【完結】シンボリルドルフを轢け逃げられますようにと、彼女は願った (ムーンフォックス)
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轢き逃げ

 予てより、『有名』には噂が絶えない。

 本能寺の変で死亡したのは織田信長ではなくその影武者というのはその一つだ。有名なものに、何かと噂は付きものである。

 

 そしてこれも、そんな噂に過ぎない。

 

 シンボリには、一馬 破天荒がいる。

 何でも彼女は幼少期、駄馬とされ売られたのだと。

 

 彼女はシンボリ家に復讐を誓っているのだと。

 

 彼女は相手を『轢く』のだと。

 

 彼女は超特急を超える走りをするのだと。

 

 

 その、ウマ娘の名は

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 ──競走ウマ娘として生まれたからには否が応でも耳にする単語一位は、間違いなく『トレセン学園』だろう。

 今まで数々の有名なウマ娘たちが育ち、そして様々なところで素晴らしい成績を収めてきた。そんな栄えある場所にいることを、私、シンボリルドルフはとても光栄に思う。

 

 トレセン学園に入ったからには、競走ウマ娘として名を轟かせなければならない。名を轟かすためにはレースに出なければならない。

 

 レースに出るためにはチームに所属しなければならなく、チームに所属するためにはウマ娘の育成を担当するトレーナーに自身をスカウトしてもらう必要がある。

 

 トレーナーにスカウトしてもらうのには様々な方法があるが一番の方法は、定期的に開催される『選抜レース』に出場し、そこで成果を残すことだ。

 

 この日の選抜レース。選抜第2レース芝2000メートル。それが私の出場する名もなきレースの名前だった。

 

『まもなく、選抜第2レースが行われます。出走する方はスタート待機所にお集まりください』

 

 自分の番が呼ばれた。ゼッケンを着て軽い準備体操をする。

 

 ───Eclipse first, the rest nowhere(唯一抜きん出て並ぶもの無し).

 

 そんな言葉を片隅に覚えながら、用意されたゲートに進むのだった。

 

 

 


 

 

 更衣室で私服に着替えながら、私は先ほどのレースを思い返していた。私の初陣に語ることは多くない、そのレースの結果を語るのは四文字だけでいい。鎧袖一触、その四文字だけで。

 

 

 改めて更衣室を見返す。これまでの選抜レースでも良い成果を残せていないのだろうか、その焦りからか泣き崩れるウマ娘たち。

 そしてそんな彼女の姿を見て、彼女のようになりたくないという気持ちでレースに挑まんと闘志を上げていくウマ娘たちの姿。

 

 こんなところでも、ウマ娘の間で争いが起ころうとしている。それに対して、何もできない自分が歯痒くて仕方ない。

 

 ぼんやりとそれらの姿を見ていたからだろうか。

 

 

「哀れだと思わねェか? コイツら」

 

 

 私は()()の接近を許してしまった。

 驚き 振り向く、いつからだろうか、気づいた時には彼女は私の隣にいた。銀みがかった黒髪にピンと屹立する二対の耳、鋭くも薄ら笑いを浮かべている瞳は、目の前のウマ娘たちを嘲笑っているように見えた。

 

 おもむろに、彼女は靴裏の蹄鉄をハンマーで叩きだす。見るに、これから選抜レースに出場するウマ娘だろうか。

 

 

「君は……?」

「コイツらが全身全霊で死ぬ気で走ったとて、車にゃ勝てない。ウマ娘は車より遅いものだとみんな思っている」

「まるで君は違うとばかりの言い草だな」

 

 

 その言葉に少しの疑問を覚え問う。唯我独尊を地で行くこのウマ娘に興味が湧いたからだった。ウマ娘の出せる平均スピードは時速50~60km、そこからトレーニングを積んでも、せいぜい70kmが限界だろう。

 車の出すスピードに勝つなどと、妄言を吐くウマ娘はいない。

 

 

「ルドルフ、ウマ娘が車よりも使えるんだと証明するにはどうすればいいと思う?」

「……さあ?」

「車より早く走りゃいいんだ」

 

 

 大海撈針だというのに、このウマ娘は。

 

 

「私はやってみせる」

「車より早く走ることをかい?」

「いや、『超特急』だ」

「なんだって?」

「超特急、時速390キロメートルに並んで見せる」

「…………」

 

 

 唖然としたのか、私の口から言葉が出ない。普通ならば呆れた誇大妄想だと一笑に付すような内容。だが…… 

 

 

『なァ ルドルフ、ウマ娘なんてのは所詮新幹線のスピードすら超えられないチッポケな存在だと思わねェか?』

 

 

 ふと脳裏に甦る、幼き頃の記憶。相手は一体誰だっただろうか。不思議とその言葉に似た感覚だった。

 このウマ娘にはそれができると言わせるほどの"ナニカ"がある。

 

 

「……凄いな、君は」

「はぁ?」

「不思議だ、君と話していると親近感が湧くよ。前にどこかで会わなかったか?」

「………いや」

「そうか、すまなかった。よろしければ、名前を教えてくれないか?」

「……あぁ、私の名前は───」

『まもなく、選抜第3レースが行われます。出走する方はスタート待機所にお集まりください』

 

 

 目の前の彼女の口が開こうとした時、天井のスピーカーから声がした。はっとしたように彼女が顔を上げる。

 

「っと、私の番だ。悪いけど、それじゃあ」

「ああ、それじゃあ。元気で」

 

 

 一言二言の会話を交わした後、あわただしくそのウマ娘はかけていった。

 

 

「……超特急、か」

 

 

 ひと気の少ない更衣室で、私はそうひとりごちた。

 

 新幹線に並ぶと豪語したそのウマ娘、そんな奇異なウマ娘だったからだろうか。彼女がどんな走りをするのかがふと気になった。

 

 足早に着替え終え、私はいつの間にか、トレーニングコースへ足を運んでいたのだった。

 

 

「ところで何故彼女は、私の名前を知ってたんだ……?」

 

 


 

 

 観客席には、私の他にウマ娘が数人、そして選抜レースに集中する多くのトレーナーの姿があった。やはり話題は、私のことらしい。

 だが話の張本人の私が来ても、彼らは気に留める素振りすらみせない、それだけトレーナーたちは、未来のウマ娘達を一人たりとも見逃さないとしているのだということの裏返しでもある。その姿には、ただただ感銘を受けるはがりだ。

 

 適当な席に座りトレーニングコースを見渡す。ゲートの4番。そこにあのウマ娘がいた。私の姿には気づいていないのか、唯一人ゲートが開くのを待っている。

 

 ──と

 

 

「おっ、始まりましたね」

 

 

 トレーナーの一人が言うのが早いか、ゲートが一斉に開いた。出遅れるものが多くいる中、4番の彼女は遅れず走り始め、早速先頭へ踊りでた。驚くべきことに後ろにいるウマ娘との差は、既に四バ身も離れている。

 

 

「4番のウマ娘。速いですね」

「ええ、でもペースがかなり早い。最初っからこのスピードじゃダメね」

 

 

 観察するトレーナーたちが話している。彼女の作戦は『逃げ』らしい。

 逃げとは、その名の通りとにかく序盤から終盤まで一位のまま逃げ勝つ作戦。それだけ聞くと安定した作戦のように聞こえるが、最終直線でスタミナが切れやすく、『差し』や『追込』と言った貯めたスタミナを全部消費してスパートをかけるウマ娘に抜かれやすいという性質を持つ。

 

 勝ちは派手に、そして負けは派手に。そんな難しい作戦でもあった。女のトレーナーの言う通り、今でこそ先陣を切る彼女だが、あのスタミナ配分を度外視した走りでは最終直線で逃げ切るのは絶望的だろう。

 

 何も考えていないのか、はたまたそれも作戦の一部なのか、四バ身離れていた距離が更に広がり、六バ身になっていた。

 

 

 

 

 第二コーナー、第三コーナーと回り、勝負の行方は第四コーナーに差しかかろうとしていた。第三コーナーまでの直線では余裕を見せ大差だったはずの彼女の息遣いは荒く、その目線は誰がどうみても胡乱げで、焦点が定まってない。

 

 

「ありゃあダメですね。ほら、もう後ろの娘との距離二バ身もありませんよ」

「差しきられて終わりね。何の考えもなしに走るからそうなるのよ」

 

 

 第四コーナーが終わり、勝負の行方は直線に持ち越された。『逃げ』にとって最も重要なこの直線、ここで一位をキープすれば勝ちだが……。

 

 

「あちゃー、とうとう抜かれちゃったよ。どんどん抜かされちゃってる」

 

 

 あのスタミナ配分なら当然というか、やはりというか、とうとう一人のウマ娘が、彼女を追い越していった。あの状態からの巻き返しは厳しいだろう。そう思っているうちにまた一人、二人と追い抜かされていき───

 

 

「……ちょっと待って、なんか()()()()()()()()()ない?」

 

 

 ふと、覚えた違和感。私の思考とあのトレーナーの発声、見事なシンクロだった。逃げは負けが派手、それは知っている。しかし、早すぎる。こんなペースで抜かれていくものではない。ならば一体と、彼女を観察する。

 

 

「……は?」

 

 

 浮雲朝露の一言が聞こえてきた。それが私の発した音だと気づくのにどれだけの時間がかかったのだろう。また一人、彼女を追い抜いた。これで彼女は四着となる。だがそれも当然だろうなぜなら彼女は───。

 

 

「なんであの娘、走ってないのよ」

 

 

 トレーナーが私の言葉全てを代弁した。完全に静止している、走ることすらせず、歩くことすらしない。そこに、彼女が立っていた。別のウマ娘が背後へ迫る。

 

 ───いつの間にか、彼女は構えていた。地面に手をつけ、足が大きく地面を押し出し、ちょうど彼女の足裏にフィットするような山が作られる。

 

 あれは、クラウチングスタートの構えだ。

 

 

 五着のウマ娘が迫り、やがて、彼女を抜く、瞬間。

 

 私は間違いなく、轟く鉄車をそれに見た。

 

 

 

 五着が抜いた瞬間、彼女はそのクラウチングスタートの体制から猛追をし始めた。免起鶻落の脅威的なその末脚、何キロ出しているのか検討もつかない。騏驥過隙。クラウチングスタートによる勢いは、前を走るウマ娘をあっさりと追い抜いていく。五着だったはずの順位は既に二着に返り咲いており、ゴールまでの距離、残すまで300メートル。

 

 

「…………」

 

 

 声を出せずにいた。()()に呑まれていた。夢でも見ているのかと誰しもが思っているからだ。あれは『逃げ』ではない。されど、あれは『追込』でもない。

 

 そう、あの走りは

 

 

「……『轢逃(ひきにげ)』」

 

 

 誰かが絞り出すように発した台詞が、やけに耳に残った。轢き逃げ。そう、あれは逃げではない。先頭に立つのは逃げが後方から迫り、相手を轢いていく。

 逃げている。だが、差している。矛盾の走り。

 200メートルに入った。一着のウマ娘が追い抜れまいと必死に逃げている。だが、二バ身、一バ身と彼女は迫り───

 

 やがてはその一着のウマ娘を轢いて、ゴールに突入した。アタマ差と、電光掲示板に表示された文字を見る。

 

 

 驚愕している私の脳裏に、ふと誰かが言ったその()が甦る。

 

 

 シンボリには一人、破天荒がいる。

 何でも彼女は幼少期、駄馬とされ売られたのだと。

 

 彼女はシンボリ家に復讐を誓っているのだと。

 

 彼女は相手を『轢く』のだと。

 

 彼女は超特急を超える走りをするのだと。

 

 そのウマ娘の名は───

 

 

「……()()()()()()()()()()()

 

 

 

 ふと吐露した名前と共に、彼女は顔を向け、応えた。

 

 

「そうだ、私がキングダムエクスプレス───お前を轢くウマ娘の名だ」

 

 

 そう、言葉を遺して。



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トレーナー

 私は夢を見ていた。

 

 不明瞭な微睡みをシンボリルドルフは味わっていた。

 

 体の意識は薄れていた。走馬灯のように、過去の思い出が掘り返されていく。

 

 それはまだ私が幼く、何も知らない無知で無垢な少女だった時の話。

 

 目の前の()()が言う。

 

 

「ルドルフ、ウマ娘なんてのは所詮新幹線のスピードすら超えられない、悲しい存在だと思わないかい?」

「……そういうあなたは超えられるの?」

「当然。忘れたかい?キングダムエクスプレスの噂」

「例の噂の? でも父様も母様もそんな噂はないって……」

 

 

 傲岸不遜、彼女を中心に世界は巡っているのだとすら認識してしまうその圧倒的な自信。彼女はいつも私にその噂を話していた。時速390キロで走るウマ娘、『キングダムエクスプレス』の噂。

 ……今にして思えば、それは彼女が適当にでっち上げたデマだったのだろう。だが幼い私はそれを信じ、様々な人に話したものだ。

 

 

「しょせんは噂、誰もそんなもの存在しないって思っている」

「だって噂だもん」

「そうじゃない、キングダムエクスプレスは実在する。やがて、それはお前の目の前に立ち──お前を轢くだろうな。超特急に轢かれるように、一瞬にな」

 

 

 目の前の彼女はそう言いきる。

 彼女が私の前から姿を消したのは、それからすぐのことだった。

 そう、これはあまりにも昔の話。永きに渡る、かつてのかつてのお話。

 

 ──だが、私のこの長い夢も、そろそろ目覚めなければならない。そして、認めなければならない。

 

 九十九折の果て、噂通り奴が来た。

 噂通りに、私を轢きに。

 そのウマ娘、キングダムエクスプレスが。

 

 ──私の妹が。

 

 

 


 

 

 

 太陽が眩しさがシンボリルドルフを目覚めさせた。同室のウマ娘を起こさないように静かに洗面所へ移動する。蛇口から出る冷たい水の刺激が顔を襲った。ジャージ姿に着替え終わると、次にするのは朝の自主トレーニングだった。

 

 

 誰もいないトレセン学園のレース場。800メートルを全力で走る。目指すタイムは50秒以内。しかし

 

「56秒か、まだまだ遅いな」

 

 そこへ到達するのはまだ難しそうだ。その後も同じことを続けていく。

 試行錯誤の末、やがて足が疲れてもう動かなくなると、そこで大人しく寮に戻る。無理なトレーニングは寧ろ体に毒である。

 

 汗ばんだ体にシャワーが染みる。暫しその余韻の浸り、時間を確認すると、とっくに朝食の時間だったことに気づき、未だ濡れたジャージを羽織った。

 相方はもう食堂へ向かったらしい。遅れないように、自分も足を進めた。

 

 十人十色のウマ娘達がいる広い食堂。和気藹々の喧騒の中、適当に本日のおすすめと銘打たれた料理を注文した。

 万万千千もあろうかという広い食堂を見渡す。どこかにいい感じに空いてる席はないものか。

 

「……む?」

 

 一つのテーブルに目が止まった。一つのテーブル席、だがそこには不思議なことに座ってるウマ娘は一人のみ。

 何故他のウマ娘がそこに座ろうとしないのかは瞬時に理解できた。

 

 鋭い双眸、テーブル席に座っているというのに何の料理すら机上にない。不可思議なそのウマ娘、一目で理解できた。

 

 あの日、奇想天外な轢き逃げを見せたキングダムエクスプレス張本人であった。

 

 そんな奇異な姿では引かれるに決まってるというのに。ため息を吐き、プレートをそのテーブルへ置いた。

 

「久しぶりだな、キングダムエクスプレス」

 

 

 

 今まで明後日の方向を向いていたその瞳が初めて私の方を向いた。

 

「おやルドルフ、合格したの? おめでとう」

「その様子だと、君もらしい」

 

 席に座り、その眼を捉える。澄んでおらず、濁りきったその眼は少しだけ笑っているように見える。これは確かに他のウマ娘が避けるのも無理もない。

 

「何か食べないのか?」

「朝は食べないタイプでね」

「私個人の意見を言わせてもらうなら、朝は何かしら食べた方がいい」

「ああ、考えておくよ」

 

 ウマ娘にとって食事とは大きな意味がある。体を作り心を満たす、食事とはそのようなものだ。

 

 食事を取る私を、目の前の彼女は見つめてくる。多くのことを彼女と語り合いたかった。だが今彼女を前にして、私の頭にはある一つの疑問が浮かんで消えることはなかった。

 

「……なあ」

「ん?」

「一つ、聞きたいんだ」

 

 意を決し、問う。

 

「……何故、君はあの噂と同じ名前をしているんだ?」

「噂ぁ? そりゃ一体何の話?」

「惚けるなよ」

 

 自身でも声が荒くなっていることに気づいた。鶴の一声のごとく、辺りのガヤガヤと話すウマ娘たちが一斉に静まり、キングダムエクスプレスの目が細くなる。

 

 

 シンボリには、一馬 破天荒がいる。

 

「……今から五年前、私の妹が私達の前から姿を消した」

 

 彼女は幼少期、シンボリから駄馬と言われたのだと。

 

「アイツはよく、自分は超特急を超えて見せると豪語していたよ」

 

 彼女はシンボリに復讐を誓っているのだと。

 

「そして今、私の目の前に()()()()()に、超特急を超えて見せると豪語するウマ娘が現れた。()()()()()()、そのウマ娘は私の家に伝わる噂と同じ名前をしていた」

 

 『彼女』は、超特急を超える速度を持つのだと。

 

「キングダムエクスプレス。君は──私の、妹なんじゃないか?」

「違うね」

 

 そのあまりにもの早さに、疑問を持ってしまうほどに、

 即座に、否定は返ってきた。

 

「アンタとはあの時初めて出会った」

「…………」

 

 沈黙が流れた。長い沈黙だった。一目瞭然。否定の言葉の裏に隠れた確実な嘘。提示された疑問に返事をしようとしないその不自然さ。

 それはもはや、自身で種明かしをしているのと同義だった。

 厳しい目をしていたと思う。が、目の前の彼女が動じないことに気づくと、長いため息が私の口から漏れた。

 

「そうか」

 

 今の私では、そういうしかあるまい。

 しかし

 

「あアでも、アンタの妹。もしかしたら近くにいるかもね」

「だったらいいんだが」

「案外、アンタの目の前とかにな」

 

 彼女の鋭い目が私を嘲るように歪む。無視を貫き席を立った。授業がもうすぐ始まるからと、そう言い聞かせながら。

 

「……ありがとう。キングダムエクスプレス」

「どう致しまして。シンボリルドルフ」

 

 語る言葉は充分だった、いつかぶつかると心の底で理解しているからだった。

 それがいつかはわからない。しかしその時までに圧倒的な走りを身につけなければと、固く心に刻んだ。

 

 

 


 

 

 

『アイツとの出会いですか? あれは今でも覚えてますよそりゃあ。』

 

 人生に、奇跡と言える出来事は存在するのだろうかと、思いあぐねていた。

 

『あの時の私は素人の新米トレーナー、思うようにウマ娘をスカウトできず、自身の才能に落ち込んでいました。』

 

 同じ時期にトレーナーになったヤツは、もう担当するウマ娘を見つけたようだ。だというのにオレとくれば、未だに一人のウマ娘すら獲ることができてない。失意のまま廊下を曲がる。

 

『肩を落とし廊下を曲がって俺は、とあるウマ娘と出会ったんです。』

 

 ドン、と、不注意のせいなのか、どうやら誰かとぶつかってしまったようだ。「すいません」と、情けない謝罪文が反射的に口から出てしまう──と。

 

『ぶつかり謝罪する俺の肩を、アイツは力強く掴みました。』

 

 突然ソレに肩を掴まれた。すごい力だった。その時、オレは初めて目の前の彼女の顔を見た。

 

『一人のウマ娘がた。しかもそいつは、選抜レースであの轢き逃げ戦法をしたという──』

 

「キングダム……エクスプレス」

 

 オレの口からその言葉が漏れた。キングダムエクスプレス、あの奇妙奇天烈な走りを見せたウマ娘。

 

「アンタ、トレーナーだろ。しかも未だに一人のウマ娘さえ捕まえられない新米のトレーナーだ」

「…………」

 

 言い返せない、事実だからだ。しかし何故彼女がオレの前に現れた? 頭の中で疑問がよぎった。

 

「実は自分も、未だに何のチームにすら入ってない」

 

『今思うと、あれはあえて俺みたいなルーキーを選んだんでしょうね。他の有名なチームだと自由に行動できないと踏んだとか? アイツの真意は、今でも解りません。』

 

「アンタ、私を雇う気は無いか?」

「は?」

「私はチームに入らないといけない、でないとレースに出れない」

「でも、オレなんかより他のチームの方が……」

「アンタがいいんだ。アンタだからこそ、私は100%を超えれると踏んだんだ」

 

『誰かに必要とされている、初めての感覚でした。どうしたかって?』

 

 人生に、奇跡と言える出来事は存在するのだろうかと、思いあぐねていた。

 

「ああ、えっと……それじゃあこれからよろしく、エクスプレス」

 

 奇跡と言える出来事は、確実に今目の前に──

 

『断ってりゃあ、このインタビューには出れなかったでしょうね』

 

 オレが出した右手を、彼女はグッと握る。

 

「よろしく、ああ……」

「暁だ。(あかつき)(あきら)、よろしくな」

「よろしく、暁トレーナー」

 

 その硬い握手。その感触がオレの始まりだと、そう予感した。




(『』台詞は乙名史悦子著。月間トゥインクル、より、
 「凄腕トレーナー(あかつき)(あきら)に聞く!あのウマ娘は今どうしているか?」から一部抜粋)


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デビュー戦

 一部事情により、タイトル変更させていただきました。
 また今話に限り、一部特殊タグを使用しております。ご了承ください。また後書きにてアンケートを設置しております。ご回答していただけると幸いです。


「不可能、としか言えないな。というより、どうしてこんな時期にチームに入れると思ったんだ?」

 

 世に、真実を真実と見極められる者は如何なる者か。それが悩みの種だった。

 

「確かにあなたの走りは素晴らしかったけど……来週をウチの子のデビュー戦、今はあなたに構ってる時間はないの」

 

 また一人、また一人。私の真実を理解せずに断っていく。目の前のトレーナーはどれほどの逸材を自ら手放しているのかを理解していないのだ。

 

 たかが、『デビュー戦が来週から始まる』という些末な問題だろう。早くしなければ、時間がない。次のトレーナーを当たろう。それがダメならその次だ。それもダメならば……

 

「噂に聞こえた『来週がデビュー戦ということを理解せず、至るところにアプローチをかけその都度断られる選抜レースで好成績を残したウマ娘』っていうのは、アンタのことかな?」

「……誰だか知らないがそれは違う。私の真実を理解せずスカウトしない奴らが真の愚者なのだ」

「アンタの真実も何もさっき私が言ったことが事実じゃねェかよ」

 

 また一人、私の前に脳細胞が暗澹とした者が現れた。

 こういう輩には付き合いたくもないのだが、目の前を彼女が遮っているせいで通れない。それに苛立ちを覚えた。

 

「……まあいいさ。時間がねぇ、私はキングダムエクスプレス。アンタの力が必要だ。どうだい、入らないかい私のチームに?」

「……貴様のチームに入った所で、私にどんな利があるというのだ」

「私の褌で相撲取れば横綱になれるくらいのいい思いをさせてやるよ」

 

 目の前の彼女が言う。なんともまあ自分が上だと思い込むウマ娘というのは暗愚の極みのような者しかいないのだろうか、甚だ疑問だ。

 だが、私を見つけることのできるその目だけは確かなようだった。

 

「……私を見つけることのできたその目を感謝するんだな。キングダムエクスプレスとやら。この"ハイリボルケッタ"、お前の誘いに乗ってやろうじゃないか」

「何言ってるのかわからないけど、入ってくれるってこと? ハイリボルケッタさん」

「この程度の言葉もわからないようじゃ、これから同じチームの者としてうまくやっていけるか疑問だな」

 

 私の真実を見極められる者、それは驚くほどに不愉快な言動にて奇走のウマ娘だった。

 

 


 

 

 ウマ娘がレースに出るためにはチームに所属しなければならず、そのチームにはそれぞれトレーナーと呼ばれるウマ娘の練習メニューを考え、実践させる指導者が存在する。

 

 デビュー戦とはウマ娘が初めて走る重要な場所であり、トレーナーにとってはその指導が果たして正しかったのかを身を以て知る場所でもある。

 

 この最近気温が暑くなりかけた頃の東京レース場、混雑雑多の観客の中、(あかつき)(あきら)は一人、茹だる席に座っていた。口元には飲料水、頭には帽子、首にはタオルで手には団扇と、いかにもな夏場の服装。そして視線はある一点を見据えている。

 

 『パドック』。それはレース前に行われるウマ娘の下見市。小さなフィールドをウマ娘は周回し、己を御披露目る。

 

「よお、暁」

「やあ、昼部(ひるべ)

「隣、いいかい?」

「好きにしてくれ」

 

 孤立の暁に昼部は声をかけた。本名を昼部(ひるべ)直人(なおと)。暁とはトレーナーの道を志した同期の桜であり、共に砂を噛んだ間柄である。

 

「聞いたぜ、あの"轢き逃げ"をスカウトしたんだろ? 大した腕じゃねぇか」

「お前こそ、オレみたいな素人でも解るぜ。とんでもないウマ娘じゃねぇか」

 

 暁はパドックの一端を指差した。太陽に照らされ、肩まで伸びた赤髪のウマ娘。かけられたゼッケンの番号は2。昼部から事前に送られてきた容姿と一致しているウマ娘だった。

 

『2枠2番、ザナルグレイビア』

『勝利へのすごい執念を感じますね。勝ちたい気持ちがどのようにレースに表現されるかが楽しみです』

 

「ザナルグレイビアか。原石って次元じゃねぇな。ありゃ金剛石だ。まだデビュー戦だっていうのに、もうダービーに出る直前って感じじゃねぇか、気合い入りすぎだ」

「良いウマ娘だろ。お前のウマ娘は……あそこか。参考までにだが、どんなトレーニングをしたんだ? やっぱりスピード方面か?」

 

『4枠4番、キングダムエクスプレス』

『私が一番注目しているウマ娘です。なんでもこれまでに見せたことのない走りをするとのことで、期待が止まりません』

 

 昼部の視線は、パドックにて手を振りアピールするキングダムエクスプレスの方へと向けられていた。

 

「……トレーニングか、オレにできることはなかったよ」

「おいおい、そこは『できることはやった』だろ? 良い目してるぜ。絶対に勝ってやるって情熱だけなら、ウチのに勝ってる」

 

『各ウマ娘、ゲートイン完了の模様です』

 

 レース前に起こる、ある暗黙の了解。誰しもが息を潜め、その始まりを見守る。それは例えトレーナーも例外ではない。昼部 暁共々に、言葉は交わさない。

 

『ゲート開き全バ一斉に駆けます。新バ戦始まりましたッ!!』

 

 だがレースがひと度起これば、代わりに怒声がそこかしこから巻き起こる。

 

「……本当に、オレには何もできなかったよ。あの暴走特急は」

 

 その喧騒の中では、一人が発した声も怒声に吸い込まれ聞こえる筈はなく、暁は孤独に、あの日以降のことを思い返していた。

 


 

「は? なんだって?」

「だからぁ、アンタの助けは必要ないって言ってるのさ」

 

 如何せん、年というのは取りたくない。年を取ると耳は遠くなるし、頭も禿げる。こと新しいものに難癖をつけ嫌悪してしまう。そんな耄碌にはならないようにと努めている筈だった。

 

 聞き返し、それが俺の聞き間違えであることを願った。だが聞き間違えではなかった。忘れていた、オレが相対してるウマ娘がどんなウマ娘なのか。

 

「……どうしてだ?」

「私は今の今まで、すべて一人でやってきたよ。スピードとか、レースの運びかたとか、ぶつかられた時の衝撃に耐える方法とか、ぜーんぶ一人でやってきたさ」

「だからこれからも全部一人でできると?」

「その通り」

「…………」

 

 頭痛がする、薬の量を増やすよう来週医者に伝えよう。明日は切れた醤油とかを買おう。そして今日の夜は久しぶりに酒でも飲もう。40日ぶりの酒だ、さぞ美味いに違いない。

 

 その未来のためにはまず、目の前の課題から片付けないといけない。目の前の彼女のストライキを。

 

「……だ、だが」

 

 もっとも、決意のわりに出たのは割にあわないか細い声だったが。

 

「新米トレーナーにゃ私の走りは任せられねぇ、轢き逃げ戦法は私が考えたオリジナルだ。何の知識もないんじゃあ信頼には足らないのさ」

「ならオレが仮にベテランのトレーナーだったら、お前は素直に言うことを聞いてくれるのか?」

「いや、多分聞かないだろうな。新米だの事前知識が足りないだのを言い訳にしてるけど、本当は誰にも指示されるたくない」

「そんな身勝手で勝てると思ってるのか?」

「思わない。でも指示はされたくない」

 

 と言った直後、何処からか大きな鞄を取り出し、それを持って扉へと向かい始める。

 

「だからひとまず、自分で行けるところまで行って見るよ。負けたらアンタのトレーニング、受けて強くなってやるさ」

「お、おい。どこに行くんだ?」

「自主トレさ。デビュー戦までには帰ってくるよ」

 

 扉が開かれ。

 

「あと、多分もう一人くらい私のチームに引っ張ってくるから、よろしく」

「は? ちょっと待て──」

 

 閉められた。

 その日、久しぶりに飲んだ酒は美味かったのか、覚えてはいなかったが不思議としょっぱかった気がする。

 


 

『先頭を突っ走るのは4番、キングダムエクスプレス。中々挑戦的な走りです』

『スタミナ面がかなり不安ですね。ここまで最初から飛ばすウマ娘は私も初めて見ます』

 

 音質の悪いスピーカーから響く司会の声が、暁の思考を現代に戻させた。競馬場を改めて見返す、第三コーナーはすでに曲がり終え、試合は終盤へと移ろうとしている。

 

「ザナルグレイビアは……先行か。二位だな、あと一バ身後ろのヤツから離れてりゃ逃げ認定してた」

 

「スピード、スタミナ。どれも彼女の骨頂ではあるが、真骨頂は最後のスパートだ。付いた異名は『時戻し』、最後のスパートでコンディションをレース初めの状態に戻したかのような走りを見せるからとのことらしい」

 

『依然として先頭を進む4番キングダムエクスプレス。どう思いますか?』

『どうもこうもありません。奇走バとは聞きましたが、まさかここまでとは……』

 

 何バ身、一体ザナルグレイビアから離れてるだろうか、目測で測る。結果は

 

「9バ身ってとこかぁ……? 離れすぎだよバカ」

 

 暁は空気へ呟いた。

 

 

 

 

(目測……9バ身くらい? 8バ身なら嬉しいんだけど)

 

 ザナルグレイビア。昼部のチームに所属するウマ娘、実力テストでは堂々の一位を獲得。元々の作戦は逃げだが昼部の指摘を受け、作戦を先行に変え現在は走っている。

 

(作戦が先行でよかったわ。もしも逃げだったら、この挑発に乗っていた)

 

『第三コーナー通過。相も変わらず先頭はキングダムエクスプレス。やはり強いですね』

『しかし栄華もここまででしょう。ここからが悲惨ですよ彼女は』

 

 解説が喋る言葉はまさにその通りで、現在彼女との差は6バ身。つい先ほどまで9バ身だったことを考えると、かなりスタミナがないらしい。

 

(スピードの飛ばしすぎ……こいつはバテる。確実に、 十にも満たない秒数範囲内で)

『第三コーナー飛び越し第四コーナー迫ってきます』

(その時が来るまでは依然待機、機を熟させ待つのみよ、ザナルグレイビア)

 

 ザナルグレイビア。異名を時戻し。

 

『第四コーナーここで詰められるかザナルグレイビア。じりじりと迫りよってきますが、差は大きいです』

 

 先頭との差、5バ身。かつて逃げをしていた彼女だからこそ理解できる。

 彼女は今にもバテる。

 

『第四コーナー経過、最後の直線への突入。先頭を譲るかキングダムエクスプレス』

(息継ぎしろ、息継ぎしろ。息継ぎしろ)

 

 ザナルグレイビアは聞き逃さなかった。

 

「……カハァ」

 

 目の前の彼女の、その僅かなる息継ぎを

 

「……そこよ、あなたの底は、そこにある」

 

 ───ここまでだ。キングダムエクスプレス。

 

  時戻し、発動。

 

 


 

 

『おおっとォッ!! ここでスパートかけてきたのはザナルグレイビア。これは凄い、まるで先ほどまでの疲れがなかったかのようなスパートです』

「……なるほど、こりゃあ確かに時戻しだ」

 

 素直な感想は其れだった。其のスパートは確実にキングダムエクスプレスを抜くだろう。アイツのスタミナも根こそぎ奪うようなバカの一つ覚えみたいな走りじゃ確かに時戻しに抜かれるだろうよ。

 

「ははぁ、悪いなぁ暁ィ、抜いちまうなぁお前のウマ娘。俺の初勝利記念ってことでジュース一個奢ってくれよな」

 

『終身先頭もここが潮時、圧倒的スパートの前に今! キングダムエクスプレス抜かされたぁああァァッッッッ!!!!!!!』

 

 5バ身とは何の目安なのか、キングダムエクスプレスはあっさりと抜かされる。

 

「……オゴりだな、昼部」

「奢りだなぁ」

「ちげぇよ」

 

 追うように、別のウマ娘が更にキングダムエクスプレスをかわし抜かす。また別のウマ娘が抜かす。抜かされていく。

 昼部がオレに喜色満面の笑顔を見せる。オレは俯いた。

 

「傲りだよ、昼部」

「あん?」

「見てみろよ、オレのウマ娘」

 

 昼部はずっとオレに向けていた視線をようやくレース場に戻した。怪訝な顔をしている。だがそれは実況解説、そして観客もだった。気づくのが遅いんだよ。そしてとうとう五位の別のウマが彼女を抜いて───。

 

「轢かれる前に、逃げときな」

 

 キングダムエクスプレスは駆動(はし)り出した。

 

 


 

 

 ──思えば

 

 ザナルグレイビアは疑問を抱いていた。

 

 ──考えてみれば

 

 抜き去る瞬間に生じた謎の違和感に対して。

 

 ──ちょっと待って

 

 実況に耳を澄ませる。

『……何を、しているんでしょうか、彼女は』

 

 ──何の話?

 

 実況に耳を澄ませる。

『……停止しました。キングダムエクスプレス突然停止!! 試合放棄かッ!!?? 7番ゼンバサブル抜きます! 3番ゾディビライトも追うように抜いたァ!!』

『試合中、私も停止というのは初めて見ます』

 

 ──停止?

 

 実況に耳を澄ませる。

『……クラウチングスタートの構えです。キングダムエクスプレス闘志はまだ消えず、むしろ加速し、燃えています!!!』

『奇走バの本質が、ここで見れそうですね』

 

 ──クラウチングスタート?

 

 実況に耳を澄ませる。

『6番ナントオドロキ、ここでキングダムエクスプレスを抜いてきました』

『このままでは五着になりますね、彼女は』

 

 ──落ち着け、集中しなさい。残り距離は300m。雑音は気にするな。

 

 実況の音を振り切り私は目の前の、誰もいない景色を貫徹しようとして

 

 ──なんで

 

 誰もいない筈の景色、自身が一位であるということを裏付ける確固たる証拠。

 その先頭

 

 

 そこに、彼女の姿が在った。

 

 

 そのウマ娘──キングダムエクスプレスが。

 

『きっ、キングダムエクスプレスいつからそこに!? 気付かなかった! 司会の私でさえも気付かなかった! 速すぎる! 既に先頭だァッ!!』

 

 理解した。

 四位(ナントオドロキ)も、三位(ゾディビライト)も、二位(ゼンバサブル)も、そして一位(わたし)

 ──轢かれた。轢き逃げようとするその鉄塊(エクスプレス)は再び、私の目の前に現れて

 

(目測差2バ身ッッ!!! 今なら、この距離なら、間に合う。全て以上を引き出せここが正念場ァァッ!!!)

 

「アアぁぁぁああああァァァァァッッッッ!!!!!!!」

 

 ザナルグレイビア。異名、時戻し。

 時よ戻れ。私の一位を私を一位の、その時へと戻したまえ。

 

『ザナルグレイビア駆ける叫ぶ! 一位を返せと言わんばかりに競りあがっていきますッ!!』

『残り200mにも満たない厳しい直線をこのスパートのまま駆け抜けられれば、勝機は十分にあります!』

 

 全身全霊を以て、全力全開を引き出し、全出力を全放出する。このデビュー戦で、こんな既知外の動きをするウマ娘に敗ける訳にはいかない。

 

 距離がどんどんと縮まっていく、残り3/4バ身。このペースで行けば、確実に抜かすことができる。目測残り75メートル、残り距離は1/2バ身。

 目測は残り50メートル、残り距離は1/4バ身。行ける、一位が、目の前にある。

 

(勝ったッ! 残り距離は25メートル! これで終わりッ! さらばイレギュラー!)

 

 目測 残り25メート……あれ?

 違和感がそこへ割り込んできた。そうだ。違う

 

 残り距離は、10mもない───

 

 手を伸ばせば届く距離にいるというのに、

 アタマ差しかない彼女がそこにいるのに、

 

 彼女はもう、そこにいてしまって

 

 

 

『ゴォォォルインッ!!!! ゴールを走り抜け見事一着を掴んだのはキングダムエクスプレス!! 二着はザナルグレイビア! 三着はゼンバサブル!』

「カヒュー……ハァハァ……ッッ!!」

 

 息が、苦しい。喉の奥が焼けつくように痛い。レースは好きだが、いつも襲いかかるこの感覚には毎回辟易させられる。

 

 目の前で四つん這いになってる彼女を見る、彼女の方が更に悲惨で、口から唾液が漏れて、目も虚ろだ。息は荒く、手探りで何かを探しているようだった。見れば近くに水筒が転がっており、おそらく彼女の求めているのはそれだろう。

 

「どこっ、だ。水筒だ、私のっ、水筒どこだ……!!」

「……ここよ」

 

 私が拾ってやった水筒をひったくり、彼女は水を猛烈な勢いで飲み始める、かなりの水がこぼれているが、気にしないタイプらしい。良い飲みっぷりだった。

 

「……アンタか。強かったよ、あと100m距離があれば抜かれてた」

「……次会うときは負けないわよ。奇想天外の貴女の走りに負けてたまるものですか」

 

 言うと、私は右手をつきだす。

 

「だから貴女も、次会うときまでに敗けないでね。アンタを抜かすのは──この私よ」

「……ああ、勿論。敗けるつもりはないさ。これからも、次アンタと走る時も」

 

 固い握手を私と交わす。

 

 敗けるのがこんなに悔しいものだったというのを思い出した、そんな日だった。

 


 

「やぁ、暁」

「よぉ、エクスプレス」

「どうしたんだ? そのサイダー?」

()()ってもらったんだよ、ザナルのトレーナーにな」

 

 椅子で黄昏ていたオレに、キングダムエクスプレスは声をかけてきた。服にも額にも、とにかく至るところが汗でまみれていた。

 

「デビュー戦初っぱなから一着なんて、すげぇじゃねぇか」

「……冗談よせやい。その程度の次元 ルドルフに比べればまだまださ」

「……そうか?」

 

 茶化すような声色ではなかった。本当に彼女はそう思っているのだろう。

 

 ()()()()()()()()、確かに実力テストでは素晴らしい成績を残したらしい。だが彼女のデビュー戦はまだまだ先だというのに、なぜそこまでシンボリルドルフのことを買っているのかがわからなかった。

 

「課題点は私にもまだまだある。スタミナとか最後の根性とか、完璧な轢き逃げ戦法にはまだ遠い」

 

 本来ならそれオレが指摘すべきところなのだが……彼女の目の前に立つと、トレーナーになった理由がわからなくなる。心配してるのは、トレーナーの指導無しにして勝ててしまう自身の才能に溺れてしまわないかというところだった。

 

「まあひとまず。デビュー戦はもう終わった。だがこれはゲームで言うところのチュートリアルにすぎない。そしてこれからお前がどのレースに出ようかは自由だ。何に出たい? やっぱりクラシック三冠達成とか───」

「超特急さ」

「……超特急?」

「とある超特急(エクスプレス)の出すスピード、時速390km。まずはそのスピードを出さないと」

「……冗談キツいぜ」

「そうでもしないとシンボリルドルフにゃ勝てんさ。390キロでルドルフを……轢く」

 

 鬼気迫る表情だった。圧倒的な執念。390キロを出すと豪語するこのウマ娘。キングダムエクスプレス。

 

「なんでまぁ、目指すはクラシック三冠だ。5月の皐月賞。そこでルドルフにひとまずは一勝ってトコロか?」

「ひとまずはって……」

「まあひとまず見といてくれや。私の勝利の瞬間を」

 

 キングダムエクスプレスは不敵な笑みで静かに右手をオレに差し出した。

 蠱惑的なその握手を求めたサイン。恐らくオレはなにもしないで、最強のウマ娘になったキングダムエクスプレスを鍛えたトレーナーとして、どんどん知名度が上がっていって有名になるのだろう。

 

 それが一番いいのかといえばいいのだろうか、オレは素直にその手を握ることはできなかった。



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皐月賞

『さぁ最終直線へと突入しましたこれまで逃げ続けた7番オレコソガイチイ。差がどんどんと縮んでいく。縮ませているのは3番ゾディビライト。内から仕掛けていきます』

 

 誰も知ることはない。私の真実を。

 

『ここでゾディビライト抜きました! どんどんと差を広げていく』

 

 誰も理解してくれない。私の真実は。

 無能共めが、知らしめてやる。

 

『おおっと? 外からドンドン速度を伸ばし上がってくるのは二番ハイリボルケッタ。いつからそこにいたのかわからない』

『追込バは最後の粘り強さが特徴です』

 

 この世の真実は爆発力。瞬間的に人が出せるスピードは時に音速すらも超越する。

 

『ゾディビライト逃げるがハイリボルケッタ追い込んでいく逃げようとするが差はドンドンと縮まっていく。先ほどの光景と全く一緒となりました』

 

 この場における真実は唯一つ。私より早いウマ娘は存在しないということのみ。

 

『とうとう追い抜きましたハイリボルケッタ、しかしゾディビライト諦めはしないスタミナ残りの距離は考えないただハイリボルケッタさえ抜ければいいという乱暴なな走り』

 

 無能者は自身を傲り。侮り。弱くする天才。だから勝てない。

 

「貴様らは弱く、脆く、疎く、酷く、荒く、虚しく、儚く、そして遅い」

 

 だから敗けるのだ。貴様ら烏合の衆愚の痴れ者共は。

 

『だがハイリボルケッタ伸びる伸びるゾディビライトの我武者羅特攻を意に介さない! その勢いのままゴールイン! 一着は圧倒的距離差で見事勝利のハイリボルケッタ!! 二着はゾディビライト、三着はラムエルサスペンス』

 

 こんなレースに勝ったとて、得られる幸福のなんと低いことか。

 

 


 

 

 レースが終わった私の目の前にいたのはトレーナーだった。(あかつき)(あきら)、という名らしい。あのキングダムエクスプレスのトレーナーとのことで、どんな異常者或いは怪人かと思ったが、至って平凡で真面目に真摯に真剣に、一週間の期間で私の走りの問題点を見抜き、そして指導してくれた。

 

「デビュー戦までたった一週間しかなかったてのに一着かよ……すゲェな。最後の追い込み、良かったぞ」

「この程度のレースで一位も取れないのでは、エクスプレスのヤツにコケにされてしまう。アイツの生まれながらにして培った煽りだけは反吐が出るからな」

「ははは……」

「ところで」

 

 閑散としたレース場を見回す。辺りには私とトレーナーしかいない。二人以外には誰も……

 

「エクスプレスのヤツは何処へと?」

 

 トレーナーは俯く。そう、同じチームだというのに、あの問題バ──キングダムエクスプレスの姿がどこにも見当たらなかった。

 

「……ああ、アイツか。アイツなら多分今頃……」

 

 


 

 

 秋の肌寒さが身に沁みる今日この頃の東京レース場。サウジアラビアカップの観客席。そこに一バ、ウマ娘。轢き逃げバのキングダムエクスプレス。視線は行われてるレースに注がれている。

 

 試合は既に終盤、最終直線。先陣を切るのはハツノアモイ。2番人気のウマ娘だった。レース距離残り300m、事態の急展はそこだった。

 

『先頭走るのはハツノアモイ。しかし上がって来たのは1番人気のシンボリルドルフッ!!』

 

 実況が告げる名前にキングダムエクスプレスの顔が険しくなる。忘れない。忘れてたくても忘れることのできない名前。寝ても覚めても思い浮かぶのは彼女のことだけ。そんな愛のような呪いの感情をもたらすウマ娘──シンボリルドルフである。

 

『一気に抜け出したぞシンボリルドルフ!! 勢いのままゴールイン! 我らが人気に応えてくれました我らがシンボリルドルフ! まごうことなき一着です!!』

 

 やはり恐ろしいウマ娘だ。2着との差は1と3/4バ身と一見するとただ上出来な成績。だがそのバ身差に最後で見せた驚威の加速、マイルや短距離などに対しての適性があまりない筈なのに獲得できる堂々の一着。そしてレースが終わり息も絶え絶えな他のウマ娘と違い、なんと涼しげな表情か。全力を出していないことが伺える。

 

「やはり強敵か、シンボリルドルフ」

 

 ファンに向け手を振るシンボリルドルフを一瞥すると、キングダムエクスプレスはやがて去っていく。

 

「だからこそ、轢き応えがあるというものよ」

 

 キングダムエクスプレスは言う。激突のその時までを楽しみとし───。

 

 皐月賞まで、残り6ヶ月。

 

 


 

 

 月日が流れるのは早く、皐月賞まで残り一週間を残すところとなった。

 

「ほれ」

「……この箱は?」

「プレゼントだ」

 

 困惑するキングダムエクスプレスに対して、暁はニンマリとした笑顔を向けている。

 

「……ホワイトデーはとっくのとうに過ぎたんだけど?」

「いいから開けてみろ」

 

 疑問を覚えながら渡された箱を開けていく。包装を乱暴に剥がし、中身をまさぐりソレを手に取った。

 

「……服ぅ?」

「勝負服だよ。皐月賞はGⅠだろうが」

 

 ウマ娘が走るレース一つ一つに、名前とその格が定められてる。全5段階に別れる評価の最上位に君臨するレースをGⅠと呼ぶ。GⅢ, GⅡ, GⅠと評価が上がるに連れ、そのレースに出場するウマ娘も当然強敵となる。

 

 そしてキングダムエクスプレスが出場する皐月賞は俗に呼ばれる『クラシック三冠』と呼ばれる栄誉ある商号のウチの一つだ。皐月賞、東京優駿、菊花賞。この三つで構成されるクラシック三冠を制覇したウマ娘は数少ない。クラシック三冠とはそれほどまでに強敵、それほどまでに誉れ高いモノ。

 

 そしてあまりにも高級なレストランには正装(ドレスコード)をしなければ入れないように、GⅠのレースを出るためにはそのウマ娘の正装(ドレスコード)が必要なのだ。それこそが勝負服。そしてその箱に納まっていた服は、そのキングダムエクスプレスの勝負服(ドレスコード)なのだ。

 

「……これ、アンタが製作(つく)ったのか?」

「オレがそんな器用なことできるタマに見えるか? まあそのデザインはオレが考案したモンだが……」

「じゃあ誰が──」

「私よ」

 

 突如として現れた第三者の声にキングダムエクスプレスは顔を上げる。そこにいたウマ娘、あの赤髪は見たことある。

 

「……ザナルグレイビア」

 

 ザナルグレイビア、異名を時戻し。デビュー戦にてキングダムエクスプレスと激突し、惜しくも敗れたウマ娘。

 

「……アンタがこれを編んでくれたのか?」

「……貴女に敗けられちゃ困るのは、私なのよ」

 

 恥ずかしそうにそっぽを向きながら彼女は答える。キングダムエクスプレスの脳裏に裏返るのは懐かしいデビュー戦の出来事。

 

 

『……次会うときは負けないわよ。奇想天外の貴女の走りに負けてたまるものですか』

『だから貴女も、次会うときまでに敗けないでね。アンタを抜かすのは──この私よ』

 

 

 あの時のことか、と思いを馳せながら、丁寧に畳まれた勝負服を広げ、鏡越しに自身に被せる。青緑にパープルピンクのラインが入るパーカー、白いワイシャツ。控えめの灰色のスラックス。首元には390kmを出すと言われる某新幹線色のスカーフがあり、両手に用意された手袋は手首から指先に向け色が白から黒に変わっていくように設計されている。だが何よりも興味を引くのは、制帽であろう。耳を出せるように穴の空いた制帽は、紺という本来の色を残したままぐるりと囲むように青緑とピンクと白の三原色の細い線が通っていた。

 

「…おぉ……!!」

 

 喜びを隠しきれず、笑みがキングダムエクスプレスから溢れる。が、直ぐに気づきハッと表情を固くする。しかしそれは暁たちに既に見られていたようで、ニヤニヤとしながら感想を聞いてくる。

 

「どうよ、感想は?」

「ま、まあ、アリガトウ……」

 

 ぎこちない様子で感謝の言葉を述べる。だが、その言葉はザナルグレイビアを喜ばせるには十分すぎる言葉だった。

 

「……ところでだ、アンタらのせいでせっかく貯めに貯めた勝負服代が全部無駄になっちまったよ。どうしてくれんだコレ?」

「良かったじゃないの」

「何か食べなくなってきたな……お前ら、ナニ食べたい? 勝負服代分は奢ってやるさ」

「寿司だな、特上一人前出前で頼む」

「うな重特上。出前でお願いするわ」

「欲張りすぎだよバカ共」

 

 静かな声が部屋に木霊した。

 

 


 

 

「……今日か」

 

 皐月賞当日。そんな重要な日だというのに、やけに落ち着いている自分(シンボリルドルフ)がそこにいた。太陽が私を見下ろす中、やることは変わらない。ジャージに着替え、誰もいない800mの道を全力疾走する。走り終わるとタイムの確認は怠らない。

 

「49.7……か」

 

 初めてここで走った時は55秒すら切ることができなかったというのに、進化しているというのを強く実感できるのはやはり気分がいい。

 だがその裏を返せば彼女もまた進化しているということだ。彼女、キングダムエクスプレスもまた。

 

「楽しみだぞ、貴様とぶつかれる今日という日が」

 

 シンボリルドルフを轢くウマ娘。彼女は私に向けそう良い放った。その真価がどれほどのものか、彼女がどれほど成長したのか。轢き逃げという戦法がいかほどの脅威を私にもたらすのか。

 

 ただそれが、楽しみだった。

 


 

 春にしては珍しく寒い日だった。飲料水ではなく熱いお茶でも持ってくるべきだったと後悔するほどには、そんな春というには烏滸がましい日だった。

 

「お前はあの勝負服、アイツに似合うと思うかハイリ」

「トレーナー。それは林檎は樹から落ちるよレベルの愚問だな」

「やっぱり似合うかァ~、何せデザインしたのはこのオレだからな」

「逆だ逆。あの奇走バには何物だろうと合うことはない。アイツ自身が目立ちすぎてる。どんな服だろうと、アイツという存在を着こなせられるものはないだろう」

「じゃあ、あの勝負服も似合わないと?」

「いや、100%似合うとまでは言わないが、90%は似合うだろう」

 

 だらだらと、私はレースが始まるまで駄弁る。そうしてるとやがてザナルグレイビア達も合流し。レース場に活気がやってくる。

 

 15分がそこから経過した頃、ようやくパドックが開始された。

 

『5枠10番。シンボリルドルフ。1番人気です』

 

 最初にパドックから現れたのはシンボリルドルフ。黄色い歓声に出迎えられ、アピールをしている。

 

「1番人気だよなァ~~、やはりシンボリルドルフは」

 

 グレイビアのトレーナーの昼部が呟いた。サウジアラビアカップを一着で勝利したシンボリルドルフ。仮にもサウジアラビアカップはGⅢのレース。それを快勝する恐ろしい才能。

 

「おぞましいオーラだ。多くの者がこの一世一番の勝負に勝とうとしているのに、ヤツとくれば悦楽(たの)しんでいる」

「………」

 

 寒い日だというのに、気づけば私の額から冷や汗が滲み出ている。見ればザナルグレイビアも同じようで、無言のままであった。優雅に手を振るその背後には、獲物に嗤う鬼が視認()える。

 

『4枠9番。キングダムエクスプレス。惜しくも2番人気ですね』

『やはりデビュー戦で見せた轢き逃げ戦法に、未だ疑問を感じる人が多いという印象ですね。シンボリルドルフ

を果たして勝つことはできるのでしょうか』

 

「おお、似合ってるな。勝負服」

「正直なところ俺も驚きだ。インパクトも着こなしも、シンボリルドルフはあの軍服と張り合えてやがる」

「まあ、私が作成したのだから当然ね! それにしても、偶然……にしては出来すぎね」

 

 ザナルグレイビアの言葉の意味は私にも理解できる。シンボリルドルフの緑を基調とした勝負服に、キングダムエクスプレスの青緑を主とする勝負服。二人の勝負服は、どこか似ている。偶然にしては、定められていたかのように出来すぎだった。

 一見すると、パドックのキングダムエクスプレスは余裕を見せている。だが私たちは気づいた。その余裕の裏、そこには焦りがあるのを。

 打倒シンボリルドルフを理念に掲げる彼女にとって、シンボリルドルフとの勝負に余裕などないということを。私は理解した。

 

「……勝てるかな、エクスプレスの奴」

「勝たないと困るわ」

 

 ふと漏らしたトレーナーの言葉に真っ先に反応したのはザナルグレイビアだった。

 

「貴女はどう思う? ハイリ?」

「昼部トレーナーの意見を伺ってから答えるとしよう」

「俺かい? 厳しぃんだろうけどなぁ。してほしいよなぁ。優勝。まぁこんなフワッとしてるけど、そんなところか。俺の意見は言ったぜ」

「……なるほど」

 

 三者三様に答えるのは好意的な反応のみ、なるほどと、これなら納得できる。

 

「道理で、敗けるワケだ」

「はァ?」

 

 私の言葉に真っ先に反応したのはザナルグレイビアだった。ツカツカと歩みより、私を睨み付けてくる。

 

「同じチームなら、応援したりするのが普通ってモンじゃないの?」

「私も本来ならば応援はしたいが、あの彼女の体たらくを見て応援するわけにはいかん」

「……どうして、そう思ったんだ?」

 

 場を諌めようと、トレーナーが私に問うてきた。薄々気づいているのだろう。私の言葉の意味を。

 

「自身を導くトレーナーの指導を受けようとせず、自身の才能に溺れ傲る。そんなウマ娘では、努力を怠らず、天武の才能を持つウマ娘などに勝てるわけがなかろう。努力だけでは才能に勝てず、されど才能だけでは才能と努力には勝てず。だ」

「…………」

「私は、トレーナーにも問題があると思うが」

「オレに……?」

「指導を受けて気づいたが、トレーナーの意思は薄弱で流されやすい傾向にある。対しエクスプレスは傲岸不遜でプライドが高い。強引に押されたんだろう?」

「ま、まあ……」

「ウマ娘をサポートし、ウマ娘をレベルアップできる。それはウマ娘を誰よりも近く見て、誰よりも第三者の視点で物事を把握できるトレーナーだからこそ行えるものだ」

 

 パドックでこちらに手を振るエクスプレスに手を振り返す。

 

「アレでシンボリルドルフを抜くなどと、随分な妄言を吐けるものだ。中央を無礼(なめ)てるとしか言いようがない。まあそれを今の今まで見過ごしてきた私も私だがな」

「…………」

「トレーナーなら、一度話し合っておくべきだ。どうせこのレース、エクスプレスは敗北()ける。その時に話せばいいさ」

「だ、だが。何もエクスプレスが敗けると決まったんけじゃあ」

 

 大きな、大きなため息だったと思う。私から出たものだとは信じられないくらいに長く、大きく、そして冷たい。

 

「どうしてウマ娘にはトレーナーがいると思う?」

「それは。ウマ娘が強くなるためだろ」

「確かにそうだ、だがそれだけじゃない。我々は過ちを犯す。自身の才能に溺れ 独りよがりになる時がある。レースで故障した自分への自己嫌悪に陥る時がある。明日のレースで巧く走れるか不安で 誰かに支えられて欲しい時がある。その時、独りよがりを叱り、自己嫌悪を解消し、不安を支える存在が必要となる。それこそがトレーナーだと私は思う。パートナーと言っても差し支えないだろう」

「パートナー……」

「個我を通せ、話し合ってみろ。トレーナーとして接するな、パートナーとして接するんだ。同じ言葉の通じる者同士じゃないか」

「……ああ、そうだな」

 

 トレーナーはいつもそうだった。自己というより個我がなく、いつも流され続ける指示待ち人間。だがようやく、その決心がついたらしい。俯いてたトレーナーが顔を上げた。決意が固まったような目。覚悟したものの目。この目をする者の強さを、私は理解している。

 

「ありがとう、ハイリ。オレ、話し合ってみようと思う、アイツと。何も変わらないかも知れないけど、ひとまずやってみるよ」

「……ああ。応援しているぞ、トレーナー」

 

『さぁ各バ、ゲートイン完了。出走の時を待つのみです。勝つのはシンボリルドルフか、はたまたキングダムエクスプレスか』

 

 と、いつの間にやら出走の準備が整ったらしい。私たちの視線がゲートへと向けられる。

 

 そしてとうとうゲートが開かれた。

 キングダムエクスプレスの覇道は、ここからであった。

 

 


 

 

 試合が始まる少し前───

 

 シンボリルドルフはターフへ繋がる道を歩いていた。着ている服は軍服。それは彼女の勝負服だった。物思いに耽り、歩を進む彼女の目の前に現れたのは、キングダムエクスプレスであった。

 

「……久しぶりだな、キングダムエクスプレス」

「毎日学校で会ってるだろうがよ。ルドルフ」

 

 にこやかに微笑むシンボリルドルフに対し、彼女の目は鋭く余裕がない。両者は互いに歩きながら話を続けていく。

 

「聞いたぞ、サウジアラビアカップ見に来てくれたのだろう? それなら弥生賞も見に来ててくれれば良かったのに、最後のビゼンニシキが強敵でなぁ──」

「……皐月賞が今から始まるってのに、随分余裕じゃないの?」

 

 歩みは遅く、それはまるで神聖な空間に来た時のような厳かな空気がある。両者の視界に、皐月賞の舞台である中山レース場の芝が近づいてきた。

 

「余裕、か。そういう君は、余裕がないように見える」

「気のせいさ。まあそんな調子じゃあ、敗けちまうのも無理はない」

「……ほう?」

 

 ふと発した煽りに、シンボリルドルフは足を止めた。彼女の柔和な瞳が、途端に鋭い光を帯び始め、キングダムエクスプレスを捉える。

 

「私が敗ける、と?」

「ああそうさ。アンタを轢いてこの皐月賞に勝つ。クラシック三冠の称号は譲らせないよ」

 

 次にキングダムエクスプレスの頭から生える耳が捉えた音は笑声だった。まごうことなく、それは目の前の彼女が発した嘲りの笑いだった。

 

「……何がおかしい?」

「獅子搏兎、獅子は兎を狩るにも全力を尽くすという言葉を四字熟語で表すとこうなる」

「は?」

 

 突如とした空気の変貌にエクスプレスは感じとった。唐突、突飛、そんな言葉が似合うほど目の前の彼女が話す言葉がエクスプレスを動揺させた。

 

「簡単なことにも全力を尽くす。という意味で知られるこの言葉だが、実は違う。獅子が兎を全力で狩るのは、その兎の持つ敏捷性を決して侮っていないからだ。兎は小さくすばしっこい。故に獅子でさえ全力を出さなければ逃がしてしまう」

「……講釈は嫌いなんだが」

「さしずめ、君は大海を知らない井の中の蛙と言ったところか」

「はぁ?」

 

 シンボリルドルフの歩が早くなる。それを追い、やがて両者はターフへと降り立った。多くの観衆の拍手と歓声を受け手を振り返しながらルドルフは微笑んだ。

 

「どんな獅子だろうと、薄物細故の蛙ごときに全力を出すわけなかろうに」

 

 キングダムエクスプレスはこの瞬間に理解した。

 自身が、目の前の彼女に侮られたということに。

 

「楽しみだ、アンタが私に敗北(まけ)てワーワー泣きわめく姿が」

「私も楽しみだ。己の無知蒙昧さを理解し、傲岸不遜さを恥じ、再び私の前に立ってくれる君のその未来の日が」

 

 口喧嘩も従業員の案内により中断され。二人はそれ以降何も発することはなかった、ウマ娘たちが、ゲートへと入っていく。

 

『各バ、ゲートイン完了。出走の準備が整いました』

 

 レーススタート開始の合図がかかるまで5秒ほどだろうか、その合間、シンボリルドルフの脳裏に甦るのは、かつての言葉。

 

『なァ ルドルフ、ウマ娘なんてのは所詮新幹線のスピードすら超えられないチッポケな存在だと思わねェか?』

 

 ───そうか、あの言葉はお前が発した言葉だったな、キングダムエクスプレス。

 

 古き良き記憶。懐かしき話題。錆びれた匂い。かつての情景。

 それらの全て、シンボリルドルフが否定する。

 

 懐かしき匂いはゲートの発する鉄臭さに否定され、懐かしき光景は周囲に佇むウマ娘たちに否定された。

 

 唯一の懐かしきモノ、それはお前の轢き逃げ戦法だけだ。それを今日、シンボリルドルフが否定してやる。私の走りを以てして。

 

 過去との決別。それは出走の合図と共に───

 

『各バ、一斉に飛び出しましたッ!!』

 

 秘めたる思いの交錯する皐月賞、ここに開催せり。

 

 


 

 

 キングダムエクスプレスの持つ異名は多い。鉄塊と呼ばれることもあれば、轢き逃げバと呼ばれることもある。

 『110%』とは、その多くあるの異名の中の一つである。

 

 轢き逃げ戦法とは、最終直線までを100%の力で走り、最終直線で停止、他の何人かのウマ娘が自身を抜いてる間に、体力の10%を回復し直線を全力で走る戦法である。この戦法の利点は100%を超える走りができること。自身の限界を超す走り、それこそが轢き逃げ戦法なのだ。

 だがこの轢き逃げ戦法、一歩間違えれば走行妨害となり、自身のレース順位、最悪の場合は競走ウマ娘として引退すらありえる恐ろしい走りでもある。後方のウマ娘に走行妨害にならない程度の距離を最終直線まで確保しなければいけない。限界(100%)を超える壁とはそこまで高いのだ。

 

 だから今回の場合、彼女の走りは間違いなく走行妨害にならない程度の走りを見せているだろう。

 

(ひとまずは一着。ルドルフはどこだ? 作戦は先行の筈だから、4番手或いは5番手の位置にいると見るか……)

 

『やはり先頭はキングダムエクスプレス。18人のウマ娘を引き連れて先頭を走って行きます。他の逃げを得意とするウマ娘も必死に追走を続けますが追い付かない、渋々二番手につきました』

 

 第1コーナーを曲がる。このカーブで抜かれるウマ娘は数多くいる、しかしキングダムエクスプレスが引き離している距離 既にバ身では表せないほどの大差、カーブで多少距離が詰められようとそこまでの変化はない。

 

(最終直線までに6バ身以上離れてればいい……あとは轢き逃げるだけだ……!!)

 

 レースは直線へと突入する。

 

『先頭を駆けるのはキングダムエクスプレス。8バ身離れその後ろにはアサカジャンボとルーミナスレイサー。注目のシンボリルドルフは4番手についています。外を突いて上がってくるのはスズマッハに対し内から攻めるのはビゼンニシキ……』

 

(シンボリルドルフは4番手、攻めてくるとすれば───)

 

 前方を確認する。直線も終わり、第3コーナーのカーブがそこに見える。

 

(このカーブだ、間違いない。今何バ身まで引き離してる…? わからないのが辛いな)

 

『第3コーナーの先陣を駆るのはキングダムエクスプレス。5バ身ほど離れ二番手はアサカジャンボ、いや違うここで上がって来ましたシンボリルドルフ! 勝負を決めに来ました!!』

 

 やはりか、とキングダムエクスプレスは思うと同時に危機感を覚えた。もう8バ身あった距離がもう5バ身も近づかされてる。

 

(一筋縄で行くわきゃねェよな、将来の皇帝は)

 

 だがひとまずここは、やるしかない。

 

 

 キングダムエクスプレスは走るのを止めた。観客席から大きな声が上がる。それは歓声か、驚声か。

 

『ここで停止(とま)ったぞキングダムエクスプレス!! 貯金(ため)ている、相手を轢くために、今! キングダムエクスプレスがクラウチングポーズをとったッ!!

 シンボリルドルフが抜く!! キングダムエクスプレスは動じない!! アサカジャンボが抜く!! キングダムエクスプレスは動じない!!』

 

 スピーカーからのハウリング音。その言葉通り、目の前を2バが通過していく、誰かが土を蹴り、泥が勝負服についた。だがキングダムエクスプレスは動じない、手は地面に、上体を撓らせる。脚を地面に張りつけ、引き伸ばす。盛り上がり、自分の足裏の形となるターフの土。これが踏切板の代わりである。

 

 目の前をまた二人、抜けていく。そして、

 

『そろそろ来るぞ、5番手のニッポースワローここでキングダムエクスプレスを抜いた!! ということは!! 動き出します!!』

 

「そんなに、焦るこたァないさ」

 

 ポツリと、独りごちた。

 相手が自分を抜くその瞬間に、自分もまた、その伝家の宝刀を抜く。それだけの話。

 

「コンマ1秒2秒稼ごうと、轢かれるのはどれも一緒さ」

 

 身体が急激に熱を帯びるのが解る。自身が風に抗っているという実感を感じる。そう、自分は今、走り出したのだ。

 勝負だ。シンボリルドルフ。ここが歴史の転換点となるであろう。ここで、お前のクラシック三冠は潰えるであろう。

 

 観客はその日、彼女が鉄塊と呼ばれる故を理解した。

 

 

 

 

開始(はじ)まってしまいました。驚天動地の奇走戦法こと轢き逃げ戦法!! 110%の理論外の競走(はし)りが次々とウマ娘を抜いて行く!!』

 

(懐かしい走りと言ったが前言撤回だ! やはりこの走りは脅威だ!)

 

 大して時間はかからなかった。アナウンスがシンボリルドルフの後方にいる4人のウマ娘の内3人が彼女に轢かれたと告げた。先ほどまで6着だったというのに、もう既に2着、しかも荒い息までもが聞こえるほどにヤツは近い。

 

「どうだいルドルフ、私が譲ってやった一着の景色はさ?」

 

 と、すぐ後ろから声が聞こえた。走っている最中だと言うのに彼女と来れば私に話しかけている。

 

「最高だよ、エクスプレス」

「だろう? だからアンタにはもう二度と譲ってあげない」

 

『キングダムエクスプレス! シンボリルドルフに追い付きました! ほぼ並走の状態!! やや優勢かシンボリルドルフ!! しかしキングダムエクスプレスどんどんと近づいてくる!!』

 

 理解した。彼女は強い。その余裕はやせ我慢ではなく正真正銘に彼女自身が強者だというのを理解させてくれる。

 私は全力を出している。だというのに彼女は私を余裕で抜こうとしている。お前と全力でぶつかれるように特訓をしたつもりだった。それがこのザマ、弄ばれてるようだった。こんなことを考えてるうちにもドンドンとその鉄塊は近づき、私を脅かしている。

 

 もしかして、まさか、あり得るのか?

 

 私は、敗北(まけ)るのか?

 

 この道半ばで、

 この皐月賞で、

 私の妹の前で、

 敗北(まけ)るのか?

 これが私の限界なのか?

 

 ───嫌だ。

 

 脳裏に浮かぶあの日の光景。懐かしきあの日、お前が私達の家から去った時、お前の部屋にあった手紙。そこに書かれていた内容。

 

『強くなります』の僅かな文面。その紙の裏にある涙に滲んだ文字。

 

 いつもお前は呟いていたな、「強くならないといけない」と。

 

 だから私は強くなった。お前が再び帰ってきた時、強くならなければいけない壁として私が立ち塞がれるように。

 

 今のお前と並走している私がいるのは、お前に抜かせまいとする現在(いま)の私がいるのは、間違いなくお前のおかげなんだ。

 

 だからこそ言いたい、ありがとうと。

 だからこそ言いたい、さようならと。

 

 

 私はお前の壁に成りたい。いずれ踏破するであろう壁に、高い壁に。

 

 だからこそ

 故に

 

「……させんぞ」

『キングダムエクスプレス近すぎる!! ハナ差だぁぁああァァァッッ!!』

「この程度で登れるような壁にはさせんぞッッ!!!! キングダムエクスプレスッッ!!!!」

 

 眼前に浮かぶ、黒きソレ。

 ピシリ

 ピシリと

 今、そのナニカが

 私の目の前で、崩れ落ちていき───

 

「……ん?」

 

 ──瞬間、私の脳裏に広がる地平線。どこまでも真白でどこまでも白亜が広がる世界。どこまでも続き、どこまでも孤独、しかし暖かく、優しい。

 

 あれ? 先ほどまで隣にいたハズのキングダムエクスプレスの姿がいない。先ほどまで聞こえてた歓声も聞こえない。

 

 まあいいか

 ここは私の世界(くに)

 ここは私の独壇場(せかい)

 唯一抜きん出て、並ぶ者無し。

 私は、この世の『皇帝』なのだから──。

 

 


 

「……なんだありゃ」

 

 観客席、先に言葉をあげたのは暁であった。だがそれは昼部もハイリボルケッタも、ザナルグレイビアも、皆が、同じ気持ちを抱いていた。

 

『な、なんとッ!! ここに来てシンボリルドルフ奇跡の加速!!! シンボリルドルフ異次元の復活!!!! キングダムエクスプレスの魔の轢き逃げから、逆に逃げているッッ!!!!』

 

「……領域(ゾーン)

「やはりか……!」

「ゾーン?」

 

 ザナルグレイビアが不意に漏らした言葉に、ハイリボルケッタが苦虫を噛み潰したような顔になる。昼部が問う。

 

「『領域(ゾーン)』。脅威的な集中力の末、ウマ娘のみが到達できる次元の名前よ……」

「時代を創造(つく)るとされるウマ娘は必ずこの領域に突入する」

「つまり、どういうことだ?」

「今ヤツが相手してるのは、時代ということだ……!」

 

 ハイリボルケッタの言葉が不自然と、暁の耳に残った。

 

 


 

 

「──バカ、な、」

 

 もうどのくらい引き離された? 2バ身か?いや違う、3バ身だ。

 

 驚愕した。目の前で信じられないことが起きた。

 確かに轢いた筈だった。3バ身先にいる彼女とはかつて言葉を交わせるほどまで近づいていき、やがては()いていた筈だった。

 

 残っているスタミナは、彼女だって少なくはない筈。

 なのに

 

「なぜ、走れる?」

 

 なぜ、こんなにも遠くに彼女がいる? 勝負を廃棄(すて)た? いや、彼女はそんな真似はしないと、頭の中の思考を投げ捨てる。

 残り距離200m。考えてる時間は無い。彼女は何らかの方法によって私より強くなった。今はそれで納得しないといけない。

 出すしかない、私の全力を今ここで。例えこのレースに敗けてしまうとしてもここで追いかけなければいけない。

 

『ここでキングダムエクスプレス加速したッ!! 諦めていない!! 鉄塊(エクスプレス)切迫(せま)っています!! おぞましいスピードです!! シンボリルドルフへとどんどん近づいていってる!! 猛悪に迫りくる!!』

 

 ようやくその背中を捕捉した。距離がドンドンと縮まっていく。

 

『再び迫りましたキングダムエクスプレス!! ちょうどシンボリルドルフの背中についた!!』

 

 抜いてやる。轢いてやる。

 じゃないといったい、私は何の為に走ってるって言うんだ。

 

 足に力を込めて、今、駆け抜く───

 

 

「ああ、良いなぁ」

 

 

 刹那、耳から聞こえたルドルフの独り言。

 

 

「この景色、譲りたくないなぁ」

 

 

 無垢なる言葉。気づいた時既に遅し。

 

 

『シンボリルドルフ! ここで更なる急加速!! シンボリ強い!シンボリ強い! エクスプレス体縮まらない!! 捉えているのはゴールラインただ(ひと)つのみだァッッ!!!!』

 

 

(ま、だっ、余力をっ……?)

 

 アイツは、私より遥か先に

 今、そのゴールへと

 

 

『ゴォォォォォォッッルッッ!! インッッ!!! クラシック三冠の第一歩を征したのはシンボリルドルフッッ!! 皐月賞制覇はシンボリルドルフ!!! キングダムエクスプレスの轢き逃げをかわし、シンボリルドルフ華麗なる勝利です!!』

 

 歓声鳴り響く中私は地に伏せ、ただえずく。汗と共に涙が滲み吐き気がする。疲れが押し寄せてくる。レースを走った後は、いつも襲ってくる筈のそれ以上の『勝った』という快感と気持ち良さ。それらが今、一斉に私へ牙を向いているのだ。

 

『シンボリルドルフ、指を一本掲げました!! 宣誓しております!! クラシック三冠制覇の夢 先ずは一冠達成と雄々しく指を立てているぞ!!』

 

 膝をつき呼吸が荒く、目の前が霞み、彼女が何をしているのかはアナウンスのみからしか判断できない。脳裏にふと、兎と亀の童話の話が甦った。

 なぜ兎は勝てず、亀は勝てたのか。それは兎は亀しか見なかったから。亀が兎に勝てたのは、亀がゴールのみを見てたから。

 

 私は唯、ルドルフに勝つことしか考えてない。だが一方の彼女は、私などまるで眼中にない。見ているのはクラシック三冠達成の景色。7冠達成の景色。

 

 それを理解した瞬間。急に、自分はなんとチンケでちっぽけでチープなウマ娘だろうかという思考が襲ってきた。

 

 今は、何も考えたくない。そんなことをひたすら考え続けている自分の矛盾にさえも気づかず、私にできたのは、溢れた涙を汗で誤魔化すことだけだった。

 

 


 

 

 暗い夜道だった。トレセン学園の帰り道、電灯に照らされてもまだまだ闇は深く、黒い。

 

「……まぁ、GⅠしかも皐月賞で2着なんて、凄いじゃないか。あのような成績、他の並々たる愚鈍共にはできん芸当だ」

 

 その宵闇に二人のウマ娘、キングダムエクスプレスとハイリボルケッタである。

 

「ああ……ありがとう」

「何も気に病むことなどない。相手が悪かった。領域(ゾーン)に入ったウマ娘と競うのは、即ち時代を相手にするようなもの。それに喰らいつき、もぎ取れた2着など、100人中100人が称賛するだろう」

「うん……ありがとう」

 

 ハイリの必死の擁護も、彼女にはあまり効果がないようだった。

 ハイリは先ほどの皐月賞を思い返していた。圧倒的大敗、そうとしかいいようがない。彼女の心境をありありとハイリは理解できた。同じプライド高き者同士だからこそ、理解できるその心境。

 

 領域(ゾーン)に突入していたから。だから?

 時代を風靡するウマ娘だったから。だから?

 出たレースが皐月賞だったから。だから?

 

 それは負けていい理由にはなり得ない。それは言い訳でしかなく、負けたという事実が変わることは決してない。それがわかるからこそハイリのかける言葉は次第にすぼんでいき、やがては無の時間となっていった。

 

「……わリィ、ハイリ。先に帰っていてくれねェか?」

「どうしたんだ?」

()()()を、したんだ」

「忘れ物か? 別にそれくらいなら──」

 

 いいかけてエクスプレスの顔で気づく。その顔が、悲しみに濡れていることに。

 

「──そうだな、なら、先に帰ることとしよう」

「ありがとな、それじゃあ──」

「エクスプレス」

 

 去ろうとする彼女を、ハイリは声をかける。

 

「何さ?」

「……ゆっくりで、いいんだぞ?」

「……ああ、すまねぇな、いつも、アンタにも迷惑かけっぱなしだ」

「同じチームの仲だ、気にすることない」

 

 彼女はそう言い去っていく。その後ろを見送りながら、ハイリは独りごちた。

 

「あとは頼んだぞ……トレーナー……」

 

 

 

 

(負けた)

 

 トレセン学園の夜道はなんともまあ暗いものだろうか。私有地故に電灯の灯りが入り込む余地などまったく無く、更に暗さが増していた。

 

(勝たないと、行けなかったのに)

 

 だからこそそんな中で歩く彼女の姿は端から見れば、幽鬼としか言い様がないだろう。あの時ルドルフに言われた言葉を、未だ反芻している。

 

『獅子搏兎、獅子は兎を狩るにも全力を尽くすという言葉を四字熟語で表すとこうなる』

『さしずめ、君は大海を知らない井の中の蛙と言ったところか』

『どんな獅子だろうと、蛙ごときに全力を出すわけなかろうに』

 

「獅子……搏兎」

 

 とあるベンチに座った。誰もおらず、誰もエクスプレスの話すことなど気にしない。

 不思議な感覚だった。あの大敗、未だに気分は沈み、涙で顔を濡らした筈なのに

 

「……走りたい」

 

 体のどこか、胸の奥にあるナニカが、彼女に再び熱を燃やしている。

 シンボリルドルフを轢くために費やした途方もない時間。それは報われることなく、領域(ゾーン)などという正体不明の存在の前に呆気なく潰れていく。

 打倒ルドルフに費やした年月すら、轢き逃げ戦法を確立させるまでの時間すら、努力の全てが、圧倒的な才能の前では意味を為さなかったというのに。どこかで、また走りたいと思う自分がいる。

 

「でもこんなんじゃ、会わす顔がないな……」

 

 沸き立つ闘志そのままに、満面の星空を見上げる。

 

「最強のウマ娘になるって決めたのに……シンボリを轢くウマ娘になるって決めたのに……」

 

 一人になるとついつい漏らしてしまう。本音というのを。

 

「どこにいるんだよ……母さん」

 

 本音は誰にも聞こえるというものでもなく──

 

「よぉ、随分とまぁひでぇ(つら)してんじゃねェか」

 

 失意のウマ娘の前に現れる一人の男。(あかつき)(あきら)であった。

 

 


 

 

「隣、いいか?」

「変な気、起こすつもりじャあなきゃいくらでも」

 

 ベンチの隣に座る暁を、エクスプレスは警戒していた。こんな時間帯、こんな場所。なぜここに彼がいる?

 

「負けたな」

「負けたさ」

「悔しいか?」

「悔しいよ」

 

 見事なオウム返しを繰り返す中、話を変えたのは暁からだった。

 

「負けて、悔しい。それだけか?」

「それだけなワケないさ。次のレースで勝ってやる」

「具体的には?」

「それは練習しながら考えるよ」

「なるほど。怒るかもしれないけど──そんなんじゃルドルフには勝てねェよ」

「……何だと?」

 

 エクスプレスの鋭い双眸が暁を睨みつけた。人すら殺せてしまう。そう錯覚するほどまでには強い瞳。暁は内心、それに慄いた。だが脳裏に浮かぶのは先ほどまでのハイリの言葉。

 

『我々は過ちを犯す。才能に溺れ 独りよがりになる時、レースで故障して自己嫌悪に陥る時、明日のレースで巧く走れるか不安な時。その時、独りよがりを叱り、自己嫌悪を解消し、不安を支える存在が必要となる』

『個我を通せ、話し合ってみろ。同じ言葉の通じる者同士じゃないか』

 

 その約束は守らないといけないという矜持が、暁にもある。

 

「一度ミスったクセに、自分ならなんとかできると思い込んでるようじゃ。何もできねぇよ」

「………」

「そして、それはオレもそうだ。変わらないといけないんだ。オレも、エクスプレスも」

「……どう変われと?」

「オレは、逃げていた。あの時のオレは、オマエに圧されて逃げちまった。そして、オマエを皐月賞に勝たせてあげられなかった。不甲斐ないオレをどうか許してくれ」

「……いや、私も謝りたいんだ」

 

 深々と頭を下げる暁に、キングダムエクスプレスは話しかける。

 

「わかったんだ。やっぱり私は、シンボリルドルフに勝ちたい」

 

 その口から漏れ出た言葉は、誠の陳述。黒く深い闇を見上げ、燃え尽きることのなき闘志に燃え立つひとみが告げていた。ここで終わりではないと。

 

「例え見る景色が違ったとしても、それでも私はルドルフに勝ちたいんだ」

「……ああ」

「どれだけ才能の違いがあっても、どれだけ壁が高くても、どれだけ差が離れていても、私はシンボリルドルフを轢き逃げたいんだ」

「そうか」

「あの皐月賞の絶望、あの200m地点での絶望。負けるのがどんな気持ちなのかわかった筈なのに、アンタの話を聞くとまた、勝ちたくなってきちまった。勝ちたいって気持ちが冷めてくれないんだ」

「おう」

「でも、私だけじゃ、ルドルフには勝てない。今日のレースで、それを味わった」

「ああ」

「暁、いや。トレーナー」

 

 エクスプレスが暁の前に立った。暁は改めてキングダムエクスプレスの瞳を拝見した。もう、今までの執着のエクスプレスではない、盲目と化していない。力強い目が暁を魅せてくれる。

 

「私を、強くしてくれ……!! シンボリルドルフを轢き逃げられるほどのウマ娘に私をしてくれ!!」

 

 少しの時間、返答はなかった。沈黙を破り、聞こえてきたのは笑い声。笑いの主は暁だった。

 

「……なに笑ってんだよ」

「いや、当然のことをこうもハッキリと言われると、笑いたくなるってもんだ」

 

 先ほどまでの笑い顔から一転し、暁は真剣な表情でエクスプレスの目を見据えた。

 

「オレから言わせてくれ、エクスプレス。オレにオマエを強くさせてくれ」

 

 差し出される右手、エクスプレスは鋭い笑みを浮かべると、その手を何の躊躇いもなく握りかえした。それぞれの手が締め付けられる、それほどまでの力強さを以てして。

 

「ああ、最大限をやって見せてやる。シンボリを轢き逃げた後の、その景色を見せてやる。よろしく頼む、トレーナー」

「ああ、これからよろしく頼むぜ、エクスプレス」

 

 握手を解き改めて相対する二人。あの無頓着で真っ白だった視線が打って変わり、今や暁へ向ける目線には信頼が宿っているような気がした。

 

「それで、私はダービーまでに何をすればいいんだ? トレーナー」

 

 一拍置き、エクスプレスが問うた。

 

「いや、オマエは日本ダービー出んな。三冠は無理だし、ダービーまで時間無いし、いずれにせよ今のままじゃルドルフには負けるから」

「は?」

「ひとまずはオークスで1着なオマエ、それじゃ──アアッ!!」

 

 ゲシリと、キングダムエクスプレスは容赦なく去ろうとした暁の背中を蹴る。絶叫が響く。

 

 

 その夜のことを、夜勤中だった駿川たづなはこう説明する。

 

「地獄の釜の底から、亡者の叫び声がした」と。

 

 



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鉄塊の過去

 閑話みたいな話です。ユルリとご覧ください


『強くなりなさい』

 

 これは夢だ。もうなんども見る夢。努々忘れることできない夢。

 

    、強くなりなさい』

 

 目の前で涙ながらに訴えてくる謎の女性の顔を、強くなれと話すその女性の顔を、私は知っている。誰だろうか。

 どこかで見た。面識がある、なのに、思い出せない。

 

『誰にも負けないウマ娘になりなさい』

 

 彼女はそう伝える。なぜ強くならないといけないのか。なぜこうも強さに彼女は拘るのか。強さがすべてを決めるわけではないのに。

 

『そうしたら、きっと───』

 

 

 

「……ハッ!!」

 

 そして夢は終わる、きっとの言葉のその先を、未だ聞くことはできない。夢の女性が誰なのか、杳として知れないその正体を、いつも気にかけてる。

 

「……強くなれ、か」

 

 だが、そんなことを考えてる余裕は、私にはない。時計を見る。日曜日の午前7時、朝日は昇り、窓際から私を熱気で殺そうとしてくる。

 まあ、何はともあれ。

 

「起ーきーろォッ!!!! ()()()!!」

「グヘェッ!!」

 

 二段ベッドの下の段のにいる彼女へ力の限りのし掛かる。断末魔が布団の中から響く、だがすぐに布団から弾き出される。

 

「よくもやってくれたなっ!! ()()()()()ッッ!!!」

 

 布団から飛び出してくる私の姉、シンボリルドルフが私を襲おうと迫ってくる。

 

「はっ! 悔しかったら私より起きるんだねっ!」

「待てっ!!!」

 

 ここ、シンボリ家の朝から始まる乱闘。どこまでも続くであろう日常の風景。そう、私の名前はシンボリアードルフ、シンボリ家にいる姉妹のうちの妹だ。

 

 

 


 

 

 

 0歳、私生誕。そこから三年の年月がそこから流れ 物心つき初めた三歳の誕生日、バースデーケーキでチロチロと燃える蝋燭に息を吹いた私の脳内に突如発生した存在しない記憶。

 不気味な感覚であった。前世の私の言葉でいう『転生』なるものを、私はしたようだった。

 

 そう、私は“シンボリアードルフ”であってシンボリアードルフではない。

 厳密に言うならば、私はシンボリアードルフの体に入りこんだ ただの一般人である。

 その頃の名前が思い出せないとか、なんで私には生前生きていた記憶があるのだとか、最初はそれがかなり気になったが、何年も過ぎた今じゃあもはやどうでもいい。

 

 現在は私という魂がこのアードルフの体に入っている。という結果で納得している。ガセかデマか、はたまた真実なのか不明なものの、人間は死ぬと軽くなるらしいのでそういうものだろう、魂に質量があるのかは知らないが。

 

 閑話休題。ある日、突然前世があると理解した私は混乱した。まるで私が私でなくなったような感覚だった。だが、もう慣れた。次に私には情報が必要だった。今の世界と私の知っている世界との違い――そして理解した。

 

 ───ここ、ウマ娘じゃん。

 

 記憶にあった「シンボリルドルフ」という忠実の馬の名前をしておきながら人間の姿となっている目の前の人物。大体ここら辺で想定はついた。どうやら生前の私はずいぶんとこのゲームにご執心だったらしい。そしてシンボリルドルフは史上初の7冠を達成したという伝説の馬、勝ちより負けの方が語られ、通称は『皇帝』。

 

 そして私は、そのシンボリルドルフの妹としての生を受けられた。なんと幸運なことだろうか。将来は私も競争ウマ娘として、シンボリルドルフと競いあうウマ娘になるのだろうか、まあそれはまだまだ先の話ではある。今は深く考える必要はないだろう。

 

 

 


 

 

 

「また見たのか、その夢?」

「うん、なんなんだろうね」

 

 朝食を食べ終え、私たちは敷地内の芝生にいた。風が吹き、歌う小鳥。殺人的な暑さの太陽も、木陰に入ればそこまで怖くはない。話す内容はその夢の話だった。

 

「私の知る限りでは、そんな特徴の人は知らないな……」

「でもどこかで見た人なんだよねー」

 

 懐かしい思い出のその女性。親戚の誰かなら姉さんも知っている筈。でも姉さんも知らないという。考えれば考えるほど不気味な人で、頭が混乱する。

 

「そうだ! 聞いてよ姉さん! 私 図書室の掃除を任命されたんだ!」

「すごいじゃないか! 私だってまだ入ることのできない部屋なのに!」

 

 シンボリ家の図書室は、小さな図書館くらいの広さを誇る。長い歴史が詰まったその書棚の中には、当然貴重な資料も含まれている。だから本来であれば小学生の私たちでは掃除は愚か、その中に立ち入ることすら禁止されてるのだ。

 だが今回、私の今までの苦労が称えられたのかはたまた私なら問題ないと判断されたのか、私は今日、その図書室の掃除を父から任命された。

 

「ふふん、やっぱり私の日々の努力が身を結んだんだね!」

「ああ、本当に凄いぞ。さすがは私の妹だ。よく頑張ったな……!」

 

 姉さんに頭を撫でてもらう。この頭を撫でられる感触が、私は好きでたまらない。どこまでも続く平穏な日常。結局私は姉に、30分にわたって頭を撫でられ続けられるのだった。

 

 

 

 

 図書室は本が多い、本が多いということは即ち埃も多い。

 

「~~♪」

 

 書棚の一つ。そこに積もった埃を鼻歌混じりに払いながらやはり私は、あの女性のことが気になっていた。

 

「ホント、誰なんだろ…?」

 

 思考に気を取られ過ぎたのだろうか、私は知らず知らずのうちに、上段にあった本を落としてしまう。

 

「やっべ……!!」

 

 慌ててその本を手に取る、もし仮にどこかが衝撃で壊れでもしていたら大問題だ。だが私のそんな不安に反して、外側のカバーなどにへこみ等はついていない。安堵するもつかの間、一応念のためにとその中身を確認する。

 

「あ、これ。私の写真」

 

 それは私がここで生まれ、ここで生きた軌跡を写真と共に記録していたアルバムだった、それは幼き頃に姉さんと撮ったツーショット写真から始まり、やがて遠足や旅行、小学校入学等の数々のエピソードが納められ、今もまだ記録され続けてある。あの堅物の父がこんなものを用意していたのは少し意外であった。

 

 懐かしいなと、思い出に浸りページを見ていく。私の分があるということは、姉の分のアルバムもどこかにあるのだろうかと、そんな考えが浮かんだ直後だった。アルバムから古ぼけた一つの紙がこぼれ落ちたのは。

 

「ん?」

 

 疑問を覚えそれを拾い、広げる。乱雑に畳まれた紙には汚い文字の文章。

 

『私では、もうこの子を育てることができません。

 どうかこれを読んでくれた人にお願いです。

 

 みがってかも知れませんが、この子を頼みます』

 

 不思議に感じた、なぜこんな手紙が私のアルバムに挟まれてあったのだろうか? これから子どもを捨てるようにとも錯覚できるその手紙。私のアルバムに挟まれたのが不思議でならない。

 文章は長くその多くは、彼女がこれまでどれだけの苦しい思いをしてきたかをつらつらと述べていた、私からすると、それは子供を捨てるという行為をする自身を必死に釈明しているようにも感じた。

 

『こんな思いをこの子にさせるなら、いっそのこと産まなければ良かったのかも知れないと、このところそんな狂ったような思考に支配されてしまいます。

 

 ご迷惑をおかけします。彼女には競争ウマ娘としての才能があります。しかし母親が私のままでは、この子はきっと自身の競争ウマ娘としての才能に気づかず、その生涯を終えてしまうのかもしれないと思うのです。私にはそれが耐えられ難い

 

 この子の名前は"エースアードルフ"と言います

 どうか、よろしくお願いします』

 

 その一文を見終えたあと、自分はいつの間にかその手紙を落としていたことに気づいた。拾おうとするが、手にうまく力が入らない。

 

「アードルフ……それって」

 

 私の名前じゃないか。

 

 思えば変だった、アルバムには確かにワタシの今までの生涯が記録されてある筈である。それならばなぜ、一番最初の写真が私と姉さんのツーショットなのだろうか。普通は、産まれたばかりで泣いている自分の写真ではないのか? アルバムには私の幼い頃の写真が数多くある。だが私が赤子の頃の写真は何一つない。それは、撮らなかったのではなく、無かったからでは?

 

 つまり、それは私が、シンボリ家の子供では───

 

「……ダメだな、変な邪推は止そう」

 

 そんなこと、父さんに聞けば一発じゃないか。私はシンボリアードルフだ、エースアードルフという名前などでは決してない。ただの名前似だ、そうに違いない。今は、そう気持ちを落ち着けることしかできなかった。

 

 

 


 

 

 

「そうだ、アードルフ。お前はシンボリ家の前に捨てられてた赤子だ。シンボリ家と血の繋がりは一切ない」

 

 なんで

 

「あの寒い冬の日、赤子の泣き声が私の耳に入りこんだ。こんな夜遅く、しかもこんな冷え込む日にと訝しんだ私は表玄関の方に出た。そこに置いてあった小さなバスケット、ポツンとその手紙と共に、お前がいたのだ」

 

 嘘だろ? 父さん。

 

「わ、たしは、シンボリ家、ではない?」

 

 違うと言ってくれよ。

 

「そうだ」

「父さんは。と、義父さんなんですか?」

 

 冗談だと笑い飛ばしてくれよ。

 

「そうだ」

「母さんは、義母さんなんですか?」

 

 嘘だと話してくれよ。

 

「そうだ」

「じゃあ、ね、姉、さんも」

 

 なんで、笑ってくれないんだよ。軽いジョークだと早く笑い飛ばしてくれよ。こっちはその言葉をずっと待ってるんだぞ。ドッキリはもう済んだだろうが、充分に驚いただろうが。

 

「そうだ。お前の両親は本当の両親ではなく、お前の姉は本当の姉ではない。それを今まで話さなかったのは、私が怖かったからだ。お前がその真実にいつ気づいてしまうのか、私はそれが怖かったんだ。どうか、臆病で気の小さい私を許してくれ」

 

 そんな、頭下げられても、困るんだよ。どうすりゃ、いいんだよ。

 

「……私の、母は、ホントの、母はど、どちらへ?」

 

 質問に義父(ちち)は首を横に振る。そして、一枚の写真を私に見せてくれた。

 

「あの日、監視カメラに写っていた。この女性がおそらくお前の本当の母だろう。どこかで見覚えはないか?」

 

 そして、理解した。

 ああ、なんで、なんで。

 

「……いいえ」

 

 そうか、アンタだったのか。だから何度も夢に出てきたのか、道理でどこかで知っているわけだ。

 

「まったく、知らない人です」

 

 夢の中にいつも出てくる女性。それはこの写真に写る女性と、驚くほどに酷似していて───。

 

「夢にも、出てきたことはありません」

 

 夢の中に出てくる女性が、母だと、私には認めるしかなかった。

 

 

 


 

 

 

『強くなりなさい』

「黙れ」

 

 またこの夢。不愉快な夢だ。

 

『アードルフ、強くなりなさい』

「うるさい」

 

 目の前で自分の名前を言いながら泣く女性。今さら何でないてるんだ、アンタは私を捨てた癖に。どうしてそんなアンタのために強くならないといけないんだ。

 

『誰にも負けないウマ娘になりなさい』

「やかましい」

 

 負けないウマ娘になれだと? 自分は逃げたというのに? なぜ押し付ける?

 

『そうすれば、きっと───』

 

 そうだ、終わってくれ。夢はここで終わるんだ。アンタの顔を見なくて清々する。二度と出てこないでくれ。

 

『──あなたは、きっと、母さんに会える筈だから』

「な、んで」

 

 なんで、こんな時に続きを話すんだよ。私はアンタの顔を二度と見たくないんだ。二度と思い出したくないんだ。二度と話したくないんだ。

 

『だから、強くなりなさい』

「強く……」

 

 強いという指標は、誰が決めるんだよ。誰が、強いんだよ、距離が、コンディションが、怪我の具合が、そんな様々な原因に強さを狂わされるレースに、強くなれと説く方がおかしいんだ。

 

 誰が、どう見たってコイツに勝てば強いと思わせられるウマ娘なんて、この世にいるわけが───

 

「いや、いる」

 

 一人だけ、いる。

 

『アードルフ、強くなりなさい』

 

 誰が見てもソイツに勝てば、100人中100人に強いと言わせられるウマ娘を、私は知っている。

 

『どうか強くなって、そしたらきっと』

 

 後に7冠を達成する。強さの象徴。皇帝とも呼ばれるそのウマ娘の名を私は知っている。

 

『私に、会える筈だから』

「……成ります、母さん」

 

 その子供として、例えそれがどんな人でも、母に会いたいという気持ちがあるのは当然のことで──。

 

「私は、強くなります」

 

 私は、例え捨てた張本人だとしても、本当の母に会いたい。私を捨てた母を私の前に呼び出して、ぶん殴ってやる。

 

「知っております。強さの象徴を、そのウマ娘に勝つことは即ち、時代に勝つことと同様の意味を持つウマ娘の名を」

 

 例え立ちはだかる壁が、天まで高く、太平洋のように広がっているとしても。超えなければいけないそれが、例え皇帝であろうと。私はシンボリルドルフを超えなければいけない。なぜなら彼女こそ、強さのシンボルなのだから。

 

「私は、強くなります。シンボリルドルフを抜きます。シンボリルドルフを超えてみせます」

 

 シンボリルドルフを抜く私の走りを見せたらきっと

 母さんは、私の前に現れてくれるのかなぁ

 

 


 

 

 アードルフの決意から三年。中学一年にもなろうとある日のこと。

 

 その日、シンボリ家は騒がしかった。

 最初に異変を感じたのは姉の、私だった。

 

「……んん、あれ?」

 

 日曜日の朝、目が覚めた。不思議だった。日曜日はいつも、アードルフが私より先に起きる日。意気揚々と、私に飛びかかり、私はその衝撃で起きる筈。その日々の恒例行事とかした行い。それが今日は、なかった。

 

 時計を確認する。

 

「8時……半だと?」

 

 そんなに遅くまで寝ていたのか、私は。ならば余計、アードルフの奴は何をしていたのだろうかが気になった。二段ベッドの梯子を昇り、その布団を見る。

 

「おーい、アードルフ……?」

 

 いない。綺麗に畳まれた布団、なぜか置かれている紙。何かが不自然だった。だが、アードルフも私も もはや中学生、そろそろ節操というのが身についてきたのだろうかと、そんな軽い気持ちだったんだ。

 

 仕方なく着替えたあと、食堂へ向かう。食事を食べていた父と母。私もそこに合流し──気づく。

 

「あれ……? アードルフは?」

「ん? お前のところでまだ寝てるのでないのか?」

「いえ、綺麗に畳まれてましたけど……」

 

 アードルフが、食堂にいない。ならば寝室? そこにもいない。

 

 アードルフが屋敷のどこにもいないことが発覚するのは、それから少しも経たない頃だった。

 衣服、パスポート、スマホ、貴重品類が持ち出されていた。ベッドの上の書き置きには、一言。

 

 

『強くなります』

 

 

 至急、大捜索が行われたのは、いうまでもない。警察まで出向し、全国的な捜査が行われた。しかし結果は見つからずじまい。

 その晩。家族会議が行われた。

 

「どこに行ったと思う? 心当たりでいいんだ」

「……わかりません」

 

 父に聞かれるが、私の知る由ではない。

 父は母と、私に内緒で何かを話していたようだった。二人の議論は加熱を極めていた。その声の大きさは、扉越しの私にさえ聞こえるほどで───。

 

 だから私は、知ってしまった。私の妹の、真実を。

 

「アードルフが……本当の私の妹ではない…?」

 

 初めて知らされる衝撃的な事実。アードルフの正体。アードルフの真相。アードルフの家出の理由。そのいずれもの原因が、私たちにあることを。

 

 ──私が、もっと早く気づいていれば!!

 

 今思えば、仮に私が先に知っていても、なにも解決はしなかっただろう。だがその時の私はそう思うほどには錯乱していた。

 

 だが、過ぎ去ってしまった過去を、もはやどうすることはできないのだ。残された書き置きの意味、真意わからずとも大方を察知する。

 

 アードルフは、いつか必ず、私を倒しにくると。彼女は強くなり、再び会う時は、見違えるほど逞しいウマになっているのだろうと。

 

 ならば姉として、いつか挑戦してくる私の妹に負けないような、そう易々と超えることができないようなウマ娘になろうと。私はその時、誓ったのだ。

 

 

 思慮の中、父が私に問う。

 

「ルドルフ、アードルフの居場所、なにか心当たりはないか?」

「……正確にはわかりませんが、どこへ向かったのか推測はつきます」

 

 無くなった貴重品類の中にあるパスポート。国内にいるならば必要のない存在。

 

「おそらく……」

 

 


 

 

 いつまでも、線を走っていた。決められた(レール)を、ただ沿ってきた人生。じゃなくてバ生。

 

 だが今は違う。私は脱線してみせた。もう私は定められたレールを沿うのではない。

 

 そして私は今や、かつていたその水平線(レール)を見ている立場にある。この水平線の奥。そこに私も知らない異国が広がっている。

 

「……まァ、競馬と言やあ本命は海外(そと)だよなぁ」

 

 フランスの凱旋門賞。イギリスの英ダービー。中でも凱旋門賞は日本馬が一着を取ったことがないくらいに高い壁。

 

「目指すは、ヨーロッパだ」

 

 そうだ、この水平線の彼方に、私の目指す壁がある。

 

 母さん。どこかにいる母さん。

 私は、強くなるから。

 

「待っていてくれよ。母さん」

 

 私の物語は、ここから始まる──

 

 

 


 

 

 

「……懐かしい夢だ」

 

 長い夢だった。いつもは夢なんて見ない筈なのに、皐月賞の負けはそこまで引き摺られていたのだろうか。

 

「どうして今になって見てしまうんだか」

 

 あれから、どのくらいたったか。

 

「強くならないとな……」

 

 結局、シンボリルドルフを轢くことは叶わず、皐月賞敗退。

 

「オークス、勝たねぇとな」

 

 私は未だ、強くなれてない。

 

 




 次回の更新は、木曜日を予定しております。ご了承ください。よろしければお気に入り登録、評価お願いします。


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オークス

 朝、食堂。

 

「……珍しいな」

「ウマ娘が朝食ってるのがそんなに珍しいかい?」

「お前に限っては、な」

 

 シンボリルドルフは驚愕していた。目の前のキングダムエクスプレスが朝食を取っていたからだ。見れば、驚いているのは彼女に限らず、一部のウマ娘も同じようだった。

 別に、ウマ娘が朝食を取ること自体は珍しいことではない。驚いているのは、()()『エクスプレス』が朝食を取っているということだった。

 

 エクスプレスの名は、良くも悪くも広まっていた。そんなエクスプレスであるが、有名なのは朝食を取らないクセにいつも満員の食堂の しかもテーブル席を独占するということだろう。

 最初こそそれを無視して座るウマ娘はいたし、本人は勝手に座っても気にはしなかった。しかし彼女の視線がとにかく気になり一人、二人と席に座るウマ娘は減少。最終的に、今その席に座るのはルドルフと彼女、時たまハイリボルケッタとなった。

 

 その筈のエクスプレスが今、朝食を取っている。それはある意味驚きとしかいいようがないだろう。

 

「なんだ、珍しいな」

「ハイリィ、アンタも珍しがるなよ、恥ずかしいだろ」

「皮肉で言ったんだがな」

 

 朝食を運んできたハイリボルケッタも合流し、活気は三人に。

 

「しかし、皐月賞の頃と少し雰囲気が変わったか? これなら、ダービーも安心だな」

「あアいや、ダービーにゃ出ねェさ」

「なんだと?」

 

 エクスプレスの返答にルドルフは眉を潜めた。

 

「つい先日皐月賞で負けたってのに、1ヶ月かそこらでアンタに勝てるとは流石に思えやしない」

「それは負けを認めたということか?」

「事実はどうねじ曲げようと事実さ、今の私はアンタにゃ勝てない」

「…………」

「だからアンタは、菊花で轢く」

「箸を人に向けるな」

「ウマ娘だからいいだろ」

 

 クラシック三冠最後のレース、菊花賞。特徴的なのは3000mという圧倒的な長距離だろう。皐月やダービーと違い、この菊花ではスタミナも求められる。三冠最後の砦と言ってもいいだろう。

 

「私も忘れてもらっては困るな、エクスプレス」

「おっと、ハイリも出るんだっけか? まあいいや、とにかくだ。ルドルフ」

 

 食事を終え、エクスプレスはトレーを持ち立ち上がる。

 

「菊花、楽しみにしておいてくれや」

「……ああ、一日千秋の思いで待ってるよ」

 

 エクスプレスは去っていった。残されるハイリとルドルフ。

 

「……見違えたな。エクスプレスの奴」

「そうか? 私には、多少真面目になったようにしか見えんが?」

「ああ。私に負けたという悔しさの炎は過去の傲慢だったエクスプレスを溶かし、彼女を新たなる姿へと錬成させた」

「にわかには信じられんな」

「昔のアイツならばダービーは愚か、オークスにすら勝てなかっただろう。だが今のアイツは轢いてくるかもしれない、本当に私を」

 

 ルドルフはエクスプレスの眼を思い出す。決意に燃えた瞳。かつてのあの見下した瞳ではない。真なる者の目。

 

「本当に楽しみだな、菊花が」

 

 

 


 

 

 

 オークスまでの期間、1ヶ月あるかないか。なので当然、その短い期間でエクスプレスは暁の指示によるトレーニングを受け、それを完遂しなければならない。

 

「1ヶ月しかないっていうのにさ……」

 

 当然、1ヶ月は短い。その1ヶ月の間にどれだけウマ娘を強くできるかでトレーナーの良さが決まる。

 さて、暁トレーナーがその1ヶ月、エクスプレスに指示したこと、それは

 

「走るの禁止ってのは無能としか言いようがないだろ……」

 

 走り、禁止である。ただでさえ今年の春は寒く、その寒さはコースの芝を禿げ上がらせ、実質ダートと言っても遜色ないほどである。

 だが、それは裏を返せば走りを禁止された以外は何をしても良いということである。なので仕方なく、エクスプレスはこのトレーニングの時間を全て、プールの水泳に注ぎ込んでいた。

 

「クロールやった、平泳ぎやった、背泳ぎやった、バタフライやった。あとはなんだ泳ぐといえば……?」

 

 競走ウマ娘たるもの、走りこそが命。だがその走りを禁止されるのでは、真綿に首を絞められるようなもの。とにかく暇なのである。

 

「クソ……あくびが止まらねぇ……。あと何回か自由形で泳いでみるか……?」

 

 意図が掴めない。だがトレーナーの命令は絶対、それを切望したのはエクスプレス自身なのだ。

 

「やるっきゃねぇよな……」

 

 とにかく、泳ぎ続ける毎日。泳ぐたびに、ストレスが貯まる。

 結果的にコンディション最悪のまま、エクスプレスは一度も走れることなく、オークス当日を迎えるのだった。

 

 

 


 

 

 

『2枠、4番。キングダムエクスプレス。5番人気です』

『コンディションが最悪ですね。いまいち集中しきれていません。心配です』

 

「やらかしたかなァ~~……?」

「どうみてもやらかしてるぞ、ストレスが貯まりに貯まってる。これではレースに集中できるかどうか……」

 

 ハイリボルケッタや実況の言葉通り、キングダムエクスプレスは荒れていた。理由は明白で、暁の指導以外に原因はない。

 今のエクスプレスには何を言おうと無駄だろうと、二人は思いはじめていた。

 

 

 

 

 パドック終わりゲート入場の際だった。暁がエクスプレスを呼んだのは。渋々と気だるげに近寄るエクスプレスの耳に、暁がゴニョゴニョと呟く。

 

 それを聞いた直後の10秒間、エクスプレスの仏教面は変わらなかった。が、やがて発した一言。

 

「……なんで?」

 

 ハイリは理解した。間違いなくその一言はエクスプレスの機嫌を最悪にさせる最後のピースだったと。

 見事にエクスプレスは不機嫌になっていた。見れば拳が握られてる。殴りたくて仕方ないんだろうなと、他人事のようにハイリは脳裏に想像した。

 

「やってくれない? オレのあの日の土下寝に免じてさァ~~!!」

「……やるさ、免じてやるよ。やりゃあいいんだろ……。帰り道は背中に気をつけとけよ。刺されるかもしれないから」

 

 エクスプレスはゲートへと向かっていった。ハイリが問う。

 

「何をアイツに言ったらこんな不機嫌になるんだ?」

「まぁ見りゃわかるさ。お前、いやここの全員が今日、度肝を抜かれるぜ」

「はぁ……?」

『全員ゲートイン完了しました!! 出走の時間です』

 

 ハイリの疑問などを置き去りにして、レースは開始された。

 

 

 


 

 

 

 『ダイアナソロン』。GⅠレースであり、もう一つのクラシック三冠とも言われるトリプルティアラの桜花賞にて優勝したウマ娘である。今回のオークスでも堂々の一番人気に指定され、優勝候補の一人でもあった。

 

 だが彼女は自身を傲らない。何が起こるかわからない、それこそがウマ娘のレースだと理解しているからこそ、彼女は全てのレースに油断しない。負けという名の死神が身構えていない時に来るならば、常に身構えておけば死神は来ないのだ。

 

(マークよ、私)

 

 故に、ダイアナソロンはキングダムエクスプレスを警戒していた。奇走者の彼女はいうならばトランプのジョーカー。今回のレースで最も大番狂わせを引き起こすであろう可能性が高い要因であった。

 

(キングダムエクスプレスはいつものように轢き逃げ戦法でくるに違いない。皐月賞でシンボリルドルフがやってみせたように勝負は彼女が停止した際、その時に大きく引き離して、抜かせられないようにすればいい)

 

 ゲートの中でプランを固める。冷静な分析、データで責めていくのが、彼女の強みだった。

 

(よし──行けるッ!!)

 

 決意した直後、一斉に放たれるゲート。最初の課題であるスタートダッシュ。これは残念ながらやや出遅れてしまった。しかし流石は桜花賞優勝ウマ娘、見事に挽回、外側から中団へと潜りこんでいく。

 

(キングダムエクスプレスはどこまで離れているの? 10バ身? それ以上? 大差かも知れない)

 

 一息つき、先頭を確認する。キングダムエクスプレスがどれまで先にいるのか、それを確認しないといけないからだった。

 だが

 

(……どこ? 彼女の姿が、見えない)

 

 いくら見渡そうと、あの轢き逃げウマ娘はいない。ここはまだ直進の筈、もしやもう第二コーナーを回っているのか? それほどまでに彼女の轢き逃げは進化したのか? ならばと、見えてる範囲での先頭のウマ娘を確認する。

 レースというのは、先頭を捉えなければ走れない。ひとまずは指標とする先頭を見ないといけないからだった。

 

 そして先頭を見て───

 

「ああん……?」

 

 ふと、漏らしていた。その疑念の言葉を。

 パワーシーダーなどと言った逃げのウマ娘と先頭争いを繰り広げていたそのウマ娘。

 キングダムエクスプレスが、逃げていた。

 ただし、轢き逃げずに。

 

「……なんで、轢き逃げないのよ」

 

 データにない走り。逃げは知っている筈なのに、彼女がやると酷く不恰好に見える。彼女の作戦は『轢き逃げ』の筈では?

 今までの生涯、データで生きていた。ゆえに発生した今回のイレギュラー。

 ダイアナソロン初めてのデータに頼らない思考であると言っても過言ではないだろう。

 

 

 


 

 

 

 母にシンボリ家として生きるのを禁止され、トレーナーには走るのを禁止された。もうこれ以上縛られることないだろうと思った矢先。

 まさか

 

『えっ、ええェッッ!!?? なんということだ キングダムエクスプレス!! まったく他のウマ娘を突き放していません!! これは「轢き逃げ」ていない!! ただ、「逃げ」ている!!』

 

 この轢き逃げ戦法ですら、このレースで禁止されるとは……。

 先ほどトレーナーが言った言葉を思い返す。

 

「『轢き逃げをするな、逃げろ』って、そんな突然に言われても困るんだよ……」

 

 逃げをしてみると、その辛さが実感できる。轢き逃げは後ろのウマ娘など一切気にせず、ただ自由に走れる作戦だった。疲れれば勝手に止まって休憩してまた走る、まさしく無法の走り。

 

 だが逃げは違う。逃げは常に後ろのウマ娘を意識しないといけない。最後の直線で止まることは許されない。加え後ろのウマ娘から降りかかってくる凄まじい数のプレッシャー。それが自分の思考を鈍らせる。

 

 第2コーナーを曲がっても、第3コーナーを巡っても、後ろからついてくるウマ娘の群れ、群れ、群れ。23頭のウマ娘を引き連れたまま、試合は直線へと入っていった。

 

(……さて、いつもならここで止まってる筈なんだけど、流石にそうは問屋がおろさないってヤツか)

 

『ここで上がってきたのはダイアナソロン!! 逃げのエクスプレスには勝てるのか!? キングダムエクスプレスを克てるのか!?』

 

 実況の声が耳に障る。だいぶ不機嫌なんだと理解できる。なにか別のことを考えなければいけない。

 

 ひとまずは、そろそろスパートの距離となる。

 逃げという作戦によって貯まりに貯まった末脚のスパート。

 いざここにて

 解放の時。

 

 

 


 

 

 

 ガクリと、ダイアナソロンは脚を踏み外したことに気づいた。珍しいことではない。ウマ娘が先に踏み抜いた地面を、たまたま踏んでしまった。ただそれだけのこと。

 

 だというのに。覚えた謎の違和感。なんてことはない踏み抜かれた大地。

 

「──深い?」

 

 地面とは、自らが立つのに必要不可欠な存在である。地面という土台があるからこそ、このレース場も、高層ビルといった何もかも、地面がなければなしえなかったこと。

 

 何cm、地面はその脚で踏み抜かれていただろうか。10cm? 15cm? 下手をすれば25cmは下らないかもしれない。

 

 その浅い沼ほどもあろうかという穴。それに足を取られてしまった。

 次にダイアナソロンの眼前に写る景色。それは何バ身を離れた鉄塊の姿であり───。

 

「……ウソ」

 

 できる限りは喰らいつく。しかし、届かず、それは既に発射済。

 

 一方で、エクスプレスはその時となりようやく理解した。暁の采配の意味を。

 

「……スタミナ、ついてるな」

 

 以前の彼女であれば、ここまでのスパートは出せなかっただろう。だがこの1ヶ月に渡るプールでの水泳、水の中、その特殊環境にいたことで培われたスタミナ。今までスピードにしか特化していなかった彼女、それが鬼が金棒を得るように、剣士が刀を得るように。

 

 彼女は今や、スピードだけのウマ娘でなかった。スタミナとスピードを両立させるトレーニング、それはトレーナーからすれば喉から手が出るほど欲しい技術であり、至難の技。それを暁は実現させたのだ。

 

「1ヶ月のプール。無駄じゃあなかったようだな」

 

 自身でも驚くほどの末脚を叩き出していた。その足のまま、一気にゴールへと───

 

 ガクリ

「……?」

 

 進んだ。歓声の中、実況の熱のこもった喋りはエクスプレスの耳にも届いていた。

 

『一着はキングダムエクスプレス!! 流石だぞエクスプレス、見事にオークスを勝ち抜いたッッ!! 轢き逃げせずとも鉄塊!! キングダムエクスプレスは逃げても強いぞ言わんばかりの走りでした!!』

「…………」

 

 レースが終わると、いつも来る疲労感。汗が垂れ、目は胡乱げ、それに常日頃苛まやせられていたはず。

 だがそれ以上に感じる違和感。

 

 ナニカが、ナニカが異常だった。コンディションが悪く、普段自分と合わないことをした時に発生する謎の違和感をエクスプレスは感知していた。レースを振り返る。

 

「……痛み」

 

 そうだ、走り抜ける直前。足に何らかの違和感を感じた。軽く流せることもできる程度の些末な違和感。小さな小さな違和感。

 

 駆け抜けた際の一瞬の予期せぬ脱力。危うく転びそうになった自分。

 なんだか、悪い予感がした。

 そして知っている。こういう悪い予感は、必ず当たるということを。

 一体何の予兆なのか、それがただ、エクスプレスは不安だった。




 ここ最近、原因不明の腹痛と発熱が続き、木曜日に更新することができませんできた。申し訳ございません。

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“ハシル”

「入ってますね、ヒビ。結構エグめに」

「…………」

 

 開口一番、眼前の医者が告げた言葉がそれだった。レントゲン写真が見せられる。確かに、右足のすね辺りにある骨、そこに亀裂が入っていたのがわかった。

 

「何か心当たりのほどは……」

「まア、競走ウマ娘やってるし……心当たりなんてそれこそたくさん……」

「フーん」

 

 どうしてこうなってしまったのかと、エクスプレスは回想する。

 

 あの日、一着を獲得したオークス。その日に感じた彼女の足の違和感。それは数日が経過しても拭えることがなかった。

 一週間が経っても違和感は消えず、それは暁にも理解できたのだろう。病院に行けとの彼の言葉に従い、こうして来院。

 

 結果が、上記の通りである。

 

「ひとまずは、安静にしておいてください」

「あノ……10月のレース、出ようと思ってるんですけど、出れますかねぇ?」

「一般的なヒビなら3ヶ月くらいで治りますけど、これもう折れてないのが奇跡なくらいのヒビですからね……まあ、良くて半年、長くても一年かそれ以上」

「いっ、一年!? たかがヒビでえッ!?」

「はい、されどヒビでです」

 

 頭が真っ白になる感覚をエクスプレスは感じた。クラシック三冠とトリプルティアラのレースはどれも一生に一度しか出ることは許されない。故に貴重な称号なのだ。それを骨折ならば未だしも、ヒビ、ヒビなどというちっぽけなモノで。

 安静を待っていれば、菊花賞に出ることは不可能。その事実。

 

「無理にとは言いませんが、入院をおすすめします」

「に、入院……」

「それが無理なら安静にしておいてください。その足じゃ少し走っただけで、ポキッ! ですよ」

「おぞましいこと言わないでくださいよ……」

「10月のレースは……申し訳ありませんが、諦めていただくしか……」

 

 入院、それを薦められるほどまでに自分の足は傷んでいるのだろうか。

 目の前という短い距離で話しているはずなのに、なぜかエクスプレスの耳に、その医者の話はまともに入ってこなかった。

 

 

 


 

 

 

「……どうだった? 結果」

「まァ、結論から言ってしまえば足にヒビが入ってる」

 

 待合室に、暁トレーナーの姿がいたと思う。確かあの時の彼は、一見すれば平静を保っていたけど、わずかながら不安げな様子の表情を見せていたのを覚えている。

 私はその時、どんな顔をしていたのだろうか、歩きに違和感は感じさせなかったのだろうか。

 私はこの時、どこか気楽に思っていたのかもしれない。たかがヒビだと、骨折ではないから大したことではないのだと。

 

「……といっても、そこまで深いものじゃない。いつも通りにしていても、問題はないとのことよ、首の皮一枚繋がったな」

 

 どうして、こんなことを言ってしまったのだろうか。菊花賞に拘らなくとも、ジャパンカップや有馬など再戦の場はいくらでもあったというのに。クラシック三冠の称号を得ることはもう叶わないと理解していたのに。

 

「……そりゃあ。本当にありがたい」

「何さ? もしかして心配してくれてたのかい?」

「ああ、そうさ。オレァてっきりオマエの足が折れたんじゃないかと心配で……だが、結果としちゃ何も問題は無くて安心したぜ」

「でもさ、さすがに今日の練習位は……」

「なに言ってんだ、帰ったらとっとと始めるぞ。病院行った分の時間は挽回してもらわないとな」

「鬼め……」

 

 この選択に嫌な予感がするというのを、知っていた筈なのに。

 今でもこの選択を、私は未だに悔やんでいる。

 

 

 


 

 

 

 病院の出来事から一週間後のことだったのは間違いない。今でもその日のことは鮮明に覚えている。朝起きた時、謎の違和感が強くなっている気はした。仄かに足が痛かったような気もするが、いつものことだと思い、無視をしてしまった。

 

 トレセン学園へ向かう時も、授業を受ける間も、昼御飯を食べている中でさえ。その違和感は拭えることがなかった。ただその感触がなんだか気持ち悪くて、まるで悪いことが起きる前兆とも錯覚したが、頭の中で振り払い続けた。素直になればよかったのに。

 

 

 それが確定したのは、並走トレーニングの最中だった。夏の合宿が間近に迫るこの頃、トレセン学園でできるトレーニングをなるべくしていた時のことだ。距離は残り400m位。最後の直線で轢き逃げるため、クラウチングスタートの構えを取っていた。競争相手のハイリボルケッタは既に私を追い抜き、差は3バ身といったところか。

 

(あと5秒、そこで勝負を仕掛ける……!!)

 

 脳内のタイマーがカチカチと音を立てた。やがて針が0を差し示すと、一気に加速。5バ身向こうのハイリを抜こうとしていた。距離はどんどんと縮まっていく。残りハナ差。

 

(そこだ──)

 

 大きく地面を蹴った私。

 瞬間、訪れる異変。

 

 グラリと、突然地震が始まった。視界が揺れ動く。

 いや違う、地震なんて起こってない。

 

 次に襲いかかってきたのは、熱だった。熱い、燃えてしまっている。そう錯覚するほどの熱さが右足から発せられている。そしてそれ以上の痛みが突然迫ってきた。あの時のオークスから今日の朝まで、そんなものはなかったというのに。

 

 気づけば地面を転がっていた。全身から痛みが生じている。当然といえば当然。あの時の自分はいくら出していただろうか、時速50km以上は確実に出ていたと思う。50kmのスピードで転がるというのは、時速50kmで走る鉄塊に轢かれるのと同じ意味。ひたすらに、痛く、苦しい。

 

 

 全速力でかけよってくるトレーナーの姿すらも朧気となり、視界が自身も知らぬ間に深い闇の中へと溶けていく。

 

 キングダムエクスプレス生涯の黒歴史。

 間抜けな骨折の瞬間である。

 

 

 


 

 

 

「バカだな、お前がそんなにも愚かだったとは」

「バカなことしたよ、本当にくだらない」

 

 静謐が支配する筈のその病室。だというのに聞こえる言葉は罵詈雑言。ハイリボルケッタはベッドに横たわるキングダムエクスプレスとの会話を楽しんでいた。

 

「そんで、医者はなんだって?」

「……知能指数に難があるから頭の病院に行くのを強くオススメするだと」

「…………」

「冗談だ。えーっと……」

 

 ハイリは、医者の言葉を想起する。

 

「まずは右足だ、完璧に折れている。が、医者の話だと上手くいけば来年には走れるようになるらしい」

「他には?」

「全身打撲だ、これは奇跡的なことに軽度だった。時間をおけば回復するだろう。以上だ」

「なにさ、たったそれだけ?」

「それだけで済んだ自身の運に感謝するんだな。今後一生レースに出られないようになってもおかしくなかった」

 

 あの日から一週間。エクスプレスの骨は、完全に骨折していた。酷使に次ぐ酷使にて忙殺された右足からのSOS信号を無視した結果が、これだった。

 

「……ハイリ、菊花賞は──」

「まさか、この期に及んでレースに出れるとは思ってないだろうな」

 

 ハイリの口調は厳しい。吐いた言葉には呆れと怒りの数々が含まれいる。だが相対するエクスプレスもまた、引き下がろうとはしない。

 

「出るんだ、出場ないといけないんだ……!!」

「絵空事は一人で浮かべるものだ、人に押し付けるものじゃないぞ……いい加減諦めろ。薄々気づいてるだろ、お前ではルドルフには勝てな──」

「黙れえェッッ!!!!」

 

 その一言が、エクスプレスの怒りの地雷の信管を刺激し、起爆させた。突然の激昂にハイリは驚くが、それも一瞬のことで、すぐにいつもの表情を形作る。目の前の狂犬は、その感情を子供の癇癪のように増幅させていく。

 

「勝つんだ!! 勝たないといけないんだ!! 負けっぱなしじゃダメなんだ!!」

「……なぁ、一体何がお前をそんなに奮い立たせるというんだ? 別に菊花賞を制したとしても、クラシック三冠の称号が得られるわけでもあるまいに」

 

 ハイリは常々疑問に思っていた、この狂犬は一体なぜシンボリルドルフと張り合おうとするのか。何かしらの深い因縁がある、というのは解る。しかし、この執着は誰から見ても、異常だ。

 

「……アンタに話してもどうにもなんねぇさ、この問題は。でも私は、アイツに、勝たないといけないんだよ」

 

 大きく手を拡げ、キングダムエクスプレスはベッドへ倒れこむ、ハイリの耳に次に聞こえたのは、笑い声だった。音の出所は、今しがた倒れた筈の、狂犬。

 

「あははははは……!! あ~あ。理不尽ってホントに酷いよな、物理も心理も摂理も原理も論理も真理も道理も、すべてを踏み倒してまかり通るってんだからよ」

 

 渇いた笑みだった。何かを、渇望していたような、だが、もう、その黄金時代は潰え、諦観の乾いた姿へと変貌している。それがハイリには、痛々しくて仕方がない。

 だからだろうか、目元を手で覆った目の前の彼女が漏らした言葉が

 

「俺みたいな弱者が、背伸びしたってアイツに勝てる見込みなんてありゃしねぇのにさ」

 

 ハイリを、無性に苛つかせる。

 

「無茶でも無謀でも、勝たないといけないなんて、なんて酷い話だよ……」

 

 気づけば、部屋を去ろうとしたハイリの姿があった。扉の前で、エクスプレスの方を見ることは一度もない。

 

「今のお前は、あまりにも見ていられん。私は練習に戻る。菊花賞で一位を獲得するためにだ。お前はせいぜい、頭を冷やしておけ」

 

 音と共に閉められる扉。病室は静かとなりあるがままの姿を取り戻す。天井を見上げるエクスプレスは、虚ろな瞳を失うことはない。

 

「……勝たなきゃ、いけないんだ。俺は」

 

 その静けさでは、エクスプレスの独白など聞く者は一人とておらず。言葉は静謐の遥か虚空へと霞んでいった。

 

 

 


 

 

 

「骨折した? エクスプレスが?」

 

 朝食の席にて、シンボリルドルフはそう聞き返した。会話の主は、もちろんハイリボルケッタである。

 

「ああそうだ。だからアイツは菊花賞には出られない」

「……遠足の前日、あまりの楽しみに夜も眠れず、結局眠気眼のまま遠足当日を迎える。とは有名な話だが」

 

 ため息を吐き、一言。

 

「あまりの楽しみに足を骨折する者は、おそらく彼女一人だけだな」

 

 口腔を通し、現れる感情は相対するウマ娘と同じく呆れ。無理もない、10人中10人が口を揃え同じことを言うであろう。

 

「愚者らしい末路と言える。憐憫をかける必要もない」

「……その割には、ずいぶんと君は彼女のことを気にかけているようだが」

「なっ…! そんな訳あるか!」

「ふふ……素直じゃないな、君は」

「断じて違う話を出されても困るだけだ!」

 

 にこやかにルドルフは微笑むが、視線を落とすと二度目のため息。

 

「残念だ。菊花賞、楽しめると思ったんだが」

「……ほほう」

 

 したがって、本心ゆえに発した言葉に反応を示したのも、また同じく眼前のウマ娘であることには変わらず。

 

「忘れては困るぞ。私も出るのだ、菊花に。このハイリボルケッタが」

「……そうだった、君に関しての情報は少ない。用心堅固に行かせてもらうよ」

 

 意図しない挑発に乗った目の前のウマ娘を、ルドルフは諌め、天井を見上げた。瞳が語っていた、彼女は何かを恐れているということに。

 

「だが、こうなると少々厄介かもしれないな」

「何がだ?」

「鉄塊が最も変わりやすい状態になるのは、火で熱せられる時さ」

 

 突然の発言を訝しみながらも、ハイリは言葉に耳を傾ける。周囲の発する雑談は遮断され、聞こえる音はルドルフの言葉のみとなる。

 

「かつては負けという悔やさの炎に熱せられ、今まさにその姿が変えられていた鉄塊(エクスプレス)は、骨折という水を差され、中途半端に固まってしまった」

「……それがなんだというんだ」

「一番鉄が折れやすい形というのは、中途半端に曲がった時さ」

 

 ルドルフが沈黙する。その真意を、ハイリも理解したのだろう。瞬時に顔が焦りの表情が浮かんだと思えば急いで席を立ち、去っていった。

 

「ほら、やっぱり素直じゃなかったじゃないか」

 

 ルドルフはその光景に慌てることなく、ただ見守る。

 

「しかしアードルフの奴、辞めなければいいが」

 

 ハイリが去ったテーブルで、彼女は独りごちた。

 

 

 


 

 

『さあ、全ウマ娘、出走の準備が整いました、クラシック三冠最後の砦、菊花賞が今、始まろうとしています!』

「……は?」

 

 ここは、何処だろうか。

 ここは、ゲートだ。レースのスタート地点、始まりの場所。だが、なんでこんなところに? 先ほどまで、私は、ベッドで呻いていた筈だ。見覚えのない景色に、キングダムエクスプレスは戸惑う。

 

『各バ、スタートしました!!』

「は? ちょっ、オイッ!!」

 

 突然開かれるゲート。つい癖で、スタートしてしまった。理解できない状況に疑問は隠せない。しかし。

 

「わからねぇ、わからねないけども……全員、轢いちまえばいいだろッ!!」

『やはり、先頭に躍り出たのはキングダムエクスプレス! 誰も引き寄せない轢き逃げの走りで、見事後続のウマ娘を引き連れている!!』

 

 レースに勝たなければいけないという刷り込まれた本能が、私を加速させてくれる。走る作戦は変わらない、轢き逃げ。

 コーナーを曲がって直線、迫るウマ娘はいない。そして最後のコーナー。やはり、追いかけてくるウマ娘はいない。

 ただし、アイツを除けば、だが。

 

『ここでやはり来たぞシンボリルドルフ!! だがキングダムエクスプレスは動じません、停止しました! クラウチングスタートの構えで、シンボリルドルフを迎え撃つつもりです!!』

 

 やはり来た、アイツが、シンボリルドルフが。だが行ける、確信めいた実感がある。ようやく、ここで悲願が果たされる時が来た!! いつから自分はここまでのスタミナを身につけていたのだろうか。目の前を通りすぎるウマ娘たち、だが、不安は不思議とない。

 

『来たぁぁああァッッ!!! 上がってきたぞキングダムエクスプレス!!! ウマ娘をどんどん薙ぎ倒し、シンボリルドルフに迫りつつある!!』

 

 そうだ、行けるぞ。もうアタマ差ほどの距離しかない!! 長かった、あまりにも永すぎた。だが、私はようやくお前に勝つことができるんだ!! シンボリルドル───!!

 

 

 

「何を、言っている?」

「は──?」

 

 突然、揺らぐ視界。前方に、地面が襲ってくる──地面が?

 

「お前は、足が折れてるだろう?」

 

 脚が、痛い。ひたすらに。

 景色がレース場から、真っ暗の深淵へと変貌する。

 目の前のシンボリルドルフの姿をした"ソレ"は、倒れ付した私に歩みよってくる。

 

「お前は一生、その脚が治ることもない。シンボリルドルフを轢くなんて、できるわけもない」

 

 喧しい

 

「母さんに会う? そんな体たらくで、本当にできるとでも思っていたのか?」

 

 五月蝿い

 

「走るのを辞めろ、エースアードルフ。この、負け犬が」

 

 黙れ──!

 黙れ───!!!

 


 

「黙れえぇェッッ!!!!」

 

 自らの叫びで、目が覚めた。周囲を見渡す、間違いない、自分の病室だった。かぶりを振って、そこで自分の服が汗に濡れているのがわかった。

 

「クソ、なんなんだ、一体」

 

 骨折をしてから、悪夢を見るようになった。

 

『ウマ娘を辞めろ』

 

 そんな夢を、ここ最近はずっと見てる。

 そのせいなのかは定かではないが、私の右足の回復が予定より遅れてるという。本来であれば歩ける程度の時間が経ったというのに、私は未だ病院のベッドの中で寝ることしかできない。

 

 知らなかった筈の白亜の天井は、すでに見慣れてしまい、ここ最近は思考することが増えた。

 

 

 私は走ることが、嫌いだった。

 人間の頃からそうだった。走って得られる物は様々あったが、中でも一番嫌いだったのは体から滲み出る不愉快な汗だった。ウマ娘として生を受けても、それは変わることはなかった。だから走るのは嫌いだった。

 

 だが走るしかなかった。私の母に会うためには、競走ウマ娘になる他に道はなかった。

 私にも夢があった。競走ウマ娘ではなく、画家に、教師に、美容師に。

 

 だが、なれなかった。母に会うためには選ぶしかなかった。競走ウマ娘としての道を。

 それからはがむしゃらに、ただ走った。流れ出る汗に詰まる息、他のウマ娘と体をぶつけ、発生する傷の数々。辛かったが、それ以上に私は、母に会いたかった。だから走る。走っても嫌にならないように。

 

 『シンボリルドルフ』、勝ちよりも負けが語られる伝説のウマ娘。そんな強さを体現するウマ娘に勝てば、母は必ず私の前に姿を現してくれるだろうと思い続けてきた。

 

 

 走らないといけない。走らないと勝てない。私が走るしかない。私が頑張らないといけない。走るのは未だに好きではないが、頑張れば克服される。

 走って、はしって、ハシって───

 

「……あれ」

 

 ──ハシルって、なんだっけ。

 なんで、ハシッてるんだっけ。

 

「……もう」

 

 先ほどまで整理していた思考があやふやになる。

 ハシルという夢があったはずなのに、

 その夢は覚めてしまう。

 

「疲れたな」

 

 呟いた言葉は鉄のように怜悧としている。

 冷え固まった鉄は、不気味に冷たい。

 

 『ハシル』は嫌なこと。

 嫌なことを、どうしてする必要があるんだろう。

 

「わからない」

 

 長い間、頑張っても、私は『ハシル』が好きになれてない。最初から嫌いなものを、好きにはなれない。

 

「なんで、ハシらないといけないんだよ」

「──それはお前が、競走ウマ娘だからだ」

 

 突然かけられた言葉の主を、探す。病室の入り口、気づかぬ内にいたそのウマ娘。

 

 ハイリボルケッタが、そこにいた。

 

 


 

 

 エクスプレスの顔を最後に見たのはほんの一週間前はずだが、彼女は酷い顔をしていた。疲れきった顔に浮かぶぐちゃぐちゃな感情。後悔、憔悴、諦念。そのどれとも近く、どれも正解ではない。

 

「走り、観客を楽しませるのが、競走ウマ娘だ」

「……聞いてくれよ、ハイリ」

 

 彼女は窓の方に視線を向け、私と目を合わせようとしない。気まずそうにする彼女の姿を見るのは、初めてだった。

 

「昔から、走るのが嫌いだったんだ。走ると疲れるし、汗がベタついて不愉快だった。競走ウマ娘なんて、絶対なってやらねぇって、ずっと決めていたんだ」

「だがお前は競走ウマ娘になってるではないか」

「どうしてもならないといけない理由ができたのさ。だからならざるを得なかった。走ってれば、その内走るのも楽しくなったくるだろうって、そうやってずっと走ってきた」

 

 今までのエクスプレスからは考えられなかった静かなしゃべり。言葉の端々から、重い気持ちが伝わってくる。

 

「でもならなかった。デビュー戦やオークスに勝っても、走るのがまったく好きにならなかった。私は、走るのが嫌いなんだろうな」

 

 顔がこちらへ向けられる。笑っていたが、その顔はどこか儚く寂しげであった。

 

 

「私は、走るのをやめるべきなんだろうか」

 

 

 心に浮かんでいた返答は、自身でも驚くほどに呆気なく口に出ていた。

 

 

「バカいうな、お前は走るのが好きだろ」

 

 

 彼女の顔が困惑しているのがわかる。理解できないといった風だった。

 

「お前が一着でゴールした時や、他のウマ娘を抜いた時、そんな時でも お前は本当に走るのが嫌いだったか?」

「それは……」

「ほらな、口ではなんとでも言えるが、お前は本当は好きなんだ、走ることが」

 

 かつての私を彼女は想起させた。私も走ることに嫌悪していた時期があった。だがある日気づいた。私は走る以上に好きなのだ、抜かされ、絶望するウマ娘たちの表情を見れるレースが。そう気づくと自ずと脚は動き出していた。

 彼女もそうなのだ。走る理由が見つからないだけの、言うならば信念の無き者。信念が無いなら与えてやればいい。走る理由を見つけさせればいい。

 

「……走るのが、好き」

「そうだ。だがもし、それでも理由にならないというのなら──」

 

 ベッドに近づき、彼女の肩を掴み目線を合わせた。少しの静寂はテレビの音に掻き消え、雰囲気もあったものじゃない。顔を近づける。

 

「私が、お前の走る理由になってやる。それではダメか?」

「……アンタ、が?」

「そうだ」

 

 彼女は驚愕しているようだった。その時ちょうど、流れていたテレビが話す内容は、シンボリルドルフであった。その液晶へ視線を向ける。

 

「11月の菊花賞、そこで私は シンボリルドルフを抜いてみせる」

「……やれるモンならやってみな」

「所詮、愚者か」

 

 テレビ、世間、果てには目の前の彼女にまで、考えてる内容はみな同じ。

 私のようなウマ娘ごときでは()()シンボリルドルフは抜かせられないと。だが、本当にそれは正しいのか。

 

「シンボリルドルフは絶対ではないということを、私が証明してやる。ルドルフを倒した私を、お前は抜かざるを得ないだろう」

 

 彼女の肩をがっちり掴む、互いの距離は残り5cmもない。喉が知らぬ間に熱を帯びていたのは、私が叫んでいたからに違いなかった。

 

「だから、私の菊花賞を見ていてくれ! そして走り出してくれ!! 私を轢くために、走ってくれ!!!」

 

 らしくないことをしたと、この際になってようやく理解した。反射的に手を離す、羞恥心でまともに彼女の方向を見ることができなかった。

 彼女からの返答は、予想通り哄笑だった。体感時間にして実に一分、笑いが病室を包んでいる。

 

「ありがとな、ハイリ」

 

 だがその次に来たのは、目の前の彼女からの感謝の言葉だった。

 

「アンタがらしくねぇ事して、ようやく自分もらしくない事をしてたことに気づいたよ」

 

 先ほどまでの彼女とは違う。自信に満ち溢れ、我が道を道草を食いながらも進む奇走のウマ娘が、私の目の前にいる。

 

「走るのを辞めるだの、お前にルドルフは倒せないだの。そんな事言うヤツじゃアないんだよな、私は」

 

 そのウマ娘が今、その闘気に満ちた視線を私へと向けた。太陽のように燦々と光を放つ瞳は、私が良く知り、良く理解する者の眼だった。

 

「気持ち良いくらいにぶち抜いてやれよ、アンタの菊花賞なんだからさ」

「お前に言われずとも、最初からそうするつもりだ」

 

 目の前のウマ娘の名を、私はよく覚えている。高慢さが鼻につくそのウマ娘。

 何ら変わらない、私の知るキングダムエクスプレスの姿が、そこにいた。

 

 菊花賞まで、あと五ヶ月。




 更新日時が大幅に遅れてしまい。誠に申し訳なく思います。今後はこのような事態が発生しないよう、注意していく所存です。


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菊花賞

「やぁ、アードルフ」

「……よオ、ルドルフ」

「こんな場所くらい、姉さんと呼んでくれればいいのに」

 

 エクスプレスの病室、そこへノックと共に入りこんできたのはシンボリルドルフの姿だった。花を大事そうに抱え、手に提げてるバスケットからは色とりどりの果物の姿が見える。

 

「脚は、良くなったか?」

「良くはなってるらしい。退院はまだ当分先だけどさ」

「そうか、良かったな」

「良かったァァ? こっちは菊花に出られなかったってのに」

「……すまなかった」

 

 ルドルフは腰掛け、改めて目の前の彼女を見た。尚も吊られている右足以外に、傷らしい傷は特には見当たらない。だがその肝要の脚に、どれほどの傷があるのか。

 

「医者は来年の春には完治するって言ってたが、頑張って年末の有馬には間に合うようにするさ」

「病気平癒だ。無理はするなよ」

「ああ、わかってるって」

 

 忠告を真剣に聞いているのか聞いてないのか。おそらくは後者だろうなと、ルドルフは心の中で思考する。回想してみれば、昔から彼女は自信過剰な面があった。だがそれは逆に言えば、彼女が通常通りのコンディションへと戻りつつあるということでもある。

 

「んなことより、アンタはこんなところで油売ってるヒマがあるのかい?」

「ん? ああ……」

 

 ちらりと、ルドルフは窓を見て、そして壁にかかったカレンダーを確認した。窓から見えた景色は紅葉しきった椛の葉、カレンダーに書かれてある月日は──10月後半を指していた。

 そう、今日はクラシック三冠最後の関門、菊花賞開催日の前日である。

 

「お前に、言いたいことがあってな」

「私に?」

「明日、私は菊花を制し、見事クラシック三冠ウマ娘の名を得る。だから──」

 

 次の言葉を発しようとしたルドルフを、エクスプレスは手で制した。太陽は落ちかけ、暮れ泥む空が窓の外から見える。

 

「止してくれよ、菊花はまだ取ってないでしょうが」

「……私が負けると?」

「そんなこと言ってないさ、アンタは勝ちは99%確定していて、1%を引くのはほぼあり得ない話だ」

 

 落ちていく日の影で、隠れるルドルフの顔。だがその声色が伝えていた。彼女の、その笑いという表情を。

 

「だがその1%を切り開いてくれるって100%信じられるようなヤツを一人、私は知っている」

「聞かせてもらおうか、そのウマ娘の名を?」

「ハイリボルケッタ。皇帝すら下になるほどの高低差にて、更に上を目指す者の名前さ」

 

 飄々と、憎たらしいほどの言葉の数々はシンボリルドルフの闘争心に火をつけるのは十分すぎた。

 

「応援してるぜルドルフ、勝てるようにな」

 

 キングダムエクスプレスの喜色満面の笑みが、その火を静かな青く燃える炎にさせる最後の一押しだったのは、言うまでもない。

 

 

 


 

 

 

 何から何まで恵まれていた。両親は私に愛を持って接してくれ、その一方で金に困ることはなかった。頭もよく、テストでは勉強せずとも上位だった。体力も、生まれがウマ娘とあってか人間よりは上だった。私が天才だというのは、もはや誰もが知る『絶対』の常識だった。

 

 そして私は、そんな自身を嫌悪していた。

 

 私は絶対の天才だった。だからこそ生じる他者にとっての一位と自身の持つ一位との価値の食い違い。

 私が一時間程度の勉学で得た一位の裏で、ひたすらに努力を重ね、遊ぶ暇を制限し、それでも才能という絶対の壁の前に屈し、二位という称号になってしまう者たち。その泣き叫ぶ姿が、未だに頭から離れない。

 

 私は才能があった。才能しかなかった。努力の果てに手に入れるカタルシスとやらも、乗り越えて得る満足感とやらも、わたしが得られることは絶対になかった。

 だがその才能ゆえに、私がその世界に気づけたのだとすると感謝しかない。

 

 親に連れてかれた東京レース場。そのレースで最低人気だったウマ娘が、驚くことに圧倒的バ身で一位を獲得した時の光景。

 

 童心ながらも、理解していた。

 この競走ウマ娘の世界に、『絶対』がないということを。

 この絶対がない世界にて、得られるカタルシスとはどれほどのモノなのだろうか。

 

 画家、教師、美容師、なんにでも『絶対』に成れる私が選んだのは、そんな『絶対』が存在しない世界だった。

 

 そんな世界で、常に高き(ハイ)革命(リボル)を。

 私のハイリボルケッタという名前は、そんな意味なんだろうと、勝手に思ってる。

 

 

 

 そして、そんな世界だからこそありえない話だった。

 

『3枠、5番。シンボリルドルフ。一番人気です』

『このレースに勝てば、初となる無敗でのクラシック三冠制覇です。果たしてこのウマ娘に勝てる猛者はいるのでしょうか』

 

 絶対は絶対にない、とは誰の言葉だったか。

 絶対にこの世界にはないと思っていた筈の『絶対』。

 

 目の前の彼女には『絶対』があった。

 そのウマ娘、シンボリルドルフには。

 

 

 


 

 

 

「曇りかぁ……」

 

 ぼんやりと何の気なしに見上げた空の表情は曇り、はっきりとしていない。最先端な病室の人口的な光でも、この薄暗さを完全に消すことはできないらしい。

 

『さあ各ウマ娘それぞれゲートに入りました。出走のお時間です』

 

 テレビから流れる無機質なファンファーレの音は試合の展望を期待させるには十分なスパイスだった。液晶の奥で沸き起こる歓声がそれを証明している。

 

「かぁ~っ!! 出たかったなぁぁぁ~ッ!! 一着で勝ててたのになぁ~~ッッ!!!!」

 

 吐露した言葉は紛れもなく真だ。病室が防音なのかを一切考慮しない。嘆息と共に出た大声は、きっと迷惑千万なこと間違いないだろう。

 

「ま、仕方ないモンは仕方がない。頑張って私の仇討ってくれよー!! ハイリー!!」

 

 どれだけ喚こうと画面の向こうの彼女には聞こえる筈もないというのに、恥ずかしげもなくなぜ自分は応援できるのだろうかと自身に向けて詰問する。

 自答。多分それは何処かで自分たちが繋がっているからだろう。おそらくは魂に。

 

 その時ちょうど、ハイリが私の方を見て笑ったような気がした。或いは、それはテレビや、観衆に向けて笑ったのかもしれない。だが、16番人気で知名度もない彼女を応援しようとする好き者が、私以外にいるとはとても考えられなくて

 

「やっぱ、繋がってるんだなぁ……」

 

 曇天の空が、少し晴れたような気がした。

 

 

 


 

 

 

「仇討ち、か」

「どうしたんだ?」

 

 ハイリボルケッタが空を見上げていた。シンボリルドルフの怪訝そうな瞳は始めこそ、そんな突然の行動を見ていたが 察したかのように微笑むと、同様に灰空に目を向けた。

 

「……エクスプレスが、私にせがんでいるような気がしてな『仇を討ってくれ』と」

「はは、アイツらしいな。で、仇は討てそうか?」

「うーむ……」

 

 彼女は頭をポリポリと掻き、僅かばかり考えを巡らせている様子である。その芝居がかった演技のせいか、ルドルフにはその動作がどうしても、敢えて結論を言うののを遅らせているようにしか見えなかった。

 

「実は、結構難しそうでな、これが」

 

 観念の混じった声色には、苦く辛くの重みが含まれている。だがそれだけじゃないと、ルドルフは直感していた。ほんのりと、それは甘い香りがしている。

 

「まあ、だが、その分。楽しみでもある」

 

 甘いソレの正体に、ルドルフは気付く。

 それは、圧倒的な余裕。ヘラヘラと笑う彼女の笑いが突然深みを増した。さらに凄まじいのは、それだけのことで彼女の笑いは不適なモノへ、不適なソレから子供をあやすような挑発的な意味で変化してくという点である。

 笑顔とは、本来は威嚇の意味もあるそうだがそういう点で見れば彼女の魅せてくれるその満面の笑い顔は───

 

「……いい顔をしてる、ハイリボルケッタ」

「責めてものの情けだ、お前の敗北くらい笑って見届けられるようなウマ娘にならなくてはな」

「言うじゃないか」

 

 シンボリルドルフは静かに微笑んだ。

 

 以降で二人が言葉を交わすことはなく、静かに、厳かにゲートへと入っていく。感情に燃える観客とはかけはなれ、両者はただ。その時を静かに待っていた。

 

『さあ!! スタートです!!』

 

 したがって、開かれるゲートにいち早く対応できたのは、シンボリルドルフだけだった。ゲートの開かれる音が嚆矢となり、ハンマーから射出された弾丸のような走りは先頭集団の群れへ易々と合流でき、4位という地位は確固たるものとしている。

 

 対照に出遅れたのは、ハイリボルケッタであった。

 

 


 

 菊花賞の舞台である京都レース場には、一つの坂がある。通称を『淀の坂』。

 第3コーナーから第4コーナーにかけて存在するその坂の高低差は、なんと驚異の4m。さらに菊花賞は3000mという長さのため、この坂を二回通る必要がある。

 

 問題はその通るタイミング、なんと一度目の坂を昇るタイミングは───スタート時である。一斉にスタートを開始し、横に逸れるという戦法が使えない最初の場面でのこの坂は、ウマ娘にとっては致命的なのだ。

 

 スタートダッシュこそが肝要なこの菊花賞において、彼女の選択は英断、或いは愚策と呼ぶ者もいるだろう。

 だがハイリボルケッタは応えてくれるだろう。これは未来を拓く勇者の剣だと。

 敢えての出遅れ、それを望んでいた。

 

『出遅れたぞ2番、先行きが少し不安です』

 

 後続集団へ合流したならば、本来は先へ進もうと必死になる筈だというのに──

 そのウマ娘の笑みは止まることを知らず、その走りはとどまることを知らず。

 ハイリボルケッタの顔は依然として、焦ってはいない。

 

 


 

 

 『黄金の不沈艦』と呼ばれるウマ娘がいる。

 だがそのウマ娘の名前には、不思議なことに『不沈』を意味する単語は存在しない。

 ならばなぜ? それは不沈と呼ばれるのか?

 

 理由(こたえ)は彼女が『追込(これ)』だから。

 

 

 禁忌(でおくれ)を犯しても唯一構わない作戦がある。

 スタートが重要な競走に於いて、遅くても構わない作戦がある。

 後半にかけて徐々にスピードを出していく姿はまさに死神の歩。『追い込み』である。最後尾だった筈のウマ娘を一位にさせるその魔法は、多くのウマ娘を魅了させてきた。

 私もまた、それに魅せられた一人に過ぎない。

 

 

 悲しいかな、目の前の景色をどれだけ見ても、そこに皇帝(アイツ)の姿は見えない。それはつまり、競走に於いてもっとも重要なことである『先頭を意識する』ということができない。

 

 嬉しいかな。そんな先頭を見れないことが、こんなにも幸福だとは、先頭を意識できないのであれば、信じられるのはもはや私だけ。

 

『第2コーナー抜けて直進の滑走路へと突入しました。シンボリルドルフはまだ力を見せません』

 

 だからこそ、自分の肉体がどれほど信用できるのかなど(とう)に解っている。研鑽の脚、鍛練の走り、修練の肉体、この菊花のために誂えた『私』の心は、凪いでいた。

 

 それは諦念故か、勝ちを確信しているからなのか。それはきっと、()()で判明するだろう。

 

『さあ直線も終了し疲労困憊のウマ娘たちを待ち構えるのは、この京都レース場の名物の()()()です!!』

 

 高低差4メートルの坂。人が落ちて、打ち所さえ悪ければ死んでしまう高さの坂。

 最前線で戦い続け、もはや脚が限界のウマ娘たちを、その坂は容赦なく襲い速度を落とさせていく。それは、あの皇帝でさえも例外ではない。

 

 先頭集団のスタミナが切れたと確信した刹那。私の脚に力が籠められる。

 

 この坂でなければ、皇帝を抜くことは叶わない。

 

 今こそ高き革命を。

 

 私はそれを、放出した。

 

 

 


 

 

 

 辛うじて入手した新バ戦の映像から、ハイリボルケッタの作戦は追い込みだということがわかった。

 次にルドルフは、もし自分が追い込みならば、どこで勝負を決めにかかるかを考えた。

 

 出た結論は、この坂だった。

 

 そして予想通り、そいつは来た。

 そのウマ娘、ハイリボルケッタは。

 

 

 恐ろしい爆発力だった。高低差4メートルの上り坂など物ともしないようなその走りは、限界までスタミナを温存した追い込みでなければ行えない芸当。

 

『上り坂を駆けていくのは3番! 内から上がってきたのは3番! どんどん他のウマ娘を抜いていく!!』

 

 ここが分水嶺、ここで彼女を引き剥がさなければ負ける。確信めいた予感に、考える時間はなかった。

 意識を集中させる。直後、急速に色を失う世界、即座に音が消える景色、発現する私だけの独壇場。

 

 領域(ゾーン)、皐月賞の激闘にて目覚めた驚異の能力。そこに今、ルドルフは突入した。

 

 目の前にいた筈のウマ娘たちが見えなくなる。それはきっと、領域(ゾーン)にいる故の錯覚ではなく、本当に、抜かしたからであろう。

 

『――――――――!!』

 

 靡く髪は冷たく、心中にある炎は青く、しかし心地はよく。第4コーナーを曲がり終え、視界に見えるゴール板。何かを叫ぶ司会の声は聞こえず、静寂こそがルドルフの心を凪いでくれる。

 

「──へ」

 

 気づく、そんな孤高の世界に混じる、一つのノイズ。

 

「──こへ」

 

 振動が地面から伝播してくる。あり得ない筈のその音。領域が、侵されるかのような不安。脚は自然と、スパートをかけていた。本人には気づかなかったであろうが、そのスパートは凄まじい速度を誇っていた。気づけば残りの直線距離はもはや400mを切っている。

 

 

 このスパートでどのくらいのスピードが発せられた? ルドルフにはそれがわからなかった。

 だが、それはきっと背後にいたウマ娘など十分に引き離せて───

 

 

「何処へ、行くんだ?」

 

 

 引き離せて───いない?

 

 

 背後で挑発を行うその声の主の正体は、ルドルフにとってはつい先ほど言葉を交わした者であるというのは容易に理解できて

 

 

「……革命者(ハイリボルケッタ)

 

 

 疲労による汗とは別に、気味の悪い汗も流れていることにルドルフは気付く、次なる思考は、この汗は一体という自問、しかし答は、幾度待てとも帰ってはこず。

 

 当然だった。

 それはルドルフ(こうてい)が感じたことのない。

 否、皇帝という頂点に立つ存在が故に理解できない感情。

 

 その感じたことのなき物の正体は、革命。

 皇帝をその座から引きずり下ろさんと、革命が、恐怖として皇帝を今、襲い───。

 

 

 視界に色が宿り始める。しまったと後悔する暇などなく、シンボリルドルフに孤高の世界を魅せてくれた魔法は、解けてしまった。

 

 

 領域(ゾーン)、解除。

 

 

 直後、耳から聞こえた情報を、嘘ではないのかとルドルフは考えた。だがそれは状況から照らし合わせると、簡単に想像ができてしまい───

 

『せっ、先頭を走るシンボリルドルフの背後を、ウマ娘が1人、完璧に張りついています!!』

 

 またもや理解する。これこそが、私に恐怖を味会わせ、領域(ゾーン)を解除させるこの一連の動作こそが、作戦だった。

 完璧に彼女の策に嵌められた。

 

 顔の歪むルドルフに、ハイリボルケッタは静かに語りかける。その顔は対照的に苛つきを覚えるほどの笑みで、邪悪さが滲んでいる。

 

「ようこそ、皇帝よ。我々の凡庸たる領域(ゾーン)

 

 堪能してくれ、凡馬(わたしたち)の、世界というのを」

 

 ハイリボルケッタがルドルフの前に躍り出たのは、その直後であった。

 

 

 


 

 

 

 競馬に絶対はないが、彼女には絶対がある。誰かが言う。

 だがそれは転ずれば、彼女には絶対があるが、競馬に絶対はないということである。

 表面では最大限の注意を払っていた。だが、ライバルの筈のキングダムエクスプレスが今回のレースにいなかったことで、心のどこかに油断が生まれていたのかも知れない。

 

「マジかよ……」

 

 病室で、エクスプレスが最初に発した言葉はそれだった。青ざめた表情には焦りと驚愕が浮かんでいる。

 

 だがその一方で口元は緩み、ニンマリとした笑みが存在することに彼女は気付いた。喜んでるからだと、一瞬の答。しかし再び浮き彫りとなったのは、何故喜んでいるんだという新たな疑問。結論は至ってシンプルに出た。

 

「……すげぇ」

 

 応援している存在が、勝っているからだ。

 子供のように純粋な心の声が漏れてた。

 ハイリボルケッタ、彼女ならば、或いは──。

 

「……頑張れ、ハイリ」

 

 たった一人の声援が、病室に広がる。

 その一人で十分だった、革命が起こるのには、皇帝に近づく走りを見せるのは。

 

 


 

 

 

 

 身体(からだ)は動く。身体は疼く。身体は踠く。

 

 どうして、領域(ゾーン)に対応できた。

 

 息は苦く。息は辛く。息は痛く。

 

 そうか、末脚か。最後まで温存していたスタミナによる末脚のスピードで、私に食らいつけていたのか。

 

 全身は呼んでいた。全身は想っていた。全身は願っていた。

 

 だが先ほどので、その溜め込んだスタミナは尽きたに違いない。そうでなければ、彼女はとっくに私から距離を離している。挽回の余地は、充分に残されている。

 

 全身を加速させよと呼んでいた。目の前の革命者を倒せと想っていた。皇帝として、ここで負けは許されないと願っていた。

 

 負けられない。

 敗れられない。

 それは許されない。

 身体さえも、吐く息さえも、全身さえも。

 全てを、総てを。加速させよ。

 

『ここで更なる加速を見せたのはシンボリルドルフッ!! 風と化し、嵐と化し、颯と化し。前方のウマ娘を吹き飛ばさんと迫りきります!!』

 

 恐れることはない。イレギュラーは怖くない。そうでなければ、この頬を伝う水滴はなんなのだ。この熱き雫は、何故出ているというのうか。

 恐れているのか?

 畏怖しているのか?

 

『この距離で差し返せるかシンボリルドルフ!? 猛追のシンボリルドルフ!! 不可能ではない! 距離がどんどん縮まっていくッ!!!』

 

 思い返すあの日、アードルフが私たちから消えていってしまった日。自身の不甲斐なさに腹が立った。腸が煮えくり返るほどの無力感を味わった。強ければ、こんなことにはならなかったのだろうか。

 私があの日、彼女を止める勇気さえあれば

 このようなことにはならなかったかもしれないのに。

 

 ゴールが迫る。終わりの時が近付いてくる。

 だが彼女との距離はそれよりも近付いてる。

 

 目の前の革命者など、恐るるに足りない。皇帝は、革命など恐れない。

 

 私が負けるなどと

 

 無礼千万にも程が有る。

 

 

 再び、領域(ゾーン)突入ッッ!!!!

 

 目の前の彼女に、何を恐れる必要があるというのだ。

 

 ゴールを踏むのが許されるのは、私一人だ。

 

 

『両者ともにモツれるようにしてゴールイン!!』

 

 

 私へ向けられる歓声はスピーカーから流れる結果を掻き消した。観客席を一瞥した。溢れんばかりの多くの大衆が、私へ向けて一心不乱に手を振っている。喜んでくれている。そう、誰しもが疑わない。私の勝利。初めて達成するであろう。無敗の三冠ウマ娘というのを。

 それよりも気になったのは瞼から止めどなく出てくた、水の正体だった。一体、なんだったのだろうか。

 

「なんだ、泣いてたか?」

 

 ハイリにかけられた声で、ようやく理解する。

 涙だ、その痕。流したのは何時ぶりになるだろうか。最後に流した日はそう、アードルフが私たちの前から姿を消したあの日であるのを思い出した。

 

「……そう、か。泣いていたのか、私は」

「イヤミか? ……そんなことより、煽る材料ならいくらでもあるというのに……」

 

 ハイリボルケッタの視線が移動した。目的地は、電光掲示板の表示。

 

 ハナ差。

 私の勝利だった。

 

 

「……無敗の三冠、おめでとう」

 

 

 華やかな初の無敗三冠、応援を続けてくれた人々の歓声の中、辛うじて三本の指を掲げる。勢いを増す声援に、ハイリボルケッタのことを称える声は聞こえない。

 負けたというのに彼女は落ち着いている。その凪いだ心は諦念によるものだろうか。だがよく見れば、静かに喋る口調と裏腹に握った拳は固く、仄かに血が滲んでいる。

 

「さて、エクスプレスの奴になんと弁明すべきかな……」

 

 なんて強く、高貴なウマ娘だろう。悔しかろうに、目の前に自身を負かした相手がいるというのに、彼女は悔しさといった素振りを一切見せることなく、純粋に勝利を喜んでいるように振る舞っている。そんな存在が、この世にどのくらいいるだろうか。

 

「ハイリボルケッタ。エクスプレスに、伝えておいてくれ」

「……構わないが、何を?」

 

 問う彼女への返答は、イメージした通りにハッキリとしており───。

 

 

 


 

 

 

「『有馬記念で待つ』か……」

「すまなかった。勝てなくて」

 

 私の目の前で、その誇り高き革命者は頭を下げた。言葉には自身への戒めが籠められている。何かしらの言葉をかけようかという思考が頭を過るが、彼女には逆効果だろうと、それを一蹴した。

 

「……顔を上げてくれよ、ハイリ」

「合わせる顔など、私にはない。走る理由を、お前に与えてやれなかった」

「見つかったさ、走る理由は」

 

 彼女はついに、顔を上げようとはしなかった。冷静な言葉とは裏腹に、声は僅かに震えている。そんな彼女の肩を軽く叩く私の顔はきっと愉快に晴れていた。

 

「菊花賞でアンタの走りを見て、柄にもなく高揚した。ルドルフの前に立った時なんて、こいつなら本当にルドルフに勝ってしまうとすら思ったさ」

「……だが勝てなかった」

「そうだ、でも得られるものがあった。私に走れる理由があるとするならば、その得られた物以外にはない」

「それは……」

「悔しさ、だよ」

 

 皐月で負けた。菊花で負けた。悔しさしか残っていない。私はいつか、彼女にそれを精算させなければいけない。心中を青い炎が渦巻く。

 

「アンタの復讐を、私にさせてほしい」

「………」

 

 返事は来ない。必要もない。彼女の握り拳は私のベッドの上にあった。

 そこへ深い皺が刻まれていく。布団には水滴が染み込んでいた。

 

「……バカが、この私がそんなことをお前に頼むと思うか?」

 

 立ち上がった彼女の顔は見ていない。涙に濡れていたを知るのは野暮だった。夕焼けの破滅的なオレンジに晒された彼女は扉をあける。

 

「有馬の出走届けは……出しておいてやる」

「……ありがとな」

 

 ピシャリと閉じた戸。新たに背中に積んだのは彼女の想い。ずっしりと重たく、だが心地悪さは一切感じられず。

 

「上等だ、有馬で待ってろ」

 

 その時の私が笑っていることに気づいたのは、もう少し後の話。

 




 前話にてあんな大見得を切ったのにこの結果、誠に申し訳ございません。よろしければお気に入り登録、評価お願いします。

 次回では、僅かばかりの特殊タグを使おうと考えております。その是非を、今回のアンケートで決めたいと思います。アンケート協力のほど、よろしくお願いします。


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有馬記念

あけましておめでとうございます。遅れてしまいすいません。




 

 それは、暁だった。黄昏時の空は破滅的なオレンジに染まり、星空が仄かに瞬く時の話。

 オレはその日、とあるウマ娘に出会った。暮れ泥む髪色が煌めく、綺麗なウマ娘だった。

 

 

 


 

 

 

 歯痒い、孤独なキングダムエクスプレスの心情を代弁するというのなら、それ以外に言葉はないだろう。歯痒さはカレンダーを見る回数にも繋がっており、本日こうして十回目の日付の確認をしてしまう。

 

 理由は、ちょうど一週間後の予定にある。有馬記念、その四文字がエクスプレスの目を惹き付けてやまなかった。今から八ヶ月前の皐月賞、そこでシンボリルドルフに舐めさせられた辛酸、それを雪ぐ時が間近に迫りきっている。期待は止まない。

 

 不安の種はやはり、脚、だろうか。無論 まだ折れてるからという理由ではない。自分はこの長い間、骨折によりトレーニングを行わずにいた。そんな鈍りきった身体が、あのシンボリルドルフに通用するのだろうか、あの皇帝に罷り通るのだろうか。その不安と不信が、エクスプレスの心中に遍き、渦を巻いている。

 

「キングダムエクスプレス……よね? あなた」

 

 ふと聞こえたその声が、エクスプレスの思考を停止させた。ウマ娘だった。深いオレンジの髪と頭に被る麦わら帽子が似合い、対照に着せられた患者衣と──腰掛けている車椅子が、似合ってはいなかった。一体誰だろうか、自分のかとを知っているようだが。ルドルフを始めとした、長い病院生活の中で、これまで交わした会話の相手を思い返す、が、やはり、目の前の彼女に心当たりはなかった。

 

「そうだけど……どちら様?」

「ごめんなさい、私が一方的に知ってるのよ。あなたの走り、いつも画面で見させてもらってるわ。オークス優勝、おめでとう」

「あア……どうも」

 

 合点がいった。微々たる数ではあるものの、エクスプレスのファンは存在する。事実、入院したての頃は何個かの品物が届いていた。目の前の彼女もまた、その一人なのだろうと、適当に推測をつける。

 

「その足……」

「ああこれ? もう動かないのよ。レース中にドジっちゃってね」

「……すんません、無遠慮でした」

「いいのよ、もうずっと昔のことだもん」

 

 気になるのはやはり、彼女の足だった。抽象的ではあるが車椅子に乗っかっている足は、ウマ娘にしてはどことなく頼りがないような気がしたのだ。しかし不躾な問いかけを投げ掛けられても、彼女は気にするような素振りを見せないどころか、その足をパンパンと叩き、力強さをアピールしている。

 

「有馬記念、出るの?」

「当然。今度こそ、ルドルフの奴にギャフンと言わせてやります。だから観ていてください」

「ふふ、どこまでも一直線、若いって素敵ね。わかったわ、有馬記念当日には、久しぶりに私もレース場に行くことにするわね」

「えエ、是非とも」

 

 去っていく彼女へ手を振りながら、そういえば彼女の名前を聞いていなかったと後悔する。

 しかし、見分けは一瞬でつくだろう、燦然と光る彼女の橙色の髪は、遠目から見たとしても、間違えることはないだろうから。

 


 

 辺鄙な田舎で出会ったその幼いウマ娘は、ここから出ることを望んでいた。都会に出て、競走ウマ娘として走りたがっていた。

 奇遇にも、それは自分も同じだった。ウマ娘のトレーナーになることを望んでいた。こんな閉鎖的な環境ではない。とにかく束縛から逃げ出したかった。

 偶然の引き起こした意気投合。思いはやがて実行へと移される。数年後、オレたちは中央へ来た。

 


 

「……キングダムエクスプレスさん。二つの選択があります」

 

 荘厳な雰囲気だった。たかが診察室、しかし目の前の医師の面立ちは至って深刻で、相対する私に生唾を呑み込ませるほどには有無を言わせぬ迫力がある。

 レントゲン写真が二枚あった。足の写真だとは素人目に見てもわかる。そしてその内の一枚が完全な骨折をしているのも、理解できた。

 

「これは半年前──あなたがトレーニング中に骨折した際のレントゲン写真です。そしてこれが、つい先日検査した際の物となります」

 

 掲げられた二枚を比較すれば、その差は一目瞭然であった。見るも痛々しい惨状の半年前と、一見すれば完全完治を果たしたと見えたついこの間の写真。

 

「ここ、見てください。僅かながらではありますが、完治してない箇所があります。骨折をした直後でのこのような傷は、ともすれば前以上の骨折を引き起こすほどには危険なモノです……本当に最悪の場合、今後二度と、歩けなくなる可能性すら……」

「……とっとと話してくださいよ。そうやって引き延ばされるのが一番嫌なんだ」

「キングダムエクスプレスさん。有馬記念を諦めてください」

 

 詰まる所は、ここに帰結する。目の前の医師の眼差しは暗く、面差しは深く、それがやはり、現実であることを理解できる。

 

「私は医者です。そして、貴女の走りをデビュー戦から見させてもらっているファンでもあります。端から見ればその傷は小さい、出走は認められてしまう」

「良かったじゃねぇですかい、有馬記念には出られるってこった」

「走れなくなるかもしれないんですよッ!!!! アナタッ、怖くないんですかッ!?」

 

 目の前の医者が立ち上がった、滾る思いを座って表現しきれなかったのだろう。糾弾する嘆きは叫びとなり、大気を大きく震わせ、哀しみの刃を突き立ててくる。そんな言葉の刃が首もとに迫っているというのに、それに怯えていない自分も、やはり異常なのだろう。

 

「アンタ、デビュー戦からのファンだのと抜かすワリにゃあ私のこと殆ど解ってねぇんだな」

 

 瞳はもう、目の前の医者を捉えてない。言葉にはもう、彼への敬意は発散されている。知らず知らずの内に私も立ち上がっていた。この心中に遍いて、逆巻いている想いを、表現するために。

 

「足にヒビが入った足が折れた挙げ句の果てにゃもう走れない……それで?」

「それでって……」

「そりゃ怖いさ、膝がガタガタ震えてやがる。あの日のことを思い返すだけで、もう自分は走れなくなるかもしれない」

 

 だがそれでも、それ以上に、焦がれている。走れなくなる以上に止まらない震えがある。

 

「あのシンボリルドルフを轢ける。皇帝を轢ける、そう思うだけで、あの日のことなんて忘れられる、そう考えるだけで、走れなくなる怖さなんてなくなる」

 

 手が痛くなるほどに握っている。燃える闘志は焼けてしまうほどに熱く滾っている。

 

 たとえ、壊れても

 

「私はやる、シンボリルドルフを轢けるというのなら」

 

 目の前の医者は俯向いたままだった。私に呆れたのだろう。当たり前の光景、だから何も思わなかった。引き返そうとして、医者は私に問いかけた。

 

「あなたのその精神は、シンボリルドルフの上に成り立っている……もし、シンボリルドルフを轢いたら……あなたはどうなってしまうんです? 儚いあなたは、どこへ消えていくんですか?」

「…………」

 

 神のみぞ知る答えを、私が知るわけはなかった。

 


 

 当然、一介のトレーナーでもない高校生のオレは、彼女を鍛えることはできない。彼女は競走ウマ娘として、オレはトレーナーになるため、日々努力を重ねていった。

 彼女は競走ウマ娘として、どんどん勝ち進んでいった。有名になり、テレビに出ることも多くなった。だがオレたちはそんな中でも辛い時や、悲しい時があれば連絡をし、仲を更に深めていった。

 そんな折だった。彼女が深刻そうな表情で連絡をしてきたのは。『足に軽い怪我をしてしまった、レースに出るべきだろうか?』

 

 ……菊花賞を間近に控えていた時期だった。彼女は当時三冠の内二冠を既に達成しており、三冠はもはや確実とさえも言われていたのは覚えている。

 

 それでも、もしも過去に戻れるとするならば、オレは自分をぶん殴っていただろう。

 

 あの日の選択を、オレは未だに後悔している。

 


 

 花風(はなかぜ)(さくら)は一介の看護師である。子供の頃から願っていた看護師という職に就けるともあって、彼女の頑張り具合は最盛期であった。

 

 鼻歌と共に、彼女はその病室の扉へノックをした。返答はない、分かっていたことだ、その主は堅物なウマ娘だからだ。

 

()()()()()()()()()()()()()、お早うございま〜……す?」

 

 後に彼女は語る、自身の目を疑ったと。

 あるべきところにその彼女の姿はなかったのだと。

 窓が開いていたのだと。

 

「大変……!!」

 

 急いで廊下を走る彼女の風で、カレンダーが揺れた。クリスマスイブ前日の有馬記念の日は、今日だった。

 

 


 

 

 わかりきっていたことだった。アイツの性格を考えれば、こんな凶行に及ぶのは容易に想像がついたというのに。(あかつき)(あきら)は、電話に応じながら、そう後悔した。

 

『もしもキングダムエクスプレスさんの姿を見ても、あまり刺激をせず、我々に連絡してください』

「んなウマ娘を猛獣みたいに……」

『彼女は、猛獣なんかよりも凶暴ですよ』

 

 病院からの連絡を切られ、今一度思い返すのはやはり、あの出会いの日だった。新米の自分が、どうせ今年もウマ娘のトレーナーにはなれないと諦めつつも安堵していた矢先に現れた、超特急(キングダムエクスプレス)。ハイリボルケッタという新たなメンバーを引き連れて、共に駆け抜けていった日々。コートを羽織る。

 

「ホント、なにやってんだか……罪滅ぼしのつもりか? オレは……」

 

 ぼんやりと、脳裏に浮かぶ無情なテレビの光景。忌まわしき、()()()の情景は、今でも後悔に染まりきっていて、懺悔を許さない。帽子を被る。

 

「アイツのトレーナーらしいこと、何一つやってねぇからなぁ……」

 

 医師の診断も一緒に聞いてやれず、骨折したっていうのにアイツが寝ている間にしか見舞いに行けず、彼女の悩みに気づいていても尚、手を差し伸べられず。そんな自分を、果たして彼女はトレーナーとして今も認めてくれているのだろうか。いや、虫の良すぎる話か。マフラーを巻く。寒さ対策は入念だった。

 

「せめて、これぐらいやれないとな」

 

 足がまだ完治していないというのに未だ走ろうとする彼女を止める。その程度もできずに、一体自分の存在意義はなんなのだろうか。扉を開けると、雪にまみれた銀世界が視界に入ってきた。

 

 トレーナーとはなんだろうか、ウマ娘に、トレーナーなど果たして必要なのだろうか、皐月賞でのハイリボルケッタとの会話が、突然脳裏に甦ってきた。

 

『我々は過ちを犯す。才能に溺れ 独りよがりになる時、レースで故障して自己嫌悪に陥る時、明日のレースで巧く走れるか不安な時。その時、独りよがりを叱り、自己嫌悪を解消し、不安を支える存在が必要となる』

 

 そうだ、そんな時にこそトレーナーがいるんじゃないか、トレーナーのオレが、アイツの悩みさえ解決できなくて、なんになるっていうんだ。

 

「オレはもう、逃げないぜ。エクスプレス───()()()()()()

 

 人混みに紛れ、彼女の姿を探す自分の気分はさながら探偵のようだった。

 

 


 

 

 運ばれる命令、故に運命。ならば、運命とは誰によって運ばれるのだろうか、どこへ運命は流れ着くのだろうか。

 思うに、確信めいた奇跡を運命と呼ぶのだとするならば──二人の出会いとは奇跡でもあり、運命でもあった。とにかく、キングダムエクスプレスと暁暁の雪降る中での邂逅は、偶然によるものだったのだ。

 

 暁は、改めてキングダムエクスプレスの姿を見た。冬だというのに、患者衣に見を包み、尚も前進を続けている彼女は、見ていて痛々しいの一言に尽きる。指の先は霜焼けで赤く腫れ上がっている。そして、体の至るところに散見される真新しい傷痕は、仮にも今から出走するであろうウマ娘の姿ではなかった。

 

「よお、エクスプレス」

 

 暁の呼びかけに、ようやく彼女は彼の存在に気づいたらしい、手を振り答える。

 

「おオ、誰かと思いやトレーナーじゃないですか、もしかしてだけど、私の見送り?」

「バーカ、テメェを止めにきたに決まってんだろ……病室は確か二階の筈だったが、どうやって降りてきたんだ?」

「そりゃもう、飛び落りるしかないでしょ、二階だったから、そこまでの怪我をせずに済みましたけどね」

 

 エクスプレスの乖離している返答に、暁は耳を疑いこそするが、こいつならばやりかねんと頷きかけてしまう。その異常な言葉のせいで、場が彼女に呑まれてきている、悪い兆候であった。

 

「トレーナーこそ、一体こんなところで何を? 入院中、見舞いらしい見舞いにも来ずのアンタが、どの面下げて私を止めに? 是非とも聞いてみたいもんですよ」

「……ああ、何もしてこなかった。だから、せめてトレーナーとして当然の行いはやっておこうとな」

「うーん。あまりに感動ポルノの出来が悪くて、涙が出ちまいそうです」

「……ひとまず、場所を移そう。ここは、人が多い」

 

 有馬記念が始まるまで、猶予があるのかと言えば、時間はあまり残されてはいない。だというのに目の前の彼女が提案に応じた真意が、暁にはわからなかった。いや、もしかすれば、自分は解ろうとしなかっただけなのかもしれない。

 だからこそ、知りたいのだ。

 

 


 

 

 冷えきった寒空、人混みから外れた公園のベンチに、キングダムエクスプレスと暁トレーナーは座っていた。トレーナーは私に羽織っていた上着を被せてくれて、コーヒーを奢ってくれた。隣に座る彼の姿を見ると、皐月賞のあの日のことが自然と思い出してくる。

 ルドルフに敗けた屈辱の皐月賞、敵討ちではなく、純粋な勝ちたいという気持ちをトレーナーは私に覚えさせてくれた。だが今の彼の目はそれ以上に真剣で、そして深刻そうであった。

 

「とあるガキがいた。鄙びた田舎で育ったガキだった。ガキは、中央でウマ娘のトレーナーになることを望んでいた」

 

 彼が静かに紡ぐ言葉には、先ほどまでの軽さはない。吐く息は白く、そして吐く言葉はそれ以上に潔い。

 

「ガキはある日、とあるウマ娘と出会った。綺麗なオレンジ色の髪の、ウマ娘さ。ソイツもまた、中央で競走ウマ娘になりたがっていた。二人は一緒に中央に出ようって誓って、その約束は叶った。ガキはそのウマ娘が好きでなぁ、トレーナーとしての勉強を必死になってやってた一方で、そのウマ娘のレースをいつも応援していた」

 

 何かを懺悔するかの如く、罪を自白するかのように、隠していたことを打ち明けるかに見えれば、重い荷を下ろしたかのようとも言える仕草が、今にも落ちてきそうな蒼穹を見上げる彼に、寂しさを与えていた。

 

「ある日、彼女に悲劇が訪れた。骨にヒビが入った。無理が祟ったのかもしれないし、神様の気紛れだったのかもしれない。彼女はガキに電話をしてきた。内容はこうだ。『次のレースに出るべきだろうか?』」

「それって……」

「そうだ、テメェと同じだよ。エクスプレス」

 

 驚愕の新事実に驚くばかりの私をチラリと一瞥するも、トレーナーは特に気に掛ける様子を見せない。それどころか、彼はあろうことか私を見て鼻で笑ったのだ。いや、もしかしたらそれは、自分に向けて、嘲笑ったのかもしれない。しかし、真意は杳として知れなかった。

 

「ガキは……バカでアホで間抜けなガキはよ……何も深く考えずに、あろうことかその出走の後押しをしちまったんだよ」

 

 トレーナーは顔を手で隠してしまう。漏れ出たか細い言葉と共に、見えない彼の顔から聞こえてきたのは、すすり泣いた後悔の音だった。

 

「……トレーナー、そのウマ娘は───」

「もう、歩けねぇ。もう、走れねぇ。あの菊花賞で、アイツは、アイツは………足が……!!!!」

 

 突然うずくまり、口を抑えるトレーナーに、自分は何もできなかった。しばらくして、平静を取り戻した彼は、頼りなさげに笑んでくる。対象は、私? それとも彼? わからなかった。

 

「……オレはよ、そんな過去にずっと囚われてる。憐れな奴隷なんだ……、一緒に診断結果に立ち会わなかったのも、お前が起きている間に見舞いに来なかったのも、全部。怖かったんだ……また、アイツみたいな奴が増えてしまうって思っただけで怖くて何もできなくて、震えが止まらなかった……、本当に……ホントに、申し訳ない……!!」

 

 涙を流しながら、彼は頭を下げてくる。下げてきた彼の姿を受け止められきれなかったというのに、私はその光景を見てあの日みたいだと、ふと思った。

 

『私を、強くしてくれ……!! シンボリルドルフを轢き逃げられるほどのウマ娘に私をしてくれ!!』

 

 トレーナー、アンタのおかげで、私は初めて私として生きられるようになったかもしれないんだ。どこまで、あの日と似ていると、思わず嬉しく、笑ってしまった。それが、彼にも伝わったらしい。鬼気迫る表情で、私を睨みつけ、激昂を顕にする。

 

「なんだよ……!! なにが!! おかしいんだよ!!」

「なに、あまりにも過去に囚われすぎたアンタに、笑っちまっただけさ」

「なんだと……!!」

「トレーナー。私が誰か言ってみろよ」

 

 そうだ、思い返せ。理解してみろ。一体、トレーナーの眼前に不敵に佇み笑みを零しているウマ娘の名前はなんなのか。

 

「? キングダムエクスプレス……」

「そうだ、私はキングダムエクスプレス。シンボリルドルフを轢き逃げられますようにと願った。鉄塊だ。アンタが一緒くたにしている、その足の動かないウマ娘じゃねぇ」

 

 私の足は動かないか? 違う、私の足はどこまでも自由に、どこまでも連れて行ってくれる。私の足は動き、その鉄塊の名前を思うがままにする、ウマ娘だ。

 

「私は、折れねぇ。この程度で、折れてたまるかっての」

「……んな、そんな理由通じる訳がねぇだろッッ!!!!!」

「通るさッ!!! 私を誰だと思ってる? シンボリルドルフに今やただ一人反抗する、唯一のウマ娘が!! このキングダムエクスプレスがこんなところでリタイアするようなヤツじゃねぇッッ!!!!」

 

 激情に駆られる目の前のその無垢な少年を、私は決して見捨てない、あれは私なのだ。シンボリルドルフに縛られている私のように、彼もまた、そのウマ娘に意図せず黒い糸で拘束されてしまっている。

 だから、見捨てない。見捨てられない、あのままでは、彼はいずれ壊れてしまう。そんなのは、私だけで充分なんだ。

 

 あの日、ハイリボルケッタが私にしてくれたように、逃げられないように、見過ごされないように、その肩を力強く握り、目を私へと捉えさせる。

 

「トレーナー!! なんでアンタが私にオークスまでの二ヶ月間、水泳しかさせてくれなかったのか知ってるだろうが!!」

 

 そうだ、皐月賞で敗けて、オークスに集中するであろう二ヶ月間、私はずっと水泳をやらされた。だが結果としては、そのトレーニングによって得られたスタミナが功を奏し、見事オークス優勝。トレーナーは一度たりとも私に走るという練習を許してはくれなかった。

 今にして思えば、あれは速さだけならオークス優勝を易易と狙えると信じてくれたからだろう。

 全身を、熱い感情が渦巻いている。痛みによるものではない。むしろ、温かい。

 

「アンタはキングダムエクスプレスの速さを!! 轢き逃げを!! 最後まで信じてくれたからだろうが!!」

 

 信じてくれた。諦めないでくれた。暁トレーナーのウマ娘に対する情熱は暁の空のように紅く燃えている。胸の奥には、今でもその熱量は増していくばかり。

 アンタの信じた俺は、か弱くて、吹けば飛ぶような、そんなウマ娘だったのか?

 

「一度信じたなら!! 最後まで貫けよ!!  俺のあの日のスカウトを、アンタは無視することだってできたんだ!! それでも引き受けてくれた!! ここまで連れて行ってくれた!!」

 

 そう、思い返せばあのトレーナーとの出会いの日、トレーナーはその気になれば俺の誘いに首を横に振ることだってできた。でもしなかつた、どうしてか? 信じてくれたから。俺となら、どこへでも行けると思ったからだ。

 

「だからトレーナー……!!」

 

 目の前のその男は、もう言葉を発さなくなっていた。膝から崩れ落ち、二本の腕と脚で か弱くなった己の身体を必死に支えてる。側に歩み寄る、確固とした声で言い放った。

 

「信じて」

 

 俺の言葉に、目の前の曇った表情のトレーナーは顔色を変えず、静かに問うてきた。

 

「……どこまでだ?」

「果てるまで」

「……どこを目指すんだ?」

「果てまで」

「……果てってどこだよ?」

「許されるまでなら、どこまででも」

 

 許されるならば、シンボリルドルフを轢けるまで。苦難にもがく面は見るに耐えない。和やかな顔の俺とは対象に、トレーナーは呻く。

 

「……クソッ!! クソッ!!!」

 

 何かを許せないように、葛藤に震え、できる限りの悪態をつく。やがてと立ち上がると、尚もまた懺悔した。

 

「オレってヤツはホントに、バカで間抜けで能無しで……」

 

 拳を震えさせ、今にも自分を殴りそうな勢いだった。だがそれっきり彼が何かを発することはなく、静寂がいつまでも続くような気すらした。ふと、目の前の男が立ち上がる。何かを信じたような目をして。

 

「……行くか。エクスプレス」

「行くってどこに?」

「菊花に決まってんだろ。勝負服なら車の中にある」

 

 言いながら歩いていくトレーナー、この距離ならばきっと聞こえてもいまい。

 

「……ありがとな、トレーナー」

 

 


 

 

 なぜ、こんなことをしでかしたのだろうと、暁は思う。車を運転する中でも、その気持ちは変わらない。だが、そんなことを思いつつも、不思議と後悔はなかった。どちらかといえば、ある一種の清々しさがある。吹っ切れたのだと、自分なりに解釈した。

 これでエクスプレスもあのウマ娘と同じ道を辿れば、元も子もないというのに、不思議と、それに対してあれこれ苦悩しようとは思わなかった。それは思考を放棄したからか、それとも──

 

「どうした? 何ジロジロ見てんだ?」

「いや……なんでもねぇよ」

 

 このウマ娘を、自分が信じたことができたからだろうか?

 キングダムエクスプレス。本当に奇妙なウマ娘に、オレも巻き込まれたものだ。なぜあそこまでシンボリルドルフに拘るのか? それは暁には知る故のないことだ。しかし、それならば最後まで見届けよう。

 

「なんでもいいけど、急いでおくれよ、とあるウマ娘を待たせてるんだ」

「ウマ娘ェ? お前が? 珍しいな、どんな奴だ?」

「名前は知らない。車椅子に乗ってて、綺麗なオレンジ色の紙をしたウマ娘だった。私のファンだとも言ってたし、足が動かないとも言ってた」

「……なんだと?」

 

 エクスプレスが話すその待たせ人の特徴は、暁を動揺させるには充分すぎた。足が動かない、綺麗なオレンジ色など、それらの特徴はまさに、暁の後悔の元でもあるウマ娘の特徴とも完全に一致しているからだ。動揺は運転にも現れ、車体がブレる。それで、エクスプレスも察したらしい。

 

「……なあ、トレーナー。そのウマ娘って──」

「まったく……運命ってのは恐ろしいな」

 

 大きくかぶりを振って、暁はボヤいた。そのウマ娘に関して話したいことは沢山あったが、そんな時間はもうないことに気づき、それ以上暁は口を噤んだ。

 

「……っと、ほら。到着だ」

 

 車を止め、着いた中山レース場を見上げる。既に勝負服に着替え終えたエクスプレスは車を出ようとするが、暁には、一言を言わないと気がすまなかった。

 

「……こんな判断をして、ホントに悪いと思う。もしこのレースで、万が一のことが起これば───」

「よせよ、ありもしないことをベラベラと。夢物語を語るなら、私がルドルフに勝つことでも考えておいておくれ」

 

 暁から見たエクスプレスの背後は、どこか儚げでもある。しかし、エクスプレスはただある景色を夢見て、周囲に気を配れないだけなのだとも暁にはわかっている。彼女の見る景色はただ一点の曇りなし、シンボリルドルフを倒す、その日の景色のみ。

 

 


 

 

 天色(あまいろ)という色がある。雲ひとつない快晴の空を思わせる鮮やかな青色のことだ。

 晴れ晴れとした蒼穹を思わせるその色は人々の心を何処までも晴れ渡らせる。事実、曇りよりも晴れの方が落ち着くという意見は多い。

 そんな天色に塗れる空を、彼女は見上げていた。

 

「懐かしいわね……こんな熱気をあの頃は平然と受け止められたのだから、羨ましくなっちゃうわ」

 

 群衆が巻き起こす情熱の風に当てられ、観客席にいたウマ娘の暁色の髪が靡いた。沸き立つ烈風はかつて、彼女が菊花賞でこの一身に感じたことのあるものであった。

 『ブライメラー』。かつてはクラシック三冠制覇に王手をかけた筈の時のウマ娘は、この有馬記念の観客席に一人寂しげに座り、その情景に浸っていた。ただし座っているのはただの椅子でなく、車椅子である。そう、ブライメラーの脚はもう動かない。

 

 どこまでも飛べる、どこまでも行ける、あの辺鄙な地方から()と抜け出した時は、そう思っていた。あの時までは、そう思っていた。それが今や、このザマである。彼女の足は、もう動かすことができない。彼女があの日、自分の運命をあの男へ託した時から、もう動くことは叶わない。

 

「……久しぶりだな」

「あら……久しぶり暁ちゃん」

 

 ふと隣に人の気配を感じ、ブライメラーはそこを向く。彼女の隣に、オトコがいた、そして、彼女はその正体を知っていた。(あかつき)(あきら)、彼女の足を動けなくさせた張本人が静かに、隣の席に座していた。

 

「どうしてあなたがこんな所に……」

「ほれ」

「?」

 

 クイと、暁が向けた指の先に、あのウマ娘がいた。銀みがかった髪、パープルピンクの際立つ勝負服。それはブライメラーの応援しているウマ娘、キングダムエクスプレスの姿。

 

「アイツの……トレーナーやってんだよ」

「まあ……」

 

 驚嘆したような声を上げもう一度、キングダムエクスプレスの身体を観察する。初めこそ暁はただ黙々と、レース開始の時を待っている。だがやがて、重く閉ざされた筈の口を開いた。

 

「……なあ、ブライメラー。あの日のことなんだけど……」

「ああ? 菊花賞の?」

「菊花賞の、って」

 

 淡白とした返答に、暁は驚きを隠せない。彼女を菊花賞に出させる決断をさせた悪魔は彼なのに、彼女から走ることを奪った元凶は彼だというのに。目の間の彼女はそんな過去などまるでなかったように接している。

 

「良いのよ、あの日のことは、もう」

「オレの気が済まねぇ。オレがあの日……レースに出るなって言ってれば……クラシック三冠は獲れなかったかもしれない。だが少なくとも、走れなくなることはなかった……」

 

 拳を痛くなるほど握りしめ、後悔は暁を掴んで離すことはない。その寂しげな背後にまとわりつく後悔の念はキングダムエクスプレスに向けた態度のように、彼を蝕み続けている。そんな彼を見るブライメラーの瞳は、深刻さが目立っていた。

 

「確かに、あの時は色々な物を憎んだわ。世界、マスコミ、貴方。でも何より許せなかったのは、私自身」

 

 静々と言葉を紡いでいく中で、ブライメラーは過去を振り返る。あの菊花賞の日、二度と走れないと知ったあの夜のこと、渾然する想いを整理できぬままに世間で囃し立てられ、人々は勝手に同情していく。そしてそんな中で、鳴り響くたった一人からの電話を無視し続けてしまっていた自分のことすらも。

 

「貴方は、優しい。世間が妄言を垂れ流し消沈していた当時の私に、貴方はいつも電話してくれた。でも、私はそれに出ようとしなかった。何度も携帯は鳴っていて、留守番電話か流れる貴方の悲痛な声を何度も聞いていたというのに、私は必死に耳元を覆い隠して、貴方から逃げていた」

 

 そしてしばらく経って、暁からの連絡もとうとう無くなった。真の孤独が、ブライメラーを襲った。そこでようやく彼女は気づいたのだ。自身がどれほど愚かな行為をしたのか。

 

「私は、何もしなかった。貴方は何度も私に救いの手を差し伸べていたというのに、それを拒んだのは、私。だからこれで、お相子ね」

「お相子って……」

「そして、彼女」

 

 ブライメラーの指さす先に、エクスプレスの姿がある。

 

「彼女もまた、私と同じ道を歩もうとしている。まるで時が戻ったように、時計の針が一周して、元の位置から始まるように」

 

 言葉の意味が暁にも理解できた。菊花賞、足の怪我。偶然にしては出来すぎの定め。だから、結末もある程度の予想はつく。思考を読んだかのように、ブライメラーは言う。

 

「でも、あの時とは違う。時計の針は、戻っているように見えて未来に進んでいる。私の時みたいに沢山のファンがいるわけではない、でもその分貴方と私の声は届きやすい。だから心の底から信じましょう。私たちにはそれしかできないけれど、それはあの時にはできなかったことなのだから」

「ああ……そうだな、それしか俺たちにはできないんだからな」

 

 澄み切ったブライメラーの視線がエクスプレスを射抜く、同時に、暁もまた、エクスプレスを見据える。思いが届くのか、願いは叶うのか、それはわからない。だが、この試合が大きな転変を齎すと、暁は予感を隠せなかった。あの超特急が、皇帝を抜き去るその予感を。

 

 


 

 

 シンボリルドルフはニヤリと、笑みを溢さずにはいられなかった。無敗の三冠ウマ娘となった彼女に唯一反旗を翻さんとするウマ娘がさながら山のように眼前に聳えていたからだ。膝の高さにすら届かないであろう小さな山ではある、しかしその山は注意を怠れば足を躓いてしまうことすらあると、私は知っている。それでもつい笑いが漏れてしまうのは、そんな小山ですら、これまで私の前に現れたことはなかったからだ。

 

 小山の名を、キングダムエクスプレスと呼ぶ。そしてキングダムエクスプレスは、どうしようもなく汚れていた。

 

「……皐月賞、以来かな? エクスプレス」

「アンタの見舞いを除けばそうだ。ルドルフ」

 

 雰囲気でわかる。私が領域(ゾーン)を発現させた皐月賞のときよりも、革命者(ハイリボルケッタ)が私を脅かした菊花賞のときよりも、おそらく彼女はそれらを超えた強さを身に着けていると。

 

 ところが、違和感が一つ。

 

「みたところ、全身に打撲を負ったらしいな。それに、足まだ完全には完治していないらしい」

「……気づいてたのなら、止めるくらいしろよ」

「止めないさ。私が君の立場でも、同じ選択をしていた。そして君が私の立場ならば、そんな私を叩き潰していただろう。ならば、私もそれに則るまでのこと」

「……その解答を、私は待ち望んでいたんだ」

 

 勝負服の下に見える打撲痕、痛みに耐えてるかのような覚束無い足取り、右足を引き摺るように歩く様は、痛々しい以外の言葉が見つからない。だが、その眼には尚も闘志が宿っている。ならば目の前の奴は、私の喉笛を噛み千切らんとするに決まっている。だから、私も全力で応えなければならない。

 

「見せてもらおう、私を凌駕すると豪語するその超特急の走りを」

 

 案内に従いゲートに向かう私に、エクスプレスは声もかけない。だがそれでいい。それでこそ、勝負の世界。勝つのは私だ、鉄塊。

 

 


 

 

 

「いつつつつ……」

「大丈夫? あなた怪我してるみたいだけれど……」

「ああ、大丈夫さ」

 

 隣のゲートにいるウマ娘にさえ心配されてしまう。適当に誤魔化すがそれよりも理解したのは、足と全身の痛みが予想以上に堪えるものだということ。今回のレース 最大の障害である痛み。これは大きなアドバンテージである。勝てるという絶対の自信が我が身を襲う。だがそれは、そうと思い込まないと勝てないからだ。シンボリルドルフは強い、だから全力で行く。

 

『各ウマ娘、ゲートへ入って行きます』

 

 スピーカーから告げられる事実に頭を切り替える。ゲートにいるのはもはや私ではない。キングダムエクスプレスだ、シンボリルドルフの最大の障壁となる存在だ。

 

『今、スタートが切られました!』

 

 目の前のゲートが軽快な音と共に開かれる。足に力は込めてある、風を肌に感じた、これは加速の合図だ。

 

 試合は既に始まっている。死合はとうに開催を告げている。この場には、この日のために死ぬほどの努力をしたウマ娘のみがいる。聖域の中で繰り広げられる聖戦には血は流れない、流れるのは涙で充分だ。此度、涙を流すのは、私ではない。勝つのは私だ、皇帝。

 

 


 

 

 残念ながら、キングダムエクスプレスは歴史に名を残すほど偉大なウマ娘ではない。偉大な功績を成し遂げたわけではないし、よく語られるほどのウマ娘でもない。

 そんなウマ娘だから、脅威的な集中力を要される領域(ゾーン)なんてものも当然使用できない。

 

 話は変わるが、有名な話に骨折するとその部分の骨が太くなるという物がある。後々、これはガセであるということが判明した、しかし、その一部は本当のことである。骨は確かに太くなる、ただし、それは骨折中の場合のみである。

 

 何の因果か、仕組まれた偶然か。キングダムエクスプレスは今骨折中で、それが痛くて仕方がない。だがそんなものに注意を惹かれれば敗けるのは必然、だから彼女はレースのこと以外を考えてはいけない。逆に言えば、それはレースに極端に集中しているということ。

 

 そう、彼女は歴史に名を残すほど偉大なウマ娘ではない。だが、激痛による過度の集中、そして骨折中により太くなった骨、これで、全てのピースは揃われた。

 

 キングダムエクスプレス

 不完全ながらも領域(ゾーン)発動。

 

 そう、これは不完全にすぎない、一瞬でも集中が緩めば、そこでこの領域(ゾーン)は途切れてしまう。そして、そんなか細い希望の光がおそらくは、シンボリルドルフを倒せる逆転の一手。

 

 勝負は、有馬記念2500mの長距離を走りきれるかに掛かっている。

 

(逃げ切れば勝ち、追いつかれれば負け……まるで)

 

 ──そう、これは鬼ごっこ。子供の頃と何ら変わらない、シンボリルドルフよ、あの時の遊戯をもう一度だけ。

 

 行う作戦は変わらない。『轢き逃げ』、彼女のスタイルであり、彼女の激情の体現。殿を務めるのは彼女だけ、引き連れ、やがて第1コーナーを抜ける──瞬間。ズキリと彼女の脚が悲鳴をあげた。

 

「イッ!?」

『どうしたことでしょうかキングダムエクスプレス、速度が落ちていく。足を休ませる最後の直線はまだまだ先だぞ』

 

 激痛がキングダムエクスプレスの集中を鈍らせた。領域(ゾーン)特有の、白亜の景色に彩色が宿り始める。聞こえない筈の実況の声が聞こえてくる。焦っていくキングダムエクスプレスの思考は、とある怒号により冷製さを取り戻す。

 

「何やってんだエクスプレスッッ!!! このままじゃルドルフに抜かされるぞ!? それでいいのかよ!! この……」

「……良いわけ、ねェだろうがあぁァァッッ!!」

「───!!!」

 

 その声をエクスプレスは知っている、自分をこの二年間支え続けてきたトレーナーの声を!! 忘れるわけがない!! 領域(ゾーン)再突入!! 暁の悪罵など聞こえる筈がない!! 

 

 第2コーナーを周った、足の痛みは感じない。直線に突入する、初めて挑む直線に、疲れが貯まっているのがわかるしかし、エクスプレスの周りで何が起こっているのかはわからない、そんなものに意識を割けば、敗けてしまうのは必然だから。一つだけわかるのは、自らが先頭をぶっちぎっているということだけ。

 

 直線でもペースを落とすことはない。轢き逃げ戦法にペース配分という言葉は存在しない。全力を以上を引き出す、110%を引き出す。それが轢き逃げ戦法なのだから。

 

 第3コーナーに入り込む、視界が陽炎のように揺れていき、そこでようやく息があがり始めてるのに気づいた。そろそろ休息の時間だ。だが、猶予などは存在しないことに気づくのはそれから数秒と経たない頃であった。

 

『────!!!』

 

 第4コーナーを走り終えようとした瞬間、ナレーターが興奮しながら何かを叫んでいるのがわかった。内容は聴き取れなかったがおおよその予想はつく。そして、見事にそれは的中したらしい。

 一人のウマ娘が近づいてきている感覚がする、襲われそうになる錯覚を覚える、他の追随を許さない孤高の走りに、覚えがない筈がない。

 

「シンボリ、ルドルフゥ……ッ!!!」

 

 吐露する名前は、数えるのが億劫になるほどの回数叫び、想った相手への敬意と敵意が含まれている。皇帝を冠するその絶対のウマ娘は、手加減を加えた様子すらなく、私を喰らんと持ち合わす獰猛な牙で私へ接近してきた。

 

 だがひとまずは、私はルドルフに1位の座を譲らなければならない。突如として走るのをやめ、停止する私の姿を見ても、それを疑問に思う観客の姿はおそらくほとんどいないだろう。皆が、その走りの奇特さと異質さを理解しているからだ。

 

 手を地面に置く、上体を撓らせる、脚を地面に張りつけ、引き伸ばす。ターフの土が盛り上がり足裏をガッチリと支える。これが踏切板の代わりである。クラウチングスタートは、もはやこの走りを象徴するポーズだ。

 

 今までは5着のウマ娘に抜かされたら走り出すようにしていた。しかし今回は違う。意識するのは己の脚、僅かな痛みを無視し、回復の時を待つ。1時間が経過したようにすら錯覚するほどの集中力が体を襲い、身体を休ませる。

 

 静かに揺らぎ、静寂に身を包ませる。何も聞こえない世界で、荒れた息遣いのみが聞こえる世界で、足の疲れが取れていくのを感じた。

 

 ──往ける。実感と共に、風が肌を切る。

 

 荒れ狂う竜巻のように、鉄線の上を轟く超特急のように。ターフの上を抉れる土草を彼方に置き去り、走り去っていく。前方に影が見えてくる、皐月賞では踏めなかった影、シンボリルドルフの影を、今、踏んだ。

 

『やはり追い詰めてきました!! シンボリルドルフの背後に迫ってきたのはやはりキングダムエクスプレス!!! 限界を超えた轢き逃げが!! 今シンボリルドルフの4冠を脅かしている!!!』

 

 心臓が脈動している。緊張で頭がどうにかなりそうだった。でも、ならなかった。だって、あのシンボリルドルフが脅かされてる。その事実だけで頭がこんなにも震えている。抜き去れると予感するだけで、こんなにも幸せな気持ちになれる。実感の元 脚に力を込めて最後のスパートへと突入する。ドンドンと近づいていく、視界に映っていたはずの彼女の姿が、端にフェードアウトしていく。

 

 やがて、見えなくなる。前方に誰もいない景色を私は駆けている。そして自然と独り濁ちた。

 

「ああ……走るっていいなぁ」

 

 満面の笑顔を浮かべ、大きく地面を蹴った私。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 足を止めたのは、一つの違和感だった。

 

 突如として、足に、感じられない筈の、痛みが再発した。突然の出来事に、驚愕する暇もない。

 

 違和感の正体を見ようと、足へ顔を向ける。誰かがそこにいた。黒いマントに身を包み、ケタケタと笑っている。()()()は、私に顔を向けた。だが、信じられない。まさかこの様な生物が存在するとは。

 

「……死、神」

 

 ()()()には、皮膚が無かった。目があるべき筈の場所がぽっかりと空洞になっている。唇はなく、歯が剥き出しになっている。

 

 その姿は、間違いなく死神だった。

 

 死神が、私の右足を掴んでいる。不気味な笑みを象っている。まるでそれは、脚を差し出せと言っているかのように言っていた。お前は負け犬なのだと言われているような気がして。

 

(ルドルフ)

 

 脚が動かず、ガクリと体が揺れ、姿勢が崩れる。ハイリボルケッタと練習していたあの日と同じように。

 

(俺は、お前に)

 

 バランスが崩れていく。落ちていく錯覚に囚われる。伸ばした手の先で、シンボリルドルフが私を追い抜き、ゴール板を踏まんと遠ざかっていく。

 

(──勝ちたいんだ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「キングダムエクスプレスぅぅぅウウウウゥゥゥゥゥゥゥウウゥッッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

 

 声が、聴こえる。私を呼ぶ声が。

 観客席に、ウマ娘がいた。美しいオレンジ色の髪をしている。私を応援する声が、彼女の声帯から振り絞られていた。その隣で、暁トレーナーも叫んでいた。いや、彼らだけじゃない。

 

「負けるなァァァッッ!!!!」

「お願い! 勝って!!」

「ルドルフにぎゃふんと言わせたくないのかよ!!?」

 

 ルドルフへの声援と比べればか細い、でも、確かに存在する。これは、私のファンなのか。知らない男が、若い女が、ウマ娘が、皆、声を張り上げていた。

 

「みんな……」

「エクスプレスッッ!!!! 何コケているんだ貴様ァッ!!! そんな失態で、シンボリルドルフに勝てると思っているのかぁァ!?」

「ハイリ……」

 

 私は今まで、ルドルフに勝ちたくて走っていた。医者の言葉が思い浮かぶ。

 

『もし、シンボリルドルフを轢いたら……あなたはどうなってしまうんです? 儚いあなたは、どこへ消えていくんですか?』

 

 ルドルフを倒すしか目標がなかったから、空っぽだった。でも、今からは違う。私の勝利を願ってくれている人が、こんなにも沢山いる。

 走り始めた目的こそ、ただルドルフに勝ちたかったからかもしれない。でも、今は違う。観客席で応援をしてくれる人達を一瞥する。

 負けを繰り返してもなお、必死に私に声援を送ってくれるような、そんな人の為に、私は走りたい。本気で、そう願えるようになってきたんだ。

 

 尚も足に絡みつく死神を睨みつける。こんな取るに足らない存在に、私の期待が裏切られる? あってはならない。

 

 だから そこを

 

「退け」

 

 

 

 

 瞬間、死神が、邪魔者の姿が霧散する。視界に色が宿る、だから、シンボリルドルフがどこにいるかも自然に理解できた。残り200メートル、2馬身差。

 

『やはり諦めてはいない!! シンボリルドルフに迫りくるのはキングダムエクスプレス!!! 因縁のキングダムエクスプレス!!!! 宿命のキングダムエクスプレスだァァァッッ!!!!!!!』

 

 迫る、ズキズキとする足の痛みを無視し、ただひたすらに、彼女に近づいていく。熱狂と発狂を繰り返すギャラリー、そしてシンボリルドルフの姿、しかし彼女は、もはや私の方を見ていない。

 

 再び、ルドルフに近づく。ルドルフもこちらに気づいたらしい。笑みを溢し、その速力を上昇させていく。私に捕まらないように、必死に駆けていく。

 拮抗し、競り合いを続ける両者に、引くなどという選択肢は用意されていない。ルドルフが加速すれば、私はそれ以上の加速をする、しかしそうすればルドルフが更に私以上に加速してくる。

 いたちごっこの戦況、矜持と矜持のぶつかり合い。愉しさと楽しさに、二人はまるで子供の頃に戻ったような笑顔を浮かべている。ゴールは目前に迫っていた。楽しんでいるから、終わらせたくない。この激闘が、終了して欲しくない、それでも終わってしまうのならば──

 両者は、知らず知らずの内に叫んでいた。

 

「勝つのは……」

「勝者は……」

「「私だァァぁぁああアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」」

 

 終わらせるならば、ハッピーエンドで、勝者こそ味わえる、ハッピーエンドを求めて。敗けたくない、だから走った。

 

 肌を抜け、耳に入り込む空気の音が、不意に消えていく──終の時だと、風が伝えていた。

 

『なんと!! ほぼ同じタイミングで両者ゴールしました!! これはどっちが勝ったのでしょうか!? 結果が出るまで、少々お待ちください!!!』

 

 ゴールを踏み抜くタイミングは、ほぼ同じ。できる限りの最大限の全力を、私達は出し合った。息も絶え絶えなルドルフに、宣告するかのように近づいた。右足が痛い。身体はおんぼろで、今にも倒れそうだ。それでも、やはり私は子供みたいに誇示するのが好きらしい。

 

「……どうよ…ルドルフ……これが……キングダムエクスプレスだ……」

「ああ……思い知ったよ……もし君があの第4コーナーでコケさえしなければ……私はあのまま突き放されて負けていた……」

「はは……皇帝に言われるなん……て……嬉しい……よ」

 

 だが、ここまでのようだ。右足が強烈に痛い、当然だ。むしろ、逆によく耐えてくれたと労う。ルドルフの笑顔を見ながら、私の意識は深く落ちていく

 

 ──この有馬記念は私の負けだ。でも、後悔はない。私は蘇る、そしていつの日か必ず

 

 お前を轢いてみせるぞ、シンボリルドルフ──

 

 


 

 

「エクスプレスッ!!」

 

 ガタリと倒れ伏すキングダムエクスプレスを見て、ハイリボルケッタと暁は思わず駆け寄っていた。本来ならば入場するのは許されない場所を憚らず、二人は侵入する。しかし、誰の目から見てもキングダムエクスプレスの状態は異常だった。顔色は悪く、うわ言のように何かを呟き続けている。

 

 ブライメラーが事前に手配していたのもあって、救急隊員が駆けつけたのは5分と経たなかった。担架で運ばれる時も、エクスプレスはか細い声で何かを話している。

 救急車の中、そこでようやく、暁はエクスプレスの言葉を聴くことができた。

 

「トレーナー……見たか……。私は……違っただろう………!?」

 

 右手を掲げ、眼前の二人に宣言するかのように言う。暁は堪えきれず、顔を手で覆い始めた。その隙間からは、止めどない涙が流れていた。

 

「ああ……立派なヤツだよ……!! お前は本当に……!!!!」

 

 

 ───その後の検査により、キングダムエクスプレスの右足の骨折が発覚した、医者による下される審判。

 

 キングダムエクスプレス、1年間の治療。

 

 

 しかし動けなかろうと、闘志がある限り、エクスプレスの牙は砥がれていく。

 シニア級の時期が近づいてくる。

 ルドルフとの最終決戦は、間近に迫ろうとしていた。




 3ヶ月ぶりの更新です。待たせてしまい大変申し訳無いございません。今年こそは、本作品完結を目指して頑張ろうと思います。よろしくお願いします。


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優秀(アードルフ)の過去

ジャパンカップの前日譚といった感じで、軽い気持ちで読んでいただけると幸いです。



 

 北半球にあるイギリスの冬はいつも寒く、それ故に雪が降る。しかしこのシーズンは何故か雪が降ってこなかった。ウマ娘の少女はそれを不満に思いつつも夢で雪を見て冬を感じる。そんな寒くも冬とは呼べないような日々を悶々と過ごしながら、少女は自身の家の前にオンボロなウマ娘の姿を見た。

 

「あなた、どーして私の家の前に座ってるの?」

「……金がない、泊まる宿がないんじゃ後はもう野宿さ、それで偶々、ここを選んだ」

 

 目の前の浮浪者は、銀の艶が光る黒髪のウマ娘だった。年齢は奇遇なことに、目の前の少女と同じくらいに見えた。そして少女の年齢は、中学一年生である。

 

「ならあなた、私の家に泊まっていかない?」

「そりゃありがたい話だけども、アンタの両親がなんていうか想像もつかねぇ……」

「パパとママは今、海外にいるの。いつ帰ってくるかわからないし、構わないよ」

 

 申し訳無さを含む声色に、少女は静かな笑顔を浮かべ応えた。ウマ娘が立ち上がる、覚束無い足取りで歩く様は、彼女が何日も飯を食べられていなかったことを表していた。

 

「ようこそ、私の家へ。あなたの名前は?」

 

 少女が問いかける。

 

「……シンボリ──いや」

 

 一瞬だけ、ウマ娘は言い淀み、

 

「……エース、エースアードルフさ」

 

 何かを吐き出すかのように答えた。

 

 


 

 

「──で、どう? 一日過ごした私の家の感想は?」

「広い部屋にふかふかのベッド、熱いシャワーに快適なエアコン、そして豪華な朝食、これ以上の家はない、最高の家さ」

「光栄ね。私としては、あなたが良ければいつまでもいてもいいのだけれども」

 

 朝食を食べて、改めてアードルフは目の前のウマ娘を観察した。

 『ゴールドアンドアイボリー』、茶髪の彼女はそう名乗った。年齢はほとんど変わらないだろう、しかしアードルフの方が『本格化』が早かったこともあり、二人の体格差には大きな違いがある。

 

「随分と広い家だな」

「パパが昔トレーナーだったの、その時に、随分稼いだらしいわ」

「ふぅん」

「まったく、競走ウマ娘なんてくだらない」

 

 黙々と聞き流すアードルフの耳が、ピクリと反応した。

 

「……くだらない?」

「ただ走るだけじゃない。だというのにやれライブだの、トレーナーだのと、そんなものまで呼んで、それがくだらないって言ってるのよ」

「はあ」

「私のパパはトレーナーとして多くの著名なウマ娘を排出してきた、だから今でも各地でコンサルタントとして呼ばれて、私と一緒にいられる時間なんて無い……ママもその付添をしていて、誕生日はいつもビデオレター、こんなことなら、競走ウマ娘なんてなかった方が良かった」

「へぇ」

「っと、気を悪くさせたかしら? ごめんなさい」

「いや、良いさ」

 

 紅茶を飲む。別に、意見などは人それぞれだし、何よりアードルフは彼女のお世話となっている身。気を悪くさせることは避けたかった。

 だができるならば、彼女に競走の面白さを教えたいとも思った。

 できるならば、だが。

 

「……そろそろ行かなきゃ、それじゃ。あなたは好きになさいな。でもせっかくイギリスに来たんだから、観光なんてのはどう?」

「あア、考えとくよ」

 

 扉を開けて飛び出ていくアイボリーを見送りながら、アードルフは何をするべきかを思案する。

 かつて、アードルフには家族がいた。だが、その家族は偽りの家族だった。毎晩夢に出てくる真の母のことば(のろい)は、未だ脳裏から離れない。

 

「『強くなりなさい』……」

 

 勢いのままヨーロッパに来たまでは良かったが、そこからの乞食への転落人生は散々なものである。そもそもイギリスに来ても、何をどうすればいいのか、わからないことに溢れている。

 改めてアードルフは己が競走について無知ということを認識した。

 だが競走に無知ならば、既知になればいい。向かうべくは図書館だと、自然と結論へ行き着いた。

 

 

 


 

 

 

「凱旋門賞、ジョッキークラブ、なるほどね」

 

 六時間が経過した。

 図書館への列車に揺られ1時間。図書館についてから資料を漁る五時間。水で満たされる水槽のように、多くの知識が身についた。

 

 時計を確認する、午後四時。周囲を見渡す、みんな紅茶を飲んでいる。英国文化のミッディティーブレイクというものらしい。

 

 帰りの電車に乗り終え、帰路を歩く。しかし頭に思い浮かぶのはやはり、母ののろい(ことば)

 

 ──『強くなりなさい』

 

 強さを見せつけるには、シンボリルドルフを倒せばいい。でも、自分にシンボリルドルフを倒す方法は、未だ思いついてない。

 速くなる? 力を強くする? いや、そんなありふれた物では、誰も注目してくれないだろう。

 もっと、根本から走りを変えてしまうかのような『ナニカ』さえあれば、話は違うのだが。

 

「ん? ありゃ……」

 

 耽る視界の端で、見覚えのあるウマ娘が泣いていた。

 『ゴールドアンドアイボリー』、声をかけようとして彼女の幼い顔に、泣き跡があるのに気づいた。

 

「ええと……アイボリー? なんでこんな所で泣いてるんだ?」

「グスッ……あいつらが、あいつらが私のママを、バカにしたのよ。許せない」

「あいつら?」

「それってひょっとして、私達のこと?」

 

 知らない方向から、知らない声が聞こえた。振り返ると、そこに三人のウマ娘がいた。背はアイボリーよりも高い、本格化がアードルフより進んでいる証だ。そして全員が嫌らしい笑みを浮かべている。

 

「だってアイツのお母さん、GⅠレースで一度も勝てたことがないのよ。私のママは何回も勝ったことがあるのに」

 

 三人のリーダー格なのか、中央に立つウマ娘が答えた。後ろの二名が気が障る笑い方で同調する。

 

「GⅢくらいしか勝ててないだって」

「それに英国淑女なんて言ってるけど、そいつの生まれってアメリカなんでしょ?」

 

 三人が何かを発する度に、アイボリーの体が小さく震える。アイボリーが震える度に、三人がせせら笑う。

 

「はっ、三人集まって何をやるのかと思えばたった一人をバカにすること位か。一人ひとりがビビリだから、そんなことしかできねぇんだろな」

「……へぇ?」

 

 漏らした悪意と悪意が惹かれ合う。リーダーのウマ娘の悪意の視線がこちらへ向けられる。ならばこちらもと睨み返すが、鼻で笑われてしまった。

 

「あなたここじゃ見ない顔ね? 何処の鄙びた田舎から来たの?」

「アンタらみたいなお山の大将にはわからない都会さ、言ったとて理解できるかどうか」

 

 リーダーのウマ娘の顔が不愉快だと言わんばかりに歪んでいく。だがそれ以上に怒りに震えていたのはアードルフの方であった。

 金も尽き泊まる宿もなく、異国の地でただ座り死を待つことさえ覚悟した自分を、アイボリーは拾ってくれた。

 もしかしたら乞食のフリをした凶悪な犯罪者かもしれないのに、見ず知らずの他人にそこまでしてくれた。

 短い期間の恩義。

 恩義には報いなければならない。

 

「ヒトなら、ここで遺恨を残して解散となるでしょう。けど私たちはウマ娘。諍いが起きた際に何をするかは……わかってるわね?」

 

 リーダーのウマ娘が言わんとしていることは、即ち『野良レース』のことであった。ルールはシンプル、先にゴールⅡ辿り着いた者が勝者にして正義、敗者こそが悪。明快、故にその歴史は長く続く。

 アードルフは首肯する。

 

「OK、二日後、私の家に来なさい。住所は後で送っとくわ」

「アンタの狭っ苦しい家でどうやって走るって言うのさ? ランニングマシーンは勘弁してほしいもんだけど」

「貴方、やっぱり田舎者ね。来ればわかるわよ」

 

 あからさまな挑発に応じる気配すら見せず、リーダーのウマ娘の姿が彼方に去っていく。そして辺りは静寂と沈黙に包むのみとなった。──とある一人のウマ娘の叫びを除けば。

 

「あなた正気!? 本格化の済んだ三人に勝つなんて、無茶苦茶もいいところよ!! 痴態を無様に晒すだけだわ!!」

「──今アイツのところに行って、勝負を反故にするのは簡単さ、だが、そしたら恥をかくのはアンタと私の二人だ」

 

 アイボリーの糾弾に怖気付く様子すら見せず、アードルフの思考は淡々と続いていく。何が最善で何が最良の道なのか、論理的に考えていく。

 

「そして私がレースに出て敗けても、笑われるのはレースを受けた私一人だ」

 

 その言葉を聞いて、アイボリーはなぜアードルフがレースを了承したかが理解できた。全て、何もかもが、アイボリーのことを想い行動していたのだ。

 

「──あなた、どうしてそこまで」

「ここまでしてくれたからさ、私には、これしかできないから、これをした」

 

 自虐めいた言葉がアードルフの口から発せられた。誰かを嘲笑う仕草は、何故か言った本人へ向けて放たれている。

 

「まあ安心してくれ、どうせ恥をかかせるならアイツら3人にした方が良い」

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから二日が経つ。試合の日当日。

 快速を保つ電車が鉄車特有の音を出していた。広大な列車しかし、乗客は僅かニ名、『エースアードルフ』と『ゴールドアンドアイボリー』のみ。何故かと言うと、この列車は送迎用でしかないからだ。

 僅か二日で鉄道会社を買い取り、贅沢にもたった二人の送迎用に改造してしまうほどの金がありながら、沸点の低いプライドがあり、意地汚い罵声を浴びせたあのウマ娘──『キャシーキング』は、どうにも解せない。

 

「ねぇ」

「なんだい」

「……なんで、あんなことを言ったの? 私たちじゃ、勝てるわけがない。謝った方が、絶対良かったのに」

「……そりゃ違うさ」

 

 アードルフの眼光が鋭く光る。その鋭さに怯みそうになるが、それでもゴールドアンドアイボリーは疑問をぶつけようとして、最後のアードルフの言葉に辟易した。

 

「私たちはウマ娘だ、ムカつくことがありゃレースで決めればいい、ただ謝ってそれで終わりなら、そりゃヒト様と変わりないさ」

「……これだから、競走は嫌なのよ」

 

 レース、争いを生むだけのレース。くだらない。

 かぶりを振るアイボリーに対して、アードルフの視線はただ走る電車へ向けられている。

 答えを求めている。この電車のように、目の前に立つもの全てを轢けてしまうような走りができたとしたら───。

 

 それに対してアードルフは眉根を歪ませつつ、頭を捻っていた。やがて、列車が目的地に着いた。

駅に降り立った二人は改札を通り抜け、そのまま歩いて行った。アイボリーは事前に地図を見ており、アードルフは辺りをキョロつくだけだったが。

 暫く歩けば閑静な住宅街が目の前に広がっていた。ここらは治安が良く、おまけに地価が高い地域、つまり富裕層が住む場所だ。

 

「ここが、手紙にあった住所だけど……」

「……こりゃあ確かに、田舎者呼ばわりされるのもわかるな」

 

 二人の目の前に大きな家がある。黒光りするリムジンが太陽光を反射して眩しい。

 アードルフの海外旅行はこれが初だが、お城、と世で言われる家はおそらくこういった豪邸を指すのだろう。アイボリーの家も豪華であったが、この家と比べると見劣りしてしまった。

 おっかなびっくりな気持ちでインターホンを押すと、しばらくしその大きなドアが開かれた。

 

「あら、早かったわね」

「ええ……というか、何よその格好?」

 

 アイボリーの眼が奇妙げにキャシーキングを捉えていた。レースをするともあって、今アードルフは動きやすい軽装で来ているが、対するキャシーキングの服装はワンピース、これから走る者の服装には見えなかった。

 

「あら? 知らないの? これはね──」

「……『勝負服』、か」

 

 アードルフの言葉に満足げな反応を見せるキャシーキングを見て、ようやくアイボリーも気づいたらしく、呆れた笑みを溢した。

 

「──ま、入りなさいよ。紅茶くらいは淹れてあげるわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 不規則に、超特急が音をたてる。ただぼんやりと、アードルフはその中に立っている。

 

 『超特急』、人類の歴史が作り出した、瞬速の速さの到達点。一度走り出した超特急を止めることは誰にもできない。

 

 誰にも止められない。人では真似できない。ウマ娘にだってできることはない。

 だからこそ、人は惹かれるのだ。その超特急の虜となり、そして轢かれるのだ。

 アードルフもまた、そんな一人に過ぎない。『皇帝』を倒せる者とは、おそらくはそれしかない。

 

 カツラギエースの『逃げ』がシンボリルドルフを倒せる

 ギャロップダイナの『差し』がシンボリルドルフを下せる

 

 ならばカツラギエースのように逃げればいいのか? ギャロップダイナのように差せばいいのか?

 逃げ切れるのか? あの皇帝に? 差しきれるのか? あの希代の七冠ウマ娘に?

 

 できるわけがない。不可能だ。自分ではせいぜいがカツラギエースの半分の逃げしかできない。ギャロップダイナの半分の差ししかできない。

 

 ──ならばどうするか?

 

 

「──ルフ? アードルフ?」

「え? ああ、なんだ?」

「何って、もう始まるわよ、早くゲートに行かないと」

「……ああ」

 

 耽る思考は、アイボリーに遮られた。辺りを見渡す。もっとも優雅と言われるレース場、パリロンシャンレース場が広がっていた。ただし、これはキャシーキングの財力が作り出したレプリカに過ぎない。

 

「2400メートル。パリロンシャンレース場──あとはもう、わかるわよね?」

 

 日本のウマ娘が未だ勝ち取ることのできない極地が存在する。誰しもがその時を夢見て、しかし今まで勝てたことのないレースが存在する。

 

 『凱旋門賞』、それはパリロンシャンレース場2400メートルで行われる聖戦。多くの日本ウマ娘が挑み、そして凱旋することがなかった至高のレース。

 

 今回のレースは、それを模倣したものとなっている。

 

「そういえば、あなたの名前を聞いていなかったわね? アードルフ、でいいのかしら?」

 

 キャシーキングが問いかける。

 

「──エース……」

 

 一瞬、そのウマ娘は言い淀んだ。脳裏に写るのは、図書館へ向かう際に乗った電車と、ここに着くまでに乗った超特急。

 ただ、『優秀(エース)』では駄目なのだ。それでは皇帝を超すことはできない。

 

「……ス」

 

 ふと、とある噂を思い出した。シンボリルドルフに聞かせた、空想のウマ娘の噂を。

 

 シンボリには、一馬 破天荒がいる。

 何でもソイツは幼少期、シンボリから駄馬とされ売られたと。

 何でもソイツは、復讐を誓っていると。

 『ソイツ』は、相手を轢くのだと。

 『ソイツ』は、時速390キロで走れると。

 

 何故今になって、思い出したのかは知らない。だが、不思議とそのウマ娘の『名』が頭からこびりついて離れない。

 その名は、確かこうだった。

 

「『キングダムエクスプレス』」

 

 ただ、『優秀(エース)』では駄目なのだ。それでは皇帝を超すことはできない。超すためには『超特急』と化さなければならない

 

「『(キング)を、皇帝(ルドルフ)を轢く超特急(エクスプレス)』……だからキングダムエクスプレス──それが、私だ」

 

 王を轢く者(キングダムエクスプレス)の眼が、傲慢な王(キャシーキング)へ向けられた。

 

「轢いてやるよ、キング」

 

 毅然とした瞳だった。キング達に対する怒りの瞳。

 ──そして、それとは別の感情が別に存在する。

 その瞳に、キング達は恐怖した。アイボリーすらも、その瞳に恐れをなした。

 その瞳は、空虚だった。一つの情景が写っていた。

 緑色の軍服に、茶髪の髪に、白のメッシュのようなものが光る謎のウマ娘がいた。

 あのウマ娘はなんだ? そう質問する暇もなく、エクスプレスはゲートへ歩いていく。

 

 当然とも言えば当然、彼女はもうただ燻っていただけのエースアードルフではない。彼女はもう、キングダムエクスプレスなのだから。彼女はもう、ただ皇帝を轢くことに魂を売った、鉄の超特急なのだから。

 

 


 

1 キャシーキング      
◎ ◎ ◎

.1番人気.

 先行 

 

2 ホソトファニア      
◎ ○ ◎

.2番人気.

 逃げ 

 

3 カドランデラ       
◎ ▲ ◎

.3番人気.

 追込 

 

4 キングダムエクスプレス  
ー ー ー

.4番人気.

 逃げ 

 

 

 

 『ゲート』というのにウマ娘は慣れないものだ。

 暗くて狭くて、いつ目の前の扉が開くか気が気でなく、集中力が散漫になってしまう。これはもう、ウマ娘全員に共通する性質なのだ。

 

 だというのにこの落ち着きようはなんだというのだ? あのキングダムエクスプレスの落ち着き様は?

 

 キャシーキングの取り巻きの一人の『カドランデラ』は、その驚きを隠せない。あまりにもウマ娘にしては冷静すぎる。あのマルゼンスキーのようなウマ娘でさえゲートで焦り、出遅れを起こすというのに。

 

『今、スタートが切られました!!』

「ッ!? しまったッ!!」

 

 現にほら、カドランデラはキングダムエクスプレスの姿に気を取られ、たった今出遅れてしまった。

 逃げウマ娘である取り巻きのもう一人『ホソトファニア』と、キングダムエクスプレスの姿が彼方に霞んでいく。となると、キングダムエクスプレスの作戦は逃げか?

 

 

 ──そしてその一方で、逃げウマ娘のホソトファニアは、困惑を隠せなかった。

 

(なんだこいつ──逃げにしては早すぎる!!)

 

 ホソトファニアの前にキングダムエクスプレスがいる。それが一バ身に満たない距離にいるならばそこまで気にも止めない。

 

 だが、三バ身も離れているのは話が違う。それはもう、異常だ。

 

『先陣を走るのはキングダムエクスプレス!! なんと早い速度か!? 勝負を捨てているとしか思えない!!』

 

 ホソトファニアの思いを汲み取るかのように、実況が声をあげる。そう、ホソトファニアだけではない、ここにいる誰しもが、キングダムエクスプレスの異常な走りに戸惑いを隠せてないでいる。

 

 先陣がこうも早ければ、試合もハイペースとなる。信じられないタイムを記録しながら、瞬く間に第1コーナーを過ぎ、第2コーナーを超え、直線に突入していく。

 

 だがそれでも、どんどんとキングダムエクスプレスとホソトファニアの距離は縮まるどころか離れていく。もう何バ身離れた? 五バ身以上は確実だ。

 

(何を考えているの? 勝負を捨てた? こんな無茶な走りじゃ最終直線で持つ筈がない、確実にバテる!)

 

 その光景を見れば、素人のゴールドアンドアイボリーの目でさえそう思う。やはりあのウマ娘は口だけだったのか? 不安が心中を支配していく。

 

 キャシーキングも、ゴールドアンドアイボリーと同じことを考えていた。ただし、心中を支配していたのは不安ではなく、高揚感であったが。

 試合の結果はもう、火を見るよりも明らかだった。

 

 第3コーナーに差し掛かる。キャシーキングはふと、先頭を走っているキングダムエクスプレスの姿を見た。

 そこにいるのは本格化が済んでおらず、息も絶え絶えで、死に体とすら見間違えてしまう程の幼きウマ娘の姿、決着は既についてるも同然。

 

(さあ───ひれ伏しなさい、圧倒的大差で負けて、私に頭を垂れなさい!!)

 

 ──だが王は、足に力を込めた。王ゆえに、傲慢な王ゆえに、足に力を込めたのだ。

 

 ゴールドアンドアイボリーは、目の前の出来事が信じられなかった。ホソトファニアの一バ身後ろを走っていた筈のキャシーキングが突然加速しホソトファニアを抜き、キングダムエクスプレスの背中を追い抜かんと二番手にいるからだ。

 ホソトファニアはキャシーキングの下僕だ、だから彼女のために敢えて速度を落としたかもしれない。だがそれでも、一バ身という距離を詰めるのは、簡単なことではない。

 

(これが……本格化を果たしたウマ娘……?)

 

 感じたのは、圧倒的な絶望感。こんなのに勝とうなどと、なんとも自身らは驕り高ぶっていたのだろうか。一体何故彼女を止めなかった? 後悔が、懺悔が、アイボリーの心を悲痛に締め付ける。

 

 そんなウマ娘を相手にして、先ほどから無茶な走りをしていたキングダムエクスプレスが勝てるか? 勝てるわけがない。

 一瞬で、キングダムエクスプレスが抜かれてしまう。キャシーキングに、

 

 そしてホソトファニアに。

 

(?)

 

 ふと、ゴールドアンドアイボリーは違和感を感じた。キャシーキングに抜かれるのはわかる、彼女の実力は傍から見ても圧倒的だ。

 だがホソトファニアとキングダムエクスプレスの距離は5バ身もあった筈だ、そんな大差を保っていたのに、キングダムエクスプレスが抜かれるか?

 

 疑問で、アイボリーはキングダムエクスプレスを見た。

 

(……何、を、?)

 

 ことの始終を見ていた者が存在する。最後方にいた追い込みウマ娘、カドランデラだった。

 カドランデラには解らなかった、目の前で何が発生しているのか。

 

「……なんで、走ってないの?」

 

 目の前のキングダムエクスプレスは、走っていない。歩いてもいない。止まっている。

 

 彼女は構えていた。地面に手をつけ、ちょうど彼女の足裏にフィットするように作られた砂利の山に足を置いている。

 

 

 あれは───クラウチングスタートの構えだ。

 

 

 カドランデラがやがて、彼女に迫り、そして抜いた。

 

 

「……?」

 

 ──カツラギエースの半分の逃げしか、キングダムエクスプレスにはできないのならば

 

 妙だった。カドランデラは今確かにキングダムエクスプレスを抜いて、3番手についた筈だった。

 ならば目の前には何故、キングダムエクスプレスがいる?

 

 

 ──ギャロップダイナの半分の差ししか、キングダムエクスプレスにはできないのならば

 

 妙だった。ホソトファニアは確かにキングダムエクスプレスを抜いた筈だった。

 ならば目の前には何故、キングダムエクスプレスの姿がいる?

 

 キャシーキングは理解した───後方から何かが迫っていることに。

 

「なんなの?」

 

 背後から感じる恐ろしい圧、殺されてしまうかとすら錯覚してしまうほどの───

 

「ッ!?」

 

 後方を確認したキャシーキングの目に、信じられない物が映っていた。

 

 『超特急』が、そこに走っていた。

 ──だがそれはよく見れば超特急ではない。超特急には尻尾がないし、頭から生える耳もない。

 

 そう、それはウマ娘だった。

 そのウマ娘がキングダムエクスプレスだということに気づいたのは、少しの時間を必要とした。

 

 あの作戦はなんだ。あれは『逃げ』ではないし、『追込』でもない。

 

 『差して逃げる』という言葉が初めに浮かぶ。が、違う。

 差す等と、生易しくなど無い。

 

 そう、あの走りは

 

「……轢き逃げ」

 

 その走り、まさに轢き逃げ。

 

 距離残り二百メートル。まだ轢かれてないのはキャシーキングのみ。引き出せる限りの速度と加速を以てして、彼女は逃げようと走っている。

 

 だが此の世の何処に、超特急よりも疾く走る物がいるだろうか。超特急の速度は留まるところを知らぬ青天井。キャシーキングは、さらなる恐れを抱いた。

 

(なんで──引き離せてないのよッ!?)

 

 どの程度加速した? どの程度速度を上げた?

 もう解らない。如何なる速度を出しても、あの超特急の距離がどんどんと縮まってしまう。

 

 あの超特急が告げているように感じたのだ。

 ──決して貴様を逃さないと

 

 離れない距離に、キャシーキングに焦りが蓄積されていく。貯まった焦りはやがて、隙を生む。

 

(敗れるっ? この私がッ!? 私はキング、王なのに!?)

 

 隙を晒せば、王ごときはいつでも地に墜ち行く。キャシーキングの眼前に、有り得ぬ筈の存在がいた。それを認識した途端、次に吹き荒れる猛烈な圧が彼女の身を襲った。

 本能が錯覚したのだ。

 

 ──今、自分は轢かれたのだと。

 

「か、てるわけ、ない」

 

『ゴオオオオオォォォッッル!!!!!!!!

 一着は、キングダムエクスプレス!!!!!』

 

 

 王を轢く超特急はその名の通り、傲慢な王を轢いた。誰しもが夢かと錯覚した、だが錯覚ではない。キングダムエクスプレスは、キャシーキングの前に立っている。

 

「こんな、こんなことが……!」

 

 呆然と顔を歪ませるキャシーキングに目もくれず、キングダムエクスプレスの目線はゴールドアンドアイボリーに向けられた。

 

「見たかアイボリー、これがウマ娘だ」

「え?」

「『ジャイアントキリング』、或いは『下剋上』。本格化途上のウマ娘が、自身より上のウマ娘に勝つ──誰が予想できた? 神でさえ、予想できた筈がない」

 

 アイボリーはエクスプレスとキャシーキングを見比べた。立つ勝者と地に伏せる敗者。

 

「神すら翻弄する走りができる。それが、ウマ娘なんだ。神にも予想できない勝利を勝ち取り、その実感を神より早く味わえるのは、そのウマ娘一人の特権なんだ」

「……神、すら」

 

 確かに、アイボリーには予想できなかった、こんな試合の結末など。──これが、走るということだというのならば。

 

「……アードルフ。私、強くなるわ」

「へぇ」

「まだ本格化できてないし、あんな奴らにも怯えるし、走っても弱いままだけど──」

 

 アイボリーは、エクスプレスを見据えた。

 

「いつか必ず、貴方に勝てるウマ娘になるわ」

「……面白い」

 

 ──『やってみな』と、エクスプレスの口がそう動いたような気がした。

 アードルフはそれから少しの間、私の家に居続けて、ある日姿を消した。ここに帰ってくることはもう無いのだろうと、心の何処かで不思議と理解していた。

 あの日の言葉と共に見せた、彼女のにこやかな顔を、私はきっと忘れない。

 

 強くなるんだと、その日私は、ゴールドアンドアイボリーは決心した。

 

 


 

競走ウマ娘、ゴールドアンドアイボリー、成績

 GⅡレース、ロイヤルエッジS、1着

 GⅠレース、ヨーロッパ賞、1着

 GⅠレース、ジョッキークラブ大賞、1着

 GⅠレース、バーデン大賞、1着

 

 そして、GⅠレース、ジャパンカップ

 

 

「……あの時以来かしら? アードルフ、それとも今は、『キングダムエクスプレス』?」

「あア、随分とまあ久しぶりじゃないか? 『ゴールドアンドアイボリー』、遠路はるばる、ようこそこんな国へ」

「ええ、走りに来たのよ──あの日の通り、貴方に勝てるウマ娘になってね」

 

 東京の芝に、二人のウマ娘が向かい合っていた。『ゴールドアンドアイボリー』と『キングダムエクスプレス』が、懐かしの邂逅を果たそうとしていた。

 

 ジャパンカップが、今始まる。

 

 




 何度もの更新の遅れ、いくら謝っても謝罪しきれません。二度に渡り、誠に申し訳ございませんでした。
 推定ではありますが本作品も、残すところ三話となります。

 その日までどうか、本作品を長い目で見守っていただけると幸いです。


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ジャパンカップ

いつしか一年という月日が流れてしまいました。
この小説を覚えている方も少ないと思われます。
次で恐らく最終話となるので、それまで付き合っていただけるとありがたいです。


 空を飛ぶ鳥を見たことがあるだろうか。雄大な羽根を広げ、天空を自由に羽ばたく鳥を見たことがあるだろうか。

 不思議なことに鳥は生まれながらにして自分が飛べることを知っている。それは母が飛ぶ姿を見ているからだ。未熟な子供は自身と同じ姿の者から学び、その才能は育まれていくのだ。

 

「ゴールドアンドアイボリーさん、何故ジャパンカップへの参加を表明したのですか?」

「──未熟な子供だった私はある日、恐ろしいものを見ました」

「……その恐ろしいものとは?」

「それは、私と同じウマ娘でした。頭部から生えた耳、背面から伸びる尻尾。姿形(すがたかたち)はまるで同じ、でも彼女は、私に比べ決定的な違いがあった」

 

 日本の空港の一角に人集りが出来ていた。

 マスメディアが焚くフラッシュの中心で、ゴールドアンドアイボリーはそのウマ娘のことを雄弁に語る。

 

「そいつは、時速390キロで走っていた」

 

 マスメディアがどよめき立つ。そんなことは有り得ないからだ。その言葉の真意を問いただそうと各地で手が挙がる。

 だが、ゴールドアンドアイボリーはそれら一切のざわめきを片手で制した。

 

「かの日、私は彼女の前で宣誓しました。『必ず貴方を倒すウマ娘になる』と。その約束を果たしに、私は今、この地へ立っているのです」

 

 多くのマスメディアがそのウマ娘について思索を巡らせた。イギリスの名のあるウマ娘だろうか。或いは、一瞬だがシンボリルドルフのことかと思う者もいた。

 だが誰も、その正体に気づけずにいた。

 それは、そんな彼女が所属しているチームでも同じように──

 

「……ゴールドアンドアイボリー、ねぇ」

「知り合いなのか? エクスプレス?」

「……昔、少しだけ」

「ほう、ならばお前は彼女の言うウマ娘について、ある程度の見当がついているのではないか?」

「さぁ、皆目見当もつかないね。でもきっと、私に似た可愛い奴さ」

 

 療養中のキングダムエクスプレスが静かに微笑んだ。

 


 

「アードルフ、調子はどうかな?」

「だいぶ良いね。それより、天皇賞春優勝おめでとう。ルドルフ」

 

 壁にかけられた時計が4時を指した。少し前まであった筈の雪はすっかり溶けきっている。

 春の終わり頃の病室には、包帯に脚を吊るされたキングダムエクスプレスと、その傍らに座るシンボリルドルフがいる。

 

「これで五冠。シンザンに並んだな」

「ああ。だがこの程度で終わろうとは思わない。ジャパンカップ、そして有馬記念に勝ち……私は初の、七冠ウマ娘となってみせる」

 

 気持ちを改め、ルドルフは目の前のエクスプレスを睨んだ。

 

「だから、手加減などはしない。全身全霊を以て潰させてもらう」

 

 ルドルフから発せられる圧倒的な闘気、目の前に立ち塞がる者に容赦はしない、そう言外に告げられている。

 

「ははは……病人だっていうのに容赦なしかい……」

 

 苦笑いを浮かべるが、その表情は飄々とした姿を保ったままだった。薄く微笑み、改めて目の前の彼女を見つめる。

 

「でもそっちが七冠を全力で目指すなら、私は全力で止めて見せる」

 

 そう、負けたままではいられない。か細い糸を伝うため、シンボリルドルフを超えしものとなり未だ見ぬ母と再会を果たすため、エクスプレスは走らなければならない。

 真剣な面差しが彼女の何かを刺激したのか、今度はルドルフが笑った。

 

「ああ、君とまた走れる日を楽しみにしてるよ。エクスプレス」

 

 それだけ言い、ルドルフは部屋を出ていく。ピシャリと閉じられたドアの音の後、決意が確固となる音がした。

 

「絶対に、勝つ」

 

 

 

 


 

 

 

 

 有馬記念の冬から桜の花が芽吹き始め、とうとうそんな春さえも終わりかける頃の日。グラウンドを駆けるハイリボルケッタの目に、見慣れた、しかし見慣れない顔が見えた。

 

「……そうか、退院したのか」

 

 汗だくの額を拭い、その者へと歩を進めていく。未だ足のギプスは外れず、未だ松葉杖を抱えてはいるが、キングダムエクスプレスの姿がそこにあった。

 

「久しぶりに嗅ぐトレセン学園の匂いはどうだ?」

「……懐かしい。だけど、それより今は走りたい」

 

 自身の足を眺める。オークスの後に折れ、有馬で再び折れた足。今はまだ走ることなど夢のまた夢。

 だけれども

 

「何よりルドルフを──倒したい」

 

 その闘志まで潰えたことにはならない。その瞳がどこまでも喰らいつくと物語っている。

 

「……ならば努力あるのみだな」

 

 もはや心配はいらない。走る意味を見いだせなかったあの頃の彼女はここにはいない。

 

「ハイリ、轢けると思う?皇帝を」

「できるさ。きっと」

 

 ハイリは自信げに答えた。

 

 


 

 

 皇帝とは何を以てして皇帝と成すのだろうか?

 皇帝と王は、果たして何が違うのか。何ゆえ私は皇帝なのか。

 

 皐月を破り、ダービーを制し、菊花を走り抜けた。

 有馬を討ち、天皇賞春を潰し、宝塚の栄光を手にした。

 『皇帝』は誰が呼ぶわけでもなく、しかし自然にそう言われるようになった。

 

 当然、諦めの悪い者は跡を絶たない、ジャパンカップでは足をすくわれ、一着を得ることは叶わなかった。

 だから有馬記念では引導を渡した。例え敗れたとしても、ただで引き下がっては皇帝ではない。

 敗けたのが悔しくて、だから強くなってその雪辱を果たす。

 

 お前もそうなのか? キングダムエクスプレス。

 私に敗け続けるのが悔しいから、もっと強くなるのか?

 このままでは、本当の母親に会えないから更に早くなるのか?

 

 ……それがなんにせよ、その想いに私が応えてやれることは少ない。

 皇帝とは皆を導く存在、目指す景色はあの時から何一つ変わらず、そして曇りは無い。

 

 あらゆるウマ娘が幸福に過ごすこと出来る世界。

 それはもう、エクスプレスが悲しまくても良い世界。その願いを実現するためならば───

 

「例え妹から憎まれようとも、その役目を果たしてみせる」

 

 そう、何も変わらない。エクスプレスはその強さを増す。

 だが力をつけたとはいえ、蛙は蛙なのだ。竜の髭を取ることなんて不可能だし、井戸から逃げることさえできない。

 時間が経ち、やがては絶対の青空の大きさを知ることだろう。まるで私のように

 だが、天空にいくら手を伸ばしても雲を掴むことはできない。

 

 皇帝ナポレオン。かつては英雄と民から讃えられ、しかし最後には殺戮者として絶海の孤島へと島流しにされた者。

 

 大空を知る蛙の生涯は狭き井戸の中で終わる。

 三千世界を知った皇帝は狭き孤島の中にて生涯を終える。

 

 私は違う。

 私は、違う。

 


 

 

「"ヒール"って知ってるか?」

 

 ジャパンカップまで残すところ1日となった折、鼻腔を衝くコーヒーの香りがした休憩時間の合間に、暁は口を開いた。

 

「ヒール……回復(ヒール)……悪役(ヒール)?」

 

 エクスプレスが思いつく限りの言葉を並べる。最後の言葉に暁がため息を吐いた。

 

「そう、悪役(ヒール)だよ」

「それが、何か?」

「シンボリルドルフが勝ったGⅠレースの数は知ってるか?」

「皐月賞、日本ダービー、菊花賞、有馬記念、天皇賞春、今のところはこの五つでは?」

 

 ルドルフのことを常々思っているエクスプレスにとってそれは愚問に等しい。反射的に言葉が出た。

 

「そうだ。もし明日のジャパンカップに勝てば、六冠ウマ娘だ。しかも! 初めての、だ!」

 

 これまでのウマ娘に六冠を成し遂げたウマ娘はいない。かのシンザンさえも、五冠ウマ娘でその生涯を終えている。

 偉大なる快挙の手前、シンボリルドルフの進む道の先にある覇道を汚さんと、目の前に一人の悪役が立ち塞がる。

 

「オマエだよ、立ち塞がる悪(キングダムエクスプレス)

 

 答は返ってこない。静謐が辺りを包んだ。

 

「……六冠ウマ娘、か」

「新聞記者たちも気づき始めてる、お前がシンボリルドルフの領域に届き始めてることに」

 

 サッとウェブニュースを暁が見せる、今朝の記事のようだ。

 

【ジャパンカップ】シンボリルドルフ六冠迫る、立ち塞がる"超特急の影"

28
11/2(土) 5:54 配信

               

 

 

 

 

オークス勝利時のキングダムエクスプレス(提供)

 

 今月末に迫るジャパンカップに不安の影が残る。キングダムエクスプレスである。

 

 キングダムエクスプレスはデビュー戦当初よりシンボリルドルフを轢くと度々発言。

 皐月賞では敗北しオークス戦の後に骨折、友人であるハイリボルケッタが菊花賞にシンボリルドルフに挑むがこれにも敗北、復帰戦である有馬記念ではシンボリルドルフと再び激突するがこれにも敗北、これまた再び骨折を起こし一年間の治療となった。

 そんなキングダムエクスプレスであるが、彼女は皐月賞での大敗から骨折が回復してから間もない有馬記念でシンボリルドルフを抜き去るという偉大な成果を残している。

 

 シンボリルドルフはキングダムエクスプレスに関して「彼女が無事に復帰し、私を轢いてくれることを楽しみにしている」とコメント。

 今年度ジャパンカップ勝利で初の六冠を達成するシンボリルドルフであるが、その栄光には翳りが差している。

 

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「……流言飛語もここまで来りゃあなんとやら、んでトレーナー、私に棄権でもしてほしいのかい?」

「ぶち抜いてやれよ、皇帝轢くためにそんな名前してんだろ?」

「当然!」

 

 キングダムエクスプレスは嬉々としてそう答えた。

 

 


 

 

 ──イギリスのことを思いだす。イギリスにいた、日本のウマ娘のことを。

 

 閑静が、歓声に掻き消される。

 

 ──自分のことを皇帝を轢くウマ娘と言うウマ娘がかつてイギリスにいたことを、思いだす。

 

 ふと、思いだす。

 

「貴方はここにいたわね。アードルフ」

 

 緑豊かな芝のレース。ジャパンカップの熱に浮かされたその日。かつては幼かったウマ娘は友と十年来の再開を果たした。

 

「……あの時以来かしら? アードルフ、それとも今は、『キングダムエクスプレス』?」

「あア、随分とまあ久しぶりじゃないか? 『ゴールドアンドアイボリー』」

 

 東京の芝に、二人のウマ娘が向かい合っていた。『ゴールドアンドアイボリー』と『キングダムエクスプレス』が。

 

「あら? 覚えていてくれてたの?」

「恩を売ってくれた奴らは全員覚えてるさ──悪いな、せっかく高いご飯にふかふかのベッドに寝かせてもらったりと至れり尽くせりさせてもらったのに」

 

 皮肉げにエクスプレスがアイボリーを捉える。

 

「その恩を、こうして仇で返すようになっちまって」

「そんな豪勢なお返しは望んでないわ──お礼は、私の勝利で結構よ」

 

 アイボリーも負けじと精いっぱいの皮肉を返す。エクスプレスが快活に笑った。

 

「おや? 知り合いだったのかね?」

 

 割り込むようにシンボリルドルフが現れた。

 

「ああ、昔に少しな……」

「そうか……ゴールドアンドアイボリー、私はシンボリルドルフだ。今日は良い試合になるよう励むよ」

 

 手を差し伸べられる。アイボリーが掴む。

 

「あらあら、これはこれは丁寧に、どこぞの新幹線とは礼儀が違うわね」

「へーへー、言ってろ言ってろ」

 

『まもなく出走です!』

 

 アナウンスの声に皆が顔を上げる。浮かべる気持ちは三者三様。しかし行き着く先は変わらない──私こそが最強という自負の証明。

 

「それじゃあ、二人共。良き試合になるよう」

「ああ…そんじゃま、私もここいらで…」

「待って、エクスプレス」

「ん?」

 

 ゲートに向かうエクスプレスをアイボリーが止めた、瞳がその真剣さを語っている。

 

「私…あなたに伝えたかったの…貴方のおかげで、私は変われた」

「はぁ、そりゃどう致しまして…?」

「私は、貴方のおかげで強くなれたの!」

「──あぁん?」

 

 その一言が、エクスプレスを刺激した。強くなれという使命を持つ彼女の前に強くなれたと豪語する者が現れる。

 寵辱。

 

「……覚えてるかアイボリー? ジャイアントキリングの例え話」

「ええ、私のモットーよ」

「だいぶ知らねぇうちに……()()()()()()()

 

 アイボリーとエクスプレスの距離が再び近くなる。両者の身長はアイボリーが多少上であろうか。

 

「あらそう?それが?」

「……いや、なんでも?」

 

 振り向き、エクスプレスが去っていく。目の前には二枚の巨大な壁がある。

 皇帝と、黄金。だがそれがどうした。

 

「ジャイアントキリング──」

 

 そう、やることは何も変わらない、壁とは超えるためにある。

 

 ジャパンカップが、始まる。

 


 

『世界中のウマ娘が栄光を求め、ジャパンカップの府中に集う!

 日本勢は対抗できるのか!?

 

 一番人気はこの娘、シンボリルドルフ 海外のウマ娘にも変わらぬ走りを見せつけてくれるのでしょうか』

 

 ルドルフがつま先で地面を叩く。

 

『二番人気はゴールドアンドアイボリー。海外からの刺客は皇帝を打ち倒せるのか!?』

 

 アイボリーは悠然と立ち、レースが始まるのを待っている。

 

『皇帝を轢くと豪語するのはこのウマ娘キングダムエクスプレス! 破れた友ハイリボルケッタの思いを胸にいざ立ち向かわん!』

 

 私がすう、と息を吸い上げた。

 

『全ウマ娘体勢が整いました、レースが始まります!』

 

 そしてここにいる全員が、構えた。

 

 眼前のゲートがファンファーレのような轟音で開く。

 

 真っ先に走り出したのは私だった、ここまでは上々、逃げも先行も私にはついて来れない。私の轢き逃げ戦法で前を走らせるのは一度だけ、その一度はこんなところでは無い。

 

 第一コーナーを巡る。第二コーナーを回る。第三コーナーを曲がる。

 

 

 もう、限界だ。

 

 私の足が止まる、休息の時が来た。あのデタラメな走りでは最後まで走りきれない。

 だから、こうする。

 

 そう、クラウチングスタートの構えだ。

 

 眼の前をウマ娘が通ってく、それが誰か知っている。シンボリルドルフだ。そうだろう──

 

「──え、」

 

 違う

 眼の前を過ぎたウマ娘はシンボリルドルフでは無い──

 

『やはり上がってきましたゴールドアンドアイボリー! 海外からの刺客がジャパンカップに王手をかけに詰め寄ってきた!』

 

 そこでようやく、ルドルフが私を追い越した。

 


 

 シンボリルドルフとてゴールドアンドアイボリーを見くびっていたワケでは無い。研究に研究を重ね対策にさらなる対策を講じるのは彼女の得意のすることであり、それがシンボリルドルフの強さであった。

 

 なんてことはない。

 

 ゴールドアンドアイボリーはその研究よりも速く、その対策など無意味であった。それだけの話なのだ。

 

 走る中シンボリルドルフは考える。アイボリーのあの走りにはどこかに見覚えがある。

 再考し、つい先程から見ている物だったことに気づく。

 それは自分の走り

 あれは、領域(ゾーン)か。

 

(残り距離はいくつある? 400メートル位だろうか?)

 

 勝てる方法を模索する。無理だ。

 何かしらある筈だと思索に耽る。不可能だ。

 一つの結論に達する。できるわけがない。

 

(わからない)

 

 それだけが、解った。

 

 前年のジャパンカップでもシンボリルドルフは敗北を喫した、あの黒髪のウマ娘──カツラギエースに。

 

(解らねば)

 

 わからないままではダメだ、このままではアイボリーがジャパンカップに勝つ。

 皇帝たるシンボリルドルフにもはや負けは許されない。

 皇帝のルドルフが、敗けることなど有り得ない、あってはならない。

 だがこのままでは──

 

「負け───」

「何やってんだよルドルフゥゥウウウッッッッ!」

 

 耳をつんざいたのは一つの喊声。

 アイボリーとルドルフが振り向く。

 修理を終えた超特急が、迫りくる──!

 

「アードルフ……」

「アンタが抜かないなら私が轢いてやる!」

 

 エクスプレスがルドルフに迫る。

 それだけは嫌だ。エクスプレスには勝ちたい──

 ──勝ちたい?

 

(──ああ、そうか)

 

 ルドルフとは皇帝である。

 

(皇帝の尊厳やジャパンカップの名誉などと言うものが)

 

 だがルドルフとはシンボリルドルフであり。

 

(今、眼の前の奴に勝ちたい。なんて言う気持ちよりも)

 

 シンボリルドルフとはどこまで行っても、シンボリアードルフの姉なのだ。

 

(勝る道理(ワケ)が──無いのだッッ!!)

 

 そう、わからなくていい。皇帝としての尊厳を守る方法など知らなくて良い。

 今はただ

 

 勝ちたい。

 

 

 ルドルフが、エクスプレスが、加速しアイボリーに追いつく──!!

 

「んなばッ!?」

「「おおおおおおおおおおおおおおおおおっっっっっっ!!!!!」」

 

 アイボリーは気づいた。

 

 あの二人の領域に、自分の居場所など無いことに。

 

 

『ゴールドアンドアイボリーここで抜かされた! 先頭を駆けるのはまたもやこの二人 シンボリルドルフとキングダムエクスプレス! 並走とすら呼べる接戦を繰り広げゴールに向かってる! 勝てるのか皇帝!? 轢くのか超特急!? どっちが勝つんだああああ!?』

 

 ゴールが、切られた。

 

『ハナ差でシンボリルドルフの勝利だああああっ!! またもや勝者はシンボリルドルフ! シンボリルドルフがジャパンカップを制しました! 勝ったのはシンボリルドルフ!』

 

「ふ、また勝ってしまったな」

「クソっ!つぎこそは……!」

 

 悔しがるエクスプレスに近づくウマ娘が一人。ゴールドアンドアイボリーである。

 

「おめでとう、二人共」

「アイボリー……君は強かったよ、できることならまた共に走ろう」

 

 ルドルフが再び握手を求める、アイボリーが応じた、レース場が沸き立つ。

 

「それと、アードルフ」

「今はキングダムエクスプレスだっつーの」

「貴方に一つ伝えたいことがあるの……後で話せないかしら?」

「?」

 

 ゴールドアンドアイボリーが去っていく。その様子をエクスプレスは不思議な目で見つめるのだった。

 


 

「で、話って?」

 

 舞台は変わりとあるカフェの中、アイボリーとエクスプレスは向かい合って座っていた。

 アイボリーが一つの写真を取り出す。

 

「……これは?」

「貴方が出ていた皐月賞、その観戦席の画像よ。貴方のこと、調べさせてもらったわ。お母さんのこともね」

「……趣味が悪いな」

「ごめんなさい。それで私にも何か出来ないかなってお母さんのことを調べてみたのよ」

 

 次にテーブルに人の顔が載ったプリントが出される。その顔には見覚えがあった。

 

「これってもしかして……」

「ええ、貴方のお母さんよ」

「私でも調べられなかった顔をどうやって……」

「ほら、私金持ちだから。それでねアードルフ……この写真のここ、見て」

 

 最初に出された画像の一点が指差される。エクスプレスは驚愕した。

 

「……母さん!?」

「ええ、偶然なのか意図してかは知らないけど貴方のお母さんは間違いなく、あの日の皐月賞にいた オークスとかにはいなかったけど……」

 

 アイボリーの目が鋭くエクスプレスを見つめる。

 

「それで、母さんは今どこに!?」

「そこまではわからなかった、でも……どうやらまた、観に来るらしいわ」

「観に来るって……まさか!」

「ええ、そうよ」

 

 ふうと、アイボリーが息をつく。

 

「次の有馬記念、貴方のお母さんが観に来るわ」



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有馬記念

最終話です。
後書きにくぅ~疲みたいなのがあります。


 走る

 何のために?

 

 走る

 誰のために?

 

 走る

 (ため)、とは?

 

 為すべきこととは?

 

 最初は、ひたすらに再会を求めていた。

 走ることなんて嫌だったけど、会いたいから

 会いたいなら、気づくと嫌なことなんて全部どうでも良くなっていた。

 

 ──走るのが楽しくなっていたのは、いつからだろう。

 

 きっかけは、ハイリボルケッタに言われた一言。

 自分でも気づかなかった本心がようやくわかった。

 

 それからは、走ることも楽しくなっていた。

 じゃあ私は走ることを楽しむためにレースに出ているのか? 違うだろ。

 

 私が走るのはシンボリルドルフに勝つためか?

 最初は違かった、シンボリルドルフに勝つことなんてどうでも良かった。

 でも今は、皐月賞や有馬記念やジャパンカップを経た今は──勝ちたい。

 

 そして私は、シンボリルドルフにやられたハイリボルケッタや、暁トレーナーの思いも受け継いでいる。

 じゃあ何か?

 詰まるところ私が走る理由は走るのが楽しくて、シンボリルドルフに勝ちたくて、ハイリボルケッタの雪辱を果たしたくて、暁トレーナーに恩を返したくて──

 それで──

 

「…いや、違うだろ『シンボリアードルフ』」

 

 理由なんてどうでも良かった。

 その人にどうして私を捨てたんだとぶん殴りたかったし、その人にどうして私の前に一度も姿を現さなかったのと泣きたかった。その人に何か理由があれば寄り添いたかったし、その人に会えたことの喜びを分かち合いたかった。

 

 そうさ、結局私は──

 

 その人に

 母に、会いたかった。

 

 

最終話

 

 

 そして母はこの場にいる。

 私の最後の晴れ舞台、きっとこれですべてが決まる。観客席を見渡す、母の姿は見当たらない。

 けど

 

「ここにいるんだろ? ───母さん」

 

 

『有馬記念』

 

 


 ──ではあの時、キングダムエクスプレスはどこか浮かない様子だったと?

 

 暁:ええ。と言っても、今考えると前々からその兆候はあったように感じますね。

 

 ──というと、どのような?

 

 暁:異変に気づいたのはジャパンカップの後、何処かに出掛けて、帰ってきてからでした。なんというか……エクスプレスにしては珍しく狼狽えていたというか動揺をしていたというか。実際、有馬に向けてトレーニングをする回数を何時にも増して増えていたというか──

 

 ──その動揺の正体に、心当たりは?

 

 暁:さあね……知らないですね。でもいつもエクスプレスは言っていましたね。どうしても走らなくちゃならない理由があって競走ウマ娘になったって、きっとそれが原因だったんだと思います。

 

 


 

 

「獅子搏兎、かつて私が言った言葉を覚えているかな?」

「えー……なんだっけな」

「無理もない、二年前も前の話だ。獅子は兎を狩るときに全力を出す──だがそれは兎の持つ瞬発力を獅子は消して侮らないからだ」

「始めて知ったなそりゃ」

「兎はすばしっこく、故に油断すれば直ぐに逃げられてしまう……かつての君は、そんな兎未満の井底之蛙だった」

 

 地下バ道に、二人のウマ娘がいる。

 緑の軍服に身を包む皇帝──シンボリルドルフ。

 対するは青緑の制服を着る超特急──キングダムエクスプレス。

 

「蛙如きに全力を出すのは、例え獅子とて行わない。だが──」

 

 瞳がエクスプレスを下から捉え、やがて目線がエクスプレスと並ぶ。

 

「どうやら君は、百折不撓の果て、私と並べるようになったようだな」

「並ぶ、ねぇ…?」

 

 ビッ、と人差し指がルドルフに向けられる。

 

「残念、私はもうアンタなんて見ちゃいないのさ」

「となると、三千世界でも目指すのかな?」

「そこまでデカくも無い」

 

 自信満々の喜色の瞳は、かつてのエクスプレスからは想像もできない。

 

「……ならば?」

「今日、この私の走りを観にくるであろう人のために、私は走る」

「……変わったな、お前は」

「それはそっちもだろ、シンボリルドルフ」

 

 響く笑い声(ハハハハハ)、絶対的な皇帝が

 笑った

 嗤うが

 嘲笑いはしなかった

 

 それっきりだ。会話は起こらない。

 

 二人揃い

 二人平行し

 二人緑の芝生へ降り立ち

 そこには観客席に犇めく人が

 人が出せる限界の歓声で両者を出迎えた。

 

「……嗚呼、まるで極楽浄土」

 

 シンボリルドルフがポツリ、

 

「これが夢で雲散霧消してしまうのではないかとすら思う」

 

 シンボリルドルフがはっきり

 キングダムエクスプレスを見る。

 

「……極楽浄土、ねぇ」

 

 エクスプレスはシンボリルドルフに指を下に向けた。

 

「だったら地の底に落としてやる」

「鬼面赫人はそこまでにしろよ」

 

 シンボリルドルフの声が

 低く低く

 さながら地の底から聞こえるような

 

「違うさ」

 

 ならばこそ、キングダムエクスプレスの声は明珠のように濁ることは無く

 

「愛の力を見せつけてやる」

 

 はっきりと、自分(アードルフ)が愛を向けれなかった相手(ルナ)に言ってのけた

 

 

 

 

 

 ギャロップダイナ:いやぁ、当時のことは私の出走してたからそりゃあもう覚えてますよ

 

 ──となると、やはりあの事件のことも?

 

 ギャロップダイナ:はい、思えば不思議だったんですよね。キングダムエクスプレスっていうとやっぱり轢逃戦法っていうのかな? 最初にバーーっ! って飛ばす走りをするんだとばかりてっきり思ってたものですから

 

 ギャロップダイナ:まさか、轢き逃げずに普通に逃げるだなんて

 

 

 

 

 レースが始まる

 きっと私がシンボリルドルフと走れるのもこれが最期

 

「出せる全力…出さなきゃ損々!」

 

 ギャロップダイナ。そう名付けられたウマ娘は頬を両手でパチン! と叩く。

 

 ギャロップダイナはシンボリルドルフに勝利した。

 

 シンボリルドルフには勝利よりも語られる三度の敗北がある。

 その敗北の一つ、天皇賞秋にてシンボリルドルフはギャロップダイナに敗北を喫した。

 

 それは神のお目溢しの奇跡か? それはどうでも良い。

 ギャロップダイナの心持ちは、少なくとも今回も勝つというものであった。

 

 ただし、懸念のウマ娘がもう一人。

 チラリと、その件のウマ娘を見やる。

 

 ──キングダムエクスプレス。そのポテンシャルは皇帝に並ぶとされ、事実、過去のレースでは何度も喰らいついている。

 

「あなたが常々名前に聞くキングダムエクスプレス?」

 

 威嚇、というわけではない。興味があった、だから話した。面識の無いはずの人物ではあるはずだが、キングダムエクスプレスはギャロップダイナへ変わらぬ表情を向ける。

 

「……見覚えがある。何か、偉業を成し遂げたりは?」

「いやいやそんな偉業だなんて……皇帝サマに、勝ったことならあるけどね」

「カツラギ……いやこのレースにゃいないはずだよな……当ててやる、ギャロップダイナだ」

「御名答。ギリギリだったけどね」

 

 無言、当然だ。彼女らは相手のことを知りようが無い。分かる情報は唯一つ

 ──今回の、敵

 

 アナウンスが鳴る。ゲートに並ぶよう促される。

 ゲートに向かうキングダムエクスプレスの隣に、シンボリルドルフがいた。ギャロップダイナがいた。

 これが最後、これで最後

 

 それを噛み締めながら。静かなゲートに収まる。

 

 静静

 静寂

 静謐

 

 間を置き

 

『今、ゲートが開かれました!』

 

 さあ、行こう。

 

 キングダムエクスプレスは、轢き逃げなかった。

 

(轢き逃げではない……だと?)

 

 シンボリルドルフの疑問も当然だ。今日この日、キングダムエクスプレスを完膚無きまで叩き潰すために様々なトレーニングをしてきた。

 だがその何れもが、轢き逃げ戦法をするキングダムエクスプレスを想定した物。

 

 確かに、キングダムエクスプレスが轢き逃げ戦法を用いず走ったことはあった。あったが……

 

(自らの持ち味を捨てるなど、愚の骨頂)

 

 他のウマ娘よりも前を行くはずの彼女を叩き潰さねば、意味など無い。

 

(失望したぞ、アードルフ……否、キングダムエクスプレス)

 

 


 

 

 

 ───とか、考えてんだろうな。

 

 第2コーナーを超える中、私は考える。

 別に良いんだ。正直言って、私のがむしゃらな戦法が今まで通用してたことがおかしかったんだ。

 

 ルドルフという化け物がいることを加味したとてだ。普通に考えてみりゃあ、私の唯一の勝利したG1のオークスは轢き逃げずに勝った。

 

 順当に考えるんなら、勝てた走りがこれなんだから走るっきゃねーだろ。

 

 周りにいるウマ娘を見る。驚愕の瞳を向ける奴もいりゃあこんな私なんて眼中にねえぞと言わんばかりに前を見据えるウマ娘もいる。

 そう、ここにいる奴らは全力だ。

 もう轢き逃げ戦法だなんて冗談はやめだ。

 勝てる方法を使って勝つ。

 例えそれが、私を私たらしめなくする走りであっても。

 

 第3コーナーを回る。

 

 ───これが、きっと私の走る最後の直線。

 

 観客席を見る。

 暁トレーナーが

 ハイリボルケッタが

 ザナルグレイビアが

 昼部トレーナーが

 ブライメラーが

 私が勇気づけて、私が勇気づけられた総ての人が

 

 ───でも、母の姿は見当たらない。

 

 なんでだ、なんでだよ。

 私は──

 私は───

 

 私の

 想いを

 踏み躙るかのように

 

 ─────彼女が、来る

 

 

『最後の直線──最後にあがって来たのはやはり───シンボリルドルフだ!!!』

 

 周りがバテる。私はまだ大丈夫。

 でも───

 何度も戦ってきたから解ってしまう。

 やっぱり───

 

「勝てない」

 

 私の全力を、私の走りを捨ててまでここまで来た。

 何度も挑んで、一度も勝てなかった。

 

 シンボリルドルフが迫る

 シンボリルドルフが迫りくる

 シンボリルドルフが来る

 私の背中に、もういる。

 

 引き離せない。私はダメだ。

 もう、ダメだ。

 

「───」

 

 何も聞こえない。みんなの応援が届かない。私はもう走れない。私は勝てない。

 

「───て」

 

 ───?

 違う

 

 何か聞こえた

 なにが

 どこから

 だれが

 

「───って」

 

 

 トレーナー? 違う

 ハイリボルケッタ? 違う

 

 この声は、誰のものでも無い。

 

 私だけの

 唯一無二の

 

 

 

 

 

 

 

 

「───アードルフ、勝って」

「…………なんで」

 

 母さんの、声だ。

 


 

 一時停止をした、と?

 

ギャロップダイナ:一時停止──いや、単に停止? 稼働中の機械のスイッチをオフにして停止させたような、うん、本当にそうですね。止まりましたよ。なんか言ってた気もしたけど、なーんで止まったんでしょうね? あそこには、自分のトレーナーらしき人もいない、単なる観客席だったのに。

 

 意図的だった、という可能性は?

 

ギャロップダイナ:それなら大したモノですよ。最期にあんなトンデモ事件を起こすなんて。まあ、止まっちゃったから、あんなことも起きたというべきですかね? 自分からしたら、そんな意図は全然ないように感じられましたがね。

 

 

 


 

 

 

「ッッ゙!?」

 

 眼前、止まることを止めない筈の

 轢き逃げ戦法を取っていない筈の

 弱き走りをする筈のキングダムエクスプレスが

 

 ───停まった。

 

 

 予想だにしない行動が皇帝を動揺させる。

 いや、問題はそこではない。ルドルフはエクスプレスの背後にいた。すぐ背後に。

 

 ───ぶつかるっ!

 

 咄嗟に横に逸れる。だが完全には躱しきれない。

 凄まじい速度のルドルフがエクスプレスにぶつかる。

 

「ぐうッ!」

 

 衝撃がルドルフとエクスプレスを襲う。

 横転──は避けられた。

 

 エクスプレスが前に跪く───

 ───ちょうど、クラウチングスタートのような構えとなって。

 

 

 一秒。ルドルフがようやくソレを認識した

 二秒。ルドルフがようやく異変に気づいた

 三秒。他のウマ娘がソレを追い越した。

 四秒。他のウマ娘がソレを追い越した。

 五秒。ソレが───

 六秒。ルドルフの脳裏にある記憶が蘇った。

 

 ──予てより、『有名』には噂が絶えない。

 そしてこれは、そんな噂の一つ。

 

 シンボリ家には、一馬 破天荒がいる。

 彼女は相手を轢くのだと。

 彼女は超特急を超える走りをするのだと。

 

 七秒。ソレが、キングダムエクスプレスがシンボリルドルフを轢き逃げた。

 

 

 


 

 

 

 ──鼓動が激しい。

 さっきまで走ってたからだ。

 ──鼓動が激しい。

 シンボリルドルフに負けてしまうからだ。

 ──鼓動が激しい。

 忘れもしない母の声を確かに、この耳で聞いたからだ。

 

 幻聴か? 否──錯覚か? 否──聞き間違いか? 否──夢の見すぎか? 否──もしかしたら全ての景色が夢では無いのか? 否──

 否、否、否、否、否、否、否、否、否───

 

 不と、口にする。

 

 声の方向へ目を向ける。酷くやつれ、背も縮み、肌の皺を隠しきれず、それでも取り繕うためかフードを被った初老の、しかしその隠せないウマ耳の。

 

 記憶の中とは違う。

 しかし──本能が叫ぶ。

 

「ああ──見に来てくれたんだな───」

 

 一人でに呟く。

 背後から凄まじい衝撃が襲う。背後にいたシンボリルドルフだ。

 体勢が崩れ跪く──

 

「だったら、魅せねぇとな」

 

 ───ちょうど、クラウチングスタートのような構えとなって。

 

「なあ、母さん」

 

 誰かがキングダムエクスプレスを抜かす。関係ない。

 

「私さ──」

 

 誰かがキングダムエクスプレスより前に立つ。どうでもいい。

 

「こんなに強くなったんだよ」

 

 自然とエクスプレスの脚に力がこもる。

 気づくと、飛び出していた。

 

 直線を走る。

 ──何のために?

 直線を駆ける。

 ──誰のために?

 直線を突き進む。

 ──何を願って?

 

 そんなの決まってる

 少女の願いは一つだけ

 母のために

 

 ───シンボリルドルフを轢き逃げられますようにと、彼女は願ったのだ。

 

 

 気づくと、シンボリルドルフを轢き逃げていた。

 

「ッ!?」

 

 ルドルフの顔が驚愕に包まれて、何か別の顔に変わったような気もして、何かを叫んでいたような気もしたが、それを見ようとした頃にはもうエクスプレスの視界からは消えていて、どこかにいて。

 

 

 地面に倒れた。仰向けになった。ふと横を向く。

 

 会場が静まりかえる。

 

(ど、どうなった……?)

 

 目が眩む、全力を出した反動だ。

 耳には、エクスプレス自身の息遣いだけが聞こえる。

 

(水が──水が欲しい──!)

 

 何も見えない。ふと喉が乾いた。だが体は動かない、動かせない。倒れたままで、そのままで。

 耳には、エクスプレス自身の息遣いだけが聞こえる。

 

 ──ふと、一つの手がエクスプレスへと出された。誰の? 知ったことではない。これが悪魔の手であっても彼女は掴んでいた、そんな勢いで、その手を握り返す。

 耳には、エクスプレス自身の息遣いだけが聞こえる。

 

「──ルドルフ」

「…………」

 

 ようやく眩みから醒め、視界が開く。眼の前には手を握られたシンボリルドルフがいる。

 耳には、エクスプレス自身の息遣いだけが聞こえる。

 

「……君とあの模擬レースで出会ってから三年、経ったな」

「え?」

「おめでとう」

 

 皇帝が、その帝位を渡すかのような手付きで一つの方向を指差す。

 

 レースのリプレイ。

 

 皇帝の追随儚く、残り半バ身の距離ほどで、轢き逃げていく超特急のようで鉄塊のようでルドルフと似た勝負服を着たようなウマ娘のようで……

 

「……私じゃん」

 

 勝った。

 そう、シンボリルドルフを轢き逃げたいと願う少女はついに、

 母にその力を見せつけたかった少女はついに、

 

 

 ついにその悲願を成し───

 

 

 

 

 

 

 

『──少々お待ちください』

 

 

 

 

 

 

 

 ───違う

 

 審議だ

 

 確定じゃない

 

 

「…………」

 

 

 ──議論の中心は、どこだ。

 

 耳には、エクスプレスの息遣いだけが聞こえる。

 

 ──ホントは、自身が良く知ってる癖に。

 

 耳には、エクスプレスの息遣いだけが聞こえる。

 

 ──母の声を聞いた時の、止まった時の、ルドルフとぶつかった時の

 

『──スプレス───により───降着───』

 

 耳には、エクスプレスの息遣いだけが聞こえる。

 耳には───

 

 

 

 

 キングダムエクスプレス

 突然停止による走行妨害 降着

 一位→二位

 

 シンボリルドルフ

 二位→一位

 七冠達成

 

 


 

 

 走る

 何のために?

 

 走る

 誰のために?

 

 走る。やがて着く

 そう、ずっと走ってきた。

 

 全部、この人のために。

 

「……母さん!」

「…………」

 

 去ろうとするも私の声に反応し、ビクリと震える小さな身体。

 もうあの頃の面影も無い。でも、その声は忘れない。

 確かに私が会いたかった──母の姿

 

「ずっと……ずっと会いたかった……!」

「……アードルフ」

 

 ポツリと、母が独りごちる。私の名前をアードルフと、そう呼ぶ人間は限られてる。

 縮んだ身長、当然だ。もう10年以上も経過した。その頼りない背中が動き──母が正面から私と対峙した。

 

 色んなことを話し合いたかった。本当に色々、いなくなってからの数年間を語らいたかった。

 でも

 

「……なんで、私を置いてったんだよ!!」

 

 でもやっぱり、それが一番気になった。

 母の覚束ない足取りがしかし一歩ずつ確実に私へと歩み寄る。

 やがて目の前で止まる。

 

「……アードルフ。私はね、強くなれなかったの」

「は──」

「GⅢレースに一回も勝てなかったの、何度も頑張ったけど、勝てなかったの。一位にはなれなかったの」

 

 突然始まる母の言葉を、私はただ聞く。母と始めて交わす会話だからである。

 

「何にもなれなくて、何でも無い男と結婚して、なんでも無い人生を歩む──あなたが産まれるまでは、そうだった」

 

 私はただ話を聞く。母の秘めた思いを知りたかった。

 

「アナタに才能があるかなんて知らない。私のように凡庸なウマ娘かも知れない──何れにせよ、私がもしあのままあなたを育ててたら、あなたは絶対にレースに勝てない」

「……だから、私を、シンボリ家に?」

「そうよ、あなたのことを思ったの。そしてあなたは私の見込み通りに強くなってくれた。そして最後には──あのシンボリルドルフをも倒す存在になってくれた」

 

 私はただ話を聞く。母が私をシンボリ家に置いた理由が知りたかったから。

 でも、この話を聞く限りじゃ私は──

 

「ねえ、アードルフ。海外に行きましょう」

 

 母が突然私の手を取る。シワだらけだけど強い力で。

 

「あなたなら、私の悲願を果たしてくれるって信じてるわ。GⅠに勝ったことだってあるんですもの」

「…………」

 

 言葉が出なかった。

 何がレースに勝てないだ。何があなたのことを思っただ。

 私が寂しかったと思わなかったのか? シンボリ家の人達に迷惑をかけると思わなかったのか?

 上っ面だけは取り繕って、成功したら途端に会いに来て。

 そのくせ出会い頭に海外だと? シンボリルドルフでさえ海外では負け、海外で行われる凱旋門に勝てたウマ娘はいないというのに。

 エゴだ、目の前の母の皮を被る怪物の発するその言葉は何もかもが独りよがりなエゴに満ち、どこまでも薄汚れている。

 いっそ偽物であって欲しかった。違う、目の前は母に相違なく、確かに私を産んでくれた存在なのだ。

 

 目の前の母を激しく嫌悪する。できれば私の一生で培われた脳に浮かぶ悪罵と罵詈雑言との限りを目の前の女に言いたかった。

 ───できない。仮にも目の前の存在は、私を産んでくれた母なのだから。

 

「どう? アードルフ?」

 

 答えを求めるように母が問う。

 行きたくない、走るのが嫌だからじゃない。母と一緒に行きたくないのだ。

 ──そんなこと、言えない。母の前ではそんなこと言えるわけがない。

 

「えっと……」

「まさか行きたくないなんて言うつもりじゃないわよね?」

 

 手を握る力が強くなった。痛い。振り解きたい。

 ──振り解けない。私がずっと思っていた母に、そんなことはしたくない。

 

(クソマザコンが)

 

 脳内で自身を卑下しても、私には何もできない。

 そうとも、私は強くなんか無い。母の言葉に従って、従って、従い続けて。

 ──ああなんだ。私、空っぽじゃないか。

 

 ずっと空っぽで、それが母の言葉で満たされて強くなれたんだから。

 結局私は母の言葉が無ければ何もできなくて、母をここで失って何にもなれなかった現実を直視するのが怖くて。

 だからみっともなく依存し続けて。

 

 ───だったら、良いか。

 

「────」

 

 母が言うことならば、きっと間違いは無いだろう。

 きっと、海外でも行けていけるだろう。

 

 ──もう、自分で考えるのも疲れたんだ。

 

 

 手を握り返そうと。

 ああ行こうって言葉を発そうと。

 物言わぬ奴隷になろうと。

 

 手を前に出した。掴まれる。

 ──母ではない人の、手によって。

 

「誰?」

 

 母が凄まじい形相で"彼"を睨む。

 ポツリと私が声を洩らす。

 

「──トレーナー」

「誰? はこっちの台詞だ」

 

 暁トレーナーの毅然とした瞳が母の濁りきった瞳を見据える。

 

「悪いけど、こいつはウチのチームにもう所属してんだ、スカウトなら間に合ってるんだよ」

「私はこの娘の母親よ」

「……そうなのか?」

 

 トレーナーが、困惑の入り交じる顔でこちらを見てきた。どう返答すれば良い?

 きっと私はここで間髪を入れずに肯定するのが正しいのだろう。

 ──違う。

 私を強くさせてくれた恩ある肉親の想いに応えるべきなのだろう。

 ──違う。

 

「違う!」

 

 私の口から出たのは、それを言った自分もビックリするくらいの否定の言葉。

 嫌だ。本当は海外なんて行きたくない。恩なんて何も感じてない。親だなんて思いたくない。

 ずっと、親の言いなりになんてなりたくない。

 

「て、本人は言ってるが?」

「は、はあ!? 何言ってるのアードルフ!? 私は確かに──」

「これ以上騒ぐんなら警備員を呼ぶしかないけど──二度とエクスプレスに近づくんじゃねえ」

「ぐっ……」

 

 警備員という単語が決め手となったのか、母が一目散に走っていく。

 

「この親不孝者が! あなたに全てをかけたのに!」

 

 知ってる。

 

「どうして母の言うことを聞いてくれないの!? どうして娘なのに協力しようと考えてくれないの!?」

 

 知ってる。

 

「なんであなたはそんなに弱いの!? シンボリ家にいて! どうしてGⅠを一勝しかできてないの!?」

 

 知ってる。

 

「どうしてあなたは私をこんなに不幸にするの!? あなたなんて、あなたなんて──────」

 

 最後の台詞は、トレーナーが私の塞いでくれたから聞こえなかった。

 やがて母の姿が遠くに消える。声も聞こえなくなる。

 ここにいるのは、トレーナーと私。

 

「……いつからいたんだ」

「ホントについさっきだよ、どこ探してもいなかったから苦労した」

 

 暁トレーナーへ向き合う。なんて言えばいいのか困る……そんな顔をしていた。

 

「なあ、トレーナー」

「なんだ」

「私さ、ずっと頑張ってきたんだよ」

「そうか」

「頑張ってさ、会いたかった人に会えたんだよ」

「そうか」

「本当に、本当に頑張ってきたんだよ」

「……ああ」

 

 トレーナーの顔が、良く見えなくなる。嗚咽が止まらなくなって、何を言えば良いのかわからなくなる。

 言葉が胸に詰まって

 積もっていたものが勢い良く流れて

 私は、泣いた。

 

 みっともなく、情けなく、恥ずかしげもなく。

 

 

 そしてその日が、私が最後に走るレースとなった。

 

 

 

 


 

 

 

 

 それから三ヶ月。

 トレセン学園にある練習レース場を、二人の人物が見る。

 暁暁と、キングダムエクスプレスである。

 

「───なんだって?」

「だから、出してきたんだ。退学届」

 

 エクスプレスの突然の発言に、暁は動揺を隠せない。

 

「あのなぁ、そういうのはまずトレーナーである俺に相談してからだな……」

「別に、私のレースはもう終わったからいいじゃないか。それに──」

 

 眼前のレース場でウマ娘たちが走ってる。その数はなんと十を超す。それらすべてが、キングダムエクスプレスの走りに魅力され、暁のチームに移籍を決めたウマ娘たちだ。

 

「トレーナーはもう私みたいな過去じゃなくて、未来を見なきゃならない時間だ。あいつらもきっと、私みたいにミスやったり、プライド高かったり、色んな問題抱えてんだろうよ。でも──」

「……それを支えんのが、トレーナーなんだろ」

「そのとーり」

「安心しろよ。お前に比べりゃどんなウマ娘の悩みも可愛いモンさ」

 

 眼前で走るウマ娘たち。第2コーナーを曲がる。

 

「……トレセン学園辞めて、何するんだ?」

「別の高校に行く。走るだけがウマ娘じゃないさ。幸い、レースの実績で色んな高校から来てくれってせがまれてるよ」

「走るだけがウマ娘じゃない、ねぇ……」

 

 水泳といったスポーツが苦手なウマ娘がいると聞いたことはあるが、走りたいという欲求を止められるウマ娘はおそらくはいない。それは暁のある種の経験則から来ていた。

 だが、目の前にいるエクスプレスにはその欲求が無いように見えた。尤もあんなことがあったのだ。おかしくはない。

 

「トレーナーこそどうなんだ? 最近ブライメラーさんと良く飯食いに行ってんだろ?」

「ばっ! お、お前なぁ……」

 

 ニヤニヤとした目つきでエクスプレスが聞いてくる。暁が頬を赤らめながら、それに嬉しいような怒るような反応を返した。

 

 ウマ娘たちが、第3コーナーを巡った。

 

「……なあ、トレーナー」

「なんだよ?」

「アンタに言いたいことがあるんだ」

「奇遇だな……俺もあるんだよ」

「へぇ」

 

 意に介さない。でも、不思議と両者の心は通じていた。だからだろうか、二人が同じタイミングで話し始めたのは。

 

「アンタに」

「オマエに」

「「会えたのを、感謝してるよ」」

 

 それだけだった。交わした言葉はそれだけだった、でもその二人の間には確かに、その三年の間に培われた永遠の絆が結ばれてる。

 ウマ娘が第4コーナーを曲がる。最後の直線に差し掛かる。

 

「んじゃ、私はそろそろ行くよ」

「何処へだ?」

「北九州で母さんらしき人が見つかったってアイボリーから連絡が来てんだ」

「まだ追いかけてんのか?」

「ああ、見つけ次第ぶん殴ってやる」

 

 キングダムエクスプレスが席を立つ。背を向ける。

 

 ウマ娘がゴールする。

 誰が勝ったのか、それは知らない。誰がために走るのか、それも知ったことではない。

 

 ……一つだけ言えるとするならば、それは弱きウマ娘であった。

 しかしその走りは確かに、ある者には力を、ある者には希望を、ある者には夢を与えてくれた。

 そのウマ娘の名は──

 

「……()()()()()()()()()()()

 

 ふと暁の吐露した名前と共に、彼女は顔を向け、応えた。

 

「そうだ、私がキングダムエクスプレス──シンボリルドルフを轢き逃げられますようにと願った、一人の少女さ」

 

 そう、言葉を遺して。




これにて完結となります。
自語りがあるので、興味のある人は読んでいただけると幸いです。




































 まずはこの作品に最後までお付き合いいただきありがとうございます。
 完結までには二年と一日というとても膨大な時間がかかりました。
 今作はウマ娘がリリースされてからまだ一年も経っていない、そしてハーメルンで多くのウマ娘の二次創作が作成された、そんな時間の流れの一つとして作られた小説です。
 初めて行うレースの描写と課題はあり、加え作者自身が随分と怠惰なもので、楽しみにしてくれた読者の方(いてくれると幸いです)には随分とご迷惑をおかけしました。
 二年という年月は長く、私も果たしていつまで小説を書けるかどうかはわかりません。
 皆様も体調管理には気をつけ、健全なハーメルンライフをお過ごしください。
 またいつかどこかで会えることを楽しみにしていたます
 それでは



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