僕自身がウマ娘になることだ (バロックス(駄犬)
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僕自身がウマ娘になる事だ

とあることからウマ娘になってしまったトレーナーのお話。


 もしこの世界に『タイムマシン』があるならば、僕は迷い無くソレに乗り込んで2日前の僕がいる過去へと戻り、人生のやり直しを選択する。

 

 

 全国から有力なウマ娘が一同に会する教育機関、『トレセン学園』。その上空は文句なしの快晴だ。

 ぽかぽかの陽の光を浴びた芝は健康的な緑が艶を帯びて輝いて見える。

 ウマ娘たちが練習の為に駆け抜ける芝コースは高温多湿な日本の気候に合わせられた『エクイターフ』。クッション性にも優れ、ウマ娘の過激な走行によっても抉れにくい。

 

 それでもパワー型のウマ娘が齎す『芝生禿散らかし豪脚』の前では如何に抉れにくい特性を持つトレセン学園の優秀な芝コースも円形脱毛症を発症した40代後半の情けない頭皮の如く、荒れ地へとなり果ててしまう。

 しかし、どんなに芝が抉れても次にウマ娘たちが練習でコースを走る頃には元通りになっているのはコース整備員による働きが大きいに違いない。

 

 

「あっ!蝶々さんだ~!待て~!」

 

 

 見てほしい。

 コースを一望出来る芝の斜面では練習なんてなんのその、毎日が日曜日だと言わんばかりの陽気さでハルウララが蝶々を追いかけ回しているではないか。

 きっとこのまま誰も止めなければ、彼女は日が暮れるまで蝶々を追いかけ回すだけで一日が終わり、同部屋のキングヘイローが『別に心配していた訳ではないわ!このキングのルームメイトに万が一の事があったら困るからよ!』とかもはや固有スキルLv5までに成長を遂げたであろうツンデレを炸裂させながら保護しに行く姿を想像することは容易である。

 

 

 しかし、いつ見てもハルウララが芝を駆ける姿は美しい。

 見ているだけで徹夜明けの疲れが吹っ飛んでいくようだ。

 良いモノを見れた、という意味でも彼女にはニンジンをプレゼントしなければいけないな、もちろんケースで。

 

『それではこれより、選抜レースを開始する。指定された出走グループは事前に渡されたゼッケンを着用の上、ゲート前に集合せよ』

 

 

 拡声器による呼び掛けを聞いて、レースに向けて準備していたであろうジャージにゼッケン姿のウマ娘たちがぞろぞろとゲート前に集合してくる。

 これから行われるであろう『選抜レース』はウマ娘が自身の実力をトレーナーに示し、スカウトされることを目指すという、トレセン学園で1年に4回の開催される一大行事だ。

 

 

 この選抜レースを経て、トレーナーにスカウトされたウマ娘がURA(Umamusume Racing Assosiation)が運営する大人気スポーツエンターテイメント、『トゥインクル・シリーズ』への出走(エントリー)が可能となる。逆に言えば、この選抜レースをクリアしなければ、どんな実力を持ったウマ娘であろうともトゥインクルシリーズにおけるG1、G2、G3等の重賞レースに出場することは叶わない。

 言わば、これはウマ娘が己の夢を実現させるための『登竜門』なのだ。

 

 

 蹄鉄が芝を踏みしめる音。

 陽射しを受けた芝特有の香りが鼻を刺激する。

 思わずクシャミが出かけたが、そんな僕の事などお構いなしにレース参加者であるウマ娘たちがスターティングゲートへと足を踏み入れて枠入りを完了させていく。

 レースは突然始まるわけではなく、全てのウマ娘が枠入りを完了させてから始まるのだ。

 

 

「くくく、つ、潰す……皆、肉団子に…!」

 

 

 あとは心して出走を待つのみとなるウマ娘達の中には当然、今日の選抜レースを行う前よりもトレセン学園編入前に入学していた地方のレースで実績を積んだ成り上がり系のウマ娘たちもいる。

 そう言ったある種の有名なウマ娘には事前にメディアやトレーナー達に業務連絡で情報が回ってくる事が多い。

 だからこの選抜レース時は一般生徒だけでなくメディアや他の未契約のトレーナーで客席が埋まることになる。

 内枠3番に入っているこの明らかに出る作品を間違えた、ゴリラ型のウマ娘もその一人なのだろう。

 

 トレーナーの皆が食い入るようにターフに立つウマ娘たちを見ている。

 そこには『最初の担当ウマ娘を見出したい』という新人トレーナーの期待と、『一度勝ち得た栄光をもう一度』、『己の実績を更に上げたい』というベテラントレーナー達の私欲が少なからずとも見て取れる。

 

 

 

 さて、問題はここからだ。

 言っていなかったかもしれないが、僕の専業は一応()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()である。立派な成人男性だ。 

 今日も本来ならば、担当ウマ娘の次の出走プランを練ったり、練習に必要な器材の調達の要望を学園側に挙げたり、チームでもはや研究と称してラボからほぼ出ることが無くなってニート兼マッドなサイエンティストウマ娘のお世話をしなければいけないのだ。

 

 

 なのに、何故僕は自然とターフの上に立ち、何の疑いも無く4番ゲートの中に枠入りを完了させてしまっているだろうか。

 トレーナーで、ちゃんと担当ウマ娘のいる僕が、一体何故。

 

 

 否、僕はトレーナーではない。少なくとも、()()()()では。

 だが二日前……正確には46時間と32分前まで僕は確かに、トレセン学園のトレーナーだった。

 それがどうして、どのような過程を経て、このような姿になってしまったのか。

 

 

 頭部に耳を、自在に動くしなやかな尻尾を持つ()()()()()()()姿()を僕はしているのだろうか。

 

 

 真実である。

 金色の瞳に漆黒の長髪を靡かせる、すらりとした体躯を持つウマ娘の姿が、今の僕の姿だ。

 二日前、僕はとある事件に巻き込まれ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()悲劇の元トレーナーなのだ。

 

 

 語らなければならない。この奇々怪々な現象に巻き込まれた僕の人生最大の不幸を。

 問題はない、ゲートが開くまでまだ時間はまだある。文章で羅列された情報は展開の速さを超越するから、ここまでの経緯を説明しきるのに恐らく10秒も掛からないだろう。

 読者が理解をする頃に、やっとゲートが開き、物語の幕が上がる、それが僕のシナリオだ。

 

 

 

――――ガチャン!

 

 

 そんな事を言っていた先ほどの思考から僅か3秒以内でゲートが開いた。ふざけるな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




お初にお目にかかります。
遥々海の向こうから船でやってきたモンゴルウマ娘と申す。
この国独自の文化である誉を学び、不定期に更新していきたいと思います。


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1.僕は憐れなトレーナー

アプリ版とアニメの要素が少し混ざった作品ですタイ。


 ターフを駆け抜けるウマ娘の皆さん、初めまして。 

 

 僕の名前は山々田山能(やまやまだやまのり)、トレセン学園に所属しているトレーナーだ。

 二十歳を超えて、四年大学を卒業後、教師の道を辞めてウマ娘のトレーナーを目指すという、両親にぶん殴られても可笑しくない僕に些か気になることがあるだろう。

 

 

 何故、トレセン学園のトレーナーである僕が、ウマ娘の姿をしているのか。

 

 

 これには海よりも深く、雲よりも高く、そして大宇宙に果てが無いかのような根深さを持った理由がある。

 事細かく、事情を説明するならば一万二千文字に及ぶ文章で説明した所なのだが生憎、現在は選抜レースの待っただ中だ。

 故に、サクラバクシンオーでも理解でき、端的で充分な説明が求められる。

 

 

 

 眼鏡を掛けた死神……もとい、某名探偵少年のようにあらすじを語るならば、こういう事だ。

 

 

 

 

 オッス!オイラはトレセン学園のトレーナー!

 こう見えてもトレーナー歴三年でグランプリ三連覇したウマ娘を専属に持つ、自称凄腕トレーナー!

 

 

 ある日、担当ウマ娘と今後の方針を話し合い、担当ウマ娘を寮へと送った直後の帰り道で僕は人気の無い路地に入り込み、担当ウマ娘の事を考えるのに夢中になっていた僕は、背後から近づいてくる謎の人物に気付かなかった!

 

 

 ゴキンッ!

 

 

 バットで殴られ、動くことも出来ない僕は謎の人物に怪しげな薬を飲まされ、目が覚めたら――――、

 

 

 

『身 体 が ウ マ 娘 に な っ て し ま っ て い た!!!』

 

 

 

 山々田山能がまだ生きているとバレたら、また奴らに命を狙われる(奴らって誰に?)

 事情を知ってもらった生徒会長シンボリルドルフと担当ウマ娘に学園で過ごす為の名前を問われ、取調室の机の上に置かれていたお菓子の名前を見て咄嗟に『ブラックサンダー』という名を名乗り、このトレセン学園に所属するウマ娘として籍を置くことになった。

 

 

 

『ふむ。キミもウマ娘の身体を手に入れたのだから、せっかくだ。レースに出てみるといい。

 無論、選抜レースだ。腕試し程度にやってみるのもいいだろう。日程?あぁ、それは明日の午後からなんだが』

 

 

 笑顔で語るシンボリルドルフにこれほど殺意が沸いたことは無かった。

 背後から血を流すほどに殴られた後に肉体をウマ娘にさせられた翌日に、今年3回目の選抜レースに参加して来いよ、だと言う。

 だから練習の調整もあったもんじゃない、学園の制服もシューズも蹄鉄もジャージのサイズ合わせなどに追われて、身体を動かし始めたのはもう陽が暮れ始めた頃だった。

 

 

 台風とか来て、大雨と雷で芝が荒れて、三週間くらい期間を設けられないかなぁ、という僕の淡い期待は翌日のカーテンを開けて入り込んできた陽光とともにあっさりと打ち砕かれた。

 

 

 天気晴れ、バ場状態良。

 風も緩やかな、絶好のレース日和だった。

 三女神様、僕は何か悪い事しましたか?

 

 

 

 自分が走るレースに意識を向ける。

 選抜レースの距離は1600m、マイルの距離だ。

 この選抜レースに参加しているウマ娘は14人。

 

 

 どのウマ娘も、まだトレセン学園に来て練習を重ねて、トゥインクルシリーズで活躍したいという熱い想いを持ったウマ娘たちだ。

 レース前、このレースに参加するウマ娘の全員がそんな瞳をしていた。

 中には、まだトレーナーの肉体だったころに練習場で見たウマ娘の姿だってある。

 

 

 新しいトレーナーにスカウトする機会に何度も巡り合えず、それでも尚諦めなかった者達だ。面構えが違う。

 ギラギラと熱気を身に纏った三人が前へ前へと位置を上げていく。

 全員が前へ前へと呼応するようにアガリ始めた。

 1600mというマイルの距離だ。他の者との距離はなるべく稼いでおいた方がイイ。

 序盤の位置取りが出来るパワーとラストの直線で突き放すスピードがマイルレースには求められる。

 

 

 

 前へ、前へ。

 その位置は渡さない、どけ。

 お前が邪魔だ、どけ。

 

 

 言葉にしないが、目は口ほどにモノをいい、少女たちは混雑する走りの中でフォームを崩さず、身体のどこかをぶつける寸前を攻めている。

 場合によっては進路妨害にも成り得る行為。ダーティプレイスレスレ。

 だが自らの進むべき道は自らの力で勝ち取らなければならない。

 だからダーティプレイスレスレという危ない橋を渡ってでもレースに勝ちたい。

 負けることにしょうがないと納得するウマ娘などいない、誰もが勝利を望んでいる。

 

 

 彼女たちの勝利への欲に、プレッシャーに圧倒される。

 周りのウマ娘達が位置を奪い合う中、熾烈なポジション争いに加わる事すらも躊躇う気持ちが勝ってしまう。

 

 

 自分を信じる気持ちが、無くなっていく。

 

 

(勝てるのか、僕が……こんなに勝利に貪欲な彼女たちを前に!)

 

 

 周りが僕を置いていく。

 置き去りにされる感覚がある。

 

 

 元人間である僕がウマ娘の身体になったのはつい二日前の事で、身体の構造というものが違うからなのか、ウマ娘のようながっつきたいほどの勝利への欲は無い。

 

 

 トレーナーにスカウトされたいとか。

 トゥインクルシリーズに出たいとか。

 無敗の3冠ウマ娘になりたいとか。

 トリプルティアラという栄光を手にしたいとか。

 

 

 大層な夢は持ち合わせてはいない、だけど。

 

 

 だけど、僕がこの身体になって走る理由はちゃんとある。

 それは、たった一つだけ。たった一つだけだ。

 間違いなく、僕の身体を動かす原動力となっているモノ。

 

 

「うおおおっ……!」

 

 

 

 既に第3コーナーを過ぎている。

 もうすぐ、最終コーナーだ。

 内側は空いていない、あの大型ゴリラのウマ娘が僕を含めた後続のウマ娘の進路を塞ぐように走っている。あまりにも邪魔だ。

 ラストの直線になって、間がバラけるのを待つ方がイイだろうが、きっとその頃には前方のウマ娘達が最高速に達してもう追いつけないだろうし、ましてや今の彼女たちが素直にポジションを明け渡す事は決して無いだろう。

 

 

 ならば、ならばならば。

 ならばどうする、山々田山能。

 元陸上選手として、スプリンターとしての答えを出せ。

 多分そこしかない、きっと、そこしか勝ち目はない。

 

 

(―――外ッ)

 

 

 第4コーナーを超えた。

 内側へ切り込めないから大外を走らされ、ここで加速しようものなら身体が遠心力でぶっ飛ばされる。

 速度を落とさず、体幹をしっかりと保ち、耐える。

 引っ張られるような外側への遠心力に耐え、速度を維持した状態で前を見る。

 

 

 

 僕が見据えた正面には、何もなかった。

 一番先頭を走るウマ娘も、前を塞いでいたゴリラ型のウマ娘も。

 邪魔となる障害物を全て取り払ったかのように綺麗なターフの直線がゴールに向かって伸びていた。

 

 

 

 遮るものは何もない。

 残り400m、死力を尽くして前へと駆ける。

 全力だ。とにかく全力。

 自分がこの肉体で振り絞れる限界までギアを上げろ。

 雑念を抱かず、何人たりとも視界に入れるな。

 

 

 ただひたすらに願い続けろ。

 速く、誰よりも(はや)く。

 力強く在れ、一直線に、ターフを駆け抜ける風になれ。

 

 

 

 ゴール板を通過したことに気付いたのはレース場に響き渡ったどよめき声を聞いて、すぐの事だった。

 その瞬間、足の接地をミスったのか態勢を崩した僕は芝の上で前のめりに倒れこんで、無様に滑った。

 

 

 速度をある程度落としていたから大事は無いものの、思いっきり顎を擦ったようだ、なんかヒリヒリする。

 

 

 

「えーっと、着順、着順は――――」

 

 

 顎を抑えながら掲示板を見ようとして、興奮した実況のマイク音声が響き渡った。

 

 

『選抜レース、見事一着を手にしたのは黒毛のウマ娘、4番・ブラックサンダーだ! 

 第4コーナーから直線、驚異的な末脚はこれまで先頭に立っていた全てのウマ娘達を見事に撫で切った!差し切った!

 ブラックサンダー、まさに黒き稲妻の如し!これからの活躍から目が離せません!

 2着、マイナーロンブン。3着は―――――』

 

 

 鳴りやまない歓声と、やけにテンションの高い実況を聞いて僕は漸く自分自身がレースで一着になったという事を理解した。

 

 

「1着……1着、ふふ」

 

 

 1着。

 その言葉を聞いて、上がっていた息が元に戻り、思わず頬が緩んだ。

 選抜レースといっても、誰かと速さを競い合って、その先で手にした1着というのは、

 死力を尽くした勝負に勝って手に入れた1着という順位は、格別なものだ。

 

 

 遠い観客席で、このレースを観に来ていたシンボリルドルフが小さく拍手を送っていた。

 勝利を祝福してくれるのは有難いのだが、もう少しレースに準備時間を割かせて欲しかった。

 

 

 

「あー、もうっ!負けちまったじゃねぇかクソ!

 テメェら肉団子にするのはまた別のレースでだな!」

 

 

 

 さっきまで先頭集団に入り込んでいたゴリラ型のウマ娘がドシンドシン、と苛つきながら芝を踏みつけている。

 ゴリラはどうやら、最後の直線で伸びきれずに掲示板を外してしまったようだ。

 そうカリカリするのは良くない、カルシウム成分が足りないと見える。

 煮干しと牛乳を積極的に摂取することをトレーナーとしては推奨したい頃だ。

 

 

「おい、勝ったぞアグネスタキオン」

 

 

 ゴール付近の観客席、僕の事を見つめているウマ娘を見かけて声を掛けた。

 栗毛のウマ娘は腕を組みながらこちらを一瞥して、

 

「ふぅン……まぁ、見事なものだったよトレーナー君」

 

 

 アグネスタキオンは薄く笑ってそう答えた。

 彼女も僕の正体を知る、数少ないウマ娘の1人。

 

 

「第3コーナーあたりで前にも行けずにもごもごしてるときは〝あ、これは終わったなぁ。他のウマ娘にブロックされて抜け出せない、パワーが足りなかったようだねぇ〟と思ったものだけど……

 最後の直線でこれだ。2着に5バ身差をつけて圧勝するんだから……まったく、ウマ娘化したキミの身体は私の予想を大きく超えてくれるねぇ!」

 

「いい顔して笑うじゃないかアグネスタキオン。

 なら、そろそろ明かしてくれてもいいじゃないか?いや、マジで。

 マジで、僕をこんな体にしたのは、100%、お前が僕の身体になんかしたからなんだろ?そうなんだろ?

 いいか、今ならお前に朝昼晩提供している弁当のおかずを3連串刺しブロッコリーから、3連串刺しメザシにランクダウンさせるだけで許してやるから真実を喋ろ」

 

 

「キミも懲りないねェ。まだ私の事を疑っているのかい?」

 

「当たり前だろ。というか、お前っていうウマ娘を知っていたら、トレセン学園の奴らは10割は疑うだろ!

 開幕10割、『創聖のアグネスタキオン』なんて怪文書動画が生まれるくらいだ!」

 

 

 このトレセン学園でアグネスタキオンというウマ娘はとにかく怪しい噂が絶えないウマ娘だ。

 ウマ娘の身体を使ったり、人の身体を使って人体実験をしている……なんて噂を聞いたことがある。

 彼女の実験内容に人をウマ娘にする薬品を作る、というものがあっても可笑しくない。

 

 

 いや、あくまで噂程度のお話なんだけど。

 その僕の噂話を、アグネスタキオンはため息一つと、鼻で笑って返して見せる。

 

 

「昨日から言ってるじゃないか。私はキミの事件に関してはまったくもって無関係だよ。

 いくら実験好きの私でも、人の肉体をウマ娘にする薬品なんて、作れるわけがないじゃないか、何を言ってるんだキミは。

 虚言癖はよしたまえよ、()・トレーナーくぅん」

 

「アァァァグゥネエェェスゥゥゥゥウッッ!!!」

 

 

 と、本人曰く、僕がウマ娘になってしまった件に関しては速攻で問い詰めたがこの通り無関係だと言っている。

 実際に彼女がその時間寮の中で過ごしていたことは寮長から確認は取れているし、今の彼女が頻繁に学園内を歩き回れるとは思えない。

 限りなくクロに近いけど、限りなくシロ、だ。まったくもって納得が行かないんだけど。

 

 

「そんな事より、はやく()()の所に行ってあげたまえ。

 私よりも、きっとずっと、キミのレースを観ていたハズだからねぇ」

 

 

 くつくつ、と笑みを浮かべてアグネスタキオンは視線だけを向けて僕をそっちに向かわせるように仕向ける。

 この諸悪の根源を(恐らく多分)を小一時間は問い詰めてやりたいが今はアグネスタキオンの言う通り、このレースを見守ってくれていたもう一人のウマ娘の少女に逢いに行くことにする。

 

 

「あ……」

 

 

 観客席の上段。そのウマ娘の少女はいる。

 僕の視線に気づいたのか、彼女は()()()()()()()()()()()()()()()()()()、椅子から立とうとしていた。

 

 

「いい!そこで待ってろ!」

 

 

 彼女の脚には痛々しくもギプスが巻かれていて、松葉杖が無ければ歩行は出来ない。

 段差のある観客席だ。上段から無理に動こうとすれば、足場が不安定な彼女では転倒してしまう可能性がある。

 

 僕は観客席とコースを隔てる柵を飛び越えるとすぐに彼女のいる上段へと駆けあがっていく。

 先ほどのレースで話題になったウマ娘が目の前に現れたからだろうか、観客達がざわつくがお構いなしだ。

 数秒と掛からず、僕は見慣れたであろう栗毛のウマ娘の前に立つ。

 

 

「トレーナーさん……」

 

「その名前は皆の前ではよしてくれ、今の僕はブラックサンダーだ」

 

「サン……」

 

「うん、なんかどこかのジブリで出てくる白い狼に山で育てられた野生の姫みたいな名前だ。

 でも僕の名前は、ブラックサンダーだよ」

 

「ブラックサン……」

 

「なんだろう、間違いではないんだけど。その呼ばれ方だと、〝おのれゴルゴム!〟っていうのが口癖で何でもかんでもゴルゴムのせいにする仮面ライダーみたいだな。

 別に僕、BLACKは好きだから、むしろそっちの方で名前登録すれば良かったなって今ちょっと後悔しているんだけど、残念だが僕の名前はブラックサンダーだ」

 

「仁……」

 

「僕は別に境井の息子でも、蒙古軍を蹴散らす冥人(くろうど)でもない!

 というか、もはや本来の名前の原型すら留めてない!」

 

「ふふ……冗談ですよ。ちゃんと名前は憶えています、ブラックサンダーさん」

 

 こんなやり取りが自然と出来るのは最初の3年間、トゥインクルシリーズを一緒に戦い抜いて積み上げてきた信頼関係があるからだろう。

 艶のある栗毛に、燃え上がるような闘志を秘めた青色の瞳の少女はにこりと笑って見せてくれた。

 

 

「ところで、だ。 お前から……〝グラスワンダー〟の目から見た、今日の僕のレースはどうだった?」

 

「そう、ですね……もっと中盤から前に行くべきだったと……

 最後のコーナーを回ってから前方に誰もいなかったから直線勝負をモノに出来ましたが、試合運びとしては―――」

 

「何点ですか、グラス先生」

 

「53点です」

 

「辛ッ!!グラス先生の採点辛ッ!!」

 

「ですが―――」

 

 

 グランプリ3連覇という偉業を成し遂げたワンダーウマ娘の評価は手厳しい。

 とほほ、と肩を落としたのも束の間、グラスワンダーはぽそっ、と小さく呟く。

 

「私の胸の奥が、少しだけ熱を帯びた気がします。

 本当に、ほんとうに少しだけなんですけど、確かに……」

 

「そっか……それなら、良かった」

 

 

 自身の胸に手を当てて、彼女はその反応が起きてくれる事に戸惑っているようだった。

 僕は、それだけでこのレースに参加できたことと、ウマ娘になれたことに意味を見出すことが出来る。

 

 

 彼女はグラスワンダー。

 かつてトゥインクルシリーズにその名を刻んだグランプリ3連覇ウマ娘。

 どんな怪我にも屈せず、不屈の精神で不死鳥のように復活を遂げた、希代のワンダーウマ娘。

 僕の最初の、トレセン学園に所属してから最初に担当したウマ娘だ。

 

 

 しかし、ある時を境に彼女は不屈の心とレースへの意欲を怪我と共に失った。

 レースからの引退を考えるほどに。

 トレセン学園から身を引く事を自ら提案するほどに。

 

 

 

 彼女のトレーナーとして僕は考えていた。

 もう一度、グラスワンダーに復活してほしい、その一心で。

 だから僕は、ウマ娘となった我が身でレースを走る。

 その姿を彼女に見せつけて、もう一度グラスワンダーが闘志を取り戻す為に。

 

 

「あ、顎のところ……擦りむいてます。寮に戻ったら消毒しないと」

 

「唾でもつけとけばダイジョブ――」

 

「ばい菌入ったら大変ですよ?」

 

「いや、ほんとに」

 

「トレーナーさん?」

 

「あづっ!? グラスさん!?的確に痛いところ抓るのやめて!」

 

「黒き稲妻くぅん、試合後のキミの筋疲労状態を確認したいんだ。ああ、あと今日の夜ご飯も頼むよー、今日は人参ハンバーグの気分かなぁ」

 

「日本語訳にすると厨二センス全開の名前になるからやめろ!お前、僕を召使かモルモットかなにかと勘違いしてるだろう」

 

「違うのかい?キミは出す料理は微妙だが三食しっかり作ってくれるそこそこの召使いであり、私に貴重なデータの提供をしてくれるモルモットだろう?

 そうさ!キミは私にとって最高の召使い兼モルモットだァ!名付けてメシモット!」

 

「どういう語源だ!」

 

 

 

 

 

 

 これは夢の頂を目指す物語に非ず。

 

 道を失ってしまった者達が。

 再生を願う者達が。

 幾多の困難に抗い続ける物語。

 

 

 夢の先を目指す物語。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




主人公の山田トレーナーは体育大学で教職専門のコースだった元・陸上選手。種目は短距離・100mから400m。四年生大学卒後、目指していた教師の道を辞めて『ウマ娘のトレーナーになってトレセン学園に行く』って親に言ったら、『受かるまで実家帰ってくんな』って半ば勘当されかけた。


チームはグラスとタキオンのみ。それぞれトレーナーがいる。
レース描写、盛り上がれなくて済まない……。


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2.鎌倉武士の優しい起こし方

サブタイに〇〇Rってつけると毎回レースしないといけない気がしたので日常回を挟む為にR部分は外しました。
キャンサー杯、推しのグラスで戦う時が来たようですね……


 トレセン学園には複数の寮施設が存在している。

 

 トレーナー用宿舎、教職者用宿舎、学生寮など。ウマ娘やスタッフはそれぞれ地方や海外、遠方から来ている者と様々。

 トレーニングジムや最低限度の生活必需品を揃えられる売店や医療施設、栄養管理の行き届いた食堂など設備は整っているので、わざわざ学園の外から通う必要もない為か殆どの者がこの学園の施設内で過ごしている。

 

 

 中でも学生寮はウマ娘達が出入りしている宿舎だ。

 寮は栗東寮と美浦寮で分かれていて、この学園に所属することになった際に割り当てられるらしい。

 ウマ娘による自治活動も盛んで、寮長を中心に様々なルールが取り決められている。

 

 

 そしてウマ娘の寮はトレーナーの出入りは原則として禁止されている。

 男性トレーナーが入れないのは分からなくもないが、女性トレーナーすらも出入りが禁止されている理由とはこれ如何に。

 

 

「……むぅ」

 

 

 昨日の夜に読み進めていた『美浦寮地獄の鉄則~タイマンするか?相手になるよ!~第一部』。

 と書かれた小冊子の内容を思い出しながら僕、「ブラックサンダー」。

 トレーナーからウマ娘に変貌するという珍事件に巻き込まれた男、本名「山々田山能」は微睡の中から這い出るように瞳をうっすらと開く。

 

 

 時刻は朝の五時半。

 土日であれば、もうこの時間からはウマ娘の外出時間である。

 他のウマ娘達も起床していて、早朝トレーニングの為に走り始めているウマ娘達もいるだろう。

 

 

「スイーツ!キャロットキックッ!!」

 

 

 外から元気のいいはつらつとした声を出すのはビコーペガサスだろうか。

 特撮好きの彼女の事だから、空中に向けてライダーキックでも放っているのだろう。

 

「うわぁーん!はなせぇぇぇ!!」

 

 その後、通りがかりのヒシアケボノによって連れていかれたのが遠のいていくビコーペガサスの叫び声で分かった。

 

 

「皆ご苦労な事だ。朝からわざわざこんなに早起きするなんて……いや、僕もトレーナーの時はこのくらいの時間にはトレーナー室には入っていたけど

 まぁ、やる事なんて事務作業なり会議の準備だったりいろいろあるわけだけどさ」

 

 

 現在チームを運営するトレーナーは僕しかいなくて、トレーナー業は全て僕が行っていた。

 何せ、朝一からニートウマ娘、アグネスタキオンの食べても『普通だね』という感想しかない弁当を三食作らなければならないし、トレーナー会議や自分のデスクワークも進めなければならない。自分の仕事をするにも、色々な行事の合間、休み時間の間に切り詰めていくので精神的に余裕は無かった。

 

 

 多忙な日々、だと思うかもしれないが、これは高校の教育実習でも思い知った事だ。

 過去に教職を志していた僕は地元の高校で教育実習を行うことになったが、教師は年間の授業計画も立てるし、その週でどこまで、どの教科の項目をクリアするまでに至るか、また遅れている科目をどこで埋め合わせするのかも考える。

 

 

 一番面倒なのは体育の授業だった。

 外で授業をするならば朝一でグラウンドの状態や授業で使う道具を準備しなければならない。

 また生徒同士個人差が生まれるのでバスケなどの競技をチームで行う際は戦力を均等にバランス良く分けるようにすることも教師側が配慮しなければならない。

 

 

 授業に参加したくないやる気のない生徒や生まれつき身体が弱い生徒など、そういった特殊なケースの生徒だって相手することもある。

 ちなみに保健体育の授業は性に関する授業などをなるべく語弊なく、正しい知識を教えなければならないし、女生徒に面白半分で質問したりするとセクハラで訴えられて負ける可能性があるので気をつけろと言われたのはいい思い出だ。じゃあ授業ってどうやって教えればいいんだい。

 

 

 そう言った、自分が抱いていた理想とは違う形の教職の世界を見たためか、教育実習が終わるころには僕の心の中で「自分は教員は向いていないのだろうな」と思うようになった。

 じゃあ、なぜ僕はトレーナーという職に就いたのだろうか。

 やる事は人でなくて、ウマ娘に対象がなっただけで、内容は似たようなものである。

 

 

 

 と、僕の就労理由なんて考えていても仕方がない。

 今日の僕は他のウマ娘とは別の時間割で動いてる。

 まだ僕の編入準備は整っていないから、学園内でのウマ娘として生活するにあたり、オリエンテーションを行うようだ。

 

 オリエンテーションの開始時間は7時。

 だから6時30まではこの布団で寝て居られる事が許されている。二度寝最高。

 まだ寝れる。人間、寝だめする機能は搭載されていないが、二度寝というものは最初の睡眠よりも心地良い睡眠を得ることが出来る。

 

 

 僕はもう、人ではなくウマ娘。学生の身分だ。 

 朝出勤して業務をこなす社畜トレーナー業とは切り離されているのだ。これくらいの自由は許されるだろう。

 

 

 さぁ、マヤノトップガンのように深く寝入る事にしよう。そう決めてまた瞳を閉じた時だった。

 

 

「トレーナーさん?」

 

 

 扉側に背を向けているから、姿が見えないが誰が入り込んできたのかは声で分かる。

 グラスワンダーだ。

 同じ美浦の寮に住む者として色々と世話をしてもらっているのだが、とても有難いことだが、毎回朝起こしに来るのはやり過ぎではないだろうか。

 

「トレーナーさーん、起きてますかー。朝ですよー」

 

 

 担当ウマ娘のボイスに起こされるというのも些か悪くないと感じるがグラスワンダー。

 申し訳ないが僕は二度寝というドリームランドに入り込んだばかりだ。

 『言葉を紡ぐ時間もあれば、眠るべき時間もある』という古代ギリシャの詩人、ホメーロスが言っていたように今の僕に必要なのは『おはよう』の挨拶を交わす事より物言わぬお休みを優先する世界なのだ。

 

 

「今日は特別オリエンテーションの日ですよ。洗顔、食事、朝の身支度はしっかりしませんと。

 〝備えあれば憂いなし〟というのに……もう」

 

 

 やや呆れたように嘆息をついたグラスワンダー。

 甲斐甲斐しく遠くの部屋からわざわざ起こしに来てくれる彼女には心底感謝しかない。

 耳に響く少女の優しい目覚ましボイスに癒しだって覚える。

 真面目で武士のような彼女からすれば、今の僕は規則正しい生活を送れていないダメ男ならぬ、駄目ウマ娘であることだろう。

 

 

 それでもグラス、僕は世界の滅亡か睡眠かを天秤に掛けられたら間違いなく睡眠を取る男だ。

 お前の厚意を無駄にして、本当に済まないと思っている……だが私は謝らない。

 

 

「……こうなったら、仕方がありませんね」

 

 

 何をする気だろうか。

 背後で何やらごそごそとモノを取り出すかのような奇妙な音を鳴らす彼女に一抹の不安を覚えながらも僕はここを動く事はないだろう。

 

 これは『鋼の意志』だ。

 もはや賢さアップイベントとなってしまい、スキルは獲得されることなく育成を終了するあのスキルを僕は既に取得していたらしい。

 桐生院には感謝しなければならない。今でもトレーナー白書は大切に保管しているよ。

 

 

 全身を丸めて意地でも起きない意志を手にした僕を起こす事が出来るなら見せていただきたいものである。

 

 

 やって見せろよグラス!!

 

 

 スプリングベッドが軋む音がする。

 僕の身体が若干の沈みこみを見せる辺り、どうやら彼女が僕のベッドに乗り込んできたのが分かった。

 硬いものが背中に当る。布団越しにでも分かる、グラスワンダーの膝。

 布団の生地がずれ込むのは前のめりに体重を掛けているからか、足を怪我している筈だが無理はしないでほしいものである。 

 

 

「すぅ…はぁ……」

 

 

 何か、意識を研ぎ澄ませるように息継ぎをするグラスワンダーの圧は凄まじいものだった。

 全身を凍てつかせるような、殺気のようなもの。

 獲物を見つけた狩人ではない、斬首される罪人を苦しませないように一振りでトドメを刺す、介錯人のような。

 

 

 思わず目線を上へと向けて見開く。

 そこには朝日を浴びて妖しく光る白刃があり、それが僕の頭部目掛けて落ちてくるのと僕が身体を捻るのはほぼ同時であった。

 

 

「グ、グラス!!ま、待て!落ち着け!殺す気か!」

 

 ベッドを転がり落ちて身を起こせば、僕が先ほど寝ていたベッドの上には刀身に僕の姿が映りこむほどに磨かれた得物の全身図がある。

 

 

 薙刀。

 それは彼女がよくあるごとに引っ張り出しては僕に振り下ろしてくるものだ。

 そしてそれを振り回す時のグラスワンダーは目が笑っている。今回も、笑っていた。

 

 

「トレーナーさん」

 

 

 ずしっ、と引き抜かれる薙刀の刀身。

 どうやら、ベッドの裏側まで貫通していたらしい。

 

 

「起きますよね」

 

「はい」

 

 有無を言わせない威圧感に、ただただ頷く自分がいた。

 それから僕は、ちゃんと朝早く毎日起きるようになった。

 

 

 

 

 

「トレーナーさん、準備出来ましたか?」

 

「あいよ~、それじゃあ行きますか――――」

 

「ちょっ、ちょっと待ってください!トレーナーさん、まさかと思いますけど、その髪型で行くつもりですか……?」

 

「そうだけど」

 

 

 制服に着替えて、支度も整えた僕が食事に行く前、慌てた様子でグラスワンダーが呼び止めた。

 僕の髪に関してだろうか。

 腰まで届く黒い真っすぐな髪……今は完全に寝癖が付いて跳ね返っているな。

 まるでビオランテか、モルボルみたいなもじゃもじゃ頭だ。

 風呂の後に特に髪を乾かさずして布団に入ったせいだろうか。

 

 

「許せません……!!」

 

「何に許されてないんだ僕は」

 

「そんな綺麗な髪をしているのに何も手入れしないなんて……女性への冒涜です!!トレーナーさん、まだ時間はありますからここでちゃんと手入れをしていきましょう……!!」

 

 

 そこまで綺麗な髪だろうか。

 女性であるグラスが言うのであればそうなのだろうが、僕にとって長い髪というのは邪魔なものだ。

 前髪も長ければ顔にかかるし、腰まで伸びてるせいもあって若干頭も重みを感じている。

 正直な話、切ってしまおうかと思っているほどだ。

 

 

「グラス、悪いが僕は人間の時の髪型もさほど長くない短髪だ。学生時代の若気の至りで肩あたりまで伸ばしてアイロンとかやったこともないし、普段自分の髪に櫛すら通したこともない程に自分の髪には無頓着なんだ」

 

「な、なら今回は私が……!私が整えますから!」

 

 

 何故か興奮した様子のグラスが、強くそう言うものなので僕は仕方なく彼女から髪の手入れをレクチャーしてもらうことになった。

 あまりにも髪の乱れが酷くてグラスが「うわぁ、これ一回濡らさないとダメかもですね」と言うもので、自室から最低限の道具、ドライヤーやら櫛を持ち出して、あれよあれよとしている間に僕は自室の鏡台前に置いている椅子に座らされた。

 

 

「それじゃあ始めますね」

 

「よろしくお願いします。グラス先生」

 

「はい~」

 

 

 そう言いながら彼女が取り出したのはヘアブラシだ。

 ブラシの先端を優しく、髪の繊維を傷めないように下に向かって滑らせていく。

 寝起きの髪は絡まっている事もあるから、ブラシで髪をとかす事でその後のスタイリングが楽になるのだという。

 

 

「トレーナーさんは髪が長いし、全部やっていたら時間も足りませんので今回は時短方式で行きます。

 やり方は私がこれから教えていくとして、ちゃんと覚えれたらご自分で手入れしていってくださいね……〝髪は女の命〟だと言いますし。

 あ、でも分からなかったり、どうしても出来そうになかったら私に言ってくださいね。私だったら、いつでもその、してあげますから……髪の手入れくらい」

 

 

 決して髪を掴むことは無く、痛みを感じさせない。

 他人の髪だというのに、随分と手慣れていると思う。

 女性というのは、かくも自らの髪の手入れにこれほどまでに精通しているというか。

 勿論、グラスワンダー自身の女子力の高さもあるのかもしれないが。

 

 

「エルにも、時々こうやって手入れしているものですから……他人の髪を手入れすることに慣れてしまってるのかもですね」

 

「部屋の同居人とは上手くやってるんだな」

 

「ふふ、もう長いですからね……あ、聞いてくださいよ。エルったら、納豆にホットソースをかけて食べるんです……許せませんよね」

 

 

 他愛のないことを話す。 

 最近の部屋でのエルコンドルパサーの奇行とか。

 グラスワンダーが怪我をして無理な外出が出来ない時に買い出しはエルコンドルパサーがやってくれている事とか。

 昨日の夜は、こうやって過ごしたんだとか。

 トレーナーさんはもっと自分の身体を大切にしましょう、とか。

 そんな、どこにでもいる普通の会話をだ。

 

 

「はい、どうですか」

 

「おお……!!」

 

 

 話し込んでいるうちに、全ての行程が終わったらしい。

 いつの間にか仕上げのドライヤーまで使い仕上げた僕の髪は手入れをする前とは比べ物にもならないくらいの艶を得た髪へと蘇っていた。

 サラサラと油気の無い髪だ。手に乗せても分かる、指に絡むことも無ければまるで溶けていくような滑りに思わず感嘆する。

 

 

 

「寝癖直し用のスタイリング剤で髪に水分を与えてます。ちょっと中途半端かもしれませんが、最低限はこれくらいはやらないと」

 

「助かったよ、グラス。しかし、女性というのは髪の手入れもここまで手間をかけなければならないのか」

 

「これからはシャワー後は髪を乾かしてから眠る事。

 朝も跳ねた部分はちゃんとヘアブラシを使ってスタイリング剤をしっかり使うのも忘れないでくださいね。

 私の部屋に余ってたスタイリング剤とか、よければ御貸ししますから」

 

「そこまでされると申し訳ないから、週末に外出が出来たら買い物に行くよ……と言っても、こういうのを揃えるにはどこに行けばいいのかも、分からないんだけどな」

 

 

 でしたら、とグラスワンダーが両の手を合わせて瞳を輝かせた。

 

 

「その時は私もご一緒します。その方が、トレーナーさんに色々とアドバイス出来るかも知れませんし……ただ、足の怪我がもう少し良くなったらになるかもしれませんが」

 

「グラスにはあまり無理をしてほしくはないんだけど……うん、分かった。その時は色々と迷惑をかけると思うけど、付いてきてくれると助かるよ」

 

「ええ、お供しますよ……どこまでも」

 

 柔和な微笑みを向けられて、釣られて僕も顔が綻んだ。

 雀の心地よい囀りが耳に届く、そんな朝の出来事だった。

 

 

 

 




山田トレーナーとグラスちゃんは命のやり取り(一方的にグラスのワンサイドゲーム)をする仲です。襲われる理由は、トレーナーさんも良く分かっていない。
グラスちゃんに朝耳元で囁かれながら起こされたい派です。
初めてウマ娘小説書きましたが色々な方から評価を頂けて嬉しい限りです。


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3.ブラックサンダーのトレーナー

ウマ娘になったブラックサンダーにもトレーナーというのは必要なので。


「山々田山能トレーナー……いや、今のキミはブラックサンダー、このトレセン学園の生徒だ。

 この学園の生徒として所属する以上、キミにも学園側での生活における取り決めを守っていただきたいが、キミはあまりにも例外だ。

 なに、無理に自由を制限されるようなものではないよ。他のウマ娘と同じ生活を送ってもらうが、少しばかり特殊でね」

 

 

 その日、空き教室を使って行われた僕ことブラックサンダーがこの学園生活を送る為のオリエンテーションが開かれて、僕の正体を知るシンボリルドルフは複数のルールを提示した。手渡されたA4サイズの用紙に打ち込まれた文字列を見て、僕は思わず目を見開いた。

 

 

 一、部屋は一人部屋を使用すること。他のウマ娘で集まるのはいいが就寝時間は厳守。

 二、外出は基本単独では行わない。必ず誰かと外出すること。※例外は別示する

 三、外泊はレースによる遠征以外は認めない。※例外は別示する

 四、実家への帰省は不可。

 五、入浴時間は就寝時間後30分以内で単独で済ませること。

 

 

「生徒会長、幾つかいいか」

 

「構わないよ、ブラックサンダー」

 

「なぜ入浴時間は別なんだ」

 

「最初に切り込むのがそこなのか。もっと他に気になることがあるだろう」

 

「有無を言わさず、この議題だ。この議題こそ、僕の学園生活を送る上で最優先されるべき議題だ。

 何故、ウマ娘である僕のみが、他のウマ娘との入浴時間をずらさらなければならないのか」

 

 

 至極当然の疑問である。

 トレセン学園のウマ娘として生活すること、それはこの学園のウマ娘と同じ時間と同じ場所で凌ぎを削り、共に高みを目指す事。

 ライバルという存在を感じながら、友情を育み合うのは自然の摂理であり、彼女たちとの触れ合いの場である入浴を禁じられる事に疑問を抱くのは当然だ。

 

「……今はウマ娘の姿をしていて、間違いなく少女だが……キミは元々、男なのだろう?」

 

「あぁそうだよ!僕は男だよ!」

 

 

 カミーユならば間違いなくジェリドに殴りかかっていたであろう剣幕で僕は叫んだ。

 隣で聞いていたグラスワンダーの顔からは微笑みが絶えない、シンボリルドルフの表情は変わらなかったが間違いなく彼女たちは僕のあまりの形相に引いていたに違いない。

 

 

「元・男性のキミをウマ娘達のいる浴場に放り込むのは生徒会長としてはあまりにも信頼に欠ける……そういう事だ」

 

「どういうことだ」

 

「キミがまだウマ娘になる前、ハルウララやマヤノトップガンがちょっかいを出されて困っている、と彼女たちの担当トレーナーから苦情があったものでね。

 基本的に()()()()()()()()が対象となっている……さて、申し開きはあるだろうか」

 

「苦情?苦情だって?僕はただ彼女たちにたまたま通りかかったら人参やお菓子を上げて、その見返りに〝高い高いさせてくれ〟と頼んでただけだ」

 

「さっそくキミの退学手続きを行うなら私も手伝うが」

 

「他意はないというのに。ならば、致し方ない」

 

「当然の対処なんだが」

 

 

 やれやれと言うシンボリルドルフに僕は歯噛みする。

 己の行いは、ただ幼いウマ娘に対して、日ごろから頑張っている彼女たちに少しでもエールを届けれればと行っていた善意なのだ。驚きの白さ100%の善意で出来ているのだ。

 その度にグラスワンダーは弓を持ち出したり、薙刀を振り回して襲ってくることもあったけど。

 

 

「外出に制限をかける理由は主に、キミを狙う敵対組織からの接触を防ぐためだ。

 学園内ならば、いくらでも理事長などの学園側の力で守ってあげることも出来るが、学園の外ではそうもいかない。

 しかし、一個人として外出の制限を掛けられる事はあまりにも自由もなく、ストレスの原因にもなる……自衛隊などは若い隊員が最初に外出をする時は必ず二人以上を原則としているらしいからな。二人ならば、いざという時のトラブルの際に二人で対処できるし、片方が動けなくなった場合ももう片方が学園側に連絡することで対処が出来る」

 

 

「その学園内で僕事件に巻き込まれたんだけどな」

 

 

 まぁ、とシンボリルドルフは続ける。

 

 

「本当にそういった組織が存在していて、キミを狙っているかも定かではないが、暫くは制限を解くつもりはない。

 逆に言えば、キミを狙う者が誰もいないと分かった段階で、この制限はいずれ緩和させる方向で行く……『例外は別示する』、というのはそういう意味だ」

 

「納得しよう」

 

「納得してくれ……外出の件だが、同行者にはグラスワンダー。お願いできるかな」

 

 

 シンボリルドルフに名を呼ばれた隣のグラスワンダーは「え?」と言葉を漏らす。

 突然の提案に彼女は困っているようだった。

 

 

「私で大丈夫なんでしょうか……」

 

 

「キミの松葉杖もギプスももう少しで取れる頃だ。

 キミの歩くリハビリ、というのもある。

 それにキミたち二人は元トレーナーで、担当ウマ娘だ。お互いには気心の知れた仲だろう?

 二人三脚……とまでいかないかもしれないが、協力し合うことで見えてくる、新しい一面もあるはずだ。

 だからお願いできるかな、グラスワンダー」

 

「はい、わかりました。この身を以って、トレーナーさんを全力で支えさせて頂きます」

 

 

 担当トレーナーとして冥利に尽きるものである。

 他のウマ娘を充てるのではなく、グラスワンダーを選出したシンボリルドルフからは彼女への信頼が窺えた。

 山々田山能という男は、この世界でウマ娘から一番警戒されている男、という事になっているらしい。

 

 

 何はともあれ、これからの学園生活は一苦労も二苦労もさせられそうな気がするが、そこには目を瞑って、再び学園生活を送れるという事に僕は少しだけ喜びを感じているのだった。

 

 

 

「さて、ここからはブラックサンダー。キミのレースに関することだ」

 

 

 学園生活を送る上でのルールを大体話し終わって、シンボリルドルフが言う。

 

 

「ウマ娘としての姿を持ち、選抜レースを抜け、トレーナーに選ばれたキミはトゥインクルシリーズへの出走が可能になった。

 今一度問おう、ブラックサンダー。キミにはこのトレセン学園で、中央という地方とは比べ物にはならない……乱世とも呼べるこの中央レースの世界に飛び込んでいく覚悟はあるか?」

 

 

 

 皇帝・シンボリルドルフにウマ娘としての覚悟を問われた。

 このトレセン学園には地方、海外からの実力者たちがトゥインクルシリーズで夢を実現するために集まってくるエリートの巣窟だ。

 当然、地方などとはレベルは比べものにならないし、その実力差にあるウマ娘は絶望し、走る事を辞め、レースの世界から身を引くウマ娘は少なくない。

 

 

 今のグラスワンダーがその状態だった。

 グランプリ三連覇、偉業を達成し、ライバルであるスペシャルウィークを下した有馬記念の翌年。

 グラスワンダーは掲示板を外す事も多くなり、ファンの期待に応える事が出来ず心に安定さを欠き、最後はオーバーワークによってレース後、左足を骨折した。

 闘志を失った彼女はどこか遠くを見ていて常に心ここにあらず、といった様子で、とても見ていられるものではなかった。

 

 

 トレセン学園退学の届けを出すと彼女が言い出した時は、僕は僕自身を無力なトレーナーだと思った。

 「グラスワンダーは早熟で、もう終わったウマ娘だ」と世間が言い始めたのを見て、怒りを感じた。

 

 僕は一つの決断を迫られた。

 トレーナーとして、彼女の願いを聞き届けるか。

 一人のファンとして、自分の願いを取るのか。

 

 

 だから僕は選択した。

 初めて彼女のレースを観た時から魅了されたこの心に従うことを。

 グラスワンダーが再びターフに舞い戻ってくれる未来を創ると。

 

 

「僕の答えは決まっているよ、シンボリルドルフ。

 以前の僕なら、人間の頃の僕ならひたすら机で資料を読み漁って、彼女が復活することを祈るしか出来ない男だった。 

 だけど、ウマ娘という身体を手に入れた今なら、自らの脚で戦う事も出来る」

 

 

 僕がレースに勝利し、その姿をグラスワンダーに見せつける。

 そして、思い出させてあげたいんだ。

 

 彼女のレースに対する熱意を。

 勝利への飽くなき欲求を。

 不屈の闘志に火が点くまで。

 

 最後まで僕は、彼女を支え続けるトレーナーでありたい。

 

 

「僕は戦うよ、シンボリルドルフ。 人とウマ娘の肉体が為せる限界まで。

 〝不退転〟の意志を貫き通し、走り続けることを誓うよ……グラスワンダーの為に」

 

「キミらしい答えだ……担当ウマ娘の事になると、どこまでも真っすぐなのは噂通りだね。

 グラスワンダー、キミは幸せ者だよ……立派なトレーナーじゃないか」

 

 

「……」

 

 

 決意横に、グラスワンダーは耳を畳んで両手で顔を隠していた。

 頭部から湯気が出ているぞ、どうしたどうした。

 

 

「では、今後のレースの方針は()を交えて決めて行ってくれ。私はこれで失礼させてもらうよ、午前中に会議があるのでね」

 

「彼……?」

 

「と、トレーナーさん、あそこです……扉の前に人影が」

 

 

 グラスワンダーの指示す先、扉のガラス越しに大きな人影が写っているのが分かった。

 彼女もある程度分かっているのだろう、扉の向こうの人物が出している異様な雰囲気に。

 

 

『入らせてもらう』

 

 

 次の瞬間、扉が開け放たれ、入り込んできたのは大柄の男だった。

 男、なのか。声色は電子音声によって書き換えられたモノ。しかし、声色はどちらかというと男性寄りだ。

 シンボリルドルフが退室すると同時、彼と入れ替わるように巨人が教室内に侵入し、僕たちの前に立つ。

 

 

 

 

『初めまして……と言っても、学園の理事長からは既に私が契約するという話は聞いているだろうブラックサンダーくん』

 

「聞いてはいたけど、契約したトレーナーを見るのは今日が初めてだし、まさかこんな裏ボスめいた、全身を黒ローブで覆った奴が来るなんて思いもしなかったよ」

 

『私の名前は、ミスター(エックス)

 

「自己紹介始める流れがスムーズだな」

 

 

 その異様な佇まいは人の目を引かざるを得ないだろう。

 

 身長は2メートルにも達しているのではないかという大きさ。

 全身を黒づくめのローブで覆い隠し、顔面には白のマスク。

 左胸に装着しているトレセン学園のトレーナーバッジがなければ、一発で不審者扱いされて御用になることこの上ない。

 

 明らかに出る作品を間違えている姿だ。

 遊戯王当たりのイリアステル三皇のリーダーみたいな格好だな。

 

 

 ウマ娘である僕の正体が山々田山能だという事実を知る者は限られている。

 トレセン学園の秋川理事長、駿川たづな、シンボリルドルフ、グラスワンダー、アグネスタキオン、そしてこの男、ミスターX。

 

 

 僕がレースに参加する為には必要不可欠となるトレーナー枠を秋川理事長が斡旋してくれたのがこのミスターXという男なのだ。

 明らかに胡散臭い男、僕の正体も知る謎の人物、当然、話だけ聞いた僕も彼がトレーナーに付く事拒否したが、理事長は『無用!彼は我々が信頼できるに足る人物である!』。

 と、言い張っていた。

 

「そうは言ってもな……」

 

『私自身、君が過去に人間だったこと、ウマ娘になってしまったこと……どちらにしても、私にとってどうでも良いことだ。

 だから安心してほしい、私はただウマ娘に勝利を齎す、ただ一人のトレーナーでありたいのでね』

 

「ミスターX、それは本名なのか」

 

『そう取ってもらっても構わないし、別の名前があると推測して思考を巡らせてもらっても構わない。

 だが、いずれにせよ君達には知る権利というものは無いと思ってもらいたい』

 

 

 聞くだけ無駄だよ、と遠回しに言われた気がする。

 肩パッドでもつけてんのかってくらいに巨大な肩が僅かに上下している辺り、顔は少し笑っているのだろうか。

 なにわろてんねん。

 

 

『君のレースは実際に選抜レースの際に見させてもらった。初めてのターフでのレースで見せた直線の爆発的なスピード。

 デビューを果たすに申し分ない実力を持っている事は理解したよ』

 

 だが、とミスターXは続ける。

 

 

『まだまだ君は君の走りというモノを理解できていない。選抜レースで見せた大逆転ともいえるあの末脚は抜け出した先に、君を遮る障害物が何もなかったからだ。

 そこに至るまで君は中段の下、下手をすればあのまま埋もれていた可能性もある……全て、運が良かったと言ってもいい』

 

「何が……言いたいんですか」

 

「グラス、落ち着け」

 

 

 鋭い眼つきで睨むグラスワンダーを制しながら、尚ミスターXは続ける。

 

 

『今の君の実力では、精々Pre.Opクラスだ。

 重賞レースになんて乗り込んでいけるとは到底思えない。

 トゥインクルシリーズが始まってから1,2年で挫折して学園から去っていくのが目に見えていると言っているのだ』

 

 その瞬間、グラスワンダーが立ち上がる。

 いつの間に取り出したのか、彼女は薙刀を構え、その刃の先をミスターXへと向けていた。

 今にも斬りかかりそうな般若の貌で、殺意満々。だがミスターXは怯む様子はない。

 

 

「無礼な……!!」

 

『随分と慕われているようだな、ブラックサンダー。しかし、レースとは非情だよ……特に、この中央という魔窟はね

 トレーナーである君自身も、それは良く分かっていると思うが』

 

 

 この男の言う通りだ。

 デビューを果たしても、そこから未勝利のまま一定の期間を迎えればそのウマ娘を待つのは引退のみ。

 グラスワンダーとトゥインクルシリーズを駆け抜けてきた最初の三年間、()()()()ウマ娘達はごまんと見てきた。

 

 

 勝利を願い、乗り込んできた勇ましい少女たちもこのトゥインクルシリーズでは歯が立たない事が多い。

 

 

 誰もがターフの上で涙を流し、惨めさに耐えきれず学園を去っていく。

 そうなった彼女たちがレースに戻ってくることは無い。決して。

 

 だから彼女たちは勝利を願うし、欲する。

 貪欲に。

 執拗に。

 

 

 それでこそ斜行して進路を妨害するほどに。

 試合前に罵詈雑言を浴びせて相手を委縮させるほどに。

 他のウマ娘に勝たせてほしいと八百長を持ちかけたりする者もいるほどに。

 

 

「良く知っているよ、そういう、厳しい世界だって。

 観客席やパドックからじゃ見えない部分があって。

 だけど、そういう必死な想いで成り立っているのも……トゥインクルシリーズだ。

 決して、ただ星のようにキラキラしたものだけじゃない

 もっと黒くて、ギラギラした熱いモノだって混ざってる……レースって、そういうものだよ」

 

 

 舐めている筈がない。

 死に物狂いで行われるまさしく生存競争とも呼べる戦いに、僕は乗り込んでいく。

 その覚悟は、とうに決めたはずである。

 

 

「見せてやるよ、ミスターX。観客席から見ていればいい、トゥインクルシリーズで僕だけの、ブラックサンダーの輝きを。

 その輝きが、決してトゥインクルシリーズでも埋もれる事のないものだって、証明してやる」

 

『面白い。見せてくれ、ブラックサンダー君。

 人の肉体からウマ娘となった、君にしかたどり着けない〝果ての世界〟を私に見せてくれ。

 私が最初に君に教えるレッスンは、〝己を知る事〟だ……ここに君が出場する試合を記しておく、後で確認しておいてくれ』

 

「うぉっ!?どっから出してんだアンタは!?」

 

 

 ミスターXは右手を差し出すと右手の甲の部分から一枚の用紙を出現させた。

 まるで印刷機のようにウィーンという機械音を出しながら、だ。

 人間印刷機……いや、もう本当に人間なのかも怪しくなってきた。

 

 

 やっぱりこの人、出る作品間違えてるんじゃないか。

 

『さらばだ』

 

 ミスターXはホバリング移動しながらその場を去っていった。ドムかよ。

 人外がトレーナーやってる、という頭のイカれた設定をぶち込まれて少しばかり混乱している僕だが、一つだけ分かっている事がある。

 

 

 僕は勝たなければならない。

 彼の言う、トゥインクルシリーズ序盤で埋もれるような結果にならない為にも。

 そして何より、僕が走り続け、勝ち続ける事でグラスワンダーの闘志を取り戻す為にも。

 

 

「デビュー戦は来週の土曜……まずはそこを確実に取る。大丈夫、なんとでもなるはずだ」

 

 トゥインクルシリーズの第一歩と呼べるデビュー戦。

 迫りくる初戦に向けて、僕は内に闘志を燃やすのだった。

 

 

 

 

 




ミスターXの秘密①
肩部に製氷機が搭載されている。


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4.大反省

お ま た せ。
キャンサー杯、ボコボコにされました……ウンスもマルゼンもいないけど、推しのグラスで頑張ります。


『人の身体からウマ娘になる』。

 

 そんな悲運の事故に巻き込まれてしまった僕、元トレーナー・山々田山能ことブラックサンダー。

 

 

 新しく担当になった見た目がイリアステル三皇のホセみたいな、どう見ても登場世界戦を間違えてしまったトレーナーに「今の君は実力不足だ」みたいなことを口にしてきたので、

 珍しく意地になって、「レース勝つからちゃんと見とけよオォン!?」と堂々たる宣戦布告をしてしまった。

 

 

 

 そこからレースに向けての練習が本格的に始まった。

 

 

 元、ウマ娘のトレーナーということもあり、自分自身にどんな練習方法が必要とされているのかを逆算してトレーニングメニューはこなす。

 勿論、トレセン学園に所属する学生としての本文、勉学にも取り組みながらだ。ウマ娘化による体格の変化はあっても、知力の変化は特になかったようなので授業に関しては問題はない。

 

 

「トレーナーさーん、ファイト―!」

 

「ふおおおお!!!」

 

 

 トレーニングエリアでは芝のコースをひたすら走った。

 竹刀を右手に、飲料水を左手にしたグラスワンダーの補助を受けながら僕は死に物狂いで走る。

 

 

「トレーナーさんはあのウマ娘の星を目指すんです」

 

「今昼間なんだけど、そしていつの間にか巨人の星みたいなスポコン漫画が始まってる!」

 

「膝を付くのは許しません」

 

 

 体力を使い切るほどに走りまくった後、芝の上に倒れようとするとグラスは竹刀で僕の膝を叩く。

 僕とグラスの間で約束した事だ。一刻も早くウマ娘の肉体に慣れるために練習を疎かにしないように、練習がダレそうになったら闘魂注入替わりにぶっ叩く。

 

 

 パァンッ(ウマ娘パワー)。

 

 

 竹の音というのは、こんなにも気持ちが良いモノなのだろうか。

 水分を含まない、しなる竹の乾いた音は甲高く、空間に響いていく。

 疲れてしまったら、グラスワンダーがスポーツドリンクの入ったボトルを手渡す、まるでアメとムチのような相互作用が働くため、程よいバランスで練習効率が高い。

 

「なんか目覚めそうだ」

 

 

 痛みなどを超えて、脳内を満たしていく得体の知れない感覚。

 巻き起こるインスピレーション。

 

 

 その時ふとひらめいた!この出来事はブラックサンダーのトレーニングに活かせるかもしれない!

 

 

「これが不退転……!そうか、そうだったのか!

 俺たちは未来永劫、終わる事のない世界で戦い続けるために生まれてきたんだ!」

 

「違うと思いますよ?」

 

 

 ゲッター戦を浴びた戦士達の如く虚無感に囚われながらも、僕は来るべきトゥインクルシリーズへ向けて準備を進めていった。

 選抜レースでの手応えを忘れていない僕は、『次もあの流れに持っていけばまだ勝てるのではないか』と、そんな淡い期待を抱いていた。

 

 

 しかし、期待とは裏腹に僕はトゥインクルシリーズを走る上で、想像以上の高い壁にぶち当たることになる。

 

 

 

――――数か月後。

 

 

 

『さぁレースは終盤、第四コーナーを回って最後の直線!オープン戦から勝ちを築き上げてきた子も、負けを抱き続けてきた子も、誰もが凌ぎを削る第3戦だ!

 ラスト200m、戦闘集団を掻き分けて突き進んでいこうとする黒い影があるぞ!?誰だ誰だ誰だ!

 ブラックサンダーだ!黒い稲妻、ブラックサンダーだ!

 バ群暗雲を切り裂いて、今日こそ()()()()()で見せつけてくれた脅威の末脚をもう一度見せつける事が出来るのか!』

 

 

 アナウンサーの実況に熱が入る。

 観客たちのボルテージも上がっていく。

 

 

『あぁっとしかし!ブラックサンダー伸びない!抜け出せない!他の娘とのポジション争いで体力を使い果たしてしまったか!?

 脚が前に出ていないぞブラックサンダー!そのまま下がる、まだまだ下がっていく!5着、6着、他の娘がどんどんと追い抜いていく――――』

 

 

 どたっ。

 

 

 ゴールへとたどり着いた瞬間、僕は力尽きたのかのようにオールカマーで奇跡の大逃げを見せたツインターボ師匠の如く前のめりで倒れこんだ。

 僕はレースになると、転ぶことが多いウマ娘らしい。なんか一種の伝統芸となりつつあった。

 

 

 レース結果、16人中8着。

 掲示板すら入れない数字。

 お世辞に良い数字とは言えない。

 

 

「ふぅん、どうやら……他のウマ娘にブロックされてしまったようだねェ。パワーが足りない」

 

「アグネスタキオン……その助言は、出来ればレース始まる前に言ってほしいんだが」

 

 たづなさんと言い、アグネスタキオンと言い、どうしてウマ娘に重要なステータスのアドバイスをレース後に行うのか。

 

「トレーナさん……大丈夫ですか?」

 

「心配するなグラス。僕ならこの通り」

 

 ブラックサンダーのトゥインクルシリーズは辛酸を舐めさせられる状況にあった。

 

 

 最初こそ、デビュー戦を選抜レースと同じ戦法で第四コーナーカーブに掛けて抜けだし、他の集団を横からぶち抜いていく戦法で1位を手にした。

 文句なしの、順調な滑り出しだった。『アレ、今の僕ならG1レースいけんじゃね?』って思いあがってしまうほど、あまりの出来に嬉しくて小躍りしそうな勢いだった。

 

 

 それがまさしくフラグだったみたいで、『お前、押すなよ!押すなよ!』ってくらいの前振りが如くトゥインクルシリーズは僕に牙を剝いてきた。

 

 

 ブラックサンダーのレースは先頭の集団からは少し離れた所から終盤で追い上げて抜き去るのが常だったが、2戦目のオープン戦から先頭のウマ娘が外側から抜け出そうとする僕のコースを上手い事塞いでくるようになった。2戦目は終盤までバ群から抜け出せず、漸く抜け出せたときには時既に遅しと4着。

 

 

 対策を取られることは見えていたが、こうも対応が早いのは予想外。

 だが、その程度止まる僕ではない。

 

 

 押してもだめなら引いてみな、という言葉があるように外が駄目なら内で勝負。

 コースを塞ぐために外に移動したウマ娘達の間に出来た小さな隙間を縫うように抜け出す。

 

 

 大丈夫。

 今の僕はウマ娘の肉体。

 人の時とは違い、そのパワーは数倍だ。

 ウマ娘は人と同じ体格、骨格をしているにも関わらず全速力時は時速60kmで車並の走行が可能。

 アグネスタキオン曰く、神秘に包まれている。

 

 

 人間がウマ娘には力で叶わないと証明されているならば、今の僕は他のウマ娘達と少なくとも同等だ。

 

 

「オラァ!チンタラ走ってんじゃねェボンクラぁ!」

 

「ごふっ!?」

 

 

 しかし、現実というのはそう簡単に上手くいくものではない。

 

 

 どうやら僕は他のウマ娘達に比べてパワーというのが低いらしい。

 そのレースで競り合った相手があの選抜レース依頼のゴリラウマ娘だったというのもあっただろうが、他の子と内側のコース争いは悉く弾き飛ばされ、ゴールする頃には身体中ぼろ雑巾のようになり、体力を失った状態で着順など上げる為の脚も残っておらず、掲示板にすら残れない。

 

 

 どんなに足掻こうとも、どんなに前に進もうとも、全てが遮られ、無駄に終わっていく。

 

 

「トレーナーさん……」

 

「大丈夫だグラス。まだ慌てるような時間じゃない……多分」

 

 

 

 そしてレースは続いていく。

 2週間後のオープン第4戦、その日の僕は終始後方のままレースを終え、遂に着順を二桁までに落とす事となった。

 

 

 

 

 

 

 

『君の力なんて、その程度のものなんだよブラックサンダー君』

 

 

 レース後、日も傾きかけてきたトレーナールーム。

 

 

『無様だ』

 

 

 巨大なオフィスチェアに腰かけた黒ずくめの男、自称トレーナーであるミスターXは僕とグラスを前にして、そう言い切った。

 

 

『既にオープン戦を4戦終え、戦績はデビューの一勝を除いて全敗、しかも最低順位は15人中14位だ。

 お世辞でも、これから輝きを見せるスターウマ娘の卵とは言えない戦績だ。

 君がいかにあの選抜レースとデビュー戦で運が良くて勝利することが出来たか、よく分かっただろう?』

 

 

 辛辣 of 辛辣。

 辛口 is 辛口。

 

 

 この手厳しさはまるで、歳を食った上司が新社会人をいびる構図によく似ている。

 既にトレセン学園の忠実なる奴隷と化している僕は既に耐久値をカンストした壁モンスターみたいなものなのであまり効かないが。

 

 

『これ以上、為れもしない理想など捨てたまえ。

 君には不必要で、不釣り合いなものだ。

 君の今やろうとしている努力は無駄なものだ。

 このまま戦い続ければ、トゥインクルシリーズの序盤で荷物を纏めてトレセン学園から去っていく平凡以下のウマ娘と成り果てるのも時間の問題だよ』

 

 

 うーん、新人トレーナーやデビューしたてのウマ娘が聞いたら卒倒して泣き出してしまいそうな言葉だ。

 桐生院辺りなら、泣きながらトレーナー白書で殴りかかってくるかもしれない……いや、アイツは一人で公園のシーソーで遊べる図太い精神力を持った奴だ。

 この程度の文句ならば、耐えてくれるだろう。

 

 

 しかし、誰もがそんな鋼メンタルを持った社会人のハズが無い。

 少なくとも、僕の隣人はそうではなかったようだ。

 

 

「トレーナーさんにそれ以上の侮蔑は……許しません」

 

 怒りに手を震わせたグラスワンダーが刃を研ぎ澄ませたかのような鋭い眼つきでミスターXを睨んでいた。

 

 

『事実だ。

 人の身でありながらウマ娘の身体を手にし、あまつさえその力を過信し、自分は特別な存在だと、未来を切り開く主人公だと勘違いしている。

 自分の力と、この状況に酔っているに過ぎないのだよ彼は』

 

 

 メタルギアならば、〝殺戮をを楽しんでるんだよ、貴様は!〟とリキッドスネークが言うセリフとよく似ている。

 しかし、グラスワンダーは何故僕のレースの失態を色々と言われているのに対してミスターXに怒っているのだろうか。

 冷静沈着でおっとりとした性格の彼女らしくない。

 

 

『君も君だグラスワンダー。

 ブラックサンダーの走りを間近で見ている君ならば、彼の走りが如何に無意味で己の手で勝利を遠ざけているという事を理解できているだろうに。

 真実を知りながら、何故をそれを彼に教えようとしない?

 敢えてそれをしないというのならば、この先、彼は更に己を傷つけ、敗北を重ねていく……君の前から消えていくことも考えられる。

 それとも、レースから遠ざかった怪物・グラスワンダーはそんな事すらも分からない程に衰えてしまったのか?』 

 

「……っ!!」

 

「止めろ、ミスターX」

 

 

 それ以上の暴言を僕は見逃す事は出来なかった。

 レースで責を問われるのは僕なのに、隣のグラスが責められることを担当トレーナーである僕は良しとしない。

 

 

「レースで負けたのは僕だ。

 アンタの言う通り、自分の力を過信したのも事実。

 僕なら、きっと、そんな甘い気持ちでレースに臨んでいたのも事実。

 責められる非が僕にあるのは認める。

 罵倒だろうが批難だろうが受け入れて見せよう……けど、僕の事を庇ってくれたグラスワンダーを、彼女を乏しめる事は許さない」

 

 

『強がるのはいいだろう。だが、現状をどうする?

 以前渡したレース予定表、滞りなく進めば今年の年末には君は初のG1レース、〝朝日杯〟への出走があるのだよ。

 今の君の成績ではまともに出走権利すら勝ち取ることも出来ないだろうがね』

 

 朝日杯。

 それは、ミスターXが予定しているブラックサンダーの出走レースプランで、僕が最初に走ることになるG1レース。

 グラスワンダーも出走したG1レースだ。

 だが、今の僕にはそのレースを出走する為の実力が無いのは分かり切っている。

 

 

 

 一息をついて、ミスターXはトレーナールームから立ち去ろうとすると、

 

『……私の最初に言っていた言葉を、もう一度思い出せ、ブラックサンダー。

 そして、()()()()()()()()()()など、考えるな』

 

 そう言い残して、ミスターXはいつものようにホバリング移動しながらトレーナールームを後にしていった。

 もはや彼が人間かサイボーグなのかは、僕たちの間ではもう突っ込むことを放棄し、日常風景と化している事である。

 

 

 




ブラックサンダーの基礎ステの秘密。
選抜レース段階だとパワーがGしかない。


ゴリラウマ娘の基礎ステの秘密。
実は選抜レース段階でパワーがD+ある。


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5.夕焼けの誓い

先行エル、根性ダスカ、豪脚誉ワンダーのお陰で無事にキャンサー杯はAグループ進出出来ました……。しかしやはり、ウンス強い……強い……


 放課後、僕とグラスワンダーはトレーニングコースエリア付近を歩いていた。

 

 

 スポ魂ものの展開ならば、今僕たちを照らしている夕焼けの眩しさは「俺達の戦いはこれからだ」などという打ち切り作品ありがちなラスト彷彿させる程に、憎たらしい程に眩しい。

 

 

 レース後だからコースで練習するとかは無いし、ストレッチも済ませてある。

 休日だから、身体を休めているウマ娘が多いからかコース上には一人もウマ娘の姿が見当たらない。

 

 

「風が心地良いな、グラス」

 

「……そう、ですね」

 

 

 歩く理由は、特に無かった。 

 

 

 強いて言うならば、あれだけの言葉をミスターXから受けた僕とグラスワンダーの気晴らしの散歩だろうか。

 あのトレーナールームでじっとしていても、どうにもならないと思ったのだ。

 

 

「トレーナーさん…私は悔しくて、申し訳なく思います……」

 

 

 ふと、グラスワンダーが俯きながら口を開いた。

 

 

「あの方……ミスターXさんの言う通りです。

 私は、衰え切ってしまった……レースへの情熱が冷めてしまった事を思い知らされました」

 

 

「もう、あの男の言葉を気にしすぎるなグラス」

 

「ですが、私はあの方の言葉の意味が理解できませんでした……今のトレーナーさんの、ブラックサンダーの走りに何かを感じている筈なのにそれを言葉で表せない……!!」

 

 ごめんなさい、と。

 立ち止まり、拳と唇を震わせるグラスワンダーはその瞳から涙を流していた。

 

「私は……私自身を許せない!

 不甲斐なく、思うのです……!

 未熟な己に!

 精一杯走っているトレーナーさんの想いに応えられず、闘志を取り戻せない自分自身に!」

 

 

 ウマ娘はファンの期待に応える以上に、自分を支えてくれているトレーナーにも応えて見せたいと強く思う。

 グラスワンダーも例に漏れないそんな一人の少女で、僕の行おうとしている事に応えることが出来ない事に、不甲斐なさを感じ、自分自身を責めてしまっていた。

 

「やはり私はもう、レースの世界に復帰なんてしないほうが……っ!」

 

「それは違うよ、グラス」

 

 

 彼女の言葉の先を遮るように、僕は否定した。

 一つだけ、僕はレースを通して、さっきのやりとりを見て確信したことがある。

 

 ずっと考えていたことがあった。

 

 

 グラスワンダーは、果たして本当に『闘志』を失ってしまったのだろうか。

 世間は、以前のような鬼気迫る走りが出来なくなった彼女を『もう終わったウマ娘』と称した。

 だが怪我をするまで、骨折をするまでの彼女は自らの肉体を犠牲にするほどにトレーニングで追い込んでいた。

 

 

 ターフを駆ける彼女を毎日見ていた彼女のトレーナーである僕が言うのだから間違いない。

 敗北しても、何度掲示板を外そうとも、その悔しさをバネにして、苦しさの先にある勝利を目指して努力していたんだ。

 

 

 そうだ。悔しい、そう感じているのだ。

 負けた時、自分を不甲斐ないと思う時は誰だってそう思う筈なんだ。

 

 

 変わらないなら、ただ敗北を受け入れて、浸るはずだ。

 

 

 悔しさを感じるのは、そこから〝抜け出したい〟と思うから。

 心の底から〝変わりたい〟と願っているから。

 次は絶対に〝勝ちたい〟と思っているから。

 

 

 足掻き続けているのだと。

 絶望を受け入れまいとしているのだと。

 

 

 

 

「お前は僕のレースを観て、感じ取ったはずだ。

 胸が高鳴るのを。

 体温が上がるのを。

 選抜レースで僕を見ていたグラスワンダーの眼差しは確かに、僕の知っている〝怪物〟グラスワンダーのモノだった。

 レースをしたくて、どうしようもないくらいにウズウズしてる顔だった。

 背筋が凍っちまったくらいだぜ……こわっ!グラスこわっ!って思ってしまうくらいにな。

 

 僕は断言できるよ、グラスワンダー。

 お前はまだ、心の奥にあの燃え滾るような闘志を残している……今はとても小さくなってしまっているかもしれないけど」

 

 

 とても小さくて、揺らめく頼りない、炎と呼べないもの。

 それはまるで、闇夜にぽつんと光る種火のようなものだけども。

 

 例え極小の火であっても、枯れ葉や枝を元に再び大きな炎になることも出来る。

 僕は、彼女の火を再び炎にさせる為の着火剤となろう。

 

「僕のレースを観続けろ、グラス。

 悔しいと感じているお前なら、いつか……きっと、またその気持ちをレースに、ターフを駆ける為に向けられるよ。

 だから、今お前が感じている感情は、間違いなくお前だけの正しい感情だ。

 衰えたからだとか、もう自分が終わった選手だから、っていう理由のモノじゃないんだ。

 だから、戻れるよ、グラス……いいや戻ってこい、グラスワンダー……そして、もし戻って来たなら、僕はお前と……」

 

 

 夕日に輝いた彼女の頬を伝う一筋の涙を指で拭いながら、僕は言う。

 

 

「レースで一緒に走りたい」

 

「トレーナーさん……!」

 

 

 きっとこれは神様が与えてくれたチャンス。

 ウマ娘になった事、ウマ娘になれた事は、グラスワンダーと共に走る事なんだと、そう思うのだ。

 

 

「トレーナー、じゃないだろ?今の僕は―――」

 

「ブラックマジシャンガールさん……」

 

「〝ブラック〟の部分しか合ってない!?」

 

 

 

 

 『不退転』。

 彼女と共に道を歩む際に決めた不滅の覚悟を胸に、僕は彼女の帰りをターフの上で待ち続けよう。

 目に染みるほどの夕焼けに向けて、僕は心の奥でそう誓った。

 

 

「まぁ、朝日杯に出る為にも次のレースのデイリー杯に勝たないといけないんだけどな。

 朝日杯よりも格は下のG2だけど、立派な重賞レースだ」

 

 

 仮にも重賞レース。

 次年度のトゥインクルシリーズで活躍を見せるであろう年内の実力に溢れたウマ娘達が集まるレースだ。より一層、勝つことが難しくなっていくだろう。

 

 

「フゥーハハハッ!お困りのようだねぇ、ブラックパンサーくん」

 

 

「アグネスタキオン!?しまった、セリフを先回りされた! 

 僕をマーベル作品に出てきそうな、ワカンダの若き国王の名前にするな。

 いいか、二度と間違えるな、例え世界の人間がそう決めていたとしても、僕の名前は()()()()()()()()だ」

 

「名前が似ているせいか、訂正出来てないみたいだねェ……まぁ、そんな事はどうでもいいんだ」

 

 

 どうでもいいことなのだろうか。

 

 

 と、突如としてどこかの恐怖のマッドサイエンティストのように自前の白衣を靡かせて神妙なポーズを取りながら現れたアグネスタキオンに僕は一抹の不安を覚える。

 こういう時の彼女は余計な事しかしてこなかった気がするから。

 僕としてはさっさと帰ってくれ、大人しく、と願うばかりである。

 

 

 そうすると、彼女は懐から小瓶を取り出しては僕たちに見せつけてきた。

 

 

「朝日杯に出るために、君は次のレースで勝つ必要がある。その為の手助けをしてあげよう……ホラ、飲めば一定の感情の昂ぶりで体が虹色に発行する薬品だ。

 これで最終直線の際に他のウマ娘達が必死で凌ぎを削る中、一人気分アゲアゲで発光すれば目くらましで相手の視界を奪えるだろうさ、さぁ、飲め」

 

「〝仙豆だ、食え〟みたいなノリで変な薬飲ませようとするな」

 

 

 毒々しい色合いをしている瓶詰めされた液体を僕はとにかく追及するつもりはない。

 まず、アグネスタキオンに問い詰めてもまともな解が返ってくることはないだろうから。

 

 

「本命はコレさ……ここ数か月、ブラックサンダーの出場した全てのレースを記録している。

 なに、ちょっとした反省会兼、キミがこれからの試合で勝利する為に必要な事を教えてあげようと思ってねェ」

 

「そのDVDは……アグネスタキオン、一体何が狙いだ?お前の方から無償で助言を行おうだなんて」

 

「無報酬な訳ないだろう……そちらからはブラックサンダーの身体データをもらっているのだから。

 ウマ娘と化したキミの肉体はウマ娘以上にとても興味深いモノなのだよ、私が掲げる〝速度の果て〟を研究する為にもね。

 それに……私以外の人間が〝果て〟などと口にしてるのは気に食わない、あのミスターXという男に一泡でも二泡でも吹かせてやろうじゃないか」

 

 

 要するに、あのミスターXの事で腹が立ったらしい。

 それが彼女が僕に手を貸す理由なのだという。

 

 

 アグネスタキオンはくるん、と踵を返すと歩き始める。

 恐らくこの方向は無人となっているトレーナールームだろう、あそこにはここ数年のウマ娘の試合の映像が取り溜められている。

 

 

 僕とグラスワンダーはお互いに見合うと小さく肩をすかして見せた。

 いつもは考えている事は人体実験の事ばかりで、普段から異常者としてのレッテルを張られていて、周りからは近寄りがたい雰囲気を出しているアグネスタキオン。

 

 

 最初はただの変人だと思った。いや、今でも変人なんだけど。

 マッドなほうのサイエンティストと称しても問題ないくらいの奴なんだけど。

 

 

 そんな彼女も、担当トレーナーに世話されていく過程で異常性を残しながらも小さな変化が見られるようになるくらい、変わったのだ。

 

 例えば、チームの為にこうして、〝何かをしてやろう〟という所とか。

 

 

 

「おいおい、時間がもったいないよメシモットくん。

 私の夜ご飯も用意しないといけないんだから。 

 さて、元・皐月賞ウマ娘による〝ブラックサンダー逆襲セミナー〟を始めようじゃないか。

 

 あぁ、そうだ言い忘れていた……おかずは人参ハンバーグをリクエストしておこうかね」

 

「さり気無くご飯の内容盛るなよ、太るぞ。 

 あと、メシモットってなんだメシモットって」

 

 

 アドバイスがてら夜ご飯をねだる辺り、ちゃっかりしていると思う。

 仕方ない、こうなれば腕によりかけて今日くらいは豪勢な夜ご飯を作ってやるとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そしてそこから数週間、アグネスタキオンの助力を受けた後。

 僕は『朝日杯』の前哨戦の一つと呼ばれるレース、『デイリー杯ジュニアステークス』に出場する事となる。




山々田山能トレーナーの秘密
①実はグラスワンダーに内緒でスーパークリークに耳かきをしてもらったことがある。


この作品の時系列は結構メチャクチャですが、大まかな時代背景は98年黄金世代世代のストーリーを主軸に作っています。登場人物もそれに関係あるキャラや、ブラックサンダーと相性の良さそうなキャラが出てきます。


感想、評価などいつでもお待ちしております。


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6.行け、デイリー杯

季節は11月、デイリー杯ジュニアステークス!
稲妻は忘れた頃にやってくる。


『デイリー杯ジュニアステークス』。

 

 G1レースである『朝日杯フューチュリティステークス』、『阪神ジュベナイルフィーリーズ』の関西圏内におけるステップアップレースの一つ。

 名称、施行場、距離は過去に何度か変遷を経て、現在のレース名と芝、1600mの距離で固定されている。

 ちなみにどうでも良いことだが2020年からは京都レース場の改修工事に伴う開催日割の変更によって阪神レース場で施行されている。

 

 だけどこのお話はリアルタイムでの影響はほとんど受けないからアプリゲームの表記内容で進めていくから気にしないでね!

 

 

 

『さぁ、関西G1レースに繋がるステップレース。

 京都レース場、芝1600mのコースを10人が出場ですデイリー杯ジュニアステークス!

 皆さんの気になるウマ娘はいるでしょうか?私はブラックサンダーが気になります。

 デビュー戦以来連敗が続く苦しい状況ではありますが、今日のレースでは1枠8番人気となっている彼女は今日が初めての重賞レースです』

 

『芝内さん、他のウマ娘も気になりますね。

 10人中4人のウマ娘が既に前走の重賞レースを制している強者揃いです。

 また今回は地方からのウマ娘も出場しています。地方レース場のウマ娘は2着以内でしたら、12月の朝日杯に優先出走権利を手にすることが出来ますからね。

 隙あらば私が!っと意気込んでいる娘達はたくさんいると思いますよ』

 

『二宅さん、そうですね。油断できない緊張している雰囲気がこちらにもバシバシと伝わってきます。

 ですが、やはりブラックサンダーには頑張ってほしい所です。私はあの娘が見せたデビュー戦の最終直線のスピードが忘れられません!

 きっと、今回こそはやってくれるでしょう……!』

 

『あぁ、私情が凄い入り込んでるなァ芝内さん。推しの話になると解説そっちのけで応援し始めるから……』

 

『何か言いました?』

 

『いいえ、なにも――――さぁ、後は枠入りを待つだけですね』

 

 

 

 

 

「8番人気か……まぁ、妥当な所だろうね」

 

 出走ウマ娘の名前が連なっている掲示板を観客席から眺めながらアグネスタキオンは嘆息をつく。

 これまでの連敗状況を考えれば致し方ない所だ。

 隣のグラスワンダーは少しだけ落ち着かない状況である。

 

「……グラスワンダーくん、もう少し落ち着いたらどうだい?」

 

「それは……その…」

 

 どこかそわそわしたような、初めての1人でのお使いを見送る母親のような視線をターフに佇む一人のウマ娘に向けながらグラスワンダーは観客席の手すりを握っていた。

 

 

「彼がこのレースでも通用しなかったら?と考えているのかな?ならば、その心配は不要というものだ。

 あれから調整時間こそ少なかったが、彼自身も特訓の成果というモノを実感してきている……後は実戦でアレが実行できるかだ」

 

 

 あの日。

 アグネスタキオンはブラックサンダーに助言した。

 過去のレースデータを元に、ブラックサンダーの身体データを根拠に、勝利の為に何が必要なのかを。

 

 

「私の想像が正しければ、このレースで彼はウマ娘として大きく前に進むことが出来る。

 条件は既に揃っている……8番人気ながらも、今回の作戦で重要な内枠を確保できている辺り、彼自体レース運というのは良い方なのかもしれないね」

 

 

 だから、

 

 

「グラスワンダー君、キミの信じるトレーナーならば、最初っから最後まで信じてあげなければいけないんじゃないかな?」

 

「タキオン先輩……」

 

「さぁ、もうレースが始まる。見守ってやろうじゃないか……さてさて、今日はどこで見ているのか知らんが、観客席に紛れてるミスターXの度肝を抜いてやれよ、ブラックサンダー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 レースはもう目前だ。

 ここ最近は天候に悩まされること自体が稀であり、ベストコンディションと言って差し支えないほどに快晴である。

 芝を踏んだ感覚は乾燥しているからかパサパサしていて、軽い。

 

 これなら思いっきり踏み込んで加速に及んでも問題はないだろう、そんな事を考えていると声を掛けられる。

 

 

「おお、ブラインドタッチじゃねぇか」

 

 

 ガタイの良い、ほんとにウマ娘かと疑う体躯を持ったウマ娘の少女だ。

 筋肉ゴリゴリで体操着がはち切れそうになっているサイズ変更を検討した方がいいと思うが。

 見てくれは世紀末漫画に出てきそうなゴリラウマ娘、これを少女と小一時間ほど検討したいところだが、URAのお偉いさんが承認してこうしてレース登録しているという事実がある以上、彼女の事をウマ娘と扱わなければならないらしい。

 

 

「僕の名前はブラックサンダーだ。人の名前を、パソコンタイピングする基本動作みたいな名称で呼ぶんじゃない」

 

「なんだよ、連れねぇなァ。デビュー戦からの付き合いじゃねェか」

 

「そうだな。基本的に僕が出るレースに、何故か大抵お前がいる事に運命のイタズラを感じられる図には居られないよ」

 

 基本的に、僕とこのゴリラとは驚異のエンカウント率を誇る。

 これまでのレース、僕が出場したレース五戦中にこのゴリラウマ娘と遭遇した回数は四回だ。

 レースの内容やらコンディションの影響で多少はバラける筈なのに、これなのだ。

 

 

「その内、何もしなくても会えるようになるかもな」

 

「何もしなくてもエンカウントするって……どこのナイトガンダム物語だよ」

 

 

 それにしても、とゴリラが怪訝そうな表情で僕を見つめて一言。

 

 

「一人称、僕って……お前変な奴だなァ」

 

「一人称が〝俺〟のお前に言われたくない」

 

「しかしブラックサンダー、お前今日の芝1600mをどう見る?」

 

 急にゴリラが語り始めた。

 図体筋肉達磨の癖に、レース展開の話に持ち込むとは案外頭が回るタイプのウマ娘なのだろうか。

 こちらのレースで使う手の内を、会話の中で聞き出そうとしているのかもしれない。

 

 頭脳はタイプか、侮れないなゴリラ。

 ここは慎重に答えさせてもらう。僕は用心深いんだ。

 

 

「典型的なマイルコースで天候もバ場も気温も風も最高だ。比較的にスタートすれば風が向かってくるけど速度を害するほど強い訳じゃない。

 しかも、ラストの直線でゴールを目指す際はストレートを走る僕らには追い風になる……気持ちよく走れることこの上ないレース状況だ」

 

「でもこのちょっとした風だぜ?そんなにラストの速度に影響するほどの追い風になるのかよ」

 

「例え0.5m以下の風速でも背中を押してくれる感覚は確かにある。それだけでも無駄な力を入れずに加速が出来るものさ。

 まぁ、気持ち的に楽になるっていうのがホントの所なんだけど」

 

 

 勿論、これは人間の肉体の時に陸上をやっていた短距離選手である僕の個人的な見解である。

 風の影響なんて人によって様々で、追い風関係なしに向かい風でもパワーと体幹で加速を出していく選手はごまんといるのだ。

 

 

 ゴリラは納得したように腕を組む。

 鍛えられた上腕二頭筋がこれでもかと張りを見せてこちらにアピールをしてくる。

 既に能力値的にはパワーBまであってもおかしく無いのではないだろうかと思っていると、やがてゴリラは口を開く。

 

 

「いいな、ソレ」

 

「え」

 

 きょとん、とした僕の反応に構わずゴリラは盛大に笑い散らかすと僕の肩を強く叩いた。

 

「俺のトレーナー頭硬ェうるせぇジジイでよぉ!俺が〝前にガンガン行かせろや!〟って言うと〝もっと頭使ってレースしろ!〟って、聞かなくさぁ。

 聞き流すのは大分慣れてんだけどよぉ、耳にタコ出来ちまうくらい文句ばっか聞かされて、仕方ねェから〝このレースで頭使って勝ってやるよ〟って言ったら漸く黙り込んだからよ」

 

「……それで、僕の会話から良いヒントは掴めそうか?」

 

「ああ、分かったぜ!」

 

 ゴリラは鍛えられている大胸筋を突き出すように張りながら言った。

 

 

「とにかく前に出る、走る、潰す、全員ぶっ飛ばして肉団子にする!――コレだな!うん!」

 

「お前のトレーナーは……なんか、凄い大変そうだな、うん」

 

 

 一体どういった経緯でこのようなウマ娘とトレーナー契約をするに至ったのか、このゴリラのトレーナーに少なからずとも同情しそうになったのは言うまでもないだろう。

 

「メルティロイアルだ」

 

「ん?」

 

「名前だよ名前。いつまでもゴリラだなんて品のない名前で呼んでんじゃねェ……チンタラ走ってたら前みてぇに弾き飛ばしてくからな」

 

 

 ゴリラのような体躯を持つウマ娘、メルティロイアルと名乗る彼女の目はもはや獰猛な獣の如く鋭いものになっていた。

 

 

 そんな捨て台詞を残して、ヤツは枠入りを完了させていた。 

 野郎、前回のレースで体ぶつけてきた事、覚えていやがった。

 

 

「チンタラ走るな、か……まさにその通りだな」

 

 

 僕自身も、今までのようなレースを繰り返すわけにはいかない。

 アグネスタキオンやグラスワンダーの協力そしてあのミスターXの言葉は僕の走りを見つめ直す大きなきっかけになったのだ。

 

 

 今回のG2レースはブラックサンダーの新たな走りの手応えを掴むための大事なレースだ。

 

 

 

 

 僕自身も枠入りを完了させ、後はゲートが開くのを待つだけだ。

 

 

「……すぅ―――はぁ……」

 

 心臓が脈を打つのが分かる。痛い程に。

 心を落ちかせるための深呼吸は、もう何度も自分でやっていた陸上部時代からのルーティンのようなものだ。

 

 

 元陸上部としての感覚でウマ娘のレースを行っても良いモノだろうかと考えていた時期があったが、今となっては杞憂である。

 スタートに関してだが、実は自分自身で思っていた以上に陸上で培った技術は、ウマ娘でのレースに活かせる事が多かったのだ。

 

 

 横一列に並び、構えるウマ娘達はさながらスタートラインでスターティングブロックに足をセットするスプリンター達とよく似ている。

 ウマ娘のレースに雷管によるスタートは無いが、ゲートが開くタイミングは絶対に一緒だ。ならば、開く音を雷管による音の合図に置き換えればいい。

 

 

 そしてスタート姿勢。

 殆どと言っていい程に、ウマ娘のスタート姿勢はスタンディング状態で行う。

 これは僕も最適だと思う。

 ターフにスターティングブロックもないのにわざわざクラウチングの姿勢でスタートを決める必要はないだろう。

 

 

 だけど、スタンディングの姿勢でも陸上選手は走る練習で走る。

 スパイクを履かないシューズだけのダッシュ練習はどれだけこなしたかもう覚えていない。

 

 

 しかも僕は元短距離選手(スプリンター)。どちらかというとサクラバクシンオーとかの距離適性の方が合いそうな気がするのだが、要するにだ。

 

 

 ()()()()ならば、僕の方に一日の長がある……筈である。

 僕がこのレースで勝つならば、僕が付け込むならばココしかない。

 

 

 僕が前のように、第四コーナーを回るまでは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()この時しか。

 

 

 

 ブラックサンダーではなく、陸上選手である山々田山能として競技レースでスタートを決める時に2つだけ決めている事がある。

 

 

 一つは、誰よりも速くスタートを出る事。

 当たり前の事だけど、100mなどの極端に短い距離において勝つためには誰もが最速のスタートを切る事を求められる。

 

 

 

 誰よりも速く前に出て。

 誰よりも速く前へと進み。

 最終的には僕より後ろの選手を置き去りにしてゴールする。 

 僕が戦ってきた競技というのは単純なんだけど、己の最速を競い合いという……そういう世界だ。

 

 

「さぁ――――」

 

 

 身を低くする、ゲートが顔に隠れるくらい。

 左足を前に、膝を柔らかく曲げ、僕が地面を最も効率よく蹴る事が出来る姿勢へ。

 腕は垂らし、脱力する。余計な力を入れない、瞬間的に爆発的な推進力を生み出せる状態へ。

 

 

 桜舞う春も。

 照り付けるような暑さの夏も。

 試合のシーズンが終わった秋も。

 もうグラウンドも使えなくなる冬も。

 

 どんな時でも。

 何百何千回と『速くスタートする』事だけを考えて、辿り着いたこの姿勢。

 

 

 人からウマ娘の身体になっても。

 競う場所がタータンからターフの上になっても、これだけは変わらないままだ。

 

 

「―――行こう」

 

 

 霜月の冷ややかな空気を切り裂いて、ゲートが開く音がした。

 




キャンサー杯終わったと思ったらもうレオ杯だよ。次もグラスで勝利を目指す。
ちなみにキャンサー杯はグラスちゃんの豪脚運ゲーが発動せず、負けました……。
今度は賢さにも振って、最強のグラスワンダーを作ります……


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7.稲妻の始まり

暑くて駄目ですねー、部屋にエアコン欲しい。


「結論から言うよブラックサンダー。今のキミの走りはキミに適した走り方ではない」

 

 

 陽もすっかり落ち切った部屋の灯りがぽつんとついたトレーナールーム。

 操作したリモコンの先に映し出された、3連敗目の映像に一時停止をかけながらアグネスタキオンはそう言った。

 

「中団、もしくは後方からのポジションは先頭集団の動きを見て後半まで脚を溜める事が出来るが、即座に空いたコースへ入り込むレスポンス、そしてポジションを抑え、維持し、抜け出すためのパワーが必要だ。だが、ウマ娘よりも平均的にパワーの少ないキミには最後の直線に入る前に出口を塞がれてしまうだけで抜け出せなくなってしまう。

 私の見立てでは、キミは前を塞がれて、前に抜け出せたことは無い。一度だけあったけど、もう身体はボロボロで結局ほとんどのウマ娘に抜かされてしまった」

 

 

 皐月賞ウマ娘、アグネスタキオンは全てを見透かすような眼で僕を見ていた。

 きっとそこには侮蔑もの意味もない、ターフをかつて駆けていた先輩ウマ娘としての経験則からだった。

 

 

「キミ自身も薄々と勘付いているんだろう?その走り方では、決して勝てないという事を。

 そして、どうして連敗を重ねる中で一度たりとも、作戦を変えようとせず、頑なに後方からの差し切るレース展開に拘っていたのか。

 

 答えは簡単だ。キミは、()()()()()()()()()()()走って勝ちたかったんだ。

 かつての彼女が用いていた差し型のスタイルで、レースに勝つ姿を見せつける事で、彼女の闘志に火をつけてあげたかったんだ。

 キミはかつての〝グラスワンダー〟になりたかったんだろう?

 けど、分かるはずだ……君自身の考えが逆にブラックサンダーの力を引き出せていないことに……言うなれば、それは〝枷〟というものだよ」

 

 

 

 僕の走りは僕の力を出し切れない走りだと。

 今の走りはただの重い足枷なのだと。

 

 

「無理なんだよ、他人の走りでレースに勝つなんて……そんな技量も実力もキミにはない。

 キミは決して、〝グラスワンダー〟になれない……」

 

 

 言い淀むこと無く、その瞳と言葉は真っすぐに、真実だけを告げていた。

 

 

 そうだ。そうだよ、アグネスタキオン。

 全部、お前の言う通りだ。

 

 僕は僕なりに、グラスワンダーになろうとしていたんだ。

 グラスワンダーを演じる事で、レースに勝つことで、彼女の心に火を灯したかった。

 

 

 けど、偽物は偽物で。

 本物に近づこうとしても結局それは本物を見真似た紛い物でしかないのだと。

 

 

 2連敗したあたりから、気付いていた。

 僕は所詮、特別でもない、ただの普通のウマ娘でしかないのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 機械によって制御された乱れのない一斉スタート。

 扉なんて視界に入れていない。ただその扉の開いた音だけを合図にして脚で地面を蹴り出す。

 

 

・・・・・良いスタートだ。

 

 

 乾いた芝はこの上なく地面に力を伝えやすくて、足を取られることもない。

 出遅れることなく、僕は全てのウマ娘達より、前に出る。

 

 

・・・・・まだだ、まだ足りない。

 

 

 出だしの5歩、ここで大きな差を付けなければならない。

 足の捌きをより細かく、短い歩数で加速する。

 

 

『おおっと!スタートと同時にゲートがいち早く飛び出したのはブラックサンダーだ!僅か数10歩で加速!そのまま先頭の位置に付けました!』

 

『他のウマ娘達も決してスタートが悪かったわけではなかったんですが、ブラックサンダー……彼女のスタート技術はこのレースでは群を抜いていますね』

 

『好位置に付きましたブラックサンダー。しかし、これまでのレースとは走り方が大きく異なっています……これは一体!?』

 

 

 

 と、実況席はこんな感じで困惑してるのだろうか。

 はたまた、僕みたいな然程有名でもないウマ娘がちょっと走り方を変えたくらいで注目されることはないのか。

 

 

 だが、真に動揺をくれてやっているのは実況席の人にではない。

 僕の後ろにいる、このレースを走る全てのウマ娘達だ。

 

 

 

「なんだ?アイツ、こんな前に出るレースしなかったはずだけど」

 

「こんなにスタートが上手いやつだったとは思わなかった」

 

「緊張しすぎて自爆したのか……どちらにせよ、ちょっと前に出れたくらいでいい気になってもらっちゃ――――」

 

 

 後ろは確認しない質だが、こんな感じの言葉が耳に届いてくる。

 ウマ娘の聴力とは人間のより能力は優秀だ。

 まぁ、今まで中盤からのレース展開見せてたウマ娘がいきなりこんな先行策を取ってきたらそりゃぁ驚くだろう。

 

 

・・・・・だけど、ただの先行策だと思うな。

 

 

 

「前の娘……ちょっと、これ……っ」

 

「マイルの距離だからペースが上がるのは分かるけど、ちょっと早すぎない……っ!?」

 

「この娘……まさか、この作戦は……〝逃げ〟!?」

 

 

 その通りだよ。

 僕の本日の作戦は、「逃げ」だ。

 

 何人か気づいた娘もいるかもしれない、後ろから聞こえてくる脚の音の間隔が短くなった。

 後ろのペースが上がったんだろうが、そんなのは僕には関係ない。

 足音はどうだろう、今はどれくらい離せてるか……響く音からは判断するに、大体1バ身半くらいだろうか。

 

 

 突出したペースだ。

 このまま野放しにすれば不味い、そんな直感が働いたのだろう。

 でも、集団にはまだ楽観的な考えを持っているモノもいるハズ。

 

 

「いや、このままのペース……焦ったわね、いかに1600mと言えどもそんなハイペースで持つかしら?」

 

「京都の外回りはスタートの直線後に大きな坂があるんだから!」

 

 

 あぁ、知ってるよ。

 京都レース場、外回りには第3コーナーには高低差4.3メートルの大きな坂がある。通称、『淀の坂』だ。

 その後は第3コーナー途中からまた急な下り坂が待っている。

 坂を走るのはとてもパワーも使うし、スタミナも使う。序盤からこんな飛ばしていて、坂でパワーを使いきってしまっては最後の下りから直線でスタミナが無くなってしまう。

 しかも京都の最終直線はゴールまで400mと長めだ。

 

 

 脚は十分に残しておかなければならない、そう思っているのだろう。

 そして、大逃げをかましている僕は終盤で逆噴射して、沈んでいくと思っているのだろう。

 

 

 そうは問屋が卸さない。

 

 

『先頭に立ったブラックサンダー!2馬身と後続を引き離すが、京都レース場には高低差4.3メートルの坂があるぞ!

 序盤からハイペースなレース展開で、果たしてこれまでのようにリードをキープできるのか!?』

 

 

 さぁ、淀の坂を昇れ、ブラックサンダー。

 

 

『ブラックサンダー!ペースは落ちない!?落ちない!?同じく登り始めたウマ娘達に差を詰められるどころか、更に差を広げていっているぞ!?

 この細身の一体どこにこんな豪脚めいた力を宿しているのか!?まるで重力を感じさせない軽やかな走りだ!!』

 

 

 んなわけあるか。キツイんだよこっちは。

 

 

 正直な所、顔で結構やせ我慢してるだけで、内心はマジでキツい。

 ハムストリングスから大殿筋に掛けての負荷が半端ないし、まだ終わりの見えない坂が目に入っただけで心が折れそうになる。

 

 

 登坂走の練習はマジで嫌いだ。

 50m、100mの距離は走ったことがあるけど、70m程度しかないこの坂が今は140m以上の距離に感じてしまう。

 ウマ娘の肉体でなければ、今頃有馬記念で逆噴射したツインターボのような惨状になっていただろう。

 

 

 こんな坂、やり切れるヤツは実はドMなんじゃないかって思うくらいだ。

 あぁ、成るほど。僕か、僕はドМだったのか。なら納得だ。

 

 

 坂を走るなら、極力上は見ない、そして無理に足を後ろに向けて蹴らない。

 最小限の脚の運びでパワーロスを防ぎ、坂に対して並行に足を前に進ませる。

 

 

 今の速度をなるべく落とさない、そうするだけで他のウマ娘達の距離は縮まらない、もしくは開いていく。

 そして高低差4.3メートルの坂を昇り切ったのなら、後は一気に下るだけ。

 

 

「ここからが勝負だぞ」

 

 

 高低差4.3メートルの頂の後、4.3メートルの下り坂に直行する。

 まるで崖から落ちていくような感覚。スタミナも脚も残せていなかったら、下りの加速に脚がついて行かず、転倒することだってあり得る。

 

 

 しかし、僕には問題ない。むしろ、ダウンヒルは僕の好きな部類だ。

 地形の助けもあって、自分が加速していく感覚が堪らなく好きだからだ。

 

 

 足の接地を短く、膝を前に、身体を起こさず余分な空気抵抗を減らせ。

 

 

 肉体が限界を超えていくのを感じる。

 この時だけはウマ娘の最高速度である70km台を超えて80にも100kmにも到達している気がした。

 

 ラスト400mになっても、あれだけのハイペースを続けていたにも関わらず僕の脚は軽い。

 

 

 

 まるで、羽根のようだと自分で思ってしまう。

 自分でも、驚くくらいに疲れというのを感じていない。

 

 

 眼前に広がる芝のみの景色に鼓動の高鳴りは最高潮を迎えていた。

 選抜レースとデビュー戦の時と一緒だ。

 

 

 何者にも遮られず。

 ゴールに向かって伸びるターフ。

 

 

 この時だけはレース場が競技場のタータン、400mレースのバックストレート100mの景色に見えた。

 短距離スパイクで大学時代のユニフォームを身に纏って駆け抜けた過去の風景が浮かび上がる。

 

 タイムを示す電光掲示板。

 スパイクのピンがゴムタータンに突き刺さっては、抜けていく、〝パツン〟という音。

 炎天下、地面が焼けて、鼻につんとしたタータン独特の香り。

 

 全てが懐かしい光景だ。

 『自分にとって最高のレース展開を維持していた記憶』が、僕の肉体の負荷を軽減させ、速度の上限を越えさせるような感覚があった。

 

 

 

 スタートで抜きんでて、初速を殺さず、コーナーを落とさずに最後の直線で出し尽くす。

 体力を残す走り方をしているように思っても、実際はギリギリいっぱいの状態だ。

 

 

 陸上競技種目400mの最後、ラスト100mの時、身体は酸素が無くなってきている状態だ。

 脚は油が無くなったブリキ人形のように動きがぎこちなくなるし、腕の振りは両腕に重しを乗っけられたかのように遅い。

 

 

 レース後は全身が筋肉痛を約束されているようなもので当時、400m以上の距離は長距離だと思っていた僕にとって400mを激走することは死を意味するものだと思っていた。

 

 

 だから、短距離の部門でも僕は400mより多い距離は嫌いだ。今でも。

 ましてや、1600mを元・人間が2分以内で走り切るなんて常軌を逸していると思ってる。

 

 

 

『ブラックサンダー!坂を越え、坂を下り尚も先頭!疲れを知らないのか殺人的な加速を踏みながらハナを進んでいく!後ろのウマ娘にはもはや追いつける望みすらも与えず、自らの影すらも踏ませない!3バ身、4バ身、その差をどんどん広げていくッ!後方のウマ娘も直線に入ってくる!猛追を見せるのは7番メルティロイヤルだ!恐ろしい末脚!果たして届くか!?届くのか!?』

 

 

・・・・・けど――――、

 

 

『ブラックサンダー!今1着でゴールイン!これが本来の彼女の走りなのか!?

 後続を4バ身半引き離してデイリー杯ジュニアステークスを勝利だ!稲妻復活ッ!!稲妻復活ッッ!!』

 

 

「はぁ…っ!はぁ…っ……しんど、い」

 

 ゴールしてから初めて顔を上げて、身体が欲していた酸素を嫌というほど取り込んだ。

 

 

 全身の血が沸騰して弾け飛びそうになる。

 今すぐにぶっ倒れてしまいたい。

 明日は絶対に練習は休む。誰が何と言おうと寝る。

 もう二度とこんなキツイレースなんてしないぞ。

 

 

 そんな事を、レースが終われば、根性なしが言いそうな事を僕は現役時代、度々口にしていた。

 

 

・・・・・だけど――――、

 

 

 

『ワアアアアアアアッッ!!!』

 

 

「なんだよ、皆してこんなに騒いじゃってさ……ダービーにでも勝った訳じゃあないっていうのに……あぁ、でも―――イイよなァ……この時だけは、さ」

 

 

 だけど、誰よりも先にゴールして観客の視線を全て独り占めにする……この時の感情を覚えちゃったらさ、どんな疲れなんてぶっ飛んじまうんだよ。不思議な事にさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 グラスワンダーの走りを、誰もが「マルゼンスキーの再来」、彼女の事を「怪物」と称した。

 

 

 後半、最終コーナーから素早く抜け出し、芝が捲り上がるほどの強烈な豪脚であっという間に先頭集団をごぼう抜きしていく……その光景を見ていた僕はただただ圧倒された。

 歓声が沸き上がる観客席の中で、僕はただ一人彼女の走りをじっと見ては強烈な衝撃を受けていた。

 

 

 それはまるで、世界最速と呼ばれたジャマイカの英雄、ムサイン・ポルトの走りを初めてテレビで見た時のような衝撃と似ていた。

 

 

 あんな風に豪快な走りをしてみたい。

 あんな風にスピードで他者を追い抜いてみたい。

 あんな風にいつも強く、周りを湧かせられる選手になりたい。

 

 

 あんな風に。

 あんな風に。

 あんな風に。

 

 

 そこには憧れがあった。

 子供が為れもしない英雄になろうとするような、そんな淡い夢を僕は抱いた。

 高校、大学と打ち込んだ陸上で誰よりも速くあろうとして、世界最速の男の真似事をしていた時期。

 あの時の夢を、あの時胸に抱いていた気持ちを僕はグラスワンダーに見出した。

 

 

 僕はきっと、グラスワンダーに憧れたんだと思う。

 

 

 ずっと、傍で彼女の走りを見ていたから。

 三年間、僕の追い続けた理想が、そこに再来したから。

 ウマ娘になって、僕の走り方がグラスワンダーの走り方に行き着くのは自然だった。

 

 

 でも、ウマ娘になって分かってしまった。

 僕には、彼女の力を再現できるような才能も、力もないことを。

 彼女の走りが僕を弱くしている原因になっていることを。

 

 

 僕が強くなるためには、僕自身の夢を追う事を、諦めなければならないことを。

 

 

 ミスターXの言う通りだった。

 僕はずっと、「為れもしない理想をただただ追いかけてるだけ」だったのだ。

 

 

 ごめんな、ブラックサンダー。

 お前は、ずっと前を走りたかったんだな。

 

 差しとか、追い込みとか、先行とかじゃなくて、最初から最後までぶっちぎって、身体がヘロヘロになるくらい体力を使い切って走る「逃げウマ」だったんだな。

 気づけなくて、悪かった。トゥインクルシリーズは僕とグラスだけじゃない、ブラックサンダーというウマ娘とも一緒に駆け抜けなきゃいけないんだ。

 

 

 

 

 ウィナーズサークルの上に立つ。 

 レースに勝利した者のみが立てる栄誉ある場所から観客席に目を向けるとたくさんの声援をこの身に受けた。

 

 

「やるじゃないかメシモットくん!今日は特上人参ハンバーグで決まりだねェ!祝勝会、楽しみに待ってるよ!」

 

「ブラックサンダーさん、おめでとうございます……!これが、貴方の本当の走り……!」

 

 

 アグネスタキオンもグラスも僕の勝利を祝福してくれていた。

 辺りを見渡すと観客席の上部に一際大きな巨体のローブが目立つように僕の視界に入った。ミスターXだ。

 

 

 ミスターX、全てはアンタの計算通りという訳か。

 僕を挑発したのはブラックサンダーが本来の力を出し切れていない事を認識させるためか。

 ブラックサンダーの特性をいち早く見抜いていた。

 トレーナーとしての素質はかなり高いようだ。秋川理事長が信頼に足る人物だと言っていたのも頷ける。

 あの男の事はまだ信用したわけではないが、僕がこの先レースで勝つためにはあの男の助力が必要不可欠になってくるのだろう。

 

 

「いいぜ、やってやるよ……ミスターX」

 

 改めて、このウィナーズサークルで誓おう。

 僕は変わる。変わって見せる。

 今までの自分から新しい自分になる為に。

 グラスワンダーの希望になる為に。

 

 

 僕のトゥインクルシリーズはまだ始まったばかりだ。

 

 

 

 

 

 

 




メルティロイヤルの秘密
①休暇から帰ってくると周りから「痩せた?」と言われる。






大真面目にギャグやる感じが好きなので、シリアスとギャグの振れ幅が大きくなってしまいがち。ブラックサンダーちゃんの脚質は逃げA先行C差しF追込F、距離適性は短距離AマイルA中距離B長距離B金回復積んだり努力すれば長距離3200も走れちゃう。長距離、逃げ……キタサンブラックかな?


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8.デイリー杯を終えて、その後

明日はメイショウドトウの実装日なので初投稿です。


 トレセン学園トレーナー室。

 普段、というか本来僕ことブラックサンダー、本来の名を山々田山能がいつも使用していたトレーナー室でだが。

 自分が今まで居たトレーナーデスクを我が物顔で占領している巨体を前に僕は佇んでいた。

 

 

 そして僕は眼前に広がる非日常な光景にあまり抵抗を覚えなくなっている自分自身に、少なからずとも恐怖を覚えつつある。

 

 

「えっと、ミスターX……明らかに人外の産物である両肩から出てる二本の細いロボットアームがパソコンのキーボードを手際よく叩いて、アンタ自身が優雅にお茶を飲んでいる事にこの際突っ込んだりはしないんだけど……取り合えず僕を呼んだ理由を聞かせてほしい」

 

 

 椅子に座る黒ローブに白の仮面をつけた大柄の男、ミスターX。

 胸部に付けられたトレーナーバッジが無ければ不審者と見間違えられる確率100%のこの男こそ、僕のトレーナーだ。

 存在が異質すぎて、お前だけ別の世界の人間なんじゃないかと、日ごろから僕は疑っている。

 

 

 

 なんせ、移動は常にドムのようにホバークラフトしながら浮いて移動するし、

 今行っているパソコン業務もナメック星人の戦闘服みたいな肩部分から細いロボアームが二本伸びて、せわしなくパソコンのキーボードを叩きまくっている。

 

 

『これが気になるかね、ブラックサンダー。

 人間の脳波と連動して意のままに動かせる運動型BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)だが……聞いたことぐらいあるだろう?』

 

「ま、まぁ……話には聞いたことがある。

 交通事故の後遺症で手足が不自由になった人、脳卒中、ALS患者とかの生活が困難な人の為に作られたヤツだろ……?

 数十年の間には日本の医療で本格的な実用化が期待されてるって、ちょっと待てよアンタ、どこか身体が悪いのか?」

 

 

『いいや、別に』

 

 と、ミスターXはお茶を口元に運んだので、僕はズッコケた。

 

 

 仮面の下の隙間から器用に飲みながら。

 本当に器用だなァ、仮面キャラってみんなこんな感じなのだろうか?そんな事を思う。

 仮面キャラの生活習慣というものを動画にしてアグネスタキオンの研究材料として提供し、真相の究明をしてみたいものである。

 

 

『特に他意はないよ……とても便利だ。

 私の脳波とアームの動きにはラグが少なく、ほぼほぼリアルタイムで動いてくれる。

 お陰で、私はこうして脳内で変換したイメージをアームに伝えるだけでお茶を飲みながらでも仕事が出来る……実に有意義だ』

 

「ただラクしたいだけだろ!」

 

『フフ、しかしながら私の身体のことを心配してくれるとはキミも存外優しい所があるじゃないかブラックサンダー』

 

「クソっ、最初本当にこいつの身体の事を心配してしまった自分をぶん殴ってやりたい……」

 

 

 本当に、こいつの身体は人なのだろうか。

 未来から僕をターミネイトしに来たスカイネットの機械兵士ではないかと思うくらい、この男の素性は不明である。

 

 

 よくよく考えると、秋川理事長が〝詮索無用!〟とか言っている辺り、かなり怪しい気がするのだが。

 なんか上手い事はぐらかされている気がするな、と考えているとミスターXが漸く僕を呼びだした理由を口にした。

 

 

『ブラックサンダー、まずは初G1レースである()()()()()()()()()()()()()()()()一位―――――おめでとう』

 

「なんだ今の変な間は……というか一週間前の話をなんで今更……」

 

 

 むず痒い感じがして、思わず僕は後頭部を掻いた。

 面と向かって祝福されると、例え相手が嫌な奴であっても照れるという感情が生まれるらしい。

 

 

 

 僕は既に、年内で出場したG1レースである朝日杯フューチュリティステークスで勝利を収めている。

 

 

 ブラックサンダーの脚質が「逃げ」だと分かり、デイリー杯を制した僕はその勢いのまま初のG1レースである朝日杯を1位で勝利した。

 逃げであることを自覚してからは練習メニューも逃げ作戦を意識したものに変わっていったので前回よりもペース、スパートのタイミングを重点に取り組んだ結果が出たのだ。

 デビューしてから僕はどうやら同期の中でも最速でG1を制したウマ娘らしく、少しだけ記事に取り上げられていたらしい。

 

 

 ミスターXは話を続け、

 

 

『作戦は以前のデイリー杯から変わらず、〝逃げ〟による先行策。序盤、中盤と先頭を進み続けて終盤後続を2バ身差でゴール。

 後半のペース自体は落ちてしまったが、前回のレースから数週間で逃げの基礎をしっかり固め、成果を出していたから驚いたよ。上出来だ、と褒めてやりたくてね』

 

「褒め、る……?」

 

 背筋におぞましい程の寒気が走る感覚があった。

 薙刀を持ったグラスに背後から追っかけ回されるのとは別のベクトルの寒気。

 男が男によしよしするような、やべぇ感覚だ。

 男版スーパークリークなんて呼ばれ方は我らが母であるスーパークリークに失礼か。

 あれほどレース前に罵倒していたくせに、どういう風の吹き回しだ。

 

 

 素顔すら見えない、性別からして不明な人物からのツンデレなんぞ一体誰が得するのだろうか。

 こんなの、流石にあのアグネスデジタルも真顔になるぞ。

 

 

『どうした、青ざめた顔して』

 

「怖いんだよ!アンタ!キャラチェンジ早すぎるんだよ!この前みたいにひたすら罵倒する屁理屈上司だと思ってたのに!」

 

 ミスターXは両肩のロボアームを仕舞うと、やれやれと続けた。

 

『私も指導者だ。何も感情任せに怒るという事を好き好んで行っているわけではない。

 必要だから、例えキツイ言い回しでも伝えるべきは伝えなくては。

 数十年前と違い、教育の環境は変化している……昔のようにジャージに竹刀を持って根性論を進める体育教師など、もう存在しない。

 教育者にも時代を経るごとに求められることが多くなってくるのだよ。

 それは教職をかつて志していたキミが一番よく知っているのではないか、山々田トレーナー』

 

 

 ミスターXの言う通りだ。

 確かにここ数十年の教育の現場は大きく変わった。

 

 あからさまな熱血体育教師はナリを潜めている。

 昔のように竹刀を振り回し、根性論で授業を進めようものなら校長、教頭から指導という名のお叱りを受ける。

 そして得意分野だけ教えればいい、という風潮は無くなりほとんどの教師は得意苦手に関わらず全ての教科を教えられるようにしなくてはならない。

 

 

 僕なんて、野球と陸上しかやってこなかったのに教育実習の最初の模擬授業でバスケットボールの授業を補助も無しで1クラスに教えるとなったときは……流石に青ざめた。

 サッカーとかバスケとかドリブルが壊滅的に下手クソでダブドリ、ドラベリングは当たり前で。

 ボールに突っかかって床を転んだ日には「センセー、ほんとに体育学校で勉強してんのかよー」、「センセーより女子の方が上手いかもね」と言われたときには猛烈に死にたくなったのは言うまでもない。

 

 

 そしてGTOのアニメを見てメチャクチャ興奮していた『体操服、女子は絶対にブルマ』という鉄の掟は既に撤廃されて膝まで伸びたジャージタイプが近年の平均的な男女揃った体操着姿だという。僕が教職を諦めるようになったのは、そう言った自分自身が抱いていたギャップに打ちのめされたかもしれない。

 

 

 いや、流石に体操着の件は冗談なんだけど。

 ウマ娘のG1以外のレースは全部体操着で中にはブルマの娘もいるから、ヨシ!と思ったけどな。グラスには内緒だ。

 

 

『まぁ、教職論はさておき……これで私の提示する最初のレース朝日杯が終わった。

 ところでキミに渡したレース計画表、覚えているかね?』

 

「あぁ、覚えてるよ」

 

 

 初めてこの男と顔合わせをした日に渡されたレース出走予定表。

 最初このレースのローテーションを見て、僕はある事に気付いた。

 

「朝日杯、毎日王冠、有馬記念、宝塚記念……このレースはグラスワンダーが過去に走ったレースだ。

 アンタは、僕にグラスワンダーと同じ道筋を走らせようとしている」

 

 そうだ、とミスターXは頷いた。

 

『私もこのチームを預かるトレーナーだ。

 そしてトレーナーとしてウマ娘の考えにはなるべく協力したいと思っている。

 キミはグラスワンダーに闘志を取り戻すきっかけを与えたいのだろう?

 ならば、彼女の人生とも呼べるレースをそれぞれ走るというのも効果があると思ったのでね』

 

「僕はアンタの考えが読めないよ……味方なのか?」

 

『私はトレーナーだ。

 それ以上も以下でもない……好きに捉えてもらって構わない。

 私は君にレースを走れるように手配するまでのこと』

 

 

 ますますこの男の事が分からなくなってきた。

 もう思考を放棄して宇宙猫になってもいいだろうか。

 ただ一つだけ理解したのは、ミスターXは少なくとも僕と同じで、グラスワンダーの事を何とか復帰させようと考えを巡らせているようだ。

 

 

 ちょっと待て、じゃあアグネスタキオンは?

 そう思った時、ミスターXが言うのだ。

 

 

『何故朝日杯から毎日王冠まで期間が空いているか分かるか』

 

「あぁ、そういえば……デイリー杯から朝日杯までキツキツのローテだったのにここからいきなり九月の毎日王冠までかなり間がある……これは?」

 

『キミの意見を聞きたかったのだよ、ブラックサンダー……ウマ娘として〝三冠路線〟を取るのか、また〝ティアラ路線〟を進むのか』

 

 そう言ってミスターXは『トレーナー道』という文字が彫られた湯呑をデスクの上に置いた。

 

 

 三冠、トリプルティアラ。

 三冠は皐月賞、日本ダービー、菊花賞を制したウマ娘がそう呼ばれ。

 トリプルティアラは桜花賞、オークス、秋華賞を制したウマ娘がそう呼ばれる。

 

 

 トゥインクルシリーズでウマ娘がクラシック期に突入した年でどの路線に進むかを決めなければならない。

 どちらもG1にして格が高いことは勿論の事、レースを走るウマ娘にとってこの栄誉を手にする機会は一生に一度だけである。

 

 

 これからクラシック期を迎える僕にとって必要な選択なのは間違いないが、気になる事がある。

 どちらもグラスワンダーがかつて走ったことが無いレースだ。

 これもグラスワンダー復活の何かしらの意図があるのではないかと思考を巡らせていると、その答えをミスターXは口にする。

 

 

『君自身の……ブラックサンダーとして考えてほしい事だ』

 

「僕自身?」

 

 そうだ、とミスターXは続ける。

 

『ウマ娘ブラックサンダーとして、グラスワンダーの為ではなく、君自身が目指すのはどちらなのかと気になったのでね。

 勿論、三冠やティアラに拘らずプラン通りのレースに専念するのもありだがね……年明けには方針を決めたい……それまで考えていてくれないか』

 

 

 そう言って、僕とミスターXのトレーナールームにおける会話は終わった。

 今までグラスワンダーの事ばかり考えてたから、自分がどうしたいとかまるで考えてなかったな。

 唐突にこのような提案をしてくるとは思いもしなかったが、裏を返せば、僕が出たいと思えるレースにはなるべく考慮して出走させてくれるという意味ではないだろうか。

 

 そこに、一体どんな狙いがあるのかは、僕の頭の回転力で測る事は難しい。

 

 

 

 しかし、路線かぁ。

 三冠もティアラ……どちらも、興味がないという訳ではない。

 どのスポーツの世界でも、野球とかの三冠王という肩書というのは一生レース界に残る栄光であり、その栄冠を勝ち取ることは全てのウマ娘の夢だ。

 

 陸上競技をやってた時、100m、200m、400mの日本一になれば陸上界の三冠王になれると思いあがっていた時期があった。まぁ、なれなかったけどな。

 

 

 せめて僕が二人に分裂出来たら、それぞれの個体で三冠、ティアラ路線を目指せるのにな。

 アグネスタキオンに頼んで「ひみつどうぐ、半分こ刀」を作ってもらうように頼んで見ようかな。 

 

 この件に関しては、一人で考えない方が良さそうだ。

 グラスとか、他のウマ娘に相談してみるのもいいかもしれない。

 

 

 もう少しすれば今から昼休みだったな、と思いつつ僕はトレセン学園の廊下を歩く。

 アグネスタキオンに昼のご飯を届けたら僕もグラスと合流することにしよう、そんな事を考えていた時だ。

 スカートのポケットの中、僕の携帯端末が震えるのが分かった。

 

 

 スマホの画面を見て、メールを受信した通知があった。

 そういえば僕はこのウマ娘の身体になってからレースやトレーニングで忙しかったからメールの返信とかしていなかったことを思い出す。

 一応、山々田山能がウマ娘になったことはトレセン学園では公になっていない事であり、彼は海外のトレーナー機関でスキルアップの為の研修に行っているため学園には長期不在、ということになっている。

 

 

 どちらかと言うと、友達があまり多くない僕にメールを送る者など限られるだろう。

 この身体になってからというものの、送られてくるメールの相手はグラスワンダーかアグネスタキオン、そしてミスターXくらいだ。

 もしくは不意に開いてしまったいかがわしいサイトだろうか。

 今日はさて、どっちだろうか……そして何用だろうか。

 そんな事を考えながら、僕はスマホ画面を操作する。

 

 

「ん?」

 

 

 画面を操作し、メールボックスを見て指を、止めた。

 そこには数日前から送られてきていたであろうメールが溜まりに溜まっていたのだが、なんとそれは全てが同じ送信相手で。

 

 

「未読メール、59件……!?しかもこれは全部、桐生院からじゃないか」

 

 

 そこに表示されていたのは、僕がこのトレセン学園に同時期で配属になったトレーナーの少女、桐生院葵からのメールであった。

 

 

 

 

 

 




山々田山能の秘密
①ハッピーミークにおっさん呼ばわりされて、その日立ち直れなかった事がある。



山々田トレーナーは桐生院ちゃんやたづなさんとはそれなりに交流はあった方です。(サポカイベント終了済み。


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9.僕の同僚

誤字報告してくださった方、ありがとうございます。
スタミナ9因子求めて周回する人生に疲れを感じているモンゴルウマ娘です。


「桐生院トレーナーさんからメールが……?それは……あらあらまぁ」

 

 

「あぁ、59件……あ、今も追加で受信して件数が60件目になったよ」

 

 昼休み、同期である桐生院葵から大量のメールが送られてきている事に僕は事の重大さを考慮せずにはいられない。

 しかし、一大事だと思いつつもこうしてグラスワンダーとトレセン学園に設置されているカフェテリアでお昼ご飯を食べているのはどういう事だろうか。

 

 

「トレーナーさんは、学園側には海外研修で長期不在という事になっているんですよね?」

 

「そうだ。ウマ娘になったという事は公にさせるわけにはいかないからな。秋川理事長が色々と手配してくれている」

 

 研修先はオランダで期間は3年。

 僕は他の同期であるトレーナーや職員から「え、あの兄ちゃん研修行ってたの?てっきり蒸発したのかと」と、思われていたらしい。

 家族の方にもこの研修により暫く帰れない事は伝えて在り、僕もメールで「しばらくは帰れないし、忙しいからメールも出来ないかも」と釘を刺してある。

 

 

 ウマ娘の声で家族相手に電話に出ようもんなら、家族からあらぬ疑いを掛けられそうだ。

 そんなことはさておき、問題は僕にメールを送り込んできた桐生院葵である。

 

 

「どうして桐生院が僕にメールを送ってきているかだ……しかも、こんな大量に」

 

「メールの内容はなんなんですか?」

 

「内容は全て一緒だ……〝研修中、忙しい所申し訳ありません……相談したいことがあるのですがお時間大丈夫でしょうか〟だってさ」

 

 僕が偽の研修で姿を暗ましているとはいえ、こんな時でもこちらの都合をちゃんと聞いてくるあたり真面目な桐生院らしい。

 気になるところと言えば、全てのメールの文面がまったく同じなのはどうも妙だ。

 

 

「担当ウマ娘の……ハッピーミークさんの件でしょうか……」

 

 ふむ、と唸るグラスワンダーの言葉に僕は考え込む。

 

 

 確かに、同時期にトゥインクルシリーズで鎬を削っていた時は担当ウマ娘のハッピーミークの成績が不振だったことに責任を感じ、ミークとの関係も若干ぎくしゃくしたこともあった。

 

 

 だが、ミークの今年の成績は大きなレースで勝利を逃してはいるものの伸び悩んでいる、という印象は薄い。

 以前、このカフェテリアでもミークと桐生院がパフェを頼みながら笑顔で会話している所を目にしたことがある。

 ハッピーミークとの関係も悪いという訳ではなさそうだ。

 

「というよりもトレーナーさん?女性の連絡をここまで放っておくのは流石にどうかと思いますよ?」

 

「うっ……!だって仕方ないだろう、ウマ娘になってから授業とか練習、週末は試合だってあるし……社会人だった時以上に時間の流れが速いんだ……気付いたこうなってた!時間泥棒のせいだ!」

 

「助けを求めているかもしれませんのに……桐生院トレーナーにもし何かあったらどうするのですか?」

 

「縁起でもないこと言うなよ。

 確かに桐生院は一人で思い悩んだりしてプチ失踪したりするほどに責任感強いやつだけど。

 以前と違って、僕を頼ってメールを送ってきているんだ……きっと大丈夫さ」

 

「ならば、尚更ですよ。ここで昼休みを過ごすより、トレーナーさんは早く桐生院さんの所へ向かうべきなのでは?」

 

「だ、だけど僕は……ほら、こんな身体だぞ?ウマ娘だぞ?

 蘭姉ちゃんが映画で傷ついている時に傍に居ることが出来ない江戸川コナン並に今の僕は無力な存在だ」

 

 果たして、今の僕に一体何が出来るというのだろう。

 時計型の麻酔銃も無い、変声ネクタイ装置も無いコナン君なんて、ただ事件を悪化させて毛利小五郎に推理丸投げの迷宮入り確実じゃないか。

 こんな僕に何が出来るのか、そんな僕にグラスワンダーは言うのだ。

 

 

「でも、放っておけませんよね?

 トレーナーさんなら……山々田トレーナーであれば、相手が人でもウマ娘でも手を伸ばし、助けを求めているならば。

 それに、姿形が変わっていても、想いというのは伝わります。

 私が、トレーナーさんを信頼してここまで走ってきたように。

 私が、初めてこの学園でブラックサンダーというウマ娘を見て、すぐにトレーナーさんだって気づけたように」

 

 

 同期ならば、駆けつけてあげなくては。

 そう促すように、碧色の瞳が僕の姿を映す。

 だけど、桐生院は掛けがえのない同期だ。

 口では迷っていても、助けたいと思っている僕自身の本心は覆せない。

 

 

「……そんな風に僕をやる気にさせても、何も出せないぞグラス」

 

「ええ、ですが後でどういった内容でトレーナーさんに相談していたのか、私にも詳しく教えてくださいね♪」

 

「え、あ、ハイ……」

 

 

 どういう訳か、最後の方は笑顔でありながらも確かに、殺気のような冷ややかな圧を感じた僕であったが桐生院に会うべく、その場を後にするのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼休みは残り半分といった時間になっていた。

 カフェを後にした僕は継続してこちらにメールを送り続けている桐生院を探すべくトレセン学園を歩き回っている。

 レース場もある学園だ。当然、学園の敷地は広大である。

 

 

 闇雲に探しても時間の無駄なのかもしれないが、こちらがメールで場所を聞くわけにもいかない。

 だが、メールだけのやり取りで今のヤバそうな状況を打開できるかと言えば僕としても自信はない……なので、結局この姿で探すしかないらしい。

 ウマ娘の肉体だからか、学園がいかに広くても身体能力が上がっている今ならば敷地全体を踏破することなど容易い。

 

 

 走って、走って、走り続けて早数十分。

 額に汗が流れ始めた頃、僕は学園の敷地内、レース場を見渡せる芝の斜面で座り込んでいるロングカフスの白ワイシャツ・フォーマルな黒の袖なしシングルボタンベスト、黒の七分丈のジョガーパンツ、黒いショート丈のエンジニアブーツを身に付けた、後部をポニーテールに結ったハーフアップの少女を見つけた。

 

 

「いた」

 

 

 視線の先で座り込んだ少女の名を桐生院葵。

 

 『名門・桐生院家の一人娘』、『トレーナー白書』、『一族秘伝・鋼の意思』、『一人シーソー』、『カラオケレパートリーが童謡』、『縛りなしうまぴょい』、『ミークの水族館』、『担当をダシに温泉旅行』、『卑しか女杯の常連』。

 

 そんな不名誉極まりない異名の数々を我が物とした桐生院葵は僕がグラスワンダーとトゥインクルシリーズを駆け抜けた時期、一緒に認め合い、競い合った同期であり、ライバルである。

 

 

「はぁ……」

 

 

 良きライバルである彼女の口からはため息が一つ流れていた。

 その表情は酷く疲れているようにも見える。あまり眠れていないのか、目元にクマが見えていた。

 こういう時、何かを抱え込んでいるのが彼女の悪い癖でもある。まぁ、今回はその相談を僕にして、僕自身が彼女の相談を蔑ろにしていたんだけど。

 

 

「おーい、桐生――」

 

 

 意を決して、というか、自分がウマ娘であることを思いっきり忘れて桐生院に声を掛けようとした時だった。

 

 

 

 

 彼女の、桐生院の手に握られていたものを見て、僕は思わず言葉を発するのをやめ、身体の動きを硬直させた。

 桐生院を背後から覗き込むように見ると、彼女の手には光を浴びて輝く一つの鋭利なものがあった。ナイフである。

 

 

 なんで、なんでこんなところでナイフを取り出した……?

 

 

 こんな何もない場所で、あまりにも不釣り合いな場所で取り出された果物ナイフ。

 手にしたナイフを桐生院は虚ろな表情のまま、自らの首元へソレを誘導していく。

 

 

 

―――――何かあったらどうするんですか?

 

 

「……ッッ!!」

 

 

 グラスワンダーの言葉が脳裏を過って、僕は慌てて桐生院の元へ走り出した。

 

 

 桐生院が自殺?をしようとしている。

 何故?やはり心を病んでしまった?

 病んでしまうほどの悩みがあった?

 それとも、僕が60回もメールを無視してしまったからか!?

 

 マジで早まるな桐生院、お前がここで自ら命を絶つなんてしてみろ。

 お前が死んだ原因を僕に見出したミークの奴がロケットランチャーで僕を殲滅しにオランダまで飛んでいくぞ。

 そんな結末は意地でも避けたい、僕はその一心でウマ娘が持てる全てのダッシュ力を用いて彼女に近づくと、即座にナイフを持つ腕を掴んだ。

 

 

「早まるな!葵!」

 

「ふぇっ!?」

 

 と、対する彼女からは素っ頓狂な声。

 何故そんな声を出しているのか最初は分からなかったが、彼女の顔を見て、ん?と顔をしかめる。

 

「な、なんですか?」

 

 進行方向の横顔だけでは分からなかった、正面を見て初めて露わになった桐生院の頬には白い謎の泡状の物体が付着していた。

 そしてナイフを持たないもう片方の手には紙皿に乗せられた一切れの、ファミマのスイーツコーナーで購入した298円くらいのショートケーキとフォークがある。

 

 

 頬の生クリーム、右手に切り分けるためのナイフと食べる為のフォーク。

 ここから導き出される答えは一つ、彼女はただ単にショートケーキを食べていただけ――――、 

 

 

「――ってなんでだよ!?」

 

 金剛亜門、神速のインパルスの如き脊髄反射。

 僕は当然、様式美のようにすっころんで芝の斜面を転がっていった。

 そしてすぐさま桐生院の場所までダッシュで戻り、

 

「なんでだよォォ!!!」

 

「だからなんなんですかぁ!」

 

「このっ!人が心配して来てみれば…っ!お前というヤツは……っ!この、こんなの、こんなケーキなんぞ、……あむっ!むぅッ!うまっ!」

 

「あぁぁっ!ウマ娘に私のスイーツが食べられてるぅ!?」

 

「僕のだゾッッ!?」

 

「私のですッ!?」

 

 

 金木君大好きな変人、月山君並に勝手な自己主張で僕は桐生院の昼のスイーツを食べつくした。

 むしゃくしゃしてやった。後悔はしていない。

 いや、まぁちゃんと後で買って返したよ。スイーツの恨みは色々と怖いからな。 

 

 

 

 

 てっきり、自殺しそうな感じだったから。

 そういうニュアンスで横やり一閃した結果、()()()()()()()()()()()()()()()()()()という桐生院葵と僕は暫く会話をした。

 

 

 ちゃんと、僕ことブラックサンダーが山々田山能トレーナーのさぞ親し気な関係者であるという事を伝えてだ。

 

 

「山々田トレーナーが僕に言ってたよ。同期のトレーナーさんから相談事のメールを貰ったから、ちょっと様子を見てきてもらえないかって。

 そしたら、桐生院トレーナーが嬉々とした表情で自らの首を掻っ捌く北条沙都子みたいなことしてたらさ……止めに入っちゃった」

 

「わ、私そんな事しませんよ!じ、自殺だなんて……!ミークを置いてなんていけませんから!」

 

 慌てて僕の言葉を否定する桐生院。

 ミークの事、自分のウマ娘の事を第一に考えている性格は配属された頃からちっとも変っていないのだと改めて実感する。

 トレーナーとして格式の高い名家の一人娘で、本人にもその素養があり、ウマ娘の事をちゃんと思ってやれる……()()()()()()()()()()()()()()()()()()、桐生院は僕にとって尊敬出来て、互いに高め合えることが出来るライバルのような存在だ。

 

 

 お前から貰った「トレーナー白書」はちゃんと保管してるよ。今でもちゃんと読み返してるからな?ほんとだゾ?

 

 

「ブラックサンダーさん、あの……山々田トレーナーはやっぱり、研修で忙しいから……」

 

「そうだね。なんでもウマ娘の人体構造に関する試験とか……なんかスンゴイ忙しくなっちゃうから、申し訳ないって」

 

「人体構造……?ウマ娘の?」

 

 

 話の流れで、彼女が怪訝そうな表情をしていたのでふと考え込む。

 そういえば、研修は期間だけ周知されていて内容だけは教えられていないんだっけか。

 出回っている以上の情報が出てくれば、気になってくるのが人間の性である。

 

 

「え、えっと……なんだっけかな、医療…?とか、故障したウマ娘を再復帰させるトレーニング理論を学ぶ、みたいな」

 

 僕がそれっぽい内容を口にすると、彼女は何かを察したように腕を組んだ。

 

「成程、ウマ娘リハビリテーションの研修でしたか……グラスワンダーちゃん…あの娘の怪我を治すために海外へ……あの人らしいです」

 

「当然だよ。山トレーナーにとって、グラスは最初の担当になったウマ娘だからさ」

 

「山、トレーナー……?」

 

「あ、気にしないで。名前で遊ばれることが多いから、逆に僕がトレーナーの名前で遊んでるんだ」

 

 

 時折、口調が変になっていないか自ら確認する。

 相手が自分を良く知っている相手だからか、会話に妙な緊張感が生まれてしまうな。

 

 

 しかし、新一兄ちゃんが蘭姉ちゃんに言ってたよ!っていうコナン君のあの演技。

 昔は何も思うことなく見てたけど実際に演じてみて、その難しさを今しがた体感した所である。

 

 

 そう言えば、コナン君のお母さんって確か女優なんだっけ。そりゃ演技も上手くなるわ。

 そして親父から銃の打ち方をハワイで教わり、ガキの頃にヘリの操縦を教わったり……コナン君、マジパネェな。

 

 

 話を元に戻す事にしよう。

 

 

「それで、桐生院トレーナーは山のお兄ちゃんに何か相談したいことがあったんじゃないか」

 

「山の……お兄ちゃん……いやいや、呼び方は別に良いとして……ふふ、大丈夫ですよ。ブラックサンダーさんが気にすることじゃありませんから」

 

「本当かな、随分身体に無理してるみたいだけど……その様子だと、ご飯もあまり食べて無さそうだし、睡眠も出来てないんじゃないかな」

 

「え……」

 

 という、桐生院の驚いた顔を見る。

 こう見えても、僕はコナン君に劣るけれど、他人を観察する目は養っている方だ。

 トゥインクルシリーズを勝ち抜くためにはウマ娘の体調管理をするのはウマ娘本人だけじゃなくて、トレーナー自身も彼女たちの些細な変化に気付かなくてはならない。

 

 例えば、歩いている時の身体の傾きや顔の艶など、筋肉の張り具合からウマ娘のコンディションを把握し、練習メニューを調整するなど。

 今の僕には相手の顔を見るだけで大まかな体調の把握が可能だ。実際に肉体に触れれば尚詳細を把握することが出来る。

 

 ウマ娘の体重なども、少し抱えるだけでコンマ単位まで正確に測れるのだ。

 グラスワンダーと共に駆け抜けたトゥインクルシリーズの経験のお陰である。

 

「〝トレーナーならば、一目見てウマ娘の調子を見抜けるようになれ〟……そう言ってなかったか、桐生院」

 

「!!……その言葉は」

 

「――って、山々田トレーナーが言ってたんだ!なんか良くわかんないけど、桐生院トレーナーから貰った〝トレーナー白書〟に書かれてたんだってさ!」

 

 

 危ない危ない。

 以前トゥインクルシリーズで桐生院と会話してた時に彼女から教えられた白書の内容をうっかりブラックサンダーの身で口にしてしまった。

 しかし、そこはコナン君並の演技力を養いつつある僕である。咄嗟の機転を利かせて、身バレ回避は成し遂げれたに違いない。

 

「確かに……トレーナー白書、225ページ『ウマ娘の為にトレーナーが養うべき慧眼』の項目に、その言葉は書かれていますね……山々田トレーナー、流石です」

 

 

 良く覚えてるなコイツも。

 というか桐生院、お前白書の内容全部覚えてるだろ。

 

「まぁほら、誰かに話すだけでも気が楽になるっていうでしょ。後々、僕を経由して山々田トレーナーに内容を伝えておくよ。

 さぁ、話してごらん、気を楽にするといいよ、具体的には一人で公園のシーソーでバランスとりながら遊んでいた時のような感覚で」

 

「ちょっと!?なんでそれ知ってるんですか!?」

 

「大丈夫。基本的にプライバシーは守るよ。僕は口は堅いウマ娘だからね」

 

「既に私のプライバシーが同期によって守られていない気がするんですけど!」

 

「地蔵に語り掛けるように、さぁ……〝バ耳東風〟と言うじゃないか」

 

「それ聞いてませんよね!?」

 

 三年間で鍛え上げられた鋭いツッコミはもはやタマモクロスと同等だろう。

 桐生院葵というトレーナーはもはや新人トレーナーだったころとは違い、別格の成長を遂げているという事だ。

 

 

 僕は彼女に向けて手を差し伸べる。

 まだ昼休み中だし、歩きながらでも悩みというのは聞ける。

 むしろ、僕は誰かの悩みを聞くのは()()()()()()やった方が良いと思うのだ。

 

 

「あ……」

 

 

 陶磁器のように白い肌の手を掴む。

 久しぶりに取った桐生院の手は相変わらず小さかった。力を入れたら、折れてしまいそうだ。

 割れ物を扱うかのように、優しく引き上げる。

 ハッピーミークよりも数センチくらいの差で背が低い彼女の身体は全体的に細めである。

 三年という年月が流れてのあまり変化が無いのは残酷な事だが、未来というのは可能性が無限大だ。

 

 

 たづなさんもよく言っていたじゃないか。「次のレースに期待しましょう」って。

 

 

 ウマ娘の力で引き揚げられた彼女は少し、不思議そうな顔をしていた。

 

「どうかした?」

 

 力を入れ過ぎて、手を傷めてしまったかと不安を感じた僕だったが、彼女は「いいえ」、と否定して。

 

「以前、新人トレーナー研修の時に山登りをしたことを思い出して。

 私、道中の斜面で躓いたことがあって……大した事は無かったんですけど、その時通りかかった山々田トレーナーが気遣って、手を差し出してくれて……ブラックサンダーさんの手が、あの時の手と同じ感じがして……」

 

 

 懐かしむような、久々の想い出に胸を馳せるような、そんな感情が見て取れる表情だった。

 

 

 そういえば……そんなこともあった気がするな、と僕自身も思い出しながら。

 

 

「不思議ですね、ブラックサンダーさんはブラックサンダーさんなのに……どこか山々田トレーナーに似ているような気がします」

 

「はは、面白い事言うね桐生院トレーナー。僕達、今日が初対面じゃない?」

 

「そうですね……ええ、本当に」

 

 

 小さかったけど、力を取り戻した花のように笑った桐生院を見て、僕は少し安心した。

 ウマ娘である僕に悩みを話してくれるようになったみたいだし、万事解決……いや、まだ解決すらしていないんだけど。

 

「桐生院トレーナー、山田トレーナーが60件以上もメール送るのは止めた方がイイよ、重バ場じゃないかってトレーナー心配してたらしいから」

 

「あ、いけない!そういえばスマホのメールを()()()()指定時間で送信するように設定してたの忘れてました!」

 

「どうりで全部同じ内容だった訳だ」

 

 

 道中、青空の下で桐生院葵が話していた相談というのは、彼女自身の話ではなく、桐生院の知り合いの女性トレーナーの話だった。

 

 

 

 

 どうやら、その知り合いの女性トレーナーからトレーナーを辞職したいと……そういう相談をされたらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




葵ちゃん、SSRカードで出ませんかね。
トレーナーという指導者側のお話をテーマに執筆してたら一話じゃ終わらなかったのです。次で終わるので安心を。


「トレセン学園新人トレーナー研修・山登り大会」
・担当ウマ娘がついていない、配属したての新人トレーナーのみが参加するトレセン学園毎年恒例となっている大会。大会と言っても、実際は競い合ったりするのではなく、ウマ娘を支えるトレーナー同士のレクリエーション目的である。
 
 実施場所は東京都八王子市にある高尾山。標高599m。
 ケーブルカーやリフトで山頂まで45分。
 天気が良ければ、山頂で富士山の姿がはっきりと見えるので歩いてもコースで3,4時間程、日帰り可能なので初心者でも安心して楽しめる人気な登山スポット。誰でも簡単だが、運動嫌いなピザデブトレーナーには辛い行事。
 倒木を軽々と飛び越えるくらい身体能力が高い葵ちゃんにはむしろ物足りないレベルの登山。足を取られて転んだのはいったい何故……尚、その時に山々田トレーナーと初めて顔合わせした模様。


 つまり、グラスワンダーよりも最初に山々田トレーナーに出逢っている女。
 



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10.ベテラントレーナーと新人トレーナーにありがちな事

難産だったんです……結局文字数多くなったので分けました。
10話記念ですね。


 時刻は既に午後の13時。

 お昼休みを終えてなお、ハルウララが練習開始直後に蝶々を追いかける時間帯。

 彼女のトレーナーが午後いっぱいまでハルウララチェイスを始める時間帯。

 

 

 僕と桐生院はひっそりとした忍び足でトレセン学園内の廊下を進んでいく。

 ヤッターマンのドロンジョ達が腰を低くしてつま先を立てて恐る恐る進むような、そんな感じだ。

 

 

「それで桐生院トレーナー、後輩の子がトレーナーを辞職しそうになっている原因がこの先にあるのは間違いないのかな?」

 

 先頭を進む僕が振り返れば、同じく腰を低くしている桐生院が小さく頷く。

 

「はい。どうにも、梨子ちゃん……えっと、去年知り合った私の後輩なんですけど……。

 その、彼女……今年に入ってからデビューさせたウマ娘の成績が伸びないって、悩んでたんです。

 人一倍感受性が強くて、神経質で。

 その性格もあって、成績が不振なのは自分のせいだって考えるようになっちゃって……」

 

 

 なんか、どっかで聞いたことがある話だ。

 正確には、ハッピーなんとかさんのレース成績が振るわない事に責任を感じてプチ失踪した一人シーソー遊びが得意な「き」から始まる名門トレーナーの一人娘みたいな。

 

 

「なるほど、大体わかった」

 

「それ大体分かってない人が言うセリフですよね」

 

 ちゃんと聞いてくださいよ、まったく。

 と、頬を膨らませた桐生院は話を続ける。

 

「以前、私も同じような境遇だったので何か力になれる事が無いかなって……ご飯に誘ったり、一緒に公園でシーソーで遊んだり、カラオケ行ったり、ミークと彼女の担当ウマ娘と合同で練習したりして、様子を見ていたんですけど……」

 

「うん?」

 

 え?シーソーやったの?カラオケ行ったの?え、マジ?

 この変人奇人と呼ばれてる僕でさえ、お前が一人でシーソーを遊んでた時は「え?」って思ったし、カラオケで童謡のフルコースを披露されたときは頼んでたオレンジジュース噴出したんだが。

 

「なかなか元気にならなくて……」

 

 まぁ、そりゃあそうだよ。

 

 と、とても口に出して言えるようなことではなかった。

 桐生院にとってはそれが最善だと考えていたのだから。

 言わない優しさ……社会に出たら度々目にするかもしれないから覚えておくように。

 

 

 そして話には続きがあった。

 

「辞職を希望する理由……それがレースの成績不振だけじゃなくて、彼女が所属しているチームに原因があるみたいで」

 

「ほう」

 

 

 窓枠よりも頭部を低くして歩く僕たちはさぞかし不審者に見えるだろう。

 たづなさんが目の前を通らないことをただただ祈るばかりだ。

 

 しかし、自らの行いに責任を感じてしまい、メンタルがダウンすることなんていくらでもあるが、チーム自体に原因があるとなると、結構深刻な問題である。

 個人の責任ではなく、職場の環境が一枚かんでいる可能性があるからだ。

 

「私も一度行ったことがあるんです……それはもう、凄くて……今の時間ならチームのミーティングをやっている筈ですから、その時に見れると思いますよ」

 

「桐生院?見れるって何を―――」

 

『駄目だ駄目だ!やり直せ!』

 

 

 問おうとした次の瞬間、扉越しにでも分かるくらいの怒号が僕の耳に飛び込んできた。

 

 

 

 

 

 ふと、扉の窓から室内を覗かせる。

 そこには、トレーナールームというにはあまりにも広い空間があった。

 トレセン学園のトレーナールームというのは学園側から割り当てられている部屋を使っているわけだが、チームに所属するウマ娘の人数によって広い部屋を与えられる事が多い。

 

 具体的な広さで例えるなら、学校でよく見かける保健室や進路相談室のような若干狭い(なんだったらミスターXの巨体のせいで最近は更に狭い)部屋だが、このトレーナールームは職員室並の広さがある。

 

 要するに、部屋のデカさがチームの規模のデカさに繋がっているらしい。

 僕達のチームも明らかにスペースを取る巨体のトレーナーが居るから、今度学園側に新しいトレーナールームを手配して貰いたいものだ。

 

 

 部屋内部はトレーナー用のデスクが四つ。

 来客用のスペースが別にあり、ウマ娘達がミーティングを開けるソファやテーブルが配置されていて過ごすには持ってこいの環境である。

 

 さて、先ほどの怒号の正体。

 壁を背に椅子に踏ん反り返った白髪の老人、彼こそが先ほどの怒号の正体である。

 その真横に俯きながら立たされている黒髪ロングの少女がいるが、彼女が桐生院の後輩トレーナーである梨子ちゃんなのだろう。

 

 

「あれは……松原丈トレーナー」

 

「ブラックサンダーさん、松原トレーナーのこと知ってるんですか?」

 

「知ってるも何も、有名な人じゃないか。最近編入することになった僕でも聞いたことがあるよ」

 

 

 正確には、まだトレーナーとして配属になった頃に僕のチームの先輩トレーナーから「気を付けた方がイイ」と言われたトレーナーの名前だ。

 

 

 松原 丈(まつばら じょう)。もうすぐ還暦を迎えるトレセン学園のベテラントレーナーである。

 その実績は確かなもので、過去に何人ものG1ウマ娘を育成したこともあるほどらしい。

 だが、彼の指導方法はとても厳しく、ウマ娘だけでなくチーム内のトレーナーに対しても厳しい指導をすることで有名だ。

 

 

 彼の指導というものがどんなものか、今から行われる彼らのやり取りを見ても遅くは無いだろう。

 

 

「吉田ぁ、オイ……このトレーニングプランよ、詰めが甘ぇよ。

 この練習、各セット毎に挟んでる休憩時間とかさぁ、短すぎんだろがどう見てもよ」

 

「あ、す、すいませんチーフ……練習計画を立てる際、この休憩時間ならあの娘も問題ないと思ってたんですけど……えっと」

 

「それさぁ、吉田ァ。お前が決めたレスト時間だろ?あん?

 正しい根拠に基づいて設定したさ、適切なモノじゃねェだろうが。

 あ?お前がよ、勝手によ、決めたメニューだよな?」

 

「は、はい……す、すいません……」

 

「いいんですか吉田さん?この練習メニューであなたの大切なウマ娘が、怪我したらどうするんですか?

 怪我させて、もう二度とそれが原因でレースに走れなくなったりしたら、責任が取れるんですか?

 もうデビューさせて一年が終わりますよ?あなたは一体何をやっていたんですか?」

 

「はい……」

 

「もうすぐ一年経つんですよ?

 時間はたーっぷりありましたよね?

 考える時間は私もたくさん、与えたつもりですよ?

 おかしいね、なんも成長が感じられないですよ?」

 

「うっ、うぅ……」

 

「なんでメニューを作る際、私に相談しなかったんですか?

 言いましたよね?確かに。〝分からない事があったら、ちゃんと聞きなさい〟って

 でもあなた、それをしなかったじゃん。

 そりゃあ怒られて当然でしょ?

 もっと具体的に詰めろって言ってんだよ!

 だから勝てないんですよ、分かる?」

 

 

「で、でも……この前相談しに行ったら、チーフ私の事突っ返したじゃないですか……」

 

「あ?言ってねぇよ。言う訳ねぇだろ?」

 

「で、でも本当に―――」

 

「なんで言い訳すんだよオイ。

 アンタさ、すぐ言い訳するよね、前から前から。

 ね?社会人にもなってさ、噓つくなんてさ、見っとも無いと思わないの?」

 

「あ、ぁぅ……」

 

「泣いても仕方ないでしょ、お前が招いたことなんだからさ。

 なに?泣けば終わると思ってるの?んな訳ねェだろ。

 あなた、社会人だよ?もう子供じゃないの。

 舐めてんじゃねぇぞ。

 ウマ娘のトレーナーはさ、子供のお遊び感覚でやられたら困るんだよ。

 お前さ吉田、今年で幾つになるんだよ」

 

「うっ、うぅ……に、21、で、す……」

 

「ああそう、酒飲める年だったんだお前。

 いいよなぁ、お前。

 仕事中途半端で、大した実績も残してないのにさ、毎週土日で酒かっくらってんだろどうせ。

 さぞかし美味いだろうな、楽して稼いだ金で飲む酒はよぉ。

 

 俺がお前くらい若い時はよ、毎週土日も先輩の雑用を手伝わされてよ。

 したくもねぇ仕事やらされて、ウマ娘のマッサージとかやらされてよ。

 夜遅くまで、それでこそ土日なんて遊ぶ時間もなかったし、仕事の不手際があったりでもしたら灰皿でぶん殴られたモンだ。

 ……ったく、近頃の若い奴らはよ、ちょっとした事で根を上げやがる。

 ―――俺が若い頃はよ」

 

 

 割愛させていただこう。

 新社会人と堅物上司による一方的な面倒くさいやり取りを描写し続けていてもリアル社会人達のトラウマを多分抉るだけだと思うから。

 

 しかし、どうして年寄りの上司は定型句、「俺が若いころは~」で始まり、終わったと思ったらまた同じ定型句で話を再開するのだろう。謎だ。ラプラスの箱並に謎だ。

 

 それから松原トレーナーの過去の栄光を語られては罵倒に近い言葉をぶつけられる、そんな負のループを繰り返す事三十分。

 漸く話の終わりを告げたのは松原トレーナーの方からで、彼は話途中に何度もボールペンで叩いていた一枚の用紙を躊躇いもなくその場で破り捨てた。

 

 

「もう一度作り直せよ、練習計画表。

 出来上がるまで帰れると思うなよ、オイ。

 ウマ娘にはちゃんとメニューやらせとけよ、さぼらせんな」

 

 

 紙片が舞い散ろうとも、床に落ちても、彼女は拾い上げようともしなかった。

 目を見開いて、涙を流すだけだった。

 

「チッ……タバコ行ってくるわ」

 

 舌打ち交じりに立ち上がると、松原トレーナーは立ち尽くす少女を気にする事もなく、目もくれず扉に向かって歩き出した。

 よりにもよって、僕達が居る方向の扉だ。まずいと思ったが、流石にこの距離で咄嗟に隠れる事も出来ず。

 

 

「あん?」

 

「……どうも」

 

 扉が開け放たれて、しゃがみこんでいた僕達は松原トレーナーとバチクソ目を合わせる事になってしまった。

 そして、何故か隣の桐生院だけが気分悪そうに顔を青くして、視線をわざと逸らしていた。

 

「何見てやがる……見世物じゃねぇぞ。

 あ?隣のヤツ、女、見覚えがあるな……前にこのトレーナー室に乗り込んできた奴か?」

 

「い、いいえ……あの、その…」

 

「桐生院トレーナー、そんな事したの」

 

「だって……その、見てられなくて」

 

 

 どうやら、既に桐生院はこの惨状を目の当たりにして我慢できずに現場へ突入してしまったらしい。

 以前、根性論を押し付ける脳筋トレーナーに文句を言いに行っていた事があるから、もしやとは思ったが。

 

 

 ウマ娘の為に自ら正義を成そうとする桐生院らしいが、どうやらその時、彼女の正義は通用しなかったらしい。

 

「なんだぁ?テメェ…1時間正座させられて半泣きにされたってのに、懲りずにまた来たってか」

 

 ああ、正座させられたのか。

 泣いちゃったんだ桐生院。

 しかも一時間。

 ただの一時間ではないだろう、この老人の事だ。

 恐らく、桐生院をもってしても覆せない圧力に抑え込まれ、その一時間はこの男の「最近の若いモンはよ」、「俺の時はよ」という老害特有のスペシャルメドレーを聞かされていたに違いない。

 

 

 地獄だな。

 六道輪廻を軽く二週するくらいには地獄だ。

 なるほど、桐生院が僕に助けを求めてきた理由が何となく分かった気がする。

 

 

 分かった気がするけど、こいつはヤバい。

 マジモンのヤバさに僕の脳内がサイレントヒルのような警笛を鳴らしている。

 このヤバさを例えるなら、たづなさんと朝帰りした時(サポートカード参照)に学園でばったりグラスワンダーと出くわした時と同じくらいのヤバさを感じている。

 

 

「オイ、そこのウマ娘……あぁ、ブラックサンダーボルトだっけか、ガンダムみてぇな名前しやがって。

 動くんじゃねぇぞ、テメェんとこのトレーナーに今から連絡つけてやる……ただで帰れると思うなよ、そこの隣の奴もだ」

 

「ひっ」

 

 

 桐生院が怯えたように身を竦める。

 どうやら、こっぴどくやられたことが軽くトラウマになっているらしい。

 僕は扉の奥で、既にデスクに向かって黙々と新しいメニュー表を作成するべくパソコンと向き合う桐生院の後輩を見た。

 

 

 手は動いていた。

 だけど、目は死んでいる。

 今すぐにでも助け船を出してあげたいが、今は態勢を立て直す事が先決である。

 

 

 そう思った僕は、

 

「あいや、御免仕る」

 

「えっ!?」

 

 桐生院の手をとって、その場から逃げ出した。

 戦略的撤退である。

 

「あっ!?オイ、逃げるなこの野郎ッ!!」

 

「逃げウマ娘に逃げるなって言うのは無理な相談だ」

 

 トレーナーの頃なら話を聞くような態度を取ったかもしれないが、今の僕はウマ娘である。

 他の部署のトレーナーの話を聞く必要もないし、何より僕はこの手の屁理屈ばかりを先行して宣うオッサンの長話は嫌いなのだ。

 故に逃げるに限る。

 

 

 ウマ娘と老人の脚だ。

 差はすぐに開いていく。

 向こうも流石に悟ったか、こちらが20m程離した時には追いかけてくるのを止めていた。

 

「ぶ、ブラックサンダーさん!?」

 

「桐生院トレーナー、ちょっと今はタイミングが悪い。一旦立て直そう」

 

「で、でも梨子ちゃんが!」

 

「時間は逸らして、あのオッサントレーナーが定時帰りした頃にもう一回行こう。

 幸い、僕は先日朝日杯のレース直後で一週間の休養をトレーナーから言い渡されてるからさ、一日くらいサボっても平気だよ。

 僕もこうやって首を突っ込んだんだ。ちゃんと最後まで付き合うから」

 

「う、うぅ……わ、分かりました…」

 

「よし、桐生院トレーナーも一度自分の持ち場に戻って、放課後もう一度落ち合おう。

 僕はそれまでに、出来る事をやっておくから」

 

 

 その後は桐生院と別れ、僕は一人である所へ向かう。

 次に会うのは練習も終わって、食事を済ませた後になるだろうな。

 

 

 

 

 不審者……桐生院 葵とブラックサンダーを取り逃がした松原は荒い息を一人整える。

 既に姿の見えなくなった二人だが、片方のウマ娘のトレーナーである男、学園所属のトレーナーであれば彼が待機しているであろうトレーナールームで内線を掛ける事は容易い。

 

「このままで済むと思うなよ、ふぅ、ふぅ……」

 

「お?ジジイ、何やってんだよ珍しく汗なんて流して……健康志向に目覚めたのか?」

 

「……ふん、メルティか。なんでもねぇ、てかお前どこ行ってやがった」

 

 その背後の廊下からのし、のしと重厚な足音共に現れた一人のウマ娘を見上げる。

 彼女は松原が今年発掘したウマ娘、メルティロイアル。その強靭な肉体から繰り出される末脚を彼は評価した。

 可能性を十分に秘めた逸材だというのが、長年のトレーナーとしての目で見ても丸わかりなのだが、如何せん態度が解せない。

 

「ジジイのミーティングってただ五月蠅くしてるだけだからなァ。

 耳が痛くならないように、時間ずらしてきてる」

 

「本人の前で言うか、馬鹿が……さっさとメニューこなしてこい、後で俺も練習場に行く」

 

「あいよ、ちゃんと息整えてから来いよなジジイ」

 

「こ、この……っ」

 

 

 メルティロイアルはケラケラと笑いつつ、こちらに目もくれずその場を去っていく。

 あまりの舐めた態度に松原は額に青筋を浮かべて、大きく深呼吸をしては息を吐き出す。

 

「……ったく、近頃の若ェヤツらはどうしてこう―――――」

 

 扉を閉めて、松原は歩き出す。

 向かう先は喫煙所だ。最近は室内での禁煙が義務付けられて、喫煙者は一か所に固められて吸わなければならない。

 

「チッ、あと二本かよ」

 

 手持ちの煙草の本数が残り二本しかない事に、松原はまた苛ついた。

 気分を落ち着かせる為に煙草を吸うのに、こういった些細な事で逆に苛ついてしまうのはもはや喫煙者としての業である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その頃のグラスワンダー。

 

 

「?グラス、どうして部屋で薙刀の手入れをしているデース?」

 

「あらエル、これはですね……来るべき時の為の、言うなれば戦《いくさ》の準備ですよ」

 

「なるほどデース……」

 

 

 ブラックサンダーに明日はあるのか!

 

 




・松原トレーナーの秘密
①毎夜お酒を飲み歩き、最後は必ず行きつけのおでん屋に行く。




ウマ娘の小説なのにレースを走らない……これは一体どういうことだってばよ。
続きは夜にあげます。


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11.大樹のウロにて

無事1万UA到達出来ました。また、誤字脱字報告、ありがとうございます。


 時刻は午後の7時。

 あの逃走劇から、おおよそ6時間くらい。

 桐生院が自分の持ち場に戻って、ハッピーミークのトレーニングを監督している間、何か出来る事が無いか探していたのだが役に立ちそうなものを見つける事は出来なかった。

 

 

 たまたま練習場に行けばゴリラウマ娘のメルティロイアルの練習に何やら指示をしていたトレーナーが松原であったことに初めて気付いた。

 

 

 夜ご飯を済ませ、課題を終了させた僕は約束していた時間になったのを見計って部屋を出る。

 一人部屋だから、こういった時に部屋の同僚の事を気にすることなく外出できるのは非常に良い事だ。

 

 

 既に殆ど暗くなっているトレセン学園だが、ウマ娘の視力なら問題ない。

 僕が殴られた時より外灯が機能しているし、道に迷うことなく目的地にたどり着く。

 向かった場所はトレセン学園の片隅にある巨大な樹の切り株が目印となっている名所、『大樹のウロ』だ。

 

 

 切り株の真ん中はぽっかりと空いていて、試合で負けたウマ娘や、何かしらの熱く滾る思いを穴に向かって叫ぶ為に利用されている。

 

 

 その大樹のウロ付近に設置されているベンチに腰かけている二人の少女を見つけた。

 桐生院葵と、その後輩である吉田梨子であった。

 吉田トレーナーは既に目を泣き腫らしていた。

 

「ごめんなさい、葵先輩……こんなことで迷惑かけて……私、やっぱりトレーナー向いていないんです…」

 

「迷惑じゃないですよ!こんな遅くまで、梨子ちゃん頑張ってたんじゃないですか。

 頑張ってることは、私だって知っています!あんな怒るだけのトレーナーの言葉、気にしない方がイイですよ!」

 

「葵先輩……」

 

 女同士の友情とは、かくも美しいものか。

 泣きじゃくる吉田トレーナーを抱きしめる桐生院という構図にそう感じられずにはいられない。

 アグネスデジタルだったら、尊さを感じて卒倒したかもしれない美しいシーンだ。

 

「桐生院トレーナー、ちょっと……」

 

「あ、ブラックサンダーさん」

 

「あ、あれ……なんでここにブラックサンダーさんが?」

 

 

 吉田トレーナーにも名前を知られている辺り、僕はちょっとした有名人なのかもしれない。そんな気分があったが、今は話を進める事が先決だ。

 

 

 

 

 

 

 

「そうか……松原トレーナーは一人定時帰りしてて、吉田トレーナーはそれまでずっと一人で仕事してたんだ」

 

「はい。しかもあの人、明日までに完成してなかったら2度と面倒見ないからな、って……」

 

 

 あの松原という男、これほどまでにテンプレと言わんばかりのヤバい上司ムーブをかましてきやがる。

 と、僕はまず涙目の少女、吉田トレーナーにもう一度事実を聞くべく声を掛けた。

 

 

「吉田トレーナー、桐生院トレーナーからも聞いたんだけどトレーナー辞めたいって本当?」

 

 

「……」

 

 彼女は小さく頷き、

 

「もう私、耐えられないんです……私の指導不足のせいであの娘がレースで勝てないのも。

 それであの娘が辛い想いをし続けているのを見るのも、嫌なんです……」

 

 

 俯きながら、

 

「練習計画もロクに立てられない、こんな駄目なトレーナーが居ちゃいけないんだ……私なんかがトレーナーなんて、目指さなければ良かったんだ!

 葵先輩、お願いです……私が居なくなった後で、私の担当ウマ娘を預けたいんです……あの娘の幸せの為に、お願いします……」

 

 

 たかだか練習メニューが本当にあの男にとって粗末な内容だったとしても、そこまで気にする必要はないかもしれない。

 だけど、心が追い詰められてしまった人間は、些細な事でも自らの落ち度だと思いこんでしまう。熱意のある人間や、神経質な人間ほど、特に。

 

 自分を信じられないほどに、彼女は追い詰められているのだろう。

 それほどまでに、あの男の指導が苛烈だったという訳だ。

 

「馬鹿な事言わないでください!そんなの、駄目に決まってるじゃないですか!」

 

 吉田の涙ながらの提案を桐生院は否定する。

 だが、彼女がそれ以上言葉を発することが出来なかった。

 ただただ、嗚咽混じりに涙を流すだけだ。

 

「ブラックサンダーさん、私もう一度松原トレーナーと話します。

彼女をここまで追い詰める必要はないじゃないですか……最悪、学園側に報告して然るべき処置を取る事も考えなくてはいけないかも……」

 

「ああ、でも……」

 

 確かに、桐生院が言う通りに学園側に報告するのも一つの手だ。

 松原トレーナーの指導における言動は明らかにパワハラに抵触する部分がある。

 午前の会話の部分だけでなく、普段からのやり取りも見ていけば、今日見た以上に過激な指導をしているかもしれない。

 

 

 トレセン学園にも、トレーナーの為のサポートエリアというのは存在する。

 ここで言うサポートエリアといのは、職場における悩み相談所みたいな所だ。

 過去にパワハラセクハラの案件で学園から追い出されたトレーナーもいたらしいので、桐生院の証言通りに松原トレーナー側に調査が入れば彼を追い出す事は出来るかも知れない。

 

 

 今辛い目に逢っている吉田トレーナーを少しでも苦しい状況から解放してやれるかもしれない。

 

 

 だけど、それは本当に正しい事なのだろうか。

 そう思っていた時だった。

 

『それは無駄な事だよ、桐生院トレーナー』

 

「なっ!?」

 

 僕らの後ろの木陰から、闇から這い出るように姿を現した巨体がある。

 ブラックサンダーのトレーナー、ミスターXだ。

 

「ミスターXトレーナー……無駄、とは一体どういうことですか」

 

 睨みつけるような視線を送る桐生院に仮面の下で何を考えているか分からないミスターXはこちらに歩み寄りながら続ける。

 

 

『キミが松原トレーナーを告発するように働きかければ、かなりの高確率で学園側が調査に入るだろう。

 松原トレーナーは確実に学園から指導が入り、場合によってはトレーナーバッジの返納もあり得るだろう……世間はパワハラセクハラに対して厳しい。

 そうなれば、吉田トレーナーは苦しみから解放されるだろう……他ならぬ、キミの手助けによってね』

 

「何が、言いたいんです……?」

 

『松原トレーナーには病気の妻がいる……聞いたことがあるかね?』

 

 え?僕達はミスターXの言葉に思わずそう呟いた。

 

『奥さんは重度の認知症を患っていてね……今は老人ホームに預けているそうだ。

 定時帰りしているのは、彼が奥さんの様子を甲斐甲斐しく見に行っているからだよ』

 

 その理由なら、毎度松原トレーナーが定時に帰るのは理解できる。

 ミスターXはそう続けて、

 

『しかし老人ホームも無料ではない、入所している限りは月で十万以上という金額がかかる。

 自分の生活費も考えれば年間の出費は相当なモノだろう……そんな生活を彼はもう10年以上続けている。

 貯金も殆ど無い筈だ。ベテラントレーナーであっても我々トレーナー業の給料というのはたかが知れている。

 もしキミが告発し、彼がトレーナーという職を失えば間違いなくホームに入所している松原トレーナーの奥さんは追い出されることになるのは目に見えている』

 

 

 キミは、と白い仮面の下にある瞳が桐生院を見据えた。

 

 

『かわいい後輩の為に彼らの今後の生活を破綻させるのかね?そうだとすれば、随分と身勝手な事だ』

 

「そんな……そんなこと、私は知らなくて……」

 

『ああ、知らなくて当然だとも。だってこれは嘘なのだから』

 

 嘘かい。

 

『だが〝そうなる可能性〟があるかもしれない。

 覚えていてほしい。告発は自らを守る事もあれば、相手を社会的に殺すという意味を含んでいる。

 もしかしたら、松原トレーナーは自暴自棄になり本当に自殺してしまうかもしれない。

 そうなったとき、キミは……いや、吉田トレーナーは罪の意識を感じずにはいられないはずだ』

 

 ミスターXの言う通りだ。

 告発によってもし本当に松原トレーナーが自殺をしてしまったら、吉田トレーナーは自らの告発した相手の不幸にも責任を感じてしまうに違いない。

 

「だけどミスターX、このまま何もせずに彼女がただ辞めるのを待つしか方法が無いっていうのか?」

 

『このままでは、そうだな。ただ彼女が辞めるだけだよ。 

 ただ本当に、吉田トレーナーがこのまま〝終わりたい〟、そう思っているのかによるが』

 

 キミは、とミスターXは吉田トレーナーに視線を向ける。

 

『全てを出し尽くしたつもりか?』

 

「え……」

 

『ウマ娘を導くトレーナーとして、彼女たちに勝利を齎す指導者として……やれることを全て、やってきたのか?』

 

 呆気にとられる吉田トレーナーにミスターXは松原トレーナーよりはマシではあるものの、棘のある言葉をぶつける。

 

『我々がウマ娘を勝利に導く為に必要なのは〝知識〟と〝経験〟だ。

 レース、トレーニング、ウマ娘の脚質と適正をいち早く見抜き、レースプランを立てる。

 実践を通し、ウマ娘に足りていない要素を分析し、適切なアドバイスをする。 

 だが、その知識と経験を身に付けるには膨大な時間が必要だ』

 

 それは自身の経験談なのだろうか。

 

『勢いだけでのし上がる者もいるだろう、だがそう言った一発屋気質の者からある時突然勝てなくなり、気付いた時には学園を去っていた。

 知識と経験を身に付ける事を怠ったから……我々は何年、何十年とそれらを身に付けるために日々を過ごしている。

 それこそ松原トレーナーのような高齢になるまで。

 それでもなお、足りないのだ……知識も、経験も。

 若いキミなら、今年から配属になったキミならば尚更、勉強しても足りないくらいだ』

 

 

 トゥインクルシリーズは待ってはくれない。

 

 トレーナーだった時代に感じていたことは、僕が過ごしていた幼少期より時間の流れが異常に速いという事だ。

 年間の計画、練習プラン、コンディショニング管理、事務仕事に追われているともう年末になっていたりする。

 僕自身もデスクワークやチームの運営に対して上手くなった、とは自信を持って言えない……3年が経った今でさえも。

 

 

 

 

『―――試合で負け続けた?上司の言葉が辛い?

 たかが数か月あまりのトレーナー歴のキミがそれで心が折れるというのは、余りにも甘すぎる』

 

 

「おい、ミスターX!彼女は!」

 

『甘さを捨てろ……信念があるなら立ち上がって見せろ。

 我々トレーナーの一生は、死ぬまで戦いだ』

 

 

 この男も、どちらかと言えばあの松原側の人間か!

 これ以上のミスターXの言葉は心を擦り減らしている吉田トレーナーに追い打ちを掛けるようなものだろう。

 なぜ、ここまで必要のない追い込みをかけるのか、僕には理解できなかった。

 

 ミスターXの言葉を止めようとした時、隣で俯いていた吉田トレーナーが口を開く。

 

 

「やった……やりました!

 やったんですよ!必死にッ!その結果がこれなんですよ!!」

 

 

 涙を溢れさせながら、内に秘めた感情を爆発させた。

 

 

「勉強して、他の娘のレースもたくさん見て、チーフにどんなにキツイ言葉で叱られても耐えてきたんです!

 あの娘を勝たせてあげられない……!あの娘がレースで負ける度に隠れて泣いていて、悔しいって叫んでる……!

 でも、もう私、分からない!あの娘に出来る事が!

 これ以上、何をどうしろって言うんです!何と戦えって言うんですか!

 私があの娘を勝たせてあげる事が出来ないのなら、諦めて誰かに託すしかないじゃないですか!!」

 

 右手を芝に叩きつける。

 少女の力で叩いた地面は小さく窪みを作る程度で、だけど彼女は拳の下にある草を握りしめて引き抜くと、それを空へ放り投げた。

 

『そうやって何もかも一人で決めつている内は、ずっと独りよがりな考え方しかできない……。

 キミは担当ウマ娘の声を聴いたのかね?真摯に向き合おうとしたのかね?』

 

「そんなの、勝たせてあげられない私の事なんか嫌いになってますよ……最近じゃ、あの娘も私に話しかけてくれなくなって――――」

 

『なら、本心を聞いてみればいい……来たまえ』

 

 吉田トレーナーの言葉を否定するミスターXの背後から、一人のウマ娘が現れた。

 栗毛のウマ娘が歩を進ませて、外灯でより姿が明らかになると吉田トレーナーは目を見開く。

 

「マイン……?」

 

 それは、吉田トレーナーの担当ウマ娘だった。

 

「ご、ごめんなさい、トレーナー……トレーナーがそんなに苦しい思いしてたの、私、知らなくて」

 

「な、なに言ってるのよマイン!あなたは頑張ってるわ!悪いのはあなたの力を引き出せていない私が……!」

 

「違うの!私、負けが続いて、自分でもどうしたらいいか分からなくなって……

 トレーナーがずっと頑張ってるの、私知ってるから、一生懸命にサポートしてくれるトレーナーに勝ちを届けられないのが情けなくて!!」

 

 

 震えるような声で、ウマ娘・マインは言う。

 

 

「トレーナーの期待に、私応えたくて……でも、どうしたらいいか分からなくて、そしたら話す事が出来なくなって……」

 

「もう、そんなことで悩む必要はないわ……」

 

「ねぇ、トレーナー!辞めるなんて言わないで!私、他のトレーナーとなんて嫌だよ!

 トレーナーと一緒に勝たなきゃ、私のトゥインクルシリーズは意味が無いんだよ!」

 

 マインは自分のトレーナーの傍まで近寄って、芝に座り込んだ彼女を引き寄せると思いっきり抱きしめた。

 

「私、強くなるから!トレーナーの指示で、トレーナーのトレーニングで、トレーナーと一緒に!

 あんなクソジジイなんかに怒られる必要が無いくらい、あの筋肉ゴリラウマ娘なんかより強くなって見せるから!」

 

「マイン……ごめん、ごめんね…わたしも一緒だよ……勝ちたい、あなたと……勝ちたいよ……!」

 

 互いに抱きしめ合った二人は、大きな声でわんわんと泣いた。

 警備員に見つからなかったのは幸運と言うべきだろう。

 

「ほんとは辞めたくない!最後まであなたのトレーナーでいたいよ!」

 

「私も同じ気持ちだよ。なら、今度は二人で戦おう……私とトレーナー二人なら絶対、何も怖くないから!」

 

 二人は恐らく、お互いに気を遣いすぎていたのかもしれない。

 間近で努力する姿を見せ合い、互いにその思いに応えようとしたから小さなすれ違いも起こった。

 

 吉田トレーナーの辞めたいという原因には、あの煩い松原トレーナーの言葉は殆ど入っていない。

 彼女は自ら辞める際の理由には松原トレーナーの言葉よりも、ウマ娘の期待に応える事が出来ていないという理由が多かった。

 

 吉田トレーナーはずっと、マインの事だけを考えていた。

 マインはずっと、吉田トレーナーの事だけ考えていた。

 互いを思う気持ちが強くて、気付かないうちに雁字搦めになってしまったのだろう。

 

 

 

 だけどこの時だは、この時の二人は間違いなく互いを理解し、心を一つにすることが出来たのだと思う。

 その後、ウロの大樹の穴に向かって、二人は苦情が来そうなくらいの声量で叫んでいた。

 

『ジジイ今に見てろやぁあああ!!!ゴリラも覚悟しろぉぉぉおぉ!!!』 

 

 喉が枯れるまで二人は叫び続け、決意を固めた後の二人の顔はとても清々しい気分が窺えた。

 

 

 

 

 

 

 

 後日談、というか今回の落ち。

 

 

 

「うぅ……」

 

「桐生院トレーナー、そんな溶けたスライムみたいな声出さないでよ」

 

 

 トレセン学園カフェテリア、屋外テーブルの上に突っ伏した桐生院葵が、僕の隣で呟いている。

 彼女は自ら頼んだハチミツ濃いめ固めのジャンボスイーツパフェに目をくれないまま。

 

「私、先輩失格ですね……あの子たちの事、分かったつもりで……以前、私と同じような境遇だったから助けられるかもって、先輩風吹かせて……」

 

「桐生院トレーナーがいなかったら、間違いなく吉田トレーナーは潰れてた。

 桐生院トレーナーが助けようと行動して、気にかけてくれてたから最悪な事態だけは免れたんだ」

 

 

 僕は優雅に頼んだブラックコーヒーに舌鼓を打つ。

 吉田トレーナーのチームはチーフの松原とサブトレーナーの吉田トレーナーしかおらず、他にフォローできる者はチーム内にはいない。

 彼女がずっと一人で思い詰めていたら、年内には辞表を秋川理事長に叩きつけていたに違いない。

 

 桐生院に関して、落ち度はない。むしろ、ファインプレー、最後の防波堤の役割を果たしていたと言ってもいい。

 

「お前はちゃんと、後輩の為に行動できる良い先輩だったよ」

 

「……ブラックサンダーさん、たまに口調変わりますよね。

 なんか、山々田トレーナーみたいです……もしかしてブラックサンダーさんが山々田トレーナー、だったりして?」

 

「ぶひーっ!!」

 

「うああああ!私のパフェがコーヒー塗れに!!

 なんてことを……なんてことを……!!」

 

 

 豚のような悲鳴とともに僕はコーヒーを噴き出していた。

 自ら招いたこととはいえ、ヤマカンでこちらの正体を暴いてくるって、どこの蘭姉ちゃんだお前は。

 

 

「……これで少しはあの娘たち、良くなるんでしょうか」

 

「うーん……それはあの二人次第かなぁ……まぁ、()()()が付いているし大丈夫でしょう」

 

 

 昨夜のひと騒動から一夜が明けて、早数日。

 吉田トレーナーは辞表を出すことなく、今もなおトレセン学園のトレーナーを継続して勤務している。

 ウマ娘のマインとの関係も以前より良好のようだ。

 

 他にもいくつか変化があったとすれば、彼女の所属するチームの環境だろう。

 

 

 あれから松原トレーナーのチームには学園側から監視役が派遣されている。

 というのも、誰かが今回の件で学園側にチクりを入れたらしく、それを聞いた秋川理事長が捜査を入れたらしい。

 

 

『憤慨ッ!未来ある若者を育成する立場にある指導者として、あるまじき行為ッ!!

 決定ッ!これより数か月間、このチームに監視を付ける!!異論はあるまいッ!!』

 

 

 こんな感じで。

 今は彼らが練習やミーティングを開く際には学園の職員が日毎に見学という名の監視を行っている。

 時々だが、理事長やたづなさんの姿を見る事もあるので、こうなるとあの煩い松原トレーナーもまるで熱膨張によって機能を失ったピストルのように静かになった。

 

 

 ちなみに、学園側にチクったのは僕ではない。

 僕はあの後、寮長のヒシアマゾンに寮内の洗濯機の中に洗濯した衣服を取り入れ忘れていた事を怒られていたので、そんな暇は無かった。

 桐生院もこの件には何も報告はしていないようだ。

 

 

 そうなると、誰が報告したかは限られてくる。

 恐らくは、ミスターXだろう。 

 あれだけ叱咤したあの男が、最終的に学園側に報告していた事には疑念を抱かずにはいられないが、ここで議論していたも仕方が無いだろう。

 

 だってアイツなにも教えてくれないし。

 

「監視も一時的だし、終わればまた元に戻るかもしれないけど。

 それでも、今の吉田トレーナー達なら大丈夫さ、きっとね」

 

 もう、一人じゃない。

 彼女たちはあの日、互いを信じられるトレーナーとウマ娘になった。

 二人なら、どんな高い壁にもぶつかっていけるだろう、時間がかかっても乗り越えていけるだろう。

 

 

「〝キミと勝ちたい〟、か」

 

 

 あの時彼女たちが言っていた言葉を思い出す。

 トレーナーが多分、一番最初胸に抱く熱い想い。

 負けて、負け続けて尚、この気持ちを忘れた事はない。

 理論とか、知識よりも僕はこの想いを身に付ける事が大事だと思う。

 

 

 道標のようなものだ。

 これさえ忘れなければ、どんな闇の中にいても迷わずに真っすぐ歩ける……そう思えるくらい。

 

 

 僕も先輩として言えた口ではないが、彼女たちにとってトゥインクルシリーズは真の意味で始まったのだろう。

 そんな感じの冴えない文末で、今回は締め括るとする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『桐生院 葵

 宛先:山々田山能

 件名:お疲れ様です。

 ―――――――――――――――

 研修、お疲れ様です。忙しいかもしれないので、返信は不要です。

 以前メールで相談していた事ですが、ブラックサンダーさんのお陰で無事解決出来ました。ありがとうございます。

 あの娘とお話をしているとすぐ近くに山々田トレーナーがいるように感じて、凄く安心します。

 あ、もちろん!山々田トレーナー本人には会えなくても大丈夫という意味ではないので!深い意味はありませんよ!

 

 山々田トレーナーが帰国するまでに私もトレーナーとして更に精進していきますので、山々田トレーナーも帰国したら、必ずグラスワンダーちゃんを復活させてください。

 そして、また私とミーク、山々田トレーナーとグラスワンダーちゃんで勝負しましょう……今度は負けませんから。

 

 

 PS:帰国時は連絡ください。

    また日帰りでも良いので、温泉旅行にでも。

    勿論、ミークと私が後で一緒に行くための下調べですから!                                                 』

 

 

 

 

「……」

 

 

 涙が出そうだった。

 虚偽の報告に踊らされているとはいえ、これほどまでに偽の外国研修に出張しているであろう孤独な僕の為にメールをしてくれる優しい同期などここ数年では一人もいない。

 

 乾いた心にオアシスが生まれる感覚があった。

 桐生院、お前は本当に僕にとって、大切な、掛けがえのない最高の同僚だ!

 

 

 だけど、この抑えきれない思いを文章にして今すぐにでも送り届けたい、送り届けたいんだけど……。

 

 

 

「……」

 

 

 だけど、ごめんな桐生院……無理なんだ。

 僕、返信できないんだよ、今。

 

 

 だって、今僕の真後ろにさ、いるんだよ……グラスワンダーが。

 

 

「……♪」

 

 

 スゲー笑顔でさ。

 まるでこれから殺るぞ♪って感じで右手に短刀を握って立ってるんだ。

 

 

「……へぇ、トレーナーさん、桐生院トレーナーとは温泉旅行に行った事があるんですね。

 随分と仲が宜しいんですね……気にしていませんよ?ええ、同じ職場の同僚とは、掛けがえのない友……たとえ男女であろうと、温泉旅行に行くことくらい当然――」

 

「あ、あぁそうだなグラ――」

 

「――だと、言うとお思いですか?」

 

 

 机に置いた短刀は暗に僕に対して、〝それを手にしろ〟と瞳が示している。

 抗うこともせず、僕は恐る恐る短刀を手に持ち、グラスの表情を見た。

 彼女は笑顔を崩さずに、天使のような声色で言うのだ。

 

 

 

「トレーナーさん、腹を切りなさい」

 

 

 窓の外、既に12月。

 世間はこれから有馬記念で年の瀬の大勝負に大いに盛り上がっている事だろう。

 まさかウマ娘になった初の年末で、僕が自身の人生に幕を引くことになろうとは。

 

「何か言い残す事はございませんか?」

 

「誉ある――――最期を遂げたい」

 

 

 地面に正座し、身なりを整え、短刀を納めていた鞘を抜き、刀身を晒す。

 白銀の大地に身を置く事に何も違和感が無い、というか違和感が無いことが違和感なのだろうか。

 というか、いつから外に出てたんだろう、僕。

 

 

 ブラックサンダー、辞世の句を詠ませていただく。

 

 

ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを*1

 

 

 いつの間にか死に装束に身を包んだ僕は意を決して短刀を迷い無く己の腹へと差し向けた。

 ここまで来たら、度胸……そう、度胸!男なら、なんでもやってみるものさ、と阿部さんも言ってたじゃないか。

 

 

「―――天誅ッ」

 

 僕が短刀を突き刺すと同時、背後のグラスワンダーが振り上げていた日本刀を僕の首目掛けて袈裟懸けに振り下ろした。

 12月、トレセン学園の雪の上に鮮血が舞った。

 

 

 

 

 僕は視界を真っ赤に染めながら思う。 

 

 

――――人生で最後に食べたのは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だったな。短い人生だった。

 

 

 

 

 これが本当の落ち。

 隙の生じぬ二段構え。

 

 

 そして新年の幕開けにしてはやけにバッドエンドな()()の内容であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1
在原業平の辞世の句、要約すると:人間いつか死ぬのは分かってたけど、昨日今日でくたばるなんてマジ分かんなかったわ




次回より、新年度。推敲が終わり次第、ブラックサンダーepisode 0なんてのやるかもしれません。山々田トレーナーがウマ娘になるまでのお話です。


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12.初詣、稲妻の行先は

レオ杯、ルームマッチでどうやっても勝てない……つらい。
明日からなのにレースウマが一体も完成してないモンゴルウマ娘です。


 

 初夢というのを、皆さんご存じだろうか。 

 

「初夢」とは、新しい新年を迎えるにあたり最初に寝た日の夜に見る夢の事である。

 元日オンリーだけではなく、1日はずっと起きていて2、3日に寝た時に見た夢をその年の初夢と解釈しても良いらしい。

 

 

 日本古来の風習らしく、調べたら室町時代からそのような夢と縁起に関係した話が存在していたという。

 

 

 七福神の宝船。

 一富士二鷹三茄子。

 四扇五煙草六座頭。

 七丁髷八薔薇九歌舞伎。

 

 後世に語られる上で後付けになった要素も多少はあるものの、僕らが初夢に関して聞いたことがある言葉はこれくらいだろうか。

 

「……酷い初夢だった」

 

 背中に鈍い衝撃を受けたことで強制的に目覚めさせられた身体を起こし、自分がベッドから落下した事に気付く。

 時計を見るや、時刻はまだ四時半という中途半端な時間帯。

 睡眠による回復の効果は薄く、むしろ疲労感も覚えながら僕は柄にもなく汗を搔いていた。

 

 

 それもそのはずである。

 僕のウマ娘になってから迎えた新年に相応しい初夢は雪の大地の上で自決するという内容だったからだ。

 

 

 途中まで真面目に自殺の事を考えていたけど、ノータイムで雪が降る外に移動してるわ死に装束に着替えてるわ、介錯人グラスワンダーの掛け声が天誅だったりとか。

 ツッコミどころが満載のブラックサンダー自決劇だったわけだけど、どれもこれもネタにするには現実味がありすぎる内容である。

 

 

 夢なんだけど、夢ではない。 

 実際に起こらなさそうで、起こりそうな。

 そんな曖昧な事象、それが夢である。

 

「僕、なんか悪いことしたっけ……」

 

 

 自らの罪状を脳内で思いつく限り浮かべるが首を傾げるほどに該当するものが無い。

 

 ハルウララを人参を対価に頬ずりしたり。

 マヤノトップガンとメリーゴーランドごっこをしたり。

 ナリタタイシンを背後から抱き着いて驚かせてみたりして。

 

 

 グラスや彼女たちのトレーナーが血眼になって僕を追ってきた気がするけど。

 だけど、僕は自称清廉潔白、驚きの白さを持った清純なウマ娘だ。

 

 はぐれ刑事のタイトルで言うなら、ウマ娘清純派である。

 

 

 スマホの画面を見ると、桐生院からのメールが来ていた。

 以前の後輩トレーナーの件でブラックサンダーにお世話になったという内容であった。

 

 

 文面まで夢の中で見た内容と一緒だった、怖すぎる。

 

 

「うわ……やっちまった」

 

 ある事に気付いた。

 僕の中で、昨年の総決算である年末でしでかしてしまった失態を今更ながらに自覚し、後悔する。

 寝ぼけた頭が徐々に鮮明になっていく上で、明らかになった事実に僕は頭を抱えた。

 

 

「僕、ガキ使最後まで見てねェじゃん……」

 

 新年のスタートにしては、最悪すぎる。

 そんな事を思いながら、僕は再び布団の中に入り二度寝を決め込むのであった。

 

 

 

 

 

 

 新年のイベントと言えば初詣である。

 あの後無事に起床した僕は朝食を取り、身の回りの整理を簡単にした後で外へと出る。

 

 1月1日。

 学園には一部の生徒達が実家へ帰省をするなどしてはいるものの、各施設を運営できるくらいにはスタッフが勤務しているのを見る限り、いつものトレセン学園の風景が見て取れていた。

 

 

 僕も人間だったころは実家に里帰りをしている所なのだが、ウマ娘の肉体な事は家族には伝えていない為に帰ることが出来ない。

 

 

 時間はかなり余っていたこともあり、今年のレースの振り返りや自身のレースを映像で見て研究していたがそれも飽きる物である。

 学生という身分に肉体が戻ったからか、この際だから惰眠も貪れるだけ貪って遊べるだけ遊ぶか、と自堕落な年末を過ごしていた。

 

 

 具体的には、今年発売されていたがプレイする時間もなかった積みゲーを消化したり、

 年末のみ放送される格闘技やお笑い番組を見たりしていた。

 

 するとどういう訳か、グラスワンダーがやって来て「だらしないですよ、トレーナーさん」と年末料理である年越し蕎麦を作ってくれたのだが、これがとても美味かった。

 年越し蕎麦なんて、インスタントのたぬきの蕎麦だったからちゃんとまともな年越し蕎麦を食べるのは実家にいる時以来かも知れない。

 

 

 彼女は実に優れたお嫁さんになる事だろう、旦那さんになる者は幸せだな。そんな事を思いながら神社の前へと辿り着く。

 鳥居の前で待ち合わせをしている少女、グラスワンダーと目が合うと彼女は手を振ってくれた。

 

 

「明けましておめでとうございます」

 

「明けましておめでとう、グラス。今年もよろしくな」

 

「いえいえ、こちらこそ~」

 

 朗らかに笑うグラスワンダー。

 去年まで骨折によって付けていた足のギプスは10月の段階で外されている。

 歩けるようになったグラスワンダーは日常生活に支障を来さないレベルに回復していた。

 

「お、初めて見る装い……」

 

「ええ。初詣ですから少しおめかしをしてみました……その、どうですか……?」

 

 そう言うグラスワンダーの服装は鮮やかな色をした振袖であった。衣装違いガチャの前触れか。

 

 

 落ち着いた碧の地に水仙の花の文様が彩られている。

水仙は正月に満開となる花だ。三連水仙の花飾りを付け、グラスワンダーの勝負服とどこかよく似た、彼女らしい大和撫子の上品さと可愛らしさを表現した振袖。

 

 このまま薙刀を持ち出しても、武家に仕える女傑のような感じがしてカッコよくもある。

 これがゴーストオブツシマの鎌倉時代であったのなら、北条政子とタッグを組んで蒙古兵を殲滅していたに違いない。

 

 

 はっきり言って、非の打ちどころがない程に美しい。

 和服が似合いそうなウマ娘はトレセン学園でも何人かいるだろう。

 

 モデルもやってるゴールドシチーとか。

 シンボリルドルフとエアグルーヴとか。

 というか、基本的にトレセン学園のウマ娘達は何を着させても似合いそうではあるが、僕にとって和服が一番似合うと思うウマ娘はグラスワンダーだけだ。

 

 

「ああ……似合ってるよ、すごく。とても綺麗だ」

 

「そ、……そうですか、ありがとうございます…では、祈願しに行きましょう。

 お客さんもたくさん来て、境内の方も賑わってきたみたいですし……ふふ」

 

 瞳を見合わせて数秒、やがて頬を朱に染め始めたグラスワンダーの方から視線を外すと彼女はそう言って前を向き、人の群れが出来つつある境内の方向を見た。

 骨折という怪我を完治させた彼女は軽い足取りで進んでいく。僕もグラスワンダーの事を追いかけた。

 

 

 二人して他の参列者と並び、順番がくるまで暫く待つ。

 実家にいた頃は日を跨いだ夜中に神社へと向かい、そこで初詣に行っていた事を思い出す。

 夜に揺らめく焚火の炎がやたらと綺麗で子供のころからそれ見たさに毎年神社に向かっていた。

 眠くて怠いけど、あの焚火を目にするとテンションが上がる。男子特有の症状だろうか。

 

 漸く順番が来て、僕はふと考えこむ。

 

 

・・・・さて、何を祈願しようか。

 

 

 数秒程の時間を要した後、これだな。と決めて両の手を二度合わせて叩く。

 

 

『グラスが復活しますように』

 

 それは僕のレース結果次第なんだがと、自身に言い聞かせるも神頼みもしたくなるというもの。

 学園に戻ったら、マチカネフクキタルの占いの館に行って今年の運勢を占ってもらおうか。

 

 

 

「お、屋台がいっぱいあるな……学園に戻るのも早すぎるし、ちょっと寄ってこうか」

 

「いいですね」

 

 境内にはいくつもの出店が並んでいて、人もそこに集まっていた。

 正月の神社は人が集まるからなのだろうか、この手の商売は繁盛しているに違いない。

 

「おでんに甘酒、ベビーカステラ、人形焼きもありますよ。おいしそうですね~」

 

「よし、グラス。好きな物を頼んでもいいぞ」

 

「いいんですか?」

 

「新年のめでたい日だからな。それに、グラスが興味ありそうだったから」

 

 トレーナー時代の貯蓄はまだ大分残っている。というか、この前口座を確認したら残高が増えていた。

 ウマ娘になってからも、学園側からトレーナーとしての給料は忘れずに振り込まれていたので、トレセン学園がそこら辺は良心的だなと思った瞬間である。

 それに、僕が浪費家ではないのもあってか懐事情に関してはそれなりに潤っているのが現状なのだ。

 

 金銭に無頓着なのかと言われればそうではなく、外出した時はグラスのコンディショニング管理の一環として使用することが多い。

 レースの結果に応じたご褒美でおいしいご飯を食べたり。

 遊園地などに連れて行っては、気になっているパフェなどを買ってあげたりと。

 

「ではお言葉に甘えて……ベビーカステラを宜しいですか?」

 

 あれ、コイツ食ってしかなくね?

 

 僕は頷き、ベビーカステラの屋台で僕とグラス用に一つずつ買う。

 正月の冷気に充てられてカステラからじんわりと湯気が見えており、作りたてなのか、生地がまだ暖かい。

 寒空の下で乾燥した鼻腔に届く甘い香りは僕達ウマ娘の食欲本能を刺激する。

 

「あむっ」

 

 カステラを一口、グラスは甘美に酔いしれるように顔を緩ませる。

 

「~~~~」

 

 食べる事で幸せを摂取しているというのか。

 幸福を噛みしめているというか、そんな感じの表情。

 普段が普段で、和菓子の方にしか興味が無いのかと思っていたけど洋菓子も普通に食べるのだとグラスワンダーの担当三年目にして新たな発見。

 

 

「うむ、うまい」

 

 

 僕もカステラを一口頬張り、その感想を口にする。

 さもクッキングパパで至高の料理を作成し味見して納得いく出来だった時の荒岩主任のように顎をしゃくれさせた。

 その後は彼女が興味を示した出店を回って、その都度欲しいものを買っては食べていく。

 

 気付けば、僕の財布は空っぽになった。

 

 

 今は店を回り終わって、やる事も無くなりトレセン学園に戻る途中だ。

 僕の両手には出店で買った商品や破魔矢などの正月グッズでいっぱいである。

 買い込んだ食べ物は冷蔵庫に保存が効くので、今日の夕方や夜にでも夜食代わりに食べる算段だ。 

 

 その道中、隣を歩いていたグラスが口を開いた。

 

「新年という事で、ここは一つ〝抱負〟というのを掲げてみませんか?トレーナーさん」

 

「抱負?」

 

 聞き返した僕に対してグラスはええ、と頷き、

 

「トレーナーさんの目指す道は如何ほどかと」

 

 彼女に「道」と言われて、その意味を理解できないわけではない。

 新年を迎え、僕のデビュー期間は終わりを告げて、いよいよクラシック戦線へと突入する。

 

 5月の期間を過ぎるまでは、僕は同じクラシック期のウマ娘達としかレースが出来ないがそれ以降は先輩であるシニア勢との戦いにも参加が可能だ。

 

 クラシック期には、G1等の格式高いレースが数多くある。

 その中でグラスが問う、「道」と称されるもの。

 ウマ娘が一生に一度しか通れない、トゥインクルシリーズが最も盛り上がる時期。

 

 

「どっちの冠を目指すかって、話か」

 

 三冠路線か、ティアラ路線を進むのか、そういう話だろう。

 ミスターXにも年明けには決めて置いてくれ、と言われていたな。

 

「皇帝・ブラックサンダーを目指すか、女帝・ブラックサンダー……どちらでもネームド的にはイイ感じがするなァ」

 

「あらら~、でしたら生徒会長さんや副会長さんをその前に倒さないといけませんね~。2代目を継ぐウマ娘として」

 

「勝負のハードルが高すぎる」

 

 今の僕の実力では、シンボリルドルフとエアグルーヴを相手に逃げ切れる程のものはない。

 だが、いずれは越えていかなければいけない相手である。目の前のグラスワンダーにいつか皇帝越えと女帝越えを見せてやろうではないか。

 

 

「3冠路線を進むよ」

 

 やけに澄み切った東京の空を見上げて、僕は言った。

 

「三冠の中には日本ダービーがあるだろ?僕ってほら、現役時代だと全日本選手権とか行けなくてさ。インカレの予選どまりで。

 〝日本の全国1位〟っていう響きにメチャクチャ憧れてるんだよ、僕。

 女王様の冠に興味が無い訳じゃない、だけど、男の夢ってやつかな……うん、そうかもしれない」

 

 ダービーに挑めるのは一生に一度だけ。

 

 そんな事を僕はウィニングチケットが言っていたことを思い出す。

 夏の甲子園、日本シリーズ、全日本選手権に匹敵するほどの大競争。

 

「男子たるもの、生まれたからには地上最強を目指せって範馬勇次郎も言っていた。

 本能的なものが叫んでるんだよ、僕は〝こっち〟だって」

 

「なるほど。では、無敗の三冠ウマ娘目指しますか?トウカイテイオーさんのように」

 

「無敗の三冠、またハードルが上がった……あぁ、でも無敗、三冠、最強、どれも最高の響きだ。

 狙いたい……ただ出場するんじゃなくて、名誉も栄冠も僕の物にしたいな……そんな強い気持ちが湧いてきてるよ」

 

 これが、ウマ娘のみが持つ「勝利への執念」、というものだろうか。

 大観衆が見守る中、冠を手にするためにターフを駆ける光景を想像しただけでも興奮が止まらない。

 

「……ふふ、これは私も復帰を急がねばなりませんね。

 復活した暁には私も全身全霊を以って、トレーナーさんに挑み、ブラックサンダーを討ち取らせて頂きます」

 

 口角がつり上がる。

 グラスワンダーの視線に思わず息を吞んでいた。

 あの怪物、グラスワンダーが僕を倒したい、そう思ってくれている。

 

 ギプスを外した彼女は復帰に向けたリハビリメニューに取り組んでいる。

 ランニングすらも息を上げてしまうほどにブランクがある状態だが、地道な筋力トレーニングで下地を作り、ランニングによる走行はまだ時間がかかる。

 だけど、徐々に彼女は復活の兆しを見せ始めている。それだけでも、僕が走り続ける意味はあるというものだ。

 

 

「あぁ、その時は共にターフの上で」

 

 決着を付けよう、と言葉にせずとも僕達は目だけで意思を疎通させる。

 

 

 いいだろう、やって見せろよグラス。ただし、レース中に薙刀で命だけは取りに来ないでな。

 

 

「そこの黒いウマ娘!待つデース!」

 

 

 その時だった。

 決意を胸に学園へ戻るその帰路の途中、元旦の冷えた空気を切り裂いて、僕達の前に「怪鳥」が現れたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




次回、怪鳥襲来。

・山々田山能の秘密。
③現役時代、100mのベストタイムは大学生の大会で出した10秒90。

ちなみに2020年の全国高等学校陸上競技選手権大会(リモート)では96名の高校生が参加してましたが、トップが10秒32、最低でも10秒82のタイムでした。大学生の山々田トレーナーですら勝てません。というか、スプリント競技に関しては10年くらい前から中学生で10秒台が見られるようになってきましたね……皆生まれながらにしてターボエンジン積んでんのかな。


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13.初詣、怪鳥襲来

畜生、レオ杯Aグループ決勝に辿り着けない……ウンス、水着マルゼンの力がこれほどとは……現在の加速スキル逃げウマには差し型のウマ娘は不利だとでもいうのか。

だがまだ時間はある……ウンスマルゼン絶対先頭取らせないウマ娘を育成して蓋するしかねぇ!
独占欲、今回めっちゃ刺さりますね。


 そのウマ娘は、振袖姿で石垣の上に立っていた。

 そのウマ娘は、深紅のマスクで不敵に笑っていた。

 

 ダート芝でもなんぜもござれ、でも出来れば芝で走りたい不撓不屈の大怪鳥。

 

 

 グラスワンダーのルームメイト、そのウマ娘の名は―――、

 

「世界最強!エルコンドルパサー、翔ぶが如くに颯・爽・入・場・デェェエス!!!」

 

 

 ウマ娘の卓越した身体能力で石垣の上から飛び上がったエルコンドルパサーと名乗るウマ娘は振袖姿にも関わらず高所からの前方宙返りを行い、見事に着地を決めた。

 

 

「お前は……エルコンドルパサー……」

 

「ホゥ、ブラックサンダー……このエルを知っているとは中々ジョウホウツーデース」

 

「あぁ、知ってるとも……芝A特性にも関わらず、アプリ実装初期からなかなかダート枠が埋まらないから砂の上を走らされていた〝砂のサイレンススズカ〟と呼ばれたあの――――」

 

「ノォォォウッ!!?なんという不名誉な覚えられ方!?しかも砂のサイレンススズカはスマートファルコンデェエス!!」

 

「いや、でもお前たしかウマ娘界のアマゾンスピリットになるって言ってたじゃん。

 〝一体ダートのレースは何の為に存在しているんだ?

  芝のレースの落伍者を救済する為か?

  芝コースを休ませる為か!?

  観客の目を休ませない為のバリエーションか?

  そうじゃねぇだろ……オレ達はオレ達で頂点決めんだろうがッ!〟――って」

 

「言ってないデース!!育成内容にも無い事実を捏造しないでほしいデェェス!!」

 

 エルコンドルパサーは僕の言葉を否定し、即座に戦闘態勢に入り、構えを取る。

 その独特な構えはプロレスの物だ……彼女の趣味なのだろうか。

 

 

 当然、ウマ娘・エルコンドルパサーの事を知らない僕ではない。仮にも、僕はウマ娘になる前はトレーナーだったのだから。

 それにエルコンドルパサーとレースすることも過去にあったため、彼女のトレーナーとは飲みの席でも一緒だったことがある。

 

 

 グラスと同じ海外からトレセン学園に来たウマ娘、エルコンドルパサー。

グラスワンダー、スペシャルウィーク、セイウンスカイ、キングヘイロー、名だたるウマ娘の中に入る『最強世代』の1人だ。

 

 

 NHKマイル杯。

 ジャパンカップ。

 サンクルー大賞。

 そして、凱旋門賞2着。

 

 世界最強を自称する彼女の自信に裏付けるのはその圧倒的実力にある。

 そんな誰もが認める強い、と言われるウマ娘・エルコンドルパサーが僕に何用か。

 

「グラスを懸けて勝負デース!」

 

「は?」

 

「グラスを懸けてエルと勝負するデース!」

 

「は?」

 

「だから隣のグラスを懸けて、このエルと勝負を――――」

 

「いや、エルコンドルパサー、そもそもなんでグラスワンダーを賭けの対象にして僕と勝負する必要があるんデース?」

 

「口調を真似するなデース!この世界最強エルが!ブラックサンダーに勝負を挑む理由は!

 グラスをそのブラックサンダーの毒牙から守るためデース!」

 

「何を申す……」

 

 鍛冶師たかに「侍の戦いじゃねぇ」、と言われた堺井仁の如き返し。

 しかし深紅の振袖を揺らすエルコンドルパサーは怯まない。

 

「ここ最近、いろんなウマ娘にちょっかいを出してるという噂を聞いたデス!

 ウララやマヤノだけでなく、ナリタタイシンやニシノフラワー……挙句の果てに小学生のウマ娘にも手を出してる恐ろしい奴デース!」

 

「ブラックサンダーさん?」

 

「グラス、誤解だ。僕は単純に幼いウマ娘達と友情を育んでいただけなのだから」

 

 友情トレーニングを行うには、それなりのコミュニケーション値を高める必要がある。

 僕の不足している能力を補うのには、彼女たちとの触れ合いが不可欠だったのだ。

 

 当然、山より高く、海より深い慈愛の心を持つグラスワンダーならば、僕の事情を勿論理解して―――

 

「後で説明してくださいね?」

 

 ―――くれなかった。

 これはあとで3時間くらい正座させられるのは確定かな。

 

 冷や汗を浮かばせる僕。

 一方で、エルコンドルパサーも腕を組んで言うのだ。

 

「というか、なんでグラスはコイツと歩いてるデース!」

 

「……ブラックサンダーさんと一緒に初詣へ行っていたのですが。 

 エルも朝からいなかったじゃないですか、今日の初詣はあなたのトレーナーさんと一緒に行くって」

 

「だから、なんでよりにもよってブラックサンダーなんデース!?」

 

 

 よりにもって……、その言われは心外である。

 僕ほどの人畜無害なウマ娘など、世界を探して10もいるだろうか。

 クレンザーの如く磨かれた、ウルトラマンの如き光の心を持つ僕が、エルコンドルパサーの言う悪行を行う事など、あり得ない。

 ましてや、相手がグラスワンダーとなれば尚更だ。

 

 彼女にイタズラ半分で手を出そうものなら、正当防衛による薙刀斬首刑がもれなく即日で行われることだろう。

 

 

「とにかく、ライバルとして!友人として!

 グラスが不良ウマ娘の手で人生狂わされるのを黙って見ていられないのデース!」

 

 

 何という事だ。

 どうにも、エルコンドルパサーの視点からだと僕はいつの間にか不良認定されてしまっているらしい。 

 言われもない事実だ。誤解も誤解である。甚だしい限りだ。

 

 少しだけ怒りの感情が湧いてくる僕であったが、それは僕の隣人も同じようだったみたいで、

 

「エ~ル~?」

 

「ケッ―――!?」

 

 笑顔であるものの、その仮面の下には明らかに修羅が潜んでいた。

 エルコンドルパサーがグラスワンダーの威圧感に気圧され、思わず息を呑む。

 こういう時、僕の事を怒りつつも、味方の時は味方でいてくれるグラスワンダーの存在は非常に有難い。

 

「ブラックサンダーさんの悪事が本当の事であれ、それ以上彼女の事を不良という括りで決めつけるのは侮辱というもの。

 必要以上の言葉は相手の心を傷つけます……同じ学園に属する者同士です。レースでの気遣いは不要ですが、共同生活の場ではそれを心掛けるべきでは」

 

「う、うぅ……グラス…」

 

 その毅然たる口調でエルコンドルパサーを説き伏せる姿はまさに武士の家に生まれた大和撫子。 

 流石はルームメイトだ。お互いの事を良く分かっている。僕にもこのようなルームメイトが欲しい……一人部屋が固定だから無理なんだけど。

 

「だからエル、ブラックサンダーさん……腹を切りなさい」

 

「その言葉で纏めるな!そして最終的には僕に飛び火している!?」

 

 希代のワンダーウマ娘、グラスワンダーは知人友人にも容赦しない。まるで冥人だ。

 

「で、でもグラス!エルは心配なんデス!」

 

 たじろきながらも、エルコンドルパサーは言う。

 

「自分で歩けるようになってから、最近はあまり部屋にいない事が多いじゃないデスか!

 そしたらグラスがブラックサンダーと一緒にいる事を良く見るようになって……う、うまく言えマセンが、心配なんデース!

 せっかく復帰に向けて、一生懸命トレーニングし始めたのに!これで復帰が遅れたら……っ」

 

「エル……それこそ誤解というもので―――」

 

 

 これはいけない。

 

 僕を巡って、二人の仲の良い同居人が争いを起こしてしまっている。

 僕という存在は罪、何という事だ!二人のウマ娘を狂わせてしまうほどの存在、それが僕! 

 ちょっとテイエムオペラってる場合ではなく、真剣に彼女たちの誤解を解く必要がある。

 

 

 だが、二人とも如何せん気難しい所がある。

 今のエルコンドルパーは僕に対して非常に懐疑的だ。

 グラスが上手く説明をしても、エルコンドルパサーは恐らく受け入れないだろう。

 

 

 ならば、当事者である僕が出来る事は、たった一つ。

 エルコンドルパサーの意識をグラスにではなく、僕に向けさせよう。

 

「フッフッフッフ……その通りだ。オサイチコンコルド……グラスワンダーは、僕に囚われているんだ」

 

「〝コン〟の部分しかあってないデェス!って、囚われてるというのはどういう意味デスか!?」

 

「フフ……彼女は僕に恥ずかしい秘密を握られていてね。抗えないのさ、こんな風に」

 

「―――!」

 

 グラスワンダーの肩を抱き寄せて見せると、エルが口をあんぐりとさせた。

 ややあって、肩を震わせるエルは顔を真っ赤にしながら、

 

「ままっままま待つデース!恥ずかしい秘密って!秘密ってなんデース!」

 

「人には言えないような、とーーーーっても恥ずかしい秘密だよ」

 

「ご、ゴクリ……それは一体……」

 

「聞きたいかエルコンドルパサー、いいだろうよく聞くがいい。

 あれは2年前の〝毎日王冠〟の時に――――」

 

「ちょ、ちょっと何を言おうとしてるんですか!!」

 

 

 クク、アドリブとはいえグラスも中々良い演技をしてくれる。

 おかげでエルコンドルパサーの怒りの矛先はしっかりと僕に向けられているぞ。

 

「このように、僕の言動を止めたくなるくらいに恥ずかしい秘密なのだよ。

 彼女は決して、僕に抗えない、囚われの姫ということさ」

 

「何という事デス……ブラックサンダー、今ハッキリしたデェス!

 アナタはこのエルが倒すべき、宿敵だという事を!!!」

 

 怪鳥、エルコンドルパサーの目に炎が宿る。

 紛れもなく、僕を敵と認定している……そういう眼つきだ。

 

 彼女たちの仲を破綻させないためにも、僕が間を取り持ってやろう。

 

 エルコンドルパサーの「悪者(ヒール)」として。

 迷うことなく正義の為に力を振るえる為のシチュエーションを僕が用意しよう。

 

「なら、奪いに来いエルコンドルパサー!取り返してみろ!

 それに僕たちは所詮ウマ娘、こういう時に雌雄を決するならどうすればいいか、分かっているだろう……?」

 

「そうだッ!レースだッ!今季のレースで!アタシは、ブラックサンダーを倒して見せる!

 そして私の大切な友人を取り戻して見せるデェス!!」

 

 怪鳥の瞳はまさしく獲物を狩る為のもの。

 だがこちらがただで狩られるだけの獲物ではない事を理解している。

 抵抗し、あわよくばその喉元に食らいつこうとしている獲物であれば、手加減などせず、圧倒的な力で叩き伏せる、そんな矜持すらも感じさせる熱気の籠った視線。

 

 

 彼女がその気なら、僕も最後まで抵抗して見せる……この拳で。

 

 

 拳という名の脚で。

 

 

「約束しよう、エルコンドルパサー。お前と決着をつけるその日まで、僕は彼女に……グラスワンダーに一切危害を加えないことを誓おう」

 

「ブエーノ!決戦の日、忘れることなかれ!その身にエルの名を刻みつけてやるデスよ!」

 

 

 それは間違いなく宣戦布告。

 だがいつ、どのレースでエルコンドルパサーと決戦を迎えるのかをまったくもって決めていないんだけど。

 しかし、そんなに時間は掛からないはずだ。日本ダービーが終わり、本格的なクラシック戦線が始まれば、彼女は勝負を持ちかけてくるに違いない。

 

 だが、その来るべき日を待つのも些か興が乗らない。 

 ここは一つヒールらしく彼女に一発かましてやろうじゃないか。

 

 

「互いにナイスバウトを……ところでエルコンドルパサー君?キミ、ダンベル何キロ持てる?」

 

「ケ――ッ!?」

 

 

 僕は両手に持っていたお祭りの戦利品を二袋、エルコンドルパサーの目の前へと放り投げた。

 中身は焼き鳥やベビーカステラ、夜の夕食用にとっておいた食べ物しか入っていない。

 

「おわっ!?――っとと……」

 

 食べ物を粗末にする…そんな下劣な行為をエルコンドルパサーが無視できる筈もない。

 彼女は僕の予想した通りに、地面へと落ちる前に袋を両手でそれぞれ掴み取っていた。

 

 

 エルコンドルパサーの両手を塞ぐ、そこに僕のこれから行う非道の全てがある。

 

 

「―――ッッ!?」

 

 

「あぁ、そのまま動かない方がイイ……動いちゃうと―――ケガするかもな」

 

 淀みの無い、洗練された動作でエルコンドルパサーの視界の下から接近する。

 彼女からすれば視線を逸らされた隙に僕がいつの間にか真下からワープしてきたかのように錯覚するだろう。

 

 

 僕はそのままエルコンドルパサーの顔に手を伸ばし、彼女のトレードマークである深紅のマスクを――――、

 

「ほい」

 

 いとも簡単に掠め取った。

 

 

「ノオオオオオオオウッ!!?」

 

 エルコンドルパサー、そのマスクの下に隠された顔は……美少女だ。

 普段の活発で元気な姿を想像していると、仮面を外した時のギャップでやられてしまうかもしれないほどの美少女だ。

 

「や、やめ―――!ま、マスクを返すデェス!エルの、エルのマスクを!!」

 

「返してあげない」

 

 僕は慌てて顔を隠そうとも、両手の袋のせいで動作の遅れているエルコンドルパサーよりも速く、スマートフォンを取り出してはカメラモードに切り替えて、

 

「撮り続ける……」

 

「うわあああ!?」

 

 カシャカシャカシャカシャカシャ、と。

 僕は魂の16連写で、エルコンドルパサーの素顔を撮影し続ける。

 

「や、やめて…ゆ、許して……み、見るな…です」

 

「決して、許してあげない……撮り続ける」

 

 エルコンドルパサーは必死に顔を隠していたが、その声は上ずり、瞳には涙を浮かべていた。既にさっきまでの勢いはない。

 語尾にハートマークを浮かべそうな、邪悪な笑みを浮かべて僕はスマホの画面、シャッターのボタンを操作し続ける。

 

「泣いても、拝んでも、祈っても……決してキミを許さない、撮り続ける」

 

 

 その所業、満身創痍のマホメド・アライjrに容赦ない攻撃を加えた愚地独歩の如く。

 

 

 驚くなよ、エルコンドルパサー。

 こんなの、グラップラー刃牙の世界なら日常茶飯事だぜ?

 

「クク……何を驚いている世界最強……戦いで相手の弱点を突くのは常識じゃないか。

 お前の得意としているプロレスでも、()()()()戦い方もあるだろう……?」

 

 

 見事なヒール役を演じる事が出来ていると思う。

 今の僕はさながら、スコーピオン白鳥の如き極悪ヒールと化しているだろう。

 これが後楽園ホールなら確実にブーイングの嵐だろうし、ファンレターも凄まじい罵詈雑言の数々になるはずだ。

 

 

「ひ、卑怯です……こんなの、正々堂々じゃない……ウマ娘の戦い方じゃない……です」

 

「何を申す」

 

 不意を突いたとはいえ勝敗は明らかだろう。

 口調も年相応の勢いを欠いた少女の物になった。

 大胆不敵に悪を成してこそ、絶対の悪役(ヒール)

 エルコンドルパサーが輝ける「太陽」ならば、ブラックサンダーは夜にこそ輝く「月」である。

 言うなれば、光と闇。

 相容れぬ存在。

 

 その相反する2つがぶつかり合うこそ、惹かれた者達が一斉に熱気を持つ戦いになる。それがプロレスだ。

 

 

 だから僕のこの悪行はまさしく悪役(ヒール)のソレであり、プロレスの興行そのものだ。

 

 

 ただ単にグラスワンダーとエルコンドルパサーの仲を取り持つはずが、エルコンドルパサーに敵対してしまう事になってしまったんだけど。

 

「決戦の地で待つぞエルコンドルパサー、それまでにはそちらも負けてくれるなよ」

 

「くぅ!!」

 

「アリーヴェデルチ」

 

 何故かイタリア語だけ残して僕はその場を去る。

 悪役はクールに去るのが当たり前だ。スピードワゴンも言ってた。(言ってない)

 

 

 その2つの袋はくれてやろう。

 せめてもの謝罪の意味を込めてだ。

 ついでに写真は1枚だけ消して残りは全部消去だ。

 

 

 

 かくして、僕はエルコンドルパサーの宿敵となったのだった。

 ちなみに、グラスにはあの後部屋でしこたま怒られた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




エルコンドルパサーに羞恥プレイさせたいだけの人生でした。
ちなみに残した1枚の写真はエルのトレーナーに送り付ける用です。
嫉妬シテルパサー爆誕。

評価・感想、または誤字報告等いつもしてくださってる方々、ありがとうございます。匿名などでも気にせず、感想などを書いてくださると次回の執筆の燃料になるのでよろしくお願いします。


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14.2月18日

アオハル杯、楽しそう……。



 時の流れというのは早い。

 いつの間にか新年が明けて1月を迎えたかと思えば、既に1月も終わって2月に突入している事に気付くくらいに。

 一体、僕の時間の管理は誰がしているというのか、時間泥棒にでも知らず内に遭遇してしまっていたのか、そもそもタイムパトロールは何やってるんだ、と存在もしない時空管理局の職務怠慢を嘆きながらも、僕ことブラックサンダーはカレンダーを見やる。

 

 2月18日。

 

 

 皇帝シンボリルドルフの凛々しい顔が擦られたトレセン学園限定のカレンダーに記されている今日の日付がある。

 しかし、その日付には赤い蛍光ペンでしっかりと囲まれていた。

 

 まるで、この日が僕にとって特別な日だと言わんばかりに。

 

 

 ふと、携帯の画面にて時間を確認する。

 「彼女」と約束していた時間、こんな昼に呼び出す僕も礼儀がなっていないというか。

 こういった取り決めは夜にやることが適切なのではないかと思うのだが。

 

 

 さて、2月18日は僕の担当ウマ娘であるグラスワンダーの誕生日である。

 

 

 誉ある武士、希代のワンダーウマ娘は着実にケガからの復帰を目指し、日々トレーニングに励んでいるのだ。

 体力、筋力が低下した今となっては筋力トレーニングや体幹トレーニングを中心に運動の為の基礎を作っている最中。

 建築で例えるなら、家を建てる前の土台づくりといったところだろう。

 

 

 本格的な成長が過ぎている分、ブランクがあるので他のウマ娘よりも調整や復帰のトレーニングはシビアだ。

 疲労度の蓄積度合いは以前より高く、速度も全盛よりも遅いかもしれない。

 

 

 それでもターフを駆けるために、僕とレースをするために修練を重ねる彼女を応援せずにはいられない。

 そして今日はグラスワンダーの誕生日だ。これを盛大に祝わずにしてなんだというのか。

 

『トレーナーさん、失礼します……』

 

 ドアをノックする音共に扉の向こうから聞き覚えのある少女の声。

 本日の主役とも呼ぶべきグラスワンダーの登場だ。

 

「入っていいぞグラス」

 

 僕は隅に置いていた紙袋から大きなクラッカーを取り出すと扉のやや上を向けて構える。

 この時の為に用意していたアグネスタキオン特注のクラッカーだ。彼女の発明だから火を噴くとか、本当に施設を壊す破壊兵器だと思うかもしれないが通常の3倍の量で中の紙細工が飛び出す仕組みになっている。ウマ娘など一瞬で全身を包んでしまうほどの量だ。これでグラスワンダーをびっくりさせてやろう。 

 

 

 APEXでショットガン角待ちするかのように卑劣な笑みを浮かべながら、僕はその瞬間を待つ。

 満を持して扉が小さく軋んだ後、ゆっくりと開かれた。

 

 僕は即座に彼女に向けて特大クラッカーを発射した。

 パンっ、という乾いた破裂音とともにその体積にどんだけ詰め込んでいたんだと言わんばかりの紙細工がダマになってグラスワンダーに降り注いだ。

 

 

「グラス、誕生日おめでとうー!」

 

 

 全身を紙細工に包まれているグラスに祝いの言葉を投げかける。

 頭部から足先まで絡んでいる姿からは、まるでバイキンマンの卑劣な罠に引っ掛かって身動きが出来なくなったアンパンマンのようだ。

 

「……」

 

「あれ、グラス……?」

 

 紙細工塗れの身体を解こうという動作すらもなく、グラスからは返事がない。

 これは、本気で彼女の事を怒らせてしまったのだろうか、姿を現したら薙刀を構えて襲ってくるのかもしれない。

 度が過ぎた行動というのは如何に善意であっても、相手にとって迷惑になるというのか。

 

 

 今日は何枚で下ろしてくる宣言をするのだろうか、と眼前の脅威に身構えていると紙屑団子から動きがあり、中からグラスワンダーが重い動きで姿を現した。

 

「あ、トレーナーさん……」

 

「グラス、どうしたんだ。目元、凄いクマだぞ」

 

 漸くこちらに気付いたグラスワンダーの顔は酷く疲れている様子が見てとれた。

 いつものように朗らかに、優しい笑みを浮かべている彼女からは想像もつかない、細目と生気のない顔つき。

 寝不足なのだろうか。

 

「実はここ最近、あまり眠れていなくて……昨日も寝付けず、2時間ほどしか……ふぁ」

 

 頭についた紙細工をどかす気力するないのか、代わりに取ってあげると深い睡眠欲に駆られたのか小さく欠伸をするグラスワンダー。 

 体調管理などは徹底していて、夜更かしをするイメージが少ない彼女だが、一体どうした事だろう。

 詳しく話を聞いてみると、意外な事が分かった。

 

 

「耳から変な音がして気になって眠れない?」

 

「はい、どうにも耳の中で何かあるように違和感が……時折ガサッっと引っ掛かるような感じがあって…」

 

 片耳を摘まんではため息をつくグラスワンダー、相当参っているようだ。

 恐らく、耳の手入れ不足によるものだろう。ウマ娘の耳はヒトの耳より大きく、外からのゴミが入ってしまうから手入れが重要だ。

 ウマ娘で耳にカバーを付けている娘がいるのは、装飾以外にそういった要因を防ぐためなのだとか。

 

 

 肉体の些細な変化に敏感なのもウマ娘という生物の特徴だろう。

 特に耳に関しては前後左右に稼働できるし、人間よりも音を拾う事に優れているが非常にデリケートな部位だ。

 精密機械の稼働部位に異物が混入すると器材自体も不調を来すというモノである。

 

 グラスワンダーは耳の違和感によってストレスが溜まっているからか、酷い寝不足に悩まされているようだ。

 

「申し訳ありません……ですが、この程度の事で保健室の方にお世話になるのも憚れまして……。

 自分で手入れを行おうにも上手く出来ず……」

 

 自分で何とかしようとしたが、人の耳と違ってウマ娘の耳を自ら手入れするのは難しそうだ。

 

 普段の気難しさも相まって、ここまで症状が悪化するまでに我慢するようになってしまったらしい。

 さて、どうしたものだろうか。

 

「せっかく、私の為にトレーナーさんが誕生日を祝ってくださったというのに……私ときたら、この体たらく……潔く腹を―――」

 

「いや、切らなくていい。そんな顔をするなよ、グラス。

 今日はお前が生まれためでたい日なんだぜ、出来ればお前には笑っていてほしいんだよ」

 

「うぅ…お気遣い感謝します……」

 

 

 少しだけ元気を取り戻したように見えるが、疲れた笑みが先に目立ってしまっている。

 どうしたものか、これほどの重度の寝不足ならば、すぐさま寝かせてあげたいのが本音で、誕生日を祝っている場合ではない。

 

 

 しかし、原因を取り除かない限りは寝付けないのを繰り返してしまうので結局寝不足は解消されないままだ。

 

 

 ならば、と僕は考える。

 こういう時、コンディションを解決するために思考するのもトレーナーである僕の役目だ。

 地球の本棚をもし僕が使えるのなら、このような思考時間などあってないようなものですぐにグラスを助ける名案が浮かぶのだが……。

 

 

 

 あぁ、母なる大地、地球よ。僕にグラスを助けるアイディアを!

 

 

「ん?母なる大地……母……そうか、閃いたぞ」

 

 その時、山々田トレーナーに電流走る。

 

 

「トレーナーさん?」

 

「グラス、ここで10分ほど待ってくれるか」

 

「え、あ、はい……ですが、トレーナーさんはどちらへ?」

 

「我らが母の助力を……というのは冗談だ。

 グラス、お前のその寝不足、僕が今日解消してみせよう」

 

 不敵な笑みを浮かべながら、理解が追いついていないグラスを部屋に残して、僕はこの異常事態を解決すべく自らの部屋を飛び出したのである。

 

 

―――それから10分後。

 

 

「待たせたな」

 

 各方面を回り、必要な道具を用意した後に僕はスネークの如く自室へ舞い戻った。

 

「お帰りなさい、トレーナーさん」

 

「なんだグラス、わざわざ机の椅子に座って……遠慮せず僕のベッドの上で休めばよかったのに」

 

「そのような大それた事は流石に……それに、耳がまだこのような状態なのでひと眠りするのは難しそうで――――っ」

 

 頭を押さえる仕草を見せて、これは本格的に不味いと思った。

 寝不足から頭痛まで併発しているらしい、体力も削られてやる気ゲージは紫の絶不調、体力ゲージは真っ赤というところだろうか。

 

「えっと、トレーナーさん……その手に持っているたくさんの道具たちは…一体何に使うおつもりですか?」

 

 

 両手にしている道具を持って帰って来た僕を見て疑問に感じたグラスワンダーにそう言われた僕は準備を進めながら答える事にする。

 

 

「これな、グラスの不調を解消するために必要なものさ」

 

「私のこの不調を……?一体、どうやって」

 

 不思議に思うのも当然だろう。

 僕が持ってきたのは謎の液体の入った小瓶、お湯の張った桶、数枚のタオル。

 そして懐に忍ばせていた、グラス不調解消のカギとなる道具を取り出し、持ち出してきた道具をベッドの周りに配置しては足をグラスの方に投げ出すように座り、自らの膝をたんたん、と叩いて見せる。

 

 

「グラス、僕のベッドにおいで。今からお前の耳掃除を行う」

 

 複数の匙、綿棒、俗に言う、耳を手入れする為の道具を見せつけながら、僕はきょとんとしているままのグラスワンダーに言った。

 

 

 

 

 

 




ウマ娘の耳掻きって人の耳掻きと違って横を向かず、正面を向くんですよね……なんかいいなって思いつつ、スーパークリークの耳掻きってすごい破壊力在りそうといけない妄想してしまうモンゴルウマ娘です。
山々田トレーナーは担当ウマ娘の不調をしっかりと自身で解決するために奔走するトレーナーの鏡。

誤字報告、感想、いつもありがとうございます。


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15.グラスワンダーと耳掻き

レオ杯決勝は今から見るの辛い……
スタミナ因子2が周回で出てこないから永遠とイベスズカSSR回収できないんだけど。
イベミッション初日からずっとスタミナ因子出ないんですけど!


本日、夏休み最後の投稿。
明日から更新遅れるかもです。


 耳掻き。

 文字通り、耳の中を耳掻き棒で内側を擦って掃除する行為の事を言う。

 日本古来からも奈良時代あたりには既に木の耳掻き棒が見つかっていたこともあり、当時から盛んだったようだ。

 江戸時代にしても、「耳垢取」という職業があったらしい。

 

 

 耳掃除して金が貰えるなんて、なんて素敵なんだ江戸時代。

 対象が花魁とか美少女なら最高だけど、武士のオッサンオンリーだったら即営業停止にしてやるけどな。

 

 

 まぁ、僕が独自に調べて得た耳掻きヒストリーを語るのはこれくらいにして。

 僕は未だにぽかんとした表情で状況を掴めないでいるグラスワンダーに再度言い放つ。

 

 

「耳掻きをしてあげよう」

 

「え、えっと……」

 

「耳掻きをしてあげ―――」

 

「そ、それは分かってます!で、でもその……トレーナーさんに、してもらうなんて……」

 

 よほど抵抗があるのだろうか、グラスワンダーは珍しく目線を動かしている。

 冷静沈着な彼女にはこれまでに他人に耳搔きをされたという事が無いのかもしれない。

 

「だがグラス……耳のバッドコンディションは放っておけば悪化して頭痛や咳、難聴という症状を併発する可能性だってあるんだ。

 安心しろ、僕はあの耳掻きマザー、スーパークリークの下で修業を積んだ生粋の耳掻きヤーだ」

 

「み、耳掻きヤーってなんですか……そ、それなら保健室に……」

 

「保健室の先生なら今日は休みだよ」

 

 今日は土曜日だ。

 施設を運営するスタッフは数名いるものの、保健室などの部屋は平日しか機能していない。

 故に、土日にトレーニングをする生徒たちは怪我などをした場合は自己責任で対処しなければならない。

 

 トレーナーからすれば、非常時の為に医療スタッフは最低限一人は常駐していて欲しいんだけどな。これも人件費の都合かもしれない。

 僕はあの手この手で逃げようとするグラスワンダーの一手を悉く潰していく。逃げウマ娘から逃げようったってそうはいかないぜ。

 

 

「うぅ……しかし、耳掻きをしたくらいでこの苦しみから解放されるとは到底思えません……」

 

「ほう、グラスは僕の事を信頼していないのか……」

 

「そういう訳ではありませんが……」

 

 そこまで頑なに拒まれると、こちらも気が引けるというもの。

 だが、これは今の彼女には必要な物であり、それを実行するのは間違いなくこの僕なのだと断言できる。

 

 しかし、どうしたものだろう。

 今のグラスワンダーに無理に抵抗させることなく、僕の耳搔きを受けてもらうために、ここは一つ手を打たなければならない。

 

 考えよう、山々田山能。

 お経の音を皮切りに名案を思い付いた一休さんのように。

 ヘンダーランドでマカオとジョマのババ抜き勝負で右か左のカードを選択する為に夜を明かした野原ひろしのように。

 

 

 その時、ふと思いついた。

 

 

「ならグラス、僕と勝負をしよう」

 

「勝、負……ですか」

 

 食いついた。

 彼女は不撓不屈のウマ娘、グラスワンダーだ。

 勝利を求める執念、レースに懸ける情熱は全てのウマ娘より常軌を逸している。

 

 戦う事こそが誉と信条とする彼女に「勝負」という単語をチラつかせるのはこの上なく効果的だという事だ。

 

 

「グラスの両耳を綺麗に掃除し終えるまで、僕はお前を寝かせて見せる……もしそれが出来なかったら、僕はグラスのいう事を〝なんでも〟聞いてあげよう」

 

「なん、でも……今、トレーナーさん間違いなく仰りましたか?〝なんでも〟、と……」

 

「あぁ、漢ブラックサンダーに二言は無いぜ」

 

 正確に言うと、今の僕は立派な女なんだけどな。

 

 しかし、耳がレーダーの如くピンと立っている辺り、途轍もなく興味を示しているのは言うまでもないだろう。

 

 僕に一体どんな命令をさせようって言うんだ。

 そんなにご飯が食べたいのか?

 3杯?3杯もお代わりしたいのか?かーっ!みんね、ミーク!卑しか女ばい!

 

 

「悪い話じゃないと思うぜ?

 耳掃除でグラスのコンディションが解決すれば良し、仮に解決出来なければ今度こそ病院に行けばいい。

 だけど、今の機会を逃せば、僕を好きに命令できる権利を永遠に手放す事になる……どうする?少なくとも、グラスの方にデメリットは無い筈だ」

 

「……」

 

 グラスワンダーの顔から笑みが消えた。

 これは確かにレース前の真剣な表情……マルゼンスキーの再来と呼ばれた怪物2世、グラスワンダーの気迫が伝わってくる。

 彼女はゆっくり僕と向き合うとその瞳で僕を見つめ、

 

「分かりました……その勝負、お受け致します」

 

 僕との耳搔き勝負を受ける事を承諾したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでは料理を始めよう。

 それにはまず、下ごしらえが必要だ。

 

 僕は手慣れた手つきでベッド周辺を綺麗にするとベッド上部の直ぐ横に設置しているサイドテーブルにお湯を張った桶とにタオルを浸す。

 今は2月、ということもあって外は寒く部屋も暖房を使用している状態だ。当然、部屋の湿度を管理する為に加湿器を設置しているので加湿器を部屋の真ん中にあるテーブルの上に置いた。

 

 僕は加湿器の電源を入れる前に、

 

「なぁグラス、好きな香りとか……そういうお気に入りの香りってあったりするか?」

 

「好きな香りですか?特に決めているものはありませんが、強いて言うならばラベンダーかと」

 

「ラベンダー、ラベンダー……ん、おお、あったあった。流石ダイワスカーレット、定番のアロマオイルだけどしっかり押さえてたな」

 

「それはもしかして、ダイワスカーレットさんから借りたものですか?」

 

 グラスの問いに僕は「ああ」と答えて、

 

「前にアイツのトレーナーが不眠症になった時、〝スカーレットの貸してくれたアロマオイル焚いて寝たら朝までぐっすりだったわ!〟って、トレーナー本人から自慢された事を思い出してな……あいつがそういうアロマ系の道具色々とこさえてるの知ってたから今だけちょっと借りたんだよ」

 

 正確には、そのダイワスカーレットのトレーナーが見たがっていた映画の先行上映チケット2枚を交換条件に、だが。

 

 加湿器上部を開き、貯水部分に直接アロマオイルを適量垂らす。

 アロマオイルに対応した加湿器なので問題はない、蓋を閉めてコンセントを差してからスイッチを押すと加湿の上の穴からゆっくりとスチームが溢れてくる。

 

 

「あ、いい匂い……」

 

「アロマオイルって身体の緊張とかストレスを緩和する効果があるんだってさ。

 中でもラベンダーは女性に人気で、リラックス効果が高いらしい」

 

 

 アロマと検索するだけでも色々とあるものだと、僕はあとで知ることになる。

 アロマ、つまり精油には種類が200種類以上あるらしく、それらの香りを楽しむことは勿論だが、マッサージや蚊の忌避にも用途は様々だ。 

 ちなみにダイワスカーレットから借り入れたアロマオイルは彼女によって厳選された10種類である。その他にも部屋にはちゃんとアロマオイルが中サイズの箱で幾つか保存されていた。

 

 僕は彼女のトレーナーではないので一個人に対する詮索は不要だが、彼女のお財布事情が少し心配である。

 

 

 さて、準備は整った。

 獲物を調理場へ誘導しよう。

 

 

「さ、グラス。ここにおいで」

 

 自分のベッドに乗り込んだ僕は膝を折り、大腿部の上をぽんぽん、と叩くことでグラスワンダーを(いざな)う。

 最初こそ、戸惑いを隠せていなかった彼女だが意を決したかのように拳を握ると険しい顔で、

 

「では、失礼しますね」

 

 靴を脱ぐと僕の座るベッドの上に乗り始めた。

 ぎし、とスプリングが軋む音とともに右足、左足と順次に移していく。

 今の身体の沈み具合からして去年より体重に変化があったことが分かる。直に触れてみれば、更に事細かな変化が分かるだろう。

 

 言い忘れていたが、僕はウマ娘の肉体に触れるだけで彼女たちの体重を0.0kgまで正確に測定できるという、変態じみた特技がある。

 

「よい、しょっと……」

 

 沈むベッドの不安定さを補うために両手、両足、両膝を設置させてバランスを取ると赤子が這うようにグラスが僕の膝元に近づいていく。

 目の前にまでグラスの顔が近づいてきたところで、彼女の方から身体を反転させて栗毛の長髪を気に掛けるように後頭部を、静かに僕の膝の上に乗せた。

 

 

 ぽふ、と何とも言えない軽い重量が膝の上に乗っている感じがする。

 長袖長ズボンのジャージ姿だから肌面積の接触はまったくと言っていい程無いために特にこそばゆい感じはしない。

 

 

 視線を下に向けると、すぐそこにはグラスワンダーの顔がある。

 人とは違って、ウマ娘には頭頂部に耳がある為、耳の手入れを誰かが行う場合は自然と互いの顔を直視する状況になるのだ。

 

 眼下、グラスワンダーの顔をじっくりと見る。

 モデルのような整った顔だち、穏やかな海のような、空がそこにあるかのような碧の瞳に吸い込まれそうになる。

 寝不足のクマが無ければ、素敵だなと呟いてしまうところだった。

 

 しばらくグラスワンダーを見つめていると、彼女は何も言わずに横を向いた。

 これでは耳が真横を向いてしまうので耳掻きを実行できない。

 やむを得ず、顔を背ける理由を問うことにした。

 

「グラス、顔を横に向けていると耳掻き出来ないよ」

 

 僕がグラスに聞くと、彼女はたどたどしく顔を正面に戻すが、視線は泳いだままだ。

 

「わ、分かってはいますが……やはりというか、ち、近いのですね……」

 

「そうだな。グラスの顔をこんなに間近で見たのは多分初めてだ」

 

 やはり、綺麗だな、と率直にそう思う。

 強くて、カッコよくて、しかも綺麗とか、僕の担当ウマ娘は最高かよ、とSNSに書き込みたいくらいだ。

 #グラスワンダーってタグをつけて投稿すればカレンチャンあたりなら、イイネ押してくれる気がする。

 この迸る感情のままに文章を書きまくってたら恐らく、原稿用紙30枚分の怪文書が生まれる事はまず間違いない。

 

 

 ふふ、しかし顔を直視しするのが嫌だというならば、その両目今すぐ塞いでやろう。

 

 僕はお湯を張った桶に浸していたタオルを一度絞ると綺麗に長方形に畳んでグラスワンダーの両目が覆われるくらいに被せた。

 

 

「ふぁ……」

 

 

 両目を塞ぐと同時にグラスの口から言葉が漏れる。

 タオルは熱すぎたりしないだろうかと心配はしたが、今の反応を見るに湯加減の調整は必要ないようだ。

 

「トレーナーさん、これは……?」

 

「ん?ああ、下準備みたいなものさ。

 美容室とか行くと、顔の髭剃ったりする際にこうやって目に温めたタオルを被せるんだけど、これが気持ちよくてさ。

 調べたら疲れ目とかによく効くらしい。

 目付近の血の巡りも良くなるから、頭痛にも効果があるんだとさ」

 

「へぇ……ひゃっ!?え、な、なんですか……!?」

 

 突如として身体をびくっ、と震わせる。

 目をタオルで覆っているので、自分に何が起きたのか分からないらしい。

 驚くのも当然だ。せっかくリラックスしているのに一々驚かせていては効果も薄まるというもの、これからは行程に入る前に必ず告知してあげよう。

 

「すまんすまん、耳にもホットタオルを巻かせてもらう。

 さっき耳の中を見たら浅い部分には大きな垢が見当たらなかったから、奥にこびりついている垢を取る為に耳全体を蒸して取りやすくしてるんだよ。

 今度はちゃんと、次の作業に入る前は必ず教えるようにするから」

 

 右の耳を蒸しタオルで巻いたら、今度は反対の耳も巻いていく。

 目も耳も塞がれたグラスだが、事前に告知していたこともあり僕の動作に驚くことなく受け入れてくれた。

 

 

「どうだグラス」

 

「はい……ぽかぽかして、気持ちいです……」

 

 不快な気分を感じるどころか、心地良い息を吐いているグラスワンダー。

 両肩も竦めることなく下がっているのはリラックスできている証だろう。

 

「よし、少しばかりこのままだ」

 

 メジロライアン直伝、疲労した肉体をほぐすなら、まず温めよう!を実行していく。

 と言っても、時間にしても数分程度だが、ただ待つというのもアレなので。

 

「あの……トレーナーさん、どうして頭を撫でてるんですか」

 

「ん~?いや、綺麗な髪だったからね、つい」

 

 艶のある栗毛は、見る者全てをレースで魅了した。

 実際、僕が彼女の担当になったきっかけもグラスワンダーのレースに懸ける情熱だけでなく、彼女のこの髪に惹かれたというのもあるかもしれない。

 

「嫌だったか?それならやめるけど……」

 

「いえ……もう少し、このまま……」

 

 グラスの承諾を得たので、僕は彼女の頭部を撫で事を継続した。

 滑らかな髪に爪を立てないよう指の腹を使い、髪の毛を梳くように。

 出鱈目にわしゃわしゃ、ではなく、最大限の優しさを込めて、ゆっくり。

 

「グラスはいつも頑張ってるから、もっとよしよししてやろう」

 

「どうしたんです、急に……」

 

「復帰トレーニング、結構キツイだろ?最近熱心に身体追い込んでるの知ってたからさ。

 だから労わってやろうと思って…・・・フフ、グラスワンダーよ、褒めて遣わすぞ」

 

「ふふ、ありがとうございます……私の事、そんなに見ていてくれたんですね」

 

「当たり前だろ。僕はお前のトレーナーだからな……ずっと見ていてやるよ」

 

 時間の頃合いを見て、頭をかるくポンと叩いて合図すると、僕はグラスに告げた。

 

「よし、じゃあ耳周りのマッサージをこのままやっていくぞ」

 

「?耳掻きはまだしないんですか?」

 

「このマッサージも固まった耳垢を剝がしやすくするためのものさ。

 これが終わればお待ちかね、本格的に耳掃除に入っていくよ」

 

 一流シェフの料理も入念な下準備によって成り立つように、耳掻きもまたそれと同じだ。

 

 僕はグラスワンダーの耳を片方ずつ、タオル越しに手に収めるとぐりぐり、と全体をこねくり回す。

 

 

 ぐっ、ぐっ、ぐっ、とスポンジを握るように軽く。

 決して力を入れ過ぎてはいけない、そう心掛けながらグラスの耳を揉み解していく。

 

「ぁ……ふ」

 

 耳の頂点から輪郭をなぞる様に。

 表だけでなく、その裏側も入念なマッサージを行っていく。

 ウマ娘の耳は非常に興味深い。

 肉厚な筋肉が内包されているわけでもないのに、脳の動きや感情によって垂れたり、立ったりと実に豊かな表現力を持っている。

 

 耳の根元に触れながら確かめていると、グラスワンダーがピク、と身体を動かした。

 頃合いか、と僕は彼女の耳に巻かれているタオルを一つずつ取っていく。

 

「それじゃあ耳もだいぶ温まって来たみたいだし、そろそろ本格的な耳掻きに入っていくけど大丈夫か……ん?グラス、グラス…?」

 

「はぅっ! あ、はい、だ、だいじょうぶですよ!」

 

「もしかしてグラス……もう寝てない?」

 

「ね、寝てません……!私は寝てませんので…むしろ、寝ませんので!」

 

 口がだらしなく開いていたのだが、気のせいか。

 では、お互いに準備が整ったみたいなので本題の耳掻きを行っていこうと思う。

 

 

 蒸したタオルで湿った耳を一度乾いたタオルで拭いて、綺麗にした後に程よく熱を持った耳全体はこの上なく耳かきをするうえでベストな状態だ。

 

 

 僕はサイドテーブルに置いていたスーパークリークの耳掻き棒を取り出す。

 この耳かきはスーパークリークがストック用に保管していた耳掻きでまだ未使用だとのこと。

 貸してほしいと頼んだら、「そのまま差しあげちゃいますよ~、大切に使ってくださいね」と笑顔で言ってくれた。

 

 

 ありがとう、スーパークリーク。

 後でお礼をしなければならないな。

 具体的なお礼の内容も1オギャ、2ヨシヨシされることで手を打ってもらおうか。

 

 

 手に持ったのは竹製の匙だ。

 匙には大、中、小のサイズがあり、僕が選んだのは中の方。

 これからの耳掃除で必要に応じてサイズを変更していくつもりだ。

 

 片手で耳を支え、匙を近づけて耳と触れる直前でぴたりと止める。

 僕は、未だに目だけをタオルで覆っているグラスワンダーに言うのだ。

 

「グラス」

 

「はい……?」

 

「ギブアップしたかったらいつでもいいぞ。強制的に負けになるけど」

 

「ふふ、ご冗談を。心の中に抱く不退転に背きますゆえ」

 

「分かった。後で後悔するなよ?」

 

 

 かかったな、アホが!

 

 

 

 ディオに即席で作った必殺技サンダークロススプリットアタックを見舞ったダイアーさんのように不敵な笑みを浮かべて見せる。

 

 言質は取った。

 グラスワンダーは、どうやら耳掻きというものを舐め切っているようだ。

 ただ単に耳から異物を取り出す行為など、自分の冷静な思考と鋼の意思でどうとでもなると思っている。

 

 

 分かっていない。

 この耳掻きというものが、どれほど恐ろしいものなのか。

 固定観念に囚われているグラスワンダーに新たな境地を見せてあげるためにも、僕にこの任務の失敗は許されない。

 

 

 トレーナーとしての誇りに懸けて、僕はグラスのその身に「わからせる」しかないのだ。

 

 

「じゃあ、始めるぞ」

 

「……」

 

 やる事は同じだ。

 力を無理に入れずに、緩やかに。

 匙の裏側を用いてしっかり優しく押すように。

 直接、耳垢があるであろう奥側を攻めるのではなく、入り口の、しかも耳の溝部分から丁寧に。

 すぐに終わらせてしまっては意味が無い。

 

 

 手前手前、溝溝溝。

 引っ搔いていく必要は無く、少しでも押してあげればこびりついている耳垢がぽろぽろと落ちていくのである。

 これも、温タオルで耳全体を温めたことによって得られる効果だ。

 

 

「ん、ふ……ふ…っ…ぅ」

 

 匙が少しずつ奥へ進んでいく毎にグラスの身体が小さく反応を見せる。

 耳垢が乾いたタイプだったから、耳壁から剝がされていくのが気持ちいのだろう。

 

「痛くない?」

 

「は、ぃ……その、なん、というか……くすぐったくて……ぁ」

 

 

 ぺり……ぺり…ぺり、と垢をこそぎ落としていくと片方の耳がピクピクと震えている。効果は覿面のようだ。

 

 

「お」

 

 入口から大分進んだところで、匙の動きが止まった。

 何か、大きな硬い部分に進行を妨げられている。恐らく、より硬質になった耳垢が奥に潜んでいるらしい。大本命というところか。

 

 

 だがグラス、ここからが地獄だぞ。

 いや、地獄ならぬ、極楽、言い換えて獄楽だ。

 

 地獄の業火など生ぬるい、永遠に抜け出せない悦楽の沼に叩き落としてやろう。

 

 僕は手に持つ匙をくの字……つまり、本来の使用用途で持ち換えると爪のようになった先端を耳の内側に蔓延っている固形物の一部に引っ掛ける。

 

 

「ぁ―――っ!!」

 

 そこからのグラスワンダーの変化は劇的であった。

 一瞬だけ、一瞬だけであったが甲高い声を出した口をグラスは慌てて自らの手で塞いでいた。

 今の声が、自分の口から発せられたのかと疑うかのように。

 

「大丈夫?」

 

「え、ええ……たぶん、これが不調の根源なのですね……どうぞ、続けてください」

 

「分かった」

 

 

 ニチャアァ……というタオルで視界を塞いでるのをいいことに歪んだ笑みを浮かべる僕。

 ここにナイスネイチャがいたら、僕は迷わず先ほどの擬音をネイチャァ……していた。どうでもいい。

 

 

 ふふ、グラス。

 「声を出す」という事はお前にとって失態と思っているようだな。

 常に大和撫子で在れ、心に抱く不動の誓いである不退転は立派だ。

 それを守り続けるお前の事を美しく思うよ。

 

 

 だけど、それがお前の敗北する原因だ。

 

 

 今が本当の戦の時だ。

 いわゆる桶狭間、グラスという敵大将を討ち取る為に、いざ開戦の狼煙をあげよう。

 僕は脳内で法螺貝を吹いた。今こそ、スーパークリークの下で修業を積んだあの日々の事を思い出せ。

 

 

 カリ……カリ、カリ、石のように固くなった垢を端っこから引っ掻いていく。勿論、最低限の力で。

 

「ん―――っ……!」

 

 コリ、コリ、コリ……ザクッ、と引っ掻きによって生じた隙間に匙の先端が入り込む。その状態から、

 

「ぁ……く……ぅ…」

 

 グッ、グッ、ゴリ、ゴリ……パリッ、じんわりとした優しい力加減で匙を引くと、垢が剥がれるような乾いた感触が伝わる。

 今のでも相当大きな物だろう、だが、今のだけでほんの一部だ。

 

 

 もうグラスは気付いているかもしれないが、既に遅い。

 

 

 耳というのは、繊細な器官だ。人もウマ娘もそれは変わらない。

 耳道、耳の中には迷走神経というものが通っている。これは脳と末梢器官の間で神経を介して情報伝達を行う神経である。

 この迷走神経は上行性と下行性に分類され、一つは脳から末梢器官へ伝達する神経と身体活動を鎮静化する副交感神経によって構成されているらしい。

 

 

 これらの神経は活動が活発化することによって、食欲や血圧の低下にも関わってくる。

 しかし、ここまで聞いても、この神経が耳掻きとどう密接に関係しているのか、まだ理解できないだろう。

 

 

 迷走神経というのは刺激を加える事によって活動が活発になる。

 僕がさっきやったように、痛みを与えない強さで優しくだ。

 

 そうすると、一体どういう反応が出てくるのか。

 簡単に説明すると、人は迷走神経を刺激されると気持ちよくなる……つまり、快感が生じてしまうのだ。

 

 上手い人による耳かきが「あぁ~気持ちい」となるのもこれが要因なのである。

 迷走神経は精神疾患症状を改善する鍵となる神経だ。

 

 

 

 グラスワンダーが感じている快楽は恐らく、僕の想像を絶するものだろう。

 見てほしい、既に肩で息をしているかのように体力は削られ、小さな悦楽に染まった声が漏れてきている。

 僕が匙を動かして耳垢が剥がされていく度に身体が一々反応しているのだ。

 

 

「ほぅら」

 

「んぅ……っ!」

 

 ぺりっ、とまた大きな物が取れた。

 望みの物を取り出しているだけなのにグラスの脚が震えるように内股になり、息も荒くなっていく。

 

 

 グラス、お前は声を出す事に抵抗があるのだろう。

 立てば武士、座れば大和撫子、歩く姿は不退転を体現した少女。

 いっその事、声を出せればどれだけ楽だろうか。

 だが、心の内に持つその不滅の覚悟が自身を縛る呪いとなっていることに彼女は気付いていない。

 

 

 僕の前で耳かき程度で「声を出す事は醜態」と考えているグラスだからこそ、必死になって声を抑えようとする。

 声を抑えようとすればするほど、快感の度合いは更に強くなっていく。

 視界だってタオルで塞いでいるのだ。何も分からない分、あらゆる器官が敏感になるぜ。

 

 

 

 だけどグラス、知っているか。

 人間ってのは「痛み」に耐えることが出来ても、「快楽」に耐える事は出来ないんだぜ。どっかの同人誌で言ってた。

 

 

 人間、快楽には勝てないんです。

 最初は我慢できても、いずれは負けちゃうんです。

 僕だってスーパークリークに耳かきをしてもらった時は「ふ、こんなのに僕は屈しない!」という鋼の意思で耐えようとしたさ。

 けど5分後、鋼の意思程度の金スキルじゃクリークの耳かきには勝てない事を思い知ったよ。

 

 

 

 人間同様、ウマ娘も快楽には決して抗えない事を、僕は徹底的に彼女に教え込む……そう、徹底的にだ。

 

 

「ひ……ん、あ……っ!」

 

「どうしたグラス。声が上ずってるけど……ギブアップする?」

 

「ぃ、いえ……にゃ、んの、これしき…ぃ」

 

「ギブする……?グラス、ギブアップ?」

 

「の、のぅ…んぅ…です…」

 

 

 『世界で一番強くなりたい』。

 

 今のグラスワンダーはプロレスで逆エビ固めを掛けられて65連敗という不滅の連敗記録を打ち立てた萩原さくらのように直ぐに降参することはしないだろう。

 そんな鋼鉄の意志と鋼のような強さを感じる。

 

 

 だが、その我慢も時間の問題だろう。

 僕はここぞとばかりに、今もなお絶賛耳垢を採掘している匙の引っ掻く速度を上げた。

 

 カリ、カリ、という速度からカリカリカリ、と絶え間なく異物を引っ掻き続けている感触が伝わる。

 

 

「~~~~っ!!?」

 

 脳内が焼き切れてしまったとでもいうのか、一瞬呼吸が止まったグラスの背中がしなる様に逸れて、大きく喉元を晒す。

 相当の刺激が走ったようだが、これでもグラスは眠りにもつかないし、負けを認めるつもりもないらしい。

 

 

 意地を張り続け、必死に僕の魔の手に耐え続ける彼女はまるで悪の将軍に捕えられた姫武将の構図がしっくりくる。

 

 

『僕たちの手で辱めてやろうよ!!!』

 

 

 僕の中でカブトボーグのカツジが悪魔の囁きをしてくる。

 ただ耳掻きしているのに、耳掻きをしてる側の僕でさえ、なんかイケナイ気分になってきてしまった。

 これ以上長続きさせるのはお互いの精神にも肉体的にもよろしくない筈なので、そろそろトドメに入るとしよう。

 

 

 今こそ、快楽を知らない無垢なウマ娘を、地獄の沼に引きずり込もう。

 そう思い、匙を動かそうとしたその時だった。

 

 

『コンコンコン!ブラックサンダー、いるんデスかー?いたら返事してくだサーイ!』

 

「……!?」

 

「……!?」

 

 なんと、エルコンドルパサーが扉の向こうでドアのノック音を実況していた。

 幸い、グラスの名誉のためにカギは掛けていたので中を覗かれることはないが、エルコンドルパサーがここにやってきた理由は不明だ。

 

 不明だけど……エルコンドルパサーよ、実に良いタイミングだ。

 

「どうしたエルコンドルパサー」

 

 コリ……。

 

「――ひぁ!!」

 

 扉越しにエルコンドルパサーがいるにも関わらず、僕の匙を持つ手はグラスの耳掃除の為に再行動した。

 不意の耳かき動作に反応が遅れたグラスは突如として快楽に襲われて今日で恐らく一番大きな声を出してしまう。

 

『ン?今何か聞こえませんでしたか?』

 

「……いや、気のせいだと思うけど。それで、どうしたんだ?」

 

「~~~~っ」

 

 扉側が恐らく感じた違和感に動じることなく、僕は耳掻きを続けていく。

 

 

『えっと、こっちにグラスが来なかったデスか?最近寝不足で体調が悪かったみたいデスから、心配で探してたんデース』

 

 どうやら、グラスの同居人もグラスの異変には気付いていたようだ。

 こうして心配して、探してくれている。実に良い友人関係だ。

 

 だが、今の状況をコイツに見られるわけにはいかない。

 一応治療目的だけど、この場面を見られたらきっと皆があらぬ誤解を抱いて僕に批難を浴びせてくるのは目に見えている。

 

 だから白を切ることにした。

 その間も、匙は動きを止めずに徹底して耳掃除に勤しんでいる。

 友人が扉1枚越しに立っていて、自らに課されている修羅場のような状況だ。

 こんな姿、決してエルコンドルパサーに見せられない。

 

 その羞恥心を僕は最大限に利用する。

 

 

 

「いや、こっちには来てないよ。それより済まないが、今は新作ゲームの〝ゴースト・オブ・府中〟のプレイ真っ最中なんだ。

 ゲームの邪魔はしないでくれると有難い。」

 

 コリコリコリ……。

 カリカリカリ……。

 

「むぅ~~~くぅ……っ!!」

 

 肩がせわしなく左右に揺れて、身体がガクガクと痙攣する。

 両足のつま先は曲がり、両の手はシーツを握り占めて、口は必死に紡いで声を抑えている。

 だが、抑えているようで、抑えきれていない。次の刺激には恐らく耐え切れないだろう。

 

 限界か。

 それを察した僕は震えるグラスの口元に自身の手、掌根の部分を寄せるとエルコンドルパサーには聞こえないように耳元で小さく囁く。

 

「辛かったら、思いっきり噛め」

 

 グラスが頷いたのを見て、僕は奥の方で引っ掛かっている大きな違和感の塊を匙で引き寄せ、

 

 

「―――ッッ!!」

 

「んぎぃっ!?」

 

 ゴボッ、という異物が取れた感触と共に。

 ガブッ、と強烈な痛みが襲ってきた。

 

 

 

『なんと!あの話題のゲーム、〝ゴースト・オブ・府中〟ですか!?エルもやりたいデース!開けてくだサーイ!』

 

「駄目。今季のレースで決着をつけてから」

 

『ガッデム!頭の固い奴デース!』

 

 そう吐き捨ててエルコンドルパサーの足音が遠のいていく。

 どうやら危機は去ったようだ。

 やれやれと言った表情でため息をつくが、僕の右手にはいまだに痛みが走り続けている。

 

 

「ぐ、グラス、もう行ったぞ……行ったから、行ったぞー、おーい」

 

「ふーっ!ふーっ!」

 

 グラスワンダーは未だに僕の手に噛みつき続けていたのだ。

 荒い息を吐いている彼女に、もう大丈夫になった事を教えるべく声を掛けるが届いていなかったようで、空いてる手で肩をとんとん、と叩いてあげると漸く口を離した。

 

 

「はぁ、はぁ……」

 

 

 口が離れたのはいいものの、僕の手には見事な噛みつき跡が残っていた。

 ウマ娘の強靭な顎の力で噛まれたのだ、ただでは済まない。暫く跡が消えないだろう。

 

 そして真下を見て、グラスワンダーの顔を見るとその目元からは覆っていたタオルがずれ落ちていた。

 

 涙で潤ませた2つの瞳は僕を真っすぐ見つめて、まるで親の仇のように睨んできている。

 上気した肌、部屋の温度と湿度が上がっていたので首筋には玉の汗が浮かんでいた。

 

「すまん」

 

 咄嗟に僕が謝ると、グラスはやや間を置いてから消え入るような声で、

 

「………いじわる」

 

 自らの頬を朱に染めながら、そう呟いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 右耳の耳掻きも終盤に入る。

 粗方大物は仕留めたので匙で掻き出した後は梵天に切り替えて細かい耳垢を掃除している最中だ。

 

 

「……」

 

 グラスワンダーは口を聞いてくれない。

 というか、目を閉じたまま見向きもしてくれない。

 

 

 やり過ぎたか。

 

 思えば、友人にバレるかバレないかの羞恥プレイで散々虐めていたのだ。

 いつもなら薙刀を構えて襲い掛かってくるというのに、今回はそれすらもないのだ。

 

 遂に愛想を尽かされたのだろうか。

 

 怖いような、辛いような、上手く言い表せない不安が僕を襲う。

 言うが早いか、僕は己の罪を自覚し、意を決してグラスに謝ることにした。

 

 

「グラス、怒ってるか……怒ってるよな……。

 すまん、謝らせてくれ……調子に乗り過ぎた…僕もお前を苦しめるためにやってたわけじゃ―――って寝てるんかいッ」

 

 

 僕のシリアス上等の謝罪会見は、グラスの快眠によって即刻中止となった。

 というか、寝てるのかよグラス。あれだけ寝れないって言ってたのに。

 

 

「すー……すー…」

 

 

 静かに寝息を立てるグラスワンダーは穏やかな寝顔を浮かべていた。

 耳から異物感が無くなって負担が軽くなったからだろうか。

 部屋の温度も汗を掻いた彼女の為に少しだけ下げたのを思い出す。

 

 

 形はどうであれ、僕の当初の作戦は成功したようだ。

 ついでに、グラスとの勝負にも勝った。やったぜ。

 

 両耳の手入れを終わらせて、彼女が寝ているのであればこのままベッドの上を明け渡す事も考えた。

 借りていた道具ともいくつか返さなくてはならないし、別に僕は椅子やら床で雑魚寝をかますことだってできる。

 グラスの安眠を出来るだけ長いものに、最適なものにしたいと考えて僕は膝上のグラスの頭を静かにどかそうとした。

 すると、

 

「ん……」

 

 

 僕のちょっとした動作にグラスが身をよじった。

 身体を半身にして、自身の側頭部を僕の膝に擦りつける。

 これでは僕の身動きが出来ない。

 かといって、無理に引き剝がそうとしてはせっかく眠ってくれたグラスの安眠を妨げるというもの。

 

 

 仕方がない、これもグラスのためだ。

 ちょっとやりすぎたというのもあるし、これくらいの役、甘んじて受けよう。

 

 

 僕はグラスが目覚めるまで彼女の膝枕を続ける事にした。

 

 

「トレー、ナーさん……ど、こ……」

 

 寝言、だろうか。

 グラスワンダーが僕の名前を口にしていたのでよく見ると、僕の膝に彼女が手を乗せている。

 何かを探し求めるように、その手は彷徨っていた。

 

 眠りについた夢の世界で、どうやら僕の事を探しているらしい。

 

「夢の中まで僕はお前の面倒は見れないぞ」

 

 

 ふと、こんな事を考えた。

 グラスワンダーはどっちの僕を探しているのだろうか。

 トレーナーである山々田山能か、それともウマ娘ブラックサンダーか。

 

 グラスワンダーは人前で「トレーナーさん」とは言わない。

 彼女が僕をそう呼ぶのはいつも二人が一緒にいる時だけだ。

 僕の本当の姿など、暫く見せる事が出来ていないから。

 もしかしたら本当にグラスワンダーの前から居なくなってしまったと思い、夢の中で探し続けているのだろう。

 

 

 僕はどうしようもないトレーナーだ。

 実力あるグラスワンダーのトレーナーの管理を碌にできず、怪我をさせてばかりでシーズンの大切な時期でレースに出すことが出来なかった。

 

 

 〝ウマ娘の力を出し切れない、三流トレーナーだ〟ってマスコミには言われた。

 〝数年に一度の怪物という逸材を殺す気か〟、と同期に殴られたこともある。

 

 

 一度、僕にトレーナーという職は向いていないんだと辞表を考えたこともある。

  

 自信なんて、殆どあって無いようなもので。

 お前と見合う立派なトレーナーになろうと思って必死だった。

 小さくて、みみっちい男なのさ、僕は。

 でも、グラスはどうしてこんな僕と一緒に最初のトゥインクルシリーズを歩んでくれたのだろうか。

 

 

 それだけが、今の僕の頭の片隅に抱く小さな疑問だ。

 

 

 自分に自信を持てない、臆病で、どうしようもない僕、それが山々田山能。

 だけど、こんな僕でもグラスが求めてくれるのなら、どんな小さな事にも応えて見せたい。

 

「僕はここにいるぞ、グラス」

 

 僕が自身の左手をグラスの手に乗せると、彼女が僕の手を握って来た。

 それだけでグラスは安心しきった表情で眠り続ける。

 

 僕の方から時折手を握るとグラスの方から握り返してくれる。

 そんな幸せな夢を見ている彼女を見守り続けながら、僕達の時間は静かに流れていった。

 

 

 

 

 

 

 しかし、睡眠不足だったグラスが軽い睡眠で起きる筈がなく。

 彼女が目覚める頃、東から登った外の陽は西の方へと完全に落ちきっていた。

 

 

 時間にして6時間。

 当然、僕の膝は長時間の膝枕の姿勢によって筋肉が固まってしまい、酷い痺れによる形象崩壊を起こした。

 

 

 

 

「トレーナーさん、勝負の事なんですが……まだ()()()()()()()()が終わっただけですよね?」

 

「え?」

 

「私は一度も一回勝負と言っていなかったので。

 それに、これは私の精神の鍛錬にもなりそうなのです。

 ぜひ今後ともトレーナーさんにお願いしたいのですが……」

 

「……」

 

「ダメ、でしょうか」

 

「う、うん!そうだな!ああ、3回勝負なら仕方がないな!それにメンタルのトレーニングになるのだったらやっておいて損はないよな!」

 

「で、ですよ!そうですよ!鍛錬ならば仕方がありません!はい!」

 

 僕たちはお互いに示し合わせたかのように次の耳掻きの予定を決める事にした。

 耳にちょっと異常があっても、なくても、その日のグラスワンダーの気分でこの耳掻きは今後行われていく事になったのである。

 

 

 すっかり調子も良くなり、頭に付けた蒲公英のヘアピンをしたグラスワンダーは、とてもご機嫌のようだ。

 

 次の日から、僕達はいつもよりちょっとだけ仲良くなった。

 

 

 

 




迸る思いを文章にしたら凄まじい文字数になりました。
クッ、担当ウマ娘に耳掻きしてもらうシチュエーションを、何故今まで思いつかなかったんだ!


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episode0:とあるトレーナーのお話

前に書いてた山々田トレーナーがウマ娘になるまでのお話。
実は連載最初にこのお話からスタートする予定だったけど長過ぎるから止めて、あとで加筆、修正を行なって出そうという流れになりました。全部で4話構成です。


レオ杯無事にグレードBグループ決勝勝てました,
無事にグラスワンダーで差し切りました。


 夏休みと言えば、宿題だ。

 

 学生と言えば有無を言わさず各教科ごとの課題プリントが出されるし、読書感想文は僕の中で思い描くところ、最低最悪の宿題である。

 自由研究は朝顔の観察日記、段ボールやガラクタを組み合わせた怪獣の創作物で済ましてしまおう。

 

 当然、今の僕には先ほどまで述べた宿題の他にもやらなければならない事が多々ある。

 ウマ娘に対するレース研究、年内の出場レース予定、更なるトレーニング種目の模索、etc……。

 

 照り付けるような夏の暑さに僕は机の上に置いた作り置きしてある麦茶。

 その氷が崩れて鳴らした風鈴の如き音と共に一つ閃くものがあった。

 

 

「そうだ……あの時の経緯をちゃんと記しておこう」

 

 

 あれから随分と時間が経過している気がするが、詳細は思い出せるはずだ。

 なんせ、体験した事が体験した事なので、その内容が恐らく人生の苦難ベスト3内に選ばれるほどの強烈さを孕んでいたからだ。

 

 

 自身で購入したノートパソコンを立ち上げて、熱で故障しないように冷却ファンをパソコンの下に敷く。

 パソコンは型落ちしているものの、処理落ちすることなく問題なく機能する。

 そう、別に最新の機能なんて持ち合わせていなくていい、Wordや簡単なExcel、そしてインターネットが出来れば十分なのだ。

  

 

 なんだったっけか、タイピングしようとしても映像も特になければ頼れるのは自身の記憶のみという曖昧なもので。

 それでも、パソコンの前に向かってるけど内容が浮かばないから頬杖をついて1文字も打たずにパソコンの画面を閉じる二次小説家のようにはなりたくないので、なんとか脳内を働かせて文面を作り出す。

 

 

 数分後、なんとか纏まり始めたのでえいさ、と文字を打ち込むことにした。

 

 

 

 これより綴られる物語は、ある事件に巻き込まれてしまった一人のトレーナーと、とあるウマ娘の数奇なレースの記録である。

 

 

 

 

 

 

―――――――――――――――

 

 

 

 

 

 僕こと、山々田山能はトレセン学園に所属している現役のトレーナーだ。

 小学校の時のあだ名YYY、トリプルYと、よく同じクラスの生徒からからかわれたものである。

 

 むしろ、からかわれた程度で済んだことが幸いだろうか。

 

 

 僕は昔からスポーツに携わり、中学まで野球、高校から大学まで陸上競技と普通の男子が経験するような部活動に勤しんでいた、普通の学生生活をエンジョイしてきた普通の学生である。

 大学在学中にウマ娘のトレーナー職に興味を持ち、専門学校に入学後2年という期間を経て何とかURAのライセンス試験に合格した時に僕は内心、ほっと胸を撫でおろしていた。

 

 

 と言うのも、四年生の大学を卒業してから更に専門学校へ行くという僕の暴挙を当時の両親はあまり良く……いや、相当良く思っていなかったらしく、『試験を合格するまでは例え年末であっても帰ってくるな』と、両親との関係は絶縁一歩手前だったと言ってもいい。

 

 

 トレセン学園に来てから時間はあっという間だった。

 トレーナーになって、既に3年という年月が経っている。

 現在は先任のチーフトレーナーから任されたチームを運営する立派なトレーナーだ。

 そこそこの実力は身に付いたのではないかと思いたいところだが、ここまで来るのに本当に大変だった。

 

 

 僕の血の滲むサブトレーナー時代と、今のチーフトレーナー時代の事を説明するのはまた今度にするとしよう。

 その日の午後、トレセン学園に出勤した僕は火急の用とかで、この学園の生徒会長に呼び出された。

 

 

 

「生徒会長……皇帝・シンボリルドルフが一体僕に何用か」

 

 

 生徒会室の樫の扉の目の前で佇みながら、僕は身なりを整える。

 別に絶対王者シンボリルドルフと言っても肩書は生徒会長であり、このトレセン学園の生徒だ。

 メディアやファンでない限りそこまで畏まる必要は無い筈なのだが、扉の向こう側から伝わってくる威圧感が自然と『身なりを整えろ』と、そうさせる。

 

 

 ネクタイを締め、ボタンの付け忘れがないかを再度確認してみる。

 こういう時は僕の担当ウマ娘が毎朝通りがかった時にいつも確認してきていたことを思い出す。

 

 ふと、僕がシンボリルドルフに呼び出された案件を想像してみた。

 もしかしたら、僕の担当ウマ娘の件ではないだろうか。

 

 

『入ってくれ』

 

 

 樫の扉を数度ノックした後、柔和な声が扉越しに聞こえて僕は扉を開けた。

 目の前には客人用の長椅子とテーブル、そして部屋の奥の窓際には上質なマホガニーで作られたアンティークのデスクがある。

 まったく金がかかっているな、と思いながら僕はその机の上で積み上げられた書類の山を相手にしている三日月の白い前髪と鹿毛の長髪を併せ持つ少女を見る。

 

 

「呼びつけておきながら済まないが、少しだけ待っていただけると有難い。午後からの会議で使うこの書類だけは今のうちに終わらせたくてね」

 

 

 流麗にペンを書類に走らせる少女――、シンボリルドルフ。彼女はそう呼ばれている。

 

 

 『皇帝』、シンボリルドルフ。

 ウマ娘の世界で、シンボリルドルフを知らない者は居ないだろう。

 

 『無敗の三冠』、『史上初の七冠』、誰もが彼女を見て思い浮かべる言葉は最強にして絶対のウマ娘。

 その圧倒的な競走戦績を称えられて、周囲から付けられた異名は『皇帝』。

 トレセン学園にしてシンボリルドルフあり、とまではいかないかもしれないが、他を寄せ付けない実力から彼女は「絶対の強さ」を手にしていた。

 

 

 シンボリルドルフが手を止めるのに、数分と掛からなかった。

 頭脳明晰さはレースだけではなく、こういった事務作業をこなす方面へと生かされているのかと思うとトレーナーとしては頭が上がらない。

 彼女を育て上げたトレーナーはいかにして、彼女を最強のウマ娘まで導いたのか気になるところだ。

 

 

「待たせてしまったな」

 

「いや、問題はない。こう見えても、僕は辛抱強い方なんだ」

 

 

 僕のチームのニートウマ娘なら、空腹に苛まれてしまえば二言目には今日のご飯を催促してくる。

 最近のチームの状況を考えると、僕自身もストレスに対し耐性が付いたのは確かだ。

 

「なるほど……ふむ」

 

「どうしたんだ。シンボリルドルフ生徒会長」

 

「いや、〝辛抱強い〟、と……私の名前の〝シンボリルドルフ〟と掛けて一つ生みだせないものかと考えていてな……駄目だ、思いつかない」

 

「無理して作る必要はないと思うんだけど……」

 

「道は切り拓くものだ。無理をしてでも新たな境地を見出す事には意味があると私は思うのだがね」

 

 

 その結果として、彼女の御付きである副会長こと、エア・グルーヴの顔色が優れないのは新天地が他のウマ娘にとって次元を共有出来ないものだからだろうか。

 シンボリルドルフがこうやって軽い、というか、他のウマ娘のコンディションを下げかねないジョークを言い出し始めたのはどうやら自らの『硬いイメージ』を払拭する為に始めた事らしい。

 確かに、生徒会長としての立場上、ウマ娘の代表として在ろうとする彼女には中々声を掛けづらいのかもしれない。

 

 トレセン学園は人の学校で例えるならスポーツ推薦を受けて入学してきた者達が集まるエリート学園だ。

 その中で実力を発揮できず、数あるウマ娘の中で埋もれていくという例は珍しくもない。

 

 悩みを抱えてしまう者も多いから、会長である自分が少しでも話し相手になって解決へ導くことが出来れば、という生徒会長としての責任感があるのだろう。

 要するに、メチャクチャ大真面目な奴なのだ。

 このシンボリルドルフというウマ娘は。

 だからこそ、彼女は生徒会長として他のウマ娘から支持されているのだろう。

 

「山々田トレーナー、話を始めようか。実は君に伝えておきたい事があってね」

 

「すまない、そうして欲しい」

 

 多分、シンボリルドルフが口にしようとしている内容は僕が想像している内容と恐らく、一致するものだから。

 シンボリルドルフは手に持っていた一つの封筒を見せ、テーブルの上に置く。

 その机に置かれた封筒は達筆でこう、書かれていたのだ。

 

 

『退学届』、と。

 

 

「今朝、君の担当ウマ娘……グラスワンダーから、この学園を退学したいという相談を受けたよ」

 

 

 

 

 




みんなでフルアーマーフクキタルチャンを引こう!


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episode0:堕ちた怪物

アオハル杯、四回トライしてやっとクリアしました。イベントレースとURA決勝に出てくるリトルココンが強いのよ、マジで。
フルアーマーフクキタルちゃんツモれたので暫くはフクキタルメインでミッションこなしていこうかな。ハニバのミッションがアオハル杯育成20回とか長すぎんよ。せめて十回くらいにして……


 トレセン学園の授業日程は、主に午前が座学。そして午後はコースにて実技練習である。

 午前中は死んだ魚のような眼をしているツインターボも、午後の身体を動かすという実技になれば水を得た魚のように走り回る。

 

 試合が近いウマ娘は軽めの調整をしたり、普通に追い込みを掛けてトレーニングをしたりとレースに向けての取り組み方は様々だ。

 

 誰もが次の試合に勝つために、意欲的に練習に励んでいる。

 トレセン学園では当たり前となっている光景だ。

 

 

 うおおおお!とか、だああああ!とか車に匹敵するスピードで走っている彼女たちを見ているとかつての陸上競技時代のスプリンターとして、揺さぶられるものがあるが今はそういう話はナシだ。

 

 

「……お、いたいた」

 

 

 僕はルドルフとの会話の後、スキルである急ぎ足を発動させたかのような速さで練習場へと向かうと、コース全体を見渡せる芝生の上で一人佇んでいるウマ娘の少女を見つけた。

 

 

 栗毛の長髪を揺らし、碧の宝石のように綺麗な瞳をしたその少女こそ僕の担当ウマ娘。 

 

 

「グラスワンダー」

 

「あ……トレーナーさん」

 

 グラスワンダー。

 

 かつて、スペシャルウィーク、エルコンドルパサー……トゥインクルシリーズで『黄金世代』、『最強世代』を築き上げたウマ娘の一人。

 

 『希代のワンダーウマ娘』、それがグラスワンダーというウマ娘。

 『宝塚記念』、『有馬記念』を制した『グランプリ3連覇ウマ娘』。

 何度もケガに見舞われても、立ち上がり、重賞レースをもぎ取り、あのスペシャルウィークを打倒するほどの復活劇を見た者は彼女を『不死鳥』と呼んだ。

 

 

 立てば武士、座れば大和撫子、歩く姿は不退転。

 それを体現しているグラスワンダーと僕の……トレーナーとウマ娘としての付き合いは長い。

 

 

「どうしたんだよ、グラス。こんな所で……もっと近くで皆の走りを見ないのか」

 

「……ええ、遠くからの方が私も皆さんの走りを全体的に見渡せますから。それに、今の私の脚では下の方まで降りるのに少し苦労しますし……」

 

 

 お淑やかな、大和撫子そのものに憧れを抱き、いつしか日本伝統の文化を理解し過ぎて、武士のような心を持った彼女。

 勝負には不向きな性格とさえ言われたグラスワンダーはその心の奥に激しい闘争心を宿していたなど、誰も知る由も無かっただろう。

 実際に僕が他のウマ娘(ハルウララやマヤノトップガン)に話しかけている時は薙刀を持ち出してこちらの首を刈らんとする死刑執行人の如く襲い掛かってきた。

 笑顔で抱きしめようとしただけなのに、一体何が悪かったんだい?グラス。

 

 

 だが、今のグラスに武器を手に持ち、戦場に駆け出すような覇気はない。

 外で次のレースに向けて頑張るウマ娘を見ては、自らのギプスで固定された左足を一瞥する。

 

 

 彼女は今、故障中の身だ。

 

 

 グラスワンダーは栄光を掴んだ有馬記念の翌年、惨敗を重ねる事が多かった。その原因は『太り気味』。

 

 

 その年から、グラスワンダーは何故か食事を多く摂るようになっていた。

 普段から自己管理を徹底しているグラスワンダーの事だから、多少の食べ過ぎはあってもレースに影響するまでの事は無いだろうと考えていたが、この過信がいけなかった。

 僕はその時の僕に出逢たのなら次は全力で止めろと伝えたい。

 

 

 何とグラスワンダーはレースに影響するまでの激太り状態になっていた。

 僕だってトレーナーだ。これ以上の体重オーバーはレースに関わるので彼女に食事の制限を持ちかけたのだが。

 

 

『グラス!待て!それ以上は駄目だ!』

『はむっ、むっ!むぅ!』

『僕の手を噛むな!だからと言ってこら!タンポポまで食べ始めるな!』

『むぅう!むうぅううん!』

 

 

 グラスは止まらなかった。

 何かに取り憑かれたように目の前の料理を食していく彼女をトレーナーである僕は止めることが出来なかった。

 結局、重量増加によるパワーは上がったグラスワンダーではあったが、持ち前の末脚は圧倒的重量の前に見る影を失った。

 レース中盤からレース展開を運ぶ差し型のウマ娘である彼女にとって後半の追い上げが効かなくなるのは致命傷に近い。

 

 

 誰にも追いつけず、追い抜けず、スピードを上げれないまま、驚異的な末脚を欠いたグラスワンダーは掲示板を外す事が多くなった。

 

 

 年明けレース4連敗、という事もあって僕は強制的に食事の量に制限を掛けた。

 勝利を得ることが出来なかったグラスは言うことをやっと聞いてくれたのか、本来の食事量に戻り、トレーニング量も増え、順当に本来の体型に戻っていった。

 そして本来のスピードを取り戻してやっとこれから『怪物』グラスワンダーの復活だ。目に物を見せてやろう、と意気込んだ復帰戦。

 

 

 その日のレース、グラスワンダーは掲示板を外すだけでなく、レース後に左足の骨折が発覚した。

 普段の走りならば、恐らく彼女が勝っていたであろうレースだ。

 敗北した今でも、トレーナーである僕はそう思っている。

 

 

 敗戦、敗戦、敗戦、そして故障。

 過去のレースでも怪我に悩まされたグラスワンダーであったがその度に立ち上がってきた。

 だから、今回もまた不屈の闘志を燃え上がらせて立ち上がるだろうと、思っていた。

 

 

 だけど、今度ばかりはその不屈の闘志にヒビが入ってしまったようだ。

 あの時から、グラスワンダーは覇気を失ったようにぼーっとすることが多くなった。

 リハビリのメニューや復帰後のプランについてのミーティングもどこか遠くを見ているようで、その場に居ないかのようにグラスの耳に僕の言葉は届いていなかった。

 

 

 いつもの朗らかな笑顔は変わらなかったが、明らかにいつものグラスではなかった。

 専門医に聞いてみた所、一種のメンタルダウンという話だ。

 

 

 レースに何度挑めども勝利を得ることが出来ず、掲示板を外し続けたグラスには精神的なストレスが溜まっていた。

 それが自らの犯した過食だったとしても、それを克服するように努力して、我慢に我慢を重ねて、練習を重ねて、同時にまた身体に負荷を重ねていた。

 久しぶりのレースで加減も効かなかったこともあってか、自らの出力に身体がついて行かなかったのだ。

 

 

 

「それでも、立っているよりは座っている方がイイだろ?ほら、折り畳み式の椅子、持ってきたからさ」

 

「ふふ、準備が宜しいことで」

 

「そりゃそうさ。僕はグラスのトレーナーだからな……ほら」

 

 手に持っていた折り畳み式椅子を展開して足場の安定した場所に置き、グラスワンダーを手招きする。

 椅子はグラスが骨折してから、彼女が外出している時、僕が彼女に用があるときにその両方が重なった時の事を考えて自費で購入した。

 手招きに応じたグラスを支え、ゆっくりと座らせると、彼女の持つ松葉杖を受け取る。

 

 

 彼女が練習以外でここから風景を眺めることはよくある事だった。

 今まで怪我をした時も、こうやって他のウマ娘の練習を見て自分を奮い立たせるのが彼女の怪我をしたときの過ごし方である。

 彼女のトレーナーを続けていれば、その目を通して彼女の闘争心が溢れんばかりに燃え上がっているのが分かるようになっていた。

 

 

 だけど今、朗らかに笑みを浮かべるグラスの瞳には闘志は宿っていなかった。

 

「どう思うグラス。他の娘を見て」

 

 

「……はい、皆さんが気持ちよく走っている姿を見ると〝羨ましくて、いいな〟って思います」

 

 

 周りのウマ娘の走りを見ても、「いいな」としか思えない。

 昔ならば自らに不甲斐なさを感じ、羨むよりも、悔しいという気持ちが先に出ていた。

 今は悔しくないのだ。

 絶対に走りたい、という想いがない。

 次は絶対に負けない、という意思が無いのが僕にはわかった。

 

 

「……ごめんなさい、トレーナーさん」

 

「何に謝ってるんだ?グラス」

 

「生徒会長さんから既に聞いたと思います。私が、この学園を辞めたいという意志を伝えたことを」

 

 

 グラスは顔を見られないように、僕もまた彼女の顔を見ないようにした。

 スイーツ、スイーツと意味不明な声出しを行うウマ娘たちの練習風景を眺めながらグラスは続ける。

 

 

「己の限界を察してしまった。

 あれほど無様な(レース)をしたにも関わらず、私の胸からは熱が湧き出て来ないんです。

 授業中、いくら学業に励もうとも身に入らず、上の空……心ここにあらず。

 なにより、ウマ娘の本能である、〝勝ちたい〟という想いが湧いてこないんです」

 

 

 

 それは、恐らくウマ娘の誰もが恐れる怪我だった。

 骨折や、炎症などでは済まされないし、そんなものよりも厄介で治療も困難な怪我、『心の怪我』だ。

 『勝ちたい』、という欲求が失せるということはレースをするウマ娘にとって走る意味を失う事と同義だ。

 

 中には勝つことよりも走ることが楽しいという者もいるが、それはごく少数だ。

 全てのウマ娘の心の元に根付く、この勝利への欲求があるからこそ、ウマ娘は走り続けることが出来る。

 それが無くなれば、走れない。

 それが無くなってしまったら、彼女たちのレース人生は終わりだ。

 

 

「世間はこう思っているはずです。

 〝怪物〟グラスワンダーは『もう終わった』、と」

 

「ネットやテレビで流れている言葉をそのまま鵜呑みにするんじゃない、グラス」

 

 これも一つの心を病んだ原因だろう。

 グラスは連敗を重ねる中、シーズン中にネットを検索してヒットしたウマ娘の掲示板をトレセン学園理事長から見せられたことがある。

 推しのウマ娘を応援するサイトの中には、調子の上がらないウマ娘を罵倒するような連中も少なからずいた。

 ネットに住まう住民だから、彼らは容赦ない罵声を書き込むことが出来る。それは自分たちには危害を与えるものではないと分かっているからだ。

 例えるならそれは、虐めっこを遥か遠くの丘から一方的に投げつけるような行為だと言ってもいい。

 

 

 理事長はこの書き込みを消すように管理者に問い合わせ、処置をしてくれた。

 その後で、グラスワンダーの事を出来るだけ気にかけてほしいとも言われた。

 だけど、グラスはその書き込みを既に閲覧してしまった後だった。

 

 

「あんなもの、一時の物だ。言わせておけばいい、時間が経てば自然と―――」

 

「いいえ、世間だけじゃない……私自身でさえも―――」

 

「グラス」

 

「ごめんなさい」

 

 自分のウマ娘としての限界を、自分自身が見定めてしまったら、本当に終わりだ。

 他の誰でもない、自分自身で決めつけてしまえば、そこでグラスワンダーのレースは終わってしまう。

 だから、その先の言葉を僕は嫌でも言わせない事にした。

 僕自身でさえも、彼女から、そんな言葉を聞きたくはなかったのだ。

 

 

 だけど、彼女の口から言わせないだけで、こちらから掛ける言葉が浮かんでこなかった。

 こういう時、僕の先輩だったらなんて言うのだろうか。

 先輩は、僕がチームを運営する前に居た先任のチーフだった。

 優しく、だけど芯のある人でその人が良く言っていた言葉を思い出す。

 

 

『トレーナーがウマ娘に出来る事は、最大限、彼女たちの心に寄り添ってあげる事だ』。

 

 

 練習プラン、目標レース、コンディショニング管理、どんな形でもいい。

 ウマ娘が心に抱く想いを無駄にしない事、それが一番大事だと、先輩は言っていた。

 

 

 ウマ娘の心に寄り添ってあげる、というのは必ずしも正解がある分けでない。

 彼女たちを奮い立たせるために叱咤激励をすることもあれば、共に泣いたり、笑ったりすることもあるだろう。

 

 願いを一緒に叶えることも。

 願いを一緒に諦めることも。

 

 

 グラスワンダーの心は擦り切ってしまっている。

 自分自身の不甲斐なさと、世間からの心無い言葉に打ちのめされてしまった彼女にとっての『願い』は、レースの世界から去る事なのだろう。

 

 

 僕は二つの選択肢を迫られている。

 

 

 レース界から去りたいというグラスの願いを叶えてあげるか。

 レースの世界でもう一度輝かせたいという、僕の願いを諦めるか。

 

 

 どちらを取っても、地獄のような二択だ。

 彼女にとっても、僕にとっても。

 

 

 どちらが正解なんだろう。

 

 

 これ以上グラスが悲しむのが辛い、トレセン学園に居ることが苦痛だと感じるのであれば彼女の願いを叶えてあげるのが、トレーナーである僕に出来る事の一つだろう。

 これも、ウマ娘に出来るトレーナーが出来る事だと自身に言い聞かせながら。

 

 だけど、また彼女が奮起して、怪物と言われたあの頃のようにターフを駆ける姿を見たい。

 最高のウマ娘である彼女と、トゥインクルシリーズを駆け抜けていきたいと思う自分がいる事もまた事実だ。

 

 

 

「今日はもう遅い、辺りも暗くなってきた。体を冷やしたら、治る怪我だって治らなくなる……明日また話そう」

 

 

 他のウマ娘たちが練習を切り上げる夕方まで待って、漸く絞り出したセリフがコレ。

 最低最悪の魔王様びっくりの、引き延ばすことでしか場を繋ぐことが出来ない哀れなトレーナーが居た。それは僕だった。

 

 

 渋々頷いたグラスワンダーを寮前まで送り届けて、「またな、グラス」と声を掛けたがグラスは会釈をしただけだった。

 こういう時は上手く煙に巻いた、なんて思わない方がイイ。

 問題の先延ばしが良くない手段だというのは現代の政治の様子を見ていれば明らかであるのと同じように。

 

 

 まあ、こうやって彼女の決断を渋る行為を取っている時点で、僕の考えは大方決まっているようなものなのだが。

 如何せん、心も度胸も未熟な僕には彼女を納得させる自信が無かったのである。

 情けない話である。三年も彼女のトレーナーをやっているというのに。

 

 

「復帰プラン、考えないとな……先輩の書棚に人体医学の本が大量に積まれてたよな、アレ何本か借りさせてもらおう。

 桐生院から貰ったトレーナー白書もこの際、もう一度読み直してみるか……」

 

 

 全ての可能性を模索しなければならない。

 彼女が、グラスワンダーがもう一度ターフの上を走ってくれる可能性を。

 

 

「やれることは……まだあるはずだ」

 

 

 今日の夜は恐ろしい程に暗い。

 トレーナー宿舎に戻る途中、どうやら人気の少ない所に入ってしまったようだ。

 外灯の光さえも、この場所は微妙に届かない、完全な設備を揃えているトレセン学園にも穴というのはあるものだ。

 

 

 

 さて、こんなところで誰かに襲われたりしたら溜まったものではないな、と内心でそう思っていた時だった。

 

 

「えっ」

 

 

 次の瞬間、ゴンッという鈍い音が僕の後頭部から響いた。

 同時に途轍もない衝撃によって揺さぶられた脳は僕から言語能力と平衡感覚を根こそぎ奪い取る。

 

 道中に倒れるのは必然だったと言うべきだろう。

 僕は背後から不意に、何者かに殴られたのだ。

 

 正体が分からないが、このトレセン学園に侵入してこんな事をする輩に不審者以外の単語が当て嵌まらないわけがない。

 

 

 意識が朦朧とする。

 言葉を発することさえ出来ない。

 あぁ、三女神様、僕はここで死んでしまうのか。

 

 僕がここで死んだら、グラスは悲しむだろうか。

 

 

 そんな事を思っていると、僕を殴ったであろう犯人が僕の顔を背後から髪を掴んで持ち上げた。

 ダメージを負いすぎた僕の身体は抵抗も出来ず、成すがままである。

 犯人を一瞬だけ視界に収めたが背後の外灯とぼんやりとした視界が重なって、判別する事は出来なかった。

 

 

 犯人は空いている左手に持った何かを取り出すと、僕の口を開かせて、突っ込んだ。

 液体のようなものが口を通して、体内に入り込んでいく感覚を覚えたのも束の間、僕の意識は深い闇へと沈んだのである。

 

 



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episode0:僕は黒いウマ娘

熱中症らしい...頭が痛い


「……おい――、み―ーキミ、大丈夫かい?」

 

 

 声が聞こえ、目を覆いたくなるような光に充てられて僕は漸く目が覚めた。

 辺りを見渡すと、まだ外は暗いままで、倒れてしまった所をトレセン学園の警備員が見つけてくれたらしい。

 

 

「あぅ……ぁいた…」

 

 

 後頭部を摩ると尋常ではない激痛が走る。

 鉄パイプかバットで殴られたような感覚だ。

 

 

「頭は触らない方がいい、血が出てるから」

 

 

 慌てて警備員が所持していたタオルを手渡してきた。

 痛みのする後頭部にタオルを押し当てると布がじんわりと湿る感覚がある。マジだ。

 

 畜生、なんだって僕がこんな目に。

 

 犯人のヤツ、絶対見つけて警察に突き出してやる。

 そんな事を考えていると、警備員は無線機を取り出して何やら話していた。どうやら、他の警備員にも状況を連絡しているようだ。

 

 

「こちら警備員。学園敷地内にてウマ娘を発見した、頭部を怪我している模様……名前?ちょっと待ってくれ、確認してみる」

 

「ん?」

 

 さて、不思議なこともあるものだ。

 僕のように背後から襲われて怪我をしたウマ娘が他にもいるらしい。

 警備員はタオルで頭部を抑える僕に聞いてくる。

 

 

「キミ、名前は?」

 

「山々田山能です」

 

「ん?ヤマヤマダ……はて、初めて聞く名前だ……

 こちら警備、負傷したウマ娘の名前は〝ヤマヤマダ〟です。確認願いたい……繰り返す、負傷しているウマ娘の名前はヤマヤマダ」

 

 

 この警備員は一体何の話をしているのだろうか。

 目の前で怪我をしているのは間違いなく僕だろう。

 だが、周囲に僕以外の人間にウマ娘など存在しない。

 

 なのに、この警備員は「ウマ娘がいる」と言っている。

 まるで目の前の僕こそが、そのウマ娘であるかのように。

 肌で感じるこの状況の不可解さに思わず僕も口走る。

 

 

「す、すまないけど僕以外に頭を怪我した者がいるのか?見たところ、周りにウマ娘なんて―――」

 

「何言ってるんだいキミは」

 

「いや、僕もこうやって冷静に会話をしているつもりだけど、頭の方は結構パニックになっているんだ。

 僕は夕方担当のウマ娘と別れてここを歩いている途中、背後から謎の誰かに襲われた不幸なトレーナーなんだ」

 

「あー、ちょっと待ってくれ……こちら警備、どうやら負傷者は頭を強く打った影響で錯乱している模様。

 具体的に?えー……自分の事をウマ娘ではなく、トレーナーだと言っています」

 

 

 どうしてだろう。絶妙な程に会話が嚙み合っていない気がする。

 そんな気がした僕はふと、自らの身なりを見た。

 普段から着こなしているトレーナーとしての仕事着であるスーツがやけにぶかぶかだった。

 まるで175センチ体重68キロの僕の身長体重に合わせていたスーツがここまで変形するなど、僕は気絶している間に劇的なダイエットをしてしまったというのか。

 

 

 

「袖が余って手が出てこない……」

 

 まるで僕のチームのニートウマ娘のようだ。

 脳が麻痺しているのか、特にそれ以外の感想を思い浮かばなかった僕は余った袖をまくり、自分の手を外気に晒す。

 

 

 あれ、とまたしても疑問が浮かんだ。

 

 僕の手はこんなに少女のように小さく、肌白いものだっただろうか。

 頭がやけに重いと思ったら、黒のスポーツヘアだった僕の短髪は地面に垂れるほどの長髪へと変化していた。

 

 

 そこで初めて、僕は自分自身に想像を絶する変化が起きている事を察知した。

 

 

 

 大きすぎて嵌らない革靴。

 大きすぎてダボつくスーツ。

 存在するはずのない頭部と臀部の生えた耳と尻尾の違和感。

 

 

 これじゃまるで、

 

 

「まるで……ウマ娘じゃないか」

 

 

「だからさっきから言ってるじゃないか。この場所で倒れていたウマ娘っていうのは、キミのことだよ。

 とりあえず、頭を怪我してるみたいだから医務室に連れていくからね」

 

 

 警備員は、漸く状況を理解したようだな。といった顔だった。

 僕は当然、そんな状況を一ミリとて理解したつもりはなかったが。

 

 

 

 連れていかれた医務室に置かれていた鏡を通して僕の姿を確認して、愕然として、一つだけ納得した事があった。

 

 

 僕、トレセン学園のトレーナーこと山々田山能はとある事件に巻き込まれ、人間の身体からウマ娘になってしまったということを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺は人間を辞めるぞ、JOJO。

 そんな悪役の脳内台詞を再生しながら、僕こと、山々田山能は自身に起きた状況を口にする。

 

 

「僕はひょんなことからウマ娘になった」

 

「そんな夢のような話を信じると思うかい?」

 

 敢えて口にする。

 突拍子もなく、堂々と、さもそれが当然であるかのように。

 

 

 この学園の生徒会長であるシンボリルドルフに。

 

 

 深夜時間ということもあったあの後、僕は警備室の寝室で一夜を明かした。

 ウマ娘であり、少女である僕に気を利かせてくれたのか警備員たちは皆優しく、温かいミルクを差し出したり、簡易なベッドメイクまでしてくれていた。

 

 

 少女だと思っていた相手が実は中身男だったと気づいた時の彼らの反応が見て見たいものである。

 ふと、部屋に掛けられている時計を見た。今は朝の8時。寝たのが確か夜の11時を過ぎていたから、8時間は寝たことになる。

 

 8時間。

 これは破格の睡眠時間だ。

 トレーナーをやっていると担当ウマ娘のトレーニングやら試合日程やら考えたりする為に調べ物をする結果、必然と睡眠時間は削られている。

 最近はチーム運営を任されたこともあって平均的な睡眠時間は4時間を切っていた。

 

 だから僕にとって8時間の睡眠はご褒美のようなものである。

 

 

 さて、話を戻す事にしよう。

 1日経って朝を迎えた僕は色々と忙しかった。 

 学園内にヤマヤマダというウマ娘は所属していない。

 存在しないウマ娘がここにいるのってかなり不味くないか?と周りにちょっとした緊張感が走ったのを感じた僕は一言、『生徒会長、シンボリルドルフに会いたい』と伝えた。

 

 彼女なら分かる。

 皇帝の心眼なら、この僕を山々田山能として分かってくれるはずだ。

 そんな謎の確信があった。

 

 

 寮長であるヒシアマゾンに連絡を入れて、身元不明のウマ娘を保護しているという情報をシンボリルドルフに伝える手筈になった。

 そして別室へと移動し、部屋には生徒会長と僕の二人きり。

 外では警備員が「もしも」の場合に備えて待機している。

 

 

 そんなこんなで漸く生徒会長との面談が実現したわけだがものの一手で終わりを迎えようとしているコレでは不味い。

 

 

「この学園のデータベースにキミの名前は入っていなかった以上、キミはこの学園の生徒ではないウマ娘だ。

 しかも、グラスワンダーの担当トレーナーである彼の名前を利用するなど、言語道断」

 

 不味い、シンボリルドルフは僕に対して不信感を持っている。

 姿も全く違うウマ娘が昨日会ってる同じ名前の人物の名を使っているのだから、それも当然か。

 

 

「仮に、キミがグラスワンダーのトレーナーで昨夜本当に何者かに襲われて、目が覚めたらウマ娘になっていたという話が事実だとしよう。

 昨夜から山々田トレーナーはアパートにも帰っていないようだし、今日の朝もまだトレセン学園には顔を出していない。

 この時間の前には彼は必ず学園の門をくぐっているのを私は何度も見ている。実に彼は勤勉なトレーナーだ。

 そんな彼がこの時間帯までやってこない、そしてキミが着ている衣服とトレーナーバッジから察するに、彼に何かがあったのかは間違いはないのだろう」

 

 

「事務処理仕事が終わらないのはどこのトレーナーも一緒だと思うけどな。

 僕のチームの場合は、朝飯を寄こさないと餓死するニートウマ娘がいるから、その準備だ。

 けど、そこまで予想がついているのなら話は早いな。

 信じてくれるのかい、生徒会長」

 

「いや……あくまで仮の話だ。

 そして、予想するのは容易い。

 しかし、それが真実であるかは誰も分からない。

 山々田トレーナーと私は昨日出逢った()()場所で交わした会話が初めてだからな」

 

「昼過ぎの生徒会室だろ。グラスの自主退学の件で話をした」

 

 

 揺さぶりを掛けられている。

 昨日だけの会話の内容に齟齬が無いか、シンボリルドルフの会話には場所や内容を伏せている。

 僕とルドルフだけにしか分からない会話だから、僕が一つ一つ、ルドルフの言葉に付け加えて返答していくことを求められる。

 

 

「学園でグラスワンダーの噂を聞きつけた者がいるのかもしれんな。

 ちなみに彼女は、怪我をした箇所はどこだっただろうか」

 

「左足だ。左第三中足骨骨折……怪我自体は大したこともない。

 あと数週間のうちにはギプスは取れて、年内には走ることは可能だ」

 

「私はその時、何に悩んでいただろうか」

 

「シンボリルドルフと辛抱強いを強引に掛け合わせたギャグを生み出そうとしてたけど失敗してたよ」

 

「失敗は成功の母というだろう」

 

「この期に及んで開き直るか」

 

 皇帝と僕の問答は10分以上繰り広げられた。

 

 

 グラスワンダーの身長は何センチだとか。

 好きな食べ物と嫌いな食べ物は何なのか。

 休日はどこに行くのが多いのか。

 キミはグラスワンダーとお出かけをしたことがあるのか。

 両親はキミの存在を知っているか。

 

 

「グラスワンダーはもう終わった……世間一般の言葉を、君はどう見る」 

 

 

 僕がシンボリルドルフにトレーナーであることを証明するはずが、途中から明らかにグラスワンダーテストになってきたことに違和感を抱き始めた頃、シンボリルドルフはそう言った。

 

 恐らく、ルドルフのこれまでの質問はあまり、意味が無いものばかりだった。

 唐突にレースに臨むかのような威厳さを醸し出すルドルフを見て、僕は悟った。

 恐らく、これが本命の質問なのだろう。

 

 

「僕はそうは思わない」

 

「何故だ?」

 

「さっきも言ったが、怪我はちゃんと治る怪我だ。復帰トレーニングを経ていけば確実にまた走れるようになるし、レースにだって出場できる。

 グラスワンダーは……終わったウマ娘なんかじゃない」

 

「だが、本人の心は屈しかけている……そこから再び戦いの道に戻すなど、彼女に鞭を打つような行為だと思わないか?

 再び打ちのめされ、二度とターフに立てなくなるかもしれない」

 

「そんな事にはさせない。その為に、僕らトレーナーがいるんだ。

 これは……どちらかというと、僕のエゴだ」

 

 

 そうだ。エゴでも何でもいい。

 もう一度、グラスワンダーの走る姿を見て見たいという僕の願いであり、エゴだ。

 

 

「彼女の走りを、片時とも忘れたことは無い。

 彼女の走って来たレースの事は今でも僕の記憶に焼き付いていて離れない。

 デビューの時も。

 朝日杯も。

 毎日王冠も。

 宝塚も。

 有馬記念も。

 僕は彼女の走りに夢中だった。 

 いつの間にか勝利を期待して、勝手に期待と夢を乗せていたグラスワンダーのファンの1人になっていたのさ。

 彼女は僕の最推しウマ娘なんだよ」

 

 

 推しのウマ娘に、もう一度元気な姿で走ってもらいたというのはファンならば当然の思考だ。

 

 

「だから僕は、彼女を支え続ける。

 グラスワンダーのトレーナーとして、彼女に魅入られた一人のファンとして。

 この姿になっても、この想いだけは変わらない、絶対だ」

 

 

 例えどんなに月日が経ったとしても。

 例えどんなに年老いて、外見が変わったとしても。

 例え僕の命が明日尽き果てるものだったとしても。

 

 

 僕は、山々田山能は永遠にグラスワンダーを支え続けるトレーナーとして、ファンとして居続ける。

 それだけの覚悟なら、僕はもう既に持っているのだ。

 

 

 それを聞いたシンボリルドルフが「君は……」と口を開く。

 

 

「山々田トレーナーの話は、私も周りからの話しか聞いたことが無かった。

 彼を知る者曰く、

 『身長の低いウマ娘にちょっかいを良く出す』

 『そのせいで担当ウマ娘に薙刀を持ち出され、追いかけ回されている』

 『グランプリ三連覇などというマグレの功績に調子づいた新米トレーナー』

 『トレーナーとしての実力は無く、全てはウマ娘の能力に依存した結果』……とか」

 

 

「随分と不名誉な言われようじゃないか」

 

 

 他のウマ娘とかとのスキンシップは必要不可欠だ。偵察を含めてな。

 デビューした最初の三年のトゥインクルシリーズで、僕とグラスが叩き出した功績は称える者も多ければ、新米の身である僕が成果を出したことを快く思わない者達もいるのは既に知っている。

 

 

「だが、〝ウマ娘と真摯に向き合うことを大切にしていて、担当ウマ娘の事をちゃんと考えている奴だ〟。

 彼の事をそう言っている人物もいるのだよ……私の身近な人物だがね」

 

 

 それがもしかしたら、シンボリルドルフのトレーナーだと思い、僕ははて、と頭を捻る。

 シンボリルドルフのトレーナーとは一度も会話も、何だったら今まで顔を合わせたことなど一度もない。

 どこからか遠くから見られていたのだろうか。それにしても、彼女のトレーナーが僕の事をそう評価してくれたのは少しばかり嬉しくなると同時に背中の辺りが痒くなる。

 

 

「私も昨日彼と話をしていて、彼が自分の担当ウマ娘を考えている人物だというのは分かった。 

 そして、担当ウマ娘もまた同じ……『情意投合』、二人の情熱と意志は常に共にあるのだな」

 

 

 羨ましそうにシンボリルドルフは笑った。

 一瞬だけ凛々しい顔が砕けて、現れた微笑みに思わず面を食らったがすぐに元の皇帝の顔つきに戻り、

 

 

「キミの担当ウマ娘を思う気持ち、確かに私が昨日会った山々田トレーナーを感じさせる。

 理由はどうであれ、キミがグラスワンダーのトレーナーだという話、私は信じてもいい」

 

 本当か、と再度聞こうとしてシンボリルドルフは掌を前へと翳す。

 

 

「もう一人だ。もう一人、キミが山々田トレーナーであることを証明するために呼んでいた者がいる―――入ってくれ」

 

 

 ガチャリ。

 部屋の扉が開く音がして振り返って、そこに居た人物に僕は目を見開いた。

 

 

「グラス……!」

 

 

 グラスワンダー。 

 僕の担当ウマ娘だった。

 

「他ならぬ、キミの担当ウマ娘がキミを認めるならば、私もキミの事を信じよう。 

 故に、彼女が認めないのであれば、キミは山々田トレーナーではなく、ただの不法侵入したウマ娘だ……警備員と連絡をとって、すぐにでもこの学園から追い出す」

 

 

 それは限りなく皇帝としての凄味を感じさせた最後通告であった。

 シンボリルドルフは最初からこの話を受けた時からグラスワンダーを質問にぶつける事を考えていたのだろうか。

 

 

「……」

 

 

 グラスワンダーが僕の顔をジーっと見つめてきている。

 碧の瞳が真っすぐに、僕の表情を、仕草を一つ一つを見据えて、それらを判断材料としていく。

 

 

 グラスが僕だと分からなかったら、どうなってしまうのだろうか。

 グラスに見捨てられてしまったら。

 そんな事を考えると胸が少しだけ痛みを感じた。

 やがてグラスワンダーが口を開く。

 

 

「嘘……こんな事が」

 

 

 まるで信じられないものを見たようで。

 グラスは僕の頭に触れて、耳を触り、顔の輪郭をなぞる。

 

 

「本当に……トレーナーさんなんですか……」

 

「グラス……こんな姿になっても、お前は僕の事が、分かるのか」

 

「ええ、何故だかわかりません……でも、不思議と私には分かるんです。

 あなたが私の知っているトレーナーさんなんだってことが」

 

「グラス!」

 

 

 思わず、僕はグラスワンダーに抱き着いた。

 僕を僕と理解してくれた嬉しさから。

 ずっと闇の中にいるような孤独感から救い出してくれた。

 地獄の中で仏に出会ったような、砂漠の中でオアシスを見つけたかのような喜怒哀楽の頂点を極めたかのような感覚だ。

 

 

 至極の感情をどう表現していいか僕自身も分からない。

 それならばいっそのこと、声に出して、その身をもって表現するべきだと僕は考えた。

 担当ウマ娘に抱き着く、その行動へ移すのは自然の流れだ。

 

 

 とは言え彼女は怪我をしていて松葉杖を使用している身だ。

 彼女が倒れないように最善の注意を払って、包み込むような優しさで抱きしめる。

 

 

「え、ええぇ……っと、よしよし……あの、トレーナーさん……会長も見ている事ですから……その…」

 

「……」

 

「急に真顔になるな……そういう事は家でやれ」

 

「家でなら良いのか生徒会長」

 

「良い訳ないじゃないですか!」

 

 

 傍で担当ウマ娘と感動の再会を果たしていた所を腕を組みながら見つめてくるシンボリルドルフだったが、僕が真顔でグラスから離れたことに対してのツッコミが入る。

 ボケ担当かと思いきや、この皇帝、もしかするとツッコミの才能もあるかもしれない。

 

 赤面するグラスを他所に、僕の脳が急激に冷えていく。

 外から直接冷や水をぶっかけられたかのように、だけど胸の内が少しだけ熱くて、それが羞恥心だということに蓋をして、黒の長髪を靡かせた。

 

 

「僕をこんな目に逢わせたヤツに天誅を下す」

 

「アテはあるのか?」

 

 

 シンボリルドルフの言葉に僕は頷いて見せる。

 当然だ。

 こんな常軌を逸した現象を作り出せるヤツなどこの学園において可能な者はただ一人。

 

 

 

 




この作品のルドルフは時々ルナる


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episode0:始まりの稲妻

episode0は今回でラストです。



 

「アグネスタキオン!」

 

 

 そのウマ娘がよく好んで籠っているラボの扉を開け放つ。

 陽の光も通さない漆黒のカーテン、足元には暗くて良く分からないが無造作に置かれた資料の山らしき物。

 一言でいえば、足の踏み場もない、薄気味悪い倉庫みたいな部屋の中で妖しく光り輝く試験管を片手に、一人のウマ娘が佇んでいた。

 

 

「おや?おやおやぁ?やれいきなり押しかけて来たウマ娘がいると思えば、グラスワンダー君と……見知らぬウマ娘がいる。君は誰だい?」

 

 

 扉を開けた僕の姿に気づいた学生服に白衣を着たウマ娘、アグネスタキオンがこちらを向く。

 真横にある室内灯のスイッチをオンにしてみる。

 突然明るくなる室内に、アグネスタキオンは目を手で覆った。

 

 

「何をするんだい。目が焼けてしまうよ」

 

電気の光如きで何を言っている。

外の陽の光を浴びたら溶けるのか?

僕は自らを指さしながら彼女に告げる。

 

 

 

「アグネスタキオン、僕だ。グラスのトレーナーの山々田だ。

 答えるだけでいい、内容はたった一つ。

 昨日帰宅途中の僕を黒ずくめの男ばりに殴って怪しい薬品を飲ませたのはお前だな、タキオン」

 

 

「ん?」

 

 

「なんだ。もう一回言ってやろうか。それともシラを切る気かアグネス。

 お前の怪しい薬のせいで、僕がウマ娘の姿になってしまったというのに。

 正直に言えば、八割程度のなます切りで許してやる。

 これでも穏便に済ませたいとは思っているんだ。

 さぁ、さっさと自ら犯した罪を認めるんだ、アグネスタキオン」

 

「悪いけど知らないねぇ」

 

 

「ほぅ、知らない。そうかそうか、知らないなら仕方ないな。

 僕もこんなナリにされたせいで些か頭に血が上っているようだ。

 善良なウマ娘であるお前を疑って悪かった今回の事は水に流して忘れてく――――ちょっとまて、知らないとはどういう事だアグネスタキオン」

 

 

「知らないものは知らないと言っているんだ。

 ましてや、目の前にいる初対面のウマ娘が()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()山田トレーナーな訳がない、信頼性に欠けるね」

 

 

 矢継ぎ早に繰り出される僕のセリフにアグネスタキオンは頭部を掻いた。

 彼女は気怠そうに腕を組み、こちらの姿を一瞥する。

 

「名前一文字減らすだけで一気にモブキャラ化したぞ。 

 アグネスタキオン、僕の名前を間違えるな、僕の名前は山々田だ」

 

「証明してみ給えよ。キミが私の知っているヤマトレーナーだと」

 

「なんだろう。そう言われると、なんだかとっても歳をとったベテラントレーナーみたいにカッコよくなったから、むしろそっちの名前に改名したい気分だ」

 

 

 埒が明かない。

 話を円滑に進めるために、僕は彼女の提案を受け入れることにした。

 僕が僕だという証明……数十分前にやった同じことを、なんでまたコイツにしなくちゃならないのか。

 

 

「イイだろう。僕がお前の知っている山々田トレーナーだという事をその身を以って味合わせてやる」

 

 

 アグネスタキオンに示すやり方は簡単な手法である。

 とある事情で僕は彼女に良く食事を作っている。

 家庭科室を丸ごと借り切ったこの居城で良く引きこもるアグネスタキオンはあまり健康管理に気を遣わない。

 ウマ娘のトレーナーとしても栄養管理を行うことも仕事の一つだ。

 

 

「トレセン学園のトレーナーの中でも唯一スクランブルエッグを得意とする僕の料理に舌鼓を打つがいい」

 

「今日は和食の気分なんだが」

 

「冷蔵庫の中にはウィンナーと卵、それとレタスくらいしかない。諦めろ」

 

「えー!!」

 

 

 調味料は確か棚の中にあったな。

 ここで良く料理をするから、いつでも彼女にご飯を作れるように材料を買い足しておいたのを思い出す。

 冷蔵庫の中は必要以上に物を入れると余らせたりしてしまうから、中身は基本少ないのだ。

 

 

 見つけた材料は卵、トマト、バター、トースト、ホウレンソウ、ベーコン。

 幸いなことに家庭科室であるこの場所にはある程度の調理器具が揃っている。

 今日はこれで簡単な朝食を作るしかない。

 

「トレセン学園のクッキングパパと言われた僕の料理を見せてやろう」

 

「キミはいくつ渾名があるんだい?」

 

 

 調理時間、約十五分。

 家庭科室の後片付けを済ませたテーブルの上、アグネスタキオンの眼前には僕の料理した品が並んでいる。

 

 

「ふぅン」

 

 

 卵とトマトのスクランブルエッグ、ベーコンとホウレンソウのバター炒め、ジャムトースト。

 トレーナ室に残っていたコーンスープを付け足して、彼女の朝食は完成した。

 

「いただきます」

 

「いただきます」

 

 アグネスタキオンが箸を取り、手始めにスクランブルエッグを食す。 

 とろとろのスクランブルエッグに炒めたトマトが酸味を利かせているため、ケチャップなどは必要ないのがポイント。

 

 

 というか、なんでグラスまでしれっと混ざって飯食ってるんだ。

 まぁいい、料理というのは一人で食べるよりも誰か一緒に食べた方がいいからな。許そう。

 

 

 二人は淡々と箸を進めていく。

 調理した僕からすると、料理を口にしてどのような感想を抱いたのか、ぜひ聞かせていただきたいところだ。

 そう思っているとアグネスタキオンが箸を置いた。

 

「感想を利かせてもらおうかアグネスタキオン」

 

 

 アグネスタキオン、彼女は頑なに僕の料理に難癖をつけるわけではないがはっきりと美味しいとは言わない。

 どんな力作を用意しても、「ふぅン」とか「まぁまぁだね」という微妙な評価で終わるのだ。

 今日こそは、彼女の口からウマいと言わせてやりたい。その一心で、僕は日々料理作成に力を注いでいる。

 

 

 アグネスタキオンが口を遂に開く。

 

「このスクランブルエッグを作ったのは誰かね?」

 

「なんでいきなり美味しんぼになるんだよ。海原雄山かお前は。というか、作ったの僕しかいないだろそこで見てただろ」

 

「女将を呼べッ」

 

 いねーよ。

 だからなんで頑なに美味しんぼ推すんだよ。

 

 

「トレーナーさん、これは……」

 

 おお、グラス。

 和に心を住まわせる撫子、グラスワンダーなら僕の料理に真っ当な感想をくれるはずだ。

 さぁ、そこの自称・海原雄山という名のニートウマ娘より優れた食レポを頼む。

 

 

「このホウレンソウ、シャッキリポンと舌の上で踊ります! 

 柔らかで優しい味!胃の悪い人なんか、これ一口食べただけで治っちゃいます!」

 

「それはヒラメを食べた時の感想だ!ホウレンソウじゃないだろ!!なんだよホウレンソウが舌の上で踊るって!」

 

 こいつらなんでここまで結託して美味しんぼ推すんだよ。

 クッキングパパでいいだろうが。いや、料理漫画を前提に話を進めている僕も大概なんだけど。

 

 

「ふぅン、まぁまぁかな」

 

「こ、こいつ……」

 

 結局、最終的にはいつもどおりの感想を残してアグネスタキオンは僕の作った朝食を食べつくしてしまった。

 少しばかりイラっとくるが、仕方がない。今度こそ彼女が舌を巻くような料理を作り出して見せるだけの事。

 

 アグネスタキオンも、こうやって一言余計だがちゃんと出されたご飯を食べてくれるようになっただけで()()な方である。

 以前は、()()()()()()()……というか、僕が料理を作ってやるまでまともにご飯を食べようとはしなかったのだ。

 

 

「山々田トレーナーくん、おっと今はブラックサンダーだったか。

 せいぜい次の料理では精進し給え、せめて()()()()()()()()()()()並に私を喜ばせられる料理を作ってくれないと、私をぎゃふんと言わせられないぞ?」

 

「……アグネスタキオン」

 

 

 彼女の言う、「前任のチーフトレーナ」。

 僕らのチームにはアグネスタキオンとグラスワンダーのみ。

 今こそ、僕がチーフトレーナーだったが二年前、僕よりも前にチーフトレーナーが居て、このチームの運営を行っていた。

 

 

 彼は僕の先輩トレーナーだった。

 そして、彼女……アグネスタキオンの専属トレーナーだった。

 

 グラスワンダーはアグネスタキオンの後輩で、僕らがトゥインクルシリーズを走る頃アグネスタキオンと先輩はクラシック期の半ばに踏み込んでいた。

 トレーナー間で、仲はそれほど悪いようには見えなかったと思う。

 なんなら、僕と先輩でアグネスタキオンの実験に巻き込まれて半日ほど虹色に光らされた時だってあったくらいだ。

 

 

 あの時のアグネスタキオンはちょっと狂ってたけど、愉快な奴だった。

 担当トレーナーの前だと、良く笑ってて、先輩も一緒に狂ったような感じで笑ってた。

 お似合いな二人だよな、オイって陰で言ってた。

 

 

 だけど先輩は……アグネスタキオンのトレーナーはチーフトレーナーの運営を僕に任せて、僕達の前から姿を消した。

 アグネスタキオンに何も告げず、二年間、トレセン学園に戻ってきていない。

 

 僕や学園も手を尽くしたけど、駄目だった。

 先輩の家族にも「しばらく家を留守にするから連絡できない」と電話で言われて、それっきりだそうだ。

 

 

 そこから、アグネスタキオンは自堕落な生活を送るようになった。

 遅刻の常習犯、三食抜きは当たり前、図書室や使っていない家庭科室を根城に研究の毎日。

 栄養失調で保健室に運ばれる事が当たり前になっていて、身体を壊していく彼女を見ていられなくなったから僕が料理を作るようになった。

 

 

 アグネスタキオンのトレーナーである先輩は、とある事をきっかけに彼女に弁当を作るようになったのだという。

 味を占めた彼女に昼と夜も作れよとだだを捏ねられるのは想定外だったと酒の席で僕に半笑いで言ってたっけ。

 これが功を奏し、僕の作ってくれたご飯でも食べてくれるようになったアグネスタキオンは徐々に体力を取り戻し、今に至る。

 だけど、レースに出れない現状は、変わっていない。

 

 

 僕は虚空を見つめて思いを馳せる。

 

 

 

 先輩、あなたのアグネスタキオンはここまで元気になってますよ。どこにいるんですか、先輩。

 早く戻って来てくれないと、彼女はますます増長して、その内「ポン酢の〝ポン〟とはなんだ、とか言い始めかねません。

 早く帰ってきてください、先輩、マジで。

 

 

「ちなみに山々田トレーナーくん、ポン酢の〝ポン〟とはなんだ」

 

 

 あぁ、遅かった……先輩、助けて。

 

 

 

 

 

 

 結局アグネスタキオンが僕をウマ娘にした真犯人だとかと言った真相は分からずじまいで、何もかもが迷宮入りになってしまった。

 今僕は、これから過ごす事になる美浦寮の部屋を案内されている所である。

 

 

「好きに使ってくれ」

 

 シンボリルドルフにそう言われ、紹介された部屋はなんと一人部屋だった。

 本来二人部屋で使われるはずの量の部屋を丸々一室使えるようにしてあり、ベッドとテレビ、テーブルのスペースが他の部屋よりも断然広い。

 本当にこんな部屋を僕一人が使用してもいいのかと思うくらいだ。

 

「必要な物は揃えてあるが、もし入用だった場合は寮長を通して補給係に連絡してくれ。その日のうちに対処しよう」

 

「感謝するよ、シンボリルドルフ」

 

「なに、お安い御用さ。ところで、ウマ娘の肉体を持ったキミに提案がある」

 

 

 なんだ?とシンボリルドルフの答えを待っていると、それは意外に早く来た。

 

 

「レースに出てみないか?」

 

「それは……なんでだ。理由を聞かせてくれ、シンボリルドルフ」

 

「キミの走りが、グラスワンダーの復活に繋がるかもしれない」

 

 話を聞かせてほしい、と僕が言うと、彼女はその理由を語り始める。

 どうして僕の走りが、彼女の復活に関係するのか。

 

 

「ウマ娘の走りというのは、見る者全てに影響を与える。

 ある者はその走りに惹かれ。

 ある者はその走りに目標を抱き。

 ある者は生きる気力すら生まれてくる。

 かつて、私の良く知るウマ娘が〝絶対に勝つことは出来ないだろう〟と言われたレースで勝利し、見る者人々に奇跡を見せたように」

 

「だけど、なんで僕なんだ……他にもいるだろう、エアグルーブだって、エルコンドルパサーやスペシャルウィークに……それこそ、シンボリルドルフのような実力者が適任なんじゃないか」

 

「いや、これは……キミにしか出来ないことだ。

 グラスワンダーのトレーナーである、山々田山能トレーナーでしか」

 

 得体の知れない現実の打開策は僕だ、とシンボリルドルフは言い切った。

 

「ブラックサンダーを山々田山能と理解できたグラスワンダーだからこそ。

 お互いを信じあっているキミたちだからこそ、双方が与え合う影響は大きい。

 ウマ娘は走る者を目で追う。そこに執着心が生まれれば、自然と走りに熱が灯る。

 負けたくない、追いつきたい、その一心で勝利への欲を生み出すのだ。

 今のグラスワンダーはキミに関心を示している……凄まじい程にね。

 キミが走るレースで、彼女を熱くさせる事が出来れば、再び走り出すきっかけになるはずだ。

 

 〝誰かを想い走る事で生まれる奇跡〟を、私は信じている」

 

 皇帝・シンボリルドルフはそう言った。

 僕もそれに不思議と違和感無く聞き入れることが出来ていた。

 

 

 

 オールカマーのツインターボは怪我で引退を考えていたトウカイテイオーを奮起させるために走った。

 そのトウカイテイオーは怪我で復帰が困難なメジロマックイーンの為に走り、奇跡を起こして見せた。

 

 

 誰かを想い、走る事で生まれる奇跡を僕はもう目の当たりにしている。

 その実行者に、奇跡の体現者に本来、ウマ娘になるはずもなかった元・人間である僕がそれを成せ、と言っている。

 

 

 出来るのだろうか。

 彼女を、グラスワンダーを再びターフの上で走らせることが。

 

 

 だけど、可能性があるのなら、僕はそれに掛けてみたい。

 他ならぬ、ウマ娘を信じてきたトレーナーとして。

 ウマ娘が起こしてきた奇跡を見てきた者として。

 

 

 レースで走る決意を、僕はこの時決めたのだ。

 

 

「分かったよ、シンボリルドルフ。レースに出よう」

 

「おお!」

 

「まずは選抜レースだな……トレーナーにスカウトされなきゃ……次の選抜レースはいつだ?」

 

「ああ!選抜レースは丁度明日だぞ!時間はまだある!

これから調整できるな!!」

 

「張り倒すぞ生徒会長」

 

 

 こうして、僕のウマ娘としての、グラスワンダーの闘志を取り戻すための戦いが幕を上げたのである。

 

 




次回より満を持してのクラシック戦線のお話へ移っていきます。
他のウマ娘と楽しく絡んでいく予定なので楽しんでいただけると嬉しいです。
 
誤字報告、感想、いつもありがとうございます。


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16.迫るクラシック期

今日ワクチン打ったので初投稿です。
ハニバ石を全ぶっぱしたお陰でライスシャワー無事完凸出来ました。
理事長代理をフレンドから借りるだけでスタミナ因子なくてもスタミナB+まで盛れちゃうリコちゃんつよつよのつよ。
アオハル育成楽しくなってきた。


 

 季節は春間近の3月となる。

 関西方面は桜がそろそろ咲き始める季節だ。

 

 広大な敷地を持つトレセン学園にも桜の樹は植えられているのだが、まだ満開には程遠い。

 もう少し先の季節になると、土日の合間を縫って桜の下でバーベキューしながら季節外れの花火大会を行い始めるゴールドシップとそれを阻止すべく休日出勤するエアグルーヴ含めた生徒会メンバーの逃走劇がこの学園の風物詩となりつつあった。

 

 

「……今年は花見、出来るといいなぁ」

 

 

 僕こと、ブラックサンダー。

本名を山々田山能はトレセン学園の敷地を歩きながら、そんな事を思う。

 昨年、つまり、人間だった僕がウマ娘に変化してしまうという事件に巻き込まれたその年はトレーナーの仕事が忙しくあり、四月に公園でイチャつくカップル達のように呑気に花見などする時間は無かった。

 

 

 馴染みのあるトレーナー同士で花見が開かれていたが僕はそれどころではなく、仕事終わりにトレーナー寮の自室で一人部屋でストロング系飲料を口にしては寝る、というのを繰り返してたら四月が終わっていた。春は別れのシーズンであり、始まりのシーズンである。そのシーズンを丸々棒に振った阿呆が、この僕だ。

 

 なんとも寂しい男の四月だったことだろうか。

 だが、そんな僕も今年の春は少しばかり期待をしているのである。

 何故なら僕は自由なウマ娘、学生の身分である。

 

 

 トレーナーのデスクワークは身体にスーパーコンピューターでも搭載してるのかと疑うくらいの演算能力を持つミスターXに丸投げ出来ているし、トレセン学園の生徒は門限もあるが外泊許可を取り決めれば、学園の外でも宿泊が可能だ。つまり、寝泊まりできるホテルを確保してしまえば、あとは夜通し遊べてしまうのである。

 

 

 高校生でもここまで自由に出来ない。

 どちらかというとこの自由の範囲は大学生並だ。

 朝は遅く起きて、昼はラーメン、夜は焼肉……とまではいかないが、自由に外で遊べる時間があるというだけで、僕は完全に舞い上がってしまっていた。

 例えるなら、修学旅行の前日の夜の時のようなテンション。

 

 

「おや……?」

 

 

 ふと、僕の足が止まる。

 学園の廊下を歩いていた時、とあるウマ娘の少女の後ろ姿を目にしたからだ。

 

 

 それは小柄なウマ娘だった。

 ウマ娘の平均的なサイズを軽く下回るほどに華奢な体躯を持つ彼女の後姿からは「構ってくんな」という威嚇のオーラがバンバンに放たれている。

 顔を見なくても分かる、恐らく顔は途轍もなく不機嫌に違いない。

 

 

 僕はあのウマ娘を知っている。

 

 

 そのウマ娘の名前をナリタタイシン。

 あのビワハヤヒデ、ウィニングチケットを合わせた3強ウマ娘、BMWの1人。

 

 

「こほん」

 

 咳払い。

 基本的に他人と馴れ合うのを得意としていないのか、昼休みになっても彼女は一人でいる事が多い。

 普段のツンツンした態度もあってか、他のウマ娘も見かけても声を掛けない事もあるくらいだ。

 

 

 とはいえ、同じ学園に通うウマ娘。

 ここは声を掛けさせてもらおうじゃないか。

 

 

 いや?ほら。

 僕って色々とあらぬ疑いを掛けられてるウマ娘じゃん?

 自分の身長より小さいウマ娘にいきなり抱き着いたり、にんじんを対価に遊んでいるだけなのに周りから「ちょっかいを出してる」って間違われてるけどさ。

 一応、僕は二十歳を越えた立派な成人男性なんだ。物事の分別は勿論出来てるつもりだ。

 

 

 確かにナリタタイシンは僕より小さいウマ娘だよ。 

 だけど小さいとか、そういった単語は彼女にとってはコンプレックスだということくらい僕だって理解してるつもりだ。

 浅はかな行動で彼女の事を傷つけてしまう事だけは避けなければならない。

 

 そこまで思慮深い行動を心掛けている僕が、背後からいきなり襲うような事はしないさ。

 そんな事したら、本当に僕が小さいウマ娘が大好きな変態ウマ娘みたいじゃないか。

 

 

「だからさ」

 

 腕を伸ばし、

 

「これから行う事は」

 

 足を伸ばして、

 

「ごく一般的なウマ娘としての紳士的な挨拶だ」

 

 クラウチングスタートの構えを取り、

 

「おーい―――」

 

 そして跳んだ。

 

 

「タァアアアアイシイイイイインッッ!!!」

 

「チッ……なにチケ――って違う!?」

 

 振り返ったナリタタイシンは僕の事をウィニングチケットと勘違いしていたらしい。

 残念だったな、その思わぬ勘違いが命取りだぜナリタタイシン。

 

 不意を突かれたからか、目を野獣のように光らせた僕のスペシャルな飛びつきにナリタタイシンは成す術が無かった。

 

 

「久しぶりだなータイシン!元気だったかぁ!!」

 

「ギャアアアアッ!!!」

 

 逃げようとする彼女を捕まえては頬ずりされて、驚きの声を上げるナリタタイシン。

 ウィニングチケットとはこれくらいの距離感でイチャイチャしてるのを僕は知っているんだぞナリタタイシン。

 

 

「怪我から復帰したんだってな!しかも復帰してからもう重賞制覇するなんてやるじゃないか!

 よく頑張ったなお前ェ!」

 

「うおおおおおっ!!?」

 

 頬ずりからのほっぺをツンツン、そしてナリタタイシンの身体を両脇から掴んで持ち上げると勢いよく上に向かって放り投げる。

 華奢な体のナリタタイシンの身体は恐ろしい程に軽く、その重量はウマ娘でありながらトレーナーの身である僕からして見れば、心配してしまうほど。

 

 

 彼女は体重測定を拒否しているため、正確数値を把握している者は誰もいないが、触れるだけで大まかな体重を測定できる僕の特技の前では明かされないステータスはないと言っていい。

 だがナリタタイシンの名誉のために公な情報公開は避けるが、強いて言うなら、健康的な方だというだけ告げて置こう。

 

「おめでとー!おめでとー!うおおおおん!」

 

 祝福の胴上げを僕はナリタタイシンに見舞う。

 BNWの一角、皐月賞ウマ娘のナリタタイシン。

 年末、突如の怪我によってレースを継続することを不安視する者もいたが復帰後2戦目のレースで堂々と一着を取った彼女を称えずにはいられない。

 

「ばーかぁやーろー!はーなーせー!」

 

 上に放り投げられ、空中浮遊の疑似体験をするナリタタイシンから歓喜(?)にも似た声が波打って聞こえてくる。照れることはないぞナリタタイシン、お前はそれだけ応援されて、勝利を祝福されて当然のウマ娘なのだから。

 

 

「エライゾー、エライゾー!タイシ――」

 

 次の瞬間、僕の顔面にナリタタイシンの蹴りが突き刺さった。

 鋭く放たれる踏みつけるような蹴り、僕じゃなきゃ見逃しちゃうね。

 

 

 ゴギッ、バキッ、ゴリッという骨の砕けるような音が断続的に聞こえてきている。

 だが問題ない、〝人間には200本以上の骨があるから一本や二本くらい折れたって平気だよ〟ってサラ・コナーも言ってたから問題ない。

 

「アンタ……今度またやったら容赦なく蹴り入れるよって言ったよね、ブラックサンダー」

 

 地面にそのまま崩れ落ちた僕を見て、ナリタタイシンが言い放つ。

 アンパンマンなら新しい顔案件の崩壊具合だ。

 本気になれば1トンクラスのタイヤを引くことが出来るウマ娘の脚力による蹴り……人間だったら恐らく死んでいただろう、ウマ娘の頑丈な肉体にこれほどのない感謝の念を抱く。

 

「フフ……いい蹴りを放つようになったな、ナリタタイシン。流石はBNWの一角だよ」

 

「首へんな方向に曲がってるけど」

 

「これは失敬」

 

 僕は九十度曲がっていた首を両手の力で強制的に元に戻す。

 人を殺めてしまうかもしれないウマ娘の脚力を以てしても、僕には無意味だ。

 僕に致命傷を与える事が出来るのは世界でただ一人、グラスワンダーだけなのだから。

 

 

 

「アンタさぁ、こんな事色んな娘に続けてるならマジで止めた方がイイよ……」

 

「フフ、問題ない。それに僕は今更止められたことで素直にいう事を聞くウマ娘ではないのだ」

 

「あっそ、グラスワンダーに連絡しておくね」

 

「あれ?あれれえれれれ?なんで?なんでそうなってんの?」

 

「最近アンタのチームのグラスワンダーがさ、〝ブラックサンダーさんに何かされた方は私まで連絡してください〟っていう内容が、ウマLINEで流れてるんだよ」

 

「なんだって!?本当かいそれは!?というか、そんなLINEあるの知らなかったんだけど!!今知ったんだけど!!」

 

「そりゃ本人に教えるわけないじゃん、バカなの?」

 

「くっ、こうなったらこの場で僕がお前を辱めてウマLINEなんて出来ないようにしてやるぜタイシン!」

 

 次の瞬間、目にもとまらぬローキックが僕の脚に叩き込まれ、一撃で僕は沈んだ。

 恐ろしく容赦のない蹴り……ウマ娘の肉体でなければ、即死だった。

 よく担当トレーナーがナリタタイシンに蹴られてるのを見ていたが、実際彼女は照れ隠しで蹴ってくることが多いらしいのでご褒美と成り得るのではないか。

 

 

「アンタさ……走り方、変わったよね」

 

「ん?」

 

 痛む足を摩っていると、見上げた先のナリタタイシンが呟いた。

 

 

 いや、と彼女は続けて、

 

「デビューまでずっと後方から追い上げてくるタイプだったじゃん、アンタ。

 でも途中から周りからマークされて、囲まれて、抜け出せなくて、学園で見た時はいつも絆創膏貼り付けてたからさ」

 

「たしかに、去年は酷くやられてたな……でもなんでタイシンがそんな事を気にするよ?」

 

「あ、アタシは別に気にしてないけどね!ただ、アタシもデビュー前はそんな感じだったからさ。

 周りに蹴落とされないように、前で食い込んで、傷ついてたからさ」

 

 

 ナリタタイシンも小柄な体つきのせいで先頭集団での位置取り争いに苦戦して、中々勝利を掴めなかったウマ娘だ。

 僕はデビュー前の彼女を知っている。

 汗水流して、消灯した練習場の上でずっと走っていたのを知っている。

 誰よりも悔しい想いをして、でも自分ではどうにもできない問題があって、身体を使った勝負が出来なくて。

 

 

 だから、後方からの末脚という武器を見出したトレーナーとの出会いはナリタタイシンにとって運命的なものであることだろう。

 彼が居なければ、ナリタタイシンという眠れる獅子の才能を数あるウマ娘の下で一生くすぶらせていたに違いない。

 

 

 逃げ戦法を取る前の試合で苦戦していた僕にナリタタイシンはシンパシーを感じていたのだろうか。

 

 

「だ、だから勘違いするんじゃないよ!別に毎回怪我しているアンタを心配してたわけじゃないっつーか!す、少しはまともな走りするようになったじゃん!って思っただけ!マジで、それだけだから!」

 

 ありがとう、ナリタタイシン。

 お前のツンデレを目にすることが出来ただけで、僕は生きる気力が湧いてくるよ。

 お前が人妻になったら、さぞかし旦那様は幸せだろう。

 

「そういえば、アンタ出るんだね皐月賞」

 

「あぁ、もうトライアルレースの弥生賞は先日済ませたばかりだ。

 無事に二着以内に入って、皐月賞の切符は抑えたよ」

 

 

 三冠路線の第一線、皐月賞の登録はもう既に済ませている。

 弥生賞は危なげない逃げ戦法でどうにか一着を守り切った。

 

 順調に勝利を重ねている僕だけど、今度のレースは簡単にはいかない。

 前回の弥生賞から他のウマ娘達との距離が随分と縮まってきているのだ。

 調子が良くて引き離したレースでは3バ身だったのに、今回は二位とは1バ身半。

 

 余裕が無いのだ。

 次の皐月賞はどうなるか分からない。

 対策を立てたいところだが、距離を稼いで逃げる戦法には基本的にそれしか戦い方が無いのでどう対策を立てればよいのか分からないのが辛い。

 

「皐月賞ウマ娘のナリタタイシンさん、何かアドバイスはありますかな?」

 

「なにさ、急に」

 

「いや、ね?偉大な大先輩のナリタタイシンからその時どうやって走ってたのか気になってさ。

 だって皐月賞だよ?三冠路線で最初に走るレースで、一番速いウマ娘が勝つって言われてるレースだよ?それを制したウマ娘が目の前にいるんだからさ、色々と聞いてみたくなるのが性ってもんでね」

 

 

 ナリタタイシンはふーん、とジト目をかますと頭を掻きながら呟く。

 

「別に、フツーに走れば?」

 

「質素ォ!」

 

「追加。好きなように走れば?」

 

「質素オブ質素ォ!」

 

 うるさい、というナリタタイシンのローキックが僕の大腿に炸裂する。

 これがプロレスなら既に僕の脚は耐久値を超えて、生まれたての小鹿のように震えだす事だろう。

 だが、生憎今の僕はウマ娘ブラックサンダー。

 しかも僕より背の低いウマ娘から与えられるダメージは全てHP回復するというリジェネ能力を搭載している。 

 

 

 彼女に蹴り続けてもらえれば3200mの長距離コースも悠々と走り切れるかもしれない。

 

 

「レースなんてさ、どんなに意気込んでも終わるときは一瞬だよ。たかだか2000mしかないわけだし」

 

 芝2000m、時間にして約2分で終了する。

 短距離やマイルよりも距離があるわけだが、走り出していざ、と思った時にはもうゴールしている。

 陸上競技のスプリント種目を長年やっていると、その感覚は多々ある。

 

 

 しかも、競技でベストパフォーマンスが出来た時が大抵その状態だった。

 精神と肉体のバランスが均一になりより整った状態だからか、時間の感覚すらも鈍重になる。

 

 

「不思議だよな。コーナーとか、位置取りとか、後続の数とかラストの直線でどれくらい足を残すとかメチャクチャ頭の中で考えてたら――――」

 

「そう、もうゴール前。

 だからさ、色々と考えて後手に回っちゃうよりも理論とか作戦とか頭の中で堂々巡りの試行錯誤するよりは〝気持ち〟でぶつかってくのもアリだと思うよ……少なくとも、アタシたちはそうだった」

 

「アタシ〝たち〟……?」

 

「あ!ここにいたぁ!」

 

 僕が違和感を感じるその横を元気な声が駆け抜けていく。

 その少女は、絆創膏を頬に張り付けたウマ娘の少女はナリタタイシンの前に現れた。

 

「タイシイイイイイイン!!!」

 

「うわ、来たよ……チケット、アンタはなんでいつもアタシの居場所突き止めるワケ?」

 

「へへ!なんとなくタイシンの場所は分かっちゃうんだ!

 ね、ハヤヒデと一緒に屋上でお昼ご飯食べようよ!タイシンの目黒記念のこと聞きたいし!」

 

 

 その少女の名はウィニングチケット。

 ビワハヤヒデ、ナリタタイシンと同期である『BNW』の1人。

 日本ダービーに強い想いを抱き続け、BNWメンバーと死闘を繰り広げた末に日本ダービーを制した『ダービーウマ娘』。

 

 

 皐月賞、ナリタタイシン。

 日本ダービー、ウィニングチケット。

 菊花賞、ビワハヤヒデ。

 

 その年のクラシックレースは『BNW』のウマ娘が鎬を削り、間違いなく日本中を熱狂の渦に巻き込んだ。

 僕が目指す三冠路線の冠を手にしたG1ウマ娘達が今、目の前にいる。

 

 

 心が躍らない筈がない。

 ウマ娘の闘争心が訴えているだけではない。

 走るという競技に身を費やしていた者として。

 強者を倒したいというチャレンジャーとして。

 

 

「うん……?あーっ!キミ!キミはたしかブラックリベリオン!」

 

 こちらの存在に気付いたウィニングチケット。

 盛大に名前を間違えるな。

 なんか第一シリーズの終盤で失敗しそうなロボットアニメの作戦名みたいな名前にするな、その名前だけはカッコイイんだけど。

 

 

「デビューの時からずっと見てたよ!

 熱い走りをするウマ娘が現れたって、ずーっと思ってたんだ!

 ……キミもダービーを目指すの!?」

 

「あ、ああ」

 

 明朗快活に語り掛けるウィニングチケットの圧力にそんな言葉しか出ない僕。

 そしてウィニングチケットはあろうことか肩をふるふると震わせて。

 

「か、がんどうじだぁぁぁあ!!」

 

 そのまま泣き出した。

 隣のナリタタイシンが頭を掻きながらため息をつく。

 

「なんでよ」

 

「だっで、だっでぇ……!ま、まだぁ!まだごどじのダービーもあづくなるなぁっでぇ!」

 

「一年に一回はやるんだから当たり前じゃん。なに、ダービーウマ娘、アンタももう一回出たいワケ?」

 

「ぢがうよぉ…!ダービーは一生に一度だがらダービーなんだよぉぉお!うおおおおおおおん!!!」

 

「うっさ……あ、ブラックサンダー。テレビ見てみなよ」

 

 号泣するウィニングチケットなど目も暮れぬことなくナリタタイシンが示す方向は広間に設置されているモニターだ。

 モニターの周りには何人ものウマ娘が食い入るように画面を見つめている。

 

 

 画面に映し出されているのはレースの映像だった。 

 この広間では現在開催されているレースがリアルタイムで放送されており、生徒達も閲覧できるようになっている。 

 

 

 その大画面のモニターを走るウマ娘の1人に僕は見覚えがあった。

 

 

「あれは……メルティロイアル」

 

 そう呟いたのはナリタタイシンだ。

 彼女も、新人であるメルティロイアルを知っていた。

 

「何で知ってるかって顔だね。

 一応今期で注目されているウマ娘はある程度耳にしてるから。

 レースは〝スプリングステークス〟……皐月賞のトライアルか」

 

「あ!メルティロイアルだ!この娘も凄いよね!

 たしか生徒会長と出身地が同じなんだっけ!

 その実力にも注目されてて、〝ルドルフ2世〟なんて呼ばれてる!」

 

 

 アイツ、いつも筋肉筋肉してるウマ娘だと思ってたけどそんなに凄い奴なのか。

 

 

 今しがた知った事実に驚嘆しながらも僕はそのメルティロイアルが走っているレース『スプリングステークス』へと視線を戻す。

 

 

 コースは芝1800m。

 中盤時点でメルティロアイルは最後方、しかもひとつ前のウマ娘との距離は四バ身差だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




もうすぐ毎日王冠の季節ですね。


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17.スプリングステークス

ヒシアケボノは……すまねぇ、ジュエルがもうねぇんだ。


 『スプリングステークス』。

 コースは中山芝1800m、内回り。 

 皐月賞の優先出走権が3位以内に与えられるトライアルレースである。

 以前は出走権が5着以内だったり、色々な大人の事情によって内容が変更されたレースだ。

 

 

 皐月賞は勿論の事、日本ダービーのクラシック戦線、NHKマイルカップの前哨戦として注目しているファン達は多いはずだ。

 

 

 今日、中山のレース場で出走するウマ娘は12人。

 その中にはメルティロイアルだけではなく、彼女と同じチームに所属しているマインというウマ娘もいる。

 

 

 それだけではない。

 年度表彰ウマ娘であるマリーグッデン、重賞ウマ娘フランチルーラー、ここまで2戦2勝のモガミノハマデという錚々たるメンツ。

 途轍もなく、ハイレベルなレースになると実況も、観客も誰もが期待しているに違いない。

 その中一番人気を手にしたのは紛れもない注目株であるメルティロイアルだった。

 

 

 ゲートにウマ娘が枠入りをしてからほどなくして、レースは開始された。

 序盤、いち早く前へと飛び出したのは逃げ先行策を取るウィスルトン。

 

 その後ろに着いたのはマイン、注目のモガミノハマデ、マリーグッデンは先頭から離れて6,7番手の位置を取る。

 1800mという短いペースだからか、後半に動きが激しくなるのを見越してだろう。

 ハイペースな競り合いに巻き込まれないように後方から一気にペースを上げるというのが、二人の考えている作戦か。

 

 

 そして一番人気であるメルティロイアルはウィストンが引き連れる集団、後方から2バ身ほど離れた所に一人ぽつんといた。

 

 

 観客も、実況席も誰もが思う。

 

 

 まだ序盤だ。慌てるような時間ではない。

 中盤になれば徐々に上がってくるだろう。

 最後の方で捲れるのか?ナカヤマの直線は短いゾ。

 

 

 先頭を走るウマ娘よりも、最後方のウマ娘が注目される。

 この時、メルティロイアルという一番人気のウマ娘の注目度は群を抜いていた。

 

 

 第二、第三コーナーから中盤に差し掛かって、バ群に大きな動きも見られず先頭ウィスルトンは変わらない。

 そして残り距離が1000mを切ってもメルティロイアルが最後方という事実もまた、変わっていなかったのだ。

 

 

 未だに後ろにいるメルティロイアルに観客達も次第に焦り始める。

 

 

 え?残り800mでその位置は不味くない?

 怪我か?不調か?休み明けで調子が戻って無いのか?

 中山の直線は短いゾ。

 

 

 

 そして実況席も観客達の気持ちを代弁するかのようにマイクを鳴らす。

 

 

『レースは残り1000m、メルティロイアルは殿(しんがり)!メルティロイアルは以前殿であります!先頭との距離はなんと11バ身です!

 さぁ、第3コーナーから第4コーナーにかけて、中山レース場の桜並木の下、桜並木の下を駆け抜けていくウマ娘達!

 しかしメルティロイアルは未だに殿だ!ここから第4コーナーを回れば最後の直線!最後の勝負だ!中山の直線は短い、この距離から間に合うのかメルティロイアル!』

 

 

 先頭の逃げ先行していたウィスルトンが最後の意地を振り絞って足を懸命に動かす。

 二番手に着けていたマインもスリップストリームで温存していた体力と脚をここぞとばかりに使って、先頭と抜きつ抜かれつの攻防を繰り広げる。

 重賞ウマ娘であるマリーグッデン、連勝ウマ娘であるモガミノハマデが垂れてきた先行ウマ娘達の合間を縫って上がってくる。

 

 

『順位が激しく入れ替わる!先頭はウィスルトンかラスターマインか!それともフレンチルーラーか!

 後方から凄まじい勢いで上がってくるマリーグッデンかモガミノハマデか! 

 メルティロイアルはこの距離はもう届かない!残り200m、ここからではまず――――』

 

 

 厳しいか。

 実況も、観客席の人間が誰もが諦めた言葉を口にしようとした時。

 中山レース場の観客席と実況席の人間たちは後方で激しい唸りと共に芝が捲り吹っ飛んでいく光景を見た。

 

 

『―――!?め、メルティロイアルだ!メルティロイアルが内を突いた!』

 

 

 

 それはまるで、暖気運転を終えたエンジンが漸くフルスロットルで踏み込んできたかのようなパワーだった。

 ハイスピードニトロエンジンを搭載した重戦車がターフを駆け抜けていくようだった。

 バ群の中に切り込んで、一歩二歩と大地を蹴れば、前にいるウマ娘との距離を格段に近づけ、三歩目には超えていく。

 

 

 残り100mの所で6、7番が塞いでいたコースを中央からぶち抜いた後、内から外へとポジションを変えたメルティロイアルはそこから更に加速する。

 

 

『し、しかしメルティロイアルは未だ中団!メルティロイアルは未だ中団だ!

 先頭争いはマリー!モガミ!マインになるか――――いや!外から!外からメルティロイアル!

 大外から!大外からメルティロイアル!凄い脚だ!上がってくる!

 メルティロイアル!躱した!躱した!躱した!躱しました!一着はメルティロイアル!一着はメルティロイアルです!』

 

 

 

「GIAAAAAAAAAAAAA!!!」

 

 

 ゴール後、ガッツポーズしたメルティロイアルは野獣の如き叫びをあげる。

 その叫びに応じるかのようなスタンドから割れんばかりの歓声。

 規格外のパワーあふれる走りに誰もが目を奪われた瞬間だった。

 

 

 レース終盤のポジションチェンジから尋常ではない加速。

 

 最後方からの直線一気。

 『豪脚』ならぬ『鬼脚』を炸裂させたメルティロイアルはこの日、スプリングステークスを制した。

 誰もが無理だと言われたあの位置から、誰もが諦めていたあの場所から、豪快に一位を捥ぎ取っていった彼女が観客達に与える衝撃は恐らく一生忘れられないものになるだろう。

 

 

『スプリングステークスを制したのはメルティロイアル!

 ルドルフ二世と呼ばれる実力を、このレースでもしっかりと見せつけてくれました!

 春の皐月賞はもうすぐ!今年のクラシック戦線から目が離せません!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 テレビの中でウィナーズサークルに立つメルティロイアルを見届けると、画面を見入っていたナリタタイシンとウイニングチケットに背を向けた。

 

「ん?どうしたの、ブラックサンダー」

 

 気づいたナリタタイシンが僕に声を掛けていた。

 ウイニングチケットは未だに目を輝かせて画面を食い入るように見つめている。

 

「別に。ただ、ちょっと走ろうかなって」

 

「そっか」

 

「ああ、また会いに来るよタイシン」

 

「二度と顔見せんな」

 

「フフ、照れるなって」

 

 ナリタタイシンが床を靴先でトントンと小突く動作を見た僕は命の危険を察知してその場から早急に立ち去った。

 テレビの向こうでは割れんばかりの歓声が、メルティロイアルに向けられているのだろう。

 

 

 学園の廊下を歩きながら、練習用のジャージとシューズを取りに行く道中で僕は胸の中がざわつくのを感じていた。

 

 

 ナリタタイシンやウイニングチケットを見た時も、あのスプリングステークスで見せたメルティロイアルを見てからだ。

 圧倒的実力を持った強者に会うたびに僕の胸の中に小さく火が灯るのを感じる。

 背筋にひんやりとした感じ、でも嫌じゃなくて、血流が激しくなり脈を打つのが速くなるのを感じる。

 

 恋にも似たようで、似ていないもの。

 これは久しい感覚だ。

 

 

「そうか……これが、武者震いってやつか」

 

 

 安心してしまう。

 二十歳を越え、レースからも離れていた僕が他者の走りを見て闘争心を焚きつけられるなんて。

 胸の高鳴りを抑えながら、僕は自室へと行く足を早めた。

 

 

 この沸き上がる衝動は、僕がまだまだ若いという証である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ヴァルゴ杯ももうすぐですね…育成しなきゃ(使命感


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18.アグネスタキオン

良心が痛むねェ


 

 

 僕こと、ブラックサンダー。

 そして、元トレーナーである山々田山能の朝というのは非常に早い。

 

 

 と言っても、他のウマ娘と一時間ほどしか起床時間は違うだけでそれ以外は別に普通の朝である。

 予定の時刻より早く起きたのなら普通の人間、ウマ娘に違わず二度寝へと洒落込もうというのが一般的だが、僕には起きてやらなければならない事があるのだ。

 

 しかし、それは勤勉に取り組むことでもなければ迫る皐月賞に向けての身体の疼きを癒すための早朝トレーニングに向かう為でもない。

 僕がこうして早起きする理由、それはチームに所属するウマ娘・アグネスタキオンの朝食作りの為だ。

 

 

 トレセン学園には起床後に自衛隊のようなラッパ点呼、整列点呼などが無いので起きたらすぐに自分の行動へと移せる。

 早々と制服に着替えてはカバンを持ち出して、一度家庭科室へと向かって調理を済ませたらアグネスタキオンといつも待ち合わせているトレーナールームへと向かう。

 ウマ娘になる前、トレーナーとして突如と始まったこの一連の動きは完全に確立されたルーティンとなっている。

 僕としても、こうやって朝に起きて料理を作らなければ一日が始まった気がしないと思ってしまうばかりに。

 

 

「上出来だ」

 

 

 一流料理人の如き、三ツ星レストランからスカウトされてしまいそうな僕のなれた手つきによって生み出された今日の弁当。

 彼女の好物であるウィンナーや脳を動かすために必要な栄養素をふんだんに詰め込んだアグネスタキオン専用弁当。

 

 

 包んでしまう前に僕は一度スマホのカメラ機能を駆使してはその弁当を撮影して、とあるウマ娘に送り付ける。

 送付先はカレンチャンだ。

 

 

『コレ、カワイイ?』

 

 

 そういったメッセージを付け加えてカレンチャンに送信を完了させる。

 カレンチャンは、このトレセン学園では僕にとって妹(自称)のような存在だ。

 きっかけはトレーナーだった頃にカレンチャンにアグネスタキオンへ渡す弁当を見られた事がきっかけで始まった事である。

 

 

 カレンチャンは僕の弁当を見て「カワイイ診断」をしてくれていた。

 なんでも、その時見せた弁当が彼女のカワイイセンサーに反応してしまったらしく、以来僕の弁当を見てくれては点数と評価を付け加えてくれるのだ。

 最初は辛口だった評価の弁当も、僕は試行回数を重ねるごとにその練度を上げていき、次第にカレンチャンの評価も上昇していった。

 

 

 どうやら彼女の御眼鏡にかなったようで、一度だけ評価値をカンストした事によりカレンチャンのウマスタで「#カワイイ、#お弁当」で掲載された事があり、その時はイイネが10万を超えたらしい。

 ウマスタ300万フォロワーの実力は伊達では無い。

 そしてそのツイートから僅か数十秒後にはグラスワンダーから「これトレーナーさんのですよね?」と通知が来たからマジでビビった。

 

 とまぁ、これは僕が山々田山能だった頃のお話で。

 

 ブラックサンダーとなった後は山々田トレーナーに弟子入りし、弁当マイスターを目指しているウマ娘として、カレンチャンに話を通しているので僕とカレンチャンとのお弁当チェックは今も続いているという訳だ。

 

 そのお話はまた別の機会にでも話させてもらうとして。

 

 

「アグネスタキオン、もういるのか?入るぞ」

 

 

 さて、話を元に戻すとしよう。

 トレーナールームの前に来た僕は室内の電気が点いているのが分かり、そこに時間通りならアグネスタキオンが来ている事を悟った。

 いつもながらこうして彼女に弁当を作るようになってから遅刻や居眠りをしないようになってくれたのは嬉しい限りである。

 

 後は、彼女が素直に僕の弁当の味に正当な評価をしてくれるかどうかである。

 毎度の事、今日こそはと望んでも彼女から返ってくるのは「まぁまぁだね」という越前リョーマのようなものばかりだ。

 そうなると、これが悪化して「なるほどSUNDAYじゃねーの」と跡部化してしまうのは時間の問題だ。

 

 

 今日こそは分からせるしかない。

 そう意気込んで扉を開けると、目の前には想像した通りアグネスタキオンがソファに座っている。

 

 

「……ふぅ」

 

 なにやら考え込んでいる様子のアグネスタキオンが見つめているのは長テーブルの上に置かれている一枚の用紙だった。

 やがて部屋に入って来た僕の存在を感じ取ると、アグネスタキオンはこちらに顔を向ける。

 

「やぁ、来たんだね山々田トレーナーくん」

 

「どうしたんだタキオン、その用紙をずっと見てたけど……何だよ、その紙」

 

「あぁ、これね」

 

 アグネスタキオンは一枚の用紙を摘まんでヒラヒラと靡かせるとそれを僕に手渡した。

 その紙には確かに、「誓約書」とだけ書かれている。

 見た目だけ嫌な予感がしたが、その答えをアグネスタキオンは僕に明かしてくれた。

 

 

「私の脚の手術の誓約書だよ。しかも場所は海外ときたもんだ」

 

「しゅ、手術? お前の....一体、どうして」

 

「さぁね?あのミスターXからの持ち込まれた話だから」

 

 

 あっけらかんと言い放つアグネスタキオンはソファでくつろぎながら窓の外の景色を見ていた。

 

 

 アグネスタキオン。

 僕の所属するチームのウマ娘で、グラスワンダーの先輩ウマ娘。

 

 

 『超高速の粒子』と呼ばれたかつての皐月賞ウマ娘。

 他のライバルを寄せ付けないその圧倒的なスピードで当時の三冠馬は狙えると言われたウマ娘。

 速さの果てを追い求める狂気のマッドサイエンティスト。

 

 

 しかし、その超高速を支える脚はガラスの靴のように、脆かった。

 今のアグネスタキオンに、かつての三冠を狙えるようなスピードは、もうない。

 たったの四度のレースで彼女は伝説になった―――いや。()()()()()()()

 

 

 ガラスの脚は、文字通り壊れてしまったのだから。

 

 

 『ラジオたんぱ杯ステークス』、阪神芝2000mで人類はアグネスタキオンというウマ娘の存在を知った。

 当時有力候補であったジャングルポケット、クロフネの存在を掻き消すように彼女が人類に見せたのは上がり3ハロン30秒台という超スピード。

 2000mのコースレコードを生み出したアグネスタキオンはまさに将来有力な三冠ウマ娘候補であった。

 

 

 そして、皐月賞。

 

『アグネスタキオン、アグネスタキオン先頭だ!後ろからジャングルポケット、ダンツフレームも追いすがってきている!

 だがアグネスタキオン突き放す!追いつけない!誰も彼女に追いつけない!アグネスアグネス!もう大丈夫だ!今一着でゴール!

 中山2000m、まずは道を繋ぎました!アグネスタキオン〝まず〟一冠!』

 

 

 

 『まず一冠』。

 実況者が語ったこのフレーズがアグネスタキオンが当時の最速ウマ娘だったことをこれ以上ない程に物語っていた。

 

 

 

 だけど、当時の僕達は違和感を感じていたのだ。

 アグネスタキオンの皐月賞のレースで。

 

 当時の皐月賞、確かに彼女は速く、誰よりも先にゴールした。

 だけど、アグネスタキオンのいつもの走りではなかった。

 これまでのレースのように、他のウマ娘との距離に対して差が無かったからだ。

 

 

 あのアグネスタキオンが思っていた以上に差を広げられなかった事に僕は何かしらの異常があるのではないかと気付いていた。

 勿論、アグネスタキオンのトレーナーである先輩も同じだったらしく。

 

 

『タキオン、病院に行こう……』

 

『なんだい、モルモットくん。皐月賞を取ったばかりなのにやけに慎重じゃないか、次は日本ダービーだよ?

 なぁに、心配には及ばない。年明けから追い込んでいたから疲れが溜まっていたのかもねぇ』

 

『……念の為だ!お前にもしもの事があったら……頼むよ、タキオン』

 

『まったく、心配性だねぇモルモット君は』

 

 

 アグネスタキオンは先輩の事をよく『トレーナーくん』と呼ぶし、『モルモットくん』とも呼んでいた。

 頻度にしては、モルモットくんの方を良く好んで多用していたと思う。

 皐月賞後、アグネスタキオンは先輩と一緒に日本でも有数の病院へと行く事になった。

 

 そこで発覚したのは、先輩や僕が危惧していた〝もしも〟の事だった。

 

 

 アグネスタキオンに下された診断はウマ娘にとって『不治の病』と呼べるものだった。

 一度発症すれば、靭帯が炎症によって腱繊維断裂し、いずれ歩く事は出来ても従来の強度に戻る事は稀であるという。

 幾人ものウマ娘をレース世界から追いやったこの病に対する治療法は現段階では有効なものは見つかっていない。そして再び走ろうとすれば病は再発の可能性がある。

 

 

 完治することが無い、走るために生まれてきたウマ娘をただただ苦しめる最低最悪の病だ。

 

 

 

 この病は継続的な運動負荷によって発症するのだという。

 アグネスタキオンの超高速を生み出すその脚は他ならぬ自分自身の運動負荷には耐えきれなかったという事だろう。

 

 

 次の日本ダービーを、アグネスタキオンは出走を取り消す事になった。

 

 

 先輩はアグネスタキオンと「世界を取るぞ」と意気込んでいた。

 三冠の次は宝塚、有馬とつなげて、ゆくゆくは凱旋門だって酒の席で叫んでた。

 

 

『済まないタキオン……済まない、済まない……俺が、お前の夢を……』

 

『顔を挙げたまえモルモット君、私の研究を私自身の手で成し遂げる事は叶わなくなってしまったが、この時の為にプランBというものがあるのだから。だから……いつまでも泣くんじゃないよ』

 

 その時のアグネスタキオンは、優しく先輩をなだめ続けていたが彼女自身の瞳は力を失っていた。

 自らの手で掲げる研究を成し遂げる事が出来なくなった事が分かってしまったからか。

 

 

 ターフを走れなくなるという事、それはウマ娘にとって『死』を意味する。

 当然、再起不能になってしまったアグネスタキオンがトレセン学園に留まる事に意味はない。

 彼女が自ら退学届けを提出し、学園を去ろうという所で事件が起きたのだ。

 

 

 

 先輩が、トレセン学園から居なくなってしまった。

 

 

――――『必ず戻る。それまでタキオンの事を頼む』

 

 

 それだけをチーフトレーナーのデスクに書き残して、先輩はアグネスタキオンの前から姿を消した。

 

 

 

 

 




モルモッ党には辛い現実...この世界だと屈腱炎ってそのままの病なんですかね。





さてさてグラスちゃんも、タキオンも史実通り。
つまり皆さんもこの作品の趣旨が分かってきたのではないでしょうか。
さて、現在の段階でまだ出てきてないウマ娘....一体誰と誰でしょうかね。


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19.復活の条件

モデルナアームから解き放たれた私は無敵だ。


 僕の先輩、アグネスタキオンのトレーナーが学園から姿を消して、もう二年になる。

 僕や学園だけではなく、アグネスタキオンの携帯から連絡を入れても反応が無く、彼を捜索するのは非常に困難だった。

 

 

 先輩は去り際に、僕にチーフトレーナーとしての席を明け渡し、チームの運営とアグネスタキオンの世話を任せてどこかへ行った。

 だが、先輩がなんのためにトレセン学園から姿を消したかは僕は知っている。それは、担当ウマ娘であるアグネスタキオンの怪我を治すためなのだと。

 

 だから、トレセン学園の理事長が言うにはアグネスタキオンをレースに復帰させるという条件の下、長期の休暇という形で今はまだトレセン学園に籍を置いたままだ。

 ウマ娘の不治の病は国内のあらゆる名医も匙を投げたていた。だから行く先は恐らく海外だろう。

 

 しかし、海外でもこの病を完治させてレースに復帰したという事例は聞いたことが無い。

 先輩が目指す海外には病を完治させるためのアテがあるのだろうか。

 

 

 それから僕は先輩に代わってチーフトレーナーとなりチームの運営を行い、アグネスタキオンが健康面を害しないように面倒を見るようになった。

 彼女の為に弁当を作るようになったのも、丁度その頃からだ。

 

「アグネスタキオン、それで……アイツの提案する手術は成功するのか?」

 

「それが驚いた事に、彼が紹介しようとしているのはとんでもない名医らしくてね。

 この世界に治せない病なんて無い、と言い張るくらいのヤツらしいんだ。

 どうやら黒ずくめでツギハギの顔面に傍らには小さな女の子を連れた()()()()名医らしい」

 

「それなんてブラックジャック先生だよ」

 

 この作品はどうやら時空を越えさせて名医を召喚することが出来るらしい。

 ブラックジャック先生は同じ手塚作品の世界に登場するだけじゃ飽き足らず、ウマ娘の世界にまで進出するようになってしまったらしい。

 

 これが異世界ブラックジャックか。

 

「まぁ、医者の事なんてどうでもいいのだがね。

 手術費も全て学園側から負担してもらえるみたいだし、ワンシーズン棒に振る事になってしまうかもしれないが、走れるようになるみたいだ……しかし――――」

 

「?なんだよ、良い事尽くめじゃないか。怪我も治るし、レースにも出れる。しかも諦めかけてた研究ももう一度自分の手で始められるんだ。問題なんてあるのか?」

 

 この時のアグネスタキオンが苦虫を嚙み潰した表情をしていたのを僕は憶えている。

 どうしようもなく、苛つく、憎たらしい感情を抱いている時の感情が露わになっている時の感情だ。

 

 

 僕は察してしまう。

 これほどの好条件、ミスターXはアグネスタキオンにレース復帰の手伝いをするために()()()要求したはずだ、と。

 

「アグネスタキオン、お前、あの男に……ミスターXに何を言われた」

 

 僕の静かな問いに、アグネスタキオンはその重い口をゆっくりと開き始める。

 

「……レースに復帰させる、手術費も全て負担する、練習メニューも全て管理する……その代わり―――」

 

 その後の彼女が口にした言葉は信じられないものだった。

 

「〝前任のトレーナーの事は全て忘れ、ミスターXの担当ウマ娘になれ〟、だそうだ」

 

「マジかよ……」

 

 前任のトレーナーを忘れる。

 それは、先輩の担当ウマ娘を辞めて、あのミスターXの担当ウマ娘になるという事。

 アグネスタキオンの怪我を完治させる方法を探しに行っている先輩の帰りを、もうあきらめるという事だ。

 

 

「そんなやり方、ありかよ……!」

 

「落ち着けよ、山々田トレーナー」

 

「落ち着いてられるかよ、こんな事聞かされてさ!」

 

 

 自分の事でとやかく言われても平常心を保てる僕でも、唯一我慢できないのが身内に何かしらの危害が及んだ時だ。

 ミスターXのやろうとしている事は、アグネスタキオンと先輩の間を強引に引き裂こうとする行為。

 アグネスタキオンに、先輩を裏切らせるという最低な行為だ。

 

 そんな事を耳にして、冷静で居られるわけがない。

 今目の前に件のミスターXが居たら、僕は容赦なくウマ娘としての力を駆使して殴り掛かっていただろう。

 

 

 そう思っていた時だ。

 

 

『騒がしいね』

 

 

 トレーナールームの扉が開かれ、入り込んでくる巨体がある。

 今しがた話題となっていたミスターXだった。

 

「ミスターX……!」

 

『ブラックサンダー……キミも一緒だったか。まぁいい、私の用はアグネスタキオン、彼女にある』

 

「待てよ、ミスターX!聞いたぞ!アグネスタキオンの手術の事を……!」

 

『キミには関係のない事だ』

 

「お前――――ッ」

 

 『仏の顔も三度まで』、そんな僕も遂にキレた。

 頭に血が上った僕はミスターXに向かって飛び掛かる。

 

 

 コイツは一度ぶん殴られた方がイイ。

 カミーユなら間違いなく修正パンチ案件だ。

 ウマ娘の力だろうが相手が人間?だろうがそんな事は関係ない。

 

 

 ミスターXは僕が分からせるしかない。

 そう思い、僕は拳を振りかざしその男の顔面に――――

 

 

『辞め給えブラックサンダー君』

 

 

 叩きつけようとした手がミスターXの巨大な掌に遮られていたのだ。

 ウマ娘の全力パンチをものともせず、ミスターXの腕は僕の拳を抑えたまま一ミリとも動かない。

 

 そして驚愕の事実を知る。

 僕の拳より先の感覚は、ミスターXの手は僕が良く知る皮膚の感触では無かった。

 明らかに鉄で構成された強固な物質。

 

 

「――げッ!?」

 

 

 そして掌一つで押し込まれる僕の腕。

 ミスターXが腕を軽く動かすだけで僕の腕が震えながら肘を曲げる。

 どんなに力を込めても、今度は僕の方が1ミリたりとも動かす事が出来ない。

 こんな事があり得るのだろうか、僕の脳内ではあるウマ娘の至言が浮かび上がる。

 

 

 

――――『人間がウマ娘に勝てるわけないじゃないですか』

 

 

 

「エイシンフラッシュの嘘つき!」

 

 

 人間とウマ娘の間にある常識がこのミスターXには通用しないらしい。

 非力な僕であっても、この結果は流石にへこまざるを得ない。

 

 

『私の肉体にはNASAの最先端技術によって作成された特殊筋肉繊維が仕込まれている。

 現段階の筋力はウマ娘の平均筋力を軽く凌駕しており、成長したゾウを持ち上げることだって可能だ』

 

「マジでお前別の世界行けよ!異世界行って主人公追放した勇者パーティの穴埋めして魔王でも倒してこい!」

 

「ミスターX、用があるのは私だろう?彼に構うだけ時間の無駄というモノさ」

 

『確かに……そうだな』

 

 アグネスタキオンに諭されたミスターXの手から力が抜けたのが分かる。

 ミスターXは手を僕から遠ざけると、アグネスタキオンと向き合い、彼女に尋ねるのだ。

 

 

『手術の件……考えてくれたかな』

 

「ミスターX、お前、本気なのか……?」

 

『あぁ、本気さ。彼女は怪我さえ完治すれば、まだレースへの復帰も可能だという事が私の分析した結果だ。

 あの超高速の脚が復活した暁にはトゥインクルシリーズの歴史は大きく動くことになるだろう。

 これ以上、いつ戻るかも不明な無責任なトレーナーの為に、彼女の時間を無駄にさせたくないのでね。

 だから条件を呑む以上、前任のトレーナーとの契約を解消し、私のウマ娘としてレースに出てもらおう。

 前任のトレーナーからの引継ぎの件は、私から理事長に掛け合おう、滞りなく進むはずだ。』

 

「何が滞りなく、だ。アグネスタキオンは先輩が担当するウマ娘だ」

 

『そうだな。彼はあまりにも愚かなトレーナーだったと聞く』

 

 なんだと、と僕の心の中でそう呟いてた。

 ミスターXの仮面から覗かせる赤い眼がぎらついて僕を見つめる。

 

『三冠ウマ娘として実力を間違いなく持っていたアグネスタキオンという才能の塊を管理不足から負傷させ、選手生命を潰しかけた愚かなトレーナー。

 挙句の果てに理由も明かさず一年以上も担当ウマ娘を放置しているのだ。これを愚かと称さずとして何というのか。

 彼女のトレーナーはね、彼女を置いて逃げたのだよ。恐らく、私の見立てでは一生待っていても彼はトレセン学園に戻ってくることは無い。

 優秀なウマ娘の将来を壊してしまったから。

 走るというウマ娘としての本懐を遂げることが出来なくなったから。

 救う手立てを結局見つけられなかったから。

 その罪の意識から逃げ続けているのだよ、だから彼は1年以上、アグネスタキオンの前に姿を現さないのではないかな?』

 

 

 ミスターXは続ける。

 

 

『私なら必ず、アグネスタキオンを導ける。

 そのための手立ては全て用意できていると言ってもいい。

 手術後の復帰メニュー、レースプラン、食事管理、試合前後のあらゆるケア。

 レースで勝つためのあらゆる術を全てキミに教えよう。

 アグネスタキオン、キミが求める研究、〝ウマ娘の肉体が目指せる速さの果て〟は私の下で再び始めればいい』

 

 

 だから、

 

『答えを聞かせてくれ、アグネスタキオン。

 私の下でもう一度トゥインクルシリーズを走るのか、それともこのまま無意味な時間を過ごすのか』

 

 

 その言葉は僕を再びキレさせるには十分な内容だった。

 先輩は決して、アグネスタキオンの管理を怠っていた訳じゃない。

 負傷をしてしまったけど、結果的にそうなっただけで、先輩は常にアグネスタキオンと共にあり続け、その時間の分、彼女と向き合い続けていた。

 

 

 アグネスタキオン一筋と言っても過言ではないあの先輩が、今更彼女を置いてどこかへ逃げ続けるというのは無理な話なのだ。

 

 四六時中、担当ウマ娘の事しか考えてない先輩だぞ?

 練習中にフォームの強制をするために10個もカメラを使う人だぞ?

 デスクのパソコン内に〝タキオンフォルダ〟って書かれたのが10個以上ある人だぞ?

 お薬の時間だよー、って差し出された得体の知れない薬品をノータイムで飲み干す人だぞ?

 勝負服の白衣の袖部分に手を突っ込みたいって言ってる先輩だぞ?

 

 

 ただの変態じゃないか、僕の先輩は。

 

 

 たしかに、疑いの余地が無いくらいに変態かもしれない。

 だけど、その異常性が霞むくらいに彼は担当ウマ娘の事を第一に考えている。

 それは一種の愛情ではないかと思ってしまうくらいに。

 

 

 

 だから彼が、アグネスタキオンの事を諦める筈がないのだ。

 必ず復活の方法を見つけ出して、再び彼女の前に現れるのだと、僕は今でも信じている。

 アグネスタキオンだって、先輩の事を信じている筈だ。

 

 

 

 僕の攻撃が通らないから、力が無いからとかもう関係ない。

 先輩の名誉を傷つけた報いを受けさせるべく、僕は再びミスターXを殴ろうとした。

 

 

 だけど、

 

 

「よせよせ、山々田トレーナーくん。これ以上暑苦しいのは嫌いだよ」

 

 僕の決死の行動が為される前に、それはアグネスタキオンの言葉によって遮られた。

 

「タキオン、なんで止める?」

 

「柄にもなく熱血かますんじゃないよ。

 そういうのは、私はなるべく無縁で在りたいんだ……ミスターX、幾つか質問があるが」

 

『ふむ、構わんよ』

 

 そう言いながら、アグネスタキオンはミスターXを見据える。

 睨みつけるような眼つきで、彼女は問うのだ。

 

「私の脚は復帰後も全盛期のように走り続ける事は可能か?

 この怪我は、無理に走ろうとすれば再発の可能性があると言われているが」

 

 その問いに、ミスターXは返して見せる。

 

『問題ない。再発の可能性は皆無だ』

 

「私の本格化の時期はとっくに過ぎている。

 ブランクもあるが、現在のレースで私がトゥインクルシリーズで通用すると思うかね」

 

『本格化の時期を迎えても、能力の減退はウマ娘個人によって異なる。

 それに、減退傾向はどのウマ娘も非常にゆっくりだ。

 トレーニング次第ではキミの現役時代と同等、いや、それ以上の走りをすることも可能だ。

 キミはまだ輝ける……いや、この私が輝かせてみせよう』

 

 

 まるでプロのトレーナーがデビュー前のウマ娘に持ちかけるような誘い文句。

 僕の時とは違って短絡的なやり取りの中で行われたものではない、用意周到に彼女が反応しそうな単語をチラつかせて、興味を引き付けている。

 

 

 しかも、それは嘘ではなく信頼度が高いのであればそれはまさにアグネスタキオンにとっては願ったりかなったりの状況。

 失った足を取り戻し、再びレースを走り、自らの研究を継続させることが出来る夢のような提案。

 だけど、アグネスタキオンにとって大切なものを失わせてしまう地獄のような提案でもあるのだ。

 

 

 アグネスタキオンはミスターXの言葉に腕を組むと、

 

「ふぅン……」

 

 と唸った。

 そして彼女は言う。

 

「素晴らしいね」

 

 ミスターXの提案を、素晴らしいね。そう言ったのだ。

 

 

「もう二度と走れないとまで言われた私の脚がもう一度ターフを駆ける事が出来る。

 再発のリスクも無しにだ。それに、私自身の研究も再スタートが出来る。

 やはり実験は自らの肉体を駆使して行うことには良質なデータは取れないだろうからねぇ。

 モルモット君も本当にいつ帰ってくるかも分からない、その為に時間を失う事こそ、研究者にとって致命的なものだ。

 もう一度言うよ、この提案は私にとって非の打ちどころのない程に素晴らしいものだよ」

 

 

『では―――』

 

「ああ、だからミスターX、私の返答はコレだ」

 

 

 そう言うとアグネスタキオンは手にしていた手術の内容が記載された一枚の誓約書を上部分を両手で摘まんで見せると、一気に破り裂いた。

 

 

 びりっ、びりっ、ぐしゃ、ぐしゃ。

 縦に裂き、横に裂き、手で丸めて、更に小さく纏めた手のひらサイズの紙屑を近くのごみ箱に向けて投擲する。

 美しい弧線を描いた紙屑は一度壁に反射してゴミ箱の中に納まった。

 

 

「ふぅン、スリーポイントかな」

 

 答えは、否定。

 アグネスタキオンはミスターXの申し出を断って見せた。

 

『本気かね』

 

「確かに、私は私の研究を続けたい。

 ウマ娘として、私個人として、これは私が永遠に追い続けるテーマだ。それには変わりはない。

 だけどね、〝ウマ娘の可能性〟、〝速さの果て〟を追い求める助手はキミではないのだ。

 

 

 

 アグネスタキオンは一息、

 

「それに、私はモルモット君と山々田トレーナーの作る料理以外食べるつもりはないからねェ」

 

 ふふ、と不敵に笑ったアグネスタキオンにミスターXは尋ねる。

 

『考え直してはくれないのかな』

 

「無理な相談だねぇ」

 

『……そうか、ではまた日を改めるとしよう。

 私はキミを諦めないよ、決して』

 

 ミスターXはそう言い残して、トレーナールームを去っていく。

 熱烈な歓迎を一蹴された彼は気落ちしたような感じは無い。

 宣言通り、彼はこれからもアグネスタキオンにアプローチを続けていくのだろう。

 

 

「やーい振られてやんのー!」

 

「山々田トレーナーくんは小学生かい?」

 

 

 僕を差し置いて猛烈なアタックをするからだ。

 恐らく罰が当たったんだと思うようにしておこう。

 

 邪魔者はいなくなったと言わんばかりに、弁当を漸く食べ始めるアグネスタキオン。

 少しだけ遅くなった朝食の最中、ウィンナーを口にしている彼女に、僕は失礼を承知で聞いた。

 

 

「なぁ、タキオン。僕が言うのもなんだけど、本当にいいのか?」

 

「なぁんだい山々田トレーナー、キミもあの男と同じことを言うのかい?

 私は脚を治してまであの男と研究を続けるつもりはないよ。

 私の研究は、私だけのものではない、私とモルモット君とで作り上げていった研究なのだ。

 彼以外、私の助手はあり得ないよ」

 

 まぁ、とアグネスタキオンは続け、

 

「何十回も何百回もアピールされ続けたら、何かの間違いでコロッと心変わりしてしまうかもしれないねェ。三顧の礼、三国志で諸葛孔明が劉備玄徳の三度目の説得で応じたように。

 ハハ、そうなったらモルモット君もビックリするだろうなァ、帰ってきたら知らない男に自分のウマ娘を取られているんだから……そうならないように、早く帰ってきてくれないかねぇ」

 

 

 海外遠征から帰ってきたら担当ウマ娘が別のトレーナーに奪われていた。

 なんという、ウマ娘NTR劇場だろうか。

 悪趣味な性癖持ちが居たら精神的にドストライクな展開だが、これ以上はサイゲの規約に引っ掛かりかねないので先輩には一刻も早く、トレセン学園に戻ってきてもらいたいのが僕の心からの願いである。

 

 

 

 

 そして月日は流れて四月。

 僕は遂に、クラシック戦線の一つ目であるG1レース、『皐月賞』を迎える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ウマ娘NTR劇場、タキオンってNTR属性あるんじゃないかな。いや、ウマ娘全般NTR属性があるのでは……


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20.控室

デジタン来たぜ……チャンミ始まりましたね、頑張りましょう(荒ぶる水着マルゼンから目をそらしながら)


――――皐月賞。

 

 

 クラシックレース、3冠路線の一角を担うレース。

 デビュー後のウマ娘が最初に挑む大舞台のG1レース。

 ウマ娘でもっとも速い者が勝つと言われるレース。

 

 

 偉業への第一歩と言われるこの晴れ舞台に、僕ことブラックサンダー……本名、山々田山能は満を持して立つことになった。

 

 

 今、僕は中山レース場の控室で待機をしている。

 ウマ娘にはレースが始まるまでの時間、個別で控室が与えられるため僕以外には他のウマ娘は居らず、外から伝わる観客達の地響きに似た歓声がここまで鮮明に届くのが分かる。

 

 

「ふぅ……」

 

 

 壁に設置されている鏡に映った自分を見て、僕は息をつく。

 走れるだけ走り、実戦経験を積んで自信というものは付いていた思っていたのに、この場所に来てそれが信じられなくなった。

 

 壁と同化している長テーブルに置いた水分補給用のペットボトルは三十分ほど前に蓋を切ったが一口飲んだだけでそのままだ。

 口内は乾いているというのに、喉奥が極端に狭くなっている気がする。少しだけ呼吸がし辛い……脳が水を飲むことを拒んでいる。

 

 

 身じろぎする余裕すらないのか、僕はどうやらそれほどまでに緊張しているらしい。

 

 

「ブラックサンダー……情けない男……」

 

 過去に、グラスワンダーをこういった大きなレースに送り出す際に何度も来ては奮起するような言葉を掛けていた事を思い出す。

 

 

 『頑張れ』。

 『気負うな』。

 『平常心を保て』。

 『楽しんでいこう』。

 

 そんな言葉が、トレーナーとして最善だと思って放っていた言葉を何度心の中で言い聞かせても、僕の緊張は解ける事は無かった。

 

 

 ふと、思ってしまう。

 当時、レース前に僕が激励のつもりで言っていたグラスワンダーへの言葉は意味を為さないものだったのではないか。

 だって、レースに臨むウマ娘である僕自身が未だに不安を感じているのだから、そう考えてしまうのが当然だ。

 

 

 鏡に映る僕は、レース前だというのに酷く疲れた顔だ。

 既に2000mは走ったのではないかと思うくらいの疲労具合だ。

 昨日は9時前には布団で寝ていたというのに。

 

 

 あ、でも僕その後寝付けなくて2時くらいに寝たんだっけ。

 しかし、このままでは不味い。レースまで時間はあるものの僕の緊張感は高まりっぱなしだ。

 

 

 まるで高校時代に初めて短距離のレースに出た時のコンディション。

 あの時はしきりにコール時間を気にしては、腹が決まって下痢気味になってトイレに駆け込んでいた気がする。

 今の状況はその時の状態に近い。

 

 

 こういう時はどうするんだっけ、羊でも数えればいいんだっけか。

 

 これは確か眠る為のおまじないだった気がするけれど、それすらもまともに判断できない程に僕は完全に上がっていた。

 藁にも縋る思いで、僕は目を閉じて羊を数えだす。

 目指すは究極の自己暗示だ。

 

 

「羊が一匹……羊が二匹…」

 

 

 ぽつり、ぽつりと僕はそれだけを繰り返す人形のように呟いて行く。

 しかし、数分もすれば意志のブレというのが必ず起こるので数分後には、

 

 

「水着マルゼンが一人、水着マルゼンが二人、水着マルゼンが三人……ゴルシが一人、ゴルシが二人、ゴルシが――――」

 

『何をしているのかね、ブラックサンダーくん』

 

「オォウッ!?」

 

 

 僕の夢想意識の中に割り込んでくる声に目を開けると、目の前には黒服巨体のトレーナー、ミスターXが居た。

 

 

『試合前に己に掛ける自己暗示にしては、チャンミでよく見る地獄の光景を口にしているじゃないか』

 

「ほっとけよ」

 

 

 現実世界へと戻って来た僕は今しがた見せてしまった痴態に口元を歪めて、そう言い放つ。

 扉はいつの間にか開けられていたらしく、いかに僕が自己暗示に没頭していたかを物語る。

 

 

『ふむ……』

 

 

 僕を見ると、ミスターXが仮面の顎部分に手を当てて考え込むような仕草。

 ミスターXは僕の背後を取ると、

 

「ぎょえっ!?」

 

『首筋から広背筋にかけて筋肉に緊張が見られる……余程余裕が無いと見た』

 

 

 ミスターXは僕の肩をむんず、と手で鷲掴みしていた。

 そしてこの手は、人の手ではなく、両肩のパッド部分から飛び出して動くマジックハンドのようなアームである。

 しかし、マジックハンド部分は人の手の感触にとても近い、人間の皮膚と変わらないくらいだ。一体、何の素材で出来ているのだろうか。

 

 

『試合まで時間がある。筋肉をほぐすマッサージを施術してあげよう』

 

 

 今度はマジックハンド部分ではない掌部分がパカッと割れると筒状に丸められたロングタオルが飛び出してくる。

 あらかじめ持ち込んでいたとされる巨大なトランクは開いて内側に内蔵されている脚のような棒を伸ばして立てて先ほどのタオルを敷いてあげると、簡易的なマッサージベッドが出来上がった。

 

「試合前にあんまりマッサージはしない主義というか……」

 

『疲れを取るマッサージではない、どちらかと言えばストレッチやアップの方に近いものだ。

 安心しろ、私はこう見えてもスポーツトレーナーとしての教養はアメリカで身に付けている』

 

「マジか」

 

『マジだ』

 

 

 人?とは見かけによらぬものである。

 普段から胡散臭い男だが、今の僕はこの緊張から解き放たれるなら何をされてもいい。あ、タキオンの薬品だけは勘弁な。

 僕は騙されたと思って、ミスターXのマッサージを受ける事にした。

 

 

 

「随分と気に掛けてくれるじゃないか、てっきり、アグネスタキオンにしか目が無いのかと思ったよ」

 

『キミは私の担当ウマ娘だ……そして今日はキミの初のクラシックレース、三冠路線の初戦……気に掛けない訳がない。よもや、アグネスタキオンに嫉妬したのではあるまい?』

 

「冗談言うなよ」

 

 

 両肩から飛び出したマジックアームがうつ伏せになった僕の背中を上下に滑る。

 ゾウ以上の力を持つというミスターXによるマッサージだが、このマジックアームからはそのような力は感じなかった。

 きっと、この腕はマッサージをするために快適な力で動作するように彼の調整が及んでいるのかもしれない。

 

 

『それよりどうかな、広背筋周りがだいぶほぐれてきたと思うが』

 

「……ああ、意外と本格的でびっくりしてるくらいだよ」

 

 ミスターXのマッサージは、プロによるものかと思うくらいに見事だった。

 指で強烈に押すような指圧を行うことは無い、筋肉繊維に沿って掌の表面で摩るかのような動きだ。 

 

 

 これは主義療法における軽擦法(けいさつほう)と呼ばれるものであり、手の摩擦によって皮膚を温め血液の循環を良くし、新陳代謝の促進と肉体の細胞を活性化させる効果がある。

 このやり方の他にも押す動作による強擦法や叩く動作による叩打法、指圧による圧迫法……手技による療法というのは行う患部と効果によって様々である。実に奥が深いのだ。

 

 

『脹脛も固めだ。アキレス腱周りと足首の可動域も広げる』

 

 足首を手に持つだけで筋肉の疲労具合が分かるというのか、ミスターXは軽擦法を用いて両の脹脛をほぐすと次は脚の先端を掴み、足首を時計回りに反時計回りに動かしていく。

 

 

『トレーナーとして当然のスキルではあるものの、実際にこれがウマ娘の試合で勝利に結びつくかと言われれば私は自信を持って〝そうだ〟と言う事は出来ない。

 何故ならターフに立って、レースを走るのは私ではなく、ウマ娘自身であるからだ。

 レースが始まれば、ゲートが開いてしまえば……いや、地下バ道からキミを見送った瞬間に私は何もすることが出来なくなってしまう』

 

 

 だから、

 

『せめて最悪の怪我だけはしないように、少しでも不安を解消出来るように、私はこうして出来る事をする。

 そしてウマ娘のレース結果を真摯に受け止め、分析し、次のレースで繋げるためにトレーナーというのは一番冷静でなくてはいけないのだ』

 

 

 ミスターXの言葉が、他人事のように聞こえなかった。

 僕が先ほど悩んでいた事に最適解とはいかずとも、彼のように考える事で僕が抱いていた疑問に答えをくれたようにも思えた。

 少しだけ、前向きに考えてみよう。僕がトレーナーとしてやってきたことを僕自身が否定してしまわないように。

 

 

『どうかね』

 

「おお……!」

 

 十数分のマッサージを終えて、身体がやけに軽くなるような感覚があった。

 首回りの硬さもほぐれて頭も鉛のように固くなっていた足回りも全部が軽い。

 範馬刃牙が中国で砂糖水を飲んだ後復活したらこんな感じなのだろう。

 

 

『今回の皐月賞……恐らく荒れる』

 

 身体のコンディションを確認していた矢先、ミスターXがそう口にした。

 

『1番人気はメルティロイヤルだがそれ以外にキミのような逃げ先行策を得意とするウマ娘数名が内枠に固まっている。

 人数はフルゲート、そしてキミは外枠10番……いつものような逃げ作戦が出来る、容易なレースにはならないと思った方がいい』

 

「何か対策は無いのか、ミスターX」

 

『慌てる事は無い。緊急事態に備えて一つだけ策を教えよう……プランAだ』

 

 

 僕の問いにミスターXはレース中で危機に瀕した時の対処法を伝授する。

 その内容はとてもシンプルだが、あまりの分の悪い賭けのような内容に僕は顔を引き攣らせた。

 

「ちなみにプランAが駄目だった時のプランBは――――」

 

『そんなものはない』

 

「あぁ、マジかよ」

 

 

 毅然として言い放つミスターXに僕は大きく肩を落とす。

 こうなったら、この作戦が発動するような状況を作らないようにレース展開には注意を払う必要があるようだ。

 

 

『私はこれで失礼する。キミもそろそろ勝負服に着替えたまえ』

 

 時計を見るとレースが始まる時間帯へと迫っていた。

 まだジャージ姿の僕はG1レース用に支給されたブラックサンダーの勝負服を着用しなければならない。

 マッサージなんてしている場合じゃなかったのではないかと言われれば、そうでもない。

 少なくとも、心と身体の重みはだいぶ軽くなったのだから、ミスターXの施術は意味があったと思える。

 

 

「ミスターX……その、礼を言わせてくれ」

 

『礼には及ばない。それに先ほども言ったが、ここからはキミだけの戦いだブラックサンダー。

 私はこの扉を閉めたら、観客席に向かう……もうキミを手助けすることは出来ない』

 

「それでも、僕はアンタがしてくれた事を忘れない。

 アンタのお陰でレースに送り出されるウマ娘の気持ちが、少しは分かった気がするから。

 ウマ娘がトレーナーを信じて、トレーナーの期待に応えたくなるってやつがさ」

 

 

 扉前に立つミスターXに向けて、僕は拳を突き出して見せる。

 以前のように敵意を向けるようなものではなく、こちらに意識を向けさせるためのものだ。

 

 

「僕を見ていてくれ、トレーナー」

 

『――ああ、健闘を祈るよ』 

 

 数瞬の間の後に、ミスターXはこちらに向けて右の拳をこちらの突き出した拳に合わせるように構えていた。

 距離がありすぎて、まったく届いていないこの拳の突合せだが、僕達にとってはお互いを信頼するという意味で重要なものであった。

 

 

「さ、時間もないし……着替えるか」

 

 

 静かになった控室で、僕はこれまでにない程の軽い動作で壁に掛けられている勝負服を手に取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ちなみにプランAとプランBの元ネタは『Gears of War』からです。
荒れろ荒れろ皐月賞。勝負服は勝手に作りました。


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21.ブラックサンダーの勝負服

辛い……アオハル育成上手くいかない…、このままではチャンミが……


 ウマ娘はG1レースに出走することになると普段着ているジャージとは別の衣装が与えられることになっている。それが勝負服だ。

 

 この勝負服を着てレースを走る事はウマ娘にとって名誉な事であり、自分の勝負服を得るという事は自分の強さが認められた証でもあるのだ。

 

 

 勝負服は1流デザイナーが最初から全て手掛けるものもあれば、ウマ娘からデザイナーに希望を伝えて作り上げる場合もある。僕は後者だった。

 僕の勝負服、ブラックサンダー専用の晴れ着には僕自身も一人の関係者としてありたいと思ったから。

 

 

 ブラックサンダー、と言う名前なので黒を基調に。

 黒シャツ、黒のショートデニム、膝下まで伸びたダークブーツは男の頃には履く機会が無かったので結構戸惑った。

 ブーツで芝走れんのかい、って疑問に思ったけど勝負服はデザイン性だけでなく機能性も拘るらしい軽くて、ウマ娘の力にも耐え得る頑丈なものだった。

 

 

そういえばトウカイテイオーも結構ゴツイブーツ履いて走ってたな、とそんな事を思い出す。

 

 

 黒のチェスターコートを羽織り、指ぬきグローブを両手に嵌めていく。

 全体的に黒が基調の勝負服だが、所々に黄色のラインがコートやブーツに描かれている。

 

 黒い稲妻、ブラックサンダーに相応しい勝負服だ。

 最初は黒シャツ部分がブレザーだったので「これじゃマンハッタンカフェと被るから」という理由で僕はデザイン変更している。

 手袋も搭載されていたがこれも同じ理由で敢えて指抜き型にした。

 左足に巻かれた革ベルトが中々洒落たセンスである。

 

 

 なにせ、これから重賞レースでずっと着続ける勝負服だ。

 僕個人の拘りと言うものを幾つか提案しても罰は当たらないだろう。

 

 勝負服を着た当時の周りの反応は様々だった。

 

 

『意外にかっこいいな』。

『お菓子っぽくない』。

『少し厨二心が入ってないか……』。

『マンハッタンカフェの衣装違いですか?』。

『スカートじゃないのか……』。

『ブーツを脱がせてあげたい……そして履かせてあげたい』。

『スパートをかけた時、コートが翻った瞬間に見える健康的な太腿が俺を狂わせる』。

『太腿いいよね』。

『ああ、太腿……イイ…』。

『なんかアサルトリリィみたい』。

『ブラックサンダー、実はウマ娘じゃなくてリリィ説』。

 

 

 

 朝日杯のレース後にネットで漁ってたらたまたま目撃したウマ娘好きの同士が集まる『ウマちゃんねる』にはこのような書き込まれていた。

 最初はブラックサンダーについて多数の怪文書が出回った時は流石にやる気が下がりかけたが、逆に僕、ウマ娘姿だとそれなりにウケがいいんだな、とある種、自分の姿に対する自信が生まれて次第にそれは『スゲェ!なんか見られると気分が上がるな!』というポジティブなものになった。

 

 

 断じて、『見られることで興奮する変態ウマ娘』ではないという事をここで明言しておくことにする。

 

 

 

 ウマ娘の勝負服と言うのは不思議なものだ。

 あんなに走りにくそうなデザインをしているというのに、彼女たちは一切気にも掛けないようにレースを走る。

 トレーナーの視点ではそのメカニズムというのが全く分からなかったが、ウマ娘になってそれが漸く理解できた。

 

 

 この服を着ていると、不思議と力が湧いてくるのだ。

 それは、直接パワーが+100とかされるものじゃなくて、どちらかと言うと精神的なもの。

 気合が入るような、気持ちが昂るような、いい気分になれるような……そんな感じだ。

 

 

 

 

「よぉ、ブラックサンダー」

 

 

 

 メインレース場へと向かう地下バ道、その道中を進むにあたり背後から声に僕が振り向けば、その相手はあの一番人気のメルティロイヤルだった。

 ルドルフ2世と呼ばれる彼女もまた、自らの勝負服に身を包んでこの皐月賞に臨むウマ娘の1人である。

 奇しくもシンボリルドルフと同じ緑色の勝負服、だが全身の筋肉が多すぎるせいか華やかさにはやや欠ける。

 シンボリルドルフが玉座が似合うウマ娘ならば、メルティロイヤルは戦場が似合う猛将と呼ばれるのが相応しいウマ娘だろう。

 

 

「今度は名前間違わないんだな」

 

「お前の名前、今でも食ってる菓子の名前と一緒だからな、すぐ覚えるぜ」

 

「嘘つけ、じゃあなんであの後2回ほど間違えた。学園ですれ違った時も僕の名前をブルーインパルスって間違えてただろ。

 遂に黒くもサンダーもなんでもなくなってたじゃないか」

 

「怒んなよ、あんま根に持つなって……イライラしてっとその内ハゲっぞ」

 

「誰が磯野波平だ!」

 

「いや、言ってね―よ」

 

 地下バ道に喧騒が響く。

 僕とメルティロイヤルが並ぶと本当に同じ中等部なのかと疑いたくなる。

 僕が身長151cm、かたや179cmだ。なんとあのヒシアケボノに迫るサイズ。

 細身の僕と筋骨隆々としたアマゾネス体型と比較するとその差は歴然である。

 

 

 暫くして歩くと照明の灯りしかない地下バ道の出口が見える。

 薄暗いこの場所よりも遥かに輝く、太陽によって照らされているターフ。

 そこは言うまでない、僕達ウマ娘の戦場である。

 

 

「悪いが皐月賞は俺が貰うぜ」

 

「始まる前から勝利宣言かよ」

 

 悪びれず言うあたり、相当な自信を持っているように見える。

 スプリングステークスからメルティロイヤルは乗りに乗っているようだ。

 あの最後方から差し込んでくる豪脚、いや鬼脚……これは非常に厄介だ。

 

 レース終盤であの追い上げが迫ってきたら、いくらリードを保っている逃げに徹するウマ娘でも捲られかねない。

 だが僕はあのグラスワンダーのトレーナーである。

 このレースで試されるのはいかに動じず、追い上げてくるウマ娘に対処できるかというメンタル。

 今こそ、3年間グラスワンダーに背後から刺され続けてきた経験を生かす時だ。

 

 

「先に行かせてもらうぜ、テメェら全員肉団子にしてやるよ」

 

 そう言ってメルティロイヤルは僕より先にレース場へと駆けていく。その瞬間、一番人気らしい場内の大歓声がこの地下バ道にも聞こえてきた。

 

 

『狙うは三冠、ルドルフ2世の名に恥じない1枠から1番人気、メルティロイヤル!

 スプリングステークスで観客を震わせたあの鬼脚を、この皐月賞の舞台でも見せてくれるのか!!』

 

 

 

 戦いは何が起きるか分からない、僕が想定していた以上の展開がこの皐月賞で起こるかもしれない。

 あらゆる事象を想定して、冷静な判断力を下せるように今の内に掌で人の文字を書き起こしておこう。

 

 

「人人人人人……ん?」

 

 

 人差し指で文字を描きながら、言葉にしても呟きながら視線を下げていた僕は思わず脚を止めて、上を見た。

 

 

「お……」

 

 

 目に飛び込んでくる芝の他に観客席を埋め尽くす人、人、人。

 その全てが、鳴りやまんばかりの声をブラックサンダーという、一人のウマ娘に向けて放っている。

 こんなに注目された事なんて、僕はウマ娘になってからの試合では多分ない、勿論陸上競技の試合でも無い。

 

 

 身体を通して伝わる圧倒的な圧力に思わず目を見開く。

 観客達の声援が、びりびりと身体に響いてくる。

 

 

 朝日杯とは比べ物にならない重圧感、伝統あるG1レース……これが皐月賞か。

 

 

 ぼうっとその場から周囲を見渡していると、実況の声がこちらに響く。

 

 

『2代目皇帝の前に立ちはだかるは黒き稲妻!

 黒い勝負服に身を包んでやって来ました3番人気ブラックサンダー!

 今日も見せてくれ、稲妻の逃げ!さぁ行け私の推しウマ娘!皐月賞の冠を目指して!』

 

 

 やたらと私情が入り込んだウマ娘紹介だった。

 なんか一番人気の紹介よりも熱が入ってる気がする。

 後であの人色々な方面から怒られそうだな、と僕は実況席でテンション高めに身体を動かしている男にそんな事を思うのだった。

 

 

 不思議と緊張はしていなかった。

 一度は高鳴ったこの胸はまだ早めの鼓動を刻み続けているが、呼吸が苦しいという感覚は無い。

 

 自分が入るべきゲートを目指して走り出す。

 恐ろしい程に僕の脚は、というか身体全体は軽かった。

 エンドルフィンが過剰に分泌しているのか、視覚を通して僕の脳に届く情報が、僕のウマ娘としての本能を、走る者としての気持ちを昂らせる。

 

 

 

 その途中でゴール付近の最前列、制服姿のグラスワンダーとアグネスタキオンが居たことに気付いて僕は速度を緩めた。

 

 

「―――」

 

「グラス……あぁ、そうだな」

 

 口を開かず、視線を僕から離さず。

 凛とした、空色の瞳と見合う時に僕は少しだけ我に返る。

 大観衆の中、騒音にも似たこの場内でまるで一人だけ別の空間にいるかのような、泰然自若を体現したようなグラスワンダーの佇まいを見て、僕自身も冷静にならなければならないと思ったのだ。

 

 

 距離は違えど、僕はそういう事を言われている気がした。

 

 

 ゲート前に立って、深呼吸をして心拍数を落ち着かせる。

 最後のウマ娘が枠入りしてからレースが始まるから、トリを務める者は気楽に入れるから良い。

 充分に間を取った後で枠入りを完了させると、左右からの異様なまでの視線があった。他のウマ娘達だ。

 

 

「今日は逃げ切れると思うなよ」

 

「逃げがアンタだけの専売特許だと思わない方がイイね」

 

 

 おお、怖い怖い。これは相当にマークされているな……同じ逃げウマ娘だ。

 同じ脚質だから、先頭の奪い合いになる事は必至だ。だから逃げウマ同士は互いに睨みを利かせる。

 逃げウマだけではない、それ以外のウマ娘達からも彼女たちのような視線をひしひしと感じる。

 

 

「どうやら、1番人気よりも人気者らしい」

 

 

 2000mは、僕にとって不安な距離だ。

 今日までトレーニングを重ねていたが、弥生賞の追いつかれ具合からスタミナ面が不安視されている。

 もしスタミナ管理をミスったら、後ろから差し切られる可能性がある。 

 

 

 だからだろうか、今日こそは僕の首を取らんとばかりに周りのウマ娘から殺気を感じるのは。

 だがそんな殺気、グラスワンダーとの3年間で慣れっこだぜ!

 

 

 

 

 

 

『さぁ最後のブラックサンダーが枠入りが完了させました。

 血のプライドと人々の願いを乗せて、皐月賞今スタートです!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さぁさぁお客さん方、やきそばはいかがねー!レースを前に腹ごしらえのやきそばはいかがかねー!」

 

 

 レースが始まる数分前、一人のウマ娘が中山レース場の観客席で『特製やきそば・皐月賞限定』と書かれ立ち売り箱を首から下げて声掛けを行うウマ娘がいる。

 

 

「今なら皐月賞を記念した限定焼きそば販売してるよー!さぁ買った買ったぁ!

 ソースはブラックサンダー味とロイヤル味、他数種類の組み合わせで無限にトッピングできんぜェ!」

 

 

 腰まで届く長髪の芦毛と170は越えているであろう体格の良さ、顔つきの良さが目立つウマ娘。

 静かにしていれば、黙って普通の格好をしていたら誰もが美人だと口を揃えて言うだろう。

 

 

 以外にも、そのウマ娘が売る焼きそばは中々に売れていた。

 レース開始前だからか、昼前だから作り置きしていた100個の弁当ももう僅かである。

 

「へっへっへ……」

 

 

 芦毛のウマ娘はこれから始まる祭りという名のレースに興味津々と言った感じの笑みを浮かべていた。

 その視線の先、ゲートを前にして佇んでいるブラックサンダーへと。

 

 

「さぁて、今年はどんな面白ェヤツが皐月賞勝つのか……ゴルシちゃん、ワクワクすっぞ!!」

 

 

 そのウマ娘、名前をゴールドシップという。

 かつて皐月賞を制したウマ娘はかつてない強敵……否、絡んでいて面白そうなウマ娘を探すべく、この中山レース場に現れたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 




 皐月賞開幕!
 尚、天候は晴れですが前日の雨によって若干の稍重というバ場状態となっております。


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22.荒れる中山

土日で何話更新できるか……明日はオールカマーですね。


『さぁ、始まりました中山11R皐月賞。

 前回のレースから雨が降り続けて、今日の快晴で重バ場から稍重に回復してのスタートとなります。

 解説の二宅さん、各ウマ娘の動きですが内ラチが大分荒れてますので乾いている外側の芝を走っていますね』

 

『そうですね芝内さん、前回のレースではウマ娘達が最内を多く走っていましたからその影響でしょう。

 逃げウマ娘にとっては少しばかり不利な状況ですね。

 先頭を取り続けて後方との距離を開きながらレースを展開するウマ娘にとって、最内を走れないという事はコーナーを最短で回れない事を意味します。

 後方のウマ娘達も同じですが、逃げウマ娘達は前の方でポジションをキープしなければならない為、特にスタミナの消費も多いです。

 それに中山の最後の直線は短く、ゴール手前で坂がある……ここまでに充分脚を残せていないと後方のウマ娘に差し切られてしまう展開になるでしょう。

 逆に最後方からのウマ娘は先頭との距離が離れすぎると仕掛けるタイミングが遅れれば届かない、今回のレースはどちらかと言えば先行勢が有利です』

 

『もっとも速いウマ娘が勝つと言われる皐月賞、ペースとポジションを維持しつつ脚を残せなければ逃げウマ娘に勝ちはないと。

 私の推しウマ娘のブラックサンダーに勝ちは無いと?そう仰るんですね?』

 

『なんで急に推しの話になるんですか……』

 

『確かに同じ距離の弥生賞では以前までのような大逃げが出来ませんでした。

 恐らくスタミナに不安があるのでしょう、しかし私は彼女がその壁を打ち破りこの皐月賞を制してくれることを信じています。

 

 ――――おっと!?開幕スタートダッシュからブラックサンダーが行った行った!内側に切り込んでいくぞ!?』

 

『お前ちゃんとレース全体の解説しろや』

 

 

 

 

 

 

 

 中山レース場、観客席前段に位置するグラスワンダーはじっと、ブラックサンダーの走るレースを見つめていた。

 

「……」

 

『君は彼を見る時、いつも不安そうだなグラスワンダー』

 

「ミスターXさん……」

 

 

 栗毛の少女の隣に突如として現れる黒ローブを纏った巨体。

 その正体は、ブラックサンダーのトレーナーであるミスターXだ。

 

『君の想像する通り、試合を前に彼はだいぶ緊張していたよ。

 普段の彼にしては珍しく、水も喉を通さないような状態だった』

 

 まぁ、それも解決したがね。

 と、ミスターXが肩を竦めたのを見たグラスワンダーは視線を再びコースへと戻す。

 

 

「ミスターXさんは、ブラックサンダーさんがこのレースで勝てると思いますか」

 

 淡々と言葉を作ったグラスワンダー、その問いにミスターXも同じコースへと視線を落として、

 

『正直、厳しいだろうな』

 

 はっきりと、そう言った。

 

『後先考えない、スタミナを残さない逃げが通用するのはブラックサンダーの場合は1800mまでだ。

 弥生賞、前回のレースでは最後の直線、上がり3ハロンのタイムはこれまでのレースでは一番遅かった……明らかにスピードが落ちている。

 まだウマ娘として、本格的な成長を遂げることが出来ていないのかもしれないが、それ以前にスタミナ不足だ』

 

「やはり……そうなのですね」

 

 

 現段階で、ブラックサンダーには2000m以上を走り切る為のスタミナが充分に無いことをグラスワンダーは気付いていた。

 逃げウマ娘はハナを取りつつ、前に前にと進んで後方との距離を広げていく。最終的にスタミナが切れるがそれまで稼いだ後方との距離を使って勝つのが逃げの常套手段だ。

 

 

 だが中途半端な位置で完全にスタミナが枯渇してしまうと、脚が止まったかのようにスピードが落ちる。

 それは逃げ作戦の失敗であり、逆噴射したウマ娘を後方のウマ娘が追い抜くことは容易である。

 これまでのブラックサンダーは1800mまでなら問題なくスタミナ管理をしなくても逃げ切る事が出来た。

 だが、2000mからはそれが出来ない、これまでのような走り方は通用しない。

 

 そのために、スタミナ増強のトレーニングを皐月賞までに積んでいた。

 それで多少のスタミナに余裕を持たせることが出来るかも知れないが、本質的な距離適性は覆す事は容易ではないのだ。

 

 

 春の天皇賞で距離適性を覆せなかったトウカイテイオーがメジロマックイーンに敗れたことでそれが証明されている。

 

 

『全ての脚質で逃げというのは一番安定しないものだ。

 枠番による有利不利、バ場によるスタミナ管理、ライバルとの位置取り、逃げる為にどれくらいの差を付けなければいけないのかという計算、逃げながらも休む……身に付けなければいけない技術がいくつもある。それを全て体得していた逃げウマ娘は、恐らくここ数年の間ではあのサイレンススズカくらいだろう。まぁ彼女自身、感覚に頼っていた部分もあるかもしれないがね』

 

 ブラックサンダーがこの2000mを走り切る為にはコーナーでのスタミナロスを最小限にする位置取りと直線での減速、最終コーナーを回る前に息を入れるなどのテクニックを駆使していかなければならないのだが、ウマ娘として実戦経験がまだ1年くらいしか経っていない彼にはそこまで芸当を期待するのは難しい。

 

 

『新年、私は彼に言って行った……〝どの路線を進むか考えていて欲しい〟、と。

 クラシック路線というのは、〝夢〟や〝憧れ〟で追うべきではない……そのウマ娘に見合った脚質の路線を確実に歩ませるのも進むべき道の一つだ。

 本来なら、伝統の3冠路線よりも桜花賞、オークス、秋華賞のティアラ路線やNHKマイルカップ、安田記念、マイルチャンピオンシップのマイル路線を進むのがブラックサンダーというウマ娘にとって最適な道だった』

 

「……」

 

『君はどうだね、グラスワンダー。

〝怪物2世〟と言われたウマ娘のキミならブラックサンダーが3冠路線を進むと決めた時に距離適性の問題に気づいていた筈だ。

 もしキミが私と同じ立場なら、トレーナーとして、彼にその道を進ませることを止めたかね』

 

 

 ミスターXの問いにグラスワンダーは少しだけ考える。

 

 

「私は……」

 

 

 考えて、思い出す。

 新年、初詣に行ったときの事を。

 そこでブラックサンダーが言っていた事を。

 

 

―――女王様の冠に興味が無い訳じゃない、だけど、男の夢ってやつかな……うん、そうかもしれない。

 

 

 三冠路線を進むことを、彼は『男の夢』と言っていた。

 男の夢、というのは一体何なのだろう、自分は女だから分からない、とグラスワンダーは思った。

 けれど、夢というのがどんなものなのか、それはグラスワンダーにも分かる。

 

 

 夢と言うのは、胸を熱くさせる。

 夢と言うのは、替えの利かない。

 夢と言うのは、自分の進む道筋。

 

 

 ブラックサンダーこと、山々田山能という男はグラスワンダーからして見れば変人だ。

 

 

 ウマ娘に自分の事を『お兄様』と呼ばせるトレーナーや『お兄ちゃん』と呼ばせる変なトレーナーが多い事で有名なトレセン学園の中では極めつけの変人だ。

 

 

 低身長のウマ娘に肉体的な接触を好んで行う。

 小学生ウマ娘とキャッキャウフフしてたこともある。

 そのせいでグラスワンダーが頭を下げる事は日常茶飯事であった。

 

 体重を減らすために減量を行っていた時期に自分の目の前でジャンボパフェを見せつけるように、

 

 

―――その顔が見たかったぁ~!私に嫉妬するその顔がぁ!

 

 

 どこぞのブレンのように煽りながらパフェを食べていた時は本気で殺意が湧いた。

 

 同期のウマ娘達と自分のトレーナの話題になった時は、

 

 

『グラスちゃんのトレーナーさんって……確かこの前ニンジンの衣装着てウララちゃんと遊んでたよね……う、うん!お、おもしろい?人だよね!!』と、スペシャルウィーク。

 

『グラス、今からでも遅くは無いのでエルと一緒のチームに入りませンか?』と、エルコンドルパサー。

 

『セイちゃん、この前芝でお昼寝してたんだけど目を覚ましたら隣でボロ雑巾みたいになったグラスちゃんのトレーナーがいてびっくりしたよ。話を聞いたらウララと遊んでたらキングに粛清されたみたいでさ』と、セイウンスカイ。

 

 

 

 顔から火が噴き出そうな勢いだった。

 こんな話題しか聞かないものだから、常に平然としているグラスワンダーでも「あれ、私もしかしてトレーナーさんセレクトミスりましたか?」とさえ、思った。

 

 

 育成ならば、サポートカードのイベントがジュニア期に来なかったから「あきらめる」ボタンをノールックでタップしたくなる感じ。

 

 

 彼のトレーナーになってから他のトレーナーに話しかけられた事が何回かある。

 面と向かって、こんなことを言われた。

 

 

『グラスワンダー、君のような実力のあるウマ娘があんなトレーナーの下に居ても才能を腐らせるだけだ』

 

『どうしようもないロクデナシだわ……他の担当ウマ娘にちょっかい出すなんて。

 その癖自分のウマ娘の管理は怠る……トレーナーの出来損ないね』

 

『デビューしたての頃は強敵と思っていたけれど、今なら俺のウマ娘がお前より強えーな。

 だってそうだろ?アイツの下で指導されたウマ娘が怪我なんかして、まともにレースに出れないんだからな。

 お前も、あのトレーナーも学園から姿を消すのも時間の問題だね―――怪物も堕ちたな』

 

『あの男がいるチームから抜けなさい、私が手配するから』

 

 

 どれも、これも、山々田山能という男の事を毛嫌いした者達の罵詈雑言。

 彼らは自分が怪我をしてクラシック戦線を離脱して調子を落とした時期にこぞって現れるようになった。

 

 

 

 だが、グラスワンダーは知っている。

 彼が、山々田山能という男がウマ娘の為に弛まぬ努力をしている事を。

 

 

 トレーナーデスクはいつも本と栄養剤が散らばっていた。

 本は全て医療系の書物で、栄養剤は多い時は数10本以上は飲んでいる。

 自分が怪我をしてからトレーナールームに籠って徹夜を繰り返しては、よく出会う度に骸骨のように瘦せ細り、覚醒前の日暮 熟睡男みたいな顔になりながら自分に復帰プランを作ってくれた。

 

 

 色んなトレーナーの担当ウマ娘にちょっかいを出してたのもトレーナー同士でパイプを作り、治療の為のアテを探すためだったというのは後で知った事だ。

 

 

 怪我に効く食べ物やら、秘湯やらに連れて行ってもらっていたのもその時期だった気がする。

 

 

 

 それでもレースに出れない不安から、怪我を推して練習をしようとした自分を、彼は身を挺して止めに来さえもした。

 

 

 決して力では敵わないウマ娘相手に、一人で、堂々と、真正面から。

 

 

 何度地面に投げ飛ばしても、彼は止まらなかった。

 這いつくばってでも、身体をボロボロにしながらも、自分の脚を掴んで離そうとしなかった。

 

 

『グラス、こんなことで僕を止められると思うなよ……お前のトゥインクルシリーズは僕にとっての大事な夢なんだからな。

 お前がここで無理をしてまた走れなくなってしまったら、僕は腹切りして死んでも死にきれない!

 我儘かもしれないけれど、個人の私情が入りまくりだとか、そう言われても構わない…だけど僕は……一度決めたら絶対に曲げねぇよ。

 だからグラスも僕を引き剥がすなら僕を蹴り殺す気で来い!根競べなら、僕はマジで負けねぇからな!』

 

 

 結局、彼を無理やり引き剥がす事など、自分には出来なかった。

 気絶させて、終わらせることも出来たはずなのに。

 力では勝るはずのウマ娘が、人間相手に叶わない道理はない。それは事実だ。

 だが、心の部分では自分は彼に負けたのだ。

 

 

 なので、先ほどのミスターXの問いに答えるなら自分は迷うことなく、明確に言う事が出来る。

 

 

 

「私がトレーナーの立場だったとしても、止めはしないでしょう……ええ、決して」

 

 

 

 グラスワンダーは知っている。

 彼は、変人でも自分の事を何よりも考えてくれるトレーナーであるという事を。

 彼は、一度自分で「こう」と決めたなら決して揺るがないという事を。

 

 

 

「あの人は……そういう人ですから。

 一度決めたら引くことを知りません。

 器用とは無縁な人で、正直に正面からぶつかっていくんですよ、どんなことにも。

 

 ミスターXさんも、その気持ちに気付いていたから止めなかったんじゃないんですか?」

 

 

 こちらの答えにミスターXは、

 

 

『ああ、その通りだよ』

 

 

 やや間を取ってから、静かに、そう答えたのだった。

 

 

 

 その直後、場内に歓声とどよめきが入り混じった声が響いた。

 

 

『おおっとブラックサンダー!?急激に逃げの先頭集団から離されていくぞ!?

 スピードが落ちて、ずるずると下がっていく!?ハナを進むウマ娘から2バ身以上……離されたァ!これはどうした事かブラックサンダー!いつもの逃げではなぁい!!』

 

 

 

 実況の声で展開を追い始めた二人に飛び込んできた光景は、第1コーナーを過ぎた辺りで先頭集団からズルズルとよろめきながら下がっていくブラックサンダーの姿だった。

 

 

 

「え?」

 

『え?』

 

 

 その時はグラスワンダーも、あのミスターXでさえも想定もしなかった展開に思わず素っ頓狂な声を漏らしていた。

 

 

 




ミスターX「逃げ程安定しない脚質はない」(育成初日から地固めを一発ツモしながら)

アグネスタキオンはミスターXとなるべく出くわさないようにグラスの傍から離れた場所に居ます。


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23.風雲皐月賞

チャンミは決勝A3位でした……ブロンズコレクター目指そうかな。


 ある意味、不運と言わざるを得ないのか。

 それはレースが開始して、第1コーナーに入る前に起こった。

 

 ゲートが開いた瞬間、僕は出遅れなくスタートを決めた。

 そのまま加速して、内側の方へと切り込んでいく。今回は外枠からのスタートの為、先頭でハナを進むためには加速後にポジションを変えていく必要があった。

 

 しかし、

 

「悪いね」

 

「ここはもらうよ」

 

『内枠有利を生かして先頭を取ったのは2番オアシスと3番グリーンデイ!

 その二人をすぐ後ろにブラックサンダーだ!後方の15人のウマ娘がこの3人を追う形でレースは展開していきます!』

 

 

 僕がハナに出ようとする以前に行く手を遮る者がいた。

 他の逃げウマ娘二人が、僕よりも先に直線で加速して来たのだ。

 今回の2、3番……つまり、僕より内側からスタートしたのだから外から寄せる僕よりもハナのポジションを奪う事に利があるのは彼女達である。

 

 

・・・・・ハナは取られたか、しかもこの位置取り。

 

 

 先頭を進むのは2番だが、その左斜め後方に3番が追走する形だ。

 逆扇のように進む彼女たちを追い抜いて加速するには内側を抜いていくか、外を越していく必要がある。

 だが、今回は内側のバ場は稍重だ。水を含んでいて滑りやすいし、無理して進もうものなら力を入れなければならないし、その分スタミナを消費する。

 しかし、外から抜きに掛かろうとすると3番が壁になって塞いでくる。進むべき道は塞がれてしまった。

 

  

 僕は先頭を取られることにかなりストレスを感じた訳だが、ここで無理に前に出ようとは思わなかった。その理由は一つである。

 

 

 皐月賞はスタート直後に急な坂がある。

 第1コーナーから第2コーナーの中間まで高低差2mの坂はあの『淀の坂』に比べれば大した事が無いが、中山レース場は最終直線にまたこの坂を昇らなければならない。

 しかもゴールに向かって一度下りで沈んでからの上り坂なので、必然的に傾斜は上がっている。

 だから、ここから始まる坂で無理に追い抜きをかけて体力を消耗してしまっては、スタミナに不安のある僕は最後の直線でいっぱいになってしまうのだ。

 

 

 先頭を進む2、3番は僕がそうやって無理に追い抜きにかけさせようと罠を張っているのだろう。

 弥生賞の時にブラックサンダーと言うウマ娘が2000m以上の距離に不安があるというのを研究されていたようだ。

 

 

 逃げウマ娘にとって重要なハナを取られてしまった訳だが、ハナを取られたからと言って動揺する僕ではない。

 ポジション争いに敗れたのであれば、逆転の可能性を信じてあらゆる策を講じていく。

 

 

 最初の坂を登る段階で、僕は2番の背後に回った。

 

 

「なっ……ブラックサンダーの存在が……消えた!?」

 

「ここなら気持ちよく走れる」

 

 

 

 前のウマ娘との距離を1バ身も無い感覚で追走し、壁を作る事で走る際の空気抵抗を極力減らす。

 スリップストリームと呼ばれるこの技術は陸上競技における1600mリレーにおいても有効だ。

 身体にぶち当たる風が無くなるだけでも、力んで走る必要が無くなるし、スタミナの温存にもなる。

 

 

 今先頭は彼女たちに譲るが、無理してハナを進める分オーバーペースでスタミナを多く消費する。

 最終コーナーでスパートをかける前にスタミナを温存できてる僕の方が勝負を仕掛ける上で有利のハズだ。

 

 

 それに、真後ろを取るという行為を生物は本来嫌うものだ。

 あのゴルゴ13も、背後を取ろうものなら『俺の後ろに立つな』と言いながら女を殴りつける程。

 死角を取られるという事は、生殺与奪の権利を相手に与えるという事らしい。

 水柱の富岡義勇が好きそうなセリフだ。

 簡単に言うと、自分の真後ろに気配を感じたら、誰でも気持ち悪い気分になるというものである。

 

 

 ストーカーが女性を追いかける際に姿を隠す事で相手に恐怖を与えるように、真後ろを取られるというのはウマ娘にとって恐怖やそれ相応のストレスを与えるのだ。

 

 

「僕はこれから、ストーカーウマ娘になる」

 

 

 ライスシャワーがメジロマックイーンに背後からプレッシャーを掛けたように、前方のウマ娘に熱い視線を送る。

 視線の先には、今日まで鍛えぬいてきたそのウマ娘の美しいハムストリングスが勝負服の隙間から覗かせている。

 

 

 素晴らしい。

 芝が捲れるほどのパワーを秘めた見事な脚だ。

 日々の鍛錬によって形成されたソレはまるで輝く真珠のようだ。

 

 

「―――ッッ!?な、なに!?なんか背筋がッッ」

 

 

 前方のウマ娘が僕のプレッシャーに充てられた事により更に加速する。

 どうやら掛かったようだ。神の悪戯か。

 自分のペースを乱されたウマ娘は前に行きたがるようになり、その分自分のスタミナを消費する。

 作戦が功を奏したのだろう、このまま前に進み続けてくれ。

 

 

 恐らくこの不良バ場なら後方のウマ娘達も大外から抜きに来るはず。

 比較的にコーナーの内側に寄っている僕達逃げウマはたったの3頭だ。

 最終直線では大外を回る後ろのウマ娘達よりもタイムロスが少ない。

 

 

「はっはっはっ……くっ!」

 

 

 そして僕の魔術(偶然)によって掛かったウマ娘は恐らくゴールまでこのスピードを維持することは難しいだろう。

 コーナー手前でバテてコーナーの曲がりで大きく寄れた箇所に僕が身体をねじ込んで、内から一気に抜き去る。

 

 

 スリップストリームでスタミナを温存出来た分、スパートは掛けられるだろうし大外から捲くってくるウマ娘達からの距離を離せれば、スタミナに不安がある僕にも勝ち目は幾らか見えてくる。

 

 

・・・・よし、ここからは我慢の時だ。僕は辛抱強い、残り1500mは無理に勝負に出る必要もない、このままスタミナを温存して――――。

 

 

 そう意気込みながら、最初の坂を登り終えた直後だった。

 前を走る逃げウマ娘の蹴り出した芝の土が僕に目掛けて飛んできたのは。

 

 

 

「ぎぇッ!?」

 

 掛かった事が原因で前のウマ娘は更に前に行こうと加速したらしい。

 その際に、不可抗力で、僕の顔面に拳一つ分の土が直撃した。

 咄嗟に目を瞑るも間に合わず、口や鼻、そして左目に見事入った。

 

 

「いっでぇッ――――エフッ、エフッ!!」

 

 

 ウマ娘の脚力で舞い上がった土だ。

 その威力を至近距離で顔面に受け止めればただでは済まない。

 口に含まれた土が齎す独特の苦みと、鼻に侵入してきた土が喉を犯す。

 左の眼球を焼くような痛みに、僕は叫ぶ間もなくバランスを崩した。

 

 

・・・・・しまったっ!ここは内ラチッ!?

 

 

 左目が開かなくなった事によって左右の平衡感覚がズレていく。

 気づけば僕は本日絶賛稍重の内ラチコースに入り込んでしまっていた。

 ドスン、ドスン、と微妙に乾いたような形跡のある芝だが力が入っていないのか、思いっきり踏み込んで地面を蹴っても前に上手く進まない。

 態勢を立て直さねば、そう考えはするものの、口や気道に入り込んだ土が齎す身体への不快感や目の痛み、自身が減速していくという多くの事象を一度に味わった僕が即座に対応できるかと言われればそんな訳もなく。

 

 

 

 

『おおっとブラックサンダー!?急激に逃げの先頭集団から離されていくぞ!?

 スピードが落ちて、ずるずると下がっていく!?ハナを進むウマ娘から2バ身以上……離されたァ!これはどうした事かブラックサンダー!いつもの逃げではなぁい!!』

 

 

 

 

 残り1500mを切る頃、僕が稍重バ場から抜け出すと先頭の逃げウマ娘とは大分距離が離されていて。

 全体のウマ娘の中で5番手までに順位を落としてしまっていた。

 逃げ切りをベースにレースを展開するウマ娘にとって、中盤でこの位置から捲くり、勝利することはほぼ絶望的である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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24.ラストコーナー

多分世界一長い皐月賞……スラムダンクかな。
その内天皇賞春とかやり始めたら1年かかっちゃうかもね……


 先頭の真後ろについていたブラックサンダーが一気にスピードを落とし、先行集団に紛れてしまうという光景は観客席にいるグラスワンダーとトレーナーであるミスターXは目の当たりにした。

 

 

「ブ、ブラックサンダーさんが自分から後退……?ミスターXさん、これは貴方の指示なのですか?」

 

『いいや……例年よりもペースが上がっている今回の皐月賞、しかも中盤手前で順位を落とすような指示など私は出していない。

 坂を登る途中、顔を背けるような動作があった……そこからバランスを崩していたから、恐らくは前方のウマ娘が蹴り出した土を顔面に食らってしまったのだろう』

 

「では……ブラックサンダーさんはそれが原因で……?」

 

『しかもあれだけ走るなと言われた内側の芝を走り続けているという事は、視界もあまり見えていない可能性がある。

 それが両目なのか、片目なのか……そんな状態で自分が今どの部分を走っているのかに気付くのは難しい……』

 

 

 両目で見るよりも、片目で見ると目標より距離が遠くなったり、近くなったりすることがある。要は遠近感がバグるのだ。

 今のブラックサンダーは前の集団との距離を正しく測り切れていないのだろう。

 同時に真横に先行集団のウマ娘がいる事に気付いていないようなら、ブラックサンダーは彼女の方から見て左側の目が見えていないという事になる。

 

 

「あ!内側から抜け出しましたよ」

 

『自分が誤ったコースを走っている事と、順位を大分落としたことに気付いたようだな……それに顔を動かして左側を気にしているとなると、やはり負傷したのは左目か』

 

「一先ずは、これ以上順位が落ちなかっただけでも……」

 

『ああ、だが第2コーナー終わりで先頭とは2バ身差、スタートの加速も全部使い切った状態で上り坂での極端な減速……これはマズイ』

 

 

 逃げウマ娘の戦い方はとにかくスタートの初速で先陣を切り、コーナーをロス無く進んで後方との距離を開き、後方のウマ娘が追い上げてきても最終直線までに稼いだ距離の貯金で逃げ切るものだ。

 後方のウマ娘が逃げウマ娘を差し切る場合、スパートをかける前に先頭との距離をある程度詰めておく必要がある。しかし、逃げウマ娘が3人以上、つまり今回のレースの場合は逃げウマ同士でポジションの競り合いが発生する為、順位の入れ替えによって先頭を走るペースが速くなる可能性がある。

 

 

 時にはオーバーペースによる競り合いにもなる事があるので、逃げウマ同士の潰し合いに乗っかってしまっては同じようにスタミナを消費して、最後に差すための脚が無くなってしまう。

 逃げより後ろのウマ娘は距離を詰めるタイミングも視野に入れなければならない。

 逆を言わせれば、先行勢がレース後半で逃げ勢の後ろに着いた時点で距離を稼げなかった逃げ勢は敗北濃厚となるのだ。

 

 

 ここまでのブラックサンダーのレース展開はまさにそれであり、残り1400mの時点でハナも取れずに先行集団と同じ位置にいる現状は逃げウマにとって致命的だ。

 順位を上げるためにその位置から再び加速をしようものなら、稍重のコースを走らされて減速し、体力を削られた状態ではスタミナに不安があるブラックサンダーは本当に最後の直線で走り切れなくなってしまう。

 

 

 出来ればブラックサンダーにはその場所をキープしてもらいたいが、そうもいかないらしい。

 レースというのは、まさしく生き物であり、絶えず変化するのだから。

 

 

『先頭のペースが上がった……後ろのウマ娘達が徐々に距離を詰め始めたか。ブラックサンダー、ここが堪え時だぞ……』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・・・あぁ!観客席でそんな感じの言葉を吐いているのが大方予想できるよ、ミスターX!

 

 

 第2コーナーを回ってレースは中盤に突入すると、コースは下りとなっていく。

 下り坂は二段階あり、残り1000mからの傾斜は比較的に緩やかだ。

 登りも、下りもスタミナを温存するために意識的に抑えていた後方のウマ娘達が1000m付近から徐々に前へと進出し始める。

 

 

 現在順位は5番。内側をキープできているものの、これ以上離されてしまえば本当に終わりだ。

 僕は口の中に残る土を吐き出した。身体に違和感を残した状態の疾走は常に安定を欠く。

 

 

 しかし、極粒の石がまだ残っている。

 不快感極まりない、この状況を解決するために僕は、

 

 

 

 ゴリッ、ガギッ、ボリッ、ボリッ!

 

 

 ウマ娘の強靭な歯で石と土が混ぜ合わさったモノを咀嚼し、唾液を混ぜて可能な限り液状にした後、一気にその泥のような液体を胃の中へと押し込んだ。

 

 

・・・・・マッッッッズッ!!!

 

 

 苦虫を噛み潰したかのような表情を僕は浮かべている事だろう。

 世界には土などを主食にして生きている人間がいたというから、意外に土って食えるもんなんじゃないかと思ったが、見通しが甘かった。

 

 分かっていたけど不味い、本当に不味い。

 

 

 鼻に残った土はどうしようもないので、ここからは意識的に口で呼吸を行っていく。

 無意識に鼻呼吸をしようものなら、むせ返った反動で一気に順位を落としかねない、そうなればマジで終わりだ。

 

 

「しかし、キ、ツイなぁ……!!」

 

 

 残り距離1000mを切ったばかりだというのに僕は肩で息をし始めていた。

 ハナを奪われ、不良コースを走り、加速も殺され、目にもダメージ。

 完全にペースを狂わされた。

 おまけに徐々に距離を詰め始める後ろのウマ娘達、ここから僕も合わせて行くとなるとトラブルでスタミナを使った僕とそうではない先行、追込、差し勢では大きな差が生まれ始める。

 

 

 いやいやいや、手詰まりでしょ、コレ。

 どうやったら巻き返せるのコレ。

 先頭と2バ身差、こちらのスタミナ半分ちょい、後ろにはあのメルティロイヤルが控えてる。

 オーバーペース気味に走ってる先頭の逃げ二人もきっと最後は持たずに失速する。

 

 

 負ける、三冠路線を目指すこの緒戦で。

 もしそうなれば、もし―――、 

 

「もしここで負けたら……」

 

 

 僕は考えてしまう。

 負けてしまったら、グラスワンダーを復活させることが出来なくなってしまうのではないかと。

 勝利を得てこそ、彼女は闘志を少しずつ取り戻してきた。

 だが、この2000mで勝てなければ次のダービーも菊花賞も勝てない事が分かってしまう。

 

 

 そんな負け続けるウマ娘の背中を見て、グラスワンダーが闘志を取り戻すのか?いいや、無いだろう。

 

 

 どうする。

 どうする。

 どうする。

 

 

 負けたくない、勝ちたい。

 そのために、一体どうすれば。

 

 

 心が焦りだす。

 僕より後方のウマ娘達がペースを上げる。

 次第に僕よりも前に出始める。

 

 

 口の中に残っている僅かな土の味すらも忘れ、視界がダブり始める。

 集中力が切れ始めて、頭が何も考えられなくなってくる。

 

 

 苦しい。

 苦しい。

 

 

 いっそのこと、もう走るのを辞めてしまおうか。

 そうすれば、簡単だな。

 投げ出してしまえば、諦めてしまえば。

 

 

 

――――色々と考えて後手に回っちゃうよりも理論とか作戦とか頭の中で堂々巡りの試行錯誤するよりは〝気持ち〟でぶつかってくのもアリだと思うよ。少なくとも、私たちはそうだった。

 

 

 

 その時、脳裏に過ったのは皐月賞ウマ娘、ナリタタイシンの言葉。

 2000mなんて走れば一瞬、気付いたら一瞬の内に終わってしまうのだと、彼女は言っていた。

 

 

 〝気持ち〟、か。 

 気持ち、僕の気持ちって何なんだろう。

 その言葉でふと、僕は我に返って、冷えた頭で思うままの気持ちを口にした。

 

 

「まだ終わりたくない」

 

 

 「辛い」、「諦めたい」という気持ち以上に僕はまだ「勝ちたい」という気持ちの方が強い。

 勝利を欲する、ウマ娘としての本能は、まだ僕の心にある。

 

 

 レースを続ける闘志は残っている。

 それだけで、僕が走り続ける理由にはなる。

 前向きに考え、状況を整理して、視野を広げろ。

 

 諦めるな、諦めなければきっと――――。

 

 

「うん?」

 

 

 僕の耳に届くウマ娘の足音に変化があった。

 近場からだんだんと遠くに間延びするような音。

 顔を動かして見える右目で横を見ると、先行勢と差し追い込み勢のウマ娘達が外へ向かって少しずつ移動している。

 

 稍重の内側を走るのは得策ではないと判断したのか、殆どのウマ娘が大外からの捲くりを意識して大外へと流れて行っているのだ。

 あのメルティロイヤルでさえも外に向かって大回りをしている。

 僕の所から次第に距離を置いて、離れて行く光景に僕はどこか覚えがあった。

 

 

 皐月賞、偶然にも稍重という状況下のレースに僕は過去覚えがある。

 思い出せ、少ない脳みそを使ってどうにか捻り出せ!

 

 

「―――!!」

 

 

 その時、僕に電流走る。

 この瞬間、ブラックサンダー天啓を得たり。

 

 

・・・・・そういうことかよ、ミスターX!

 

 

 試合前に彼から言われていた作戦の意味を僕は漸く理解する。

 すぐに僕は視力がまだある右目で第三コーナーの表示板を探した。

 大体50mくらいだろうか、兎にも角にも右目が見えていたことに僕は幸運だと思わざるを得ない。

 もし負傷した目が右目で、第3コーナーの表示板を見失おうものならこのレースで僕は最後の勝負に出られないと思ったからだ。

 

 

 あの表示板を過ぎるまで、恐らく10秒も掛からないだろう。

 あって5秒か、3秒か。

 だが、最後に息をついて覚悟を決めるに十分な時間だ。

 

 

 僕の勝負はここからである。

 息を整えた後、僕は目標のコーナーを越えた辺りで身体を前傾させ、前へと踏み出した。

 

 

 

『さぁ、皐月賞もいよいよ大詰め!第3コーナーから第4コーナーにかけてウマ娘達が外へ向かいながら加速していきます!

 先頭は変わらずグリーンデイだ!後ろからオアシスが追走!グリーンデイ、スピードが落ちてきているが大丈夫か!?

 メルティロイヤルは大外の最後方、ここからあの鬼脚で巻き返せるか!?中山の直線は短いぞ!?

 

 ああっと!ブラックサンダーだけが取り残されて、順位を下げている!?スタミナが切れたのか!?

 5番手から6番手、そして8番……もう駄目だァ!!?』

 

 

『ここまでなのかブラックサンダー!?やはり2000m以上の距離は無理があったのか!?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅン、最後の最後に面白い事になってきたようだねェ。

 皐月賞の距離は彼には無理だと踏んでいたんだが、妨害を食らってもちゃんと食いついていけてるじゃないか」

 

 

 バックストレッチ側の観客席、アグネスタキオンはこのレース展開に口角を釣り上げていた。

 大外に向かって最後の追い込みをかける他のウマ娘と違って、ブラックサンダーが力尽きてしまい挙句の果てに暴走をしていると実況席は思っている。

 実況者だけではない、恐らくこの皐月賞でブラックサンダーを応援する者達も同じことを考えているのだろう。

 

 

「だ、駄目だ!ブラックサンダーちゃんのスタミナが切れちまったァ!?」

 

「うわぁ!やっぱこの距離は無理だったんだ!!」

 

「嘘つきッ!もういいよ!アタシあの娘のファン辞める!!」

 

 

 そして彼らは気付いていない。

 ブラックサンダーが既にこのレースで勝つために最後の仕掛けを発動させている事に。

 

 

「しかし、アレをここでやるかねェ。我ながら、彼の度胸には呆れるよ」

 

 

 

 だが、自分がブラックサンダーと同じ状況に立たされたとしても迷わずそうするだろう、とアグネスタキオンは思う。

 同時にこれは肉体への負荷をこれでもかと強める作戦だ。後は最後まで本当にブラックサンダーのスタミナが持つのか。

 

 

 これは分の悪い賭けだ。普通のウマ娘ならば、ある程度の教養を持つトレーナーならばこんな作戦は実行しない……イカれたウマ娘とトレーナーでもない限り。

 

 

「ウオオオオオッ!!ヤッベェエエエエ!!!」

 

 

 アグネスタキオンは自分よりも上段の席でいきなり大声に振り向く。

 そこには瞳を輝かせてテンションマックス状態のゴールドシップが居た。

 

 なぜゴールドシップがここに……というささやかな疑問にツッコミを入れるのはNGだろう、とアグネスタキオンは考える。

 とはいえ、彼女も皐月賞を制したウマ娘だ。実力を持つウマ娘である彼女も、ブラックサンダーの狙いに気付いたらしい。

 

 

「マジパネェなアイツ!頭イカれてんぜ!」

 

 感極まったような声色で叫ぶゴールドシップを見て、周りにいる誰もが思う。『お前にだけは言われたくねーわ』、と。

 ゴールドシップは拳をわなわなと震わせて、アグネスタキオンにも似たような笑みを浮かべていた。

 

 

「そうだよなァ!そうだよなァ!そこしかねぇよなァ!!

 道が無ェんならよぉ!自分で作ってくしかねェよなァ!!」

 

 

 まるで自分の事のように喜ぶゴールドシップは第3コーナーを進出するブラックサンダーに向けて最大級の激を飛ばしていた。

 

 

「最高にクールだぜ!もっと見せてくれよブラックサンダー!お前のクールをよぉ!!

 イッツ・クゥゥゥゥゥゥウル!!!ブラックサンダァァアアアア!!!!」

 

 

 中山2000m、皐月賞の冠を賭けた勝負は第4コーナーを越えた最後の直線へともつれ込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 




次回皐月賞決着


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25.皐月の冠

「チッ……メンドクセェ…」

 

 第3コーナー付近、一番人気であるメルティロイアルは苛立ちを隠せずに今の現状に悪態をついていた。

 

 皐月賞、三冠の一角を自分が取るのだと意気込んで挑んだのは良かったのものの、レースが始まってからずっとメルティロイヤルは後方待機状態だった。

 それもその筈で、一枠一番で後方スタイルを貫くメルティロイアルはスタート直後で他の先行するウウマ娘に位置を譲る事になってしまい、中盤までは殿を務めていたのだ。

 

 

 稍重のコースを突いて位置を上げるのは得策ではない事を、メルティロイヤルは理解している。

 だから勝負を仕掛けるなら、第3コーナーから第4コーナーにかけての大外進出からの直線で一気に捲くり上げる算段であった。

 それでもフルゲートで仕立てられているこのレース、同じように内コースを回避して外に流れていくウマ娘が多い。

 行く手を阻むように前のウマ娘達が壁になっている。

 

 

「このままだと届かねェってか?」

 

 

 中山の直線は短い。

 誰がも中山レース場で連想するこのワードの通り、最終直線は310mしかない。

 スプリングステークスは最後方からの追い込みでこの直線を捲くる事が出来たが、あの時はここまで外側にウマ娘達が固まっていなかったが、今は隙間があるかどうかさえ怪しい。

 後方に位置するウマ娘がこのレースで勝利するには、中盤時点で順位をある程度上げていなければラストで追い込みが掛けられない。

 完全にメルティロイヤルは自らの枠番で損をするレース展開となっていた。

 

 

 そういえば、とメルティロイアルは気付く。

 コーナー手前でブラックサンダーの姿が見えたことを。

 あの青鹿毛は間違うことは無い。

 しかし、どういう事か先頭を征く彼女が位置を下げた姿を見て疑問を抱かずにはいられなかった。

 

 

 メルティロイアルは外へ移動する際にブラックサンダーの位置を再確認していたが最終コーナーでは明らかに中団までにポジションを下げていた。

 何があったのか察することなど出来ないが、スタミナ切れを起こしたと考えるのが普通だろう。

 逃げウマ娘としてブラックサンダーとぶち当たってから、メルティロイアルの勝ち星は1つしかない。

 最終直線に持ち込んで追い上げてもあと一歩のところで逃げ切られることが多かったのだ。

 

 だから皐月賞で邪魔となるのはブラックサンダーだろうと考えていたが、ここで脱落したのならこのレースで脅威となるウマ娘は一人としていないと、メルティロイアルは考えた。

 

 

「―――GOッ!!」

 

 

 大地を蹴り、メルティロイアルが仕掛ける。

 芝が捲り上がるほどの進出を見せ、自らの進むべき道を見つけ出す。

 他のウマ娘達より大きく外をぶん回す事になるが、関係ない。

 コーナーで失ったタイムロスは自分の脚で最終直線にて取り返す。

 

 

「どきなッ」

 

 

 メルティロイアルが叫ぶ、『どけ』と。

 巨体を動かすニトロエンジンが起動し、重量とは似つかわしくない出鱈目な加速。

 後方からずっと待機していた分、溜まっていたフラストレーションを発散するかのようにメルティロイアルは外ラチから弾け飛んだ。

 

 

 

 勝つ。

 勝利する。

 絶対的な力で。

 この天より与えられた脚で。

 

 

 『ルドルフ2世』など、そんな自分で終わらせない。

 周りがそういう風に囃し立てるなど知った事ではない。

 

 

 強いヤツと戦いたい。

 怪物、名優、帝王、最強、女帝、皇帝……化け物クラスの者達と()り合う為に自分はこの中央へ来たのだと。

 

 

『メルティロイアルここで来た!最終コーナー!大外から!遮る者は誰も居ません!

 スプリングステークスを制した時と同じ!大外不利もなんのその!恐ろしい末脚で上がって来た! 

 一気に18番手から13番手まで進出!驚異の捲くりを見せるかメルティロイアル!!

 一人、また一人追い越してさらに加速!この勢いは止まらない!』

 

 

 あぁ、堪らねぇ。

 

 

 例え向かい風が阻もうとも。

 多くのウマ娘達が壁になっても。

 邪魔をする障害を自分の脚でぶち抜いていくのは、いつだって最高だ。

 

 

「ここから――――あ゛っ!?」

 

 中央でのG1初のタイトルは俺が貰うぜ、とメルティロイアルが最終コーナーを10番手で通過しようとした時。

 最終直線で全てをぶち抜くと決めていたメルティロイアルは信じられないモノを見たように目を見開いた。

 

 

「―――あ?」

 

「―――あ」

 

『―――あ!?』

 

 

 レース中のウマ娘も。

 観客席も。

 実況席も。

 

 それぞれが驚愕したようにそう呟いていた。

 何故なら、そのウマ娘は最終コーナー手前で減速したかのようにズルズルと順位を落としていったから。

 レースを撮影していたスタッフも、大外から差し込んでくるウマ娘を撮っていたからか、そのウマ娘はカメラにすら映っていなかったから。

 

 

 やや遅れたが実況者は驚きを隠せないような声色であっても解説を継続できたのは、職業に対する意地なのかもしれない。

 

 

 

『―――ブ、ブラックサンダー!ブラックサンダーだ!第4コーナーを回って最終直線、先行集団から抜け出したのはブラックサンダーだ!

 1番グリーンデイと2番オアシスのすぐ後ろ!中盤まで沈んでいたが、見事ここで3番手に返り咲いたァ!』

 

 

 唖然の後、中山レース場のボルテージは最高潮に達した。

 全ての驚愕の正体、あの中盤で姿を消していったブラックサンダーが最終直線でいつの間にか先行集団を率いるように前へと躍り出たからだ。

 

 

「んな馬鹿な……なんでアイツがあそこに―――」

 

 

 大外、メルティロイアルがそう疑問を抱くのは当然だ。

 自分から見ても後方へと下がっていったように見えたブラックサンダーがまるでワープしたかのように3番手で抜け出したのだから。

 その理由を、メルティロイアルはブラックサンダーが走っている今の場所を見て瞬時に察する。

 

 

「まさかアイツ……稍重の内側走って来たって言うのかよ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第3コーナー、そこから僕が仕掛けたのは極めて単純な事である。

 他のウマ娘が外側の捲くりを選んで大外に流れていく中、稍重の内側に向かって進出していくという事。

 大外に移動していくウマ娘達は内側に進んでいく僕を見て、減速をしていった風に見えたかもしれない。

 

 だが実際は、外側に流れながら内側へ進む僕を見て遠近感がバグったせいで順位を落としているように見えただけだ。

 多少の無理をしてコーナーを最速で回った僕と安全を取ってコーナーを遅く回った他のウマ娘達と差が出来ただけである。

 

 

 このレース展開は人間だったころに一度僕は見たことがある。

 これはかつての皐月賞ウマ娘、ゴールドシップのレースと同じものだ。

 あの日も、中山レース場の内ラチは稍重であり誰もが外側を走っていたが最後方のゴールドシップが第3コーナーから稍重の内側を走りながら進出し、大外捲くりに出たウマ娘達を最終直線で出し抜いた、後に「ゴルシワープ」と呼ばれるようになる伝説のレースの再現。

 

 

――――もし先頭を取れなかった場合、第3コーナー手前から内ラチを進め。それまではスタミナを温存することだ。これがキミが皐月賞を勝つための最終手段。

 

 

 無論、ここに来るまでのアクシデントでハナも取れないどころかスタミナも失っている僕は、本来この作戦を行うのも賭けをするような状態だ。

 だから、意図的に仕掛ける手前までは先行集団の出遅れないポジションで脚を溜めていた。少し順位を落とす結果になっていたが、その時に我慢できていたお陰で今他のウマ娘達を出し抜くことが出来ている。

 

 

 

 勝利の為の我慢、僕はそれを実行した。

 そして、スタートからずっとハナを進んでいた1番手ウマ娘の瑞々しい生足が見えてくる。

 背中ではなく、脚を見たのは彼女の脚は一度見たら忘れられないような綺麗な脚であったからだ。

 

 

「―くぅ……はぁ、はぁ……く、くそっ!!」

 

 

 先頭ウマ娘は一度ペースを乱されてスタミナを誰よりも多く消耗していたからか、明らかにペースを落としていた。

 この減速具合はいかに中山の直線が短くとも、後方のウマ娘達が差し切るのは容易いだろう。

 追走していたもう一人の逃げウマ娘も同じようにスタミナが枯渇気味だったのか、脚の運びは鈍い。

 

 

 

 最後の勝負だ、持ってくれよ僕の脚。

 

 

 

 残り300mを切ったところで、僕は今まで走っていた稍重のコースから抜け出した。

 ここからラストの追い上げるのにわざわざ走りにくい場所を行く必要はない。

 それでも大きく横移動してスタミナを使わないように、稍重の芝と乾いた芝、そのギリギリの境目を走って僕にとって有利な内側を突いていく。

 

 

 突いてく、突いてく。

 ライスシャワーのように突いていく。

 2バ身差を更に詰めて、1バ身、そして―――、

 

 

「―――なッ!?」

 

「―――ッッ!!」

 

 

 2番手、1番手と先頭を走り続け居た彼女たちの真横を僕が追い越す。

 追い越し、更なる距離を稼ぐべく、加速する。

 

 

 耐え得るスタミナの限界まで。

 燃料を全て使い切るまで。

 ゴールの後、身体が動かなくなってしまっても構わない。

 

 

 その一心で、僕は前傾姿勢のまま前を進み、ついに先頭を奪い取った。

 僕を遮る者は何もいない、僕の行く手を阻む壁は存在しない。

 

 

 

 

 いや、一つだけあった。

 中山の最後の坂。

 高低差2mのスタミナ殺しの坂だ。

 

 

 1800mを走ってからの上り坂、疲れていないわけがない。

 だが、それはここまで走って来た僕以外のウマ娘も同じだ。

 

 

「ぐぅ……オォッ!!」

 

 

 脚が坂に掛かる。

 一歩一歩の脚の運びが鈍くなる。

 地球を支配する重力が、真下に向かって僕の身体を押し潰そうとする。

 

 

・・・・・前にッ

 

 

 膝を上げろ。

 股関節を使って無理にでも脚を動かせ。

 

 

・・・・・前に前にッ

 

 

 腕を振れ。

 スイングはコンパクトに、掌の母指球で骨盤を擦るようなイメージで。

 

 

・・・・・前に前に前に前に前にッ

 

 

 脚は後ろに蹴るな。

 腰は浮かせず、足裏と地面の接地を短く。

 大学時代に嫌と言うほど取り組んだ登坂走の基本を思い出せ。

 

 

 

『ハナを取ったブラックサンダーの後ろからビルバシュタリオンが盛り返す!

 内でタナカマルクスが粘りを見せて押し上げているが! 

 集団の更にその後方から、唸りを上げてメルティロイアルが迫る!外から!外からメルティロイアルが追い込んでくる!!』

 

「待てやゴラァッッ!!!」

 

 

 背中を叩く怒声には覚えがある。 

 メルティロイアルがもう後ろまで距離を詰めてきているというのか。

 

 

 速すぎんだろ、お前だけ足にジェットエンジン積んでんじゃねぇのか。

 

 

 

 残り80m、あぁ見えた。ようやく見えた。ゴール板だ。

 幸運な事に僕の前にも横にもまだウマ娘はいない。

 長いようで、短いレースの終わりがそこにある。

 

 

 あと少し、あと少しで勝てる。

 誰よりも速くゴールに――――、

 

 

「―――あ」

 

 

 坂を登り終えて、脚の動きが極端に鈍くなった。

 もう直線、残り50mも無いというのに。

 前に倒していなければいけなかった身体が起き上がる。

 

 

 腕が上手く振れない。

 肩に強力なバンテージを巻かれて関節そのものが動かせなくなったみたいに。

 

 

 脚が前に出ない。

 5トンクラスのタイヤ引きを行っているかのような重さが僕の動きを鈍らせる。

 

 

 視界が霞む。

 酸素を欲して口が大きく開く。

 心臓を締め上げられたかのように、苦しい。

 

 唾液を飲み込む暇もなく、口元から垂れ流しながら走る。

 異様なまでに口内が乾く。早く水分が欲しい。

 

 

 

 限界だ。

 僕、ブラックサンダーとしてのスタミナの限界。

 足りない。

 ゴールはもう目の前だというのに。

 

 

 もはや「走る」という形も維持できているのかも分からない。

 

 

 あれ程長い年数を重ねて培った走る為のフォーム。

 速く走る事だけを頭に洗練して来た技術そのものが崩壊を迎える瞬間。

 

 

 こうなったら最後、最速で駆ける事は不可能。 

 無様なヨレヨレの姿で走るしかない。

 観客からしたら見るに堪えない、この程度のスピードで本当にゴール出来るとでも思っているのかとさえ思うだろう。

 

 

 それでも、それでも。

 

 

 陸上競技を始めた時に何度も思ったことがある。

 

 『こんなに辛い思いをしてまで、走る意味があるのだろうか』、と。

 

 

 〝スプリンター〟は速さを追い求める者達だ。

 100mのタイムを0.1秒縮める為に、どれだけスタートブロックと向き合ったか分からない。

 4×100mのタイムを0.1秒を縮めるために、どれだけバトンパスの練習をこなしたか分からない。

 

 

 陸上競技は0.1秒、1センチという少しの単位で勝敗が別れるスポーツだから。

 その「少し」で勝つためにあの頃は必死に走り続けていた。

 だからビデオ撮影してフォームの矯正をして、スタートブロックでどの位置が適正か何度も試行して。

 そうやって努力を重ねた先に、タイムが少しでも縮まれば僕は嬉しかった。

 確実に、僕の求める勝利に近づいて行っている気がしたから。

 

 

 0.1秒、それだけの時間を縮められるならば僕はどんなに地面にゲロを吐き散らしても喜んで走り続ける事が出来た。

 

 

 これが、自分の為になる事を知っていたから。

 この辛さが、己の糧になるのだと思っていたから。

 僕の走る理由はいつだって、他ならぬ自分の為だったんだ。

 

  

 だけど、今の僕は自分の為に走っていない。

 僕ではない、他の誰かの為に走っている。

 こんなに辛いのに、この辛さが僕の為にならない事を僕自身理解している筈なのに。

 

「負けないでください……!」

 

 誰か、って誰だっけ。

 あぁ、そうだ……ウマ娘のあの娘。

 

 

「ブラックサンダーさん……!」

 

 

 僕の大切な担当ウマ娘の――――グラスワンダーの為だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 空を見上げる。

 なんとも、清々しい程の青空だ。

 

 

 歓声が聞こえる。

 耳が割れんばかりの祝福の声が。

 

 

 息を整えるのに必死で、僕の脳内は絶賛酸素不足だ。

 意識もやっと回復してきた所で、耳に届く観客の声も今は遠い残響のように聞こえる。

 

 

 勝利したウマ娘に齎される祝福の紙吹雪が4月の風に乗せられて中山レース場に降り注ぐ。

 赤、青、黄、緑、様々な色合いの紙が陽の光に充てられて空を舞う光景は寝ころんだ芝の上から見たら、綺麗すぎて、暫くは忘れないだろう。

 

 

「おい」

 

 空を見ていたら、顔を覗き込むゴリラ―――メルティロイアルだった。

 額に汗を流して、息を荒くした彼女は頭を掻きながらこちらを無愛想な顔で見つめている。

 

 

「なんだよ、悪いけど今の僕にはお前の相手をする体力が残ってないんだ……絡むなら後にしてくれ」

 

 

 疲れたんだよ、マジで。

 もう明日から絶対1週間くらい休みたい、そんな一心なんだよ。

 

 

「イライラしかしねェ……」

 

「それはまた……誰に?」

 

 

 メルティロイアルにそう聞くと、彼女は舌打ちをして

 

 

「お前にも、俺自身にもだ」

 

「そうか……」

 

「なぁ、聞いてなかった事あンだけどよ」

 

 その、とメルティロイヤルは続ける。

 

「お前が走る理由って、なんだよ」

 

「はい?」

 

「いいから言え。じゃなきゃ潰す」

 

「……そりゃあお前」

 

 しょうがない。

 答えろと言われたなら答えてやる。

 聞かせろと言うなら聞かせてやる。

 

 

「我が愛しの愛バの為さ」

 

「……気色悪いなァ」

 

「はっはっは――――お前にだけは言われたくない」

 

「チッ、口だけは達者だなァ、レースでぶっ倒れて動けねぇ癖に……この後ライブがあんだぞ?」

 

「そうだなぁ、ほんと。こんなクタクタな状態の後に踊らされるってやっぱ納得いかないんだよなァ」

 

 

 一応、ウィニングライブまでは時間が空くからその間に全力で休憩をするつもりである。

 にんじんゼリーもフル活用して体力回復に努めようか、と考えていると僕の身体をメルティロイアルが背負っていた。

 

 

「何してんの」

 

「芝で寝ころんでても休まんねぇだろ。控室連れてってやるから」

 

「マジかよ、ルドルフ2世タクシーとか豪勢過ぎね?」

 

「その名前で呼ぶなゴラ、叩き落とすぞ……ったく、いつも思うけどお前って奴は締まらねェ奴だよな」

 

「はっはっは」

 

「大雪山おろしかますぞオイ」

 

 

 

『伝統のクラシックレース、皐月賞のタイトルを手にしたのは10番ブラックサンダー!新時代に輝く、新たなる皐月賞ウマ娘の誕生です!ヤッタァ!!!』

 

 

 

 この後、無事に体力を回復させてウィニングライブを完遂するのだが僕はここから数日ウマ娘では珍しい高熱を発症して休養を余儀なくされる。

 まぁ、怪我みたいなのは特に無く次のレースも問題なく走れそうなので、せめて動けないこの間は存分に休養を満喫するつもりだ。

 

 

 4月が終われば、5月に入る。

 皐月賞が終わったのなら、次に待つのはクラシックレースの第2戦目『日本ダービー』。

 皐月賞が〝もっとも速いウマ娘が勝つレース〟ならば日本ダービーは〝もっとも運のあるウマ娘が勝つレース〟である。

 

 

 僕にとってでなくても、全てのウマ娘にとって一生に一度しか出走の叶わない、日本一を決めるレースだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




皐月賞、終了。
ゴルシの皐月賞やんけ!
次回、オッサントレーナーズ杯開催。
ちなみにメルティロイアルちゃんはクビ差2着でした。


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26.皐月賞、夜のおでん屋

充電してたんだぜ。なおストックは無い模様


 

―――時刻、夜8時。

 

「あー……くそぅ」

 

 

 おでんの屋台で一人、白髪の老人がいる。 

 片手に酒の入ったお猪口を持ち、カウンター席に持たれかけるように両肘をついては脱力するように息を吐く。

 同じ年齢の店主も、長年の付き合いのある客だからか特に注意したりもしない。

 

 

「そういやよぉ、まっちゃん。今日皐月賞だったなぁ、残念だったよなメルティちゃん。あと少しだったのに、クビ差で負けちまったんだって?」

 

「オイオイオイ、せっかく酒の勢いで忘れかけたのに思い出させることしないでくれ。

 あのバカメルティのヤツ、あんだけ前に行けってレース前に言ってたのに〝黙って見てろやジジィ〟って無視しやがってよ。

 態々時間の掛かる大外からぶち抜く真似なんてするもんだから、あのスタミナ切れしてたブラックサンダーにまんまと逃げ切られちまった……がんもくれよオヤジ」

 

「へいへい……まぁでも、まっちゃんも久しぶりだったんだろ?自分の所に所属してるウマ娘連れて、皐月賞に出るなんてさ。

 チームも、ここ数年はまともに所属するトレーナーもウマ娘もいなくて困ってたみたいじゃねぇか……今何人いるんだよ」

 

「若いガキが一人とウマ娘が二人だよ……ケツの青い、人生舐め腐ってる奴らだよ」

 

 へぇ、と店主は松原の空いている更にがんもを取り置いた。

 

「何年トレセンにいるの、その娘達」

 

「もう1年は経つな」

 

「へぇ、最長記録じゃないの?いつもは1か月も持たないじゃない」

 

「うるせぇ」

 

 視線を逸らしながら、松原はコップに注がれている日本酒を一口だけ飲んだ。

 

「まっちゃんも、もうちょっとちゃんと若い子たちを育てて見なよ。

 いずれは、自分の後継者作りたいんだろう?そんだけ根性のある娘達がいるんだったら、適任じゃねぇか」

 

「根性だけでトレーナーが通じるかよオヤジ、最近の若ェ奴らはよぉ、〝元気があれば〟、〝根性さえあれば〟なんでも出来ると思ってやがるからな。

 挙句の果てには、こっちのやり方が気に食わねぇとかすぐ上司にチクりやがるからな……あのチビ理事長め」

 

 

 ここ最近、自身が体験した事なので信憑性は高い。

 彼が自身の所属するチームのトレーナーに対する指導で学園側から注意を勧告されたのはまだ記憶に新しい。

 最初は反省文がメインだったが、学園側は更に定期的にこちらに監視役を送っては普段のミーティングや練習風景の様子を事細かに理事長へ報告してきている。

 

 その結果、これまでのように、松原が若手を怒鳴り散らす光景が多少なりとも減って来たのは事実だが、おかげで思い通りに出来ないことから松原自身のストレスは溜まりっぱなしだ。

 担当ウマ娘であるメルティロイアルからは『なんだジジイ、いつものように怒鳴らねぇのか?ついにボケたか?病院行くか?』と、心配されてるのか煽られてるのか分からない。

 

「しかもチビ理事長が居なくなったと思ったら、変わりで代理まで来やがったし……」

 

 理事長が一か月の間に出張するから「これで堅苦しい時間から解放される」と思ったのも束の間。

 翌日から理事長の代わりにその代理が監視役でやって来た時は流石に食欲が減退した。

 暫くは監察は続くようだ。

 

 

 

「ストレスでハゲそう」

 

「人間いつかハゲるよ」

 

 

 短いながらもキレのある店主の返しは数十年の付き合いになるが衰える事は無かった。

 嘆息をつきながら、松原は追加で日本酒を注文して、それを受け取って、チビチビと飲んでいく。

 

 

『失礼』

 

「いらっしゃい……これはまた、大きなガタイしたお客が来たもんだねェ…外人さんかい?」

 

『いえ、日本人ですよ―――隣、宜しいですか』

 

「……フン」

 

 おでん屋の暖簾をくぐってきたのは屋台のサイズに納まりきらない体格をした黒ずくめに仮面の男。

 耳障りな電子音声で流暢に会話をする男は身体を少し屈めると、酒に視線を移して目を合わせないようにしている松原へと尋ねる。

 

『では』

 

「オイコラ、なんで勝手に……俺は帰るぞ、ミスターなんちゃら」

 

『ミスターXですよ、松原トレーナー。まぁ、そんな事言わずに……奢りますよ』

 

 

 明らかに自分より若そうな雰囲気を出すミスターXに奢られるのは気が引ける。

 だが、酒が好きな松原はもう一杯タダで飲めるのなら別に良いか、という安直な思考で再び席に座り直した。

 

 新しく日本酒が注がれて、一口飲んだ所で松原は口を開く。

 

 

「あの第三コーナーから内ラチを進むなんて作戦を仕組んだのは、お前か?」

 

 問うのは今日のレース、皐月賞。

 稍重のバ場を無理してコーナーを回るという、暴挙のような一手。

 その作戦によって、全てのウマ娘が出し抜かれたのは事実である。

 

『はい。ブラックサンダーの現在のスタミナでは2000mをいつものような逃げのペースで走り切る事は容易くはない。

 だが、先週のレース状況と今日までに続いていた雨によるバ場の変化から、私はあのゴールドシップが繰り広げた皐月賞の展開を再現できるのではないかと考えました。

 それが再現できれば、いや……その状況にならなければブラックサンダーは今日のレースで勝利することは出来ないと思ったのです。

 それでも、勝算の大分低い賭けでした』

 

 

 まぁ、途中でアクシデントはあったのですがね。と、ミスターXは仮面の口部分を開いて同じ日本酒を一口飲む。

 普通に飲めや、と思ったのは言うまでもない。

 

「トゥインクルシリーズは賭けごと(ギャンブル)するところじゃねぇぞ」

 

『ええ、仰る通りです。それに、無理が祟ったのでしょうが、ライブの後は体調を崩したらしく……ただの熱発なので大事には至らなかったようですが』

 

 ミスターXはお猪口を置いた。

 

『例え私が想定したレース展開になったとしても、ラストの直線で先頭に立てたとしても、スタミナを切らすのはブラックサンダーが先で、ゴール板10m前で他のウマ娘に差し切られるのは想像出来た……だから、最後の坂で足が止まった時に私は敗北を覚悟した』

 

「だが奴は……ブラックサンダーは勝った。あんな亀みてーなスピードでも、決して止まる事もなく、ゴール板を駆け抜けた。

 メルティロイアルは、ベストコンディションだった……あと数メートル仕掛けるのが速けりゃアイツが差してたかもな。

 まぁ、終わった後のレースに〝もし〟とか、〝たら〟とか〝れば〟とか、言い出すもんじゃねぇんだけどよ」

 

 

 悔やむ気持ちは確かにある。

 「ああしていれば」、「こうしていれば」、あらゆる可能性を模索する癖はこの歳になっても変わらない。

 当然、勝敗が別れた今となっては、ただの負け惜しみだという事を松原は理解している。

 だからこれ以上、多くを語る事を止めた。

 

 

「褒めてやれよ、ブラックサンダーを。

 この前会った時はクソ生意気なウマ娘だと思ったが、随分と根性ある奴じゃねぇか。 

 畜生、ガンダムみてぇな名前しやがって……俺は最近のCG主体のガンダムは分からねぇんだっつーの」

 

『ええ、今回ばかりは彼の―――いえ、彼女の粘りが勝利を呼び込んだのだと思います。ちなみに私のお気に入りは逆襲のシャアです』

 

「分かってんじゃねぇかお前ェ」

 

 

 今日は珍しく、一人以外でも酒が進みそうだ。

 そう思った松原だった。

 

 

 

 

 

「どうすんだィ、次の〝ダービー〟はよ」

 

『……』

 

 暫く酒を飲み交わして、松原が口にした言葉にミスターXは酒を飲む手を止める。

 

 

 日本ダービーとは、デビューしたウマ娘が生涯に一度しか出走することが出来ないレース。

 そのレースで勝利したウマ娘に送られる『ダービーウマ娘』の称号を狙って、毎年トゥインクルシリーズの熱気は下がる事を知らない。

 

 

 だが、松原丈は知っている。

 そのダービはまた、煌びやかな側面を持つ一方で残酷な現実と向き合う事になる側面を持つことを。

 少なくとも、この男が担当しているウマ娘、ブラックサンダーは間違いなく残酷な現実と向き合わなければならなかった。

 

 

『分かっています。問題はブラックサンダーのスタミナ不足でしょう』

 

 

 勿論、ミスターXもその事実を充分理解している。

 日本ダービーの距離は2400mだ。前走の皐月賞よりも400m長い。

 2000mの弥生賞、皐月賞はギリギリ走れる距離だったが、最後の方は完全にスタミナを切らしていてゴールと同時に倒れてしまった。

 

 皐月賞のレース後、ミスターXは結論を出した。

 トレーナーとして、的確に、そして残酷に。

 仮にブラックサンダーが万全の状態で最高のレース展開をすることが出来ても―――、

 

 

『結論を言えば、彼女が……ブラックサンダーが日本ダービーを勝つ確率は限りなく、0に近い』

 

「……」

 

『今日みたいな奇策はもう通じない。

 彼女のスピードが2000mから極端に落ちるという事実が、他の陣営に知られてしまった。

 ブラックサンダーは2000m以上の距離なら、他のウマ娘は彼女が垂れてくるのを待つだけ……中距離を得意とするウマ娘達からすれば、脅威にすらならない。

 あるいは、彼女が今日のレースで二着、いや……それよりも下の順位でアクシデントによる失速、というブラフを踏まえて次の日本ダービーに望めれば可能性はありましたが……』

 

 

 皐月賞のレースで、ブラックサンダーはスタミナが無いという重大な弱点を曝け出してしまった。

 次のレースでどれだけ奇策を練ろうとも、他のウマ娘達はもう気にすら留めないだろう。

 

 

「だが、テメェの目はそんな事は〝百も承知〟って感じだな」

 

 

 松原は短時間だが、ミスターXについて少しだけ理解がある。

 この男は普段冷静沈着と、得体の知れない謎の男を装っているがその中身は普通のトレーナーと変わりがない。

 恐らく、この男は誰よりも静かに、だがウマ娘の事を一番に考えているトレーナーだ。

 

 

 そして、ウマ娘の事を考えている時のこの男は間違いなく大きな熱を抱いている。簡単に言うと、魅入られた者にはとことん情熱を注ぐタイプだ。

 

 

「何か手があンだろ?」

 

 こういう男は、ウマ娘が諦めない限りはトレーナーである自分も諦めない。

 ウマ娘が勝利を求める限り、トレーナーとして全力を以ってサポートする。

 松原はミスターXと言う男を、そう判断した。

 

 

『フフ、流石はトレセン学園きってのベテラントレーナーです。その慧眼は侮れませんね』

 

「若造が、舐めた口を聞いてんじゃねぇ。こう見えて、テメェの倍以上はトレーナーやってんだからよ」

 

 

 賺した笑みを仮面の下で浮かべた気がしたため、多少腹が立った松原だがすぐにその気は失せる。

 ミスターX、彼もまたウマ娘であるブラックサンダーと同じく、〝諦めが悪い〟タイプの者だったからだ。

 

 松原丈はそういった人間やウマ娘が好きなのだ。

 戦いを前に諦める事、戦わずに逃げる事、それは最も愚かな事だ。

 勝利を欲するならば、ファーストに胸に抱くのはまず、〝諦めない〟こと。

 

 

 Don't Never Give up。

 これこそが、全ての人生に通じる言葉だと松原は思っている。

 

 やがてミスターXは言葉を作り、松原に言うのだ。

 

 

『全ては、ブラックサンダー次第と言ったところでしょうか』

 

 

 酒の注がれたコップを揺らし、液面が上下する様をミスターXは見守りながら続ける。

 

 

『日本ダービーは〝もっとも運があるウマ娘が勝利する〟と言われるレース。

 勝つも負けるも、ブラックサンダーの持つ〝運〟が決めると言っても過言ではありません』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




皐月賞編、無事に終了しました。ありがとうございます。
次回から日本ダービー編に入りますが、皐月賞より短くなるのでサクサク進んでいくと思います。


現在のブラックサンダーのスタミナはE+。
固有は加速と速度のハイブリッドスキル。
回復スキルはナシ。

だけどまだ本格化を迎えていない……。


そういえばアマプラで閃光のハサウェイが始まりましたね。
ガンダムネタが多いこの作品ですが、お陰でネタに困らなくなりそうです。


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27.山々田山能は夢を見る

久しく投稿出来てませんでしたので。
決して地固め因子厳選に心が折れて消えてたわけでないので……。
皐月賞ラストで原因不明の発熱で倒れたブラックサンダーはお部屋で療養中。

その間に、皆があんま知りたいくなさそうだけど山々田山能くんの過去話をちょっとだけ。今回はそういうお話。


 

 

 

 

 

 

 

―――――人は睡眠時、夢を見る事がある。

 

 

 何かに喜んでいた事とか。

 何かに怒っていた事とか。

 何かに哀しんでいた事とか。

 何かを楽しんでいた事とか。

 

 

 人生の喜怒哀楽、人によって見る夢の内容は様々だ。

 

 

 ウマ娘の肉体を手にした僕でも、それは変わらないらしい。

 僕は今、ウマ娘の身では珍しい高熱を引き起こして自身のベッドで絶賛休養中なのだ。

 39℃近くまでに上昇した体温の息苦しさが微塵も感じられないほどに、僕は快適な空間にいる。

 それが、僕が今夢を見ているという結論に至っている。

 

 

 目を閉じているというのに飛び込んでくる視界はまるで映画館にでもいるかのようだ。

 

 映し出されている夢の内容を見て、僕は「ああ……」と、思う。

 僕が見ている夢は、僕の過去の……山々田山能が人間の頃だった時の夢だ。

 

 

 高校時代のお話。

 僕がまだ、陸上競技に人生を費やしていた頃のお話。

 「楽しかった」のか、「楽しくなかった」と問われれば、僕はそこにプラスαで「あまり思い出したくない」という項目を追加する。

 

 

 ちょっとだけ、ちょっとだけ僕の昔話をスクリーンに映し出される映像を僕自身によるナレーションで回顧することにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『人より速く走れる』というのは、総じて気分が良いものである。

 かけっこや、学校での体育、部活の野球、サッカーなどのスポーツではその一点だけでも優れているだけでヒーローになることだって出来る。

 

 

 そして、稀にクラスの中には抜きんでて足の速い人間というのが一人や二人はいるだろう。

 なんか次元が違うんじゃないかと思わせるくらいのスピードで走る奴とか。

 隣に居合わせて、同時にスタートした瞬間に走る気が失せるような奴とか。

 

 

 僕が()()だった。

 人間の頃の山々田山能という男は、当時の学校で誰も追いつくことが出来ない『最速の男』と言われていたのだ。

 

 

 

「おおー、50mを5秒6か……先生、小学生の体育のテスト色んな子の50m走を見てきたけどこんなタイム出したのはお前が初めてだぞ山田ァ」

 

「先生、僕の名前は山々田です」

 

 体育の教師はとにかく「すごい」と褒めてくれた。

 クラスメイトからも同じような事を言われた。

 

 

「こんなん、こんなんチーターや!」

 

「イダテンの生まれ変わりや!」

 

「サイボーグ009や!加速装置や!」

 

 

 勿論、「スゲー」と言うやつもいれば、「先生、僕ヤマくんと走りたくないです」と僕と走る際に教師に堂々と申告するクラスメイトもいた。

 

 

 それを差し引いたとしても、僕は気分が良かった。

 誰よりも速く走れるということ、誰よりも速くゴールできるという事にこの時の僕は少なからずとも優越感を覚えていた。

 

 

 だってそうだろ?

 速く走れるだけで毎年の運動会では注目の的だ。

 リレーの種目になれば、僕は絶対の勝利を呼び込む最強のエースになれる。

 

 

 人間、一つだけでも優れている物があれば、こんなに気持ち良くなれるというのを僕は小学生にして知ってしまった。

 

 

 

 この時の僕は小学生という事もあってか、結構クソガキだったと思う。

 いつか、この脚で天下を取るんだと、世界最速の男は僕なんだと、それは揺るがない真実なのだと思うようになった。

 

 

 当然、そういったイキり小学生である僕の夢双は中学時代で終わりを告げた。

 

 

 

 中学から陸上部に入部してからは、色々な大会に出場し多くのスプリンター達と競うことになった。

 最初はそこそこ勝てたと思う。でも、途中から……地方を越えて県とかの少し大きな大会になると、僕より速い人なんてたくさんいた。

 

 

 僕は、「分からされた」のだ。

 

 

 僕より、一回りもガタイのいい中学生。

 僕より、一回りも背の低い中学生。

 でも、僕よりも圧倒的に足が速い人達。

 

 

 僕が小学校の時のように勝てなくなるのは当たり前だった。

 当然、負けまくった僕は凹んだし、僕の実力なんてこんなものだったんだと泣くこともあった。

 

 

 だけど、不思議と「もう走るもんか」なんて思う事は無かった。

 むしろ、もっと速さについて極めたいと思うようになった。

 

 

 走る事について、考えるようになった。

 速く走る事について、深く考えるようになった。

 タイムを良くするためには、どうすれば良いのか。

 

 

 誰よりも速くなるためには、何をすればいい?

 どうすれば、今の僕より強くなれる?

 

 当時、中学校の試合で喫した敗北は多くの事を僕に教えてくれた。

 

 

 

――――僕の周りには、こんなにも速い人がたくさんいる。

 

 

 井の中の蛙だった僕は、大海を知った。

 その未知の世界で戦うために、僕は変わらなければならないと思ったのだ。

 

 

 負けて不貞腐れて沈んでいくよりも、次の事を考えよう。

 競技者としても、人としても、強くなろうと。

 

 

 

 そこから、僕の人生は一変する。

 ただの駆けっこ大好き少年から、陸上選手として競技人生を駆け抜けていった。

 

 

 トップアスリートの執筆した著書や月刊陸マガとかを買ってはその練習方法を自ら試したりして、ノートに纏めたりした。

 高校生活だけでも、僕の自作した練習ノートは十冊以上になる。

 また、夏冬と期間が限られている中で稼いだバイト代で新しいシューズとか、ラダーとかメディシンボールとか練習器具を購入した。

 

 

 貧乏な高校とかだと器具は実費なんよ。

 

 

 勿論、僕はその練習方法や知識をチームの皆と共有した。

 『誰かに教える』、という事は自分の持つ知識を再確認させるから。

 体育教師の息子だった僕は、その血を継いでいたからか、同じ部の皆からは「分かりやすい」となかなか好評であった。お陰で、陸上部の短距離メンバーの平均タイムが上がったので、僕は次第に人に何かを教える事が楽しくなっていった。

 

 

 だから、高校3年の春に100mで10秒99という記録を出した時、僕は心底嬉しくなって、堪らなかった。

 10秒台、それは短距離選手が頂点を争う際には避けては通れない壁。

 ワンピースで例えるなら、グランドラインの入り口であるリヴァースマウンテン。

 

 

 日本一速い男を決めるための最初の難関。

 でも、そこに高校生活三年という年月をかけて漸く、その争いの中に入っていく事が出来る。

 

 

「やったッ!やったぞッ!僕にも―――僕にだって出来るんだッ」

 

 

 僕の走りにはまだまだ改善の余地がある。

 タイムの伸びしろはむしろここからのハズだ。

 つまり、僕はまだまだ速くなれる。

 

 

 10秒99が、10秒98、10秒88と縮まっていくイメージが浮かんでくる。

 まだ実際にタイムが伸びた訳でもないのに、自らが高みに登る事が直に感じられたかのような気持ちの昂ぶり。

 

 

 日本人初の9秒台だって、夢じゃないかもしれない。

 そう思ってしまうくらいに、僕のテンションは爆上がりだった。

 

 

 

 そして、今年こそ行けるかも知れない、と僕は胸の内で思うようになった。

 3年生として最後のインターハイ、もしかしたらその争いの中に食い込んでいけるかも知れないと。

 

 

 いや、行けるかもしれないではない、『行くんだ』。

 多分とか、恐らく、とかmaybeではない、『絶対』で。

 

 

 高校生活、走る事だけを考えてた僕を回りのクラスメイトは真面目に「頑張れ」と言う者もいれば、そう思わない者もいる。

 

 

 「インハイ?無理でしょ」とか、「こんな公立高校で頑張ったってさぁ」とか、「そんだけ頑張って結果出なかったら惨めだよ」、「やるだけ無駄無駄」とか。

 

 

 そんな奴らのノイズを掻き消すように、今日まで必死に走って来た。

 校庭のグラウンドでしか走れない、小さな高校だけど夜遅くまで皆と走った。

 皆が「時間だ」と帰る中、僕は一人警備員に声を掛けられるまで走り続けてた。

 次の日の授業がままならず、寝ていたことを担任に咎められたこともあったとも。

 

 

 辛くても、楽しい日々だった。とても。

 

 

 これまでの日々があったからこそ、僕は僕のままで居られた。

 「速さ」を追い求める僕で居られたのだ。

 

 

 さぁ、行こう全国へ。

 僕の脚を奴らに見せつけてやろう。

 

 

 今年の夏の主役は僕だ。

 そう言わんばかりに不敵な笑みを浮かべて、僕はまたタータンを走り出すのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 人は自らの人生において、主人公と成り得るだろうか。

 ゲームで言う、プレイヤーとか、そんな感じの存在に。

 

 

 

 ドラクエで言う勇者、みたいな。

 ピーチ姫をクッパから助け出すマリオ、みたいな。

 危機的状況に必ず駆けつけるスペース・コブラ、みたいな。

 ワンピースのモンキー・D・ルフィ、みたいな。

 

 

 己の力であらゆる困難を打ち砕き、自らの我儘を押し通す者達。

 一人の選択肢で全てのENDすらも書き換えてしまう者達。

 

 

 

 そんなものになれたら、といつも思う。

 

 

 だけど、そんなものになれるのは本当にごくごく一部の人間なのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

『さぁ、全高校総体陸上競技男子100m決勝がこれから始まります』

 

 

 

 高校男子最速を決める戦いが始まる、アナウンスがテレビから聞こえる。

 4月からの激しい予選を勝ち抜いてきた優俊8名が真っすぐに100m先の白線を見据える光景がある。

 

 俺が。

 俺が。

 俺が。

 

 そんな感じで闘争心を剝き出しにしている男達が求めるのは高校最速の称号。

 タイムも凄い。なんと全員の平均タイムは10秒72。熾烈な戦いを極める事は間違いないだろう。

 

 

「……」

 

 

 家の机で積んだ参考書と、問題を解く為の筆を取る手を止めて親の温情で設置させてもらった一昔前の箱型テレビを見つめる高校男子が居た。

 

 

 勿論、それは僕だった。

 

 

 

 インターハイ決勝の舞台に、僕の姿は無かった。

 インターハイ本戦どころか、地区予選の2組で姿を消した。

 

 

 ベストコンディションによるベストタイムを叩き出したさ。

 本番のレースでは0.02秒くらい縮まったのかな?それも届かなかった。

 

 

 近年、スプリント競技においては若手の成長が著しく高い。

 去年まで中学生だった者達で10秒台をマークした者や2年で飛躍的にタイムが伸びた者達が今年の予選に蔓延っていた。

 そんな化け物達で溢れるハイレベルな大会に僕の10秒入りたての記録など、霞んで当然だった。

 

 

 

 陸上競技のシーズンは終わるのが早い。

 都内では室内競技の大会も始まったりして、インハイを賭けた予選は5月の中旬に行われる。

 そこで勝ち抜いた者達だけが7月の本戦に参加する権利を得る。

 

 

 つまり、地区予選で敗北した僕のような者達は5月の中旬が終わればそこで強制的にシーズンが終了するのだ。

 そして、三年生は進学や就職を控えていることもあり、秋季の大会や国体に参加する時間はほぼ無いに等しい。

 

 

 だから5月で引退することになった僕は、こうして今、受験勉強に勤しんでいる。

 大学でも、陸上競技を続けるために体育大学を目指していた。

 

 

『On Your Marks……set―――』

 

 

 テレビの中で審判の雷管による音が無言の場内に甲高く響き渡る。

 全員が一斉に好スタート、出遅れた者は誰も居ない。

 最初の20mで加速を終え、40から50mでトップスピードに達して、ゴールするまで殆どの選手が横並びでゴールした。

 

 

 テレビ画面に記録されたタイムは10秒58。

 記録にも歓声が上がり、最後胸の差で抜き出た4レーンの選手が自分が勝った事を自覚して右腕を天に突きあげていた。

 

 

 嬉しそうに。

 誇らしそうに。

 ()()()()()()歓喜を極めた瞬間なのだろう。

 

 

「……問題解くかー」

 

 

 テレビの電源を消して、再度僕は問題と睨めっこ対決を開始する。

 からん、と傍のコースター上に置いた麦茶の中の氷が半溶けの音を知らせる。

 

 

 季節は夏、暑さから窓を開けた外では蝉の鳴き声が鬱陶しいほど鳴り響いてきた。

 

 

 

 

 

 

 




初めてウマ娘が出てこないお話を作ってしまった。
さぁ、気を取り直してキタサンブラック引いてくんぜ~(すり抜けエルが見える見える)


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28.稲妻、療養中

スタミナ9因子が作れないバロックスです...中距離Sタイキシャトル仕上げてくるなんて皆狂ってるよ...


 一年が過ぎて、僕は大学には無事に進学できた。

 

 田舎ではない、その県でもレベルの高い体育大学にて、僕は教員の資格を取る為に励んでいた。

 

 無論、教員の資格を取る為がメインではない。

 真に僕が取り組んでいるのはより実力者の揃っている陸上競技部で、更なる速さを求める事だ。

 

 比率で表すなら3:7。

 教員が3で、陸上が7。

 いや、もしかしたら2:8の方が正しかったもしれない。

 それくらいに、僕は大学陸上に入れ込んでいたのだ。

 

 

 ちなみに、卒業後の進路は決めてはいない。

 教職課程を修了することで取り合えず教員免許は卒業と同時に取得できるらしいので卒業後は教師になる事も考えていた。

 しかし、先ほども言ったように熱があるのは陸上競技の方なので教職関連の講義は程々にしようと思っていた。

 

 

 父に「教員でも目指そうかな」と言った時、父はとても嬉しそうだった。

 この大学を受験するに至って、僕は親には正直に陸上だけを続けるための進学するとは告げてはいない。

 この大学で教員免許を取得して教師になる、という事を前提に大学進学を許してもらったのだ。

 

 

 嘘をついたのである。

 真剣に教師を目指そうとしている我が子の頑張りを応援してくれている父に、僕は、あろうことか嘘をついたのだ。

 

 

 父は、あと数年で定年だ。

 退職金は貰うが、貯蓄とマイホームのローンの全額返済に充てる為、お金の工面は大変だと言っていた。

 そして、僕の通う大学は私立で、年に掛かる学費は100万を越える。それが四年間となれば、400万という大金だ。

 

 

 だけど、父は心配するなと言って送り出してくれた。

 母は、専業主婦から食堂のパートをやり始めた。

 

 

 二人は、息子が父親のように立派な教師になる事を夢見て進学するのだ。ならば、私達も少しばかり頑張ろうではないか。―――そう思っている。僕は教師になる気はさらさらないのに。

 

 

 二人の純粋な応援が嬉しかった。

 それだけに、その期待を裏切ってしまっていて、本当に申し訳なかった。

 

 

『日本一になる』。

 

 

 それが、僕が二人の期待を裏切った代価を帳消しにする道だと考えるようになった。

 

 

 高校以上に研究と検証と、練習を重ねた。

 講義もなるべく休まず、必修科目は落とさず、無欠席で真面目に勉学に励んだ。

 奨学金は借りず、親からの仕送りも断り、学費以外のお金の工面は日雇いのバイトでカバーした。

 

 筋肉トレーニングも行い、高校時代から体重を15キロ増やすほどの肉体改造だって行った。

 スピードと、それをコントロールする肉体を四年間作り続けた。

 

 

 娯楽も極力省いていたからか、同期からは「ノリが悪いな」と言われる事もあったけど、それは全て勝利する為なのだと自らに言い聞かせていた。

 

 

 

 結果は徐々に付いてきていたが――――それでもダメだった。

 

 

 

 ベストタイムを更新しても、大学の世界は高校とは比べ物にならないくらいのレベルの選手がそこら中に転がっていたのだ。

 日本選手権の決勝にまで顔を出すような、いわゆるオリンピックを目指している者達が出てくるのである。

 僕の隣には日本人ではない、外国から来た留学生が走る事もあった。

 

 

 10秒90。

 それが僕、山々田山能という陸上選手の速さの限界だった。

 

 

 

 不必要な娯楽を、速くなるための不純物を可能な限りそぎ落としていった。血と汗によって形成されたと言っても過言ではない陸上競技の集大成はこの程度のタイムだったのだ。

 

 

 当然、この程度の実力では、現代の大学陸上競技では準決勝に進めるかも怪しいレベルである。

 大学最後の試合も、予選で強豪大学のエース三人が同じく組という最悪な組み合わせで行われ、僕は敢え無く予選落ちという形で大学陸上に幕を下ろした。

 

 

 

 何もかも終わって、試合で使ったスパイクを片付けながらふと今までの道を振り返った。

 

 

 振り返ったのは勿論、小学生から、今日この大学陸上最後の試合までの僕の道程の事である。

 僕の走路には、何も栄光は無い。

 インターハイ、インカレ、名だたるタイトルを持った大会に優勝、または入賞するどころか、出場することすらも叶わなかったのだ。

 

 泥に塗れ、足掻くように走り続けた先の果てで、振り返った僕の道は泥が乾き、僕ががむしゃらに駆け抜けた歪な形をした足跡だけが残っている、荒野のような道だけだった。

 

 

 

 僕は一体、何の為に走って来たんだろう。

 

 

 肩の力が抜けた。

 急に、熱が引いていくのが分かった。

 心のどこかで何かが割れるような音がした。

 

 

 それは、僕にとって()()()()()()が割れる音だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢は無限に見られるわけではないが、無限に変化することがある。

 

 

 いきなり家の中にいたと思ったら、次の瞬間には木の上に登っていたり。

 自分でも想像していなかった展開が毎秒毎に訪れることだってあるのが夢、と言う世界だ。

 

 

 

 ならば、今僕がウマ娘の姿で芝生の上を走っているのも、東京レース場なのも、開催されてるレースが『日本ダービー』なのも、全て夢が見せている物なのだろう。

 

 

 

『さぁ!日本一のウマ娘を決めるレース、日本ダービーもいよいよ大詰めを迎えています!

 先頭を進むのは依然として1番人気、ブラックサンダー!先行集団から2バ身離して第4コーナーを回る!残りは最後の直線525mだ!』

 

 

 先頭を進む僕、ブラックサンダーは順調にリードをキープしている。

 脚にも、呼吸にも余裕があり、最長の直線となっていてもこれなら走り切れてしまうのではないかと思ってしまうくらいに快速なレースだった。

 

 

 

「―――行くぞッ」

 

 

 夢ならば、遠慮する必要はない。

 残りの力を振り絞って全開のスパートを掛ける。 

 短距離走で言うなら、100mを走る感覚で最終加速段階に入る。

 

 

 トップスピードだ。

 風を切る感覚、僕自身が風になったみたいに。

 気持ちがイイ、ずっと味わっていたいこの感覚。

 

 

 ゴール板が見える。

 アレだ。

 アレがゴール。

 

 あそこに最初に辿り着けた者が日本一のウマ娘の称号、『ダービーウマ娘』の名を手に入れることが出来る。

 

 

 

 『日本一』。

 僕が10年以上届かなかった、縁の無かった称号にようやく手が届く―――――。

 

 

 

「―――あれ?」

 

 

 突如として起きた異変。

 脚が、身体が鉛のように重くなった。

 足の回転がまるで泥濘に嵌った自転車のように重くなり、スローモーションのように遅くなる。

 

 

 皐月賞でも同じ事が起きた。

 2000m、今の僕のスタミナの限界。今回の日本ダービーは前の皐月賞よりも400m長い。

 僕のスタミナは既に枯渇していたのだ。

 

 

 

「――くそッ、あ、な、なんでッ!?」

 

 

 重力魔法でも自分だけ掛けられているのか、空間が捻じ曲げられているのか、僕以外のウマ娘は快速だ。

 直線に入った段階で、僕の後続に居たウマ娘達が容赦なく僕を追い抜いていく。

 

 

 どんどん、どんどん他のウマ娘達との距離が離されていく。

 ただ一人取り残されて、10人以上の背中を必死に追うも、僕だけは追いつけない。

 

 

 置いて行かれる。

 もう二度と、走れなくなるように、気力すらも奪われていく。

 

 

 僕の努力は無駄だと。

 僕の人生は無価値だったと。

 僕の走りは無意味なのだと。

 人からウマ娘になっても、それは変わらないと、そう言われているようで―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ッ、グ、グラスッ、グラスッ……」

 

 

 長い、辛い、悪夢のような時間を彷徨って、目を覚ました僕は見覚えのある天井を視界に入れたことで現実の世界に戻って来たのだと悟る。

 

 

 意識は覚醒したばかり、頭は重く、身体は熱を帯びていて怠い。

 自分が風邪を引いた身なのだと思い出させるには十分だ。

 

 

「トレーナーさん……?」

 

 耳に聞こえる声に顔を傾けると、すぐ隣にはグラスワンダーが椅子に座って僕の看病をしてくれていた。

 僕の部屋に何時からいたのだろうか、少なくとも外の景色はもう陽が落ち始めている。

 今日はレースが終わった次の週だから平日のハズで、彼女は学園の授業と練習を終えてから来てくれたのか。

 

 

 僕は、そんなグラスワンダーの手を掴んでいたことに気付いた。

 大和撫子のように、滑らかな肌をした彼女の手から感じる温もりが、僕にグラスワンダーの存在を確かに認識させてくれる。

 

 

「グラス、グラス……いるのか、ここに…」

 

「ええ、グラスワンダーはここにいます」

 

 

 力の入らない手で彼女の手を握ると、グラスワンダーが強く握り返してきてくれた。

 確かめるように、教えてくれるように、刻むように、肌を通して伝わる熱は僕を安堵させてくれた。

 

 

「魘されていました」

 

 

 僕の様子が落ち着くまで手を握り続けてくれたグラスワンダーがぽつりと呟く。

 

 

「様子を見に来たら、苦しそうにうわ言を……私は何もすることが出来ずでしたが」

 

「そ、そうか……あぁ、ごめん、迷惑かけたよな。大丈夫だよ」

 

 

 名残惜しさを感じながら握ってくれていた手を僕の方から離して、身を起こす。

 枕元には額に乗せていたタオルがズレ落ちていて、身体は大量の汗でべとべとだ。

 買い置いていたペットボトルを手にしてキャップを開けようとする、が力が入らないのかキャップを摘まんだ指が滑ってしまい、上手く開けることが出来ない。

 

 

 なんじゃこりゃ、ペットボトルも開けられないとかどこの三井寿だよ。今はスラムダンクパロなんてやってる場合じゃないだろ。

 

 

 

 どうして俺はあんな無駄な時間を、と後悔する必要はないが、ウマ娘なのに開ける事も出来ないほどに衰弱している事に情けなさを感じてしまう。

 

 

 

「無理はしないでください」

 

 

 そんな事を思っていると、グラスワンダーが僕からボトルを取ると簡単にキャップを開けて見せた。

 そのボトルを僕の口元へと運んでいく。

 

 

「私が支えます」

 

 

 労わる様に、慈しむ様に、ボトルの口を差し出すグラスワンダーは献身的だ。

 僕としては、担当ウマ娘に気を遣ってしまっている事に非常に申し訳なく思う。

 頭はそう理解していても、肉体はどうも限界が近いらしい。

 

 

 ぼーっとする頭で、僕は小さく口を開けると、グラスワンダーはボトルの口を僕の口に当てて、ゆっくりと傾けながら水を流し込んだ。

 彼女の手で送られる水量は決してむせることなく、僕の喉の動きをしっかり見て、どこで水を止めれば良いのかを既に心得ているのだろうか、彼女のお陰で快適に水を補給することが出来た。

 

 

「ふ……んくっ…」

 

「慌てないでください、ゆっくりと、落ち着いて……」

 

 

 水をわざわわざ飲ませてもらっているこの状況はまるで介護されているみたいである。

 しかし、グラスワンダーに介護されて人生を終える事が出来れば、僕は安らかに息を引き取ることが出来るだろう。それぐらいの安心感があるのだ。

 

 

「夢を見たんだ」

 

「夢……」

 

 ゆっくりと、半分にも満たない量の水を飲み込んで気分が少しだけスッキリした僕は彼女に、グラスワンダーにそう言った。

 彼女の前では隠し続けるのは難しいと思ったのだ。僕は意を決して、まだ鮮明に覚えている夢の内容を話す。

 

 

 小学時代の事。

 高校時代の事。

 大学時代の事。

 

 

 これから始まる日本ダービーの事。

 

 

 そして―――、

 

 

「日本ダービーが終わって、お前がさ、トレセン学園から居なくなる夢を見たんだ」

 

 

 レースで敗北し、闘志を取り戻せなくなってしまったグラスワンダーがトレセン学園から、僕の前から姿を消す最悪の夢を見てしまったのだ。

 

 

「今の僕じゃ、次の日本ダービーには勝てない」

 

 

 スタミナの問題。

 2400mを走り切れないという現実が、容赦なく僕に襲ってくる。

 年間数ある中の一つのレースだ、と考えるのが間違いないが、僕が見た夢がその敗北の行く末がバッドエンドへと繋がらせようとする。

 

 

「次僕が負けたら、お前が……グラスが居なくなってしまう、そんな事ばかりが浮かんでしまうんだ」

 

 

 あくまで夢の内容なのに、あろうことか、僕は鵜呑みにしようとしてしまっている。

 最悪の上に最悪が重なる事が、必然のように感じてしまっている。

 

 

「おかしいよな、あれだけ僕の走りでお前を復活させると豪語しておきながらさ、今の僕は走る事に、恐怖を感じてる……怖いんだ」

 

 

 精神を蝕む恐怖。

 過去の失敗が尾を引いて、現在の心に重しとなっている。

 それは競技パフォーマンスに酷く影響し、場合によっては選手生命すらも危うくさせる……一種の心の傷(トラウマ)というものだ。

 

 

 

「僕なんかが、走らなければと思ってしまう。

 僕なんかは、走っても無駄だと思ってしまう。

 僕には、トゥインクルシリーズは相応しくない世界だと思ってしまう」

 

 

 これまでの結果が、そうだったから。

 どれだけ努力しても、結果がともわないものばかりだったから。

 勝者が居れば、その枠に入れなかった敗者が溢れているのは分かっていたハズなのに。

 

 

 ただ速さだけを追い求めてきた僕の人生は、終わってみれば、無意味なものだったと気付かされて。

 大学を卒業するまでの僕は、本当に走る事が嫌いになっていた。

 暫くしてその傷は塞がったが、突発的に見た先ほどの夢で心の傷が再発したのだろう。

 

 

 

 簡単に言えば、今の僕は超ネガティブ状態なのだ。

 

 

「こうして、お前を不安にさせるような言葉をずっと口にしている……。

 情けないトレーナーで、情けないウマ娘で――――」

 

 

 ほんとうに、どうしようもないと口にしようとして、それは遮られた。

 僕の額に、ぽふりと制服の布地が擦れるのと柔らかい感触が当たる。

 

 

 

 グラスワンダーが、僕の頭をそっと、自身の胸に抱き寄せていたのだ。

 

 

 

 




明日はマイルチャンピオンシップなので早めに寝ますね


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29.その脚で走り続けてきたのでしょう?

姉貴サンタ……お前を有馬で使うぞ。有馬チャンミは追込と逃げの殴り合いだ……そこに先行が割り込むスキなんてあるのだろうか……アオハル力、アオハル力を私にください!


―――花のような香りがする。

 

 グラスワンダーの腕に抱かれながら、僕はふと、そんな事を考えていた。

 

 女の子の身体って、マジで柔らかいし、イイ匂いがするのだなと僕は不謹慎さを感じながらも彼女に頭を撫でられながらも思う。

 

 

 心臓の音が聞こえる。

 とくん、とくん、と一定のリズムで刻まれるグラスワンダーの鼓動は落ち着いていた。

 他人の心臓の音なのに、耳を澄まして聞いているとこちらの鼓動も一定になり、先ほどまで感じていた不安が薄れていくように感じる。

 

 

「思い出しませんか?」

 

「え……」

 

 数分くらいして、頭を撫でながらグラスワンダーが呟いた。

 こちらからグラスワンダーの表情を窺う事は出来ない。

 まるでその行為を許さないように頭を撫で続けている。

 

「毎日王冠、あのレースの日……私はトレーナーさんに同じことをされているんです」

 

 

 そういえば、そんな事をしてしまったと今更ながらに思い出す。

 

 毎日王冠。

 東京レース場で行われたその年のG2レースはエルコンドルパサー、グラスワンダー、あの異次元の逃亡者・サイレンススズカという有名ウマ娘が一度に出走することになった伝説のG2レース。

 G2なのに、G1並の客入りだったのをよく覚えている。

 

 

 

 忘れもしない。

 あの日、他を一切寄せ付けなかったサイレンススズカの存在と、復帰後のレースで惜敗したグラスワンダーのレース。

 グラスワンダーにとっては、不甲斐なさで溢れた涙のレース。

 僕にとっては、そんな泣いている彼女をこれ以上辛い思いをさせないと胸に誓った、トレーナーとして大きく成長しようと思った大事なレースだ。

 

 

 あの時の僕は無我夢中だったからか、沸き起こる数々の感情から自らが起こした行動をあまり覚えていないのだ。

 僕はどさくさに紛れて、担当ウマ娘を抱きしめるという行為をしてしまっていたらしい。

 

 

 『抱かせろ』、という定型句はどうやら僕が作り出してしまったようだ。(違う)

 

 

「最低だ……俺って」

 

 

「シンジくん……」

 

「僕はブラックサンダーだよ」

 

「いや、まぁそうなんですけど……トレーナーさんは、自分の事を不甲斐ない、怠け者で、すぐ他のウマ娘に手を出す不審ウマ娘だと思ってらっしゃるかと思いますが……」

 

「不名誉極まりない名称が後半追加されてるんだけど気のせいか?」

 

「ふふ……調子が戻って来たみたいですね」

 

「ん、確かに」

 

 

 にっこりと、確かに笑ったのが分かるような声のトーンでグラスワンダーは嬉しそうに言っていた。

 グラスワンダーとの普段と変わらない日常会話が、少しずつ僕の調子を戻しつつあるようだ。

 

 

「私はあの頃、焦っていました。

 怪我で試合に出られず、走れず、やっとの想いで復帰レースに出れたというのに、あの不甲斐ない結果。

 トレーナーさんの忠告を無視して勝ちに行き、後半は失速……エルや、スズカ先輩の足元にも及ばない様をファンの皆様に晒してしまいましたね」

 

「仕上がり切れてない、復調していない状態だったんだ……むしろ、あのメンツに復帰直後であそこまで食い込んでいけたのは想像以上だった」

 

「それでも、敗北したことに変わりはありません。

 でも……悔しくて、悔しく、不甲斐なくて……そんな気持ちでいっぱいだった私をトレーナーさんはこうやって抱きしめてくれたんです。

 力強く、優しくも、温かく、でも震える手で、〝共にもう一度立ち上がろう〟と誓いを立てて……」

 

 だから、

 

「私がその時、どれだけ心救われたか。

 心を絆されたか。再び走る気力を取り戻せたか。

 あのレースだけではありません、復活できた宝塚記念も、スぺちゃんと競い合った有馬記念も。

 決して私一人では勝てませんでした……トレーナーさんが居たから」

 

 グラスワンダーは言う。

 

「あなたは不甲斐ないトレーナーではないのだと、私が言います。

 グラスワンダーと言うあなたのウマ娘が断言します。

 共にウマ娘の頂点を目指すと誓ったあの日より、この気持ちが揺らいだことは一度もありません」

 

 

 トレーナー、山々田山能という男を信頼に値する人物だと。

 

 

「ウマ娘としても、ブラックサンダーとしても。

 困難に立ち向かい、踏破していく勇ましい姿に、私は勇気を貰いました。

 私はもう、走り出すための力を取り戻しているんですよ。

 あなたの心が。

 あなたのその熱い走りが。

 私の心に響かせたんです。

 今の私は心の底からこう、思います……あなたのいる場所(ターフ)へ行き、あなたの隣で走りたいと」

 

 

 ウマ娘、ブラックサンダーである僕の走りが決して無駄で無かったと。

 共に走りたい、心の底からそう言ってくれたグラスワンダーの言葉に僕は力なく笑って、彼女の背中に両腕を回して、身体を抱きしめた。

 

 

「不安は、誰にもあります。

 心が弱る時は誰にもあります。

 でも……辛くて、苦しくて、走るのも嫌になりかけて、それでもあなたはその脚でここまで走って来たのでしょう?

 紛れもない、あなたの意志でこの道を走り続けてきたのでしょう?その道筋に後悔の念は―――」

 

「後悔なんて、あるわけない」

 

 

 そうだ。

 どんなに敗北で塗れても、きっと次は勝つと心に決めて走り続けてきた。

 折れる事はあっても、何度も立ち上がって、腐らずに挑み続けてきたんだ、僕は。

 

 トゥインクルシリーズの世界に飛び込んだのも。

 戦術逃げで挑んだデイリー杯も。

 スタミナギリギリで挑んだ皐月賞も。

 そして、これから走る事になる日本ダービーも、他ならぬ僕が進むと決めた道なんだ。

 

「忘れないでください。私達の約束を」

 

「約束―――」

 

 

 

―――レースで、ターフの上でグラスと走りたい。

 

 

 ウマ娘として走る覚悟を決めた際に誓ったあの言葉が僕の脳裏を過る。

 いつしか完全復活したグラスワンダーと競い合えるようになりたいと、そう思って口にした誓い。

 

 

「その約束を叶えるため、私は止まるつもりはありません。

 夢を夢で終わらせない為に。

 それまで、約束を違えることは許しません」

 

 

 手厳しい、流石グラス、手厳しい。

 ケツを引っ叩かれた気分だ。

 優しくも、厳しい、彼女らしい激励だ。

 

 

 止まるんじゃない、止まっている場合じゃない。

 

 

 

「ありがとうグラス、お陰で目が覚めた」

 

「いえいえ、どういたしまして」

 

「もう、昔の事に縛られるのはやめだ。

 昔の事でこれから先の試合で不安を抱くのはやめだ。

 この日本一を競う舞台で走ると決めたのは、他ならぬ僕自身。

 僕は曲がりなりにも、ダービーウマ娘になる資格を持った者の1人なんだ……それに相応しいウマ娘にならなきゃな」

 

「ええ……夢だったのでしょう?この一生に一度の大舞台を駆け、勝利を目指す事が。

 なら、迷わずその道を征きましょう。過去に縛られず、これから先の未来を見つめて。

 今だけは、私の為ではなく自分の為に走ってください」

 

「ああ、今回は……そうさせてもらうよ」

 

 

 既に二人の距離は一つ分の空間を置いている。

 僕の顔つきを見て安心したかのようにほほ笑んだグラスワンダーに礼を言うと、再び僕は体調を戻すための休息を取り始める。

 

 

 また眠り始めるころには、僕がこれまで抱いていた不安というのはどこかへ消えていて。

 目覚めた時は、これまでの疲れが吹っ飛ぶほどの快眠であった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 坂を駆ける。

 灼熱の太陽で照らされて、ジリジリと熱されたコンクリートの坂を。

 

 

「う、おおおおおっ!!」

 

 

 稲妻は垂れる。

 萎びた茄子のように、水分をからしたヘチマのような、情けなく力のない走りで。

 

 

 

「ふぇ……もぅ坂路走なんて無理だよぉ……」

 

 

 足を生まれたての小鹿のように震わせながら、僕ことブラックサンダーはゴールすると同時に前のめりに倒れこんだ。

 熱をもったコンクリがまるで熱されたフライパンの如く僕の肌を焼く。

 

 

「アツゥイ!!」

 

 あまりの熱さに思わず身体が飛び上がった。

 目玉焼きも焼けちゃう暑さだぜコイツはァ。

 

 

 

 原因不明の熱発から解放された僕は、暫くの休養を挟んだ後で東京のとある場所にて坂路走……つまり、坂ダッシュトレーニングをさせられている。

 勿論、狙いは日本ダービーを戦うためのスタミナ増強トレーニングである。

 

 

 なんでも、今走っているこの道路はあのトウカイテイオーが天皇賞春に出場するまで長距離対策の際に練習で使用していたコースらしい。

 スタートからこのゴール予定地点までおよさ1000mある。加えて、トレセン学園の坂路とは比べ物にならない角度があり、肉体に掛かる負荷はかなり高い。

 

 

 現にスタミナに自身のない僕などは、こうして500mを越えた辺りから足の運びが明らかに鈍くなっている。

 

 

 

 正直、坂ダッシュは何度やっても慣れないものだ。

 最初は勢いよく飛び出せても、坂を登れば登るほど減速して、自分が如何にノロマな存在なのかという事を分からされる。

 瞬発的なスピードを長く持続させるためのトレーニングなので坂路ほどうってつけのトレーニングはないとはいえ、精神も肉体も擦り減るこの練習は人間の頃から苦手なのだ。

 

 

 明日は間違いなく、ケツが筋肉痛になるだろう、そんなことを思っていると膝に手を当てて休もうとしている僕に人影が現れる。

 

 

「ブラックサンダーさん、まだ5セットある内の一本目が終了したばかりですが」

 

 

 息を整えるのに必死の僕は目の前に立つ僕とは真逆に息を一つも乱していないウマ娘の少女に苦笑いを浮かべつつ視線を送る。

 

 

「そ、そうだけど……セット間で5分のインターバル挟む筈だよな……?」

 

「ええ、そうですが」

 

「な、なら呼吸を全力で整えるから、休むから、時間になったら教えてくれない?」

 

「了解です。では、インターバルのカウントダウンを開始します……4分48、4分47、4分46、4分45――」

 

「わざわざ刻むな!口にするな!目の前でセット間のカウントとられると休んだ気がしなくなるんだよ!」

 

「ご迷惑でしたでしょうか。同じチームでは坂路を走るとき、こうやってメンバーの前でカウントしてあげると皆が次セットを意識して休むようになるため

肉体的にも精神的にも鍛えられるからとマスターから続けて行こうと言われているのですが」

 

「お前のマスター性格悪すぎだろ」

 

「否定。マスターの提案により、これを坂路走に取り入れた結果、メンバー全員の今季のタイムはベストを更新しています」

 

 

 お前んとこのチームメンバーもメンタル強すぎだろ。

 

 

 

 脳内で激しいツッコミを入れながらも、疲弊で動けない僕を他所に目の前の栗毛のウマ娘は軽い足取りでスタート地点へと戻っていく。

 

 

「私は先に行きます。休むのは必要ですが、それは脚部に溜まっている乳酸物質を高率良く分解する為に歩きながら行った方が良いかと……では」

 

 

 そう言い残して――――ミホノブルボンは坂を下りて行った。

 彼女もまた、日本ダービーを制覇したダービーウマ娘。

 

 

 今回の坂路走で僕の特訓に協力してくるウマ娘だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




その内トレーナー視点の毎日王冠とグラスちゃん視点の毎日王冠をあげるつもりです。このお話でざっくり話しましたが、二人はこのレースを機にトレーナーとグラスちゃんは互いに成長しました。


この作品のブルボンさんはライスに負けた菊花賞後の怪我から奇跡の復活を果たして昨年の有馬記念を制覇したヤベー奴です。テイオー達の有馬とは時期がズレてます。というか、この作品は基本的に実際のレース結果の歴史改竄は行わない予定なのであしからず。


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30.サカヲカケル

年末最後の投稿なるか。


 春の温かさを未だに感じさせる街中、人々のウマ娘のレースに対する関心は高い方である。

 クラッシック級のG1レースである皐月賞、日本ダービーと重賞レースが連続して行われるからだ。

 

 

「皐月賞も終わって今度は日本ダービーだな!お前、次誰が来ると思う!?」

 

「熱いのはフリーナイトジェルでしょう!ホープフルSで5番人気ながらも1着とって、皐月賞は3番だ。

 2000mから上の距離も走れそうだし、この娘で決まりでしょ!」

 

「俺はメルティロイアルが今度こそ来ると思うね。スプリングステークスと皐月賞で見せた最後方からの直線一気!

 ハナ差で2着だったけど、距離も足りてる2400mの日本ダービーなら敵なしだぜ!」

 

「ブラックサンダーも忘れちゃならねぇ。序盤から最後まで先頭を駆け、圧倒的なスピードで他のウマ娘を突き放すレース展開は俺の胸を痺れさせる……まさに、稲妻……」

 

「でもブラックサンダーってマイル戦でしか勝ててないだろ?この前の皐月賞も最後のゴール手前で完全に垂れてたし……」

 

「アサルトリリィのような美しいおみ足を持つブラックサンダーちゃんも、今回のダービーは厳しいな……」

 

 

 予想は、あくまで予想だ。

 確定的な情報が出歩いていないだけで、この娘は無理だとか、この娘が来るだろう、とかという噂が独り歩きしている。

 劇的な勝利を皐月賞で納めたブラックサンダーだったが、そのレース内容において長年トゥインクルシリーズを見てきた者達から評価は次回の日本ダービーでは戦えないだろうという見解だった。

 

 

 勿論、一部の熱狂的なファンは彼女がダービーウマ娘になることを信じてやまない者達もいる。

 それは、アイドルが決してウンコなんてしないような都市伝説レベルの妄執みたいなものなのだが。

 

 

「ブラックサンダーちゃんがウンコなんてするわけないだろ!いい加減にしろ!」

 

「誰に向かって喋ってんだ田中ァ、契約取ってくるまで会社戻ってくんなって言ったよなァ」

 

「係長、僭越ではありますが推しウマ娘の綺麗な部分だけではなく、美しくない部分も愛する彼こそファンとしての鏡かと」

 

 

 とあるオフィスで、SNSの内容を見た会社員たちの社内風景。

 

「社長!今度の日本ダービーでブラックサンダーちゃんが勝ったら全店舗で大特価祭りしましょうよ!」

 

「そうですよ!せっかくウチの商品に同じ名前のチョコ菓子があるんですから!」

 

「トレセン学園と交渉して、CMのオファーも入れれば儲ける事間違いないですって!」

 

「なんだこれは……まるで日本シリーズみたいな盛り上がりだ…たまげたなァ」

 

 

 とある製菓メーカーですら話題に事欠かない。

 あらゆる企業ですらトゥインクルシリーズの波に乗っかろうとする。

 これがダービー。全てのウマ娘が一生に一度しか走る事の叶わない選ばれた者だけが走る事が出来るレース。

 

 

 今年のダービーウマ娘の座は一体誰の物になるのか。

 

 

 

 

 

 

 

「坂を駆けるって、ユメヲカケルって曲となんか似てるよな。サカヲカケルって」

 

「そうですね」

 

 

 都内のどこか。

 太陽の光を吸収したことによって灼熱の路化した道路の上に立つ僕こと、山々田山能……もとい、ブラックサンダーとその隣に佇むウマ娘、ミホノブルボンは静かにそれだけを返答して前へと視線を戻す。

 

「では、坂路2セット目……スタートします」

 

「え、マジ?」

 

 1セット目で既に肩で息をしていた僕はスタート地点でしょうもない会話で休憩時間を引き延ばそうと画策していたのだがミホノブルボンは聞く耳を持たず、スタートを切った。

 

 

 さぁ、地獄の坂路走の始まりだ。

 練習内容は簡単、スタミナを鍛えるために日本ダービーまでの時間は坂をひたすら走る。

 

 そして練習相手として、坂路の申し子と言われるミホノブルボンと併走するというもの。

 ミスターXはミホノブルボンのトレーナーとは既に話を付けているらしい。

 

 

 クラシック時代に2冠ウマ娘のミホノブルボンを併走相手としてレンタルするとかどんな人脈持ってんだあの男。

 

 

 そんな事を考えながら、練習前にミスターXに言われていたこの坂路走における()()()()()()()()を思い出す。

 

 

 『一度でもいい。この期間中、ミホノブルボンを坂路コースが終わるまでに一度は追い抜いて見せろ』

 

 

 無理難題もいい所である。

 こちとらスタミナに不安のある身体が仕上がっていないクラシックウマ娘、かたや彼女ミホノブルボンは皐月、日本ダービーを余裕勝ちしたシニアのウマ娘。

 

 

 技量も、力量も圧倒的に彼女が上だ。

 それを相手に一度でもハナを取れというのだから。

 

 逆に、それくらいの成長が見られないのであれば日本ダービーで、その先の距離を走る事は出来ないということだろう。

 

 

 なら、やってやる。

 やってみせるよマフティ。

 この期間で、僕は必ずミホノブルボンを追い越して見せる。

 

 

「うおおおおっ!」

 

「――――」

 

 ジャリ、というシューズが地面のアスファルトを強く擦りながら蹴り出す。

 坂ダッシュの基本、脚を後ろに流さないように最も力が発揮できる角度で『押し出す』。

 

 一歩一歩を確実に、地面に力を伝えて前への推進力を生み出していく。

 スピードを数歩で上げて、僕はミホノブルボンの背後へと迫った。

 

 

 

「いい脚だ」

 

 

 僕は背後からミホノブルボンの身体を凝視していた。

 見てほしい、この美しさと頑強さを併せ持ったトモを。

 

 

 かつて坂路の申し子と呼ばれたウマ娘、ミホノブルボンは当時スパルタなハードトレーニングを問題なくこなす事で有名であった。

 他のウマ娘が一本でくたばるような坂路走を追加で3本走る事があっても意に介さなかったという。

 

 限界を超えるほどのトレーニングによって完成された肉体はまさに鋼。

 その鋼の肉体が生み出す抜群のスタミナが彼女の長距離には向かないという前評判を覆した。

 

 

 故に、僕とミホノブルボンは少しばかり似ているのかもしれない。

 

 

 

 僕はこれから距離適性の壁を見定める。

 マイルが限界なのか、そうでないのか。

 

 

 ミホノブルボンは努力でその壁を打ち破った。

 距離適性の壁を打ち破った先輩として彼女とトレーニングをする価値は十分にある。

 まさに、この期間が僕の分岐点と言う訳だ。

 

 

「もっとキミの脚を近くで見たいな」

 

 純粋にスプリンターとして、他人の肉体には僕は興味があるのだ。

 どのような過程を経て、そこまでのフィジカルを獲得したのか。

 それは僕にも真似して至れる領域なのか、参考にしたいのだ。

 

 

 陸上競技選手としての見解だが、僕らのようなスポーツをする人間は自分自身と向き合わずにはいられない。

 

 肉体的に。

 精神的に。

 

 

 肉体は筋力、身長、柔軟性、体重を含めた全て。

 精神は自分自身の弱さ、時には過去とも向き合う。

 

 

 どちらが欠けていてもいけない、重要な要素。

 精神と肉体の両立、それが競技におけるベストパフォーマンスを生み出すのだ。

 

 

 だから鋼の如き肉体、機械のように正確なラップで走るサイボーグ・ミホノブルボンの肉体に僕は興味深々なのだよ。

 

 断じて卑しい気持ちをなど持っていないのだ。

 

 

 そう思い、ミホノブルボンとの差を詰めようとした瞬間、

 

「――――加速します」

 

「なにィ!?」

 

 

 ミホノブルボンが、加速した。

 僕より少ない歩数、たった一歩の踏み込みで、地面を押した彼女はそれだけで僕との距離を1バ身の差をつける。

 

 

 そしてその加速は、たったの一歩では終わらない、止まらない。

 まるでそこからが本気のような、坂路二本目という状態などなんのそのといった感じ、予定調和の加速。

 まるで自身がそうあるべきだとプログラムされているかのような機械的な動きに、僕は寒気を感じた。

 

 

「また、また離されて――――」

 

 背中が遠くなる光景が、先日見た悪夢を彷彿させる。

 永遠に届かないバ群。

 僕だけが取り残されていく、無力さを叩きつけられて、敗北する瞬間。

 

 

 同じシチュエーションに心が折れかけて、

 

 

「―――たまるか、よッッ」

 

 

 寸での所で持ち直す。

 歯を食いしばって、現実を見て、距離が詰まらないと尚知っても、必死に食らいつく。

 

 

 もう、自分自身から逃げないと決めた。

 負けるのを恐れるのを辞めると決めた。

 現実に打ちのめされても折れないと決めた。

 

 

 心が折れそうになってからが、真のトレーニングだ。

 肉体だけじゃない、精神も鍛えられる絶好のタイミングなのだ。

 

 

 立ち向かえ、そして進め。

 それが例え、どんなに辛い道のりであっても。

 

 

「―――再加速します」

 

 

 それでもミホノブルボンとの距離は変わらなかった。

 変わるどころか、また離されるだけだった。

 

 

 次第に坂路の疲れからスピードが落ちる僕と違い、ミホノブルボンは最後までそのペースを維持することが出来る。

 技量の差もあると思った。

 経験の差もあると思った。

 身体の差もあると思った。

 

 しかし、これほどの差があるのか、と思わされるほど。

 

 

 

 結局、2本目と3本目と坂路走を行ったが僕が見たのはミホノブルボンの背中しか見ていない。

 セット間を置くたびに、脚がどんどんと重くなっていき、肉体の疲労はピークを迎えつつある状態になり、

 

 

「――――――はぁ…っ…はぁ…!」

 

 

 4本目を終えた所で膝がかくん、と落ちて身体が地面に転がった。

 そして臀部付近に激痛が走る。

 

「うおおおおおおっ!?け、ケツが痛い痛い!」

 

「……どうやら疲労値が上限に達したようですね」

 

 

 先にゴールしていたミホノブルボンがすかさず僕の元へと駆け寄ってくる。

 あれだけ走ったというのに、漸く彼女も4本目で肩が上下に動くくらいに消耗したようだが、まだ走れそうだ。元気すぎんだろ。

 

 

 ちなみに、僕の今のこの状態。

 陸上競技を行っていた者なら馴染み深い「ケツワレ」という現象だ。

 走り続ける事で肉体に溜まった疲労物質である乳酸が痛みとなって表れているだけである。

 

 しかし、このケツワレ現象、肉離れとか骨折などの怪我ではないのだが大の大人でも蹲るくらいに激痛が走る。

 マジで。ほんとにマジで。

 どれくらいの痛みかといえば、真面目にケツが4つに割れてんじゃないかってくらいの痛み。

 

 

 一度起きれば、本当に治まるまでじっとしているしかないが、そこまで肉体を追い込めたのだと僕は少なくともこのトレーニングに感謝をしなければならない。

 

 

「どうしますか、ラスト一本が残っていますが」

 

 

 ミホノブルボンがそう問う。

 無機質な表情の彼女が、今だけは少しだけ心配しがちな顔をしている事に僕は気付いたが、その余地を考察するよりも、練習を継続するかしないかの問いには即座に応えて見せた。

 

 

「走るに決まってるさ、このまま」

 

「あなたはこれからダービーを走る身です。生涯に一度しか出られない栄誉あるレースをオーバーワークによる負傷で欠場という結果になってしまっては元も子もないのでは」

 

 

 それは、過去にハードトレーニングを行って、菊花賞後の調整で怪我をしてしまったミホノブルボンからの当然と言えば当然の静止なのだろう。

 ケツワレは怪我ではないが、それほどに身体を追い込んでいて、消耗している状態である。そこから過剰に肉体に負荷をかければ故障に繋がる事もおかしい話ではない。

 

 

 だからこそ、僕は言うのだ。

 

「一生に一度……だからこそ、走るんだよミホノブルボン」

 

 




有馬記念、ワクワクしながら見ました。
始まる前のCMでなんかぞわぞわしてて、レース始まったらうっひょー!って叫んでました。ラスト直線、馬群が密集してわちゃわちゃしてやがるってハラハラしながらエフフォーリアが抜け出してくるのを見て、ゴールして、「うおおおっ!」とまた叫んでました。

ウマ娘のお陰でリアル競馬に興味を持つことが出来ました。
競走馬たちにも実際に会いたいと思えるようになりました。
職場の競馬好きの後輩と飲みの席で話し合えるようになりました。


ウマ娘のお陰で充実した1年になったと思います。
来年もよろしくねウマ娘。これからもよろしくウマ娘。
未完作品増やしちゃってほんと申し訳ありません待っている皆さん。
それでは良いお年をです。


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31.稲妻、特訓中

年末の投稿が終わりだなんていつ言ったんだい!?
はやく仕事納めしてぇよぉ!終われば好きなだけ小説書けるのにぃ!


「一生に一度だからこそ……?」

 

 

 ミホノブルボンは先の彼女の、ブラックサンダーの言葉を聞いた。 

 

 足を崩したブラックサンダーは息を吸っては吐いて、呼吸を整えてはその理由を語り始める。

 

 

「僕は日本一を懸けて戦うレースって言うのに憧れてた。

 西と東、北と南の強者と鎬を削るような戦いをしたいって、ずっと思ってた訳さ」

 

 

 まるで、その機会にこれまで恵まれなかったかのように。

 その資格すら与えられなかった凡才の言う戯言のように。

 

 

 ブラックサンダーは、自分よりクラスは下のクラシック勢だがその実力が抜きんでているウマ娘であることは今年のレース結果を見れば明らかだ。

 

 朝日杯、皐月賞というG1を勝利した彼女はまさしく今季の注目されるウマ娘である。

 実力は百も承知、自らを蔑む理由がミホノブルボンは理解できなかった。

 

 

「ブラックサンダー、あなたの発言に些か疑問を抱くのですが」

 

「あ、いや……深い意味はないよ。ただ単に、憧れの舞台で全力勝負したいっていうのが伝わればいいんだ」

 

 少しはぐらかされたような気がして、だけど、やはりと言うべきか、日本一の舞台で戦う事に秘めた思いを持っているようなのは確かだ。

 

 

「周囲は僕は2400mは走り切れないと思っている……皐月で勝てたのはあくまで虚を突かれたまぐれ勝ち。

 ダービーウマ娘になるのは別の娘だという噂は僕も耳にしているさ。お前もそうだろう、ミホノブルボン」

 

 

 彼女の脚質はどちらかと言えばマイル。

 これまでのレースにおける逃げ戦法で中距離を征くに、十分なスタミナが備わっていない。

 皐月賞は彼女の言うように、大外捲くりで流れたウマ娘達の虚を突いたブラックサンダーの作戦勝ちだが、終盤の1950mで、脚は完全に止まっていた。

 普段通りのバ場状態であったのなら、彼女の着順はきっと入着できたかも怪しい。

 

 

 それほどまでに絶望的なのだ。ブラックサンダーの、日本ダービー挑戦は。

 自分とこうして坂路トレーニングをしても、勝利できるイメージが湧いてこないほどに。

 

 

「だけど、僕は走るよ。このダービーを」

 

 軽快に、ブラックサンダーは言う。

 

「やっと、踏ん切りがつきそうなんだ。

 ずっと仕舞い込んできた……。

 叶わないと思っていた願いを。

 僕の中で燻ぶらせてきた想いを。

 全部をぶつけて燃え尽きてしまってもいい。

 走る例え世界が違ったとしても、それをやり遂げて、僕は漸く前に進める気がするんだ。

 そのための努力を、止めたくない。

 ダービーが終わって、〝ああしておけば〟とか〝こうしておけば〟なんて思わないように……後悔だけはしたくないんだ。

 

 だから、距離がどうとか。

 僕の勝利が周りから期待されていなかろうが僕は走る……勿論、出場するからには勝ちを狙う訳だけど」

 

 

 確たる〝自信〟ではない、これは〝信念〟だ、とミホノブルボンは思う。

 『サイボーグ』、『機械的』と言われていた頃の自分とはレースに向けている熱が違う。

 

 

 自分がクラシックの時は、冷静にマスターであるトレーナーの定められたトレーニングを行い、結果を出せれば良かった。

 予測の範疇を越えるような感情に支配されず、むしろ不要とさえ考えていたほどである……菊花賞で()()()に負けるまでは。

 

 

 

 揺るがない芯があり、それがある限り彼女は決して走る事を止めない

 まるで、あの娘のようだ。ド根性というか。そんな、目に見えない部分で肉体に作用する得体の知れないエネルギー。

 

 

「羨ましく思います……ブラックサンダー」

 

「ん?なんで?」

 

 

 痛む臀部を摩りながら、苦悶の表情を浮かべるブラックサンダーに気付けばミホノブルボンはそう言葉を漏らしていた。

 

 

「私がクラシックの頃、そういったレースに対する〝情熱〟を抱いてはいませんでしたから」

 

 

 自分は、いつも誰かに教えてもらってばかりだ。

 マスターであるトレーナーに。

 菊花賞で自分を負かしたあの娘に。

 そして、今は後輩であるブラックサンダーにもあの頃に抱けなかった情熱がどれだけ尊いものかを教えてもらった。

 

 

「あなたが私と同じ時期にクラシックを走っていたら……もっとレースに対する見方が変わるのが早くなっていたかもしれません」

 

「昔に拘らなくても、5月以降になれば走る機会もあるだろうさ」

 

「そうですね。では、ラスト一本走る……そう判断してメニューを継続しても?」

 

「当たり前だ。今度こそ、その背中追い抜いてやる。僕がブルボンを追い抜いたら、ブルボンのその脚を触らせてもらってもいいか?今度のトレーニングの教材にしたいんだ」

 

「マスターには〝ブラックサンダーのあらゆる提案は拒否しよう〟と言われているので」

 

「対策されてる!?」

 

「ちなみにその際はグラスワンダーさんに報告するように言われていますので」

 

「やめろォ!」

 

 

 ケツワレの状態の身体へ鞭を打つように、ブラックサンダーとミホノブルボンは坂路を走り出した。

 流石に体力も限界だったからか、最後の一本を終える頃にはブラックサンダーは生まれたての小鹿のように足を震わせていた。

 

 

 

 勿論、まだまだダービーまで日数はある。

 ミホノブルボンとブラックサンダーは坂を走り続けた。

 

 

「おおおおおお!!!」

 

 

 晴れの日も。

 雨の日も。

 土日や、ミホノブルボンがレースで休みの日でもブラックサンダーは一人で坂路を走っていたという。

 

 

「ルナ……!ルナァアアアアアアアア!!!」

 

 

 時折、どこかの小説家のように坂を走りながら叫んでいて周りからの視線が痛かったが、着実にブラックサンダーの坂路走は成果を出しつつあった。

 

 

 

 そして――――、

 

 

「ラスイチィィィイ!」

 

「――――っ!!」

 

 

 ブラックサンダーの身体がミホノブルボンとの距離を僅か鼻差の距離へと詰める。

 確かに、ミホノブルボンの視界にブラックサンダーの青鹿毛が映ったのだ。

 

 

 ここ数日で彼女の能力の向上ぶりは目を見張るものがある。

 連日坂路練習で体力を使っている状態、そしてセットメニューのラストでシニアのウマ娘相手に猛追するなど並大抵の実力では成し得ない事だ。

 

 

 

「――――」

 

 背後からの猛追、そういった場面をミホノブルボンは過去のレースで何度も遭遇している。

 しかし、レースで無い練習の場面でこれほどの緊張感を味わったことは無い。

 

 

 あの娘以来だ。

 彼女と同じ、青鹿毛のウマ娘とレースに出て、負けてしまった時と同じくらいのプレッシャーだ。

 そのプレッシャーに懐かしさを感じながら、ミホノブルボンは持てる力を絞って最後の加速をする。

 

 

「はぁ――――ッ!」

 

 これは意地だ。

 シニア勢としての。

 実力のあるクラッシックの後輩と言えど、ここで簡単にハナを譲るのはかつての二冠ウマ娘の名が廃るというものだ。

 

 

「はぁ…っ、はぁ…くっそぉ!駄目だったかぁ!」

 

 

 ミホノブルボンは、決してブラックサンダーを抜かせなかった。

 この坂路練習の最終日までブラックサンダーにハナを取らせなかった。

 

 

「ふぅ……ふぅ…」

 

 

 5本のセットメニューを終えたミホノブルボンは初めて大きく呼吸をして息を整えた。

 ブラックサンダーの猛追に初めてペースを乱された。

 後ろから迫ってきた彼女にハナを取られまいと、予定にない加速を余儀なくされたのだ。

 

 

 恐ろしいものだと、ミホノブルボンは思う。

 

 

 この短期間で、ブラックサンダーはスタミナを飛躍的に伸ばす事に成功している。

 最後まで妥協することなく、ミホノブルボンのペースに付いていった事で相乗効果が生まれたのだろう。

 

 恐らく、ブラックサンダーはまだ伸び盛りなのだ。

 ウマ娘で言うところの『本格化』を迎えていない。

 メイショウドトウのように、能力を覚醒する前にデビューを迎えたタイプだ。

 『本格化』はウマ娘で個人差があり、季節や時期で大きく異なるのだ。

 

 

 彼女が『本格化』を迎えた時、肉体が完成されたブラックサンダーの実力は如何なるものなのか、それを考えたミホノブルボンは思わず息を呑む。

 

 

 今年のトゥインクルシリーズは非常に荒れるかもしれない、と。

 

 

 そして5月。

 遂に、ブラックサンダーは日本ダービーの日を迎えた。

 

 

 

 




以前にも書いていた通り、(いつ書いたよ)日本ダービー編はそこまで長くなりませんので。テンポよく書き進めれたらと思います。


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32.PM15:00

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
セイウンスカイに水族館プロジェクトというゲームをプレイさせて「釣りなんかイヤァ!!」と曇らせてあげたいバロックスです。



 トレセン学園のトレーニングルームはどれも高額な器材が並んでいる。

 ルームランナーだけでも部屋一室をまるごと使用して20台以上は置かれているし、ウェイトリフティングエリアは12か所、その他器材を含めて二階までがトレセン学園のトレーニングルームである。

 

 

 これだけ規模の大きなジムなのも、全国各地から有能なウマ娘達が日々集まってきている事に他ならない。

 人々のトゥインクルシリーズに対する興味と、その舞台で活躍を願うウマ娘達の為に学園側も設備に対する投資は惜しまないのだろう。

 

 今日は日曜日で、多くがレースに出走したり、身体を休ませたりと極力トレーニングはしないような日の為ジムの中にウマ娘の姿は少ない。

 

 

 そのがらんとしたジムの、ウェイトリフティングエリアで一人のウマ娘が鏡の前に佇んでいた。ミホノブルボンである。

 

「……脈拍正常、異常なし……これよりバーベルスクワットを開始します」

 

 バーベルの両端に取り付けられた尋常ではない数のプレート。

 25Kgのプレートが四枚で100Kg、10Kgのプレートが2枚、このバーベルだけでも20Kgあるので合わせれば140Kgの重量にてスクワットを行う。

 

 

「――――フッ」

 

 

 若干左右のプレートの重さでしなりかけているバーベル中央に首を傷めないようにサポートを巻いてから、姿勢を低くした状態で肩に担ぐと小さく息を吐いて立ち上がる。

 

「1、2、3……」

 

 

 直立から腰を引いて、徐々に姿勢を低くしていく。

 ミホノブルボンは140Kgという重さを感じながらも、目の前に映し出されるリフェクスミラーで正面を確認しながらスクワットを行う。

 

 

 スクワットは、ただ重りを担いでしゃがんだり立ち上がったりを繰り返すトレーニングではない。

 ウェイトトレーニングにはそれぞれ正しい動作があり、それを意識したかしていないかでトレーニング効果は大きく異なるのだ。

 

 腰を突き出し、視線は下げずに正面を向き、膝を前に出さない。

 身体を真下へ沈ませていくようなやり方だ。

 

 この動作を行う事でトモ部分に負荷を掛ける事が出来る。

 膝を前に出すように行えば大腿四頭筋を鍛える事が出来る。

 目的に沿った方法でトレーニングを行うのもウェイトリフティングの難しい所だ。

 

 

「膝の角度、90度をキープ。トモ部分への負荷を確認。

 姿勢修正、誤差の範囲内、修正必要なし……メニューを継続」

 

 自分のトレーニング動作に問題はないかを確認し、ミホノブルボンはスクワットを続けていく。

 先ほどよりも速く、しかし、正確な動作で。体幹を一度も崩すことなくペースを維持し、セット数をこなしていく。

 

 

 

「ブルボン、調子はどうだ」

 

 

 肩で息をしながらセットのラストを終えた瞬間、後ろに立っていた瘦せ型の男性に声を掛けられる。

 彼は左胸にトレセン学園のトレーナーバッジを身に付けていて、ミホノブルボンの関係者……つまりはトレーナーだ。

 

 

「マスター。3分12秒前からこちらに居たのは分かっていました。何故黙ったまま見ていたのですか?」

 

「なんだブルボン、気付いてたのか。セットメニューに集中してたから終わるまで待ってればいいかなってね……今日はもう終わり?」

 

 ミホノブルボンのトレーナーはスポーツドリンクのボトルと大量の汗を流しているミホノブルボンにタオルを手渡す。

 トレーナーである以上、例えオフの日に練習をしていても担当ウマ娘の管理は徹底しておかなければならない。

 休みの日に無理なトレーニングをして故障してしまわないようにだ。

 

「バーベルスクワット140Kg×7セットが終わったところです。本日は運動負荷をあまり掛けない調整を行っていたので」

 

「それほんとに調整してんのかな……」

 

「はい。あとはこのままストレッチをして終了する予定でしたが」

 

 汗をスポーツタオルで拭うと白い生地からは花のような柔軟剤の香りだ。

 ミホノブルボンが気に入っているタイプの香りだった。トレーナーが洗ってくれたのだろうか。

 

「そっか……なら俺にも手伝わせてくれ」

 

「マスター自ら……?構いませんが」

 

 

 簡単な整理体操を行ってからストレッチルームの床にシートを敷くとそこにミホノブルボンを座らせるとストレッチする。

 トレーナーはミホノブルボンの後ろに立ち、背中を押したりする柔軟の補助を行う係だ。

 

 

「ここ最近はデスク作業ばっかで現場に来れなかったからな、他の娘のプランも考えないといけなくてブルボンの事見てやれてなかったから」

 

「そんな事はありません。チームメンバーが増えたことでマスターのタスクが増えているのは仕方のない事です。

 限られた時間の中でそれぞれのメンバーのレースプランやメニューをマスターが作らなくてはならないのですから。

 私は今やこのチームでは一番在籍が長いウマ娘です。三年間のトゥインクルシリーズを走る過程でマスターが付き添わなくても自分の事は自分で出来るようにはなったつもりです」

 

 

「でもこの前、試合前に駅の改札エラー起こして遅刻しかけてたような……」

 

「頻度は少なくなったハズ……です」

 

 スマホ、ゲームセンター、エレベーター、とにかく機器を対象にしてエラーを起こしてしまうのがミホノブルボンだ。 

 その肉体から電磁波でも出しているのだろうか、三年経った今でもそのメカニズムは解明されていない。

 

「昔、父が見ていた怪獣映画では、電磁波に釣られて大群の怪獣が現れて街を破壊していました。

 この問題を解決しなければ、私が原因で日本の……いえ、世界の危機の可能性が」

 

「ブルボンのお父さん、ガメラ2の観過ぎだよ。大丈夫、レギオンなんて生物この世界にはいないから」

 

 雷が鳴るとへそが取られるという迷信を信じていたり、今のやり取りといい、ミホノブルボンの天然さは三年経っても健在だ。

 三年、という月日は人を変えるには十分すぎる時間だ。

 ましてや中等部、高等部のウマ娘達は皆が10代の少女たちで、多感なお年頃のような時期の者達が多い。(一部例外は存在するが)

 

 精神的に未成熟な者達である彼女は常に勝利を目指してレースに挑む。

 その過程で勝利と敗北の狭間でメンタルが安定することは稀なのだ。

 ミホノブルボンのトレーナーは機械的に、冷静に言葉を発していて、とても落ち着いた様子だとは思うが、その内心はかなりの影響が出ている。

 尻尾や耳の動きを注視していてもそれは分かるが、何より彼女の場合は……ミホノブルボンの場合は顔に出やすいのだ。

 

 

 菊花賞でライスシャワーに3冠を阻まれたときはまさにそうだった。

 

 

 

「脚を見せてくれ、ブルボン」

 

 一通りのストレッチを終えて、トレーナーはミホノブルボンに言われ抵抗することなく右足を差し出す。

 その右足は過去に菊花賞を終えてジャパンカップへの調整中に怪我をした足である。

 無敗の三冠の夢も阻まれ、故障というその年を最悪の状態で終えたブルボンにとっては泣きっ面に蜂を思い出させる怪我。

 

 もっとも、ミホノブルボン本人は悔しい想いをしたものの、それがきっかけで奮起し、走る意欲を更に増幅させて見事なプラス思考を働かせていた。

 真にメンタル的にダメージがあったのはウマ娘ではなく、トレーナーの方であったのだが。

 

 

 割れ物を扱うかのようにトレーナーの両手はミホノブルボンの脚に優しく触れていく。

 膝周り、その裏から脹脛に掛けて鍛え抜かれた曲線に沿っては痛みを感じない程度に時々揉んで、筋硬度を確かめる。

 

「ん……」

 

「痛いか?すまん」

 

「いいえ、問題ありません」

 

 

 身体を身じろぎ、小さく声を漏らしたミホノブルボンに、思わず痛い想いをさせてしまっただろうかとトレーナーは不安になったが、そうはならなかったようだ。

 先週の試合から明けて暫くレストを挟むように言ってはいたが触診した感じはまだ疲労が残っている様子である。

 しっかり休息を取れば大事にならない程度のものではあるが。

 

 

 ミホノブルボンのトレーナーは触れただけでそのウマ娘の疲労の蓄積具合が分かる。

 これはトレーナーとしてミホノブルボンと三年間のトゥインクルシリーズで培った能力である。

 

「ブルボン、筋疲労がまだ抜けきっていない。恐らくは試合疲れだけではこうはならない……ブラックサンダーとの坂路走以外にも一人で追加メニューをやっていたな」

 

「……申し訳ありません、マスター。たしかに、ブラックサンダーとの坂路走後に自らに追加で5本の坂路走を課しました。

 しかし、自身のスタミナと疲労度を計算した上での追加メニューです。問題は無いと自己判断しました」

 

「……怪我だけは駄目だ、怪我だけは―――」

 

 無敗の三冠ウマ娘を逃した当時、ミホノブルボンのトレーナーは酷く落ち込んだ。

 その敗北をバネにしたミホノブルボンの姿にまた心を打たれて、次の試合に向けて進みだした。

 だが結果的に故障して、そのシーズンを棒に振った。

 

 

 同僚、先輩、理事長から「気に病むことは無い」と気遣われたが、トレーナーである彼はそうはいかなかった。

 彼女の父にも、頭を下げた。

 幼少の頃からミホノブルボンは三冠ウマ娘になる事を夢に、走って来た。

 周囲が短距離路線で展開を促す中、一時期お世話になっていたベテラントレーナーに自ら中・長距離路線の出走を打診するほどに。

 

 

 その懸命な想いを応援したいと思ったから、トレーナーはミホノブルボンの担当を申し出た。

 

 

 彼女の夢の為に、メニューを作った。

 ハードなトレーニングだったが、ミホノブルボンは夢を目指して文句を言わず、その努力を続けていた。

 だが、3冠を取れず、怪我をした今となっては、ミホノブルボンの夢を自分が潰してしまったのではないかと思ってしまう。

 

 

 自分が、自分がもっとしっかりしたトレーナーだったら――――、

 

 

「怪我はマスターのせいではありません」

 

 

 自責の念に駆られるトレーナーはミホノブルボンの声を聴く。

 心の声でも聞こえたか、こちらの意図に構わずミホノブルボンは言葉を続けていく。

 

 

「ハードなメニューも、距離適性の変更も、全て私が望んだこと。

 そして、私一人では決してそれは成し得なかった。

 2000m以上の距離を走る事も。

 皐月賞と日本ダービーの勝利も。

 それが出来たのはあなたが……マスターが居てくれたから」

 

 

 何故か言い直して、ミホノブルボンはトレーナーの泣きそうな顔を見て、その頬に手を添えた。

 

 

「だから、もう……そのような顔をしないでください」

 

 サイボーグと言われる彼女からは想像できないような柔らかな笑み。

 誰かを労わるような、心から気遣うような気持で溢れた笑顔。

 少しだけ、いや……だいぶ救われた気がする、とトレーナーは思った。

 

「ありがとう、ブルボン。でも暫くはメニューの量を落とそうな」

 

「了解です。マスター」

 

 三年間で、人は成長する。それはウマ娘も同じだ。

 その成長する過程で良くも悪くも、「変わっていく」。

 指導していたトレーナーとして、今のミホノブルボンは間違いなく良い方向へ変わっていた。

 教え子の大きな成長を心から喜ぶことが出来るのは親だけではなく、その育成に関わったトレーナーの特権でもあるのだろう。

 

「休息が充分に取れ次第、本来のメニューに戻します……私は勝利しなくてはいけません、()()()の為にも」

 

 

 

 

 

「今日は日本ダービーだが、どうだ?ブラックサンダーは勝てそうか?」

 

「私の推測が正しければですが――――」

 

 トレーニングジムを後にし、トレーナールームで休憩をしていたミホノブルボンにトレーナーは尋ねる。

 ミホノブルボンは坂路走で感じ取ったあの黒いウマ娘の少女の走力を計算した上で、はっきりと言うのだ。

 

 

「確かに彼女のスタミナは大きく上昇しました。皐月賞よりも、スピードもパワーもそれは間違いないでしょう」

 

 

 ですが、とミホノブルボンは続ける。

 

 

「それでも、東京2400mを走り切るにはまだスタミナ不足。

 推定2200mの距離から最高速度を維持することは困難だと思われます」

 

「つまり、ブラックサンダーは日本ダービーに勝てないと?」

 

「……」

 

 

 その無言は、肯定を意味するのだろう。

 無常にもそう訴える彼女の瞳の視線はモニター内に映し出される東京レース場のスターティングゲートへと向けられていた。

 

 

 

 

 




明日はダブル友人サポカピックアップゾ…… 石を崩す準備をしなくては。


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33.君の心は燃えているか

ブラックサンダーの朝は早い...明朝0430の出来事。


 

 朝が潮のように夜を追い出していく。

 

 

 薄暗くも、陰のある世界に光を照らし始める河川敷が少しずつ輝き始める。

 トレセン学園の外、長大に続く土手道を一人のウマ娘が走っていた。

 

 それは僕、山々田山能ことブラックサンダーである。

 さて、今日は僕のレース「日本ダービー」の当日だ。

 

 

 重要な試合の日だというのに、まだ寮の皆が眠りこけている時間帯に何故僕はこんな事をしているのだろう。

 理由は至極単純、特別な試合だからやたらと早めに目が覚めてしまったからである。

 

 

 遠足とか修学旅行前は準備だけ手早く済ませて、あとは寝るだけになっていざベッドに入って見たら興奮して眠れなくて、でも眠りには付くんだけど朝も早くて、結果的には睡眠時間が超短い状態で修学旅行へいくことになった中学校2年生の記憶が思い出される。ちなみに当時の修学旅行では2時間くらい新幹線でクラスが座席を向かい合わせてトランプなどのカードゲームに没頭する中、僕だけが爆睡をかましていたのは内緒だ。

 

 

 朝日に向かって走る。

 陽の光に含まれるメラニンと言う成分は肉体を覚醒させる作用がある。

 ランニングのペースも試合には影響しないレベルのものだ。

 試合は午後から行われるが、それまでに出来る事はやっておきたい。

 

 これは、僕が陸上競技を行っていた時から続けている一種のルーティンだ。

 

「おや……あれは」

 

 時間が時間、ということもあって人の気配を感じない世界で僕一人だけが走っているという優越感を実感しながらも道中、河川敷で一人のウマ娘がストレッチをしているのを見かけた。

 

 

「アレ?もしかしてキミ―――」

 

 

 鹿毛の髪を後ろで纏めてトレセン学園のジャージに身を包んだスポーティな少女はこちらの存在に気付いたようだ。

 小柄だが、その立ち姿にはどこかトレセン学園の生徒会長であるシンボリルドルフを想起させる。

 

 

 多分だが彼女は僕の事など知らないだろう。

 だけど、僕は彼女の事を知っている。

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だね!」

 

「違うッ」

 

 次の瞬間、僕の身体は倍化の術で肉体を変形させた秋道チョウジが肉弾大戦車をするかの如く、土手の上を転がっていた。

 秋道チョウジならば、秋道チョウザを許すなというお決まりの掲示板勢の声が聞こえてくるが、そんな事をお構いなしに僕の肉弾大戦車は真っすぐにそのウマ娘の所目指して転がっていき、

 

 

「僕を新作アニメが決定したマカロンが出てくる重火器で武装した少女のアニメと間違えるな!

 いいか!僕の名前はブラックサンダーだ!どうせなら、ブラック★サンダーの表記に変更しろトウカイテイオー!」

 

「ワケワカンナイヨー!」

 

 小柄で鹿毛の少女は甲高い声を響かせた。

 トウカイテイオー、彼女は奇跡を起こすウマ娘である。

 

 

 

 

 

 

 

「休みの日だっていうのに、朝からトレーニングか?トウカイテイオー」

 

「うん。といっても、もう殆ど終わらせちゃったけどね」

 

 

 トウカイテイオーは既にメニューを終わらせてからの整理体操を行っていた最中だったらしい。

 良く見れば、彼女の顔には汗が流れておりジャージ越しにも外気の寒暖差で湯気が見えるほどだ。

 

 

 『勇気』、『不屈』、『奇跡』。

 トウカイテイオーを僕が三つの言葉で表すとしたら、真っ先にこの言葉が出てくる。

 

 あのシンボリルドルフと同じ無敗の三冠ウマ娘になる事を夢に見ていたウマ娘、トウカイテイオー。

 無敗の三冠ウマ娘として有力な候補だったトウカイテイオーは最後のクラシック戦線、菊花賞目前に骨折が発覚し出走取消、その夢は潰えた。

 

 その後、レースに復帰して当時最強のステイヤーであるメジロマックイーンと天皇賞・春で激突。距離適性の壁を前に敗北。

 3冠も、無敗も失った彼女を次に待っていたのは一度骨折した箇所の右足の再骨折。

 一度は完治するも、復帰予定レースであった宝塚記念の調整で3回目の骨折に見舞われる。

 

 

 肉体的にも、精神的にも折れたのではないだろうかと思った。

 あの時のトウカイテイオーを見る世間の目は「もう終わった」、「復帰は絶望的」と、そんな色で染まっていたから。

 引退が囁かれて、秋の感謝祭で行われたミニライブで正式に引退するんじゃないかと噂だったくらいだ。

 

 

 ウマ娘にとって、脚の骨折は命にもかかわる怪我だから。

 度重なる骨折は癖になって、以前のような全速力で駆ける事も難しいという話を何度か聞いたことがあるから。

 

 

 だけど、トウカイテイオーは走るのを辞めなかった。

 

 

「そういえば、今日は日本ダービーだもんね。朝からこんな所で走ってるのを見るに、さては緊張しているな?ブラックサンダークン?」

 

「あんまり眠れなかった……あぁ、確かに緊張もしてるけど、それだけじゃない気もする……この試合前に早く起きちゃうのもいつもの習慣だと思ったのに、なんか心が落ち着かないんだ」

 

「ふむふむ、それは間違いなくムシャブルイだよ!」

 

「武者震い……っていうか、なんでカタカナ?」

 

 

 細かに事は気にしなくていいよ、トウカイテイオーは言う。

 

 

「マヤノ風に言わせれば、テイオー、分かっちゃったかな」

 

「ガキが、分からせるぞ」

 

「なんか急に雰囲気変わるよねブラックサンダー……多分だけど、この日本ダービーってさ、ブラックサンダーにとって大切な、ずっと待ち望んでたレースなんじゃないかな」

 

 

 トウカイテイオーの言葉は凛としていて、それでいて明確に僕の心に入り込んできた。

 

 

「ダービーは、たくさんのウマ娘の夢が走るレースだから。

 昔から思い描いていた場所で一番を競い合って、皆が熱くなる、一生に一度のレース。

 それに向けて、キミはたくさん準備してきた。

 子供の頃から、あるいは、どこかで心に決めていた。

 日本一になるって、それを目指し続けていた」

 

 

 つまり、とトウカイテイオーは続ける。

 

 

「今キミはメチャクチャ燃えてるってわけだよ」

 

 

 僕が燃えている。確かにそうだ。

 高校で、大学で一度たりとも走ることが出来なかった世代1を決める戦いにようやく飛び込むことが出来るのだから。

 例え、人からウマ娘になったとしても……それは変わらない。

 

「トウカイテイオーは、こんな風にならなかったのか?ダービーの時は」

 

「ボク?ないかなー!だってあの時ボクはボクを信じていたから!

 ダービーはボクが取るんだって!〝絶対〟にね!」

 

 フェイスレス指令みたいな事をいうな、トウカイテイオー。

 まるで自分が主人公みたいな……主人公だった。

 

 

 

 絶対に。

 その言葉には計り知れない不屈の意志が込められているのを僕は知っている。

 あっけらかんに言い放つトウカイテイオーを見て、僕は改めて彼女を凄いウマ娘だと認識する。

 

 

 絶対に自分を信じている。

 絶対に自分を諦めない。

 

 その不屈の心が一年ぶりの復帰レースとなった有馬記念での復活を成し遂げたのだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()、その意志は変わらない。

 

「ありがとう、トウカイテイオー」

 

「ムム?ボクに感謝するの?よいぞよいぞ、存分に感謝するがよい」

 

 ガキが……分からせるぞ、と内心では思いつつ、僕は彼女に感謝することが多い。

 

 

 あの有馬記念の奇跡の復活があったからこそ、絶望的な怪我から復帰したという前例があったからこそ、僕はグラスワンダーが骨折した時、に悲観的にならなかった。

 必ずグラスワンダーを復活させてやりたいと、諦める事をしなかった。

 

 

 トウカイテイオーがメジロマックイーンの為に走ったように。

 ウマ娘になっても、僕はグラスワンダーの為に走りたいと思った。

 そう言った意味で、僕は本当にトウカイテイオーに感謝しているし、彼女の事を尊敬している。

 

 

「じゃ、僕はもう行くからさ……見てなよトウカイテイオー、僕のダービーを」

 

「うん……後悔なく、全力で走っちゃえっ!」

 

「そうさせてもらうさ」

 

 

 河川敷のトウカイテイオーに別れを告げて、僕は宿舎に向かって再度走り出した。

 

 

 僕の胸からは、いつの間にか緊張とか、焦燥感というものは消えていた。

 代わりに、今は僕の中で熱いものが込み上げてくる。

 

 

 ずっと、ずっと僕の人生の中で描き続けてきた夢への旅路。

 その過程で抱いていた僕の想いは決して間違いではなかったんだと。

 情熱の炎が、絶えずに滾っている感覚がある。今日は、この心のままに従う事にしよう。

 

 

 きっとそれが、僕にとっても悔いのない選択だと思うから。

 




テイオーくんは有馬の後に骨折して戦線離脱したけどもう走れるようになってます。マックスで走れるようにトレーニング中です。


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34.あの日夢見た場所

お気に入り増えてくれて嬉しい...ウレシイ
私のアニバーサリー用に貯めていたジュエルはどうやら緑の悪魔に根こそぎ持ってかれたようです。
ちなみに全部使ってもターボしか凸れなかった!
もういいよ!ガチャ引くのやめる!!


 『日本ダービー』。

 それはクラシックレースの中でもっとも永く、歴史と伝統、そして栄誉のあるレース。

 クラシックウマ娘だけがそのレースに参加する資格を持ち、一生に一度しか出走は叶わない。

 

 

 数多のウマ娘が日本一の座を目指して、ある者は栄光を掴み、そしてある者は敗れてきた。

 勝者に送られる『ダービーウマ娘』の称号は全てのウマ娘の夢だと言っても過言ではない。

 

 そして、今日。

 東京レース場で行われる日本ダービーも、その座を賭けてウマ娘達が争う日がやって来た。

 

 

『さぁ、府中の空を覆っていた雲のベールが少しずつ薄くなっていきます。

今年もやってきました、日本ダービー!出走ウマ娘18人の中で一筋のスポットライトを浴びる事はたった一人のみです。

 誰が今年のダービーウマ娘に輝くのか解説は私、二宅正春と推しウマ娘を前にすると実況を放棄することで有名な、もうネットのおもちゃと化している芝内文屋さんでお送りします』

 

『えー、やたらと失礼な紹介をされました芝内です。どうぞ、よろしくお願いします』

 

『芝内さん、今日はダービーですが今この時のウマ娘達の気持ちというのはどういうものなんですかね?』

 

『そうですねぇ、ここでどうこう考えてもしょうがないですからねぇ……スタートの事だけ考えているんじゃないでしょうか』

 

『ほう、こういう時こそ開き直りですか』

 

『そうですねぇ、というかそういうのはここにダービーウマ娘でも呼んでから聞きなさいよ。なんでウマ娘じゃない私にウマ娘の事が分かるんですか』

 

『それもそうですがねぇ、さて。本日の東京レース場は快晴、バ場状態は良とのことですが』

 

『絶好のレース日和となりました!私のブラックサンダーちゃんも精一杯やってもらいたいものです!』

 

『おっと、今回は控えめな表現ですね芝内さん。いつもなら〝皐月賞も取ったから日本ダービーも狙えます!〟って断言しそうものですが……やはり、スタミナの問題でしょうか。

 ファンや評論家たちの間でも、1800m以上の距離は不向きであるとの評価をされていますが』

 

『これはトゥインクルシリーズ。厳しい現実もあることもあるでしょう……しかし、それすらも跳ねのけて勝利を手にしてほしいと私は願っています。

 そして私はこう見えても実況者。全てのレースに対して平等の価値観を持ち、平等の視点から解説するつもりです』

 

『嘘つけ、絶対レース始まったら解説そっちのけ推しウマ娘の応援始めるゾ』

 

 

 

 

 

 

 

「世間一般に、今回のキミのダービーの挑戦は厳しいというのが多数あるが……そこらへんはどうなんだい、ブラックサンダー」

 

「アグネスタキオン、正直なところを言うと周囲の評価なんてあまり気にはしていない。

 せめて一言あるとすれば、こんな不安要素しかないウマ娘である僕を2番人気に推してくれたことに感謝したいという事だ」

 

 レース場へと繋がる地下バ道を進みながら僕は道中で出会ったアグネスタキオンと言葉を交わす。

 既に僕は勝負服に身を包み、パドックでの紹介を終え、準備万端の状態だ。あとは、本番のレース場へと向かうだけであった。

 

 

「ミスターXと、何か話をしたか?」

 

「いや……」

 

 アグネスタキオンの問いに肩を竦めて僕は答える。

 あの得体の知れない悪役幹部の如き僕のトレーナーは日本ダービーという大レースの前、ミーティングを行ったが、その内容はミーティングというほどの内容ではなかった。

 彼から言われたのはただ二つだけ、〝坂路走で培った力を出してみろ〟と〝後悔はするな〟だった。

 

 

「?それだけなのかい?彼から言われたのは」

 

「ああ、まるでスポコンコーチが言いそうなセリフだった。見た目に似合わず、熱血なのかもな」

 

 コースの特徴や、各出走ウマ娘のデーターを資料で配られたりするくらいで、作戦と言う作戦は特に明示されていない。

 皐月賞のような特殊なコースを走るというプランも今回は何も言われなかった。

 

「まぁ、でも。これは多分手抜きとかじゃなくて、打算があるんじゃないかと思うんだ。

 アイツは多分、ダービーより先の事を考えてる……今の僕にそれを伝えても、変に落ち着かなくなるだけだから、多くを語らなかっただけだと」

 

「ますます何を考えているか分からない男だねェ」

 

 四六時中、マッドな発言してるお前に言われたくないなアグネスタキオン。

 内心でそんな事を考えながらいると、アグネスタキオンが立ち止まり、僕に対して背を向ける。

 

「何か一つ、キミから意気込みが欲しいねェ」

 

「ダービーウマ娘に僕はなる!!」

 

「ドン!!とかのテロップ付けてあげようか?」

 

 まぁ、ともあれ。と、アグネスタキオンは続けて。

 

「私としても、キミに掛ける言葉は一緒だよ。あの男と。

 付け加えるなら、私の研究の為にちゃんと無事に帰ってくることだろうね」

 

「新手のツンデレ発言にしてはレベルが高いな……というか、僕はいつからお前の検体になったんだ」

 

「最初からさ!キミは最高のモルモットだァ!!」

 

 ゲンムの社長みたいな声で高らかに言うアグネスタキオンを背にして僕は進んだ。

 バ道の出口付近、一人のウマ娘が静かにこちらを見て待っている。グラスワンダーだ。

 

「……」

 

「……」

 

 凛とした碧の瞳は皐月賞と同じように目だけで僕に意思を伝えている。

 彼女の情熱が、僕に対するエールが瞳を通して伝わってくる。

 

 視線を交えて数秒、身体がすれ違い、グラスワンダーを背にした僕はレース場に出る一歩手前で立ち止まる。

 

 

「……?」

 

 恐らく、グラスワンダーはいつまでたってもレース場に入らない僕を不思議に思っている事だろう。

 僕はそんな彼女に背を向けたまま、言葉を作り、言う。

 

 

「今日はさ、普通じゃ足りないと思うんだ……ちょっとお前の力を貸してくれ、グラス」

 

 少しだけ屈んで、黒の勝負服に包まれた背を突き出す。

 今日だけは、それを許してほしい、彼女の助力に甘える事を、どうか許してほしい。

 

 

 次の瞬間、甲高い音が地下バ道に響き渡った。

 

 

「―――ひぎっ!?」

 

 ばしっ、ではなくバシンッ!と服の上からなのに直接皮膚をぶっ叩かれたかのような鮮烈な痛み。

 グラスワンダーの張り手が僕の背を強く叩いたのだ。

 

 全力全開の、ウマ娘パワーで繰り出される強烈な張り手の痛みに情けない声を出しながら、僕はその痛みをなんとか堪えようとする。

 今の僕は、ラピュタのパズーが浮かべそうな苦悶の表情になっている事だろう。

 背を打たれて数秒、痛みの引いてきた身体の背筋を伸ばし大きく息を吐き出す。

 

 死ぬかと思った。レース前に出走取り消しになるところだった。

 

 

 でも全身に喝が入った。

 グラスワンダーは本気で打ち込んでくれた。

 こんな時でも手加減をしない彼女には感謝しかない。

 本気で叩かれて、肉体が無理やり起こされるような、そんな感覚がある。

 

 

「ありがとう、行ってくる」

 

 

 この痛みはグラスワンダーそのものだ。

 僕はこれから一人で走るわけではない。

 ファンの期待、仲間の声援を背負って走る。

 そして、グラスワンダーの想いも一緒に連れていく。

 

 

「トレーナーさん……ご武運を」

 

 力強く放たれた背後の少女の一言に僕は嬉しさを感じ、サムズアップをしながら戦いの場へと消えていく。

 

 

 見ててくれ、そして一緒に行こう。

 そして僕の駆ける姿を見て、感じてくれ。

 山々田山能という男が目指した日本一への憧れを。

 

 

 

 

 

『20万人の観客が見つめています。東京レース場、日本ダービー。

 1万人のウマ娘の中から選ばれた18人、この中から日本一の座に輝くウマ娘は一体誰なのか。 

 さぁ、これより始まるのはその18人に贈られる日本ダービーのファンファーレ!!』

 

 

 

 



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35.府中2400mの旅

日本ダービー開幕。
毎度の事ですがたくさんの評価と登録、本当に感謝してます。
今回の短距離チャンミは珍しくA決勝まで残れたのでカワイイカレンちゃんと芝のサイレンススズカと化したスマートファル子で初のプラチナ目指しま。



 府中の空に、盛大なファンファーレの音色が鳴り響く。

 何度かG1レースで聞いたことがある音だ。覚えがある。

 

 

 担当ウマ娘を送り出して、観客席からこの音楽を聴いていたトレーナーである自分にとっては聞き慣れた音だ。

 でもウマ娘の身体になって、レースに出るようになって、このファンファーレも今の僕にとっては特別なものになっていた。

 

 

 そして、この日本ダービーで聞くファンファーレは全てのレースにおいて最も特別な意味合いを持つものになる。

 世代のウマ娘にとって、一生に一度しか行われないレースだからか、その意味合いはワールドカップで選手たちが試合前に合唱する国家と同じものだと、僕は思うのだ。

 

 

 ターフの上で、出走するウマ娘達はファンファーレを聞きながらも屈伸運動をしたり、コースをじっと見ていたり、何か祈るような仕草で両の手を併せている娘も見られる。

 でも、その表情には怯えという感情は一切見られない。誰もが、自らの勝利を望んでいる。

 彼女たちと距離を近くにしただけ、その場所だけ、異様に熱を感じた。自分の勝利を、夢の成就を、信じてやまない彼女たちの情熱だ。

 

 

 ギラギラして、キラキラしているもの。

 炎のように熱くて、宝石のように美しいもの。

 ダービーに懸けるその想いは、ここにいる全てのウマ娘が一緒だった。

 

 

 

―――――『勝ちたい』。

 

 

 そんな子供でも大人でも、競技に携わるプレイヤーならば誰もが抱くであろう競争意欲が僕の肌を通して、電気のように伝わってくる。

 この異様な雰囲気を醸し出す彼女たちに、僕は覚えがある。

 ある夏、テレビの画面越しに見たインターハイの、あるいはインカレ、日本選手権、オリンピックの決勝でファイナリスト達見せるソレと同じだ。

 

 

 

――――あぁ、ここが……そうなんだ。

 

 

 世代最強。その座を賭けて、日本一を目指す至高の領域。

 日本優俊と名高い者を決めるレースの場に、この僕が存在している。

 

 

 夢見ていたけど、ずっと届かなかった世界。

 

 でもこれは夢なんかじゃない。

 厳然と僕はここにいる。

 僕の鼓動の高鳴りが、確かにそれを教えてくれる。

 

 

 陸上選手山々田山能として、ウマ娘ブラックサンダーとして。

 

 

 

 

 

 

 ゲートまでの枠入りは順調だった。

 18人のウマ娘はファンファーレが終わってからも無言で、静かにそれぞれの定められたゲートへと納まっていく。

 観客達からは〝落ち着いている〟と思うかもしれない、だけどその実、僕の両隣からひしひしと充てられている熱気は今から問答無用にスタートを決めかねない熱気で溢れている。

 獰猛な獣たちが、今か今かとスターティングゲートが開くのを待っているかのようだ。

 

 

 

 これから走る覚悟は出来てるか?僕は出来てる。

 

 

 殺気にも似たこの威圧感に、僕は飲まれない。

 むしろ、夢の舞台に立てた事に対して喜びを感じていただけではなく、この舞台だからこそ、全力で走る事に意識を向けていたからだ。

 

 悔いのないように。

 例えどんな結果が待ち受けていたとしても。

 最後まで僕自身を信じて走りぬく。

 このレースを走る為に、僕はその覚悟を決めていた。

 

 

 

『各ウマ娘、ゲートに納まりました』

 

 

 しん、と静まり返ったレース場。

 観客達が息を呑んだのも束の間――――ゲートが開いた。

 

 

 

『始まりました日本ダービー!各ウマ娘、勢いよく飛び出して!最初の直線!先行争いが始まる!

 大きな出遅れはありません!さぁ、最初は誰が行くんだ!?誰が行くんだ!?誰が行くのか!?

 さぁ、行った行った行った行った!12番ブラックサンダーが前に行った!1番のボンボヤージュを抑えて、第1コーナー手前で皐月賞ウマ娘のブラックサンダーが先頭を取りました!

 メルティロイヤル、フリーナイトジュエル、皐月賞で実力を示したウマ娘二人は今回も最後方からのレースを進めていきます!

 1コーナーからこれから2コーナーへ向かう所、やはり大方の予想通りブラックサンダーが集団を引き連れていく形!』

 

 

 レースの序盤、逃げを信条とする僕のような逃げウマ娘がハナを取ることが出来たのなら、来る時までポジションとスタミナを管理する為にペースを落とす。

 そうしなければ、とても2400mという距離を走り切る事は難しいからだ。

 

 後方から続く足音からして、1,2バ身。

 それほど離せていない。しかし、後続が無理に追い抜こうとしない辺りは彼女たちは息を継ぐタイミングを見計っているように見える。

 定石だ。普段のレース、何せ、ここにいる者達はよほどの事が無ければ2400mという距離を試合では踏むことは無い。

 ましてやダービーという大舞台ではレース展開を考えて慎重になるというもの。

 

 

 

 だけど、今回は僕の全てを出し切ると決めた試合だ。

 故に、何もかもを投げ打つ。

 命も、魂も。賭けられるもの全てを差し出すつもりで。

 

 

 

――――そして、往く。

 

 

 

 

『――!?先頭ブラックサンダー、ペースを上げた!?2コーナー手前から加速して後続を引き離していく!!

 その差2バ身から3バ身と開いて、一人旅を決め込もうとでもいうのか!?ブラックサンダー、どうした事か!?これは作戦ミスなのか!?』

 

 

 場内のどよめきが聞こえる。

 実況席も混乱しているのではないかと、そんな事を頭の中で思考する。

 

 

 思考して……消した。

 雑念を振り払い、自らの展開するレースへと入り込む。

 意識を研ぎ澄まし、頭の中を空っぽにしていく。

 

 

 不思議と、視界が狭まっていく感覚があった。

 不思議と、研ぎ澄まされていく感覚があった。

 

 

 

 周りからあらゆる音が消えていく。

 重低音の地鳴りにも似た音が、足音が遠くへかき消えていく。

 観客の声も消えて、無になっていく。

 

 

 

 ただ一つ、己の心臓の音と息遣いと芝を駆ける音だけが心地良く響いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 




試合最中で極度の集中状態でスポーツに没頭している感覚。ゾーンと呼ばれるのですが、今ブラックサンダーはそのゾーン状態になっています。ここのゾーンはウマ娘のシンデレラグレイで言っていたゾーンとはちょっと違う、能力の解放とは別の状態です。人のゾーンとウマ娘のゾーン……やはりZONEとウマ娘のコラボは必然だった……?


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36.身体は女、心は男、姿形が変わっても無くならないものを2文字で述べよ

だいぶ時間経ってしまったんですが、いつぞや日間ランキングに13位と言う順位になる事が出来ました。短編小説以外でこの順位は自分でも初の快挙で、この作品を評価してくださった読者の皆様に今ここで感謝の言葉を。ありがとうございます。


 

 レース場にいた全ての観客は思った。

 

 あの走りは無謀な作戦だ。

 そのペースで走り切るのは無理に決まっている。

 どうせ直線までは持たないだろう。

 

 

 それは客席だけでなく、レース中の何人かのウマ娘そう思っている。

 

 

 『ダービを逃げて勝つのは難しい』。

 そんな言葉をトレーナーやウマ娘達は知っているからだ。

 

 だが例外が存在するのも知っている。

 かつて、逃げの戦術を打ってこの日本ダービーを制したウマ娘がいたことを。

 

 

 それは、桃色の勝負服に身を包んだ逃げウマ娘。

 風のように走り、塵のような彼女をメジロライアンを含めた後方のウマ娘達は捉える事が出来なかった。

 

 

 このダービーを見守る全てのトレーナー達は思う。

 ブラックサンダーは、あのダービーウマ娘と同じ……アイネスフウジンと同じ戦術でダービーを制するつもりなのか、と。

 

 

「まさか……走り切れる自信があるのか……2400をあのペースで……」

 

「は、ハッタリだ!この短期間でスタミナ不足を克服できる筈がない!!」

 

「全員潰そうっていうのかよ……」

 

 

 皐月賞の時点でブラックサンダーが2000m以上の距離を苦手としているという事が割れているのだから、この日本ダービーではスタミナを意識してスローペースのレース展開に持っていくのだと想像していた。

 

 

 トレーナー達が想像通りなら、スタミナを意識して縦長の間隔にならなければ最後の直線525.9mで上がりの瞬発力勝負だ。先行のウマ娘にもチャンスが来やすい。

 だが実際のレースでブラックサンダーが選んだのはハイペースによる消耗戦だ。

 

「た、たのむぞ!相手のそのペースはブラフなんだから!無理に脚を使わされるなよ!?」

 

「今日でお前が負けたなら、オイラの生活ままならぬ!」

 

 あの殺人ペースに巻き込まれたら最後、追い込みに懸けるトップスピードを維持する体力が無くなってしまう。

 ブラックサンダーは絶対にあのペースは維持できない。だから、担当ウマ娘には前に行かずにじっと堪えていて欲しい。

 

 出走中17名のウマ娘のトレーナー達は不安を隠せなかった。

 そして、不幸な事にその不安は的中するのである。

 

 

 

 

 

 

 

 ブラックサンダーの突出したペースは他のウマ娘全てを動揺させた。

 

 

 スタミナに不安がある筈では?

 この短期間で克服した?

 2400を走れないという事がブラフ?

 皐月賞の危うげな勝利はこの時の為に?

 

 

 

『あれは、嘘ではない。ブラックサンダーは2400mを走れる!?』

 

 

 疑問は確実に焦りへと繋がっていく。

 あのペースでこれ以上進まれていったら、いかに長い直線だとしても離されたリード差で捲くり切れない。

 焦燥感は身体に作用し、自然とブラックサンダーの姿を視界に納めた他のウマ娘達は無理をしてでもペースを上げて、追撃に入った。

 

 

 800mを通過し、未だ先頭を走るブラックサンダーのペースは緩むことは無い。

 それどころか、先ほどよりも走りが伸びてきているように見える。

 

 

「この……っ!負けるかッ」

 

「ダービーウマ娘は……渡さない!」

 

 

 ギアを一段階上げる。

 自分たちにも意地がある。

 ダービーウマ娘になる為に、日本一の名を手にするために。

 

 

 自らが手にする〝夢〟を推進剤にして黒い稲妻との距離を少しずつ詰めていく。

 それが結果的に脚を使わされているとは知らずに、だ。

 

 

 

『ブラックサンダー、第3コーナーまで依然ハナは譲りません!1000mのタイムはなんと59秒台というハイペース!

 前目につけているボンボヤージュ、グッドルックス、オアシスと3バ身差!後方のフリーナイトジュエルは位置を上げて8番手!メルティロイヤルはその後ろ外目を突いて9番手! 

 縦長の展開になっています!坂を優駿達が駆けあがっていって、間もなく第4コーナーを間もなく通過する所で第4コーナー中間は変わらずブラックサンダーが突っ切っていきます!』

 

 

 

 1800mという距離を走っても、未だにペースを落とすことなくハナを進むブラックサンダー。

 第4コーナーの標識が目に入って、誰もが焦りだす時間帯。

 だが後続にいるウマ娘達の中で冷静な者達もいたのだ。スタミナと後半の追い上げに自信がある差しのウマ娘達だ。

 

 

 このウマ娘達は確証はなかったが、ブラックサンダーが後半の直線までスタミナを維持できない事を見抜いていた。

 トレーナーの指示もあったが、何よりもレースを実際に走っている自分だけの感覚と、己の脚を信じる事にしたのだ。

 

 それまで、じっと中団で我慢。

 ブラックサンダーに釣られてペースを上げた先行三名の後ろで逆転の機会を窺っていた。

 

 

 

 最後の直線、4コーナーを通過してから入る東京レース場の最長直線525mへ。

 この時、スタミナを使わされた先行のウマ娘には追い上げる為の脚が残されていなかった。

 徐々に、徐々にスピードが伸びなくなる。

 

 

「っ、く、そぉ……っ!!」

 

 

 ゴールが、青鹿毛のウマ娘の姿が遠くなる。

 糧に前に進もうとも、もう足に力が残されていない。

 もう少し脚を溜めていられたら、ブラックサンダーの作戦に乗せられなければ。

 

 ブラックサンダーの動きを追っていたウマ娘達のダービーはもう終わったと言ってもいいだろう。

 

 そして、『今だ』と言わんばかりに力尽きて行ったウマ娘達の真横を通り過ぎていくウマ娘達がいる。

 ブラックサンダーを追って潰れてしまったウマ娘達の後ろでずっと我慢していた差しのウマ娘達だ。

 

 

 垂れてきた先行勢を躱した彼女達はブラックサンダーと自分たちとの距離を見て、確信した。

 最後の直線の入りで3バ身もない差ならば、十分に捲くる事は可能だと。

 

 

 ブラックサンダー自身のスピードも伸びていないのも分かった。

 やはりこの距離で走り切る為のスタミナはなかったのだ、あの作戦こそブラフなのだ。

 

 

 後方に位置していたウマ娘達が一斉に前へと進む。

 己の豪脚を駆使して、スタミナを信じて、自慢の末脚を使って。

 

 

 逃げ続けるのも限界に近い稲妻へと迫る。

 

 

 

『残り500mを切った!栄光まで500mを切った!先頭ブラックサンダー僅かに伸びないか!?

 あぁ脚がもう残っていないのか!?フリーナイトジュエル、カノンキンブリー、デルメンタが迫り!大外からは巨体をぶん回してメルティロイヤルが追い上げる!

 やはり、やはりスタミナが足りないかブラックサンダー!後続迫ります!残り400m!3バ身からその差を2バ身!徐々に詰められていく!!』

 

『うわあああ!!!駄目!駄目だって!が、頑張れブラックサンダー!うわあああ!!』

 

 

 もう、だめかもしれない。

 実況も、それを見ていた観客達もテレビ越しに見ている学園の生徒達もそう思っただろう。

 見守るトレーナー達も、残り100mを切る前にはブラックサンダーは力尽きて、自分の担当ウマ娘が前へと抜け出してダービーを制する――――その筈だった。

 

 

 

『――――!?しかし、落ちません!落ちませんブラックサンダー!リードを2バ身と詰められますがそこから差が変わりません!最後に来て、まだ余力を残しているというのか!!』

 

 

 

 

 

 

「余力?そんなもの、あるわけがないだろう」

 

 

 観客席で見守っていたアグネスタキオンは冷ややかに笑うように言った。

 現状、ブラックサンダーが走り切れる最高速度の距離は2200m。そこからは徐々にスピードは落ちていく。

 だがブラックサンダーは異様なまでに集中力を発揮している。精神状態が一線を越えたことで突入するゾーンというやつだろう。

 

 

 このゾーン状態になれば、普段よりも好タイムが出たりスタミナが切れなかったりするが、その状態を加味しても2300mだ。

 それに加えて前半のハイペースな走り方をすれば、多分アグネスタキオンが考えている以上に早く限界は来ている筈。

 それでも、後続との距離を詰めさせない走りが出来ている理由は――――、

 

 

『意地、という奴なのだろうな。彼なりの』

 

「……見つかってしまったか。ゴール付近で待機していなくていいのかねミスターX」

 

『それはグラスワンダー君に任せているよ』

 

「そうかい……だけど、君がそんな根性論を口にするのは少し、意外だったよ。もっと理論派だと思っていたからね」

 

『精神は時に肉体を凌駕する……実際のスポーツでも良くあることだ。

 ここぞという時の勝負でモノを言うのは才能ではなく、それまで積み重ねてきた努力をいかに信じられるかだ。

 そして、勝利を追い求める欲求が強いウマ娘である前に彼女は、元々は陸上選手のスプリンター……そして、男の子だ』

 

 

 黒のマントを揺らして手すりへと手を掛ける。ゴールまで恐らく300mを切った。

 どんなに思いを巡らせても、数十秒も経たないうちにこのレースは終わる。

 栄光を目指して駆け抜ける一瞬の勝負、その佳境というべき場面。

 

 

 身体が限界にきて、それでもなお食い下がることが出来る理由をミスターXは口にした。

 

 

『意地があるのだよ、男の子には』

 

 

 

 

 

 




スクライドォ……(唐突なホワイトアウト)


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38.燃え尽きるほどの塵になっても

根性!根性です!根性で押し進むのです!


――――脚は羽根のように軽かった。

 

 

 スタート直後から、最初の一歩を踏み出した瞬間に今日の調子の良しあしが分かるときがある。

 10回に1回なのか、100回に1回か、1000回かの確率で起きるベストな状態。

 

 

 その1回がまさに今日このダービーでドンピシャに嵌った。

 

 

 

 身体がゲートから飛び出す角度、初動の足の運び、摺り足に近い忍者の動き。

 間違いなく、僕の思い描く中で最高のスタート。

 それは瞬く間に他の17人のウマ娘達を置き去りにした。

 

 

 地面を蹴る力も腕の振りとの連動も完璧だ。

 頭の中が澄み切った感覚がある。

 

 

 余計に力を入れずに自分の足が前に前にと進んでいく。 

 明らかにオーバーペースだ。もう少しセーブを掛けてスタミナを温存させろ、という脳の信号が僕の肉体に待ったをかける。

 当然だ。ここでリードを広げた所で、終盤の直線は途轍もなく長いので後ろのウマ娘達に差される可能性が高くなるだけだから。理屈的にそうなのだ。

 

 

 だけど、理屈はあくまで理屈だ。

 今の僕に必要なのは、僕としての意志だ。

 

 

 データとか、理論とか、普通だったらこうするよ、というものには頼らない。

 自分がこうなのだから、こう行く、という明確な揺らぐことのない自分だけの意志。

 

 

 心のままに従う。

 だから僕は脳の指令を拒んで、自分の意志()で肉体に命令した。

 もっと速く、ギアを上げろ、と。

 

 

 誰もが見ても無謀だと思うだろう。

 だけど、僕はいつでも、自分の信じた道を、自ら選んで、選び続けて来た。

 

 

 今までだってそうだったじゃないか。

 

 

 

 

 まるで魔法でも掛かったかのように僕の肉体に負荷はなかった。

 どこまでも走っていけそうな感覚があった。

 僕の周りから音が消えて、周りが薄暗くなって、一つの息遣いだけが聞こえていた。

 

 

 気持ちい。

 地平の彼方まで駆けていける。

 

 

 今どんくらいの距離を走った?800m?1000m?コーナーの標識なんて第1コーナーから先覚えてていないぞ?

 

 

 後ろなんて全く見てないから距離感すら把握できていない。

 自分が今どこを走っているのかさえあまり良く分かっていなかった。

 

 

 だが、これが僕の進む道筋なのだろうというのだけは分かった。

 多分、身体が無意識に感覚だけでコーナーを曲がったりしているのだろう。

 

 

 

 集中力を極限までに高めた状態。

 アスリートがよく試合中に陥る〝ゾーン〟と呼ばれるもの。

 こうなるとマラソン選手はどこまで走ってもいける感覚になったり、周りの動きが遅くなったり、試合が終わるのがあっという間になったりする。

 

 

 ゲームに例えるならマリオで言うところのスター獲得状態だ。

 

 

 勿論、マリオのスター状態も永遠ではない。

 時間が経てば、クリボーに接触するだけでティウンティウンする無防備状態に成り下がる。

 故にゾーンの状態もいつかは終わるときがある。

 

 

 僕も、陸上競技の試合で何度か〝ゾーン〟状態になった事があるから、それがずっと続くものではない事を知っている。

 そして、その終わりの予兆というものは突然終わりを告げてくる。予報もなく、予告もなくだ。

 

 

 ゾーンが解けた時はやたらと〝情報〟が入ってくる。

 視界から、耳から、身体全体に。

 目も覆いたくなるような情報量に押しつぶされてしまわないように、いつでも僕は準備をしていなければならない。

 準備、と言ってもそれに抗う事なんて出来るわけが無くて、特に準備出来る事など何もない。

 

 

 せめて出来る事があるとすれば、実際にその状態になった時に少しでも状況を理解して自分のレースを続けられる心の強さを持つことかな。

 多分コレ、まったく対策にすらなっていないんだけど。要は心の持ちようである。

 

 

 

 そして、その時が――――()()

 

 

 

 

 

 

「――――かっ……ふ!!」

 

 

 視界が明るくなったかと思ったら、急にレース場の全容が目に飛び込んできた。

 心臓が跳ね返る様にむせかえる様に息が吐き出される。

 耳に聞こえる大歓声、後ろから響く地鳴りのようなウマ娘達の地を駆ける音。

 

 

 現実に戻って来た。そんな感覚。

 情報だ。今は情報を確認しろ。

 

 

 順位は?1位?え?まだトップ?コーナーは第4コーナー過ぎてる?え?もう終盤じゃん?正確にはラスト525m?なげぇ!?脚は?重いッ!腕も?重いッ!後ろの娘との距離は?足音からして3バ身……やべ、今ペース落ちて半バ身縮んだッ!つーか足音多いッ6人くらい迫って来てんじゃないかこれ!?

 

 

 

 落ち着け、落ち着け山々田山能、そしてブラックサンダー。

 プッチ神父がしていたように、素数でも数えて冷静さを取り戻したいところだが、脳に酸素が行き渡っていないせいか小学生程度の知能すらもあるかどうかの所なのだ。

 

 

 やはり、無理があった。

 スタミナに不安がある状態で本来ならセーブを掛けて走るレースをスタートの段階から飛ばして勝つのは。

 無理が祟って、肩で息をしている状態じゃないか。

 

 

 見ろよ、もう後ろの娘が詰めてきてる2バ身差まで来たぞ。どうすんだ山々田山能。

 足跡が近くなってくるぞ、追って来てる娘達の足音も更に多くなってきてるぞ?

 

 

 

 

 また負けるのか―――この大一番の日本ダービーという舞台で。

 また負けるのか―――今までと一緒だろ?慣れてんだろ?

 また負けるのか―――もともと、そういう星の下に生まれたんだろ?

 また負けるのか―――負けた理由は丸わかりじゃないか。スタミナとペースだよ。

 

 

 

 もう、楽になっていいかもしれない。大人しく、力尽きて後続にハナを渡してあげよう。

 いい想いが出来ただろ?ウマ娘になって、レースで勝てて、日本一を決めるレースに出るという僕自身の夢が叶ったんだから。

 

 

 

 もう、満足だろう?走らなくて、いいだろう?

 僕は、それだけで満たされてしまうんだろう?

 

 

 

 敗戦インタビューの事、考えておくか。

 何着になるか分からないけど、インタビューされるか分からないけど、ここまでのレースを作った張本人として週刊誌あたりからお声が掛かってもいいかもしれない。

 

 

 なんて答えようか、負けた時のセリフ。『坂路走とかいっぱいやったんだけど負けちゃった★一緒にトレーニングしてくれたミホノブルボンちゃんごめんね★』とかにすれば、スレの一つでも立つんじゃないかな。

 

 

 

 

・・・・・待て、なんで僕は負けた時の理由を考えてるんだ?それを負けた時の理由にしていいのか?

 

 

 

 違うぞ、何かが違うぞ山々田山能。

 今一度、己自身に問いただせ『本当にそれでいいのか』、と。

 

 

 

――――()()()()()()()()()()、今日まで努力をしてきたのか?

 

 

 

 

 

・・・・・違うッ 違うだろッ

 

 

 

 心の中で自分自身にそう叫んだ。

 

 ミホノブルボンとの坂路走も。

 グラスワンダーとの約束も。

 今日までのトレーニングも。

 僕が取った大逃げ先行策も。

 

 

・・・・・全部、()()()()にやって来たことじゃないか!

 

 

 負ける為にじゃない。勝つために。

 負けて涙を流すためじゃない、勝って至福の涙を流すために。

 

 

 小学、中学、高校、大学、そしてウマ娘になっても、そのために走り続けて来たんだろうが!そのために努力を積み重ねてきたんだろうが!!

 

 

 正直になれよ山々田山能。お前は、勝利したいんだろう?

 〝お前は良くやったよ〟という努力の過程が認められるのではなく、1位になった証の日本ダービーの優勝レイをその身に纏いたいんだろう!

 勝利したという何よりの結果が欲しいんだろう!?

 〝僕が日本一だ〟って、〝僕がダービーウマ娘だ〟って、胸を張って証明したいんだろう!!

 なら、今その為に必要なのは諦める事なのか?負けを認める事なのか?

 

 

 諦めねぇ事だろうッ!!最後まで、命を懸けてもいいぐらいの覚悟で、2400走り切って見せろよ!勝って見せろ!レースに出ただけで満足してんじゃねぇッ!

 いつだって、自分の勝利は自分の手で掴み取るしかねぇんだからッッ!!

 

 

「勝つ……勝つんだッッ」

 

 

 肉体に喝を入れる。

 鉛のように重い脚を無理に動かして、可動域の限界までストライドを伸ばす。

 硬直して固まった腕を無理に動かして、今日できる最高の振りを再現する。

 身体に溜まった乳酸なんて無視して、前傾姿勢で前に、前に。

 

 

 口に溜まる唾液はほのかに鉄の味がした。 

 視界もぼやけている……だけど構わない。

 

 

 残り300m。

 

 

 壊れても構わない、生涯最後のレースになっても構わない。

 

 

 残り200m。

 

 

 200がなんだ。こっちは坂路走累計で10000mは走ってんだ。残りたった200だろう?

 

 

 

 残り100m。

 

 

 現役時代、それこそ1万回くらいは走ってる。お前の得意分野だぞ。

 

 

 残り50m。

 

 

 小学生の時にやたら走った。ゴールはもう目の前に。

 

 

 残り30m。

 

 誰かの息遣いが聞こえる。

 

 

 残り20m。

 

 誰かが僕の隣に並んでくる。

 

 

 残り10m。

 

 誰かが視界に入ってくる。

 

 残り5m。

 

 それも一人じゃない。何人かが真横に見えて、それが僕より前に抜け出してくる。

 

 

「だあああああッッッ!!!!」

 

 

 残り3m。

 

 

 それでも負けたくなくて、抗いたくて、必死に脚を動かして、唯一無二の勝利を掴みたくて。

 

 

 

 

 

 

 

 僕は、2400mのゴール板を駆け抜けた。




次回で日本ダービー編はラストになります。


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39.ダービーの後は、ただ燃え尽きて

日本ダービー編ラスト。長かったですね。
新シナリオ、楽しいですね、ステータスやたら盛れるで今まで作れなかったS+とか量産できちゃう。
青汁、青汁を寄こすのです。


 4人のウマ娘達がもつれ込む様にゴール板へ雪崩れ込んだ。

 死力を尽くして脚を使い果たした彼女達はゴールへ辿り着くと一斉に足を止めてその場に倒れこむ。

 倒れた者の中には過呼吸に陥った者もいて、そのレースがいかに過酷なものだったかを物語っていた。

 

 

「はぁ……はぁ…はぁ…」

 

 

 順位がどうなったのか分からない。 

 自分がゴールするのに必死で他のウマ娘などに目も暮れなかった。

 自分が最初にゴールしたと信じてやまない彼女達は息を荒くしながらも順位が確定するまで掲示板を食い入るように見つめている。

 

 

 何秒経ったのだろうか、何分経過したのだろうか。

 身体から流れる汗が勝負服を濡らし、額を何度も拭って見せる。

 

 

「……」

 

 

 心臓の音が大きく脈打つのを感じながら、僕もずっと順位確定の瞬間を静かに待っていた。

 まるで受験発表の当日で自分の番号を探すかのような期待と不安。

 

 

 そして、電光掲示板にゴールしたウマ娘の番号が映し出され、番号の横にはすぐに確定の文字。

 慌てず、僕の番号を上から探して、少しずつ目線を下げて、ようやくその番号を見つける。

 

 

 

 

 

 

 

「4着……」

 

 4着、という確かに映しだされたその数字。

 その番号を見た瞬間、これまで疲れを知らないかのように立っていた僕は膝から崩れ落ちる。

 がくん、と膝カックンでもされたかのような力の失い方で、前へとつんのめった僕は慌てて両の手を地面につけて、四つん這いの状態で堪えた。

 

 

 だが、

 

「……あれ」

 

 身体が動かない、正確には脚が。

 

 

 どこか折れたのなら、痛みがあるはずなのにそれすらも感じない。

 だけど動かそうとしても、脚は生まれたての小鹿のようにぷるぷると震えていて、それすらも叶わない。

 

「ちくしょう……エネルギーゼロか」

 

 かつて、日本ダービーで驚異の大逃げを繰り広げたアイネスフウジンも、ゴール後はほとんど動くことが出来なかったという。

 限界を超えて、スピードとスタミナと根性を使い切った僕の身体には肉体を動かすエネルギーは一つも残っていなかったという事だ。

 

 

 地面と顔が近いからか、嗅覚にはむせ返りそうな芝の匂いが届く。

 

「…あー、くそ」

 

 疲れすぎた身体に容赦なく襲い掛かる眠気のようなもの。

 意識がまどろんで、どこか遠くに行ってしまいそうな。

 でも、分かる。これは、きっと死ぬようなものじゃない。

 

 

 全身から力が抜けていく。

 瞼からも、空いていた口が閉じて、僕の身体は生命維持に必要な最小限の活動だけを残して機能を停止する。

 

 

「おいッ テメェこの、ブラックサンダー!またテメェに負けたじゃねぇかッ!

 あんなガンガン飛ばして最後まで行くとは思わなかっ――――って、コイツ気絶してんじゃねぇかオイッ、ブラックサンダー!起きろッ!

 担架ッ 担架持ってこい――――って、うおおおっ!?なんだテメェ!イリアステル三皇のリーダーみたいな恰好でホバリング移動してきやがって!!」

 

『失礼。私は彼女のトレーナーだ。早急に彼女を医務室へ運ぶ必要がある。

 どきたまえ、医療班がここに来るまでの時間が惜しい』

 

 意識が消し飛ぶ前に僕が最後に見た視界には汗だくになってこちらに寄って来たメルティロイアルとホバリング移動してターフの中に入り込んできたミスターXの姿だった。 

  

 

 

 

 

 

 

 

『えー、ただいま倒れてしまったブラックサンダーをミスターXトレーナーが自ら駆け寄って、抱えて運んでいきます。

 足が完全に地面から浮いた状態でバックに戻っていきます。他の倒れたウマ娘達の安否や明らかに人外ムーブをかますトレーナーに突っ込まずにはいられませんが我々も実況者です。いかなる事態にも動じずに実況を続けていきたいと思います……芝内さん』

 

 

『はい……』

 

『終わりましたね、日本ダービー……って、芝内さん?めちゃくちゃ泣いてますね』

 

『ええ、私、どんな結果になっても受け入れるつもりでいました。

 ブラックサンダーちゃんが勝っても、負けても、彼女の一生懸命走った姿を否定せずに、実況者として、ファンとして応援するつもりでいました。

 けどね、もう、最後ね、叫びながらさ、追い抜かれても最後まで諦めないで走るあの娘の姿見てたらですね……駄目でした。

 やっぱりですね、推しが一歩届かず負けちゃうっていうのは……やっぱ辛ぇわ』

 

 

『……そりゃぁ、辛いでしょうが。でも、これがトゥインクルシリーズ、日本ダービーというレース。

 競い合えば必ず勝ち負けが付く。

 ですが、勝者の涙も、敗者の涙も、ダービーウマ娘と言う称号にひたむきに走った彼女達の想いも、決して無駄にはなりません。

 事実、今日のレースはブラックサンダーが展開を作ったと言っても過言ではありません。

 皆があの青鹿毛のウマ娘に振り回された。

 誰もがあの漆黒の勝負服がラスト数メートルまでトップになるとは思いもしなかった。

 ウマ娘ブラックサンダー、これから先、シニア勢のウマ娘とも競い合う中でその力を更に開花していくかもしれませんね』

 

『そうですね。だからブラックサンダーちゃん!今日は凄かった!感動した!ゆっくり休んで元気になってください!』

 

『うん、だから芝内さんもちゃんと実況のお仕事してね?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕は医務室に運び込まれて、30分後に目を覚ました。

 ベッドに横になっていて、両脚には氷嚢が何個も当てられていて、あまりの冷たさに覚醒せざるを得なかったという状況だ。

 

『惜しかった。実に』

 

 ここまで運んでくれたミスターXそう呟いていた。

 仮面の下で、本当に残念がっているように見えた。

 最終直線、ラストの数メートルで後ろの三人のウマ娘に追い抜かれた僕ではあったが、その差は僅差だったらしい。

 1位から3位までハナ差、クビ差、ハナ差で、トップと僕の間は1バ身もなかったという。

 

 

「感謝するよ、ミスターX」

 

 トレーナーである彼に一言礼を言ったが、ミスターXは小さく顔を振って見せた。

 

『私はキミを勝たせることが出来なかったトレーナーだ。

 憎まれる事はあっても、感謝される理由はないよ』

 

 

 そうだとしても、僕のスタミナ不足を補うためにメニューを組んだり、ミホノブルボンとの坂路を走らせるように手配をしてくれた。

 僕を勝たせるための最善の手を尽くしてくれたのだ。僕はウマ娘として、トレーナーである彼を感謝せずにはいられない。

 

 

「2400mという距離はこれで不可能じゃなくなった。まだまだトゥインクルシリーズははじまったばかりだ。

 レースの改善案はいくらでもある。ペース、スピード、駆け引き、メニュー、あらゆる点で伸ばせる点をこのダービーで僕は見出した。

 それらを克服して一夏を越えて、2400を安定して走れるようになれば10月の菊花賞も見えてくる……ふふ、二冠ウマ娘にでもなってみるか」

 

『ブラックサンダー……』

 

「これからも、よろしく頼むよミスターX、いや……トレーナー」

 

『ライブまで時間はある……今はしっかり休養することだ。今日を終えたら、暫くは疲労を抜く事だけを考えよう。

 次のレースも、メニューの事も……その後から決めるんだ』

 

 

 そうだな、と僕が頷いた後、ミスターXは足取りを重そうにしていて……いや、ホバリング移動だから分からないけど、そんな感じがした。

 

 

「おわっちゃったかー……」

 

 

「トレーナーさん……」

 

 

 起こした身体からは嘆息のような、安堵感のようなため息が出た。

 隣の椅子に腰かけたグラスワンダーがこちらを心配そうな目で見ていた。

 心配なんてさせるものじゃないな、と思った僕は言わなければならないと思った。

 僕達の間に隠し事は無し、だ。思っている事があるなら、迷わずに口にする。

 

「はは、そんな顔するなよグラス。別に骨折したわけじゃないし、ちゃんとアイシングと休息を取っていればライブの前には動けるようになるさ」

 

「……」

 

「それよりも4着だよ?日本ダービー4着。1番無理だったけど、僕がクラシックで4番目に速いウマ娘だっていうのは、自慢……出来ないかもしれないけど、誇りには思うよ」

 

 

 喉が詰まるような感覚と、少しだけ声が震えそうになって、ぐっとこらえて、彼女に今できる精一杯の笑みを作って見せる。

 それが、彼女を安心できるほどのレベルに達しているのかは分からないのだが。

 

 

「いやぁ、でも惜しかったなァ。ほんと、ラストのコーナー曲がるまでずっと僕が先頭だった事に気付かなくてさ。

 自分の感覚に任せてペースもクソもない、大逃げを日本ダービーでやるなんて、自分でもどうかしてるなって思ったよ。

 今なら思うんだけどさ、コーナー付近で息を入れたりするタイミングとか、序盤から中盤にかけてのレース展開を作るのは大事だと思ったな……それが出来ていたら――――」

 

 

「……」

 

「それが、出来ていたら……」

 

 それが、出来ていたら。

 それは、競技者であればレースが終わった後に何度でも思うことだった。

 

 

 スタートで。

 序盤で。

 中盤で。

 終盤で。

 

 

 あの場面で。

 あのコーナーで。

 あのタイミングで。

 

 

 もっと、()()していたら。

 もっと、()()出来ていたら。

 

 

 違う結果になっていたんじゃないかな、と。

 

 

 

 ダービーウマ娘として、人々からの喝采を一心に受けて、歴史に名を刻んでいたのは僕だったんじゃないかと。

 

 でも、それはもう終わった事で。

 どうしようもない事で。

 変える事の出来ない事実で。

 

 

 無限に湧いてくるこの気持ちはきっと、悔しさなのだろう。

 

 

 気づけば、僕は膝懸けを思いっきり握り締めていた。

 尋常じゃない力で、そしてその肩は小刻みに震えていて。

 

「出来て、いたら……」

 

「トレーナーさん」

 

 そんな僕を見て、グラスワンダーは言うのだ。

 凛とした花のような美しさをもつ彼女は、しかし、勝負の厳しさを良く知るウマ娘だ。

 僕らの間に、妥協など許されない、ストイックウマ娘であるグラスワンダーから、今の甘ったれた僕の姿を情けないと思うかもしれない。

 

 

『これが勝負の世界です……誰もが通る道…不退転の覚悟をお忘れか』

 

 

 そんな感じの叱咤激励を食らっても仕方がない、そう思っていた。

 

 

 

 

 

「我慢、しなくていいんですよ」

 

 

 予想外だった。

 怒られると思った。

 情けないと言われると思った。

 だけど、それを裏切るくらいに、彼女から放たれた労わる言葉はこの上なく暖かくて、優しくて―――、

 

 

「……っ!」

 

 不意に、僕の視界がぼやけて、視線を慌てて膝へと向けた。 

 同時に、胸の奥から込み上げてくる感情に飲み込まれまいと、必死に顔を伏せたまま言葉を作る。

 

 

「……ちょっとだけ、一人にしてくれないか。僕は………………………………………………すこし、泣く」

 

「はい……」

 

 

 

 その言葉を聞いてグラスワンダーは部屋を出て行った。

 扉の締まる音がした後、たった一人だけの空間になった医療室の中で僕はやがて、泣いた。

 

 

 

 ウマ娘ブラックサンダーの日本ダービーと、アスリートである山々田山能の日本一への夢はこうして終わりを告げたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして日本ダービーから2週間後。

 

 

「それでグラス、ブラックサンダーはあれから元気がないんデース?」

 

「ええ、ダービーが終わってからは何かと上の空で……」

 

 

 

 トレセン学園の登校時間、グラスワンダーとエルコンドルパサーはそんな事を話し合っていた。

 

 

 日本ダービーのライブが終わった後で例の如く高熱が発生して、暫く学園を休んだ後は一切走る事を禁じられている。

 想定した以上に肉体に掛かった負荷が高いためか、2週間経ってもブラックサンダーがターフの上で走る姿を見てはいない。

 しかし、それ以前に今のブラックサンダーからはあまり覇気が感じられないのだ。

 

「ショック、だったんデスかね……やっぱり」

 

「そうかもしれませんが……というよりも、ずっと夢だったダービーで、日本一を競うという夢が彼女の中で果たされてしまったから……」

 

「目標を失ってしまった……というワケですか?」

 

 

 恐らくは、そういう事なのだろう。

 あれからブラックサンダーはどこにいても上の空状態だった。

 

 授業中はいつも窓の外を見ていたり。

 ミスターXやグラスワンダーとの会話はあまり耳に入っていない。

 

 

 アグネスタキオンの実験も生返事一つで体が緑色になる薬品を飲んでしまい、一時期あだ名がグリーンサンダーになってしまった。

 メイショウドトウのドジで彼女が転んでしまったタイミングでブラックサンダーがぶつかってしまい、エアグルーブの管理する花壇を破壊してしまっても、カワカミプリンセスの唐突な正拳突きが誤って腹に当っても、ゴールドシップのわざとらしい跳び蹴りがさく裂しても、ブラックサンダーは何食わぬ顔で、

 

 

『あっ、ダイジョウブッス』

 

 

 と、死んだ魚のような眼でその場を去っていくのだ。

 

 

「仕方のないことかもしれません」

 

 

 グラスワンダーは思う。

 彼の、日本一という舞台で全力を出して戦い、勝つこと。それが夢だった。

 彼がウマ娘になるまでずっと燻ぶらせていた想い……数年分くらいだろうか。

 

 

  

 それが漸く果たされたレースだったのだ。

 レース中の彼はまさに幸福の真っただ中にいたのだろう。

 だが、クラシックの中で日本一を競える日本ダービーにはもう2度と出走できない。

 

 

 彼の夢も果たされた今、それは彼からブラックサンダーの走る理由が無くなってしまったという事にならないだろうか。

 無気力、とまでもいかないがモチベーションが上がり切らない、それが生活に影響が出てしまっている所だろう。

 

 

 それは、かつての怪我で走る意欲を亡くしていたグラスワンダーと同じだ。

 ならば、グラスワンダーが出来る事はただ一つである。

 

 

「今度は私が……私の走る姿で、あの人には闘志を取り戻していただきます」

 

 

 かつてブラックサンダーの走りによって復帰できたように、自分もまた、ブラックサンダーの為に走りたい、そのために今度の復帰戦で勝利を飾る……グラスワンダーはそう意気込んで止まなかった。

 

 

「フムム……エルとの勝負も控えているのデスから、こんな所で足踏みしていては困りマース!!エルも手伝うデース!!」

 

「あら、意外と心配してくれてるんですねエル」

 

「違うデース!簡単に捻っちゃつまらないからデース!」

 

「そうですか、ふふ……」

 

 

 レースは終わった。 

 夢は終わった。

 走る理由が無くなったかもしれない。

 でも、それだけじゃない事を教えてあげなくては。

 

 

 彼に、ブラックサンダーに。

 彼がそうしてくれたように。

 今度は自分が頑張る番だと、そう思っていた時だ。

 

 

 

 

 

「グラス!グラスワンダー!!」

 

 

「ぶ、ブラックサンダーさん?どうしたんですか一体……」

 

 

 目の前に現れたブラックサンダーは一っ走り終えたかのような疲れた様子で大きく息をしている。

 最近は走る事もしなかったのに、走りざるを得ない事態が起きたという事か。

 

 ただ事ではない、そう思い彼に尋ねたのだが。

 

 

「グラス、今から僕のいう事に疑問を持たずに、まず落ち着いて聞いたうえで了承してほしい事があるんだ」

 

「は、はい……?」

 

 その手は真っすぐ伸びてグラスワンダーの両肩を掴む。

 がっちりと掴まれた肩は外側からものすごい圧を掛けられていて、流石のグラスワンダーも身を縮こませる。

 そして、ブラックサンダーの顔が近い。 

 額の汗が見え、吐息が感じられる距離だ。流石のグラスワンダーもいつにない真剣なブラックサンダーの表情を見て息を呑む。

 

 

 やがてブラックサンダーは懇願するような顔で言うのだ。

 

 

「グラスワンダー、お前をこの場で抱かせてほしい」

 

 グラスワンダーも、エルコンドルパサーも、そして周囲のウマ娘達も耳を疑った。

 そして、珍しく教室で居眠りをしていたアグネスデジタルは何のセンサーが働いたか意識を覚醒させ、現場へと急行した。

 

 

 




シリアスじゃ終わらせない。ここから先は基本いつもの日常と同じ感じ。
高校、大学の頃に抱いていた夢、日本一の舞台で競い合うというのが人間である山々田山能の夢。それを主軸にしたお話でした。
皐月賞も勝ったからダービーも勝たせたかったです。でも、勝つこと以外に重要な事があると思い、話を練り直して、彼の想い出にケリをつけるという形に持っていきました。ルドルフが言っていたように、夢は形を変えていく、それがウマ娘の走る理由になるように、ブラックサンダーのレースはまだ終わりません。
さて、激しいレースの後確定で発生する高熱やら大逃げ作戦が生んだ疲労やら不安要素がいっぱいありますが日本ダービーの次は一体なんのレースに走るんでしょうね。


投稿の間隔は開くと思いますが、短めの文章でも楽しんでもらえる話を作り続けていきたいと思っています。


次回、VS抱かせてもらえないグラスちゃん
ひたすら困惑するグラスちゃんをお楽しみに。


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40.稲妻、朝に鳴り響いて

いろいろ忙しくて、書けなかったんよ。
メインストーリー、スぺ編最高でした。前編も良かったのに、このあとグラスワンダーが不死鳥の如く舞い上がる後編もあるのかと思うと夜も眠れません、助けて。


 ウマ娘、グラスワンダーは唐突な日常の崩壊を感じ取り、思わず息を呑んだ。

 

 

 

 あの日、日本ダービーを4着と言う結果に終わった自身のチームメイトであり、自身の元トレーナーであるブラックサンダーが嵐の如く現れて、こんな事を言い始めたからだ。

 

 

「抱かせてほしい」

 

 

 日本ダービーで敗戦した後、医療室で一人泣いていた彼女の姿を見ることは出来なかったグラスワンダーだが、扉越しに聞こえてくるすすり泣くような声は今でも思い出せる。

 

 

 夢を追い続け、その夢に破れて、二度と目指す事の出来ない現実に涙を流す少年のような声。

 山々田山能としての、高校から大学の時に志した夢が終わりを迎えたあの日。

 グラスワンダーが、「今度は自分が走る姿でこの人を支えてみせる」と心に再起を誓った日。

 

 

「抱かせてほしい」

 

 

 そんなグラスワンダーが気落ちしているであろう彼を支えようとしている当の本人と目の前でトンチキな発言をしているウマ娘が同一人物だと誰が思うだろうか。

 

 

「……えっと、ブラックサンダーさん、いきなり何を言い出すかと思えば…どうしてどうして、ここでそんな事をする必要があるのでしょう…理由を聞かせていただけませんか?」

 

 

 しかし、グラスワンダーはグランプリ三連覇ウマ娘。

 強豪ウマ娘達をちぎっては投げ、ちぎっては投げてきた豪傑。

 常に不退転を志す彼女は、この程度のブラックサンダーの行動に多少の動揺を見せても、すぐに対応できる度量を身に付けていた。

 

 

「すまないグラス、説明したいのは山々なんだが火急の用なんだ。事態の収束を測る上で僕は迅速にお前を抱かなければならない。

 五丈原で蜀の陣地に火計を実行する陸遜を止めなきゃいけないくらいに事は重大なんだ」

 

「どうして三国志で喩えたのか分からないのですが……」

 

「抱かせてくれ」

 

「理由を聞かせていただけないのであれば……理由を聞いたところで返事は変わりませんが」

 

「抱かせろッ」

 

「語尾を強めてもだめです」

 

「分かった。(いだ)かせろ」

 

「ルビで誤魔化せるとでも?なんでそんなに壮大なセリフに……」

 

「かの有名なクラーク博士だって言ってただろ……〝青年よ、ウマ娘を抱け〟って」

 

「言ってないと思いますよ?」

 

 

 字面でちゃんとルビを振らないといよいよ如何わしいセリフになって来た。

 

 

 クラーク博士は言ってない。絶対に言ってないと思う。

 歴史の偉人の名言をここまで酷く改変出来るのは恐らく彼ぐらいだろう。

 

 

「トレーナーさん、こういう時だけぐいぐい来ますね……」

 

 

 グラスワンダーはぽつりと、ブラックサンダーに聞こえないくらいの小さな声で呟く。

 普段は他の小さいウマ娘に首ったけな奇人変人はこちらが色々とアピールしても何も反応してこない。

 

 

 過去に……トレーナーがウマ娘になる前、何度か目のゲームセンターに行った時の事だ。

 その時はトレーナーに誘われるのではなく、自ら勇気を出して誘ったのだ。

 「垣根が高いので」、という弱弱しい理由で誘いをするなど、とても自分はセイウンスカイの事を恋愛弱者とは言えないと思ったグラスワンダーだったが。

 

 

 ゲームセンターに二人で来たからにはグラスワンダーとしても二人で協力プレイできるもので遊び、楽しもうと思った。

 日ごろの感謝と、更なる絆を深めようとさえ思った。

 だから流れてくる曲に合わせて太鼓を叩くゲームを一緒にしようとしたのだが……。

 

 

 気づいた時、グラスワンダーのトレーナーはあろうことかグラスワンダーを放置して、ガンダムのアーケードゲームでハチャメチャに遊んでいた。

 

 しかも相手はナリタタイシンで、トレーナーは低コスト機体のドアンザクで高コスト機体のバエルを粉砕していた。

 

『ドアン・パーンチ!』

 

『ハァッ!?うっそでしょっ!?』

 

 

 彼は、トレーナーはゲーマーだった。

 ゲーマーであるナリタタイシンを越えるほどのゲーマーだった。

 グラスワンダーは彼を止められなかった。

 子供の用に目を輝かせてゲームに熱中している彼を、引き戻す事など出来なかった。

 

 グラスワンダーはただ一人、一人でバチを手に前日リサーチした動画の曲をぽんぽん、カッとリズムよく叩きまくっていた。

 ゲームセンターから出る頃には、太鼓のゲームは動かなくなり、稼働停止になっていたが。

 そして、その帰り道には。

 

『いやぁ、久しぶりにやってみたけど腕は落ちてなかったみたい。ストレスも発散出来たよ!ありがとうなグラス。グラスも、太鼓でフルコン連発してたな、流石だよ。お互い楽しめてたようだな』

 

 

 

―――そうじゃなくてッ!そうじゃなくてッッ!そうじゃなくてですねッッッ!!

 

 

 

 怒る気すらも無くなるくらいに、彼は色々と鈍い。ジャンプの恋愛漫画の主人公かよってくらい鈍い。

 こんな感じのエピソードがトゥインクルシリーズの最初の三年間分だけでも山ほどある。

 それらを語るときはまたいつの日か来るかもしれないが、それはさておき。

 

 

「くっ……!こんなに頼んでも駄目なのかよグラス!そんなに駄目なのかッ!?僕に抱かれることがッ!僕の事が嫌いになってしまったのかッッ!?」

 

「い、いえ……嫌いでは、ないのですが……その」

 

 嫌いではない。むしろ真の気持ちのベクトルは明らか。

 だが、あまりにも彼の行動が突拍子もないので困惑するしかない。

 

 

「他の娘が見ている所では、困ります……」

 

 

 既に周りには涙ながらにグラスワンダーに「抱かせろ!」と懇願するブラックサンダーを囲うような人だかりが出来つつあった。

 今は登校時間、必然と人の数は多い。

 トレセン学園の生徒や教職員や窓から外の景色を眺めているウマ娘達からの視線が一斉に集中しているのである。

 

 良く見たら、窓の方には生徒会長であるシンボリルドルフやらエアグルーヴやら生徒会のメンツが。

 木陰の隅には息を荒くしたアグネスデジタルが「オウッ オウッ ホゥッ」と謎の声を出している。

 

 

 確かにグラスワンダーとしても、彼に抱かれるならばとても素晴らしい事なのだが如何せん、タイミングだ。このような視線の中ではさすがの自分でも意地と羞恥心が勝るというもの。

 せめて別の、それでこそ誰もいないような場所でなら、と言おうとした時だ。

 

 

「ならば、その役!このエルコンドルパサー承りマース!」

 

 そう言おうとした時、隣の大怪鳥が余計な事を言い出したのだ。

 

 

「ブラックサンダー!やはり、アナタという者は!グラスには手を出さないと言いつつ、ここで約束を破る気デスね!そうはいきません!グラスの代わりに、このエルが抱かれマース!」

 

 恐らく、友人を守る為の彼女なりの妨害行為だろう。

 心優しい友人であることをグラスワンダーは誇りに思う。思うが、しかし、だ。

 

 

 グラスワンダーは思った。『この怪鳥、焼いてやろうか』、と。

 エルコンドルパサーは胸を張り、自らの身体を捧げんとばかりに、しかし堂々としている彼女に対し、ブラックサンダーは言うのだ。

 

 

「ふむ、この際致し方なし。グラスの同期なら、釣り合いが取れるというもの」

 

 

 何が致し方ないのか。

 しょうがないってどういうことだ。

 最初は自分にお願いをしていたのではなかったのか。

 自分で無ければいけなかったのではないのか。

 グラスワンダーは激怒した。

 激怒したけど、それ以上に焦りが勝っていた。

 

 

 不味い、このままではエルコンドルパサーがブラックサンダーに抱かれてしまう。

 それだけは、それだけは、友人であるエルコンドルパサーにすら譲ることは許されない。

 

 

 エルコンドルパサーがこの人に抱かれてしまうくらいなら。

 

 

 意を決して、グラスワンダーは踏み込んだ。

 人目も気にせず、エルコンドルパサーとブラックサンダーの間に割って入る様に、その身を彼女の前へ。

 そしてその両腕でグラスワンダーがブラックサンダーの身体を抱きしめていた。

 

「ケッ!?グラス!?」

 

「うぅ……」

 

 顔が羞恥で熱くなるのを感じる。それだけじゃない、身体全体もだ。

 こんなこと、大和撫子を志す自分にとって、恥ずべき行為だ。

 自分でも何をやっているのか分からない。意味不明だである。

 

 

 それでも、他の人がするくらいなら、自分がしなければと思ってしまった。

 絶対に、決して逃がさないように、力強く彼女の身体に輪を掛けるように両腕に力を籠める。

 

 

 

「どういう事だこれはッ!」

「分かりません会長!」

 

 生徒会、混乱。

 

「あ、アグネスデジタル殿が気絶しておる!」

 

 と、周りのウマ娘。

 

 

 恥ずかしさに耐えながら、グラスワンダーは現実から目を逸らしながらブラックサンダーを抱き締めている。

 

 

「僕が抱かれてちゃ意味無いだろう、グラス」

 

 

 抱き着いて数秒、グラスワンダーの腕を解いた。

 ブラックサンダーのその言葉で我に返ったグラスワンダーは慌てて距離を取ろうとする。しかし、

 

「え―――」

 

 

 その手を再び掴んで引き寄せられたグラスワンダーの身は再びブラックサンダーの胸の中に飛び込んでいた。

 ブラックサンダーの手は淀みなく、洗練されたかのようにグラスワンダーの肩と、やがて背へと回る。

 お互いの肉体の隙間が無くなるほどの密着。

 抱いた相手から、再び抱き返されるという行為にさしものグラスワンダーも困惑を隠せず、棒立ちのままその抱擁を受け入れる。

 

 

 直に感じるブラックサンダーの体温と静かな息遣い。

 制服越しに感じる彼女の凹凸のある身体と骨の形。

 湿り気を帯びた黒の長髪。

 鼻腔に届く香りは柑橘系のものだったから、朝シャワーを浴びたのだろう……ランニングをした所を見るに自主トレは継続しているみたいだ。

 レースの疲労はまだ抜けきっていないのだから、安静にしてほしいものである……それよりも、

 

 

―――あぁ……これは……いけない。

 

 

 グラスワンダーは密着しただけでも、ブラックサンダーの事についてこれだけ分かってしまうのだ。

 トレーナーである山々田山能が触れただけでウマ娘の身体情報を会得するという稀有な特技を持つように、ウマ娘のグラスワンダーは彼について触れるだけ今日、彼の身に何が起きたのかが分かるようになってしまった。それは、彼がウマ娘ブラックサンダーになっても同じなのである。

 

「だ、抱けッ…!抱けェ…!!」

 

「あ、アグネスデジタル!お、おおお落ち着くデェース!もう抱かれてマスからぁ!!」

 

 

 ブラックサンダーと密接した事によって得られる多大な情報量が、幸福と変換されてグラスワンダーの脳内を狂わせる。

 この世で最も信頼できる者からの抱擁など、それに抗う術をグラスワンダーは持っていなかったのだ。

 このままでは自らの誉を失い、目の前の悦楽にただ流されるはしたないウマ娘になってしまう。

 

 だが、そういう雰囲気に流されても構わない。

 人目についてももう少しこのままという欲求が生まれてきているというのも事実であった。

 

 

「やはり、やはりそうか!分かった……分かったぞ」

 

 ブラックサンダーの拘束が緩まり、彼女の腕に留まっていたグラスワンダーの身体がするりと抜ける。

 名残惜しさを残すように伸ばされたグラスワンダーの手が空を切るのを他所に、ブラックサンダーは一人納得したように頷いていた。

 

 

「なんで急に冷静な顔になってるんですか」

 

「グラス。僕はお前のお陰で解を得た……これは宇宙規模の進展だ。

 例えるなら、ゲッター線が地球に飛来した理由と進化の過程と、未来永劫続く宇宙の戦いを理解したゲッターチームのように」

 

「それ理解してないですよ、虚無ってますよ……ちなみにブラックサンダーさんが私を抱きしめて分かったというのは、一体……?」

 

 

 アグネスタキオンの劇薬を飲んだわけでもないのに、緑色に発光したブラックサンダーの瞳の奥には螺旋力に目覚めたような渦巻き模様が見えていた。

 彼の抱く謎の疑問が晴れたのであればそれはそれで良いとして、グラスはその行動理由を知る必要がある。

 

「ああ、それは――――」

 

 しかし、次の言葉を聞いた時にグラスワンダーはこの問をしたことを後に後悔することになる。

 

 

「実はここに来る前、スペシャルウィークを抱いたんだ」

 

「―――――――は?」

 

「そう、そうなんだグラス。僕は朝、学園でスペシャルウィークを抱いたんだ」

 

「――――――は?」

 

「エルコンドルパサー、同じことを何度も言わせるな。僕は今朝方、空から落ちて来たスペシャルウィークを抱いたんだ」

 

 

 

―――――は?

 

 

 と、恐らくその場にいたトレセン学園の関係者が同じことを口にして、或いは心の中で呟いただろう。

 グラスワンダーは呆然としながら、しかし目を見開いていて、それを見たエルコンドルパサーは即座にその場から退避を始めていたが、ブラックサンダーの激白は続く。

 

 

「それだけじゃない。僕はここに至るまでの道中、多くのウマ娘を抱いた。

 マヤノ、ウララ、タマモ、イナリ、ビコー、タイシン……カレンチャンは抱かせてもらえなかった……アドマイヤベガが僕に追い込み式ギガインパクトを放ってきたから。

 ちなみに、先ほどキングヘイローからバロスペシャルを見舞われて命からがら逃げ伸びてきたところさ」

 

 

『いかん、このままでは学園の風紀が乱れる』

 

『会長、お供します』

 

 

 学園の窓の向こう側、生徒会は動き出した。

 

 

「あ、アグネスデジタル殿がまた気絶しておられるぞッ」

 

 

 木陰でひっそりとアグネスデジタルは気絶していた。

 

 

「僕の見立てではスペシャルウィークの体重はデビュー、クラシック、シニアの時期と比べて、酷く落ちている。

 それこそ、レースだけでなく日常生活に支障が出るくらいに……だけど事態解決を試みるにはデータが大量に必要だったんだ……ウマ娘の身体情報データが。

 だから、僕は多くのウマ娘を抱くことでスペシャルウィークの体調にどれほどの変化が起きているか比較していたというわけさ」

 

 

 ああだから、こうだから、なんか色々と訳の分からない言い訳のような御託を並べている、としかグラスワンダーは認識していなかった。

 とにかく、少なからず分かっている事は、ブラックサンダーが自分以外のウマ娘を自分を抱きしめる前に抱いていた事である。

 

 

「ブラックサンダーさん……誉を失いましたね」

 

 

 その事実に、グラスはキレた。

 

 

「誉などでは飢えは凌げないぞ、グラス。 あ、あとグラス、さっき抱いてみて分かったんだけど3キロ増えたぞ、少し絞った方がいいな」

 

 その手に、いつの間にか持っていたかもしれぬ薙刀の刃をぎらつかせながら、グラスワンダーは氷のように冷たい笑みを浮かべた。

 グラスワンダーの怒りは留まる事を知らず、始業のベルが鳴り響いてもトレセン学園では薙刀を振り回すグラスワンダーに小一時間ほど追い回される逃走劇が繰り広げられた。

 

 

 誰もがグラスワンダーに恐怖した事だろう。

 そこには、ブラックサンダーの命を完膚なきまでに破壊し尽くさなきゃ、という鋼鉄の意志と鋼のような強さを感じる程だったから。

 

 

 

 ちなみに、ブラックサンダーがいろんなウマ娘にハグしていた理由をグラスワンダーが知るのは暫く先の話になる。

 

 

 




スペシャルウィーク編はまた別の機会に。


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41.イナズマファンレター

前回のお話と連続性はありません。次章までの休憩話なので。


「僕にファンレターが届いている?」

 

 トレセン学園の授業も終わり、レースも練習もない、ごく至って普通のオフの日。

 僕ことブラックサンダーは寮への帰り間際にトレーナールームに呼び出された先で、僕のトレーナーであるミスターXからそう言われたのだ。

 

『そうだ。キミもトゥインクルシリーズを……クラシック戦線を走るウマ娘として多くの人々がキミの走りを目にするようになった。

 皐月賞、日本ダービー……そしてこれから挑むであろうシニア勢との戦いを楽しみにしている者達からの熱いエールだよ……ぜひ目を通してもらいたい』

 

「なんでCV若本みたいな変声ソフトで喋ってるんだ……まるで悪の親玉みたいじゃないか。というかお前、声変えられるのかよ」

 

『前の使用していた声に少し飽きたものでね……趣向を変えてみたのだよ……気に入ったかい?』

 

 

 

 悪のボスみたいな変声ソフトで発していいセリフじゃない。

 ミスターXの言葉の裏には何か含みがありそうだと誤解してしまいそうになる。

 それは数か月彼の担当ウマ娘になって月日が経過した今でも未だにその謎さ加減と不気味さに身構えてしまうほどだ。

 

 

 ちなみに前回は手塩に育てた弟子に背後から刺されそうな魔術師の声をしていた。

 

 

 ミスターXの手にある数十通ほどの封筒を受け取って、それらを暫く見た。

 封筒は普通の茶封筒のものもあれば、色鮮やかなものと、デコレーションや絵葉書など多種多様なものであった。

 中には自分の名前の元となったチョコ菓子が箱で送られていたりもした。保冷剤を入れていないあたり今日の気温で中身が溶けていないか心配だが、

 

 

『やけに嬉しそうじゃないか』

 

「そりゃ、嬉しいでしょうがよ」

 

 

 直筆、打ち込んだものに限らず、これらにあるのは僕を応援したいという純粋な想いだ。

 名も知らぬ、有名どころの名家の出自ですらない、ぽっと出のウマ娘であるブラックサンダーを応援してくれる存在がいるという事は堪らなく嬉しいものだ。

 

 

 学生時代では考えられない事だった。

 僕も学生時代にはそこそこのタイムを出していたスプリンターではあったものの、こういった個人から応援を送られるという事は両親や後輩を除いて無いと言っていい。

 何せ、全国からインターハイやら日本選手権の決勝に名を連ねるような連中が集まるような強豪校だったためか、僕以外に化け物染みた選手は周りにたくさんいたのだ。

 

 

 彼らが歩けば、後輩は道を譲り。

 彼らが練習を始めようとするときは既に練習環境は準備されていて。

 彼らが一本レーンを走る度にフェンス越しの女子やら近くの後輩女子どもが黄色い声援を送る。

 彼らが走り終えたのならばすかさずスポーツドリンク係のような奴が跪きながら差し出す……特権階級持ちの王族か何かか?

 

 

 かたや僕はそんな有名人たちの横を流しで走り抜けるだけで「邪魔だどけオラァ!」、「跡部くんが見えないでしょうがァ!」、「前走るなァこのスカタン!」というマナーの悪い撮り鉄の如き暴言を浴びせられていた。

 

 

 漫画で例えるなら、名門・第三野球部の檜あすなろ率いる3軍と京本直哉率いる1軍並の格差である。

 

 

『今の世代、第三野球部を知っている者は中々いないと思うのだが……せめてキャプテンくらいにしたまえ』

 

「そこはドカベンじゃないのか……キャプテンこそ知っている層は少ないだろうに……いや、まぁ、イイんだけどさ」

 

 

 だけど、こうしてファンレターというものを受け取って見て、分かる事がある。

 レース場やそれ以外の場所から送られるファンの声援にウマ娘は支えられているのだと。

 僕自身がウマ娘にならなければ、この気持ちにはずっと気づけなかったに違いない。

 

 

『これまでキミの走りは、多くの人を魅了してきた。そしてそれは、これからもだ』

 

 若本ボイスを巧みに使いこなしながらミスターXは言う。

 

 

『稲妻のように現れては卓越したスピードでターフを駆けていくブラックサンダー。距離適性の壁に挑む果敢な稲妻の存在は間違いなく今のトゥインクルシリーズを熱狂させる中心となっている……それゆえに、今後キミへのマークは厳しくなるだろう。私が問うのは一つだブラックサンダー……ダービーという一つの山を越え、三冠最後の菊花賞を挑む前に稲妻が

辿るレースは――――』

 

 

 要約、『次のレース、予定ある?あるなら聞くよ?』である。

 なんとももったいぶった言い草だ。ダークソウルの登場人物のセリフ並にややこしい。

 だけど、そのミスターXの問いに対する答えを僕は既に持っていた。

 

 

「宝塚記念だ」

 

『……やはり、そうくるかね。いいかね、6月の阪神レース場に集うウマ娘達はダービーの時のようなクラシック勢だけではなく、連戦錬磨のシニア勢とぶち当たる事になる。

 肉体的な差と相当な場数を踏んだ連中を相手にすることになるぞ、それでも往くか』

 

 たしかに、宝塚記念はクラシック、シニアと出走するウマ娘が入り混じる。

 トゥインクルシリーズ前半戦を締めくくるにふさわしいファンに選ばれた者達だけが出走できる名誉あるG1のグランプリレースだ。

 

 力の差は歴然。

 レースの場数も、小手先も、僕の知らない技を見せてくる娘もいるだろう。

 

「それでも、だ」

 

 

 僕の答えはただ一つ。

 それでも、僕の足は怯むことなく、その瞳は揺るぐことなく宝塚記念へと向いている。その理由は――――、

 

 

「あのウマ娘が……〝ミホノブルボン〟が宝塚に出るというのなら。彼女と決着を付けなければ」

 

 

 スペシャルウィークラピュタ式落下事件やら、ブラックサンダー抱かせろ事件から少しの時間を経て、〝ミホノブルボンが()()()()()()()()()()()()()()()()退()()()〟トゥインクルシリーズを揺るがす衝撃のニュースが駆け巡った。

 

 トゥインクルシリーズを引退し、ドリームトロフィーリーグに移籍するのではなく、レース業界から去ると宣言したのである。

 

 

「僕は既に宝塚記念に向けて動き出している。日本ダービー以降からメディアへの露出も多くなってきてるし、ファンの前でイベントを行う機会も増えた。

 SNSやウマチューブを活用した手作りお弁当チャンネルを開設し、他のウマチューブをしているウマ娘とのコラボ動画を作る事で票獲得へむけた取り組みもしている」

 

『キミがSNS活用すると犯罪沙汰にならないか未だに心配なのだが』

 

「大丈夫だ、問題ない。アカウントが凍結されたときの為の裏アカウントは三つ用意しているからな」

 

『不祥事が起きた際の対応策の事を聞いているのではないのだが』

 

 イーノック的には問題ない、安心してほしい。

 確かに、僕という台風の目とも呼ぶべきウマ娘がSNSを使って活動するのは些か危険と思われてしまうかもしれない。

 SNSというものを扱う以上、僕は正しくガイドラインに則って活動することを心掛けている。

 イロハはカレンチャンに叩き込まれている。心配は無用だ。

 

 

『そういえば、キミはエルコンドルパサーとどうやって決着をつけるつもりだ』

 

「ん?ああ、話は聞いていたのかよミスターX。本来、僕が正月でエルコンドルパサーを煽って取り決めたんだけど実際どのレースで白黒つけるかまだ決めてないんだ」

 

 

 今年の正月、グラスと僕の関係を怪しんだ事によって生じかけた友情崩壊を未然に防ぐべく演じたあの悪役。

 『僕に勝利することでグラスワンダーを取り戻す』と決意を固めたエルコンドルパサーだがレースの指定は未だに無い。

 日常的にも普通に僕と会話してることもあるから、なんか最近は僕と約束した事も忘れられている気がしてならない。

 

 

「あのエルコンドルパサーなら、あり得るかもしれない……もしくは、僕の動きを待っているのか」

 

 

『ふむ、この事をエルコンドルパサー陣営がどこまで話を進めているかだが……そこでどうだろう、ヒールを気取って戦いを吹っ掛けたのだからこちらからレースを指定しては』

 

 ミスターXの言葉に腕を組んで考える。

 それもいいかもしれないと、想いながら。

 自分は基本的に挑戦者でもあり、同時に襲い掛かる敵を迎え撃つ側でもある。

 プロレスのような舞台形式をエルコンドルパサーが好むのであれば、こちらからレースを指定して、待ち構えるのも一つの手段だろう。

 

 ヒール役を買って出たのであればその内容は徹底的にやろうじゃないか。

 

 

「毎日王冠」

 

『ほう』

 

 毎日王冠はG2のレースで距離は1800mとマイルの距離だ。

 このレースを挙げたのは理由がある。

 それは、距離適性。

 エルコンドルパサーは世界に羽ばたいたウマ娘、その距離適性はマイル、中長距離、ダートと幅広い。

 その中で僕が勝負できるのはスタミナを気にしない2000m以下のマイルレースくらいだろう。

 

 ジャパンカップとかの2400mとかにしたら確実に負ける自信がある。

 そしてエルコンドルパサーは今年のレースは既に重賞を含めて4勝という戦績だ。ノリに乗っている。

 油断も隙もありはしない強敵だが、今の僕にとって挑む価値のある敵なのだ。

 

 

『もしこのレースが実現するならば、エルコンドルパサーが黄金世代の最初の相手になる……しかし、毎日王冠か…思い出す』

 

 ミスターXは一息。

 仮面から窺えないがその瞳はどこか懐かしむ様に遠くを見ているような気がした。

 

『逃げウマ娘、ブラックサンダー。そしてそれを追う怪鳥・エルコンドルパサー……そして毎日王冠、サイレンススズカとエルコンドルパサー、グラスワンダーというウマ娘が一堂に会したあの日をだ』

 

 

 あの『異次元の逃亡者』、サイレンススズカと怪鳥・エルコンドルパサー、怪物・グラスワンダーが競った、毎日王冠。

 ファンの記憶には一生残った最強の逃げウマ娘による逃亡劇場、伝説のG2レース。

 

 

 僕と、グラスワンダーにとっての、本当の始まりとなった敗戦で。

 トレーナーとして、色々と考えさせられるようになった想い出のレースだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




試合ローテーション
6月 宝塚記念  9月 毎日王冠 

お前、この流れから菊花賞いくのかよ。せめて2000以上の距離一回踏もうぜ!という声が聞こえる聞こえる...


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42.稲妻は決意する

タイトルなんて飾りなんだよ!内容は基本ギャグです。
今回のチャンミはですね……Aグループ決勝始まる直前に完成したSSグラスちゃんがラスト全てをぶち抜いて中距離初のプラチナゲットです。やはり加速ガチャ、加速ガチャが全てを解決する……!

クリスマスオグリ?チョコブルボン?それはワシが封じ込めておいた。(運が良かっただけです)


今回は時系列的に40話に関連したお話ですね。


白を帯びた空の果てが徐々に闇を溶かし始めている。

陽は登り、遮る雲の隙間から照らされた近くの小屋からは朝を迎えたことを告げる鶏鳴が響いた。

 

「はっ、はっ、はっ……」

 

 トレセン学園で飼育されている鶏小屋で愉快なモーニングコールを聞き流しながら、青鹿毛のウマ娘ブラックサンダーは一人早朝ランニングに勤しんでいた。

 しかし、そのペースはかなり遅く、車並のスピードで走るウマ娘でありながらその速度は普通の人間よりも遥かに遅いジョギングのペースだ。

 

 

―――『これより次走が決まるまで、キミは暫くトレーニングを禁止にする』

 

 

 僕のトレーナーである、ミスターXが日本ダービーが終わった次の週のミーティングでそう言ったのを思い出す。

 ダービーウマ娘という称号を手に入れるために出走した日本ダービーで僕は4着と言う結果に終わった。

 

 その後、いつものように高熱を出しては寝込んだわけだがダービーで酷使した僕の身体はミスターXが想定した以上に疲弊していたみたいなのか、急遽身体が回復するまではメニューは禁止されたのであった。

 

 

・・・・・実際に脚に痛みが残っているわけじゃないんだけどな。

 

 

 レース後に動けなくなるくらいに疲弊し、三日の療養するほどの高熱を出すこと以外、普段の僕とは変わらない。

 変わらない、筈なのだが、こうしてランニングしていて僕の身体は少しだけ違和感があった。

 

 

 熱が入らない。

 

 

 端的に言えば、そういう感じだろうか。

 エアシャカール的に言わせれば、「だりぃ」、みたいな、五月病にでもかかってしまったんじゃないなかと疑ってしまうくらいに僕のやる気は低かった。

 

 

 

 「日本一を競う舞台に出て、勝利する」。

 それは僕が学生の時に抱いた望み。

 

 

 人間の頃はどんなに努力しても挑むことすらできなかった、全国世代最強を決める戦いに、ウマ娘になる事でその舞台に登り詰めた。

 嬉しかった。

 楽しかった。

 全身の血が湧きたつような、頭の中がショートするかのような、自らの全てを投げ打っているあの瞬間。

 背後から並び立たんとする他のウマ娘達の足音が僕の背を叩いている時。

 

 僕は、一生このままゴールしなければいいと思っていた。

 あの瞬間をカメラで切り取って、永遠に保存していたいくらいだった。

 それくらい、あの日本ダービーは熱くなれて、幸せになれたレースだった。

 

 

 負けた事に悔しさはあれど、僕の……山々田山能としての心は満たされたのである。

 

 

 だからだろうか、あのダービー以降は日常生活において、走る事において、全てにおいて、以前のような熱が湧いてくる事が無くなったのだ。

 燃え尽き症候群という奴だろうか、普通は勝負の熱を思い出して更なる目標を見つけて練習に打ち込めるはずなんだけど。

 

 

 こうしてランニングしていてもどこか身体に重みを感じながら、気分の晴れない状態でゴール地点に辿り着く。

 朝の個人的なメニューは終わりだ。メニューは禁止されてはいるが怠けない程度にやる事は必要だと思って誰にも見られない朝一に走ってはいるのだが……、

 

 

「効果は薄い、よな」

 

 お忍びでメジロライアンが筋力トレーニングをコーチしてくれる「レッツ・マッスル!!」という筋トレ教室に通っているが、講師・メジロライアンからも『ブラックサンダー!どうしたの?マッスルが足りてないよ!?プロテインとトリササミ上げようか?』と言われたくらいだ。

 

 

 

 バーンアウト(燃え尽き症候群)という言葉がある様に、ある一定のレースを境に調子を戻せず、引退へと追い込まれるウマ娘も多いが、まさかそれに自分がなるとは思いもしなかった。

 

 

 いや、もしかしたら時間の問題だったのかもしれない。

 元々、オリンピック選手になるとか、プロのスポーツ団体に入団するとか、そういう道を目指していたわけではなく、ただ日本一を決める華やかな舞台に出たい、というあまりにも簡素でその場限りの夢を追い駆けていた僕には夢を叶えた先の目標が無かったのだ。

 

 

 日本ダービーと言う山を終えて、目標を失った僕がこうなるのは必然だったのだと思う。

 

 

 ならばどうするか。

 レースをするウマ娘にとって気力の部分が大きく削がれている状態が続くのであれば、僕ことブラックサンダーを待っているのは引退と言う二文字だ。

 

 

「今日って一限は……なんだっけ」

 

 

 ランニングを終え、更衣室のシャワーで軽く汗を流し、髪を乾かし、ブラッシングで整え、トレセン学園の制服に着替えると僕はバッグに入れていたクエン酸入りのスポーツドリンクが入ったペットボトルに口を付ける。

 

 クエン酸特有の酸っぱさが口いっぱいに広がるともともと目が覚めていたのに、脳から直接たたき起こされたようなスッキリさを覚える。これならランニングした後に授業でうっかり寝てしまうという事はない。

 

「ん」

 

 

 全国のウマ娘が集まるトレセン学園は非常に広大な敷地を持つ。

 そしてその校舎も外観から内装まで酷く拘っており、この学園を作る際にとんでもない金がかかっている事は間違いないだろう。

 

 しかし、僕はこの学園の敷地内を全て網羅しているわけではない。

 現に、ウマ娘になる前から随分とこの学園には在籍しているわけだが未だに踏み入れたことのない場所も多く存在する。

 

 

 例えば、二階の教室に向かう為の階段にはいくつものルートがあり通常の階段のものもあるが、校舎裏の玄関から入ると目の前には何故か螺旋階段があったりする。

 シャフトの物語シリーズでヒロインが落ちてきそうな螺旋階段だ。作りこみがなんだか違う、世界が西尾ワールドにここだけ切り替わったかのようである。

 

 

 カツン、カツン、と鉄板を踏みしめていく音が響く。

 始業まではまだ時間がある、焦る必要はないのだ、と僕はゆったりとしたペースで階段を上って教室を目指す。

 運動後にシャワーを浴びて、若干濡れた頭部に開けはなれた窓から入り込んでくる風が当たって心地良い。

 

 

 心身ともにスッキリしていく感覚がある。暫くは授業で寝落ちすることは無いだろうと、そんな事を思っていた時だった。

 

 

 室内、螺旋階段の天井は透明なガラスがある。

 そこから真下に向かって陽の光が後光のように差し込んでいるのだが、それを浴びていた僕の視界にいきなり影が差したのだ。

 

 

「――――」

 

 不意に暗くなって、顔を上方へと向けた僕は口を空けたまま、飛び込んできた光景に目を見開いた。

 天井のガラスの光が重なっていたが、それは確かに人の影だった。

 

 

 目視でも30m程先にあった影は次第にその形を大きくしていく。

 間違いなく、接近して来ていた。というか、もう落ちていると言ってもいい。

 

 

「おっ、おっ……は、はぁっ!?」

 

 

 空から人が落ちてくる。

 そんな天空の城のヒロインのような、物語シリーズのヒロインのような状況に出くわした僕は運動後の覚醒した脳内で最速の判断を下した。

 

 

 

 避けるより正しい判断、だっただろう。

 いや、()()()()()()()()()()()()()

 

 

「お、お前は……スペシャルウィーク!!」

 

 

 何故なら、そのウマ娘の少女……スペシャルウィークの体重は()()()()()()()()()()()()だ。

 

 

 

 ウマ娘である僕でなければ、常人よりも骨格、筋力で優れているブラックサンダーの身体でなければ、受け止められなかっただろうが。

 空から落ちて来たシータを受け止めたパズーのように、スペシャルウィークごと落下しそうになる身体を踏ん張って、なんとか耐える。

 

 

「う、うぅ……」

 

 体力を半分ほど持っていかれるほどの消費をして、スペシャルウィークの顔を覗き込んだ僕は自身の顔をしかめた。

 

 

 酷く、酷く顔色が悪い。

 頬が少しだけ、痩せこけている。

 額に手を当ててみるが、熱を出している様子はない。

 

 

 だが、軽い。

 スペシャルウィークの体重がとても軽いのだ。

 触れただけでウマ娘の体重を言い当てられる僕が危惧するほどに、体重が無いのだ。

 

 

 

 ぎゅるるる……

 

 

 しかし、原因は明確である。

 その制服越しの腹部から唸りをあげている音が空腹状態を示していた。

 だが、いくら大食いのスペシャルウィークであっても、朝や前日のご飯を抜いた程度でこのような状態にはならないはずだ。

 

 

「無理な減量でもしてるのか、スペシャルウィーク……」

 

 

 いくらレースにウェイトという要素が足枷になる事を考えていたとしても、これはやり過ぎだ。

 トレーナーはちゃんと彼女の栄養管理を行っているのだろうか。

 

 

「……あ、あれ、私なんで」

 

「気付いたのか、スペシャルウィーク」

 

 瞳を数度瞬かせて、力の無い声とともに視線が交わった。

 数秒ほど見つめて、相手が僕だと気づいたスペシャルウィークは次にとんでもない事を言うのである。 

 

 

「グラスちゃん、の……トレーナー、さん…?」

 

「!?」

 

「なんで、グラスちゃんのトレーナーさんが、ここ、に?」

 

 力のない声で、スペシャルウィークがそう続ける。

 僕は戸惑う。何故、彼女にはウマ娘ブラックサンダーの名前ではなく、山々田山能の名前を口にしたのか。

 

 

 

・・・・・見えているのか、僕の本当の姿が。いや、いままで学園で僕の姿について言及してきた奴は一人もいないが……幻覚を見ているのか。

 

 

 自身の肉体が一時的に戻った事はない。

 犬夜叉が新月の日だけ人間になるような事もなければ、僕の肉体はいつでもウマ娘のままだ。

 僕はスペシャルウィークが空腹で幻覚を見ているという可能性に懸けた。

 

 

「どうしたんだ、スペシャルウィーク。急に空から落ちてくるとか、お前は物語シリーズのヒロインか?」

 

 

 夢ならば、夢のままで押し通そう。

 

 

 幸い、ここにいるのは僕とスペシャルウィークだけ。

 後で彼女が学園に『グラスワンダーのトレーナーが帰って来た!』と吹聴しても、この現場を見た第三者が居ない限り、その証言に信憑性はない。

 あえて、トレーナーとして僕はスペシャルウィークと接することにした。

 

「あ、朝から頭がぼーっとしてて、私、教室に行こうとしたら……バナナの皮で滑って…」

 

「このご時世にそんなギャグマンガのようなコケ方をしたのかよ!?」 

 

 

 この学園でまさか本当にバナナの皮で滑る奴がいるとは思わなかった。 

 ポイ捨ては本当に良くない、そして僕は今日、彼女が滑る原因となったバナナを捨てた犯人を決して許さないだろう。

 

 

「僕と一緒に良い所に行こうか、スペシャルウィーク」

 

「ど、どこに行くんです、か」

 

 弱り切っているスペシャルウィークは僕の両腕に抱かれたままだ。もはや、抵抗する気も無いようである。

 

 

 今の彼女だったら、きっとされるがままだろう。

 

 

 好都合だ。

 口の端を少しだけ上げると僕はスペシャルウィークを抱いて、階段を上っていく。

 ウマ娘の肉体を手にしただけあって、この程度の階段をウマ娘一人抱いたまま上るなど、僕にとって造作もない。

 

 

 

「素敵な所だよ」

 

 

 

 

 

 

 

 だから僕は、スペシャルウィークを人気の無い部屋へと連れ込んだ。

 

 

 

 

 

 

 だから僕は、スペシャルウィークを人気の無い部屋へと連れ込んだ。

 

 

 

 

 

 

 だから僕は、スペシャルウィークを人気の無い部屋へと連れ込んだ。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 身体の弱ったウマ娘が転がり落ちる可能性のある階段に放置するのはとても危険である。

 

 

 そう思って僕が向かった先は、トレセン学園の保健室だった。

 保健室の職員は不在だったためか、鉢合わせることなく、僕はスペシャルウィークに購買で購入したゼリー飲料を飲ませてからベッドに横たわらせた。

 

 

 少しだけ胃の空腹感を満たせた彼女は、今は静かに寝息をたてて眠っている。

 

 

「すぅ……すぅ…」

 

 

 日本の総大将。

 グラスワンダーの最強の宿敵、スペシャルウィーク。

 トゥインクルシリーズを熱狂させた、〝黄金世代〟を築き上げたウマ娘の1人。

 

 

 そんな彼女が、何故ここまで自らを追い込んでいたのかは()()()()()()()()()()

 

 

 だけど、保健室に向かう道中で、

 

 

『グラスちゃんのトレーナーさん、ごめんなさい、私、グラスちゃんの力になれなくて……』

 

『グラスちゃんを助けてあげる事が出来なくて……』

 

『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……』

 

 

 消え入りそうな声で、何度も謝罪された。

 泣きそうな声で、何度も、何度も。

 

 

 

 

 僕は正直、スペシャルウィーク達の事を憎んでいた。

 〝達〟、というのは、彼女を指導しているトレーナーも含めてだ。

 

 

 グラスワンダーにとってスペシャルウィークはトゥインクルシリーズにおいて、切っても切れない存在だった。

 彼女達も、それを指導していた僕達トレーナーもバチバチになっていて、一時不仲説が上がったほどである。

 

 

 実際のところはグラスワンダーやスペシャルウィークも特に親友としての交流は続いていて、僕達トレーナーも睨み合いはしたけれども年末の飲み会ではサシ飲みとカラオケで夜を明かすくらいの仲であった。

 

 

 お互いを認め合える、ライバルの()()だった。

 

 

 だけど、グラスワンダーがレースで成績を落とし始めるようになった同時期にグラスワンダーとスペシャルウィークがやたらと大食いイベントへ参加をするようになり、それがグラスワンダーを貶めるスペシャルウィーク陣営の作戦だったのではないかと思ったのだ。

 

 

 あれ以来スペシャルウィークのトレーナーとは話をしていなかったし、学園で見かけはしても、今はウマ娘の姿だから声も掛けられないし、何も分からず仕舞なのだ。

 

 

 だけど、さっきのスペシャルウィークの言葉に僕は考えを改めさせられた。

 元々、スペシャルウィークは田舎からきたウマ娘だが、真っすぐで、正直で、レースに対して熱い想いを秘めている。

 そんな想いを持つ彼女がグラスワンダーを乏しめるような事をするとは到底思えないのだ。

 

 

「今季のスペシャルウィークのレースは……まだ勝利ナシ」

 

 それは、今年になってからのスペシャルウィークの戦績。

 以前のような追い上げや力強い走りが見られなくなるほどの不調を窺わせるレースの内容ばかり。

 

 

 この極端な減量と今の不調、そしてグラスワンダーとの一件には大きな関りがある気がしてならなかった。

 

 

 

 ならば、僕はトレーナーとして、一人のウマ娘として、グラスワンダーとスペシャルウィークの交友関係を見守る者として、するべきことは一つである。

 

 

「まずは、データだ……データを集めなくては」

 

 

 この弱体化したスペシャルウィークの現状がどれほどに危険な事を彼女のトレーナーに突きつける必要がある。

 スペシャルウィークの年代のウマ娘の平均体重や練習メニュー、そしてメンタルのケアがいかに足りていないかを把握しなければならない。

 

 

 僕はもう一度、復活したグラスワンダーとスペシャルウィークの最強対決を見たいのだ。

 あの有馬記念のラストのように、トゥインクルシリーズを熱くさせたレースのように。

 

 

 それを望む者の1人なのだ。

 こんな所で落ちてもらっては困る。

 

 

「そのために――――僕は、多くのウマ娘を抱く」

 

 

 

 拳を握りしめ、決意を固め、保健室を後にする。

 ウマ娘ブラックサンダーはその謎を解明すべく、多くのウマ娘を抱く為にトレセン学園の奥地へと向かうのだった。

 

 

「ビワハヤヒデ、お前、今日学園でバナナを食べたりしなかったか?」

 

「どうしたブラックサンダー、たしかに私はよくバナナを食べるがそれはあくまでバナナが理想的な栄養素を豊富に備えているからであって。〝好物だから〟という短絡的な理由ではなく―――」

 

「いいかビワ―――バナナ先輩。間違っても学園内でバナナを食べても、そこら辺に投げ捨てるんじゃないぞ」

 

「待て。何故言い直した。というか、バナナ先輩はやめろ!」

 

「琵琶羽矢秀」

 

「文字も直せ文字も!」

 

 何故かビワハヤヒデはとばっちりを食らった。

 

 

 

 




亀更新で済まない。許して。
GW中に何話か作りたいけど、そろそろ本篇行きたい……でも、あともう一個強烈なの作りたい気持ちでいっぱいです。許して。


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43.碧い薔薇の魔法使い

チャンミが終わりましたね。もう少ししたらまたチャンミが始まりますね。
因子厳選終わってないよ。キャラも出来てないよ。時間が足りなすぎるよ。

なんでブライダルガチャにグラスがいねぇんだよ!?(サイゲの)教え(アプデ)はどうなってんだよ教え(アプデ)は!?


???「これがサイゲの本質だ……グラスファンの期待をを影で裏切っている」


コケにしやがって……くそったれ!



やっていこうぜ新章、宝塚!


 

 

 本日最高潮に達したであろう日照りがトレセン学園の生徒達を照らす。

 生徒達の多くが見られるのは、学園に所属する整備員の者達が生徒達が毎日使用できるように手入れをしているレース場だ。

 

 

「だあああああ!!」

 

「だあああああ!!」

 

 

 その芝のコースを元気の良い声で駆け抜けていくのは二人のウマ娘。

 葦毛と栗毛のウマ娘が互いに競り合うようにして速度を落とさず、コーナーを回り、直線へ。

 

 身の丈は小さな少女たちであっても、ウマ娘はその脚で時速60kmのスピードで走ることが出来る。

 地を蹴る音は確かに土を跳ね上げて、後ろの方へ吹っ飛ばしていく。今日も、整備員たちの仕事は大変な事だろう。

 

 

「がんばれ……がんばれ」

 

 

 練習場に設置されている2000mのゴール付近で待つ少女はトレーナーではなく、青鹿毛のウマ娘だ。

 背は低く、今併走しているウマ娘達よりも同じくらいの少女は二人をそう呟きながら、自身の手にあるストップウォッチをきゅっ、と握る。

 

 

「うぉあっ!」

 

「どぉらっ!」

 

 併走するウマ娘二人は、もつれ込むようにゴールへ。

 しかし、勝敗が決するのを青鹿毛のウマ娘は確かに見ていた。

 クビ差で、栗毛のウマ娘の少女がゴール板へと入り込んでいるのを。

 

 

「ぬぁああああ!負けたぁ!!」

 

「ヨシッ!!15戦5勝5敗5引き分け!追いついたッ」

 

 併走していた葦毛のウマ娘もその結果には気付いたようで、悔しさからかゴールした直後にも関わらず思わず声をあげている。

 栗毛のウマ娘は久方ぶりの勝利にはにかみながら拳を握ってガッツポーズ。

 

 

 それを見た青鹿毛のウマ娘、手に握ったストップウォッチを見て、彼女もまた笑みを浮かべた。

 互いに意識し合える関係と言うのはここまで練習に良い効果をもたらすのだな、と再認識する。

 

 

「ら、ライスお姉さま!今のタイムどうだったかな!?」

 

 と、勝利した栗毛のウマ娘が息を切らしながらライスと呼ばれるウマ娘の元へ。

 

「わ、私は!?この前と比べて、どう!?」

 

 葦毛のウマ娘も続くように聞く。

 慌てないでね、と彼女達にも、自分自身にも言い聞かせるようにゆっくりと、だがはっきりとした口調で青鹿毛のウマ娘は言う。

 

 

「うん、たーちゃんもそーちゃんも前の併走時よりもタイム伸びてきてるよ。たーちゃん、力みない走りで凄いリラックスしながら走れてた。最後の加速、とっても良かったよ」

 

「わーい!」

 

「そーちゃん、序盤から無理に行き過ぎ。多分呼吸が今も乱れてるのは、最初の1000mで力使いすぎちゃってるから。

 でもね、そこから最後まで粘れるのはやっぱそーちゃんの凄い所だよ。ペース配分が分かってくれば、もっと速くなると思うんだ」

 

「は、はい!じゃあ、たーちゃん、もう一本やろう!今度こそ負けない!今すぐ勝負!」

 

「ふ、二人とも、その前にちゃんと休憩挟んで。か、身体壊しちゃうから」

 

 

 まだ二人は、デビューにも選抜レースにも出すことが出来ない。

 トレセン学園に入学して来た生徒であっても、身体の作りが未成熟な子によってはトゥインクルシリーズを走るのは怪我に繋がりかねないのだ。

 伸びしろはある。だからこそ、怪我をしないように大切に育てていかなくてはいけないと、自身のトレーナーとはそういった練習方針を固めている。

 

 

 メニューはトレーナーと一緒に考えたなるべく負荷の掛からないものを。

 併走させることでタイムの伸び縮みを競わせるような負荷の掛かるメニューは本数を決めている。

 練習時に二人が無理しないようにサポートするのは、自分の役目だ。

 

 

「このメニューはあと一本。次は体幹トレーニング。走る前に、二人とも水分補給して来てね」

 

 はーい、と二人のウマ娘はベンチ付近に置かれているジュースの方へ歩いていく。

 足の歩きにもふらつきは無いし、怪我を隠しているような素振りもない。

 本当に異常が無いのだな、と安心した少女は小さく息を吐いて胸を撫でおろした。

 

 

 

 二人のウマ娘の面倒を見ているウマ娘―――ライスシャワーは自ら進んでトレーナーのサポートをしている。

 トゥインクルシリーズを走る事を夢見る後輩たちを支えるのが、今のライスシャワーの仕事だ。

 

 

 ライスシャワーのチームはトレーナーが一人、そしてサブトレーナーが一人。

 そして所属するウマ娘はライスと、先ほど走っていた栗毛と葦毛のウマ娘だが、ライスはサポートに徹する為に実質は二人だ。

 

 

「とっと、今のうちに……」

 

 ライスシャワーはペンとバインダーを取り出すと、先ほどの二人が併走時に叩き出したタイムを記入していく。

 併走時はウマ娘の競い合う本能が刺激されてタイムが伸びるというが、この二人は競い合う事で相乗効果が起きて毎日タイムを更新している。

 他のチームで言うところのウォッカとダイワスカーレットのようなガチガチ感は無いが、お互いがライバルであることを認め合っている印象がある。

 

 

 自分が出来る事は、彼女たちが本気で喧嘩してしまわないように、怪我に繋がるような事を行わせないように見守るだけだ。

 

 

・・・・・でも、やっぱり……こういう関係って、いいなぁ。

 

 

 幼さ、と言うのか。

 それとも、二人の姿を過去の自分に重ねていたか。

 自然とライスシャワーが微笑みを浮かべる。

 自分が多くのライバル達によって強くなれたように、彼女達にも素晴らしいライバル達と巡り合ってほしいと願わずにはいられない。

 

 

 

 

 

 その日の練習終わりの事である。

 

 

「ねぇ、たーちゃん。ライスお姉さまって、やっぱ凄いよなー」

 

「だよね、そーちゃん」

 

 

 一通り練習メニューを終え、道具を片付けている最中、部室で洗濯籠にタオルを入れていたライスシャワーは目の前二人がそんな話をしだすのを聞いた。

 

 

「あの未来から来たスーパーサイボーグ・ミホノブルボンさんと菊花賞のレースで勝って、当時現役最強ステイヤー兼スイーツ怪人のメジロマックイーンさんの天皇賞春で勝ってるのって、凄い事だよね」

 

「私、トレーナーからその時のレース映像見せてもらったけど、やっぱ気迫が違ったよたーちゃん」

 

「うんうん、こう、なんだろう、絶対についていく、逃がさない、ついていくって鋼の意思を感じた」

 

「え、えーっと……なんか私の話されると恥ずかしいな……そ、それにそんな大したことじゃないし」

 

 なんだろう、事実なんだけど、一部脚色が入りまくっている気がしたライスシャワー。

 目の前で自分の事を嬉々として語っているのを見て、恥ずかしくならないわけがない。

 すぐに二人の会話を切り上げようと思ったが、

 

「違うよお姉さま!大したことなくなんてないよ!」

 

「ライスお姉さま、カッコよかった!カッコよかった!なんか、こう、すごく……凄くカッコよかった!」

 

「そーちゃん、語彙力!!語彙力!!」

 

「~~~~~ぅぅ……お、お兄様とお姉様以外で褒められたことないから、慣れないよぉ。

 あ、あと、前から思ってたんだけどなんでライスの事、〝お姉さま〟って呼ぶの?」

 

 ライスシャワーが自分のトレーナー達を「お兄様」「お姉様」と呼ぶことをお願いした事はあっても、自分より下の子たちにそう呼んでほしいと頼んだことは無いのだが。

 

 

 

「私達にとってライスお姉さまは追いかける目標なの!」

 

「生まれも地方から来た私達がこの中央のトレセン学園に入ろうと思ったのは、ライスお姉さまのレースを観たから!」

 

「いつかたくさんのレースに出て、たくさんのG1レースで賞を取って!」

 

「いろんな人たちに私達のレースを観てもらって!」

 

 

 栗毛と葦毛の少女は交互に言葉を紡ぎ、言う。

 

 

「いっぱいの勇気を与えられる、ヒーローになる!」

「いっぱいの勇気を与えられる、ヒーローになる!」

 

 

 

 ほぼ同時に、示し合わせたかのようなタイミングで。

 二人の少女たちの決意に満ちた顔を見て、ライスシャワーは嬉しさを隠せなかった。

 嬉しくなって、溢れ出しそうな涙をぐっとこらえて、それを見られないように、ライスシャワーは二人のウマ娘を両腕で抱きしめた。

 

「ありがとう、ありがとね」

 

 自然と頬が緩むのは、純粋な真心で自身の事を慕ってくれていることへのライスシャワーが抱く、心からの感謝だった。

 

  

 ライスシャワーはレースを走っていた時、周りの言葉に傷つきながら、怯えていた。

 

 

 何度も走りたくないと思ったし。

 何度も走ること自体が嫌いにもなりかけた。

 

 

 でも、やっぱり走るのはやめられなかった。

 自分に走って欲しいと願う者達が居たから。

 自分の気持ちにも向き合って、自分は再び走り始めたのだ。

 

 

 

「ライス」

 

「お兄様……?」

 

「夜遅くまで俺の手伝いをしなくてもいいんだぞ。あまりパソコン操作事態も慣れてないんだから、疲れたろ」

 

 練習は終わり、トレーナー室の時計は既に夜の六時を回っている。

 陽は既に落ち、学園の外灯が暗がりの庭を照らしていく光景がライスシャワーの目に入って来た。

 トレーナーの業務の手伝いをするならば、事務系作業も積極的に行う。

 チームの練習メニューの管理、ドリンクづくり、道具の手入れは今ではライスシャワーの日課となりつつある。

 

 

 『2000mタイム記録表』と打ち込まれているExcel画面を開いていたライスシャワーの向かいデスクに座る男性が鷹のように鋭い視線を向ける。

 ライスシャワーは自身のトレーナーからそんな視線を向けられても一向に怯むどころか、柔和な笑みを浮かべて見せた。

 

「大丈夫だよ、お兄様。ライスね、ライスを目指してくれるあの娘達の為に少しでも頑張りたいんだ」

 

「そっか……」

 

 体躯ががっしりとしていて、眼つきも猛禽類を思わせる鋭さから他者から畏怖の対象として見られがちな自分のトレーナーだが、

 このトレーナーが虫も殺せない優しい人物だという事を理解している。だからライスシャワーは柔和な笑みを浮かべて見せた。

 

 

「ライスちゃーん!」

 

「お姉さま!?」

 

 快活な声とともに扉が開け放たれれば、スーツを着た金髪の女性が無数の紙袋を手に入ってくる。

 口に棒つきのキャンディを咥えている女性はライスシャワーのチームのサブトレーナーで、運営しているトレーナーとは兄妹関係だ。

 兄と同じく、眼つきの悪さが遺伝してはいるが彼女はライスシャワーの前では目じりが垂れるほどの豹変ぶりを見せる。

 

 

「ライスちゃん、今日もまだ時間あるよね?あるって言って!今アキバからライスちゃんに似合うロリータファッション買ってきたんだけど、これ絶対ライスちゃんに合うから来て欲しいんだぁ!!」

 

 

 目の中にしいたけ……ではなく、嬉々とした様子で瞳を輝かせたサブトレーナーが紙袋から取り出した複数のロリータ系の服を取り出しては鼻息を荒くしながら見せつける。

 

 

「この前のハロウィンの勝負服もメチャクチャ可愛かったんだけど、私はもっとカワイイのもあると思うの!

 地雷系の黒、情熱の赤、無垢の白、あぁ、巫女服も良いわ!ウララちゃんとお揃いで着物もいいわッ!兄貴もそう思うでしょ!?」

 

「ああ、ライスは何を着せても似合うよ。俺にはそれが分かる……俺はライスのお兄様だからな」

 

 妹に同意を突如求められた兄は、パソコンの操作を一時中断して腕を組んで頷いた。

 サブトレである妹も同じく腕を組んでは胸を張り、

 

「私だって、ライスのお姉様なんだけど?」

 

「だからなんだ?俺はお兄様だ」

 

「で?私はお姉様だけど」

 

「俺はお兄様だ」

 

 

 無限ループが始まる瞬間をライスシャワーは目撃した。

 二人は隙あらば我こそはライスシャワーの兄、姉であることを見せつけてくる。

 しかも、自分だけでは飽き足らず、周囲の人間にまで。

 

 

 学園には自分のトレーナーに特別な呼び名をされても相手は受け入れてスルーするくらいだが、この二人の場合は「お兄様」、「お姉様」であることに大きな使命感をその心に宿してしまったようで。

 

「ふ、二人とも、喧嘩しないでぇ!」

 

 二人はライスシャワーにとって、特別な存在だ。

 トゥインクルシリーズという舞台に飛び込むのを後押ししてくれたのはこの二人だし、菊花賞や天皇賞春のブーイングの時は二人が身を張って守ってくれた。

 彼らはライスシャワーの夢を笑うことなく、応援し続けてくれた。

 

「俺がお兄様だぞッ!」

「私がお姉様だぞッ!」

 

 

 血縁の関係は無くとも、まるで本当の家族のように見守ってくれて、毎日を楽しく過ごせている……ライスシャワーはそれだけでも幸せだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

題名:『碧い薔薇の魔法使い』

 

 

 

とある山奥に小さな魔法使いがひっそりと暮らしていました。

 

 

その魔法使いは、心の底から人々の幸せを願い、不思議な力で人々を幸せにする行いをしていきました。

 

 

最初は町の人々から怖がられた魔法使いでしたが、その行いはやがて人々に認められていく事になります。

 

 

街を襲う大嵐を自らの魔法で掻き消した時、魔法使いは感謝され、多くの人々に愛されるようになり、幸せに暮らしていました。

 

 

だけどそんなある日、大事件が起きます。魔法使いは怪我をしてしまい、魔法が使えなくなってしまったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




そーちゃんのウワサ:棒倒しは初手で相手をキルできるらしい。
たーちゃんのウワサ:自作したそーちゃんのキーホルダーがあるらしい。

お兄様のウワサ:初めて理事長を涙目にしたらしい。
お姉様のウワサ:メイドの作法にやたら詳しいらしい。


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44.心に降る雨

いつも感想やご指摘、ありがとうございます。


 

――――京都レース場。

 

 淀の坂と呼ばれる高低差4.3メートルの坂が存在するレース場は異様な熱気に包まれていた。

 観客席は下から上まで全てが埋まっており、この日を待ち望んでいたかのような顔を浮かべてその視線をこれから入場するであろうウマ娘達の立つターフへと注いでいる。

 

 

 今日はトゥインクルシリーズの前期総決算とも呼ばれるG1レース、『宝塚記念』の日だ。

 通常のG1レースとは異なり、前期におけるファンからの投票によって出走権利を得られるウマ娘にとって栄誉あるグランプリレース。

 

 

「ライス、体調の方は?」

 

「もう、お兄様は心配し過ぎだよ。パドックでもウォーミングアップの時も大丈夫だったんだから」

 

 

 レースの始まりはまだ先で、控室にて勝負服を着替え終わった矢先。

 その待ち時間にてライスシャワーとトレーナーはいた。

 トレーナーはやけに心配した顔である。

 いつもは「頑張ってこい」と送り出してくれるのだが、今日は何かを感じ取っているのかライスシャワーの身を案じる言葉ばかりだ。

 

 

「お兄様、前のレースで……天皇賞春でライスが疲れてないか心配なんだよね?

 たしかに、あの後は脚も重かったし、少し走りづらかったけどお兄様のメニューはこなせたし、今日は体調だって良いから!」

 

 

 メジロマックイーンの春の天皇賞3連覇という偉業を阻んだライスシャワーのその後のレース戦績は不調だった。

 その年の瀬の有馬記念には出れたものの、次の年のレースも振るわなかった。

 だが、ライバル達との懸命な特訓の甲斐もあり、ライスシャワーは再び天皇賞春にて出走し、1位を掴み取り、復活を遂げた。

 

 

「それに、ライスは応えたいんだ……ライスを選んでくれたファンの皆の期待に」

 

 

 復活を遂げた天皇賞春で、ライスシャワーの勝利をファンの誰もが祝福した。

 ゴール直後に京都の空へと舞った色鮮やかな紙吹雪の光景と、割れんばかりの歓声をライスシャワーは今でも思い出すだけで、胸が暖かくなる。

 

 ヒールと呼ばれ、関東の刺客と呼ばれていたウマ娘、ライスシャワーはそこにはおらず、ただ復活を待ち望まれていたウマ娘、ライスシャワーがいた。

 

 

 だからこの宝塚記念も、1番人気で選んでくれたファンの為にもライスシャワーは絶対に走ると決めていたのだ。

 疲れが残っていたとしても、自分を支えてくれた者達に応えるために、強い意志で走ると。

 

 

「ライスはね、ライスを応援してくれるたくさんの人の為にがんばるから!」

 

 ライスシャワーの言葉に不安を覚えていたトレーナーとサブトレーナーは次第に顔を明るくして、いつもの調子に戻った。いつもの笑顔に戻るとそのままライスシャワーをレース場へと送り出してくれた。

 

 ライスシャワー自身もレース場のスタッフに呼ばれて、地下通路へと向かって行った。

 

 

 

・・・・・皆、見ててね。

 

 

 スタート地点のゲートに次々とウマ娘達がゲート入りしていく中、ライスシャワーは観客席を見る。

 トレーナーや、サブトレーナー、理事長やメジロマックイーンやミホノブルボンなどの見知った顔もある。

 

 周囲の視線にもう怖気づく事は無くなった。

 今はただ、その人達の期待を背負って走りたい。

 

 

『さぁ、今年もあなたの、そして私の夢が走る宝塚記念がスタートします!』

 

 

 そして勢いよくゲートが開くと同時、ライスシャワーは力強く地を踏み込んでターフへと駆けだしていった。

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 雨が降っていた。

 それは昼の快晴が嘘のように、太陽は雨雲に遮られ、大粒の雨水が地面を叩き始めて。

 突如として振り出した大雨に外にいた者達は身を濡らしながら慌てて近くの建物へと避難する。

 

 

「……」

 

 外でチームの備品の買い出しをしていたライスシャワーも、その一人だ。

 

 

 しかし、建物ではなく、ライスシャワーは近場の公園へと逃げ込んでいた。

 練習で傷んで使えなくなったタオルの補充やドリンクの粉、たーちゃんとそーちゃんの要望品などが入った袋を屋根付きの休憩エリアに設置されている椅子の上に置いている。

 袋は縛っているので水が中に入るのを防いでいたのか、中身はまだ濡れていない。だが、ライスシャワー本人はずぶ濡れだ。

 

 

 勿論、今日の天気予報を見ていなかった訳ではない。

 この時間帯に振ってくるだろうという事はライスシャワーも把握し、トレセン学園の購買部で買ったビニール傘を携行して買い出しへ繰り出した。

 しかし、ビニール傘はライスシャワーが買い物中に置いていた傘立てからいつの間にか抜き取られており、雨が降る前にタクシーで帰ろうとしたところ小銭袋をどこかに落としてしまい、トレーナーに連絡をしようにもスマホの電源が落ちるという事態に見舞われ、あれよあれよと時が経ち、結局ずぶ濡れが避けられない現状となってしまう。

 

 

「不幸……だ」

 

 と、心の底からライスシャワーは思っていた事を口にした。

 この負の連鎖に見舞われるのなんて、右手に幻想殺しを宿したラノベ作品の主人公みたいだ。

 普段からこういったトラブルに見舞われ続けている事なんて、日常茶飯事で慣れてきたものだが、今日はタイミングが悪い。

 

 

 ()()()、というか――――今日までに色々とあり過ぎたのだ。

 

 

 

 

『ミホノブルボンさん!今季限りでトゥインクルシリーズを引退するというのは本当ですか!?』

 

『はい。私、ミホノブルボンは次の宝塚記念を最後にこのトゥインクルシリーズを引退します』

 

『トゥインクシリーズ引退後は、ドリームトロフィーリーグへの移籍、という事でしょうか!?』

 

『……いいえ、ドリームトロフィーリーグには移籍しません。私のレース人生は宝塚記念がラストレースとなります』

 

 

 ミホノブルボンの勝利したレースで突如として宣言された彼女の引退宣言。

 菊花賞後のレースで復帰して、その年の有馬記念にも出場し、勝利もした復活のウマ娘、ミホノブルボンの記者会見はトレセン学園とレース界を揺るがした。

 

 

 ライスシャワーは訳が分からなかった。

 なぜ、彼女が引退を決意したのか。

 大きな怪我もしているようには見えない。

 ここ最近の状態も全てが好調で、引退を示唆するような要素は何一つなかった筈だ。

 

 

 自分にも相談も無く、彼女はそう決めてしまった。

 そしてメディアにも大きく宣言してしまった。

 

 

―――『もう一度、貴女と一緒に走りたい』。

 

 

 約束は。

 約束はどうなったのだ、とライスシャワーは問わずにはいられない。

 だけど、

 

 

 

 

「……っ!」

 

 

 ズキン、とライスシャワーは己の左脚に痛みが走るのを感じ、触れる。

 気温が低い日は体温も冷えて血流が悪くなるせいか、療養中の怪我や昔の古傷が痛みを誘発するのだ。

 

 

 ライスシャワーの古傷が痛む。

 ()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 生きている事が奇跡、と後にそう呼ばれる程の大怪我をライスシャワーはしたのだ。

 

 

 宝塚記念のレース中、中団につけていたライスシャワーは位置をあげる為に加速をつけて前へと出ようとした。

 天皇賞春での疲労が抜け切れていなかったのか、今ひとつスピードに乗れていなかった。無理やりな加速だったが必要なペースアップだった。

 

 

 第3コーナー付近、嫌な音が聞こえたのをライスシャワーは憶えている。

 ピキッ、というひび割れの音ではなく、一本丸々とボギッと折れたような音がして。

 レース中にも関わらず冷や汗を浮かべたライスシャワーは次の瞬間に脚に力が入らなくなったのを感じて。

 

 

 踏ん張ろうとして、左足を前に出そうとして、でも身体が大きく沈んで、転んだ。

 

 

 60kmを越えるスピードで地面に叩きつけられ。

 どんどんと、後方のウマ娘が自分を追い抜いていき、先頭のウマ娘達と距離を離されていく中でライスシャワーは他に転んだ娘がいないのを確認していた。

 周りから悲鳴なのか、歓声なのか、混じったものが朧気ながら聞こえてきていた。

 

 

 自分の脚を確認する暇もなく、誰かが近くで叫んでいるが何を言っているか分からず、ライスシャワーは意識を手放した。

 

 骨折したと聞かされたのは目が覚めてからの事だ。

 折れた左脚は骨が突き出るほどの酷いもので本当に命に関わる状態だったらしい。

 

 

『歩けるようにはなります……通常の生活も問題ありません…ですが、ランニングやレースは……』

 

 

 ウマ娘にとって骨折とは、命に関わる恐怖の怪我である。

 レース中の骨折で競技人生を終わったウマ娘は少なくない。

 

 

 あれから、ライスシャワーは走っていない。走る事が出来ないのだ。

 そして、ミホノブルボンは引退の真相を聞こうとすると逃げるように消えてしまう。

 走れないライスシャワーでは、走る事の出来るミホノブルボンを追い駆ける事が出来ない。

 

 

 彼女と会話できないという状態がもうすぐ一か月になろうとしている。

 勿論、ミホノブルボンのトレーナーにはライスシャワーのトレーナーからコンタクトを取って確認しているが返答は「これが彼女の選択だ」という事だ。

 

 

 

「もしかして、ライスの、せい……?ライスが怪我しちゃったから?」

 

 

 一緒に走ろう、と言っていたのに大きな怪我をしてしまったから。

 全盛期のスピードも、体力もおとろえてしまっているから。

 レースに復帰するのは難しいという診断が下されているから。

 

 

 そんな自分とレースをする意味が無いと、ミホノブルボンは思ってしまったのではないだろうか。

 だから、強者であるミホノブルボンは口も利かずに引退しようとしているのではないだろうか。

 

 

 そんな、そんなことはない。

 彼女の熱意をライスシャワーは憶えている。

 彼女と交わした約束を互いに覚えている筈。

 ミホノブルボンがそんな事を思う筈がないのに……、

 

 

「う……うぅ…っ…ぃゃ…いなく、ならないで」

 

 ミホノブルボンが、大切な存在が消えていく光景がライスシャワーの脳裏を過ぎる。

 

 空を覆う闇の雲はライスシャワーの心すらも覆い、暗い影を作る。

 不安と絶望から、マイナス思考を振り切る事が出来ず、悪いのは自分なのだと決めつけてしまう昔の癖が出てきてしまう。

 

 

「やだ、やだよぅ……ブルボンさん…!」

 

 

 気づけば瞳から溢れ出す涙を抑えきれなくなったライスシャワーは空を見上げた。

 風は吹きすさび、雨は容赦なく音を強め、空という存在はまるでライスシャワーを嘲笑うかのようだった。

 

 

 このまま、お別れなんてしたくない。

 もう一度、二人で話をしたい。

 彼女が何を思っているのか知りたい。教えて欲しい。

 

 

 

 でも、走れない自分にはどうすることも出来ない。

 逃げるミホノブルボンを追い駆ける事も出来ない。

 

 

 自分は無力な存在だと、ライスシャワーは思った。

 

 

 何も出来ない。

 何も出来ないのだ。

 自分は、魔法を使う事が出来なくなった魔法使いだから。

 

 

「お願い……誰か」

 

 何かに縋る様に、祈る様にライスシャワーは呟く。

 どうか自分の願いを聞いて欲しいと。

 

 

 三女神様がこの願いを聞いていたなら、叶えてほしいと。

 

 

「たす、けて……だれ、か」

 

 

 その瞬間、光と共に轟音が暗い空へと鳴り響く。

 耳をつんざく聞き慣れない音に思わずライスシャワーは身を屈めた。

 

 

 自分の祈りすらも届かせないかのような、そんな雷だった。

 為すすべなく、と言ったところかライスシャワーの顔から生気が失せていく。

 もう駄目なのだ。どうすることも出来ないのだと。

 

 

 これが運命なのだとしたら、それを受け入れるしかない、そう思った時。

 

 

 

「どうした、ライスシャワー」

 

 

 心を閉ざそうとして、声が聞こえた。

 お兄様でもない、お姉様の声でもない。ましてや、ミホノブルボンでもない。

 だけど、その人は自分の事を知っていて、ライスシャワー自身もその人の事を知っている……そんな気がした。

 

 

「ブラック、サンダーさん?」

 

 

 腰まで伸びた青鹿毛の髪と、金色の瞳のウマ娘、ブラックサンダーは砕けた笑みを浮かべてライスシャワーへと言う。

 

 

「ああ。指輪の魔法使い、ブラックサンダーはここにいるぜ」

 

 

 薔薇の少女は雨の中、胡散臭い魔法使いと出会った。

 

 

 

 




健気な少女が心折れて曇る……私の好きなシチュエーションです。
今のライスならファントム無限に生み出せそう。

暗い展開だけど変な奴が来たから大丈夫だ!


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45.魔法使いとの契約

メインストーリー1部最終章、最高でした。 
グラスちゃんの特殊固有がね、もう、カッコイイんですよ!
スペちゃんの特殊固有もカッコイイんだけど、やっぱグラスちゃんがカッコイイんですよ!一本の映画を見た気分でした!あと衣装違いスぺちゃんは有馬記念に勝てば手に入るので皆も頑張って手に入れるんやで。


リアル宝塚終わっちまったぜ。こっちはこれから本腰なのに。


 

 ライスシャワーは小柄なウマ娘だった。

 他のウマ娘とは比較してはどうしても見劣りしてしまい、本当に中央のレースでやっていけるのかと僕自身の保護本能が反応してしまうくらいだった。

 

 だけど、その心配は杞憂であったと言える。

 現にライスシャワーは当時最強と言われていたミホノブルボンを菊花賞で破る快挙を。

 天皇賞春ではメジロマックイーンの三連覇を阻むという栄誉を勝ち取っていた。

 

 

 勝ち取って来たレースが原因で勝利を望まれなくとも、悪役の扱いを受けようとも。

 ライスシャワーはその逆境に負けず、抗い、走り続けていた。

 いや、ライスシャワー本人の力だけではない。

 彼女を支え続けたトレーナーの力もだ。

 

 きっと、僕が彼らと同じ境遇だったならなば重圧に押しつぶされて、世間からの批難に耐えきれなかっただろう。

 

 二度目の天皇賞で彼女が勝者として返り咲いた時、僕はライスシャワーの勝利をまるで自分の事のように喜んで、涙を流してた。

 多くの人々に感動を与え、ヒーローへ至った彼女を僕は心の底から尊敬している。勿論、彼女のトレーナーもだ。

 

 

 だからこそ、ライスシャワーが死に物狂いで掴んだ栄誉の先で至る道が、このような結末を迎える事に僕は少なからずとも納得は出来ていないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 雨は勢いを衰えさせることなく地面を濡らし続け、休憩所の屋根を打つ無数の雨音が鳴り響く。

 二人の青鹿毛のウマ娘、僕ことブラックサンダーとライスシャワーはベンチの上に並ぶように座っていた。

 

 

 公園を通りがかる途中、彼女の涙を見てしまった僕は駆けよらずにはいられなかった。

 

 助けを求めている声が聞こえた気がしたのだ。

 

「僕と話をしよう。ライスシャワー」

 

「……!」

 

 

 もし、僕の考えが間違いだったら、という考えはライスシャワーの一瞬の驚愕とその後瞳から涙を流すのを見たことにより否定される。 

 泣きじゃくる彼女にハンカチを渡して、一度落ち着いた後、ライスシャワーはぽつりぽつりと、その心の内に秘めた思いを語りだした。

 

 

「ミホノブルボンが……」

 

「うん……」

 

 二冠ウマ娘、怪我からの復帰を果たし、今期は乗りに乗っているミホノブルボンの突然の引退宣言。

 その引退宣言のインタビューは僕もテレビで見たが、ライスシャワーが言う通り、どうしてこのタイミングで引退に踏み込んだかが疑問だった。

 しかも、トゥインクルシリーズからドリームトロフィーリーグへの移籍に伴う引退ではなく、レース業界からの引退である。

 気力も体力も十分に備わっている彼女にそこまで決意させるような不安要素があるとは僕自身も思えなかった。

 

 

 そして、その理由が分からなかったからこそ、ライスシャワーが引退の原因が自分にあるのだと考えるようになってしまった。

 かつて交わした友との約束を果たす事が難しくなってしまった故に、ミホノブルボンから見切りを付けられてしまったのだと、そう感じてしまっているのだ。

 

 

「ライスシャワーはさ、それが本当にミホノブルボンの本心だと思ってるか?」

 

「お、思ってないよ……思ってないけど…今のブルボンさんの心が、分からなくて……あれから何度もお話しようとするんだけど、逃げられちゃうの……」

 

 何度もライスシャワーはミホノブルボンと事の真相を確かめようとコンタクトを取ろうとしていた。

 だが、ミホノブルボンは意図的にライスシャワーを避けるように距離を取っている。

 ライスシャワーは怪我の影響で歩くことは出来ても、走って追いかける事は出来ないからミホノブルボンに一度でも逃げられれば捕まえる事は難しくなるという。

 

 

 どうして、ライスシャワーを避ける必要があるのか。

 そこから解明していかなければならない。

 

 

「そういえば、ライスシャワーは今年からトレーナー業の手伝いもやってるんだってな」

 

「う、うん……お兄様からは無理しなくていいって言われてるんだけど、怪我で動けない分、チームの皆の事をライスでもサポートしてあげたくて……」

 

 今年の春以降、僕は練習場でチームメイトのタイムを計測したり、備品の買い出しや手入れをしているライスシャワーの姿をよく見ていた。手伝い、と彼女は言っているがタイムスケジュールやメニューの進行役や、トレーニングをしているウマ娘の管理やパソコンを使ったデスクワークまでこなしていると聞くに、その業務量はサブトレーナー並である。

 

 

「凄いな、デスクワークとスケジュール管理とか普通は慣れないことだらけだろうに。ぜひ僕のチームに来て欲しいくらいだ。そして抱き締めたいよ」

 

「え?」

 

「いや、何でもないよ」

 

 

 冗談はさておき。

 ライスシャワーがトレーナー業を始めたのは4月。

 そしてミホノブルボンが引退を宣言したのは僕のダービーが終わった後の5月。

 その4,5月の間に何かがあったと考えるべきだろう。

 

 

 ミホノブルボンが引退宣言を行うまでのレース内容はまさに鬼気迫るものであった。出走するレースでは常に1着か2着を取り、去年はグランプリ優勝までしている。

 

 その走る姿は、誰かの為に勝利したいという願いが込められていた走りだった。

 

 

 それが怪我で苦しむライスシャワーが再び復活することを願っての走りなのだと言う事は、僕にも伝わった。

 だから、ミホノブルボンがその意志を大きく変えるほどの決定的な何かがあったのだと、僕は考えた。

 

「……」

 

 少女、ライスシャワーの顔色は先ほどよりだいぶマシになったもののまだ暗い。

 いつもは天使の如き幼い顔をここまで歪めてしまうほどにミホノブルボンとの一件はショックだったのだろう。

 

 

 このまま理由も分からずにミホノブルボンの引退が決まれば、ライスシャワーは二度とレース復帰を諦めてしまうかもしれない。

 ここまで頑張って来たライスシャワーの努力が水の泡になってしまうなど、それはあってはならない事だ。

 

 

 

 ならば、ならばどうするブラックサンダー。

 どうするんだ、山々田山能。この状況を……少なくとも、一人のウマ娘の少女の笑顔を取り戻せなくて、何が魔法使いか。

 

 

 僕のやる事は決まっていた。

 僕は横にいるライスシャワーに向けて、再度問いかける。

 

 

「ライスシャワーはミホノブルボンとお話がしたい、よな」

 

「うん、したい……ライス、ブルボンさんとお話したいよ!」

 

 その瞳には力強い意志が込められている。

 絶対にこんなことで終わりたくないという願いが込められている。

 ライスシャワーが望みを捨てていないのであれば、僕はそれを全力で応援しよう。

 

 

「僕が……必ずお前とミホノブルボンをもう一度会わせてやる」

 

「え、ええ?ぶ、ブラックサンダーさんが……どうして…」

 

「僕も見たいからさ」

 

 小さく、朗らかな笑みを浮かべて言う。

 

「幻の3冠ウマ娘、ミホノブルボンと最強のステイヤーメジロマックイーンを倒したウマ娘、ライスシャワーのレースを……それを願うファンの1人だ。

 なぁに、お節介な指輪の魔法使いにかかれば、お茶の子さいさいだ。少しだけ準備が掛かるかもしれないけれど、必ずお前をミホノブルボンに会わせるよ」

 

 ところで、と僕は彼女に続けて聞くのだ。

 

「魔法使いは魔法を使うと、魔力を失う……魔法使いの魔法はタダじゃない。

 ライスシャワー、僕が何を言いたいのか、分かるかい?」

 

「……ライスを、抱くの?……いいよ」

 

「ああ、そうだ。分かってるじゃないか、勿論怖いかもしれないし、簡単に受け入れられない事は分かってる―――って、アレ?ええ!?抱かせてくれるの!?ナンデ!?」

 

「ら、ライス……ブラックサンダーさんが学園のウマ娘をいっぱい抱いてるって、お兄様が気を付けろって言ってた……でも、今この場でライスの望みを叶えて、ブルボンさんに会わせてくれるのはブラックサンダーさんしかいないってライス自身がそう思ったから……」

 

 凄まじく語弊を生みそうな文面だが、事実なので仕方がない。というか、学園にそこまで僕の評判が広まっている事には素直に驚いた。

 ライスシャワーはジャージの服の一部を握りしめ、力を籠めるその表情に羞恥さなど一切なく、ただ友を想い、自らが信じると決めた相手に視線を注いでいた。

 

 

「だから、いいよ……ライスを、抱いて……抱いてください!」

 

「ライスシャワー……」

 

 両手をぶらん、と下げて何故か瞳を閉じるライスシャワー。

 自分がこれから何をされるのかを少しばかり勘違いしているかもしれない。

 だがこれは友を思う故の覚悟なのだと、僕は改めて彼女に敬意を抱く。

 

 

 応えなければならない……魔法使いとして(自称)。

 僕はライスシャワーを見据え、彼女の両肩に手をかけるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 次の日の昼休み、僕はミホノブルボンとかち合う事となった。

 魔法使いにかかれば、造作もない事である、というのは冗談であり、実際は口約束までしてしまったのはいいものの具体的な案が浮かばないまま半日が終わりかけて、食堂へと向かう途中で人気の無い学園の敷地の隅っこで一人食事をしているミホノブルボンを見たからであった。

 

 

「なんだよ、ミホノブルボンは食堂で食べてないのか?」

 

「ブラックサンダー……」

 

 木の影に隠れるように身を屈め、手にしたゼリー飲料を口にしながらミホノブルボンは視線をこちらへ向ける。一時はサイボーグネタが独り歩きして、あのゼリー飲料すらもオイルの類なのではないかと疑われていた頃があったなと密に僕は思い出していた。

 

 手料理はなどはしないのだろうか。

 そういえば彼女の同室であるニシノフラワーがミホノブルボンの為にお弁当を自作していた時があったな。今度僕もあやかりたいものである。

 

 

 おっと、いけないな。目的を忘れかけていた。

 

 

「隣に座ってもいいか?坂路の友よ」

 

「構いません。ですが、私は既に食事を終えているので早々に立ち去る可能性がありますが」

 

「ああ、大丈夫。僕もお前に幾つか質問するだけだからさ」

 

 ミホノブルボンの隣に座ると僕は自作の弁当を取り出してその蓋を開ける。

 四方系の箱の中を覗けば、箱の真ん中を仕切る様に肉のそぼろを敷いた白飯とトマト、ブロッコリー、ハンバーグが姿を現した。

 

 

 僕は割り箸を手に取ると、ハンバーグの一部を掴み口へ運んだ。

 柔らかくジューシーな肉汁を感じながら、続けざまに白飯を口へ入れていく。

 僕は白飯を何か別の主菜と一緒にして食べるのが好きなのである。その方が食が進むのだ。

 

 

「……」

 

 僕がご飯を食べる様子をミホノブルボンはジーっと見つめている。

 無表情を装っていても、その視線の先には僕の弁当箱だという事に僕は既に気付いている。

 

 

「興味津々だな、ミホノブルボン」

 

「いえ、そんなことは―――」

 

「このハンバーグ。中身を割ると、ほぅら、チーズが入っている」

 

「ほぅ」

 

「時間が経って冷えてしまっているからチーズのトロみはなくなっているがチーズとハンバーグの相性は最高だ……食べたいのか?ミホノブルボン」

 

「……いいえ」

 

 視線を逸らしたミホノブルボン。

 だが、僕がハンバーグを食べる瞬間に彼女の喉が小さく動いたのを僕は見逃さなかった。

 内心ではメチャクチャ食べたいのだろう。食に関しての欲求を制限し過ぎるのは身体に毒だというのに。

 

「ゼリー飲料で栄養素を効率的に摂取するやり方はアスリートとして否定はしないが、時には腹持ちの良い米や肉を食べる事をお勧めするよ」

 

「そうですね……アドバイス、ありがとうございます。今後、フラワーさんに相談してお弁当作成を手伝ってもらいます」

 

「そうした方がいい。ところで……最近は食堂で食べる事、少なくなってきてるってね」

 

「……」

 

「学園の娘から聞いたよ。前はよくミホノブルボンを食堂で見ていたけれど、ここ一か月以上はこういった人気の無い場所でゼリー飲料だけの食事にしてるんだって?」

 

 ミホノブルボンを良く知るウマ娘からの情報だ。

 それこそ、僕が日本ダービーを終えた辺りから彼女は食堂で食事をするのを辞めた。

 完全に辞めたわけではないらしいが、それでも頻度は以前よりだいぶ少なくなっているのだ。

 

 

「まるで、誰かを避けているみたいだな。例えば―――」

 

 どうしてそういった行動をしているのかはある程度予想は出来る。だから僕は核心を突くことにした。

 

 

「ライスシャワーとか?」

 

「ッッッ!!」

 

 明らかに動揺の表情があった。

 サイボーグと呼ばれる程に冷静さをもつミホノブルボンの鉄仮面が一瞬にして歪む。

 彼女にとってライスシャワーという単語はこれほどまでに効果的だった。

 

 

 ビンゴだ、と僕は更に質問を続ける。

 

 

「なんで彼女を避けるような事をする。ライスシャワーも、お前との対話を望んでいるぞ」

 

「ブラックサンダー、あなたには関係のない事です。私への質問はもう終わりと見ました。では、私はこれで失礼させていただきます」

 

「待てよ、関係あるぜ。僕はもう、彼女と約束してしまったからな」

 

「約束?」

 

「ああ」

 

 

 彼女と契約を結んだ魔法使いとして。

 ミホノブルボンとライスシャワーを必ず会わせると。

  

 

「僕と一緒にライスシャワーに会って欲しい。ミホノブルボン、それがお前にとっても、ライスシャワーにとっても……ベストな選択だ」

 

 

 既に弁当を食べ終えた僕は、箱を片付けると脚を伸ばし、ストレッチを始める。

 ミホノブルボンも何かを察したのかすぐに立ち上がった。

 

「お断りします。ブラックサンダー……私は、ライスさんには会いません」

 

「どうしても、か。なら、僕は実力を持ってして、お前を連れていくまでだ。ミホノブルボン」

 

 

 左手を懐に忍ばせ、ソレらを取り出すとミホノブルボンの顔付きが変わった。明らかに、彼女の中で警戒レベルが引き上げられたのが分かる。

 

 

「目的の為には手段を選ばず・・・・・・僕の好きな言葉の一つだ」

 

 右手にロープを。

 左手には複数の手錠を。

 足元には鎖が落ち。

 背には二本の刺又を背負う。  

 

 

 そんなもはや見た目不審者としか思えない異形の姿を見せつけながら、僕はミホノブルボンに向けてどこぞの胡散臭い異星人の様なセリフを吐くのだった。

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 



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46.地獄のパーティの始まり

なる早の更新を心掛けております。メイクラ育成に疲れたそこのトレーナーくぅん!ぜひURAファイナルズをプレイしてみたまえ!推しのストーリイベントの素晴らしさに改めてきづかされるぞ!


 

 

「ねぇ、聞いた?303号室のライスシャワーさん」

 

「ライスシャワーさん?あぁ、前のレースで骨折した娘よね」

 

「そうそう、普通なら死んじゃうレベルの怪我だったみたいだけど……ウマ娘にとって骨折は命に関わるものだし」

 

「そうねぇ、でもライスシャワーさん。レース復帰目指してるんでしょう?今日も朝からリハビリするって張り切ってたじゃない」

 

「そうよ、そうなんだけど、ねぇ……担当のセンセが話してたの、私、盗み聞きしちゃってさ……あの娘――――」

 

 

 ライスシャワーが入院している病院。

 学校帰りに見舞いへとやって来たミホノブルボンは、その道中で看護婦たちの話を聞く中で、持参した見舞い品が入った籠を床へ落とした。

 中のリンゴは病院の床を転がったが、ミホノブルボンは暫く床に落ちているリンゴを拾う事もせず、ただ立ち尽くしていた。

 

 

 

 

 

 

 

「待てぇ、ミホノブルボン!逮捕だぁ!」

 

 

 トレセン学園の敷地を駆け抜ける二人のウマ娘がいる。

 どこかの怪盗を掴めるために世界を股に駆けるインターポールのとっつあんかの如く、黒い長髪を横に揺らして疾走するのは僕こと、ブラックサンダーだ。

 背に刺股、ロープと鎖、手錠をぶん回しながら走るその姿はまさしく不審人物者のそれである。

 

 

 ライスシャワーの所へ引き摺ってでも連れて行くと宣言した矢先、ミホノブルボンは踵をこちら側に返して全速力で逃げ出した。

 故に、僕は彼女を……ミホノブルボンを現在進行形で追いかけ回していた。

 契約の不履行は許されない。僕はミホノブルボンを地の果てまで追いかけると決めたのだ。

 

 

 

「知っているかミホノブルボン!僕が持っているこの手錠とか、ロープとか、鎖とか!

 なんと全部対ウマ娘用に作られた物だ!いくら力のあるお前でも、一度捕まったら逃げられないぞ!」

 

「くっ……!ブラックサンダー、一体どこでそのような物を手に入れたのですか!?」

 

「アグネスタキオンが一晩で作ってくれたぜ!一週間高級にんじんハンバーグを弁当の中に入れてやるという約束でな!

 アイツの発明を頼るとか僕自身でも血迷ったかと思ったけど!ライスシャワーの為だ!大人しく捕まれ!」

 

 

 ジェバニンが一晩でやってくれたように、僕は悪魔の発明家でマッドサイエンティストのアグネスタキオンに今回のミホノブルボンを捕縛するアイテムの作成を頼んでいた。

 財布の中身がすっからかんになるほどの手痛い出費となったが、後悔はしていない。我慢だ、我慢すればいいのである。

 

 

 今回の玉座ガチャで絞りつくされたプレイヤーが次の給料日まで一袋16円くらいのもやしで生活するように、僕自身も食費や娯楽費を切り詰めるまでである。

 

 

「逃走経路、追跡者を躱すに要する時間、最短距離を最速でシュミレート……逃走成功率89%、緊急ミッション、開始」

 

 

 ぶつぶつと走りながら呟くミホノブルボンは僕の追跡を躱す事など容易だと考えているようだ。

 随分と舐められたものである。

 しかし、実際の所は相手はあの二冠ウマ娘・ミホノブルボンである。

 逃げとしての実力は一級品だ。レースセンスもこの数年間でかなりの領域に達しているだろう。

 僕と彼女を力を比べるなら、ミホノブルボンの方が圧倒的に強いのだ。

 例えるなら、5戦くらいしかしていない駆け出しのボクサーがいきなり幕ノ内一歩に挑むようなものである。

 

 

 差は歴然、どう埋めるか考えていた時だった。

 

「おい、オイオイオイオイ!」

 

 

 不意に隣から誰かが追い上げてくるのが分かる。

 葦毛の髪を揺らしながら、そのウマ娘は僕と併走しながら言うのだ。

 

 

「オイオイ、なにか面白そうなことやってんじゃねぇかキュアブラックサンダー!ワサビ味のかっぱえびせんで鯛を釣ってる場合じゃなかったぜ!アタシも混ぜな!」

 

「お、お前はゴールドシップ!? くっ、僕の名前を初代プリキュアの名前と必殺技をくっつけたような呼び方をするな!僕の名前はブラックサンダーだ!

 つーか、ワサビ味のかっぱえびせんで鯛なんて釣れるのか!?そもそも、学園で何やってんだお前!?」

 

 そこへ現れたのは葦毛のウマ娘、ゴールドシップ。

 トレセン学園のヤベー奴だが、その実力はG1に名を連ねるほどのウマ娘だ。

 皐月賞を虚空でワープ移動したヤベー奴。

 ゲートに入るだけで拍手が湧くヤベー奴。

 120億のヤベー奴。

 

 

 と、その奇行からもゴールドシップと言うウマ娘は有名だ。

 だが、今は猫の手も……いや、他のウマ娘の手も借りたい状況だ。

 ミホノブルボンを追い、捕まえる戦力は多い方がイイ。

 

 

「ミホノブルボンを捕まえてほしい。ゴールドシップ」

 

「あん?」

 

「手段は問わない。お前の考える手段を用いてあのミホノブルボンを捕まえるのを手伝ってほしいんだ」

 

「ほうほう、希代の逃げウマ娘のホープ、ブラックサンダーがアタシに頼み事か……ヤキが回ったのかお前」

 

「くっ……ゴールドシップに言われるとは…!僕自身もそう感じているんだけど!だが!今はお前の手も借りたい、ライスシャワーの為だ」

 

 

 ライスシャワーの名前を聞いたゴールドシップが反応を示すと、そうか、と呟いた気がした。

 何かを悟ったような、そして理解したような雰囲気を出すとゴールドシップはいつものような顔つきへと戻る。

 

 

 その顔は、まさしくこれから何かをしでかす希代のエンターテイナー、ゴールドシップの顔であった。

 

「トレーナーと宇宙旅行に行く予定だったけどなぁ~、いいぜ。オマエさんにゃ皐月賞で面白れぇレース見せてもらったからよ、今回は手を貸してやるよ。

 その代わりアタシの出すプランにケチつけるんじゃねぇぞ?」

 

「任せろ、ゴールドシップ。そして、任せたぞ」

 

「あいよ!ゴルシちゃんにお任せあれだぜ!」

 

 軽快な了解を得るとゴールドシップはサムズアップをしてミホノブルボンを追うコースから外れていく。

 具体的な作戦なんて、僕は知る由もなかったが去り際のゴールドシップの表情にはふつうの笑みの裏にある一定の邪悪さが滲み出ていたのを僕は見た。

 

 

 

 察するに、きっと、多分だけど、いや、十中八九ロクな作戦じゃない気がした。

 そして、僕のそれが思い込みではなく、確信となったのはそのゴールドシップが消えてから数分後の事だった。

 

 

 

『トレセン学園の野郎ども!よおく聞きやがれ!このゴールドシップ様がビッグニュースをお届けするぜ!?』

 

 

 学園全体へと響き渡るアナウンス。

 それはまさしく、先ほど姿を消したゴールドシップのものだった。

 一体いつのまに放送室をジャックしたのかは定かではないが、今の昼休み中にこの放送を聞き逃すものなどまずいない。

 

 

 しかし、ゴールドシップよ。この校内放送を使って、今学園中の生徒達に向かって何をアナウンスするつもりだ。

 

 

『第一回トレセン学園超鬼ごっこを開催するぜ!鬼役はあの二冠ウマ娘、ミホノブルボンだぁ!勇気あるヤツ、自信あるヤツ、ミホノブルボンを追い駆けて追いかけて捕まえてみやがれェ!』

 

 

 

「なにこの放送」

「この声って……もしかしてゴールドシップ?」

「そういえばさっきブラックサンダーがミホノブルボンさんが一緒に走ってたよね」

「鬼ごっこか……面白そうかも」

「いやいやいや、やめときなって!あのゴルシだよ?普通の遊びじゃないって!巻き込まれたら大変だよ!?」

 

 

 そこらへんでこの放送を聞いていたウマ娘諸君、至極普通の反応である。

 学園内で奇行を働く申し子と呼ばれるゴールドシップが開催を告げるのだ。普通であるはずがない。

 

 当然、ゴールドシップを知る者達はこの放送がロクでもないものだと悟るのは目に見えていた。

 恐らく、校内放送を行う事で学園の生徒を巻き込み、ミホノブルボンを捕獲するというアイディアだったのだろうがそれも無駄に終わりそうである。

 

 

 

 そう思った矢先、さらにゴールドシップの声が響いた。

 

『なんだなんだァ!?まさかただの鬼ごっこだと思ってねぇかお前等ぁ!当然、捕まえたら賞品が出るに決まってんじゃねぇかッ

 ミホノブルボンを捕まえたヤツには、限定ハチミツドリンク1年分!!そして―――――』

 

 

 そして、僕の嫌な予感は的中することになった。

 

 

『ミホノブルボンと一緒に、ブラックサンダーを捕獲した奴にはなんと……温泉旅行券を二枚プレゼントだァァァ!!』

 

 

「は?」

 

 

 思わず、というか僕がそんな反応をするのにコンマ0.1秒すらもかからなかった。

 もはや、脊髄反射レベルだったとだけ言っておこう。

 

 

「え?温泉旅行券?マジ?」

「二枚ってことは、アタシとえーっと……あの人とで…」

「いやいやいや、待て待てお前達!情報も本当かどうかも分からないぞ!あのゴールドシップだからな!」

 

 

 メインとなる捕獲報酬よりも、僕を捕まえたことによって得られる報酬の破格さに流石の周りのウマ娘達も食いついた。

 だが、それでもあのゴルシだからという理由で警戒されているのはまだ多数いるのである。だが、ゴールドシップはそれすらも読んでいた。

 

 彼女は既に、このイベントの信憑性を得る為の手筈をきちんと整えていたのだ。

 

 

『理事長!開催の宣言、よろしく頼むぜェ!ビシッと言ってくれよビシッとォ!』

 

『うむっ!ーーー宣言ッ!!ウマ娘諸君!戦いは既に始まっているぞッ!健闘を祈るッッ』

 

 

 ゴールドシップの声に続いたのは、間違いなくトレセン学園理事長、秋川やよいの声であった。

 トレセン学園内でのイベントの開催に秋川理事長が関わる事は多い。数々のイベントの開催宣言も行ってきたから分かるのだ。

 学園内に響く最高決定権を持つ理事長の開催宣言、それがどういった意味を齎すのか……それはこのゴールドシップの先ほどのイベントの内容に嘘偽りが無いことを全てのウマ娘に認識させることとなった。

 

 

 

「ま、マジだッ!温泉旅行券マジだ!マジの奴だ!」

「り、理事長が言うなら間違いないよ!これ、本当の奴だよ!」

「ミホノブルボンさんとブラックサンダーでしょ!?さっきまでそこに居たし!まだ間に合うかも!!」

「探せ!探して捕まえろ!」

「祭りじゃ!トレセン学園の祭りじゃああ!!!」

「はちみー!はちみー!はちみー!」

「温泉!温泉!温泉!温泉!」

 

 

 歓喜に似たような雄たけびがトレセン学園中に響き渡る。

 それはまさしく、この学園の生徒全てが僕とミホノブルボンに襲い掛かってくることを意味していた。

 

 

 

 

 

 

「ゴルシ……なにやってんだお前ェッッ!!!」

 

 

 

 こうして、ウマ娘達の血を血で洗い合う、欲望渦巻く鬼ごっこに僕は巻き込まれる事になったのだ。

 

 

 

 

 




タキオン印の捕獲セット
※頑丈すぎてゾウが乗っかっても壊れない一品。
ウマ娘を捕まえてどうするかはご想像にお任せします。


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47.波紋広がる

理事長はゴルシの被害者じゃけぇ……


 

「驚愕ッッ!!困惑ッッ!!これは一体、どういうことなのだぁ~~~!?」

 

 

 全国から有望なウマ娘達が集まるトレセン学園、その学園内にて最高の決定力を有する理事長こと秋川やよいは、自身で理事長室で素っ頓狂な声をあげていた。

 

 

 生徒達や職員達が昼休憩に入る時間帯だが、自分はまだ仕事があったので理事長室で資料に目を通していたのである。

 海外で発明された画期的なトレーニング器材など、学園を盛り上げるイベントの計画の立案など、必要なら自身のポケットマネーでどれくらい賄えるかなど、だ。

 

 

 そんなときだった。学園の全体放送で、ゴールドシップと自分の声が聞こえてきたのは。

 

 

「温泉旅行券!?しかも、今の声は……ゴールドシップと私!?」

 

 

 自分の声が放送から聞こえて来たが、当の秋山理事長はここにいる。

 己のドッペルゲンガーか生体模写した未知の生命体か、変声機能が付いた蝶ネクタイを持つ棒少年探偵出ない限り、自分の声が聞こえてくることは無いはずだ。

 

 

「し、失礼します!」

 

 直後、理事長室の扉が開け放たれる。

 慌てふためいた声を出しながら入り込んできたのは緑を基調としたスーツに身を包んだ女性だ。

 トレセン学園理事長秘書である駿川たづなである。

 

 

「り、理事長!理事長~!あ、あの!先ほどの放送の件でお話が~!!」

 

「た、たづな!?ま、待たれよ!待たれよたづな!ご、誤解ッ!!

 今の放送は私ではない!いや、放送の声はたしかに私であるのだが!実際には私ではないのだ!何を言っているのか自分でも理解できてないのだが!!」

 

 

 

 

 天上天下、唯我独尊、奇行上等ウマ娘ゴールドシップが言い放った一言は学園中のウマ娘だけでなく理事長達に影響を与えていた。

 そして、その影響はトレセン学園生徒会にも―――――。

 

 

 

「ご、ゴルシ……おのれ、おのれぇ!」

 

 エアグルーヴは整った顔の眉間に皺を寄せながら、自身が執務する生徒会室の机を強く叩く。

 一年を通して、何もしないという事がない事で有名なウマ娘ゴールドシップの行動には生徒会室の副会長であるエアグルーヴの悩みの一つだ。

 

「ありもしない温泉旅行券の存在をチラつかせて生徒達を煽るなど……今回ばかりは反省文だけでは済まされんぞッッ」

 

「……それで?どうする副会長。アタシらは―――生徒会はもう動くのか?」

 

 隣のソファーに座っていた少女は口に咥えていた枝を揺らす。

 鷹のように鋭い眼つき、立ち上がり見せつけるその背中は静かに強者としての姿を感じさせる。

 シャドーロールの怪物、ナリタブライアンはただ静かにこちらの判断を仰いでいた。

 

 

「今すぐに、という必要はないぞ。エアグルーヴ、ブライアン」

 

「会長!?」

 

 しかし、女帝と怪物の見据える先、生徒会の机で手を組んでいるウマ娘、皇帝シンボリルドルフは悠然と二人のウマ娘に言い放つ。

 どうしたことか、いつもなら学園の規律を守るべく行動する生徒会の核となる生徒会長が、そのような事を言うとは思わなかったからだ。

 

「それは、ゴールドシップの蛮行をこのまま見過ごせという意味でしょうか……」

 

「慎重になる必要がある、という判断だよ。エアグルーヴ……既に事態は大きな波となって学園中を動かしている。

 混迷極まりない暴走状態だ。一種の祭り、のようなものなのだよ……傍からそれを我々が強引に止めたとして、返ってくるのは大きな落胆とぶつけようのない熱を抱いたまま意気消沈とする生徒達だけだ」

 

 それに、とシンボリルドルフは続ける。

 

「追跡対象となっているのは次の宝塚記念で引退を決めているミホノブルボンとそのレースに出走予定のブラックサンダーだ。

 ブラックサンダーがミホノブルボンを追跡する形で、そこにゴールドシップが横やりを入れたと考えるのが普通だろう。……何か事情があるのかもしれない」

 

 

 恐らく、事情と言うのはミホノブルボンの引退とライスシャワーの事についてなのはシンボリルドルフは推測する。

 以前からブラックサンダーはミホノブルボンについて情報を知っていないかと、よく聞きに来ていたのである。

 この鬼ごっこには、何かあるのだなと、そう思うようになった。

 

 

「我々は最悪の事態に備え、怪我人が出ないような配慮を取ろう。無論、その時点でこの祭りは中止だ。

 理事長室とも学園関係者とも連絡を取り合う必要がある」

 

「しかし会長、()()()()()()()()を使ってまで生徒の士気高揚は得られるのでしょうか……騙されたとあっては生徒達も納得しないでしょう…」

 

「ふむ。エアグルーヴ、これはなんだと思う」

 

 そう言ってシンボリルドルフは手に持っていた二枚の紙をエアグルーヴとナリタブライアンに見せつけた。

 ぴらぴらと揺れるカラフルな用紙には『温泉旅行券』の文字がでかでかと記載されている。

 

 

「な!?こ、これは温泉旅行のペアチケット!?」

 

「ルドルフ、本物なのか……それは」

 

「ああ、紛い物ではない本物の温泉旅行券だよブライアン」

 

 

 驚愕するエアグルーヴと小さく鼻を鳴らすナリタブライアンは動揺を隠しきれなかった。

 なにせ、商店街の福引で手に入る激レア商品の温泉チケットの本物が今目の前にあるのだから。

 

「そしてこの温泉旅行券の提供者は件のゴールドシップ本人だということだ」

 

「!?」

 

「!?」

 

 

 その時エアグルーヴ、ナリタブライアンに電流走る。

 あり得ない。あのゴールドシップが、このような催しに対して自ら景品を用意するなど……ましてや、それが温泉旅行券となれば更に疑わしいものである。

 

 

「ふむ。まさしく疑心暗鬼……と言ったところだろうか。

 そうなるのも無理はない、だが商工会にも確認済みだ。なんだったら商工会には当時ゴールドシップが景品を取得した際の記念写真があるらしい。なんで撮影したかは分からないが」

 

「し、しかもヤツの私物なのですか!?クッ……!ますます理解できない、謎が深まるばかりだ……」

 

「不羈奔放。彼女はこの学園では何ものにも拘束されず思い通りに動くウマ娘だ。

 彼女の突発的な行動は我々の予想などには到底納まるとは考えない方がいいかもしれない……それにしても――――」

 

 

 

 驚いたものだ、と。

 

 

 シンボリルドルフは手にした温泉旅行券を見つめて、数刻前に直接ゴールドシップから手渡された場面を思い出していた。

 彼女は、ゴールドシップは校内放送の直後に生徒会室に向かおうとしていた自分の前に颯爽と現れてチケットを取り出すと。

 

 

『生徒会長!いい所にいたぜッ 今の放送聞いてただろッ!?熱い祭りが始まるからよ、ウマいこと生徒会の奴らに説明してやってくんねーか!?』

 

 

 台風のようなウマ娘だと理解してはいたが、流石の皇帝もこの動きは読めなかった。

 本来なら、全生徒に強制参加を促し、午後の授業すらも破綻させるゴールドシップの今回の行動は厳罰に処すべきものである。

 だが、シンボリルドルフがそうしなかったのはゴールドシップの次のセリフがあったからだ。

 

 

『もしかしたらよ、ミホノブルボンの引退の件何とか出来るかも知れねぇぜ。ライスシャワーの事もな』

 

 

 生徒会長として、全生徒の諸事情を把握することは難しいが、つい最近発表されたミホノブルボンの引退とライスシャワーの件は学園内では大きな話題である。知らないわけがない。しかし、知っていたとしても、一個人の進退に口を挟む猶予が無いことをシンボリルドルフは以前ミホノブルボンと対談した時に分かってしまっていた。

 

 

 どうすることも出来ない。

 全てのウマ娘の幸福にするという自らの理想が幻なのではないかと心に影を残すシンボリルドルフに告げられるゴールドシップの言葉は彼女に一つ問うた。

 

 

 

――――キミが、その問題を解決するのか、と。

 

 

 するとゴールドシップはへへ、と笑い、言うのである。

 

 

『アタシじゃねぇ、ブラックサンダーがやるってよ。アタシはその手伝いをするだけだぜ。マグロ漁船のソナーのようにな!』

 

 

 ブラックサンダーが。と、ゴールドシップはそう口にしたのだ。

 山々田山能というトレーナーがウマ娘に変身を遂げるという事件の過程で誕生したウマ娘。

 今やクラシック戦線でもシニアの中でも知らぬ者は居ない、黒い稲妻・ブラックサンダー。

 

 

 その彼に、いや、今は彼に、あのゴールドシップが力を貸す。

 そして、それがミホノブルボンとライスシャワーの件を解決する可能性がある、と。

 

 

 シンボリルドルフは思った。

 ブラックサンダーには他者を動かすような不思議な力があるのではないかと。

 実際にグラスワンダー復活の為にトゥインクルシリーズへと参戦したブラックサンダーの走りはグラスワンダーに走る闘志を取り戻させるだけでなく、多くの人々を魅了し始めている。

 

 

 そんな彼女が、ミホノブルボンとライスシャワーの件を解決しようと動いている。

 自分でも想像できない、予想を超える事を成そうとしているブラックサンダーに皇帝は期待せずにはいられなかった。

 ウマ娘の幸福へと至る道が、そこにはあるかもしれないから。

 

 

 

――――ブラックサンダーに賭けてみよう。

 

 

 一人のウマ娘が持つ可能性、シンボリルドルフはそれに託すことにしたのだ。

 ゴールドシップは嵐のように現れてはチケットだけを渡し、またも嵐のようにその場を離れていったのである。

 

 

 

「まぁ、それはそれとして……流石に全校生徒を巻き込み、学生の本文である学業を疎かにする催しを白昼堂々と行うのは些か無理をし過ぎだな、ゴールドシップ。

 この騒動が収まりがつき次第にゴールドシップを捕獲、今回の騒動に対しての処分を受けてもらう事にしよう。理事長も大変ご迷惑を掛けられてることだしな」

 

 

 ゴールドシップの発案したミホノブルボンを捕まえる為に学園全体のウマ娘達を巻き込んだ鬼ごっこ。

 そこにブラックサンダーというウマ娘を同時に捕獲すれば、限定ハチミツドリンクと温泉旅行券が付いてくるという。

 温泉旅行券とは、年始のおみくじでしか手にすることのできない超限定商品。

 

 

 大抵はペアチケットとなるために、ウマ娘は仲の良い友人と行くわけだが、一部の猛者は違う。

 その猛者たちが温泉旅行券を使う相手は親しい間柄の友人ではなく自身を導いてくれた担当トレーナーなのだ。

 

 

 

 時には泣き、笑い、トゥインクルシリーズを駆け抜けてきたパートナーである担当トレーナーをここぞとばかりに労わってあげたい。

 温泉旅行券は三女神さまから与えてくださったウマ娘とトレーナーの最大の絆の証だという者もいるくらいだ。

 そんな限定商品が目の前にぶら下がっていたら、手に入れたくなるというのがウマ娘の本能というものだ。

 

 

 それこそ、他のウマ娘を踏み台にしてでも、だ。

 

 

 

「この騒ぎ、どうやら近いな」

 

「はい、生徒会室の窓からでも確認できますが……どうやら捕獲対象のブラックサンダーだけのようです」

 

「追いかけているウマ娘は?」

 

「10人ほどが纏まっていますが、集団の先頭を走っているのはサクラバクシンオーとナリタトップロードです!」

 

 

 

 

 

 

 




夏休みで北海道行ってきました。ビッグレッドファームさんやヴェルサイユリゾートファームなど、引退した競走馬たちと巡り合えて、癒されてきました。
ゴルシは厩舎の奥に消えても人が集まってきたらちゃんと定期的にカメラ目線で顔を出すなど、やっぱり知能の高さを見せてくれましたね。



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48.稲妻の前兆

僕の……僕のライトハローさんはどこへ……(所持ジュエル800)


 

『ルールのおさらいだぜ!この鬼ごっこはブラックサンダーとミホノブルボンを捕まえたヤツだけに温泉旅行券が与えられるって言うゲームだ! 

 時間はこの昼休み中のみッ!それ以外での捕獲は認めねぇッ!捕獲セットは噴水付近の段ボールに置いてあっから好きに使えぃ!』

 

 

「どういう冗談だよゴルシの野郎ッッ!!」

 

 まるで細部のルールを初心者にわかりやすく説明するような再放送に僕は苛立ちを覚えながらも走り続けていた。

 

 このトレセン学園で、あらゆるウマ娘の魔の手から。

 

 僕は確かに、ゴールドシップに助けを求めた。

 助けを求めること自体が間違いではない、と僕は思っていた。

 だって、ゴールドシップは普段からあんな感じだがやるときはやるヤツなのだと、そう考えていたから。

 

 結局、その期待はマジで裏切られたワケだけど。

 学園中のウマ娘が僕を捕まえに来るという最悪の事態に発展してしまったわけだけども。

 

 

・・・・・おかしい、僕はただミホノブルボンと話せる場を設けようと思っていただけなのに。何がどうしてこうなったのか。

 

 

 日頃の徳の積み重ねが物を言うのだろうか。

 三女神様の像の前で「金色、金色、金色!」と物欲染みた祈りを捧げてしまっていたからか。

 ロイヤルビタージュースとカップケーキさえあれば鬼ローテで育成しても構わないという外道っぷりを三女神様に咎められてしまったのだろうか。

 

 徳を積むという事を、アグネスデジタルを通して聞いてみよう。

 そして今は、ひたすら僕を追いかけまわすウマ娘達を撒く事だけ考えよう。

 

 

「バクシンッ バクシンッ バクシンッ バックシィィィインッッ!!」

 

 単調にして、明朗快活な声をあげながらこちらの背を追い駆けるように走るのは瞳に桜の花びらを浮かばせる長髪ポニーテールのウマ娘。

 制服で革靴を履いているにも関わらず、その瞬発的な足さばきには天性のスプリント力を感じさせるものがあった。

 

「そこの黒いウマ娘!止まりなさいッ!止まらなければ血が果てるまで追いかけますよッ!!」

 

「文字を間違えていないかサクラバクシンオー!それを言うなら地の果てまで、だ!僕の血液が無くなるまで永遠に走り続ける気かッッ」

 

 

 彼女の名前はサクラバクシンオー、短距離路線を突き進むバクシンロードを掲げる圧倒的実力を持つショートスプリンターだ。そしてクラスの学級委員長である。

 

「ふふふ、トレーナーさんとの特訓で私は長距離を克服しました……3600mという距離を問題なく制覇したこの私なら、中距離型のウマ娘であるブラックサンダーさんをセミの抜け殻のようになるまで追い込むことが可能ですッッ!!!」

 

「パリパリになるまで追いかけ回されるのかよッ!つーかイヤな例えだなッッ!!」

 

 

 そして、桜バクシンオーと併走する形で僕を追うウマ娘がもう一人。陽の光を浴びればきっと輝いて見えるだろう、栗毛のウマ娘。

 

 

「バクシンオーさん、いつのまに苦手な長距離を克服したんですか!?すごい、すごいです……!菊花賞、天皇賞春を越える距離を走破することが可能だなんて……すごい、ほんとにすごいです!!」

 

「ええ!1200m×3本のレースを走りました!これは実質、長距離3600mを攻略したと同義ッ!学級委員長に嘘はありません!」

 

「え?1200m×3本……バクシンオーさん、トレーナーさんにいいように騙されてませんか……?」

 

「トレーナーさんは私を信じています!私もトレーナーさんを信じています!つまり、これは真実です!故に、私は長距離を走れますゥ バクシーンッッ!!」

 

「なんだろう、何か凄い思い違いをしている気がするのに、二人の絆が眩しすぎて……すごい、すごいです!!」

 

 

 

 すごい、すごいと特徴的な語彙力の少女はナリタトップロード。

 テイエムオペラ―、アドマイヤベガなどの優駿と凌ぎを削りあった覇王世代の一角で、最も強いウマ娘が勝つと言われている菊花賞を制したウマ娘。

 彼女もサクラバクシンオーと同じく、別のクラスで学級委員長の役職に就いていた。なるほど、ダブル委員長か。ガイアメモリを渡したら変身してくれそうだな。

 

 

「トレセン学園でもトップクラスのG1ウマ娘が二人も僕を――――」

 

 

 追いかけている。

 追わせている。

 その事実に、僕の胸が高鳴った。

 

 

 大きく、太鼓を穿つように響く衝撃は全身を駆け巡り、体温が沸々と熱くなるのを感じる。

 背に感じる圧はレースをしているかのような、命のやり取りにも似た感覚だ。

 

 最速と最強の存在が、容赦なく僕との距離を詰め始める。

 脚を力強く蹴る度に彼女たちの息遣いがより鮮明に耳に届くのが分かる。

 学園の外、大きく開けた視界が狭まり、極まった緊張感が僕のいるこの場所をただの学園敷地内をターフに染まったレース場へと変化させていた。

 

 

 

 これがシニアを戦うトップクラス。

 一瞬でも気を抜けば僕はすぐに二人に捕まってしまうだろう。

 

 

「……」

 

 

 だから、ふと考えたのだ。

 

 

 

――――あのグラスワンダーも、後ろから迫ってくるときはこんな感じなのかな。

 

 

 碧の炎が僕の脳内で揺らめく。

 それはさながら幽鬼のように。

 不気味だけど、どこか惹かれる炎。

 

 

 否、僕は既にその炎に惹かれてしまったものの1人。

 いつかその少女の前で、ターフで戦う事を宣言した者の1人。

 

 決意し、告げた。

 彼女は、頷いた。

 

 いつか彼女は僕の前に以前よりも強い姿で帰ってくるだろう。

 僕との約束を果たすために。

 己の信念を貫く為に。

 最強の怪物となって、僕の前に立ちはだかるだろう。

 

 

 ならば、その最強のグラスワンダーと戦うなら、安易に前を譲ってよいのだろうか。

 

 

 

 安易に、追いつかせて良いのだろうか。

 

 

 

 答えは決まっている。否、断じて、否。

 

 

「もっと、もっと―――」

 

 

 後ろに迫る二人よりも早く、速く、迅く。

 僕が前にいるという事実を永遠に証明し続けていたい。

 

 

 頭の中で何かが小さく弾ける音がしている。

 微々たる音だ。線香花火のような、可憐で、弱弱しい小さな光。

 

 

「―――――もっとッッ!!!」

 

 地面を踏んだ脚が感じ取る大地の感触。

 トレーニングシューズのように学園の革靴がはち切れんばかりに、しなり、後ろへ蹴り上げた瞬間、風が吹いた。

 

 

 

「――――!?」

「バクシンッ!?」

 

 

 足を一歩踏み出す感覚がやけに速く、軽い。

 重力と言う枷など肉体に感じさせないくらいに前へと進む。

 弾むリズムと加速が重なり、連続し、次第にそれは荒々しい速さ(スピード)へと変貌し、

 

 

 結果的にその速さはサクラバクシンオーとナリタトップロードを大きく突き放した。

 

 

 

 その後の事を少しばかり、かいつまんで説明する。

 結果的に言うと、僕はなんとか二人を撒くことに成功していた。

 

 

 だがあの爆発的な加速も長くは続かず、程なくして僕の脚は止まりかけてしまった。

 しかし、学園の廊下へ逃げ込んだ僕は手洗い場に設置されていたハンドソープの上蓋を外して、なんの躊躇いもなく追いかけてくるサクラバクシンオーとナリタトップロードの足元へと容器内の全ての液体を放出したのだ。

 

 

『ちょゎッ!?』、『ふえっ!?』とか、素っ頓狂な声をあげた二人は見事に脚を取られて転倒。

二転、三転ほどしたサクラバクシンオーとナリタトップロードは頭部の耳から尻尾まで果ては制服をヌルヌルのベトベトのハンドソープ塗れになりながらどこかのオールスター感謝祭の芸人たちのように立ち上がっては転び、立ち上がっては転びを繰り返していた。

 

 

『トップロードさん!滑ります!うまく動けません!』

『バクシンオーさん!こ、この液体!凄くヌルヌルして、だ、駄目です!とにかく駄目です!あ、あと、上から降りていただけると、た、助かります!』

 

 

 白い潤滑性の薬品に塗れた二人の美少女ウマ娘が絡み合うという光景が目の前にあったので、記念にスマホで連続シャッターを作動させた僕は颯爽とその場を立ち去ったのだった。

 出来れば彼女たちが転んでからの一部始終を5000~10000文字程度の文章で描写するべきなのだろうが、生憎僕には時間が無い。

 

 

 ウマ娘としての超直感が発動したのかもしれない。

 「これ以上は規約違反だ、垢BANの刑に処するゾ」という、三女神様からの最終警告のような、そんな感じがしたのだ。

 

 

 

「それにしても、あれはなんだったんだろうか」

 

 

 人気の無い学園のルートを壁沿いに進みながら、サクラバクシンオーとナリタトップロードに追いかけられている際に自身の身に起きた変化の事を僕は思い返す。

 

 

 大きな背に圧を感じた瞬間、身体の無駄な力が抜けて爆発的なスピードが生まれた。安直に言うなら、こんな感じの現象が起きたのだ。

 よくウマ娘がある日突然、爆発的な力を発揮するという。成長期による肉体的成長の「本格派」とはまた違う、自らの能力の限界を超えるような、殻を破り、上の段階へと至る領域のようなものが。

 

 

「はぁ、はぁ……やべ」

 

 

 だが、それと引き換えにどうやら身体には大きな疲れが現れるらしい。

 レースが終わった後にぶっ倒れるようなものではないが、若干のふらつきを覚えている。

 一瞬の事だったので深い考察は出来ないが、少なくともあの爆発的なスピードはレースの武器にはなるかもしれないが自らを犠牲にする諸刃の剣にも成り得るだろう。

 

 

 周囲を警戒して、時には植物の後ろに姿を隠して観察すると僕を追いかける生徒達はまだ残っているようだ。

 刺す股で草木を掻き分け、ロープ付き手錠を常備しているウマ娘を見ると、まるで僕が犯罪を犯した凶悪ウマ娘になったようだ。

 

 

 僕ほど人畜無害なウマ娘など世界に類と見ないというのに。

 全員が所持している捕獲道具は僕のと同じ、アグネスタキオン印の対ウマ娘用に作られたものだ。

 人間の力を遥かに超える存在のウマ娘を封じるためにこれ以上の道具はこの世界に存在しないだろう。

 

 

 というか、もうこれ商品にして売り込んで発明家になった方がイイんじゃないのか、アグネスタキオン。

 

 

 さほど大きくもない身体を茂みの中に隠しながら必死に息を整える。

 だが、どうにも消耗が激しいのか、中々呼吸が落ち着かない。

 いくら僕がスタミナに不安のあるウマ娘だからと言って、バクシンオー達に追いかけ回されたからと言って数キロの全力ダッシュでバテるようなヤワな鍛え方はしていなかった筈だ。

 

 

 

・・・・やっぱり、まだダービーの時の疲れがあるのか。

 

 

 自分でも走破が難しい日本ダービーの2400mという距離をハイペース戦に持ち込んだ代償なのか。

 あのレースの後はどうも調子が戻らず、練習時の走りも、軽めのランニングでも身体が鉛のような重さを常に感じるようになっている。

 肉体はまだ、全快ではないという証か。

 

 

 今の僕は相当疲弊しきっている。

 このタイミングで追跡者である学園の生徒に見つかったら、僕は逃げ切れずに簡単に捕まってしまうだろう。

 僕が捕まっても何をされるわけでもないし、精々ゴールドシップが生徒を無理やり巻き込むためについた嘘の温泉旅行券に踊らされていた事に気付いた皆が「おのれゴルシ!」と某四国の仮面ライダーの如く光る杖を振り回しながら地獄の追いかけっこへとなるのは目に見えている。

 

 

 だが僕がここで捕まるとミホノブルボンには会えない。

 ライスシャワーとの約束を果たせなくなってしまう。

 

 

「不味い事になったな……」

 

「何が不味いのです?言ってみてください」

 

「不味いってそりゃあアレですよ、無残様―――って、うぉっ!?」

 

 

 ふと顔をあげ、そこにはしゃがみこんでこちらを見ているひとりのウマ娘の存在があった。グラスワンダーだった。

 

 

「ふふ、トレーナーさん。誰が鬼の一族のラスボスですか~?」

 

「いやいや、グラスワンダー。落ち着いて聞いてれ、冷静になってくれ。

 決してグラスの事を心を読みながら平然と圧を掛けてくるパワハラ上司と揶揄したわけではなくてだな」

 

 頬を緩めながら、はにかんだような笑みを浮かべてはいたもののグラスワンダーの胸中は穏やかではないのは僕の目には見て明らかであった。

 既に背中にはナチュラルに所持していて遂に学園からも余程の事が無い限り、レース中の固有演出でなければお目に掛かれない薙刀が彼女のすぐ傍に置いてあったからだ。

 

 

「まず、話を聞いてくれグラ――ごほっ、ごほ……っ」

 

「……」

 

 整わない呼吸で無理に話をしたからか、咳をし始めた僕を見たグラスワンダーは周囲を一瞬だけ見渡して状況を見極めた後に身を屈めて僕に言う。

 

「一度ここから離れた場所で落ち着いた方が良いでしょう。トレーナーさん、こっちです」

 

「お、おぅ……?」

 

 グラスワンダーに手を引かれ、身を低くしながらそそくさにその場を後にしていく。

 忍者の如く静かに征く先には人の影は無く、外から響く喧騒が窓越しに聞こえてくるだけであった。

 先陣を切るグラスワンダーのお陰で僕は誰にも会うことなく進むことが出来た。

 僕の一歩先を歩くグラスワンダーが人の気配を察知すると数名のウマ娘達が走って来ていたので、彼女たちに見つかる前に僕の身体をどこかへ隠す。

 僕の担当ウマ娘は見聞色の覇気使いだったらしい。

 

 

「なるほど、トレーナールームは比較的に安全ってワケか」

 

「はい。ここは関係者以外はあまり出入りをしませんので……はい、水をどうぞ」

 

「助かる」

 

 あれよあれよと手を引かれ連れてこられたのは僕達チームのトレーナールームだった。

 僕のトレーナーであるミスターXは不在で、いつもなら昼休みはここで徹夜明けで寝ているアグネスタキオンも見当たらない。

 もしかしたら、研究の為に家庭科室のラボに引きこもっているのだろうか。

 

 

 グラスワンダーが渡してくれたペットボトルの飲料水を受け取り、口へと含む。

 冷蔵庫でよく冷やされていたのか、全力疾走で疲弊した所へのこの水分補給は砂漠の中心でオアシスに巡り合ったのと同じくらいの快感だ。

 駆けつけ三杯の勢いで丸々一本を飲み干した。

 

 

 身体に力が漲るのを感じる。

 先ほどよりも息を整えられた辺り、大分体力も回復してきたのだろう。

 これなら再びミホノブルボンを追い駆けることが出来る。

 

 

「助かったよグラス。お前が居なかったら、きっと僕は何も成せずに捕まっていた。

 そして衣服を剝ぎ取られて、温泉旅行券が無い事に逆上した僕は簀巻きにされて焼かれていたかもしれない」

 

「中世の魔女狩りの如き所業をする風習がこの学園にあるとは思いませんが……まぁ、困ったときはお互い様ですから。私もトレーナーさんに力添えが出来ればと」

 

「充分すぎるくらいだよ、グラス。僕はいつもお前に助けられてばかりだ……そうだ、僕に何か出来る事があれば言って欲しい。可能であれば、グラスの期待に応えられるように出来る限りの事をしよう」

 

 

 何よりも、ここには僕の相棒であるグラスワンダーもいる。

 彼女の協力が得られれば、ミホノブルボンを追い駆けるうえでこれほど心強い味方はいない。

 助けを請うのであれば、それなりにグラスワンダーに感謝をしなければいけない。

 その上で僕は彼女に言ったのだ。『グラスワンダーに褒美を与える』ような言動を。

 

 

 

 ガチャ、と金属の鳴る音がした。

 それは部屋の扉の鍵が閉まる音だった。

 

 

 

 カチャ、と続けて僕の身近な場所で同じような金属が閉まる音がした。

 それは僕の右腕から発せられていて、そこには手錠が掛けられていた。

 

 

「え?え?え?あれれ?なんで?グラスなんで手錠?」

 

「トレーナーさん、では、私の願いを聞いてくれますか?」

 

 

 僕の眼前、そして僕の右手に繋がれた手錠を手にしたグラスワンダーが笑みを浮かべる。

 

 

「私に(とら)えられてください♪」

 

 

 いつものような穏やかで可憐さを残しつつも、どこか毒を感じさせる花のような笑みを。 

 




皆欲しいんだよ温泉旅行券。
グラスワンダーが楽しそうで何より。


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49.グラスワンダー謀反の巻

担当ウマ娘とのリアルファイト、その記念すべき第一回目となります。
もう夏も終わるから、11月までには宝塚終わらせたいところ。
メイドインアビス見てたらミスターXがボンボルド卿に見えて来た。
こっちのイメージもありだと考え始めた今日この頃。


 

 これはまだ、山々田山能がウマ娘になる前のお話。

 

 

 1月の寒空の下、新年を迎え賑わいを見せる商店街をグラスワンダーは歩いていた。

 その隣には初詣に行っていた自身のトレーナーの姿もあった。

 トレーナーは朝から終始眠そうな顔をしていて、隙あらば欠伸をしていた。どうやら、年越しでゲーム三昧に勤しんでいたようだ。

 

 

 グラスワンダーのクラシックロードは前途多難に満ち溢れていた。

 骨折で春シーズンを棒に振り、続く復帰戦のレースで凡走を繰り返し、世間からは「早熟」だの、「終わった」だの、自分の意志とは真逆の世間の評価を浴びせられることもあり、屈辱の日々を過ごしていた。

 

 

 しかし、年末のグランプリレースである『有馬記念』でグラスワンダーは堂々一位になり復活を果たした。

 その時はトレーナーと勝利の喜びを分かち合い、共に感極まって泣いてしまった程だ。

 そんな復活劇から約一週間、これから新しい年を迎え、トゥインクルシリーズでも歴代の強者が集うシニアクラスへと突入するに従って、願掛けと英気を養いに来たのである。

 

 

「あれは……福引、ですか…?」

 

「そうみたいだな」

 

「これが―――」

 

 飾られた豪華な垂れ幕の下では机に置かれた赤色の抽選器を景気よく回していく一般人の姿が見られる。

 どうやら商店街で買い物の際に貰える抽選チケットを渡せば、あの福引にチャレンジできるようだ。

 

「なんだグラァス、スゲー回したそうな目で見つめてるけど。日本じゃそんなに珍しいものなのか」

 

「あ、はい。アメリカとか、海外全般の福引は基本的にスクラッチとかみたいな感じなんですよ。 

 買い物したレシートにナンバーが書いてあって、後日お店に当選ナンバーが書いてあるクジみたいですね」

 

「ほんへぇ」

 

「あとは、プライズホイールっていうルーレット方式などでしょうか。

 あのように回すタイプだとラッフルドラムが一番近いですね。やはりこの福引も日本の伝統的文化……」

 

「へぇ、海外の福引って無数のボールが入った透明な箱の中に美女が手を入れてボールに書かれた番号を揃えていくタイプじゃないのか。億万長者になるやつ」

 

 

 それは海外の宝くじでは?

 

 

 年始から話題にしては欲に塗れているな、と思うグラスワンダーは自身の財布を開く年始の買い物で手に入れていた抽選券を取り出しては、スタッフへと手渡した。

 

 

「お、挑戦するのかグラス?」

 

 物珍しそうにトレーナーが腕を組んで見せる一方で、グラスワンダーは視線をある一点に向ける。その後笑顔で言うのだ。

 

「ええ、今年最初の運試しです♪」

 

 

 結果は4等、つまりはハズレ賞だった。

 グラスワンダーのやる気が下がった。

 

 

「……」

 

 ハズレの景品であるティッシュを渡されたグラスワンダーは無言で受け取ると新品のティッシュにじーっと、空虚な視線を浴びせ続けていた。

 ふと、福引における景品のラインナップを見る。ティッシュより上の景品は3等にんじん、2等にんじん山盛、1等特上にんじんハンバーグ。

 

 

 

 特賞、温泉旅行券。

 

 

 

「運試し、運試しですから……」

 

 別に特賞を狙っていた訳ではない。強く望んでいた訳ではない。

 しかし、平常心を装いながら、新年のラッキーに巡り合えるのではないかと期待していたのもまた事実。

 

 

 グラスワンダーは己を恥じた。

 たかだか紙切れに一喜一憂し、あまつさえ気を落としてしまうなど。

 これでは自身の大和撫子を志す精神に相反するし、それどころかこれから目指す高い壁の向こう側、そびえたつ山の頂に立つことなど、遠い事のように思える。

 

 

 平常心、平常心を取り戻せグラスワンダー、そう確率、これは確率だ。そう思うようにしよう。そう思った時だ。

 

 

「グラス、実はもう一枚あるんだ」

 

 

 隣のトレーナーが差し出してきたのは福引の抽選券だった。

 所々折り目がついていて、彼がレシート類やそういった用紙を乱雑に扱っているのが容易に理解できた。

 しかし、それよりも驚きの感情の方がグラスワンダーにとっては大きくて、

 

 

「え、あ、あの……トレーナーさん、どうして……」

 

 いや、とトレーナーは頬を搔きながら、

 

「僕だと福引の開催期間なんて忘れて、終わっちゃうかもしれないからさ。

 ただの紙切れにするくらいなら、ここでグラスに使ってもらいたいと思って」

 

「いいんですか?トレーナーさんがご自身で引かなくても……また、残念賞を頂くかもしれませんよ?」

 

「それでもグラスなら、次は良いのが引けるかなって」

 

 なんという、信頼に満ちた目をするのだろうか。

 終生の友を得る、という黒田官兵衛が前田慶次に抱いた感情はこのようなものなのだろうか。

 彼の、トレーナーの言葉はグラスワンダーに勇気を与え、前に進ませてくれる。

 故に、自身も自身も彼の言葉に全幅の信頼を寄せている。

 彼は、道を進む上での大切な道標。

 

 

 だけど、それだけじゃない。

 グラスワンダーにとってトレーナーはただの導き手に非ず。

 その意味は胸に抱いた感情だけが知っている。

 彼の暖かさが、優しさが、厳しさが、幾度となくグラスワンダーを救ってきたことがその証明。

 

 

「ならば、共に」

 

「僕も?」

 

 

 決意を固めたグラスワンダーは抽選権を渡し、再び戦場へ。

 しかし、一人に非ず、共に戦う事を請い、彼へと手を伸ばす。

 

 

「ええ、去年と同じように、今年もあなたと……トレーナーさんと一緒にたくさんの事を乗り越えていきたいな、と」

 

「ふ、ふふ……そうだな。僕たちは共に、心に不退転を掲げる同士だから。やるか」

 

「はい!」

 

 二人して抽選器の前に立つと、ただならぬ雰囲気を纏うグラスワンダーとトレーナーの気に充てられた周囲が数歩後ずさる。

 それはまさしく覇気。今のグラスワンダーとトレーナーなら、海軍中将の一部は気絶させることが出来るに違いない。

 

 

「参ります」

 

 

 抽選器を回すレバーの取っては小さく、グラスワンダーの手一つで覆われてしまうくらいの小ささ。

 トレーナーはためらわず、恐れず、グラスワンダーの手に自らの手を重ねて見せる。

 

 

 乾燥しているのか、少しだけカサカサとした感触が伝わる。でも構わない。

 重ねた手と手だけが互いの熱を伝え合う。心は重なっている、そんな気がした。

 

 

――――精神一到何事かならざらん

 

 

 抽選器が周り、胴内の玉と壁が打ち合う音が響き渡る。

 ゆっくりと、互いの手に込められた力は常に一定で、しかし確かな想いを込めて、胴は回る。

 

 

 

 回って、回って、排出口が頂点を迎え降り始めた時、勢いよく一粒の球が転がり出た。

 

 

「あー、残念賞~!ごめんね、はい、コレ景品のティッシュね~。ハイ、次の人どうぞー!」

 

 

 グラスワンダーのやる気が下がった。

 その後何度か機会があればグラスワンダーは福引をしていたが温泉旅行券は、結局手に入らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちゃき、と金属の鎖が音を立てて部屋に響き渡る。

 

「グラス……これは一体、どういうことだ」

 

「どういうこと、と言いますと」

 

 右腕に嵌められた手錠は僕を離さず、拘束するという役目を充分に果たしていた。

 この手錠は僕がミホノブルボンを捕まえるために用意した特別な手錠、アグネスタキオン制の対ウマ娘捕獲用の手錠だ。

 

 

 どこまで検証したかは定かではないが少なくともゾウが乗っても壊れないらしく、そんな頑強な捕獲道具であればウマ娘の力などでは破壊出来ない事ぐらいは分かっている。

 

 

 問題は、何故それをグラスワンダーが持っていて、あまつさえ僕を捕えようとしているのか。それだけが僕には分からなかった。

 

「今はのほほんとしている場合じゃない。ミホノブルボンはこの間にもどんどん遠くへ行ってしまうし、下手をすると昼休みから学園を早退する可能性だってある。引退レースが近いからその調整と理由を作って学園に戻らないことだって出来るんだ。今日くらいなんだ、グラス!ミホノブルボンを説得できるのは……ライスシャワーの為にも――――」

 

 

 言葉を紡ごうとした瞬間、強烈に僕の身体が前へと引っ張られる。

 手錠を掛けられた右手をグラスワンダーが引いたのだ。

 

「なっ!?ちょ!待てグラ―――」

 

 強靭な力を前に僕は踏みとどまろうと後ろの方向へ体重を掛けようとしたが不意に手ごたえが無くなるのを感じた。

 その瞬間、グラスワンダーが前に踏み込んでは右肩を僕の正面に構えて、身を屈めて、

 

「破ッッッ!」

 

「がふっ!?」

 

 

 胸部に、衝撃。

 ウマ娘の力で行われるグラスワンダー渾身の当身。

 

 

 その衝撃は凄まじく、まるで岩にぶち当たったかのようなもので、成す術もなく僕の身体は後方へ飛び、トレーナー室の壁際へと押し込まれる。

 151cmの小柄な体格のグラスワンダーに対して僕は一切抗う事が出来なかった。

 身体の力の流れを利用されただけではない、純粋な力勝負にも負けていたのだ。

 

 

「大人しくしていただけますか?」

 

 僕の背中に壁が当たると、即座に空いている左手をグラスワンダーの右手が抑える。

両の手を壁に押し付け、完全に僕の動きは封じられてしまった。

 

 

「先ほど、トレーナーさんは言いました。ミホノブルボンさんの為だと、ライスシャワーさんの為だと。

 ですが、この程度の拘束も抜けられない実力しかないあなたに何が出来るというのでしょうか」

 

 碧の瞳は真っすぐに僕だけを見つめ、僕の動きを封じる手からは一部の油断も隙もなく。

 彼女から放たれる殺気はレースを走っていた現役よりも更に研ぎ澄まされているような気がした。

 まるでそれは、喉元に刃を当てられているかのような、蛇に睨まれた蛙の気分だった。

 

 

「ごふっ……えふっ、えふっ、うぅ……」

 

「それに、体力も殆ど残っていないでしょう。そんな状態で、あの二冠ウマ娘であるミホノブルボンさんを捉えるなど、今のあなたでは到底無理な事」

 

 だから、とグラスワンダーが一息。

 

「この私が、往きましょう」

 

「!?」

 

 堂々と、そして粛々とした口調でグラスワンダーは言った。

 胸に当身された衝撃で息を整える間もない僕に、聞こえるように耳元で言ったのだ。

 

「この私、グラスワンダーがミホノブルボンさんの首級(みしるし)をトレーナーさんに捧げます」

 

「さ、捧げるって何を!?首級って言ったよね!?それって生首のことだよね!?物騒すぎるぞグラスワンダー!!」

 

 脳内TSUSIMA。

 鎌倉武士がウマ娘化した少女、その異名に偽りなし。

 今の彼女なら単騎で薙刀を振り回して暴れ回るトレセン学園の生徒を軽く蹴散らしながら、ミホノブルボンを仕留める事も可能だろう。

 

 

「この程度の拘束を振りほどけぬ者に、戦う資格などあり得ませぬ。春先からのトレーニングを重ね、復調してきた私ならば、問題はありませんよ。だからここは大人しく私の吉報をお待ちになっていてください」

 

 

 不屈を体現したウマ娘、グラスワンダーが僕を捉える力は相当なものだった。

 僕はおろか、並のウマ娘でもこの腕力に抗えるものは多くは無い。

 壁を背に、両の腕を抑えられた僕自身の無力さを嫌と言うほど教えてくる。

 

 

 

 待つのは、得意だ。

 トレーナーだったから、ウマ娘をレースに送り出して、勝利して戻ってくるのをひたすら待つのが普通だったから。

 今回もそうだ。グラスワンダーの方が、疲弊している僕の代わりに十分な戦果を出してくれる……それでいいじゃないか。

 

 

 グラスワンダーも乗り気だ。

 競う相手が二冠ウマ娘となれば、相手にとって不足ナシだろう。

 強者が強者を狙い、競う、レースと同じ弱肉強食の世界だ。僕にはそれが今出来ない、そういう仕方ない状況なんだ。

 

 

 

 

 だから僕は、何もかもグラスに任せ、ミホノブルボンの捕獲の報をこのトレーナー室で待とう――――そう、思ったのだ。

 

 

 

 思ったけど、それは駄目だと、そう思った。

 

 

 

「それは、出来ない」

 

「!?」

 

 否定の言葉にグラスワンダーが顔をしかめた。

 僕を抑える腕に少なからずだが、押し返すような抵抗が見られたからだ。

 

 

「確かにグラス、お前が適任なんだろう。

 スピードも、パワーも、スタミナも、今の僕ではミホノブルボンに迫れる実力を有していないかもしれない。

 全てお前に任せてしまえば、どうにかなってしまうのかもしれない。

 僕なんかが居なくても、解決できてしまうかもしれない」

 

 

 立ちふさがるは限界と言う壁。

 それはいつだって、ヒトの時だって、僕の前に立ち塞がって来た。

 競技者としてスピードの壁に挑み続けて、尚超えることが出来ず、一度は折れてしまった事もある。

 

「無駄な事を……このまま走り続ければ、ただ我が身を傷つけるだけだと、何故気付かぬか」

 

 僕の抵抗をグラスワンダーが容赦なく封殺しようとする。

 手首を握り、骨を軋ませるほどの握力で圧迫し、コンクリの壁に僕の腕を擦りつけるように、強引に押し込む。

 

「気付いているさ、今の僕の身体がどれだけ消耗してるかって……ちゃんと休まなきゃいけない時期なんだってことも」

 

「それならッ」

 

「それでもッ!!」

 

 語尾を強めて迫るグラスワンダーに返すのは抗いの言葉。

 僕としての、決意を纏った言葉。

 

「それでも、僕は行かなきゃならないんだ。ミホノブルボンの元に……それがライスシャワーの願いだから」

 

 心の叫びを聞き、ライスシャワーの願いを叶える者として僕は進まなきゃいけない。

 僕は誓ったんだ。必ず、ミホノブルボンとライスシャワーをもう一度会わせると。

 身を犠牲にして、そこまでを成そうとする理由はあるのかって?野暮な事を言うんじゃないよ。

 

「それにッッ」

 

 徐々に、徐々にだが、僕の腕がグラスワンダーの拘束を押し返していく。

 どこにそんな力が残っているのか、グラスワンダーも僕自身もあまりよく分かっていない。

 

 

「ウマ娘は……誰かの願いを背負って走る……そうだろ?僕は、ライスシャワーの願いを聞いた者として、走る……これは僕としての、ウマ娘としての宿命だ」

 

 

 だから、と僕は視線を鋭く敵意を剥き出しにしてグラスワンダーへと言う。

 

 

「これ以上僕の邪魔立てをするというのなら、お前の事をぶっ飛ばしてでも、僕はミホノブルボンの所へ行くぞッ!

 走れなくても、タキオンの特性スタミナドリンクを飲んででも無理に走ってやるッ!

 僕を止められるものなら、止めて見せろッ 掛かってこいよグラスワンダーッッ!!!」

 

 

「……分かりました」

 

 次の瞬間、何かを悟ったかのようにグラスワンダーは僕を拘束していた手を離し、ゆったりとした動作で腕を下した。

 何が起こるのか、槍が飛んでくるのか、脳天唐竹割が飛んでくるのか、恐ろしく速い手刀が飛んでくるのかそう思っていたのも束の間だった。

 

 

「動かないでください」

 

 どこから出してきたのか、いつの間にか手にしていた細長い得物がそこにあった。

 エルコンドルパサーがグラスワンダーを茶化した時の一枚絵に必ずグラスワンダーが所持している、グラスワンダー殺意の代名詞となっている薙刀である。

 模造ではない、確かに人の肌を切り裂く鋼の刃が光を浴びてギラリと妖しく輝く。

 己の丈ほどの長物を悠々と操るグラスワンダーは上段へと刃を振り上げると、

 

 

「ちょっ!グラスッ!タンマ!!タンマ――――!!!」

 

 

 なんの躊躇いもなく、僕に向かってその刃を振り下ろした。

 しかし、痛みなどなく、次に僕が耳にしたのは何かが鈍い音だった。

 

 

「おろ、手錠が」

 

 僕の手を拘束してた手錠が無い、正確には真っ二つに両断されて床へと落ちている。

 ウマ娘の力でも破壊出来ないと言われているアグネスタキオン製の手錠をグラスワンダーが破壊したのだ。

 遂にグラスワンダーは流桜を取得したらしい。今ならば、天竜人の作り出した首輪も難なく破壊することが出来るだろう。

 

 

「まったく、あなたという人は本当に困った方ですよ、まったく……」

 

 薙刀を仕舞い、グラスワンダーが大きくため息をついて、肩を落としていた。

 

「ウマ娘になっても変わらないんですね……己の身など顧みず、私の知らない所で無理をして……私が怪我をしていた時期に散々無理をするなと仰っていたのに―――私の毎日王冠の後も、トレーナーさんはそうやって……」

 

「あー、あのー、あの時はだな、うん、僕も周りが見えてなかったというか……」

 

「でも、トレーナーさんならきっと、ウマ娘になっても。その心は変わらないのだと、そう思っていました。トレーナーさんは、そういう人だから」

 

 なので、とグラスワンダーは続ける。

 

「ミホノブルボンさんを、捕まえましょう。二人で……今より、グラスワンダーはトレーナーさんを加勢に入ります」

 

 一たび眼つきを変えれば、グラスワンダーは再び鎌倉武士へと姿を変える。

 心強い援軍の登場に、僕は感謝をせずにはいられなかった。

 

「ありがとう……恩に着るよ、グラスワンダー」

 

「ふふ、ではいずれ何か褒美を頂かなければなりませんね~」

 

「ああ、そうだな。なら、それ相応の褒美じゃなきゃ……グラスワンダー、僕と一緒に温泉旅行に行こう」

 

「ふぇっ!?トレーナーさん、い、いまなんと!?」

 

「え?だって、多分この温泉旅行券の話、多分ゴルシの嘘だぜ?理事長の放送の声も予め録音してたのを流してたぽいっし……そうなったら、この後に頑張ってミホノブルボンを捕まえても報酬はゼロなのは分かってるからさ……それに、僕らは他の同世代の奴らと違って、温泉旅行には行けなかったからな」

 

 

 正月の時、福引で温泉旅行を狙っていたグラスワンダーを思い出す。

 あの時は何度やってもティッシュだったので、相当確率悪いのかなと思ったけど、確か同期でスペシャルウィークが温泉旅行券を当てていたらしい。

 それどころか、他の黄金世代のウマ娘達もショッピングモールの景品や、懸賞やらで温泉旅行券を当てたらしく、同期で温泉旅行に行っていないのはなんと僕とグラスワンダーだけだったのだ。

 

 

 当時は僕も予定を変更してなんとか連れて行こうと考えていたが、当時はマルゼンスキーがドリームトロフィーリーグに行くだの、エルコンドルパサーに喝入れられるだの、不退転を破り捨ててNEW不退転を掲げるなど、詳しくはストーリーを見やがれ案件で色々あって、ここで無理に予定を組むのは難しいと思ったのだ。

 お陰で時期は逃すは、次の年は怪我に見舞われたり、僕がウマ娘になったりと、ほんとバタバタしていたのだから尚更である。

 

 

「僕のトウィンクルシリーズが落ち着いたら、そうだな、グラスの予定も合わせてどこか有名な場所に行こう。

 この際だからグラスが頑張ったトゥインクルシリーズの労いを込めて、うんと遠出しようか………ああ、そうだ。岩手とか東北県内には秘湯が多いって言うから、外泊許可も貰っちゃおうか。どうせなら一緒に長く楽しみたいし」

 

「ちょ、ちょっと…あ、あの!な、なんでこんな急にぐいぐい来るんですかッ!!い、いきなりすぎます!いったん落ち着いてください!止まってください!」

 

「今の僕はノンストップガールだ」

 

「えぇ……」

 

 まるで化けの皮が剥がれたかのような豹変ぶりを見せるグラスワンダーに困惑しながらも、しかし珍しい反応が見れて嬉しいものだと思いながら、僕は思わず笑ってしまう。

 

 

「まぁ、それもちゃんとミホノブルボンを捕まえてから、だな。改めて礼を言うよ、グラス。僕の我儘を聞いてくれて」

 

「い、いえ……こ、こほん。誰かの願いを背負ってしまったのですから……トレーナーさんが意地を通すのなら、私は止めはしませんので―――――できれば、私の願いも聞いて欲しかったのですけど……」

 

「ん?グラス、最後はなんて言ったんだ?よく聞こえなくて」

 

「な、なんでもありませんよ!ほら、昼休みも終わってしまいます。急がなければ」

 

「そうだな、じゃあまだ探していない体育館方面を探してみようか。あそこなら隠れる場所も結構あるし」

 

 

 そう言って、僕達はトレーナー室を後にした。

 向かうは逃げ続けているであろうミホノブルボンの元だ。

 

 

 

 大丈夫だよ、グラスワンダー。僕は大丈夫だ。

 

 

 

 心の中で、僕はグラスワンダーに言う。決して届くことは無いかもしれない心の声を。 

 お前は僕に無理をしてほしくなかったんだろう?手錠を使ってでも、多少強引に僕を傷めつけてでも、日本ダービーの疲れが残っている僕に無理な負荷を掛けさせまいとしてくれたんだろう?

 

 

 自分が故障をした立場だから、クラシック期を棒に振ったこともあったから、悔しい想いをしたから。

 そんな彼女が僕を止めに入るのは、当然の事だったのかもしれない。

 一度は敵対しようと見せたけど一転して協力してくれたのは、僕が一度進みだしたら止まらないって知ってるからか。はたまた、ただの諦めか。

 

 

 だからもう一度言わせてくれ、僕の我儘を聞いてくれてありがとう。グラスワンダー。

 

 

 

 

 僕の手を握り、引いてくれる彼女の掌に僅かな熱を感じながら僕達は学園の廊下を駆けて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ちなみにこの作品の黄金世代は皆が温泉旅行に行っている引き強共なので……。


ゾウ < ウマ娘 < アグネスタキオンの手錠< 薙刀装備グラスワンダー
レース以外でもしっかりと最強を目指し続けるグラスワンダー、素敵です。

お話の中でちらっと出ましたが、毎日王冠の後に山々田トレーナーは無理し過ぎて身体を一度壊しました。その時のお話もいずれ。
感想、いつもありがとうございます。


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50.未だに残るモノ

50話記念です。年内で宝塚目指してたらいつの間にかリアルは年末有馬記念を迎えていたでござるの巻。


 

「ククク……学園がいつにも増して騒がしいから屋上に来てみれば、面白いものが見れたじゃないか」

 

 トレセン学園屋上、真昼の暖かな風が吹きすさぶその場所に一人のウマ娘が喧騒の最中にある学園を見下ろしている。栗毛のボブカットにハイライトの消えかかった好奇と探求心に満ち溢れた瞳を持つウマ娘――――、そうアグネスタキオンだ。

 

 

 ウマ娘世界の恐怖のマッドサイエンティスト、裏の世界では怪人を作る悪の組織の死神博士なんて呼ばれてもおかしく無いであろうアグネスタキオンは数刻前に目の当たりにした光景を回顧して見せる。

 

 ブラックサンダーがいつになっても昼ごはんを提供しに現れないのでラボから重い腰を上げてみるとやけに外が騒がしかったので屋上からその状況を一望していると、学園では名の知れたウマ娘、サクラバクシンオーとナリタトップロードの委員長コンビに追いかけられているブラックサンダーの姿があった。

 理事長とゴールドシップの怪放送が流れていたのを聞く限り、何かロクでもない事が起きてるに違いない。そして、ブラックサンダーはそれに巻き込まれたのだろうとアグネスタキオンは考えた。

 

 

 他のウマ娘の装備には自分が提供した対ウマ娘捕獲セットを持ち歩いている生徒たちの姿が見られる。

 ブラックサンダーは多くのウマ娘に懸賞金でも掛けられた某海賊漫画のルーキーの如く追いかけ回されているというワケだ。

 

 

 しかし、勝負は決まったようなものだろう。

 何せ、ブラックサンダーを追い駆けているのは学園でもトップクラスに入るであろうスプリンター、サクラバクシンオーと最も強いウマ娘が勝利する菊花賞を制したナリタトップロードなのだから。それをトゥインクルシリーズ駆け出しのウマ娘であるブラックサンダーが降り切れる筈もない。

 

 

 アグネスタキオンは好奇の目を向けながらも冷ややかな分析をして、その展開を予測していた。

 だが次の瞬間、その予測を良い意味で裏切ったのはブラックサンダーであった。

 

 

 

 ブラックサンダーは距離を詰められながらも、そこから再度加速したのだ。

 スリップストリームで空気抵抗を受けないサクラバクシンオーやナリタトップロードよりも不利な位置取りにありながら、限界を超えた加速を行ったのだ。

 

 

 まるで自ら空気抵抗の壁を破壊するように。

 枷というものを外したように。

 

 サクラバクシンオーよりも速く。

 ナリタトップロードよりも粘り強く。

 

 スピードと持久性を両立させるブラックサンダーを後方二人のウマ娘はまったく差を縮める事が出来なかった。

 その光景を目の当たりにしたアグネスタキオンは瞳を輝かせ、両の手を震わせずにはいられなかった。

 

 

「素晴らしい……」

 

 これまで重ねてきたブラックサンダーに対する研究の中でもかなりの進捗を示した。

 クラシックでは抜きんでたスピードと本人の根性論という、研究としてはあまり興味をそそられない内容に暫く頭を悩ませていたアグネスタキオンだったが、

 

「やはりキミは最高のモルモットだッッ」

 

 

―――やはりキミは最高のモルモットだッッ

 

 

 言葉で。脳内で列海王と壇黒斗をミックスさせて叫ぶと確信を得る。

 自分の見立ては間違いではなかったと。

 

 

「キミもまた……速さの果てへと至れる可能性がッッ」

 

 

 己の欲望のままに速さを追い求め、それを生涯の研究対象とし続けたアグネスタキオン。

 自分自身の脚と友人に協力(一方的に)を仰ぎ、トゥインクルシリーズを駆けて来た彼女にとってブラックサンダーは新たな可能性を秘めたウマ娘だった。

 

 

 胸の鼓動が止まらない。

 ああ、あの映像をもう一度見なくては。

 映像は?記録は残っていないだろうか。

 学園の監視カメラから拝借しなくては。

 説明を……立証しなければ。

 データを取らなければ。

 数値にしなければ。

 

 

――――可能性を導き出さなければ。

 

 

 ここ数日停滞していた脳がまるで水を得た魚のように生き生きとし始める。

 エンドルフィンが大量に分泌しているのが分かる。今日は何時間でも、否、数日間ラボに籠って研究し続ける事が可能だ。

 

 

『ブラックサンダーも、ウマ娘としての能力を覚醒させつつあるようだ』

 

 

 不意に、空から声が聞こえた。

 ここは屋上、地上から数十メートルは高所で、その場所でもっとも高い場所にいるアグネスタキオンよりも高い所から聞こえた声にアグネスタキオンは思わず声のする方を見る。

 

 

「……ミスターX、盗み見とは感心しないねぇ」

 

『君に言われる程ではないさ、アグネスタキオン』

 

 黒の外套、そして真っ白なマスク。

 正体不明にして人外の疑惑を掛けられているブラックサンダーの担当を務める謎のトレーナー、ミスターX。

 

 

 その男が上空に浮いていたのだ。

 足から何やら圧力が放出され続けていてホバークラフトの要領で地面を滑空していたが空中も浮遊できるとは驚きである。

 推定2メートル以上はあるであろう彼の背丈を悠々と浮かせることが出来る出力をあの足元から一体どうやっているのだろうか。

 

 

 反物質によるエネルギー作用か。

 それとも空気中の大気を吸収し強力なエンジンでジェット機代わりに脚の底部から出力しているのか。

 はたまた、某少年漫画のように舞空術を体得しているのだろうか、科学者としてのアグネスタキオンとしての疑問は尽きない。

 

 

『もともと身体能力としては本格的な成長が入る前のデビューではあった。疲労後の回復具合や、スタミナ不足の面からはそれは明らかだった。

 だからこそ、トレーニングメニューや肉体のケアやレースの日程は私が主体で組ませてもらったのだがね』

 

 現実に引き戻すようなミスターXの言葉にアグネスタキオンは一つ咳払い。

 

「そんな事、間近でデータを取っていた私には最初から分かっていた事だよミスターX。

 それに付け加えるなら、レース後の集中的な熱発も過負荷に肉体が絶えられなくなっていた為さ」

 

『流石だなアグネスタキオン、まるでウマ娘博士だ』

 

「下手な褒め方をする……どんなにキミから言葉を受けても私がキミに靡かない事には変わらないのだから」

 

『そうか……それは残念だ』

 

 仮面の下でため息をついたミスターXは肩を竦める。

 ラオウのような巨大な肩の装束が上下する様は非常にシュールである。

 

 ふぅン、とアグネスタキオンは気を取り直し話を続ける事にした。

 

 

「ブラックサンダーのスピードは更に磨きがかかるだろう。ごく少数のウマ娘が発現することがある能力の覚醒……〝ゾーン〟の領域にね」

 

 

 レースを走るウマ娘もいつしか壁にぶち当たり、能力の限界を感じる。

 その壁を稀にぶち破り、限界を超えた力を発揮することをゾーンと呼ぶのだという。

 

 

「私が見た限り、発動のきっかけは〝直線で差を詰められた時〟に速度が上がっていた。

 つまり、ブラックサンダーの背後にいるウマ娘が追い上げをかけられる事だろう。

 しかし、終盤であの加速は途轍もない武器になる。あのサクラバクシンオーとナリタトップロードでさえ、ブラックサンダーに追いつけなかったのだから」

 

 

 少なくとも、今年のクラシック勢の中では間違いなく最速を誇るレベルになるだろう、とアグネスタキオンは推測する。

 だが、希望とともに問題点と言うものはあるのである。

 

 

『しかし、本人の体力の消耗が激しいのは明らかだ。ブラックサンダーは肉体が成長が本格化してもまだ成長の途中段階だ。

 筋肉や柔軟性を考慮すると、未発達な肉体で負荷の高い加速を使用し続ければ、ただでは済まないのは明白だろう』

 

 ミスターXの言う通り、今のブラックサンダーは組み立て途中の家だ。

 基礎も、骨組みも十分に作られていない不完全な家のようなものだ。

 不安定で、いつ崩れるか分からない状態なのだ。

 

 

 当然、無理を重ねれば取り返しのつかない怪我をするリスクだってあるのだ。

 

 

「ふゥン、勿論サポート側としては全力で走ってもらうために助力を惜しまないさ。

 私のこれまで培ってきたデータと研究成果はこの時の為にあったのだと思うよ。

 彼女は……ブラックサンダーは〝速さの果て〟に辿り着く可能性があるウマ娘なのだから……いや、辿り着いて貰わなくては、何故なら――――」

 

 

――――何故なら。

 

 

 と、アグネスタキオンの言葉はここで止まった。

 頭の中で浮かべて、その意味を再度自身へと問いただす。

 

 

 何故、自分はブラックサンダーに『速さの果て』に辿り着いて欲しいのだろう。

 

 

 至極単純な答えのハズだ。 

 これは自分自身が追い求める最終研究目標、ただそれだけのハズだ。

 

 

 

『……君はそれで満たされるのか、アグネスタキオン』

 

「――――ッッ!!」

 

『ウマ娘は、誰かの願いを背負って走る。そして、いつかは自分自身も誰かに願いを託していく。

 託された者は、覚悟を持つものはそれを受け入れて走るだろう。託した者も如何なる形の運命も受け入れる……指導者、解説者、レースの関係者など。

 だが、キミはどうなのかな?アグネスタキオン』

 

「……これ以上語る事はない、ミスターX。私は、私の望む研究を進めていくだけだよ」

 

『そうか……今は、そういうことにしておこう』

 

 一瞥したミスターXはアグネスタキオンに背を向けて空中浮遊をしながらその場から離れていく。

 マジでアイツ本当に人間なのだろうか、という100人中100人が目撃した同じ疑問を抱くだろう彼の後ろ姿を浮かべながら、アグネスタキオンは彼に言われた言葉を思い返していた。

 

 

―――君はそれで満たされるのか。

 

 

 まるでこちらの心を見透かしたかのように。

 至極当然のように、紡がれたミスターXの言葉が耳にやけに残る。

 

 

 

「悔いはない筈さ。私は納得して、今の私になった筈さ」

 

 

 

 後悔なんて、あるわけない。その筈なのに。

 

 

―――さぁ、可能性を導き出そうかッ 行こう、モルモット君!!

 

 

『中山2000m、道を繋ぎました!アグネスタキオンまず一冠!!』

 

 

 

 レース場に響き渡る鉛のような歓声と。

 己の肉体を日々超越していく感覚と。

 速さと一体になっていく心地良さを今も忘れられない。

 

 

「あぁ、誰かが言っていたな、そういえば。夢というのは、呪いと同じなのだと」

 

  

 どこかのヒーロー番組で登場人物が口にしたセリフ。

 夢を追いかけた者達に対する主人公キャラの『夢』という言葉に対となるアンサーの一つで。 

 夢を叶えられなかった人は、死ぬまで呪われたままなのだという。

 

 

 あの日の胸馳せた想いも、歓喜も、もう味わえないのは分かっているのに。

 夢を友人達に託したはずなのに、自分は終わった者なのだと理解しているというのに。

 時々、いや、シリーズを駆けるウマ娘達を見るたびに思う事がある。

 

 

――――どうして、そのターフの上にはいつも自分がいないのか。

 

 

 

 レースに立ち、走る幻影をアグネスタキオンは見てしまう……見せられてしまう。

 夢を叶えらえれなかった人は死ぬまで呪われたまま……それは恐らく、ウマ娘も同じなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方その頃。

 体育館の使い古された倉庫に、ミホノブルボンは身を隠していた。

 

 

 辺りはしんと静まり返っており、生徒達がこちらを探すような声も聞こえない。 

 それもその筈だ。ここはもう倉庫としての機能はしておらず、今年度中には取り壊す予定の倉庫の為、この場所には立ち入ることが出来ないように出口に立ち入り禁止のテープが張られているのだ。 

 生徒会が指揮を執って進行している筈の倉庫撤去だが、普段の業務やレースで忙しいからか、中にはまだ埃をかぶったマットやらウマ娘の力でボロボロになったサッカーボールや運動靴の類がまだ残ったままである。

 

 

「昼休み終了まで残り10分14秒……ここに滞在して5分経過。

 周囲に人が探しに来る形跡は無し……ファルコンさんやフラワーさんに感謝をしなければ」

 

 

 追跡してくるブラックサンダーや校内の生徒を躱し続けていたミホノブルボンはスタミナ負けしないという自負があるが、それでも多少の疲労はあったのかマットに腰を掛けては息を整えている。

 

 

 

・・・・・このまま昼休みを乗り切り、今日はこのまま早退という手段をとるしか無さそうです。

     先生方やマスターには追って連絡をすれば問題は無いでしょう。

 

 

 チャイムが鳴れば、ウマ娘達も授業を受けるべく元の場所に戻るだろう。

 元々、このバカげた追跡劇も昼休みが終わるまでの時間制限を設けていたのだから。

 全体的に騒ぎが収縮して静まったのを確認次第、ミホノブルボンはトレセン学園を早退する算段であった。

 

 

 全ては、自身のレースの為。

 己のトゥインクルシリーズのラストランとなる、宝塚記念への調整の為なのだから。

 そしてこの選択こそが、自分が考え得る最善最高。

 幕引きに相応しいものなのだ。

 

 

 

「見つけたァッッ!!!」

 

 時間を潰すミホノブルボンの意識を覚醒させるかのように怒号が硬く閉ざされた扉の向こうから響いてきた。

 

「!?」

 

 次の瞬間、ミホノブルボンは目の前の鉄の扉が豪快な音を立てて倒れるのを見る。

 同時に、扉を蹴破ってきたように両足を揃えて倉庫内に転がり込んでくるのは漆黒のウマ娘。

 

 

「……ブラックサンダー」

 

「よう、ミホノブルボン。僕と一緒に〝お話〟、しようか」

 

 

 頭に乗った埃を祓うと、ブラックサンダーは立ち上がってこちらを見据えては長い青鹿毛の髪を搔き上げるのだった。

 




グラスちゃんは邪魔が入らないように薙刀をチラつかせて警備してます。


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51.響き渡るのは本心か

あけおめオラ催眠ッ、催眠解除催眠ッ!催眠で寝正月しろッ!
今年もこんな感じで不定期ですけど書いていきますね。


 

 

 修羅だ。修羅がいる。

 

 

 体育館倉庫の前を捜索していた学園のウマ娘はこの場所にミホノブルボンもしくは、ブラックサンダーがいることを確信していた。

 理由は、普段使われることのない取り壊し予定の倉庫という絶好の隠れ場所という条件と、見るからにこの場所に立ち入ってはいけないといわんばかりに一人のウマ娘が凛と佇んでいたからだ。

 

「いいお昼休みですね~」

 

 栗毛の髪は風で小さく靡き、大地に咲く美しき華を思わせる少女。

 だが、その華奢な体からは想像できないような、戦いとは無縁そうなのほほんとした表情から到底感じられない、この場にいるウマ娘達を進ませんとする〝何か〟があった。

 

 

 大地に根強く踏みとどまろうとする大樹の如き威圧感だ。

 微笑みの裏に隠された刃の如き殺意。

 

「ここから先は立ち入り禁止だそうで~、お引き取り願います~」

 

 可憐さは見た目だけ、実際の所彼女の正体はいまかいまかと抜く事を待ちわびる鞘に収まった刃のようだった。

 

 

「ここより先に進まんとするならば、私と刃を交える覚悟のある者だけ……前に――――」

 

 

 手にした長物に刃は無い。ただの棒だ。

 だが、そこにいた全てのウマ娘達はその少女が持つ長物の先に鈍く光る鋼の刃がある事を幻視する。

 

 

 おのずと数名いるウマ娘達から「ひっ……」という小さな悲鳴が聞こえ、恐る恐る一歩下がり始める。

 まるで蛇に睨まれた蛙が如く、その少女を前にウマ娘達は飛び掛かる事も出来なかった。

 近づけば己の命に関わるのだと生命としての本能がそう告げていたのである。

 

 

 

 

 

 

 きっと、これが最後のチャンスなのだろう。

 ミホノブルボンと話せる機会は。

 

 

「ニシノフラワーが心配していたぞ。〝最近のブルボンさんは何か思いつめたような顔ばかりしてます〟―――ってさ」

 

「フラワーさんが……」

 

「この前、抱こうとした時にさ」

 

「え」

 

 

 自然な導入だ。

 何事にも会話をスムーズに進めるためのネタは自前で用意しておかなければならない。

 ミホノブルボンの部屋の同僚と何度か関わる機会があって本当に良かったと今更ながら思う。

 

 ちなみに、ニシノフラワーは抱けなかった。

 抱き締めようとしたら、その近くで昼寝していたセイウンスカイが邪魔をしてきたからだ。

 

 

 

「スマートファルコンだって……逃げシスのメンバーが過疎ってるから僕を急にメンバーに入れようとしてきたぞ」

 

「逃げ切りシスターズの新メンバーにブラックサンダーを推薦したのは私なので……」

 

 

 お前か。お前が僕を推したのか。

 やたらと最近スマートファルコンが練習中に先回りしてメンバー勧誘にくるのは。

 しかも僕がダートコースでトレーニングしてるときに限ってあり得ないスピードで追い抜いてくるから逃げられない状況でやってくるのでどうしようもない。

 

 

 だが、逃げ切りシスターズの活動まできっちり次のメンバーの補填を考えているあたり、彼女は、ミホノブルボンは。

 

 

「……本気なんだな。トゥインクルシリーズの引退も、トレセン学園からいなくなるのも」

 

「……」

 

 

 言葉にせずとも、伝わることがある。

 表情だけでも、本人の意思というのは見えてくるものだ。

 彼女がたとえ、感情に乏しいサイボーグと呼ばれていたとしても。

 

 

「肉体的ピーク……」

 

「あ?」

 

 返答なのか、良く分からないがミホノブルボンが言葉を口にする。

 

 

「ウマ娘の成長と言うのはある一定時期を経過するとそれ以上の向上は見込めなくなります。

 スタミナや、スピード、果ては食欲にいたるまで、著しい減退が確認されているのは、ブラックサンダーも理解しているかと」

 

「ああ、そうだな」

 

 

 熟すのが早いか遅いにかかわらず、全てのウマ娘が直面するうであろう能力の限界。

 急激な能力の低下ではないものの、緩やかに、確かに、そのレース人生の終わりへと向かって行く。

 

 

「クラシックの菊花賞後、私は怪我をしました。大きな怪我です……二度と走れなくなるかもしれないという状態から復帰した私は本来のスピードとスタミナに戻す為に多くの時間を要しました。それでも、最盛期には遠く、復帰始めは着外になることもありました」

 

 

「復帰するってのはさ、難しい事だ。自分が思っている以上に、自分の身体は思い通りに動かないんだ」

 

 

 グラスワンダーの復帰戦となる毎日王冠の経験もある。

 数か月振りの本気で走るレースで体が思い通りに動かず、結果に結びつかない事にミホノブルボンは苦戦を強いられたに違いない。

 

 

 だからこそ、そこからは肉体と技術を両立させるのだ。

 レース展開、位置取り、仕掛けるタイミング、天気、風、走法、食事、睡眠、理論、etc……。

 身体能力で後れを取るならば、膨大に存在する知識からレースに活かし、埋め合わせをするしかない。

 

 

 勝手な持論だけど、これが長く競技生活を続けていく秘訣だと僕は思っている。

 

 

「私のピークは今です。技術的にも、肉体的にも」

 

 ミホノブルボンは続ける。

 淡々と、それでこそ、機械のようにだ。

 

「グランプリレース連覇。これほど栄誉ある戦績を残して引退することが出来るウマ娘は決して多くは無いと思われます。

 継続して勝利することの難易度の高さ、現在の能力値を維持しながらのトレーニング。

 強いままで、勝利したウマ娘として私はレース人生を終えたい。ならば、タイミング的にも今がベストかと――――」

 

「それで、さ。いいのかよ、お前は」

 

 

 レース人生後のウマ娘の為に、戦績と言うキャリアは重要だろう。

 解説や指導者として抜擢された際には実績から説得力がそこら辺の解説者より上だ。

 だからこそ、まだやれそうなのに……という状態のウマ娘が早めの引退を決めてしまう事も少なくないのだ。

 

 

 ミホノブルボンも、そうなろうとしているのだろう。

 グラスワンダーのように、グランプリを3連覇したという偉業は恐らく後世にまで語り継がれる。

 単純に連覇するというミホノブルボンが目指す実績も充分なキャリアに繋がるはずだ。

 

 

 道理的には間違いは見当たらない。

 社会人面接ならばその完璧に構築された引退理由に面接官も納得するだろう。

 

 

 だがミホノブルボン、それが通用するのは二次試験までだ。

 最終面接の、人事部のお偉いさん(自称面接官歴30年のオッサン)の前では通用しないぞ。

 僕もトレーナーになる前は一般企業とか受けて最終面接に行ったけど、その手のオッサンに「キミ、嘘ついてるね。目を見れば分かるよ」と一蹴されて見事最終面接で不合格を貰ったクチだ。

 

 

 当時はエントリーシートを家で破り捨てて怒り狂っていたが、あの面接官のオッサンの言うように顔とか目とか会話を交えれば分かってしまう事があるのだろうと思った。

 だからだろうか、確実に今の僕になら、分かる事がある。

 

 

「それは、お前が望んでいることじゃないだろう」

 

 

―――彼女、ミホノブルボンは嘘をついている、と。

 

 

 

「ここ数年、お前の実績を調べたんだ。特に、怪我から復帰した後の事をな」

 

 

 菊花賞後、骨折の怪我を治療して臨んだ数戦。

 確かに着外、入着を繰り返しており、曲がりなりにも二冠ウマ娘としての力を感じさせない平凡な戦績だ。

 試合勘や、スピードとスタミナなどまだ完全に戻ってはいなかったのもあるだろうが、完全に燃え尽きかけたウマ娘だった。

 

 

 だが、ミホノブルボンの戦績はある日を境に一気に好成績に向かい始める。

 まるでそれまでの平凡なタイムが嘘だったかのように、ミホノブルボンはレースで勝ち始めた。

 始めは糸を針の穴に通すかのような勝ち筋から、それはやがて安定して、強大なものへと変貌していく。

 

 

 その実力は、異常な強さを発揮し始めてからの連帯率100%。しかも全て1着。

 機械的な走法は相も変わらずだったが、ミホノブルボンを見た観客やウマ娘達は彼女が纏う雰囲気の変化に気付いた。

 

 

 まるでそれは、鬼が宿っていたかのような強さだったという。

 そして、その強さを発揮するようになった時期は―――、

 

 

「7月からのレースだ。夏合宿中もお前は遠征でレースに出ていたと聞いている……そして前の月である6月、何のレースがあったかと言えば……宝塚記念だ」

 

 

 トゥインクルシリーズの前期の総決算であるグランプリレース。

 クラシック勢とシニア勢が入り乱れるビッグレースだが、その日はただの宝塚記念ではない。

 ミホノブルボンにとって、特別な日となった宝塚記念の筈だ。

 

 

 

 何故ならその日の宝塚記念は、あのライスシャワーが出走し、レース中に骨折した日なのだから。

 

 

 

 あの日、スタンドでライスシャワーを応援していたミホノブルボンはライスシャワーが命に関わる大怪我をした瞬間を目にした。

 関東からの刺客など、周囲からの酷いバッシングに充てられながらも、前走の天皇賞春で勝利して自身の幸せを掴み取った少女が崩れ落ちる瞬間を。

 

 

 ライスシャワーは言っていた。「もう一度、ブルボンさんと走るんだ」、と。

 ミホノブルボンが怪我をしていた際に交わした約束が、ライスシャワーの怪我で消え去ろうとしていた。

 

 

「お前は、ずっと……ライスシャワーの為に、レースを走っていたんじゃないのか。

 彼女が再びターフに戻れるように、自分と競い合えるように、そう願っていたんじゃないのか」

 

 

 親しい友人としてだけでなく、再戦を誓い合ったライバルとして。

 いつか再び戦うその日まで、己だけは強く在り続けなければならないと。

 ライスシャワーに力強いミホノブルボンを見せ続けなければならないと。

 

 そんな願いが込められた走り方だった。

 だからこそ、分からない事がある。

 

 

「どうして、今それを辞めようとするんだ。せっかくここまで頑張って来たのに……

 ライスシャワーだってお前がレースで勝ち続けて来たからこそ、今も復帰を目指しているんだろう?」

 

 命に関わる怪我をした者が再びレースを走れる保証はない。

 重度の怪我をしたウマ娘が学園を出ていくことも考えなくてはならないことだってある。

 だからライスシャワーが今も学園にとどまり続けているのは、レースを継続する意思がまだ残っているのだ。

 それは間違いなく、ミホノブルボンと再び対決する約束を果たす為である。

 

 

 その約束を破棄しようとする行為のようなものだ。

 今のミホノブルボンの電撃引退は。

 だから理解できなかった、彼女が引退する理由が。

 

 

 

「貴女は――――知らないから、そんな事が言えるんです」

 

 

 目を伏したミホノブルボンが口を開く。

 その言葉には僅かながらだが、悲しさと怒りの感情が籠っていた。

 

 

「奇跡は不確定な要素を私はトウカイテイオーさんがあの有馬記念を勝利するまで信じていませんでした。

 トゥインクルシリーズでも初となる365日ぶりのG1レース勝利は多くの怪我に悩むウマ娘に可能性という道を示したと考えられます……私も、そうでした」

 

 ミホノブルボンが続ける。

 

「私もトウカイテイオーさんのように、絶対に諦めない、勝利する姿を見せ続けていればきっと……あの娘はもう一度、ターフに戻って来てくれると……その可能性を信じました」

 

「だったら!」

 

「でも―――その可能性が逆に誰かの命を奪う事があるのだと、ブラックサンダーは考えたことがありますか」

 

 僕の言葉を遮る彼女の、ミホノブルボンの言葉は深々と降り積もる雪のように冷たく、何かを諦めたようだった。

 

「だから私は、終わらせることにしました。私の最善を――――」

 

 

 唾を飲み込み、一呼吸をしたミホノブルボンは、

 

 

 

 

「―――私は、ライスさんとは戦いません、2度と」

 

 唐突に、先ほどよりも声を少し張って激白を始めた。

 

 

「怪我をした貴女が再び全盛期の状態でレースに復帰することは不可能だと考えます。

 今まで私がレースを走り、勝利を続けていたのはより強いライスさんと戦う為……今のライスさんは私に勝利するどころか、競う事すらも難易度が高いと考えます。

 よって――――、」

 

 また、一呼吸を置いてミホノブルボンは言う。

 

「―――ライスさんは、貴女はもう私にとって勝負する価値のない相手だと、そう判断しました」

 

 

 

 何を言っているんだよ、オイ。

 と、耳を疑うようなセリフがミホノブルボンの口から次々と出てくる。

 

「私はライスさんの事が嫌いです」

 

 激白はまだ続く。

 

「目も合わせたくないくらいに。いつもマイナス思考で、卑屈になっている姿が、嫌いです」

 

 静かに、プログラムされたかのような口調で吐かれる毒の言葉の数々。

 

「高学年なのに、魔法とか絵本とかの内容を信じている貴女が……嫌いです」

 

 

 おい、ブルボン、落ち着けよ。

 

 

「2度と私はライスさんと走らない。これは決定事項です。

 素直に、退学を推奨しますし、ライスさんが退学しないのなら、私が宝塚記念の後に誰よりも早く退学してやります」

 

 

「落ち着けって!ミホノブルボン!」

 

 

 遂に声を出して、ミホノブルボンの激白を止める。

 ミホノブルボンも僕が止めに入ったのを見計ったのか、そこで言葉は途絶えた。

 

 

「ふぅ、ふぅ……」

 

 肩で息をしているのは、疲れているからではない。

 典型的に、他者の悪口を言いなれていない証拠だ。本心ではない、きっと。きっとだ。

 

 

 だが、これが誰かに……ましてや本人に聞かれてしまっていたらと考えると、僕はぞっとしてしまう。

 そして、そんな想像をしなければ良かったと、僕はこの時に思った。

 

 

「おい、ミホノブルボン、今手に持ってるのはなんだ(・・・・・・・・・・・)よ」

 

「……」

 

「それ、スマホ……だよな…僕からの位置からだと画面はよく見えなかった……けど、通話モードだったてぇのは分かるんだ……さっきまで繋がってたのも、な」

 

「……」

 

「黙るなよミホノブルボン、教えてくれ……一体、誰に連絡をしていた(・・・・・・・・)……そして、それはいつから(・・・・)だ……」

 

「……貴女のような、勘の良いウマ娘も嫌いですよ」

 

「ッッッ!!」

 

 

 抑えきれない激情と共に僕はミホノブルボンへ向かって走り出す。

 親の仇を取るかのように両の腕を伸ばし、その手はミホノブルボンの制服の襟をがっちりと掴んだ。

 

 

 勢いがあまり、僕達二人は真後ろに敷かれていた体操マットの上に倒れこんだ。

 どれくらい放置されていたのか知らないが、尋常ではない量の埃が舞い上がる。 

 目に異物が混入しまくる状態からか目は痛いし、喉も気持ち悪い。

 

 

 だけど僕は、胸倉をつかんだまま体操マットの上に押し倒したミホノブルボンを見下ろし続ける。

 ミホノブルボンは生気を失った瞳で僕を見つめ、彼女の顔の右側には画面が点灯したままのスマホがあった。

 

 

 僕はそのスマホの画面を見なければ良かったと思った。死ぬほど。

 

 

 画面には発信履歴が表示されており、最新の履歴から先ほどまでミホノブルボンがスマホを使って通話をしていた事は明らかだった。

 

 

 

 そして通話相手の名前は、ライスシャワーだった。

 

 

「ブルボン……何やってんだお前ェッッ!!!」

 

 

 通話時間は約1分半。それは逆算すると、僕とミホノブルボンが会話を始めて、彼女がライスシャワーに対しての発言をし始めたくらいの時間だ。

 だから、ミホノブルボンのライスシャワーに対する罵詈雑言が全てライスシャワー本人に対して聞かれていたことを意味する。

 

 

 

 

 

 

 




シリアスすぎて何かで中和しないといけないな。皆、ガチャ引きまくってスイープとスぺちゃんサポカ完凸しよう!
振袖グラスちゃん可愛すぎて発狂した。


悲報、遂にブラックサンダーさん、ミホノブルボンを押し倒してしまう。


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52.永遠のトレーナーで

無事研修期間を終えて舞い戻って来た。
研修先が埼玉だったこともあり、休日は東京、千葉と渡り歩き人生初の競馬観戦で皐月賞を観戦することが出来ました。ソールオリエンスのラストの追い込みを生で見れただけでも感無量。諭吉が消えようが私の心は満たされたッッ


 

 

「ブラックサンダーさん、大丈夫かな」

 

 トレーナー室で今日のトレーニングメニューの整理を行っていたライスシャワーは一人、喧騒の絶えない学園の外の光景を窓から見ては、そう呟いていた。

 

 

 昼休み直前に始まったゴールドシップの怪放送。

 ブラックサンダーとミホノブルボンを捕まえるという鬼ごっこイベントが突如として開始され、温泉旅行券を信じたウマ娘達が学園内で二人を追いかけ回されていた。

 きっと、以前に公園で話していた事をずっとブラックサンダーは憶えていたのだろう。

 

 

――――僕が、何とかして見せる。

 

 その約束を。

 藁にでも縋る弱弱しい自分の願いを叶えるために、ブラックサンダーはミホノブルボンとコンタクトを取ろうとしているのだと思った。

 そこにどうして温泉旅行券とゴールドシップが絡んでしまったのかは分からないが。

 

 

・・・・ほんとに、ほんとうにもう一度ブルボンさんとお話が出来るかも知れない……!

 

 

 少しだけ、希望が広がった気がした。

 引退するという話をミホノブルボンがしてから、直接どころか、電話でのやり取りも出来ていない。

 このまま疎遠になるというのは、嫌だ。そう思ったライスシャワーがこのまま上手くいってほしいとただ願うのである。

 

 

 

 だけど、

 

 

「うひゃうっ!?」

 

 

 ポケットからバイブレーションと共にスマホの着信音が鳴る。

 思わず素っ頓狂な声をあげてしまったライスシャワーは慌ててスマホを手に取った。

 

 

 誰からだろうか。

 お兄様の方はよくメールや電話で『俺はお兄様だぞ』とワンフレーズだけ送ってきてライスシャワーを困らせる常習犯だ。

 お姉様の方は他のチームに所属するウマ娘の勝負服のレプリカを秋葉原で購入してはその日にコスプレ大会を開催してライスシャワーを困らせる常習犯だ。

 

 

 今日は一体、ダブル常習犯のどっちからだろうとライスシャワーは震えるスマホの画面を見る。

 

「え……これ…」

 

 

 思わず、画面を二度見した。

 画面のに映し出される着信者の名前は、ミホノブルボンだったからだ。

 

 

「え、ええ!?ぶ、ブルボンさん!?え、なんで!?」

 

 

 驚愕が強すぎてスマホが手の中でファンブルし、床に落としそうになるのを慌てて両手でキャッチし、せっかくの機種変更で購入したスマホが落下するのを阻止する。

 ライスシャワーは再度震えるスマホの画面を見て、落ち着いて、呼吸して、表示されている名前がミホノブルボンだという事を再確認した。

 

 

・・・・・ほんとに、ブルボンさんだぁ。

 

 

 徐々に驚きが薄れて、自然と笑みが零れる。

 自分が怪我をしてから、どこか声を掛けても反応は薄くなっていた。

 次の年になってからは、声を掛けても、電話を試みても無視されて嫌われてしまったのではないかと思ってしまったくらいだ。

 せめて、ミホノブルボンと何でもいいから話が出来れば、そんなことを考えていた矢先にこの着信。であれば、この機会を作ってくれたのはやはり、

 

 

「ありがとう、ブラックサンダーさん……」

 

 

 青鹿毛のウマ娘、ブラックサンダーに感謝をしなければならないと、ライスシャワーは思った。

 だがブラックサンダーは何故かトレーナーであるお兄様やお姉様が厳重に警戒をしている存在、何かアクションがあった時は必ず自分たちに相談してほしいと言うくらいだ。

 

 

 そこまでの危険なウマ娘に見えるだろうか、とライスシャワー恩人とも呼べる彼女の扱いを疑問視していた。

 自分たちではどうすることも出来なかったミホノブルボンとのコンタクトを形はどうであれ実現させてくれたのは彼女で間違いないのだから。

 

 

「よ、よーし……ライス、がんばる」

 

 

 ここからは自分の番だ。

 鳴りやまぬスマホと睨めっこしては、通話ボタンを押すのを少しばかり躊躇いが生じる。

 今まで何度も電話や会話をしてきたはずなのに、疎遠気味になっても学園内では何度も見かけていたハズなのに。

 何よりも共にレースを走り、競い合い、お互いを目標に定めたライバル同士だったハズなのに。

 

 

 何と声を掛けたらいいか。

 何を話すべきなのか。

 聞きたいことは一杯ある筈なのに、いざスマホ越しの先にミホノブルボンがいるのだと知ると、急に言葉で浮かんでこなくなったのだ。

 

 

「う~~~~っ~~~う~~~っ!」

 

 

 逃げるわけにはいかない。

 こういう時こそ、根性だ。

 まずはボタンを押して、話の内容はそれから考えよう。

 ありったけの想いを早口になってもいいから、伝えるんだ。

 

 

「もう一度、ブルボンさんと……」

 

 

 そしてライスシャワーは遂に、スマホの通話ボタンを押した。

 

 

 

 

 

 ライスシャワーは歩いていた。トレセン学園内の廊下を、ただひたすらに、下を向きながら。

 それはさながら生きる気力を失った者の瞳をしており、何かにぶつかってしまえば軽く吹き飛ばされてしまうくらいに揺らめいていた。

 

 

 

―――私は、ライスさんの事が嫌いです。

 

 

 頭の中では、どうして?という疑問よりもミホノブルボンに言われたこの一言が、この一言だけが壊れたラジオのように再生される。

 再生されてはライスシャワーの心が軋み、少しずつ砕けていくような感覚があった。

 

 

「あれ?ライスシャワーさん……どうかしたの?」

 

 学園の生徒が声を掛けるも、その声はもはやライスシャワーに届いておらず、心配する言葉に耳を傾ける余裕もないライスシャワーはまるで幽霊のように歩みを進める。

 途中で見知った顔に声をかけられたりもしたが同じようにスルーを繰り返して、たどり着いたのはライスシャワーのトレーナーがいる部屋の扉の前であった。

 

 

「……」

 

 

『嫌い』

 

 

 なぜここにきたんだろう、ライスシャワーは扉を開けようともせずに思った。

 ここに来て、自身のトレーナーにこのことを喋ってから、どうなるというのだろうか。

 迷惑じゃないだろうか、ミホノブルボンのように、こんな鈍くさい自分のことをもしかしたら嫌いなのかもしれない。

 

 

 ライスシャワーは一番信頼できる間柄のトレーナーでさえ、信じられなくなっていた。

 いつも暖かく迎えてくれる笑みを浮かべる二人の顔の裏には激しい嫌悪感が隠されているのかもしれないと思うと、この扉を開ける勇気がなかった。

 

 

 もう、昼休みも終わるし、教室に戻ろう。ライスシャワーがその場を去ろうとした時だった。

 閉まっていた扉がゆっくりと動き、一人の男がライスシャワーを見下ろしていた。

 

 

「ん?どうしたんだライス、こんなところで」

 

「----」

 

 こちらを見るのはトレーナーで、ライスシャワーがお兄さまと呼ぶ人物である。

 身長が高く、筋骨隆々としていて、それでいて顔は常に不機嫌そうに眼は吊り上がっていて、まるで睨みつける眼差しは見るもの全てを射竦めるものだ。

 一般の人やウマ娘が彼を初めて見たのであれば間違いなくその場で道を譲ろうとするし、場合によっては不審者だと通報されることも間違いではない。

 

 

 だけど。

 

 

「ちょうど学園の調理室使ってパンケーキ作ったんだけど、食べてくか?昼ご飯食べてお腹いっぱいだったら包んで持ってってくれてもいいぞ。

 アイツ()にも渡そうと思ったんだけど、今日はアキバのほうで新作のコスを見繕うって朝から居なくてさ。今日の練習後には多分戻ってライスに着させようとしてくるから覚悟しといたほうがいいな」

 

 

 ライスシャワーは知っている。

 周りから悪人のように扱われる彼が朝から学園の花壇の花たちに水をあげ、道に迷って困っている老人に道を教えたりする心優しい人物なのだと。

 担当のウマ娘が何度もレース後にバッシングの雨に晒されたときは身を挺して守ってくれた。

 ライスシャワーの意志を尊重し、望むがままの道を進ませてくれた。

 今の自分があるのは、この人のお陰なのだと思ってしまうくらい、彼の事を信頼している。

 

 

 だから、今回もきっと相談すればこのトレーナーは助けてくれるだろう。

 故に、

 

「なんでもないよ、お兄様!」

 

 ライスシャワーはトレーナーに対して今できる、精一杯の笑顔を向けて、そう返した。

 それは、単に心配を掛けさせたくなかったという理由だけではない。

 もう自分は、トゥインクルシリーズを駆けだし始めた最初の頃の自分ではないのだ。

 

 

 多くのレース経験を通して、ある程度の自立心は養えているのだ。

 いつまでも、トレーナーに対しておんぶされているというのは彼やサブトレーナー、同じチームのメンバーに示しがつかない。

 

「あ!パンケーキ、ライス欲しいな!今日の練習終わりにターちゃんとソーちゃんにもあげてもいいかな?」

 

「……ああ、いいぞ。アイツらも喜ぶだろ」

 

「やったー!ありがとうお兄様……うぁ、いい香り」

 

 手際よくパンケーキを包んだ袋をライスシャワーが受け取ると焼きたての甘い香りが鼻腔をくすぐる。

 きっと、とても美味しいに違いないと、自分のこの心の悲しみも吹き飛ばしてくれるだろうと、ライスシャワーは思う。

 

 

 

「じゃあねお兄様、またミーティングの時に!」

 

 

―――これでいい、これでいいんだ。

 

 

 そう自身に言い聞かせて、颯爽とその場を後にしようとした。

 

 

「なぁ、ライス……なにか、あったか?」

 

「……!」

 

 呼び止められたのだ。彼に。

 不意を突かれたライスシャワーは彼の言葉を背に受けて足を止める。

 だけど、ここで彼に事の真相を明かしては先ほどの決意が全て無駄になる。

 ライスシャワーはシラを切る事にした。

 

「あ、あのね!ライスったら今日の宿題提出予定だったのに寮に忘れちゃって!

 慌てて教室に取りに行ったら教室に戻る途中で大きな鳥さんに取られちゃって先生に怒られちゃってね!もうライスったらドジなんだぁ!」

 

 嘘ではない。全て事実だ。

 宿題を忘れ、寮から教室に戻る最中に日本では中々お目に掛かれないコンドルが宿題のプリントを掠め取って遥か上空へと消えていった珍事は実際に起こった事である。

 だから、ライスシャワーは嘘偽りなく自信を持ってトレーナーに対していい訳が出来るのだ。

 

 

「でももう大丈夫だよ!宿題もこんなこともあるのかなって余分にプリント持ってたから授業終わりにすぐ提出できたから。

 お兄様はライスのこと心配し過ぎだよ?もうライスは自分のことは自分で出来るんだから!」

 

「そうか……」

 

 慣れない虚勢とともに胸を張ってそう答えて見せた。

 トウカイテイオーのような自信家を演じた。

 上手く言いくるめることが出来たに違いないと、ライスシャワーは自分自身の演技力に花丸を付けてあげたい気分であった。

 

 

「じゃあライス……一つ聞いていいか」

 

「……?なに?」

 

 トレーナーは膝を折り、目線をライスシャワーと合わせた。

 やけに真剣な表情で、だけど見ているライスシャワーからどこか悲痛な感情が存在していた。

 彼は重々しい口を漸く開いて、言う。

 

 

「なんでライスは泣いてるんだ」

 

「え……?」

 

 ライスシャワーはトレーナーに言われて気付いたのだ。自身の頬から伝う何かが制服の一部を濡らしていたことに。

 

「あ、あれ……ライス、なんで泣いて…」

 

 

 それは本人の意志とは無関係に留まる事を知らずに流れ続ける悲しみの水滴だった。

 拭おうとも、払おうとも、拭こうとも、如何なる処置を施しても止まる事は決して無いタチの悪いもので。

 

「お、おかっしい、なぁ……らい、すはもう泣かないって、決めたのに……お兄さまに心配、かけないって決めたのに……なん、で…」

 

 

 溢れ出る感情が抑えきれなかった。

 これまで我慢しようとしていた心のダムが決壊したようにライスはただひたすら謝罪の言葉を口にする。

 またしても、弱い自分を見せてしまったと思った。ライスシャワーは自らを情けないウマ娘だとも思った。

 

 

「我慢するな」

 

 ふとライスシャワーの頬に大きな手が添えられた。

 それは溢れ出る涙を遮り、ライスシャワーとトレーナーの視線が交錯する。

 トレーナーはきっと、ライスシャワーが悩みを抱えている事に勘付いていたのだろう。

 彼もトレーナーだ。ウマ娘のメンタルを表情から察する観察能力は優れているのは知っている。

 

 

「で、でも……このままじゃライスのせいでお兄様に迷惑がかかっちゃう!お姉様にだって……ライスはそんなの嫌だよっ!」

 

 

 きっと、自分が困っている事を、涙を流している理由を聞いてしまったらお兄様とお姉様は死に物狂いで頭を悩ませながら問題の解決に動くだろう。

 だが、彼らはもうライスシャワーだけを請け負う新人のトレーナーではない。今は数名の(未デビュー)のウマ娘を受け持ち、指導に明け暮れる中堅のトレーナーなのだ。

 これ以上、仕事に支障を来すような事にはなって欲しくなかった。

 ライスシャワーは自分のせいで親しい者達が不幸になる事を望んでいなかったのだ。

 

「俺らは一度も、一度たりとも迷惑だなんて思った事はないぞ?(アイツ)だって同じだ。メジロマックイーンの二連覇を阻んだ天皇賞春の時だってバッシングかましてくる野次馬を相手に腐った卵投げつけて撃退するの楽しんでたくらいだからな」

 

 

 なにか、あまり聞いてはいけない話の内容があったのはライスシャワーは聞き流す事にした。

 

「ライス……ウマ娘はベテランになったらトレーナーの元を離れて自立することもある。そうやって海外レースに出走する為に拠点を海外に移すヤツもいるからな。

 だけど、ウマ娘・ライスシャワーはな、どんなに時間が経ってもさ、俺の担当ウマ娘なんだ」

 

「ライスが、走れなくなっても?」

 

「ああ。俺は永遠にライスのトレーナーだ。そして、永遠のお兄様だ」

 

 だから、と彼は続ける。

 

「聞かせてくれ。お前の悩みを。涙の理由(ワケ)を。俺はお前の力になる。絶対にだ」

 

 屈託のないその笑顔はあの時と同じだった。

 走る事を恐れていたライスシャワーの手を取り、暗い世界から連れ出してくれたあの日と。

 普段の強面からは想像できないような笑みに何度自分は救われ、導かれてきたのか。

 

 

 もう甘えてはいけないのだと思った。

 もう頼ってはいけないのだと思った。

 自分で解決しなければ、意味が無いのだと思った。

 

 トレーナーの負担になる事はしたくないからだ。

 

 

「……ありが、とう。お兄様」

 

「ああ」

 

 

 だけど、それも関係なく、トレーナーは「力になる」と言ってくれた。

 これほどまでに心強い言葉がこの世にいくつあるだろうか。

 ライスシャワーにとって彼の言葉は有名なスポーツ選手、自己啓発本に載っている言葉よりも説得力のある言葉だった。

 

 

「お、お兄様……あの、ね?聞いて欲しい事があるの」

 

 

 涙を拭ってトレーナーに理由を話し始めた頃、ライスシャワーの重苦しかった心は少しだけ軽くなった気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




1月あたりから更新が止まってたから約3か月間ブルボンさんはブラックサンダーさんに体育館倉庫のマットの上で押し倒されたままだった。外でグラスちゃんが構えて待ってるよ。


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53.稲妻は認めない

無事に埼玉での研修を終え、地元へ帰って来た作者。日本ダービーの入場券を確保しウキウキで当日を迎えようとしたが4日前にして39.4の高熱を発症。処方された薬で解熱を試みるがなかなか下がらず、熱から解放されたのはダービーの前日土曜の夜。ダービー当日、体温は36.1。安全圏内。これは神の啓示か。熱く滾る想いを胸に府中競馬場へ。初めての府中は衝撃の連続だった。ウマ娘のopでよく見る景色、中山とは比べ物にならない程のスタンドの広さ。ダービーという大舞台。与えられた感動はここまでに至る長距離移動の疲れも吹っ飛ぶようだった。
だから私は思った。「今日はなんかいける気がする」.と。二冠馬誕生の空前絶後の瞬間に、立ち会える日が来たのだと。


そして私の購入した5000円の3連複券は、スタート開始直後のドゥラエレーデくんの落馬により僅か数秒で紙屑と化した。
こんなレース展開誰が読めるかよッ


 

「ええーと……これは……」

 

 ウマ娘、グラスワンダーの目の前には自分でもどう説明したらよいのか分からない状況が広がっていた。

 

 トレーナーであるブラックサンダーと共闘し、ミホノブルボンと一対一で話し合いするための時間稼ぎをしたグラスワンダーは言われたとおりに迫りくる学生をちぎっては投げちぎっては投げては追い返し続けていた。

 

 実際は物理的に手を下してはいなかったがグラスワンダーがただ突っ立っているだけで誰も近寄ろうとはせず、命の危機を感じ取った生徒たちはその場から立ち去って行ったのだ。

 

 先程までの喧騒具合はどこへ行ったのだろうか。静寂を取り戻したグラスワンダーは視線をブラックサンダー達が居るであろう体育館倉庫へと向けた時、中から何やら物騒な音が聞こえ中へ入ると。

 

 

「どう、いう……」

 

 青鹿毛のウマ娘、悲劇的なトラブルに巻き込まれウマ娘となってしまった自分のトレーナーであるブラックサンダーが今度宝塚記念を最後に引退を宣言しているミホノブルボンをマットの上で押し倒している光景が広がっていたのだ。

 

「……」

 

 ブラックサンダーが息を荒げながらミホノブルボンの制服の襟に手を掛けている。

 大してミホノブルボンは顔を背け、抵抗が無かった。まるでされるがままだ。

 

 

 駄目だ。どれだけ平静を装っても、頭をクールにして冷静に状況を分析しようとしても答えが導き出されるわけでもなかった。

 脳内では不可解な状況に「この人は何をやってるんだろう」という疑問だけが浮かんでくる。

 

 

 おかしい。確かブラックサンダーは身長が低いウマ娘……幼い感じの……平たく言えばロリの部類を対象に行動を起こしていたはずだ。

 ミホノブルボンは今までブラックサンダーが手を出してきたウマ娘の中ではそういった部類には入らないのは確かだ。

 

 

――――抱かせろ、のくだりは今もまだ続いているという事でしょうか。

 

 

 あれだけきつく説教したというのにブラックサンダーはまたしても同じ過ちを繰り返そうとしている。

 やはりあれか。男は結局のところ、幼い体型なんかよりもしっかりとした女性らしい体型の方に心が靡くという事なのか。

 

 

「男の人っていつもそうですよね」

 

 

 私達ウマ娘の事、なんだと思ってるんですか。

 などというテンプレートセリフを脳内でツッコミを入れながら、グラスワンダーは自分が如何にこの場で冷静な思考が出来ている事に驚いていた。

 ブラックサンダーも刺した後はミホノブルボンも一緒に成敗したほうがいいのか。

 だが取敢えず手にしていた得物を構え、過ちを犯さんとするブラックサンダーに照準を合わせる。

 

 

 今度こそ、完膚なきまでにその性根を叩き直してやろうとグラスワンダーが踏み込もうとしたその時、目の前のブラックサンダーが不意に立ち上がった。 

 

 

 

 

 

 

 

 事情があるのだと思った。

 

 

 ミホノブルボンが引退することを。

 怪我から復帰し、実力を発揮し続ける彼女が今度の宝塚記念を最後に引退するというのは。

 きっと、部外者である僕なんかでは彼女の心中を察することは出来ないのだろう。

 

 

 事情があるのだと思った。

 

 

 親友であり、ライバルであるライスシャワーに浴びせるように、わざと聞かせた電話の発言。

 嫌いだと、もう一緒に走る事に価値は無いのだと、冷徹なサイボーグの如く言葉を発するのは親友から闇落ちするくらいに勇気がいる事だ。

 

 

 事情があるのだと思った。

 

 

 怪我による引退へと追い込まれている自分が、ライスシャワーのレースで救われたようにミホノブルボンもまた自分のレースでライスシャワーを救いたい。

 その鋼の如き意志を取り払ってまでも、ミホノブルボンがライスシャワーに故意的に嫌われるような手段を用いることには嫌われる以外に別の意図があるのだと僕は推測したのだ。

 

 

 レースで決着を付けるのがウマ娘。

 レースで誰かの心を救うのもウマ娘。 

 しかし、そのどちらの枠にも含まれずに零れ落ちていく例も確かに存在するのもウマ娘の一生だ。

 

 もしかすると、ミホノブルボンにとってはこれがライスシャワーというウマ娘を救う最後の手段と考えているのかもしれない。

 

 

 

 

 

――――それでも。

 

 

「それでも」

 

 僕は立ち上がる。

 視線を正面に見据えると、顔を伏せたままのミホノブルボンからは先の電話におけるライスシャワーへの真意を読み取る事は出来ない。

 だけど、着崩れた制服を元に戻そうともしなければ、こちらの呼びかけに応じることもない、まるで途方に暮れるかのような佇まいからは確かに、これだけは感じ取れた。

 

 

 

 ミホノブルボン、お前は今、途轍もなく「悲しんでる」はずだ。

 多分、電話を聞いてたライスシャワーと同じか、それ以上にだ。

 

 

「僕はお前を否定するよ。ミホノブルボン」

 

 

 僕とお前は同じなんだ。ミホノブルボン。

 お前は、ライスシャワーを救うために走り続けて来た。

 僕は怪我をしたグラスワンダーの為にウマ娘になったこの身で走り続けている。

 グラスワンダーが復活することを願って。

 

 

 ウマ娘の走るレースを通してきたトレーナーとして。

 彼女たちが起こしてきた数々の奇跡を目撃して来たファンとして。

 僕自身がウマ娘の持つ無限の可能性を信じる一人のウマ娘として。

 

 

 ミホノブルボンも、そうだったはずだ。

 親友として、ライバルとしてのライスシャワーを元気づけさせるために、再起の火をくべるべく走り続けて来たんだ。

 

 

 だけどミホノブルボンのこの引退はそのウマ娘の可能性を否定するものだ。

 同じ想いを掲げている僕が、それを黙って見過ごせる訳が無いだろう。

 

 

「その諦めを、絶望を、悲しみを抱いたまま終わる事をお前自身は望んでいない。そして、僕自身も望んでいない。

 もし、それがライスシャワーを救う最善の方法だって言うんだったら、僕がその幻想をぶち壊す」

 

 

 怒り滾る気持ちは目力を強め、しかし口調は乱れずまっすぐ彼女自身を指さした。

 

 

「宝塚記念には僕も出る……僕と勝負だ、ミホノブルボン」

 

 

 もはや迷いなど無かった。

 二冠ウマ娘であり、今を尚成長を続けるシニア期絶好調のミホノブルボン相手に喧嘩を売るなどと言う事を。

 誰もが無謀だと思うかもしれない。勝算など塵の一つも残されていないと誰がも思うかもしれない。

 

 

 

 それでも、と言い続けろ。

 だとしても、と言い続けろ。

 

 

 自分の信じた可能性の未来に。

 己の信念を貫き通す為に。

 

 

 

 

 

 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いたの後、僕はその場に居合わせていたグラスワンダーと一緒に倉庫を後にした。

 ミホノブルボンは僕の言葉に応える事は無かった。少しだけ反応を見せただけでその倉庫から動く事はしなかった。

 学園を騒がせていた鬼ごっこイベントはいつの間にか終息を迎えていた。タイムオーバーを告げる放送が無かったから僕を追い駆ける生徒で溢れているだろうと懸念していたが杞憂に終わったので何よりである。

 

 

 

 次のレースが決まった。 

 相手は強敵シニアのウマ娘、サイボーグ・ミホノブルボン。

 その実力は怪我から復帰して尚衰えず。相手にとって不足ナシ、と言ったところだが挑戦者である僕が太刀打ちできるのかと言ったのが現状だ。

 

 レース展開、枠、スタート、それぞれの脚質、データ、自身の疲労、あらゆる要素に於いて問題というのは山積みだが、はてさてどうするかと頭を悩ませていた矢先、僕の後頭部が小さな痛みと共に何かコンッという音を発した。

 

 

「いてっ」

 

 振り返るや、そこには長い棒を構えていたグラスワンダーが居た。

 ふふふ、という優しさに満ちた笑みを浮かべながらもその内心には何やら怒気の感情が巡っている気がする。

 命を背後から握られている気分だった。遊び半分ではない、本気の度合いが伝わるソレは僕を恐怖させるのには十分なものであった。 

 

「ぐ、グラスさん……?」

 

「ふふふ、なんでもないですよ~?」

 

「え、でもなんで僕の額に棒をぐりぐりと押し付けて……」

 

「私、気功砲が見たいんですよ~。天津飯のように、トレーナーさんに第三の瞳を開眼してもらいたくて~」

 

「おかしい、頭蓋をくり抜くようなゴリゴリって音が聞こえるんだけど気のせい?」

 

「気のせいですよ」

 

 僕の額に棒の先端を押し付けるグラスワンダーは更に続ける。

 

「決して私を置いてけぼりにして勝手に話を進め続けた事を咎めているわけではないのですよ~。

 クラシック期のウマ娘が果敢にシニア勢のウマ娘と戦うグランプリレースに出ようとしている事に嫉妬しているくらいです」

 

「ツンデレのレベルが高すぎるッ」

 

 トゥインクルシリーズの前期を締めくくるグランプリレース、宝塚記念。

 このレースに出場するウマ娘はほとんどがシニアを迎えるウマ娘ばかりだ。

 

 

「とても生半可な覚悟では……至れる頂ではありませんよ」

 

 

 グラスワンダーの言葉には重みがあった。

 確かにミホノブルボンは突出した強さを持つウマ娘だが、宝塚記念に出走するシニア期のウマ娘は彼女だけではない。

 しかも、その殆どがG1レースに出走し、好走を納めた強者たちが集まるレースなのだ。

 

 

 流石グランプリを連覇したウマ娘だ。説得力がダンチである。

 

 

「だからと言って、止まる理由にはならない」

 

 覚悟なら、既にこのウマ娘となった身でトゥインクルシリーズを走り出した時に決めている。

 止まらない事、進み続ける事。

 

 

「不思議だ……もう何もかも、燃え尽きたのだと思っていたのに」

 

 日本ダービーという山々田山能という男が目指した大レースを終え、ゼロになったと思っていたモチベーションが回復していたのだ。

 

 

 身体が走ることを求めている。

 速くなることを望み続けている。

 全身の血が沸騰するかのように身体の奥が熱い。

 

 

「相手は現役最強のウマ娘で、他にも強いウマ娘がうじゃうじゃいるって言うのに、僕は恐怖はおろか、楽しんでしまっているんだ。

 ワクワクする……そして、酷く疼くんだよ」

 

 『俺より強いヤツに会いに行く』。今の僕はまるで強さを追い求め続けるストリートファイター主人公のようだ。

 

「羨ましいです…とても。きっと、それが私が失ってしまった感情なのかもしれませんね……」

 

 グラスワンダーはそう言って、視線を僕から外した。

 怪我をした当初よりも気持ちは上向きになり、再び走り始めたグラスワンダー。

 しかし、まだ本調子とは呼べず、かつてグランプリを連覇した闘志溢れる走りには遠い。

 

 

 不甲斐なさを感じているのかもしれない。闘志を呼び起こせない自分自身に対して。

 だけど、今までの事を考えれば身体の基礎作りから始まり、ようやくターフで8割以上の力を出せるようになってきたのだ。

 着実に成果は出てきている。故に、僕は尚更止まるわけにはいかない。

 

「なら、もっと近くで僕を見ればいい。グラスワンダー」

 

「……!」

 

 彼女の前に立ち塞がる様に佇み、俯いた顔は自然と上へと向けた。

 

「グラスが全盛期で感じていた熱を……いや、それ以上の熱を生み出してやる。

 その目で、鼻で、耳で、口で、身体全体で感じてほしい。

 朝も、昼も、夜、練習の時だって――――」

 

 自信満々にグラスワンダーというウマ娘に向けて言う。

 脳髄に刻み付けるように、魂に響かせるように。

 

 

「二度と忘れられないようにしてやる」

 

「と、トレーナーさん……」

 

 胸の位置に置いた手をキュッと握る仕草と、頬を少しだけ朱を帯びたかのような表情にグラスワンダーからの気の昂ぶりを感じる。

 僕の言わんとしたことが少しだけだが伝わったのかもしれない。

 

 

 この熱意は本物だ。

 嘘ではない、真の心からくるものだ。

 未だかつて経験した事のないレースに対する情熱を他者に分け与えたくなるようなこの気持ちの昂り。

 

 

 『宝塚記念でミホノブルボンに勝つ』。

 僕が出走する次のレースが明確になった瞬間だ。

 

 

「で、では、私も力の限りトレーナーさんの支えとなりましょう。

 あなたがあなたの意志を貫けるように……」

 

 そこには頬のこわ張りがいくらか消え、いつものような柔和な笑みを浮かべるグラスワンダーがいた。

 そうなると、次はこの意志をトレーナーであるミスターXに伝えなくてはならない。授業が終わったらあの男に出走の意志を伝えてみよう。

 たしか僕宛に荷物が届いているらしく、トレーナー室に呼ばれていた事を思い出す。

 

 

 ダービーからの疲労の事を考え、春は全休だと頑なに無理を禁じていたから賛同を得るのは難しそうだが。

 

 

 




前書きはただの怪文書なので無理して読まなくても大丈夫です。芝ダート、騎手テン乗り、令和のアグネスデジタルを目指すドゥラエレーデくんは今度の宝塚も走るから皆んなで馬券買って応援、しよう!


ようやくブラックサンダーさんも宝塚記念編へ。このあとは前のお話にもあった「イナズマファンレター」へと繋がります。


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54.稲妻の宣戦布告(スレ回)

宝塚記念はやはりイクイノックス!外持ち出してのあの捲りは世界一の力を見せつけてくれましたね。これはウマ娘化不可避。馬券に関してはアイェエエ!?イケゾエ!?イケゾエナンデ!?って感じで察してください。いつもら2頭までは入ってくるのに...どうして。
初めての掲示板会につき、違和感あったらすいません。


 

 

~『皐月賞ウマ娘・ブラックサンダー、宝塚記念参戦!に対するみんなの反応』~

 

 

 ウマ娘界の風雲児ブラックサンダー、宝塚記念に出走登録完了を済ませた。と、専属トレーナーであるミスターXが記者会見にて発表を行った。

 

1:トゥインクル名無しさん ID:pDemrhD//

キター!

 

2:トゥインクル名無しさん ID:CyWkewIt1

俺たちのイナズマちゃん!

 

3:トゥインクル名無しさん ID:PtYNHCer3

シニア勢の魔境、宝塚になぐりこみじゃい!

 

4:トゥインクル名無しさん ID:wHNKQvKUm

日本ダービー、最後立てなくなるくらいヘロヘロだったじゃん。距離大丈夫なん?

 

5:トゥインクル名無しさん ID:TqdriPvk2

 

トレーナーミスターXのコメント

『今年の4月から徐々に走れる距離が伸びてきている。日本ダービーの走りはトレーニングの成果が出て来た結果だろう。今のブラックサンダーは伸びしろしかない状態で、シニア勢が多い宝塚記念でも好走が期待できるだろう。ブラックサンダー自身もこのグランプリに出走する意志は固い。ダービーからのローテ、相手はシニアクラスだが当の本人は俄然やる気だ。むしろここで唯一のクラシックウマ娘として格上相手に爪跡の一つでも付けられなければこの先のレースで勝ち残るのは難しいと私は考えている』

 

 

6:トゥインクル名無しさん ID:NRUBZMTH7

このトレーナーに人の心とかないんか?

 

7:トゥインクル名無しさん ID:UMsvcSuuz

デイリー杯→朝日杯→弥生賞→皐月賞→日本ダービー→宝塚記念……これがブラックサンダーちゃんの王道……クソローテじゃねぇか!!

 

8:トゥインクル名無しさん ID:S2I+xugfX

中山2000mハナ差で勝利、東京2400mゴール直前で力尽くも4着。最初は適正距離は短距離マイルだったけど走る距離が伸びてきてる希ガス

 

9:トゥインクル名無しさん ID:aHkMrc2ZY

菊花賞前に怪我しないでくれよ~頼むよ頼むよ~

 

10:トゥインクル名無しさん ID:pNS0zYHEG

このトレーナーなんかアビス6層あたりに居そう

 

11:トゥインクル名無しさん ID:yMb4/4yO/

いや、イリアステルの3皇のリーダーだろ

 

12:トゥインクル名無しさん ID:hLqNUnOr8

プロゴルファー猿の敵キャラじゃないの?

 

13:トゥインクル名無しさん ID:7obF3PnoL

正直お前らどう見てるん?ブラックサンダーって勝てると思う?皐月とダービーを素材にしても好走はあまり期待できないんだが

 

14:トゥインクル名無しさん ID:i570Zpblm

今年はミホノブルボンが一強だし、ミホノブルボンのレースで連対してるシニアのウマ娘が出てくるから厳しいんじゃない?

 

15:トゥインクル名無しさん ID:/w+KshUsP

基本クラシック路線からその年の宝塚記念に行くウマ娘っているの?

 

16:トゥインクル名無しさん ID:VTDh6bgYn

>> 15 お前ウオッカの戦績見てこいや

 

17:トゥインクル名無しさん ID:+9XmNk14D

ウオッカスゲーッッ!!でもウオッカでも8着……

 

18:トゥインクル名無しさん ID:jwr6hugUE

ちなみにトゥインクルシリーズ始まってから宝塚記念でクラシック戦線のウマ娘が勝利した数は0や。3冠並の実力を持っていても、メイン路線で仕上げるそのお釣りでシニアに勝てるほど甘くねぇわ

 

19:トゥインクル名無しさん ID:osziuVlsM

やっぱ身体とか出来上がってないからなんやろうね

 

20:トゥインクル名無しさん ID:Zv9IXl08K

 

 

Q:宝塚記念への意気込みは?

ブラックサンダー

「現役最強の逃げウマ娘、ミホノブルボンと戦わずにはいられない。胸を借りるのではなく、勝利を捥ぎ取りに行きたい。相手がシニアだとしても現役最強だとしても今の僕に臆する心は存在しない」

 

21:トゥインクル名無しさん ID:onZoU+toQ

ブラックサンダーちゃん、ミホノブルボンに首ったけじゃないの

 

22:トゥインクル名無しさん ID:mdeJtWX2E

目がガチなんだよなァ

 

23:トゥインクル名無しさん ID:mfn8UIZyp

Q:現在現役最強と名高いミホノブルボンに挑む……勝算というのは。

ブラックサンダー

「負ける前提でレースに挑むウマ娘がいると思う?」

 

24:トゥインクル名無しさん ID:+US/WZVrW

ヒューッ

 

25:トゥインクル名無しさん ID:t7JpSYuRM

ヒューッ

 

26:トゥインクル名無しさん ID:o9jMEzAxf

ヒューッ

 

27:トゥインクル名無しさん ID:W4GuKVY/4

ヒューッ

 

28:トゥインクル名無しさん ID:dgRFIhSQx

ヒューッ

 

29:トゥインクル名無しさん ID:GhKQvWQLw

ウマ娘じゃねぇ!コブラじゃねぇか!!

 

30:トゥインクル名無しさん ID:A/TcEKTKq

熱いじゃんブラックサンダーちゃん、こんなの応援するしかないじゃん

 

 

31:トゥインクル名無しさん ID:HQo2aDOOk

ブラックサンダー

「実は僕はこう見えて人畜無害なウマ娘として有名でね。トレセン学園では多くのウマ娘を抱いているんだ」

 

32:トゥインクル名無しさん ID:2kFrN87a8

!?

 

33:トゥインクル名無しさん ID:BALOrPZU6

!?

 

34:トゥインクル名無しさん ID:cfA3od7Bv

!?

 

35:トゥインクル名無しさん ID:NXzf3SknW

!?

 

36:トゥインクル名無しさん ID:d1B6uxjR+

!?

 

37:トゥインクル名無しさん ID:ToC6DE/mg

ブラックサンダー

「最近はニシノフラワーを抱こうとすると100%セイウンスカイにガードされちゃってね。

あと、ビコーペガサスに関してもこの前はヒシアケボノからアイアンクローされたよ。

これほどの聖人ウマ娘である僕に酷い仕打ちだと思わないか。人間もウマ娘も誰かに抱かれて生きて来たというのに」

 

38:トゥインクル名無しさん ID:ou49doJNc

ここをパリかどこかと勘違いしてないか。

 

39:トゥインクル名無しさん ID:eQ3F6TwD0

アグネスデジタルが食いつきそうな話題だな

 

40:トゥインクル名無しさん ID:aywqGG17O

ブラックサンダー

「だから僕はこのレースで勝利した暁に、ライスシャワーを抱こうと思うんだ」

 

41:トゥインクル名無しさん ID:iG7nyEuMp

は?

 

42:トゥインクル名無しさん ID:K7vnp8T4I

は?

 

43:トゥインクル名無しさん ID:jVq8s6RPl

は?

 

44:トゥインクル名無しさん ID:M5fkegvzn

は?

 

45:トゥインクル名無しさん ID:NSdyZIqq1

は?

 

46:トゥインクル名無しさん ID:qE1JJKzwl

は?

 

47:トゥインクル名無しさん ID:5bhzN3PKA

正体現したね

 

48:トゥインクル名無しさん ID:G/MWjE7yT

み、ミホノブルボンしゃんの親友であるライスシャワーしゃんをだ、だ、抱くですとぉ~!?

い、いけません!推カプのウマ娘ちゃんを悲しませるのはやめてくだされ!

 

49:トゥインクル名無しさん ID:qfW/kaJl0

推しカプのNTRはルール違反ッスよね?

 

50:トゥインクル名無しさん ID:VELjvbiI2

サイゲに罰されろブラックサンダー

 

51:トゥインクル名無しさん ID:tF82rrplZ

字面で勘違いするかもしれないから多分ハグするだけなんだろうけど……本人許可下りてねぇだろコレ。

 

52:トゥインクル名無しさん ID:g3NIBu2uc

ブラックサンダー

「ライスシャワー本人とは既に交渉済みだ。後日、彼女と僕の動画チャンネルでコラボして正式に声明をあげさせてもらうよ」

 

53:トゥインクル名無しさん ID:s141QP7Ri

親が見たら泣くぞブラックサンダー!

 

54:トゥインクル名無しさん ID:y/bMdRevo

ブラックサンダー

「父さん、ごめん……僕は、抱くよ」

 

55:トゥインクル名無しさん ID:1gYPKVYQM

こんな汚いバナージくんは嫌だ

 

56:トゥインクル名無しさん ID:TLUkM5OdO

ミホノブルボン負けんな!こんなヤツにライスシャワー取られてええんか!!

57:トゥインクル名無しさん ID:QrlL2Zv/2

ちくしょうなんて奴だブラックサンダーめ!卑劣な手段でミホノブルボンに精神戦を仕掛けるとは!

 

58:トゥインクル名無しさん ID:+z6XUjwhN

戦いはもう始まっていたのか!汚いぞ魔女め!

 

59:トゥインクル名無しさん ID:KQetfngKk

魔女だ!

 

60:トゥインクル名無しさん ID:RTxJZ6Yzz

魔女をつるし上げろ!

 

61:トゥインクル名無しさん ID:MecbCoUYm

私の推しウマ娘のブラックサンダーちゃんを愚弄するな脆弱共が!ミホノブルボンを推すキサマらに明日からトイレでクソが出なくなる呪いをかけてやる!!

 

62:トゥインクル名無しさん ID:1GCJ+1pT8

やだわ、厄介なファンよ。

 

63:トゥインクル名無しさん ID:P9klVMTx8

>> 61コイツ知ってるぞ、いつも実況席で解説そっちのけで自分の推しウマ娘の話しかしないクソジジイだ!

 

 

 

 

 

 後日、ミスターXはこのインタビューによって発生する問い合わせに対応し、ネットや記者関係に対しても正式な回答を示し火消しに追われることとなる。

 ちなみにライスシャワーとのコラボ動画はミスターXに放送することを止められていたが気にせず決行した。

 

 

 今のミホノブルボンは僕に対する意識が足りない。まだ次の宝塚記念を引退する最後のレースとしか認識していないだろう。

 それでは駄目なのだ。レースに対する執着心も、何もかもすべてが僕に向いて貰わなければ。

 

 見ろ。ミホノブルボン。

 僕を見ろ。ミホノブルボン。

 お前の宝塚記念で最も危険な相手が誰なのか、教えてやる。

 

 

 非道と卑劣と謡われようと。

 僕を必要としてくれた少女の願いの為なら、僕はあらゆる悪名を背負って見せよう。

 次の宝塚記念を……お前の最後のレースになんてさせるかよ。

 

 

 

 




地雷原の上でタップダンスシチーするブラックサンダー。
彼女の抱くはハグなので、女の子同士が行うスキンシップなものです。尻尾ハグより健全じゃないか!いいだろサイゲ!
煽る材料(ライスシャワー)による精神攻撃はつづく。


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55.見据える相手は敵

水着スズカさんはふつくしくて良き。明日から北海道旅行行ってきます。エルムステークスで帯馬券取るんや...


 

 

「ブラックサンダー、お話があります」

 

 宝塚記念出走登録の記者会見の数日後、僕の教室にはミホノブルボンが現れた。

 朝の始業前を迎える30分ほど前だろうか、そこそこに他の生徒達も集まっていて、先日の引退会見と僕の記者会見の効果もあってか、周囲からは注目されているためにざわつきが絶えない。

 

 

 だがこちらを見据えるミホノブルボンはそんな多数の視線を気にすることもなく、真っすぐに僕の所へとやって来た。

 乱れの無い歩様、声色からはいつものサイボーグミホノブルボンに違いは無い。

 

「珍しい。僕の名前を言い間違えずに話を切り出す事が出来たのはミホノブルボン、お前が初めてだったりするよ。

 でもギャグパート路線で話進めたいときに結構必要な下りだからさ、次は乗ってくれると助かる」

 

「必要なら、後に実行しましょう。ですが、私の問いに答えていただいてからです。ブラックサンダー」

 

 目は口ほどにモノを言う。

 今のミホノブルボンは普段の性格からは想像できないほどに、その瞳に怒りを宿している。それは何故か。

 

「ライスさんとのコラボ動画、拝見しました。宝塚記念で勝利と引き換えに、ライスさんを〝抱く〟と」

 

 勿論、原因は僕さ。

 諸悪の根源とネットでは称される僕こと、ブラックサンダーがお前の神経を削ぐために行った悪逆非道だ。

 僕の手元にあるスマホが保存された動画のシークーバーを移動させて件のシーンへと直行させてはミホノブルボンへと見せつける。

 

 

 映し出されたのは金髪ウィッグにサングラスをかけたチャラ男を装った僕と、気恥ずかしそうに画面をチラ見するライスシャワーだ。

 

 

『僕が宝塚記念で1着を取ったら、ライスシャワーがどうなるか……分かるよね?』

 

『ら、ライスは!ブラックサンダーさんが宝塚記念で勝ったら、だ、抱かれます!』

 

『ブルボンライス派の奴ら、聞いてるかぁ?契約は今まさに結ばれた!推しカプが奪われるサマを見せつけて、お前等の脳を焼いてやんよ!』

 

『た、助けて~、ぶ、ブルボンさん~、ら、ライスがこのままだと、だ、抱かれ、ちゃうよ~』

 

『おいゴルァ!チームの断りなくウチのライスになんて事喋らせてやがんだッ!!勝手に動画なんて取りやがって!!』

 

『ライス!カチコミに―――間違えたッ、助けに来たよ!』

 

『お、お兄様!?お姉さま!?ち、違うの!こ、これには理由があって―――』

 

『うぉっ!生放送ガチトラブルだ!やべぇ!5分足らずで同接が200、300……まだ増える!!チャンネル登録者数もうなぎ登りに――――』

 

『ブラックサンダーさ~ん?ミスターXトレーナーが呼んでますよ~、あと生徒会長さんと理事長さんも~』

 

『ぐ、グラス!?ま、待て!薙刀はマズイ!カメラに向けるな!何して、おいコラ、待てって――――』

 

 

 

 動画はここで途絶えている。その時間、5分59秒。

 生放送で行っていた動画の内容は今後の僕が挑戦する宝塚記念によるものだった。

 宝塚記念を勝利した暁に、僕がライスシャワーを抱くという言質を取る為に設けた動画作戦。

 

 これの作戦の本質は、宝塚記念に対する知名度をあげる目的もあるが一番はミホノブルボンに揺さぶりを掛けることだ。

 

 

 

 僕には確信があった。ミホノブルボンは本気でライスシャワーの事を嫌ってはいない、と。

 あれだけの罵詈雑言を電話で口にして、傍から見ればライスシャワーに愛想を尽かした、興味をなくした非情なウマ娘だと思われるかもしれないが。

 その後のミホノブルボンの顔には明らかに後悔の念があったのは確かなのだ。

 

 

 何らかの理由があって、あのような言葉を吐かざるを得なくなった。そう僕は考えている。

 本心では、ライスシャワーの事を想い続けている筈だ。今も変わらず。

 

 

 だから僕は、揺さぶりを掛ける事にした。

 わざと動画でミホノブルボンが反応するように記者会見で、先日投稿した動画で、ライスシャワーを餌にミホノブルボンの反応を見る。

 本当にミホノブルボンがライスシャワーの事を嫌いになったのなら、僕の動画に反応せずに無関心を貫くはずだ。

 だがミホノブルボンはこうして僕の前に現れた。これは彼女がまだライスシャワーを心配していることの表れだった。

 

 正直、このままミホノブルボンが現れなかったどうしようかと思った。

 数万以上する撮影機材は壊されるし、理事長とシンボリルドルフには厳重注意を食らう始末。

 だが、その犠牲も必要な犠牲だったというワケだ。

 

 

 さぁ、後は僕が彼女の敵を演じるだけだ。

 かませるだけ、かましてけ。

 

「ライスさんに……何をしたのですか」

 

 先に口を開いたのは、ミホノブルボンだった。

 

「といいますと」

 

「私の経験上、ライスさんがあのようなセリフを公衆の面前で口にすることには強い抵抗がありました。『緊張』と『羞恥』……相当なストレス値をライスさんから推測……」

 

「僕がライスシャワーを脅したって言いたいのか?ミホノブルボン。だけど、お前には関係のない事だ。僕がどこでライスシャワーを抱こうが、ニシノフラワーを抱こうが、ハルウララを抱こうが、理事長を抱こうが、だ。それに……お前とライスシャワーは親友ではないのだろう?もう気にする存在じゃないはずだ」

 

「それは―――」

 

 虚を突かれたか、ミホノブルボンは言葉を詰まらせた。

 今のミホノブルボンに対して、ライスシャワーという存在が想像以上に有利に働いている。

 器材は損額数万以上に及ぶ損害に見合う成果だ。

 

 

「ウマ娘のレースは公的であり、互いの信念を比べ、競い合う神聖な場です。一個人の欲を満たすような、モラルの低下を招くような事はあってはならない。

 ましてやそれが私の引退レースで行われるのは、看過出来ません」

 

 

 故に、とミホノブルボンは続ける。

 

「トゥインクルシリーズ、そして全てのレースに臨むウマ娘の尊厳を守る為にブラックサンダー、あなたの暴走を私が止めます」

 

「止める、か……大きく出たよなァ!ミホノブルボン!でもなぁ、ウマ娘だって、いつまでも強い訳じゃねぇんだぜ」

 

 スイッチが入った。今のミホノブルボンの瞳には僕がしっかりと映りこんでいる。

 友であるライスシャワーを魔の手にかける敵として、確かに認知されている。

 「レースに臨むウマ娘の尊厳を守る」という大義名分を得た彼女には、僕と戦うには十分すぎる理由を得たはずだ。

 

「強い奴が集まる宝塚記念。シニアとクラシックが交わる最初のG1。だけど格上シニアのウマ娘が出走する宝塚記念にクラシックのウマ娘が勝ったことは歴史上ない。それが常識だった。いつの間にか当たり前になってた」

 

 

 だが、常識は破られるものだ。

 そして、歴史は塗り替えられるものだ。

 

 

 ウオッカが夢を叶えた日本ダービー。

 ダイワスカーレットが夢の扉を開いた有馬記念。

 葦毛のウマ娘は走らない、を覆したオグリキャップとタマモクロス。 

 

 

 なんの予兆も、前触れもなく、歴史には突如として風穴を開ける日が必ず来る。

 クラシックのウマ娘が宝塚記念を制覇するという、そんな日が。

 

「歴史なんて……変えてやるよ、僕が」

 

 現役最強を越えて、その名を歴史に刻んでいい。

 舞台は整った。待っていたのは、この瞬間。

 

 

 

「勝負しろ。ミホノブルボン……」

 

「受けて立ちます。ブラックサンダー」

 

 

 互いが互いの目を見て、送り合う視線は自らの「敵」と認識した瞬間だった。

 歴史も変えるなら、その運命だって変えてやる。僕は彼女に、ミホノブルボンに対して不敵な笑みを浮かべて見せたのだった。

 

 そして時は流れる。

 互いがトレーナーの作戦と練習を組みながら、それぞれが敗北できない理由を背負いながら宝塚記念という決戦に向かって。

 

 

――――そして宝塚記念、5日前。

 




レースのまであと大体3話あたり。ちなみにグラスちゃんは動画の後めちゃくちゃ怒ってたそうです。まだその怒りは収まっていません。
マスターXはこの後もう一回謝罪会見を開きました。


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56.少女の願い

気付いたら世界は初日の出を迎えていました。どうも、バロックスです。

……いいですか、落ち着いて聞いてください。私が投稿をお休みしている間に2023年の宝塚記念がついに終わり、ジャパンカップでイクイノックスが引退し、ドウデュース武豊が復活の有馬記念を勝ち、凱旋門賞出走の意志を表明したのです……ウマ娘ではアニメ3期でドゥラメンテ、ジェンティルドンナ、オルフェーブルとレジェンドウマ娘の名前が登場、そして2024年5月には初の劇場版ウマ娘の発表がありました……ええ、分かってます。私が最後に投稿したのは去年の8月です……ンーッンーッ!!ウゥーン!!


時間経つのはやすぎぃ!


 

 ミホノブルボンというウマ娘はまるで機械のようだ、とよく言われる。

 

 ある人曰く、秒刻みの正確なラップタイムを見て。

 あるウマ娘曰く、表情もいつも一定だし、きっと主食もネジとかガソリンなんだよ!と。

 

 自分のトレーナーが耳にすれば「失礼極まりない奴らだ」と怒りの顔を浮かべるだろう。

だが当の本人であるミホノブルボンは、あまり気にしてはいない。

 

 

 一時は他の生徒達から畏怖され、遠ざけられたこともあり、悩みを抱えたこともあったがなにせ十年以上こんな感じで生きて来たのだ。

 今更性格チェンジなど出来る筈も無いのだ。

 

 逃げシスのスマートファルコンからはよく、「ブルボンちゃんはもっと笑顔でいこ★すごい似合うと思う!あともっと明るく!」

 

 

 どのように?と具体例を示したミホノブルボンに対し、スマートファルコンはやや目を泳がせながら、「ヘリオスちゃんみたい、な?ファル子、よく分からない!しゃい★」はぐらかされた。まぁ、今更周りにどうこう言われてもこの性格を0から100まで変更するつもりはミホノブルボンにはさらさら無い。

 それに、トゥインクルシリーズを通してからは周りからとのコミュニケーションも図れるようになってきている。まったく改善が無いというワケではないのだ。

 必要なのは小さな変化の積み重ねだ。それが最終的には「あぁ、ブルボンちゃんって変わったねぇ……昔はもっとこう―――」という過去を懐かしむ卒業生のようになっているだろう。

 

 だけど、自分の根本的な部分は変わらない。

 無機質で、機械のように、あまり感情を出す事が得意ではない。

 でも少しだけ人付き合いが出来るようになったサイボーグとウマ娘の比率にして8:2のミホノブルボンはこのまま生涯を生きていくだろう。

 そう思っていた。

 

 

 

「先生、もう一度……説明を―――してもらっても宜しいでしょうか」

 

「……宝塚記念の最中に起きたあの怪我は命を落とさなかっただけでも奇跡なのです」

 

 

 病院のとある一室。

 椅子に座るミホノブルボンが見据える白衣の男性はライスシャワーの担当医だ。

 その医師の実績はトレセン学園に太鼓判を押される程の知名度があり、また彼以外の医師、病院の施設などのレベルは日本でも最高基準と呼ばれている。

 

 

 男の言葉に、ミホノブルボンの膝上へと置かれていた自分の手に力が籠る。

 

 

「骨折が完治したとしても、レースに完全復帰できるウマ娘は決して多くはありません。例外は確かに存在します。

 トウカイテイオーさんの復活した有馬記念、私も見ていましたから……奇跡を起こさねば、私も医者です」

 

 

 でもね、と医師は続ける。

 

「ライスシャワーさんの骨折した脚は重症過ぎます。運ばれてきたとき、私もあの怪我を見て覚悟を決めたものです……ミホノブルボンさんも、現場で見たのではないでしょうか」

 

 

 芝を跳ねて転がった漆黒の少女を、観客席から飛び出して間近で見た時にターフとレーンに付着した赤い液体にミホノブルボンは一瞬我を忘れた。

 脚が大きく曲がり、骨が飛び出し、血に彩られたターフの上で動きもしなくなったライスシャワーの姿をミホノブルボンは忘れたことは無い。今でも夢に見るくらいだ。

 

 

 そんな彼女が無事だったと事を知って、ミホノブルボンは思わず泣いてしまった。「私より泣き虫だなぁ、ブルボンさんは」とベッドの上ではにかんだライスシャワーには言われた。

 

 

―――もう一度、戻るよ。ターフに。ブルボンさんとレースがしたいから。

 

 

 その瞳は自らを復帰できると信じて疑わない瞳であった。

 揺るがないその意志にはミホノブルボンも彼女の復活を応援しなくてはと思った。

 

 

「もうライスシャワーさんは、走るべきではありません」

 

 

 しかし現実は、容赦なくミホノブルボンの心を打ち砕く。

 

「もし次に骨折をしてしまえば、今度こそ命は――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気が付けば、ミホノブルボンは病院の外にいた。

 自分が怪我をしたわけでもないのに、頭を打ったかのように足元が覚束ない。

 空を見上げれば、鉛色の空が広がっていた。気温も低く、今にも雨が降って来そうな、そんな雰囲気だ。

 

 

「……どうして、どうしてライスさんが」

 

 

 ぽつりと、零した言葉と同時に一粒の水滴。

 それを皮切りにぽたぽたと、無数の雫が降り注ぐ。

 

 

――――どうして、彼女がこんな目に逢わなければならないのか。

 

 

 世間にヒールと呼ばれ、苦しんで、ようやく大きなレースに勝ち、皆から祝福されるウマ娘となり、やっと楽しい世界が彼女を待っているはずだったのに。 

 

 

「――――ッッ!!」

 

 ゴリッ、とミホノブルボンの拳が壁を叩く。ウマ娘の力で行われたそれはミホノブルボンの怒りをあらわしていたのか、その部分だけが大きくめり込んだ。

 破片が皮膚を裂き、雨水と一緒に血が地面へと流れていく。痛みを感じるよりも別の感情がミホノブルボンの痛覚を遮断する。

 

 

 

 もう一緒に走れないというのか。

 もう一緒に競い合えないというのか。

 いや、下手をしたら次の骨折で取り返しのつかない事になるかもしれない。

 

 

 二度と、ライスシャワーと会えなくなるかも知れない。

 

 

「そんなの、いやだ」

 

 ぎゅう、と拳を握って最悪の結果を必死に否定する。

 それだけは、決してあってはならないことなのだと。

 

 

 故に、ミホノブルボンはシュミレートする。

 どうすれば、ライスシャワーにとって最悪を回避し、最良のルートを導けるのか。

 

 

(きっとライスさんは医者のいう事を素直に聞かないでしょう。きっと、どこかでリハビリを行ってでも復帰に努める筈。

 とても、頑固な性格ですから……私との約束がライスさんを奮い立たせている……私が走る意志を見せ続ければするほど、ライスさんは走る事を決して諦めない、なら―――)

 

 

 制服が水気を吸って重くなりながらも、ミホノブルボンは歩き出す。

 決意を秘めた瞳にはもう自身でやるべきことを考え出していた。

 迷いは無い、後は進むだけ。きっと、これが自分に出来る最良の方法。

 

 

「申し訳ありません、ライスさん……ライスさんとの約束、どうやら果たせそうにありません」

 

 

 

 

 〇

 

 

「調子は良さそうだな、ブルボン」

 

「はい、マスター」

 

 

 西日が照らすターフで流暢に話して見せるブルボンは坂路走を終えたばかりだというのに僅かに肩を上下させるほどだ。

 ウマ娘にとって坂路走はスピードとスタミナを強化するハードトレーニングであり、日に何本も行うことは出来ない。

 普通のウマ娘ならば日に2本をこなすがミホノブルボンは4本こなす。

 怪我からの復帰後はコンディションに波が出来ていたがトレーニングメニューを高負荷で本数を少なめに。短期集中だ。以前のように無理にトレーニングを行えば再び骨折のリスクが高くなる。

 

 

 引退レースとなる宝塚記念を前に調整を行ってはいたが、坂路走の本数はミホノブルボンたっての願いだった。

 悔いを残したくないのか、日ごろ行っているルーティンを崩すことはしたくなかったのか。

 なんにせよ、レース本番の週にミホノブルボンの仕上がりはベストコンディションを迎えつつあった。

 

 

 正直、ここまで復活できるとは思えなかった。と、ミホノブルボンのトレーナーは右手に握ったストップウォッチの数字を見る。

 

 

 怪我明け一発目、目に見えてスピードが落ちたこのタイムを見せつけた時、膝から崩れ落ちて明らかに落ち込んでいたミホノブルボンの姿は今でも思い出せる。

 今のタイムは現役時代と同等か、それ以上のキレを見せる程に復調することが出来た。積み重ねた勝利の数、故に現役では最強と周囲から評価される程に。

 

 

 だからこそ、トレーナーは言うのである。

 

「惜しいなぁ……」

 

 怪我を乗り越えて復活したミホノブルボンのレース人生を支えることがトレーナーである自身の役目だと思っていた。

 宝塚記念だけではない、天皇賞、ジャパンカップ、有馬記念だって、ミホノブルボンというウマ娘がこの先のレースで多くのタイトルを獲得する光景を想像することが出来てします。

 

 引退の話を持ち掛けられた際は酷く動揺し、何度か思い留まるように話し合ったこともある。

 だけど、彼女は覚悟を決めてしまった。

 大切な友人の為に。

 自らが引退する事でその友人が2度とレースに復帰を目指すことがないように。

引退を打ち明けた時の彼女の顔はどこか泣きそうで。

 何者に変えられない願いが込められてる気がして。

 トレーナーである自分は、それ以上引き留めることが出来なかった。

 

 

  坂路トレーニングを再開しようとするミホノブルボンがこちらを見て口を開いた。

 

 

「私の我儘を聞いてくださり、ありがとうございます。マスターの期待を裏切る形になってしまいましたが」

 

 感謝のようで謝罪のような言葉だった。

 大丈夫。こちらはもう踏ん切りがついている。ミホノブルボンがレース界を去る事は気持ちには出さないと決めたし、それによってミホノブルボンが調子を落とすような事があってはならない。だからトレーナーである自分はいつものようにいつもの表情で答えて見せるのだ。

 

「これが、お前の覚悟なんだろ、ブルボン。これは自分の意志で確かに決めたことだし、俺はそれを尊重するよ。全力で最後までお前をサポートする」

 

「YES、master」

 

「とは言っても、前期の総決算レースだって言うのに宝塚記念のメンバーはあまり実力のある娘が出てこないのは意外だったよ」

 

「推測するに、多くの陣営が今の私とレースするのは避けられていると」

 

「ブルボンが強くなった証拠だ。誇ってくれ」

 

 最強、ミホノブルボンが宝塚記念に出走するにあたり確認した出走リストには有力候補というのは多くはなかった。G1獲得した実力あるウマ娘はわずか数名ほどで他は重賞レースには出ているものの今のミホノブルボンには脅威にはならないといっていい。思惑はいろいろとあるだろう。コンディションの調整や次のレースを視野に入れているか、勝ち目がないレースは極力回避することを選んだか。

 

「ブルボン、誰か気になる?」

 

「はい。クラシック路線の娘で一人だけ」

 

「そうか」

 

 きっとそれは今年の皐月賞ウマ娘、ブラックサンダーの事なのは聞かずとも分かった。

 大胆にも、現役で最強と名高いミホノブルボンに勝利宣言をして見せたクラシックのウマ娘。

 脚質はミホノブルボンと同じだが、皐月賞以降のダービーでは2000m以上の距離に不安あり、と言う感じだった。

 ダービーと皐月の間の距離である宝塚記念ならば、持ち前のスピードで逃げ切れると向こうの陣営は踏んだかもしれないが、まだまだ甘い。

 

 

 ベテラントレーナーである自分の眼からでも分かる全体的な足りない、と言う感覚。

 クラシックG1とシニアG1のウマ娘との間には技術、体力は覆しがたい差が存在する。

 何を根拠に勝てると踏んでこの宝塚記念に乗り込んできたのか、または自分たちの知らない所で、公にされていないブラックサンダー必勝の策があるとでもいうのか。

 

 

 あるいは、

 

「これが若さか」

 

「?マスター?」

 

「いや、なんでもない……仕上げに入ろう、ブルボン」

 

「了解」

 

 危険を顧みず、己の持ちうる武器を最大限に発揮し、実力差を気力でカバーする。

 冷静な計算と試行回数に基づいた論理的なモノなど投げ捨てた無茶で無謀な勇往邁進。

 思えば、クラシック期の自分とミホノブルボンも同じだった。

 

 前例などない、短距離路線から中長距離路線への変更と、栄光のクラシック3冠ウマ娘への挑戦。

 傍から見れば無謀なものと思われたかもしれない。

 だけど、自分はひたむきに夢へと駆けるミホノブルボンに彼女ならば出来る、と信頼したはずだ。

 その信頼で3冠は無理でも、自分たちは確かにその玉座に王手を掛けていたのだ。

 

 

 故にブラックサンダーは、クラシック時代の自分とミホノブルボンと『同じ』、なのだろう。

 そして、シニアへと移るに変わって自分たちが置いてきてしまったモノなのかもしれない。

 サッカー選手が年齢によるスタミナの低下やスピードの減退をカバーする為にパスやフォーメーションなど、肉体とはかけ離れた技術を磨こうとするように。

 

 

「ハァッ!!」

 

 坂路の土を蹴り上げるその音はミホノブルボンの物で、疲労が溜まっているにも関わらず1本目と変わらないスピードで坂を駆け抜ける。キレの良さから今日イチのタイムが出る事は明らかだ。

 ふと、彼女を見て思う事がある。きっと若さを置いてきたのは自分だけなのだと。

 だって、走っているミホノブルボンはまだ最後の最後まで勝利を望んでいるから。

 

 

 次のレースでキミのレースが見れなくなってしまう事を悲しく思う。 

 ターフでキミの姿を見れない事が、学園で声を交わすキミとの日々が終わってしまう事に寂しさを感じる。

 終わらなければと思ってしまう。

 いっそのこと、この気持ちをキミに打ち明けてしまえばと思う。

 けれど、自分は……ミホノブルボンのトレーナーだから。

 ウマ娘の勝利を願い、導く者だから。

 キミの最後の花道を必ず勝利で彩って見せよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ある程度の曇らせは必要だと思います(暗黒微笑)。
競馬ってやはり素敵だと思います。有馬記念は小倉の場外馬券場から見ていましたが後方からの第4コーナーでの完璧な位置取りに叫ばずにはいられませんでした。
2022年の日本ダービーからドゥデュースという馬を追い続けて本当に良かったと思います。4枚の諭吉が私に見せてくれた最高の有馬記念だと思います。
今年もよろしくお願いします。


大外ルメールを何故私は信じられなかったんだ。


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