頑張るのはあの子たちですから。もしそんな賞に縁があるとしたら、それは余録みたいなものだと思いましょう」

「…………そうですね…………私も、そう思います…………」

 

 小坂トレーナーと苦笑し合い、私は手を打ち鳴らした。

 

「よーし、それじゃあエチュードの最終追い切り始めるよ! ヒクマ、併走よろしく!」

「はーい!」

「……が、がんばりますっ」

 

 今できることは、目の前の目標をひとつひとつ越えていくことだけだ。

 次の目標は――今週末。エチュードの1勝クラス、菜の花賞。

 



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第74話 菜の花賞・モチベーションはそれぞれに

 1月13日、土曜日。中山レース場。

 第9レース、クラシック級1勝クラス、菜の花賞(芝1600メートル)。

 

「エチュード、大丈夫? 緊張してない?」

「はっ、はい! 大丈夫、です」

 

 レース前の控え室。エチュードはぐっと拳を握りしめた。少なくとも、デイリー杯のときのような、入れ込んでいっぱいいっぱいという様子はない。落ち着いているのなら何よりだが。

 今日のレースは中山の芝1600。いささか特殊なコース形態で、スタート直後に2コーナー、そこから下り坂という、位置取りとペース配分の難しいコースだ。

 今日のエチュードは11人立ての3枠3番。内枠なので、後方待機で末脚勝負に持ち込みたいこちらとしては、直線で上手くバ群を捌けるような位置取りが重要になる。

 まあでも、エチュードにはあれこれ考えさせるより、まずは自分の走りをすることに徹させる方がいいだろうと思う。もちろん勝てると信じて送り出すのだけれども、結果はどうあれ、まずはエチュード自身が納得できるレースをしてほしい。

 

「エチュード。今日はあれこれ細かいことは言わないよ。今までやってきたことを思い出して、走りたいように走っておいで」

「……はいっ」

 

 大きくひとつ深呼吸するエチュード。そろそろ時間だ。エチュードを送り出そうと、背を向けて控え室のドアに手を掛けると――。

 きゅっ、と。エチュードが、私の上着の裾を掴んで、私を見上げた。

 

「あ、あの……トレーナーさん」

「うん?」

「……その、えっと……約束の、その」

「ああ、うん、もちろん覚えてるよ。勝てたら、ぬいぐるみ買ってあげるから」

「はいっ、がっ、がんばります!」

 

 今日一番気合いの入った返事をもらい、私は目をしばたたかせながら、パドックへ向かうエチュードを見送る。

 ――やっぱり、よっぽどぬいぐるみ好きなのかなあ。

 

 

       * * *

 

 

 ――勝ったら、トレーナーさんとデート……。勝ったらデート……!

 いや、もちろんデートだと思っているのは自分だけだと思う。トレーナーさんはそんなよこしまな考えはなくて、ただ担当ウマ娘にレースへのモチベーションを保ってほしいと思って、トレーナーさんなりにその方法を考えてみただけだと思う。

 勝てたら欲しいものを買ってもらえる、なんて、小学生みたい。やっぱり、トレーナーさんからは子供だと思われてる。それはちょっと、うん、思うところはあるけれど……。

 でも、それはそれとして。

 ――トレーナーさんと、デート……!

 勝ちたい。いや、デートはともかく、トレーナーさんが喜ぶ顔が見たい。

 そう思う自分は、やっぱり子供なのかもしれない。エチュードはそう思う。

 

『3番人気、3番リボンエチュード。どうでしょう楠藤さん』

『はい、前走のデイリー杯は明らかに落ち着きを欠いていましたが、今日は落ち着いているようですね。状態は良さそうです』

『さあ、ウマ娘たちがゲートに入ります。3ヶ月後の桜花賞へ、トリプルティアラを目指すウマ娘が揃った菜の花賞。オープン入りを果たすのは果たして誰か』

 

 ゲートに入る。顔を上げると、すぐ先にコーナー。トレーナーさんたちの待つゴールは背後だ。振り返りかけて、エチュードはぐっと拳を握り直した。

 勝ちたい。勝ちたい。デートのためじゃないけど、いやデートはしたいけど、とにかく、勝ちたい――トレーナーさんのために、勝ちたい!

 

『体勢完了――スタートしました!』

 

 

       * * *

 

 

 ゲートが開く。前に出て内に切り込みたい外枠のウマ娘と、そうはさせたくない内枠のウマ娘が激しく先頭の位置取り争いを繰り広げ、エチュードはそれに押し出されるように中団の後方へ。9番手で内ラチ沿いを走る格好になった。

 最内はバ場が荒れ気味だ。内に押し込められて消耗しないといいのだけれど――と双眼鏡を覗きこんでエチュードの姿を追った私は、思わずほっと息をついた。

 大丈夫だ。エチュードは冷静に折り合っている。

 

「ちょっとエーちゃん、あんな前にゴチャゴチャ固まってて大丈夫なの?」

 

 コンプが心配そうに声を上げる。私は手元のストップウォッチを見下ろした、

 ――ペースが速い。2コーナーの後の下り坂で、先行集団が前のめりになっている。

 これはおそらく……直線で前が潰れる流れ。それなら、あとは進路さえ確保できれば。

 

「エチュードちゃーん!」

 

 ヒクマが歓声に負けじと声を張り上げる。私は柵を握りしめて、祈るようにエチュードの栗毛の姿を目で追いかけ続けた。

 

 

       * * *

 

 

 脚元の芝が荒れていて、ぼこぼこして走りにくい。内ラチ沿いを走りながら、エチュードは結局3コーナー前で最後方まで下がってしまっていた。

 前を行くウマ娘はどんどんとコーナーを曲がっていく。それを見ながら――。

 ――あれ?

 なんだか、周りの様子がよく見える。前を走るウマ娘の背中、横を走るウマ娘の足音。自分の周囲の状況が、感覚的に手に取るようにわかる。

 気付けば一番後ろ。だけど、ここからなら――全部、わかる。

 前を走っている子たちは苦しそうだ。近くを走っていた子たちが距離を詰めていく。4コーナーで隊列がぎゅっと詰まり始める。

 ――外が開いた。

 迷いなど浮かばないまま、エチュードは荒れた内を離れて外に持ち出した。そこを走ればいい、ということがなんでだか解った。見えている。ここだ。ここから――。

 直線に入った。歓声が急に鼓膜を打った。気付けばエチュードは大外にいる。まだ前方には7、8人のウマ娘。だけど――みんな、伸びあぐねている。

 残り300メートル。中山の急な坂が目の前に迫る。――その先に。

 

『――エチュード!』

 

 トレーナーさんの声が、聞こえた気がした。

 エチュードはぐっと脚に力を込めて、芝を蹴り立てる。

 前だけを見て、坂を駆け上がる。風が、身体を切り裂くみたいに強くなる。

 目の前には、ただ、まっすぐ、ゴールだけが見えている――。

 

「エチュード!」

 

 観客席に、本物のトレーナーさんの姿があった、

 柵から身を乗り出すように、こちらを見つめている――トレーナーさんの姿に。

 エチュードは、ただ。

 

「トレーナー、さん……!」

 

 そのひとのところへ駆け寄るように、まっすぐに走り抜けていく――。

 

『外からリボンエチュードがすごい脚で伸びてきた! 抜けた抜けた! リボンエチュードが突き抜けて――ゴールインッ!』

 

 弾けた歓声が、自分の勝利を称えるものだということに。

 エチュードは、ゴールしてからもしばらく、気付かないままだった。

 

 

       * * *

 

 

「2勝目おめでとう、エチュード!」

「はっ、はい……っ! トレーナーさん、私、がんばり、ました……!」

 

 レース後の控え室。まだ息を弾ませながら、ぐっとガッツポーズするエチュードの汗で湿った短い髪を、私はくしゃくしゃと撫でる。エチュードは恥ずかしそうに身を竦めながらも、私の手に身を任せるようにして目を閉じた。

 ハイペースで前が潰れる、典型的な差し追い込み有利の展開だったとはいえ、最後方から直線入口で外に持ち出して直線一気。上がり3ハロン、最速の33秒7で1バ身半差をつけた差し切り勝ちである。強い、間違いなく強い勝ち方だ。

 すごい。ヒクマの走りを初めて見たときの興奮が蘇るような末脚だった。冷静に自分のレースさえできれば、エチュードには充分に重賞級の力があるとは思っていたけれど、ひょっとしたら、この子の秘めた才能は私の想像を遙かに超えているのかもしれない。

 先週のコンプといい、本当に、私なんかには勿体ない、すごい子たちだ。3人ともGⅠウマ娘に――なんて大それた夢が、充分に現実的なものに思えてくる。

 

「あ、あの……トレーナーさん、その、えと……」

「あっ、ご、ごめん」

 

 気が付いたらエチュードの頭を撫ですぎていた。慌てて手を離し、恥ずかしそうに俯いたエチュードに、こほんとひとつ咳払いする。

 

「すごかったよ、エチュード。最高の走りだった」

「……は、はいっ、あの、でも私、なんだかその、ただ夢中で……」

「それでいいんだよ! 今日の感覚、忘れないようにしよう!」

「は、はい……っ」

 

 エチュードの肩を掴んで叩くと、エチュードは目を白黒させる。ああ、いかんいかん、私の方がまだ興奮してしまっている。落ち着け、落ち着け。

 

「……よし、今日のレースのことはまた後で改めて振り返るとして、だ」

 

 私は手帖を取りだして、レーススケジュールを確かめる。エチュードもここまで半年で5戦。ちょっとレーススケジュールは詰まり気味だが……でも、今日の走りを見たら、夢を見たくなってしまう。

 そう、今はまだ1月。桜花賞には、今からでもまだ充分間に合うのだ。

 

「エチュード、さっそくだけど、次のレースの話をしていいかな?」

「あ……はいっ、えと、次は、2勝クラス、ですよね。がんばり、ますっ」

 

 答えるエチュードに、思わず私は苦笑する。ヒクマじゃないんだから……。

 

「エチュード。2勝クラスが始まるのは6月だよ」

「え……あ」

「そう、もう2勝したエチュードは立派なオープンウマ娘だ」

「――――」

 

 言われて気付いたみたいに、エチュードはきょとんと大きく目を見開いた。……本当に自覚が無かったらしい。先週コンプが2勝目を挙げてオープン入りしたばかりなのに。レースに関する知識は3人の中で一番豊富なエチュードらしくないが……それだけ今日のレースのことだけに集中できていた、ということだろう。

 

「というわけで、エチュード。――3月の、アネモネステークスに行こう」

「はっ、はい――って、え? ……アネモネステークス、ですか……? それって」

「そう。――桜花賞トライアルだ」

 

 アネモネステークス。3月10日、今日と同じ中山芝1600で開催されるリステッド競走。――そして、2着までに桜花賞の優先出走権が与えられるトライアル競走である。

 GⅠ桜花賞。トリプルティアラ第1戦。その舞台に――エチュードも、送り出してあげたい。今日の走りを見て、そう思わないトレーナーがいるだろうか?

 

「桜花賞……トライアル……。私が……?」

「今日の走りを見せられたら当然の選択だよ。――優先出走権を取って、ヒクマとミニキャクタスと一緒に、桜花賞に出よう!」

「――――――」

 

 エチュードは、ぽかんと口を開けたまま固まって――。

 

「あ……あの、ええと……その……、か、考えさせて、ください……っ」

 

 口元を覆って俯き、困り切ったように私から視線を逸らした。

 ――ああっ、しまった、またやってしまった……。プレッシャーに弱いエチュードに、またいきなり前のめりになりすぎた……。

 

「……うん、わかった。スケジュールも詰まってるし、レース後の状態も見ながらになるけれど……桜花賞、エチュードにも挑む権利はある。そのことは、忘れないでね」

 

 ぽんぽんと私はエチュードの肩を叩く。エチュードは俯いたまま「……はい」とだけ小さく答えた。私はひとつ苦笑して、

 

「――じゃあ、ぬいぐるみ買いに行くのは、来週でいい?」

 

 その言葉に、エチュードは弾かれたように顔を上げる。

 

「あっ――え、えと」

「約束だもんね。未勝利戦のときより、大きいやつ買ってあげるから」

「――――はっ、はい……!」

 

 また俯いてしまったエチュードだけれど、その頬が赤く、口元が緩んでいるのを見て、私は目を細める。――まあ、何にせよ、まずエチュードには、今日の勝利を喜んで、自信に変えてもらいたい。

 エチュードに一番必要なのは、自分を自分として認めてあげることなのだろうから。



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第75話 憧れの人よりももっと

 ルームメイトが2勝目を挙げたことを、マルシュアスはSNSで知った。

 今日の中山9レースに出ていたリボンエチュードが、後方から上がり最速で差し切り勝ち。すぐに祝福のメッセージは送ったけれど――送信と同時に溜息が漏れて、マルシュアスは部屋のベッドに倒れこんだ。

 

「あ~~~~~~……」

 

 やり場の無い感情が渦巻いて、ぼふぼふと枕を叩く。オトナのウマ娘はオンとオフを切り替えるものだよ――尊敬する先輩の言葉を実践できない自分に溜息しか漏れない。

 ……すごいなあ、エチュードちゃん。

 万事に控えめでおしとやかで、なんであんなに髪短くしてるんだろうといつも不思議に思うぐらいに女の子らしいお嬢様なのに、レースではもう重賞にも出て、今日の勝利でオープン入り。たぶんクラシック、桜花賞を目指すのだろう。

 ――3年前、ランデブーさんが勝ったレース。あたしが、このトレセン学園に入るきっかけになったレース。

 そこに手が届きかけているルームメイトが――どうしようもなく、羨ましい。

 何しろ、こちとらデビューから3連敗。しかも3戦とも着外。2連敗で尊敬する先輩にあっさり見限られ、トレーナーに無理を言って出させてもらった年末の未勝利戦もダメだった。もう、どうしたらいいのか全然わからない。

 ――あたし、やっぱり才能なんて無かったのかなあ……。

 考えてみれば当たり前かもしれない。それまでレースに背を向けてきた自分が、いきなり思い立って中央のトレセン学園を受験して一発合格して、トレーナーからスカウトも受けてデビューできる立場になって――ここまでが上手く行きすぎなのだ。現実はそう甘くない。エチュードちゃんみたいな、小さい頃から周りを名だたるエリートウマ娘に囲まれて英才教育を受けてきたお嬢様とは、最初から住む世界が違うのだ。

 ……そう、割り切ってしまえれば楽なのに。自分の才能に見切りをつけて、せいぜい未勝利戦の終わる8月までルームメイトを応援して、それから普通の学校に入り直して普通の夢を追えばいい。中央のトレセン学園に在籍していて、トゥインクル・シリーズに出たことがあるっていうだけで、一般社会では充分なハクになるわけなんだから。

 ――そう思えたら、こんなにモヤモヤしていない。

 

「うう~~~~~っ、うがーっ!」

 

 苛立ちのままにマルシュアスは叫んで、寮の部屋を飛び出した。――正直、リボンエチュードが戻ってきたとき、笑顔で祝福できる気がしなかったから。

 

 

       * * *

 

 

 くさくさした気分のままに駅前をあてどなくぶらついているうちに、陽が暮れていた。1月の半ば、寒さが身に染みる。白い息を吐きながら、マルシュアスは重い足取りで学園へと戻った。

 中山のレースだったエチュードちゃんは、もう戻ってきているだろう。せめて「おめでとう」ぐらいは笑顔で言いたいけれど、笑顔ってどうやって作るんだっけ。

 こんなとき、ランデブーさんみたいなオトナのウマ娘だったら、どんな風に――。

 

『マルシュちゃんは、どんなに頑張ったって、私にはなれないんだよ』

 

 ――あのとき。2戦目の未勝利戦のあとで、ネレイドランデブーからかけられた言葉が頭の中でリフレインする。あれからもう1ヶ月近く。ランデブーは本当に自主トレに徹しているみたいで、マルシュアスがトレーナーとトレーニングしている場には一度も顔を見せていなかった。

 やっぱり、見捨てられたんだと思う。才能もない後輩にまとわりつかれて迷惑だったのだろう。お前みたいなのとはレベルが違うんだからさっさと諦めて実家に帰れと、遠回しにそう言われたとしか思えない。

 ランデブーさんみたいに、なりたいのに。

 あんな風にキラキラして、華麗に逃げ切るオトナのウマ娘になりたいのに。

 ――本人から「無理だ」と言われてしまったら。それを否定したくて出走した未勝利戦も惨敗では、もう本当に、無理なのかもしれない。

 ……学園、辞めようかなあ……。

 際限なく思考はデフレスパイラルに陥っていく。ああ、部屋に帰りたくない。かと言って、寮の部屋以外に行き場所もないし、どうしよう……。

 とぼとぼとグラウンドの方に歩いて行く。既に陽は落ちて、照明が照らすウッドチップコースが目に入る。

 そこにひとり、走り込んでいるウマ娘の姿があった。

 ――ランデブーさん?

 一瞬そう思って、だけどすぐに見間違いだと気付く。ランデブーの綺麗な芦毛のサイドテールではない。栃栗毛の短いポニーテールを揺らして走る、あの姿は。

 

「……ジャラジャラ先輩?」

「おん? ああ、お前か」

 

 そちらに歩み寄って声を掛けると、向こうもこちらに気付いて足を緩めた。――以前、併走してもらったことのあるジャラジャラだった。デビュー前からランデブーさんに挑みかかったというこのウマ娘は――年末の阪神JFをレコード勝ちしてURA賞を受賞した、今年のトリプルティアラの大本命だ。同期デビューとはいえ、未勝利戦の掲示板にも載れないマルシュアスにとっては、もはや雲の上の存在である。

 

「えーと、マルチュロス」

「……マルシュアスです」

「わりーわりー、人の名前覚えんの苦手なんだわ。ていうか同学年の同期だろ? 先輩はやめろって」

 

 悪びれない様子で頭を掻くジャラジャラ。まあ、自分のことなんて名前も覚えられていなくて当然だけれども。

 タオルで汗を拭いながら、ジャラジャラは白く息を吐く。その凛とした姿に――ああ、オトナなウマ娘って、やっぱり強いウマ娘のことだなあ――とマルシュアスは思う。

 あたしなんかとは違う。全然別の世界にいる――。

 

「……っていうか、こんな時間まで何してるんですか?」

「見りゃわかんだろ、トレーニングしてる以外のなんだってんだよ」

「――――」

 

 一瞬でマルシュアスの脳裏を、色々な思いが駆けめぐって、そしてただただ、違いを思い知らされた。――なにやってんだろ、あたし。

 世代のトップが、桜花賞まで3ヶ月もあるこの時期に、週末も陽が暮れるまでトレーニングしているというのに。――未勝利戦を勝ち抜けられない自分が、ふてくされて駅前をぶらついていただけなんて。

 ランデブーさんに見捨てられて当然だ。やっぱりあたしは――この世界には向いてない。

 

「ああ、ちょうどいいや。おい、マル。ちょっと併走付き合ってくれよ」

「……へ? あたしが?」

「ああ。着替えとウォーミングアップぐらいは待ってやっからさ」

「いや、そんないきなり言われても――」

「じゃあ、あたしはちょっくら学園の周り一周してくっから、その間に準備しといてくれ」

 

 マルシュアスの返事も聞かず、ジャラジャラは勝手に走り出してしまう。

 ぽかん、とそれを見送って、マルシュアスは――どうしよう、と空を見上げた。

 夜空には、冬の星座が能天気に瞬いている。

 

 

       * * *

 

 

 どうしてジャージに着替えてウォーミングアップしてるんだろ、あたし。

 そう思いながらも、結局マルシュアスは着替えてウッドチップコースでウォーミングアップを念入りにしていた。この寒い中だ、走るならしっかり身体を温めておかないと怪我をする。ランデブーさんから「怪我は怖いよ」と口を酸っぱくして言われたことだ。

 軽くウッドチップコースを流して一周したところで、ジャラジャラが息を弾ませながら戻ってくる。

 

「お、準備できたか? じゃ、ちょっくら付き合ってくれよ」

「……いいですけど。右回り1600ですか?」

「んにゃ、左回り2400で頼む」

 

 軽く言ったジャラジャラに、マルシュアスは目を見開く。――2400?

 

「え、なんで2400……?」

「オークスの距離に決まってんだろ。桜花賞の阪神1600はもう全力で走ったかんな、次もおんなじように走るだけだ。それより府中2400を全力で走る感覚、今のうちから身体に叩き込んでおきてーからな」

 

 火照った身体をほぐすように軽くストレッチしながら、ジャラジャラは答える。

 ……すごい。3ヶ月先の桜花賞だけじゃなく、もうその先を見据えている。

 これが……世代トップのウマ娘。やっぱり、住んでいる世界が、見ているものが、あたしとは全然違う――。

 ……でも、そんなトップのウマ娘の併走相手が、あたしなんて――。

 

「お前だって目指すんだろ?」

「え?」

「ダービーだよ。たしか三冠路線だろ?」

「――――」

 

 日本ダービー。日本で一番有名なトゥインクル・シリーズのレースであり、三冠路線のウマ娘にとっての最大の夢。チャンスは一生に一度、その舞台に出走したことがあるというだけで誇りにできると言われる最高の舞台。

 ……でも、正直なところマルシュアスは、他のウマ娘と違ってダービーへの憧れは薄い。ランデブーさんみたいになれれば何でもいい。ダービーでも何でも――。

 だいいち、デビューから3戦連続着外のウマ娘がダービーに出られるわけがないし……。

 ああ、ダメだ、また思考が再現なく落ちこんでいく。振り払うようにマルシュアスは首を振り、目の前のジャラジャラに詰め寄った。

 

「あのっ、ジャラジャラ先輩!」

「だーから先輩じゃねーっての。なんだ?」

「逃げのコツ、教えてください! あたし、強い逃げウマ娘になりたいんですっ!」

 

 その言葉に、ジャラジャラは目をしばたたかせ、それから「んー」と頭を掻きながら首を捻った。

 

「コツって言われてもなあ。あたしは逃げるのが性に合ってるだけだからな。脚を溜めて直線勝負とか、かったりーのは御免被るってだけだぜ。それに――最初から最後まで先頭で走ってりゃ、運も展開も関係なく、そいつが一番強いってことだからな」

 

 ぱん、と拳を打ち鳴らして、ジャラジャラは獰猛な笑みを浮かべる。

 

「コツなんざねーよ。逃げんのは本能だ、本能」

 

 ――本能。

 それはつまり、才能ということではないのか。

 だとすれば――過去3戦、逃げようとして撃沈した自分には、やっぱり才能なんて。

 

「あたしのペースについてきてみろよ。それが出来りゃ、逃げるなんて簡単だ」

「――わかりました」

 

 芝コースに移動する。東京レース場を模したトレセン学園の芝コース。模擬レースや選抜レース用のゲート設置目印のところに立ち、ジャラジャラが屈伸しながら手招きする。

 

「こいつが落ちたらスタートだ。いくぜ」

 

 ピン、とジャラジャラがコインを指で弾き上げた。回転するコインが山なりの軌道を描いて芝生へ落ちていく。ふたりはスタートの構えをとり、

 コインが落ちる。芝生を蹴って走り出す。全力のスタート。だが――。

 

「――――ッ」

 

 速い。一瞬で、あっという間に、ジャラジャラの背中がマルシュアスの前に出て、遠ざかっていく。なんて――なんてロケットスタート。これがGⅠを勝つ逃げウマ娘の、最優秀ジュニア級ウマ娘を受賞する者のスタート。次元が違う。違いすぎる。

 追いつける気がしない。併走にもなりはしない。どんどん遠くなるジャラジャラの背中を見ながら、マルシュアスはその現実に小さく苦笑した。

 ああ、うん。やっぱりあたしには無理だったんだ。ランデブーさんみたいな、キラキラしたオトナのウマ娘なんて。レースの世界はそんなに甘くない。あたしみたいな才能のないウマ娘だけれど、世代のトップクラスに引導を渡して貰ったのなら、まあ将来、きっと話のタネぐらいにはなるだろう。あたしは所詮、その程度の――。

 

 ――――嫌だ。

 

 ざわり、と背筋がざわめく。不意に浮かんだその思考に、マルシュアスは自分で狼狽する。今、何を思ったの? あたし――だって、現実は、ジャラジャラ先輩の背中はあんなに遠いのに、この距離があたしの実力のはずなのに、

 

 ――――こんなところで終わるなんて、嫌だ。

 

 憧れの人に見限られたまま。卑屈になったままで終わるなんて、嫌だ。

 そんなの、全然オトナじゃない。キラキラしてない。

 あたしは――あたしは、あたしだって、せめて、胸を張って。

 たとえ、実力がなくて終わるんだとしても――あの日、ランデブーさんに憧れて、この学園に来たことが、無意味だったなんてことには、したくない。

 

『嬉しかったよ。私のレース見てトゥインクル・シリーズに出たいって思ってくれたこと』

 

 ランデブーさんは、そう言ってくれたんだ。

 あたしは――せめて、ランデブーさんにとって、誇れる後輩でありたい。

 マルシュアスというウマ娘として――胸を張って、走りたい!

 ぐっと脚に力を込めて、マルシュアスは顔を上げる。背中は遠い。今から追いかけたって追いつけそうもない距離。でも――諦めて、手を抜いて、ほらやっぱりダメだった、なんて言い訳にはしたくない。せめて、せめて、今できる全力で――。

 ひとつ息を吐く。2400メートル。まだ距離はある。逃げで勝負できないなら、後ろから差し切る。差し切ってみせる!

 向こう正面の直線を越えて、3コーナー。まだ遠い。遠いけれど――遠ざかってはいない。ジャラジャラの背中は見える。まだ見えている。

 追いつく。追いついてみせる! なにがGⅠウマ娘だ、世代トップだ、あたしだって、あたしだって――トレセン学園の、ウマ娘だ!

 

「うああああああっ! あたしはっ、オトナのウマ娘に、なるんだあああああっ!」

 

 残り800。マルシュアスは雄叫びをあげてスパートをかけた。風を切る感触とともに、ジャラジャラの背中が――あれだけ遠かった背中が、近付いてくる。

 直線に入ったところで、ジャラジャラが振り向いた。そのときにはもう、あれだけあった差は数バ身まで詰まっている。ジャラジャラが軽く目を見開いて、そして――楽しそうに、猛々しい笑みを浮かべる。

 

「はっ、はっ、そうこなくっちゃな――抜かせねえ、よっ!」

 

 ジャラジャラが荒い息を吐きながら、力を振り絞るように加速する。マルシュアスも、全身の力を振り絞って食らいつく。あと少し、あとちょっと、届け、届け、届け――っ!

 

 ――ゴールの位置を通過したとき。

 ジャラジャラの背中は、既にマルシュアスの視界にはなく。

 けれど――あと半バ身、ジャラジャラの頭が先にあった。

 

「はぁっ、はぁ――くぁーっ、2400、キッツぅ……やっべーな、これ……」

 

 大の字になって、ジャラジャラがターフに倒れこむ。その横でよろよろと膝に手を突いて、マルシュアスはひどくうるさい心臓の音を聞いていた。

 届かなかった。届かなかったけれど……あとちょっと。あと少しだった。

 あと100メートルあれば……届いていたと、思う。

 あたしが? GⅠを勝ったウマ娘に――あと一歩まで、届いた?

 

「あー……おい、マル」

「……はい」

「やるじゃん。また併走付き合ってくれよ」

「――――は、はいっ!」

 

 仰向けになったまま拳を突き出してきたジャラジャラに。マルシュアスは自分の拳を合わせた。破れそうな心臓の音が、けれど今は、どうしようもなく心地よかった。

 

「うっし、今日はこのへんにしとっか! 明日寝坊したらまたジェネにどやされっからな。じゃあな、マル! 楽しかったぜ!」

「あ――」

 

 がばっと起きあがり、ジャラジャラはこちらの返事も待たずに走り去っていく。呆然としたままそれを見送って、――うん、あたしも部屋に帰ろう、と踵を返したとき。

 

「何か、掴んだようじゃな」

「とっ、トレーナー!?」

 

 いつの間にか、トレーナーがそこにいた。シワだらけの顔に埋もれそうな目を細めて、トレーナーは「ふぉっふぉっ」と笑う。そして、その後ろから――。

 

「おつかれさま。かっこよかったよ、マルシュちゃん」

 

 ぱちぱちと拍手しながら、ネレイドランデブーが姿を現した。

 

「ら――ランデブー、さん……。み、見てたんですか? どこから?」

「んー、まあそれはいいじゃない。いやー、1ヶ月も雲隠れするのは大変だったよ」

「……あの、ええと……あたし、ランデブーさんに、見限られたんじゃ……」

「む、ひどいなあ。私がそんな薄情な先輩に見える?」

「あ、いや、そういうわけじゃ――」

 

 頬を膨らませて見上げるランデブーに、マルシュアスは慌てて首を振る。

 そして、ぎゅっと胸の前で手を握りしめた。

 

「……ランデブーさん、あたし」

「うん」

「あたし……ランデブーさんみたいな……ううん、違う。ランデブーさんよりももっと、キラキラした、オトナのウマ娘になりたいです! あのネレイドランデブーさんより強くて、格好良くて、キラキラしてる、オトナなウマ娘に――なりたい、です!」

「うん、よくできました」

 

 背伸びしたランデブーにぽんぽんと頭を撫でられて、マルシュアスは泣き出しそうになりながら、ぎゅっと目を瞑る。

 ――その幸せな時間を切り裂くように、かつん、とトレーナーが杖を鳴らした。

 

「よろしい。マルシュアスよ、皐月賞、出たいかね?」

「――はいっ!」

「ならば、今月末の未勝利戦、勝つぞい。そして3月、弥生賞で優先出走権、取るんじゃ」

「――――わかりましたっ! よろしくお願いしますっ、トレーナー!」

 

 マルシュアスは深々と頭を下げ、「ふぉっふぉっ、良い返事じゃ」とトレーナーは笑う。そしてランデブーは、そんな後輩の姿を、優しく目を細めて見つめていた。



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第76話 今の炎と過去の埋み火

 1月14日、日曜日。URA本部ビル最上階、レセプションホール控え室。

 

「もうっ、会長、タイが曲がってます!」

「ああ、すまないドカドカ。ありがとう」

 

 胸元のタイを直してくれるドカドカに、リードサスペンスは目を細めた。

 URA賞の授賞式とパーティへの出席は、トレセン学園生徒会の義務である。会長のリードサスペンスにはスピーチの出番もあった。原稿はドカドカが作ってくれているし、こうして人前で会長として振る舞うのもとうに慣れたことではあるが――。

 

「しかし、ドカドカ。少しぐらいこう、隙があった方がもっと親しみやすさを――」

「こういう公的な場所で変な格好をするのは単にだらしなく見えるだけです! 親しみやすさはもっとこう、ファン感謝祭とかそっちで追及してください」

 

 はい、できました、とドカドカが手を離し、リードサスペンスは自分の姿を鏡に映してひとつ息をつく。完璧に整えられた正装姿の自分。トレセン学園の生徒会長、ウマ娘会のスポークスマンとしての〝リードサスペンス〟の姿。

 今の立場に文句があるわけではないが、ときどき、ひどく遠くに来てしまった――という思いに囚われることがある。トゥインクル・シリーズで走っていたあの頃。他のことになど目もくれず、ただコンマ一秒でも速く、数センチでもライバルより先を目指して、ただ走るためだけに走っていられたあの頃――。

 たった3年と少しの現役生活は、今振り返ると、ほんの刹那の夢でしかなかったようにも思える。あまりにも――幸せな夢。

 ……そんな風に思えるのは、自分が〝絶対王者〟だったからなのだろうか?

 

「どうしました? もう時間ですよ」

 

 鏡の中で、隣のドカドカが自分を見上げているのに気付いて、リードサスペンスは詮無い回想を振り払った。今の自分は後進のためにウマ娘界を支える立場。納得してここにいるのだ。あの頃の自分と同じ刹那の夢の中にいるウマ娘たちのために――。

 

「行こうか、ドカドカ」

「はい、お供します」

 

 黒いドレスの裾を揺らしてついてくるドカドカ。その小さな姿に目を細めながら、リードサスペンスはレセプションホールへ通じるドアを開けた。

 煌びやかなパーティ会場のざわめきが一瞬鎮まり、人々の視線が集まる。その視線を受け流しつつ、リードサスペンスはドカドカを従えてステージへと向かった。

 ――さて、今日もせいぜい、〝生徒会長〟を始めるとしようか。

 

 

       * * *

 

 

 ――あー、やっぱ適当言ってサボるんだった……。

 似合わないにも程がある水色のドレスに無理矢理着替えさせられた瞬間から、ジャラジャラはこの場に来たことを盛大に後悔していた。笑いを堪えながら「新鮮だな」と言ったトレーナーのことは張っ倒してやろうかと思った。くそ、こっちはてめーのために猫被ってやろーってのに、笑うこたーねーだろ笑うこたー!

 ステージ脇の壁際で、先に表彰されている最優秀ダートウマ娘や最優秀短距離ウマ娘のことを横目に見ながら、ジャラジャラは溜息をつく。スーツ姿の大人とマスコミの群れ。こういう場所に来たくて走ってるわけじゃねーのになあ、と言っても、この場にいる者のほとんどは理解してはくれないのだろう。

 

「機嫌悪そうだねー、ジャラジャラちゃん」

「あ、ランデブー先輩」

 

 ステージから下りてきたネレイドランデブーが、不機嫌そうなジャラジャラを目に留めて話しかけてきた。ランデブーは前年の最優秀短距離ウマ娘として、今年の同部門の受賞者への花束贈呈に呼ばれていたのである。

 

「正直、もう帰っていいっすかね」

「あはは、URA賞の授賞式ブッチしたら歴史的気性難として伝説になるだろうけどねー」

 

 ランデブーは楽しそうに笑い、それからふっと目を細めた。

 

「そうそう、昨日はありがとうね」

「昨日?」

「ほら、マルシュちゃん。ジャラジャラちゃんのおかげで、いろいろ吹っ切れたみたい」

「……ああ、あいつのことっすか。いや別に、なんかした覚えもねーっつーか、あたしの方から併走頼んだだけっすけど。つーか、あいつまだ未勝利戦勝ってねーってマジすか?」

「うん。本人の才能じゃなく精神的な部分で、ちょっとね。ちょっともたついたけど、三冠には出られると思うよ。それだけの才能はある子だから」

「ほーん」

 

 ――三冠、か。ジャラジャラは頭を掻く。

 だいたい、なんで三冠路線とティアラ路線とで分かれてるんだろうな。全部一緒くたに競った方が誰が一番強いかわかりやすいじゃねーか――とジャラジャラは思う。それがトゥインクル・シリーズの慣習だと言われても、だからなんだ、としか思えない。

 今のトレーナーにスカウトされる前に声を掛けてきたトレーナーの中にも、「君ならティアラ路線じゃなくても、三冠だって獲れる!」と言ってきた奴がいた。どうやら世間的にはトリプルティアラより三冠の方が格が上ということらしいが、どうでもいい。

 ――ジェネとあのミニキャン……じゃなかった、ミニキャクタスより強い奴がそっちにいるってんなら、桜花賞であいつらを倒してから喜んで行くんだけどな。

 

「おっ、ランデブーさん、どもー。花束贈呈おつかれさまです」

 

 と、そこへもうひとり別の声が掛かった。大量の料理を載せたトレーを抱えている長い芦毛のウマ娘は、ジャラジャラもさすがに知っていた。テイクオブ……いや、テイクオフプレーンだ。

 

「あ、プレーンちゃん。そっちこそ、パーティ満喫してるねー。そんなに食べてこのあと表彰なのに大丈夫?」

「いやー、庶民としちゃーこんな立派な会場の立派な料理食べられる機会なんて一生に一度あるかどーかですからね! ノディの居ぬ間にレッツ食いだめ!」

「太っても知らないよー?」

「太ってもドバイ行くまでには戻すので大丈夫です! っと、そこのキミは、後輩の弾丸ちゃんか。やーやー、噂は聞いてるよ」

「……ども、ジャラジャラっす」

 

 テイクオフプレーン。現在のところ、現役のティアラ路線のウマ娘で最強に最も近いのが彼女だろう。同じ逃げウマ娘だが、スタイルは違う。だからこそ、一度手合わせ願いたい相手だったが……。

 

「いやー、見たよサウジRCと阪神JF。めちゃくちゃ強いね! あたしもうかうかしてらんないなーと思いましたとも。今年たぶん戦えないのが残念! 同じ逃げウマ娘としてお手合わせ願いたかったけどね」

「プレーンちゃん、今年は海外一本なんだっけ?」

「夏場は札幌記念あたり走りに戻ってくるかもですけどね。国内はノディに任せますよ。ジャラジャラちゃんも、来年は海外おいでよ。相手になるよ? ヒクマちゃんも海外目指すって言ってるし」

「ヒクマ? ……ああ、あいつっすか」

 

 あの芦毛のバイトなんとかクマか。そういやあいつともまだ戦ってなかったな――とジャラジャラは思い出す。

 ふうん、あいつ海外目指してんのか――。

 海外か。アメリカ、イギリス、フランス、香港、ドバイ、サウジアラビア――。めちゃくちゃ強いウマ娘がゴロゴロしているのだろう、というのは想像がつく。想像はつくが。

 

「…………」

 

 今ひとつピンと来ない。たぶん、相手の顔が思い浮かばないからだ。

 ――どーも、顔の見える相手じゃねーと燃えねーんだよな。

 現地に行ってその場のウマ娘の走りを見れば、きっと燃える相手はいくらでもいるのだろうとは思うが。――今はそれより、叩き潰しておきたい相手がいる。

 

「そっすね。年度代表ウマ娘獲ったら行きますよ」

「お、大言壮語、夢があっていいねえ! 気に入った、今度併走付き合ってよ」

 

 プレーンが楽しそうに笑って肩を叩き、ジャラジャラは望むところ、と笑みを浮かべた。と、

 

『続いては最優秀ジュニア級ウマ娘――』

「あ、ジャラジャラちゃん、出番だよー」

「うえ、マジすか。はぁー、しゃーねー、行ってきます」

 

 ランデブーにつつかれ、ジャラジャラは溜息をついてステージに向かった。

 

 

       * * *

 

 

『最優秀ジュニア級ウマ娘! デビューから3戦3勝、サウジアラビアロイヤルカップでは25年ぶりの平地重賞大差勝ち。阪神ジュベナイルフィリーズも圧巻のレコード勝利、ジャラジャラさんです!』

「あー、ども」

 

 拍手とカメラのフラッシュの中、やる気なさげに片手を挙げるジャラジャラに、隣に棚村トレーナーが困ったような表情を向けている。その姿を、リードサスペンスはドカドカと並んで会場の後方から腕組みをして眺めていた。

 

「……なんというか、外見を取り繕う気がない会長って感じの子ですね」

「なかなか辛辣なことを言ってくれるね、ドカドカ」

「外見を取り繕う気があるだけ会長は立派だと思います。まあ、会長があの子に目を掛けるのはなんとなくわかりますけど。似たもの同士な気配がしますよ。ルームメイトのエレガンジェネラルさんは大変でしょうね、同情します」

「おやおや、それじゃあまるで私も君に迷惑をかけ通しみたいじゃないか」

「自覚がないなら自覚してください、自覚があるなら直す努力をしてください。とりあえず仕事中にふらっといなくなったり、書類を期限ギリギリまで貯め込んだりせずに」

「ちゃんと仕事は期限内に仕上げているつもりだけどね」

「いい加減なのにちゃんと辻褄を合わせてしまうから余計にスケジュールがいい加減になるんじゃないですか、会長は……」

 

 はあ、と溜息をつくドカドカに、リードサスペンスは肩を竦める。

 

『さてジャラジャラさん、今年はクラシック級での戦いになりますが、ズバリ今年の目標はトリプルティアラでしょうか』

 

 司会のその言葉に、マイクを手にしたジャラジャラは「あー」と空いた手で頭を掻く。

 

「猫被ろーかとも思ってたけど、やっぱ心にもねえこと言っても仕方ねーんでぶっちゃけます。あたしは、そーゆー勲章に興味はねーっす。トリプルティアラだの何だのが欲しくて走ってるわけじゃねーんで」

 

 参加者がざわめく。ジャラジャラの隣で棚村トレーナーが「あちゃー」という顔で頭を抱え、司会者も次の言葉をなんと発していいのか困ったように口ごもった。

 そんなどよめきの中で――リードサスペンスは、腕組みをしたまま、壇上のジャラジャラを見つめる。

 

「あたしが次、桜花賞目指すのは、エレガンジェネラルとミニキャクタスを倒すためっす。今んとこ、あたしの知る限りそのふたりが同期で一番強いと思うんで。ジェネには阪神で勝ったけど、ま、あいつもあれで格付けが済むよーなタマじゃねーっすから」

『……で、では、桜花賞でそのおふたりを倒されたら?』

「んな先のことはまだわかんねーっすよ。ま、オークスでもダービーでも、次に倒したい相手がいるところに出るだけっすから」

 

 呆気にとられた観衆に、ジャラジャラはひとつ息を吐いて。

 

「つーわけで、あたしが欲しいのは、あたしを滾らせてくれるライバルっす。ライバルは何人いてもいいっすから、あたしより強いって自信のある奴ならいつでも誰でも大歓迎。喜んで倒しに行くんで――よろしく」

 

 その、獰猛な笑みに。

 ぞくり、とリードサスペンスの背筋が泡だった。

 そのときの、ジャラジャラの視線が――自分を射貫いていたように感じたのは、傲慢な自意識過剰だろうか。

 だが……なんだろう、身体の奥からふつふつと湧いてくる、この熱は。

 一線を退いて、会長の椅子に納まってから――久しく忘れていた、この感覚は。

 

「……会長?」

 

 ドカドカが、訝しむようにこちらを見上げていた。

 いつの間にか拳をきつく握りしめていたことに気付いて、リードサスペンスは我に返る。強ばったその拳を無理矢理ほどいて、深く大きく息を吐いた。

 ――ジャラジャラ。運命的な何かを、彼女に対しては感じていた。

 それは――ひょっとしたら、あの頃の闘争本能が疼いていたのか。

 九冠ウマ娘として。絶対王者として。――ウマ娘、リードサスペンスとしての。

 

「……ドカドカ」

「はい」

「これが終わったら、一緒に走らないか」

「え?」

「今、無性に走りたくなった。できれば今すぐにでも、ここを飛び出したいぐらいだ」

「――――会長にそんなことをされたら困ります」

 

 ぶるりと身を震わせたリードサスペンスに、ドカドカは呆れたように息を吐く。

 

「けど……」

 

 そして、不意に目を細めて、リードサスペンスの顔を見上げた。

 

「会長の――いえ、リサさんのその顔、久しぶりに見ました。レース前の貴方の顔。どんなに〝絶対王者〟と讃えられても、驕りも慢心もなく、ただゴールだけを見つめている、ただひとりのウマ娘の顔。――私が憧れた、リサさんの顔です」

「……ドカドカ」

「いいですよ、いくらでもお付き合いします。――私も、リサさんと久しぶりに、全力で走りたいです」

「ドカドカ!」

 

 思わず、リードサスペンスはドカドカの手を強く握りしめていた。

 

「よし、手に手を取って、こんな会場からは逃避行と行こうか!」

「――このパーティが終わってからです!」

 

 走り出そうとしたリードサスペンスを、ドカドカがその場に踏ん張って引き留める。

 ジャラジャラの常識外れのスピーチにどよめいていた観衆は、後ろで繰り広げられていたそんな一幕には、誰も気が付いていなかった。

 



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第77話 ぬいぐるみと決心と

 1月21日、日曜日、府中駅前。

 

「お待たせ、エチュード。ごめん、待たせたかな」

「いっ、いえ! 全然、あの、今来たところですから」

 

 私が駆け寄ると、エチュードは慌てたように首を振った。約束の時間の十五分前に来たのだけれども。私は頭を掻く。

 ダッフルコートを着たエチュードは、恥ずかしそうに顔を伏せる。あれ、私の格好、変だったかな? 自分の格好を思わず確認していると、エチュードは「えと、あの」と顔を上げた。

 

「す……すみません、あの、折角の日曜日に、トレーナーさんのお時間を……」

「いやいやいや、約束だし、エチュードのお祝いなんだからそんなの気にしないで。みんな次のレースは3月だから、私も少し余裕はあるしね。ええと、それでどこ行く?」

「はっ、はい! あの――ええと」

 

 エチュードがスマホを取りだして、画面をこちらに向ける。

 

「あの……ここに、行きたいです」

 

 都内の大きなおもちゃ屋だった。ぬいぐるみの品揃えが豊富とある。なるほど、ここに行くなら学園の前から車を出すより電車の方がいいだろう。

 

「わかった。じゃあ、行こうか」

「あ……はいっ」

 

 改札に向かって歩き出すと、エチュードがおずおずとついてくる。

 ――しかし、ヒクマもコンプも抜きで、私とふたりだけで良かったのかな?

 

 

       * * *

 

 

 ――や、やっぱりこれ、誰がどこからどう見てもデート……だよね……?

 トレーナーの半歩後ろを歩きながら、エチュードは顔が熱いのをどうすることもできず、バクバクと高鳴る心臓をなだめるのに必死だった。

 背の高いトレーナーの横顔を、斜め後ろからそっと見上げて、自分が見つめていることに気付かれそうな気がして慌てて視線を逸らす。歩きながら、さっきからずっとそんなことばかり繰り返している。

 意識しすぎだという自覚はある。だけど、何しろ今日に至るまで、散々周りに冷やかされ煽られてきたわけで――。

 

『エチュードちゃん! デートの服は女の子の勝負服だよ! もっとオトナっぽくして、トレーナーをドキドキさせちゃわなきゃ!』

 

 ルームメイトのマルシュアスはそう言って、前日からエチュードを着せ替え人形にして遊んでいた。レースで結果が出なくてここしばらくアンニュイだったルームメイトは、エチュードが菜の花賞を勝った先週の土曜の夜からやけにご機嫌で、エチュードは散々着せ替えられ、ネイルを無理矢理塗られそうになったりして、わちゃくちゃにされたのである。

 

『今日は帰りが遅くても寮長には上手いこと言っておくよ! グッドラック!』

 

 おまけに行きがけにはそんなことを言われて送り出された。帰りが遅く……って、それはその、そういうのはやっぱりあんまりよくないような……って、なに考えてるんだろう私。あうあう。

 ブリッジコンプからは『エーちゃん、忘れちゃダメだかんね。ぬいぐるみは口実! ぬいぐるみを買ってもらったあと、いかにトレーナーを引き留めて午後いっぱいも付き合ってもらうかが勝負なんだからね! ファイト!』と役に立つのだか立たないのかよくわからないアドバイスをもらった。

 ……みんな、私以上に盛り上がりすぎだよ……。

 トレーナーの背後でこっそり溜息をつく。応援してもらえるのはありがたいと思うけど、なんかもう、周りから全力で外堀を埋められてて、どうしたらいいのか。

 

「エチュード?」

「ふわあい!」

 

 突然トレーナーが振り返って、エチュードは思わず変な声をあげていた。

 

「どうしたの? はい、切符」

「あ……はい、あ、ありがとうございます……」

「大丈夫? なんか顔赤くない?」

「だっ、だだだっ、大丈夫です!」

「そう? ほら、ちょうどいい時間だし、次の電車乗ろう」

 

 トレーナーの後に続いて改札をくぐりながら、エチュードは改めて深呼吸する。

 ……うう、こんな調子で、大丈夫なんだろうか、私……。

 

 

       * * *

 

 

 

 そんなわけで、やって来たのは銀座のおもちゃ専門店である。

 

「うわあ……」

 

 その2階ぬいぐるみ売り場。列を為して出迎える大量のぬいぐるみに、エチュードがぽかんと口を開けた。私も思わず感嘆の息を吐く。ぬいぐるみもこれだけ揃えば壮観という他ない。

 

「じゃあ、ゆっくり選んでおいで」

「あ、はい……え、トレーナーさんは……?」

「ん? いや、エチュードが欲しいの自分で選んでくれればいいから、私はそのへんぶらぶらして――」

 

 そう言いかけたところで、エチュードにコートの裾をはっしと掴まれた。

 

「……あのっ、えと」

 

 エチュードはぎゅっと私のコートを掴んだまま俯く。……私は頭を掻いた。やれやれ、こんなぬいぐるみの山の中に私がいても浮くだけだと思うが……。

 

「わかったわかった。じゃあ、一緒に見て回ろうか」

 

 私が答えると、エチュードはぱっと顔を上げ、「はいっ」と嬉しそうに頷いた。

 というわけで、エチュードと一緒に陳列されたぬいぐるみの山を見て回る。犬、猫、ウサギ、ペンギン、クマ、パンダ……。リアル志向からデフォルメされたもの、キャラクターもの、ハンドパペットまでなんでもある。きょろきょろと落ち着きなく視線を彷徨わせ、尻尾を振りながらぬいぐるみを手に取るエチュード。本当に好きなんだなあ、と私は思う。

 まあ、私もふわふわもふもふしたものは嫌いではない。手持ちぶさたに近くにあった大きなアザラシのぬいぐるみをもふもふと弄っていると、エチュードが隣に寄ってきてそれを覗きこんだ。

 

「これにする?」

「え、あ、ええと……」

 

 私がアザラシを手に取ろうとすると、エチュードは困ったように視線を彷徨わせる。アザラシはお気に召さないのだろうか。

 

「……トレーナーさんは、その、ええと……あの、なにが、す……好き、ですか?」

「え、私? 私かぁ……うーん」

 

 このへんに並んでいる動物で、ということか。私は周囲のぬいぐるみの山を見回す。あまり、特別好きな動物というのはないのだけれども……。

 大きな犬のぬいぐるみは、なんとなくヒクマを連想する。大型犬っぽいもんなあ。

 小さな虎柄の猫のぬいぐるみは、どことなくコンプっぽい。

 それでいくと、エチュードは……。

 

「……リス、かなあ」

 

 近くにあったリスのぬいぐるみを手に取る。栗色の毛色で、ちょこんと佇んでいる様子がなんとなく、控えめなエチュードのイメージに合う。

 私がそのぬいぐるみを差し出すと、エチュードはおっかなびっくり受け取った。

 

「あ……」

 

 くるみを抱えたポーズのぬいぐるみの、つぶらな瞳を見下ろすエチュード。

 

「ああ、でもそれだと、前にあげたのより小さいかな」

「いっ、いえ! これがいい、です!」

 

 ぎゅっとそのリスを抱きしめるようにして、エチュードは大きな声でそう答えた。

 

「いいの?」

「はいっ、これが、いいです……」

 

 ぎゅっと強くリスを抱きしめるエチュード。気に入ってくれたのなら何よりだが。

 

「じゃあ、それにしようか。それとも、もう少し見て回ってから決める?」

「……えと、じゃあ、もう少し……」

「わかった。じゃあ、とりあえずそのリスが第一候補ね」

 

 そうして、大事そうにリスを抱えるエチュードと、もう少し店内を見て回る。どこを見回してもかわいいもふもふの洪水に、そろそろ私が気疲れしてきた頃――。

 

「……あっ」

 

 店内の一角に、エチュードが目を留めて声を上げた。私もそれを見やる。

 

「ああ……ぱかぷちコーナーもあるんだ」

 

 ウマ娘のぬいぐるみである。ウマ娘グッズの定番で、レース場でも売っているし、クレーンゲームの景品としてもおなじみだ。

 基本的に市販のぱかぷちは勝負服姿をモチーフにしているので、商品化されるのは勝負服がある――つまり、GⅠに出たことがあるウマ娘に限られる。それもあり、自分のぱかぷちが出る、というのは、現役のウマ娘にとってはひとつのステータスであるらしい。

 並んでいるのはやはり現役のウマ娘が中心だ。私たちに馴染みの深いところでは、テイクオフプレーンやリボンスレノディ。とうに引退して久しいリードサスペンス会長やドカドカのぬいぐるみも並んでいて、人気の根強さを伺わせる。

 そして、その中に――。

 

「あ……そうか、ヒクマのぱかぷち、もう商品化されてたんだったな」

 

 今年のクラシック世代のぱかぷちが並んでいる一角があった。やはり一番数が多いのはジャラジャラ。それからオータムマウンテンやデュオスヴェル、エレガンジェネラル、ミニキャクタス。――そして、ヒクマのぱかぷちもその中に混ざって並んでいた。

 ヒクマのくるんとウェーブした長い芦毛に褐色の肌と大きな瞳、民族衣装風の勝負服。特徴をよく捉えたぬいぐるみになっている。担当がこうしてぬいぐるみになっているというのを見るのは、なんとも不思議な気分だった。

 

「ヒクマちゃん、すごいなあ……」

 

 エチュードは眩しそうに、居並ぶぱかぷちを見下ろす。――と。

 

「あ、ママー! ウマむすめさん!」

「あらあら、ウマ娘さんねえ」

 

 小さな女の子が、並んだぱかぷちに目を輝かせて駆け寄ってくる。母親らしい女性が「どれがいいの?」と訊ねると、女の子は真剣な顔でじっと見つめ――そして、なんと。

 

「このこ! ばいとあるひくまちゃん!」

 

 彼女が手に取ったのは、ヒクマのぬいぐるみだった。

 

「バイト……クマ?」

「ばいとあるひくま、だよ! ママ!」

「はいはい、じゃあそのクマさんにしましょうね」

「うんっ」

 

 ヒクマのぬいぐるみを大事そうに抱えて、女の子は母親に手を引かれて嬉しそうに歩いて行く。さすがに口を挟めず、私は心の中だけで「ありがとうございます」と呟くに留めた。……いや、まさかあんな小さな子が、他の誰でもなくヒクマのぬいぐるみを選んでくれるとは……。トレーナーとして、誇らしいようなこそばゆいような、不思議な気分である。ヒクマ自身がここにいたらどんな顔をしただろう?

 

「いやはや……」

 

 頬を掻きながらエチュードの方を振り向くと、エチュードはヒクマのぬいぐるみを持っていった女の子の背中をじっと見つめて――リスのぬいぐるみを、ぎゅっと抱きしめて一度俯き、そして、私をぐっと見上げた。

 

「……あの、トレーナーさん」

「うん?」

「次のレース……アネモネステークス、出ます。――桜花賞、出たいです」

 

 きゅっと唇を引き結んで、真剣な表情で、エチュードは言った。

 唐突なその言葉に、私は目を見開き――そして、頷いた。

 ――友人のぬいぐるみか、それを買っていった女の子か……何がエチュードの気持ちに火を点けたのかまではわからないけれど。

 本人の心が決まったのであれば、私はそれを支えるだけだ。

 

「よし、わかった。桜花賞、目指そう!」

「はいっ!」

 

 拳を握った私に、エチュードはリスのぬいぐるみを抱きしめて、力強く頷いた。

 

 

       * * *

 

 

「……で、トレーナーとお昼食べて、スポーツ用品店行って、新しいシューズと蹄鉄も買ってもらったの? うーん、ねーコンプちゃん、それってデートだと思う?」

「まあ、前半はともかく、後半はただの買い出しじゃない」

 

 その日の夕方。寮に戻ってきたエチュードにデートの首尾を問い詰めたマルシュアスは、返ってきた答えに首を傾げ、一緒に待ち構えていたブリッジコンプと顔を見合わせた。

 

「エーちゃんがそうそう大胆に距離詰められるとは思わないけど、もーちょっとこー、なんか色気のある展開なかったの?」

「そうだよ! 恋愛映画見に行くとか、オシャレなカフェで自撮りするとか。あっ、お昼どんなところで食べたの? 銀座行ったんでしょ? なんかオトナなお店で――」

「あ、えと……オムライス屋さん行ったんだけど……」

「オムライス! いいねいいね、オトナっぽくトレーナーに『あーん』とかした?」

「し、してないよ! あの……トレーナーさん、『いっぱい食べて強くならなきゃ』って、Lサイズふたつ注文して……」

「あれ、オムライス屋ってひょっとしてあのチェーン? あそこのLってあたしたちウマ娘ならともかく、普通の人間用としては結構なボリュームじゃなかった?」

「う、うん……トレーナーさん、ちょっと苦しそうにしてた……」

「で、エーちゃんはLをぺろっと平らげたと?」

「だ、だって、トレーナーさんが『やっぱりウマ娘なんだね、いっぱい食べるのはいいことだよ』って嬉しそうな顔するから……その……」

 

 マルシュアスとコンプはもう一度顔を見合わせ、ふたり揃って大きく溜息をついた。エチュードはリスのぬいぐるみを抱いたまま「あう……」と身を縮こまらせる。

 

「で、でもね。私が、桜花賞目指したいって言ったら……トレーナーさん、すごく喜んでくれたから……だから、うん、それでいいの。……えへへ」

 

 リスのぬいぐるみを大事そうに撫でて、エチュードは顔をほころばせる。

 その顔はどこからどう見ても恋する乙女そのもので――マルシュアスは「いいなー」と呟き、コンプはただ肩を竦めていた。



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第78話 共同通信杯・雪の砂上で白毛は舞う

 暦は1月から2月。それぞれの戦いは続いていく。

 

 

       * * *

 

 

 1月14日、小倉レース場。クラシック級未勝利戦、芝1200メートル。

 ソーラーレイ、後方から内を突いて追い込むも半バ身差届かず2着。

 

「おかえりなさい、レイさん! 惜しかったですね!」

「あー、委員長、ただいまぁ。思ったより小倉寒かったよぉ」

「冬ですからね! 仕方ありません! さあどうぞ!」

「あー、委員長あったかいわー」

「バイタル湯たんぽです!」

 

 寮の部屋でバイタルダイナモを抱き枕にしながら、レイは悔しさを噛み殺すようにダイナモの首元に顔を埋めた。

 ――焦らず、5月の葵ステークスを目指そう。トレーナーはそう言った。

 チョコチョコの奴が出てくるのは、3月のファルコンステークスなのに。

 またユイチョコから引き離される。――あのふたりの背中に、追いつけるのだろうか?

 

 

       * * *

 

 

 1月27日、京都レース場。クラシック級未勝利戦、芝2000メートル。

 マルシュアス、3番手の先行策から直線抜け出しを図るも、垂れてヨレてきた逃げウマ娘にぶつけられる不利を受け、ゴール前で差し切られ2着。

 

「ううううううっ、う~~~~~っ!」

「うん、悔しいよね。……残念だけど、こういうこともあるのがレースなんだよ」

 

 やり場のない感情に震えるマルシュアスの肩を、ネレイドランデブーがそっと抱く。

 会心のレースだった。逃げることしか考えず、スタミナが尽きて撃沈を繰り返していたこれまでと違って、番手に構えてしっかり折り合えた。直線でいくらでも前に行けそうな気がした。闇雲に逃げていたときよりも、ずっと目の前が広くて、もうゴールしか見えなかった。絶対に勝てた。勝てたと――思ったのに。

 抜き去ろうとした相手が、へろへろになってヨレてぶつかってきて――最後の100メートルで歯車が狂った。思うように脚が前に行かなくなって、最後の最後でかわされた。――どうして。どうして、間違いなく勝ってたのに!

 

「いいレースじゃったが、負けは負けじゃな。――これで、正攻法で皐月賞に出るのは厳しくなったのう」

 

 トレーナーの言葉に、マルシュアスは顔を上げる。そう、皐月賞まではあと二ヵ月半しかないのだ。出走するには今日ここで勝って、3月のトライアルに挑むしかなかった。今日負けたということは、事実上皐月賞への道のりは絶たれたということ――。

 ……正攻法?

 

「トレーナー。……正攻法で、って?」

 

 何か裏技でもあるというのか。マルシュアスの問いに、トレーナーはシワの奧の瞳を光らせて、白い髭を揺らして不敵な笑みを浮かべた。

 

「マルシュアスよ。皐月賞、諦めるかね?」

 

 反射的に、マルシュアスは首を横に振っていた。諦めたくはない。まだチャンスがあるなら、クラシックに出たい。――ランデブーさんが引退する前に、あたしはランデブーさんのおかげで強くなれましたって――胸を張りたい。

 

「よろしい。――マルシュアスよ。次走、弥生賞じゃ」

「……へ? え、ええええええっ!? と、トレーナー、何言ってるんですか!?」

 

 意味がわからない。弥生賞はGⅡ、重賞レースだ。未勝利の自分が出られるはず――。

 

「あ、そっか。トライアルだから」

「へ? え、ランデブーさん、それ、え? あたし、出られるんですか?」

「うん。――クラシック級GⅠのトライアルは、未勝利でも出られるんだよ。もちろんフルゲートになれば真っ先に除外対象になっちゃうけど」

 

 ランデブーの言葉に、マルシュアスは目をしばたたかせる。――出られる? 皐月賞トライアルに? あたしが?

 

「もちろん、普通に出るより条件は厳しいぞい。優先出走権は3着までじゃが、未勝利のおぬしが皐月賞に出るには、ファンPtが加算される2着以内が最低条件。おまけに相手には、ホープフルステークス3着のデュオスヴェルが出てくる予定じゃ」

「――――」

「それでも、挑戦してみるかね?」

 

 再び反射的に――マルシュアスは頷いていた。チャンスがあるなら――諦めない。

 

「やります! 弥生賞、勝ってみせます!」

「よろしい。――ふぉっふぉっ、儂も長いことトレーナーやってきたが、未勝利でトライアルに送り出したくなったのはおぬしが初めてじゃ。未勝利からトライアルを突破してクラシックに出たウマ娘は過去にひとりもおらん。……この歳で初めてに挑戦するとはのう。昂ぶるぞい」

 

 杖を打ち鳴らすトレーナーの眼光に、思わずマルシュアスは背筋を伸ばした。

 ――あれ、今までただの好々爺だと思ってたこのトレーナー……ひょっとして、なんか、実はなんか凄いトレーナーだったり……?

 

「どうしたのー? マルシュちゃん」

 

 冷や汗を流すマルシュアスを、ネレイドランデブーが不思議そうに見上げていた。

 

 

       * * *

 

 

 2月3日、小倉レース場。かささぎ賞(1勝クラス)、芝1200メートル。

 バイタルダイナモ、後方待機からバ群に埋没したまま13着。

 

「レイさんを見習って後ろから行く作戦を立てたんですが、全然ダメでしたね! 失敗、完敗、疲労困憊です!」

「委員長、なんで未勝利のあたしなんか見習うのさー」

「委員長ですから! 皆の模範として様々な戦法にも通じておかなくては! でも、内枠で後ろに構えると前で集団が壁になってしまうということがよくわかりました! これがかの有名な故事『前方の壁、後方の差しウマ』というやつですね!」

「なんかそれちがくね?」

 

 惨敗してもいつも通りに胸を張ってはっはっはと笑うダイナモに、ソーラーレイは肩を竦めた。――このメンタルの源、なんなんだろーなー、と思いながら。

 

 

       * * *

 

 

 2月10日。東京は夕刻から吹雪に見舞われた。

 

「ええっ、明日の東京、開催中止ですか?」

「無念ッ! この雪は火曜日まで止まないとの予報! バ場状態の悪化に加え、交通機関の混乱も予想されるッ! 誠に遺憾ながら、11日、日曜日の東京開催は中止ッ! 来週月曜の19日、フェブラリーSの翌日に順延するッ!」

 

 秋川理事長の発表に、トレーナーたちがざわめく。

 桐生院葵も、その中にいた。

 

「慚愧ッ! 明日のレースを目標に仕上げてきたウマ娘とトレーナー諸君には甚だ申し訳ないッ! だがウマ娘と観客の安全が第一ッ! どうか了解願いたいッ!」

 

 理事長に頭を下げられてしまっては、誰も返せる言葉はない。

 ――2月11日の東京開催、GⅢ共同通信杯を含む全レースは、19日月曜日に順延。正式にURAからその発表が為されたとき、葵はトレーナー室で担当のハッピーミークと向き合っていた。

 

「そういうわけです、ミーク。残念ですが、来週に向けて改めてしっかり調整していきましょう」

「…………わかりました」

 

 どう思っているのか、いつも通りのぼんやりした顔で頷くミーク。このところミークは絶好調だったので、明日の開催中止は葵としても痛恨だった。問題は、この調子を来週までどう落とさずに維持できるか……。

 

「気を落とさないでくださいね、ミーク。今のミークなら1週間延びたぐらいなんてことないはずです! 来週、重賞初勝利といきましょう!」

「…………おー」

 

 ――そう切り替えて、意気込んでいたのだが。

 

 

 なんと、翌週も東京に大雪が降った。

 17日土曜日の東京開催は20日火曜日に順延。18日日曜日はメインレースがダートGⅠのフェブラリーステークスということで、さすがにGⅠを順延にはできず、同日の芝レースを全てダート変更で開催となった。

 ――そして、19日月曜日も、引き続き雪予報だった。

 

「理事長、いかがなさいますか? おそらく明日までに芝コースは開催できる状態に戻らないとの見込みですが、さすがに重賞を2週連続の順延は……」

「不覚ッ! さすがに東京で2週続けての大雪は想定外ッ!」

 

 心配げな駿川たづなに、秋川やよいは腕組みして唸る。

 

「無念ッ! 本日のダート変更でもウマ娘とトレーナー諸君に多大な迷惑をかけてしまったッ! 全て我々のレーススケジュール管理の見通しの甘さが原因ッ!」

 

 地方トレセンとの関係で、水曜日から金曜日の開催は不可能。月曜も芝コースが使えないとなると、共同通信杯はもう1週順延するか、あるいは……。

 

「だが、これ以上の順延もいかんッ!」

「では、理事長……!」

「うむッ! ――明日の共同通信杯は、ダート1600メートルに変更するッ!」

 

 

       * * *

 

 

 2月19日、月曜日。東京レース場。

 重賞、共同通信杯。ダート1600メートル。

 

『雪の東京レース場からお送りしておりますトゥインクル・シリーズ、昨日に続き本日も雪の影響で芝コースが使えず、全レースダート変更となっております。本日のメインレースはGⅢ共同通信杯、クラシック級限定、芝1800メートルのレースでしたが、今年はなんとダート1600メートル、格付けなしの重賞としての開催となりました。楠藤さん、いや、芝重賞のダート変更というのは何年ぶりですか』

『二十何年ぶりですかね。記録上の最後のダート変更もこの共同通信杯でした。昔から雪の影響で何度かダート変更になった歴史のあるレースですが、いやあ、まさか現代でダート変更が起こるとは思いませんでしたねえ』

『URAは現在、芝レースのダート変更はよほどの理由がない限り行わないことを原則としておりますが、今日の共同通信杯は前週の開催中止による順延開催。しかも土曜日のダイヤモンドステークスが火曜日に順延になっているため、これ以上の繰り延べはできないということのようです。しかしこうなりますと予想が難しいですね』

『芝とダートでは全く違いますからね。クラシックを目指す有力ウマ娘が揃う出世レースだけに、皆戸惑っているかと思います』

『異例づくめの共同通信杯、それではパドックを見ていきましょう――』

 

 

「まさかダート変更になるとは思いませんでしたが……でも、これはチャンスかもしれません! ミークはダートも走り慣れていますからね! いつも通り走れば大丈夫です!」

「…………がんばります。……ぶい」

 

 ピースサインを作るミークに頷いて、葵はミークをダートコースへと送り出す。

 ――実際、これはチャンスだった。デビュー前の模擬レースや併走で、ミークはダートでも充分に通用するタイムを出している。他の出走ウマ娘はほぼみんなクラシックを目指す芝専門の面々。ダートの経験ならミークに一日の長がある。

 頑張ってください、ミーク。

 祈るような気持ちで、関係者席の最前列に陣取った葵は、雪の舞う府中の砂上に白く輝く、ミークの真っ白な白毛を見つめた。

 

 数分後、桐生院葵は、自分がハッピーミークというウマ娘の特異な才能を見誤っていたことを、思い知らされることになる。

 

『直線に入って残り400、ハッピーミークが堂々と先頭! 3バ身、4バ身、5バ身と突き放す! 抜けた抜けた、7バ身、8バ身、これは圧勝、セーフティリード!』

 

 ぽかん、と、葵は観客席で口を開けていた。いや、観客席のほとんど誰もが。

 中団から3コーナーでもう外から進出し始めたハッピーミークは、4コーナーで先頭を捕らえ、直線入口で抜け出すとあとは突き放す一方。

 

『圧勝ですハッピーミーク、今ゴールイン! 後ろは10バ身近く突き放しました! 朝日杯フューチュリティステークス3着の白毛ウマ娘ハッピーミーク、重賞初制覇は雪の共同通信杯、ダートの砂上に衝撃の白い軌跡を描きました!』

 

 東京レース場のどよめきの中、雪の降りしきる砂上で、いつも通りのぼんやりとした表情でハッピーミークは観客席を振り返る。

 その無表情が何を思っているのかは、当人以外誰も知り得ない。

 ――そして、このレースが、万能ウマ娘ハッピーミーク伝説の始まりであることも、まだ誰も知らなかった。



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第79話 甘くて熱くて、苦い

 2月11日、日曜日。

 大雪で東京レース場の開催が中止になる中、ミニキャクタスは商店街のアーケードに足を運んでいた。雪で外出を控えている人が多いのか、人通りは少ない。濡れた傘を畳んで、マフラーで口元を隠すようにしながら、ミニキャクタスは歩いて行く。

 街は3日後に控えたバレンタインムード。それと一緒に、来週に控えたGⅠフェブラリーステークスの宣伝をあちこちで見かける。――どちらも、自分には関係がないもの。そう思っていた、はずなのだけれど――。

 ふと気付くと、バレンタインチョコの広告の前で、足を止めている自分がいる。

 

《「好き」は恋だけじゃない。大切な友だちへ》

 

 ――友チョコ。そんな概念が存在すること自体、初めて意識したかもしれない。

 いや、トレセン学園に来る前だって、小学校のクラスメートはバレンタインに大騒ぎしていた。友チョコだってたくさん飛び交っていたはずだ。けれど、そんなのは全て、ミニキャクタスにとっては遠いどこかの話でしかなかった。

 だけど、今は――贈りたいと思える、相手がいる。

 目を伏せると思い浮かぶ、いくつかの顔。担当の小坂トレーナー。そして、いつも一緒にトレーニングに付き合ってくれる、3人のウマ娘。――その中でも、いちばん自分の近くにいてくれる、大きな瞳をした芦毛のあの子。

 私がチョコを贈ったら、彼女は喜んでくれるだろうか?

 広告の中の、鮮やかにラッピングされたチョコをぼんやりと眺めていると――。

 

「あっ、キャクタスちゃん!」

 

 大声で名前を呼ばれ、ミニキャクタスはびくりと身を竦めた。街中で誰かから名前を大声で呼ばれるなんて、それこそ人生で初めてのことである。おそるおそる振り返ると、見慣れた大きな瞳がこちらを見つめていた。

 

「……ヒクマ、ちゃん」

 

 もこもこのコートに身を包んだバイトアルヒクマと、その隣にはブリッジコンプとリボンエチュードもいる。ヒクマがミトンの手袋をはめた手を振ってこちらに駆け寄ってきた。

 

「街中で会うなんて珍しいね! あ、ひょっとしてキャクタスちゃんもバレンタインの買い出し?」

「…………ヒクマちゃん、チョコ……贈るの?」

「うん! エチュードちゃんとコンプちゃんと、3人でトレーナーさんに手作りするの!」

 

 じゃーん! とヒクマは手に提げていた袋を掲げる。材料が入っているらしい。

 

「キャクタスちゃんも贈るよね? 担当のトレーナーさんに」

「え……あ……う、うん」

 

 そう、ミニキャクタスもそのつもりで街中に出てきたのだった。せめてお世話になっている小坂トレーナーと、それから……ヒクマたちの担当トレーナーにも。そして……ヒクマたちへの、友チョコと……。と言っても、手作りする自信なんて無かったから、出来あいのものを買ってラッピングすればいいと思っていたのだけれど……。

 

「じゃあ、キャクタスちゃんも一緒に作ろうよ! これからね、わたしの家でみんなでチョコ作ろうって言ってたんだ!」

「……ヒクマちゃんの、家?」

「寮のキッチンとか学園の家庭科室はとっくに埋まってるからね。エーちゃんちだとなんか話が大げさになりそうだし、あたしんちよりはクマっちの家の方が近いし、料理屋さんだから道具も揃ってるだろうし」

 

 歩み寄ってきたコンプがそう言い、エチュードが困ったように首をすくめる。

 ミニキャクタスは、困ったように3人の顔を見渡した。

 

「……い、いいの? 私……そんな、一緒でも……」

「当たり前だよ! 一緒にチョコ作ろ、キャクタスちゃん!」

 

 ヒクマに手袋越しに手を握られ、ぐいっと顔を近づけられて――ミニキャクタスは、顔が熱くなって目を伏せる。そんなキャクタスの様子に、コンプとエチュードが顔を見合わせてそれぞれに笑みを漏らしていた。

 

 

       * * *

 

 

 あれよあれよという間に、ヒクマの実家に連れて行かれて、一緒にバレンタインチョコを作ることになってしまった。

 案内されたヒクマの実家で、娘同様にテンションの高い母親に「ああ、貴女がキャクタスちゃん! ヒクマがいつもお世話になってます!」と距離を詰められて目を白黒させ。

 料理に不慣れなキャクタスとコンプが、手慣れたヒクマとエチュードの指示を受けながら、悪戦苦闘すること数時間。

 

「できたー!」

 

 焼き上がったカップケーキをオーブンから取り出すと、漂ってくるいい匂いに歓声が弾けた。プレートの上でこんがりと焼けたケーキを、ミニキャクタスは不思議な気分で見下ろす。……どうしてこうなったのだろう、とは思うものの、出来上がったケーキを見るのは、決して悪い気分ではなかった。

 

「むぐむぐ、はちち……うん、上出来じゃない?」

「コンプちゃん、火傷するよー?」

 

 粗熱も取りきれないうちからコンプがつまみ食いし、ヒクマが口を尖らせる。

 

「でもエーちゃん、いいの? あたしたちと共同チョコで」

「い、いいの……。こうするのが自然だし、手作りなのは変わらないし、うん」

「あのトレーナーにはもーちょっと押してった方がいいと思うけど」

「コンプちゃん! もう……」

 

 顔を赤くするエチュードに、ニヤニヤと笑うコンプ。ミニキャクタスがそんな様子をぼんやりと眺めていると、不意にその眼前にできたてのカップケーキが差し出された。振り向くと、ヒクマが笑顔でケーキを差し出している。

 

「はい、キャクタスちゃんも味見、味見」

「え……あ、うん」

「あーん」

「えっ、あ、えと……」

「はい、あーん!」

「……あ、あーん」

 

 目を瞑って口を開けると、一口サイズのあたたかいケーキが口の中に転がり込む。甘くて熱くて、ほんの少しほろ苦い味が口の中に広がった。

 

「どうかな?」

「……うん……美味しい、と、思う」

「えへへ、良かった! じゃあ、粗熱取れたら袋詰めするね。常温だと14日までは不安だから、寮の冷凍庫で保存しておいて!」

 

 笑ってそう言いながら、追加のぶんをオーブンに入れるヒクマ。キャクタスは口の中に残るカップケーキの味を思い返しながら目を細める。

 そんなキャクタスを目に留めて、コンプが歩み寄ってきた。

 

「キャクちゃん、クマっちから食べさせてもらったケーキ、そんなに美味しかったの?」

「え……? わ、私……変な顔……してた?」

「いや、なんか今まで見たことないぐらい幸せそうな顔してたから」

「――――」

 

 虚を突かれて、キャクタスは目をしばたたかせる。――幸せそうな顔、って、自分はいったい、どんな顔をしていたのだろう……。

 

「そうそう、キャクちゃんはもっと今みたいに笑えばいいの。今の顔、可愛かったし」

「え――――」

 

 にっ、と笑うコンプに、どんな言葉を返したらいいのかわからず、キャクタスは俯く。

 と、そこへまた、今度はラッピングされた袋詰めのカップケーキが差し出された。

 

「はい、キャクタスちゃんのぶん!」

「あ……ありがとう」

 

 2袋あるのは、小坂トレーナー用と、ヒクマたちのトレーナーにも贈る用ということか。おっかなびっくりそれを受け取ると、オーブンで追加ぶんが焼き上がった音がする。

 

「おっ、できたできた。じゃ、トレーナーにあげるぶんは準備できたから、残りは3日早いけどレッツ友チョコパーティ!」

「だ、大丈夫かな……? トレーナーさんに言わずに間食しちゃって……」

「いーのいーの、バレンタインは別腹! ほら、キャクちゃんもこっちこっち」

 

 心配げなエチュードにコンプが笑って答え、キャクタスに手招きする。

 キャクタスは目をしばたたかせながら、そちらに歩み寄った。

 

「とゆーわけで、残りのぶんはこの4人で交換する友チョコってことで、はいエーちゃん」

「あ、ありがとう、コンプちゃん」

 

 大皿の十数個のカップケーキからひとつをコンプがつまみあげ、エチュードに手渡す。

 

「えへへ、じゃあわたしも! はい、キャクタスちゃん!」

「――――あ、ありがとう……。じゃ、じゃあ……私も、はい、ヒクマちゃん……」

 

 ヒクマから差し出されたカップケーキを受け取ったキャクタスは、自分も大皿に手を伸ばし、手に取ったケーキをヒクマに差し出した。

 

「うん、ありがとう、キャクタスちゃん!」

 

 ぱっと花開くヒクマの笑顔。その眩しさに、キャクタスは目をしばたたかせて――。

 そして、なんだか不意に、ひどく泣きたくなってしまった。

 

「あ、あれ、キャクタスちゃん? どうしたの?」

「う、ううん……なんでもない、なんでもないの……なん、だか、うれし、くて」

「え、泣くほど喜ぶようなことだった? キャクちゃん、感情のツボがときどきよくわかんないよね」

 

 肩を振るわせてしゃくりあげるキャクタスを、ヒクマが心配そうに覗き込み、コンプが目をしばたたかせて肩を竦め、エチュードは黙ってジュースを差し出した。

 ジュースに口をつけながら、キャクタスは自分を取り囲む3人の姿を視線だけで見回して、テーブルの上のカップケーキを見下ろす。

 友達と一緒に作った友チョコが、当たり前に、テーブルの上で区別なく並んでいる。

 そのことが――なんだか、どうしようもなく、幸せだった。

 

 

       * * *

 

 

 2月14日、水曜日。

 

「トレーナーさん、はい、ハッピーバレンタイン!」

「……あ、あの、これ、どうぞ! みんなで、作ったので……」

「ブリッジコンプちゃんの手作りよ、ありがたく受け取りなさい!」

 

 トレーニングを始めようと集まったところで、3人から袋詰めのカップケーキを貰ってしまった。――そうか、そういえば今日はバレンタインか。すっかり忘れていた。

 

「ああ、ありがとう3人とも。え、手作り?」

「うん! キャクタスちゃんと4人で作ったの!」

 

 ヒクマが笑顔で答える。「ミニキャクタスも?」と私が振り返ると、小坂トレーナーとミニキャクタスもそれぞれに私にチョコを差し出してくれていた。小坂トレーナーはラッピングされたおそらく既製品。ミニキャクタスはヒクマたちと同じカップケーキだった。

 

「…………お世話になっていますから、そのお礼です…………」

「あ、小坂トレーナーにミニキャクタスまで、すみません。今日がバレンタインなんてすっかり忘れてました……。ホワイトデーには必ずお返ししますので」

「いえいえ、お構いなく…………」

 

 小坂トレーナーは首を振るが、そうはいくまい。ホワイトデーは忘れないようにしないとなあ、と私は頭を掻きながら心の中にメモしておく。ミニキャクタスは恥ずかしそうに無言でカップケーキを渡すと、ヒクマたちの方に駆け寄っていった。

 やれやれ、お茶請けには困らないな。そう思いながら貰ったチョコを鞄に仕舞うと、私は手を鳴らして合図した。

 

「はいはい、じゃあバレンタインも済んだところで、トレーニング始めるよ!」

「トレーナー、担当ウマ娘が手作りチョコあげたんだから、もうちょっと感激してくれたってバチ当たらないんじゃない?」

「いやいや、充分感激してるよ。ヒクマもコンプもエチュードも、ありがとう。大事にいただくから――チョコ作りで摂取したカロリーは、しっかりトレーニングで消化しようね」

 

 口を尖らせるコンプにそう答えると、コンプは「ぐっ」と唸り、ヒクマとエチュードが後ろで笑う。そしてミニキャクタスも――目を細めて微笑んでいた。

 

「ミニキャクタス、表情が柔らかくなりましたね」

「…………わかりますか…………」

 

 そうして4人のトレーニングを見守りながら、私は小坂トレーナーにそう声を掛ける。振り向いた小坂トレーナーは、こくりと頷いた。

 

「ホープフルステークスの前は…………かなり、思い詰めて、張り詰めた様子でしたけど…………今のキャクタスちゃんは、リラックスできていると思います…………。集中したときのキャクタスちゃんはすごい力を発揮しますけれど…………年中その状態でいたら、壊れてしまいますから…………。ヒクマちゃんたちの、おかげですね…………」

 

 私も小坂トレーナーの言葉に頷く。桜花賞まで2ヵ月。ミニキャクタスは結局トライアルは挟まず、そのまま直行の予定だった。2週間後のチューリップ賞に出るヒクマや、3週間後のアネモネステークスに出るエチュードはこれからレースへ向けて仕上げていくところだが、まだ余裕のあるミニキャクタスは、今の時点ではリラックスしているぐらいの方がいいだろう。

 そう考えたところで、――でもミニキャクタスはあくまでライバルなんだよな、と私は頭を掻いた。どうも一緒にトレーニングを見ているせいで、ミニキャクタスのことまで担当のように見てしまっている。いや、もちろんライバルだからといって、その脚を引っぱるような真似をする気は毛頭ないけれども……。

 並んで走りながら、視線を交わして微笑み合うヒクマとキャクタス。その姿に目を細めて、――まあいいか、と私は頷いた。

 トレーニングでは仲間、レースではライバル。そういう関係であることを一番よくわかっているのは当人たちだ。その上でふたりがああして笑い合っていることが、悪いことだとは思わない。それに、アネモネステークスを突破できれば、エチュードだって同じ土俵で戦うライバルになるのだから――。

 私が、そんなことを思っていた、そのときだった。

 

「――――キャクタスちゃん?」

 

 隣の小坂トレーナーが、不意に、緊迫した声をあげた。

 その視線の先――ウッドチップコースを軽く併走していたヒクマとミニキャクタス。ペースを合わせて走っていたはずのふたりの、距離がいつの間にか離れていた。

 ミニキャクタスのペースが落ちている。ヒクマがそれに気付いて脚を緩めた。

 そのまま、ミニキャクタスが立ち止まる。小坂トレーナーが駆け寄っていく。

 

「キャクタスちゃん!?」

 

 その声は、ヒクマか、小坂トレーナーの悲鳴だったのか。

 別の場所で体幹トレーニングをしていたコンプとエチュードも、その声に振り向いた。

 皆の視線が集まった、その先で。

 ――ミニキャクタスが、右脚を押さえて蹲っていた。



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第80話 咲けないサボテンに光は遠く

「深管骨瘤……だ、そうです…………」

 

 診察室から先に姿を現した小坂トレーナーは、俯いたままそう言った。

 トレーニング中に跛行を発症して保健室に向かったミニキャクタスは、そのままトレセン学園附属病院に直行になった。ヒクマたちもとてもトレーニングに身が入る状況ではなかったため、早めにトレーニングを切り上げて様子を見に来たのだが……。

 深管骨瘤。成長期のウマ娘にはよくある、しかし症状が表に出にくい厄介な故障だ。成長期のまだ未熟な骨が靱帯付近で痛み、骨膜炎や剥離骨折を起こすものである。デビュー前のウマ娘が硬い舗装路で全速力を出そうとして痛めてしまうことが多いというが……。

 ――ミニキャクタスの、あの驚異的な末脚。あの爆発的な瞬発力を生み出す踏み込みに、彼女のまだ成長期の脚が耐えられなかった、ということなのかもしれない。

 

「…………幸い、症状はそれほど重くないそうなので…………。しっかり休養を取って、再発しないように充分なケアをしながらトレーニングを積んでいけば、半年もあれば問題なくレースに復帰できる、だろうと…………」

 

 小坂トレーナーは、ぎゅっとジャージの裾を握りしめて、震える声でそう、絞り出すように言った。私の後ろで、ヒクマが息を飲む音が聞こえる。

 全治半年。今は2月。それはつまり――どんなに順調でも、春は全休を意味する。

 桜花賞とオークスに――ミニキャクタスは、出られない。

 

「私が…………もっと、早く、気付いて、あげられ、たら…………っ」

 

 顔を覆って、小坂トレーナーはしゃがみこんで震える。私はかがみこんで彼女の肩に手を置くが、どんな言葉をかけたらいいのかわからなかった。

 小坂トレーナーが、どれだけミニキャクタスのことを気にかけ、その末脚にトレーナーとしての夢を託していたのか、痛いほどわかる。それだけに――どんな慰めの言葉も、薄っぺらく思えてしまった。

 

「……トレーナーの、せいじゃ、ないです……。私の……自己管理不足、です」

「…………キャクタス、ちゃん……」

 

 診察室のドアを開けて、松葉杖をついたミニキャクタスが姿を現した。顔を上げた小坂トレーナーを、ひどく申し訳なさそうな顔でミニキャクタスは見つめ、

 

「キャクタスちゃんっ」

 

 ヒクマの呼びかけに――ミニキャクタスは、目を瞑って視線を逸らした。

 

「…………ごめんなさい」

「――――っ」

 

 唇を噛んで震えるミニキャクタスの肩を、立ち上がった小坂トレーナーが抱き、看護師がふたりに何か声を掛ける。そして、私たちに小さく会釈すると、ふたりはそれ以上何も言わず、看護師に促されてその場を立ち去った。

 私たちは、それをただ、見送ることしか出来なかった。

 

 

       * * *

 

 

 ホープフルステークス勝者ミニキャクタス、深管骨瘤で桜花賞とオークスを回避――。

 翌日には学園を通じてそのことがマスコミにも発表され、報道された。ほとんど無名の存在からホープフルステークスで見せた驚愕の末脚で一躍、今年のトリプルティアラの主役のひとりと見られるようになった〝四強〟の一角の戦線離脱に、SNSなどでは惜しむ声と復帰を待つという激励が溢れた。

 ミニキャクタスも小坂トレーナーもウマッターやウマスタグラムはやっていないので、それらの声が彼女たちに届いていたのかはわからない。

 いずれにしても――ミニキャクタスが離脱しても、私たちのやることに変わりはなかった。トレーニングからまたミニキャクタスの姿が消えた。それだけと言えば……残酷ではあるが、それだけのことである。ライバルが消えたことを喜ぶ気分には到底なれないとしても――クラシックは、ミニキャクタスの復帰を待ってはくれないのだ。

 ただ、そうは言っても、ヒクマ自身のメンタルはまた別問題である。

 

「――ヒクマ」

 

 ウッドチップコースを軽く流していたヒクマを、私は呼び止める。ゆっくりと脚を止めたヒクマは、「なあに? トレーナーさん」と振り返った。――そのぎこちない笑顔に、私は目を伏せる。……気にせず切り替えろ、というのはやはり酷だ。だが……チューリップ賞を前に、明らかに身の入っていないトレーニングを続けるわけにはいかない。

 

「ミニキャクタスのことが気になる?」

「――――」

 

 虚を突かれたようにヒクマは目を見開いて、それから俯いて「……うん」と頷いた。

 怪我をした友達のことが心配。当たり前の気持ちだ。それ自体を否定はできない。だけど――私は顔を引き締めて、ヒクマに向き直る。

 

「深管骨瘤は、繋靱帯炎まで悪化しなければ選手生命に関わるような怪我じゃない。治療は第一にゆっくり休養を取ることだし、きちんとケアをすれば再発だって防げる」

「…………ん」

「だから――厳しいことを言うけれど、ヒクマ。ミニキャクタスの治療やリハビリに、ヒクマがしてあげられることは何もないよ。それは小坂トレーナーの役目だ」

「――っ、でも」

 

 顔を上げたヒクマに、私は人差し指を立てて、その先の言葉を遮る。

 

「ヒクマ。ミニキャクタスの立場で考えてごらん。――怪我で桜花賞とオークスに出られなくなった。そうなったとき、一緒に走るはずだった友達に、ヒクマだったらどうしてほしい? レースそっちのけで自分を心配してほしい?」

 

 私の言葉に、ヒクマは目をしばたたかせ――そして、首を横に振った。

 

「……ううん。わたしのぶんまで、レース、がんばってほしい」

「うん。じゃあ、今ヒクマが、ミニキャクタスのためにできることは?」

「――桜花賞とオークス、キャクタスちゃんのぶんまで、がんばる」

 

 ぐっと拳を握りしめたヒクマの頭を、「よくできました」と私は撫でてやる。ヒクマはくすぐったそうに目を細めて、私を見上げた。

 

「トレーナーさん。わたし、勝ちたい! 桜花賞とオークス、絶対勝ちたい!」

「――ああ。勝とう、ヒクマ。ミニキャクタスは、秋には戻って来る。トリプルティアラの最後、秋華賞には必ず間に合うはずだ。そのとき――二冠ウマ娘として、ミニキャクタスを迎えよう!」

「うんっ! よーしっ、キャクタスちゃんのぶんまで、絶対勝つぞー!」

 

 おーっ、と拳を突き上げてヒクマは叫び、走り出す。まだどこか空元気ではあったけれど、空元気でも感情のエネルギーのぶつけどころを見つけられたなら、それは必ずレースへ向けた力になってくれるはずだ。ヒクマの芦毛を見送りながら、私はそう思う。

 楽しい、だけじゃなく――絶対に勝ちたい、という気持ち。

 ミニキャクタスへの思いが、ヒクマにとって、勝利への渇望というエネルギーになってくれればいい――と、そんな風に思う私は、薄情なのかもしれないけれど。

 泣いても笑っても、チューリップ賞は2週間後。そして、桜花賞は2ヵ月後なのだ。

 

 

       * * *

 

 

 3月2日、土曜日。阪神レース場、第11レース。

 桜花賞トライアル、GⅡチューリップ賞(芝1600メートル)。

 

『桜の女王を目指す乙女が集う、桜花賞トライアル、GⅡチューリップ賞! 1番人気は4戦3勝、ホープフルステークス4着、6番バイトアルヒクマ。楠藤さん、やはり前走が中山2000メートル、1600はデビュー戦以来ですから、本番前に阪神1600のペースを経験させておきたいということでしょうか』

『そういうことでしょうね。近年はファンPtが充分ならトライアルを挟まず直行が多くなりましたが、ここはしっかり叩いて本番に備えるというところでしょう。ミニキャクタスが離脱した今、残る四強の一角として、ジャラジャラとエレガンジェネラルに対抗できるか、実力を見せてほしいですね』

『昨年の阪神ジュベナイルフィリーズ、ジャラジャラとエレガンジェネラルのあの死闘は記憶に新しいですが――2番人気はその阪神JF3着、3番エブリワンライクスです』

『前走、最後方からのすさまじい追い込みは、相手があのふたりで無ければ圧勝でしたからね。こちらはファンPtが現状では当落線上になりそうですから、ここでしっかり優先出走権を確保しておきたいところです』

『さあ、続々とゲートインしていきます。桜の舞台を目指して、GⅡチューリップ賞、ゲートイン完了、――スタートしました!』

 

 ミニキャクタスはそのレースを、トレーナー室のテレビで観戦していた。

 画面の中で、バイトアルヒクマが走っている。いつも通りの先行策。3番手の外目。4コーナーで早めに仕掛けたヒクマが、抜け出して先頭に立つ。

 大外を回して、後方から追い上げてくるのは2番人気のエブリワンライクス。もうひとり、最内を突いて突っ込んでくるウマ娘がいる。しかし、ヒクマはそのふたりを引き連れるようにして、悠然と脚を伸ばしていく。

 長く伸びるヒクマのスパート。追いかけるふたりとの差は、詰まりそうで詰まらない。

 

『外からエブリワンライクス、ライクス迫るが、しかしバイトアルヒクマだ、やはりバイトアルヒクマだゴールインッ! バイトアルヒクマです! デビュー戦以来のマイル戦もなんのその、見事に押し切りました! 重賞3勝目、桜花賞へ視界良好!』

 

 歓声の中、ヒクマがスタンドに向かって手を振る。半バ身届かなかった2着と3着のふたりは、大外を回って追い込んだ方は悔しそうに地団駄を踏み、内を突いたもうひとりは優先出走権を確保できたことに安堵したように息を吐いていた。

 画面の中の、遠い歓声。遠いターフ。

 膝の上で握りしめた拳に――小坂トレーナーの手が重なって、ミニキャクタスは無言でぎゅっと目を瞑った。

 トレーナー室の静寂に、テレビの中の歓声だけが響き渡っている。

 



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第81話 そこに立つ資格

 3月3日、日曜日。中山レース場。

 第11レース、皐月賞トライアル、GⅡ弥生賞。

 

「ああああ~~~~……」

 

 レース前の控え室。マルシュアスはスマホを片手に頭を抱えていた。

 

「大丈夫? マルシュちゃん」

「ランデブーさぁん……ううっ、あたしホントに出走して良かったんですかあ……?」

 

 顔が青い後輩を覗きこんだネレイドランデブーは、スマホの画面に映し出されているページに目をやる。ウマ娘関連の巨大掲示板のまとめブログだった。

 ――『弥生賞に未勝利ウマ娘wwwwwwwwwww』

 

「あー……」

 

 ランデブーは頬を掻いた。ウマ娘にとって、レース前のエゴサーチは諸刃の剣である。ファンの温かい声援を聞きたくて、あるいは自分の評価を知りたくて、自分の名前でSNSを検索し、首尾良く応援の声を見かけてやる気を出せればいいのだが――心無い声が目に入るリスクも大きい。ショックを受けるのを避けるために、レース前には担当ウマ娘のスマホを取り上げるトレーナーもいる。

 今日の弥生賞はフルゲート割れの14人立て。そのおかげで未勝利のマルシュアスも出走できたわけだが……。ルール上可能とはいえ、未勝利のウマ娘がクラシックのトライアルに出てくることは稀だ。面白がられるのは、まあ、仕方ないとは言える。

 

「いやいやマルシュちゃん、ほらー、『前走の内容良かったから応援する』って言ってる人もいるよー? がんばろ?」

「ううっ……でも、これで負けたらホントにただの笑いものですよぉ……。13番人気だし……」

「だからこそ、勝ったら格好いいじゃない。トゥインクルシリーズの長い歴史の中でも、未勝利で重賞を勝ったウマ娘はいままでひとりもいないんだよ? 歴史的快挙だよ?」

「うっ――か、格好いい、ですか?」

「うん、勝ったらめちゃくちゃ格好いいよ! 格好よくなろう、マルシュちゃん」

「――はっ、はい! 見ててください、ランデブーさん! あたし、勝って皐月賞に出ます! そうしてランデブーさんみたいに、クラシックを勝ってみせますから!」

「うん。今までやってきたことを信じて、行っておいで」

「はいっ!」

 

 あっという間に立ち直ったマルシュアスを、ランデブーは背中を叩いて見送った。控え室を出てパドックへ駆けていくマルシュアスの姿に、ランデブーは目を細める。

 思い出すのは3年前。桜花賞を目指して、クイーンカップに挑んだときのこと。初めての重賞。何もかも無我夢中のうちに終わっていた。自分が勝ったことすらゴールしてから気付くぐらいに、頭が真っ白だった。

 あれから3年。重賞を走ることはもうただの当たり前で、気付けばGⅠを3つも勝っていた。どのレースも、ひとつとしてないがしろにしたことはないけれど――初めての重賞。クラシックという夢の前で、自分にそこに挑む力があるのか、自信と不安の狭間で押しつぶされそうだったあの頃の気持ちは、もう随分遠くになってしまった。

 だから、羨ましい。ひとつの言葉を支えに、未来だけを見ていられる後輩が。

 ――ランデブーは自分の脚をさする。デビューから4年、頑張ってくれた自分の脚。

 ヴィクトリアマイルまでは、保ってほしい。先輩として、あの子に――最後に、格好いいところを見せられるように。

 たぶん、ランデブーに出来ることは、あとはもう、それだけだったから。

 

 

       * * *

 

 

『皐月の舞台を目指し、次代を担う若駒たちが集いました、皐月賞トライアル、GⅡ弥生賞! 圧倒的1番人気は東スポ杯3着、ホープフルステークス3着。今日も逃げ宣言の14番デュオスヴェルです。現在、ファンPt順では皐月賞出走は当落線上。ここはなんとしても優先出走権を獲りたいところです。大外枠ですが、どうでしょう、楠藤さん』

『彼女はスタートがあまり上手くないので、大外の方がかえってやりやすいのではないでしょうか。内枠で出遅れると包まれて抜け出せなくなりますが、大外ならその心配はありませんからね。強引に前に出ても粘れるスタミナがあることは実証済みですから、今日もスタートの善し悪しにかかわらず押してハナを切りに行くでしょう。あとは彼女がどんなペースで逃げるか、それに後続がどう対応するかでしょうね』

 

 本バ場入場が終わり、スターティングゲートの前で思い思いにレースへ向けた気持ちを入れ直すウマ娘たち。ランデブーが関係者席の端に立つと、近くの一般客たちの声が聞こえてきた。

 

「まあ、普通に考えればデュオスヴェルだよな、このレースは。東スポ杯もホープフルも負けて強しの内容だったし、このメンバーならよほど出遅れない限り負けないだろ」

「いや、わからんぞ。意外な伏兵が隠れてるかもしれない」

「お、誰に注目してるんだ?」

「弥生賞はGⅡ。重賞は通常、未勝利では出られないが、クラシックのトライアル競走は例外的に未勝利ウマ娘も出走が可能だ。実際に過去にも何度か未勝利でトライアルに挑んだ例がある。それで優先出走権を確保できた例はまだないが」

「どうした急に」

「13番人気のマルシュアス……ここまで4戦0勝、5戦目でこの弥生賞だ。これで担当が新人トレーナーならただの記念出走だろうが、ネレイドランデブーも担当している大ベテランの島岡トレーナーだぞ。彼が何の目算もなく未勝利ウマ娘をトライアルに送りこんでくるとは思えない」

「つまり、よほど自信があるということか」

「ああ。実際、前走を見ると最後の直線の不利がなければ勝っていた内容だ。最初の3戦は掛かりっぱなしで撃沈しているのが気になるが、デュオスヴェルのペースに惑わされずに折り合えば一発もあるんじゃないかと俺は見る」

「ほほう。ええと――あの6番の栗毛の子か。よし、注目して見てみるとしよう」

 

 男性客ふたりのそんな会話に聞き耳を立てていたランデブーは、うんうんと頷く。

 ――大丈夫、マルシュちゃん。ちゃんと応援してくれる人がいるよ。

 だから、今を後悔しないように、全力で走ってきて。

 祈るように手を組んで、ランデブーはゲート入りしていくマルシュアスの背中を見送る。

 

『最後に14番デュオスヴェルがゲートインして、体勢完了。――皐月賞トライアル、GⅡ弥生賞、スタートしました!』

 

 

       * * *

 

 

「どけどけどけええっ! デュオスヴェル様のお通りだああぁっ!」

 

 スタートした途端、大外からそんな声とともに、三つ編みの鹿毛がブッ飛ばしていくのがマルシュアスにも見えた。1番人気のデュオスヴェルだ。

 我ながら絶好のスタートを決めて好位集団につけたマルシュアスの横を、あっという間に抜き去って先頭に立つと、そのままペースを緩めるどころかどんどん突き放す大逃げ体勢に入るデュオスヴェル。マルシュアスの周囲のウマ娘たちが顔を見合わせる。

 どうする? ついていく? 一番人気を楽に逃げさせていいの? だけど、あんなバカみたいなペースについていくなんて自殺行為だし――。

 前目につけた数人は、マルシュアス以外は3番人気から6番人気までの上位人気組だった。彼女たちは結局、デュオスヴェルを放置することに決めて牽制し合う。デュオスヴェルがあれで逃げ切るならどうせついていっても無理、潰れてくれれば好都合、それより優先出走権の3着以内を確実に確保するために無理はしない――。合理的な判断だった。

 マルシュアスは迷った。どうする? あたしもこのまま先行集団にくっついていく? 前にはふたり。横にふたり。デュオスヴェルの背中は遠くなる一方。

 

『さあデュオスヴェル先頭でその差はもう3バ身、4バ身、今日も逃げますデュオスヴェル! 2番手集団は固まって――』

 

 ――ああ、なんか前が邪魔くさい!

 マルシュアスは、意識的に前のふたりの間を割って、向こう正面で前に出た。

 

『さあバックストレッチに入って先頭デュオスヴェル、リードはもう5バ身から6バ身、弥生賞では珍しい大逃げになりました。2番手集団からは6番マルシュアスが抜け出して来て2番手につけます。その後ろ1バ身――』

 

 前に出たところで、デュオスヴェルの後ろ姿が先に見える。遠い――けど、思ったほどじゃない。大丈夫、脚も軽い。このペースで――行ける!

 

『前半1000メートル通過、59秒2、思ったほど速いペースではありません。さあ3コーナーに入って逃げる逃げるデュオスヴェル、2番手マルシュアス、その差はまだ6バ身か7バ身――』

 

 4コーナー。デュオスヴェルが、初めてちらりと後ろを見た。

 視線が合った。そして――ちょっと退屈そうに眉を寄せるのが、はっきりと見えた。

 後ろの集団が差を詰めてくる。――けれど、デュオスヴェルの背中は近付いてこない。

 後ろがスパートをかけ始めているのに――あっちも、同じペースで逃げ続けている。

 強い。あれが――GⅠでウイニングライブを獲れるウマ娘の走り。

 

『さあ直線に入った、デュオスヴェル先頭、まだ5バ身とちぎっている、これはセーフティリードか、後ろも追い込んでくるが――』

 

 マルシュアスに、後続の集団が並びかけてくる。デュオスヴェルはもう中山の急坂を駆け上がっている。その背中は遠い。遠いけれど――。

 

「あたしだって――」

 

 ランデブーさんの背中に、追いつきたい。

 胸を張れる、ウマ娘になりたい。

 

「あたしだって――かっこいいウマ娘に、なるんだあああああっ!」

『デュオスヴェルこれはもう間違いない、あとは2番手争いですが、マルシュアス粘る、マルシュアスがまだ粘っている、外から、外から――』

 

 ゴール板が見える。あと少し、皐月賞の舞台まで、あとほんの少し――。

 全身の力を振り絞って、マルシュアスは芝生を蹴立てて――ゴール板を駆け抜けた。

 

 どよめきと歓声が、中山のターフに降りそそぐ。

 

 

       * * *

 

 

「もう、マルシュちゃん。いい加減泣き止まないと、このあとウイニングライブだよ?」

「だっ、だって、だって――っ、あとっ、あとちょっと、あと10センチ……っ」

 

 控え室で泣きじゃくるマルシュアスの背中を、ランデブーは優しくさすった。

 レースはデュオスヴェルが前評判通り、4バ身差で逃げ切り圧勝。そして先行して粘りに粘ったマルシュアスは――最後にハナ差かわされて3着だった。

 本来なら優先出走権を獲得できる着順。――だが、未勝利のマルシュアスは3着ではダメだったのだ。2着でファンPtを獲れなければ、皐月賞には出られない。

 僅か10センチ差。ほとんど首の上げ下げの差で、掴みかけたクラシックの舞台は、するりとその手から逃げていった。

 

「マルシュアスよ」

 

 トレーナーが杖を鳴らして声をあげる。しゃくりあげながら顔を伏せるマルシュアスに、――ガン、と床を壊さんばかりの勢いでトレーナーが杖を突き、びくりとマルシュアスは顔を上げた。

 

「泣いとる暇なんぞ、ありゃせんぞ。皐月賞は残念じゃったが――次は、青葉賞じゃ」

「――へ?」

 

 泣き腫らした目をしばたたかせて、マルシュアスはトレーナーを見つめる。

 

「今日の走りを見たら、未勝利戦に戻る暇なんぞないわい。このままダービートライアルの青葉賞、乗りこむぞい」

「えっ、ええええええっ!? トレーナー、本気ですか!?」

「出たくないのかね? 日本ダービー」

「――――」

 

 マルシュアスは茫然と、ランデブーを振り返り、またトレーナーを見やる。

 

「日本、ダービー……」

「そうじゃ。世代の頂点。一生に一度の栄光。選ばれた18人だけが立てる舞台。――儂も長いことトレーナーをしてきたが、ダービーは一度も獲ったことがない。……お主がその夢を託せる最後のウマ娘になるやもしれん」

「…………」

「もう心が折れたというなら無理は言わん。じゃが、儂はお主に夢を見たい。儂のような老骨から夢を託されても迷惑じゃろうが――マルシュアスよ、お主の夢はなんじゃ?」

「……かっこいい、オトナなウマ娘に、なること、です」

「その夢――ダービーで叶えてみないかね」

「――――」

 

 呆けたように目をしばたたかせるマルシュアスに――ランデブーは、手元のスマホでSNSを検索して、その画面を差し出した。

 

「ほら見て、マルシュちゃん」

「え――」

 

 それは、マルシュアスのウマッターの投稿。これから弥生賞に出ます、という呟きについた、レース後のリプライ。

 

《おつかれさまでした! 3着本当に惜しかった!》

《未勝利でトライアルに挑んで3着! すごかった!》

《どうせならこのまま青葉賞行って日本ダービー目指しちゃえ!》

《最後の直線の粘り、かっこよかったです!》

 

「あ――」

 

 震える手で、マルシュアスはスマホの画面を抱きしめて――ぎゅっと目を瞑り。

 そして、顔を上げて、決然とトレーナーを見つめ返す。

 

「――やります! 青葉賞で勝って、日本ダービー、行きます!」

「よう言った!」

 

 トレーナーがその顔のシワを深くして笑う。ランデブーはその肩を叩いて――「かっこいいよ、マルシュちゃん」と言いかけて、その言葉を飲みこんだ。

 

「ランデブーさん、見ててください!」

「――うん」

 

 今はまだ、その言葉をかけるときじゃない。

 それは最高の舞台で、彼女が輝いたときまでとっておこう――と、ランデブーは思った。

 



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第82話 アネモネステークス・落としたものは

 3月10日、日曜日。

 この日は、桜花賞トライアルがふたつ行われる。阪神のGⅡフィリーズレビュー。そして、中山のリステッド競走、アネモネステークス。前週のチューリップ賞とあわせて、今日で桜花賞の優先出走権を獲得する8人が決まる。

 

「エチュードちゃん、頑張ってね!」

「……うん、頑張るよ。私も……ヒクマちゃんと一緒に、桜花賞、走りたいから。……キャクタスちゃんのぶんまで」

 

 中山レース場、控え室。ヒクマがエチュードの手を握り、エチュードが決然と顔を引き締めてその手を握り返した。――気合いの入ったいい顔だ。ミニキャクタスが怪我で休養に入ってから、エチュードは並々ならぬ気合いでこのアネモネステークスに向けて仕上げてきた。私としても、これで勝てなかったらもうどうしようもないと思うぐらい、今のエチュードは状態がいい。桜花賞に向けてまたこの仕上がりに持って行けるだろうか……という、今から心配しても仕方ないことが心配になってしまうぐらいだった。

 

「うん、キャクタスちゃんも、きっと見ててくれるよ!」

 

 頷くヒクマ。こっちは前週のチューリップ賞を勝って、きっちり優先出走権を確保している。まあ、ヒクマのファンPtなら直行でも問題なく出られたのだが、桜花賞前のひと叩きで久々のマイルを走って、優先出走権を目指して目一杯に仕上げてきた同期たちにきっちり勝ちきったのだから、我が担当ながら本当にこの子の才能は底が見えない。

 けれど、エチュードだって決して負けてはいないはずだ。ヒクマとエチュードのふたりで、同期の二強、ジャラジャラとエレガンジェネラルの鼻を明かす――そんな夢を見てしまうのは、新人の無謀な夢だろうか? いや……それを現実にするのが、トレーナーの仕事だ。桜花賞の夢を絶たれたミニキャクタスの分も。

 

「よし、じゃあ行っておいで、エチュード。みんな、ゴールで待ってるから」

「……はいっ」

 

 背筋を伸ばして、パドックへ駆けていくエチュード。その背中をヒクマとコンプと見送って、それから私はコンプを見やった。

 

「さて――じゃあ、私たちも観客席に行こうか。フィリーズレビューもあるしね」

 

 アネモネステークスの10分前に発走するGⅡフィリーズレビューには、ユイイツムニが出走する。桜花賞に出るかどうかはまだ明言していないが……。

 

「別に、あの三つ編み眼鏡のことなんてどーでもいいけど」

 

 と、コンプは拗ねたように視線を逸らした。

 

「てゆーか、どうせあいつ勝つでしょ。見なくたってわかるし」

 

 やれやれ。相変わらずユイイツムニとチョコチョコに対してはなんというか、要求が高いコンプである。ライバルと見定めた相手が強くないと張り合いがないという気持ちはわかるけれども。

 ――言いながら、コンプは少し脚元を気にするように足首を回した。

 私はその仕草を視界の端に捉えながら、――それについてしっかり話すのはこのあとだな、と改めて思う。

 今は、エチュードの戦いを見守ろう。

 

 

       * * *

 

 

『ユイイツムニ逃げる逃げる止まらない! ユイイツムニです! ユイイツムニ完勝! 涼しい顔で逃げ切りました!』

 

 中山レース場のターフビジョンに映し出された、阪神レース場。薄曇りの空の下、フィリーズレビューをユイイツムニが1番人気に応えて1馬身半差で逃げ切り完勝していた。やはり1400までなら、彼女はこの世代のトップだ。

 

「だから言ったじゃない。あいつが勝つって」

 

 腕組みしたコンプは素っ気なくそう言って、もうターフビジョンから視線を外す。私はその姿に苦笑しつつ、スターティングゲートに切り替わったターフビジョンの画面を見やった。映し出される出走ウマ娘たちの中に、エチュードの姿も見える。

 

『さあ桜の舞台へ、残る優先出走権ふたつの椅子を駆けて12人のウマ娘が挑みます、桜花賞トライアル、リステッド競走、アネモネステークス! 今年の桜花賞は、近年稀に見るハイレベルな三強対決との前評判ですが、そこに割って入る新たなスター候補が現れるでしょうか。楠藤さん、本命はずばり?』

『そうですねえ、2番人気の8番、リボンエチュードですね。前走の菜の花賞は非常に強い勝ち方でしたし、同じ中山1600ですから、あの末脚を再び見せられるようなら、桜花賞が楽しみになると思います』

 

「わ、トレーナーさん、エチュードちゃん本命だって!」

「うん、今のエチュードにはそれだけの力があるよ。大丈夫」

 

 はしゃぐヒクマに頷いて、私はぎゅっと拳を握りしめる。

 ――そう、大丈夫だ。大丈夫のはずだ。不慮のアクシデントでもない限り、今日のエチュードなら、間違いなく勝ち負けになる。

 頑張れ、エチュード。君は、君自身が思ってるより、ずっと強いんだから――。

 

 そう、信じていたし、確信していた。

 アクシデントさえなければ、エチュードは桜花賞の優先出走権を獲れると。

 だが。――何が起こるか解らないのがレースだということを。

 この数分後に、私たちは思い知らされることになる。

 

 スタートはまずまずで、エチュードは中団やや後ろの外目につけた。バ群に包まれてはいないし、外を回しての末脚勝負はエチュードにとって望むところの展開。位置取りとしては理想的だし、しっかり冷静に折り合っている。流れも、速すぎも遅すぎもしないミドルペース。大丈夫だ。この展開なら――。

 手応えを感じながら見つめていた私は――けれど、4コーナーに入ったところで、僅かな違和感を覚えた。何か、何かおかしい。エチュードはしっかり折り合って外目を回りながらも中団でしっかり脚を溜めている。問題ない展開のはず――。

 

「トレーナー?」

 

 コンプが不思議そうに私を見上げた。4コーナーを過ぎて、直線に入る。エチュードの走る姿がだんだんと近付いてきて――私は違和感の正体に気付いた。

 左右のバランスがほんの少し崩れている。故障ではない。走りにそこまで大きな影響の出るほどではない、けれどおそらくエチュード自身も感じているだろう違和感。それが示す現象はひとつだ。

 

「――ダメだエチュード、無理するな!」

 

 私は思わず、そう叫んでいた。だが――。

 エチュードが外からスパートをかける。中団から一気に先頭へと迫る。中山の急坂を駆け上がって――。

 坂を上りきったところで、先頭に並びかけたエチュードの脚の伸びが、止まった。

 失速、というほどではない。だが、明らかに加速が止まった。かわしかけた先頭集団が、脚色の鈍ったエチュードを差し返して前に出る。

 ヒクマとコンプが悲鳴を上げた。そのまま、集団がひとかたまりになって、目の前のゴール板を駆け抜けていく。

 ――エチュードの姿は、その集団の中に埋もれていた。

 

 

       * * *

 

 

 6着。それがアネモネステークスの結果だった。

 だが、そんなことは今はもうどうでもよかった。

 

「エチュード!」

 

 全ウマ娘がゴールしてレースが終了した瞬間、関係者席の柵を乗り越え、ゴールして芝生の上で脚を止めたエチュードへ、私は脇目も振らずに駆け寄った。

 

「と、トレーナーさん? 待って待って」

「ちょっと、トレーナー!」

 

 ヒクマとコンプも慌てて柵を乗り越えて追いかけてくる。足を止めて掲示板を振り仰いでいたエチュードは、私の声に気付いたのか、茫然とした顔で振り返った。

 

「……トレーナー……さん」

 

 短くした髪から汗のしたたるままに、荒い息をつくエチュード。まだレースの結果を受け止め切れていない様子のエチュードに構わず、私はエチュードに駆け寄ると、その脚元にしゃがみこんで、エチュードの白いタイツに包まれた脚、そのシューズを掴んだ。

 

「脚上げて、エチュード」

「え……あ……」

 

 エチュードの左足を持ち上げる。――あの違和感の正体が、厳然とそこにあった。

 シューズの底に打ち付けてある蹄鉄が、外れてなくなっていた。

 落鉄――。それ自体はレース中にはままあるアクシデントだ。ウマ娘にとっては地面を踏みしめる脚の感覚が変わるわけだが、完全に外れきってしまえば、気にせずにそのまま走りきってしまうことは珍しくない。

 だが――外れかけでぶら下がったままでしばらく走っていたとすれば――。

 あの、坂を上りきったところで脚が止まったのは、おそらく。

 

「脱がすよ」

 

 エチュードの返事も待たず、シューズの紐を解いて、私はそのシューズを脱がせる。エチュードの白いタイツに包まれた脚を引き抜いた瞬間、そこにあった光景に、私はぎゅっと目を瞑った。

 ――エチュードの白いタイツの爪先が、赤く染まっていた。

 

「エチュードちゃん……!」

 

 私に追いついたヒクマとコンプが、赤く滲んだエチュードの足先に息を飲む。

 私がその爪先に触れると、茫然とした顔で私を見下ろしていたエチュードは、「痛っ」と反射的に声をあげていた。

 

「医務室、行くよ!」

 

 私は夢中でエチュードの身体を抱え上げる。呆気にとられた顔のヒクマとコンプに構わず、私はエチュードを抱っこして、医務室へ向かって駆け出していた。

 自分でも言葉にできない感情が、頭の中をぐるぐると渦巻いたままで。

 

 

       * * *

 

 

 ウマ娘のシューズに打ち付けてある蹄鉄の役目は、時速60キロ以上で走るウマ娘の脚や爪先を衝撃やコース上の異物から守ることである。

 落鉄がレースの敗因に挙げられることは多いが、落鉄がどこまでウマ娘の競走能力に影響を及ぼすかは、未だによくわからないというのが実際のところだ。

 それよりも怖いのは、外れかけた蹄鉄を自分で踏んで怪我をしてしまうこと――。

 

「……良かったよ、大きな怪我じゃなくて」

 

 医務室を出た私は、務めて明るく、俯くエチュードにそう声をかけた。

 幸い、エチュードの怪我は左足の爪が割れて出血しただけだった。爪にかなり大きな裂け目ができていて、相当痛かったはずである。とはいえ骨に異常はないので、競走生命を左右するような怪我ではない。落鉄した状態で、坂でバ場の少し荒れたところに脚を引っかけてしまったせいだろう――というのが、診察した医師の診断だった。

 

「………………」

 

 エチュードはまだ、現実を受け止め切れていないように黙って俯いている。

 

「エーちゃん」

「エチュードちゃん!」

 

 コンプとヒクマが心配顔で駆け寄ってきて、ようやくエチュードは顔を上げる。心配そうな友人ふたりの表情を見て、エチュードはそれから私の顔を見上げて――。

 

「……トレーナー、さん……わた、し……わたっ、し」

「エチュード」

 

 今頃になって、理解が現実に追いついたように、エチュードは声を震わせた。私はその短い髪にぽんと手を乗せて、くしゃくしゃとその髪をかき乱した。

 少なくとも、エチュードのせいではない。落鉄はどんなにしっかりシューズの管理をしていても、たとえば近くを走っていたウマ娘にシューズの端を踏まれたりして起こりうるアクシデントだ。……こればかりはもう、どうしようもない。

 運がなかったといえば、それまでだ。――それまででしかないということが、悔しい。

 

「エチュードのせいじゃないから」

「――――」

「痛かったでしょ。よく走りきったね。……エチュードは何も悪くないんだ」

「……っ、~~~~~~っ!」

 

 何を言いたいのか自分でもよくわからない私の言葉に、エチュードは肩を震わせる。私はその身体を抱きしめて、ぽんぽんと頭を撫でてやることしか出来なかった。

 爪が割れただけ。重傷ではない。――けれど、あれほど爪を痛めた状態で無理はさせられない。あの爪の状態では……おそらく、オークスに間に合うかどうか。

 

「出直そう。もう一回、イチから出直そう。……まだ無理する時じゃない。三女神様がきっと、そう言ってるんだ」

 

 私のシャツをぎゅっと握りしめて、エチュードは声もなく震え続ける。

 ヒクマとコンプが、その肩にそっと手を置いた。

 ――そうして、エチュードの震えが治まるまで、私たちはそうしていた。

 



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第83話 ファルコンステークス・迷いと波乱

 3月16日、土曜日。中京レース場。

 クラシック級GⅢ、ファルコンステークス(芝1400メートル)。

 

『さあ今日のメインレースです。クラシック級の短距離・マイル戦線を占う一戦、GⅢファルコンステークス! 圧倒的1番人気は京王杯ジュニアステークス2着、朝日杯フューチュリティステークス4着のチョコチョコ。満を持して重賞初勝利を狙います』

 

 テレビの画面の中、軽くストレッチをするチョコチョコの姿。

 私は――コンプと一緒に、トレーナー室でそれを見つめていた。

 じっと画面を見つめるコンプの横顔に浮かんでいるのは、その場に立っていない自分に対する憤りなのか、立てなかった悔しさなのか、不満なのか――私には推し量ることしかできない。

 やっぱり、出走させてあげるべきだっただろうか――?

 自分の決断に、迷いが生じる。この選択で、私は、コンプとこれからも信頼関係を築いていけるのだろうか。コンプにとって……ここで回避を決断したことは、きちんと納得できているのだろうか……。

 

『ゲートイン完了――スタートしました!』

 

 そんな思いを遮るように、テレビの中でゲートが開く音がした――。

 

 

       * * *

 

 

 5日前、月曜日。

 

「はぁっ、はぁ……ッ、トレーナー、タイムは!?」

 

 立ち止まって振り返ったコンプの問いに、私は黙って首を横に振った。コンプの顔が歪み、拳を握りしめて唇を噛みしめる。

 

「――ッ、じゃあもう一本!」

「コンプ!」

 

 私は思わず声を上げて、コンプを呼び止めた。コンプが振り返る。

 

「なに、トレーナー」

 

 警戒心に溢れた声。それは、何を言われるのか、おそらくコンプ自身も察していたからだっただろう。私は逡巡を振り切るように首を振って、コンプへと歩み寄った。

 

「今日は、これで終わりにしよう」

「――っ、まだ、全然、こんなんじゃ――っ」

「ダメだよ、コンプ。……今の状態じゃ、何本走っても同じだ」

 

 首を振った私に、コンプが顔を歪めて唸る。私はその脚元にしゃがみこんで、コンプの脚に触れる。熱をもったコンプのふくらはぎをさすり、息を吐く。そして、顔を上げて、コンプの顔を見つめて言った。

 

「ファルコンステークスは、回避しよう」

「――――ッ」

「……ごめん、私の判断ミスだ。コンプの状態が上がってこないのは解ってたのに、決断を先送りにしすぎた。ここで無理をしてレースに出たら、コンプが無事に走りきれるか、私は確信が持てない。……この状態で、コンプをレースに出したくない。ふくらはぎ、張ってるんでしょ?」

「…………クマっちから聞いたの?」

「見てればわかるよ。このところずっと走ってるとき、いつもの集中力がないから。ふくらはぎを気にしてるのは、わかってた。……わかってたのに、様子見と自分に言い聞かせて、ちゃんと話をするのを先送りにしすぎた。……でも、昨日のあれで――」

「…………っ」

 

 私が何を言いたいのか、コンプはそれだけで解ったように俯いた。――エチュードの怪我。レースでは何が起こるかわからない、その怖さを、私は今さらのように思い知った。

 それを思い知ってしまうと――ここでリスクを無視するなんてことは、できない。

 

「っ、でもっ、あいつから言われたんだから! ファルコンステークスで待ってるって、それなのにっ、怪我したわけでもないのにっ、ここであたしが尻尾巻いて逃げるなんて、そんなこと――っ」

「逃げるんじゃない!」

 

 コンプの言葉に、私は反射的にそう大きな声で言い返していた。コンプがびくりと肩を震わせる。私は立ち上がって、コンプを見下ろした。

 

「コンプ。正直に答えて。――今、この状態でチョコチョコと戦ったとして……その結果に、コンプは納得できる? 勝ったとしても、負けたとしても」

「――――」

 

 口ごもったということ、即答できないということが、即ち答えだ。

 コンプ自身だってわかっているのだ。今の状態では、5日後のファルコンステークスまでに満足のいくコンディションには持って行けないと。……おそらくは、勝てないと。

 そんな自己認識で勝負に挑んだら、どんな結果でも、その認識は歪んでしまう。無理を押しても勝てると思って、もっと無理をしてしまうか。あるいは、事実にかかわらず相手が手を抜いたとか、調整に失敗したとかの理由を探してしまうのではないか。――そして、負けたときには「状態が悪かったから仕方ない」という言い訳ができてしまう。……最強を目指すコンプに、そんな言い訳癖をつけたくはなかった。

 

「デビューから5戦もして、思ったより疲れが溜まってたんだ。回避は情けないことでも、恥ずかしいことでもないし、まして今は無理するときじゃない。本番は9月のスプリンターズステークスなんだから。……最強のウマ娘になれるコンプに、こんなところで怪我させたり、悪い状態を言い訳にしてこれ以上黒星を増やさせるわけにはいかないよ」

 

 務めて笑顔で、私はコンプの頭をぽんぽんと撫でる。俯いたコンプは「……撫でるなってば」と俯いたままそう言って、ぎゅっと拳を握りしめた。

 

「それでも、どうしても出たいというなら、コンプの意志は尊重するし、今の状態で最大限コンプがいい結果を出せるように努力する」

 

 私の言葉にコンプは、驚いたように顔を上げた。

 

「最終的な登録は3日前、明後日だ。今晩一晩よく考えて、明日答えを聞かせてほしい。ファルコンステークス、出るのかどうか。――コンプの競走人生だ。私が一番いいと思う選択が、コンプにとって一番いい選択とは限らないからね……。コンプが決めたことなら、その責任は全部私が負うから。……よく考えて、明日、決めよう」

 

 

 小さく頷いたコンプが、翌日出した答えは、回避だった。

 

 

       * * *

 

 

 ――なんだ、あの生意気な栗毛のチビ、本当にいないのか。

 スターティングゲートの前で出走メンバーを見渡して、チョコチョコは息を吐いた。

 疲労が抜けず回避――という話は聞こえていたが、こっちが熨斗をつけて返してやった挑戦状にそっぽを向かれたというのは、いささか腹立たしい。トレーナーは「向こうの担当トレーナーが強く止めたんだろう」と言っていたけれども……。

 まあいい。同じ路線の同期だ、きっちり叩き潰す機会はまたあるだろう。その前に、まずは重賞ひとつめ、きっちり勝っておかなくては。なんといっても今日はぶっちぎりの1番人気だ。先週にはムニっちがフィリーズレビューを勝ったんだし、これで負けたら情けない。あの栗毛のチビにまで笑われる。

 ぐるぐると肩を回していると、「やや、チョコさん!」と背後から聞き慣れた声がした。振り向くと、学級委員長のバイタルダイナモが笑顔で片手を挙げている。

 昨年末に未勝利戦を勝ち抜けたダイナモは、先月の1勝クラスをボロ負けしたにもかかわらず、抽選を通って果敢にこの重賞に出てきていた。フルゲート18人中、最低人気の18番人気である。

 

「やー、委員長。今日はよろしくぅ」

「はい、よろしくお願いします! いやあ、初めての重賞、緊張しますね!」

「全然緊張してるように見えないけどぉ?」

「いやいや、それほどでも! まあ今日の私は残念ですが最低人気ですからね! 皆さんの胸を借りるつもりで挑ませていただきます! チョコさんは断然の一番人気だそうで、さすがですね!」

「ま、それほどでもぉ? 褒めたって委員長に勝ちは譲らないよぉ」

「もちろんですとも! 正々堂々、悔いのない勝負をいたしましょう!」

 

 それでは! と大きく手を振ってゲートへ向かうバイタルダイナモ。なんだか毒気を抜かれて、チョコチョコはひとつ息をつき、自分もゲートへと向かう。

 さてと。それじゃあ重賞一個目、いただいちゃいますかぁ――。

 

 

『ゲートイン完了――スタートしました!』

 

 ゲートが開くと同時、チョコチョコはダッシュをつけて飛び出した。スプリント戦は絶対的に逃げ・先行が有利。出負けした時点で7割方レースは終わりだ。両サイドのウマ娘を制するようにチョコチョコは前に出る。よし、スタート大成功!

 内からも外からも、強引にチョコチョコより前に出ようとするウマ娘はいない。誰もいかないの? じゃあ――いっちゃいますか!

 

『さあダッシュをつけて先頭に立ったのは1番人気チョコチョコです! どうやらチョコチョコがレースを引っぱります。1バ身後ろにバイタルダイナモ、最低人気のバイタルダイナモがつけました』

 

 ――おっ、委員長?

 内ラチ沿いに構えてちらりと後ろを振り返ると、バイタルダイナモがぴったり自分の後ろについてきていた。へえ、いい位置取ったじゃん――。

 左回りの中京レース場のコーナーを曲がっていく。――先頭を走るのって、なんかリズムが取りにくいな。前に誰かいてくれた方がやっぱりやりやすいけど、まあ、仕方ない。

 直線入口でチョコチョコはもう一度後ろを振り返る。まだダイナモはぴったり後ろで2番手につけている。外からは他のウマ娘たちもスパートをかけて追い込んできた。けどまあ――怖い相手はいない!

 直線に入ったところで、チョコチョコは力強く踏み込んでスパートをかける。

 

『さあ直線入って先頭はチョコチョコ、その後ろにバイタルダイナモ、外から――』

 

 残り200メートル。脚は軽い。余裕余裕、このまま押し切り――。

 チョコチョコが、そう思った瞬間。

 ――すっと、横に並んでくる影があった。

 

『チョコチョコ逃げる、逃げるがしかし、バイタルダイナモ! なんとバイタルダイナモがきた!』

 

 ――委員長!?

 思わず、チョコチョコは我が目を疑った。すぐ後ろにいたはずのバイタルダイナモが、いつのまにかすっと外から横に並んできていた。――眼鏡の奥のその顔を、いつもの能天気な学級委員長の笑顔ではなく、闘争心に溢れたウマ娘の顔にして。

 その横顔に、チョコチョコはぞくりと背筋が泡立つのを感じる。

 ――これが、あの委員長? お人好しで暴走がちな、あの――。

 

『かわした! かわした! バイタルダイナモかわして先頭!』

 

 残り100メートル。そのまま、ダイナモの背中が前に出て行く。

 そんなバカな。ちょっと道中やりにくかったけど、脚は全然残ってる。スパートのタイミングだって間違ってない。間違いなく押し切れるはず、そのはずなのに――。

 バイタルダイナモの背中が――逆に、遠ざかっていく。

 

『なんとなんとバイタルダイナモだ! バイタルダイナモ、先頭で――ゴールッ!』

 

 先を行ったふたりがゴール板を駆け抜けたとき、中京レース場に響き渡ったのは、歓声よりもどよめきだった。

 

『2着チョコチョコ! なんとなんとバイタルダイナモ! 最低人気のバイタルダイナモが2番手追走から直線鮮やかに抜け出して、1番人気チョコチョコをあっという間に差し切りました! これが最低人気ウマ娘の末脚か!? これは驚きましたファルコンステークス、大波乱の決着です!』

 

 ――ウッソでしょ?

 よろめくようにターフに仰向けに倒れこんで、チョコチョコは茫然と青空を見上げた。

 歓声が遠い。逆さまになった視界の向こうで、バイタルダイナモがぴょんぴょん飛び跳ねながら客席に向かって手を振っていた。

 現実とは思えないまま、チョコチョコはダイナモが「チョコさん、大丈夫ですか!」と駆け寄ってくるまで、しばらくそのままターフに横たわっていた。

 

 

       * * *

 

 

「ちょっと、なによそれ! なにやってんのよあのバカ――ああもうっ!」

 

 ゴールの瞬間、テレビの前でコンプが立ち上がって、そう声を上げていた。

 私も驚いた。チョコチョコが完全に押し切る流れと思った瞬間、ずっとその後ろにぴったり貼り付いていたバイタルダイナモが一瞬で並んで差し切ってしまった。逃げるチョコチョコを徹底マークして一瞬の切れ味に賭けた、まさに完璧なレース。――それをやったのが、なんと前走惨敗の最低人気のウマ娘なのだから、唖然とするしかない。

 中継画面が跳びはねるようにして喜ぶダイナモと、茫然とターフに倒れこんだチョコチョコを映している。それを前にして――コンプは。

 

「ああ……ったく、もういい!」

 

 リモコンを手に、勝手にテレビを消してしまった。そして、むくれた顔で私を振り返る。

 

「……トレーナー。マッサージして」

「え? あ、うん」

「葵ステークス、今度は絶対に間に合わせるから!」

 

 床にマットを広げて、口を尖らせながら腹ばいになるコンプ。私はその脚元に屈み込んで、コンプのふくらはぎに手を添えた。マッサージ術はトレーナー養成校で一通り学んでいる。このあたりのケアもトレーナーの役割のひとつだ。

 ぐっと指でふくらはぎを押すと、「んんっ――」とコンプがうつ伏せて呻く。まだ張っているふくらはぎの筋肉を、まずはしっかりほぐしてやらないといけない。

 本当は、ゆっくり休みをとって温泉にでもつれて行ってあげたいところだけど――。

 

「大丈夫? コンプ」

「……ん、平気」

 

 ぐっと指を押し込むと、「うぐぅっ」とコンプはまた呻いた。――それでも、4日前よりはだいぶほぐれてきている。次の目標まで2ヵ月ちょっと。立て直す時間は、充分ある。

 

 ブリッジコンプ。次走、5月25日、葵ステークス(GⅢ)。



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第84話 背負うものは重たく

 トレセン学園には、深夜に学園の体育館が開放される日が年に何度かある。

 普段、この時間にはもう眠りに就いているウマ娘たちが眠そうな目を擦りながら、あるいはとても寝付けそうにないという興奮した顔で、体育館に集まっている。

 そのプロジェクターに映し出されているのは――遠い海外の大レースの中継だ。

 

『さあ今年のドバイミーティングもいよいよ残すところ2レースとなりました。第8レース、GⅠドバイシーマクラシックの発走が近付いております。日本からは3人のウマ娘が参戦します。あっ、姿が映りました。テイクオフプレーンです! 昨年の桜花賞、秋華賞、エリザベス女王杯の変則トリプルティアラ、芦毛の逃亡者テイクオフプレーン!』

 

 3月23日――いや、日付が変わったからもう24日だ。アラブ首長国連邦、砂漠の都市ドバイ、メイダンレース場。そのターフを吹き抜ける風に、テイクオフプレーンの芦毛のロングヘアーが揺れている。

 体育館に集まったウマ娘たちから歓声があがる。世間一般でも高い人気を誇るテイクオフプレーンは、学園内にも大勢のファンがいる。

 そんな歓声を聞きながら、私は息を切らせて体育館に駆け込んだ。なんとかドバイシーマクラシックに間に合った。仕事をしながらトレーナー室のテレビでここまでのレースは見ていたが、このシーマクラシックだけはここでヒクマと一緒に見ようと思っていたのだ。

 ヒクマの母親も走ったレース。ヒクマの夢の場所。あの場所に立つために、これから私たちはトリプルティアラの戦いに挑むのだ――。

 しかし、思った以上に観戦に集まっているウマ娘が多い。この中からヒクマを探し出せるだろうか? と視線を彷徨わせていると――見覚えのある栗毛が見えた。集団から距離を取るように、体育館の一番後ろで腕組みしているのは、リボンスレノディだ。自身も週末には大阪杯を控えた身のはずだが、最大のライバルの大一番となれば無関心ではいられないだろう。

 そして、スレノディの隣に、エチュードとコンプの姿が見える。

 ――だけど、肝心のヒクマの姿が見当たらなかった。

 

「あっ……トレーナーさん」

 

 歩み寄ると、エチュードが私に気付いて振り返る。コンプとスレノディも振り向き、スレノディは笑顔で手を振り、コンプは困ったように眉を下げた。

 

「こんばんは~」

「やあ、こんばんは。なんとか間に合ったけど――コンプ、ヒクマは?」

 

 私がルームメイトのコンプに訊ねると、コンプは眉を寄せて肩を竦める。

 

「外に走りに行ったまま戻ってこないの、クマっち」

「――え?」

「最初のゴドルフィンマイルからUAEダービーまでは部屋で見てたんだけど、そのあと『ちょっと外走ってくる』って言って出てっちゃって。シーマクラシックは前からノディさんと一緒にプレーンさん応援しようって言ってたし、さすがにシーマクラシックまでには戻ってくると思ってたけど……」

 

 そこまで言って、コンプは私に軽く手招きした。私が屈み込むと、コンプは声を潜めて私に耳打ちする。

 

「……ぶっちゃけ、エーちゃんが怪我してから、クマっち変。トレーナーだって気付いてたでしょ?」

「――――」

「去年なんかドバイミーティングの日は一日中はしゃいでたのに、今年はなんか全然らしくない顔して、レース見てても楽しそうじゃないの、あのクマっちが。……トレーナー、探しに行った方がいいと思う」

 

 コンプが真剣な顔でじっと私を見上げる。――その違和感は、私もここ数日ずっと感じていたことだ。ミニキャクタスが離脱した後もそういう節はあったが、エチュードがアネモネステークスで怪我をして敗れてから、ヒクマの様子が明らかに今までと違った。桜花賞へ向けたトレーニングに挑む顔つきが変わった。これまでになく真剣な様子で――それは普通のウマ娘であれば、気合いが入っている、良い兆候だと感じられるはずのものだった。コンプが同じ顔をしていたら、私はやる気の証だと受け取っただろう。

 だけど、ヒクマの場合は。――何か、危ういものを感じた。

 その違和感が、今のコンプの囁きで具体的な懸念に変わった。――大目標の、ヒクマの夢であるはずのドバイミーティングの日に、ヒクマがはしゃいでいない。楽しそうにしていない。――それは、たぶん深刻な警報ランプだ。

 

「解った。……ちょっと、ヒクマを探しに行ってくる」

「ん。――頼んだからね、トレーナー」

 

 コンプに背中を押され、心配そうなエチュードと怪訝そうなスレノディに見送られ、私は体育館を飛び出した。

 ヒクマ、どこにいる? 君の夢が、もうすぐ走り出す時間じゃないか――。

 

 

       * * *

 

 

 存外、ヒクマの姿はあっさり見つかった。

 こんな深夜、起きているウマ娘はみんなドバイミーティングに熱中している。そんなときにウッドチップコースをぐるぐる走っているウマ娘なんて、そういるはずがなかった。

 

「ヒクマ!」

 

 私が駆け寄ってその名を呼ぶと、ヒクマはゆっくりと脚を緩め、息を弾ませながらこちらをぼんやりと振り返った。

 

「……トレーナー、さん」

 

 その顔に、いつもの天真爛漫な笑顔はない。私はどんな態度を取るべきか少し迷って、それから敢えて、顔を引き締めてヒクマに歩み寄った。

 

「あ、えと……んっ」

 

 ハンカチを取りだして、ヒクマの顔の汗を拭ってやる。まだ3月、夜風は冷える。タオルでも持ってきていれば良かったのだが、仕方ない。

 

「ヒクマ。――もうすぐドバイシーマクラシックだよ。見ないの?」

 

 私がそう問いかけると、ヒクマははっと顔を上げ――。

 

「あっ、もうそんな時間なんだ! うん、行こ行こっ、トレーナーさん!」

 

 無理に作ったような笑顔で、私の横を通り抜けて走り出そうとする。

 ――たまらなくなって、私はヒクマの手を掴んで止めた。

 

「トレーナー……さん?」

 

 振り返ったヒクマの顔に浮かんだ困惑に、私はゆるゆると首を横に振る。

 違う。そうじゃない。ヒクマ、走っているときの君は、決してそんな顔はしなかった。

 

「……ヒクマ。今、走るの、楽しい?」

 

 私のその問いに、ヒクマはその目を大きく見開いて――。

 そして、叱られた犬のように、目を伏せてうなだれる。

 

「…………なんで、かな? トレーナーさん。……このごろ、レース見てても、走ってても、なんだか……今までみたいに、楽しく、ないの」

「――――」

「今日も……ドバイのレース見てたら、なんだか……なんだか、こんなことしてちゃいけない気がして、走らなきゃって思って、でもっ、走っても走っても、全然もやもやしたのが消えなくて――」

 

 訥々と語るヒクマは、私の手をぎゅっと強く握りしめた。

 その手を握り返して――どうすればいいのだろう、と私は思う。

 今のヒクマを追い込んでいるもの――それはたぶん、親友ふたりの怪我だ。ミニキャクタスもエチュードも、怪我で桜花賞の夢を絶たれた。一緒に桜花賞を走ろうと約束した友達ふたりのぶんまで、自分が頑張らないといけない――という無意識の重圧が、ヒクマの背中に呪いのように貼り付いているのだとすれば。

 ミニキャクタスのときには、まだそれをエネルギーに変えてチューリップ賞に挑めた。だけど、そこにエチュードの怪我まで重なって、ヒクマの許容量を超えてしまったのか。

 思えばヒクマには、前からそういうところがあった。ビウエラリズムから重賞制覇を祝福されたときも。ミニキャクタスが怪我で離脱したときも。ただ楽しいから走っている最中、不意に自分が誰かよりも恵まれた位置で走っていることに気付いてしまうと、「あれ?」と戸惑って立ち止まってしまうところが。

 ヒクマは真っ直ぐで優しい子だ。他人を思いやれる子だ。だけどそのことが、ある種の罪悪感としてヒクマにのしかかっているのであれば――。

 どうすればいい? どうすれば、ヒクマのその重圧を取り除いてあげられる?

 桜花賞まであと3週間もない。今の精神状態で、ヒクマを桜花賞に送り出すのは――。

 

「ヒク――」

 

 どんな言葉をかけるべきか決められないまま、私がその名前を呼ぼうとしたとき。

 ――体育館の方から、大きな歓声が聞こえてきた。

 思わず私は腕時計を見る。――ドバイシーマクラシックの発走時刻だった。

 

「ヒクマ。――ここで一緒に見よう」

 

 私はポケットからスマホを取りだして、URAの配信チャンネルを起動した。スマホの小さな画面に、メイダンのターフを走るウマ娘の姿が映し出される。

 ヒクマが、私の横から画面を覗きこんだ。――その画面で、先頭を走っているのは、見慣れたあの芦毛。テイクオフプレーンだ。

 

『6番テイクオフプレーンが逃げています、リードは1バ身半、手応え充分で直線へ』

 

 夜のドバイ。ターフの上を駆け抜けていく、芦毛の逃亡者。

 

『テイクオフプレーン粘る、テイクオフプレーン粘る、外からエナジェティック! 最後方からエナジェティックが追い込んできた! テイクオフプレーン、エナジェティック、エナジェティックかわすか、テイクオフプレーン、エナジェティックー!』

 

 体育館の方から、ああああああっ、という悲鳴が聞こえた。

 スマホを覗きこんでいた私も、思わず天を仰いだ。

 あと少し、あと一歩で逃げ切りというところで、テイクオフプレーンをアタマ差、イギリス代表エナジェティックが差し切った。テイクオフプレーンは2着――。

 勝ったエナジェティックが力強くガッツポーズし、観客へ手を振る。脚を止めたテイクオフプレーンは膝に手を突いて荒く息を吐き、掲示板を振り仰いで、そのままばったりとターフの上に倒れこんだ。

 そして――画面の中のその姿を。

 ヒクマは、その大きな目をいっぱいに見開いて、ただ見つめていた。

 私はその芦毛の髪を、ぽんぽんと撫でる。

 ヒクマはそれにも気付かないように、ただ、画面の中のドバイの光景に、じっと見入っていた。

 



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第85話 誰かのためじゃなく

 ドバイミーティングの翌日――3月24日、日曜日。

 

「あっ、トレーナーさーん!」

「ヒクマ、お待たせ」

 

 学園の門の前で、私服姿のヒクマが手を振る。私は手を挙げて駆け寄った。

 ――昨晩、テイクオフプレーンのドバイシーマクラシックを見たあと。明日のトレーニングはお休みして、ちょっとお出かけしようか、とヒクマを誘ったのである。エチュードは怪我、コンプもふくらはぎの張りがようやく取れてきたあたりで、まだふたりとも休みなので、私も少し身体が空いたのだ。桜花賞の特別登録も既に済ませてあるし。

 今日はGⅠ高松宮記念の開催日である。もともとは、来年の目標となるレースだけに、コンプと一緒に見る約束をしていたのだが――『あたしは自分で勝手に見るし、レースの検討なら後でできるでしょ。今はクマっちのこと任せた!』とコンプからも託されてしまった。あとでコンプにも埋め合わせをしないとなあ、と心の中で思う。

 

「ゆうべはちゃんと寝られた?」

「うん、大丈夫! えと、トレーナーさん、今日はどこ行くの?」

 

 頷いて、ヒクマはそれから小首を傾げる。私は軽く頭を掻いた。

 実のところ、それすら決めかねていた。ミニキャクタスとエチュードの怪我で心が揺れているヒクマに、いつもの笑顔を取り戻してほしい。そのために何かしてあげたいし、しなくちゃいけないと思って、とりあえず気分転換が必要だろうと思ったのだけれども。

 中山レース場に今日のレースを見に行く。一度実家に帰して家族と話をさせる――いくつかプランは考えていたものの、それらは何か、解決方法とは違う気がしたのだ。

 今のヒクマを縛っているのは、たぶん、ある種の後ろめたさだ。もちろんヒクマ自身は何も悪くないのだが――エチュードとミニキャクタス、親友ふたりが怪我で約束した桜花賞を諦めざるを得なくなり、コンプもファルコンステークスを回避した中で、自分だけが夢を見ることの罪悪感。一種のサバイバーズギルトだろう。

 もちろんそれは、競走生活を送っていく上ではいちいち気にしていたら身が持たないものだし、ヒクマがいわれのない罪悪感に囚われることは、コンプもエチュードもミニキャクタスも望まないだろう。

 だからといって、割り切れと言ってすぐ割り切れるなら苦労はないし、たぶんヒクマ自身、自分の今の気持ちを整理できずに持て余している。

 何か、きっかけが必要だ。ヒクマが無心に桜花賞に向かえるきっかけが。

 

「ヒクマは、どこか行きたいところある?」

「ほえ? うーん……」

 

 ヒクマは困ったように首を捻る。私はつとめて笑顔を作り、「じゃあ、とりあえずちょっとぶらぶら散歩しようか」と歩き出した。

 

「あっ、待ってよ、トレーナーさん!」

 

 ヒクマがぱたぱたとついてくる。向かう先は、駅とは反対方向――多摩川の方だ。

 

 

       * * *

 

 

 トレセン学園から南に少し行ったところにある多摩川沿いの府中多摩川かぜのみちは、学園のウマ娘にとって絶好のランニングスポットである。今も運動広場で野球やサッカーに興じる人々の傍らで、ジャージ姿で走る学園のウマ娘の姿がちらほらある。ヒクマたちにとっても、日常のトレーニングの一環で走り慣れた道だ。

 何より、今は3月の下旬。ちょうど桜の開花時期だ。多摩川沿いの桜並木も蕾がほころんで、花見に興じる人々の姿も見える。

 そんな桜並木の下を、今日は私服のヒクマと肩を並べて、のんびり歩く。

 

「トレーナーさん、桜、綺麗だね」

「ああ――」

 

 桜を見上げて目を細めるヒクマに、私は頷く。――そんなヒクマの横を、ジャージ姿のウマ娘がまたひとり、真剣な顔で走り抜けていった。

 そのウマ娘の背中を見送って、ヒクマは何か困ったように少し唸る。

 

「走りたい?」

「あ、んと――」

 

 迷うように口ごもるヒクマ。その反応それ自体が、今のヒクマの状態の深刻さを物語っている。走ることが楽しくない――なんて、ヒクマにだけは、そんな風になってほしくない。そんな気持ちでいてほしくないのに。……私は、どうすればいいのだろう?

 立ち止まったヒクマに、なんと声をかけるべきか逡巡していると、

 

「――おん? よ、クマじゃねーか」

 

 聞き覚えのある声が、ヒクマの背後からかかった。ヒクマが振り返る。

 

「ほえ? ――あ、ジャラジャラちゃん」

「なんだなんだ、桜花賞前に呑気にトレーナーとデートか? 随分と余裕こいてんな」

 

 ジャージ姿でランニングしながらこちらに声を掛けてきたのは、ジャラジャラだった。足踏みしたままで、ジャラジャラはヒクマと私とを見やり、――そして、眉を寄せる。

 

「なんだよ、そのシケたツラ」

「――――」

「桜花賞前になに腑抜けたツラしてんだ。あのミニキャンディ――じゃねーや、ミニキャクタスの奴がいなくなってこちとらガッカリしてんのに、まさかお前まで桜花賞出ないとか言い出すんじゃねーだろーな?」

 

 じろりとヒクマを睨むジャラジャラ。ヒクマは大きく目を見開いて、慌てたように首を横に振った。

 

「出る! 出るよ、わたしも――キャクタスちゃんのぶんも、エチュードちゃんのぶんも、わたしが、」

 

 ぐっと拳を握りしめたヒクマに、ジャラジャラは。

 ――腰に手を当てて、呆れたように溜息をついた。

 

「なにシケたツラしてんのかと思ったら――お前、ひょっとしなくてもアホだな?」

「ふえ!?」

 

 突然の罵倒に、ヒクマはぎょっとしたようにのけぞる。

 そのヒクマの胸元に、ジャラジャラは拳を突き出して、少し背の高いヒクマをじっと睨むように見つめた。

 

「お前があのミニキャンドル――じゃなくてミニキャクタスのことどー思ってんのかは知らんけどな。敵のためにレース走るバカがどこにいるんだよ」

「――――」

 

 息を飲んだヒクマは、突きつけられたジャラジャラの拳を見つめるように視線を落とす。

 

「お前はなにしに桜花賞に出てくんだよ。本番前に怪我するよーなバカの代わりに走るためか? お前はどこの誰だよ、アルバイタークマ」

「……クマじゃないし、アルバイトもしてないよ、わたしは、」

 

 ジャラジャラの言葉に、ヒクマは――。

 

「わたしは――バイトアルヒクマ!」

 

 ぎゅっと口元を引き結んで、決然と顔を上げ、ジャラジャラを見つめた。

 その表情に、ジャラジャラは――にっ、と口の端を吊り上げて笑う。

 

「なんだ、いい顔できんじゃねーか。よっしゃ、ちょっと今から併走付き合えよ、クマ」

「クマじゃないよー! って、え、併走? ここで?」

「おう。こっから親水公園まで、だいたい1600メートルってとこか。ストレッチする間ぐらい待っててやっから。桜花賞、あたしに勝とうってんなら、あたしに追いついてみせろよ、クマ」

 

 目をしばたたかせたヒクマは、私の方を振り返る。

 私は――黙って、肩から提げていた鞄から、ヒクマのトレーニング用シューズを取りだした。ヒクマがいつ走りたいと言い出してもいいように持ってきていたのだが――。

 参ったな。本来私が言うべきことを、全部ライバルに言われてしまった。

 けれど今の言葉は、たぶん私が言っても仕方ないことだっただろう。

 同じレースを走る、同期のライバルの言葉でなければ、たぶん意味がなかった。

 

「トレーナーさん」

 

 ヒクマが私の顔とシューズとを見比べる。私は路上にヒクマのシューズを置いて、頷く。

 

「好きなように走っておいで、ヒクマ。――じゃあ、私は向こうで待ってるから」

 

 私の言葉に、ヒクマは。

 

「――――うんっ」

 

 力強く、頷いた。

 

 

       * * *

 

 

 1600メートルほど先にある、小川の流れる多摩川親水公園。

 そこに先回りした私は、ゴール板代わりに立って手を挙げた。

 ほどなく、ランニングコースの向こうから、こちらに走ってくるふたつの影。

 先を行くのは、ジャラジャラ。

 それを追うのは、バイトアルヒクマ。

 本番のレースのように、全力で逃げるジャラジャラと、それに食らいつくヒクマ。

 ゴールの位置に立ちながら、私はそのふたりの姿に――見とれていた。

 

 獰猛な笑みを浮かべて、まっすぐに走るジャラジャラの、その後ろで。

 その背中に追いつこうとして走る、ヒクマの顔は――。

 

 初めて出会ったときのような、走ることを心底楽しんでいる、笑顔が浮かんでいた。

 

「うううう~~~~っ、負けたぁ~~~っ」

 

 親水公園の芝生に倒れこんで、ヒクマはだだをこねるようにじたばたする。

 

「ふいーっ、あぶねえあぶねえ。――あー、疲れた。ランニングでこんな全力出したってトレーナーに気付かれたら怒られんな、きっと」

 

 逃げ切ったジャラジャラも、その近くに倒れこんで、蒼天を見上げて満足げな息を吐く。

 ――そして、そんなふたりの姿に。

 

「おん? なんだなんだ」

「ほえ?」

 

 近くでふたりの併走を見ていたギャラリーから、自然発生的に拍手と歓声が湧き上がっていた。

 

「あれ、ジャラジャラとバイトアルヒクマじゃん」

「うおっ、桜花賞の本命ふたりの併走だったのかよ! 撮影しとけば良かった」

 

 そんな声が周辺からあがる。「あっちゃー、またやっちまった」とジャラジャラが身体を起こして頭を掻いた。

 

「めんどくせーことになる前にあたしは帰るわ! じゃーなクマ、桜花賞に今日みたいな腑抜けたツラで来やがったらただじゃおかねーぞ!」

 

 と、ジャラジャラは慌ただしくその場を走り去っていく。残されたヒクマに、私はゆっくりと歩み寄ると、芝生に仰向けになったヒクマに手を差し伸べた。

 

「ヒクマ。――どうだった?」

 

 私のその手を取って、身体を起こしたヒクマは――。

 

「――トレーナーさんっ! わたし、桜花賞勝ちたい! ジャラジャラちゃんに今度こそ勝ちたいっ!」

 

 ぐっと私への距離を詰めるようにして、迷いの無い瞳で、私を見つめた。

 その目の輝きは、私が惚れ込んだ、あのヒクマの瞳だった。

 

「――よしっ、学園に戻ってトレーニングだ!」

「うんっ!」

 

 立ち上がって草を払い、ヒクマは「う~~~~っ、がんばるぞーっ!」と蒼天に拳を突き上げて吼える。

 ――そう、それでいいんだ、ヒクマ。

 君は、君自身のために走れ。ミニキャクタスのことも、リボンエチュードのことも、大切に思う気持ちとは別に――レースに対しては、いくらでも我が儘になっていいんだ。

 ……あとで、ジャラジャラにありがとうって伝えないと。

 私が言っても単なる言葉でしかないものを、取り戻させてくれた同期のライバルに、私はただ、祈るような気持ちで、ありがとう、と呟いた。

 

 

       * * *

 

 

 その日、桜花賞の特別登録が締め切られた。

 ジャラジャラ。エレガンジェネラル。ユイイツムニ。エブリワンライクス。

 そして、バイトアルヒクマ。――フルゲート18人に、21人が登録した。

 



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第86話 夢は夢でなく

「一応登録はしておいたが――本当にいいのか? 一生に一度のクラシックだぞ?」

 

 トレーナーの須永の言葉に、ユイイツムニは静かに頷いた。

 

「……フィリーズレビューで、自分でもわかりました。今、桜花賞に挑んでも――阪神JFのあの差は、逆転できない。……今の私には、まだ」

 

 ぎゅっと胸の前で拳を握りしめるユイイツムニ。その拳の震えに目を眇め、須永は息を吐く。――距離的に厳しいと解っていても、せっかくトライアルを勝ったのだ。一生に一度の機会。レースでは何が起こるかわからない。挑まなければチャンスもない。クラシックの栄冠――夢見ていないと言えば嘘になる。

 

「だから、来年。マイルへの挑戦は、ヴィクトリアマイルで。――まずは、スプリンターズステークスで、スプリントを極めます」

 

 顔を上げたユイイツムニの、眼鏡越しの視線が、その逡巡を断ち切った。

 その顔は、勝負から逃げる者の顔ではない。自分の今の力を冷静に受け止めて、今進むべき道を見定めた者の顔だった。

 その顔を、トレーナーの未練で曇らせるわけにはいかない。須永も腹を括る。

 

「解った。んじゃ、桜花賞は回避だな。マスコミにも明日正式に情報を流すとして――次はどうする?」

「葵ステークスに行きます」

 

 即答だった。まあ、桜花賞を回避してスプリントに向かうなら、確かにそれが無難な選択だろうが――。

 

「ブリッジコンプか」

 

 ユイイツムニは無言で頷く。――ブリッジコンプ。京王杯ジュニアステークスでユイイツムニとチョコチョコに最後まで食らいついた、尾花栗毛の小柄なウマ娘。先日のファルコンステークスを回避したが、怪我などではなく、葵ステークスに向かうと聞いている。

 

「気に入ったのか?」

「……チョコが袖にされたので、そのお返しです」

 

 なるほど。須永は後から小耳に挟んだだけだが、京王杯ジュニアのあと、チョコチョコはブリッジコンプに「ファルコンステークスで再戦だ」と挑戦状を投げつけたらしい。それが向こうに回避されてしまい、チョコチョコはだいぶご立腹だった。まあ、バイタルダイナモに負けたのはそれが原因というわけでもないだろうけども――。

 

「親友の仇討ちか。まあ、なんでもいいさ。お前が納得して走れるならな」

 

 腕を組んだ須永の苦笑に、ユイイツムニはただ、真面目な顔で静かに頷いた。

 

 

 フィリーズレビュー勝者ユイイツムニ、桜花賞を回避して葵ステークスへ。

 その一報が正式に流れたのは、桜花賞10日前のことだった。

 

 

       * * *

 

 

 ユイイツムニの桜花賞回避が発表された、その翌日。

 

「――ねえ、ちょっと」

 

 学園の廊下。授業が終わり、トレーニングに向かおうとしていたユイイツムニの前に、見慣れない顔のウマ娘が立ちはだかった。ムニは眼鏡の奥で目を眇める。立ちはだかったウマ娘は、ひどく険しい表情でこちらを睨み付けてきた。

 

「桜花賞、出ないって――本当?」

 

 詰問の口調。見知らぬウマ娘に問い詰められる覚えは無い。ムニが軽く頷いてその横を通り過ぎようとすると、「待ちなさいよ!」とそのウマ娘はこちらの腕を掴んだ。

 

「バカにしてるの!? 怪我でもないのに、クラシックの優先出走権投げ捨ててGⅢに出るなんて――最初から桜花賞出るつもりないのにトライアルに出るなんて、バカにしてるんでしょう!」

 

 廊下の壁にムニを押さえつけるようにして、そのウマ娘は唾を飛ばして叫ぶ。

 

「――あんたがいなければ、私が桜花賞に出られたのに……!」

 

 絞り出すようなその声に――ああ、とムニはようやく、彼女が何に怒っているのかを理解した。彼女は――そうだ、フィリーズレビューのときに見かけた。4着だった子だ。名前は……なんだっけ。思い出せない。

 フィリーズレビューの桜花賞優先出走権は3着まで。その1着の自分が桜花賞に出ないと聞いて、文句を言いにきたということか。どうして自分の邪魔をするのか、と。

 でも、お門違いだ、とムニは思う。自分だって桜花賞に出るべきか迷っていた。迷って、それを決断するためにフィリーズレビューに出て、そして出ないという決断をした。それは自分の問題であって、別にフィリーズレビューに出る他のウマ娘の桜花賞出走を妨害しようとしたわけではない。優先出走権は義務ではないのだ。

 

「ちょっと、なんとか言いなさいよ!」

 

 詰め寄ってくるそのウマ娘に、ムニはもう、その瞬間には興味を失っていた。

 勝とうという気持ちで向かってくる相手なら受けて立つ。だけど――。

 

「……話はそれだけ?」

「え?」

「悪いけど、私は自分の力不足を他人に責任転嫁するほど暇じゃない」

 

 そのウマ娘を押しのけるように、ムニは前に出る。沸騰したようにそのウマ娘の顔が紅潮し、怒りにゆがみ、その右手が振り上げられ、

 

「――はいはい、そこまで」

 

 ムニの頬へ向けて振り下ろされようとした平手は、背後から誰かに掴まれていた。

 

「……チョコ? ……委員長?」

「いけませんいけません! 喧嘩はいけませんよ! まずはこの学級委員長に事情をお話しあれ! トラブルでしたらこのバイタルダイナモが相談、判断、一刀両断です!」

 

 腕を掴んでいるのはチョコチョコ。そしてその後ろから、バイタルダイナモが姿を現す。委員長の登場に毒気を抜かれたような顔になったそのウマ娘は、チョコチョコに掴まれた手を振り払って俯き――そして、その場から逃げ出すように駆けだした。

 

「あっ――委員長、あの子のことお願いしていい? ムニっちとはあたしが話すから」

「了解いたしました! お待ちなさーい! ダイナモ相談室はこっちですよー!」

 

 チョコチョコの指示に、バイタルダイナモが敬礼して駆けだしていく。それを見送ったチョコチョコは、呆れたような顔でムニに振り返った。

 

「――ムニっちがコミュ障なのは今に始まったことじゃないけどさあ。せめてもーちょっとこう、手心っていうかさあ、言葉を選びなよぉ。あんだけ本読んでるんだからあたしなんかより語彙あるでしょーに」

「……あの子の優先出走権を私が阻んだのは事実。なら、下手に出る方が嫌味。だいたい、私が何を言ったところであの子が桜花賞に出られるわけじゃない」

「いやまあ、そりゃその通りだけどさあ。ムニっち、ただでさえコミュ障で友達少ないのに、わざわざ自分から敵作りに行ってどーすんの」

「……先に敵意を向けてきたのは向こう」

「そーゆー問題じゃなくてさあ。読書って共感能力を養うもんじゃないのぉ?」

 

 嘆息するチョコチョコに、ムニは口を尖らせる。人をサイコパスみたいに言わないでもらいたい。

 

「……クラシック出走を夢と目標にしてる子が、優先出走権を投げ捨てた私に反感を持つことぐらい理解してる。最上の価値を踏みにじられた気持ちなんだろうって」

「わかってんじゃん! だったらもーちょっと言い方ってもんがあるでしょーに」

「負けた子に優しい言葉をかけるのは、私の役目じゃない」

「――はいはい、そーでしょーとも。ったく、もーわかった、わかりました。アスリートとしてはムニっちが正しい。さっきの子への対処としても、たぶん今のムニっちぐらい全力で冷たく突き放した方が、たぶんあの子のためでしょーとも」

「……だったら、チョコは何を問題視してるの」

「そーゆー態度は正しくても友達できないよ、ってことだってば!」

 

 あーもう、と頭を掻くチョコチョコに、ムニは小首を傾げ、チョコチョコを指さした。

 

「え? なに?」

「……チョコがいる」

「はい? ……あ、なに、え? あたしがいるからそれでいい、ってこと?」

 

 ムニは頷く。ルームメイトでクラスメイトでチームメイト。チョコチョコがいてくれれば、ムニの生活に不便はないし、それで充分だと思う。

 

「いや、あのさあ……んなこと言われてあたしにどー反応しろと……」

 

 頭を抱えるチョコチョコに首を傾げ、それからムニはその脇を通り抜けて歩き出す。

 

「ちょっとムニっち、どこ行くの!」

「トレーニング。急がないとチョコも遅れる」

「誰のせいだと――ああもう、ホントこのコミュ障は!」

 

 呆れ顔で追いかけてくるチョコチョコの声を聞きながら、ユイイツムニは小走りにグラウンドへ向かう。隣に並んできたチョコチョコは、一緒に走りながらムニを見やった。

 

「で、ムニっち。次、葵ステークスってなに? あの栗毛のチビに引導渡しに行くわけ?」

「……別に、そういうわけじゃない」

「ほんとぉ? ま、別にいーけど。ムニっちが桜花賞行かないなら、あたしが先にNHKマイルカップ勝ってGⅠウマ娘になっとくから」

「……委員長もNHKマイルカップ出るんだっけ?」

「二度はないよ二度は! ファルコンステークスで不覚取ったことの言い訳はしないけどさ! 朝日杯で負けたあのツインテとかにも!」

 

 吼えるチョコチョコに、ムニは小さく微笑んだ。

 

 

 桜花賞まで、あと9日。



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第87話 桜花賞合同記者会見

 4月4日、木曜日。桜花賞の最終登録が締め切られ、出走18人が確定した。

 そして翌日、トレセン学園にて出走ウマ娘の合同記者会見が開かれた。

 

 

 

 事前投票4番人気、阪神JF3着、チューリップ賞2着、エブリワンライクス。

 

 ――青森からこのトレセン学園にやってきて、クラシックに挑む、今のお気持ちを。

「いやあ、まさかあたしがクラシックに出られるなんて、夢みたいです。まだ重賞勝ってないのに4番人気なんて、ちょっと畏れ多いというか……」

 ――過去の重賞3戦、いずれも負けてなお強しという内容でした。

「勝てなきゃ一緒ですって。――でも、だからこそ、今度は勝ちたい……いや、勝ちます」

 ――日曜は雨予報ですが、道悪には自信があるとか。

「地元で泥んこになって走り回ってましたから。ヤワな都会っ子には負けません! 泥まみれになっても、絶対に勝ちたいです!」

 ――ファンの皆さんへメッセージを。

「ええ? いやあ、あだしみてっだ地味な田舎モンさファンだなんで……あ、いやいやいや、あのええと、おっ、応援よろしくお願いします!」

 

 

 

 事前投票3番人気、ホープフルS4着、チューリップ賞1着、バイトアルヒクマ。

 

 ――ドバイシーマクラシック、昨年の桜花賞ウマ娘テイクオフプレーン選手が先日二着と好走しました。来年に向けて、続きたいところですね。

「はい、でも今は、目の前の桜花賞で、勝つことだけ考えてます!」

 ――ジャラジャラ選手、エレガンジェネラル選手とは、トゥインクル・シリーズ公式戦では初対決となりますが。

「どっちもすっごくすっごく強いけど、わたしもトレーナーさんと一緒に強くなったから、きっと勝てるし、絶対勝ちたいって思います!」

 ――残念ながら故障で回避となったミニキャクタス選手とは、プライベートでも仲が良いとのことですが。

「えと……キャクタスちゃんの代わりにはなれないし、エチュードちゃんの代わりにもなれないけど、でも、ふたりが戻ってきたとき、二冠ウマ娘として胸を張りたいです」

 ――エチュードちゃんというのは、同じトレーナーの担当の、リボンエチュード選手?

「うん、ふたりとも桜花賞出られなくて、すっごく悔しいはずだから……ふたりと走れないのは寂しいけど、わたしはわたしのレースをして、がんばります!」

 ――ファンの皆さんへメッセージを。

「ふえ? ええと……桜花賞、絶対勝ーつ! と、わたしはクマじゃなくてバイトアルヒクマだから、覚えてね!」

 

 

 

 事前投票2番人気、阪神JF2着、エレガンジェネラル。

 

 ――阪神JFからの直行ですが、調子のほどは。

「万全です。それがレースに臨む者の義務ですから」

 ――プライベートでも親しいというジャラジャラ選手と2度目の対決。多くのファンもどちらが強いのか、楽しみにしていると思います。

「別にジャラジャラさんと親しいというわけでは……。ルームメイトなだけです。それに、対戦相手はジャラジャラさんだけではありませんから。もちろん彼女が強敵であることは否定しませんが、一緒に走る17人全員がライバルだと考えています」

 ――では、ジャラジャラ選手の他に注目されている選手は?

「敢えて言うこともないでしょう」

 ――当日は雨予報ですが、何か勝利への秘策などは?

「戦術に関しては機密事項です。トレーナーを通してお願いします」

 ――ファンの皆さんへメッセージを。

「この名に誓って、二度続けての敗北はありません。応援よろしくお願いします」

 

 

 

 事前投票1番人気、阪神JF1着、ジャラジャラ。

 

 ――ジュニア級ではまさに圧巻のパフォーマンスでした。クラシック級でもいったいどんな走りを見せてくれるのか、ファンの期待も大きく高まっています。

「あー、どんな走りも何も、いつも通り逃げるだけっすよ」

 ――エレガンジェネラル選手もリベンジに燃えているかと思いますが。

「んなこた百も承知っすけど。だいたいあのミニキャンパー……じゃねーや、ミニキャクタスの奴がつまんねー怪我しやがったのが悪いんで。とりあえず、敵はジェネと、あとあのクマぐらいっすかね。これで勝ったらまあ、もう充分っしょ」

 ――充分、といいますと?

「おんなじ相手何度もボコってもしょーがねーっすから。桜花賞勝ったらそーっすね、とりあえずダービーでも行ってみるかな」

 ――勝ったら、ですか? トリプルティアラを蹴ってダービーへ?

「何度も言ってんだけどなあ。別に勲章が欲しくて走ってるわけじゃねーんで。もちろん、ダービーにジェネより強い奴がいるならですけど。その後は、ま、宝塚っすかね。さっさとシニア級と戦いてーんで」

 ――た、確かに、桜花賞からダービー、宝塚というローテの前例はありますが……。

「ん? へー、前にやった奴いんのか。ま、とにかくあたしは強い相手と戦いてーだけなんで、勲章の話とかいい加減やめてくんねーっすかね。頭悪いんじゃないんだったら、おんなじ説明何度もさせねーでくれます?」

 ――ふぁ、ファンの皆さんにメッセージを……。

「別にあたしから言うことなんざ特にねーけど……強けりゃ応援されるし、弱けりゃバカにされる、それだけっしょ。それで結構っすよ」

 

 

       * * *

 

 

「なんですか、あの会見は。みんな唖然としていましたよ」

 

 ジャラジャラが部屋に戻ってきたところで、エレガンジェネラルは腕組みしてルームメイトを迎えた。「あー?」と頭を掻いたジャラジャラは、疲れたような息を吐いてジェネラルを無視してベッドに倒れこむ。ジェネラルは溜息をついてスマホを置いた。

 ――チェックしていたSNSでは、ジャラジャラの会見に対する賛否両論が渦巻いていた。「いくらなんでも礼儀がなってない」「他の出走ウマ娘やダービーを馬鹿にしすぎ」といった批判から「実際ダービー出ても勝つだろ」「桜花賞とダービーの変則二冠見たいから勝ってほしい」という外野の勝手な声、「いいぞもっと言ってやれ」「負けたら叩いていいって自分から言うウマ娘初めて見たけどこういう無頼タイプ嫌いじゃない」「これで実際サウジRCも阪神JFもアホみたいに強かったからなあ」といった好意的な反応まで。

 注目を集めるウマ娘が好き勝手言われるのは誰しもそうである。あのリードサスペンス会長だって現役時代は他のウマ娘のファンのやっかみから単なるアンチの誹謗中傷までいろいろ言われていたものだ。

 ジェネラル自身だって、わざわざ調べるほど暇ではないが、自分がなんやかんやと言われているだろうことは想像がつく。その上で、そんな雑音は気にすることはないと割り切ってはいるが――。

 

「お前の猫百匹ぐらい被ったつまんねー会見よりはマシだろ?」

「別に猫を被っているつもりなんてありませんが。全て本心ですよ」

 

 寝転がって退屈そうに頬杖をつくジャラジャラに、ジェネラルは嘆息して答える。

 

「本心、ねえ」

 

 ごろりと仰向けになって、ジャラジャラは天井を見上げた。

 

「あれが本気で本心だってなら、お前と戦うのは日曜が最後だろーな」

「――――」

「つまんねーレースされんのは、怪我されるより御免だぜ」

「……別に、私は貴方を楽しませるために走っているわけではありませんから」

 

 そう答えて立ち上がったジェネラルは、ジャラジャラが寝転んだベッドに歩み寄った。そしてそのベッドに腰を下ろして――ジャラジャラの鼻をつまむ。

 

「むがっ、へねっ、あにふんはっ」

「世間に対する礼儀のなっていないルームメイトに対する教育的指導です」

「うるへーよ、お前はあたしのオカンか教師かっての」

「母親にも教師にもなる気はありません。私がなるは、大口を叩く恥ずかしい同期を徹底的に叩きのめすトリプルティアラのウマ娘です」

 

 ――その言葉に、ジャラジャラは目を見開いて。

 そして、身体を起こして、獰猛に笑った。

 

「そーゆーことを言えよ、会見でさ」

「外野が既に好き勝手に盛り上がっているのを、わざわざマイクパフォーマンスで煽る趣味はありませんから」

「ほんっと外面だけは優等生だな、お前は」

「どこかの誰かさんのように無頼を気取ったパフォーマンスをするより、この方が何事も円滑に回りますからね」

「うっせーよ。あたしの方が100パー本心だっての。――あたしにダービーに逃げられたくなかったら、せいぜいあたしを楽しませろよ、ジェネ」

「貴方を楽しませる趣味はないです。つまらなくて結構。ただ、私が勝ちます」

 

 それだけ言って、ジェネラルは立ち上がる。

 

「どこ行くんだよ」

「トレーナーのところです。最後のデータ分析をするので」

「あっそ。意味ねーと思うけどな。敵はあたしだけだ、だろ?」

「――せいぜいそうやって自惚れていてください。足元を掬われても知りませんよ」

 

 そう言い残して、ドアを閉めようとした、そのとき。

 

「へーへー。……ん? 今からトレーナーんトコ戻るなら、なんでお前この部屋に戻ってたんだ?」

「…………着替えるためです」

「んなもん、トレーナーんトコで着替えりゃいーだろ。なんだよジェネ、ひょっとしてお前あたしに『会見ではああ言ったけどホントはライバルだと思ってるのはジャラジャラさんだけですぅ』って言いたくてわざわざあたしのこと待ち構えてたのか? お前やっぱりあたしのこと好きすぎ――」

 

 ジェネラルは、力の限りに叩きつけるようにドアを閉めた。

 

 

 桜花賞まで、あと2日。

 



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第88話 桜花賞へ向けて・春の大雨

 4月7日、日曜日。阪神レース場。

 桜花賞の開催されるこの日――関西地区は、昼過ぎから土砂降りの大雨になった。

 

 

「うっわー、ひっでーバ場。こりゃ桜花賞も間違いなく不良バ場だな」

 

 第9レースのシニア級2勝クラス、鹿野山特別。雨でぐちゃぐちゃになったターフの上を、体操服を泥まみれにしたウマ娘たちが駆けていく。

 レインコートを着込んでスタンドからそれを眺めていたジャラジャラは、隣の棚村トレーナーが渋い顔をしていることに気付いて、腕を組んで鼻を鳴らした。

 

「何だよトレーナー、景気の悪いツラしやがって。不良バ場ぐらいであたしがそー簡単に沈むとでも思ってんのか? こちとら消耗戦は望むところだぜ」

「そうじゃない。君の実力を疑ったことなんて一度もない」

 

 角刈りの精悍な顔、その眉間に皺を寄せて、棚村は言葉を選ぶように口を開いた。

 

「ジャラジャラ。――俺は君の走りに注文を付ける気はない。君は君の走りたいように走るのが間違いなく一番強いと信じてる」

「おうよ」

「だが――だがな、ジャラジャラ。ひとつだけ、どうしても今日はひとつだけ言わせてくれ。……無理だけは、絶対にしないでほしい」

 

 ――それは、初めて。

 ほとんど放任主義的に、ジャラジャラの気ままな振る舞いを許してきたトレーナーの、初めてのひどく真摯な――懇願だった。

 一瞬むっとしかけたジャラジャラは、けれどトレーナーの真剣な視線に反論の言葉を飲みこむ。そして、フードの中のポニーテールの下をがりがりと掻いた。

 その眼の色に――記憶の中の、小さな痛みが疼いたのを誤魔化すように。

 

「なんだよ、レース前に調子狂うようなこと言うなよ」

「……すまん」

「心配すんな、トレーナー。――あたしはつまんねー怪我で最強伝説を棒に振るようなバカじゃねーから、な」

 

 どん、と拳でトレーナーの胸板を叩いて、ジャラジャラはにっと笑う。

 少し困ったように目を細めるトレーナーから視線を逸らし、ジャラジャラはレースの終わったターフに背を向けて、自分の戦場へ向かって歩き出した。

 

 ――ごめんなさい。

 いつかの謝罪の言葉。忘れかけた痛みの記憶。

 ――おねがい。ジャラジャラちゃんは、わたしのぶんまで、がんばって。

 トレセン学園に入る前。あいつは、松葉杖をついて、それだけを言い残し、あたしの前から姿を消した。

 その背中を、ばかやろう、と怒鳴りつけられなかったことは、一生の失策だった。

 謝るな。あたしに勝手に、あんたの潰えた夢を背負わせるな。

 あたしが走るのは、あんたのためなんかじゃない。

 あたしは、他人の夢を背負って走るなんて、まっぴら御免だ。

 あたしはただ――あんたより強い奴を倒し続けるためだけに、走るんだ。

 

 1番人気、2枠4番、ジャラジャラ。

 

 

       * * *

 

 

「今日の展開、想定を聞こう」

「はい。ここまでの不良バ場なら、ジャラジャラさんも普段のハイペースでは逃げられません。彼女が無理をして逃げて勝手に潰れてくれれば楽ですが――ジャラジャラさんが抑えて隊列が詰まった展開になれば、私は無理に内に入らず、バ場の比較的綺麗な外を回し、坂で差し切る。おそらく先にバイトアルヒクマさんが前に行って仕掛けるでしょうが、それに惑わされずに仕掛けどころを待つ。事前の想定通りです。阪神JFの轍は踏みません」

 

 控え室。エレガンジェネラルの答えに、王寺トレーナーは頷いた。

 

「大外を引けたのは僥倖だった。このレース、勝てる」

「はい。――必ず、勝ちます」

 

 トレーナーの、確信をもった言葉に、ジェネラルは胸の前で拳を握って頷いた。

 今日へ向けて、あらゆる展開の可能性をシミュレートしてきた。その上で、ジェネラル自身、確信を持って臨める。自分のレースさえ出来れば勝てると。

 けれど――少し意外に思って、ジェネラルは王寺トレーナーの顔を見つめた。

 

「……どうした」

「いえ。――決して油断するな、と戒められると思っていました。あるいは、決して故障するような無理だけはするな、とも」

「同じことを二度言わなければわからないほど、君は愚かではないだろう。油断せず、無理もせず、それでも君は勝てる。私はそう確信しているし、君もそうだろう」

「――はい」

「それならば、あとはそれを証明するだけだ。勝つぞ、エレガンジェネラル」

「はい」

 

 そう、万全の準備を整えた。何の後顧の憂いもない。

 ただ、勝つために。勝って証明するために。

 常に完璧たることこそが、勝利への最短距離であることを。

 これは、そのための戦いだ。

 

 2番人気、8枠18番、エレガンジェネラル。

 

 

       * * *

 

 

「なあ、トレーナー。あたしが勝ったら、みんなガッカリすっかな?」

「ライクス?」

 

 最終的な確定投票数をスマホで見て、エブリワンライクスはそう呟いた。

 ――三強対決。この桜花賞は、事前から散々そう言われ続けてきた。

 ジャラジャラ、エレガンジェネラル、バイトアルヒクマ。最終的な投票結果もこの3人がぶっちぎり。注目度でいえば、他の十五人はほとんどその他大勢に等しい。

 その中で重賞未勝利の自分が四番人気に支持されたのは、その三強全てと一度以上対戦して、2着、3着、2着という結果からだろう。この大雨で展開が荒れたときに穴を開けるとすれば1番手に挙がるのが、同じ不良バ場のアルテミスSでエレガンジェネラルに食らいついたエブリワンライクス――そんな予想をあちこちで見た。

 だからといって、皆がそんな展開を望んでいるとは思えない。この大雨の中で阪神レース場に集まった観衆のほとんどが見たいのは、逃げるジャラジャラと追うエレガンジェネラル、バイトアルヒクマの三強による決着。穴ウマ娘などお呼びじゃない。

 

「ガッカリすっぺなあ。そりゃみんな、強いウマ娘が強いレースで勝つのが見だいんだもんな。あだしだってテレビで観るならそうだ。不良バ場で強いウマ娘が沈む姿なんて見だぐねえもん。ヒーローはいつだって強いヒーローであってほしいもんなあ」

「……ライクス」

「エブリワンライクスなんて名前で、勝ったら悪役かあ。お母ちゃんに悪ぃなあ」

 

 スマホを仕舞って、ライクスは後頭部で腕を組んで、上を向いてひとつ息を吐き。

 

「――いいさ。だったらあだしは、ヒールさなってやる」

 

 トレーナーを振り向いて、にっと笑った。

 

「それでオークスと秋華賞で、あだしが一番強えんだって、みんなさ認めさせてやるんだ。トレーナー、見てでけろ」

 

 拳を突き出して言ったライクスに、トレーナーは泣き笑いのような顔で目を細める。

 

「――ライクス、訛ってるわよ」

「え? あっ、あっちゃー……いや、大丈夫、大丈夫。レース後のインタビューまでには標準語さ戻すがら! いや、標準語に戻す、戻れー!」

 

 わたわたと慌てたライクスに、トレーナーは笑って、その肩を抱いた。

 

「地元の訛りでインタビュー受けたって、いいと思うけれどね」

「いや、それはさすがにちょっとなあ……」

 

 恥ずかしがるライクスの肩を叩いて、トレーナーはその瞳を覗きこんだ。

 

「誰がなんと言ったって、勝てばあなたが勝者よ、ライクス」

「――おう!」

 

 4番人気、7枠13番、エブリワンライクス。

 

 

       * * *

 

 

 桜を散らす雨の音が、地下バ道まで響いている。

 綺麗な勝負服に身を包み、緊張した面持ちのウマ娘たちが通り過ぎていく中で、私は冷たい壁にもたれて、ヒクマが来るのを待っていた。

 いつもなら、控え室からパドックに送り出したあとは観客席に向かうのだけれど――今日だけはどうしても、最後に一目、ヒクマの様子を間近で確かめておきたかった。

 たぶん、これは単なる心配性なのだろうけれど。

 ヒクマにとっても、私にとっても、初めてのクラシック。

 ――たぶん、私が一番緊張している。震える拳を握り直して、深呼吸をひとつすると、雨の匂いが鼻についた。

 

「あれ? トレーナーさん!」

 

 聞き慣れた声に顔を上げる。勝負服姿のヒクマが、その大きな瞳を見開いて私に駆け寄ってくるところだった。

 

「どうしたの? わたし、なにか忘れ物したかな?」

 

 不思議そうに首を傾げるヒクマ。その顔に、緊張や先日までの憂いはない。ヒクマの内心はわからないけれど――とりあえず、迷いは消えているはずだ。

 そのきょとんとした顔を見つめていると、不意に私は泣きたくなって、ヒクマの長い芦毛をくしゃくしゃと撫で回していた。

 

「んっ、トレーナーさん、急になに……んー、えへへ」

 

 驚いたように身を竦めたヒクマは、けれどすぐに心地よさそうに目を細める。あどけないその笑顔。雨の中でも曇らない光のような笑顔。

 

「元気、出た?」

「――うんっ」

 

 私が手を離すと、ヒクマはぐっと拳を握りしめて私を見上げる。

 

「トレーナーさん、わたしね、今日までいろいろ考えたし、いっぱい考えたけど――今日ね、ここに来てわかったんだ」

「うん」

「わたし、いま、すっごく楽しみ! ジャラジャラちゃんと、ジェネラルちゃんと、あのすっごく強いふたりと、やっと一緒に全力で走れるんだって!」

「――うん」

「そのためにトレーナーさんと、今日までいっぱい頑張ってきたから――だから、見ててね、トレーナーさん! わたし、絶対勝ってくるから!」

「――――ああ、行っておいで、ヒクマ! 楽しんで――そして、勝っておいで!」

「うんっ! 行ってきます!」

 

 ぱん、とひとつハイタッチを交わして、ヒクマは雨の降りしきるターフへ駆けていく。

 薄暗い雨のターフに消えていくその背中が眩しくて、私はただ、目を眇めた。

 

 3番人気、5枠9番、バイトアルヒクマ。

 

 

       * * *

 

 

『大雨の阪神レース場、降りしきる雨に桜は散っても、ターフに花開く桜の女王の誕生はこれからです。トリプルティアラ第1戦、桜花賞!』

 

 大雨の阪神レース場に詰めかけた、十万近い歓声が、雨を裂くようにターフに轟く。

 

 ジャラジャラは、いつも通り不敵な笑みを浮かべて。

 エレガンジェネラルは、静かに表情を引き締めて。

 エブリワンライクスは、三強への闘志を燃やして。

 バイトアルヒクマは、雨のターフに跳ねるようにして。

 

 その姿を、何百万、何千万という人々が見守っている。

 リボンエチュードとブリッジコンプは、カッパを着込んで関係者席最前列から。

 ヒクマの両親は、招待されたスタンドの観客席から。

 リードサスペンス会長とドカドカは、上階のVIPルームから。

 オータムマウンテンとデュオスヴェルは、学園のカフェテリアから。

 テイクオフプレーンは、遠征先の香港のホテルから。

 リボンスレノディは、寮の自室のテレビから。

 ――そして、ミニキャクタスは、病院からの帰り道、ショーウインドウのテレビで。

 

『全員ゲートイン、体勢完了。――桜の栄冠はただひとつ、桜花賞、スタートしました!』



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第89話 桜花賞・泥にまみれても

 雨が、降り続けている。

 

 

       * * *

 

 

『さあやはり行った行った先頭はジャラジャラ! 迷うことなくハナを主張します!』

 

 ――くっそ、なんつー走りにくいバ場だよ!

 ぬかるむ脚元に、ジャラジャラは心の中だけで悪態をついた。

 降り続いた雨とここまでのレースとで、特に内ラチ沿いは荒れに荒れてぬかるみきっている。思った以上に踏ん張りがきかず、油断すると滑りそうになる。まるでカラカラに乾ききったダートでも走っているような気分だ。

 降りしきる雨が顔を打つ。口の中に雨粒が流れ込んでくる。

 先頭は問題なく取れた。最内を避けつつジャラジャラは左後ろをちらりと見る。

 見慣れた顔がふたつ、思った以上に近くにあった。

 芦毛を揺らしたバイトアルヒクマ。そして――大外を淡々と走るエレガンジェネラル。

 

『先頭はジャラジャラ、やはりこのバ場では大逃げはできないか、1バ身後ろにバイトアルヒクマ、その外並んでエレガンジェネラル、三強が先頭集団を形成します』

 

 ――やっぱり貼り付いてきやがったか、だったらもっと引き離して、

 差を広げようと、ジャラジャラは右脚に力を込める。

 その瞬間、ずるり、と右脚が滑った。

 

『おっとジャラジャラちょっと躓いたか、いや大丈夫、大丈夫だ』

 

 バランスを崩しかけて慌てて立て直す。シューズはもう元の色がわからないほどの泥まみれだ。顔を拭ってジャラジャラは前を向く。

 ――無理だけは、絶対にしないでほしい。

 レース前、トレーナーの懇願が、不意に頭をよぎる。

 ――くそっ、くそっ、無理なんざしてねえよ、不良バ場がなんだってんだ!

 だが、後ろとの差は広がらない。滑る脚が、思うように前に進まない。

 バイトアルヒクマとエレガンジェネラルの気配が、背中に貼り付いたまま。

 あっという間に3コーナーが近付いてくる。雨にけぶる視界に、もう一度ジャラジャラは顔を拭って息を整えた。

 ――いいぜ、だったらこっちはこのまま粘りきるだけだ。

 前に行けなかったぶん、脚は残っている。脚色が同じなら、前を行ったもん勝ちだ。

 ――来いよジェネ、クマ! 差し切れるもんなら差し切ってみやがれ!

 

 

       * * *

 

 

 ――ああ、地元で走り慣れだ泥んこ道だ。

 エレガンジェネラルの後ろに構えたエブリワンライクスは、ぬかるむ足元の感触に懐かしさを覚えていた。

 冬は滑る雪の上、春はぬかるんだ雪解け道を、泥まみれになって走り回った日々。

 ――都会のもやしっ子とは、鍛えかだが違ぇんだ!

 前を行くエレガンジェネラルが跳ね飛ばした泥が勝負服を汚す。晴れの衣裳が雨と泥とで見る影もなくなっていく。

 ――ああ、『まだどろんこさして!』って、母ちゃんに怒られるなあ。だけど、勝ったらこの泥も勲章だべさ!

 

『おっとエブリワンライクス! 早め早めに上がっていく!』

 

 3コーナー前。ライクスは早めにペースを上げた。

 狙いはただひとり。エレガンジェネラル。

 ――この泥んこバ場で逃げウマ娘は潰れる。マークするのはただひとり、エレガンジェネラルだけだ。アルテミスSではずっと先を行かれて追いつけなかった。だったら、今度は早めに並んで、相手のやりたいレースを封じる!

 3コーナーの入口で、ライクスはエレガンジェネラルの真横につけた。枠なりで外を走るエレガンジェネラルのさらに外。コーナーでは大外ぶん回しで距離ロスになるが、それは覚悟の上だ。それよりも――こいつを、内に封じ込める!

 これが、大雨になるという予報が出た時点で、トレーナーと立てた必勝の策だ。

 大外枠を引いたエレガンジェネラルは、比較的バ場の綺麗な外を回そうとする。だったらこっちはその横にぴったりつけて、ジェネラルを内に押し込めてやる。

 そうして、逃げるジャラジャラの真後ろに追いやる。内にはバイトアルヒクマがいる。ジャラジャラが力尽きたとき、エレガンジェネラルに逃げ道はない。あったとしてもそれは荒れに荒れきった内ラチ沿い。そのままジャラジャラと一緒に沈むしかない。

 ――どうだ! 都会のもやしっ子!

 3コーナー。エレガンジェネラルにぴったり身体を併せてコーナリングするライクスは、右隣を走るエレガンジェネラルをちらりと見やった。

 会心の位置取り。エレガンジェネラルは内に寄り、やや外に出たジャラジャラの真後ろを走る形になる。内にはまだバイトアルヒクマ。完璧だ。エレガンジェネラルの進路は、どこにもない。あとは直線、残り200が勝負――。

 ――これで勝ったらヒールだなんて承知の上だ。それでも、おめぇさ勝ちたいんだ!

 エレガンジェネラルの横顔を、睨むように見つめたライクスは――。

 ――そんな涼しい顔してられるのも、今のうちだべ!

 何ひとつ変わらない、ただ前だけを見ているエレガンジェネラルの横顔に、奥歯を噛みしめて、4コーナーへと向かう。

 

『さあ4コーナーを曲がって直線、バ群は一団となって先頭はジャラジャラ――』

 

 

       * * *

 

 

「まずい……!」

 

 雨の中、双眼鏡を眼に当てて、私は呻いた。

 3コーナーで、エブリワンライクスがエレガンジェネラルの外に並んできた。エレガンジェネラルの進路をふさいで、バ場の荒れた内に押し込めようとする策だ。大外枠から枠なりに外目につけたエレガンジェネラルをマークするため、その後ろから早めにさらに外に出して行く――完全に狙いをエレガンジェネラルに定めて潰しに来たエブリワンライクスの策に、私は息を飲む。

 審議の対象になるような、斜行や接触による妨害ではない。あくまで位置取り争いの結果、エレガンジェネラルが仕掛ける前に進路を塞ぎに行った――。クラシック級のウマ娘とは思えない頭脳プレイだ。担当トレーナーの入れ知恵だろうか。

 それでこのふたりが潰し合ってくれるだけならいい。だが――エレガンジェネラルの内にはヒクマがいるのだ。

 不良バ場に脚をとられて、ジャラジャラはいつもようなハイペース逃げができずにいる。半マイル通過は平均よりやや遅い程度のペース。バ場を考えれば充分速いが、ジャラジャラのレースとは思えない、ごちゃっと固まった集団の展開になっていた。

 ヒクマはその中で、好スタートからジャラジャラのすぐ後ろ、エレガンジェネラルと並んで2番手追走という絶好の位置を確保したのだが――。

 エブリワンライクスがエレガンジェネラルを内に押し込めようとするのに押し出されて、その内にいたヒクマが荒れた内ラチ沿いまで押し込まれてしまっている。

 

「ヒクマ……!」

 

 集団が直線に入る。ジャラジャラを先頭に、その真後ろにエレガンジェネラル、その外にエブリワンライクス、内ラチ沿いにヒクマ。上位人気4人が前――。

 

「クマっち、負けるなーっ!」

「ヒクマちゃん!」

 

 雨音に負けじと、コンプとエチュードが声を張り上げる。

 

「ヒクマあああああああっ!」

 

 あとはもう、私にできるのは祈ることだけだ。

 がんばれ。がんばれヒクマ。あと少しだ。あと少しで――届くはずだ!

 

 

       * * *

 

 

『残り200、仁川の坂を上る! 内からバイトアルヒクマ! 内からバイトアルヒクマが並んできた! ジャラジャラ苦しいか、外エブリワンライクス、エレガンジェネラルはまだ前が壁!』

 

 先に仕掛けたのは、バイトアルヒクマだった。

 仁川の急坂の手前から加速。前を行くジャラジャラに並びかける。

 普段は朗らかな笑みを浮かべているその顔に、今は闘志を滾らせて、ジャラジャラを倒しに行ったその芦毛を横目に――エレガンジェネラルはひとつ息を吐いた。

 ――なるほど、貴方も狙いはジャラジャラさんですか。

 そして、真横に貼り付いたエブリワンライクスをちらりと見やる。

 ライクスはしきりにこちらを伺いながら仕掛けのタイミングを待っている。ぴったり真横に貼り付かれたまま、ジェネラルには外へ持ち出す道はない。

 坂を上る。隣のエブリワンライクスの顔がゆがむ。

 勝負服に何度も泥の塊を浴びながら、エレガンジェネラルはただ一点を見据えた。

 

『ジャラジャラ粘る、ジャラジャラ粘る、バイトアルヒクマ、外エブリワンライクス、エレガンジェネラル食らいつく、上位4人の必死の追い比べ!』

 

 ――エブリワンライクスさん。私に狙いを定めた進路ブロックは見事でした。貴方の誤算は、ジャラジャラさんのスタミナを見誤ったことです。彼女は、この不良バ場で簡単に垂れてくるような逃げウマ娘ではない。

 ――バイトアルヒクマさん。早めの仕掛け、長く伸びる脚を使える貴方にとってはそれがベストの戦法。それを採ってくれたこと、感謝します。

 ――そして、ジャラジャラさん。

 エレガンジェネラルは顔を上げた。目の前に、ジャラジャラの揺れるポニーテール。

 その内に並んだバイトアルヒクマとの間――ひとりぶんだけの、隙間がある。

 

 ――バ場の悪化を甘く見た、貴方の負けです。

 貴方を倒す。そのためだけに、全てを想定し、計算してきた――私の、勝ちです!

 

 坂を登り切る。

 その瞬間、エレガンジェネラルの身体は、前を行くふたりの間に割って入っていた。

 

 泥を蹴立てて。

 雨を斬り裂いて。

 華やかな勝負服を、泥まみれにして。

 進撃の姫将軍が、立ちはだかる壁を突き破るように――身体半分、前に出た。

 

『間を割ってエレガンジェネラル! エレガンジェネラル来た! 並んだ! 並んだ! 外エブリワンライクス、内バイトアルヒクマ、ジャラジャラ粘る、真ん中ジェネラル! 真ん中ジェネラル! エレガンジェネラル、エレガンジェネラルだーっ!!』

 

 歓声が、雨音を掻き消すように、阪神のターフに轟き、谺していく。 



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第90話 桜花賞・泥まみれの栄光と敗北

 先頭の4人がひとかたまりになってゴール板を駆け抜けた瞬間、雨を掻き消すような歓声が、阪神レース場のスタンドに響き渡った。

 柵から転げ落ちそうなほどに身を乗り出したブリッジコンプが目を見開き。

 祈るように手を組んだリボンエチュードが、口を開けて息を飲む。

 そして私は――柵を掴んだまま、崩れ落ちるようにその場に膝をついていた。

 

『エレガンジェネラル! エレガンジェネラルです! エレガンジェネラルが最後、僅かに差し切った! 二度は負けられない姫将軍! 桜の女王はエレガンジェネラル!』

 

 実況が叫び、掲示板の一番上に点灯するのは、18の数字。

 その掲示板を振り仰ぎもせずに――勝負服を泥まみれにしたエレガンジェネラルが、ゆっくりと足取りを緩めて立ち止まり、スタンドを振り返った。

 ガッツポーズもなく、大きな喜びの笑顔もない。

 ただ、当然の義務を果たしたと言わんばかりの顔で。

 姫将軍は、スタンドへ優雅に一礼し――そして、そこでようやく表情を綻ばせて、雨の中、歓声に手を振る。

 たったひとりの勝者の、その姿を横目に見ながら――私は。

 

「ヒクマ……!」

 

 茫然と立ち止まったヒクマの背中を、見つめることしかできなかった。

 

『2着はジャラジャラ! そして3着争いは接戦! 内バイトアルヒクマ、外エブリワンライクスは――写真判定です! 確定までお待ちください!』

 

 

       * * *

 

 

 理想的だった。読み通りの展開。自分の位置取りも、全て作戦通り。

 間違いなく、今の自分にできるベストレースだった。

 ――それなのに。

 事前のイメージトレーニングでは、間違いなく自分が差し切って勝つ展開だったのに。

 最後の最後。残り10メートルで、あいつは。

 内に封じ込めたはずのあいつは――狭いところをこじ開けて、伸びた。

 そして自分は――その最後のひと伸びに、振り落とされた。

 

「はぁっ、はぁっ、は――っ、くっ、くっそおおおおおっ!」

 

 泥まみれの膝に手を突いて、エブリワンライクスは地面に向かって吼えた。

 近付いた。アルテミスSの、阪神JFの、あの絶望的な距離ではなかった。あと少し、あとほんの少しで手が届く距離まで、あいつに近付いた。

 それなのに。

 いや、それだからこそ。

 最後のあのひと伸びは、あまりに絶対的な力の差。

 全て完璧なレースをして、最大のターゲットを完全に封じて。

 それでなお負けたなら――それはつまり、勝負付けが済んだということ。

 悪役になる覚悟まで決めてきたのに――悪役にすらなれなかった。

 絶望的な状況をこじ開けて勝ったあいつの、引き立て役にしかなれなかった。

 

「……これが、才能の差……なの、かよぉ……っ」

 

 勝てない。自分は――エレガンジェネラルには、勝てない。

 スピードが違う。パワーが違う。スタミナが違う。勝負根性が違う。

 それはつまり、生まれ持った才能が違う。

 これが、世代の頂点に立つウマ娘の力――。

 

「ちくしょう……ちくしょぉぉぉっ……!」

 

 雨が頬を流れ落ちて、泥まみれのシューズを洗い流していく。

 

 

       * * *

 

 

 ――負けた。

 掲示板を見るまでもなかった。誰よりも、そのことはジャラジャラ自身が一番よくわかっていた。よろめくように、どろどろの芝生の上に仰向けに倒れこむ。顔を、火照った身体を、冷たい雨が打ち付けていく。

 逆さまになった視界の中で、エレガンジェネラルが観客に手を振っていた。

 歓声が、雨音の中、ひどく遠い。

 阪神JFのとき、あれだけ熱く自分の名前を呼んでいた観客が。

 今は、エレガンジェネラルだけを見て、その名を呼んでいる。

 ――ああ、かっこわりーなあ、あたし。

 芝生のぬかるんだ土に指を食い込ませて、ジャラジャラは奥歯を噛みしめた。

 そして――その唇の端を、吊り上げて、笑った。

 

「そうじゃ、なくっちゃよ――ジェネ!」

 

 泥の塊を握りしめて、ジャラジャラは跳ねるように起き上がる。手にした泥を投げ捨てて、そしてもう二度とエレガンジェネラルの方を振り返ることなく、地下バ道へ向かって歩き出した。

 

「……ジャラジャラ」

 

 そうして地下バ道に入ると、バスタオルを手にした棚村トレーナーが待っていた。トレーナーはゆっくりとジャラジャラに歩み寄り、びしょ濡れの勝負服の肩に無言でタオルをかける。そのタオルを無言で受け取り、ゆっくりと頭を拭いたジャラジャラは――。

 

「次。――オークス、行くぜ」

 

 タオルを突き返して、トレーナーの顔をまっすぐに見上げて、それだけ言った。

 それへの、トレーナーの答えも、ただ短く。

 

「もちろんだ」

 

 それで充分だった。トレーナーの胸を拳で小突き、ジャラジャラはその横を通り過ぎる。

 背後の雨音と歓声が遠ざかるのを聞きながら。

 その顔に、獰猛な笑みを浮かべて。

 

 

       * * *

 

 

 ゆっくりと、一歩一歩を踏みしめるように、ウイナーズサークルへと歩いて行く。

 その一歩ごとに、自分が勝ったのだという実感がじわじわと湧き上がってくるのを、エレガンジェネラルは感じていた。

 この瞬間のために、王寺トレーナーと万全の準備をしてきた。そう、完璧に。万全に。それは、レースに挑む者の義務。万全を尽くさねば、勝負に臨む資格はない。

 それが正しかったのだと、自分の力で、証明することができたのだと。

 心臓が高鳴る胸に手を当てて、ジェネラルはひとつ息を吐く。

 そして顔を上げると――ウイナーズサークルに、傘を差した王寺トレーナーの姿があった。いつもの冷静な表情。こんなときですら表情筋ひとつ動かない、眼鏡の奥の冷たく眇められた瞳。それを見つめて、ジェネラルはゆっくりと歩み寄る。

 手の届く距離まで近付いたとき。トレーナーは、手にした傘をジェネラルに差し出した。

 

「エレガンジェネラル」

 

 そして――今まで、決して揺らがなかった彼の表情が。

 鉄面皮と渾名されるほど、いつも鋭く引き締められた彼の口元が、ほころんだ。

 

「おめでとう。――そして、ここまで私を信じて、ついてきてくれて、ありがとう」

 

 スカウトを受けて1年半。デビューして1年弱。4度目の勝利で。

 ジェネラルは――初めて、トレーナーが喜ぶところを、笑うところを、見た。

 

「……っ、こちらこそ、ありがとう、ございます……!」

 

 胸に手を当てて最敬礼したジェネラルの肩に、王寺トレーナーは手を置く。

 

「君にGⅠを勝たせられなかったら、トレーナーを辞めようと思っていた」

「――――」

 

 ジェネラルは息を飲む。

 彼が、自分の内心を語るのも、これが初めてだった。

 

「やっと義務を果たした。……だからこれからは、夢を語りたい」

「……夢、ですか」

 

 顔を上げたジェネラルに、王寺トレーナーはいつもの無表情に戻って。

 

「トリプルティアラ、エリザベス女王杯、有馬記念。クラシック級五冠、全部勝つ」

「――――」

「君と一緒に、君こそが最強であることを、証明したい」

 

 ぞくり、と。

 背筋が泡立つのを感じて、ジェネラルは痺れたように息を飲んだ。

 

 常に万全に。常に合理的に。完璧たることを目指し、果たした。

 ならばその次は、その先を見たい。

 より強く。より高みへ。

 昂ぶる鼓動に、エレガンジェネラルは戸惑いながら、胸を押さえる。

 ――この人のために、もっと、勝ちたい。

 この高鳴りを――もっと、もっと、味わいたい。

 

「勝ちます」

 

 だから、エレガンジェネラルは答える。自分の意志を。――夢を。

 

「次も。これからも。――勝ち続けます。必ず」

 

 

       * * *

 

 

 写真判定は長引いていた。

 地下バ道。出走ウマ娘の中で最後に戻ってきたヒクマを、私はバスタオルを抱えて迎えた。エチュードとコンプはいない。遠慮してもらった。特にエチュードは、その顔を見たら、今はお互い辛くなるだけだろうから。

 

「……おつかれさま、ヒクマ」

 

 顔を伏せていたヒクマは、私の声に顔を上げ――そして、泣き出しそうに笑った。

 

「トレーナーさん。……また、負けちゃった」

 

 その笑顔が痛々しくて、私はたまらず、その顔を隠すようにバスタオルで包みこんだ。濡れそぼった芦毛をごしごしと強く拭いてやると、ヒクマは「わぷ、ううっ」と揉みくちゃにされて呻く。

 ――敗因を、バ場と位置取りと分析するのは簡単だった。エレガンジェネラルと並んでジャラジャラについていき、ふたりより早めに仕掛ける。ヒクマの武器は長く伸びる脚でのロングスパート。ジャラジャラをかわせさえすれば勝てる。

 実際、その理想通りの展開だった。――エブリワンライクスのエレガンジェネラルに対するブロックで、一番荒れた内ラチ沿いを走らされることになったのを除けば。

 結局ジャラジャラをかわしきれず、ゴール手前でエレガンジェネラルにかわされ、ジャラジャラにも振り切られた。

 敗因は明確だ。絶対的な実力差ではない。選抜レースの絶対的な5バ身差から、ヒクマはここまであのふたりに詰め寄った。今のヒクマの力は間違いなく、ジャラジャラとエレガンジェネラルに並んだ。世代最強のふたりに、間違いなく肩を並べた。

 ――だけどそれを、今のヒクマに言って、何になるだろう。

 届いただけではダメだった。勝たなければいけなかった。

 勝ちたかった。勝たせてあげたかった。

 ヒクマの喜ぶ顔を――見たかったのに。

 

「トレーナー、さん」

 

 バスタオル越しの、ヒクマの声。

 私はたまらず、濡れたその身体を抱きしめた。

 

「っ、~~~~~~っ」

 

 バスタオルに顔を埋めたまま、ヒクマは私の背中に手を回して、私の胸に顔を擦りつけるようにして震えた。

 いつも、私に飛びついてくるときよりも、その肩はずっと小さかった。

 

『確定、出ました! 3着はハナ差でエブリワンライクス! エブリワンライクスが最後、バイトアルヒクマを僅かにかわして3着! バイトアルヒクマは4着!』

 

 雨音と歓声が、どこまでも遠くで響いている。



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第91話 皐月賞・レースとゴルフ

 4月9日、火曜日。

 

「よーっし、トレーナーさん、わたしオークスに向けてがんばるよ!」

 

 桜花賞から2日。昨日1日の休みを挟んで、ヒクマはすっかり元気を取り戻していた。

 

「また負けちゃったのは悔しいけど、くよくよしてる暇なんてないもんね! それに、今度は半バ身差まで詰めたもん! 次のオークスで逆転だー!」

「ああ、その通りだ! オークス、獲るぞ!」

「おー!」

 

 元気よく拳を掲げるヒクマ。私も拳を握りしめて、それに応える。

 桜花賞は残念な結果だったが、敗因は明確な実力差ではない。ヒクマは間違いなくそう言い切れるところまで来た。ここまでくれば、あとは少しの差で逆転できる。

 オークスの府中2400という距離は、ヒクマにとっては追い風になるはずだ。エレガンジェネラルも、ジャラジャラも、エブリワンライクスも、2000メートル以上は走ったことがない。東スポ杯とホープフルステークスで、府中のコースと2000メートルとを経験しているヒクマには、その点で一日の長がある。

 そして、何より――。

 

「なんといったって、府中2400は、ドバイシーマクラシックに直結する距離だ」

 

 私の言葉に、ヒクマがその目を大きく見開いた。

 

「過去の例を見ても、ドバイシーマクラシックで結果を出したのは、ジャパンカップで好走したウマ娘が多い。同条件のオークスでの勝利は、ドバイに繋がるよ!」

「うんっ! う~~~~~~~~~~っ、がんばるぞ~~~~~~っ!」

 

 両手を広げたヒクマの笑顔に、もう桜花賞前後の翳りはない。

 ヒクマがきちんと気持ちを切り替えてくれたなら、私はそれを支えるだけだ。

 

「ヒクマちゃん、強いなあ……」

「ま、変に考えこむより、クマっちは能天気な顔してた方がいいもんね」

 

 エチュードが目を細め、コンプが呆れたように腕を組む。

 

「コンプものんびりしてる暇はないよ? 葵ステークスはオークスの次の週なんだから」

「わかってるって! あの三つ編み眼鏡、今度こそ倒してやるってば!」

 

 コンプが拳を打ち鳴らす。――フィリーズレビューを快勝しながら桜花賞を回避したユイイツムニは、葵ステークスへの出走を表明していた。既に1400の重賞を2勝しているウマ娘が桜花賞もNHKマイルカップも蹴って葵ステークスに出てくるというのは異例だが、コンプにとっては今のところいい刺激になったようだ。

 

「まあでも、3人とも今日のメニューは軽めにね。エチュードもまだ爪が治りきってないし、くれぐれも無理はしないように。どんなに些細でも気になることがあったら報告すること!」

 

 はーい、と3人の声が唱和する。さてと、とトレーニングを始めようとすると、

 

「はーっはっはっはー! 見つけたぞブリッコ!」

「げっ、アホスヴェル!」

「アホ言うなー!」

「すみません、お邪魔いたします~」

 

 高らかな笑い声とともに現れたのは、いつものデュオスヴェルとオータムマウンテンだ。スヴェルは何やら新聞を手にしている。今日の《日刊ウマ娘》らしい。

 

「あんたたち今週末皐月賞でしょーが。こんなところで油売ってる暇あんの?」

「ふっふっふー。見ろこれを!」

 

 ドヤ顔でスヴェルが広げたのは《日刊ウマ娘》の一面だ。

 

『皐月賞 ◎デュオスヴェル 爆逃げ一冠宣言!』

 

 そんな大活字の見出しと一緒に、弥生賞でゴールした瞬間のスヴェルの姿がカラー写真で掲載されている。そう、今週末はいよいよクラシック三冠の第1戦、皐月賞だ。私たちとは無関係とはいえ、長年のウマ娘ファンとしては、やはりワクワクするものだ。まして、ここに今年の本命ふたりがいるわけで。

 

「『今年のクラシック戦線はやはり岬トレーナーのふたりが軸。本紙の本命は弥生賞を圧勝したデュオスヴェルだ』……だって。わ、スヴェルちゃんすごいね!」

「ふっふーん、どーだ見たかブリッコ! 事前調査もボクが1番人気だぞ!」

「ええ、正気ぃ? ……あ、『ゲート嫌いでスタート下手、バ群嫌いで前にウマ娘がひとりでもいるとエキサイトして掛かりっぱなし、そして先頭に立つとソラを使いがち――と気性面で多大な難点を抱えているのは確かだ』……なんだ、ちゃんと見てるじゃん」

 

 コンプが呆れ顔で記事を読み上げ、スヴェルが「なんだとー!」と吼える。

 私もその記事は朝のうちに読んでいた。『だが、弥生賞ではその気性面でも成長が見られた。掛かりに掛かっても粘りきる無尽蔵のスタミナがあるのは東スポ杯で証明済み。弥生賞に比べてマークはきつくなるだろうが、消耗戦はむしろ望むところだろう』――と記事は冷静な分析をしている。私もほぼ同感だが――何しろあの東スポ杯を間近で見た身として、そんな冷静な分析通りのレースに果たしてなるものかとも思う。

 

「ふん! そーやってデカい態度してられるのも今のうちだからなブリッコ! 最強の三冠ウマ娘になったボクに、ひれ伏させてやる!」

「やれるもんならやってみなさいよ、いいじゃない、もしあんたが三冠獲ったら土下座でもなんでもしてあげる」

「言ったなー! その言葉忘れるなよー!」

「あ、もう忘れた。どーせ月曜には覚えておく必要もなくなるし」

「なんだとー!」

 

 いつも通りの口喧嘩を始めるコンプとスヴェル。オータムマウンテンは頬に手を当てて笑顔でそれを見守っている。相変わらずというか、大一番を前にしているとは思えない平常心というか……。

 

「ねーねー、オータムちゃん」

 

 と、そのオータムマウンテンに、ヒクマが歩み寄って声を掛ける。

 

「はい、ヒクマさん~」

「スヴェルちゃんはコンプちゃんと一緒で、いっつも『最強になる!』って言ってるけど。オータムちゃんは、何のためにレースで走ってるの?」

「何のために、ですか~? それはまた哲学的な問いですね」

 

 小首を傾げたオータムは、頬に手を当てたままひとつ唸った。

 

「そうですね~、もちろんウマ娘としてレースに出る以上は勝つためですし、三冠や天皇賞やグランプリのような具体的な目標もありますけど~。もっと根源的な部分について答えるとすれば~……ゴルフですね~」

「ゴルフ? あ、オータムちゃんのお父さんって」

「はい、プロゴルファーです。小さい頃はいつもゴルフ場で父の打ったボールを追いかけ回してました。レースとゴルフって、同じようなものだと思うんです。つまりは、そういうことですね~」

「……ほへー」

 

 煙に巻くようなオータムの言葉に、ヒクマはぽかんと目をしばたたかせる。オータムはそんなヒクマに微笑み返して、「スヴェルちゃ~ん、そろそろ戻らないとトレーナーさんがまた騒ぎますよ~」とスヴェルの手を掴む。

 

「う。いいかブリッコ、ボクの大勝利する皐月賞、目ん玉かっぽじって見とけよー!」

 

 オータムに引きずられながら、スヴェルはコンプを指さして叫ぶ。

 そんなふたりを見送りながら、私はヒクマと顔を見合わせた。

 

 

       * * *

 

 

 4月14日、日曜日。中山レース場。

 クラシック三冠第1戦、皐月賞(GⅠ)。

 

『全国1億人のウマ娘ファンの皆さん、今年もこの日がやって参りました、クラシック第1戦、最も「速い」ウマ娘が勝つという皐月賞! 本バ場入場です!』

 

 快晴の中山レース場に歓声が轟く。私もヒクマたちを連れ、現地に観戦に来ていた。

 華やかなトリプルティアラとはどこか違う、ビリビリとした独特の緊張感。どうしても長年のウマ娘ファンとしての血が騒ぐ。ヒクマたちのことを考えている間は意識から締め出しているけれど、やっぱり三冠は特別だ。

 

『秋の三冠の頂きへ、まずは春の頂上目指す、父と駆けめぐった芝の上、目指すゴールはホールインワン! 1番オータムマウンテン!』

 

 女子ゴルファー風の勝負服のオータムが、いつも通りの微笑で観客席に手を振る。

 

『暴走爆走超特急、前を行く奴は許さない! 今日も全力逃げ宣言、先頭は絶対に譲らない! 5番デュオスヴェル!』

 

 自信に溢れたドヤ顔で、大股で歩くスヴェル。ふたりの担当の岬トレーナーがカメラに抜かれ、謎の芝居がかったポーズを取って観客から苦笑と歓声が響いた。

 

『ダート変更の共同通信杯を10バ身差の大圧勝! 白毛ウマ娘初の三冠タイトルへ、純白の翼を広げて今羽ばたく! 8番ハッピーミーク!』

「あっ、ミークちゃーん! がんばれー!」

 

 ヒクマが手を振り、ハッピーミークはそれに振り向くでもなく、ぼんやりとコースを眺めている。桐生院トレーナーが遠くで祈るように手を組んでいるのを見つけて、私はただ頷くしかなかった。どこまでも祈るしかないのだ、トレーナーは。

 

『若葉ステークスを快勝し、いざジュニア級の雪辱へ! 大きな伝説を創りあげろ、12番プチフォークロア!』

 

 こちらも自信満々の顔で眼鏡を光らせるプチフォークロア。敢えてスプリングステークスや弥生賞でなく、若葉ステークスを選択したのは、おそらく本番前に勝ちの味を覚えさせようとしたのだろう。それに応えて勝ってきた彼女も強い。

 ――それからもうひとり、思わぬ大物が出てきていた。

 

『ジュニア王者が予定変更でクラシックに殴り込み! 朝日杯FS覇者、15番メイデンチャーム!』

 

 NHKマイルカップ直行と言われていた朝日杯覇者メイデンチャームが、土壇場になって皐月賞に殴り込みをかけてきたのである。

 他に前哨戦で飛び抜けたパフォーマンスを見せたウマ娘はいなかったので、今日の人気はデュオスヴェルとオータムマウンテンが二強、少し遅れてメイデンチャームというところである。ハッピーミークは共同通信杯がダート変更だったことで未知数と見られて6番人気、プチフォークロアも伏兵扱いの8番人気。

 ――ああ、楽しみだな。

 いち観客として見られるクラシック。今はそれを、トレーナーという立場を離れて楽しめることを感謝しよう。そう思う。

 

 鳴り響くファンファーレ。歓声の中、ウマ娘たちが続々とゲート入りしていく。

 

『さあ全員ゲートイン、体勢完了。皐月賞――スタートしました!』

 

 ガコン、という音とともに、ゲートが開く。

 

 次の瞬間、中山レース場に集まった数万人の観客から――悲鳴があがった。

 



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第92話 皐月賞・それは夢か幻か

『デュオスヴェル! デュオスヴェルです! 皐月賞、鮮やか逃げ切り大圧勝! 最強ウマ娘デュオスヴェル、三冠へ向けてまず一冠!』

 

 中山レース場に、大歓声と紙吹雪が舞う。

 ――スヴェル! スヴェル! スヴェル!

 何百万人の《スヴェル》コールに応えて、スヴェルは胸を反らして高らかに笑った。

 

『はーっはっはっはー! どうだ見たかー! ボクが最強ウマ娘デュオスヴェル様だー!』

『ああっ、スヴェル様!』

『偉大なる最強ウマ娘スヴェル様!』

『もはや三冠、いや全てのGⅠは貴女様のもの!』

『伝説の史上最強ウマ娘デュオスヴェル閣下を讃えよ!』

 

 ターフのウマ娘たちが次々とスヴェルに跪きひれ伏す。スヴェルは金ピカのマントを翻し、豪奢な玉座に腰を下ろした。

 そのスヴェルの脚元に、ブリッジコンプが土下座する。

 

『ああ、スヴェル様、どうかこれまでのご無礼をお許しくださいませ!』

『はっはっはー! ボクは偉大で寛大だからな! ボクの下僕になれば許してやろう!』

『はい! 喜んでスヴェル様の下僕となります!』

 

 随喜の涙を流してスヴェルの脚元に這いつくばるコンプ。

 はーっはっはっはー。スヴェルの高笑いが中山レース場に響き渡り続ける。

 

 

       * * *

 

 

「――はっ!?」

 

 次の瞬間、スヴェルはベッドの上で飛び起きていた。

 ――あ、あれ? レースは? ボクが逃げ切り大圧勝を飾った皐月賞は?

 うろたえて周囲を見回す。見覚えのない部屋。白い壁、白いカーテン、白いベッド。なんだか、病室とか医務室のような部屋である。――痛い。顔が痛んで手を当てると、額と鼻の頭に大きなガーゼが貼られていた。

 

「おっ、気が付いたかね! スヴェル君!」

 

 と、カーテンが開いて顔を見せたのは、担当の岬トレーナーだった。

 

「トレーナー、え、ここどこ? ボクは――」

「ここは中山レース場の救護室だよ!」

「え? あれ? ねえトレーナー、ボクのレースは? 皐月賞は!?」

 

 スヴェルが詰め寄ると、岬トレーナーは「嗚呼――」と呻いて、顔を覆って天井を仰いだ。そこへ、その後ろからオータムマウンテンが顔を出す。

 

「あらあら~、スヴェルちゃん、ようやくお目覚めですか。おはようございます~」

「オータム――あっ、それ!」

 

 ウイニングライブ用の衣裳に着替えたオータムが手にしているのは――皐月賞の優勝トロフィーと優勝レイである。

 ああ、なんだ、夢じゃなかった。優勝したボクのトロフィーとレイ――。

 スヴェルが思わずそれに手を伸ばすと、オータムがさっとスヴェルの手の届かない高さまで持ち上げる。空振りしてつんのめったスヴェルは、頬を膨らませてオータムを睨んだ。

 

「なにすんだよ、オータム! それボクのだろー!」

「なに言ってるんですか~? スヴェルちゃん、ひょっとして記憶喪失になっちゃいました~? ここは救護室、あなたはデュオスヴェルちゃん。それから、このトロフィーとレイは私のですから、スヴェルちゃんにはあげません~」

「知ってるよ! ――って、え? オータム、の?」

「はい~。スヴェルちゃんが転んで気を失ってる間に、私がいただきました~」

 

 ――その瞬間、何が起きたのかを思い出して、スヴェルは固まった。

 ガラガラと、音を立てて夢が崩れ落ちていく。

 

 

       * * *

 

 

 時間を少し遡り――皐月賞のスタート直後。

 数万の観客の歓声は、ゲートが開いてすぐに悲鳴に変わった。

 

『ああああーっと、ひとり転倒! デュオスヴェルです! デュオスヴェル転倒ーっ!! 悲鳴が上がる中山レース場、とんでもないことが起こってしまったーっ!!』

 

 ゲートが開き、ウマ娘たちがどっとターフに飛び出した瞬間。

 その場で蹴躓いて、顔面からターフに倒れこんで動かなくなったウマ娘がひとり。

 それが1番人気のデュオスヴェルだと解った瞬間、中山レース場は悲鳴と怒号に包まれた。スターターのスタッフが慌てて駆け寄り、担当の岬トレーナーはその場に膝をついて天を仰ぎ、皆が唖然茫然、阿鼻叫喚である。

 私もヒクマもエチュードも、そしてコンプも、呆けたように口を開けて、倒れこんだスヴェルを見ているしかなかった。

 レース中に転倒したウマ娘は、安全のためその場で競走中止。それがトゥインクル・シリーズの規定である。スタート直後のズッコケは大レースでも稀に起こるアクシデントではあるが――。クラシックの大一番で、しかも1番人気がスタート直後に転倒、競走中止というのは、前例もないではないが、何十年に一度という珍事だ。

 しかし、皆が唖然としているうちにもレースは進む。間違いなく逃げると目されていたデュオスヴェルが競走中止になったことで先行争いはしばらく混沌としていたが、向こう正面に出る頃には人気薄のウマ娘が速めのペースで引っぱる格好になり、3番人気のメイデンチャームが3番手の好位。ハッピーミークとプチフォークロアは中団に構え、オータムマウンテンはいつものように後方にのんびりと控える。

 そのまま展開は流れて直線へ。直線入口でメイデンチャームが逃げるウマ娘を捕らえて先頭に躍り出た。そこに中団から外に持ち出したプチフォークロアが脚を伸ばす。さらに最内に潜り込んでいたハッピーミークが伸びてくる。

 

『メイデンチャーム先頭、外からプチフォークロア、内ハッピーミーク! メイデンチャームか、メイデンチャームか、大外オータムマウンテン! オータムマウンテンが来た!』

 

 そして、中山の急坂を悠然と大外から駈け上がってきたのが。

 いつの間にか上がって来ていた、オータムマウンテン。

 いつも通りの涼しい顔でバ群をまとめてかわしていき、残り50メートルで先頭を捕らえる。狙い澄ましたように。計算し尽くしたように。

 

『オータムマウンテン! オータムマウンテンです! オータムマウンテンが差し切った! 春の中山に秋の彩り! オータムマウンテンが皐月を制しました!』

 

 ゆっくりと脚を緩めたオータムマウンテンは、立ち止まって観客席へ向けて一度軽く手を振る。2着は1バ身差で粘り込んだメイデンチャーム、3着はクビ差届かずプチフォークロア。ハッピーミークは半バ身差の4着だった。

 やっぱり、ホープフルステークス2着は伊達ではない。瞬間的なキレ味があるわけではない、ジリ脚と言ってもいいぐらいどこから加速しているのかわからないのに、気が付けばいつの間にか最後方から上がって来てトップスピードで差し切っている。オータムマウンテンらしいレースだ。

 ――そんなことを頷きつつ考えていた私は、隣にいたコンプが肩を怒らせて踵を返したのに気付いた。エチュードとヒクマも気付いて振り返る。

 

「あれ、コンプちゃん? どこ行くの?」

「……あ、スヴェルちゃんのお見舞い」

 

 スタート直後に転倒して目を回したらしいデュオスヴェルは、スタータースタッフが用意した担架ですぐにコースから運び出されていた。

 

《お知らせいたします。中山レース第11競走、5番デュオスヴェル選手は、発走直後、他の選手に関係なく、躓いて転倒し、競走を中止しました。なお、この件につきましては後ほどパトロールビデオを放映いたします》

 

 ちょうどその件についてのアナウンスがレース場に流れる。

 

「コンプちゃん、スヴェルちゃんのお見舞いならわたしも行くよ!」

「誰が行くか!」

 

 ヒクマの言葉に、コンプが振り返って吼えた。

 

「あーもう、バカ、アホ、ドジ、間抜け! アホスヴェルがホントに滑って転んでんじゃないっての! あたし帰る!」

「あ、コンプちゃん、待ってよ~。オータムちゃんとロアちゃんのライブ見ようよ」

 

 怒髪天を衝く勢いでのっしのっしと歩き去るコンプを、ヒクマが慌てて追いかけていく。私はエチュードと顔を見合わせて、それを見送るしかなかった。

 

 

       * * *

 

 

 翌日。

 岬トレーナーのトレーナー室で、オータムマウンテンは《日刊ウマ娘》を広げていた。一面は当然、皐月賞を勝ったオータムなのだが。

 

「スヴェルちゃ~ん、ほらほら、スヴェルちゃんも裏一面ですよ」

「見せるなー!」

 

 裏一面は、デュオスヴェル転倒の決定的瞬間が大写しになっていた。

 スタート直後にバランスを崩し、顔面からターフに倒れこむスヴェルの連続写真。

 

「うがーっ、あんなのナシだーっ、もういっかいやったらボクの勝ちだぞー!」

「でも勝ったのは私ですから~。やり直しはナシですよ」

「うぐぐ……」

 

 ほわほわと微笑むオータムに、スヴェルは唸るしかない。

 

「でも、勝ったの私なのに、昨日から話題はスヴェルちゃん一色なんですよね~」

「ほへ?」

「ウマッターも、ネットウマ娘も、ウマ百科のスヴェルちゃんの記事の掲示板も、勝った私よりずっと大盛り上がりですよ~」

「それ炎上してるってやつだろー!」

 

 吼えるスヴェルに、岬トレーナーが呵々と笑う。

 

「はっはっは! そりゃあ1番人気を背負ってスタート即転倒競走中止ではね! でも思ったほど叩かれてはいないよスヴェル君!」

「え、そーなの?」

「そうですね~。『東スポ杯見たときから三冠でも絶対何かやらかすとは思ってた』とか、『皐月賞イチ笑った』とか『誰だ弥生賞で落ち着きが出たとか言った奴』とか『東スポ杯から推してたけどこいつ面白すぎる、一生ついてくわ』とか、応援されてますよ~」

「それ応援されてるんじゃなくてネタにされてるんだよー!」

 

 スヴェルの叫びが、トレセン学園に響いて消えていく。

 



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第93話 それぞれに、夢の舞台を目指して

 自分が、選ばれた側にいることぐらいは理解していた。

 狭き門を突破して、中央のトレセン学園に入学できた。

 選抜レースを経て、トレーナーについてもらえた。

 この時点でもう充分に、充分すぎるほどに選ばれた側だと、解っていた。

 でも、この学園に来たウマ娘はみんな、それよりもっと大きな夢を抱いている。

 自分もそうだ。そうでなければ走っていられない。

 ――そしてどこかで必ず、現実というものを突きつけられる。

 自分は――華やかなトゥインクル・シリーズの主役にはなれない、ということを。

 

 自分の場合、それはデビュー戦。六月の東京レース場だった。

 全速力でスパートをかけているのに、はるか前でどんどん遠ざかっていくその芦毛。

 こっちは必死に脚を動かしているのに、あの子はどこまでも楽しそうに。

 涼しい顔で。笑いながら。先頭でゴールを駆け抜けた。

 ――バイトアルヒクマ。

 世代の主役になるウマ娘と、そうでない自分との差を、思い知らされた。

 

 いや、そんなのもやはり、選ばれた側の贅沢な挫折に過ぎないのだろう。

 12月の4戦目で未勝利戦を勝ち抜けた。

 2月の1勝クラスも勝った。5月までのこととはいえ、オープンウマ娘になった。

 それだけでもう、自分が充分すぎるほど選ばれた側にいることはわかっている。

 だから、これ以上を望むのは贅沢だと思っていた。

 これ以上にはたぶん行けない。

 この先に行けるのは、あの芦毛の子のような、本物のスター候補だけだ。

 

『フローラステークスに出よう』

 

 だから、トレーナーさんからそう言われたとき。

 そんなのはいくらなんでも高望みだと思った。トライアル。2着までに入ればオークスの優先出走権を獲れるGⅡ。春のクラシック、GⅠ、トリプルティアラの2冠目。そんな、選ばれたウマ娘だけが立てる舞台に行こうなんて、自分なんかには贅沢すぎると。

 そう、思っていた――けれど。

 

 

 

 4月21日、日曜日。東京レース場、第11レース、フローラステークス(GⅡ)。

 

『並んだ! ふたり並んでゴール! 内か外か、僅かに内が残したか!』

 

 レースが始まったら、贅沢とか高望みとかそんな意識は吹き飛んでいた。

 ――勝ちたい。ここを勝って、オークスに出たい。

 遠すぎると思っていた夢の舞台に――立つ権利が得られるのなら。

 手に入れたい。あの子も出てくる舞台に。

 あの子に負けたこの府中で。

 もう一度、あの子と正面から戦いたい。

 こんな自分でも――主役になれるかもしれない。

 そんな夢の欠片ぐらいは、指先に引っかけておきたかったから。

 

『――エンコーダーは僅かに届かず2着!』

 

 掲示板に点灯した自分の番号を見上げて――エンコーダーは、荒い息を吐き出した。

 2着。負けた。重賞初挑戦。最後、届いたと思ったのに、凌ぎきられた。

 悔しい。悔しいけれど――でも。

 

「エンコーダー!」

 

 トレーナーが満面の笑顔で駆け寄ってきて、気が付いたら抱え上げられていた。

 

「おめでとう! オークスだ! オークスに出るぞ!」

「え――あ」

 

 目をしばたたかせて、そしてエンコーダーは、現実を受け止める。

 フローラステークス2着。――オークスの優先出走権。

 

「トレーナー、わた、し、……オークスに出ても、いい、んですか?」

「もちろんだ! 行くぞオークス!」

 

 自分以上に喜んでいるトレーナーの顔に、どんな表情をしたらいいかわからないまま。

 エンコーダーは、蒼天を見上げて、ぎゅっと拳を握りしめた。

 

 

 

 エンコーダー。

 6月18日、メイクデビュー東京、バイトアルヒクマの4着。

 10月と11月の未勝利戦を2着、4着とし、12月の未勝利戦を勝ち抜け。

 2月、小倉の1勝クラス、あすなろ賞を勝利。

 4月、フローラステークス(GⅡ)2着で、オークス優先出走権を獲得。

 

 

       * * *

 

 

 いつも、ぼんやりして人よりワンテンポ遅いと、小さい頃から言われ続けてきた。

 誰かと一緒に行動していると、いつも自分が他人を待たせる側になってしまう。

 会話の輪の中で、何か言おうとしたときにはもう話題が別のものに変わっている。

 いつもそんな調子だから、せめて相手を不愉快にさせないようにと気を使って。

 でも、そんな風に気を使っていること自体が相手に伝わって苛立たせてしまう。

 そんなことの繰り返しで、いつしか人付き合いそのものが苦手になっていた。

 ――いつも無口でぼーっとしている、名前通りの夢見心地な子。

 そんな風に言われていることもわかっていた。わかっていても、だからといって自分の性格を変えることなど今さらできるはずもなかった。

 

 レースでもそうだ。

 トレセン学園に入ってからも、出遅れ、仕掛けの遅れでずっと結果が出なかった。

 何度選抜レースに出ても、必ずどこかでワンテンポ遅れて負けてしまう。

 そんな自分ではトレーナーがついてくるはずもなく、高等部になって、未デビューのまま学園にいられるタイムリミットも近付いてきていた。

 そんな、諦め悪く学園にしがみついているだけの生徒でしかなかった。

 

 ――ねえ、貴方。スタートからどんどん行って、逃げてみたら?

 

 そんな自分に、初めてそんな風に声を掛けてくれたトレーナーがいた。

 

 ――貴方、レースでも周りの顔色をうかがっているように見えたから。いっそ自分のペースで逃げてみた方がいいんじゃないかと思って。

 

 どうして自分なんかにトレーナーが声をかけてくれるのかわからなくて。

 困惑しているうちに、そのトレーナーは他の誰かに呼ばれてどこかへ行ってしまった。

 ああ、まただ。せっかくアドバイスをもらったのに、お礼も言えないままで。

 だけど、せめて。

 その言葉に。自分に声をかけてくれた、名も知らないトレーナーの言葉に報いたかった。

 

 そうして、選抜レース。初めて、スタートから全力でダッシュして逃げた。

 周りに誰もいない逃げ。自分ひとりだけで走り抜けるターフ。

 気持ち良かった。学園で走るようになって、一番気持ちいい走りだった。

 そうして、気が付いたらそのまま、逃げ切って1着でゴールしていた。

 

 ――おめでとう。

 

 ゴールしたあと、そう声をかけてきたのは、あのトレーナーだった。

 

 ――あ、あの……あり、が、と、ござ、

 

 息があがって、上手く声が出せなかった。そんな自分を、トレーナーは優しい顔で、息が落ち着くまでずっと待ってくれていて。

 

 ――ありがとう……ござい、ました。

 

 頭を下げた自分に、トレーナーは手を差し出して。

 

 ――貴方を、スカウトさせてもらっても、いい? ドリーミネスデイズさん。

 

 自分の名前を、そう、呼んでくれた。

 

 

       * * *

 

 

 4月27日、土曜日。東京レース場、第11レース、青葉賞(GⅡ)。

 

『いまだ未勝利ながら弥生賞3着、初勝利をトライアルで飾りダービーの切符を手にすることができるか、3番人気、7番マルシュアス!』

 

 ――やー、とにかく、出走できて良かった……。

 ターフに足を踏み入れ、マルシュアスはほっと一息つく。未勝利の自分はフルゲートを超えれば当然真っ先に除外対象だった。15人立てで滑り込むことができたこの舞台。日本ダービーに挑むには、優先出走権とファンPtを確保できる2着以内が絶対条件。

 

「マルシュちゃん、落ち着いてね!」

 

 最前列から見守ってくれているネレイドランデブーに、マルシュアスはぐっと拳を握りしめて返した。そして、ゲート前で思い思いにレースに向けて構えるウマ娘たちを見回す。その中のひとり、ぼんやりとコースを見つめる、13番のゼッケンを身につけた長身の鹿毛のウマ娘を見やり、よし、と頷いた。

 おそらく逃げるのは彼女、ドリーミネスデイズ。高等部らしいので学園では先輩だけど、レースは同期だ。――あのデュオスヴェルみたいな無茶なペースでは逃げないはず。前目につけて、彼女に狙いを定めて、直線でかわす。

 大丈夫。いける。この日のためにトレーナーと、ランデブーさんと、全力で頑張ってきたんだ。ここで勝って重賞ウマ娘になって、胸を張れるオトナのウマ娘になる――。

 決然と顔を上げて、マルシュアスはゲートへと向かう。

 

『体勢完了。――スタートしました!』

 

 ゲートが開く。15人のウマ娘がどっと飛び出す。

 ――よし、スタート成功!

 上手くダッシュがついて、バ群に埋もれる前に前方につけることができた。ちらりと外を見ると、予想通りの長身が押し気味に前に出てハナを主張していく。

 

『さて誰が行くか、外からやはり行きました押して押してドリーミネスデイズが先頭、内からマルシュアスが2番手か』

 

 ドリーミネスデイズが内に切れ込んできて、マルシュアスの前につけた。風になびく長い鹿毛を見ながら、マルシュアスは手応えを感じる。よし、理想的な位置! あとは彼女を風よけにして道中の消耗を抑えて、直線で仕掛ける!

 

『1000メートル通過、62秒1、ゆったりとしたペースで向こう正面を進みます。先頭ドリーミネスデイズ1バ身リード、マルシュアスが真後ろにつけて3コーナー、隊列が徐々に詰まって参りました』

 

 3コーナーあたりで後ろが詰めてきて、マルシュアスはそれに押し出されるように先頭に並びかける。――どうしよう? このままもう四角で先頭に出ちゃう?

 躊躇いながら、マルシュアスは横を走るドリーミネスデイズの横顔を見やった。

 ――その顔は、その視線は、一切こちらを振り返ることなく。

 ただ真っ直ぐに、前だけを見ている。

 

「……っ!」

 

 次の瞬間、ドリーミネスデイズが先に仕掛けた。

 ここまでのスローペースの溜め逃げから、4コーナーで後続を放しにかかる。

 ――まずいっ、追わなきゃ!

 咄嗟にマルシュアスもそれを追ってスパートをかけた。府中の長い直線に入る。目の前には高低差2メートルの坂。まだもどかしいほどゴールが遠い。

 

『さあ直線に入って先頭ドリーミネスデイズ、後続を突き放しにかかる! 内からマルシュアス、前を行く2人がそのまま抜け出した! 残り400、坂を上る!』

 

 坂を駈け上がる。脚は軽い。スローペースで先行しても充分に脚は残ってる。あとはほんの少しだけ前を行くドリーミネスデイズをかわすだけ、

 ――なのに、そのほんの少しの距離が、もどかしいほどに詰まらない。

 

「うおおおおおあああああっ!」

 

 自分が、叫んだつもりだった。

 いや、けれどそれは、横を走るドリーミネスデイズの叫びだったのかもしれない。

 マルシュアスにできることは、あとはもう、ただ必死にターフを蹴立てて前に進むことだけだった。

 

『粘る粘るドリーミネスデイズ、マルシュアス迫る、迫るがしかし、ドリーミネスデイズだ! ドリーミネスデイズが逃げ切って――ゴール!』

 

 そして、ゴール板を駆け抜けたとき、届かなかった距離は、あと数十センチ。

 

『僅かに外、ドリーミネスデイズが逃げ切った! 鮮やかスローペース、まんまと逃げ切りました重賞初制覇!』

 

 倒れこみそうになりながら脚を止め、マルシュアスは掲示板を見上げた。

 掲示板の一番上に点灯したのは、自分の7ではなく、13。

 7の数字は、クビ差で2番目に表示されている。

 逃げ切ったドリーミネスデイズが、感極まったように高々と拳を掲げ。

 ――ああ、また負けた。勝てなかった。これで、ダービーにも、

 仰向けにターフに倒れこんで、マルシュアスは悔しさに叫びだしそうになって、

 

『そして2着はマルシュアス! なんとなんと、未勝利のマルシュアスがこれで日本ダービー優先出走権を獲得しました! 史上初、未勝利ウマ娘の日本ダービー挑戦です!』

 

 ――えっ?

 実況のそんな声が聞こえて、マルシュアスは慌てて起き上がった。

 7の数字が点灯しているのは、掲示板の2番目。――2着。

 ファンPtと、日本ダービー優先出走権が手に入る、2着。

 

「あ……」

 

 現実に理解が追いついて、マルシュアスは茫然と口を開けて掲示板を見上げる。

 

「マルシュちゃん!」

 

 観客席から駆け寄ってくるネレイドランデブーの声を聞きながら、マルシュアスは目をしばたたかせて、自分が夢の切符を掴んだことを確かめるように、拳を握り直した。

 

 

 

 ドリーミネスデイズ。

 6月18日、メイクデビュー東京、バイトアルヒクマの7着。

 9月、3戦目で新潟の未勝利戦を突破。11月、1勝クラス・百日草特別を連勝。

 12月、GⅠホープフルステークス、11着。

 2月、すみれステークス2着。

 4月、GⅡ青葉賞を勝利。日本ダービー優先出走権を獲得。

 

 

 マルシュアス。

 11月、メイクデビュー京都を6着。

 12月、阪神の未勝利戦を11着、8着。

 1月、京都の未勝利戦を2着。

 3月、未勝利のままGⅡ弥生賞に出走、3着。

 4月、GⅡ青葉賞2着。

 史上初、未勝利のままで日本ダービー優先出走権を獲得。

 



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第94話 NHKマイルカップ・いっぱい走って

 5月5日、日曜日。東京レース場、第11レース、NHKマイルカップ(GⅠ)。

 

『世代のマイル王を決める大一番、GⅠ・NHKマイルカップ! パドックをご覧いただきましょう。朝日杯の上位組が人気上位を占めています。圧倒的1番人気はやはり朝日杯覇者、皐月賞2着の5番メイデンチャームですが、いかがですか太田さん』

『速めのペースを先行して粘った前走から中2週、状態は悪く無さそうですが、疲労がどれほど残っているかが若干気がかりですね』

『朝日杯3着、前走は皐月賞4着。ダートの共同通信杯の大勝も記憶に新しい白毛ウマ娘、8番ハッピーミーク。3番人気です』

『前走の疲れを感じさせない仕上がりですね。好状態だと思います』

『朝日杯4着、前走ファルコンSは伏兵に脚元を掬われ2着。ここまで好走を続けながら重賞未勝利、重賞初制覇をGⅠで飾れるか。10番チョコチョコは4番人気』

『距離不安はありますが、朝日杯でマイルの流れを経験していますし、前走は逃げる格好になって我慢が利かなかったのが大きいでしょう。好位で自分のレースに徹すれば勝機は充分にあると思います』

『そのチョコチョコをファルコンSで破り、大番狂わせを演じた11番バイタルダイナモ。人気薄の一発とは思えない先行押し切りの強いレース内容でした。5番人気です』

『ここまで大敗と快勝とを繰り返している極端なレース内容ですが、大敗した2戦はいずれも出遅れが致命傷でした。出遅れず好位につければ今回も面白い存在になりそうです』

 

 

       * * *

 

 

「委員長」

「あっ、レイさん!」

 

 おろしたての勝負服に身を包み、地下バ道を進むバイタルダイナモは、その途中で待っていたルームメイトの姿に顔をほころばせて駆け寄った。

 

「わざわざこんなところまでありがとうございます!」

「こんなところって、学園の隣じゃん。やー、それにしても委員長があのチョコより先に重賞勝って、今度はGⅠ出走かあ。なんかもー、あたしだけ取り残されちゃったなー」

「何を仰いますか! レイさんも初勝利を挙げたばかりでしょうに! 改めましてダイナモ祝福です! おめでとうございます!」

「いや、それはもういいって。先々週からもう何十回めよぉ」

 

 ソーラーレイは恥ずかしそうに頬を掻く。――レイは先々週、4月21日。皐月賞の翌週、東京・芝1400の未勝利戦を勝ち抜けていた。寒がりのルームメイトは、気温が上がってきたのが良かったのかもしれないとダイナモは思う。

 

「ま、なんにしてもあたしは委員長を応援してるよー、委員長。ファルコンSでチョコの奴に吠え面かかせたのは痛快だったし、このままユイチョコより先にGI勝っちゃえ」

「もちろんですとも! このバイタルダイナモ、このGⅠという大舞台、一世一代の走りをお見せするべく新たな作戦を練り上げてきました! 圧勝、優勝、呵々大笑です!」

「……その作戦、大丈夫ー?」

 

 不安そうに眉を寄せるレイに、ダイナモは「お任せあれ!」と高笑いする。

 

 

       * * *

 

 

 ――マークするのはあいつだ。あの色黒ツインテール。

 ゲートの前で屈伸するメイデンチャームを見やりながら、チョコチョコは息を吐く。

 朝日杯では後ろにつけられて、あっさり直線でかわされ置いていかれた。だったら今度は、こっちがあいつをマークする。後ろについて脚を溜めて、府中の長い直線勝負。

 前走はうっかり前に出すぎて委員長相手に不覚を取った。朝日杯でマイルのキツさはわかっている。しっかり前に壁を作って、自分のペースを守る。

 ふぁ、とひとつ欠伸が漏れて、チョコチョコはそれを噛み殺しながら顔を上げる。よし、勝つ。勝てる。ムニっちより先に、GⅠ、獲ってやる。

 

「チョコさん! 今日はよろしくお願いしますね!」

 

 声を掛けられ振り向くと、バイタルダイナモが笑顔で片手を挙げていた。

 

「お、委員長。生憎、前回みたいにはいかないかんねぇ。覚悟しといてよぉ」

「もちろんですとも! このダイナモ、チョコさんの実力は理解いたしております! しかしこのダイナモ、委員長として、皆の模範となる走りをお見せいたしますとも!」

 

 ではでは! と手を振ってゲートへ向かうダイナモに手を振り返し、委員長はGⅠでもいつも通りだなぁ、と一息ついて――それから、やたらに目立つ白毛のウマ娘が横を通りすぎて、チョコチョコはそれを横目に軽く睨む。

 ――あの白毛、あいつも不気味なんだよねぇ……。

 朝日杯ではどこからともなく現れ、気が付いたらかわされていた。何を考えているのかよくわからない横顔をしたウマ娘。ハッピーミーク。

 いや、余計な相手まで気にしても仕方ない。狙いはあいつ。あの色黒ツインテールをかわせば勝てる。――シンプルにいこう。

 唇を引き結んで、チョコチョコはゆっくりとゲートへと向かう。

 

 

       * * *

 

 

「ミーク……頑張ってください」

 

 いつものようにぼんやりとした顔で佇むハッピーミークの姿を、桐生院葵は心配しながら見つめていた。皐月賞から中2週。ミーク自身はレースの後もケロっとしていたし、脚の状態も問題ない。不安があればいくらGⅠとはいえ出走させていない。本番は3週間後の日本ダービーなのだ。――でも、それはそれとして心配である。

 NHKマイルカップに登録した時点で、周囲のトレーナーからも「え、本気?」と目を剥かれた。秘伝のトレーナー白書にだってこんなローテは載っていないし、実家の反応が怖くて特別登録して以来実家と連絡を取っていないぐらいだ。

 皐月賞で結果を出した以上、目指すべきは日本ダービー。優先出走権を確保しているのだから、間にNHKマイルカップを挟むローテは普通はあり得ない。

 葵だってそのことは解っている。過去にはこのローテでダービーを勝ったウマ娘もいるけれど、そのウマ娘はダービーの後に脚を痛めて引退した。ウマ娘に負担を強いる無茶なローテなのだ。同じく前走皐月賞から出てきたメイデンチャームは、元からダービーではなく安田記念を目標にしているから話が別である。

 ――それなのにどうして、ミークにNHKマイルカップを走らせるのか。

 それは至極単純な理由。――ミークが、どうしても出たいと言い張ったのである。

 いや、無口なミークが「言い張った」と言うのはやや語弊があるが……。

 

『おつかれさまでした、ミーク。本当に惜しかったですけど、立派でしたよ!』

 

 皐月賞の日。4着で走り終えたミークを、葵は悔しさを押し殺しながら笑顔で出迎えた。本当は勝ちたかったし、せめて3着以内に入ってウイニングライブの舞台に立たせてあげたかった。ミークがクラシックの大舞台で立派な走りを見せてくれて、嬉しいけれど、だからこそ悔しい。――前週、バイトアルヒクマで桜花賞4着だった同期のあの人も、こんな気持ちだったのだろうか、と思う。

 そんな葵の内心を知ってか知らずか、ミークはいつも通りの無表情で頷いた。

 

『今日の悔しさは、次の日本ダービーで晴らしましょう! 白毛ウマ娘初のダービーウマ娘に! ハッピーミークの名前を、トゥインクル・シリーズの歴史に――』

 

 その葵の言葉を遮るように、ミークは首を横に振った。

 

『……え? ミーク、どうしたんですか? ひょっとして、どこか痛いんですか!?』

 

 ふるふる。首を横に振り、ミークは控え室のカレンダーに歩み寄って、ひとつの日付を指さした。ダービーの5月26日ではない。――5月5日、こどもの日。

 

『……NHKマイルカップ、ですか? 出たい……んですか?』

 

 こくこく。ミークは頷く。

 

『そ、それは……中2週になりますけど、ミークの体調が大丈夫なら……。で、でも、それじゃあ日本ダービーは』

 

 こくこく。そして、ぐっとミークは拳を握る。

 

『え、NHKマイルカップと日本ダービー、両方出たいんですか!?』

『……いっぱい走って、いっぱい勝ちたい……です』

 

 相変わらず無表情のまま、ミークはじっと葵を見つめてそう言った。

 結局、その視線に押し切られて、葵は今日、東京レース場にいる。

 本当にこれで良かったのだろうか? いくらミークの希望とはいえ、トレーナーとして、こんな無茶なローテは毅然とした態度で止めるべきだったのではないか? これでもし、ミークが怪我でもしたら……。

 ――三女神様。どうかミークをお守りください。

 葵にできるのは、もう祈ることだけだった。

 

 

       * * *

 

 

『体勢完了。NHKマイルカップ、スタートしました!』

 

 ゲートが開き、どっとウマ娘たちが飛び出していく。

 

『さあメイデンチャーム好スタートだ、注目の先行争い、誰が行くか』

 

 ――よし、スタートは上々! あとは内へ上手く切り込んであいつの後ろに……!

 内で好ダッシュを決めたメイデンチャームを横目に、チョコチョコは周囲のウマ娘を伺う。内隣は出負けしていた。遠慮なく内に寄ってメイデンチャームに近付く。――と。

 

『おっと外から行った行った、バイタルダイナモが行きました! なんとバイタルダイナモ、今日は逃げます!』

 

 ――委員長!?

 

「ダイナモ作戦五の巻! バイタル大逃げですっ!」

 

 うおおおおっ、と猛然と先頭に立って飛ばしていくダイナモ。唖然として、すぐ横を突き抜けていったその背中を見送り、チョコチョコは慌てて意識を切り替えた。いやいや、あれはいつもの委員長の暴走だ。マークするべきはメイデンチャーム。委員長はたぶんあれなら放っておいても潰れる――。

 ――ってあれ? あの色黒ツインテールは?

 

『バイタルダイナモが飛ばしています、後ろを2バ身3バ身と放して逃げます、2番手チョコチョコ、内半バ身メイデンチャーム』

 

 ――しまった!

 バイタルダイナモにつられて一瞬意識が逸れたうちに、メイデンチャームに後ろを取られていた。チョコチョコが取りたかった、メイデンチャームの半バ身後ろというマークポジション。逆にそこを取られた――。

 ああっ、くそぉっ!

 目印にするにはダイナモの背中は遠い。かといって下げようにもぴったり背後に別のウマ娘が貼り付いている。ならいっそメイデンチャームの前に出て進路を塞ぐか? しかし流れる展開の中で、溜めないといけない脚をそんなところで使うわけにも――。

 痛恨。悔やみきれない一瞬の、位置取りミス。全ての計画が狂ってしまった。

 ――だからって、諦めてたまるか!

 歯を食いしばり、チョコチョコは顔を上げてコーナーへ向かう。

 

 

       * * *

 

 

『さあ直線に入りました! バイタルダイナモは完全に沈んだ! 先頭はチョコチョコ、坂を上る! 内からメイデンチャーム! メイデンチャームが並んでかわした! かわした! メイデンチャーム、チョコチョコ粘る、外からハッピーミーク! ハッピーミークが飛んできた!』

 

 残り200、チョコチョコの顎が上がった。

 

『内メイデンチャーム、外ハッピーミーク、間チョコチョコは伸びない、メイデンチャームか、ハッピーミークか、メイデンチャーム、メイデンチャームだ!』

 

 最後に抜け出したのは、皐月賞組の1番人気と3番人気。

 色黒な鹿毛のツインテールと、対照的な純白とが、もつれるようにゴールに飛び込む。

 最後、クビ差だけ前にいたのは――朝日杯王者、メイデンチャーム。

 

『これがジュニア王者の意地だ! マイルの王座は譲らない! メイデンチャームGⅠ2勝目! 朝日杯王者メイデンチャーム強い、堂々の押し切り勝ちでした! 2着はクビ差でハッピーミーク! 3着は接戦、チョコチョコが粘ったか、確定までお待ちください!』

 

 

 

 5月5日、NHKマイルカップ(GⅠ)。

 1着、5番メイデンチャーム(1番人気)。

 2着、8番ハッピーミーク(3番人気)。

 3着、10番チョコチョコ(4番人気)。

 

 18着、11番バイタルダイナモ(5番人気)。



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第95話 ヴィクトリアマイル・夢の終わるとき

 2年前。X2年5月、ヴィクトリアマイル(GⅠ)。

 

『ネレイドランデブーだ! ネレイドランデブー逃げ切った! 桜の女王が帰還した! これが桜花賞ウマ娘の意地だ、ネレイドランデブー、1年ぶりの勝利でGⅠ2勝目!』

 

 トゥインクル・シリーズで、長く語られたジンクスがある。

 ――桜花賞ウマ娘は大成しない。正確に言えば、トリプルティアラのうち桜花賞しか勝てなかったウマ娘は、その後は伸び悩み、桜花賞を勝っただけで終わることが多い。

 もちろん、偉大な例外は何人かいるけれど、それは本当の怪物、天才たちのこと。

 ネレイドランデブーは、8番人気のノーマーク逃げ切りで穴を開けただけ。桜花賞だけの一発屋だろう――そう言われていたことを、知っていた。

 実際、その次のオークスで12着に撃沈したのだから、言い返せる言葉もなかったし、ネレイドランデブー自身、自分がそんな本物の天才たちと肩を並べる存在だなんて思ってはいなかった。それでも――それでも、あのとき。桜花賞を逃げ切って、1着でゴールに飛び込んで、そして見上げたスタンドの大歓声を忘れられなくて、もう一度、もう一度でいいから、あの輝きを手に入れたいと、それだけを考えて走り続けた。

 秋華賞は逃げ切れず3着。シニア級のウマ娘に初めて挑んだマイルCSは7着。年末の阪神カップは4着。シニア級になって初戦の阪神ウマ娘ステークスも4着。

 自分が怪物や天才でないことはわかっていても、それでも勝てないことが苦しくて、控えるレースを試したり、あれこれ試行錯誤して――結局戻って来たのが、桜花賞のときのような他を気にしないマイペースの逃げ。

 それが完璧に嵌まったのが、あのシニア級1年目のヴィクトリアマイルだった。

 

 ウマ娘として一番充実していたのは、毎日王冠とマイルCSを勝った、その年の秋。あのときは誰と走っても負ける気がしなかった。分不相応なぐらい自信に満ちあふれていた。レースではそれがいい方に作用したけれど、同時に慢心にもなっていたのだろう。

 だから、その後の怪我は、そのしっぺ返しだったのだと思う。怪物でも天才でもないくせに、初心を忘れた自分への。

 あの怪我でネレイドランデブーは終わってしまった――そう言われていることも知っている。肉体的にそれが事実であることもわかっている。あのヴィクトリアマイルからマイルCSまでの半年間は、うたかたの夢のような、自分の短い全盛期だった。

 怪我から戻ってからは、一度も勝てていない。

 今年に入ってからの2戦は、どっちも掲示板にも入れなかった。

 もうこの脚は、あの全盛期の走りはできない。

 だったらさっさと身を引いて後輩に道を譲るのも、ひとつの選択肢だ。

 

 ――でも、もう少し。あと少しだけ。

 せめてあの子が輝くまでの間は、背中を見せてあげたい、後輩ができたから。

 

「ランデブーさん!」

 

 府中の地下バ道。後ろから駆け寄ってくる足音に、ランデブーは振り返った。

 マルシュアスが、思い詰めたような顔で、ランデブーを見つめている。

 

「……本当に、これで」

 

 ぎゅっと目を瞑って、震える声で言う後輩に、ランデブーはそっと歩み寄り、その口元に指を当てた。驚いたように目を見開くマルシュアスに、ランデブーは微笑む。

 これが引退レースだということは、トレーナーとマルシュアスに伝えただけで、一般には公表していなかった。どうしてかと聞かれれば、自分でもはっきりした答えは出ない。ただ――。

 

「見ててね、マルシュちゃん」

「――っ、はいっ!」

 

 ぎゅっと唇を引き結んで頷いた後輩の頭に手を伸ばし、自分より背の高いマルシュアスの栗毛をぽんぽんと撫でて、ランデブーは目を細めた。

 

 かわいい後輩は、未勝利のまま、青葉賞2着で日本ダービーの切符を手にした。

 それに対して、「ダービーの権威が下がる」なんて声があることも知っている。

 彼女には、そんな雑音に惑わされずに、胸を張って夢の舞台に挑んでほしい。

 

 ねえ、マルシュちゃん。

 たとえ負けても、負けても、負け続けても。

 胸を張って走り続けるからこそ――勝ったときが、誇らしいんだよ。

 

 

       * * *

 

 

『やはり逃げますネレイドランデブー、押して押して先頭!』

 

 先頭で受ける風が好きだった。

 周りを気にせず、誰にも邪魔されず、まっさらな芝を踏みしめるのが好きだった。

 

『さあ4コーナーを抜けて直線に入った、ネレイドランデブーまだ粘る、内から連覇を狙うパワフルトルク、外からリボンスレノディもきた!』

 

 直線に入って、ゴールまで自分の前に誰もいない光景が好きだった。

 後ろから迫る足音にヒリヒリしながら、ただ自分だけを信じて走り続けてきた。

 

『坂を上る! ネレイドランデブー逃げる! ランデブー逃げる!』

 

 キラキラと輝く、府中のターフ。

 ウマ娘に生まれたら、この舞台で勝負服を着て走る自分を、誰もが一度は夢に見る。

 ――だからこれも、きっと夢だったのかもしれない。

 それはたぶん、世界で一番幸せな夢だ。

 

『パワフルトルク! パワフルトルクが並んでかわした、パワフルトルク先頭!』

 

 だけど、夢はいつか終わるから。

 せめて、終わるときまで、そのときまで――。

 

『ネレイドランデブー後退、ランデブーは完全に沈んだ! ……――』

 

 幸せなまま、終わりたかった。

 

 

       * * *

 

 

 右脚の屈腱炎。

 レース後、トレセン学園に隣接する病院で。

 ランデブーの脚を診た医師の、それが診断だった。

 

 それを聞いた瞬間に、ランデブーの心をよぎったのは。

 ――ああ、ホントに終わっちゃったんだな。

 諦念なのか、解放なのか。自分でもよくわからない、すとんと何かが落ちたような気分だった。思っていたより、自分は現役に未練が残っていたのかもしれない。けれど、もう引退するしかないという事実を突きつけられて、憑き物が落ちた――そんな感じ。

 そんな風に思うのは、あるいは。

 レースが終わってからずっと、かわいい後輩が、自分の分まで泣いてくれたからかもしれなかった。

 

「……もう、泣き止んでよ、マルシュちゃん。死んだわけじゃないんだから」

「っ、だっ、て、だって――っ」

 

 ベッドの傍らに膝を突いて、両目を泣きはらして震え続けるマルシュアスの頭を、ランデブーは苦笑しながら撫でる。

 ぐしゃぐしゃの顔をシーツに擦りつける後輩を見下ろして、ランデブーは自分の右脚を軽く手でさする。

 ――おつかれさま。今までありがとう。

 思ったよりもすんなりと、壊れかけた自分の脚に、そう思うことができた。

 GⅠを3つも勝って。かわいい後輩もできて。全盛期も終わったところで、最後はすっぱり、どうしようもない怪我で引退。我ながら、そう悪くもない幕引きだろうと思う。勝って引退という花道に憧れる気持ちはあったけれど、自分はそういう特別なスターではなかった。それだけのことだ。

 結局のところ、去年の怪我の時点で、自分の気持ちがもう折れていたのかもしれない。もうウマ娘としてやるべきことはやった。あとはどう終わるかだけだ、と――。

 

「マルシュちゃん」

 

 呼びかける。涙と鼻水まみれの顔を上げた後輩に、ランデブーは微笑んだ。

 

「私の番は、これでおしまい。次は、マルシュちゃんの番だよ」

「――――」

「今度はマルシュちゃんが、オトナのウマ娘になる番。――私は、泣いてるマルシュちゃんじゃなく、勝って笑ってるマルシュちゃんが見たいよ」

「――――ラン、デブー……さん……」

 

 泣きはらした目で自分を見上げたマルシュアスは、ぐしゃぐしゃの顔を拭って、鼻をかんで、ぎゅっと目を瞑って――そして、目を開けて、立ち上がった。

 

「日本ダービー……絶対、勝ちます……っ!」

「うん」

「勝って、ランデブーさんより、かっこいい……オトナのウマ娘に、なります……っ!」

「うん。――楽しみにしてるよ、マルシュちゃん」

 

 ランデブーはマルシュアスの手を握り、ただ、静かに微笑んだ。

 

 

 ――ねえ、マルシュちゃん。

 私は、貴方が憧れるに値する、オトナなウマ娘でいられたかな……?

 

 

「……ランデブーや」

「トレーナー」

 

 マルシュアスが病室を出て行ったあと、入れ替わりに入ってきたはトレーナーだった。

 老年のトレーナーは、しわくちゃの顔を伏せて、杖に身を預けるように息を吐いて。

 

「……すまなんだ」

 

 ただぽつりと、そう呟いた。

 ――その瞬間。

 ランデブーの中で、何かが、ぱつんと音を立てて、弾けた。

 

「……どう、して」

 

 声が、震える。

 

「どうして、謝る、んですか。……トレーナー」

 

 身体が。全身が。――どうしようもなく、震える。

 

「これが引退レースだったんだから……怪我してもしなくても、一緒じゃ、ないですか。もう、私は、私は――っ」

 

 失ったわけではなかった。折れてしまったのでもなかった。

 ただ、そう思うことで、自分を無理矢理納得させていただけだったと。

 そう気付いたときには、溢れ出してしまったものは、もう止められなかった。

 

 

「私は――――もっと、もっと、走り……たかった、です……っ」

 

 

 ベッドから身を乗り出して、トレーナーの枯れ木のような腕にすがりついて。

 押し殺したランデブーの慟哭は、病院を出て、夕暮れの道を学園へ向けて顔を拭って走るマルシュアスの耳に、届くことはなかった。

 

 

       * * *

 

 

 ネレイドランデブー。

 X0年11月、京都でデビュー(3着)。12月の未勝利戦を勝ち抜ける。

 X1年2月、GⅢクイーンカップを先行策で勝利し重賞制覇。

 4月、GⅠ桜花賞を八番人気で逃げ切り勝ち。一冠を手にする。

 続くオークスは直線で沈み12着。

 秋は秋華賞を逃げて3着に粘り、マイルCSに挑んだが7着。年末の阪神カップも4着。

 X2年、初戦の阪神ウマ娘ステークスも4着に敗れたが、続くヴィクトリアマイルを鮮やかに逃げ切り勝ちして復活を遂げる。

 秋は毎日王冠を勝利してマイルCSに乗り込み、3バ身差で完勝。この年の最優秀短距離ウマ娘を受賞。

 しかしX3年1月、トレーニング中に右脚を剥離骨折。春は全休となる。

 秋、富士ステークスで復帰し3着。連覇を目指したマイルCSは4着。

 X4年、初戦の中山記念は7着。阪神ウマ娘ステークスも6着。

 そしてヴィクトリアマイルの最終直線で屈腱炎を発症。ゴールはしたものの最下位18着に沈み、このレースを最後に現役引退。

 

 通算17戦6勝。重賞5勝、うちGI3勝。



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第96話 オークスへ向けて・勝つために

 トゥインクル・シリーズの1年は、日本ダービーを中心として回っている。

 歴史、伝統、格式。古くから現在に至るまで、日本ダービーというレースは、日本のウマ娘界の中心に存在する。それはもう、何がどうなろうと変わらないであろう事実だ。

 故に、三冠路線こそ最も格が高く、トリプルティアラはそれに比べて格が落ちる。そう言われているのは事実であるし、ウマ娘界の中でもそういう意識が厳然として存在するのもまた事実である。こればかりは、いくらティアラ路線から強いウマ娘が出てきて三冠路線のウマ娘を薙ぎ倒しても変わらないのだ。

 

 だから、トリプルティアラ第2戦たるオークスも、どうしても翌週の日本ダービーの前座と見なされがちだ。少なくとも、例年はそうだった。

 ――それがどうも、今年はいつもと雰囲気が違うのである。

 日本ダービーは、皐月賞2着でNHKマイルカップを制したメイデンチャームが予定通り回避したこともあり、皐月賞の強い勝ち方に、距離延長、直線の長い府中も好材料と見られ、オータムマウンテンが絶対的本命という見方が濃厚だった。

 それに対し、オークスはというと――。

 

 

《四強激突 5.19 オークス》

 

 その文字とともに、4つの顔が大きく印刷されたポスターが、街中に飾られている。

 ジャラジャラ、エレガンジェネラル、バイトアルヒクマ、エブリワンライクス。

 大雨の桜花賞での、この上位4人の死闘は、この世代のトリプルティアラは〝四強〟だということを満天下に知らしめた。その4人が府中2400で再び激突するオークスは、この四強の誰が真に一番強いのかを明らかにする決戦――そう見なされたのである。

 

「ジャラジャラのあのハイペース逃げは府中2400じゃ厳しいだろ。あの不良バ場のタフなレースを制したエレガンジェネラルのダブルティアラは堅い」

「いや、あの超不良バ場で逃げて僅差の2着に残したジャラジャラだぞ? 2400逃げ切るスタミナはあるはずだ。エレガンジェネラルこそ道悪専のマイラーじゃないのか?」

「エブリワンライクスも含めて1600までしか走ってないからなあ。それより皐月賞を勝ったオータムマウンテンにホープフルSで僅差だったバイトアルヒクマ、距離延長は明確にプラスだろ。あのローテからすればオークスが本命だろうし、メイチで来るぞ」

「いーやここはエブリワンライクスの千載一遇の勝機だね。ジャラジャラのハイペースにエレガンジェネラルとバイトアルヒクマが付き合って、直線で共倒れになったところを後ろから脚を溜めたエブリワンライクスが一気に差し切る、これだよこれ」

「そう簡単に共倒れになるなら桜花賞でライクスが勝ってるだろ」

「4人ともあの桜花賞で激走した疲れが残ってないか心配だよ。案外後ろから大穴がひょっこり来るんじゃないか?」

「いやエレガンジェネラルだって、実力は抜けてる。ジャラジャラは1600が限度」

「いーやジャラジャラが逃げ切るから見とけよ。良バ場ならジャラジャラだ」

「オークスは府中の東スポ杯でデュオスヴェルとプチフォークロアに勝ってるバイトアルヒクマが勝つに決まってんだろ。勝たなかったら大欅の根元に埋めてくれて構わないよ」

「ホープフル勝ったミニキャクタスも見たかったなあ」

 

 ――概ねそんな議論が、ネット、リアルを問わず各地で繰り広げられていた。

 

 

       * * *

 

 

「トレーナー?」

「……ん、ああ、コンプか。どうしたの、こんな時間に」

 

 トレーナー室。不意に呼びかけられ、私は資料から顔を上げた。時計を見れば、もうすぐ寮の門限である。ドアからこちらを覗きこんだブリッジコンプは、やれやれと肩を竦めながらトレーナー室に入って来ると、「はい」と机に缶を置く。甘い缶コーヒーだった。

 

「まだトレーナー室の明かりついてるの見えたから。お疲れトレーナーに、コンプちゃんの奢り。ありがたく受け取りなさいよ」

「……あ、ありがとう」

 

 冷えた缶を受け取ってプルタブを開け、コーヒーに口をつける。糖分が疲れた頭に染み渡る。思わず大きく息を吐くと、コンプが机の上の資料に眼をやっていた。

 

「こんな時間まで何してるのかと思ったら、オークスの作戦でも立ててたの?」

「……ああ、うん」

 

 私は曖昧に頷いた。――正確には、呻吟していた、というべきだが。

 オークスはもうすぐだ。幸い、ヒクマは超不良バ場だった桜花賞の疲れも見せず元気いっぱいだし、脚元にも異常はなく、状態はいい。桜花賞でジャラジャラやエレガンジェネラルと差のないところまで来たこともわかっているし、距離延長も直線の長い府中も、長く伸びる脚を使えるヒクマにはプラスのはず。

 だから、自信をもって送り出せる――そう思っていたのだ。

 けれど。――このオークスを本命として目指してきたからこそ、考えれば考えるほど、不安になってくるのだ。これで本当に充分なのか? これで本当に、ジャラジャラとエレガンジェネラルに勝てるのか?

 わからない。考えても考えてもわからないのだ。――何しろ、情報がない。ジャラジャラもエレガンジェネラルも、桜花賞でヒクマに競り勝ったエブリワンライクスも、3人ともここまで1600までしか走っていない。もちろんヒクマだって2400は初めてだけれど――情報がないから予想がつけられず、予想がつかないので対策が決められない。

 ジャラジャラは府中2400でもハイペースで逃げるのか? 逃げて保つのか?

 エレガンジェネラルはどうする? 前に行くのか? 脚を溜めて控えるのか?

 ふたりとも、本質はマイラーなのか、それともクラシックディスタンスが本命なのか?

 ヒクマの武器は長く伸びる脚。府中の長い直線はロングスパートをかけるにはもってこいだ。だが――それでも届かないほど前にジャラジャラがいたら。エレガンジェネラルの切れ味鋭い末脚を、前で繰り出されたら……。

 ヒクマを信じて、好きなように走れ、と送り出せたらどんなに楽だろう。でも、一生に一度のクラシック。本命のオークスで、それはあまりに無責任すぎないか……。

 空き缶を握りしめて、思わずまた頭を掻きむしる。どうすればいいのだろう。オークスはなんとしてもヒクマを勝たせてやりたい。ホープフルSも桜花賞も悔しい思いをしてきた。今度こそGⅠのウイニングライブで、ヒクマの弾ける笑顔を見たい。そのために、私はヒクマに、いったい何をしてあげられるんだろう――。

 

「えい、ちょーっぷ」

「痛っ、な、なにするの、コンプ」

 

 いきなりコンプに脳天チョップされて、私は顔を上げる。コンプはジト目で私を睨んだ。

 

「だいたいトレーナーがなに考えてるのかは想像つくけど。――クマっちのオークスの次の週には、あたしの葵ステークスもあるんですけど?」

「あ、いや、別にコンプを蔑ろにしてるわけじゃ、コンプのこともちゃんと考えて」

「わかってるってば。――あのね、どんだけトレーナーが机で唸ったって、結局レースで走るのはあたしたちなんだから。そういうことは本人と相談しなさいよ、本人と」

「え?」

「クマっち」

 

 コンプが振り返って呼びかけると――ひょっこりと廊下から、ヒクマが顔を出した。

 

「あれ、わたし入っていいの?」

「トレーナーがオークスの相談したいって」

「あ、うん、わかった!」

 

 ぱたぱたとヒクマがこちらに駆け寄ってくる。その大きな瞳を見つめて、私は思わず大きく息を吐いた。

 

「……いたんだ、ヒクマ」

「うん、コンプちゃんと一緒にトレーナーさんの様子見にきたんだけど……トレーナーさん、だいじょぶ? 疲れた顔してるよ」

 

 心配そうに私を覗きこむヒクマ。私は苦笑して立ち上がり、ヒクマとコンプ、ふたりの頭を両手でぽんぽんと撫でた。

 

「心配させてごめんね。ありがとう」

「えへへ~」

「撫でるなーっ」

 

 目を細めるヒクマと、口を尖らせるコンプ。いつもの反応に思わず笑みを漏らし――それから私は、改めてヒクマに向き直った。

 

「ヒクマ。――オークスで勝つには、どうすればいいと思う?」

「ほえ?」

 

 私に問われて、ヒクマはきょとんと首を傾げ――「う~~~ん」と難しい顔をして唸る。そして、ぽんと手を叩いて、ぐっと両手を握りしめて答えた。

 

「ジャラジャラちゃんより、ジェネラルちゃんより、先にゴールする!」

 

 ――ああ、そうだ。全くもってその通りだよ、ヒクマ。

 呆れ顔のコンプの傍らで、私は肩の力が抜けるのを感じた。

 そう、そうだ。ヒクマの言う通り。ジャラジャラとエレガンジェネラルより先にゴールすれば、おそらくはまず勝てる。じゃあ、そのためにどうすればいいか?

 ――その瞬間、ひとつ、ぱっと浮かんだ作戦があった。

 

「うん、正解だよ、ヒクマ」

「え、ちょっとトレーナー?」

 

 コンプが眉を寄せる。私は微笑して、「コンプもちょっと手伝ってほしい」と言った。

 

「え、あたしも?」

「うん。ジャラジャラとエレガンジェネラルに勝つために、どうすればいいのか――ひとつ、思いついたことがあるんだ」

 

 私はひとつ息を吐いて、目をしばたたかせるヒクマとコンプを交互に見やる。

 

 

「――ヒクマ。オークス、逃げてみない?」



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第97話 オークス・それぞれの戦いへ

 5月19日、日曜日。

 桜花賞とはうって変わって、オークス当日の東京は、雲ひとつない快晴になった。

 

 

       * * *

 

 

「わぁ~……これが、わたしの勝負服……」

 

 控え室。袖を通した勝負服を鏡に映して、エンコーダーは鏡の中の見慣れない自分に目をしばたたかせた。

 まさかクラシックで、自分がこれを着ることができるとは思わなかった。この場に立てるのは、同期デビューのティアラ路線の選ばれた18人だけ。その中に自分が入れているということが、未だに信じられない。

 

「トレーナーさん、あのっ、撮ってますか?」

「ああ、ちゃんと撮ってるよ」

 

 スマホを構えるトレーナーの前で、エンコーダーは勝負服をひらひらさせながらその場でくるくると回る。そして「彩Phantasia」を口ずさみながらステップを踏んで、最後にセンターの決めポーズ。――やり終えてから急に気恥ずかしくなった。

 トレーナーからスマホを返してもらって、今トレーナーが撮影した動画を消すかどうか数秒悩んで――やっぱり保存しておくことにする。

 本番のウイニングライブのステージに立つなんて高望みはしていない。だけど、この勝負服でそれを夢見る権利ぐらいは自分にだってあるし、せめて控え室でひとりで踊る姿だけでも、応援してくれる人には見せてあげたかった。

 

「レースもしっかり撮影しておくからな」

「あ、はい! よろしくお願いしますっ」

「でも、動画のことより、まずは今日のレースで動画にしても恥ずかしくない走りをしないとな」

「――はいっ」

 

 エンコーダーの趣味は動画制作である。暇さえあればスマホで動画を撮って、それを編集してSNSやウマチューブに上げている。自分を撮影するのはちょっと自意識過剰な気がして気恥ずかしいけれど、応援してくれる人が喜んでくれるのは嬉しい。

 

「そして、今日のオークス動画の〆は、もちろん本番のウイニングライブだ」

「――――」

「楽しみにしてるから、がんばってこい!」

「…………はいっ、がんばりますっ!」

 

 ――そう。誰よりもトレーナーが、自分の動画を楽しみにしてくれるから。

 今日のレースが終わったあと、胸を張って編集できる動画を作りたい。

 そして――高望みだということはわかっているけれど。

 同期の華やかなあの子たちに、勝つことができたら――。

 ぐっと拳を握りしめて、エンコーダーは顔を上げる。

 

 15番人気、6枠11番、エンコーダー。

 

 

       * * *

 

 

「――ス、ライクス?」

 

 トレーナーの声に、エブリワンライクスは我に返って顔を上げた。

 

「あっ、と、トレーナー、なに?」

「大丈夫? ちゃんと集中してる?」

「ああ、うん、問題ね!」

 

 ぱんぱんと顔をはたき、ライクスはぐっと拳を握りしめてみせる。

 心配そうに覗きこむトレーナーの顔に、作り笑いを返して――。

 ――何を考えてんだ。桜花賞のリベンジ、ここで晴らさねでどごで返すんだっきゃ。

 そう、自分に言い聞かせる。繰り返し、呪文のように。

 そうだ。阪神JFとも桜花賞とも違う。府中2400。未知の距離。

 あのジャラジャラだって、――エレガンジェネラルだって、未体験の距離。

 長い距離、タフなレースになれば、青森の田舎で鍛えた自分が、都会っ子に負けるはずがねえ――。

 そう、そのはずだ。そのはずなのに。

 

 桜花賞。

 あの、あとほんの少しの差は、絶対的な、絶望的な距離だと。

 心のどこかで、わかっている。

 

 心配そうなトレーナーの視線を振り切って、ライクスは控え室を出た。

 ――その途端、廊下でばったりと、エレガンジェネラルに出くわした。

 

「あっ――」

「どうも。――今日はよろしくお願いします」

 

 立ち止まって固まったライクスに、ジェネラルは慇懃に一礼して立ち去っていく。

 エブリワンライクスなど、眼中にないと言わんばかりに、素っ気なく。

 通り過ぎて行く横顔は、自信に溢れた、女王の顔。

 その背中を睨むように見つめて、ライクスは胸元に手を当てた。

 

「~~~~~っ」

 

 握りしめた拳が震えるのを、止められないまま。

 ライクスはしばらく、その場に立ち尽くしているしかなかった。

 

 4番人気、4枠8番、エブリワンライクス。

 

 

       * * *

 

 

 二冠。ダブルティアラ。

 この世代でたったひとり、その頂きに挑む権利を手にした。

 だけど、自分にとってそれは義務であり、通過点に過ぎない。

 トリプルティアラへ。そしてエリザベス女王杯と有馬記念、クラシック五冠制覇へ。

 最強を証明するために。トレーナーの語った夢を現実にするために。

 負けられない。負けることは許されない。

 今日も、そのためにトレーナーと、あらゆる展開を想定してきた。

 問題はない。勝てる。自分のレースにさえ徹すれば、負けることはない。

 地下バ道の途中で一度立ち止まり、ターフの光を見つめながら、エレガンジェネラルはひとつ息を吐く。呼吸を落ち着け、顔を上げる。

 ――そのとき、背後から足音がした。聞き慣れた蹄鉄の音と金属音。

 振り返ると、ジャラジャラが歩いてくるところだった。

 その表情に、ジェネラルは小さく息を飲む。

 

 それは、普段のやる気なさげな飄々とした顔でもなければ。

 阪神JFや桜花賞のときの、臨戦態勢という獰猛な笑みでもない。

 ――表情が消えたような、引き結ばれた口元に。

 瞳だけが爛々と、闇の中で獲物を狙う肉食獣のように輝いている。

 

 そして、普段の軽口もなければ、エレガンジェネラルを一瞥すらもせず。

 ジャラジャラはジェネラルを追い越して、ターフの光へと消えていく。

 その背中を見送って――不意に、エレガンジェネラルはぶるりと身を震わせた。

 

 ――私とトレーナーの想定は、本当に、完全だったのだろうか?

 不意に頭をよぎったその疑念は、ジェネラルの脳裏にこびりついて、離れない。 

 

 2番人気、1枠1番、ジャラジャラ。

 1番人気、7枠14番、エレガンジェネラル。

 

 

       * * *

 

 

 パドックからターフへと向かう地下バ道。

 私はその途中で、コンプとエチュードを伴って、ヒクマを待っていた。

 

「あっ、トレーナーさん! コンプちゃん、エチュードちゃんも!」

 

 ほどなく、小走りにぱたぱたと駆けてくる勝負服のヒクマ。私は、隣のふたりを促す。

 

「ヒクマちゃん。……っ、がんばってね!」

「クマっち、あたしとの特訓、無駄にしたら怒るからね!」

「うんっ!」

 

 右手を挙げるエチュードと、左手を挙げるコンプに、ヒクマは笑顔で両手でハイタッチ。そして、ふたりの間を抜けて、私の前で脚を止める。

 

「う~~~っ、トレーナーさん! 今日はわたし、勝てる気がする!」

「ああ! ジャラジャラもエレガンジェネラルも、他のウマ娘も観客も、みんなをあっと言わせてやろう!」

 

 やるべきことはやった。

 私の中ではまだ、これで本当に良かったのか、という迷いはあるけれど。

 ヒクマの笑顔に、惑いはない。曇りはない。

 ならば、もう私にできることは何もない。

 あとは信じて、ヒクマを送り出すことだけだ。

 私がすべきことは、先頭でゴールするヒクマの笑顔を、一番近いところで待つこと。

 それだけだ。

 

「ヒクマ。府中2400は?」

「ドバイへの特急券!」

「よし、行ってこい!」

「うんっ、行ってきます!」

 

 ぱん、と両手でヒクマとハイタッチ。そしてヒクマは、私の横を駆けていく。

 夢の舞台へと続いているはずの、府中のターフへと。

 揺れる芦毛を見送って、私は拳を握りしめて、ただ祈った。

 ――がんばれ、ヒクマ。がんばれ。

 

 3番人気、1枠2番、バイトアルヒクマ。

 

 

       * * *

 

 

『快晴に恵まれました東京レース場、樫の女王の戴冠を目指す18人のウマ娘が集いました! 四強が再び死闘を繰り広げるか、それとも新たな女王が現れるのか。4番人気は桜花賞3着、リベンジに燃える青森の星、8番エブリワンライクス!』

 

 エブリワンライクスは何度も自分の頬を叩きながら、ゲートをじっと見つめている。

 

『3番人気、桜花賞は悔しい4着! 芦毛の夢が府中から世界に羽ばたく第一歩となるか、2番バイトアルヒクマ!』

 

 笑顔で観客席に手を振り、バイトアルヒクマは気合いを入れ直すように拳を握る。

 

『2番人気、桜花賞でついに黒星。日本ダービーを蹴ってエレガンジェネラルへ再戦を挑む、絶対に負けられない褐色の弾丸、1番ジャラジャラ!』

 

 ジャラジャラはただ静かに、真っ直ぐに、前だけを見て歩を進める。

 

『そして1番人気は桜花賞ウマ娘、トリプルティアラへ視界良好、姫将軍の進撃は誰も止められない、エレガンジェネラル!』

 

 エレガンジェネラルは、何かを振り払うように首を振り、ゲートへと向かう。

 

『体勢完了。トリプルティアラ第2戦、樫の栄冠は誰の手に! ――スタートしました!』



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第98話 オークス・作戦決行

 ひどく、ゲートが狭く感じた。

 圧迫感。上下左右から、何かに押しつぶされそうな気配に包まれて、エブリワンライクスは立ち尽くした。

 目の前のターフが、やけに遠く、ぐにゃり、と歪む。

 ――なんだ。なんだこれ。

 自分の視界が、全身が、どうなっているのかわからない。

 呼吸が荒くなる。身体がふわふわして、地に足が着かない。

 落ち着け。落ち着け。落ち着け――。

 首を振って、ライクスは数歩、よろめくようにゲートの中で下がった。

 

 ゲートが開いたのは、まさにその瞬間だった。

 

 

       * * *

 

 

『ややばらけたスタート、おおっと出遅れたのはエブリワンライクス! エブリワンライクス大きく出遅れた!』

 

 スタートの瞬間、東京レース場の観客がどよめいた。4番人気のエブリワンライクスがひとりだけゲートを出ず大出遅れ、蒼白な顔で離れた最後方からのスタート。ライクスを応援していたのだろうファンから悲鳴があがる。

 そしてそのどよめきは――次の瞬間、先行争いに視線を移した観客たちの間で、さらに大きくなる。

 

『さあ注目の先行争い、やはり最内からジャラジャラが、いやバイトアルヒクマだ、バイトアルヒクマがジャラジャラを制するように押して前に出て行きます!』

 

 好スタートを切ったヒクマが、隣のジャラジャラより前に出ようとする。ジャラジャラが目を見開き、外のエレガンジェネラルがちらりと内を振り向くのが双眼鏡に見えた。

 

「よっしゃ、いっけークマっち! そのまま逃げちゃえー!」

 

 コンプが身を乗り出して叫び、よし、と私もそれを見ながらぐっと拳を握りしめた。

 完璧だ。狙い通り。これをやるために、コンプと特訓を積んできたのだ。

 ――全ては、ジャラジャラとエレガンジェネラルに勝つために。

 

 

 

 オークスの枠順が決まる前のこと。

 

「ジャラジャラとエレガンジェネラルに勝つためには、あのふたりに自分のレースをさせないこと。あのふたりの形を崩して、ヒクマのペースに持ち込むんだ」

「だからって、いくらクマっちでもあのジャラジャラ相手に逃げようってのは無茶じゃないの? それでクマっちが潰れちゃったら元も子もないじゃない」

 

 私の立てた作戦に、コンプが腕を組んで眉を寄せる。私は頷いた。

 

「もちろんそうだ。だから絶対に何が何でも逃げようっていうわけじゃない。上手く条件が揃ったときのための作戦だよ」

「条件?」ヒクマが首を傾げる。

「まず、ジャラジャラが内枠に入ること。次に、ヒクマがそれより外の近くの枠に入ること。このふたつの条件が揃ったときのための作戦だ」

「それ、運任せすぎない?」肩を竦めるコンプ。

「それは解ってるけどね。条件が揃わなかったときの作戦も考えてはあるから、とりあえずこの作戦について聞いてほしい。――と言っても、作戦自体は単純だ。1コーナーまでにジャラジャラより前に出て、ジャラジャラの前を塞ぐ。とにかく、ジャラジャラに逃げさせない――全てはそのための作戦だよ」

 

 オークスの展開については、ここまで頭を悩ませ続けてきたが、最終的にはジャラジャラもエレガンジェネラルも自分のレースに徹する可能性が高い、と考えた。

 桜花賞は不良バ場で飛ばしていけずに敗れたことから、ジャラジャラは府中2400でもお構いなしのハイペース逃げ消耗戦を仕掛けてくる可能性が高いと思う。そしてエレガンジェネラルは、阪神JFでジャラジャラの消耗戦に付き合って敗れているから、距離も延びるしおそらく無理にはジャラジャラを追わない。直線の長い府中、脚を溜めて中団から瞬発力勝負に出るのではないか。

 ジャラジャラをマークして消耗戦に付き合うのは相手の術中だが、かといってジャラジャラを自由に逃がしたら逃げ切られるだけだ。それにヒクマの長く伸びる脚は、桜花賞を見てもエレガンジェネラルとの瞬発力勝負になったら分が悪い。

 なら、ジャラジャラを逃げさせなければいい。ジャラジャラの前に蓋をして、ヒクマのペースで逃げるのだ。そして、中団に控えたエレガンジェネラルの末脚を、直線ロングスパートで凌ぎきる。――これだ。

 

「ふえー……」

 

 私の語った作戦に、ヒクマはその大きな瞳をしばたたかせ、コンプは唸る。

 

「うーん、あたしも前に蓋されたら嫌だし、作戦としちゃ理解できるけど。あっちがそれでも強引に逃げようとしたら結局消耗戦に付き合うことにならない?」

「そのときはそれ以上無理に追わなくていい。そうなればジャラジャラに序盤で脚を使わせてしまえるからね。あとはエレガンジェネラルの動きに注意しつつ、ヒクマのペースで走ればいい。――どうかな、ヒクマ?」

 

 私はヒクマに向き直って問いかける。ヒクマは目を閉じて、頭の中で私の伝えたレース展開を想像するように腕を振り――そして、ぱっと目を見開いて、ぐっと拳を握った。

 

「うんっ、やってみるよ、トレーナーさん!」

「よし! じゃあ、コンプと一緒にスタートの特訓だ!」

「おー!」

「え、あたしも?」

「ジャラジャラのロケットスタートより前に出るなら、コンプ相手に前を塞ぐぐらいのつもりでいかないとね。コンプは本気でスタートダッシュかけて、ヒクマは2ハロン、400メートルまでにコンプより前に出て内に切れ込む。――そのスタートの感覚を身体に叩き込むよ!」

 

 

 

 そして本番。ヒクマは最高の枠を引いた。

 ジャラジャラが最内の1枠1番。そしてヒクマがその隣の1枠2番。これはもう、強引にでもジャラジャラの前に出て、その前を塞ぐ以外ない。これまでどんな相手にもお構いなしで逃げてきたジャラジャラは、番手のレースになればペースを崩すはずだ。そして外枠のエレガンジェネラルは、ジャラジャラがハイペースで逃げると踏んで控えたのが裏目に出る。あとは先頭に立ったヒクマが、ミドルからスローで逃げてロングスパートの前残り。――あのふたりが距離で潰れるという甘い期待はしない。自分から潰しに行く!

 

『さあこれはまさかのバイトアルヒクマが逃げるのか?』

 

 どよめきの中、最初の1ハロン。最高のスタートを切ったヒクマが前に出た。

 そのまま内に切れ込んで、ジャラジャラの前を塞ぎにかかる。

 府中2400の1コーナーは350メートル地点。そこまでジャラジャラを封じてしまえば、ジャラジャラだってそれ以上無理はしない。ヒクマ先頭で体勢は決まる。

 ――だが、やはり相手はそう甘くない。

 

『しかしジャラジャラ、ジャラジャラもやはり行きます外から並んできた!』

 

 ヒクマが前を塞ぎにきたと察したジャラジャラは、ヒクマが内に寄せるのに合わせて、外に出した。――3番のウマ娘が出負けして、ジャラジャラが外に出すスペースが空いていたのだ。

 ジャラジャラが半バ身後ろにつけたのを、ヒクマがちらりと見る。

 ジャラジャラは、ヒクマに並びかけようとペースを上げる。

 ヒクマが――それにつられるように、ペースをあげた。

 

「――ヒクマっ!」

 

 まずい。釣られるなヒクマ、それ以上ジャラジャラのペースに付き合うな!

 私の叫びは、しかし府中の大歓声に掻き消され、ターフのヒクマには届かない。

 迎えた1コーナー。先頭は――ふたり。

 並んで走るふたりが、後ろを2バ身、3バ身と離していく。

 

『さあなんとバイトアルヒクマが逃げます、そしてその横にぴったりとジャラジャラ! このふたりがレースを引っぱる形になりましたオークス! エレガンジェネラルは中団に控えました、エブリワンライクスは最後方で1コーナーを曲がっていきます!』

 

 

       * * *

 

 

 ――おそらく人気の3人は前に行く。だけどジャラジャラのハイペースに無理に付き合う必要はない。マークするならエブリワンライクスだ。じっくり後ろからペースを守れ。

 エンコーダーは、トレーナーからそう言われていたのだけれど。

 

 ――トレーナー! ライクスさん出遅れたんですけどー!

 

 マークするつもりだったエブリワンライクスは大出遅れで後ろにいる。目印を見失って、どうすればいいのかエンコーダーは泣きそうになっていた。

 

 ――ううっ、あの子はなんかすごい前に行っちゃったし……。

 

 デビュー戦で負けた芦毛のあの子――バイトアルヒクマは、なんだか競り合ってジャラジャラと一緒にふたりで逃げる体勢になっている。あんなのについていくわけにはいかない。となったら、このごちゃごちゃした中団で我慢するしか――。

 きょろきょろと周囲を見回したエンコーダーは、すぐ近くにもうひとり、思いがけず人気どころが控えていることに気付いた。エレガンジェネラルだ。

 ジェネラルは前に行かず、外枠から枠なりに中団に控えている。どういうわけか、ちょうどそのジェネラルの内のスペースがぽかっと空いていた。

 

 ――ううっ、なら、ここ!

 

 エンコーダーはそのスペースに潜り込む。エレガンジェネラルがちらりとこちらを見た。

 1番人気。桜花賞ウマ娘。雲の上の存在がすぐ横を走っている。

 

 ――何か作戦があって控えているはず……。とにかく、彼女についていこう!

 

 腹は決まった。エンコーダーはエレガンジェネラルのペースに合わせて走って行く。

 

 

       * * *

 

 

 ――なるほど。バイトアルヒクマさんはジャラジャラさんを潰しに行きましたか。

 

 自分の横に15番人気のエンコーダーが潜り込んで来たのをちらりと横目に見て、エレガンジェネラルは先頭を行くふたりの背中に視線を戻した。

 これも枠順が出た時点で、トレーナーと想定していた展開だった。バイトアルヒクマがジャラジャラの前を塞いでスローペースになる可能性も検討した。そのときはもっと前に出るつもりだったが……。

 結局バイトアルヒクマはジャラジャラの前を塞ぎきれず、ジャラジャラが外に出してバイトアルヒクマを横から突っつく形になった。結果、突かれたバイトアルヒクマのペースが上がり、ふたりが後ろを離して逃げる格好になる。

 このままなら、想定通りのハイペース展開。

 一番恐れていた、ジャラジャラが自由に単騎ハイペースで逃げてしまう展開にならなかったことに、走りながらエレガンジェネラルはほっと息を吐く。

 

 ――バイトアルヒクマさん、ありがとうございます。あとはせいぜいジャラジャラさんと潰し合ってください。直線で、まとめて私がいただきます。

 

 そう思いながら――向こう正面に入ったところで、エレガンジェネラルは小さく息を飲んだ。そこにあった、想定と異なる展開に。

 

 ――遠い。

 

 ジャラジャラとバイトアルヒクマの背中が、想定よりも、遠くにある。

 

 ――ちょっと待ってください、あのふたり、どんなペースで逃げてるんですか?

 

 いや、落ち着きましょう。エレガンジェネラルは自分に言い聞かせる。

 

 ――トレーナーも言っていました。オーバーペースになればなるほどこちらが有利。府中の2400、いくらジャラジャラさんでも、逃げ切るならどこかで溜めるはず――。

 

 そう考えた瞬間、ぞくり、と背筋に冷たいものが走って、ジェネラルは震える。

 

 ――本当に、そうですか?

 ――ジャラジャラさんは、そんなに甘い相手でしたか?

 全力で、私を倒しに来た彼女は――。

 

 

       * * *

 

 

『さあ向こう正面、相変わらずジャラジャラとバイトアルヒクマが後続を6、7バ身とちぎって逃げます、1000メートル通過――』

 

 次の瞬間、そのタイムに、府中がどよめいた。

 

『――58秒0!』

 



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第99話 オークス・ライバルは全て

「ちょっとちょっとクマっち、いくらなんでも飛ばしすぎ!」

 

 身を乗り出したコンプが柵から落ちそうになって、慌ててエチュードが身体を支える。私は双眼鏡から一度目を離して、祈るような気持ちで握りしめた。

 1000メートル、58秒0。オークスとしてどころではない、府中2400ではあり得ないほどの超ハイペースだ。ヒクマとジャラジャラが競り合っての逃げ。しかも上位人気ふたりとあって無視もしきれなかったか、先行勢も59秒台前半で通過していく。中団、10番手前後に控えたエレガンジェネラルまでは12、3バ身、このあたりで通過は60秒前後。例年のオークスなら先頭の通過タイムである。おそらく出走ウマ娘の担当トレーナーのほとんどが頭を抱えているはずだ。もちろん私も。

 ジャラジャラの前に蓋をして、1000メートル60秒台後半から61秒台でのミドルからスロー逃げに持ち込みたかった。だが、ジャラジャラが強引に前に行かず、ヒクマに並んで逆に競り掛けるレースをしてくるなんて――。掛かってしまったヒクマは責められない。想定していなかった私のミスだ。

 絶望的な気分で再び双眼鏡に目を当てる。――そのとき。

 レンズの中のヒクマの表情から、不意にすっと力が抜けた。力んで上がっていた首が下がる。そして――隣を走っていたジャラジャラが、すーっと前に出た。

 

『おっとここでジャラジャラが前に出ます、先頭ジャラジャラ、1バ身リード、バイトアルヒクマは2番手に下げました』

「ヒクマ――」

 

 ジャラジャラが上がったのではない。ヒクマが力尽きたのでもない。意識的に緩めて下げたのだ。ヒクマが冷静さを取り戻した。折り合いがついて、オーバーペースを緩めて、ジャラジャラの後ろに下げた。そのままジャラジャラを風よけにするように真後ろへ。

 ぞくり、と私は両腕に鳥肌が立つのを感じた。当初の作戦は破綻した。ジャラジャラに完全にしてやられて、掛かってオーバーペースになって、完全にテンパってもおかしくないこの状況で――今できる最高の位置取りを確保したのだ。自分から。おそらく考えてのことではなく、本能的に。天性の直感で。

 なんて子だ。この状況でもヒクマはレースを捨ててない。勝てると信じて、勝つために走っている。――それなのに、私が絶望してどうするんだ!

 

「がんばれっ、そうだヒクマ、それでいいっ、がんばれえええええっ!」

 

 私にできるのは、あとはもう、観客席からそう叫ぶことだけだった。

 

「クマっち!」

「ヒクマちゃん……!」

 

 コンプとエチュードの祈りにも似た声。そして、レースは3コーナーへ向かう。

 

 

       * * *

 

 

 ジャラジャラの1000メートル通過は、おそらく59秒前後、バイトアルヒクマが競り掛けてハイペースになったとしても58秒5まで。自分はそれを中団から、10バ身の圏内、1000メートル60秒5から61秒のペースで追えば勝てる。

 ――それが、エレガンジェネラルが事前にトレーナーと立てた想定だった。

 常識的に考えて、オークスを1000メートル58秒0で逃げるなんて、自殺行為もいいところだ。いくらハイペース消耗戦が信条の彼女でも、自分が完全に潰れるペースで走っては元も子もない。そこまで破滅的な逃げを仕掛けて自滅してくれるならむしろ好都合。そう思っていた。

 3コーナーに差し掛かったとき、それが慢心だったことを、ジェネラルは思い知らされていた。――直線勝負? それでは間に合わない!

 既に1000メートル通過で、想定より脚を使わされてしまっている。まして前を行った3番手集団はもうアップアップだ。垂れてきた先行勢が邪魔になりかねない。――もうここで前に行くしかない。

 

『おおっとエレガンジェネラル! エレガンジェネラル上がっていきます!』

 

 ジェネラルは顎が上がり始めた先行集団を横目に、外を捲るように上がっていく。

 ――認めましょう。ジャラジャラさん、私は貴方を侮っていた。

 桜花賞の勝利で、自分とトレーナーの想定は、万全だと、完璧だと慢心した。

 ――だけど、それでも!

 私が最強であることを証明する。トレーナーが託してくれたその夢のために。

 絶対に、こんなところで負けるわけには――いかないんです。

 私と貴方の、勝利への執念――どっちが上か、今ここで、勝負です!

 顔を上げ、エレガンジェネラルは芝を蹴立ててコーナーを曲がっていく。

 

 

       * * *

 

 

 ――うわっ、ジェネラルさんもう仕掛けた! 早すぎない?

 

 エレガンジェネラルが3コーナーから上がっていくのを見て、エンコーダーは狼狽する。どうしよう。こっちも上がる? でも、前はごちゃごちゃしてるし、コーナーで外に持ち出したら膨らんじゃって大ロスになるし――。

 

 ――ううっ、いや、ここは我慢! 我慢のしどころ!

 

 じっくり後ろからペースを守れ。トレーナーの言葉を噛みしめて、エンコーダーはジェネラルを見送ってじっと内に構えた。

 どうせ欲をかくような立場ではないのだ。内で我慢して、前が壁になっちゃったらそこまで。ダメでもともと、経済コースに隙間ができるのをお祈り! いい動画だって、見て貰えるかどうかは運とタイミング次第なのだ。チャンスを待つ!

 中団バ群の中に、エンコーダーは息を潜めたまま、4コーナーを曲がっていく。

 

 

       * * *

 

 

『さあ直線に入りましたオークス、先頭はジャラジャラ、2バ身のリード、2番手バイトアルヒクマ、そして外からエレガンジェネラル! エレガンジェネラルが追い込んできた! 内からバイトアルヒクマ! バイトアルヒクマが迫る! ジャラジャラ逃げる! 残り400、坂を上る!』

 

 直線入口で、2番手につけていたバイトアルヒクマが仕掛けた。

 府中のどよめく二の脚ロングスパート。先頭で逃げるジャラジャラに内から迫る。

 そして外からは、エレガンジェネラルが捲って上がってくる。

 坂を上り切る。残り300。

 バイトアルヒクマが、ジャラジャラに再び並んだ。

 その4、5バ身後ろから、エレガンジェネラルが猛然と迫る。

 

 そのとき、レースを見ていた大半の者が思った。

 ジャラジャラはここまで。途中で折り合いをつけたバイトアルヒクマが、力尽きたジャラジャラをかわすが、それを中団で我慢したエレガンジェネラルが大外から差し切る。

 これはエレガンジェネラルのダブルティアラだ――と。

 

 

       * * *

 

 

 エレガンジェネラルを倒す。この1ヶ月、それだけを考えてきた。

 府中2400、あいつの末脚をハイペース逃げですり潰す。ただそれだけが目標だった。それ以外のことなんて何も目に入っていなかった。

 ――たぶんそのままだったら、飛ばしすぎて自滅していた。

 

 そんな自分の横っ面をはたいて、目を覚まさせたのは、あいつだった。

 見覚えのある芦毛が、スタート直後に自分の前を塞ごうとしてきた。

 最内の1枠1番。全力逃げ一択の枠順。スタートから先頭で走ることしか考えてなかったあたしは、その芦毛の横顔で、完全に目が覚めた。

 あいつだ。あのクマだ。――そう、思い出した。こいつの覚えにくい名前――。

 

 敵はジェネラルだけじゃない。こいつも全力であたしを潰しに来た。

 あたしが倒すべき相手は――他の17人全員だ。

 強い奴だけじゃない。視界にも入ってなかった奴だっている。

 だけどそいつらも全員――あたしを倒しに来ている。

 勝つために、このレースに出てきているのだ。

 

 そのことに気付いた瞬間、ぱっと視界が開けた気がした。

 ふつふつと湧き上がる興奮に、全身が震えるほどに奮い立った。

 ――ちくしょう、あたしはバカだったよ!

 あたしを熱くさせてくれるのは、ジェネだけじゃない。

 どんな相手だろうと、あたしに挑んで来る限りは、全てがすり潰すべき――ライバルだ。

 

 なあ、そうだろう。――バイトアルヒクマ!

 いいぜ。あたしを潰そうってんなら、その勝負乗った。

 塞げるもんなら、あたしの前を塞いでみせやがれ!

 

 そうして、あの芦毛の隣に並んだ。あいつもそれに釣られてペースを上げた。問答無用、無謀なまでの超ハイペース。ぞくぞくと昂ぶる。こうだ。これがあたしのレースだ。ついてこれるもんならついてきやがれ、全員すり潰してやる!

 その勢いでブッ飛ばし、向こう正面でバイトアルヒクマが下げて後ろについた。ちらりと後ろを振り返ると、バイトアルヒクマは決意と闘志を秘めた目で見つめ返してきた。

 ――こいつ、潰される気ゼロだ。

 この後に及んで、番手からあたしを差し切る気でいやがる。

 ますます昂ぶる。これだよ、あたしが欲しかったのは、こういうライバルだよ!

 なあ、ジェネ。――お前だけじゃねえんだ。中団でもたもたしてたら、置いていくぜ。

 あたしはなんたって、超ハイペースで突っ切る褐色の弾丸なんだからよ!

 

 さあ、いくぜ、バイトアルヒクマ、エレガンジェネラル!

 差し切れるもんなら、差し切ってみろ。

 逃げはするけど、隠れはしねえ。

 

 最強は、この、ジャラジャラ様だ。

 

 

       * * *

 

 

 残り200。

 後ろを突き放すように、ひとりのウマ娘がぐっと力強く伸びた。

 弾丸のように。ただ真っ直ぐに。府中の直線を撃ち抜くように。

 ――その顔に、獰猛な笑みを浮かべて。

 

『ジャラジャラ逃げる、ジャラジャラ逃げる、食い下がるバイトアルヒクマ、大外エレガンジェネラル、最内からはエンコーダー! エンコーダーが突っ込んで来る!』

 

 残り100。

 内で粘っていたバイトアルヒクマの顎が――上がった。

 力尽きたその芦毛を、外からエレガンジェネラルがかわしていき、背後からバ群の隙間を縫って猛然と追い込んできたエンコーダーが迫る。

 そして、その前を、ジャラジャラが弾丸のように駆け抜けていく。

 

『外からジェネラル、外からジェネラル、しかしジャラジャラだ! ジャラジャラだ! エレガンジェネラルこれは届かない!』

 

 残り50。

 もはや逆転しようのない決定的な差を前に、エレガンジェネラルが目を閉じた。

 

 府中の大観衆の、地鳴りのような歓声の中を。

 先頭でゴール板を駆け抜けていくのは――褐色の弾丸。

 

『ジャラジャラだ! ジャラジャラだーっ! 逃げ切った! 逃げ切った! 府中2400逃げ切ったのはジャラジャラだ! これがジャラジャラだ! 女王の座は譲らない! エレガンジェネラルには絶対に負けられない! ジャラジャラです!』

 

 そして、掲示板に、タイムが表示された瞬間。

 府中の歓声は、どよめきに変わる。

 

『――2分22秒2! スーパーレコード!』



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第100話 オークス・決着、そして

 ゴールの瞬間に見えたのは、ただ、眩いばかりの光。

 一瞬遅れて、東京レース場の芝生の緑と、晴れ渡った空の青が視界に満ちて。

 ゆっくりと脚を緩めたジャラジャラの耳に聞こえるのは、自分の鼓動の音。

 そして――遅れて響き渡ったのは、どよめきにも似た、府中の大歓声。

 流れる汗が目に入って、ジャラジャラは右手で目元を擦り、そしてスタンドを見上げた。

 ――勝った。

 掲示板を振り返ることはしなかった。じわじわと湧き上がってくる確信に、ジャラジャラはゆっくりと両の拳を握りしめた。

 ――勝ったのは、あたしだ。

 ぶるり、と身震いする。こみ上げてきたのは、これまでにない昂ぶりだった。

 そして、その昂ぶりの正体が――歓喜であることに、ジャラジャラは気付く。

 ――はっ、はははっ……なんだこれ。なんだよこれ。

 ――そうか、そうだったな。勝つって――こんな、嬉しいもんだったな!

 

「だああああっ、っしゃああああああああああああっ!!」

 

 震える両拳を突き上げて、ジャラジャラは歓声に応えるように吼える。

 その雄叫びに呼応するように、スタンドから湧き上がるコール。

 ――ジャラジャラ! ジャラジャラ! ジャラジャラ!

 阪神JFをはるかに上回る、10万人のジャラジャラコール。

 大波のようなその声を一身に浴びて、蒼天を仰いだジャラジャラの元へ――。

 

「ジャラジャラ!」

 

 駆け寄ってくる、大柄な影がひとつ。担当の棚村トレーナーだった。

 視線を戻したジャラジャラは――駆け寄ってくるトレーナーが、見たことのない顔をしていることに目を丸くする。

 棚村は、角刈りの精悍なその顔を、ぐしゃぐしゃにして――泣いていた。

 

「お、おいおい、トレーナー、なんだよその顔? ――って、おわっ」

「よくやったっ、すごいっ、本当にすごいな君は……っ! ありがとう、ありがとう……っ、君を信じて良かった……っ」

「ちょっ、待てよ、落ち着けよトレーナー!」

 

 トレーナーの太い腕に抱きすくめられ、ジャラジャラはもがく。

 

「……すまん、桜花賞のときは余計なことを言った。君の将来を守りたい一心で、君に不完全燃焼のレースをさせてしまったかもしれない……」

「――――」

 

 無理だけは、絶対にしないでほしい。――桜花賞の前、トレーナーからかけられた言葉。

 そのせいで自分が負けたのではないか。……そんなことを、ひょっとして、ずっと気にしていたのか。このトレーナーは。

 ――なんだよそれ。バカだなぁ……。

 ジャラジャラは苦笑して、トレーナーの胸板を押して暑苦しい身体を引き剥がす。

 そして、目元を拭うトレーナーの胸元へ、どん、と拳を突き出した。

 

「ばーか。あんまジャラジャラさんを舐めんじゃねーよ。それに――このぐらいでそんなに感激してたら、この後涙で干からびんぞ?」

 

 にっ、と笑って、ジャラジャラは突き出した拳を銃の形にして、「BANG!」とトレーナーの胸を撃ち抜く。

 

「ジャラジャラさんの最強伝説は、こっから始まるんだからな」

 

 そしてジャラジャラは、トレーナーを押しのけるようにして、もう一度スタンドに向き直る。まだ鳴り止まないジャラジャラコールへ向け、両手を銃の形に構え。

 

「――BANG!」

 

 スタンドを撃ち抜いてやると、10万の歓声は地鳴りとなって府中を揺るがした。

 

 

       * * *

 

 

 地下バ道で、腕組みをして待つ王寺トレーナーの姿を見て、エレガンジェネラルは脚を止めた。脚元を見つめる顔が上げられない。合わせる顔がないとはこのことだった。

 トリプルティアラ、エリザベス女王杯、有馬記念を全て勝つ。桜花賞後に打ち明けられたトレーナーの夢。最強の証明。それを最初で躓いてしまうなんて。

 何が完璧か。何が万全か。――何が姫将軍か。

 

「……申し訳、ありま、せん」

 

 震える拳を握りしめて、脚元を見つめたままそう、絞り出すことしかできない。

 どんな言葉も甘んじて受け入れる覚悟だった。敗れてしまった以上は、何も返せる言葉はない。結果が全てだ。

 ――けれど、次の瞬間。

 ジェネラルの頭に乗せられたのは、トレーナーの温かい手のひらだった。

 

「……どうやらまだまだ、私の想定も計算も甘かったようだ」

「――――」

「相手がこちらの想定を超えてくるなら、それすらも想定して君を仕上げるのが私の仕事だった。これは、私の敗戦だ。何が足りなかったか。ジャラジャラを完膚なきまでに倒すために、何が必要か。もう一度、秋華賞までに、ゼロから全てを検討し直そう」

「――――――はい」

 

 こみ上げてくるものを、唇を噛んで堪えながら、エレガンジェネラルは小さく頷いた。

 

 

       * * *

 

 

 ゴールした瞬間は、ただ無我夢中だった。

 自分が何着でゴールしたのかもわからないまま、エンコーダーは脚を止めた。

 鼓膜に戻ってくる大歓声。その中心で、コースに飛び込んできたトレーナーに抱きしめられた、褐色のウマ娘の姿がある。――ジャラジャラだ。

 ああ、彼女が逃げ切ったんだ……。

 ひとつ息を吐き出して、それからエンコーダーは視線を彷徨わせ、掲示板を見上げた。

 一番上に点灯した数字が、1。ジャラジャラ。

 その下に点灯した数字が、14。エレガンジェネラル。

 そこまではエンコーダーにもすぐわかった。最上位人気のふたりが順当にワンツー。やっぱり、強いウマ娘は強いのだ。自分なんかには到底手が届かないほど――。

 

「……え? あれ?」

 

 その次。3番目に点灯した数字を、エンコーダーは咄嗟に理解できなかった。

 11。6枠11番。その番号に、ひどく、見覚えがあった。

 ――え? え、え、えええええ?

 

『ジャラジャラ、大レコードを叩き出しました! そして2着は14番エレガンジェネラル! 3着は11番のエンコーダー! そして2番バイトアルヒクマはまたも4着!』

 

 場内実況の声が、自分を呼んで――そこでようやく、エンコーダーは理解した。

 ――3着? わたしが……3着?

 けれどそれが現実とは思えず、エンコーダーはスタンドの方を振り返った。

 トレーナーが、動画を撮るためのカメラを構えながら、エンコーダーへ向けて高々と拳を掲げていた。

 

「おめでとう、エンコーダー! すごいぞ、オークスのウイニングライブだ!」

 

 歓声の中で、トレーナーの叫んだ声が、はっきりとエンコーダーの耳に届く。

 ――あ、あ……わたし、わたし……ウイニングライブ……? オークスの、3着?

 もう一度掲示板を見上げる。夢でも幻でもなく、11の数字は3番目にあった。

 その下に、あの芦毛の子。デビュー戦で負けたバイトアルヒクマの2番がある。

 ……勝った。いや、3着だから負けたんだけど、わたし、あの子に勝った……!

 3着。GⅠで、クラシックで、わたしが、3着……! あとちょっと、あとちょっとで、1着まで、センターまで、届きそうなところまで……来られたんだ……!

 次の瞬間――ぶわっとこみあげてきた感情を抑えきれず、エンコーダーはトレーナーに動画を撮られていることも忘れて、その場で声をあげて泣きだした。

 その涙の理由もわからないまま、エンコーダーの涙が歓声を吸い込んで、芝生に落ちて消えていく。

 

 

       * * *

 

 

 自分がいつ、何着でゴールしたのかも、エブリワンライクスにはわからなかった。

 気が付いたらレースが始まり、気が付いたらレースが終わっていた。

 その2分半ほどの間、ライクスの頭はずっと真っ白だった。

 自分がどうやって、どんな風に走ったのかもわからない。

 無我夢中。――いや、違う。ただの茫然自失だった。

 掲示板を見上げても、そこに自分の番号がないことしかわからなかった。

 歓声も、陽光も、芝生の感触も、何もかもひどく現実感がない。

 流れる汗と、切れた息が、自分がレースを走りきったということを示しているだけ。

 敗れたウマ娘たちが地下バ道へ引き揚げていく。その流れに流されるように、ライクスもふらふらとそちらへ向かった。

 地下バ道の入口で、トレーナーが痛ましそうな顔をして、ライクスを待っていた。

 

「……おつかれさま」

 

 言葉はそれだけ。タオルで身体を抱えられて、それでもまだ、ライクスは現実感を取り戻せない。――あだし、なして、なして……どんだんだ?

 トレーナーに肩を抱えられるようにして、奧へと引き揚げていく、その最中。

 

「――それにしても、エブリワンライクスはどうしたんだ?」

 

 ふと、そんな誰かの声が聞こえた。

 

「出遅れも酷かったが、その後がもっと酷い。全く走りに集中してなかったな」

「パドックでも気迫を感じなかったし、嫌な予感はしてたんだが……」

「まさかブービーから5バ身差の最下位とはなあ」

「やっぱり〝四強〟なんてのは過大評価だったな。バイトアルヒクマも頑張ったが、この世代はジャラジャラとエレガンジェネラルの2強だ。あのふたりは怪物だよ」

 

 それが、取材待ちをする記者の会話だということも、ライクスにはわからない。

 わからないまま、言われた言葉だけが、ライクスの身体に、容赦なく突き刺さる。

 

「それにしたって、今日のエブリワンライクスは無いな。全くレースになってなかった」

「どこまで食い下がれるかと思ってたんだが……がっかりだったな」

 

 隣で、トレーナーが抗議の声をあげようとした。しかし話をしていた記者はそれにも気付かず、「あっ、ジャラジャラが戻ってきたぞ!」とそちらに駆けだしていく。

 

「……ライクス」

 

 隣でトレーナーが気遣うように囁く。けれど、その声もライクスの耳には届かない。

 今言われた言葉の全てが、ライクスの頭の中を反響して、こだまして、消えない。

 

 ライクスはその場に膝を突いた。

 もう、そこから立ち上がれる気がしなかった。

 

 

       * * *

 

 

 汗みずくの姿で地下バ道に戻って来たヒクマを、私はコンプとエチュードと一緒に、タオルを広げて出迎えた。

 

「……トレーナー、さん」

 

 脚を止めたヒクマが、次の言葉を発する前に、私はその身体をタオルで包みこむ。「わぷっ」と声をあげるヒクマを、私は抱きしめるようにして、その汗に濡れた芦毛を拭う。

 

「トレーナーさん……ごめん、ね」

「謝るな。……ヒクマが謝る必要なんてない。よくやった。ヒクマは本当に、よくやったよ。最高のレースだった。――勝てなかったのは、ヒクマのせいじゃないから」

 

 タオルの中で小さく震えるヒクマの背中を、私はただ、さすってやることしかできない。私の両脇で、コンプとエチュードが心配そうにヒクマの肩に手を置く。

 ――と、そこへ。

 

「おい、クマ!」

 

 聞き覚えのある声がして、私は顔を上げ、ヒクマもタオルから身を離して振り向いた。

 そこに、ウイナーズサークルでの取材を終えたらしい、ジャラジャラが立っていた。隣に眼を赤くした棚村トレーナーを従えて。

 

「ジャラジャラ、ちゃん。……わたし、クマ、じゃ、ないよ」

 

 力のないヒクマの反駁に、ジャラジャラはひとつ鼻を鳴らして、

 

「おう、そうだったな」

 

 と。そう言って、ジャラジャラは拳を突き出して、ヒクマの胸を軽く突いた。

 ヒクマはきょとんと目をしばたたかせる。そんなヒクマに――ジャラジャラは笑った。

 

「最高の勝負だったぜ。次もすり潰してやっから、お前も次はもっと強くなって来いよ。――なあ、バイトアルヒクマ!」

 

 どん、とヒクマの胸を叩いて、そしてジャラジャラは「じゃあな」と私たちの傍らを通り過ぎて行く。ヒクマは茫然とそれを見送って――。

 

「――負けない! わたしも、次は絶対負けないよ! ジャラジャラちゃん!」

 

 その言葉に、ジャラジャラは振り向くと、片目を瞑って、銃の形にした指をヒクマに向けて、「BANG」と撃ち抜くポーズをして。そうして、ひらひらと手を振って立ち去っていく。

 その背中を見送るヒクマの背には、もう、先程の弱々しさはなかった。

 

「う~~~~~っ、くやしいっ! トレーナーさんっ、わたしくやしいっ、すっごいすっごいくやしいっ! ジャラジャラちゃんにもジェネラルちゃんにも、勝ちたいっ、今度こそ勝ちたいっ!」

 

 そうして、私の方を振り返ったヒクマは、ぶんぶんと両腕を振って、ぎゅっと唇を引き結んで私を見上げる。その表情に溢れた闘志に、私はぶるりと身を震わせる。

 ――ああ、本当に、本当にすごい子だ。

 とうに解りきっていたことだけれど、ジャラジャラとエレガンジェネラルは本物の怪物だ。どっちも間違いなくトゥインクル・シリーズの歴史に残るウマ娘になる。いや、このオークスで既にそうなったと言っていい。そんな怪物に何度も叩きのめされて、それでもヒクマは、あのふたりに勝ちたいと言えるのだ。折れることなく。

 こみあげてくるものを堪えるように、タオルの端で顔を拭って、私はヒクマに向き直った。ここで私が、情けない顔をするわけにはいかない。

 

「――ああ。次こそ勝とう! 秋華賞だ、秋華賞で勝って、ジャパンカップに行くぞ!」

「うんっ! う~~~~~っ、次は絶対勝~~~~つ!」

 

 両腕を高々と掲げたヒクマの声が、地下バ道に響き渡る。私はもう一度ヒクマのその肩を叩いて――それから。

 こちらに向かってくるマスコミの記者たちの姿が、目に入った。

 

「……コンプ、エチュード。ヒクマを控え室まで送ってくれる?」

「え、トレーナーは?」

「私はちょっと、後から合流するから。少しヒクマを休ませてあげて」

「……はい、わかりました。行こう、ヒクマちゃん、コンプちゃん」

 

 エチュードが私の声音で何かを察したか、ヒクマとコンプを促して控え室の方へ急ぐ。それを見送って――向かってきたマスコミの前に、私は立ちはだかった。

 

「バイトアルヒクマ選手のトレーナーですね? バイトアルヒクマ選手は――」

「まだレースが終わったばかりです。休ませてあげてください」

「では、今日のレースについて一言。ジャラジャラ選手と一緒に逃げたのは作戦だったのでしょうか?」

 

 マイクを差し出され、フラッシュが焚かれる。私は小さく唇を噛みしめて、そして可能な限り、毅然と答えた。少なくとも、自分ではそのつもりで。

 

「私の指示です。ジャラジャラ選手の前に出て、スロー逃げに持ち込む作戦でしたが、逆に向こうのペースに飲まれました。けれど、ヒクマはその中で、今できる最高のレースをしてくれたと思います」

 

 そこで一度言葉を切り、私はただ、こう付け加えた。

 

「――ですから、今日の敗因は、全て私にあります」

 

 

       * * *

 

 

 5月19日、オークス(GⅠ)。

 1着、1番ジャラジャラ(2番人気)。

 2着、14番エレガンジェネラル(1番人気)。

 3着、11番エンコーダー(15番人気)。

 4着、2番バイトアルヒクマ(3番人気)。

 

 18着、8番エブリワンライクス(4番人気)。

 



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第101話 葵ステークスへ向けて・証明

 ――オークス後、某掲示板のログ。

 

《結局トレーナー本人が認めてる通りだろ。敗因はトレーナーの逃げ指示だ。あれだけ前半掛かってあそこまで粘ったんだから、最初から折り合って番手に控えてたら差し切れたんじゃないのか?》

 

《隣の枠引いたんだからジャラジャラを逃げさせないって作戦自体は妥当じゃね? 結局ジャラジャラが逃げ切ったんだから間違ってない》

 

《それこそ結果論だっつーの。いくらジャラジャラでも府中2400をレコードで逃げ切れるなんて事前に予想できるか。せっかく内枠引いたんだからエレガンジェネラルほど下げる必要はないにしてもマークして番手のレースの方が妥当》

 

《桜花賞はそれで結局差し切れなかったんだから作戦変えるのもわかるけどなあ》

 

《あれは極悪バ場で荒れ放題の最内に押し込められたせいだろ》

 

《でも番手に控えても結局ジャラジャラを差し切れた気はしないんだよな》

 

《だとしても控えていれば少なくともエンコーダーにかわされることはなかっただろ。エレガンジェネラルには勝ってたんじゃね?》

 

《あっさり抜け出せば強いんだけど競り合いに弱いんだよなあ。根性がないのか》

 

《新人トレーナーが甘やかしてんじゃないの?》

 

《素質は間違いなくジャラジェネ級なんだけどなあ、バイトアルヒクマ》

 

《結局いつも通りの先行策で走らせてやればよかったんだよ。それで結果出してきたんだから。奇をてらってジャラジャラ潰しの逃げなんか仕掛けるからああなる。つまり担当ウマ娘の能力をトレーナーが信じ切れてないってことだろ? 担当変えるべきじゃね?》

 

《んなことここで言ったって仕方ねーだろ》

 

《まあレース直後に敗因は自分だって言い切ったことは評価する》

 

《それでウイニングライブ逃すのは担当なんだけどな》

 

《これでGⅠ3戦連続4着だぜ。もう狙ってやってるとしか思えん》

 

《トレーナーが悪いよトレーナーが! ヒクマちゃんのGⅠライブ見せろよ!》

 

 

       * * *

 

 

 5月25日、土曜日。京都レース場、第11レース。

 葵ステークス(GⅢ)。芝1200メートル。

 

 

 控え室に入ると、コンプが険しい表情でスマホを睨んでいた。

 

「コンプ? どうしたの」

「ふえっ!? とっ、トレーナー、いたの?」

「ノックしたんだけど……。何かあった?」

「なっ、なんでもない!」

 

 私がスマホに視線を向けると、コンプは慌てたようにスマホの電源を落として伏せた。そして、わざとらしく気合いを入れ直すように頬をぱんぱんと叩く。

 そして、今までになく気合いの入った顔で私を見上げた。

 

「トレーナー。――あたし、今日は絶対勝つから。しっかり目に焼き付けときなさいよ、このブリッジコンプちゃんの最強伝説の始まりは、ここからなんだから」

 

 どん、と拳で私の胸元を叩いて、コンプは言う。

 その声色は――何か、今までとは違う。

 今までのコンプは、なんというか、良くも悪くも対戦相手のことを気にしていた。ユイイツムニ。チョコチョコ。目標とするライバルがいるのはいいことだが、それでムキになりすぎるのが玉に瑕なところである。

 それなのに――今日は。いや、もう何日も前から、コンプは一度も、今日の対戦相手であるユイイツムニのことを口にしていない。『あの三つ編み眼鏡』というコンプの言葉を、最後に聞いたのはいつだったか……。

 ユイイツムニ。フィリーズレビューを勝ちながら、桜花賞もNHKマイルカップも蹴ってこの葵ステークスに出てきた、コンプにとっては二度敗れている宿敵。意識していないはずがない。本来、打倒ユイイツムニこそがこのレースの目標だったのだから。そのための特訓だって積んできたのだ。

 それなのに。目標は言葉にして自分を奮い立たせるタイプのはずのコンプが、ユイイツムニのことを口にしないのは――いったい、どういうことなのだろう。

 

「ちょっと、なによトレーナー。レース前に情けない顔しないでよ」

 

 私を見上げて、コンプは頬を膨らませる。

 

「それともなに? このブリッジコンプちゃんの言うことが信じられない?」

 

 私は咄嗟に首を横に振る。「よろしい」とコンプは腰に手を当て、踵を返した。

 そして、私に背中を向けたまま、控え室を出て行く間際に、コンプは言った。

 

「見てなさいよ、トレーナー。――あたしが、証明してきてあげるから」

 

 

       * * *

 

 

「ひゃー、すごいよムニっち。投票支持率66%だってさ」

 

 チョコチョコがスマホを弄りながら言う。ユイイツムニは特に答えず、体操服のブルマの裾を直しながら、控え室の姿見に自分の姿を映し出した。

 GⅢの緑色のゼッケン。勝負服を着る舞台をふたつとも蹴って、わざわざこの格好で走りにきた理由が何なのか、実はムニ自身にもよくわかっていなかった。

 フィリーズレビューで、今の自分にマイルは長いということはわかった。だから秋のスプリンターズSまではスプリントに絞る。その意思表示としての出走。

 あるいは、デビュー戦と京王杯ジュニアで自分に食らいついてきたあの子。3月のファルコンSで、チョコチョコの挑戦状を袖にしたあの子との、三度目の対戦のため。

 どちらでもあり、しかしこの両方だけで全てではないという気もする。ただ、どうしてそう思うのかもよくわからない。自分自身の内心がホワイダニットミステリになってしまっている。ムニはひとつ溜息をついた。

 

「ん? どったのムニっち。レース前に溜息なんてらしくないじゃん」

「……別に」

「まさかムニっちが、『重賞タダ貰いに来た』とかとか言われてんの気にしてるわけでもないっしょ?」

 

 ――言われてることがそれだけではないということも、ムニは知っている。

 ジャラジャラとエレガンジェネラルから尻尾を巻いて逃げた。桜花賞を回避したときに、そんな風に言われていたことは、ムニの耳にも否応なく入っていた。チョコは自分のことを世間のことなんて何も気にせずに本の世界だけに耽溺してるみたいに言うけれど、そこまで社会性を失っているつもりはないのだ。

 ムニ自身は、言いたい奴には言わせておけばいいじゃん、というチョコの見解に同意するし、壁が高いなら越えられる自信がつくまで研鑽を積むのは当たり前だと思う。今はまだそのときでない。そう決めたのは自分だし、それを野次馬的な外野に好き勝手言われる筋合いはない。

 ましてそんな雑音が、ここに来た理由でも、今のこの奇妙な気分の原因でもあろうはずがない。

 

「……チョコ」

「んぁ? ふぁ……なに?」

 

 いつものように眠そうに欠伸を噛み殺したチョコを振り向いて、ムニは。

 

「――――」

 

 何かを言おうとして、しかし自分が何を言いたかったのかわからなくなり、口をつぐんだ。そして、チョコの横を通り過ぎて呟く。

 

「勝ってくる」

「はいはい、待ってますともさー」

 

 後頭部で腕を組んで笑うチョコに、ムニは小さく笑い返した。

 

 

       * * *

 

 

 同日、東京レース場。

 

「やややっ、レイさん! こちらにいらっしゃいましたか!」

「委員長? 来てたんだ」

「もちろんですとも! レイさん、連勝おめでとうございます! バイタル祝福です!」

「やー、どもどもねー。勝てて良かったよー」

 

 今日の6R、芝1400メートルの1勝クラスのレースを終えたソーラーレイは、ウイニングライブまでの待ち時間をその後のレースを見ながら過ごしていた。今はジャージ姿でレース場内のテレビに映る、京都レース場で行われるGⅢ、葵ステークスのパドックを眺めている。そこへ、制服姿のバイタルダイナモが駆け寄ってきた。

 画面の中で、ユイイツムニがパドックに姿を現した。いつも通り、何を考えているのかよくわからない無表情で観客へ軽く手を振っている。

 ――なんであたしは、あそこにいないんだろ。

 問うてみても、答えはわかりきっている。出走に必要なファンPtが足りなかったからだ。レイはまだ未勝利戦を勝っただけ。今年の葵ステークスは、1勝クラスを勝つか重賞2着の経験があるウマ娘でフルゲートが埋まってしまった。レイは登録はしたものの、あえなくPt不足で除外となって、同日の東京の1勝クラスに回ったのである。

 1戦早く未勝利を脱して、1戦早く1勝クラスを勝っていればあそこに出られた。今さら悔いても詮ないことではあるが――やはり、悔しい。

 明日のダービーが終われば、もうクラシック級限定の短距離戦はない。最低でもシニア級相手に2勝クラスを勝たないと、夏の短距離重賞にも出られない。ユイイツムニやチョコチョコの背中は、まだまだ遠い。隣の委員長すらも。

 

「委員長、次は新潟だっけ?」

「はい、アイビスサマーダッシュです! バイタル一直線です!」

 

 既にファルコンSを勝って重賞ウマ娘になっているダイナモは、ドヤ顔で胸を張る。まったく、なんで、あたしの周りはこんな、マイペースなツワモノばっかなんかなあ――。

 

『13番、ブリッジコンプ。2番人気です』

 

 ――あ、あいつだ。ユイとチョコに張り合ってる尾花栗毛のウマ娘。

 気合いの入った顔でパドックに現れたその姿を眺めながら、レイは拳を握りしめた。

 ――ああ、あたしも早く、あんな風にユイチョコと戦いたい。

 待ってろユイチョコ。必ずどっかで吠え面かかせてやるっしょ!

 声には出さず、レイは画面を睨み付ける。

 

 

       * * *

 

 

「まあ、ユイイツムニで決まりだろ。しっかし、1400の重賞2勝してるウマ娘が桜花賞もNHKマイルも回避して、わざわざ葵Sに出るか? 普通」

「出ちゃいけないってこともないだろ。阪神JF見れば桜花賞出てもジャラジャラとエレガンジェネラルには勝てないのは目に見えてるし、NHKマイルには同じトレーナーのチョコチョコが出てたしな。クラシック級の春にスプリントGⅠがないのが悪い」

「それにしたってなあ。今日の面子で対抗できそうなのはブリッジコンプぐらいか」

「ブリッジコンプも運が悪いというか……ユイイツムニさえ出てこなきゃ勝てたろうに」

「バイトアルヒクマと同じ担当トレーナーだっけ? 新人だよな」

「チョコチョコの出てくるファルコンS回避して、勝てそうなこっちに回したんだろうけどなあ。オークスといい、あのトレーナー、やることがことごとく裏目ってるよな」

「だいたい新人がいきなりティアラの世代トップクラスと短距離の重賞級のウマ娘を同時に担当してるってどうなってんだろうな。よっぽど見る目があるんだか、それともなんかのコネか?」

「コネじゃねーの? ハッピーミークの桐生院みたいなさ」

「コネトレーナーの犠牲にしていい素材じゃないんだよなあ……」

 

 ――観客がそんな会話をしているのが、否応なく耳につく。その声を振り払うように脚を速めて、私はトレセン学園関係者席に向かった。最前列でヒクマとエチュードが手を振っているのに歩み寄る。

 

「トレーナーさん! ……どしたの?」

 

 知らず知らずのうちに顔が強ばっていたかもしれない。心配そうに小首を傾げたヒクマに「なんでもないよ」と笑いかける。エチュードは何か言いたげに私を見つめていたが、やがてゆっくりと首を振ってターフに視線を戻した。

 私もターフに視線を向ける。既に向こう正面のゲートにウマ娘たちが入っていくところだ。双眼鏡を目に当てると、気合いの入った顔でコンプがゲートに向かうのが見える。

 ――先程聞こえてきた観客の会話が、耳の中にこだました。

 私は別に、何を言われてもいい。担当が勝てないのはトレーナーの責任だ。その批判は甘んじて受け入れるし、そうやってウマ娘の盾になるのがトレーナーの役目だということも理解している。

 だけど、――だけど。

 先週のオークス。私は、ヒクマの力を信じ切れずに小細工を弄して、ヒクマの一生に一度の舞台を潰してしまったのだろうか。

 ヒクマ。コンプ。エチュード。3人とも、本来新人の私なんかが任されていいウマ娘ではないことぐらいわかっている。もっと経験のあるベテラントレーナーの元で優れた指導を受けるべき逸材だと言われれば、その通りだと返すしかない。

 この1週間、弱気になってはいけない、と自分に言い聞かせている。

 けれど、どうしても頭をよぎるのだ。

 私がトレーナーであることが、3人の脚を引っぱっているのではないか――。

 そんなことは考えるな。3人とも私を信じてついてきてくれているのに、私が自分を信じられなくてどうする。それは3人の信頼を裏切る行為だ。そう自分に言い聞かせて続けないと、立っていられないような不安が、背中にのしかかる。

 

「……コンプ」

 

 祈るような気持ちで、私は双眼鏡を握りしめることしかできない。

 

 

『体勢完了。――葵ステークス、スタートしました!』



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第102話 葵ステークス・信じているから

『4番ユイイツムニ今日も好スタート、13番ブリッジコンプもやはりいいスタート、さあどっちがハナを切るか注目の先行争いですが――』

 

 ゲートが開き、ウマ娘たちがどっと飛び出す。やはり抜群のスタートで前へ出て行くのは三つ編みを揺らした芦毛、ユイイツムニ。そして外からコンプも好スタートを切ると、内にウマ娘がいないのを見てすっと切れ込んでいく。

 京都の芝1200は3コーナーまでの距離が短いうえに、コーナーの下り坂で勢いがついて外に振られがちになる。コンプは絶好のスタートで外枠の不利をまずは薄れさせた。ここまでは予定通り。問題はここからだ。内枠にユイイツムニに対する位置取り――。

 

『さあハナに立ったのはユイイツムニです、ブリッジコンプは2番手、その半バ身後ろにつけました』

 

 双眼鏡の中、ユイイツムニがちらりと外を振り返る。コンプは首を下げ、その視線を避けるようにして折り合っていた。

 ――コンプ。

 私はぎゅっと双眼鏡を握りしめる。祈るように。願うように。

 

 

 

 ――オークスの前。

 ヒクマとコンプで、ジャラジャラ対策のスタート練習を繰り返したのは、オークスでジャラジャラを逃げさせないため、だけではなかった。

 

「コンプのスタートの上手さは天下一品だからね。コンプのスタートダッシュに慣れれば、ジャラジャラのロケットスタートにも必ず対応できる」

「ふっふーん。逃げウマ娘はスタートが命だかんね」

 

 ドヤ顔で胸を張るコンプに、『おー』とヒクマが笑う。

 

「あたしだってあの三つ編み眼鏡にハナ譲るつもりはないもん。スタートの練習ならいくらでも付き合ってあげる」

「うん、練習ではもちろんその意気であってほしいけれど――」

 

 私の言葉に、「ん?」とコンプは眉を寄せる。私はコンプに向き直った。

 

「これは、ヒクマだけじゃない。コンプにとっての特訓にもしたいんだ」

「あたしの?」

「そう。――番手で折り合いをつける特訓だ。ユイイツムニに勝つために」

 

 コンプが目を見開いた。

 

 

 

「ブリッジコンプ、番手で折り合ってるじゃないか」

「もっと前に行きたがるタイプじゃなかったか?」

 

 近くからそんな声がする。私は息を止めて、双眼鏡の中のコンプの横顔に見入った。

 落ち着いている。折り合っている。無理にハナを切らず、ユイイツムニの外に貼り付くようにして、2番手での追走。――特訓の成果が、ちゃんと出ている。

 コンプとユイイツムニ。同じ短距離の逃げウマ娘同士、スタートは互角、スピードも絶対的な差はない。ここまで勝敗を分けているのは、折り合い面だと私は見ていた。先頭に立てなかったり、後ろから突かれると掛かってしまうコンプに対して、ユイイツムニは逃げてマークされても落ち着いているし、番手でも折り合える。その差は大きい。

 ならば、コンプも番手で折り合えるようになれば。逃げるユイイツムニを徹底マークして、直線に脚を残して差し切る、そんなレースができるようになれば。もちろん余裕をもって逃げられるならそれがベストだが、同じ逃げウマ娘のユイイツムニとこれからもやり合うのであれば、作戦の選択肢は多い方がいい。

 そう考えて、ヒクマのハナを奪うためのスタート特訓を、同時にコンプにとってはヒクマの後ろで折り合いをつけるトレーニングにしたかったのだ。ユイイツムニとは同じ芦毛だし、一緒に走り慣れたヒクマの後ろで折り合いをつける感覚を身につければ、それはユイイツムニとの戦いにも活きるはずだ。

 

 ――あのときは、そう信じていた。

 

 だけど、今は――あのときのような、自信が持てない。

 やっぱり、コンプはハナを切らせて、好きに逃げさせるべきだったのではないか? 私は、オークスのヒクマに続いて、コンプまで、得意の脚質を変えさせて、その持ち味を殺すだけのトレーニングをさせてしまったのではないか?

 唇を噛む私は――不意に、上着の肘を引っぱられた。

 双眼鏡から目を外して振り向くと、エチュードが無言で私を見上げている。何かを訴えるように。……そして、目を伏せて首を振る。

 その瞳に映っていた自分の顔に、私は――咄嗟に、自分の頬を叩いた。

 なんて顔をしているんだ。こんな顔で、ゴールに向かって走ってくるコンプを迎える気だったのか。担当のレースでこんな顔をしているトレーナーに、どうしてウマ娘がついてきてくれると思っているんだ。

 信じろ。たとえ自分のことが信じられなくても、担当のことだけは信じろ!

 

「コンプ! がんばれええええっ!」

 

 双眼鏡を振り回して、私は叫んだ。観客席から私にできることは、結局、どこまでいってもそれだけだから。

 

「コンプちゃーん、いっけー!」

「コンプちゃん……!」

 

 ヒクマが両手を振り上げ、エチュードが祈るように手を組む。

 コンプとユイイツムニがぴったり身体を併せて、淀の下り坂を駆け下りていく――。

 

『さあ4コーナーで先頭ユイイツムニ、外からブリッジコンプが並びかけて直線に入る葵ステークス、3番手以降はまだ2バ身後ろ!』

 

 勢いがついて外に振られやすい下り坂の4コーナーを、内ラチ沿いぴったりに回っていくユイイツムニ。その外で、その綺麗なコーナリングを目印にするように、コンプもロスなく回っていく。直線入口でほぼ横並び。

 

『ユイイツムニ先頭、ブリッジコンプ食らいつく、やはりこのふたりの一騎打ちだ!』

 

 京都の直線。大歓声の中、逃げたふたりの必死の追い比べが続く。

 芦毛の三つ編みをなびかせて、尾花栗毛を煌めかせて。

 ふたりの姿が、目の前を駆け抜けていく。

 

 雄叫びをあげるように、前だけを見たコンプと。

 それをちらりと見て、眼鏡の奥の顔を歪めて、歯を食いしばったユイイツムニと。

 京都の直線329メートル、追い比べは最後、ゴール板まで続いた。

 その、最後の一完歩で。

 ハナ差だけ前に出たのは――。

 

 京都の蒼天に、歓声だけがこだましていく。

 

 

       * * *

 

 

 レースの歓声も遠い地下バ道。

 顔を伏せてゆっくりと歩いていたユイイツムニは、控え室の前にチョコチョコが腕を組んでもたれているのに気付いて、顔を上げた。

 脚を止めたムニに、チョコは小さく笑って片手を挙げる。

 

「重賞3勝目、おめっとさん」

「…………」

 

 ムニはただこくりと頷き、それから眼鏡を外して目元に垂れてきた汗を拭い、大きく息を吐いた。そんなムニに、チョコは軽く眉根を寄せて問う。

 

「――で? GⅠを蹴ってまであの栗毛のチビに引導を渡したご感想は?」

 

 その問いに、ムニは――自分の両手を見下ろして、拳をぎゅっと握りしめた。

 拳が、まだ震えている。それは勝利の高揚とはほど遠い。――冷たい汗のせいだ。

 

「……直線で、一瞬前に出られたときは、そのまま差されて負けると思った」

「――――」

「枠が逆だったら、差されてた。……京王杯のときとは違う。本当の、髪一重」

 

 震える両拳を顔の前に掲げて、ムニは一度、ぶるりと全身を震わせる。

 冷たい汗が、遅れて熱くたぎってくるのを、噛みしめるように。

 ――これだ。これが真相だ。自分自身の内心の謎に答えを出して、ムニは頷いた。

 マイルから逃げたのでもない。チョコの仇討ちでもない。もちろん、ただ重賞勝利を拾いに来たのでもない。

 1200。今の自分には、スプリントで戦うべき相手がいる。

 ブリッジコンプ。あの尾花栗毛のウマ娘は、紛れもないその相手だと。

 デビュー戦から3度目。戦うたびに距離を詰めてくるあの子から、逃げ切る。

 彼女は――桜花賞を蹴るだけの価値のある、ライバルだ。

 

「チョコ。……あの子は強い。チョコも油断してたら、逃げ切られる」

「――――」

「スプリンターズステークス。――チョコもあの子も、私が倒すから」

 

 チョコチョコの脇を通り過ぎて、ムニは控え室の扉を開けて、中に入る。

 

 

 ――だから、ムニは知らなかった。

 廊下に残されたチョコが、唇を血が滲むほど噛みしめて、ドアを殴りつけようとする拳を、寸前で止めていたことなど。

 

 

       * * *

 

 

 15センチ。――それが、300メートル続いた追い比べの末の差だった。

 ほんのハナ差。けれど、それはあまりに決定的な15センチ。

 勝者と敗者を分かつ、絶対的な壁がそこにあった。

 

「……コンプ」

 

 控え室。無言で戻って来たコンプと、私だけがそこにいる。ヒクマとエチュードには廊下で待ってもらっていた。まず、ふたりでこの結果と向き合わないといけなかったから。

 スプリントで後続を4バ身突き放してのハナ差2着。それだけを見れば、何も恥じることはない内容だ。コンプの実力は、世代短距離のトップクラス。今日のレースで、それを疑う者はもういないだろう。

 だけど、3度目なのだ。メイクデビュー。京王杯ジュニア。そして今日。

 3度とも、負けた。ユイイツムニに。いずれも僅差。けれど、だからこそ、その僅差はどこまでも絶対的な壁だった。メイクデビューだって、京王杯だって、今日だって、コンプは今できる最高の走りをした。それでも勝てないなら――。

 

「…………ごめん、トレーナー」

 

 ぽつりと。……コンプの口から最初に漏れたのは、謝罪の言葉だった。

 私は、咄嗟にコンプの肩を掴む。

 

「謝らなくていい! コンプのせいじゃない、私の――」

 

 言いかけた言葉は、けれど次の瞬間。

 

「違う!」

 

 コンプの大声に遮られ――そして。

 その目にいっぱいに涙を溜め込んで、それでも必死にそれがこぼれるのを堪えるように顔を歪めて、コンプは私を見上げた。

 

「トレーナーのせいじゃない! トレーナーはなんにも悪くない、トレーナーは絶対、絶対間違ってなんかない! 誰がなんて言ったって――っ」

「……コンプ?」

「あたしがっ、あたしが今日っ、それをっ、証明しなきゃいけなかったのに……っ! あいつに勝って、トレーナーは、あたしの、あたしたちのトレーナーはっ、絶対間違ってなんかないって、あたしたちはトレーナーのおかげで強くなってるって、証明っ、するはず、だったのに……っ、あたしっ、あたし……っ」

 

 私の上着を掴んで、その胸元に顔を擦りつけて、コンプは震える。

 その小さな背中を、私は――抱きしめてあげることも忘れて、ただ、息を止めていた。

 

 ――私は。

 この一週間、私はいったい、何を見ていたのだろう。

 外野の雑音に惑わされて、自分自身を疑って、それで何を見ていた?

 目の前に――自分を信じてくれている担当がいることを、どうして信じられなかった?

 私は――。

 

「わっ、わぁぁぁっ!」

 

 突然、背後からドアが開く音と、ばたばたという物音。驚いて私は振り返り、コンプも私の胸から顔を上げる。――控え室のドアが開いて、そこにヒクマとエチュードが倒れこんでいた。顔を上げたヒクマが、気まずそうに頬を掻いて笑う。

 

「あ、えと、ごっ、ごめんなさいトレーナーさん……」

「……あぅ」身を縮こまらせるエチュード。

「ちょ、ちょっとクマっち、エーちゃん、なにやってんの――」

 

 鼻を啜って、目元を拭って、コンプは眉を寄せる。

 

「だってコンプちゃん、今日勝ってトレーナーさんを3人で励まそうって言ってたのに、こうなっちゃったから、どうしようって思って――」

「なっ――――」

 

 ヒクマの言葉に、コンプの顔がみるみる赤くなる。

 

「言うなバカー! あたしに恥の上塗りさせんじゃないってのー!」

「あうっ、いたいいたい、ごめんねコンプちゃん、うう~」

 

 ぽかぽかとヒクマを叩くコンプ。私が呆気にとられてそれを見つめていると、エチュードがゆっくりと歩み寄ってきて、私の袖を引いた。

 

「……トレーナーさん」

 

 真剣な顔で私を見上げるエチュード。その様子にコンプとヒクマもじゃれ合うのを止めて、私に向き直る。3人とも、真っ直ぐに私を見つめて。

 

「ええっと……ホントは今日、これ勝って言うつもりだったから、締まらなくなっちゃったけど! 説得力なんてないかもしんないけど――あんたはこのブリッジコンプちゃんの担当でしょ!? 自信持ちなさいよ! 言っておくけど、あたしたちは3人とも、トレーナーに担当になってもらったこと、ひとっかけらだって後悔なんてしてないんだからね!」

「――――――」

「……コンプちゃんとヒクマちゃんと、3人で話してたんです。オークスのあと、トレーナーさん、すごく落ちこんでたから……。だから、今日のレースのあと、トレーナーさんに3人でちゃんと言おう……って。……ね、ヒクマちゃん」

 

 エチュードが言い、ヒクマが頷く。

 

「うんっ! トレーナーさん、わたしたち3人とも、トレーナーさんのおかげで強くなってる! なかなかトレーナーさんのこと、大事なところで喜ばせてあげられないけど……でも、わたし、絶対絶対、トレーナーさんと一緒に勝ちたい! だから――」

 

 そこで、3人は目配せして――いっせいに、私へ頭を下げた。

 

「――これからも、よろしくお願いしますっ!」

 

 

 ああ――やっぱり私は、未熟なトレーナーだ。

 まだ幼いウマ娘を導くトレーナーたるもの、無闇に感情的になってはいけない。ウマ娘を受け止め、信頼される大人であれ。養成校でそう、散々叩き込まれてきたのに。

 感情が溢れて、止まらない。

 

 

 気が付いたときには、私は3人をまとめて抱きすくめていた。

 

「ちょっ、と、トレーナー?」

「とっ、とととっ、トレーナー、さ」

「わっ、トレーナーさん、どしたの? だいじょうぶ?」

 

 顔を赤くして慌てるコンプ。固まってしまうエチュード。そして、心配そうに私を覗きこむヒクマ。三者三様の反応に、私はただ、嗚咽を堪えて。

 

「……ありがとう、ありがとう……っ。がんばる、私もっ、がんばるから……っ、一緒に、一緒に勝とう……! 私も、君たちと、君たちと勝ちたい……っ!」

 

 溢れ出るものが止められなかった。エチュードとコンプの手に背中をさすられて、ヒクマに笑顔で頬を拭われたら、もうどうにもならなかった。

 ――勝ちたい。この子たちと勝ちたい。

 たとえ誰になんと言われようと。

 私は、この子たちに信頼されるに足る、トレーナーでありたい。

 

 ただ、そう願った。

 

 

       * * *

 

 

「だいじょうぶ? トレーナーさん、落ち着いた?」

「ったくもー、トレーナーの方がシャワー浴びた方がいいんじゃないの」

 

 ようやく感情の波が落ち着いて、控え室備え付けのおしぼりで顔を拭いて、私は息を吐いた。呆れ顔のコンプ、心配そうなエチュードとヒクマを、改めて見回す。

 そして、もう一度私は自分の頬を叩いて気合いを入れ直す。

 ――迷うのはここまでだ。3人が信じてくれた自分を、信じろ。

 

「コンプ!」

「えっ? な、なに急に」

「次だ。6月30日、中京のCBC賞! サマースプリントシリーズ、行こう!」

 

 私の言葉に、コンプは目を見開き――強気な笑みを浮かべて、拳を打ち鳴らした。

 

「待ってました! 見てなさいよ、次こそ絶対に勝ってやるんだから!」

 

 闘志を取り戻した顔で私を見上げるコンプに、私は頷く。

 

「エチュード!」

「はっ、はい!」

「爪の治りは順調だ。――君はこれから、どうしたい?」

 

 その問いに、エチュードはぎゅっと胸の前で拳を握りしめて、顔を上げた。

 決意を秘めた瞳で、私を見上げたエチュードは。

 

「――私も……秋華賞に、出たいです」

 

 私は頷く。――その言葉を、エチュードの口から聞きたかった。

 

「よし。7月の2勝クラスで復帰だ。そこから、紫苑ステークスに行こう!」

「……わかりましたっ」

 

 拳を握りしめて、自分に言い聞かせるように頷くエチュード。

 そして――。

 

「ヒクマ!」

「うんっ!」

「秋華賞の前に一戦挟もう。――8月18日、札幌記念だ!」

 

 ヒクマが大きく目を見開き、コンプとエチュードが息を飲む。

 

「ちょっ、トレーナー、シニア級相手のスーパーGⅡじゃないの!」

「そっ、それに確か、今年の札幌記念って……」

「ああ。――テイクオフプレーンが出てくる予定だ。相手にとって不足なし、だろう?」

 

 ドバイシーマクラシック2着。QEⅡ世カップ3着。――世界の第一線で、そしてヒクマの夢の舞台で戦ったテイクオフプレーンが、日本に戻ってくるレース。

 ヒクマも、テイクオフプレーンの名前でそれに気付いたらしい。

 その顔をぱあっと華やがせて――そして、大きく両手を高々と掲げた。

 

「うんっ! う~~~~~っ、札幌記念、いくぞ~~~っ!」

 

 どこまでも楽しそうなヒクマの笑顔に、私は目を細めて。

 ――ありがとう、3人とも。

 口の中だけで、もう一度、そう呟いた。

 

 私たちの、春の戦いは終わった。

 ――明日のダービーが終われば、夏がやってくる。



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第103話 日本ダービー・それぞれの夢をかけて

 5月26日、日曜日。

 日本ダービー。東京レース場、芝2400メートル。

 

 トゥインクル・シリーズの歴史は、このレースとともにあった。

 世代の頂点を決める大一番。誰もが憧れる、夢の舞台。

 その戦いに勝てれば、辞めてもいいというトレーナーがいる。

 その戦いに勝ったことで、燃え尽きてしまったウマ娘もいる。

 特別なレース。特別な一日が、始まる。

 

 

       * * *

 

 

「に、2番人気ですか……!」

 

 桐生院葵は、最終的な投票結果を見て思わず声をあげた。

 圧倒的な1番人気は皐月賞を勝ったオータムマウンテン。離されてはいるものの、ハッピーミークはそれに次ぐ2番人気に支持されていた。ここまで朝日杯FS3着、皐月賞4着、NHKマイルカップ2着。大一番で勝ちきれないまでも好内容で好走してきた実績と、白毛ウマ娘初のダービーという期待が込められての人気だろう――と頭の中で冷静に考えつつも、全身に震えが走り、ひとつ大きく深呼吸した。

 自分が緊張してどうするのだ。走るのはミークなんだから――。

 息を落ち着かせ、葵はミークに向き直る。ミークはいつも通り、何を考えているのかわからない、ぼんやりした表情で葵を見つめ返す。気負いも緊張も感じられない、いつも通りのリラックスムード。中2週、中2週でのGⅠ3連戦という過酷なローテの疲れも見せない。思っていた以上に、この子はタフだ。

 日本ダービー。最初の担当ウマ娘をいきなりこの舞台に送り出せる、その誇らしさと重圧とで、眠れない日も続いたけれど――泣いても笑っても、今日が本番だ。

 

「ミーク」

「……はい」

「今まで、やってきたことを、信じて――頑張りましょうっ!」

 

 結局そんな月並みな言葉しか出てこない。そんな自分に葵が俯きかけると、

 

「……勝ちます。ぶい」

 

 ミークがいつもの無表情のまま、Vサインを葵の顔の前に突き出した。

 

「……はい、ぶいっ、です!」

 

 葵も笑ってVサインを作り、指先をミークと重ね合わせた。

 

 

 2番人気、3枠5番、ハッピーミーク。前走、NHKマイルカップ2着。

 

 

       * * *

 

 

「都市伝説がなぜ人口に膾炙するかご存じですか?」

「どうした急に」

 

 控え室。プチフォークロアの言葉に、トレーナーは眉を寄せた。ロアは眼鏡を光らせて、普段と変わらない不敵な笑みを浮かべる。

 

「それは、ありふれた日常よりも少しだけ、魅力的だからです。今まで当たり前に見えていた景色の色を少しだけ塗り替える、可能性という名の物語。もちろんそれらはほとんど全て、根も葉もない噂でありデマの類いです。しかし、そうだと分かっていても人が都市伝説に惹かれてしまうのは、世界が今よりもっと魅力的であってほしいという願いのためなんですよ」

「……そんな綺麗なもんか? 都市伝説って。悪質なものも多いだろうに」

「そうした暗がりもまた世界の魅力なんですよ。怖いもの見たさというやつです」

「物は言い様だな。で?」

「では、魅力的なウマ娘であるということは、どういうことでしょう。強いこと。大きなタイトルを獲ること。それはもちろん大事です。ですが――最も必要なもの、それはやっぱり、物語ではないかと思います。皆が自分の願いを重ねて応援したくなるドラマ性です。物語は時として、純粋で圧倒的な強ささえも上回って、人を惹きつけます」

「……リードサスペンスに対するドカドカみたいにか」

「はい、典型的ですね。――ひるがえって、今の私にドラマはあるでしょうか。残念ながら、私は今日の出走メンバーの中では、いささか地味な存在というのが客観的な評価ではないかと思います。飄々と世代トップをひた走るオータムマウンテンさん、皐月賞のやらかしで良くも悪くもさらに知名度を上げたデュオスヴェルさん、白毛ウマ娘初のダービーウマ娘をめざすハッピーミークさんの上位人気3人。あるいは、話題性だけなら、史上初、未勝利でダービーに出てきたマルシュアスさんにも負けています」

「4番人気の立場でそれを言ったら他の面々にやっかまれるぞ」

「それは承知の上です。けれど、その4番人気という評価は、皐月賞3着という結果に対する評価であって、私自身の魅力ではないのではないかと」

「……で?」

 

 腕組みしたトレーナーに、ロアは眼鏡をくいっと押し上げて、拳を握りしめた。

 

「そんな地味なウマ娘が、一瞬で特別なウマ娘になれる舞台。それが日本ダービーです。このプチフォークロア、ダービーウマ娘という物語を、掴み取ってみせましょう」

「……お前の話は回りくどいんだよ」

 

 嘆息したトレーナーは、ロアの握った拳に、自分の拳を突き出した。

 

「伝説はここから始まるんだ。主人公になってこい、ロア」

「――必ず」

 

 ロアは、その拳に、自分の拳を打ち鳴らした。

 

 

 4番人気、5枠10番、プチフォークロア。前走、皐月賞3着。

 

 

       * * *

 

 

 まるで夢のようだと思う。いや、本当にここは夢の中なのかもしれない。

 日本ダービー。世代の選ばれた18人だけが立てる舞台に、自分がいるということ。

 それはあまりに眩しくて、現実感がなかった。

 

「…………トレーナー、さん」

 

 パドックへ向かう直前。ドリーミネスデイズは、脚を止めてトレーナーを振り返った。

 

「私を……ここまで、連れてきてくれて……ありがとう、ござい、ました」

 

 そう言って頭を下げると、トレーナーは腰に手を当てて微笑む。

 

「ここまで来られたのは、貴方の力よ」

「…………」

「胸を張って行きなさい。――貴方の走りが、今の私の夢なのだから」

 

 ドリーミネスデイズの肩を抱いて、背中を叩き、トレーナーは言った。

 その言葉に頷いて、ドリーミネスデイズは顔を上げ、歩き出す。

 

 

 もしこれが夢なら、夢でもいい。

 この日を限りに覚めてしまっても構わない。

 ただ――この夢を。トレーナーと掴み取った夢の舞台を。

 幸せな夢にするために。

 ――逃げる。府中2400、ハナを切って、逃げ切ってみせる。

 

 

 5番人気、1枠1番、ドリーミネスデイズ。前走、青葉賞1着。

 

 

       * * *

 

 

 ――未勝利ウマ娘がダービーに出られるなんてルールがおかしい。

 ――ダービーの格が落ちる。伝統を何だと思っているのか。

 ――未勝利ウマ娘に負けたら他のダービー出走ウマ娘はいい笑いものだぞ。

 

 

 通算6戦0勝、2着2回3着1回。

 そんな戦績で日本ダービーの舞台に上がるということは、マルシュアスが思っていた以上の賛否両論を巻き起こしていた。純粋な応援の声、面白がる野次馬の声、そして夢の舞台に相応しくないウマ娘がいるという非難の声が、嫌でも耳に入ってくる。

 結局、18人中11番人気。最低人気とかブービー人気も覚悟していたのでかなり評価してもらえたとは思うが、半分ぐらいは史上初の挑戦を面白がられての評価なのだろう。

 迷わなかった、躊躇わなかったと言えば嘘になる。本当に自分がダービーに出ていいのかと。日本ダービーというレースがどれだけ特別なものであるのか、どれだけ特別なものと見なされているのか、自分の出走を巡る外野の声で改めて思い知った。揺れなかったとは言えない。苦しくなかったなんて、言えるはずがない。

 けれど、マルシュアスは今、東京レース場の地下バ道にいる。

 それはただ、ひとえに。

 ――周りになんと言われても、情けない姿を見せたくない人がいる。キラキラしたオトナのウマ娘になった姿を、見せなくちゃいけない人がいるから。

 なんとかダービーに間に合った、おろしたての勝負服に身を包み、その人のことを考えれば、自然と背筋が伸びた。下を向いてなんていられない。この身は、この脚は、あの人の分も、走るためにあるのだから。

 

「……マルシュちゃん」

 

 呼びかける声に、マルシュアスは脚を止めた。

 視線の先に、その人がいた。松葉杖をついて、屈腱炎で痛むはずの脚を庇いながら、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべて、マルシュアスを見つめていた。

 

「ランデブーさん――」

 

 ゆっくりとネレイドランデブーへと歩み寄り、マルシュアスは拳を握りしめた。

 

「見ててください。――ランデブーさんよりキラキラした、オトナのウマ娘に。――ダービーウマ娘に、なってきます!」

「……うん、行ってらっしゃい!」

 

 顔を上げ、胸を張り、マルシュアスはランデブーの前を通り過ぎて、ターフへ向かう。

 その背中を、そっと押す手の感触に、けれどマルシュアスは振り返らなかった。

 

 

 11番人気、8枠17番、マルシュアス。前走、青葉賞2着。

 

 

       * * *

 

 

 誰よりも速く、誰よりも強い、最強のウマ娘になりたい。

 ウマ娘に生まれて、一度もそう願わない者などいるのだろうか。

 走ることは本能で、走るからには誰よりも速く走りたい。

 ただ、誰にも邪魔されない、先頭だけを走り続けていたい。

 

 デュオスヴェルが逃げるのは、ただそのためだ。

 小細工なんていらない。展開も位置取りも関係ない。

 最初から最後まで先頭で走って、先頭でゴールするウマ娘が、一番強いのだ。

 だから逃げる。最強であるために、スヴェルは逃げる。

 逃げ切れずに差し切られても、ゲートでずっこけて笑われても。

 そのためだけに走ってきたのだ。

 この日のために走ってきたのだ。

 

 日本ダービー。最強のウマ娘を決める舞台。

 ダービーウマ娘。それこそが、世代最強の称号だから。

 

「オータム君! スヴェル君! もう私から言うことは何もないよ! ふたりとも、悔いの無いレースをしたまえ! ダービーの称号は、その先にしかないのだからね!」

 

 いつものように芝居がかって両腕を広げ、岬トレーナーが高らかに言う。

 

「はい~、私が二冠、しっかり獲ってきますね~」

 

 オータムマウンテンが、いつものように能天気な声で応える。

 そのふたりの声を聞きながら、スヴェルは目を閉じて、ひとつ大きく息を吐いた。

 

「おや、スヴェル君? 君ともあろう者が、緊張しているのかい?」

「スヴェルちゃん? リラックスですよ~、リラックス」

 

 岬トレーナーが顔を覗きこんできて、オータムが小首を傾げる。

 スヴェルはその言葉にも応えず――今度は大きく息を吸い込んで、そして。

 

「――最強は、ボクだあああああっ!」

 

 腹の底から、そう叫んだ。

 岬トレーナーがのけぞり、オータムが目をぱちくりさせる。

 大声を出してスッキリしたスヴェルは、「よしっ」と両拳を握りしめる。

 

「トレーナー! オータム! 勝つのはボクだ、このデュオスヴェル様だかんな!」

「あらあら、いつにもまして気合い充分ですね~。でも、二冠目も私がいただきますよ~」

「はっはっは! いつも通りで何よりだよ! ふたりとも、行ってきたまえ! ゴールで待っているよ!」

 

 トレーナーに背中を押され、デュオスヴェルは歩き出す。オータムマウンテンの前を。

 

 

 3番人気、2枠3番、デュオスヴェル。前走、皐月賞(競走中止)。

 

 

       * * *

 

 

 ――ゴルフはね、どこまでも自分自身との戦いなんだ。

 父は、幼いオータムマウンテンに、いつもそう語っていた。

 ――誰の邪魔も入らない。一打一打、全ての結果が、自分の、自分だけの責任だ。その中で、今の自分の力と技術でできる最善、最適解に近づけていく。カップというゴールに向かって。そこがどんなコースかという過去を知り、風や芝目という今の状況を知り、そして自分に何ができて、何ができないを知ること。それがゴルフだ。ゴルフには、人生に必要な全てがあるんだよ。

 子供の頃から繰り返し聞かされてきたその言葉は、オータムマウンテンにとって、自分の在り方の指針だった。

 

 だから、レースも同じだと、オータムマウンテンは思う。

 十数人で一斉に走るレースには、確かに紛れがある。進路を塞がれたり、他のウマ娘にぶつかられたりといったアクシデントはいつだって起こりうる。

 だけど、突き詰めればそういった不確定要素は些末なことに過ぎない。

 必要なのは、父の言った通りのこと。

 コースを知り、相手の力を含めた状況を知り、そして自分の力を知る。

 そして、それを元に、今の自分の力と技術でできる最善、最適解を目指していく。

 それがレースだと、オータムマウンテンは思う。

 

 要は、敵を知り己を知れば百戦危うからずという故事の通りである。

 出走ウマ娘全員の脚質と適性、タイムを見れば、おおよそ展開とラップの想定はつく。

 その展開で、今の自分が勝てるかどうかを想像する。

 勝てる、と結論が出たのなら、あとはそれに向けて最適な走りをすればいい。

 最後の瞬間、1センチでも先にゴール板を通過さえすればいいのだから。

 ゴルフの小さなカップを狙うように、1センチの先頭を目指していけばいい。

 

 データの少ない相手なら、予想外のことは起こりうる。ホープフルステークスでのミニキャクタスのように。模擬レースで彼女の末脚は一度見ていたが、ホープフルのときはそれ以上だった。データが足りず、こちらの想像を超えて来られた。完敗だった。

 けれど、今日はミニキャクタスはいないし、出走メンバーの力関係はわかっている。

 だから、自分自身をゴールまでの最適解に近づけさえすれば、今日も自分が勝つ。皐月賞がそうであったように。

 オータムマウンテンは、そう確信している。

 

 ――だから、見ていてください、お父様。

 お父様が世界のどこにいても、私は勝利を、お父様に届けますから。

 

 

 1番人気、5枠9番、オータムマウンテン。前走、皐月賞1着。

 



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第104話 日本ダービー・特別を目指して

 ――ただの、クラシック級の芝2400メートルのいちオープン戦に過ぎない。

 

 日本ダービーに対して、そんな風に言う者がいる。ひねくれたファンだけでなく、トゥインクル・シリーズの関係者でさえ、敢えてそういう言い方をすることがある。

 実際、なぜ日本ダービーが特別なのか、というのを論理的に説明するのは難しい。歴史があるというだけなら、トゥインクル・シリーズ最古の重賞は同日に開催される目黒記念だし、殊に現代はその世代のダービーウマ娘がその世代で最も活躍したウマ娘という例の方がむしろ少ないだろう。レースのレベルとしても、現実的に国内の芝中距離最強ウマ娘決定戦は、シニア級の猛者が集う天皇賞(秋)かジャパンカップの方である。

 しかし、それでも日本ダービーは特別なのだ。それはたとえば、サッカーで最もレベルの高い大会が欧州のチャンピオンズリーグだとしても、4年に一度のW杯が特別であるように。プロ野球の方がレベルが高くとも、夏の甲子園が特別であるように。

 

 一生に一度の舞台。世代の選ばれた18人だけが立てる舞台。

 トートロジーだが、皆がそれを特別だと認めているから、ダービーは特別なのだ。

 

 その特別な舞台を、私は担当の3人と一緒に、いつもの定位置――トレセン学園関係者席で見つめていた。ヒクマは身を乗り出して目を輝かせて尻尾を振り、エチュードは出走するわけでもないのに緊張した面持ちで唾を飲み、そして――コンプは腕を組んで、ただ真剣な顔でターフを見つめている。

 何しろ、この日本ダービーは、私たちの顔なじみが勢揃いなのだ。

 圧倒的1番人気のオータムマウンテンと、3番人気のデュオスヴェルは言うまでもない。2番人気のハッピーミークはヒクマたちのクラスメートで、私にとっても同期の桐生院トレーナーの担当。4番人気のプチフォークロアと5番人気のドリーミネスデイズもジュニア級でヒクマと二度戦ったライバルだし、なんと未勝利でこの舞台に出てきたマルシュアスはエチュードのルームメイトである。

 

「う~~~っ、トレーナーさん、どうしよ? ね、誰を応援したらいいのかな?」

 

 ヒクマが振り返り、困ったように首を傾げる。

 私が笑って「全員応援すればいいよ」と答えると、「あ、そっか!」とヒクマは顔をほころばせて、柵から身を乗り出して声を上げた。

 

「オータムちゃん! スヴェルちゃん! ミークちゃん! ロアちゃん! ミネスちゃん! マルシュちゃんも! みんなみんながんばれー!」

 

 ぶんぶんと手を振るヒクマ。その姿を微笑ましく思いながら、私はその両隣のエチュードとコンプを見やる。祈るように手を組んで、エチュードはぎゅっと目を閉じていて。コンプは相変わらず、ターフを睨むようにむすっとした顔をしていた。

 ――もちろん、「出たかった?」なんて、今さらコンプに詮無いことを訊ねたりはしないけれど。最強を目指すコンプが、自分の世代の日本ダービーという特別な舞台のことをどう思っているのかは、私には想像することしかできない。その場所に立っている、あの喧嘩友達、デュオスヴェルのことも。

 

「……みんなに、勝って欲しい、です」

 

 歓声に掻き消されそうな声で、ぽつりと、エチュードが呟いた。

 

「――うん、そうだね」

 

 私はただ、頷いた。今はいち観客に過ぎない立場として、私もそう思う。

 ――けれど、数分後。勝者として立っているのは、たったひとりだ。

 それが、レースというものだ。

 だからこそ、勝利は尊いのだ。

 

『全てのウマ娘ファンの皆さん、今年もこの日がやって来ました! 日本ダービー、世代の頂点を決める大一番。ダービーの冠は、果たして誰の頭上に輝くのか!』

 

 ドリーミネスデイズが。

 デュオスヴェルが。

 ハッピーミークが。

 オータムマウンテンが。

 マルシュアスが。

 プチフォークロアが、ゲートに入っていく。

 

『体勢完了。――日本ダービー、スタートしました!』

 

 

       * * *

 

 

『揃ったスタートになりました、さすがは選ばれた18人、優駿であります! さあ注目の先行争い、やはり行った行ったデュオスヴェル、内からドリーミネスデイズ! やはりこのふたりが行きます!』

 

 内枠のふたり、1番のドリーミネスデイズと3番のデュオスヴェルが、戦前の予想通りダッシュをつけてハナを主張、前に出て行く。そこから何バ身か離れての3番手集団の外目に、好スタートのマルシュアスが枠なりにつける先行策。ハッピーミークは中段グループの内、その外にプチフォークロア。オータムマウンテンはいつも通り、後ろから3番手の後方待機を選択する。

 

「ああ、やっぱりハイペースになるな、こりゃ」

 

 観客の誰かが言った。先頭で競り合うデュオスヴェルとドリーミネスデイズ。人気どころだけに先行集団も大きくは離されずにそれについていく。明らかに全体がハイペースになる流れだ。

 

「こりゃオータムマウンテンで決まりか」

 

 2コーナーを越えて向こう正面に入ったあたりで、誰かが呟いた。

 デュオスヴェルとドリーミネスデイズがハイペースで潰し合い、先行集団もそれに釣られて直線で前潰れ。後方待機のオータムマウンテンが差し切って勝つ。――大方のファンが展開をそう予想し、そしてその通りの流れになっていた。だからこそオータムマウンテンが圧倒的な1番人気なのだ。

 しかし――そうは考えない者も、やはりいる。

 

「いや、そうとも限らない」

「どうした急に」

「あれを見ろ――」

 

 

       * * *

 

 

 ペースが速い。

 逃げるふたりの背中を見ながら、先行集団につけたマルシュアスは、身体に当たる風でそれを感じていた。府中2400、青葉賞の前からラップタイムの感覚はトレーナーと身体に叩き込んできた。その感覚が、ハイペースと告げている。ドリーミネスデイズがスローで逃げた青葉賞とはまるで違う。

 デュオスヴェルの三つ編みが風に揺れるのが見える。その隣をドリーミネスデイズの赤みがかった長い鹿毛がなびいている。ハナを奪ってスローに落としたかっただろうドリーミネスデイズと、ハイペースの消耗戦に持ち込みたいのだろうデュオスヴェルのハナ争いは、結果としてデュオスヴェルのペースで進んでいる。

 

 ――あれが、世代の主役の逃げウマ娘。

 

 デュオスヴェルとオータムマウンテン。同期の三冠路線のスター候補。マルシュアスにとっては、今まで遠くから眺めるだけだった、キラキラしたウマ娘たちだ。

 でも、今はそれと、同じ舞台にいる。同じターフを走っている。

 世代の頂点を決める舞台で、一番キラキラした舞台で。

 一度目を閉じ、目を開けて、マルシュアスは口元を引き締めた。

 

 ――大丈夫。ハイペースの消耗戦は、こっちだって望むところだ。

 

 こっちは、あのジャラジャラ先輩の走りを間近で見たんだから。

 このペースなら食らいつける。そして――差し切ってみせる!

 

 日本ダービーを勝ちたい。憧れの人に、胸を張りたい。

 ランデブーさんよりも、誰よりもキラキラした、ダービーウマ娘に、なりたい!

 

『――1000メートル通過、58秒7!』

 

 

       * * *

 

 

 ――問題は、後ろのオータムマウンテンさんですね。

 

 中団の外目、ハッピーミークの横を走りながら、プチフォークロアは思案していた。

 出負けで最後方になったホープフルSでは、オータムマウンテンのロングスパートに釣られてしまい、脚を使わされて坂で止まってしまった。皐月賞は中団に構えてほぼ理想通りのレースができたが、それでもメイデンチャームに届かず、オータムマウンテンに差し切られた。

 同じ相手に、三度続けて負けるわけにはいかない。

 ペースは速い。デュオスヴェルのスタミナを考えれば、仕掛けのタイミングを見誤ればそのまま逃げ切られる。しかし、早く仕掛けすぎればオータムマウンテンのロングスパートの餌食だ。

 ――解っています。私はデュオスヴェルさんにスタミナで及ばないし、末脚の持続力ではオータムマウンテンさんに及ばない。しかし、だからといって、強い者が必ず勝つとは限らないのがレース。柔軟に、臨機応変に、機を掴むことができれば――。

 前にいる3番手集団は総じて人気薄。おそらく直線で潰れる。そうなれば、前が壁になる内のハッピーミークより、枠なりに外につけた自分が有利。

 ――勝負は、残り300。坂を登り切ったところで、オータムマウンテンさんの前で仕掛ける。追いつかせずに振り切る――おそらく、これしかない!

 

 伝説になりたい。世代の主役として、特別なウマ娘になりたい。

 語り継がれる、記憶に残る、ダービーウマ娘に、なりたい。

 

 だから、なってみせましょう。

 ロアは決意を固めて、3コーナーへ向かう。

 

 

       * * *

 

 

 ハナを取れなかった。その上、明らかにハイペースの展開になっている。

 理想の展開に持ち込めず、ドリーミネスデイズは歯がみする。

 デュオスヴェルの前に蓋をして、青葉賞のようにスローペースに落としたかった。だが結果は、デュオスヴェルと肩を並べてのハイペース逃げの展開。

 ――だけど、こうなることも覚悟していた。だから、動揺はない。

 それなら、消耗戦に付き合うまでだ。どっちが先に力尽きるか――。

 

『貴方は距離が長いほどいいのかもしれないわね』

 

 トレーナーがそう言ってくれた、自分のスタミナを、信じる。

 

『貴方のスタミナなら、日本ダービー、逃げ切るのだって――夢じゃない』

 

 夢じゃない。幻でもない。

 トレーナーの描いた道筋を、現実のものにしてみせる。

 

 私を導いてくれたトレーナーのために。

 ダービーウマ娘に、なりたい。

 

 隣を走るデュオスヴェルの姿を意識から消して、前だけを見て、ドリーミネスデイズは3コーナーから4コーナーへカーブしていく。

 

 

       * * *

 

 

 4コーナー。

 先頭で逃げるデュオスヴェルとドリーミネスデイズを追っていた、3番手集団が崩れ始めた。ひとり、ふたりとこのハイペースに潰されて脱落する中、マルシュアスだけが引き離されずに食らいついていく。

 そして、それを待っていたように、後方に待機していたオータムマウンテンが仕掛けた。

 外を捲って徐々に上がっていくオータムマウンテン。

 中団からプチフォークロアが絶好の位置を確保し、ハッピーミークはウマ込みの中でじっと息を潜める。

 直線入口を向いた。残り525メートル。

 デュオスヴェルとドリーミネスデイズが、競り合ったまま先頭で直線へ駆けていく。

 

『さあ4コーナー、オータムマウンテン外から上がっていく、先頭デュオスヴェル、ドリーミネスデイズ、ふたり並んで直線へ、残り525メートル、高低差2メートルの坂! 日本ダービー栄光はその先に!』

 

 府中の大歓声が、18人のウマ娘を出迎えて――直線の攻防へ。

 



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第105話 日本ダービー・最強の名は

 勝った。

 中団の外で直線を向いた瞬間、オータムマウンテンはそう確信した。

 先頭を行くデュオスヴェルとドリーミネスデイズの背中が見える。府中の長い直線残り500メートル。ハイペースに付き合わず、後方待機で貯めた脚は軽い。脚元の芝もパンパンの良バ場。この脚なら伸びる。あの差なら、充分に差し切れる。

 ちらりと内を見る。ハッピーミークはまだ中団バ群の中。プチフォークロアは仕掛けのタイミングを伺っている。前でまだ食らいついているマルシュアスが若干気になるが、さすがにミニキャクタスほどの末脚は持っていないはずだ。

 ――残り100でドリーミネスデイズさんが脱落して、残り50でスヴェルちゃんを捕まえて、私の勝ちですね~。

 その確信を握りしめるようにして、オータムマウンテンは坂を駈け上がる。

 

 ――見ていてください。お父様。

 私が、このオータムマウンテンが、ダービーウマ娘になるところを。

 

 坂を登り切った。残り300。

 プチフォークロアが仕掛けた。加速して3番手のマルシュアスに並びかける。

 マルシュアスは、並びかけてきた眼鏡のウマ娘に、歯を食いしばって食らいつく。

 ハッピーミークは、まだバ群でもがいている。

 オータムは、悠然と、泰然と、その外から脚を伸ばしていく。

 

 残り200。

 オータムが、マルシュアスとプチフォークロアに並んだ。

 ロアが振り向き、愕然と目を見開く。

 マルシュアスは横など目もくれずに、ただ前を見て走り続ける。

 その横を、オータムは涼しい顔でかわしていく。

 内でハッピーミークがバ群を抜け出し、マルシュアスとプチフォークロアに迫る。

 

 全て、オータムマウンテンが事前に、そしてレース中に想定した範囲内の展開だった。

 この瞬間までは。

 

 ――あら?

 その違和感に気付いた瞬間、オータムはその目を見開いた。

 残り150。もうデュオスヴェルの背中を射程圏に捕らえているはずだった。

 スヴェルの力は把握している。あと100で差し切れるはずだ。

 他の誰でもない。デュオスヴェルのことだ。ルームメイトの、同じトレーナーの、誰よりもよく知っているスヴェルのことだ。

 自分が、スヴェルの走りを読み違えることなんて、あるはずがない。

 

 それなのに。

 想定よりも、スヴェルの背中が、まだ遠い。

 残り100。

 ドリーミネスデイズが、まだ垂れてこない。

 

 そしてオータムは。

 府中の大歓声の中に、その雄叫びを、聞いた。

 

 

       * * *

 

 

「あれを見ろ――」

 

 それは、レースが向こう正面にさしかかったとき。

 ひとりのファンが、先頭を指さして語った。

 

「あの大飛びのストライド走法。一般的に、飛びの大きいストライド走法のウマ娘は中山のような小回りのコースが苦手だ。彼女もコーナリングは決して上手い方じゃない」

「どうした急に」

「だからホープフルSで負けたと見ることもできるが、逆に言えば明らかに中山に不向きな走法で芙蓉Sを勝ち、ホープフルでもバイトアルヒクマを凌ぎきったんだ。そしてこの府中では、あの東スポ杯の破天荒な走りだ。彼女は本来、府中のようなコースが本領なんじゃないか」

「つまり?」

 

「――デュオスヴェルを侮ったら、おそらく痛い目を見るぞ」

 

 

       * * *

 

 

 あいつみたいだ、とデュオスヴェルは思った。

 自分に競り掛けてきた、長い鹿毛の背の高いウマ娘。雰囲気は全然違うのに、自分にハナを譲らないとばかりに挑みかかってくるその姿は、あのブリッコによく似ていた。

 ブリッジコンプ。

 あいつは、今、どこかでボクを見ているだろうか。

 

 あいつが短距離に行くと聞いたときは、裏切られたような気持ちになった。

 最強になる。最強のウマ娘になる。

 ボクの夢。無謀な、大きすぎる夢。

 何度も笑われてきた。バカにされてきた。

 だけど、それでも、ボクは。

 絶対に、誰にも負けたくなかった。最強でありたかった。

 だって、そうじゃないか。

 ウマ娘として産まれて、レースに挑む以上。

 最強を目指さずして、いったい何を目指すというのだ。

 ――だから、同じ夢を語って、同じ逃げのスタイルで突っかかってくるあいつと出会って、嬉しかったのだ。

 最強のウマ娘になりたいという夢は、ボクだけのバカな夢でも無謀でもない。

 同じ願いを抱いて走るウマ娘がいるということが、嬉しかった。

 だからこそ、あいつに勝って、最強になりたかった。

 

 でも今、この場所にあいつはいない。

 あいつは、自分の力の出せる場所で最強になることを目指した。

 ――だったらボクは、ここで最強にならなきゃ。

 あいつに、胸を張って、最強はボクだなんて、言う資格はない。

 

 ダービーウマ娘になる。

 ボクが、最強の、ダービーウマ娘になる。

 最初から最後まで、先頭で走り抜けることこそが、最強の証明だから。

 

 デュオスヴェルは叫ぶ。

 残り100。

 まだ食らいついてくるドリーミネスデイズを。

 後ろからひたひたと迫るオータムマウンテンを。

 他の17人のウマ娘を。

 府中に集まった、十数万の観客の声援を。

 全てを振り切るように、雄叫びをあげる。

 

 

「最強は、ボクだああああああああああああああああああああああっ!!」

 

 

 最後の50メートル。その数秒に。

 デュオスヴェルの身体は、限界を超えて、ぐっと最後のもうひと伸び、前に出た。

 

 ドリーミネスデイズが、天を仰ぎ。

 オータムマウンテンが、目を伏せた。

 

『デュオスヴェル、ドリーミネスデイズ、外からオータムマウンテン、しかしデュオスヴェルだ! デュオスヴェルだ! デュオスヴェルが逃げ切ったーッ!!』

 

 ――そして、3人がひとかたまりでゴール板を駆け抜けた瞬間。

 府中に、十数万の大歓声が轟き渡った。

 

 

       * * *

 

 

『逃げた! 逃げた! 逃げ切ったッ!! 府中2400逃げ切りました! デュオスヴェルです! オータムマウンテンは届かず2着! デュオスヴェル逃げ切り逃げ切り逃げ切り! これが逃げるということだ! デュオスヴェル、最初から最後まで、先頭を譲りませんでした! 世代の頂点、日本ダービーを制したのは、3番デュオスヴェルです!』

 

 力尽きたように、ターフにデュオスヴェルが仰向けに倒れこむ。

 ドリーミネスデイズがその横を通り過ぎて、そのまま芝の上に膝を突いてうずくまる。

 そして――オータムマウンテンが、ゆっくりとデュオスヴェルに歩み寄る。

 デュオスヴェルが目を開ける。オータムマウンテンが、微笑んで手を差し伸べる。

 その手をとって立ち上がったデュオスヴェルに――降りそそぐ、府中の大歓声。

 ――スヴェル! スヴェル! スヴェル!

 十数万の、怒濤のような「スヴェル」コールに、デュオスヴェルはぽかんと口を開け。

 そして――ぶるりと一度身を震わせると、力強く、拳を高々と突き上げた。

 

 その光景を、私もヒクマもエチュードも、声もなく見つめていた。

 たったひとりの勝者と、17人の敗者が分かたれたその場所で。

 歓声を一身に浴びる、最強の称号を手に入れたたったひとりの姿を。

 

「……なによ」

 

 不意に、コンプがぽつりと呟いた声が、歓声の中で私の耳に届いた。

 私が振り向くと――その頬に、一筋の雫を流しながら。

 コンプは、心の底から嬉しそうに、笑っていた。

 

「――かっこいいじゃないの、デュオスヴェル」

 

 

       * * *

 

 

 栄光のスポットライトの陰で。

 ドリーミネスデイズは、トレーナーに肩を支えられながら地下バ道を帰っていき。

 マルシュアスは、ネレイドランデブーに抱きしめられながら泣きじゃくり。

 プチフォークロアは、数度頬を叩いて、全てを受け入れた顔で踵を返し。

 ハッピーミークは、ねぎらう桐生院葵の前で、変わらぬ無表情のまま、拳を震わせて。

 

 そして、ウイナーズサークルでインタビューを受けるデュオスヴェルを見ながら。

 穏やかに微笑んでいたオータムマウンテンは、けれど。

 岬トレーナーが、その頭をぽんと撫でた瞬間。

 ――崩れ落ちるように、岬トレーナーにしがみついて、その肩を震わせた。

 

 敗者の想いを呑み込んで、勝者を讃える歓声は、途切れることなく続いていく。

 

 

       * * *

 

 

 5月26日、日本ダービー(GⅠ)。

 

 1着、3番デュオスヴェル(3番人気)。

 2着、9番オータムマウンテン(1番人気)。

 3着、1番ドリーミネスデイズ(5番人気)。

 4着、10番プチフォークロア(4番人気)。

 5着、17番マルシュアス(10番人気)。

 6着、5番ハッピーミーク(2番人気)。

 



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第4章 サマーシリーズと夏合宿
第106話 宝塚記念・あんたがいなきゃダメなんだ


 6月23日、日曜日。阪神レース場。

 第11レース、GⅠ、宝塚記念。

 

 

 日本ダービーが終われば、クラシック級のウマ娘にも、シニア級の重賞の門戸が開かれる。とはいえ、秋であればともかく、6月のシニアのGⅠ級のレースに、まだ成長途上のクラシック級のウマ娘が出てくることは基本的にない。

 逆に言えば、そこにクラシック級のウマ娘が出てきた場合、トレーナーが既にシニア級の第一線で通用すると、それだけの自信を持って送り出してきている、とも言える。

 

 ――そして、この年の春のグランプリ、宝塚記念は、ひとりのウマ娘の参戦が大きな話題を呼んでいた。

 言わずもがな、オークスをスーパーレコードで制した、ジャラジャラである。

 

 折しも今年のシニア級中長距離路線は、絶対的な存在が不在の混戦模様。大阪杯は重賞未勝利だった9番人気の伏兵イツツバクローバーが勝ったし、天皇賞(春)も5番人気のシニア級3年目イマジンサクセスが逃げ切って悲願のGⅠ初制覇を果たした。それはそれでドラマではあったが、長距離王オボロイブニングが去り、芦毛の逃亡者テイクオフプレーンが海外路線を選んだ現状、国内の中長距離を盛り上げるスターウマ娘の登場が待望されていたのもまた事実である。

 そこへ、今年の日本ダービーを上回るとんでもないタイムでオークスを勝った〝褐色の弾丸〟が、ライバルのエレガンジェネラルが秋華賞へ向けて休養へ入る中、一足先にシニア級に殴り込みをかけてきたのだ。ファン投票は並み居るシニア級のウマ娘らを抑え、なんと堂々の1位。シニア級相手にいったいどんな走りを見せるのか、これで盛り上がるなという方が無理な話だ。気の早いメディアは、ここで結果が出るようなら、秋は凱旋門賞挑戦も――などと書き立てている。

 

「はえー、すごいねジャラジャラちゃん。断然の1番人気だって」

 

 ヒクマがスマホを見ながら言う。

 当日、私は担当の3人と、トレーナー室のテレビで観戦していた。目的は主にリボンスレノディの応援だが、秋華賞へ向けて、問題のジャラジャラがどんな走りをするかももちろん要チェックである。現地まで行っても良かったのだが、来週にはコンプのCBC賞があるので、コンプの調整を優先してのテレビ観戦だった。

 

「ノディ姉さんは……?」

「んーと、6番人気だって。あ、ノディさん、がんばれー」

 

 本バ場入場を迎え、画面に勝負服姿のリボンスレノディが映る。リボンスレノディは今年、どちらも2番人気に支持された大阪杯で6着、ヴィクトリアマイルで4着。ともに悪い内容のレースではなかったが、気付けば昨年のオークスからもう1年以上勝ちがない。秋のエリザベス女王杯へ向けて結果を出しておきたい舞台だ。

 エチュードが祈るように手を組み、コンプが腕組みしてパイプ椅子の背にもたれ、ヒクマはいつも通り大きな目を輝かせて画面に手を振る。

 

『さあ枠入りが始まっています。太田さん、順調でしょうか』

『はい、今ジャラジャラがちょっとゲート入りを嫌がっているようです』

 

 カメラがゲート前に立つジャラジャラを映した。何か苛立たしげに耳を絞り、ジャラジャラは目の前のゲートを睨み付けたまま、そこからゲートに入っていこうとしない。ゲート入りの順番を待つ他のウマ娘たちが訝しげにジャラジャラを見やる。

 人間の身としてはもうひとつよくわからない感覚だが、ゲート入りを嫌がるウマ娘というのは一定数存在する。単に狭いところが嫌いだったり、あるいはレースの重圧に竦んでしまっていたり、とにかく他人の指示に従うのが嫌というワガママだったりと理由は様々で、だからこそゲート試験というものもウマ娘には課せられるわけだが……。

 ゲートに入ろうとしないジャラジャラに、係員が歩み寄って背中を押す。

 

 ――その瞬間。

 画面の中で、ジャラジャラが両手を振り上げて、係員を振り払った。

 

 そして――何を思ったのか、そのまま係員を突き飛ばすようにして踵を返し、ゲートとは逆方向へ走り出した。リポーターが悲鳴を上げ、大観衆のどよめきがテレビの中からでもはっきりと聞こえてくる。

 私たちも唖然として、テレビの中であらぬ方向に走り出すジャラジャラの姿を見ているしかなかった。

 

 

 そのまま、ジャラジャラは阪神レース場から姿を消した。

 ウマ娘自身のゲート入り拒否、遁走による競走除外。メイクデビューなどではたまにあるアクシデントだが、GⅠで断然の一番人気がというのは滅多に起こることではない。

 原因は、後に数々の目撃証言と『月刊トゥインクル』の取材などで明らかになるが――この事件は、「宝塚記念ジャラジャラ脱走事件」として、後々まで〝褐色の弾丸〟の数々の気性難エピソードの代表格として語り継がれることになる。

 

 

       * * *

 

 

 阪神レース場から最寄りの、総合病院。

 そのエントランスに、勝負服姿のウマ娘が息せき切って駆け込んできた姿に、スタッフや診察を待つ患者たちは一様に目を丸くした。待合室のテレビで先程まで流れていた宝塚記念を見ていた者たちは、飛び込んできたそのウマ娘の姿になおさら驚愕していた。

 そんな驚きの顔に構わず、そのウマ娘は受付に駆け寄り、身を乗り出して叫ぶ。

 

「おい、棚村ってトレーナーが救急車で運ばれてきただろ! 病室どこだよ!」

「しょ、少々お待ちを――救急外来でしたらあちらで、」

 

 目を白黒させながら受付は答え、そのウマ娘は返事もなくそちらへ猛然と駆けだした。走りながら案内図で救急外来の初療室を確かめ、すれ違うスタッフの制止も気に留めずその部屋に飛び込んで、

 

「トレーナー!」

 

 叫んだその声に、棚村は振り向いて、唖然として目を見開いた。

 

「ジャラジャラ!? こんなところで何やって、レースは――」

 

 棚村のその言葉に、ジャラジャラは扉に手を掛けたまま、一拍おいて大きく息を吐く。ただひたすらに、安堵の感情だけを吐き出して。

 

「ばっかやろー、なんだ、元気そーじゃんか……」

 

 そのままへたりこみそうになったジャラジャラに、棚村は何が起きたのか理解して、痛む頭を抱えそうになりながら立ち上がった。そしてジャラジャラに歩み寄ると、

 

「――なにやってんだ、このバカ!」

 

 病室が震えるほどの怒声を、ジャラジャラの頭上から叩きつけた。ジャラジャラは思わず耳を絞って身を竦ませる。

 

「ちょっと、他の患者さんもいるんです、お静かに!」

 

 看護師の鋭い非難の声が飛び、棚村とジャラジャラは同時に口を押さえて顔を見合わせ、そして棚村はそのまま顔を覆って、深く深く溜息をついた。

 

「……一応、念のために確認するが、レースは、どうした?」

「…………」

 

 ジャラジャラは押し黙る。その沈黙が答えで、棚村はそのまま気を失いたくなった。

 

「お前、よりによって、ファン投票1位で1番人気のグランプリを出走拒否してここに来たのか……」

 

 阪神レース場がどんな騒ぎになっているか想像もしたくない。

 しゃがみこみそうになった棚村の手を、ジャラジャラが掴んだ。そしてそのまま、ウマ娘の怪力でギリギリと握りしめられる。

 

「ちょっ、ジャラジャラ、待て、痛い痛いっ」

「バカはそっちだろーが! そのグランプリの直前に階段から落ちて救急車で運ばれた間抜けなトレーナーはどこのどいつだよ!」

「お静かに!」

 

 再び看護師の注意と厳しい視線に口元を押さえ、ジャラジャラと棚村は同時にただ、溜息のように息を吐いた。

 

 

 ――事が起きたのは、ジャラジャラが控え室で勝負服に着替えている最中のことだった。

 ジャラジャラと棚村の場合、控え室でレースについて打ち合わせることは特にない。作戦なんてわざわざ細かく指示はしない。ジャラジャラには好きに走らせる。それがふたりの契約だった。

 だから棚村はいつもジャラジャラを先に行かせて、最後に地下バ道で見送りがてら声を掛けるだけである。今回もそのつもりで、先に地下バ道へ向かっていたそのとき。

 階段で、他のレースに出走していたウマ娘とぶつかってしまったのだ。

 人間とウマ娘がぶつかれば、大の男であっても弾き飛ばされるのは人間の方である。バランスを崩して階段を転げ落ちた棚村は、肩を打って鎖骨を骨折、そのまま救急車でこの病院に運ばれた。

 そしてジャラジャラは、パドックで棚村の身に起きたアクシデントを知り、棚村を探して見つけたときには、もう彼は救急車に運び込まれるところだった。その後、レース場のスタッフによってターフまで連れてこられたが――結局、今ここにいるわけである。

 

 

「……ジャラジャラ。気持ちはありがたいが、自分が何をしたか解ってるのか? いや、君の自由にやらせるというのが契約だが……。それにしたって、戒告、ゲート再試験、夏合宿の参加禁止……いやその程度で済めばいいが……」

 

 既にしてジャラジャラの気性難ぶりは広く知れ渡っている。GⅠ、それもファン投票1位選出のグランプリで出走を拒否してレース場を脱走したとなれば、トゥインクル・シリーズを侮辱したとして、最悪、トレセン学園からの退学処分もあり得なくもない。

 

「知るかよ、んなこと」

「いや、君の競走人生だぞ。それをこんな、俺なんかの怪我ぐらいで――」

「あたしがそれを預けたのはあんただ! 他の誰でもねー、あんただけだ!」

「――――」

 

 ジャラジャラの言葉に、棚村は息を呑む。棚村のシャツを掴んで、ジャラジャラはその顔を見上げて、ぎゅっと唇を引き結んで――そして、棚村の胸元に額を押し当てた。

 

「いくらあたしでもな、人生預けた相手が病院運ばれて、気にせずレースに燃えられるほど、人でなしだとでも思ってたのかよ、ばかやろう……。こんな気持ちで走って満足できるわきゃねーだろ! あたしの好きに走れって言ったのはあんただろーが。勝手に、あたしが好きに走れなくなるよーなドジ踏むんじゃねーよ……ばかやろう……」

「………………すまん」

 

 シャツを引きちぎらんばかりに握りしめるジャラジャラに、棚村は返す言葉を失って、結局その肩に手を置いて、耳元で謝罪の言葉を囁くしかできなかった。

 

 

「……お静かにと何度も言っているはずですが?」

 

 そして、ものすごく怖い顔で睨んでくる看護師に平謝りするしかできないのであった。

 

 

       * * *

 

 

 その日の夜。

 新幹線で東京に戻り、府中のトレセン学園栗東寮に帰宅したジャラジャラを待っていたのは、寮の玄関で仁王立ちするエレガンジェネラルだった。

 

「……もうお説教は聞きたくねーんだけどな」

「私が怒らなくても、生徒会から明日の朝一で呼び出しがかかっていますから、トレーナーと一緒に出頭してください」

「うげ」

「なにが『うげ』ですか。自分のやったことの重大さをもっと深く受け止めてください。まあ、担当トレーナーの負傷という事情は聞きましたから情状酌量の余地は認めますが、それでも呆れて言葉もありません。やむを得ない事情での出走取消は認められているんですから、正規の手続きを踏めば良かったんですよ。あんな大勢の人の前で脱走騒ぎを起こすなんて、ジャラジャラさんの脳はオプションですか?」

 

 腰に手を当てて、エレガンジェネラルは呆れたように嘆息をする。

 

「うるせえよ。そんなまどろっこしいこと……あ? ちょっと待て、なんで関係ないジェネがもう事情知ってんだ? 昨日の今日ですらねーぞ」

「URAからの正式発表は無いですが、貴方が脱走してから、レース場での救急車の目撃証言、学園のトレーナーが救急搬送されたらしいという噂、それから病院に勝負服姿で駆け込んできた、宝塚記念に出走しているはずのウマ娘の目撃証言が多数。――以上の情報があっという間にウマッターで拡散しました」

「…………」

「その結果、『担当トレーナーが救急搬送され、ジャラジャラはそれが心配でレースを放りだして脱走して勝負服のまま病院に駆けつけた』というストーリーが既に大方のファンの共通認識となっています。批判も少なくないですが、同情的な声も多いですよ」

「…………」

 

 ジャラジャラは頭を抱える。起きた事実としてはなにひとつ間違っていない。いないのだが――改めて自分のやったことを第三者の視点から聞かされると、それはあまりにも。

 頭を抱えながら、ジャラジャラはふと気付く。……ジェネラルの背後、物陰からちらちらとこちらを覗いているウマ娘たちの集団がいることに。ジャラジャラの視線に気付くと、彼女たちはさっと身を引っ込める。

 

「……おい、なんだよあのギャラリー」

「皆さん興味津々のようですよ?」

「……何にだよ」

「それはもちろん、ジャラジャラさんとトレーナーの強い絆についてでは?」

「おいやめろ! ばっか、そんなんじゃねーっての!」

「なるほど、これが俗に言うツンデレというものですか」

「ちげーよ! ちげーっての! 勝手に変な解釈すんじゃねー! うがああー!」

 

 ジャラジャラの悲鳴が、夜の栗東寮にこだまして消える。



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第107話 CBC賞・トライアルアンドエラー

 6月30日、日曜日。中京レース場。

 第11レース、GⅢ、CBC賞。

 

 

「コンプちゃーん、がんばれー!」

 

 中京レース場のスタンド。いつものようにヒクマが身を乗り出して声をあげる。向こう正面のゲート前にいるコンプには当然、その声は届かない。仮に届いていたとしても、コンプは振り返るよりも、目の前にいるターゲットを睨むことを優先しただろう。

 緑のゼッケンをつけたコンプが見据える先にいるのは、これまた3度目の対決となる、もうひとりの宿敵。――チョコチョコだ。

 当のチョコチョコは軽くジャンプしながら、コンプの視線は意に介さずゲートへと向かう。その姿を見ながら、私は祈るような気持ちで手を組んだ。

 どこまでもコンプの前に立ち塞がる、ユイイツムニとチョコチョコの二人。

 ――なんとか、今度こそ。

 私に出来るのはいつだって、祈ることだけなのだ。

 

 

       * * *

 

 

 1週間前、CBC賞の出走登録ウマ娘が発表されたとき。チョコチョコの名前がそこにあることに、おそらく一番驚いたのが私だった。

 朝日杯4着、ファルコンS2着、NHKマイルカップ3着。ここまでの結果から、チョコチョコはマイル路線を進むのだと思っていた。朝日杯やNHKマイルでは、勝ったメイデンチャームに力の差を見せつけられていたとはいえ、マイルを断念するほどではない。同じ担当トレーナーのユイイツムニが桜花賞を蹴ってスプリント路線に向かったのだから尚更だ。まさかここでメイクデビュー以来の1200に戻ってくるとは――。

 頭が痛いことこの上ない。想定していたレースプランも全て練り直しである。

 

「で、作戦会議ってわけ?」

「まあ、そういうこと。――チョコチョコと今度はどう戦うかだよ」

 

 宝塚記念を観戦したあと、私はコンプとトレーナー室で向き合っていた。

 私が考えていたのは、葵ステークスで試みた、ユイイツムニの番手につけて折り合うレースの継続だった。昨年のこのレースを逃げ切ったシニア級のウマ娘がおそらくは今年も逃げるだろう。今後のことを考えれば、コンプにはそれを2番手で追って、前をマークしながら折り合いをつける走りを身につけた方が、レースの幅が広がるのは間違いない。

 がむしゃらな逃げ一本より、折り合いをつけた好位先行。それはレースの定石であり、行きたがる気性のウマ娘に我慢するレースを覚えさせるのもトレーナーの仕事だ。そうして折り合いを身につけて強くなったウマ娘は数知れない。方針としては間違っていない。教科書通りの指導。

 ――そうは解っていても、本当にそれでいいのか? という囁きが聞こえてくる。

 それは単に、養成校で学んだ定石に従うことで自分が「間違っていない」と安心したいだけなのではないか? コンプの天性のスタートセンスを短距離で活かすなら、やはり本人の気性に任せて逃げさせた方が、適性に合っているのではないか……?

 結局、ひとりで考えているだけではドツボに嵌まる。それはヒクマのオークスのときに学んだことだ。ならば、本人と直接話し合うしかない。

 

「コンプ。正直に答えてほしい。控えた葵ステークス、どうだった? 実際のところ、コンプ自身があのレースで手応えを感じたかどうか、改めて確認したいんだ」

 

 私の問いに、コンプは口を尖らせて唸る。

 

「トレーナー。そんなの結果見れば解ってるでしょうが。あいつをあとちょっとでかわせるところまでいったんだから、負けたからやっぱやーめた、じゃ、クマっちとやってきたトレーニングは何だったのよって話よ」

「――――」

「心配しなくたって、折り合いつけてみせるっての。それであいつらに勝てるなら、差しだろうが追い込みだろうがどんとこいよ。あたしは最強になるんだから!」

 

 ぐっと拳を握りしめるコンプに、私は目を見開き、そして一度頬を叩いた。

 そうだ、コンプは私の指導を信じてついてきてくれているんだ。自分を信じろ。コンプの夢を叶えるために。明日の最強のために、今できることをするのだ。

 

「――よし、解った! CBC賞、チョコチョコを徹底マークするぞ!」

「おー!」

 

 

       * * *

 

 

 ゲートが開く。どっと飛び出していくウマ娘たち。

 3枠5番のコンプは今日も好スタート。だが、5枠9番からこちらも好スタートのチョコチョコをちらりと見て、そのままチョコチョコの内、斜め後ろに下げて控えた。

 

『さあチョコチョコは現在3番手、そして内、ブリッジコンプは今日も控えています4番手につけました』

「よし――」

 

 前には逃げウマ娘ふたり。チョコチョコを見ながら内を追走。先行策としては絶好のポジション。あとはここで折り合いをつけて――。

 

「――――」

 

 双眼鏡を覗いていた私は、しかし次の瞬間、喉の奥で呻いていた。

 チョコチョコとコンプの間に割り込むように、ウマ娘が押して被せてくる。さらにコンプの真後ろにもがっちりとついてくるウマ娘。後ろから突かれ、外から被せられ、コンプが嫌がるように前に行こうとする。だが、前は前で逃げウマ娘に塞がれている。

 コンプが喘ぐように顔をしかめるのが見えて、私は崩れ落ちそうになる身体を、柵を握りしめて支えるしかなかった。

 ――やられた。完全に閉じこめられた。

 考えてみれば当たり前のことだった。こっちはチョコチョコをマークするつもりでいたけれど、コンプ自身が既にマークされる立場なのだ。

 まだレース経験の浅いクラシック級のウマ娘を、歴戦のシニア級が潰しにかかる。それを当然警戒すべきだった。――完全な、私の失策だった。

 

「コンプ……!」

 

 抜け出せないまま直線。バ群に揉まれて、コンプの顎が上がる。

 そして、後続のプレッシャーを歯牙にもかけず、外目の好位から抜け出すのは、1番人気のチョコチョコ。

 内に閉じこめられたコンプに、もうそれを追いかける脚は残っていない。

 ヒクマが悲鳴をあげ、エチュードが息を呑み、私は血が滲むほど唇を噛みしめて、その現実を見届けるしかなかった。目を逸らすことは許されない。――私の招いた結果だった。

 

『チョコチョコ強い! チョコチョコ快勝です! デビュー戦以来のスプリントで見事に重賞初制覇!』

 

 涼しい顔で勝利のゴール板を駆け抜けた、ライバルの影で。

 12着という残酷な数字だけが、ブリッジコンプの名前の横には刻まれていた。

 

 

       * * *

 

 

 お互い、気持ちの整理が必要だった。

 控え室の扉の前で待っていると、ほどなく着替えを終えたコンプが出てくる。その目が赤いのを見て、私は口を開きかけ、

 

「……トレーナー。謝ったら怒るから」

 

 コンプの言葉に遮られて、私は発しかけた言葉を飲みこむ。

 

「今日の敗因はあたし。トレーナーの立てた作戦じゃない。あたしが、あたしが――」

「弱くない!」

 

 俯いて、拳を震わせて吐き出そうとしたコンプの言葉を、今度は私が遮った。

 それは、それだけは、コンプに言わせてはいけない言葉だ。

 最強を目指すコンプに、そんな言葉は――似合わない。

 

「コンプは、弱くない」

「――――ッ、12着、でも?」

「ああ。今日の負けは、コンプが弱いからじゃない。絶対に違う! ――私が担当してるのは、最強のブリッジコンプだ!」

 

 私の言葉に、コンプが顔を上げる。その大きな目を見開いたコンプの顔を、私はぎゅっと唇を引き結んで見つめた。目を逸らさずに。

 

「――じゃあ、トレーナー。あたしは、あのふたりに、勝てる?」

「勝てる! 勝って証明するんだ、コンプが最強だって!」

「……なんで、なんっ、で、こんなふがいないレースしたあとに、そんなっ……」

 

 ぎゅっと目を瞑ったコンプの頭に、私は手を載せて、その頭をわしわしと撫でた。コンプが口を尖らせて、また顔を上げる。

 

「撫でるなー!」

「よし、元気出たね」

 

 私が笑って手を離すと、コンプは乗せられたことに気付いて頬を膨らませた。

 そんなコンプを、もう一度真っ直ぐに見つめて、私は口を開く。

 

「何の根拠もなく言ってるわけじゃない。――今日ぐらい敗因が明確なレースなら、次のプランも立てやすいからだよ。だから、今日だって無駄じゃない。無駄にしない。全部、コンプの最強伝説のための足がかりにするんだ」

「…………」

「今日は、折り合いを意識しすぎて控えすぎた。コンプはやっぱり、もっと前でレースをすべきだって解った。――次は、逃げながら折り合うんだ」

「逃げながら……折り合う」

「そうだよ。ただがむしゃらに逃げるだけじゃない走りの感覚を、コンプの身体は覚えたはずだ。それは絶対、次の、これからのレースで活きる。コンプはもっと強くなる!」

 

 ――言いながら、我ながら空元気だという自覚はあった。

 その言葉はコンプというより、自分自身に言い聞かせるための言葉だった。

 だけど、そんな空元気でも。――弱気で後ろ向きよりは、コンプのトレーナーに相応しいはずだ。最強というコンプの夢を一緒に目指すと誓ったのだから。

 

「……まったく、しっかたないなあ!」

 

 どん、と胸元に拳が叩きつけられて、軽く息が詰まった。

 私の胸元を叩いたコンプは――にっと笑って、顔を上げて、私を見つめた。

 

「そこまで言われたら、次こそ証明しないわけにいかないじゃない! やってやろうじゃないの! 前走は何だったんだって走り、見せてあげるんだから!」

 

 それもやっぱり、空元気なのかもしれないけれど。

 その虚勢を、本当の実力に変えていくために、空元気でも前を向こう。

 私はコンプと拳を突き合わせて、頷きあった。

 

 

 ――もうすぐ、夏合宿が始まる。



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第108話 夏合宿スタート!

 夏合宿。それはトレセン学園の夏休み、学園総出で行われる大規模合宿である。

 教育機関としてのトレセン学園には当然夏休みが存在するわけだが、それはそれとしてトゥインクル・シリーズは1年中やっているわけである。中長距離のGⅠに出走するようなウマ娘にとっては秋のGⅠ戦線に備えての準備期間であり、短距離のウマ娘にとっては夏のスプリント戦線は本番と言ってもいい。もちろん、条件クラスのウマ娘は一歩でも先に進むべく休んでなどいられない。

 かくして、他に遅れを取るまいと、長期の夏合宿には学園の多くのウマ娘が参加する。学業その他から離れて純粋にトレーニングに打ちこめる夏合宿で大きく伸びるウマ娘も多く、夏から秋にかけてめきめきと力をつけてきたウマ娘は「夏の上がりウマ娘」と呼ばれるわけだ。

 もちろん私の担当の3人も、私と一緒に参加である。3人ともこのクラシック級の夏はいちばん大切な時期だ。それぞれの秋の目標へ向け、この夏が勝負を分ける。

 ――と、トレーナー側としてはどうしても肩に力が入ってしまうが。

 

「合宿だー、合宿だー♪ えっへへー、楽しみ!」

「クマっち、遊びに行くんじゃないってわかってんの?」

「まあまあ……いつもと違うところに行くって、やっぱりワクワクするし、ね」

 

 準備を済ませた3人と合流すると、ヒクマはもう出発前からハイテンションで、尻尾を振りながらぴょんぴょん跳ね回っている。コンプが呆れ顔をし、エチュードが苦笑するいつもの構図。

 

「あっ、トレーナーさん!」

 

 と、ヒクマがこちらに気付いて駆け寄ってくる。

 

「みんな、準備できてる?」

「はーい! えへへ、ねえ、部屋割りどうなるのかな?」

「あー、あたしはクマっちのお守りから久々に開放されるのが何よりの楽しみだわ」

「ええー? ひどいよコンプちゃーん」

 

 コンプが肩を竦め、ヒクマが頬を膨らませる。

 

「そうか、合宿所の部屋割りは寮とは別なんだよね」

「はい。行きのバスの中で発表されるそうで……」

 

 エチュードが答える。と、そこへ「おーい!」と声が掛かった。

 

「もうすぐバスの時間だよ! 早く移動したまえよ!」

 

 手を振っているのは、黒い芦毛をベリーショートにした眼鏡のウマ娘だ。ヒクマたちの暮らしている栗東寮の寮長、オイシイパルフェである。

 

「あ、寮長さんだ! はーい、今行きまーす!」

 

 ヒクマが笑顔で手を振り、「行こっ! トレーナーさん!」と私の手を取った。何も手を繋いで行くこともないと思うけど……。苦笑しつつ、私はその手を握り返す。

 

「エーちゃん、ほら、あのぐらいさあ」

「無理! そっ、そんなの無理だよぉ……」

 

 コンプが意地の悪い顔で言い、エチュードが顔を赤くして俯く。……何の話をしているのだろう? 疑問には思ったが、ヒクマに手を引っぱられてそれどころではなかった。

 そうして大量のバスが停車する学園の駐車場に向かうと、先程の栗東寮長・オイシイパルフェが集まってくるウマ娘の点呼を取っている。

 

「バイトアルヒクマ君、ブリッジコンプ君、リボンエチュード君……それと、担当のトレーナー君だね。よろしい。それじゃあ君たちのバスはあれだよ。忘れ物はないか、お手洗いは済ませたか、出発前にしっかり確認するように」

「はーい! ってあれ? トレーナーさんは?」

「私は学園の職員バスだよ」

「ええー? そんなあー」

 

 残念そうに肩を落とすヒクマ。「ほら行くよクマっち」とコンプに促され、ヒクマは「じゃあトレーナーさん、またあとでねー!」と笑顔で手を振る。ぺこりと一礼するエチュードと、3人に手を振り返していると、オイシイパルフェが眼鏡の奥で何やら意味ありげな笑みを浮かべつつ私を見ていることに気付いた。

 

「……何か?」

「いや、担当トレーナーがウマ娘に慕われているというのはいいことだと思っただけだよ。ところでこれ、トレーナー君には直接関係ないけれど、一応目を通しておいてくれたまえ。私が美浦のオリノコと熟慮を重ねた力作だけれど、担当から相談を受けることもあるかもしれないからね」

 

 と、オイシイパルフェから冊子を手渡された。はあ、と受け取ったときにはもう、オイシイパルフェは別のウマ娘の案内に向かっている。何だろう、と冊子のページをめくってみると、どうやら今回の合宿の部屋割り表らしい。

 合宿所は4人1部屋。2人部屋の寮とはそれだけでだいぶ環境が変わるが……。

 担当3人の名前を探した私は――ほどなく、その部屋割りに目を見開いた。

 

「ちょっ――」

 

 しかしもうオイシイパルフェの姿は見当たらず、バスの発車時刻が近付いていた。

 不安になってくる。――この合宿、大丈夫なのだろうか?

 

 

       * * *

 

 

 ――合宿所へ向かうバスの車中。

 

「合宿所での部屋割りだけど、点呼のときに配ったカード、その裏に記されているのがそれぞれの部屋だ。合宿所に着いたら各自しっかり確認して、部屋を間違えないように!」

 

 栗東寮長、オイシイパルフェの言葉に、ウマ娘たちの返事が唱和する。

 その車内、コンプとヒクマ、エチュードは、エチュードのルームメイトであるマルシュアスと4人でまとまって座っていた。左右に2席ずつの座席配列、前列にエチュードとマルシュアス、後列にヒクマとコンプである。

 

「えーっと、わたし北棟407号室だって!」

「え? ……え、ちょっと待ってヒクマちゃん、私も……」

「ほえ? わ、エチュードちゃんと一緒だ! やったー!」

 

 前の席に身を乗り出してヒクマがはしゃいだ声をあげる。エチュードは気心の知れた相手が合宿でも同室とわかってほっとしている様子だった。

 

「エーちゃん、クマっちの世話任せた」

「う、うん、がんばるよ」

「ええー。ふたりともわたしのことなんだと思ってるのー」

 

 頬を膨らませるヒクマに、みんなの笑いが弾ける。「むー」と口を尖らせながら、ヒクマはマルシュアスに目を向ける。

 

「マルシュちゃんは?」

「あたしは……西棟225号室だって。建物も別だね」

「え、西の225? マルちゃん、あたしと一緒じゃん」

「あ、ホントだ! はえー、コンプちゃんと一緒かあ。よろしくね!」

 

 マルシュアスなら気心の知れた相手である。コンプも内心でほっと息を吐いた。別に知らない相手と同室になっても平気だけれども、知った相手がいるのはやはりほっとする。

 

「てゆか、なんかルームメイト交換みたいになってるじゃない」

「えへへ、それもなんだか楽しいね!」

 

 尻尾を振るヒクマは、それからふっと窓の外に目を向けた。

 

「……キャクタスちゃんも一緒だったら良かったのにね」

 

 その言葉に、コンプもエチュードも一瞬押し黙る。――骨瘤で休養中のミニキャクタスは、この夏合宿も不参加だった。トレーナーによると、合宿で無理をさせたくない、という小坂トレーナーの判断だったらしい。

 2月にミニキャクタスが戦線離脱してから5カ月。もうしばらく顔を見ていない。秋には間に合うという話だったけれど、一番悔しいのは本人なんだから、あたしたちが辛気くさい顔しても仕方ないじゃない――と、コンプが言いかけたとき。

 

「やあ、ちょっといいかな?」

 

 4人の席に歩み寄ってくる影ひとつ。寮長のオイシイパルフェだ。

 

「あ、寮長さん!」

「4人とも、部屋割りはそこに書いてある通りだよ。それぞれ残り2人が気になるところだろうけど――それはまあ現地でのお楽しみということで。この夏合宿を有意義なものにしてもらえることを願っているよ」

「はあ」

「というわけで、部屋割りについての苦情はよほどの事情がないかぎり受け付けないので、そこのところはよろしくね?」

 

 ひとつウインクをして、オイシイパルフェは他の席のウマ娘たちのところに向かう。4人はきょとんと顔を見合わせた。

 

「どゆこと?」

「さあ……」

 

 

       * * *

 

 

 そして、たどり着いた合宿所。

 ヒクマとエチュードは別の建物に向かうコンプとマルシュアスと別れ、荷物を抱えて自分たちの部屋がある北棟の4階に向かった。

 

「同じ部屋になるの、どんな子だろーねー? 仲良くなれるといいなあ」

「……うん、そうだね」

 

 楽しそうなヒクマに、エチュードは少し緊張しながら頷く。ヒクマが一緒なのは心強いけれど、やはり合宿の間、知らない誰かと同室になるというのは緊張する。上手くやれるといいのだけれど……。うう、コンプちゃんも一緒だったらなあ……。

 部屋の前にたどり着く。ドアを開けると、同室のふたりは既に来ていたらしく、中から話し声が聞こえてきた。

 

「――で、なんでまたお前が同じ部屋なんだよ! 寮とは別じゃねーのかよ!」

「私は問題児の監視役です。オイシイパルフェ寮長からも直々に、貴方から目を離さないようにと言付かっていますから。まあ、言われなければ私から志願しましたが」

「あんだよそれ。やっぱりお前あたしのこと好きすぎだろ」

「違います! 全く、自分の立場を解ってるんですか? 貴方はリードサスペンス会長の温情で合宿参加を許された身なんですよ。貴方の問題行動は私たちの世代全体の評判にまで関わってくるんですから、しっかり反省して、この合宿の間は身を慎んで、真摯にトレーニングに励んでください。私がしっかり見張っていますからね」

「あーもうお説教は聞き飽きたぜ!」

 

 聞き覚えのある声に、エチュードはヒクマと顔を見合わせる。と、中にいたふたりがこちらに気付いて視線を向け――ふたりとも目を見開いた。

 

「おう、クマじゃんか。なんだ、同室お前かよ。そっちは……知らねー顔だな」

「リボンエチュードさんですよ。――ルームメイトは貴方たちでしたか。このジャラジャラさんがご迷惑をお掛けするかと思いますが、どうぞよろしくお願いします」

 

 ジャラジャラは気安く手を挙げ、エレガンジェネラルが礼儀正しくお辞儀する。

 

「わ、ジャラジャラちゃんにジェネラルちゃんだったんだ! すごいすごい! 合宿の間よろしくね!」

 

 ヒクマは無邪気にはしゃいだ声をあげる。――その後ろで、エチュードは固まっていた。

 ――世代ティアラ3強と同室って、私、ちょっと、あまりに場違いすぎるんじゃ……?

 

 

       * * *

 

 

 一方、西棟2階。

 コンプとマルシュアスの225号室はまだ同室の残りふたりが来ておらず、先に部屋に入ったコンプとマルシュは畳の上に身を投げ出して天井を見上げた。

 

「あー、バス移動疲れたぁ……」

「ホント、レースのときみたく新幹線で行きたかったわ……」

 

 コンプとマルシュは顔を見合わせ、ふたりで苦笑し合う。

 

「いやー、クマっちが一緒じゃないって楽でいいわー。クマっちいたら絶対はしゃぎまくってるところだもん」

「大変そうだねー、コンプちゃん」

「マルちゃんこそ、普段エーちゃん相手だと気遣わない?」

「んー、まあね。でもあたしがぐじぐじしてるときはエチュードちゃんに気遣わせてると思うから、そこはおあいこかなーって。ほら、それにエチュードちゃんって、あたしよりオトナの階段一歩先に上ってるからさ、リスペクトして応援してるから!」

「上ってるかなあ……?」

 

 トレーナーの件については、エチュードは全く進歩がないとコンプは思うのだが。まあ、自分たちが学生で向こうが大人である限り、進歩があったらあったで問題ではあるのだろうけれども、それはそれとしてトレーナーと担当ウマ娘が引退後そのまま、という話もまたありふれているわけで……。

 ――何か不埒な想像が頭をよぎって、コンプは慌てて首を振ってそれを払った。

 

「どったの? コンプちゃん」

「……なんでもない。ていうかさ」

「ん?」

「マルちゃん、なんか最近ちょっと前よりオトナっぽくなった?」

「え? ホント? あたしオトナっぽくなった!?」

 

 目を輝かせて、ずずいと詰め寄ってくるマルシュアス。コンプは肩を竦めた。

 

「訂正。そーゆーところはオトナっぽくない」

「ええー! なにそれコンプちゃん!」

 

 マルシュアスは頬を膨らませて、座布団をコンプに放り投げる。それをキャッチして投げ返してやろうと、コンプが振りかぶったとき。

 

「こらーっ、いけませんよ! バイタル注意です! 枕投げは夜になってから!」

「委員長、投げてるの枕じゃなくて座布団だと思うよぉ?」

 

 ドアが開いて、同室の残りふたりが顔を見せた。その姿に振り向いて――。

 

「うえ」

「げっ」

 

 一番見たくない顔を見たふたりが、どちらからともなく呻き声をあげた。

 

「どしたの? コンプちゃん」

「チョコチョコさん、固まってどうしましたか! まずはご挨拶ですよ! 同室となりました学級委員長のバイタルダイナモです! どうぞお気軽に委員長とお呼びください!」

 

 空気を読まずに名乗りを挙げるバイタルダイナモの横で。

 ――不倶戴天のふたりは、お互いに寮長から告げられていた「苦情は受け付けない」という言葉の意味を理解して、固まっているところだった。

 



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第109話 アオハル三角関係

 めちゃくちゃ空気が冷え切っている。

 合宿所の西棟225号室は、そのふたりが顔を合わせた瞬間から、夏の盛りとは思えない冷房いらずの空気が張り詰めていた。

 

「…………」

「…………」

 

 荷物を投げ出して畳の上に寝転がったチョコチョコと、その対角線上でむっつりと窓の外を眺めているブリッジコンプ。最初に顔を合わせた瞬間から、ふたりとも完全に沈黙して目も合わせようとしない。

 

「チョコチョコさん! いけませんよ! ルームメイトに御挨拶しなくては!」

「眠いの」

 

 揺さぶるバイタルダイナモに、微塵も眠そうではない声でチョコチョコが答える。

 それをコンプの隣で見ながら、マルシュアスはコンプの横顔を横目に見やる。

 めちゃくちゃ不機嫌そうな顔。――いや、犬猿の仲だってのは聞いてたけどさあ。

 マルシュアスは溜息をつく。寮長さん、なんでよりにもよってこのふたりを同じ部屋にするんですか。巻き込まれるあたしの身にもなってくださいよ――。

 

「申し訳ありません、チョコチョコさんはお疲れのようです! 改めましてよろしくお願いいたします! 学級委員長のバイタルダイナモです!」

 

 と、バイタルダイナモがふたりに歩み寄ってきて、全く空気を読まない能天気な笑顔で正座して頭を下げる。「あ、ども……」とマルシュアスも一礼。

 

「えと、あたしは……」

「学級委員長として存じ上げておりますとも! 青葉賞2着、日本ダービー5着のマルシュアスさん! そして京王杯3着、葵ステークス2着のブリッジコンプさん! 同期の実力ある方と同室となれまして光栄です! この夏合宿、有意義に切磋琢磨いたしましょう! 何かありましたらこの学級委員長にお任せください!」

 

 どんとドヤ顔で胸を叩くバイタルダイナモ。もちろんマルシュアスも彼女のことは知っている。路線は違うとはいえ、同期の重賞ウマ娘だ。というかスプリンター3人の中に放り込まれてあたしにどうしろと?

 マルシュアスが曖昧に頷いていると、コンプが窓から視線を戻してダイナモに向き直り、疲れ切ったような溜息をついた。

 

「……どーも、よろしく」

「はい! よろしくお願いします!」

「じゃあさ、えーと、委員長? さっそくひとつ頼まれてくんない?」

「もちろんです! バイタル相談室です、なんなりと!」

「寮長に、あたし別の部屋に変わるって伝えておいて。北棟のクマっちのとこ行くから」

「え、ちょっとコンプちゃん――」

「わかりました! バイタル了解です! 行って参ります!」

 

 ダイナモは敬礼すると即座に立ち上がり、ダッシュで部屋を出ていく。嵐のような勢いにマルシュアスが茫然としているうちに、コンプは荷物を手に取って立ち上がった。

 

「マルちゃんも来る?」

「え? いやいやいやコンプちゃん、そんないきなり――」

「――――ちょーっとお待ちください! バイタル思い出しました!」

 

 と、飛び出していったダイナモが嵐のように戻ってくる。

 

「オイシイパルフェ寮長から言付かっておりました! 部屋替えの希望に関してはよっぽどの事情がない限り受け付けないと! まして初日からの部屋替えなどもっての他とのことです! というわけで申し訳ありませんがそのご希望には添えません! バイタル阻止します!」

 

 部屋のドアの前に両手を広げて立ちはだかるダイナモ。コンプは荷物を置いて溜息をつく。――と、壁の方を向いて寝転がっていたチョコチョコがぼそりと呟いた。

 

「ふーん。……逃げるのはレースだけじゃないってわけだ」

「……あんですって?」

 

 コンプが眉間に皺を寄せて振り返る。ごろりとこちらに身体を向けたチョコチョコが、つまらなさそうな顔でコンプを見上げる。

 

「偉そうに自分が最強だとか大口叩いてたのが恥ずかしくなったんでしょ? 12着さん」

「――――ッ」

 

 コンプが何か叫びかけて、歯を食いしばってそれを堪える。うわあ、とマルシュアスは頭を抱えた。……先日のCBC賞、チョコチョコが重賞初制覇を飾り、ブリッジコンプは12着に沈んだレースは当然マルシュアスも部屋で観ていた。

 

「身の程知らずはそーやって、目の前の現実から逃げてるのがお似合いだよ。……ふあ。勝手にどこへなりとも行って、優しいトレーナーにでも慰めてもらえばいいさ。おやすみ」

 

 欠伸をして、また壁の方に背を向けるチョコチョコ。ダイナモは困ったようにチョコチョコとブリッジコンプを交互に見やり、マルシュアスはいたたまれなくなって窓の外に視線を逸らした。室内の空気は既に氷点下である。どーすんの、この状況……。

 ――と、その空気をぶち壊すのは、やはり空気を読まない約一名である。

 

「チョコチョコさん! このところご機嫌斜めなのは学級委員長として把握していますが、ルームメイトにまでそんな態度はバイタル大減点ですよ! 八つ当たりはいけません!」

 

 ダイナモが腰に手を当てて、背中を向けたチョコチョコに声をあげる。コンプがダイナモの方を見て目をしばたたかせた。

 

「そういえばレイさんが仰っていましたよ! ヤキモチを妬くならちゃんと当の本人に妬くべきだと! 恋敵に当たってもユイさんは振り向いてくれません!」

「――――はぁっ!?」

「……は?」

 

 がばっとチョコチョコが跳ね起きてダイナモを見上げ、コンプは目を丸くする。

 

「ちょっ、委員長!? いきなり何言い出すのさあ!?」

「ですから、ユイさんがブリッジコンプさんを意識していることにヤキモチを妬いているのでしたら、それはちゃんとユイさんに伝えるべきであって、ブリッジコンプさんに当たっても仕方ありませんということです! 恋のバイタルお悩み相談です!」

「なあああああああああああああああ!?」

 

 チョコチョコの声にならない悲鳴が、合宿所西棟に響き渡った。

 

 

       * * *

 

 

「え、ちょ、マ? 委員長、それチョコとこの子の目の前で言ったのぉ?」

「はい! いけませんでしたか?」

「……あー、いやまあ、うん、いーんじゃない? チョコにも自覚は必要っしょ?」

 

 ――数分後、225号室の中の人数はひとり減って、ひとり増えていた。

 減ったのはチョコチョコ。バイタルダイナモの爆弾発言に百面相のようにめちゃくちゃな表情をした挙げ句、部屋を飛び出して行ってしまったのである。

 で、それと入れ替わりに「なんの騒ぎぃ?」とやって来たのが、この栗毛のギャルっぽいウマ娘である。彼女はダイナモの寮のルームメイトで、ソーラーレイと名乗った。

 ソーラーレイはブリッジコンプの方をしげしげと見やる。コンプはぶすっと口をへの字にして腕組みしていた。

 

「……つまりなに? あいつ、あの三つ編み眼鏡があたしのことライバルだって言ったのが気に食わなくて、今まであたしに突っかかってきてたってわけ?」

「ま、そーゆーことねえ。チョコの奴、はたから見てても露骨なぐらいユイに執着してるもんねー。ユイが自分以外をライバルだって思ってるのが許せないんしょ」

「なによそれ……」

 

 コンプは盛大に溜息をつく。……いやまあ、ちょっと気持ちはわかるかも、とマルシュアスは思った。ランデブーさんが自分以外の後輩に目をかけてたら、正直ジェラシーを燃やさずにいる自信はない。

 

「だからチョコさん、CBC賞を勝ったあともご機嫌斜めだったわけですね! ブリッジコンプさんを倒して重賞を勝ったのに、ユイさんの態度が変わらなかったから!」

「そーゆーことだろーけど、大きな声で言ってやりなさんなよー委員長。ま、そーゆーことだからさあ、うん」

 

 曖昧に頷くソーラーレイに、コンプは顔を上げて。

 

「……あの三つ編み眼鏡、今もあたしのことライバルだって思ってるってこと?」

「ん? まー、本人から直接聞いたわけじゃないけどさあ、CBC賞の後もチョコが荒れてるってことはそーゆーことっしょ」

「ふーん……そっか、そっか!」

 

 と、コンプが立ち上がると、鞄を開けて中からジャージを取りだした。

 

「コンプちゃん?」

「あ、マルちゃん、あたし走ってくる。じゃ!」

 

 そしてその場で一瞬にしてジャージに着替えると、コンプはそのまま部屋を飛び出して行く。――ちらりと見えた横顔は、見るからに明るくなっていた。

 

「……あー、あっちもあっちで大概かあ。なーんでみんなあのコミュ障ミステリオタクにイレ込むかなー」

「それはもちろん、今のところユイさんが世代短距離筆頭だからでしょう!」

「んなことはあたしも知ってるっつーの!」

 

 ダイナモとソーラーレイのそんなやりとりを聞きながら――マルシュアスは。

 ――お、オトナだ……! 三角関係だ……! エチュードちゃんだけじゃなく、コンプちゃんのところでも青春少女漫画が始まっちゃったよ……! アオハルだあ!

 頬に手を当てて、いいなあ、と溜息をついているのだった。

 

 

       * * *

 

 

 合宿所東棟、317号室。

 荷ほどきもそこそこに、バスの中で読んでいたミステリの続きを読みふけっていたユイイツムニは、不意に鼻がむずむずして、小さくくしゃみをした。

 

「大丈夫ですか~? はい、どうぞ~」

 

 同室になったオータムマウンテンがポケットティッシュを差し出してくる。小さく目礼してそれを受け取り、鼻を拭いながらユイイツムニは本に栞を挟んで閉じた。ちょうど解決編に入りそうなあたりだったので区切りがいい。

 鞄からジャージを取り出すと、荷物の整理をしていたプチフォークロアが顔を上げる。

 

「ユイイツムニさん、ランニングですか? せっかくですからご一緒しても?」

「…………」

 

 ムニは無言で頷きながらジャージに着替える。「じゃあ、せっかくですから私も~」とオータムマウンテンも立ち上がった。

 

「ミークさんもご一緒にいかがですか~?」

「…………ん、行きます」

 

 もうひとりのルームメイト、ハッピーミークも立ち上がる。

 この面々と部屋で顔を合わせたとき、ユイイツムニが思ったことはひとつだった。

 ――静かに、読書に集中できそう。

 どうやら快適な合宿になりそうだと、ムニは思った。

 部屋が別れたチョコチョコの身に起きた災難など、知るべくもないのだった。



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第110話 姫将軍と練習曲・己の有りよう

 一方その頃、北棟407号室。

 

「おっし、顔合わせも済んだし、ダラダラしててもしょーがねーな。行くか」

 

 ヒクマとエチュードが同室のふたりに挨拶を済ませたところで、ジャラジャラが立ち上がった。「せっかちですね」と溜息をつきつつエレガンジェネラルもそれに続く。

 

「え? ……あの、どちらへ?」

「走ってくんに決まってんだろ。クマと、えーと、まあいいや、お前らも来いよ」

「クマじゃないってば! ん、でも走るならわたしも行く! エチュードちゃんも行こ!」

「あ……う、うん」

 

 ヒクマも立ち上がり、エチュードに手を伸ばす。エチュードもその手を取って立ち上がりながら、心の中だけで小さく息を吐いた。――疎外感など、覚えるのもおこがましいという自覚はあるけれども……。

 小さな疼きを抱えながらジャージに着替え、4人で合宿所の外に出る。合宿所前の駐車場には、既にジャージに着替えたウマ娘たちが思い思いにストレッチしていた。夕飯の時間まで散歩がてら走ってこようと、みんな考えることは一緒らしい。栗東寮長のオイシイパルフェと、美浦寮長のオリノコリエンテが、ランニングに向かうウマ娘たちに「集合時間に遅れないように!」と声を張り上げている。

 

「コースは海側、山側、合わせて10種類ほどありますが、どのルートにしますか? 軽くウォーミングアップ程度のランニングなら、海沿いの平坦コースでしょうか」

 

 エチュードたちもその場でストレッチを済ませ、エレガンジェネラルが合宿のしおりについている地図を見ながら言う。

 

「あー? せっかく合宿来て府中で走れるよーな道走ってどーすんだよ。山行くぞ山! おっしゃ、ビリケツはジュース奢りだぜ! お先!」

「あっ、ジャラジャラさん! もう……」

「あーっ、待ってよジャラジャラちゃん! わたしも行くー!」

「ああ、バイトアルヒクマさんまで……仕方ないですね、私たちも行きましょうか、リボンエチュードさん」

「……は、はい」

 

 レースのように真っ先にジャラジャラが走り出し、ヒクマが楽しそうにそれを追いかけていく。溜息をついたエレガンジェネラルに促され、エチュードも走り出した。

 ジャラジャラが先陣を切って向かったのは、合宿所の裏手の小高い丘を登って下って一周してくるコースのようだった。なだらかな上り坂を速歩で駆けていくジャラジャラと、それを追いかけるヒクマの背中を遠くに、そしてエレガンジェネラルの背中を近くに見ながら、一番後ろをエチュードはついていく。

 はるか前方で楽しそうにジャラジャラを追うヒクマ。その無邪気な笑顔が向いているのが、はるか後ろの自分などではなく、ただ前であるという当たり前の事実に、エチュードはぎゅっと唇を引き結んだ。

 

 理解はしている。これが即ち、今の自分とヒクマの距離だということ。

 春のクラシックで死闘を繰り広げ、勝ちきれないまでも世代三強の一角として絶大な人気を集めているヒクマと、結局クラシックに出られなかった無名の自分との距離。

 ヒクマがライバルとして見据えているのは、ジャラジャラであり、エレガンジェネラルであり、ミニキャクタスだ。――自分は、ただの友達でしかない。

 そんなことはデビューする前から解っていたことだ。ヒクマと自分の間に絶対的な才能の差があることぐらい。楽しそうに走っているだけでもう重賞を何勝もして、世界の舞台を現実の夢として捉えているヒクマと、せめてリボン家の名前を汚さないように、というレベルでもがいている自分とでは、やっぱり住む世界が違う。

 ――だからこそ、秋華賞に出たいと思った。

 ヒクマちゃんと同じスタートラインに立ちたい、と思った。

 だけど、こうして世代三強がそろい踏みした中に紛れ込んでしまうと、やっぱりそんなのは場違いな高望みだった気がしてくる。この3人と同じレースで競い合う――。自分はそんな大層なウマ娘では……。

 

「リボンエチュードさん」

「はっ、はい!」

 

 いつの間にか、エレガンジェネラルが前ではなく真横を走っていた。ジャラジャラとヒクマを見失わない程度の距離を保ちながら、息も乱さず緩い上り坂を走り続けるエレガンジェネラルは、ちらりとエチュードの脚元を見やった。

 

「裂蹄の具合は大丈夫ですか?」

「え? え、あ、えと、はい、もう全然――」

 

 アネモネステークスの落鉄で負った爪の怪我はもう治っている。全力で走っても大丈夫なことはトレーナーと確認済みだ。何も心配されることは……。

 

「……え? あれ、あの、ジェネラルさん、どうして私の怪我のこと――」

「同期のライバルの情報収集は欠かしませんので」

「――――」

 

 エチュードの怪我のことなど、もちろん報道などされていない。休養がニュースになったミニキャクタスとは違うのだ。……それが、裂蹄という怪我の内容まで把握されているなんて。どう反応したらいいのかわからず、エチュードは口ごもる。

 そういえばエレガンジェネラルには、以前もレースの予定や走り方のスタイルを把握されていた。彼女がゴリゴリのデータ主義、合理主義者だというのは聞く話だけれども……。まさか、現役ウマ娘全員の動向を頭に入れているとか……?

 

「ジャラジャラさんの非礼はお詫びします。彼女は記憶力に重大な欠陥がありまして。おそらく3回は一緒に走らないと人の名前を覚えられないようです」

「え? あ、いえ……」

「おいジェネ、わざとこっちに聞こえるよーに言ってんだろ! 誰が鳥頭だ!」

 

 前方からジャラジャラの声。「だいじょーぶだよジャラジャラちゃん! わたしもよくトレーナーさんに会いに行って、なんで会いに行こうと思ったのか忘れるし!」とヒクマが言い、「フォローになってねーよ!」とジャラジャラが唸る。

 

「まあ、そういうわけですので。合宿の間、ジャラジャラさんがご迷惑をお掛けしたり、貴方に不快な思いをさせるようなことがあれば遠慮なく私へ伝えてください。私の方からきつく言っておきますので」

「そ、そんな……別に、私なんて……」

 

 エチュードが俯く。――と、ジェネラルは小さく鼻を鳴らした。

 

「……なるほど。ジャラジャラさんの気持ちが少しわかる気がしますね」

「え?」

「もう直ぐこのコースの最高地点ですね。――少し、ペースを上げます。下りで置いていかれますよ」

 

 そう言って、エレガンジェネラルは前のジャラジャラとヒクマへの距離を詰めにかかる。エチュードはぼんやりとその背中を見送り――それから、慌ててそれを追いかけた。

 追いかけなければいけない気がした。本能的に、ここで追いかけなければ、本当に、何もかもから置いていかれてしまう――そんな予感がした。

 その本能は、エチュードの心に巣くっていた引け目や劣等感を置き去りに、無意識のうちに、その脚を動かしていて。

 ――ちらりと振り向いたジェネラルが、エチュードがついてきていることに、少し安心したように表情を緩めたことに、エチュードはもちろん気付かなかった。

 

 

       * * *

 

 

 オークスの後、王寺トレーナーから問われたことがある。

 

『ジェネラル。――たとえば、次の大レースで強敵となるだろう相手が明らかに調子を崩していたとする。そして君は、その相手の問題点と改善点に気付いているとする。君は、どうすることが合理的だと考える?』

『……自身の問題は自身と担当トレーナーとで解決するべきです。私が口を出すべきことではないでしょう』

『正論だ。わざわざ敵に塩を送ることは、勝利を目指す上で合理的とは言い難い』

 

 いつも通りの冷徹で合理的な王寺トレーナーの言葉。けれどそのとき、エレガンジェネラルの内心によぎったのは、小骨のような引っかかりだった。

 確かにトレーナーの言うことはその通りだ。だが――。

 

『短期的に見れば、そうかもしれません。ですが――』

 

 つい、そう言葉が口を突いて、はっとジェネラルは押し黙った。

 

 ――長期的に見れば、万全の相手を実力でねじ伏せ、勝負付けを済ませることの方が合理的ではないでしょうか。

 

 これではまるで、ジャラジャラの理屈だ、とジェネラルは思う。

 トゥインクル・シリーズの常識にも慣例にも栄誉にも背を向けて、ただ強い相手だけを求める戦闘民族の考え方だ。合理性も何もない――。

 そう否定しようとしても、ここまでの結果が、ジェネラルの思考を引きずる。

 ジャラジャラとのマッチレースの末に惜敗した阪神JF、不良馬場の利を活かして差し切った桜花賞、良馬場での超ハイペース逃げを捕らえきれなかったオークス。――この3戦の結果が、世間でどう言われているかも、もちろんジェネラルは把握している。

 

 ――所詮、エレガンジェネラルは道悪専。良馬場ならジャラジャラの方が力が上。

 

 言い訳はできない。結果を見ればその通りだったからだ。桜花賞の不良馬場を、ジャラジャラのハイペース逃げを封じる絶好の利だと自分が考えたのも事実だった。そしてそれは、勝利を目指す上で何ひとつ間違っていない考え方だと、疑いなく信じていた。

 けれど。

 桜花賞の後、王寺トレーナーが初めて語った夢。トリプルティアラ、エリザベス女王杯、有馬記念のクラシック五冠完全制覇。その夢がオークスで砕け散ったとき、ジェネラルの中で何かが崩れた。

 それが何だったのか、ジェネラルはまだ自分の中で言語化できていない。

 

 

 リボンエチュードのことは、デビュー前から存在はもちろん把握していた。

 名門リボン家の新人としては前評判はそれほど高くなかったが、同期になることが決まってからは特に注視していた。バイトアルヒクマと同じトレーナーの担当だから、バイトアルヒクマの情報を集めていれば、自然とリボンエチュードの情報もついてくる。

 彼女が初勝利を挙げる前に、少し話す機会もあった。ティアラ路線を目指すと担当トレーナーから聞いて、対戦の機会を楽しみにしている、と伝えた覚えがある。実際、そこまで来る可能性はある相手だとは認識していた。――ただ、それはあくまで対戦するというだけで、少なくとも今の段階で彼女が脅威になるとまでは思っていなかった。

 その認識を改めなければならない、と思ったのは、菜の花賞を見たときだ。中山の短い直線で大外一気、上がり33秒7の差し切り。あの末脚は、距離が保つなら府中では充分に脅威になり得る。要注意の相手として、リストの上位に記すことにした。

 だから、彼女がアネモネステークスで落鉄して敗れ、裂蹄で春クラシックを断念すると聞いたときは、警戒すべき相手がひとり減ったことを、勝利を目指す上でのプラス材料とだけ考えていた。

 ――けれど、今は。

 

『そ、そんな……別に、私なんて……』

 

 明らかにこちらに気後れしている様子のリボンエチュードに、軽い苛立ちを覚えている自分に気付いて、ジェネラルはそのことに自分で驚いていた。

 それはまるで、リボンエチュードが自分の見込んだ通りに、秋華賞で脅威となってくれなければ物足りない――という、ジャラジャラのするような考え方だ。

 秋華賞はおそらく、ミニキャクタスも戻ってくる。合理的に勝利を目指すのであれば、脅威となる相手がこれ以上増えることは望ましくない。そう頭では理解しているのに。

 ふつふつと、ジェネラルの中に湧き上がる思いがある。

 

 ただ勝つだけではダメなのだ。

 強い相手に、強い勝ち方をしなければ。

 それこそ、スーパーレコードで逃げ切ったオークスのジャラジャラのように。

 実力で全てをねじ伏せたと、誰もが認めるようなレースをしなければ。

 ――そうでなければ、トレーナーの託してくれた夢に報いることができない。

 

 ジャラジャラとバイトアルヒクマを追いながら、ちらりと後ろを振り返る。

 ペースを上げた自分に、リボンエチュードが真剣な表情でついてきている。

 

 ――そう、リボンエチュードさん。

 貴方が自分をどう思っていようと、私は――貴方を、秋華賞の強敵だと思っています。

 だから――そうなる前に勝手に潰れてしまわれては、困るのです。

 

 そこまで考えたところで、ジェネラルは小さく首を振って前に向き直る。

 ――ジャラジャラさんに、毒されすぎですね。

 自嘲するようにそう息を吐いたけれど――それは決して、悪い気分ではなかった。



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第111話 王者の目標

 制服姿のまま、逃げるように、ただめちゃくちゃに走っているうちに、チョコチョコはいつの間にか、誰もいない浜辺にたどり着いていた。

 無人の入り江の砂の上に力なく座り込んで、「あーっ」と呻きながら、チョコチョコは頭を掻きむしる。耳の奥ではまだ、バイタルダイナモの言葉が反響していた。

 ――ヤキモチを妬くならちゃんと当の本人に妬くべきだと! 恋敵に当たってもユイさんは振り向いてくれません!

 解っている。そんなことは解っているのだ。この感情が嫉妬だということぐらい。

 なんで。なんでブリッジコンプなのさ。あたしの方が強いのに。あたしの方がいつも一緒にいるのに。なんで――なんで、あたしじゃなくて、あいつを見るのさ。

 あんたのライバルは、あいつじゃない。あたしだ。そうでしょ?

 CBC賞でそれを証明したと思っていた。あの栗毛のチビはシニア級のウマ娘に揉まれて勝手に沈んでいって、自分はきっちり勝ちきった。シニア級相手に重賞タイトルを獲ったのだ、もう何ひとつ文句を言われる筋合いはない。格の違いというものを、あのチビに見せ付けてやったはずだった。

 あんなチビのことは、彼女の意識から綺麗さっぱり消し去ってやった、はずだった。

 ――それなのに。

 彼女は、ユイイツムニは、何も変わらなかった。

 もちろん、重賞初制覇を祝福はしてくれた。おめでとう、と、いつもの木訥とした調子で祝ってくれた。――でも、それだけだった。それだけで、何も変わらなかった。

 だったら、どうしてほしかった? あたしはムニっちに、いったいどんな反応をしてほしかった?

 そんなの、答えはひとつきりだ。

 

 ――震えてほしかった。昂ぶってほしかった。

 葵ステークスの後、あのブリッジコンプのことを語ったときのような顔で。

 倒すべき標的を見つけたという、戦う者の表情を見せてほしかった。

 他の誰でもない、あたしに対して。

 

 あたしは、本当はムニっちにライバルだと思われていないのではないか?

 そんな想像の真偽なんて、無論、本人に確かめることなど出来るはずもない。

 

 あたしとブリッジコンプの、何が違うというのだろう。

 あいつにあって、あたしにないものなんて、何があるというのだろう。

 ――わからない。わからないから、チョコチョコは八つ当たりするしかなかったのだ。

 CBC賞で勝手に沈んでいくブリッジコンプを見ながら、いい気味だと。

 それがひどく醜い感情だと自覚していながら。

 

 全身から吐き出すような溜息をついて、チョコチョコは手元の石を海面に放る。

 ぽちゃん、という波紋は打ち寄せる波に掻き消されて、すぐに消えていく。誰にも吐き出すことのできない自分の感情のように。

 そのままぼんやりと黄昏れていると――不意に、砂を踏みしめる足音が響いた。

 誰かがこの入り江にやって来たのだ。一瞬、脳裏にユイイツムニの顔がよぎって、まさか、と首を振って振り払い、チョコチョコはゆっくりと振り返る。

 そして、そこにあった姿に、さすがのチョコチョコも目を丸くした。

 

「おや、まさかここに先客がいるとは」

「か、会長さん?」

 

 現れたのは、トレセン学園の生徒であれば知らぬ者のない顔。生徒会長のリードサスペンスである。会長も制服姿のまま、鞄を提げてこちらに歩み寄ってくる。

 

「君は、チョコチョコ君か。こんなところで制服のまま何をしているのかな」

「……いや、どっちかというとそれはこっちの台詞なんですけどぉ?」

 

 チョコチョコの返しに、リードサスペンスは目をしばたたかせ、

 

「なるほど、それも道理か」

 

 とひとりで勝手に頷いた。

 

 

       * * *

 

 

「まあ、端的に言えば、ここは合宿期間中の私の秘密の休憩スポットなわけだ」

「……要するに、サボっていらっしゃるぅ?」

「そうとも言うかもしれないね」

 

 ふふっ、と笑って、リードサスペンスはチョコチョコの隣に腰を下ろした。

 

「しかし、ここが見つかってしまったとは困ったな。ドカドカの目を逃れられる絶好の場所だったんだが」

「いや、口外しませんよぉ。会長さんの秘密なんて握ってた方が面白そうですから」

 

 チョコチョコの言葉に、リードサスペンスは目を見開き、そして手を叩いて笑う。

 

「それはありがたい。くれぐれもドカドカには内緒にしてくれたまえよ」

 

 口元に指を立てていたずらっぽく笑うリードサスペンスに、チョコチョコは目をしばたたかせて、この生徒会長に対する印象を大きく改めていた。

 ――なんだ、結構フランクなひとなんだな、会長さん。

 生徒会長を近くで見る機会なんて、式典で格式ばった挨拶をしているときぐらいだ。現役時代の戦績からしても、厳格でストイックな堅物なんだろうと思っていただけに、随分イメージと違う。でも、チョコチョコとしてはこっちの方がずっと好ましいと思う。

 

「ドカドカさんって、そんな口うるさいんです?」

「それはもう。いや、もちろん彼女が真面目に仕事をこなしてくれるからこそ、日々の生徒会の業務が円滑に回っているのだから、なくてはならない存在だけれどね。本来は私なんかより、彼女の方が生徒会長には相応しいと思うんだが」

 

 いや九冠ウマ娘が何を仰いますか、と言いかけてチョコチョコは口を噤む。

 リードサスペンスとドカドカの関係は、この会長の現役時代を知るウマ娘であれば知らぬ者はない。引退レースで絶対王者の十冠を阻止した、通算1勝の挑戦者――。

 

「……会長さんにとって」

「うん?」

「実際、ドカドカさんって、どんな存在なんです?」

 

 クラシックから引退まで、ほぼ国内に敵無しだったリードサスペンス。強すぎてつまらないとまで言われた彼女にとって、引退レースの有馬記念という花道で、重賞未勝利、それどころか主な勝ちレースが「クラシック級未勝利」のドカドカに敗れたというのは、いったいどんな経験だったのだろう。

 単純な好奇心からのその問いに、リードサスペンスは「ふむ」と唸る。

 

「一言で言うのは難しいな。今は頼れる生徒会書記だし、できれば後を継いでほしい後継者候補だし、口うるさいお目付役だし、そういった立場を超えた親友だと、私個人としては思っているよ。ドカドカの方がどう思っているかはわからないけれどね」

「……現役時代は、どうでした?」

 

 チョコチョコの問いに、リードサスペンスは目を細めた。

 

「その答えは、一言で言えそうだ。――現役時代のドカドカは、私の目標だよ」

「…………え?」

 

 聞き間違いかと思った。けれどリードサスペンスは、「おっと、これもドカドカには内緒にしてくれたまえ。混乱させてしまうだろうからね」といたずらっぽく笑った。

 混乱しているのはこっちだ、とチョコチョコは眉根を寄せる。

 目標? それは――どう考えたって、逆だろう。

 ドカドカがリードサスペンスを目標に競走生活を送ったのは周知の事実だ。絶対王者という高すぎる目標に挑み続け、最後の対決で大金星をもぎ取った挑戦者ドカドカの物語は、トゥインクル・シリーズの伝説の一ページとして語り継がれるものだ。

 だが――絶対王者リードサスペンスから見れば、ドカドカは単なるその他大勢ではなかったのか? 挑戦者にとって王者はひとりだが、王者にとって挑戦者は無数にいる。そんな無数の挑戦者のひとりに過ぎなかったのではないのか。

 王者が挑戦者を目標にする? ――意味がわからない。

 

「さて、この場所を内緒にしてもらうかわり、と言ってはなんだけれども」

 

 と、混乱するチョコチョコをよそに、リードサスペンスは立ち上がってひとつ伸びをすると、チョコチョコへと手を差し伸べた。

 

「ひとつ、私と併走してくれないか?」

 

 チョコチョコは、今度こそ思い切り目を見開いた。

 

 

       * * *

 

 

「いや、会長さんのジャージ借りて併走とか、これ会長さんのファンに知られたら刺されますよぉ」

「大げさだな。舗装路ですまないが、君の得意距離で構わない。1400なら、ここから――そうだな、あの標識のあたりまでだろう。どうだい?」

 

 気が付いたら、リードサスペンスの鞄に入っていた予備のジャージを借りて(サイズはちょっと大きかった)、ランニングコースの一角で併走することになっていた。

 

「……本気で行っていいんです?」

「もちろん。一線を退いたとはいえ、まだまだクラシック級のウマ娘に負ける気はないよ」

 

 ストレッチを続けるリードサスペンスに、チョコチョコは鼻を鳴らした。

 ――いくら九冠ウマ娘の会長さんとはいえ、舐められたもんだなあ。

 こちとらシニア級相手のスプリント重賞ウマ娘だ。いくら伝説のリードサスペンス会長といったって、もう現役を退いて何年も経っているウマ娘。しかも距離が長ければ長いほど強かったゴリゴリのステイヤーである。

 いくらなんでも、こっちこそこの条件で負けるわけにはいかない。

 

「それじゃあ――始めようか!」

 

 リードサスペンスがコインを弾き飛ばす。それが地面に落ちて音をたてた瞬間、チョコチョコはレースのように本気のダッシュで駆け出した。たちまちリードサスペンスの姿が後方へ遠ざかる。

 中長距離とスプリントではテンのスピードも道中のペースも全く違うのだ。この条件で勝ったって本来は自慢にもならない。でも、あのリードサスペンス会長に併走で先着――そんな勲章が手に入るなら、遠慮なくいかせてもらう!

 そのまま、後ろのリードサスペンスのことなど気にせずチョコチョコは飛ばしていく。終いの脚を残しつつ先行するいつものペース。前にムニの背中を見るイメージで。イメージの中のムニっちを、残り200で捕まえに行く――。

 

 その瞬間。

 背後から迫ってきた気配に、チョコチョコは――震えた。

 

 目の前のイメージのムニの背中が霧消する。

 そして、ちらりと背後に視線を向けたとき――そこには。

 獲物を前にした肉食獣のような、獰猛な笑みを浮かべた、リードサスペンスの姿。

 ――いや、ウッソでしょ? 会長さん、ステイヤーでしょ!?

 だが、その姿は紛れもない現実だった。

 リードサスペンスの長身が、チョコチョコに迫る。並ぶ。

 そして、半バ身かわされたところが、ゴールに定めた標識だった。

 

「……ふう、さすがに現役バリバリのスプリンター相手は、老骨には堪えるな。1200だったら到底届かなかったところだ」

 

 涼しい顔で額の汗を拭ったリードサスペンスの横で、チョコチョコは膝に手を突いて荒く息を吐き出し、そのまま道路に倒れこんだ。

 ――負けた。ものの見事に差し切られた。

 これが……絶対王者。九冠ウマ娘、リードサスペンス――。

 

「……会長さん、いつからスプリンターに転向したんですぅ……?」

「まさか。スプリンターというのは君のように終いの脚を残しながら飛ばしていける天性のスピードの持ち主のことだよ。私にはとても、そんなスピードはない」

「いや、人に勝っておいてそう言われましても、ねえ……」

「種明かしすれば、私が君のスピードについていくには、スタートからずっと全力でスパートするしかなかった。そうやって、1400メートルかかってやっと君のスピードに追いついただけさ」

 

 ――は。

 唖然として、チョコチョコは地面から茫然とリードサスペンスを見上げる。

 つまりこのひとは――スタートした瞬間から超ロングスパートをかけて1400メートルを全力で走りきって、こっちが倒れこんでいるのに涼しい顔をしている、と?

 ……これが、九冠ウマ娘。

 なるほど。まだまだ、上には上がいる。シニア級のさらなる一線級ともなれば、こんなバケモノとこれからもやり合うわけだ――。

 先が思いやられるねえ、とチョコチョコは大きく息を吐いた。

 

「……会長さん、現役復帰したらどうです? あとGⅠ7つぐらい勝てますよぉ」

「なかなかお世辞が上手いじゃないか」

 

 差し伸べられたリードサスペンスの手を、チョコチョコは掴んで立ち上がる。

 

「ありがとうございました、会長さん。――いい経験させてもらいましたよぉ。ふぁ」

 

 疲れから小さく欠伸が漏れた。リードサスペンスは「それは何より」と微笑む。

 

「ジャージは後で洗って返しますねえ」

「うん、そうして貰えると助かる」

「じゃあ、あたしは戻りますんで。会長さんもドカドカさんに見つからないよーに、気を付けてくださいねぇ」

 

 そう言って、チョコチョコはそのままその場を走り去ろうとして――。

 

「――チョコチョコ君」

 

 リードサスペンスの呼び止める声に、脚を止めて振り返った。

 

「なんです?」

 

 腕組みしたリードサスペンスは――生徒会長の顔をして、チョコチョコを見つめて。

 そして、少し躊躇するように間を置いて、口を開いた。

 

「これは余計なお世話かとも思うが。――おそらく、今の君ではユイイツムニ君には勝てないよ」

「――――――」

「君は確かに強い。強いが――それだけだ。それでは、その先の景色は見えない。……別に、老骨の繰り言と受け流してくれても構わないけれどね。老婆心というやつさ」

 

 それじゃあ、とリードサスペンスは踵を返し、逆方向へと走り出す。

 その背中を、チョコチョコは茫然と見送るしかなかった。



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第112話 敗者の物語

 あの三つ編み眼鏡が――ユイイツムニが、自分をライバルだと思っている。

 そう聞いたときの感情を、言葉で説明するのは難しい。

 嬉しさや安堵がなかったと言えば嘘になる。ただ、それをそのまま認めてしまうと、結局自分があいつより格下だと認めてしまうことになるから、一瞬でもそう思ってしまった自分が悔しい。そして事実として今の自分はあいつより格下だということを理解しているから、なおさら癪に障る。吼えたところで三戦全敗という事実は揺るがないのだ。

 それから、チョコチョコに対していい気味だと思い、そう思ってしまう自分はやっぱり器が小さいと自己嫌悪し、別にあたしはあの三つ編み眼鏡に認められたいわけじゃない、と自分に言い聞かせてみても、事実としてあいつを倒すことが目下の目標であるし、CBC賞であんな無様な走りをしてもまだ当人からライバル視されているということが、惨敗で折れかけていた気持ちと自信に力を与えてくれたのもまた事実であって――。

 要するに、ブリッジコンプの頭の中はそういった感情が入り乱れてぐちゃぐちゃで、頭を空っぽにするためにランニングコースを無茶苦茶に走っているのであった。

 当然、ペース配分など考えもしない、ただ思考を消し去るためだけの暴走なので、すぐに息が切れる。脚を緩めて道ばたの草むらに立った看板の日陰で汗を拭い、やり場のない感情と一緒にコンプは大きく息を吐き出した。

 

 ――なにやってんだか、あたしってば。

 

 結局のところ、CBC賞の惨敗を未だに引きずっているのだ。単なる出遅れ撃沈なら割り切れた。割り切れずにいるのは――トレーナーと一緒に立てた先行策で潰されてしまった自分自身の情けなさゆえだ。

 あれだけ、逃げではなく先行で折り合いをつけるトレーニングを積んできたのに、全て台無しにしてしまった。トレーナーは前向きに「次は逃げて折り合おう」と言ったけれど、それが自責の念と、自分の心を折らないための必死の空元気であることぐらい、コンプだって察している。

 トレーナーを信じてついていく、と決めたのだから。自信を失っていたトレーナーを、3人でそう言って励ましたのだから。今さらあのトレーニングが無駄だったとは、自分もトレーナーも認めるわけにはいかないのだ。

 泥沼の第一歩なのかもしれない。しかし、それ以外にどうすればいいのだろう?

 確かにトレーナーはちょっと頼りないところはある。それでも、「最強のウマ娘になる」という夢を笑わずに受け止めてくれたトレーナーを信じたいし、その信頼に報いたい。

 

「……結局、あたしが勝つしかないんだ」

 

 当たり前のことである。勝利は全てを正当化するのだ。秋のスプリンターズステークスで、ユイイツムニにもチョコチョコにも、シニア級のウマ娘にも勝って、最強のスプリンターになる。そうするしかない――。

 汗を拭って顔を上げ、息を整え、もう一度走りだそうとしたところで。

 

「あっ、すみませーん!」

 

 と、突然誰かに声を掛けられた。コンプが振り向くと、見覚えのある青鹿毛の小柄なウマ娘が、視線を彷徨わせながらこちらに駆け寄ってくる。

 知り合いではない。だが、その顔はあまりに有名で、もちろんコンプも知っていた。

 

「あの、リードサスペンス会長を見かけませんでした?」

 

 トレセン学園生徒会書記。稀代のアイドルウマ娘、ドカドカだった。

 

 

       * * *

 

 

「サボり? 会長さんが?」

「ええもう、いつものことなんですけど。ちょっと目を離すとすーぐどこか行っちゃうんですよ、リサさんってば。肝心なときにはちゃんと戻ってくれるんですけど、でも何があるかわからないじゃないですか。連絡取れないと困りますっていつも言ってるのに、LANEも返事してくれないですし……」

 

 はああ、と疲れたように溜息をつくドカドカ。姿を消した生徒会長のリードサスペンスを探しているという彼女に、なんとなくコンプは付き合っていた。

 

「……会長さんって、そんな風来坊なんですか?」

「そうなんですよ! いつもいつもギリギリまで仕事を溜め込んで、そのくせ涼しい顔して間に合わせるのでこっちも怒りにくいですし、なんにも考えてないみたいで指示は的確なので頼りにはなるんですけど、頼りにしようとするとどこか逃げちゃいますし……」

 

 意外な話だった。コンプのような一般生徒にしてみれば、伝説の九冠ウマ娘リードサスペンスは雲の上の殿上人。普段は式典やメディアでのかしこまった姿しか見る機会がないし、現役時代も堂々たる王者という印象しかなかったのだが……。

 

「ふふ、意外そうな顔ですね」

「まあ、そりゃ」

 

 目をしばたたかせるコンプに、ドカドカは笑う。

 

「やっぱりリサさんってそういうイメージなんですね。外面だけはいい人ですし……。でも、付き合うとわかりますけどほんっとにもー困った人なんですよ」

「え、ホントに付き合ってるんです?」

「あ、いやいやいやそういう意味ではなく! っていうかホントにってなんですか!」

 

 顔を赤くしてぶんぶんと首を横に振るドカドカ。――リードサスペンスとドカドカの関係は、当然コンプも知っている。通算一勝のまま重賞戦線で勝ちきれない戦いを続け、リードサスペンスの引退レースで、レコードタイムで2勝目を挙げて十冠を阻止し、絶対王者に引導を渡した1年後輩のライバル。今は生徒会長と書記として、トレセン学園の運営に携わっているふたりが、公私ともに親しいことは周知の事実だ。

 大柄で浅黒くキリッとしたイケメンであるリードサスペンスと、小柄で色白、穏やかな顔をしたドカドカは、本当にいろいろな意味で対照的で、その関係性に邪な妄想を抱くファンも少なくない。いや、コンプにそういう趣味はないけれども……。

 しかし、文句を言いながらもリードサスペンスのことを語るドカドカの口ぶりは楽しそうで、邪な意味でかはともかくとして、彼女はなんだかんだ言いながらも心からリードサスペンスのことが好きなんだな、ということは伝わってきた。

 ――部屋でトレーナーの話してるときのクマっちに、ちょっと似てるかも。

 コンプはひとつ鼻を鳴らし――それから、ふと思う。

 ……どうしてドカドカさんは、勝てない日々に、心折れずにいられたのだろう。

 未勝利戦を脱してから、有馬記念でリードサスペンスを打ち破るまでのドカドカの戦績は有名だ。青葉賞2着、ダービー5着、神戸新聞杯2着、菊花賞2着、有馬記念4着、阪神大賞典2着、天皇賞(春)2着、宝塚記念3着、天皇賞(秋)4着。絶大な判官贔屓を集めたその戦績は、「諦めないこと」の象徴として子供時代のコンプの記憶にも強く刻まれている。

 しかし実際、トゥインクル・シリーズで走ってみて、それは道徳の教科書に載るようなキラキラした泥臭さではないということが、今は嫌というほどわかる。勝てないということは、ただただ苦しい。報われるゴールがあるという確信など誰にもないのだ。勝ちたい。勝つために全力を尽くして、なお遠いあと一歩。それがどれだけ心を削るか、今のコンプにはどうしようもなく実感としてわかってしまう。

 

「……ドカドカさん」

「はい?」

「同じ路線に、バカみたいに強い絶対王者がいるって、しんどくなかったんですか?」

 

 コンプのその問いに、ドカドカは目をしばたたかせ――そして。

 

「しんどかったですよ。当たり前じゃないですか。リサさんだけじゃなく、誰にだってもう負けるたびにバキバキに心折られました」

 

 青空を見上げて、陽光に目を細めながら、明るい口調でそう言った。

 

「毎回毎回、あと一歩、あと一歩って――たくさんの人に応援してもらって、それなのに勝てない自分が情けなくて、悔しくて、もうレースなんかやめて田舎に帰りたいって、現役の間はほとんど毎日思ってました」

「――――」

「諦めなかったんじゃなくて、ただしがみついていただけです。走ることしかできませんから。……憧れた人が走っている間は、せめてその背中を追いかけていたい。あの人にとって私がただのその他大勢のひとりでも、せめてその他大勢のひとりでありたい。……本当に、ただそれだけだったんです。世間に言われてるような綺麗な物語なんかじゃなくて、ただの意地っ張り、自己満足なんですよ」

「……でもそれで、絶対王者を倒しちゃったわけじゃないですか」

「だから、それだけで終わっちゃいました」

「――――」

 

 リードサスペンスを倒して、ドカドカは燃え尽きた。そう言われていることも、実際ほぼその通りの戦績であることも、もちろんコンプも知っている。

 

「リサさんに勝てたことは私の一生の誇りです。でも、だからって無責任に『諦めなければいつか報われる』なんて、今もがいている人にしたり顔で言いたくはないです。もがいている間の辛さはよく知ってますから。……ブリッジコンプさん」

「は、はい」

「意地を張るのに疲れたとき、そう言える相手を大切にしてあげてください」

「――――」

 

 ドカドカのその言葉に、なんと返事をすべきか、コンプが口ごもっていると。

 ひとりのウマ娘が、ジャージ姿でふたりの横を走り抜けていく。

 その姿に、ドカドカが目を丸くした。

 

「――あっ、リサさ、会長!」

「おっと、見つかってしまったな――ドカドカ、大丈夫、夕飯までには戻るよ!」

「待ってください、会長! ああもうっ、仕事はいっぱいあるんですよー!」

 

 走ってきたリードサスペンスを見つけたドカドカは、そのまま逃げだしたリードサスペンスを追いかけていく。その場に取り残されたコンプは、茫然とそれを見送って――溜息をついて踵を返した。

 意地を張るのに疲れたとき、そう言える相手――か。

 ルームメイトの能天気な笑顔がすぐに脳裏に浮かんで、コンプは首を横に振る。そうして顔を上げ、一旦合宿所に戻るか、と走り出して――ほどなく。

 一番顔を合わせたくない相手と、再びはち合わせてしまった。

 

「あ」

「あっ」

 

 向こうから走ってきた顔に、お互い脚を止めて、睨み合うように向き合った。

 ブリッジコンプとチョコチョコ。――不倶戴天の天敵同士。

 

 

       * * *

 

 

「捕まえましたよ、リサさん!」

「やれやれ、私も衰えたかな」

 

 飄々と肩を竦めるリードサスペンスを捕まえ、ドカドカは息を吐く。手加減されたことぐらいは理解している。今でもこの会長が本気を出したら、今の自分では追いつけない。

 まったくもう、と溜息をつこうとして、リードサスペンスのジャージが思った以上に汗みずくであることにドカドカは気付いた。……そもそも、姿を消したときにはまだ制服姿ではなかったか?

 

「……会長、誰かと併走でもしてました?」

「さすがドカドカ。私のことはなんでもお見通しだね」

 

 そういうことか。ドカドカは改めて溜息をつく。

 

「なんだい、一緒に併走したかったのかな、ドカドカ? 私はいつでも構わないよ」

「私は構います! もう、とにかく一旦合宿所に戻りますよ」

「はいはい、わかりましたとも、次期会長殿」

「なりませんから!」

「なってほしいんだけどね。……ところで、ブリッジコンプ君と何を話してたんだい?」

「……大したことではないです。会長のいい加減さについて愚痴を聞いてもらっていただけですから」

 

 答えつつ、ドカドカは目を眇めて、ブリッジコンプの顔を思い出した。

 正直、彼女の問いにちゃんと答えられた自信はない。自分が報われてしまった立場にいるからこそ、勝ちきれない者の苦しみには、何を言っても上からの傲慢な言葉になってしまう気がするのだ。

 勝ちきれない日々を乗り越えて、絶対王者を打倒した挑戦者。――散々、メディアなどでそういう「美しい物語」として自分の競走生活が消費されてきたことに文句を言うつもりはない。それに憧れてくれる後輩がいることも否定したくはない。ただ――。

 

 夢を叶えた後も、目標を達成した後も、何者かになった後も、人生は続く。

 自分の物語は、しかし物語でないが故に、キリのいいところで終わってなどくれない。

 夢に向かってもがく後輩たちに、ドカドカが本当に言いたいのはそのことだった。

 ――本当に大事なのは、夢を叶えたあとにどうするかなのだと。

 だけどそれは、夢に向かってもがいている当人たちに言っても仕方のないことで。

 だって、結局夢を叶えられるのはほんの一握りでしかないのだから。

 やはり、それは「物語」を手に入れた者の傲慢なのだろう。

 だからドカドカは、口をつむぐしかないのだ。

 

「……リサさん」

「うん?」

 

 自分より頭ひとつ高いリードサスペンスの顔を見上げて、ドカドカは目を細める。

 ――結局自分は、どこまでもこのひとに依存しているのかもしれない。

 夢を終わらせてしまったあとにもまだ、背中を見せ続けてくれるこのひとに。

 

「なんだい? ……そんなに熱心に見つめられると、愛の告白でもされてしまいそうだな。ふふ、ドカドカなら私はやぶさかではないよ?」

「――ちっ、違いますから! もう! リサさん!」

 

 くいっと顎を指先で持ち上げられて、ドカドカは真っ赤になって吼え、リードサスペンスは楽しげに笑う。

 そんな代わり映えのしないやりとりが、ドカドカにとっては愛おしい、今の自分の物語なのだった。



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第113話 挑戦する者とされる者

 顔を合わせてしまったからって、何か言うべきことがあるわけでもない。

 口を開けばどうせまた無為な言い合いになるに決まっている。だからチョコチョコは、黙ってその横を無視して通り過ぎようとした。――が。

 

「待ちなさいよ」

 

 ブリッジコンプに腕を掴まれ、チョコは眉間に皺を寄せて振り返る。

 

「……なにさ」

「これから合宿中、毎日同じ部屋で顔付き合わせるなんて、お互い御免でしょ。――だったら負けた方が部屋を出てくって条件で勝負。どう?」

 

 コンプの言葉に、チョコは眉を寄せて鼻を鳴らした。

 勝負? そんなものはもう、CBC賞で完全についているではないか――。

 

「……一応確認しとくけど、条件は?」

「そこの砂浜、直線1000メートル併走」

 

 なんだ、走り以外の勝負でだまし討ちというわけでもないのか。チョコは肩を竦めた。

 

「ダートなら勝てるって? 舐められたもんだなあ。――何回やったって一緒だよ」

「さて、どうだか。――受けるってことでいいのね?」

「……いいじゃん。今度こそその鼻っ柱、粉々にして海に撒いてあげるよ」

「それ、そっくり同じ言葉返しとくから」

 

 言って、ブリッジコンプは砂浜へ降りていく。その背中を見ながら、チョコは息を吐いた。――あいつ、どういうつもりだろう。短距離のレースに紛れがあるのは、短い距離を大勢のウマ娘が一斉に走るからだ。一対一の併走なら、純粋な実力勝負。あっちは逃げて、こっちはそれを目標にして差し切るだけ。――先程リードサスペンスとやった併走の疲れはまだ残っていなくもないが、それを差し引いても、これまでのレースで一緒に走った感触からして、負けるイメージが浮かばない。

 何か秘策でもあるのか? それとも、単に部屋を出ていく口実が欲しいだけか?

 訝しみながら、チョコもコンプの後を追って砂浜に降りる。軽くストレッチをするコンプの横に立つと、おそらく合宿のトレーニング用なのだろう、砂浜にハロン棒が立っていることに気付いた。なるほど、これなら1000メートルがわかりやすい。

 

「ここからあそこまで、ハロン棒5本分」

「オーケー。じゃ、スタートの合図はこれで」

 

 チョコも軽く屈伸して息を整えると、拾った貝殻を高く放り投げた。コンプと並んで体勢を構え――砂の上に貝殻が落ちた瞬間、砂を蹴立てて走り出す。

 ――なるほど、やっぱりスタートは大したもんだね。

 チョコもスタートは決して苦手ではないが、コンプのロケットスタートは砂の上でも見事なものだった。出脚で1バ身の差をつけられ、チョコは黙って斜め後ろからコンプの背中を追う。

 ――けど、所詮あんたの逃げはそれだけだよ!

 残り200でスパート。一気にコンプの横に並ぶと、顔を歪めたコンプをかわして、ゴールの瞬間にはきっちり半バ身先着。イメージ通りの勝利だった。

 なんだ、自分から突っかかってきておいて、結局この程度か――。

 やっぱり、ムニっちとは格が違う。ムニっちなら半ばで息を入れて最後の1ハロンでもうひと伸びするけれど、こいつにはそれがない。ただスタートの勢いのまま突っ走るだけのワンペース。だから差す側にしてみれば目標にしやすいのだ。

 

「ほい、あたしの勝ち。――身の程、知ったでしょ?」

 

 膝に手を突いたコンプを見下ろして、チョコが告げる。――と。

 顔を上げたコンプは、不敵に笑っていた。

 

「ま、1本目はこんなもんでしょ。じゃ、2本目いきましょ」

「は? ――はあ?」

 

 思わず声を上げて、チョコは自分の確認漏れに気付いて舌打ちした。確かに、この栗毛のチビは1本勝負とは言っていなかった。……しかし、まさかそんな狡いことを。

 

「なによ。――何回やったって一緒なんでしょ?」

 

 煽るように言うコンプに、チョコは唇を噛む。安い挑発だ。こんなくだらない勝負に乗ってどうする。――理性はそう自分に告げているけれど。

 ここまでコケにされたら、徹底的に叩き潰してやらないと気が済まない。

 

「……いいじゃん。ブッ潰してやる」

 

 

       * * *

 

 

 そうして、砂浜の5ハロンをいったい何往復しただろうか。

 2回目もチョコが先着した。3回目も、4回目も。

 だけど、その差が少しずつ、少しずつ詰まっていった。

 5回目、6回目、7回目。

 

「い、今、あたしが、先着、したでしょ」

「はっ、はあ? こっちが、勝ってたに、決まってん、じゃん」

 

 8回目、9回目――、

 

「勝った、勝った、今絶対あたしが勝った……っ!」

「んなわけないでしょ、ハナ差こっちの勝ちだっての……っ」

 

 10回目――。とうとうお互い、どっちが勝ったのかさえわからなくなって。

 ふたりとも、力尽きるように、砂浜の上に仰向けに倒れこんだ。

 もう呼吸すらしんどい。頭がくらくらする。指一本動かす力もない。チョコは砂の上で夕焼けに染まった空を見上げて、それから視線だけで隣に倒れたコンプを見た。

 コンプも汗だくで砂の上で喘ぎながら、ちらりと視線だけでこちらを見て。

 目が合った瞬間、お互い全力で視線を逸らして空を見上げた。

 ――何やってんの。バカみたいに熱くなって……。これじゃ古臭い青春漫画じゃん。

 チョコは自分に呆れて大きく溜息をつく。古臭い漫画ならこれでお互い認め合って友情が芽生えるシーンかもしれないが、隣で喘いでいる栗毛のチビに対する感情は、相変わらずムカムカするばかりだった。

 ――いったいこいつ、何がしたいのさ。こんなバカみたいな勝負して……。

 

「つ、ぎ……もう、1本……」

 

 と、隣から起き上がろうとする気配と、呻くようなそんな声。

 バカか。まだやる気なのか。もういい加減にしてくれ――。

 チョコが目を閉じて、疲労に身を委ねていると。

 

「……なにやってるの? ふたりとも……」

 

 突然、聞き慣れた第三者の声が割り込んだ。

 

「…………ムニっち?」

 

 目を開けると、ユイイツムニが不思議そうな顔でチョコとコンプを見下ろしていた。

 ムニはチョコとコンプを交互に見て、不思議そうに首を傾げる。

 

「……一緒に併走? いつの間にそんなに仲良しになったの」

「誰が!?」

 

 思わずふたり同時に声をあげて起き上がっていた。ムニは眼鏡の奥で目を丸くしながら、手にしていたスポーツドリンク2本をふたりに差し出した。

 

「はい」

「…………ありがと」

 

 毒気を抜かれて、チョコはそれを受け取って口をつける。

 コンプはしばし差し出されたスポドリとムニの顔を見比べていたが、結局喉の渇きに負けたようにそれを受け取って勢い良く飲み干した。

 そして大きく息を吐いて――うっし、と気合いをつけて立ち上がると。

 

「よし、回復した! ちょーどいいじゃない、三つ編み眼鏡! あんたとも勝負よ!」

「……え? 併走?」

「そう、こいつには勝ったから次はあんた!」

「はあ? 誰が誰に勝ったって!?」

 

 チョコは思わず声を上げるが、コンプはそれを無視してムニを見つめる。

 ムニは汗だくのコンプと、座り込んだままのチョコを交互に見やって、ひとつ首を捻り。

 

「……やめておく」

 

 そう、首を横に振った。

 

「ちょっと、なんでよ!」

 

 口を尖らせて身を乗り出すコンプに――ムニは、その額に指を当てて。

 

「……そんな消耗しきった貴方に勝っても、嬉しくはない」

「――――――」

「勝負をつけるなら、レースで。……スプリンターズステークスで待ってる」

「――――――ッ、上等じゃない!」

 

 

 ――なんで。

 その光景を見上げながら、チョコはただ、茫然と口を開けていた。

 ――なんでさ、ムニっち。

 ブリッジコンプが拳を突き出して、何事か、ムニに宣戦布告している。

 ――――なんで、そいつに、そんな顔、するの。

 その言葉を聞くユイイツムニの顔は――。

 

 いつも通りの無表情に見えるけれど、チョコにはわかる。

 その顔は、チョコが見たこともないほど、楽しそうに笑っているのだと。

 

『おそらく、今の君ではユイイツムニ君には勝てないよ』

 

 リードサスペンスの言葉が、脳裏にリフレインする。

 

『君は確かに強い。強いが――それだけだ。それでは、その先の景色は見えない』

 

 強い以外に、何があるっていうの。その先って、何なのさ。

 

 

 あいつには、ブリッジコンプには、それが見えているっていうの。

 だからムニっちは、あたしじゃなく、あいつを――。

 

 

「……チョコ?」

 

 向けられたムニの視線から逃げるように、チョコは顔を逸らして立ち上がった。

 

「あーあ、付き合ってらんないよ。……あたし、先帰るねえ」

 

 チョコはそれだけ言い残して――その場から、逃げるように走りだした。

 背後でムニとコンプがどんな顔をしているのか、振り返って確かめる勇気なんて、ない。

 

 

       * * *

 

 

 そうして、合宿所まで無我夢中で戻ってくると。

 

「よう。――ひどい顔してるな、チョコ」

「……トレーナー」

 

 息を切らせたチョコを、トレーナーが出迎えた。

 

「……あの栗毛チビにバカみたいな勝負に付き合わされてさあ、くたくたなのよぉ。話あるんだったら、お風呂入ってからでいい?」

 

 顔を笑みの形に歪めて、チョコはおどけて言った。本当におどけられているのかもわからないまま。

 そんなチョコに、トレーナーは目を眇めて――横を通り過ぎようとしたチョコへ。

 

「ブリッジコンプに負けたか」

「負けてない!」

 

 その言葉に、反射的に言い返していた。

 けれどトレーナーは、じっとチョコを見つめて。

 

「負けてないなら、なんでそんな顔してる」

「――――」

「ま、そんな顔ができるようになっただけ上出来だな」

「…………どういう、意味さあ?」

 

 トレーナーの言葉の意味が、わからない。

 

「俺が説明するようなことでもないんだがな……まあ、自分が認識できないことに、自力で気付けってのも酷か」

 

 困ったようにトレーナーは頭を掻いて、そして真剣な顔でチョコを見つめた。

 

「お前は頭が良すぎるんだよ、チョコ」

「――――は?」

「レースが上手い。相手の実力と自分の実力の差を測る目も正確だ。勝てる相手になら、どんなペースで走ってどこで仕掛ければ勝てるか、お前はきっちり解ってる。……だから、負けたときに何が原因で負けたかも、お前はきっちり解ってるはずだ」

「……なに、褒めてるのぉ?」

「ファルコンSはハナに立ったせいで前に壁を作れなくて上手く自分のペースを作れなかった。バイタルダイナモには不覚を取ったけど10回やったら9回は勝てる。NHKマイルはスタートの位置取り争いで狙ってたポジションを取れなかった。メイデンチャームには完璧な位置取りで進めてもたぶん勝てなかった、自分にはマイルはちょっと長いから――お前の自己分析は、だいたいそんなところだろ?」

「…………」

「これ自体は俺もほぼ同意見だ。――だけど、それで納得しちまうのがお前の悪い癖だ。お前のその自己分析は、負けたことに対する自分への言い訳だ」

「――――――ッ」

「確かに今のお前は今のバイタルダイナモと10回やれば9回は勝てるさ。ファルコンSはたまたまその1回を引いてしまっただけだ。だが、それは外野の俺が言うことであって、お前が自分自身に言い聞かせるのは、どんなに正確な自己分析でも――いや、正確な自己分析だからこそ、最悪の麻薬だ。負けたことに論理的に納得できるってのは気持ちいいもんな。プライドが傷つかなくて済むから。そうやって自分を慰めてれば、いくら負けたって自分はこんなもんじゃないって思っていられるもんな」

 

 思わず、チョコはトレーナーに掴みかかっていた。

 チョコに胸ぐらを掴まれて、トレーナーはチョコを静かに見下ろす。

 その視線に、チョコは唇を噛んで、俯いて手を離した。

 

「チョコ!」

 

 途端、トレーナーの鋭い声が飛んで、チョコはびくりと身を竦めた。

 

「お前、ムキになるのは格好悪いと思ってるだろ」

「――――」

「でもな、お前、そもそも自分が思ってるほど、傍からみて格好良くなんてないぞ」

「――――――――ッ」

 

 言葉が出ない。何か言い返したいのに、頭が真っ白になって何も出てこない。

 

「……だ、ったら……あたしに、どう、しろって、」

 

 絞り出すように呻いたチョコに――トレーナーは、ぽんとその頭に手を載せて。

 

「それこそ、お前が自分でなんとかすることだ。幸い、お前のそれをなんとかできそうな相手はいくらでもいるんだからな。この合宿で答えを出せなきゃ、お前は一生、ムニには勝てない。……たとえスプリンターズステークスでムニに先着したとしても、な」

 

 謎かけのような言葉を残して、トレーナーはその場を立ち去っていく。

 その場に残されたチョコは、闇に染まっていく空を見上げて。

 

「なんだよ――なんなんだよぉっ!」

 

 そう、嗄れた喉から叫ぶしかなかった。



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第114話 世代三強のトレーナー語り

 一方その頃――。

 

「わーっ」

 

 山側のランニングコースを登っていって、辿り着いたのは展望台だった。眼下に広がる海を一望できる見晴らしの良い場所の柵に、ヒクマが身を乗り出して目を輝かせ、ジャラジャラは柵にもたれて汗を拭う。エレガンジェネラルと一緒にようやく追いついたエチュードは膝に手を突いて息を整え、ジェネラルは黙って自動販売機へと向かった。

 

「エチュードちゃん、見て見て! 海、綺麗だよ!」

「……う、うん」

 

 山道を駆け上がってきた疲れなど微塵も見せないヒクマに、エチュードは潮の匂いを感じる空気を吸い込みながら、ようやく呼吸を落ち着かせて歩み寄る。

 と、そこへ横からスポーツドリンクのペットボトルが差し出された。振り向くと、ジェネラルが笑顔で差し出している。

 

「どうぞ」

「あ……ありがとう、ございます」

「わ、ジェネラルちゃんありがとー!」

 

 エチュードはおっかなびっくり、ヒクマは嬉々としてそれを受け取り、ジャラジャラは腕組みして口を尖らせた。

 

「なんだ、奢り役引き受けかよ、優等生。……って、あたしの分はどこだよ」

「何言ってるんですか。これはジャラジャラさんに付き合わせたお詫びですよ。自分の飲み物は自分で買ってください」

「あー? あんだよケチ」

 

 顔を顰めてジャラジャラはポケットに手を突っ込み、それから憮然とした顔で黙りこむ。そんなジャラジャラに、ジェネラルは呆れ顔で溜息をついた。

 

「お財布もスマホも部屋に置いてきたでしょう、ジャラジャラさん」

「気付いてたなら言えよ!」

「ですので、これは貸しです」

 

 もう一本、隠し持っていたペットボトルをジェネラルは放る。それを受け取って、ジャラジャラは豪快に音を立てて飲んでから、呆れ顔でジェネラルを見返した。

 

「お前ホントにめんどくせー奴だな」

「ジャラジャラさんにだけは言われたくありません」

 

 自前の給水ボトルに口をつけるジェネラルに、ジャラジャラは「な、こいつこーゆー奴なんだよ」とヒクマとエチュードの方を振り向いて言った。ヒクマは首を傾げ、エチュードは反応に困って苦笑するしかない。

 

「んーっと、つまりふたりともすっごく仲良しってこと?」

「ちげーよ!」

「違います」

「ええー?」

 

 即座にふたり同時に否定され、ヒクマはしきりに首を捻る。エチュードから見ても仲が良いようにしか見えないけれど、それは言わぬが花というものだろう。

 

「ああ、そうだ。おいヒクマ」

「ん、なあに? ジャラジャラちゃん」

「お前こそ、たしかあいつと仲良いんじゃなかったか。あのミニ、ミニキャンペーン」

「ほえ? えと、キャクタスちゃんのこと?」

「そーだそーだ、ホープフル勝ったあいつだよ。あいつどーしてんだ?」

「んと……わたしもよくわかんないの。連絡してもあんまり返事くれないし。トレーナーさんは、キャクタスちゃんも秋華賞には戻ってくるって言ってるけど」

「深管骨瘤でしたよね。繋靱帯炎になっていなければ秋には間に合うでしょう」

 

 ジェネラルが口を挟む。ジャラジャラは「ほーん」と鼻を鳴らし、それからぱんと拳を打ち鳴らした。

 

「あいつが戻ってくんなら、こっちも秋は気兼ねなく秋華賞だな」

「あ、ジャラジャラちゃん秋華賞出るんだ! わたしだって次は負けないよ!」

 

 ぐっと拳を握って意気込むヒクマに、ジャラジャラはにっと獰猛な笑みを向ける。

 

「おう、またオークスみたいに本気であたしを潰しに来いよ。受けてたつぜ」

「その前にジャラジャラさんはゲート再審査に通るところからですけどね」

「うっせーよ!」

「ちゃんと真面目に受けてくださいね。私の評判にも関わるんですから」

 

 ――次の目標について語り合う3人を、輪の外から眺めながら、やっぱり遠いなあ、とエチュードは思う。世代三強の輪。……今の自分がそこに入って行けないのは当たり前だけれど。だけど――。

 

「あ、ジャラジャラちゃん! そうだ、わたしも聞きたいことある!」

「あー?」

「ジャラジャラちゃんって担当のトレーナーさんとすっごく仲良しなんだよね!」

 

 ヒクマのその言葉に、ジャラジャラが飲みかけのスポドリを盛大に噴き出した。

 

「げほっ、おまっ、クマ! お前までそれ言い出すのかよ!」

「ほえ? 違うの? だって宝塚記念のとき――」

「何を慌てているんですか、ジャラジャラさん。棚村トレーナーの怪我が心配でレースを脱走して病院に駆けつけたのは周知の事実じゃないですか」

「あ、やっぱりあの話ってホントだったんだね!」

「――――~~~~ッ」

 

 苦虫を何百匹も噛み潰したような顔をするジャラジャラに、ヒクマは笑顔で詰めていく。

 

「ね、ね、ジャラジャラちゃんの担当のトレーナーさんってどんなひと?」

「……いや、んなこと言われてもな」

「そういえば、ジャラジャラさんが担当を決めた経緯の話は聞いたことがありませんでしたね。棚村トレーナーは自主性の尊重を第一に置く放任主義者と聞いていますから、そこがジャラジャラさんと合ったんだろうと思っていましたが」

「…………」

 

 疲れたように嘆息して、ジャラジャラは頭を掻き。

 柵に手を掛けて、海の方を向いて言った。

 

「……あいつは、あたしに自分の勝手な夢を押しつけなかった。……あたしがただ、戦いたい奴と戦って勝つ、それが見たいって言ったんだよ。物好きな奴だろ? そーゆー物好きとなら、くだらねー勲章とか名誉にこだわらずに走れるって思っただけだよ。他人の夢背負うのなんざ、御免だからな」

「どこまでも自分勝手なひとですね。――望むと望まざるとにかかわらず、自分のものだけじゃない夢を背負うことになるのが、トゥインクル・シリーズというものでは?」

「あたしの走りを見た奴があたしにどんな夢を見よーが、そりゃそいつの勝手だ。でも、あたしの人生はあたしのもんだ。他人のために走ってやる義理はねえ。違うか?」

「それが貴女の信条なら、私は私に託してもらった夢で、それを打ち破るだけです」

 

 ジャラジャラの隣で腕を組んで、ジェネラルは言う。

 

「ジェネラルちゃんの夢って?」

「トレーナーから託された夢です。――ひとつでも多くの勝利を。私とトレーナーが積み上げてきたものが正しいということの証明を。それは、勝つことでしか為しえませんから」

「夢ぇ? お前のトレーナー、あの性格悪そうな無表情眼鏡だろ? 夢なんざ語るようなタイプにゃ見えんが」

「失礼な。私のトレーナーは冷静で理知的な、信頼できる人です。……まあ、私も彼から夢を語られたときには驚きましたが。今はその夢に少しでも報いたいと、そう思います。ですから――秋華賞は決して譲りません」

 

 静かに、けれど力強くそう言い切ったジェネラルは、ヒクマを逆に見つめ返す。

 

「バイトアルヒクマさん。貴女は何のために秋華賞へ?」

「ほえ、わたし?」

 

 ヒクマは「ん~っと」と拳を握りしめて、ジャラジャラとジェネラルへ身を乗り出した。

 

「もちろん、ジャラジャラちゃんとジェネラルちゃん、ふたりに勝つためだよ! 桜花賞もオークスも負けちゃったから、今度こそふたりに勝って、それからドバイに行って、世界のウマ娘になるの! あ、もちろんキャクタスちゃんにもね! 次はぜーったいわたしが勝つから! ぜったい、ぜーったい!」

「――そーそー、こーゆーシンプルなのが一番だぜ? ジェネ」

 

 ジャラジャラは笑って、ヒクマの胸元に拳を突き出した。

 

「誰のためでもねー。走る理由なんざ、目の前のこいつに勝ちたいってだけで充分だ。なあヒクマ?」

「うん! えへへ、わたしもジャラジャラちゃんと一緒だよ! わたしもトレーナーさんのこと大好きだし!」

「――――だからその話は引っぱんな!」

「ええー、なんで? 自分のトレーナーさんと仲良しってすごくいいことだと思うよ?」

「いや、だからお前な……」

「……バイトアルヒクマさんに他意は無いと思いますよ? ジャラジャラさん」

「わーってるよ!」

「ほへ? どゆこと?」

「いえ、こちらの話です。……バイトアルヒクマさんたちの担当は新人の方でしたよね」

「うん! 東京レース場で初めて会って、そのあとすぐあの選抜レースのときにスカウトしてくれたの! コンプちゃんとエチュードちゃんも一緒にスカウトしてくれて、いつもわたしたちのこと励まして、いろんなこと考えて相談に乗ってくれて、すっごく優しくていいひとなんだよ! ね、エチュードちゃん!」

「え? ええ、えと、えと……」

 

 いきなり話を振られて、エチュードは慌てる。と――。

 

「エチュードちゃんもトレーナーさんのこと大好きだもんね!」

「――――――――」

 

 笑顔で何のてらいもなくそんなことを言われて、顔が爆発するかと思った。

 思わず顔を覆ってしゃがみこんだエチュードに、「あれ、エチュードちゃん?」とヒクマが首を捻る。ジャラジャラは肩を竦め、ジェネラルが溜息をついて歩み寄った。

 

「……リボンエチュードさん。まあ、身近な頼れる大人にそういう感情を抱くこと自体は否定しませんが、私たちは中学生で向こうは大人ですから、相手を犯罪者にしてしまわないよう、卒業までは慎んだ方がよろしいかと」

「おいジェネ、たぶんそれただの追い打ちだぞ」

 

 消えて無くなりたい。ジェネラルに肩を叩かれながら、エチュードはただ呻いた。



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第115話 トレーナーたちの担当語り

 夏合宿初日の夜――。

 私たち学園のトレーナーは、ウマ娘たちの宿泊する合宿所のほど近くにあるURA職員宿舎に寝泊まりすることになっている。初日だし身体を休めつつ、明日からのヒクマたちのトレーニングメニューをゆっくり部屋で考えようと思っていたのだが。

 

「やあやあやあ! こっちだよ新人君! いや、もう新人君と呼ぶのは失礼かな!」

 

 赤提灯の暖簾をくぐると、居酒屋の喧噪の中でもよく通る、中性的な声が6人掛けのテーブル席から聞こえてきた。

 ここは合宿所近くの繁華街。呼び出された居酒屋のテーブルに既についていたのは、私にとってもいろいろと因縁深い同業者たちの顔ぶれだった。

 

「おう、来たか。まあ座れ座れ」

 

 そう言って手を挙げたのは、ラフなトレーニングシャツ姿の、ジャラジャラ担当の棚村トレーナー。その奥で無言のまま眼鏡の奥で小さく目礼したのは、こんなところでもワイシャツにネクタイを締めている、エレガンジェネラル担当の王寺トレーナー。その向かいで立ち上がって私を迎えたのは、オータムマウンテンとデュオスヴェル担当の岬トレーナー。そして、その奥でぺこりと頭を下げたのは桐生院トレーナーである。

 なるほど。岬トレーナーからのメールには「懇親会を開催するよ! 新人君の分は先輩持ちだから遠慮なく参加したまえ!」としか書かれていなかったが――春のクラシックを獲った4人の担当トレーナーが、そこで善戦したバイトアルヒクマとハッピーミークの担当である新人の私と桐生院トレーナーをねぎらう会、ということらしい。

 

「さて、それでは今回の参加者が全員揃ったところで――まずは春のクラシック、お互いの激闘を讃えて、盃を酌み交わそうではないか、諸君! 乾杯!」

 

 岬トレーナーがいつものように芝居がかった口調でビールのジョッキを掲げる。私の分も既にテーブルにジョッキがあったので、それを掲げて打ち鳴らした。

 

「ま、聞いてるだろうが、ここは俺たちの奢りだ。若人ふたりは遠慮なく飲んで食ってくれ。どんだけ呑み食いされてもウマ娘の食費よりゃ安いからな」

 

 はっはっは、と豪快に笑う棚村トレーナーに肩を叩かれ、「ど、どうも……」と私は恐縮するほかない。桐生院トレーナーも遠慮がちにジョッキに口をつけていた。

 

「そんなに固くなることはないよ桐生院君! 私は是非、一度君と腹を割って話してみたいと思っていたところだからね! この機会が持てて嬉しく思っているよ!」

「は、はあ……」

 

 岬トレーナーの圧に気圧される桐生院トレーナー。私もそうだったが、常に芝居がかった彼女のテンションにたじたじになるのは誰でも一緒らしい。

 

「そう、改めて話してみたいといえば王寺君! 君ともだよ! 君がまさかこんな騒がしい集まりに参加してくれるとは思わなくて、今とても驚いているところさ!」

「……こいつに半ば強引に連れ出されたようなものですが」

 

 溜息をつきつつ、肘で棚村トレーナーをつつきながら王寺トレーナーは応える。

 

「俺と岬サンがいてお前がいなきゃ集まりとして締まらないだろ。同僚同士親交を深めるメリットはお前の好きな合理性の中には含まれないのか?」

「だから来ているんじゃないか。あんた以外の3人との親交にはメリットがある」

「お、なんだ? もう俺とはこれ以上親交深める余地もないってか?」

「深める意味も価値も理由も必然性もなにひとつない」

「こんにゃろ!」

「……暑苦しいから速やかにやめろ」

「おぶっ、おっ、おまっ、本気で急所に肘入れる奴があるかっ」

「精神的正当防衛だ」

 

 王寺トレーナーにヘッドロックを掛けた棚村トレーナーが、反撃の肘鉄を食らって呻いていた。――養成校の同期のライバルとして知られている棚村トレーナーと王寺トレーナーだが、なんというか、仲がいいのか悪いのか。

 

「まるで君たちの担当ウマ娘同士の仲のようだね! 仲良く喧嘩したまえ!」

 

 それを見て楽しげに笑う岬トレーナー。――ちなみに大卒組の棚村・王寺コンビと違い、転職組の岬トレーナーは、年齢的には棚村・王寺より1歳上だが、養成校ではふたりの3年後輩というややねじれた関係にある。そして何より――。

 

「岬トレーナー。改めて、ダービーおめでとうございます」

 

 私は岬トレーナーに向き直る。岬トレーナーは得意げに鼻の下を擦った。

 

「ふふ、ありがとう。ダービーを勝つのは2回目だけど、何度勝ってもいいものだね」

 

 ――そう、岬トレーナーはこの5人の中で、唯一のダービートレーナーだ。棚村トレーナーも王寺トレーナーも、ジャラジャラとエレガンジェネラルの前に既にGIウマ娘を担当した実績を持っているが、どちらもダービーはまだ勝っていない。

 

「正直、棚村君のところのジャラジャラ君が来ていたら、どうなっていたかとは思うけれどね!」

「桜花賞でこいつのエレガンジェネラルに勝ってたら行きましたけどね。エレガンジェネラルを倒す方が、ジャラジャラにとっては大事だったもんで」

「…………」

 

 肘で突かれた王寺トレーナーは、無言でタッチパネルから何か注文している。

 ほどなくテーブルに料理と新しいジョッキやグラスが並び、料理を取り分けながら、改めて岬トレーナーが私の方に向き直った。

 

「さて――こちらからも改めて君に尋ねてみたいね! バイトアルヒクマ君と挑んだ春クラシック、どうだった?」

「――――」

 

 口の中の焼き鳥を呑み込んで、ビールで舌を湿らせて、私はひとつ息を吐いた。

 

「……率直に言って、悔しいです。桜花賞もオークスも、ヒクマなら勝てなかったとは思いません。新人が生意気なことを言っているという自覚はありますが――新人トレーナーが最初の担当でクラシックを獲るなんて夢物語だとしても、ヒクマにとっては一生に一度の、夢物語じゃないタイトルだったはずですから……本当に、悔しい」

 

 テーブルの上で拳をぎゅっと握りしめ、私は俯く。アルコールのせいか、優等生的な受け答えをする前に、するりと本音が零れていた。

 ――と、いきなり背後から背中をばんばんと叩かれ、私はむせる。振り向くと、棚村トレーナーが目を細めていた。

 

「落ちこむな若人。勝った俺が言うのも嫌味かもしれんが――やれることを全部やって、万全の仕上げで挑んで、実力でも上回っていたとしても、展開ひとつで負けるときは負ける。それがレースってもんだ。結局俺らトレーナーにできることは、担当に気持ち良くレースに向き合わせてやることだけなんだからな」

「……はい」

 

 棚村トレーナーに肩を抱かれたまま、私はジョッキに口をつける。

 

「担当の3人に心配かけて、逆に私の方が励まされているようじゃ……本当に、まだまだ未熟だと実感します」

 

 私が苦笑いすると――棚村トレーナーは「ほう」と目を見開き、岬トレーナーも「おやおや」と楽しそうに笑みを浮かべた。

 

「オークスの後、君が随分ネットで叩かれていたのも知っているけれど――そうかい」

「そうそう、悲観すんな。お前さんは大物になるよ!」

 

 また棚村トレーナーに背中を叩かれ、岬トレーナーからも笑顔を向けられ、私はむせながら「あ、ありがとうございます」と恐縮するしかなかった。

 

「桐生院君の方は、どうだったんだい? まさかいきなり担当にMCローテを完走させるとは驚いたけれどね!」

「えっ、は、はい! あの……あれは、ミークがどうしてもと希望しまして……。ミークの脚はレースのたびに検査してもらって、可能な限りケアをして、本人とも話して、異常がないことは確認してもらっていますし、本人も元気ですけれど……今でも本当に、走らせて良かったのか……。せめてNHKマイルとダービーのどちらかは止めるべきだったんじゃないかと、私自身、もう済んでしまったことなのに、考えてしまいます」

 

 MCローテとは、NHKマイルカップから日本ダービーに中二週で向かうローテのことだ。さらにその前に皐月賞も走ったハッピーミークのローテに関しては、確かに各方面で賛否が渦巻いている。このローテで結果を出したウマ娘の多くが、その競走生命を故障で縮めることになっているためだ。

 

「担当の希望のままに走らせるだけなら、トレーナーは不要でしょう」

 

 静かに厳しい口調で口を挟んだ王寺トレーナーに、桐生院トレーナーは身を竦める。

 

「それは……はい、その通りだと思います」

「それなら何故、懸念のあるローテをそのまま走らせたのです」

「――――」

 

 王寺トレーナーの詰問に、拳を握りしめた桐生院トレーナーは。

 

「……担当になってから、ミークが強く自己主張してくれたのが、初めてだったからです」

 

 顔を上げ、唇を引き結んで、そう応えた。

 

「ミークはなかなか、自分からどうしたいかと口にしてくれない子です。それで私も迷ってしまって、必要以上にミークのデビューを遅らせてしまいましたし……。そんなミークが、どうしても三つとも出たいと言ったんです。どうしてミークが、そこまで三つとも走ることにこだわったのかは、本人が喋ってくれないのでその、わからないんですが……。もちろん、少しでも脚に異常が見つかったり、疲労が残っていたら途中で止めるつもりでした。ですけど――無茶だってことはあの子自身わかっていたはずで、それでもそれがあの子の意志なら、それを可能な限り支えたいと、そう、思いました」

 

 桐生院トレーナーの少したどたどしい答えに、王寺トレーナーは黙って見つめ返し、その隣で棚村トレーナーが腕を組んでうんうんと頷いている。

 

「……そんな曖昧模糊とした目的意識でクラシックに挑んだわけですか」

「おいおい王寺よ、そういじめてやんな。クラシックだけがトゥインクル・シリーズじゃないぜ? 俺はなんとなくハッピーミークの気持ちがわかるね」

「え?」

 

 やや呆れ気味の王寺トレーナーと、その横で肩を竦める棚村トレーナーに、桐生院トレーナーが驚いたように顔を上げる。

 

「きっと桐生院君とハッピーミーク君は似た者同士ということなのだろうね! 桐生院君はもっとハッピーミーク君と話し合って、まず自分から気持ちや希望をぶつけたまえ! 君にだってトレーナーとしての夢はあるだろう!」

「は、はあ……」

 

 隣の岬トレーナーにもそう言われ、桐生院トレーナーは目を白黒させる。――桐生院トレーナーとミークが似た者同士というのは、なんとなく私も感じていたことだし、このふたりの問題はだいたいコミュニケーション不足だというのもわかる。だから私も、ふたりの言葉に頷くに留めた。

 

「まあ、何を目指したいのかがはっきりしないウマ娘を担当すると苦労するのは私もわかるところだよ! デュオスヴェル君のように、どれだけ問題児でも『ボクが最強だと証明したい!』とはっきり言ってくれる子が私は好きだね! まあ、オータムマウンテン君が全く手の掛からない優等生だったから彼女の面倒に集中できたというのもあるけれどね。あのふたりをこれからも同じ路線で戦わせなければならないのが辛いところだ! 秋以降は君たちティアラ路線組とも合流するわけだしね! 前途多難だよ! そういえば、ジャラジャラ君は凱旋門賞は行かないのかい?」

「ああ、本人がそれよりどうしても秋華賞で戦いたい奴がいるそうで」

「……ミニキャクタスですか」

「おお、ミニキャクタス君か! 私もホープフルSの借りを返したい相手だよ! ――今年の三冠路線はティアラ路線より低レベルなんて言われているのはスヴェル君も我慢ならないようだからね! 秋華賞より秋天に出てほしいものだ!」

「デュオスヴェルは天皇賞(秋)に行くんですか?」

「うむ! オータム君は菊花賞で二冠を目指す予定だよ! あの子もあれでなかなかプライドの高い子だからね! ダービーの負けで相当に燃えているよ! ズブく見えるだろうけれど、オータム君の秘めた闘争心はすごいものだ! 普段はニコニコ笑いながらじっと内にエネルギーを溜め込んでいるんだろうね! 我が担当ながらときどきあの笑顔がぞっとするほど怖ろしいよ! そういうところが気に入ってスカウトしたんだがね! スヴェル君とオータム君、このふたりを担当できて私は幸せ者だ!」

 

 あ、岬トレーナー、酔ってるなこれ? 顔が赤い。

 

「あーあー、岬サン酒弱いんだからそんなグビグビ飲むもんじゃ」

「なーにを言ってるんだね棚橋君!」

「棚村です」

「ジャラジャラ君とあまりふしだらな関係になるのは感心しないよ!」

「あー、だからそれは根も葉もない噂で」

「宝塚の脱走事件という茎ぐらいはあるだろう! 病院の診察室で抱き合っていたという目撃情報も耳に挟んでいるよ!」

「語弊! だいたい俺があいつのことをそんな目で見たらブッ飛ばされますっての!」

「君は自分の担当がかわいくないというのかね! 私はスヴェル君もオータム君もかわいくて仕方ないよ!」

「かわいいに決まってんでしょうが! ジャラジャラを勝たせるためなら俺はなんだってやりますよ! うちのジャラジャラは最高だ! あの走りに惚れないトレーナーがいるもんか! なあ王寺! お前だってそうだろう! エレガンジェネラルのことをさあ! かわいいよなあ自分の担当!」

「そういう語弊のある話題を私に振るなバカ村」

「言ったなこの! お前知ってんだぞそのネクタイピン、エレガンジェネラルからの誕生日プレゼントだからこんなところまでこれ見よがしにつけて来てんだろ! 恋する乙女かオメーはよ!」

「――――担当からの贈り物を大事にするのは合理的なコミュニケーションだ」

 

 黙って視線を逸らしながら答える王寺トレーナーに、「照れんな照れんな」とウザ絡みしていく棚村トレーナー。

 

「担当からのプレゼントを見せびらかすとは王寺君も隅に置けないね! ならば私も、ほら見たまえ私が遅れたときにトレーナー室で待っている間に居眠りしてしまったスヴェル君の寝顔! プラスその三つ編みを弄っているオータム君の優しげな横顔! 尊いだろう! 思わず写真と動画に撮ってしまったね!」

 

 赤ら顔でスマホの動画を見せ付けてくる岬トレーナー。

 酔っぱらった先輩トレーナーたちのバカ騒ぎに、取り残された私と桐生院トレーナーは、顔を見合わせて苦笑し合うしかないのだった。



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第116話 ライラック賞・自信に変えて

 夏合宿2日目。今日から本格的なトレーニングの始まりだが――。

 

「……コンプ、寝不足?」

「いや、大丈夫だから。……正直、あんまり気が休まらなかったのはそうだけど」

 

 あふ、とひとつ欠伸をしたコンプは、溜息混じりに首を振る。懸念していた通り、犬猿の仲のチョコチョコと同室というのは、いささかストレスになっているようだ。

 寮長のオイシイパルフェも考えあってこの部屋割りにしたのだろうけれど、逆効果になるようなら私の方から部屋替えを提案してあげるべきか、と私は唸る。

 

「ヒクマとエチュードはどう?」

「わたしは元気だよ!」

「……あの、はい、大丈夫です」

 

 ジャラジャラとエレガンジェネラルと同室になったふたりは、顔色もよく元気そうだ。ヒクマはともかく、エチュードは世代トップと同室で気疲れしていないだろうかと少し心配していたが、優等生と評判のエレガンジェネラルが気を回してくれたりしたのだろうか。

 まあ、何はともあれ――。

 

「よーっす、ヒクマ! それから、あーっと、エスクード!」

 

 と、そこへジャージ姿のジャラジャラと棚村トレーナーが姿を現した。

 

「あっ、ジャラジャラちゃん! やっほー!」

「……あの、エチュード、です」

「悪ぃ、名前覚えんの苦手なんだ。それと、そこの栗毛は――」

「あたし? あたしはブリッジコンプ! クマっちの、まー、保護者みたいなもん。あたしはスプリントで最強になるんだから、名前覚えときなさいよ!」

「へえ? おもしれーじゃん。路線は違ってもそーゆー奴は嫌いじゃないぜ」

「あれ? コンプちゃんってわたしの保護者なの?」

 

 コンプの名乗りに、ジャラジャラが楽しそうに獰猛な笑みを浮かべ、ヒクマが不思議そうに首を捻り、エチュードが苦笑する。そんな中で、私は棚村トレーナーと会釈した。

 

「さて――今回の合宿だけど、棚村トレーナーの好意で、ジャラジャラと一緒にトレーニングさせてもらえることになったんだ」

「わ! やったー!」

「い、いいんですか……?」

 

 ヒクマが両手を挙げ、エチュードが恐縮気味に棚村トレーナーを見やる。

 ――この件は昨晩、懇親会の後で棚村トレーナーの方から声をかけてもらったことだ。

 

「ジャラジャラもそっちの方が張り合いがあるかと思ってな。なあ?」

「まーな。さっきジェネの奴も誘ったんだけどな、あいつ合宿のメニューはもう全部決まってるから変えられません、だと。ったく、融通の利かねー奴だぜ」

 

 口を尖らせながらジャラジャラが言う。理論派の王寺トレーナーとエレガンジェネラルのトレーニングも参照させてもらえれば私としても万々歳だったのだが、さすがにそれは虫が良すぎるというものだろう。

 

「さて、それじゃあしっかり準備して始めようか。――特にエチュードは、週末にはもう復帰戦だからね。しっかり追い切っていくよ!」

「……はっ、はい!」

 

 私の言葉に、エチュードの背筋が伸びる。

 そう――今週末の土曜日には札幌で、エチュードの復帰戦、ライラック賞があるのだ。

 

 

       * * *

 

 

 かくして、ジャラジャラとの合同トレーニングとなった、合宿の最初の数日はあっという間に過ぎて――。

 

 7月20日、土曜日。札幌レース場。

 第10レース、ライラック賞(2勝クラス)、芝2000メートル。

 

 合宿所を離れて飛行機でやって来た、ほぼ1年ぶりの札幌。

 札幌開催の初日となるこのレースに、私はエチュードとふたりだけでやって来ていた。

 

「エチュード、大丈夫? 緊張してない?」

「はっ、はい! 大丈夫、です」

 

 控え室。6枠9番のゼッケンをつけたエチュードは、気合いを入れ直すようにぐっと拳を握りしめた。口とは裏腹に、やはり少し緊張しているように見える。

 落鉄で爪を痛めたアネモネステークスから4カ月ぶりの実戦だけれど、爪は完全に治っているし、状態面の不安はなかった。今のエチュードは2勝クラスの条件ウマ娘。本気で秋華賞を目指すなら、ここで躓くわけにはいかない。エチュード自身もそれがわかっているからこその緊張感だろう。

 もちろん、アネモネステークスの落鉄のように、レースでは何が起こるかわからない。だけど、今のエチュードなら、実力的には――。そう思うのは、トレーナーとしての贔屓目だけではないはずだ。あとは、エチュードが自分の力を発揮できるかどうか……。

 ……やっぱり、私ひとりだけより、ヒクマとコンプを連れてくるべきだっただろうか。

 

 

 

 ――合宿初日の懇親会の後。

 

『なあ、お前のところのリボンエチュード、札幌のライラック賞行くんだろう? その間、バイトアルヒクマとブリッジコンプはどうするんだ? 連れてくのか、札幌』

 

 棚村トレーナーが、私にそう問うてきた。

 

『貴重な合宿期間だ、応援のためだけに札幌まで往復させるのも勿体ないだろう? 俺で良かったらその間、ふたりを預かってやれるが、どうだ?』

『……いいんですか?』

『同期3人もいっぺんに抱えてる新人の面倒ぐらい見させろよ、先輩だぞ』

 

 にっ、と白い歯を見せて笑った棚村トレーナーに、私は頭を下げるしかなかった。

 

 

 

 というわけで、今ここにヒクマとコンプはいない。棚村トレーナーの指導で、ジャラジャラと一緒にトレーニングをしているはずだ。その方が効率的だと解っているからこそそうしたのだけれど――エチュードのためには、やっぱり私だけじゃなく、親友ふたりの支えがレース前には必要だっただろうか……。

 私がそう考えていると、エチュードのスマホが鳴った。

 

「あ……ヒクマちゃんからLANEだ」

 

 スマホを覗きこんだエチュードが、不意にその顔をほころばせる。

 私もその画面を覗きこむと――合宿所近くの砂浜で『エチュードちゃん、がんばれ!』と砂上に大きな文字を書いた、ヒクマとコンプの写真が送られてきていた。

 すーっと、エチュードの顔からこわばりが抜けて、リラックスした笑顔に変わる。やっぱり、親友の力は偉大だ。あとでふたりに感謝しておかないとな、と私は思う。

 

「エチュード」

「はい!」

 

 スマホを仕舞ったエチュードは、私の呼びかけに顔を上げた。

 

「相手はシニア級だ。でも、大丈夫。――自信をもって行っておいで」

「……はいっ」

 

 ぐっと唇を引き結んで頷いたエチュードの背中を、私は軽く押してやった。

 たぶん、くだくだしい言葉は必要ない。今のエチュードに必要なのは――ここまで積み上げてきたものを、レースで自信に変えることだから。

 

 

       * * *

 

 

 同時刻、トレセン学園合宿所。

 バイトアルヒクマとブリッジコンプを預かった棚村は、札幌10レースが始まる前にトレーニングを一旦切り上げて、預かっているふたりとジャラジャラも連れて合宿所の一番大きなテレビのあるところへと戻ってきていた。

 

「クマっち、あの写真ちゃんと送った?」

「うん、バッチリ! 既読もついてるよ! エチュードちゃん、がんばれー!」

 

 画面の中でゲート入りしていくウマ娘たちの姿に、バイトアルヒクマが声援をあげる。棚村とジャラジャラは、それを後ろで腕組みしながら見ていた。

 

「ジャラジャラ。――この数日見てみて、リボンエチュードのこと、どう思った?」

「あー? ま、そーだな。このレース見りゃはっきりすんだろ」

 

 ジャラジャラはそう言って画面を見つめる。――なるほど、ジャラジャラもあのリボンエチュードの実力はまだ図りかねているらしい。

 もちろん棚村も、あのリボン家の新人としてチェックはしていたし、菜の花賞での強い勝ち方もしっかり見ている。オープンまで勝ち上がる力はあると見えるが、出遅れがちでバ群を怖がるそぶりが見える、あの臆病そうな気性ではどこかで壁にぶつかるだろう――というのが、リボンエチュードの春の走りぶりを見た棚村の印象だった。

 しかし、この夏合宿でバイトアルヒクマとブリッジコンプも含めた4人での合同トレーニングを数日こなして、少し印象が変わったのも事実だった。落鉄で爪を痛めたことは聞いていたが、怪我でクラシックを断念して気持ちが切れた様子も、痛めた部分を庇って変な癖がついているような様子もない。そして、何より――。

 

「あー、ちょっと! もー、エーちゃんになにしてんのよ!」

 

 ブリッジコンプが声を上げる。画面の中では、ゲートに向かうシニア級のウマ娘が、ゲート前で気合いを入れ直していたリボンエチュードにわざと肩をぶつけて威嚇している様子が映っていた。リボンエチュードが少したじろいでいる。

 クラシック級のウマ娘がシニア級を交えた条件戦やオープン特別に出ると、必ず見られる光景である。シニア級でまだこのあたりで燻っているウマ娘の中には、秋の重賞戦線を目指しているようなクラシック級のウマ娘に敵愾心を燃やして威圧する者が出るのだ。相手が名門のお嬢様となれば尚更だろう。

 肩をぶつけた、やさぐれた印象のシニア級のウマ娘がリボンエチュードに何かを言ったようだが、さすがにその内容がテレビの音声に拾われることはない。そのやさぐれたウマ娘がゲートに向かい、残ったエチュードは。

 画面の中でぱんと頬を叩いて、顔を上げてゲートへ向かった。

 ――ほう、と棚村は目を見開く。思っていたほど臆病なウマ娘ではないらしい。

 

『体勢完了! ――スタートしました! さあ1番人気リボンエチュードはやはり後ろからになりました』

 

 ゲートが開く。リボンエチュードは出負けして後方から。あまり積極的に逃げようとするウマ娘はおらず、先行集団が牽制し合うようにしながら、隊列は団子状態になって1コーナーを曲がっていく。

 どうやらスローペースの流れになりそうだ。小回りで直線が短く、時計のかかる洋芝の札幌は差しが決まりにくく、前残りで決着しやすい。1000メートルは61秒4。やはりゆったりとした流れ。後ろのウマ娘には厳しい流れだが――。

 

『おっとリボンエチュードが上がっていきます、遅いと見たか早めの進出』

 

 向こう正面で、早くもリボンエチュードが動いた。外を通って最後方から中団へと進出していく。棚村は眉を寄せた。スローと見て早めに動くのはいいが、小回りの札幌で外回しは下策。まして開催初日、バ場は荒れていない。内ラチ沿いの経済コースが定石――。

 そんな棚村の考えをよそに、リボンエチュードはそのまま外を回して3コーナーで早くも先行集団にとりついていく。そしてそのまま4コーナー。

 

『さあリボンエチュードが外から早くも先頭! 早めに捲って直線です!』

 

 先行集団をかわして、リボンエチュードが直線入口でもう先頭に立った。先行集団を形成していたシニア級のウマ娘たちの顔色が変わる。だが――。

 その中で、リボンエチュードは。

 引き締まった表情で、前だけを見て、札幌の短い直線を加速していく。

 

『リボンエチュードだ! リボンエチュード突き放す! これは強い! リボンエチュード、今ゴールイン!』

 

 そのまま、シニア級のウマ娘たちを歯牙にもかけず3バ身差の完勝。立ち止まったエチュードは、掲示板を見上げて、驚いたように目を見開いていた。

 

『リボンエチュード、早め進出からそのまま押し切りました、快勝です!』

『強かったですねえ』

 

 実況と解説も驚いたように語り、ヒクマとコンプが歓声を上げてハイタッチする。

 それを後ろで見ながら、棚村は思わず息を吐いて、隣のジャラジャラを見た。

 担当の顔に浮かんでいるのは――楽しげな、獰猛な笑み。

 その表情が、リボンエチュードに対するジャラジャラの評価を何より雄弁に示している。

 

「トレーナー。――こりゃ、秋に向けておもしれー相手がひとり増えたな」

「同感だ。……やれやれ、とんでもない新人トレーナーが出てきたもんだ」

 

 ティアラ路線と短距離路線で活躍するバイトアルヒクマとブリッジコンプを同時に担当するところまではまだわかる。――バイトアルヒクマと同じティアラ路線で、このリボンエチュードを一緒に担当しているのが新人トレーナーだということに、棚村は頭を掻くしかない。

 バイトアルヒクマは間違いなく、ジャラジャラとエレガンジェネラルに匹敵する天才だ。それは桜花賞とオークスで戦った棚村もよくわかっている。――親友同士を同じ路線の同期として競わせて、片や世代トップクラス、片や怪我でクラシック断念となれば、後者は折れてしまうのが普通だ。それを折らせず腐らせず、秋華賞へ向けてしっかりと伸ばしてきた。どんなメンタルケアをしてきたのか、こっちが教えを請いたいぐらいだ。

 画面の中で、リボンエチュードが観客席へ向けてぺこりと一礼する。

 ――バイトアルヒクマ、あるいはジャラジャラ。世代トップを間近に見て、それに必死に食らいついてきたリボンエチュードにとって、シニア級相手の2勝クラスはすでに通過点でしかない。あの走りができるならトライアル直行でも優先出走権は狙えるだろうが、つけてきた力を本人に実感させることが必要と見て、条件戦を走らせたのか。

 

「っし、トレーニング再開すっか!」

 

 拳を打ち鳴らすジャラジャラに、棚村は苦笑して頷く。

 ライバルが増えようと、棚村とジャラジャラがやるべきことはひとつ。――秋華賞で、全員まとめて打ち倒すこと。ただ、それだけだ。

 



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第117話 ライラック賞・ドキドキの遠征?

「おめでとう、エチュード」

 

 本バ場を出て戻る途中、トレーナーが笑顔でエチュードを待ってくれていた。

 その笑顔を見た瞬間、――ああ、勝ったんだ、という実感がじわじわと湧き上がってきて、エチュードは小さくぶるりと身を震わせる。

 勝った。勝てた。シニア級相手に、1番人気に応えて、ちゃんと、勝てた。

 

「……っ、やりました、トレーナーさん……っ」

「ああ! よくやった! さすがエチュードだ!」

 

 汗まみれの髪をくしゃくしゃと撫でられて、泣き出したくなるほど嬉しかった。

 条件戦だけれど、目標はこれからだけれど――それでもやっと、やっと少し、このひとにお礼ができたような気がして、誇らしかった。

 発走前にシニア級の先輩ウマ娘に肩をぶつけられて睨まれたときは、怖くなかったと言えば嘘になる。でも――トレーナーの期待を裏切ってしまうことに比べたら、怖いことなんてなかった。本当に良かったと、改めてエチュードは思う。

 

「詳しい話は後でするけれど――中盤、随分早めに動いたね?」

「あ……はい」

 

 トレーナーに問われ、エチュードは頷く。

 

「あの……ヒクマちゃんや、ジャラジャラさんと走っているときの感覚より、随分ペースが遅い気がして……。我慢して内側を通った方がいいかなとも、思ったんですけど」

「うん」

「もし、相手がヒクマちゃんだったら、ここで我慢してたら絶対に勝てないと思って……。ヒクマちゃんを捕まえにいくつもりで走ったら……ああ、なりました。あの、ヒクマちゃんにあれで勝てるとは思わないですけど……けど、でも」

 

 だんだん声が細くなる。勝てたから良かったものの、強引なレースをしたという自覚はある。開幕週の札幌で大外ブン回しがトラックバイアスを無視した悪手だということぐらい、エチュード自身も理解していた。ヒクマなら好スタートからスムーズに先行し、経済コースを通って自分を突き放していただろう。エチュードのイメージの中では、親友の背中はまだ何バ身も先にある。

 そんな自分が、無謀な対ヒクマを想定して強引なレースをして、勝てたから良しとしていいのか――と問われたら、返す言葉は無い。いくら一緒に秋華賞に出るのを目標にしているからといって、まだまだ勝ち負けになろうなんていうのは高望みなのに――。

 うう、と縮こまるエチュード。――と。

 再び、その頭にぽんと、トレーナーの手が載せられる。

 エチュードが顔を上げると、トレーナーは――嬉しそうな顔をして、もう一度わしわしと、エチュードの短い栗毛を撫で回した。

 

「――強くなったね、エチュードは」

「えっ……」

「強くなったんだよ。エチュードは強い。胸を張って。自信を持って、秋に向かおう」

「――――は、はいっ」

 

 背筋を伸ばしたエチュードに、トレーナーは微笑んで、ぽんぽんとエチュードを撫で続ける。その手の感触と笑顔とが気恥ずかしくて、結局エチュードはまた俯いてしまうのだった。

 

 

       * * *

 

 

 ウイニングライブが終わる頃には、夏の札幌もすっかり陽が暮れている。

 

「お疲れ様。せっかくだし、ちょっと遅いけど何か美味しいものでも食べに行こうか」

「あ、はい……」

 

 ライブを終え、着替えて戻って来たエチュードをトレーナーが迎える。レースに参加するウマ娘は、レース場の近くにある専用の宿舎に宿泊することになっているが、レース後に打ち上げなどで街に出るのはトレーナー同伴であれば自由だ。

 

「何か食べたいものある? 勝ったんだし、なんでも遠慮なく言っていいよ」

「え、ええと……」

「ジンギスカン? スープカレー? それともお寿司……は、まあ、あんまり高くないところなら……」

 

 あはは、とトレーナーは苦笑する。エチュードも小さく笑って、それから――。

 ヒクマちゃんとコンプちゃんは、と周囲を見回しかけて、親友ふたりがこの場にいないことを思い出した。

 

「エチュード?」

「あっ、はっ、はいっ! なっ、なんでも、いい、です……っ」

 

 そう、今回の遠征はトレーナーとふたりきりなのである。行きは空港までのバスは大勢の他のウマ娘と一緒だったし、新千歳までの飛行機も混んでいてトレーナーと席が離れてしまっていた。札幌に着いてからも翌日のレースのことを考えていたし、レース場に直行して下見をしてすぐ宿舎入りしてしまったから、出発前にコンプやマルシュアスから囃し立てられたほどには、トレーナーとふたりきりということを意識する暇もなかった。

 けれど、レースが終わり、もう一泊して明日合宿所に帰るまでは、もう自由時間で考えることもない。――完全無欠にトレーナーとふたりきりの札幌旅行と変わらないのだ。

 

「そう? じゃあ……去年の札幌遠征で食べ損ねたし、スープカレーでも食べに行こうか」

 

 言いながら、トレーナーはタクシーを捕まえて乗りこむ。エチュードも動悸と顔の火照りを隠すようにしながら、トレーナーの隣に乗りこんだ。

 

「どちらまで?」

「とりあえず、すすきのまで」

「はいよ」

 

 アクセルを踏んだタクシーの運転手は、信号待ちの最中にちらりとバックミラーを見て、こちらに声を掛けてきた。

 

「お客さん、もしかして今日のレースで勝った、リボンエチュードちゃんかい?」

「えっ――あ、は、はい」

「休憩中に見てたよレース。強いねえ! 秋はGI目指すのかい?」

「あ……えと、ええと」

 

 いきなり見知らぬ運転手にそう言われて、上手く言葉が出てこない。トレーナーに肩を叩かれ、返事をトレーナーに任せてしまえると一度安心して、

 トレーナーが口を開き掛けたところで、咄嗟にエチュードはその袖を引いた。

 ――自分の口で言わないと、いけない気がしたのだ。

 

「あの……はい、秋華賞を、目指します」

「おお! そりゃあ楽しみだ。応援してるよ!」

「あ……ありがとう、ございますっ」

 

 エチュードが頭を下げると、運転手は笑って、信号が青になったのを確かめてアクセルを踏む。

 

「いやあ、未来のGIウマ娘さんを乗せたとなりゃあ、同僚に自慢できるなあ」

「そ、そんな……あの」

「今年の秋華賞、凄いことになりそうだけどねえ。ジャラジャラとエレガンジェネラルのふたりだけでGIの取り合いじゃあ面白くないじゃないか。あのふたりの鼻を明かしてやっておくれよ!」

「…………が、がんばり、ます」

 

 結局縮こまってしまうエチュードに、トレーナーがぽんぽんと肩を叩く。エチュードはトレーナーの顔を見上げて――無意識のうちにトレーナーの方に身を寄せていたことに気付いて、慌てて腰をずらして少し距離を置いた。

 

 

       * * *

 

 

「……で? トレーナーと一緒にスープカレー食べて、結局当日はそのあと宿舎に戻って休んだだけ? で、今日は朝イチで新千歳空港行って、お土産買って帰ってきたと?」

 

 翌日。コンプとマルシュアスは、合宿所に戻ってきたエチュードに、さっそく遠征の首尾を詰めていた。なにせ、トレーナーとふたりきりの2泊3日遠征である。このチャンスでトレーナーとの距離を詰められないようでは、先が思いやられる――と、ふたりでやきもきしていたのだが。

 

「エーちゃん、それホントにただの遠征じゃない……」

「もっとこうオトナな出来事なかったの? 千載一遇のチャンスだったじゃん!」

 

 コンプは呆れ、マルシュアスは口を尖らせてエチュードに詰め寄る。

 いや、エチュードにそんな度胸がないことぐらいはふたりとも重々承知している。それでももうちょっとこう、2泊3日ふたりきりであれば、何かあってもいいではないか。ドキドキのハプニングとかそういうのが。

 けれど、どうやら話を聞く限り、今回もどこまでも健全な遠征だったらしい。

 ――ホントに、いつになったら進展するのよ、エーちゃんは……。

 見守る側としては溜息をつくしかない。何より、コンプが呆れているのは――。

 

「えへ、えへへへへへ……」

 

 そんな、千載一遇の進展チャンスを全力で棒に振ったにもかかわらず、当のエチュードがこの上なく幸せそうな顔をしていることだった。

 その腕に抱かれているのは、中ぐらいのサイズのクマのぬいぐるみ。

 レースに勝ったらぬいぐるみプレゼント、というのは、どうやらトレーナーとエチュードの間で決まり事になったらしい。今回は新千歳空港で飛行機を待つ間に買ってもらったそうなのだが。

 

「……これ買ってもらったときに、トレーナーさんに、かわいいね、って言われちゃったから、それで充分だよ。えへへ……」

「エチュードちゃん、それエチュードちゃんに言ったんじゃなくて、そのクマのぬいぐるみに言っただけじゃ……」

「ねえ、このぬいぐるみ……なんだかちょっと、トレーナーさんに雰囲気似てないかな?」

「いや、どっちかっていうとクマっちじゃない?」

「わたしクマじゃないよー!」

 

 横で話を聞いていたヒクマが頬を膨らませ、エチュードは幸せそうにぬいぐるみを抱きしめて「えへへ、えへへ……」と緩んだ笑みでゆらゆらと揺れ続ける。

 ――ああ、これは処置なしだわ。

 ふたりきりの遠征で勝って、トレーナーに祝福されて褒められて、プレゼントまで買ってもらったら、もうエチュード的にはそれ以上は望むべくもない幸せということなのだろう。結局、外野は恋する乙女には勝てないのである。

 コンプとマルシュアスは顔を見合わせ、溜息をつくしかないのだった。

 



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第118話 挑戦者は諦めが悪い

「おふたりとも、今日はゲームをしましょう! バイタルレクリエーションです!」

「はい?」「は?」

 

 相変わらずブリッジコンプとチョコチョコの冷戦状態が続く、西棟225号室。双方の休日が重なったその日、朝一番でバイタルダイナモがそんなことを言い出した。

 

「なに、委員長。藪から棒に」

 

 胡乱げに問い返したチョコチョコに、ダイナモは「ですからゲームです!」と言って、ドンとその場に置いたのは、何かと思えば最新の家庭用ゲーム機である。なんで合宿所にそんなものを持ち込んでるんだ、とチョコチョコは眉を寄せた。

 

「ええ? なにこれ、委員長の私物ぅ? 学級委員長が合宿所にゲーム機持ち込むなんて不良じゃん」

「いえ! これは昨晩レイさんがサドンアタックさんからお借りしてきたものです!」

「よーっす、おはー」

 

 ダイナモの返事とともに、部屋にソーラーレイが姿を現す。

 

「レイ? なにこれ、なんの企みよぉ」

「まーまー。チョコもそっちのコンプも今日は休みなんしょ? いつまでもいがみあってないでさー、するなら口か足以外で喧嘩しなって。平和的にー、ってやつ?」

「仲直りにはレクリエーションです! バイタル和解です!」

 

 ――ああ、要するに委員長がいい加減この対立をなんとかしようとしたわけか。

 チョコチョコは溜息をつき、ブリッジコンプの方をちらりと見やる。あの栗毛チビも仏頂面で腕を組んでいた。

 

「あのさー、委員長さぁ、仲直りってのは喧嘩した友達同士に使う言葉じゃん? あたしとこのチビにはそもそも直す仲がないの。わかるぅ?」

「では、友達作りのレクリエーションです! バイタルフレンドシップです! いかがですか、ブリッジコンプさん!」

「――いや、あたしもコイツと友達になる気なんざないんだけど」

 

 ジト目でじろりとこちらを睨んでくるブリッジコンプ。その点に関してのみ気が合うことを認めることはチョコも吝かではない。

 しかし、双方の塩対応にもバイタルダイナモはめげる様子もなく。

 

「おふたりとも、そう仰ると思いまして、バイタル豪華景品を用意しました!」

「景品? チョコチョコさんはにんじんハンバーグとかに釣られるほど安くないよぉ?」

「どうぞ、お入りください!」

 

 ダイナモが部屋の外へ声を掛ける。――と、部屋のドアを開けて顔を出したのは。

 

「――――ムニっち!?」

「!」

 

 不思議そうな顔をした、ユイイツムニだった。

 

「チョコチョコさん対ブリッジコンプさん、ゲーム対決! 景品は、本日夕方のユイイツムニさんとの1200メートル右回り併走の権利です! あ、双方のトレーナーさんの許可も取ってあります! バイタル準備万端です!」

 

 ドヤ顔で胸を張るダイナモに――チョコは思わず、ブリッジコンプと顔を見合わせた。

 

 

       * * *

 

 

 そもそもの話、チョコチョコはユイイツムニと併走しようと思えばいつでも出来るのである。同じトレーナーの担当なのだから当たり前だ。

 だから、ムニっちとの併走の権利なんて、本来チョコにとっては景品になりはしない。

 なりはしないが――かといって。

 自分のそれを、あの栗毛チビに奪われるのは我慢がならない。

 

「まったく、こんなゲーム、勝ってもあたしにいいことないじゃんさぁ」

「ふうん、負けたときの言い訳は準備万端ってこと? 用意が良くて助かるわ」

「――そっちこそ、フラグ建築ご苦労さん。きっちり回収してあげるよぉ」

 

 そんなわけで、ブリッジコンプとゲーム対決することになっていた。なんで委員長に乗せられてるんだろあたし、と疑問に思いつつも、チョコはコントローラーを握る。

 ゲームはおなじみ、アイテム妨害ありのカートレースゲームだ。国民的タイトルなのでチョコの実家にももちろんこのゲーム機と一緒にあるし、チョコ自身も腕に覚えはそこそこある。トレセン学園に入ってからは遊んでいないから、多少腕は錆びついているだろうが、少し遊べば勘は取り戻せるだろう。

 

「コンプちゃん、ファイトー!」

 

 マルシュアスがギャラリーから手を振り、「まー見てなさい」とブリッジコンプが不敵に笑う。チョコはそれを横目に、最高速トップのキャラを選択。コンプは加速力と小回りに秀でたキャラを選んでいた。チョコは小さく鼻で笑った。確かに扱いやすさはそちらが上だが、テクが同程度なら、最高速に秀でるこっちが勝つ。論理的帰結である。

 画面の中でレースがスタートする。スタートダッシュを決めて飛ばしていくブリッジコンプのカートを、チョコチョコのカートはゆっくり加速しながら追いかける。ダッシュが鈍い分、最初のアイテムでいいものを取りやすい。首尾良く前方追尾アイテムをゲットしたチョコは、発射のタイミングを伺いながらコンプのカートを追う。

 ――しかし。

 

「…………!?」

 

 速い。1周目が終わろうとする頃には、チョコはそのことに気付いていた。

 こっちも大きなミスをしていないのに、コンプのカートとの差が詰まらない。最高速ではこっちが上回っているのに――。

 間断なく繰り出されるミニターボと、的確なコーナリングで最短距離を最高速で駆け抜けていくコンプのカートに、チョコの最速のはずのカートはついていくだけで精一杯だ。

 

「――あんた、まさか、このゲーム……やりこんでる!?」

「答える必要ある?」

 

 ニヤリと笑うコンプ。くそっ、とチョコは歯がみしながらコントローラーを握りしめる。想定外だ。でも、こっちも感覚は戻ってきた。確かにブリッジコンプは上手いが、こっちもこのゲームはそれなりにやりこんできた。まだ決定的な最高速度の差でなんとかなる部類の差だ。それに向こうのカートは軽量、妨害からの復帰も早いが、その分吹っ飛ばされやすい。重量差でコース外に弾き飛ばしてやる!

 ファイナルラップでようやくコンプを射程距離に捕まえたチョコは、大事に抱えてきた妨害アイテムをここしかないタイミングで発射した。ここなら絶対に当たる――!

 だが、次の瞬間。

 コンプのカートは、ジャンプからの華麗なドリフトで、追尾アイテムを壁にぶつけて排除、全く減速することなくかわしきっていた。

 

「なっ――」

「1周目のアイテム溜め込んでたことぐらい、そっちの音聞けばわかってんの! あとはこのコースで撃ってくるならここしかないことなんて、小学生でもわかるっての!」

「――――――ッ」

 

 完璧に読み負けた。決定打を逃したチョコは逆に自分が壁に当たって減速してしまい、あとはコンプのカートの背中を見送るばかりの2着でフィニッシュ。

 

「勝者、ブリッジコンプさん!」

「っしゃあ!」

 

 ダイナモが笑顔でそう宣言し、ブリッジコンプが力強くガッツポーズ。

 ――馬鹿な。それなりにこのゲームには自信があった。まさかこんな……完敗を。よりにもよって、ムニっちの前で、あのチビに……!

 

「…………チョコ」

 

 背後から、景品にされたムニの声。

 チョコは奥歯を噛みしめて、コントローラーを握り直した。

 

「いぇーい!」「いぇーい!」

 

 ハイタッチをしているコンプとマルシュアスを横目に、チョコは大きく息を吐く。

 

「……委員長、まさかこのゲームで一本勝負とか言わないよねぇ?」

 

 チョコの言葉に、ダイナモは目を見開き、それからソーラーレイと何か目配せして。

 

「もちろんです! バイタルレクリエーションです、たくさん遊びましょう! まずはこのカップ4コースの合計ポイント勝負です!」

「上等」

 

 ダイナモの言葉に頷いたチョコに、コンプがにやりと笑う。

 

「へぇ、いいの? 今ので実力差は弁えたものだと思ってたけど。大好きなそこの三つ編み眼鏡の前でわざわざこれ以上恥かく必要ある?」

「――やられ役の台詞じゃんそれさぁ、吠え面かかせてあげるよチビ」

 

 第2コースのレースが始まる。チョコとコンプは画面に向き直り、コントローラーを強く握りしめた。

 

 

       * * *

 

 

 ――数時間後。

 

「勝者――ブリッジコンプさん!」

「っしゃああああああっ!」

 

 結局、収録48コース全てを走破する死闘の末、僅かなポイント差で軍配はコンプに上がった。いつの間にか色んな部屋から集まってきたギャラリーからも歓声が上がる中、コンプは高々とガッツポーズし、チョコはコントローラーを握りしめたまま畳の上に突っ伏した。

 勘が戻ってからはほぼ互角だっただけに、序盤、勘を取り戻すまでにつけられたポイント差が痛かった。収録コース全部をぶっ続けでプレイし続けて指が痛い。

 ――ああもう、なにやってんだか、あたし……。

 ふと冷静になって、チョコは溜息をつく。何を熱くなっていたのだろう、たかだか1回の併走を賭けたゲームなんかに。こんなレースゲームであの栗毛チビに負けたからって、何の意味があるわけでもないのに――。

 

「というわけでブリッジコンプさんには、賞品のユイイツムニさんが進呈されます! バイタル祝福です! おめでとうございます!」

「いや別にこの三つ編み眼鏡自体が欲しいわけじゃないけど!?」

 

 ダイナモとコンプの声に顔を上げると――ダイナモに背中を押されたユイイツムニが、ブリッジコンプの後ろにちょこんと座っていた。小首を傾げたムニは、

 

「……じゃあ、併走、しないの?」

「いや、それはする! してやろーじゃないの!」

 

 ムニの問いに、コンプは慌ててそう答え。

 ――ムニがその答えに、ふっと嬉しそうに微笑んだのが、見えた。

 

 

 なにさ、その顔。

 なんでその栗毛チビに、そんな――そんな嬉しそうな顔、するのさ。

 なんで、なんで、なんで――っ!

 

 

「~~~~~~っ、待ったぁぁぁっ!」

 

 咄嗟に。冷静になる間もなく、気付いたときにはチョコはそう叫んでいた。

 ギャラリーの、ダイナモの、――そしてコンプとムニの視線が一斉にこちらを向く。

 こんなのみっともない。格好悪い。情けない。――そんな声が脳内に響く。

 だけど、それ以上に。

 あのチビが、自分に勝ったことを、ムニっちが喜んでいるのが――納得いかない!

 

「まだ終わってない! DLCの追加コースあるでしょぉ! もういっぺん勝負しろブリッジコンプ! ムニっちと一緒に走るのは――あたしだっ!!」

 

 勢いのままに、そう叫んで。

 ――直後に冷静になったチョコは、我に返って固まった。

 一瞬の静寂。――そして。

 

「……ふぅん? いいじゃない、もっぺん返り討ちにしてあげる!」

 

 コンプが再びコントローラーを握ると、ギャラリーから歓声があがる。

 

「おーっと今度はチョコチョコ選手からブリッジコンプ選手へリベンジマッチの申し入れだー! ブリッジコンプ選手もこれを受け入れたー! 勝負続行! バイブス上がるぜFuuuu!」

 

 ノリノリで実況するソーラーレイと沸くギャラリー。その中で恥ずかしさに頭を掻きむしりたくなって、「あああああ……」と呻いたチョコに。

 

「……チョコ」

 

 歓声の中、ムニの声が届いて、顔を上げると。

 

「……がんばって」

 

 ほんの少し――嬉しそうに、ムニがそう言った。

 

「――――あああああっ、もうっ、やってやろうじゃんさぁぁぁぁっ!」

 

 ヤケになってチョコチョコはコントローラーを握る。ブリッジコンプも少し楽しげに横目でそれを見やり――そして、第2ラウンドが始まった。

 

 

       * * *

 

 

 そして、夕刻。

 

「……なんで最終的に勝ったのあたしなのに、あんたがいるのさぁ」

「勝ったのはあたしでしょーが。あんたは勝手に延長戦挑んできただけでしょ」

 

 第2ラウンドは結局僅差でチョコチョコが勝利し、ユイイツムニが双方と1回ずつ併走するということで落ち着いた。合宿所のグラウンドでウォーミングアップしながら、チョコとコンプは視線を合わせることなく、先にグラウンドに出たユイイツムニを見ている。

 

「――あんた、あの三つ編み眼鏡のどこがいいわけ?」

 

 不意にコンプからそう問われ、チョコは小さく唸って押し黙る。

 ダイナモ委員長には何か誤解されている節があるが、別にそういう感情のつもりはない。ただ――。

 

「……なんか誤解されても困るんだけどさぁ。自分より強い同期のルームメイトが気にならないウマ娘なんざいるぅ?」

「ま、それもそーね」

 

 コンプは嘆息し、それからちらりとチョコの方を見やる。

 

「……言っとくけど、今後もあんたと仲良しこよしする気はないから」

「そんなの言われるまでもなくこっちも願い下げよぉ」

 

 鼻を鳴らすチョコに、けれどコンプは小さく笑って。

 

「――まあでも、ムカつくだけの奴でもないってことは認めるわ」

「は?」

「うっし、んじゃ併走はあたしが先だかんね! 大人しく見てなさいよ!」

「あっこらちょっと――つーか、なんであたしがあんたにそんな上から目線で認めてもらわなきゃいけないのさぁ、おいこら栗毛チビ!」

 

 ユイイツムニの方へ駆け出していくコンプに、チョコは吼える。

 黄昏時の合宿所に、ウマ娘たちが駆ける足音が軽快に響いていた。



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第119話 プール、水着、再会

 夏合宿の最中にも、もちろん休日はある。

 エチュードのライラック賞が終わり、ヒクマとコンプの次走にはまだ間があるその日、3人ともトレーニングはお休みにして、私は宿舎の部屋で朝から細々とした書類仕事を片付けていた。

 午前中のうちにどうにか仕事が一段落し、少しヒクマたちの様子を見てこようかと思い立って合宿所に足を向ける。特にコンプの様子が気になっていた。コンプとチョコチョコとの犬猿の仲をどうにかすべく、同室のバイタルダイナモが「ユイイツムニさんとの併走の権利を賭けておふたりにバイタル対決してもらおうと思っているのですが!」と相談しに来たのが先日のこと。今日の夕方には結果が出ているそうなのだが、そういえば何で対決するのかは聞いていなかったのである。

 合宿所の前まで来て、一応LANEで連絡入れるか、とスマホを取りだしたとき。

 

「あっ、トレーナーさんだ!」

 

 ヒクマの声がして、私は顔を上げる。合宿所の玄関から、ちょうど私服姿のヒクマとエチュードが姿を現したところだった。

 私の姿を認めたヒクマは、ぱっと満面の笑みになって、いつものように私に向かって飛びかからんとダッシュの構え――をしかけたところで、何かに気付いたようにぴたっと動きを止める。そして「ううっ、がまん!」と唇を引き結んだ。私は目をしばたたかせる。

 

「ヒクマ? どうしたの?」

「う~~~っ、トレーナーさん! わたし、いま、メンタルトレーニング中!」

 

 はて、そんなトレーニングの指示を出した覚えはないのだが。ましてエチュードならともかく、普段から明るく前向きで、よほどのことでなければ切り替えの早いヒクマが、わざわざメンタルトレーニングをする理由とは?

 

「だから、がまん! がまんしてエネルギーを爆発させるの! う~~~~っ!」

 

 ぶんぶんと腕を振って、ヒクマはじれったそうに私を見上げる。隣のエチュードが私に歩み寄って、ちょっと困った顔で耳打ちしてきた。

 

「あの、ヒクマちゃん、オークスで掛かっちゃったのと……接戦で競り負けちゃって『根性が足りない』って言われてるの、ちょっと気にしてるみたいで……」

「……なるほど」

 

 確かにヒクマがそういう風に言われているのは私も目にしている。GⅡ以下でならあっさり抜き去って快勝するのに、本番のGIでは相手がバケモノ揃いとはいえ3戦連続4着、あと一歩で競り負けてウイニングライブを逃すレースが続いているのは事実。外野から勝負根性が足りないと言われてしまうのは致し方ないのかもしれない。長く伸びる脚が武器だけに、外野からすれば貯めて末脚勝負というセオリーに対して仕掛けを早まったようにも見えてしまうから尚更だろう。

 かといって、ヒクマが『勝ちたい』という気持ちでジャラジャラやエレガンジェネラルに負けているとは私は思わない。コンマ一秒以下を争うレースでメンタルが重要なのは言うまでもないが、全てをメンタル面に帰結させてしまうのも乱暴というものだ。オークスで掛かってしまった前進気勢の強さも、安定した先行力の源なのだから悪いことでもない。

 ただ、ヒクマはヒクマなりに桜花賞やオークスの敗因を自分で振り返り、自分なりに弱点を克服しようとしている。その努力は素直に認めてあげたい。

 

「ヒクマ」

「う~~~~~っ」

「……おいで」

「わーいっ!」

 

 私が手を差し伸べると、ぱっと笑顔になって飛びついてくるヒクマ。そのタックルを慣れた態勢で受け止めながら、やっぱり大型犬みたいだな、と思いつつ頭を撫でてやる。ヒクマは「えへへ~~」と嬉しそうに尻尾を振っていた。

 しかし、レース後の地下バ道ならまだしも、合宿所の前は人目がありすぎる。ほどほどにしてヒクマの身体を離して、それから改めてふたりに向き直った。

 

「で、ふたりともお出かけ?」

「あ、はい。ふたりとも、と言うか――」

 

 エチュードがちらりと合宿所の玄関を振り返る。と、そこから姿を現したのは。

 

「お待たせしました。――おや、おふたりのトレーナーさんですか。こんにちは」

「よーっす。ん? なんだヒクマ、トレーナーに車出させんのか?」

 

 エレガンジェネラルとジャラジャラである。ふたりとも私服姿なので休みのようだ。休日に同室の4人でお出かけか。仲が良さそうで何よりだが。

 

「みんな揃ってどこへ?」

「プール行くんだよ!」

 

 ヒクマがウキウキの様子で答える。プール? ああ、そういえば合宿所の近くに温泉を兼ねた温水プールがあったか。

 

「泳ぐならそこの海でいいんじゃ……?」

「トレーニングされている方のお邪魔になりますから」

 

 エレガンジェネラルの答えに、確かに、と私は頷く。周りが真面目にトレーニングしているすぐそばで息抜きの遊びにふけるのは難しいだろう。

 

「トレーナーさんも一緒に行こうよ! プール!」

「え、私も? お邪魔じゃない?」

「ね、エチュードちゃん! せっかく合宿前にかわいい水着買ったんだし! トレーナーさんも一緒の方が楽しいよね!」

「ひっ、ヒクマちゃん……!」

 

 ヒクマが楽しげに言い、エチュードが恥ずかしそうに顔を伏せる。トレーニング用のとは別の水着を用意してきていたのか。学生らしい微笑ましさに私は微笑する。

 

「ジェネラルちゃんとジャラジャラちゃんもいいよね?」

「そうですね。何かあったときに監督の方がいらっしゃった方が」

「あー、あたしは別になんでもいーぜ」

「……解った。じゃあ、車出すよ」

 

 ウマ娘の脚なら走ってもすぐだろうが、さすがに私が徒歩でそれについていくのは無理である。「やったー!」とヒクマが嬉しそうに両手を挙げ、エチュードは困ったように俯いていた。

 

 

       * * *

 

 

 そんなわけで、やって来た屋外温水プールは夏らしく家族連れで賑わっていた。

 

「わーい、プールだーっ」

「プールサイドは走らない。ちゃんと準備体操してからね?」

 

 水着に着替えたヒクマがいつものテンションでプールサイドに飛び出して、私は窘める。青いビキニの水着で健康的な肌を晒したヒクマは、「はーいっ!」と元気よく返事して壁際で軽く柔軟を始めた。素直なのは何よりである。

 

「なあ、あいつ合宿んとき以外も、常時あのテンションなのか?」

 

 黒のビキニに水色のジャケットを羽織り、サングラスをかけたジャラジャラがヒクマを指しながら言う。私が頷くと、「そりゃあんたも疲れんだろーな」とジャラジャラは肩を竦めた。私は苦笑するしかない。

 

「エチュードさん、どうしたんですか?」

 

 と、更衣室からプールへの出入口のところで、エレガンジェネラルが何か声をかけている。エメラルドグリーンのパレオを巻いたジェネラルに促されて、おずおずと姿を現したエチュードは、フリルの多いかわいらしい水色の水着を身につけていた。

 

「あっ、と、トレーナーさん……っ」

 

 恥ずかしそうに身を縮めるエチュードに、「似合ってるよ」と声を掛けると、エチュードはますます赤くなって俯いてしまう。そんなに恥ずかしがることもないと思うのだが。

 

「うーっし、ヒクマ、ウォータースライダー行こうぜ」

「うんっ、行く行く!」

 

 準備体操を終え、さっそくウォータースライダーを滑りに行くヒクマとジャラジャラ。元気なふたりを見送っていると、エレガンジェネラルが浮き輪を三つ抱えてやってくる。

 

「ジャラジャラさんたちが滑り飽きるまで、私たちは流水プールの方でゆっくりしましょうか。トレーナーさんもいかがです?」

「え、私も?」

 

 一応水着をレンタルして付き合ってはいるけれど、どっちかといえば監視要員のつもりだったのだが。まあ、浮き輪でのんびりプールを流れるぐらいなら構わないか。

 

「エチュードもいいの?」

「あ、はっ、はい……」

 

 ぎゅっと浮き輪を抱えるエチュード。友達同士で遊びに来たのに、トレーナーがいてはやっぱり素直に楽しめないのでは……と思わないでもないのだが。

 

「エチュードさんは、トレーナーさんがいらした方が安心だそうですよ」

「じぇっ、ジェネラルさん!」

 

 いたずらっぽく笑って言ったジェネラルに、エチュードが「うう……」と唸る。別にエチュードは泳ぎが苦手ではなかったと思うけど……と思いつつ、エチュードがエレガンジェネラルと普通に仲の良い友達らしくしていることに、私はトレーナーとして安心したりするのだった。

 

 

       * * *

 

 

「おらっ、くらえジェネ!」

「やりましたね、お返しです!」

 

 ジャラジャラの投げたビーチボールを掴み損ねて額に当たったエレガンジェネラルが、お返しに投げたボールの軌道がずれて、

 

「へぶっ」

 

 私の顔面に直撃する。

 

「わーっ、トレーナーさん大丈夫!?」

「す、すみません……!」

 

 慌てて水を掻いて駆け寄ってくるヒクマとジェネラルに、「大丈夫、だいじょぶ」と苦笑して手を振って、それから私は近くに落ちたボールを拾って、

 

「エチュード、はいパス」

「えっ、あっ、はい、ええと――ジェネラルさんごめんなさいっ、トレーナーさんの仇討ちです……っ!」

「えっ――わぷっ」

 

 エチュードから側頭部にビーチボールを当てられたジェネラルがバランスを崩してどぼんとプールに沈む。ぷはっ、と濡れた顔を上げたジェネラルに、ジャラジャラが指を指して笑った。

 

「ジェネ、アウトー! 全員分のジュースおごりな!」

「……仕方ありませんね。トレーナーさんに当ててしまった私のミスと、まさかエチュードさんに狙われると思わなかった油断です」

 

 そう言って、当てられたボールを小脇にプールを出たジェネラルは、

 

「――隙あり、です!」

 

 プールサイドからボールを振りかぶり、ジャラジャラに投げつける。

 

「おっと、バレバレだっつーの!」

 

 それを予測して難なく弾いたジャラジャラのボールが、

 

「ふばっ」

「わーっ、またトレーナーさんがーっ!」

 

 またしても私の顔面に直撃して、私もどぼんとプールに沈んだ。

 

 

 

 そんな調子で、ウマ娘4人のエネルギッシュなプール遊びに付き合うこと数時間。

 

「ふあーっ、楽しかったぁーっ」

 

 プールを出てシャワーを浴び、着替えを終えたヒクマが大きく伸びをする。

 

「ま、たまにゃこーゆーのも悪くねーな」

「ですね。いい気分転換になりました」

 

 ジャラジャラとエレガンジェネラル、それから遅れて更衣室から出てきたエチュードが合流する。時間はまだ夕方前。コンプの併走の時間には充分間に合いそうだ。

 

「コンプちゃん、どうしてるかな?」

「……さすがにもう、ゲーム勝負は終わってるんじゃないかな」

 

 コンプがチョコチョコとゲーム対決をしているらしいことは、さすがにふたりとも把握しているようだ。コンプ抜きでプールに来たのも、おそらくコンプの方からゲーム勝負しているから行けないという連絡があった上でこの4人で遊ぶことになったのだろう。

 

「それじゃあ、合宿所に戻ろうか――」

 

 私がそう言って、ヒクマが「はーい!」と大きな声で返事をした、そのとき。

 

 ヒクマが私の背後に視線を向けて、大きく目を見開いた。

 その視線に釣られるように、エチュードやジェネラルもそちらに視線を向け、「あっ」と声をあげる。私も振り向いて――そして、そこにいた思わぬ姿に、瞠目した。

 

「……キャクタスちゃん!?」

 

 プールの反対側、温泉の脱衣所の方から姿を現したのは。

 

「――――――」

 

 深管骨瘤で休養中、夏合宿にも不参加のはずの――ミニキャクタスだった。

 



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