心臓継承ウマ娘 (豚ゴリラ)
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ジュニア級 / 手慰みのカーネリアン
1話


女神様は、下の世界で苦しんでいるウマ娘を見つけてしまいました。

なんとかわいそうなのでしょう。

なんて献身的な愛なのでしょう。

 

手助け、してあげないといけませんね……。

 

 


 

 

『彼女』にとってもっとも古い記憶は、"しあわせ"から始まった。

 

 ウマ娘の母と、装蹄師の父。

 その二人から産まれた双子の片割れが『彼女』である。

 

 きっと誰が見ても、幸せな四人家族だったと評するだろう。

 小さな喧嘩はあっても、それ以上に大きな愛に包まれていたからだ。

 

 ウマ娘で気の強い『姉』と内向的で気弱な『弟』は特に相性が良く、何処に行くにも一緒。

 おもちゃの取り合いがあっても、なんだかんだで姉の方から一緒に遊ぼうと声をかけ、弟もふにゃりと笑いながら手を繋ぐ。

 お菓子を一緒に食べさせあって"幸せ"も分かちあう。

 

 1歳の春から始まり、2歳の夏には言葉を交わし始め、3歳の秋には手をつないで歩いていた。

 4歳の冬になる頃には、いつも二人でいることが当人達以外にも当たり前のものとなっていた。

 

 ──それは幼稚園に入り、他者と関わり合うようになってからも変わらない。

 

 大人たちには「あらあら、今日も仲がいいわねぇ」なんて笑われて、何となく顔が熱くなったことは──『今』も覚えている。

 けれども、あの当時でさえ決して嫌な気はしていなかった。

 

 小学生になって、少しずついろんな友だちが増えて、(からか)われて小馬鹿にされて。

 それでも二人は変わらず一緒。

 だって、"しあわせ"だったから。

 

 10歳になる頃──突如訪れた大きな大きな"不幸"が、『彼女』の全てを奪うまでは。

 

 

 ■

 

 

 春。

 

 それは多くの人々にとって、人生の転換期が集中する季節だ。

 例えば卒業であったり、就職であったり──入学も代表格の一つだろう。

 これを一言で表せば、"出会いと別れの季節"。

 

 中央トレセン学園──ここも、春となれば卒業生が未来へと飛び立ち、また新たな雛鳥がやってくる。

 見目麗しい少女達が群れを成し、皆一方向へ向かって賑やかに行進している光景はそれ故だった。

 

 大きな大きな会堂の扉を潜り抜け、華やかな空気と鮮やかな熱気を肺に取り込む。

 それに未来への希望と期待、不安──。

 

 ともかく、色んなもので胸をいっぱいに膨らませている。

 

 ……けれども、どうした事だろうか。

 こんな時だというのに、とある芦毛のウマ娘は無表情のまま揺らぎ無い。

 何も感じていないと旁若無人にも全身で語る『彼女』は、きっと少数派のうちの一人だったのだ。

 

 その上『彼女』は年齢で見ても比較的高身長である身だからか、つい見下しがちな視線になってしまう。

 青ざめた瞳と涼やかな造形は美しくも、それ故にどこか近寄りがたい風体を形成していた。

 

「宣言ッ!これより入学式を開会するッ!!」

 

 頂点立地。威風堂堂。

 自信満々に威勢よく声を上げたのは小さな風体の少女だ。

 幼気な風貌でありながらも──驚くべき事に、この学園の理事長である。

 

 外見からは想像もできない程よく通る音に驚き、ピクリと耳を揺らす──が、音を遮断するためにか伏せられた。

 その冷たい眼は変わらず、何もない空間を揺蕩っているばかり。

 

 どこぞの三冠バはそれを見て呆れたように笑う。

 黒髪を後頭部で結わえた彼女は、特別にそれを見咎めることはない。心情は理解できるからだ。

 ……もっとも、すぐ隣の女帝は別のようだが。

 

「────ッ! ────、────ッ

 

 演説が始まれども耳は伏せたまま。目は半開き。

 『彼女』は(不真面目なことに)小さな理事長が話す内容に興味など無かった。

 

 外面を程々に取り繕いつつも言葉を受け流し、ぼぅっと虚空を眺めるばかりで。

 表情自体が無を形作っていることも相まって殊更に──"アレ(問題児)"だった。女帝が青筋を立てるのも無理はない。

 

(しかし要は、必要最低限の知恵さえ有れば良いのです)

 

 ここは中央トレセン学園。

 "ウマ娘"達の聖地、祭典の爆心地。

 夢を見て走り、走るために夢を見る少女達の楽園。

 レースを駆け抜ける流星群はここから生じる。

 

 ……これこそ『彼女』が知っている事。つまりは必要十分な知識量である。

 

 つまり、レースに出ることさえ出来れば問題ない。

 レースに不要な知識なんて──高尚な演説なんぞ、どうでもいいだろう?

 

 最終的に"勝つ"こと。それが大事な事で、それ以外は考慮するに値しない。だから問題ない。正常なのだ。

 

 ──やたらと自分を見つめてくる女帝へと内心で"()()()()()()"を捧げ、

 そっと瞼を下ろす。

 

 

 □

 

 

 ──入学式をやり過ごし、寮に入る手続きも終えて。

 

 荷解きも終え、連絡も終わり、『彼女』は途端に手持ち無沙汰になってしまった。

 ぼんやりとした眼差しでベッドの縁に腰掛けて、内心を主張するようにブラブラと両脚を遊ばせる。

 

 式を終えてある程度の時間は経っているはずなのに、本来いるはずのもうひとりの住人は一向に姿を見せない。

 相方は、部屋の状態からして在学生……つまり『彼女』の先輩である。

 個人を特定できるような物。例えば、ぱかプチが置いている訳でもないので誰かは分からないけれど。

 

 おそらく空いた時間を使って休養を堪能しているか──もしくはトレーニングに精を出しているのかもしれない。

 

 ……ともかく、居ないのであれば仕方がない事だ。

 もうすぐ17時だし、少し早いけれど夕食にしてしまおうか。

 

 折角なら、新しく出来た先輩と夕食を共にするという定番イベントを行おうと考えていた──が、しかし。正直なところ、もう一人としっかり仲良くしようという気概がある訳でもない。

 ただ学園生活を"円滑"に進める為にはコミュニケーションも必要だと、そういった一般論に基づいた発想というだけだった。

 

「……ま、いいですよね」

 

 退屈さと義務感を天秤にかけ、結局食堂へ向かい出す。

 

 『彼女』と同じ発想の新入生は他にも大勢居たようで、道すがらに見かけるウマ娘の数は非常に多い。

 地元ではウマ娘の数自体がとても少なかったから、こういった光景はとても新鮮だった。

 

「此処が食堂ですか」

 

 どこか落ち着いた雰囲気の、清掃が行き届いた空間。

 広々とした円形の机やカウンター式の机だったりと色々とあるが、やはりここはカウンター式の方を狙うべきだろう。

 適当な定食を注文して席に着き、誰と関わるでもなくさっさと食事を口に運び込む。

 

 横目に映る周囲の同級生の中には、既に仲良しグループを作っている者さえいるらしい。

 わたしがご飯を食べるよりも早いとは、どれだけ必死だったのだろうか──青い瞳にじっとりと冷気が宿る。決して、彼女らに嫉妬しているワケではない。

 

 部屋の隅では自分と同じ芦毛のウマ娘が唐揚げタワーをパクパクしているし、別のテーブルでは赤毛のウマ娘が矢鱈と古い語彙を撒き散らしていた。

 

 どこを見ても騒がしい……。

 これも、自由な校風であるとして有名なトレセン学園らしいと言えば、らしいのだろう。

 騒がしい事自体にあまり好ましいと思わないが、自分のような問だ──いや、()()()()にはやさしい環境だ。

 

「ご馳走様です」

「お粗末様!」

 

 おばちゃんのスタッフさんに食器を返し、来た道を辿る。

 

 途中で寄り道しようか──なんて邪念が浮かぶも、即座に肉体が──肩に積み重なった疲労感が欲望を破却した。

 今日はこのまま部屋に帰って、風呂に入って寝てしまおう。

 学園生活の初日なんだ、少しぐらい怠けても良いに決まってる。

 

「ん……まだ帰ってないんですね」

 

 部屋を見渡すと、浴室のドアノブには清掃済みと書かれた看板がぶら下がっていた。

 

 同室のウマ娘が書いたのだろうか?

 手書きの文字、というよりはパソコンのフォントのように精密な形だ。

 

 ともかく、ありがたい事である。

 何も考えずにお湯炊きのボタンを押し、ベッドに腰掛け数分程度ウマッターを弄って時間を潰す。

 こんな待ち時間なんて、下らないニュースや面白い画像を眺めていればあっという間に過ぎてしまうだろう。

 ちなみに、『彼女』のお気に入りはシンボリルドルフのダジャレ集である。

 

 スマートフォンを取り出す『彼女』の背後で、白い尻尾がご機嫌そうに揺れた。

 

「……おや」

 

 ──本当にあっという間の数分後。ぴー、ぴーと部屋の住人を呼び出す電子音が響く。

 五度反響を繰り返した後にようやくスマートフォンから顔を上げ、のろのろと立ち上がった。

 

 着替えのセットとタオル、シャンプーやリンス、耳や尻尾の手入れ用品──諸々の手荷物から必要なモノを抜き出して、尻尾を揺らしながらバスルームへ向かう。もちろん通知の停止ボタンを押すことも忘れない。

 

「…………」

 

 "ガチャリ"と開いたドアの向こう──そこは綺麗に清掃された脱衣所だった。

 

 服を脱ぎ、そこそこ起伏に恵まれた体を擦る。

 なめらかで手触りがいい肌と尻尾は『彼女』の密かな自慢のひとつである。

 しかし、脱衣所特有の冷気から『彼女』を守ってくれるようなものではない。

 どうにか寒気を和らげようと身体を震わせるが──無駄なことだ。

 

 仕方なく抵抗を諦めて、鏡に映る自分を一通り眺める。

 次に行うのは可動域と疲労具合のチェックだ。手早く終わらせて、体を芯から温めたい。

 そんな意思を反映したように、キビキビと動く腕を天井に向けて伸ばした。

 肘を曲げる。手首を回転させる。

 続けて肘をピンと伸ばした状態から肩甲骨を下へ旋回させ──。

 

 そこでギシリ、と肩口が軋んだ。

 痛みはなくとも不快な振動だ。

 耳が小さく震える様は、少しの苛立ちを表しているようにも見える。

 

「………はぁ」

 

 ──"形式張った式典はこれだから嫌いだ"、と浅い悪態を吐き出した。平坦な声が静かに響く。

 

 ふくらはぎは少し張っているし、肩も背中も凝っている。 不調というほどでは無いが、この違和感は気に入らない。

 ……たまにはゆっくりと湯に浸かって、疲れを揉み解すべきだろうか。ウマ娘は体が資本なのだから、そういったメンテナンスも大切な事だ。

 

 胸元に薄っすらと残る()()を指でなぞり、一人頷いた。

 

 今日ぐらいは、暖かくしてゆっくり眠ろう。

 久々に良い夢を見れそうな気がするのだ。

 

 

 ■

 

 

「只今戻りました。初めまして、同室の──

 

 ……。

 ………ステータス、『睡眠』を確認。挨拶は後日に変更すべきだと判断します」

 

 

 ■

 

 

 いつも通りの夢を見る。

 

 家族と一緒に水族館にお出かけしていて、初めて見る魚たちの群れに興奮して、沢山歩き回って、沢山笑った。

 そんなある日の夢。

 

 夕暮れ時には双子は揃ってうつらうつらと眠気をこぼし、眠気と戦いながら車に揺られていた。

 両親はそんな我が子らに──たぶん、笑いかけてくれていたと思う。

 

 けど、"幸せ"なんて一過性のもので。

 帰り道で交通事故に遭った。

 

 それでも『彼女』の人生は、間違いなく"しあわせ"から始まっていたのだ。

 

 

 □

 

 

「……んあ?」

 

 チュンチュン、チュン。

 何処からか響く雀の声が、ぼんやりとした寝ぼけ眼をつつく。

 震えるまぶたでゆっくりと瞬きを繰り返し、ようやく『彼女』は夢から覚めた事を自覚した。

 上体を起こせばサラサラとした芦毛が背中を擦り、ピンと立つ耳が自然の音を感受する。

 

 甲高い音で少し騒がしいが、『彼女』の意識を呼び覚ますには丁度いい刺激だった。

 

「あー……」

 

 のそのそと目元を擦り上げて眠気を払った。

 あまり肌には良くないことだろうが、それはそれ。

 "早起きは三文の得"と云う先人の教えに従おうとするのなら必要なこと。

 

「よし」

 

 ひとしきり意識をハッキリとさせ、窓から差す陽光に目を細めた。

 清々しい朝だ。

 学園生活がここから始まる──なんて考えると、無条件に胸が高鳴るのも仕方のない事。

 

「すっきりとした、良い目覚め……ですね」

「そうですか。それはよい事だと思います」

「え……」

 

 ──予想になかった他者の返答。

 

 反射的に隣のベッドに視線を向ければ、長い栗毛と、『彼女』とは違う風味の青い瞳をもつウマ娘がいた。もう既に朝のトレーニングを終えた後のようだ。シャワーの後の薄い湯気が漂っている。

 

 つまり、先日はついつい後回しにしまっていた──部屋の相方とのファーストコンタクトだった。

 

「"ミホノブルボン"です」

「あ……『ファインドフィート』、です」

「よろしくお願いします」

「……こちらこそ」

 

 ──会話が続かない。

 

『彼女』──ファインドフィートは、話題を繋ごうと開きかけた口をヒクヒク痙攣させた。

 

 とりあえず天気の話題でも──いや、それを言ってどうする?

 はいそうですね、で終わってしまう気がした。

 じゃあ趣味の話題?

 それはいきなりすぎだろう。まだ出会って数分程度の自分から言うようなことじゃない。

 脳裏に浮かんでは消える選択肢の数々。そのどれにも妥当性を見いだせず、時間を浪費するばかり。

 

「…………」

 

 膠着する状況。

 

 ……ファインドフィートは(早くも)次第に"面倒くさいなぁ"と、浪費される時間に対して苛立ちを覚え始めていた。

 自分で言えた義理ではないが、こういった、己に似た雰囲気のウマ娘は非常にやり辛い。なぜなら会話が下手で、話題を提供するのも不慣れだからだ。他ならぬ彼女だからこそ、よく理解している。

 

「………」

 

 お互いの青い瞳が写すのは端麗な無表情。

 謎の睨み合いばかりで、双方とも口を開く気配はない。

 

 ……もう、無視したほうが良いのかもしれないなとも思い至る。

 

 先輩と不仲であるというのは、決して良いものではない。様々なデメリットが顕在化するリスクさえある。

 だが、それでも無理して会話を弾ませ、よい関係を持つことは──実質不可能だろう。

 

 ファインドフィートは己を過大評価せず、所詮は"コミュ障"でしかない事を自覚していた。

 そしてそれは、目の前の栗毛の彼女も同じはず。おそらく。

 

(………ステータス『緊張』を確認。私から提供できる話題のレパートリーは9通り。計算上、話が弾む確率は28%です)

 

 ──彼女の推測通り、ミホノブルボンも自分の口がうまくない事をよく理解していた。

 

 弾むようなコミュニケーション力、よく笑いよく怒る駆動率の高い表情筋、豊富な知識によって醸造される優れた語彙力……そのどれもを持ち合わせていない。

 

 しかし、初めて出来た同室の後輩とのファーストコンタクト。だからそれなり以上に雰囲気を気を付けていたし、事前シミュレーションだって怠らなかった。

 会話のレパートリーのために"色々"と考えたりもしていた。

 ……けれど結局、目論見は見事に失敗してしまったようだ。

 

 不甲斐ない現実を思い、耳がシュンと垂れてしまう。

 垂れウマ回避のスキルは学んでいなかった。

 

(とはいえ彼女は新入生です。親しい人々と離れて暮らすことになった今、ステータス『さみしい』である事に間違いありません)

 

 しかし後輩のためを思い、鋼の意志で奮い立つ。

 ミホノブルボンは典型的な逃げウマ娘であり、ある程度のゴリ押しは得意なのだ。

 故にとりあえず手元にあった品物から──"ミホノブルボン絶賛!"、"パワー1000%!"、"タンパク質の王道!"──数々のキャッチコピーが踊るお気に入りのプロテインを話題としてチョイス。起死回生のコミュニケーションを図る。

 

 ……話題としてどうなのか?という疑問は意図的にデリートする。これが彼女の精一杯なのだ。

 

(ミホノブルボン、発信します……!!)

 

「わたしは……施設の見学に行ってきます。まだ何処に何があるのかを覚えていないので」

「分かりました。では私が案内しましょう」

 

 ──しかし、運はミホノブルボンに味方した。

 

 聡明な彼女は知っている。

 これは後輩との仲を深めるにはもってこいの鉄板イベントだと。

 それに加えて彼女はファインドフィートとは違い、後輩ともしっかりと仲良くしようという気概を持っていたのだ。

 

 だからこその英断。ミホノブルボンの内なるライスシャワーが"すごいよブルボンさん!"と喝采をあげるような──パーフェクトコミュニケーションである。

 

 そしてこれを断るような強い理由も、()()()()()()もないのがファインドフィート。

 

 ……内心はともかくとして、この提案は受け入れるしかない。

 

「…………」

 

 何よりも──この、無表情ながらもキラキラとした期待が混ざる視線を裏切るのは、流石に不可能だった。

 それと同時に、ミホノブルボンが自分とは異なる気質の"ウマ娘"であることも理解してしまう。彼女は口下手なだけで、他者とつるむこと自体苦手な自分とは決定的に別の生命だったのだ、と──小さく臍を噛んだ。

 

 現時刻は朝6時。

 授業──正しくはレクリエーションが始まるのは午前8時。

 まだまだ時間はあるし、大体は見て回れるだろう。

 

「…………では、よろしくお願いします。ミホノブルボン先輩」

 

 誰にも聞こえないように、ため息を吐いた。

 

 内心を語るようにぺたりと耳が伏せられる。

 左耳に居座るハート型の飾りが、ただ不機嫌そうにゆらゆら震えた。

 

 


 

 

一仕事を終えた女神様は達成感に満ちあふれています。

 

さすがですね、女神様!

彼女のこれからが楽しみです!

 



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2話

 "がんばれ!がんばれ!"

 

 "諦めないで!"

 

 女神様は必死に応援しています。

 頑張る子には報われて欲しいですからね。

 

 


 

 

 ファインドフィートが入学して数日後。

 

 中央トレセン学園というウマ娘の為の教育機関だからこそか──早くも模擬レースが開催される事となった。

 

 この模擬レースで優秀な成績を収め、衆目を集める。そして()()()()()()()()()()()()()()

 専属トレーナーと担当ウマ娘という関係はここから始まるパターンが非常に多いらしい。

 果てしない大空に羽ばたく為の第一歩として選ぶのなら、実に手堅い選択肢のひとつだ。

 

 もちろん、ウマ娘が選択肢として選べるのはこれだけではない。

 それこそ既存のチームに入るというのも賢い選択だろう。

 加入するチームが上位になればなるほど、金も手間も掛かった質のいいサポートを受ける事ができる。

 

 だが──チームの気風と己の気風の兼ね合いを考えなければならず、少し手間がかかる。

 

 無論どちらの選択が劣っているという訳ではない。

 ただ、ウマ娘によって適性も考慮すべき項目も各々違うということだ。

 

 ──そしてファインドフィートは、模擬レースに出走する事を選んだ。

 

 というのも、まず間違いなく自分はチームに所属することに向いていない。

 複数存在するチームメンバーと良い関係を構築するなんて不可能だ。

 彼女は自分のコミュニケーション能力がどうしようもなく悲惨なものと弁えている。

 

 ……そんな訳で、学園で行う初めてのレースだ。

 

 彼女が出走登録を行ったのが数十分前のこと。

 既にいくつもの組が出走を終えている。出番が訪れるのも、もうすぐの事だろう。

 

 学園支給の運動着に身を包む彼女は、入念に体をほぐしにかかった。

 現時点での全力全霊──これを吐き出す必要がある。そして出来れば──可能な限りバ身差を離しての一着、これが欲しい。

 

 だからほんの少しの妥協も出来ないし、そんな事をしてしまえば自分自身を許せない。

 

「すゥ……はぁ……」

 

 ──ギチ、ギチ、と筋繊維が撓った。

 なめらかに駆動する関節に違和感はない。大きく反らした胸部は不足なく酸素を取り込み、心臓の稼働率を高めてくれた。

 ほぐされ、少しずつ熱が充填される四肢に比例するように、冷淡な瞳にも力が篭もり始める。

 

「……9番、ファインドフィート……。かなり体が柔らかいな」

 

「出身は……知らない地名だな。在野からスカウトされた口か?」

 

「へぇ、それは珍しい」

 

 パドックを練り歩く彼女に突き刺さるのは品定めの目、目、目。沢山の視線。

 それの多くは物珍しさと柔軟性への注目であり、この場に大勢いるウマ娘に向ける視線と同質同量の熱しか宿っていない。

 

 ……当然だ。

 現時点での彼女は、有象無象のうちの一人にすぎないのだから。

 

 故に──まずは走る姿で魅せる。品評はその後にしてもらおう。

 冷淡に胸中で零す。ギラギラと輝く陽光を受け、ハート型の耳飾りが赤く煌めいた。

 

 何よりも、『ファインドフィート』には己が走れば誰かしらの目に留まるだろうという自信がある。

 その溢れる生気は鼓動を伝って四肢に行き渡り、筋骨のコンディションを"絶好調"の領域へと押し上げていた。

 

 

 現在の第──何番目かの(見ていなかった)レースが終われば、次はファインドフィート達の出走。

 涼し気な青い瞳を芝生の向こうへ飛ばし、自分と対戦相手以外の全てを意識の外に追い出す。

 

 準備を整えた彼女は、ただ自分の"名前"が呼ばれる瞬間を待ち望んでいた。

 

 

 □

 

 

 中距離2000メートル、芝。

 ここ最近の天気は快晴が続いていたこともあって、見事なまでの良バ場。

 

 今はゲート入り直前。確認のため足踏みを繰り返せば軽い感触が豪脚を跳ね返してくる。

 これはファインドフィートの適正にも合致していて、彼女の速度(実力)を発揮するには恵まれた環境であった。

 

 それを見守る観客はトレーナーと、新入生にとっては先輩にあたるウマ娘達。

 そして走り終えた後の、あるいはこれから走る新顔のウマ娘達である。

 

 彼女と共に出走するのはイライザセイホー、ダルムシュタット、イズミハイセイ。

 ハウアーユー、ハクアイオウ、ケイアイアース、オオヤマライデン……そこまで名前を見て、全ては覚えきれないことを悟り目をそらす。

 

 9番6枠はファインドフィート。

 それさえ覚えていれば問題ない。

 

 ──各々ゲートに入り終え、レース開始の合図を待つ。

 

 左右にいる少女達はどこか不安げな表情でソワソワと体を揺らしており、落ち着かない様子であった。

 有名な話ではあるが、こういった閉所が苦手なウマ娘はそう珍しいものじゃない。

 しかしファインドフィートは非常に落ち着いた様子で、じっと瞳を細め集中していた。

 

 まだか、今か──いやもうすぐだ──。

 張り詰められた緊張の糸が臨界点に迫った頃──

 

「っ」

 

 ──―ついにゲートが開いた。

 同時にぬるりと流れるように──もはや芸術点を加えたくなるほど鮮やかに飛び出す。

 

 ほぼタイムラグが存在しない圧倒的なスタートダッシュ。

 遅れて飛び出してきた──無論、彼女と比較しての話──ウマ娘達との差は視覚的にも分かりやすい。

 

 しかし、このままハナを抑えるには脚質が違いすぎる。

 するすると速度を落とし、なめらかな動きで5番手付近へ位置取りを固定した。

 

(わたしが狙うのは第4コーナー。そこまでは脚を溜めて、溜めて──差す)

 

 規則正しい呼吸と正しい機動に整えられたフォーム。

 小動(こゆるぎ)もしない存在感と頑強極まる理性。

 

 ジュニア級ながら実に素晴らしい素養である。

 

 ──しかし。だから勝てるかと言えば、そう簡単な話ではない。

 ここは中央。エリートウマ娘以外存在しない現代の魔境。

 観客としてこのレースを眺めるウマ娘達の一人一人でさえもが日本トップクラスの優駿だ。

 それを知っているファインドフィートの目には油断の欠片もなく、ただ鋭い警戒の色だけが浮かんでいた。

 

 第一コーナーを抜け、直線に差し掛かる。

 

 ──まだ、動きはない。

 レースの展開は早くも遅くもなかった。

 

 しかし何事もないファインドフィートの付近とは違い、前方では先頭争いが続いているらしい。燻る熱気が風に乗り、熾烈な闘志をターフの上に香らせていた。

 ならばせめてと願うのは、スタミナの消費がより激しくなる事ばかり。

 

 しかし当人達の加速する想いさえ置き去りに肉体は駆動し──直線を超え、コーナーを抜け、僅かな時間を経ると共にゴールが近づく。

 

 現在位置を指し示すハロン棒が、無機質に闘争心を煽っていた。

 

 

(まだ……まだ、溜めろ)

 

 ──残り1000M。

 

 冷めた視線で周囲を睥睨し、今か今かと機を見計らう。

 立ち位置は5番手内側──しかし外は完全に塞がっていて、前方の風向きも少し怪しい。

 今の位置取りは良くはないし、悪くもない。

 

「ハッ、ハッ、ハッ──」

 

 勝負は残り400M──最終直線だ。

 

 必要なのは圧倒的な加速力。爆発力と言い換えても良い。

 肺を大きく膨らませ、心臓の稼働率を瞬時に臨界点まで高める事にこそ勝機がある。

『ファインドフィート』にある才能とは、恐ろしく強靭な心肺にこそ宿っていた。

 

「ハッ、ハッ──―!」

 

 残り800M。

 脚部の筋繊維を膨らませ、仕掛けの準備を進める。

 

 残り600M。残り500M。

 大きく口を開き、轟々と音を伴う程激しい呼吸を繰り返した。

 

 収縮の力を強める心臓。大きく膨らむ肺。巡回を早める赤血球(酸素)

 平時は40を下回る心拍数が急激な上昇を始め、数秒経つ頃には100を超え、更に鼓動は加速を重ねた。

 

「──ッ!」

 

 残り400M。青い瞳が指標を認める。

 

 ──そして、心臓(炉心)()を入れた。

 

 激しい鼓動が脚にさらなる血液を注ぎ込み、ふくらはぎという血液ポンプ(第二の心臓)が脈動を重ね上部へと送り返す。

 繰り返し拡大と縮小を実行する()()は全身に過大な負荷を与えると共に、爆発的な加速を齎した。

 

 芦毛が熱気と共に風にたなびく。

 レース場へと足跡を刻む度に芝が破裂し、後から土煙がターフを追い上げた。

 大きく前傾した姿勢。破滅的な加速。印象的に過ぎる(どこかの怪物を彷彿とさせる)疾走は、否応なく観戦するトレーナー達の視線を惹き付けてやまない。

 

 白い残光が尾を引く様は、さながら閃光のようだった。

 

「む、無ぅ理~!」

 

「無理~!」

 

 前の二人が悲鳴と共に失速し、一秒経つ頃には彼女の背を追いかける立場へと転落した。

 更に一秒経つ頃にはもう一人が絶望の表情を浮かべて落ちていく。

 

 ファインドフィートは彼女等に一瞥さえも寄越さず──意識からすらも()()()()()、更に姿勢を前へ前へと倒すばかり。

 

「何……なの、よぉ……ッ!!」

 

 そうして残った最後の一人──ハナに立っていた鹿毛を棚引かせる逃げウマ娘、オオヤマライデンが困惑の叫びを振り絞った。

 後ろから迫り背中を突き刺すのは膨大な圧だ。

 炎の如き熱量が前へ前へと追い立て、精神を炙り焦がす。それによって浮き彫りとなったのは、諦念と共に滲む微かな涙。

 

 ただ差すだけならまだ良い。たしかに悔しい──本当に、惨めになるぐらいに悔しいし、泣きたくなる。

 けれど"すぐ背後に迫っている彼女は異質だ"と、ウマ娘としての本能が語っていた。

 

「レースである以上……必ず、勝つ……!」

 

 追い抜かれるまでの一瞬。

 オオヤマライデンが横目に見た『ファインドフィート』の青い瞳。鮮やかな筈の虹彩から感じ取れたのは、どこか粘つくような執着。

 僅かな交錯を経ても彼女は一瞥すらくれない。振り返りもしない。

 そんな彼女に絶望して──()()()()()()()()出来ず、追い抜かれた。

 

 そして当然のように先頭に立ったのはファインドフィートだ。

 最高速に達してもなお、決して脚を緩めること無く加速を続ける。

 早く、疾く、速く──偏執的なまでに、終着点だけを見つめていた。

 

「ゴール!一着はファインドフィートだ!

 2着はオオヤマライデン!3着、イズミハイセイ!」

 

 

 □

 

 

「ファインドフィートか!凄まじい末脚だったな……!」

 

「スタミナと加速力には眼を見張るものがある」

 

「あれならクラシック三冠だって狙えるぞ!」

 

 走り終えたファインドフィートの元には多くのトレーナーが駆けつけていた。

 

 この優秀なウマ娘に対する勧誘合戦は、毎年の恒例行事でもある。

 そして勧誘合戦の外野には"勝てなかったウマ娘"が──いや、語るべきではないだろうか。特別な事例でもなければ、敗者にはスポットライトが当たることさえない。

 "勝負の世界はやはり残酷なものだなぁ"、と。ぼんやりと冷めた目線で見渡した。

 

「ファインドフィート!私と一緒にクラシック三冠を目指しましょう!」

 

「俺ならキミを一切怪我させずに導くことが出来る!」

 

「その脚なら海外進出だって問題ない!」

 

 トレーナー達は尚も熱を上げた。

 

 他には渡したくない巨大な原石を自分が磨き上げたくて、誘い文句を語る口は驚くほど必死だ。

 大輪の華に集まるハチのようだなと、またもう一度ぼんやり見渡す。

 本質的にウマ娘に対する熱意あるヒトが集まる事もあるのだろうか。彼女の周囲はむさ苦しい熱気に満ちあふれているばかりだ。

 

 ファインドフィートは鬱陶しさのあまりに耳を垂れさせ、瞳を伏せた。苦手なものは苦手なのだ。誰だってそう。大人だってウマ娘だって、ハチにたかられては恐ろしいだろう?

 ソレを知ってか知らずか口を開いたのはとある女性トレーナー。胸元のバッチが曇りもなく(新米らしく)輝いている。

 

「あなたは何が夢なの?」

 

「………。

 ……わたし、が願う……わたしの夢は──」

 

 ──ああ、なんと振る舞おうか。どう伝えようか。言葉は何を選ぼうか。

 今更ながらに気付いてしまったのは、進路の伝え方を考えていない事。

 

 周囲は返答を聞くためにか、イヤに呼吸を合わせて静まり返っている。

 変な意味合いはないのだろう。しかし不思議な緊張感がファインドフィートの肝を冷やした。

 不安からか、胸元をギュッと握りしめる。ジャージの襟がクシャリと歪んで無言の反意を主張していた。

 

 とはいえ己がコミュ障であることを自認している彼女である。

 

 とっさに気の利いた言葉を話せるなんて自惚れてもいない。

 あー、とか、うー、とか言葉にならない音を鳴らすが、夢を語る口には──文言を飾る機能を搭載することは土台不可能だった。諦めも肝心とはよく言ったものだ。

 

「……わたしは、()()()()()を目指しています」

 

 "おぉっ!"と場が湧く。

 とんでもなく大きい夢だが、夢は夢。

 届くとは思えない。だが王道を往くのであれば自ずと"見栄えの良い"結果には辿り着くだろう。

 

 そんなトレーナー達の夢で一瞬のうちに熱せられた空気は──しかし、中心のウマ娘から続けられた言葉によって一気に冷え込んだ。

 

「だから、だから()()()()()()()わたしを導いてくれるヒト。それが条件です」

 

 さっと黙り込んだ周囲。そんな彼らをじろりと睨みつける。

 その青い瞳には一切の冗談も混ざっていない。本気も本気の眼光だ。

 "妥協はしないぞ"と、殺気混じりの視線が物語っていた。

 

「優しさは不要です。冷酷さが必要なのです。

 体が壊れそうで壊れない瀬戸際を求められるヒトにこそ、トレーナーになっていただきたい」

 

 ──"とんでもなくハード"で、"ウマ娘を壊しうるほどの熱烈な指導"を所望している。

 もしも調整を誤れば壊れる。ついでにトレーナーバッジも危うい。

 

 そう一度口にしてしまえば、後は流れるように伝えたい言葉が溢れ出る。

 それを助けるのは普段とは打って変わって滑らかに駆動する饒舌。思いの丈を吐き出した彼女は、鋭い瞳で周囲を(無意識に)睨みつけた。

 

 "妥協も、甘えも、何もいらない。最高効率を出せるのか?出せないのか?"

 

「いや、それは……」

 

 要約すればストイック過ぎる募集要項。

 周囲のトレーナーが揃って口を閉じるまで、そう時間はかからなかった。

 大輪の華にたかるハチは、ハチ(おじゃま虫)でしか無かったのだろう。

 

「……そうですか」

 

 ファインドフィートが残念そうに目と耳を伏せる。

 尻尾もこころなしか元気を失っているようだった。

 

 ──しかし彼女も、トレーナー達が二の足を踏むのは当然の対応であることを理解していた。だから失望はない。

 

「居ませんか。

 ……ですが、仕方のない事ですね」

 

 気にした様子でもなく、レース場に背を向ける。

 

 最悪他の方法が無いわけでは無い。焦る必要も()()無い。

 そんな彼女の心情を語るように、風に吹かれた頭髪が軽やかに揺れた。

 

「とは言え、この場で名乗り出るのも苦しいものがあるでしょう。

 ……また、お声がかかるのを待っています」

 

 

 

 

 夕暮れ時。

 三女神像が見守る広場で、彼女は黄昏れていた。

 

 もう少し時間が経てばミホノブルボン──ファインドフィートが"ミホノブルボン先輩"と呼ぶ二冠ウマ娘と約束した自主練の時間になる。

 ベンチに座り、はちみーをチューチュー啜りながら日常を謳歌するのも……実に、乙なものであった。

 

 ──それを承知の上でか、目元に隈を拵えた痩せぎすの青年が姿を晒す。

 

 ガイコツ……と形容するには多少の肉が付いているが、どう見ても不健康な姿だ。

 一応最低限の清潔感は確保しているスーツ姿で、意外にもしっかりとした足取りで歩み寄ってきた。

 

 珍しくも素直に"うわぁ"と引きつった声を上げてしまうのも、まぁ無理はないだろう。

 

「やあ」

 

 挨拶は気さく。

 声音はさわやか。

 されど見目は半死人。

 

 胸元に輝くトレーナーバッジがなければ……まず不審者か否かを訪ねていたかもしれない。あるいは普通に逃げ出すべきか。

 

「……初めまして、見知らぬトレーナーさん」

 

「ああ、初めまして」

 

 そんな不審者が"よっこらせ"と親父臭い掛け声とともに隣の席──彼女から少し離れた位置に座り込んできた。

 

 ……自分はどのような対応をすれば良いのだろうか?

 ファインドフィートは珍しく、真剣に悩んだ。

 なのでとりあえず──"はちみー飲みます?"と予備を差し出せば、"いや、マイはちみーあるんで大丈夫"と拒否されてしまう。

 

 ……当然そこから会話を繋げるような事が出来る訳もなく、再びストローに口をつける。ひんやりと喉を蹂躙する甘味が心地よかった。

 

「いい具合に、効率的に糖分を補給できるからな……好きなんだ、こいつ」

 

 彼女と同じようにカップを取り出す彼を見て、随分と"無機質"な眼をしているなぁ、とぼんやり思う。

 それにまあ、随分と個性的な方のようで──と自分の事を棚に上げて普通に失礼な視線で男を眺めた。

 

 言わんとすることを察した彼は、仕方なさそうに肩を竦めて見せる。一応は自覚の上である。

 

「………ズズ」

 

「………ん」

 

 束の間をマイペースに、無音で過ごす。

 彼女らが醸し出す空気は奇妙としか表せないモノ。通りすがりのウマ娘が変なものを見る目をするのも無理はない。

 

 そしてそれぞれがはちみーを飲みきって、一息をついて──まず口火を切ったのは、ファインドフィートからだった。

 

「……用事があったのでは?

 条件を飲める方ですか?あるいは……わたしを説得しに来たヒト(愚か者)でしょうか」

 

「条件を理解した上での勧誘だ」

 

「なるほど」

 

 簡潔に、完結した。

 同時に"なるほど、コミュ障仲間ですか"と納得してしまう。

 

 この時点で既に話の結論は定まったようなものである。

 青い瞳と黒い瞳で視線を合わせ流れるように──余分が挟まることもなく、条件(誘い文句)の確認に移行する。

 

 おそらく間違いないだろう。

 だが──様式美というのも必要だ。幾らかの期待を視線に込めて言葉を待った。

 

「ビジネスライクに行こう。俺はキミの望み通り、ギリギリを攻める。超高速のレースでコーナーの限界を疾走するように。良心と倫理観のレート(価値)を破綻させよう」

 

「………なかなか個性的なお誘いですね」

 

「こういうの、好きだろう?」

 

「嫌いではありません」

 

 青い瞳の奥を覗き込むように、無機質な視線が突き刺さる。

 無遠慮の権化とも言える不躾な眼だが、彼女は嬉しそうに尻尾を揺らした。

 

 年頃の少女らしからぬ冷淡な視線で"それで続きは?"と促せば、更に重ねられたのは爽やかな声音。

 

「俺はキミというウマ娘の価値を何処までも高める。俺は名誉を、キミは夢を掴むんだ。

 なあ、歴史に名を刻み込もうじゃないか」

 

「──ふむ」

 

「これはキミを使ったビジネスだ。夢と希望、名誉、伝説の称号……全部掴もうぜ。妥協はしないんだろ?」

 

 ピンと耳が立つ。

 

 ウマ娘の肢体を消耗品と知った上で語る、"最低"とも言える誘い文句。

 その上で彼自身の欲望もブレンドされていて、えも言われぬ風味を香らせていた。

 

 気に入らなかったか?

 言葉選びはダメだったか?

 

 ……いいや、やはり彼は自分の同類のようで、安心しただけだった。善意で飾らない直球ストレート、実に結構。

 

「良いですね、とても──気に入りました」

 

 他のウマ娘が聞けば"最悪ッ!"という罵倒と共にド派手に──手加減はされた上で──蹴り飛ばされていたかもしれない程には、ひどい。

 

 しかしそれでも、彼女にとっては"最高"の動機。

 願望がはっきりしている分、信用できるし信頼できる。それも私欲に拠るものだとくれば、更にポイントは高くなる。天井知らずだ。

 "何故こんな性根の男がトレセン学園に在籍出来ているのやら"──という、至極まっとうな疑問には蓋を閉じておくべきだろう。

 

「ですが、デリカシーはありませんね」

 

「悪いな。訴えるのは勘弁してくれ」

 

「ふふふ」

 

「表情が変わってないぞ」

 

 彼女の口から出される答えが決まりきったモノと理解しながらも、じっと待つ。

 勧誘が失敗するなんて危惧は、彼の思考回路の何処にも存在していなかった。

 

 そんな男を下から食い入るように、青い瞳が覗き込む。

 彼女の口から吐き出される言葉には、きっと学園に来てから今までで最も誠実さを宿していた。

 

「であれば、わたしはあなたの指導に従いましょう。

 九冠ウマ娘という前人未到たる頂点の座を獲得するまで、ひたすらに駆け抜けます。

 あなたが、わたしのトレーナーです。わたしがあなたの担当ウマ娘です」

 

「……いいな、そういうの」

 

「昨日、先輩と一緒に考えました」

 

 "にこり"と浮かぶ、花が咲くような笑顔……とでも、なれば良かったのだが──。

 相変わらずの無表情、無感情で口を閉ざした。

 

 しかしトレーナーはそれを気にしていないのか、ピクリともしない無表情のまま大きく頷く。

 

「多少の悪評が付き纏ってしまうのではないかと思いますが──」

 

「何、気にするな。

 ……今更、だからな」

 

「そうですか」

 

 白く、傷一つ無い手を差し出す。

 それを骨ばった手が握り返した。

 

「俺の名前は葛城だ、好きに呼んでくれ」

 

「『ファインドフィート』です。よろしくお願いします、トレーナー」

 

 ──たまたまヘンテコな状況に居合わせた周囲の人間がそれで良いのか?と目で語る。

 いくら当人の同意の上とは言え、さすがに──と。

 

 しかし周囲は周囲。よそはよそで、うちはうち。

 握手による信頼関係の構築も終え、連絡先の交換を手早く終えて……。

 となれば、次は事務処理。事後処理に計画立案。

 

 仲良くなったから記念に食事でも、なんて()()()()()()()()()は求めていない。少なくとも彼女はそう思っていた。

 

「まぁ、今すぐに出来るような事は殆どない。こちらで書類は用意しておくから今日は帰るといい」

 

「そうですか。

 実は、これからトレーニングジムに行こうと思っていたのですが……」

 

「……自主練か。付添人は?」

 

「同室の──ミホノブルボン先輩と一緒です」

 

「そうか、心配は不要だな。ああ、何かあればすぐにでも電話するように」

 

「了解しました」

 

 熱の欠片もない会話を終え、空っぽのカップを片手に立ち上がる。

 最初は離れた位置に座っていた二人も、立ち上がればすぐそばに隣り合っていた。

 

 ……"物理的な距離"と"精神的な距離"を等価とするのならば、ファインドフィートは悪い男に誑かされた純情な娘だろうか。

 しかし現実には無機質、無味乾燥、ビジネスライクな協力関係である。

 ロマンスの気配も無い──しかしそれ故に強靭に結ばれた契約。

 

 だからこそである。

 ファインドフィートは、思ったよりもスムーズに進んだ現状に大いに満足していた。

 この感動、この達成感──汗に変換出来たならとても気持ちいいだろう。

 

「…………」

 

「おや……まだ、何か?」

 

 

「……いや、何でも無い。また明日の朝──そうだな、7時にはもう一度ここに来てくれ」

 

「ええ、分かりました。

 ……それでは、また」

 

 耳はごきげんそうに揺れ、尻尾はぱたぱたと風を起こす。

 そのままの勢いで軽やかに駆け出す──駆け出そうとした直前。

 

 ふと思い出したように、くるりと振り返る。長く白い髪が軽やかに舞った。

 

「そうです、忘れていました」

 

「……?」

 

 怪訝そうな表情の葛城へ向き合う。

 

 葛城の立ち位置からは夕暮れの逆光のせいで、表情は分からなかった。どうせ先程と変わらず無色のままだろうが。

 

「『ファインドフィート』は、速かったですか?」

 

「あ、ああ……勿論だ。お前の肉体は十分に上を──頂点を目指せるスペックだと認識している」

 

「……本当ですか」

 

「本当だ」

 

 それを聞いた彼女は、嬉しそうに尻尾を揺らして駆け出す。

 走り去る彼女を見送ったのは、三女神の像だけだった。

 

 

 ■

 

 

 

 

 家族が乗った軽自動車は、大型のトラックに追突されてぺしゃんこになって。

 

 父も母も、色んなとこを欠けさせて、何かを言い残すことも出来ずこの世を去った。

 弟は胸を強打して──幼い心臓はあっけなく、職務を放棄してしまった。

 

 姉であるウマ娘だけだった。

 頑強な肉体故に辛うじて生き残り、家族の死に様を目に焼け付けたのは、彼女だけだった。

 

 自慢だった両脚を失い、腹の内側にあるべきモノを幾つも失って。

 それでも生きていた。

 幸運にも生き残れたのではなく、不運にも死に損なった。

 

 けれど、こんな終わりが嫌だったから起死回生の一手を──家族全員で死ぬのでは無く、最後の一人だけは生かす次善策を求めてしまう。

 

 心臓だけは無事だった姉と、心臓を失った弟。

 双子としての血の繋がり、魂の繋がり。

 

 『姉』は、そこに一切の全てを賭けた。

 

 失敗してしまえば、ただ全てを失っただけ。

 成功出来たならたった一つ──己の片割れという"夢"を残せる。

 

 悩む余裕はない。考える余地もない。

 数秒の時間が立つ度に肉体から生命力が失われ、加速的に意識が霞んでいく。

 

 たまたま自分達が搬送された病院の医者に、血反吐まみれで(泣きながら、)脅迫まがいの(惨め極まった)願いのもとに執刀を依頼し──受理された。

 その医者が()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ほどの狂人だったからだ。

 今回はウマ娘とヒトの心臓移植──過去に存在しなかった事例である。だから目が眩んだ。

 

 本来なら有り得ないはずで、しかし様々な要因によってありえてしまった末路。

 

 それに加え、姉は思考を回す余力を残してしまっていた。

 麻酔を込められた注射器を眺める姉は……弟の未来に思いを馳せて、憂いたのだ。

 

 "そういえば、あの子は一人ぼっちになってしまう。"

 

 家族はいつの間にか死に絶え、遺されたのは姉の一部。

 前に居たはずの両親はどこにも居ない。隣りにいたはずの片割れは自分の中。

 

 きっと苦しいし、寂しいはず。

 わたしならきっと折れてしまう──つまりあの子も耐えられない。

 全く同じストレス耐性、全く同じ精神性を共有する身である故に、この世の他の誰よりも理解していた。

『弟』が自壊する未来を。

 

『だから支えを──夢をあげるね』

 

 最初は純粋だったはずの願いを丁寧に丁寧に煮詰めて凝縮して。

『心臓』という器から溢れそうになるぐらいに、詰め込んだ。

 夢と執着と偏執と妄執と、大きすぎる愛情。

 

『彼女』が『彼女』として目覚めた時に壊れなかったのは……確かにそのお陰(せい)だったろう。

 

 

 

 

 

「ええ、安心しました」

 

 今度こそ音を立てずに(校則を厳守して)駆け出した彼女はひとり、『胸』に手を当てて感謝を捧げる。

 夢に挑む──これが出来る事自体、とても幸福なことなのだから。

 

「良かったですね、姉さん。わたしは、あなたを連れて行けそうです」

 

 とくり、とくりと規則正しく鼓動を刻む。

『姉』の心臓は、今日もしっかりと機能していた。

 

 


 

 

 『ファインドフィート』は誓いました。

 とくりとくり鼓動を繰り返す『姉』と、今は亡き両親に。

 

 ウマ娘は神秘的な種族。

 ――なら、わたしだって『ファインドフィート』になれる。

 ねえ、そうでしょう?わたしたちの女神さま。

 

 三女神のうちの一柱は明るい笑顔で、必死に応援の声を上げています。

 けれどおかしいですね、他の二柱のお顔が真っ青です……。

 



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3話

 "ちゃん頑張れ!"

 

 女神様はハート型のうちわを両手に持って、必死に応援しています。

 最近お気に入りの子が、ついに夢を叶えようと走り出したからです。

 

 直前までは『祝福』と『試練』と『応援』のどれを手に取るのか悩んでいたようですが、まずは『応援』することを選んだみたいですね。

 自力で立つこと(find one's feet)を信じるのも"母"のお役目ですから。

 

 "それはそれとして、お友達も作ったほうが良いですよ?"

 

 けれど、女神様は不安そうです。

 たしかに、せっかくの学校生活です。どうせなら楽しんでほしいですからね!

 

 "私が思うに、心の壁が大きすぎるのです!"

 

 女神様は悩んでいます。

 ……どうしましょう?

 

 "うーん……。

 

 でもまぁ、やっぱり……ちょっとぐらいなら、ほんのちょっとだけなら手を出しても……いいですよね!"

 

 


 

 

 ファインドフィートが入学して一週間。

 葛城トレーナーと契約を結んで三日目の放課後。

 最近噂の無機質二人組の姿は、トレセン学園の片隅に佇むトレーナー室にあった。

 

 ぼさぼさの黒髪をワックスで撫で付け、そこそこ質の良いスーツで身を包む。たったそれのみではあるが、どうにか最低限の清潔感を確保した男──葛城トレーナーが手を打ち合わせる。

 "会議を開始する号砲"にしては些か情けない音が、ファインドフィートの鼓膜を揺らした。

 

「まず最初に走るべきレース……目標を提示しようか」

 

 机の上以外は綺麗に整頓された部屋だ。

 大きな液晶テレビとその横に立てられたホワイトボード。それを眺める位置にあるふかふかのソファー。

 冷蔵庫の中にはたくさんのはちみー。

 

 "中央所属のトレーナー"という凄まじく優秀な人材(資産)のための恵まれた施設整備──話には聞いていたが、ファインドフィートの予想を上回る環境だった。

 そのおかげで彼女は暇な(休養)時間も屯できる快適空間ことトレーナー室でくつろげるのだ。ありがたい。

 

 そして葛城トレーナーが数多の資料をホワイトボードに貼り付けるさまを眺めながら、ソファーに陣取り啜るはちみー……実に甘美であった。

 ここに来て初めて、あの小さな理事長へと尊敬の念を抱いた瞬間でもある。じゅこじゅこ。

 

 ──もちろん今日もトレーニングを終えた後でもあるので、葛城もそれを悪い事とは思わない。

 

 むしろ"()()()()()()()()()()()()()"を乗り越えた後でありながら、このようなふてぶてしい態度を取れるのなら大したものだ。

 

 両手両足は生まれたての子鹿のようにプルプルと震えているにも関わらず、はちみーの為だけにここまで見栄を張るのは素直に感動する。

 恐ろしく強靭な理性……葛城でなければ、これを()()する手法なぞ思い浮かばないだろう。

 

 明日以降で行うトレーニングメニューの草案を脳内で開き修正案を書き加えつつ、この三日間で驚くほど馴染んだ芦毛の無愛想娘に冊子を放り投げた。

 

 ──当然、取り落とす。

 

「次のレース……これに関しては言うまでもないか。

 という訳で、メイクデビューに向けたプランを説明しよう」

 

「わたしの両手が使い物にならないことは無視ですか」

 

「安心してくれ、読み聞かせてやる」

 

「ならいいでしょう」

 

 プロジェクターが吐き出す光が壁に像を結ぶ。

 

 葛城が所有するUSBメモリの内から映し出されたのは、大まかに書き上げられたスケジュールプランだ。

 ジュニア級、クラシック級、シニア級と三段階に分割されたページの内、今回フォーカスがあたっているのはジュニア級のスケジュールプラン──その前半部分である。

 

「まず、可能な限り最速でメイクデビューを終えるつもりだ。

 この時に出来るだけバ身差があると良い。多少なりとも注目度が上がるのであれば……当然、さらなる近道になる」

 

「なるほど」

 

「だが必須では無い。焦るあまり調子を崩して一着を逃したとなれば、それこそ本末転倒だ」

 

「……まあ問題ないでしょう。『ファインドフィート』は速いので」

 

「そうかもしれない。だが油断は禁物だ。

 ……言われるまでもないだろうがな」

 

 じゅこりとストローが音を立てる。

 

 空っぽになったはちみーのカップを直ぐ側のゴミ箱に放り投げ、ついに耐えきれずにソファーへ倒れ込む。腰にも届くほど長い頭髪が、ばさりと広がった。

 

 ──ちなみにゴミ箱には入らなかった。床を転がるカップは、どこか虚しげだ。

 

「わたしはこのままの姿勢で聞くので続けてください」

 

「ああ。それで出走時期についてだが──」

 

 ホワイトボードにぺたりと新たに貼られた紙面。そこに踊る情報は6月までの私生活スケジュール。

 訓練日と休養日を無駄なく敷き詰めた日程の中に、ひとつだけぽつんと空いたマスがある。

 

 キュッッキュッと赤いペンで丸をつけられたのは6月の後半。

 今から2ヶ月後と考えるなら、そう遠くない。

 

「キミの能力値自体は既に──かなり、高度に纏められている。

 当然、"ジュニア級にしては"と枕詞が付くがな」

 

「鍛えていますから」

 

「それに本格化も始まっているんだ。

 今時点からの成長を予測する限り、メイクデビューは間違いなく圧勝できる」

 

 葛城は懐からはちみーを取り出し、酷使された脳髄へ栄養の補給を行う。

 

 この二日間、ろくに眠りもせずにファインドフィートの身体解析を行い、それを元にトレーニングプランを構築していたのだ。

 不明瞭な肉体性質を吟味しながらの修正──土台不可能な数値化を限界まで正確に求め、それを現実の紙面に落とし込み、肉付けを行う。

 

 それは彼の目元の隈を深め、脳漿を沸騰させるのには十分すぎる頭脳労働であった。

 

「そして、メイクデビューを超えた後はホープフルステークス……ここで一着だ。これはレース感を掴む程度の温度感でいい」

 

「そうですか……分かりました。

 ちなみにわたしのはちみーは?」

 

「無い」

 

 じゅこじゅことストローが鳴る。

 青い瞳に粘ついた殺意が混じったのは気の所為だろうか。

 

「……まぁ、あれだ。今知っておくのはこのぐらいでいいさ」

 

「そうですか」

 

 プロジェクターの電源を落とし、そこらへんに転がしていた書類の整理を始めた。

 

 その後ろ姿を眺めるファインドフィートが、聞こえないように小さな声で"骸骨奴隷め"とポツリと呟く。

 当然、ヒトである葛城には届かない。

 

「ああ、マッサージの影響はどうだ?

 脚が熱を持ってるとか、関節に違和感は?」

 

「いいえ、問題ありません」

 

「良し。

 なら程良いところでシャワーでも浴びておけ」

 

「はい」

 

 とんとん、と資料の束を叩き纏め、かばんに入れる。

 そして飾り気のない黒革が細い肩に掛けられた。ツヤのない黒は、トレーナーの瞳と瓜二つである。

 

「……一人で戻れるか?」

 

「問題ありません。回復力(ヒト因子)には自信があるので」

 

「そうか」

 

 "ま、何かあったら連絡しろよ"と言葉を残し、スタスタと退室する。

 

 白く清潔なドアの向こうに消えていった骸骨の軌跡をしばし眺め──より一層と深くソファーへ沈み込んだ。

 未だに両脚に力なんて籠もらないし、限界まで駆使された腹筋は瀕死の悲鳴を上げている。

 入学前には想像もできなかったほどハードなトレーニングは、ファインドフィートの見栄を剥ぎ取るには十分すぎるモノだったのだ。

 

「……はぁ」

 

 しかしそれはそれとして──やはり、乙女の尊厳(姉と同じ容姿)的には体の汚れを許容できないという事情もある。

 

 なので仕方なく──本当に仕方なく、生まれたての子鹿と同レベルの脚力でノロノロと立ち上がり、トレーナー室に併設されたシャワールームへと突撃。

 

 力なく揺れる尻尾で必死にバランスを確保する姿には、そこはかとない哀愁が漂っていた。

 

 

 

 ■

 

 

 

「……戻りました」

 

「おかえりなさい、フィートさん」

 

 見栄を張ったは良いものの、トレーナー室と寮の間を移動する──これのみで息も絶え絶えとなってしまった。

 あまりにもフラフラと危なっかしい状態だったものだから、それを見咎めたミホノブルボンが肩を支える。

 でなければ、きっとそのまま床にへたり込んでいただろう。

 

「すみません」

 

「私のステータスは『絶好調』です。フィートさんの重量であれば、10%の出力で安定して支えることが可能と判断します。

 つまり、お気になさらず。私は先輩ですから」

 

 補助を受けつつベッドの縁にたどり着き、ようやく一息つく。

 

 自分で求めた事とはいえ、こうも限界の上限を極められたら私生活にも影響が大きい。きっと、さっきの場面で無駄に見栄を張らず、素直に送ってもらうべきだった。

 

 あるいは、女性の補助員を雇うのも良いだろう。

 幸いなことに、ファインドフィートには金銭的な余裕(過去の残滓)があった。

 

「お風呂は入り終えたのですか?」

 

「……大丈夫です、トレーナー室のシャワーを借りたので」

 

「なるほど。では、食事は終えたのでしょうか?

 疲労回復のため、ビタミン含有率の高い食事を推奨します」

 

 ミホノブルボンの青い瞳が、ファインドフィートの青い瞳を覗き込む。

 すると、何となく(無表情だが)気まずそうに目を逸らされた。

 

 この"頑固な後輩"は放っておけば必要最低限のみで済ませてしまう──大方、ベッドの下に押し込められた栄養食で済ませるつもりだったのだろう。

 

 しかし、尊敬するマスターによる()()()()()()()()を履修したミホノブルボンには──それを許せない。

 効率を求めるのであれば尚更食事内容には気をつけるべきだ。

 

 訓練効率を是正するため、駆動する論理回路。唸りを上げるデータベース(マスターの努力の結晶)

 

 ──あるべき指針を算出するのに掛かった時間は、ほんの数秒だ。

 

「食事による栄養素の摂取──これはウマ娘にとって特別に重要だと、国勢調査による統計が取られています。それはURAの公式発表も同様です」

 

「そう、ですね……?」

 

「はい。

 ところでフィートさんの脚部に溜まる熱……ここから察するに、疲労度は高度に蓄積されたままであると推測します。

 食堂までの道程を踏破できる確率は43%。

 途中で立ち上がれなくなる可能性が非常に高いと思われます」

 

「……はい」

 

「つまり、私と一緒に行動し、食事を摂取することを推奨します」

 

 ずい、と顔を寄せる。

 相対する無表情と無表情。

 

 ファインドフィートは──この面倒極まる状況に辟易としていた。

 脇目も振らず効率を追い求めるべき現状を、彼女は理解しているのだろうか。

 

 きっと理解した上でこうしているのだろう。

 結果的にこちらのほうが成果を出せるのだと、そう信じているのだ。

 

 それに対し、"待った!!"と心の中の内なるファインドフィートが声を荒げる。

 この邪智暴虐なるサイボーグウマ娘を許してはならないと──!

 

「…………」

 

 ──しかし、忘れてはならない。

 

 自分の意志を発露できないからこそ"コミュ障"なのだ。

 己より強いものであれば、おとなしく腹を見せるしか無い。

 ……抗弁力?そんなものは何処にも無かった。

 

 ──多分、トレーナー室に体力ごと忘れてきたのだろう。つまり葛城トレーナーが悪い。

 

「……よろしくお願いします」

 

「それでは行動開始します。手を」

 

 伸ばした手がミホノブルボンによって引き上げられ、ベッドとは束の間の決別を果たした。

 癒やしの象徴へ向けて名残惜しげに振り返っても、もう戻れないのだ。

 

 諦めて、目の前で先導するように歩き出したミホノブルボンを追いかける。

 

 

 

 食堂までの道のりをゆっくりと、しかし着実に。

 生まれたての子鹿にもバ鹿にされかねない脚力で、無言の歩みを積み重ねた。

 

 それから普段の倍近い時間をかけて──本当に時間をかけて、歩いて、歩いて、歩いた。

 名も顔も知らぬウマ娘達の好奇の視線を振り切るの楽ではない。空腹を誘う香りの発生源へと辿り着いた頃にはもう、活力という活力の尽くが体から流出しきっていた程だ。

 

「"ミッションコンプリート"。現在地、カフェテリア。

 フィートさんの移送を完了しました」

 

「……ええ、ありがとうございます」

 

 "コングラッチェレーション、わたし"と小さくつぶやく。

 

 そして達成感に浸るのも程々に、注文口へ向けて再度ゆっくり歩き出した。

 

 ゴール地点はもう目の前だ。

 そう思えば、ほんの少しだけ活力が湧いて来る。

 疲れ切った肉体が糖分を──はちみーを求めて乾き切っていた。

 

 ──のろのろ、のろのろと牛歩で進む姿を、後ろから追従するミホノブルボンがそっと見守る。

 

 そのサイボーグ系ウマ娘二人組は良くも悪くも目立っており──それを、とある()()()()()()が見つけられたのはある意味当然だった。特徴的なポニーテールを揺らし、"おや?"と首を傾げる。

 

 後方先輩面をしているウマ娘は既知の間柄であるが……さて、あの芦毛のウマ娘は誰だろうか。

 

 冷気漂う鉄仮面、芦毛、青い瞳、スタイルに恵まれたウマ娘。あれをひと目見たのなら、忘れることなぞ出来ないほど個性的だ。

 その姿をこの自分が知らないのであれば──ほんの数日前にここに訪れたであろう新入生だろう。

 そして"サイボーグ系"。

 

 ……なら、顔は知らなくても名前だけは知っていた。

 

 大きく頷いた彼女は、ポニーテールを揺らして一歩踏み出す。

 彼女に最初に気付いたのはミホノブルボンだった。

 

「や!ブルボン、これからご飯なの?」

 

「はい、その通りです。

 ……"テイオー"さんもですか?」

 

「うん、これから食べるとこ!」

 

 そのウマ娘はファインドフィートも見覚えがある。

 もちろん顔を合わせたような経験があるわけでもなく、一方的に知っているだけだ。

 

 新聞、テレビ、ネットニュース。その名前は何処にでも存在していた。

 

 "トウカイテイオー"。

 幾度となく骨折を繰り返しながらも不撓不屈の精神で立ち上がり、圧倒的なレースを魅せ続ける──今の世代で最も有力なウマ娘の一人だ。

 

 会話する二人の横顔をぼんやりと眺めていると、ふと振り返った彼女と視線が絡み合う。

 ミホノブルボンの深い青とは違う、青空のように澄んだ青い瞳。

 快活な笑みも合わさって──ファインドフィートとは全く別種の存在であると、即座に反射の域で理解してしまった。

 

 ……だというのに、尻尾の毛並みが逆立つ様を見たのか見ていないのか、トウカイテイオーがにこやかに歩み寄って来る。

 対面で顔を合わせると、甘い香りが鼻孔をくすぐった。嗅ぎ覚えのあるいい香りだ。

 

「で、キミがファインドフィートだよね!最近噂の!」

 

「ええ、そうですが……いや、噂?一体どういった……」

 

 甲高い声にピクリと耳が震える。

 ファインドフィートが居直ると、トウカイテイオーは怪訝そうに眉をひそめた。

 

「だって、あんな個性的に啖呵を切ったんだもの。その上とんでもなくハードなトレーニングを積んでるし、メカジョーク似合いそうだし──キミ、第二のサイボーグとして有名だよ?」

 

「ログを確認。

 ……確かに、最近ファインドフィートさんの名前を聞く機会が増えたと記録されています」

 

「……まぁ、そういうもの、でしょうか……?」

 

 それにファインドフィートの場合、実績を残す先駆者──ミホノブルボンとよく似た特徴を備えているからこそ、という事情もある。

 大きな夢、無表情、サイボーグ系。

 この三拍子が合わさるウマ娘なんてそう居ない。

 

 ……メカジョークに関しては風評被害である(まだ言っていない)

 

「はぁ……それで、何の御用でしょうか。

 わたしはあちらで食事を摂っているので、お二人は気にせずにどうぞ」

 

「えー!?この状況でそんなこと言っちゃうのー!?」

 

「テイオーさん。

 フィートさんの言語機能、及び対人機能は未だ発展途上のものです。

 つまり、人付き合いの経験が殆どないものと推測します」

 

「じゃあ二年前のブルボンだね」

 

「……!?」

 

 思わぬ流れ弾を受けた元祖無表情ウマ娘──その背後に弾ける落雷の幻影。

 尻尾がしなしなと震えて悲哀を纏う。

 

 トウカイテイオーはそんなコミュ障二人組を見て、呆れたように肩をすくめた。

 

 鉄仮面で、他者の機微に鈍感だったミホノブルボン。

 鉄仮面で、他者の機微に()()()()()ファインドフィート。

 

 この両者は似ているようだが──その内面は根っこの部分から違う。

 トウカイテイオーは持ち前の優れた洞察力でそれを悟りながらも、まぁ悪い子じゃないみたいだし……と小さく笑った。

 

「ま、ボクが仲良くしたいって言ってるだけなんだよ」

 

「不要です」

 

「まぁまぁ、そう言わずに」

 

 たん、たん、たん。

 

 お得意のスリー(テイオー)ステップを刻みながらずいっと顔を近付ける。

 活発な笑顔には裏表がなく、ファインドフィートが信じる心の壁を飛び越えようと跳ねて来た。

 

「……んー?」

 

 しかしどうしたことか──トウカイテイオーはすっと瞳を細め、ファインドフィートの顔をジロジロと眺める。

 次いで、その周囲を()()()()訝しげに眉を顰めた。

 

「んん~……?」

 

「あの……何か?」

 

「──あっ、ごめん!何でもないや!」

 

 我に返ったように小さく頭を振り、ごまかすように笑う。

 

「では改めまして……ボクはトウカイテイオー!最強無敵のトウカイテイオー様さ、よろしくね!!」

 

 溢れるコミュ力。圧倒的に陽気なオーラ。

 一人を好み、レースに専心するファインドフィートにとっては未知の人種。

 

 差し出された右手は握り返される瞬間を待ち望んでいるように、相対する鉄仮面娘の目の前で停止している。

 

「……トウカイテイオーさん」

 

「テイオーって呼んでもいいよ!ほら、ボクら同じ中等部だし!」

 

「……テイオーさん」

 

 "これどうしたら良いんですか?"

 青い瞳は珍しく、助けを求めるように虚空を揺蕩った。

 

 右を見る。

 自分と同じ無機質な──しかし、自分よりも深い青の瞳が見つめ返してきた。

 彼女が捧げる真摯な救援要請を受け、ここ数日で何故か世話を焼いてくる先輩が応える。

 

 "諦めてください"

 

 ──ファインドフィートにこれを独力で断れるような言語センスは、存在しない。

 

「それでキミの名前は?

 勿論知ってるけど、キミ自身から聞きたいな」

 

「……ミホノブルボンです」

 

「ごまかし方が雑すぎるよ!?」

 

 ファインドフィートは思わず天を仰いだ。

 尻尾が力なく垂れる。

 

 ……無駄な抵抗は、結局無意味に終わったのだ。

 

「ファインドフィート、です。

 ……よろしくお願いします」

 

「そっか!よろしくね、フィート!」

 

「ハイ」

 

 しぶしぶと手と手を合わせ握り返せば、トウカイテイオーは嬉しそうに尻尾を揺らした。

 

 見るも美しい笑顔は──きっと男性、そして同性から見ても、さぞ魅力的に映るのだろう。

 ……しかしファインドフィートにとって、悪魔の笑みにしか思えなかった。

 

 ──まぁ、何にしても付き合いはほどほどに留めておけばいい。

 時たまレースに関するアドバイスでも貰えたら御の字──と、そう考えておこう。

 

 どうにか自己暗示を済ませ、精神の平穏を取り戻したファインドフィートは──何故か一向に離されない右手に困惑した。

 トウカイテイオーは変わらずニコニコと勝ち気な笑顔を浮かべて、ファインドフィートの冷淡な瞳を見つめている。

 

「……ところでさ、つかぬ事を聞くんだけど……」

 

「なんでしょうか」

 

 ごそごそ。

 突如懐を漁りだしたトウカイテイオー。

 訝しげにそれを眺めるファインドフィートに対して、徐に口を開いた。

 

「はちみーといえば?」

 

「──硬め、濃いめ、多めです。常識ですね」

 

「………!!」

 

 さっと取り出されたはちみーのカップ──そのストローは呑口が広く、粘度の高い液体を飲み干すために用意される特別製だった。

 ファインドフィートもつい先程まで咥えていたのだから、すぐに察した。

 

 ──相手が"察した"ことを"理解した"トウカイテイオーがにんまり笑う。

 

 つまり、目の前のサイボーグは相容れることが出来るタイプのウマ娘だったのだ──と。

 高カロリーを恐れることのない勇者との遭遇である。心の底から歓喜の念を覚えた。

 

 珍しく相手の機微を察知したファインドフィートも"まぁ、ちょっとぐらいなら仲良くしてもいいでしょう"と印象を改める。

 さすがはトウカイテイオー……ある種の極まった知性を有しているらしい。

 

「ボク、キミとは仲良くなれそうだよ!これからもよろしくね!」

 

「ええ、よろしくお願いします」

 

 トウカイテイオーによる押せ押せ(一方通行)だった先ほどとは違い、双方向へと変化した握手の交流。

 ミホノブルボンはパタパタと耳を揺らし、満足そうに頷く。

 

「…………交友関係が増えたようで、とても安心しました。

 私が観測する限りフィートさんのお友達は大変少ないようなので」

 

 後輩の面倒を見る──それは彼女自身、初めての試みであった。

 

 ミホノブルボンが初めて見る自己の同類にして、マスターが設定した呼称曰く──『ポンコツコミュ障娘』。

 彼女の慧眼がそう見抜いたのであれば、きっとそうなのだろう。

 マスターが随分と心配していたこともあって、ミホノブルボン自身も心配していたのだ。思いは通じていなかったが。

 

 それを知ってか知らずか、トウカイテイオーは呆れたように肩を竦めた。

 

「ブルボン、お姉さんみたいだねぇ」

 

「…………!!」

 

 ──電流、再び。

 

 ピーン、と天を指す耳と尻尾が──これ以上無く、ミホノブルボンの内心を表していた。

 レース中にも見せる星の瞳の輝きがファインドフィートを捉えて離さない。

 

 なんだろう──背筋に冷たいものが伝った気がする。

 優れた直感が"また面倒くさいことが起きそう"と警鐘を鳴らし、はやく話を進めなければと焦りの火が灯された。

 

「まったく、ご飯を食べるのではなかったのですか?

 見てくださいこの脚を、ブルブルです。早くしましょう」

 

 急に饒舌に語りだした通り、確かに手足が震えていた。

 しかしそれは本当に疲労に拠るものだろうか?

 

 ……いいや、違う。

 ファインドフィートは恐れていた。

 

 この、このような、活気に満ちたやり取り──女学生同士による仲良し会話。

 ファインドフィートが最も苦手とする陽気だ。

 

 青い目が雄弁に叫ぶ。

 わたしはレースで勝ちたいだけなのです。それだけでいいのです。

 だからこんな、対人関係なんて──。

 

 ──トウカイテイオーは、そんな彼女の内心を余さず理解していた。

 実は、この学園において()()()()()()()()()()()瞬間でもある。

 

 そしてトウカイテイオーは──その焦りを理解した上で、にこやかに口を開いた。

 

「照れてる~。ブルボンも嬉しそうだよ?」

 

「わたしは照れてませんが」

 

 "悪魔め"。

 先程までの友愛の精神は何処へ消えたのだろうか?

 

 見よ、ミホノブルボンがやけにキラキラとした目で歩み寄る様を。

 ファインドフィートには恐怖でしかない。

 

「呼称変更プロトコルを起動。コマンド入力を待機中。

 推奨規則は末尾に"お姉さん"を挿入する事です」

 

「呼びませんが」

 

「……コマンド入力、失敗。修正案を作成します……」

 

 ──なんなのだろう、この先輩は。

 

 本当に先輩なのか、この大型犬は。ファインドフィートが思うに、彼女は純粋すぎる。

 これがわたしの同類だと?バ鹿を言うな、これは天敵だ。

 

 ファインドフィートは今更ながらに理解した。

 コミュ障が忘れていた、人間関係の日向に巻き込まれる──その恐怖を。独りを好むウマ娘に対する理解の無さを。

 

 ……もう、面倒しかない。

 

「はぁ……肩を貸してください、テイオーさん」

 

 しかしそれはそれとしてムカついたので、トウカイテイオーの肩に思いっきり寄りかかる。

 身長差?当然理解の上だ。むしろ押し潰してしまえ。

 

「ちょちょっ!?重いんだけど!?」

 

「──は? 重くありませんが」

 

「あっ……気に、してたんだ」

 

「その目を止めてもらえませんか?」

 

 ビキリと口元がひきつる。

 全身の体重をトウカイテイオーに押し付け、ぐでぐでと脱力。

 もうどうにでもなれ──そんな投げやりの精神が挙動に込められていた。

 

「テイオーさんのパワー値、フィートさんの体重を計算中……

 

 ……計算完了しました。

 つまり、私が抱えましょう」

 

「重くありませんが」

 

「潰れちゃいそうなんだけど!!」

 

「重くありませんが」

 

「あー!?」

 

 ファインドフィートは激怒した。

 必ず、この邪智暴虐なるウマ娘達に"デリカシー"というものを尊重させねばならないと。

 

「──前方の視界が開けたことを確認しました。

 つまり、順番です。行きましょう」

 

「重くありませんが」

 

「ワケワカンナイヨー!?」

 

 ずるずると引っ張られながら進む。

 

 そして、トウカイテイオーは己の肩口にのしかかったままの芦毛の少女へと視線を向けて──安堵したように、小さく笑った。

 

 

 

 

「おはようございます、トレーナー」

 

「ああ、おはよう。

 体調は?」

 

「十全です」

 

「そうか、じゃあウォーミングアップからだ」

 

「了解しました」

 

 

「やはり……キミの加速力は素晴らしいものだな。レースの時、追い込みで走っても問題ないだろう。

 ほら見ろ、芝がえぐれてるぞ……恐ろしい程鋭くて、()()末脚だ」

 

「重くありませんが」

 

「え……?」

 

 

 

 

 

 

 




ファインドフィート
ジュニア級。『弟』。女神様に愛されてしまった子。
双子の片割れである『姉』と同じ容姿になったウマ娘。
強靭な心肺機能によって支えられるスタミナとパワーが武器。
ミホノブルボンと同程度の身長で、バランス良く鍛えられたスポーティ体型を誇る。
重くない。本当に重くない。

ミホノブルボンに弱く、トウカイテイオーにも弱い。

ミホノブルボン
シニア級の先輩。偉大なる二冠ウマ娘。
ファインドフィートという後輩ができたことによって対人機能をアップデートした。
完全に単なる偶然だが、ちょっと『姉』に似ている。

ファインドフィートに強く、トウカイテイオーにも強い。

トウカイテイオー
シニア級の先輩。絶対なる帝王。
最近話題のサイボーグ系ウマ娘に絡みに行ったら思った以上に面白い子だった。仲良くなれそう。
何だったんだろ、()()……。

ファインドフィートに強く、ミホノブルボンに弱い。

葛城トレーナー
デリカシーが無いと怒られた。
なんで?



女神様(A)
『太陽』を宇宙(ソラ)に掲げる女神様。
フィートちゃんの精神外殻をちょびっと指でつつこうとしたらバレそうになった。すごく驚いた。
やさしい。

女神様(B)
『王冠』を頭上(ハテ)に戴く女神様。
おなかいたい。

女神様(C)
『海』を久遠(トワ)(いだ)く女神様。
おなかいたい。




ファインドフィート
『姉』。
いつも一緒にいる。


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4話

今日の女神様はゴキゲンでした。

いつもニコニコとしている女神様ですが、今日のニコニコは一味違います。

 

下の世界を見下ろす彼女は、お気に入りのファインドフィートちゃんを見つめて嬉しそうに応援します。

 

"がんばれ!お姉さんの分まで!"

 

両手に持ったお手製のうちわはハート型。

ふりふり、ふりふり。かわいいですね!

 

"よぉ~し!女神様張り切っちゃうぞぉ!!"

 

女神様は嬉しそうに宇宙(ソラ)へと手を掲げて曙光を掴み――

 

――あら、あらら?

どうしたことでしょう、女神様の後ろに――女神様が!

 

"こらァ!『太陽』ォ!見つけたわよ!"

 

"わ、ワァ……!

どうしちゃったんですか『王冠』……?

大丈夫?"加護"いります?"

 

"すっとぼけないでよ!ってか私も与える側だわ!まったくもう、この子は!"

 

"あ、あれ?どうしたんです?そんなに引っ張らなくても~……"

 

あ、あぁ~……。

『太陽』の女神様が引きずられていっちゃいました……。

かわいそうですね……。

 

 


 

 

 

 何時も通りの放課後カフェテリア。

 トウカイテイオーは思い出したように口を開いた。

 

「そういえば明日だったよね?フィートのメイクデビュー」

 

 そう告げて、右手に抱えたはちみーのカップをとぷりと揺らす。中身はまだたくさん残っていた。

 

 まだまだ尽きることのない甘味に嬉しげな笑みをこぼし、直径の広いストローに口をつける。

 注文オプションは硬め、濃いめ、多め。つまりは黄金配合である。

 

 はちみーを幸せそうに味わうトウカイテイオーと共に丸机を囲うのは、坂路サイボーグことミホノブルボン──そして何時の間にやら(ブルボンパワーで)連れて来られたファインドフィートだ。

 

 何故か馴染みのものとなった二人の顔に小さくため息を吐き、ファインドフィートも自身のカップをゆらゆらと左右に振る。中身はなかった。

 

「はぁ……。

 ……ええ、その通りですよ」

 

 机に置かれていた予備のはちみーの一つを手に取り、ストローを刺す。

 ほんのちょっとだけ乾いた喉を潤すように啜る。

 

 口の中いっぱいに満たされ、高い粘度で喉奥に絡みつくはちみーは、やはり甘かった。

 

「……何ていうかー、すっごい落ち着きようだね。

 ちょっとぐらい緊張してるかと想ったら、ぜーんぜんそんな事無いし」

 

「ログを確認……。

 ……ここ最近のフィートさんの様子を演算した結果、『緊張』による行動変化がありません。

 つまり、ステータス『肝が据わってる』だと思われます」

 

「なんですかそのステータスは……」

 

「マスターがおっしゃっていました」

 

 さらっと己のトレーナーに責任を押し付け、チョコ味プロテイン練り込みチーズケーキにフォークを刺し入れた。

 

 口の中でとろけるたんぱく質。味蕾を刺激するチーズの風味。筋骨を整える栄養素(ビタミン配合)──それを、淹れたての紅茶と合わせて楽しむ。

 これもウマ娘によるお茶会の楽しみ方の一つだろう。

 

 三者三様の好物を味わう空間は、とにかく穏やかなものだった。

 ミホノブルボンが湯気の向こう側に見るファインドフィートでさえもどこか安らいだ表情をしている──ように見える。

 

 ……内心の真実は定かではないが、ここ最近のファインドフィートはあまり抵抗せずにミホノブルボンに付いて来てくれるようになった。

 もはや抵抗を諦めたのか……それともミホノブルボンとトウカイテイオーと共に過ごす時間を悪いものではないと感じているのか。

 

 ……後者であればいいなと、静かに祈った。

 

「ちょーっと()()()()()()ボクは観戦に行けないけど……それでも応援してるよ!」

 

「もちろん、私もです」

 

「……どうも」

 

 ──彼女らの背景を他所に。

 それでもゆっくりの流れる時間の中、脱力した3つの尻尾がゆらゆら揺れた。

 

 

 

 

 ──6月後半、メイクデビュー当日。

 

 トレセン学園提携、中京レース場。

 中距離2000メートル。芝。天候は晴れ。

 到着した直後にファインドフィートがパッと見た限り、完膚なきまでの良バ場だった。

 

 ファインドフィートは学園指定のジャージ服に身を包み、控室のソファーにうつ伏せで寝転んでいた。

 綺麗に手入れされた尻尾が、艷やかに揺れた。ミホノブルボンの努力の結晶である。

 

 右手にははちみー。左手には携帯端末(スマートフォン)

 お気に入りの"シンボリルドルフダジャレ集"を開き、ぼんやりと眺めている。

 

「…………」

 

 ──そしてじゅこじゅこ。

 静かな部屋に響く"はちみー"の悲鳴。

 

 ストローを通して、黄金が細い喉に絡みついた。

 何時も通り硬めで濃いめ──当然、恐ろしく粘度も純度もカロリーも極まっているそれは、だからこそ美味しい。

 

 硬いということは、崩れないこと。ファインドフィートが己に課すべき義務だ。

 濃いめということは、混じらないこと。ファインドフィートは『ファインドフィート』である。他の要素はいらない。

 

 レース前に飲む事でそれを余さず栄養とし、燃料へと濾過して心臓へ送り込む──するとちょっぴり元気が出る気がする。こんな事を嘯いたって無意味な願掛けでしかないが。

 

 それでも、ほんのちょっとでも縋ってみたいと思った。

 競走ウマ娘としてジンクスに想いを乗せる──よくある話だ。珍しくも無いだろう?

 

 ……カップに書かれた応援メッセージ(ブルボン(姉)と無敵のテイオー様より)が、イヤに目についた。

 

 

 ──こん、こん。

 

 控室のドアがヒトの訪れを知らせる。

 

 スマートフォンから目を離さずに返事を返せば、数拍置いてドアが開かれる。

 表れたのは、普段よりかは身なりを整えた青年──葛城トレーナーだった。

 ワックスで髪を整え、ヒゲも剃り、クリーニングしたらしい黒のスーツに身を包んでいる。

 

 ──しかしネクタイは曲がっているし、スーツは生地の時点でくたびれた年代ものだ。

 

 担当ウマ娘のメイクデビューに相応しい身なりというには、少し雑で無頓着。60点が良いところだろう。

 もっとも葛城トレーナーの考えとしては……相手に最低な印象を与えないのなら、それで良かった。

 

「やあ」

 

「時間ですか?」

 

「いや、もう少し余裕はある」

 

「了解」

 

 挨拶代わりに尻尾を揺らしてみせる。

 視線は相変わらずウマッターに吸い寄せられ、全身脱力しきった状態のまま。

 

「まったく……」

 

 目の前のグダグダ鉄仮面娘を見て、花の女学生としてこれはどうなのだろうかとため息を吐く。

 レース前でも緊張しないというのは強みであるが、緊張しなさすぎるのも──それはそれで、良くないことだ。

 

 そんな心配を知ってか知らずか、画面の中の『絶対なる皇帝』が薀蓄(ウンチク)に富んだギャグを垂れ流していた。表情は変わらずとも、耳と尻尾が彼女の内心を表現している。ぶんぶんである。

 

 青年も未だに理解しきれぬファインドフィートの好み──果たして、あのダジャレの何が彼女の心を刺激したのか。彼女の情動がますます解らなくなってしまう。

 

「……あー……。

 随分と、リラックスしているようで……?」

 

「勿論」

 

「緊張は?」

 

「気負う必要もないので」

 

 もちろん、ファインドフィートは状況を理解した上で脱力していた。

 レースへの責任感を携えた故のリラックスである。

 

 左耳に垂れ下がったハート型の耳飾りが、蛍光灯の光を受けて赤く反射する。

 そして転がった姿勢のまま右耳の飾りを指で(もてあそ)び、トレーナーへ向けた青ざめた瞳をゆるりと細めた。

 

「心配せずとも勝ちますよ。

 トレーナーはわたしに貢ぐはちみーでも準備しておいてください。もちろん硬め、濃いめ、多めで」

 

「……なるほど。仰せのままに、お嬢様?」

 

「気持ち悪いので減点です。

 まずは程々に肉をつけてから出直してください」

 

「手厳しいな……。

 手心を加えようって気は無いのか?」

 

 ファインドフィートは手をひらひらと振ることで答えとする。

 それを見たトレーナーには、ただ肩を竦める事しか出来なかった。

 

 ──ぴぴぴっ。

 

 そこで突如──空気を裂くように甲高い電子音が響く。

 机の上に置かれたデジタル時計の表記は、集合15分前を形作っていた。

 

 つまり、優雅なリラックスタイム終了の合図でもある。

 

「……よし」

 

 右手のスマートフォンの画面を消して机の上に放り投げ、すくっと立ち上がる。

 長く毛艶の良い白髪が背中で揺れた。

 

「時間ですね」

 

「ああ」

 

 首を右に倒し、左に戻す。肩甲骨を回し筋膜を伸ばした。

 続けてつま先で床を叩けば響く、ゴキゲンな音。

 関節は滑らかに駆動し、筋肉を膨らませる血の巡りはスムーズだ。

 

 つまり、ステータス『絶好調』です──最近やたらと圧が強いミホノブルボンがこの場にいれば、間違いなくそう表すだろう。

 

「では、行ってまいります」

 

 気力満点(すっごい元気)活潑潑地(すっごく元気)意気軒昂(とっても元気)

 左手に持ったままのはちみーのカップをゴミ箱に向けて放り投げ──

 

「……」

 

 ──ようとして、思い直したように机の上にそっと置いた。

 

「これ、このまま残しておいてください。持って帰るので」

 

「……?

 ああ、なるほど……分かった。スタッフのヒトにも伝えておこう」

 

「お願いします」

 

 "必勝祈願"

 "はちみーパワーで掴め、栄光!"

 瞳に反射する油性の文字が、カップの湿気を帯びて微かに滲む。

 

 ──ファインドフィートは小さく鼻を鳴らし、葛城トレーナーに居直った。

 

「では」

 

「勝ってこいよ。

 キミの価値を、ほんの一欠片だけでも教えてやれ」

 

「無論です」

 

 カンカンカンと、蹄鉄が鳴く。

()()()()()()()から僅か数年。しかしその割にこの重さは驚くほど脚に馴染んだ。

『姉』から引き継いだ妄執が故か。あるいはウマ娘という種の肉体に変形してしまったが故か。

 

 何にせよ言えることがあるのなら、ファインドフィートの脚力を活かすには十分に良い蹄鉄だという事。

 この()()()()()と併せて、しっかりと身体に合うものを用意してくれた葛城トレーナーの見る目は確かなものだった。

 

 ──口には出さないが、素直に感謝する。

 

「また、後ほど」

 

 後手にドアを閉じた。

 

 そしてパドックまでの道中──静かな地下バ道。

 ただ歩くだけのこの時間を活用し、想像(イメージ)上での駆動と現実(イマ)の機動のズレを調整(キャリブレーション)していく。

 

 ──足首の角度、膝の稼働範囲、骨盤の駆動限界。肩甲骨の旋回、肘の強度、脊椎のライン──。

 それらの調律が完了するまで、時間はかからなかった。

 

「……これから始まりますよ、姉さん。わたし達の夢が、未来が、証明が」

 

 ──とくり、とくり。

 

 ファインドフィートの言葉に、ただ規則的に駆動する脈拍だけが応える。

 

『姉』は言葉を返さない。

『姉』は鼓動を刻むだけ。

 

 しかし、それで良い。

 レースの直前──勝利の女神へ祈りを捧げるように。あるいは不安を吐き出せずに蹲る子供のように。

 胸に手を当て、海のように青ざめた瞳で虚空を見つめた。

 

 そして、自分に言い聞かせるように呟く。

 

「大丈夫です。わたし達は、一緒(しあわせ)ですから」

 

 答える言葉は無い。

 

 

 

 

 

 

『さあ続きまして!1枠1番ファインドフィート!』

 

『素晴らしい仕上がりですね。今回、頭一つ飛び抜けているんじゃあないでしょうか』

 

『彼女の走りに期待しましょう!』

 

 ──此処にきた時には驚くほどに快晴だった空。しかし何時の間にやら雲が流れ着き、()()()()()()()()()()()()()()()()

 とはいえ、雨が降るような空気でもない。偶々の、一過性のものだろうか。

 ともかく気温が過ごしやすいモノとなった事を喜ぼう。

 

 そうは言えども、闘志に満ちた周囲のウマ娘達によって体感的な温度は大分高め──しかし、悪い気分ではない。

 

 ゲートに向かう道すがら彼女らへ一瞥だけ向け、幾人かの警戒対象(強そうな子)のみをピックアップして残りは除外。

 今回の出走バはフルゲートの9人だが、その中で注視すべきは3人程度である。

 

 意外と数多く居るらしい()()()な観客たちを横目で眺めながら、確かな足取りで地面を踏み込む。芝の調子はとても良いものだった。

 これならば"バ場が合わずに速度が出ませんでした"──なんて、口にする必要がない。

 

 そして、落ち着いた心持ちで歩みを進めてゲートイン。

 

 光は無く、喧騒からも隔離された静寂の中──じっと目を細める。

 青い瞳の瞳孔がぎゅっと拡がり、散逸する燐光をかき集めた。ほのかに籠もった熱気が、じんわりと肌着にしみている。

 

「……集中だ。専心しろ……」

 

 口の中で小さく、言葉を転がす。

 

 姿勢は既に低く保たれ、足腰の筋繊維がギチリギチリと力を溜め込んだ。

 闘志に呼応し、体温が高まり発汗の湿りが主張し始める。

 

 1秒が経ち、2秒を数え、3秒が訪れ──。

 

 ────。

 

 

一意専心(コンセントレーション)

 

──視界がガコンと開けるとほぼ同時、ぬるりと這い出す。

 

 開かれるゲートと触れ合ってしまうのではないか?そう錯覚してしまうほどのスタートダッシュ。

 神経の伝達速度の限界に挑む超反応(ゼロコンマ1の世界)で瞬間的に加速し──周囲にほんの僅かな消耗(ライン選び)を強いて、するすると流れるように後方へ下がる。

 

 付いた位置は4番手──後方バ群の先陣、先行だ。

 

『さあ早速激しい先頭争いが始まりました!4番オオヤマライデン!7番ハシレオルネス!!競り合っています!!』

 

 いつかの──どこかで、見覚えのある鹿毛のウマ娘が先頭争いの片割れだった。

 ファインドフィートが知る限りでは特に印象に残る『逃げ』だったから、今回も警戒リストに放り込んだウマ娘である。

 

 ──しかし、別に"だからどうなる"という訳でもない。

 

 ファインドフィートは、かつての彼女の能力が己に劣ることを知っている。

 そして今、己に劣ったままであることを──彼女の成長が追い付かなかったことを理解した。

 

(なら捨て置きましょう。次に見るべきは──2番の先行か)

 

 ──視線を外し、自身の右前方にピタリと付けたウマ娘に焦点を合わせる。

 

 青毛で大柄。見るからに恵まれた体格から、それなり以上の加速力が担保されている筈だ。

 ブレることのないフォームからしてスタミナもそこそこ。総合的に優秀な先行タイプ。

 

 他のウマ娘に比べると頭一つ分飛び抜けた存在感を放っている。

 

(試しに仕掛けるか)

 

 合間のハロン棒を越えた瞬間、鳴らすステップを踏み変える。

 規則正しかった歩幅を敢えて()()()、加速時の()()()少し早めのペースを偽装し──

 

 ちらりと振り返った青毛のウマ娘と目が合う。

 警戒心に満ちたアメジストの瞳だった。

 

「チッ」

 

 ──残念ながら策は成らず。

 一瞬で彼女の理性──その強さを察した。

 

 さすがに急遽詰め込んだ駆け引き術(先行焦り)では展開の操作なんぞ不可能。徹夜(夜ふかし)で勉強に付き合ってくれたテイオーには申し訳ない。申し訳ないが……無駄だった。

 

(ならやはり、正攻法でいきましょう)

 

 気を取り直して、寡黙に走る。

 周囲に気を配りつつも決して仕掛けないし掛からない。

 

 誰も彼もが大きな動きを見せず──結果的に安定した(味のない)レースを運んでいた。

 

「はっ、はっ、はっ──」

 

 静かに前方を睨みつける。

 先頭争いは7番の敗北として終わったらしいが──しかし、だからどうというわけでもない。

 前半戦は無味乾燥のままに終わりを告げた。変わったのは流れた汗の量だけである。

 

 ──区切りを示す、1000メートルのハロン棒が風に揺れた。

 

 続く後半戦へ向けて真っ先に走り抜けたのはオオヤマライデンだ。

 次いで先頭争いに破れた7番。続けて2番、さらに1番のファインドフィート。

 その後方には──。

 

 ──この情報は不要か。

 彼女らが後方から追い上げるという十分高い可能性を意図的にノイズとして処理し、前方のライン取りに意識を傾けた。

 

 ハロン棒(指標)が振動に震える。

 

 第3コーナーを常道通りに減速し──ついでに一呼吸(小休憩)を入れ、順位の変動もなくやり過ごす。

 

 実況者が語る現在の流れ曰く、"停滞"。

 しかし、これはレース終盤に向けた仕掛け準備を図っている事の表れでもある。

 

 ファインドフィートは、嵐の前の静けさのような予感に肌を焦がされていた。それはきっと、他のウマ娘も同じだったのだろう。

 じわり、じわりと周囲で沸き立つ──場に満ち、高まる圧力。

 

 周囲の熱量によって否応なく"ウマ娘"の本能が加熱されることを自覚した。

 焦がすような闘争本能が胸の奥の奥に灯るように、徐々に『心臓』に繋がる導火線が赤い燐光を帯び──

 

 ──しかし、"ウマ娘"としての獣性の火を"ヒト"としての強靭な理性の鎖が縛り上げ、飼い慣らした。

 

「はっ、はっ、はッ──」

 

 疲弊を嫌がる本能。

 威圧に怯える恐怖。

 勝利へ向ける執着。

 

 心臓より滲み出し、血流に染み込み、血管より伝達を行い、筋骨に響く。

 大いに弾ける『姉』の悲鳴を、『弟』は余さず呑み干した。

 

 ──ハロン棒(指標)が後方へと流れ去る。

 

 前方の7番はついに体力が切れたのか足の回転が淀み、ずるずると垂れ下がり始めていた。汗だけが弾け、前へ前へと進んでいる。しかし肝心の本体は疲れ果てて走れない。

 これもまた、逃げウマ娘の宿命だろう。

 

 しかし敗北者になる未来を受け入れるという事は──それは夢を叶えることも出来ず、何を成すこともなく消える事と同義である。

 だから気力を振り絞り、限界の限界まで肺を大きく膨らませて、痙攣しそうな両足を必死に振り上げていた。

 

 ──そんな彼女に一瞥だけ。

 ルビーのように赤い瞳を一瞬だけ見つめ、彼女の奮闘を嘲笑うように追い越す。

 後方から、粘つくノイズが聞こえた気がした。

 

『さあ、最終コーナー!先頭は4番!少し表情は苦しそうか!?

 続いて2番!内を見ている!

 その後ろ1番!余裕の表情だ、差し切るのか!?』

 

 前を見る。

 

 鹿毛と青毛の二人が最終直線へと向け呼吸のテンポを変えていた。

 位置取りも変わり、各々が信じる最速を弾き出せる座標へ脚を差し込み終えた後。

 

『最終直線です!さあ、誰が最初に仕掛けるのか──』

 

 ──もちろん、ファインドフィートも同じことだ。

 

 "往くなら今"──胸の内で叫ぶ本能に従い口を開いた。

 気道を通過した大気が肺を膨らませ、酸素(燃料)を取り込み、心臓(炉心)(妄執)を注ぎ込む。

 

 どくりどくりと高鳴る鼓動。注ぎ込まれた血流に痙攣(歓喜)する血管。

 駆動率を毎秒に加速させ、白熱する神経系が電流を迸らせる。

 

 そして、()()()()()

 

『最初に仕掛けたのは──ファインドフィート!1番ファインドフィート!

 早くもスパート!()()()()()()()()()()()()()!!』

 

「んな……!?」

 

 足首の関節を緩やかに曲げ、筋を張り──微かに接地した瞬間、()()とする。

 蹄鉄が芝を掴み取り、大きな土煙と共に弾け飛んだ。

 

「お前……ッ!」

 

 青毛(敗者)の声が後方で滲んだ──気がした。もはやノイズに過ぎないものだから、どうでも良いと()()()()

 今この瞬間に前だけを見る青い瞳には映らない。

 

 その目に見えるのはいつかの鹿毛のウマ娘──彼女一人であった。

 

 蹄鉄がもう一度、地面を掴む。

 そして弾ける。

 

「──―ッ!!」

 

()()3()0()0()()()()()

 白と茶を隔てる距離はすでに2バ身差にまで縮まっている。

 

 脈動は止まらない。

 溢れる本能に対し理性の羅針盤が指針を定め、すぐそこまで迫ったゴールへと疾走する事を強制しているのだ。

 

 地鳴りの音は留まることを知らず、観客の声にも負けぬ程の迫力で啼いていた。

 そのまま止まらない加速によって──前方に()()ウマ娘の速度を上回るまでそう時間はかからない。

 

 秒数に例えれば、ほんの数秒程度。

 

 ──オオヤマライデンにはそうとしか知覚できない一瞬の出来事だった。

 さっきまで自らの後方に居たはずの彗星は、気付かぬ間にすぐ傍らにまで近付いていたのだ。

 

『──ファインドフィート!オオヤマライデンを差しました!!先頭です!!しかし今尚速度は緩まない!!

バ身差が広がっていくッ!!』

 

「なん、で──」

 

 "先頭の景色に至ってしまえば、もはや止められるものは誰も居ない"。

 "抜きん出たのなら当然のこと"。

 

 そう宣言する白い残光が尾を引いた。

 いつかの再演のように走り抜け、見る者の視線を惹きつける。

 

 ──オオヤマライデンも例外ではない。

 

「──あ、ぁああ!クソッ、クソ……ッ!」

 

 呼吸が定まらない。視界が滲む。

 

「なんで!なんでよ!!」

 

 オオヤマライデンのフォームは崩れ始め、非効率な回転へと移ろい始めていた。

 白熱する意識は途端に思考能力を奪い去り──ただ、前を走る彼女(彗星)に追い縋る事さえ許さない。

 

「ふッざけないで!!」

 

 血反吐を吐くような思いで足を振り上げる。

 下を向いてしまいそうな顔を、それでも思いっきり持ち上げて前を睨みつけた。

 

「せめて!

 

()()()()()()ッ!

他の誰でもないアンタだけはッ……アタシを見て、()()()()()()()()!!

 

なんでアンタは──ッ!!」

 

 ──ノイズだ。

 

『姉』の鼓動が耳朶を優しく包み込み、『心臓』の唄だけがファインドフィートの()()()()

()()()()()()()()()()()()()()甘くとろけるような、どこまでも優しい旋律だった。

 

 

『一着はファインドフィート!ファインドフィート!!見事圧巻の走り!6バ身差ッ!!

新たな彗星の登場だァ!!』

 

 

 

 

 

「──―はっ、は、はッ……ハぁッ」

 

 走りきって大きく一呼吸を入れる。細い喉から音が鳴った。

 荒い呼吸をそのままに、ターフの傍ら、その上を見上げる。

 

 視線の先、電光掲示板に赤い文字が瞬いていた。

 当然、一着に輝く名前は『ファインドフィート』──他の情報は不要だ。

 

 つまり、鮮烈なメイクデビューは"大成功"を収めた──と、今ある現実がファインドフィートの脳髄に染み込む。

 

けれど、どうしてだろう。

視界の端っこで鹿毛の少女が泣いていた。とても悔しそうだった。

 

「はっ、はは……。

 こんなの当、然……ですね」

 

 少しずつ少しずつ足の回転を緩め、『心臓』の鼓動を平常時のソレへと調律する。

 意図した通りに緩やかに低下していく脈拍を感じ取り、ようやく一息ついた。気付けば汗がじっとりと額から滲み、前髪が顔に張り付いている。

 そんな彼女を、大勢の観客たちが止まらない喝采と共に祝福した。

 

『おめでとー!』

 

『やるじゃねぇか二代目サイボーグ!』

 

『こっち見てー!』

 

 ……不思議な気分だった。

 この疲労も汗も、歓声を受けるのも、意外と悪いモノではない。

 

 ゆらりゆらりと尻尾が揺れ動く。

 艷やかな毛が誇らしげに輝いていた。

 

 

 

「ほら、タオル」

 

「……あぁ、トレーナー」

 

「メイクデビュー1着、おめでとう。

 まだ最初の小さな一歩でしか無いが、しかし偉大な一歩を踏み出した──と。

 とても素晴らしいことだな」

 

「ええ、その通りです」

 

 葛城トレーナーがクツクツと笑う様を尻目に、観衆へ向けて手を振る。

 

 前日の夜、ミホノブルボンに指示された事だった。曰く、こうすると気分が良くなるらしい。

 無表情ながらに小さく手を振る姿に、返事をするかのように祝福の声が届いた。

 

 ……少しうるさくて、耳をピトリと伏せる。右耳の青い飾りは不機嫌そうに、白髪の内に埋まっていた。

 

「……さて、戻りましょう。次のレースに向けてのメニューを組んでもらいます」

 

 ターフに背を向け、控室の待つ地下バ道へと足を伸ばした。

 ここで感傷に浸っているのも無駄だし、うるさいし、汗が肌に張り付いてるのは嫌だし、何よりもはちみーが待っている。

 いい加減慣れ親しんだトレーナー室に戻りたいのだ。

 

「ああ、それは勿論良いんだが……忘れてないか?」

 

「……?」

 

 しかしどうした訳か、葛城トレーナーが困惑したように目を瞠る。

 ファインドフィートは何気なしに振り返り、訳を問うように首を傾げた。

 

 ……どうしてか、嫌な予感に胸が高鳴る。猛烈に逃げたい気分だ。

 そんな心情を察した上でか──葛城トレーナーは同情するような声音で、優しく口を開いた。

 

「ウイニングライブだ」

 

「………」

 

「ポジションはセンターだな。

 キミが一番目立つ場所だぞ」

 

「……………」

 

「………。

 

 ………あぁー。

 ……良かったな?」

 

 ──それは、忘れて、いたかった。

 そう語るように尻尾が垂れ、耳が震える。

 

 ウイニングライブ。

 レースが終わった後何故か開かれる、音楽ステージ。

 

 歌って踊るアイドル──ウマドルのように華やかな祭典。

 ファインドフィートが何よりも苦手とする行動。

 

 つまり、感情表現を求められる──悪魔の儀式。

 

「……控えめに言って、最悪です」

 

「おいおい、そんなに嫌か……?」

 

「わたしが表情を変えられないのを分かっているのですか?

 フリフリの可愛らしい服を着て?笑顔で歌って踊る?なんですかそれ、出来る訳ないでしょ。

 まったく、コミュ障を舐めないで頂きたい」

 

 詰るように首を振る。

 

 感情表現なんて無理難題、強要されるべきではないだろう。

 というよりも何故レース後にライブを開くのか?ファインドフィートにはまったくもって理解できない事柄である。

 

 ……当然のようにトレーニングは組まれているものの、とてつもなく嫌だ。そんなのもはや公開処刑ではないか。

 尻尾が怒りに震えている。空気を切る音はとても激しかった。葛城トレーナーが骸骨でもなければ遠慮なく叩きつけていた──が、さすがに自制した。

 

「まあそう言うな。これも競走バの宿命さ」

 

「…………この世は地獄か何かだったのでしょうか」

 

「表情に関しては気にしなくとも良いさ。むしろその鉄仮面のほうがウケるかもしれないだろう?」

 

「それはそれで屈辱的です」

 

「まあまあ」

 

 糖分補給用のはちみ──―は、葛城トレーナーでも持ち込めなかったので、代わりに用意した飴玉を彼女の口に放り込み、気分を落ち着かせる。

 

 ぽこりと膨らんだほっぺたが、不満げな表情をしているようにも見えた。

 

「気楽にやろうや。

 安心してくれ、キミの価値は揺らがないんだから」

 

「…………はぁぁ……」

 

「ほら機嫌直して」

 

「黙って下さい。

 っていうよりも子供扱いしないでください。これだから骸骨は……」

 

 ため息を大きく吐き出して、飴玉をガキリと噛み砕いた。

 甘いはちみつの味だけが彼女を慰めてくれる。やはり時代は甘味(あまいもの)だ。甘味(あまいもの)だけがファインドフィートを癒やすのだ。

 

「駅前の限定スイーツ。

 "ウマ娘オプション"3人前で、そのうちの2つには"はちみーオプション"も付けてください」

 

「……分かったよ。

 可愛らしいご褒美だな? お嬢様」

 

「黙って下さい」

 

 一瞬だけ葛城トレーナーを睨みつけ、歩き出した。

 

 向かう先は控室。

 メイク師は既に到着しており、ファインドフィートさえ居ればすぐにでも飾り立てることが可能だ──と、後方から追いかける葛城トレーナーが語っている。

 

 こんな状況でも"嫌だから"で現実に抗い──というよりも、無意味な駄々をこねて逃げようとする様だろうか。

 その姿を見る限り、ただの意地っ張りな『子供』にしか見えなかった。

 

 

 

 


 

 

 

"まったくもう!まったくもう!"

 

ぺしん!ぺしん!

遥かな空の果てで、弾ける音が響きます。

 

『王冠』の女神様は怒っていました。もうプンプンでした。現世の言葉で言うのなら、『激おこプンプン丸』というやつです。

『太陽』の女神様は熱を持つお尻をさすって、涙目になってしまいます。

 

何故こんなにも怒っているんでしょう?

それは……。

 

"まったくもう!因果を歪めちゃダメだって言ったでしょ!修理するの大変だったんだから!"

 

……そうです。『太陽』の女神様はその"やさしさ"故に、現世のイノチやその周囲の因果律を歪めてしまったのです。

困っちゃいましたね。

 

"反省した!?"

 

"ヒィン……ヒヒィン……"

 

"ヨシ!"

 

けれど女神様達はとっても仲良し。

『太陽』の女神様が涙目に謝ると、『王冠』の女神様は仕方なさそうに許しました。

 

"しっかしまぁ、随分と入れ込んだのね……"

 

"だって、だって……"

 

"……なるほどね。

ファインドフィートちゃん、か……"

 

"そうなの!この子達ったらかわいくてね!お姉さんも弟ちゃんもかわいそうでね!助けてあげたくなるんです!"

 

"ふぅん……"

 

ファインドフィート――"夢に支えられる子(find my feet)"でしょうか?

とってもやさしい、いい名前ですね。

『王冠』の女神様は感心したように頷きました。

 

"少し、見守っておきましょうか……"

 

『王冠』の女神様が呟きます。

『双子』を見て、少し不安になったのでしょうか?

 

 

"だって、()()()()()だもの"

 

――やっぱりやさしいですね、女神様!

 

 



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5話

"ファインドフィートちゃんはかわいいわね……"

 

"わかる~"

 

遥かな上の世界で女神様が二柱、やさしげに微笑んでいます。

 

視線の先には『家族愛』の結実たるウマ娘。

不撓不屈の(絶対に折れない)精神で夢を継いだ、やさしい子です。

 

"応援しないといけないわね……。

……この子にはどんな『加護』が良いのかしら"

 

"迷いますよね~!"

 

"ええ……!

けれどね、だからこそ導き甲斐があるってものよ!"

 

"その通りです!さあ、『王冠』も一緒にうちわを振りましょう!さあ!"

 

ふりふり、ふりふり。

女神様達はずっと応援していますよ。"しあわせ"になって欲しいですからね!

 

 


 

 

 

 7月初頭。

 

 一週間を終えた週末の放課後──夕暮れに染まる空。

 数多くのウマ娘が勉学から解放され、各々トレーニングに勤しむ時間帯である。

 

 もちろん皆が皆トレーニング漬けという訳ではない。

 一切休まずに筋繊維を傷付ければ回復が追いつく筈が無いからだ。それは俗にオーバートレーニング症候群と呼ばれるものである。

 その上繊細な精神バランスを崩す要因にも成ってしまうのだから、適切な休養は非常に重要なもの。

 

 何よりも彼女等だって年頃の少女だ。

 だから放課後は仲の良い友人達と身を寄せ合い、憩いの時を過ごすというのも大切な事である。

 

「と、いうわけで~」

 

 そんなトウカイテイオーの声が響いたのはおなじみのカフェテリア──

 

 ──では、なく。

 

 ミホノブルボンがマスターと呼ぶトレーナー名義で用意された一室である。

 基本的に担当ウマ娘に甘いマスターは、珍しく自身から頼み事をして来た彼女の為にこの場を拵えてくれた。

 その上、利用用途も「後輩のためのお祝いをしたい」なんていじらしいもの。

 そんな風に言われてしまえば断れる筈もない。当然、元々断る気は無かったが。

 

「それでは〜、このワガハイが音頭をとろうぞよ〜」

 

()()()()()()トウカイテイオーの声に呼応して、ミホノブルボンもマグカップを掲げた。中身は『BCAA(サプリメント)配合紅茶』。メジロマックイーン協賛の品である。

 それに合わせたファインドフィートも仕方なさそうに──本当に仕方なさそうに、右手のはちみーを突き上げた。

 

「よし!開宴だー!

 フィート、デビューおめでと〜!」

 

「おめでとうございます、フィートさん」

 

「……ありがとうございます」

 

 カツンとカップが打ち合わされ、黄金と黄金と茶色の液体がとぷりと揺れた。

 ファインドフィートは無表情のままはちみーを啜る。"じゅこじゅこじゅこじゅこ"、ゴキゲンな音である。

 

「まっ、あんまり心配はしてなかったけどね!

 ボクほどじゃないけどセンスあるし!」

 

「日々の肉体情報を測定、演算した結果、フィートさんの勝率は92%だと予想していました。

 つまり、信じていたということです」

 

「……そうですか」

 

「あっ、照れてる~!」

 

「照れてませんが」

 

「ふ~ん……?」

 

 トウカイテイオーの視線の先で揺れる白の挙動は"ぶんぶん"であった。ファインドフィートはそれに気付いているのかいないのか──。

 

 ──ほっこりとした心境のまま、再度はちみーを啜る。舌でゆっくり味わえば先程よりも甘い気がした。

 

「しかし、ブルボン先輩のトレーナー……崎川トレーナーでしたか。

 あの人には手間を取らせてしまいましたね……」

 

「あ~、"後は若者同士仲良くしていなさい"って出て行っちゃったね。

 折角なんだし、交ざっちゃえばいいのに」

 

「マスターはやる事があると仰っていました。

 むしろ"丁度良かった"との事です」

 

「はあ、そうなんですか……?」

 

 何が丁度良かったのか──ミホノブルボンも理由は知らない。

 つい昨日会話をした限りでは何かの用事があるという話も無かった……はずである。たぶん。きっと。

 

(……。

 …………25時間前のログを再生。確認します)

 

 

 

 ──昨日の同座標。このトレーナー室で、ミホノブルボンと彼女の専属トレーナーが机を挟んでソファーに座っていた。

 トレーナーの名前は崎川。長い黒髪をうなじで纏めた凛々しい女性。"キャリアウーマン"とでも形容すべきだろうか。

 20代半ばという若さでありながらこの中央トレーナーライセンスを取得し、初めて担当したミホノブルボンを二冠ウマ娘まで導いた秀才。

 

 つまりは、ここトレセン学園が誇る至宝の一つである。

 

 この時のミホノブルボンは、崎川トレーナーに対してこのトレーナー室の借用を依頼(お願い)していた。

 とはいえこれに交渉などと云った要素は介在せず──崎川トレーナーは基本的にミホノブルボンに甘く、理由も理由なのであっさりと頷く。これに関してはトレーナー職の(サガ)かもしれない。

 

 ──そこで、崎川トレーナーがそう言えばと口を開いた。

 首をかしげるミホノブルボンに若干の笑顔をこらえて。

 

『ねえ、ブルボン。

 ファインドフィートってどんな子なの?』

 

『……どんな子、とは?』

 

『ああ、ごめんなさい。

 彼女と直接話をしたわけじゃ無いんだけど……噂を聞く限りブルボンみたいな子らしいから、ちょ~っと気になって』

 

『なるほど……』

 

『これまでにあったことを教えてほしいな』

 

 つまりはアピールタイムですね──ミホノブルボンはそう解釈した。

 

 発展途上の対人機能を限界まで駆使し、世話のかかる己の後輩の事を語る。

 ピコピコと主張する耳が彼女の意気込みを物語っていた。

 

 曰く、人見知り。

 曰く、冷淡。

 曰く、トレーニングガチ勢。

 曰く、なつくと無防備になる。

 曰く、耳と尻尾に感情が出る。

 

『……なるほど、ね』

 

 ミホノブルボンの頭頂部を眺めながら、崎川トレーナーはしみじみと呟いた。

 

 崎川トレーナーが想起したのは実家の柴犬──"ポチ"の事。目の前の耳とポチの耳を重ね合わせ、思いを馳せた。

 

 "ポチ"。彼女はとんでもなく純粋な子であった。

 おやつ消失マジックをすると暫く『……?』という顔で茫然自失とし、くるくると身の回りを捜索する。

 それでも見つからなければ崎川トレーナーを見つめる。

 とても行儀がよく、非常に従順で天然な子。アホとも言う。

 

 ……彼女はやはり、ミホノブルボンとまったく瓜二つかもしれない。無意識のままミホノブルボンの頭を撫でくりまわし、大いに頷いた。

 

 ──ミホノブルボンとしてはマスターが嬉しそうならばそれでいい。

 なのでそのまま説明を続行した。"そういうところだよ"とはトウカイテイオーの弁である。

 

『確かに、フィートさんは人見知りです。

 初対面の時もそうでしたが、まずは距離を置くことから始めるようです。

 対人機能は平均的なウマ娘と比較すると42%ものメソッドが欠如しています』

 

『うんうん』

 

『ですが、一度テリトリーに踏み込み、しばらくは嫌がられない距離感を維持すると──相手に"慣れて"、少しずつコミュニケーションを取ってくれるようになるのです』

 

『そっかー』

 

 ふと、ポチの弟としてやってきた"ハナコ"の事を思い出す。

 

 彼は白い毛並みの柴犬だった。

 たしか──最初のころは本当にツれない対応で、すごく悲しかった思い出がある。

 当時小学生だった崎川はとても寂しくて寂しくて、むしろ逆にじゃれつきかかるぐらいの対応で絡みに行ったものだ。すると彼は、凄く仕方なさそうに……正しくは呆れたように相手をしてくれた。

 

 ……これではどちらが犬だか分からないな。

 今更ながらに申し訳なくなった。ごめんよハナコ。

 

『トレーニングには驚く程に熱心です。

 来る日も来る日も丹念に──立ち上がれなくなるまでトレーニングを積んでいます。

 特に最近では歩行補助具を用意しなければならない程です』

 

『なるほど、ね……。

 たしかに、所々でブルボンに似てるわね』

 

 つまり両方とも柴犬だった。

 

 崎川トレーナーは実家の犬小屋を想いながら大きく頷く。

 柴犬は特にツンデレとデレデレの個体差が激しい犬種である──経験談を基にした持論だ。

 

 ファインドフィートはというと……その人見知りでクールな対応はオーソドックスな柴犬に近いだろう。

 人見知りで、馴れ合うまで時間が掛かり、警戒心が強い。

 つまりハナコだ。ファインドフィートはハナコだった。

 

『くっ……私も彼女をスカウトしたかったわ……!

 

 ──いえ、当然ブルボンが嫌という話じゃないの!

 ただね、このトレーナー業に癒やしを増やしたかったのよ……!!』

 

『……?』

 

『あっポチ……んんっ!んーっ!!

 ……ごめんなさいね、ついストレスが』

 

『……コーヒーを淹れましょう。

 マスターの好みは解析済みですのでご安心ください』

 

 ────。

 ──。

 

 

 ──湯気の立ち上るコーヒーを一息分飲み込み、代わりに湿った呼気を吐き出した。

 

 同時に襲いかかる気の緩みと共に、カチャリと音を立てたのは白磁のカップ。久々の出番でご機嫌そうに輝いている。

 

 ……これはミホノブルボンと商店街へおでかけした際に購入したものだったか。白を基調とし、所々に金の装飾をなされた上品な一品。

 指でくるくると回せば、味や嗅覚だけでなく手触りと視覚を以て楽しませてくれた。

 

『これ、とても美味しいわね……キリマンジャロかしら?』

 

『いいえ、これは"コナ"と呼ばれるハワイ島原産のコーヒー豆になります。

 世界3大コーヒーのひとつで、世界中のコーヒー総生産量の0.1%以下しかありません。

 特徴的な酸味故に"酸味の女王"とも呼ばれ親しまれています』

 

『あ、あら。そうなのね……』

 

 "マンハッタンカフェさんに教えていただきました"と語り、大きく胸を張った。

 彼女の成長にほっこりと和みながら啜るコーヒ──―それは尚更、とても美味しいものである。

 

 ひとしきり風味と深みを味わい、湯気に湿らせた唇を引き締めた。

 

『……ねぇ、ブルボン。

 もう一つだけ聞いていいかな?』

 

『はい、マスター』

 

『トレーニングの後……辛そうな顔をしていたりとか、悩んでいたりとか……そんな事無かった?』

 

『……私が記録している限り、そのような事はありません』

 

『そう』

 

 ふと、瞳に憂慮の昏さが籠もった。

 人差し指を顎に引っ掛け、どこか遠くを見つめているよう。ミホノブルボンは彼女の邪魔をしないよう、微動だにせず口を閉ざした。

 

 ──それから数秒。あるいは数分か。

 

 そこでひとしきり思考の整理を終えたらしい。まだ半分ほど残っているコーヒーの酸味を以て意識を現実に定着させ、唇をぺろりと舐める。

 

『……ファインドフィートの専属は"葛城トレーナー"、だったよね?』

 

『はい、その通りです』

 

『そうよねぇ。

()()()()()()()()()、か……』

 

 ──()()、とは。一体何を指し示すモノだったのだろうか。

 もしかするとあれがヒントだったのか。

 

 ログの再生を終えたサイボーグはほんの僅かに思慮を深めた。

 ……とはいえ今はファインドフィートのお祝い中。もう一度手元のカップを口元に運び、疑念ごと呑み干す。

 

BCAA(サプリメント)配合紅茶』のベースはダージリン。ブレンドに適した紅茶としても高名である。

 そこにメーカーの努力もあるのだろう、殊更舌を苛む苦味も無くするりと喉を通り抜けた。

 "彼女の行末(ゆくすえ)もこれぐらいスムーズに進めばよいのですが"と、声音にならない程にか細い残響で語る。

 

 ──まあ、なんにせよ問題は無いはずだ。

 このトレセン学園にいる時点で、あらゆる人材の倫理観が"最低限"担保されているからだ。

 間違いなく悪影響を及ぼすことなど無いはず。

 

 故に今考えるべきは──ファインドフィートのお祝いだけである。

 手元のカップをもう一度呷る。やはり苦味はなかった。

 

「でね!エアグルーヴったらひどいんだよ!

 ボクがすっご~い謝ったのに、はちみーを取り上げるんだから!」

 

「……やはり、女帝は恐ろしい存在ですね……」

 

「フィートも気を付けてね!」

 

「ログを確認。

 ……フィートさんは授業態度に難ありだという記録がありました。"もしも"に備えて講師の方の話を真面目に聞くことを推奨します」

 

「もしかしたら初手で説教されちゃうかもね~」

 

「なんと……!」

 

 "それはともかくとしても、"ぽけ~"っと虚空を眺める癖をどうにかしたほうが良いのではないでしょうか?"とはミホノブルボンの弁。

 自分自身の挙動(賢さGっぽい顔)を棚上げにして、ファインドフィートに愛のムチを贈りつける。

 ……もはや愛の無知ではなかろうか?ファインドフィートは訝しんだ。

 

 "つまり、こういう(賢さGっぽい)顔です"、"普段のブルボン先輩の顔では?こういうの(賢さGっぽい)です"、"それはフィートさんの顔です。ログにもそう記録されています"、"メガンテ(自爆魔法)ですか?"──と、交わされるのは見苦しい──あるいは、珍しく活発なじゃれ合いだった。

 

 それを第三者の視点で眺めるのはトウカイテイオー。

 これが多頭飼いの実情かぁと眺めるさまは、動物園のベンチで(くつろ)ぐ観光客のソレであった。

 

「じゅこここ……」

 

 ──ああ。今日もはちみーがおいしい。

 窓の外で吹く涼やかな風のように、澄んだ気持ちで笑顔を零す。

 

「私の『賢さ』ステータスはランク形式で測定した場合、Dランクに相当します。

つまり、賢いです」

 

「わたしも賢いのですが。すっごく賢いのですが」

 

「本当に賢い人はそんな事言わないんじゃないの?」

 

 ああ、平和だ。

 

 

 

 □

 

 

 

 

 日が落ち、月と入れ替わり、また日が昇った土曜日の朝。

 今日のファインドフィートは予定上完全な休養日となっていた。先日に痛めつけた筋繊維の回復が終わっていないので、明日になるまでトレーニングは厳禁だ。

 

 しかしそれ故に暇になってしまった。

 だから珍しく──本当に珍しく、学園内の散策に勤しみ始めたのである。

 

 他にできることが無い訳では無い。

 ファインドフィートの個人的な趣味といえば、甘いものを食べるかシンボリルドルフの洒落を楽しむか──あとはロボットアニメを見るぐらいのもの。

 

 しかし甘いものを食べようにも今日は許可されていない日だし、シンボリルドルフダジャレ集は最新版まで見終えている。

 ロボットアニメに関しては──ミホノブルボンがうっかりテレビを直接触って(破壊して)しまった。つまり、不可能。

 

 心情を汲み取った耳がほんのちょっぴり横へ伏せられる。青い耳飾りがカチャカチャと、所在なさげに揺れた。

 

 ──だから仕方なく、学園の内部をテクテクと散歩していた。

 

 ファインドフィートが入学しておよそ三ヶ月。

 教室、トレーニング、寮、はちみー以外での外出は"初めて"だ。

 

 元々の気性として『姉』とは違い活発的とは言えないのがファインドフィート。それは今も変わっていなかったが──こうして風に吹かれるのは、意外と悪い気分ではない。

 

 さらさらと揺れる前髪がこそばゆくはある。だがそれさえも、不思議と心地よかった。

 

「…………おや」

 

 ふと、足を止める。青ざめた視線はあらぬ方向へ向けられていた。

 綺麗に清掃されている通路端。

 

 そこに転がっていた"異物"が無機質な瞳を惹いて止まなかったのだ。

 好奇心を刺激されたファインドフィートは視線の先へと進路を変更し、足を進めた。突発的な予定変更も散歩の醍醐味である。

 

 てくてく、てくてく。

 ──遠目には細部が見えなかった"それ"も、近付くにつれて詳細な容貌を顕にしていった。

 

「これは……!」

 

 "木の棒"である。

 

 ガサガサとした茶色の表皮と、所々で節くれ立った物体。

()()()()の太さの持ち手があり、程よく歪曲しながらも()()()()にまっすぐ伸びた木の枝。

 そして長さは70cm程度とやや長い。これはファインドフィートの尻尾と同程度の長さであった。

 

「──これは稀に道端に落ちているという、()()()()()()()()()()()……!!」

 

 ──なんかいい感じの木の棒。なんかいい感じの石。なんかいい感じの葉っぱ。

 それら小学生の三種の神器の一角がファインドフィートの目の前にあった。

 

 おずおずと手に取り、ギュッと握りしめる。

 握り心地もそこはかとなくよい感じで、天下一品のツルギを手に入れた気分だった。

 思いがけない出会いに過去最大級に尻尾が振るわれる。ぶんぶんである。

 心なしか無機質な目も輝きを帯びており、気分はさしずめ聖剣を手に入れたアーサー王と云ったところだろうか。

 

「……よし、こいつの名前はバルムンクにしましょう」

 

 天に掲げる。

 ピンと立つ木の棒は過大に過ぎる名前を授けられ、無駄に堂々と存在を主張していた。賢さG。

 

「いや、そうはならないだろう……」

 

「──!?」

 

 ──とっさに振り返る。

 数メートル後方で見覚えのあるウマ娘が額を押さえながら苦笑していた。

 

 黒い短髪と、大人びた容姿。

 アイシャドウが特徴的な彼女の名は──基本的にボッチであるファインドフィートでさえも知っていた。

 

「エアグルーヴ副会長……!」

 

「……ああ、おはよう。

 別にとって食おうという訳じゃないんだ。そう警戒するな」

 

「………ハイ」

 

 先程までの元気はどこへやら。

 へなへなと萎びる尻尾に比例するように、バルムンクもカサカサに枯れ果ててしまったようである。無論元から枯れ枝だが。

 

「……副会長は何故こちらに?」

 

「折角のいい天気だからな、花壇の見回り中だ」

 

 エアグルーヴは右手に携えたじょうろをとぷりと揺らす。

 透けて見える日光の揺らめきからして、中身の水はまだまだたっぷり入っているようだった。

 

 左手の紙袋には──おそらく手入れ用の品が入っているのだろうか。

 ファインドフィートにはよく分からない分野だが、パンパンに膨れた紙袋はエアグルーヴの情熱をそのまま表している。

 

(それにしても──)

 

 ファインドフィートが事前に想像していたよりは──随分と穏やかで、大人びた少女であった。

 トウカイテイオーから()()()聞いていた話の内容からして修羅のようなウマ娘だと想像していたのに。

 

 脳内で好き勝手に妄想し、恐怖の対象として扱っていた事を素直に申し訳なく思う。

 ファインドフィートの口から"自発的に"謝罪の言葉を吐き出すには、()()()()()()()()レベルが足りないけれど。

 

 ──ちなみに、直前までのエアグルーヴは説教モードだった。

 ファインドフィートが棒切れを嬉しそうに握っている姿を見て、"水をさすのも可愛そうだな"と毒気を抜かれただけである。

 つまり、説教はまたの機会に持ち越しになっただけ。

 

「それで、お前は何を?」

 

「……?」

 

「……いや、散策中というのは分かる。

 しかしその棒は何なのだ?」

 

「なんかいい感じの棒です。先程ここで拾いました」

 

「ああ、なるほど……?

 

 ……いや待て、どういう事だ。

 何故それを拾った?何を以てして"いい感じ"なんだ……?」

 

「このあたりが……こう、こんなので、こんな感じなのがいい感じの棒です」

 

「……。

 ……そうか。そうか……」

 

 早々に思考を破棄した。

 

 真夏の少年のような趣向の少女に呆れの視線を放る。

 エアグルーヴにとってはよく理解できない世界の話だが──まあ、楽しそうに揺れる尻尾からしてリラックスしているらしい。ならばそれでいいだろうと納得しておく。

 

「そうです。

 ここに来てからは初めての散策でしたが、やはり良いものですね。

 道端や公園の中、何処にでも出会いとはあるものです。この相棒のように」

 

「なるほど。

 まあ確かに……"出会い"という意味では同意しよう」

 

 事実、そういった出会いを経て人生経験を積んでいくことも珍しくない。

 それこそ優れたトレーナーであればその中から育成のヒントを見つけ出すとも言う。その重要度は推して知るべしだ。

 

 ならばこの出会いもよい物だったのだろうか。

 ぐいぐい来ないタイプのウマ娘なのできっとそうだ。不思議と口を開きやすい気もする。

 それに、エアグルーヴ(花に詳しい人物)に聞きたいこともあったので都合が良かった。

 

「……副会長。

 副会長は、お花に詳しいのですよね?」

 

「ん?

 ああ、その通りだ」

 

「……でしたら一つ、お聞きしたいことがあります」

 

 心の中のミホノブルボンが"自分から話し掛けられてえらいですね"と胸を張った。

 この後方姉面先輩は一体何者なのだろうか。素直に恐怖である。

 

「あの……」

 

「ああ」

 

「……その、とあるヒトに感謝を伝えるために……。

 花を、贈りたいと思っているのです。

 ……何が良いでしょう」

 

 色々と言葉足らずな"お願い"ではあるが、元来面倒見が良い女帝だ。

 左上に寄せられた瞳が思慮の海に沈んでいく。

 緊張のあまり、ファインドフィートの毛並み(尻尾)がうまだっち。返答を待つ時間で居心地が悪くなるのはコミュ障の宿命である。

 

「……ふむ。

 ご母堂が相手なら赤いカーネーションが一般的だが……その口ぶりから察するに、違う相手のようだな」

 

「……はい。双子の姉妹へ。

 ホープフルステークスの後に、渡そうかと」

 

「ならピンクのバラやガーベラあたりが有名所だろう。

 ハズレということがまず無い」

 

 ピンクのバラ、ガーベラ。花言葉はどちらとも"感謝"を表す。

 プレゼントとして不動の人気を有する花束界のトップフラワーだ。

 

「……あとは、そうだな。

 誕生日はいつだ?」

 

「11月22日です」

 

「であれば………"アングレカム"も良いかもしれない。

 誕生花でもあるし、プレゼントとしても人気がある」

 

「……なるほど」

 

「ああ、少し待て。外観を見せてやる」

 

 一度じょうろを地面に置き、懐からスマートフォンを取り出す。

 ファインドフィートが申し訳無さそうに(無表情のまま)頭を下げると、気にするなと肩を竦めた。

 

 これがエアグルーヴ──圧倒的な先輩力の持ち主だった。

 入学式の時に睨まれていたことだったりトウカイテイオーの噂話だったりで、勝手な想像で苦手意識を抱いていたことを素直に恥ずかしく思う。

 

「ほら、これだ。花言葉は……このページだな」

 

 ずずいと顔に寄せられた液晶に白い花が写っていた。

 静謐な雰囲気の花びらで、ささやかな美しさが健気に主張していた。

 11月から4月にかけて咲くらしい。

 

 花言葉は──。

 

「……なるほど、ありがとうございます。

 とても……とても助かりました」

 

 ぺこりとお辞儀を一つ。

 

 "普段からこのぐらい素直であれば良いものを"──エアグルーヴのため息には正当性しか無い。

 ファインドフィートとてそれ自体は()()理解している。改めようとは思っていない。

 

 トウカイテイオーが見れば"そういうところなんだよね~"と呆れ返るだろうか。しかしこれも仕方のないことなのだ。……彼女にとっては、だが。

 

「まあ、役に立ったのなら良い。

 ……だがな。恩に思うのなら授業態度を正してくれ」

 

「……………………。

 ……善処します。多分、きっと……」

 

 ちらりと虚空を泳いだ目線に、どう信頼を置けば良いのか。

 ため息がもう一つ、夏の空に溶けていった。

 

 

 

 

 

 

 




ファインドフィート
『弟』。最近デビューした新進気鋭のウマ娘。
少年心を忘れていない。

バルムンク
持ち帰った。しかしいつの間にかどこかに消えてた。

エアグルーヴ
先輩力強者。
実はパーフェクトコミュニケーション判定だった女帝。

崎川トレーナー
若き天才。ミホノブルボンの専属トレーナー。
ミホノブルボンを猫可愛がりしてるキャリアウーマン。
実はファインドフィートも狙ってた。
犬派。

ポチとハナコ
子供が生まれたら、犬を飼いなさい。
子供が赤ん坊の時は、子供の良き守り手となるでしょう。
子供が幼い時は、子供の良き遊び相手となるでしょう。
子供が少年期の時は、子供の良き理解者となるでしょう。
そして子供が青年になった時、犬は自らの死をもって子供に命の尊さを教えるでしょう。


アングレカムの花言葉
"祈り"。
あるいは、"いつまでもあなたと一緒"。



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6話

 いつかどこかの、夏の夜空の下。

 "リーンリーン"と鈴虫の鳴き声が響くばかりの騒がしい(静かな)夜です。

 

 こんな時間のとある一軒家の屋根の上に、二人の子供の姿がありました。

 2階建てで、白い塗装の外壁。タイル張りの屋根は赤色。

 人が踏み入ることを前提とした屋上ではありません。

 

 子供たちはお揃いの芦毛を揺らして、野外シートに寝っ転がって(そら)を指差しています。

 視線の先にはキラキラ輝くお星さま。

 『双子』はあちらこちらに視線を彷徨わせていて、とっても楽しそうです。

 

 『あれがアルタイル』

 

 『……ベガとデネブは?』

 

 『……あのへん、じゃないですか?』

 

 『んー……。

 ………あっ、あったよ』

 

 ()()()の子供が淡い笑顔で指を向けました。

 その先には一際強く輝く星々――夏の大三角形。

 それを()()()の子供が感心したような声音で、大きく大きく頷きます。

 頭頂の耳がつられてピコピコと揺れました。かわいいですね。

 

 『なるほど。

 これでミッションコンプリートです。お父さんに報告しましょう』

 

 『あっ、じゃあ写真取らないと……!』

 

 シートの傍らに佇むかばんをゴソゴソと漁り、デジタルカメラを取り出しました。

 それは二人の父親が趣味で購入した高級品です。

 実際の値段は知らないのですが、慎重に慎重に、大事に大事に扱います。

 

 まだまだ小さな指先でカメラのボタンを押し込み――パシャリ!と響くシャッター音。

 

 背部の液晶を眺めた青い目の子供は、ご満悦そうな表情を浮かべていました。

 幸せそうで、キラキラと輝いています。

 

 『■■■(削除済み)、フィート!見つけたか~!?』

 

 『あっ、お父さんだ……下に降りなきゃ』

 

 『手を繋いで降りましょう。

 一人は、危ないですから』

 

 『ん……分かった』

 

 ギュッと手と手をつなぎ合わせます。

 子供特有のあったかい手のひらが、お互いの存在を確かめる(よすが)のようでもありました。

 

 『一緒に行こう』

 

 『うん』

 

 全く同じ顔を鏡のように見合わせて、小さく笑っています。

 しあわせそうで、きれいな笑顔。

 

 ええ。二人とも"しあわせ"です。

 本当に、本当に――"しあわせ"だったのです。

 

 

 


 

 

 

 窓の外に広がる夏の夕暮れ。

 何処か遠くから響く"みーんみーん"と鳴くセミの声。

 この求愛の唄はトレーナー室の窓を容易く貫通し、葛城トレーナーとファインドフィートの鼓膜を騒がしく震わせていた。

 

「……夏だな。

 このセミの声を聞く度に実感するよ」

 

「鳴き声を聞くだけでも暑いですね。

 あの、あれです。きょ、きょう……」

 

「共感覚だ。

 お構いなしに体を冷やしてくれるクーラーが有ってよかったな」

 

 ──今は8月第1週。

 ファインドフィートの知り合い達の多くが合宿で集中トレーニングに勤しむ時期でもある。

 

 夏特有の熱気を含んだ赤い陽光と天井からの白い蛍光が混ざり合い、窓際に飾られたプルメリア(夏の花)を華やかに照らす。

 貞淑な白と黄色で構成された花弁が誇らしげに輝いていた。

 

「さて、次の目標を改めて確認しよう」

 

 しかし夏だろうと秋だろうとも二人の調子は変わらない。

 普段通りの様相で、葛城トレーナーの無機質な声音がトレーナー室に響く。

 

 そしてそれを聞くのは赤いジャージ姿のファインドフィートである。

 いつもの定位置──ふかふかのソファーにうつ伏せで寝っ転がり、力のこもらない両手脚を投げ出したまま耳だけを彼へと向けた。

 

 ちなみに、普段は右手に鎮座している筈のはちみーはない。

 ソファーの目の前にある机の上で空っぽの体を晒し、虚しげに佇んでいるばかりだ。

 甘味の余韻を楽しむファインドフィートとは対象的な姿であった。

 

「メインはホープフルステークスである事に変わりはない。

 だが……9月後半の芙蓉ステークスにも出走することにした。

 目的はあくまでもレース経験の補完程度で認識してくれ」

 

「はい」

 

「そこまでを前提として、だ。

 これまでのトレーニングで成長したキミに合わせてスケジュールを修正した。

 今回はそれの共有ミーティングというわけさ」

 

 ホワイトボードにぺたりと貼られたのはA2サイズの紙。

 クーラーが生み出す涼風に当てられ、ぺらぺらと大きく宙に舞った。

 そうしてはためく白を眺めていると、視覚的にも不思議と涼しくなったようにも思える。つられて尻尾も揺れてしまうというもの。

 

 ──が、すぐにマグネットに依って封殺されてしまう。

 

「諸行無常。出る杭は打たれるとはこの事ですか……」

 

「違うぞ。アホやってないでちゃんと見てくれ」

 

「賢いですが」

 

「はいはい、賢い賢い」

 

「おのれガイコツ」

 

 仕方なくソファーに沈んでいた顔を横へ逸らし、机の向こう──壁際に設置されたホワイトボードに視線を向けた。

 首には大した負担もなく見ることの出来る位置だ。残り僅かな体力を消費しないように、ぼんやりと瞳だけを揺らし文字を追いかける。

 

 網膜に踊る情報はファインドフィートの今年いっぱいの詳細スケジュール。

 部位ごとに設定された筋力トレーニングの項目と、筋肉の疲弊具合を予測した上で合間合間にスピードスタミナの底上げトレーニング──有酸素運動。

 パズルを組み合わせるように複雑に構成された生活プランだった。

 

「……なるほど」

 

 瞳をスッと閉じる。

 

 赤青緑の蛍光ペンでそれぞれの情報を分かりやすく整理しているらしい。ありがたい事だ。

 赤色が無酸素運動(筋力トレーニング)

 青色が有酸素運動(持久力トレーニング)やフォーム矯正、レース走法。

 緑色が栄養管理を始めとした私生活プラン。

 

 少しでもファインドフィートの理解を助けようとした工夫が随所に見受けられて、葛城トレーナーの苦労が偲ばれるというもの。目元の隈が出来たのはこの所為だろうか。

 

「…………なる、ほど?」

 

 ──だが、しかし。

 どちらにせよファインドフィートにはその細かな気配り全てを理解しようとする気はない(にも賢さG)

 なんせデジタル世代の産まれ。アナログは不慣れ。

 これらをスケジュール管理アプリに叩き込んだほうが余程便利なのである。

 再度目を開くが、既に視線はあらぬ方向へ旅立っていた。

 

 ……ほんの少し申し訳ない気もするが、きっと葛城トレーナーも織り込み済みだろう。たぶん。

 

 なんとなし(気まずげ)に視線が逸らされるさまを見ていた葛城トレーナーが、"まあそうだろうな"と呆れた笑いを零す。

 つまりは、ただ単に葛城トレーナーが凝り性なだけであった。

 

「で、これに従って生活することに専念するだけでいいんですよね」

 

「そうだ。

 余分な負担を無くすために作ったものだからな」

 

「了解しました」

 

 肯定の意を込めて手をふる──のは無理だったので、尻尾でふりふりと返事を返した。

 全身から脱力しきった体勢を正そうにも、無様にプルプルと痙攣するばかりなので仕方がない事である。

 

「ところでトレーナー」

 

「何だ」

 

「普段よりも回復が遅いです。

 それにさっき迄はある程度動けていたのに、もう起き上がれなくなりました」

 

「それはそうだろう。

 強度や刺激方法を調整したからな」

 

 そう言いながらもタブレット端末をかばんから取り出す。

 

 黒ずんだ隈に囲まれた瞳を手元に落とし、骨ばった指先を液晶上に踊らせ──表示された画像をファインドフィートの目の前に寄せた。

 左には以前までのトレーニングメニュー。右には今回実施したトレーニングメニュー。分かりやすく内容の比較を行うための絵図だった。

 パチクリと目を瞬かせて2つを見比べる。

 

「なんと……」

 

 今回はそもそもトレーニングに利用するマシンの時点で全くの別物──らしい。

 それにフォームも重量も違えば、掛けた時間も違う。

 

「なるほど……」

 

 ──ところで、それにどんな意味があるのだろうか?

 何故、疲労回復速度の低下と関係があるというのか。

 ……ファインドフィートには人体に関する知識なんて殆ど無い故に、よく分からなかった。

 こういったものは全部トレーナーに任せておいた方が良いだろうと学習を諦めた弊害である。

 

 が、しかし。

 "全くわかりません"と答えるのは何となく恥ずかしかったのでしたり顔(無表情)で頷いておく。虚勢を張ったともいう。

 

「なるほど……」

 

「ま、要するに──今回行ったのはマンネリの解消さ。

 適度にトレーニング方法を変えないと停滞してしまうからな」

 

「なるほど……」

 

「……。

 

 ……なあ──」

 

「賢いですが」

 

「まだ何も言ってないんだが」

 

 葛城トレーナーがいつもの呆れ笑いを浮かべる。

 ファインドフィートとは違い、意外と動く表情筋を所有しているのがこの男だ。

 

 ……そんな顔で見られているせいなのか、そこはかとなく居た堪れなくなって、顔を元の位置──ソファーとの顔面埋没姿勢へと調整する。

 決して負けたわけではない。

 肩がプルプルと震えているのは単なる疲労故である。少なくとも、彼女にとってはそうだ。

 

「こんな状態でさえ無ければ……」

 

「疲労による精度劣化の程度はあれども、知性そのものに対する変化は発生しない。

 その事はキミも知っているはずだが」

 

「……喧嘩、売ってますね?」

 

「非売品と言う事にしといてくれ」

 

 思わず舌打ちを零した。

 

 ファインドフィートとて、この葛城トレーナーに口論で勝てないことは遺憾ながら──()()()()、遺憾ながらも自覚している。

 しかし腹の底から湧き上がる鬱憤は止められない。

 

 だから仕方なく──代わりのぶつけ先として、一向に力の籠もらない四肢へ恨めしそうな視線を注ぐ。それもこれも十全に動き回れない手足が悪い。

 罪状は疲労困憊罪。今決めた。

 

「……実際の所、動けないのは問題ですね」

 

「それはそうだ。

 現状だと()()()弊害があるだろうな。

 たとえば……はちみーを飲めなくなったりとか」

 

「………!!」

 

 試しに右手を机の上のはちみー(空)へと伸ばす。

 

 ──当然、肩も上がらず二の腕がぷるぷると震えるばかりで動かない。

 関節部分に痛みがあるわけではないし、不快感があるわけでもない。

 ただただ、力が籠らないだけ。

 はちみー(空)の方向に指先を向けるだけで精一杯だった。

 

「…………くッ」

 

 不快感が無い?

 いいや、前言撤回だ。

 精神的な意味では不快感しか無い。

 殺意の赴くまま、視線の先に佇む空のカップを忌々しげに睨みつけた。カップにしてみればとんだとばっちりである。

 

「……なるほど。私生活に支障が出すぎるのも問題だな。

 あまりにも影響が大きいと精神衛生上にも良くない事だ」

 

「その通りです。

 はちみーを思うがままに貪れないというのは、とても辛いことですから」

 

「そこは同意しよう」

 

 もしもここにトウカイテイオーも居たのなら、"ボクもそう思うよ"と賛同したことだろう。

 

 高カロリーの物体を好むのはアスリートとして如何なものか?

 ──なるほど、それは正論だ。

 しかしそんな正論には敢えて目を瞑る。それはそれ、これはこれだ。

 栄養バランスやトレーニング内容を加味した上で計算、摂取しているので一切問題はない。はず。

 

 ……ちなみに、飲んだ量に応じて食事内容やトレーニングメニューを再修正するのは葛城トレーナーの仕事である。目元にこびりつく隈も納得の労働量だった。

 

「だがまあ……これまでのキミの回復力から考えると、1時間そこら寝ていれば大丈夫だろう。

 すぐにまた普段通りの生活が出来るようになるはずさ……たぶん

 

「なるほど。

 それまでは此処で休むべきですね」

 

 "じゃあもう寝ます"と響く即決の声。

 云うやいなやさっくりと諦めて肩肘から力を完全に逃し、瞼を下ろしていた。

 

 ──この間僅か数秒の出来事。

 早く休んで可能な限り早く私生活を送れるようにならないと、またミホノブルボンに手間を掛けさせてしまう──そんな危機感がファインドフィートの睡眠欲を煽っていたのかもしれない。

 

 ……手間を掛けている事に関しては今更か? ……今更かもしれない。

 だがやはり迷惑をかけている自覚はあるし、恥ずかしいものは恥ずかしいというのも真実。

 

 寝起きで荒れた髪を梳かされたりしているし、風呂上がりは尻尾に香油を塗ってもらったりしているが──それはそれ。

 ファインドフィートにだって申し訳程度の"男のプライド"は残っていた。きっとそう。

 

「オッケー葛城。1時間後に起こしてください……」

 

「俺は何時の間に音声アシスタントになったんだ?」

 

「今からです」

 

「わがままなお嬢様だ」

 

 葛城トレーナーからの()()()()を聞き届け、満足げに尻尾を一振り。

 拭いきれなかったらしい、首元を苛む汗の感覚はちょっぴり不快ではあるが──まあ、動けないのなら仕方がない。

 

 しかしこのトレーナー室には最低限の生活用品以外にも、ロッカー内部には下着や肌着、着替えなども完備している。

 動けるようになったらシャワールームでも借りよう。

 それで問題解決だと、得意げに尻尾をもう一振り。香油の甘い香りが仄かに漂った。

 

「俺は少し用事があるから此処を出ている。

 何か有れば連絡してくれ」

 

「了解、です……」

 

 睡眠宣言から十数秒。

 早くも、"くぁ"と小さなあくびが飛び出していた。

 

 寝る態勢に入ってしまったからだろうか──途端に襲いかかってきたのは抗いがたい眠気だ。

 あっという間に全身を巡り頭蓋を満たした毒気は、ファインドフィートの瞼を引きずり降ろそうと躍起になっていた。

 本当に、驚くほど早い。

 

 その上、とくり、とくりと規則正しい鼓動の音が子守唄のようにも聞こえて──また尚更に思考回路の回転が鈍っていく。

 

 ……きっと、体は正直に休息を求めていたのだろう。

 ただ、ファインドフィートが見栄を張って眠気を遠ざけていただけ……なんて言えば子供のようだから、彼女は当然のように否定するけれど。

 実際に子供なのだから、否定したところで仕方のない事──口から出かけた言葉をとっさに飲み込んだ葛城トレーナーの判断は、まさしく英断だった。

 

「…………では、また……」

 

 指先、肘、肩。

 つま先、膝、太もも。

 じわじわと感覚が薄れ、残ったのは体の下のソファーから伝わる柔らかい感触だけ。

 

 いつしか耳も尻尾も重力に従ってたらりと伏せられた。

 つられて青と赤の耳飾りが白髪に埋もれる。カチャカチャと鳴る金具の音も何処か遠い。

 

 ──そしてそれに気付けない程には、意識がぼんやりと輪郭を崩していた。

 

「……また、様子を見に来る」

 

 朧げに聞こえた声音に対し、小さく尻尾を動かして応えを返した。

 

 ──ああ、いや。小さく動かしたつもりだっただけで、本当は全く動いていなかったかもしれない。

 

 眠気に自我を支配されたファインドフィートにはまるで分からない。

 自分の体の下に広がる寝床の感触とクーラーの冷気。

 これらだけが停止間近の思考回路すべてを占領していたのだから、当然だ。

 

 だけれど。

 すぐ傍から届いた呆れ笑い。それと、背中から太ももの裏までを覆うやわらかい布。

 これらの暖かい感触が答えだったのだろうか。

 

 

 

 □

 

 

 

「……戻りました」

 

 "キィ"、と蝶番が鳴る。

 疲労困憊の体で寮まで辿り着いたファインドフィートはスカートの裾を揺らし、のろのろとドアを潜った。

 玄関部分に置いたピンク色のマットを踏みしめる感触さえも朧げで、霞んだ瞳はどこか夢うつつ。

 先に部屋に帰っていたミホノブルボンが驚いたように目を瞬かせたのも無理はない。

 

 普段はピンと張っている背筋も疲労の重みで丸まっているし、一切トレーニングで使っていないはずの耳や尻尾でさえもヘタリと垂れていた。

 体の上下に合わせて力なく揺れる尻尾からは、そこはかとない哀愁を感じてしまう。

 

 ミホノブルボンが流れるように肩を支える所作も、最早手慣れたものである。

 

「大丈夫ですか。

 前回のトレーニングよりも30%多く疲労が溜まっているようですが」

 

「……はい。

 普段よりも変化球な感じで……その、とりあえずハードな感じだっただけですか、ら」

 

 口はそう嘯きながらも体は正直だった。

 起床した後、一人でシャワーを浴びる事が出来たのは最早奇跡。あるいは偉業と言っても過言ではない……かも、しれない。

 

 そんな一仕事を終えた後のファインドフィートは当初の危惧を忘れ、ミホノブルボンの支えの下足を進めた。

 ふらふらと上体をよろめかせている姿は、生まれたての子鹿とそう大差ない有様。

 それでも必死に草臥れた筋繊維に活を入れて部屋の中枢を横断し、カーペットを踏みしめ、ベッドへと向かう。

 彼女にはつま先を持ち上げる気力さえも残留していないのか、足の裏と床が並行に擦れ合っていた。

 

 寮の一室というそれほど大きくない範囲の移動──たったそれだけ。

 だがしかし、それだけで断崖絶壁を駆け上る以上の労力を奪っていった。

 無論錯覚だ。

 

「……すみません」

 

「謝らないでください。

 先輩とはこうして後輩を助けるものだと、お父さんにも教えてもらいましたので」

 

「そう……なんですか?」

 

「そうです」

 

 ──ようやく辿り着いたベッドへ、ぽすりと倒れ込む。

 衝撃につられて広がった白髪に気を使う余力さえ無く、シーツに顔をうずめる姿は死体のよう。

 

「はぁ………」

 

 ファインドフィートを優しく包んでくれるシーツに顔を埋め、大きく深呼吸。

 洗濯したばかりの柔軟剤のいい香りが鼻腔を擽る。

 そのまま胸の内までを満たすほんのりと甘い香りが、ファインドフィートの荒んだ心を癒やしてくれた。

 

「食事は?」

 

「摂取済み、です」

 

「そうですか。

 つまり、後は眠るだけのようですね」

 

 返事を返そうと口を開きつつも、既にファインドフィートの目は閉じかけだ。

 必死に意識を覚まそうとして、しかし徐々に徐々に瞼が降りていく。

 眠気との格闘している姿こそがミホノブルボンへの答えでもあった。

 

 ……そう遠くないうちに意識を落とすだろう──そう察したミホノブルボンが手にしたのは髪紐。

 ファインドフィートの机の上に置いていたそれは、学園に入る際に持ち込んだ数少ない私有物だ。

 品のいい赤色を揺らし、テキパキと髪を指で纏め上げる。

 

 うなじの部分でゆるく三つ編みに結ばれた髪が、ファインドフィートの呼吸に合わせて小さく揺れた。

 ミホノブルボンが"やはりよく似合っていますね"と姉面で満足げに頷く。

 

「完了です。

 この状態であれば入眠後、頭髪に対するダメージが大きく軽減されます」

 

「あ……ありがとうございます」

 

 ふやけた声だ。

 目はほとんど閉じかけの有様である。

 きっと、既に意識は殆どの部分が夢の世界に沈み始めていることだろう。

 それでも後頭部に指を伸ばし、三つ編みに触れる。

 纏められた髪をサラリと撫でつけ、柔らかい感触にじっと目を細めた。

 つまり、もう1ミリの視界さえも開けていない。

 

「…………」

 

 ──そうして夢うつつのまま、うっそりと口を開く。

 ぼんやりと霞んだ頭の中を過るのは過去の残照か──あるいは幻か。

 意味のない虚像であることに違いはない。

 けれどそれを判断できるだけの思考能力は、すでに蕩けてしまっていた。

 

「………約束」

 

「……?」

 

「約束、なんです」

 

 

「『姉』と一緒に、髪の毛を伸ばして……おそろいの髪型にしようって」

 

「……そうでしたか」

 

 ……得心したように頷く。

 とはいえミホノブルボンは一人っ子である故に、実感の熱が籠もっているわけではない。

 それでもどうにか推理するのなら──嘗ての彼女が抱いた熱である"ロマン"とはまた違った、ファインドフィートにとっての仄かな憧れ。

 あるいは、未来への希望──きっとそういうものか。

 

 ミホノブルボンはファインドフィートに対して素直に、"きれいで素晴らしい"と口にする。

 純粋な、彼女らしい返答だ。

 

 ……むしろ、これ以上に気の利いた返しなど土台不可能。

 コミュニケーション機能のアップデートに期待すべきだ。

 開発担当者は崎川トレーナーか──あるいはそれ以外の誰か。

 これもまた、未来への希望と言えるだろう。

 

「素敵なお姉さんですね」

 

「……ありがとうございます」

 

 ──そこが限界。

 

 ぷつりと糸が途切れたように、全身から力が抜け落ちる。

 さほどの間を置かずに聞こえ出したのは"すぅ、すぅ"と空気の抜ける音。

 

 すぐ傍らに立っていたミホノブルボンは、目の前の彼女が眠りについたことを察知した。

 そして極めて自然な流れで傍に畳まれていた薄手の毛布を広げ、ファインドフィートの腰に掛けてやる。

 夏の夜とは言えお腹を冷やしてしまうかもしれない。それは身体に良くないもの。

 ……これも、ミホノブルボンが崎川トレーナーに教えてもらったことである。

 

 先人に教えてもらった智慧を後輩にも──そう考えると不思議と気分が高揚し、尻尾もご機嫌そうに揺れてしまう。もちろん音は立てていない。

 

「おやすみなさい、フィートさん」

 

 机の電灯を残し、部屋の明かりが消える。

 ミホノブルボンにとってはまだ眠るには早い時間だからか、しばらくの間書籍を読み漁るつもりらしい。

 パラパラと捲られたのは最近流行りのロボットマンガ──その第一巻。これから全巻制覇の予定である。

 ……明日の崎川トレーナーは、きっと苦労する事だろう。

 

「なるほど……。

明日使用するメカジョークのヒントを取得しました。メモリへの書き込みを実行します」

 

 ──こうして、各々の夜が更けていく。

 部屋に沁み込むのはファインドフィートの寝息と、ミホノブルボンが本をめくる音。

 あとは、窓を貫通しリンリンと響く鈴虫の鳴き声ばかり。

 

 三色の合唱が、夏の夜に溶け込んでいた。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 ――けれども、現在(いま)となってはウタカタの夢。

 もう何処にもない光景。すでに失われてしまった宝物。

 

 『彼女』が本当に欲しかった"しあわせ"は、きっと彼処(過去)にあったのでしょう。

 だからもう、何処にもありません。

 

 何処にも。

 

 

 



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7話

静かで綺麗な白い部屋。

薬品香る病室で目を覚ますのは、お寝坊さんの一人の『子供』。

 

『子供』はお医者さんに聞きました。

"ここは一体どこなの?"

 

お医者さんは答えます。

"病院だよ、■■■(削除済み)くん"

 

『子供』は青い目を瞬かせました。

"なんでぼくは病院にいるの?"

 

お医者さんは悲しげです。

"キミが事故に遭ったからだよ"

 

それを聞いて"ふぅン"と一つ、唸ります。

言われてみるとたしかに痛い。感じてみればとっても苦しい。

だから『子供』は聞きました。

 

"みんなはどこ?"

 

自分がこんな目にあっているなら、きっとみんなも大変だろう。

みんながそんな事になっているなら、傍に行って安心させたい。

とってもかわいい行動理念。

だからこそ、お医者さんはどこか悲しげです。

 

"……すまないね。■■■(削除済み)くん。

キミしかいないんだよ、生き残りは"

 

――きょとんと、()を揺らします。

ぼんやりとしたまま"ふぅン"ともう一つ、唸りました。

 

だってオカシイのです。きっと嘘なんです。

『子供』の家族はみんな仲良し。

何も言わずにいなくなるなんて、ありえないのですから。

お父さんは言っていました。迷子になったら探しに行くよと。

お母さんと約束しました。いい子にしていたら、きっと皆が助けてくれる。

 

だから皆がすぐに見つけられるように、"早くおうちに帰りたい"と『子供』は言います。

"大丈夫、すぐ帰れるさ"とお医者さんは誇らしげ(苦しそう)です。

 

だから『子供』は無邪気に笑ってはしゃぎました。

その後の何をも知らずに微笑みます。

 

家に帰った先には伽藍堂。

手を握ろうにもヒト足らず。目をつむろうにも凍えて寒い。

日が昇り、日が沈み、月が上がって日が喰らう。

何日も何日も何日も何日も何日も待ち続けて、一体何になろうというのでしょうか。

その先に熾る心を炙る火の熱も、心を縛る鉄の味も知らずにいるなんて。

 

 

"――■■■(削除済み)、ちゃん。

■■■(削除済み)ちゃん、■■■(削除済み)ちゃん……"

 

"……全く、あぁ。

なんて――なんて、かわいそうなのでしょう。

なんてかわいいのでしょう"

 

"ふふっ、怖がらなくても大丈夫ですよ。

どんなに弱いウマ娘でも……(女神さま)なら、『しあわせ』に出来るんですから……"

 

"――はっぴばーすでー、とぅー、ゆー……。

おはよう、『ファインドフィート』ちゃん"

 

 


 

 

 

「はい……?

 メジロマックイーンさん、ですか?」

 

「そうそう!

 ボクのライバルだよ!」

 

「それで、そのメジロマックイーンさんがなんと……?」

 

 ファインドフィートは青い目をパチパチと瞬かせた。

 

 秋を越え、冬に至った寒天。

 そんな外気など関係ない放課後のカフェテリアに集まったのはいつもの三人だ。

 もうじき有マ記念に出バする二人のウマ娘は、しかし普段と変わらず和やかな雰囲気で席を囲う。

 この二人、元々の関わり合いはさほど深くはなかったというのに、だ。

 だが──今ではこうして仲良く過ごす時間が増えたのだから、人の縁とは不思議なモノである。

 

「だからさ、マックイーンもフィートに会ってみたいんだって~。

 今週の土日どっちかヒマ?」

 

「わたしに逃げるという選択肢は与えないおつもりで?」

 

「もちろん!

 だってこのままだと誰とも関わらずにいそうだし、それじゃ寂しいでしょ?」

 

「フィートさんはコミュニケーション機能に問題を抱えています。

 ですが、人付き合いそのものを嫌っている訳ではない……そう解釈しました。

 コミュニケーション機能に問題を抱えていますが」

 

「………なる、ほど?

 これはつまり喧嘩を売られていると……」

 

「まあまあまあまあ。

 はいっ、はちみー飲んで落ち着いて!」

 

「一体わたしをなんだと思っているんですか……じゅここここ」

 

 突き出されたストローを咥えるまでの葛藤はなかった。

 白いつむじを眺めるトウカイテイオーの気分は、さながら動物園にやってきた観光客。

 餌やり体験──もとい、アニマルセラピー。リラックス効果を受けて背部で揺れる鹿毛はご機嫌さの証明だ。

 

 ミホノブルボンもトウカイテイオーの言葉に同意しつつ、箸で唐揚げを掴み上げる。

 

「……事実、フィートさんの交友関係はとても狭いと判断します」

 

「いや、別にそんな訳では……むぐっ」

 

 咄嗟に開かれた口内に流れるように突き込まれた唐揚げ。

 ファインドフィートはあっけなく文句の言葉をすり潰されてしまい、モゴモゴと頬をふくらませることしか出来ない。

 そうしてファインドフィートが黙った(を黙らせた)のを良いことに、此処ぞとばかりに口を開く。

 もちろんミホノブルボンの計算通りだ。餌やり体験をしてみたかっただけともいう。

 

「ですので、今度ライスさん──ライスシャワーさんと一緒にお出かけしましょう。

 ライスさんもフィートさんに興味を持っているようでしたので」

 

「むぐっ」

 

「いいね~。

 じゃあボクもその時にマックイーンを誘ってご一緒させてもらおうかな」

 

「じゅここ……」

 

「はい。名案です。

 複数人でのお出かけ……特殊イベントミッションを受託しました」

 

 唐揚げ、はちみー、米、はちみー、(タイ)(ブリ)(ハマチ)

 続々とファインドフィートの口に侵入を繰り返す食べ物によってあらゆる言論の自由を封じられた。世界人権宣言もびっくりである。

 周囲のウマ娘による好奇の目を気にすることもなく、トウカイテイオーとミホノブルボンの計画が積み上げられていった。

 ──もちろんファインドフィートは置き去りのまま。

 

 しかしファインドフィートも続々と入ってくる食べ物を楽しみ始めたので、これはこれで問題ないのだろう。たぶん。

 

「むぐぐ……」

 

「では、そういう訳です」

 

「そういう訳だよ」

 

「……んぐっ。

 ……いったい、どういう訳ですか」

 

 ──さすがのファインドフィートも困惑気味。コミュ障ハートは何時も通りの低出力。

 何時にもまして圧の強いトウカイテイオーは、グイグイと予定を押し付けてご満悦に笑っている。

 ミホノブルボン? 圧に関しては何時も通りだし、今回は丁度いい企画に便乗しただけである。

 

「も~、"芙蓉ステークス"一着のお祝いもまだなんだし良いじゃん!

 もう11月だよ?ずっとトレーニングばかりだと身体にも心にも悪いよ~」

 

「ええ……。

 まあ、その……しばらくはホープフルステークスの準備があるので、そのあとなら……」

 

「来月かぁ……。

 ん〜……しょうがないかぁ。

 じゃあ来月は皆で一緒に行こうね!約束だよ!」

 

「ちょ、あの、テイオーさん」

 

「じゃあそういう訳で!

 ごめんね、カイチョーに用事があるから早く行かなきゃいけないんだ!」

 

 言うやいなや大量の食器を片手に積み上げ席を立つ。

 ついでにミホノブルボンとファインドフィートの空き皿もポイポイと重ね、あっという間に歩き去ってしまった。

 残された二人には遠ざかって行くポニーテールを眺めることしか出来ない。

 

「……余程、急いでたのですね」

 

「テイオーさんは現役世代の中でも特に高名なウマ娘の一人です。

 その立場上、様々な予定が詰まっているとマスターからお聞きしました。

 つい先日にもテレビの収録に従事していたとか……」

 

「そう、なんですね。

 ……わたし、知らなかったです」

 

 カフェテリアの扉を抜け出た所までを見送って、ファインドフィートはようやく我を取り戻し天を仰ぐ。

 急に肩が重くなったような、胸に消化不良の何かが詰まったような。

 

 ──ぼんやりとため息を吐く。

 しかし、身体が軽くなる訳ではなかった。

 

「……誰かと出かける事そのものは別に、嫌ではありません。

 ですがわたしにもコミュ障としての尊厳が(今更友達が欲しいなんて言えない)……」

 

「フィートさん。大丈夫です」

 

「ブルボン先輩……」

 

「ライスさんもマックイーンさんも優しい方です。

 お二人相手なら、フィートさんとウマが合うかと」

 

「……そうなんですか?

 いえ、しかし……」

 

 "そういう問題では無いんです"と喉元までせり上がった言葉を飲み込む。

 

 こう、自信満々に胸を張られたところで、何を安心しろと言うのだろうか。

 ファインドフィートは初対面の相手全て等しく苦手だというのに。

 やはりこの先輩は根本的に違う人種──ファインドフィートは改めて確信を深める。

 せめてもの負け惜しみとして"この大型犬め"と心の中で呟き、横に視線を逸らした。

 

「私達はフィートさんの自由時間の割合が少ないことを危惧しています。

 これまでの半年間を測定した結果、完全休養日と呼ばれるべきモノをほんの僅かしか検出できませんでした」

 

「……それでも、問題など無いように設定されています。

 トレーナーの管理は万全ですので」

 

「……ですが……」

 

 栗毛の尻尾がへたりと垂れた。

 表情は変わっていないものの、耳と尻尾が彼女の内心をありありと語っている。

 

 ……目を逸らしたままのファインドフィートはこれ以上無く気まずげだ。

 トウカイテイオーとは定期的に食事を共にする仲ではある。

 しかしミホノブルボンは唯一毎日の関わりがあるウマ娘。

 そんな彼女が落ち込んでいるのを見ると──もう、胸がムズムズして仕方がない。

 

 ──そこから根負けするまで、さほどの時間は掛からない。

 ファインドフィートは何処までいっても非情には成りきれないのだから。

 

「はぁ……準備はしておきますよ」

 

「……!

 そうです。その意気ですフィートさん。

 特殊イベントミッション"お買い物"、受託完了です」

 

 ミホノブルボンは嬉しそうに尻尾を揺らしていた。

 対するファインドフィートも何だかんだ言ってリラックスした風体で、尻尾の揺れは穏やかだった。

 

 ……当人に指摘したとして、一二もなく否定するだろうが。

 

 

 ■

 

 

 ざあざあと風に吹かれて、木々の葉が擦れ合いざわめく音が反響する。

 冬という季節と、早朝ゆえの日の低さも相まって非常に肌寒い。

 ファインドフィートはそんな環境の中、二の腕を擦り上げながら慣れない山道を登っている。

 標高は低くとも山は山。

 やはり気温は低くなってしまうもの。

 

 なんとなく気になって左腕の内側を覗き見れば、デジタル時計の液晶が"06:01"と現時刻を明確に象っていた。

 場所と時間と時期──11月後半の気温と考えれば納得の寒さだ。

 

 防寒具をもっとしっかり着込んでこなかった事を今更ながらに後悔する。

 去年までは夏に訪れていたから──多少、分からなくても仕方のない事ではあるが。

 そんな毒にも薬にもならない言い訳ばかりを胸中に零してしまう。

 

「まったく……管理人さんは何をしているのやら」

 

 学校が終わり、疲れた身体を引き摺り電車に揺られ、やっと目的地に着いたかと思えばこの仕打ち。

 何度か顔を合わせたきりの管理人に愚痴を吐いて、まあこんな事もあると自分を強引に納得させておく。

 

「事前に靴を買っておいて良かった」

 

 下を見下ろせば、新品の輝きを放つ青い靴。

 ついでに映り込むのは白く無地のTシャツに黒いオーバーサイズのアウター。青いジーンズ。

 今日の彼女は、トレセン学園に訪れてから初めての私服を身に纏っていた。

 クローゼットの後に押し込んだきりではあったが特に嫌な匂いがついていることもなく、ファインドフィートの肢体をしっかりと包んでくれている。

 そして背中にはそこそこ大きい赤のリュックサック。

 

 ……"あとはマフラーでも買っておけば完璧だったのに"と淡い後悔を漏らす。

 少し前に芙蓉ステークス(OP戦)を勝ったおかげで資金には余裕があるのだ。

 こんな寒さに苦しむぐらいなら、何も考えずに装備を整えておくべきだった。

 

「……はぁ」

 

 鬱屈と吐く息はとても白かった。

 薄暗い空であっても、白くなるものは白い。

 自分の髪の毛と同じ色彩に親近感を感じて、気分をちょっぴり高揚させた。

 ……あるいは、そうして無理にでもテンションを上げなければ辛いものがあるからかもしれないが。

 

 八つ当たり交じりにしなやかに足を伸ばし、小振りな石を蹴り飛ばす。

 カツンと響く子気味の良い音が静寂に沁み込んだ。

 

「おっと……」

 

 思ったよりも、勢いよく跳ねた小石。

 数メートル先で弾けたそれを追いかけるべく、強引に己を奮い立たせ足取りを早めた。

 

 

 ──。

 

 ────。

 

 

「……そこそこ、時間がかかりましたね」

 

 山頂に辿り着き、ようやく輝きを強め始めた陽光に目を細めた。

 標高にして800m程度か。あるいはそれ以下か。

 

 木々の無い開けた視界を悠々と歩み、枯れた種々の落ち葉をかき分ける。

 そして逆光を浴びる"それ"の前で立ち止まり、おもむろにリュックから取り出したのは大きく赤いプラスチックボトル。

 とぷりと水音を鳴らす様は、まるで自らの役目の到来を理解しているかのようだった。

 

「……おや、随分と汚れてしまっていますね。

 山中なら仕方のない事ではありますが」

 

 もう一度とぷりと水音を立たせ、足元にボトルを置いた。

 一緒に地面に下ろしたリュックサックから、スポンジを取り出して右手に携える──その前に。

 水気によって指先が冷え切る事を防ぐため、ゴム手袋を両手に取り付けギュッと奥まではめ込む。

 ピンク色、Sサイズ。主婦のお供である。

 

 一通りの準備を終えたファインドフィートは自分の身体を見下ろす。

 手にはゴム手袋、撥水性のある登山靴。石磨きの道具(水とスポンジ)もバッチリだ。

 事前の掃除支度が万全であることを確信し、小さく尻尾を揺らす。

 日光を浴びる白い毛並みが誇らしげに輝いていた。

 

「……お久しぶり、ですね。

 母さん、父さん」

 

 灰色で大きな石──綺麗にカットされた御影石の表面を指でなぞりあげる。

 刻まれた文字に溜まった汚れは一年分の累積物。

 嘗てはつるりと磨き上げられていたはずでも、いつの間にか土と苔に塗れてしまっていた。

 ファインドフィートは土の付着した指先を擦り合わせ、瞳を伏せる。そこに宿った色は悲しみの青。

 表層に浮かんで見える微かな湿り気は、錯覚によるものだろうか。

 

 ──"御供(ミトモ)家之墓"。

 

「今から、掃除します」

 

 足元のボトルのキャップを外し、なみなみと注がれていた水をたぷりと揺らす。

 そして水滴が自分の方に垂れてこないように注意ししつつ──頂点の部分から、丁寧に丁寧に洗い流す。

 

 時折ボトルを足元において、スポンジで優しく汚れを落とし、また水で流す。

 聞きかじりの掃除方法を脳内で反芻しながら、ゆっくりと、丁寧に。

 

「掃除が終わったら、沢山聞いてほしいことがあるんです。

 たまには良いでしょう?

 ……っと」

 

 ──ピチャリと飛び散った水滴が頬に弾けた。

 意図せず目元を冷やしていった水気を指で掬い、跳ね飛ばして……ピクリともしない表情筋のまま、か細く喉を震わせる。

 

「だって、今日はわたし達の誕生日なんですから」

 

 11月22日。土曜(誕生日)の朝。

 ファインドフィートは、久々に揃った家族に胸を踊らせていた。

 

 

 

「このカクテル……二人共、好きでしたよね?」

 

 掃除を終え、続けてリュックから取り出されたのはステンレスのボトル。

 バイオ紙で作られたコップも2つ用意して、キュポンと封を開けた。

 

「んぐっ……」

 

 ──慌てて鼻を塞ぐ。

 ほのかな風に乗って漂ってきたアルコール臭は思った以上に強烈だった。

 なんせ、ウマ娘とは嗅覚にも優れた種族である。その上ファインドフィートは未成年。

 慣れない刺激を受けて、ちょっぴりと涙腺が刺激されてしまった。

 ほんの少し苛立ったように耳を倒しながらさっさと2つ分を注ぐ。

 とぷりとぷりと少しずつカップの中身をアルコールで満たし、それと同時にファインドフィートにも充填されていく殺意。

 

 彼女の手ずから墓石の前に置かれたカップが少しへこんでいたのは……"ご愛嬌"という事で勘弁してもらいたい。

 一仕事を終え、小さく鼻を鳴らして座り込んだ。

 もちろん尻の下にアルミシートを敷くことも忘れていない。

 

「まったく……なんでこういうのが好きだったんですかね、二人とも。

 これを作るのもすごい大変だったんですから」

 

 脳裏に協力者──昔なじみの白衣の老人を思い浮かべて、小さくため息を吐く。

 ファインドフィートにとっては複雑な思いのある人物だから仕方のない事だ。

 

 ──その吐き出した息に宿った色は、果たして何色なのか。

 陽光に紛れてしまったらしく、彼女にも分からない。

 

「……まぁ、良いんです。

 結果的には二人に渡せたので」

 

 はちみつと同じく黄色がかった液体が、微かに波打った。

 ウォッカとアマレット。2種類の蒸留酒から作られる甘口のカクテル……らしい。

 まだまだ子供でしかないファインドフィートにとって未知の分野だ。

 

「ゴッドマザー。カクテル言葉は無償の愛……でしたか。

 ……なんで、こんな酒にまで意味を持たせてるんですか?

 意義が分かりません」

 

 しかしそれでも、両親が好んでいたというのなら用意しよう──そう考える程度には、今回の墓参りを重要視していたのだろう。

 そしてもう一つ、リュックからカップを取り出す。

 はちみーだ。

 

 二人へと手向けた黄色とは違う黄金の甘味。

 ストローを差し込み──そして小さく掲げた。

 献杯の作法もよく知らないから見様見真似のまま。

 それでも、ほんの少しだけ大人になれたような気分で──既に亡くなった二人へと黙祷を捧げる。

 

 閉じられた瞼は、小さく震えていた。

 

 

 ■

 

 

「……それで、近況報告……でしたね」

 

 小さく喉を鳴らす。

 か細い食道を通るはちみーが暴力的な軌跡(甘味)を残し、胃袋へと突入していく。

 その癒しのお陰でささくれだっていた心も落ち着きを取り戻し、穏やかな気持ちで口を開けた。

 

「わたし、トレセン学園に入学したんですよ。

 姉さんがずっと言ってた、夢の舞台です。覚えてるでしょう?」

 

 "元々はヒトだったのに、不思議ですよね"と軽やかに嘯く。

 ミホノブルボン達に向けた時とは違う、気安い声音だ。

 それに自分以外の誰かに向けたモノにしては、驚く程スラスラと言葉が出る──普段のファインドフィートとは大違いである。

 ややあって、小さく首を傾げた。

 

 ……。

 ………数秒ほど考え込んで、"ああ、そういえば家族に対してなら簡単に言葉が出ていたのか"と、当たり前の事実を思い出す。

 

 どうしてだろう、(にわか)にも恥ずかしくなった。

 "んんっ"と小さな咳払いでごまかして、悠々とストローに口をつける。

 勢いのまま羞恥心を甘味に絡ませて、ゴクリと呑み干す。

 感じ取れた味は甘さばかりだ。

 

「……ん、ふぅ。

 それで今は、しっかりとトレーナーの指導を受けています。デビューもしました。

 この前なんかは芙蓉ステークスにも出たんですよ。

 もちろん、一着です」

 

 "あのレース、中山に慣れる為だったらしいんですよ"と淡々と報告し、もう一度ストローに口をつけた。

 道筋は全て己のトレーナーが整えてくれる。それぐらいには信用できる相手だ。

 ……なんて素直に言葉にするのは、少し──いや、かなり恥ずかしい。

 だから軽く迂遠に伝えて、あとは相手に任せる(察して)。面倒くさいかもしれないが……まぁ、このぐらいはかわいい息子()のお茶目ポイントとして飲み込んでもらおう。

 

「ああ、それと仲の良い方も出来ました。

 来月になったら、みなさんと一緒にお買い物に行くんですよ」

 

 それからもどんどん言葉が溢れてくる。

 同室の世話焼きな先輩(ミホノブルボン)のこと。

 賑やかな帝王(トウカイテイオー)のこと。

 稀に顔を合わせる副会長(エアグルーヴ)のこと。

 

 それら全てを語り終えるのには十分すらも掛からない。

 別に、意外な事ではないだろう。

 エピソードだってワンパターンだし、関わるウマ娘もそう多くない。

 殆どの時間をトレーニングに費やすのだから当然でもある。

 

「……あとは、そうですね……」

 

 ──"ずここ"と、底をついたストローが耳障りな悲鳴を上げる。

 非常に残念ながら、ついにはちみーを呑み干してしまったらしい。

 手元の惨状に気付いたファインドフィートは残念そうに瞼を伏せ、ビニール袋の中に放り込む。

 カラリと鳴った音はどこか虚しげ。彼女の好物を補給するにも下山するまで"おあずけ"である。

 

「……わたし、頑張って夢を叶えますから」

 

 モノ寂しい唇を撫で、『姉』と同じ声で語る。

 もしも目の前に両親がいたのならどんな答えを返すのか。

 記憶の中の父親なら、困ったような笑みで肯定してくれるだろう。

 記憶の中の母親なら、危ないからやめなさいと否定してくれるだろう。

 けれど、もう二人共いないのだから今更の事だった。

 

「だから、待っててくださいね。

 いつかそこに辿り着いたら……わたし達のことを褒めて欲しいです」

 

 墓石にそっと、アングレカムの花束を捧げる。

 自分自身で十分に香りを楽しんだからおすそ分け──なんて呟き、指先の水気を払った。

 そこから少し距離を離し、青い瞳が映すのは綺麗になった墓石と2つのカクテル、白い花束。

 

 ……見栄えも随分よくなったんじゃないかと、小さく自慢げに胸を張っておく。

 3年前にはファインドフィートより大きかった墓石。それでも今となっては逆に見下ろす側。

 ──初めて此処に来た日を想起すると、ほんの少しだけ感慨深い心持ちにもなった。

 

「──それじゃあ、またね。母さん、父さん。

 こんな()()でも諦めずに、頑張るからさ」

 

 リュックサックを手にしたファインドフィートに向けて、ざあざあと風が吹く。

 肌を刺す冷気に小さく体を震わせて、逃げるようにその場を後にした。

 

 

 

 

 


 

 

嘘つき。

 

 

 

 







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8話

空の上の上の上の、遥かな果ての蓋の底。

『王冠』の女神さまは、真っ白い空間にポツンと浮かぶ真っ白いドアをガンガンガンと蹴り上げていました。

ガンガンガン、ガンガンガン!

果敢に勇猛に勇敢に挑みますが……どうした事でしょう。

壊れも歪みも開きもしません。頑丈ですね。

 

"こらァ!『太陽』ォ!!早く開けなさい!早く!!何時まで居座ってるの!!!"

 

"も〜辞めてくださいよ〜。

おトイレの前で騒ぐだなんて、女神としてどうなんですか?"

 

"トイレに何時間も居座ってるアナタこそどうなの!?トイレの女神様にでもなるの!?"

 

『王冠』の女神さまが叫ぶ声音は必死も必至。

小刻みに震える脚と背筋が生命と尊厳の危機を訴えています。

だからこそとっても悲しいことですが、『王冠』の女神さまはトイレの女神さまになる必要があるのです。

けれどもドアは塞がれたままのきかん坊。かわいそうですね……。

 

"おのれ『海』!原因はあの子が送ってきた海鮮丼だわ!なんかこう、ヤバイ感じのを混ぜていたのよ!間違いないわ!"

 

"まぁまぁ、あの子も悪気があった訳じゃないんですよ〜!

ほらほら、笑顔で耐えましょう?"

 

"このっ、あんた!あんたが言うのかぁ!!"

 

"あっ、フィートちゃんかわいい〜!ブルボンちゃんに髪梳かしてもらってる〜!"

 

"あんたさては『手鏡』持ち込んでるわね!?

中継見ながら居座る気満々じゃないのふざけないで!!"

 

"そうともいいます〜"

 

"ああ!!ああああああ!!!

あああああああああああああッ!!!!!"

 

女神さまの戦いはこれからも続きます!トイレの座が空くその時まで!

がんばってくださいね、女神さま!

 

 


 

 

 

 いつものトレーナー室に、空っぽの気力で絞り出された喘鳴が染み渡る。

 ふかふかのソファーにうつ伏せで沈み込むのは、やはりヘロヘロに疲れ切ったファインドフィート。

 トレーニング後には毎回繰り返される光景である。

 もはや彼女の痴態にも慣れきり、一切動じなくなった(元々だが)無機質で黒い瞳の青年──葛城トレーナーは、なんて事もないように壁際のホワイトボードに歩み寄った。

 そこに侍るのは一枚の大きな紙──いつぞやのスケジュール表だ。

 

「倒れ込んだままでも良いが、視線だけは向けてくれ」

 

「了解です……」

 

 甲高い音と共にペンの蓋を引き抜き、現れた赤芯をさらりと踊らせた。

 12月の全てを記した表の後半、23マス目──12月23日。つまり今日だ。

 手慣れた様子で躊躇すること無くペンを向け、掠れた赤インクを載せる。

 

 ファインドフィートがぼうっと見守る中描かれたのは、今日(これまで)明日(このさき)を区切るための縦線。

 そのまま続けて23日の先に視線を滑らせ、ペン先もそれに追従させる。

 

「まず最初に食事内容とサプリメントの摂取配分についてだが──」

 

 語る口は滑らかに駆動している。

 けれども赤い芯は既に渇き切っていて、擦れる度に脳髄を突き刺す不快な音を掻き鳴らしていた。

 

(うわあ……)

 

 カサカサ、ギュッギィと。形容し難いような、精神に不快感を掻き立てる騒音だ。

 ピトリとしっかり耳を伏せ、目の前のガイコツを睨んで無言の抗議を突きつける。怜悧な目つきに違わず絶対零度の殺意だ。

 

 ……しかしそれは、申し訳程度にしか用をなさない無言の抗議であった。

 無言故に気付かれない。やはり非暴力、不服従では不足なのだ。

 本当ならば、すぐにでも関節技(動画で見た)を決めてやりたい所だったが──。

 

「………で、この部分の栄養管理についてだが──」

 

 ──だったの、だが。

 あまりにも真剣な眼で筆を持っているものだから、もうどうしようもない。

 彼女は彼女の為に作業している人物の邪魔をするほど落ちぶれてはいないのだ。

 そう。だから邪魔をしないのは体が動かないからではなく、矜持のためである。

 そのまま仕方なく体を横たえ、ペンの労働が終わるまでを待ち続けた。もちろん耳はしっかり伏せている。

 賢い。

 

「…………。

 ……さて、こんなところか。

 今日の所で一旦区切りとする」 

 

「はい。お疲れさまです、褒めてあげましょう」

 

「はいはい、光栄だよお嬢様」

 

「"はい"は一回で良いです」

 

「はいはい」

 

「おのれガイコツ……」

 

 ──彼の作業が終わるまで掛かったのは、おおよそ十分程度か。

 その間ファインドフィートはソファーの抱擁を甘受するばかりで、運動後故に高まった自らの体温の事をすっかり忘れていた。

 そのせいで真冬であるにも関わらず、じっとりと首元に滲む汗が彼女を苛む。

 今すぐにでもシャワーを浴びてスッキリしたいぐらいだ。

 

 けれど活力は底をつきかけ。精神力はそこそこ。

 動かせるのはゆらゆら揺れる尻尾ばかりで、他の筋骨も全て疲弊しきっていた。

 ……とはいえ、もう十分も休めば再び日常生活に戻れる程度には回復する筈だ。

 

 だから回復できたら一番にシャワーを浴びよう。

 鉄仮面の裏でそう固く決心し、不快感を伴って包み込んでくる汗の感覚を黙殺した。

 

「それで、もうすぐホープフルステークスの出走になるわけだ。

 12月28日までの5日間は休養日とし、気力を養ってもらうことにした。

 異論は?」

 

「ありません」

 

「よし、よし……。

 だが27日(前日)には現地入りするために、午前9時にこのトレーナー室に集合だ。

 寝坊するなよ」

 

「はい、了解です。

 ……ちなみにはちみーは?」

 

「移動用の自動車に詰め込んである」

 

「さすが」

 

 ピンと立つ尾が一つ、機嫌良く振られた。

 仄かに漂う甘い香りはミホノブルボンにおすすめされた柑橘系の香油によるもの。

 来る日も来る日も手入れを重ねられた尻尾は、日々輝きを強めている。

 むしろこれまで(入学前)が無頓着すぎただけとも言うが──それはそれ。

 一般小学生男子レベルの美意識しかない彼女にしてみれば、そんな細かなところまで気を遣える方がおかしいのだ。

 

 ──鉄仮面の裏側でそんなどうでもいい事を考えているとも知らない葛城トレーナーは、ブンブンと振るわれる尻尾から同意の意を読み取ったらしい。

 骨ばった指先でスケジュール表を小さく折り畳み、すぐ手元のカバンに押し込む。

 とはいえカバンくんは既に大量の資料で満杯に膨れ上がっていた。

 そんな限界ギリギリの容量を更に圧迫する新参者の登場に、黒革は鈍く軋む悲鳴を上げていた。

 

「分かっているだろうとは思うが、自主練もなしだ。

 もちろん最低限の有酸素運動はしてもらう。だが能力伸ばし用のモノではないと認識してくれ」

 

「……いいでしょう。

 強度、時間帯は?」

 

「明日の昼、昼食の1時間後に20分間。時速は20kmを維持するように。」

 

「…………なる、ほど?」

 

「あくまでも筋力の低下を防ぎ、血行の促進と疲労回復を目的としている……という訳だ。

 ……オーケー(この賢さGめ)?」

 

オーケー(賢いですが)

 

 気力を振り絞り、一瞬顔を振り上げ──もう一瞬の後にぽすんとクッションに落とされた。

 "おのれガイコツ"。小さく零した恨み節は余さずクッションの中に吸収されて、外部に飛び出すことは叶わない。

 尤も彼の言葉に悪意が混ざっていないことぐらいは分かっているので、ファインドフィートも本気で怒っている訳ではない。例えるなら飼い主にじゃれ着く仔犬だろうか。

 もちろん、彼女自身は決して認めないが。

 

「まぁいいでしょう。

 わたしの予定は把握しました。

 それで、明日のトレーナーのご予定をお聞きしたいのですが」

 

「俺の……?」

 

「あなた以外の誰がいるんですか。

 いいから明日の予定を教えて下さい」

 

「あー……。

 明日は()()()で地方の方まで出張予定だ。

 帰ってくるのは26日の夜になる」

 

「…………。

 ………なるほど」

 

 ピクリピクリと揺れる耳。

 何事かを思案しているのか、クッションに沈む彼女の口は塞がれたまま。

 すー、すーと気の抜ける呼吸音が僅かに漏れ出すのみである。

 

 ──それから数秒経って、ようやく一通りの思考整理を終えたらしい。

 軋みそうな頸椎を酷使し、またもう一度顔を持ち上げる。

 白い頭髪がつられて舞い上がり額に張り付く。

 めんどくさそうに指で払いのけて、身体を横向けにごろりと転がした。

 

「有マ記念って、26日でしたね」

 

「ああ、その通りだが……」

 

「…………少し、お頼みしたい事があります」

 

 ぼんやりと半開きの瞼。その向こうに何を見ているのか。

 自分の臀部で焦れたように揺れる白い尻尾にも気付かず、うなじに空気を流し入れるためにバサバサと襟元を弄っていた。

 よくよく顔を見れば、青い瞳はあちらこちらへとうろちょろと彷徨って落ち着きがない。

 

 ややあって、ついに意を決したらしい。

 両肘をソファーに突き立て支えとし、幾らかの疲労が取れた上体を持ち上げる。

 

「有マ記念って、ブルボン先輩とテイオーさんが出走するんですよ」

 

「ああ……そう言えばそうだったか。

 キミと仲がいい二人だな」

 

 はい、と大きく頷いた。

 ミホノブルボンには毎日毎日世話を焼かれ、トウカイテイオーとは昼食や夕食、あるいは放課後のお茶会を共にする仲である。

 そしてファインドフィートにとっての交友関係の8割……いや、9割を占める二人だ。

 彼女にしてみれば"友人"と言っても差支えのない関わり合い──の、はず。たぶん。

 そんな二人が栄えある格式高いレースに出走するのであれば、彼女がするべきは唯一つだろう。

 

「つまりですね……。

 ブルボン先輩とテイオーさんが出走する有マ記念。

 どうにかして現地観戦……もとい、応援しに行きたいと言えば、怒りますか?」

 

 ちなみに、通販サイト"Umazon"にて応援グッズは入手済みである。

 このまま無事に応援まで漕ぎ着けることが出来たなら、ハート型のうちわ二刀流で参戦する心積もりだ。

()()()()のカフェテリアで決心して以来温めに温めてきた草案。

 彼女等と友人として時を過ごそうとも、しかし同時に友人として知らないことが多すぎる──そう思い至った彼女が尽くした、精一杯の努力であった。

 

「……わたしが、わたしとあの人達が友達であると形容して良いのかも……よく分かりませんが」

 

 その癖こんな寸前になって"そういえば……"と葛城トレーナーに声をかけるのだから手に負えない。

 しかしファインドフィートも、自身の気性が良くないモノである事ぐらいは自覚していた。

 こんな有様で葛城トレーナーの目元の隈が薄まる日は来るのだろうか?

 

 ──そこまで客観的に考えを巡らせて、さしもの彼女も罪悪感を感じたらしい。

 耳を伏せて目を逸らし、少しだけ身体を縮こませてしまっていた。

 

「別に、構いやしない。

 構いやしないが……指定席のチケット(混雑回避券)は持っていないぞ。抽選に外れたからな」

 

「……実は隠し持っていたりとか」

 

「ない」

 

「コネとか」

 

「………ない」

 

「やはりガイコツですね……」

 

「行き当りばったりだからだろう?」

 

「正論はやめてください。それは効き過ぎます」

 

 なんて、生意気な言葉とは裏腹にたらりとへたれる白い耳。

 物悲しさと諦念による重みには耐えられなかったのだろう。

 表情はいつもと変わらず無表情でありながら、耳と尾はいつも通りに心情をダイレクトに反映していた。

 

 残念ながら指定席のチケットは抽選制だ。

 レースの格によっては当然倍率も高くなるし、入手できるか否かは運による。

 だから提案するなら早め早めが良かったのだが──。

 ──……年齢も合わせて考えてしまえば(去年までランドセルを背負っていた)、そういう事もある。

 葛城トレーナーは、そう受け止められる程度には大人だった。

 

(……出来れば意を汲んでやりたい、が)

 

 ふむ、と細い顎を擦り上げる。

 神経質な細指が重たい頭蓋を必死に支え、精密機械たる脳漿の駆動を果敢に助けた。

 

 有マ記念。

 秋シニア三冠のうちの一角。

 重賞レースの内、最高位であるGIの中でも最上級の格式を有する。

 これに挑むウマ娘はみな国内最高位のウマ娘ばかりという夢の舞台だ。

 観客として場に赴くのみでも、今後の為になる事は間違いない。

 

 ──だから、葛城トレーナーも最初は担当ウマ娘を連れて行こうとも考えていたのだ。

 チケットを入手できなかったから計画は頓挫していたのだが、まさか今になって再考慮をする必要が出てくるとは。

 動機は想定のものと違うが、齎される結果(場馴れ)は同じだろう。

 

(しかし苦しいか)

 

 葛城自身は出張。このコミュ障娘を一人で行かせるには少々不安もある。チケットもない。

 しかしだからといって自由席に放り込めば、そのまま人混みに酔って調子を崩す(やる気を下げる)──なんて事にもなりかねない。

 

 せめてもう少し言い出すのが早ければ。

 ここまで直前でなければもう少し()()()取れる手段はあったのだが──。

 

「………あっ」

 

「どうしました……?」

 

「いや、すまない。何でも無い」

 

「……?」

 

 ──今から取れる手段を思い出した。思い出してしまった。

 ファインドフィートを連れて行ける同業者。

()()へと繋がる電話番号は、今も携帯端末の中に残ったまま。

 

(……ただ、やたらとウマが合わないヤツだったな)

 

 その一点のみが葛城トレーナーの指を固く縛り上げてしまうのだ。

 

 相手の人柄に原因があるわけではない。

 むしろ優れた人格を持つ女だった。

 過去の確執が関係性の溝を作ったわけでもない。

 互いの関係は平坦なまま過去から今に繋がっている。

 

 だから、単純に相性が悪いだけだ。

 それもこちらからの一方通行の認識。

 そんな彼女に対して自分から連絡を取るのは、些かプライドが邪魔をする──

 

「あの、すみません。無茶を言いました……」

 

 ──本当に、無駄に邪魔をする。絞りカスの自尊心だって悲鳴を上げてしまう、が。

 ナーバスに垂れた尻尾を観てしまうと、こう、どうにも謎の罪悪感が湧いて仕方がない。

 

「………」

 

 ぼんやりと、右手をスーツの内ポケットに突っ込んだ。

 骨ばった指先がコツンと四角形の角にぶつかる。

 

 脳裏に思い浮かべてしまったのはあの若き天才(怜悧な乙女)

 昔からの腐れ縁で──

 

「……いや、今となっては関係ないな」

 

 ──僅かな逡巡を挟み、そして振り払った。

 勢い任せに抜き取った携帯端末に指を這わせ、液晶を弾く。

 

 何だかんだで情に厚いポンコツ娘にやる気を下げられてしまっては困るから、仕方がないこと。

 そうだ、合理的じゃないポンコツ娘のせいだ。

 前もって発言することの出来なかったポンコツ娘のせいなのだ。

 三回も繰り返し、胸の内で呟き囁く。

 ……そう、全てはポンコツ娘のせいなのだ。

 

 "何処かで知性をバカにされた気がします"と耳を横倒しにするファインドフィートからはそっと目を逸らす。

 そして意を決して電話帳を開けば……お目当ての名前はすぐに見つかった。

 態々赤字にしていたお陰でとても良く目立つ。

 色を変えたのは──さて、何故だったか。

 くだらない嫉妬心、みっともない劣等感。

 それらを表明するためのどうでもいい主張だったか。

 

 心象を拗らせた原因は、もはや当人さえも覚えていない。

 ……が、恐ろしくどうでもいい理由だった気がする。それこそファインドフィートの知性レベルと同じぐらいどうでもいい理由だった。

 

「……なあ、アテはあったぞ。ほぼ間違いなくキミを連れていける人物だ。

 ついでと言っては何だが、当日のボディガードも兼任してもらおう」

 

「ボディガード……?」

 

「人格は保証しよう」

 

 怪訝な声音で喉を鳴らすのも当然のこと。

 彼女がコミュ障であることは葛城トレーナーも承知の筈。

 

 しかし葛城トレーナーにとって忌々しいことながら──実に、腹立たしいことだが、目当ての人物が驚くほど信頼出来るのも事実なのだ。

 他のウマ娘を担当するトレーナーに頼むなどそう褒められた行いではないのだが、今回のケースで言えばおそらく問題ない。

 眉間に寄ったシワを心配そうな雰囲気で眺めるファインドフィートに"気にするな"と手を振り、指先で新築の渓谷を崩しにかかる。……残念ながら、浅く正す事さえ出来なかったが。

 

「少なくともウマ娘に対しては驚くほどに真摯で、信用に値する人物だ。

 ……俺との関係はあまり良くないが」

 

「わたしは問題ないのですか?

 葛城トレーナーの巻き添えで嫌われていたりだとか……」

 

「絶対に問題ないから安心してくれ」

 

 葛城トレーナーが放った言葉に虚飾の色は無い。

 彼女は"ならばそうなのだろう"と白い頭を振り払い、一つ頷く。

 もとより無茶を言っている自覚はある。無理を要求している自認があった。

 しかし、それでも尚願いを叶えようとしてくれたのだ。

 そんな彼に対して疑念を向けてしまうのは──なんとなく嫌だった。

 

「ありがとうございます」

 

「別に、キミが気にする事じゃない。

 ……さあ、早めに帰ったほうが良いんじゃないか?

 明日はクリスマスパーティーをするんだろう?」

 

「あっ、そうでした……」

 

「立てるか?」

 

 差し出された掌はペラッペラ。

 "いや、それは無理でしょう"と真顔で指摘し、普通にソファーから足をおろして力を込め始めた。

 当然の帰結として行き場をなくした右手は、虚しそうにブラブラ宙空で揺れるのみ。その姿からは"パワーG"の悲哀が漂っていた。

 

「……ええ、大丈夫そうです」

 

 グッと右足に力を込め、次いだ左足で体幹を支える。

 交互に繰り出す差し脚には疲労の重みが滲んでいるが、少なくとも私生活への影響は無さそうだった。

 

 しかし歩行に合わせて肌に張り付くジャージは些か以上に不快だ。

 ファスナーを軽く下ろしてタオルで拭ってみる……が、やはり焼け石に水感は否めない。

 ……仕方なく最低限の通気性のみを確保し、そのまま手早く帰宅準備を終わらせた。

 

「タオルは回収ボックスへ……っと」

 

 手荷物なんて学園指定のカバンぐらいのモノだ。

 小道具──トレーニングの補助グローブや腹圧ベルト、制汗剤、はちみーなどの道具類。これは全てトレーナー室に置いているのだから、尚更手軽で済む。

 洗浄が必要な物品なら業者のヒト達が回収してくれるし、彼女にしてみれば様々な手間が省けて万々歳である。

 

「では」

 

「……気をつけて帰れよ」

 

 そう言った葛城トレーナーは何故か背を向けていた。

 

「……?」

 

 首を傾げて彼の背中を見やれば、そこはかとなく煤けた雰囲気を感じ取れる。

 ……よく分からない。

 よく分からないが、これからどこぞかへ連絡する積もりであることは、携帯端末の様子からも見て取れた。

 邪魔をしないようにそそくさとドアへと足を歩め、小さく一礼。赤いジャージ姿があっという間に遠ざかっていく。

 

 その間のファインドフィートは教本(バイブル)、もとい"コミュ障脱却術~親しき仲にも礼儀あり編~"の教えを実践できたことにご満悦であった。

 だから葛城トレーナーの後ろ姿から漂う空気──煤けどころか、どんよりと重たく曇った空気には気付けなかったのだろう。

 

「……さて、と。行ったか」

 

 重苦しいため息を一つ。

 凝り固まった疲れを指に乗せて電話マークをタップし──すぐに響き始めた呼び出し音に紛れて、もう一つため息を重ねた。

 

「………」

 

 ──きっちりスリーコールを数えた頃、ブツリと繋がる電子音が鼓膜を刺す。

 開通してしまった電話口に向けて滲み出す淀んだ空気。

 重苦しい卑屈さを隠そうともせず、渇いた唇を舌で舐めた。

 これも全部、あのポンコツ娘のせい(ため)だ──と、自己暗示を繰り返しながら。

 

「もしもし、俺だ。葛城だ」

 

『   、    。

          ?』

 

「……ああ、そのファインドフィートについてだ。

 落ち着けよ、崎川トレーナー」

 

 

 

 ■

 

 

 

 明くる日。

 ファインドフィートが見やる窓の外では粉雪が降りしきり、トレセン学園の敷地も一面純白模様で染め上げられていた。

 それはまるで粉砂糖を視界の果てまで振りかけたようにも見えて、単純な脳みそは途端に甘いものを求めて暴れだす。

 しかし湧き出た欲求を押し殺すためにか、色とりどりの飾りを掴んだ指先に焦点を絞り合わせた。

 ショッピングモールで適当に購入したガーランド(紐と旗の壁飾り)。赤青黄色で星々を象ったウォールステッカー。

 それらの真新しい装飾品で壁と壁を繋いで見せて、満足気に小さく頷く。

 

 本来なら前日までに準備しておくべき事かもしれないが──まぁ、学生同士のホームパーティー。そう気にするべき事でも無いのだろうか。

 そもそも()()()()()ファインドフィートには良し悪しを量る天秤(判断基準)さえ無いのだが……これはこれでなんとなく楽しいので、とりあえず悪くはないだろうと認識していた。

 

「──よいしょ、っと。

 ね、準備はこんなところで良いかな?」

 

「はい。購入済み物品の全配置を確認しました。

 つまり、クリスマスパーティーの開催準備完了です」

 

 クリスマス仕様の部屋に集ったのはファインドフィート、ミホノブルボン、そしてトウカイテイオー。

 一人のゲストを迎えた寮の一室は、甘い香りと穏やかな空気で密に満たされていた。

 

 各々の作業を終えればすぐさま部屋の中枢に鎮座するコタツに脚を差し入れて、3対の耳を突き合わせる。

 エアコンが故障していた(ミホノブルボンがリモコンに触ってしまった)せいで冷え切った身体だが、淡い熱気のおかげですぐに優しくほぐされ、冷気も疲れもとろけていくようだった。

 もちろん、こたつ内部の発熱部分は保護カバーで隔離済みである。

 もしも仮にミホノブルボンのつま先が触れてしまえば──自責の念に駆られた彼女が"しょんぼり(やる気が下がった!)"してしまうのは想像に難くない。

 

「っと、そういう訳で~。

 このワガハイが音頭をとってしんぜよう~!」

 

「わー」

 

 トウカイテイオーの宣言に合わせて、パチパチパチと白い手を打ち鳴らす。

 ファインドフィートに追従したミホノブルボンも合わせてパチパチパチと手を振るった。

 

 二人のノリに気を良くしたらしいトウカイテイオーは徐にはちみーを突き上げて──。

 "あれ、クリスマスってこんな感じだっけ?"と今更ながらに疑念を湧き上がらせてしまう。

 ……が、そのあたりはどうでもいい事だ。

 頭脳明晰なるトウカイテイオーはすぐさま"まあいっか!"と自己完結を済ませて、不敵な笑みを満面に浮かべた。

 

「メリー・クリスマス!!」

 

「システム、オールグリーン。

 特殊弾頭可食クラッカー弾、発射します」

 

「わー」

 

 パンパンパン!と発射された手持ちクラッカー(崎川トレーナー作)。

 白と赤と青で構成されたトリコロールの紙吹雪が宙を舞い、パーティー会場(寮の自室)を一層華やかな雰囲気に飾り立てた。

 瞬きの間にカラフルな色彩に埋め尽くされた部屋。ベッドの上まで侵食した紙吹雪。

 それらを見たミホノブルボンが満足気に尻尾を振るう。ブンブンである。

 子供じみた──というより大型犬のような先輩だなぁ、と感想を抱くのはもう何度目になるのか。

 ファインドフィートが覚えている限り一度や二度どころではない。つまり"たくさん"である。

 

「……あっ、この紙吹雪ホントに食べれるんですね」

 

「ちょちょっ!フィート躊躇い無さすぎじゃない!?」

 

「テイオーさん。

 私は嘘をつかない事をこれまでの学園生活で実証しています。

 つまり、信用されているという事です」

 

「わぁ……ブルボンってばまた姉面してるよ……」

 

 ただ単に"なるほど食べれるのか。じゃあ食べよう"と思考放棄した結果というだけである。

 食欲旺盛なファインドフィートは先輩二人が騒いでいる様子を尻目に、本能に従って近くの皿へ指先を伸ばし始めていた。

 

「これは中々……」

 

 まず口の中に含んだのはチョコレートシート。

 もっきゅもっきゅと頬張り溶かしてじっくり味わい、そこからはちみーを流し込んでさらなる甘味で口腔を満たす。

 次いでこたつの上に広げられた皿の一つからクッキーを一枚──だと寂しかったので、やっぱり三枚ほど口に放り込み、もう一度もっしゃもっしゃと頬を膨らませた。

 

「あっ、これとかも美味しいよ!駅前のカフェの新作ショートケーキ!」

 

「むぐっ」

 

 ──そしてまた口の中が空になったかと思えば、間髪入れずに放り込まれるふわふわの生地。あまあまのクリーム。

 濃厚な牛乳の甘みが舌に絡みつき、しかしクドくなる寸前でいちごのさっぱりとした酸味が調和のもとに弾けた。

 職人が綿密な計算と緻密な配合を求めて手掛けたのだろう努力の結晶だ。

 パーティーが始まってすぐでありながらも、既にファインドフィートは極楽浄土の心地である。

 

「ほらほら、美味しいでしょ〜!

 マックイーンイチオシなんだよ、このショートケーキ!」

 

 今日このケーキを買いに行った際には、何故か店に入らず立ち往生していたのだが──いや、深くは考えまい。

 メジロマックイーンも()()()()()()()()()()()()()()らしいスイーツは驚くほど美味しかった。それでいいのだ。

 再度フォークをケーキに突き刺し切り分けて、今度はミホノブルボンに突き出した。

 そして、ややあって開かれた口に栄養補給。

 今のトウカイテイオーの気分は動物園の飼育員そのもの。担当エリアは──たぶん、柴犬ふれあいコーナーとか、そのあたりである。

 

「あっ、そういえばなんだけど!

 フィートは有マ記念見に来るの?」

 

「……んぐっ?」

 

「飲み込んでからでいいよ……」

 

 コクコクと頷きを返しながらひとしきり噛みほぐし、舌で味わう。

 そしてさらなる甘味(はちみー)で洗い流してほっと一息

 

 唇に残るクリームをぺろりと舐めとり、ようやくトウカイテイオーに顔を向ける。

 ミホノブルボンはニンジンキャンディーと格闘中のため音声ミュート。

 "今の彼女"と"ほねっこに齧りつく柴犬"はきっと、そっくりさんコンテストに出ても違和感が無いほど瓜二つだった。

 

「……まぁ、その……応援に行きますよ。

 折角ですから、ね」

 

「………!!

 フィートさん、私に対する声援コマンドの実行を推奨します。

 人々による応援の声はウマ娘のパフォーマンスを著しく向上させるモノと、過去のログが証明しています」

 

「ええ~!?

 フィートが応援するのはボクでしょ!?

 この無敵のテイオー様を応援せずして、一体誰を応援するっていうのさ!」

 

「私です」

 

 ふんすと大きく胸を張り、無言のままの宣戦布告。

 それに負けじとトウカイテイオーも目を吊り上げて開戦宣言。

 ファインドフィートはわれ関せずと言った態度ではちみーを啜り、"争いは同レベルの者同士でしか発生しない"と独りごちた。

 事実として、二人とも有マ記念に出走する優駿なのだから……そう、あながち間違いでもないかもしれない。

 何にせよ、だ。

 こうして争う様を見る限りでは、そのような"怪物"同士では無く野生動物が仲良くじゃれているようにしか見えなくて──なんとも不思議な限りであった。

 

「……応援していますよ、お二人共」

 

 ともあれ、ファインドフィートは自分の()()二人を応援したいだけ。

 だから彼女等に対する世間一般での呼び名なんてものは、全く一切関係のないことだ。

 

 じゅここここ。音を立ててはちみーを啜る。

 この場で飲むはちみーは、何故かいつもよりも一層美味しく感じるような──そんな気がした。

 

 

 

 

 




ファインドフィート
学年:中等部
所属寮:栗東寮

身長:163cm
体重:重くない(自己申告)
誕生日(修正前)()11月15日(11月22日)

・得意なこと
星座を見つけること
・苦手なこと
泳ぐこと


ファインドフィートのヒミツ①
実は、サメ映画が好き。


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9話

夢をかける。

 

 


 

 

 

「崎川トレーナーは……まだ、来ていないようですね」

 

 三女神の像が見守る広場の中央に駆け寄り、白く染まった息を吐き出す。

 ファインドフィートの芦毛とそう変わらない色彩は、閑散と静まり返った広場では際立って映えた。

 

 昨夜は雪が降っていたらしいけれど、彼女が見渡す限りでは殆どが単なる水として蒸発した後である。

 しかしトレセン学園に満ちる冷気そのものは相変わらずの様子で、彼女の肌を無遠慮に突き刺していた。

 

 寒さで震える指先を擦り合わせて紛らわせ、人影の到来を待つ。

 そうして体の動きを止めてしまえば、一層体の末端部分から凍えさせてくる冷気の波。

 ……今更ながらに、もう少し厚着でも良かったかもしれないなと後悔した。

 上半身すべてを包む茶色のコートが裏起毛に熱を溜めて、果敢に寒気を追い払おうと奮起しているが……幾らか劣勢なご様子であった。

 

「ふぅ……」

 

 もう一つ白い息を吐き出して、じわじわと大気に(ほど)けて溶けゆく様をそっと見送る。

 

 まだ日も顔を覗かせ始めたばかりの早朝とはいえ、朝練に赴くウマ娘が居てもおかしくは無さそうだが──今この瞬間は彼女が独り占めだ。

 

 音のない世界。誰も居ない景色の中、ぼんやりと空を見上げる。

 そして葛城トレーナーに前もって伝えられた名前と人相を脳裏で反芻し、薄暗い空に浮かんだ雲たちに空想の人物像を描いてみた。

 

「しまった」

 

 ……出来上がったのは何とも名状しがたいナニカ。

 "いやいや、さすがにこれは失礼でしょう"とぶんぶんかぶりを振って追い払い、改めて脳裏にころころと印象を転がしてみる。

 

「……思い付かないですね」

 

 流石に未知の人物を現実に落とし込んで捏ねくり上げるのは無理だった。

 霊長類を思い浮かべたはずなのに、出来上がったのは謎の海洋生物(うにょうにょ蠢く触手)

 さっくりと諦めて、空想上のモンスターを脳内のゴミ箱に放り込んで削除処理(デリート)してしまう。

 つまりファインドフィートの賢さでは、人物像の予測なぞ土台不可能な行いだったのだ。

 

「何にせよ、"怖い人"でなければ誰でも良いんです」

 

 初対面の人間とのコミュニケーションと言うだけでも怖いのに。

 もしもそこにナイフの様にキレた性格が加わってしまうとすれば……ああ、なんと恐ろしい。

 だから優しい人なら誰でもいい。正直に言えば、そうでなければ逃げ出してしまうかもしれない。

 

 そして願を掛けるようにもうひとつ、もうふたつ。

 大きく吐き出した白い息を空気に混ぜ合わせ、視界をホワイトフィルターで飾り立てる。

 そうやって無邪気に遊んでいれば、薄ぼんやりと白化粧を施す女神様の像も、うっすらと笑っているようにも見えた。

 

「……ん?」

 

 ──彼女が広場を訪れて4分、あるいは5分程度経った頃か。

 

 ウマ娘の優れた聴覚が、石畳を軽快に叩く靴音を捉えた。

 カツ、カツ、カツと一定に纏まったリズムで空虚に響く。

 この足音は意外と近くから鳴っているらしい。ちらりと周囲を見渡してみれば、音の主は驚く程すぐに見つかった。

 

「おはよう。

 ごめんなさい、待たせちゃったかな?」

 

「あっ……い、いえ。

 ついさっき到着したばかりです」

 

「そう?」

 

 柔らかく鼓膜を撫でるソプラノボイス。

 その発生源たる喉の持ち主は、黒髪をうなじで結わえる涼やかな風貌の女性だった。

 黒いオーバーコート姿で、その下には仕立てのいいスーツ。

 右手には大きなかばん。胸元に燦然と輝くトレーナーバッジ。

 "いかにも"な彼女の風体は、前もって葛城トレーナーから聞き取っていた通りのそれ。

 俗に言うなら"仕事がデキる女"。彼女はそう称されるべき風格を放っていた。

 

 ……そして。

 彼女みたいなヒトは、ファインドフィートが初めて出会うタイプの人物でもある。

 

「では改めまして。

 私は崎川。崎川メグミと言います。

 よろしくね、ファインドフィートちゃん」

 

「……わたしはファインドフィート、です。

 本日はお世話になります」

 

「良いの良いの、気にしないで。

 ほら、ブルボンもお世話になってるし。

 あの子と仲良くしてくれてありがとね」

 

「いえ……。

 逆に、わたしのほうがお世話になっているというか、お世話されているというか……」

 

 ファインドフィートの何処かよそよそしい言葉にも気を悪くした様子はない。むしろどこか微笑ましそうに目尻を緩めている。

 "これは一体どう対応したら良いのですか?"と心の内で戸惑いのままに叫んだ。

 そうすると、何処からか這い出たらしき心の中のトウカイテイオーが鮮やかに答えを返す。

 

 "まあ、話したら良いんじゃないかな~?"

 ──()()を出来ないからコミュ障だというのに。

 コミュ強者たるトウカイテイオーには理解できない事かもしれないが、とんでもなく大きいハードルなのだ。初対面の他者と話すということは。

 

 尻尾がたらりと垂れ下がり、殆ど股の内側にまで入りかけていた。

 かと思えば奮起したように跳ね上がり──また、気勢を失いだらりと脱力。

 

「ふふっ」

 

 崎川トレーナーは、それをじっと見守っていた。

 くすくすと喉を鳴らす姿に嫌味はないけれど、なんとなく恥ずかしくもなる。

 

「…………」

 

 ……とはいえ、だからどうといったアクションを取れるわけでもない。

 ひとしきり笑った崎川トレーナーにじっとりと視線を送ってやるぐらいしかできないのだ。

 瞬きもせず、青い虹彩を輝かせるばかりの彼女の姿に、何故かまたもう一度小さく吹き出して──薄っすら滲んだ涙を指で弾き飛ばした。

 

「ご、ごめんなさいね。

 こう、思っていた通りの(犬みたいな)子だったから……」

 

「はぁ……」

 

「んんっ!

 よし!それじゃあ行きましょうか!」

 

 大きく息を吐きだした。

 白い霞の中に"なんですかキャリアウーマン。最初の緊張を返して欲しい"と八つ当たりを隠し混ぜたのはきっと、気付かれなかったのだろう。

 先導するべく、背を向け歩き出した崎川トレーナーの後ろ姿を追いかける。

 ……いつの間にか全身を縛りつけていた緊張は(ほぐ)れて消え去っていた。

 

「近くに私の車を停めてるの。

 ゴールド免許の運転スキルを見せてあげるわ」

 

 "ま、ゴールドっていうのも殆ど運転していないからってだけなんだけど"と言葉が続く。

 ファインドフィートとしては安全運転でお願いしますとしか言えないのだが──まあ、良いだろう。

 事故に遭うなんて不運、そうそう出会うわけでもない(そもそも今更の事だし)

 

「さあ、行きましょう?」

 

「……はい」

 

 崎川トレーナーの背中で軽やかな風と戯れる黒い髪。

 艶のある毛先から漂う匂いは嗅ぎ覚えのある柑橘系のものだ。

 不思議と安心できる、いい香りだった。

 

 

 ◆

 

 

 車を降りて、駐車場に預けて歩いて幾分か。

 迷いなく足を進める崎川トレーナーの背を追いかけて、ヒト通りで栄えた道路を踏みしめる。

 

 ショッピングモール、喫茶店、本屋。それによくわからない店も沢山ある。

 ここ最近では──学園のすぐ近くと、生まれ育った故郷、そして前回の中山競バ場(芙蓉ステークス)ぐらいでしか行動したことがない。

 そんなファインドフィートにとっては、初めて見るほどの人混みだった。

 

 右を見ても左を見ても眼界を埋め尽くすヒト、ヒト、そして数多のウマ娘達。

 有マ記念が始まる競バ場のすぐ近くだから相応に観客の数も多いのだろう。

 まだ競バ場に辿り着けてすらいないのに、早くも人混みに酔ってしまいそうだった。

 

「──こ、これが有マ記念の……」

 

「そ、中山競バ場。

 今日はすごい熱気でしょ?」

 

「はい……」

 

「今回の出走ウマ娘のネームバリューもあるかな。

 トウカイテイオー、ミホノブルボン……ライスシャワーやメジロマックイーン。ビワハヤヒデ。

 まるで夢のような面子(ドリームマッチ)だわ」

 

 くらりとふらつきそうになる体を自慢の精神力でねじ伏せて、波にさらわれないように人の海を必死に泳ぐ。

 しかし泳ぎは苦手なファインドフィート。

 右に左に揺れる振動に翻弄される。どうにか抗おうにも、あっという間に主軸を失い流され始める──

 

 ──直前で、崎川トレーナーに回収された。

 なんと、彼女はあの人混みの中にあって後ろを気にしていたらしい。それこそウマ娘並みに広い視野である。

 ハグレないように掴まれた右手を引っ張られながら、"トレーナーはすごいんだなぁ"と小さく感動の意を込め黒いスーツの彼女を見遣った。やはり中央トレセン学園所属のトレーナーは化け物揃いという事か。

 

 ……よくよく思い返せば自分のトレーナーもある意味化け物じみていた気もする。

 なんと、つまりこれは純然たる事実かもしれない──と、密かに納得した。無論、これは誤解である。たぶん。

 

「ほんとうに、ほんとうに……人混みが、すごいですね」

 

 一旦道路脇に身を寄せた。

 期待の活気で沸く人々とは対照的で、小さく肩を落とす姿は哀愁さえ漂っていた。

 自分に()()()()()耐性が無い事なぞ分かりきってはいたのだが、こうも容易くアテられるようでは悲しくなっても来る。

 

 ……なんて、落ち込むファインドフィートの背中をポンポンと軽く叩いて、優しく慰めてくれる崎川トレーナー。

 彼女の存在は──有り難いけれど、そこはかとなく惨めな気持ちにもなってしまった。

 

「さあ、気を取り直してしっかり着いてきてね」

 

「はい」

 

「ハグレないようにね?」

 

 再び歩き出した背中を、距離を離されないよう駈歩(かけあし)で追いかける。

 人の波の隙間をくぐり抜けて、すり抜けて。

 前から迫る男の背中に"すみません"と謝罪の言葉を投げかけながら押し退けて、右から突き出すウマ娘の肩を華麗に躱す。

 時折そんな彼女へと振り返っては足を止め、待ってくれている崎川トレーナー目掛けて足を進めた。

 

「あの、これは何処にむかっているのですか?」

 

「……えっ?ごめんなさい、よく聞こえないわ」

 

「あのっ、これは何処にむかって歩いてるんですかっ」

 

「ああ、まずはパドックよ。

 ほら、お披露目がもうすぐ始まっちゃうから急がないと」

 

「なるほど……!」

 

「早く入場してしまいましょう」

 

 どうにか崎川トレーナーの後ろにピッタリと付け、競バ場の構内へ足を踏み入れる。

 そしていよいよ友人達の姿を求めて進撃を開始するのだが──。

 

「……なんと」

 

 ──いくらファインドフィートの背が高いとは言え、それは女性平均比で見ればのこと。

 世の中の半分は男性であるからして、この有マ記念に訪れた観客の割合もそれに準ずる数字となるだろう。

 ……つまり何が言いたいのかと言えば、彼女は定期的に埋もれてしまうという事実だ。

 

 人波を越え、人波を泳ぎ、崎川トレーナーの隣──観覧場の最前列に辿り着いた頃には、自慢の芦毛がボサボサに乱れていた。

 それだけこのレースに対する人々の熱中具合もかなり狂騒しているのかもしれない。

 が、その余波をくらう側としてみれば堪ったものではない。

 

「まったく……」

 

 懐から取り出した青い櫛で毛並みを軽く整えて、未だ幕が下りたままの舞台に視線を向ける。

 左腕に鎮座するデジタル時計曰く、主役達の登壇まで残り6分程度。

 はちみー1カップを飲みきるまでの時間と同じぐらいだ。

 もしもはちみーがこの場にあれば、"のんびりじゅここ"と甘味を啜りながら時を待つのが良かったのだろう。

 

 ……しかし残念ながら、はちみーがあるべき右手は虚空を掴むばかり。

 故に仕方なく、代替品の飴玉を口の中に放り込む。はちみつ味だ。

 

「……崎川トレーナーも食べます?」

 

「ありがとう。頂くわ」

 

「どうぞ」

 

 ──二人して、飴玉を口に含みカラリと弄ぶ。

 

 口の中に物がはいっているから何を語るでもなく、ぼんやりと晴れの舞台を待ちぼうけた。

 ……ひょっとすると、崎川トレーナーも緊張していたのかもしれない。

 なにせ、己と二輪三脚で歩んできた愛バの研鑽の集大成──その三年間の結実を世に刻むのがこのレース。

 きっと当然の情動だ。

 ファインドフィートには未だ遠く、まるで理解の及ばない境地でしかないが……そういったモノもあるのだ。

 

「……始まり、ね」

 

 崎川トレーナーからこぼれ落ちた言葉を火蓋とし、ついにパドックの幕が上がる。

 そして現れたるは麗しの出走バ達。

 

「……」

 

 ──代わる代わるに姿を晒し、各々の研鑽の成果を衆目に語る。

 

 不調かもしれない。好調かもしれない。

 中には、明らかに能力が追いついていない娘もいるかもしれない。

 しかしだからといって、負けるつもりでいるウマ娘は誰も居なかった。

 皆、自分と、自分の背を押してくれた全ての勝利を信じているのだろう。

 

「……あ、ブルボン先輩」

 

「今日も絶好調ね」

 

 彼女が姿を現すと同時に響いた観客達の感嘆のため息。それは、きっと皆が同じ結論に至ったが故だろう。

 肌にぴっちりと張り付いた白いスーツと、要所で浮遊し輝く、青と赤の謎の発光機械装甲。

 その内側に鎮座する肉体は凄まじい精度で洗練されており、"ミホノブルボン"のトモ(太腿)に秘められた圧倒的なパワーをひと目で感じ取れた。

 

「今日も()()()なミホノブルボン……」

 

「ああ、()()()な」

 

「やはりな……」

 

「なあ、あの浮いてる機械は何なんだ?」

 

「かっこいいよな」

 

「え、そこはどうでも良くないか?」

 

「どうでも良くないが?大事だが?」

 

「愚か者めが、恥を知れ」

 

 隣の観客達の視線もミホノブルボンに釘付けだ。

 とある一人の青年はどうでも良いと言っていたが、ファインドフィートはその機械パーツにも心を惹かれた。

 あの勝負服の機械パーツはなぜ浮いているのか、どんな技術で作られたものなのか。それは全くの未知である(企業秘密)

 だがしかし、だからこそ心を擽るものだ。

 さながらロボットアニメに目を輝かせる子供の如く、彼女もまた"かっこいい"というロマンに胸を高鳴らせた。

 

「ほら、ブルボンが見てるよ」

 

「あ……」

 

 ……確かに、深海の青色はこちらを捉えていた。

 咄嗟に手を振ってみれば大きく頷いて、ファインドフィートは初めて見るお決まりポーズ(くるりと一回転)

 

 目と目を合わせて、小さく"がんばれ"と呟いた。

 ウマ娘の聴力とは言え届くはずもない。ないが──しかし物理現象ではない、その心なら届く。

 

「……戦意高揚、気分上々って感じ」

 

「そうなんですか?」

 

「ええ。

 ファインドフィートちゃんが応援に来てくれたの、余程嬉しかったのね」

 

「……そう、なんですか」

 

 入れ替わりの合図と共にミホノブルボンの背が遠ざかる。

 その背中には、溢れんばかりの闘志が滾っているようにも見えて──正直に言えば、大いに驚いた。

 だってそんな姿はファインドフィートが知らないモノだった。

 彼女にとってのミホノブルボンは世話焼きで、心優しく、けれど大型犬と同等に無邪気で、そして無表情。

 ……こんな熱で、こんな圧を宿せる人物だとはまるで知らなかったのだ。

 

 ヒトにもウマ娘も多様な側面を持つことなんて当然の事なのに、しかしファインドフィートは知ろうともしていなかったのだ。

 一度自覚してしまえば──チクリと喉の奥に魚の骨が刺さったような、酷くもどかしい気持ちにもなってしまった。自業自得なのに。

 

「わたし、知らないことばかりだ……」

 

 ──そんな彼女の独白も置き去りに、栄えある優駿達のお披露目は続く。

 気品のある黒い勝負服を纏った芦毛のウマ娘(メジロマックイーン)

 貞淑な黒いドレスと青いバラが特徴的な黒鹿毛のウマ娘(ライスシャワー)

 

 ……そして彼女等に続けて姿を見せたのは、果てしない蒼穹を連想させる青と白の勝負服。

 それを自慢気に見せびらかすのは鹿毛のウマ娘──トウカイテイオー。

 空に向けて突き上げた一本指は"これから一着を取るぞ!"という意思表明か。

 何にせよ"彼女ならやってくれるんじゃあないか"と無根拠でも信じたくなってしまうのだから、実に不思議なものである。

 圧倒的な自信を感じ取れてしまうからか。あるいは溢れ出るカリスマ故か。

 

「……今回のレース、とんでもないことになりそうね……」

 

「………」

 

 固唾を飲み込む喉が震えた。

 誰を見ても、誰が勝ってもおかしくないとしか思えない。

 なにせ彼女等は皆、今のファインドフィートにとっては雲の上を疾走している怪物ばかり。

 だからそもそも品評しようとすること自体に無理があるのでは、と非生産的な回答に辿り着いてしまう。

 トウカイテイオーとミホノブルボン、どちらが勝つのか?ではない。

 誰が勝つのか?

 誰が笑って終われるのか?

 ファインドフィートには、まるで分からなかった。

 

「勝利の栄光は、パイを分け合うようにはいかないのよね。

 誰が勝って笑っても、その誰か以外が負けて泣いても、それが全て」

 

「……わたしが応援している二人のどちらかは、決して夢をつかめない。

 あるいは、どちらもが」

 

「ええ。

 パイは、たった一人の勝者が総取り。

 かと言って、お手々を繋いで全員同着なんて……。

 

 ……いえ、あなた(ウマ娘)相手には釈迦に説法か」

 

 ──ここでどうこう語ってたって、彼女に出来るのは親しい二人への応援のみである。

 走るのは彼女達。

 死力を振り絞るのは彼女達なのだ。

 当人以外にはレースへ手出しできることは何もない。

 

 ならばせめて、"悔いが残りませんように"、"全力を出し切れますように"。

 有象無象の観客として、一人の後輩として、そして二人の友人として真摯に祈る。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ──パドックを終えて幾ばくかの分針を刻んだ後。

 

 自由席へと立ち位置を変え、他の観客らと同様に出走ウマ娘のゲート入りを待つ。

 小さな手に持つピンク色でハート型のうちわ、そのそれぞれに記された名前は「ミホノブルボン」と「トウカイテイオー」。

 一対のうちわをギュッと握り締めて、未だ主役の揃わないターフに視野を拡げた。

 あまり詳しい応援の作法を知るわけではないのだが──きっと、こういうものは気持ちである。

 気持ちを伝えられるのなら目的には適うはずだ。それに、そもそも大きな声を出せる質でも無いのだし、いい具合にブンブン振り回してしまおう。

 果敢に肩を怒らせる姿からはそんな思惑が漏れ出ていた。

 

「……そんなに力まなくても良いのよ」

 

「す、すみません……」

 

「ほらほら、リラックスリラックス」

 

 微笑みと共に手渡されたのは、ホカホカの缶コーヒー。

 ラベルにはしっかり"砂糖入り"と明記されている。

 流石の若き天才だ。ウマ娘に対する理解度は抜群であった。

 

 流れる所作でプルタブを開き、喉の奥に甘みとほのかな苦味を流し込み、そして小さく息を吐きだした。

 ……けれども残念ながら、なぜかファインドフィートは緊張したまま。

 胸の奥で疼くような、腹の底がふわふわと落ち着かないような──。

 

 ……そもそも、何故観客者にしか過ぎない自分が緊張しているのだろうか。

 

 ぼんやり自問する。

 しかしそれは、他の誰でもない彼女自身にも分かっていない事。

 ただ、いつかの日はテレビ越しでしか見ることの叶わなかった舞台にいるのだと考えると──途端に震えが走ってしまう。

『姉』と二人並んで見つめた世界に立っているのだ。

 それが観客としての参列であろうとも、深い情動が胸を衝いて仕方がない。

 

『年末の中山で争われる夢のグランプリ、有マ記念!

 あなたの夢、私の夢は叶うのか!』

 

「ゲートインが始まったみたいね……」

 

「…………」

 

 カメラを通して見た世界ならば──。

 まず0と1のデジタル信号として分解し、遠隔地へと伝達され、単なる映像として解釈を繰り返して編み返して像を結ぶ。

 つまり、一種のフィルターを通したものと言える。

 そのフィルターは競技の熱を遮断し、現実感を濾過し、臨場の感覚を失わせるモノ。

 当然の事ではあるが、技術の発展によって真に迫れども成り代わることは未だ不可能。

 

 しかしそんな()が存在しない世界は、驚くほどに鮮やかだった。

 場を満たす熱気。

 芝を揺らす涼風。

 空を震わす声援。

 そのいずれもが深い衝撃となって、ファインドフィートの総身を包み込む。

 

「……すごいなぁ」

 

『三番人気はこの娘です、メジロマックイーン。数多の苦難を跳ね除けた名優!』

 

『二番人気はミホノブルボン、二冠ウマ娘! 圧倒的かつ精密な逃げを見たいところ』

 

『前年度有マ記念の覇者。今日、二連覇という栄えある夢を掴めるのか!

 不撓不屈のトウカイテイオー、一番人気です!』

 

『気合十分!熱意がここまで漂ってきます』

 

『各ウマ娘、ゲートに入って今体勢揃いました』

 

 水を打ったようにざわめきが引いていく。

 それは大きな嵐が到来する寸前の如くに静寂で、どこまでも神聖な圧を有していた。

 周囲が固唾を飲む様に合わせて彼女もまた、じっと息を潜めて目を凝らす。

 耳も痛む無音の中で過ぎ去るほんの数十秒、あるいは数秒。もしくは唯の一瞬か。

 

『ゲートが開きました!』

 

 ──弾けて、流れるハーフバウンド(スタートダッシュ)

 瞬間的な加速に支えられ、一斉に飛び出したバ群。

 彼女等は一様に轟々と燃え盛る気炎を引き連れている。

 その小さな背には不釣り合いなほど大きい人々の夢を──そして己達の夢をも背負い、風を切って駆け出した。

 

 

 

 


 

 

夢を賭ける。

 

双子で共有した、憧れの原風景に。

いつか二人で――。

 

 

 

 



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10話

テレビの前に二人で並んで、憧れのレース会場へと意識を傾ける。

『姉』は声援と合わせて体を揺らし、左耳に居座るカーネリアン(赤い石)の飾りを輝かせていた。

 

――カーネリアン。紅玉髄。赤い天然石。

後には脆くも砕け、形を変えて『弟』に引き継がれる耳飾り。

 

石言葉は"勇気"。

そしてカーネリアン(carnelian)の語源は"肉"。

あるいは、"心臓"であるともされる。

 

 


 

 

 ゲートを置き去りに駆け出して回転襲歩(初速確保)へ。

 右へ左へ視線を突き刺して、各々の最適なライン(位置取り)を見出し呼気を整え、滑らかに交叉襲歩(通常走法)へ移行する。

 冷気漂う空気に負けず、少女等は己の小さな躯体で以て空間に航路をこじ開けた。

 

『まずハナを切ったのはメジロパーマー!

 しかしミホノブルボン追従します!』

 

『先頭争いが始まりましたね。

 どちらが先取となるのか注目です』

 

『最後方にはアベックドリーム、巻き返しに期待しましょう』

 

 16対の脚が地を揺らし、蹄鉄が芝を踏み潰して轍を作る。

 観客席に立つファインドフィートからは未だ遠くを走る彼女達は、しかし実体とはかけ離れて大きな身体に見えた。

 その波濤の如くに溢れ出る気迫が故か。あるいは、彼女自身を満たす緊張がそう見せているだけの幻に過ぎないのか。

 真実の沙汰はどうだろうと、音の波は紛れもない多大なる衝撃となって観客席までに打ち寄せた。

 

「ブルボンの調整は可能な限りを尽くしたつもりだけれど……」

 

「けれど、不安ですか?」

 

「もちろん」

 

 ハナをメジロパーマーに譲り、その後ろにピッタリ付けたミホノブルボン。

 規則正しく、規律に従い駆動する体内時計に意識を寄せ──一秒ごとを過不足無くカウントを重ねる。

 そうして適切な速度と稼働率を測り、常に己の走行をシミュレートし続けて──現実と仮想の誤差修正を繰り返しながら脚を回転させていた。

 

 崎川トレーナーはそんな彼女へと黒い瞳を差し向けて、ゆるやかに白い息を吐き出す。

 

「レースに"絶対"は無いもの。

 私は私に出来る全てを──最善を注ぎ込んだわ。

 今日のレースに向けてトレーニングメニューを組み上げて、日々変化する体調や新陳代謝までも考慮して指導内容を修正した」

 

「…………」

 

「でも、完璧じゃないのよね。

 最善は最善。完璧には手が届かないから、最善止まりなのよ」

 

『第4コーナー!

 ハナは変わらずメジロパーマー!すぐに続くミホノブルボン!

 三番手はこの娘、トウカイテイオー!』

 

『全体的にペースが早いですね。消耗具合が心配です』

 

 実況と解説の声がマイクに乗って響き渡る。

 観客の間をすり抜けて情報を伝達し、生々しい臨場感を伴ってレースの現状を伝え続けた。

 

「やっぱり今回のレースはミホノブルボンじゃないか?

 クラシック二冠だぞ、クラシック二冠」

 

「いやいや、それならライスシャワーじゃないのか?

 彼女にはそのミホノブルボンを下したという実績がある」

 

「トウカイテイオーが一番だろ。

 前回の優勝者だし……あの時よりも更に速くなってるって聞いたぞ」

 

「いやいやいや、ビワハヤヒデもすげーだろ。

 見ろよあの()()()身体。天性のモンだぞ、ありゃ」

 

 ──なるほど、確かに。体格というのは有利不利にダイレクトに影響する要素の一つですからね。

 

 周囲の男性観客の言葉に耳を揺らし、納得の意を込め頷いた。

 ファインドフィートも()()()()()恵まれた方ではあるからこそ言えるのだが──やはり、目に見えて分かりやすいフィジカルの強弱は存在する。

 骨格が大きければ筋肉の積載量だって増えるし、その積まれた筋繊維も物理的に"長い"からか、少量でも大きな力を出力できるのだ。

 

 ……だから"勝てる"、だから"強い"というのはいくら何でも早計に過ぎるが。

 

「体格……体格ね。

 確かに重要なファクターの一つではあるけれど、それだけで勝敗を判断するのは無理があるでしょうに……」

 

「……実際、小柄であっても歴史に名を残したウマ娘はいますからね」

 

「ええ。

 タマモクロスがいい例ね」

 

 "白い稲妻"。

 オグリキャップとしのぎを削りあったという怪物の一角だ。

 そして、ファインドフィートでさえも知っているビッグネームである。

 彼女と同じ"芦毛"のウマ娘だからと興味を惹かれ、何となく過去の記録を調べたというのが事の顛末だが──タマモクロスの功績は素晴らしくも恐ろしいと言うべきモノであった。

 

 さらに言えば、タマモクロスの記録は証明でもある。

 ウマ娘の"体格"や"定番の常識"が絶対のものでは無いという新たな事実の。

 

『さあメジロパーマー快調に飛ばしていきます。

 そのすぐ後方ミホノブルボン、安定した走り』

 

『やや縦長の陣形ですね。これはどうでしょう?』

 

 そんなそれぞれの考察を他所に、レースはつつがなく進行していく。

 ファインドフィート達の立ち位置からして、今の序盤と一周した後の最終直線で最も顔が見えやすいぐらいの構造だ。

 コーナーを曲がり、徐々に遠ざかっていく彼女等の背中。

 だがウマ娘の身体能力からして……もうほんの数分もあれば再び目の前を通過するだろう。

 小さくパタパタと両手のうちわを振りながらディスプレイに視線を移す。

 モニター越しであれども、ミホノブルボンとトウカイテイオーの顔がよく見えた。

 現状彼女等はそれなりに遠くを走っている訳ではあるが──文明の利器とは良いもので、表情程度は容易く汲み取れるのだ。

 

「……ブルボン先輩は、普段通りに見えますね。

 テイオーさんは……何というか、すごい真剣です」

 

「あら、そう見える?」

 

「違うんですか……?」

 

「うーん。

 私には……二人共笑っているように見えるわ。

 とっても楽しそうにね」

 

「……そんな風に見えるんですか」

 

「ええ。

 私、()()()()()()()()()

 

「なるほど……?」

 

 チラリと崎川トレーナーの横顔を眺めつつ、刻一刻と変化するレースの様相を見つめた。

 響くマイクの声は相も変わらず熱い気合と共に状況を細かく解体し、観客へ向けて提供している。

 それに呼応するかのように、それぞれが愛するウマ娘への応援の声が雨のようにターフへと降り掛かった。

 

「………」

 

 ……"暑苦しいな"、と小さく口の中で呻きを零した。

 右を見ても謎のお兄さんが熱気を撒き散らしているし、左を見ても──……崎川トレーナーが壁になってくれているが、その奥で()()()()な雰囲気の女子高生が口を大きく震わせているのだ。

 鳴り止まない声、声、声。

 周囲一帯から発せられる熱気は、凄まじいの一言に尽きる。

 それにアテられてクラクラと揺れる頭を必死に抑えつつ、うちわを振って応援の意を振りかざした。

 

『まずは一周目。正面スタンド前まで到着しました。

 先頭は変わらずメジロパーマー。その後ろミホノブルボン。

 三番手はこの娘、アライホウガン。少し離れてトウカイテイオー!』

 

『余裕の表情ですね。バ(リキ)が違う所を見せてくれそうです』

 

『トウカイテイオーの真後ろ、メジロマックイーン。内から見るようにライスシャワー。

 少し離れてメジロライアン』

 

『メジロ家大集結ですね。

 名家の血統と、これまでの戦績に裏打ちされたスタミナも見どころです』

 

 蹄鉄の音に合わせて尾を揺らし、徐々に近付き大きくなっていく友人たちの姿に焦点を合わせる。

 ミホノブルボンの表情は相変わらず無機質で、トウカイテイオーは真剣な顔で前を見つめていた。

 やはり崎川トレーナーが言っていたような──"楽しそうな顔"には見えない。ただ真剣な形相を浮かべているばかりだ。

 

 ……口の中が寂しくなって、もう一つ取り出した飴玉をカラリと含む。

 今回は"はちみつ味"が無かったので代打の"ザクロ味"だ。

 コロコロと口の中で転がすが──あまり、好みの味ではない。

 "安売りだったから"で何となく通販で注文したのは、もしかすると間違いだったかもしれないと今更思い至った。

 

「沢山あるのでお一つどうぞ」

 

「ありがとう。

 ……お、ザクロ味かぁ、珍しいわね。

 私、これ食べたこと無いのよ」

 

「美味しいですよ」

 

 嘘だ。

 ファインドフィートからしてみれば"美味しい"とは口が裂けても言えない代物である。

 ひょっとするとそんな内心もバレてしまうのかもしれない……と、少しだけドキドキしていた。

 

 ──"だからどうした"、という話ではあるけれど。

 

 小さなため息の中に一杯の後悔とザクロの甘味を混ぜ込んで、冷たい空気に溶かしてみる。

 出来上がった白い霞のフィルターを通してみても、やはりミホノブルボンの表情に変化をつけることは叶わなかった。

 

「もうすぐ中盤か……」

 

「ああ。位置取りを上げ始めた娘も何人かいるな」

 

「ライスシャワー!頑張れェ!!

 お前はできる子!強い子なんだ!」

 

 ……ライスシャワーへ向けられた応援の声がすぐ横から響いてきて、非常に驚いたのは内緒である。

 若干毛並みが逆立った尻尾を手櫛で整えつつ、ザクロの飴玉を噛み砕く。

 やはり、あまり美味しく(あまく)はなかった。

 

『第二コーナーを抜けて向こう正面に入った!

 先頭はメジロパーマー、レースは淀みなく進んでいます。

 今残り1000メートルを通過しました!』

 

 彼女等の横顔を眺めるには丁度いい角度だ。

 些か距離関係は遠すぎるが──ウマ娘の身体機能のゴリ押しでなんとかなる。

 少なくとも、ファインドフィートの目はとても良かった。

 

「……やっぱり、楽しそうには見えないです」

 

「まあまあ、結論を焦らない。

 表情は浮かぶだけじゃなくて、滲むものでもあるのよ」

 

「滲む……?」

 

「そうよ。

 仮面の裏側から染み出すのよ。当人の心情とか、性根とかも……ね」

 

「はぁ……」

 

 ……やはり、ファインドフィートにはよく分からない事だった。

 そんな意が滲む曖昧な返事を返しても崎川トレーナーは気にした風でもない。

 ただ、かばんから取り出した缶コーヒーを指先で弄んでいた。プルタブを引っ張ろうと藻掻く姿というだけでもある。

 寒さで(かじか)んだ故に力が籠らない──という事実は確かに存在しているが……それにしても、崎川トレーナーの筋力は驚くほどに低かった。

 

 "うちのトレーナーによく似てますね"と胸中のみに感想を零す。

 姿形は似ても似つかない。

 ……が、立ち振舞を見ていれば、どことなく似通った面影を見つけてしまうのだ。

 

「……開けますよ」

 

「あ、あら……ごめんなさいね。

 普段はこんなじゃないんだけど」

 

「ブルボン先輩がいますからね」

 

「……!?」

 

「冗談ですよ……っと。

 はい、どうぞ」

 

「ありがとう……」

 

 手渡された缶コーヒーにさっさと口をつけ、気恥ずかしさごと飲み込むように黒い水を取り込んでいた。

 崎川トレーナーという女性は完全無欠なようにも見えて──しかし、その性根は意外と()()()()()()と評判である。

 いいや、むしろ有欠だからこその完全とも言えるのかもしれないが──。

 

「……崎川トレーナー」

 

「どうしたの?」

 

「もう少しで最終コーナーですよ」

 

「嘘!?何時の間に!?」

 

 ──ともあれ、レースは刻一刻と針を進めている。

 二分と半分もあれば終わってしまうのが有マ記念。

 歴史に名を刻もうとも、どれほどの重みが宿っていようとも──時間は平等に過ぎていく。

 

『メジロパーマー失速、やや苦しいか!

 その後ろからミホノブルボン!

 先頭入れ替わります!

 それを見るように三番手、メジロマックイーン!余裕綽々だ!』

 

 徐々に、徐々に展開が移り変わる。

 

 もうじきに到達するのは最終コーナーだ。

 衆目が見守る中で各ウマ娘達の立ち位置が目まぐるしく変化を重ねていく。

 

『先頭はミホノブルボン、後ろにメジロパーマー。すぐ外にメジロマックイーン!

 トウカイテイオー徐々に位置取りを上げています。そこにビワハヤヒデ迫る!』

 

 ぐんぐんと加速する。

 既に余力を残していない娘でさえも気力の底から必死に気炎を巻き上げて、前へ前へと脚を踏み出す。

 観客席へ面する最終直線へと徐々に近付いてくる彼女等の表情は、誰の目であろうとモニターという拡大鏡無しでも十分よく見えるようになっていた。

 

『続く最終直線!

 いの一番に飛び出したのはミホノブルボン!ミホノブルボンです!

 しかし続くトウカイテイオー!内からビワハヤヒデが更に加速!!外から見るメジロライアンも続いた!!ここから差しきれるのか!?

 そしてメジロマックイーン、負けじと踏み込み!

 ──その陰からライスシャワーが飛び出した!何時の間に此処に居たのか!?』

 

 

 ──加速する。加速する。

 各々の末脚を遺憾なく発揮し、色とりどりの色彩を載せて疾走する。

 列の最先端目掛けて淀の刺客が追い縋り、帝王がスリーステップを踏み締めて、名優が威光を知らしめるべく邁進する。

 そんな彼女等に追い付かれぬために、ミホノブルボンが一層の延びを見せた。

 "逃げ"でありながら更に延びる疾走──それはサイレンススズカが見せた驚異的な走りにも似ている。

 

 ファインドフィートは、それを"流星"のようだと思った。

 残光を引き連れ疾走する彼女は天駆ける星々にも見えて──。

 

「すごい……」

 

 ──しかし、彼女は決して自然の産物(天才)ではない。

 ミホノブルボンというウマ娘は、このような長距離を走る才に恵まれなかった──という事は、それなりに知られた話だ。

 だから()()()。鍛えに鍛え抜いた。

 人工的な調律と研鑽の積み重ねの果てに、彼女は彼女(二冠)となったのである。

 

 けれども。

 何故偏執的なまでの努力を始めたのか──ファインドフィートは、その原動力を知らない。

 その事実を思えば、少しだけ胸がチクリと痛む気がした。

 

『ミホノブルボン延びる!ここに来て更に加速!!凄まじい!凄まじいぞサイボーグ!!』

 

 ──しかし、だから勝てるかと言えば違うのだ。

 

 斯様に語るトウカイテイオーの口角が、大きく大きくつり上がる。

 もはや表情の動き──目尻が表す情動までをハッキリと目視できる距離感の中で、燦々と燃え上がる闘志を発露した。

 

 そして一歩、大きく踏み込む。

 二歩、更に深くまで沈み込んだ。

 反発力を得るために、バネが大きく縮むように。

 矢を番えた弓の弦を、力いっぱい引き絞る様のように。

 

 

 "──究極(絶対に)"

 

 三歩、果てなく飛ぶように──駆け出した。

 

 "テイオーステップ(絶対は、ボクだ)……ッ!"

 

 

 異様に柔らかい関節、高練度に鍛えられた体幹。

 その両方を足し算ではなく、掛け算で重ね合わせて生み出される至高のバネ。

 ともすれば皇帝(絶対)をも超えうる、未だ若き才媛の持つ切り札(絶対)である。

 

 けれどこのレースの参加者は──誰もが彼女に追いつき、そして超えようとする名バ達だった。

 

『メジロマックイーンがトウカイテイオーに並ぶ!ライスシャワーその後ろにピッタリ付く!

 ミホノブルボンとは半バ身もありません!』

 

 差して、追い抜き、抜き返されてまた先頭を奪い返す。

 一着争いに参列したのはミホノブルボン、トウカイテイオー、メジロマックイーン、ライスシャワー。

 三者三様ならぬ四者四様の脚を踏み鳴らして最終直線の最後──ゴール目がけてラストスパートを駆けていた。

 

 当然、苦しい筈だ。

 肺を膨らませ、空気を必死に取り込み鼓動を回す。

 そんなの苦しくない訳がない。

 

 しかしファインドフィートの瞳に反射する彼女等はみな──。

 

「……笑って、る?」

 

「楽しそうでしょう?」

 

「………」

 

「夢を追いかける彼女達って、すごくキラキラしてるの。

 だから私は、そんなあの娘達に憧れた」

 

「……確かに、綺麗です。

 かっこいいって思ってました」

 

 汗が弾ける。

 空気に混ざって蒸気になって、白い靄で尾を引いた。

 

「……けど、夢を追いかけるのって」

 

 ──四人がゴールへもつれ込む。

 ファインドフィートが瞬きする間もあれば全員が走り抜けているような、ほんの僅かな時間の隙間の事だった。

 

「そんなに、良いものなんでしょうか。

 あんなに楽しいものなんでしょうか」

 

 ……しかし、その声音は誰にも届かない。

 小さな疑念は観客の大歓声にかき消され、いとも容易く消え去った。

 わぁわぁと騒ぐ合唱がファインドフィートの鼓膜を通して、胸の内で反響し、腹の奥底までを震わせている。

 そんな、以前のレースでは心地よかったはずの衝撃は──何故だか、今の彼女にとっては少しばかり不快だった。

 

『着順が出ました!

 

 一着はトウカイテイオー!トウカイテイオーですッ!

 つまり二連覇!二連覇達成!

 一年を締めくくる年末の中山で!帝王が再び君臨したァ!!』

 

 ハナ差、ミホノブルボン。

 続けてメジロマックイーン、ライスシャワー。それぞれアタマ差である。

 厳しすぎるレースの世界は──当然ながら敗者へ温情を与えることはない。

 ほんの僅かな差であろうとも勝ちは勝ちで、負けは負け。

 

 だからこそ、己の先輩達も苦しんでいるのではないかと心配になって視線を向ければ──ただ手を取り合い、お互いの健闘を称え合っているらしい。

 心情の分かりやすさで言えばメジロマックイーンだろう。

 彼女はあからさまに悔しげな表情で、心の奥底から複雑な情念が滲んでいるようだった。

 

 ……けれど、祝福していた。

 混じり気もなく、当然のように。

 何故そうも真っ当であれるのか、何故そこまで真っ直ぐであれるのか。

 

 ……あるいは、『ファインドフィート』が混じり物だからこそ──こんな"疑念"を抱いただけなのか。

 

「へんなの」

 

 弾ける笑顔を浮かべたトウカイテイオーとは真逆の色を浮かべて、ぽつりと零す。

 いつまでも競バ場を揺らし続けている祝福の饗宴。

 それに紛れた呟きは、誰にも届かぬままで空気に溶けた。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

さあさあ、さあさあ。

"次"はあなた。白いあなた。『双子』のあなた。ファインドフィート。

ザクロ(愚かさ)が似合うかわいい娘。

 

大丈夫よ、恐れないで。

踏み出すの、"勇気"のままに。

 

 

 



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11話

因子継承。

祝福を添えて、あなたに。

 

 


 

 

 

「準備は?」

 

「万端です。

 勝利のはちみーでも用意しておいてください」

 

「はいはい」

 

「"はい"は一回で十分ですよガイコツ」

 

「はいはい」

 

「おのれ……」

 

 いつもの呆れた笑いを浮かべるのは葛城トレーナー。

 毎回毎回ワンパターンで恥ずかしくないのか?と、痩せっぽちの彼を冷めた瞳で見つめるファインドフィート。

 

 二人の姿があるのは、白い壁に四方を囲まれた控え室。

 寒い冬を連想させる"白"に辟易としつつ、空っぽになったはちみーのカップを机の上に置く。

 

 ……その側面に巻かれた帯に滲んだインクが、やけに視線を惹いて仕方がなかった。

 さらりと撫でて掌で隠してみてもやはり気になる。

 いつか(メイクデビュー)の日と同じように。

 

「……これは」

 

 そして今回は端っこの部分に新しい書き手の列が増えていた。

 当人の気性に準ずるかのように淡麗で、力強い筆跡のもの。

 

 "頑張って!"

 

 飾り気のない短い文章だ。

 けれども、ありったけの激励を込められた文字だった。

 書き手はおそらく──いや、間違いなく数日前に世話になった女性だろう。

 

「あの、これ」

 

「ん……ああ、捨てないように言っておく。

 安心してくれ」

 

「どうも……」

 

 葛城トレーナーへ放り投げたのは小さなお礼の言葉。

 

 ……何となしにちらりと彼の方に目を向けてみれば、手元のタブレット端末の操作に集中している様子。

 らしい、が──微かに緩んだ口元が矢鱈と目立つ。

 

「…………」

 

 とはいえ、それをつついてしまえば面倒な(からかわれる)ことになる。

 これは直感ではなく経験である。

 彼女は己の弁論の才では誰にも敵わないことを理解できていたのだ。

 

「で……どうだ?

()()の仕上がりは」

 

「……」

 

 ……ともあれ、問われたからには答えねばなるまいと鏡を覗き込む。

 鏡面に反射する自分の姿を上から下まで入念に眺め、その場でくるりと一回転。

()()()()()()()がファインドフィートの躍動に合わせて、軽やかに裾を舞わせた。

 

「流石はURA公認メーカー。納期もバッチリだな。

 出来も……かなり良さそうだ」

 

 ──初のG1レースに挑むための"勝負服"の申請。

 芙蓉ステークスで勝利してから、およそ一週間後に出したのだったか。

 

「ええ。

 見てください、この質感。

 すごいです」

 

「そうか、良かったな」

 

 そして今日、ファインドフィートの元に届けられた勝負服は──とても良く馴染んだ。

 外形だけを見ればとてもではないが走りに適しているとは口が裂けても言えないモノ。

 しかしウマ娘とはそんな()()()()()に従わないことが多々ある。

 つまり、今回のケース(勝負服の着用)もそれだった。

 

「……着る前までは、そこまで良いものなのかと懐疑的に思っていましたが……」

 

「今は、どうだ?」

 

「本当に素晴らしいですね。

 気分が高揚します。

 それこそ、今日のわたしは今までで一番速くなっているような気さえしています」

 

「そいつは重畳」

 

 ふくらはぎまでを覆い隠す青い革靴で、床を軽く踏み鳴らす。

 小気味よく響く音は、ファインドフィートの内心をこれ以上無く分かりやすく表現していた。

 

「……デザインは、キミと担当者が直接やり取りしていたんだったな」

 

「はい。

()()()意見の衝突はありましたが……こうして実際に着用してみると良いものですね。

 ……結果論ですけど」

 

「そうか」

 

 ファインドフィートの勝負服は全体的に白がメインの配色だ。

 ピッチリとした白い上着と、ゆったりとした同色のスカート(衝突ポイント)。その下で肌を隠す黒いタイツ(妥協ポイント)

 時折に設置された赤い装飾と袈裟懸けにされた青い布がよく映える。

 

 全体的な造形として言えば──質素ではなく、華美でもない。

 どことなくギリシャ風の香りを漂わせる装束だった。

 

「そのチョーカーは……」

 

「付属品です」

 

「なるほど」

 

 右へ左へ肩を回す。脚の腱を伸展させる。上体を大きく反らす。

 体を解す行為も最早手慣れたものだ。

 

 もちろん、解し過ぎは厳禁である。

 筋肉を伸ばす行為はケガの防止として最も手軽で効果的な方法の一つではあるが──場合によって()()()()()はパフォーマンスの低下を招きかねない。

 一応、基本的に無視できる範囲の影響らしくはあるのだが……。

 

 ……しかし彼女は、ただそれだけの影響も気にしてしまう程に緊張していた。

 過去経験のしたことの無い舞台に挑むのだから、当然といえばその通り。

 重賞レースで勝ち星を上げるだけでも歴史に名を残す偉業なのだから、難易度は推して知るべし。

 

 そして今回出走する"ホープフルステークス"は、G3、G2、G1と区別されたグレードの中でも最高峰に位置する。

 これで緊張するなと言う方が無理だろう。

 

「ふぅ………」

 

「準備は、できたか」

 

「……はい」

 

「キミの身体機能なら問題なく勝てるはずだ。

 少なくとも、他のウマ娘と比較しても頭一つ分程度は飛び抜けている」

 

「はい」

 

「つまり……キミが気にかけるべき事は()()()()()()()だ。

 他を見すぎるなよ、ファインドフィート」

 

 葛城トレーナーの眼に宿ったのは如何な心情か。

 ファインドフィートには、やはり理解できなかった。

 

「大丈夫です。

 ええ、もちろん」

 

「そうか」

 

 しかし、どちらにしろ──走ると決めたからには、走らなければならない。

 なにせ彼女が目指すと決めたのは前人未到の九冠ウマ娘。

()()で二の足を踏んでいる訳にはいかないのだから。

 

「よし……」

 

 "行ってきます"と言葉を残し、地下バ道へと続くドアを開く。

 ひんやりとした空気が流れ込んでファインドフィートの肢体を包む。

 全身を苛むそれのおかげで、自然と気が引き締まるように思えた。

 

 そうして歩き始めた彼女の背に向けて届いたのは"勝ってこい"という無愛想な声。

 返事の代わりに、ゆらりと尻尾を振るだけで──言葉を返せるほどの余裕も無く、強張った脚取りで冷気の漂う道を踏み締めた。

 

「大丈夫、大丈夫……。

()()()()()()()()()()()()()、全く問題ないはずです」

 

 陽の光が届かない故に薄暗い地下バ道。

 真冬の冷気は殊更に強く、ファインドフィートの手足を苛む。

 

 それを振り払うように心臓が鼓動を繰り返し、熱気を秘めた血が四肢を巡った。

 生命の摂理として当然のことではある。

 しかしファインドフィートにとって、これこそが何よりも大事な──本当に、何よりも代えがたい支えだった。

 

「さあ、勝ちましょう」

 

 か細い喉を鳴らして小さく呟く。

 ……もちろん、『姉』は言葉を返さない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『2番人気の紹介です!

 2枠4番、ファインドフィート!

 真新しい勝負服に身を包み、初のG1という舞台に昇ります!』

 

『今回も素晴らしい仕上がりですね』

 

『このホープフルステークスが初の重賞レースです。

 素晴らしい走りに期待しましょう』

 

 パドックでのお披露目。

 しかしファインドフィートは相変わらずの無表情で周囲を眺めた。

 

 時折カメラのフラッシュが網膜に刺激を与えてくるが──しかし、ヒト由来の気性を持つ彼女にとってそう影響のあるものではない。

 故に淡々と行程を熟し、粛々とレース開催の時を待つ。

 

 その態度も"肝が据わっている"と捉えられたのか、そう悪印象を持たれることもなかった。

 もちろん、意図してのモノでは無いけれど。

 

「…………」

 

 それからパドックを終え、もう一度冷気に満ちた地下バ道を通り抜けてターフ()の上へ。

 半ば無意識の領域で体を動かし続けて、ふと我に返った頃には既にゲートの目前だった。

 

 緊張のしすぎ……と言えば、その通りかもしれない。

 

 これまでとは比べ物にならない観客達の熱気に当てられたのか。

 小さく震える肩を武者震いと断言できたのなら、どれほど良かった事だろう。

 

(……ああ、それに──左右の熱意も、とんでもないですね)

 

 それは平時のファインドフィートが朧げにしか感じ取っていない闘走本能の火花。

 数日前のこの場(有マ記念)に満ちていたモノ。

 彼女が走り始めてようやく自覚できる、ウマ娘としての矜持。

 そして、混じり物でしかない彼女にとっての──。

 

『各ウマ娘15名、ゲートに揃いました』

 

『3番人気はこの娘、レリックヒート』

 

『2番人気はファインドフィート。

 この評価は少し不満か?』

 

京都ジュニアS(G3レース)の勝者!

 1番人気、オオヤマライデンです』

 

「はぁ……。

 集中、しなければ……」

 

 一度目を閉じ、大きく深呼吸。

 緩やかに落ち着き始めた鼓動に耳を傾けて、ゲートの中の隙間を見通すように目を細めた。

 狭い狭い空間の中で苛立ち始めた本能を宥めつかせて、ジリジリとうなじを炙る焦燥感に耐え続ける。

 

 今回、レース前に指示された作戦は『差し』。

 中盤までは後方に待機し、最終コーナー付近で準備を整え、最後の直線で一気に差し切る(追い上げる)

 レースの花形、王道である。

 

 ……とは言え、駆け引きの類は未だに苦手だ。

 他のウマ娘と併走トレーニングなりなんなりで経験を積めていれば話は違ったのかもしれないが──残念ながら、都合が合わなかった。

 

 つまり、ファインドフィートに駆け引きの経験値は蓄積されていない。

 これまでの出走レース(OP)やトウカイテイオーとミホノブルボンの個人的なトレーニングを(よすが)とし、何時も通りのステータス頼りの走りをするしかないのだろう。

 

 そう一通りの答えを弾き出し、自己の芯鉄として焼き付ける。

 ……焼き付けた、つもりだ。

 

(一秒、ニ秒、三秒……)

 

 とくり、とくり。

 鼓動を刻む心臓に合わせて秒数を数えた。

 一切の思考を破棄し、心臓の唄に耳を澄ませて、目の前の壁が取り払われるまで。

 

 四つ。

 五つ。

 六つ──。

 

「…………ッ!!」

 

 ──耳障りな音と共に壁が失せた。

 そしてゲートが開いたと同時にハーフバウンド(スタートダッシュ)

 

 ……彼女の反応そのものは悪くなかったはずだ。

 

 しかし、冷気の影響を受けた関節の駆動が鈍い。

()()()()()()()()()()、他のウマ娘とほぼ同時にゲートを潜り抜けた。

 

『ハナを切ったのはオオヤマライデン!安定の逃げ!

 先頭争いがありません!二番手フリップカールが少し離れた外につきました!

 そこからすぐレリックヒート!内にカナリアセイン──―』

 

 軽やかに整えられた芝を蹄鉄で削り取る。

 そのまま流れるように前から数えて7番手の──列の真ん中に位置を固定した。

 

 その時点から交叉襲歩(通常速度)へと足並みを正し、自分の左右に意識を向けながらペースを安定させる。

 

 葛城トレーナー曰く、注意するべきは"掛からないこと"だと言う。

 彼がそう判断したのなら、自分のレースさえ守っていれば問題なく勝てる──ハズ、である。

 

(……本当に?)

 

 

 ──チラリと脳裏をよぎった疑念。

 

 しかし、そんなものは根拠の欠片もない焦燥感の産物に過ぎない。

 ファインドフィートは自分にそう言い聞かせて、ただ脚の回転のみに意識を向けた。

 

 時間のカウントは必要ない。

 ただ、心臓から伝わる消耗に気を遣うだけで十分だ。

 

『まずは最初のコーナー!

 先頭は変わらずオオヤマライデン、これはどうでしょう?』

 

『掛かっているのかもしれませんね。

 どこかで落ち着きを取り戻せると良いのですが』

 

(………?)

 

 またもう一つ疑念が生まれる。

 ウマ娘特有の優れた聴力が拾ったのは、聞き覚えのある名前に対してのコメントだった。

 先頭をひた走る鹿毛の少女。

 顔は見えないが──しかし、纏う空気には揺らぎを感じ取れない。

 果たして、アレが掛かっていると言えるのだろうか。

 むしろその割には──。

 

(……この距離を走っていて、余裕がある?

 最後まで走りきれるつもりですか?)

 

 ──そこまで考えて、即座に思考を破棄する。

 

 よくよく考えずともG()1()()()()だ。

 当然、出場するウマ娘の能力は相応に高いものばかりが集まるはずである。

 ファインドフィートは己が最も速いという自負があった。

 

『縦長の陣形ですね。

 さぁ、これはどうでしょう?』

 

『最終コーナー目前までにどれほど位置取りを整えられるのか、見どころですね。

 後方に付けすぎたせいで差し切れなかった、なんて事になりかねません』

 

 ……だが、スタミナを比較するとどうだ?

 本当に最後の加速で追いつけるのか?

 技巧は?彼女の消耗具合を把握できるのか?

 

 だって、ファインドフィートというウマ娘は──。

 同室の先輩(ミホノブルボン)の事さえ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「………」

 

 最悪を想定し──鹿毛の少女を差しきれる距離をキープするため、ゆるゆると位置を上げていく。

 風に揺られるハロン棒を尻目に、鋭い呼吸と共に脚を踏み出した。

 

『先頭が向こう正面へ到達しました!今回はかなりペースが早いです!』

 

『どこかで息を入れられるといいですね』

 

 走る。走る。

 大きく口を開き、肺を満たす酸素を血流に混ぜ込んで。

 

 ちらりと目を横に向ければ未だ余裕のある様子のウマ娘達。

 じわじわと脚取りを整えながらも、朧げだった()()()()が急速に現実味を帯び始めていた。少なくとも、ファインドフィート()()()()()

 

 故に位置取りを更に押し上げる。

 レース開始直後は7番手だった位置を5番手に。

 5番手から4番手に。

 もはや差しではなく先行型の脚取りである。

 

 ──そうして走る彼女は、心臓の鼓動(精神の消耗)が徐々に激しくなっている様にさえ気付けぬままだった。

 赤の耳飾りが風に揺られ、チリチリと悲鳴を上げる。

 

「ハッ、ハッ、ハ……ッ!」

 

 視界の端っこでぐらりと揺れるハロン棒。

 しかしそんな情報(現在の距離)を取り入れる余裕もなく、目の前を走るウマ娘を躱しながら追い抜いていった。

 だから前へ。前へ、前へ。

 

 "あのポンコツ娘が"。

 と、観客席のどこかで吐かれた悪態も知らずに。

 

『続く第三コーナー!

 先頭はオオヤマライデン!やや失速気味ですが、スタミナに余裕はありそうだ!

 二番手は──』

 

 うるさく響く実況の声。

 けれどもファインドフィートの意識にまで入り込むことはなく、荒い呼吸と激しい鼓動を繰り返す心臓の唄に掻き消されて(ほど)けていく。

 

 徐々に削られていくスタミナ。溜まっていくストレス。

 想定を超える消耗具合は、ファインドフィートから冷静な思考を奪っていくに十分なものである。

 

 ……続くカーブをどうにか内側から走り抜ける事には成功した、ものの──。

 第四コーナーへと辿り着く頃には、既に精神力の殆どを失っていた。

 

 

(……あ)

 

 本来であれば、ここから仕掛けられたのかもしれない。

 しかし、思ったよりも力が入らない。

 ──走った以上に、疲れが蓄積している。

 

 そこに来て彼女もようやく自覚してしまう。

 己が無様にも"掛かっていた"ことを。

 

 

「──ハッ、ハっ、フゥ……ッ!

 クソ……ッ、()()した!」

 

 今更気付いても遅い。遅すぎた。

 ファインドフィートの真後ろから、徐々に徐々に近付く脚音。

 後続のウマ娘達も先頭を差し切るべく、ついに行動を開始したのだ。

 

 必然、後方から追い立てられるように前へ脚を踏み出した。

 ──が、先頭に立つ彼女との間に開いた距離(4バ身差)が一向に縮まらない。

 

「ふざけるな」

 

 苛立ち、焦燥、恐怖。

 八つ当たりのように、脚へ力の限りを叩き込む。

 

 血流ポンプ(ふくらはぎ)心臓(炉心)から下る血を送り込み、そして返されて。

 心臓(炉心)に戻ってきた血を受け止めて、更に強い力で送り返そうと鼓動を刻む。

 

 ──しかし、出力が足りない。

 

 正確に言えば、あのオオヤマライデンを追い越せるほどの加速を得ることができない。

 きっと彼女はあれ以上に速くなることはないだろう。

 しかし、大して失速することもないのだろうと、半ば本能的に直感していた。

 

「ふざけるな……ッ!」

 

 ……嫌だ。

 認められない。

 それ(勝利)はわたしのモノだ。

 

 血を吐くような想いを、血に吐き出した。

 だからもっと加速しろ。

 もっと速くなれるはずだ。

 少なくとも──()()()()()()()()()()

 

 

「わたしは、まだ──!」

 

 

 しかし彼女の足掻きは無為と化し、無駄に尽きる。

 最終直線の残り半分に差し掛かっても距離(1バ身差)が埋まらない。

 

 走る。届かない。

 走る。足りない。

 走る。追いつけない。

 

 ……只々、力が足りなかった。

 ファインドフィートは、きっと『ファインドフィート』に成り切れていなかったのだ。

 ならば齎される結果は当然──2着(敗北)という結果のみ。

 

 手にするのは勝利の美酒ではない。

 敗者らしく、敗北の苦汁を口にするしかないのだ。

 

 

 

"あら、まぁ……"

 

 

 きっと、その筈()()()

 あまく、蕩けるような(聞き覚えのある)声音が彼女の耳朶を侵すまでは。

 

 "……まったく、ファインドフィートちゃんは仕方がないですね!"

 

 "夢を叶えたいのでしょう?

 諦めたくないのでしょう?

 ……こんなところで躓いちゃあダメですよね?"

 

 "負けるのは、『ダメ』ですよね?"

 

 "な、の、で~……"

 

 

"……特別、ですよ"

 

 ぐちゅり。

 

 胸の奥から湿った音が響いた──気がする。

 そして疑問を覚える間もなく同時に感じる熱。酷く苦しい圧迫感。

 体の内側に無遠慮に手を挿し込まれたような異物感が脳髄に押し寄せる。

 

「ギッ……!?」

 

 それと同時に、芝と土煙が足元で爆ぜた。

 全く同時に顔を叩く風。

 

 彼女は走っていた。

 これまでで最も速い疾走だった。

 ──そんな余力、もう残っていない筈だったのに。

 

 

「ぁッ」

 

 彼女の意思を無視して引き攣った喉から喘鳴が漏れ出した。

 それまでのスタミナの限界に唾を吐き捨てて──あっさりと、両脚と上躯が勝手に駆動を再開する。

 

「はッ、ハっ、ゥ……!」

 

 普段のフォームと同系統でありながら、しかし明確に次元が違う程の破滅的な加速。

 一歩踏み込むごとに大きく撓り、前へ前へと身体が押し出されて。

 風にたなびく長髪が尾を引いて、真っ白な轍が青い芝を彩っていく。

 

 

『ファインドフィート!延びる!更に延びる!!ここで加速しました!

 あっという間にバ身差が縮まっていく!!』

 

 それはあり得る筈のなかった復活だ。

 衆目の度肝を抜くには十分すぎるインパクトを与える程に。

 実況の驚愕が。そして観客の熱狂が中山競バ場を大きく大きく震わせていた。

 

「ウッソでしょ……!

 アンタあそこから速くなんの!?」

 

 先頭の背を追いかけて。追いついて。

 そして追い抜くには十二分な脚取りであった。

 

 その間、ファインドフィートはただ胸の痛みを堪えるばかりで精一杯だった。

 ただ胸の奥から響く不快な信号が神経を蹂躙して、思考能力を根こそぎ奪い去るばかりで。

 

 ……そんな中でもたった一つ。

 たった一つだけ、理解できる事実がある。

 

『ファインドフィート!一着はファインドフィートです!

 一年最後のG1レースに!新たなホープの誕生です!!』

 

「……ハ、ハッ。

 ……ハァ……は。

 ぁ……っ!」

 

 

 ただ──何もかも(自分)が、何処までも純粋に、気持ち悪かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────。

 

 ──。

 

 

 それからどうやって地下バ道に引っ込んだのか。

 誰と話して、あるいは誰とも話さずに控え室の前にまで辿り着いたのか。

 今のファインドフィートには皆目見当がつかない。

 

 ……ただ、"鹿毛の少女(オオヤマライデン)"が心配そうな顔で話しかけてくれたような──気はしている。

 どんな対応をしたのかすら覚えていないけれど。

 

 明確に感じ取れているのは今なお胸を苛む痛みと、新しい回路を植え付けられたかのような違和感。

 そして激しい頭痛のみが今ある現実の妥当性を立証していた。

 

「……ふぅ」

 

 薄暗い地下バ道で、吐息を虚空に吐き出す。

 そうして空に舞う水分が水滴になる程には寒い筈なのに、不思議と体は熱気を纏ったまま。

 ……だからきっと、あれは幻ではなかったのだ。

 

 風にはためく青い掛け布が虚しく揺れる。

 きっとそれが、彼女の思う所を代弁していた。

 

「ん、これは……」

 

 ──そのままぼんやりと佇む中でふと感じた、一際熱いナニカ。

 鼻腔を伝い鼻の下に溜まるそれ。

 指を充てがってみれば、触感を刺激するのは"ぬるり"と滑る水気。

 擦り取って眼前に翳せばその正体は簡単に把握できた。

 

「……鼻出血?」

 

 ぼうっと胡乱げな眼差しを向けながら、指先の"赤"を擦り合わせた。

 

 ……そのまま青ざめた瞳を隠すように、ゆっくりと瞼を閉ざし──。

 ただ、真っ白な勝負服に付着させない為に、気をつけながら手を降ろす。

 

「控え室に、戻らないと……」

 

 ……一着を取ったファインドフィートには、ウイニングライブのセンターで踊るという極めて重要な責務(苦行)が任されているのだ。

 さほど気乗りしているわけでもない、が。

 

 少なくとも、多少の些事で体を休める気にはなれなかった。

 こんなもの()()()()()()()()

 数分も経てば止まるに決まっているのだから。

 

 だから、何も考えたくはない。

 少なくとも、今だけは。

 

 

 

 

 

■■■■(ごめんね)

 

 

 


 

 

敗北は許されない。

諦めることは許されない。

立ち止まることは許されない。

 

それでも、あなた達は"しあわせ"でしょう?

 

 

 



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12話:ジュニア級/エピローグ

『ぼくはただ、姉さんに生きていて欲しかった』

"……私はただ、■■■(削除済み)に生きていて欲しかった"

 

『昔みたいに星を見つめていたかった』

"昔みたいに空を見上げていたかった"

 

『でも、今は苦しくて、寒いんだ』

"でも、今は悲しくて、寂しいです"

 

『ぼくは、姉さんと一緒に手を繋いでいられたら……それだけで良かったのに』

"私だって、■■■(削除済み)と一緒に手を繋いでいられたら……それだけで良かったのに"

 

──きっと、それだけで"()()"だったんだ。

ぼくらは、それだけで。

 

 


 

 

 

「姉さん……」

 

 か細い喉から響く声。少女のソプラノボイス。

 それが自分のモノであることに気付くまで掛かった時間は、呼吸五回分ほど。

 そして更に呼吸を五回重ねて、ようやく自分が眠っていたことに気付く。

 

 ファインドフィートはややあって、身体に掛かっていた布団を退け体を起こした。

 カーテンを貫通する朝日に照らされたおかげだろう。加速度的に意識の覚醒が進む。

 数秒も経てば寝ぼけ眼の霞はしっかりと消え去り、何時も通りに澄んだ青い瞳が戻って来ていた。

 

「……はぁ」

 

 そうして、寝癖でボサボサに絡まった頭髪はそのままに。

 はっきりと定まった焦点を頼りにベッド下のスリッパを探し出して足を差し入れる。

 数日前のレースでは些か以上に無理をさせた躯体を気遣いつつ、ゆっくりと。

 スタミナを限界まで振り絞った上でそこから更に、以前までの最高速を超越したのだ。その反動は推して知るべしだろう。

 

 ……が、そうは言えども。

 彼女の現状を端的に述べるのなら、健康体そのものと言う他ない。

 身体が動かないだとか、関節が痛むだとか、そんなことは一切ないのだ。

 むしろここ最近はずっと"絶好調"。

 不気味なほどに、不快なほどによく動く。

 ──()()()()は。

 

「はぁ……」

 

 ため息をもう一つ、朝日の中に混ぜ込んだ。

 古来よりの迷信曰く、ため息をする毎に"幸せ"が逃げていくとは言うけれど。

 彼女はそれを理解した上で何度でも吐き出した。

 今更じゃあないかと、鬱屈に。

 

「………」

 

 横を見る。ベッドの主はいなかった。

 きっと朝練にでも向かったのだろう。

 今日は"大晦日"であるというのに、素晴らしい向上心だ。素直に尊敬の念を覚えるほどに。

 

 ほんのりと心中に去来する物寂しさに蓋をして、鏡越しの髪に櫛を通して整える。

 壁に掛けた時計を横目で確認してみれば現時刻は朝の8時。早朝と言うには少しばかり遅すぎる時間帯だ。

 普段のファインドフィートならば、これよりも数時間早く起きてトレーニングに勤しんでいる所だったのだが──。

 

 ──そこまで考えて、へにゃりと耳を垂れさせた。

 青の耳飾りが所在なさげに揺れている。

 思い返すのは、彼女が目覚ましい成績を残した数日前の"ホープフルステークス(ジュニア級最後のG1レース)"。

 

 あの日、ウイニングライブの直前に──葛城トレーナーには割と真面目な説教をされてしまったのだ。

 やれ、"ポンコツ"、"アホの子"、"すぐ掛かる"。

 もちろん言葉遣いはもっと堅苦しいものだったが。

 

 そしてファインドフィートは反論もできず、粛々と受け入れる他なかった。

 なにせそのいずれもが正論。

 トレーナーの忠告を無視し、最後の最後で無茶な走りをしたものだったから尚更だ。

 随分と心配させてしまったようで、レース後にはウイニングライブもスッポ抜かしてまで病院に連れて行かれた。

 ……結局()()()()()()()()()()()()──念の為に、ほんの少しの間はトレーニングが禁止となってしまった。

 

「……あ、着替えなきゃ」

 

 のろのろと寝間着を脱ぎ捨てて、何時も通りトレセン学園の制服に身を包む。

 冬の冷気から身を守るための厚手の長袖。

 そんな布の鎧でさえも、いまのファインドフィートにとっては心強い味方だった。

 

 そのまま鏡で一通りの身嗜みを整え終えて、反射する自分の姿を不遜に見下ろす。

 そうしてしまえば何時も通りの"ファインドフィート"の完成だ。

 無表情な顔。青い瞳。白い頭髪。

 ……だからきっと、何時も通りの筈なのだ。

 

「よし……。

 散歩にでも、行きましょうか」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ゆるゆると歩く。

 空を仰げば、ゆるやかに流れる雲がファインドフィートを見下ろしていた。

 それらの雲の面積自体はさほど多くないお陰で、日光は常と変わらず地表を照らせるらしい。

 しかし、そのくせ寒さはさほど変わらない。

 故にファインドフィートにとってはあまり有り難みがない事である。

 

 そんな朝の空気の中を駈歩で移動するウマ娘達。

 彼女等を尻目に、ぼんやりと目を瞬かせた。

 何故か久しぶりの自由時間のようにも思えて──ほんの少し、何をすべきか良いのか迷っているのだ。

 

 もちろんこれまで自由がなかったかと言えばそうでもない。

 葛城トレーナーは意外と気配りのできる男で、彼女が自由に過ごせる時間を合間合間で設定してくれていたのだから。

 

 だから強いて理由を上げるのなら……数日前のレースが濃密に過ぎた事だろうか。

 

 あの日、あの時に感じた寒気。恐ろしい(うつくしい)()()の声音。

 それは今も胸の奥にへばり付いていて、ずっと疼いているまま変わらない。

 まるで(ツタ)のように。あるいは根を張るヤドリギのように絡みついて離れないのだ。

 

「……ああ」

 

 ──なんとなく、疲れたような気がする。

 肉体的にではなく、精神的に。

 その疲れからほんの少しでも逃れたくて、頭を振って思考を強制的に遮断した。

 そしてそのまま足を進める。

 "テクテク"、"テクテク"とあてもなく。

 

 石畳を踏む青い靴は今日もゴキゲンに音を鳴らしている。

 ただの靴では彼女の心を汲み取れない事の、実に無意味な証明でもあった。

 

「……あ」

 

「おっ」

 

 ──そうして歩き続けること数分間。

 ふと目に入った通路脇のベンチ。そこに腰掛けているのは見覚えのある──というよりも、見覚えしかない少女だった。

 鹿毛の頭髪を揺らし、手元のカップを傾けていたのは制服姿のトウカイテイオー。

 今日も元気に朝練を終えた後なのか、額には僅かに汗が滲んで髪の毛が張り付いていた。

 

「おはようございます、テイオーさん」

 

「うん!おはよ、フィート!

 こんな時間にトレーニングしてないのは珍しいね~」

 

「……ええ、まぁ……はい」

 

 答えを誤魔化す口の中身を代弁するように、ゆるゆると尻尾が揺れる。

 そんな彼女の姿を見て、快活な笑みを訝しげな表情へと遷移させた。

 座ったままのトウカイテイオーに"まぁまぁ、とりあえず座りなよ"と声をかけられて──ファインドフィート自身にもそれに逆らう気は無かったらしく、のろのろと木板に腰を預けた。木材故にか意外と温かい。

 氷河に一杯のお湯を振りかけるのと同じくらい無意味だとしても、素直に有り難かった。

 

「ん~……。

 なんか、疲れてるの? こう~……普段よりも元気が無さそうだけど」

 

「そう、見えますか?」

 

「うん、見える。むしろ疲れてるようにしか見えないかな~」

 

 そう語るトウカイテイオーの視点はファインドフィートの耳に固定されたまま。

 大いにヘタれた白いそれは、これ以上無く分かりやすく彼女の調子を表している。

 

「………なるほど。

 なら、疲れているのかもしれません」

 

「もー、なにそれ。

 自分の事じゃんか」

 

「はい……。

 自分の事ですけど……自分の事だから。

 自分だから、分からないのかもしれません」

 

「……そっかぁ」

 

 トウカイテイオーのカップから、"じゅこここ"と音が響いた。

 無遠慮に鼓膜を揺さぶるそれを聞いて"そう言えば最近、はちみーを飲んでいなかったな"と思い出す。

 12月28日のホープフルステークス。

 3日前のレース以降どうにも頭が回っていないのは、そのせいかもしれない。

 そんな思考の半分以上に──いやむしろ、殆どの部分に現実逃避が混じっているのだが。

 

「はい、これ」

 

「………?」

 

「ほら、はちみーだよ。

 さぁさぁ、ワガハイに感謝するのだぞ~」

 

「……ありがとう、ございます」

 

 受け取ったはちみーに、一緒に手渡されたストローを突き刺す。

 久しぶりに飲むはちみーは相変わらず甘くて、美味しいものだ。

 

 ──けれども、胸の奥に蟠ったままの苦味は一向に消え去ってくれない。

 普段なら紛らわせてくれるはずの甘いものでさえ歯が立たないのなら、他にどうしろというのか。

 彼女にはまるで分からない。何も。

 

「ね、ホープフルステークス勝ったんだってね!

 おめでと、フィート!」

 

「……。

 …………。

 ……………あっ、ありがとうございます」

 

「わぁ……。

 これは、重症だね~……」

 

 ざぁざぁと吹き荒ぶ一陣の風。

 真冬の冷気はファインドフィートの身体を否応なしに苛む。

 

 寒さに震えてしまいそうな身体を意図的に無視して、はちみーのカップを傾けた。

 ……やはり、ただ甘いだけだ。

 

「……何か悩んでるの?」

 

「そう……なのかも、しれません。

 そうじゃないのかもしれません」

 

 あっという間に空っぽになったカップを、意味もなく指先で弄ぶ。

 ありもしない答えをカップの内側から絞り出そうと苦慮するように、白く細い指先を充てがった。

 

 ……当然、そこから見いだせる真実などない。

 転がしても(つつ)いても、何かが詰まっているわけでもない。空っぽだ。

 

 だから、強いて言うなれば──。

 

「──ただ、疲れてしまっただけなんです。

 本当に、それだけです。それだけなんですよ」

 

「……そっか」

 

 そこで、ファインドフィートの隣から響く"じゅここ"という音に雑音が交じる。

 ファインドフィートに続きトウカイテイオーもはちみーを飲み干したらしい。

 空っぽになったカップを揺らしてどうするのかと思えば──急に立ち上がり、見事な投擲フォームで構えて見せる。

 傍らの後輩に困惑の青い眼差しを向けられても我関せず。

 ──そのまま流麗に手先を振るって、数メートル先のゴミ箱へと投げ込んだ。

 

 "ストラーイク!"と嬉しそうに上がる歓声。これでファインドフィートよりも()()なのだから不思議なものだ。

 

「ね、フィートも投げる?」

 

「えっと……?」

 

「ほらほら、手を貸して!

 フォーム教えたげる!」

 

「わっ」

 

 流れるようにトウカイテイオーに絡みつかれ、手取り足取り、投擲フォームを教え込まれた。

 その上無駄にわかりやすい教導だ。

 ファインドフィートは唐突に始まった謎の講座(リード)に困惑しつつも体を動かし──。

 

 ──数分後には、無駄に綺麗なフォームでカップをゴミ箱へと投げ込んでいた。

 

「おー!おめでと、フィート!

 これで免許皆伝だよ!」

 

「ええ……?」

 

 カランカラン、とゴミ箱が不満げな金切り音を鳴らしている。

 練習の的にされたことについてか。

 はたまたウマ娘二人の遊びに使われたことについてなのか。それは無意味な念慮だ。

 

 無論トウカイテイオーにとってもどうでも良いことでしかなく、既にゴミ箱の事なんぞ忘却の彼方。

 ニコニコと快活に笑って、自分よりも()()()()()大きな後輩の手を引っ張った。

 

「ほらほら、行こ!」

 

「えっ、と……どこに?」

 

「遊びに!」

 

 そう言うやいないや駆け出した。

 "だから、どこに向かうのですか"と、白い尾を風に揺らして問う。

 "美味しいものを食べに~!"と答えたのは後輩思いの先輩だ。

 

 駈歩というには些かゆるやかな速度。

 ゆったりと流れる時間に身体を乗せて、風を感じる。

 

 ──ただ、それだけの行為でも、不思議と心地よかった。

 胸の奥の蟠りがほんの少し解けているような、そんな錯覚さえもある。

 

 何も考えずに走る。

 風を切って、冷風に身を包む。

 そんなもの、普段なら寒くて寒くて、震えてばかりの筈だったのに──何故かほのかに暖かい。

 

「フィート」

 

 二人して走る中、ふとトウカイテイオーが振り返った。

 青い目が陽の光を反射してキラキラ輝く。彼女の気質を明瞭に表すように。

 

「ねっ、そんなに焦らなくたって良いんだよ」

 

「………」

 

「焦ってたって、がむしゃらに走り続けたって疲れるだけだし……何より、苦しいからさ」

 

 しかし、とか。

 でも、とか。

 何かを言葉にしようとしても意味を込められず、胸の奥で(ほど)けて消える。

 そんな彼女の内心を知ってか知らずか、諭すように唇を震わせていた。

 

「少しだけでいいんだよ。

 時々脚を止めて、呼吸を整えて。

 遠回りかもしれないけど……結局、そういうのが一番の近道かもしれないよってコト!」

 

「……テイオーさん」

 

「ま!

 今こんなこと言われても"はいそうします"なんて思えるわけないよね~……。

 ボクにも分かるよ、その気持ち」

 

「………」

 

「けどね、休む事はとっても大切なんだよ」

 

 一瞬だけ遠くを見つめた彼女の瞳になんというべきか。

 ファインドフィートはその解答を持たなかった。

 未だにトウカイテイオーのことをまるで理解できていないのだから、当然だとも言える。

 だから彼女は、ただ受け渡される言葉を──"消化できない"と知った上で呑み干した。

 

「というわけで!

 今だけは何も考えないでボクと一緒にのんびりしよう!」

 

 頷くべきか、否か。

 今のファインドフィートにはこれっぽっちも分からない。

 だからこそ、トウカイテイオーはそれを()()()()()()手を引っ張る。

 そうしてしまえば──存外押しに弱い彼女は、拒否する事ができないと理解していたからだ。

 

「ほらほら、はちみーの出張屋台だよ!行こ!

 この無敵のテイオー様が奢ってしんぜよう〜!」

 

「あ……」

 

 指差した先にはいつものお店。

 学園前を陣取るボックスカー。

 

 トウカイテイオーに連れられて駆け寄って、何時も通りにカップを手にとった。

 ただ、どこにでもいる"子供"のように。

 何も考えず、無邪気に。

 

「……美味しいです」

 

「そっか!」

 

 

 

 


 

 

 

 

ころころ、ころころ。

掌の上で輝く、美しい星。

指の隙間をすり抜けないよう、ころころころ、くるりと廻す。

愛しい子。美しい子。

──あなた達はきっと"()()()()"でしょう?

 

カーネリアン、カーネリアン。

手慰みのカーネリアン(夢をかける、愛しい双子)

 

 



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クラシック級 / 麗しのカランコエ
13話


両手いっぱいに抱えたカランコエ。

艷やかに育つ、麗しの花びら。

 

散らさないように、大切に、大切に育てましょう。

 

 


 

 

 

「初詣……ですか?」

 

「はい。

 正月、元旦におけるメインイベントです。

 ……2日前にもお伝えしていたかと思いますが」

 

「……そうでしたっけ」

 

「はい」

 

 朝起きて、寝間着から私服姿へ着替える。

 そしてミホノブルボンの手で自慢の芦毛を梳かして貰いながら、不思議そうな口振りで今日の日程に思いを馳せた。

 卓上の鏡に映るファインドフィートの怜悧な(かんばせ)もやはり事情を理解できていない様相。

 まだ頭の中には眠気の靄が鎮座しているせいなのか?

 鏡の中の姿に"だれですかこれ。ブルボン先輩?"などといっそ清々しい擦り付けを行う。

 その半開きの口が己のモノである事さえにも気付かず記憶のテープを巻き戻し、ぐるぐると回想するのは過去の記憶。

 

 大晦日の前日、カフェテリアでの一幕。

 食事の最中、確かにミホノブルボンと言葉を交わしていた記憶がある、が──。

 ……丁度その日は疲労感で調子を崩している頃だったからか、朧げな記憶だった。

 

「………」

 

 壁に貼り付けていたカレンダーへ向けてチラリと一瞥。

 どちらにしろ、もう数日──三ヶ日が過ぎるまでトレーニングも何も出来やしない。

 赤いペンで修正された予定には"休養日"とわかりやすく明確に記されている。

 

 この対応に関しては彼女にとっては些か落ち着かないし、附にも落ちないものだ。

 ……が、葛城トレーナーに指示された事である。

 どれだけ気が逸ろうとも、その決定に逆らう気は毛頭なかった。

 

 そういった事情も鑑みれば、彼女等と共に一日を過ごすという事も吝かではない。

 トウカイテイオーも来るのであれば、一緒に屋台のはちみーを啜りながら冷やかして回るのも良いだろう。

 軽やかに揺れる己の尻尾にも気付かず、脳内の優れた(ポンコツ)思考回路が唸りを上げた。

 今後の予定を踏まえた資金繰りの算盤を弾き、財布の中身と突き合わせてみる。

 

「よし……」

 

 ──今日一日散財したところで何ら問題は無さそうだった。

 そもそも、ファインドフィートも今となってはG1ウマ娘の一人。

 資産的には小金持ちであるといっても過言ではない。成金ウマ娘だ。

 

「お参りする神社は現座標より2km程度の距離です。

 つまり、徒歩で移動するべきです」

 

「なるほど。

 テイオーさんも来るんですよね?」

 

「はい。

 他にもライスさん……ライスシャワーさんと、メジロマックイーンさんもいらっしゃいます」

 

「…………なんと」

 

 ──それは聞いてない。

 咄嗟に喉から吐き出しそうになった困惑の言葉。

 が、その舌鋒の起こりを押さえつけるように、ミホノブルボンが続けて口を開いた。

 

「以前にもお伝えしていたかとは思いますが……フィートさんの"交友関係を広げようの会"です」

 

「あっ」

 

「大丈夫です。

 皆さん優しい方ばかりですから」

 

「いえ……。

 それは、よく分かりますが」

 

 歯切れ悪く口を閉ざす。

 反射的に思い返すのは有マ記念での光景。

 レース後にも純粋な祝福な気持ちをもって、素直に喜びを分かち合う姿を見て──どうして彼女等の善性を疑えようか。

 少なくとも、ファインドフィート自身よりは"優しい"のだろうと、他ならぬ彼女自身が確信していたのだ。

 

「『頭髪のセット』、タスク完了。

 もう動いても問題ありません」

 

「ありがとうございます」

 

 

 これが無駄な思慮であるとは理解している。

 そんな、鬱屈と思考回路が捻じくれた自分を誤魔化すように、後ろ手に髪の毛をなでつける。

 反応を返すようにファインドフィートの掌をくすぐるのは、さらりと滑らかな感触。

 彼女自身の心情とは裏腹に優しい手触りだ。

 

 ……肉体と精神の状態が乖離するのはままあることですが、と。

 そう口の中だけで嘯いて立ち上がりつつも、無為な思いを引き剥がせない。

 

 しかしそんな状態でも出来ることはある。

 櫛を手に取り、強引に意識を逸らした。

 

「ブルボン先輩、交代です。

 座ってください」

 

「……?」

 

「……わたしにも、髪を梳かさせてください」

 

「……!

 ステータス『嬉しい』を検出。

 オーダーを受託しました」

 

 "やって貰ってばかりは如何なものか"と、ふと思い至ったが故の行動だった。

 それに対してやたらと嬉しそうな言葉を返して機敏に椅子に座り込む、身体だけは大きな先輩。

 想定以上の反応に驚きつつ、そして彼女の情動につられる尻尾(ぶんぶん)に当たらないように気を遣いながら、そこそこ慣れた手付きで櫛を通していく。

 さらさらと流れる栗毛は艷やかで、柔らかくて──ファインドフィート(双子)によく似た髪質でもある。

 だから、櫛を持つ様子は尚更に手慣れていた。

 彼女が自身の指先を通じて思い返すのは、幼少期の──。

 

 

「……ブルボン先輩は、優しいですね」

 

「……?

 "優しい"……上品、優雅、お淑やかな様子を表す言葉……。

 つまり、私に当てはまる言葉ではないかと。

 むしろ……色んな人に怖がられている状況から推測すると──」

 

「いいえ。

 ブルボン先輩は優しいです。

 とても、とても」

 

 ──何はともあれ、既に予定は決まったのだ。

 不思議そうな雰囲気を漂わせるミホノブルボンはそのままに、二人して身嗜みを整え終えた。

 

 最後の仕上げとして茶色のオーバーコートを羽織り、前のボタンをしっかり留める。

 冷気が侵入できないように、しっかりと。

 

 

 ◆

 

 

 待ち合わせの場所は東府中の駅前だ。

 今日は正月ということもあってか、周囲の道路は多くの人々で賑わっていた。

 とはいえ以前の中山よりは少ない程度。

 そのおかげで有マ記念の時のように熱気に当てられるほどの影響は無かった。

 

「待ち合わせは午前九時……でしたね」

 

 ファインドフィートお気に入りの腕時計に曰く、それよりも十分ほど早い。丁度いい具合の時間である。

 ひょっとすると、既に到着しているかもしれない。

 顔を上げて周囲を見渡せば、駅前の道路脇──通行の邪魔にならない位置に芦毛のウマ娘と黒鹿毛のウマ娘が佇んでいた。

 双方共にワンピースタイプの私服姿であり、なんとも上品な装いだ。

 

「………」

 

 ……ファインドフィートは自分の体を見下ろした。

 当然、朝に着込んだままの無難極まるデザインの茶コートが鎮座している。

 ズボンも普通の黒いスラックスで、飾り気とは無縁。これまで気にしたことも無いのだから当然だ。

 

「……むぅ」

 

 今から行動を共にすることを思えば、少しばかり恥ずかしくもなってしまう。

 ……なんて言っても、今更ではあるが。

 

「……私達が一番遅かったようですね。

 行きましょう、フィートさん。

 ………フィートさん?」

 

「あっ……はい。

 問題ありません」

 

 

 こんな事になるのならミホノブルボンが着ているような坂路(HANRO)Tシャツでも購入しておくべきだったかもしれない。

 ……なんて無表情の裏で想起しようとも、もはや後の祭りだ。どうしようもない。

 仕方なくあっさりと諦め何事も無かった風を装い、ミホノブルボンの後ろをついていく。耳が垂れている事に気づいていないのはファインドフィート一人のみ。

 

「あら、おはようございます。

 思った通り、十分前到着ですわね」

 

「おはよう、ブルボンさん!」

 

「はい、おはようございます。

 ライスさん、マックイーンさん」

 

「テイオーはまだ来ていませんわ。

 もう少し、ゆっくりしていましょうか」

 

 呆れたように尾を払う姿さえ優美。

 名門メジロ家に恥じぬ気品を纏う姿は、もはや住んでる世界が違うとさえ錯覚してしまいそうになる。

 そこはかとなく漂う()()()()も、やはりそういった身分の者が扱う香水によるものなのだろう。

 

「フィートさん……」

 

「?」

 

「マックイーンさんは()()()()()()方です。

 ……普段通りに接するだけで良いかと」

 

 

 ──なんてフォローするように口を開いたミホノブルボン。内心は如何なものか。

 相対する芦毛のウマ娘は言葉の意味を咀嚼はせども、その内側に含まれた真意には辿り着けなかった。

 が、とりあえず頷くだけ頷いておく。"わたしは賢いので"、とそこはかとなく自慢げだ。

 

 そう芦毛を揺らす彼女へ向けて歩み寄る、比較的小柄なもう一人の芦毛のウマ娘。

 穏やかな笑みを浮かべる姿は気品にあふれている。

 あの有マ記念で闘争心を剥き出しにしていた彼女と同一人物には到底見えないのだから、実に不思議なものだ。

 

「さて……あなたがファインドフィートさん、ですわね?

 噂はかねがね伺っていますわ」

 

「……ほ、ほんとうにブルボンさんみたい……」

 

「どうも……」

 

 

 ……何だかんだ言っても、この一年で()()()()は人付き合いの経験値を積み上げることが出来ていたおかげだろう。

 自分から一歩を踏み出し、二人へ向けてお辞儀をひとつ。後方に佇むミホノブルボンが"むふーっ"と大きく胸を張っていた。

 後方姉面をしていながらも精神年齢は女児相当。どこぞのアニメに登場していた名探偵並みの二面性である。

 

「名前は知っていらっしゃるかも知れませんが、改めて。

 わたくしはメジロマックイーンですわ。

 どうぞ、よろしくおねがいしますね?」

 

「ライスは、ライスシャワー……だよ。

 よろしくね、ファインドフィートさん」

 

「ファインドフィート、です。

 ……………フィートと、呼んでください。

 よろしくおねがいします……」

 

 

 飛び出す言葉は尻切れトンボ。

 自分に向けて、やはりまだ早かったかもしれないと無表情のまま手のひら返し。

 ファインドフィートは若干ながらに後悔した。今更である。

 

 ……しかし運良く(当然ながら)相対するウマ娘は人格者だった。

 二人共特に気を悪くした風でもなく、少しずつでもお互いの言葉を交わそうと口を開いている。

 そんな彼女等にどうにか報いたくて、ファインドフィートもどうにか必死に言葉を紡ぐ。ミホノブルボンは、やはり後方で満足気に頷いていた。

 

「……!」

 

 ──と、そこでおもむろに耳をピンと立たせたサイボーグ。

 集音器(耳朶)が向く先はミホノブルボン達の後ろ側──未だ多くの人が行き交う道路。

 

「接近するウマ娘の足音を検知しました。

 レーダーより取得した情報をログと参照します……確認完了。

 個体名"トウカイテイオー"の波長と一致、迎撃の準備を開始」

 

「……ブルボンさん、昨日は何を見たんですの?」

 

「宇宙ウマ娘記、キャロドムです。

 わたしも一緒に全話見ていました」

 

「ふぇ……」

 

 

 困惑の声を上げたのはライスシャワー。

 ある意味で尊敬しているウマ娘の挙動に混乱しているのかもしれない。

 もしくはミホノブルボンに付き合ってアニメを見ていたファインドフィートに対してのものか。あるいはそのどちらでもないのか。

 

「ガション、ガション……」

 

 そんな後方のやり取りもなんのその。マイペースに駆動音を響かせる。

 図体ばかり大きく育っているものの、根っこの部分では幼気なのがミホノブルボンだ。

 精神年齢女児と呼ばれていたのもそう過去の話ではない。

 しかし最近は同室の後輩が出来た影響もあって、やや精神面の成長(お姉さん振る姿)を見せていたが──そう簡単に性格が変わるわけでもないのだろう。

 

 つまり、最早こうなってしまっては致し方なしという事だ。

 

「なんでそこで止めないのさー!?」

 

「おはようございます、テイオー。

 少し遅刻ですわね」

 

「うっ、それはごめん……」

 

「問題ありません。

 この時間でフィートさんとマックイーンさん、ライスさんの仲を深めることができました。

 つまり、ファインプレイです」

 

「ファインプレイ……ファインドフィート……。

 ………。

 ……………!」

 

「フィート待って、それ以上はダメな気がするんだ……!

 はい、飴玉!」

 

「もごご」

 

 

 邂逅早々、トウカイテイオーによる飴玉封印。

 はちみつ味だった。

 機嫌良さげに耳を揺らし、ほっぺたの内側で飴玉を転がす。

 

「ちなみに初詣の後の予定は決まっていますの?」

 

「えっと……ライスは、何も聞いてないかな……」

 

「そのあたりは後で考えたら良いんじゃないかな~?」

 

「はい。それで問題ないかと」

 

「……もご」

 

 きっと、この無計画さも学生らしいといえるだろう。

 小気味よく鳴る五対の靴音は軽やかで、自ずとファインドフィートの心さえも揺さぶってくれる。無意識のうちに張り詰めていた肩の緊張が(ほぐ)れて行くほどに。

 舌を使ってころころ飴玉を転がす。

 とても、甘かった。

 

「さあ、行きましょう。

 目的地まで600メートルです」

 

「そうだね……行こっか!」

 

「うん!楽しみだねっ!」

 

「ええ。

 ……テイオー、もしよろしければフィートさんと同じものをわたくしにも……」

 

「しょうがないなぁ」

 

 そこそこの密度の人混みの間を縫うよう潜り抜けて、ゆっくりと目的地へのルートを辿る。

 人混みに流されないように寄り添いながら、口々に世間話の輪を広げて。

 特に今回が初めての対面となった一人と二人のセットがいる。

 故に互いの知見を深めるため、話を広げていったのは趣味の部分から。

 放課後の過ごし方、はちみー、流行りのケーキについて、おしるこ。

 やはりスイーツの話題がホットである。

 

 もちろん、ファインドフィートはコミュ障故に自分から話題をふることはできやしない。が、この場に居るのは気配り上手のメジロマックイーンだ。

 つまり、何も問題はない。障害もない。

 トウカイテイオーは自身の前を歩く四人を眺めて、尻尾をふらりと軽く揺らした。

 

 

 




ファインドフィート
本名は御供(ミトモ) ■■■(削除済み)
『弟』。
G1ウマ娘。女神に愛されてしまった子。
将来の夢は天文学者。
()()()()()()()()()()()()

ミホノブルボン
シニア級の二冠ウマ娘。
坂路の申し子、あるいはサイボーグとも呼ばれる。

トウカイテイオー
シニア級に君臨する帝王。
三度の骨折を乗り越え栄誉を掴んだ不撓不屈の体現者。
目がいい。

メジロマックイーン
シニア級。名優。特に高名なステイヤーの一角。
スイーツの趣味が合いそうな後輩を見つけてご満悦。

ライスシャワー
シニア級。黒い刺客とも呼ばれる。
最近、ミホノブルボンに髪を弄られることが多くなった。


『太陽』の女神様
愛しい子供たちを"しあわせ"にしてあげたい。


ファインドフィート
『姉』。
たった一人残った(残してしまった)片割れを、何を捧げてでも"幸せ"にしたかった。

けれども。
どんな結末を迎えようとも、二人はいつまでも一緒。





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14話

 何も考えずに、ただ笑い合っていた昔の日。きっと楽しかった初詣。

 新年を迎えて、『姉』や両親と顔を合わせて、"あけましておめでとう"を交換した。

 

 外は寒かったけれど、家族といれば暖かい。

 指先は凍えそうだったけど、手を繋いでいれば震えなかった。

 ……お参りのために水で手を清めるのは辛かったし、ガラガラと鈴を鳴らすのは少し疲れたけれど。

 けれど、苦ではなかったと思う。

 

 だって、その後に食べたおしるこがとても美味しかったから。

 暖かくて、甘くて――。

 こういうものが"幸せ"なのだと、無邪気に笑う事ができたから……それで良かった。

 それだけで良かった。

 

 

 

 


 

 

 

 石畳の表面を、数え切れないほど多くの声が叩く。

 老若男女、種を問わず。

 活気に満ちた新年を祝う熱気が立ち昇っていた。

 華美な装飾もさることながら、何よりも人、人、人。

 神社の境内にある道とて決して狭くはないはずなのに、それでも収まりきらない人の数。

 普段、足を踏み出せばコツリコツリと硬質な音を鳴らしてくれる筈だった青い靴も、この場に於いては力不足だ。

 鳴らした靴音は雑踏に圧し潰され、掻き消されてしまう。

 

 けれど、そんな些事を気にする余裕もない。

 ファインドフィートはくらくらと酔いそうになる額を押さえつけ、友人達に追従した。

 そうしていれば弱った四肢に活力が籠もる気がしたからだ。

 実際にミホノブルボンの直ぐ側に寄り添っていれば、俯きそうになっていた頭も耳もピンと立つほど元気になった。だからきっと間違いではなかったのだ。

 茶色のコートの後ろ側――尻の部分に開いた尻尾通しの穴が拡がるのに、そう時間はかからないだろう。

 

「ここが……神社ですか」

 

「こ、今年もすごい活気だね……!」

 

「はぐれないように注意しませんと……。

 特にテイオー」

 

「迷う訳ないよ!?

 ボクを何だと思ってるのさ!!」

 

「それはまぁ……ええ、アレですわよ」

 

「マックイーン!?」

 

 ──女三人集まれば姦しいとはよく言うけれど、トウカイテイオーとメジロマックイーンの場合はたった二人でも十分らしい。

 彼女等の活力を分けてもらいつつ、"なるほどなぁ"と大きく頷いた。

 ファインドフィートは賢い故に、こうやって新たな知識を不足なく取り込めるのだ。

 しかし間違った知識を飲み込む事も良くある。

 次回の国語のテストの点数はズタボロになっているかもしれない。

 

「まったくもぉー!

 ほら、神社に来たんだからやる事あるでしょ!」

 

「やること……?

 あっ、たい焼きのお店ありますよテイオーさん」

 

「………!

 たい焼き、カロリー、検索……。

 ──ヨシ、問題ありませんわ!行きますわよ!」

 

「ああ~!手を引っ張らないでヨー!」

 

「……あ、あっちにはハシマキがあるよ……!珍しいね!」

 

「ハシマキ……。

 西日本、九州地方発祥とされる粉物料理の事ですね。

 薄く伸ばした生地を割り箸に巻きつけている形状により、タスク『食べ歩き』に適しているようです」

 

 

 颯爽と駆け出したメジロマックイーン。引き摺られていったトウカイテイオー。

 そんな彼女等とは我関せずに口を開くMIHOpedia(非電子辞書)は今日も絶好調だ。

 

 とりあえず三人行動のまま動き回り、通路を挟んで並ぶ露店の一つ一つを覗く。

 そしてすぐ隣で多様なうんちくを垂れ流すミホノブルボンの口へと目掛け、購入した品々を突き込んでいくファインドフィート。

 それを嫌がるでもなく恥ずかしがるでもなく、進んで口を開く様やピコピコ動く耳も相まって犬みたいだった。尻尾も機嫌良く大きく揺れている。

 

 ライスシャワーはそんな彼女等の後ろ姿を、困惑を浮かべて見守るばかり。

 "ライスさんもどうですか?"と振り返る彼女のお誘いになんと答えればいいのだろうか?

 手渡されたハシマキをどう扱えばいいのか?

 期待の色──らしきものを浮かべたミホノブルボンへの対応をどうすべきなのか?

 気弱な彼女には何も分からなかった。

 

 ──そして、そんな彼女等の姿を尻目にあちらこちらの露店を渡り歩く芦毛のウマ娘がひとり。

 

「りんご飴、カステラ、綿あめ、たい焼き……!

 そしておしるこ!!

 こういうのですわ、求めていたのは!」

 

 立てばスイーツ、座ればパクパク、走る姿は年頃の乙女。

 一通り買い集めたスイーツを両手いっぱいに抱えて三人のもとに駆け戻る。トウカイテイオーは"ワケワカンナイヨー!"と嘆きつつ、後ろをついて回る事しか出来なかった。

 

 ……とはいえ一応、目的は見失っていないらしい。

 ゆっくり、ゆっくりと、参拝の為の社には向かってはいたのだ。

 たい焼きを食み、おしるこを呑み干し、カステラを頬張る。

 このタスクを不足なく熟しつつの行軍ではあるが、それでも進んでいた。

 

 そうして20分。あるいは、更に数分上乗せした程度の時間か。

 お腹がそこそこ膨れ上がる頃には魅惑の通りを潜り抜けて、お守りや破魔矢などの品々を扱う売店の前へと到達できた。

 ファインドフィート以外の面々はこれまでに何度か訪れたことのある場所である。

 慣れもあってか、足取りに迷いは見えなかった。

 

「おや、あれは……?」

 

「……えっと、どうしたの?」

 

「ライスさん。

 ……あそこで扱ってるお守りが、少し"変わっている"みたいでして……」

 

 購入者の邪魔にならないよう迂回しつつ、横から商品名を覗き見る。

 若干小さな字ではあるが──ウマ娘の視力のおかげで、読み解くのはそう難しくはなかった。

 

「………『なんかめちゃイケ開運祈願』?」

 

「あっ、聞いたことあるよ。

 最近こういうのが人気なんだって……ライスも、一個買っちゃおうかな……!」

 

「では、わたしも」

 

 他の三人に断りを入れて、売店の前に連なる購入者の列に加わる。

 由緒正しき神社にしては"フランク"な品々は、その目論見通り若者世代に大人気であるらしい。

 それ故にか、ファインドフィートとライスシャワーの前に立つ人々は学生が多い。

 もちろん、これまで通りのしっかりとした名目のお守りは変わらず用意されているため、それ目当てでは無い人も居ることには変わりないのだが。

 

 おそらく女子高生と見られる面々が賑やかに──節度を持った音程ではしゃぐ姿を聞き流しながら、黙々と立ち尽くす。

 ……こんな時にこそ、ライスシャワーと世間話をするべきだという思いはあった。

 

「…………」

 

 ──あったのだが。

 そこはファインドフィートである。やはり無言だ。

 

 自分から声を掛けようにも、何を話せばいいのか分からない。

 彼女の会話レパートリーは一にトレーニング、二にスイーツ、三に──。

 

 ………なんと、三は存在しなかった。

 予想以上に少なかった自分の引き出しに気付いて愕然とする。タンスの改修工事が必要である。

 改修方法(対人トレーニング)はもちろん知らない。

 

 だからどうすると言う訳でもなく、"さて、どうしたものか"と天を仰いだ。

 空は憎たらしいほどに快晴だ。

 寒いという事実に変わりはないけれど、陽光は普段通りに輝いている。

 ファインドフィートの内心と乖離の激しい現実を見て、腹立たしげに尻尾を一振り。

 ……しかしその挙動はどこかぎこちない。

 緊張、羞恥、はたまた単なる寒気による物か。

 

(……)

 

 ファインドフィートはこれを"寒気"によるものと結論付けた。

 真実はどうだろうか?本当に寒気のせいなのか?

 もしもこの議題をトウカイテイオーが知ったのなら、前者二つと答えを弾き出すに違いない。

 

 何にせよ間違いがないのは……隣のライスシャワーに当たらないようにか、無意識の内に気を遣った軌道を描いていること。

 ライスシャワーにとっては、それさえ分かれば十分であった。

 

「ふふっ……」

 

「……なんでしょうか」

 

「あっ、ご、ごめんね……!

 その、あの……」

 

「いえ……怒っているわけでは無いのですが」

 

「おそらくフィートさんの表情が原因ではないかと。

 ステータス『無表情』は、その気がなくとも怖がられてしまう傾向にあります。

 それによる先入観と、実物(賢さG)を隣にした際の──」

 

 横からニョキリと生えてきたサイボーグはかく語りき。

 後方で待機したままの二人も言葉の主を見て、深く納得した。ファインドフィートも同じくだった。

 "ブルボン先輩のことですか?"

 "いいえ、違います。確かに私のコミュニケーション機能に難があることは認知しています。しかしそれはただ単に私というウマ娘の内面部分を一切知らない、または知らせることが出来なかったが故の現象であり──"

 "すごい早口じゃないですか……"

 

 ……第三者視点から見れば、どっちもどっちである。

 そんな事実に気付いていないのは当のウマ娘達のみだった。

 

「……あのね、あのね。

 フィートさんも普通の女の子何だなぁって思うと……なんだか安心しちゃって……!」

 

「あぁ~……確かに顔を見ただけだと殆どサイボーグみたいだよね~。

 ちょっとでも関わるとすぐにポンコツって気付けちゃうけど!」

 

「……テイオーさん。

 何故、私の方を見ながら言うのですか。

 説明を要求します」

 

「別に~?」

 

 ころころ笑うその顔が答えだろう。

 ミホノブルボンは納得したふうでもなく──ただ、拗ねたように耳を伏せた。

 

 ――そうこうしていれば、やがて列も捌けていく。

 数分後にはお守り──というには、やたらとカラフルな布袋が二人のウマ娘の手に渡っていた。ちなみにお値段は……にんじん3本分といったところである。

 これがお買い得か否かは、個人の所感によって変わるに違いない。

 少なくとも、早速自分の財布にくくりつけたファインドフィートはご満悦に耳を揺らしていた。

 

 ともかく、これで寄り道は完了である。

 当初の目的を忘れてはいけない。

 あくまでも、ここに来るまでにした寄り道は寄り道でしかない。

 初詣といえば何か。

 新年を祝うため。そして新しい一年が幸福でありますようにと、神に祈願する行事である。

 彼女等もしっかり忘れず祈りを奉じるため、参拝客の列に並ぶ。

 一応神聖な場であるという意識もあったからか、次第に声音も小さくなっていた。

 

「……手水舎(ちょうずや)ですわね。

 忘れず寄って行きましょう」

 

 参道の脇にある手水舎に足先を向ける。

 柄杓の水で指先を濡らし、簡単に身を清めた。

 そして末端を伝って余計に冷えだした身体を小さく震わせつつ、また列に戻る。

 ファインドフィートはもう既に、ただただこの初詣を早く終わらせて温かい飲み物を──例えば、おしるこを食べたい気分に浸っていた。

 

「……………」

 

 歩く。止まる。歩く。止まる。

 そしてまた歩く。

 列に合わせて少しずつ前へ進み、本殿の前にたどり着いたのは幾分後なのか。

 もはやそれに思考を巡らせるのも億劫だ。

 

 賽銭を握りしめて、大きな鈴とそれから垂れる縄を見上げる。

 ガラガラガラ、と鳴らしてみれば──思った以上に大きな音が出て、少し肩が跳ねてしまった。

 曰く――この鈴を鳴らす行為は、自らが訪れたことを"神"に知らせる為のものらしい。

 それを母に教えてもらった幼き日のファインドフィートは、"それってインターホンみたいな物?"と聞き返したのだったか。

 

「すぅ………」

 

 呼吸に合わせて二礼二拍手、一礼。

 ぱんぱん、と手を鳴らして、下げた頭。

 さらりと揺れる芦毛は軽やか。

 ……だったが、その内に籠もったのは如何な想念なのか。

 

「…………」

 

 頭を持ち上げるまで、一呼吸を空けて。

 するりと列の外側──既にお参りを済ませた後の友人たちの元へと合流した。

 おしるこを幸せそうに啜るメジロマックイーンが目印。よく目立つ。

 

「おかえりなさい、フィートさん。

 ……何を願ったのか、お聞きしても良いですか?」

 

「………ナイショ、です」

 

「えぇ~、恥ずかしい事なの?」

 

「いいえ、いいえ。

 ですが……ナイショです」

 

 耳も尻尾も、欠片として揺れていない。

 苛立たしさも、呆れも無い。

 普段それらから心理情報を採取しているミホノブルボンは、おや、と目を瞬かせた。

 なにせいつもは感情豊かに躍動するものがカチコチに固まっているのだから、思わず彼女の調子が悪いのかとも心配してしまう。

 なので"ほぐせば回復するのでしょうか"とモフモフ、モミモミと尻尾をこねくり回しておいた。

 モフモフ、モフモフ。

 無心で指先を動かすサイボーグの姿は、控えめに言って精神年齢幼女である。

 

「……はぁ」

 

 気怠そうに振られた尻尾に両手を解かれて。

 しかし満足そうに"ミッション、『尻尾ほぐし』完了です"と呟く様子も、やはり精神年齢幼女であった。

 

 

「……おっと、おみくじもあるんだ」

 

「せっかくですわ、引いてみましょうか」

 

「あぅ…………」

 

「ライスさん、大丈夫です。

 これはあくまでも験担ぎ、運試し……運……」

 

「……大丈夫ですよ、きっと。

 所詮は運試しですから」

 

「うん、そうだね……!」

 

 

 

 


 

 

 

 運試しは運試し。

 大吉だったから良いことがあるわけでもない。

 大凶だから辛いことが起こるわけでもない。

 そういうものでしょう。そういうものです。

 きっと、きっと。

 



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IFルート/赤い靴の乙女

 ──死なないで。

 

 耳の奥を、胸の底を優しく撫でる声だった。

 死なないで。死なないで。

 何度も何度も繰り返し、繰り返し、刻み込むように囁かれる。

 死なないで。死なないで。

 生きて、どうか──どうか。

 

 聞いている側が泣きたくなってしまうほどに悲しい声で、深々と唄っている。

 だから彼女はそんな彼を安心させたくて。

 また昔みたいに笑ってほしくて、"大丈夫ですよ"と穏やかに口遊んだ。

 

()は、生きている。

 ……生きているんです」

 

 望んだものは、返ってこなかった。

 

 

 


 

 

 

 薄暗い部屋の窓の外から、無粋な陽光が射し込んでいる。

 一条の光であっても暗がりを切り裂くには十二分。

 今の今まで眠りこけていた彼女の眼にしてみれば過度な刺激だ。

 ほんの少しの苛立ちのまま白いウマ耳を震わせた。

 

 ……けれども、朝になったのなら仕方がない。

 ついでと言わんばかりに闖入してくる小鳥の囀りに少しだけ耳を伏せつつ、のろのろと起き上がる。

 

「……はぁ」

 

 寝起きでボサボサになった頭髪が、反射光で白く煌めいた。

 それは殊更に彼女の意識の覚醒を促しているようで、ほんのちょっとだけの苛立ちも覚えてしまう。

 自分の一部のくせに──あるいは、自分の一部だからか。

 ……なるほど、朝に弱い事はお見通しか。

 さすが私ですね、とくだらない賛辞を込めて弄ぶ。

 

「ブルボン先輩は……まだ、眠っていますか。

 ということはまだ6時か、その程度でしょう」

 

 隣のベッドの主を起こさないように、慎重に、静かに足を下ろした。

 そろりそろりと無音のまま歩みを進め、机の前に腰掛ける。

 そして収納から鏡を取り出し、頭部の全体が入るように覗き込んだ。

 

「……」

 

 自慢の芦毛に櫛を通す。

 慣れた手付きで白い長髪の一本一本に活力を与えて、しなやかな姿へと。

 これを終える頃には同室の先輩──ミホノブルボンも起きてくる頃合いだろう。

 横目で見た時計に曰く、現時刻は6時20分。ミホノブルボンが起きてくるのは6時30分だ。

 体内時計が恐ろしく正確な先輩の事だから、きっと遅滞なく目を覚ますのだろうと確信があった。

 

 起きてきたら髪を梳かしてあげようか、なんて、予定を立てながら。

 少女──"ファインドフィート"は、()()()をじっと細める。

 春と言うにはまだ早い。

 しかし冬と言うには遅すぎる季節の冷ややかな寒気に身を震わせ、小さく頷いた。

 

 ちゃらりと揺れるカーネリアンの耳飾り。

 つられて震える青の飾りも、軽やかに髪と戯れる。

 

「今日も、良い一日になりそうです」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 起床したミホノブルボンの髪を梳かして身支度を整え、連れ立って訪れたのは早朝のカフェテリア。

 今日は土曜日である故に学業はない。

 しかし、ここトレセン学園は競走ウマ娘達の楽園だ。

 アスリートとして日々自身の肉体を鍛え上げる事に余念がないのが彼女等である。

 

 ……つまり、何が言いたいのか。

 それはトレセン学園は年中無休ということだ。

 ウマ娘達の食を支えるため、土曜日も日曜日も台所はフル稼働。

 雨の日も雪の日も、うら若きウマ娘達の食欲を癒やすために奮闘している。

 

「本日のおすすめメニューはウマ盛り唐揚げ定食だそうです。

 ……タンパク質、糖質、脂質含有率、ビタミンバランスの計算中……。

 ……計算完了。

 オーダー、ウマ盛り唐揚げ定食をお願いします」

 

「……私は大盛り焼き魚定食で」

 

「あいよッ!」

 

「朝からそんなに食べてもいいのですか、ブルボン先輩」

 

「はい。

 本日のトレーニングメニューは、かなり『ハード』なものに設定されています。

 エネルギー効率を計算した結果、問題なく消費しきれるという結果が算出されました。

 つまり問題ありません」

 

「なるほど……」

 

 やけに恰幅のいいおばさまから大皿の定食を受け取り、適当な空いた席に陣取る。

 右を見ても左を見てもウマ娘。

 塔と見紛うほどの食料タワーもチラホラ見受けられる。

 特に──テレビでも見覚えのある芦毛のウマ娘の席は、実に圧巻だった。

 

 ……それを抜きにしても、未だに見慣れない光景だと思う。

 地元には他のウマ娘が殆どいなかったから、尚更に。

 

「食べないのですか、フィートさん」

 

「ああ、いえ……そうですね。

 頂きましょう」

 

「はい。

 朝食は大事ですから」

 

 "いただきます"と手を合わせる。

 母から教わった礼儀作法はしっかりと染み付いていた。

 ……しかし食事はゆっくり上品にとはいかないもので、米に漬物、焼き魚を次から次へと口の中に放り込んだ。

 

 別に予定を急いでいるわけでもない。

 だが食事のペースはかなり早かった。

 咀嚼し、味わい、飲み込む。

 たったこれだけの動作ではある。そう早める必要はない。

 だというのに何故こうも箸が止まらないのか──。

 

「…………むぐ」

 

 ──まぁいいかと、さっくり思考を打ち切る。

 今日も今日とてトレーニングの予定がしっかりと詰まっているのだ。早いに越したことは無い。

 それにファインドフィートもミホノブルボンも元来口数が多くない気性だからか、ほぼ無音のままに時間が過ぎていく。

 時折学業に関してや、家庭科の補習について、はたまた尻尾の手入れについてなど、穏やかな会話がぽつりぽつりと起こるのみ。

 後は周囲のウマ娘達の賑やかな声が響くばかりだ。

 

 咀嚼。嚥下。

 咀嚼。嚥下。

 水分補給。

 咀嚼。嚥下。

 はちみー。

 咀嚼。嚥下。

 

 ──そうしていればあっという間。

 空っぽになった皿が机の上に鎮座するだけ。

 

「ごちそうさまでした」

 

「はい、ごちそうさまでした。

タスク、礼儀作法を完遂……エネルギー充填率、上昇。

現在のステータスは『満腹』です」

 

 お盆に載せ返却口まで持ち運び、おばさまに一言を添えて返却する。

 "美味しかったかい?"と威勢のいい問い掛けにいつも通りの"美味しかったです"を送り返して、後続のウマ娘達に場所を譲った。

 ふと振り向けば、おばさまは続く彼女等にも同じように感想を聞いている。

 その姿はまさに職人。まさにプロフェッショナル。

 素直にすごいなぁと、尊敬の念を禁じえなかった。

 

「……行きましょうか」

 

「はい」

 

 腕時計を確認する。

 トレーニングの開始は現時刻から数十分後。

 時間的な余裕はあった。

 道中は多少ぼんやりと歩いていても良いかもしれないなと、小さく頷く。

 なにせいい天気だ。

 こんな日こそ陽光を全身に浴びて、風に吹かれるべきだろう。

 

 ──視界の隅っこでも、"青い目の少年"も小さく同意の首肯を返していた。

 

 "なるほど、やはりこの選択で正しそうだな"、と。

 お気に入りの赤い靴を打ち鳴らして、今日の指針を脳内手帳に書き込んだ。

 

「では、また」

 

「はい。フィートさんもお気をつけて」

 

 ミホノブルボンへお辞儀を一つ。

 彼女とカフェテリアの前で別れて、学園内を縦横無尽に走り回る通路に足を踏み入れた。

 

 本日のトレーニング内容はスピード系統──実技訓練だ。

 つまり、向かうべきは芝の練習コースである。

 着替えはカバンに収納済み。練習用のシューズも同じく。

 そのおかげで自室に寄る必要も無かった。

 

 だからゆっくり歩こう。つい先程胸の内で決めた通りに。

 誰に言うでもなく、口の中で言葉を転がす。

 コツリコツリとのんびり駈歩(かけあし)

 緩やかな風が心地良い。

 隣を走る"青い目の少年"も、やはり気分良さげに長い芦毛を棚引かせていた。

 

「…………おや」

 

「む、ファインドフィートか。おはよう」

 

「はい、おはようございます。

 エアグルーヴ副会長」

 

 お辞儀を一つ、挨拶に合わせて贈る。"青い目の少年"はいつの間にか消えていた。

 鹿毛の少女──エアグルーヴは常と変わらず、気品漂う佇まいだ。

 ファインドフィートのカバンを一瞥して、徐に口を開いた。

 

「これからトレーニングか?」

 

「はい。

 もうすぐ皐月賞ですから……しっかり、追い込まないと」

 

「……そうか。

 無理はしない程度にするんだぞ。

 お前ならそのあたりの問題は無さそうだが」

 

 なんて言いながらもしっかり心配してくれるあたり、やはり面倒見の良いウマ娘である。

 ファインドフィートもその気遣いを理解しているからか、やや嬉しそうに尻尾を揺らしながら大きく頷く。

 

 身体負荷、適正強度。

 トレーニングをする上で最も気を付けなければならない観点だ。

 特にウマ娘の肉体──とりわけ、その足は消耗品にも例えられる程繊細な代物。

 そしてその管理の手腕こそがトレーナー達の手腕の見せ所の一つであり、ファインドフィートのトレーナーが秀でた分野でもある。

 故に不安はない。懸念もない。

 

 ただ、注意すべき点があるとするなら──。

 

「……では、エアグルーヴ副会長。

 またお会いしましょう」

 

「ああ、気を付けて」

 

 ──いいや、考えた所で詮無きことだ。

 エアグルーヴと、彼女が世話をする花壇に背を向け再び走り始めた。

 コツリコツリ、コツリコツリ。

 靴の音が軽快に響く。

 ファインドフィートの心もまた、同様だ。

 

 途中のロッカールームでいつもの赤いジャージへと着替えを済ませて、それから更に数分後。

 目的地の練習場へ到着すると、既にトレーナー ──葛城トレーナーの姿があった。

 痩せぎすの青年で、見るからに不健康な身体。ガイコツと呼びたくなってしまう程脆い肉体。

 ……だが、彼が有能である事に間違いはない。

 果たしてしっかりと毎食を食べているのか。夜はきちんと眠っているのか。

 "指導者の不摂生とはこれ如何に"、と思い悩んだのも一度や二度ではなかった。

 

「……お疲れさまです。トレーナー」

 

「ああ、よく来たな。

 今日の指導内容は覚えているな?」

 

「はい。予習は万全です」

 

「そうか……では早速始めてしまおうか。

 時間は有限で、積める努力もそれに等しいんだからな」

 

「……はい」

 

 目元の隈はいつだって色黒く、末期の病人にさえ見えてしまう。

 それを自覚しているのかしていないのか──それさえも定かではない。

 ただ、ギラギラと輝くその瞳だけは生気に溢れていた。

 だからそれを無視してまで彼の邪魔をするのは間違いなのだろうと、言葉をそっと飲み込んだ。

 

「準備、できました」

 

「了解」

 

 所定の位置について、一つと二つ呼吸を深める。

 吸って、吐いて。吸って、吐いて。

 吸って──。

 

 ──コースの外の柵の傍に立つトレーナーが、細い右手を掲げていた。

 緩やかにそびえ立つ指先を尻目に、また一つ大きく肺を萎ませる。

 そしてもう一度喉を大きく開いて──。

 

「──ッ!」

 

 振り下ろされた手を追いかけるように、地面を蹴り抜き走り出した。

 ハーフバウンド。回転襲歩。交叉襲歩。

 ウマ娘の基本の歩法を忠実になぞり上げて血気盛んに風を切る。

 

 ごうごうと耳を叩く空気の音が心地良い。

 とうとつと身体を叩く冷気さえも、素晴らしく甘味なもの。

 

「ハッ、ハッ、ふッ──」

 

 ──まばたきをする。

 すぐ隣に、また"青い目の少年"が居座った。

()()()()に合わせて、朧げな像が少しずつ堅牢に定まる。

 ファインドフィートと鏡写しの容貌で、まったく同じ軌道を描いて風を切る。

 

 ……しかし、彼の足元には影がない。

 全く同じ速度で走っているというのに足音さえもない。

 ただの幻影であることは、ファインドフィート自身も理解していた。

 

「──」

 

 けれども、彼は間違いなくそこにいる。

 ファインドフィートにしか見えずとも。

 ファインドフィート以外が覚えていなくとも──ただの幻影に過ぎないとしても、そこにいるのだ。

 

 走っている限りは消えない幻影。

 走って、走って、走り続けて──ファインドフィートが命を燃やし続ける限り、彼が消えることはない。

 彼と一緒にいる事が出来る。

 

 それだけが真実だ。

 けれど、それがどうしようもなく嬉しくて。

 どうしてか分からないけれど、泣きたくなってしまう。

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

『ねぇ、お医者さん』

 

 湿った水気に混じって、幼い子供の声が響く。

 交通事故の被害者のうちの一人。

 四人家族の、双子の『弟』。

 少年は清潔なベッドの上に乗せられたまま、青い瞳をゆるく開いた。

 声音に活力はない。瞼の動きもゆるやかで、老人のように枯れている。

 しかしそれでも問わずにいられないと、血糊で乾いた唇を震わせた。

 

『姉さんは、どうなったの?』

 

『……それ、は』

 

 問われた青年は、何も答えられなかった。

 引き攣った喉から鳴るのは意味も為さないただの喘鳴。

 形さえない無為な嗚咽。

 

 彼は真実を知っていた。

 少年の片割れが直に至るだろう末路も知っている。

 だからそれを口に出すだけでいい。

 言葉として紡げばいいのだ。

 

 ……けれども、しかし。

 たったそれだけの行為が酷く苦しくて、舌が固まって動かない。

 青年は若く、未熟で、優しかった。

 医者としても、一人の大人としても。

 

『そっか……』

 

 そんな彼の裏側を読み取って、か細く息を吐き出した。

 消化しきれない思いをどうにか分解して、余った熱を呼気に溶かし込む。

 そうすることで、どうにか平静を保とうとしていたのだ。

 

『そっか』

 

『……すまない』

 

『ううん、謝らないで。

見えてたから……薄々そんな気はしてたんだ』

 

 ……幸か不幸か、彼は幼くとも聡明であった。

 自分の片割れがどうなったのか。

 これからどうなるのかという事実を、事実としてすぐに飲み干せるほどには。

 

『ねぇ、お医者さん』

 

 自分の『姉』が死ぬ。死んでしまう。

 たった一人の半身が命を落とす。

 こんな唐突に訪れる不幸で、あっさりと。

 

 伏線なんて無い。

 前兆さえも無い。

 そうなるべきという理由も、大義も意義も無い。

 ただ死ぬ。

 物言わぬ骸と成り果てる。

 ……そんな未来を思い浮かべるだけで、胸がきゅっと締め付けられた。

 

『…………』

 

 ……死因として挙げるのなら、臓器の多くを失ったこと。

 彼は車の中での光景を鮮明に覚えていた。

 砕けていく両親も、ガラクタに体中を貫かれる『姉』の姿も。

 

『ああ、そうだ』

 

 ──そこから何故、どんな思考を経てこんな突拍子もない結論に飛躍したのか。

 はたまた末期の妄想染みた、理論も何もない単なる願望なのか。

 ……何であろうとも、彼がこの考えに至るのも必然だった。

 

『それなら、さ』

 

 ──補えばいいじゃあないか、と。

 足りないもの(臓器)(自分)から付け足して、生存(蘇生)が叶うように整えればいい。

 

『ぼくを、使って』

 

 そう語る彼の下半身は殆ど潰れてしまっている。

 当然のように、己の命が長くないことを悟ってさえいた。

 このまま何もしないのなら死んでしまうだろう。

 四人家族で、四人共が死に絶える。

 当然の摂理だ。物理現象としてあるがままの、無慈悲な終わり。

 

 ──けれども、たった一つだけ。

 そんな現実を覆す手段があった。

 最後に残る一人を生かすための、最も冴えた方法が。

 

『……ごめんね、姉さん』

 

 解像度を失い始めた視界。

 色彩は昏く、形は朧げ。

 

 もう星も見えない。空なんてどこにもありはしない。

 それでも命を繋げるのなら、それでいいじゃあないか──回りもしない舌の上に、ポツリと吐き出した。

 苦しくても、辛くても、悲しくても、一人ぼっちでも。

 どうか幸せを掴んでほしい。

 

 その想いを無責任だと理解した上で、それでも祈った。

 足りないのなら臓物だって、血だって、骨でもなんでもいい。何を捧げてもいいのだ。

 だから"助けて"、と。

 

『女神さま、女神さま。

 どうか、どうか──』

 

 

 

 

 

 "──ああ、ああ……"

 "なんて、なんて──美しい。

 これが家族の絆、これが愛のカタチ、献身の証明"

 

 ……故に、御供 ■■■(削除中)の願いは叶えられた。

 恐らく──。

 ──いいや、間違いなく、この『双子』の尊厳を踏みにじる事を代償として。

 

 "しあわせに、してあげなければ……"

 

 

 


 

 

 

 ──走って走って、走り続けて。

 幻影を追いかけ始めてから幾年が経ったのか。

 実年数を言えば四年程度。

 けれど体感的な年数で言えば、もっと走っていたような錯覚にも陥る。

 

 片割れから受け継いだ肉と血は白熱を重ね続けて、今となってはファインドフィートというウマ娘の性能を大きく引き上げるまでになっていた。

 ヒト由来の回復力は素晴らしく、多少の損耗はいとも容易く癒やしてくれる。

 傷付き。癒やされ。傷付き。癒やされて。

 この工程を繰り返す度に幻影は色濃く変化して、ファインドフィートの心を支える柱として機能し続けた。

 

 ──そうして至ったこの大舞台でも。

 多くの少女達が追い求める皐月賞というステージに登っても尚、すぐ傍に居るのだ。

 これのなんと喜ばしいことか。

 

 だから、走り続けなければ。

 どこまでも走らなければ。

 命を燃やす限り、彼は──『弟』は消えずにいてくれるのだから。

 

「……ええ、大丈夫です。

 ファインドフィートは、速いですから」

 

 赤い靴を打ち鳴らし、ターフの上へと躍り出る。

 くるりと舞う尾は軽やかで、ずしりと沈む胸の奥とは正反対の挙動の極み。

 

 ステップ、ステップ、ステップ。

 アン、ドゥ、トロワ。

 リズムを合わせて呼吸を弾ませ、華麗に雅にスリーステップ。

 

 死がふたりを分かつまで。

 ……いいや、死がふたりを分かつとも。

 きっと、ファインドフィートは走り続ける。

『弟』を連れて、訣別からの逃避行だ。

 

「ずっと……ずっと、一緒ですよ」

 

 きっと最後まで。

 最後のその先に至るまで。

 

 

 

 



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15話

 

夢を見た。

"それ"は夢を叶えた夢だった。

きっとある意味では、幸福だった。

けれどもある意味で絶望に沈んでしまうような、そんな夢。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

「……姉、さん」

 

 ──唐突に響いた声が、耳朶を通って脳漿に反響した。

 透明な声音は意識を貫き、夢の海に沈んでいた自我を呼び醒ます。

 

 そのソプラノボイスが自分の喉から発せられていることに気付くまで掛けた時間は、たっぷり呼吸五つ分。

 緩やかに開く瞳が暗闇の中で瞬いた。

 

「姉さん……」

 

 続いたのは、やけに物悲しい声だった。それに随分と情けない声だった。

 ファインドフィートは自分で自分の事を無意味に詰って、また青い目をゆるゆると瞬かせる。

 時間帯はまだまだ深夜の領域。

 カーテンの隙間から垣間見える風景は当然の如く黒一色だ。

 陽の明かりの片鱗もない、まったくの暗闇。その深さにはいっそ寒気さえ覚えてしまう。

 

 しかし数分も経てば次第に慣れていくもの。

 いくらかは暗闇を見通せるようになった視界を駆使して、枕元に置いていたデジタル時計を手繰り寄せる。

 ぼんやり浮かび上がった文字が形作る現時刻は深夜2時。彼女が寝に入ったのは夜の9時。

 そこから逆算すると取れた睡眠は5時間前後か。

 とてもでは無いが──成長期のファインドフィートにはこれっぽっちも足りない睡眠時間だ。

 だからこそ、どうにか再び眠りにつこうと布団に潜る。

 頭まですっぽりと毛布をかぶり、外界から遮断され、自分の中に引きこもる事で意識を鎮めようとした。

 

「…………」

 

 けれども、眠れない。

 じっと瞼を下ろしてみても、押し寄せるはずの眠気は全く湧いてこない。

 どうしてか心細くて、寒くて、震えることしか出来なかった。

 

 理由は──強いてあげるなら、さっきまで見ていた夢のせいだろう。

 せい、とは言っても、彼女自身は見ていた筈の夢の景色を全く覚えていないけれど。

 何を見ていたのか、何を感じたのか、何を以って恐怖の源泉としたのか。

 それらの正体は陽炎よりも尚朧気で、答えはどこにもありはしない。

 ……ただそれでも、唯一薄ぼんやりと湧き上がる、暗澹と淀んだ想い。

 

 たったそれだけ。

 たったそれだけの想いが、ファインドフィートの心胆を苛んで止まなかった。

 

「……ダメ、ですね」

 

 指先が寒さで震える。

 気温も体温も凍えるほどに冷たいというわけではないのに、止められない。

 

 一応数分間は粘ってみた。

 が、しかし耐えきれず、ベッドから上体を起こして布団の包容から逃れ出た。

 身を晒した先も真っ暗だからか、心細くてしょうがない。

 部屋の隅、ベッドの下、天井の裏側。

 あらゆる場所にあらざる何かがいるのではないかと無意味な疑心暗鬼にさえも至ってしまう。

 

 ……そもそも、ファインドフィート──その前身の■■■(削除済み)は臆病者だった。

 何をするにも恐る恐る足を踏み出して、それでも怖くて。

 最終的には『姉』に手を引いてもらってようやく歩き出すような、そんな少年だったのだ。

 

 そして三つ子の魂百までというように、臆病者という気性は今になっても変わっていない。

 このように無意味に多々の言葉で飾り立てはしたものの、結局の答えを端的に言ってしまえば、何も見えない暗闇に怯えているだけである。

 

「……フィート、さん?

 どうしたのですか……?」

 

「ブルボン先輩……」

 

 ──しかし、この部屋にいるのはファインドフィートのみではない。

 心強い味方こと、ミホノブルボンも存在していた。

 

 眠たげに瞼をこする彼女も、当然ながらつい先程までは眠っていた。

 だが、ファインドフィートが鳴らしてしまった微細な物音で目を覚ましてしまったらしい。

 言葉を交わすまでもなくそれを理解した途端。申し訳無さで尻尾が萎びてしまった。

 

 ……が、正直に内心を表すなら、言葉を交わせる相手がいるという事実がこれ以上なく嬉しかった。素直に安堵のため息さえも零した程だ。

 もちろん、本人がその思いを告げることはないけれど。

 

「……あの、すみません。

 そちらのベッドに入れてもらえませんか?」

 

「……?

 ……ベッドのスペースは空いています。

 つまり、問題ありません」

 

「ありがとうございます……」

 

 ゴソゴソと自分のベッドから枕のみを引き剥がして抱え込み、ミホノブルボンのベッドへと移住する。

 やってきた彼女を迎え入れた先住民のミホノブルボンは、自分と同体格のウマ娘が収まれる程度のスペースを確保してくれていた。

 その空いたスペースにすっぽりと収まれば途端にファインドフィートの総身を包むぬくもり。

 それは物質的なものというだけではなく、安心感とも言えるもの。あるいは実感だろうか。

 独りではないという事実。それこそが何よりも嬉しくて仕方がなかった。

 

「ふぁ……おやすみなさい、フィートさん……」

 

「……おやすみなさい、ブルボン先輩」

 

「すぅ……」

 

 ──彼女の隣の栗毛の少女から寝息が響き出したのは、それから僅か数秒後のことだった。

 サイボーグだの何だと言われても、結局彼女もただのウマ娘。

 ご飯だって普通に食べるし、夜にはしっかり眠るし夢も見る。

 無垢な寝言に紛れた言葉──"ガション、ガション……了解、爆破します"というワードから察するに、戦闘ロボットになった夢でも見ているのだろうか。

 声音の中に苦悶の呻きが交じっている訳ではないので、その部分は安心できるだろう。

 

 ファインドフィートも深く息を吐きだして、天井へと意識を向けた。

 さっきまでとは違って、何も怖くない。

 暗闇がすぐ傍にあっても、何も。

 

「…………」

 

 不意に、彼女の小指がミホノブルボンの小指と触れ合った。

 そこから伝わる体温はとても高い。

 間違いなく幻影や夢では感じ取ることの出来ないものだ。

 

「……暖かい」

 

 聴こえてくる鼓動はしっかり二つ。重なる吐息も二人分。

 

 ……だから、ファインドフィートは独りではない。

 誰かと触れ合えるのなら、独りではないのだ。

 だから暗闇も何も怖くはない。

 この無意味な全能感は、己の庇護者に対する無邪気かつ無根拠な信頼感にも似ていた。

 

 しかしそれを実感できるというだけでも、途端に瞼が重くなる。ずっしりと、鉄の機構で制御されるように。

 それに引き摺られてゆっくり、ゆっくりと沈んでいく意識。朧げになる思考回路。脱力していく耳のハリ。

 規則正しい呼吸を繰り返せば繰り返すほどに、ぬるい眠気が膨らんでいく。

 

 それから、そこに二人が並び二つの寝息が占領するまで、一分も必要なかった。

 もしもこの場面を誰かが目撃したのなら仲睦まじい姉妹の姿と解釈するだろうか。

 

 ……実態はどうであろうとも、結果的にそうなることは間違いない。

 ファインドフィートも、ファインドフィートの『姉』も、ファインドフィートが姉のように慕う存在も共にいる。

 だからきっと、素晴らしいことである。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ──それから、何事もなく夜が明けて。

 目を覚ましたファインドフィートはまず"何故今更あのような子供染みたことを……"と顔を覆い隠した。

 いくら心が弱っているにしてもあれではただの子供ではないかと。

 

 ……しかし対するミホノブルボンは一切動じた様子もなく。

 普段通りに目を覚まして普段通りの挨拶を口にして、普段通りに身嗜みを整えて。

 いっそ清々しいほどに何も変わらないままだった。

 

 そんな姿を見てしまえば一人で悶々と悩んでいるのも尚更におかしく思えてしまう。

 故に心の奥底からほんのりと湧き上がる気恥ずかしさには蓋をする。そして何事もなかったかのように──本当に何事もなかったことにして、いつもの生活を営み始めた。

 

 朝食を胃に詰め込み、そのままの足で学校に赴き、各々の教室に分かれて授業を受ける。

 このトレセン学園に所属するウマ娘はアスリートであると同時に一介の学生でもある。決して学業も欠かしてはならないのだ。

 

 ──そうして迎えた放課後。

 定められたスケジュールに従った結果、現在地はトレーニングジムのロッカールーム。

 今日も今日とて複雑難解な(眠たくなる)授業を必死に乗り越えたファインドフィートは満身創痍(ただの知恵熱)である。

 

 数学や国語、地理に英語。

 数年前の小学校時代とは違って格段に上昇した難易度にはついていくだけでも精一杯だ。

 こうしてトレーニングジムに到着しても尚脳内に居座るのだから、まったく手に負えたものではない。

 

 例えば数学。

 四則演算の領域から飛び立ち、複雑さを増した計算の式。

 多種多様な数理の数々を読み解くことは、ファインドフィートが最も苦手とする分野である。

 "それにしたって算数では不足なのでしょうか"と、不満げに手元の復習用プリントに視線を落とした。

 踊る文字は奇々怪々。意味不明な数字の羅列としか思えない。

 最低限、補習は受けずに済ませたいところだが──しかし、残念ながら無傷で通過できる自信はない。

 むしろ補習を受ける自信しかなかった。

 

「はぁ……」

 

 ……とはいえ今から考えたところでどうしようもないのも事実だ。

 パサパサと指先でプリントを弾きながら、後で質のいい鉛筆を探しておこうと思い直す。

 ファインドフィートの判断基準では"六角形"でよく()()()()()()ものがベストである。

 

 それに、学業の時間はもう過ぎた後だ。

 プリントをカバンの奥深くに押し込んで、さっくりと気分を切り替えた。

 これよりは待ちに待ったトレーニングの時間である。

 

 そそくさと学生服を脱ぎ捨てて、手に取ったのはトレーニング用のウェア。

 黒いタンクトップと白いショートパンツ。ワンポイントとして所々に走る青いラインが特徴的だ。

 胸元に鎮座する()()がしっかり隠れていることを確認した上で、トレーニング用のベルトを抱え上げる。

 高重量トレーニングの際にはこのベルトを用い腹圧を高めることで負担の軽減、および姿勢の安定化を図る器具だ。

 もちろんこれはファインドフィート自身で調べたのではなく、トレーナーから聞きかじっただけの知識である。

 

「トレーナーが来るまでにストレッチぐらいは済ませておきましょうか。

 レースでもないのにケガをしてしまうなんて……バカみたいですからね」

 

 そう小さく呟きながら向かったのはジムの一角にあるストレッチエリア。

 シューズを脱いで、やたらとカラフルな柔らかいマットの上でしっかり柔軟を行う。

 小道具としてストレッチポールを使って背中や腰を刺激しておく事も忘れない。

 念の為、尻尾が巻き込まれないように気を遣いつつ。こんな時ばかりは尻尾のないヒトの身分が羨ましい限りだった。

 

「んん……?」

 

 ──そうしてしっかりゆっくり、入念な準備を整えつつもふと疑問を感じた。

 チラリと視線を彷徨わせ、壁の時計に意識を向けた。

 現時刻は17時10分。

 約束の時間は17時丁度。

 想定よりも10分ほど過ぎているが、未だにトレーナーの気配は存在しない。

 

 改めてシューズを履き、ストレッチエリアを後にした。

 ピンと耳を立てて、周囲のウマ娘や彼女等のトレーナー達の中から見慣れたガイコツの姿を探してみる。

 右を見る。左を見る。後方を見る。ひょっとして何処かで倒れているのではないかと床も見る。

 ……しかしどれだけ見渡してみても、己のトレーナーの姿は視界に映らなかった。

 

「……おかしい。まさか()()トレーナーが遅刻するなんて」

 

 一度ロッカールームに戻って携帯端末を確認する。

 けれども液晶が映し出すのは"通知なし"という事実のみ。

 "遅れる"とも"中止"とも、何も連絡は来ていなかった。

 

「まさか本当に何かが……?」

 

 早々にあることではないだろう。

 こういった場合、杞憂に終わることがほとんどだ。

 ……しかしこんな考えに至ってしまうと、途端に不安になって来るもの事実である。

 

 冗談めかしてガイコツだの不摂生だのと口にはしていたが、本当に体調を崩しているのではないか。

 何なら命の危機に瀕しているのではないか。

 もしかしたら、もしかしたら──と、嫌な想像は際限なく湧いてくるものだ。

 穴の空いた舟から水をかき出そうにも、(不安)を断っていないのだから切りがない。堂々巡りも至極当然の帰結である。

 

「…………」

 

 結局、我慢はできなかった。

 スポーツウェアの上に赤いジャージを纏いカバンを引っ掴んで駆け出した。

 基本的に情報収集が苦手なファインドフィートであっても、自身のトレーナーが寮に住んでいる事は知っている。もちろんその場所も。

 

 そうして迷いのない駈歩(かけあし)でトレーナー寮まで一直線。

 ほんの数分で目的地へ到着した彼女は、さっそく事務員のヒトに事情を説明した。

 最初は困惑した様子の事務員だったが、事の経緯を知って"なるほど"と納得したらしい。

 スムーズに部屋の番号を教えてもらい、ファインドフィートはそそくさと──あくまでも早()()で、2階の角(ガイコツルーム)を目指す。

 

「207……207は……。

 っと、ここですか」

 

 目的の部屋を見付けたのは意外とすぐの事だった。

 早速ドアのすぐ横に備え付けられたインターホンを押し込んで、トレーナーに"生きていますか"の確認コール。

 耳をドアに押し当てるまでもなく聞こえてくる電子音が部屋の主を呼び出し始める。

 

 ──が、応答する気配も、ドアが開く予兆もない。

 念の為、もう一度インターホンで呼びかけてみる。

 ……が、やはり反応はなかった。

 

「…………」

 

 猜疑心からじっとりと目を細める。

 体調不良で寝込んでいる……という事なのだろうか。

 真偽は定かではないが、それを明らかにしようにもこのままでは手詰まりである。

 ファインドフィートは小さく嘆息して、ドアノブに手をかけた。

 所詮悪あがきでしかないと自覚した上での行為──

 

「……おや?」

 

 ──だったが、しかし。

 ドアが開いた。予想に反し、何ら抵抗もなく。

 当然ながらウマ娘の身体能力に物を言わせて解錠(マスターキー)したわけではない。

 ただ鍵が掛かっていなかっただけだ。

 だが、これが鍵の掛け忘れなのかどうなのか、判断に悩む所でもあった。

 鍵を掛け忘れていたのか。不法侵入者が訪れているのか。はたまた鍵を掛ける余力さえないのか。

 首を傾げたまま数秒ほど停止し──結局、ここで考えても仕方がないと結論を弾き出す。

 そもそも、ここまで来て何も確認せずに帰宅なんて出来るはずも無い。

 

「……お邪魔します」

 

 勝手に部屋に侵入するなんて、控えめに言っても無礼な行為であることは自覚していた。

 

 ──が、それはそれ。これはこれ。

 何も言わずに担当ウマ娘の事をほっぽりだしたトレーナーが悪いのである。

 ファインドフィートはそう信じて疑わなかったし、本人に詰問されたなら実際にそう応える所存である。

 これを以て自己弁護を完了。そろりそろりと差し脚抜き足。おっかなびっくり家宅捜索を開始した。

 

「トレーナー?何処ですか?

 まだ生きていますか……?」

 

 玄関、無音。

 キッチン、何もなし。

 居間、姿なし。

 

 となれば、残るは寝室ぐらいのものだろうか。

 間取りは1LDK。

 部屋の空気に漂うのは、父親以来まったく縁のなかった大人の男の臭い。

 初めて見る毛色(独身男性)の空間に少しばかり戸惑いつつ、ぐるりと周囲を見渡した。

 丈の低い机と座椅子、その上に鎮座するノートパソコン。そして山程の資料。

 それらばかりが部屋のメイン構成要素として居座っている。

 

「もっとこう……掃除もするべきではないのですか……。

 ここは一つ、担当ウマ娘としてガツンと言わなければ」

 

 居間の隅にはもう一つのドア。おそらくそこが寝室だろう。

 初めて踏み込む未知の場所にほんの少しの好奇心を浮かべつつ居間を横断し、ドアノブに歩み寄る──途中で尻尾が資料に衝突してしまい、一山が雪崩を起こして崩れ去ってしまう。やけに物が多い空間故の悲劇であった。

 

「…………」

 

 ……しかし、今はこれを手に取っての資料塔造りに勤しんでいる場合ではないのだ。ファインドフィートには為すべきことがある。

 "また後程改めて手を付けよう"と一瞬の逡巡を済ませ、再びドアに向き直った。

 

「トレーナー……?」

 

 躊躇いがちで、若干腰が引けた様子ながらも、今度こそトレーナーの居所へ侵入する。

 開いた隙間からもわっとした空気が広がり、ファインドフィートの鼻を擽った。それと同時に、規則正しいヒトの呼吸音も。

 

「トレーナー」

 

 ようやく見つけた青年に対して、安堵交じりの溜息を吐き出した。

 件の葛城トレーナーはベッドの上で布団に包まれて、真っ赤な顔を晒している。

 誰がどう見ても発熱していると判断できる有様だ。

 しかし──少なくとも呼吸は規則正しいし、たった今開かれた瞳から明確な意志を感じ取れた。

 

「……ファインドフィート、か?」

 

「どうも、勝手にお邪魔しました。

 連絡もなしに遅刻なんて珍しいですね」

 

「ああ……そうか、そうだった。

 すまん、連絡を忘れていた……」

 

「いえ、それは大した問題ではないのですが……」

 

 葛城トレーナーを見下ろした。

 こうしてマジマジと見れば良くわかる。

 明らかに痩せ型で、免疫力の欠片も無さそうな肉付を誇っている。

 むしろよく今まであのような(睡眠不足・不摂生)生活を送れていたものだな、と驚愕の念を禁じえない。

 ファインドフィートとて彼の目元の隈から体調面の悪化を心配はしていた。

 果たして問題はないのだろうかと考慮も重ねていたのだが、しかし今回の件で尚更に事態の重さを理解できた。

 

「常備薬はある。明日には問題なくなっている……筈だ。

 今日は……すまんが、自主トレーニングで頼む。メニューは渡した通りのものでいい」

 

「了解しました。

 ……ですが、トレーナーはどうするのですか?」

 

「どう……とは?」

 

「晩御飯はどうするのですか?

 見るからに……その、ろくな食事は摂れていなさそうですが」

 

「いや……」

 

 ベッド横の台の上にはスポーツ飲料のペットボトルが置かれているが、中身は空っぽ。

 それと某有名なカロリーバー。手軽に摂取できるブロック状の食品ではあるが、実のところ栄養バランスはさほど良くない。

 ウマ娘の栄養管理は完璧そのものであるというのに、何故自分の事となるとこうもズタボロな有様なのだろうか。

 紺屋の白袴か、はたまた大工の掘っ立てと表すべきか。まったく、世知辛い(おろかしい)話だ。

 

「まったく……少し横になっていてください。

 色々と用意してきますから」

 

「いや──」

 

「いいですから」

 

 返事も聞かず、再度出立の準備を整える。

 必要なもの──例えば水分補給用のスポーツ飲料や、胃に優しい食事。あとはタオルか。

 幸いなことにそれらの仕入れ先には心当たりがあった。

 

「……よし」

 

 ウマ娘の脚であれば移動の時間なんてそう掛からない。

 トレーニングの代わりにもなりはしないが、気晴らしにはなるだろう。

 独り言ちて、颯爽と駆け出した。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「お粥です。どうぞ」

 

 軽く息を切らしたファインドフィートが"ずずい"と押し出したのは、大きめのお椀に入った温かいお粥。もちろん量はヒトの病人基準である。

 しかも梅干しを添えてバランスも良い。

 億劫そうに体を起こした葛城トレーナーに受け取らせた後、自慢気に尻尾を揺らした。

 ベッドの隣に設置した椅子に腰を預けて、手元のレジ袋からスポーツ飲料と冷えピタシート、そして干し芋を取り出す。ちなみに、この干し芋はファインドフィート用である。

 

「このお粥は一体……?」

 

「わたしが作りました──とでも言えれば格好が付くのですが。

 カフェテリアのおばさまに作ってもらったんですよ。感謝しながら食べてくださいね」

 

「なんで君が偉そうなんだ……?」

 

 とは言いつつも、しっかり両手で受け取る。

 一緒に渡されたレンゲで掬い上げ、ノロノロと口へと運び出した。

 腐ってもトレーナー。たとえ自分の体調管理ができなくとも、風邪で倒れた時の最も効果的な対処方法程度は心得ている。

 即ち、しっかり栄養を摂取して十分な水分と十全の睡眠を確保すること。

 それさえ守っていればまず間違いなく根治出来る。

 もっとも、担当ウマ娘の手助けでどうにかしようとしているあたり、全く褒められたことではないのだが。

 

「……トレーナー、普段の生活習慣はどうなっているのですか?

 先程キッチンを覗いたときには……その、まるで使われた形跡がありませんでしたが……」

 

「カップ麺、ビタミン剤、ゼリー飲料。

 これで最低限の栄養は摂取──」

 

「出来ていませんよね?」

 

「…………」

 

 ──その言葉には反論できようはずもなかった。

 葛城トレーナーという男はそのように無駄に慢心して、貴重な一日を無為に潰してしまったのだから。

 部屋の片隅に鎮座するカップ麺タワーは、嘗てはこれ以上なく心強い味方(徹夜のお供)だった。

 そう、()()()のだ。

 

 ……が、今となっては愚かさの象徴と成り果てている。

 まさか昨日までの友が今日の敵となってしまうとは……この世の無情と言う他ない。

 ファインドフィートが冷めた目でタワーを眺めているのも無理はないと、そう納得することしか出来なかった。

 

 そうは言っても、しかし。

 非常に残念ながら、実際に当人が考えているのは"一つ分けてもらえないかな"という一点のみである。

 彼女は葛城トレーナーが考えているほど思慮深くはなかったのだ。

 

「……食べたら早く寝てくださいね」

 

「ああ、分かってる」

 

「本当ですか?」

 

「本当だよ。

 本当に、嘘はつかない」

 

「……なら良いです」

 

 チク、タク。チク、タク。

 それからの数分間は空転する針が鳴り響くのみだった。

 葛城トレーナーが自覚していなかっただけで、身体は飢餓状態に陥っていたのだろう。

 レンゲを口とお椀の間で往復させるペースは素晴らしく早かった。所詮ヒト基準ではあるが。

 

「ふぅ……。

 すまん、助かった」

 

 カランと、プラスチックのレンゲが空の器の底を叩く。

 しっかりとお粥を食べてお腹も膨れたおかげか、その声音にも心做しかハリが戻っている。

 干し芋を咥えたままのファインドフィートが顔を上げれば、やはり若干の生気を回復させたガイコツの姿。少なくとも、彼女の口元でプラプラと揺れる干し芋よりは元気そうだ。

 

「んぐっ。

……では、わたしはそろそろ帰ります。

ですが……出来そうなら、ちゃんと身を清めてから寝てくださいね」

 

「…………すまん。やはり臭う、か?」

 

「まぁ……その、わたしはウマ娘ですから」

 

「そうか……」

 

 言外に答えが滲んでいた。

 身動きが取れない故に汗を流す事すら出来なかったのだから、こればかりは仕方の無いことである。

 ファインドフィートもそれを理解していたからこその歯切れの悪さだった。

 

「あの、干し芋食べます?」

 

「……いや、すまん。もう腹は減ってない」

 

「そうですか……」

 

 これがファインドフィートにとっては精一杯の誤魔化しだった。涙が出そうになるほど質の悪すぎる誤魔化しだ。

 ファインドフィートと葛城トレーナーの間を揺れ動く干し芋がそこはかとない哀愁を漂わせるばかり。

 

 決して、誰かが悪いという話でもない。

 今回のこれはただ、ウマ娘の感覚器系が優れているが故の悲劇だったのだ。

 視覚、聴覚、そして嗅覚。どれもが凡そ一般的な人間の尽くを凌駕する事は、もはや常識と言ってもいい。

 もちろんファインドフィートもその例に漏れず──彼女の父親を彷彿とさせるアレコレを嗅ぎ取っていた。それだけの事である。

 

 ──ああ、『姉』と二人揃って"お父さん臭い"と鼻を塞いだ当時のことを思い出さずにはいられない。そして、その言葉を聞いた父の顔も。

 

「で、ではもう帰りますから早めに寝てくださいね」

 

 その立ち振舞に悪意はない。

 ないのだが──だからこそ、心にクる物がある。

 哀れな大人の(サガ)だった。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 1月8日 はれ。

 トレーナーが体調を崩していたので、様子を見に行きました。

 結局風邪を引いていただけなので、まだ良かったと思います。

 ですが原因は睡眠も食事も質が良くなかったからみたいなので、生活習慣の改善が必要です。

 しばらく様子を見て、あんまりにも酷いようならカフェテリアに連行したほうがいいかもしれません。いざとなれば弁当でも作ろうと思います。料理を作ったことはありませんが、たぶん頑張れば作れます。

 

 それと、たくさんの干し芋を買いました。

 一人では食べ切れそうになかったので、ブルボン先輩と一緒に食べました。

 おいしかったです。

 

 

 



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16話

 天候は晴れ。風は微風。気温はそこそこに寒い程度。時刻は放課後。

 つまりは普段通り、絶好のトレーニング日和である。

 とはいえ、天候が曇りだろうと雨だろうと台風の中だろうと、トレーニング日和であることに変わりは無いのだが。

 

 それ故ファインドフィートは今日も今日とて平常運転だった。

 葛城トレーナー監修の下、ウマ娘用の大きな大きなバーベルを握りしめる。

 身を包むのはお気に入りのトレーニングウェア。

 黒いタンクトップ、白い短パン、青いシューズ。

 何事も形から入るというのは意外と大事で、それ用に衣装を変えただけでもしっかりと気が引き締まるものなのだ。

 

 鋭い集中力を保ったまま、両肩に通すように鉄の棒を載せて、多大な重量を脚腰に預けて沈み込む。

 その深さは太ももと床が並行になるまで、大きく息を吸いながら。

 負荷を受けた筋繊維の収縮と共に、ギチリと軋む。

 

「……ッ!」

 

 ──収縮しきった。

 ならば次は伸展である。

 

 もう一度気を引き締め直して、大きく息を吐き出した。肺の中が空っぽになるまで。

 それと同時にどんどんと膝を伸ばし、床と上体を引き剥がしていく。汗が額を伝って目尻を掠めていく感触が不快だった。

 

「視線が下がりすぎだ。膝の角度も注意しろ。

 それと背筋、もう少し伸ばせ」

 

「……ッあ!」

 

 鋭く響いたフォームの指導に従って、鈍重な動作で姿勢を矯正する。

 視界の端でトレーナーが小さく頷いた事を確認して、もう一度肺を萎ませながら立ち上がった。

 

 膝関節、痛みなし。腹圧正常。腰椎に損傷なし。

 今回も怪我なく無事なままでワンセットを終えられた。

 その事実は、いつになっても安堵せずにはいられないことである。

 

 自身の肉体が正しく機能している事を認知しつつ、肩に載せたバーベルをスタンド()まで誘導していく。

 高さの調整もファインドフィートの背丈に合わせられているおかげで、彼女は歩くだけでいい。

 

「ふ……はぁ……っ」

 

 肩の荷を下ろす。

 よく用いられるような概念的な意味合いではなく、純粋に物理的な動作の話で。

 "ガシャリ"とバーの端に固定された鋼鉄製プレートが擦れ合い、小さくも甲高い悲鳴を上げる。

 しかしファインドフィートにはそれを聞き届ける余裕もなく、ただ脱力した。

 

 ワンセット10回。それを5セット。

 それが意味するところは、10回で筋繊維の出力限界ギリギリまでを吐き出させるという事だ。

 厳正かつ精密な計算を以てファインドフィートというウマ娘の筋力を見極め、その上限をほんの僅かずつ引き上げるトレーニング。

 当然辛いし、苦しい。

 しかし積み重ねなければ能力が伸びることはないし、レースに勝つことなんて不可能になる。

 

 故にこそ、ファインドフィートは不平も不満もなく黙々とトレーニングを熟す。

 無表情である事も相まってか、トレーニング中の姿は尚更ミホノブルボンに似ていた。

 

「3セット目終わり。

 次までのインターバルは90秒だ。

 合図があるまで呼吸を整えろ」

 

「……はい」

 

 流れる汗の量が尋常ではなかった。

 過剰とも言える程の血行促進の効果だろうか。

 赤く染まった肌の上を珠のような汗が滑り、床へとポツポツ滴り落ちる。

 膝に手をついて肩で呼吸をすれども、激しい鼓動はちっとも収まらなかった。

 

 そんなファインドフィートの有様を知ってか知らずか──いや、間違いなく把握した上で、葛城トレーナーは無機質な瞳を彼女へと差し向けた。

()()()()()で目元の隈が薄まっているおかげもあってか迫力もまた薄い。ファインドフィートの努力の賜物であった。

 

「さて、もう一度復習しておこうか。

 次の出走レースは何か、覚えているな?」

 

「……弥生賞、ですよね」

 

 答えを返しながらも額に伝う汗を拭った。

 リストバンドが湿気を吸って、やけに重たい。

 ずっしりと手首に絡みつくそれを抜き取って乾かしつつ、耳だけを葛城トレーナーの語り口へと傾ける。

 

「そう、弥生賞。3月後半のGⅡ(重賞)レースだ。

 皐月賞トライアルとも呼ばれる事もあるが、仕上げの調整にはもってこいだし……何よりも、上位3着までに皐月賞への()()()()()()()()()()()

 

「はぁ……」

 

「クラシックロードの出発点とするなら順当な選択だ。

 ……が、当然俺達と同じようなことを考えるやつだっている。大勢な。

 それこそGⅡ詐欺(中身は半GⅠ)といっても過言じゃあないかもしれん」

 

 相槌代わりにドリンクボトルを傾けて、中身の液体──EAA(必須アミノ酸配合サプリ)をちびちび喉の奥に染み込ませていく。

 これはトレーニングの間に少しずつ摂取するようにと渡された支給品だった。

 

 ちなみに、飲み過ぎには要注意の代物だ。

 一気に飲みすぎた場合は腹を下してしまうリスクもあるのだが──ファインドフィートはすっかりと忘れてしまっている。

 もしかすると何かあれば葛城トレーナーが止めるだろうという、無邪気な信頼故の理解放棄かもしれないが。

 

「皐月賞に向けてのスピード(最高速度)は及第点。スタミナ(持久力)パワー(瞬間火力)もほぼ満点。

 どれをとっても基本的に目標通りのステータスではある。

 だがまぁ、鍛えられるのなら鍛えるべきだし、長所はしっかりと伸ばすべきだ」

 

「なるほど……」

 

「キミの長所……パワー(瞬発力)を高める為には速筋が必要だ。

 筋繊維のタイプについては以前教えた通りだが、覚えているな?

 持久力に優れたタイプⅠ(遅筋繊維)、ほどほどの持久力と瞬発力を兼ね備えるタイプⅡ a(中間筋繊維)、瞬発力に秀でるタイプⅡ b(速筋繊維)……ウマ娘の適正距離とはそれらの強度に依って決定されることも多い。

 そしてこの比率そのものは殆ど遺伝的、先天的に決まっていて、後天的に変化することはあまり無い……と、されている。

 だが実際に距離適性を克服した前例(ミホノブルボン)も存在しているだろう?

 これらの事実から考察するに、おそらく筋繊維とは──」

 

「…………?」

 

 そんなつらつらと呪文を唱えられても、ファインドフィートの頭脳にはちっとも響かない。

 ウマの耳に念仏。バ耳東風。どれもこれも右へ左へ通り抜けていくばかりだ。

 つまり、理解不能である。

 

「……あー。

 要するに今鍛えてるのはタイプⅡ b(速筋繊維)で、パワー(瞬発力)の底上げをしてるってことだ。

 心配せず思いっきり汗と涙を流してくれ」

 

「なるほど」

 

 その頷きは、分かっているのか分かっていないのか。

 いいや、きっと分かっていないのだろう。

 葛城トレーナーは半分諦めの境地で天井を仰ぎ──やがて、ストップウォッチの振動が手のひらを刺激していることに気付いて、目の前のポンコツウマ娘に再始動の指示を出す。

 

「はい。

 4セット目、開始します」

 

 握りしめた鉄を全身の筋骨で支えて背負った。

 数ヶ月前では不可能だった芸当も、現在となっては軽々と行えるようになっている。

 それはファインドフィートの不断の努力の結晶であり、葛城トレーナーが寝食を惜しんだ献身の証明でもあった。

 時間と精神という物質的な価値に表せないリソース。それらを惜しみなく多分に注ぎ込んだファインドフィートの肉体は、空の星々にも劣らない輝きを宿しているだろう。

 それに何よりも、目に見える分かりやすい成長という事実は彼女の心を大きく弾ませた。

 

 少しずつでも前進しているという実感と、夢に近付けているという現実。

 それらもまた、日々の活動を支える原動力でもあった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「お疲れさまでした、トレーナー」

 

「ああ、お疲れ。

 気を付けて帰れよ」

 

「はい、トレーナーも……道中()()()()()お気をつけください。

 たとえば体力が尽きて倒れ込んだり、風に吹かれて飛んでしまったり、木の棒にあたったりだとか……」

 

「棒に当たるのはキミ(イヌ)では……?」

 

「…………?」

 

「ああいや、キミはそのままでいいんだ。

 さあ、帰ると良い。そろそろ冷え込む時間帯だ」

 

「……はい。

 それでは、また」

 

 空は夕焼け。

 正確に言えば、夕焼けを少し通り越して夜の帳が下り始めた頃合いか。

 赤を背負って遠ざかっていくトレーナーを見送って、ファインドフィートも踵を返した。

 行き先はカフェテリア。目的は夕食だ。

 食事内容に関しては葛城トレーナーからの指示を受けているので、それを遵守したメニューを注文するだけでいい。

 ファインドフィート自身で栄養バランスを考えずとも良いというのは、そういった計算が苦手な彼女にとってこれ以上なくありがたいことである。

 

 なお要求項目は炭水化物多め、タンパク質多め、脂質そこそこ。

 葛城トレーナー曰く、豆腐ハンバーグ定食のウマ盛りに加えて、クルミのセットが適当であるらしい。

 ファインドフィートにはイマイチ理解できなかったが、オメガ3脂肪酸とやらが代謝を良くする効果があるとか。

 ……しかし、そう教えられた所で事の真偽を判断する知識も、そもそもの真偽を疑う気も無い。

 彼女はただ指示に従うのみである。

 

「……お腹が空きました」

 

 ぐうぐう音が鳴る。

 空っぽの胃袋が"早く栄養を取り込め"と騒がしく要求を述べているのだ。

 このウマ娘という肉体に起因する本能には逆らえない。

 トレーニングで疲弊した肉体を癒やすためにも、食事を求めて駈歩だ。

 

 道中、遭遇したクラスメイトと挨拶を交わしつつ──最近少しだけ話せるようになった──学園内の通路を横断する。

 時折に見かける花壇から漂う自然の香りを楽しみながら走っていれば、カフェテリアにたどり着くのはあっという間のことだった。

 

「あ……ブルボン先輩と、ライス先輩」

 

「はい、お疲れさまです。フィートさん」

 

「お、お疲れさま、フィートさん!

 えっと……フィートさんも、これからごはんなの?」

 

「はい。

 つい先程トレーニングを終えたので、栄養補給を」

 

 やけに身長差のある二人のお出迎えだ。

 おどおどとした表情のライスシャワーは以前の初詣でも会話をした仲である。

 そのおかげでファインドフィートにも腰が引けた様子は無く、自然な流れで夕食を共にすることとなった。

 ミホノブルボン、ファインドフィート、ライスシャワー。

 サイズで言えば大、大、小。

 

 しかし意外なことに、この三人の中ではライスシャワーこそが()()()である。

 それこそミホノブルボンよりも一ヶ月早く誕生を迎えているのだ。この事実はあまり知られていないが。

 

 それはファインドフィートも同じこと。彼女もライスシャワーの年齢を二つそこら上(中等部)程度だと認識していた。

 この小さな体躯で無垢な雰囲気の彼女が高等部所属であることなど、予想さえもしていないのだ。

 

「おや、ライス先輩もかなり食べるのですね」

 

「う、うん……。

 トレーニングをした後だと、やっぱりお腹が空いちゃうから」

 

「とても良いことです。

 たしかにライスさんの体格は非常に小柄ですが、だからといって食事の量が少ないほうが良い訳ではありません。

 むしろ、食事を大量に摂取し、その栄養素を肉体の成長に充てる事こそが肝要です。

 つまり、ライスさんはえらいのです」

 

「そうです。

 ライスさんはたくさんごはんを食べれてえらいです。

 ……ええ、ライスさんがたくさんのごはん(ライス)を食べる。

 そう、つまり──」

 

「──フィートさん、お盆が出てきました。

 受け取りましょう」

 

「む……ありがとうございます」

 

()()を言いかけたファインドフィートではあるが、他の人を待たせるべきではないとすぐに気分を切り替えた。

 受け取った大きなお盆を占領するのは、山盛りの米と巨大な豆腐ハンバーグと少量のクルミ。

 ようやく空腹を満たせる目処がたったおかげか、白い尻尾が機嫌良さげに大きく揺れた。もちろん、周囲のウマ娘には当たっていない。

 

「……ねぇ、ブルボンさん。

 フィートさんってもしかして……」

 

「…………。

 当情報はウマ娘機密に該当。

 情報取得を希望する場合はパスワードを入力してください。

 ……パスワードヒントは"皇帝"です」

 

「あっ……」

 

 

 

 

 


 

 

 

 

"──あらあら"

 

"いろんな子と仲良くなれたのですね。

それに、しっかり休む事も出来たみたいですし……"

 

"……ええ、ええ。本当に本当に、素晴らしいことです。

じゃあ、その分頑張りましょうね。ファインドフィートちゃん。

 

──息継ぎは十分出来たでしょう?たくさん助走をつけられたでしょう?

それじゃあたくさん走りましょう!夢を叶えるために、どこまでも!

たくさん(もっともっと)たくさん(限界まで)たくさん(限界を超えて)!"

 

 

 

 



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17話

 人の夢と書いて、儚い。

 ならばウマ娘は?

 ウマ娘の夢ならどうなるのだろう。

 この問い掛けがずっと気になっていて──結局、未だに答えを知らずにいた。

 

 

 

 


 

 

 

 

「ファインドフィート」

 

「……ああ、トレーナー。

 もう出番ですか?」

 

「いいや、もう少し余裕がある。

 一応念には念を入れてキミの様子を確認しに来ただけだ」

 

「なるほど」

 

「なに、不安に思うことはない。

 今日の"弥生賞"もキミが最速だろうさ」

 

 控室のベンチに座り込んだファインドフィートは、小さく頷いた。

 それが自慢げに、なのか。気まずそうに、なのか。

 それさえもさっぱり理解できないほど無機質に。

 

「……何か、気になることでもあったのか?」

 

「何もありません。

 これっぽちの翳りもない、絶好調です」

 

「そうか……ならいいが。

 あと改めての情報共有だが、今回もレース後に簡単な検査だけはする。

 頭の片隅にでも置いていてくれ」

 

「はい」

 

 パタリと尻尾が空振った。青ざめた瞳がトレーナーを見つめて、輝きさえなく瞼を閉ざす。

 昨日までとは違う担当ウマ娘の反応に、"おや"と片眉を上げた。

 普段ならばもっとふてぶてしく──いや、気安く反応を返してくるものだが、さて。

 

 葛城トレーナーは年若い少女への接し方を心得ているわけではなかった。

 最低限の常識の範囲で気を遣うなどは可能でも、その一歩先の手法──例えば、"さも悩んでいます"といった雰囲気を無理なく打ち崩す冴えた一手は、未だに知らずにいるままだった。

 むしろ葛城トレーナーにとっては一歩先どころではなく、二歩三歩も先の技法と言っても過言ではないだろう。

 

 ……しかしだからといって、目の前の少女から目を逸らせるわけでもなく。

 やや間をおいて、ファインドフィートの隣へと足を運んだ。途中視界の端に入り込む──さながら細枝と見紛う程に細い脚が、どうしようもなく頼りなくて仕方がない。

 

「飲むか、はちみー」

 

「……いえ、後ほど頂きます」

 

「そうか」

 

 男から差し出されたはちみーを一度受け取って、傍らのカバンの上に載せておく。

 普段とはまるっきり違った対応。強まる違和感。

 すわ"反抗期"か等と、新たな疑念さえも湧き上がってしまう程だ。

 

「……ふむ」

 

 一度、大きく息を吐き出す。

 少しだけ考え込んで、ファインドフィートの隣に腰を下ろした。

 

 合わせて揺らいだ空気の流れが彼女にまで波及して──ふと覚えのある"香り"を感じ取る。

 

「……香水、つけてるんですか?」

 

「匂うか」

 

「ええ……この香り、嫌いじゃありません。

 優しくて、落ち着く匂いですね。

 たしか──父も同じ物を使っていた気がします」

 

「そうか」

 

 1月の何処かで体調を崩してしまった時があった。

 その時になんとも心に刺さる一言(トレーナー臭い)を聞いてしまい、念の為に講じた対策。

 "ウマ娘用"に薄められた香水の効果はちゃんとあったらしいと胸を撫で下ろす。

 

「しかしあれだ、懐かしい感じがするな」

 

 こうして二人並んで座ると、以前──専属契約の時を思い出す。

 あの時は女神像の広場でベンチに座り込んで、腹を割って話を詰めたものだったか。

 今の二人の距離はあの時と同じ。

 しかし精神的な距離はきっと縮まっているようで、ファインドフィートの心は不思議と安らいでいた。

 

 だからだろうか。

 静かに、穏やかな声音で言葉を紡げる。喉につっかえるものは何もなかった。

 

「トレーナー。

 一つ、お聞きたいことがあります」

 

「聞きたいこと?

 何に関してだ」

 

「何故、トレーナーはトレーナーになったのですか」

 

「む……」

 

 カチャリと揺れる青い耳飾り。

 白い蛍光灯の明かりを不規則に反射する。

 ゆらゆらゆらゆら無意味に踊って、ありもしない我を主張した。

 

「最初あなたと出会った時、あなたの事を"欲深いヒト"だと思いました。

 純粋に濁っていて、素直に捻じくれている、"欲深いヒト"なのだと」

 

「事実だろう」

 

「……いいえ、ですが──」

 

 隣の男に視線を向けた。

 肉も生気もない細い体だ。

 顔だって、疲れ切った雰囲気を隠しきれていない。

 

 よくよく考えなくても分かる話だった。

 ただの欲深いだけの人間が、これほどまでに己を追い詰めてまでウマ娘の事を思い遣れるのか。

 そもそも他者に対する思い遣りなどという概念が発生しうるのか。

 

 前々から気になっていた"それ"を知りたかった。

 これから先慌ただしくなるだろうし、余裕も失せていく。

 ならば今のうちに聞いてみたいと、そんな気紛れからの問いである。

 

「何故、あなたはトレーナーになったのですか?

 最初の最初に抱いた目標がお金稼ぎ、という風にも見えなくて」

 

「……何故そう思うのか、というのも気になるが……。

 まあ、あれだ。そんなに気にしなくても良いことだ。

 今後のレースに何の影響を与えることもない、つまらない事情だからな」

 

「つまらないと言える何かはあるんですね」

 

「……そうとも、言う」

 

 だが、と(かぶり)を振る。

 別に良いじゃないかと再度語った。

 隣に座り込んだ少女に言い聞かせるためか、平坦な声でゆっくりと。

 

「本当に無意味なんだよ。

 だから気にするな」

 

「……分かりました。

 ですが、気が向いたら教えて下さいね」

 

「ああ、気が向いたらな」

 

 ────。

 

 ────暫しの空白。気まずい訳でもない、ぬるい雰囲気が場に満ちる。

 停滞とも取れる時間の中に僅かながらに浸って──ふと、葛城トレーナーが口を開いた。

 

「そういうキミはどうなんだ」

 

「……わたし?」

 

「何故キミが九冠(未踏の領域)を目指したのか、理由を聞いていないと思ってな。

 答えたくないというなら無理に聞こうとはしないが……」

 

 "俺もそれで答えなかったからな"と肩を竦める。

 

「……ええ、まぁ恥ずかしい理由というわけでも無いので」

 

「無理はしなくても良いが」

 

「トレーナーとウマ娘の相互理解が重要だと、ブルボン先輩がおっしゃっていたので」

 

「ああ、なるほど……」

 

 どうせ元を辿っていけばあの女(崎川)の思想だろう。思い出すだけでも苦味が口の中に滲んでくる、随分甘ったるい(やさしい)方針だと──心の内だけで毒づいた。

 とはいえ考えそのものは至極まっとうとしか表せない正当なモノ。

 それに自身が担当するウマ娘(ファインドフィート)の根幹に値すると()()()()原点が気にならないかといえば、それは嘘になる。

 

「そう、ですね……。

 始まり、始まりの始まりは、テレビだったと思います」

 

 淀みは無かった。

 何処か遠くの景色に焦点を合わせようと苦心しつつ、ゆっくり喉を震わせる。

 今となっては遠い過去のような話で、実際は数年前でしかない現実の話。

 

「テレビの番組で、GIウマ娘特集をやってたんです。

 シンザンさん、ミスターシービーさん、テンポイントさん……とても有名な方々ですよね。

 彼女達の名前を知らない人なんて誰もいない程に」

 

「まぁ、そうだな。

 それこそ学校の教科書にも出るぐらいだ」

 

「ええ。

 その番組を姉さんと一緒に見てて──()()に感動したのが、最初だったと思います。

 ああ、こんなにもすごいウマ娘がいるんだなって。

 日本中のみんなの心に刻まれた、こんなにすごいウマ娘が」

 

「……なるほど、なるほどな。

 しかし姉君がいるとは意外──でもないな」

 

「どういう意味ですか」

 

 むっつりと睨みつけるもヌカに釘。

 葛城トレーナーは全く気にした様子でもなく、クツクツと喉を鳴らしていた。

 ある意味で平常運転な男に対して、しかしファインドフィートは何も言えなかった。

 ……どうせ言葉では勝てなどしないし、勝とうとも思えない。

 

 だから、この話はそこでおしまいだ。

 

 不機嫌に揺れる耳を隠そうともせず立ち上がったファインドフィートに"もうすぐ出走だぞ"と予定を告げて、ついでの如く指先で壁掛けの時計を指し示す。

 今から急いで準備が必要と言う程でもないけれど、然程の余裕も無かった。

 

「まったく……」

 

「さあ、気にせずしっかり走ってこい。

 今日もファインドフィートが最速だと証明してくれ」

 

「……はぁ、良いでしょう。

 しっかり見ていてくださいね、わたしが走り抜けるところを」

 

 

 

 ──そうして舞台は"クラシックロード"に遷移する。

 若干の曇り空の下、生気溢れるターフの上。

 湿り気を帯びた芝の表層を蹄鉄で撫で付けながら、ゲートの内部へ入り込む。

 それに至るまでの道中で観客席に手を振っておくことも忘れていない。

 

 何せファンの力がなければそもそも出走さえ不可能というタイトルだって存在しているのだから、尚更こういった細やかな気配りが大切である。

 とは言えども無愛想、無表情のままであるのは変えられなかったのだが……しかし、何だかんだそれでも受けているらしく、直すべきとも何とも指摘はされていない。無駄な労力を省けるのなら、実に嬉しい話である。

 

『今日、この弥生賞に集ったのは18名の優駿です。

 果たしてどの娘がこの場で最も優るのか、しっかり見届けましょう』

 

『各ウマ娘、ゲートイン』

 

 中山レース場に集まったフルゲート18名のウマ娘。

 誰もがこれから始まるレースに向けて闘争心を滾らせていた。

 当然、それはファインドフィートも同じことだ。

 

 ようやく歩み始めた"クラシックロード"の踏み心地を味わいながら、ゲートの向こうに夢想を重ねる。

 夢に届くのだろうか、とか。

 たどり着いた先の景色は何が見えるのだろうか、とか。

 そんな毒にも薬にもならない虚構に思いを馳せて、ゲート内部の閉塞感から目を逸らすばかり。

 抑えきれない緊張感が汗となって白肌に滲み、着込んだ運動着に吸い込まれていく。

 されどもそのような情動の一切を無視した体内時計は狂い無く時を刻み、今か今かとレースの開始を待ちかねていた。

 

『3番人気はこの娘、■■■■■■■■(聞こえない)

 

『2番人気を紹介します、■■■■■■■(聞きたくない)

 この評価はやや不満か』

 

『1番人気、ファインドフィート。

 GIウマ娘です。堂々とした佇まいですね』

 

 耳を澄ませば、どくりどくりと響き渡る鼓動の音色。

 総身を巡る管を通り、下り、上る血潮に乗って高らかに生を叫ぶ。

 解説者の男の声は意識の外側にはみ出していて、理解出来ない雑音に成り下がった。

 

 代わりに意識を占領するのは目の前のゲートのみ。

 集中に集中を重ねて認識を尖らせて。

 開くと同時に駆け出せるように、自分で自分を飼い慣らす。

 そうしていれば、前回のような失態を再現することはないだろう。

 

 思い返すだけでも首を絞めたくなってしまうのだ。

 あの日、あの瞬間、くだらない本能に飲み込まれてしまった情けない自分を。

 

「……ッ」

 

 ズキリ、と胸の奥が痛んだ。

 己を叱咤するように鼓動が騒ぐ。

 それを誤魔化そうと奥歯を噛み締めて、不安や迷いをすり潰す。そうしてみればありもしないザクロの味を感じた気がした。

 

「ですが……もう、わたしは大丈夫。大丈夫なんです」

 

 首筋を覆うチョーカーをさらりと撫でて自分を鼓舞した。勝負服の一部から引っ張って来ただけの物であれども、不思議と勇気を与えてくれる。

 そうとも、今は違うのだ。

 ファインドフィートは成長したと、これまでに積み上げた努力が保証しているのだから。

 間違いなく、疑いようもなく、強くなった。

 だから勝てる。いいや、勝つ。

 

 目を見開く。耳を立てる。尻尾を振るう。

 体内に溜まった熱を吐き出して、乾いた唇をぺろりと舐めた。

 

『ゲートオープン、各ウマ娘一斉にキレイなスタートを切りました!』

 

 ──一斉に轟き始めた脚音を磨り潰すかの如く、大きな大きな歓声が弾ける。

 観客席で、液晶の前で、家の中で。

 老若男女関係なく胸を震わせ、曇り空を刳り貫いた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 "それで、そろそろ聞いても良いのかしら"

 

 "ん~?

 あ、ファインドフィートちゃんの弥生賞ですか?

 いや~、凄かったですよねぇ。

 しっかりと勝っててえらい! 私も鼻が高いです"

 

 "そうね……ある意味では、関係あるのかしら"

 

 こつり、こつり。木板を弾く音が鳴った。

 

 それの発生源は二柱の女神である。

 彼女等はマホガニー(紅褐色)のテーブルを挟み座していた。

 そして、それぞれの視線の先には大きなチェス盤。

 

 精緻で、精巧。そして絢爛。誰が見ても"美しい"と絶賛することが間違いない造形だ。

 それこそ何処かの国の宝物と言われても全く不思議では無いだろう。

 しかし、所詮はただのチェス盤。

 女神達の前ではその存在感も霞み、薄らぎ、なんら変哲のない小道具にまで成り下がっていた。

 

 "……ファインドフィートちゃんのレースに手を出したことよ。

 神聖で、穢されるべきではない、真摯な祈りの場。

 それにベタベタと触れてしまった事が正当化される理由って、何?"

 

 "ああ……そういえば、そんな事もありましたね"

 

 コツリと『太陽』陣営の白い騎士(ナイト)が弾かる。

 それを討ち取ったのはただの兵士(ポーン)

『王冠』の指先に摘まれ、どこか誇らしげに光を反射していた。

 

 "そんなの決まってるじゃないですか。

 あのままだと負けちゃうからですよ?

 かわいそうじゃあないですか"

 

 "ふぅん……それで手を出したって訳ね。

 事もあろうに、三女神の一柱が、レースの結末を書き換えた、と。

 そういうことよね?"

 

 "そうですよ~"

 

 弾けるような眩い笑顔だ。

 邪気など無い。怒りも悲しみも同情も後悔も無い。

 ただ純粋に達成感に満ち溢れた、綺麗な笑顔だった。

 

 "……ねぇ、レースに至るまでの道中──それこそ、鍛錬の合間で導きを賜わすのなら共感できたわ。

 多少の規則を超えて加護を授ける(因子継承)のも、協力したでしょう。

 けれどレース中に手を出すべきではないわ。

 だってそれは──"

 

 "──それが何か、問題でも?"

 

 コツリ、コツリ。またもう一度、軽妙な音が鳴る。

『王冠』の玉声を遮り、駒を弾いてチェックメイト。

 敗北者の黒い王様(キング)を摘み上げながら、笑顔で囁く『太陽』の女神。

 まるで聞き分けのない子供を諭すように。

 無邪気な子供が無法で踏みにじるように。

 

 "『約束』は、何に於いても優先されるべきなんです。

()()()は私に祈りました。私は()()()と約束しました。

 だから私は夢を叶えさせてあげるんです。

 ……ほら、理由としては十分でしょう?"

 

 "……はぁ、流儀の違いなのかしら。

 私としては……準備期間で多くの導きや試練を与えたほうが良いと思うのだけれど"

 

 "いいじゃあないですか、こういうモノも。

 だから、ええ……このままでいいんです。

 さあさあ。私と一緒に指で紡いで、哀れなあの子達をしあわせにしてあげましょう?"

 

 くすくす、くすくす。

 染み込んでいく聖母の笑い声。

 くすくす、くすくす。

 どこまでも、深々と、海の底まで。

 

 

 

 


 

 

 

 チョーカーとは。

 現代では束縛/隷属を象徴する装飾品としても知られている。

 

 しかし遥かな過去──例えば古代エジプトに於いては、全く別の意味合いを持っていたらしい。

 数多くの壁画や文献を研究したとある学者は、そう結論付けた。

 曰く、高貴な身分の女性が身につける服飾。

 曰く、権威を主張するための宝物。

 曰く、()()()()を賜るための装身具。

 

 それらを総じて行き着く先を表せば、"幸福"を願う為のモノだった。

 

 

 



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18話

 "走るのに余計な荷物ばかりだったら重たいですよね、苦しいですよね。

 きっとすっごく大変ですよね……"

 

 "……ええ、ええ。

 何とかしてあげたいですよね。私もそう思います。

 しっかり助けてあげて、『ファインドフィート(私の愛し子)』ちゃんが夢を叶えられるようにしましょうね……"

 

 

 

 


 

 

 

 弥生を越えて、卯月の目前。皐月に至るまでもう少し。

 艷やかな種々を視線で愛でて、青臭さが入り混じる土の香りを吸い込んだ。

 ファインドフィートの視線の先には楽しげに陽光を浴びるバッタや蝶々達。自由奔放に飛んで跳ねる彼らが、ほんの少し羨ましくなる。

 

「…………」

 

 トレセン学園は今日も平和だ。

 どこまでも広がる青い──澄んだ青い空を見上げれば、胸の内で淀んだ悩みも苦味も溶けて無くなってしまうのではないかと、そう錯覚してしまうほどに。

 しかし彼女を取り巻く現実は変わらず、いつまでも絡みつく重みが胸中に鎮座するばかり。

 鎖で絞め上げているのか、茨で雁字搦めにしているのか、あるいは針の筵に閉じ込めたのか。

 どうせ針を突き刺すのなら、嘘つきにでもやってしまえばいいのに……と、無意味な吐露を口の中だけで泳がせた。

 

「っとと……」

 

 そう囀っているうちに滑り落ちそうになったダンボールの縁を慌てて掴んで、ギュッと握りしめる。

 そこそこに重たい箱であれどファインドフィート──ウマ娘の身体能力ならばなんのその。

 再びバランスを取り戻してすぐに懐の内で安定させた。

 

 ふと漏れ出た安堵のため息もそこそこに。

 今度こそバランスを崩さないように、大切な宝物を抱きしめるようしっかりと胸に抱き寄せる。

 ……もちろん、これに熱はない。所詮ダンボールなのだから、当たり前の話だが。

 

「ゴミステーションは……こっちですか」

 

 両腕を下方いっぱいに伸ばせば、胸の下で収まる程度のただの箱。

 態々休日の朝から学園外まで走って手にして、トレセン学園のゴミ収集に出そうと労力を捻出していた。正直、もう既に若干眠たい。

 けれども今日を逃せばしばらく暇な日はない故に、どうしようもない話だった。

 

「……くぁ」

 

 この私品を置いていたのはとある大手企業が営業する貸し倉庫だ。

 個人向けのトランクルームといえば通りが良いだろう。

 

 幸いにも、と言えばいいのか。

 否、不幸中の幸いと表す方が正しいか。

 

 元々金銭的には困っていなかったおかげで(両親の遺産や事故の慰謝料)、ここトレセン学園に入学する直前にいくらかの本や物品、そして思い出の品などを詰め込むことが出来ていた。

 この箱はそのうちの一塊、一つのカテゴリー。

 その全てをこの脆いダンボールの紙の内側に包括して、態々自力で持ち運ぶ。

 特別な拘りがあるという話ではない。

 けれど、ファインドフィートは"そうする(自分の手で捨てる)"べきだと思った。

 だから、こうした。

 

「それに……もう、不要ですから。

 諦めた後の残骸なんて持っていても無駄……そういうものでしょうし」

 

 自分に言い聞かせるように、小さく嘯く。

 見えなどしない箱の中身を覗き込みながら、指先に力を込めて。

 ……もちろんその中身が見えることはない。

 ファインドフィートにすべてを見通すような目があれば話は違うのだろうが、そんなことはありえない。

 

「無駄な荷物を抱えていて叶う夢じゃない。

 余分な気苦労は無い方がいい……」

 

 今後の予定を思い浮かべる限り、きっとこんなものは無いほうが良い。

 クラシックとはそういうもの。

 ウマ娘達が総力を絞り出して、血を紡いで、腹の奥の底の底から勝利を希ってようやく手にする栄冠。

 それを目指すというのはこういうこと。

 余分なモノを限界まで削ぎ落とし、神の領域を目指す。

 これこそが天禀の才を持たぬファインドフィートが選ぶべき最適解。

 

 ──この"結論"を導き出したのは勝利を願う理性なのか。

 はたまた勝利に執着する本能なのか、それとも──。

 

「──ああ、いえ。無意味ですね。

 そんな事を考える暇があるのなら、テイオーさんを誘ってはちみーでも飲みに行く予定を立てるほうが……余程建設的でしょうに」

 

 そう語った彼女は尻尾揺らす。

 自慢の毛並みは微かに艶を失っていた。

 昨日も普段通り、風呂を上がった後にミホノブルボンに香油を塗り込んで貰っていたにも関わらず──どこか、萎びた印象を与える姿だった。

 

「……まったく。

 今日の天気は、こんなにも綺麗なのに」

 

 しかし、その理由は考えたくない。

 理解したくないから、分かっていない事にした。

 それこそが彼女にとっての最適解である。

 

 故に思考を止めて、じっと瞳に蓋をした。

 そうして、束の間のみ訪れる薄い暗闇ばかりが彼女の無聊を慰めてくれる。

 

 "何も見えない"というのは、不思議と心を休めてくれるものだ。

 幸い道順は十全に覚えているし、ウマ娘の聴覚によって道中他者にぶつからないことは保証されている。

 故にほんの少しの時間程度なら、何ら問題は発生し得ないだろう。

 

 ──自分にそう言い聞かせて、暫しの間暗闇の中を散歩する。

 てくてく、てくてく。

 やはり何かにぶつかることはなかったけれど、すぐに目の前が怖くなって目を開けた。

 

 ……目の前も、足元も、障害物は何もない。

 意味のない恐怖感を消費して、意味のない安堵を覚える。やはり、どこまでも無意味だ。

 

「……歩いてばかりだと、ヒマですね。

 徒歩では時間が掛かりすぎる。

 イヤホンでも持ってくればよかった……」

 

 後悔は先に立たず。

 気分を紛らわせたかったのだが、無いのなら仕方がない。

 

 ……ぼんやりつらつらと口遊(くちずさ)む程度なら迷惑はかからないだろうか。 たぶん問題ないだろう……と、自問自答の自己解決を一瞬で済ませ、口を開いて喉を震わせる。

 単なる気晴らしだった。

 

「……ゴールまで、あと何ハロン。

 10と2ハロンさ……っと」

 

 形になったのは、記憶の片隅にこびり付いていた歌だ。

 いつかの日、彼女の『姉』が歌っていたもの。

 当時の無知な『弟』──ファインドフィートには理解できなかったが、異国のお伽噺を基としたものである。

 この素朴な歌が古代より受け継がれてきたマザーグース(子守唄)の一種であると知ったのは──さて、何時のことだったろう。ファインドフィートはまったく覚えていなかった。

 

 少なくとも、響いたのは『姉』にはこれっぽっちも及ばない、随分情けない歌だ。

 そう比較できる程度には思い出せる過去の記憶を辿りながら、か細く歌う。

 

 ……ああ、なんて弱々しいのだろう。やはり姉さんのようにはうまくいかないな、と。

 彼女はそう思って、たった一人でじっとり毒づく。

 曇った内心とは真逆に、空は澄んだ青だった。

 

「夢の灯りをたよりに、行けるかな……」

 

 陽光に溶け込む、どうあってもやる気のない腑抜けた声。

 それでも惰性でぼんやり喉を温めながら、てくてく、てくてくと脚を回す。

 てくてく、てくてく。ゴミを捨てるために飽きもせず。

 

 ……こうして暫く歩みを止めずにいれば、時折すれ違うウマ娘だっている。

 言うまでもない事だ。

 彼女等の休日は休日であっても、純然たる休みの日に早々ならない。

 行き交うウマ娘達を横目で見送りながら、ファインドフィートはファインドフィートのペースで進む。

 まれに挨拶を交わしはするものの、基本的には一人ぼっちの旅。寂しくはない。

 

「……行って、きっと戻ってこれるさ……。

 もし君の脚が──」

 

 ガサリとダンボールの中身から振動が伝わって、少女らしい細い指に反発する。衝撃に合わせて歌声も止まった。

 幸い、春に至ってようやく過ごしやすい気温になったお陰か痛みも痺れもない。

 ゆるく、白くもならない吐息を空に吐き出しながら、またぽつりぽつりと歌い始めて歩き出す。

 

 ──そんな彼女の姿は、殊の外目立っていた。

 今年のクラシック路線の有望株が聞き慣れない歌を口ずさみながらダンボールを運んでいる姿は──まあそこそこに(他よりはマシ)

 つまるところ、ファインドフィートの知り合いからの発見率に上昇補正がかかるということでもあった。

 

「あー!フィートだ!

 どうしたのー、こんな所で!」

 

 彼女の背後から投げつけられた声は快活で晴れやか。

 この天候とはまた違う、しかし同種とも言える陽だまりのよう。

 

 少しだけハリを取り戻した尻尾を振ってトウカイテイオーに歩み寄れば、それだけで胸の痛みが軽くなる気がした。

 ……無論錯覚ではあるけれど。

 

「……こんにちは、テイオーさん。

 奇遇ですね」

 

「うん……ま、フィートってば少し……いや、かなり目立ってたからねー」

 

「なんと」

 

「気付いてなかったのー!?」

 

 休日故にだろう、トウカイテイオーは私服に身を包んでいる。

 ファインドフィートは服を選ぶことすら面倒くさがって制服を着ているというのに、なんという美意識の格差なのだろうか。

 ほんのちょっぴり虚しかったり、『姉』に申し訳ないなとも思う。

 

 ……とはいえそれはそれ。これはこれ。

 "テイオー先輩がすごいだけ、それで良いじゃないですか"と目を瞑る。

 改善は、もう暫く先のことになるだろう。

 

「……ところでさ、それってどーしたの?

 側面に貴重品って書かれてるんだけど……」

 

「ああ、これは……ゴミですよ。

 この文字に関しては、余ってたダンボールに元から書かれてただけです」

 

「そうなの?」

 

「ところでテイオーさんは」

 

「ボクの勝負服──ホライゾン(不死鳥)の方なんだけど、一部分(腰飾り)だけ壊れちゃってさ~。

 仕方ないから補修してもらうことになったんだ」

 

「……なるほど」

 

 ほらこれ、と見せられたのは彼女の言葉通りの物品。

 トウカイテイオーが二つ所有する勝負服の内、黒と赤で構成された不死鳥の衣──その一部。左腰に装着されているはずの円盤だった。

 どこか民族的な意匠を凝らされた形状は、曰く"おまじない"の意味を込めたものであるらしい。

 ()()ながら学力は()()()()()()()ファインドフィートにその意味は何も分からなかったのだが──所有者であるトウカイテイオーは知っている。

 ドリームキャッチャー。夢を守る、優しいおまじないだ。

 

「色々、思い入れもあるから」

 

「…………」

 

 一つ頷く。

 思い入れがあるものというのは、どうしたって大事にしたくなるものだ。

 それがたとえ枷にしかならない物品であっても、忌まわしい過去を思い返させる品々であっても同じこと。

 

 ……入れ込んだ思いが綺麗だろうと醜かろうと、きっと変わらない。変われない。

 ファインドフィートは身を以てそれを体感している。

 故にか、共感もひとしおだ。

 

「……では、そろそろ失礼します。

 早くこれを捨てにいかないとダメなので」

 

「あっ、そういえば途中だったね……。

 ところでなんだけど、それって何が入ってるの?」

 

 ファインドフィートの姿勢から見て取れば、その中身の重量にもおおよその見当がつく。

 ウマ娘であるからこそ"軽い"と形容できるのだろうが、純粋な重量としてはそれなり以上の中身の筈。

 ちっぽけな好奇心を携えてファインドフィートの瞳を覗き込む。

 ……やはり、鉄仮面の裏側は見抜けない。

 

「専門書とか、星座盤とか、望遠鏡とか……もう使わなくなった不要品です。

 元々一応持っているだけのものでしたし、もう良いかと思いまして」

 

「う~ん……でもさフィート。

 その割には……こう、思い入れがありそうだよ?」

 

「それは……気の所為です。

 本当に、本当に……タダのゴミなので、お気になさらず」

 

 ──"本当にそうなの?"と、言の葉が喉元までせり上がる。

 しかし、二の句は告げられなかった。

 告げるべきだろう言葉は、何も生み出せなかった。

 

 ……そしてそこで話が途絶えて、暫しの静寂が満ちる。

 他にある音なんて他のウマ娘の雑踏か、さあさあと吹く風程度。居心地は然程悪くはなかった。

 

「……では、また」

 

「うん。またね、フィート」

 

 特徴的なポニーテールが遠のいていく。

 軽やかに跳ねるそれを見送って、ファインドフィートは再び目的地へと意識を向けた。

 歩いて残り数分か、その前後。十分もかからない。

 

 ゴミステーションの傍に居た係員の男に一声かけてみれば、なんと本人による仕分けをした上でそれぞれのゴミ箱に放り込むべきらしい。当然である。

 

「あっちでどぞッス」

 

「……ありがとうございます」

 

 ダンボールを運ぶ。がさりがさり。

 通行人の邪魔にならないだろう道の隅に置く。ごとり。

 重くもない、軽くもない箱の蓋を取っ払って、中身を全部を取り出した。

 専門書、星座盤、天球儀、望遠鏡。

 どれもこれも子供向けにデザインされたシンプルなものばかりだ。

 使い込んだのだろう形跡が所々に見られるものの概ね丁寧に清掃されている品々。

 

 ……これらは全て、ファインドフィートにとっての"抜け殻"だった。

 諦めた夢の痕跡の、寂れ切った成れの果て。

 諦めた癖に手放せなかった、彼女の臆病さの象徴とも形容できるガラクタだ。

 

「本は、あそこ。天球儀は普通ゴミ……望遠鏡は、金属ゴミ……」

 

 一つ一つ丁寧に手にとって、各々の居場所へと運んでいく。

 そうしていれば、少しずつ身体が軽くなっていくような気がした。

 少しずつ、少しずつ、荷物が解けて剥がれ落ちる。

 ……それは良いことなのだろうか。

 ファインドフィートはきっと、良いことなのだろうと思った。

 夢を叶えたいのならば、きっと必要なことなのだろうと思った。

 

「これは……ああ、家族写真ですか。

 こんな所にあったんですね。わたし、もう無くなったのかとばかり……」

 

 色褪せていて、紙質も古ぼけている。

 しかし間違いなくファインドフィート達を写した写真だ。見間違えるはずもない。

 

「……懐かしい、ですね」

 

 装蹄師の父。

 ウマ娘の母。

 そして──"青い目のウマ娘"だけが残った、偽りの家族写真。

 三人家族を写した微笑ましい写真。見るものはそう捉えるのだろうか。

 けれどファインドフィートにはそう見えなかった。

 

「燃えるゴミ」

 

 ──グシャグシャに握りつぶす。

 もう復元できないように、思いっきり力を込めて。

 圧縮に圧縮を重ねて磨り潰すように、しっかりと。

 

 ……ウマ娘の怪力を発揮すること数秒後。

 単なる紙製ボールに成り果ててしまった哀れなそれを、十数メートル先のダストボックスに向けてシュート。

 右手のしなりは抜群だ。綺麗な軌跡を描いてホールインワンである。

 

「……」

 

 か細いため息を一つ。

 滲んだ毒気をそのままに、再び段ボール箱に向き合った。

 中身はもう殆ど空っぽだ。底の茶色が"こんにちは"とほぼ全面を晒している。

 

 最後の最後にたった一つ残ったのは──またしても一枚の紙切れ。

 くすんだ紙。褪せたインク。端が散り散りになった写真。

 

「……あぁ」

 

 結ばれた像が示すのは装蹄師の父と、ウマ娘の母と──。

 

「これもまだ、残っていたんですね」

 

 青い目の『弟』。赤い目の『姉』。ヒトとウマ娘。

 文字通りの意味で血肉を分けた『双子』が、カメラのレンズを見つめていた。

 つまり、ファインドフィートの瞳を覗き込んでいた。

 ──そう錯覚してしまう程度には活き活きと輝いていて、写真越しながらも微笑ましくなってしまう。

 けれども次に彼女が思うのは──ただ、"こういう時期もあったのだなぁ"という望郷の念のみ。

 今となってはもう何処にもない、()()()()()()()()()記録の残骸だ。

 

「……燃えるゴミ」

 

 しかし、そんな貴重な写真であろうとも捨てる。逡巡無く──とは、言わない。

 それでも、躊躇の後に捨てられる。

 

 そしてまた手の平で握り潰してボール状に固めて、ゴミ箱に放り投げる。

 何せ、ファインドフィートは失った後なのだ。

 それならばこんな物に意味はないし、虚しいだけだった。

 

「……こんなもの未練でしかないんです。

 もう、とっくの昔に諦めたものですから」

 

 だから正しい。

 本も、望遠鏡も、星座盤も、家族写真もすべて捨てる。これは正しい行いなのだ。疑いようもなく、一分の狂いもなく、火を見るよりも明らかに、正しい行いである。

 自分に言い聞かせるための言葉が鼓膜を──脳髄の奥を揺さぶった。

 ……けれど心には響かない。

 

 何故だろうか、と自分に向けて呟いた。

 この問いに対する答えは簡単で、誰に言われるでもなく理解していた。

 こんな言葉が白々しいと理解しているのは、他ならぬ彼女自身なのだから。

 

 ──そんな結論を口の中で転がす。ころころ、ころころ。

 こんなもの"木の洞にでも吐き出すべきだった"と、一人自嘲しながら。

 

「さあ……これでゴミは捨て終わりました。

 完了です。これが、最善です」

 

 最後に残ったダンボールを丁寧に畳んで、紙用のスペースに詰め込んでおく。

 これでファインドフィートの両手は空っぽだ。手に持つものは何もない。

 勝手に揺れる耳に釣られてか、耳飾りの金具から軋む音が鳴る。

 カチャカチャ、カチャカチャ。酷く耳障りだった。

 

「……どうも、お疲れさまです」

 

 係の男に声だけかけておく。

 それに対する返事を聞きもせず、逃れるように背を向けた。

 

 蜘蛛が紡ぐよりも儚い未練の糸を逡巡と共に振り払って、じっと耳を塞ぐ。

 こんな事をしても、音の源はすぐそこにある。当然無意味だと理解していた。

 

「…………」

 

 それでも歩いた。また日常に戻る為に。

 

 ……果たして、胸の内は軽くなったのだろうか。

 荷物を解いて、削ぎ落として、軽くなったのだろうか。

 

 きっとそうに違いないはずだと、ひっそり呟く。

 何故なら、胸にぽっかりと穴が空いたような気分だったから。

 木の洞と、空洞の胸。果たしてどちらが軽いのだろうか。

 

 ──彼女は、どちらも大差無いだろうなと自答する。あまりにも無意味な懊悩だ。

 

「……姉さん」

 

 ……寮に戻る道中、ふと、ぼんやりと焦点の合わない瞳で地面を見下ろす。

 視線の先の春を謳歌するバッタ達は相変わらずの能天気。

 己達を見つめる少女の内面なんぞ気にすることもなく、ただ悠々と軽やかに飛び跳ねるばかりだった。

 

 

 

 


 

 

 

 分かっています。

 叶いもしない夢に未練を抱くのは無駄だって。

 とうの昔に捨てたつもりの夢に思いを、後悔を馳せるのは無意味だって。

 ぼくは、この胸に抱く21g()の重さだけでも精一杯ですから。

 

 ぼくは分かっています。分かっているんです。

 だから諦めました。だから、(命題)を叶えるために(残骸)を捨てました。

 過去に繋がる糸を、全部燃やしました。

 それでいいじゃないですか。

 それだけで、いいじゃないですか……。

 

 

 



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19話

 

 "綺麗に、綺麗に育てましょう"

 "茎を切って葉っぱを落として、あなたの為に剪定するの"

 

 

 

 


 

 

 

「ファン感謝祭、ですか。

 わたしの記憶が正しければ……クラシック級のウマ娘は参加が免除されるはずでは?」

「ああ、一生に一度のクラシックに挑むウマ娘達への()()として、参加免除の許可は出ている……が。

 そうは言えども、当のウマ娘が参加したいといえば事情は変わるのさ」

「はぁ……」

「キミが参加したいのであれば言ってくれ。

 トレーニングに関してはそれを踏まえた上で調整するから問題はないぞ」

「……なるほど。

 結局はわたし次第、と」

 

 いつものトレーナー室──では、無く。

 麗しき三女神の像が鎮座する広場の、綺麗に清掃された木目のベンチ。そこに二人座ってはちみーを啜る。

 夕焼け小焼けの赤い光を浴びながら、ハードなトレーニング後の小休止だ。

 一緒に帰るカラスはいないけれど、もうじきに大型犬(ミホノブルボン)となら合流予定である。

 この語らいはそれまでの時間つぶしも兼ねていた。

 

「トレーナーの考えは、如何ですか?」

 

 額に滲んだ汗で張り付く前髪をさっと指先で払い除けて、機嫌良さ気に尻尾を振る。

 ミホノブルボンの手によって丹精に塗り込まれた香油の色香がほのかに広がった。

 

「俺個人としての所感だが、参加する分には問題ないぞ。

 能力の伸び具合からして一着争いには参加できると見た。

 なら精神的な安定を図る……つまり、ストレスを発散するっていうのも十分にアリな選択肢だろうさ」

 

「……ふむ。

 確かに……ブルボン先輩やテイオーさんについて回るのなら中々──」

 

 ──"悪くはない"と、舌の上で転がした。

 ミホノブルボンと一緒に過ごしていれば、きっと心の安寧を享受できるだろう。

 トウカイテイオーと動き回れば……なんだかんだでお祭り事の楽しみ方を理解している彼女のことだ。ファインドフィートに"楽しい"を教えてくれるに違いない。

 メジロマックイーンなら、一緒に出店巡りも良いかもしれない。

 彼女の担当トレーナーには申し訳ないなと、ファインドフィートにもほんのりとした罪悪感はある。だがきっと、素晴らしいひとときになる筈だ。

 ライスシャワーとのんびり歩き回るのも良いかもしれない。彼女は優しくて、強くて、ファインドフィートにとってはある意味での憧れだった。

 まだまだ付き合いは浅いけれど、だからこそ仲良くなりたいなと願うのだ。

 

「……じゃあ、わたしは……」

 

 そうして紡がれたのは、平熱でしかない言葉の続き。

 二人の間の夕日に溶けて、短く響いた。

 木々と枝葉が風に擦れ合う音に紛れるわけでもなく、確かな形となったのだ。

 

 

 ──しかし……さて、()()()の己は何と答えたのだったか、と。

 幾日をも数えた後、中山レース場の一室で回顧していた。

 ファインドフィートの為に拵えられた勝負服に身を包んで、ベンチの上に一人きり。

 膝の上に乗せられた両手をゆるく握りあわせて、じっと(おもて)を下げている。

 

 あの時、参加したいと言葉にしたのか。参加は見送ると拒絶したのか。

 それがどうした事だろう、頭の中から引き出せない。記憶の鍵の在り処を失ってしまってどうしようもなかった。

 

「……なんで、わたしはここにいるんでしたっけ」

 

 決定した意思の形は既に見えなくなっていて、過去は朧気に薄れゆく。

 けれども、結果として齎された現実だけは無慈悲に刻まれていた。

 何を選んだにせよ、ファインドフィートは来る日も来る日も妄執的に自己を鍛え続けた。友人との時間ではなく、自分の夢を選んだ。

 それだけが全てだ。

 

 何を理由としてこの選択をしたのか──はたまた、何故この選択に()()()のか。まったく理解出来ていないけれど、事実としてはそうなった。

 

「わたしは……わたし達は何の手を、掴んだのでしょう」

 

 この薄っぺらい現実の中にあって間違いのない真実と断言できるのは、一つだけ。

 誰かと過ごす他愛も無い時間は"無価値"などではないと、ファインドフィートは一途に信じて疑わずにいた。

 ガラクタのように箪笥の奥に押し込めるべき物ではなく、ましてや無粋な炎で穢して良いものではない。

 子供の悪足掻きに過ぎないとしても、愚かな現実逃避だとしても、そう信じている。

 

「……姉さん」

 

 

 ◆

 

 

 ──いつものように空を見上げる。雲ひとつない晴れた空だ。

 ざあざあと涼やかな風が吹き抜けて、長い芦毛を弄ぶ。

 ざあざあ、ざあざあ。

 芝を揺らしてもうひとつ、ゆるくほどけて溶けていく。

 

 ファインドフィートは少しの間春風のこそばゆい感覚を楽しんで、降り注ぐ日輪の輝きに目を細めた。

 普段通りの、レース前に行うルーチンワークだ。

 意識を集中するためにか、勝利を祈るためにか、あるいはその両方を目的としたものか。それは当人にさえも分かっていない。

 けれどもその甲斐あってだろう。今から"皐月の冠"に挑むというのに──意外な程に心地良くて、不思議な熱を含んだ気分だった。

 

「…………」

 

 細やかに跳ねる頭髪を手櫛で抑えて、逆の手のひらを翳してみる。

 生まれた小さな影では瞳を守り切ることは不可能で、たまらず目を細めた。

 翳した指先は光を通し、淡い()色を帯びる。生者の証に等しいものである。

 

「……綺麗な景色ですね。

 本当に、キラキラしていて……」

 

 風にそよぐ芝は艷やかで、それを踏みつける少女達も皆活力に満ち溢れ輝いている。

 それら全て、太陽のもとにあるお陰だ。

 もしも仮に土砂降りの雨だったとしたらこうはいかない。

 だからきっと、今日という日は恵まれていた。誰に聞いても肯定される純然たる事実である。

 

 ──"けれど"、と。乾く口の中を言葉で湿らせて、じっと腕を組む。

 右手を左の腕に添えて握りしめれば、ほんの少し痛かった。

 これを心の痛みと形にすべきなのか。はたまた情の淀みと(さえず)るべきなのか。

 軋む人さし指を親指と擦り合わせてしばし迷う。その瞳にある焦点は定まっていなかった。

 

「……まったく、無意味なんですよ。

 何かを考えること自体が……」

 

 "そもそもが、物体と非物体を等価として結びつけることに無理があるでしょうに"。

 当たり前の事実だ。

 やや迂遠ながらも行き着いた答えを嘯いて、ぼんやり吐き出したのは小さなため息。呼気に合わせて腕の力を抜き取った。

 

 最近は色々な事があったから無駄に悩む癖がついてしまったのだろう、なんて自分に言い聞かせて、ゆるゆるとゲートの方向へと視線を向ける。

 鋼鉄のゲート。ウマ娘達の発射台。

 いつものように無機質な威圧感を醸し出すそればかりが、どうしてか不気味で心地悪い。

 

「…………」

 

 "何故だろう"と首を傾げる。無駄に悩む。

 けれどもやはり、悩めど考えども明快な答えは出やしない。

 誠に残念ながらファインドフィートの脳みそは普段通りの低効率で稼働していたのだから、全く仕方のないことである。

 

 そのまま立ち止まって数分の思考……となれば良かったかもしれないが、当然ながら叶わない。

 ターフの主役の一角である彼女が放置されることなどなく、老若男女の甲高い声が雨あられと降り掛かる。

 それは観客席の人々、あるいはウマ娘達による温かい声援だった、が──。

 

「がんばれよ、サイボーグ二世!」

「芦毛の底力を見せてやれー!」

「無敗三冠! 無敗三冠っ!」

 

 ──少々……いや、かなり煩く騒がしい。耐えかねて耳をぺたりと伏せる程には。

 だが残念ながら音量はさほど変わらずに、ファインドフィートの鼓膜を揺さぶっていく。

 轟音や波濤にも似た応援。ごうごう、ごうごうと土を貫くヒトの希望。

 実に喧しい。オブラートに包もうにも"煩くない"などとは口が裂けても言えない声量である。これではオブラート如き容易く破れてしまうだろう。

 

「ファインドフィート!」

 

 ……しかしこうして名を呼ばれるというのであれば、嫌な気分になれもしない。

 ミホノブルボンが告げたように、トウカイテイオーが語ったように。

 ファインドフィートもまた同じ結論へ到達している。

 

 そもそも誰かに自分を応援されて快く思わないのだとしたら、そのヒトはおそらく余程のひねくれ者か、極限まで追い詰められて精神的余裕が皆無となってしまった病人だ。誰もが口を揃えて早急に休めと提言するに違いない。

 

 故にこそ言葉の中身を十分に咀嚼して、嚥下して──ただ、右手を掲げることで応えた。

 ()を突いた小さな手。頂点に立つのは一本指。

 白魚のしなやか指が衆目を集める。いつか(四年前)の再現のように。

 

「とります。

 "そこ"で、見ていて下さい」

 

 ──これは"先輩の無念を晴らすぞ"という宣誓か、"一番を取るぞ"という宣言か。はたまた何も考えていない単なる自己アピールなのか。

 数多に存在する観客達の目線からはその背景を幾重にも考察できたろう。

 

 当然、その()()に気付くものは誰も居ない。

 

 だから、この場にあって明確に断言出来る事は一つだけ。

 それは"これ"こそが観衆が求めるモノだったという事実。

 見て、応援して、楽しめればいい。レースに熱狂できればそれで全てが良しとなる。

 何せ、それこそが彼ら彼女らの役目なのだから。

 

「……は」

 

 踵を返し、沸き立つ観客席に背を向ける。

 横目で周囲に視線を彷徨わせれば他のウマ娘も各々で自分らしい決意表明を打ち上げている。

 そしてそれにまた観客が沸き立って、ごうごうと歓声が撒き散された。

 熱を迸らせて、滾らせて、溢れさせて──もはや狂気さえも孕んだ激情だ。

 まさしく熱狂と言わざるを得ない空気の波が生み出され、ターフの上の少女達を呑み込む。ファインドフィートにある種の非現実的な非日常感を刻んでくれた。

 

「悪くない」

 

 熱い。そして重い。

 全身で受け止めれば、不可思議な感傷を覚える味だった。

 これは疼くと表すべきものか。かゆみと称するべきものだろうか。

 無知なファインドフィートは的確な語句を知らなかった。

 

 ただ、この情動が"喜び"を起源とするもので、彼女の中の『姉』が発している信号なのだと()()()()()直感している。

 もしもこの直感を正しい答えとするなら、ファインドフィートにとっても心の底から喜ばしい事だ。

 たった一人の『姉』が喜んでいることを快く思わない『弟』なんていない。当たり前だ。

 ……少なくとも、彼女達は"そう"だった。

 

「姉さんも聴こえているでしょう? この声が」

 

 小さな問いかけを呟いて、ファインドフィートも一頻り観客へ向けて手を振ってみる。控えめであれども明確に。

 己が肉を以て行動したならば、必然的に『姉』も連なり結果を共に享受出来ると確信していたからだ。

 

 ……勝負服の青布を摘んで弄って疼きを誤魔化す様を自覚していない事は、まず間違いなく彼女にとっての救いだったろう。

 

「……先輩方も、この観客席の何処かにいるのでしょうか」

 

 見覚えのある色を探して視線を巡らせる。右へ左へ上へ下へ。

 観客席の前列後列、ガラス窓の先の指定席まで。

 ……とはいえ、流石にこの人数の中から特定の人物を見つけることは不可能だった。

 

「いない……」

 

 ファインドフィート自身ダメ元での挑戦だった故に然程の落胆はない。

 某有名絵本、シャーリーを探せよりも高難易度なのだから順当な結果である。

 だから決して、落胆の念はないが──微量の寂しさだけは、どうしても湧き上がってしまった。

 

「……」

 

 滲んだ苦味ごと頭を軽く振って、視線を前へ──ターフの流れに沿わせて居直る。

 ゲートはもうすぐ目の前だ。

 緑色と鉄色から構成される伽藍堂の中身は随分と寒々しい。

 だが、だからこそ鉄をも熱する少女を求めて威圧的に鎮座していた。

 

「皐月、サツキの花は……たしか、ツツジの一種でもありましたか。

 花言葉は節制……わたしに必要なものですね」

 

 本能から惹かれるように鋼鉄の内部に身をくぐらせる。頭を真横に回してみれば、周囲のウマ娘達も続々と恙無くゲートインしていた。

 鹿毛や栗毛、青毛に芦毛。色とりどりの頭髪が日光に反射して眩しく輝く。

 "きれいだな"とそっと呟き、唇をゆるく噛み締めた。うっそりと吐いた言葉は何処にも届かず、波濤に呑まれて流されるばかり。

 

『さあ、いよいよ始まります。

 今世代最速のウマ娘は誰か? 

 刮目して見守りましょう』

 

 ──"何にせよ"と少女らが抱える多種多様な情動を他所にして、時は変わらず流れゆく。

 感慨を分断する機械の中にあっても不変の現実だ。

 

 レースの前口上を朗々と語る男性の声に耳を傾け、徐々に意識を切り替えていく。

 今世代最速。皐月賞の夢。

 即ち是、大衆が望む冠の一である。

 それがファインドフィートが望むもの。

 全霊を賭して、余分を削ぎ落として挑むべき頂への足がかりだ。

 まったく気が遠くなりそうな話ではあるが、しかし求めたのはファインドフィート自身である。

 

 だから手をのばす。

 望んだモノを、望まれたように。

 願われたモノを、願うために。

 これこそが生者の義務なのだと、自己暗示染みた言葉を心の裡に刻み込んで。

 

『三番人気を紹介します。

 キンイロリョテイ、今日()すんなりゲートイン』

 

『続けて二番人気はこの娘、アグネスデジタル。

 朝日杯フューチュリティステークスの勝ちウマ娘です』

 

『一番人気、ファインドフィートです。

 見事冠を掴み取ることができるのでしょうか』

 

「だからとりますよ。

 絶対に、縋り付いてでも」

 

 呼吸を一つ。

 重ねて二つ。

 大きく三つ。

 

 何時になっても何度経験を重ねても、この緊張感に慣れることは無かった。

 きっと、これからも永劫変われないのだろうという奇妙な確信さえある。

 臆病だから、小心者だからと、ファインドフィートは自分をそう評した。

 

 ……そもそもの話、根っこの部分がヒトでしかないのだから当然といえば当然。

 ウマ娘としての気性を()()は有しているとは言えど、ヒトとしての部分が優れば枷となる。

 

 だから、そんな自分を隠してしまうのだ。

 性根を封じて理性の鎖で縛り上げ、ウマ娘としての己を前面に引きずり出す。

 そうしてしまえば怯えは容易く消え失せて、怯懦(きょうだ)な顔はいくらでも誤魔化せてしまえる。

 

「……すぅ」

 

 次第に鼓動が早まっていく。指や爪先が大きく疼いた。

 ピンと立つ耳が張り詰めた空気を感じ取り、微細な震えさえも無く、鋼鉄が軋む音を待ち構える。

 ウマ娘らはみな口を横一文字の形に引き締めて、奥歯を強く噛み締めた。

 

 そして観客達も同じく、彼女等が漂わせる爆発寸前の激情に釣られ沈黙に同調する。

 さざめく波が引くように、弓の弦を絞るように。

 

 その後に残るのは、風のささやきばかりだった。

 

「……」

 

 鼓動が重なる。吐息が連なる。

 瞳孔が拡がり、汗が滲む。

 そうして、然程の時間も経ずに──。

 

「は」

 

 ──ゲートが弾けた。

 瞬間的な加速。零から一へ、一から十へと刹那の間に切り替わる。

 ゲートが開き切る音さえ置き去りにしたハーフバウンド(スタートダッシュ)だ。

 その中でも"スキル"──と、トレーナー達に称される技術を有すウマ娘達の初動は頭一つ抜きん出ていた。

 

「……ッ」

 

 その内の一人であるファインドフィートは普段通りの流れを保ち、するすると好位置目掛けて後退していく。

 走行の妨害にならない事を意識しつつ、着けた位置は前方より数えて9番手。差しの態勢だ。

 前方で繰り広げられているハナの抑え合いを意識の隅に捉え、周囲の動向に意識を張り巡らせた。

 

 差し当たっての障害は──左前方とすぐ後方を走行しているウマ娘達。

 レース開始に合わせて稼働率を高め始めた頭脳を以てレースラインの選定を行い、視界を広げ、情報を集積。

 そのまま回転襲歩(初速の確保)を終えて交叉襲歩(巡行姿勢)へ。

 第一コーナーを指し示すハロン棒は、早くもバ群の目前にまで迫っていた。

 

『ハナを突っ切るのはオオヤマライデン! 

 やや速めのペースですね、大丈夫でしょうか?』

 

『何処かで緩められるタイミングを見つけられるといいですね』

 

 内ラチ(フェンス)から付かず離れずの距離感を保ちながらのコーナーカーブ。

 外に膨れる事もなく、内側によれる事もない安定した脚取りだった。

 

 横殴りの風が髪をかき乱すも、そんな些事を気にするリソースは既に払底済み。そもそも単なる風如きが地を走るウマ娘の障害になり得る筈もない。

 棚引く芦毛を背に従えて、ひたすらに周囲の動向に目を凝らして耳をそばたてた。

 

 風の音色が、人々の声援が、蹄鉄が地を踏み鳴らす絶叫が。

 世界を埋め尽くす大合唱が喧しくも賑やかにファインドフィートの脳内を蹂躙する。

 

 ──反響の軌跡が頚椎を伝って、ズキズキと、胸の奥が痛む気がした。

 

『レースも中程、残りは半分、疾走する乙女達は向こう正面へ! 

 全体的にかなり早い展開のようです』

 

『今年は"全体的にレベルが高い"という前評判もありましたが、正にその通りになりましたね。

 最後まで目が離せません』

 

 ズキリ、ズキリと幾度も震える。指先が、瞼が、耳が尻尾が。

 ファインドフィートの真っ白な思考回路にノイズが混入して、胸から伝う"痛み"が残影を残して全身を伝播し駆け巡る。

 

「ぐゥ……ッ!」

 

 痛みの根源は心臓。

 原因は"甘ったるい声の主"が残していった幻想の茨。

 棘を以て絡みつき、絞め上げ、傷を愛で、身勝手な祝福を注ぐ。

 その深みに際限などなく、無遠慮かつ無神経にファインドフィートの筋骨を操った。

 

『第三コーナーを抜けて先頭はオオヤマライデン。表情は苦しそうだ。

 続くハッピーミークは未だ余裕のある脚取りです』

 

『最後方のキンイロリョテイ、位置が上がっています。早くもスパートの姿勢です! 

 その前方アグネスデジタル内を見る。こちらも仕掛けの準備は抜群の様子!』

 

 神経に薄氷(うすらい)を突き刺す。延髄に熱鉄を叩き込む。

 それらと等しい痛みを受け止めるほど、出力が加速的に高まっていく。

 

 順当に走れば勝てる。

 正当に挑めばとれる。

 その筈だというのに、茨は加減はなく慈悲もない。

 ただ無粋に無邪気に"走れよ走れ"と一層力を強めるばかり。

 ──当然のように、ファインドフィートの身体を顧みることはなかった。

 

「は、はッ、ハっ──!」

 

 珠のような汗が風に吹かれ、後方に流れゆく。

 空中で舞う雫は視界に囚われることさえなく芝と土にぶつかり散って、形を失う。

 それら全て、レースに携わる全員の意識の外にある。ファインドフィートの喘鳴と同じように。

 

 仕方のない事である。

 皆が意識を凝らしているのは皐月の冠の行方という、全体を通しての事実のみ。

 ミクロの視点を持とうという奇特な者は誰も居なかった。

 

 ……いいや、極少数の関係者の視点だけは違ったらしいが、それだけだ。

 この場で何かしらの行動を取ろうという人物は誰も居ない事に相違ない。

 

『最終コーナーです! 

 ファインドフィートが上ってきた! 先頭めがけてぐんぐん位置を上げてきています!』

 

 ──故に、そのまま加速を続けるファインドフィート。

 ひとつ、ふたつ、みっつと抜き去る。

 前方には残り五名の先駆者。後方には十二名の追跡者。

 乾いた唇を一息の隙間でちろりと湿らせて、蒸気と共に肺の中身を吐き出した。

 

 視界の隅にちらりと写り込んだハロン棒を目印として、更に大きく強く踏み込む。

 示された残りの距離は4ハロン(800メートル)。ここから差し切るか、はたまた後ろから差されるのか──結末は未だ不明のままである。

 何せ、レースに"絶対"など無いのだから。

 

「後ろからだけじゃなくて……っ、ここからっ、差し切られそうになって、もっと頑張る、ウマ娘ちゃんの顔も見てみたい……ッ!」

「……ッ!!」

 

 その言論を補強するのは隣を走行するウマ娘(アグネスデジタル)だった。

 彼女の脚元から轟く蹄鉄の音はいっそ暴力的であり、ファインドフィートも肝を冷やさざるを得ない。

 

 ──しかしファインドフィートにとっては幸運な事に、この段階でのアグネスデジタルというウマ娘は未だ蛹の状態である。

 彼女のトレーナー以外は知らない事だが、本領を発揮(芝とダートを蹂躙)するのはもう少し先の未来の話となるだろう。

 

「ふおおぉぉぉ……──!」

 

 前へ右脚を振り抜いた。隣り合う未完のウマ娘を越え、さらにもう一人を躱して進む。

 前方には残り四名の先駆者。後方では十三名の追跡者が地を鳴らす。

 

 ファインドフィートの眼前では逃げのウマ娘は枯渇しかけているスタミナをさらに振り絞り、脚を動かしていた。

 先行のウマ娘は先頭を奪うためにかピッタリと照準を前へと向けている。

 そしてファインドフィート達、後方に所属していたウマ娘も同様に──"まだ足りぬ"と脚に活を入れ、溜めに溜めた全霊の出力(ラストスパート)を始めていた。

()()()()()()()()()とは、はたして最初に誰が言い始めたのか。

 語源なんぞファインドフィートには全く興味のない事柄ではあるが、実にありがたい金言である。

 この言葉のおかげで"仕掛けるのならさっさと仕掛けろ"と、簡潔で単純な事実が浮き彫りになるのだから。

 

『順番が激しく入れ替わっています! 

 先頭はオオヤマライデンからヤ■■ト■へ──』

 

 前方の熾烈な争いを視界に収め、その場に参戦するため更に踏み込む。

 更に更に、もっともっと"まだ足りない"と強く鋭く、芝を潰す。

 

「まだ、まだっ」

 

 耳鳴りがする。

 肺が膨らむ度ににごうごう、ごうごうと耳朶の内を濁流が満たして止まない。

 芝を蹴り、姿勢を一息で()()()()()吐息を漏らして、ほんの少しでも濁流を吐き出そうと口を開く。

 けれども零れ落ちたのは裂帛を籠めた唸り声のみ。

 

 既に心臓(炉心)の駆動率は臨界点。理性は痛みに赤熱し、本能は狂ったように泣き叫ぶ。

 脈拍は正常性を見失って久しく、独創的にも程があるリズムをかき鳴らしていた。

 

「ぐ、ゥ……!」

 

 漏れる喘鳴を噛み潰す。

 脚の震えを踏み潰す。

 青い靴の裏側で、蹄鉄がぐしゃりと歪んだ気がした。

 ──けれども甲斐はあって、()()に供給された活力が総身を満たす。

 淀んだ執念さえも漂う、度を超えた加速だった。

 絶対に負けられない──否、"()()()()()()"というナニカの意思を感じ取れる程に。

 

『──最■直線です! 

 中■の直線は短い! 中山の直線は短いぞ!! 

 どの娘が先頭の景色を独占するのか──!!』

 

 コーナーを曲がり切る。

 今更遠心力に振り回されるなんてことはありえない。

 素地として体幹を鍛えに鍛えているのだ。小動(こゆるぎ)もしなかった。

 そんな事実になんら感慨を覚えることもなく──ただ、もう一度呼吸を入れて気力を回復させる。

 

 そして、()()

 更に深く、バ体の可動域()()を最高効率で活用するためだけの態勢だ。

 葛城トレーナーに指導されてすらいないフォーム。

 

「もっと、深く、速く……ッ!」

 

 この土壇場で形作ったのは本能故か。

 さながら何らかの天啓を受けたかのような、確信を伴った変性だ。

 だが間違いなく──これこそがファインドフィートという()()()に最も適した走法だった。

 

「──あっ、そうだ。

 前々から見覚えあるとは思ってたけど……」

「なんか、オグリキャップみたいだな。ファインドフィートって」

「オグリキャップ二世だ」

「オグリキャップはクラシックに挑めなかったけど、この娘なら──」

 

 ──"あの人みたい"。

 "あの人の後継者"。

 "あの人が出来なかった事をやってほしい"。

 誰も彼もそれらのレッテルを貼り付けられた少女が何を思うのかなんて一切気にせずに想いを連ねる。

 目指すべき事や自分の軸を決めるべきは当人であるべきなのに、無責任に夢と理想を押し付けた。

 世界とは、所詮そういうものだった。

 

 何せ、ウマ娘の祖たる女神さえも囚われている業である。

 事の裏を知る由もない大衆の熱狂は、ある意味で仕方のないことだ。

 

 ……故にファインドフィート(殻の内側)を見る者は、未だ誰も居ない。

 少なくとも、今はまだ。

 

『ファインドフィート! 伸びる! 伸びていく!! 

 先頭はファインドフィート! キンイロリョテイ追い縋る! アグネスデジタル追い縋る!! 

 しかしバ身差はまだ埋まらない! むしろ離れて行きます!!』

 

 熱気を含む風がファインドフィートの顔を叩く。

 生暖かくてぬるくて、観客席の熱狂を反映した空気は少し重い。

 

「一番は、わたしです……ッ!」

 

 先頭に至ろうと尚脚を緩めることはなく、白い彗星は前へ前へと押し出されていく。

 前へ前へ、前へ前へと直線一気。追跡者達を振り切るため、無垢な残影を描いて駆ける。

 

 ゴール棒はすぐそこだ。

 尻尾を三回程度の揺らす時間でもあれば到達できる。

 他者の足音はすぐ傍らに、風は遥か後方に、"輝き"は指先が届くほどの目の前に。

 

 真っ赤に染まるゴール棒がファインドフィートを睨みつけて、"僕はここだよ"と笑っていた

 観客達の顔も、指先も、芝の葉さえも綺麗な赤で飾られてキラキラ輝く。

 

 ──こんなもの、世界が赤に染まっているのではなく、色覚に異常をきたしているだけ。

 眼球に上った血によるフィルターが主張しているだけの光景に過ぎない。

 

 

 その事実(レッドアウト)に気付けたのは……ゴールして頭が冷えて、少しの時間が過ぎた後。

 膝に手を突き息を吐き出すうちに、体内に溜まった熱を多少なりとも抜き取ることが出来たお陰だった。

 

『ファ■ンドフィートです! 皐月賞、今世代最速のウマ娘が、今此処に決定しました!』

 

 ファインドフィートの名前を呼ぶ声が聞こえる。

 ファインドフィート、ファインドフィート、おめでとう。夢を見せてくれてありがとう、と。

 

 汗に塗れた顔を必死に持ち上げて電光掲示板を睨んだ。

 滴る水分が風を受け止めて蒸発し、ついでの如く熱を奪う。些か不快だった。

 だがそんな矮小な苛立ちも、やがて汗と一緒に消え失せる。

 結局最後には、安堵の心だけが彼女を満たした。

 

「……姉さん、姉さん。

 見ていますか、見えていますか?」

 

 白い耳がぶるりと震えて、赤い耳飾りが淡く鳴く。か細く健気に。

 

「ひとつめ、です」

 

 突き立ったのは一本指。太陽を突き刺そうと藻掻く様は美しい。

 それは、俯いて悔し涙を流す周囲のウマ娘達に目を瞑れば──という話ではあるが。

 

 けれども、どうしようもない事だ。

 勝負事は夢も希望も、失意も絶望も沢山詰め込まれた玩具箱のようなもの。

 それに挑むと"選択"したのは、他の誰でもない彼女達自身なのだから。

 

「……あ、ブルボン先輩だ……。

 テイオー先輩もいる……」

 

 息も絶え絶えなままのファインドフィートは、引きつる瞼を抑えながらも理解する。

 血潮で真っ赤に染まった網膜越しの世界は、想像以上に酷薄だった。

 

「わたしが、走る所……見てくれましたか?」

 

 

 




 ──想いを受け継いだ! 
『ファインドフィート』の継承効果! 
 スピードが40上がった。
 パワーが20上がった。
 『ペースキープ』のヒントLvが4上がった。

『太陽』の女神の継承効果!
 賢さが20下がった。
 『茨の冠』のヒントLvが1上がった。

 コンディション獲得……。
 "選択権限制限中"になってしまった。




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20話

"……はぁ、何ですって?『あなたの愛は捻じくれている』?

まったく久しぶりに連絡してきたかと思えば、『海』ちゃんはうるさいですねぇ……"

 

"あの娘が……ファインドフィートちゃんが夢を叶えるためですよ?

何の問題があるって言うんですかぁ?"

 

 

 


 

 

 

『──続いてのニュースです。

 先日の中山レース場で、新たな皐月賞ウマ娘が誕生しました。

 ファインドフィート氏の記者会見では──』

 

 声に反応して、壁に掛けられた大きなテレビに視線を向ける。

 ファインドフィートの目の前で文書を読み上げているのは年若い青年だった。

 スピーカー越しに微かな起伏を織り交ぜて、つい数日前のスポーツニュースを取り上げる。

 やや堅苦しい論調であれども私情を交えず、中立の立場から報道する事に定評がある男だ。

 

 ……しかし、その割には随分と()()()()な雰囲気が滲み出ていた。

 このような人間でも頬が緩んでしまうあたり、トゥインクルシリーズの持つ影響力が伺えるというもの。

 

「ああ、あの時の会見ですか……」

 

 画面が切り替わり記者会見の場を映す。

 端のテロップには"皐月賞"、"目指すは無敗三冠"などと聞こえのいい文言が踊り、視聴者へ向けて分かりやすいニュースへ飾り立てていた。

 

『月刊トゥインクルの前澤です。

 皐月賞、おめでとうございます。

 レースに至るまで様々な苦難があったかと思いますが、それらを乗り越えた現在の心境をお聞かせください』

 

『……はい、ありがとうございます。

 現在の心境、ですか……。

 ……そうですね、わたしが此処まで来れたのは──』

 

 マイクを手に取り、記者の質問に答えるファインドフィートは無表情のまま。

 凛々しい(かんばせ)とは裏腹に、微妙に(つたな)い敬語で事情を紐解く。しかし彼女はこういった場に不慣れなのだから、仕方がないといえば仕方がない事なのだ。

 これを緊張感で舌を鈍らせる姿は年相応の子供でしかないと表すべきか。はたまたアスリートとしては落第点と評するべきか。

 どちらにせよ矢継ぎ早に投げかけられる質問を捌こうと四苦八苦している姿は、見るからに──。

 

 ──ファインドフィートはそんな自分の姿を眺めて、我が事ながら無様だなと、鼻で笑った。

 口下手。無表情。耳も尻尾も落ち着きなくピコピコ跳ねている。

 "全く、こんなのだからダメなのだ"と自分の手首を握りしめた。細い関節がやけに頼りない。

 

「……はぁ」

 

 喉から響かせたのは掠れた吐息。

 考え込んでも無駄でしかないのだが、気は重くなってしまうもの。

 頭を振って切り替えようとしてみたものの、溜まった熱を追い出すことなど出来なかった。

 

『──次の目標は日本ダービーとの事ですが──』

 

「……」

 

 リモコンを操作する。

 

 切り替わったチャンネルでは今年の有力ウマ娘を特集していた。

 オオヤマライデン、キンイロリョテイ、アグネスデジタル、ファインドフィート。

 辛口な事で有名なコメンテーターが舌先三寸で評価を語り、司会者が纏めて面白おかしく盛り上げていた。

 やれあの時はこうしたほうが良かっただの、ここで差したのは早すぎただの、走りもしないヒトミミが走り方にケチをつける。

 

 ……とはいえ、それが彼らの仕事であること程度ファインドフィートも理解していた。

 結局最後は"今後が実に楽しみですね"と期待を滲ませて、綺麗な風に整え終わる。

 

「……」

 

 リモコンを操作する。

 

 丁度番組の小休止のタイミングだったらしく、コマーシャルの宣伝が始まった。

 見覚えのある──というよりも、見覚えしかない栗毛のウマ娘が無表情のままスティック状の菓子を頬張っていた。プロテイン20グラム配合! と派手に強調された謳い文句を棒読みで読み上げる様は、如何とも表し難い。

 

 所謂タイアップ企画、というやつだ。G1ウマ娘になればこうして企業から提携依頼が届くという話は有名である。

 実際、ファインドフィートにも"そういった話"が来ている事をトレーナーの口から聞いていた。

 しかしながらこの大事な時期に行動に移せるわけもなく、余裕ができた頃によろしくねという挨拶のようなものだったらしいが。

 

「……」

 

 ……小さく嘆息して、もう一度リモコンを操作する。

 

 右上の赤いスイッチを押し込んで、液晶の電源をオフにした。

 真っ暗に薄ぼんやりと反射する顔は、どうにも酷く疲れているよう。

 とはいえこんなもの、きっとパネルの黒色が見せる錯覚だろう、なんて、空々しく嘯いた。

 

 窓の外から響く()の鳴き声が、彼女を嘲るように反響する。みーんみーんと季節を無視して厚顔無恥の大合唱だ。

 ファインドフィートは()()()()()とふたり並んで、座布団に詰まった綿を尻で押し潰した。青い布が不機嫌に空気を漏らす。子供向けの小さな布地で作られていて──。

 

「……わたし、なんで此処にいるんでしょう」

 

 ──ふと、降って湧いた疑問が口をつく。

 彼女が今尻に敷いている座布団は、所持していた覚えなどない代物だった。

 よくよく考えてみれば大きな薄型テレビなんて寮の一室に(入り切らない故に)置いていないし、そもそも部屋の内装からして違う。

 ……だからといって、通い詰めているトレーナー室でもない。

 それどころかトレセン学園の何処とも一致しない、セピア色に寂れた雰囲気の一室だった。

 

 瞳を左に泳がせる。部屋の隅には学習机がふたつ。子供向けの丸い木材から造られている。

 頭を右に回してみれば、壁際に設置されている可愛らしい本棚が視界に収まった。

 背の低い棚の中に並ぶのは天体に関する辞書や、ウマ娘のレースを記す雑誌や教本達である。

 その隣に整理された玩具箱がもの悲しげに佇んでいた。中に入っているのは望遠鏡や星座盤、ファインドフィートが願う夢の(きざはし)だった。

 

「……けれど全部、捨ててしまったのです。

 わたしの手で、わたしが選んで……」

 

 天体を示す背表紙を視線でなぞって、淡い懺悔を混ぜて吐き出す。

 温かくも生々しい、見覚えのある子供部屋に。

 

「あのキズ、あのくすみ……。

 ……本当に、懐かしい。 本当に」

 

 白い壁紙に刻まれているキズも記憶通り。

 ファインドフィートの隣に座り込んでいる芦毛の少女と一緒に遊んでいた時に、勢い余って木の棒をぶつけてしまった時に出来たもの。

 その後ふたり揃って母親に叱られたのも、今となってはいい思い出だった。

 

 双子が過ごした過去の居城、ファインドフィートの生家であるのなら、それらは決して欠かせない大事な痕跡だ。

 

 母親の手で丁寧に磨かれた学習机も、双子それぞれの趣向を反映した本棚も、記憶の中に残っているままの姿。

 違うところがあるとするなら、それは観測手たるファインドフィート()だけだろう。

 

 "夢ですね"と、反射的に答えを弾き出す。

 "女々しいな"と、自虐的に己を罵る。

 

 もう何処にも存在しない写真(四人家族)が机の上に立て掛けられていて。

 しかもその上、自分の手で燃やした()()()()が本棚の半分を専有している。

 そんな事、現実にはありえない。ありえてはならないのだ。

 

 ──そして、"あまつさえ"と瞳の先を真横に向ける。

 そこにいたのは己と同じ芦毛の少女。

 同じ耳、同じ尻尾。 同じ顔。 同じ身体。

 違うとしたら、その瞳の色彩のみだった。

 

 彼女はそれを認めて、下唇をゆるく噛み締めた。

 今更、この期に及んで──彼女の『姉』と同じ空間を共有できるなんて、都合が良すぎる幻想だ。

 

「……本当に、みっともない」

 

 ──"でも、これぐらい良いですよね"と、湿った後悔を口から零す。

 ファインドフィートは『姉』の正面に座り込んで、その赤い瞳を見つめた。

 鏡のように反射する芦毛の少女(歪んだ命)

 今此処にある『弟』の姿こそが何よりも冷たく過去との乖離を証明する。夢のくせに、何処までも無慈悲だった。

 

「見てくれましたか、姉さん。

 わたし、皐月賞を取ったんですよ。

 シンボリルドルフさんのみたいに、ミスターシービーさんみたいに……」

「……」

「ブルボン先輩みたいに、テイオーさんみたいに……わたしも……」

 

 『姉』は語句を返さない。耳も尻尾も寸分さえ動かず、彫像の如くに鎮座する。

 ただ、ぼんやりと見開かれた赤い瞳が無機質に蛍光灯の光を受けて煌めくばかりだ。

 淡々と言葉のキャッチボールを受け止めてるだけの彼女を見ていると、喉が引きつってしまう。

 

「わたしも、夢に向かって走れます。

 みんな……応援して、くれていますから」

 

 ……"それでも"と、もう一度口を開く。

 続けられた声音は生暖かく、微かな震えを帯びていた。

 

「──でも、結局わたしが走れたのは……わたしの力じゃなかったんです。

 みんな、わたしを通して、わたしじゃない何かを見てるんです」

「……」

 

 乾いた唇を舐める。

 ほのかな鉄錆の味が舌を苛んだ。

 

「わたしは、姉さんの名前を残さないといけないのに。

 ……わたしが、姉さんにならないといけないのに」

 

 尻の下に敷いた青い座布団に、更に深く体重を掛ける。

 苛立ちは際限なく胸の奥で淀んで濁って、真っ暗なテレビを見つめる瞳にも刺々しい色が混ざってしまった。

 どろどろ、どろどろ、滲む心は極彩色。

 現実では決して表出しない(仮面の裏に隠した)感情であれども、この夢の世界ならば叶ってしまう。

 

「きっと……わたしが弱かったからダメなんです」

 

 ……けれどその感情を肯定してしまえば、ファインドフィートは自分で自分を許せなくなってしまう気がしていた。

 生かされた側の自分が、何もかもを与えられている自分が、好き勝手に振る舞うなんてあり得ないのだ。

 だからじっと瞳を抑えて心を隠した。いつも通り、必死に。

 

「だから、だから……もっと、ちゃんと走らないと。

 夢を、叶えないと。

 名前を、足跡を、残さないと……っ」

 

 頭を抱えて、耳を震わせ尻尾も丸めて小さく蹲る。

 夢の世界だと言うのに、今この瞬間も胸が痛んで仕方がなかった。

 ずきずき、ずきずきと、ファインドフィートを焦がして止まない。

 

 そして麗しい荊棘が愛情のまま、彼女に絡みついてささやくのだ。

 "走って"、"どこまでも"、"夢のために"。どこまでも深く染み込む、甘ったるい声だった。

 

「分かっています。

 ……分かって、います」

 

 ──そんな姿を、隣の赤い座布団に座り込んだ『姉』がガラス玉の瞳で見つめている。

 青い瞳のファインドフィートと瓜二つの容貌で、全く同じ芦毛を伸ばしたウマ娘。

 ただ唯一違うのは瞳の色のみ。

 澄んだ赤い瞳は光を透過し、うすぼんやりと見開かれたままだ。

 

「……姉さん」

 

 トレセン学園の制服に身を包んでいる姿はきっと、ファインドフィートの願望を形にしたものだった。

 きっとあの日、交通事故に遭わなければ。 あるいは、ふたりの立ち位置が逆だったなら現実の物となっていた姿。

 ……その姿を見つめていると、どうしてか指先の震えが止まらない。喉の奥にツンとした淀みが溜まってしまう。

 

「ごめんなさい……もっと、走らないといけないのに」

 

 ──そんな愛しい片割れに向けて、縋るように、祈るように跪く。

 二人の距離はすぐ近く。

 手を伸ばせば頬にだって届くだろう。抱きしめたいと願ったのなら、ほんの一瞬で叶うだろう。

 

「────」

 

 "姉さん"と呼ばれた少女は動かない。

 瞳を揺らすこともなく、耳も尻尾も振りもせず、口を開きさえしない。

 無表情で無感動。有機的でなりながら無機質。淡々と、ありもしない遠い地の底を眺めるばかりだ。

 なにせ彼女は夢の産物だ。そのような機能、持てる筈もない。

 

「だってわたしは、ファインドフィートだから。

 だから、だから……」

 

 "走らないと"。

 そうファインドフィートの口から零れ落ちた青色は、酷く傷みきっていた。

 

「頑張らないと、いけないんです。

もっと、もっと、もっと……っ」

 

 ……言葉を聞き届けた少女は、やはり何も返さない。返せない。

 (こうべ)を垂れた片割れのつむじを見下ろすだけで、慰めの意思の片鱗さえも表せなかった。

 

「……ごめんなさい。

 ごめんなさい、姉さん……」

「……」

 

 それでも、彼女は縋り付いた。

 彼女の『姉』は(こぼ)れた心を受け止められない。

 所詮は夢の世界に顕れただけの、ファインドフィートに"ファインドフィート"を受け継がせた過去の残滓。単なる残響を形にしただけの物。

 精神の欠片程度なら残っているかもしれないが──どうあっても()()ではない故に心は宿らない。

 

 ……当然、知っている。本当の『姉』はもう死んでしまったのだから。

 だが此処にいる彼女が偶像だったとしても、ファインドフィートにとっては大切な『姉』だった。

 そっと服の裾を握りしめて小さく震える。取り残された迷子のように。

 

「……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

 目が覚めたら、もっと頑張るから。

 ちゃんといい子になるから、だから、今だけは──」

「────」

 

 ──()()()()()『姉』にとって大切な『弟』だった。

 今此処にいる『姉』の顔に感情の色は宿っていない。不確かな存在は今にも消え失せてしまいそうな危うさがある。

 

 "しかしそれでも"、と。

 ゆるゆると右手を持ち上げて、目の前の頭上に乗せた。

 "慰める"という意思の行いではない。夢であろうとなかろうと、そんな機能とうの昔に消え失せている。

 "義務感"という思想の発露ではない。そんな重みを解するだけの思考能力は何処にも無いのだから。

 

「……」

 

 これがファインドフィートが願った夢というだけなのか。

 それとも女神が見せた気紛れの幻想なのか。

 ……あるいは──。

 

「……ごめんなさい、ごめんなさい」

「…………」

 

 ──何にせよ。

 どう解釈して足掻いた所で、瞼の外の現実は変わらない。

 

 しかし瞼の外の事情の尽くは、瞼の裏側である今だけは存在しない事柄と成り果てている。

 故に、夢の一時を邪魔する者は誰も居ない。

 双子の間を引き裂くものは何もないのだ。

 

 『弟』は何に謝っているのかも分からずに、小さく声を震わせる。

 『姉』は何をしているのかも理解できずに、ぼんやり頭を撫ぜるのみ。

 そうして満ちる静謐な空気が二人を取り囲むばかりだった。

 

 ……部屋に響いていたはずの蝉の金切り声は、いつの間にか止んでいた。

 

 

 

 

 

「──……姉、さん」

 

 "ぱちり"と、目が覚めた。ふと我に返った。

 どちらとも形容できるほど自然に、眠気の海から浮上する。

 

 開けた視野は明瞭で、ピントが合うのもすぐだった。

 窓のカーテンの隙間から差し込む朝日と、空気中で反射してキラキラ輝く塵のおかげだ。

 住み慣れた寮の一室は暖かくファインドフィートの目覚めを祝福している。

()()()()()()()()()()()()の体温の高さもあって、彼女の心を優しく解してくれる。

 

「姉さん……?」

 

 頭部に乗せられた手は横から、つまりベッド脇から伸びていた。

 ぼんやり鈍ったままの脳みそで、現状を解きほぐして呑み込もうと思索してみる。

 ……が、どうにも思考回路と感覚が噛み合わない。

 

 ゆったり、ゆっくり、呼吸を刻んでぼうっと瞬く。

 はて、目が覚めたのに何故頭に重みを感じるのだろうか。

 何故思考が纏まらないのか。そもそも自分は今目覚めているのか。この瞼は開いているのか。

 どれもこれも、今のファインドフィートにはまったく理解が及ばなかった、が──。

 

「……フィートさん。おはようございます」

 

 ──おもむろに手の主とパチリと目が合う。

 主が鎮座するのはベッドの横、備え付けられた椅子の上。ゆらゆらと揺蕩う栗毛の尻尾を視界の端に捉えつつ、彼女とは違う深みの青を見つめる。

 星のような瞳が影の下で輝いていた。

 

「フィートさん、大丈夫ですか?」

「……ぁ。

 ぉはよう、ございます……?」

 

 ミホノブルボンがゆるやかに腕を揺らし、釣られた手先がファインドフィートの白い頭髪を撫でていた。

 丁寧で優しい手の平を通じて現状を把握したは良いものの、やはり頭の中はぼんやり重たいままだった。

 

「……ぁ」

 

 時間を掛けて徐々に平常時の思考速度へ回帰する最中も、白い髪を指先がなぞる。

 こそばゆさと安心感で包み込まれて、また起き上がろうにも身体に力が入らない。

 胸の痛みが紛れる気さえするほどに優しい手だった。

 

「……その。魘されていたようなので、頭を撫でていました。

 蓄積されたメソッドには、他者と触れ合うことで感覚ニューロンを刺激することができ、リラックス効果を高めることも可能という記述があります。

 つまり、夢見を良くしたかったのです」

「……それは……その、ありがとう、ございます」

 

 何とか口を開いても、どうにも鈍い舌先だった。

 夢の景色を否応なしに想起させる手つきのせいだろうか。

 このぬくもりが、どうにもファインドフィートの心に染み込んだ。

 普段なら常に気にしていた筈の時計の針さえ視界に入り込めず、独りぼっちで駆動しているばかりな程に──。

 

「──フィート、さん? 

 泣いているのですか?」

 

「……?」

 

 ──咄嗟に跳ねた指先で頬を擦った。

 しかし指先に水気を感じることはない。涙なんて流していないのだから当然だ。

 

 ミホノブルボンの勘違いだった事を理解して、安堵のため息をひとつ。

 じっと耳を伏せ、ふたつみっつと瞼を瞑って開いてすぐ隣の少女を見上げた。

 

「……ブルボン先輩?」

 

 何故だろう、と困惑の意が喉に籠もった。

 ファインドフィートとよく似た雰囲気の無表情が僅かに形を変えて、端正ながらもほのかに暗い色を浮かばせている。

 何故だろう、ともう一度疑問を瞳にのせる。

 ミホノブルボンが辛そうな顔をしている理由が、悲しそうに瞳を揺らしている原因が分からない。

 

 ファインドフィートの額に手を置く彼女は、あいも変わらず無表情のままだ。

 ……が、その雰囲気から内心を汲み取るのは存外簡単な事である。

 

「あの……もう少しだけ、こうしていてください。

 お願いします……そうしたらまた、元気になりますから」

「……オーダー、確認しました。

 オペレーション『休息』を実行します」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「──という、事が昨日ありました。

 以上の事実からフィートさんの状態を演算した結果、ステータス『疲弊』である可能性が95%であると推測されます」

 

「……そっか。

 やっぱりそうだよねー」

 

 うんうんと小刻みに頷きポニーテールを揺らしたのはトウカイテイオー。

 休日午後二時のカフェテリアは利用者が少ない事もあってだろう。周囲に彼女ら以外の姿は存在しない。

 テーブルの対面に座るミホノブルボンは、やや間を空けて耳を垂らした。

 しょんぼりしなしなと力を失う様子は見る者に哀愁を感じさせる。

 

「……胸の奥に『かゆみ』を検知しました。

 フィートさんの苦しげな顔を認知する度に、一秒ごとに増大しています」

 

 手にもつカップが小さな音を立てて受け皿(ソーサー)に着地する。

 赤い紅茶に波打つ紋ばかりがやけに目立った。

 

 普段一緒に行動している筈のファインドフィートの姿はない。

 今日の彼女はトレーナーと共に高地トレーニング(低圧低酸素環境)まで出張中だ。

 だからこそ、こうしてトウカイテイオーとミホノブルボンは集まった。

 

「……つまり、『心配』です」

 

 ミホノブルボンはもう一度カップを持ち上げ、乾いた唇を潤した。

 対面でちびちびとはちみーを舐める鹿毛の少女に"最近のフィートの様子、なんか変じゃなかった? "と質問をされて、問われた通りに答えたのみではある。しかし不思議と乾いてしまうのだから仕方がない。

 

「……ん」

 

 唇を湿らせる。

 そして質問の意図の本質を掴み損ねた故の疑念をうっすら瞳に滲ませて、目の前のトウカイテイオーを見つめた。

 少女は眉をハの字に歪めて悩んでいるらしき彼女は瞳を伏せたままだ。

 ただ、深い思慮からなる重みで耳を垂れさせていた。

 

「う~ん、う~ん……?」

 

「ところで、テイオーさん。

 本日集まったのは……どうやら、フィートさんの普段の様子を聞きたいだけという訳でも無い様子ですが」

 

「ん……あっ、そっか。

 ごめんね、事情も説明してなかったね」

 

「いえ、それは全く問題ありません」

 

 両手の指を軽く握り合わせて口を開く。

 演算回路から引き出したのは──同室の後輩で、どこか放っておけない空気を纏った芦毛の少女。

 

 ふと、今更ながらに思い出す。

 皐月賞の日から──時折胸を抑えて、何かを堪える姿を。

 いくら思い返しても彼女の表情は変わってなどいなかった。

 しかしその下面の裏側では、きっと苦しんでいた筈なのだ。

 

 その原因は分からない。

 分からないから、分かりたい。

 ミホノブルボンが動く理由なんて、それだけあれば十分だった。

 

「フィートさんが心配なのは、私も同じですから」

 

 無垢な視線を受け止めた少女が再度頷く。

 ミホノブルボンの思いは、友人を助けたいという願いはトウカイテイオーも同じなのだから。

 

「うん……ボクも確証があって行動してた訳じゃないんだ。ごめんね」

 

 言葉を飾らずに言えば、"ただの直感"と言う他ない。

 多少思慮を深堀りしても()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という深慮に及ばないもの。

 彼女の周囲から漂い、ふとした瞬間に存在を主張する()()を言語化することは限りなく不可能に近かった。

 

 目に見える何がある訳でもなく、単なる勘違いであるといえばそれまでの話。

 だからこそ今の今まで特別行動に移す事は無かったのだが──。

 

「前々から違和感はあったんだけどね、こう……最近、ますます変な感じがしててさ」

 

「……?」

 

「……あれをなんて言ったら良いのか、ボクもイマイチ分からないけどね。

 何ていうか……うぅ~」

 

 しかし事情は変わった。

 事の起こりは皐月賞の後、ファインドフィートにお祝いの言葉を贈りに向かった時だ。

 普段通りに顔を合わせて、普段通りに一緒にはちみーを買って、普段通りに雑談に興じて、あの瞳を見て。

 ……"目は口ほどに物を言う"とは非常にできた(ことわざ)らしいなと、トウカイテイオーは今更ながらに実感した。

 

「何かに……()()()()みたいだった」

 

 

 

 


 

 

 

寝ても覚めても、ずっと痛い。

ずっとずうっと、ずきずき、ずきずき。

胸の奥が痛んで、苦しくて、頭の中も空っぽのまま変われない。

 



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21話

"日本ダービー、菊花賞……あと、天皇賞?

わ、これって春と秋で別々にあるんですか?

最近のレースって色んな種類で別けられてるんですねぇ。

昔だったら何もかもが、もっともっと単純だった気がするのに……"

 

"単なる追いかけっこだったり、走りたい娘で集まるだけだったり"

 

"……あぁ、神事でもありましたねぇ。

走ることは、命の祈りそのものですから"

 

 

 


 

 

 

 空に日が昇ると同時に眠りから覚めて、敬愛すべき先輩と共に朝食を食み、学業をやり過ごし、放課後には自らの限界スペックを引き上げるための調練に励む。

 ファインドフィートの一日は何があっても変わらない。

 胸の痛みに苛まれようとも、過去の残花を棄て去ろうとも、在りし日に追憶をはせようとも、変われない。

 

「芝2000メートル、2分9秒と8。

 やるな、流石のタイムだ」

「……っ、わたしは、ファインドフィート、ですからね……」

「落ち着いて息を整えろ。

 次は1800メートルだ」

「了解、しました……っ」

 

 未だ空に掲げられた陽光に目を細め、額を伝う汗を乱雑に拭い取る。 そして湿り気を帯びる袖口を軽く捲りあげた。

 ここ最近のタイムは以前にも増して高水準であり、達成感にも似た情動がとめどなく尻尾を揺らした。

 本番ではない練習のタイムなのだから、本番以上に安定した走りを出来て当然である。

 しかもその上ファインドフィートは『姉』の心臓を受け継いでいるのだから、いい結果を出せて然るべきとさえ思っていた。

 

 ……とはいえ、それでも喜ばしい事に違いはない。

 身体能力が高まるという事は、『姉』のスペックを引き出せているという事実の表れでもあるのだから。

 

「ふっ……ふぅ……」

 

 ──"無駄な思考ですけれど"と小さく吐き捨てて、芝に爪先を擦り付ける。

 振動に合わせて脚に籠もった熱を少しずつ発散させながら、芝の青臭い香りを吸い込んだ。

 

 トレセン学園のレース場を覆う芝は香りだけではなく、非常に出来が良い。彼女らウマ娘の肉体にかかる負担を和らげてくれる程の一級品である。

 そのお陰もあってだろう、何度でも何度でも地を蹴り駆け抜けたところで脚の損耗は微々たるもの。

 こうして軽い刺激を与えながら深呼吸を繰り返せば、数分も待たずにまた走り出せる程度に回復していた。

 

「水分補給も忘れるな」

「はい……」

 

 彼女の身体に宿ったヒトの因子──つまり、哺乳類の中でもトップクラスの持久力を持つ生命体由来の回復力を一等強く残したままの彼女にとって、多少の休息だけで十分なものとなる。

 もちろん、尋常なるウマ娘とて()()という歴史の積み重ねによって獲得した回復力が存在する。

 血と歴史の積み重ねによってウマ娘達の身体能力の上限値──正確に言えば、成長力とも言いかえる事が出来るものを高めて次代へ繋ぐのだ。

 回復力とは、つまり傷ついた肉体を癒やすという事。

 以前よりも強く、以前よりも靭やかに、以前よりも大きく。

 そうして強くなった肉体を更なる訓練で追い込んで、高みへと導く。

 生命とはそうして緩やかに育つもの。

 

 ……だが、今の世代に限定したなら、ファインドフィートの回復力だけは他の追随を許さない。

 これのみが『彼女』が有する唯一の強みであるとも言える。

 代を重ね続けた先では没個性、という注釈付きではあるのだが。

 

「んぐっ……」

 

 ペットボトルの水を全部飲み込んで、空っぽになったプラスチックを握り潰してボール状に変形させる。

 彼女の握力は140キログラム、成長期だ。

 

「処理、お願いします」

「……あぁ」

 

 放り投げたボールが弧を描き、トレーナーの手の平へ着弾する。

 以前は肉付きが悪くて痩せ細っていた青年も、気付けばこうして反応できる程度には健康的な肉体へと回復していた。 生活習慣を改善した成果の表れだ。

 それをファインドフィートが気まぐれに用意(ド素人アレンジ)した手料理の効果と見るか、はたまた担当ウマ娘の手をわずらわせる訳にはいかないという大人の矜持か、あるいはまた別の要因か。

 

 何であれ、彼女に真実を知る由は無い。

 けれども己のトレーナーが健康であるのなら、心の底からとても良い事だと思える。

 健康な身体を失ってから大切にし始めるのではもう間に合わないもの。

 葛城トレーナーには事前に備えて貰って最後まで自分の担当をしてもらわなくてはと、仮面の裏側で一人呟いた。

 

「よし……もう一回、お願いします」

「……位置について、合図を待て」

 

 葛城トレーナーが手元のノートに何事かを書き込んでいる姿を横目に、呼吸をもう一度繰り返す。

 身体が十分に動く事を確認の後に所定の位置へ、揺るぎのない脚取りで移動した。

 スタート地点の中央で、右脚を前に、左脚を後ろに。

 上体を少しだけ地面に傾けて、両の手を身体の傍らでゆるく構える。

 

 額を流れる汗は既に乾き始めていて、僅かな湿りを残すのみ。

 ……とはいえ、またすぐに汗だくになるに違いない。

 春の風は暖かく、故に風邪を引く事は無い。 けれども不快感は誤魔化せないものだ。

 

 ──しかし、流した分だけファインドフィートは強くなれる。

 努力を積み上げた分だけ夢に近付く。

 研鑽を重ね続けた先にこそ、彼女の足跡を遺す栄誉が与えられる。

 

 それらが決して裏切らないなどとは、決して言えない。

 狂おしい程の勝利への渇望を燃やして、相応の血と涙と汗を流して。

 けれども結局、追い縋れもせず果ててしまったウマ娘なんて──それこそ、数え切れないほど存在しているのだから。

 

 彼女は"だからこそ"と、己の脚に鈍い活を叩き込んだ。

 非才のなり損ないでしかない自分が勝利を願うのなら、苦痛をも燃料に走り続けるしか無いのだと。

 

「スタート」

 

 ギラギラ輝く太陽の光。

 網膜を灼く刺激に目を細めている内に、葛城の合図が耳朶を叩く。

 気付けば、疾走が反射的に始まっていた。

 

 

 ◆

 

 

 ──それから、どれほどの時間を費やしたのか。

 星の傾きから知ることは出来ないかと頭上へ顔を向けてみた。

 ……が、残念ながら視界に飛び込むのは真っ白な天井のみ。

 現在地はロッカールーム故に、まったくおかしくない当然の話だった。

 

「ふぅ……ふっ……」

 

 ふらふらと揺れる身体を必死に律して、ベンチの上に腰を下ろす。

 トレーニングを終えたばかりであるためか、未だに荒立ったまま吐息が唇の潤いを奪い乾燥させていく。

 けれどそんな些事を気にする余裕さえなく、鈍重極まる動作で運動靴を脱ぎ捨てる。 汗で湿ったインソールがどうしようもなく不快だった。

 

 青い靴にケアスプレーを吹きかけ靴用乾燥機にセット。

 二本のノズルを挿し込みボタンを押すだけで後の処理は全自動だ。

 汗を拭って制服に着替えて、一息をついた頃には普段に近い状態までは回復してくれているだろう。

 

「……もう、七時ですか。

 早く帰って、ご飯を食べないと」

 

 ぽつりと、壁に掛けられた時計に向けて予定を伝える。

 当然、返ってくるのは規則正しく刻まれ続ける針の音のみ。

 他に聞くものは誰も居ないのだから順当な結果。 ……だとしても、もの寂しい気持ちにもなってしまった。

 

 普段は多くのウマ娘で賑わうロッカールームも今は無人だ。

 時間帯の関係もあってか、今の利用者はファインドフィートしか居ない。

 ただ、たった今起動したばかりの乾燥機の駆動音と蛍光灯による電気の呼吸音がチカチカ響くのみだった。

 

「はぁ……」

 

 ごうごう、ごうごう。チカチカ、チカチカ。

 そんな無機質な合唱で無聊を慰めていると、普段の喧騒が恋しくもなってしまう。

 

 夕暮れのカフェテリアで集まって、甘いものを食べて、おしゃべりをして、紅茶の水気で乾いた口を潤して、尻尾を揺らす。

 ……元々の彼女には、"そういった空間"なんて不慣れで、苦手なものでしか無かった。

 理由をあげるとするなら、"生来の気性として口が上手くないから"だろう。 これは変えようのない事実である。

 何かを語ろうにも、何を語るべきなのかが理解できていなかった。

 だから家族以外の人々と過ごす団欒の時なんて"恐ろしい"と忌避していたし、それを"楽しい"と胸を張る人の気持ちには全く共感できずにいた。

 

 ……その筈だった。

 しかし、今の彼女はどうしようもなくあの温もりを求めている。

 何故だろう、と首を傾げた。

 けれども重くなった脳漿にはあまりにも難解に過ぎる疑問であり、いくら悩めど無駄に尽きる。

 ついぞ、答えは毛の先さえも形にできないままだ。

 

「……」

 

 ぼんやりと気の抜けた様子で、乾いた唇を舌で舐める。鉄の味はしなかった。

 そうして一呼吸。吐息に疑問の尽くを混ぜ込み吐き出してしまう。

 更にもう二呼吸を置いて、肺の中を新鮮な空気で満たす。

 ただの虚無だった。

 

 ……しかし何時までもこうしてはいられないぞ、と一念発起しジャージの裾に指先をかける。

 早めに汗を拭いておかねば身体を冷やす。

 下手を打てば風邪を引いてしまうかもしれない。

 そんな事実程度は、一般常識として弁えているのだ。

 

 今日という日も一緒にトレーニングをこなした赤いジャージは、長い時間土埃に晒された事もあってザラザラのコーティングで汚れている。

 寮に帰ったら洗濯しなければいけないなと脳内の予定表に追記して、脱ぎ捨てた上下の赤布を綺麗に畳んで袋に詰めた。

 

 次いで手に持ったのはボディタオル。

 首筋、肩、背中、脇、胸元。

 少し持ち上げて胸の下まで、しっかり水気を拭い取る。

 限界ギリギリまで酷使された筋肉は熱く火照り、皮下で疲労に苦しんでいた。

 

 

 ──結局、身なりを整えるのに掛かった時間は二十分ほど。

 先程よりも大きく進んだ時計の針が現実を映す鏡のようにも感じられて、どこか寒々しい。

 

「……そろそろ、行きますか」

 

 誰に向けたわけでもない呟きを溢して、落としきれなかった埃が付着したままの芦毛を後頭部で結わう。

 運動後はどうしても熱気が溜まってしまう事もあって、こうして通気性を確保しておかないと不快になって堪らない。

 昔であればもっと短い頭髪だったから気にする事も無かったし、そもそも身綺麗であるか否かなんぞ気にするべき価値も皆無だった。

 

 ……しかし今となってはそうもいかず、長く伸ばされたこれに合わせた振る舞いが必要になる。

 運動の時には一纏めにしておかねば乱れるだろうし、湯船に浸かるときにはタオルで頭に固定していなければならない。

 それに毛艶を保つための手入れとて相応の労力を要する事だとか、ケア用品を仕入れる必要がある事だとか──様々な観点から評して、"まったくもって面倒極まる"などと感想を抱いた。

 

 とはいえ、髪を伸ばすと選んだのは他ならぬファインドフィート自身である。

 今になって本当に本心から嫌になった、などと言うつもりは無い。

 無いのだが、面倒臭いという感慨は拭えなかった。

 

「鍵、よし。消灯、よし。

 ……トレーナーも待っているでしょうし、早く行かないと」

 

 肩掛けカバンをもう一度持ち直して、ふらふら歩き出した。

 右へ左へ、上体の反復運動に合わせて両耳の飾りが小さく鳴いている。

 

 勿論、この疲労感もはじめの頃に比べて幾らかは慣れたもの。

 今では自力で歩けるようになり、足を引き摺るわけでもない。

 ……とはいえども、つらいものは変わらずつらいものだ。

 目的地である何時ものトレーナー室は同じ棟にあるおかげで、純粋な距離自体は然程でもない。

 それにしたってあまりにも遅々とした歩みだったが。

 

 一分、二分、三分。

 次いで四分、五分と歩行時間が延びる程、彼女の体力を加速度的に削り取っていく。

 そのせいでトレーナー室のドアを開けた頃には息も絶え絶えの有様だった。

 

「……来たか。

 ウォーターサーバーで水分補給しておくといい」

「…………」

 

 手元の端末に視線を落としたまま、青褪めた(かんばせ)が指示を出す。

 それを受けたファインドフィートは無言で、部屋の角の水回りへとふらふらの脚を差し向けた。 指示を出した主──葛城トレーナーのように血色が悪いという訳ではなくとも、覇気の無さではまったく同じ。

 それでも今日最後のタスクだけは終わらせねばならないのだと、疲労のみではなく思考さえも共有していた。

 

「…………じゃあ、来週分の修正案を共有しておく。

 疑問点があったら挙手……は、できるか?」

「出来るように、みえますか?」

 

 ──なんて呻きながら、備え付けのソファに倒れ込む。

 顔をクッションに埋める姿には、皐月賞ウマ娘としての威厳なんぞ欠片も宿っていなかった。

 

 過度なトレーニング……では無いものの、無理のない限界を狙いすましたメニューによって全身の活力を容赦なく叩き潰されていた故に、こうして脱力し切るのも無理のない事である。

 顔を持ち上げるのも億劫で、四肢を動かすのは不可能で、鈍い気怠さと胸の痛みという毒が彼女の身体に居座り続ける。 いっそ眠ってしまいたいなと欠伸をこぼして重い瞼で瞬いた。

 

「いや……まあ、そうだな。

 尻尾でも耳でも立てといてくれ」

 

 無言実行。 返事の代わりに尻尾が揺れた。

 砂埃で少しばかり汚れていたものの、白い毛並みは常と変わらず光を反射している。

 

 葛城トレーナーはそれを見てか、はたまた見ていないのか。

 意識の在り処さえはっきりと判別できない程億劫そうに頷き手元の資料に視線を落とす。

 幾十枚もの紙束に記載された情報群はファインドフィートの能力値をグラフ化したものや、過去との比較点に注釈点。

 そして今後の目標レースに向けたトレーニングメニューの構想を文字にしたものなど内容物は非常に多岐にわたる。

 ある意味ではプライバシーもへったくれもない紙面を丁重に捲りつつ、以前よりは肉付きのいい指先で文字をなぞった。

 

 そうして口から垂れ流すのは来たる日本ダービーという大舞台に向けた調整策だった。

 過去と現在のステータスを比較し、成長率を導き出し、細かな部分を煮詰めて微調整する。

 

 前はこうで、今はこうだった。だからここをこうしたほうが正しい。 断言系文言だ。

 ……つまり、先程の声掛けはさほど重要なものではなく、ただ形骸化しきった"説明義務"とやらを無機質に履行しているだけに過ぎない。

 ファインドフィートに対する解説というよりも、単なる確認行為に等しかった。

 

 故に不純物が混入することもなく、今後の先を定める指針が着々と堅固な形を獲得していく。

 それを欠片の疑いもなく、全霊を以て疾走することのみが彼女の役割である。

 

「まずは過去の実績まとめから始めようか。

 最初に着目するべきは心肺機能だな。

 トレーニング開始当初からキミの能力を計測していた訳だが──」

「…………」

 

 ゆらゆらと、何ら意図を持ち合わせずに尻尾を揺らす。

 しかし葛城トレーナーは目もくれず、気付きさえせず朗々と手元の文字を追いかけ続けていた。

 

 この通り、二人の間に意見交換なんてものは存在しない。

 当然、構想の材料はファインドフィートが提供するものだ。

 けれどそれらのデータをどのように組み合わせて料理するのかを決定するのは、葛城トレーナーの仕事だった。アスリートたるウマ娘の担当領域ではない事柄である。

 故に不満はなく、疑問もなく、ただソファに抱かれて束の間の微睡みに身を委ねるのみ。

 

 勿論、そんな彼女の姿は葛城トレーナーも把握している。

 だからといって彼女を咎める気はなく、むしろ休める時に休むという合理的な行動は好ましいとさえ判断している。

 その()()()()()()な様相に些か──そう、些か、年頃の少女としては如何なものかと呆れてしまうけれど。

 しかしここ最近はずっと()()()()()()()の担当ウマ娘が気を抜いているのだ。 多少品のない行動をしている程度で目くじらを立てるほど愚かでは無いつもりだった。

 

「……さて、ここの脚部駆動についてだ。

 深く沈み込むフォームは……そう、キミや、一部のウマ娘に見られる特徴的な形態だ。

 極端な前傾姿勢と柔らかな関節の駆動域によって支えられる走法だな。

 次回からはこのフォームの強みを補強するためのメニューも組み込んでおくから頭の片隅においといてくれ。

 ちなみにこの脚の運用方法が何故効果的なのかという話の根拠なんだが、これは先代桐生院トレーナーの論文が参考になる。

 まずウマ娘の骨格筋の部分から始まるが──」

「…………」

 

 連なる言葉は途切れること無く部屋に染みる。

 ひとつ、ふたつ、みっつとファインドフィートの耳朶を無意味に撫でて、脆く解けて消えてゆく。

 もはや彼女の頭脳にその中身に詰まった意味を解する気概さえもなく、単なるバックコーラスに等しい環境音として受け取っていた。

 

「そうだな、夜時間帯にサプリメントを追加しておこう。

 疲労回復効果を高めるために多少の間食も許可する。内容は後からLANEで送っておくとして──」

「……ぅ」

 

 滔々(とうとう)と押し寄せる波のようだ、と朧気な意識に感慨が浮かぶ。

 色はなく、変化もなく、単調で──何から何まで面白みのない解説。

 ある意味睡眠導入のホワイトノイズにも似通っていて、彼女の意識を強制的に鎮めてしまう。

 

 ──男の声の合間に小さな寝息が交ざるまで、大した時間は掛からなかった。

 

 

 ◆

 

 

 

「……ふぁ」

 

 漏れ出た欠伸を、歯を立てて噛み潰す。

 すっかり暗くなった空のおかげで、みっともなく広げられた口は目立たない。

 葛城トレーナーの講演を子守唄として眠りにつくこと30分程度。

 既に身体の動作を阻害する疲労の殆どが抜け落ちているおかげもあって、寮への帰路を踏む脚取りはとても軽い。

 とん、とん、とんと靴先から響く音が小気味よく、彼女の心に優しく伝播する。

 泥で汚れた青い靴は、きっと彼女にとってこれ以上無く上等な化粧だった。

 

「帰ったら、ご飯を食べて、早く寝ないと……」

 

 道端に立ち尽くす街灯の光を頼りに足を進める。

 前から横から、そして後ろからも照らされた事で幾重にも重なる影を引き連れて、ゆったりと。

 視線は地面に固定されて上にも横にも動かない。

 眠気と疲労の二重苦がぶら下がっている故に、そう簡単に抗えるはずもないのだ。

 

「あっ、フィートだ! 

 奇遇だねー!」

 

 ──が、声をかけられあっさりと視線を引き剥がされる。

 次に瞳が向かう先は、馴染み深い高音で駆け寄ってくるトウカイテイオー。

 彼女もトレーニング終わりの帰路に就いたところなのか、汗が滲む額に髪を貼り付けさせていた。

 

「テイオーさん……? 

 先輩も、トレーニングの帰りですか?」

「……うん、そうだよ! 

 ねね、せっかくだし一緒に帰ろ!」

 

 一瞬詰まった解答に、おや、と少し首を傾げる。

 常に明朗かつ快活なトウカイテイオーにしては珍しく、流れるような返答ではなかった。

 普段の彼女であればもっと喧しく反応を返すはずなのにと瞳を細めて、端正な(かんばせ)を覗き込む。 しかし底の抜けた柄杓(頭脳)では、明確な意味を汲み取ることなぞ一切不可能。

 

 ……とはいえ、だからどうしたという話ではなかった。

 ファインドフィートにとって気にするべき事でないのなら、それでいい。

 考えずにすむのなら何も考えたくはない。

 今の彼女が思慮を馳せるのは、そんな妥協の連続であった。

 

「……ええ、わたしでよければ」

 

 嬉しそうに頬を緩めたトウカイテイオーと連れ立ち、脚並みをゆるく揃える。

 一人では暗い夜道だった。 しかし二人ならば途端に華やかに見えて、ファインドフィートの道行さえも明るく見えてしまう。

 実際に増えたのは灯りではなく、音の発生源だけ。 そして電灯に揺れる影の主のみ。

 けれども一人ではないという事実だけでも安心感に満たされて、爪先に軽やかな高揚が宿ってしまう。 彼女の年齢を考慮したなら、然程変な話でも無いだろう。

 

「でさ、マックイーンったらまたトレーナーに怒られたんだよ! さすがにそろそろ食べ過ぎだ~! って、目をこ~んなに吊り上げてさ!」

「それは……その、大変そうですね」

「"パクパクしたいですわ~! "って落ち込んでたけど……流石にそろそろ我慢してもらわないとね。

 ほら、もうすぐレースもあるからさ」

 

 口ぶりはやや刺々しくも、対照的にその声音は柔らかかった。

 親友に対しての呆れを多分に含んでいても、"それでこそ"と受け入れている様子である。

 

 本人は甘い菓子が大好きなのに、彼女自身の体質によって制限される苦しみは同情に値するものだ。

 いくら食べても太らない体質のファインドフィートには共有できない悩みではあるけれど──彼女は、もしもメジロマックイーンと同じ境遇だったならみっともなく打ちのめされるに違いないという確信があった。

 

「……それなら、レースが終わった後にでも甘いスイーツを食べに連れて行ってあげたいです。

 マックイーンさんも、その頃にはカラカラになっているでしょうから」

「アハハ……確かに皺くちゃのミイラになってるかもね。

 減量末期のボクサーとかピラミッドの中のヒトみたいにさ」

 

 トウカイテイオーの表現を元に想像する。

 ひと目見ただけでも分かるモチモチのほっぺたがげっそり痩せこけて、ギラギラ輝く眼光でレース相手を睨みつけるのだ。

 ファインドフィートは、もしも己がその場面に遭遇したのなら無様に尻尾を丸めて一目散に逃げ出す自信しか無かった。

 

 

 ──そんな、風評被害でしかない会話であったり、学園前に出没するはちみーの出店であったり、最近発売された新型のスポーツシューズであったり、会話の内容は様々な方向に転がっていく。

 ころころ、ころころ、年頃の少女達の交流として考えたなら極々自然な一場面である。

 鉄仮面の乙女の表情は相変わらず微動だにもしないが、その浮ついた内心は耳と尻尾の躍動によって誰であってもいとも容易く看破できた。

 

「…………」

「……テイオーさん?」

 

 ……しかし、トウカイテイオーの目的は他にある。態々待ち伏せてまでファインドフィートを捕捉したワケが。

 確かに、こうして親交を温めるというのも素晴らしいことだ。それは誰にだって否定できないし、否定させない。

 ()()()()()、トウカイテイオーには尋ねたい事があった。尋ねなければならない事があった。

 躊躇いがちに唇を舐めて、喉を小さく震わせる。

 

「──ところでさ」

 

 ──続く語句は、掠れた音に成り下がる。途切れて解けて形を失う。

 淀んだ唇を閉じて、横一文字に結んで固まってしまった。

 

 だとしても歩く脚は止まらない。変わらないペースで、帰還を目指す。

 それはつまり、やがてはこの語らいも終わるということで、"何か"を口から吐き出すまでのタイムリミットでもあった。

 空に日が昇るように、月が海の向こうに沈むように、この世に鎮座する当然の摂理。

 ……しかし、そうと理解しているはずのトウカイテイオーは口を噤み言葉を失った。

 

「……?」

 

 ファインドフィートには横を歩く彼女の内心が分からない。

 ただ"何を言いたいのでしょうか"、と純粋な疑問に(かぶり)を振った。

 残念ながら、彼女がいくら考えようとも事の裏側を推測することなんて不可能で、何を原動力に瞳を揺らしているのかも理解できなかったのだが。

 

 それから更に一分か、はたまた十秒程度か。

 

 やや間を空けて、ファインドフィートの正面に素早く回り込む。

 青い瞳と青い瞳が向かい合い、互いの(かんばせ)を反射し合った。

 トウカイテイオーの瞳は普段通り、深く澄んでいる。

 

「……その、最近、変なこと無かった?」

「変なこと、とは……?」

 

 動作の鈍った唇を、鈍い困惑を宿した言葉で濡らす。 至極真っ当な反応だ。

 "まあこんな事急に言われても困っちゃうよねー!"と頭を抱えるしかない。

 

 勿論、トウカイテイオーとてこんな唐突に話を切り出すつもりではなかったのだ。

 もう少し場の空気を整えて話しやすい話の流れを作ってから──などと計画はしていた。

()()()()()していたのが……"どうやって場を整えるのか? "という現実的な問題が彼女の思慮を叩き伏せられてしまった。 現実は理想通りにいかないものとはこの世の常である。

 

 先輩振ろうと大人のお姉さんとやらを気取ろうとも、やはり所詮は中等部のウマ娘。

 近頃は()()()()()によって随分と成熟し始めた所ではあれども、まだ青い。 こればかりはどうしようもない話だった。

 

「あ~っとね……」

「……?」

 

 "あ~"とか、"う~ん"とか。

 意味をなさない、枕ですらない音を作って足りない知恵を必死に絞る。

 しかし悩めど悩めど、経験不足の脳味噌からは冴えた一言を引きずり出せず時間ばかりが過ぎ去るのみ。

 

 懊悩を真正面から受け止めるファインドフィートは仮面の裏側に混乱の心を押し込んで、じっとトウカイテイオーの二の句を待つ。

 トウカイテイオーが口を開いたのは、意外とすぐの事だ。

 

「最近のフィートを見てるとさ、不安になっちゃうんだ。

 普段はぽわぽわしてるのに、今のフィートは……何ていうんだろう」

 

 いつの間にか脚並みは崩れ、その場に縫い留められていた。

 電灯が生み出す影が幾重にも連なり、輪となって二人を囲む檻のように地を這う。

 

「自分を大切にしてない……みたいな?」

「────」

 

 四の句は告げられない。

 ファインドフィートからも、トウカイテイオーからも。

 

 暫しの沈黙を以て意味の咀嚼を行わせるつもりなのか、トウカイテイオーは沈黙を守るだけ。 道端の電灯と涼やかな風以外に奏でられる音色は皆無だった。

 

「表情は、変わっていないはずですが」

「そうかな? 

 フィートって、結構わかりやすいよ」

「……勘違いですよ、きっと。

 何もありませんでしたから」

 

 "何故そんな事を"と理解に苦しむ。

 "何故そう感じたのか"と、返したくもあった。

 いくらかの疑問が彼女の脳髄を揺蕩うけれど、トウカイテイオーによる問いへの答えは欠片さえも湧き出ない。

 

「……でもさ。

 友達がそんな顔してたら心配しちゃうよ!」

「友達……?」

「そ、友達!

 一緒にご飯食べる仲じゃん、当然だよ!」

 

 ──なんて。 輝く笑顔で、あまりにも綺麗すぎる意思を口にされてしまえば、無様な懊悩が更に重みを増してしまう。

 光が強くなるほど影が色濃く滲むように、無力感と羨望の念が心の奥底に澱んで積もった。

 ヒトは自己に無いものを羨む生き物であり、その狭間に絶対の差を見出す感性を持つ。

 そういった意味であれば、ファインドフィートはどこまでもヒトの子でしかないのだろう。

 

「テイオーさんは、すごいですね」

「えへへ……よくわかんないけど褒められちゃった」

 

 もしも、先輩である彼女が無邪気に友情を誇るのだとして。

 もしも、身を案じる彼女の言葉が真実だとして。

 ファインドフィートはそんな彼女に対して、どんな感情を抱けば良いのか分からなかった。

 『ファインドフィート』というウマ娘はなんと答えを返すべきなのか、分からなかった。

 他の誰でもない彼女のみが有するはずの答えであれども、他の誰でもない彼女だからこそ正しい答えを持ち合わせていないのだ。

 この世の誰にも聞こえないよう小さな意思を舌の上で転がして、自己を罵る言葉を呑み干す。 腐った苦味を受けてか、指先が小さく震えた。

 

「……ゆっくりで良いんだよ。

 ほら、マイペースにいかないと疲れちゃうからね!」

「わたし、は」

 

 しかし、彼女の舌は回らない。

 口は寸分さえも開かない。

 針金で固定されているのだろうかと下らぬ猜疑心を抱くほど。

 指先で唇を抑えてみれば、柔らかいだけの感触が返ってくる。

 

「わたしは……」

 

 動きが止まる。

 言葉が出ない。

 形にならない。

 

「何も、無いんです。

本当に大丈夫ですから」

 

 そもそも"それ"を形にするなんて不可能なのだと、鬱屈と奥の歯を噛んだ。

 彼女がどんな思慮を挟もうとも、未熟な心の澱みは喉の奥で詰まって欠片も出ていきやしない。

 偽りのない彼女の本音は、他でもない彼女自身が隠したいと願って止まない恥そのもので、夢を叶えたいのなら不要な言霊だから。

 

 

 ──故に、それは()()()()()

 行動指針は固定済み。道中で起こる多少のブレは見逃される。

 しかし道を逸れることは、決して許されない。

 ズキズキと痛む胸を抑えて、そっと地面を見下ろした。

 

「……ごめんなさい」

 

 故に答えは存在しない虚構へ成り下がり、単なる雑音を代役として吐き出すばかり。

 重みに耐えきれず伏せられた白いウマ耳。 つられて揺れる青の飾りが、代わりの如く虚しく鳴いた。

 か細く甲高い金切り音は、断末魔の余韻にも似て寒々しい。

 

「わたしは、大丈夫ですから」

 

 だから、この話は此処で終わりなのだと言外で語った。

 ファインドフィートに答えはなくて、帰るべき寮にも()()()()()()辿り着いていて、人の気もある。

 続ける意義は無く、己に答える口は存在しないのだと、背を以て無味乾燥に。

 

「……ねえ、フィート。

 泣いてるの?」

 

 返る言葉は、何もない。

 

 

 

 


 

 

 

"ダメですよぉ。

いい子だから、邪魔をしないでくださいね?"

 



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22話

 "まったくもう、頭の中まで縛るなんて酷すぎじゃあないかしら!"

 

 "でも安心してね、ファインドフィートちゃん。

 この私は──この『王冠』は、そんな無意味な事しないもの!

 あなたを何処までも走らせてあげる"

 

 "さあ、祝福(アイ)をあげるわ!"

 

 

 


 

 

 

 日本ダービー。

 それは数多のウマ娘やトレーナー、そして大衆が夢を重ねる大舞台である。

 人生に一度……正真正銘、たったの一度のみ参列可能なこのレースは、毎年必ず熱狂の渦を引き起こす。

 ウマ娘の中には自分の将来をチップに据え、文字通り命を燃やしてまで挑む者がいるというのだから……その冠の価値が察せられる。

 

 "けれど、それも仕方のない事だろう"と眼下のターフに視線を賜わせ、彼女、トウカイテイオー(無敗二冠ウマ娘)は一人頷く。 一年ぶりに味わう空気は否応なく彼女を疼かせた。

 

「日本ダービー、久しぶりだなぁ」

 

 走るのは世代最高の十八名。

 彼女等のドラマを見届けるために集った衆目、幾万人。テレビの向こうの人数まで含めたならば、もう数え切れないほど。

 ウマ娘達の祭典(レース)──トゥインクルシリーズは国民的エンターテイメントでもあるのだから、まったく不思議ではない。

 

 そんな()()いる観客達の中でも、一等恵まれた指定席こそがトウカイテイオーの現在地であった。

 建造物の高所に拵えられ、全面ガラス張りである故に見晴らしが非常に良い。

 レース場の端に視線をずらしてみれば、つい先程入場を始めたばかりである後輩達の姿がよく見える。

 鹿毛や青毛、黒鹿毛、中には桃色と見紛う極めて明るい栗毛までいる。 非常にカラフルな色彩は、芝の青に美しく映えた。

 

 そんな彼女等の中でも、仲のいい友人の──ファインドフィートの芦毛は光を反射してか、一際強く輝く。

 相変わらずの無表情は余人の推察を拒絶し、ただ無機質な美として佇むのみだったが。

 

「…………」

 

 ──観客席へ小さく手を振る彼女の青い瞳は常と変わらず。

 ぼんやりとしていて、仔犬のように無垢で、しかし何処か危うい色香が秘められている。

 

 そして思い出すのは先日の対話。

 痛みに苛まれ、震え、泣きそうな顔をしていた彼女の嘆きが脳裏で幾度となくリフレインして、トウカイテイオーまで泣きそうになってしまった。

 

 ヒトは彼女を無表情だと云い、だから感情が薄いのだと云う。

 "表情がない事"と"感情がない事"がイコールで繋がる筈もないというのに、無責任に囀っている。

 それらの色眼鏡がトウカイテイオーにはどうしても許せなかった。

 誰も彼も彼女そのものを見やしない。

 芦毛の怪物二世だとか、サイボーグ二世だとか、無敗の後継者だとか。

 当事者たちの意向の一切に思考を馳せずに騒ぎ立て、さも美談のように称賛するそれが何処までも腹立たしい。

 

 そして、それらの賛美が薄っぺらいせいなのか。 場に満ちた熱気は凄まじいのに、彼女そのものに向けられた情熱は薄く朧げで幽かな灯火のよう。

 ……トウカイテイオーが耳を後方に引き絞る様からして、現状に対する当事者の心象が伺える。

 

「確かにさ──みんながみんな、そんなヒトじゃないって知ってるけどさ。

 ……けどさ、こんなのあんまりだよ」

 

 それがファインドフィートの祈りを踏み躙る行為だとも考えず、無邪気に、純粋に、応援のつもりの舌で刺す。

 だとするならば、誰も幸せになれないではないかと、誰かが辛くなるだけではないかと、鬱屈と顔を伏せた。

 

 ウマ娘にとって、走るという行為は祈りそのものなのだ。

 本能のために、誇示のために、夢のために、生きるために。

 それらはどれも純粋で、自分が信じる存在に捧げられるもの。

 最も原始的で、最も無垢な祈り。

 

 ……それを穢されるのは悲しい。これじゃあ全く笑えない。

 色眼鏡による装飾越しの賛辞ほど虚しいものはないのだから、笑えない。

 そんなものを友人に強いるなんて、どうしても認められなかったのだ。

 

「……フィートは、どう思ってるのかな。

 ボクだったら嫌だよ。 誰もボクを見てくれないなんて、つらいから」

 

 心の内にモヤモヤと曇った苛立ちが立ち込めて、胸の底を焦がして舐める。

 いっそのこと鎌倉系武士の友人をけしかけてしまいたいとさえ願うほどだ。 彼女であれば()()()()()()()を対価に叶えてくれるかもしれないなと、いつか見たドラマのワンシーンを根拠に妄想してしまった。

 

「……はぁ」

 

 重く淀むため息が漏れる。

 なにせそれだけではなく他にも大きな問題がある。 もう山積みも山積みだ。

 スペシャルウィークの夕食よりも尚大きな山を作っているに違いない。

 せめて先日の失敗が無ければこれほど悩む必要もなかったのかもしれないな、と勢い任せの己を恨んだ。

 

 先程までの悩みのみならば、()()()()()()かもしれない。

 励まして、応援して、乗り越えることを信じればいい。

 ……それを簡単な事等とは決して言えないが、もう一つと並べたら比較的マシなのではなかろうか。

 

 だからこそ苦悩する。

 あの星空の下で、電灯に照らされた道で、手を掴み損ねてしまったから。

 

 もしかしたら、もっとうまい言葉があったのではないか。

 もしかしたら、もう少し入念に用意を整えるべきだったのではないか。

 もしかしたら、あの時強引に手を伸ばすべきだったのではないか。

 もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら──―。

 

 ……なんて妄言が溢れてしまえど、どれもこれも今となっては意味を為さない()()()()の話だ。

 それが()()()()でしかない達成目標であることも知らず、トウカイテイオーは沈潜と項垂れていた。

 

 ──そんな彼女の内心を知ってか知らずか、軽やかな靴音が鳴る。

 

「どうしたんだ、テイオー。

 らしくないじゃないか」

「あっ……カイチョー。

 もう用事は終わったの?」

「勿論、万事抜かりなしだ。

 スタッフの方々が胸中成竹として備えていたおかげかな、私の方から特別何かをする必要は無かったよ」

 

 "カイチョー"と呼ばれた少女は肩を竦め、トウカイテイオーの隣で脚を止めた。

 長髪の栗毛といい、額に戴く三日月の環といい、纏う覇気といい、トウカイテイオーと不思議な共通点を有している。

 いいや、正確な表現はトウカイテイオー()似ているのではなく、トウカイテイオー()似ているのだ。

 それこそ姉妹と言われて紹介されても、殆どのヒトは違和感を覚えない程度に不思議な繋がりが見て取れる程に。

 

「チームの方は良かったのかい?」

「うん。

 スピカの皆は普通の観客席から見てるって」

「……そうか」

 

 彼女の名はシンボリルドルフ。

 中央トレセン学園の生徒会長であり、史上初の七冠ウマ娘の栄誉を掴んだ女傑。

 彼女を形容する言葉も、彼女を畏れる信仰も、それこそ数え切れないほどに存在する。

 

 そんな彼女とてあくまでも学生という身分ではあるのだが、やはりその功績と生徒会長という肩書故にか。 今回のように大規模なレースでは現地に出張って諸々の手続きを行う事があったのだ。

 それをフットワークが軽いと表すべきか、責任感が強いと賛辞すべきか。

 

 何であれども"レースに絶対はない"という常識を粉砕した皇帝はこの場に訪れ、アメジストの瞳をガラスの向こうに差し向ける。 淡い光を見つめるような優しい視線だった。

 ゲートに入り込み始めた後輩達は視線にも気付かず、緊張感を味わう事に専心している。

 

「そろそろ始まるようだな」

「……フィートは外枠かぁ、大丈夫かな」

「フィート……ファインドフィートか。

 入学式の時には中々()()()()な少女だとは思っていたが……正しく回山倒海。

 今世代で注目株の一角になったな」

「……そうだね」

 

 会話が途切れ、束の間の静寂。

 それから数度呼吸を数えた頃に──鉄の軋みと共にゲートが開く。

 

 合わせて飛び出す少女達と、弾ける歓声。

 それら全て薄いガラスで隔てられている故にか、まるで遠い世界の出来事のよう。

 二人が居る指定席だけが外界から切り離されてズレたままの時を刻みゆく。

 

「そういえばエアグルーヴはどうしたの?

 てっきり此処に来るものだって思ってたけど」

「ああ、彼女には彼女のトレーナーさんと行動してもらっているよ。

 集中して観察してみたい……とは聞いていたが、さて」

 

 ──思慮で瞳を淡く染めて、しかしすぐさま(かぶり)を振る。

 気になることは多くある。

 ……が、何も今この瞬間まで思い悩むべき物ではない。 それこそ不作法というものだ。

 

 声に出さず独りごちて、レースの動向へ意識を落とした。

 クラシックロードの主軸は皐月賞、日本ダービー、菊花賞。

 つまり今日のレースは冠の二つ目を奪い合う祭典であり、その世代の中核を成しうる傑物の芽を吟味する場でもある。

 

『キンイロリョテイ、後方から悠々自適と先を伺う!

 11番ミニベロニカ内を見る、13番パラディンソードは若干掛かり気味の様子か』

『もうすぐ中盤に差し掛かります。

 何処かで息を入れないと厳しいですね』

 

 先頭から最後方まで、団子状──と言う程では無いにしろ、中々に詰まり気味。

 ファインドフィートの現在位置は十番手、脚を溜めてライン取りに専念しているらしい。

 はためく青布を視界に収め、トウカイテイオーはそっと応援の言葉を口ずさんだ。 その言葉が彼女に届くはずもないが、()()()()()は勝手に出てくるのだから仕方がない。

 

「ところで、話したい事があるんじゃ無かったのかい?」

「あ~……っと、えへへ。 そうだった……」

「此処で相談したいと聞いた時には少々面食らってしまったが──今、分かったよ。

 ファインドフィートの事だろう?」

 

 傍らの椅子に腰掛けて、優雅に細い脚を組む。

 手の平で着席を促しつつも、その端正な(かんばせ)が薄い微笑みを形造っていた。

 それは安心感を齎すためにか、はたまた後輩の成長を喜ぶという感情の発露か。

 ただ、いつの間にか強張っていたトウカイテイオーの肩から力が抜けたことに違いはない。

 

 一度、ちらりと視線をレース場に彷徨わせた。

 中盤の向こう正面に到達したウマ娘等を視界の中央に捉えつつ、シンボリルドルフと並んで席に腰を沈める。 真剣味を帯びた青空の瞳と覇気に満ちたアメジストの瞳が、対話の如く厳かに絡み合った。

 

「んっと……何から言えば良いかな。

 ……まず前提の話なんだけど、フィートは走りたくて走ってるわけじゃない……気がする」

「……ふむ。

 それは……随分と、珍しいな」

「フィート自身から直接聞き出せた訳じゃないし、断片的に見えてる事を根拠に──ううん、根拠っていうよりも勘が混じってるかも」

 

 右手と左手それぞれの指を組み交わし、解けもしない悩みの代わりに戯れさせる。

 けれど視線だけはレースの展望に集中させたまま、思考の整理に尽力していた。

 

 青い瞳に反射するターフの上では血気盛んなレースの真っ只中。

 見慣れた芦毛と鮮やかな青布が風にたなびき、幽かな残影を描く。

 

「確かに最初から違和感はあったよ。

 その時は勘違いかなって思ってたけどね」

「……ふむ」

 

 思い起こすのは初対面の時。

 色の伺えない表情、真反対の如く感情豊かな体の動き。

 そして中々言葉を出さない不器用さ。

 

 ……最初は、ただ単に口下手なだけなのだと考えていた。

 

 新しい環境に来たばかりであれば、大なり小なり不安にかられるものだ。

 過去のトウカイテイオーとて──自信に満ち溢れていたものの、それでも"一切不安に思うことが無かった"かと問われれば嘘になってしまう。

 だから、新生活への不安ならまだ良かった。 普通に仲良くなって、一緒に楽しい学園生活を送るだけだ。

 

 ただ、彼女が不安気になっている時は決まって空を見上げていた。

 そこが陽光の下であれ、屋根の裏であれ、空を。

 陽光に照らされる彼女を見て、トウカイテイオーは何故だか恐ろしくなった。

 ファインドフィートを包む光輝が大きな手の平に見えてしまって、背筋が震えた事を今も覚えている。

 

「やりたくない事。やらなくても良い事。

 それを嫌々やっているみたいだった。

 泣きそうな顔で、怯えながら……そんなのおかしいよ。

 だってヘンじゃん、そんなの」

 

 今にして思い返すのは、段ボール箱を抱えたファインドフィートの姿。

 艷やかな尾を物悲しげにゆっくりと揺らしながら、一歩一歩を踏み締めていく。

 そして箱を、箱の中に詰まっている物を愛しげに──本当に、愛しげに抱きしめるのだ。

 

 ……トウカイテイオーはすぐ隣から彼女を瞳に映していた筈なのに、何故だろうか。

 あの宝物をゴミと断じた彼女の顔が、どうしても思い出せなかった。

 

「……多分、勝たないといけない理由はあの子じゃなくって、他の所にあるんだと思う。

 じゃないと……()()()()切り捨ててまで走るなんて、無理じゃないかな」

「外部……となれば、交友関係に由来するものか。

 あるいは……」

「あの子の才能に目をつけた誰かが、脅してる、とか……」

 

 "そうだとしても、なんであの子が"と吐き出した。

 少女の甲高い声で紡がれた言葉は、思いの外濁っている。

 

 複雑な感情が無秩序に飾り立てる音を"悲嘆"と取るか、"憤怒"と取るか。

 シンボリルドルフは"悲嘆"として解釈した。

 けれども一旦は傍らに避けておくべきもの。

 論理立てて一語一句の意味を解き明かし、事実を並べて整理して、その明瞭なる頭脳に読み込んでいく。

 

「……なるほど」

 

 件の少女にまつわる話を、単なる早とちりとして片付けるには些か性急だろうと思案する。

 形の良い顎に指先を添えそっと眉を(ひそ)めた。

 

 トウカイテイオーの憂慮が正しいとするなら、とんでもないスキャンダルにもなり得る。

 "出走者への脅し"、"皐月賞ウマ娘の複雑な事情"……現在は単なる勘モドキの推理ではあるけれど、しかし軽率な考えで手を出せる話ではない。

 最初は割と気軽な心境でこの場に脚を運んだ彼女だったが──予想外にも程がある大真面目な相談で、驚愕の意に満たされるばかりだ。

 

 シンボリルドルフは一通りの思考に区切りをつけて、小さく吐息を空気に溶かす。 観客席とは違って、随分と凍えた温度だった。

 

「……だから、根拠がほしいんだ。

 ただ手を伸ばすだけじゃなくて、ちゃんとあの子の事を理解した上で動かないと……」

 

 "今度こそ取り返しがつかない"。

 喉の奥に秘めた言葉を隠して見たのは正面。 ガラスに反射する顔は苦悶に歪んでいた。

 

「折角のレースなのにごめんね、カイチョー」

「いいや、問題ないとも。

 テイオー、君は私に見せたかったのだろう? 彼女が走る姿を。

 そして、その上で言葉にしたかった」

 

 ──何にせよ、事が重大だからといって尻込みする皇帝ではない。

 シンボリルドルフの夢は"全てのウマ娘が幸せであれる世界"の実現である。

 一個人が夢想するにはあまりに尊大すぎる理想を大真面目な目標として掲げ、実際に着々と歩み続けている傑物なのだ。

 そんな彼女が身の回りの、手を伸ばせば届く範囲の後輩達に助力しない筈もない。

 

「……しかし今はこの日本ダービーを見届けよう。

 今日という日に向けて修練に励み続けたウマ娘達の集大成を発揮するのがこの場だ。

 だというのに見もしないというのは、それこそ不作法というものさ。

 ……ファインドフィートくんだって、テイオーに見てもらいたいんじゃあないのかい?」

「……そうだね。

 今すぐに動ける話でもないんだし、しっかりフィートを応援しないと!」

 

 

 

 ──そんな二人の帝による対談を知らぬファインドフィートは、荒れ狂う心臓の脈動を求める方向に導くことに必死だった。

 ごうごうと風を切る彼女等は早くも第三コーナーに到達している。

 

 そしてレースは終盤戦へ。

 誰も彼もが各々の方法で仕掛け始めた。

 それは位置取りや、体勢、呼吸など多岐にわたるが──何であれ、当人が思う全力疾走に欠かせないパーツを丹念に整える。 余波で弾ける土埃は、あっという間に風に流され消えていった。

 

「ッ!」

 

 当然ながら、ファインドフィートの考えも同じだ。

 前を見つめ、青い瞳を輝かせ、適切なタイミングを選んだステップにより順位の数字を追い詰める。

 5位から4位へ、4位から3位へ──。

 

『第4コーナーカーブ!

 先頭はアグネスデジタル、チラチラ後方を伺いつつもまだ余裕か!

 二番手ブラックアネモネ、表情は苦しそうです。

 三番手ファインドフィート、攻めあぐねているのか脚が延びない!』

 

 ──しかし、それ以上先には進めない。

 ファインドフィート視点からしてみれば、どうにも痛い所を的確に突く実況だった。

 刻一刻と決着のラインが近付く中、微妙に攻めあぐねているのは事実。

 故に文句の気持ちは無いが──しかし、苛立ちの念は隠せない。

 

 焦りの熱や額を伝う汗の量にそぐわず、先頭との距離が縮まらないまま。

 いくら呼吸を繰り返しても詰めきれない。

 速度は上々、加速力は不足なし。

 ……しかし前方の進路は絶妙にブロックされて、どうにも踏み込みが甘くなってしまう。

 

「……まったく、信じますよトレーナー……ッ!」

 

 ここでファインドフィートも──否、葛城トレーナーがついに決断したのか。

 "ふわり"と軽やかに、ライン取りを切り替えた芦毛の影が独り目立つ。

 観客席の隅っこから覗く、細く骨ばった指先に従ったのだ。

 

 ──そのまま走り続けた所でブロックされることは見えている。

 下手を打てば後団に沈んで上がれずに敗北……なんてこともあり得るだろう。

 無事にどうにかすり抜けたとしても、削れた体力で先頭を駆け抜けるというのも少し厳しい。

 ファインドフィートはそもそも、他者の隣を躱して追い越すという行為自体が苦手で、余計に体力を消耗してしまうという悪癖さえあるのだから。

 

 故に、先の詰まった内側は諦める。

 ならば、いっそのこと大外から追い上げてしまえ。

 

 それこそが葛城トレーナーの策だった。

 観客席の最前列から指先を跳ねさせて、くるりと廻す。

 前もって決めていた通りのサインである。

 

「中々の、無茶を……!」

 

 大外に脚を踏み入れた直後から即座に姿勢を低め、土へ蹄鉄を打ち付ける。 弾けた土が風に巻かれて消えていった。

 教わったフォームを低く鋭く変形させラストスパートへ。

 八割に抑えられていた心臓を強引に締め上げて、十全の活力を引き摺り出す。 胸から鳴る唄が、酷く優しげにファインドフィートの心を包む。

 

 先頭のアグネスデジタルも、二番手のブラックアネモネも、彼女と同じく全身全霊を振り絞っていた。

 更に後方からはキンイロリョテイ達が迫っているのだから──ファインドフィートに余裕はない。

 

『アグネスデジタルとファインドフィートが横並びになりました! ブラックアネモネ落ちていく!』

『最終直線に入りましたね。

 ですが本番はこれから! まだまだ目を離せません』

 

 駆ける。駆ける。

 地を鳴らす脚の音が前方から失せても、尚駆ける。

 何故なら、すぐ隣に怪物が居るからだ。

 

 だからこそ更に激しく脚を前に突き出して、脆い空気を無粋に蹴破る。

 前を塞ぐものは何もなく。脚を止めるものは何もなく。

 ごうごうと空鳴る肺を膨らませて、大きく脚を振り降ろすのみ。 彼女の脚は鉈のように鋭くもあり、大槌の如き圧を伴っていた。

 

「…………ッ!」

 

 ──けれども、突き放すには足りない。

 現時点でクビの差か、或いはそこから更にハナの差を加えた程度に離れている。

 しかし、そこ止まりでしかなかった。

 既にトップギアに至っていながらも尚不足。 臍を噛んだ所で無意味だとしても、己を罵る言葉はいくらでも心の底から湧き出てしまう。

 

 東京レース場の最終直線は500メートルと少し。

 夢の灯りを目指して走って、今の残りは400メートル。

 ハロン棒が幾度となく風に揺れて、近付く終わりを健気に言祝ぐ。

 

 ……だというのに。 ゴールが近付いてきているというのに。

 隣を疾走するアグネスデジタルとは距離を離せず──。

 

「ここでっ、全力!尊みラストスパァァァーットォ!!

 ひょおおおおお!!」

 

 ──むしろ、差し返された。

 

()()()()()と目を剥く。

 あなたはそんなに速いウマ娘では無かったでしょうと、唇の端を震わせた。

 その圧はなんだと否応なく視線を吸い寄せられてしまう。

 

 加えて──垣間見えた謎の()()

 アグネスデジタルの周囲を取り囲んでいた幾枚かの紙面。

 それらを彼女が抱きしめた直後からその加速が始まった。 あまりにも理解不能な掛け声を伴って。

 

 少なくとも葛城トレーナーによる事前分析ではありえない、劇的な加速。

 そう、アグネスデジタルというウマ娘は──現時点でそれほどまでのスペックを有していない筈だった。

 

 しかし現実としてファインドフィートを差し返し、さらなる距離の壁を突きつけようとしている。

 

「ぐッ……!」

 

 残りは300メートル。もはや猶予はない。

 無理を承知で呼吸を深め、炉心の稼働率を更に向上させて。

 更に強く、更に激しく、ファインドフィートの心を焚べて血に満たす。

 

 ここで負ける?

 バカを言うな。こんな所で負けるなんてありえない。

 狂おしい怒りの炎が頭蓋を舐めて、焦がし、外部に出ようと圧を強める。

 そして囁くのだ。 そんな事、ありえないから許されない。

 この(未来)を失うなんぞ──そんな安易な逃げ道、ある筈無いだろう。

 

 だから走れ。

 とにかく走れ。どこまでも走れ。

 奥歯を噛み締め裂帛の唸りを漏らす。

 きっと、血の味はしなかった。

 けれども代わりにザクロの飴玉を想起させるような、濁った甘味が舌を焼く。

 

 "──再点火"

 

 だから嗚咽を吐き出したくて、大きく猛り口を開く。

 牙を剥き、抑えきれなかった闘争心を露わにして、言葉にならない絶叫で喉を裂く。

 

 当然、誰にも届かない。

 誰も聞かない。

 誰も理解しない。

 

 ──ファインドフィートの手を掴んだ()()以外は。

 

 "しょうがないわねぇ。

 まったく、世話が焼けるわ"

 

 甘くも厳かな声音が頭蓋を反響する。彼女の身体が勝手に呼応する。

 優しく首輪を締め上げるが如く、茨と、それを啄む()()()()が彼女に絡みついて離れない。

 ……茨の宿主は彼女ではなく、彼女の心臓だったのかもしれないが。

 

 ただ、灼熱の余韻を残して這い回って瑕疵を(かく)す。

 強制的に、激しい痛みを伴う故に彼女の正気を焦がしながら。

 開いた口から漏れたのは、息継ぎの吐息ではなく苦悶の喘ぎだった。

 愛情というには一方的で、祝福というには喪失を伴いすぎる。

 しかしそれでも、彼女を助けたのは()()()だったのだ。

 

 "でも、愛おしいの。

 健気なあなた。美しいあなた。 星のように、ささやかなあなた。

 ええ……だからこの私が、『王冠』を以て祝福しましょう"

 

 故に彼女は勝つ。勝たなければならない。

 ジリジリと大地を照らす太陽が空にある限り、彼女は永劫に走り続ける。

 夢の灯りを追い駆け続ける限り、彼女は永久に敗北を許されない。

 いっそ悍ましい"それ"を選んだのは、彼女だ。

 

 "……ねぇ、まだまだ始まったばかりなの。

 だから負けちゃダメよ、ファインドフィートちゃん"

 

 ──日本ダービーの勝者は、きっと始まる前から決定していた。

 誰も幸せになれない結末だろう。

 "無敗二冠ウマ娘"となった彼女も、冠を掴み損ねた乙女達も、大衆も、誰も彼もが掌の上。

 

 

 

 


 

 

 

 

 "……あら、『海』じゃないの。

 随分と久しぶりね"

 

 "んん……?

 ……あの子のことはそっとしておけ、ですって?

 全く、何を言ってるの。

 ダメダメ、私達が手を離したらしあわせに成れないじゃない"

 

 "……はぁ~、あのねぇ……私達が導かずしてどうするのよ?

 あの子が自分で立ち上がれるの?

 あの子が自分で前を向けるの?"

 

 "……いいえ、無理よ。

 だってあの子は、なり損ないで出来損ない。 この世界で独りきりの歪んだ命。

 そうでありながら、必死に足掻いてるのよ。

 泣き叫びながら、喪失に狂いながら。

 そんなあの子を愛して、何が悪いの?"

 

 "だから……ねぇ、邪魔しないで。

 ……不遜でしょう、お前"



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番外編 / 置き去りの思い出、ひとつ

 命を繋ぐこと。

 夢に捧ぐこと。

 灯で導くこと。

 いつかの『少年』は、そんな当たり前に憧れていた。

 

 

 


 

 

 

「……困りました」

 

 珍しく落ち着かない様子で、白い尾っぽを微かに揺らした。

 酷く心細い心境を反映してか、心なし艶がくすんでいるようだった。錯覚でしか無いけれど。

 

 残念ながら、そんな彼女の事情を天候が汲み取るはずもない。

 "冬"の肌寒さがやんわりと冬服を貫通して、口元の駆動までも奪っていく。

 右手にぶら下げた紙袋による仄かな達成感がせめてもの慰めか。

 有名な衣服店のロゴマークが寒々しく己の存在を主張するのみで、実際の手助けになるはずもないのだが。

 

「いい天気、なんですけどね」

 

 そよぐ風が髪を揺らす。心地良い。

 冷たい空気が肺を満たす。洗われるようだ。

 太陽の光が肌を温める。

 ……きっと、それは素晴しい。

 

 そこに見知らぬ子供の泣き声が交ざっていなければ、そうだった。

 

「ぅ、ぐすっ……」

 

 空に向けた現実逃避は無慈悲に正しく打ち砕かれる。

 目と鼻の先で立ち尽くし、泣きじゃくっている子供を見てのほほんと空を眺めていられるほど図太い神経は持ち合わせていなかったのだ。

 

 さて、どうしたものかと形の良い顎に指先を添えて唸る。

 天候由来の冷気が染みた感触は、彼女の思考を鋭く刺激した。

 

 トレセン学園ではなく、近場の衣服店にたった一人で赴いたのが運の尽きか。

 そのまま何も考えず、意味もなくショッピングモールに訪れたのが愚かだったのか。

 ひょっとすると健気に高めた"賢さ"が裏切っただけかもしれない。

 (ことわざ)であれば、『犬も歩けば棒に当たる』と形容出来るに違いない。

 

 ……ただ結局のところ答えはなく、右手にぶら下げた買い物袋が物悲しげに震えた。

 それはファインドフィートの内面を正しく表している。

 

 当然のことながら、こういった事態に対する備えは何もなかった。

 想像さえしていなかったのだから仕方のない事である。

 ショッピングモールに訪れて、俯いて立ち尽くす少年を視界におさめて──ほんの数メートル離れた場所からうろちょろと所在なさげにうろついているだけ。

 たった数年であろうと歳上であるはずの気概も矜持も、彼女には存在しないらしい。

 

「うぁ……っ」

 

 しかし、単にそれを眺めて"はいさようなら"といった行動を取ろうにも──脚が動かない。

 ファインドフィートはそれを実行するだけの濁った心を未だ有しておらず、かといって直ぐ様"どうしたのか、何があったのか"と問いかけられるだけの度胸もない。

 

 誰かの助けを求めて、右を見る。スタッフはいない。

 左を見る。一般客の中年女性は目もくれず、手元のメモだけを見つめながらさっさと歩き去った。 愚か。

 つまり、彼女の代わりに少年を手助けするものは居らず──あるいは居たとしても、いつか声をかけられるまで、このまま寂しさに震える事しかできないのだろう。

 ほんの数分で辿り着いた答えを咀嚼して、溢れ出る苦味に苛立ちを覚えた。

 

「…………」

 

 もう一度周囲を見る。

 他のヒトはだれも居ない。

 僻地の出入り口故にか、スタッフさえも通らない。

 

 ──なので、仕方なく。

 本当に仕方なく、そろりそろりと少しずつ少年に歩み寄った。

 己よりも圧倒的に小さな存在に警戒心を露わにする様子は、どうあってもGⅠウマ娘には到底見えない。

 

 ほんの直ぐ側、手を伸ばせば触れられる距離で脚を止めて。

 少年の頭と同じ高さの目線まで、腰をかがめてみた。しかし少年は直ぐ側のファインドフィートの姿にも気付かず、深々と泣いているままだ。

 そして──声が固くならないことを意識した上で口を開く。

 無表情であることを自覚している故に、せめて他の部分でカバーをしようとした努力の証である。

 

 ……とはいえ、緊張で声が震えている様子で全て台無しなのだが。

 

「……あの、きみ。

 どうしたのですか? 

 お父さんかお母さんはいないのですか……?」

「お父さんもお母さんも、お姉ちゃんも迷子になっちゃったぁ……」

「そうですか……」

 

 ──途切れる。

 無邪気な子供らしい返答に無味乾燥の返事を返してそのまま、むっつりと黙り込んだ。

 何故己から声をかけたのか、最早彼女自身にさえも分からない。

 

()()()()()()()()()()を勝者として乗り越えたばかりの少女は、ただの実力のみでは解決できない問題に直面して、小さな唸りで喉を鳴らす。

()()()()一人で買い物に出発して、()()()()他の人が少ない出入り口に訪れて、()()()()迷子になった少年を見つけた。

 なんという運の悪さなのか。日頃の行いのせいなのかと、微かな絶望を味わってしまう程だ。

 

「困りました……本当に、困りました」

 

 右手の袋が、途端にずっしりとした重さを宿した気がした。

 無論錯覚ではある。

 純粋な困惑と無力感が彼女にそれを齎しただけだ。

 

 しかしこんな弱々しい言葉で誤魔化せる現状ではなく、弱々しかろうと行動しなければ打破できない現実だった。

 ファインドフィートとて、それはそうと理解している。

 ただ、こういう時にどういう行動をするべきなのかを教えてくれる、経験の引き出しが存在していないのが問題だった。

 何せ誰かに教えてもらった訳でもなく、教えてくれる誰かが居る訳でもない。

 

「……迷子、ですよね」

 

 青ざめた瞳を薄く伏せて、もう一度少年に焦点を合わせる。

 俯いたままの黒い頭は小さくて、ずっと昔──それこそ幼稚園児や小学生だった頃を思い出してしまう。

 小学校での出来事は途中から連続性を失っているものの、かつての友人も彼と同じ頭髪で、故に馴染み深い色だった。

 ファインドフィートは『前』も『今』も変わらず芦毛のままではあるが、しかしだからこそ自分とは違う色を羨んだこともあったのだ。

 今となっては遠い過去としか思えない、何てことはない無意味な記憶である。

 

「……きみ、お名前は何というのですか?」

「名、前……?」

「そうです。

 きみは普段、どんな言葉で呼ばれているのですか?」

「っ……。

 知らない人には教えちゃダメなんだよ、お姉さん……」

「なるほど……」

 

 なんと、これは一本取られてしまった。

 ──などと納得して引き下がる訳にも行かない。勇気を振り絞って声をかけた意味がなくなってしまうからだ。

 

 もう一度、口を開く。

 小さな溜息を一つこぼして、変わらず涙を流し続ける少年へと。

 

「わたしはファインドフィートです。

 さあ、これで知らない人じゃなくなりましたね」

「ほんとだ……」

 

 ──そんな、訳の分からない理論を突きつけられて、心底感心した風に目を瞬かせた。

 驚きで涙が引っ込んだのか、俯いていた顔まで上げられる。

 黒い髪で黒い瞳。 どこにでも居る、普遍的な特徴を備える少年だった。

 

 しかし屁理屈を捏ねた当人であれどもこの少年は今後大丈夫なのかと心配になってしまう。

 勿論、表情は変わらない故に少年に伝わることはないが──言語化できない居心地の悪さがファインドフィートの臓腑を抉った。

 

 勿論、少年はそんな彼女の罪悪感を知る由もない。

 ただ無邪気に無垢に、ゆるく笑うばかり。

 

「僕は……サトルだよ、お姉さん。

 お父さんとお母さんとお姉ちゃんが迷子になっちゃったから、仕方なくここで待ってるの」

 

 少年──サトルの、赤く腫らした瞼が痛々しい。

 しかしそれでも"頼れる他人"が存在しているおかげか、ほんのりと安らいでいるようにも見える。

 少なくとも、涙は間違いなく止まっていた。

 

 それを認めたファインドフィートもゆるい安堵の溜息をひとつ零して、サトルの頭をさらりと撫でる。

 いつだったか、己してもらったように。

 

「……では、お父さんとお母さんが見つかりやすいように迷子センター……いえ、インフォメーションセンターに行きましょうか」

 

 子供心を傷付けない配慮をさり気なく加えて、自然な流れでサトルを連れて行こうと声をかける。

 サトルは特に気にした風でもなく"しょうがないなぁ"ところころ笑い声を上げていた。

 つい先程までの泣き顔とは大違いの明るさである。

 こんなにころころと表情を変えれるとは、顔の筋肉が随分と柔らかいらしい。

 羨ましいなどという欲求は無いが──なんとなく、懐かしい気持ちにもなった。

 

「まずは館内マップを探しましょう」

「うん!」

 

 そしてほんの十分前の想定とは違う形で、一人ではなく二人として店内に脚を踏み入れた。

 複合施設らしく、どこぞのメーカーによるスポーツ靴の小売店が彼女等が歩む通路の左右を挟んで占領している。

 一端のアスリートとしては少しばかり──否、大いに興味を惹かれるラインナップを尻目に、壁際の店内地図に歩み寄る。

 一階二階、三階と幾層にも分かれた地図に視線を這わせ、赤色の矢印で強調された現在地と、向かうべき目的地を照らし合わせた。

 その間二人に特別な会話などはなく、ここ数ヶ月で聞き慣れ始めた店内ミュージックがどこか遠くから鳴り響くばかりだった。

 

「……なるほど、ここから少し歩くようですが……まあ、乗りかかった船ですからね。

 しっかり責任を持って──」

 

 ──"送り届けます"と口にしようとして、はたと気付く。

 ファインドフィートの右手側に存在していたはずのサトルの姿が影も残さず消失していて──否、彼の言葉を借りるなら、ファインドフィートが迷子になってしまっていた。

 

「まさか……いえ、流石に近場に居るはずです。

 勝手に動き回ってどうするつもりなんですか、まったく……」

 

 なんて口では言いつつも、耳の挙動は忙しない。

 不安の心は隠しきれていなかった。

 いくらなんでもこんな短時間で問題に巻き込まれる、なんてことは無いだろう。

 しかし、それはそれ。これはこれ。

 元は見ず知らずの少年であろうと、"だから無関心なままでいる"ことは不可能で、どうあっても冷淡には成りきれなかったのだ。

 

「……しかし何処に行ったのやら……」

 

 残念ながら手がかりはない。

 出会ったばかりの少年の行動原理なんぞ知る由もないのだから仕方のない事である。

 

 ……が、ふと思い出すのは己の少年時代。

 記憶の中の内気な■■■も、ショッピングモールに来るとあれやこれやと目移りして勝手にほっつき歩いていたものだった。

 そう、例えば──なんとなく直ぐ側の店の奥に入り込んでいって、初めて見る商品を眺めてみたりだとか。

 

「何か、興味を惹かれる物でも見つけたのかも。

 だとするなら……」

 

 直感的に脚を進める。

 棚の隙間を通り抜け、ビジネス用革靴や婦人用スニーカーのコーナーをすり抜けて。

 そうして辿り着いたのは、壁一面の棚を占拠するウマ娘用ランニングシューズのコーナーだった。

 

「……やっぱりですか」

 

 案の定というべきか。

 サトルは棚を見つめたり、彼の足とはサイズからして違う靴を手にとっていた。

 ただ、嘆息する他に出来ることはない。

 すぐ後ろまで来たファインドフィートの靴音に反応したのか、ぱっと振り向く。

 そして驚きの表情から明るい笑顔へ。

 ファインドフィートも毒気が抜かれてしまう程、無邪気な笑顔だった。

 

「あ、お姉さん」

「ほら……勝手に離れないでください。

 早くお三方と再会したいでしょう」

「う、ん……それは、そうなんだけど」

 

 口ごもりつつ靴を棚に戻し、代わりに棚の下にある雑誌入れから雑誌よりも遥かに重厚な本を取り出す。

 意外な事にファインドフィートにも見覚えのある本だった。

 

「その本は……?」

「装蹄師のヒトが書いた本だよ。

 技術書……ってほどきっちりしたものじゃないんだけど……」

「……靴屋と言う割には……随分と珍しいですね。

 少し見せてもらっても?」

「うん、どうぞ」

 

 お礼の言葉と本とを交換する。

 手に持ってみれば、その重厚な外見通りにずしりと沈む。

 新品特有の艶のある表紙を指で撫でて中身を一枚捲れば、空白をあけて見やすく整理された文字の羅列。

 蹄鉄の作り方や歴史がポップなイラストで簡単に紹介されていて、子供でも解りやすい構成だった。

 

 ……ファインドフィートに見覚えがあって当然だ。

 何故なら、それは彼女と彼女の姉が父に見せてもらった本と同じシリーズの参考書である。

 

「僕ね、装蹄師になりたいんだ」

「なるほど……それは、素晴らしい夢ですね。

 わたしもウマ娘ですから、装蹄師のヒトにいつも助けられています」

「お姉さんみたいなGⅠウマ娘にそう言ってもらえるって、ちょっと恥ずかしいね」

「……わたしの事、知っていたんですね」

「うん、最初の方は……その、僕も()()()()から気付いてなかったんだけどね。

 でも僕、お姉さんのファンなんだ」

 

 へらりと笑って鼻の下を擦る。

 ファインドフィートも同じ挙動をとりたい気分だった。

 トゥインクル・シリーズが国民的エンターテイメントとして人気を博している事は既知の上だった。

 ……が、しかし、初めて出会った子供にさえ知られているというのは、なんとも形容しがたい不思議な気持ちにさせられる。

 

「でもね、お父さんもお母さんも反対してるんだ。

 狭き門だとか、食えるのは一握りだとか……お前に才能は無いだとか、色々言ってくるしさ……」

「それは……」

 

 それはおそらく、苦々しい現実を知るが故の言葉だった。

 愛故に告げられた現実だろう。

 けれどもそれは"子供"に対して"大人"が突き付けるからこそ、刺さってしまうものだ。

 

「……けど、憧れたんだ。

 だって、カッコいいじゃん。

 自分の手で鉄を打って、磨いて、整えて、それを履いたお姉さん達が夢を追いかけるの。

 なんかさ、すごいじゃん」

「ええ……その通りです。

 わたし達が夢の道を往くのなら、蹄鉄は必要不可欠ですから」

 

 使用者としての同意にへらりと、もう一度頬を緩めた。

 ……しかし、隠しきれない不安感は拭えない。

 それこそ──目の前に居る、出会ったばかりの少女に助言を求めたくなるくらいには。

 

「お姉さんはさ、どう思う?」

「どう思う……と、いうのは」

「僕、諦めたほうが良いのかな。

 それとも……諦めなくてもいいのかな」

 

 ──"そう来たか"と、見えもしない空を仰ぐ。

 当然、答えは返ってこない。

 つまり彼への返答は、ファインドフィート自身が、独力で考えなければいけないのだ。

 GⅠウマ娘だからか、年上だからか、頼る相手がいないのか。

 彼女としては──相談相手間違えていませんかと、くだらない泣き言を上げたいと感想を抱くほかない。

 

「……」

 

 しかしそんな事を言えるはずもなく、するりと胸の内に秘めておく。

 それからファインドフィートは、さて、どう答えるべきかとしばし考え込んだ。

 

 緩やかに揺れる尻尾がさらさらと弧を描き、どうにか思考をまとめる時間を用立てようと苦心していた。

 

「…………」

 

 都合のよい逃れる言葉は湧き出てこない。

 そもそも彼女自身──そんな真摯ではない行いを取りたくなかったのだから、当然の話ではあったのだが。

 

 躊躇いがちに唇を舐めて、両手の指をくみかわす。

 思想を絡めて考える。

 現実を整理して考える。

 ……しかし、正しい答えは分からない。

 

 ――であれば、彼女に語れることは、彼女の持論しか持ち得なかった。

 それにこういった夢に絡むお悩み相談とは、先駆者の思想を知りたいが故の問答であろう。

 "きっとそうだ"と思考の整理を片付けて、すぐ傍らのサトルと同じ高さの視点になるまで腰を下ろした。

 

「わたしは……サトルくんが諦めなければ夢を叶えられるだとか、諦めたほうが良い未来を掴めるだとか、そんな無責任なことは言えません。

 ……いえ、言いたくありません」

「そっか……そうだよね。

 ごめんね、お姉さ──」

「──ですが」

 

 それでも言えることはある。

 所詮、夢を捨てた臆病者でしかないのに──なんて、心の奥底で嘲りながらでも。

 しかし何であれ"ファンは大事にするべき"だと、ミホノブルボンやトウカイテイオーにも教えられた事だった。

 そうでなくても、冷淡にはなれない。 冷酷に振る舞おうとしても結局失敗するように。

 ファインドフィートは、そういう意味でも半端者だったのだ。

 

「……ですが、あなたが願って、積み重ねた時間は無駄にはならないと思うのです」

 

 サトルの手を取る。

 柔らかく、苦労を知らず、無垢で、故にこそ可能性に溢れた手のひら。

 それと己の手のひらを比べて、過ごした時間の差を分かりやすく伝えてみる。

 ──少年は、ややドギマギと落ち着かない様子だったが、それでも小さく頷いた。

 

「あなたが積み上げた時間が、あなたを大きく育てる。

 あなたが積み重ねた研鑽は、あなたに力を与えてくれる」

 

 次いで、手の代わりに本を置く。

 取り落とさないように下から支えながら。

 

「たとえば、この本が」

「この、本が?」

「そう……その本が、きみを導く灯になります。

 信じて道を行かぬ物に夢を掴めるはずもありません。

 そしてその道を教えてくれるのが、その本です」

 

 まるで、雲をつかむような話だった。

 確固たる現実を語るわけでもなく、彼女自身の裡から紡いだ助言。

 だからか酷く曖昧だ。

 けれど、故にこそサトルは真摯に耳を傾けられたのかもしれない。

 

「わたし達の身体は夢によって育つのです。

 ……わたし達は、夢と同じ何かで造られているのです。

 時間が、想いが、積み上げた全てがわたし達を満たすのでしょう。

 あなたも、きっとそうだ」

 

 小さな頭を軽く撫でて、言い聞かせて。

 指先を擽る短髪がこそばゆくも、ファインドフィートの身勝手な振る舞いに抗議していた。

 それがどうにも面白くて、可笑しくて──悲しかった。

 こんな御高説を垂れるにはあまりにも不適格な自分自身がバカバカしく思えたからか。

 

 ……ともあれ、今の己は単なる助言者であると、喉の奥に溜め込んだ。

 自分に正しくあれと言い聞かせて、白々しい内心にそっと蓋をする。

 いつも通りに仮面を被り続ける。

 

「……だから、サトルくん。

 きっと大丈夫ですよ」

 

 ──サトルの瞳を覗き込み、反射する自分を見つめた。

 少女の顔に達成感はない。助言者としてあるべき自信もない。

 普段と変わらぬ面白みのない面構えをして、所在なさげに耳を伏せているばかりだった。

 

「あなたは、間違っていないのですから」

「……そっか」

 

 それでも、彼にとっては確かな救いのひとひらだったのだ。

 自己の行く先を肯定する想い。自己の夢を後押しする誰か。

 ──故に、安堵の脱力で眉をヘタレさせて微笑んだ。

 未だある筈のない、春風を想起させる"あたたかさ"だった。

 

「そっかぁ」

 

 納得した風のサトルの顔を見つめて、もう一度頭を撫でた。

 そんな彼の安らぎで救われたのは、きっとファインドフィート自身だったからだ。

 こんな不得意な分野でわたしに言葉を求めるなどと──なんていう想いはあれど、頼られるというのも悪くない気分であった。

 

 それに、自分ではない誰かへと自分自身を重ね見て、自分以外の誰かが望みを叶える。

 所詮どうあってもファインドフィートには関係のない話だ。

 ……しかし、浅ましいとしても、愚かしいとしても、嬉しかったのだ。

 

「さあ、ご家族が待っています。

 ……今度は()()()()()()()()()、ね?」

「うん……ありがと、お姉さん!」

 

 代替品のように見ている自分自身を罵りながら手を差し伸べる。

 相談事はおしまいだ。

 

 後はサトルを家族と引き合わせて、それで全て。

 ファインドフィートも肩の荷が下りるというものだ。

 

「行きましょう。

 ああ。もしかしたら移動中に見つかるかもしれませんし、周囲を探しながら動くとしますか」

「そうだといいなあ。

 まったく、みんなおっちょこちょいなんだから」

「……そうです、ね?」

「そうだよ!」

 

 右手に乗せられたぬくもりを握りしめて、ゆるゆると二対の脚を前に押し出す。

 あるいは、いつかの日の『姉』もこんな気持ちだったのだろうかと想起しながら。

 

「わぁ、お姉さんの尻尾ふわふわだぁ……」

「そうでしょう。

 わたしの自慢の尻尾ですから。

 手入れのために──あっ、ちょうどこのお店に置いてる物ですね」

「わぁ、すごく高ぁい……」

 

 ──それに、こうして誰かの手を引くというのも存外いい気分だった。

 これは庇護欲と呼ぶべき感情なのか。

 単なる親切心というには、些か澱んでいるかもしれない。

 

 歩き始めてから数分間。

 穏やかなやり取りと無意味な応酬を楽しんで、ようやくインフォメーションセンターに到達する。

 自然と吸われた視線の先にはスタッフが居座るカウンター。

 その前には人影が三つ。

 ……随分と、慌てふためいている様子だった。

 

「……あの人達がご家族では?」

「あっ、ホントだ」

 

 少年の顔立ちと似通った共通点を持つ三人の男女に軽く会釈する。

 次いで隣のサトルの背を軽く押してやった。

 

 ……そのあとには、自然な流れしかない。

 家族は再会するべきもので、正しい形に回帰しただけ。

 ただそれだけの光景が酷く眩しくて──どうしてか、泣きたくなってしまった。

 

 

 

 


 

 

 

 どうか、あの子の行く先が幸せでありますように。

 どうか、正しく生きて、正しく育ちますように。

 正しく夢を追いかけて、正しく挫折して、正しく前を見て、正しく終われますように。

 ……そして、叶うのなら。

 最期の時には、あの子と、あの子と手を繋いだ誰かと笑い合っていて欲しいのです。

 

 



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23話

 "()は、『太陽』も『王冠』も脳みそが腐ってるんじゃあないかと疑っている。

 神聖なる頭蓋の中に如何な腐れを詰め込んでいるのか、まったくもって見当さえつかぬ。

 往くべき道は当人の覚悟によって拓かれるべきものであり、あらゆる功罪は当人の意思へと帰依すべきだろう。

 そもそも冷静に考えよ……心臓に茨を埋め込む、楔を打ち込む、思考を制限する。

 その所業、完全に邪神では……?"

 

 

 


 

 

 

 ──夢を見ていた。

 

 いつだったか、迷子の少年と手を繋いで歩いたあの日の、あたたかな夢を。

 小川を挟んだ先に在るようで、けれど大海を跨いだより尚遠い世界の話だった。

 星空に手を翳しても決して何をも掴めぬように、いっそ残酷な断絶がそこにあった。

 

 ファインドフィートの傍らにもあった筈の、しかし失われたぬくもり。

 それは何処までも美しくて、眩しかった。 みっともない羨望の念を抱く程に。

 思い返すだけでも、ズキズキと胸の奥が締め付けられる。

 それが、その慙悔が、本当にどうしようもなく──。

 

 ──性懲りもなく湧き出た情動ごと、瞼を抑える。

 夏だというのにやけに冷えた体温。

 けれどじっとりと額に滲む汗が、彼女の頭蓋に在るべき静心を取り戻させた。

 

「はぁ……」

 

 尻の下から伝わる振動が"がたんごとん"と喧騒を伴って、回転を始めた頭ごと無粋に揺らす。

 がたんごとん、がたんごとんと。

 一瞬だけふわりと跳ねた頭髪を指で宥め、ゆるゆると吐息を零した。

 

 そして目を覚まして数拍後、ようやく"ここは何処だろうか"と、霞んだ視界で疑念を抱く。

 ファインドフィートの鼻を擽るのは鉄のホコリ臭さとガスの排気と──あとは、馴染み深い先輩やトレーナーの匂い。

 もう一つ、ふわりと漂う香水の香りはミホノブルボンのトレーナーが纏うそれだった。

 

 その三者の香りが満たすのは長細い箱の内側で、構成物は前後三層に連なった座席シート。

 すぐ傍らに鎮座するガラス窓の向こうの光景が、後ろ目掛けて流されてゆく。

 ファインドフィートの疾走と同じ速度で、しかし遥かに長い間継続して。

 つまり、彼女の現在位置は走行中の一般車両であった。

 

 目指す地点は海沿いの合宿所。

 トレセン学園夏の行事である強化合宿のため、こうしてミホノブルボンコンビと合同で移動していた。

 ただし、車に乗って。

 

 ──そうと思い出せば、なんとなく居心地が悪くなった気がする。

 地に脚付かない浮遊感が、脳髄の奥の奥を刺激する閉塞感が微かに悍ましい。

 

「……ブルボン先輩、は……寝てますね」

 

 何気なしにミホノブルボンの姿を求め、すぐ右隣りの席に視線を送った。

 目を閉じて、浅い寝息を吐き出して、規則的に胸の上下を繰り返している。

 普段の凛々しい表情とは違い、あどけない眠り顔である。

 世間では"サイボーグ"などと評されている彼女であれども、眠る姿はどこか幼い。

 

 そもそも何故彼女を"サイボーグ"などと呼ぶのか、ファインドフィートにはこれっぽっちも理解できずにいた。

 空腹になれば食事を食み、孤独を"寂しい"と嘆き、団欒を"楽しい"と喜ぶ。

 彼女の瞳に映るのは、至極真っ当な命の在り方をした心優しい少女のみであった。

 

 そうして、そんな敬愛する先輩がぐっすりと眠っている間に──無意識のうちに彼女の脚に巻き付かせていた尻尾を解いて回収しておく。

 するりするりと音もなく、白く艶のある尾がファインドフィートの膝の上へと帰還して来る。 出発前に吹きかけた香水の余韻が淡く仄かに漂っていた。

 

 今日の尾が纏う香りはフローラル系。 ミホノブルボン曰く、最近流行のメーカー製である。

 ただしその情報はトウカイテイオーをソース(提供元)とし、トウカイテイオーは同室のマヤノトップガンを情報源としている。

 つまり、伝わってくるまでのタイムロスは考慮していない。

 

 ……もっとも、ファインドフィートは()()()()を気にすることもないのだが。

 重要なのはミホノブルボンが選んだということで、それ以外はどうでも良かった。

 

 ただしそれほど手間のかかった尻尾であれども制御に不慣れなせいなのか、こうしてファインドフィート自身の思考と乖離して動く事が頻発していた。 耳も同じくである。

 未熟の表れそのものを疎ましげに()めつけて、"これでは単なる子供ではないかと"、"穴があったら入りたい"と、声に出さずに耳で語った。

 

「おう、起きたか。

 よく眠っていたな」

 

「おはようございます、トレーナー。

 今日も顔色悪いですね」

 

「自覚はしてる」

 

 ──けれど、それよりも腹立たしい事があった。

 前方の助手席からガイコツボディのトレーナーが顔を覗かせて"まだまだ子供だなぁ"、なんて、そんなことをのたまう姿である。

 事実、葛城トレーナーにとってみれば子供でしかないのだが……それはそうとしても、なんとなくその上から目線の評価が気に入らなかった。

 

 "ガイコツなんぞに言われる謂れはないんですけど"と舌を打──つとミホノブルボンが起きてしまう故に、口を噤む。 ファインドフィートの良心が無粋な雑音の発生を許さないのだ。

 結局彼女にできることは、じっとりと睨めつけるのみだった。

 

 ……尤も、正直に言えば然程の怒りを抱いているわけでもないのだが。

 もしかすると、このやり取りも日常のひとつに組み込まれている影響かもしれない。

 

 しかしそれを正直に認めるのも、癪に障る。 本当に、猛烈に。

 せめてもの反抗に、鼻を鳴らして杜撰に誤魔化す。

 そっと車窓の向こうに視線を逸らせば、精美な景色ばかりが後ろに消えていった。

 

「……前だけ見ててくださいよ、ブルボン先輩が寝てるので」

 

「はいはい、悪かったな」

 

「振られちゃったわね、葛城トレーナー」

 

「うるさいぞ崎川」

 

「……相変わらず、ね? 

 カルシウム足りてるのかしら」

 

 ファインドフィートと葛城トレーナーのやり取りとは違い、前方の二座席は中々に殺伐としていたのだが──とりあえず、単なる聞き間違えだろうと自己完結した。 恐らく間違いない。

 ファインドフィートが知る限り、崎川トレーナーという女性は非常に理知的な大人である。

 まかり間違っても冷淡な嘲りを口にするはずがないのだから。

 

「よし、っと……」

 

 座り直し、スカートの裾を整える。 これで車に乗り込んだ時と全く同じ状態だ。

 ……つまり、入眠前と変わらずという事で、結局平坦な時間が流れるのみとなってしまった。

 がたんがたんと車体を揺らす、小刻みの振動を伴う遠距離旅行でしかない。

 

 彼女の鼓膜を撫でるのは車体が跳ねて軋む悲鳴と、ごぅごぅと風を吐き出す内蔵クーラーの呼吸音。

 後はミホノブルボンの寝息ぐらいのものだった。

 

「トレーナー、飲み物ください」

 

「……お茶で良いか? ほら」

 

「どうも」

 

 ペットボトルの呑み口と湿気を交換して、人心地の吐息を零す。

 しかし心胆からはどうにも落ち着けない。

 

 それは、"普段と違う環境"だからか。"車の中"だからか。

 きっと──否、間違いなく後者だった。

 

「トレーナー、お菓子ください」

 

「ん……ホワイトサンダー(白い稲妻)しか無いが」

 

「どうも」

 

 ……けれども、大人二人とミホノブルボンがいるのだ。

 独りであれば()()()()()()()()()だろうが、今は違う。

 ファインドフィートにとっての拠り所がここにある。

 だから不満など、恐怖など、一切存在しなかった。

 

 ホワイトチョコレートを口の中に放り込み、甘味で舌を蕩けさせて無言のままに尻尾を揺らす。

 ミホノブルボンの膝に、無垢な白がぴとりと触れた。

 

「トレーナー、後どのくらいですか?」

 

「あ~……後15分くらいだな。

 そう遠くない」

 

「なるほど……」

 

 何気なく確認するのは手首裏の腕時計。

 使い始めて二年目になるデジタル液晶が律儀に数字を刻み、電子の光で時間を照らす。

 時刻は昼前で、ファインドフィートの腹の虫も丁度同じ時刻を指し示していた。

 

 仄かな空腹感ごと硬いシートに背中を預け、垂れる芦毛を指で弄びながら天井(ルーフ)を見つめる。 灰色だ。

 くるりくるりと回してみれども時間を潰せる筈もなく──ほんの数分で諦めて、車窓の向こうに望みを託した。

 

 後方へどんどん走り去っていく景色。

 そしてそれを明るく照らす太陽の輝きばかりが、ファインドフィートの瞳を楽しませてくれるのだ。

 

「……眩しいですね、本当に」

 

 覗き込んだガラスに反射するのは青い瞳で、更にその向こう側には青い空と青い海が彼方まで描かれている。

 青、青、何処までも澄んだ青色に満たされ広々とした世界は、正しく絶佳(ぜっか)と云うに相応しい。

 綺麗で輝かしいそれに惹かれて少しの間、見惚れてしまった。

 "同じ青の筈なのに、なんだか不思議ですね"と、視線をガラスの上に這わせて見比べる程に。

 

 そこに、これらと同じ青い瞳を持つ友人達の影を重ね合わせてみた。

 例えばトウカイテイオー。例えばミホノブルボン。

 彼女らの瞳の青はこの果てしない大空と同じ色だなと、容易く連想できた。

 

 ……ああ、けれど。

 "ブルボン先輩の青はとても深いから、少し違う表現が似合うでしょうね"と思考を滑らせる。

 深い青。しかし輝かしい青。星のように煌めく燐光。

 であれば、空の向こうの、宇宙色と称すべきかもしれない。

 

 ファインドフィートが嘗て(いだ)き、憧れていた原風景の──。

 

「──もうすぐ着くわよ~。

 ほらほら起きて! さ、葛城も準備しなさい」

 

「………………ああ。 そうだな」

 

 ──くだらない感傷を、崎川トレーナーの明るい声が打ち砕く。 酷く優しい雑音だった。

 言葉の意味を咀嚼し、理解して、ガラスの向こうから焦点を引き剥がす。

 その工程で浪費する時間は皆無だ。

 愛惜(あいせき)の念なぞ、彼女に不要なものでしか無いのだから。

 

「本当に……くだらないですからね」

 

 エンジンの駆動音に紛れ込ませた独白は、誰の耳にも届かない。

 

「……意識の覚醒を確認。

 メインシステム、起動シーケンス──コンプリート。

 つまり、おはようございます」

 

「おはようございます、ブルボン先輩」

 

「おはようブルボン。

 もう駐車場に入る所だからね」

 

「承知しました。

 手荷物の確認を実施します」

 

 そうは言えど大部分の荷物は車体後部スペースに収められていて、今の彼女らが所持しているのは小振りな肩掛けカバンが精々だ。

 

 故に、肩に紐を通してそれで終わり。

 出来る事と言えば……それこそ、崎川トレーナーのハンドル捌きを見守る程度でしかない。

 

「ファインドフィート。

 脚の様子は問題ないな?」

 

「はい……違和感は全くありません。

 普段と変わらない速力を出せるかと」

 

「よし、よし……。

 とはいえ、だ。今日は念のための休養日としよう。

 本格的なトレーニングは明日以降にするぞ」

 

「了解です……トレーナー」

 

 そそくさと手提げカバンを抱え直す葛城トレーナーの顔色は、青白い。そしてどこか浮ついた様子でもある。

 それが普段と変わらぬ不摂生によるものか。

 あるいは崎川トレーナーとの間にある、何かしらの因縁めいたモノのせいか。

 ファインドフィートはその"何か"に対して何気なく思考を回そうとして──。

 

 けれど、その前にやめた。

 この二人の間にどんな過去があろうとも、ファインドフィートが土足で踏み込むべき領域ではない。

 ヒトは誰しも問題を抱え込むモノで、それが"触れていいもの"なのか"触れられたくないもの"なのか、当人の価値観に従って変容するもの。

 ファインドフィートも同じ故にこそに信じる持説だった。

 

 だから彼らもきっとそうなのだろうと、ぼんやり沈んだ瞳の裏で直感する。

 彼女が出来る事は──ただ、いつか分かりあうことが出来ればいいなと、淡い思いを馳せるのみ。

 ……幸福であればいいなと、無責任な願いをかけるのみだった。

 

「はい、到着。

 忘れ物をしないようにね」

 

「……俺が手続きしてくる。後から来てくれ」

 

「いってらっしゃ~い」

 

 ──思考を停止させる。 ふと我に返ったとも言い換えられる。

 どうにも変な心持ちで、無駄と分かっていながらも同じ脳髄の回路が空転するばかりだ。

 

 ふわふわと浮つくようで、頭の熱が不自然なほど失われて、理性が錆びつく。

『海』が近付いてきてからというものの、無意味な考えが何処(いずこ)からか湧き出て仕方なかった。

 

 "風邪でも引いたのでしょうか"などと僅かな疑念を滲ませる。

 "ありませんね"と、根拠など無い確信を掲げた。

 

 それらの錆を吹き飛ばすために、小さく(かぶり)を振って二度三度瞬いてみる。

 長い芦毛は、彼女の背中で幽かに揺蕩うのみだった。

 

「ブルボン先輩、今開けますので……」

 

「はい、お願いします。

 私が触れると……不可解な事象が発生し、車体が損傷してしまうので。

 つまり、マスターの資産額が減少します」

 

「あれ? もしかして私ピンチ?」

 

 二人の声をウマ耳の裏で受け止め、ドアハンドルをがこんと開く。

 久方ぶりの外気が流れ込んで、顔を優しく撫でていった。

 

「潮の香り……」

 

 シートから身体を解放し、脚をコンクリートへ突き立てる。

 ようやく触れた大地の感触が、揺れ動かない重力が、ファインドフィートに深い安心感を齎してくれるのだ。

 車ほど恐ろしいものはない、と確信している故の安心感だった。

 

「……なるほど、ここが合宿所ですか……。

 中々に豪勢な……」

 

「はい、外観や敷地面積からして、大型施設に分類されるかと。

 つまり、グレード『お金がかかってる』だと推測されます」

 

「それはもちろん、あなた達の訓練のためよ。

 トレーナーの考え方にもよるけれど……私達の手法だと、設備が整ってるに越したことはないのよね」

 

「なるほど……」

 

 それは大変に喜ばしいことである。

 設備が整うということは、トレーニングの質が高まるということ。

 トレーニングの質が高まるということは、ファインドフィートの夢が近付くということだ。

 

「じゃあ、もっと頑張らないといけないですね……。

 たくさん、たくさん」

 

 ……けれど同時に、()()はとても"苦しい"ことで。

 息継ぎさえもままならなければ呼吸は止まる。 何者にも抗えない自然の摂理である。

 それはやがて破滅を伴い、ファインドフィートの臓腑に傷みを刻み込むモノだった。

 

「……荷物、下ろしてきます」

 

「あら、ありがとうね。

 ああでも私の荷物はそのままでいいわよ。 ちょっとデリケートな機材もあるから」

 

「了解しました」

 

 しかし無意味な思考だと、なんら正しい思想ではないのだと怜悧な理性で縛り上げる。

 車体の後部に滑り込んで、そっと独り。 細い首元を抑えた。 白い肌がとくりと跳ねる。

 

 気が緩んでいるのか、何なのか。

 "夏がヒトを大胆にする"というフレーズ程度ならば、教養程度にファインドフィートも把握していた。

 けれど今回の思考の散逸はどうにも不可思議であると、猜疑心を抱かずにはいられない。

 ……それは今更かもしれないけれど、という傷みかけの納得を呑み込んで。

 

「……さぁ、行きましょ。

 あのガイコツも手続きが終わったみたいだし」

「了解しました、マスター」

 

 漏れ出そうになった弱音を入念に握りつぶして、もう一度喉を撫でる。

 ズキリ、ズキリと熱に炙られ続ける胸の奥で、冷たい痛みが深く澱む。

 本来こんな惰弱な心は隠すべきで、誰かに知られるべきではない汚物だった。

 

 ファインドフィートはそう仮面の裏に吐き捨てて、バックドアの取手を握り締める。

 鉄製の筈なのに、手の内でギリギリと軋む哀れな機構。

 望むべきではないのに、"いっそ砕けてしまえよ"と身勝手な呪いを撒き散らしたかった。

 

「ええ、そうです。 ダメなんです……。

 わたしは、『ファインドフィート』ですから」

 

 だから手を離し、呼吸を浅く整え、(かんばせ)から一切の色を奪って。

 普段と何も変わらない、無表情で、少しだけ惚けた『ファインドフィート』を作り上げるのだ。

 寸分の違いはなく、寸分の狂いもなく、()()()姿()を模倣する。

 ファインドフィートにはそれ以外が許されないのだと、他ならぬ彼女が規定していた。

 

「フィートさん、行きましょう……フィートさん?」

 

「……すみません。

 少し、ぼんやりしていました」

 

「準備が出来たようです。

 マスターについていきましょう」

 

「そう、ですか……はい、わかりました。

 行きましょう」

 

 ミホノブルボンの呼び掛けへと小さく頷く。

 改めて後部スペースを開き、引きずり出したのは大きな旅行カバン。

 ポリエステル製の黒い肩紐を握り締めて身体に引き寄せる。

 中に詰まっているのは替えの衣服と下着類、頭髪用の櫛と尻尾用ブラシ、そして携帯端末の充電器。

 開いて確認などは出来ないが、"ずっしりと沈む重みがあるのだから全部揃っているのだろう"と勝手に確信していた。

 

 その()()()()のカバンを肩に掛け、爪先で大地を軽く蹴る。

 かつんかつんと弾む音は高く澄んでいた。

 靴の調子は普段と変わらず万全であり、脚の強度も十全であり、故にそれらがファインドフィートの心に僅かばかりの平常心を取り戻す。

 

「……いつも通りに、いつもと変わらずに」

 

 ついでにミホノブルボンの荷物も手にして、車体の横のミホノブルボンのもとへ帰還する。

 彼女は彼女でゴミの類を集めて袋に詰め込んでいたらしく、誇らしげにビニール袋を握り締めていた。

 

「お待たせしました。

 それでは、行きましょうか」

 

「はい、マスターは先に葛城トレーナーのもとへ向かっているようです。

 予測到着時刻は7秒後。

 ユニークイベント、『トマとジュリー』開始まで9秒と推測されます」

 

 "仲良くケンカで済めば良いのですけど"──なんて、無邪気な先輩に発言する勇気はなかった。

 けれどもそれはそれ。 仲が良かろうと悪かろうとケンカされては困ってしまう。

 ファインドフィートもミホノブルボンも、空気が悪い合宿なんぞゴメンである。

 

 しかし、簡潔かつ盤石な解決策は存在していた。

 手順は非常に明快である。

 ただ、相性の良くない二人の間に何れかの担当ウマ娘が割り込めば良い。 それだけで万事はするりと流れていくのだ。

 

 だから早めに合流してしまいましょうと、遠ざかるヒトの影へ目掛けて駆け出した。

 そんな彼女らを迎え入れるのは大輪の青い生け込み(花飾り)

 

 視界の端で悲しげに揺れて、瑞々しくも萎びた色気を纏っている。

 それの名を、ファインドフィートは知らないままだった。

 

 

 

 


 

 

 

 "……哀れな生命だ。

 当人がウマ娘として成立できるだけの素養を兼ね備えている事が、何よりも哀れだ。

 もしも……ウマ娘のなんたるかさえ理解出来ぬ凡骨ならば、楽に成れたろうに。

 もしも神に愛されなければ、この先で苦しむこともないだろうに"

 

 "故に()は、『海』として汝を愛せない。愛さない。

 愛してしまえば、きっと引きずり込んでしまう。

 ならば、せめて──"

 

 

 



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24話

 ざざぁ、ざざぁ。

 潮騒の唄が、深々と耳に積もる。

 

 ざざぁ、ざざぁ。

 満ちては引いて、何度でも。

 頭の(かすみ)を奪って消えて、胸の(いたみ)を解いて失せて。

 そして次第に仮面がほつれて──臆病なぼくの顔が、ひっそりと晒される。

 風に当たる眼が冷たかったから、きっと泣いていた。

 

 ざざぁ、ざざぁ。

 そんなみっともないぼくでも、波の音だけが優しく撫でてくれる。

 波の音だけが、悲しんでくれる。

 

 

 

 


 

 

 

「──よし、そこまで!」

 

「はい、スポーツドリンク(エネドリンクMAX)

 少しずつ飲んで……というよりも、飲める?」

 

「……ッ。

 …………ッ!」

 

「…………?」

 

 砂浜へ顔面を埋めて伏せる芦毛がひとり。

 仰向けに倒れ、潮風が薫る空をミホーっと眺める栗毛がひとり。

 

 双方の両手足首に装着されたアンクルウェイト(トレーニング用重り)が脆い砂にめり込んで、さながら小隕石の衝突地帯を形成しているようだ。

 ウマ娘のトレーニング強度を高めるために開発された器具の効力は恐ろしく高く、特に筋力に優れた彼女等の気力を根こそぎ削るほどに凄まじい。

 

 それこそ最近では比較的()()が生じていたファインドフィートや、スタミナも筋力も3年以上掛けて磨き上げられたミホノブルボンでさえも虚しく沈没してしまった。

 前の日(到着直後)にトレーニングが出来なかったからこそハードな内容に組まれた、という事実も関係あるのかもしれないが。

 

「……もうお昼ですか。

 今日は……人参ハンバーグが食べたいです」

 

「悪いな。 今日の昼は魚料理で、夜は鍋物だ」

 

「そうですか……」

 

 現実は非情である。

 その上追い打ちをかけるかの如く潮風が砂浜に吹き付け、倒れ伏した少女達に砂の化粧を施していく。

 燦々と照りつける日差しが咽る程の熱気を無情に生み出し、ファインドフィートの水着の裏まで容赦なく苛んだ。

 顔や首、両手足に至るまで、外気に触れる肌にはじっとりと湧き出る大量の汗。

 トレーニング直後の疲労故にそれを解消することさえ酷く難儀で、無抵抗に徹することしか不可能だ。

 

 彼女の救いといえば、涼やかに響く波の音のみ。

 ざざぁ、ざざぁと繰り返し透明な唄を奏で、ファインドフィートの鼓膜を優しく叩く。

 そんな救いの象徴たる青い海に青い目を向けて、潮の香りを堪能しようとぼんやり呼吸を繰り返してみた。

 ……が、微妙に開かれた口の中に砂が入り込んでしまった。 不快である。

 

「ほら、パラソルの下にシート敷いてるからそっちに行きましょう? 

 ちょっとアンクルウェイト外すわね……うっ、おもっ……!」

 

「……ファインドフィート、自力で外せるか? 

 頼む、俺には無理だ」

 

「鬼……ですか?」

 

 抗議を述べつつも、どうにか藻掻いて横向きへ。

 そこから更に気合を詰め込み仰向けに。

 纏わり付く砂を払い除けもせず、アンクルウェイトを搭載した手首を胸の前に引き寄せて、留具を外すために指先の操作に集中する。

 

 ごそごそ、もたもたと。

 それから自由の身になるまで、幾らかの時間が必要だった。

 

「ブルボンはあっちのシートに運んでいったけど……フィートちゃんも運んでいくわね。

 葛城トレーナー、無理でしょ?」

 

「…………………………あぁ。そうだな」

 

「じゃ、失礼してっと」

 

 やけに含みのある同意の言葉だった。

 それを慣れたように聞き流し、呆れたのままに肩をすくめる。

 

 そして砂浜に倒れ伏したままのファインドフィートの傍に腰を下ろして、首の後ろと膝の下にそっと手を差し込んだ。

 女性的な体型でありながらも力強く肢体を律して、横抱きの構えで。

 

「……あの、大丈夫ですか? 

 こう、よくある……上体を起こして、そのまま引き摺るやつ(ボディメカニクス)で良いんですけど」

 

「大丈夫よ~。 私こう見えて鍛えてるから。

 ほら、あっちのブルボンだっていつも同じ方法で運んでるのよ」

 

「そう、なんですね」

 

 沈黙した芦毛の少女を自己の重心に引き寄せ、大きく一呼吸。

 腹部に力を込め、もう一呼吸。

 差し込んだ手の位置に注意して、痛めないよう──ゆっくり、立ち上がる。

 素晴らしいことに、彼女は未だ魔女の一撃(ぎっくり腰)を食らう歳ではない。

 

「……んん」

 

 肩身を小さく縮こませ、直ぐ側の喉元から視線を逸らす。

 この年になってから誰かに抱えられるという経験は然程多く無く、ファインドフィートは沸々と湧く羞恥心を抑えるのに必死だった。

 せめて尻尾が崎川トレーナーの歩行の邪魔にならないようにと自分の腹に乗せ、青い瞳の先を砂浜に落とす。 それでもやはり、どうにも気まずいままだった。

 

「……すみません、重くないですか? 

 あと、その、汗の匂いとか……」

 

「大丈夫、大丈夫」

 

「そうですか……?」

 

 ──事実として、身体の軸はブレておらず力不足故の痙攣もなし。

 むしろ崎川トレーナーには、顎に当たるウマ耳の感触を楽しむ余裕さえある。

 一歩一歩を慎重に、腕の中の少女を万が一にも取り落とさないよう歩みを進め、パラソル下のシート目掛けて足跡を刻んでいった。

 

「……トレーナーには、無理そうですね」

 

「あ~、あの身体だからねぇ……」

 

「おい、聞こえてるぞ」

 

「聞かせてるんです。 トレーナーも多少は身体を鍛えてください」

 

「前向きに検討する……という事で頼んだ」

 

 "是非とも前向きに検討してくださいね"と、すぐ隣に追いついた男をじとりと見つめる。

 返答は──気まずげに視線を逸らすことで返された。

 最早いつものやり取りである。

 結局好転しないままと理解したファインドフィートが小さく溜息を零す事さえ、いつも通りの事だった。

 

「──ん、下ろすわね」

 

「ありがとうございます……」

 

「お疲れ様です、フィートさん。

 こちらをどうぞ、スポーツドリンク(エネドリンクMAX)です」

 

 丁寧に降ろされたレジャーシートにそっと座り込む。

 そして一足先に休憩していたミホノブルボンからアルミ缶を受け取り、震える指先でなんとか開封。

 ぬるい温度に調整された中身を、少しずつ乾いた喉に通していく。

 水分を失い火照った身体には効果覿面だった。

 

「んぐ」

 

 跳ねる喉元。 そこに伝う汗を拭う余裕さえ存在しない。

 アルミ缶が空洞になるまで掛かったのは僅か数十秒。

 それと同量の水分を失っていたのだとしたら、トレーニングにそれだけの努力を積み上げたという実績の証明でもある。

 湿った唇を指で拭い、満足げに頷いた。

 

「よし、二人共落ち着いたみたいね。

 それじゃあ軽くクールダウンのストレッチして、歩けるようになったら合宿所まで戻りましょうか」

 

「了解です、マスター。

 排熱機構、ブーストモードに移行します」

 

「合宿所まではそう遠くないし焦らなくても良いぞ」

 

「はい、分かりました。

 トレーナーも今のうちに休んでおいてくださいね。

 ……まぁ、いざとなればわたしが運ぶので問題はありませんが」

 

 しっかりと四肢を伸ばして寝っ転がったミホノブルボンに倣って、ファインドフィートもレジャーシートにそろりと身体を横たえる。

 光は変わらず地表に照りつけて、夏の熱気を猛らせていた。

 ……が、パラソルの遮蔽によって生まれた影の内側は素晴らしく過ごしやすい。

 仄かに暑苦しい程度の気温であれば、海風を浴びるだけで心地よさを際立たせるスパイスにしか成らないのだ。

 

 せめて汗や砂などの不快要素が無ければ更に素晴らしかったのだが。

 未だに頭髪に絡みついたままの砂を軽く払って、耳を震わせ尻尾を振る。

 

 ……数度も繰り返せば幾らか()()になった。

 身体の上下をくるりと反転させてうつ伏せになり、目と鼻の先にある海のさざめきをぼうっと眺める。

 青い海に反射する日光が宝石の如くに煌めいていた。

 

「……サメとか、いないんでしょうか」

 

 ざざぁ、ざざぁと引いては寄せる波を無意味に見つめて、眠気が宿り始めた瞼で幾度かの瞬きで誤魔化す。

 大自然の中、パラソルと砂浜の境目で暫しの休息に身体を沈め、緩やかな呼吸を繰り返し──。

 

「おっ! ブルボンじゃねーか! 

 おぅおぅおぅ! ここで会ったが四年目! 大人しくこの飴玉でも食いな!」

 

「ゴールドシップさ──んぐっ」

 

「マグロ茶漬け味だ! ウマいだろ?」

 

 ──そして、瞼がおりる寸前。 破天荒な声音が轟々と鼓膜を揺らして射抜いて弾けた。

 慌てて見開かれた網膜に映り込むのは眩い()()

 艶やかな長髪が海を背負って風に揺れて、隙間からは太陽の光を覗かせる。

 端麗な(かんばせ)の少女は悪戯っぽく口角をつり上げ、ころころと心の底から楽しそうに笑っていた。

 

「……だれ?」

 

 ……そもそもいつの間に近付いていたのか。誰も気付かなかったのか。

 混乱の中、ミホノブルボンの頬をつつく赤いジャージの不審者を眺める。

 

 ……やはり、ファインドフィートにはまったく見覚えないウマ娘だった。

 

「おん? おんおんおん? 

 おいおいおいなんだよブルボン、オメー妹も居たのか? 

 ほれ、飴ちゃん食うか? 鮭とば味な」

 

「いえ、わたしは──むぐ」

 

 声を出すために開かれた口。

 そこにぽぉんと飴玉を投げ込まれた。

 何処から取り出したのか、なんて至極真っ当な疑念を抱く隙も無く、朱色の玉がころころと舌の上を転がる。

 

 ……あまり美味しくはない。

 へたりと耳を伏せ、無言で飴玉を噛み砕く。

 

「おいゴールドシップ! 急に走り出すなつったろうが!」

 

「んだよトレーナー。 かわいいゴルシちゃんに何てことを言うの? 

 海底にテレポートさせちゃうぞっ」

 

 そんな彼女等の元に遅れて駆け寄ってきたのは──なんとも、軽薄な雰囲気を纏った男性だ。

 側頭部で刈り上げた茶髪といい、それを後部で結わえたスタイルといい、トレーナーという職種にしては中々珍しい様相。

 けれども彼こそが"チームスピカ"のトレーナーであり、トウカイテイオー、メジロマックイーンの指導者でもあった。

 

「あぁ……そういえばそうだったわね」

 

 ──そんな突然現れた闖入者コンビの身分を把握し、いち早く再起動を果たしたのは崎川トレーナーだった。

 残念ながら葛城トレーナーは夏の熱にやられて隅でしっとり日陰干し。

 日常生活が多少改善されたとは言え、所詮は担当ウマ娘にさえガイコツと揶揄される身体でしかない。

 

 ファインドフィートは己のトレーナーへ小さな嘆息を漏らし、じとっと睨めつけた。

 ゴールドシップなる少女に頭を勢い良くかき撫でられながらの不満表明。

 ……が、視界がぶれて長続きはしない。

 

「……えーっと、お久しぶりですね。沖野トレーナー」

 

「あー、悪いな崎川さん。 邪魔しちまった」

 

「いえ、特に問題はありませんが……チームスピカも合宿を?」

 

「ああ、そこそこ近くでな」

 

 沖野トレーナーはじっとりと額に滲んだ汗を手の甲で拭い、大げさに肩を竦めてみせる。

 巷で話題の破天荒娘の手綱を握るのは楽な仕事ではないのだ。

 件の少女に視線を向けつつ、声もなく語った。 無音で、しかし雄弁に。

 

 事情を理解できる崎川トレーナーも"そうだろうな"と、納得の意を込めて頷く他ない。

 癖ウマ娘ほど御せぬ存在はそうおらず、保護責任者に相当する者の心労は凄まじいモノがある。

 ゴールドシップは優秀なアスリートではあるが、同時に生粋のトラブルメイカー。

 当人の理念故に大事(おおごと)に発展することはほぼ無いのだが──保護者陣営の苦労が偲ばれるというものだった。

 

 けれども、ファインドフィートには事の経緯を知る由もないのだ。

 頬をつつかれながらも助けを求めて崎川トレーナーに視線を送る。

 ……が、ただ困ったような笑顔で両手を合わせられた。 謝罪のつもりであるらしい。

 

「あの、ゴールドシップ……さん?」

 

「フィートさん……興奮したゴールドシップさんを安定制御可能な存在はマックイーンさんしか居ません。

 つまり、諦めましょう」

 

「おいどうした、単三電池型チョコレート食うか?」

 

「……何故、単三電池なんです……?」

 

 ゴールドシップを振りほどこうにも、未だに体力の回復は殆ど出来ていない。

 故に彼女に抗えるはずもなく、出来ることは──ミホノブルボンの助言の通り、近所の面倒くさいお姉さんに絡まれた時と同じく、ただ嵐が去る事を祈るのみだ。

 

 それに、と。

 若干ボサボサになった髪を整えつつ、ゴールドシップの顔を見上げた。 無邪気な笑顔を浮かべている。

 何だかんだで敏感な耳は触らないように注意していたり、首を痛めないためにか適切な力加減はされていたりと、()()()()の配慮は察せられた。

 

「どーした? 浜に打ち上げられたサンマみてえな顔して。

 あっ、そういや自己紹介してなかったな! ワリーワリー! 

 アタシはゴルシちゃん! ゴールドシップ様とお呼び!」

 

「……わたしはファインドフィート、です。

 フィートで良いです」

 

 それ故にか、意外な事にそれほどの不快感は無い。

 "これぐらいなら別に良いかな"、なんて許容出来るぐらいには。

 

「そうか! よぉ~しよしよしよしよしよしよし!

 なぁ12インチ(1フィート)、飴ちゃん食うか?」

 

「いえ、もう大丈──むぐっ」

 

「あの、ゴールドシップさん。

 フィートさんが苦しそうなのでそのあたりで──んぐっ」

 

「ほれ、ナマコ味とホヤ味だ。ウマいだろ」

 

 ピタリと一切の動作を止めた無表情コンビと、ニマニマ笑みを浮かべるゴールドシップ。

 この僅かな時間だけでも察せられる問題児の行動力。

 最早ファインドフィートには何かを言う気も起きなかったが──とりあえず、決してウマいとは形容できない味だった。

 

「……その、お疲れ様です」

 

「ああ、まぁ……そうだな。

 アイツも何だかんだで弁えてるやつだから……まだマシだ」

 

 沖野トレーナーの言葉に嘘はない。

 しかし、隠しきれない歯切れの悪さを誤魔化すように頬を掻く。

 "弁えている"のが真実だとしても、騒動を起こしているのも事実であるのだと理解しているからだ。

 これまでに何度彼女の行動による被害を被ったのか。

 ……その詳細部なんぞ一切考えたくもなかった。

 

「……今はトレーニング後のクールダウン中みたいだし、俺らはここでお暇としよう。

 ってなワケでゴールドシップ! 戻るぞ!」

 

「おいおい、そりゃーねぇよトレーナー! 夢芝居はここからだぞ!」

 

「いや、そうは言ってもなぁ……」

 

 ファインドフィートの頭を抱え込んだ問題児から"ぶーぶー"と上がる反抗の声。

 自由気ままな彼女にしては珍しい行動だ。

 ゴールドシップなるウマ娘は"風のように来て、風のように去る"という慣用句をそのまま体現する少女である。 こうして若干ながらも()()()らしきものを見せるのは、それなりに珍しい。

 ……とはいえどちらかと言えば、偶々遭遇した近所の犬にじゃれ付いている風の可愛らしいものではあるが。

 

「二人の休憩が終わるまでは合宿所まで帰れないんだろ? 

 それまで此処に居座り続けるってのも悪いしなぁ」

 

「えー、まぁ……ブルボンもフィートちゃんも嫌がってないみたいだし、別に良いんじゃないかと思いますけど」

 

「いやいや、俺が気にすんだよ。 俺が」

 

 そんな大人二人の会話を聞いたのか聞いていないのか、それさえも定かではない様相(謎の自信に溢れたドヤ顔)で一つ頷く。

 そして流れるように無駄のない律動で──両腕をそれぞれ、ファインドフィートとミホノブルボンの腰に回した。

 

「──じゃ、アタシが運びゃあ良いじゃねーか! 

 オラッ! ゴルシちゃん宅急便だぞ感謝しな!」

 

「わっ」

 

「……!」

 

 ファインドフィート、ミホノブルボン。

 その両名を小脇に抱えるゴールドシップ。

 三者の体格はそれなりに似通っている割には随分とスムーズな運搬体勢への遷移だった。

 

「フィート! んな"シケた面"してんじゃねえぞ! 

 ゴルシちゃん様を舐めてんのか! 笑え!」

 

「いえ、別にわたしは──」

 

「行くぞぉ! 

 ゴルゴル列車発進しまぁす!! カンカンカンカン!!」

 

「聞いてない……」

 

 ──そして、そのまま駆け出す。 大人組をその場に残して軽快に。

 飛び散る砂が、ファインドフィート達の尾となり後を引く。

 抱えられたままの彼女はぼんやりと漂うそれを眺め──ふと、飛行機雲みたいだなんて、ぽつりと呟いた。

 勿論、言葉は置き去りにされていく。 現実逃避の戯言なんぞ拾っていく価値もないと言わんばかりだ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 そうしてはしゃいで、時計の針をぐるりと回してほぼ一周。

 "騒がしい一日だった"、"大変な一日だった"と疲労を滲ませつつも──そのくせどうにも眠れなかったから、ベッドから身体を起こし抜け出した。

 そこはかとない背徳感がファインドフィートの背筋をのぼる。

 ゾワゾワと仄かに沸き立つ高揚感は否定できない。

 夜中の探検という用語だけでも、置き去りにされた少年の心を刺激してやまなかったのだ。

 

「ん……っと、誰も居ないですね。

 夜中なら当然かもしれませんが」

 

 寝室に背を向け、深夜の回廊を巡行しつつそっと喉を震わせた。

 か細い声が静かな空間にそっと染み込む。

 

「夜、11時……まぁ、1時間ぐらいなら散歩しても問題ないでしょう」

 

 トレーニング後の疲労は入浴によって癒やされており、軽く出歩く程度なら身体への負担は無い。

 どちらかといえば一緒に"あらいっこ"をしたがるミホノブルボンから逃げる事の方が相当に苦労した。

 ファインドフィートは少女であれども、十年もの間積み重ねた少年としての生が"流石に勘弁して欲しい"と羞恥心を訴えるのだ。

 こればかりは譲れない一線でもあった。

 

 ……しかし、それらを含めて総括しても楽しい一日だったことに違いはない。

 朝食の団欒も、ゴールドシップによる束の間の特急列車も、穏やかな夕食も──。

 

 それを安息として捉えていたことはどうあっても否定はできぬと、か細く耳を揺らして弾ませた。

 右の耳飾りも左の耳飾りもチャリチャリと愉快な金切り音を鳴らして喜んでいるよう。 ご機嫌だ。

 

 廊下を渡り、階を下り、とん、とん、とんと裸足のまま軽やかに跳ねて無人の玄関ホールに踏み込んだ。

 棚に並んだ靴の内からサンダルを取り出し、白い脚に履かせて見せる。 夏になってまで長袖長ズボンを着用する理由も拘りはなかったからか、ファインドフィートが選んだのは白い半袖シャツと青いショートパンツ。

 

 ……ただし、その選択を少しだけ後悔していた。

 夏とは言え夜である故に肌寒い。

 小さく肩を震わせ冷気を誤魔化しつつ、玄関ドアを無音で開く。

 

「……綺麗な星空」

 

 ざり、ざりとコンクリートを踏み締め、土の上を渡る。

 散歩の目的地はたった今決定した。

 "そうだ、海に行こう"と踏み出す脚で進路を示す。

 

 風は皆無に等しく、白い長髪は彼女の背中に乗せられ揺れるのみ。

 音といえばファインドフィートの足音と、時折に響く虫の鳴き声。それら以外は何もない。

 

「本当は、ブルボン先輩やトレーナーも誘いたかったんですけど……。

 眠っている所を起こすわけにも行きませんし」

 

 特にトレーナーは身体が弱く、だからこそ眠れるときには眠って欲しかった。

 ファインドフィートが描く夢の為に尽力しているとはいえ、それによって親しい誰かが不利益を被るなど望んでいない。

 それは『弟』であろうと『姉』であろうと、どうであっても同じ結論に至るに違いない。

 

「また明日も、明後日もありますから」

 

 ざりざり、ざりざり。ちりりりりりり。

 吐き出した言葉の代わりと言わんばかりに雑音ばかりを耳に詰める。

 ファインドフィートが土を踏む音。 雑木林の隙間からはキリギリスの鳴き声が響いている。

 一歩一歩を歩み、左右の脚を前に伸ばして繰り返す。

 繰り返し、繰り返し──近付いてくる潮騒の音を手繰り寄せた。

 

 ざりざり、ざりざり。ちりりりり。ざざぁ、ざざぁ。

 一分が経ったろうか。二分を歩いただろうか。三分か、四分か、あるいはもっとか。

 歩みを進めるうちに少しずつ、僅かながらも音の構成が変化し始める。

 そんな変調に耳をそばだて、海を目指して前を見る。

 前へ。前へ。前へ。

 

 海が近付くほどに、潮騒が鼓膜を撫でるたびに、頭の靄が明瞭に晴れる。

 日中もそうであったように、ファインドフィートの頭蓋を満たしていた鎖が解けて緩んでいた。

 

 ──昨日から変わらず、胸の痛みは色も形もなく静まり返っているままだ。

 傷みが、痛みが、じっと穏やかに息をひそめる。

 それ故に、ファインドフィートの安息を邪魔するモノは何もなかった。 何者であろうとも許されなかった。

 

「……ぁ」

 

 そうして辿り着いた先に在るのは、神秘的に佇むだけの海。

 一面に広がる砂浜と、一定のリズムで打ち寄せる波。

 潮の香りがファインドフィートの鼻を擽って、夜の海を幽かに彩っている。

 足元を爪先で蹴り飛ばせば砂の霞が脆く散った。

 

「……姉さんとも、来てみたかったです」

 

 それが叶わぬ願いと知っている。

 しかしそれでも、空想に描きたくなってしまうのだ。

 生きているだけでも辛いことだらけで、夢を追いかけることには苦しみしかなくて、呼吸を繰り返すだけでも泣きたくなって仕方がない。

 

 そんな生涯に癒やしを、安らぎを求めてしまっても仕方がないではないかと。

 子供らしい駄々の如くに理屈を捏ね、砂浜に小さく蹲る。 ついた膝は少しだけ湿っていた。

 

「だって、寂しいです。

 わたしの傍に姉さんが居ないことが、姉さんの名前しか無いことが。

 姉さんの"名前"がここにあるから、だから一緒にいる、なんて──それだけで片付けるなんて、寂しいじゃないですか」

 

 ゆるく息を吐いて、瞳を閉じる。

 いつものようにその場で足踏み(停滞)をする。

 流されるまま、無様に呼吸を繰り返すばかりだ。

 

「……姉さんと、お父さんとお母さんと、トレーナーと、ブルボン先輩と、テイオーさんと……。

 みんなで一緒にいられたのなら、きっと幸せなのに」

 

 空っぽの左手を見つめて、独り小さく寝転がる。

 夜空の下の砂浜は不思議とあたたかくて、優しく包容してくれた。

 

 

 

 


 

 

 

 "せめて一時でも安らぐと良い。

 ()が傍にいれば、鎖を緩めるなんぞ造作もないのだから"

 

 海の底に、音が生まれます。

 言葉をなさぬ音階を高く深く鳴り響かせて、岩に腰掛ける『海』の女神さまがそっと唇を撫でました。

 白銀の御髪を流れにのせて、くるくるくるりと戯れさせて。

 

 "なあ、汝よ。 哀れな混血の子よ。

 ()は女神ではなく、単なる先駆者として言祝ごう。

 汝の行く末は、きっと素晴らしい軌跡を描くだろう"

 

 表情に色はありません。

 けれども声音は、ひどく悲しげな唄のように響きます。

 深々と、深々と。

 

 "……(いの)ることを汝が選んだのなら、()にはそれを止める権利も、義務も、大義も無い。

 故に()は、女神としての無私に殉じよう"

 

 端麗で怜悧な顔を波の隙間に持ち上げて、アメジストの虹彩を地上へ向けて唄います。

 地上の少女へ、あるいは少女を通した空へめがけて。

 遠く幽かに唄います。 想いを込めて唄います。

 

 52ヘルツ(孤独)に奏でる祝福は、どこか沈痛で。

 けれど真摯で、優しい"呪い"でした。

 

 "……けれど、そうだな。

 どうか、最後は笑っておくれ。

 春に包まれて、眠っておくれよ。

 やがて冥界にたどり着いたとしたら──せめて、邪魔はさせぬ。

 『約束』しようとも"

 

 

 



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25話

 祝福、呪詛。

 憐憫、愛情。

 

 安息。

 あるいは、病毒。

 

 


 

 

 

 七月を乗り越えて、ついに八月の終わりへ。

 ハガキに書く見舞いの語句も"暑中"ではなく"残暑"と記す季節となった。

 

 それはつまり、長い長い合宿の終わりを迎える言葉でもある。

 潮騒の唄に満ちた青空をいくら愛そうと、何時までも留まるなど出来はしない。

 ファインドフィートはあくまでもアスリート。 夢追い人のウマ娘。

 故に必然として、夏が終わればトレセン学園に帰還しなければならない。

 

 そのために、一ヶ月以上も居住スペースとしていた相部屋で荷物を纏めていた。

 来た時と同じカバンに、少しだけ内容量の減った物品を詰め込んで。

 

 ──ある程度の所まで格納し終えるまで掛かったのは十分足らず。

 少し面倒だなと感想を零し、薄ぼんやりと霞む視線を真横に逸らした。

 窓の向こう側には憎らしいほどに青い空と、ぷかぷか浮かぶ白い雲。

 その水蒸気の塊が何となく羨ましくなる。

 

 ぷかぷか、ゆらゆら。

 風に流されるまま空で踊る。

 けれどその癖苦しみや束縛とは一切無縁で自由気ままに漂うばかり、なんて──とんでもない不平等じゃあないか、と。

 見当違いな粘りを帯びた嫉妬を舌に這わせた。

 

「──フィートさん。

 動作が停止しています。

 何か問題が発生したのですか?」

 

「……いいえ、大丈夫です。

 ただ、窓の外を眺めてただけですから」

 

 とはいえ、それを実際に振るうことは敵わない。

 声の主であるミホノブルボンに簡素な答えを返し、頭を振って窓の向こうで輝く空から目を離す。

 抗ったところで何の意味もないのだからと、ファインドフィートも理解している。

 そうしてそれ以上拘りもせず、そっと自分の手元に意識を戻すのだ。

 細く白い手は、どこか頼りなかった。

 

「……ん、このブラシはブルボン先輩の物ですよね。

 どうぞ」

 

「ありがとうございます、フィートさん。

 ……全私物のパッケージ化を完了しました。 お手伝いモードに移行します」

 

「いえ……わたしの方も、あと少しで終わりますから」

 

 そうしてまた、荷造り作業を再開する。

 中身は私服やタオル、下着類や尻尾用の香油、頭髪のケア用品──。

 

 諸々の荷物をバッグに纏めはじめて五分程度。

 綺麗さっぱりに物がなくなった部屋を見下ろし、満足気に一つ頷く。

 

 部屋そのものは入念に清掃された後。

 最後に行うべきは、たった今造り終えた荷物を持ち出す事だけだった。

 それだけで元の無機質な状態へ回帰する。

 

 夏の海を過ごした癖に、白いままの指先でカバンの取手を掴み上げる。

 出発前よりは少しだけ軽くなった重みが、出発前よりも強く育った彼女の肩に縋り付いた。

 ずっしりと沈む重みがあるのだから、きっと全部入っている。

 もうこの部屋に訪れることはないだろう。

 

 ……あるいは、来年もまた同じ部屋に寝泊まりする可能性もあるのかもしれないが、少なくとも今年はもう目にする機会は無いに違いない。

 

「ブルボン先輩、荷物はまとめ終わりました」

 

「了解しました。

 タスクを更新……目標を車両への乗車に設定します。

 つまり、駐車場に向かいましょう」

 

「……ええ、そうですね」

 

 ぱたりとドアを閉じる。

 握りしめていたドアノブから、温度の欠片もない冷たさが纏わりついてきた。

 五指折り曲げて、開いて、掴みそこねた何かに思いを馳せて──らしくもないと瞼を閉じた。

 色を隠して、揺れる尻尾をくるりと巻いて。

 

「行きましょう」

 

 青褪めた目を見開いて振り返る。

 ミホノブルボンも彼女と同じく、トレセン学園の制服に身を包んで準備を終えていた。

 それは学生としての日常に帰る為であり、また競走ウマ娘として走り出す為の支度でもある。

 

「また来年も来れると良いですね。

 今年は──その、カナヅチを克服できませんでしたから」

 

「そうですね。

 来年こそはフィートさんが泳ぎをマスター出来るように指導スキルを蓄積しておきます。

 つまり、また一緒に来ましょう」

 

「……ええ。 また、もう一度」

 

 今にして思い返せば、楽しい一時だった。

 ファインドフィートとミホノブルボン、そして時折に襲来するゴールドシップや、何故か麻袋で運ばれてきたメジロマックイーンとトウカイテイオー。

 けれどもそれはやがて過ぎ去るものであり、永久に続くなんぞあり得はしない。

 

 ファインドフィートは、それをよく知っていた。 身を以て理解していた。

 だからこの夏を惜しみはしない。

 

 ……けれど、どうしても空想せずにはいられなかった。

 もしも"痛み"などない人生であったなら。

 もしも"束縛"などない日常であったなら。

 

 過去にあったはずの"あたりまえ"を克明に想起させられたからこそ、考えてしまう。

 そんな妄想は無意味でしかないのに、ほんの少しでも願ってしまうのだ。

 

「……トレーナー達が、待っていますから」

 

 ──思考を放棄する。

 後ろ髪を引かれる思いを振り払い、二人で連れ立って脚を前に進ませた。

 ミホノブルボンのすぐ隣を、ゆっくりと、ゆっくりと。

 

 廊下を歩み、階段を下り、玄関を通り抜け、雲ひとつ無い大空の下に身体を晒す。

 遮るもののない日光が降り注ぐ地上はどこか蒸し暑い。

 立秋を過ぎた8月の終わりとは言え、未だに夏の季節だ。

 つまり、肌寒さには無縁でしかない。

 

「お~い! こっちこっち!」

 

 駐車場から崎川トレーナーの呼び声が響く。

 耳を反射的に揺らし発生源に脚を向けた。

 着慣れた半袖の裾を風に揺らして、駐車場の奥へと。

 

「荷物はそれで全部?」

 

「はい、マスター。

 私とフィートさんの荷物はこの二つで全てです。

 ……タスクを更新、後部スペースに格納します」

 

 ミホノブルボンの荷物、ファインドフィートの荷物。

 二つ合わせても大した面積を占領するわけでもない。

 それこそトレーナー組の所有する機材のほうが余程多いだろう。

 

 特に消耗品類──たとえばエネドリンクMAXという最近話題になり始めたウマ娘向け飲料であったり、ウマ娘向けのスイーツ類であったり、効果は十二分ながらも非常に脆いアンクルウェイト(一回使えば壊れる器具)類であったり──。

 それら全てを妥協もなく用立てたせいなのか、後部三列目の座席までもがカバンやアルミケースで埋まっていた。

 

「ブルボン先輩」

 

「……はい、よろしくお願いします」

 

()()()()触れると走行機能ごと車体を壊しかねない彼女から受け取った荷物と合わせて、バッグ二つを放り込んだ。

 もちろん車とはそう簡単に壊れる物ではない。

 だが──万が一があるかもしれない。

 

 そうそう起きるような現象ではないにしても、用心することに越したことはないのだから。

 

「ん、準備できたわね。

 じゃあ行きましょうか……葛城トレーナー、準備」

 

「……あぁ、そうだな」

 

 運転席へ乗り込んだのは崎川トレーナー。

 そしてペーパー免許の葛城トレーナーは助手席へ、ウマ娘二人は後部席へ。

 この合宿所へ来た時に使用した道を遡り、トレセン学園へと戻るために。

 

 エンジンキーを挿して回せば、しっかりと腹に響く重低音が断続的に掻き鳴らされる。

 かつてのガソリン車はとてつもない排気臭を撒き散らしていたというのは有名な話ではあるが──昨今ではそうでも無い。

 技術力の発展により()()我慢できるレベルにまで車体の改良が進められていたというのは教科書にも載っている出来事。

 

 そのおかげもあって、ファインドフィート等ウマ娘も大した負担もなく遠隔地まで移動できるようになったのだ。

 何せヒトの1000倍近くもの嗅覚を持つのがウマ娘という種族。

 そういった消臭技術は非常に重要なものである。

 

「ブルボン先輩、どうぞ。 はちみーです」

 

「ありがとうございます、フィートさん」

 

 ──そして、すっかり寛ぎモードに移行したウマ娘組を乗せて車が走る。

 がたんごとん、と突き抜ける衝撃は未だ好きになれないファインドフィートではあった。

 が、()()()()独特な穏やかな空間だけは手放しで称賛できた。

 

 がたんごとん、がたがたごとごと。

 ざざぁ、ざざぁ。

 海沿いの道をひた走り、さざめく海をガラス越しに見つめる。

 太陽光に反射する水面の揺れは穏やかだった。

 

 カップを膝の上に載せたまましばし惚けて、"潮騒の唄"に耳を傾けて。

 そのまま一度二度と呼吸を繰り返す。

 ぴとりと窓ガラスに当てた耳から夏の暖気が伝わって、ほのかな哀愁に胸を締め付けられるようだった。

 

「……来年もまた、ここに来たいです」

 

「そうだな。

 心配しなくても夏合宿は毎年あるんだ、逃す手はない」

 

 口元にストローを誘導し、何時かと同じはちみーを啜る。

 じゅこここと口腔を黄金色で満たしてみれば、淡い幸福の味がする気がした。

 きっと錯覚ではない。

 

 それからは、暫く長閑(のどか)な空間に浸るばかり。

 徐々に遠ざかっていく潮騒の唄だけが時間の流れを克明に刻んでいく。

 ざざぁ、ざざぁ。

 ざざぁ、ざざぁ──。

 

 

 ──耳を安寧で満たして幾ばくか。

 ふと崎川トレーナーが徐に口を開いたのは、海が殆ど見えなくなった後だった。

 

「ねえ、フィートちゃんはもうすぐ菊花賞だけど……どう? 心配事とかはない?」

 

「心配事……ですか」

 

 なんて問われても、それに対して返すべき言葉は咄嗟に形にできず。

 "はい"とも"いいえ"とも言い難い故に、少しだけ迷ってしまう。

 

 今回の夏合宿では普段以上に過酷なトレーニングに打ち込んできた。

 だからこそ"成長した"という自負も、"誰にも負けない"という自信もある。

 

「……勝てる、筈です」

 

 しかし、だから"間違いなく勝てる"とは言い切れない。

 "必ず勝たなければならない"と願いつつの体たらくだ。

 これが姉さんなら迷わなかったのに、と、無条件の信頼にも似た自己嫌悪を籠めて指を組みかわす。

 揺れる瞳を籠目で捉え、即断には程遠い答えで喉を震わせた。

 

「……確かに、それでも不安はあります。

 もしもわたしの頑張りが足りていなければ、なんて、いつも思う事ですから」

 

「そっか……」

 

「フィートさんは毎日のトレーニングを乗り越えて、自己性能の拡張に努めています。

 一年前の測定記録と比較してもその差は歴然です。

 つまり、フィートさんは強くなりました。 ステータス『程よくリラックス』を維持さえできれば問題ありません」

 

 無機質ながらも温かい深青の瞳がファインドフィートの瞳を射抜いた。

 無邪気な応援がこそばゆく、静かな声が宥めるように心の内へ染み込んでいく。

 

 それを、嬉しいと喜んでしまう。

 けれども苦しいとも捉えてしまう。

 

 いっそ、心の奥底の芯からウマ娘であればもう少しまともに飲み込むことも出来たのかもしれない。

 しかし彼女は──どうしても、心底からは頷けなかった。

 せめて正しいウマ娘の心根を備えていられたら良かったのにと、形にせぬまま嘯く。

 指先の籠目を解いてミホノブルボンに少しだけ寄り添ってみても、何かが変わることは無かった。

 

「……けれど、ええ。 そうですよね。

 そのために今日まで頑張ってきたんですから」

 

 ──いっそ白々しい。

 なんて、籠もりかけた懺悔の念を深層に封じ込め、ただ臍を噛んだ。

 そうして噛み締めていれば歯の隙間から心の色が滲み出る事もない。 いつも通りだ。

 

「安心しろファインドフィート。

 俺が知る限りだとキミ以上に本番に強いウマ娘は居ない」

 

「ええ……そうです。

 トレーナーが寝食を削ってまで育てたわたしが弱いなんて、ありえないですから」

 

「葛城トレーナーはちょっと削り過ぎだと思うけどね」

 

「うるさい崎川」

 

 そうしていれば、この空間が穢されることはないのだから。

 だから、口を噤む。

 

「このトンネルを抜けたらしばらく山道ね」

 

 潮騒の唄が遠ざかれば遠ざかるほど、陽光が殊更強くに照りつけた。

 それはつまり、痛みなど無い休息の一時が失われるということ。

 陽光に身体を晒せば──再び、鎖が絡みつく。

 茨と黄金で構成された鎖が心臓に祝福を注ぐ。

 

 これを流血の茨と忌むべきか、あるいは破滅を伴う黄金と崇めるべきか。

 ──何であろうと手に取った(とらされた)のは、紛うことなき真実だ。

 

「……ッ」

 

 ずきり、と胸に熱が奔る。

 締め付けられた臓器が悲鳴を上げ、血潮にのって全身を駆け回る。

 

 今となっては慣れた狂騒。

 本来は慣れるべきでない筈の縛鎖。

 

 胸元を抑えつけて無心で耐える。

 ファインドフィートに許されたのはその果てに夢を掴むこと。

 

 忘れるな、と何度も何度も自分に呪詛を吐きかけて、静かに瞼をおろして息づく。

 抗うつもりは、毛頭なかったのだから。

 

「フィートさん?」

 

「……大丈夫です。

 ただ、その……少ししゃっくりが出かけただけですから」

 

 嘘を吐く事は心苦しい。

 ……もしも、相手が見も知らぬ誰かであったのなら比較的マシだった。

 

 けれども、吐き出した先はミホノブルボンで。

『姉』によく似た心優しい少女で。

 だから心に突き刺さる苦味はきっと、身勝手な親愛に等しい情を抱く故の──。

 

「……ブルボン先輩」

 

「はい、どうしましたか?」

 

 ──何も考えずに開いた口から飛び出る言葉は、何もない。

 舌先は鈍いままで回転もせず、喉に言葉が昇ることもなく、脳髄の内側で思索がカラカラと空転するのみ。

 

「……いいえ、ごめんなさい。

 何でもありません……」

 

 ──結局、ファインドフィートに何かを発する事は不可能なのだ。

 "無様だな"と自分で自分を嫌悪して、しかし改めることは出来ない。

 それを願うには、あまりにも遅すぎた。

 

 けれども、そんな現実をどうにか誤魔化したくて。 そんな事実から目を逸らしたくて。

 虚ろな思考をゆるゆると走らせ、ミホノブルボンの傍らまで尻尾をのばす。

 毛の先さえ触れることはない。

 それ故に、尾の先に熱を感じる事などはない。

 

 しかしそれでも、"あたたかい"と安堵した。

 たとえ痛みがあろうとも、親愛なる隣人はいつも居てくれる。

 だから、ファインドフィートには違えのない救いだった。

 

 誰にも届かない声は腐っていくばかりだというのに。

 

 

 

 


 

 

 

 失われる安らぎ。

 指の隙間からこぼれ落ちるぬくもり。

 やがて消える事が確定した恵み。

 ……だとするなら、知らないままでいたほうが、良かったのかもしれません。

 

 どうしても、考えてしまうのです。

 わたしにも……ぼくにもある筈だった、あった筈だった素晴らしい日々に、醜くも縋ってしまうのです。

 よりにもよって──羨ましい、なんて。

 

 



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26話

 両手いっぱいに抱えたカランコエ。

 美しく咲いた、真紅の花びら。

 

 願いをこめて、痛みを捧げて、未練を切って、夢で育つ。

 さあ、さあ、誇りましょう。 掲げましょう。

 麗しい献身の造花を。

 

 

 


 

 

 

 真白い壁をぼんやりと眺めながら、手元のコーヒーポットを傾ける。

 純銀の上品な輝きが蛍光灯に反射して、無味乾燥な壁に綺羅びやかな斑点の装飾を撒き散らした。

 現在の使用者であるファインドフィートの芦毛にも似た色彩だ。

 

 なんとなしに青い目をじっと細め、揺れ動くそれを視線で追いかけてみる。

 そうしていれば、僅かながらであれど待ち時間の退屈さを誤魔化せる気がしたからだ。

 

「……温度は80度あたりが良いのでしたか」

 

 その甲斐もあってかお湯の温度が適切になるのはあっという間の事だった。

 急かすように響いた電子音に従って、ポットのフタの隙間から差し込んでいた温度計を抜き取る。

 そしてそのままポットを傾ければ、注ぎ口を通るのは熱湯だった。

 

 着地地点はコーヒーカップ、正しくはその上に被せられたフィルターの中──つまり、焙煎済みのコーヒー豆。

 薄っすらと立ち昇る湯気が鼻先を掠めて換気扇の下に揺蕩う。

 挽きたての香ばしい豆の香りが余韻を残し、空気に溶けていった。

 

 まずは蒸らし、待つ。

 事前の準備を終えた事を確認出来たら複数回に分けてゆっくりゆっくり、ちょろちょろと湯の柱を立てる。

 

 何時にも増して雑多な資料で溢れかえったトレーナー室と、ファインドフィートの鼻ではむせ返りそうになる程に充満したインクの匂い。

 そこにコーヒーの香りを混ぜ込んだせいで不協和音の劇薬にも等しい何かを肺に取り入れた気分だ。

 

「トレーナー、生きていますか?」

 

「……あ~、起きてる」

 

「そうですか。

 ならもう少しだけ起きていて下さい」

 

 それでも、と臭気由来の不快感を譲れない義務感でねじ伏せコーヒーを淹れる。

 材料となったのは比較的高級な豆。

 この部屋の主である葛城トレーナーの為の物だった。

 ──ただし、"近場で手に入るグレードでは"という注釈もつくのだが。

 

「……トレーナー、そろそろ休んでください。

 コーヒーとお茶菓子が用意できました」

 

「ん……ああ、すまない。

 ありがとう」

 

 声を受けて遅鈍な動きで立ち上がったのは痩せぎすの男。

 いつもよりも尚深く刻まれた隈を骨ばった指先で擦り、強張った表情筋を揉みほぐした。

 過労故にふらつきながら歩む様子を担当ウマ娘に見守られつつ、応接用にも使われる筈だったソファーに腰を落ち着ける。

 

 そこに先程までうず高く積まれていた筈の紙束は無い。

 最低限のスペースは確保するためにファインドフィートの手で適当に避けられていたのだ。

 徹夜明けの鈍った思考回路でそんな結論に思い至り、黒ずんだ瞳でテーブルの上を見つめる。 その焦点は左右でズレていた。

 

「……まったく、無理しすぎなんですよ」

 

 呆れた声音で己のトレーナーを()めつけるのも仕方がない。

 ポットをコースターの上に安置し、そっと溜息を零した。

 コーヒー入りのマグカップと白いクリームが彩るカップケーキをお盆に載せて──いい加減に実力行使に出たほうが良いのではないかと、些か物騒な思慮を馳せる。

 

 何せ己というウマ娘の完成にはトレーナーという存在が必要不可欠。

 "こんな道半ばで倒れられては困ってしまうのだから"と単純な憂慮の情を単調な理由付けで彩る。

 そんな彼女の様子を見守るのは、カップの内で揺れる黒い水面(みなも)のみだった。

 

「どうぞ」

 

 コトリ、と軽い音と共にコーヒーとケーキを葛城トレーナーの前に配膳し、それに対する反応に気を向ける間もなくソファーに腰を下ろした。

 そしてスカートの皺を整えつつ、淡く嘆息。

 ひと仕事を完遂した達成感に浸る。

 

 もはやコーヒーを淹れるのも手慣れたものだ。

 以前(少年時代)であれば関わり合いもない作業ではあったものの、彼女にとって好ましいとさえ感じられる──楽しいひと手間だった。

 誰かの休息をこの様に用意出来るのなら、それ程に素晴らしいことはないのだから。

 

「……いい香りだ。

 やはり追い込みの時はカフェインに限る」

 

「今日はこれで最後ですよ。

 もう少ししたら眠ってもらいますから」

 

「いいや、明後日には菊花賞が始まるんだ。

 そんな肝心な時こそ多少の無茶を──」

 

「寝てください。

 こんなところで倒れられても困るんですよ、トレーナー」

 

 そもそも、今から対策してどうにかなる事は然程多くない。

 話し合うべきは既に語り尽くし終え、鍛えるべき要素は限界に至るまで調練した後。

 それは純粋なパワーの強化であったり、走行フォームの研究であったり、あらゆるテクニックの学習も含める。

 幸いなことに、レースの()()()に調整されたファインドフィートの頭脳であれば如何な難易度の技法でれどいとも容易く吸収出来てしまえた。

 乾いた砂漠に水を与える……と表現するには、些か(ジン)為的に過ぎたのだが。

 

 ともあれ今からの時間は休息に使用してしまえば良いのではないか──というのが、彼女の意見である。

 

「……分かった、分かった。

 それじゃあ今日はこれで終わりにしよう」

 

「分かれば良いんです。

 休めるうちに休んでください」

 

 葛城トレーナーは肩を竦める事を返事の代わりに見せ、用意されたカップに口を付ける。

 以前の少女であれば考えられない気遣いを思えば仄かな成長を感じられる味わいだった。

 

 一口、二口。

 丁寧に舌に染み込ませる。

 

「……ああ、そうだ」

 

 ふと何気なく軽い調子で、対面のファインドフィートへと黒ずんだ瞳を差し向ける。

 "明後日の菊花賞に向けた指示だけ告げて解散にしよう"と、カップをソーサーの上に安置した。 取手の銀細工が聞き手に回り、蛍光灯の光を無為に反射する。

 

「ファインドフィート、明日以降の事だ。

 念の為に何度も言うが──」

 

「分かっています。

 不調を察したら直ぐに言う。

 今日と明日は軽いジョギングのみ。

 あとは──」

 

 乾いた唇にちろりと舌を滑らせる。

 ソファーに垂らした尻尾の毛先に指をあてがい、手慰みに撫で付けて──どこか、硬い声音で喉を潤して。

 そこに滲む色は無い。

 故に誰にも見えないだけの、無色透明な哀傷を胸の奥に澱ませた。

 

「走り方が合わなければ、普段通りのレースをする……そうでしょう? 

 ……けれど、大丈夫です」

 

 

「わたしは『ファインドフィート』ですから」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 そうして、ついに辿り着いた菊花賞。

 夢の階を昇る途上。 栄冠の区切りに相応しい花冠の象徴。

 

 十月の気温は涼しくもあるが、その代わりと云わんばかりに降り注ぐ陽光が冷気も纏めて加熱する。

 艶やかな芝も、雑踏の主たる観客も、主演たる少女達も──ファインドフィートも。

 

 故に、今日も晴れ。

 晴れ、晴れ、晴れ。

 何時だって、ファインドフィートが走る舞台は晴れの大空だ。

 

 まるで何者かの意図を感じずにはいられない程に、天候に恵まれてばかり。

 雲ひとつ無い青空だけがファインドフィートを抱擁する。

 

 ざわつく声も何処か遠くで響いているようで、現実感を薄れさせる差水に等しい。

 地に足をつけているはずなのにふわふわと落ち着かない心のまま、小さく耳を揺らした。

 今日のために入念な手入れを重ねた両耳の赤と青の飾りが、ほんの少しだけ寂しげに鳴いていた。

 

「──眩しい。

 本当、本当に……痛いくらい」

 

 胸を抑えて、ぽつりと呟く。

 声と云うには薄い、霞よりも尚軽い音だった。

 そんな小言は観客の声に呑まれ、当然のように揉まれて砕け散る。

 

「……無敗三冠。

 わたしは今日、これに至る。

 いいえ、至らなければならない」

 

 それは求められたからだ。

『姉』に、『姉』が縋った誰かに、『姉』を見つけるはずだった未来の人々に。

『ファインドフィート』はそのために生きている。 そのために死に損なった。

 

 そう、己を糺して規定を押し付ける。

 押し付けなければ頭の中身がぐちゃぐちゃにかき乱されて、どうにも出来なかった。

 

 芯がなければ自身を見失う。

 支えがなければ立ち上がれない。

 正しいことを示されなければ、正しく在れない。

 

 そんな自己の愚かさを欺瞞の蓋で閉じ、独りゲートに足を向けた。

 ぱっくりと口を開いたままの鋼鉄の檻は、そんな彼女であろうと淡々と受け入れてくれる。

 それを優しいと感じるべきか、恐ろしいと震えるべきなのか。

 

 ──身震いをする彼女は、それを"単なる武者震い"と強がって、芝を踏み締めた。

 それが正しいのか否かは結果が決める。

 ファインドフィートの行いが、ファインドフィートの中身を定めるのだ。

 

『さぁ、ついに始まります。

 クラシックロードの終着点、京都の舞台にて始まる菊花賞。

 菊の花冠を戴くのは誰か? 遥かな歴史に名を残すのはどの娘か?』

 

 ──機械の力によって反響する声が無為な懊悩を切り裂く。

 それに逆らわず、ゆるゆると意識を傾け蓋をする。

 耳に詰まったフィルターごと頭を揺らし、目を見開いて。

 

 レース直前に思考リソースを割くべきは下らない怯懦なんぞでは無く、レースの勝敗に強く影響を及ぼす初手の初手たる位置取りだ。

 今回のファインドフィートが割り当てられたゲート番号は一枠一番。 最内の選出。

 一般的に有利とされる番号でもある。

 

 ……ついでに言えば、一枠一番で一着を取れたなら三つの一が揃う。

 "実に縁起が良いじゃないですか"と枯れた喉を縮めて、か細く囀った。

 

『一番人気はファインドフィート! 

 無敗三冠に王手をかける!』

 

 何にせよレースはもう直に始まる。

 合図に備えて爪先で芝を蹴り、ゆるゆると構えを取る。

 右手を前に、左手を後ろに。

 両脚を正しく配置して、体幹を司る筋肉を正しく引き絞る。

 

 そして脳裏でレース運びをシミュレート。

 ゲートが開く寸前に重心を移動しなければ、両脚の関節から過分な力は抜いておけ、背筋から意識を外すな、初動で成功したならまずはそのまま直進、失敗したなら心臓の稼働率を上げてしまえと、過去の蓄積から必要な知識を引き摺り出し──。

 

 ──しかし、次の瞬間にはそれらを破棄する。

 レース中に一々意識しながら走れるようなものではなく──そもそも、ファインドフィートは考えながら身体を動かすタイプではない。

 外面からは理論派に見える為に誤解されがちではあるが、その実感覚派そのものである。

 

 つまり信じるべきは、彼女が積み上げてきたトレーニングのみだ。

 丹念に、入念に染み込ませてきた"走る"という行為。

 思考を挟まずとも最適な疾走を再現出来るように努力を重ねてきたのだから、ファインドフィートはそれを疑ってはならない。

 それはファインドフィート自身への裏切りであり、トレーナーへの不義理でもある。

 

「わたしが速い、わたしが勝つ……わたしだけが、勝つ」

 

 鬱屈と湿った恐怖を吐息に混ぜ、代わりに強固な自負(仮面)で己を飾った。

 いっそ、滑稽な迄に。

 

「さあ、さあ……行きましょう。

 姉さん、わたしがあなたの代わりに走りますから」

 

 電子時計が時を刻む。 一秒一秒、無機質に。

 競走の始まりが近付く。

 少しづつ、けれど着実に。

 

 ひとつ、ふたつ、みっつと数え、ついにゲートが開く寸前──心臓に茨が、絡みついた。

 

何よりも速く(コンセントレーション)

 

 開扉。視界が拓ける。

 開幕。瞬時に鉄の柵から這い出す。

 

 誰よりも早くに駆け出し、深い疵を芝に刻む。

 吐き気を催す程に幾度となく繰り返した基礎をそのままなぞり、美麗とまで形容できるスタートダッシュ。

 回転を早め、巡行速度まで瞬時に到達。

 

 速度を維持し、そのまま──()()を奪う。

 

 後ろに続く一七名を引き連れて、いの一番に風を切った。

 先頭争いさえも起こさず、問答無用でハナを抑える。

 

 ──即ち、お手本通りの"逃げ"だった。

 

『──まさかまさか、ファインドフィートがハナを切る! 

 逃げの足取りです!』

 

 驚愕を多分に含んだ実況が轟くのも不思議ではない。

 ウマ娘の体系化された走法のひとつであり、これまでのファインドフィートが選ばなかった走りだった。

 彼女が以前までのレースで見せたのは"差し"か"先行"のみである。

 

 故にこその意外性。

 故にこそ──有効な一手となる。

 

『ファインドフィート氏は典型的な差し気質かと思われていたのですが、まさかここで逃げに切り替えるとは……。

 この作戦が吉と出るのか凶と出るのか、目が離せませんね』

 

 レースとは、"レース中"の全てで結果が決まる訳ではない。日頃のトレーニングの時点から勝負は始まっている。

 スキルの蓄積、フォーム改善、適正の分析による装具品の調整、適切な戦略選び。

 そして対戦相手の情報収集と、データを元にした対策。

 

 ファインドフィートの急な戦略変更は、間違いなく意表を突く。

 

 ……そうはいえども、揃いも揃って強者(ツワモノ)しか居ないのがGⅠ(重賞)だ。

 齎された動揺は一瞬の内に沈静化し、"それならばそれで"と適時戦略を組み立て直す。

 優れた頭脳を持つ者はこれまでに培った蓄積を元に。

 頭脳頼りではない者はこれまでを幾度となく救った直感を(よすが)に。

 

「……ッ」

 

 そんな少女等を一瞬だけ尻目に映して──迫る気迫から目を逸らし、ただ前を見つめる。

 先頭を走り、空気抵抗を研鑽した筋力で強引に引き千切った。

 

 スタート直後から直ぐ眼前にまで迫った坂を駆け上がり、急速に稼働率を高める心臓を必死に宥める。

 傾斜する上体を坂と平行に。

 

 菊花賞は3000メートル、名高き"淀の坂"を含む外回りの長丁場。

 スタート直後のコーナーと一周回った後の最終コーナーに、それぞれが勾配4メートルと少しの関門として立ちはだかる。

 が、ファインドフィートはこんな所で無為に消耗して早々に垂れる訳にはいかないのだ。

 

『最初のコーナー、先頭にファインドフィート。

 五バ身後方にリボンテープ、右後ろにフリンドオレンジ──』

 

 けれども如何に気を張ろうと目減りを早める体力残量。

 その奮闘を少しでも長く維持する為に、息を整えながらのカーブ(コーナー回復)

 遠心力に引き摺られそうになる身体を円の内側に寄せ、適切な脱力を織り交ぜた。

 

 ──そして、カーブが終わればまた加速。

 青い靴を土で汚し、深く深くに沈ませた。

 

 飛び散る芝は青い長布が跳ね除ける。

 輝く陽光はファインドフィートの視界を奪わず、活力を齎す。

 彼女は、悲痛に耐えるだけで良い。

 

「は、は……ッ」

 

 ──ただ、走り続ければ良い。

 常に高速で、絶えずに。

 この一文がある種の最速走法なのだから。

 

 もちろん、こんなものは子供が考えたかのような机上の理論でしかない。

 生命の摂理を一切考慮せずに築いただけの滅茶苦茶な論法だ。

 

 しかし、けれども。

 非常に幸運(残念)な事に、ファインドフィートには可能な手段でもあった。

 

 "再点火"

 

 痛みが、痛みが、痛みが、痛みが、痛みが、痛みが。

 髄膜さえも焦がす痛みが、心腑を撫でる痛みが彼女を襲う。 彼女を奪う。

 

 その癖、それらを等価交換とでも云うつもりか。

 身に余るほどの"力"が少女の小さな体躯の裡を巡り、迸り──全てを推進力とし還元するのだ。

 

 坂を(くだ)る重力さえも味方につけて速力へ。

 後方とのバ身差は縮まらず、むしろ徐々に広がってさえいた。

 

『コーナーを越え観客スタンドの正面へ。

 この直線を抜ければ二度目の上り坂です! 

 名高き淀の坂へと一番槍を突き立てるのはどの娘になるのか!』

 

『今回はかなり縦長の展開ですね。

 ペース配分が些か心配です』

 

 蹄鉄の音は後方から響くのみ。

 直ぐ後方、などとは言えない程度の距離がある。

 耳だけを少し動かし探ってみるも、息遣いは何も聴こえてこない。

 

 まだまだ中盤戦だからか。 あるいはどうせ持たないとでも考えているのか。

 真っ当な思考で作戦を組み立て直すのであれば、ファインドフィートのスタミナに限界が訪れる事を待つべきだろう。

 極々自然。 王道そのもの。

 まさに教本通りという他無い正しい考察だ。

 

『ファインドフィートが向う正面へ! 二番手にキンイロリョテイ追い縋る! 

 バ身差は二! しかしまだまだスタミナの底は見えません!』

 

 "再点火"

 

 "再点火"

 

 けれど、ファインドフィートはその通理を叩き潰して前へ征く。

 二度目の坂を登り、弾む身体を気力で抑えつけて跳ね上がる。

 

 前へ、前へ、白い尾を引く彗星のように。

 踏み締めた芝はいとも容易く土までを抉り、弾け、吹き飛ばす。

 

「おい、オマエ正気かよ……ッ!」

 

「どう、でしょうね」

 

 すぐ後ろに着いた黒い少女に返事を飛ばす。

 もちろん、振り返りはしない。

 

 その言葉は風を切る音に紛れ、痕跡を残すこともなく砕け散る。

 けれども、確かにキンイロリョテイの耳朶を叩いていた。

 幽かな後悔が含んだ弱音が、きっと。

 

「あんまりにも痛いから、正気じゃあないかもしれません……ッ」

 

 そして、その苦痛こそがファインドフィートを押し出すのだ。

 何処までも、何よりも速く、栄光へと飛翔させて──心臓の唄を高らかに轟かせる。

 

 "再点火"

 

「それでも、苦しくても……前に、進まなければッ!」

 

 いつだって知っていた。

 "これ"がファインドフィートの選ぶべき最適解なのだと。

 

 "何も感じていない"などと旁若無人に語り取り繕った所で、結局無為で無駄な所業。

 "迂遠な言い訳"を述べてばかりの己が星になりたいのなら、あらゆる一切を見下ろしたいと願うのなら、全てを捧げなければならない。

 

 その果てに空高くを翔んで──いっそ彗星になってしまえば良い。

 夢を叶えて、誰にも見えないほどの高みに至って、その果てにこんな顔(本当の自分)をさらけ出さずに済むのならば。

 

 きっとそれ程に喜ばしい(かなしい)話はないのだからと。

 矛盾まみれの二律背反を掲げ、叫んだ。

 

 "再点火"

 

 続く下り坂を減速なしに駆け下りる。

 姿勢は低く、尻尾は高く、手の振りはリズムに合わせて軽やかに。

 いの一番に最終直線に蹄鉄の跡を刻み込んだ。

 

 "再点火"

 

 "再点火"

 

 "再点火"

 

 更なる加速を身体に強いる。

 牙を剥き、獰猛な熱だけを曝け出して。

 ──唯一抜きん出て、並ぶ者の尽くを無に貶めて飛翔(失墜)するために。

 

 最終直線だろうと関係なしに脚を回し、最高速度のままにゴールの一線を目指し──越えた。

 

『一着はファインドフィート! 大差をつけてファインドフィートです! 

 秋の菊花を摘んだのは芦毛の乙女! 無敗三冠ウマ娘の誕生です!』

 

 

 

 一瞬訪れる静寂。 数拍遅れる理解。

 反応は劇的だった。

 

 弾ける紙吹雪が、飛び交う祝福が雨あられと降り注ぐ。

 さざ波なんぞではない圧倒的な熱波が圧を伴い拡がっていく。

 

 狭域から広域へ。

 微熱から白熱へ──。

 

「お、ぉお」

 

「おお、おおおぉ!!」

 

「無敗三冠! 無敗三冠だ!」

 

「おめでとう! おめでとう!」

 

 無敗三冠とはそれ程までの偉業だった。

 この世界において、それ程までの熱狂を誘う栄光だった。

 

「ああ」

 

 震えを抑えきれずにはいられない。

 四肢の先端、指先や爪先から迸る痺れがこそばゆい。

 無常の達成感が、ファインドフィートを不思議な夢見心地に突き落とす。

 

「やっと、やっと……ここ、まで」

 

 けれど、現実だ。

 違えのない真実だ。

 胸の奥からじんわりと広がる熱が彼女の正気を保証するのだから、間違いない。

 

 そんな勢いのまま、観客達による祝福への返礼を届けようとして──。

 

 ──しかしそれは、芝を穢す赤が流れる事で完結した。

 手を振り上げようとしたままの姿勢で固まり、ぼうっと足元を見下ろす。

 ぽたり、ぽたりと伝う赤が幾重にも滴り落ちていた。

 

「……あ、れ?」

 

 ぽたり、ぽたり。

 鼻先を起点に流れ、伝う赤い水。

 

 それを手の甲で拭う。

 しかし次から次に溢れる血は止まらず、ファインドフィートの装束さえも穢していった。

 拭う。止まらない。抑える。溢れる。

 

「戻ら、ないと」

 

 観客席から飛び出して駆け寄ろうとする顔見知りを手で制し、大事はないと取り繕って。

 ざわめく観衆には手をふることで無事をアピールし、ほんの些細な問題でしか無いと装う。

 

 そして周囲の目から逃げ出すように地下バ道へ引っ込んでいく。

 ……幾人かは、気付いたのかもしれないが。

 

「ッ」

 

 しかし、薄暗い地下に逃げても血が止まらない。

 手の下から溢れる血液は留まる事を放棄していた。

 

 どくどく、どくどくと──破れた血管から流れ出す。

 それは鼻孔からのみならず、瞳からも。

 

「脚が、動かない?」

 

 頬を伝うのは血涙だった。

 心臓は荒れ狂ったまま停止せず、延々と鼓動を繰り返す。

 

 ひゅうひゅうと呼吸を深めて回復を図ろうにも──それは、すぐ眼前に迫っていた壁に阻まれる。

 何故こんなものが、と思考に一瞬の空白が訪れる。

 首を回して周囲を確認しようにも、不思議とこれっぽっちも動きはしなかった。

 

「あ」

 

 それが壁ではなく床であると把握したのは幾秒かを数えた後のこと。

 冷たく、埃臭いそれから立ち上がらなければと、手を突き立てる。

 

 ──否、突き立てようとした。

 

 しかし動かない。

 指先は凍てつき、軋みさえ上げず、糸の切れた人形の如くに佇むばかり。

 腕も、脚も、首も、胴体も。

 藻掻くことさえ出来ぬまま倒れ伏す。

 

「──ぅ」

 

 這い寄る眠気に抗うことさえ、不可能だった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 それから、幾らほどの時が過ぎたのか。

()()()()()()()『彼女』には理解できない。

 指針はなく、基準もなく、鼓動もなく、自己もない。

 純白に染まった視界に像を見い出せず、回らぬ思考で虚ろに沈み──。

 

『もしも~し。

 久しぶりですねぇ、ファインドフィートちゃん』

 

 ──それを、甘く蕩ける声が優しく掬い上げた。

 ひと、ひと、と素朴な音を裸足が鳴らす。

 ころころ笑う鈴音が深々と『彼女』の耳朶を(ねぶ)った。

 

『元気にしていましたかぁ? 

 前は……そうですねぇ。

 お姉さんから託された時と、その後に一度声を掛けた時と……あとはレース中ぐらいでしたね!』

 

 指折り数えるのは、亜麻色の長い御髪(みぐし)を威光と共に侍らせる乙女。

 ひと、ひと、と静かに歩み、『彼女』の傍らで脚を止めてゆっくり腰を下ろした。

 白い長布を玉体に巻き付けただけの素朴な装束でありながらも、超常的な美を体現する女だった。

 あるいは、だからこそ彼女という存在のみを押し出せているのか。

 

 ……とはいえ、今の『彼女』に細かな所まで思慮を馳せる余裕はない。

 悍ましい粘度を宿す疲労が、眠気が、『彼女』の全てを絡め取ってしまう。

 

 それに、ついに至った無敗三冠──なんと素晴らしい響きなのか。

 歴史に名を遺す大偉業。

 数多のウマ娘が目指した一つの極致、一つの答え。

 それを掴み取った『彼女』は、どうしようもなく疲れていた。

 

 もうそろそろ一休みしてもいいじゃあないか、と。

 もう少しだけ、もう少しだけ、立ち止まってもいいんじゃあないか、と。

 

 臆病者の『彼女』は思考を経由しない本能のみで、そんな弱音に溺れていた。

 青い瞳を開いたまま、顔を白い床らしき何かに押し付けて独り倒れ伏す。

 

『──いいえ、いいえ。

 あなたは立ち上がらないと。

 だってほら、お姉さんと『約束』したのでしょう?』

 

 女性らしく嫋やかな指を『彼女』の頭に滑らせた。

 白く長い髪を心底愛おしげに撫で、『太陽』の如き金の虹彩で見下ろす。

 できの悪い子供に真摯に語りかけるように、優しく。

 

『それにほら、あなたの身体は立ち上がれるように出来ているんですよぉ。

 だって私達が調整しているもの。 私達が助けてあげるもの。

 だから……ほら、あなたが諦めなければ何度でも蘇る』

 

 ころころ、ころころ。

 軽やかに笑う声には一途な"愛"のみが滲む。

 僅かにでも交じる筈の呆れも、怒りも、常識も、憂慮も、何も無い。

 まるで他の概念を一切排した音だった。

 

 ありとあらゆる事で悩んで迷ってしまうヒトには──あるいは、ウマ娘には宿せない心の表れ。

 声には意思が宿る。

 意思を思想が形作る。

 ──だとするなら、乙女は『彼女』とは全く別の生命だ。

 

『……う~ん、困っちゃいましたねぇ。

 息がし辛くて疲れちゃったのかしら? それとも空をとぶのが怖いのかしら』

 

 困惑にも似た吐息を漏らし、そっと呟く。

 純白でしか無い空間には異物でしかない。

 

『でも、そうですねぇ。

 それじゃあこういう時は……そう、頑張れる理由を与えてあげないと』

 

 倒れ伏した少女の(かんばせ)を持ち上げ、膝にのせ。

 心底から湿った愛情を籠めて頬を撫でる。

 

『まだまだ夢の途上ですよ?

 頑張らないと叶いませんよぉ、お姉さんの為にも……ね?』

 

「…………」

 

『せっかく生き残ったのに、良いのですか?

 ほらほら、思い出して』

 

 優しげに微笑む(かんばせ)には一切の変化がない。

 変わらずに、単純で、純粋に過ぎる言葉をゆらりと零す。

 

『あなたの夢はなぁに?』

 

 深々と、澄み切った黄金の視線を差し向けて。

 己という女神の香りを染み込ませるように──。

 

『……それとも、もう一回消えたいの? 

 ねぇ、(ヒトミ)ちゃん』

 

「────ぁ」

 

 ──甘く囁く。

 『彼女』の奥に潜む、消えたはずの"名前"へと。

 大切な宝物(おもいで)にしか残っていない筈の"名前"へと。

 無様で愛おしい少女へ向け、真摯な想いで言葉を紡いだ。

 

『あなたの名前が消えた、あの日みたいに。

 あなたの存在がすべて砕けて忘れられるの』

 

 既に存在しないそれを態々この場限りで回帰させ、耳元に口を寄せて。

 脳髄に刻みつけるように、『彼女』にとって悍ましい過日を語る。

 

『ねぇ、覚えてる? 

 あなたの友達が、あなたのことを忘れていたのよ。

 あなた達との思い出を全て失っていて、悲しくなかった?』

 

『あなたが貰ったはずの飴玉なんて何処にも無いのに……それでも探したあの日みたいに』

 

 祝福を紡ぐ、呪詛を紡ぐ。

 それを受け、呆然と目を見開いた『彼女』の為に──心の底から湧き出る()()で頭を撫でた。

 

 芽生えかけた"諦め"という心を丁寧に踏み潰す。

 入念に、執拗に。

 裸足の熱に愛情を籠めて、踏み躙る。

 

 そして苦渋の過去を提示し、訪れるかもしれない現実と対立させる。

 その"愛"が『彼女』にとってどんな意味を持つのか、乙女は──太陽を背負う"女神"は、真の意味で理解なんぞしていない。

 けれど齎す結果だけは把握できていた故に、頓着することもなかった。

 

『ねぇ、本当に諦めていいの? 

 (ヒトミ)ちゃんみたいに、お姉さんの名前も消したいの?』

 

「……いや、だ」

 

 ぽつりと呟く。

 茫洋と零れ落ちた声は無機質だった。

 ひび割れていて、余熱を宿すだけの残骸。

 

 ──けれど、そんな残骸であっても、溢れてしまう。

 『姉』という存在は『彼女』にとって最後の(よすが)で、追憶の寄る辺で、己以上に大切な片割れだった。

 その名前を、葬るなど──。

 

『ええ、ええ! 

 だってあなたは優しいもの、そんなの我慢出来ないわよねぇ』

 

 青い瞳を覗き込む。

 恐怖に揺れる愛らしい色彩だった。

 それを慰めるために、こめかみに優しく触れて──。

 

 ──『彼女』の思考回路から余分な要素を引いていく。

 1引く1引く1引く1引く1引く1引く1引く1引く1引く1。

 3で割って2を掛けて、『彼女』の夢を叶える為に手を差し伸べる。

 

 ゆっくりと、丁寧に丁寧に思想を破綻させ、破棄させて。

 女神が信ずる、己の子供が"しあわせ"になる為の理想を押し付けた。

 

『でもでも、大丈夫よ! 

 確かに過去には居ないかもだけど、今と未来には存在するもの! 

 だって、ほら──』

 

 そして、そこに3000(全て)を与える。

 幼い頭脳を調律し、"しあわせ"に過ごすための()()()()()を注ぎ込む。

 

『見て、私を』

 

 両手を伸ばし、頭を捉えて抱きとめた。

 壊れ物を扱うかのように、そっと丁寧に。

 

 愛しの我が子。美しい星の子。哀れな混血の子。

 そんな『彼女』の耳に美麗な口を近付け、不純物のない愛を唄う。

 

『──あなたがファインドフィート。

 だから大丈夫、あなたがそこにあるもの。

 あなたが受け継いで、あなたが紡ぐの』

 

「……ぼく、が」

 

『そう、あなたが。

 忘れられたく無いのでしょう? 

 "()()()()()()()"じゃなくって、"他の誰でもない自分達"を遺したいのでしょう?』

 

 ──思い返すのは、テレビ越しの芝を駆ける流星群(きらきら星)

 ずっと昔に繰り広げられたレースの光景。

 それは世代を超えた『彼女』達にとっての憧れで──追い求め続けていた"答え"だった。

 

「……ぼくらは、忘れられたく無かった」

 

『えぇ、そうよねぇ。

 せっかく産まれてきたんですもの』

 

「ぼくらは、ただ……生きていた痕跡を、遺したかった」

 

『えぇ、えぇ。

 そのための手段だったのね』

 

「だって、あんまりじゃあないか。

 何かを遺す権利さえも無いなんて、そんなの……」

 

 ──年々弱まっていく身体能力。

 独りでは真っ直ぐ歩行も出来ない生命。

 そんな自分が忌まわしくて、『姉』がやがて至る結末でもある不完全な設計図(遺伝子)が許せなかった。

 

 けれど、何よりも恐ろしいのは。

 "そのせいで"何も遺せないかもしれない、"そのせいで"正しい命になれないという現実だ。

 

 確かに、『双子』はこの世に生きていた。

 不完全だとしても、生きていたのだ。

 だからせめて、二つで一つの命としてでも──生きていた痕跡を、遺したかった。

 

「ぼくらだって生きてるんだ。

 だから、せめて、せめて……」

 

 ──溢れる涙が、視界を覆う。

 ぽろぽろ流れて、頬を伝って、女神の手に熱を刻んだ。

 

 やがて、仮面の裏で堰き止められていた本性が顔を覗かせる。

 臆病で、無様で──けれど諦める事を諦めてしまった少年が、声を殺して泣きわめいた。

 

 苦しい。 哀しい。

 生きるという選択肢が齎したのは苦しみだらけで、痛みに喘ぐばかりの人生だ。

 ……それでも選んだのなら、走らなければならない。

 『約束』は守らなればならないのだから。

 

『──じゃあ、立ち上がらないといけませんねぇ』

 

「そうだ、立たないと」

 

 涙の上から正しい『ファインドフィート』の殻を被る。

 青褪めた瞳を無機質に装ってしまえ。

 自分の裡から目を逸らせ。

 胸元の傷跡()は、それを忘れないために残しているのだから。

 

『立ち上がって』

 

「ぼくが、姉さんの名前を、繋がないと」

 

『頑張って』

 

「ぼくが、姉さんを守らないと……」

 

 頭を持ち上げ、女神の膝から抜け出して。

 手をつき、膝を打ち──心臓の茨で残酷に締め上げた。

 痛みがファインドフィートを襲う。

 

 それでも──他に道はないのだ。

 御供瞳(ミトモヒトミ)は『姉』の為に走り続ける。

 かくあれかしと願われた通りに命を燃やす。

 

 所詮はマリオネット(女神の傀儡)でしかないとしても、最早これ以上の最善は存在しないのだから。

 

『──ふふ、ふふふ……やっぱり綺麗。

 なんて、なんて美しい』

 

 

 

 ◇

 

 

 

「……は、はは」

 

 気付けば、埃臭い床が視界を埋め尽くしていた。

 真っ白な空間は何処にもない。

 麗しき『太陽』の女神は何処にも居ない。

 

 ただの現実があった。

 見苦しくも美しい世界が、ファインドフィートを包容する。

 

「ははは……っ」

 

 ──心臓を茨で締め上げる。

 彼女自身の意志で強制的に駆動させ、機能を停止していた四肢を蘇生し──また、立ち上がる。

 

 何度でも何度でも、夢の果てに到達するまで。

 まるで罰の如き執拗さだ。

 だとするなら、どんな罪を犯したというのだろうか。

 

 産まれ落ちてしまった故の原罪か。

 独り生き延びたという大罪か。

 彼女は、きっとその両方に違いないと深く納得した。

 

「……姉、さん」

 

 苦しい。哀しい。

 生きているというのに、生きているからこそ。

 首を掻きむしって、今この瞬間にも泣き言を叫びたくなってしまう。

 

 願うべきでは無いと理解していた。

 想うべきでは無いと、これまでずっと自分に言い聞かせてきた事だった。 

 

 けれどファインドフィートは、それでも嘆かずにはいられない。

 

 死んでしまえたら良かったのに。

 死んでいられたら良かったのに。

 ……いっそ産まれてこなければ、良かったのに。 

 

「……でも、それでも、まだ。

 消えたくない、まだ、消えたくない……」

 

 御供瞳(ミトモヒトミ)は、こんなことのために姉と分かたれたのか。

 母の胎内で命を結んだのは、こんなに苦しむためだったのか。

 こんな、人身御供(ヒトミゴクウ)のように祈りを捧げるためだったのか。

 もう何も、何もかもが掴めない。

 

「消したくない……っ」

 

 みっともなく目を擦る。

 濡れる感触は、ずっと封じ込めていた心のほころび其の物だ。

 拭えど拭えど止まらない涙を、独りぼっちの道に落として。

 しとしと、ひたひた(わだち)へ飾り、ゆっくり、ゆっくりと歩き出した。

 

「ぅ、あぁ……ごめん、なさい。

 ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 何へ謝罪を捧げているのかさえ理解できず、無人の道を独りで歩む。

 

 すぐに泣き止むから、すぐに元通りになるから、せめて今だけは、と。

 喉を嗚咽で染め、尽きぬ涙を海のように滴り落とした。

 

 "夢"とは、所詮傀儡の夢。

 彼女らの願いは、彼女ら以外によって叶えられる。

 

 ありえざる終わりの続きを生きる彼女。

 ……正しい終わりは、きっと、ありえない。

 

 

 


 

 

 

 小さな花弁を幾つもつける、ささやかな花。

 何時かの時代、何処かの誰かが託した願い(花言葉)は"あなたを守る"。

 美しい願いで、健気な希望だった。

 

 "だからこそあなたが掲げるに相応しい"

 

 "麗しのカランコエ──ほら、ぴったり"

 

 

 



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27話 : クラシック級/エピローグ

 共依存の果てに至る病。

 それを死に至る病と称して、失意(ぜつぼう)に沈むべきか。

 それを死に至らない病と称して、(きぼう)と尊ぶべきか。

 

 いくら問い質したくともキェルケゴールは応えない。

 故に鏡合わせの青い靴は独り、今も白痴のままだった。

 

 


 

 

 

 薄暗い部屋の窓の外から、美麗な陽光が射し込んでいる。

 一条の光であっても暗がりを切り裂くには十二分。

 今の今まで眠りこけていたファインドフィートにしてみれば過度な刺激だ。

 ほんの少しの苛立ちに任せ、白いウマ耳を震わせた。

 

 ……だとしても、朝になったのなら仕方がない。

 ついでと言わんばかりに闖入してくる小鳥の囀りに少しだけ耳を揺らし、怠惰な四肢を駆使して起き上がる。

 

「……ん」

 

 のっそりと上体を晒す。

 寝起きでボサボサになった頭髪に光が反射して、きらきら、きらきら、星のように輝く。

 暗闇を明るく照らす程でなく、さながら(しるべ)のようにか細い光だった。

 

 なんとなしに指先を櫛代わりに通し、眠気が醒める時を待つ。

 枝毛の無い艷やかな芦毛は同室のミホノブルボンに手入れされているおかげもあって、常に最高品質を保っていられる。

 

「……ブルボン先輩が起きるまでは、もう少しですかね」

 

 その立役者は今も穏やかに睡眠中。

 部屋の反対にあるベッドに潜り込んだ少女へ一瞥をくれ、音もなくするりと這い出した。

 水玉模様のパジャマの皺を簡単に伸ばし、灯りもつけずに洗面所へ。

 

「……」

 

 からり、と軽い音と共にドアを開く。

 

 足を踏み入れた彼女の前には備え付けの鏡。

 仄かな光を材料とし、アルミ膜の表層にファインドフィートの姿を造り上げた。

 無表情を彩るのは青褪めた瞳。 耳には青と赤の飾りが居座る。

 

 ──そんな、代わり映えのない自分を()めつけて。

 寝起きで乾いた喉を震わせる。

 芯のない、弱く、薄く、細い声音。

 鏡を湿らせたのは、呪詛にも等しい言葉だった。

 

「わたしが、『ファインドフィート』です。

 わたしが……そう、わたしが『ファインドフィート』じゃないといけないんです」

 

 深々と、自己暗示として内界に染み込ませる。

 何度も何度も、飽きもせず。

 毎朝毎朝、執拗なまでに幾重にも仮面を塗り固めていく。

 

 それはある種の逃避にも似て、けれども夢を叶えるための機構としてなら理想的な解法。

 頭蓋を偽る自分殺しはきっと、彼女にとっての本懐だった。

 

「そうですよね、姉さん。

 わたしは正しいでしょう? 

 だって、姉さんが同じ立場だったなら。

 わたしと姉さんが逆だったなら、まったく同じ答えに至ったはずなんですから」

 

 鏡の向こうに映る『姉』が物悲しげに見つめ返してきた。

 "赤い瞳"と"青い瞳"が絡み合う。

 

 ──けれど、言葉は何も無い。

 触れ合うなんて出来やしない。

 いくら求めようと、互いに依存しようとも、声を届かせることさえ不可能だ。

 所詮は幻なのだから。

 

「……今日も、走らないと」

 

 

 ◆

 

 

 トレーニングのために履き慣れた靴を装着する──前に。

 蹄鉄の歪みを軽く点検し、靴紐の緩みが無いようしっかり確認する。

 這わせた指先に返ってくる反応は良好そのもの。

 齎された僅かな安堵と共に改めて履き、軽やかな挙動で立ち上がった。

 

「トレーナー、準備出来ました」

 

「……そうか、よし。

 それじゃあスタート地点で合図を待ってくれ」

 

「はい、了解です」

 

「ああ、それと――」

 

「身体の不調があればすぐに伝える……ですね。

 まったく、病院の検査結果は見たでしょう?

 ()()()()()()()()()んですから、気にしすぎですよ」

 

「……まあ、そうだがな」

 

 あいも変わらず骨ばった痩躯の葛城トレーナーが発する疑惑の念を無視して、所定の位置へ脚を進める。

 今日のトレーニングはアンクルウェイトなどの補助具(重り)を省いていた。

 そのお陰で特別に変わり種の負担も介在しない。

 

 身を包む赤いジャージも体の成長に合わせて調整済み。

 ほど良いサイズ感に変化した影響なのか、以前よりも多少動かしやすくなったようだ。

 

「……もう、一年と半分も経ってるんですね」

 

 トレセン学園に入学してそれほどの時間が経過したのなら、身体の変化も当然の事だ。

 

 しかし、少しだけ不思議な気分でもあった。

 時間の流れによる変化とは至極まっとうな法則によるもの。

 体の成長とは、それによって引き起こされるべき宿命。

 

 ……けれども、それが。

 時間の経過によって成長するという、事実が。

 その変哲もない摂理が、どうにも──。

 

「──スタート!」

 

「ッ」

 

 ──瞬時に思考を打ち切る。

 反射的に駆け出す。

 

 ハーフバウンド。回転襲歩。交叉襲歩。

 ウマ娘の基本の歩法を正しくなぞり上げて血気盛んに風を切る。

 芝2000メートルという距離を問題なく走りきれるだけの速度を心掛け、大きく肺を膨らませた。

 

 ずきずきと胸を叩く鼓動の音が心地良い。

 とうとつと身体を射抜く痛みには、もはや慣れたもの。

 

「は、はっ、は……っ」

 

 痛みという機能は本来、生命の危機を察知するための本能だという。

 それを無視するなんぞ健全な行為などとは誇れないだろうが──しかし、そんなものは今更だ。

 

 故に、無視する。

 見るべきは他にある。

 

「────」

 

 傍らを見る。

 頭を揺らさず、瞳の動きだけで視線を操作して。

 

 そこには、少女がいた。 見慣れた芦毛を風に揺らす少女が。

()()は心臓の鼓動に合わせて、朧げな像が少しずつ堅牢に定めていく。

 全く同じフォーム。 全く同じ頭髪。 全く同じ姿。

 違う事といえば靴の色彩と、瞳の虹彩程度の少女。

 

 ……しかし、彼女の足元には影がない。

 全く同じ速度で走っているというのに足音さえもない。

 ほんの数歩先の前を走る少女は、肉を持たなかった。

 

 けれどただの幻影だと云うには、あまりにも真に迫った存在感で。

 もしもの未来を正確に成形したと言われたなら、特に一切の疑問もなく納得してしまったろう姿だ。

 

「──ぁあ」

 

 だから、ファインドフィートは仄かな救いを得たと錯覚できる。

 走り続ける限り『姉』がそこにいるというのなら何処までだって駆けられる。

 

「はは……っ」

 

 ファインドフィートにしか見えずとも。

 ファインドフィート以外が覚えていなくとも──ただの幻影に過ぎないとしても、そこにいるのだ。

 ファインドフィートの傍らを走り続けるだけの愛しい片割れは、今もいるのだ。

 

 実在しないとしても、それで良かった。

 たとえ幻でしか無いのだとしても、幻としての彼女なら間違いなくそこにいるのだ。

 上手く騙してくれるのなら"それでいいじゃあないか"と、澱んだ涙を呑み込む。

 

 それだけが真実だ。

 そればかりの救いだ。

 どうしようもなく哀しくて、泣きたくなってしまう。

 

 ──茨の冠を戴く少女は、嗚咽さえも置き去りにして。

 たった独り、大地を蹴った。

 

 

 

 


 

 

 

 ()()()を打ち鳴らし、ターフの上へと躍り出る。

 くるりと舞う尾は靭やかで、ずきりと痛む胸の奥とは正反対の(したた)かさ。

 

「大丈夫、大丈夫です……。

『ファインドフィート』は速いですから……だから、大丈夫」

 

 ステップ(飛んで)ステップ(跳ねて)ステップ(駆ける)

 アン(何度も)ドゥ(何度も)トロワ(何度でも)

 リズムを震わせ吐息を深めて、素敵に見事にスリーステップ(つまづいて)

 浮ついた心のままパッサージュ(無為な足踏み)、ふわりと舞ってピルーエット(空回り)

 

 死がふたりを分かつまで。

 いいや、死がふたりを分かつとも。

 

 いっそ死んでしまえたらいいのにと、弱音に満ちた心へ仮面を被せて。

 いっそ産まれなければよかったのにと、涙に濡れた後悔を殻で覆って。

 

 ただ、走る。

 『姉』の足跡を遺すために、全霊を賭す。

 彼女は『姉』さえ消えないのならそれでよかった。

 『姉』の夢が叶って、その中で眠れるのなら──きっと、"しあわせ"だ。 "しあわせ"なのだ。

 

 ……"しあわせ"でなければならない。

 そうでなくては、何故生き長らえているというのか。

 こんなにも無様な余生を過ごしているのか。

 茨の冠を弄び、冷たい声で泥を吐く。

 

「どこまでも……一緒に、走りましょう」

 

 ファインドフィートは知っていた。

 現実は軽薄で、理想は残酷。

 

 故に、ファインドフィートの本当の願いが叶うことはない。

 だって、終わった後なのだから。

 

 『彼女』の夢が叶うことはない。

 それを捨てたのは自分自身だ。

 

 当然、知っている。

 

 それでも、ファインドフィートは走り続ける。

 『姉』を連れて、訣別からの逃避行だ。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 


 

 

 "……理解できない。

 何故、この幼子は泣いている?

 何故、何故、欠片も笑わぬままなのか。

 鎖を解いた上での選択だというのに、何故"

 

 "……本当に、眠らせるべきなのか?"

 

 "……やはり吾には、ヒトを理解できない。

 幼子の涙を止める方法が、理解できない。

 おそらく、吾の選択は失敗していた"

 

 "ヒトの習性から予測しようにも、その概念を言語として把握しようとも。

 やはり……吾の手が、最善の結果を導き出せるとは信じられぬ"

 

 "……再考しよう。再選択するべきだ。

 しかしあの子に手を貸すべきは(女神)ではなく──当世の生命。

 吾は……他の子らに情報を伝え、促すのが最善手……か?"

 

 

 



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断章 / 空に沈んだカエルレウス
28話


 

 

 青い空。 果てのない天蓋。

 太陽の輝きに貫かれても尚、澄んだまま。

 

 それを見上げる少女へと、ぷかぷかと自由気ままに流れる雲が無邪気に語る。

 綿菓子のように白く、淡い姿のままで雄弁に。

 

 お前は私のようになれやしない。

 そんな(くさり)に覆われた身体で、どうして自由に憧れたのか。

 

 

 


 

 

 

 こつん、と靴音が反響する。

 小さな踵が廊下のタイルを蹴り、踏み付け、撫でる。

 閉じた空間の冷気を切り裂くように、少女──トウカイテイオーは、生徒会室を目指して脇目もふらずに足を進めた。

 入学以来何年間も通い続けた道というだけあって瞳の向き先に迷いはない。 何処までも透き通る、芯の根ざした青色だった。

 

 放課後とはいえ廊下には生徒の姿もそれなりに残っている。

 が、トウカイテイオーに意識を向ける者は誰も居なかった。

 学友達との交流に勤しむためか、アスリートとしての修練に励むためか。

 何であれ、みな自分達の事だけで精一杯だ。

 

 それ故に独り、窓の外から射し込む真っ赤な夕日に照らされる。

 淡く香る寂寥感(せきりょうかん)が凛々しい(かんばせ)を鋭く照らしていた。

 後頭部で結わえ、腰まで垂らした鹿毛の御髪(みぐし)が柔らかい印象を纏うのみ。

 

 ……ただそれでも、薄っすらと滲み出る緊張の念は隠せない。

 目尻が固く、引き攣って。

 その柔らかな鋭角から、腹の奥底が見え透いていたのだろう。

 

「……」

 

 こつん、と繰り返し靴音を響かせる。

 一定のペースで、規則的に踏み出される爪先。

 そんな代わり映えのないリズムとは対照的に、彼女の内心は焦りにも似たさざなみに満たされるばかりだった。

 その熱源を解消するために、愚直に足を進め──ようやく、目的地と通路を区切る扉の前に辿り着く。

 

 扉の上に掛けられた札には"生徒会室"の文字。

 トレセン学園における生徒の頂点、その拠点。 今回の目的地だ。

 

「ふぅ……」

 

 緩やかに、深呼吸で逸る気分を宥め(すか)す。

 肺を大きく膨らませ、焦りの熱を吐き出した。

 

 そして一通り心の準備を終え、小さな指先を取手に引っ掛ける──。

 

 

 ──寸前に、動きが止まった。

 

「っと、応接中……?」

 

 耳がピクリと震える。

 耳朶を叩くのは、扉の向こうから漏れ出す話し声だった。

 

 あっさりと出鼻を挫かれてしまった故の僅かな苛立ちが瞳に籠もる。

 ……それが自分勝手な八つ当たりに等しいものだとは理解していた。

 ボクらの事情も考えてよ~、と忌々しげに呟く様子を見てしまえば──その理解とやらも、些か疑問に思えてしまうが。

 

「タイミング悪いなぁ」

 

 震わせる音は馴染み深い生徒会長と、聞き覚えのある女性の話し声。

 話している内容そのものは不明瞭で、細かな判別はつかない。

 それこそ耳をピトリと当ててしまえば聞き取れるのだろうが……トウカイテイオーは、礼儀を欠いた行いを安易に実行しない思慮深さは獲得していた。

 

 まだまだ突入には早いぞと二の足を踏み、ぼんやり虚空を眺めて待ちぼうける。

 静止した彼女の横顔を夕日が灼く。 無遠慮で、どこか鋭い熱だ。

 

「……ブルボンのトレーナー、かな? 

 あまり話したことは無いけど……」

 

 扉横の壁に背を預け、尻尾をゆらゆらと垂らす。

 鼓膜を撫でる涼やかな声の主──崎川トレーナーとトウカイテイオーの関わりは薄い。

 が、随分と上品な振る舞いだったからか、記憶の片隅に残る程度には印象深かった。

 それにファインドフィートとも親交があると把握していた事も影響しているだろうか。

 

 他に理解している事といえば一般に知られている無機質な文言程度。

 ステイヤーとしては非才の身であるウマ娘を、ステイヤーとして大成させた常識破りの怪物である、なんて、可愛げのないものだ。

 中にはその輝きに嫉妬するものも多く居たのだろうかと、ぼんやり思いを馳せるのが精一杯。

 顔見知り以上の感慨を抱くほどの仲でもない。

 

「ま、ボクが気にすることじゃないよね」

 

 ──思考を打ち切る。

 

 トウカイテイオーが気にするべきはたったひとつ。

 シンボリルドルフの手元に届いたらしい、ファインドフィートの身辺調査の結果のみだ。

 彼女の心身を苛む"何か"の正体を探るための思索に心血を注がなければならない。

 

 彼女にはそれ以外の事情に首を突っ込むほどの余裕は無かった。

 

「……ん、終わったかな」

 

 唐突に調子が変わった話し声が鼓膜を撫でる。

 

 意味のある言葉として解釈できたのは、"ありがとう"や"今後もよろしく"といった両者の声音。

 僅かながら温かみのある論調で、やはり険悪な仲ではないらしい──お互いに苛烈な気性を持つわけでもない故に、当然の話ではあるが。

 

「失礼しました……っと」

 

 開いた扉の向こうから予想通りの顔が現れた。

 スーツに身を包む麗人が、ほんの僅かに意表を突かれて瞠目する。

 

 ……が、口を開くことはなく、静かに目礼だけを残して去っていく。

 淀みなく、音もなく。

 どこか浮世離れした背中を一瞬だけ追いかけて──すぐに視線を切り離した。

 

 そして、ようやっと生徒会室の扉をくぐる。

 授業終わりの教室を抜け出してからおよそ数十分後の事だ。

 夕日は未だに沈まずに、トウカイテイオーの背を鋭く照らしていた。 微かな粘性を宿して。

 

「やっほ、カイチョー」

「ん……よく来たな、テイオー。

 丁度やるべき事も終わった所だ」

 

 踏み出したのは、揺るぎのない足だった。

 まず最初に向けた視線の先は部屋の中央。

 木製の重厚な机が間に挟まるも、しかしこの場の主たるシンボリルドルフの存在は隠せなかった。

 

「すまないね、少しばかり立て込んでいた」

「カイチョーが忙しくないときってあるの? 

 もっとボクらを頼ってもいいのにー!」

「……私としては十分に頼っているつもりなんだが。

 エアグルーヴにも同じことを──いや、その話はまた別の機会にしようか」

 

 どこか、普段よりも硬い声だ。

 親しみやすく在る事を心掛ける皇帝にしては珍しく、強張った表情。

 トウカイテイオーはそんな彼女の様子を見て取り、逸る心を少しだけ鎮める。

 

「さて……例の──ファインドフィートの件だな」

 

 生徒会の主は眉間に二本指を添え、瞳を机の上で滑らせた。

 一つの紙束が無機質な存在感を主張している。

 

「手始めに学園側で保持している記録を取り寄せた。

 それが、これだ」

 

 そんなシンボリルドルフの声に吸い寄せられるかのように、机の前まで移動する。

 近くで見れば薄い紙束だった。

 表紙なぞ何も無い無地の白が無味乾燥に無害さを装っている。

 

 音もなく手に取り、もう一度シンボリルドルフに一瞥を向けた。

 

「他言無用だぞ」

 

 ──返ってきた同意に頷いてみせ、表紙に指先を這わせる。

 3枚程度のA4サイズ(約21cm×30cm)をホッチキスで纏めただけの資料だ。

 

 ぱらり、と一枚目を捲る。

 まず視界に飛び込んできたのは馴染み深い芦毛の少女の顔写真。

 トウカイテイオーが有する最新の印象と比較してみれば、今よりも幾らか幼い容貌にも思えた。

 

 もちろん紙に載る情報は写真のみではなく、入学後の経歴などを象る文字列も含まれる。

 名前、姓、入寮後の部屋番号、連絡先。 全て個人を表す上では一般的な情報群だ。

 

 ……もっとも、この状況そのものは一般的では無いのだろうが。

 いくら実績を残しているとは言え、トウカイテイオーはあくまでも学生でしかないのだから。

 

「……これって、完全に個人情報だよね……」

「その通りだ。 本来なら一般生徒に見せていいものではない。

 規則的にも、倫理的にも」

「でも、見せてくれるんだね」

「……次のページを見てくれ」

 

 明瞭かつ泰然な振る舞いを是とするシンボリルドルフには珍しい、濁した返答だ。

 おや、と眉を顰める。

 訝しげな眼差しを向け、小首を傾げた。

 

 しかしシンボリルドルフは黙して語らず。

 故に仕方なく言われるがままに指を這わせ──ぱらり、ともう一度紙を捲る。

 まず視界に映るのは、先ほどと似た構成の記入欄だった。

 

「……あれ? 

 空欄……?」

 

 けれども内容は異質。

 記入すべき要項が明示されるのみで、在るべき情報の一切が存在しない。

 例えば──元の住所、保護者の氏名、連絡先。

 文字のインクで彩られているはずの項目が、尽く無垢な白を保持していた。

 まるで、過去なんてものは存在しないと云わんばかりに。

 

「あぁ……その通り。

 ファインドフィートの住所、保護者への連絡先……入学に必要なはずの情報が欠けている。

 もっとも、戸籍謄本あたりの書類は提出されているから情報が皆無という訳でも無いんだが……」

「チグハグだね……普通にミス、とか?」

「さて、トレセン学園の事務方がそのようなミスを発見できていないとは思えないが……少なくとも、事実のみを鑑みるならその通り」

 

 表面上の回答を述べる。

 両手を組み交わし、肘を机の上に乗せた彼女の表情はどこか重苦しい様相だ。

 赤みが掛かった菖蒲(むらさき)の瞳をじっと細めて、疑念で錆びつく唇を震わせた。

 

「生徒会長という役職で調べられる範囲であればこの程度でしか無い。

 が……これ以外にも少々、気に掛かることがあってね」

 

 白い指先で、トウカイテイオーの手元を指さす。

 言葉に迷いはあっても、その身体の運びだけは過去の累積通り、揺るぎのない威厳を保っていた。

 

「ファインドフィート。今年で14歳になるウマ娘で、姓は"御供"だそうだ。

 私達ウマ娘の文化では姓で呼ぶ機会が少ない。

 だから気にする事も然程多くないんだが……今回は話が別だ」

 

 一度、言葉を区切る。

 言うか、言うまいか。

 事ここに至っても僅かな躊躇を宿して──しかし、その逡巡は時を無為に消費するだけでしかないと切り捨てた。

 乾いた唇を舌で湿らせ、言葉の滑りを取り戻す。

 

 一度、瞬いた。

 その菖蒲色の瞳から迷いは無くなっていた。

 

「4年前のニュースを覚えているかい? 

 軽自動車とトラックの交通事故だ」

「ん~……ごめん、覚えてないや」

 

 僅かに思案にする。

 ……が、生憎トウカイテイオーの頭脳にそのような記憶は存在していなかった。

 日本において交通事故の発生件数は一日で千を超える。 どれだけ痛ましくとも、数字が全てを物語る。

 ニュースになったらしいとはいえ、日々の記憶に埋没していくのは抗いようのない事だ。

 

 その回答を受け、シンボリルドルフは一つ頷きを返した。

 話を持ち出した彼女とて、偶然テレビで見ただけのニュースだった。

 しかも全国的に報道された訳ではなく……ただ、一つの悲劇として、一部地域で綴られた過去だ。 知らなくても無理はないだろうと言葉を続ける。

 

「軽自動車側には一家が乗っていたそうだ。

 両親と()()()の三人家族。 対するトラック側には一人の運転手。

 その内、生存者は一名のみ……と、悲惨な事故だった」

 

 ──内容を聞き入れて、おおよその過去を察する。

 トウカイテイオーは、件の少女の傷跡の所在は()()にあるのだろうと推察した。

 シンボリルドルフが行き着いた答えと同様に。

 

 しかし、明確な経緯を明瞭に示すために喉を鳴らす。

 ほんの僅かな認識の齟齬でさえも生じる余地を無くさなければならない。

 

 傷跡の残る心に触れようというのであれば尚更の事。

 シンボリルドルフは白亜に輝く蛍光灯の下、傷跡への道を開く。 青い罪悪感だけはどうしても隠しきれなかった。

 

「ファインドフィートは、その事故の生存者だ。

 この珍しい名字と年齢、住所から考えて……まず、間違いないだろう」

「……そうだね」

「その経験が彼女の内面に影響を与えていたとしても可笑しい話ではない。

 例えばPTSD(心的外傷)サバイバーズギルト(生者故の罪悪感)……幼い子供がそれらのダメージを負わなかったと考えるほうが不自然だ」

 

 "もちろん、可能性の域は出ないが"と一言を添える。

 そこまでを形にして、口を閉ざした。

 

 ありとあらゆる可能性を精査した上で結論を弾き出すしかないのだから、こういった個人の傷跡にも触れるしか無い。

 他人の事情に土足で踏み込むという事実に、じゅくじゅくと泡立つ寒気がシンボリルドルフの臓腑を(なぶ)る。

 

 ──しかし、彼女の信条がそれを是とする。

 

 全てのウマ娘の幸福のために。

 その為に心に触れ、苦悩の根源を解き明かす。

 物事の解決のためにはまずその根源となる何かを特定する必要があるのだ。

 

 だから、後悔はない。

 後悔はしない。

 

「……不要なお節介でしか、無いかもしれないが」

 

 背負った気疲れごと椅子に預け、眉間を抑えた。

 ぎぃ、と背もたれが微かに軋む。

 

 "さて、ダジャレ集の新刊が発売されるのは今日だったか"と、壁に掛けられたカレンダーへと現実逃避の幻を重ね合わせて、仄かに苦笑する。

 無論、幻は幻。 無意味に過ぎることはシンボリルドルフ自身にも理解出来ていたのだ。

 

「状況を、整理しようか」

 

 天井を見上げる。 シミの無い綺麗な天井だ。

 その清浄さに泥を吐きかけるように、猜疑心の塊で喉をこじ開ける。

 そして、口を噤んだままのトウカイテイオーだけが彼女の言葉を聞き届けた。

 

「事の発端はファインドフィートの異変からだったな。

 私自身は対面して言葉を交わせていない、が……テイオーからしてみれば、その精神状態が只ならぬと」

「うん。

 気付いてるヒトは余り居ないみたいだけど……」

「……テイオー、キミは何を見たんだ?」

「……」

 

 瞼を閉じれば今この瞬間でも思い返せる。

 トウカイテイオーが真っ先に瞼の裏に浮かべるのは、ファインドフィートの瞳の(うち)だった。

 青く澄んでいるようで、その実は何処までも淀み、歪んで、褪せている。

 そして、濡れていた。 悲嘆に濡れていると感じた。

 

「ずっと泣いてた。

 ボクらが気付いていなかっただけで、フィートも気付いていないだけで、ずっと泣いていたんだよ」

 

 何時かの月夜で、トウカイテイオーは見たのだ。

 迷子のように俯く子供と、その目尻を伝う淡い雫を。

 手を伸ばそうと震える指先を。

 あの日のあの場所で、ファインドフィートだけが気付いていなかった。

 

「……それだけ追い詰められているのかな。

 頬の熱に気付けないぐらいにさ」

 

 そして、その瞳は──どこか、見覚えのある色だった。

 二年前の雨天で、濡れそぼった心を知っている。

 誰かの泣き顔が網膜の裏で像を結びかけた。

 ……所詮は錯覚で、過ぎ去った記憶の残影でしかない。

 

 ファインドフィートの瞳は、その過去を想起させる色だ。

 絶望に折れかけて、掠れる、悲哀の色彩だ。

 

「自暴自棄、っていう言葉が近いのかも。

 諦められない何かのために、追い詰められてる……の、かな」

 

 今でもトウカイテイオーの脳裏に焼き付き、残り続けている雫。

 理由は彼女自身にも分からない。

 ただ、忘れるべきではないと思ったから、今まで抱え続けていた。

 

「心は疲れ切ってるのに、心の何処かは諦めたがってるのに。

 それでも、前を向くしかない。

 その矛盾が、きっと苦しいんだ」

 

 そして、その二律背反は酷く哀しいモノなのだと。

 痛ましい少女を想い、そっと胸を抑える。

 

 ──だとするなら、背負った荷物を分けて欲しいと願うのは悪いことなのだろうか? 

 無邪気に笑っていて欲しいと願うのは、悪いことなのだろうか? 

 

 言葉の裏に祈りをそっと滲ませて、鬱屈と俯く。

 

「……それに、この前の菊花賞。 カイチョーも見たでしょ? 

 あの後の検査結果は問題無かったって聞いたけど……でもさ、ヘンだよ。

 止めない大人も、止まらないフィートも」

「そう、だな」

 

 ヒトもウマ娘も、心を持つ命は何かしらの矛盾で苦しむものだ。

 実に難儀で複雑な在り方だが、それ故の輝きというものもある。

 だからこそ、その輝きとやらに万人が惹かれているのかもしれない。

 

 ……トウカイテイオーには、"だから素晴らしいもの"なんて感じ入ることは出来なかったが。

 苦しみ事そのものは美徳ではない。

 矛盾の中で足掻くことが美しいなどと、断じてありえない。

 

「だから、きっと……」

 

 ファインドフィートの瞳の色。

 それはきっと涙の色だったのだと、誰に向けた訳でもない理解を宙空に零した。

 本当に届けたかった相手は此処に居ない。 だから、無意味な独白だ。

 

「……往々にして、矛盾とは自己と外部との軋轢によって齎される事が多い。

 だが、その"外部"を何処と定義するのか。

 現在の何処かにある、"誰か"という外因か。

 あるいはその"外部"が過去に喪われた命だとするなら──」

 

 ──その先を明言するには些か憚られる、と。

 無言を以て雄弁に語り、しずしずと瞼を下ろした。

 

「随分と、根の深い……」

 

 それは、シンボリルドルフにとっても未知の領域だ。

 

 サバイバーズギルト(生き残ってしまった罪悪感)とは、時に"偉業を成す"ことを己に強いるという。

 たった一人生き長らえた事実に大いなる意義を齎すことで、家族の死を無意味ではなかった事にする。

 書物由来の知識と現在の状況を照らし合わせてみれば、一応納得は可能な推察であると言えよう。

 

 ……あるいは、そうではなく。

 彼女のそれに宿る意味が全くの逆で、未来を目指す故の決起なのかもしれない。

 前を向くための儀式というのなら、きっと素晴らしいことだ。

 過去を乗り越えようと足掻く故の苦しみというのなら。 傷を癒やすため、必死に奮い立つ若獅子の叫びというのなら。

 周囲の人々は、彼女を信じ、時折に背中を押せばいい。

 

「…………」

 

 ──斯様に推論を(あつら)えてみても、そのふたつの何方が"正しい答え"なのかは確定できない。

 もしくは第三の選択肢さえあるのかもしれないのだ。

 物事の解決まで、あまりにも遠い。

 

 瞼を押し上げ、深く、重い溜息を零す。 その癖に、疲労も苦悩も欠片さえ抜けやしなかった。

 

 それに、そもそもの話で。

 専門家ではない彼女等の力で、この複雑極まる事態を解決しようと手を伸ばすこと自体が危うい。

 正しさだけで論ずるならば、大人達を頼るべきだった。

 生徒会長であろうとも、高名なアスリートであろうとも、成人には程遠い少女達でしかないのだから。

 こればかりは変えようのない純然たる事実だ。

 

 ……けれども、事を大きくするには事情が事情。

 ファインドフィートは無敗三冠ウマ娘。

 そんな彼女の過去は格好の話のネタになってしまう。

 万が一、億が一、無粋な記者に情報を掠め取られたら──。

 

 ──その先の結末が良いものになると、断言できるはずもない。

 

「手詰まり、だな」

 

 発覚したのは学園によるチグハグなミスと、ファインドフィートの前歴。

 これ以上は当事者に直接聞くしか無いのではないかとある意味で当然の答えにたどり着く。

 

 ……ただし話がこじれてしまった場合の事を思案したなら、どうしても二の足を踏んでしまうものだった。

 

「もしも事故の傷跡が癒えた後であるにも関わらず、的外れな推論に従っていたとしたなら。

 ……それは、とてもじゃないが望む結果を出すことは不可能だろう。

 むしろ彼女の心をいたずらに傷つけるだけになりかねない」

「う~……カイチョーの言う通りだって分かるけど……」

 

 しかし、もどかしい。

 トウカイテイオーも分かっていた。

 "拙速は巧遅に勝る"とは、今回ばかりは間違っているに違いない。

 彼女は鬱屈とため息を零し、か細くうなだれるしか出来なかった。

 

「けど、納得出来ないよ~……」

「……そうだな。

 本当に、本当に……」

 

 背もたれを軋ませる。

 細く靭やかな体躯の少女さえ受け止めきれないのだと、見掛け倒しの椅子が無様な悲鳴を上げていた。

 

「また、日を改めようか。

 今日この場でこれ以上話し合っても……納得の行く答えを見つけるのは不可能だろう」

「うん……そうだね。

 でも何か分かったらすぐに教えてよね! 絶対だよ!」

「ああ、勿論だ。

 吉報を用意出来るよう力を尽くそうとも」

 

 

 ──。

 ──―。

 

 

 ──そうして、トウカイテイオーは去っていった。

 大きな音を立てて閉じられた扉を見やり、大きな溜息を吐き出す。

 鉛を含んでいるのではないかと懸念するほどに重く、硬い苦悩の塊だった。

 

「……まるで暗雲低迷だ。

 良い方向に進んでいられる自信が無い……。

 

 ……あるいは、崎川トレーナーに頼るべきだろうか。

 彼女ならば信頼出来るだろうし──どうしても、大人の力は必要だ」

 

 私がもう幾年か齢を重ねていればな、と。

 愚痴にも似た呟きを虚空に落とし、机に肘を突き立てる。

 

「家族、か」

 

 トウカイテイオーが置き去りにした書類には含まれていない、一枚の紙を引き出しから取り出した。

 本来ならばシンボリルドルフでさえも目にしてはならないモノだ。

 いってしまえば完全な個人情報の塊──戸籍謄本の写しに視線を滑らせる。

 

 名前と、本籍地と、家族構成。

 その内から読み取った文字列に曰く、続柄で『子』にあたる存在は一名のみ。

 

 それが、何故か視線を惹き付ける。

 まったく変哲のないインクの字が二重に滲んで見えた気がした。

 

 

 

 


 

 

 

 踏み出した先は薄氷(うすらい)の上。

 ぱきりぱきりとヒビ割れた。

 

 



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29話

 

 

 剥がれ落ちる。

 

 


 

 

「おっ、12インチ(フィート)じゃん! どーしたんだよ、んな重装備で! 

 無人島に村でも作んのか?」

 

 10時15分。

 天気は曇り、湿度は低く、からりと乾いた空気だった。

 

 そんな中に響くのは、ころころ笑うゴールドシップの声。

 甲高いそれが、晴々と澄んだ大気を伝う。

 

 ……しかし、対するファインドフィートは笑いもせず。

 喜色もなく、反応の鈍い表情で、淡々と受け止めるのみ。

 胸中を満たすのは随分と()()()性格の少女に対する戸惑いか。

 オブラートに包んで表せば、ファインドフィートには彼女のような存在に対する経験値が不足していたが為のものだ。

 それを知ってか知らずか、知ろうともせずか。

 ゴールドシップは流れるよりも尚なめらかに距離を詰め、背負ったリュックサックをぺしぺしと叩いた。

 

 ただし、彼女の手のひらに返ってくる感触は存外弱く、軽い。

 とてもではないが"無人島に村おこし"は不可能でしかない積載量だった。

 

「……あの、ゴールドシップ、さんは何故此処に? 

 今日のスピカはトレーニングの日では……?」

「当然サボったに決まってんだろ。ゴルシちゃんを無礼るなよ」

「そ、そうですか……」

「オメーは? やっぱ無人島に国造りか?」

「いえ、少しばかり私用で……」

「ほォん」

 

 ファインドフィートが身に纏うのは、確かに外出用の服装だった。

 上は如何にもふかふかな防寒着に身を包み、足は登山用の頑丈なシューズ。 もちろん、踏み込みを補助するために専用の蹄鉄も仕込まれている。

 そして背には大ぶりな黒いリュックサック。 安っぽい合皮の黒艶が、健気な自己主張を見せつけている。

 

 そんな出で立ちの彼女を見て──ゴールドシップは片眉を一瞬のみ吊り上げる。 ほんの一瞬だけだ。

 ファインドフィートが気付くよりも先に、平常運転に回帰する程度の微細な変化。

 

「ところでインチ」

「フィートです」

「そうか、センチ」

「…………。

 ……はい、なんでしょうか」

「たいやき、食うか?」

「えぇ……」

 

 ファインド()()()()が反論の口を開いた──直後に、二の句を告げるよりも先にたいやきを突き込む。 中身はこしあんだった。

 何処から取り出したのか、とか、そういった疑問が湧き出る余地も無いほどに鮮やかに。

 ……もっとも、今の彼女には味覚を気にする余裕も無いのだが。

 胸が痛くて痛くて、苦しくて、()()()()()を楽しむだけのリソースさえ払底されて久しい。

 いつから"こう"なって居たのかという疑問は、きっと無意味だった。

 それを明らめた所で何の意義もない。

 

「…………ほォん」

 

 もう一度、ぽつりと納得の声を零す。

 普段関わり合いの少ないゴールドシップであれど判別がつくほどに病的に白い(かんばせ)

 ともすれば蒼く見えてしまう程に、血の気が失せた顔色だった。

 

 ゴールドシップという少女は基本的に愉快犯であり、場を騒がしくかき乱す事に心血を注ぐ破天荒な存在である。

 その筈であったが──そんな彼女でさえ、引き摺り回そうとは思えない。

 むしろ麻袋に詰め込んで保健室に叩き込んでしまったほうが良いのではないかと、僅かながらに熟慮する。

 

「……」

 

 アメジストの瞳で、青褪めた少女を見やった。

 口内にある残留物の咀嚼を終えた彼女は、相変わらず血の気が失せた顔のままだった。

 

「──オイオイオイ、どうしたんだよまな板の上に打ち上げられたカツオブシみてぇな顔しやがって。

 ポンポンペイン(腹痛)か?」

 

 しかし、内心は(おもて)に出さず黙して語らず。

 代わりに普段の調子で舌を回し、騒がしくファインドフィートに絡みだす。

 

 手のひらで腹を叩く様は軽やかで、まったくいつもと変わらない調子者のそれである。

 ペシペシ、ぺちぺちと。

 ……実は、ゴールドシップという破天荒少女は子供相手ならば手心を加えられる存在であった。

 それは公園に居座る子供達やニシノフラワーが証明している。

 

「うわ、筋肉スッゲ!

 こう、へそ出しスタイルが似合いそうだな! スイーツ食うか!?」

「……いえ、その……わたしは用事があるので」

「用事だと!? そんな、このゴルシちゃんよりも面白い所があるなんて……!?」

「少し、家族の所に顔を見せるだけなので。

 面白いも何も無いですよ」

「おいおい、そんな辛気くせー顔を見せるつもりなのかよ~。

 ほれほれ、もちっと笑えや! うおっ、もちもちだなぁオイ!」

 

 荒っぽい言動とは裏腹に、手付きは何処か柔らかい。

 無抵抗で為されるがままのファインドフィートもそれを理解している故なのか、ただ淡々とゴールドシップを眺めていた。

 無邪気な童女が笑むのを、ぼんやりと虚ろな(まなこ)に映す。 どこか濁った瞳の色だった。

 

「……わらしになひをもほめへいふんでふか(わたしに何を求めているんですか)……」

「そらぁピカソレベルの顔面に決まってんだろ」

 

 そんな彼女の空虚な鼓動に気付いているのだろうか。

 気付かないまま、心底から巫山戯ているのだろうか。

 それは間違いなく前者であった。

 彼女は、周囲にいる大勢の人間が考えるよりも驚くほどに思慮深い。 本当に、驚くほどに。

 

 ゴールドシップは頬に当てていた手を引っ込め──代わりに、白い歯を覗かせる。

 ケラケラと甲高く、広場の空を駆け巡る。

 ただし聞き手のファインドフィートにとっては面白くもなかった様子で。 あるいは理解出来なかった様子で、首を傾げるばかりだった。

 

「面白き事もなき世を面白く、大事だろ?」

「分かりませんよ、そんなの」

「あぁ~!? ゴルシちゃんの至言を否定すんのかよ!? 

 おら! おら! 悔い改めろ! 仏陀に懺悔しろ!」

ふぁ()から……わらしになひをもほめへいふんでふか(わたしに何を求めているんですか)

 

 もう一度頬に手を伸ばす。

 強張った表情を揉みほぐし、単なる子供のように騒ぎ立てて。

 お前もこうすればいいのに──とは、言葉に出さなかった。

 

 

 

 ──それから、長々と遊ばれ続けるのかと思いきや。

 いよいよ本当に面倒に思い始める寸前であっさりと解放され、肩透かしを食らった気分になった。

 もちろん、それは良いことだ。

 しかしどうにも拭いきれない一抹の寂しさが心胆を掠めてしまって、僅かながらに尻尾が下がる。

 ……寂しさを感じてしまった事自体がおかしいというのに。

 

「……だってそんなもの、ただの余分でしかないのに」

 

 駅の改札を潜り、ぎこちない様子で電車を待つ。

 普段の移動であればファインドフィート自身の足で移動することもあって、電車に乗る事自体然程多くない。 それ故に些か不慣れでもあった。

 余程の遠方──例えばレース場に向かう時でもなければ、電車や新幹線に乗ることはないのだ。

 

「……」

 

 ひゅうひゅうと風が吹く。

 さらさらと、前髪が揺れる。 芦毛の銀が日光を反射して、ホームのコンクリートに光の斑点を散りばめた。

 そうして線路の上を滑り、無形のままで通り過ぎていく。

 

 その情景を網膜に焼き付けて。 ふと、空想を馳せた。

 己に身体が無ければ、それにのって何処までも自由に飛べたのだろうか──などと。

 無論、空想は空想。実現は叶わない。

 くだらない一人遊びだ。

 

 ……それでも、多少なりとも痛みを紛らわせることはできる。

 だから、無駄ではなかった。

 

「……あ、電車」

 

 そうして虚空を眺めていれば、ついに線路が軋む音を引き連れ鉄の箱が訪れる。時間通りだ。

 ホームで待機している彼女の目の前で、ぶしゅう、とドアの機構から空気が抜けた。

 

 機械的に開いたドアをゆっくり潜り、位置のズレたリュックを背負い直す。

 乗客は少なく、疎らに席が埋まっている程度でしかない。

 そうでありながらもにわかに集まった視線を意図的に無視してしまい、適当に誰もいない席を陣取った。

 菊花賞、或いは皐月賞の頃からか、ファインドフィートの周りはいつもこうだ。

 流石の彼女であれど現状に慣れてしまった。

 もっとも、彼女一人で居るときはまだマシな方だ。 ここにミホノブルボンやトウカイテイオー、もしくはメジロマックイーン等と同行している時は更に露骨な視線が四方から突き刺さる。

 

「…………」

 

 努めて無関心を装い席につく。

 尻に伝わるのは硬い座席の反発力だ。 包容力など欠片もありはしない。

 お前でさえも安らぎの場になってくれないのか、と忌まわしげに尾っぽで叩きつけた。 当然ながら反応が好転する筈もない。 仕方のない事である。

 

『──発車します。電車の揺れにお気を付けください』

 

 ぎぃ、と電車が軋んだ。

 頭上で吊り革が揺れる。それに合わせてファインドフィートの上体も振れる。

 家族の待つ場所へ──否、正しくは家族が眠る場所へ辿り着くまでの長い時間を、これと共にせねばならないのかと。

 小さく、棘交じりの溜息を吐く。

 ……快適な移動時間のみを求めるのならタクシーを呼べばいいのだろうが、彼女はそれを選ばなかった。

 

 ただ、車が怖かったからと。 それだけの理由で。

 だから、自己責任の末路でしかない。

 だから、この居心地の悪さを受け入れる以外の術を知らなかった。

 

「……はぁ」

 

 もう一つ、棘交じりの後悔を吐き出した。

 毎度の事ながら、止まらない。

 そもそも息をしているだけで後悔の念が溢れてしまうのだから、仕方のない事だ。

 

 

 ──そこで思考を切り上げて、やけに視線を感じる発生源──真向かいの席へと視線を向ける。

 親らしきヒトの女性がひとり。

 娘らしきウマ娘の少女がひとり。 きらきらと綺麗に輝く星を瞳に宿していたから、おそらく視線の主は少女だった。

 希望に満ちた幼気な瞳が、ファインドフィートの顔を見つめていた。『ファインドフィート』というテレビの向こう側に在った少女を見つめていた。

 

 少女は、そこに何を見出したのだろうか。

 彼女には想像もつかない。

 が──いつかの日の情景に残る、見覚えのある色だった。

 

 小さな子供へ手を振り返し、喉の奥をきつく締め上げる。

 それはきっと、ちっぽけな意地の、ちっぽけな見掛け倒しだった。

 

 

 ◆

 

 

 電車を降りて、人通りのない駅前から駆け出して十と数分。

 一般家屋や用途のわからない小ぢんまりとしたビルに挟まれた道路には、車の往来は殆ど無かった。

 精々、ウマ娘専用レーンを駆ける彼女の蹄鉄がアスファルトを削る音が寒々と響くのみ。

 騒々しいエンジンの音も、鼻につくガソリンの臭気も何も無い。

 

 それは御供の家が所有する山に辿り着くまで変化などなく、道中ではセピア色の風景が広がるばかりだった。

 

 そうして食事さえも忘れて走るうちに昼を過ぎてしまい、ほんのりと騒ぎ始めた腹の虫。

 それを気合で強引に黙らせ、舗装されていない山道を進み始める。

 用事を終えたら適当なコンビニに寄り、いい具合のゼリー飲料でも腹に詰め込む算段だった。

 

「……ん、歩きやすい」

 

 景観も山道も前回──去年の秋よりは入念な整備が行われていた。

 道にはステップとして木材(丸太)が埋め込まれ、砂利を敷くことで明瞭な体裁を整える。

 伸び放題だった草は一定の長さに刈り揃えられ、密度までも調整済み。

 それは陽の光を隠す程に繁っていた木々の枝葉も同じだった。

 

 右を見ても左を見ても上を見ても、どこもかしこも数理的で人工的な規則正しさを主張する。

 業者に依頼した甲斐はあったな、と淡い満足感を抱くに足るものだ。

 

「でも……前より、静かになりましたね。

 少しだけ、寂しいです」

 

 勿論、決して無音ではなかった。

 靴底が土を削る音が深々と響き、擦れる葉っぱのざわめきによる乾いた呼吸が鼓膜を撫でる。

 よくよく耳を澄ませば、星のざわめく声が瑞々しく雄弁に語らってくれる。

 

 ざりざり、こつこつ。

 ファインドフィートの蹄鉄が嘶く。

 ざあざあ、ざわざわ。

 木々が風に吹かれ、草の隙間から囁きを這わせる。

 

 しかし──人の手が入り、無駄な枝葉を剪定され、機能的な美を獲得した木々は以前のように大雑把な自然の唄を失っていた。

 それが成長に適した環境故の代償なのか。

 そうと考えれば、幾らかは納得の行く話ではある。

 

 ただ、ファインドフィートだけが幽かな寂寥(せきりょう)の情を覚えていた。

 そもそも彼女自身の選択で剪定の依頼を出したというのに。

 けれど、そのくせにどうしてか腹の底が凍てつくようだった。

 そんな彼女の感傷に引かれてなのか、靴音もほんの少し心細げだ。

 

 ざりざり、こつこつ。

 十分と少しも登れば終点がちろりと顔を覗かせる頃合いだ。

 常日頃と比べれば運動量は然程ではない筈のくせに汗がほんのりと滲む。

 頭髪の裏側でうなじを湿らせて、些か以上に不快だった。

 

「あぁ……」

 

 そうして歩く先。ついに見えた終点の輪郭。

 墓石の鎮座する広場が近付くに連れて、爪先に鈍りが生じていく。

 細く、長い怖気が、糸の如く絡みつく。

 それは実在しない。 それは幻影でしかない。

 そのくせに不思議と足取りは重くなる一方で、靴音の生じる間隔も徐々に広がっていく。

 

 その音が──あるいは、寂寥(せきりょう)の情そのものが。

 古い後悔による沈殿物だと理解出来たのは、薄汚れた墓の前に辿り着いての事だった。

 家族との別れから経過した時間の流れと、それによって齎された変化が、酷く悲しかったのだ。

 

 自分達が命を失ってこの世界から姿を消したとしても。

 世界は変わらず時を刻み、あるがままの日常を送るだけなのだと。

 そんな極々自然で当然の事実を思い知らされるようで、苦しかった。

 

「この墓場は、変わらないのに」

 

 時代に取り残されているようだ、とは言葉にしなかった。

 それを口にしてもただ惨めな気持ちに溺れるだけだと脳髄の裏側では理解していたからだ。

 ある種の経験に基づく確信だった故に、疑念を挟む余地は存在しない。

 

「……久しぶり、です。

 お父さん、お母さん」

 

 リュックサックを地面に下ろし、ぽつりと呟く。

 道中で乾いた唇を舌で濡らし、墓石の文字を視線でなぞって。

 

 土埃に塗れた表面は、時間の経過の割には薄い汚れだった。

 己以外にも訪れる者が居たのだろうか、という困惑はある。

 

 しかしおそらく、両親には両親の交友関係があったのだろう。

 その内の誰かが会いに来たに違いない、と適当な結論を見つける。

 何にせよ、ファインドフィートには関係のない話だった。

 

 リュックサックからたっぷりの水が入ったボトルを取り出し、清浄な中身を墓石の上から浴びせかけた。

 僅かな疑心ごと、土埃の表皮を押し流すように勢いよく。

 その後に多少残った残留物はあれども、適当なタオルを押し付けこそぎ落とす事ほんの数秒。

 あっという間に御影石の輝きを取り戻した。

 

「……綺麗に、なりましたね」

 

 少なくとも、四年前よりは、と。 小さく奥の歯を噛み締める。

 そのままノロノロと鈍重な動きで掃除道具をリュックサックに押し込んで、邪魔にならない位置に放り投げて。

 

 そしてためらいがちに、墓石の前にしゃがみ込んだ。

 何を言うでもなく手を合わせる姿は、どこまでも愚直に真摯だった。

 

「…………」

 

 ──しばしの間、無言に準ずる。

 ひゅうひゅうと吹く風が彼女の頭髪と耳を揺らし、儚く解けた。

 さあさあと草の囁く声が、白い尻尾を撫でて消えていく。

 

 そうして時が巡り、やがて風は止まった。

 それと同時に、唇を震わせた。

 自分達の両親に何を告げるかは事前に決めていたおかげもあって、喉が詰まることはなかった。

 

「……今日はわたし達の誕生日なんですよ。

 もう、誰も覚えていないとしても……わたし達の誕生日です」

 

 喉を通り、口腔を滑り、つらつらと零れ落ちる言葉。

 以前であれば何ら気負う事もなく吐き出せたであろう報告は、きっと何処にも届かない。 今はもう受け取る存在が居ないのだから。

 

 頭の片隅にそんな摂理が居座っていて、決して揺らぐこともない。

 ファインドフィートもそれを拒む気は無かった。

 

「普段はめったに来れないし、お盆は──その、合宿の為に使いたいですから。

 だから、今日、報告に来たんです」

 

 どちらにせよ関係ないのだ。

 届くとしても届かないとしても、親という存在に向かって告げられるのなら。

 

 だから、これは一種の儀式の為でしかない。

 彼女(生者)が前を向くための、前だけを見るための、弔いの儀式だった。

 それを止める権利など彼女にさえ存在しない。

 他の誰でもない彼女だからこそ、存在しないのだ。

 

「話したいことが、沢山あるのです」

 

 故に、絶え間なく記憶を綴る。 揺るぎない想いを綴る。

 言葉という形のない手紙に祈りを込めて、墓石に向かって投げ飛ばす。

 

 例えば、ミホノブルボンの事。

 何時も世話を焼いてくれる、泣きたくなるほど姉によく似た少女との思い出を。

 例えば、トウカイテイオーの事。

 近頃は一方的な気まずさを抱いてばかりの、気高い先輩へ捧ぐ感傷を。

 例えば、トレーナーの事。

 ズボラな生活を送ってばかりなだらしない大人に向けた愚痴を。

 ……けれど、そんな彼の手によって己の身に宿った無敗の三冠(王者)という栄光を。

 

 ──彼女には、話したい記憶が幾らでもあった。

 どれだけの時間を掛けても底が見えない程に、舌の根が乾くことさえ出来ない程に語り明かせる自信があった。

 どれもこれもファインドフィートの宝物であるからこそ、それを自慢したいという子供らしい情動もあったろう。

 

 

 ……しかし、時間はどうあっても過ぎ去っていくもの。

 ある程度の思い出を語り終えたところで、一度口を閉ざした。 薄い唇は未だに乾いたままだった。

 

 ファインドフィートにとっての本題は、思い出話ではない。

 それよりも歪んでいて、単純な物だ。

 

「ねぇ。 お父さん、お母さん」

 

 彼女の意に反して動きの鈍い唇をぺろりと舐めて、ゆっくり、ゆっくりと駆動を取り戻す。

 再び吹き始めた風に紛れぬように、己の声で岩を抉るように。

 

「聞きたいことが、あるんです」

 

 これに答えが返ってこないことは知っている。

 ただ質問を吐き捨てるだけになると、知っている。

 

 それでも、ファインドフィートは問いを投げつけたかったのだ。

 言葉にできなかった想いはじゅくじゅくと腐って澱むだけ。

 既に手遅れなのだとしても、無意味に過ぎないのだとしても、誰かに告げたかった。

 そしてその誰かは両親であるべきだと、そうであって欲しいと願ってしまった。

 

「……わたしの選択は、正しかったと思いますか? 

 わたしは、正しくあれたと思いますか?」

 

 鬱屈と顔を伏せ、墓石と雑草の隙間に視線を突き刺す。

 

 何に対する選択を指した問いなのか。

 そも、何を以て"正しさ"とするのか。

 明らかにすべき筈の具体性に欠けた問いかけに、後悔と、恐怖と、悲哀を混ぜる。

 佇むばかりの墓石に極彩色の毒が静かに染み込んだ。

 

「わたしは、義務を果たせていますか?」

 

 ちゃりちゃりと青い耳飾りの留具を鳴らし、更に深く顔を伏せる。

 極大に膨れ上がった恐怖に押し潰され、沈む重みに耐えかえて。

 ただ、小さく、小さく蹲る。

 

 尻尾を丸める様子には以前の傍若無人な無情の色はない。

 冷めた湿気も、強固な外殻も、ほつれた自我の淀みも、何もかも。

 そこには幼子の嘆きだけが存在していた。

 歯の隙間を通り抜けて深々と、仄かに溶ける。

 

「……答えては、くれないですよね。

 ええ、分かっています。

 あなた達は死んでいるから、此処に居ないから、答えてくれないのだと。

 だから、これは単なる一人遊びなのだと、分かっています」

 

 そうと自覚してしまったからには止まれなかった。 止まろうという逡巡さえもない。

 五指を地面に突き立て、爪で抉り、なおも唇を湿らせる。 きっと、懺悔と同じ苦味で構成された湿気だった。

 

「……ねぇ、お父さん。

 夢を追いかけることは、本当に正しいのでしょうか。

 こんなにも痛いのに、こんなにも苦しいのに、素晴らしいことなのでしょうか。

 もう二度と誰かに忘れられたくないというのは、悪いことなのでしょうか。

 姉さんを誰かに覚えていて欲しいと願うのは、悪いことなのでしょうか」

 

 その苦味に籠もっていたのは過日への望郷だ。

 自覚も定まらぬまま、父の穏やかな笑みを思い浮かべた。

 

 大きな身体、力強い体躯、ごつごつと骨ばった手のひら。

 どこか抜けた性格で、とても温厚な父親だったと記憶している。

 

 ファインドフィート達は、その大きな手に頭を撫でられるのが大好きだった。

 

「ねぇ、お母さん。

 わたしが走っていると、テイオーさんが悲しそうな顔をするのです。

 わたしが走っていると、ブルボン先輩が泣きそうな顔をするのです。

 ……わたしは、正しい道を選んでいるはずなのに。

 わたしの道を、正しくしてくれているはずなのに」

 

 その次に、母の勝ち気な笑みを思い浮かべる。

 艷やかな芦毛と深いアメジストの瞳。 その色を構成する赤と青を見事に分離させたものが『姉』と『弟』に受け継がれたと簡単に察せる程に、深く澄んだ瞳だった。

 その容貌も『姉』と『弟』に瓜二つ。

 しかしその性格は全くもって似つかず、見栄っ張りの性格だ。

 

 ファインドフィート達は、その両隣から母と手を繋ぐのが大好きだった。

 父と母に愛されていることを実感できた日々が、大好きだった。

 

 そんな二人の墓前に向けて、幾重にも連ねた疑問を投げつける。

 姉の命を継ぎ、夢を継ぎ、想いを継ぎ、名を継ぎ。

 そうして『ファインドフィート』となって走り続けたこれまで。

 

 それは素晴らしい未来を再現する筈のもので、決して誰かを悲しませる行いでは無かった筈だというのに。

 ……しかし、どうしたことなのか。

 悲痛に歪んだ二人の顔が脳裏にこびり着いて仕方がない。

 幾度となく引き剥がそうと忘却という爪を立てても、寸分たりとも離れてくれない

 

「……おかしいです。 訳が分からないんです。

 あの人達が悲しむなんて、変ですよ。

 だって、これではまるで……失敗してるみたいじゃあないですか。

 わたしの道が間違えてるなんて、あり得ないのに」

 

 そんな危惧、いっそ下らない雑音だ。

 思考するまでもない無駄で余分な憂慮でしかない。

 何もかもが無駄、無駄、無駄。

 女神という絶対者の導きに従う彼女が()()()()()を犯せる筈などないのだから。

 

 ──そう、断言できたのなら。

 ここまで揺らぐことは無かったろうに。

 

「わたしの全ては、死に損なったわたしの命は、姉さんを遺すために使う。

 それが正しい筈なのです。それだけがわたし達の慰めになるのです。

 ()の為に、願い(弔い)の為に、祈り(未来)の為に。

 ……それだけが、それだけを、願えばいいんです。

 そうしていればきっと、正しい道を()()()()()()()

 

 吐き出しても吐き出しても、疵となって精神にへばりつく毒素。

 それを排除するために傷口(過去)を抉り出し、流血(言葉)に乗せて絞り出す。

 

「だって、失敗してばかりの人生で……どうして、自分の選択を信じられるというのですか」

 

 ──だから、わたしは間違っていない。

 女神さまの心に従うわたしは、間違ってなどいない。

 わたしは正しい。正しくなければならない。

 そうでなければ何故、このような生き恥を晒しているというのか。

 

「産まれた時点で失敗していたわたしが、その先で失敗していないなんて、思えるはずないでしょう?」

 

 絶えず零れていく毒が口腔を傷つける。

 つらつら毀れる心が、月よりも暗く欠けていく。

 深く、深く、深く──。

 

「あの日、水族館に行きたいなんて言わなければみんな死なずに済んだのに。

 あの日、わたしが先に死ななければ姉さんを生かすことが出来たのに」

 

 ──流血(言葉)に滲む嘆きは、呪詛に等しかった。 腐りきって黒ずんでいる。

 ヒトとしての尊厳を踏み躙る蹄鉄。 ヒトとしての個我を嘲る無為な言霊。

 それを他の誰でもない彼女自身が是としたのだ。

 熱に浮かされた思考回路は、その解答を信じて疑わなかった。

 

「だから……。

 そう、そうです、わたしは、そもそも──」

 

 ちゃりちゃりと、青の飾りが悲鳴を上げる。

 あんまりにも煩くて、どうしてか苛立たしくて、そっと耳から取り外した。

 

 ──もう、音は出ない。

 

 青い天然石の耳飾り。 ノットイコール()の尖った輪郭。

 それを右手の内に隠して、茫洋と虚ろなままの瞳で見下ろして。

 知らず知らずに噛み締めていた唇から血を溢れさせた。

 生じる痛みは胸の奥に呑み込まれ、微々たる刺激を表皮に残すのみ。

 

 ……結局、舌の回転は鈍ることが出来なかった。

 

「わたしは、産まれるべきじゃなかった」

 

 顎を伝う雫が、ぽたぽたと土に落ち、つらつらと小川を作る。

 そして不思議なことに頬からも熱い雫が伝い落ちて、小川と合流し、極小の湖を象った。

 

 当然、空の向こうの河と比べるべくもない矮小な煌めきだ。

 けれど、等身大の煌めきだったろう。

 

「──ねぇ、女神さま、女神さま。

 それなのに何故、わたしの命を拾い上げたのですか」

 

 震える右手で胸を抑え、垂れた(こうべ)を持ち上げて。

 墓石の更に向こう、遥かな空へと青褪めた瞳を彷徨わせた。

 

 雲の切れ間から覗く太陽は何時だって変わらず輝いている。

 ぎらぎらと、きらきらと、ファインドフィートを見下ろしていた。

 

「……分かっています。分かっているのです。

 あなたはただ、わたし達の叫びを聞き届けてくれただけなのだと」

 

 染み込む先は空の果て。

 この疑問に答えは返って来ない。

 そうと理解した上で、か細く問い掛ける。

 

「そしてあなたは、わたし達を祝福してくれた。

 正しい道を示し、導き、遥かな偉業の先を見せようとしてくれている」

 

 決して、独力では辿り着けない夢だ。叶うはずのない夢だ。

 ……もしも、差し伸べる手の中にどんな思惑が在ったとしても。

『ファインドフィート』という存在をその高みへと導いてくれるのなら、全てを受け入れる心積もりだった。

 

 どれだけ苦しくても、どれだけ悲しくても。

 ファインドフィートは──嘗て少年だった少女は、『姉』を裏切れない。

 それは全て、一途な愛ゆえの献身だった。

 依存に等しい愛だとしても、愛は、愛でしかない。

 

「……ええ、分かっています。

 きっと、これが正しいのでしょう? 

 姉さんを残すための最適解は、ぼく(偶像)から、ぼく(無駄)を、削っていくこと」

 

 震える右手を持ち上げ翳す。

 手のひらには青色の──否。

 淡い"空色"に染まったノットイコール()の記号。

 

 かつての父からの贈り物で、ファインドフィートにとっては数少ないアイデンティティを証明する宝物。

 あるいは、人間性(家族との思い出)の象徴そのものだった。

 

 ──それに、指をあてがう。

 一本ずつ、一本ずつ、祈りを込める。

 関節を静かに折り曲げて──罅を以て軋ませる。

 

「だから、これで良いのです」

 

 そうしてまたひとつ、己の手で握り潰した。

 さらさらと、指の隙間から青い砂が零れ落ちる。

 ひゅうひゅうと、風に巻かれて空に溶ける。

 やがて、小さな青色は大きな空色の中に沈んで、何処にも見えなくなった。

 

 青褪めた、死蝋の空色(カエルレウス)。 死臭を纏う青色。

 

 ……最初は、何の変哲も無い耳飾りだったとしても。

 それに籠もる意味も意義も、結局は受け取り手次第で定まるのだ。

 

 ファインドフィートがこれを、大切な宝物として規定したように。

 女神がこれを、単なる無駄と断じたように。

 

「だから、これで良かったのです」

 

 手のひらに微かに残った砂を握り締め、指の隙間から逃れる青い煌めきを視線で追いかけた。

 ……けれども塩水に溺れる瞳ではすぐに見失ってしまう。

 

 それに嘆くでもなく、憤るでもなく。

 揺らす飾りを欠いた右耳だけがぴくりと跳ねた。

 

「……けれど、女神さま。

 ヒトは……それを、"呪い"と表すのではないでしょうか」

 

 残滓さえも失った右手で胸を抑える姿は、ひどく物悲しげだった。

 勿論、女神には届かない。

 

 独りよがりのか細い嘆きは行き場を失い、墓石の苔に吸われるばかりだ。

 

 小さく、小さく。

 浅く、淡く。

 

 

 


 

 

 一条の彗星。

 剥がれ落ちる残骸。

 蒸発した塵屑の尾が輝かしい軌跡を描く。

 

 地上から見れば、きっと美しい。

 

 



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30話

 また、一歩を踏み出す。

 幾度も砕けた左足で、揺らぎなく。

 

 


 

 

 ゴールドシップは走り去るファインドフィートの背を見送り──腹の底から湧き出る苛立ちを、理性の力で強引に捻じ伏せた。

 

 実態より尚小さく見える程に細身で、白く、どうにも儚く頼りない背中。

 そこにいつかの少女(魂の血縁)の危うさを重ね見てしまって、名状しがたい疼きがじわじわと表皮に滲出(しんしゅつ)する。

 

 曰く、家族に会いに行くという彼女。

 けれどもそのくせに何故か、その割には穏やかさとは無縁の様子の彼女。

 親元から離れて久しいだろう少女の帰郷というには些か不穏にすぎる。

 

 遠ざかり、ついには見えなくなった背の幻像を、細まった双眸の紫で見つめる。

 ゴールドシップの知りうる限りでは非常に珍しい──どころか、初めて見るタイプの少女だった。

 普段であれば持ち前の活力で振り回してしまう所ではある、が。

 非常に残念ながら、それを有効的に実行する為の内面(セーフライン)への理解(みきわめ)が未だ及んでいない。

 

 細い顎先に指を添え、うぅんと唸った。

 常日頃からやれ問題児だの、やれ癖ウマ娘だの、随分とやたらめったら散々な物言いをされている彼女であれども、最低限の弁えるべきポイントは弁えているのだ。

 

 つまり、その最低限のポイントを正確に見極めることが可能な観察力と、遵守すべき一線を決して踏み越えない稀有なバランス感覚を保有している証左でもある。

 

 

 ──そうでありながら、二の足を踏む。

 彼女のトレーナーが知れば、驚きのあまり天変地異を警戒してしまうかもしれない。

 ……あるいは、逆に納得するかもしれないが。

 

「つってもなぁ……」

 

 うぅんと、もう一度唸った。

 白い尾っぽを気怠げに垂らし、仄かな懊悩を空気に溶かす。

 さて、さて。今回の正解(面白さ)へ辿り着く道順は如何なものか。

 彼女の気質を知る者の大半は預かり知らぬ、驚くほど聡明な思考回路で熟慮を凝らした。

 

 ……が、中々冴えた一手は湧き出やしない。 堂々巡りの苦悩だった。

 それは結局、今回の遭遇の仕掛け人──チームメイトであるトウカイテイオーの声が掛かるまで途切れなかった。

 

「──で、どうだった?」

「ん~……。

 んぁ〜〜……分からん!」

「……そっかぁ」

 

 背後に立つトウカイテイオーへ、混迷も一周回って晴れやかな声で返事を打ち返す。

 

 問いかけの意味──つまり、"どうだった"と口にしただけの文章の、曖昧な主語の委細を問い詰める必要はない。

 今回のファインドフィートとの遭遇という、そもそもの発端──それが、トウカイテイオーからゴールドシップへの依頼による行動だったからだ。

 

 依頼の内容は単純である。

 "ファインドフィートからそれとなく、悩んでいそうな情報を抜き出してほしい"。

 ここでのミソは"聞き出してほしい" ではなく、" 抜き出してほしい" という点だろう。

 言論として明確な理由を、()()()()()()聞き出すのではダメなのだ。

 その仮面の裏側に潜む事情を、()()()()()()()()()()()()()読み取り把握すること。

 それが今回の主目的であり、トウカイテイオーがゴールドシップの手腕に望む結果だった。

 

 特に交友関係の深い人物では、どうあっても話し辛い事は多くなる。

 故にこそ、程々の顔見知りであり、なおかつ繊細な線引が上手いゴールドシップに託した。

 

 ……けれどもそのような無理難題、はなから成功率なんぞ低いに決まっている。

 そして結局、やはりというべきか……非常に残念ながら、目的の達成は成されなかった。

 それはどうしようもなく、仕方のない話である。

 依頼人であるトウカイテイオーでさえ納得しているのだから疑う余地もなく、仕方のない話なのだ。

 

「……ところでさ、フィートの用事は何って言ってた?」

「家族に会いに行くってよ」

「あぁ、なるほど……」

 

 用向きは純朴なものだった。

 けれども、納得の裏で思う。

 

 その"家族に会いに行く"と告げた人物がファインドフィートでなければ。

 そして、相手が()()()()()()()()()()()()でなければ──まったく、混じりけのない純粋な気持ちで受け止められたろうに。

 

「その割にはなんつーか……こう、シケた面構えだったけどな。

 購入2日後のたい焼きよりもシケてやがるぜ~」

「……」

「なぁ、知ってっか? 

 たい焼きには養殖モノと天然モノの2つがあるんだぜ? 

 養殖モノはデケェ鉄板を二枚用意してな……両方の金型に生地を流し込んで、仕上げの時に二枚を合体させて──」

「そっかぁ」

 

 つい昨日、シンボリルドルフから複雑な事情を聞いてしまったばかりだ。

 それ故にどうしても──両手のひらから溢れてしまう程の罪悪感が滲み出す。

 

 交通事故で、両親を失った少女の口から聞かされたと思うと、どうにも。

 深く、暗く、インクが滲むよりもなお色濃い後味の悪さが、ひょっこりと顔を覗かせてしまうのだ。

 

「……けど、まだ()()と決まったわけじゃない。

 材料が足りてないんだ……」

 

 しかし、どうやって推理の"材料"を獲得するのか。

 どのように組み合わせ、真相を探り当てるのか。

 正直な所、明確なビジョンが存在しているわけでもない。

 

 当然ながらだからといって諦めるつもりなど微塵もないが──やはり、迷っている現状は否定できなかった。

 苛立たしさが喉の奥にへばり付いて、中々静まってくれない。

 これを無力感と即座に断定できてしまえる程の経験こそあれども、だからといってトウカイテイオーは最適解(即座に振り払う)を瞬時に導き出せるような怪物でもないのだ。

 

 だから"誰が悪い"という話ではなく。

 それに対して責任が発生する訳でもない。

 ただ、世の中には正攻法では打つ手のない困難が存在しているだけなのだ。

 

 だから、"誰かが悪い"という話ではない。 きっと、それだけは偽りのない真実の筈だった。

 

「……ま、それはさておき。

()()()

 

 ──そして、違えのない真実がそれしか無いというのなら、多少の力押しが必要である事も間違いない。

 問題に直面した時、トウカイテイオーのように正攻法を突き進むだけが正解ではないのだ。

 まったく別の迂回路を探したり、新しい選択肢を造り上げる方法だって存在する。

 

 ゴールドシップは、後者を特に得意とする人種であった。

 正道、何するものぞ。

 多少強引だろうとも、正解までの近道を最高速度でぶち抜いてしまえば良い──などと、胸を張って語れてしまう。

 破天荒娘の異名は伊達では無いのだ。

 

 そんな彼女が懐から取り出したのは一般的なスマートフォン。

 それに加えて握りこぶしとほぼ同じ大きさの長方形の機器が接続され、側面のLEDライトが緑色に点灯している。

 トレセン学園の制服のどこに、一見して悟られもせずに収納できるスペースがあるのか。 堪えきれぬ疑問が湧いてしまう程には大振りな鉄の箱だ。

 

「……なにその、ゴツイ機械……」

「受信機」

「え、なんの!?」

「そりゃーおめぇ、仕込んだ盗聴器のヤツに決まってんだろ。DHA足りてるか?」

「一体いつの間に……」

「フィートのリュックに心肺蘇生(内容量チェック)した時」

 

 なおも言い募るトウカイテイオーを適当に往なしつつ、細やかに首を振る。

 まずは左を見る。人影はない。

 次いで右を見る。人影はない。

 前方を見る。トウカイテイオーがいる。

 後方を見る。三女神の像がある。ゴールドシップ達を海の石像が見つめ返していた。

 

 つまり今の彼女たちを観察している者は誰もいない。

 もっとも、行動そのものを見られたところで何があるというわけでもないのだが。

 二人並んでイヤホンを使用しているだけの姿から盗聴行為を即座に連想して見破るなんぞ、そうありえては堪らないが──可能性としては皆無という訳でもない。

 

 例えば、トウカイテイオーの同室の少女、マヤノトップガンであれば、持ち前の勘の良さで見破るかもしれない。

 例えば、機械技術に明るい、データの信奉者であるエアシャカールやアグネスタキオンといった面々ならそういった知識を保有していても不思議ではないだろう。

 

 万が一、億が一。

 いくら極小であろうとも、一という可能性は確かに存在している。

 故に、警戒そのものはきっと正しいのだ。

 

 ……もっとも、この場に居る少女がゴールドシップという時点でその警戒も不要となるのだが。

 彼女を見た者の反応は大半が彼女の実績(前科)を知っているが故の、一周回った信頼を有しているのだから。

 "ああ、また何かやってる"。"巻き込まれたくないから離れておこう"。"副会長(エアグルーヴ)に連絡しなきゃ"。

 彼女はそれほどに極まったレベルで()()()()を積み上げていた。

 

「よし、問題ねぇな」

「問題、無いのかなぁ……?」

 

 そして、当然ながらトウカイテイオーにも彼女を糾弾するつもりはない。

 なにせ他の誰でもないトウカイテイオーが協力を依頼したのだ。

 ゴールドシップが想像以上に協力的だったのだから、感謝の念しか存在しない。

 

「よし、イヤホンだ」

「……けど、なんかこう……」

 

 ウマ娘用のイヤホンを手渡されたトウカイテイオーも、本当に、何を口にすべきか迷ってしまった。

 本当に、本当に。

 "盗聴そのものは犯罪行為ではないから"などと理論武装を図ろうにも、あくまでも純粋で善良な性根を持つ彼女には限界がある。

 限界はあったが、それはそれ。

 

 ……時には、些細なことには目を瞑るべき時もある。

 世の中はそうして回っていくのだから、間違いではないのだ。

 

 

「……。

 ……ううん、今更だった。

 じゃあお願いねゴルシ!」

「うわぁ……殊勝なテイオーって違和感しかねえな」

「なんで~!?」

 

 そうこう言い合っている内にも準備を進めるゴールドシップの白い手は止まっていない。

 機器の側面から突起するツマミをぐるぐると回し、電波の調整を丁寧に行っている様子だった。

 

 ……ただし、実際のところ仕込んだ盗聴器は衛星通信を行うものである。

 そのため、よくドラマや映画にある"お約束"の周波数の調整などは不要だった。

 

 あくまでも今回必要なのは盗聴器と衛星間の通信環境だ。

 通信さえ確立出来たのなら、盗聴器が音声を勝手に拾って受信機を経由し、ゴールドシップの所有スマートフォンを通過して、イヤホンの口から明確な情報として採取できる。

 

 ウマ娘の感覚器官を潜り抜けてバレずに仕込めるほどに小型で、そのように高性能な通信機器を何故彼女が所有しているのか──という疑問はあれど、そこは今更の話だ。

 なぜなら、信頼に足る実績があるのだから。

 

「……ん、聞こえてきたな。 テイオー、目を閉じろ」

「うんそうだね、口を閉じるよ……」

 

 ──がたんごとん、がたんごとん。

 沈黙に準じた彼女らの耳朶を最初に叩いたのは、電車が奏でる運行音だった。

 がたんごとん、繰り返し、一定のリズムで跳ねていた。

 

 仕込んだマイクは余程性能がいいらしいと、トウカイテイオーは思わず感嘆の声を上げてしまった。

 リュックは膝の上に置いているのか、ファインドフィートの吐息の痕跡さえも微かに回収している。ノイズは皆無に等しい。

 

「移動中、なのかな。

 アナウンスでも流れてくれたら行き先も判別付きそうだけど……」

「生憎GPSだの位置特定機能だのは付いてねぇからな。

 ……てか勢いで仕込んだは良いけどよ、こうまでして聞かなきゃいけないコトとかあんのか?」

「むしろ何も考えずに出来るんだ……」

 

 広場の隅に身を寄せ合ってこそこそ二人で言葉をかわす。

 時折幾人かのウマ娘が通り過ぎるが──二人組の片割れがゴールドシップと知れば一切の疑問なくそのまま通過して行った。

 

「──けど、そうだね……まずはなんでも良いんだ。

 あの子の事を一つでも多く知りたい。

 ……それに最近は、特に独り言が多いみたいだから」

「ほぉん、そういうもんか」

 

 それからもぽつぽつと断続的に二人の背後を人影が通り過ぎていく。

 ぽつぽつと、淡々と。

 通過した人影の数が二桁に到達し、日が中天に座した頃。

 がたんごとん、と響く金属の音に混じり、僅かな異音が混入した。

 

 それは、小さく軽い靴音だった。

 つい最近まで自分達の足元から響いていたモノと同じそれが、ファインドフィートの直ぐ側から鳴っていた。

 

『ん……?』

『す、すみませんうちの娘が……! 

 こら、お姉さんの尻尾触らないの!』

『わ、さらさら~。 お姉ちゃんの尻尾手触りいいね! さすが三冠ウマ娘! あとサインください!』

『ちょ、ちょっと止めなさい……ほら、お姉さん困ってるでしょ!』

『いえ、大丈夫ですよ。

 わたしは気にしていませんから』

 

「おぉ、人気だね~。

 確かにフィートの尻尾綺麗だし、子供が気に入るのも無理はないかも」

「ゴルシちゃんの尻尾も負けてないんだが?」

「はいはい、綺麗だね」

 

 穏やかだった。

 何事もなく、無垢な時間が過ぎていく。

 盗聴器越しに聞こえてくるのはファインドフィートと子供と、その親らしき女性の歓談ばかり。

 勿論周囲に配慮したささやき声ではあれど、マイクは過不足無くしっかりと音声を届けてくれていた。

 

「……移動長いね。

 フィートの家、何処なんだろ」

「さっき聞こえた駅名から予測した感じだと……ま、そこそこ遠そうだな、そこそこ」

 

 途中で親子が降りて、別れの挨拶をかわした後も電車の音は鳴り止まなさい。

 がたんごとん、がたんごとんと、淡々と変化なく響き続ける。

 

 がたんごとん、がたんごとん。

 聞き手であるトウカイテイオーも僅かながら眠気を覚えずには居られないほど、代わり映えがない。

 

 ──それから、如何程の時間が経過したのか。

 

 広場の隅に鎮座し続けるトウカイテイオー達の元へエアグルーヴが襲来したり、会長であるシンボリルドルフが仲裁に来たりと複数のイベントを乗り越える事が出来るだけの時間であることは間違いなかった。

 

『ん……と、あぁ……降りないと』

 

「……やっとかぁ~」

「おうよ、結構長かったな。

 ルービックキューブの全面が255回も揃っちまったぜ」

 

 電車を降り、ホームを移動し、改札を通り抜ける。

 靴音の質や反響具合、微かな雑踏の残滓。

 それらの漂う雰囲気から行動経路を読み取り、細々とため息をついた。

 ひとりぼっちの行軍の気配からは──流石に、"材料"となるものは一切汲み取ることは出来ない。

 

『──、──』

 

「お……?」

 

 一滴の違和感である()()に、いの一番に気付いたのはゴールドシップであった。

 こつこつ、こつこつ。響く靴音。

 蹄鉄が仕込まれている故に硬質なそれに混ざって、ザリザリと無粋な雑音が己の存在を主張している。

 ザリザリ、ザリザリと、不快感を煽って。

 

「……変だな。ノイズが多い」

「え、故障とか……?」

「分かんねぇけど多分そうだ。

 くっそー、ゴルシちゃんの整備スキルを掻い潜るとはなぁ」

 

 悔しがった所で鼓膜を引っ掻くノイズは変わらない。

 ……が、その隙間を縫い、どうにかこうにかファインドフィート由来の音を回収する。

 機会越しの彼女は駅の外に出たようで、足音として反響するのは駅内のタイルを蹴る甲高いモノではなく──アスファルトを削る時の、仄かに深い靴音に変化していた。

 

 ……それから、一呼吸と半。

 否、重ねてもう二呼吸だ。

 

 徐々に徐々に、歩行のペースが早くなる。

 蹴り飛ばす右と左の蹄鉄の音が入れ替わり、その間隔が少しずつ狭くなる。

 少なくとも、長距離を踏破できるだけの速度で保たれている事は察せられた。

 

 ──そして、走行時間が続けば続くほど重なるノイズも強まっていく。

 まるで、ファインドフィートが目的地に近づけば近付くほどに阻害されているようだ、と。

 今日に至るまで真相を掴み損ねているトウカイテイオーにとっては……それは決して快いものではなく、半ば被害妄想地味た想像を掻き立てられてしまう。

 

 しかしそんなの仕方が無いじゃあないか、と臍を噛んだ。

 何でもいい、ほんの一欠片でもヒントが欲しい。

 ただそれだけなのに、何故、こんなにも上手くいかないのか。

 

 そうしてうなじを疼かせる焦燥も──嵐の如きノイズが、いっそ無慈悲に掻き消す。

 イヤホンの向こうにある疾走する靴音も、少女の吐息も、ひゅうひゅうと風を切る音さえも、尽くが呑み込まれていって。

 ついには、ざぁざぁという土砂降りの雨模様に染まってしまった。

 

「……ここまで、かなぁ」

「仕方ねえな、アタシとしてもかなり冴えた考えだと思ってたんだが……アテが外れちまった」

「ううん……それでもありがと。

 ボクだけじゃこんなの出来なかったし」

「ま、次こそはもっと良い作品を──っと、ちょっとまて」

「え、どうし──」

 

 ──ふと、ノイズが途切れ始める。

 ザリザリと流れる嵐の雑音がなりを潜め、繰り返される情報の回復と損失。

 音の乱れが遮断され、音の連続性が復旧し、また乱雑に切り落とされ、反響する壊れかけた不協和音。

 回復。破損。復調。失調。

 

 思わず、固唾を飲んで沈黙を守るトウカイテイオーの耳に──幽かな、少女の声音が届き始めた。

 ノイズの塗れた声であれど、たしかに情報として意味を解せる言葉として。

 

『────。 ──、──―。

 ──ぁれ、どこに行ったのですか。

 普段なら、もう──に居るはずなのに』

 

 誰に向けた言葉なのか。

 特定できるキーワードでも含まれていれば判明したのだろう。

 が、残念ながらそう都合良く事は運ばない。

 

 故にトウカイテイオーが汲み取れたのは、声に籠もった感情の質感のみだ。

 それは戸惑いではなく、疑念でもない。怯懦に近く、怒りとは最も程遠い。

 ただ、ただ、純粋無垢に染みる、無色の嘆きだった。

 

『……違う、違──、違う。居ないわけない。一緒にいる。

 もし──だとしても、もし──いたとしても、ずっと一緒にいるはずなんです』

 

 紡がれるそれは断続し、自己暗示のように一方通行だった。

 何度も何度も、見えもしない誰かを望む呼び掛けが虚しく響くばかりだ。

 

 その意味の裏を求め、言葉の意味を脳髄が咀嚼し──。

 トウカイテイオーが疑問を抱くよりも先に。

 

『ぁあ』

 

 ぽつり、と。

 心底からの安堵で湿ったささやきが。

 ひとりきりの筈の、ファインドフィートの口腔から滑り落ちていた。

 

『ああ──なんだ。

 ずっとそこに、わたしの──に、そばに居てくれたのですね』

 

 

 "姉さん"。

 

 

 ──ぶつり。

 

 そこを終点として音声が途絶えた。

 ノイズが消滅した。環境音も何も聞こえない。

 蹄鉄の音も風の声も何もかも、一切合切が。

 

 ……つまり、盗聴器の完全な沈黙を意味する。

 けれど──トウカイテイオーは、そのような些事を気にするどころではなかった。

 脳内に満ちる疑問が彼女の沈黙を許さない。

 

 唐突に、都合よく、彼女の口から齎された情報。

 それはどう受け取っても、しこりよりも大きな疑念が残るモノだった。

 

「……ちょっと待って、待ってよ……。

()()()、だって? フィートの?」

 

 ファインドフィートの家族構成はトウカイテイオーも知っていた。

 あまり褒められた手段ではないが──間違いなく、その情報の確実性は担保されている。

 

 戸籍上には母と父。

 そして子が一人、ファインドフィート自身との三人家族構成である。

 何の変哲もない構成だ。 両親が共に鬼籍に入っている以外は、という注釈が必要なのだが。

 

 ……だとするなら、姉に相当する知り合いだろうか。

 用済みとなったイヤホンを耳から抜き取り、思慮に耽る。

 

「……ううん、それにしても不自然だ」

 

 ただ、その事実を肯定するには疑問が残るのだ。

 

 まずひとつ。

 ファインドフィートの靴音から判断するに、それなり以上の速度が出ている筈だった。

 そしてそれは、たった()()の靴音から判断できる事実である。

 ……そう、()()

 つまり、在るのは一人分の靴音だけの筈なのだ。

 もしかするとノイズの影響でたまたま聞き取れていないだけなのかもしれないが──真相は不明だ。

 

 そして、ふたつ。

 そばに居る、併走しているらしい『姉』という存在。

()()()()()()()()()()()()という存在。

 それは、一体誰だ? 

 肉親という可能性は非常に低い。隠し子とでも言われてしまえばそれまでだ。

 ……ひとまずは捨て置く。

 

 では肉親的な意味ではなく、概念的な意味ではどうか。

 十分に仲が良ければ……あるいは、『姉』と慕うほどになるかもしれない。

 

 しかし、普段から。ずっと一緒にいる、となれば事情が変わる。

 まず、そうと表すならこのトレセン学園にも在籍している人物に違いないだろう。

 何故ならファインドフィートの日常の殆どは学業かトレーニングが占める。

 それら以外ではミホノブルボンとトウカイテイオー等の友人達と共に過ごす程度で、それが全てに等しい。

 

 ……そうと理解した上で思案する。

 果たして、『姉』に該当する人物はトレセン学園に存在するのか。

 あいにくとトウカイテイオーには見当がつかなかった。

 

 概念的にも、物理的にも。

『姉』という人物は、何処に入り込む余地があったのか。

 

 いったい、何処に存在出来たのだろうか。

 

 

 


 

 

 

 諦めないことは美しい。

 不屈の心は輝かしい。

 そして、彼女はそれを体現した。

 その走る後ろ姿が多くの人々の目を惹き、魅了し、歴史を彩る一欠片となった。

 

 だからこそある意味では、ファインドフィートの目指す先でもあるのだ。

 何度砕けても。何度挫けても。

 何度でもまた、立ち上がれるように──。

 

 



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31話 : 断章取義/エピローグ

 

 

 ……だからせめて、弔わないといけないのです。

 死に損なったぼくの全てを使って、姉さんの為に祈りましょう。

 仕方がないから、お父さんとお母さんの為にも焚べましょう。

 ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、捧げましょう。

 ぼくらの生きた証(あしあと)をくっきりと残すのです。

 

 ぼくには、それ以外を望めません。

 それ以上を願うべきではありません。

 

 ……けれど、それでも。 もし叶うのなら。

 最後は本当の(断片じゃない)姉さんがいるはずの、苦痛のない穴へと落ちていけますように。

 

 


 

 

 ファインドフィートの墓参りと同時刻、空の上。

 遥かなる空のざわめきを超越した果ての果て。

 不明瞭な概念そのものである"空"の上にて、二柱の女による柔らかな声が染み渡る。 それは文字通りの意味で天上の調べと表すに相応しい格を備えていた。

 

 ……もっとも、それを聞き届ける人類は誰一人として存在しなかったが。

 

『……やはり、気に食わぬな』

『どうしたんですか海ちゃん、藪から棒に』

『汝が気に食わぬ』

『えぇ……急に神格(じんかく)否定ですかぁ? こわぁい』

 

 とはいえ、ヒトには観測されていない領域である故に当然の帰結だった。

 遥か未来であるならまだしも、現代には神の居城を知る人間なぞ誰一人として存在しない。 ウマ娘であれど、きっと同じの筈だ。

 

 ──そして、その隠された空間に佇むもの。

 白い無垢な地平に建つ、木造の家。

 "それ"が神の住まう居城であり、二柱が相対する場であった。

 神が住まうと言う割には、随分と庶民的で俗物的なスケールでしかないが。

 

 けれども、そのような些事は神々にとってはどうでも良いらしく。

 二柱揃って表舞台の様相を見守りながら、つらつらと口蓋を舌で叩いていた。

 

 片や心底楽しげに、愛おしいと目を細めて。

 片や心底苛立たしげに、怜悧な口角を鋭く尖らせて。

 

 全く正反対の気質を持つ女神達だ。

 彼女等がどうして同じ格の存在として纏められているのかと問われれば、多くの人間は首を傾げるだろう。

 

 今回の対談はまだ始まったばかりだというのに、早くも場の空気が()()()()()程にウマが合わない様子である。

 

『……しかしどうせ、その行動こそが最善であるとでも言うのだろう? 

 情報の秘匿も過ぎれば滑稽だぞ、汝』

『あら、そうでしょうか? 

 だってしっかり隠してあげないと、ファインドフィートちゃんが困っちゃうじゃないですかぁ。

 それに、ほら! ヒトは誰だって、親しい誰かにこそ知られたくないモノがあるのでしょう?』

『隠したいモノか。

 それは隠されるべきモノか、隠すべきモノなのか、場合によって異なろう。

 ……汝はそこまで考えているのか?』

『えぇ、えぇ、もちろんですよ! 

 あんまりあの子の心に近付かれると夢が遠のいちゃいますからね。

 つまり、しっかりと隠すべきです!』

『そうか、吾は隠さないべきだと踏んだのだが……。

 汝は、己の選択に随分と極まった自信があるようだな』

『それはだって、神ですから』

『……そうだな』

 

 ゆるく長く息を吐いたのは、長い銀の御髪を持つ女。

 現代に於いては『海』と呼ばれる、種族の頂点を構成する三角の一点であった。

 

 そして、『太陽』の女神が持つ異なる価値観という壁を流し見て。

 幾度目になるかも分からない程に繰り返した通り、堪忍袋の緒を締め直す。

 吐いた息に込められたのは苛立ちの棘ではなく、単純な呆れの色が濃い。

 それが女神の──"神"という生命が有する性であることを正しく理解しているからこその、歪みのない感傷だった。

 

『だしても本当に、何故こうも……』

『お悩み事ですかぁ?』

『……ああ。

 現在進行系の、深い懊悩がある』

 

 ──悩みの原因はお前だ、とは口に出さない。

 こういう語りを是正しようと討論を挑んだとしても、結局無駄な徒労に終わる。

 そもそも彼女の何かが悪いわけではない。

 善悪という基準を神に当て嵌めようと画策する時点で不適切であり、前提の時点で破綻しているのだ。

 

『……』

 

 ……しかし、それはそれとして、やはり気に食わない。

 苛立たしさに打ち震える心の淀みを振り払おうと(かぶり)を傾け、白銀の頭髪をゆらりと舞わせる。

 身に纏うのは装飾の類なぞ一切皆無の赤い貫頭衣。

 その表層をはらりと撫でて、微かな白光の軌跡を描いた。

 

『……あぁ、本当に、面倒だ』

 

 質素な椅子──良く言えば家庭的な椅子に腰を下ろしたまま、眉間に指先を添えた。

 常日頃は全く動じず、因子継承という単なる機構に徹していた彼女らしからぬ懊悩である。

 何を問えば良いのか。何を以て正すと云うのか。

『海』の女神は、これまで経験した事のない問題を前に、一切の答えを絞り出せずにいた。

 

 ……そも、『太陽』の女神がこれほどまでに独りの子供に入れ込むとは予想さえも出来なかったのだ。

 そんな彼女では──非常に口惜しくも、明快な一手は終ぞ思い付かなかった。

 何と論じれば、『太陽』の価値観にヒトという存在の構成を割り込ませる事が達せられるのか。

 何と意思(いし)を投じれば、『太陽』の心に訴えかける事が叶うのか。

 

『どうぞ、紅茶です。

 今日は良い茶葉(貢物)が入手できたんですよぉ』

『……吾は、何方かと云えば緑茶派だ』

『あら、残念』

 

 結局冴えた一手は陽炎のまま、現実の形には変容しないままだった。

 咄嗟に負け惜しみにも似た悪態をつき、そっぽを向く。

 

 配置されたティーカップに手を付けもしない。

 ただ怜悧な表情で顔を固定し、卓を挟んだ『太陽』を見つめた。

 

 ……対する『太陽』は何を言うでもなく、そっと口を閉ざすのみ。

 変わらぬ笑顔のままでカップに唇をつけ、静寂を保つ。

 

 そして、しばしの空虚に満たされた。

 ゆらりと、椅子の後ろで白亜の尾が揺れる。

 ぷかぷかと浮かぶ湯気を揃って見送り、惰性が滲む時間を過ごすばかりの──。

 

『──否、それは不適切だ。

 吾には、汝へ問うべき事があったのだから』

『へぇ、何でしょう。

 答えられることなら良いですよぉ』

『……』

 

 にこにこ、にこにこ。

 紫色で射抜く眼光を受け止めても尚、可憐な表情に変わりはない。

 声音は高く、軽やかなままで。

 いっそ、無機質なまでに揺らがない。

 

 淡々と、泰然と。

 吐息のリズムは不変で、波のように嫋やかにふくらむばかり。

 ただ細い白魚の指で白磁の器を弄んでいる。

 

 そんな彼女を観察して、そっと眉を顰めた。

 それは淡白な諦めに近く、憤慨からは両手の先の幅よりも尚遠い情動である。

 頭の片隅薄らぼんやりと理解しながらも口を開く。 ティーカップに触れることのなかった唇は、酷く渇いていた。

 

『なぁ、汝よ。

 吾は、あの幼子がどのような結末に至ろうとも……何も手を出さず、眺めるだけの木偶(デク)に徹するつもりだったのだ。

 如何な来歴を経たとしても、当者の選択によって齎された結果ならば。

 それは、吾が穢すべきではない領分だ。 誰にも穢されてはならない領域だ』

『……はぁ。

 それならそれで良いのでは? 

 だってあなた、出不精じゃないですかぁ』

『海底に沈んでいるだけだ』

『つまりは引きこもり……ってコトですよね? 

 大丈夫ですかぁ? 今度一緒にハイキングでも──』

『そうやって話を逸らそうとするのは悪い癖だな。

 吾は、汝と卓を挟んで語っているのだぞ』

 

 ──響く声を苛立たしげに跳ね返した。

『太陽』は茶化すように肩を竦める事を回答とし、口を慎む。

 

 ……けれども、聞き分けが良い様子に見えて、その実これっぽっちも内面には響いていない。

 付き合いの長い『海』には手に取るように把握出来てしまった。

 が、今この場で指摘するつもりは無かった。

 

『……なぁ。

 ヒトの末路は、行く末という選択は、ヒトの手に委ねられるべきだ。

 吾は、あの幼子の選択を尊重したいのだ』

 

 幼子、それが指す名はファインドフィート。

 ヒトとの混種。

 過去を焼却された異物。

 この数年間、一柱の女神に愛されて続けてしまった存在に憐れみを向け、小さく呻いた。

 

 "神"としては、不思議と心を擽るそれ──当初は見誤っていた少女の内面に追憶を馳せる。

 もはや、彼女が大切にしている名前さえも酷い皮肉としか思えない。

 

 ……しかしそれこそが彼女の夢の証明であり、支えそのものだという。

 故に『海』に口出しする権利は無く、そもそも悲憤を押し付ける先ですらない。

 所詮、勝手な解釈で勝手に忌まわしいものと思いこんでいるだけだ。

 『海』もそれは自覚していた。

 

『……だから、そう──アレが()()()()()()()()、終わりまで疾走するもよし。

 あるいは……思考の縛りを解いた上で動きを確認し、もしも逃げ出すのならば庇護を与えるつもりでもあった。

 それがもっとも幸せなのだと、考えていた故に』

 

 ティーカップから立ち昇る湯気の先、光に照らされるテーブルへと視線を落とす。

 元来、舞台装置(因子継承の礎)に徹することを良しとしていた彼女にとって、全く未知の領域だった。

 

 ……そして、だからこそ恐ろしかったのだ。

 神として振る舞うという"それ"が酷く恐ろしい。

 

 己等より産まれた"種族"を愛するだけの女神には、ヒトの心という概念が理解できない。

 理解できないからこそ、その存在が求めることも、恐れることも、容易く取り違えてしまえる。

 ボタンを掛け違えるよりも簡単に、水がたっぷりと入ったコップを倒すよりもあっさりと、ヒトの基準を間違えるのだ。

 

 多少なりともヒトの価値観に寄り添える『海』でさえ、それは同じ事だった。

 

『……私からあの子を奪うなんて、認めるとでもお思いで?』

『必要であれば、認めさせる。

 己で定めた"契約(やくそく)"さえも守れぬのなら。

 それは、単なる外道でしかないのだから』

『ふぅん……』

 

 気のない返事を口にしただけの同胞へ、凍えた視線を差し向ける。 棘に塗れた憐れみを差し向ける。

 神という存在は、舞台装置に徹するべきだと。 それが最適解なのだと。

 神という存在は、愛に満ちた存在では無くなる事があまりに簡単すぎるのだ。

 

 

 ……だからこそ、『海』は逆に考えていた。

 子等が選んだ道を祝福するだけの存在であれば、きっと神は間違えない。

 子等が選んだ道に必要なのは北風でも太陽でもない。

 神々という現代に於けるジャンル違いの存在は、ただの大気として在れば良いのだ。

 

 きっと、子等の選んだ道こそが正しいのだと。

 『海』の女神は、そう信じていた。

 

『が、話が変わった』

 

 苦痛(せんたく)の先に幸福が待っているのなら、『海』という女神が手を出すべきではないだろう。

 それを判ずるために多少の手助け(縛りの解除)を行い、選ぶ先を見て、そこでひとり納得していた。

 

 ……しかし、違った。 正しくなかった。

 まず前提の時点で破綻していたのだ。

 

 そもそもの思考の縛り以前。

 選択権の獲得の是非以前の、最初の最初にあった過ち。 

 きっとファインドフィートは、いつかの少年は。

 最初の喪失の(独りぼっちになった)時点で己の足(基礎)を失っていたのだから。

 

『──つまり、なあ、汝よ。

 汝はあの幼子の心が成長せぬよう、抑えつけていたのだな?』

『……。

 何を言ってるのやら、よぉく分かりませんが……。

 あっ、この紅茶美味しい……』

『話を、逸らすな』

 

 テーブルに爪を立てる。

 ぎりりと軋む木の悲鳴が部屋に染み込む。

 

 腰を浮かした彼女の耳は後方に伏せられていて、瞳孔も悲憤に歪んでいる。

 今この空間では──ゆらゆら立ち昇る湯気だけが温かく、穏やかなままだった。

 

『……親を失い、片割れをその身に宿した(のち)

 少女は心を打ちのめされ、挫折を味わい、腐る。

 しかし、(最上の薬)と共に傷を癒やし、片割れの夢の為に奮起する。

 そして新たに友を得て、人生という物語を紡ぐ──等という、()()が。

 何処までも()()()()()こそが、本来の流れだったろう』

 

 片方が生き延びたのは()()だ。 故にそれはいい。

 喪失によって心が砕ける。 なるほど、それもまた当然の結果だ。

 神である『海』とて、知識を基礎とした上でなら正誤を判別する程度可能である。

 

 故に、そう。

 だから、それこそが正しく常道で、普遍的な流れであると確信していた。

 

 無形の心を癒やす為には、時間こそが最も有効な薬なのだ。

 喪失を受け止め、涙を流し、失意に蹲る。

 それは在るべき休息で、許されるべき挫折でしかない。

 

 その後に立ち上がることで、ヒトは強くなる。

 耐えられるように、強くならざるを得ないから。

 

 故に時間だけは、どんな存在であろうと糾弾出来ない不可侵の領域である。

 歪めてはならない。 冒涜は禁忌そのものだ。

 

『……だというのに、貴様。

 選りにもよって、(最上の薬)を奪ったな?』

『…………』

『傷を癒やすための三年間も、嘗ての過去という慰めも。

 あらゆる認識を封じ、押し込む。

 そうして夢の舞台へ放り出すまで──成長(自立)するという機会さえも奪ったのか』

 

 認知機能の剥奪か、思考能力の調整か、自我そのものの封印か。

 全てを他者に委ねる(いびつ)な精神構造がいずれかの証明であった。

 

 ……ともあれ、詳細は何でも良い。

 つまり、ファインドフィートが過ごした過日の三年間は毒でしかない空虚だった。

 一度鎖を解いた程度では、自力で立ち上がるなど到底不可能。

 『海』が前提としていた土台はそこの時点で潰えていたのだ。

 

 何故、そこで神という存在が出張ったのか。

 何故、彼女の選択に神の手が介在しているのか。

 ヒトであれば至極真っ当で簡単に思い浮かぶだろう単純な疑問であれども、そこに至ることさえ難しい彼女()では随分と長い時間をかけてしまった。

 

『……あれからしてみれば、時間移動を果たした認識に等しいだろう。

 補助として知識だけは詰め込んだようだが……だからといって、万事が上手くいくはずもない』

 

 ――己の性分への憂慮は一時捨て置き。

 (ようや)く至った解を冷ややかに述べる。

 

 事の経緯は何であれ、彼女は『姉』の想いを継いだ事だけは自覚していたのだと。

 『姉』が何を考えて命を繋いだのか、何を使って肉を繋いだのか。

 それは、誰に言われずとも理解していた。 理解出来てしまった。

 

 そうして明瞭になった傷口を。

 瘡蓋(かさぶた)さえ形成されていない傷口を抉り、顕になった心を灼熱の茨で貫き、縛る。

 元々奥底にあった強迫観念を刺激し、夢追い人の称号を与える。

 祈られた通りに、夢の先まで走らせるために。

 

『因果の調整失敗? うっかり、消したと? 

 抜かせよ……よりにもよって、貴様が、そのような失態を演じるはずなど無いだろうに』

 

 傷を癒やす時間なんぞ何処にも存在しない。

 "奪われた"と形容しても、何らおかしいことではない。

 

 少なくとも、『海』にとっては単なる剥奪だった。

 選択権以前の、選択するための精神(基礎)の存在さえ許さない無慈悲な剥奪だった。

 

『聞かせよ。

 何故、尊厳(選択の自由)を奪った』

 

 徹頭徹尾、『海』はそれのみが気に食わなかった。

 

 それは幼子への慈悲の心による憤怒──だけではない。

 己達の舞台装置としての領分を履き違え、神の気品さえも損なう行いへの失望だった。

 故に、気に入らない。

 純粋に、三女神()という神格として許せない。

 

 

 ──だから、今日この日の決別は必然だったろう。

 神以外には成れない存在と、神以外にも理解を示そうとする存在。

 舞台(人生)に介入し始めた存在と、舞台(人生)を見守ることを是とする存在。

 

 それらが手を取り合って和解するという選択肢はあり得ない。

 "子"に対する姿勢の相違は、埋めることの出来ない亀裂として刻み込まれた後なのだから。

 

『──で、それってあなたに関係あります? 

 全て()の勝手でしょうに……変な所に拘りますねぇ』

『……理由を、聞かせてくれ』

『理由……ねぇ』

 

 アメジストの瞳を鋭く細め、相対する黄金の眼を見つめる。

 曇りのない透明な網膜の向こうへと焦点を合わせてみても、その内面を窺い知る事は出来やしない。

 

 

 ──けれども『海』の怒りなど素知らぬ様子の『太陽』は、指先を顎の下にあてがい暫しの熟考に浸る。

 

 何故、と問われても、すぐには理由を取り出せなかった。

 何故、何故、何故。

 その行動が至極当然で代わり映えのないものであれば、態々理由を考慮したりはしない。

 呼吸を行うのに理由が必要なのか。

 食事を行うのにお腹が空いたから以上の動機が必要なのか。

 我が子を愛するのに、愛しい以上の感情が必要なのか。

 

 彼女にとって、それが全てだった。

 あらゆる動機に理由を紐付けるなんて考えたこともない。

 

『理由……理由、ですかぁ』

 

 ──が。

 求められたのならば仕方が無いと、普段は一切使用しない脳内リソースを駆動させる。

 

 たっぷり悩んで三呼吸。

 言葉として整形するのに三十秒。

 

 声が喉を通り『海』の耳朶を叩くまで、凡そ一分。

 尖っていた唇が柔らかさを取り戻し、再び笑んだ。 純粋に、輝かしく。

 

『──だって、ほら。 あのままだとお家で悲しんでいるだけでしょう? 

 ずっとずっと、泣いているばかりでしょう?』

 

 だから、涙を止めてあげた。

 三年後の走る理由を補強するために。

 

『それなら……ねぇ。

 どうせなら何もかもを合わせて、全部を燃料に焚べたほうが良いでしょう? 

 濃縮された悲嘆も、沸騰する恐怖も、無垢でしかない祈りも』

 

 だから、心を止めてあげた。

 後から苦悩が追いつくように、最低限は受け止められるように調整をした上で。

 

『全部、全部を炉心に溶かすの。

 どこまでも、果てしなく加速するの。

 だってそちらのほうがより効率的で、あの子の希望に適う筈ですから』

 

 麗しい語り口で、花が咲くよりも尚可憐な笑顔で、雅な尻尾をくるりと回した。

 そこには邪気など一切介在していない。

 深く、深く、澄んでいた。

 

 心底から彼女の為になると確信した上での、愛に満ちた言葉だったのだ。

 

 合理性、というにはヒト(受け取る者)の通理を見失いすぎている。

 それは、対象の心根を把握した上での愛なのか。

 あるいは何も見ぬまま、盲目的に注ぎ続けるだけの愛なのか。

 

 猜疑の視線を受け止めもせず、素通りするばかりの黄金の瞳を見つめる。

 

 ……黄金であれど、ガラス玉なんぞ比較にならないほど透明だった。

 同胞の悲嘆は受け止められもせず、するりと抜けて無意味に終わる程に。

 

『──だから私は、あの子から時間(悲しみ)を預かりました。

 あの子が成長(飲み干)してしまう前に、()()()()()()()封じました』

『そうか……』

 

 そして、誠意をいくら尽くしても『太陽』の女神は変わらない。

 神は神でしかないのだから、変わらない。

 矮小なるヒトの心でさえも簡単に変わることは無いのだから、それよりも圧倒的な上位存在である神の心が変われる筈もない。

 

 言葉は、意思を伝えるための記号でしかないのだ。

 受け取る側の解釈次第で、如何様にも希釈される。

 

 言葉と言葉の交わりとは、そういうものでしかない。

 

『そうか』

 

 ……それを悟ってしまった女性は、乾いた瞼を小さく降ろした。

 悲嘆、ではない。

 義憤でもない。後悔でもない。

 彼女の胸中に居座るのは、単純な納得の念ばかりだった。

 

『……そうだな』

 

 小さく鼻を鳴らし、席を立つ。

 

 病巣ではない病巣を切除する事は不可能だ。

 それが分かっただけでもこの場に訪れた意味があった。

 

 この結論を以て、彼女等の間に横たわる認識の隔絶を決定付ける。

 

 これ以上に語るべき口はなく、尽くす言葉も存在しない。

 何もかも、無くなってしまった。

 

『……もう帰るんですかぁ? 

 まだ来たばかりだというのに』

『心にもない事をよく言う』

『あら、私がそんな外道に見えますかぁ?』

『見えるが』

『……ほんと、心外ですねぇ』

 

 事実、神としては外道ではない。むしろ正道だ。

 己の価値観のみを基軸とするその在り方には一点の曇りも無かった。

 ……三女神()としては、別の話であろうが。

 

『ああ、そうだ。 忘れていた』

『……おや、まだ何か?』

『最後に、一つ。

 あの幼子を何と重ねて見ているのかは知らぬが……』

 

 背中越しに『太陽』に一瞥をくれた。

 亜麻色の頭髪を揺らし、呑気に紅茶を楽しむ彼女へ向けてかさかさに乾いた唇を震わせる。

 "もっと優しい道は選べなかったのか"と、先に立てなかった哀愁を込めて。

 

『……今の汝は、随分と醜いぞ』

 

 ──その記号(コトバ)だけは酷く湿っていた。

 宿っていたのは憐憫か、哀愁か。

 その何れかに近しい情感だった。

 木漏れ日の仄かな残香を想起させる程に、水平線の波よりも穏やかな。

 

 そして、残したのはたったそれだけ。 振り返りもせず去っていく。

 それはきっと認識に隔たりの無かった過去を思えばこその、友としての手向けでもあったろう。

 

『……あぁ。

 ウスノロ風情が……知った風の口を、利くじゃあないですか』

 

 ……けれども、その真意が汲み取られるか否かは別の話。

 意志の交わりとは所詮、そういうものでしかないのだから。

 

 


 

 

 どうか、お願いします。

 

 あの子を、夢の先に連れて行ってください。

 あの子はとても臆病だけれど、それ以上に優しい子でした。

 限りのある命を精一杯生き抜こうと足掻く、勇気ある子でした。

 あの子こそが、()の宝物なのです。

 

 ……だから。

 私ではなく、あの子を助けてください。

 これから生き損なうべきは私です。 死に損なうべきはあの子です。

 そのためになら私の全てを使っても構いません。

 私の片割れを、幸せにしてあげてください。

 

 どうか、『約束』して欲しいのです。

 私達の女神さま。

 

 

 ──そして、もし叶うのなら。

 いつか、しわくちゃのお爺ちゃんになったあの子と、苦痛のない穴の底で再会できますように。

 

 



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シニア級 / 星に刻むライオンハート
32話


 

 

 ひたり、ひたり。

 ぴちゃり、ぴちゃり。

 頬を打つ雫の冷気を受け、眠気でぼやける視界を開いた。

 

 ……一呼吸。 また瞼をおろす。

 二呼吸。 もう一度瞼を押しあげる。

 半呼吸、やや落ち着かない焦点を強引に調律し、頬の湿り気を指でこそぎ落とす。

 網膜に癒着する眠気を刺激で削り剥がす。

 けれども、ふわふわと浮つく意識が定まる事は中々どうして難しい。

 

「…………」

 

 それでも、力ずくで瞼をこじ開けて。

 青褪めた双眸で最初には認識したのは、真っ暗な天井だった。

 

 照明も窓も無い、光の欠けた空間。

 そして横たえられた背に伝わるのは床板の硬く冷たい感触。

 じっと身体を床に押し付け、浅い呼吸を繰り返した。

 呼気を吸うと同時に押し上げられる胸だけが、彼女の肺の正常な駆動を保証する。

 

 ぴちゃり、ぴちゃり。

 そしてもう一度。 加えて合わせて二度の滴が頬を叩いた。

 天井から水気が染みだし、珠を作って滴り落ちて。

 ざあざあと床を伝って伝播する雨音と併せて、ファインドフィートの頭蓋を優しく揺らす。

 

 ──そこで疑念を覚え、"おや"と眉を顰めた。

 何故、明かりも何も無い空間でありながらも明瞭な視界を確保できているのか。

 外光を取り入れる窓も電気の流れる照明も、小指の先ほどのロウソクさえ無い。

 かといって光る苔が壁にこびり付いている訳でも無いし、曇った蓄光ガラスだって存在しない。

 

 ならば何故なのかと、漏れ出る僅かな逡巡を瞳に宿して──。

 

 けれど、それ以上の感慨は生み出せなかった。

 ただ朧気な自我のまま、瞳をすっと細めて停止する。

 もう一度、穏やかな眠気の到来を望みながら。

 

 だって、せっかく休んでいるのだ。

 せっかく眠っていたのだ。

 一時とは言え胸の痛みを忘れることが出来ていたのだから、もう少しぐらい目を瞑っていても良いじゃあないか、と。

 声にならぬ程小さく、不明瞭な呟きで唇を震わせた。

 

「……寒い」

 

 ──しかし、襲いくる寒気が彼女を包む。

 父よりも厳しく、母よりも苛烈に床を這いずり埋め尽くした。

 

 ただ寝っ転がるだけの怠惰は許さないと言わんばかりだ。

 横たえた身体をふるりと震わせ、存在しない熱気を生み出せないかと足掻いてみる。

 

 が、両足を擦り合わせようと不足。

 衣服を引っ張って露出を隠そうとしても無駄。

 上の制服はまだしも、スカートを変形させることは不可能だった。

 むしろ太ももの裏までずり下がって逆に寒くなる始末である。

 

 ……結局、室温の抱擁は簡単に振り払えるモノではないのだ。

 適した衣服が無ければいとも容易く柔肌を蹂躙し、温度を奪う。安眠を穢す。

 

 そうと理解したのは、目を覚まして数分後の事だった。

 

「はぁ……」

 

 ため息と共に体を起こす。 追尾する芦毛の頭髪が背を擽った。

 今となっては慣れきった感覚を背に、周囲をぐるりと見渡してみる。

 

 暗闇でありながら明瞭な視界。

 その隅々までを見つめて──もう一度、"おや"と首を傾げる。

 大きな青い瞳を幽かに揺らして、あちらこちらへ寄る辺なく彷徨わせて。

 

 壁に掛けられた大きなテレビは真っ暗だ。

()()はニュース番組を映していたはずの液晶は沈黙を守り、ファインドフィートの顔を反射させる。

 いつも通り、青い瞳の少女が無表情のままで睨み返した。

 

 その横には空っぽの本棚。

 嘗て存在していた天文学の本は一つ残らず姿を消して、代わりに伽藍堂の惨めな虚を晒していた。

 たくさんの夢を詰め込んでいた玩具箱も同じく空っぽ。

 望遠鏡も星座盤も、何処にも有りはしない。

 夢の(きざはし)の、何もかもが。

 右を見ても左を見ても、上を見ても下を見ても。

 表も裏も平等に無価値を語る。

 

 ファインドフィートが──否、『弟』が本当に大切にしていたモノは、夢の世界からも消え失せていた。

 学習机の上にあったはずの写真(四人家族)も、何もかもが。

 

「……くだらない」

 

 ──"夢だな"、と即座に直感した。

 "女々しいですね"、といつかと同じく自分を罵った。

 

『双子』が住んでいた子供部屋の、在りし日の姿。

 残骸ですらなくなった残り滓。

 その中央でぽつんと独りで、何をするでもなく居座った。

 以前は存在していた『姉』の残骸さえも欠いた空間に、ざあざあと伝う雨の音ばかりが虚しく響く。

 

「本当に、女々しいよ」

 

 空っぽの本棚を視線でなぞる。

 空っぽの玩具箱に哀愁の言葉を放り込む。

 

『ファインドフィート』という殻を被れども、この閉じた世界では無力な臆病者でしかないのだ。

 虚飾は無為。 強がりは無駄。

 少女に許されるのは不格好な言葉を吐き出すことのみ。

 他に出来る事は何もない。

 他に行うべき事は何もない。

 ファインドフィートは己を省みて、そう確信した。

 

 ……だって、現状は良い方向に向かっているばかりだ

 

 だから、今更削り落としたモノに意識を向けるべきではない。

 死に損なったくせに、託されたくせに、救われたくせに。

 

 だから、()()()は必要な行いだったのだと、小さな棘を吐いた。

 けれどそれは出血を伴い、微かな正気を与えてしまう。

 その正気こそが己を苦しめるのだと知りながら、己に痛みを強いる。

 

 ──本当に納得しているのなら、自己を削り落とす行為を正しいと信仰しているのなら。

 態々夢の中に沈んでまで、唇を噛む必要など無いというのに。

 

「けどさ、どうしようもないんだよ。

 今更こんな夢を見たって……ぼくには、どうしようもないんだ」

 

 痛みに煮えた頭蓋を揺らし、夢の欠けた虚空を見つめて。

 ただ、言い訳がましく口を開く。

 己の言葉こそが最も白々しいと自覚しながら、何度も何度も偽りを重ねて塗り固める。

 

「だから……そんな目で、ぼくを見ないで。

 鏡のくせに、ぼくを睨み返すなよ」

 

 だから、この夢を的確に表したのなら。

 この内界に向けた流血は自罰の戒めではなく、追憶の感傷でもない。

 透明な納得には程遠く、濁った後悔に近い。

 

「ぼくを見るな。ぼくを映すな。ぼくを見せるな。

 ……ぼくの中身を、暴かないで」

 

 そして、ヒトは。

 微かに澱むそれを指して、何と表すのか。

 ファインドフィートは、己が捨てたものに何を見出したのか。

 削り落としても尚、腐れた夢に見るほどの執着を何と形容するべきなのか。

 

「あぁ……ダメだ。 ちがう、ちがうんだ。

 はやく目を覚まさないと、はやく忘れないと……」

 

 自責を以て自己を封じ、己の傷口からは必死に目を逸らし続ける。

 子供が恐怖から逃避するように、両手で押さえて蓋をする。

 そうしてずっと己の本性を自覚しないまま、膝を抱えて蹲った。

 

 己は、間違えてなどいない。

 全てを委ねた己は間違えない。

 だから正しい。

 正しい。正しい。正しい。

 間違いなく正しい。

 正しいから、正しいのだ。

 

 鎖を巻き付け、盲目的な自己暗示を繰り返す。

 幾重にも幾重にも、何度も何度も。

 

 自縄自縛のそれは、やがて日が昇り、瞼の裏に意識が浮上するまで終わらない。

 そうでなければ、己を見失ってしまう気がしたから。

 

 


 

 

 

 シニア級。

 それはトゥインクルシリーズの出走者に割り当てられる等級のひとつである。

 初年度のジュニア級から始まり、二年目のクラシック級を走り抜けた者が到達する戦場。

 つまり、中央という激戦区で、最低でも二年間ものキャリアを積んだ者ばかりという事で。

 ファインドフィートの行く道が更に苦難に満ちた物になるという、ある種の必然を運ぶ事実であった。

 

 その上、彼女の最終目標は九冠ウマ娘。

 クラシック三冠に加え、春シニア三冠、秋シニア三冠を獲得することで九冠とする。

 

 前代未聞かつ前人未到の領域であり──当然ながら、彼女に課せられるハードルは青天井に高まっていく。

 加えてメイクデビュー以前より公言していたという事実と、実際に無敗三冠に至ったという実績。

 それら美しい色付きガラスが綺羅びやかなレンズとなり、勝ち取ったレースの熱狂が壮大な照明となる。

 そして太陽の如きそれが彼女を照らし、『ファインドフィート』という虚構の影を実像として結ばせるのだ。

 いっそ彼女自身と乖離しかねない程に、どこまでも大きく。

 

「けれど別に、悪いことじゃないんです」

 

 携帯端末の液晶を指で弾き、独り言ちた。

 ()()()()に悩まされた故にふらつく頭を右手で支え、平坦な声音で。

 

「……だって、わたしは間違えてない」

 

 日光を反射する青い虹彩が画面の遷移を見届け、メッセージアプリの起動を()めつける。

 レース練習用の運動場に向かう道中、冬の寒気で凍てつく午前の空気。

 ……しかし、ただ冷たいだけの外気では彼女の頭は静まらず、うなじを這い上がる苦味は消えること無く居座ったままだ。

 

「だから悪いことじゃ、ないのに」

 

 視線の先で踊る文字は、一言に要約してしまえば単なる謝罪文だった。

 昨年に続き初詣に誘ってきたトウカイテイオーに向けて、下唇を軽く噛み締めながらも(したた)めたそれ。

 つい二日前に送信された瞬間と変わらずに──無味乾燥で平坦な姿を保っている。

 

「…………」

 

 画面の下部に入り込んだ優しい返答からはそっと目を逸らし、雪解け水で湿った地面に視線を落とす。

 石畳の表層と昨夜の夢の床板が重なって見えた気がした。

 

 ……けれど、ファインドフィートが今更どう対応しようとも関係ないのだ。

 既読の表示はとうの昔に相手の液晶まで辿り着いている。

 だから結局、無意味な足掻きでしかなかった。

 

 

 ……だから、そう。

 だから平穏な初詣への未練なんぞ早急に切り捨てるべき雑念だ。

 今はそんな事を考えるべきではない。

 

 忘れるな、と自己の裡を戒める。

 間違えるな、間違えるなと幾重にも束縛する。

 ファインドフィートは『ファインドフィート』としての義務を果たさねばならないのだから。

 友人達との団欒を楽しむのは今日でなくても良い。

 また明日や明後日に回せば問題は無い。 問題は何も無いのだ。

 

 それに──その選択を祝福するかの如くに、今日も変わらず快晴の空だ。

 彼女が屋外でトレーニングをする予定の日、あるいはレース本番の日などは高確率の晴れ模様。 まさしく晴れ女というに相応しい。

 胸を反らして仰いだ先の日輪に目を細め、ひとつ頷く。

 気炎万丈(責務の為に) 意気衝天(弔いの為に)

 今日の天気だって笑い顔なのだから、己の選択は正しくあるに違いない、と。

 無垢で盲目的な確信を抱き、ジャージの裾を風に揺らした。

 

 ……ただ、葛城トレーナーが傍に居ない事は少しだけ残念だった。

 幸いにも自主トレーニング用のメニューは用意されており、何も出来ないなんて事故は起こらない。

 が、トレーニングとしての質の低下は免れず、適切な補助を受けることも不可能で──。

 ……独りでトレーニング、というのは、酷く心細く、寒いのだと、僅かな惰弱を胸中に零した。

 

「……わたしに、もっと優れた才があればこんな弱さは無かったのでしょうか。

 独りでも正しく自分を運用できる機能があれば、もっと強くなれたのか。 あるいは──」

 

 そのまま独りに耐えきれず、無様に壊れるのか。

 解の出ない問いに思慮を巡らせてみる。 解が出ない()()熟慮を巡らせる事ができた。

 

 まず、ファインドフィートというウマ娘自体は然程の才能に恵まれなかった"持たざるもの"だ。

 外部の動力(姉の心臓と女神の祝福)を受け入れることで無敗の三冠足り得るのが彼女であり、それ以外に優れたモノは宿せなかった。

 

 ……もしくは、その()()()()()という"器"としての機能を才能に含めるのであれば、"持つもの"として分類出来るかもしれない。

 彼女と彼女の『姉』が持つ、現代にあるまじき"神に訴えかける"という才。

 それを良いものと捉えるか否かは、また別の話になるのだが──ある意味で、天稟の権化と表すに相応しい。

 

 そうであれば意外と、トレーナー無しの自己運用も可能かもしれない。

 もし担当トレーナーを確保出来なかったとしても、能力の確保は啓示に頼れば良いのだから。

 ……ただし、その先に待つ日々が善いモノだとは欠片も期待出来ない。

 

 ──が、ともあれ、斯様に考察しようと現在は変わらない。

 ファインドフィートは専属のトレーナーを持ち、着々とトレーニングに励み、次のレースに向けた能力値を完成させつつあるのだ。

 その時点で考える意味のない、暇つぶし以下の思索だった。

 

「足りないものは……確かにありますが、環境としては満ち足りてますから」

 

 ステップを踏む。

 返る衝撃が足の骨を震わせる。 伝う重さは初年度よりも大きくなっていた。

 

 それこそ、他に必要なものは──意外と単純で、ファインドフィート自身の"慣れ"である。

 レース、即ち走ること。それ其の物への適応。

 他者とは違い、ウマ娘として生きた年月が圧倒的に短いのだ。

 その上、ファインドフィートは中等部への入学(自我の再獲得)直後からトゥインクルシリーズに出走している。

 本格化に数年掛かる者も珍しくないウマ娘達の中では、程々に早い方だろう。

 つまり彼女は十三年もの月日という経験(ねんれい)の差を埋める必要があり──その欠落は、高々ニ年の実践では補いきれないモノだ。

 

「……だから、とにかく走ること。

 勝つために、限界まで走ること……。

 それが、正しい。 わたしは正しい……」

 

 自己暗示としてぶつぶつ唇を震わせる。

 そうでもしなければすぐに()()()しまいそうで、不安が胸中を埋め尽くしてしまう。

 

 けれど心の内は顔にも尾にも出さないままで、こつりこつりと道を行く。

 蹄鉄の音が小気味よく反響し、人気の少ない往来をほんの少しだけ賑やかに彩る。

 彼女自身も装蹄師の(むすこ)なだけあり、日頃の手入れは入念かつ手際よく行われている。

 その日々積み重ねられた献身に応えるかの如く、こつりこつりと軽やかに反発した。

 高く澄んだ、機嫌の良い音だ。

 

 こつり、こつり。

 道中を共にする音を聞いている内に、ふと疑問を抱いて飾りを欠いた耳を揺らした。

 

 この音霊が包む中で新年の空気を肺に取り入れてみれば、多少は気も晴れるのだろうか。

 この胸の奥で燻る澱みも、涼風に溶けて消えてくれるのだろうか。

 

 そんな淡い疑問、あるいは仄かな期待を浮かべて深呼吸を繰り返す。

 鼻から吸って、口から吐き出す。

 胸を張って、大きく大きく。

 過去にあったラジオ体操を思い出してしまう程、真剣に。

 今は冬だというのに真夏の空を仰いでいる錯覚を得て、どうにもおかしかった。

 

 ──残念(とうぜん)ながら澱みは消えない。

 そも、何を由来とする澱みなのかすら自覚していないのだ。

 少なくとも、澱みを澱みとして認識している内は消える筈が無い。

 

 だとしても大真面目にバカみたいな事をしたおかげなのか。

 ほんのりと、あわく、僅かでも気分は晴れた──ような、気がした。

 

「でも姉さん。

 人生なんて愚行の連続なのでしょう?

 お父さんもお母さんもそうだったのですから。

 だからわたしは、きっとまともです。 たぶん、まともです」

 

 ……()()が錯覚なのか、そうではないのか。

 きっと空に御座(おわ)す女神でさえも知り得ない事だった。

 

 ──ともあれ、事実が何だろうと彼女の道は変わらない。

 茨は延々と傷を抉り、往くべき未来を啓示する。

 黄金の楔が祝福を重ね続け、痛苦の熱が頭蓋を炙る。

 

 ……そしてそれが。

 その愛が、ファインドフィートの新年という始まり(おわり)を定義する。

 三年越しの宿願を叶えよう。 三年越しの悲嘆を燃やしつくそう。

 それを以て"しあわせ"の成就とし、『約束』の結実を示す路標としよう。

 

 女神の玉音が、違えなく彼女の脳裏に焼き付いた。

 それが"正しさ"だと。 それが"救い"だと。

 それが、あなたの為なのだと。

 

……本当に? 

 

 狂い始めた太陽は未だ翳らず。

 眼下の少女を無慈悲に照らし、燦々と輝いた。

 ぎらぎらと、じりじりと。

 

 






ファインドフィート
 
 ミトモ ヒトミ
『弟』
 シニア級、無敗三冠ウマ娘。
 癒やされず、抉られ続け、ついには膿んだ心の傷口。
 今となっては隠しきれず、時折中身が零れ落ちる。
 じゅくじゅくと、どろどろと、からりと乾いた空の下に。

 トウカイテイオー
 シニア級、不屈の帝王。
 王道を往く彼女はある時、ひとつの気付きを得た。
 時には邪道へ踏み込む覚悟も必要になる。

 ミホノブルボン
 シニア級、坂路の申し子。
 信念の鎧を纏う乙女。
 ほうき星よりも鮮明で、すぐ傍らにある。

 ゴールドシップ
 ──級、黄金不沈艦。
 学年不詳、出身不明。



『太陽』
 私以外の神に、祈らないでください。



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33話

 

 あんだって? 

 最近フィートが素っ気ない? 明らかに疲労が溜まってそう? 

 ……なるほど、それで気分転換も兼ねて外に連れ出したい……と。

 ほォン……。

 

 正面から言ってもダメなんだな? 

 ……ああ、もう既に失敗してんのか。

 

 ……。

 

 よし……ブルボン、おめーに秘策を授けよう。

 このゴルシちゃん様に海よりも深く山よりも浅く感謝しろ。

 そのカワイイおくち開いてしっかり聴けよ? 

 

 いいか、まずは──。

 

 


 

 

「……ショッピング、ですか? 

 それは、その……お買い物、という意味で?」

「はい、そのショッピングで合っています。

 つまり私と一緒にミッション、『放課後ショッピング』に勤しみましょう、というお誘いです」

「なる、ほど……」

「ちなみに、途中でライスさんも合流する予定です」

 

 昼、カフェテリア。

 ミホノブルボンと偶然遭遇し、席を共にしたファインドフィートへ。

 淡々と、粛々と、一つのテーブル内のみで響いた誘い文句がするりと耳朶を撫でた。

 

 一拍を掛けて、語句を解体する。

 二拍を掛けて、意味を理解する。

 その誘い文句には彼女の手を停止させる程の、あたたかな情の重みが込められていた。

 ハンバーグを切り分けていた両手の食器は油に塗れたまま宙ぶらりん。

 視線を上方に逸らし、うんともすんとも言わずに沈黙する。

 

 対するミホノブルボンも口を閉じたまま。

 合流時点で既に空になっていた食器をさり気なく横に避け、そのまま微動だにせず正面にある少女の顔をじっと見つめた。

 

「……なるほど。

 それはとても、楽しそうです」

 

 あらゆる建前を取り去った本心を語るのなら。

 何も考えずに"はい、行きます"と同意したい気持ちはあった。

 

 一年目であれば二つ返事で了承しただろう。

 二年目であれば三秒程考えた後に、小さく尻尾を振っておずおずと頷いた筈だ。

 ……しかし、三年目となった今では、逡巡のみが彼女の脳内を埋め尽くす。

 

「ですが、わたしは」

 

 枯れ果てた蔦が手足を縛り、安寧を遠ざけて。

 義務に背を向け夢以外の為に時間を費やすことを、一切の慈悲も無く叱咤し続ける。

 それはほんの数日前──初詣への誘いを断ったときと全く同じ、胸の奥から這い出る囁きによるものだった。

 言葉、ではない。痛みともまた別のモノ。

 

 "そうするべきではない"。

 "夢の為には正しくない行いだ"と。

 直感に酷似したナニカが、彼女の精神に訴えかけるのだ。

 

「今日は、今日も、練習しないと。

 わたし、走るのが下手ですから」

「……それは」

 

 つまり、答えの決まりきった逡巡である。

 抗う気概など存在しない。

 人間らしい精神の成長を獲得できる機会は、とうの昔に喪失済みだ。

 

 故に本当のところ、返答は最初から決まっていた。

 

 求められた通りに唇を震わせる。

 小さく、掠れた声音で。

 

「だから、ヒト一番練習しないといけないんです。

 せめて──もう少しでも、速く走れるように」

「昨日も、そう言いながらフラフラになるまでトレーニングしていたではありませんか」

「そうです。

 だって、そうでもしないと勝てないじゃないですか。

 たくさん、たくさん鍛えないと、休む時間は最小限で、最高効率にしないと──」

「──フィートさん……過酷なトレーニングは、必要なものではあります。

 "つべこべ言わずに走る"べき瞬間が、確かに。

 ですが、時折には……ほんの少しだけ、夢を遠ざける休憩時間も必要になるのです」

「……」

 

 ──ただ、喉の奥が、軽く抑えつけられた気分だ。

 柔らかな指先で、小さな小さな力で、棘が突き刺さったままの患部を撫でるように。

 

 彼女はこういう時、何と返すべきなのかを知らなかった。

 言論には言論を以て対立する方が正解なのか? 

 しかし彼女には適切な語句選びなんぞ出来はしない。

 

 そもそもの前提条件として、彼女はミホノブルボンの言葉を否定したい訳でも無い。

 ただ、ファインドフィートにはファインドフィートの事情があって、偶々それと衝突事故を起こしている。

 故に放課後の自由時間は使えない──ただ、それだけの事だった。

 

 けれどそれは、言語化さえも難しい酷く複雑な事情だ。

 どのように諭せば通じるのかは思いつかない。

 

 再度、当初の問題に立ち返る。

 悩めば悩むほど、知らず知らずの内に尻尾も耳も垂れ下がっていた。

 ……尤も、その状態を知らないのは当人ばかりであるのだが。

 

「ブルボン先輩。

 わたしは、夢を叶えないといけないのです。

 そのためには、休んでばかりもいられない。

 ……それに、ほら。

 何もオーバーワークという訳じゃあないのですから、何も問題ないでしょう?」

「……」

「……ブルボン先輩?」

 

 言い訳がましく舌を回した少女の(かんばせ)

 青褪めた瞳、白い顔。

 それをミホノブルボンの瞳が鋭く射抜く。

 

 まさか理論の欠片も介在しない弁明で矛を収めたのか。

 ……当然ながら、そうでもない。

 

 ミホノブルボンは椅子に座したまま、ファインドフィートの肌を見つめた。

 初めて出会った二年前と変わらない、白い肌だ。

 少女らしく瑞々しい印象を与える柔肌をじっと見つめ──過去のデータと照らし合わせ、脳裏で計算を重ねる。

 

 目は口ほどに物を言う、と表すには対象が些か違うけれど。

 顔や身体を細やかに観察した方がより詳細で、正確に中身を推察できる事は実に正しい。

 特に口下手な秘匿主義者に対しては効果的である。

 

 事前にゴールドシップから受けたアドバイスを思い返した。

 "口で聞くのではない。身体に聞くのだ"。

 

 それを言われた通りに実践した上で確信する。

 "なるほど、たしかにその通りでした"と。

 対面の少女に悟られない程度の、小さく微かな納得の呼気で喉を鳴らした。

 

「──血色の解析を完了。 表情の解析を同時に完了。

 測定した結果、平常時の平均よりもおよそ6%ほど青みが強いです。

 また、目尻が平均より1ミリほど垂れ下がっています。

 つまり……ステータス『疲労』の影響によるものと推測されます」

「……?」

「フィートさんの事を話しています。

 今あなたの後ろにはゴール──いえ、誰も居ません」

 

 訝しげに後方へと身体を回そうとするファインドフィートに鋭い指摘が入る。

 その後方に誰も居ないという言葉は疑わずに信じた様子で、再び正面へ居直った。

 が……それでも、己の調子に対する評価は想定外そのものだ。

 

 ()()()()()()()()()()身体の調子は常に好調。

 怪我は無い。

 食欲も旺盛。

 夜だって、()()()()眠れる。

 

 だから、まさかそんな筈は無いだろうと疑念を抱いた。

 

 頬に手を当てて、むにむにとほぐしてみる。

 指先に伝うのはいつも通り、生者のあたたかい感触だ。

 

 ……無論、鏡でも見なければ顔色なんぞ判別つかない。

 ミホノブルボンが言う『疲労』とやらが正しいのかを確かめるなんて出来やしないし、頬が無駄に変形するだけ。

 

 ……そもそも、毎朝鏡を見ているくせに特段の異変は発見していないのだ。

 今更鏡を見たところで"これは疲れていますね"なんて理解できる訳がない。

 どちらにせよ、無意味な行いだった。

 

「……だとしても、わたしの健康状態はトレーナーが管理しています。

 適切な(限界ギリギリ)のトレーニング量と十分な(壊れない程度の)休養によって、少なくとも怪我のリスクは最小限に抑えられている筈です」

「だから問題は無い、とは言い辛いでしょう。

 それに……時間を最高効率で活用したからといって、結果も最上になるとは限りません。

 定期的な気分のリフレッシュを行う事によって、日々のパフォーマンス向上とステータスの底上げに繋がるのです」

「ですが、わたしは──」

「──フィートさんは、私とのお出かけが嫌なのでしょうか」

「いえ、それは違います」

 

 しょんぼりヘタレた耳を見て反射的に否定する。

 まかり間違っても、それほど冷血な存在であるなどと認識されたくはなかった。

 

 ……何はともあれ、議論は平行線のまま。

 けれどこうも続けて誘われてしまうと、芯がブレてしまいそうだった。

 ほんの数分前の決意があっさりと、使い古したペンよりも簡単にへし折れてしまう。

 

 だって、実に楽しそうで良いではないかと。

 やっぱり少しだけなら一緒に遊んでも良いのではないかと。

 毎週、どこかの放課後で、友人達と遊び呆ける──どうしても、そんな日々を夢想せずにはいられないのだ。

 

「……ですが、ええ。

 何にしても、まずはトレーナーに許可をとってからでしょう。

 そうするべきです、間違いなくそうです」

 

 腹の底から湧き出る苦味は、罪悪感と称されるべき心の澱みだ。

 いつになっても薄まらず、そのくせに致命的ではない、生かしも殺しもせずに染みる毒。

 

 それをどうしても呑み干せず──結局己のトレーナーに逃げ道を求めてしまった。

 血の通わない制度を振りかざすようで幾らか申し訳ない、とは思う。

 しかし、彼女が知りうる限りでは他に道は無く、正当性のある回答も存在しない。

 

 飾りのない耳を揺らし、右上に視線を彷徨わせる。

 その釈明は、決して嘘ではない。

 ひとりの競走ウマ娘としての偽りのない本心だった。

 

「はい、確かにその通りです。

 基本的に、専属トレーナーの指示には従うべきですから」

「でしょう。 つまり──」

 

 ……その内心が何であろうと、時計の針は等しく回るもの。

 

 安堵の情が喉元に絡まり、懺悔の念が臓腑に突き刺さる。

 結果的に拒絶することを思えば酷く心苦しく、痛苦を伴った。

 

 だからきっと、感じた"安堵"とやらは正しい意味での"安堵"ではない。

 これ以上なく粗悪な代替品で、かといって振り払えもせず。

 そうしてじわじわと喉を締め上げる様は、真綿の縄にもよく似ていた。

 

 

 ……しかし、それでも。

 ファインドフィートは、己が正解を選ぶために自由を切り捨てた。

 夢を追いかけるとは、多くを切り捨てること。

 彼女は骨身に染みる程にそれを理解している。

 

 ──だからファインドフィート()、そうした。

 

 けれど忘れてはならない。

 そもそも選択権とは一個人にのみ存在するものではなく、この世に生きるすべての生命体に存在する極自然な権利の事である。

 

 つまり。

 ミホノブルボンの選択に、ファインドフィートは関与できない。

 

「ですので、事前に許可を頂いてきました。

 マスターを経由し、フィートさんのストレスケアの名目で」

「……?」

 

 思考が停止する。沈黙に準じる。

 寸前まで巡らせていた熟慮が破断し、ファインドフィートの四肢から動きを奪い去る。

 

 そして──ただ、"?"と。

 一切の混じり気がない疑念を頭上に滲出させた。

 

 訳が分からない、説明して欲しい。

 そのような当然の追求も一切ひねり出せなかった。

 

「その結果、問題ないとの返答を受けています。

 "そういった事に聡いキミ達がそう感じたのなら、それが正しいのだろう"……と」

「……?」

 

 口を半開きにした芦毛の少女に向けて淡々と"決まりきった結果"を語る。

 もはや過程を詰める行為さえ不要であり──ただ眼の前の()()()の意思ひとつで何方にも転がっていける。 他に必要なものは何もない。

 理論武装は不要なのだと、取り消し線を引いたスケジュール帳で無言に表す。

 

「はい、これで決定です。決定したので覆せません。

 授業が終わり次第、校門前で集合しましょう」

 

 強引だろうか? 

 ……いいや、これが最も適正な押しだ。

 別に無理を押し通しているわけではないのだから、まったくおかしくない。

 

「あの、ブルボン先輩、わたしはまだ──」

「──ステータス、『高揚』を検知……。

 いわゆる、待ち遠しい心境です」

「…………」

 

 なおも言い募ろうとしていたファインドフィートを心苦しくも(アドバイス通りに)黙殺。

 二の句を告げられる前に空っぽの食器をトレイの上で纏めてしまう。

 

 事前にアドバイスを求めたゴールドシップ曰く、"これが最も効果的"。

 前提条件さえ揃うのなら、ほぼ確実に成功するだろうと伝えられていた。

 ……もちろん、"今回に限っては"という但し書きがつくのだが。

 

 ともかく、ファインドフィートという少女は押しに弱い。

 だから"押してダメなら引いてみる"、ではない。

 "押してダメなら、更に押す"のだ。

 

 その上、このお出かけ自体はファインドフィートも嫌がっておらず、むしろ好ましいと感じている。

 そういった内面程度、これまでに幾度となく交流を重ねていたミホノブルボンにはまるっとお見通しだった。

 

 強情でありながら強情ではない少女の未来にほのかな心配を向けつつ、撤退の準備を整え終えた。

 席を立ち、芦毛のつむじを見下ろす。

 普段よりも小さく、あるいは、幼く見える。

 

 だからこそか。

 "もしも私に妹が居たら"と、あり得ざるIFを想像するのは思いの外簡単だった。

 

「……ではフィートさん。 また放課後、校門前で」

「あの──」

「待っています」

「……はい」

 

 ──背中が遠のく。

 栗毛の長髪を揺らし、尻尾を振って。

 

 少女の姿をぼんやりと見送って──ファインドフィートは、ゆるく、深く、長い溜息を吐き出した。

 結局、予定は変更になるようだ、と。

 ファインドフィートの意図した苦行から、意図しない安寧へ。

 ここまで環境を整えられた上で断るなんぞ、そんな選択肢をとれるだけの精神性は彼女の中に存在しなかった。

 

 ただし、ファインドフィートが求めていようと、ミホノブルボンが求めていようと、何方(どちら)であっても、あるいはその両方であっても。

 夢に不要な()()を女神が認めるのか、否か。 全てはその裁決次第だ。

 

「…………」

 

 紅茶を呑み干し、もう一つ溜息を吐き出す。

 空になったカップの底を眺め、どちらになるだろうかと考えた。

 白磁の器が照明の光を受けて屈折せずに輝いている。

 単純な物理法則に従うそれらを眺めて、すっと目を細めた。

 

「しかし、これは……些か、無理があるのでは?」

 

 ファインドフィートは、認められない筈だと予想した。

 余計なことには手を伸ばさずに居たほうが効率的なのだから、女神は拒絶を推奨するはずだと。

 時間は有限。 リソースにも限りがある。

 ならば娯楽は可能な限り切り捨てて、訓練だけに励んでいたほうが着実に夢へ近付けるに違いない。

 

 それこそが、女神の基準だった。

 現実と理想と女神の基準と照らし合わせた結果が、ファインドフィートの現在に繋がっている。

 

 ……ただし、精神から余分を切り捨てるという思想が彼女の精神を守っているのか。

 そもそもの精神状態を考慮しているのか。

 根本的にヒトにとって正しい在り方なのか否かは、また別の話だ。

 

「…………」

 

 もっとも、それをいくら考えようとも意味はない。

 ヒトは神の御心を知ることなど出来やしない。

 

 なにせ幾千年もの時間を掛けても尚解き明かせぬのだ。

 ファインドフィートが数年考え込んだとしても、その内面を理解することは不可能に等しい。

 

 ──故に、裁決を待つ。

 肩を縮こませて呼気を大きく吸い込んだ。

 

 以前が許されていたのなら今回も大丈夫かもしれない。

 そんな淡い期待も心の裡にあった。

 望み薄であろうとも、"もしかしたら"を捨てきれない。

 

 既に多くを捨てて身軽になった後なのだ。

 もうこれ以上に心の殻を削り落とすのは不要なのではないか、と。

 もう余分と呼べる余分は存在しない筈だと、喉を細める。

 

 だって、あれもこれもと失い過ぎて──残りを数えるのに、片手の指で足りてしまう。

 大切な宝物。 美しいもの。 今までの彼女を構成し、育ててきたもの。

 それらが今の彼女を象る精神の外殻だ。

 

 既に失ったものに対して後悔するのは正しくないのかもしれない。

 けれど、まだ失っていないものに縋り付く行為は正しいに違いない。

 執着などという酷く人間臭いモノから生じる情動なんぞ、正しいに決まっている。

 

 ……しかし。

 そんな当然であるべき思想さえも疑うのが、ファインドフィートという子供だった。

 喉首から溢れる薄氷の怯えは声にならず、空気としてひゅうひゅうと抜けていくのみ。

 

「……だから、女神さま」

 

 呼吸を連ねる。

 ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。

 

 肺の中を満たす空気は、やはり苦いまま。

 むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、とお。

 

「わたしは、今、正しさを守っています」

 

 ──啓示(痛み)は、訪れない。

 胸を押さえる手のひらを規則正しい鼓動の振動が跳ね返す。

 

 とくり、とくり。

 身体を動かす熱を血潮にのせ、鼓動が運ぶ。

 しかし、ただそれだけだ。

 それだけの茨だった。

 

 今は、まだ。

 

「だから。

 わたしをまだ、このぬくもりの中に──」

 

 その"今"が、少しでも長く続いて欲しいと願った。

 ちっぽけで、崩れかけの、ささやかな祈りで。

 けれど吐き出した先は偶像でも何でもない、単なる白磁のティーカップでしかなかった。

 

 ……当然の如く言葉は返らず、無為に沈むばかりだ。

 そんなものでは、何処かに届いた筈はなかった。

 

 

 


 

 

 ただ、酷く優しい耳鳴りだけが鼓膜を撫でてくれる。

 寄せては返す、波によく似た雑音が。

 ざざぁ、ざざぁと、幾重にも。

 



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34話

 

 時は放課後、世間は週末。

 商店街の雑踏が夕焼けの空を粗雑に揺らす。

 客引きの声、夕食を支度する主婦達の声、仕事を終えたサラリーマン達の声。

 

 それらの音の波をかき分けて、三人連れ立ち歩みを進める。

 白い頭、黒い頭、茶色い頭。

 揃いも揃って制服姿のままではあれども、この商店街ではそう珍しい姿では無かった。

 学校終わりの学生というのはいつだって()()()()ものだ。

 ウマ娘であろうともそれは変わらない。

 ただファインドフィートには縁遠い概念だったというだけで、普遍的なものである。

 

 だからいつも胸の奥には戸惑いと場違い感が居座っていて。

 別に誰の言葉を受けたわけでもないのに、罪悪感が心の棘として臓腑を突き刺す。

 本来ここにいる筈だったのは彼女ではなく、『彼』でもなく、『姉』であるべきだった。

 

 そうと思えば──まるで人生を横取りしているようではないかと。

 まるで、まるで、『姉』の存在を否定する行いではないかと。

 彼女は、誰も知らない罪を自覚せずにはいられないのだ。

 

「……フィートさん? 

 どうしたの? えっと、その……すごく、疲れてそうなお顔してるよ?

 あまいもの食べてない時のマックイーンさんみたい……」

「む……それほど、疲れているように見えるのでしょうか。

 ブルボン先輩にも同じことを言われてしまいましたが……」

「はい、その通りです。

 今日一日は休んで下さい」

「オーバーワークは良くない、よ?」

 

 二対一。

 民主主義に則ったならファインドフィートの敗北である。

 

 おずおずと覗き込んできた片目隠しの少女から視線を逸らし、口を一文字に結んで黙った。

 反論の余地が存在しない現実程度ならファインドフィートにだって分かってしまうのだ。

 

 ──回り込んできたライスシャワーからもう一度逃れ、瞳を隠す。

 目は口ほどに物を語る。

 だとするならば、それも隠してしまえば誤魔化せるのではないかという無謀な悪足掻きだ。

 

 それから芦毛の腹がくぅくぅと異音を響かせるまで。

 セピア色の無駄なじゃれ合いは長々と続けられてしまった。

 

「……フィートさんから空腹ステータスを検知。

 現在時刻は16時17分。 つまり、おやつを接種するタイミングとしては適正範囲内と推測」

「そ、それじゃあ何処かお店探そっか……! あの、フィートさんは何か食べたい物とかないかな?」

「いえ……特に拘りはないので、ライスさんにお任せします」

「えっと……えっと……」

 

 ファインドフィートは何も考えず、決定権をライスシャワーへ横流しする。 協議もへったくれも無い流れ弾だ。

 けれどもライスシャワーは律儀で大真面目に、うんうんと思案の唸り声を上げていた。

 

「……ふぅ」

 

 大きな黒鹿毛の耳がぴくぴくと震える様を横目に、細々と息をつく。

 実際の所、拘りがないのは本当の事だった。

 ……あるいは、より正確に表せば……元々は拘りがあったのだ。

 だが、今はそうでもない。

 

 ポケットから取り出した飴玉から包み紙を剥がし、口の中に放り込む。

 ついでにライスシャワーとミホノブルボンにも手渡しながら、からころ舌で転がした。

 唾液と体温で溶け出したのはザクロ味。

 微かな甘みと、微かな酸味。

 そして漂う鉄錆(錯覚)の香り。 舐めていれば懐かしさがこみ上げる。

 

 ……正直に言うと、ファインドフィートの好みからは外れている物だ。

 が、()()()意味もなく、定期的に摂取したくなってしまうのだから不思議だった。

 

 からころ、からころ。

 小さくなるまで何度も何度も舌で転がす。

 彼女自身はともかくとして──友人達は機嫌良さげに尻尾を揺らしていたから、それで良かった。

 

 

 


 

 

 

 時は放課後、世間は週末。

 トレセン学園の校門前。

 

 黄昏色の陽光のもと、多くの学生の姿で賑わっていた。

 その喧騒は冬の寒さを跳ね返してしまうほどの熱気を放っていた。

 それこそ、見る者の体感温度を引き上げてしまっても可笑しくない。

 

 とある生徒が言い放つ。 やれ、今日の授業は簡単だった。

 別の生徒が額の汗を拭う。 今日の補習は危なかった。

 また別の生徒が友人を誘う。 今日のおやつは駅前まで食べに行こう。

 姦しい少女達による十人十色の雑踏が校門を通過し放たれて──その中に、白い背中がぼんやり浮かんだ。

 栗毛の少女と黒鹿毛の少女のふたりと連れ立ち、ゆっくりゆっくりと足を進めていた。

 

 ──物陰に身を潜めていたトウカイテイオーは外に向かう友人の姿を見つけて、酷く安堵した。

 

 少なくとも。

 他者の干渉を受け入れる事が可能な内は、()()大丈夫に違いないと。

 あるいは、単にそう思いたかっただけなのかもしれないが。

 ……それでもトウカイテイオーは、己の推測を信じることしか出来ないのだ。

 

「……ん、フィート、ブルボン、ライス……三人とも出発したみたい」

「考えてみりゃ意外と珍しい組み合わせだよなぁ。

 具体的には宝くじの5等ぐらいか?」

「絶妙なラインだね……」

 

 薄く、微かに笑う。

 協力者のゴールドシップの物言いはイマイチ理解しづらい、が……珍しいという評価には納得できた。

 彼女が知りうる限り、ファインドフィートの交友関係は非常に狭いものだからだ。

 

 基本、行動を共にすることが多いのはミホノブルボン、トウカイテイオーの両名。

 稀にメジロマックイーンやライスシャワーと昼食を共にし、クラスメイトとは事務的なやり取りをこなし、ゴールドシップがちょっかいを掛け──更に極稀に、花壇の傍でエアグルーヴ副会長とぽつりぽつりと言葉を交わす。

 その程度が彼女個人の持つ交友関係で、他は大人達とのやり取りのみだ。

 

「でもさぁ、なんか意外だよね。

 確かにフィートは引っ込み思案だけど……ほら、中身はアレ(ポンコツ)だし? 

 だからもうちょっと他の子から色々ちょっかい掛けられてても可笑しくなさそうなんだけど……」

「あん? そうか? ……いや、そうかもな」

「そうだよ。

 だってほら、フィートは無敗三冠なんだよ? 

 なのにさ……こう、大した理由もなしに、浮きすぎてるというか……なんて言うんだろ」

 

 疑問を受け、訝しげに顎を擦る。

 ゴールドシップ自身は今まで然程の疑問を覚えていなかったが、言われてみれば──確かに中々妙な事であると、ほんのり湧いた疑念を舌の上で転がした。

 味は些か苦味が強く、快いモノなどとは到底言い表せない。

 

 確かに自然な流れの産物と言うには些か奇妙でもあるのだ。

 改めて思い出す。

 ファインドフィートという少女がトレセン学園に訪れてからどれ程経過したのか? 

 

 ……答えは、()()()()()

 ()()()()()も経過しているのだ。

 

 その間で他の人物と関わる機会はいくらでも有ったはずだ。

 それこそウマ娘というのは存外世話焼きが多く、"なんやかんや"で絡まれる事だってある。

 学級委員長であったり、風紀委員長であったり、走る母性の権化であったり。

 社交的でない存在であっても瞬く間に交流の輪に取り込んでしまうのがトレセン学園だ。

 

 だというのに。

 ファインドフィートの場合、交友関係が狭すぎる。 一周回って不自然なほどに。

 もしかすると──その原因は、彼女自身の気性だけではないのでは? 

 気性以外の観点で、他にも問題があるのではないか? 

 

 瞳の裏、頭脳の奥で、ゴールドシップにしては非常に珍しく熟慮に沈んだ。

 

 ……そう、よくよく考えてみる。

 面白い物が大好きな己が、何故二年目の夏になってようやく絡みだしたのか、とか。

 何故それ以前はファインドフィートに遭遇しなかったのか、とか。

 あるいは、何故、そもそも──実際に遭遇するまで、ファインドフィートという"個人"に意識を向けられなかったのか、とか。

 

 ……偶然と言うにはあまりにも期間が長すぎて。

 あまりにも、違和感が目立ちすぎる。

 

 更に深く、考え込む。

 ゴールドシップは考え無しに見えてもその実は恐ろしく聡明だ。

 故に、深く、深く、自身の持つ違和感を解体し──。

 

「──あっ、ブルボンから鍵は受け取れた?」

「ん……ああ、ばっちりだぜ」

 

 ──ふと、我に返った。

 ゆるゆると頭を振り、違和感を解体する為に振り上げたナイフ(推論)を一時収める。

 なに、推測を行うのは別に今でなくても良いのだ。

 今の自分達は時間に余裕がない訳ではないが、あるとも言い辛い。

 

 だから今は前だけを見る。

 紫耀の瞳は常と変わらず、溢れんばかりの活力で輝いていた。

 

「ほれ、こいつ」

 

 ポケットから取り出したのは白うさぎのキーホルダーに括られた寮の鍵。

 ミホノブルボンに現状をほんの()()()だけ伝え、獲得した協力の証だ。

 

「……ま、今考えたって埒が明かねえしな」

「ん……? 

 ごめん、聞こえなかったや」

「減量中マックちゃんの眼の前で食うパフェは最高だよなってコトだよ二度も言わせんな恥ずかしい!」

「んぇぇ、理不尽!」

 

 大きな身体で抑え込むかの如く、トウカイテイオーにもたれ掛かる。 加減は無しだ。

 芦毛の毛の先よりも大きく、色濃い謎。

 それをこの場で考え込んだ所ですぐ答えを出せる訳ではなく。

 だとするなら、考え込むのは後からでも遅くはないはずだ。

 

 顎の下で甲高い鳴き声を上げる少女に全体重を押し付け、ゆるゆると尻尾を揺らす。

 頬を叩く両耳の感触はとても柔らかかった。

 

「んぐ……っ。

 ……そ、それにしても意外だったよ……。

 ゴルシがここまで協力してくれるなんて……っ」

「ゴルシちゃんはいつだって清廉潔白だがやるときゃやる女だぜ? すげーだろ」

「ああうん、そうだネ~。

 分かったから早くどいて欲しいな! ボクは顎置きじゃないよ!?」

 

 ぺちぺち、ぺちぺち。

 栗毛の耳がゴールドシップの顔を叩いた。

 妙に脱力させてくる衝撃を甘んじて受け止めつつも、ぐでんぐでんに体の力を抜き取る。

 もちろん、身体の下から響く悲鳴は意図的に無視した。

 

「アドバイスするのも大変でなぁ。

 ブルボンさんったら"つべこべ言わずに走りなさい"なんて言うつもりだったらしいですわよ?」

「なにそれ、マックイーンの真似? 全ッ然似てないんだけど」

「辛辣だなオイ」

 

 リズミカルに体重を顎の下に押し付けてじゃれつく。

 ぴぇ、んぇ、んなぁと返る鳴き声がゴールドシップの満足度をこれ以上無く高めてくれる。 さながらぬいぐるみに戯れ付く童女のよう。

 もちろん、おもちゃ扱いされるトウカイテイオーからしてみれば堪ったものではないのだが。

 

「でもほんっと、ブルボンに事の詳細を伝えずに作戦だけを伝えるのはよぉ、マグロ漁船を粉砕したくなるぐらいに大変でよぉ……。

 ……なぁ、だからゴルシちゃんをもっと労れよ。 ほら、労れ! い~た~わ~れ~!」

「わけわかんないよォ……! 

 ……っていうかさぁ、ブルボンにも事情を説明して協力してもらったほうが良いんじゃないの?」

「んぁ~? 

 ……いんや、こっちのほうが良いだろ。 少なくとも、今はな」

 

 よっ、と軽い掛け声をひとつ。

 ぴょんと跳ねて体勢を立て直す。

 

「はぁ~……それじゃ、行こっか?」

「そうだな、鯛焼きだ」

 

 三つの背は群衆の中に紛れて、今では見えなくなっている。

 直に商店街に到着して、学生らしく青春を謳歌するに違いない。

 だとするなら、トウカイテイオーとゴールドシップのやることは決まりきっていた。

 

 右手の中の合鍵をちゃらりと弄ぶ。

 これの使い方は、間違いなく褒められた行いではない。

 だが──トウカイテイオーは、必要な行動であると確信していた。

 より正確に言えば、手段を選ばないという手段こそが最も必要なのだと考えていた。

 

 家探し、荷物漁り、家宅捜索、言葉を選ばずに表せば単なる空き巣。

 それは、ファインドフィートの身辺や過去に繋がる情報を探るための行いだ。

 それは、ファインドフィートの心の傷を探り当てるために伸ばされた手だった。

 

 ……無体な言い分だ。

 だがトウカイテイオーは撤回しない。

 秘匿を暴く行為を、躊躇と共に遂行できる。

 逡巡の後に秘密の壁を踏み躙る。

 

 結局、正しさなんぞ流動的な水物だ。

 視点や解釈次第で如何様にも変じてしまう物でしかない。

 

 

 ◆

 

 

 栗東寮の廊下をそろそろと歩く。

 鹿毛の一本結びと尻尾の挙動で居心地の悪さを表したのはトウカイテイオー。

 焦れたように、落ち着かない様子で指先を擦り合わせていた。

 とはいえ彼女自身も栗東寮の所属であり、寮内を移動している現状におかしな点は何もない。

 

 ……そのはず、なのだが。

 どうにも未知の領域を歩いているかのようで、全く落ち着かなかった。

 周囲に居る他のウマ娘らの視線がやけに気になってしまい、足取りをやけに重く感じてしまう。

 まるで監視されているみたいだと、微かな寒気が四肢に纏わりついた。

 

 そんなものは錯覚だ、無意味な妄想だ。

 斯様に思い込もうと頭を振り払うが──不要な思い込みがこびりついて離れなかった。

 

「うぅ……すごい悪いコトしようとしてる気分だよ……」

「おめぇそりゃ、当然悪いコトに決まってんだろ。

 やろうとしてんのは無断の家探しだぞ?」

「ゴルシの言う通りなんだけどさぁ」

 

 大げさに肩を竦め、息を吐き出した。

 マナー以前の問題であることは百も承知。

 それを十分に考え、理解し、納得した上での行いだというのに──この期に及んで尚もだらだら苦悩にのたうち回っていた。

 

 プライド、品性、善性。

 今までの生で培ってきた精神が"やっぱりよろしくないのでは"と果敢に吠え立てる。

 

 けれども──ついにドアの前までたどり着いてしまったのだから仕方がない。

 もはやこれまで、腹を括れ。

 何度目になるのかも分からない自己暗示を、今度こそ自己の脳髄に刻み込む。

 

 襟元を正し、大きく息を吸う。

 大きく大きく、胸を反らして。

 

 ……すると、普段とは違う香りが鼻孔を満たした。

 今回は秘密裏での──ミホノブルボンに事前に了承を取っている為、秘密裏にしている対象は一人だけだが。 ともかく秘密裏の行動である。

 入室したという痕跡を可能な限り消失させ、あるいはそもそも残さない為の対策が必要だった。

 

 そのひとつが、この匂い。 早い話が嗅覚対策。

 ヒトに比べて凡そ千倍の嗅覚を持つのがウマ娘である。

 勿論、その対策は必須だった。

 

 故に、態々ファインドフィートと同じシャンプーやボディソープ(ミホノブルボン管理)を調査し。

 授業が終わった直後にシャワー室へ駆け込み(後日説教確定)

 トウカイテイオーとゴールドシップが同じ匂いを漂わせている事に、道行く少女達から特に意味はない(面白がっているだけ)奇異の視線を受ける。

 

 ここまでして体臭を偽装しているのだからそう簡単にはバレないだろう。

 そう、彼女には確信に近しい自信があった。

 

「……よし、開けるよ」

「おう」

 

 きぃ、と。

 蝶番が静かな悲鳴を上げて二人の前に道を開ける。 凍えた空気が流出し、顔を撫でた。

 

 まず両者の視界に飛び込んできたのは──部屋の主達の性格を反映した装飾だ。

 余分なものは然程配置されておらず、基本的には無機質な装いで統一済み。

 ただ、片方のベッドには大きなうさぎのぬいぐるみが鎮座しており、それのみは奇妙な威圧感を放っていた。

 

「右手側の──あー、ベッドの上にぬいぐるみがある方がブルボンのとこ。

 で、反対側の青っぽいのがフィートのスペースだよ」

「あいあいさー」

 

 青空色の瞳でぐるりと見渡す。

 学習机、備え付けの本棚、サイドワゴン、トレーニングメニューを印刷した張り紙、動物型の写真フレームがふたつ。

 犬型のフレームにはファインドフィートとミホノブルボンと、トウカイテイオーの三人で撮影した写真。

 他二人に挟まれた芦毛の少女が無表情のまま、両手で二本指(ピース)を立てていた。

 

 そしてすぐ横の猫型のフレームには、菊花賞を獲得した時の記念写真──ファインドフィートと、彼女のトレーナーが仏頂面で写り込んでいる。

 ターフの上で撮影された写真という事もあってか、どこか厳粛な空気が閉じ込められているようだった。

 

「……あの子のトレーナーにも、後で話しに行かないとね」

 

 視線を横にずらす。

 本棚には何の変哲もない教科書が規則的に並べられている。

 国語に数学、社会、理科、音楽──。

 それらの本の隙間からチラリと覗く紙切れは、今回の調査には関係ない物として目を逸らしておく。

 やけに赤いペケ印が多いようにも見えてしまった、が。

 それはあくまでも一瞬のこと。 単なる見間違いに違いない。

 

「う~ん……」

 

 しかし、さて。

 調べるとはいえ、どこから調べて見れば良いのか。

 家探しジュニア級の彼女にはさっぱり見当がつかなかった。

 

「こういう時は~……なんだろ、引き出しの裏に穴とか空いてないかな?」

「二段底か? 隠しスペースか? 

 へへ、まかせろ! こんな事もあろうかとシャーペンの芯は持ってきてるぜ!」

「あ、別に穴は空いてないや」

「なん……だとォ……!?」

 

 オーバーリアクションでおんおん嘆くゴールドシップは放置しておく。

 

 時間が無いという訳でもないが、のんびりしても良い程の余裕もない。

 部屋を荒らさず、しかし迅速に。

 丁寧に、しかし大雑把に記録を探る。

 

 その様は盗掘人か、はたまた墓荒らしか。

 トウカイテイオーらは預かり知らぬ事であれど──ファインドフィートは活力に満ちた生者であると同時に、既に一生を終えた死者でもあるのだ。

 その前提を踏まえれば、ある意味で墓荒らしに等しい所業かもしれない。

 

 ……が、当然ながら彼女等はそれを知らないのだから、関係無い話であった。

 

 本棚の隙間を探る。

 隠された答案以外には何もない。

 ベッドの下を見る。

 謎の木の棒以外は何もない。

 机横の引き出しに手を差し入れる。

 一段を除き、めぼしいものは何もなかった。

 例外の、上から二段目である真ん中の引き出しは……残念ながら鍵がかかっている。

 

「ん~、ここだけ鍵かかってる……」

「よっしゃ、鍵師技能検定1級のアタシに任せろ!」

「えぇ……」

 

 困惑の声も何のその。

 手慣れた様子でピッキングツールを取り出し鍵穴を弄くり回すこと三分間。

 二本のピックを操作し、比較的──見ているだけのトウカイテイオーからしてみれば、比較的簡単に鍵は解除された。

 

「よし、これでいいな? 

 アタシはクローゼットの中を見てくる」

「ん、分かった」

 

 取手を引いた。

 他の段よりも物が少なく、かさりと軽い音のみが響く。

 

 ……中身を覗き込めば、やはり物は少なかった。

 くしゃくしゃに丸められたレシートが一枚。

 プラネタリウムのチケットが三枚。

 表面の隅に印刷された期日は去年の今頃。

 色褪せた天体の絵が、引き出した衝撃(地動)につられて揺れた。

 

「……ん? 

 これは……本、日記……かな?」

 

 そして、もう一つ。

 経年劣化によって部分部分が裂けた青い本。

 ボロボロで、所々に補修の痕跡が残っている。

 

 表紙には辿々しい文字で『日記帳』と書かれているのみで──。

 

 ……単なる直感で、これだと確信した。

 というよりも、内心が赤裸々に綴られているだろう日記帳でも本性を掴めなければ、もうこれ以上どうしようもない。

 いっその事押し倒してでも吐き出させようか、とか。

 ()()()()()危うい解決策を真面目に検討する必要がある程だ。

 

「……情報源として考えたら、これ以上は無い……かな」

 

 黒いインクがうっすら滲み、青空の瞳に黒点を写す。

 

 ……無論、罪悪感はある。

 友人の心、その柔肌を暴くという行為に対する背徳の念が、彼女の未熟な精神を執拗に嬲る。

 

 ただ、それでも、と。

 小さな手をゆるりと伸ばした。

 日記帳は手のひらに収まる大きさだ。

 

 トウカイテイオーには彼女の心も同じ有様であって欲しいと祈る事しか出来ない。

 手が届く距離にあって、カタチがあって。

 そしてこの小さな手でも掴み取れたなら、それだけで十分だ。

 

「ごめんね、フィート」

 

 胸元に引き寄せたちっぽけな本は傷だらけで、どこか湿っていて、不思議と重かった。

 

 


 

 

 ある日の『少年』はペンと本を手に取りました。

 お父さんにお願いして買ってもらった黒いボールペン。

 そして真新しく傷一つない青い日記帳。

 きらきらきらきら目を輝かせ、希望に満ちた記憶を残すためにペン先を走らせます。

 

 きのうのあしたはいつだって素晴らしい。

 『少年』にとってはそれが当たり前で、いつもそこにある真実でした。

 



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35話

 

 生剥。逆剥。

 

 


 

 

 トウカイテイオーは腹を括った。

 少なくとも、口ではそう言える程度に。

 

「……そうか、じゃあアタシには後で教えてくれ。

 一緒に読んでペース合わせてちゃ時間が掛かっちまうしな」

「ん、わかった」

「じゃ、ゴルシちゃんが誰も来ないように警戒してっから泥船に乗った気持ちで安心しろ」

 

 ドアの傍に向かうゴールドシップを見送り、ボロボロに傷付いた青い本を机の上に置く。

 厚さは3センチ程度。

 ハードカバーの部位を除いてもそれなり以上に紙の厚さがある。

 嘗ては鮮やかだったろう色彩は褪せ、所々の青は剥げている。

 その中身を幾百枚のページで構成された日記帳は──しかし、それらの薄汚れた外観のせいで、酷く矮小に見えた。

 

 ちっぽけで、傷だらけ。

 少女の心の今までを書き記しているだろう過去からの手紙。

 

 青空の瞳をゆるやかに伏せ、小さな指でそっと表紙を撫でる。

 

「……ふぅ」

 

 呼気で肺を膨らませ、細い指を伸ばした。

 小さく、柔らかく、少女らしい白魚の指で──ゆっくりと、表紙を捲る。

 

 僅かに鼻孔をくすぐったのは過去から漂う()えた匂いだ。

 けれどそれを受けて眉を顰めるでもなく淡々と、紙の上に視線を落とす。

 経年劣化のせいか、最初のページは少しだけ黄ばんでいた。

 

 

 11月15日。

 お父さんに日記帳を買ってもらった。

 誕生日プレゼントにしてはあまりセンスが無いような気もする。

 でもあんまり使わなかったらちょっとだけ可愛そうなので、今日から習慣付けてみようとおもう。

 

 最初の一枚目は、そんな黒インクの文字から始まった。

 ページの端に書かれた年度は七年前のもの。

 つまり年齢を逆算すると、八歳当時のファインドフィートによる作文だ。

 

 若干崩れた字体ではある。 が、ペンの主は小学二年生だ。

 そこを踏まえて見れば……まぁ、整っていると表現しても差し支えはない程度に洗練されている。

 

 その上で父親に対して容赦がない様は、"らしい"と言えば"らしい"と感じられた。

 トウカイテイオーが知る彼女も元々はそういう気性を備えていたのだから、なおさらに。

 普段はしっかりしている()に見えても、実際の所はそうでもない。

 

 トウカイテイオーが思うに、それはある意味での"甘え方"というモノだった。

 ……今はもう、それを見る機会さえ失われかけているけれど。

 

 けれど、この頃の彼女はもっと素直にその気質を発揮していたようだ。

 幼くもふてぶてしい様相を空想し、小さく微笑んだ。

 

 11月19日。

 忘れてた。

 明日から書く。たぶん書く。きっと忘れない。

 

「うーん、やっぱりポンコツだぁ」

 

 ……肩透かしを食らった気分だった。

 どうにも気が抜けるような微妙な心境を面持ちに滲ませつつ──しかし、だから何が悪い訳でもないと納得して。

 もう一度、ページを捲った。

 

 最初の一枚目の隣、二枚目にはよく分からない落書きが書かれていたから仕方がない。

 そういう自由な使い方も、まぁ……ありといえばありだろう。

 彼女にも覚えのある行為だったが故にそれを否定する事はできなかった。

 

 

 11月19日。

 今日のおやつはおはぎだった。

 丸くて大きい甘いやつ。

 やっぱり定期的に食べないと気分が悪くなる。

 もちろん、姉さんと半分こした。

 

 11月20日。

 今日は姉さんと一緒に星空を見てた。

 家の屋根に登るのはちょっと大変だけど、その甲斐はあったと思う。

 すごくきれいだった。

 

 11月21日。

 姉さんと一緒に近所のスーパーまで買い物しに行った。

 お買物リストはお母さんに用意してもらった。

 今日はたくさん歩いたから疲れた。

 

 11月22日。

 お母さんにお小遣いをもらってお出かけした。姉さんも一緒に。

 寒いけど、手を繋いでいたからあったかい。

 

 11月23日。

 今日は姉さんと一緒に──。

 

 

 綴られるのは、何てことはない日々だ。

 特別な出来事は何もない。 特殊な事情は何もない。

 ただ、ありきたりな風情だけが日記を構成している。

 

 ……けれど、それでも、この子は本当に幸せだったのだろうな、と。

 きっと、"姉さん"という存在が大好きだったのだろうな、と。

 トウカイテイオーにそんな確信を抱かせるには十分なほど、やわからな文字が連なっていた。

 

 

 2月3日。

 お母さんの尻尾にリボンをまいた。かわいい。

 姉さんの尻尾にもリボンをまいた。仕返しに髪の毛をリボンで結ばれた。

 さすがにちょっと恥ずかしい。

 2月4日。

 お父さんがくさかった。

 姉さんと同時に言っちゃったせいで、すごく悲しそうにしてた。

 よく分からないスプレーを自分に振りかけたり、庭でバケツの水を頭からかぶったりしてた。

 ごめんなさい。

 2月5日。

 毎日牛乳飲んでるのに身長がのびない。姉さんも同じらしい。

 双子って成長のペースも似るものなのかもしれない。

 じっさいは分からないけど、とりあえず身長も体重も殆ど同じだった。

 2月6日。

 姉さんと入れ替わってお父さんにイタズラしてみた。目の色の違いですぐバレちゃった。

 お父さんにヒゲじょりじょりされたせいでまだ頬がヒリヒリする。

 

 

「……そっかぁ」

 

 一、三、六、九ページ。

 ぱらぱらと乾いた音をお供に、数カ月分を一気に斜め読みする。

 そして一度手を止め、細い顎を擦った。

 

 読み取れた過去の姿が意外かと言えば、まぁまぁ意外だった。

 ファインドフィートの嘗ての一人称であったり、双子だったという明確な記録であったり。

 それは()の彼女しか知らないトウカイテイオーにとって、全く新しい情報である。

 ……特に、『姉』と呼ばれる少女が具体的な人物像をともなって出現した事は大きい。

 盗聴器越しの不自然な情報しか把握できていなかったからこそ、なおさらに思う。

 

「ってことはあの書類のミスなのかなぁ。

 いや、でも……ニュース記事にも、三人家族としか書かれてなかった。

 ……だから、フィートにはお姉さんが確かに居て……盗聴器越しの、あの言葉は──」

 

 思案を巡らせる。

 唯一の生存者、記録には存在しない『姉』、不透明な思想の源泉。

 どれもこれも(理論)で結び付けられない(事実)ばかり。

 

 ──つまり、何にせよ、結論を出すにはまだ早すぎるという事だ。

 

 熱を持った額をおさえ、ゆるく細く、長い息を吐き出した。

 不慣れな探偵もどきをしているせいか、ここ数日の疲労が今になって出始めているのか、それとも両方が原因なのか。

 

 非日常的な空気感がトウカイテイオーを刺激し、疲労を蓄積させていることは間違いない。

 盗聴器だの家探しだのと、一般的な経歴──とは言えないが、あくまでもアスリートでしか無い彼女にしてみれば未知の領域だ。

 それこそテレビの向こう、ドラマの景色でしか知り得なかったのだから。

 ……現実は創作より華も艶も何もなかった事は、ほんの少しだけ残念だった。

 

 

 ……一度、思考回路に冷水を振りかける。

 逸る気持ちを強引にねじ伏せ、大きく深呼吸を繰り返す。

 芳香剤の甘い匂いが鼻孔をくすぐった。

 

 そしてまた、日記のページを何度も何度も捲り続ける。

 時間を気にして、瞳の動きを幾らか早めながら。

 

「……」

 

 書かれているのは、今日はつかれた、とか。

 今日は楽しかった、とか。

 要約してしまえばたった一行で済ませる事も可能なモノばかり。

 

 だからこそ、内容自体は努めて無視する。

 表層だけを視線で撫でて、それ以上は頭の中に詰め込まない。

 

 だって、何から何まで全てを暴くのは、酷い冒涜でしかないのだ。

 ……今さらの事かもしれないが。

 

 だが、だからといって。

 恥も何もなく指で突き回すのは、悍ましい外道の行いでしかない。

 トウカイテイオーは、強い理性で己を律していた。

 

 そしてまた、ページを捲り──文章の表面だけをさらりと眺め、春を迎える。

 またページを捲る。夏を過ごす。

 またページを捲る。秋を巡り。

 またページを捲る。冬に至る。

 

 ──何度も何度も、ページを捲った。

 

 一、四、八。

 十二、十六、二十。

 そうして瞳を彷徨わせること数分間。 否、それでは足らずに十分程か。

 延々と読み流していれば、四季をぐるりと一周するのもあっという間だった。

 

 けれど、その僅かな時間で巡った季節にはそれぞれの日常があって。

 何処にでもあるようで、普遍的で、面白みに欠けていて、あたたかく──。

 

「……ん、これは……」

 

 そこで終わっていればいいのに、と思わずにはいられなかった。

 最初から最後までこのままで良い。

 

 ……が、そうでは無いから彼女がここに居るのだ。

 木漏れ日にあるぬくもりからの変化は、徐々に始まった。

 

 

 3月2日。

 最近、うまく足が動かない。息切れも激しい。

 お母さんに抱えられながら病院に行ってきた。

 先生いわく、原因は疲労のせいらしい。

 ほんとに? 

 3月3日。

 気晴らしに姉さんが付き合ってくれた。

 支えてもらいながらの本屋めぐり。大漁。

 3月4日。

 まだ歩けない。

 たぶん一過性? とかいうやつだと思う。

 あまり運動は出来ないので、今日は部屋の中で工作をがんばった。

 木をいい具合に削って、像みたいなのを造ってみた。意外と楽しい。

 

 3月5日。

 昨日よりも少しマシになった、気がする。

 お父さんにプラネタリウムまで連れて行ってもらった。

 きれいだった。またいつか、行ってみたい。

 

「…………」

 

 5月2日。

 最近、また息切れすることが多い。なにかへんな気がする。

 5月3日。

 お母さんに抱えられながら病院に行ってきた。

 何か大きなベッドの上で寝てるだけで終わった。威圧感がすごい。

 5月4日。

 今度、検査のために入院することになった。

 一週間も病院にいないといけないらしい。

 でも、いやだ。姉さんと離れたくない。

 お父さんに向けて姉さんと一緒にねばってみたけど、ダメだった。さみしい。

 

 ──つまり、病だ。

 あるいは、歩行障害を伴う何かである。

 

 しかし、少なくとも今のファインドフィートには関係ない筈のモノだ。

 今はしっかり自分の足で走っているし、彼女をよく知るトウカイテイオーから見ても虚弱とは無縁に思えた。

 

 それに、病弱な者だって居ない訳では無い。

 例えば、メジロアルダン。

 例えば、ツルマルツヨシ。

 過去をも対象にするのであれば、嘗てのオグリキャップも関節が悪かったというのは一部で有名な話。

 

 だから、その過去の境遇を踏まえた上でふと思った。

 

 ウマ娘にとってそれは、本能に根ざす程の根源的な恐怖である。

 好きとか嫌いとか、そういう範疇では無い。

 それこそ──歩けなければ死んでしまうのではないかと錯覚してしまう程に、あって当然のものだった。

 ならばこそ、その過去が彼女の精神形成に何らかの影響を与えていても可笑しくはない。

 

「……ん、名刺が挟まってる。

 循環器内科、かぁ」

 

 日記帳と同じく変色した名刺を手早く検め、念の為に写真として残しておく。

 あとから必要になる可能性だって皆無ではないのだから。

 

 5月12日。

 退院した。けど、お父さんとお母さんの様子が変だった。

 姉さんだけは変わってないけど、少し不安。

 何か病気なのかもしれない。

 5月13日。

 でも、何があっても、姉さんは一緒にいてくれる。

 約束したから間違いない。ぼくらはずっと一緒。

 6月21日。

 日に日に体が弱っていってる。

 たぶん錯覚じゃなくて、実際に身体能力がおちていってる。

 かといって食欲が衰えているわけでもないし、他の症状がある訳でもない。

 なんだか、ひどくチグハグだ。

 6月22日

 お父さんに肩車してもらった。たのしい。

 けど、せつない。

 6月22日。

 あんまりにも歩けないせいで足が細くなってきた。

 姉さんとの見た目の違いが出来たの、初めてかもしれない。さみしいけど、ちょっとだけ新鮮だ。

 

 そして、それから。

 漂う無力感を眺めるばかりの幾枚かを越え、やがて辿り着いた11月の半ば。

 一枚目から数えて、丁度二年間が経過した事になる。

 

 ……この年の11月半ば、とは。

 ファインドフィートが10に齢を重ねる月という意味以外にも、もう一つ重要な意味合いを持つ。

 それは、境目だ。 喪失を伴う、大きな境目だった。

 

 11月14日。

 明日はみんなで水族館に行ってくる。久しぶりのお出かけだ。

 たのしみ。

 

「……」

 

 無言のまま、ページを捲る。

 

 この先の事は、既に知っている。

 テレビ越しに、あるいは新聞越しに。

 けれどそれは血の通わぬ情報でしかない。

 

 第三者による事実の羅列。意味のない憶測。

 それらばかりが彼女の知り得た概要だ。

 

 ……しかし今の彼女は、当事者による、剥き出しの吐露を求めていた。

 これが墓を荒らすような、酷い冒涜的な行いだとは理解している。

 

 "しかし、それでも"と。

 確証を求め、ぱらりと過去を覗き見る。

 くしゃくしゃで、深い皺が刻まれた紙面の裏を。

 

 12月21日。

 ぼくらの車と、トラックがぶつかった、らしい。

 

 12月22日。

 お父さんもお母さんも、姉さんも家に帰ってこない。どこに行ったの? 

 12月22日。

 まだ帰ってこない。どこかで迷子になっているのかもしれない。

 12月23日。

 まだ帰ってこない。

 

 12月24日。

 まだ帰ってこない。

 しばらく玄関の前に座ってたらお医者さんが様子を見に来てくれた。

 普段からぼくの担当をしてくれてる先生だ。

 姉さんたちが何時帰ってくるのかも聞いてみたけど、先生も知らないらしい。

 

 12月25日。

 まだ帰ってこない。

 12月26日。

 まだ帰ってこない。

 12月27日。

 まだ帰ってこない。

 12月28日。

 まだ帰ってこない。

 12月29日。

 まだ帰ってこない。

 12月30日。

 まだ帰ってこない。

 

 12月31日。

 帰ってこない。

 

 1月1日。

 さみしい。

 

「……」

 

 一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一。

 過ぎた日数と、綴られる心の動きは比例しない。

 ただただ深い失意のみに染まっていて、無為で空虚な日々ばかり。

 

 1月15日。

 ひとりはさみしい。

 ひとりはさむい。

 みんな、なんで帰ってこないの? 

 

 1月24日。

 良い子にしてたら助けてくれるって、言ってたのに。

 なんで。

 1月26日。

 さむい。

 1月30日。

 さみしい。

 

 2月12日。

 ぼくが悪い子だったから? 

 

 2月15日。

 約束したのに。

 

 2月17日。

 約束をやぶるの? 

 

 飾り気はなく、剥き出しの黒。

 歯抜けになった日々を、ふやけたインクがものぐさに語る。

 家族を欠いた日常は酷く薄っぺらとでも言いたげに。

 そして、空虚になったそれを埋め尽くすのは深い深い失望だった。

 

 過去を目にして、けれど何かを言葉にしようとも思えず──ただ、ぎゅっと口を噤んだ。

 

 抱くべきは同情か、憐憫か、はたまたやりきれぬ現実への怒りだろうか。

 それを明確な形で感情に変換するには、彼女はいまだに若すぎたのだ。

 

 

 3月31日。

 全部ぼくのせいだった。

 あの日、態々外に出ようだなんて言わなければこんな事にならなかった。

 なんで、なんで、口だけは自由だったのさ。

 どうせなら、足も目も、口も、何も無ければ良かったのに。

 

「……」

 

 ……そこで終わり。過去は途切れ、何もない。

 続きを求めて何度かページを捲れどずっと真っ白だ。

 程々の所で諦め、伽藍堂のそれを机の上に安置した。

 

 最初の頃の、穏やかな日常。

 それも事ここに至っては──幽かな残り滓が付着しているだけの、淡い夢でしかない。

 

 その事実を呑み干して、奥の歯を噛み締める。

 身近な少女の過去はほぼ予想通り。

 

 幸せな日々からの転落。

 ずっとある筈だった世界の崩壊。

 

 ──なるほど、それは年端も行かぬ子供の価値観を打ち砕くには十分だ。

 瞼を閉じ、眉間を指で押さえつける。

 

「……ボクらだけだと厳しいかなぁ。

 もう専門家のヒトに頼ったほうが……」

 

 しかし、それはきっと──否、間違いなくファインドフィートの意に反することだ。

 事情を知らぬ人間達が非難の声を上げるかもしれない。

 あるいは、根も葉もない噂を流す愚か者があらわれたって可笑しくはない。

 

「──けど、今は夢よりも身の安全の方が大事だよね。

 あのまま走り続けてたら骨折か……もっと酷い事になるかも」

 

 ウマ娘の全力疾走とは、最大で時速70キロメートルにも及ぶ。

 短距離走に限れば時速84キロメートルを記録したウマ娘さえ存在しているのだ。

 生身でそれほどの速力を持つ生命体が、まかり間違って事故を引き起こしてしまえばどうなるのか。

 ……その先は火を見るよりも明らかだ。 想像する事さえ、酷く恐ろしい。

 

「……こうなったら、簀巻きにしてでもターフから引き離す。もうそれしか無い」

 

 結論を胸に抱く。

 それをゴールドシップにも伝えるため、呼び寄せようと振り向いて──。

 

 ──その直後。

 机に置かれた青い本の表紙がパラリと開いた。

 

「んぇ?」

 

 乾いた音だ。

 敏いウマ耳で聞き取り反射的に視線を戻した。

 

 パラリ、パラリ。

 冷たくも柔からな風がトウカイテイオーの頬を撫でる。

 それは本の表皮をも撫で、さらりと小さく震わせた。

 

「窓、何時の間に空いてたっけ……」

 

 疑問の呟きは冷気に飲まれて消えるのみ。

 何であれ、下手に本が傷んでは困ってしまう。

 故に少女の心の具現である、青い本を閉じようと手を伸ばし。

 

 4月1日。

 姉さんが帰ってきた!

 ぼくの中にいる。 ずっと一緒にいる。

 ずっと一緒にいる。 ずっと、ずっと、一緒にいる。

 消えかけでも、ここにいる。

 夢や名前しか残っていなくても、ここにいる。

 

「なに、これ」

 

 ──が、すぐに停止した。

 仰向けになった腹の中を見つめて、そっと目を見開く。

 

 唐突に変じた雰囲気は……些か異質だった。

 薄気味悪いと感じる程に、脈絡がない。

 一面の青々と茂る草のなかに、ぽつんとひとつだけ異物が混ざってしまったかのように。

 澄んだ水の中に、一滴の赤い着色料を混ぜてしまったかのように。

 

 しかし、それでも──吸い寄せられるように、ふらふらと指先を伸ばす。

 ぴとりと触れた紙の端は不自然なほどに湿っている。 そして、凍える室温の影響もあってか非常に冷たい。

 トウカイテイオーは皮膚を伝うそれに眉を顰めながら、右から左に指を滑らせた。

 

 4月2日。

 ぼくらはもう、これだけで良い。

 だって、一緒だ。 一緒になった。

 だから、これ以上は何も望まない。

 

 だから、姉さんを消さないで。

 女神さま。

 

 

 ──その先は、また空白を以て断絶していた。

 ある筈のインクはなく、薄い黄色に変じた紙面があるのみ。

 諦め悪く次へ次へと確認を進めるも、やはり日記に続きはない。

 辿り着いた裏表紙の裏を眺め、長々と苦悶の唸り声を漏らす。

 

「……まって、余計に訳わからなくなっちゃったよ……?」

 

 いくらなんでも理解が追いつかない。

 道理が通らない。 脈絡が無さすぎる。

 ……が、何とか噛み砕こうと解釈に努めた。

 

 改めて──今日新たに得られた情報は、大きく分けて三つほど。

 顔の前に三本指をピンと立てた。

 

 『姉』と呼ばれる存在の確証。

 過去の病への言及。

 そして、女神と呼ばれた何か。

 

 ひとつ、またひとつと指折り唱える。

 簡潔な分類分けだけなら、そう難しい事ではない。

 

 ……が、しかし。

 日記の最後に現れた女神という何かだけは、これっぽっちも意味が分からなかった。

 

 女神。

 比喩か、隠喩か、それともそういう名字の誰かなのか。

 

 ──まさか、神話の()()()()という訳でもあるまい。

 トウカイテイオーは夢想家に見えて、実は現実主義者である。 故にその案は深く考えないまま破却した。

 

 錯乱の果てに女神という架空の存在を生み出したのか。

 はたまた弱った心を女神を名乗る不審者に付け込まれたのか。

 

 ……トウカイテイオーは、前者だろうと考えた。

 流石にピンポイントでそんな謎の存在が現れるよりは余程納得できる。

 

「つまり──」

 

 ひとつ。

 曰く、『姉』なる存在はファインドフィートの中に居る。

 おそらく比喩だが、少なくとも彼女の中ではそれが真実だ。

 夢や名前しか残っていない、という言葉の解釈は──ひとまず後回しにする。

 

 ふたつ。

 ファインドフィートという少女は、過度のストレスによって女神を名乗る幻覚を生み出している。

 消さないで、という言葉の真意は不明なのだが。

 

 何であれ、トウカイテイオーは次にとるべき一手を理解した。

 まず為すべきは──ファインドフィートをターフから引き剥がすことだ。

 

「……ぁれ?」

 

 ──。

 

 くらり、と思考がぼやけ、視線がブレる。

 二重に増える家具の輪郭。 僅かな陶酔感。

 

 額を抑え、違えた焦点を再度合わせた。

 そのまま二度、肺の中身を入れ替えれば次第に収まる程度のもの。

 

 ……もしかすると少し疲れているのかもしれない。

 己の状態を簡潔に判断し、細いため息を吐く。

 

 だが、そう──何であれ、推論を元に答えを弾き出したのだ。

 ファインドフィートの精神ケアのため、レースという概念そのものを遠ざけなければならない。

 キャリアという意味では多少のダメージが入ってしまうのかもしれないが、取り返しがつかなくなる前に行動するべきだ。

 

「……っ」

 

 くらり、くらり。

 再び思考に(もや)が掛かる。

 強まった陶酔感が瞳の運動を狂わせる。

 

 が、しかし、それが何だというのか。

 トウカイテイオーが弾き出した結論は変わらない。

 

 あのままでは身体が持たないから、可能な限り早急に休ませなければ。

 色々と面倒事はあるだろうが、そのあたりは彼女のトレーナーに任せてしまえばいい。 きっと否とは言わない筈だ。

 

「──」

 

 ──頭が、思考が、知性が、(かすみ)に溶ける。

 どろり、どろりと融解する。

 

 だから、だから、隔離しなければ。

 事ここに至っては夢も何もない。 背中を押すなんて、出来るはずもない。

 だって、彼女はそもそも、本当はそんなものを求めていない筈なのだから。

 

 ──意味も、意義も、求めていた事も、片っ端から解けていく。

 

 トウカイテイオーは手を差し伸べなければならない。目指した理想の姿はその先にある。

 こんな訳の分からない所で立ち止まるなんてありえない。

 だから足掻く。 屈しない。 顔を上げる。

 それが、諦めないという事で。

 この選択こそが、最も冴えた  。

 

「──おいテイオー、大丈夫か? ぼーっとしてんじゃねーよ」

 

 ──ぱちり。

 泡が弾けるように、張り詰めていたナニカが消えた。

 ほんの数瞬前までのモヤさえ、跡形もなく。

 

「……んぇ? 

 ああ、うん……大丈夫、だよ?」

「よだれ付いてんぞ」

「えっ、嘘!?」

「嘘に決まってんだろ~? 

 っと、んなことよりもフィート達が帰ってきた……さっさとずらかるぞ」

「え、もう? それじゃあ早く戻ってフィートを──。

 ……フィート、を」

 

 小首を傾げた。

 胡乱げな(まなこ)で、うすらぼんやり息を吐く。

 

 「あれ、なんだっけ」

 

 しかし……はて、今まで何を考えていたのだろうか? 

 疑問のままにもう一度、逆方向へ小首を傾げた。

 

 唸り声で喉を鳴らし、頭蓋に残った曖昧な断片をかき集めてみる。

 ……しかし、その何れもが指の間をすり抜けていくばかり。

 

 砂のように、(かすみ)のように、音のように、水のように。

 するりするりと一切掴めず、何の答えも結べない。

 

 うんうんと唸る。

 時間に余裕がないにも関わらず、たっぷり五秒間も考え込んだ。

 

 そして思い出したのは──そもそも己は、()()()()()()()()()()()()()ということだった。

 

「あれぇ……? 

 さっきまでのボク、何考えてたんだっけ……」

「ホントに大丈夫か? 乳酸菌足りてないんじゃねーか」

「毎朝飲んでるよ!」

 

 薄っぺらな響きの語句にさしたる感慨も持たず、青い本をパタリと閉じた。

 表紙には、ほんの少しの感傷(ぬくもり)だけが残留している。

 けれどそれは僅かな時間で掻き消える程度の、些細な痕跡だった。

 

 そして、引き出しを開く。

 本を収納する。

 再度引き出しを閉じる。

 

「全部片付け終えたな? おら、いくぞ!」

 

 言葉とは裏腹に、さしたる音も立てずに。

 きぃ、という蝶番(ちょうつがい)の悲鳴と共にドアを開く。

 そうして二人揃って、すまし顔で部屋の外へ抜け出した。

 

 右を見る。左を見る。

 ミホノブルボンにも協力してもらっている以上、万が一にもありえないことだが──部屋の主達の姿は未だない。

 つまり、撤退にはベストタイミングだ。

 

「一旦スピカの部室に戻るか」

「ん、分かった」

 

 不自然にならない程度の速さで小走りだ。

 もちろん、尻尾は巻かずに。

 

「──あれ?」

 

 ……けれど、今になって。

 降って湧いた違和感を口に漏らした。

 

 "何か、やり残したことがある気がする"なんて、今更すぎる言葉だった。

 

 


 

 

 ある日の『少女』はペンと本を手に取りました。

 使い古され、細かな傷が目立つ黒いボールペン。

 破れて千切れ、ほつれながらも本来の役目に殉じる青い日記帳。

 どんよりと痛苦に瞳を曇らせ、失意に満ちた記録を残すためにペン先を走らせます。

 

 ……きのうもあしたも、いつだって苦しい事ばかりだというのに。

 そこに一体、どんな意味があるのでしょうか。

 



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36話

 

 "はァ……? "

 

 まず最初に大きな溜め息を吐き出したのは、『海』の女神さまでした。

 その内心を満たすのは……苛立ち。そう、苛立ちです。

 額には幾筋かの血管、もとい怒りの象徴が浮かんでいました。

 

 "……ウスノロが。 頭に乗らないで貰えますかぁ? "

 

 次いで毒気を吐き捨てたのは『太陽』の女神さま。

 笑顔も忘れてぽつりとひとこと、高い玉音が響きました。

 美しいウマ耳は引き絞られて、後方にぺたりと伏せられています。

 

 "わぁ、面白いわねぇ"

 

 そして、『王冠』の女神さまはいつも通りです。

 ただ、笑顔で見守っています。

 いつかの時には不遜な物言いを受け、怒りを顕にしていたのに。

 ただ、笑顔で見守っています。

 


 

 

 ──ドアを開けた瞬間は、違和感など欠片も無かった。

 

 蝶番の軋む音も、部屋に入った瞬間の甘い香りも、見慣れた景色も。

 どれ一つをとっても、朝に部屋を出た時と何も変わらない。

 故に違和感が挟まる余地などなく、常と変わらぬ空気に包まれるのみだった。

 

 幾らか毛艶の良くなった尻尾を揺らし、部屋の奥へ足を進める。

 スリッパから鳴るペタペタという歩行音が酷く間抜けだった。

 

「ミッションクリアを確認。

 ステータス、『高揚』……お疲れ様です、フィートさん」

「ブルボン先輩も、おつかれさまです」

 

 カバンを机の上に起き、一息つく。

 屋台や本屋、服屋。

 軽く足を伸ばしてスポーツ用品店。

 久しぶりの自由時間はファインドフィートの精神を慰めてくれた。

 

 それはターフを離れたからではなく、ましてやトレーニングを休止したからでもない。

 ただ、気兼ねなく友人とともに空の下を歩けるという、その事実だけ。

 ただそれだけの事実が、彼女の心に潤いを与えた。

 

 だから今日の彼女は満たされている。

 椅子に腰掛け、湧き出る充足感を味わった。

 

「シャンプーとリンスの格納作業を完了しました」

「あ……ありがとうございます。

 ブルボン先輩は少しゆっくりしてください、お茶を淹れますから」

 

 けれど、だからといって今日の全てが終わった訳ではない。

 

 戻ってきたミホノブルボンに一声かけて立ち上がる。

 青いスリッパがぺたりと鳴った。

 

 まず手を伸ばしたのは壁際の棚。

 電気ケトルや紅茶の紙パックを掴み取り、テキパキと準備を進める。慣れた手付きだった。

 なにせ、ミホノブルボンは電子機器に触れることが出来ない。

 そういう事情もあって、機械に頼る作業はもっぱらファインドフィートの仕事だった。

 

「……はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

 

 カップを相方に手渡した後、自身も椅子に腰掛け、カップを両手で保持する。

 上から中を覗いてみれば、赤い水面が幾重もの波を立てていた。

 

「ふぅ……」

 

 時間の流れは穏やかだ。

 空気の重さは一定で、稀に湯気が漂い、ぽつりぽつりと言の葉を交わす。

 

 他は──それこそ、時計が"カチコチ"と呼吸音を響かせる程度の、僅かなノイズが挟まるばかり。

 刺激など存在しない。 平穏そのものだ。

 ファインドフィートは、これこそを最も好んでいた。

 

「…………」

「…………」

 

 カチ、コチ。カチ、コチ。

 時計が静かに呼吸する。

 控えめで、しかし確かな主張を感じ取れる金属音で。規則正しく刻んでいく。

 

 双方揃ってウマ耳をへたりと傾け、またカップに口をつけた。

 けれども惜しむらくは──今この瞬間でさえ、鉄錆の風味が混入している事だ。

 今となっては慣れたモノであれど、残念なことに変わりない。

 

 走行に直接的な関係は無いとしても、味覚にノイズが混ざるというのは……少しだけ、苦しい。

 いつかの団欒の記憶が遠ざかるようで、もう手が届かない所になってしまったのだと見せつけられるようで。

 どうしても、腹の据わりが悪くなってしまう。

 

「……ふぅ」

 

 自分自身の内心を誤魔化そうと、ゆらゆらと湯気を揺らした。

 吐く息で風をつくって、カップの水面に波を立てる。

 

 とはいえ結局無駄で無意味な抵抗。

 いっそう虚しくなるばかりだった。

 

「ん──そういえば、ブルボン先輩。

 そろそろ時間なのでは?」

「おや……失礼しました。

 タスクの参照、現時刻を確認…………ステータス、『焦燥』。

 つまり、ケツカッチンです」

「ケ、ケツ……?」

 

 マルゼンスキー直伝のナウでヤングな()()()()言葉は理解できなかった。

 さもありなん、最初に聞いた時のミホノブルボンも同じ有様だったのだから仕方がない。

 ナウでヤングな少女達相手に通じない時点でまったくイマドキではないという意見は──所謂、禁句とするべきか。

 

 ともかくファインドフィートが理解できたのは、ミホノブルボンの予定に対する認識は正しかったという事実のみ。 十分である。

 

「……では、フィートさん。

 先刻もお伝えした通り、マスターとの打ち合わせミッションに向かいます。

 予定では1時間程のミーティングですが──」

「ええ、分かっています。

 ……もうすぐ日も暮れますから、足元にはお気をつけて」

「はい、オーダー受託しました」

 

 そして再び鳴る蝶番。

 きぃ、という悲鳴と共に、栗毛の後ろ背を見送る。

 

 ほんの数瞬で消えた姿の残照を、青い瞳でぼんやり眺めた。

 ……そして、"さて、今からどうしようか"と頭を抱える。

 

 ひとまずの対応として二人分のカップを流し台に置き、久方ぶりの問題に揺れる右耳。

 そこに飾りはない。故に当然、音もなかった。

 

「……いえ、無理では?」

 

 ……今からトレーニングと洒落込もうにも、残念ながらその手は取れない。

 己がトレーナーから"今日は休養日にしろ"と伝達された上に、自主練までも禁止されてしまった。

 蹄鉄の手入れは昼休憩の間に終わらせているし……誠に遺憾ながら、本格的にやることがない。

 

 ならば、どうしようか? 

 椅子に腰を落ち着けて、ゆるゆると考える。

 尻尾を膝の上に乗せ、手慰みに撫で付けながら。

 

 カチ、コチ。

 悩む少女を他所に時計が十度、呼吸した。

 音に合わせて耳を震わせ、惑いに惑って頭を悩ませる。

 

 カチ、コチ。

 机の上に視線を落とす。

 皺の多いプリントが、無意味に白い腹を晒していた。

 

「……ああ、そうだ。

 今のうちにプリント類を整理しておきましょうか。

 まぁ、大した意義は無い事ですが……」

 

 くるりと居直り、卓上棚に目を向ける。

 雑多な教科書、間に挟まる紙の群れ。

 

 適当に押し込んだせいでぐしゃぐしゃに潰れてしまった物もあれば、無駄に丁寧に折りたたんだせいで内側が見えない──つまり、手に取って広げるまでは中身が秘匿されたままの、仕分けの面倒を増やすだけの物もある。

 まったく、誰がこんな事をしたのか。 苛立ちをぶつけたくなった。

 

 ……が、犯人像を考え込んだ結果、自分の顔しか思い浮かばない。

 非常に残念だが、それが事実である。

 

「はぁ……」

 

 中間テストの結果。抜き打ちテストのプリント。学内行事のお知らせ。

 

 一つ一つ中身を確認して不要なものを横に分ける。

 今のところ、不要判定を受けた物が全てだった。

 

 中身にほんの数秒目を通す。横に放る。

 中身にほんの数秒目を通す。横に放る。

 

 ……いっその事一切合切纏めて捨ててしまいたい、なんて、怠惰な発想が脳裏をチラチラ掠めていく程に面倒な作業だ。

 

 そもそもこんなに大量の紙があっても使い道なんて殆どない。

 後から見返すようなタイプでもない己には不要なだけだろうと。

 そんなファインドフィートの主張は、ある意味で理にかなっている。

 

 ……人間とは楽な方へ楽な方へと流れてしまう生物だ。

 "元"が枕につくファインドフィートであろうと同じである。

 手持ち無沙汰を解消する為に始めた行いだというのに、大雑把で迅速な解決方法を求めだしてしまうのだから手に負えなかった。

 

「……全部、捨てちゃいましょうか。

 あれこれ手間を掛けるのも面倒ですし」

 

 それに、どれもこれも特に大した思い入れも無いゴミばかりだ。

 適当に口から出した案を実際に採用するまで、時計の呼吸音さえ不要だった。

 

「どうして、こんなに溜め込んでいたのやら……」

 

 淡々と集めて、重ねて、束ねて捨てる。

 時計の音をかき消す程にバサバサと音を立て、一気に収集した。

 

 一枚二枚、五枚十枚十三枚。

 つい先程までのスローペースとは打って変わってハイペースに。

 

 そして集め終わった雑多な紙類を紐でくくり、机の端に寄せる。

 作業の完了のために消費した時間は、ほんの数分程度だった。

 

 幾らかスッキリした机の上を眺めて満足気に息を漏らす。

 やはり最初からこうするべきだったと、僅かな充足感で尻尾が揺れていた。

 

 ……が、終わってしまえば再び暇になる。自明の理だ。

 考えなしの少女が時間つぶしの方法に頭を悩ませるのは……存外、すぐの事だった。

 時間つぶしの方法を考えることが時間つぶしになるとは、実に愚かしい。

 ファインドフィートにもその自覚はある。

 

 ……けれど。

 それを良しとする他ない程に、私生活の過ごし方を忘れてしまっていた。

 

「前は、どうでしたっけ……。

 もっと、もっと、くだらない時間の使い方をしていたような……」

 

 その"くだらない時間の使い方"を愛していたというのに、忘れてしまった。

 自分がこれまで捨てた物以外にも、抱きしめるべき何かはたくさんあった筈なのに。

 小さな両手では抱えきれないほど、たくさんあった筈なのに。

 

 ……失われたそれらにどんな思いを馳せようと、今となっては過去の陽炎。

 もはや、どうしようもない話である。

 

「次、次は……」

 

 そしてもう一度、頭を抱えて──。

 

 ──ふと、他の捨てるべきゴミ切れの存在を思い出す。

 

 それはいつかの日に購入した、プラネタリウムのチケット達だ。

 本当はミホノブルボンやトウカイテイオーを誘うつもりでいたのだが──その機会は訪れなかった。

 それからも未練がましく捨てられず、引き出しの中に安置していた。 当然、期限は切れている。

 

 "ちょうどいい機会だ、捨ててしまおう"。

 喉先だけで舌を震わせる。

 先程までとは違うぎこちない動作で、収納先の引き出しへ手を泳がせた。

 

 胸の奥を刺激する幽かな痛み。

 湧き出る怯懦。

 それら一切を歯の根ですり潰し──鍵付きの取手を軽く握った。

 

「ん……?」

 

 ──が。 帰ってきた感触は、酷く軽い。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「──は?」

 

 慌てて胸元に手を伸ばし──服の下に収めていた革紐を引きずり出す。

 首に掛けた時と同じように、輪っかの端に簡素な鍵がぶら下がっていた。

 鈍い鉄色が蛍光灯に反射する。てらてらと、無能な様を誇るように。

 

「いや、まさか──」

 

 ぞっと背筋が凍てついた。 唇が乾いた。

 震える臓腑に急かされ、慌てて身を乗り出す。

 

 プラネタリウムのチケットが三枚。期限切れ。

 購入時のレシート。くしゃくしゃに丸められている。

 そして青い日記帳。ズタボロで、無様な傷に塗れた死蝋(あお)色。

 

 常とは違い、青い眼を大きく見開き検分する。

 位置は……どうせズレるから関係ない。

 考えるべきは──例えば、真新しい皺。例えば、自分以外を由来とする匂い。

 

「いえ、きっとありえない。ありえないです、けど。

 ……それは」

 

 そういった痕跡を探す背中には、隠しきれぬ焦燥が滲む。

 

 ──けれど、そうまでして探せども、品々の様子に変わりはなかった。

 まず、物品の状態は記憶通りだ。

 ……匂いには幾らかの()()()を感じられたが──密閉空間にあったのだから、多少の変質は有って然るべきに違いない。

 

 何度も視線を往復させる。

 実際に手にとって匂いを嗅ぐ。

 何度も何度も、もしもの可能性を否定するために。

 

 そこまでして、ようやっと安堵の溜息をこぼせた。

 ファインドフィートは己を──己の目鼻すら信じていないというのに。

 

「……鍵の、掛け忘れ? 

 ああ、それならあっても可笑しくない……最近は、そう……色々とありましたから」

 

 だったら、それで良い。

 これ以上考えたって意味はない。

 ファインドフィートの利にはならない。

 

「だから、何も、可笑しくなんて……」

 

 ……だというのに。

 どうしてか、喉の奥に小骨が刺さったような気分だった。

 

 もう一度、部屋を見渡す。

 ファインドフィートとミホノブルボンが暮らす部屋。

 

 朝、部屋を出た時から変わらない。

 あるいは、それより前からだろうと同じこと。

 

 変わらない、変わらない、変わらない。

 何だろうと、変わらない。

 調度品を新調しても、家具の配置を修正しても、日用雑貨が増えても減っても、この部屋は変わらなかった。

 

 ……それは物質的な意味ではなく、心情的な意味での不変だ。

 

 ファインドフィートにとってこの部屋は安息の地だ。

 その事実さえあれば、それで良い。

 日だまりが何時までも不変であれば、それだけで良いのだ。

 

「…………」

 

 ──なんて己に向けた暗示を繰り返せど、疑念は更に膨れ上がる。

 ただただ、違和感が強まっていく。

 

 違和感、そもそも何を以て違和感とするのか? 

 その疑問に応えはなく、言語化もできず、淡々と視線を彷徨わせた。

 

 照明を見る。壁を見る。

 壁の棚を、ベッドの上を見る。

 なんとなしにしゃがんでベッドの下を覗いてみれば、何処か見覚えのある棒切れが転がっているのみ。 まったく訳が分からない。

 

「…………」

 

 スカートを揺らして立ち上がった。

 そしてもう一度、高くなった視点からぐるりと周囲に視線を送る。

 

 塵屑の束。机の棚。本の背表紙。

 机の上、机の角──。

 

「……?」

 

 ──ふと、視線を止めた。

 

 机の右角、奥側。本棚の根本。

 構造上の問題なのか、頻繁にホコリが溜まってしまう箇所だ。

 

 そこに、ちろりと伸びた糸。

 細長いそれが素知らぬ顔で横たわっていた。

 

 机の色とは若干異なるからこそ、辛うじて目視できる程度の太さ。

 ツヤもよく、微かに光を反射している。

 

 それに、意識が吸い寄せられるように。

 幼子が、見慣れぬ物に触れたがるように。

 

 そっと手を伸ばし、親指と人差し指の先端で挟み込む。

 ……が、どうしても掴みづらくて少しばかり苦労した。

 

 口を尖らせながら二本指を駆使すること、十秒程度。

 ややあって摘み上げた糸を、目の前に晒し上げた。

 長い()()がさらさらと空気に揺蕩う。

 

「……いや。 これは糸というより、髪の毛……?」

 

 目を皿のようにして眺める。

 どこかで、()()()()()()()だった。

 

 つい数日前にも見かけた気がする。

 数日前の、更にその前からも見ていたような錯覚さえ覚えるほどに目に馴染んだ。

 

「茶色……赤褐色。

 ……というよりも、鹿毛……の、ような」

 

 小首を傾げる。 長い芦毛がさらりと流れた。

 摘み上げたそれは、当然ながらファインドフィートの頭髪と違う色。

 そのうえミホノブルボンの赤みがかった栗毛色とも違って、僅かに黄系統の色味が強い。

 

 ……つまり、両名共にこの髪の毛の主ではなく。

 ファインドフィートとミホノブルボンの部屋にある筈のない、全く別の誰かの落とし物ということで。

 しかもそのくせに、よく知る色彩であり──。

 

「…………ちがう。 それは、ちがう」

 

 ──何よりも、匂いが。

 薬品では誤魔化しきれない匂いの残滓が、少女の海馬を刺激する。

 

「それは、ありえない」

 

 空よりも澄んだ、青い瞳を幻視した。

 

「だって、理由がない」

 

 ……どこぞの鹿毛が為した対策は、万全ではなかったのだ。

 事前に使えた時間の制約という問題の影響もある。

 しかし何よりも、ファインドフィートという少女の疑り深さを取り違えてしまった事が原因だった。

 あるいはそれを、"臆病さ"と言い換えても良い。

 

「ここに来る訳ない。

 あのひとは、そんな事をしない」

 

 けれど、臆病だからこそ自己へ暗示する。幾重にも上塗りする。

 妄執の域で、脳裏に掠めた少女の顔を否定し続けた。

 だって──それが己の知る彼女による行いだと判ずるには、あまりにも欠けすぎている。

 証拠も、通理も、何もない。

 

 だから、ありえない。

 

 幾重にも、幾重にも、推論を否定する証拠を突きつけ、暗示を補強する。

 

 彼女はファインドフィートの友人だ。

 敬愛する先駆者であり、曇りのない信頼を向ける相手でもある。

 

 だから、彼女が己の秘匿を暴こうとする筈がない。

 

 その確信は陶酔にも似ていて、鉛よりも鈍重な盲信だった。

 まさか、まさか、安息の地の住民が、安息の地を破壊する筈がないのだ。

 

「だから、ちがう。

 わたしの中は知られていない。 わたしの中は暴かれていない」

 

 ──けれど。

 "もしも"の一切を否定する理論には瑕疵があった。

 ほつれた糸が玉になってしまっているように、僅かな障害が残っている。

 それは──あの日、あの夜道で、手を差し伸べられた事。その過去が存在するという事実。

 

 

 ……ファインドフィートは、あれで全てを終わらせたと思っていた。

 より正確に言えば、そうであってほしいと願っていた。

 忘れることも出来ず、捨てることも出来ず、色褪せることも叶わなかった夜道の景色を抱え、延々と。

 

 だが、もし……もしもあの日が続いていたとしたら。

 もしも、あの日が終わっていなかったとしたら。

 そんな万が一の可能性を思えば、酷く恐ろしくなった。

 松果体が震えて、あり得てはならない未来を夢想してしまうのだ。

 

「だから、だめだ」

 

 だから。

 どうか、このまま暴かないでいてほしい。

 どうか、このまま目を逸らしていてほしい。

 どうか、どうか、"ぼく"を見つけないでほしい。

 

 ──そうでなければ、願ってはならない()()を、望んでしまいそうになる。

 

「……そんなの、考えちゃだめだ。 わたしは間違えてない。

 考えるな、考えるな。 何も、考えるな……」

 

 いくら否定しようと、斯様に口走っている時点で手遅れだというのに。

 ファインドフィートはそんな簡単な事にも気付けないまま、肩を小さく縮こませる。微かに、喉を鳴らして。

 その姿は、幼い子供が夜闇に怯える様と、まったく同じ形をしていた。

 

「……ああ、やっぱり……こんな口なんて要らなかった。

 こんな、こんな……邪魔ばかりする口なんて、要らなかったんだ……」

 

 両の手で眼を押さえる。

 皮膚はひやりと冷えていた。

 汗がしっとりと滲み、瞼を濡らして蓋となる。

 

 冷たい。

 冷たいけれど、死人の肌というには、あたたかい。

 その事実さえもが彼女の心を苛み続ける。

 

「姉さんなら……もっと、上手くやれたのに」

 

 ──いっその事、太陽に抱きしめられたなら。

 この無様な熱も、無為に溶けてくれるのではないか、なんて。

 

 あまりにも無意味な妄想を飲み込んで、ただ、浅い呼吸を繰り返した。

 

 


 

 

『太陽』

 本来なら、舞台装置に徹していた乙女。

 恋は一瞬(もうもく)、愛は永遠(きょうき)

 

『海』

 神であるからこそ、神を信用していない。

 不信の対象には自分自身も含まれる。

 

『王冠』

 不遜な物言いは大嫌い。

 不敬も一切許せない。

 

 けれど、それらは所詮一過性。

 芯はなく、中身も空っぽ。

 何であろうと結果的に楽しければ、それで良い。

 



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37話

 

 喉首に絡みつく。

 手首を蝕む。

 

 赤くてきれいな、六条の──。

 

 


 

 

 そして月がのぼり、天蓋の外に堕ちて。

 やがて陽が半日振りに姿を見せてから、さらにおよそ6時間程。

 

 トウカイテイオーはたったひとり、チームスピカの部室に居座っていた。

 そのくせにトレーニングに勤しむ訳ではなく、器具の準備をするでもない。

 

 普段通りの装い──トレセン学園の冬服に身を包み、パイプ椅子に腰掛けて。

 ただ、眉間に深いシワを寄せるばかりだった。 秀麗な面立ちに似合わぬ、深い憂悶の相だ。

 落ち着かぬ様子で腕を組み、耳をピクピクと四方へ向け、大きな唸り声を上げる。

 

 うぅん、うぅんと、たった一人の独唱だ。 カエルよりはよほど綺麗な音が響く。

 

 ……が、唸り声は唸り声。

 十分そこらも延々と続けていれば、付近の人間をおびき寄せてしまうのも仕方のない事である。

 

 

 ──ふと、建付けの悪いドアが"ぎぃ"と悲鳴を上げた。

 

 闖入者はチームスピカのトレーナー。

 外気と共に男を迎え入れ──少女は、肩を小さく震わせた。 いくら冬服とはいえ、寒い事に変わりはないのだ。

 

「──で、一体何やってるんだお前は……」

「トレーナー。

 どうしたの? 今日のスピカは休みじゃなかったっけ」

「ああ、まぁ……そりゃお前らは休みなんだが……」

 

 男──沖野の発言は、どうにも歯切れが悪かった。

 首の後ろを指で掻き、気まずさを必死に誤魔化そうとしているよう。

 

 けれどそれを見たトウカイテイオーは、ただ"ふぅん"と息を漏らすのみ。

 気のない相槌とも、純粋な納得とも取れる軽さだ。

 今はそれよりも重要な問題が発生しているのだから、まったく仕方ない事である。

 

 少女はまたひとつ、唸り声を上げた。

 そしてそのまま頭を横に向け、安っぽい机の上に視線を固定する。

 

「ねぇねぇ、トレーナー」

「どうした?

 っと、足を組むのはやめとけよ」

「ちょおっとこの画面見て欲しいんだけど……時間、あるよね?」

「それは構わないんだが……いや、何でもない」

 

 青い瞳が見つめる先は机の上の携帯電話だ。

 開かれているのはフォトアプリ(写真の一覧)

 収められているのはどれもこれも日常風景を切り取った物ばかりである。

 

 ……別に、可笑しなモノは何もない。

 駅前で飲んだはちみーのカップ、マヤノトップガン(相部屋の少女)とのツーショット、ゴールドシップに絡まれるメジロマックイーン、ミホノブルボンに肩車されているライスシャワー、ファインドフィートにも肩車されているライスシャワー。

 ウオッカ(ほぼ男子小学生)と相撲するダイワスカーレット(一番大好き娘)、大食い大会に飛び入り参加したスペシャルウィーク(大食らいの田舎娘)サイレンススズカ(一般通行被害者)、メジロマックイーンに踏みつけられるゴールドシップ……。

 

 どれもこれも何の特色もない日常風景。

 幾年も掛けて、意図せず記録しただけの写真達だ。

 

 ──けれど、そのリスト達の先頭。

 最も新しく撮影した()()()、一枚の色褪せた名刺の写真。

 唯一の異色を有するそれが、彼女の悩みのタネだった。

 

 無論、それ単体であれば可笑しさとは無縁のものである。

 しかし──トウカイテイオー自身には、この名刺に対する見覚えが存在しなかった。

 その前提があるだけで(たちま)ち異物と変わり果ててしまうのだ。

 

 だって、自然に考えればあり得ないのだ。

 写真撮影者であるトウカイテイオーが知らないなんて──理解不能にも程がある。

 

「──っていう訳で、こうして頭を悩ませてるの」

「……本当に、覚えてないのか?」

「うん。

 けど強いて言えば──背景の"青い本"だけは……見覚えがある、ような……?」

「はぁ……」

 

 手前に映し出された名刺の陰に隠れて見えづらい。

 だが……その後方には、開かれた本があった。

 

 内容は一切読み取れないものの、前からでも背表紙の最端は見える。

 そのおかげで色の識別だけは可能だ。

 逆に言えば、それしか把握できないという事でもあるのだが。

 

 しかし、それでも──。

 

「──うん。確かに見覚えはあるんだよ。

 けど……何処で、見たんだっけ?」

 

 液晶を指でつつく。

 ケースの角に括り付けられたキーホルダーが衝撃に引き摺られる。

 メジロマックイーンの小さなぱかプチ(ぬいぐるみ)が、不機嫌そうにトウカイテイオーを見上げていた。

 

「……それにさ、この時間は……」

「……この時間は、どうしてたんだ?」

「あー……ゴルシと一緒に魚釣りに行ってたんだよね」

「道理で見ないと思ったぜ……」

 

 写真のデータとして残されたタイムスタンプ(撮影時刻)を確認する。

 そして再度、頭を抱えた。

 

 トウカイテイオーの記憶が正しければ──本当は、ゴールドシップの船に乗っていたわけではない。

 丁度、ファインドフィートの部屋に()()()していた頃合いだった。

 正確に言えばファインドフィートとミホノブルボンの部屋である。

 相部屋のサイボーグ少女に協力を取り付け、借り受けた鍵を用いての家探し。 酷い背徳の念は今でも、彼女の脳裏で反響し続けていた。

 

 ……けれどトウカイテイオーの海馬には、この時間帯に携帯を取り出したという記憶さえ存在していないのだ。

 覚えているのは、友人の身の回りにある品々を検めたこと。

 そして結局、()()()()()()()()()()()()という……苦い、失敗の記憶だけが刻まれている。

 他に覚えていることなんて──そう、何もない。 何もなかった。

 

「じゃあ、これは……?」

 

 ……ともかく。

 日常の細部を忘れるならまだしも、写真を撮ったという行動そのものを忘れるなんぞ滅多にある事ではない。

 

 その上、よりにもよってファインドフィートの部屋での事。

 それが──その一点だけが、大き過ぎる気掛かりだった。

 

「……でもダメだ~、なんもわかんな~い」

 

 ジリジリとうなじを焦がす不快感が、彼女の精神を逆撫でる。

 熱く、冷たく、蛇のように絡みついて離れない。

 

 椅子の上で脱力し、手足をだらりと投げ出す。

 その姿には二冠の帝王としての威厳も何もなかった。

 

「──アグネスタキオンに頼んだら、頭が良くなる薬とか貰えないかな……」

「ちょっと待て、それは」

「スカーレットも"タキオン先輩はすごい"、"なんでもできる"とか言ってたし……これ、意外といい案かも」

「あー……とりあえず落ち着け、な?」

 

 アグネスタキオン。

 高等部に所属する栗毛のウマ娘である。

 彼女は皐月賞を取得したG1ウマ娘としても有名だが──それだけではなく、所謂マッドサイエンティスト(狂気の科学者)的な意味合いでも一定の知名度を獲得していた。

 一応、公序良俗に反しない程度の──彼女のトレーナーは頻繁に発光しているともっぱらの噂だが──良識を兼ね備えている、らしいとも。少なくとも、薬物実験を無理強いはしない程度に。

 何か被害を被るとしても、それは彼女のトレーナーか彼女の友人であるマンハッタンカフェ程度のものである。

 

 それにトウカイテイオーは、チームメイトのダイワスカーレットからもある程度の話を聞いていた。

 曰く、理想の先輩。曰く、タキオン先輩の薬は万能。曰く、心優しい知恵者。

 その他大勢の噂話とは酷く乖離しているが……きっと、後輩には優しいのだろう。

 

 つまり、困っている自分(後輩)の相談にも乗ってくれるに違いない。

 トウカイテイオーは非常に()()()思考で結論付けた。

 

 半ば現実逃避でもあるのだが──何時までも存在しない記憶に悩まされるというのは、あまりにも生産性がないのだ。

 考えたって無駄で無意味。

 どうせなら、何だろうと動いたほうがまだマシだ。

 

「──じゃ、行ってくるねトレーナー!」

「ちょっと待て、テイ──」

 

 迅速果断だった。素晴らしい行動力だった。

 けれど沖野は、そんな彼女を引き留めようと口を開き──。

 

 ──口を開けど、その頃に既に風となった後。

 恵まれた脚力を遺憾なく発揮してのスタートダッシュは惚れ惚れとする程に流麗だった。

 

「……」

 

 口に咥えた棒付きアメが、からりと虚しく転がった。

 伸ばしかけた手は宙ぶらりんだ。

 気まずげに幾度か空気を鷲掴んで、あっさりと解かれる。

 

「……ま、大した事じゃない。

 巻き込むのも野暮だな」

 

 棒付きアメをもう一度、舌で転がす。

 いちご味の赤色が、控えめな甘さを主張していた。

 

 

 ◆

 

 

「っていう訳なの。おねがいタキオン、物忘れが治る薬出して!」

「いやキミィ……それは病院に行きたまえよ」

「やだよ。 注射されるかもしれないじゃん」

「判断基準が随分と個性的だねぇ……」

 

 所変わって、アグネスタキオンの私室──では、なく。

 アグネスタキオンの私室かと見紛うほどに改造された()空き教室である。

 友人兼保護者であるマンハッタンカフェと共同で占領する、謂わば第二の私室のようなものだった。

 

 ……本来はマンハッタンカフェの趣味の品を置く場として、特例で生徒会から貸し与えられていた場所だ。

 しかし諸々の()()()()()()()()によって、アグネスタキオンも相乗りすることになったのだ。

 

 結果として生まれたのが、部屋の半分を構成するアグネスタキオンの研究室。

 もう半分はマンハッタンカフェの私有グッズスペース。

 半々で異なる様相を見せる教室は……誰の目から見ても、学校施設の一部などとは思えぬ程の異彩を放っていた。

 

「ああ、向こうのスペースに無許可で触れるのは止めておいた方がいい。

 研究資料が突然燃えたり調合中の薬品が急に泡を吹き始めたりするからね」

「えぇ、なにそれぇ……!」

「中々に恐ろしい現象だろう? 勿論、私は泣き()()になったよ」

 

 大きな机の上に所狭しと積まれた精密機器や薬品の瓶、雑多な書類の山。

 それらを適当に払い除けたアグネスタキオンに勧められ、ひっそりと存在していたパイプ椅子に腰掛けた。見た目に反して意外と清潔な椅子だった。

 

 そんな彼女を横目で気にかけつつ、手元のフラスコを揺らす。

 緑色に発光する液体がとぷりと波打つ。

 

「事の経緯は把握したけどねぇ……それは、私よりも先に頼るべき機関(びょういん)があるんじゃないかい?」

「でもスカーレットの疲労をポンって取ってくれたって聞いたよ?」

「いやキミ、それとは程度の差というものがね……」

「ねー! おねがーい! カワイイ後輩の頼みでしょー!」

 

 駄々を捏ねる彼女を見て、茶色のくすんだ瞳を細めた。

 ここまで押しが強い相手は初めてかもしれないと、微かに。

 アグネスタキオンにしては珍しく、それなりに困惑していたのだ。

 

 けれども、だから"はいどうぞ"と薬を出すわけにも行かない。

 そもそもそんな薬を造った事もない。

 ……つまり、前提から破綻しているのだ。

 

「はぁ……」

 

 オフィスチェアに背中を預けて息を吐く。

 "ぎぃ"と、背もたれが悲鳴を上げた。

 

 ……そして数秒後。

 

「よし、良いだろう」

 

 ふと、机の棚に片手を勢いよく突き込んだ。

 上に積みあげられた本の塔がぐらりと揺れる。

 

「──仕方ないなあテイオーくんは。

 はい、記憶力が良くなる薬だよ」

「わぁい! 

 ……って、ただのDHAサプリじゃん!」

 

 ──残念ながら、子供だましは通用しなかった。

 敗因は差し出した瓶のラベルに商品名が書かれていたことだ。

 

 ……とはいえ、意図して事前に備えるのにも限界がある。

 それが叶うのであれば未来予知能力者としてやっていけるに違いない。

 

 半ばヤケクソ気味のアグネスタキオンは、ただ肩を竦めた。

 

「あのねぇ、私は何でもできる魔法使いじゃないんだ。

 専門分野は別にあると理解して欲しいモノだよ」

「うっ……」

「それに脳機能に関連する部分はデリケートだ。

 そう簡単に薬品でどうこう、なんてのは厳しいのさ」

 

 そうしてトウカイテイオーに返ってきたのは至極まっとうな正論だ。

 斯様に滔々と諭されてしまえば、さしもの彼女とて返答に窮してしまう。

 出るとしても"んぇー"とか、"なんでぇ"とか、くだらない鳴き声程度のものである。

 

 ……発言者の日頃の行動を思えば、その言葉に説得力など欠片も存在しないのだが。

 

「……まぁ、頻繁に起こるようなら診察を受けることをオススメするよ。

 私とて、万能には程遠いのだからね」

「はぁい……」

 

 何はともあれ、"お大事に"と気休めの言葉で締めくくられた。

 

 そして、それからほんの数秒後。

 教室の引き戸がからりと鳴いた。

 冷たい空気がするりと通り抜けて、少女ふたりの前髪を揺らす。それは新しい顔ぶれの登場を示す合図でもあった。

 

「……ただいま、戻りました……」

 

 風と共に訪れた少女は青鹿毛──ほぼ純黒色の長髪を携えていた。

 淡く、ほの暗い……何処か、浮世離れした空気を纏う少女だった。

 

「……今日は、珍しいお客様がいらしてるようですね」

「おや、カフェ」

 

 黒い、暗い。 明瞭な形を得た影のようだ。

 相対した印象を、そう脳裏で評した。

 そんな彼女の名前はマンハッタンカフェと云う。

 この空き教室の主、その片割れを表す記号でもあった。

 

「お邪魔してるよ、カフェ先輩」

「……こんにちは、テイオーさん……」

 

 そして、"本当に珍しい客だ"と。

 小首を傾げてぱちりと小さく瞬いた。

 

 蛍光灯の光を黄金の瞳が反射して、薄っすらぼんやりと輝いている。

 影の中に浮かぶそれらは、まるで朧月のようだった。

 

「取り込み中なら席を外しますが──」

「ん……、もう終わったから気にしないで」

 

 トウカイテイオーがひらひらと手の甲を泳がせる。

 "終わった"というのは、"諦めが付いた"という意味合いでの発言だ。

 

 その姿を見て、ようやく教室の入り口から身体を引き離す。

 向かう先は研究室エリアの反対側──小洒落た調度品で彩られている、マンハッタンカフェお気に入りのグッズスペースだ。 革張りの大きなソファが主の帰還を待ち受けていた。

 

「ですが……タキオンさんに何の御用が? 

 ……まさか、また何か騒動を……」

「え、カフェ?」

「いやいや、ちょっとした相談事に乗って貰ってただけだよ。

 ちょぉっとだけ困ったことがあってさぁ」

「……人選ミスでは……?」

「カフェ!?」

 

 さもありなん。

 日常的に被害を被っている彼女としては、至極真っ当な感想だった。

 不本意ながらも保護者として認識されている身であるが故に、尚更不安を感じるのだ。

 

 大げさに驚いている様子の友人を横目でみやり、小さく嘆息した。

 

 ──それから。

 "こんな問題児に話す相談事とは……? "と、純粋な疑問に満たされるのは存外すぐの事。

 仄かな好奇心を宿す瞳がトウカイテイオーを見つめる。

 

 ……そして少女には、それを隠そうという意思は無かった。

 なにせ日記帳()を暴いた記憶も自覚もないのだ。

 結果として抱いた感慨を取りこぼしたのだから、簡単に舌が滑ってしまうのも仕方のない話である。

 

 ──────。

 ────。

 ──。

 

 

 三度目の説明。三度目の困惑。

 半分慣れ始めた反応を受け、まぁそうなるよね、と乾いた笑い声を漏らす。

 

 けれど、今回は少しだけ流れが違った。

 次に浮かんだ表情は訝しむものではなく、呆れるものでもなく。

 マンハッタンカフェは、渦中にある少女の(かんばせ)を眺めて──そして、僅かに視線を滑らせた。

 

 上へ。

 より正確に言えば、トウカイテイオーの()()へと。

 ……けれど、そこには何も無い。

 空気を貫通して天井に到達する事しか出来やしない──筈だ。

 

 しかし、少女は。

 虚無の中に不確かな()()を見つけて、猜疑の籠もった光を瞳に混ぜた。

 僅かに剣呑で、幽かな憂いを含んでいる。

 

「……その写真、見せていただいても?」

「え? ……まぁ、良いけど……」

 

 けれど、その姿を見せたのはほんの一瞬だけ。

 周囲の少女達が違和感を感じる程の時間も無い。

 

 ……そして、一歩を踏み込まれた。

 マンハッタンカフェとの物理的な距離も無くなった。

 

 二面性を有する教室の蛍光灯が、チカチカと点灯する。

 影の少女を双方から照らし合わせる。

 

 光と光が絡み合う境目。 そこが彼女の立ち位置だった。

 

「え、っと……あった、これこれ」

「……拝見します」

 

 両手に抱える液晶に映るのは、誰も知らぬいつかの写真だ。

 背景には本。

 手前には本の中身を覆い隠す名刺。

 

 伏せられた瞼と長いまつげが幾度か上下する。

 見え隠れする黄金の瞳を対面から見守りつつ──トウカイテイオーは知らずのうちに、呼吸を浅く留めていた。

 

「……青い装丁。傷だらけの、小さな本……」

 

 小さな囁きが耳朶に沈み込んだ。

 深々と、幽かに、薄い唇で言葉を紡いで、一言一言が細く響く。

 

 込められた感情の色は──。

 ……残念ながら、トウカイテイオーには理解出来なかったけれど。

 ただ……不思議な音色だと、淡い心証を抱いた。

 

「ど、どう……?」

「…………」

 

 青い本の輪郭を指でなぞる。

 白い指が過去を泳いだ。

 

 そして、面を上げて──。

 

 

 ──寸前に、アグネスタキオンが影の後ろから身を乗り出した。

 顔の横から"こんにちは"と栗毛の耳が揺れていた。

 

「……タキオンさんはまず、テイオーさんに断ってからにしてください」

「まぁまぁ、堅いことは言わずに」

「ボクは別に良いけど……」

「ほら、テイオーくんのお墨付きだ! 安心したまえ!」

「……はぁ、調子のいいひと……」

 

 しかし結局、"知らない名前だねぇ"と口に出すのみ。

 簡素な感想だけ置き土産にあっさりと身を引いた──。

 

 ──そんな、当たり障りのない結果になるのかと思いきや。

 アグネスタキオンはまず、目を丸く開いて静止した。

 彼女の表情はむしろ、"心当たりがあるねぇ"と言わんばかりの露骨なモノだった。

 

「ふゥン……この名前は……」

「知ってるの?」

「ああ、いや……以前、彼が発表した論文を見たことがあるだけさ」

 

 それにしては随分なオーバーリアクションだ。

 特に、付き合いの長いマンハッタンカフェにはそう感じられた。

 

 故に、無言で続きを促す。

 黒い耳でアグネスタキオンの頭を軽く叩くだけの、優しい催促である。

 

「あー……確か、ウマ娘の心臓をヒトに移植する手法の考察。

 それと……"因子"と呼ばれる概念との関連について……だった、かな」

「……?」

「平たく言えば臓器移植の論文さ。

 内容は……少しばかり、特殊だったけどね」

 

 なるほど、医者としては一定の知名度を有する人物だったらしい。

 マンハッタンカフェも、そしてトウカイテイオーも納得の意を込め頷いた。

 

 ……しかし内容自体はさておきとして、それはそれでまた別の疑念を生じさせるモノだ。

 何故、斯様な人物の名前がトウカイテイオーの携帯の中にあるのか? 

 唐突に生えてくるにしても、あまりにも接点が無い存在だ。

 少なくとも、彼女()()()()()()欠片も無かった。

 

「……テイオーさん、申し訳ありませんが……私達から言える事は特に無さそうです……」

「あ、ううん! ごめんね、色々と無茶ぶりしちゃった!」

 

 何はともあれ解決はならず。

 しかし、だからと謝意を口にされてしまえば、途端に申し訳無さが勝る。

 

 ダメ元だった上にそもそもが相談内容として意味不明なもの。

 もはや彼女自身としても何故わざわざ此処を訪れたのかも分かっていないのだから、なおさらに謝罪は受け取れなかった。

 

「そうとも、気にすることはないさ。

 理解に苦しむ現象なんて日常茶飯事だろう? 

 ……そう、急にラップ音(心霊現象)が鳴る事だってあるわけだしねぇ」

「それは、アナタが勝手に余計なことをするからです……」

 

 ……正直、謝罪云々よりも"勝手なことをすると心霊現象が引き起こされる"という発言のほうが余程関心を引いた。

 

 世の中は存外オカルトチックな概念が蔓延っているらしいとしても──まさか、これほど身近に実在していたとは。

 半分あきらめの境地で、あいまいに頷く。

 

 ……とはいえ、オカルトだの何だのは今さらの事柄だった。

 そもそもウマ娘という種族が余程オカルトチックである。

 身体能力然り、外見的特徴然り、種族の起源さえも未だ未解明。

 それを自覚している彼女としては、頭から否定しようなどと思えなかったのだ。

 

「だからテイオーくん、今は妖怪の仕業とでも納得しておくといいさ。

 そう、例えば……直前までの行動を忘れさせる妖怪とかね」

「そうだ、ね……?」

 

 だから、そう。

 妖怪だって実在してもおかしくはない。

 妖精でも良いし幽霊でも良い。

 なんなら()だろうと構わない。

 無為に悩むのなら、そういった理解の及ばない物のせいにしておけば良いのだ。

 

 研究者としてではなく、ひとりの先輩として、おどけた様子で淡々と語った。

 しかしそれほどピンポイントな害を加えるなんぞ、中々理解に苦しむ化生だが──。

 しかし存外、あり得るのではないか。

 

「…………。

 ………………ん?」

 

 どこか、引っかかりを覚えた。

 忘れさせる、という言葉に。

 あるいは、その概念に。

 

「……んん?」

 

 ふと、脳裏から追憶が滲む。

 写真を取った時刻は、ファインドフィートの机の付近を漁っていた頃。

 その時は結局、何の成果も得られなかったのだが──。

 本当に何もなかったのか? 

 

「うーん……?」

 

 記憶の中に、ズレがあった、気がするのだ。

 行動と行動の間が抜け落ちている、ような。

 唐突に、コマ送りにされた瞬間が存在している、ような。

 その歯抜けになった何処かで、重要な何かを取りこぼしたような。

 

 ……そんな錯覚を、覚えてしまった。

 

 けれど、しかし。

 その何かとは、何だったか。

 一体何を、取りこぼしたのか。

 

「…………。

 ……ああ、なるほど。だから、それが……」

 

 ──唐突に頭を悩ませ始めた少女を見て、マンハッタンカフェが瞼を押し上げる。

 網膜に蛍光灯が反射する。仄暗い空間の中で、一対の金がぼんやり浮かんだ。

 

「カフェ……?」

 

 視線の先には何もない。

 目に見える物質は存在せず、無味の空気が漂うばかり。

 ……けれど、彼女の意識は揺るぎなく固定されていた。

 

 トウカイテイオーが知らずとも。

 アグネスタキオンに見えずとも。

 

 マンハッタンカフェの目だけは、厳かに揺らめく『赤い糸』を認識していたのだ。

 

「……そうだね、そっちのほうが良い」

「カフェ? どうしたんだい、カーフェー?」

「…………」

「おやおやおや、前が見えないねぇ」

「タキオンさんは、少し、静かに……」

 

 茶色い頭を右手で押さえつけつつ、真反対の自分の隣に顔を向けて。

 白い喉を震わせぽつりとささやいた。

 他のふたりに向けたものではない、小さな言霊だ。

 

「…………」

 

 そして、それを聞き届けたのは『お友達』だ。

 ずっと昔から共にあって、しかし誰にも見えない『お友達』。

 

「……それはきっと、あまり良くないモノだから」

 

 彼女のみ知る後ろ姿が、こくりと頷いた。 見えざる右手の五指が開く。

 トウカイテイオーの頭上から──細い喉首と繋がる、『赤い糸』を目掛けて。

 

「……テイオーさん、これは深い意味の無い、浅いアドバイスですが……時に、あれこれと考えない方が上手く行くこともありそうです」

「えっと……そ、そうなんだ……?」

 

『赤い糸』を握りしめる。

 ついでに左手でトウカイテイオーの喉首付近を押さえ、根っこの部分を固定した。 糸がぴんと張り詰める。

 

「……忘れてしまったものは……また、知れば良いだけですから」

 

 耳を後ろに引き倒した『お友達』からは敢えて視線を逸らし、己の持論を言い聞かせる。

 ゆっくりと、沈む音階で。

 

 ──この世の中には、理解できない物は意外と多いのだ。

 大事なのは、ウマく付き合う手段を模索すること。

 あるいは受け流すための術を知ること。

 

 マンハッタンカフェの持論とは、経験論とも等しかった。

 

「……だから、そうですね。

 まずは、手始めに──何も考えず……コーヒーを一杯飲みましょう。

 のぼる湯気を見つめて、心安らかに……」

 

 そして、『お友達』が右手を後ろへ引き絞る。 糸が限界を超えて張り裂けた。

 

 祈りが千切れ、無音の悲鳴がコダマする。

 ぶちりと、あっけなく空虚に。

 

 


 

 

 女神さま、痛恨のミス。

 致命的な見落としでした。

 

 ……けれど、糸を引き切られた事には気付いていません。

 まったく、見向きもしていません。

 

 つまり実質無傷みたいなモノなのです。

 良かったですね、女神さま!

 



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38話

 

 変わらないで欲しいと、供犠の少女は願いました。

 それは所詮現実逃避でしかないのだと、心の奥底では理解しているのに。

 

 それでもどうか、変わらないで欲しいと。

 蹲って延々と、供犠の少女が願っていました。

 

 


 

 

 ──()()()から時は過ぎて、幾日か。

 少女達の関係性は図らずも、少しずつ、少しずつ変容を重ねていた。

 

 それによって齎される結果が何であれ、全ては善意によるものだ。

 ヒトもウマ娘も、空に御座す神でさえも、()()()()で互いを見ていた事に違いはない。

 

 行き着く先が良いものなのか、悪いものなのか……それはまた、別の事柄ではあるけれど。

 彼女らが何を思おうとも変化は止められない。

 

 ……そして、それらの渦中に蹲るのはひとりの少女だった。

 普段通りの様子で、もうじき始まる大阪杯(春シニア三冠の一)に備えてトレーニングに打ち込むばかり。

 淡々と、延々と、芝の上を疾走し続ける。

 

 否、()()()()という表現は……些か相応しくない。

 その内面には微かな澱みがこびり付き、四肢の振る舞いにさえも僅かながら影響を及ぼしていたからだ。

 

 それでも、少女は走り続けていた。

 練習用レース場(トレセン学園)の直線を走る彼女へ向けて、冷たい風が吹き荒ぶ。

 無遠慮に(かんばせ)を叩き、長い芦毛を横殴りに散らす。

 

 びゅうびゅうと音を立てる冬の息吹。

 その中には若干であれど、春の色香が混ざっていた。

 

「ふぅ、はっ、はっ──」

 

 ……正直、少女──ファインドフィートは、今が冬でも春でも、どうでも良かった。

 赤いジャージの裾から内に入り込んだ空気は冷たくて、"寒い"という事実だけが天候の全てだ。

 空は晴れ渡っているというのに、陽の熱気はまるで伝わらない。

 

 それこそ、種族由来の高い体温がなければ到底耐えられなかったろう程に。

 

「はっ、はっ、はっ──」

 

 息を継ぐ。そして吐く。

 すぐ目の前に在る『姉』の幻影を追いかけて、鋭い呼吸を繰り返す。

 

 その気温故にだろう。 流れた呼気は真っ白だった。

 それはやがて空にのぼり、小さな小さな飛行機雲をうっすらと象る。

 走れば走るほど尾は長く伸び、やがて末端から消え失せていった。

 

 右回りのコーナーカーブに突入し、少しだけ頭を横に向ける。

 視界の端には、ごく僅かな蒸気が残留していた。

 

 

 それを見て──機関車から吹き上がる蒸気のようだと、酸欠気味の頭でぼんやりと空想する。

 地上を走る己から生まれ出るのだから、きっと大差は無いはずだと考えていた。

 

「はっ、はっ、はっ──」

 

 機関車──疲れ知らずで、狂いを知らず、正しいレールのみをひた走る。

 それなら敵知らずだ。 機械なら何かに思い悩む事もない。

 なら自分も本当に機関車になれたら良かったのに……なんて、今の彼女が考えるには子供染みた妄想だった。

 

 疲れ知らずで、狂いを知らず、()()()レールのみをひた走る。

 それはきっとファインドフィートが望む理想形のひとつで、ある意味での最適解で。

 なんて素晴らしいのだろうと、妄想に対して絶賛した。

 

「はっ、ふっ、ふぅっ──」

 

 しかし現実は、そう上手く行かないモノで。

 

 一歩を踏み出すたびに数ミリ単位で位置がズレ、数メートルで揺り戻し、数百メートルでは更にブレる。

 当然だ。 ファインドフィートは機械ではない。

 所詮、ただの子供でしかない。

 

 疲れと眠気に満たされて、簡単に失敗を繰り返し、正しさの解釈に惑ってばかり。

 そんなもの、ただの子供でしかないのだ。

 

 

 ──だからこそ、"けれど、それでも"、と身体を鍛える。

 鍛えて、鍛えて、鍛えて。

 経験を積み、余分な物を削ぎ落とし、僅かな狂いを正し続けた。

 成長を続ければ()()()は完成できる筈だと、精錬に打ち込んでいた。

 

「────っ」

 

 けれど、ふと疑念が湧き上がる。

 トレーニングの途中だというのに、ぐるぐると思考が巡る。

 

 その()()()は、いつ訪れるのだろうか。

 

 完成とは、何を以て完成とするのか。

 夢を掴めば、()()できるのか。

 

 なんて。

 それが無意味と理解しながらも、考えずにはいられなかった。

 集中が切れている。 意識が散らばっている。

 

 まるで無心になれない。 愚かだ。

 ……しかしそれでも、今まで積み上げた修練は裏切らず──身体が勝手に、義務的に芝を蹴り抜いた。

 

 続くコーナーカーブも手慣れたもの。

 否、足慣れたもので、凄まじい精度で加速する。

 加速して、加速して、限界の間際を狙い澄ました。

 

「ラストスパートだ! フォームを正せ!」

「……っ!」

 

 ──無言の肯定として、更に風を巻き込む。 風を撒き散らす。

 柵の杭、その傍に咲く季節外れの赤い花が小さなお辞儀を繰り返していた。

 

 そして辿り着いた最終直線。

 ゴール手前に痩せっぽちの男が──去年よりは幾らか肉を付けた骸骨が、億劫そうに立っている。

 手には学習ノートとストップウォッチ。 完璧な記録係の出で立ちだった。

 

「──ふぅ」

 

 姿勢を前傾に。

 四肢を可能な限り大きく開き、体幹の撓りで地面と反発させた。

 

 時速60kmから更に加速し──瞬間的に、二の位を押し上げる。

 芝を蹴る、跳ぶ、そして着地。

 襲う衝撃を全身で受け流し、身体を前に進めた。

 

 前に、前に、前に。

 痩せっぽちの男はもうすぐ目の前だ。

 

「──!」

 

 最後に右足で踏みしめる。 強く、強く、強く。

 纏う空気ごと跳ね、ゴールライン(男の視線)を飛び越える。

 

 

 そして左足で着地し──『姉』の幻影が消え失せると同時。

 ぎぃ、と、蹄鉄の歪む音が鳴り響いた。

 

 ……"失敗したかもしれない"。

 なんて、ほんの少しの冷や汗が背筋に滲んで、仄かな失敗の予感が肩を叩く。 もはや確信に近しい像を帯びた予感だった。

 

「……良いタイムだ。途中までは幾らか調子が悪く見えたが……まぁ、誤差だな」

「……はぁ、ふぅ……。

 これは、あとで、考えると……して……、はぁ……まずは、トレーナー……。

 とりあえず……水、ください」

「ん、少し休んでいろ。諸々を記録したら講評に移ろう」

 

 顎で示されたのは葛城トレーナーの横。 芝の上に設置された保冷バッグ。

 つまり、そこが恵みのオアシスだった。

 

 酸欠でふらつく頭をおさえ、震える足で歩み寄り、ぬるいスポーツドリンクを取り出す。

 

 きゅぽん、と音を立ててキャップを外した。

 プラスチックの中で水が揺れている。

 

「んぐ……っ」

「……ゆっくり飲め、咽るぞ。 いいか? ゆっくりだ。

 キミは普段からそういった動作を考え無しに行いがちだが、水分を勢いよく接種すると胃腸への刺激が強くなるんだ。

 それに飲み方によって水分の吸収速度にも影響があってだな──」

「げほッ」

「…………いや、まぁ良い。 とにかく、休んでいてくれ」

 

 ……唇の端から垂れた雫を拭う。 少し気恥ずかしい。

 

 ともかく気を取り直し、もう一度口をつける。 今度はゆっくりと。

 若干冷た目の水であれども乾いた身体には有り難かった。

 

 そのまま簡単に四肢をほぐして、一息を入れた後。

 トレーナーの隣に座り込んで左の青い靴を脱ぎ、ひっくり返して裏を見る。

 ……ゴールを越えた瞬間の、蹄鉄の音が気に掛かっていたのだ。

 

 使用しているのはスポンサー提供の品であり、トレーニング用のシューズとしては最上級の質のモノだ。

 粗悪などという評価とは無縁であり、ユーザー思いの機能を沢山詰め込んだ逸品。

 

 だからそう簡単に歪むものでは無い。

 ……その筈、なのだが──。

 

「……トレーナー。蹄鉄が歪みました」

「ん、ああ……それなら後で修理を頼もうか」

「はい……」

 

 しかしだからといって、一切壊れないなんて事はありえない。

 未来永劫壊れないモノなんて、この世の何処にも存在しない。

 

 小さなため息を吐き、残った右の靴も脱いでしまう。 購入後一ヶ月程の命だった。

 

 そして代わりの靴、蹄鉄の付いていない普通のシューズに履き替えた。

 ソックスの色は白。 シューズの色も白。

 真っ白な足先を芝にのばし、上手くいかない現実を慮る。

 

 どれもこれも全て完璧に──なんて、望めないことは理解している。

 良いことがあれば、悪いことも起きてしまう。

 

 しかし積み重なればどんなモノでも嫌になるし、嫌になってしまう。

 その不定形の在り方が、感情というモノだった。

 

「それと念の為に足を見せてくれ」

「……今、ですか」

 

 ……とはいえそれは、トレーナーには知りえぬ思考だ。

 ようやく情報の追記を終えたのか、視線をノートから切り離してファインドフィートを見下ろした。

 

「ああ、今だ。

 もし悪影響があったらどうするつもりだ」

「いえ、それはご尤も、ですが……」

 

 一度、言葉が詰まる。

 それから数秒、僅かばかりの思案を重ねて──自分の身体を見下す。

 滲む汗が蒸発して薄い湯気となって立ち上る。

 

「……また後で、良いのでは?」

「ダメだ、油断は禁物だからな」

「…………」

 

 ほんの少しだけ戸惑いがあった。 本当に、ほんの少しだけ。

 それだけを指先に込め、ズボンの裾を捲り上げる。

 

 当然、白い肌が外気に晒されて。

 当然の物理法則に従い、冬の凍える空気が纏わりついた。

 そして滲む汗が蒸気となる。 物のついでか体温まで強奪しての蒸発だ。

 

「トレーナー、早くしてください。 さむいです」

「すまん」

 

 つまり、端的に言えば寒かった。

 運動を止めて体温も下がり始めているのだから尚の事に。

 

「ふむ……若干、赤いな」

「……そう、ですか?」

 

 とは言え耐えられぬ程ではない。

 襲い来る寒さに気力で抵抗し、己の足を見下ろした。

 青い瞳が胡乱げに自分の生命線を検分する。

 

 けれどてんで分からない。

 肌の赤み、と言われても──普段との違いは見つからない。

 少なくとも……感覚面でさえ、座っている現状では違和感も何もない。

 

「痛みは?」

「いえ……特には」

「ふむ……」

 

 怪我といえば分かりやすく痛みを持って主張するもの。

 愚かで鈍い本体にも伝わるように、ぎゃあぎゃあと喧しく。

 

 ……しかし足は痛くない。

 まったく普段通りの有様だ。

 

 ならば、怪我など存在しないのではないか。

 

 少女は安易な考えで口を開いた。

 しかし、男から同意の言葉は引き出せず。

 ただ気難しい顔で口を噤み、足首に睨みを利かせるばかりだった。

 

「触るぞ」

「え……っと、はい」

「……熱を持っている。軽い炎症だな……」

「炎症、ですか」

「ああ、本当に痛みは無いのか?」

 

 問いに対し──小首を傾げる。 それが答えだった。

 痛み。 痛み。 己に訴えかけるもの。

 そんなもの、何処にあると言うのか。

 

「……けど、そういえば……」

「どうした」

「いえ……やっぱり、何でもありません」

 

 ──けれど、その認識の齟齬もある種当然の事だった。

 常に()()()を突き刺す痛みを思えば──軽い故障による痛みは、精々誤差レベルの信号しか発せない。

 だから今回の足首もきっと、ファインドフィートには感じ取れないだけであって……物理的には損傷していた。

 

 そういう事か、ようやっと納得がいったぞ、と。

 仄かな満足感と共に(こうべ)を持ち上げ、己のトレーナーへ指示を仰ぐ。

 

 今日はもう休むべきなのか。

 あるいは多少の無理を押してでもトレーニングを続行するべきなのか。

 ファインドフィート自身の意見としては──どうせなら、トレーニング続行を推したかった。

 

 だって別に、無茶な選択肢ではないのだ。

 上手く行けば何事もなくトレーニングを終えられるだろうし……身体を痛めないような、身体への負担が少ない効率的な練習法(練習上手)を身につけることだって出来るかもしれない。

 故に存外アリな選択肢ではないかと尻尾を振った。

 

 ……そう、だな考えたのだが──。

 

「これ以上はダメだな。 今日はこれで終わりにしよう」

「……ですが」

「ですがも何もない。 選手生命の(かなめ)を考え無しに扱うバカが居るか」

「…………」

 

 ……なんて言われてしまえば、ぐぅの音も出なかった。

 トレーナーの言う通り、ウマ娘の足はガラス製とも呼ばれる繊細なもの。

 それを適当に扱うのは殆ど自殺行為と表しても過言ではない。

 

 だから、彼の正当性は理解出来たのだ。

 

 この痩せっぽちの骸骨は考え無しの己をしっかりと戒めてくれる。

 正しさを以て、糺してくれる。

 それは得難いものなのだと──ファインドフィートは、感謝さえも抱いていた。

 

 ……けれど、希望する選択肢は変わらない。

 

 口を開いて──しかし、なんと伝えれば良いものかしばし言葉選びを思案する。

 舌先に乗せるべきは何か。

 前向きな焦りか、後ろ向きの虚飾か。

 

 ……何も分からなかった。

 そうしている内にも風は変わらず吹いていて、口の中にたっぷりの酸素が染み渡った。

 うなじを焦がす熱が今も、頭頂から背骨へと這いずり回っているというのに。

 

「でも、走らないと……落ち着かなくて」

 

 瞼を下ろす。頭の中でぐるぐると苦悩が巡る。

 ぐるぐるぐるぐる、一切止まらず駆け回る。

 

 蓋の裏に浮かぶのは過日の団欒。

 友人達と囲んだ食卓の記憶。

 ずっとずっと変わらない、日常の追憶。

 

 ……ああ、否。

 変わらない筈だった。

 

 けれど数日前の──微かな痕跡が、今なおしこりとなって残り続けていて。

 

()()はあり得ない筈だ。

()()()()、あるわけがない。 通理がない。 疑う事さえ無礼だ。

 

 ……なんて、何度も何度も己に言い聞かせているのに──芽生えた疑念は、どうやっても踏み潰せなかった。

 それが何時になっても頭の中を満たしていて、離れなくて。

 

「……だから、頭の中を空っぽにしたくて」

 

 あの日からというものの、トウカイテイオーとの仲は何処かぎこちなく。

 以前まではするりと通っていたはずの友愛は喉の弁にせき止められて、幾らかの欠損を伴うハメになっていた。

 

 墓を暴いたのか。

 何を知ったのか。

 はたまた、何も知らずに帰ってくれたのか。

 それさえ問えず不明のままだ。

 

 いっそ頭をかち割ってしまえば頭蓋の中身を空に出来るのではないか。

 そんな無意味な空想を馳せてしまう程に、ファインドフィートの思考を侵していた。

 

「だから、わたしは……」

 

 だから、せめて、そんな現在(いま)から目を逸らしたい。

 何でも良い。現実逃避をさせて欲しい。

 

 故の疾走。

 故の没頭。

 

 それが、救いだった。

 

「その落ち着けない原因は、言い辛いことか」

「…………はい」

「そうか」

 

 知らずのうちに俯いていた頭上から、男の声が降り注ぐ。

 カラカラに乾いた、太い声だった。

 

「……そうか」

 

 地面を見下ろす視界の中で、黒い膝が着地する。

 視線の高さを調整する様は、まるで子供を相手にする大人のようで。

 ファインドフィートが知る男にはどうにも似合わなくて、少しだけおかしい。

 

 けれどもその姿に──父性にも似た力強さを連想してしまう。

 こんな痩せっぽちの身体には、全く似合わないというのに。

 

「ここ最近のキミは──そう、随分と……精細を欠いているようだが。

 それと、同じ悩みか」

「……それは」

 

 意図せず肩が跳ねた。

 一度、対面の男の顔を見上げた。

 黒ずんだ瞳の中には、真摯で真っ直ぐな意思だけが宿っている。

 

「……トレーニングが原因なら気負わずに教えてくれ。

 質か、量か、環境か……その何であろうと、対応する」

「い、え……それは、違います」

「……そうか」

「その、トレーナーとは……関係のない事ですから」

 

 だからそれはトレーナーに話せないのだ。

 言外に伝えて口を噤む。 歯の根を恐れで押し潰して封をする。

 きゅっと結ばれた一文字は少し歪んで、への字のように変形していた。

 

 ……そうして黙りこくったふたりの間を、風だけが吹いていく。

 冷えた身体を更に冷やして、髪に遊んで。

 結局何も残さず消えてしまった。

 

「……トレーニングは、身体にあっているか」

「それは……トレーナーが一番知っているでしょう。

 わたしは速くなった、わたしは強くなった。

 それが答えです」

「そうか……」

 

 また沈黙だ。 会話が途絶える。

 トレーナーはうんともすんとも言わず、ただファインドフィートを見下ろすばかり。

 

 ……少しだけ、据わりが悪くなってしまった。

 

「……トレーナー、わたしは今のままで十分です。

 このまま走り続けて、このまま勝ち続ける。

 わたしは、わたしを証明し続ける……それでいいじゃあないですか」

 

 それに、今さらなのだ。

 ファインドフィートが走り始めて三年目。 シニア級である。

 だというのに今になって"本当はもっと良いやり手法もあるのではないか"──なんて、言ってほしくは無かった。

 

 ファインドフィートは今のままで良かった。

 不変であって欲しかった。

 辿り着く先は変わらずに、抱く願いも変わらずに、日々のぬくもりも変わらずに。

 ただ、夢に溺れていたい。

 

 だから、と。

 少女は男の顔を見上げた。

 青い瞳は薄っすらと曇っていて、裏の裏さえ曖昧だ。

 

「ねぇ、トレーナー」

 

 そっと舌を滑らせる。

 骸骨のようなヒト。 冷血気取りで冷血モドキの、弱い大人へ。

 

 ファインドフィートの価値観で捉えた葛城という男は、そういう人間で。

 人間モドキよりは余程上等な、一人の大人だった。

 

「別に、変わらなくても良いじゃないですか。

 あなたはわたしのトレーナーで、わたしの夢を叶えてくれる魔法使い(便利屋さん)

 それだけで、良いじゃあないですか」

 

 それだけで十分なのだ。

 自分がいて、『姉』がいて、トレーナーがいて、友人達がいて。

 過ぎ去る日々をトレーニングと少しの安息で消化する。

 

 それだけで、十分なのだ。

 瞼を下ろし、言い聞かせるように嘯き続ける。

 

 "わたしのパートナーであるのなら、わたしの夢を助けて欲しい"。

 "わたしの夢だけを、助けて欲しい"。

 "わたしを()()、導べとなって欲しい"。

 

 ……現在(いま)までと、変わらずに。

 それだけで十分なのだと、満足して欲しい。

 それは自分を戒める暗示であり、トレーナーに願う希望であり、友人達に捧げる祈りだった。

 

 そうでなければ──破綻してしまう。

 何もかもが壊れてしまう。

 

「……あなたは、どんな大人になりたかったのですか?」

「…………」

「あなたは、何を目指して、此処にいるのですか?」

 

 だから()()が、ファインドフィートの求める全てだ。

 

 ……男は何も言わず、耳を傾けていた。 傾けて、くれていた。

 その所作が誠意であり、彼の人間性を保証するのだ。

 

 相対する彼女も、滔々と語った。

 それがきっと……ヒトとしての最低限の誠意だと、信じていたからだ。

 

「あなたが、崎川トレーナーと……沖野トレーナーに何を言われたのかは、知りません。

 どうにも……わたしには知られたくはないようですから、知ろうともしません」

 

 乾く唇。 冷えた指先。 動かない尻尾。

 

 ──また、瞼を上げる。

 青褪めた瞳は揺れていて、酷く不安定な有様だった。

 

「けれど、トレーナー。

 あなたは、わたしのトレーナーです。

 わたしが、あなたに求めることは……最初から、一つだけ」

 

 だから、その他は全て余分だ。 不要なのだ(そうあるべきだ)

 変わる必要なんて無い(かわってしまえばおわる)

 このまま前を向き続けるだけ(だからふりかえるな)

 それ以外を求めるなんて、許されない(ゆるさない)

 

「……ああ、そうだな……俺は君のトレーナーだ。

 トレーナーとしての責務を全うするだけの、そういう人間なんだよ」

 

 葛城は真意を悟らせない純黒の瞳の裏で、納得の意を吐き出した。

 そして少女の瞳に映る己に向けて、強く暗示する。

 

「そうとも……『ファインドフ(キミ)ィート』が一番速いんだ。

 俺はそれを証明するための支えで、杖で、肥やしだ」

「……ええ、だから……わたしはそれに応えて。

 わたしを以て『ファインドフ(ねえさん)ィート』の最速を証明する。

 だから──」

 

 ──あなたは、嘘をつかないで。

 お父さんみたいに、お母さんみたいに、嘘をつかないで。

 

 小さな小さな、掠れきった執着を紡ぐ。

 彼の耳に届くか否かはきっと、風の気分次第だ。

 

「……あなたを、信じていますよ」

 

 感傷が滲む。

 顔か、尻尾か、耳か。

 その何処かに、ほんの数滴だけが染み付いていた。

 

 

 そして再び、僅かな時間を沈黙で埋める。

 細く白い喉が一瞬震えて、そしてまた動きを止めた。

 

 ……僅かな時間は、沈黙だけが埋めてしまった。

 

「……冷えてきましたし、戻りましょうか。 屋内でもトレーニングは出来ます」

「ああ……そう、だな。

 ……トレーニングをするか否かは、別の話としてな」

 

 ふたり揃って立ち上がる。

 

 大きく息を吸って、肺の中身を薄めて。

 薄めて、薄めて、薄めて。

 

 ……腐った祈りを、大きく吐き出す。 それを風が攫っていく。

 遠くまで、どこか遠くまで。

 

「……っ」

 

 ……そして、トレーナーに連れられて退場する前にもう一度。

 なんとなしに振り返る。

 

 微かな春風に吹かれて、いっぱいの芝が揺れた。

 ざぁざぁと葉っぱ同士で擦れる音を立てて。

 季節(なかま)外れに咲いてしまった赤い花も、小さく揺れている。

 

 ファインドフィートはそれを見て──"かわいそうに"と心の底から吐き捨てた。

 

 その赤い花と、六条の『赤い糸』に縛られる彼女。

 果たして、そのどちらが幸せ(しあわせ)に近しいと言えるのか。

 

 


 

 

 万緑叢中紅一点(ばんりょくそうちゅうこういってん)

 一面の緑の中、ひとつだけ混ざった赤い花(いぶつ)の事を指す。

 

 詠柘榴詩(ざくろをよむうた)より抜粋。

 

 



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39話

 

 靴紐がほつれてしまった。

 女神さまは、また結んであげました。

 

 蹄鉄が歪んでしまった。

 女神さまは、その手でしっかり直してあげました。

 

 脚が震えてしまって、止まらない。

 ……女神さまは、不思議そうに小首を傾げました。

 だって、それはなおせません。

 原因が分かりません。 患部が分かりません。

 

 どこを切り開けばよいのでしょう。

 どこを削り落とせばよいのでしょう。

 どこを焼けばよいのでしょう。

 どこを付け足せばよいのでしょう。

 

 ああ、なんてこと。

 何も分かりません。

 

 ……だから女神さまには、なおせないのです。

 

 


 

 

 風船が飛んでいた。

 ぷっくり膨らみぷかぷか浮かぶ、色鮮やかなスカイブルー。

 垂れた糸は誰の手にも握られないまま、根無しの身体で風に吹かれる。

 

 けれどその持ち主だったろう少女は諦めていない。 小さな身体で必死に風船を追いかけていた。

 空に手を伸ばして──己こそが所有者なのだと、身振りを以て証明する。

 

 ……そこに問題があるとするなら、それは少女が上しか見ていない事だ。

 アーモンドのように形の良い瞳には地の様相など欠片も入り込んでいない。

 人混みだらけ。 道路もすぐ傍にある。

 当然ながら付近は"安全"などと口が裂けても言えない環境だ。

 そんな中での大爆走なぞ、何時事故にあっても可笑しくないというのに。

 

 

 ──だから。

 それを視界の端に捉えてまず、危ないな、と感じた。

 そう感じてから両足が動き出すまでは、本当にすぐのことだった。

 

 鍛え抜かれたトモが瞬間的に収縮する。

 重心は流れるように前方へ傾き、地の底へと滑っていく。

 

「ふぅ」

 

 前傾する上体に引き摺られ、長い栗毛が追いすがった。

 そして少女は無表情のまま風船の真下へ駆け寄り、長い脚でぴょんと跳ねた。

 目標の高さは2メートルと少し。 ウマ娘である彼女にとってはそう大した高さではない。

 

 滞空しながらもそれなりの余裕を以て手を伸ばし──簡単に糸を掴んで、そのまま軽やかに着地する。

 彼女の後方で、本来の持ち主である少女が高い歓声を上げた。 幼く無垢な声だ。

 

「さぁ、どうぞ。

 次は手を離さないよう気を付けて」

「ありがとう、お姉ちゃん!」

「どういたしまして」

 

 "お姉ちゃん"と呼ばれた少女、つまりミホノブルボンが顔に浮かべたのは、淡い微笑み。

 そして風船の少女は今度こそ、手離さないよう手綱を両手で握りしめて駆け出した。

 どこか親近感を覚える灰の芦毛が、ふわりと風に揺れている。

 

 そんな、未だ幼い背中を見送った。

 

「お疲れ様、ブルボン」

「ステータス『高揚』を感知……。

『高揚』、『高揚』……マスター、私は良い『お姉ちゃん』を遂行出来たのでしょうか」

「ええ、バッチリね。 安心して?」

 

 その様子を見守っていたらしい崎川トレーナーと合流して、ぽやぽやと温かな雰囲気を尻尾で振りまいた。

 私服姿であることも相まってだろうか。 普段よりも殊更に子供らしい様相だった。

 とはいえ、実年齢を思えば極々自然なふるまいである。

 

 そしてその穏やかな表情のまま、周囲の雑踏に紛れて歩みを進める。

 人々の流れは巨大なレース場、阪神レース場へと続いていた。

 

 今日は4月の初頭。

 つまり、かの春シニア三冠の一つ──大阪杯の開催日だからだ。

 

 しかも、出走者の中には無敗三冠王者まで存在している。

 不遜にも九冠を目指しているという少女は、今では民衆にも広く知られていて──故に今年は、例年よりも更に多くの観客を引き寄せることに成功していた。

 

 ……その"少女"、ファインドフィートは、ミホノブルボンの後輩でもある。

 故に先輩たる彼女が応援のために現地に訪れるのは、全くおかしい事ではない。

 それに、彼女にとっては『妹』のようにも思える存在で。

 だからこそ、純粋に、勝って欲しいと願っていた。

 

「……そういえば、あの子って良バ場以外で出走したこと無いのよね。

 運が良いのか悪いのか」

「それは、一体」

「多分、なんだけど。 あの子の走り的に重バ場のほうが向いている気がするのよね……。

 言語化は……少し、難しいのだけれど」

「……なるほど」

 

 頭の片隅でメモ帳を開く。 思考のペン先で書き記すのは"逆さてるてる坊主"。

 重バ場が得意な者を応援する際の作法、あるいは伝統の一種である。

 ぼんやりとした考察を疑いもせず、次のレースは雨が降るといいなと無邪気に祈った。

 

 そんな会話を交わしつつも入場したふたりを大きな液晶が出迎えた。

 電子のウェルカムボードが順々に出走者を映し出す。 誰もが高い知名度を持つ一流アスリート達だ。

 

 当然ながら、その中にはファインドフィートの姿も混入している。

 彼女だけは全体的に真白い印象を与える容貌だ。

 ……ただし左耳の赤い耳飾りだけは、少し系統を外れていてよく目立つ。

 

「……フィートさん」

 

 そんな少女の名を、か細く呼んだ。

 以前にもまして、トレーニングに没頭するようになった彼女。

 寝ても覚めても、どこか危うげな色を浮かべるようになった彼女。

 

 ミホノブルボンはそんな彼女の事が心配で。

 ……そんな彼女を縛る苦悩の正体が、酷く気になっていた。

 けれど、ミホノブルボンとてバカではないのだ。

 彼女の精神が非常に危うい均衡の上にあることは把握している。

 

 ……だからこそ、トウカイテイオー達に協力したのだ。

 もちろん、考えなしに暴いてしまえば後々にまで彼女を苦しめる後遺症となるだろうと理解していた。

 感覚的に──カエシの付いた釣り針に近しいモノだろうと、理解していた。

 

『最速は、わたしです』

 

 けれど、考えてしまう。

 電子で描かれた少女の顔を見上げて、ぼんやりと瞬いた。

 

 それでも、話してくれたって良いではないかと。 頼ってくれても、良いではないかと。

 何を恐れているのか、何を見ているのか。

 たとえ……その答えが何であろうと、栗毛の彼女は全てを受け入れる心積もりであった。

 

 疑いなんてしない。

 だって、ファインドフィートは嘘をつける程器用ではない。

 ミホノブルボンはそうと確信できる程に同じ時間を共有していて。

 ファインドフィートがそういう気性なのだと確信できる程に、彼女の幼い精神性を理解していた。

 

 だから、頼ってくれたら良いのにと願っていた。

 けれど液晶の向こうにある少女は変わらず無表情のまま。

 空回りだった。

 

「マスター……」

 

 手提げかばんを揺らし、隣の女性に視線を投げた。

 普段と同じスーツ姿の崎川トレーナーはその一言だけで彼女の言いたいことを理解したらしい。

 薄く微笑んで、怜悧な顔をあたたく緩める。

 

「ん、りょーかい。 先に場所取ってるわね。 ……っと、連絡どうしようかしら……」

「ありがとうございます。 場所は匂いを追いかけますので問題ありません。 では、また後ほど」

「え、私くさいの? ちょっとまってブルボン、それは──」

 

 残念ながら、乙女の悲嘆は届きやしない。

 既に少女は背を向けて、勝手知ったる様子で関係者入り口を探していた。

 幸いにも、というべきか。

 その()()のおかげもあって、不審者として拒否されることはない。

 

 

 ◇

 

 

 指関節でドアをノックする。 軽い音が突き抜けた。

 それは控え室の仮初の主たる少女の耳にも不足なく届いたらしい。 身動ぎの音がミホノブルボンに応答を返す。

 次に続いたのは靴音。

 硬く高く響いた鉄の音色は蹄鉄のそれだ。

 故に姿を見るまでもなく、彼女が勝負服に着替えている事を判別できた。

 

「……ブルボン先輩?」

 

 ややあって、開かれた視界を白が埋める。

 ただ、衣装の長布と瞳の青が印象的で。

 それらと赤い耳飾りだけは白に隠されること無く自己主張していた。

 

「こんにちは、フィートさん。

 ミッション『応援』の為に急行しました。

 ……今、お時間はよろしいでしょうか」

「大丈夫、です。

 中へどうぞ……とは言っても、わたしの部屋ではありませんが」

「今はフィートさんが利用者ですから」

 

 通された部屋は殺風景そのものだった。

 選手が一時的に利用するだけの滞在場所なのだから当然の事である。

 

「何か、飲みますか?」

「いえ……お構いなく」

 

 視線を壁際の棚に向ける。

 温かい飲み物を用意できるほどには給湯機能を有しているらしい、が。 生憎と、そういう気分ではなかった。

 

 中央に設置された長机の周囲、挟んで置かれた椅子に座る。

 対面で、鉄仮面と鉄仮面を見合わせた。

 

「調子は、どうですか? 顔色は……過去半年の平均と比較して、11%程白く見えます」

「……それは、冬だから……日焼けせずに白くなっただけだと思いますよ。

 調子は良いですし、身体だって良く動きます」

「…………」

 

 なんて嘯く顔を見やった。

 ……率直に、"やっぱり白すぎる"と感じた。

 青褪めた、と形容しても過言では無いほどに。

 

 ……きっと純粋に、血の気がないのだ。 唇だって乾いているし、青味が強かった。

 

 だというのに"体調は良い"、だなんて。

 ……ミホノブルボンにはそうとは思えなかった。 納得もできない。

 今がレース前でもなければ布団に括り付けていた。

 

「無理は、していませんか?」

「していません」

「本当に、ですか?」

「……本当です。

 わたしは、大丈夫ですから」

 

 尚も語る顔を見つめた。 黒い瞳孔が細かく揺れ動く。

 そして向いた先は、ミホノブルボンから見て左上。

 当人から()()を目掛けて、せわしなく宙を泳いでいた。

 

 ──"嘘ですね"と、直感的に理解した。

 あまりにも稚拙な嘘だった。

 

 彼女があまりにも物事を知らずにいた数年前ならいざ知らず。

 今の彼女には見破るという意図さえ不要なほどに、明らかに見え透いた嘘だった。

 

 ……けれど、これを嘘だと判じたとして。

 その次はどうするのか。

 "体調が悪いのなら無理をするな"と引き摺り倒すのか? 

 

 ふと、考える。 ほんの数秒の間に思考を詰め込む。

 無理をしていると問い詰めたとして、抜本的な解決は不可能だ。 出走の取り消しも出来ない。

 なぜなら、それは彼女のトレーナーと──他の誰でもない、彼女自身が選んだことだからだ。

 

 ミホノブルボンは、そう信じた。

 無理を通すことが可能と判断されたのなら、きっと大丈夫なのだろうと。

 あくまでも、()()は彼女の杞憂に過ぎず、通せる範囲の無理でしかないのだと。

 

 ミホノブルボンは、そう信じていた。

 それは親愛故の盲目であり、同種として示した理解である。

 絶不調でも走らねばならない時はある。

 それが今だというのなら、その道を邪魔することなぞ誰にも出来ない。

 

 ミホノブルボンはそうして、信じる事しか出来ない。

 

「フィートさん。

 頭を出してください」

「……?」

「おまじない、です。

 サクラバクシンオーさん……ジョブ『学級委員長』の方から教えていただきました」

「じょぶ……?」

 

 件の学級委員長への理解は及んでいない様子だ。

 少女達のあいだに関わりは無かったのだから、無理らしからぬ事である。

 

 ともかくファインドフィートは言われるがままに頭を差し出した。

 長い芦毛が前方へ、さらりと流れる。

 ふわりと舞った香りはミホノブルボンが選んだ香水のもの。

 柑橘系(シトラス)の爽やかな香りが、彼女の鼻を優しく擦った。

 

「失礼します」

 

 その香りを手のひらでかき分けて白い頭へ乗せる。

 そしてそのまま、左右へ優しく滑らせた。

 つまり『おまじない』とやらは単なる頭を撫でる行為。 ある種もっとも純粋で、伝わりやすい応援(エール)だった。

 

「怪我はしないように留意してください。

 油断大敵です、フィートさん」

「……はい、気を付けます」

「それと──」

 

 ──"それと"。 その先は何と言うべきか。

 言葉の連なりが一瞬絶える。

 

 楽しんで、と言うべきか。

 あるいは、頑張って、と言うべきか。

 

 舌先が鈍る。

 ……どうしてか、"楽しんで"とは言うべきではないと感じた。

 けれど"頑張って"と伝えてしまうと、必要以上に気張りそうだ。

 半ば確信染みた予想だ。

 

 故に、彼女が願うべきはひとつ。

 

 至る経緯がどうであろと。

 ひとりの友人として願うべきは──。

 

「──どうか、勝利を」

「……ありがとうございます、ブルボン先輩」

 

 耳の根本を指で軽く揺さぶった。 ふわふわだ。

 そしてほんの少し瞳を細めたファインドフィートは、幾分か穏やかな様子で……長い、長い息を吐く。

 

「ええ、きっと大丈夫です。

 ……『ファインドフィート』が、一番速いですから」

 

 ……けれど。

 それを告げる少女の顔が酷く痛ましく思えたのは、どうしてか。

 ほの暗く、影に溺れているように見えたのは、何故だろうか。

 ミホノブルボンには皆目見当がつかなかった。

 

「見ていてくださいね、ブルボン先輩。

 きっと、証明し続けますから」

 

 何も、返せなかった。

 

 チカチカと蛍光灯が点滅した。 白い光が二人を照らす。

 そしてまた、足元の影が色濃く深みを増す。

 

 それらは決して繋がりもせず、床に染みるばかりだった。

 

 

 ──―。

 ──。

 

 

 そしてミホノブルボンは、ようやっと己のマスターとの合流を図り始めた。

 警備員の男性に軽いお辞儀を一つ残し、再度会場内──ヒトの流れが目まぐるしい河口の中へ足を踏み入れる。

 本当に、凄まじい人波だ。 少しだけ酔いそうになった。

 

「マスターの匂い、は……」

 

 少し、顔を持ち上げる。

 驚くほどに煩雑な人混みである。

 しかし彼女は積み上げた経験則と直感により、見事己のトレーナーに繋がる匂いの足跡を嗅ぎ分けて──。

 

 

 ──と、なれば良かったのだが。

 非常に残念ながら。 まったくの想定外で、痕跡の発見に失敗してしまう。

 ヒトの1000倍の嗅覚如きでは、幾千万のヒトの中からたった一つの匂いを発見するには不足だった。

 つまり、何事にも限度があるという事だ。

 

 ……しかし、幸いにも。 あるいは、崎川トレーナーの先見の明による必然か。

 携帯端末が着信音と共に震える。

 

 表示されたメッセージ曰く、現在地は観客席の最前列。

 液晶を眺めて小さく頷き、迷いなく一歩目を踏み出した。 もちろん、携帯端末は懐にしまい込んだ上で。

 

「……おや、この匂いは……」

 

 そうして人混みをすり抜けていく最中。

 

 ふと、鼻腔を甘い香りが擽った。

 とろける小豆やカスタードクリームの、とろりとした重い香りだ。

 無意識的に視線を吸い寄せられて横を見やれば、いくつか出店が並んでいた。

 甘い香りの発生源は、その中の一つから垂れ流されているモノだった。

 

 ……知らずの内に視線のみならず、足取りまでも吸い寄せられてしまう。

 しかしそれも仕方のない話だ。 このような公共の場で甘い香りを垂れ流している方が悪いのである。

 

 そして、もしも美味しければ、レースの後に差し入れとして持っていこうか──なんて、無邪気な打算も混ざっていた。

 

「なるほど」

 

 きつね色の生地がくるりと回ってひっくり返り、ふかふかの腹を見せる。

 今川焼き、回転焼き、二重焼き、あるいはまんまる焼き。 この場(レース場)ならG1焼きとも呼ばれる。

 ……正しい呼び名の是非はともかく、その多さは日本有数の焼き菓子だ。

 

 ともかく、彼女は()()に釣られた。

 熱された鉄板に挟まれて、次々と()()が生産されていく。 いい香りだ。

 ……口腔によだれが溢れてしまった。

 

「なるほど……」

 

 財布を取り出した。

 パンパンに膨れ上がったがま口財布が緑の身体を見せびらかす。

 

「すみません、この……まんまる焼きを2つ。

 ……いえ、20個……30個お願いします」

「さんじゅっ……分かりました。 少々お待ち下さいね」

「承知しました。 待機モードに移行します」

 

 ……折角なので()()()購入していく事にした。

 決して、ミホノブルボン自身の食欲に従ったわけではない。

 あくまでもか弱いヒト娘であるトレーナーのために仕入れたもので、レース後に腹をすかせるだろう後輩のための下調べだ。

 

 なんて自己弁護を図って店の横に陣取り、ぼんやり虚空を眺めて待った。

 

 それから三分か、五分か。 いいや、もっとだ。

 少なくとも、鉄の型がフル稼働して二周できる程度の時間だった。

 それだけの時間を要した後、ようやっと大振りな紙袋を受け取った。 あったかい。 焼き立てだ。

 

「……ステータス『わくわく』を確認。

 冷める前にマスターと合流しなくては……」

 

 そしてまた後で買いに来ましょうか、と。

 脳裏に芦毛の少女を思い浮かべて、小さく口ずさんだ。

 

 紙袋がゆらゆら揺れる。 ずっしり詰まったあんことクリームの重さで、大きく揺れる。

 その重さは幸福の量とイコールだった。

 尻尾を大きく振って、己のトレーナーの元へ凱旋する。

 

 人混みを華麗に縫い歩くこと十分と少し。

 そして、夢の11R(メインレース)が始まるまで十分と少し。

 

 最前列の柵がミホノブルボンを出迎えて、通行止めと目的地への到達を同時に報せた。

 

「……マスターは……」

 

 左右に首を振って見渡す。

 最前列に来たのだから後は右か左しかありえない。

 指定された座標は、向こう正面の大きなターフビジョン(実況用テレビ)から見て右ナナメ30℃のあたり。

 それは彼女の現在地と大凡合致するが、多少の誤差は避けられない。

 ……つまり、彼女のトレーナーが迷子になっているということだ。

 

「…………」

 

 黒髪、黒スーツ、黒い革靴、青とピンク(ブルボンカラー)の綺麗なネクタイ。

 そして、ピンと張った背筋の女性。

 少女の尋ね人は存外個性的な装いだ。 程々に目立つ筈である。

 

 記憶にある女性の姿を求めて、柵に沿う形でゆっくり歩みを進めた。

 幸いにも、探す範囲はそう広くない。

 そのおかげもあって、合流にはさほど手間取らなかった。

 

 夢の11R(メインレース)が始まるまで、あと十分だ。

 

「マスター」

「おかえりブルボン……って、どうしたのそれ。

 大きく膨らんでるけど」

「おやき……いえ、まんまる焼きです」

「まん、まんまる……? 

 今川焼きでも大判焼きでもなく、まんまる焼き……?」

「まんまる焼きです。 スペシャルウィークさんがそう言っていました」

「そうなの……」

 

 崎川の隣に立ち、(ターフ)の表層に視線を投げる。 青々と艷やかに茂っていて、状態の良い芝だった。

 

 その少し先では発バ機(ゲート)の準備が最終段階に入っている。

 レース場の端っこには、既に幾人かの出走者たちが姿を見せ始めていた。 ……残念ながら、目当ての少女は未登場ではあるが。

 

「マスター、冷める前に食べましょう」

 

 ──それならば、今のうちにまんまる焼きを消費してしまおう。

 ヒトの胃袋を考慮もせずに決定し、ぱんぱんに膨れた紙袋を開く。

 上から覗き込めばきつね色の生地と、その表層の焦げた焼印──見覚えのある少女達のイラストが見つめ返してくる。 デフォルメされていてとても可愛らしい。

 

「どうぞ。

 中身はあんこと白あん、クリームとチョコと抹茶とチーズです。

 在庫(おかわり)もありますので、どうぞ遠慮なく」

「あぁ、うん……そうね……ありがとう」

 

 崎川トレーナーが3個のまんまる焼きを確保したことを確認し、自分の分も一気に取り出す。

 5個のまんまる焼きがほかほかと、高温の湯気を立ち昇らせた。

 

 左手に4個を積み重ね、右手に持った1個を口元へ運んだ。

 ……生地に触れた唇が、とても熱い。

 

「あつ……っと、ファインドフィートちゃんも出てきたわね。

 今回の枠は大外(18番)……だけど、問題は無さそうね。 順当に行けば1着になる可能性が高いわ」

「そうなのですか?」

「ええ、あの子の適性(逃げ)と能力値が噛み合ってる。

 ……元々の差しも合っていないわけじゃ無いんだけどね、G1を取れてるわけだし」

「……なる、ほど」

 

 生地を噛みちぎる。 熱い。 舌を火傷しそうだ。

 少しだけ顔を離して、手の中に視線を落とす。

 

 焼印に刻まれた少女の顔が、ミホノブルボンの鉄仮面を見つめていた。

 ファインドフィートのイラストだ。

 もはやトレードマークとなってしまった無表情のまま、ぼんやりと(まなこ)を開いている。

 

「……そういえば」

 

 それと見つめ合って、ふと思う。

 そういえば──自分は、ファインドフィートの笑った顔を見たことが無いな、と。

 

 なんてことはない気付きだ。

 けれど、レース中も、ライブ中も、日常の最中でさえ。

 ただの一度でさえ笑った顔を見たことがない。

 

 ……少しだけ、寂しいと感じた。

 

 手元のまんまる焼きを見つめる。

 当然ながら、焼き付いた絵の表情は一切変わらない。

 

「ブルボン、そろそろ出走だって」

「あ……」

 

 ──視線を上げた。

 

 いつの間にやら、ターフの上の少女達は準備万端の様子だった。

 続々とゲートに向けて足を進めて、思い思いのルーティンに従って集中を深めている。

 

 天を仰ぐもの、風を全身で浴びるもの、手のひらに"あ"の字を書いて飲み込もうとするもの。

 それらはどれも十人十色だ。

 

「んむ」

 

 手に持った一個を一気に口の中へ詰め込む。

 時間経過のおかげもあって、今度は我慢できる程度の熱さだった。

 

 広がる甘味とやわらかな口当たり。

 ミホノブルボンの好みから外れておらず、美味しいと形容するに不足のない品質だ。

 

 ……しかし、不思議と気分は上がりきらない。

 何故だろうか、と疑問に思う。

 何故だろうか、と疑問を投げる。

 

 ……何故なのですか、とターフの上の大外枠に視線を送った。

 

 青い瞳が日光を反射した。

 ちりちりと、光芒を散らしている。

 

「……どうか、悔いのないレースを」

 

 青褪めた瞳が観客席を向くことはない。

 しかし、それでも。

 想いは届いたのだと願いたかった。

 

 ……もし、仮に。

 彼女の足が震えていて、それがまったく止まらない事に気付いていれば……もう少し、別の情を向けるのだろうが。

 ともかくこの場にいる誰もがそれに気付けなかったのだから、それはこの場に関係のない。

 ただの無意味な事実に成り果てた。  

 

『三番人気の紹介です──』

 

 刻一刻と迫りくる開始の時間にあわせ、少女達が姿勢を整える。

 利き足を前に突き立て、ゲートの開封を今か今かと待ち構えた。

 

 響く実況の声は、既に意識の隅へと追いやっている様子だった。

 

『一番人気はこの娘、ファインドフィート。

 無敗三冠の威光を見せつけることは出来るのか?』

『今回は大外枠です。

 良いポジションを取れるか否かが勝負どころですね』

 

 ゲートの端から端までを眺めつつ、2個目のまんまる焼きを口に含んだ。

 今となっては食べるのに困るほどの温度は残していない。

 

 それを噛みしめると中身のクリームが皮を破って、口内を蹂躙し、舌先に纏わりつく。

 どろりと、重りのように。

 

『各ウマ娘、出走準備が整いました』

 

 そんな少女を余所に、実況の機械音声が反響した。

 観客達のざわめきが加速的に静まり、息を潜め、口を閉じ、ついには衣擦れさえも抑圧し始める。

 示し合わせた訳ではない。 教わったわけでもない。

 しかし自ずと、それぞれが同じ行動を取っていた。

 

 それはきっと、彼女らの様相があまりにも真摯だったからだ。

 僅かな間だけは一切穢さず、邪魔をせず、見守るだけのカカシとなる。

 無意識下でそう思わせるほどの舞台だった。

 

 そして満ちる、束の間の静寂。

 各々が浅く、細く、呼吸する。

 

 ──無音の中を風が泳いで、数秒後。

 

 前触れもなく、ガコンと鉄の扉が駆動した。

 

『ゲートオープン、出遅れた娘はいないようですね!』

『最初の位置取り争いです。 ここの結果がレースに与える影響は大きいでしょう!』

 

 出遅れた者は誰もいない。 そろって好調なスタートだ。

 堰を切ったように弾ける歓声に背中を押されて、ぐんぐんと加速する。

 特に──逃げの戦法を選んだものは、顕著に目立っていた。

 

「良い位置取りね」

「はい、正しく」

 

 まずハナを取ったのはファインドフィートだった。

 今回、彼女を応援しているミホノブルボンにとっては理想的な展開である。

 

 一応──同じ逃げ戦法を究めてきた身であるがゆえに、その重要性は骨身に沁みている。

 逃げである以上はペースを握られてはならない。 むしろペースを作る側に回らなければ。

 

 その観点を踏まえた上で、最初の直線を抜けた少女達を見やった。

 レース展開はやや縦長。 大まかな位置取りはほぼ決定している。

 速度としては──例年と比べて、若干速めだ。

 先頭に立つファインドフィートがペースメーカー(旗持ち)となっている影響であることは明確だった。

 

「……ブレ無いわね。 あの子、ラップ走法も出来そう」

「そうなのですか?」

「ええ、ただ……気性は少し、向いてないかもだけど」

「なるほど……」

 

 第二、第三コーナーを抜けて向こう正面。

 大きな大きなスクリーンに一人ひとりの姿が映し出される。

 

 周囲の観客からも、その大きさに負けないほどの大きな声援が飛び出していた。

 ……彼女には、少しばかり音が大きすぎる。

 ミホノブルボンはぺたりと耳を伏せつつ、順々に映される姿を目に焼き付けた。

 

 対象が変わるたびに、その名が周囲の何処かから叫ばれる。

 それぞれが、それぞれのファンと、その想いを背負っているのだ。

 ()()()()()誰だろうと知っている。

 

『最終コーナー、先頭は未だ変わらずファインドフィート。 後方の娘達はここから巻き返せるのか!』

 

 厳しいわねと、少女の隣で小さく呟かれる。

 厳しいという感想は最後方の少女に向けられたモノだった。

 そしてそれは事実であり──未だに減速しないファインドフィートに今から追いつくには、ゴールドシップやグラスワンダー等の名うての差しウマでなくば難しい。

 

「──目測、計算完了。

 リードは6.2バ身です。 阪神競馬場の最終直線、距離は356.5メートル……ここから後方に差される可能性は微小かと」

 

 残された難所といえばゴール前の急坂のみ。

 それでさえ、坂路でのトレーニングを日々熟している先頭の少女には大した障害にならない。

 慣れというのはかくも偉大だった。

 

 そしてそのまま、風となって走り抜けて。

 最初から最後までブレることなく、一着となった。

 

 

 "おぉ"、と気の抜ける声が喉から漏れ出る。

 あり得ざる必然の勝利を、必然のモノとして掴むような、安定感の極まった走りだった。

 見るものによっては"何かよくわからないけど白い娘がすごい走りで勝った"、としか感じられないような。

 そんな、安定感の極まった走りだった。

 

「ステータス『高揚』……ミッションタスク、『お祝い』を設定します」

「場所も考えなきゃね」

「はい、ですが……そこも含めて、『楽しい』です」

 

 ともかくミホノブルボンは、誰もケガをすることなく終わってくれて嬉しかった。

 

 微かにゆるむ口を開いて、冷めかけのまんまる焼きを頬張った。

 ほんのり、僅かなぬくもりしか残っていない。

 しかし変わらず甘くて、しっかり美味しい。

 それはきっと、後輩の勝利を喜ぶ気持ちに由来するモノだ。

 

「マスター、おかわりをどうぞ。 冷めてても美味しいですよ」

「そうなの……」

 

 ややあって掲示板に数字が並び始めた。

 数字はとても正直だ。 偽りなく結果だけを語ってくれる。

 数字はひどく残酷だ。 たったひとりの勝者以外の心情を、まるで汲み取ってはくれないのだから。

 

 ……そしてそのまま時の針は進み、色とりどりの紙吹雪が飛んでいる。

 ざぁざぁと風に吹かれて舞っている。

 

 健闘を称えるなどという、無慈悲な現実を見せつけて。

 

 


 

 

 その中央に立つ少女はただ、奥歯を噛み締めていた。

 その中に、喜びの情なんて欠片も無い。

 

 からっぽの心と青褪めた瞳で、掲示板の数字を見上げるばかりだ。

 



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40話

 

 "いのちって、なに?"

 ある日の双子は、ふと不思議に思いました。

 

 "いのちって、なに?"

 ある日の双子は、互いに向けて問いかけました。

 

 "どうしたら、いのちになるの?"

 舌っ足らずで、音の輪郭さえも曖昧。

 理解の及ばない言葉の表面をなぞるだけの、朧気な『いのち』です。

 

 "いのちって……なに?"

 

 ──きっと、この疑問こそが。

 この双子にとって、大きな大きな転換点でした。

 


 

 

「……はぁ、設備点検……? 

 栗東寮と美浦寮で?」

 

 寮の玄関で呼び止められ、告げられた二の句をオウム返しで放り投げる。

 歯の間をすり抜けるような、浅くか細い声が滔々と猜疑を彩った。

 

 芦毛の彼女と相対するのは青鹿毛(くろいろ)の少女。  

 短髪をボーイッシュに整えた様相だ。

 しかし女性的な体格であることも相まって、少しばかり色気が強い。

 

 その(かんばせ)を常日頃から茶目っ気に溢れた微笑みを携える彼女の名は、フジキセキという。

 学生の身分でありながら、ここ、栗東寮の長を務める少女だ。

 

 そんな彼女は両手を合わせて、心底申し訳無さそうに首を傾げる。

 瞑られた右目側の耳が、大きく垂れ下がった。

 

「その通り、毎年恒例行事でね。

 傷んでいる所だったり設備だったりを調べて補修するのさ」

「なる、ほど……確かに、去年頃からうちのドアも大分建付けが悪くなっていました。

 ……あれって、直してもらえるモノだったのですか」

「それは……ごめんよ。

 去年の点検では見逃しちゃってたのか……。

 ……ともかく、そうでなくても施設の修理は学園側の負担だから気軽に教えてほしいな」

 

 それに対してファインドフィートは……ほんの少し、答えに窮する。

 わかりました、とか。 そうですね、とか。

 そういった言葉とは程遠く、空気の抜ける音と大差の無い声が漏れ出していく。

 

「……そうです、ね。

 ブルボン先輩にも伝えておきます」

 

 何せ、そもそも、相対する青鹿毛の少女とは片手の指の数ほどしか会話した事がない。

 彼女はそんな相手に対して多くを語れる言葉を持たない(しらない)

 言葉を持つ(しる)機会が無かった。 あるいは、極端に少なかった。

 それ故の、鈍重な語り口だった。

 

「あの、フジキセキさん」

「どうしたんだい?」

「その……」

 

 左右の耳がひっきりなしに周囲に向けられる。

 赤い飾りの金具だけが、ちゃきりと啼いていた。

 

 ……そして、ややあって。

 初対面の相手に向けるよりは柔らかく、慣れた相手に向けるよりも遥かに堅い舌先で、ゆっくり口をこじ開けられるほどに。

 

「……それで、わたしたちの生活にはどの程度の影響があるのでしょうか? 

 事前に準備が必要なら……ブルボン先輩とも相談しないといけませんが……」

「ああ、基本的には殆ど影響無いと思ってくれていいよ。

 ただ……火災報知器とかの検査の時は、作業員さんを部屋に入れてもらうことになるけど」

「なるほど……」

 

 ちょっとばかり拙い口調。

 しかしフジキセキにはその口調を気にした様子はない。

 所謂()()()()()に酷似した気風を持つ彼女から、プリントを手渡される。 手書きの案内用紙をコピーしただけの物だ。

 紙面端のウサギがやけにファンシーで。

 それを視界の端に置くだけで、ほんの僅かに、ささくれだった心を癒やしてくれる。

 

「フジキセキさんは、すごいですね」

「ふふ、照れるなぁ。

 ありがとう、ポニーちゃん」

 

 概要、対応期間、期間中の注意事項など──。

 作成者の性格を反映したものなのか、とても親切で、遊び心に溢れた案内だ。

 

 その中に紛れるほんの少しの工夫だけで、毒気を抜かれてしまうようで。

 肩の中に淀んだ気苦労の類似品を、少しだけでも溶かしてくれるようで。

 ……腹の中が少しだけ軽くなったような、そんな錯覚まで覚えてしまうのだ。

 

「あとは……これ、ブルボンにはキミの方から渡してあげてほしいな。

 気になることがあったらいつでもおいで」

「……ええ、分かりました。

 ありがとうございます、寮長」

「どういたしまして。

 あっ、別に気になることがなくても私は歓迎するからね」

 

 人差し指でくるりと円を描く。 そして華麗にぱちりとウインク。

 キザな仕草なようで、その上とても様になっている。

 

 曰く、年下の少女達には()()()の彼女の振る舞い。

 だがあいにくと、中身が少年たる『弟』の残滓そのもののファインドフィートには通用しない。

 故にただ、絵になるなぁと、感心したように息を零す。

 

 ……反応とも言えない反応だ。

 そうであれどもフジキセキに気にした様子はない。

 むしろ微笑ましいモノを見る、柔らかなまなざしで白い頭を眺めた。

 

 そして──ふと、何かに思い至った様子で。

 耳を立てる仕草であからさまに前兆を彩って、少女の顔のすぐ目の前に右手を差し出す。

 柔らかく閉じられた指の隙間の中身は、真っ暗で何も見通せない。

 

「はい、プレゼントさ」

 

 そのまま、勿体ぶらずに指が開かれた。

 

 ふわり、と数枚の花びらが舞う。

 それは白い花びらだ。 ファインドフィートの頭と同じほどに真っ白で、汚れのない無垢色だった。

 

「受け取ってほしいな」

 

 様子を伺うように対面のフジキセキに視線を送った。

 彼女はさして口を開かず、にこにこと、形のいい唇を穏やかな弓なりに曲げている。

 

 つまり、この場で彼女がとるべき選択肢はたった1つ。

 

 ……おずおずと、両手を伸ばす。

 

「ありがとう、ございます」

 

 指先を一本ずつかけ、白い花を摘み取った。

 薄い、しかし甘い香りが漂い、鼻腔を撫ぜる。

 

「これは……えっと、アネモネ、ですか……?

 というより、何処から出したんですか……これ」

「そこはもちろん企業秘密さ……って言いたいところだけど──これ、エアグルーヴからのプレゼントなんだ。

 あっ、本体の花束はこっちだよ」

「えっ」

 

 ばさりとはためく音。

 それと共に差し出されたのは、小振りな花束だった。

 

 大袈裟な品を好まない彼女の気性を理解してか、質素で──しかし、隠しきれぬ気品で彩られた様相。

 その包みの内側からは、幾本かの白いアネモネが"こんにちは"と顔を覗かせている。

 

「大阪杯優勝のお祝いだって。

 キミと中々会えないから……私なら確実に声を掛けられるだろうって託されたのさ」

「…………」

 

 花束を受け取る。 花の蜜がふわりと香った。

 ファインドフィートは、これを受け取って──。

 

 受け取った自分が何と言うべきなのか、分からなくなってしまった。

 己は、何を思うべきなのだろうかと。

 

 ありがとう。

 うれしい。

 次も頑張ります。

 次も勝ちます。

 夢の為に。

 

 ──なんて。

 それらを語る事が、悍ましいほど白々しいと考えてしまったのだ。

 何故か。 何故、今になってそんな無為な感傷を巡らせてしまったのか。

 

 ……それはきっと、彼女の信念が揺らいでしまっているからだった。

 芯とも称するべき背骨が、歪んでしまっているからだった。

 

 色のない誰かの後ろ背を陽炎のように思い浮かべ、そっと目を伏せる。

 勝利を誇ろうにも……ファインドフィートは、他の誰でもない彼女こそが、彼女自身を誇れない。

 

 だから、産まれ損ねた言葉を歯の裏に擦り付けて。

 舌の先で、そっと磨り潰した。

 

「それじゃ、確かに渡したからね」

「……はい。

 ありがとうございます、寮長」

「ああ、それと──私からも祝福を。

 優勝、おめでとう!」

 

 "ティン"と擬音が付きそうなほどに軽快な仕草で、ウインクを一つ。 実に絵になる仕草だった。

 そのまま去っていく背を見送って──。

 

 ……とりあえず同室の先輩には連絡しておこうと、決意を頷きに込める。

 

「早めに、部屋に帰らないと……」

 

 玄関から続々と入ってくる同じ屋根の下の仲間たちを後目に、そっと歩き出す。

 手のひらの中にある花束を潰さないよう優しく、そっと。

 

「花瓶、あったかな」

 

 花びらや茎から伝わる水気から、それが造花で無い事は察せられる。

 ならばしっかりと活けて、手入れをしてあげなければな、と。

 義務感にも似た行動原理で、簡単な予定を打ち立てた。

 

 幸いにも経験はあった。

 小さな花を可能な限り長く咲かせるために、適切に扱う術を知っている。

 そうしていれば花は応えてくれるのだと知っている。

 

 ……そしていつか、たった一輪のこれが根を生やすかもしれない。

 あるいは種によって増えるかもしれない。

 そうして世界の片隅で、小さな継承の糸を紡ぐのだ。

 

「種をつくるとして……その後芽吹くまで、何年かかるんでしたっけ」

 

 そっと息を吹きかけるような、小さな声で囁いた。

 無垢な童女と同じ程に無邪気で、老いた病人よりも弱々しい音色で。

 

「……その頃、わたしは……」

 

 つま先に放り投げようとした意図。

 それを舌で防ぎ、喉元に引き込む。

 そのまま知らん顔で歩いて、歩いて、足を左右規則正しく交互に伸ばして、その衝撃で腹の底に突き落とした。

 

 ちっぽけな命を抱きしめたまま、ゆっくりと。

 

 

 ◆

 

 

 自室の机にカバンを置いて、その場で花束の包みを解いた後。

 茎の先を水につけたまま、その2センチ程を鋭利なハサミで切り落とす。

 こうすることで花の寿命が長くなるのだ。

 

 そして手早く花瓶に突きいれて、そっとため息を零す。

 

 ……未だに制服姿のままではあるけれど、少し早めの休憩時間としてしまおうか。

 その降って湧いた発想に従い、ゆっくりゆっくり準備に取り掛かった。

 

 電気ケトルにカップ一杯分の水を注ぐ。 そしてスイッチを入れて一分ほど。

 そのお湯が沸くまでの僅かな時間の間にティーバッグを取り出し、陶磁器のカップに放り込んだ。

 今回のハーブティーは一袋三十包で3500円の物。

 ……味の良し悪しに聡くない彼女には十二分の高級品だ。

 

 そうしている間に沸いた湯をカップに注いで、お手軽な休息のお供を用立てた。

 立ちのぼる湯気が、顔の表層を熱く湿らせる。

 

 それから熱くない取手を握り、折角煮出し始めた茶を溢さないようにゆっくりと、部屋の中央にある折りたたみ式ちゃぶ台の前に陣取ってしまう。

 ふかふかの青い座布団は彼女のお気に入りの品だ。

 空気の抜けるぽすりという音にさえ愛嬌を感じる程に。

 

 ……対面の赤い座布団の主が居ない状況に僅かな物寂しさを懐きつつ、カップを両手で包む。

 この場にあるべき最後のピースが欠けている事だけは……少しばかり、残念だった。

 

「はぁ……」

 

 そんな感傷ごと呑み干そうと、カップをゆっくり傾ける。

 あたたかいハーブティーが喉を潤した。

 荷物を置いた直後の一休みにしては……ほんのちょっぴり、豪華な休息だ。

 

 座布団の上に足を崩して座り、ゆらゆらと尻尾を垂らす。

 ぱさりと床を叩いて、乾いた音を無意味に鳴らす。

 そして、もう一度カップを傾けた。

 

 すっきりと冴えるいい香りだ。

 

「…………あ」

 

 更に三回ほど口に含む。

 そこまで楽しんで、ようやく──そういえば己の先輩はいつ帰ってくるのだったかと我に返った。

 

 時計を見る。

 針は17時と半の位置を示していた。

 であれば、ミホノブルボンが帰ってくるのはまだ後の事だった。

 

「なら、もう少しだけ……」

 

 針が時を刻む度に、卑金の硬質な呼吸音が鳴り響いた。

 一定のリズムで、急かされることもなく。

 ……それは少しだけ、羨ましいと感じてしまう。

 

 カチ、コチ。

 カチ、コチ。

 カチ、コチ──。

 

 そんな針の音色をバックコーラスにして。

 ゆっくりと、舐めるようにハーブティーを味わった。

 

「…………ぁ」

 

 カップを傾けた。

 しかし唇には何も触れない。 空っぽだ。

 底を晒すカップが何とも寒々しい。

 

「……」

 

 カップをちゃぶ台の上に置いて、もう一度時計を見る。

 ミホノブルボンが帰ってくる時間まで……ほんのもう少しの余裕があった。

 

 ……ならば今のうちに、手早く着替えてしまおうか。

 思い至ったままに自分用のクローゼットを開く。

 

 なにせ、トレセン学園の制服を常に着用しているのは多少肩肘がこる。

 より正確に言えば……スカートを身につけていると色々と気を遣ってしまって、どうにも落ち着けない。

 彼女としてはやはり、ズボン等のパンツスタイルで居る方が余程落ち着くのだ。

 

「適当に動きやすそうなやつで良いか……」

 

 手に取ったのは上下合わせて五千円そこそこの品々。 どちらもお手頃価格だ。

 白い襟なしの長袖シャツと、ゆったりとした黒いジャージ。

 両方とも値段相応にそこそこ厚手の生地でもあるおかげで、そこそこには暖かい。

 

 それらを吊り下げたハンガーを適当な出っ張り(べっどのふち)に引っ掛けて。

 適当に着衣を脱ぎ払って、後で洗濯かごに放り込むために纏めておく。 ついでにタイツも一緒に。

 ……タイツに関しては、この二年と少しですっかり慣れてしまった。

 

 その後にまず、ジャージを穿く。

 

「……毎度のことながら、面倒ですね」

 

 が、尻尾を臀部の穴に通す作業だけは未だに僅かに手こずってしまう。

 

 本来ならば専用の加工を施されている物なのだが……このジャージはメンズ物。 当然ながらウマ娘用の加工なぞ施されている筈もない。

 故に仕方なく、手ずからハサミで切り取り穴を作った。

 

 とはいえ、裁縫の技術はほぼ皆無に等しい。

 そんな彼女が施した加工なんぞ、正直に言うと杜撰極まりないものだった。

 しかし最低限の要件を満たす機能は有していて、尻尾を通すことだけは可能である。

 穴の周辺は若干(ほつ)れていて、よく見れば化学繊維の切れ端が飛び出しているが──一応は、形になっていた。

 

 ──そんなジャージに四苦八苦しつつ尻尾を通した、その直後。

 きぃ、と、ドアが開く。

 

「──!」

 

 建付けが悪い癖に、動きはそこそこ滑らかだ。

 

 ……うるさいだけの不良品とは、全く不思議なものだ。

 開いていくドアを眺めながら、薄ぼんやりとくだらない思慮を馳せた。

 しかし"うるさいだけ"とは言えども、その中途半端な建付けの悪さほど扱いに困るものは無い。

 もっと建付けが悪ければ素直に早く修理しようと思えるし、うだうだとやらない理由(いいわけ)とやる理由(どうき)を天秤にかける必要もない。

 

 だから、このドアは紛うことなき不良品だ。

 

 ともかく、つまり、そんな中途半端なドアは全くの無能である。

 故にこうして──入室者の道を阻む事も出来ないのだ。

 

「……テイオー、さん?」

 

 ドアが開いた。 きぃきぃと悲鳴を上げながら。

 その向こうからひょっこりと顔を覗かせたのは──見覚えしかない少女の顔だった。

 ここ数週間……否、一ヶ月以上も相対を避け続けていた、少女の顔だった。

 

「……。

 …………あ、ごめん! 着替え終わったら教えて! 

 ブルボン! バックバック! ステイホーム……じゃなかった、ステイドア横!」

 

 ──そんな少女は、すぐに"しまった"と言わんばかりに大きく目を見開いて。

 それから一切間を空けず、背後に居るらしいミホノブルボンへ指示を出しつつ消えていった。

 

 ……あまりにもはやい、一瞬の出来事だ。

 消えゆく彼女へどんな反応を見せれば良かったのかも分からなかった。

 

 ()()()()を隠す事も忘れて、薄いため息をカーペットの上に転がす。

 ふよふよと漂うだけの軽いものだった。

 

 頭からシャツを被って、襟首から白い髪を通し、全身を衣服で包み隠す。

 どうしてか、少しだけ肌寒い。

 

「…………」

 

 声を掛けに行く前に、ほんの少しだけ身嗜みを確認するため身を捩る。

 着崩れなし。 シワもなし。 尻尾のツヤもよし。 枝毛も特にない。

 という事は、ばっちりという事である。

 これ以上は無いなんて言える筈もないが、部屋着の装いとしては必要十分に違いない。

 

 ……とりあえずは最低限の身だしなみを整え終えたとして、ドアへと歩み寄った。

 何故引っ込んだのかも分からない部屋の相方と、見慣れた突然の来客を招き入れるために。

 

「……あの。

 着替え終わりました……」

 

 トウカイテイオーが待機していたのはすぐドア横だ。

 ミホノブルボンもそのすぐ後ろに居る。 ……彼女に関しては、何故引っ込んだのかまったく意味が分からないけれど。

 

 壁に背をつけている様子は少しだけ落ち着きが無かったが──しかし、さて。

 ファインドフィートには思い至る理由が何も無かった。

 

 身嗜みに問題はない。

 ここ最近の不和に関する振る舞いとしては……やや不適格。

 ともかく、心当たりはなかった。

 

 ……やけに胸元の付近を凝視してくるトウカイテイオーの様相に疑念を覚えつつ、手の仕草で入室を促した。

 

「──いや~、さっきはごめんね? 

 ノックもしないで急に入っちゃって……」

「申し訳ありません……ステータス『勇み足』を抑止出来ませんでした」

「……いえ……今のは別に、大したことじゃありませんから」

 

 ベッドの下から客人用の座布団をひとつ取り出す。

 客人用の品が収納されているのはミホノブルボン側のベッドだ。

 

 緑色のそれをちゃぶ台の前に置いて、三人が居座れる状態に整えた。

 

「ところで……その、何かあったのですか? 

 テイオー、さんが此処に来るのは随分と久しぶりの事ですが……あっ、お二人はゆっくりしていて下さい。 今お茶を淹れますから」

「ありがとうございます……。

 私も、電子機器を扱えたら良かったのですが」

「しょうがないよ、体質なんだし……って言っても、電子機器に触ったら壊れるなんて意味がわからないけどね」

「ブルボン先輩は……たぶん、歩く電子特攻兵装みたいな……そういうあれ、なんじゃないですかね」

 

 何だかんだであっという間に人口密度が上昇してしまったが、それは悪い事ではない。

 

 ファインドフィートは正しい手順で訪れたモノを心の底から歓待する。

 このひだまりを壊さないで済むのなら、それだけでいい。

 

 電気ケトルに水を注いで湯を沸かす。

 駆動している証明として、赤いランプが薄く光っていた。

 

 沸騰するまで凡そ3分程度。 これもあっという間だ。

 

「──そうそう、それでね! 

 えっとね、今度キャンプの練習……練習? 

 うん、練習するためにキャンプしにいくんだ! 良ければフィートも来ない?」

 

 彼女に背に向けトウカイテイオーが語る。

 内容に関しては……正直なところ、知見が浅すぎて"はい"とも"いいえ"とも言い辛い。

 

 丁度仕事を終えた様子の電子ケトルからカップへ湯を注ぎつつ、熱を伴う湯気を顔面に浴びた。

 

「……キャンプの練習のためにキャンプ、とは……。

 それは……何というか、変わっていますね」

「発案者ゴルシだし」

「……なるほど。

 ちなみに一体何処で?」

「隣県のキャンプ地。

 で、そこが山の上だから……登山も一緒にやる感じかなぁ。

 星空がよく見える所らしいよ?」

「…………なるほど」

 

 "それは本番の扱いで良いのでは?"

 そんな、捻りのない感想を抱いてしまった。

 

 そもそもキャンプの練習という概念自体にピンときていない。

 事前準備を整えて、テントを担いで山に登ったのなら、それはもうキャンプではないかと。

 そこに本番も練習も何もないのではないかと、そう思ったのだ。

 

「ま、ボクもそう思う。

 とにかく、参加者はボクとブルボンとゴルシと……あと経験者としてカフェ先輩、マンハッタンカフェ先輩だよ」

「な、なるほど……?」

「そーそー。

 っていうワケで、フィートも一緒にキャンプしよーよ」

 

 それに困ってしまうのは……やはりと言うべきか、ファインドフィートのみだった。

 眉をハの字に曲げて──なんて感情表現は出来ないけれど。

 代わりに耳を垂れさせることを表情の代替えとする。

 

 ……正直なところ、彼女にも理由は色々と存在していた。

 経験がないこと。 アウトドアは大して得意ではないこと。

 知らない人物(マンハッタンカフェ)がいること。

 トウカイテイオーに()()を出しそうなこと。

 

 そして何よりも、天皇賞春が近いこと。

 ファインドフィートはそれに向けた特訓を行う必要があるのだから。

 

 もしも当日に遊び呆けて、繊細なバランスで為される調整に失敗してしまうなど……考えるだけでも恐ろしい。

 その結果で、まさか、まかり間違っても──負けるなんて、あってはならないのだ。

 何があってもそれだけは許さないし、許されない。

 

「──だから……その、参加は厳しいです」

「あぁ~……天皇賞春、ね。 でもでも、もうしばらく先なんだし、ちょっとぐらい良いじゃん?」

「テイオーさんのおっしゃるとおりです。

 定期的に気を抜きつつ、締めるべき所で引き締める。

 それが質の良いトレーニングの秘訣かと」

 

 しかし──そんな思わぬ援護射撃をなされてしまうと、いよいよ彼女は拒否しづらくなってしまう。

 ある意味ではまったく不思議ではなく、彼女の気性を考慮したなら自然とも言える援護射撃なのだから……むしろ、それを"思わぬ援護射撃"と感じるファインドフィートこそが正しくないに違いない。

 

 女神の価値観や基準さえも理解出来ぬ状況で、自由を謳歌する訳にもいかないと云うのに。

 顎先に指を添えてありもしない言葉を探し、視線を上部左右を彷徨わせた。

 

 ……結局、話せる理由が何もない事に気付いてしまった。

 本当の所にある理由は、胸のうちに秘すべきモノだ。

 

 それは話せないし、話すべきではない事柄。

 故に彼女は……地蔵のようにダンマリを決め込む他に選べる手段が無い。

 

 つまり、今までと同じだ。 何も変わらない。

 

「……悩ましいのなら、一度試してみては如何でしょうか。

 例えば……トレーニングと同じで、まずは何も考えずに試すべきです」

「…………」

 

 涼やかな声音だ。

 

 ……それが彩る中身は、ファインドフィートが抱える何かへの苦慮を含んでいる事は明らかだった。

 "なら放っておけば良いのに"と思った。

 "あなた方の利になることは何もないのだから"と、拒絶したくもなる。

 

 けれど。

 そう考えているくせに、その手をすぐに振り払えない。

 

 だからこそ。

 彼女はこうして痛みを抱えたまま。

 ずるずると、ずるずると、やがて訪れる破綻を遠ざけ続けているのだ。

 

「……"何も考えない"、というのは。

 とても、とても大切なことです。

 最初の一歩を踏み出すためには"そこ"から始まる……マスターにもそう教わりました」

「ブルボンのは、こう……"四の五の言わずに走りなさい! "みたいな事を言われてただけのようなー……」

「はい。

 これは大マスター……つまり、マスターの師匠からの受け売りだそうです。

 私はレースの練習の為という事情もあるので、今しがたの発言とは些か趣旨が違いますが……」

 

 そこで区切り、ファインドフィートに視線を合わせた。

 涼やかな声が鼓膜を撫でる。 舌の動きは滑らかで、発する音はひどく柔らかい。

 

「……とにかく、一度試してみませんか?」

 

 無表情であるというのに、表情豊か。

 提案しているようで、実際のところはあんまり拒否させるつもりがない。

 

 ……()()()だ。

 だから彼女はいつも、その手を振り払えない。

 

「きっと、楽しいですから」

 

 そのせいで──あぁ、それなら良いか、と。

 あっさりと、簡単に、感情が反対へ転がってしまうのだから、どうしようもない。

 

 だって、いつもそうだったから。

 ()()()()から変わらない。

 

 ファインドフィートが下手な理屈を捏ねて、理由をつけて逃げようとする。

 ミホノブルボンはそんな彼女の手を()()()()()強引に引っ張り、優しく振り回す。

 

 ……あるいは、それが。

 

 その、なんてことはない日常の構図が、ファインドフィートにとって何よりも大切なひだまりで。

 それを何時までも変えたくないだけで。

 変わりたくない、だけだった。

 

「……あぁ」

 

 変わりたくない。

 ずっと、ずっと、ずっと。

 それだけで十分じゃあないかと、深く盲信しているのだ。

 

 ただ、()()のために浅い呼吸を繰り返す。

 思い出の残滓の中で、延々と蹲って。

 浅く、浅く、呼吸を繰り返す。

 

「あなた達と、一緒なら」

 

 ……小さくて、真摯で、みっともない祈りだった。

 己のそれが惨めな代償行為でしかないのだと、無意識の裏で理解しながらも。

 淡々と、粛々と耳を伏せる。

 

 色のない誰かの後ろ背を、悼むように。

 

 


 

 

 数を増やし、細々と栄え、やがて滅びるまでは根を張り続けるモノ。

 けれど、ほんの些細な行き違いだけで簡単に息絶えるモノ。

 そんなちっぽけで、弱っちい輝きを、次へと繋げていくモノ。

 

 いつかの『少年』と『少女』は──そんなちっぽけで、ひどく矮小なそれこそを、『命』と定義した。

 

 



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41話

 

 

 山道を登る。

 

 ゴツゴツとした岩が転がる起伏の激しい道だ。

 他にも土と落ち葉と小枝、それと多様な雑草達が無造作に埋め尽くす。

 一つ一つは小さくとも、数が増えればいとも容易く足を絡め取るもの。

 

 それらに捉われぬよう、両の足でしっかりと踏み締めて。

 ファインドフィートは空を目指して歩みを進めた。

 

 この行いはあらゆる意味で、普段とは違う感覚を彼女に齎していた。

 重力の束縛が強い。 脚腰への負担が大きい。 肺が激しく縮まる。

 どれもこれも身体を苛むものばかりだ。

 

 ……けれど存外、決して"イヤ"ではない感覚でもあった。

 結い上げた髪を揺らす涼風や、それが運ぶ木々の香り。

 枝葉の隙間をすり抜ける木漏れ日。

 常日頃にターフの上で浴びるそれよりも遥かに淡く、優しく、小さなぬくもり。

 

 瞼の上を撫でる温度が心地よくて、身体を苛む負担がまったく気にならない。

 まったく不思議なものだった。

 

 

 ──ただ、欲を言うなら。

 背中に突き刺さる視線がなければ、もっと良い気分になれたに違いない。

 

「……あの」

「はい……どうかしましたか、フィートさん……」

「いえ」

 

 振り返った彼女の青。

 それを一対の黄金が射抜く。

 

 その黄金は木漏れ日の下で深い輝きを放っていた。

 当人の黒い──真っ黒い青鹿毛の長髪も相まって、どうにも浮世離れした印象を醸す。

 

 身を包むのは一般的な登山服で、背負っているのも一般的なリュックサック。

 故に、その浮世離れした印象は当人由来である事は明白だ。

 

「カフェさんは……その……」

「はい」

「……いえ、何でもありません……」

 

 声が消え入る。 言葉は溶ける。

 そうして口を噤んだ彼女の唇を貫くように、喉首へ食い入るように。

 マンハッタンカフェは、ファインドフィートの姿を凝視しているばかりだった。

 それはつい数十分前──山の麓で現地集合し、初対面の挨拶を交わす前から変わらない。

 

 それなりに長かったバス旅を終えた頃には正午過ぎ。

 バス停前に足を地につけて、道中を共にした友人三名と前を向いた。

 その時、すでにマンハッタンカフェは到着していて。

 

 ……そして、初めて目があった瞬間だ。

 黒い彼女が浮かべた様相は、ファインドフィートの語彙ではなんとも名状し難いモノだった。

 

 夜に凍てつくような、熱に魘されるような。

 ひどく強張った表情を浮かべていた様は、今も強く印象に残っている。

 

 その表情の根源は分からない。

 互いに面識などない。 故に過去の何某かによる軋轢ではない。

 だからきっと、ファインドフィートに知り得る由はない。

 

 それでも、きっと。

 互いに悪感情を抱いていないのなら、関係性として必要十分である事に違いないのだ。

 

 だから、これで良い──筈だ、と。

 まるで信用ならない自己の内界へ向け結論を投げ飛ばす。

 ……手応えは、皆無に等しかった。

 

「…………」

 

 ──小さな石ころを蹴り飛ばす。

 眼の前を歩く友人三名からは大きく逸らし、殆ど真横の草むらへ。

 

「……はぁ」

 

 ため息がこぼれる。

 葉が擦れるざわめきに溶かされる程度の、小さな熱で。

 

 そしてひとり、鈍い感慨を晒した。

 近頃は分からないことが急に増えてきたな、なんて。

 

 すぐ真後ろのマンハッタンカフェ然り。 すぐ前方のトウカイテイオー然り。

 日頃からやたらと纏わりついてくるゴールドシップもそうだ。

 親戚の子供を構う叔母さんのような、随分と力の入った振り回し方で……どうにも、参ってしまう。

 

 そんな彼女等を順々に視界の端っこに捉えて、本当に、本当に──分からないことが急に増えてきたな、と。

 淡く滲む感慨を零した。

 

「…………はぁ」

 

 ため息がこぼれる。

 瞬きの内に、風のざわめきへ溶けてしまった。

 

「…………」

 

 ──いつかの彼女は。

 否、いつかの彼は。

 

 歳を重ねれば自ずと理解できる事が増えていくのだと夢想していた。

 まったく的外れのひどい勘違いだとしても、無邪気に夢想していた。

 

 背丈が伸びれば伸びるほど見える世界は広がっていき、手が届く範囲も大きくなっていく。

 そういうものだと盲目的で、愚かに、根拠なく信じていた。

 成長するというのは、大人に近付くというのは、()()()()()()なのだと。

 

 ……だというのに、今はどうか。

 無理解を受け入れてばかりの体たらくだ。

 

 背丈は大きくなった。 大人と変わらないほどに。

 視界も高くなった。 数年前とは比べ物にならない。

 

 それでも何も見えてこないのだから──まったく的外れの、ひどい勘違いだったに違いない。

 

「……あの、カフェさん」

「どうか、しましたか……?」

 

 視線を背後にずらす。

 前方の友人三名は……あいにく、後方二名の様子に気付いていない。

 

 それはきっと、醸す空気に刺々しい物など何もなかったからだ。

 目を引く悪感情など介在していない、普遍的な間柄の中にあるからだ。

 

 ……彼女は、そうと信じる他ない。

 自分は信じられずとも、自分以外の基準であれば盲信すべきに値する。

 

 今までと変わらず、学ばずに。

 今までは()()でうまく行っていたのだ。

 

 ……だからこれからも信仰を続ける。

 そんな、ちっぽけな思考回路だ。

 

「その……ご趣味は、何ですか……?」

「……そうですね、リラックスできる空間に浸ること、でしょうか。

 例えば……一杯のコーヒー、燻る豆の香り、ふかふかのソファー……──」

 

 そのおかげで今回も間違った道を選ばずにいられた。

 

 会話の出だしはぎこちないけれど、彼女は確かに会話を始めようとしていて。

 黒い少女は、それに応じたのだ。

 

 ……だから、間違った選択では無い。

 ぽつりぽつりと言葉が交わされ始めた現在が、その証明である。

 

「……コーヒー、あまり飲まないですね。

 わたしは……基本的に紅茶を選んでばかりですから」

「……なるほど……。

 であれば……折角です。

 今夜は私がご馳走しましょう、コーヒーだって良い物ですから……」

「……ありがとうございます。

 少し、興味があったんです。 挽いた豆って、すごくいい香りがしますから」

 

 ゆっくり、ゆっくりと。

 道を歩くよりも遅く。

 踵を磨り潰すよりも重く。

 

 互いに口が上手くないせいもあってか、話の展開はとても遅い。

 そもそもの比較対象である歩幅は子供のそれと大差ないのだから、舌の遅さは推して知るべしだ。

 

 

 ■

 

 

 ──登山開始後、2時間。 現時刻は15時。

 先と変わらぬ晴れの空で、日は西側へ傾いている。

 

 それだけの時間を費やした五名の少女達は、ようやっと目的地たるキャンプ場へ到着した。

 

 ……そう、今日の目的は登山ではない。 あくまでもキャンプだ。

 故に登山と比較したなら……それなりに早い終わりである。

 

 もし本格的な山であればこれほど早くに終われない。

 早くて三時間、長ければ八時間。

 登山とはそういう非常にハードな行事なのだ。

 

 しかしそれでも、一般的なキャンプ以上には労力を消費してしまうもの。

 何せ舗装されていない道を通るのだ。 身体への負担もそれなりに大きい。

 ファインドフィートも墓参りのために山を登った経験がなければ、今よりも更に苦しかったに違いない。

 

「ここ、が……」

「……はい、今回予約しているキャンプ場です……。

 ここは……空気が澄んでいますから、夜は星がよく見える、そうです……」

「それは……楽しみです」

 

 綺麗に整備された木々が点々と茂る、広々とした開放感のある空間だ。 ひんやりと湿った空気が心地良い。

 人工物といえば隅っこにある受付小屋と、その周辺の発電機等の設備、こじんまりとした炊事場程度。

 

 とにかく、ようやく辿り着いたのだからまずは荷物を下ろして一休み──。

 ……と、いう訳にはいかない。

 

 マンハッタンカフェによる"早めにチェックインを済ませてしまいましょう"という号令に従い、疲れ切った四肢にムチを打つ。

 慣れた様子のマンハッタンカフェとミホノブルボン以外は額に汗を滲ませていた。

 

 溜まりに溜まった乳酸がファインドフィートの疲労を代弁していた。

 足はフラつくし喉はカラカラ。

 早く休んでしまいたいと。

 

 けれど中継地点の受付の、立て看板さえも恐ろしく遠い。

 芦毛の裏に熱気がこもってしまう程に労力を費やして。

 

 無心で交互に足を踏み出して──およそ一分足らず。 実測値はそうだ。

 

 からり、黒い少女が代表者として引き戸を開く。

 ふわり、古い材木の香りが鼻腔を擽った。

 ……とにかく、不快な香りでないことは確かだ。

 

「……失礼します。

 チェックインは……こちらでよろしかったでしょうか」

「ようこそ、左山キャンプ場へ……ご予約の団体様ですね?」

 

 受付の主人は老年の男。

 カウンター越しに氏名の確認と料金の支払いを済ませてしまう。

 

 その間にファインドフィートに出来ることと言えば──皺の深く刻まれた額を薄ぼんやりと眺めつつ、代表者たる黒鹿毛の少女の声に耳を傾けるだけだった。

 他に気にすることは……精々、たった今しがた支払った料金の出処である。

 つまり、己のトレーナーへ抱く極僅かな罪悪感が脳裏にチラついてしまう。

 

 長い芦毛を手ぐしで整え、気を紛らわせようと努力する。

 が、腹の据わりはどうにも悪いままだった。

 

「──では、以上で確認を終わります。

 どうぞ、ゆっくりなさってください」

「……ありがとうございます。 明日まで、お世話になります……」

 

 そうこうしているうちに代表者のやり取りが終わった。

 ゆるゆると右へ左へ視線を彷徨わせつつ、他の四名と共に小屋を後にした。

 

 そして再度広場を横切り──今回の設営地へ、ようやく足をつける。

 マンハッタンカフェが足を止めた事でそれを理解し、いつの間にか長い付き合いとなった荷を肩からおろした。 大きな青いリュックサックだ。

 

 地に着いたそれの中から"がしゃん"と金属同士のこすれる音が響く。

 勢いが強かったせいだ。 そのせいで土ぼこりまで舞い上がってしまう。

 

 ともかく、一区切りは一区切りだ。

 たった今から主目的のキャンプが始まる。

 

「…………では、設営を始めます……。

 皆さん、杭とハンマーの使い方は分かりますか……?」

「ったりめぇよ! ゴルシちゃん様を舐めてんのかオメー! 舐めるんなら飴ちゃんでも舐めてるんだな!」

「……ゴールドシップさん以外はご存知なさそうなので、簡単にレクチャーします……。

 さぁ、こちらへ……」

 

 ……出だしは、少しばかり混沌としていたけれど。

 

 何であれ、鞄の中から引きずり出した一人用のテントを地面に広げた。

 そして言われた通りに杭を打ち込んでいく。

 

 こんこん、がんがん。

 手に持った専用のハンマーに力を込めすぎないよう、慎重に。

 

 何せ──ほんの少しでも調整を誤ってしまえばたちどころに杭が歪んでしまう。

 彼女にはこの数ヶ月での身体能力の成長が著しい自覚がある。

 故に尚更、特に重視すべき課題だ。

 

 そうして固定した緑色の大きな布地。

 その隅っこにある専用の通り道へ幾本もの棒を通し、折らないように手加減しつつ上部へ張り上げ、内部の空間を作り上げる。

 

 撥水性のあるコーティングがてらてらと、木漏れ日を受けて輝く。

 簡素ながらも一人用テントの完成だ。

 確かな高揚で尻尾の先を揺らし、仄かに熱が籠もった息を吐いた。

 

 作業量というコストと得られる達成感というパフォーマンス。

 そのバランスは非常に優良である。

 世の中にあるワンタッチ(一瞬)で展開完了、などという合理的なテントではこうも行くまい。

 

「……ところで、後は何をするのですか?」

「……さぁ? 

 川遊び、とか?」

「ツチノコ探そうぜ!」

「太陽光発電など如何でしょうか」

「……このまま、焚き火を眺めるのも一興かと……」

「………………なるほど」

 

 結局、彼女が選んだのは山道を活用してのトレーニング──。

 

 ──になる筈だったのだが、ミホノブルボンに押さえつけられ休むように指示されてしまった。 当然ながら拒否権はない。

 故に、彼女はそのままキャンプ地で休養である。

 

 そうしてあっという間に、マンハッタンカフェを除いた三名で早々に旅立ってしまった。

 まったく、酷い先輩達だ。

 

 ……お土産に期待してほしい、という言葉には、少しだけ胸が高鳴ったけれど。

 

「……ところで、キャンプとは何をするモノなのですか? 

 休養、とはいえ……」

 

 何をしたら良いのかと、ぽつりと零す。

 否、零しただけのように聞こえるが、実際はマンハッタンカフェへ向けたものだった。

 経験者を頼る発想は全く悪くなかったのだが、あいにくと彼女自身の語りが悪い。

 

「……特に、決まっていませんよ。

 あとは自由に……例えば、焚き火を眺めたり、暖を取りながら本を読んだり……などですね」

「……自由、に?」

「参考になるのかは分かりませんが……私は、コーヒーを飲むのが好きです。

 夕暮れの空の下、焚き火と共に昼と夜の切り替わりに浸る……とても贅沢で、穏やかな一時……」

「……なるほど」

 

 そこで一言だけ断って、焚き火を囲う穏やかな一時へ相席させて貰う事にした。

 

 焚き火台はマンハッタンカフェが既に設置している。

 あとは薪と火を用立てるだけ。 文明の利器のお陰で負担は皆無だ。

 

 ごとり。 持参の薪を置いた。

 ぱちり。 ライターで火を点けた。

 そうするだけで簡単に。

 ごうごうめらめらと、か細い煙を伴い燃え上がる。

 

 薪を()んで、熱を齎して。

 顔の薄皮を炙る熱が眼球の水分を奪っていく。

 ……けれどその感覚はどこか優しい、ぬくもりを含んだものだ。

 

「……では、私がコーヒーを淹れましょう。

 フィートさんは座ってゆっくりしてください」

 

 歯の間を通り抜ける風の音が返事だった。

 否、モドキでしか無いのが──ともかく、彼女にとっては精一杯の誠意に等しい。

 

 幸いにも黒い少女に気にした様子はない。

 ただ淡々と、道具類を並べて準備を始めていた。

 

 簡易テーブルの上に並べられたのは鈍色のポットと2つのカップ。

 並べる度にことりことりと卑金(アルミニウム)の空洞音を響かせる。

 

 無機質に響くばかりのそれに、耳を傾けつつ。

 燃え上がる薪に視線を据えたまま、こじんまりとした椅子に腰を落ち着けた。

 折り畳みで小さいけれど、彼女の体躯を支えるのには必要十分だ。

 

「ふぅ……」

 

 きぃ、と軋む音。 ぱちぱちと薪が火に弾ける音。 ポットに水を注ぐ音。

 寮の一室でのそれには及ばないにしても、大自然の中で寛ぐ空気感は……存外、好ましいものだった。

 

 それはきっと、ファインドフィート個人としての価値観ではない。

 大昔から受け継がれてきた本能に由来する、原始的な安堵である。

 

「……もう、日が沈みますね。

 ブルボン先輩方ももうじき帰ってくる頃合いでしょうか」

 

 西の空へ視線を泳がせる。

 もう一時間もあれば日は山の向こうに姿を隠してしまうだろう高さだ。

 真っ赤な光が青い虹彩に溶け込んで、裏の網膜を焼いていく。

 

 ゆるゆると。

 日が落ちていく。

 

 ……それから、どれほどの時間空を眺めていたのか。

 ふと、差し出されたカップに気付き我に返る。

 焚き火の明かりを頼りに覗けば、黒い水面が静かに波打っていた。

 

「……砂糖は、こちらに」

「ありがとうございます……」

「これでかき混ぜてください」

 

 一本、二本。

 スティックシュガーをさらりと流す。

 そこを(マドラー)でくるくるくるりとかき回せば、カップの底へと吸い込まれて見えなくなった。

 

 そして、一度口をつけた。

 甘い。 そして熱い。

 火傷しそうだ。

 

「……でも、おいしい」

「良かった……」

 

 焚き火の弾ける音が鳴る。

 ぱちぱちと。

 

 決して無音ではない。

 しかし、静寂に満たされていた。

 

 身じろぎで椅子が軋む。

 けれど、静寂に満たされている。

 

 木々がざわめけど、鳥が鳴こうとも、静寂に満たされている。

 ……それは白い彼女と相対する黒い彼女が口を開くまで、延々と、破られる事は無かった。

 

「……フィートさんは」

 

 ──呼ぶ声に反応して顔を上げた。

 鋭い青の双眸と、まんまるな黄金の双眸が絡み合う。

 黒の中で輝く綺麗な瞳。

 周囲が暗くなり始めている事もあって、浮いた色彩とも感じられた。

 

 ……ファインドフィートは、その黄金が──何処かを見透かすように澄んだ瞳が、少しだけ恐ろしい。

 

「──」

 

 だって、そういう瞳をしているひとはやけに勘が良いのだ。

 

 彼女が隠そうとしていた事を、まるでイカサマをしているかのような正確性で見抜く。

 手に持った5枚のトランプをそのまま上から覗き込まれているような、背丈に物を言わせて強引に覗き見ようとするような。

 

 だから、そう。

 彼女には出来ないそれが、彼女の理解が及ばないそれが、少しだけ恐ろしい。

 

「…………。

 ……いえ、コーヒーのおかわりは、如何でしょうか」

「あり、がとうございます……頂きます」

 

 けれども黄金は左右上下へウロウロと彷徨って、それだけだ。

 結局、何を言いたかったのか。

 

 得たものはコーヒーのおかわり。 今日の二杯目。

 ……今から、夜が不安になってしまう。

 

「…………」

 

 その癖に何度も何度もファインドフィートの首元を見る。

 そして、その度に小さな息を吐き出すのだ。

 

 歯の間をすり抜けて、唇という筒を通り抜けて。

 いかに鈍感な子供であろうとあっさりと気づいてしまう程に明瞭な、小さな息とやらだった。

 

「…………。

 ……あの、フィートさん……」

「……何でしょうか」

 

 また息が抜ける。 細い風がしゅるりと踊る。

 けれど今度は──飾りのある耳元が発生源だった。

 

 ──耳元で? 

 

 一瞬、思考に空白が生まれる。 次いで疑問が埋めた。

 息を吐いて鳴るのなら相手の少女からであるべきだ。

 あるいは、彼女の口元で鳴る事しかありえないというのに。

 

 「……ごめん、これは無理。 千切れない」

 

 ──風の音が続く。

 

 ただ、風と言うには複雑な音階を象っている。

 煉瓦を揺らす振動のようだ。

 否、肩で風を切り裂く悲鳴のようだ。

 

 少ない語彙を動員し、あるべき形容詞を探した。

 

「……これは、執着? 偏愛?

 呪いか、それによく似たナニカ……すごく、気持ち悪い」

 

 それは雑踏で耳を塞いだもの。

 それは教室で聞き流したもの。

 それは──。

 

「──あ、失敗した。 まさか、この子」

「あ、手が滑りました」

「っ」

 

 ──ごとり。 コップが落下した音。

 ぱしゃり。 水分が弾ける音。

 

 鼓膜を揺さぶるそれに応じ、思考の渦から我に返る。

 

 ブレた焦点を対面の黒い少女に合わせてみれば──コップを取り落とした後だった。

 厚手の服に黒いシミを作っている。

 

 もちろん、その黒いシミの元になったコーヒーは高温の液体だ。

 

「……っ」

「だ、大丈夫ですかっ。 少し待っていてください、今手ぬぐいを出しますから……」

「あ、りがとうございます……」

 

 ──そこまで思考が至れば、寸前までの追憶はあっという間に消え失せた。

 今の彼女の脳内を占めるのは眼の前の黒い少女の安全ばかりだ。

 

 すぐ傍らの鞄に素早く取り付き、あれやこれやと衣料品を取り出す。

 数々の品は彼女のトレーナーによる教育の賜である。

 

 だからこそファインドフィートは自然に、()()()先程までの姿をやり直す。

 まったく同じように再生する。

 

「次は……もっとうまくやる」

「……うん、そうだね」

 

 彼女の背後で為された会話には、これっぽっちも気付けないままで。

 

 


 

 

見ざる。言わざる。聞かざる。

 

 



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42話

 

 夜空を見上げるのが大好きでした。

 夏も冬も、春も秋も、夜空を見上げてばかりでした。

 

 屋根の上にはしごを掛けて、懐中電灯の光を頼りに登っていって。

 姉さんと一緒に、ふたりして寝っ転がるのです。

 

 そうしているとすぐ目の前が全部夜空に染まる。

 でも、顔を横に傾ければ隣の姉さんが見える。

 

 だからまわりが真っ暗でも……自分がひとりじゃないって、実感できたんです。

 怖がりなぼくでも、夜を大好きになれるぐらい。

 

 


 

 

 夕暮れの向こうから3つの影が伸びてくる。

 

 林の隙間、草の上。 土の中や石ころの裏。

 小さな影と中くらいの影、そして大きな影がぬるっと伸びる。

 

 はたして、その主は見慣れた顔の少女達だった。

 太陽はおよそ半分程を山の影に隠した後。

 小さな探検は素晴らしいモノだったらしく、各々充足の念に満ちていた。

 

 そんな彼女らが焚き火の明かりを縁として、吸い寄せられるようにゆっくり集まる。

 焚き火に照らされる傷一つない姿を認めて、やっと安堵の吐息を漏らせた。

 ああ、夜になる前に帰ってこれて良かった、と。

 足元が暗いと危ない故、事故が起こる可能性だって皆無ではない。

 

 身体能力に優れているだとか、運動神経がヒトを超越しているだとか、未だ退化せぬ野生の勘だとか、それだけで怪我なく過ごせるほど単純ではないのだ。

 

 三人分のカップを追加で取り出して、ゆるく瞳を細める。

 青色の虹彩に、チリチリと炎の赤色が混ざり込んでいた。

 

「……お帰りなさい。

 散策は……楽しめました、か?」

「……先輩方も焚き火を囲いましょう。 あたたかいですよ」

「まずは……ええ。

 コーヒーを、淹れましょうか」

 

 黒と白の少女等は論調はどこか近しい。

 表面的な気性が多少似通っている故のモノだ。

 

 淀みなくポットに水を入れて火にかけて、インスタントコーヒーの袋を取り出す。

 その間の互いの動作に淀みはない。

 普段のファインドフィートを知る者がそれを見たなら、双方共に多少の交流を重ねていると想像するのは簡単だった。

 

 そのまま手早くコーヒーを用立てて幾分か後。

 示し合わせた訳でもなく、全員で焚き火を囲んだ。

 均等間隔に設置した5つの椅子で小さな円を作って、カップを手に持って──。

 

「おー、夜になると中々寒いぜ……。

 こんな時マックちゃんがいりゃ湯たんぽにするんだがなぁ」

「なんでボク見ながら言うの?」

「ゴルシちゃんは思いました。

 テイオーちゃんはマックちゃんより小振りでも、サイズは割りと良さそうじゃねえか、と」

「あっ、カフェ先輩もちょうど良くてオススメだよ」

「……!?」

 

 ──すると当然の帰結のように、あっという間に騒がしくなる。

 

 他にも数組の客も居るのだから最低限の節度は守っているけれど──やはり、騒がしかった。

 日頃のそれよりも数段大人しい喧騒を眺めて、軽く尾を揺らす。

 

 確かに騒がしい。

 けれどもファインドフィートはこの喧騒を、非常に好んでいた。

 そんなもの、以前(二年前)の彼女ならば苦手としていた部類だったというのに。

 

 しかし、団欒とはこういうモノなのだ。

 過去の食卓の光景を瞼の裏に投影して、虹彩の奥に現在を重ねて是とする。

 

 昔の騒がしさもこうだった。 だから良いものだ。

 昔のお父さんやお母さん、姉さんと自分でこういう輪を作った。 だから素晴らしいものだ。

 

 そうして天秤を指先で弄り回し、自分が居る今を好ましいモノとして扱う。

 彼女が有する好悪の基準とは全て過去に由来していて、故に極々自然(いびつな)な判断だった。

 

「……ふぅ」

 

 素知らぬ顔でカップに息を吹きかける。 黒い水面が波を打つ。

 そして、焚き火を見つめた。 揺らめく赤色がまばゆい。

 

「そういえば商店街に新しい喫茶店が──」

「当該店舗のカロリーは比較的高めで──」

「今度マックちゃんも誘って行ってみよぜ、例えば──」

「……彼処は紅茶の評判がいいそうですが、実はコーヒーも──」

 

 なんて、雑多な会話を耳朶で受け止めながら、ただ焚き火を見つめた。

 ……極論を言ってしまえば、ファインドフィートは会話の内容そのものなんて欠片も重視していない。

 ただ、この場に居られればそれで良いのだ。

 

 そうして無為に浸っている内は──ひどく、ひどく、時の流れが穏やかだった。

 停滞している、と言い換えても良い。

 大きな刺激は何もない。

 大した変化は何もない。 精々、複数人の予定表が書き換わる程度。

 

 故にただ淡々と、時間だけが過ぎていく。

 それはとても優しくて、とても望ましい。

 

「……ここ、いい場所ですね」

 

 カップの中身を啜って、外気よりもなお高熱の息を吐き出した。

 久方ぶりの白い息だった。

 

 その声は存外通る声で、マンハッタンカフェが反応して振り返った。 挽いた豆の香りと共に。

 彼女の黄金が向く先はファインドフィートの背の裏の、更に向こう側である。

 

「……ええ。  設備はそこそこ綺麗だけれど……ひとは、そんなに多くない。

 だから……一部の愛好家から、人気なんです」

「なるほど……道理で」

 

 キャンプ地として経営している割には──なるほど、確かにテントの数が少ない。

 彼女ら五名を除けば二組程度が設営している密集具合。

 キャンプ地の面積と使用率を比較してしまうと後者は1割にも満たない。

 

 ……それで経営が上手くいくのか、なんて疑問にも思ってしまうけれど。

 実際のところ、この場の管理者は趣味道楽の類で切り盛りする人種だった。

 ファインドフィートが考えている以上にゆるやかな営みで、休養地として機能しているのだ。

 

「……それなら、あのお爺さんに感謝しないといけないですね。

 わたしは……ヒトが多いところが、苦手ですから……」

「あー、フィートってば人混み苦手だもんね。

 尻尾もよく股の下に入り込んでたし」

「私のログでは耳も垂れていたと記録しています」

「…………」

 

 口を噤む。

 ……間を補完する友人二名の言葉は、非常に残念ながらこれ以上なく正しい。

 

 彼女とて己のそれを良いモノと考えている訳ではない。

 けれど、多数の情報を同時に受け取る事はどうしても苦手で、あっさりと目が回ってしまいそうになる。

 

「わたし、ヒトがこわいんです。

 ……なんでこわいのか、自分でも言語化出来ないんですけど」

 

 それは不慣れというだけの問題ではなく、どちらかといえば生来の気性が由来だ。

 臆病な性質が、悪い意味で前面に出すぎている。

 

 ……けれど、現状は理解しているだけだ。

 だからといって改善しようとするつもりはなく、改善を行うだけの余剰リソースもない。

 そもそもそれを行った所で大した意義を持たないのだ。

 故にこの堕落は、あるがままの通理に従う判断だった。

 

「でもよォ、そんなこと言ってたらレース中とかどうすんだあ? ウイニングライブは? ライオン丸(生徒会長)がお怒りのあまり高血圧になっちまう」

「それは……少なくとも、レースの時は意外と大丈夫なんですよね。 なんというか、そもそも視界に映らないと言うか……」

 

 ──もし、レース中にも視線が気になるなどといった弊害が発生しうるのであれば。

 それこそ何が何でも己の気性を変えようと奮闘しただろう。

 プライドだの拘りだのを全て無視して、どんな手を使ってでも。

 

 けれども幸いながら、彼女はそうでもなかった。

 ゲートに入ってしまえば他の一切を意識から省いてしまえる。

 目的地や、自分の身体、そして障害物を認識するだけの機能さえあればそれで十分なのだと、心底から切り替わる。

 過度な集中──というより、一種のトランス状態であった。

 

 ……それは、何物にも代えがたい、ある種の資質でもある。

 良いとも悪いとも形容し辛い物であれど、稀有な資質だ。

 

「……だから、これで良いんです。

 わたしは、これで……」

 

 ぱきり。 薪が割れた。

 乾いた木の断面から赫灼の熱が漏れ出す。

 ゆらゆらと、熱気の向こうの景色が歪んだ。

 

「……ですから、カフェさんのお陰で助かりました」

「それなら……ええ、ここを選んだかいがあったという物です。

 ……先週、急にゴールドシップさんに声をかけられた時は警戒してしまいましたが……」

「ああ!? なんでだよ!?」

「日頃の行い……ですかね。

 タキオンさんと同じぐらいのトラブルメーカーですし……」

 

 また話が逸れる。

 すぐ隣のトウカイテイオーが若干、ほんの少し引き攣った苦笑を浮かべているが──いつも通りの事である。

 

 ……つまり、良いことだ。

 日常の景色からは若干外れてしまったけれど、紛うことなき延長線上にあるモノなのだから。

 これこそファインドフィートが望むモノ。 望んでいたモノ。

 手のひらの内にあるべきモノ。

 

 だから、ここにある彼女は満足している。

 来れてよかった、などと強張った肩から力を抜いて、指先から張りを奪う。

 

「……ああ、それと──ここは、星空もよく見えるんですよ。

 ほら、空を見てください」

「────」

 

 そして、それから。

 マンハッタンカフェに言われるがまま、首を上方へ向けた。

 頭の上、木々の上、雲の向こう、空の果て。

 

 ……言われて思い出した。

 星が良く見える場所だと最初の最初に聞かされていたな、と。

 

「雲一つ、ない」

 

 ……空は真っ黒だ。

 けれど真っ暗ではない。

 

 まんまるな黄金が、ぼんやり柔らかな輝きを纏って鎮座している。

 卵の黄身よりも艶めかしく、パンケーキよりも香ばしい。

 小麦の黄金よりも、なお純朴。

 

 その綺麗な綺麗な月が、ファインドフィートの青の中に沈み込んできた。

 

「……あぁ」

 

 綺麗だな、と率直な声を漏らす。

 つい数刻前に想起した通り、マンハッタンカフェの瞳にも似た流麗な光。

 

「確かに、綺麗です……」

 

 いつかの空に似ている。

 いつもの空と同じだ。

 

 少し首を傾ければ、すぐそこに友人たちの姿がある。

 真っ暗な世界でも、己は決してひとりではない。

 

 ファインドフィートは、そんな空が大好きだった。

 首を上に向けて固定して、ぽつりと囁く。

 

「……それに、いつもよりも、昔よりも星がよく見えて……すごく、懐かしい」

 

 それは風に乗って尚溶けることもなく。

 少女達の耳朶へと淡く染みる。

 

 つられて見上げた彼女らの姿が、その証明である。

 ミホノブルボンもまた首を上方に傾けて──深い深い青に染まった瞳の中に、きらきら煌めく小さな星々を閉じ込める。

 いつかの彼女や彼と、まったく同じように。

 

 ──ほんの少しの時間を、そのまま空に費やした。

 冷たい風が微かに吹く中、静謐に満たされる。

 

「……フィートさんは」

 

 如何ほどの時間を過ごしていたのか。

 時計を見なかったファインドフィートには把握できていない。

 

 けれど、今度のささやき声は彼女の物ではない。

 空を見上げたままのミホノブルボンによって発せられた物だった。

 

 静まり返っていた輪の中に、平坦な声音が細々と響く。

 

「フィートさんは……その、昔は、星をよく見ていたのですか?」

 

 ……それを、首の動きで肯定した。

 

 長い芦毛がぱさりと揺れた。

 そして、カップの側面を軽く撫でる。

 

 空洞に響くのは乾いて芯のない音。 卑金の悲鳴だ。

 

「……昔は、よく……というよりも。

 毎晩見ていました。

 姉さんと一緒に、屋根の上で」

 

 思い返すのは、黄金の如き日々。

 空を眺め続けていた日々、家族と共にあった日々。

 未だ何も失わず、完全であった頃の思い出。

 

 それを胸の中で反芻して、胸の重みに耐えかね椅子の背もたれに寄りかかった。

 けれども所詮は小さな椅子モドキ。 折り畳み出来る簡素な品。

 きぃきぃと無様な悲鳴を上げて、腰の主に抗議の意を叫んでいる。

 

「……わたし、小さな頃は"星になりたい"なんて言ってたんですよ。

 おかしいでしょう?」

 

 けれども嘘偽りのない夢だった。

 あの小さな星々は、あの大きな月よりもなお──輝かしい。

 そうと感じた。 故にそうと信じた。

 

 だから、憧れた。

 

「へぇー! ちょっと意外……でもないかも! すっごく良いじゃん!」

「そ、そうでしょうか……」

「そーそー! すごいロマンを感じるね!」

 

 ……それを褒められて悪い気などする筈もない。

 トウカイテイオーの素朴な声が彼女の鼓膜を撫でる度に、僅かながらに心が踊る。

 

 それが少しだけ照れくさくて、指先で唇を擦る。 口角を抑える。

 当然のようにこれっぽちも上がらない口端を、意味もなく。

 

 未だに無邪気だった昔の話だ。

 そんな過去を思い出すために、ずっと色褪せない記憶のフィルムを再生した。

 

 それはもう、網膜の裏側だけにしか存在しないけれど。

 いつまで経っても捨てきれない、大切な記憶だった。

 

「……ここに居ると、懐かしい感覚になってしまいます」

 

 ……そうして過去に浸ってしまえる。

 昔を思い出せる。

 

 

 だから、なのか。

 ふと考えてしまった。

 

「……ずっと、続けばいいのに」

 

 ──ひどい、妄想だ。

 まったく無意味な妄言でしかない。

 

 熱に当てられた脳髄だけで、己を強く罵る。

 

 当然、その一連の流れに生産性など欠片もない。 惨めなだけだ。

 ……もっとも、そんな事は今更でしか無いのだが。

 

「けれど……このまま明日が来なければ──」

 

 すぅ、と鼻から息が抜ける。

 視界がブレる。 指先が脱力に震えた。

 

 きぃきぃと鳴る椅子の悲鳴が、少しずつ遠ざかる。

 

「フィートさんより睡眠欲求の高まりを検知しました。

 早急なお昼寝を推奨します」

「今は昼じゃねーぞ」

「……お夕寝を推奨します」

「……わたしは、まだ寝ませんよ。

 気にしないでください……」

 

 ……けれど、瞼が重たい。

 気が抜けてしまっているのか、はたまた知らずのうちに溜まっていた疲労が表出したのか。

 

 否、そんな事はどうでも良い。

 今はそれより、この時間の中に浸っていたかった。

 いっそこの瞬間を現在の千倍も溺れる事ができたなら、どれだけ素晴らしいのか──なんて、夢想してしまうほど。

 

 もちろん、それも無意味だ。

 

 夜は巡る。 日は昇る。

 時間とは何があろうと前に進むもの。

 明日にはまた、日常へ帰らねばならない。

 

 けれど、ほんの少しの時間ぐらいならば。

 こうして、無意味に消費しても良いのではないか。

 この現在(いま)を過ごす苦痛を、罪悪感を、愛すべきモノとして抱きしめても良いのではないか、と。

 

 ファインドフィートは──そんな、淡い期待を抱いてしまっていた。

 だって、胸が痛くならない。 規則正しい呼吸を刻めている。

 

 だからきっと、これは正しい筈なのだと、愚かにも信じたかったのだ。

 

「……だって、このぬくもりが……こんなにも……」

 

 眠気が更に強まる。

 指先の感覚はすでに殆ど消え失せた後だ。

 繋がっているはずの神経は信号の伝達を放棄して、宙ぶらりんの切れ端が無意味に散逸する。

 

「ねぇ……テイオーさん」

 

 けれど、そんな今を過ごすからこそ、思うのだ。

 満足しているのだと盲信し、後悔など無いと嘯く故に疑心を抱く。

 

 現在を変える必要なんぞ何処にある? 

 別に良いではないか、"このまま"で。

 "このまま"に満足してしまえば、それで良いじゃないか。

 

「……なのに……何故、墓暴き、などと……」

 

 ──隠された真実を覗き見てまで、何を望むというのか。 その先に何があるというのか。

 蒙昧なる彼女には──とんと見当がつかなかった。

 

 その上、何故、対峙する必要がある。

 祈りを()()される謂れなんて何処にも無い筈なのに。

 

 軽くなった口の戸からぽろぽろと零れ落ちる。

 眠気か、はたまた別の理由なのか。

 

 けれど──零れ落ちたそれこそが、紛うことなき本心だった。

 

「……わたしは、きっと……」

 

 ──鼻から息が抜ける。

 深く、長く。

 

 ()()()()()()()()へと、疑心と鬱屈に淀む視線を差し向けた。

 そして数週間も避け続けてきた瞳に、自分から合わせて。

 

「これさえ、あれば……」

 

 深く、長く、息を吐いた。

 

 長い息が途切れる頃には、まぶたがすっかり下りきった後。

 青い瞳を隠して、穏やかな様相を形作って。

 

「──おやすみ、フィート」

 

 その顔は──表情というフィルターを除いた故に、どこか幼い。

 トウカイテイオーは、そんな彼女へ嘯くように唇を震わせた。

 

「……おやすみなさい、フィートさん。

晩御飯には起こしますから……どうか、いい夢を」

 

 ぱきり。

 薪の割れる断末魔が、どこか遠くで鳴っている。

 

 


 

 

 ……そう。 最初は、きっと。

 姉さんと一緒にいたかっただけ。

 

 けれど、あの夏の空が、あんまりにも綺麗だったから。

 

 だから、憧れた。

 空の何処かに新しい星を見つけて、ぼくの名前を新しく刻んで。

 そうしてだれかの瞳の中で息づく事が出来たのなら、どれだけ素敵なんだろうって。

 そうしてだれかの瞳の中に、ぼくの名前が残り続けたのなら──どれだけ救わるんだろうって。

 

 後になって捨てるぐらいなら、こんなもの要らなかったのに。

 

 



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4■話

 

 

 じりりりりり。 じりりりりり。

 目覚まし時計が鳴っている。 喧しく無責任な金切り声だ。

 

「ぅ……」

 

 仄暗い一室の中央で小さな呻きが垂れ流された。

 その主は薄い毛布に包まったまま、僅かな隙間から手を差し伸ばす。

 音の発生源を文字通り手探りで見つけ出し、止める。

 寝起きの頭では、たったそれだけの作業でさえも一苦労。

 

 ……どうにか眠気の束縛を乗り越え、時計の上部をぱちんと弾いた。

 

 ……。

 ……途端に訪れた静寂が、停止命令の完遂を証明する。

 

「……くぁ」

 

 大きなあくびで一つ。

 布団の中で大きな伸びをして二つ。

 そしてカーテンの隙間から伸びる一条の光を受けて三つ、ゆっくり瞬く。

 青の虹彩に、薄っぺらな朱色が混ざる。

 

 ……。

 

 そして僅かな空虚な時間を経て、ふらりと頭が揺れた。

 残念ながら、眠気は未だに晴れていない。

 布団の魅了から抜け出せなかったのだ。

 

 故に眠気を払うため、もう一度瞬く。

 ……まだ視界が朧気だ。

 

 更に二度、三度と瞼を往復させる。

 右目を擦る。 左目を擦る。

 

 ……そこまでして、ようやく両目の焦点が定まった。

 けれども頭の何処かは未だに夢うつつな様相で、上体を起こす行動さえ僅かに覚束ない。

 

 結んでいた頭髪を解きながら、どうにか脳みその回転を速めていく。

 

 幸いにも──体の調子そのものはやや()調()だ。

 己自身を斯様に評し、手元のリモコンを弄り回してカーテンを開いた。 全自動式である。

 金具がレール上を走って両開きとなり、朝の陽光を部屋に採り入れる。

 

 流石の高級ホテル仕様。

 身の回りのちょっとした備品まで質がいい。

 元が一般市民の出であるファインドフィートには……未だに、まったく慣れぬ待遇であった。

 

 とはいえ、彼女は()()()()以上の実績を残すアスリートだ。

 国全体が注目する祭り事の参加者。 ゆくゆくは国家の代表格に到れるかもしれない。

 それに対するモノと考慮したなら、極自然な費用のかけ方だった。

 

「……はやく身支度を、して……控室に入って……あと、そうだ。

 早く勝負服に着替えないと……」

 

 明るくなった部屋。 自然と覚めた視界。

 そこまで整えてようやっと最低限の活力を得る。

 

 そしてベッド脇のスリッパにつま先を差し入れた。 ふかふかだ。

 脚が資本である彼女等の事をよく考えた、細やかな造りの品だった。

 

「ん」

 

 立ち上がる。 白い長髪と長い尾が揺れた。

 歩いてみればパタパタと軽い足音が弾む。

 

 そのまま洗面台へ向かい、蛇口のレバーを押し上げた。

 水の柱が流れ落ちる。 飛沫が散る。

 

「……あと、あと……。

 ……何だっけ」

 

 底抜けの白磁の台に手を突いて鏡を見る。

 睨み返してくるのは、やはり無愛想な顔だった。

 瞼を細めて冷ややかな色で沈黙している。

 

 まず血の気がない。

 表情もない。

 覇気もない。

 つまり、いつも通りの顔だ。

 

「……ひどい顔。

 まったく、ほんとうに……」

 

 ぴくりともしない表情筋を指先でなぞった。

 

 顔の造形そのものは『姉』と全く同じ。

 眉の形、目の形、鼻の形、唇の形。

 違うのは精々が瞳の虹彩程度だ。

 

 ──わたし達は一応一卵性ですから、まぁ……こういうものでしょう。

 なんて、鏡に向けて呟く。 なんてことはない独り言だ。

 

 ……だというのに、やはり何処までもぬくもりが欠けた顔だった。

 双子だとしても内面の何処かには違いがあって、そこを所以として雰囲気に差が生まれている。

 ファインドフィートも原因を自覚していた。

 

 だけれど、簡潔な言葉だけで説明できてしまえるそれが、少しだけ悲しかった。

 

「……こう? 

 ちがう、こう……こうして、こう」

 

 鏡を見る度に、何度も何度も、飽きもせず考えてしまう。

 

 片割れにさえその姿を真似出来ないのだとしたら。

 それは……『姉』の姿が、この世界から完全に消え失せた事と同義であると。

 

 今はもう『弟』の記憶の中にしか残っていないのに、表出させる事が出来ない。

 それは、酷くもどかしかった。

 時折垣間見えた太陽のような笑顔も、手を繋いだ時の優しいぬくもりも、沢山もらった柔らかい言葉も、全て、全て──。

 

「……はぁ」

 

 ──無意識の裏でさえ求めるそれらを思い浮かべて、鏡の向こうに重ねて。

 

 垂れ流したままの水を掬い上げて、顔を洗い流した。

 滲むように湧き上がる悲嘆を振り切りたかった。

 

 水気が頬を伝う。 ぽたぽたと滴り落ちる。

 

 ……顔は冷えた。 意識も冴える。

 それでも、やはり淀んだ腹の奥は欠片も晴れない。

 誤魔化すという行為を頭の何処かで冷徹に捉えていて、その何処かが彼女の現実逃避を嘲っている。

 

「……」

 

 そして滴る水気を拭いもせず、それ以上に水を浴びる事もせず、ただ……"はやく帰りたいな"と、小さな呟きを漏らす。

 蚊の鳴くような細い声で、子供が漏らす寝息のように。

 開けっ放しの蛇口の音で掻き消える程度の、ちっぽけな弱音だった。

 

「……準備、しないと」

 

 指先で首を撫でる。

 滑らかな感触があるだけの細い首だ。

 

 ……そして、それから。

 目に見えない何かに急かされる様子で、鏡の前から姿を消した。

 

 

 ◇

 

 

『それでは改めまして、本日の見所を紹介しますね。

 現地の相模(さがみ)さ~ん』

『はい、相模です。

 わたくしはですね、現在京都レース場に来ております。

 そう、天皇賞春です! 見てください、このヒトの数! 凄まじいでしょう!』

 

 ──携帯端末のディスプレイをぼんやり眺めつつ、椅子に背を沈めた。

 量産品のくせに安っぽい造りでないおかげか、軋む音はまったく出なかった。

 控室の備品というだけはある。

 

「……わたしなら酔いそうですね、こんなの」

 

 ファインドフィートは目の前……つまり机の上に置いた小さなディスプレイを眺めて独りごちる。

 液晶に映るのはレース場の光景だ。 同じ敷地内の同時刻の姿である。

 

 例えば、売れっ子のアナウンサーが通路のど真ん中で高らかに声を張っている様子。

 例えば、道行く観客の様子。 例えば、出店の店員や、湯気が上る小麦色の焼き菓子。

 ……例えば、親子連れの一家の姿。 四人家族の笑顔。

 平和を物語るそれらを、目を細めながら見つめて微動だにもしない。

 そのまま、続く画面を見送るばかりだ。

 

 ファインドフィートはただ、それだけの行いで時間を浪費していた。

 

 幸いにも時間に余裕はあった。

 それこそ今はまだ9R(第9レース)が開催された所だ。

 故にこうして興味も無い事に時間を浪費できてしまえる。

 

 そもそも他にできることは終わらせた後。 故に、有意義な時間の使い方など存在しない。

 どんな行動であっても浪費にしかなり得ないのだから、どうしようもない事実だった。

 

『──先頭抜けた! 一着はオオヤマライデン! オオヤマライデンです!』

 

 そんな彼女の時間を満たすべく実況者の絶叫が響く。

 喧しさと活気が混ざり合う声音だった、が。

 ──ふと、僅かな興味で耳を揺らす。

 

「……オオヤマ?」

 

 どうしてか、鼓膜をするりと抜けることなく僅かに留まる。

 舌の上で転がしてみれば──ほんの少しだけ懐かしい、引っ掛かりを覚える味をしていた。

 

 画面に映る少女へと焦点を定める。

 祝福の紙吹雪の中央で棚引く鹿毛の長髪。 キラキラ輝く勝気な表情。

 

 ……しかし、さて、誰だったかと。

 ゆらりと小首をかしげた。

 

 思い返す。 思い返す。 思い返す。

 思い返して……いくら思い返せど、まったく思い出せない。

 

 ……ならばきっと、錯覚だ。

 この少女に感じた既視感に意味はない。

 そう深く考え込みもせず、きっと違いないとあっさりと結論を出した。

 

 そんな()()の笑顔を眺めて、薄い息を吐いた。

 そして生中継の画面を切って天井を仰ぐ。

 心の何処かがささくれて、腹の底が少しばかり淀んでしまう。

 

「……レースに、集中、集中しないと……」

 

 伽藍堂の胸をおさえて、椅子に背を沈めた。 更に深く。

 

 そのまま、蛍光灯の真白い光に目を細めるばかり。

 ……が、焼き付く光が眩しくて、白色から逃れるために瞼を下ろす。

 瞼の裏では網膜に焼き付いた幻影が泳いでいた。

 

 しかもそのうえ、瞼とは薄っぺらいだけの肉だ。

 光があっさりと貫通して眩しさを強引に叩き込んでくる。 幻影が、色濃く染まる。

 

 ……とはいえ、それだけ。 態々姿勢を動かしてまで逃れる意義を感じられない程度。

 だからぴたりと動作を止めて、首を固定して。

 そのまま、呼吸だけに没頭した。

 

 動じずに、変わらずに。

 意識するのは一定のリズムと、定期的に反復する呼吸だけだ。

 そうしていれば──時間の流れさえ停滞するような、淡い錯覚に浸れてしまう。

 

 吸って、吐いて。

 吸って、吐いて。 吸って、吐いて……。

 

 …………。

 ……。

 けれど、それは。

 

「──もしもぉ~し。

 フィート~、開けて~」

「……っ」

 

 "外部からの刺激が入るまでは"という、無慈悲な注釈がついてしまう物。

 思考停止の海で微睡んでいた彼女を呼び覚ましたのは打鍵音だった。 規則正しい二連続の音だ。

 つまり外部の刺激とは、入室の意思を表現するノックの音である。

 

「…………」

 

 耳を伏せ、身体を捩って背後のドアに視線を向ける。

 ……もう一度、二連続の音が響いた。

 

「フィート、いないの?」

 

 ずきり。 胸が痛む。

 空虚で満ちていた筈なのに、棘だらけの何かで串刺しにされる。

 

 ……無視するべきだ、と。

 脳裏の奥の、懐疑的な理性が重々しく囁いた。

 

 応じてどうする。 何になる。

 あのひとは裏切ったじゃあないか、と。

 そんなみっともない惰弱な論理が、ずっと背中に縋り付いているのだ。

 

「……。

 ……いま、出ます」

 

 ……けれども身体は動き出す。 静かにドアへと歩み寄る。

 取手を握る指が、少しだけ強張った。

 

「……なにか?」

 

 そしてドアを開けば──やはり、と云うべきか。

 

 来訪者はトウカイテイオーだった。

 身にまとうのは見慣れた学生服ではなく、いつかテレビの向こう側で見た赤い勝負服。

 

 曰く、不死鳥をモチーフとしたという装束。

 再起を果たした彼女にはピッタリの代物だ。

 今となっては疑いようもない程、似合っている。 彼女は心底からそう感じた。

 

「んぇっ、どしたのフィート? 不機嫌?」

「そんなことは……ありません。

 まったく、いつも通りです」

 

 ……だがその輝きは、目に毒だった。

 きらきら、ぎらぎらと輝いていて、直視しているのも苦しい。

 

 故に相対する少女を透かして、向こう側の壁を見つめる。

 そうして、どうにか努めて平坦な声を作り出した。

 

「それで、御用は」

 

 時間は、まだ余裕がある。

 時計の分針がもう一周しても問題ない程度だ。

 

 だから別に、用がなくても良い。

 ……否、その表現は正確ではない。

 ファインドフィートにしてみれば、用などない方が良い。

 

 互いに競って、何方かが勝つ。

 それが必要十分というもので、それ以上なんぞ不要なのだ。

 

 ──ただし、"必要十分を満たしている"と認識しているのは……彼女だけだったのだが。

 

「ま、センセンフコク……みたいな?」

 

 残念ながら、その内心を知らない様子のトウカイテイオーが軽やかに口を開いた。

 胸を張って自信満々に、芯のある強い瞳で。

 

「今日はボクが勝つよ!」

「そうですか……」

「でね、どっちが勝つか賭けようよ。

 ボクが勝ったら……そうだね~。

 ……聞かれたことを包み隠さず言う、みたいな!」

「……」

「真正面から逃げずに会話……って感じで……ダメ?」

 

 下から覗き込む友人の顔。 唇がへの字に曲がっている。

 ……そんな彼女に否定の言葉を告げようとして。

 唇を開いて──しかし、喉から声が出なかった。

 

 ……唇が乾いている。

 舌先でちろりと舐めて、潤して──けれどやはり、否定が出来ない。

 

「…………。

 ………………無理のない、範囲なら」

 

 結局、小さく細い、空気の揺らぎと同程度の産物が漏れ出してしまった。

 

 けれどもトウカイテイオーの優れた聴覚はそれさえ聞き逃さない。

 しっかりと意味を拾い上げ、したり顔で大きく頷いて見せた。

 

 ……ファインドフィートにはその決定を覆すだけの気力はなく、振るえる弁舌もない。

 だから仕方ないのだと自己弁護を裏に込めて、ただ曖昧に頷き返して。

 

 そこで、ふと疑問を抱く。

 

「……ところで、わたしが勝てばどうするのですか?」

「あ~っと……そうだね~。

 じゃあボクもフィートとの知りたいこと、なんでも教えてあげる!」

「……そう、ですか」

 

 別に、大した賭け事ではない。

 金銭だとか、尊厳だとか、そういったモノが絡むような──そういう薄汚さとは無縁な無垢なもの。

 

 ……その筈だ。

 その筈だけれど、何故だろうか。

 少しだけ、背筋が凍てつくような錯覚を得る。

 

「……約束です」

「うん、約束」

 

 ……だとしても、果てに待ち受けるものが何であっても関係ない。

 だって、ファインドフィートは裏切れないのだ。

 約束は絶対に守らなければならない。

 何があっても、絶対にだ。

 

 それが、正しいという事なのだから。

 

 

 ◆

 

 

 そこは僅かに薄暗い。

 窮屈で、腹の据わりが悪くなる。

 鉄の香りが充満している。

 

 そんなゲートの中に、そっと身体を収めた。

 

 やはり、居心地は悪い。 しかし慣れという物は偉大だった。

 彼女がゲートという概念に触れてから経過したのは……2年と少し。

 文字に表せば矮小な年数ともとれる。

 

 たかが2年と少し。

 されど、2年と少しだ。

 濃密に過ぎる経験を積み重ね続けた彼女にとっては十二分。

 このゲートいう概念は束縛という分類から除外されるべきモノだった。

 

 

 ……ファインドフィートはそう、信じて。

 大外の檻の中から、3つ横の檻の中へと視線を滑らせる。

 知らない顔を通り越して、知らない顔を通り抜けて、見知った顔の少女へと。

 

 その少女──トウカイテイオーは前だけを見据えていた。

 横から見られているとも知らず、知ろうともせず、一切の余分を排除して専心している。

 

 ……それはきっと、レース前の行動としては理想的な精神状態だ。

 ただの一つに集中するというのは大前提の精神状態であるけれど、同時に最も難しい精神状態の一つでもある。

 

「……でも、勝たないと」

 

 精神を制御するのは難しい。

 しかし制御せねば肉体が精神に引き摺られてしまい、発揮できる性能も出せなくなってしまう。

 ……だからファインドフィートは、集中という状態を定型化した。

 肉体が精神に引き摺られるのならその逆もまた然りだ。

 

 定めた通りに呼吸を重ねる。

 定めた通りに胸を抑え、空を仰ぐ。

 定めた通りに、定めた通りに、定めた通りに。

 定めた通りの行動を遵守する事で、自己を最適化する。

 

 ……そこまでして、精神を御すことが叶う。

 そこまでして、ようやく怯えを隠せるのだ。

 

 音もなく踵を浮かせて前を向き、長い吐息を垂れ流した。

 その吐息に怯えは混ざらなかった。

 

『各ウマ娘、ゲートインが完了しました』

 

 春風が吹く。

 それに乗って、名前も知らない男の声が反響する。

 

 音の波、風の波。

 二つの波が合わさり、鉄の檻を微かに揺らす。

 鉄が擦れて、きぃきぃと不格好な嘶きを上げた。

 

「──」

 

 それから──無言で目を見開いて、解錠の瞬間を待つ。

 秒数は数えない。

 

 ただ、その場に居る幾人かの呼吸が何度か重なった後。

 ほんの一瞬、須臾の時間だけ電気が導通する。

 それがゲートを閉ざす磁力をかき消し──抑圧を失ったバネが強く弾んだ。

 

 ──ガコン、と硬質な解放の音色が響く。

 一瞬のうちに視界がひらけて、一面の緑がファインドフィート達の目の前に広がった。

 

「──!」

 

 瞬間、反射の領域で駆動した。

 脊髄の深奥に定着するほど訓練された理想的なスタートダッシュだ。

 

 左足で後ろを蹴り出し、右足を前へ突き出す。

 姿勢は前傾、軸は不動。 以前と同じだ。

 最初からハナ(先頭)を奪うための戦法で──つまり、今回も逃げるための足運び。

 

 それを以て、すぐ目の前の幻影を追いかける。

 白い髪の、己の似姿を。

 

 ただし、問題が一つあった。

 

 それは今回のコース。

 芝、3200メートル──未だ経験したことのない長距離だった。

 長い外回りの一周半で、合間には二度の坂越えを必要とする。

 現在では天皇賞の春でしか用いられることのないコースである。

 

 ……もちろん、練習としてならば経験している。

 飽きるほどに走り続けて、ペースの配分を研究し尽くしている。

 作戦なんて、数え切れないほど詰め込まれて。

 幾重にも、幾重にも、幾重にも、熟慮に熟慮を重ねて道を作りあげた。

 

 とはいえ、あくまでも対策段階の事だった。

 その全てを活用できる訳でもなく、本番の舞台ではそれらの殆どが無用の長物となってしまう。

 確かに、その準備があるからこそ前に進む事が叶うのだが。

 

「……っ!」

 

 ファインドフィートのすぐ後方に三名、少し遠くに四名。

 更に後方に中団の七名があり、遅れて──あるいは、最後の最後で全てをかっさらうつもりの三名。

 

 その集団の先触れとして、轟く蹄鉄の絶叫に追い立てられる仔羊のように、脚の回転を一定のリズムに制御した。

 ……けれども一バ身先を幻影が走っているのだから、厳密な意味では先頭ではない。

 彼女だけの認識で語るのならば、という前提が必要になるのだが。

 

 

 ──まず最初に第一の関門として立ちはだかるのは、スタート直後にある淀の坂だった。

 高低差は4.3メートル。 難所として名高い急坂だ。

 眼前に聳える芝の山を速度を落とさず駆け登り──痛む肺に、奥歯を噛み締めた。

 事前の()()()も無しの坂路は少しばかり負荷が大きい。

 

 とはいえ知識豊富なトレーナーによる指導を受けた身だ。 可能な備えは十全に行っている。

 つまり、坂路対策の走法の会得だ。

 腕を振る位置は低めで、歩幅は小刻み。 可能な限り少ない体力消費で、可能な限り最大の速度を獲得するためのモノだった。

 

 そのお陰もあってか、想定よりも多少はマシな消耗で坂を登り終える事が出来た。

 普段通りの走行フォームに戻し、つま先を芝に突き立てる。 土の匂いが鼻腔を満たした。

 

『先頭は18番ファインドフィート、すぐ後方13番オリノコリエンテ、続く5番リボンスレノディ、内に9番ローズフルヴァーズ。

 一バ身離れて15番トウカイテイオー、その外に──』

 

 そして続くコーナーカーブ。

 実況の声を可能な限り意識から排除し、眼の前に集中する。

 ウマ娘の速度で走りながら曲がるというのだから、かかる遠心力は非常に重たい。

 

 ぎしり、ぎしりと背骨が軋む。

 しかし、揺らぐことなく負荷を往なし、体幹への影響を減じた。

 

「……っ」

 

 それに加えて風圧も強い。

 先頭を走るのだから仕方のない事だ。

 後方とは違い、撹拌されていない空気の中へといの一番に駆け出すのだから。

 

 故にただもう一度、ぎゅっと奥歯を噛み締めた。

 堪えて、堪えて、堪えて。

 風に負けず、痛みにも負けず、前だけを見据える。

 

 それのみを肝に銘じて坂路を下る。

 直線を抜ける。

 そして、再びのコーナーを走った。

 

「は、は、はっ」

 

 ──視界の端を通り抜けたのは一周目の終わりを指し示すハロン棒(残り1200メートル)

 先頭を基準とする瞬間的なレース時計は2分と7秒。

 遅くはなく、早くもない。

 

 荒い呼吸を繰り返しながら、二度目となる直線につま先をめり込ませた。

 蹄鉄が軋み、芝が抉れ、土が捲れる。

 

 体力は、まだ尽きていない。

 尽きていないが、底は見え始めていた。

 

『ここで一周を越えました! 改めて先頭から確認していきます。

 先頭は変わらずファインドフィート、少し苦しいか! 

 続けて9番ローズフルヴァーズ、まだ余力がある。

 そして三番手に15番トウカイテイオー、余裕の表情です』

 

 ──だから実況の声は、確かに現実を語っていた。

 

 痛みに震える肺から古くなった空気を絞り出し、鋭い呼気を吸って。

 僅かな休息で気力を回復させて。

 しかし、痛みはその瞬間にも襲いかかって来る。

 胸の奥がぐつぐつと煮え滾るように、痛み続ける。

 

「ふぅ……ッ」

 

 故に心臓を締め上げて、不足分の活力を捻出する。 僅かな加速を得る。

 ただ、それだけだ。 痛みは消えない。

 結局、苦しいという状況に変わりはなかった。

 

「……これで、二度目……っ!」

 

 続く勾配、高低差は4.3メートル。 つまり、先程と全く同じ坂を登る。

 一歩を踏み出す毎に、ぎちり、ぎちりと両脚が軋んだ。

 衝撃は足首の関節から脛骨を経由し、膝関節を越えて大腿骨へ、そして骨盤へと伝わる。

 時速にして60キロメートル程度……その分、地面からの反発も激しい。

 

 けれど、じっと堪えて、大きく息を吸って。

 小刻みな歩幅で、姿勢を低く保つ。

 腕の振り方でバランスを確保して、坂を登り。

 

 そして登り終えた後の──更に向こう、下り坂を経た最後の加速に向けて準備を整えた。

 

 肺は今にも張り裂けそうで、心臓は常に痛みを訴えている。

 つまり想定の範囲内。 まったく、普段通りの有様だ。 大した問題ではない。

 

『淀の坂を下りて最終直線へ! 後続も追い上げていく!』

 

 ……とはいえ。

 その想定の範囲内というのは、ファインドフィートという個体に焦点を当てた途中経過だ。

 他者の中には理想的な経路を経て、理想的な巡り合せで、理想的な消耗具合で乗り切った者も存在しうる。

 

 たとえば──絶好調で今日を迎えたトウカイテイオーのように。

 

『ファインドフィート更に伸びる! 

 しかしトウカイテイオーも上がってきた! 

 やはりこの二名が一騎打ちか!』

 

 ぞわり、と背筋が栗毛立つ。

 本能が、すぐ後方に迫り来る気配を察知する。

 

 蹄鉄の音が断続的に去来して、位置関係を迂遠に伝える。

 それは──通常ならば他多くの蹄鉄の音や観客の絶叫の中に紛れかねない程度の音だ。

 けれどファインドフィートは、それを巨大な音だと感じた。

 大きく、重く、そして熱い。

 

「まだ、まだァ!」

 

 後方から轟く。

 普段の朗らかなぬくもりを拭い去った叫びだ。

 心胆を震わせるそれは、雄叫びと表すに相応しかった。

 

 ──たまらず、一瞬振り返る。

 鹿毛の彼女が、真っ赤な衣装を纏って跳んでいた。

 

「──ッ!」

 

 ──痛む肺と心臓に檄を飛ばす。

 口の端から泡がこぼれた。

 

 だって──すぐ後ろから聞こえる息遣いが、こんなにも恐ろしい。

 

 だから前へ。

 更に前へ、とにかく前へと奮起する。

 蜘蛛糸の先にある勝利を目指して、大きく前に踏み込んだ。

 芝が抉れ、僅かな間重力の軛を離れる。

 そしてそのまま風に乗り、後方へ流れて置き去りにされていく。

 

 

 残り三百メートル。

 

 先頭は変わらずファインドフィートだ。

 しかしトウカイテイオーはすぐ半バ身後方に居る。

 

 すぐに埋まりかねない差だ。

 簡単にひっくり返っても何らおかしくない差だ。

 けれどこの間隔を保持出来なければ……負けるのは、『ファインドフィート』だ。

 

「ぐ……ッ!」

 

 更に心臓を締め上げる。 加減もなく、慈悲もなく。

 そして両脚の筋肉が瞬間的に拡縮し、僅かな距離を引き離した。

 

 ──が、瞬きの後に埋まってしまった。

 

「なんで……っ!」

 

 更に、更に、心臓を締め上げる。

 茨で、杭で、締め上げる。

 蓄積された疲労の一切を強制的にリセットし、活力を前借りして──それによって得たリソースをこの一瞬に注ぎ込む。

 そうしてしまえば、更に加速しているという結果を得る事が出来た。

 

 ──にも関わらず、どうしたことか。

 

 引き離せない。 望んだ通りにならない。

 むしろ──差が縮まり始めていた。

 

「うそ、でしょう……!」

 

 そして。

 そこにあったはずの差は簡単に踏み潰された。

 流れるように、あっさりと。

 

 トウカイテイオーが横をするりと抜ける。

 並ぶのではなく、追い越して。

 彼女等の立ち位置はあっさりと逆転したのだ。

 ついには色のない幻影さえも追い越して、ファインドフィートの限界の先へと。

 

「は、はっ、はッ!」

 

 嘘だ、と思いたかった。

 負けるはずがないと、信じていた。

 そんな未来は想像することさえ許されないと、腑の底まで刻まれていた。

 

『────! ──、────!』

 

 鼓膜の奥で喘鳴が泣き叫ぶ。

 それは彼女自身の喉から鳴っている。

 

 ──だとしても、止まれない。

 そんな事では止まれない。

 そんな事は許されない。 止まってはならない。 勝たなければならない。

 

 肺が張り裂けてしまいそうな程に大きく息を吸って、脚を前に差し込んで──。

 ──しかし、届かない。

 

 前へ跳ぶ。

 届かない。

 

 加速する。

 届かない。

 

 前傾する。

 届かない。

 

 知りうる限りの技巧を凝らす。

 届かない。

 

 心臓を締め上げ、強制的に稼働率を高める。

『ファインドフィート』の最高速度に到達し続ける。

 

 ……それでも届かない。

 

 届かない。

 届かない。

 届かない! 

 

 何をやっても届かない。

 辛うじて、けれど明確に、届かない。 絶対的に速度が足りていない。

 この局面から覆すには、単純な基礎スペックが足りていない。

 

 あるいは、この局面に至る前までが違えば届いたかもしれない。

 ファインドフィート自身の状況か、あるいは相対するトウカイテイオー自身の状況か。

 

 ボタンの掛け違いのようなちっぽけな差で良い。

 経過にほんの少しでも違いがあったなら、ここから至る結果もまた違った物になる筈だ。

 

 

 ──けれど、そうはならなかった。

 前と後の位置関係が今ある現実を物語る。

 だからファインドフィートは、こうして必死に足掻いている。

 

「はっ、はッ、ぁ!」

 

 残り二百メートル。

 脚は伸び切った後だ。 ここから更に速くなることはない。

 もし仮に、すぐ目の前のトウカイテイオーも同じように脚が伸び切った後だとしても──それは、ファインドフィートが更に加速できる事と符合しない。

 必然として、今の力関係を覆すことは不可能だ。

 

 

 つまり、そう。

 ファインドフィートは、トウカイテイオーに追いつけない。

 

 残り百メートル。

 足りない。

 

 残り七十メートル。

 届かない。

 

 残り四十メートル。

 遅すぎた。

 

 残り十メートル。

 ファインドフィートは、届かなかった。

 

 残り、0メートル。

 ファインドフィートは──。

 

「負、け?」

 

 ──息を、切らした。

 膝に手をついて、酸素を求めて何度も喘ぐ。 苦痛に沈む。

 滴る汗と鼻出血を拭う事さえ出来ない。

 

 ……そんな状況だろうと現実はお構いなしだ。

 舞い散る紙吹雪がレースの終わりを宣言した。

 

 喝采が降り注ぐ。

 向かう先は──彼女のすぐ前方。

 受け止めるのは真っ赤な後ろ姿の少女だった。

 

 その姿を以て、勝者と敗者を決定付ける。

『ファインドフィート』が敗北したという事実を、証明する。

 

「負け、た」

 

 掲示板の頂点に輝くのは15番だ。

 18番の居場所は下の枠である。 一着とはクビ差だった。

 

 勝ち時計の3分14秒とコンマの3の数字が真っ赤に、誇らしげに光っていた。

 

「わたし、が、負けた」

 

 呆然と、震える。

 声に出して、認識を芝に転がして、現実をなぞる。

 みっともなく掠れた声だった。 無様に湿った声だった。

 それは、涙に濡れた声だった。

 

「わたしが、負けた。

 わたしが、わたしの……ぼくの、せいで?」

 

 焦点が、茫洋と綻んで。

 足場の緑が真っ白に染まっていく。

 ぐらぐらと、足元が揺れている。

 

 ……もう幻影さえ見えない。 全部真っ白だ。

 

 白く、白く、白く、白く、白く、白く。

 どこまでも、夢つつの非現実な白へ。

 染まって、染まって、染まる。

 

 これが現実だなんて、認めたくなかった。

 くらりと、頭がふらついた。

 

「フィート!」

 

 ──けれど。

 彼女にはそんな現実逃避さえ許されはしない。

 

 彼女のすぐ眼前に手が差し伸ばされた。

 知らずの内に俯いていた視界を、友人の手が上へと引き戻す。

 

「ちょっと、鼻から血が出てるじゃん! えっと、えーっと……とりあえず裏に行こう! 

 ……あっ、係員さん! フィートが──」

「──」

 

 その小さな手を見つめて。

 深く考えることも出来ず、茫洋と遠ざかる眼差しも変わらず、己の手を重ねた。

 

 もう何も、考えたくなかった。

 

 

 

 ■

 

 

 

「フィート……ねぇってば、フィート?」

 

 残響が、耳朶を撫でる。

 それはどこか遠くの音だった。 幻想の繭に籠もって、不鮮明に歪んだ響きだった。

 夜道の向こうの鈴虫の、細やかな寂寥感を思い出させるような……そんな綺麗な声だった。

 

「フィート」

 

 それが影と外灯の壁に阻まれて、夢うつつな霞の衣を纏って。

 ゆるやかに、しかし鋭く飛来してくる。

 

 鋭く、冷たく。

 鈍く、熱く。

 耳朶を揺さぶって、脳みそに染み込んで、意識の根底に寄りかかって──。

 

「フィート!」

「……ぁ」

 

 ──そんな呼び声を受けて、我に返った。

 

 呼吸が荒い。 視界が定まらない。

 自身が置かれている状況が様変わりしている事に、気付くのが遅れてしまう程に。

 

「ここ、は」

 

 どうにか頭を回した。

 そこは殺風景な部屋だった。

 ホコリをかぶった机。 それを挟むパイプ椅子。 積み重なったダンボール。

 つまり、選手用控室の──どこか、使われていない一室の様相だった。

 

 ドア横に立ち尽くしたまま、呆然と息を吐く。

 そして相対するトウカイテイオーを見て、未だに酸欠でふらつく頭を抱えて……そこで漸く、自身のつい先程に意識を向かわせる事が叶った。

 

「やっと気付いた……ねぇ、身体は大丈夫なの?」

「……ええ、はい……。

 わたしは、大丈夫、です」

 

 鼻の下を擦る。

 流れていた筈の血は既に止まっていた。

 処置をした記憶は無かったが──彼女には、そんな事どうでも良かった。

 

 ファインドフィートにとって重要なのは、己が負けたという事実のみ。

 ただ、それだけだ。

 

「……ここなら誰も来ないよ」

「そう、ですか……」

 

 トウカイテイオーがドアに歩み寄り、鍵をかけるツマミに指を掛けた。

 回転方向は右へ、角度は90度。

 金属同士の噛み合う音が聞こえる。

 

 その行いがファインドフィートに対する配慮なのか、はたまた逃さないための対策なのか。

 ……両方だろうなと、その横顔を眺めてぽつりと零す。

 

 とはいえ、そもそも彼女には逃げるだけの余力も残っていない。

 真っ直ぐ立つ事さえ負担となっている程なのだから、どう足掻いたって不可能だ。

 

「……約束、だよね?」

「あぁ……」

 

 ……少女の声音を反芻する。

 重々しい言葉で連ねるのは約束──そう、約束だ。

 負けた方はなんでも一つ、聞かれたことを答えること。

 そんな子供染みた賭け事の、清算。

 

「そうです……。

 約束、約束は、まもらないと……絶対に、そう」

 

 朧気な思考回路のまま、薄ぼんやりと霞む視界のまま、小さく微かに頷いた。

 己に言い聞かせる言葉さえ、どこか遠くの残響に近しい。

 

 背中を壁に預けて──。

 否、預けることさえ出来ない。

 ずるずると滑り落ちて、尻を床につける。

 擦れる青布と蹄鉄の音色が、みっともない不協和音を奏でていた。

 

「……いや~、びっくりしちゃったよ。

 まさかボクが負けそうになるなんて!」

「でも、勝ったじゃないですか。

 あなたは、わたしに」

 

 背が曲がる。 脱力しきった様相だ。

 そうして疲れ切った老人のように、潰れかけの舌で現実を象った。

 細々と、鬱屈と綻ぶ遠吠えが一室に染み込み、微かな静寂を飾り立てる。

 

「……そう。 わたしは、負けた」

「うん」

「なら、従わなくては……」

 

 そっと俯き膝を抱える。

 左の踵を床にこすりつけて勝者の沙汰を待つ。

 それが彼女にとっての、精一杯の服従の証だ。

 

「そう、だね」

 

 眼の前でこつりと響く靴音。

 そして見下ろす彼女の息遣い。

 それらを粛々と鼓膜で受け止めて、耳を揺らす。 音は鳴らない。

 

「……ずっと聞きたかったんだ。

 キミは、どうして走っているのか」

 

 そして、口火を切る。

 その瞬間が訪れるのは、存外早かった。

 

 ……が、そのくせに歯切れが悪く端々が曖昧だ。

 語る本人でさえ内容を決めあぐねている様子は、俯いたままのファインドフィートにも簡単に把握できてしまえる。

 

 しかし彼女はそれを笑わない。 笑えない。

 故に沈黙を保ち、続く言葉を待ち続けた。

 

「何を求めているのか、何の為に、何を見て、走っているのか……」

「……一つでは、無いのですね」

「そんな事いってないし〜」

「それは、通理です」

 

 明るい声音でおどけている。

 反面空気は重々しく、軽さとは無縁だ。

 

「……でも、何故そんなことを。

 あなたは……わたしの本性を、知っているのでは……」

「……その本性っていうのが何に対してなのか、はさておき」

 

 そこで、言葉を切る。

 無言で膝をつき、青い靴に守られた足首へ触れる。

 壊れ物を扱うやわらかな手付きだ。

 

 それはファインドフィートの予想していなかった感触で、ほんの僅かに肩が跳ねる。

 

「──その脚、痛いんじゃないの? 

 あんな無茶な走り方をして、全く無事な訳がないのに。

 そうまでして走るのはなんで?」

「……それは」

 

 ──誤魔化さなければ、と直感的に言い訳を吐き出そうとした。

 "違います"。 "気の所為です"。 "ちょっと体調が悪いだけです"。

 なんて、子供でもそう言わない拙さ極まる戯言(たわごと)を。

 けれど不思議な事に、望む物がまったく出てこない。

 

 あー、とか。 うー、とか。

 そういった意味を為さない繋ぎの言葉さえ湧き出ずに、口を噤む。

 何も話せなかった。

 

「……ゴメンね、単刀直入に言う。

 キミは走るのを辞めるべきだ。

 ……うぅん、辞める事そのものは、無理かもしれない(否定できない)……けどね、休むだけなら良い筈じゃないかな」

 

 ──だから、当然のように結論を告げられて。

 必然の如く、それはダメだと喉が震えた。

 

 故に、今度こそ言葉を吐き出そうと顔を上げた。

 目の前には見慣れた少女の顔で──。

 

「キミはどうして、走りたかったの?」

 

 その瞳を見ると、どうしてか。

 喉奥が詰まって、何も言えなくなってしまった。

 

 彼女は憐れむ顔をしている訳ではない。 同情的でもない。

 ただ見透かすような瞳で、ファインドフィートを見下ろしている。

 

 ひゅ、と。

 喉が引き攣り、空気の漏れる音だけが零れてしまう。

 

「どうして、立ち止まれないの?」

 

 ──見透かす瞳と鋭い言葉が、傷口を切り開く。

 無遠慮に思えて、その実繊細に。

 丁寧に心を暴いて、清水で洗い流そうと指先で触れる。

 

 唇が震えた。 瞼が震えた。

 けれど、そう。

 ──約束の為に、なけなしの勇気を振り絞る。

 問われた事を答えるというだけの行いが、酷く難しい。

 今度は不思議と、簡単に言葉を紡げた。

 

「……許されない、から。

 だから……だから、わたしは。

 これからも変わらないというのが、わたしの結論。 わたしの答え」

 

 ──ああ、恐ろしい。 恐ろしい。

 その瞳が、その言葉が、どうしても恐ろしい。

 

 そして、忌まわしい。

 相対する友が、ではない。

 感じた恐怖を上回る程に、惰弱に染まる己の心が忌まわしかった。

 

「わたしは、止まってはならない」

 

 けれどその情の源泉は、間違いなく眼の前の友人だ。

 だから……今すぐにでも離れたかった。

 

 気力を絞り出し、背中を壁に擦り付けながら立ち上がる。

 ずりずりと乾いた音と共に、震える脚を必死に伸ばした。

 

「……っ」

 

 頭がふらつく。

 血流が足りていない。 酸素が足りていない。

 だとしても立ち止まる事は無理だ。 選べない。

 

 ……故に友人を視界から追い出すため、鍵を外そうと手を伸ばした。

 義務も義理も果たしたのだから十分だ。 もうたくさんだ。 許容量を超えてしまう。

 これ以上は、もう耐えられない。

 

「……だから退いてくださいよ、ねぇ。

 わたしはこのままで良いんです」

 

 ──しかし、外野に止められる。

 トウカイテイオーが、ファインドフィートの手首を握り締める。

 

 鍵を開けようにも右手はぴくりとさえ動かない。

 僅かに走る痛みが、その力の強さを物語っていた。

 

「退いてください」

「いやだ」

「──」

 

 ……その返答は予想していた。

 ここまで来て"じゃあ良いよ"、"また明日"と話が終わる筈など無いのだと。

 そんな事、彼女とて分かっていたのだ。

 自分を疑って、傷口を特定して、切り開いて、その上で踏み躙ろうとして居ることぐらい。

 

 けれど、けれど──理解が出来たから心構えも万全になる、などと、等号で繋がる訳がない。

 

 震える唇で、"何故"と問うた。

 彼女自身で判別がつく程の、くだらない愚問だった。

 

「そこまでして何を求めてるのさ。

 そうやって足掻いて得たものに見合うの? キミが諦めてきたモノは」

「何を、言って」

「……ずっと前、ダンボールの中身を捨ててた所ね、見てたんだ。 後ろから」

「…………っ」

 

 手を振り払えない。

 力いっぱい右手を振ればそれで済む。 解放される。

 ただそれだけの話だというのに、硬直したまま動かない。

 

「退いて、ください」

 

 ──それでも、逃げなくては。

 早く逃げて、逃げて、それから──。

 

「じゃないと、わたしは」

 

 それから、どうするのか。

 何をするのか。 何に対して、何をするのか。

 そもそも、何から逃げようとしているのか。

 そんな、まったく当たり前の疑問がふつと湧き上がってしまう。

 

 前提の前提。

 事の頭にあるべき定義だ。

 根拠とするべきはファインドフィートの内側にある核心の部分。

 

 それは──。

 

「諦めたコト、後悔してないの?」

 

 ──考えてはダメだと直感した。

 

 肩が震える。 喉が跳ねる。

 腹の底が凍えてしまう。

 

 それを直視してはならない。

 避け続けた臓腑の中身を、見てはならない。

 

「これっぽっちも?」

「……当然です。 わたしは間違ってない。 だから後悔しない。

 ……それが全てです。 だから、退いてください」

「いやだ」

「だから、あなたは何故──!」

 

 視界が白んだ。

 鼓動を刻む間隔が、徐々に狭まっていく。

 喧しい耳鳴りが響く。

 あらゆる障害を以て目を逸らそうと、彼女の身体が必死に足掻く。

 

 ……ならば、本当に逃避を目的とするのならば、その手を振り払えば良い。

 すぐに部屋から出て、全部忘れてしまえば良い。

 

 彼女の内心には──トウカイテイオーは追いかけて来ないという、奇妙な確信があった。

 故に罰があるわけではない。 故に咎があるわけでもない。

 あらゆる免罪符を得て、その上で逃げ出さないのなら。

 きっとそれは、ファインドフィート自身の選択による物だった。

 

「じゃあ、なんで泣いてるのさ」

「……ちがう」

 

 ……指先から、力が失せて。

 手首も、肘も、肩も、欠片も力が入らない。

 それを脱力を察知した友が彼女を解放して──けれども、再び力を込める事は不可能だった。

 ドアノブからずり落ちて、宙ぶらりんのまま動かない。

 

「本当に、後悔してないの?」

「……わたしは、後悔していません」

 

 声が掠れている。 視界も朧気だ。

 まるで、水中から見る世界のように。

 

「そんなに泣いてるのに」

「……やめて、ください」

 

 そして動けないまま、鋭い言葉に切り刻まれる。

 傷口を切り開いて、ついに、膿の塊に手を掛けられて。

 

 溺れたままの視界の中、自分の身体をかき抱いた。

 そうしていなければ……伽藍堂の頭が今すぐ宙を泳いで行ってしまいそうだ。

 くらくらと、くらくらと、くらくらと。

 思考がぼやけて、足元から歪んで、綻んで──。

 

「これまでも沢山捨ててきたんでしょ?」

「やめて……」

 

 その向こうから、本当の彼女がひょっこりと顔を覗かせる。

 ……けれど、それでも、ファインドフィートは自分の顔を隠せない。 その場から逃げ出せない。

 

「……これからも、そんな顔して生きていくの?」

「…………」

 

 逃げ出せない。

 

「後悔、してないの?」

「後悔、なんて──」

「本当に?」

 

 逃げ出せなかった。

 

「……後悔なんて」

 

 だから、もう、限界だった。

 ズタボロに膿んだ心が破裂する。 拙い防衛本能の論理を破綻させる。

 ずっと行き場を失くしていたのに、だから考えないようにしていたのに。

 

 こうも傷口を抉られてしまったのなら、もう限界だった。

 

「後悔なんて、そんなの、してるに決まってるじゃないですかッ!」

 

 ──叫ぶ、絶叫する。 抑えきれないほど大きな感情を込めて。

 

 それはいつかの墓石に吐き出した、たったひとり生き延びた事に対する怨恨ではなく。

 それはいつかの墓石に染み込んだ、産まれて来た事に対する懺悔でもなく。

 それはいつかの墓石で祈った、己が女神への嘆きでもなく。

 それは彼女の内で閉じた筈の──そのまま表に出ない筈だった後悔。

 過去に捨てた宝物達に捧げる、後悔だった。

 

 ……信じていたのだ。

 どれだけ辛くても、悲しくても、苦しくても、正しい行いである筈だったと。

 だからファインドフィートは己の内心を切り離す事を可能とし、夢を追いかけるだけの機能を保持出来ていた。

 

 けれど、本当の彼女は。

 捨てたモノに対して一切の感慨を抱けないほどに成熟していなかった。 むしろ未だに愛着を感じてすらいる。

 それでも己は正しいと必死に言い聞かせて、幾重にも自己暗示して、目を逸らし続けて──ようやく、一見して正常な精神を保っていた。

 

「ぼく、だって……本当は何も捨てたくなかった! 

 何も諦めたくなかった。 全部全部、大切な宝物だった……!」

 

 だというのに、その小さな努力の積み重ねは無為となった。

 自己暗示で防衛出来る範囲外から頭を掴まれ、強制的に目を合わせられて。

 

 故に、もう止まれない。

 震える唇が乾ききって、喉がカラカラに痛んでも尚止まれない。

 舌の根までは乾いてくれない。

 

 そして──トウカイテイオーに向き直って、腐りきったはらわたを晒す。

 正面から相対する。 瞳と瞳が、意思と意思がぶつかり合う。

 これが今までに避け続けたこと。

 これが、対話のカタチだった。

 

「苦しいことなんて嫌いだ、痛いのはイヤだ……っ」

「……そうだね」

「でも、そんな事よりも。

 姉さんを遺したかった。 無価値なままで終わらせるほうが、ずっと怖い……!」

 

 縋り付くように、泣き喚くように。

 ただ、ただ、溜まっていた膿を吐き出し続ける。

 吐き出す先もなかった言葉は腐りに腐って淀んでいた。

 

 そうして相対する少女の肩に縋りついて青褪めた瞳を見開く。

 仮面は無い。 剥ぎ取られてしまった。

 有りの儘にみっともなく泣きわめいて、偽りのない喉を震わせる。

 

「だって、他の生き方なんて、そんなの知らない。 そんなの誰も教えてくれなかった。

 ひとりで生きていく方法なんて、誰も教えてくれなかった……っ!」

 

 そして、そうして語った呪いこそが、紛うことなき本心だった。

 

「信じて、縋ったって良いじゃないですか! 

 だって、ぼくにはそれしか無かった!」

「そうして、キミを残したかったの? 忘れられないために」

「だって、何も次に繋げなかったら……そんなの命じゃない。

 それじゃあっ、姉さん達の命が無価値だった事になる……!」

 

 いっそ純粋で、狂信にも似た思想。

 あるいは彼女自身の歪んだ過去がそうさせる呪いなのか。

 

 トウカイテイオーは澄んだ表情を動かさず、肩へ寄りかかる少女を受け止めた。

 背に手を回して軽く叩く。 何度も何度も、肺を押す。

 

「だからぼくは姉さんになった、次に繋げるために!」

 

 ……それには、小さく眉を顰めて──しかし、淡々と受け止める。

 少なくとも、ファインドフィートの中ではそれこそが真実で、今までの支えとしてきた信仰だ。

 ずっと信じて来て、そのために他の多くを犠牲にしてきた。

 

 厳粛に贄を捧げ続けたというのに……その過程の時点で過ちだったなど。

 そんなこと欠片も考えたくもないのだ、誰だって。

 だから、血を吐き出すように絶叫している。

 

「……でも、これが間違いだったのですか? 

 それなら、ぼくが正しくないのなら、ぼくが間違っているのなら。

 他に、どうすればよかったんですか……っ!」

「……フィート」

 

 涙が頬を伝い、顎から滴り落ち、悲嘆を形にする。

 歪んだ真円が床の上に寝そべりながら、少女等ふたりを見上げていた。

 

 それを青い靴で踏み潰し、相対する少女に寄り掛かる。

 どうして、どうして、どうしてと、譫言(うわごと)のように何度も何度も繰り返しながら。

 

 どうして、こんなにも苦しい。

 どうして、捨てなければならなかった。

 どうして、自分は他の道を選べなかった。

 どうして、どうして──。

 

「……誰も、誰も教えてくれなかったのに。

 ひとりで生きていく方法なんて、誰も教えてくれなかったのに。

 誰も、ぼくを見てくれなかったのに。 ぼくを、見つけてくれなかったのに」

 

 "他に、何ができたの?"

 "ぼくはあの時、終わっていれば良かったの?"

 ファインドフィートはそう牙を剥いて、苦悩のままに口を開閉する。 喉の奥が拡がる。

 

「……だからぼくは、女神さまに捧げたのに。

 ぜんぶ、ぜんぶ、何もかも」

「……っ」

「まちがい、だったの?」

 

 力なく、跪く。

 立っているのは苦しい。 呼吸しているのも悲しい。

 

 もう八方塞がりだった。

 ファインドフィートの未来は、あるいはファインドフィート達双子の未来は、とうの昔に潰えていた筈だったけれど。

 ……けれど、そのあった筈の死を覆した事が罪で、今の苦悶を心身に刻みつける事が罰なのだとしたら。

 彼女は、この苦痛から逃れる方法を知らなかった。

 

「でも、こんなの、あんまりじゃあないか……」

「……フィート」

 

 沈痛に歪んだ顔で、トウカイテイオーを見上げる。

 青色の瞳に反射する己を見て問いかけた。

 ……その姿は夜闇に惑う幼子にも似ていて、トウカイテイオーの臓腑を小さく逆撫でる。

 

「……キミが、キミの姉さんの為に、自分を捨てて来た事も。

 キミが、自分を蔑ろにした理由も……それを間違いだって決めつけるのは、出来ない」

 

 だと、しても。

 言いたいことは山程にあった。

 伝えたいことが山程にあった。

 そんなもの、胸の奥底からいくらでも湧き出てくる。

 ……しかし、それらに敢えて蓋をして。 青い靴の少女に真正面から向き直る。

 

「だけど!」

 

 視線を合わせて屈み込んだ。 そして、肩を掴む。

 喉がカラカラに乾いていた。 真冬の朝日の中を全力で走り抜けた時のような、鋭い痛みを感じるほどに。

 けれどそれは、彼女の舌を鈍らせる要素にはなり得ない。

 ここが正念場であると、薄っすらと、直感的に確信していた故に。

 

「ボクが友達になったのはキミなんだ! 

 今目の前にいるキミだ! 

 真っ白でポンコツで、抜けていて、寂しがりやな『キミ』なんだよ!」

「────」

「だから、お願いだよ。

 どうか……もう、走らないで。

 キミが何を見ているのか、教えてよ……」

 

 それが、呪いにも等しい祈りだと理解した上で。

 それが、目の前の少女に消えない傷を与えるのだと理解した上で。

 

 彼女はその願いと共に、右手を差し出した。

 いつかの夜道では取られることのなかった手。

 それがまた、ファインドフィートの前に姿を晒す。

 

 トウカイテイオーにとってそれが、友情のカタチそのものだった。

 

「……ぼくは」

 

 じっと口を噤んで、青褪めた瞳で指先を眺める。

 

 正しいことなんて結局分からないままだ。

 彼女には、積み重ねた今までを覆すだけの勇気はない。

 その上に、捨ててきた宝物を思えばこそ──なおさら、止まれないのだと、未だに心底から考えている。

 

「ぼくは、きっと、このまま目を逸らしているべきだった、のに」

 

 もし仮に間違っていたのだとしても、失い切った先に求めるものがないのだとしても。

 それでもそこに救いがあるのならと、疲れ切った頭蓋で盲信している。

 失ったものが取り返せないのなら、せめて──なんて、今でも縋っている。

 

「あなた達が、触れようとしてくれるから。 ぼくを見てくれるから。

 ぼくは、こんなにも……」

 

 ……けれど、けれど。

 ファインドフィートは弱くなってしまった。

 

 手を差し伸べているのは友人だ。

 ファインドフィートの瞳を見つめる友人だ。

 ──考えてしまう。 その想いを裏切りたくない、なんて、今更に。

 

『姉』への願いは変わらない。 信念は歪んでいない。

 けれど、一時の気の迷いだとしても、この瞬間の『彼女』は確かに──そこに、救いを垣間見てしまった。

 

「……テイオー、さん」

 

 今更だ。 今更なのに、手を重ねようと持ち上げた。

 差し伸べられた小さな右手へと、ちっぽけな右手を伸ばして──。

 

「……テイオーさん?」

 

 しかし、それが重なることはなかった。

 

 

 それは唐突だった。

 唐突に、だらりと脱力した少女の身体を全身で受け止める。

 疲労しきった身体がぎしりと軋む。 両脚が痛みを受けて無音のままに絶叫した。

 

「ぐ……ッ」

 

 勢い余った身体をとっさに壁にこすりつけて衝撃を和らげ、ずりずりと床に落ちる。

 胸の中に抱きとめた少女は意識がなく──深い眠りについていた。

 

「テイオーさん」

 

 声を掛ける。 目覚めない。

 肩を叩く。 目覚めない。

 頬を触る。 目覚めない。

 抱きしめる。 目覚めない。

 目覚めない。 目覚めない。 目覚めない。 目覚めない。

 

「テイオーさん……」

 

 いくら起こそうとしても目覚めない。

 そこで──あぁ、と呻きを漏らした。

 

 眠る彼女を見て、察してしまった。

 現実にあり得る筈だったけれど。

 現実にあるべきではないと定義された、夢の終わりの到来を。

 

『──ごめんなさいねぇ。

 少し遅れちゃいましたぁ』

 

 甘い声が響いたのは、目の前。

 そこに美しい女が立っていた。

 裸足で、滑らかな白布を纏った女だ。

 ニコニコと、花より可憐な笑顔を浮かべている女だった。

 

「女神、さま……」

 

 その姿を茫洋と見つめて、喉を鳴らす。

 ひたりひたりと冷たい足音と共にやって来る女に対して、それ以上の何を言うべきなのか。

 鈍く錆びついた思考回路が軋みを上げて駆動して。

 

 ……真っ白に染まった脳内はちっとも変わらない。

 ただ恐ろしいのだと本能が悲鳴を上げて、それ以上先に進めない。

 

 恐ろしくて、恐ろしくて、尻尾を巻くことしか出来ないのだ。

 ほんの数年前の、真白い病室で目覚めた瞬間、自分が消えた瞬間──朝日を浴びた瞬間を、今も覚えているから。

 歩み寄る女の姿を見ているばかりだ。

 

『でも大丈夫。

 私が来たからには──全部、夢だったことにしてあげますから』

 

 女が青褪めた顔を覗き込む。 亜麻色の髪がさらりと流れた。

 けれどそれ以上に言葉を交わすことなどせず、ファインドフィートの瞳の……その奥底を見つめる。

 女のそれは少女の物とは対照的で、無機物のように透明な、仄かな熱を宿す目だった。

 

『燃料は……っと。

 うぅん、感情の方は流石に……効率が悪いですね。 記憶のリセットも含めると負担が大きい……なら、省いちゃいますか。

 そうですねぇ、それが良いでしょう。 今回はそこには手を加えずに……っと』

 

 語る言葉は一方通行。

 返答を期待するものではない。

 ただ事実を確認するだけの、意味を有さない音源再生に等しい物だった。

 

『自己だけで完結する再起はともかく、やり直しの再帰はとても難しい……仕方のない話ではありますが、なんだか腑に落ちませんねぇ。

 昔はもっと簡単に出来たような気もしますが──』

 

 小首を傾げて静止する。

 そのまま過去に追憶を馳せようとして……しかし、次の瞬間にはその一切を切り捨てる。

 

『──いえ、関係ありませんね。

 それよりも……と、(こえ)は流石に重たいですかぁ。

 (しりょく)は言わずもがな。

 なら(しょっかく)か……こちらですかね』

「ぁ……!」

 

 指を伸ばす。 少女の唇へ。

 そして力を込める間も与えず強引にこじ開ける。

 

 ほんの一瞬、瞬きの間だ。

 するりと口腔に侵入して、そのまま舌先を摘み上げた。

 

「ぉ、ぁ……ぅっ」

『ごめんなさいね……。

 これから少ぉ~し大変な事になるかもしれませんが……』

 

 口を閉じることは出来ない。

 後ずさることも出来ない。

 他の経路でも離れることは無理だ。

 

 だって彼女の胸元には、友人がいる。 眠ったままの友人が。

 だから彼女に出来ることは──。

 

『でも大丈夫ですよぉ。

 夢は叶います! 諦めなければ、()()()!』

 

 ──ただ、祝福という名の苦痛を享受することのみ。

 たったそれだけが今の彼女に許されたことで。

 白紙の小切手を差し出した彼女へ、与えられるべきモノだった。

 

()()()()()()()()()()()()! 

 ()()()()()()()()()()! 一緒にがんばりましょうね!』

「ぎ……っ!」

 

 灼ける。 溶ける。 削られていく。

 舌先から、何かが失せる。

 ……それが何かは、分からなかった。

 

 それでも、きっと大事な物だったのだろうと、ようやく自由になった身体で苦悶にえずく。

 忘れかけていた呼吸を必死に繰り返して、破れかけの肺に空気を取り入れる。

 それから落ち着くまで、数分の時間を浪費した。

 

 ……顔を上げる。 胸元の少女を慎重に抱きかかえ、静寂に満ちた一室を見渡す。

 女の姿はいつの間にか消え失せていたが──それはどうでも良かった。

 

「……あぁ」

 

 胸中を満たすのは喪失感だった。

 それはやがて溢れ出し、ファインドフィートの総身を空虚な感傷として這いずり回る。

 失ってしまった物を求めて。 己の舌先にあった物を探して。

 

「そうだったの、ですね」

 

 ……けれど、見つかるはずもなく。

 全身から力を抜き取り、壁に凭れ掛かる。

 不明瞭な耳鳴りが──遠くの空からやって来ていた。 尾を引きながら、滔々と。

 

「前も、きっと、こうして……無くなって」

 

 あり得た筈の未来も、そうして。

 

 ……じっと痛みを堪える。

 奥歯を噛み締めて、胸元の友人をかき抱いて、心臓に奔る熱にただ耐える。

 聞こえてくる穏やかな寝息だけが、ほんの僅かな救いだった。

 

「…………」

 

 ──じりりりりり、と、耳鳴りが聞こえる。 少しずつ、時間を掛けて鮮明になっていく。

 響くそれが金属同士がぶつかり合う音なのだと気付くまでに幾度の呼吸を重ねたのか。

 拍子の狂った呼気を数えるなんて、今の彼女にはあまりにも難しすぎた。

 

「……こうして、消えていく。

 また、()()()、未来を踏み躙って」

 

 ──そしてふと、これが何度目なのか、なんて。

 今となっては意味を成さない疑問を浮かべてしまうけれど。

 当然、今までにどれだけの()()を失ったのかなんて知る術はない。

 失ったことさえ忘れたというのにどうしてそれに理解が及ぶ等と思い上がれるのか。

 

「……ごめんなさい、テイオーさん」

 

 そもそも、それが何であろうと関係ない。

 何があろうと無為な夢に貶められていく。

 

 あった筈の対話も、あった筈の理解も、あった筈の決意も。

 そしてあり得た筈の手を取り合う未来さえ、何もかもが。

 故に思考や思推に意義は無い。

 諸共奪われてしまうのだから、リソースの無駄になるだけだ。

 

 忘れかけていた──あるいは、忘れたかったそれを、思い知らされてしまった。

 

「ごめんなさい……っ」

 

 じりりりりり。 じりりりりり。

 目覚まし時計が鳴っている。

 喧しく、無責任な金切り声で。

 

 

 


離さない。私の子。いとしい子。たいせつな子。私の子。

だれにもあげない。渡さない。絶対に。

あぁ、あいしてる。あいしてる。あいしてる。

 

あいしてる

 



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縺ォ繧薙£繧

 

 じりりりりり。 じりりりりり。

 目覚まし時計が鳴っている。 喧しく無責任な金切り声だ。

 

 仄暗い一室の、カーテンの隙間から射す朝日。

 その光が突き立つ先に、延々と鳴り続ける目覚まし時計があった。

 

 じりりりりり。

 上部のベルが振動する。

 連結された二つのそれが、眠る少女の鼓膜を責め立てる。

 起きろ、起きろ、はやく起きろと音を鳴らす。

 

 騒がしく、騒がしく、騒がしく、騒がしく──。

 

「……うる、さい!」

 

 ──ばん、と。

 少女の手が時計の上部を叩き付けた。

 布団の隙間から伸び出た肌は、血の気が薄い白色に染まっている。

 

 その手によってガラスが割れた。 プラスチックが砕けた。

 フレームの金属部分が歪んで折れて、中身の部品がばしゃりとまろび出る。

 それはさながら弾けた肉の臓物にも似ていて。

 ……否。 素材が無機物であるだけで、紛うことなき臓物だった。

 

 ()()を、ぬらりと起き上がった少女が、うっそりと見下す。

 薄っぺらな朱色が青い虹彩に混じり込み、幽かに輝く。

 

「……うるさい、うるさい、うるさい……」

 

 そして、頭を抱えた。

 ありもしない騒音から耳を塞ぎ、暗がりの中に蹲る。

 

 うるさい、うるさいと虚ろな譫言(うわごと)を繰り返し吐き捨てて、白い髪を掻きむしって。

 鳴り止まない時計の音から逃げ続けた。

 

 耳を塞ぐ。 けれど聞こえる。

 頭を抱える。 止まらない。

 自分の声で掻き消す。 鼓膜の裏から響き続ける。

 じりりりり、じりりりり、と、止まること無く延々と。

 つまり、それは幻聴だった。

 

「やりなおしなんて、こんなの、知らない。

 こんなのいらない、ちっとも欲しくない……」

 

 か細い苦悩が零れて。

 存在しない時計の音が脳髄へと浸透し、泡立つ恐怖が神経を侵す。

 四肢にまでじわじわと伝播していく。

 

 それはやがて、彼女を非現実の海から引き摺り上げて──強制的に、現実の地に立たせてしまうのだ。

 正気になって、我が身を見て、自らの現在(いま)を直視させる。

 身を捩っても、耳を塞いでも、瞳を覆っても、何をしようと逃げられない。

 やり直しという悪夢が、彼女に逃避を許さなかった。

 

『後悔、してないの?』

「……こうかい、なんて。

 ぼくはそんな物のために、死に損なった訳じゃないのに」

『本当に?』

「ぁあ……そうじゃないと、そうじゃないと、ぼくは何なの? 

 こんなにも……っ」

 

 友の言葉が、彼女の心に石を投げ続けるのだ。

 今この瞬間の出来事かと錯覚してしまう程の現実感を伴って、薄っぺらに再生されて。

 滔々と、心根に染み渡る。

 

「……こんなにも……何の、ために?」

 

 忘れなかった。 今回は、忘れなかった。

 交わした約束。 勝負の行方と、透き通る青い瞳。

 その果てにあるみっともない懺悔は()()()()()にされたというのに、それでも記憶は彼女の裡から消えなかった。

 

『そうして、キミを残したかったの?』

『ボクが友達になったのはキミなんだ』

『ボクは──』

 

 鋭くもあたたかい、情の感触。

 それが今も彼女を刻み続けて。

 

 しかし、時計の音がそれを掻き消す。

 じりりりりと、横から喚いて冒涜する。

 何度も何度も何度も何度も何度も、悪夢の色で上塗りして、罪の形を作り上げ──。

 

「ぅぷ」

 

 横隔膜が、痙攣した。

 

 罪悪感や嫌悪感を感じる度に、吐き気がする。

 悍ましい現実の中で呼吸をする度に脳髄が捻れて。

 ファインドフィートは、それに抗えなかった。

 

「ぉ、ぐ」

 

 こぽり。

 喉の奥から水音が響く。

 こぽ、こぽ、こぽこぷりと、熱い液体が断続的に迫り上がる。

 

 ──それが登り切る寸前。 咄嗟に口元を抑えた。

 青白い手に汗が滲んでいる。 湿り気を帯びる冷たさが、ひどく悍ましい。

 そして、喉頸で堪える為に背中を丸めて──直後、跳ねるように、裸足のまま洗面所へと駆け出した。

 

「ぎ、ぉぇ……っ」

 

 もう、限界だった。

 胃袋の中身を流出させる。

 

 溢れる吐瀉物が喉をこじ開けた。 酸で粘膜が灼け、酷く痛む。

 寝起きだからか固形物は何もなく──ただの胃液だけが流れ落ちる。

 その最中に酸味も苦味も()()()()()()()()事だけは、僅かな幸運だった。

 

 それでもその汚濁には、無形の後悔と、失意と、恐怖と、悲嘆が混ざっている。

 ぐちゃぐちゃでドロドロ、腐りきった心の膿。

 全部全部を吐き出してしまおうと、必死に嘔吐(えず)いた。

 

「ぁあ……ッ」

 

 吐いて、吐いて、吐いて、吐いて、吐いて、吐いて。

 腹の奥底に溜まった何かはどうあっても追い出せやしないのに、延々と吐き続けて。

 

 ──今、どれだけの時間が経過しているのか。

 ほんの十秒程度の事か。 あるいは十分以上の間か。

 今の茹だった頭では簡単な時間の判別さえ付かなかった。

 その曖昧な感覚の中、只管に汚物を吐き出し続けて──。

 

「  、    」

 

 ついには、内部の何処かから漏れた血まで混ざった頃。

 ようやく精も根もが尽き果て、嘔吐が止まる。

 

 荒い息で、必死に呼吸を繰り返す。

 深く、大きく、長く。

 

 けれど──かつての平静は欠片も戻らない。

 そんなモノは無駄だ。 無意味だ。

 定型化した動作を繰り返した所で何が変わるというのか。

 ファインドフィートはそれを理解しながら何度も口を開閉し、喘鳴を零す。

 

 深く、深く、深く。

 何度も、何度も、呼吸をして。

 その度に、罪悪感が肺を焦がした。

 

「……ぁあ、ぅ」

 

 ……故に、逃げ場なんて何処にも無かった。

 今更の逃避行なんて出来やしない。

 生きているだけでもそれらが纏わりついてくる。

 

 その現実が、確かな実感を伴って背中にのしかかった。

 形の無いそれは耐えきれない程に重い。

 いっそ、信念の背骨が歪んでしまいそうだった。

 ぎしりぎしりと音を立てて。

 

 だから、均衡が保たれたのはほんの僅かな間のみだ。

 数秒の苦行に耐えかねて──果てには、とさりと軽い音と共に膝をついてしまった。

 その勢いのまま倒れそうになって、けれども最低限の理性が身体を律する。

 寸前で腕を伸ばし、洗面台にしがみついた。

 

「…………っ」

 

 止まる。 倒れなかった。

 けれど顔が洗面台に近付いてしまった。

 故に当然の流れとして、吐瀉物の饐えた匂いが鼻孔を満たす。

 鼻をつんと刺激する、精神を穢す匂いが。

 

 ……その匂いを嗅いでいると、どうしてか。

 どうしようもなく、惨めな気持ちになってしまって。

 

「ぉぇ」

 

 ──そして、また吐き出す。

 今度の吐瀉物には、胃液の搾り滓すら混ざっていない。

 口の端から垂れ落ちるのは単なる透明な唾液。

 粘性を持つそれだけが、てらてらと、長い糸を引いていた。

 

 

 ◆

 

 

 ……それから、それから。

 僅かな時間をそのままの姿勢で過ごした。

 呼吸がある程度落ち着くまで、惨めな心を抱えて。

 それでも殆どの体力を消耗していたから、平常の姿には程遠い。

 

 それでもいつの間にか、ファインドフィートの脳内は静寂を取り戻していた。

 少女の声も時計の音も聞こえない。

 まったくの無音だ。

 

「……気持ち悪い……」

 

 ……だから、なのか。

 ようやく言葉を発した。 か細く、震える声で。

 その事実こそが生理的嫌悪感に気付けるだけの──最低限の精神状態を保証する。

 

 必死に身体を動かして、蛇口をひねった。

 流れる水を片手で掬い、口に運んで綺麗にゆすぐ。

 

 清潔な水が歯の裏を数度往復し、未だに引き攣る喉頸を抑えて、水を吐き出す。

 清潔だった筈の水の中に、僅かな朱色が混ざっていた。

 

「……」

 

 そして、ぷかぷかと浮かぶ朱色ごと排水口に吸い込まれる姿。

 それを無心で見送って、ようやく、長い息を吐いた。

 

 頭の中は未だに晴れていない。

 何度も何度も、夢に追憶を重ねてばかりだ。

 目が覚めてもなお、吐き出し尽くしてもなお、今この瞬間も色褪せない。

 

 自然な面構えで堂々と、当たり前のように存在を主張している。

 ……その恥知らずな情は、後悔(こうかい)と呼ぶべきモノだった。

 

「こうかい」

 

 ──舌足らずで柔らかな音を発し、単語を彩る。

 鼻の裏に空気がぶつかり、透き通るソプラノボイスが微かに響く。

 漢字にして後悔。

 後になって悔いる事。 決して先に立たない後腐れ。

 その、手遅れの有様を表す単語だ。

 

「こうかい」

 

 透き通る声で舌先を震わせる。

 

 こうかい。

 覚えたての単語を繰り返す子供のように、言葉の意味を知らずに用いる愚か者のように。

 ファインドフィートが口にする柔らかいそれは、実際のところ、そういう物でしかなかった。

 

 こうかい。

 ただ、知ったか振っているだけだった。

 何度も何度も、ずっとずっと目を逸らしていたから、本当のところは理解できていなかった。

 ……理解したくなかったのだ。

 

 排水口の先へ向けて再度、喉を震わせる。

 乾ききった唇を、舌先でちろりと湿らせて。

 

「後悔」

 

 ──硬質な音だ。

 相対する友の青い眼差しを想起させる、角張った声音。

 その言葉の輪郭が確固たる像を結び、音の器を意味が満たした。

 

「……どうして、こんなにも」

 

 後になって悔いる事。

 後になって、手遅れになって、本当はああしていればよかったと悔いる事。

 

 転ばぬ先の杖を持たず、果てを見渡す視座も深慮も有さなかった故の後悔。 

 それを舌先ではなく、身を以て味わう。

 実感と共に理解して、胸を貫く痛みを抱き締めて──。

 少女は、逃れることの出来ない熱に身を捩った。

 

 そして、願う。

 あの、透明な視線さえ知らなければよかったのに。 見なければよかったのに。

 無知なままで、(どく)の中に溺れていればよかったのに……なんて。

 

 そう、声にならない絶叫を上げた。

 歪んだ願いが叶わないと知りながら、胸を抑えた。

 

 

 ……だから本当に、今更なのだ。

 こうして手遅れになって、ようやく気付くなど。

 彼女は、その後悔の根源を取り除く事が出来ない。 失ったものを取り戻す術を有さない。

 

「……ぼくらが望んだ物、なのに。

 どうして、こんなにも……」

 

 そして。

 自身の脚をそっと見下ろす。 己の命と等価の脚だ。

 細く、しなやかで、儚く──それ故に、あっさりと折れてしまいそうな脚。

 

「もう……終わってしまったほうが、良いのでは?」

 

 虚ろな声音で囁く。 疑問符で結ばれた言葉は淀んだ猜疑心を孕んでいて。

 その言葉が表すのは……つまり、自分の手で脚を圧し折る事。

 彼女自身の意思で、手渡した白紙の小切手に無効通知を叩き付ける事。

 約束を、破る事だった。

 

「せめて、あるべき姿に……」

 

 足首を片手で掴む。

 伝わる感触はやはり、どこか頼りない。

 ガラス細工のように脆く、氷のように溶けてしまいそうだ。

 故にファインドフィートは仄暗い確信を抱いてしまえた。

 

 "今までに幾度となく過ってしまった思考は酷く正しい物だった"と。

 ……"今の自分の力であれば、簡単に握り潰せてしまう"と、考えてしまう。

 

 ……そんなものは何処までも腐れた思考だ。 彼女はそう自戒していた。

 けれど、自戒しながらも……脚を掴んだ。

 彼女が今、考えている事は──周囲の誰しもが"どうしてそんなバカな事を"と激怒してしまう愚行だ。

 あるいは"周囲"というスケールでなく、"世界"という基準に変更しても同じ事。

 それほどまでに、これ以上なく、救いようのない愚かな行いである。

 

 だとしてもファインドフィートは、そんな行いを心底から吟味してしまった。

 味覚を失った舌先に転がして──そして、指先に力を込めて。

 

「……だから、もう」

 

 "ここで全てを投げ棄ててしまったほうが丸く収まる"。

 "少なくとも、今ある友をこれ以上は傷付けない"。

 "きっと、巻き込まずに済む"。

 "何よりも、疲れてしまった"。

 

 ──喉の奥底で、そんな弱音が絶叫した。

 今までずっと無視してきた想いだった。

 どれもこれも単なるノイズで、紙くず以下のゴミだった。

 だというのに後悔の情を自覚した彼女は──その弱音を、単なるノイズとして破棄する事が出来ずにいる。

 

「…………」

 

 それと同時に、理性も囁いた。

 "為した所でどうするのか"。

 "また無かった事にされるのではないか"。

 "また()()を取り立てられ、変わらぬ目覚めを繰り返すだけだ"。

 "それならば、また前に進んだ方が良いに決まっている"。

 

 "だって、自身に偽りなどなく。本当に、夢を叶えたいのだから"。

 

 なんて、いっそ冷酷に。 いっそ無慈悲に。

 甘えを否定し踏み躙り、彼女の初志を突き付ける。

 

「……でも、まだ、消えていない……」

 

 指先が、小さく震えた。

 青い瞳を微かに伏せて、胸の鼓動に耳を澄ませる。

 一定のリズムで拍動を続ける、大切な心臓(かたわれ)へと。

 

 ……彼女の初志とは、つまり夢の為に走る事にあった。

 走る為の両脚は、二度と消えない名前を刻む為にあった。

 "誰でもない誰か"、ではなく。

 唯一無二の個として、彼女等が存在した証を残す為に。

 

「だから、ぼくは、消えたくない。

 まだ……消えてないから、消えたくない、消したくない……」

 

 脚を掴んだまま、長考する。

 慣れない思考を巡らせる。

 終わりたいという思いは、偽りではなかったけれど。

 

 ……夢を叶えるために、過去を犠牲にするとして。

 ファインドフィートはそれを受け入れられるのか。

 見え透いた自問を己に投げかけて──声もなく、是と自答した。

 

 夢を叶えるために、己の傷を抉り続けるとして。

 ファインドフィートはそれを受け入れられるのか。

 続く自問を己に投げかけて──僅かな躊躇(ためら)いの後に、是と自答する。

 

 夢を叶えるために、()()心を踏み躙るとして。

 ……ファインドフィートは、それを受け入れられるのか。

 そんな、更なる自問を己に投げかけて──是とも否とも、答えを出せなかった。

 それが楔だ。 愛おしくも罪深い異物だった。

 

 あるいは……彼女に情が無ければ、迷いという無駄なぞ存在し得なかったのだが。

 けれど現実は異なっていた。

 だからこうして、天秤に掛けてしまえるのだ。

 

 指がぴくりと跳ね、細い筋が痙攣する。

 ……そしてまた、考えて。 脚を掴み──。

 

「……諦められるワケ、無いじゃないか。

 そうじゃないと、ぼくは、テイオーさんを……友達を、また……」

 

 ──指先から、力が抜けた。

 両目の焦点がズレて、指先の輪郭さえ曖昧にぼやけてしまう。

 薄闇の中で浮かぶ白に寄る辺など無く、ただ、ふやけたクラゲの如くに佇むばかりで。

 

「……だから、勝つしか、ない。

 でも、じゃあ、それは……どうやって?」

 

 そして、壁に打ち当たった。

 当然の流れとして現実という壁が雄々しく立ちはだかるのだ。

 

「勝つ、方法。

 ぼくが、一番になる方法……」

 

 ……故に、その現実に勝つ方法を求めた。

 基礎スペックの絶対値で劣り、経験で劣り、精神力でさえ敵わない彼女が。

 "それでも"とあらゆる障害を踏み越えて、勝利を盗み取る方法を求めるのなら。

 それは、何か。

 

 未だにぼやけた視界の中で、言葉の輪郭をなぞった。

 足らぬ頭で僅かに考え、浅い思慮を馳せる。

 

「どう、やって。

 どう、したら」

 

 どうやって、どうしたら。

 なにを、どうして。

 迷いのままに、ぽつりぽつりと呟いた。

 

 どう走れば勝てる。

 勝利の道筋はどこにある。

 破綻から逃れる、最も冴えた方法とは何か。

 

 ……なんて、愚考を重ねて。

 思慮を連ねて。 深慮を求めて。

 そうしていくら思索を重ねようとも、今のファインドフィートは──どうしても、勝てる気がしなかった。

 今日の身体は()()調()だけれど。

 間違いなく、過去最高(さいあく)のコンディションだと確信を抱けるけれど。

 

「しょうりの、ために……」

 

 けれど、彼女の内心は常に曇りを帯びていて。

 それ故に勝利という盃を幻視する事は叶わない。

 一番最後に、一番前を走り抜ける姿を想像することさえも。

 

 今は、まだ。

 



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43話

 

『明日を、見たいですよね?』

 

『……ええ、よぉく分かります。 私も同じ気持ちですから』

 

『ですから……愛しき子。 あなたは、何を差し出しますか?』

 


 

 じりりりりり。 じりりりりり。

 目覚まし時計が鳴っている。 喧しく無責任な金切り声だ。

 

 仄暗い一室の、カーテンの隙間から射す朝日。

 その光が突き立つ先に、延々と鳴り続ける目覚まし時計があった。

 

 じりりりりり。

 上部のベルが振動して──。

 

「────」

 

 ──しかし、すぐさま粉砕されてしまった。 為したのは少女の手のひらだ。

 僅かな抵抗さえ許さず潰されて、金メッキのベルが宙を泳ぐ。 オレンジ色のプラスチックが大小様々な軽石へ変身する。

 そうして目覚まし時計はまた、あっさりと、外殻を失った。

 鈍色の内臓を流出させて、音を出せない能無しに成り果てて、手足をもがれた飛蝗(バッタ)よりも尚悲惨に。

 

「失敗、した」

 

 そして追い打ちを掛けるが如く手のひらが振り落とされる。

 一度目、二度目、三度目と、人外の膂力で細かく裁断する。

 ぐしゃりぐしゃりと執拗に──少女の皮膚が裂け、血が滴るまで。

 何度も、何度も、何度も、振り落とした。

 

「……失敗した。

 ぼくは失敗した、また失敗した……」

 

 手が止まるまで──より正確に言えば、彼女の気が済むまでに掛かった時間はそう多くなかった。

 しかしたったそれだけで、全力疾走後にも似た虚脱感を生み出す。

 荒く息を切らし、肩を上下させて、カラカラに乾いた唇を舌先で舐めた。

 ……が、その舌も乾き切っていて、故にまったく無意味な行いだった。

 

「どうして?」

 

 机の上に視線を落とす。

 天板は大きく傾き土台から大きく歪んでいた。 当然だ。

 素材はあくまでも木材だったから、耐久性にも限度がある。

 むしろ四本の足が破断しなかった事自体が奇跡に等しい。

 

 とはいえ、たったそれだけの僅かな幸運だ。

 ちっぽけなそれに何の価値があるというのか。

 ……当然、彼女にとっては無価値そのものである。 一銭の価値さえ有さない。

 むしろ目障りな存在でしかなかった。

 

 故に、その有様に頓着しないままで。

 小さく、小さく蹲り、白い頭を両手で抱えた。

 柔らかな手が髪を撫でて、くしゃりと白を鷲掴んで──鮮やかな赤が、僅かに付着する。

 

 ……そんな事すらにもファインドフィートは気付けなかった。

 あるいは机と同じく、頓着するだけの価値を有さないのか。

 

「どこで、どこで失敗した? 

 スタートダッシュ? 序盤? 中盤? 終盤? 坂路のロスが大きかった……? ああ、それとも逃げだったから? 差しの方が良かったの? 

 それとも、それとも──」

 

 ただ、ただ、疑問が乱立する。

 彼女の脳内を占領するのは夢の景色。

 それはつまり、今日これから始まるレースの光景。

 やり直し(コンティニュー)によって経験した未来。

 

 ファインドフィートはそこで、小さな背中を追いかけていた。

 芝の上で、最後の直線で、ゴールを目指して、小さな背中を追いかけていた。

 ……そして、その位置関係は──逆転しないままで。

 どれだけ足掻いても、手を伸ばせば触れることだって出来そうなのに、結局届かず終わりを迎える夢だった。

 

「どうして」

 

 あの時、調子は絶好調だった。 紛うことなき過去最高だった。

 四肢の隅々まで血流が行き渡り、脚の切れ味だって冴えていて。

 途中のレース運びに於いては──少なくとも、大きな瑕疵は何一つ無かった。

 掛かることはなく、体勢を崩すこともなく、邪魔はされず、邪魔をせず。

 

 つまり、そう。

 その結果、素晴らしく正当な走りを全うして。

 そして正当に、至極当然の流れとして、ファインドフィートは敗北した。

 言い訳なんぞ出来ないほど完膚なきまでに、敗北した。

 

「どうして……っ」

 

 ──だから、また。

 トウカイテイオーはそんな彼女へ、手を差し伸べてしまった。

 敗者たるファインドフィートへ──そもそも勝敗を競う約束が()()()()()()()にも関わらず。

 

 だって彼女は、自分達は分かり合えると心底から信じていた。

 自分の行いが正しいと確信していた。

 ……少なくとも、その思考が妥当であると断言できる程度には万全を期していた。

 

 その想いはきっと、事実として……確かに、正しかった。

 一面から評価したなら、という枕の言葉が付いてしまうのだが。

 

 ファインドフィートは己より優れた者には逆らわない。 逆らえない。

 故に間違いなく効果的で、最善の一手に近しい。

 

 近しい、けれど。

 

 それは同時に、『ファインドフィート』という殻にとっての最悪の一手でもある。

 夢の道を阻止する行いとは、つまり、『ファインドフィート』の未来を否定することで。

 

「どうして……!」

 

 どうして。

 

 その曖昧な問いに返すべきは、()()()という一句。

 あるべき未来を否定したからこそ──プラスとマイナスの綱引きの結果、最善の一手には成れず。

 ついにはやり直しの対象と成り果てた。

 

 だから、今の彼女はこんなにも──。

 

「っ……ぁあ、ダメだ……はやく、勝たなきゃ。

 勝たないと、勝たないと、勝たないと……」

 

 ベッドから這い出て、裸足で降り立つ。

 血流が足りない。 頭がくらりとふらついて、視界いっぱいに一瞬の黒が滲む。

 くらり、くらり、くらりと。

 足元の感覚さえ定かではない。 寝起きだから、という説明では不足な程に。

 

 ……その状態のまま額を抑え、裸足のままで歩みを進める。

 柔らかなカーペットが敷き詰められているおかげか、早朝の冷気は欠片も感じられない。

 それもまた、ある種でちっぽけな幸運とも言えるのか。

 どちらにしろ、そんな些事には価値など欠片も無いのだが。

 

「……はやく、準備を、して……備えないと。

 次は、勝たないと……」

 

 向かう先は洗面所だ。

 苦悩で茹だった頭の中身を、ほんの少しでも、ほんの僅かでも晴らしたかった。

 

 そして、辿り着いた先で蛇口をひねる。

 流れる冷水を両手で掬い、顔に叩きつける。

 想定よりも水温が低かったせいで微かに肩が跳ねてしまった。

 

「……」

 

 が、その甲斐はあって意識がハッキリと定まっていく。

 視界は鮮明な像を結び、耳鳴りは息をひそめて、手足の末端に血が行き渡る。

 

「…………」

 

 もう一度、顔を洗った。

 睫毛が濡れて、水滴が頬を伝う。

 軌跡の尾をひく最中で人肌のぬくもりに染まり、そして顎の先から落ちていく。

 

 ……それを薄ぼんやりと開いた眼で見送る。

 何を言うでもなく、淡々と。

 

 ぽたりぽたりと落ちていった、幽かな温度を宿す水。

 彼女の肌にも似て、しかし決定的に異なるモノ。

 

 ──その残滓を数十秒掛けて見送って。

 そうして、僅かに残留していた眠気の一切を拭い去って。

 顔を上げて、鏡を見つめて──自身へ向けて問いかけた。 湧き上がる吐き気をじっと堪えながら。

 

「……どうやったら、勝てる?」

 

 青褪めた瞳が虚ろに瞬く。

 結局、そこに行き着くのだ。

 ファインドフィートが往く道に立ちはだかるそれが、一番の難題だった。

 

「ぼくが勝つ方法。 ぼくが、あのひとを、置き去りにする方法。

 あのひとの手が届かない所まで、走っていくための……」

 

 ……まず、前提として。

 ファインドフィートは正当に走って、正当に負けた。

 今回も同じように走ったところで戦果に期待はできない。

 同じ道を選んだのなら、同じ結果に辿り着くのが通理である。

 

 彼女はそう見切りをつけた。

 可能性の低い道へ賭け続ける意義など存在しない。 正気の沙汰ではない。

 

 ……しかし、見切りをつけたとして。

 その先はどうするのか。

 

 戦術に関しては浅い知見しか持たぬ身である。

 が、出走者としては多くの経験を積み上げているおかげもあり多少の案ならばひねり出せる。

 

 彼女がまず考えたのは、戦法を変える方向。

 例えば、逃げではなく先行──あるいは差しに切り替えてしまう。

 元々は差しで走っていた身であるからこその、特に変哲のない真っ当な案であった。

 

「……却下。

 最高速度が届いていない以上、爆発力に期待した所で高が知れてる……」

 

 が、だからこそ不足に目が行ってしまう。

 彼女がいくら脚を溜めた所でどうしようもない。

 

 ……ならば、装具を変えるのはどうか。

 

 自身の足首へ視線を向けて、別観点からの策を紡いだ。

 今からでも、例えば──調子に合わせて蹄鉄を修整するのだ。

 なにせファインドフィートは今日のレース場の質感を身体で知っている。

 芝の状態、風の強さ、気温。

 それら全てを把握している者として更なる最適化(フィードバック)を施してしまえばいい。

 

 幸いにも彼女は装蹄師の(むすこ)である。

 蹄鉄に手を加えられるだけのノウハウは有していた。

 ……が。

 

「……保留。

 ぼくの技術力では……そう、劇的な変化を与えることができない。 結果は変わらない。

 だってぼくの腕は、お父さんには遠く及ばないから……」

 

 しかし、その練度は未だに未熟。

 彼女の中身は10歳頃からさして変わっていないのだから当然である。

 

「お父さん……」

 

 あるいは、父が生きていたなら。

 継続的に、教えを受ける事が出来ていたなら。

 元々は何となくの感覚で教わっていた技術であれど──年数さえ重ねていれば、もっと大きな差は生まれていた可能性はある。

 

 とはいえ、可能性は可能性。 何処までいっても絵に描いた餅。

 叶うはずのない願望だ。

 叶わなかったからこそ今の彼女はここにいる。

 だから、意味のない空想だった。

 

「……じゃあ、他に、他にも、探さなくては。

 ぼくが明日を見る方法……これ以上を失わずに、済む方法を……」

 

 そして悩んで、悩んで、悩んで。

 可能性の壁に行き詰まり、限界の壁に打ち当たり、これっぽっちも乗り越えられない。

 既存の案が誤りとするなら、別の新しい案こそが成功を齎すハズだというのに。

 ファインドフィートは、理想の手法をいつまで経っても見つけられなかった。

 

 

 それでも、延々と思考を回す。

 回せば回すほど頭に熱がこもって仕方がない。

 ついには喉まで伝わり落ちて、酷く乾いてしまう。

 背筋が冷たく、そして熱く震え、壊れかけの理性を蝕んで。  

 

「……それとも」

 

 何時になっても進歩しない現状へ、舌鋒を向けた。

 唇がピキリとひび割れる。

 

「ぼくがこれ以上何も失わずに、なんて。

 そんなの、身の丈には合っていないですか……?」

 

 ──だと、するなら。

 彼女が勝つには、今までの発案とは違う、一個人で完結しない物を頼る他ない。

 自己のみではなく、他者の影響を求めるべきだった。

 

 ……なんて言えども、単純な変化だけで勝てるのなら誰だって苦労しない。

 数千人の上に立つのはそう簡単な事ではない。 簡単な事であってはならない。

 

 

 けれど、しかし。

 そんな絵空事を現実にする存在は、都合よく存在している。

 本当に都合よく、勝利を与える為にあらゆる手を尽くす存在が。

 いっそ舞台装置(デウス・エクス・マキナ)とも称すべき、理不尽極まる無垢な機構として。

 

 もっとも、本来は幕引きの為にある機構だ。

 決して幕を引かせない為の物ではない。

 故にこの舞台装置は欠陥品でしかなく、だからこそ、それを形容するに相応しい。

 

「……女神さま」

 

 ──()()が、ずっと囁いているのだ。

 "使えるものは何でも使いましょう"、と。 軽やかに、甘ったるく。

 声ではなく、音でもなく、魂へ直接刻まれる啓示を以て。

 それは一方通行だ。 彼女の答えなんて聞いていない。

 

 女神とは、そういうものだった。

 匙を放れば地に落ちるように、氷が冷たいように、空が青いように、ただ"そうあるもの"。

 

 既知の事柄といえば、ほんの僅か。

『姉』との間に交わされた約束と、それを為した記憶を埋め込んできただけのナニカ。

 何もなかった彼女に、縋るべき道を教えたナニカ。

 分岐路に立った彼女を、最善の道へ連れて行くナニカ。

 時には日の光として、時には空気として、時には痛みとして、時には声として、答えを示す。

 ……それが親も片割れも亡くした彼女へ与えられた、唯一の指針だった。

 

 女神とは、そういうものだった。

 "かくあれかし"と望まれて、祈られた通りの存在。

 

 その唯一の指針が続けて囁く。

 "諦めなければ何だって出来る"。

 "あなたは祝福されているのだから、何も問題ない"。

 ……なんて、歪んだ愛情を込めて。

 

「使えるもの。 使える、もの。

 ぼくの、祝福(のろい)……」

 

 ──胸元に、指先を這わせて。

 青いパジャマにシワを刻み、脂肪と肉と骨を越えた先に──心臓に、意識を向ける。 手の傷口から流れた血がシミを作る。 が、そんな様にも頓着せずに押さえつけた。

 あるいはそもそも、自身の傷に気付いてすらいなかったのかもしれない。

 

 そうしてただ、瞳を閉じて。

 平常通り、とくり、とくりと一定のリズムで拍動するそれへ想いを馳せた。

 それは『姉』の断片。 それは『姉』から受け継いだ想いの象徴。

 ファインドフィートの心臓。

 

 少女の願いに呼応するそれは、想いを燃料に駆動している。

 ある程度ならば意図的に限界を超えることさえ可能とする規格外の心臓は──確かに、『弟』としての感慨を無視したなら、"使えるもの"としてカテゴライズ出来るモノだ。

 

「使えるもの……。

 勝つために、使えるものは……ぼくの、想い」

 

 ならば、ならば。

 限界を超えられるのなら──トウカイテイオーに勝てる水準に至るまで、酷使してしまえば良いのではないか。

 などと、脳裏にひとつの愚考が過る。

 策とは言えず、名案には程遠いそれ。 あまりにも力押しが過ぎる。

 

 ……けれど、後先を考えなければ可能性は生まれてしまうモノだった。

 その上彼女にはこれ以上に有効な手立てをひねり出せない。

 前提として、双方の力量差が大きく、故に正道では太刀打ち出来ないからだ。

 

 だからこそ、その数少ない勝ち筋を検討する。

 つまり、心臓に燃料を注ぎ込んで強引に──本来ならば適正外の大逃げに、切り替える方法を。

 そもそも最終直線での勝負に持ち込ませなければ勝てるのではないか、と。

 

「……効率的で、合理的に。

 なんて思うには……少し、苦しい、な……」

 

 その思いつきを舌の先にのせ、コロコロと転がす。

 求める結果に至れるかは不明。 前提から間違っている可能性もある。

 目を塞いでいたハズの盲信は砕かれてしまっていたから、何も信じられない。

 

 だと、しても。

 

「けど、他に道はないから……」

 

 まず、極論を言えば。

 勝つ為に、最初から最後まで全力で走れば良い。

 体力の底なんて考えず、想いを燃やして。

 受けるだろう損耗さえ無視して今回だけに全てを賭ける。

 

 そして、結論を言えば。

 たとえ倒れそうになったとしても、ファインドフィートは終わらない。

 

 ……否。 終われない。

 心臓に纏わりつく"終わらせない"という祝福が、彼女を現実に留め続ける。

 故に、この極論は現実的な案として成立してしまうのだ。

 

「……いばらとは……聖書に曰く、罪の象徴。 不法の印、でしたか。

 女神さまは、これをぼくに被せて……それでも、祝福と云うのですね」

 

 ──それを、いっそ惨めだ、なんて。

 淡い感傷が、脳裏を一瞬だけ過った。

 

 何を思って茨を授け、それによって王冠を作り上げようとしているのか。

 その本音は今になっても分からない。

 あるいは、そもそも知らないだけなのか。

 

「これがもし、呪いなら。

 もっともっと、悪辣に縛るのでしょうか。

 今よりも苦しくて、救いようがなくて……」

 

 あり得た未来を空想してみる。

 自由も、思想も、何もかもを失った可能性の先。

 

 きっと地獄だ。 苦行でしかない。

 ……しかし、そんな未来を思い浮かべて──案外、それはそれで楽かも知れないな、と。

 僅かなりとも考えてしまう。

 

「本当に苦しいだけだったら……。

 ……いっそ、そっちのほうが良かったかも──なんて、バカの考えでしょうけど。

 あぁ、でも、足掻く意味さえ無いのなら──」

 

 ──いっそ救いなどない、ただ堕ちるだけの呪いであれば。

 彼女はきっと簡単に、全てを諦めていた。 今のように何かを思うことなんてしなかった。

 情など信じず、自分の周囲から必要最低限以外の繋がりを絶ち、社会性のない獣として生きて──そして、独りぼっちで終わっていく。

 

 ……もしくは、いばら姫のような呪いであれば嬉しかった。

 最終的には救いが待つ、ハッピーエンドを秘めた呪い。

 百年の眠りと百年の孤独と共に茨に包まれて、その後には王子様のキスで目覚める。

 ……なんて、子供らしく純粋無垢な終わり方だ。

 それを迎えられるのなら──ああ、どれほど素晴らしいのか。

 素敵な王子様なんて別に要らないけれど、それでも瑕疵のない完全無欠の幕引き(ハッピーエンド)には憧れてしまう。

 

 けれど、現実に与えられたモノは呪いではなく祝福で。

 それ故に、全くの別物であるそれが勝利を齎す。

 

 ならば徹底的に利用するべきだ、と口先だけで囁いた。

 上手く己というリソースを消費して、祝福にあやかる。

 節約するべき時と、思い切るべき瞬間を見誤らずにいれば──きっと、最初から最後まで、一番前を走ることが叶うに違いない。

 失うモノに目を瞑れば、という注釈が必要になるのだが。

 

「……けれど、それは必要な事です。

 そこには意味があります。 対価に釣り合う成果があります。 大きな意義があります。

 だから、()()()()()()なんです」

 

 ……だから、走らなければならない。

 失った分だけ、更に遠くまで。

 

 どうあっても彼女はファインドフィートだ。

 彼女の行く道に──『ファインドフィート』の道に、瑕疵などあってはならない。

 そのような堕落は許されない。

 

 常に輝かしく、綺麗な偶像として、この星に刻まなければ──そんなもの、『姉』の想いに似つかわしくないのだ。

 故に『ファインドフィート』は負けず、常に人生の絶頂に至り続けて、誰かのための美しい夢として鎮座する。

 それが女神の求める姿であり、『弟』の祈りそのもので。

 死に損なって必死に足掻く、ちっぽけな抵抗の証だった。

 

約束(しあわせ)のために」

 

 ……言葉は、いっそ白々しかったけれど。

 贖罪の為に、愛の為に、生き残った彼女にできる献身のカタチはこれしか無い。

 そもそも、これ以外のカタチを知らなかった。

 

「だって、これ以外で報いる方法なんて……誰も教えてくれなかったじゃあないですか。

 誰も、誰も、教えてくれなかったから……」

 

 鏡に向けて囀った。

 眉をハの字に歪めた子供が、酷く情けない形相で苦痛を語るばかりで。

 

 ……カタチを平常のモノに引き戻すため、顔へ指先をあてがい表情筋をほぐしてみせる。

 が、苦痛は変わらず。 故に表情も変わらず。

 頬を引っ張り上げれば痛みで紛れるかと思えど──やはり、何も変わらない。

 血液の赤色が付着するのみで、何も。

 

 その姿こそが本当の彼女だというのに、青い瞳で"それでも"と否定した。

 

「……だから、そう。

 ぼくが……わたしが、『ファインドフィート』にならなければ。

 わたしが、わたしを、証明する。

 わたしは消えていない、まだ消えていない、まだ消えたくない、消したくない……」

 

 声も肩もずっと震えている。

 寒さに震える子供のように、歯の奥がこすれ合う。 カチカチと小刻みにぶつかる。

 真冬の夜空の下よりもなお寒くて、肩の肌が粟立っていて。

 しかし風邪をひいているわけでもなく、体調はそのものは()()()()絶好調だった。

 

「だから、わたしが、間違えていたとしても。

 それは必要な事、なんです。

 沢山の宝物を捨てて、何度も繰り返して……友達まで、踏みにじって。

 ……わたしは、だからこそ、どこか遠くまで走っていける」

 

 そんな己を誤魔化す為、鏡へ向けて言い聞かせる。

 出来もしない自己暗示を幾重にも連ねて必死に足掻いて、何度も喉を震わせた。

 

 ──求めるべきは、最終的に"勝つ"こと。

 たったのそれだけ。 それだけが大事な事で、それ以外の尽くは考慮するに値しない。

 必要なのは最低限の知恵。 最低限こそが必要十分である。

 

「わたし達は無価値なんかじゃ無い……わたし達は、わたし達は、無駄な命じゃない。

 わたし達は、まだ……っ」

 

 勝利に対してそれ以上を求めてはならない。 考えてはならない。 感じてはならない。

 そうしてずっと諦めなければ、きっと夢は叶うのだ。

 

『ファインドフィート』は途絶えずに。 この名前は、歴史に遺る。

 やがて歴史を構成する一欠片となって、誰かの血肉()となって輝き続ける。

 求めたモノが辛うじて手の届く範囲にあるというのに、諦めたいという一念だけで諦められるのなら……ファインドフィートは、そもそもこの場に居なかった。

 

 だから、走らなければ。

 

「ぅぷ」

 

 ──それだけの想いが、彼女の。

 

 


 

 継承が完了した! 

 

『ファインドフィート』の継承効果! 

 スピードが60上がった。

日蝕の女■』の継承効果! 

 さらなる高みを目指し、スピードが30上がった。

 

 



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44話

 『三女神とは?』

 

 太古の昔から信じられてきた存在、『三女神』。

 ウマ娘の始祖との一説もある三柱の女神たちは、それぞれ『太陽』、『王冠』、『海』などのモチーフと共に存在を伝えられてきた。

 しかし伝説の起源や祀られている神々の名前さえ殆ど知られておらず、未だ全貌の解明には至っていない。

 一種族全体に根ざした宗教でありながら、不明瞭な事柄が非常に多い。 まさに特異性の塊とも言える。

 

 トゥインクルweb、vol.■より抜粋。

 

 


 

 

 鼓膜が震える。 ごうごうと、ざわざわと、とめどなく震え続ける。

 それは、甲高く鳴り続ける時計の音によって……では、なく。

 

 騒がしいそれは、地を這う人々の合唱だった。

 空を彩る人々の歓声だった。

 芝を舐め、脚を登り、腹を叩き、心臓を伝って、鼓膜へ至る。

 ごうごうと、ざわざわと、胸の奥を震わせるほど大きい音で。

 人々は各々の言葉を飾り立てて、レースの終わりを祝福している。

 

「これが、勝利?」

 

 それを、じっと受け止めた。

 酷く血の気が失せた顔で大粒の汗を流し、肩を大きく上下させて。

 降り注ぐ紙吹雪を、焦点の合わぬ視界で茫洋と見つめる。

 

 ファインドフィートは勝者だった。

 他の十七を置き去りにした、たったの一人である。

 なのだから、勝者らしく喜びを露わにするのは彼女の特権だ。

 

 ……しかし顔を喜色に染めるでもなく、誇るでもなく。

 ただ、下唇を噛み締める。

 

「……これが、無敗、などと」

 

 乾燥して引き攣る喉。 痛んで仕方がない左足。

 全力疾走した後だから──なんて、それだけでは説明がつかないほどに拍動の狂った心臓。

 それらで揺らぐ体躯を、気合だけで押し留めた。

 

 余裕があるから、ではなく。

 矜持があるから、でもなく。

 ただ、ここで膝を突けばもう立ち上がれなくなるという予感があったから、惰弱ごと奥の歯を噛み潰す。

 そうして()()()()()()()、相応の威を持って立つ。

 

「ぁあ……」

 

 ……立った、が。

 苦しいのは身体だけではない。

 心も。 あるいは、心こそが、もっとも苦しい。 もっとも痛む。

 胸の奥がズキズキと軋んで、のたうち回りたくなる程の白熱を放ち続けて、どうしようもないのだ。

 

 熱く、冷たく。

 軋んで、軋んで、軋んで、軋んで。

 歪むそれを押さえつけたくて、手のひらで胸元に触れる。

 しかし無意味だ。気を紛らわせる事さえ不可能。

 形のないモノに触れる事なんぞ出来ないのだから、当然である。

 故にただ、不可抗力の痛みを甘んじて受け止める事しかできなかった。

 

「……ひどい、皮肉じゃあないですか。

 頑張った分だけ報われる、なんて……それは、嘘では、ないですけれど」

 

 舌の上に吐き出した言葉は、ひどく掠れきっていた。

 それを奥歯で噛み潰し、それを飲み込みもせずに吐息へ溶かす。

 

 そうして粉々に砕けたそれの行く先を、憂鬱に眺めて──本当に今更なのだと、臍を噛んだ。

 

 今までに何回も負けて、それと同じ回数を繰り返して。 果てに何をどれだけ失ったのか。 どれだけ現実の壁に打ちのめされてきたのか。

 その全容は定かではない。

 何故、今回だけ"負けた"という記憶を持ち越せたのか、その理由もまったく分からない。

 

 けれど、だから、ファインドフィートは今まで勝ち続けて来た。

 自分の敗北を否定して、自分ではない誰かの勝利をかき消して、そうまでして立ち上がって。

 ……その果てに、友の心を否定してまで掴んだのがこの栄光である。

 

「それが、走るということで。 それが、生きるということで。

 ……これが、わたしの足跡を残すための輝きで」

 

 だから。 彼女はこの祝福を受け止めなければならない。

 それ以外は決して許されない。

 でなければ、単なる裏切り者に成り果てる。

 

 故に虚飾で塗り固める。 歪み切った中身を隠す。

 姉を模倣した『ファインドフィート』の殻を作って、頭からすっぽりと被るのだ。

 それは暇疵のない、無垢で、キラキラ輝くだけの大きな虚像だった。

 

 そして、その姿をこの世界の誰かに刻み付ける。 歴史の一片になる為に。

 最初から変わらない目標で、目的だ。 その為に今回の結果が必要だったのだ。

 

 ……それが正しい、とか。 これは間違っている、とか。

 そういった逡巡はいっそ無視すべき事柄であり、その源泉たるヒトの心は『ファインドフィート』の瑕疵へと繋がりかねない。 繋がってしまった。

 だから、無視する。 黙殺する。

 そうしてファインドフィートは効率的に──夢の果てへ、一歩ずつ近付いていた。

 

 いた、けれど。

 "もしも"の可能性に、思いを巡らせてしまうのは、止められなかった。

 

「……わたしがもっと速ければ。 もっと、心が強ければ。

 わたしが、姉さんなら、もっと良い結果を残せたのでしょうか。

 こんな、回りくどい道を選ばなくても、きっと」

 

 ぎしり、と。 下唇を、より強く噛み締めた。 血の味はしない。

 

 考える。 夢想する。

 もしも、もしも。

 ファインドフィートが、最も速かったとして。

 ファインドフィートが、今より強い心を有していたとして。

 ファインドフィート達の立場が、逆だったとして。

 そんなあり得なかった可能性を口にしてみた。

 

 誰も苦しまず、誰かの苦にならず、雨の日も風の日も変わらずあり続ける。

 晴れの日には外を駆け、曇りの日には川沿いを歩き、雷雨の日には大人しく本を読む。

 当然のように誰かに愛され、誰かを愛する。

 朝にはおはようと言い、夜にはおやすみを言う。

 そして理想と現実を両立させて、涼しい顔で明日へと挑み続ける。

 そんな、あり得なかった可能性を。

 

 ……とはいえ、その行いに意味はない。 現実逃避にもならない。

 正しさを求める為ではなく、過ちを知る為ですらない。

 そんな単なる可能性の先を空想したところで、何に成る筈もない。

 それらのもしもは叶わなかったのだから──それが全てだ。

 だから、彼女は決して変われない。

 

 それに、仮に()()()へ手を伸ばす事が叶ったとして。

 本当に、今よりも良い未来に繋がるのか。

 そのあり得なかった現実の姿なんぞ、誰にだって予測できないのだ。

 

 

 それこそ彼女の『姉』だってそうだった。

 より良い未来を求めて『弟』に託したというのに──その結果は、どうか。

 答えは現在(いま)が物語る。

 

 片割れは自罰の念で苦しみ続け、罪悪感によって己を削ぎ落とし、義務感だけで呼吸を繰り返す。

 痛苦をあの手この手で正当化して、辛うじて精神の安定化を図る。

 ()()が、求めたものとは程遠い()()が、『姉』の選択の先にある答えだった。

 

 もちろん、『姉』はそんな未来なんぞ欠片も予想していない。

 ……だが、幾つかの誤算があった。

 少しばかりの偶然と奇跡があった。

 そうして生じた多くの必然によって──真意は汲み取られず、世界が回り出した。

 

 彼女はただ、己の片割れに生きて欲しかっただけ。

 幸せになって欲しかった。 前へ進んで欲しかった。

 そして、いつかの未来で、満ち足りた終わりを迎えて欲しかった。

 ただ、ただ、それだけだ。

 託した夢はあくまでも夢であって、決して、呪いなんぞではない。

 再び歩き出すまでの、暫しの支え(つえ)として抱えていてくれれば、それで良かった。 十分だ。

 

 ……更なる欲を以て望むのなら。

 『弟』の血肉としてでも未来へ連れて行ってくれれば、それ以上に喜ばしいことはないけれど。

 

 けれど、故に。

 それらは"たられば"の話なのだ。 決して届かない。 手を伸ばせもしない。

 単なる夢物語であり、死者が抱く願望である。

 今回に限ってはどちらも()()()()という一点のみで共通していた。

 

 

 だから、この話はそこでおしまい。

 続きは無くなった。

 

「……ぅ」

 

 こひゅ、と喉が引き攣る。

 掠れきった咳が零れる。

 一度、二度と喉を鳴らして、また、肩で呼吸を繰り返した。

 

 そして時間を対価に呼吸を整え、ようやく掲示板を仰ぎ見た。

 赤文字で書かれる"レコード"の一言が、酷く寒々しい。

 しかし、それが栄冠。 栄光、きれいな綺羅星。

 ファインドフィートが望んだモノだ。

 

 それでも、どうしてか。 心は鬱屈と淀むばかり。

 曇り空よりも、雨模様よりも、雷雨の相よりも尚重くに。

 

「やぁやぁ。 ワガハイに勝ったというのに随分と暗い顔をしているではないかー」

 

 ──その内心を知ってか知らずか。

 まず間違いなく知らずにだろうが、白い後ろ背めがけて声が響く。 次いで、一対の足音が鳴る。

 その声は、その足音は、親しい友のモノだ。

 慣れたそれを外耳で受け止めて──何故かすぐには答えを返せずに、一呼吸の間を作った。

 息を吸って、吐いて、吸って。

 吐いて、止めて。

 溜めて。

 

 そしてようやく、ゆっくりと振り返る。

 

「……お疲れ様です、テイオーさん」

「ね。 優勝、おめでとう」

「…………」

 

 いい試合でした──などとは、口が裂けても言えやしない。

 ぎゅっと口を噤んだまま、青白の衣を纏うトウカイテイオーへ視線を送る。

 二対の目線がぱちりと絡み合った。

 方や淡く、鬱屈に。 方や快活で、しかし鋭い。

 青と青の虹彩が互いを見つめて微かに停止する。

 

 背丈には差があるから、ファインドフィートが見下ろす形だ。

 しかし彼女は不思議と、逆に見下ろされているように感じてしまった。

 

 精神の成熟具合の差が故なのか、はたまた己へ向ける卑屈な怒りが故なのか。

 ともかく、そうして目を合わせているだけで、どうしようもなく。

 ただ、ただ、惨めな気持ちが溢れて、溺れてしまいそうだった。

 

「……あなたは、眩しいなぁ……」

 

 こんなにも良い天気で、太陽はあたたかく、勝利を飾って、誰かに祝われて。

 そうして理想の姿を演じている筈なのに、心が痛む。 軋む。 軋む。

 理想の裏にある現実との乖離がどんどん大きくなって、歪んで、背骨から千切れてしまいそうだ。

 

 ──なんて、そんな事(ほんとう)を言える筈は無いけれど。

 

 だって、その行いに正当性はない。 資格もない。

 全てを告白した未来は無かった事にしたのだから、許されないし、許さない。

 

「……なのに、ぁあ。 今になっても、縋りたい……なんて」

 

 小さく、小さく、小さく。

 小さく、擦れきった声で呟く。

 もはや風の音よりも小さい。 誰であっても聞き取れない。

 それこそファインドフィート自身の耳にさえ届かないほど。

 

 そんな、絶対に誰にも届かぬ声で漏らしたのは──後悔か、懺悔か。

 あるいは、さらに別の情なのか。

 源泉の色は彼女自身にさえ分からない。

 

「……フィート、どうしたの?」

 

 訝しげな声で問われる。

 それに対して、曖昧に首を振って答えを包み隠した。

 

 トウカイテイオーの声は、棘のないあたたかさを秘めていた。

 ……故にそれはファインドフィートを傷付けない。

 

 けれど、その優しさが苦しかった。

 傷口に甘い(くすり)を塗り込むように、深くまで浸透する。

 どろどろと、じわじわと、膿んだ内臓にまで届いてしまう。

 

 そうして罪悪感が積み重なっていく。

 空っぽだった器を底から満たしていくのだ。

 

 夢になってしまったとしても、()()天皇賞こそがファインドフィートにとっての真実だった。

 『ファインドフィート』として、ではなく。

 その中身の彼女──彼にとっての、本当だった。

 『ファインドフィート』という虚像を造り上げる為に必要な工程であれど、本当を否定した上に成り立つ現在(いま)は、どうしても。

 

「   」

 

 ……その事実に如何なる感情を抱こうと、それも"必要な事"だとして受け取めるしか出来ない。

 こうして悲しむことも、傷つくことも、傷つけることも、今を構成する何もかもが。

 

 全部全部が仕方のない、"必要な事"なのだから。

 

「どう、したの? 何か、様子が──」

 

 己を鼓舞する。 口八丁で正当化する。 潰れかけた意思を、奮い立たせる。

 立って、立って、立って。

 何物にも揺らがないほど、力強く立つ。 立たなければ。

 

 ……そうと思い込もうにも、身体は意思を汲んでくれない。

 一歩、トウカイテイオーへと歩み寄ってしまった。

 

 そして、それだけで──ぐらりと頭部がふらついて。

 視界中を光る虫が飛び交って、チカチカときらめき存在を主張する。

 キラキラ、キラキラ、キラキラと。

 

「ぁ、れ」

 

 くらり。 更に頭が揺れた。

 そして、たらり、と。

 上唇に冷たい何かが伝う。

 それは湿り気と、強い粘性を帯びていた。

 

「ぁ、フィート! 血が、血が出てるよ……っ。

 あの、係員さん! こっち! こっちに来て!」

 

 ■。 ■、■とは。 何が出ていると言ったのか。

 トウカイテイオーの口から鳴る音が、頭の中に反響した。

 その音を咀嚼して、対する唇の動きを見た。

 しかし、それが何を意味する物だったのかまでは思考が至らない。

 

 ■とは何か。 ■とは、■とは?

 オウム返しで問うように、ただ、焦点がずれたままの瞳孔を相対する少女へ向けて。

 そして、口を開いて。

 舌先を震わせて……それだけ。 言葉は発せない。

 頭が揺れて、彼女の口を強引に閉ざしてしまったからだ。

 

「────! ──。 ────!?」

 

 ──トウカイテイオーが、大きな声で叫んでいる。 すぐ傍らに駆け寄って、顔を覗き込んできた。

 ……が、遠い。 聞き取れなかった。

 発しているだろう言葉の意味はカケラも理解できない。

 

 今の彼女は、それを咀嚼するだけの機能すら失っていた。

 それは限界を超えた脳みそが縮退運転をしているからか。

 はたまた、壊れかけの身体を休ませるための本能的な防衛反応か。

 

 ファインドフィートには、その真相を追求する事さえ出来ない。

 許されたのは、徐々に解像度を失っていく視界の中で、あるがままを受け入れるのみ。

 

「……ぁ」

 

 つつー、と。

 下唇を伝い、そして顎から滴り落ちた。

 それを震える右手で掬い上げて、眼前に翳す。

 太陽の輝きを反射する赤色。 赤い水。 ザクロみたいに、ザクロよりも真っ赤な赤色。

 

 ■。 ち、血だ。

 血が、流れる。

 生命の赤。 生命の根源。 生命の燃料。 生命の残量。

 やわらかな粘膜を切り裂いて滲出するそれらを、生気の失せた顔で眺める。

 

「血……」

 

 血。 血、血である。

 痛みを伴い、体外に流れ出る物。

 ファインドフィートにはひどく身近な存在だ。

 

 そしてその感覚は鼻や鼻の下だけではなく、右の頬をも這っている。

 指先で元を辿れば、発生源は右目だった。

 つまるところ、血は涙だった。 涙は血だった。

 眠りかけの脳みそで、遅れながらに実感して──。

 

 ──力が抜ける。

 右手から、頭部から、背中や腹、ついには脚から。

 前方へ傾いていく身体を押し留める事も出来ず、重力に引きずられて自力の軛を抜け出した。

 あっという間に膝をつき、生に溢れた緑が瞳めがけて迫り来る。

 

「──! ──っ!」

 

 が、衝突には程遠い距離で別の力に受け止められた。

 目にうつるのは青と白、時々金。

 つまり、トウカイテイオーの勝負服の色彩である。

 視界いっぱいに広がるそれを見る。

 そして彼女の胸に受け止められたのだと気付くまで、三度の呼吸を必要とした。

 

「──? ──?」

 

 頭上のトウカイテイオーが言葉を叫んだ。 受け止めた頭を抱えて、必死の形相で。

 けれどもファインドフィートには、何を言っているのかまるで理解できない。

 意識は数秒毎に寸断され、連続性を失い続けて、故に理解するだけの知能を保持できなかったのだ。

 

「……ぁ……ごめん、なさい。

 今は、少しだけ、このままで……」

 

 もう、限界だった。 これ以上は立てなかった。

 

 腕の中に収まりながら、薄く、長い息を吐く。

 自分よりも小さな手。 自分よりも小さな背丈。

 けれど、自分よりも圧倒的に大きいような──庇護者のごとき、安心感。

 "まるでお母さんみたいだ"、なんて、陳腐な感想を抱くほどに。

 

 そう。 記憶の中にある母は、確かに、とても大きかった。

 姉と弟を一緒に抱きしめてしまえるほどに、とても大きかったから。

 だから、錯覚してしまった。

 もう存在しないぬくもりを求めて、幻を垣間見て。

 そしてそれに疑問を抱くだけの理性も無い故に、疑いもせずに瞼をおろした。

 

 ざぁざぁと、ごうごうと、雑多な音が内耳を揺らす。

 しかしそれらでは彼女の意識を繋ぎ止められない。

 青い瞳が、すっかりと瞼の裏に隠れてしまった。

 

「……もう、なんだか、眠くて。

 二度と、眠りたく、ないのに。 起きたくない、のに」

 

 ──けれど、しかし。

 眠気に支配された頭で、ほんの一瞬、僅かな疑問を浮かべる。

 眠りに落ちる寸前、夢と現実が入れ替わる刹那、虚飾の一切が剥げ落ちる今際。

 

 さて、その庇護者は、ぬくもりの主は、ファインドフィート達の母親は──いったい、どのような顔をしていたのだったか。

 どんな声をしていたか。 どんな香りを纏っていたか。

 そもそも、何という名前だったのか。

 

 答えは頭の中からすっぽりと抜け落ちていて。

 湧き出る問へ返すべきを、何も返せなかった。

 

 ……何も、思い出せないのだ。

 あたたかい料理の味も、頭を撫でる体温も、愛をこらえた眼差しも。

 家族との過去を構成していた一片が。 まるで、写真の中から一部分だけをくり抜いたかのように。

 

 何時かにあったはずの、母親との思い出が。

 何も、何も、何も。

 

 何もかも。

 

 


 

 

 『月刊トゥインクル、6月号』。

 

 "ファインドフィート、無敗五冠へ"。

 4月30日に行われた天皇賞(春)にて、ファインドフィート氏が見事優勝を飾り無敗五冠を達成した。

 二着はトウカイテイオー氏、三着はナイスネイチャ氏。

 

 3月に行われた大阪杯に続けての優勝であり、近年稀に見る功績を残している氏へ、各地のファンによる期待が高まっている。

 

 なお、ファインドフィート氏はレース直後に意識を失い緊急搬送された。

 原因は鼻出血、および血涙のような症状と思われる。

 URAによる発表では快復へ向かっているとの事だが、記録映像の様子を見た有識者から疑問の声が上がっている。

 

 専門家の意見によると、ヘモラクリア*1という極めて稀な症例だという指摘もある。

 直ちに選手生命へ影響を及ぼす物ではないが、視力への影響を懸念されており──。

 

*1
普通の涙と血液が混ざったものを流す症状。



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45話

 

 そして結局、ファインドフィートは止まれなかった。

 

 だから、きっと。

 未来の為に過去があるのではなく、過去の為に未来があった。

 

 


 

 

 ──青が瞬く。

 瞳孔が揺れる。 光を受けて拡縮を繰り返した。

 そしてもう一度瞬き、ピントを補正して、視線の先の図形を見つめる。

 

「これは?」

「……右」

「これは?」

「上」

 

 こつり。

 響いたのは硬質な音。

 細棒がホワイトボードの表面を叩いた音だった。

 雑多な書類で溢れたトレーナー室であれど、所詮は書類。

 多少積み重なった程度の紙の束では、音を吸収しきれないのだ。

 

 しかし部屋の主たるトレーナーも、その教えを受ける少女にも、両名共に気にした様子はない。

 ただ、トレーナーの声に合わせて細棒が踊り、また甲高い音が突き抜けた。

 

「これは見えるか」

 

 こつり。 幾度目かの音が響く。

 棒の先の板には、大きなコピー用紙が貼り付けられていた。

 

「……右、ですかね」

「よし」

 

 棒が指し示すのは、黒の単色で描かれる図形。

 切れ目の入った大小様々なC字にも見える円形(ランドルト環)

 

 それに対し、ファインドフィートが切れ目の方向を答えた。

 つまり彼女は、視力検査を行っていた。

 

 普段とさして変わりのない、涼やかなソプラノボイスが淡々と響く。

 そうしてトレーナー室には二人の声と、細棒による打鍵音が鳴るのみだった。

 他の音は何もない。 精々、窓の外から届く風の音程度である。

 

 だからか、ふと思う。 今が夏であれば、もう少し騒がしくなったのだろうか──なんて、ぼんやりと。

 例えば、風が窓を揺らす音。 虫の鳴き声。 クーラーの振動音。 扇風機の駆動音。 アイスを齧る、涼やかな音。

 それらがこの部屋を満たす空想を浮かべて、ほんの数秒の余暇を潰してみた。

 とはいえそんな事をした所で現実では無音のまま。 変化は決して訪れない。

 やはり、ファインドフィートのそれは意味のない空想だった。

 

「……二段下。 これは?」

「…………ん」

 

 こつり。 また別の図形を指し示される。

 今度のそれは一段小さい。 それこそ小指の先よりも小さかった。

 故に、中々答えを見つけられない。

 

 が、諦めずに片目を隠したままでじっと睨み付けて、目を凝らした。

 見て、見て、見て……しかし、定まらない水晶体のピント。

 遠近調整の精度がとにかく鈍い。

 瞼を三分の一ほど下ろして青の面積を狭めつつ、口の端を引き締める。

 それでもやはり、輪郭はおぼろげだった。

 

「左……?」

「ふむ……次が最後だ。 これは何だ?」

「下……いえ。 左、ですかね」

「よろしい。

 左目の視力は1.4……少し、悪くなったか。 とはいえ、まだ平均より上だがな」

 

 左。

 それは半ば当てずっぽうの回答だった。

 より正確に言えば、当てずっぽうにならざるを得なかった。

 

 だからなのか、ほんの少しの罪悪感と、ほんの僅かな居心地の悪さを感じてしまう。

 それらが胸の奥で混ざり、合わさり、ふつふつと、微妙な冷ややかさを醸し出していた。

 

「少し待っててくれ。 パソコンのほうにも打ち込んでおく」

「……ええ、はい。 分かりました」

 

 目隠しを下げる。 数分振りに両目の視界を取り戻した。

 そこはやはり白い部屋。 あるのは雑多な資料やホワイトボード。 そして多様なトレーニング器具。

 去年よりも、さらにその前の年よりも彩りを増した空間だ。

 ……しかしその視界は、細部が微かに霞んでいた。

 以前、一週間前と比較すると輪郭が曖昧で、空気と物質が溶け合っているのだ。

 

「……」

 

 指を伸ばす。

 机の上の、コップを撫でた。

 きれいな白磁のマグカップ。 青い鳥のマークがお気に入りの一品だ。

 すぐ目の前にあるそれは、やはり輪郭が曖昧で。

 しかし、感触だけは以前と一切変わらない。

 

 だから、そのマグカップが変化していない事が証明された。

 そして、ファインドフィートの視力の変化が立証されてしまった。

 実感を伴うそれは、実感を伴う故に疑う事を許さないのだ。

 

「……トレーナー、どうですか? その……わたしの、目は」

「ん……あぁ、まぁ、特に大きな問題は無いんじゃあないか。 少なくとも、致命には程遠いと断言できる。

どちらかというと各メディアの対応が面倒なだけで……いや、これはキミが気にするべきじゃないな」

「そういうもの、なんですか」

「そういうものだ。 またどこかのタイミングで元気な姿を見せておけば、それで丸く収まる」

「元気な姿……」

 

 求められたのはきっと、最後に見せた姿が()()()()に凄惨だったから。

 

 原因は一週間前の天皇賞。

 彼女にとっては()()()()()で忘れられないレースである。

 

 優勝を飾ったかと思えば、突然血涙と共に意識を失った彼女へスポーツドクターが駆け寄り、容態の確認を僅かな時間で済ませ、数人がかりで担架へ載せて迅速に運び出して。

 そんな無敗王者の様子を生中継で見ていた大勢の人々や、ミホノブルボンたち親しい人々の心境たるや。

 

 ともかく、それ故に話題の中心となっていた。

 もしくは、現在進行系で話題の中心となっている彼女はやはり、病院に検査入院する運びとなってしまった。 当然である。

 

 そして、一週間の検査を終えて。

 ()()()、健康状態にさほどの問題はないとしてこのトレセン学園へ帰還を果たした。

 では何故、今もこうして視力検査なんぞに励んでいるのか。

 もちろん病院で行われた検査の結果はトレーナーにも伝わっている。

 病院で発行された書類をファインドフィートがその手で横流ししたのだから、実際なところ、この視力検査に大した意義はなかった。

 

「ヘモラクリア……原因は高血圧? たったそれだけで血涙が出るのか? 

 腫瘍ではなく、ホルモンバランスの崩れでもなく? 

 そんな事があるのか? いや、あったからそうなんだろうが……しかし、なんとも……」

「……トレーナーでも、分からない事があるんですね」

「当たり前だろう。 トレーナーを何だと思っているんだ……。

 ……あぁ、しかし本当に問題ないのか? 鼻出血は()()()だったとは聞いているが……そう、血涙が出る程に血圧が高かったというのが、どうにも……」

 

 しかし、それでも。 

 トレーナーはどうしてか──嫌な予感が拭えなかった。

 言葉にできず、明確な形を持たない、曖昧な感覚が騒ぎ立てている。

 その嫌な予感とは、鼻出血の原因も含めての憂慮であった。

 

「別に、良いじゃあないですか。 細かい事は気にしなくても」

「その細かい事を気にするのが俺の仕事だ」

 

 その鼻出血の原因とは、大まかには二種類に分別できる。

 

 まず、外傷性。

 この外傷性であればまだマシだ。

 頭部をぶつける等の打撲を原因であり、適切な治療さえ行えば対処できる物。

 だが、もう一方の内因性であったなら話は別である。

 原因は気道粘膜の毛細血管が破綻であったり、激しい運動による血圧の変化による肺出血など。

 その出血は気管を経由し、鼻孔や口腔から流出する。 故に鼻出血と呼称されるものの、実態は言葉の印象よりもなお重篤だ。

 特に肺出血──運動誘発性肺出血(EIPH)とも呼称されるそれは名称通りの性質を持ち、再発の可能性は高く、根治も難しい。

 

 ……トレーナーは、その後者の可能性を危惧していた。

 確かに検査結果では外傷性だったと診断されている。

 だとしても、それでも、他の要素が手放しで安心させることを許さない。

 もしもの万が一が、億が一があっては困るのだ。

 彼には彼の目的はあったが……だとしても、子供を踏み台なんぞにしたくはなかった。

 

「……今の体調は問題ないんだな? 

 目だけじゃなくて、身体全体でも、だ」

「ええ、はい。 何も……そう、()()問題ありません。

 ()()()()()()()()()()()()()

 

 けれど彼女は、何も問題ないと云う。

 平坦な声音で事もなげに返すばかりだ。

 少なくとも身体的にはそういう事になっているから、反論することは非常に難しい。

 

 そしてファインドフィートは未だ健康体であるのなら、常と変わらず無敗を目指してゆける。

 トレーナー目線で感ずるものがあろうと何であろうと、変わらない。

 彼女はその結論を得られただけでも十分だった。

 

「……無敗、か」

 

 ──その目指すべき称号は、もはや皮肉にも似た響きを有しているのだが。

 

「…………っ」

 

 ぎしり、と奥歯を噛みしめる。

 ずんぐりと、喪失の重みが腹の底を貫いた。

 それは日を重ねても、寝ても覚めても、ずっと消えずに居座ったままだ。

 くらくらと頭の中をねぶる感傷が、ただ、ただ、悍ましかった。

 

 ……もちろん、だからといって()()()のような醜態は晒さない。

 今の彼女は紛うことなき健康体だから、膝を折る事なんてありないのだ。

 もう疲れたから、とか。 気の迷いで、とか。

 そんな子供染みた言い訳は一切使えない。 吐き気がする。

 

「ん……何か言ったか?」

「いいえ、何も」

「そうか……いや、なら良い」

 

 そして、そうして、表面だけの平常を取り戻して。

 後方に置き去りにしたものから、必死に目を逸らして殻を被り続ける。

 薄っぺらい虚飾で、簡単に剥げてしまう暗示で、ほんの一時の日常へ回帰するのだ。

 

「じゃあ続きをやるぞ。

 次は逆の、左目を隠してくれ……準備はいいな?」

「……どうぞ」

 

 言われるがままに、左目を閉じる。視覚が半分になった。

 半分だけの世界は先程よりも更に酷くぼやけている。

 ともかく、これで現実の半分からは目を塞げるということだ。

 ……そんなものでは、僅かな慰めにすらならないのだが。

 

「これ、必要なんですか?」

「……必要だとも。 退屈かもしれんが、しっかり頼むぞ」

「これもそういうもの、なんですか」

「そういうものだ。

 それじゃあまず、これの方向は?」

 

 こつり。 細棒が乾いた音を打ち鳴らす。

 示された通り、視線の先の円環を見た。

 ランドルト環がぱっくりと薄い口を開いている。

 それは一番上の一番大きな環だ。

 である故に、視界のにじみは許容範囲内だった。

 

「右」

「流石に此処は大丈夫だな……よし、これは」

 

 次に指し示されたのは二段下の環。 半分以下の直径。

 ……この時点で既に、切れ目の境界が曖昧だ。 陽炎よりは明瞭で、湖面の月より朧げだった。

 

「…………左、ですか」

「合ってる。

 が、見えづらいか」

「少しだけ……そう、少しだけ、見えづらいです」

「そうか」

 

 そんな言葉は、単なる見え透いた強がりである。

 彼女自身でも自覚していた。 自覚した上での発言だった。

 

 しかし、彼は敢えて何も触れない。 ただ淡々と口を開くばかり。

 正直な所、これはファインドフィートにとっては過ごしやすい温度感だった。

 それを意図してなのか、否か。

 内面はまったく不透明だが、男は淡々と澄ませた顔で、手元の用紙に文字を連ねる。

 そしてまた、棒の先で環を叩いた。

 

「……上?」

「ん……まぁ、そうだな」

 

 何にしても淡白である。

 合っているのか否か、それさえも答えない。

 とはいえ、そんなものは今に始まったことではない。 むしろこれが平常運転だ。

 だから深くは気にせずに、棒の先の動きを見つめた。

 

「じゃあこいつはどうだ」

「………………」

 

 ──指し示される。

 そこにあったのは()()だった。 円環を指し示された。

 ……否、実際には切れ目がある。 円環としては成立していない。

 それでも彼女の眼に映る物は──確かに円環だった。

 

「…………………………?」

 

 小首を傾げた。 ゆるりと耳を伏せる。

 目を細めた。 光量を絞った。 網膜の像を補正する。

 

「…………」

 

 けれど、やはり。

 どうしても……明瞭なカタチを獲得できない。 歪んでいる。 滲んでいる。

 つまりそれは、紛うことなき円環だった。 彼女にとっては。

 

「……だからドーナッツ、ですかね」

「切れ目はあるんだが……見えないか。

 ……じゃあ一段上のこれは?」

「…………左?」

「残念、ハズレだ」

 

 しかし現実はいつだって非情なもの。

 彼女の視覚と現実の姿をイコールで結ぶことは不可能なのだ。 当然である。

 

「……右の視力は0.8……と。 病院での検査結果と変化はナシ。

 ある意味当然だが……うぅむ」

 

 結論。

 ファインドフィートの視力は低下している。

 決して致命的ではないけれど、かと言って楽観視は出来ない程度に。

 

 

 ……低く、皮と骨の喉が鳴った。 音の質は呻き声に近い。

 手元の書類に視線を落とし、眉間にシワを寄せる。

 

 その真剣な横顔をなんとなしに眺めて、髪の先を指で弄んで。

 吐き気が限界に達していたから、何となくを装って椅子に腰掛けた。

 そして膝の上に尻尾を乗せて、中空を眺めて時間を潰す。 この状況で彼女にできることなんて何も無いのだから、きっとこれが最適解だ。

 

 

 およそ三分間。 それはうんうんと呻きはじめてから、呻きが止まるまでの時間だ。

 トレーナーはようやく自身の思考を整理し終えた様子で、大きなため息を吐いた。 重く、長く、深い。

 

 ……そんな苦悶を聞いていると、どうしてか。

 少しだけ居心地が悪くなってしまった。 尻尾を軽く跳ね上げて、ぱさりと膝の上を叩く。

 

「……やはり、左右差が心配だな。

 これは疲れ目を生じさせるだけではなく、平衡感覚にまで影響する……つまり、転倒のリスクが発生しかねないということだ」

「そうなんですね」

 

 彼の声音は普段通り。

 淡々と告げて、ペンを机に転がした。

 コロコロと、カラカラと。 机の端から中央へ。

 

 その一部始終を見送って──やっと面倒事が終わったな、とため息を吐いた。 開放感を感じる。

 なにせ、せっかくトレセン学園へ帰ってきたというのにこれだ。 ここ一週間全体で見ても検査だの何だのとやけに面倒事が多かった。

 鬱陶しいそれらが終わったというのなら、実に素晴らしい。

 そんな内心を僅かに表に出しながら意気揚々と立ち上がる。

 

「それでは、トレーニングですね。

 病院の先生曰く、運動行為そのものは特に問題ないそうです。

 ただし……十全に、慎重に、入念に、準備運動するようにと、すごく念押しされましたが……」

「あぁ……まあ、それはそうかもしれん」

「ともかく、ジャージに着替えて来ます。

 あんまりにも動かないと身体が鈍ってしまいますから──」

 

 弾むように、というほど明るい論調ではない。

 しかしそこはかとない高揚のこもる言葉を続けながら、学生鞄を手に取った。

 ずしりと重たいそれが手首へ微かな負荷をかける。

 中身はもちろん着替えとタオルとスポーツドリンク。 トレーニングの必須用品だ。

 元々、検査が終わり次第トレーニングを開始するつもりだったから、事前の準備は入念だった。

 

「いや、待ってくれ。 今日はもうこれで終わりだ。

 早めに帰って休んでおいてくれ」

 

 ──しかし、その所作を咎めるように。

 彼は無機質な声で、宥める言葉を口にする。

 今日の用事は済んだのだ。 あとはこちらで調整するから、と携帯端末を手に取った。

 

「……それは、何故?」

「まだ疲労が残っているだろう。

 肉体的にも、精神的にも。

 だから……そうだな、今日と明日は何もせずにゆっくり休むと良い」

 

 その言葉は、きっと、正しい意味で構成されている。

 彼はファインドフィートの身体を労っている。 彼女にも理解できた。

 彼は無意味に遠ざけようとしている訳ではない。 彼女にも理解できた。

 

 ……理解できた、けれど。 だからといって許容はできない。

 理屈は理解できるが、しかし。

 その理屈に納得できるか否かは、全く別の話だった。

 

「休み、なんて……そんな物、いらないです。 だって、この一週間は何も出来ていないじゃあないですか。

 ですからはやく、トレーニングにいきましょう」

 

 ──そうでなくては、また負けてしまう。

 それは忌むべき物だ。 それは恐ろしい物だ。

 言葉もなく、鉄仮面の裏で静かに絶叫して。

 故に彼女は、休息を拒むのだ。

 

 そうした言葉の後にしゃっくりが零れて。 焦燥感が滲み出して。

 それらに釣られた罪悪感が、ひょっこりと顔を覗かせた。

 

「……もしも、手が空いていないのなら、今日は自主練習をしますから。

 だから、簡単にでも良いんです。 練習用のメニューをください」

「いや、ダメだ。 今日は休み。 休養日だ。

 疲労はしっかり取らないと──」

「──イヤです。 メニューをください」

「だからな、今日はもう」

「お願いします」

 

 もう休息は十分だ。 ファインドフィートは健康体だ。

 だから走れる。 だから走らなければならない。

 彼女は心の底からそう信じ切っていたし、その選択が必要なのだと強く確信していた。

 

 頭を深く下げて、視線を床に固定した。

 そして、血を吐くような声音で願う。

 

「わたしは、このままでは勝てない。

 勝たないといけないのに、勝てないんです……」

 

 つまり、彼女は恐ろしかった。

 ()()負けてしまえば、何かを失う。

 負けてしまえば誰かを踏み躙る。 そんな未来が、酷く恐ろしいのだ。

 

「わたしが、一番速くなければ、きっと」

「……キミは勝ったばかりじゃないか。 なのに何故? 

 何故このままでは負けると思った? 何を焦っているんだ?」

「それは……」

 

 確かに、今までファインドフィートは勝ち続けてきた。

 ()()の称号を掲げることが出来ていた。

 それは、何故出来ていたのか。

 もちろん、今まで走り続けてきたからだ。

 

 だというのに、備えもせずに停滞する?

 ありえない。 そんな事、出来る筈がない。

 

 走らなければ、きっと腐ってしまう。

 四肢の先から血流が停滞し、熱を失い、淀み、腐る。

 それはやがて毒となり、心臓までもを焼き尽くす。

 

 そう、彼女はそんな錯覚まで抱いていた。

 停滞(きゅうそく)とは、甘えに繋がる。

 甘えは、脆さを導く。 脆さは、弱さを表す。 そして、弱い者は親しい誰かに縋ってしまう。

 決して許されない事である。 だから走らなければならないのだ。

 そして、何処までも逃げなくては。

 逃げて、逃げて、逃げて、逃げて。

 敗北から、喪失から、逃げて。

 

 ──次こそは、何も失わずに、なんて。

 願うことすら烏滸がましいのかもしれないのだとしても。

 誰の耳にも聞こえないほど小さな声で、微かに囀った。

 

「……いいえ。 何かがあった、訳じゃないんです。

 何も、何も、ありませんでした。

 けれど、だから……今のままじゃ、足りないのです。

 お願いします。 わたしは、走らないといけない。 もっと速くならないとダメなんです」

 

 更に深く、頭を下げる。

 彼女に知識はない。 今までのトレーニングだって全てトレーナー任せだった。 自主練習のメニューなんて作成できない。

 これは、そんな彼女の初めての口出しだった。

 

 故にトレーナーも、ほんの僅かな動揺を表に出していたけれど。

 しかしその訴えを受け入れるか否かは、また別の話で──。

 

「…………ダメだ。

 今日は休み。 変更はなし。

 ほら、これで甘いものでも買ってきなさい。 ミホノブルボンの分にも使っていいから」

「トレーナー……っ!」

「今後のプランは追って連絡する」

 

 至極まっとうな倫理観で、自然な流れの考えで、いともたやすく棄却する。

 その選択は正しかった。 一面から見れば、確かに正しかった。

 

「……トレーナーは、なぜ」

 

 けれど反対側の彼女から見れば決して認められない決定である。

 別に、ささやかな物でも良い。 "少しずつでも速くなっている"という実感さえ得られたなら、それで良い。 常と比較したら些細な、それっぽっちの実感で納得できたのだ。

 だから否を唱えたい。 彼の決定を認められない。 認めたくない。

 

 ……であれば、言葉を尽くすべきだ。 意思をぶつけ合うべきである。

 求める結果は明瞭で、あるべき過程も明らかなのだから。

 

 ──しかし、それでも。

 彼女は、そのための言葉を持ち合わせてはいなかった。

 

「……わたしは、それでも……」

 

 喉が詰まる。 舌鋒はなまくらだ。

 吐息としゃっくりが漏れるばかりで。

 

 

 故に彼女は、説得できない。

 何も言えない。 何も、言葉を有さない。

 つまり、トレーナーの意思を覆すことは出来ないということで。

 自主練習を禁じられたという結果に、変化はないままだ。

 

「まぁ、色々と焦る気持ちはあるのかもしれないが……そんな今だからこそ、しっかりと休めよ」

「……はい」

 

 ()()()()だからこそ、立ち止まる訳にはいかないというのに。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ──そして一度、帰路へついた。

 同胞達で賑わう玄関を越え、階段を登り、自室のドアを開いて、鞄をその場に下ろす。

 

 ……それから一呼吸を置いて、ただいま、と言葉を放り投げてみた。

 しかし、おかえりとは返ってこない。

 それは当然だ。 そもそも部屋には誰もいない。 空っぽなのだ。

 相方たるミホノブルボンは地方へ出張中。

 それは病院で見舞いに来た本人の口から聞いたのだから、疑いの余地はどこにもない。

 故に、今日と明日のファインドフィートはひとりぼっちだ。

 

 その癖に懲りもせずにもう一度、ただいま、と言葉を放った。

 行く先は想定していない。 受け取る者は誰もいない。

 だから無意味に消え失せるだけ。 ほんの僅かな時間だけ滞空し、一瞬の痕跡を残すのみ。

 それだけだった。

 

「……はぁ」

 

 ため息を、一つ零す。 目を瞑る。

 

 ……そして一呼吸の後、目を見開いて、自分用のクローゼットを開いた。

 中にあるのはレパートリーの少ない私服と替えの制服、多くの運動着。

 そのうちのワンセットを手にとり、ベッドの上に放り投げ、手早く衣服を脱ぎ去った。

 そしてスポーツ用の運動着へ着替えてしまう。

 もちろん、スポーツ用といえば赤いジャージ。

 すっかりと、私服より着る機会が多くなってしまった。

 

 それから続けて手に取ったのは、青い運動靴。

 普段遣いではない予備の品だ。 ピカピカの合皮が靴の年齢を無言で、誇らしく語っている。

 

 これを手に取ったのは、何のためか。

 無論、走るためだ。

 

「…………よし」

 

 シューズ袋に入れて、鞄も一緒に抱えて。

 寮の玄関口へ移動して、万が一にも顔見知りと鉢合わせないように手早く靴を履いた。

 足の甲が少しだけ苦しい。 しかしそれを誤差の範囲として許容する。

 普段であれば多少の調整を行ったのだが──その違和感を気にする間すら惜しい。

 とにかく、早く移動したかった。

 

 それはトレーナーへ何も告げていないから、でもある。

 何も言わずに自主練習へ赴こうとしているから、人伝に伝わることを恐れていた。

 

 そして、それに加えて──正直なところ、トウカイテイオーにも会いたくなかった。

 否、正確には顔を見せたくなかった。

 会いたい、という思いはある。 また言葉を交わしたいと思う。

 しかし、それでも、罪悪感が彼女の顔を奪い取るのだ。 

 

「…………」

 

 そろり、足を差し伸ばす。 こつり、蹄鉄の音が鳴る。

 周囲にいるのは複数名の女学生。 幸いながら、親しい人は誰もいない。

 誰も彼も、精々が会釈を交わす程度の仲だった。

 

 だから今回も軽く会釈をして、それだけ。

 うまくやり過ごせたことに胸を撫で下ろして、外へと足を踏み出した。

 これは言ってしまえば、ささやかな──本当にささやかな、微かな反抗だ。

 産まれて初めて、誰かの意に逆らっている。

 

 ……ひどく、恐ろしい。

 未知は何時だって目を塞ぎ、見えざる恐怖を幻視させる。

 そしてこの選択もまた──やがて、失意の手で肩を叩くのかもしれない。 振り返った先の顔がどんな形をしているのかなんて、想像することすら恐ろしい。

 

「……ふぅ」

 

 知っている。 理解している。

 自身の行いは、いつだって、正しくあれない事を理解させられた。

 けれどファインドフィートはこれを選んだ。

 

 それは何故か。

 答えはきっと、敗北という記憶を持ち越した故に──勝利への執着が、恐怖を、罪悪感を捻じ伏せていたからだ。

 トウカイテイオーに刻まれた記憶が愚かな堕落を許さない。

 

 だってファインドフィートは、差し伸べられた手を振り払ったのだ。

 友情を、献身を、無償の愛を踏み躙った。

 それをなかった事にして、"無駄な行いだった"と忘れる、なんて。

 

 そんな愚行を許せる筈がない。

 だから、この喪失をも糧にする。 更に大きく飛躍しなければならない。

 あの喪失は無駄な物ではなかったのだと、必要な事だったのだと、胸を張って誇れるように。

 向こう見ずな()()が、彼女に出来るせめてもの返礼だった。

 

 何時だって、未来は過去への貢ぎ物だ。

 置き去りにした(された)モノ達へ捧げる、返礼の貢ぎ物。

 故に彼女は決して止まれない。 決して変わらず、変えられずに。

 

 

 そうして、芝を蹴る。 大きく加速するために。

 あまり使わないシューズだからか、足元の感覚が中々馴染まない。

 足の甲が僅かに窮屈で、生地が若干硬すぎる。

 

 ……けれど、それだけだ。

 その程度は時間が解決すると確信していた。

 何せこの靴は、とてもいい靴なのだ。

 いつかの日、ミホノブルボンとトウカイテイオーの友人二人と共に選んだ青い靴。

 メーカー製の量産品であれども、僅かに安っぽい作りであれども、()()()だった。

 

 そういういい靴は、いい場所に連れて行ってくれると云う。

 ヨーロッパの古い言い伝えだが、もちろん根拠はない。 科学的でもない。

 しかしそういう迷信じみた信仰が現実にあって、ファインドフィートも知識として知っていた。

 

 だから、という訳ではないけれど。

 彼女にも、いい靴を履いていたいという拘りがあるのだ。

 それは何も装蹄師の(むすこ)だからではなく、もっと単純に……何となく、そうであって欲しいという願望だった。

 

 ……いい靴は、いい場所に連れて行ってくれると云う。

 とても素晴らしい言葉である。

 そもそもいい場所とは何処なのか。 連れて行ってくれるとは何か。 そんな事も分からない。

 しかし何であれ、いい場所へ辿り着けたのなら──逆説的に、この靴は"いい靴"なのだと保証される。

 その結果さえあれば過程の尽くを価値あるものに変えられるのだと、はるかな過去が保証してくれるのだ。

 

 ──ならばそれは、人生とて同じこと。

 良い結果さえあれば失った過去も、夢へ消えた想いも、無価値では無くなる。

 正しくなかった彼女でも、正しくなれる。

 

「ふ……っ」

 

 だからこうして、鋭い呼気を吐く。 痛い。

 また大きく息を吸う。 苦しい。

 

 そして、一歩を踏み出した。

 "いい靴"を履いて、もっと前へ。  

 靴に合わせて、身体を歪ませて、どこまでも、どこまでも。

 

 


 

 

ファインドフィート

 消えたくない。 報いたい。   

 その一心だけで走ってきたけれど、なんだか疲れてしまった。

 生きていても苦しい事ばかり。 つらい事ばかり。

 ……けれど、それでも。 あの日、みんなに置いて行かれてしまったから。

 だから、前へ。 もう一歩、崖の先へ。

 

ミホノブルボン

 止めなければ、と思う。

 自分達は強い身体を持つが、それに釣り合うほどの頑強さを有さない。

 スーパーマンのような超人にはなれないのだ。

 だから、本当に壊れる時はあっという間。

 ……しかしだからと言って止めてしまえば、心が壊れてしまう。 壊してしまうのだと、半ば確信していた。

 つまりこれは、その先は、身体を取るか、心を取るかの二択である。

 その究極の二択を選ぶには、彼女は未だに幼すぎた。

 

トウカイテイオー

 究極の二択を選んだ。

 しかしその結末は夢と消え、少女の心へ癒えない亀裂を刻み込んだ。

 

ゴールドシップ

 面白きこともなき世を、面白く。

 ただ、それだけ。 それだけを求めていた。

 バカみたいに笑って怒って泣いて、また笑う。

 いつもそういうバカでいられるぐらいが、イチバン丁度いい。

 

『王冠』

 三女神とは三女神。 三柱揃って三女神。

 一つが腐れば他も腐る。 一つが堕ちれば、他も堕ちる。

 だから元々空っぽだった彼女には、あまりにも刺激が強すぎる。

 けれども、与えることは出来たから、彼女は正しく女神だった。

 

『海』

 三身同体。 三位一体。

 故にこそ、引き摺られて力を失う。

 空には帰れず、海底にも還れず、石像にすら戻れない。

 しかし、それでも義務はあったから、彼女は正しく女神だった。

 

『太陽』

 愛している。

 ただそれだけの感情を理解した。

 ただそれだけのために、ヒトに歩み寄った。 灼熱の指先を伸ばした。

 

 そうして女■は、初めて欠陥品になった。

 

 



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46話

 

 日を重ねるたびに、少しずつ視界が広がっていく。

 手を繋げる先を欠いたままだというのに、異なる時間を過ごす。

 異なる物を目にする。 異なる世界を生きていく。

 

 だから結局のところ、ファインドフィートはひとりなのだ。

 "一緒にいる"なんて言葉は、比喩以上の意味を有さなかった。

 

 けれど、それでも、なんて。

 愚かにもそう願ってしまったから、今がある。

 

 


 

 

 朝が来た。

 目を覚ましたファインドフィートが最初にすることは、枕元を見ることだった。

 瞼を押し上げて、眠気がこびりついたままの頭を持ち上げて、右ななめ後方へぐるりと視界を回す。

 そして、そこにある物が何の変哲もないただのデジタル時計であることを確認する。

 青色のフレームと、黒いディスプレイ。 そこに浮かぶ、薄暗い緑色の数字。

 本当に何の変哲もない、ただのデジタル時計である。

 

 たったそれだけの事実を確認して──彼女はようやく、呼吸を再開できる。

 何せ、デジタル時計には秒針がない。 ベルもない。 だから金切り音は鳴らせない。

 その事実が、強い安心感を齎してくれるのだ。

 

「……くぁ」

 

 こうしてまた、一日が始まった。

 ファインドフィートが退院して、トレセン学園へ帰還してからの二日目。 ミホノブルボンは未だに居ない。

 起き上がりながら横のベッドに視線を向け、その事実を確認する。

 そして、知らずのうちにため息を吐き出した。

 

 けれどそれは、どうしようもない事である。

 ミホノブルボンという少女はアスリートとして不動の地位を有しているが、故にこそ、多くの(しがらみ)も存在している。

 それは持つ者になったが故の義務であり、責務であり、生業のようなもの。

 

 そう、軽く頭を振って自分を納得させた。 ぱさりと、白い髪が顔を叩く。

 しばらくの間先輩の手入れを受けていない故に、少しだけ痛んでいるようにも見える。 微かに心がささくれた。

 

 ……だからと言って、今すぐどうこうできる物ではないのだが。

 それでも夜の行動予定にヘアケアを組み込んだのは、せめてもの足掻きだった。

 

「……はぁ」

 

 ──しかし、こんな事にかまけてばかりではいられない。

 朝というのは存外やることが多いのだ。

 

 手始めに寝巻きから制服へと着替えて、黒いニーソックスを膝裏まで引っ張り上げる。

 次に顔を洗い、髪を梳いて、歯を磨き。

 鏡の向こうの自分を、()()()調整して。

 それからようやく、朝食を済ませに掛かった。

 

「今日は……まぁ、これで良いでしょう。 何を選んでも大差はありませんし……」

 

 収納棚を開いた。 大胆な両開きとして内部をざっと見渡す。

 それから大して時間を掛けずに目当てのものを見つけ出し、ひょいと拾い上げた。

 それは所謂、ブロック型の食品だ。

 片手で持てるサイズの箱に入っていて、箱一つにつき個包装の袋が二つ。

 分けて食べることも可能であり、サイズ的に持ち運びも便利。

 忙しい日々を送るトレセン学園生には大助かりの素晴らしい品である。

 

「……」

 

 ぱさりと、軽い音を立てて開封する。

 ひょっこりと顔を覗かせたのは、分厚いビスケットのような──茶色で長方形のブロックだ。

 見た目からして味気はないが、その代わりに栄養満点。 二つ合わせて3000キロカロリー。

 

 朝食としてはやや物足りないが……不可という程ではない。

 ひとつ残念な点があるとするなら、それはビタミンバランスは微妙な事か。

 色々と都合が良いことは確かだが常食には向かない。

 

「ん……」

 

 それを、口いっぱいに頬張る。

 そして中の水分をまるごと奪われながら、もそもそと咀嚼する。

 

 パッケージに曰く、チョコレート味だ。

 それは彼女の好む物だったが……やはり、味はしない。 固形の空気を()んでいる感覚である。

 とにかく、時間を掛けて食べたい物ではなかった。

 つまりある程度まで噛み砕いたら、コップ一杯の水で胃の中へ流し込んでしまうのが一番良い。

 

「んぐ……っ」

 

 コップ一杯の水と共に、こぽこぽと食道を通る。 そして間を置かずに胃袋へ到達した。 少し重たい。

 完食するまでに同じ工程を四度繰り返すのは、それなりの手間だった。

 

 それからようやく登校を──とは、いかない。

 次に、一日の予定を立てるために携帯端末を確認する。

 授業の準備やライブのレッスンはもちろんだが、何よりも重要なのはトレーニングだ。 というよりも、トレーニングの予定を立てる事さえできるのなら他はどうでも良い。 最終的にレースで結果さえ残せば、多少の粗は補えるのだから。

 

 そう勇みながらもメッセージアプリを開いて。

 そして己のトレーナーから伝えられたスケジュールが"休養日"であることに、強く落胆した。

 

 ……故にファインドフィートは()()()()、自主練習を行う事にした。

 そうと決めてからの行動はとにかく早い。 メッセージアプリを開きながら目当ての名称を探し出し、併走トレーニングを申し込む。

 幸いにも、近過ぎず、遠過ぎもしない、丁度いい距離感の相手が存在していたが故の行動速度だ。

 

 なにせ、1ヶ月後には宝塚記念。 手前にはステップレース(前哨戦)の意味合いを兼ねて目黒記念に出走する予定だってある。

 加え、前回出ることのできなかったウイニングライブの補填──イベント事にも出る必要があった。 レースには直接的な関係はなくとも、必要な行事である。 彼女の心情はともかくとして。

 ……何にせよ、無駄にしていい時間は何処にもない。 ファインドフィートは、それを是と出来るほど()()ではない。

 少なくとも、彼女の目線ではそうだった。

 

「……もう、こんな時間ですか。 授業には遅れないようにしないと……」

 

 だから、学校の授業というのは無駄な面倒事の代表例である。

 ファインドフィートに必要なのは最低限の知識のみだというのに、学園側はあれもこれもと学習の機会を押し付ける。

 一般的なカリキュラムで学んだ所でどうしろというのか。 それが何の役に立つのか。

 やれ因数分解だの、古典だの、生物学だのと……使うタイミングをまったく想像できないのだ。

 

 けれどヘタに拒否してしまえば、それはそれで面倒事に発展する事も理解している。

 補習であったり、追試であったり、どれも練習時間を奪うイベントばかりだ。

 だからこそ、彼女は辛うじて──本当に辛うじて、最低限のモチベーションを保って授業に臨むことができていた。

 その状態でも平均付近の成績は有しているあたり、頭が悪いという訳ではないのだが──。

 

「……意味なんてないのに」

 

 ──その内面を明らめたとしても、これから先の動きに変化はない。

 

 ともかく、朝の身支度はそれで完了だ。

 今日の予定は午後の三時まで一般教養の授業。 それから自主練習。

 そして夜にはとある相手と併走トレーニングを行い、夜が更ける寸前には眠りにつく。

 完璧なスケジュール管理だ。 誰に誇るでもなく、小さく胸を張る。

 

 そうしてひとり、教室へ出発し──。

 

「っと……忘れる所でした」

 

 ──出発、する前に。

 いそいそと部屋の中央を横切り、窓辺に置いたじょうろを手に取った。 小振りな青色のじょうろだ。

 ついで傍らのペットボトルを掴み、中身の清水をじょうろに注ぐ。

 水量は──数字としては決めておらず、とりあえず軽く揺らして"とぷり"と鳴ればいい塩梅の合図だった。

 

 とく、とく、とくと水柱を立てる。 その間、数度の深呼吸を繰り返す。

 その回数に五を掛ける鼓動を重ねた頃が、大雑把な頃合いを示す目安だ。

 そして、じょうろを軽く揺らす。 "とぷり"と、小さく腹を鳴らした。

 つまり、厳密な意味合いでもいい塩梅である。

 

「……はやく、大きくなってくださいね」

 

 声をかけながら、水をやる。

 受け止めるのは窓辺に置いた植木鉢。

 植えられているのは白いアネモネ。

 それを毎日の習慣として、丁寧に世話を続けていた。

 

 そのおかげもあってか、白く優雅で大ぶりな花弁を開いたのだが……今となっては、少しばかり水々しさを失っている。

 が、そもそものアネモネの開花時期は二月から五月まで。

 そうと考えればまったく不自然ではなく、ある種の寿命として納得できる。

 

 ……それにこの花が枯れたとしても、そこで終わりではない。

 ファインドフィートは、このアネモネを増やすつもりだった。

 所謂"分球"と呼ばれる手法を用い、球根を分けて、増やす。

 今となっては数少ない、楽しみにしている目標だ。

 

 しかし、さて。

 この花も、知識も、()に与えて貰ったのだったか。

 

 水を注ぎ終わってから、ふと考え込んだ。

 彼女は、自ら進んで花を育てる気質ではない。 他ならぬ彼女自身が知っている。

 当然、それにまつわる知識なんて有していない、筈だった。

 ……けれど今のファインドフィートは花を育てられている。

 だから急に、気になってしまったのだ。

 

 何故、どうして。

 誰が、何のために。

 それらの断片を求め、記憶の海を探せど探せど見つからない。

 ぽっかりと穴が空いたように、何も思い出せない。 空白地帯はあまりにも広すぎた。

 

 そして生憎と、その理由には心当たりがある。

 自身の首筋を撫ぜ、舌先──つい最近失ったばかりの味覚の残骸で、唇をちろりと舐めた。

 ……つまり、()()()()()()である。

 

「なら尚更、しっかりと増やしてあげないと……」

 

 そう、自分の中で疑問を出して、自分の中で完結させて。

 ファインドフィートは、白い花びらを視線でなぞった。 それは枯れかけでありながら、美しい生命の息吹を感じさせてくれる。 だからこの花はきっと、ここで生きているのだ。

 狭い世界(うえきばち)の中で、限りある僅かな時間の中で、きっと。

 

「……。

 よし……これで本当の本当に、準備万端ですね」

 

 惜しむでもなく、滔々と囁いて、少女は再び鞄を取った。

 そしてドアへ歩み寄る。 取手を握る。

 一呼吸の後にまた、僅かに振り返って──小さく、微かに、唇を震わせた。

 

「……行ってきます」

 

 行ってきます。 それと対になる言葉は"行ってらっしゃい"、だろうか。

 当然、そのような返事は掛けられない。 そんな物がある訳ない。 この部屋で目覚めたのはファインドフィートだけなのだから。

 その幼いソプラノボイスがただ、壁に染みて。 床に染みて。 棚を撫でて、ベッドを舐める。

 

 ……それだけだ。

 それだけが現実だ。 返ってくる物は何もない。

 だからここは、彼女の家ではなかった。

 

 

 ◆

 

 

 ──そして、昼。 教室にて。

 

「──であるから、メンデルが遺伝の規則性を発見したわけなんですねぇ。

 では45ページを開いてください……ええ、45ページ。

 開きましたね? 結構……ではまず、最初の見出しを見てください。

 エンドウ豆の写真があるあたりですね。 メンデルはこのようなエンドウ豆を何世代にも渡って観察し──」

 

 窓の向こうから日差しが射す中、目を細めて黒板を眺めた。

 視線の先ではチョークが踊っている。 縦横無尽に走り回り、あれやこれやと規則的に停止と始動を繰り返す。

 そうしてカツカツと音を立てて、白い文字を綴っていた。

 

 合わせて垂れ流される講釈をノートに書き記して、教師の声に耳を傾ける。

 ベテランの女性教師である彼女は年若い女学生の相手も手慣れている様子だ。

 可能な限り飽きさせないよう工夫を凝らしていることは、受ける側のファインドフィートでさえもよく分かる。

 例えば、話のテンポ。 例えば、合間に挟む小話。 例えば、とある教師のちょっとしたミスの話──というのは、少しばかり可哀想だったが。

 

 ……だから、申し訳なく感じる。

 彼女にとってはそれでも、眠くなりそうなほど退屈な時間だった。

 こんな知識があった所でどうしろというのかと、また大真面目に考え込んでしまった。

 例えばこれがスポーツ生理学であったり、栄養学であったり、そういう()に直結するものであればまだマシだ。

 けれど一般教養に関しては、使う場面をとんと想像できなかった。

 

「──」

 

 指の背にペンを乗せて、くるりと回す。 集中できない。

 授業は進む。 時間も流れる。 彼女が何を考えていようと止まらない。

 

 ならば、どうせなら自主練習のメニューでも組んでしまおうかと、ふと思いついて。

 経験則だけを頼りに、ペンをぎこちなく走らせ始めた。

 書いて、止まって、書いて、止まって。 幾度となく停止と再開を繰り返しながら思考を凝らす。

 

 教師の声と、ペンの芯が削れる音。

 黒板にチョークがぶつかる音と、時折交ざる少女たちのささやき声。

 静寂の中に微かな喧騒が混在する曖昧な空間。

 ファインドフィートもそれを構成する一片となり、黙々と手を動かしていた。

 見つかれば叱られてしまう可能性はあるが、しかし、結果さえ良ければそれでいいのだ。

 結果さえあれば、その過程の正当性を主張できる。

 

 だから、何も問題はない。

 

 

 ◆

 

 

 夕方になった。

 12時間制で表すと午後の6時。

 24時間制で表せば18時。 いわゆる逢魔ヶ時である。

 

 授業終了後、自室へ荷物を置いて運動着へ着替えて。

 ファインドフィートは最低限の荷物だけを抱えて、学園外へ続く校門の傍らに立ち尽くしていた。

 そこは物陰にあたる部分である故に、然程目立たない良いポジションだった。

 

 それからは特に何をするでもなく、薄ぼんやりと空を見上げた。 美しい、黄昏色の空だ。

 姉の瞳の(あさ)ではなく、自分の瞳の(ひる)でもない、腐った傷口の(よる)でもない、中途半端な色の空。

 少女は、この混ざり合う空の色が好きだった。

 

 そんな空を仰いで、胸を張って。

 背中を外壁に預け、僅かな時間だけ立ち止まって──ふつふつと、脳裏を焦がす熱に蓋をする。

 必要な事であるなら、私心の一切は踏み潰すべきなのだから。

 

「……まだ、ですかね」

 

 携帯端末を取り出し、メッセージアプリを開いた。

 履歴欄の一番上からは意図的に目を逸らし──二番目にある名前を叩く。

 メッセージの最新発信日時は今日の朝。 内容は併走トレーニングのお誘い。

 その指定時間は今から十分後だ。 故に、相手は未だ表れず。

 つまり今の彼女は、完全に手持ち無沙汰だった。

 

 出来ることと言えば、空を仰いで流れる雲を眺める程度。

 自由なそれらを視界に収めて、何もせずに立ち尽くす。

 

 ──立ち尽くして、それからほんの数分後の事だった。

 がさり、と土を踏む音が鼓膜を叩く。

 断続的に連鎖するそれは発生源を変えて、少しずつファインドフィートのもとへと近付いてきた。

 反射的に耳を揺らして、音の質を検めてみる。 それは待ち合わせ相手──マンハッタンカフェのものだ。

 思っていたよりも早かったな、とか。 最初に何と言おうか、と、つらつらと考えつつ、音の発生源へと視線を向けた。

 

「……?」

 

 ……しかし、どうしたことか。 その先には、誰もいない。

 そこには普段通りの光景……つまり、道の脇の茂みがあるばかりだ。

 探していたマンハッタンカフェの黒い姿は、どこにも見当たらない。

 

 聞き間違え、だったのか。

 あり得ない事はではない。 もしかすると、何処か疲れが溜まっているのかもしれない。

 そう考え、ため息を一つ吐いた。

 そして視線を元の真正面へと差し向け──。

 

『こんにちは』

 

 ──ひゅ、と喉がひきつった。 単純な驚愕で。

 

 いつの間に近付いていたのか。

 すぐ目の前から声を掛けてきたそれは、驚くほどに黒かった。

 一瞬、影がヒトの形をとったのかと──ヒトではない怪物が現れたのではないかと、心の底から冷え込んでしまうほどに。

 

 が、次の瞬間には肌の白色を見つけることができたから、辛うじての平静を取り戻す。

 ただ、腰よりも長い黒髪(あおかげ)の印象が大きいだけ。

 頭頂部には白色の髪の毛が垂れているし、肌は白く、制服の色は紫系統で、装飾も黒ばかりではない。

 だからそれは決して、黒一色の人形ではない。

 

 そこに気付いてしまえば、すぐにそれが少女の形をしていて、見知った人物の装いである事も理解できた。

 ……しかし、胸の動悸は中々収まらない。

 

「こん……にち、は……?」

 

 それに、どうしてか。

 その姿を見ても──記憶の中にあるマンハッタンカフェと、等号で結びつかない。

 何故だろう、と首を傾げる。

 

 そしてもう一度、黒い姿を見た。

 その足元を見て。 ほんのちょっと視線を上げて、顔に視線を向けて。

 そこでようやく──"ああ、お月様が見えないからか"、なんて。 口の中だけで小さく呟く。

 綺麗に輝く双眸の金。 それが前髪の黒に隠されて、ちっとも見えなくなっていたから。

 だから目の前の少女と記憶の中の少女が結びつかない。

 

「……いえ、失礼しました。

 ええと……その、今日は急なお願いをしてしまって申し訳ありません」

 

 それでも。

 事の流れからして、目の前の少女はマンハッタンカフェの筈だ。

 

『…………』

「えっ、と……カフェさん……?」

 

 ──が、相対する少女は何も言わない。 動きもしない。

 暗がりの中に立ち尽くすばかりだ。

 ひゅうひゅうと風が吹いているのに、その長髪さえ微動だにしていない。

 毛量には大差のないファインドフィートの髪が、揺れているにも関わらず。

 

「…………カフェさん?」

 

 その、事実に気付いてしまって。 ひやりと、背筋に冷たい熱が籠もる。 尻尾の毛がほんの少し逆立つ。

 無意識のうちに腰を低め、歩幅を大きく開いてしまっていた。 すぐにでも駆け出せる体勢だ。

 それを何故か、と疑問に思いはしない。

 ただ、大きな吐息を漏らした。 くるる、と喉が鳴る。 まるで獣のように。

 

 つまりこれは、本能的な恐怖による防衛反応だった。

 

『────』

 

 そんな警戒を。 否、怯えを知ってか知らずか。

 その黒い少女はただ、ぬるりと足を踏み出した。

 力強く、有無を言わせぬ圧を伴って。 しかし、そこにあるべき足音が存在せず──。

 

 ──()()を察知してからのファインドフィートの動きは極めて俊敏だった。

 流れるように後方へ身体を投げ出し、体幹の力で強引に姿勢を整えて、初動から最高速へ到達する。

 

『顔、よく見せて』

 

 否、不発だ。

 そうして逃げ出そうとした彼女はしかし、肩を掴まれ封じられた。

 行動の起点を潰し、過程を遮断する。 そうしてしまえば誰であろうと動けなくなる。 まったく道理である。

 

「……っ」

 

 が、道理も通理もどちらだろうと、それらを解する余裕など今の彼女に存在しない。

 頭の中が真っ白に染まる。 思考が停止した。

 ファインドフィートはその場に縫い止められ、固唾をのんで、見えない顔を見つめ返すことしか出来なかった。

 ずい、と寸前にまで寄せられた顔を。

 こんなにも近付いたのに、まったく見えない顔の中を。

 

「……あな、たは」

 

 ただ、見つめ返す。

 相対する少女がどんな顔立ちで、どんな目をしているのか、欠片すら把握できないのに。

 

 これは誰なのか。 何故、マンハッタンカフェと見紛うたのか。

 分からない。 分からない。 分からない。

 これが良いものなのか悪いものなのかも分からない。

 これが未知の存在である事しか、分からない。

 

 理解できないままで時間が流れる。

 理解の及ばぬ内に、理解の及ばぬ少女が、ファインドフィートの顔を覗き込んで。

 できるのは、ただ、蛇に睨まれた蛙のように固まることだけ。

 

『娘、孫……違う。

 ……たぶん、ひ孫?』

「…………は……?」

 

 ──けれども、危害を加えられる様子はない。

 その黒い少女は風のような声音で語るのみだ。 ひゅうひゅうと、少女の鼓膜を撫ぜている。

 言葉の意味は──確かに、理解できた、けれど。 その真意は一切理解できない。

 

『ひ孫』

 

 そして、その断定的な語調が困惑さえも置き去りにしてしまう。

 そうして動きを止めたファインドフィートの肩から手を離し、さらりと首筋を掠めて。

 先程までとは別種の恐怖が、腹の底から湧き上がった。

 

『ねぇ、ひ孫。 それと付き合っていても、良いことなんて何もないよ』

「ま、ってください。 あなたは、何を」

『……いま、言っても聞こえないだろうから。

 とりあえず出来ることだけしておくね。 対症療法、だけど……いまは、まだ』

 

 何を言っているのか。 何を知っているのか。

 考える。 考える。 しかし、思考速度が追いつかない。 現実感が欠けるほどに。

 

『……本当に、何故、こんなにも……』

 

 けれど掴まれた肩に感じる圧力が、ファインドフィートの現在を保証していた。

 肩が重く、沈み──。

 

 

「……フィートさん?」

 

 ──すぐ後方から、足音が鳴った。 はっと、息を呑む。

 真っ白に染まる脳内に真隙を生む刺激だ。 それを受けて咄嗟に振り返った。

 

 そこにあるのは黒い少女の姿。

 ただし先程までとは違い、丸い黄金の双眸がぼんやり煌くのがよく見える。

 

「カフェ、さん?」

 

 かひゅ、と喉が鳴る。

 それは正常な呼吸を再開する寸前の呼び水だった。

 

「……はい。 マンハッタンカフェ、です。

 少しだけ、夜の散歩へ向かおうとしているだけの、無害なウマ娘ですよ」

「本、物……じゃあ、さっきまでのは」

 

 また、元の方向へ視線を向けた。 何も居ない。

 まるで煙のように影も形もなくなった。

 

 だから当然肩を掴むものは何もなくて、また普段通りに動き出せる。

 それを理解してようやく──少女は、ようやく正常な呼吸を取り戻した。

 

「……幻覚? いえ、まさか……」

 

 夢。 あるいは幻。 白昼夢。 存在しないもの。

 つまり、ファインドフィートはそういったものを見ていたのだと、今ある現実が斯様に語っている。

 足跡は特になく、周辺に異変もない。 あるかもしれない痕跡は、彼女の頭の中にしか存在しないのだから。

 

「……疲れが、溜まっているのかもしれません」

「それは……あまり、良くないですね。

 今日のトレーニングは──」

「いえ、そこに関しては問題ないんです。

 ただ、こう……気疲れ、というのでしょうか。 そういったものが溜まっている、ような……」

「……でしたら、トレーニングが終わったら……小さな、お茶会を開きましょう。

 コップいっぱいのコーヒーと、二切れの甘いカステラ……心を癒やすための、特効薬です」

「…………そう、ですね」

 

 大きく、深い溜息を吐き出して。

 指先で瞼をこすり、普段通りの平常を装う。 一週間と少しほど前であれば、喜んでいたに違いない。

 

 彼女は、甘いものが大好きだった。

 甘いものは無条件に心を解きほぐしてくれる。 甘いものはあの日のぬくもりを思い出させてくれる。 母親がころころと笑う声父親が困った様子で肩を落とす姿。 姉と共に、いちごのショートケーキを分け合った食卓。

 甘味はその過去に通じていて、故に記憶の導線である。

 歳を重ねても色褪せぬそれは、ある種の安らぎの象徴だった。

 

 ……けれど。

 今となっては、もう。

 

「……いえ、失礼しました。 何でもありません」

 

 痛みを、飲み込む。

 これ以上横道にそれるべきではないと、己を強く律する。

 そもそもファインドフィートは、あくまでもトレーニングを求めていた。

 とはいえ単独でのトレーニングは限界がある故に、さらなる質の良さを求めてマンハッタンカフェに依頼までして、寮の自室を抜け出した。

 

 再度、今までの過程を思い浮かべて脳内に叩き込む。

 先程までの光景は、恐怖は、その根源は──きっと、考えるべきではないことだ。

 

「……カフェさん。

 実は双子のご姉妹がいらっしゃったり、しませんか?」

「────」

 

 ……それでも、口を開いてしまった。

 忘れるべき感慨から漏れ出した残滓を、ぽつりと。

 

 実際のところ、大して深い意味を込めた訳ではない。

 事の裏を考察しようというつもりもない。 今の彼女に、それほどの余剰リソースは存在しないのだから。

 

 だから隣の息を呑む音を聞いて、何かしらを考え込みはしない。

 しない、けれど。

 

 もしもあれが、あの少女が。

 ファインドフィートが思っていたような存在であれば──もしかしたら、()()()()可能性もあったのかもしれないな、なんて。

 出来損ないの感傷を、ほんのちょっぴり抱え込むだけ。

 実際は違う様子だったから何の意味も無いのだが。

 

「……なる、ほど。

 私は……今も昔も、一人っ子ですよ」

「そう、ですか……」

 

 ──道の脇。 緑の茂み。 黄昏色の光が届かない奥の暗がりへ、なんとなしに視線を向ける。

 そこには誰もいない。 誰かが居た痕跡もない。

 ただの、影溜まりがあるだけだった。

 

 


 

 

『青い日記帳』

 ボロボロの日記帳。 もう何年間も使い続けている物。

 故に当然ながら、残りの白紙は殆ど残っていない。

 けれどきっと、それで十分だった。

 完成するまで、あと──。

 

『木の棒』

 握りやすいだけの、ただの棒切れ。

 野外に転がっていただけのこれに、大した意味はない。

 意味があったとしても、思い出せない。   

 

『白いアネモネ』

 艶のない白い花。 ファインドフィートの数少ない私物。

 誰に貰ったのかは、思い出せない。

 

『車』

 普遍的な文明の利器。

 これのお陰で、人々はウマ娘にも頼らずに移動できるようになった。

 ウマ娘よりも速く、ヒトよりも長く走り、どこか遠くへ連れて行く。

 だから家族を連れて行ったこれは、紛うことなき恐怖の象徴だった。

 

『目覚まし時計』

 チックタック、チックタック。 カチ、コチ。 カチ、コチ。

 時を刻む。 音を鳴らす。 くるりくるりと針を回した。

 秒針は軽やかに、分針は重々しく。 時針は、老人のように鈍間な動きで。

 

 チックタック、チックタック。 カチ、コチ。 カチ、コチ。

 そうして時を刻みながら、静かに出番を待っている。

 そして、時計の上部で二つのベルがピカピカに輝いていた。

 それらはきっと、さぞ喧しい音を奏でるに違いない。

 

 



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47話

 

 目を隠した少女へ向けて、地を跳ねる虫が語った。

 俺は自由に生きている。

 自由に産まれ、勝手に草を()み、気ままに水を浴び、多くの子を残し、やがて死ぬ。

 

 そして俺の子も同じように生きて、子の子を残してやがて死ぬ。

 俺の子の子も同じだ。 俺の子の子の子も同じだ。 俺の子の子の子の子の子の子の末の子まで同じだ。

 俺の命はそうして、世界の何処かに残り続ける。

 

 なあ、お前はどうだ。

 何かを残せるのか。

 

 


 

 

 ファインドフィートが思うに。

 人生における正しさとは、最後の最後の瞬間にようやく確定するものだ。

 過程の好悪、正否、価値の高低。 それらは結局、生み出した結果次第で如何様にも変化してしまう。

 故に完成品になるまでは、その過程の真価を推し量れない。

 

 では、それを推し量る正しさとは何か。

 

 正しさと過ちを分ける基準点はどこにある。

 数字では示せない。 重さを量ることもできない。 故に定数で表せないそれは、どこにあるのか。

 それは、どこにあるべきなのか──。

 

 

 ──なんて。

 朝食のブロック食品を頬張りながら、そんな事をつらつらと考える。

 そんな彼女はパジャマ姿のままで、瞼は半分ほどまで下りていた。

 誰の目で見ても、先日の疲労が癒えていない様子は明らかだった。 肉体的な疲労も精神的な疲労も、両方の意味で。

 とはいえ、目覚めた(枕元の確認)直後だけはもう少し意識が定まっていたのだが──。

 しかしこうして食事をしている今は、拭いきれない眠気が頭の中に残留したままである。

 

 そして、だからこそというべきか。

 思考回路が眠気によって、不規則な軌道を描いていた。

 あれやこれやと無関係な事柄まで、水底からふわふわと浮かび上がる泡のように。

 

 ……とはいえ、簡単に弾けてしまう思考のノイズでしかない。

 完全に目を覚ます頃には記憶の中から消え失せている、儚く脆い泡だ。

 

 その思考を言葉として外に出すでもなく、頭の中だけで自由に遊ばせる。

 ふわふわ、ぷかぷかと、やがて正気になるまでの一時で。

 

「……んぁ」

 

 こくり。 首が船を漕いだ。

 頭頂部の寝癖がつられて揺れて、第三の耳の如くに振る舞った。

 

 なにせ今日は土曜日。 多少は気が抜けてしまうのも仕方がない。

 ……などと、眠気で霞む頭のまま、簡潔な自己弁護を図って。

 そしてもう一度、こくりと船を漕いだ。 随分と進みの良い船である。

 

 半ば無意識の状態で、しかし口だけはもそもそと咀嚼を遂行していた。

 そこからある程度噛み砕いたら水で流し込み、胃を満たして、またブロックを頬張る。 それなりに小慣れた動作だった。

 

「食べたら、着替えて……今日は、ライブの、レッスン……に……」

 

 こくり。 船を漕ぐ。 首を傾ける。

 有り体に言えば、今の彼女は寝不足だった。 トレーニング強度の調整に不慣れである故の弊害。

 根本的な原因は──トレーナーにも隠れて自主練習を行っているからこその、不器用な足掻きの結果だ。 なのだから、彼女はこの眠気を忌まわしく思うだけの正当性を有さなかった。

 

「……はやく、進まないと」

 

 それでも、必死に足掻いて眠気を振りほどく。

 目をこすり、身体を伸ばす。 背筋を反らし、首を傾け、体中の筋を伸ばして血の巡りを早める。

 そうする内に無駄な泡が何個も何個も弾けていった。

 

 そしてまた咀嚼を繰り返し──最後に水を飲んで、一息をついて。

 その工程を完全に終える頃には、ファインドフィートの目は完全に覚めていた。

 

「今日も、無駄にしないために」

 

 パジャマを脱いで制服へ。

 歯を磨いて髪を梳かし、鏡を通して自分を調整する。

 もちろん今日も忘れず花の世話を済ませて、ようやく朝の準備を完了とした。

 

 ここからまた、彼女の一日が始まる。

 腹の底から湧くほんの少しの気怠さを必死に振り払い、白い指先で鞄を取る。

 

 今日はファインドフィートが学園に戻って三日後。

 つまり、ミホノブルボンが出先から帰ってくる日だ。

 だから……どうせなら、何にもケチをつけないままで、彼女の出迎えに臨みたかった。

 

 この過程の良し悪しでさえ、結局は、結果次第で変わるのだけれど。

 

 

 ◆

 

 

「ステップ、ターン、ステップ、ステップ……そこで右回転!」

「つ……!」

「表情硬いよ!もっと笑って!」

「……っ!」

 

 女性講師の声が、広いホールへ響き渡る。

 鋭く、凛々しい叱咤がファインドフィートの総身を叩いた。

 

 その指摘の意味を咀嚼し、噛み砕き、理解できる範疇に落とし込んで自身の動作に反映する。

 そうして完成度を増した動作へと、講師の声が幾度目かの指摘を叩き込んだ。

 足を踏み込みサイドステップ、くるりと舞って左向き。 手を伸ばして指を振るう。

 動きにつられて一本結の白髪が、尻尾のように大きく揺れた。

 

「ステップ、ジャンプ、左を見てハンドサイン!」

「く……っ!」

「っと、ちょっとストップ。 音楽止めるよ!」

 

 矢継ぎ早に告げられる情報は濁流のごとく。

 知識が未熟な頭蓋に余さず詰め込まれ、指導によって半ば強制的に理解させられる。

 レッスンという時間は、そういう繰り返しの研鑽に満たされていた。

 

 その上、このダンス専門の講師は、時に抽象的な指摘さえ投げ込んでくる。

 それが今のファインドフィートにはひどく難解であり、山よりも高い壁にさえ等しいというのに。

 

「そこのステップは柔らかに、力強く!床を蹴るんじゃなくて踏んで飛ぶ感じで……ほら、見てて!

 こう、して、こう!」

「……ん。 こう、足首を、緩めて……こう?」

「違う違う、力を抜くだけだと転んで怪我しちゃうよ!

 ちゃんと芯を残して……はい、お腹に力を込めて、床を踏んで!」

「ん……っ!」

「いいよいいヨっ!そんな感じ!」

 

 とはいえ正直な所、彼女自身には大したやる気がない。

 歌だの踊りだの、トークショーだの何だのと。

 それらに向ける熱意なんぞ殆ど有さず、興味だって然程ない。 彼女にとってはあくまでもテレビの向こう側という意識が強く、それは3年目となった今でさえ拭いきれていない。

 

 ……無論、ファインドフィートもこれが必要なことだとは理解している。

 大舞台で走る上での義務であると、理解はしている。

 声援を送ってくれる存在への感謝は有しているし、その為の、応報の場である事も。

 

 が、しかし、大本の気性のせいか。

 他人の前でそういった芸事を披露するという行為に、形容しがたい忌避感を感じてしまうのだ。

 その忌避感は、戸惑いや、羞恥心と言いかえても語弊はない。 この一点においてはどちらもほぼ同じ物だからだ。

 

 ともかくそれ故に、彼女自身にやる気はなかった。

 ……けれど、これも必要な事だ。

 少しでもより綺麗な『ファインドフィート』の姿を見せるために、必要な事。

 

 そうと思えば、四の五の言わずに研鑽を積み重ねるべきである。

 己に言い聞かせて、また教えを乞うて実践を続けていく。 踊って跳ねて、表情を捏ねて──少しでも多くの瑕疵を取り除いていく。

 その姿が後の世へ残るのだと思えば、やる気はなくとも真摯に練習できる。

 

「……っと、もう終わりの時間ね……じゃ、クールダウンを済ませましょうか。

 その間にあなたのトレーナーに連絡しておくからネ」

「……っ、ええ、よろしくお願いします……」

 

 ──レッスン終了の合図の訪れは存外早かった。 少なくとも、彼女の想定よりは。

 

 休めの指令を四肢へ送り、ゆるゆると長い息を吐く。

 高い体温で熱せられた吐息は白い蒸気となり、不定形の柱となって立ち上った。

 ダンスという運動は普段とは別種の疲労を与える物である。

 それこそ、彼女としては長距離走のトレーニングを終えた後よりも疲れてしまう程だ。

 

「はぁ……」

 

 髪を解く。 白の芦毛が、ぱさりと大きく広がった。

 そのまま頭を左右へと軽く振り、大雑把にまとめて。 そして一度大きな伸びをする。

 ぎちり、ぎりりと進展する筋繊維が開放感に打ち震えた。

 そうして、熱を持った身体を丁寧に解きほぐしながら脈拍を穏やかに鎮めて──もう一度、長い息を吐く。 肺の中身を空っぽにして、新鮮な空気へ入れ換えて。

 くぅくぅと、腹が鳴る。

 

「……」

 

 ……咄嗟に右手のひらで押さえ付ける。

 ついで、横目で講師の姿を確認した。

 電話に集中している様子でファインドフィートの方は見ていない。 それを認めて、ほっと息をつく。

 

 けれど変わらず、腹は減っていた。 我慢はできる程だが、しかし空腹だ。

 それはつまり、単純な面倒事だった。 不快感さえある。

 何せ今の彼女には味覚が存在しないのだから、以前までのように食事を楽しみにする余地は存在しない。

 ただの、面倒な作業に成り下がっていた。

 

 ──なんて、愚痴ですらない独白を心の裡だけに零して、生ぬるい空気を()み続ける。

 

 だからそれよりも、今はただ、外に出たかった。

 あと二時間でミホノブルボンが帰ってくるから、出迎えたい。

 もちろん、出迎えるというのなら対面で待ち構えてこそである。

 帰って来た人物を、外に出て迎える。 彼女が望むのは何ら変哲のないそれである。

 

 出迎える事が出来るのは、それが無駄とならないのは。

 彼女にとって、これ以上ないほどの救い(代償行為)だったから。

 

 

 ◆

 

 

 待つ。

 ただ、待つ。

 

 黄昏色の空の下、寮の玄関脇──建物の側壁の陰で、聞き慣れた足音を待ちぼうける。

 視界は通っていないが、別に姿は見えなくとも問題ない。

 必要なのは足音だけだ。 それさえあればミホノブルボンの帰還を察知できる。

 いわゆる歩容認証……と称するほど大仰な物ではなく。 獣じみた感性と、高度に発達した聴力、そして個人の記憶力によって支えられる、ちょっとした小技だった。

 

「……17時、34分……」

 

 左手首の裏側、デジタル式の腕時計へ視線を落とし、悠々と息を()んだ。

 

 今日の彼女がやるべきことは、全て終えた。

 自主練習もレッスンも済ませた。 勉強だって、予定通りに修了している。

 だから、今の彼女にこれ以上出来ることは何もなく。

 殉じるべき必要な事は既に払底(ふってい)していて、だから、彼女の行動に不当性は存在しない。 許されるべき行いだ。

 

 ……とはいえ、これから使えるのはほんの一、二時間程度。

 夜になれば明日以降に備えて()()()な休息を取り、より早く損傷を癒やし、より強く身体を育てなければならない。

 彼女の一日とはその為にあって、彼女の気力はその為に費やされるべき物だった。 なのだから、やはり、優先順位は設けざるを得ない。 仕方がない事である。

 

 息が詰まりそうだ、とは思っている。

 苦しみも痛みも、全て正常に感じ取っている。 麻痺なんてしていない。

 けれど、それを選んだのはファインドフィートだった。

 失ってきた過去が、彼女の背を後押しするのだから──否定なんぞできる筈がない。

 

「……」

 

 視線が腕時計を通り越す。 建物の陰の湿気った雑草に向けられる。

 時間が時間だ。 日光は殆どさしていない。

 けれど小さな虫達にとってはお構いなしの様子で、薄暗い中を元気に跳ねていた。

 矮小な身丈でありながら、一丁前にかさりかさりと草を踏み。

 

「……バッタ。 お前は、自由ですね」

 

 緑色がぴょんと跳ねる。 小さいバッタだ。

 跳ねて飛んで、一際太い後ろ足で元気に強く飛び跳ねた。

 

 そしてそのバッタが到達したのは、ファインドフィートのつま先の五寸先。

 矮小な身体でありながら、存在感を誇示する緑のバッタが、無機質な眼でファインドフィートを見上げていた。

 無論、ファインドフィートはバッタよりも遥かに大きい。

 そんな少女を見て、しかし動じることはなく、ぷいと視線を逸らして──また、自由気ままに草の間を飛んでいった。

 

「お前が……少しだけ、羨ましいです」

 

 緑の背中を見送る。 視力が衰えていたせいで、あっという間に見失ってしまったけれど。

 それでも芝の緑の中に消えるまで、消えた後も見つめていた。

 

 そんな彼女等の事情はお構いなしに、光は変わらず落ちていく。 少しずつ、着実に、夜の時間が迫り来る。

 時計の針とは止まらず進んでいくものだ。 正しい通理である。

 

「ぁ……」

 

 ──そしてついに、聞き慣れた足音を捉えた。 思わず耳が揺れてしまう。

 音の発生源は、玄関へと続く道の向こう側だった。

 

 物陰からひょっこりと顔を覗かせる。

 次いで機敏に──ではなく、もたついた動きで歩き出した。 疲労感が機敏な動きを封じてしまった。

 

 けれど足音は変わらず、こつこつと鳴っている。

 規則正しいリズムにズレはなく、機械のように緻密な連なりだ。

 その音の主が姿を見せる前に、どうにか玄関前を陣取った。 彼女が思う出迎えとはそういう物だった。

 

 こつこつと靴音が鳴る。 こつこつと、こつこつと。

 それから凡そ20歩程度。 距離にして約15メートル。

 一歩の音を捉える度に耳を揺らし、逸る心を落ち着かせ、待つ。

 そして一秒が十倍に引き伸ばされるかのような感覚を経て──ついに、見慣れた栗毛の長髪を認めた。

 

「……おかえりなさい、ブルボン先輩」

「おや……フィートさん」

 

 静かな出迎えの声は、不足なくミホノブルボンのもとへ届いた様子だ。

 玄関口の代わりに姿を晒した少女を見て、ぱちくりと瞬く。 薄暗い空の下でも変わらぬ青が、微かな喜びを表していた。

 

「はい、ミホノブルボン、ただいま戻りました。 ……フィートさんも、おかえりなさい」

「……ええ。 ただいま、です」

 

 おかえりなさい。

 ただいま。

 何気ない言葉のやり取りだ。

 

 けれどファインドフィートにとって、おかえりと言えるのはとても素晴らしい出来事なのだ。 いっそ、魔法に等しいとさえ感じる程に。

 おかえりが言えるのであれば、つまり、相手も自分も揃っているという事。

 口から出た言葉が届いて、そしてただいまと返ってくるという事。

 それが、何よりも嬉しかった。 普遍的で平凡なこのやり取りが出来る事そのものが、どうしようもなく。

 

「さぁ、部屋に帰りましょう。

 今日のために色々と揃えたんですよ。 ……トレーナーのカードで、ですが」

「なるほど……ステータス、『高揚』を検知。 つまり……ありがとうございます。

 カードは後で返しに行きましょうね」

「えぇ……まぁ、あのひとはあまり頓着しなさそうですね。

 ……お礼も兼ねて、ついでにご飯でも持っていってあげましょうか」

 

 何気ないやり取りを交わしながら靴を脱ぐ。

 そしてスリッパに履き替えて、階段を上り、通路を抜けて。

 行き着いた先の自室のドアを静かに開いた。 こうして一週間以上の間を空け、部屋の主たる二人が揃う。

 

 

 ミホノブルボンが鞄を置いた。 大きなため息の音が染みる。

 そんな彼女を労るために、ファインドフィートが温かい飲み物を揃えるのだ。 もちろん、ついでに茶菓子も付け合わせて。

 

 彼女がほんの一手間を掛けて用意したのは……甘いミルクティーや、それによく合うバターたっぷりのクッキー。 雰囲気を彩る、品のよい白磁のティーセット。

 今の彼女に味覚はないから、それら全てが相手の為のものだった。

 

 しかし、揃えたカップと皿は2セット。

 それらを机の上に置いて──また、とめどない話を続ける。

 

 話題といえば、出張先、もとい地方のイベントの出来事。

 優しいスタッフの事や、迷子の子供を助けた話。

 たまたま立ち寄った甘味処で食べた饅頭が美味しかっただとか、道端で見つけた猫が可愛かっただとか。

 そういう大した起伏のない話を聞いて、耳を揺らし、飽きもせずに相槌をうつ。

 

 とはいえ、ファインドフィートに大袈裟な反応は出来ない。

 喜んで見せることも、嘆いて見せることも、怒って見せることも、何も出来やしない。 情動を表せるのは耳や尻尾が精々だ。

 だとしてもミホノブルボンにとっては十分な情報源であって、不足などは何も無い。

 

「……その、フィートさん」

 

 3年間という月日は──互いの内面を理解する時間として、十分すぎた。

 その耳や尻尾の動きだけではなく、視線の動作や、指先を擦り合わせる癖。 意味もなく唇を舐める仕草。

 多岐にわたる仕草を統合し、内面の情緒を推測する事さえ可能としていた。

 

 そんな彼女だから、平常時との差異に気付ける。

 白い少女の白い顔は常よりも尚翳っていて。

 裏にある濁りは腐敗を重ねて、今にも外殻のヒビから滴り落ちそうで。

 

「……」

 

 ──その理由には思い当たる物があったから、これが錯覚ではないと確信できてしまえる。

 繊細なバランスの上で成り立つ精神が、破綻を迎えかけているのではないか、と。

 薄々抱いていた予感が明瞭な像を結び、ぬらりと口を開く。 そして、生ぬるい臭気が肩を舐めた。

 

「その……。 一つ、聞きたいことがあります。

 天皇賞の春が終わって以降、テイオーさんと会いましたか?」

 

 ──では、どうするべきなのか。

 目線を合わせながら、鉄仮面の裏で思考を回す。

 あの日に何があったのか──なんて、そんな事は知っている。 事の起こりも事の終わりも、他ならぬ当人から聞いていた。

 

 曰く、失敗してしまったと。 己は負けて、約束の縄で縛り上げることも出来ず。

 むしろ追い込む結果になってしまったと、トウカイテイオー自身の口から聞いていた。

 それは電話越しであったから、詳細部分にあるはずの細やかな情動のやり取りは拾い上げられなかったけれど。

 しかし音に滲んでいた後悔が、拭いきれない嫌な予感を大きく育ててしまって。

 

「……テイオーさんとは、その……少し、気不味くて。

 決してテイオーさんが悪い訳じゃないんです。 悪いとしたら、それはわたしだけ。

 あのひとは間違っていなくて、わたしが間違えていて……だから、結果で正すまでは会えないんです」

 

 ──だから、その結実がこれだった。

 独白を聞いて、あぁと、僅かに天を仰ぐ。

 囁くような声音に深い濁りが纏わりついている。 どろどろと、ぐずぐずと、腐臭を放つ後悔が。

 

 件の少女は机の上のカップに視線を落とし、疑いもなく自分が悪いと語るばかりだけれど。

 しかし、無機質な表情の裏にあるものは明確だ。 そこで煮詰まった想いまでは隠せない。

 もはや整えた外面や纏った殻では不足である。 腐りかけの中身がどろりと滲んでいるではないか。

 そう、栗毛の少女はほんの少しだけ目を伏せて、微かな感傷を漏らした。 向かう先は、胸の内だけだ。

 

 別に、どちらが悪いという話ではない。 その筈だったのに。

 

「わたしは、あのひとを冒涜してしまっているから。

 きっとわたしは、会うべきではない」

 

 トウカイテイオーはただ、無理はしないで欲しいと思っただけ。

 義務に縛られないで欲しいと。 過去に囚われるのではなく、未来を生きてほしいと、そう願っていただけなのだ。

 

 ……そうでなければ、死んでしまうのではないか、なんて。 恐ろしくなってしまったから。

 日を追う毎に薄まっていく生気が、その疑念を確信に変えてしまって。

 ()()()後悔に満ちた今があるなんて、酷い皮肉だ。

 

「けど、いつかは。

 謝りに、行こうと……思っているんです。 だからブルボン先輩はあまり気にしないでください」

 

 では、どうするのか。

 

 どの手を選べば破滅を回避できる。

 レースを、家族を、過去を、生命を、自分()()の尽くを神聖視するきらいのあるこの子供を。

 どうやって、止めるのか。

 

「きっと、いつか」

 

 考える。 考える。

 友愛の情を抱いているからこそ、目の前の少女の破綻の道を考える。

 走るも走らぬも何かしらの破綻へ繋がるのならば、せめて、と。

 より良い破綻を選ぶために、幼い頭脳で考える。

 

「だから……大丈夫。 まだ、大丈夫……」

 

 ……そして悩んで、ついに、彼女が思いついてしまったのは。

 今まで幾度となく、脳裏を掠めた一手だった。

 

 ──いっそ、両足を縛り付けてしまうほうが良いのかもしれない、と。

 鎖でも、鉄格子でも、何でも。 とにかく、物理的な拘束こそが最適解だ。

 そう、考えた。

 必要ならばURAへ申告してもいい。 世論を味方につけるのも簡単だ。 正当性は、間違いなくミホノブルボンの側にある。

 いっそ実力行使でも構わない。 取っ組み合いの喧嘩になってしまっても仕方がない。

 

 確かに、心は大事だ。 もしかすると魂の殺人になってしまうかもしれない。

 ミホノブルボンはウマ娘であるからこそ、その未来を予測できる。 これほどまでに一途な存在を止めてしまえば、半ば確定した未来となるに違いない。

 けれど彼女は、それでも、生きていてほしいと願ってしまった。

 

 ──自分達は、あまりにも死が近すぎる。

 発達した身体能力を有する故に、ほんのちょっとの誤りが生死に直結している。

 転べば容易く骨を折り、跳ねれば簡単に臓物を失い、そうしてあっという間に崖の向こうへ真っ逆さま。

 鉄の絡繰(からくり)と同じ速度で走れる自分達は、そのくせ致命的に脆すぎるのだと。

 

 だから、だから──ミホノブルボンは、身体を生かす道を選ぼうとした。

 それが白い少女の終生の後悔へ繋がるとしても、()()()()

 

「……ブルボン先輩。 わたしは……わたしだって、分かっています」

 

 選ぼうと、したのだけれど。

 

「わたしの行いを、愚かだと思いますか?」

 

 けれど、挙げられた顔を見て。

 濁りきった瞳の青を見て、思わず固まってしまった。 焦点さえ合わぬその目が、怜悧に貫く視線が、ミホノブルボンの口を縫い留める。

 

「わたしの弔いが、間違っていると。

 姉さんの夢を叶える為に生きるのは……この道が正しくないと、そう思いますか?」

 

 ファインドフィートは──本当のところ、分かっていたのだ。

 自分の裏を覗かれていることも、過去を探られていることも。

 そこを通して、致命的な破綻の未来の訪れを予見されていることも。

 

 本当に、全部分かっていた。

 

 目は、逸らせない。 それを良しとするだけの正当性はすでにない。

 加害者たる彼女は、多くを踏みつけた彼女は、今の自分にそれだけの価値がない事を確信していた。

 

 そもそも、死人である己が今も生きている時点でおかしい話であって。

 だというのに、今を生きている者達を踏み躙るなんぞ──あまりにも罪深く、許されない行いである。

 そう、彼女は確信していた。 彼女だけが確信していた。

 

「……わたしはね、きっと、脆くなってしまったのです。

 わたしにとって、夢と弔いは等価で、わたしにとって残された唯一の義務でした」

 

 ファインドフィートは、そんな自分自身を心底から軽視している。

 だというのに姉は彼女へ命を託した。 友人達は、そんな彼女を大切に想っている。

 それに対して喜ばしいと感じることは嘘ではないが、しかし。

 

「だからきっと、わたしはあの時、あなた達を理解できなかった。 互いを尊重しあえるあなた方を、理解しようと思うべきではなかった。

 だから……わたしは、こんなにも……こんなにも、あなた達を」

 

 だからこそ彼女は、()()()()を否定した事を終生後悔し続ける。

 それは冒涜なのだと理解できるようになってしまった。

 成長して、高い視点を獲得して。 自分と自分の半身以外にも視線を向けられるようになって。

 故に、ファインドフィートは懊悩する。

 愛されたからこそ、愛したからこそ、湧き出る罪悪感によって引き裂かれそうになる。

 

 自分の願いと姉の想いが、乖離していく。

 自分の願いと友の想いが、乖離していく。

 自分の願いが、大切な人々へ向ける想いによって、限りなく矛盾していく。

 信念の背骨が、捻れて。

 

「──いえ、忘れてください。

 まだ少し、疲れが溜まっているのかも、しれません。 ええ、きっとそうです。

 だから……すみません。 外で、空気を吸ってきます」

 

 ──吐き気がした。

 湧き出る罪悪感が彼女を責め立てた。

 姉の夢を叶えて、名前を遺す為に生きている。 その目的は揺らいではならない。 この足を止めてはならない。

 

 白い耳を震わせながら何度も自分に言い聞かせて、ふらりと立ち上がった。

 ドアに向かって足を伸ばし、落ち着かない主軸を強引に締め上げる。

 

 そうして、ドアの取っ手を握って。

 けれど、そんなファインドフィートの白い背へ──縋るような、淡い請願にも似た声が投げかけられた。

 

「……ステータス、『疑問』。

 あなたのお姉さんは、本当に……あなたの無理や無茶を、望むような方なのですか」

 

 失意、ではない。 失望でもない。

 だってミホノブルボンは、後輩たる少女を妹のように想っていた。

 

 ……それだけの時間を共に過ごしてきたと、信じていたのだ。

 そう感じたのは自分だけではないとも、信じていた。

 

「あなたが、それほどまでに愛する方は、あなたの痛みを良しとする方なのですか」

 

 そんな彼女が思うのは、純粋な疑問だった。

 ファインドフィートに姉がいた事は明確で、その、名も知らぬ少女が死者である事も明確で。

 ファインドフィートがただひとり生存した故の罪悪感を抱き、それによって突き動かされている事は誰の目にも明らかで。

 

 けれど、そもそもの話で、弔うべき相手は犠牲を許容できる人物なのか。

 自身の片割れが破滅する姿を、認められる人物なのか。

 

 ミホノブルボンには──そんな事、露程にも思えなかった。

 なにせファインドフィートが姉の事を語る声は驚くほどに穏やかだ。

 心の底から愛している事が、誰でも分かってしまうくらいに。

 それほどに慕われる少女が破滅を望むなんて、ありえる筈が無いだろうと。

 

「……望まない、でしょうね」

 

 なら、止まっても良いではないか。

 その選択を責める存在など誰もいない。

 ……否、もし仮に誰かがいようと関係ない。 そんな物は黙らせる。

 ミホノブルボンには、それを全うするだけの覚悟があった。

 

 ──けれど、そんな想いを跳ね除けるかのように。

 ファインドフィートは振り返りもせず、口を開いた。

 

「姉さんは、きっと、望まない。

 だって、わたしが逆の立場なら、重荷になんてなりたくない。 わたしの願いが足を引っ張るくらいなら、忘れてほしいとすら思います。

 ……ですから、姉さんも間違いなく同じ事を思うでしょう。 わたし達は双子ですから、分かります」

「なら……っ」

()()()()

 

 愛している。 愛されている。

 互いの幸せを祈っている。 祈っていた。

 けれど、彼女はそれさえも理解した上で──前に進む以外の選択肢を喪失した。

 

「──()()()()。 わたしは、止まれないのです。

 わたしはこれから正しくなる。 たとえ間違えていても、わたしが、これから正しくするのです。

 なのに……今更止まるなんて、許されないでしょう」

 

 全ては、愛ゆえに。

 

「そう……そうです。

 姉さんが許すとか、誰かが許すとかじゃなくて……そんなの、わたしが許せない」

「────」

 

 つまり。

 責め立てる誰かとは、他の誰でもない彼女自身だ。

 ファインドフィートは──中にある少年が、少年自身を許さない。

 踏み躙った物に、失った物に、過去に、背を向けることを許せない。

 

 それはつまり、家族にも背を向けるという事だ。

 愛する家族の消失を認めて、姉の存在をも否定すること。

 姉が生きた痕跡を、今を生きるファインドフィートが塗りつぶすということ。

 ──それが、許せない。 許せなかった。

 

「わたしは、繋がなくてはならない。

 最後に残ったわたしは、何かを残さなければ……」

 

 だから、地続きの記録が必要だ。

 可能であれば、遺す足跡は大きければ大きいほど良い。

 

 そしてそれが、消えない記録となる。

 次へ繋がる。 次を産む。 『ファインドフィート』が夢を育む礎となり、誰かの指標となる。

 『ファインドフィート』の名は、姉が遺した唯一は──永遠となる。

 その永遠を以て、『ファインドフィート』は完成する。

 

「……だから、お願いです、ブルボン先輩。

 わたしを、見ていてください」

 

 ──"夢"が叶うまでの間だけで良い。

 彼女は今ある現実へと、"今まで通り"が変わらないことを望んでいた。

 ずっと、ずっと、ずっと。

 あたたかなひだまりの中に、居たいのだ。

 

「そしてただ、そこにいてください。 わたしには、それだけで十分なのです」

 

 だから、確かに。

 ミホノブルボンの想いは、決して一方通行ではなかった。

 姉妹のように感じた事は偽りではない。

 ファインドフィートも同じものを見出していたのだから、明確である。

 

 そして、ミホノブルボンは知らない。

 こうして思い立ったのも、決意を抱いたのも、これが()()()なのかも、何も覚えていない。

 なのだから、その()()が叶う筈なぞ無かった。 所詮はすべて、無為な足掻きだ。

 

 

 

 外へ出る。 空は暗い。 真っ暗だ。

 しかし街灯の光が闇を切り裂き、空間のうちのほんの一部だけを昼間のように照らしている。

 

 その下へ、ふらりと歩み寄った。

 五月とは言え、夜は少し肌寒い。

 肩を小さく震わせ温度を誤魔化しながら、街灯の下で屈み込む。

 幸い他の人影は存在しなかった故に、彼女の様子が悪目立ちすることはなかった。

 

「……はぁ」

 

 尻尾を両手で保持して、鼻先にあてがいながら、大した意味もなく草むらの隙間に視線を踊らせる。

 ……悩んでいる、という訳ではない。

 罪悪感と喪失感がずっと、胸の中で叫んでいるだけ。 そこに、悩みを抱けるほどの余地は存在しない。

 

 けれども溢れるため息を留めることは出来ずに、夜風の中へ居座っていた。

 そしてまた、ため息を吐く。 ため息を吐く。

 ため息を吐いて、その時間と等価の幸せがあちらこちらへ逃げていく。

 

 そうして、鬱屈と俯いて。

 そんなファインドフィートの視線の先が、ぴょいと小さく揺れだした。

 揺れの正体は、彼女の悩みを素知らぬ様子のバッタだ。

 悠々自適に、自由気ままに空を泳いでいるただのバッタだ。

 草を()み、水を浴び、捕食者に追われ、ぴょいと跳ねるだけの小さな命が少女の前で跳ねている。

 

「ねぇ、バッタ。 お前は……お前は、自由ですね」

 

 囁くように。 か細く、呟く。

 ファインドフィートには──その虫のあり方が、ひどく眩しかった。 いっそ、妬ましいと感じてしまう程に。

 矮小でちっぽけな命でありながら、どこまでも自由だ。

 そこに柵はなく、義務もなく、ただ生きて、子を遺し、やがて死ぬのみ。

 

 ()()が眩しく、妬ましい。

 彼らは彼らとして生きているだけなのに。

 けれどあるがままで、あるがままを世界に認められているその姿が。

 ただ、ただ、どうしようもなく妬ましいのだ。

 

 ……だから彼女は、そこに美しさを見出してしまった。

 バッタが蜘蛛の巣に絡め取られて、無様な繭となり、一方的に捕食される姿を見ても──()()()()

 

 ()()()()、少女は。

 

 


 

 

 耳を塞いだ少女へ向けて、首なしの虫が語る。

 死んだとしても、俺は何かを残したぞ。

 俺は繋いだぞ。 俺は、虫としての一生を正しく終えたぞ。

 なあ、なあ。 お前はどうだ、にんげん。

 



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48話

 蹲る少女へ向けて、道の脇に茂る草木が語る。 地を這う蟻が語る。

 枯れ落ちた木の枝が語る。 明かりの無い街灯が語る。

 

 自由に見えてもその実不自由。 お前のことだ。

 失った物へ後付の価値を求めた、通理を弁えない蒙昧なる者。 お前のことだ。

 終わるべき時に終われず、恥も知らずに呼吸をしている者。 お前のことだ。

 自分自身の価値さえ見失った大馬鹿者。 これもお前のことだ。

 

 そう、石の目が語る。 川の脚が語る。 風の背が語る。 雲の指が語る。

 音も無く、この世のあらゆる全てが責め立てる。

 

 つまり、お前は罪深いのだ。

 

 


 

 

 ──重い瞼。 ふわふわと落ち着かない頭。 不明瞭に響く声音。 不規則に伝わる振動。

 

 それらを一つずつ知覚したファインドフィートは──まず、自身が夢の中にいる事を把握した。

 粘性を帯びた世界はその手足を絡め取り、彼女が把握している普段通りの出力を封じ込む。

 そして何よりも、胸の奥に痛みがない。

 なのだから、これは紛うことなき夢だった。

 

 意識の連続性は変わらずあって、思考能力は自己認識を可能するほど。

 身の回りを観測するだけの把握能力だって有している。

 けれど地に足付かない感覚が、この場が夢でしかないと無言で突き付けてきた。

 

 では、この夢はどんな夢なのか。

 至極真っ当な疑問を抱き、視線の動きだけで周囲を軽く見渡す。

 

 ……まず目に入ったのは、一際大きな食卓だ。 赤褐色のテーブルにいくつかの大小の皿や、色とりどりの箸が乗せられている。

 そうして配置された食器は四人分で、周囲の人影は三人。

 目の前には青い箸──ファインドフィートの物が置かれていたから、合わせて丁度の四人になる。

 

『…………』

 

 次いで、自身の身体を見下ろした。

 着用しているのは無地の白いシャツと青いハーフパンツだ。

 袖や裾の向こうからは白い肌が見えている。

 それはいっそ病的なまでの白さで、幼子のように細く──故にこの身体は、彼女が認識する"現在"のそれと著しく乖離していた。

 

 否、それだけではない。 景色も、匂いも、明度も、重力も、何もかもが違う。

 ……そして彼女は、それらの要素から解を導き出せぬほどの愚者には成れなかった。

 

 つまりこれは、ずっと昔の出来事の、過ぎたあの日の夢である。

 ファインドフィートが夢を継ぐ前の、命を繋がれる前で。

 『ファインドフィート』になる前の──少年だった頃の夢だ。

 

 身体の大きさと椅子の大きさを比較した限り、年齢は九歳頃。 窓の外の明るさからして現時刻は夕方。

 服の装いから察するに、おおよそ春の過ぎ。 夢の外と同じ時季だ。

 この頃は未だに、矮小で無力な少年だった。

 

どうしたんだ、ヒトミ

ちゃんとナスも食べれるようにならないとね……。 ほら、ちゃんと甘いよ?

『……これ、ホントに食べなきゃダメ?』

 

 ──しかし、湧き出るそれに意味はないのだと釘を刺すように。 胸の底で熱を持ちはじめた感傷を、形にする間もなく蓋をされて。

 

 口が勝手に開いて言葉を紡ぐ。 意に反し、記憶の通りに身体が動く。

 所詮は記憶の再生(リプレイビデオ)に過ぎないのだと見せつけるようだ。

 

 そうして身体が勝手に、皿の中身──黒塗りの影で潰された何かを()む。

 夢の中であろうとも……あるいは夢の中だからなのか、その味が何を由来とする物なのかは分からない。 食感でさえ不明だ。

 歯や舌の感覚が脳髄と結びつかず、あらゆる一切の理解を阻んでいた。

 ……とはいえ、味覚が無いのは現実と変わらないのだが。

 

『うわ、ぶよぶよしてる……』

 

 ただ、()()に曰くこれは"ぶよぶよ"とした食物であるらしい、と。

 表層の振る舞いとは別の領域で、言葉もなく納得の意を示した。

 が、ぶよぶよとした食べ物なんていくらでもある。 正式名称のヒントになる筈もなし。

 得られる情報がこれだけでしかないのなら、正体なんぞ分かる筈がなかった。

 

『……これ、にがて』

 

 過去の少年は、それを苦手だと言う。

 さぞかし嫌いな様子で、舌をべっと出す動作はとても幼稚だ。

 

 けれども、この時間が愛おしかった事は間違いない。

 

 穏やかな喧騒の温度。 色褪せた生家の姿。 これが愛しい過去のひだまり。 今となっては何処にもない宝物。

 過去(夢の中)の少年も、現在(夢の外)の少女も。

 ほんの一時、夢の中で再会出来るだけで──報われていると錯覚できてしまえる。

 だからこれは、良い夢だった。

 

ははっ、そうか。 その食感がイヤか! まぁ仕方がない……父さんも昔はそうだったからな! 

『お父さんもダメだったの?』

ああ! それに実は、母さんだってな……

おとうさ〜ん?

『でも、お母さんは食べれるようになったんだね』

ええ……まぁね。 私の時もお母さん……つまり、あなた達のお婆ちゃんに食べさせられてね〜

『ふぅん』

 

 ……とはいえ、父の姿も母の姿も見えない事は残念だった。

 愛していた筈の両親は、記憶の中から消えている。

 この夢の中には僅かな残滓を残しているけれど、所詮は残骸。 掠れ切った断片のそれでしかない。

 夜明けの終わりには消えているような──薄霜よりも儚い幻だ。

 

『────』

 

 記憶の中から逸脱しない程度の、小さな動きで両親を見る。

 二人共、真っ黒な絵の具で塗りつぶされていた。

 

 顔も、髪も、声も、衣装も、体格も。

 振るう指先の動きも、言葉をつくる舌先も、生者の熱を宿す瞳の色も。

 個性を持たせる要素の尽くは、何もかもが削り取られた後だ。

 

 だから少年は──()()()()()でさえ、かつての日常を再現することができないのだ。

 どれだけ耳を澄ませても、どれほど思い悩もうと、彼らの温度を思い出せない。

 何を話しているのかさえ思い出せない。 この場面の前後だって理解不能だ。

 

 もちろん、食卓に置いてある皿だってよく見えない。

 母の手料理であるらしきそれが、どんな彩りだったのかも不明。

 "今"の少年は自分の振る舞いや発言内容から、辛うじて周囲の状況を逆算する事しかできなかった。

 

 このときの自分は、何かの食べ物が嫌いだったようだ、とか。

 母も父も子供の頃は、その何かが嫌いだった、とか。

 右前方に居るのが父で、左前方に居るのが母であること。

 

 そして、あとは──すぐ右隣には、未だ色褪せぬ姉がいることだ。

 芦毛のセミロング。 透き通る赤色の瞳。 幼くも怜悧で、過去の少年とも現在の少女ともまったく瓜二つの同じ顔。

 互いが互いの生き写しである。 幼さが故に、性差を見出す事すら困難だ。

 しかし種族の違いによる差異はあったから、双子を見分けるのは存外容易い。

 

 ウマ耳と尻尾を有するのが姉で、ヒト耳を有して尻尾を持たないのが弟。

 前に立つ者が姉で、後ろをついて歩くのが弟。

 静かに笑うのが姉で、柔らかく笑うのが弟。

 この双子は、そういう小さな違いを有していた。

 

 ……あるいは、そういう小さな違いを作ることで互いの個我を認識していたのか。

 

『……姉さん』

『ダメですよ、自分の分はちゃんと食べないと。 そうでなければ農家さんに失礼です』

『姉さんも端っこに避けてるよね……?』

『そうとも言えます。 しかし、そうじゃないとも言えます……。

 良いですか、ヒトミ。 物事とは見える物が全てではありません。 肝心なのは、今のあなたがナスを避けている事であって──』

『で……結局、姉さんはどうなのさ』

『…………』

 

 その双子の片割れたる少年の問いに対して、もう半分の片割れである姉は、はいともいいえとも言わずに黙りこくる。

 そしてあらぬ方向へ視線を彷徨わせ、箸を持たぬ右手の指が机を軽く叩いた。

 そんな少女の姿を認めた彼は、良いともダメとも言わず──二人揃って、皿から例の()()を弾き出す。 向かう先は父の皿だ。

 

あっ、コラ! ちゃんと食べないとダメでしょ?

『……これ、ヤダだから』

『私も……』

まぁまぁ、良いじゃないか。 フィートもヒトミも何時かは──

 

 ……ともかく。

 いつだって、双子が嫌うものは同じだった。 双子が好むものも同じだった。

 そしてそれらに対する行動もまた、全て同じである。

 

 少年は"今"もそれを覚えている。 己の姉の気性を克明に記憶している。

 姉の内面は少年自身と紐付いていて、故に忘却する事はありえない。

 姉を構成する要素は、彼自身にも備わっているのだから。

 

 ……けれど。

 互いの個我を知覚できる程度の差はあった。

 故に、共有していた筈の好悪の中にも幾つかの例外が混入している。

 

『……姉さん?』

 

 例えば、走ること。

 例えば、語ること。

 例えば、歌うこと。

 

 姉たる少女は好んでいたけれど、弟たる少年はそれに価値を見出だせない物。

 共有できない概念。 ズレを生み出す好悪の差。 紐付かない要素。

 だから双子にとって、これらの価値観とは──外面よりもなお明白に、自身達を隔てる壁だ。

 

 その原因は何か。

 それは夢の中でも、夢の外でも、幾度となく悩まされた難問だった。

 しかし同時に、そうして考える度に、まったく同じ答えに行き着いてしまう程に簡単な思索である。

 

『あぁ、テレビ……ドキュメンタリー番組やってるんだね』

『えぇ……一言でいえば歴史のお話、でしょうか』

『ふぅん』

 

 原因があるとするなら、それはつまり産まれだった。

 最初の最初の原点で、種族()を違えた事だった。

 

 少年は考える度に、そんな答えを弾き出した。

 そしてその答えを否定しようと頭を悩ませて、しかし、破綻無き回答は発見できない。

 もしも答えが確定してしまえば、どうしようもなく埋めがたい差異を認める事になる。

 だから来る日も来る日も考えて、悩んで悩んで悩み抜いて。

 

 それでも、結局答えを否定できないままで、一日が始まってしまうのだ。

 

 だからこの頃の少年は、姉の有する感慨を理解できなかった。

 理解したくとも、理解できないままだった。 それは夢の外ですら変わらないのかもしれない。

 血と肉と魂を分けた写し身たる少年は、終ぞ同じ視座に立てなくて──だから双子は、双子のままで固定された。

 同一の存在には、成れなかった。

 

『……シンザン

 

 その目の輝きを何と呼ぶ。 その声の熱を、何と表す。

 声もなく、疑問を紡ぐ。

 

 その情の激しさを何と称する。 それは一体何なのか。

 少年は──目を逸らせずに、個を隔てる壁を見た。 片割れは、壁の向こうにいた。

 

五冠の王者戦後初めての王……』

 

 ……この壁をつくる熱の名は、きっと、当時から知っていた。 言葉だけならば知っていた。

 辞書で引けば、悲しくなるほど簡単に出てくる言葉だった。

 

 けれど、その意味は芯の部分で理解できない。

 少年が理解可能な尺度に落とし込む事ができなかった。

 視点が違う。 故に得る情報も違う。

 情報が違えば、それを素に生じる感情も別物にしかなりえない。

 

 それがどうしようもなく、寂しくて。 寒くて。

 だから少年は姉を通して同じ熱を抱くことで、同じ景色を共有しようとしたのだ。

 

 

 あなたがそれを素晴らしいと思うのなら、きっと、ぼくにとっても素晴らしいものなのだろう。

 あなたがそれを愛するのなら、ぼくも同じようにそれを愛そう。

 あなたがそれを抱きしめるのなら、ぼくも愛を以て抱きしめよう。

 そうしていれば何時かは、同じ景色を共有できる筈だと心から信じて。

 

 そして少年は、最後の瞬間までその想いを抱えていた。 大事に大事に、延々と。

 

 ……それは、同じ視座に立ちたかっただけなのか、と。 "今"になっても時折に考える。

 同じ視座を獲得したところで、何にもなりはしないのに。

 だって、共有したかった相手はもう居ない。 置いていかれてしまった。

 

 だから、あるいは……同一の存在になってしまえば、忘れるという概念すら無くなると信じていたのかもしれない。

 大切な過去を忘れるのは、酷く恐ろしい。

 しかし同時に忘れられる事ほど残酷な行いはそうそう無いのだと、身を以て理解していたからこそ。

 

『……ねぇ、ヒトミ。 このひと、かっこいいですね……』

『うん……そう、だね』

 

 その為に共有したかったもの。 つまり──憧れの起点。 夢の原点。

 ある意味では、この双子の行く先に指針を示した原風景。

 

 こうして熱を向けられる彼女の名前は、さて。

 一体、何だったか。

 

『かっこいいね。 キラキラ、輝いてる』

 

 思い出そうと考えて、悩んで。 夢の中のほんの僅かな時間を、追憶に費やして──。

 

『私もこうなれたなら……。

 きっと、あなたに誇れる私になれる。 そうでしょう?』

 

 

 ──じりりりり、と。 その思索の起点を潰すように、金切り声が邪魔をした。

 甲高く、無遠慮に。 明快な疑問に対し、意気揚々と答えを叫ぶ子供のように。

 

 赤い目の少女の輪郭が大きくブレる。

 髪の先も、椅子も机も、テレビも。

 世界の尽くが霞んで、ぼやけて、曖昧に成り果てて。

 

『大丈夫。 私は……私が、お姉ちゃんですから』

 

 この時の姉は、どんな心持ちで、この言葉を吐いたのか。

 少年には──ファインドフィートには、"今"も昔も理解できないままだ。

 あの壁をどうしたかったのか、それさえも。

 

 けれど、それも当然の事である。

 視点が違えば、思う情も大なり小なり違うもの。

 

 姉という立場と、弟という立場。

 前に立つ者と、後ろに立つ者。

 手を引く者と、手を引かれる者。

 

 だから結局のところ、始点はそこにあったに違いない。

 双子を隔てた薄っぺらい壁が、僅かな差異が、姉に自己犠牲を決意させたキッカケなのだから。

 

 つまり、抱いた想いのカタチは姉も同じだった。

 ずっと一緒にいたい。手を繋いでいたい。ずっと、手を引いていられる己でありたい。

 始まりはそんなちっぽけで、些細な意地でしかない。 その後の誤算は、いくつもあったけれど。

 

 

 ──じりりりり。 じりりりり。 目覚まし時計が鳴っている。

 飽きもせずに鳴っている。

 喧しく叫んで、脳髄を揺らして──。

 

「ぁあ……」

 

 直後、枕元。 右上。

 その方向へ目を開ける間もなく手を伸ばす。

 伸ばして、そして手のひらが衝突した冷たい物体を、力いっぱい握り締めた。

 

 ぎしり、と鉄が軋む。

 そして撓み、微かな悲鳴を上げてファインドフィートに反抗する。 無様なほどにささやかな反抗だ。

 

 手のひらの中で微細に振動している身体も。 必死に音を鳴らす二つのベルも。

 何もかも、何もかもが忌まわしい。 悍ましい。 吐き気を催す。 存在すら気持ち悪い。

 結果を否定するその存在の尽くが──彼女の心を、無遠慮に逆撫でた。

 

「……なんて、こと」

 

 目を、薄っすらと開く。

 掠れて濁る青が、さめざめと泣く時計を見る。

 

 そうしてガラスに反射する青を見つけて──苛立ちは、瞬時に限界を超えた。

 瞬息の間すら置かず、煮え立つ情が憎悪の域にまで到達する。

 

 つまり──ファインドフィートが持つそれは、普段通りのデジタル時計ではない。

 立派なベルと立派な文字盤を持つクラシカルな目覚まし時計だ。

 これこそが、やり直しを強いる愚者の為の魔法の杖だった。

 

 ──指先に、力が籠もる。

 

「……っ」

 

 ぴしり、と。 前面のガラスにヒビが刻まれる。

 ぐにぃ、と。 全体のフレームが大きく歪む。

 少女の手のひらでは覆いきれない程のサイズだけれど、そんな些事は知らぬと言わんばかりに──強引に、握り潰していく。

 軋んで、歪んで、そして割れて。

 

 大した音も無く、外殻が弾けた。

 そうして時計の息の根を止めて──ようやく、大きな息を吐き出す。 今日はじめての呼吸だった。

 

 こうして少女は目を覚まし、現実への帰還を果たす。

 寝ぼけ眼であれども、夢と現実の区別をつけることは簡単だった。

 何せ、胸の痛みが現実である事を証明していたからだ。 無慈悲なそれのおかげで、疑念を抱く余地は存在しなかった。

 だからファインドフィートの一日は、この瞬間から始まる。

 

「……何度重ねても、最後はこうなる。

 わたしはもう、止まろうなんて思えない。 停止した先に、必要性を見出だせない。

 なのに、どうして、あなたは──」

 

 けれど晴れやかな心持ちは何処にも無い。

 鬱屈と沈む悲観が彼女を満たすのみだった。

 

 そして、独白の言葉を漏らしてそれっきり。

 乾いた唇を引き締め、口を閉ざし、ゆるりと頭を振って。

 

 次いで、反対側のベッドに視線を投げる。

 視線の先で眠る栗毛の少女は──目覚まし時計の音に巻き込まれたのか、やや苦しげな形相だ。

 しかしそのまま眠りに沈むでもなく、一度二度と瞼を開閉する。

 ファインドフィートとは異なる青の虹彩は、どこか朧げに霞んでいる。 更に幾度か、ゆっくりと時間をかけて瞬いて、ゆるゆると、長い息を吐き出した。

 

 ……それの原因の在り処を、ファインドフィートは知っていた。

 故に酷く苦しげに歪む顔を見て、深い罪悪感を抱いてしまう。

 皺の刻まれた眉間と、キツく細められた瞼、苦悶に歪む口の端。

 

 その表情を作り上げた自覚があるからこそ、罪悪感は濯がれないままだ。

 また胸の奥に沈殿して、何度も何度も降り積もる。

 それはやがて、傷口を腐らせる病毒となるというのに。

 

 けれども、ファインドフィートはこの苦しみを憎めなかった。

 もし憎むことができたなら、と夢想しなかった訳ではない。

 だって、それが叶うのであれば楽になれるには違いなかったからだ。 きっと残酷なほどに容易く、彼女の膿は溶けて消える。

 

 ……だとしても、それが出来たなら彼女はこの場に居ないのだ。

 それが出来なかったから、彼女の傷口は延々と腐り続けている。

 

 結局、彼女は何処までも自罰的だった。

 その性質は生まれ持っての(さが)か、はたまた後天的な変質か──なんて、どちらでも良い事ではあるが。 根源を突き詰めた所で意味はない。

 ともかく、彼女はそういう愚かさを有していて、それに違和感を抱かぬ程度に自身を軽んじている。 身近な存在であれば、容易く気付ける程には。

 

「……おはようございます、ブルボン先輩」

 

 ファインドフィートがその中身が既に露呈しているとも知らずに、無意識のままそっと蓋を閉じて。

 上体を起こした栗毛の少女へ、囁くような声を投げる。

 挨拶の締めはどこか固い。 後から続く言葉に栓をしてしまうような、不自然な固さを有していた。

 

「おはよう、ございます……」

「……寝癖、ひどいですよ。

 わたしがコーヒーを淹れていますから……そうですね、ブルボン先輩は顔でも洗ってきてください。 きっと、目もすっきり覚めますから」

「オーダー、了解、しました……。 ミホノブルボン……発進……」

 

 が、ミホノブルボンはその音色に気付かない。 気付くだけの余力がない。

 常の彼女(頑強性)を思えば可笑しいほどにふらついた足取りで、洗面所へと歩いていった。

 歩行に合わせてふらふらと、栗毛の耳が右へ左へお辞儀をしている。

 発光する耳飾りを欠いている事もあってか、"サイボーグ"じみた無機質な印象はすっかり鳴りを潜めていた。

 

 そんな普段よりも子供らしく見える彼女の背を見送ったファインドフィートは──自身もベッドから起き上がって、宣言通りにコーヒーの用意を始めた。

 電気ケトルに水を注ぎ、電源を入れて、コップとコーヒーフィルターを取り出して。 パジャマ姿のままゆったりと手を動かす。

 彼女も目覚めたばかりだからか、どこかぎこちない動きだ。

 

 ──そうしてあれやこれやと四苦八苦しながらも、二人分のコーヒーを用意し終えた頃。

 洗面所からひょっこりと、栗毛の少女が顔を出した。

 顔は未だに湿ったままで、前髪の幾本かが額や頬に張り付いている。

 その少女へファインドフィートが声をかければ、ふらふらと頭を揺らし、目をこすりながら席に着いた。

 

「……ステータス、『寝不足』を検知。

 つまり、非常に眠たいです……」

 

 ……その内面は、語る必要もないほど外面へ表れていた。

 そして、無言で差し出されたコーヒーを口にして──うつらうつらと、船を漕ぐ。

 青い瞳は半開き。 耳はへたりと垂れている。

 それでも口はしっかりと閉じているだけまだマシだった。 もし口まで半開きであれば、お気に入りのパジャマは黒いシミに塗れていたに違いない。

 

「……顔、まだ濡れていますよ。 えっと、タオルは……」

 

 それ程までに眠気を堪える姿を見かねてか、珍しくファインドフィートから世話を焼き始めた。

 昨日洗ったばかりのタオルをタンスから取り出して、ミホノブルボンの横に回る。 白いふわふわの生地が軽やかに跳ねた。

 

 次いで、柔らかな手付きで顔を拭った。 ゆっくり、撫でるように。

 その間の少女は脱力しきって成されるがままだった。 それを信頼の証と取るべきか、怠惰な姿と表すべきか。

 

「わたしも、傍から見ればこんな感じだったのでしょうか……」

 

 少なくとも──ファインドフィートは、信頼の証として受け取る。

 なにせ他ならぬ彼女も信頼の証として同じ振る舞いをした事があるからだ。

 

 これも言ってしまえば、犬が腹を見せるような物。

 無防備な姿を見せる事は彼女なりの愛情表現だったから、相手も同じに違いないと信じていた。 盲目的なまでに。

 

「……水気はほぼ無くなりました、が……。

 大丈夫、ですか? もう少し、眠りますか……?」

 

 やはりミホノブルボンは未だに眠気を払えぬようで、何度も船を漕いでいる。 うつらうつらと、こくりこくりと。

 瞼の開閉の間隔は変化し、いつの間にか閉じられている時間が長くなっていた。

 呼吸の早さも緩やかとなり、深く大きく繰り返される。

 試しに肩を軽く叩いてみるが、反応は中々返ってこない。

 

 そうなると困ってしまうのはファインドフィートだ。

 今日はこのミホノブルボン(ねむりひめ)と共に、早朝の併走を行う予定だった。

 時計の短針は真下よりも前にあって、外は未だに薄暗く、故にタイミングとしては最適である。 筈だった、けれど。

 

 ……しかし、無理を押してまで連れ出そうとも思えない。

 質の良し悪しはともかくとしても、トレーニング自体は一人でも行える物。

 ファインドフィートは──この数日間でそれを実感していた。

 

 だから、別に良かった。

 眠りかけの先輩をベッドに誘導しようと肩に手を当てて──。

 

「……ブルボン先輩?」

 

 ──その白い手を、ミホノブルボンが掴み取る。

 微かに震える指先で、強く握り締めて。 肘の先を抱え込む。

 

 とはいえ、加減はされているから痛みはない。

 当人を支配する眠気のせいなのか、驚くほどに体温が高いだけ。

 

「何か……夢を見ていたような、気が、するのです……。

 メモリ内には、残っていません。 けれど……『苦しい』が、ありました。 『悲しい』が、ありました。 『痛い』が、ありました。

 それが、それらが……胸の奥のどこかに、残留している、ようで……」

 

 その熱に浮かされた様子で、口ずさむ。

 つらつらと、頭の中身を変換せずに出力する。

 

 常日頃の彼女が見せているような、硬質で理路整然とした面影はどこにもない。

 そこには、なんら変哲のない、ただの少女の顔があるだけだった。

 

「……ねぇ、ブルボン先輩。 まだ少し時間がありますから、ちょっとだけ目を瞑りましょう。

 ほら、こっちへ……」

 

 ──そんな彼女から逃げるように、そっと目を伏せて。

 ゆっくりと、ベッドへの移動を促した。

 

 一歩一歩を慎重に、転ばぬように注意を払う。

 自分の足元よりもなお厳正に、姉の如き少女の足元を安全に整えて。

 ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと──。

 

 時間をかける毎に湧き上がる焦燥感を捻じ伏せながら、誘導した先のベッドへ横たえる。

 そうして、軽い音と共にベッドへの帰還を果たした少女は……既に、半分以上は夢の世界へ旅立っていた。

 

「大丈夫です……。 時間になったら、わたしが起こしてあげます」

 

 そしてファインドフィートが腰掛けたのはミホノブルボンの隣。 頭上の付近。

 あっという間に眠りに就いた少女の髪を、さらりと撫でる。

 常日頃から丁寧に手入れを行っている成果なのか、とても柔らかい。

 

 その柔らかさは、彼女の手入れを受けているファインドフィートも同一で。

 故に、その感触(つながり)の中にぬくもりを垣間見る事が叶う。 全身を包む寒さが、薄れたような気がした。

 

「もう、悪夢は見ませんから……ゆっくり眠ってくださいね」

 

 吐息にも似た声音で、そっと呟く。

 それから手のひらで瞼を押さえて、カーテンの向こうから射す僅かな日光を遮断した。

 ただ置くだけの物だ。 力は一切籠もっていない。

 けれど、彼女の人肌のぬくもりで安らぎを与えるのには十分だった。

 

 他人の体温とは深い安心感を齎し、安寧の眠りを作り上げるものだ。

 ファインドフィートは、己の身を以て理解していた。

 

「……おやすみなさい」

 

 僅かな抑揚の籠もった言葉を告げて。

 

 そして、ふと思う。 子守唄でもあったほうが良いだろうか、なんて。

 自身の体験から何気なしに思いついてしまって──つい、そよ風に似せた声音のハミングを歌おうとした。

 

 ……が、口を薄く開いたきり、そこで止まってしまう。

 舌が回らない。 より正確に言えば、回す軌跡が分からないのだ。

 どんなメロディーで、どんな歌詞の唄だったか。 音圧は、彩りは何だったか。

 

 記憶の中を漁るために少しばかり考え込んで……また、口を閉じた。

 

 彼女は、その体験とやらの詳細を思い出せなかったのだ。 聞いた筈だった歌声のカタチでさえ、雲の輪郭より朧げだ。

 子守唄というからには──順当に考えて、母に由来するものであろうと推測できる。

 が、解答である思い出は既になく、真相は未確定のまま。

 記憶の痕跡がこれから消えゆく残骸なのか、母以外の記憶だから残っているのか、はたまた消しきれない不純物でも混入しているだけなのか。

 

 ……もっとも、いくら考えたとしても詮無きことである。

 結果には、子守唄を歌うことさえできない彼女が残るばかり。

 それが今ある現実で、疑いようのない真実だった。

 

 だから仕方なく、ただ、少女の両目を手で覆うだけ。

 視界を閉ざして光を隠す。 これから眠る彼女には不要なものだと、言葉ではなく行動で示した。

 そのまま、ゆらゆらと尻尾を揺らす。 ベッドの上で跳ねる白が少女の栗毛に混ざり込んだ。

 

「……フィート、さん」

 

 けれど、ミホノブルボンは寝苦しそうに呻きを上げている。

 ファインドフィートの名を呼びながら、夢うつつに、苦しみを訴えかけていた。 悲しみを彩っていた。 痛みに、形を与えていた。

 

「ごめん、なさい……」

 

 ──そして、瞼の裏から雫が溢れて。

 眠ったままの少女の目尻から、つつーと流れる。

 置くだけの手のひらでは堰き止められず、柔肌の上を静かに走っていた。

 

 眠る少女のそれが、何に対する謝罪なのか──なんて、疑問に思うことはしない。

 所詮は寝言である。 故に、ファインドフィートはそれ以上の感慨を抱くべきではない。

 これ以上は何もしなくて良い。 何かをするという変化は不要だ。

 手のひらで少女の顔を隠しながら、ぎゅっと奥歯を噛みしめる。

 

 

 けれど、その涙が。

 無視できない程に熱かったから。

 

「……ブルボン先輩、それは……違うでしょう。 償うべきは、わたしであって。 決して、あなたの口に在るべきでは、ないはずですから。

 だから……許しを乞うべき誰かが居るなら、それはきっとわたしです」

 

 火傷しそうなほどに、熱かったから。

 

「だって、それでも……どうあっても、わたしは変われない。 変わりたいと、思えない。

 わたしはそれを、許されない。 許されては……ならない、から」

 

 だから、間違いなく、彼女は救われていた。

 

 目的に至るまでの道すがらには、ささやかな報いがあって。

 到達するべき目標も明らかで、走るべき道は舗装されている。

 そこに過ちなんて何処にもない。 あったとしても、最終的には濯がれる。

 だから必要な事だ。 必要な選択だった。 このやり直しは必要な犠牲である。

 

 ファインドフィートは、今回が何度目の朝なのかさえ知らない。

 思い出の欠損さえ、完全には理解できていない。

 忘れた事をも忘れてしまえば、記憶を辿る事さえ不可能なのだから。

 

 ……それに失ったものが何であれ、走る理由を見失っていない事は明確だ。

 故に何処までも走っていける。

 

 少女は、自分の心を捻じ伏せながら嘯いた。

 

「あぁ……でも」

 

 ──そして、そんな彼女を貫くように、涙の熱が手を焦がす。

 

 それは手首をたどり、腕を伝い、首から昇る。

 果てに行き着いた先の脳を侵して、ついにはあらぬ幻影まで見せつける。

 

 ぼんやりと、脳裏に浮かんだのは青い瞳だ。 ファインドフィートをじっと見詰めて来る、透き通る青色達だった。

 涙に塗れた青色。 青色のくせに何処までも熱い、生者の瞳。

 やり直しの波に飲まれて消えていった、何時かの友の眼差しが。 二色の青の眼差しが。

 

「……でも、確かに。

 少しだけ、ほんの少しだけ、あの終わり方が……」

 

 続く言葉は、吐息に溶かして包み隠した。

 

 だって、目が熱かった。 喉が引き攣って仕方がない。

 寒くない筈なのに、指先が微かに震えていた。

 こんな状態で言葉を話せるハズがないと、誰に向けた物でもない言い訳を盾にして背を丸める。

 

 それらがやがて、小さな悲痛を象って。

 不意にぽたりと雫が弾けた。 救われている筈なのに、涙が零れてしまった。

 白い頬からするりと落ちて眠る少女の頬を打ち、二種の水が混ざり合う。

 

 ファインドフィートはその涙の理由を理解したくなかった。

 そのくせに未練たらしく、無くなってしまった結末を想って──悼むように、唇を引き締める。

 矛盾し、相反する想いを胸の奥に抱え込んでひとりきり。 静かに、静かに、音もなく。

 

 それこそ、小鳥の鳴き声のほうが余程喧しい。 窓の外でちゅんちゅんと、朝の到来を告げる声が。

 なのだからきっと、その矮小な喉は鳥にも劣る能無しのモノである。

 

 

 ◆

 

 

「……こんにちは、テイオーさん。 隣に……お邪魔しても?」

「わ……っ。

 って、カフェ先輩かぁ。 今日も良い天気だねぇ」

「……その、雲は重たいですし……もうすぐ、雨も降りそうですよ」

「あ~……そっかぁ。 ホントだ、気付いてなかったや」

 

 くんくんと鼻を鳴らして、確かにもうすぐ降りそうだね、と。

 先ほどまでと変わらずベンチに腰掛けたまま、か細い声音で呟いた。

 正面の中庭に視線を固定したまま、首の上だけを小さく揺らして。

 

「……昼休憩の時間はもう少しありますが……今日は早めに、教室に戻ったほうが良いかと」

「うん、そうだね……」

 

 時刻は昼だというのに空は暗い。 陽光は重厚な雲の後ろへ隠れている。

 その鈍色の下にある故なのか、トウカイテイオーの瞳でさえも暗く沈んでいった。

 

 それを見た青鹿毛(真っ黒)の少女は、さて、どうしたことかと瞬いた。

 いつぞやの自信満々なおてんば娘の面影はなく、深い懊悩に沈む少女があるばかり。

 

 後頭部で結わえた髪も、心なしか萎んでいるようにさえ見える。

 それは外気の湿度のせいなのか、はたまた当人の心情を反映したものなのか。

 物理法則を考慮すれば、前者の事象でしかあり得ないが──マンハッタンカフェには後者のオカルトとしか思えなかった。

 

 二人並んでベンチに腰掛けて、中庭の全体像を視界に収める。

 生徒の数はまばらだ。 天気の変遷を予測してか、校舎へどんどんと避難して行った。

 

 しかしこの場の二人は変わらず腰を据えたままで、うんともすんとも言わない。

 やがて、沈黙に耐えかねた様子のトウカイテイオーが口を開く。

 

「……あ~、そろそろ戻ろっか。 ほら、次の授業も始まっちゃうし!」

「えぇ……そうですね。 おっしゃる通り……早めに戻るのが最善でしょう」

 

 そう言って、しかし。 口ぶりとは裏腹に腰を上げずに黙りこくる。

 黄金の双眸を微かに伏せて、口の端を横一文字に引き締めていた。

 

 それから一度、ふと真横を見て。

 誰もいない筈の()()へと頷いて。

 マンハッタンカフェは──居住まいを正し、トウカイテイオーへと顔を向けた。

 その瞳の黄金は月のよう。 冷たく、鉄よりもなお堅い意志を滲ませる。

 揺るぎなき視線を受けた少女は、己の背筋がぴんと伸びた事を自覚した。

 

「ですが、その前に」

 

 けれども、意外なほどに穏やかな音色だった。

 雨のように優しく、泥よりも暗く、夕暮れの面影を覗かせるほどに静謐な声で。

 影の少女は、そっと、耳の底に囁きかける。

 

「ひとつ、お聞きしたい事があります」

 

 マンハッタンカフェは知っていた。 逃げ場は全部潰すしかないと、知っていた。

 猟犬のように追い立てて、崖の先にも行けないよう押さえつけるしか無い。

 

 そして次に必要なのは、ファインドフィートという少女の心をへし折る為の釘である。

 加えて当人に()()()()()為の大槌も拵えなければ。

 

 それらを以て、心の芯を砕く。 そもそもの、走る理由を封じ込める。

 その先に垣間見える筈の、祈りという心の空白さえ埋めてしまえば──あんなモノに縋る必要は無くなるはずだと確信していた。

 

 あんな、誰とも知らぬ存在に縋るなど。

 

 


 

 

 何があっても折れることのできない少女へと。

 艶のない白い花が、嘲るように語り出す。

 お前はどうして産まれてきた。

 お前は、何になりたかった。

 お前は一体、何なのか。

 

 



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■■話 : 消失済みの記憶

 白く霞む幻は何も語らない。

 踵は影を生まず、背は光を透過する。

 だから何も語らない。 語ってくれない。

 それは決して、彼女を責めてはくれなかった。

 

 


 

 

 春のファン感謝祭。

 それはトレセン学園にて毎年開かれる恒例行事である。

 秋に開催されるものとは異なり、運動系の催しをメインにしているのが特徴だ。

 

 その起源は大して古いものでなく、当事者のウマ娘達が自主的に始めたものが行事として定着したとされる。

 時期で言えば、多くの人を集めてレースを開催するようになった近代以降──つまり、この500年間。

 世界中で多様な文化が開花する中でどのようにして発生し、どのように発展したのか。 詳細は定かでない。

 ただ、出走者達自身が発起人となったのは殆ど確実だった。

 

 何せ気性の難しい一部の面々ですら参加を拒否しないのだ。

 種族的な特徴として義理堅い面を有していると評しても、さほど的外れではないだろう。

 それは半端者を自称するファインドフィートも同じであった。

 

「……体育祭のようなものだから、ですか。 やはり活気が凄まじい……」

 

 どこもかしこもヒト、ヒト、ヒト。 それと時折見かけるウマ娘。

 

 あちらこちらへ視線を投げつつ、ふらふらと。

 右へ左へ歩みを進めて、陽光の下を無軌道に探索する。

 着用しているのが指定の赤ジャージである事もあって、その姿は学園生という群れの中によく馴染んでいる。

 

 やれ新しい出店が気になるだの、同級生がやっている仮装大会を見てみたいだのと。

 言葉に出さずとも、向けた足の先がそれらの欲求を雄弁に物語っているのだ。 そのガワだけを見れば単なる女学生でしかなかった。

 

 ──けれど、そんな彼女へ時折声が投げかけられる。

 その殆どは学園外からの来訪者によるもの。 その来訪者とはつまり、一般客の事だ。

 

「この前のレース見たよ、すごかった」

「これからも負けないで!」

「あなたに憧れてトレセン学園を目指しています」

 

 彼ら彼女らの、そういう特色のない声を受け止めた。

 すごかった、とか。 はやかった、とか。 あこがれた、とか。

 そういう、特色のない──しかし、だからこそ誇るべき声を白い耳で聞き取った。

 

 それは『ファインドフィート』という殻を見て、『ファインドフィート』という殻に抱いた感情だ。

 それを中身の少女が受け止めるとしても、どういう顔をつくれば良いのか。 これっぽっちも分からない。 だって、姉がこういう時にどんな顔をするのか分からなかった。 知る機会を失ってしまったのだから、知る由もない。

 そして、その答えを知ることが出来なかったから、彼女はここに居る。

 

 だから仕方なく、本当に仕方なく、ほんの少しだけ口の端をつり上げて。

 犬よりも分かり辛い表情で、白塗りの(おもて)を少しだけ崩した。 これが彼女なりの精一杯だ。

 

「……ありがとう、ございます」

 

 何を言うべきかも分からないから、発したのは本当に淡白な返答。

 鈍い舌先。 悲しいほどに枯れた語彙。

 けれどそれも彼女の、中身の少女の精一杯だった。

 

 本来、これを受け取るべきだった姉はここに居ないから。

 だから片割れである彼女がどうにか姉を真似て、殻を演じる自分で対応するしかないのだ。

 

 ……その演じ方はひどく単純である。

 片割れである自分だったらこうするから、きっと姉もこうする()()()という想像の上に成り立つだけ。

 例えば、綺麗なものを見た時や、まばゆい光を浴びた時。 彼女はそれに対して微かな畏怖を感じる。 だからきっと姉も同じだと、想像する。

 バッタが跳ねる姿や、子犬が初めて立つ姿。 彼女はそれに対して僅かな愛おしさを感じる。 だからきっと姉も同じだと想像する。

 美しいそれらへ感じる情は互いに同じなのだと信じて、ありえざる軌跡を真似るのみ。

 真似て、白々しく呼吸を重ねて。

 

 

 ──それから、ひとしきり。 一呼吸の間を五十ほど重ねたあとの事。

 ファインドフィートは──度重なる対応に疲れ果ててしまった様子で、雑踏の中に程よく紛れられそうな地点を目指して歩き始めていた。 白い耳はほんのり垂れて、白い尾っぽは風にも負ける。

 そんな彼女から鳴る蹄鉄の音は軽く、故に雑踏の波に容易く呑まれて消えてしまう。

 

 

 道すがら、なんとなしに右を見る。

 サポート科の生徒が露店を開き、自作の蹄鉄ハンマーを誇らしげに掲げていた。 そんな彼女が語るのは持ち手の工夫や材質の利点、幾らかの改造によって獲得した便利機能。

 生気に満ち溢れた、美しい笑顔をしていた。

 

 今度は左を見る。

 珍しい白毛のウマ娘が親子連れに道案内をしていた。 所謂、誘導ウマ娘の道を歩んでいる者である。

 彼女等の役割とはレース場における出走者達の先導役であったり、パレードや楽隊の構成員。

 詳細部分に関しては、自身の所属する学科以外に明るくないファインドフィートには知り得ない。

 が、白毛の彼女も己の夢を目指している道中にある事は間違いなかった。

 

 否、彼女だけではない。

 右も左も。 前も後ろも。 どこもかしこもそういう人々で溢れかえっている。 友、家族、夢、希望。 キラキラとしたものばかりだ。

 

 それらの姿を見ていると、どうしてか……胸の奥が、ちくりと疼いてしまった。

 錯覚と勘違いしても不思議ではないほど小さく。 けれど、錯覚でしかないと吐き捨てるには大きすぎる何か。

 茨の棘ではない。 古傷でもない。

 疼きの正体は、それらよりも遥かに単純であったが──しかしその根底を明らめようとはせず、そっと蓋を閉じて。

 ファインドフィートはまた、つま先で地面の空を蹴り飛ばした。 踵が地面を擦った小さな音が鳴り響く。

 もちろん、そこに共連れの足音なんて存在しない。

 

 

 ◆

 

 

 ──やがて、気分転換を求めたファインドフィートが辿り着いたのは体育館だった。

 建物として非常に大きく、一階部分の運動場と二階部分の観客席に分かれている。

 そこではバスケットボール大会が開かれていて、現在は準決勝の試合が始まったところだ。

 

 ボールが跳ねる度に漏れる観客の声。

 おお、とか、そこだー、とか。 野次なのか声援なのかすら判別が難しい大声を背に受けて、5名と5名の少女達がぶつかり合う。

 ボールを投げ、跳ねさせ、時には肩と肩を衝突させて。

 お世辞にもお行儀が良いとは言い難い。

 が、みながみな真剣な表情をしているからなのか、野蛮な気風を感じさせることはなかった。

 漂わせる物はどちらかというと勇壮な色香に近いのだから、不思議なものだ。

 

「すみません、横通ります……すみません……」

 

 ──そんな競り合いを見る人々の隙間をすり抜けながら、白い姿が前進していく。

 しっかりと見下ろせるフェンスの傍を目指して歩く。

 誰も彼もが試合に見入っているおかげでとても気楽だ。 少なくともこの場では同じ方向を見れる事を保証されているのだから、群れに紛れるという目的には合致している。

 

 しかも、老若男女を問わず揃いも揃ってレースとは無関係なスポーツに熱を上げているのだ。

 それはファインドフィートがやったことのないスポーツ。 未知の領域である。

 それほどの熱狂を生み出すものをより近くで見てみたい、と思うのは、好奇心を持つものであれば全く自然な行動であろう。

 彼女自身は本来、非常に好奇心の強いタチだった。

 

「おっと……大丈夫? 前いいよ、君の後ろからでも見えるから」

「……すみません、失礼します……」

 

 それから多少の労力を対価として、ようやく最前列の端っこを陣取れた。

 たどり着いた先の男性が親切なタイプだったおかげもあって、幾らかスムーズな場所取りだった。

 ちなみにファインドフィートの身長は現在163cm。 去年よりもほんの僅かに伸びているし、決して小柄という程でもない。 女性としては、という注釈が必要になるけれど。

 

「あの、本当に大丈夫ですか?」

「いいよいいよ。 ちゃんと見えてるから」

「……すみません、ありがとうございます……」

 

 その後ろからでも問題ないという男性の背丈は──実際、平均(約170cm)よりいくらか大きい程度。

 それで何も問題ないなんて事はない、筈なのだが大丈夫というばかり。 耳が視界を横切らないか心配だった。

 故のほんの僅かな申し訳無さを抱えつつ……しかし、善意を踏みにじるまいと眼下のホールに意識を向けた。

 

「……なるほど。 これがバスケットボール……」

 

 走り回るのは10名の少女たち。

 汗が弾けて、シューズが擦れる。 流れるように身をかわし、主導権(ボール)を奪い合う。

 一部の参加者にはG1ウマ娘も混ざっていて──やはり、というべきか。 相応に激しく、華のある戦いだった。

 中でもメジロライアンは大いに目立っている。

 背丈をも越える跳躍力を以て、ゴールリングの中にボールを直接叩き込む(ダンクシュート)。 視覚的にも分かりやすい活躍だ。

 

 その雄姿を見守りながら、手すりに体重を預ける。

 今は昼前で、ファインドフィートの予定は辛うじて空いている時間帯だ。

 少なくとも、この試合を見届けるだけなら問題ない。

 

「……おぉ、また一点入った……」

 

 もちろん、この試合が見終わったら彼女も役割を果たしに行く必要がある。

 

 ……()()()()()()()()()トレーニングの合間の休養期間を活用している身であるから、激しく動く種目には参加できないのだが。

 それは無駄に消耗できないから、ではなく。 単純に体力が尽きかけているからだった。

 普通に活動する程度であれば問題ないが、全力疾走は些か苦しい物がある。

 ともかく、目の前で繰り広げられているようなスポーツのレベルは不可能である事に違いはない。

 

 ……であるなら、この祭りでの彼女の役割とは何か。

 それは運動系以外の、走行を必要としない出し物か、あるいは引き立て側の実況解説役などに限られてしまう。

 が、実況解説に必要なものは優れた話術や豊富な語彙だ。 あるいは、聞く者の共感力に訴えかける熱情が必要である。

 その資質をファインドフィートが備えているかと言えば、非常に怪しい。 残念ながら。

 

「……あれ、怖くないのでしょうか。 あんな速度で走って転んだら……わたし達の骨なんて、簡単に折れそうなのに」

 

 それらを踏まえて、クラスで役割分担の相談を行った結果。

 ファインドフィートが任されたのは腕相撲大会のクラス代表だった。 実にお誂え向きである。

 足元への影響は一切無く、鋭い舌鋒は不要であり、それでいて感謝祭での役割も十分に果たせる。

 必要なのは姿を晒すことと、来訪者を楽しませること。

 それだけが今回の必要十分なのだから、非常に易しいものである。

 

 

 ◆

 

 

 準決勝の終わり。 メジロライアン率いるチーム『ノリーズ』の勝利を見届けて、ファインドフィートは自分自身の役目に回帰していった。 時計の針を逆回しにするように、同じルートを通って体育館の外へ出る。

 彼女の役割とは、つまり、腕相撲大会への参加である。

 場所は体育館前にある仮設ステージ。 決戦の舞台はそのステージの上の、多目的に作られたお立ち台だ。

 

 勝ち抜きのトーナメント方式で、参加者は16名。

 大井レース場におけるフルゲートと同じ頭数だ。

 つまり、4回力比べをして勝てば優勝という事になる。 レースと違って勝敗への重みが無い故に、ファインドフィートには気楽なものだった。

 とはいえ、一部の負けず嫌いはそうでもないのだが……。

 

「……いえ、なるほど。 そこまで本気になって挑む物なのですね」

 

 ──訂正。

 一部ではなく、ファインドフィートを除いた大半が負けず嫌いの質だった。

 

 時間に合わせて集まった他の少女達はみな、たいへん()()()()な様相を見せつけていた。

 ただ、そうでなければ競走の道を選ぶことは──無いとは言い切れないにしても、選ぶからにはやはりそういう性質である方が自然なのだ。

 紛れ込んだ群れの中で幾らかの居心地の悪さを抱えつつ、ステージの上にのぼる。

 お立ち台の右脇。 観衆から見ての左脇。 そこを定位置として、ぞろぞろと集まってきたヒト耳達や一部のウマ耳に手を振った。 ほんの少し、抱えていた居心地の悪さが紛れた気がした。

 

「と、いうわけでー。 皆さんお集まりのようですし、第十二回……え、十三回目? ……あー、とにかく腕相撲大会を始めたいと思います。 司会は皆さんおなじみ、ネイチャさんでお送りしま~す」

 

 そんな彼女等の姿に疑問を挟むでもなく、マイク片手のナイスネイチャが進行役を担う。

 赤みの強い鹿毛(茶色)のツインテールを小さく揺らしながら、手元のメモ用紙を見下ろしていた。 それはいわゆる、カンニングペーパーという物だった。

 

「あー……っと、まずは一回戦からですかね。 これから名前を呼ぶお二人さんは簡単な自己紹介をしてから力比べしてください。 あ、レフェリーもネイチャさんが兼任しますよ~」

 

 それから一呼吸を挟んで、間延びした声で呼び出されたのはキングヘイローとカワカミプリンセスだった。

 奇しくも、揃って()()()()()立ち振舞いを重んじるコンビである。 その完成度はさておきとして。

 

「単純な力比べ、なのよね? それにしては……こう、命の危険を感じるのだけれど」

 

 その片割れ、キングヘイロー側は──些か、落ち着かない様子だった。

 一流たれと自己を厳しく律する彼女にしては珍しく、耳も尻尾もソワソワと小刻みに震わせながら、台の横の階段を上っていく。

 

「しゃあっ! ここで優勝できればお姫様パワーが高まること間違いなしですわ~っ!」

 

 対し、カワカミプリンセスは意気揚々と踝を跳ねさせている。

 赤みのある長髪を風に踊らせる姿が、根っこの部分にある気品を微かに感じさせる。

 が、どうしても隠しきれない、原始的な熱が彼女を鮮烈に彩っていた。

 

 つまるところ、カワカミプリンセスというウマ娘はたいへん()()で、()()()のあるタイプなのだ。

 その逸話のいくつかは面識のないファインドフィートでさえも知っている。

 例えばオーブントースターを手刀で破壊しただとか、校舎の壁に大穴を空けただとか。

 どれもこれも道具なしの素手、あるいは素足での所業だというのだから、彼女の身体スペックは凄まじい物がある。

 だから、そのアクティブな部分は大いに尊敬していた。 もちろん、意図しない破壊活動は決して真似したくはないが。

 

「はいはい、おふたりさん手を組んでくださいね。 それじゃあ、アタシの合図に合わせて競り合い始め。 どちらかの手の甲が机に着いたら勝負ありって事で──」

 

 口々に応援の声を上げる観衆達が見守る中、少女たちが互いの右手のひらを重ねて、ぎゅっと握り締める。

 そしてその上からナイスネイチャの手が蓋をして、試合が始まるまでの封とした。

 

 しかしどうしたことか、試合は始まってもいないのにキングヘイローの顔は既に血色を失っていた。

 姿勢は力比べの準備を終えていても心の準備はまったく出来ていない様子だ。

 

 そんな対照的なふたりの姿を、やや遠巻きに眺めた。

 机ごとぶち抜く、なんて日常生活ではそうそう聞くことのないセリフを聞き流しながら。

 

 見た限りの様相はどうであれ、どちらも現代日本では名の知れたアスリートだ。

 斯様な存在を無意味に傷付けるような企画なんぞ通る筈がないのだから十中八九問題はない。 カワカミプリンセスはこういう場面において()()()()をしてしまう程軽率ではなく──本能の部分でブレーキをかけるから、他者に怪我をさせることができない。

 

「ふゥ……キッツいですわ~ッ!」

「……あ、あら? 思ったより勝てそう……ねッ!」

 

 つまりは、そういう事である。

 結局カワカミプリンセスは全力を発揮できず、一回戦で敗退した。 アリを潰さないように踏む行為ほど、難しい行いは存在しないのだから。

 

 

 そして、それから二組が試合を行って。

 

 その度に繰り広げられる力比べを見送りながら、ファインドフィートは己の勝率を簡単に見積もっていた。

 比較対象は自分の基礎スペックと、他者の基礎スペック。 そして各々のモチベーションの差。

 

 基礎スペック、という分野に関してはそこそこの自信を抱ける。

 まず、ファインドフィートの筋力は比較的優れている方である。

 とはいえ下半身にかけている労力に比較すると、上半身はあくまでも()()()()にしか鍛えていない。

 ただ、デッドリフトの形式であれば300kgのバーベルを持ち上げる事ができるし、その状態で安定させられる。

 米俵を片手で持ち上げることだって可能だ。

 

 とはいえ、上には上がいるもの。

 たとえばオグリキャップは500kg以上のバーベルを持ち上げられるし、ヒシアケボノはそれ以上に重たい"牛"を抱えられる。 それを初めて聞いたときには"そんな事があり得るのか"、と珍しく困惑した物だった。

 もちろん、そんな上澄み中の上澄みには敵わないが……彼女は、自分が意外と"やる方"だという自負があった。

 

「──次は……ファインドフィートさんと学級委員長さん……もとい、サクラバクシンオーさん。 怪我のないようにね、おふたりさん」

 

 しかしモチベーションの部分に関してはどうとも言い辛い。

 モチベーションとは、やる気や勝負根性と言い換えても語弊はない。

 ともかく、それは精神性に由来する部分の熱量である。 対戦相手から沸き立つそれを、目で見て取れる範囲だけで比較して──ファインドフィートは、己のそれがひどく貧弱であることを理解した。

 

 壇上へ脚を向けながらひとりごちる。

 ああ、これは勝てないな、と。

 

 そもそもの問題として、彼女は勝とうとすら思えていなかった。

 ここで勝つことに意義を見いだせない。 ここで労力を費やすことに意味を有せない。

 だから勝てない。 簡単に導き出せる結論だ。

 

「フッフッフ……学級委員長の力を見せて差し上げましょう!」

「お手柔らかに、お願いしますね……」

 

 そんな推論を頭の端っこに据えながら言葉を交わして。

 一度、ぬるい息を吐き出し、代わりの冷たい空気を肺へ取り込む。

 そして手を交差させる。 握りしめる。

 向かい合って目と目を合わせた。 そこに、絶対的な熱量の差を垣間見る。

 ……つまり、ファインドフィートの推察は正しかった。

 

「ッ」

 

 審判の手のひらが蓋となって、それからほんの一呼吸の間。

 伝わる体温が互いに染みるには不足であっても、心構えを整えるには十分な間だ。

 

「ファイっ!」

 

 手が離れる。

 瞬間、全身を巡る血へ酸素を叩き込んだ。

 ぎちり、ぎりりと筋繊維が収縮し、相手の剛力を真正面から受け止める。

 しなやかな弓を引き絞るように、大きなタイヤを押し歩くように。 ただ、生物として備わった筋力のみで立ち向かう。

 

 引き倒して。 引き倒して。 引き倒して、ねじ伏せろ。

 なんて、単純なこと、いくら腕に命じようにも完遂されない。 当然だ。

 組んだ手は空を指し示したままか細く震えるばかりで、勝利の方向へと傾かない。

 つまり、ファインドフィートの全力では現状維持が限界だった。

 

「く、ぅ……! バク、バク……シィン……!」

 

 それだけの時間があれば、組んだ手から互いの体温を染み込ませるには十分である。

 白熱し、肌を炙り、汗を滲ませる。 それによって手が滑りそうになるが、しかしより一層力強く握り締める事で強固な綱として成立させ続ける。

 もし、ファインドフィートにその気がなくとも、対戦相手であるサクラバクシンオーはしっかりと勝ちきるつもりだったのだ。

 

 故に、やがて勝敗の天秤が傾いていくのは当然のこと。

 勝利の女神は相応の気迫を持つ勇者に微笑むもの。

 

 サクラバクシンオーの側はじわじわと力を強めるのに対し、ファインドフィートは少しずつ力を抜いてしまう。 じわじわと、ゆっくりと、風船が嗄れて萎んでいくように。

 その力を維持できるだけの血の巡りを、保持できなかった。

 

「参り、ました……」

 

 ──決着の合図は、ぽすんと軽い擬音が付きそうなほどにあっさりと。

 

 数十秒に渡る競り合いの後に、手の甲が着地する。

 引き倒したのはサクラバクシンオーで、引き倒されたのはファインドフィート。

 勝敗は審判による裁定は不要なほどに明白である。 疑いようもなく、ファインドフィートの負けだった。

 

 そして、これによって格付けは済んだとでも称するべきか。

 当人たちや衆目から見てどう感じるかはさておき、結果としてはそうだった。

 

 ファインドフィートはこの勝敗に納得していて、敗北へ至る理由も理解できていた。

 故に、続くセカンドラウンドも結果は変わらず。 一組の、勝者と敗者が生まれる。

 

 それを見た観客から上がるのは、あぁ~、残念だったなぁ、流石の驀進王だ、などという労いの言葉。 勝敗の行く先を肯定する言葉でもある。

 

「……まぁ、こんなものでしょうね。 わたしでは」

 

 それに悔しいとも思えず、淡々と尾を振った。

 試合後の握手を交わして、それっきり。

 

 

 そんな彼女らを他所に、ナイスネイチャが各々の一回戦の決着を告げた。

 トーナメント表の勝ち上がりを追記して、次にある二回戦の面子を読み上げて。

 その姿を尻目に捉えて壇上を降り……一応、引っ込む前に観衆へ向けて会釈だけはしておく。

 

 そして、続くトーナメント。

 ファインドフィートもステージの端っこに立ちながら、ぼんやりと進行を見守る。 時折ナイスネイチャからコメントを求められた時に反応を返しつつも、基本的には地蔵の姿勢を崩さない。

 一回戦敗退の身ではあるが、それでも参加者である。

 敗者には敗者なりの役割があって、少なくとも、負けたから"じゃあさようなら"とは行かないのだから。

 

「うぅ~む……」

 

 そのファインドフィートの状況を暇していると捉えてか。 そもそも何も考えていないのか。 まったく別のことを考えているせいか。

 何時でも何処でも元気一杯と評判のサクラバクシンオーにしては珍しく、大した声も出さずにファインドフィートに歩み寄る。 しきりに右手の開閉を繰り返しながら、訝しむように。

 

「やはり妙な手応えです。 触った感じからして……こう、もっと手強いかと思っていたのですが。 具体的に言えば、ちょっと小腹が空いた時のカワカミさんと同じぐらいに……。

 もしかして、お悩み事でもあるのでは!?」

「……それ、わたしに言っていますか?」

「はい! もちろんです!」

「あの、声はもう少し小さくして頂けると……」

「はい! すみません!」

「…………」

 

 ともかく。

 何食わぬ顔で隣に立った鹿毛の少女は、天真爛漫な笑顔で語る。

 純粋な面持ちで小首を傾げながら、ファインドフィートの目を覗き込んだ。

 身長差は5センチほどあったから、サクラバクシンオーの側はやや見上げる形だ。

 

「奇しくも同じ距離適正で、同じ脚質のよしみです。 この学級委員長が相談に乗りましょう!」

「……同じ、距離適正…………いえ、それはともかく。 別に、わたしはわたしに出来ることを積み上げていっているだけです。 これは悩みなんてものではありませんし……もし仮にこれを悩みだとするのなら、この学園に所属している全員が当てはまるでしょう」

「ふむふむ……ですが、握った手からは迷いを感じ取りました! なのでこれはバクシン的お悩みシグナルかと……ッ!」

「関係ないでしょう。

 ……話は以上ですか? でしたら……その、試合の実況とか、解説とか、そういう物をやってみても良いのでは?」

 

 口から飛び出したそれは、突き放す響きをいくらか含んでいる。

 そして彼女なりに言葉を咀嚼している様子でひとしきり頷いて、僅かに弓なりに細められた目が青色を捉えた。

 ぴんと人差し指を立てて、胸を張って。

 

「でしたら言い当てましょう! バクシン的、模範アンサーで!」

 

 大きい声である。 が、しかし直前に受けた注意をある程度踏まえてか。

 幾らか抑え気味の声で、観客のざわめきに紛れ込めるぐらいだった。

 ……しかし、真正面から直撃を受けたファインドフィートには溜まったものではない。 そっと、白い耳を伏せた。

 

「──つまり、怖いのですね! 触れるのが!」

「…………」

 

 しかし、そんな彼女の様子にすら気付いていない様子だ。

 顎に指を充てがいながらうんうんと頷いて、そのくせに仕草は堂に入っている。

 

「触れるのが怖いから、力が抜ける。 なるほど、我ながら恐ろしい推理力です……!」

「それは、何故」

 

 けれど、それを聞いたファインドフィートには堪ったものではない。

 よりにもよって触れることが怖いから、などと。

 

「何故、わたしが怖がっていると。 わたしの、どこを見て──」

「だって、そんなにも怯えているではないですか」

 

 日光のもと、桜色の瞳がきらめく。 独特の形状をした虹彩(はなびら)が印象的だった。

 鹿毛の一本結びがぴょこりと揺れて、サクラバクシンオーという少女の自信を彩って。 彼女の口先を、力強く後押しする

 

「そうでなければ、その肩や手は何故震えているのですか?」

「な」

 

 半ば反射だった。

 自分の肩をおさえて手を見てみる。

 

「いえ、これは……」

 

 けれど、震えなんて存在しない。

 

「心当たりは、お有りのようですね」

 

 普段どおりだ。 普段どおりのファインドフィートがそこにいるだけだ。

 咄嗟に反応してしまったが、それはサクラバクシンオーによる欺瞞だった。

 ……けれど、咄嗟に反応してしまえるということは、相応の動機や心当たりがあるということで。

 

「……うそ、だったんですね」

 

 故にようやく行き着いたのは、そんな答え。

 微かな震えや甲高さを含んだ吐息を、歯の間をすり抜けるような語尾で纏める。

 

 サクラバクシンオーはそれに対して肯定、するわけではなく。 否定することもせず。

 ただ、艷やかな唇をぴったりと閉じて、浅い弓なりの笑みをつくるのみ。

 つい先程までの騒がしさはいずこへ消えたのか、顔を合わせているファインドフィートにすら把握できなかった。

 

「傷付けるのが、怖いですか?」

「そんなの……怖いに、決まってるじゃないですか」

「傷付けられるのは、怖いですか?」

「それは……あんまり、怖くないです、けど」

 

 細められた桜色の瞳。

 その奥に封じ込められた熱情を覗き見ながら、途切れ途切れの答えを返して。 薄く引き伸ばされた極小の音で間を取り繕った。

 

「……その根底にあるのは。 きっとあなたが、あなた自身の事を信じていないから……。 いえ、正確には信じたくないから、が正しいでしょうか?」

 

 そして、隠していたつもりの中身に明確な形を与えられて。

 ファインドフィートは自分が何を返すべきなのか、途端に見失ってしまった。

 何を言えば良いのか、そもそも何を言いたいのか、そんな単純なあるべき姿さえもまるで掴めない。

 分からない。 分からないのだ。 自分以外の心は目に見えないから、分からない。

 ……だから人々は、互いを理解するために言葉を交わすのだけれど、ファインドフィートにはそれも出来ない。

 

 対話することは、恐ろしい。 理解できないから、恐ろしい。

 怯えを仮面の裏に隠しながら、そっと目を逸らす。

 

「……そんな、こと。 あなたにはどうだって良いでしょう。 だってそもそも、あなたとわたしは今日初めて会話を──」

 

 ──した程度の仲だから、あれこれと言われる義理などない。

 

 そう続けようとして。

 しかし、途端に胸の奥が痛みを叫んで、喉の元を引き絞る。

 こひゅ、と。 溺れるような喘ぎを漏らした。 痛くて、痛くて、脳の髄が溶け落ちてしまいそうだった。

 

「……初めて、なのに?」

 

 初めて、の筈だった。 会話を交わしたのは。

 

「本当に?」

 

 ファインドフィートの記憶にある限りでは間違いなくそうだ。

 だというのに、"初めて"と口にした数だけ胸の奥が痛んで仕方がない。

 

「本当に……?」

 

 そんな彼女へ向けられた桜色の瞳は、微かに伏せられた。 小さく、浅く。

 

 ──かと思えば。

 僅か数瞬後には晴れやかな笑みが満面に広がる。

 自信いっぱいで元気もいっぱい。 普段から己を()()()学級委員長と呼んで憚らぬ少女らしく。 お手本通りに。

 

「……ですがご安心ください! 何せこの学級委員長が傍にいるのですよ! ですから一緒にバクシンしていれば、あなたもすぐに、あなたの事を好きになれます!」

「…………」

「さあ、あなたも一緒にバクシンしましょう!」

 

 それから一度、試合の場へと視線を投げて、ようやく首を横へ振った。 静かに、音も出さず。

 ……とはいえ、そもそも周囲の観客による声の方が大きいのだから音なんて気にする必要なんてない。 音を気にしている者がいるとするなら、それは他ならぬファインドフィートだけである。

 二回戦の二組目が試合中で、彼女等ふたりを除く全員が力比べに夢中だった。

 

 わぁ、と歓声が上がる。

 がんばれー、と応援が聞こえてくる。

 負けるなー、と発破の叫びが響く。

 その声と声の隙間を縫うように、喉の奥を震わせた。

 

「……わたしが欲しいのは、結果だけ、なんです。 結果さえあれば、わたしは納得できる。

 そう。 結果さえ、結果さえあれば良い。

 そこへ至るまでに、わたしの自己嫌悪があろうと何も関係ない。 違い、ますか?」

 

 言葉はふたりの間だけに染みていく。

 まるで形のない何かに隔てられているのかとでも疑いたくなる程、他の何処(いずこ)かへ到達することもない。

 微かに腐った肯定を聞いた桜色の少女は、ただ、眉をほんのり垂れ下げた。

 

「……もちろん、あなたが言った事は覚えておきます。 だって、あなたほどの方が言うのですから」

 

 その姿を見ている癖に最低限を言葉の形に押し固めて、視線を少女の真横の、ステージから見た空へと放る。

 せめてもの誠意を露わにしたつもりであっても、虚しいほどに白々しかった。

 

「──ああ、もうそろそろあなたの出番みたいですよ。 あなたを、みんなが待ってる」

「ちょわっ!? すみません、今行きます!!」

 

 そんなもの、いつか春風に呑まれて消えていくというのに。

 

 


 

 

 目覚まし時計の喉が震える。

 唾を飛ばしながら大口を開いて、みっともなく喚き散らした。

 

 愛おしかった。 しかし忘れた。

 何でもない日々こそが輝いている。 けれど捨てた。

 あれらの積み重ねがお前をつくる。 だというのに、諦めてしまった。

 全部、全部、薪の中に隠れてしまう。

 

 お前のせいだ。 お前のせいだ。 何もかもがお前のせいだ。

 お前の……。

 

 ……ぼくの、せいだった。

 

 



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49話

 そして彼女は、今日も髪を結わえて靴を履く。

 着慣れた赤いジャージで肌を隠し、芝の縁をひとりで走る。

 なのだから必然、その背後で何が起きているのかなんて知りやしない。 知ろうとも思えない。

 

 故に今日も、世界の尽くに責められながら、呼吸を繰り返すのだ。

 喪失を経た半分だけの命で、死人のそれと等しい命で、地を跳ねる虫けらにも劣る命で。

 愚かしくも、罪深くも。

 

 


 

 

 ぽぉん、と。 くるみを中空へと放り投げる。

 親指の爪の先で弾けば、瞬きの間だけ滞空する。 やがて落ちてきたそれを、人さし指と中指で受け止めた。 ハサミの要領だ。

 それからも何度も何度も飽きもせず、同じ軌跡、同じ速度、同じ間隔で放り投げる。

 そしてそれを、幾度となく同じ動きで受け止めて、そしてまた同じ動作を繰り返し繰り返し反復した。

 機械のような精密さで、しかし機械には無い、やわらかな指先で。

 

 ミホノブルボンは幾度となく、手慰みにくるみを投げた。

 それは無聊を慰めるためなのか、はたまた落ち着かない心を宥めるためなのか。 本当のところは彼女自身にさえ分かっていない。

 それでもただ、自分の中身を言語化しないままで、何度も何度も繰り返す。

 

 水あめが背筋を這うような、嫌な感覚を伴う冷や汗がじんわりと滲む。

 そして頸椎から煮え立つ焦燥が、じわじわと、じりじりと、加減なくうなじを炙った。

 

「……くるみの耐久度、超過を確認」

 

 ……そんな事に気を取られていたせいなのか、受け止めたくるみに罅が入ってしまう。 力加減を誤ってしまった。

 己の失態を把握してしょんぼりと耳を垂れさせ、仕方なく殻を割って中身を食べる。

 カリカリの実は、少しだけ苦かった。

 

 それでも動じずに噛み砕き、嚥下し、失態の証跡ごと胃の中に隠してしまう。

 そして再び傍らのカバンからくるみを取り出して、また手慰みに弾き始めた。

 

「軌道の誤差、2.3%。 くるみの輪郭把握、重量測定。 軌道修正、力量調整……リピート」

 

 ──そうして我が物顔で同じ動作を繰り返して、いるけれど。

 彼女がいるのは居住地である寮の部屋ではなく、チームスピカの拠点だった。

 つまり、彼女はあくまでも部外者である。

 

 とはいえ現在は彼女以外に誰もおらず、無人のソファーや机が寒々しく転がるばかりだ。

 だから誰かに何を言われるでもなく、座って半畳の空間を占領し続ける。

 

 変わらず、投げて、受け止めて。 投げて、受け止めて。 投げて、受け止めて。

 それからたっぷり53回も繰り返して、ようやく。 ドアの外から、待ち望んでいた音を聞く。

 

 がらり、と音を立てて引かれたドア。

 その向こうには、随分と長い付き合いとなっている鹿毛の少女と黒い少女の二人組。

 トウカイテイオーはいつになく真剣味を増した表情で、もう片方のマンハッタンカフェは感情を滲ませない、色のない顔で。

 

「……お待ちしていました。 テイオーさん、カフェさん」

 

 そんな二人を出迎えて。

 少女は生ぬるい呼吸を呑み込み、くるみを握り潰した。

 

 

 ◆

 

 

 長机を囲うは三人。

 ミホノブルボン、トウカイテイオー、マンハッタンカフェ。

 本来はゴールドシップも来る手筈ではあったが──諸事情により、急に来れなくなってしまった。

 故に用意されたカップは三組のみ。 立ち昇る湯気を各々の視界の端に収めながら、乾いた唇を湿らせた。

 

 そして蛍光灯の明かりの下で、僅かな時間を香りに溶かす。

 ぶぅんと、光の向こうから下りてくる小さなノイズ。

 チックタックと、休まず働く時計の針。

 パタパタと、誰かの尻尾が椅子をはたく。

 かちゃりと、ティースプーンがカップの縁をひっかく。

 

「……では、お聞かせください」

 

 小さなお茶会もどきは、この合唱から始まった。

 

 ……とはいえ、語ることは今までの焼き増しだ。

 少女たちが知りうる限りの全てを、可能な限り主観を排して共有するだけ。 そこに目新しさはない。

 

 家族のこと。 交通事故のこと。 存在しない筈の姉なる存在のこと。 胸の傷跡のこと。 強迫観念のこと。 毎朝、鏡に向かって何かを話しかけている様。

 そんな、プライバシーもへったくれもない内容を隠しもせずに、そうと理解した上で記憶の同期を図る。

 

 だから劇的な変化が訪れるはずもなく、共有し終えた後も、彼女等の合唱は変わらずそこにあり続けていた。

 

「なる、ほど。 大筋は、分かりました」

 

 どうして、と疑念を抱く事はない。

 大半は断片的な情報を繋ぎ合わせたものであれ、真実からそう遠くないという確信はあった。

 

 けれども、大半を除いた一部が。

 そこにある鍵を構成するために、頭の中に散らばる点と点が繋がりそうで──否、殆ど繋がりかけているのに、どうしても納得できない疑問があった。

 それはつまり、ファインドフィートというウマ娘に、よくないモノが何故つき纏っているのかという、マンハッタンカフェ以外には着目できない疑問である。

 

 何せそこに至る通理がない。 そういうモノに好かれやすい性質なのだとしても、限度がある。 友好で繋がるのではなく、悪意とは少し違う一方的な執着で成り立つ関係。 それは簡単に成立するものではない。

 執着に至るほどの何かがある筈なのに、その何かが理解できない。

 

 別に、ファインドフィートの精神性だけであれば理解は及ぶのだ。

 家族を失ったから、代わりの義務を果たす。 己の存在証明を、自己犠牲を以て定義する。

 なるほど、納得は──したくないが、理解はできる。

 夢を代わりに叶えたいのも、理解だけはできる。

 しかし何故そこに、件の某が挟まってくる余地があるのか。 これが分からない。

 非現実的かつ超常的な存在は見飽きるほどに見てきたマンハッタンカフェではあったが、しかし、今までの十数年で見た事のない存在には困惑する他なかった。

 

「……交通事故。 胸の傷跡……」

 

 白い首筋に絡みつく赤い糸。 微かに幻視した、少女の後ろに立つ女の姿。

 それらを脳裏の片隅に思い浮かべながら、これまでに得た情報を丁寧に整理してみて。

 

 やはり、訳が分からないと首をひねる。

 こういうオカルト的な概念が絡んでくると、普通の常識が通用しなくなってしまうから困る。

 

 けれど、そこで止まってしまう訳にも行かない。

 考えなければそこで終わりだ。

 終わるのは、何かが、という形容でも、誰かが、という形容でも問題はない。

 どちらであれ一個人の根底が崩壊することを指しており、それに疑いの余地はないのだと確信している。

 少なくとも、この場にいる全員はそうだった。

 

 言葉を尽くす。 情に訴える。 実力行使。

 そうして止めようにも、結局のところ──二人は覚えていないが──無意味だった。

 けれど今の彼女等は同じ轍を踏むことを()()()()ようになっていたから、完全な無駄骨ではない。 せめてもの救いだ。

 

 

 故に、二人は本能的かつ無意識の領域で。 一人のマンハッタンカフェは薄っすらと香る予感から、それらの正道から外れた視点を求めている。

 だからとにかく考えて。 限りある時間を無駄にしないために、とにかく考えて。

 チックタックと鳴る時計の針に急かされながら、三人揃ってうんうんと唸って。

 

「……胸の、傷跡?」

「どうしたの?」

「…………いえ、その……以前、テイオーさんが覗き見を──失礼、うっかり見てしまったという胸の傷跡に、少し違和感があって……」

「ホントに失礼じゃん!?」

 

 ふと、なんとなしに疑問を抱く。

 交通事故に遭ったことと、胸の傷跡。 これを──明言された訳ではないから仮定の上ではあるが、関係性の糸で結びつけてみる。

 事故にあったから、胸に傷を負った。 全くもって分かりやすい流れである。

 そして傷を負ったのであれば、病院にかかるのがあるべき姿の筈で。

 

「……テイオーさん。 確か以前、名刺の写真を見せてくださったかと思いますが……」

 

 そこで、思い出した。

 以前トウカイテイオーが見せた、出自不明の名刺のことを。

 それは携帯端末の中に写真として保存されている。

 それはいつの間にか撮影されていたものだ。

 それは持ち主の記憶にはない写真である。

 そんな怪しさ満点な写真を所望してみる。 返ってきたのは快諾だった。

 

「ん……これ、かな?」

「はい、少々お借りしても?」

 

 指先でなぞる。 液晶の奥にある、色褪せた名刺の端。 電子的に綴られた名前。

 アグネスタキオンに曰く、臓器移植に一家言ある医者の名前。

 

「……この写真を撮った場所は、ブルボンさん達の部屋でしたね」

 

 状況証拠からして、これはファインドフィートの私物である事は明白だ。

 であるなら、やはり彼女との関係があることも必然で、それを胸の傷跡と結びつけても何ら不自然ではない。

 

「行くべき、でしょうね。 事故の事も……私達よりは、知っていそうですし……聞きたいことがありますから」

 

 故に、次の一手としてそんな結論を弾き出した。

 

 そして何よりも、よくないモノがつき纏うに至った経緯をも明らめることが出来るかも知れない。

 いくら心を折ったとしても、それだけでは不足であろうことはマンハッタンカフェには察しがついているのだ。

 今までに多くのモノを見てきた彼女であってもタチが悪いと称する他ないあれ。 あれはきっと、素直に終わらせてくれることは無いのだろうと、奇妙な確信さえ懐き始めていた。

 

 それは友人二人の性根と後輩の性根を踏まえて考察した上で思うあるべき未来と、実際にある現状の落差を理解した故の確信だった。

 

 事実、それは正しい。

 心を折った程度で終わるのなら、足を折った程度で終わるのなら、ファインドフィートという少女はそもそも居ない。

 

「……私達が聞きたいことを、纏めておきましょうか」

「……はい。 私は……まず、事故の背景と、可能であれば親族の情報も得るべきだと提案します」

「お姉さんって結局誰なのか、まだよく分かってないんだよね……」

「確かに……その正体も、気になるところです」

 

 そこで、一度カップに口をつけて。

 猫舌をゆっくりと湿らせた黒い少女が再び顔を上げた。

 

「それと……入院期間の様子、ですね。 もしあれが、その頃から居たのだとすれば──」

 

 そこで、歯を噛み合わせて言葉を区切る。

 

 事故の前に憑いたのか、事故の後に憑いたのか。 それが分かるだけでも大きな進歩だ。

 もし後者であれば、入院中の様子──例えば、存在しない誰かに言及しただとか、何もない空間を見ていただとか、所謂幻覚のような症状が確認されていれば多少話は分かりやすい。 それに当て嵌まらなければ前者の可能性は高くなる。

 

 ……あるいは、もしマンハッタンカフェに、そういうよくないモノを引き剥がせるような、オカルトの極みのような能力でもあれば話は早くなるのだが。

 しかし残念ながら、あるいは当然であるが、そう都合の良い話はなかった。

 彼女に出来るのは、見ることと会話することだけ。

 十字架と聖水で悪魔を払うことは出来ないし、祈祷と香草で精霊の声を借りることも出来ない。 所詮は現代日本に生きる少女でしかない。

 

 だから彼女に出来るのは、一歩ずつ、地道に、真実へ向かっていくこと。 その果てに、納得の行く落とし所を見つけること。

 非常に迂遠なそれこそが、最善の道だった。

 

「……ともかく、私達に必要なのは、あの子の心を折るための"何か"です。 本当に、何があっても二度と走りたくないと思わせるための──折れても問題ないと思わせるための"何か"が必要です。 そのための第一歩として、まずはこのお医者さんに面会の約束を取り付けたい所、ではありますが……」

「私達がフィートさんのことを聞きに行ったとしても、個人情報保護の観点から受け入れられない可能性がある……と」

「はい……頭の痛いことに」

 

 そう囁いて、カップを啜る。

 ……啜ろうとして、中身が殆ど空であることにようやく気付く。

 ちょっぴりの気恥ずかしさから頬に赤色をのせた。

 

「でもさ、どうするの? コジンジョウホウの保護の為です~、なんて言われちゃったらボクらなんにも出来ないよ~」

「……ああ、それでしたらひとつ、いい考えがあります」

 

 そして、そっとカップを下ろして。

 彼女は、やや時間を空けて口を開いた。

 黄金色の両目が蛍光灯の光を反射して小さな月を彩る。

 空にある物よりも身近な現実感を伴うそれは、どこか怪しげな色香を纏っていた。

 

「日頃から迷惑を掛けられてばかりですから……。 たまには逆の立場を味わって貰うべきではないかと、思いませんか?」

 

 

 ◆

 

 

「だからといって何で私なんだい? 確かに白衣を好んで着用してはいるけれど、医者だの医師会だのとは一切無縁なんだけどねぇ……」

 

 場所は変わってとある空き教室へ。

 そこは以前、トウカイテイオーが物忘れの相談のために訪れた場所だ。

 さほど期間が空いていなこともあって部屋の様子──見事に二分割された色調などは何も変わっていないが、アグネスタキオンの専有領域にある紙束や書籍類だけは幾らか量が増えていた。

 

 それら雑多な紙類の中枢に座るアグネスタキオンはやや気怠げに目頭を押さえて、闖入者の三人組へ呆れたようなため息を投げかける。

 何せ、研究中に急に部屋に入ってきたかと思えば"以前知り合いが入院していた病院に押しかけて、当時のことを聞き出したい。 方法を教えてほしい"、などと言い始めたのだ。

 何故そういう話が出てきたのか、何のためにそのような事を行う必要があるのか、それらも一切わからないままである。

 しかもそのくせに何処までも真剣な表情で語るものだから、無下に突き返すことも憚られる。

 

 だから仕方なく。

 本当に仕方なく、拒絶の念ごとペンを置いて、大げさなため息を吐く。 諦めを多く含むため息だ。

 アグネスタキオンという少女は基本的に振り回す側であって、他者の都合をあえて無視する質である。 が、時と場合を考慮出来る程度の思慮は備えていて、本当に良くない場面を見極められる程には聡明だった。

 

「今の私はあくまでも学生で、一アスリートに過ぎない。 過剰な期待はよしておくれよ」

「とはいえ、まるで立ち回りができないわけではないでしょう……。 少なくとも……私達よりは、ずっとマシな筈です。

 ……それに一応、名家の出身らしいですし、そのあたりもうまい具合に躱せる口先もあるのではないかと」

「名家出身という立場に夢を見すぎじゃないかい? 私の親は放任主義だったからそういう教育は受けていないんだが……」

 

 ぎしり。 背もたれが軋む。

 一般的なオフィスチェアに座る一人と、ゴシック調のソファに座る三人が相対する構図の中。 アグネスタキオンは手元の資料を全て横に退けて、申し訳程度の聞く姿勢を整える。

 足を組んで尻尾を揺らし、肘を机の上に押し付けて。

 やや崩れた態度ではあるが、他三名にとってはそれでも十分だった。

 

「そもそも、それならテイオーくんでも良かったんじゃないかい? 一応、キミだって旧家のご令嬢だろう、一応」

「何で一応を強調するの!?」

「そこは……その、適正の話と言いますか、やはり白衣が無いから違うと言いますか……こう、そういう雰囲気が……」

「推察。 つまり、テイオーさんには『お腹の黒さ』が足りていないという事かと」

「キミ達も大概好き勝手に言うねぇ」

 

 ろくろを回す手で語る庶民A。 ふわふわとした、"それっぽさ"というイメージを抱く庶民B。 あれやこれやと鳴くご令嬢。

 それらを片手で宥めつつ、それで、と。

 明日の天気を言い当てるかのような気軽さで、飄々と口の端を吊り上げる。

 騒がしいのは別に嫌いでないが、それはそれ。 話を早めに確定させてしまいたかった。

 

「何はともあれ……フィートくんの事だろう? 件の患者というのは」

「……よく、分かりましたね。 正直なところ……一応無関係なあなたに気苦労を背負わせないための、気遣いのつもりだったのですが……」

「いや、むしろ分かりやすかったさ」

 

 なんてあっさりと言い放ち、右の人差し指をぴんと立てて見せた。

 しかしそう言われた側の三人はまるで思い当たりがなく、やや間を開けて小首をかしげる。 動作のタイミングは全員同じだった。

 

「今、君たちと交友のある知人枠で、明らかに問題を抱えている存在。 それは彼女しか当てはまらない」

 

 くせっ毛の前髪を揺らしながら、滔々と舌を回す。

 

「知っての通り、私はデータ集めに余念がなくてね。 当然、めぼしいウマ娘は予め入念に調べてる。 それは何も脚の速さだけじゃあない。 心肺機能に加速力、柔軟性、レース運びの癖、ここぞという時の胆力……まぁ、情報は多いに越したことはないからね」

「ええ……それに加えて、実験と称して色々と手を出そうとしてるでしょう」

「手を出そうとしただけだよ。 実際に協力してくれる娘はそう多くない」

「その時点で十分問題かと思いますが……。 いえ、今は、いいです。 続けてください」

 

 咳払いをひとつ。

 やや不満げな表情を作って見せてふたつ、若干の間を拵えて。 そしてまた、語るための雰囲気を整えた。

 

「……まぁ、フィートくんはその中でもとびっきりの謎を持つ存在さ。 何せ、事前の計算から求めた能力と、得た結果が釣り合わない。 特に、ここ最近での逃げスタイルは……そう、おかしい事しかない。 彼女にそれほどのスタミナは無いはずだし、あそこまでの粘り強さは一周回って異常にも──いや、そこはいい。 とにかく、()()()()()だなんて曖昧な性質では説明できない程にはおかしい。 ……あと特に顕著なのは、彼女は常に高ストレス状態であることだね」

 

 例えば、意味もなく同じ行動を繰り返す"常同行動"は、ストレスを溜め込んだウマ娘によく見られる行動である。

 例えば、耳を後方へ絞る行動は、怒っているか警戒心を抱えているか、はたまた何かを恐れている際に見られるものだ。

 ファインドフィートは練習中にそれらの仕草を頻繁に見せていて、録画情報にも記録されている。

 

 もちろん、それだけでおかしいと判断した訳ではない。

 けれど、いっそドーピングを疑いたくなるような過程と結果があって、当人の精神的健康を憂慮するに値する過去と現在があって。

 それぞれの根拠が弱々しくとも、いくらか数が積み上がってしまえば無視も出来なくなってしまう。

 

 仕草ひとつ、言動ひとつ、表情ひとつ。

 それらのひとつひとつが彼女を構成する要素であるとして、そのどれもが健全な形を示さないのであれば。

 やはり、どう解釈を変えても健全を表す証跡にはなり得ず、逆説的な異常を表してしまうのだ。

 

「つまり、消去法みたいなものだねぇ」

「……なるほど。 ステータス、『納得』に遷移しました」

 

 ミホノブルボンへ向けて頷いてみせ、そこから背もたれへと全体重を預ける。

 所詮は少女の体格であるが故にさほど重くない筈だが、それでもオフィスチェアはいとも容易く音を上げた。

 そんな意気地なしの下僕へほんの少し眉を顰めつつ、改めて話を本筋へ戻す。

 

「なんにせよ、だ。 私達はまず立場を用意する必要がある。 色々と教えてもらえる立場を、だ。 患者の情報は、部外者には教えられない決まり事だからねぇ。 本人か、本人が定めた代理人か、親族か……」

「ステータス、『困り気味』。 つまり、悩ましいです」

 

 そして、どのパターンであれ、患者本人を関与させずに事を進めることはほぼ不可能だ。

 それは法律が定めた壁であり、故に彼女等には正当性を与えてくれない。

 

「……でも、引き下がれないんだろう?」

「はい。 私は知らなければならない。 そして……何かを、謝罪しなければ、いけない気がするのです」

 

 膝の上にのせた手の甲。

 それをじっと、無機質な青目で見下ろしながら、ぽつりぽつりと懺悔にも似た独白をこぼす。

 

 その薄い肌色の向こうに見るべきは、果たして何だったか。 何へ語るべきなのか。

 そんな簡単なことさえも思い出せず、時間ばかりが過ぎていく。

 

「私は……以前、何かを、致命的な"何か"を、間違えたのです。 きっと、どうしようもなく、選択を誤ったのです。 だから……せめて、その間違えた"何か"を知らなくては、謝ることさえ出来ません。 私は、私達は……ちゃんと、目線を合わせないといけないのに」

 

 だから、変えなくてはならないのだと。

 変わらずにいるべきことは、必ずしも正しくないのだと。 そっといつかの後悔を抱え込んで。

 時系列さえもあやふやなそれに疑問を挟むこともせず、確信と共に舌へのせる。

 それを愚かと笑うことは誰にもできない。

 

「……ボクも、友達だからさ。 せめて、ボクらぐらいはあの子を見てあげないといけないし……どうしても、言いたいことがあるから」

「私は……まぁ、乗りかかった船ですから……」

 

 三者三様の回答。

 それを浅いところで受け止めて、咀嚼し、オフィスチェアに座ったままくるりと回転した。

 マンハッタンカフェはともかくとして──他の入れ込んだ様子の二名を回転する横目で眺め、うっそりとため息を零す。 けれど背もたれの軋む音に紛れる程度だったから、場へ影響を及ぼすことはない。

 

 そして、それらの答えを聞いた上で思うのは、自分は何故こうも巻き込まれてやっているのかという、まったく今更な疑問だった。

 何故こうも手間がかかり、時間がかかる事柄へ、積極的に関わろうとしているのか。

 これが中々、理由の言語化が難しい。 しばし首をひねって宙を見る。

 

 同情、ではない。 頼まれたからという義務感でもない。

 であれば、ここぞという時でのみ限界を超える少女への、ある種の好奇心のようなものか。

 

 ……そんな仮定を浮かべてみても、どうしてか腑に落ちなかった。

 けれど考えても分からないのなら無駄なリソースの浪費であると、自分自身の中で簡潔に結論づけて。

 また、視線を三人の方向へさしむける。 考え込む彼女の瞳の焦点は少しばかりズレていた。

 

「……正規の方法は無理だね。 どうにか誤魔化すしかないが……。 ふむ、絶対に不可能ってワケじゃないね。 必要なのは()()()()()感じ。 納得できるだけの雰囲気。 機械相手は流石に厳しいが、人間相手ならやりようなんていくらでもある……か」

「ええ、ホントに~?」

「ある。 意外と問題ないねぇ」

「まさかタキオンさん、違法な方法じゃないですよね……?」

「ハハ、まさか!」

 

 あっさりと、こともなげに言い放ったのは自信満々の宣言。

 近くのノートパソコンを手繰り寄せた少女はぴょこぴょこと両耳を揺らしながら、キーボードを軽やかに叩いてる。

 画面に表示されたブラウザには目的地である病院のホームページやアクセス経路、それと"ウマ耳にも分かる変装術"など謳う胡散臭いウェブサイト。

 

 それをその場に居る面々へ見せ、仰々しく胸を張る。

 

「それじゃあ、まずは……おめかし、しようじゃないか」

 

 それじゃあ。 その前にあるべき説明は何もない。

 しようじゃないか。 その後にあるべき説明も何もない。

 

 なのだから、必然。

 指をさされたミホノブルボンは、曖昧に小首をかしげることしか出来なかった。

 

 


 

 

 一方その頃、ゴールドシップは芦毛の行き倒れを拾っていた。

 銀色の長髪がよく似合う、潮の香りがする女だった。

 

 



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50話

 

 

 今日は取材を受ける日だ。

 記者に向かって意気込みを語り、ペン(記事)インク(中身)を補充する。

 目標だとか、現在の調子だとか、個人の思想や趣味、私生活の話まで。

 それからカメラへ向けて二本指。 後々のために必要だから協力するけれど、まったくもって気に入らない。

 だって、成り損ないの記録しか残せない我が身が、こんなにも忌まわしい。

 

 


 

 

 白昼の途上。 公道の端。 そこをゆくは四人の少女。

 栗毛と鹿毛と青鹿毛と、そして芦毛。

 各々、普段と些か異なる装いに身を包み、ぽつぽつと会話を交わしながら前を向く。

 そしてつい先日の取り決め通り、仲良く病院を目指して歩いていた。

 

「……いいかい? もうすぐ目的地に着く訳だが……基本的に、名乗るのは私だけだ。 特にブルボンくんは名乗らないように」

「オーダー、承知しました」

「ボクも黙ってた方がいいの?」

「ああ、そうしてほしい。 カフェもだ」

「……ええ、何か考えがあるのでしょう?」

「もちろん……ああ、とはいえ場合に応じて、で頼むよ。 何もかもが計画通りにいくとは思ってないからねぇ」

「計画……たしかに、かなり大雑把ですから……」

「仕方ないさ。 今回ばかりは」

 

 周囲は栄えているわけでもなく、寂れているわけでもない微妙な様相。

 駅から降りて徒歩10分の距離であるが、その道中は多少飲食店や雑貨店が点在する程度の町並みだ。

 土曜日だというのに出歩いている人影は少なく、いるとしたら余生を楽しむ老人か、友人と連れ立ってどこぞかへ遊びに向かう子ども達程度か。

 普段過ごしている府中とまったく違う空気感が、否応なく日常との乖離を意識させてくれる。

 

 その中をアグネスタキオンが先導し、目的地への道程を消化していく。

 別に走っているわけではないから到着予想は当初の想定と変わらず、ヒト基準での徒歩10分後。

 ただ歩くだけの時間に大きなイベントは何もなかったから、ごく自然に景色が後方へ流れていく。

 

 そうして歩き続ける少女達の前にやがて見えてきたのは、白塗りの塀だった。 それと塀の奥には駐車場があって、その真横に総合病院が建っている。

 規模はそれなりに大きく、複数の棟に分かれた建造物が堂々とした姿を晒していた。 これが今日の目的地である。

 

 正面にたどり着いたかと思えば、口を半開きにして建物を見上げ始めた芦毛の少女──もとい、()()()()をしたミホノブルボンを誘導しつつ、ようやく玄関口に足を踏み入れた。

 

「……思っていた以上に、大きい病院ですね……」

「目視にて計測。 おそらく、この近辺で一番大きいかと」

「んぇ、あれで計測してたんだ……」

「ヒトも多そうだ。 ま、土曜日だからねぇ」

 

 自動ドアを越え、備え付けのアルコール消毒ジェルをワンプッシュ。

 各々譲り合いながら綺麗に消毒を済ませ、ぞろぞろと連れ立って大きな正面ホールへ入場を果たす。

 

 事前の予想通りヒトの数はそれなりに多く、座席の7割が埋まる程度。 それらから多少向けられる奇異の目を受け止めながら、天井から吊り下がる看板達へと視線を彷徨わせる。 アグネスタキオンがまず知りたかったのは総合受付の場所だった。

 それからやや間を空けて目的地を把握し、先導するため歩き出す。

 

 先頭を行くアグネスタキオンのすぐ後ろには長髪を一本結にしたマンハッタンカフェ。 その次続いて髪を下ろしたトウカイテイオー。 最後尾には芦毛に染色したミホノブルボン。

 そして全員、服装を普段とは違う方向性に変えている。

 別に、変装、というほどではない。 しかし、雰囲気は明確に変わっている。

 ほんの少しの観察と、瞬きを三度する程度の時間さえあればすぐに普段の彼女らと今の彼女らが結びつく程度の、微妙な変化。

 しかし十分である。 その"ほんの少し"の観察を要する事実こそが必要なのだから、何も問題はない。

 

「……ふぅン、一人だけみたいだね。 丁度いい」

「なんだか悪役みたいですね、言ってること……」

「失礼だねぇ。 こんな善良ウマ娘を捕まえて何てことを言うのさ」

「……昨日。 私のお気に入りのコーヒー豆が薬品みたいな匂いに変わっていたのですが──」

「──おっと。 こんなところで話してたら迷惑になってしまう。 早く要件を済ませるべきだねぇ。 いやはやいやはや、こればっかりは仕方がないんだよ」

「本当に、このひとは……」

 

 ともかく、最初のステップだ。

 代表者であるアグネスタキオンが一歩、カウンター前へ踏み込んだ。

 

「んんッ……。 失礼、少々よろしいでしょうか」

 

 しかし、担当者は手元を見下ろしながら作業中。 受付の殆どを自動化してる影響か、来客への意識が少しばかり疎かになっているようだ。

 もう一度少々強めに呼びかけてみれば、慌てた様子で顔を上げて、いそいそと居住まいを正した。 声を掛けてきた人物へ、ほんの少しの驚きを向けながら。 その表情はどちらかといえば、既知の人物を目視した故の感嘆の意を含んでいた。

 

 前後の流れはさておき──アグネスタキオンは、都合がいいと内心でほくそ笑んだ。

 顔を見るだけでそういう驚きの表情を浮かべるというのであれば、相応の要因があるという事で。

 

「こちらに循環器内科医の田島先生がいらっしゃるとお聞きしたのですが……」

「ええっと……はい、たしかに当院の先生ですが……。 失礼ですが、あー……お名前をお聞きしても?」

「これは無礼を。 (わたくし)、アグネスタキオンと申します」

 

 名前を口にした途端、ピクリと。 担当者の眉の端が小さく跳ねた。

 もちろん相手も仕事人だから決して表に出しはしないのだけれど、それでも最低限判断できるだけの情報は得られる。

 

 早い話、この担当者の女性はアグネスタキオンというウマ娘を知っていた。

 事実、トゥインクルシリーズの様子は生放送される物であり、出走者というだけでも誰かの視界に入り込むもの。

 その中でもG1の格付けを受けているのであれば、やはり知名度は抜群のものとなる。

 

 

 後ろ手で他三名を呼び寄せつつ、注意深く唇を湿らせた。

 

 必要なのは納得させることだ。

 納得させると言うからには、相手に納得できるだけの情報と道筋を与えてやらなければならない。

 人間というのは、ただ分かりやすい回答を与えられるより、自分で導き出した回答の方を強く信じ込むものである。

 それの正否がどちらであれ。

 自分で導き出したという事実故によく脳に定着し、自分で考えたからこそ疑惑が生じる隙間が発生しない。

 故に推理するための材料を与え、雰囲気という指向性を与えて。 しかし、結果に誤差が生じないよう求めている回答だけは明確に提示する。

 あとはその至るべき回答に向け、相手が勝手に考えて、勝手に納得できるだけの肉付けを行うだろう──という、まぁまぁ苦しい方法だ。

 

 ……正直なところ、正当な権利を持たない身からすれば苦しくない方法なんて何もないのだが。

 

 ともかく今回のパターン(相手が自分を知っている)であれば、恵まれたネームバリューを使い、小手先の技でいい塩梅に装飾し、真を含む嘘を飲み込ませてやる計画だった。

 ……念のため、予め用意していたプランBからDまでは一旦保留としておく。

 

「ええ、それで──個人的な事情により、少々お話を伺いたく。 申し訳ありませんが、取り次いでいただけますか?」

「しょ、少々お待ちください……あの、そちらの方々はお連れ様でしょうか?」

「それは、ええ。 もちろん」

「承知、しました……?」

 

 小首をかしげながら、少しだけ後ろの面々を眺めて。

 それからちょうど瞬き三つの時間の後──急に、何かしらに納得した様子で頷く。

 呼気を吐き出して、納得を面に出し、ようやく慌ただしくカウンター裏に引っ込んでいった。

 

「……まぁ、概ね想定通りだねぇ……」

 

 何はともあれ、最初のステップは問題なく乗り越えた。

 次のステップはこの"なぁなぁ"の状態のまま目的の医師に面会することである。

 

 ……が、せっかくいい具合の状況で進んでいるのに横や後方から視線がビシバシと突き刺さる。 ちょっとだけ鬱陶しい。

 何か言いたいことがあるんなら直接言い給えよ、と隣の黒い少女を睨んでみた。

 

「……失礼かもしれませんが……タキオンさんって、敬語を使えたんですね……」

「はぁ~? 本当に失礼なことを言うねぇキミぃ。 失礼マイスターなのかい? もちろん私だって最低限のTPOは弁えるさ」

「そういうのであれば……普段からもっと、TPOに則した勧誘を行っても良いんじゃないでしょうか」

「そんな事したらモルモットくんとスカーレットくん以外協力してくれなくなるんだが」

「……はぁ……この性格さえ直してくれれば……」

 

 さもありなん。

 当人の視点ではどうであれ、他者から見たアグネスタキオンはそういう問題児だった。

 ……そもそもトレセン学園自体が問題児ばかり──といえば、些か語弊があるかもしれない。 が、そのトレセン学園にあっても、彼女ほど癖の強い存在はそう多くない。

 

 そうして、アグネスタキオン視点ではまったく不当な物言いをされつつも。

 頃合いを見計らっていたらしき担当者が顔を見せ、おずおずと口を挟んだ。 これは正当な発言である。

 

「……ちなみに、用件をお伺いしても?」

「あー……それは必要な事柄でしょうか」

「はい。 一応決まり事ですので……」

「……横からすみません。 今回の件は、その、デリケートな要件ですので……伏せたまま、というのは無理でしょうか」

「……申し訳ございません。 こればかりは私の一存では……」

 

 つまり、理由も告げずに面会、なんていう無理筋を通すことは出来ないということで。

 表面上は穏やかな顔を取り繕いつつもひっそりと歯噛みした。

 このままするりと通してくれれば理想的であったが、正しい事を言っているのは向こう側だ。 これを否定することはできない。

 

「……ふぅン」

 

 ──おもむろに、ぺしりと尻尾を跳ねさせ内腿を叩く。

 軽やかに響く音は、背後に立つ二人の少女へ向けられた合図だった。

 

「……その、以前……ここに、ファインドフィートという方が訪れたと聞きました。 その方について、相談させて欲しい事があって……」

 

 殆ど間を置かず前に足を踏み出した少女は、芦毛に装いを変えたミホノブルボンは。 意図的に、か細い声で、ささやくように語りかけた。

 その容貌や纏う雰囲気は後輩の彼女に瓜二つといっても過言ではないほどだ。 髪色とふるまいを変えただけなのに。

 しかし髪色は同じ白で、瞳は同じ青で、肌も似た色白で、背丈に体型に至るまでがほぼ同一。 顔のパーツだってどことなく似通っている。

 

 だから今の彼女は、浅からぬ血縁を錯覚させてしまうほどに真に迫っていた。

 

 その完成度は見る者の表情が証明している。

 

「……。

 ……入院患者のあらゆる情報は保護されています。 開示できるのは本人か、本人の依頼を受けた代理人や親族の方であって──」

 

 ──そして担当者は拒絶しながらも、"入院患者"と言った。 その発言が出るのであれば、つまり。

 ファインドフィートという少女は患者として存在していて、この病院に入院していたという事実までもが確定する。

 

 アグネスタキオンは飄々とした顔の裏で、脳裏の計画表を突き回した。

 

「お願いします。 どうしても、どうしても、あの子の過去を知りたいのです」

「あなたは……」

「同居している者、です。 最近、様子がおかしくて、だから先生に知見をお借りしたくて……」

「ですが、その、規則は規則ですので」

 

 嘘、ではない。 何一つ嘘はついていない。

 この行動は本心からの行いであって、嘘など欠片も介在していない。

 故に芦毛の少女のそれは、演技というにはあまりにも気迫が籠もりすぎていて──見る者に、後ろにある背景を推察させずにはいられない。

 

 苦悩があるのだろう。 苦労があるのだろう。 そしてきっと、近しい少女の力になろうとしているのだろう。

 多くの友人を引き連れてまで、こうして無理筋を押し通すしかない苦境にあるのだろう。 それほどまでに深い愛情があるのだろう。

 

 だろう、だろう、だろう。

 どれもこれも"きっとそうだろう"という妄想に近い仮定だ。

 

 そういう仮定まみれの要素を散りばめた仮説であったが、しかし担当者の彼女に同情を抱かせるには十分だ。 彼女は、なんら変哲のない普遍的な感性を持っていた故に。

 だからそれらが、彼女の善良な心に訴追する。

 同情心と庇護欲。 道徳と通理を遵守できる立ち位置。

 その上都合よく言い訳できる要素まであるのだ。

 患者本人の承認があるかどうかはさておきとして、少なくとも、親族らしき存在がいるのなら。

 ここで何事もなかったかのように協力しても、別に仕方がないじゃあないかと──そう思えてしまう。 それを美徳として、解釈できてしまう。

 

「…………。

 ……体調管理のために、ファインドフィートさんの承認を受けた親族の方がカルテや入院時の記録などを請求している。 そういう事ですね?」

「……! はい!」

 

 ──グッド。 後ろ手に握りこぶしを作る。

 アグネスタキオンが想定していた流れとの乖離は然程ない。

 

 担当者のヒト耳へにっこりと、よそ行きの笑顔を向けた。

 

「ええと、それでは……応接室の方にご案内しますね。 こちらです」

「はい、よろしくお願いします」

 

 後ろ背を追いかけながら、左手首の時計を見る。

 針が指し示す時間にいわく、未だに白昼の半ば。

 つまり、時間はまだたっぷりとある。

 

 

 ◆

 

 

 四人が通されたのはごくごく普通の応接室だった。

 もちろん外部の人間を受け入れるために相応に華美ではあるが、あくまで一病院の一室だ。

 どこぞの令嬢方の実家のように金の匂いを感じさせるほどではなく、適度に気品のある調度品で彩られている。

 

 中央の応接テーブルを挟むようにして設置されたソファーを四人で陣取りつつ、担当者に言われた通りに目的の人物を待ちぼうける。 お誕生日席だって空席のままでは寂しいに違いない。

 それに雑談を楽しめる雰囲気でもないのだから、なるべく早くに来てほしいものだった。

 用意された茶と菓子で口寂しさを誤魔化すのも限界があるのだ。

 

 なんて、各々似たような事を考えているうちに消費したのは五分程度か。

 ともかく、アグネスタキオンがただ待つだけの時間に飽きるのに妥当な程である。

 とりとめのない思考をぐるぐると回しているばかり。

 明日の実験はどうしようか、実験は誰に協力してもらおうか、今日の晩ごはんは何だろうか、などと。

 

 しかしそんなもの、ドアが開かれるまでの間の事だ。

 蝶番の悲鳴につられて顔を動かした頃には、寸前までの思考は綺麗サッパリ消えていた。

 

「やぁ、やぁ。 初めまして。 私が院長です……なんていっても、イマドキの子には通じないかな。 はは」

 

 肩書が町長だったらもう少し格好がつくんだけどね、と。

 皺くちゃの顔に、好々爺然とした笑みを浮かべて。

 

「田島先生──ファインドフィートさんの執刀を担当した私の息子なんですが、彼が来るのはもう少し時間がかかりそうです。 それを伝えに来たのと……まぁ、あの子にも良いお友達が出来たようなので、ご挨拶にと」

「感謝します。 私は──」

「アグネスタキオンさん、ですよね。 そちらはマンハッタンカフェさん、トウカイテイオーさん……」

 

 そして、芦毛の少女を見て。

 ほんの少しだけ目を細めて、眉の端を困った風に垂れさせた。 目尻の皺が深まる。

 

「ミホノブルボンさん。 今日は……普段よりも大分雰囲気が違うようだ。 いめちぇん、という奴ですかな?」

「そ、れは……」

「ああ、いえ。 別に何かを追求しようとは思っていないんです。 だってあなたはただ、いめちぇんをして当院を訪れただけなんですから。 何か、間違いでもありましたかな?」

「……いいえ、いいえ。 何も間違いありません」

 

 そうでしょう。 そうでしょう。 老人は何度も頷いた。

 それからもう一度、くしゃりと破顔して、少女達の顔をぐるりと見渡す。

 

「あの子は、本当に良いお友達に恵まれたらしい。 入院していたころはあんまりにも酷い様子だったから、とても心配していたんですがね」

「……あの、酷い様子っていうのはどんな感じだったの……どんな感じだったんですか?」

 

 トウカイテイオーの質問は好奇心というより、単純な疑問をさして考えずに口にしたものだ。

 しかしそれだけの疑問にも答えに窮した様子で、うぅむと唸って黙りこくる。

 

「……まぁ、活発な子とは言えませんでしたなぁ」

「あ、そこは昔からなんだ……」

 

 そんな、当たり障りのない事だけ。 老人が口にしたのは、たったのそれだけだ。

 本当に見たものは一切言葉にせず、煙に巻いて、それだけだった。

 

 もちろん、言ったことは嘘ではない。

 ただ、その活発ではないという表現の深さを明確にしていないだけで、間違ったことは言っていない。

 ……いくら友人であるとはいえ──かつての彼女はただの抜け殻であった、なんて。 そんな事をぽんと言えるほど図太い神経を有していなかった。

 

「……おお。 もうじき息子が来ます。 今回の目的は体調管理のための相談だそうですが……えぇ、それはあやつに聞いてくださればよろしい。 事故以前の主治医はあやつですからな」

「感謝いたします。 お話を聞けて幸いでした」

「……幸い、ね。 そもそも、こうしてある今を幸いと言って良いのかも分かりゃしませんが」

 

 今この瞬間を良いものと表すか、悪いものと表すか。 特に意味を持たない疑問だ。

 

 それがどちらであったとしても、この老人にできることは何も無い。

 所詮は外野。 関係が完全に途絶しているわけではないが、しかし薄いものでしかないのだ。

 どうしようもない状況でそれでもと足掻くのなら、せいぜい祈りを奉じる程度が限界である。

 この老人は、そういう身の程というものをよく弁えていた。

 

「あの子を、よろしくお願いします」

 

 下げられた頭。 そこからふわりと、線香の匂いが漂う。 それに包み隠された甘い匂い。

 嗅覚によく優れた存在であれば気付ける程度の、微妙な腐臭。

 

「……あぁ、そういう事か……」

 

 

 その原因に、その理由に、気付いたところで何ができる訳でもない。

 世の中には力の及ぶ範囲と、それ以外の範囲外が明確に存在している。

 今の老人がそうであるように。 これからの少女達がそうであるように。

 

 

 世界とは所詮、そういうものである。

 まったく面白みのないことだ。

 

 

 ◆

 

 

 ──今日の目的の人物が現れたのは、老人がいなくなってすぐだった。

 三度のノックの後、ひょっこりと覗く青白い顔。

 それを見た瞬間、ほんの少し尻尾の毛が逆立ってしまうほどに血の気がなかった。

 老人が言っていた不健康そうな顔という表現は確かに当てはまっている。

 

 田島医師。 齢は……些か老け気味であれど、顔立ちからして三十代前半か。

 背は高くも低くもなく、少し心配になる程に痩せている。 どこぞの痩せぎすのトレーナーよりマシではあるが、一般的な感性を持つ者からすれば病を疑ってしまう程。

 

「やぁ、初めまして。 遅れてしまって申し訳ない」

「初めまして。 アグネスタキオン、です……。 本日はお時間を作っていただき──」

「ああ、いいんだ。 そう畏まらないで。 僕はそんなに偉ぶれる人間じゃないし……もうすぐ、この病院も辞める事になってるし。

 ……まぁ、何だ。 鶏ガラが喋っているな、程度に捉えておくれよ」

 

 なんて殊勝な事を語りつつ椅子へ着席するが、その道中の足元がひどくふらついている。 見守る側としては気が気でなかった。

 不健康そう? 一体何の冗談なのか。 不健康そうではなく、不健康そのものである。 歩く医者の不養生だ。

 

 アグネスタキオンに医者としての見識は無いが、しかし。 そんな素人目に見ても"いや~これはキツイねぇ"と言いたくなってしまった。

 常日頃から引きこもっていて、己がトレーナーがいなければ食生活も乱れきり、日常生活も要介護気味である彼女に言えた義理は無いが、しかしそれにしてもあんまりな様相である。

 

「……顔色がよろしくないようです。 ステータス、『睡眠不足』、『過労』と判断します」

「それって大丈夫なの……んん。 大丈夫、なんですか? 日を改め、ますか?」

「いや、いいや。 これは普段通りだから気にしないで。 それに、今日の夕方からは早めに休む予定だから」

「そ、そうなん、ですか」

「……敬語、外してもいいからね」

「えっ、ホント? ありがとー!」

 

 途端に調子を良くするトウカイテイオー。 まったく無邪気なものだ。

 

「……」

 

 青年に視線を向けて、それで、と、話を切り出そうとしてみた。

 もちろん、先駆けとなるのはアグネスタキオンだ。

 そうであるべき理由は特に無いが、自然とそういう流れになってしまったのだから仕方がない。

 

 が、二の句を告げる前に手を翳され、押し留められてしまった。

 青年はもごもごとほんの少しだけ言い淀んで──また、口を開いた。 線香の香りがする。

 

「……ああ、まぁ。

 今日、聞きたいことは分かっているよ。 そして僕はきっと、君たちが求めている答えも知っている……と、思う」

 

 そして、回り道もせずに本題を口にした。 願ってもない事である。

 知りたいことを早くに知れるのならそれに越したことは無い。

 

 しかし、どうしてか。

 少しだけ寒気がするような、何となく薄気味悪さを感じるような、微妙な居心地の悪さを抱いてしまう。

 居住まいを正しながら、そっと眉を顰めた。

 

「僕は、僕が知っている限りを垂れ流す。 全部、嘘偽りなく……ね。 そうじゃないと、あぁ……なんというか、頭がおかしくなるような話なんだよ。 話そうとするだけでも頭がおかしくなりそうだ。 いや、いや、もしかすると既に、おかしくなってるのかもしれない」

 

 とはいえ彼にはそんな事お構いなしだ。 どんどんと話を先に進めるために言い募る。

 何故そうも念押しするのか。 理由は欠片もわからないが、しかし。

 その容貌と同じく、心までもが病んでいるように思えてしまう。

 

 それは落窪んだ瞳のせいなのか。 鉄板を引っ掻くような甲高さを含む語調のせいなのか。 その正体までは判別つかないけれど、少しばかり恐ろしい。 狂気を感じる。

 

 しかし、その語りを突っ撥ねるほどの理由はない。

 アグネスタキオンのみならず、各々が納得したように頷いて見せ、一旦その"知っている限り"を聞くための姿勢を整えた。

 

「ああ、そうだ。 まずはこれを見せないと……」

 

 青年が持ち込んできたカバンを開く。

 そして中の紙束を、机の上に無造作に放り投げた。 ぱさりと紙と空気のこすれる音がした。

 コピー用紙は印刷されたばかりなのか、まだ新しいインクの匂いを漂わせている。

 

「これがカルテだ」

 

 それから、事もなげに宣った。

 カルテ、個人情報の塊。 それを本当に単なる紙切れのように放り出され、反応に困ってしまった。

 

「……。

 ……いや、待っておくれよ。 そう簡単に見せて良いものなのかい? そんなポイッと放り投げて良いものなのかい?」

「ああ、本当は良くない。 が、これは偽物だからね」

「……はぁ?」

「いや、すまない。 これは正確ではないな……そう、これは、確かに本物だ。 けれど中身は、本来のものとは違う……違う筈の、何かなんだ」

 

 なんて、言い直された。 言葉の意味を咀嚼してみる。

 偽物であると言い、しかし本物でもあると言う。

 なんだそれは、矛盾しているじゃないか、と小首をかしげて見れば──青年は、重々しいため息を吐きながら、ソファーに体を沈めていった。

 

 記されている名前は『ファインドフィート』。

 年齢、十歳。 性別は女。 血液型がO型。 身長は143cm。

 そういった詳細な情報に至るまでを赤裸々に綴った紙を、各々が視線だけでなぞる。

 

 しかし青年はそれを、本物と偽物というそれぞれ真逆の言葉で表現した。

 

 ……彼自身、支離滅裂なことを言っている自覚はある。

 一体こいつは何を言っているのかと、そう詰られても仕方がないと考えている。 むしろ青年自身が自分をそう詰っていた。

 けれどそれは、誤りではない。 偽物であって、同時に本物である。

 それらは両立する。 両立してはならないのに、両立してしまう。

 

「前提から話そう。 そう、最初は……あの子が交通事故にあった後。 あの子の……あの子達の執刀を担当したのが僕だった。 ここの病院は事故現場から近いし、元々僕があの子を診ていたからね。 まぁ、役回りとしては順当だろう」

「……疑問。 元々、というのは。 何を指しているのでしょうか。 フィートさんは、以前からこの病院に掛かっていたという事ですか?」

「あぁ、そうだ。 あの子は産まれつき心臓が弱かったから……ずっと、ここに通っていた。 そうだ、そうだね。 前提というからにはあの子自身の話をしなくては。 そうだ、そうだった」

 

 また、長いため息を吐く。 純粋な息継ぎだ。

 青年の身体は疲労を溜め込みすぎているせいで、こうして話すだけでも体力を消耗してしまう。 長々と話し続けるだけで負担になる。

 医師を辞める理由というのは、つまりこういう事だった。

 その理由は何なのか。 今日出会ったばかりの面々に理解が及ぶはずはない。

 

 ……それに、何であれ。

 今日この日、この場所、この面々で語るべきは弱りきった医者の中身ではない。

 

 必要なのは、答え合わせの時間だ。

 ただひとり、他の誰とも違う視点を持つ漆黒の少女がそっと身を乗り出した。

 

「そう。 あの子は心臓が弱かったんだ。 成長する体を支えられない程に。 だから……歳を重ねていくたびに、歩行能力は損なわれていった。

 八つになる頃には杖無しには歩けず、九つになる頃には車椅子での生活を強いられていて……そう遠くないうちに、寝たきりの生活になることも予見されていて。 だからあの頃は、心臓移植のドナーを待つばかりの日々だった」

 

 遠い過去を懐かしむように、しみじみと語る。

 瞳には淡い寂念が滲んで、あの頃と口ずさむ声音には隠しきれない憐憫が混入していた。

 

「それに加えて、あの子は世にも珍しい準一卵性双生児。 世界でまだ片手の指で足りるほどにしか発見されていない……本当に珍しい、子供達だった」

「……なるほど。 その片割れが……お姉さん、なんですね」

「マンハッタンさんはお姉さんの事を知っているんだね……あぁ、キミ達もかな? けどまぁ……細かいところは気にしないでいいんだ。 ただ、あの子はこの病院に通う必要があった事と……僕があの子達を覚えている事を、理解してくれたら十分だ」

 

 そして、ひゅっと息を吸う。 不器用な呼吸は、彼の性根にも似ていた。

 ひゅっと吸って、すぅと吐いて。 風船から空気が抜ける時のような、ひょうきんな音をこぼす。

 疲労が溜まっているのだろう。

 その視線はぐらぐらと揺れていて何処を見ているのかも定かではない。

 額には冷や汗が滲んでいる。

 明確に、ほんの数分前までよりも顔色が悪くなっていた。

 

 ミホノブルボンは、休みますか、と声を掛けてみた。

 しかし青年は、何も問題ないよ、と返してくる。

 まるで何処かの誰かみたいだ。 少しだけ腹立たしくなってしまう。

 

「それで……ああ、ごめんね。 話が逸れちゃった。 あの子の、事故の事だ。 事故の後、執刀したのが僕だった。 あの子達を、執刀したのが僕だった」

 

 口を開くたびに血の気を失いながら、何かに急かされるように、記憶を掘り起こして言葉にする。

 急かされて、急かされて、急かされて、急かされて。

 

「あの子のお姉さんは……そう、両足の損失と、腎臓、胃を失っていたんだったか。 そしてあの子は──そう、心臓だ。 綺麗に心臓だけを失っていた。 直ぐそばの内蔵も骨も傷つけずに、ただ狙いすましたかのように心臓を、鉄杭が貫いていた。 即死、だった」

 

 それでは。

 まるで今いる彼女が、一度死んでいるみたいではないか、と疑問を抱く。

 そうであれば、己達の知る彼女は一体何なのかと。

 ミホノブルボンはか細い声で、疑問を投げかけた。

 

「まるで、じゃない。 あの子は一度死んでいる。

 双子の片割れの、幼いほう。 小さな子だった」

「……まるで、理解が追いつきません。 あなたが何を言いたいのか、論理が破綻しているようにしか思えない」

「僕が君の立場だったなら、きっと同じことを言うだろうなぁ」

 

 一度息継ぎをする。 二度咳払いを挟む。

 そして、三度目に口を開いた。

 

「だから、僕は……ああ、ごめんよ。 何を言おうとしたんだったか……。

 そう、そう……そうだ。 僕は、あの子を生かすために、あの子のお姉さんと約束したんだ。

 僕が。 そう、僕が。 あの子を生かすために、心臓を移植するって、約束したんだ」

「……待ってくれ。 キミ、まさか……生きている側の臓器を、遺体に移植したのかい? 私の聞き間違いでもなく?」

「そう、言ったよ」

 

 思考の起承転結が理解できない。 約束に至る過程も理解できない。

 死んだ、と明言した存在に対して、しかし心臓を移植するのだという。

 が、心臓を移植したとしてどうするのか。

 心臓が動くだけで死者が蘇るのであれば、今頃世界の死者はもっともっと減っていた。

 やがて死は単なる病に貶められて、生の価値も暴落していたに違いない。

 

 だというのに、夢物語でしかない筈のそれを大真面目に検討するのであれば。 それはきっと、狂人の思考回路と言い表す他ない。

 

 しかし、それを実行したから今がある。

 ファインドフィートという少女は、その狂気の上に成り立っていた。

 

「……どうして、なのさ。 だってさ、フツーに考えたら無理だって思うじゃん。 なのに、どうして?」

「どうして、か。 どうして、そう……何故、わざわざ生きている方をドナーにしたんだろうか。

 実は僕自身さえ、分かっていないんだ。 あの子に請願されたから? 死者蘇生なんて、ありえないことが実現されるとでも信じていたのか? あるいは……その死者蘇生が僕の手に叶うかも知れないなんて、そんな事を妄想していたのか? そう囁かれた事を、本当にできるかも知れないと信じてしまったのか。

 ……今となってはもう、僕にだって分からない」

「ちょ……ちょっと待ってください。 囁かれた……というのは、一体だれから? 何を囁かれたのですか?」

「さて……何だったかなぁ。 ごめんよ、もう覚えていないんだ。

 けど僕は結局、あの子の胸にメスを入れた。 信じられるかい? まだ生きている子供の胸を切り開いたんだぞ。 それは、そんなの、許されないだろうに、それでも僕はメスを振るったんだ。 それを、助手も誰も咎めない。 僕の良心も咎めない。 だから僕は、心臓を移植した」

 

 トウカイテイオーの疑問。 マンハッタンカフェの猜疑。

 それらに彼なりの真摯な回答を返して、また何度か咳をする。

 

 幾らかの時間を呼吸の安定化に費やして、喘鳴の音を押し潰す。 もはや単なる病人だ。

 けれど舌の根は乾かないままで、歯の裏を叩き続けていた。

 

「そして、遺体は、あの子は、蘇った。 今はもう誰も覚えていないあの子は……確かに蘇った」

「……覚えていない、というのは?」

「文字通りの意味……の、筈だ。

 だってあの子は、ファインドフィートじゃない。 ファインドフィートは、あの子の姉の……ドナーの名前だ。 なのに、あの子はファインドフィートになった。 ああ……じゃあ、あの子は何処に行ったんだ? あの子は、あの小さな子は何処に行ったんだ?」

 

 あの日の青年は、そうして禁忌を犯したのだ。

 それが善意によるものか、悪意によるものか、虚栄心によるものかも判別がつかないのに。

 

 ……その動機が何であれ、今の彼女はそうして生まれた。

 それそのものの良し悪しは、まだ分からない。 だって、まだ結果に辿り着いていないのだから。

 

「なあ、なあ。 ごめんよ、僕に教えてくれないか。

 僕は、誰を殺したんだ? あの子は誰なんだ? 僕は、あの子から何を奪ったんだ? 僕は、あの子を何にしたんだ?」

「それ、は……」

「僕は、こんな事のために医者になった筈じゃないんだ。 僕はただ、命を救いたかっただけなんだよ。 僕は、あの子の過去を消したかった訳じゃない。 なのに思い出せない。 あの子の名前が、思い出せない……」

 

 そして、骨ばった指先で机の上のカルテに触れる。

 指し示したのは、名前。

 

「どうして、あの子の名前まで忘れたんだ」

 

 そこはドナーの名前があるべき場所だった。

 けれど今は黒塗りの面で潰されて、あった筈の文字を隠されて、過去の痕跡が鎮座するばかり。

 

「……これは、どういう事なんですか。 何故名前が消されて……」

「コピーエラー、という訳では……無いみたいだねぇ」

「僕にも、分からない。 誰も教えてくれないんだよ」

「分からない、なんて言ったってさぁ……」

 

 そうして、消されていた。

 その男が忘れるべきではなかった記憶が、残すべきだった記録が、全て黒に侵されていた。

 何も、個を特定する要素は読み取れない。

 

「どうして」

 

 ──ミホノブルボンもつい、白い手を伸ばしかける。

 けれどカルテに触れるでもなく、そのままゆらゆらと彷徨わせて。 結局行くべき先が分からなかったから、ただの中空でぎゅっと握りしめた。

 彼女に出来たことと言えば、それだけだった。

 

 

 そして、それが答えだ。

 忘れ去られた誰か。 蘇った誰か。 『ファインドフィート』の名を継ぐ誰か。

 その誰かがやがて求めたものは、栄誉と証明。 それによって成る償い。

 共に過ごした今までと過去の姿をすり合わせれば、自ずと見えてくる解答だった。

 あれはそれを求めて生きているのだろうと、核心に近いところまで足を踏み入れる。

 

 そして以前、マンハッタンカフェが口の中に吐き出した疑問は解消した。

 良くないものと称した『あれ』がいつ憑いたのかといえば、つまりその手術の時から始まったのであろうと簡単に予測できる。

 

 ……しかし、けれど。 また新しい疑問を抱いてしまった。

 蘇生をキッカケとして憑き始めたのであれば──あの某は、いま、何のために憑いている?

 何のためにああも絡みついているのか。 そも、あの首の糸は何なのか。 意図は一体何なのか。

 それだけが、未だに見えてこない。

 何故執着しているのか、その理由が。 だから、足りていなかった。 今もまだ。

 

「ああ……なんてことだ。 こんな僕が、どうして人を救えるなんて思い上がったんだ。

 罪深い、あまりにも罪深い。 どうしようもなくて、もう、消えてしまいたい……」

 

 そして、その思索を齎した人間は背を丸めて嘆くばかり。

 酷く矮小な背だ。 ちっぽけで、みっともなく、消え入りそうな声だ。

 けれどそれが、どうしようもなく誰かの姿に重なるから。

 

「どうせならせめて、裁いてくれよ」

 

 ただ、ただ、胸が軋んでしまう。

 

 

 ◆

 

 

 ──帰宅に向けた道中。 来た時と同じ道を逆順に歩く。

 周囲は同じ景色のはずだったが、しかし顔の向きと時間が変わったせいなのか、程々に寂れた町並みは表情を変えていた。

 

 例えば仕事終わりのサラリーマンだったり、夕飯の材料を買い込もうとしている主婦だったり。

 人波は増え、道を照らす色彩に朱色が混ざり、穏やかな雑踏が遠くからも鳴り響いてくる。

 

 この数瞬だけを無限に繰り返しているような、ほんのりと停滞した雰囲気。

 夕暮れという寂寥感と、幾らか溜まった気疲れまでもがぐちゃぐちゃに混ざり合って、ある筈のない"懐かしい"という錯覚さえ生み出していた。

 

 そんな空の下を、大した会話もなく歩む。

 こつりこつりと足を進める。

 

 

 そして、目的の駅にたどり着くまであと数分となった頃。

 アグネスタキオンがふと、思いつきのままに口を開いた。

 それまで長いこと喋っていなかったせいで最初の一音だけ少し上擦っていたけれど、仕方のないことである。

 

「思ったんだが、カフェ」

「はい」

「これは、例のオカルト絡みかい?」

「……はい」

「そしてキミのいう『お友達』より、ずいぶんと話が通じないタイプと見た」

「……はい。 まさに」

 

 あくまでも、事実の確認だ。 疑問とするには強い確信を含む語調だった。

 故に肯定を受けて、ただ、納得した様子で頷く。

 

「……これはあくまでも、私が部外者だったからこそ考えることだ。

 キミ達みたいにフィートくんの性格や個人の内面をさして知らないからこそ、考えつくことだ。 だからそこは履き違えないで欲しいんだが……」

 

 こつり。 歩みを止めないまま、前方から視線をそらさず、周囲の三名へ思考の中身を垂れ流す。

 言って聞かせている訳ではない。

 アグネスタキオン自身でも整理がついていない様子のまま、ささやき声にも近い控えめな独り言を口にした。

 舌の根も乾いているのか、声の芯が少しだけ掠れる。

 

「あまりにも、都合が良すぎるんだよ。

 カフェ、キミのいうオカルトチックな某がフィートくんに関わっているとして……その某は、きっとフィートくんに助力しているんだろう」

「助力……?」

「正直、こういう言い方は好まないんだけどねぇ……そっちのほうが納得できるのさ」

 

 普段と何も変わらぬ温度感だ。

 そのまま人差し指を立てて、空中をくるりくるりと掻き回す。

 

「助力。それが指すのは、フィートくんが求める物を与える手助けだとしよう。

 で、フィートくんが求める物は何か。 九冠だ」

「ま、結構有名な話だよね。 あの子ったらしょっちゅうアピールしてるんだもの~」

「……では何故九冠に拘っているのか、知っているかい?」

「それは……申し訳ありません。 明確な解答は、メモリに存在しません」

「もちろん私も知らないねぇ」

 

 そして、温度感が変わらぬアグネスタキオンという少女だからこそ、見えるものがあった。

 声音は変わらず。所作も変わらず。

 冴えた頭脳でパズルのピースを嵌め込んでいって。

 

「思うんだが……栄誉、という面から考察するのであれば、既に達成されている筈だ。 だって五冠だぞ。 栄誉は十分の筈だ。 結果は十分の筈だ。

 もちろん、メジロ家のように特定の栄誉に価値を見出しているのであれば話は別だが──何故、九冠なんだい? そこに拘る意味は何だ? それ以上が無いから……等とは言わないだろうに」

 

 そうして導き出した仮定を、仮定のまま放り出した。

 

 アグネスタキオンは個に由来する物を殆ど知らない。

 『姉』なる者の存在を表層だけしか把握しておらず、かつての『あの子』が抱いた感傷を知る由もなく、受け継いだ夢としての概念にも思考が及ばない。

 しかし、だからこそ、『あの子』の内面に囚われる事もなく、乖離した現実を客観的に俯瞰する事が叶うのだ。

 

「まるで、そう。 フィートくんを使って、バカでも分かる物語を作ろうとしているみたいだ。 冠を単純な数に変換して積み上げてみれば、それで偉業の完成だ、とね。

 テーマは古典的な英雄譚か、はたまた童話のたぐいか……」

 

 ──これを真実として確定させるには、少しばかり根拠が足りないけれど。

 

 けれど、それもあり得るなと。

 マンハッタンカフェは、やや間を空けて頷いた。

 

 人間を使って、物語を作る。

 都合の良い過程を経て、用意された苦難を乗り越え、求めた結果を手にする。

 

 が。 言うは易し、行うは難しどころではない。 不可能だ。 それは人生そのものを操る事と同義である。

 そもそも都合が良い過程とは何か? 

 冠さえも過程に貶めて、あったはずの苦悩を大衆から隠し、個人の自我すら封じ込めるそれを、どうやって実現させる? 

 

 だから、これは不可能だ。

 不可能でなくてはならない。 その筈だったけれど。

 

「……なんだか、少し腹が立ってくるねぇ」

 

 ひとりの人間を、ひとつの人形へと堕として。

 そして好き勝手にレッテルを貼り付けて、造る者としての都合を押し付けて、機械的に苦行と栄光を与え、掌の上でころころと、命を転がす釈迦ならざる行い。

 そんな事、あってはならない。

 故にこの場の誰もが、これを真実として扱いたくなかった

 

 なんて、悍ましい。

 

 


 

 

 油性ペンを握る。 指先でくるくると回してみる。

 そして自分のハンモックを占領する女を見下ろしながら、ゴールドシップはやや呆れを含んだため息を零した。

 

「何時まで寝てるんだよオメーは。 ゴルシちゃんのパチもんのくせによぉ……」

 

 その女はゴールドシップによく似た風貌をしていた。

 その女は現代日本では早々見ない装束を着ていた。

 その女は、その女のつま先は、薄っすらと透けていた。

 

 その女を見下ろしながら、油性ペンの蓋を外す。

 

「……寺生まれでも探すか? テイエムオペラオーとか実質ティーの字で通るだろ、たぶん」

 

 ……ただまぁ何であれ、色々と手間を掛けさせられているのだ。

 可愛げのあるイタズラ程度、許されるに違いない。

 

 


 

 

『院長』

 元主治医。 もうすぐ辞める予定。

 かつての少女の、抜け殻としての姿を知っている。

 だからこそ友人に恵まれたらしい今をとても喜んでいるし、かなり浮かれている。

 余命は残り半年。

 

『田島』

 院長の先任の主治医。 医者としては極めて優秀だが、もうすぐ辞める予定。

 御供の家の墓参りの供え物を考える時、頼られているのはこの男。 カクテルという発想もこの男に齎されたもの。

 

 けれど本当は、恨まれたかった。 憎まれたかった。

 そして、裁かれたかった。 そうであれば、今の自分を認められる気がしたから。

 



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51話

 

 はらっぱを駆ける夢を見た。

 右手の先には自分の片割れがいた。 駆ける先には顔のない両親がいた。

 どちらも、自分達を抱擁しようと両腕を大きく広げている。

 

 だから、これが夢だとすぐに気付くのだ。

 もし走ることができる身体なら、あの大きな腕で抱き締めて貰えたのに。 こんなにも、惨めな気持ちになることもなかったのに。

 

 最後に抱き締めてもらえたのは、いつだったろうか。

 

 


 

 

 朝が来た。 朝が来た。 朝が来た。

 目を覚ます度に、新しい朝が来た。

 目を覆いたくなるような、美しい朝が来た。

 変わらない日々を重ねて、重ねて、重ねて。

 ある筈の無かった今を過ごす。 片割れを欠いたまま、目を開く。

 呼吸をしながら、地に足をつける。 暖かい朝だった。 つま先は冷えとは無縁で、血の気がよくよく通ってくれる。

 

 ベッドから身体を起こして顔を洗って。

 そうして、今日も一日が始まった。

 

 それを素晴らしい、なんて。

 これっぽっちも思えない。 感謝なんてない。 ただそうあるものと受け入れる事すらしたくない。

 

「……また、間違えてるのかな」

 

 しとしと、睫毛の先から雫が落ちる。 つつーと、頬の水気が小川をつくる。

 たったそれだけのことすら、どうしようもなく忌まわしい。

 目を覚ますのも、呼吸をするのも、水を飲むのも、何もかもが罪深いのだと。 罪悪感が突き刺さって、腹の中身を遠慮なしに掻き乱した。

 吐き気がする。

 

「前に進めば進むほど、誰かを傷付けてる。 誰かを裏切ってる。

 これが、本当に正しいの? 正しく、できるの……?」

 

 そもそも、こうして悩める時点で可笑しいのだ。

 

 本来であれば、こんな現実をあれやこれやと心に留める必要なんて無い筈だった。

 誰かと共に歩むこと。 誰かの言葉に応えること。 朝を迎え、夜を越えること。

 本当に、彼女が求めた通りを形にするのなら。 こういう味気のない日常を極限まで単純化し、尽くを一文のみで評価し、価値なきものは記憶すらしないべきだったのだ。

 今日も一日が終わった、とか。 今日も頑張った、とか。

 そういう一言で全部を括ってしまえば良いはずだった。

 

 ……だというのに。

 困ったことに、ファインドフィートはこれに価値を感じているから。

 目にしたもの、全てを愛おしく感じてしまうから、余計に苦しくて、未練の鎖が増えていく。

 忘れても忘れても、その端から大切なものが増えていく。

 いっそ、地獄だった。

 

「……もう、忘れたくないなぁ……」

 

 そして叶うなら、これ以上はもう背負いたくない。

 舌の根っこにそんな真意を留めて、胸元にそろりと指先を伸ばした。

 胸の奥の心臓は今日も元気だ。

 とくり、とくり、とくり、とくり。 規則正しく丁寧に鼓動を刻んでいる。 与えられた命は昨日と今日を繋いでくれている。

 たったそれだけの事実が重たくて、息苦しい。

 

 

 ◆

 

 

 今日は土曜日だ。 さんさんと日光が降り注ぐ、未だ麗らかな白昼の途上である。

 世の学生達は休日を楽しんで、あるいは家族や友人と仲良く過ごしているのだろう。

 

 けれども、ファインドフィートには無縁の話だ。 少なくとも、今日は。

 身に纏うのはおしゃれな私服ではなく赤ジャージ。 手にするのはお出かけ用のカバンではなくトレーニング用のバッグ。 つまり、休日はトレーニングに時間を費やすつもりだった。

 それはもちろん、直近のレース──目黒記念が近付いているからで、ひいてはその先の宝塚記念にも備えてでもある。

 加えて今日は、仲の良い先輩方が何処かへ外出している。 ファインドフィートを置き去りにして。 その理由は薄っすらと把握しているけれど、それだけだ。

 当然ながら追いかけようとは思わないし思いたくない。

 故に、態々自室で過ごす意味が皆無だったのだ。

 

「……タオルよし、ドリンクよし、蹄鉄ハンマーよし、シューズよし。 身体の調子は……」

 

 諸々の備品を詰め込んだカバンを横に置き、立ち上がって、左右のつま先をぎゅっと伸ばす。

 右足を前へ差し出し、筋を伸ばす。 痛みはない。

 そのままトンと軽やかに着地して、振り子のように左の足を前に差し出す。 そしてまた、つま先をぎゅっと伸ばしてみる。 足首を軽く反らして──緩慢な動きで、左足を引き戻した。

 

「良くない、か。 あんまり」

 

 痛みは、無かった。 けれど、ずんぐりと重い。

 骨の髄から左足全体に纏わりついてくる、嫌な重さだった。

 それを認めて、なんて面倒なと、苛立たしげに舌打ちを零す。

 

 仕方なく一度椅子に座って、ミホノブルボンと共用の棚の中から茶色い小箱を取り出した。

 その小箱は両手のひらほどの大きさで、蓋を開けてみれば、大小様々なテープが収められていた。 ぐるぐる巻にされた人肌色のテープだ。 それらは多少使用された痕跡はあるものの、残量は十分。

 所狭しと並ぶそれらの上にすっと視線を滑らせて、目的のサイズを探す。

 25ミリ、38ミリ、50ミリ、75ミリ──ファインドフィートが手に取ったのは50ミリ幅のテープ。 足首に巻きつけるには丁度いいサイズ感だ。

 

 これはいわゆるテーピングに使用されるもので、キネシオロジーテープという種類だった。

 身体の保護や補助を目的としたそれは伸縮性であり、筋繊維と同等程度の効率で伸び縮みする。

 ……詳細な原理はともかくとして、これが足首の違和感を軽減してくれるのだ。

 

 記憶の中にある教本通りに手順をなぞらえ、手際よく足首に巻きつけて。

 ズレが無いことや、動いてもしっかり保護される感覚がある事を確かめて、再度すくりと立ち上がった。

 そしてカバンを手に取り、ジャージの裾を揺らす。 ドアノブに手をかける。

 

「…………」

 

 そしてドアの前で振り返って、それだけ。 "行ってきます"、とは言わない。

 だってこの部屋には誰も居ないから、帰る場所でも何でもない。

 無音でドアを開いて、パタリと閉める。

 

 引っ越して来た当初は小煩かった蝶番。

 それも何時しか修理をされたおかげで、悲鳴も何も上げやしない。

 時間の流れを証明するそれが、今更、少しだけ寂しく思えてしまった。

 

 

 ◆

 

 

 部屋を出たファインドフィートの目的地は、トレーナー室だった。 近頃は少しだけ使用頻度が減ってしまった拠点である。

 が、辿り着いたは良いものの、部屋の主たる痩せっぽちの男はまだいない。

 仕方なく備え付けのソファーに腰を下ろして、ぼんやりと天井を眺めて待ちぼうけていた。 窓の外では木々の葉っぱが優しく揺れていた。 風を受けている割には穏やかで、精々そよ風程度である。

 この状態で外を散歩したらさぞかし気持ちが良いのだろうな、なんて思いつつ、自分の尻尾で"そよ風程度"を再現してみた。 毛の先ほどには似ている動きだった。

 

 そうして暇を潰しながら思うのは、"なんだか懐かしい感じがするな"という、なんとも奇妙な感傷だった。

 三年目になってから色々な出来事があったせいかもしれない。 実際の月日で見れば久しぶりという程でも無いはずだけれど、錯覚というには明確すぎる。

 そもそも潰せる暇がある事実が違和感の塊だ。

 

 特に、天皇賞の春を終えた後。

 あの頃からファインドフィートも、ファインドフィートの身の回りも、随分と落ち着きをなくしてしまっていた。

 それは春シニア制覇が近いから、という事もある。 そこに加え、友人達との関係もそうだし、トレーナーとの関係もそうだった。

 

 友人達。

 特にトウカイテイオー。 彼女との関係は今も冷え込んだままだ。

 とはいえファインドフィート側から勝手に距離を置いているせいなのだから、冷え込むという表現は正しくないかもしれない。

 が、どちらにせよ以前のように仲良く団らんを──なんて事は、めっきりと無くなってしまった。 逃げているのだから当然だ。

 

 そして、トレーナー。

 病院に搬送されてからというものの、急に歯切れの悪くなった男。

 その上、以前までのようなトレーニングメニューを組んでもらえなくなってしまったから、多少の不満がある。

 前までは限界ギリギリの、効率だけを考えた過酷なトレーニングを立案してくれていたというのに。

 そのくせに今はダンスだとか歌のレッスンだとか、そういう優先順位が最下位クラスのものばかりを指示されている。

 そして週に数回程度トレーニングの予定が入ったかと思えば、やれ体幹トレーニングだの、馴らし程度のランニングだの、何故か合間に差し込まれるヨガだの、そういう負荷の少ないメニューばかり。

 言うなれば、露骨に気遣っているのだ。 負担を与えないように。

 

 当然、不満だった。

 だからそれに対する不満を足りない言葉で言い募ってみれど、迂遠に宥められるばかり。 歯痒かった。

 少女はその現状に納得できなかったのだ。

 

(別に、今まで通りで良いのに)

 

 丁重に扱われること。 それ自体が悪しき物とは思わない。

 だってそれは、あくまでも善意に拠るものだからだ。 それを否定できるほど、ファインドフィートの面の皮は厚くなかった。

 怪我をしないように、と願われると、胸の奥がじんわりと温かくなる。 それは決して嘘ではなく、本心から湧いたものだ。

 

(……今まで通りが良かったのに)

 

 けれど、どうにも物悲しくなる。

 ぬくもりを宿す言葉を告げられる度に、とたんに居心地が悪くなる。

 胸の奥のぬくもりは急速に湿り気を帯びて、背筋に這い出し、ぞわぞわと神経をいたぶって。

 そして、うなじのあたりから冷たい汗が滲むのだ。

 

 それの感情を、何と言い表すべきか。

 最も近いもので言えば──それは、惨めさ。 ファインドフィートは、惨めな気持ちになってしまった。

 そうさせている自分が、酷く憎たらしい。 足りない自分が、何処までも情けない。

 やり場のない気持ちだった。 それを今も、ずっと抱えたままで。

 やがてその先に、まったく良くない考えまで浮かんできしてしまうから、それを振り払うのも一苦労だ。

 

 

 ……それから、ほんの少しだけ時間を置いて、ようやく部屋のドアが開く。

 姿を見せた足音の主は、やはり痩せぎすの男。 葛城だった。

 目の下の隈は相変わらずで、どす黒い化粧を施している。 そんな彼の姿を見て、僅かな安堵と共に立ち上がった。

 

「トレーナー。 遅かったですね」

「……ん、あぁ、悪いな。 大した用事じゃなかったんだが……まぁ、思ってた以上に長引いてな」

「いえ」

 

 その血色の悪い顔色に、もう少し寝てても良いですよ、と言いたくなる。

 今さら口に出したところで改めてくれるような男でもないから、この場で言及はしないけれど。

 ……しかし、貴重な睡眠時間を削ってまで会いに行ったとは、いったい誰のところなのか。 それは少し気になった。

 

 男に近付き、すんすんと鼻を鳴らす。

 そうして香ってきたのは……この痩せっぽちには似合わない、華やかな香水の匂いだった。

 

「あぁ、なるほど。 崎川トレーナー、ですか」

「……イヌ娘に名乗りを変えたほうが良いんじゃないか? まぁ、それだけ鼻が利くんなら将来も安泰だな……。 ほら、今どきは麻薬探知とか、がん探知とか、色々活躍の幅が広がってるらしいじゃないか」

「流石に犬には勝てませんよ。 嗅覚受容体の数はわたし達の方が多いですけど……それでも、彼らほど細かく嗅ぎ分けることは出来ません」

 

 葛城とて、随分と失礼な事をのたまった自覚はある。 が、対するファインドフィートには苛立つ様子がまるでない。 むしろ、このやり取りさえ楽しんでいた。

 それを半ば直感的に理解して、葛城は長い長いため息と共にソファーへと沈み込んでいった。 酷く疲れ切った様相だ。

 

「その……もしお疲れなら、そのまま休んでいてください。 メニューを頂けたら、こちらでやっておきますから」

「ああ、いや……大丈夫だ。 今寝るほどじゃあない。 それに……大事な話をしておきたくてな……」

「……はぁ」

「まぁ、座ってくれ」

 

 多分に吐息を含んだ声は、やや重苦しい。

 聞いているだけでも腹の中がきゅっと重くなってしまうような、そんな声音だった。

 だから無意識に耳を垂れさせて、言われたとおりにソファーの対面に座る。

 その彼女の顔を見る視線があんまりにも真剣だったからこそ、相対する側までもが引き摺られてしまうのだ。

 何か悪いことでもしていただろうか、とか。 隠し事が知られてしまったろうか、とか。

 ついつい、そんな心配までしてしまう。

 

「あー……念のために言っておくが、これは悪意あってのことじゃあない。 それだけは分かって欲しいんだが」

 

 けれど現実は、彼女の予想の斜め上をいくもので。

 

「レース活動は、休止にしよう」

 

 その言葉は、まさに寝耳に水だった。

 ファインドフィートはまず、怒るでもなく、反論するでもなく。 ただ、この男の発言の真意を掴み損ねてしまった。

 は、と。 疑問符を付けることさえ出来ず、成り損ないの吐息を絞り出すのが精一杯だ。

 まず、意図するものが理解できない。 そんな発言をする意味がない。

 彼の発言は今まであった土台をひっくり返すだけのもので、そこに何かしらの意義なんて欠片も存在しない。

 

 だって急に、地に足つける事をやめようだとか、そんな脈絡のない事を言われて納得できるだろうか。

 水を飲むことを一切やめようと言われて、それに粛々と従うだろうか。

 ……いいや、ありえない。

 まず、それには現実味がない。 あんまりにも生産性のない、無駄な発言だ。

 ファインドフィートにとって、葛城の勧告は、そういう次元にある意味不明な音の塊でしかなかった。

 

 ゆるりと小首をかしげて、葛城の目を覗き込む。

 真っ黒な瞳は常と変わらず、硬質な光を宿しているばかり。

 期待していたような、おふざけの色もからかいの色もない。 相変わらず、この男は真剣な様相のままで。

 

「……ああ、もしかして。 まだ、寝ぼけているんですか? 

 もっと寝ていてもいいんですよ。 トレーナーは……その、目の下の隈も濃いですからね」

「寝ぼけてはいない。 今日は9時間も眠ったぞ。 万が一の、気の迷いを無くすためにもな」

「……では、お腹が減っているのでしょう。

 頭に血が上っていないんですよ、きっと」

 

 だからまったく、本当に、理解できないのだ。

 だってこの葛城という男は、チンケな欲のためにファインドフィートの共犯者(トレーナー)になった筈である。

 金が欲しい、名誉が欲しい。 なるほど、大変結構。 ビジネスライクであることは実に素晴らしい。

 その人柄を誰でも簡単に判別できるに、個人のパラメーターを最初から開示している事は実にいい、と。

 ただその一点だけで、ファインドフィートはそれを信頼した。

 間違いなく、本心から、この男を信頼していたのだ。

 

「ファインドフィート。 俺はな──」

「ねぇ、気の迷いじゃないなら何だって言うんですか?」

 

 だというのに、訳の分からぬ世迷い言を垂れ流すこの男。

 まったくもって、ありえない。

 あんまりにも訳が分からなかったから、怒りや悲嘆よりも先に呆れが前に出てしまう。

 ふぅと細い息をついて、少女は男に向けて居住まいを正した。

 

「そうです。 ありえないでしょう、それは。 そんな世迷い言を何故今更、あなたが? だってあなたがここまで連れてきたんじゃあないですか。 なのにそれは、ありえない。 ありえてはならないんです」

「……今更、なんて言われると反論できないがな。 そんなに可笑しいか、これは」

「おかしいです。 当たり前ですよ、ねぇ」

「俺が……お前のトレーナーだからか。 それは。

 それとも、俺個人の気質を指して言っているのか」

「両方です。

 だって、あなたはわたしのトレーナーです。 あなたがわたしを裏切るなんて、ありえない。

 それに、あなたはわたしの脚に価値を見出したはずです。 わたしはまだまだ走れる。 わたしはまだ、あなたが求めていたものを生み出せる。

 なのに、その言葉は……ありえない。 だから……えぇ。 きっと……あなたは、疲れているだけです」

 

 そして、ゆるりと立ち上がる。

 合間の机を迂回して、トレーナーの真横に立った。

 そしてじっと見下ろしながら、薄い唇を震わせて。

 

「そうでしょう、トレーナー」 

 

 そうして発せられた言葉は、まるで縋るような響きをしていた。

 上から見下ろしているくせに、その実は下から見上げる幼子の視線と同じもの。

 

「なぁ。 なんで、俺が崎川に会ってきたか分かるか?」

「……そんなこと、今はどうだって良いじゃないですか」

「まあ聞いてくれ。

 俺と崎川は、キミの知っての通り仲が悪い。 とはいえ、俺が一方的に嫉妬しているだけなんだが──まぁ、あいつはそれだけ優秀なトレーナーだ。 それで、あいつに聞いてみたんだよ。 キミのトレーニング中のデータと、レース中のデータを比較してもらって。

 キミの能力からして、この結果はありえるのか……と」

 

 少女の顔を見上げもせず、手元に視線を下ろしてぽつぽつと。

 組んだ指先は枯れ枝にも似ている。 声音の重さを絡みとることも出来ない程度の、酷く細っこい指だった。

 ファインドフィートであれば、指一本でその十指を纏めてへし折ることは簡単であろう程に。

 

 しかし当然、手を出すことはせず。

 淡々と、男の言葉を聞き留める。 続く先にあるものは、うっすらと予想できたけれど。

 

「……無理、だそうだ。 あぁ、俺と同じ見解だよ。

 それは、精神力でどうこうという範疇を超えている。 火事場のバカ力を意図的に用いる術を弁えているのか、自己暗示でのリミッターの解除か……いや、そんな技術が実在するのかは知らないし、何でも良いんだが」

 

 男がようやく顔を上げた。

 くたびれて、気力を欠いた顔。 痩けた頬。 病の気配を漂わせる輪郭。

 それがファインドフィートへ、疲れ切った笑みを見せる。

 

「──とにかく、それは駄目だ。 駄目なんだよ。 俺も少し前まで、多少なら目を瞑るべきじゃないかと思っていた。 お前を信じたかったからだ。

 けどなぁ……今のお前は、駄目なんだよ。 俺はあの日に見た、しょうもないポンコツと勝ちたいだけだった。 が、今のお前は迷子のガキだ。 そんなガキをだまくらかして夢を見るなんて、そんな欺瞞許されないだろう」

 

 お前、と呼ぶ声が、少女の鼓膜を優しく叩く。 葛城にしては珍しい呼び方だ。

 普段はキミとか、フルネームで呼ぶのに。

 何故かそういうクッションを省いて、そのくせ音の輪郭はひどく柔らかい。

 

「俺なんて……そう、大した人間じゃない。 特別な過去は無いし、強固な信念があるわけでもない。 自分の人生に義務も責任も持てなかった人間だ。

 俺という言葉を表すために必要なのは、それこそ原稿用紙の半分ぐらい……いや、一行そこらでも十分だ。

 ……"才能に溢れた従姉妹に嫉妬して、醜く足掻いている凡人"、ってな。 俺はそういう、くだらん男だ」

 

 そして、そんな声でそんな言葉を連ねるのだ。

 まったくもって救いようがない。 反吐が出る。

 

「だが、それでも俺はトレーナーだ。 どれだけちんけでも、ひとりのトレーナーだ。 才能がなくても、俗物でも、俺はトレーナーなんだよ。 俺にだってそれぐらいの責任はある。

 綺麗な夢だけを見せてそれ以上は知りませんなんて、そんな事をする詐欺師じゃない」

 

 何せそこには悪意がない。 せめて悪意があればよかったのに。

 そうであれば簡単に跳ね除けることができるのに。

 少女は、そんなくだらないもしもを空想してしまった。

 けれども現実はそうでないから、尚更に苦しい。 心が、引き千切れてしまいそうだった。

 

「……ふざけ、ないで」

 

 ──だって、悪意が無いのであれば、なんでそんなことを言えるのか。 まるで分からないではないか。

 悪意がないのに、何故そんな事を言える? 

 悪意もなしに、何故ひとの根底を否定できる? 

 悪意を持たず、何故言葉のナイフを振りかざせる? 

 

 こんな意味の分からない存在に、いったい何を言えば良いのか。

 そんなのと意思の疎通なんて出来よう筈もないのに、どうしろというのか。

 

「ふざけないでよ」

 

 まったくもってふざけている。

 それを──よりにもよって、トレーナーが言うのか、と。

 ファインドフィートは示された現実を噛み締めて、ただ、ただ、頭の中を真っ白に染めた。

 それを怒りと呼ぶべきか、悲しみと呼ぶべきか。 そんな単純な事すら切り分けられないほど、ぐちゃぐちゃに溶け合った激情が心を侵す。

 

 耳を引き絞り、口の端を震わせて。

 それでも辛うじて、対話の体を取り繕って。 本当に、本当に、見せかけだけの自制心で言い募る。 声の震えは、隠しきれていなかった。

 

「取り消して、ください。

 確かに、あなたにだって責任だとか、義務だとか、そういう物があるのでしょう。 けど、それはわたしも同じです。

 これが、わたしの義務なんですよ。 途中で止めるなんて、そんなの許されない。

 ……だから取り消してください。 今なら聞かなかったことにできますから」

「いいや、取り消さない」

 

 葛城は、相対する少女の激情を受け止めて。 その心の根っこを薄っすらと推測した上で。

 しぃと、歯の間をすり抜けるように、細く鋭く息を吸った。

 

「なあ。 その義務とやらを背負い込むことを、亡くなったご家族は望んでいたのか? 

 お前はそうであれと、望まれたのか? お前が大切にしていた人達は、そういう事を望むのか? 

 その夢に……それだけの価値があるって?」

「──ッ!!」

 

 ──そして、地雷を踏み抜く。

 瞬間、少女の顔が"怒り"の一色に染まる。

 訪れた沈黙はほんの一瞬にも満たない。 僅かに我慢という工程を挟めど、すぐに決壊した。

 

「それを、知っているくせにッ! どうして分かってくれないんですか!?」

 

 絶叫。 怒号。 咆哮。

 表情が幼く歪む。 ごちゃまぜになった中身を曝け出す。

 叫んで、吐き出して。

 その勢いのまま男の襟首を掴んで、そのまま持ち上げ怒りを全てぶつけてしまう。

 

「わたしが、どんな思いで死に損なったと思っているんですか? 

 わたしがどれほど惨めな気持ちで呼吸していると? こんな生き恥を晒してまで、なぜ生きていると思っているんですか? 

 何度も自分の足をへし折ってやろうと、何度も自分の首根っこを握りつぶそうと、そう考えていたのに! そのくせにどうして、こんな無様なカタチになってまで生きていると思っているんですか!?」

 

 自分が何を言っているのか、なんて。 そんな事をさして深くも考えず。

 ただ、心の中に土足で踏み込んで来た男へと怒りを叫ぶ。 そこには軽蔑さえ、籠もっていた。

 

 ファインドフィートはここに至るまで、多くの物を擲ってきた。

 それは自身の過去そのものであり、抱いていた夢であり、過去を想起させるほんの僅かな残留物さえも含まれる。

 つまり、『ファインドフィート』の前身となった少年の、アイデンティティの尽くを喪失して。

 そこまでしてようやく掴んだチャンスだったのに、こともあろうか自身のトレーナーが踏み躙ろうというのだ。

 

 そんな事、許せるはずがなかった。

 許されるはずがなかった。

 

「よりにもよってあなたが……いまさら他の道を選べ、なんて。

 ねぇ、ふざけないでくださいよ。 他に何を選べたっていうんですか」

「ぐっ、お」

「誰もわたしを見つけてくれなかったくせに、他に何を選べたっていうんですか!?」

 

 だから怒っている。 だから、悲しかった。

 この男だけはきっとこの道を否定しないと、そう思っていた。 そう信じたかった。 信じていた。

 

「答えて」

 

 ──信じていたのに。 信じていたのに。

 友の誰もが引き留める道だったとしても、あなただけは背中を押してくれると信じていたのに。

 

 なんて、そんな、盲目的な祈りを言葉の裏に貼り付けて。

 涙混じりの目を見開いて、男の身体を壁際に押し付ける。

 

「答えろッ!」

 

 どん、と。 痩せっぽちの背中が壁に衝突した。

 膂力の差が故に、葛城では抗うことはできない。 手足がぽぉんと放り出されて壁の左右を叩いてしまう。

 とはいえファインドフィートにも最低限の理性は残っているのか、それで身体が粉砕されるなんて事は無かった。

 

 それを不幸中の幸い、と呼ぶには人為的にすぎるけれど。

 ともかく、ファインドフィートの気が動転しているのは明確だった。

 元来の臆病な性質を塗りつぶす程の怒りに呑まれているのであれば、やはり、そこは決して触れてはならぬ領域だったのだ。

 葛城はそんな事実を再確認して──スプレー缶を腰のポケットから取り出す。

 

「すこし……! 落ち着け、ポンコツ娘!」

「ぅ……っ!?」

 

 手首の動きだけで射出口を少女の顔に向けて、どうにかワンプッシュ。 白い霞が一瞬で目標に到達する。

 

「なん……ッ、けほっ」

 

 効果は劇的。 それまで殺気立っていた様相が途端に打ち崩される。

 腕で顔を隠してももう遅い。

 この世の終わりを表現した刺激臭が鼻腔を貫き、脳天をかき混ぜて。

 涙が勝手にぽろぽろと流れて床のシミを増やす。

 いっそ床をのたうち回りたくなるような、名状しがたい地獄。

 

 ──が、しかしそれは不自然なほどあっという間に効果が薄まっていき、十数秒も数えた後にはすっかりと残り香まで失せていた。 攻撃を受けた側の少女も困惑してしまうほどに早かった。

 

「……落ち着いた、か? なんだ、意外と効果がある物だな、対ウマ娘用催涙スプレー。 もちろん後遺症だの過度な負担は一切なし……各方面に優しいな。

 まったく、あいつの助言通り色々と身に付けておいて助かった……」

 

 壁に背を預けて独りごちる。

 が、気が抜けてしまっているせいなのか、ずりずりと服と壁を擦りながら床へ座り込んでしまった。

 

 やっと落ち着きを取り戻したファインドフィートが、その姿を呆然と見守る。

 見守って、困惑と共に一歩、二歩と後ずさって。

 それから視界に入り込んだのは骨の浮いた手の甲の、色濃い青あざ。

 

 血の気が、さっと引いた。

 

「ぁ。 そ、それ……」

「あー……俺は気にしなくてもいい。 ほら、他は無傷だ。 俺としてはもう少しダメージを負うことも覚悟していたんだが……なんだ。 意外とブレーキを掛けてくれたんだな」

 

 原因は、明白だ。

 だというのに、座り込んだままの男は手をぶらつかせて無事をアピールする。

 声音は普段通り。 論調にも責める色は何もない。

 

 けれど、その傷から視線が離せない。

 

「わたしの、せいで?」

「……おい、ファインドフィート」

「ち、ちが、ちがうんです。

 わたしは、そんな、つもりじゃなくて」

「落ち着け」

「わたしは、ただ、あなたには認めてもらいたくて。

 それだけ、だったんです……」

「分かってるから」

 

 ふらふらと、ゆらゆらと。

 覚束ない足取りで、男の目の前にきて。

 そしてぺたりと座り込む。

 

 呼吸は浅く、早く。 視線は傷に囚われたまま。

 

「ご、めんなさい。

 ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 あるいは責めてくれたら、罪の意識は薄まったのだろうか。

 糾弾されたなら、もっと心は軽くなったのだろうか。

 そんな妄想を頭の片隅に浮かべて、しかし瞬きの後に洗い流された。

 

 ファインドフィートに出来るのはもう、謝ることだけだった。

 

「でも、だから、ごめんなさい。

 わたし、は……()()()()、走らないといけないんです。

 だって、わたしが諦めたら姉さんが消えちゃう」

 

 トレーナーの決定に異を唱える姿勢はついぞ変えられない。

 

「おねがいします。 もう、これしか残っていないんです。 おねがいします。 おねがいします……」

 

 縋るように請願して、たった一つを守るために背を丸める。

 どうか、どうか、どうか。

 この殻を剥ぎ取らないで欲しい。

 義務を果たさせて欲しい。 この心に溜まる汚濁に、腐り切った膿の塊に、正当性を与えて欲しい。

 

 だからどうか、お願いします、と。

 必死に頭を下げて、祈りを奉じた。

 

「とらないで」

 

 そして。

 葛城は──常の無機質なそれではなく、穏やかで、血の気の通う微笑みを浮かべて。

 首を振り、少女の言葉を切り捨てる。

 

「……俺はひとりの大人として、それを認められない。 トレーナーだから、とか。 そういう理由を抜きにしても、いまお前の目の前にいる人間として。

 こんな俺でも、お前の夢を否定しなければならない」

 

 所詮、葛城は人間だった。

 願われたからといってそれを叶えるなんて事はしない。

 それは情を持つ者の特権であり、度し難い欠陥でもある。

 

 だから、それが。

 今この瞬間だけ、狂おしいほど疎ましくなった。

 

「……どうして。

 どうして、分かってくれないんですか……?」

 

 負い目があるから、ファインドフィートは逃げられない。 誠意を向ける他はない。

 

 ……けれど。

 所詮、それだけなのだ。 だから"はい分かりました"と頷く事などありえない。 そう簡単に変われない。 己の中の罪悪感を、軽んじることが出来ない。

 

「ダメ。 なんですよ。 この三年で全部を終わらせないと。

 だって、長く燃え続けるよりも……流れ星みたいに、あの一瞬だけ強く光ったほうが、みんなの記憶に残るでしょう……?」

 

 だからファインドフィートは、逃げられないけれど。

 意志を曲げることもできないけれど。

 それでも──()()()()、この平行線を打破する救いはあったから、やはり、至るべき先は変わらないのだ。

 

『どうしてもダメだっていうんなら……もう、やり直すしかないですねぇ』

『全く持って仕方がない事よ。 だから、ねぇ。 あなたは悪くないのよ』

 

 するりと。 舞台装置の女達が這い出る。

 次いで、男の意識が閉ざされる。 茫洋と目と口を開いて、それっきり。

 

 だって、ここでトレーナーが壁になるのは都合が悪い。

 であるなら、()()()()納得してもらわなければ。

 ここに至って歩みを止める? ここまで頑張ってきた子供からチャンスを奪うというのか? 

 

 いいや、いいや。

 そんな事はあってはならない。 そんな事は認められない。 それではあまりに報われない。

 それが、どうしても乗り越えられない障害であるなら、その根っこから燃やし尽くそう。

 諦めなければ夢は叶う。 前に進み続ける限り、いつかきっと辿り着く。  

 いつか『ファインドフィート』という物語を完成させるために。

 

 幸せにする方法なんて、他に知らない。

 それが正しいのか否かに思考を馳せることもしない。

 故にただ、疑うことも知らずに、彼女等が思う愛を押し付ける。

 この女達には、それが全てだった。

 

『ねぇ、前に進みたいでしょう?』

 

 亜麻色の頭髪を揺らす女が、真横に回り込む。 お日様の()()を纏う女だった。

 そして、首筋を撫でる。 頬に手を這わせる。

 まるで我が子を可愛がるかのような、優しい手つきで。

 そこに嗜虐の情なんて欠片もなく、当然性愛の念もない。

 けれどファインドフィートは、だからこそ怖気を感じてしまうのだ。

 

(……あぁ)

 

 目を見る。

 黄金色の、綺麗な真円。 記憶の中の夕焼け色にも似た、悍ましい黄昏。

 

(ビー玉、みたい)

 

 その目に宿っている物は酷く平坦だ。 起伏などなく、さざなみは立たず。

 ただ、ただ、無機質な目。 けれどもそれは同時に、粘着質な何かに染まっていた。

 ……もしも無機質なだけであれば、なんて空虚な存在なのだろうと思う。 そして、そういう人でなしなのだと理解できる。

 

 けれど、違うのだ。

 そこに粘性が宿るのであれば、もっと波があるべきだ。

 もっと違う色が、ぐちゃぐちゃに混ざり込むべきなのに。

 喜びとか、怒りとか、哀しみとか、楽しみとか、ほんの少しでもそういう物が染み付いているべきなのに。

 もっと矮小で、浅ましく、気高く穢れた色を持つべきなのに。

 

 けれどその女の目はまるで違う。

 宿っているのはただの一色。

 それは"愛"。 混じり気のない、相互理解する機能さえも排した純粋な"愛"。

 それだけ。 それだけが、ファインドフィートを見つめている。

 

『バカな子ですねえ。 愚かしくて、か弱くて、純粋で。 でも、だからこそ一途で。 諦められないから、何度でも立ち上がる』

 

 それを、愛と呼ぶべきなのか。 現実逃避する頭の片隅で薄っすらと考え込む。

 そして、これは愛と呼ぶしかないなと、時間を掛けずに自答する。 自答できた。

 

 そも、愛なんてものは感情の一面をカテゴライズした物でしかない。

 怒りも喜びも悲しみも、感情の特性で切り分け、理解できる言語でラベルを貼り付け、人間同士でやり取りするために規格を統一したもの。 もちろん愛だって同じだ。

 だから個々人の愛の形は個々人によって異なり、曖昧なそれを完全に定義することは難しい。

 

『あぁ、なんてかあいらしい』

 

 亜麻色の女がころころ笑う。 すりすりと、頬を撫でる。

 

『本当に、本当に、いとしいですねぇ』

 

 確かに、目の前の女が抱く愛は人間のそれと比較にならない。 そんなに生易しい物ではなかった。

 だってそもそも、女のそれと人間のそれは基準が違うのだから。

 

『かあいらしい。 かあいらしい。 いとおしい』

 

 指先を顎に滑らせながら、くすくす笑う。

 

 たとえファインドフィートが泣いたとしても、その意味は理解できない。

 たとえファインドフィートが苦しんだとしても、その意義を理解できない。

 精々困惑するのが関の山。 その根源を無くそうとは思わないし、そもそもそれに思考が及ぶことさえない。

 

 つまり、根っこから違う。 理解しようとする事こそ間違いであるべきだ。

 結局、それらは人ではない。 故に称するべきは、人でなし。

 我が子を思う口振りでありながら、徹底的に個我を無視するばかり。

 それ以上の機能は無い。 人でなしにそんな贅沢品を持つことはできない。

 

 だから人形遊びの延長に酷似しているそれが、この女にとっての無上の愛なのだ。

 ファインドフィートはあんまりにも歪んだそれが恐ろしくて、ずっと目を逸らしていた。 この女は女神なのだから、ただ()()()()()()でしか無いと、理屈も理由も何も考えないようにしていた。

 いつからそこに居たのか。 どうして自分の三年間は奪われたのか。 どうして過去の尽くが喪われたのか。 どうして、祝福という呪いを授けるのか。

 

 何も、考えたくなかった。 だからファインドフィートは、何も知らない。

 けれど今、逃げ場を失って、現実を突き付けられて、抑えきれない恐怖が湧き上がる。 目を閉じることさえできやしない。

 

 

『いじらしいわねぇ』

 

 そんな彼女の左隣。

 金色の女がくつくつ笑った。 そして、髪にふわりと触れる。

 

『あなたは裏切ることもできないのね。 なんて不自由なのかしら』

 

 対するは、黄金の長髪を持つ女。 亜麻色の片割れ。 三分の一であり、二分の一でもある女。

 この女の中身はある意味、とても分かりやすかった。

 

『それなら……ええ。 それなら。 私はそれこそを愛しましょう。 私の役割ですもの』

 

 空っぽなのだ、つまり。

 ただ、そういう者であると自分を定義しているから、そういう者として我が子を愛している。

 ファインドフィートにはよく分かった。

 自分に向けられている目は、その実何処も見ていない。

 この女はただ、誰かを愛したかっただけなのだ、と。 そんなふっと湧いた文言が腑に落ちてしまうほど。

 ただ、己の役割に準じているだけなのだ。 そうと思って見れば、存外あっさりと納得できた。

 その方法はさておきとして。

 

 

 ……何であれ、どちらにも共通している事はある。

 それはただ、己なりの道理に従って、そうして幸せを与えたかったこと。

 人間の言う幸せを理解できなくとも──代用品だったとしても、己達で"しあわせ"という何かを作りたかったこと。

 

 まったく、酷い悪夢だ。

 与えようとしているものを欠片も理解していないくせに、それでも無理くりに生み出そうとしているのだから。

 そんなもの、歪んでしまうに決まってる。

 無変換の情を押し付けたところで一体何になる。 一方的に施す祝福が幸せに変換されることなどあり得ない。

 だから、土台無理だったのだ。 神なるものがひとに寄り添うなど。 人でなしは人でなしだ。

 

『そうだ。 この男……いっそのこと、頭の中を弄るのもいいですねぇ。 これからはファインドフィートちゃんの言うことには絶対服従! 深いことは考えないし考えられない! ふふ、私のオススメです』

『もちろんそれが蓄えた知識もちゃんと使われるわ。 立ち回りも、トレーニングも、あなたの都合がいいように言う事を聞くの。 ねぇ、素晴らしいでしょ?』

「…………ぁあ」

『しかも燃料なんていらないから、あなたを削る必要はないわ。 だってほら……その男だって、使えるものは溜め込んでるもの』

 

 だから。 こうなる。

 

 彼女等はひとの情緒を解さぬ故に、過程に対する捉え方でさえも異なる。

 あまりにも、価値観が違いすぎた。

 苦しみや、悲しみや、喪失の虚ろ。 それに対する価値と重みは、いっそ鳥の羽より軽い。

 

 だからこうして、愛情のナイフを振り翳せるのだ。

 

『どっちがいいですかぁ?』

 

 にっこり、ではなく。 にたり、と形容する方がよく合う笑顔が、ファインドフィートに語りかけた。

 どっち、という言葉が果たして何のことを指しているのか。 薄々勘付いていながらも、沈黙を保って言外に説明を促す。

 幸いその機微を解する程度の機能はあったのか、どちらも揃って笑顔を浮かべながら口を開いた。

 

『時計と、首輪。

 やり直して次の回に賭けるか。 その男に首輪をかけて逆らえなくするか……』

『選びなさい。 もう制限は解かれているのだから、あなた自身が選ぶの。 ねぇ、どっちがいい?』

 

 この女達にしてみれば、別にどちらを選んでも良かった。

 その先にある結果。 それを今のファインドフィートが受け止められるのであれば、それだけで十分である。

 

 もし現実を前に心が折れたのなら、この脆く臆病な少女は全てを投げ出して逃げるのだろう。

 抱えていた義務や執着も全部失って、あらゆるレッテルを剥がして。 そしてあるいは、舌を噛み切るのかもしれない。 ……もちろん、女達がそんな事をさせないけれど。

 けれど心が折れないのであれば──この先の憂いはなくなる。 それで、完成だ。

 

『どっちがいい?』

 

 故に、選択を強いる。

 自身を犠牲にするか。

 

『どっちがいい?』

 

 トレーナーを犠牲にするか。

 

『選べ』

 

 示された二択。

 それらを前にして、ひゅっと息を切らした。 へたり込んだまま、肩を震わせる。

 

 

 もしこれから、やり直すとして。

 巻き戻った先で専属の契約をこちらから破棄してしまえば、このトレーナーによる口出しは不可能になる。

 そして新しく()()()()()トレーナーを見繕えば、問題は解決するのではないか、と。 そんな可能性を真面目に考察してみる。

 嘗てであればともかく、今のファインドフィートには知名度がある。 実績だって十二分だ。

 こちらから多少の不都合には目を瞑れる賢い人間に声をかければそれでよい。

 ファインドフィートは今まで通り出走して、最初の三年間を終えるのだろう。 葛城という男にわだかまりをのこして……それだけだ。

 差し出すことになるだろう対価を気にしなければ、一番丸く収まる。

 

 そうだ。 どうせなら記憶以外を対価にしてもらえば良い。

 例えば、この右目。 どうせ視力は衰えているのだ。 いっそ自分から差し出してしまえば良い。

 今の彼女には、そう考えてしまえた。

 答えを口にするまでの逡巡は、僅か数秒程度だ。

 

 ──首輪を選ぶ道は検討さえしない。 一瞬で破棄した。

 

「な、なら……わたしの右目を対価にして、やり直させてください。 次こそ、正しい道を選びますから。

 ……だからこのヒトは、今まで通りで居させてください」

 

 だからきっと、()()が正しい。 ファインドフィートはそう確信していた。

 記憶は欠けず、他者を害することもなく、自身は()()のハンデを背負う程度。 感覚の違いを擦り合わせる必要はあれども、パフォーマンスに直結するほどではない。 故に最善だ。

 まさか、まかり間違っても、トレーナーに首輪を掛けるなんて、意志を奪って人形にするなんて、とてもじゃないが許されない。 それを強いるなんて耐えられない。

 嘗てのファインドフィートがそうだったから、確信していた。

 

 

 ──だと、いうのに。

 トレーナーの顔に、急速に生気が宿る。 呆然としていた表情に力がこもる。

 決定が下される寸前になって、男は少女の両隣に視線をやった。

 ついで、困惑が面に出る。 しかし然程の間を置かずして同量の怒りが沸き出る。

 そして瞬きの時間を越える度に怒りは増し、ついには額に浮かぶ青筋。 ファインドフィートが初めて見る表情だった。

 

「待て……。 さっきからお前達は何を言ってるんだよ。

 なぁ、それは俺の教え子だぞ。 誰の許可を得て土足で踏み込んでる」

 

 その"お前達"と呼ぶ声は、つい先程まで聞いていた"お前"という言葉よりも鋭かった。

 そして少女が今まで聞いたどんな声よりも冷たくて、限りのない怒気を孕んでいて。

 ヒトという生物はこんな声を出せるものなのかと、つい恐ろしくなってしまう程だった。

 

 男の目を見た。 冷たい目だ。 けれど同時に多大な熱を宿している。

 少女は、その目が己を見ていないことに、深い安堵を覚えてしまった。

 

『……お前、私達が見えるのね。 口がきけるのね。 この前の子はきちんと眠らせることが出来ていたのに……』

『ええ、驚きましたねぇ。 けど……ええ。 きっと私達が、これに見える程度には退化しているのでしょう。 私が愛を知って……もう、六年ぐらいですかぁ。 劣化は必然ですねぇ』

『私は三年目ねぇ』

「意味の分からんことを言うな。 妖怪か何かか、お前達は」

『あら酷い。 私達、これでも由緒正しい三女神なのに』

「……はぁ?」

 

 片眉を吊り上げる。 男が納得していない事は傍から見ても簡単に察せられる。

 怪訝そうな雰囲気を隠すこともせず、金色の女を見た。 そして亜麻色の女を見た。

 

 そしてつい、首を傾げた。

 

「……いや、ありえないだろう。 三女神ってのは単なるおとぎ話の産物であって……この現代では石像の事を指す固有名詞だ。

 というかそもそも……神だって言うんならなんで俺たちと目を合わせられる。 なんで言葉を話してる。 なんで俺と会話が成立してる。 それは、違うだろう。

 神というなら……せめてもっと、化け物らしくあれよ。 もっとドン引きするぐらい清廉だったら納得できるし、もっと悍ましいぐらい理解できない怪物だったら分かる。

 けど、なぁ、お前達は違うだろう」

『本当に酷い事を言いますねぇ、お前。

 ……ああでも、それでもきちんと愛さなければ。 だってファインドフィートちゃんを育てているヒトなんですもの。 だから、ねぇ。 あなたは何が好き? あなたは何がほしいですかぁ?』

「……部分的に意思の疎通が出来ないやつか。 随分と、タチが悪い……」

『ねぇ、愛しい子。 綺麗な芦毛の子。 あなたは何が良いと思う? これは何を欲しがってるのかしら。 栄誉かしら。 財宝かしら』

「…………」

 

 急に問われた、葛城の求めるもの。

 少女はそれに対し答えを返すでもなく、ただ沈黙を保つ。 口を開けない。

 男はそんな彼女を一瞥して。 そして、震える肩を見てとり、眉間に深いシワを寄せた。

 

「……はぁ。

 おい、聞かせろ。 どちらでもなく……一年間の休養は、無理なのか。 何が何でも、次に出なけりゃならんのか」

 

 質問の意図。 それは第三の選択肢の、有無の確認。

 口では散々に礼の欠いた物言いをしているけれど、しかし、この女達を軽んじているわけではない。

 

 むしろ逆だ。 これ以上なく警戒している。

 そもそも、人間でも何でもない存在が無から湧いてくる時点で常識なんて通用しない。 その人間味の薄い性質と言い、透けた足先と言い、危険視しないほうが無理だった。

 

 故に、最悪の一線の在り処を自身の体一つで測り、ギリギリのラインを見極める。

 そしてもし叶うのなら、何事もなかったかのように"さようなら"と行きたいところであった。

 それからまた、教え子との交渉を続けたい、と。

 ……けれど、土台無理な話だ。 それは。 ファインドフィートが罪悪感に縛られている限り、未来永劫変われない。

 

『……? 何故期間を空けないといけないんですか? そんなのダメに決まってますよぉ』

『この三年間だけで全てを終わらせないといけないのよ。 そのために頑張っているんですもの』

「どうしても、か?」

『どうしても、ですよ。 だって……ほら。

 長く楽しめる物語より、一瞬で全部の冠を簒奪する物語のほうが綺麗でカッコイイですよねぇ?』

『キラキラ星を眺めているのも良いけれど、ねぇ。 結局はほうき星のほうが記憶に残るのよ』

「そう、か……」

 

 いくら騙くらかそうにも限度がある。

 そのうえ互いの力関係は明確だったから、葛城に選べる手はほとんど無かった。

 

「……手詰まり、か。 クソだな」

『ええ。 ええ。 ダメですよぉ、この子の邪魔をしたら。 この子は夢を叶えるんですから』

『だから……まずは、選ばないとね。 先に進むために』

 

 そして回帰する先は、結局それだ。

 選択肢。 犠牲の二択。

 

 拒否したらどうなるのか──なんて、少しだけ考えてみたけれど。

 まず間違いなく、じゃあ仕方ないから解散とはならない。

 そして切り捨てられるのだ。 葛城が。

 女達の抱く偏執的な愛がそれを確実な未来とする。

 そんな事、傍から見ているだけの葛城にさえ理解出来た。

 この女達は狂っているのだ、と。

 

「……なぁ。 俺が操り人形とやらになれば、そいつの対価とやらは不要なんだな」

『ええ、もちろん。 まぁ、あなたの中にある思い出とか、そういうものは多少消えるかも知れないけど……誤差みたいなものでしょう?』

「余計なお世話だ。

 ……だがまぁ、正しいな。 俺を使え」

『……あなたが選ぶんですかぁ? いったいどうして?』

「俺がトレーナーだぞ。 それの選択に口を挟む権利は俺にだってある」

 

 だから、男は精一杯の虚勢を張った。

 

「それは、まだ幼いからな。 こういう時ぐらい、大人が矢面に立つべきなんだよ」

 

 それ。

 その言葉の響きは、字面とは裏腹にどこか柔らかい。

 お前という呼び方と同じで、どうにも擽ったくなってしまう。 ファインドフィートは微妙な感傷に惑いながら──それでも、勇気を振り絞って声を上げた。 みっともなく、恐怖に震えた声だった。

 

「まっ……まってくださいよ。

 どうしてあなたが選ぶんですか? しかも、そんなの……どうしてあなたが。 だって、あなたはそんなヒトじゃない……っ」

 

 頭を振る。 きかん坊が駄々をこねるように、男の真意への戸惑いを口にした。

 ファインドフィートが知る彼は、もっと冷淡で、もっと淡白で、もっとデリカシーが無くて。

 まかり間違ってもこんな、思いやりを表に出せるような人間では無いはずだったのに。

 

 けれどその顔を見ると、どうしても混乱してしまう。 ほのかな懐かしさを伴って、頭の芯が真っ白になる。

 知らないはずの父が、目の前にいるような。 そんな錯覚さえ感じるようで──。

 

「……なあ、覚えておけよ。 ポンコツ。 ヒトも、ウマ娘も、お前も、一面だけじゃあ語れんのだ。 たったひとりの人間でさえ多くの側面がある。

 どうしようもない屑が人命を救うことだってあるし、どうしようもない善人が取り返しの付かない悪を為すこともある。 しょうもないバカが世紀の発見をすることも、偉大な天才が愚行に溺れることもある。

 人間ってのはなあ、万華鏡みたいに見る角度で様変わりする物なんだよ」

 

 ──ひどく、気味が悪い。

 

「俺だってそうさ。

 俺はどうしようもない屑で、チンケな欲ばかりがあって、才ある従姉妹に嫉妬してるような、そういうみっともない奴だ。

 慕われるような要素なんてないし、誰かの大切になれるほどの価値もない」

 

 この葛城という男が求めていたものは、名誉であり、地位であり、金銭である。 酷く矮小で、どうしようもない俗物だ。

 そう告げながら勧誘してきた姿を今でも覚えているし、だからこそ隣に居ることを受け入れた。 これ以上なく分かりやすい存在だったから、ファインドフィートは恐怖も抱かずに関われたのだ。

 

「けどなぁ。 お前の礎になれるならそれで満足できるぐらいの、ちっぽけな人間性はあるんだ。

 それでチャンスが生まれるんなら全部を賭けられるぐらいの、握りこぶしぐらいの執着だってあるんだ」

「そんなの、わたしは望んでないのに。 あなたは、そんなヒトじゃない……筈、なのに」

「そんなヒトじゃない、って言ったってな」

 

 そう、思っていたのに。

 男は初めて見せる顔で、口の端を小さく歪めた。

 知らない顔だった。 知らない声だった。 こんな男の事、何も知らなかった。

 

「お前はそもそも、俺のことを理解出来ていなかったろうに」

 

 ──ファインドフィートは、葛城のことを何も知らなかった。

 まるで心を読んだのか。 そう疑わざるを得ないほど、言葉が胸の奥を貫いて。

 悪事を叱られた幼子のように、肩を小さく縮こませていた。

 

「分かりやすいのが良かったんだろう? お前はきっと、理解しやすい相手であればそれで良かった。 理解できる人間性を有しているのなら、それで十分だった。

 能力がどうこうじゃあない。 お前自身から言葉を掛けられるか、否か。 それだけだ」

 

 冷たい目が青を射抜く。

 それも知らない目だ。 何もかも、知らないところばかりだ。

 これはいったい誰だ。 いったい、何を言っている。

 

「……何でもかんでも怖がり過ぎなんだよ、お前は」

 

 ただ、怖かった。

 ファインドフィートは、初めて見るその男が、どうしようもなく怖かった。

 

「もしもお前がこれに罪悪感を覚えるのなら、ちゃんと知っておけ。

 お前が家族の死に痛みを感じたように、お前の周りに居る奴らも同じように心を痛める」

 

 その葛城に向けて、女達が掌をかざす。

 美しい微笑みはそのまま。 ビー玉は変わらず輝き、人でなしの性をあるがままに剥き出している。

 

 それを見て、咄嗟に腰を浮かせて、止めて──。 止めてどうなる。 どうする。

 むしろ、どうやって止める? 

 

 ファインドフィートはたった今、この男の事を何も知らなかったと思い知らされたというのに。

 この男を説得する方法が、何も思い浮かばない。 この女達を止める方法が、何も思い浮かばない。

 

『……まあ、想定とは違いましたが。 どうせなら何も失わない方が良いですからねぇ。 こういうのを何と言うんでしたか……そう、エコの精神? えすでぃーじーず……? ともかくそういうことなんですねぇ』

『安心なさい、お前。 この三年目が終わったらきちんと戻してあげるから。 だから──ファインドフィートちゃん。 よく見ておきなさい』

「……本当にこんなのに頼って良いのか? なぁ、白いの」

 

 そして、傍の女に縋り付くという道さえ閉ざされて。

 

「……けどまぁ、そうだな。 せめて、健やかであれよ、お前」

 

 その、顔が。 初めて見る穏やかな微笑みが。 優しい声が。

 あんまりにも、知らない筈の父と被ってしまうから。

 

 また新しい後悔が、ファインドフィートの背にのしかかるのだ。

 癒えない傷が、またひとつ。

 

 

 ◆

 

 

 女達は去った。

 現れたときと同じように、瞬きの内に姿を消した。 その間際、交わされた言葉は何もなかった。

 

 そして、ファインドフィートはひとりぼっちの部屋の中。

 何もしない訳にも行かないから、倒れ伏した肉人形を拾い上げて、ソファーの上に転がしてみる。

 脱力しきった四肢は抵抗の意志さえ見えない。 ぶらんと垂れた手足は、糸の切れたマリオネットと何も変わらない。

 

 ……そして思うのは、今みたいに何も言わない人間であれば、きっとこんなことにはならなかったのに、という自虐交じりの現実逃避。

 声を上げたからこうなる。 自我を出したからこうなる。

 そう、言い募るのは簡単だ。

 けれどもこの男は、身の丈に合わない善性を持っていただけなのだ。

 それに対し、少女は加害者の側に立っている。 そう思っている。

 故に、嘲りの視線を向けることは出来なかった。 それを向ける先があるとするなら、鏡だけである。

 

「……おやすみなさい」

 

 肉人形はうんともすんとも言わない。

 目を閉じて、浅い呼吸を繰り返すだけ。 乾ききった肌は砂漠と同質。 ぱさぱさで、触れるだけでも崩れてしまいそう。

 いっそ死んでいるのかと勘違いしそうなほど、生気の欠けた姿だった。

 

 目を覚ましたら、また皮肉交じりのからかいを投げかけてくれるのだろうか、と夢想してみる。

 本当は何も失っていなくて、この男も普段通りの痩せっぽちの身体で、何事もなかったかのように日常を取り戻すのだ。

 ……そうであればどれほど素晴らしかったろうか。

 けれども簡単に手に入らないからこそ、それは素晴らしいものなのだ。 簡単に手に入る物はそれ相応の価値しか宿らない。 逆もまたしかり。

 だからきっと、もう手に入らない物だった。 それは。

 

「あなたは、そんなヒトじゃないと思ってたんですよ。 あなたはもっと単純で、もっと俗物で、もっと……身近な人間なのかと、そう思っていました。

 ねぇ、トレーナー。 わたしがあなたを信じていたのは、そのせいだったのかもしれません」

 

 ソファーの前に膝を付き、頭を抱えて白髪を垂らす。

 

「それでもわたしは、あなたのことを信じていたんです。 本当に、本当に……」

 

 けれど、あぁ、と。

 駄目だった、これはと、声にならない悲鳴を上げる。

 

 知りたくなかった。 こんな理解できない人間だなんて、知りたくなかった。

 だって、背負いきれないではないか。 こんなの。

 家族だけでも精一杯なのに。

 お父さんとお母さんと、姉さんだけでも限界なのに。

 

「なのに、こんなの、背負うしか無いじゃないですか。

 わたしが巻き込んだのに、置いていくなんて。 できるわけ無いじゃないですか……」

 

 その目には、憐れみがこもっていたのだろうか。

 その口には、悲嘆がこもっていたことのだろうか。

 腫れ物扱いは嫌だったのに、それでも本当は遠巻きにしていたのだろうか。

 この一ヶ月の甘さは、そのせいだったのだろうか。

 そうと思えば、悲しくなるほどすとんと腑に落ちた。

 

「……嘘つき。 嘘つき。 大人はみんな嘘つきだ。 みんなみんな、嘘ばっかりだ……」

 

 きっと、この男も同類だった。

 

 そんなもの、欲しくなかったのに。 なのにどうして押し付けてくるのか。

 もう容量オーバーだ。 許容限界だ。 このちっぽけな背中にはあんまりにも大きすぎる。

 なのにそれでも背負わせるなんて、まったく、ひどいヒトだった。

 

 少女はひとり、そんな恨み言をつらつらと吐き出して。

 雫をひとつ、砂漠の上にぽつりと落とした。

 

 


 

 

 腫れ物を扱う手付き。 憐憫の籠もる眼差し。

 それが、嘗て与えられた物だった。

 脆かった身体に。 死にゆく身体に。

 与えられて、愛されて、壊さないよう丁重に扱われるばかりの日々。

 

 ぼくは別に、痛くても良かったのに。 苦しくても良かったのに。

 それでもただ、お父さんとお母さんに抱きしめてほしいだけだったのに。

 どうせ後先のない命だ。 どう足掻いたって待ち受ける結末は変わらない。

 

 ……ならせめて、お父さんとお母さんに、抱きしめてほしかった。 愛してほしかった。

 傷付けられてでも、愛してほしかった。

 

 

 でも、姉さんだけは。

 姉さんだけは、ぼくを理解してくれた。

 強引にでも手を引いてくれた。 引っ張り上げて立たせてくれた。

 ぼくがそれを求めているって、姉さんだけが理解してくれた。 痛みを、与えてくれた。 愛してくれた。

 

 だから。

 あの頃、姉さんは、ぼくにとっての神さまだった。

 

 

 



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52話

 

 あの後。

 目を覚ました葛城トレーナーは、やはりただの肉人形になっていた。

 確かに、声を掛ければ反応を返す。 日常会話も行える。 生活だって問題ない。

 けれども、目に意志は宿っていない。 ()()は葛城という男の表層を真似ていてもファインドフィートの言いなりにしかならなかったから、本来の意識がない事は明白だった。

 もしも以前のままであればあれやこれやと軽口を叩いてくれる筈なのに、いまや肯定しか返さない。 悪夢を見ているようだった。

 つまり葛城がマリオネット。 吊り糸を持つのがファインドフィートだ。

 本来はまったく逆であったはずの関係性は、いびつにくるりとひっくり返っている。

 

 そして、どんな時でも時間は変わらず進んでいくもの。

 白昼は終わり、黄昏時を越え、遠くの空から夕闇色が染み出して。

 太陽の代わりに月が昇り、一日が終わりゆく。

 その月下を歩いた時間のことを、きっとファインドフィートは忘れられない。

 トレーナーと共に歩いた時間は、罪の総量と等しかった。

 胸を締め付ける罪悪感の寒気も、背負った人間の熱も、頬に伝う湿り気も。 どれもこれも臓腑に刻まれる罪そのもの。 忘却とは悪である。

 せめて裁かれたなら、と何度も夢想した。

 しかし、所詮は夢想。 叶わぬ夢。 人形に裁かれる事はありえない。

 裁くべき人間は、その瞬間から今の今まで──ひと月後の今に至るまで、ずっと眠ったままだったから。

 

 

 故にファインドフィートは、表面だけの日常を続けられていた。 葛城との関係以外はまったく普段通りの生活だ。 本当に、何も変わらない。

 彼に入れ知恵をしたらしい崎川トレーナーからのアクションは何もなかったし、ミホノブルボンなど友人達との関係も変わらない。

 ミホノブルボンはやはり優しいひだまりだったし、トウカイテイオーからは全力で逃げ続けている。 ゴールドシップは急に現れてはからかって来て、マンハッタンカフェは時折コーヒーを淹れてくれる。

 あとは、暗がりから探るような視線を感じる程度だ。

 

 ……なんて言えば、いささか怪しすぎるかもしれないが。

 しかし視線の主は、少女の事を『ひ孫』と呼んでいる黒い誰かである事は分かっていた。 つまり、仮称『ひいお婆ちゃん』だ。 『ひいお婆ちゃん』はその暗がりから見ているだけで、何をしてくる訳でもない。 ただ、見ているだけ。

 だから結局、大した変化は何もなかった。

 強いて言えば、結果的にトレーニングの密度が増した事が変化らしい変化だ。

 

 より負荷の高い、密度の詰まった修練。 より速く、より遠くまでを走る機能を限界まで高めるための物。

 それが四肢を傷付けるたびに、強い安堵に満たされる。

 ああ、まだ速くなれるのかと。 まだ遠くを目指せるのかと。 裏切らずに済むのかと。

 今のトレーナーに求めて、与えられたものは、今の彼女にとっては何よりも心強い支えとなっていた。

 あるいはそれが、裁きの代償行為を兼ねていたかもしれない。

 

 そうして、既に破綻しかけている日常を続けて。

 目黒記念は"やり直し"もなしに勝ち切る事ができたから、それもファインドフィートの背を押す追い風だった。

 ただ、そのレースの最中に見た誰かの顔が、今もほんの少しだけこびり着いていて酷くもどかしい。 心が落ち着かない。

 

 ……なんて、もう今更だけれど。

 ファインドフィートとてバカではない。 それが嘗て関わりのあった誰かなのだろうとは薄々察している。

 けれど、思い出せないのだからどうしようもない。

 

 どんな言葉を交わしたのか。 分からない。

 どんな顔を見せられたのか。 分からない。

 同じ時間をどれほど過ごしたのか。 分からない。 何も分からない。

 

 ここに至るまでのファインドフィートが何度も負けたせいで、それらの記憶は燃料として燃え尽きた後だったから。

 しかし燃料となるからには、それなり以上の思い入れがあったのだろう、と。 そうして推察するのが関の山。

 ファインドフィートの手が届くのは、そこまでだった。

 そして結局、その事実でさえも重荷のひとつに成り下がってしまう。

 

 

 ◆

 

 

「ねぇ、トレーナー。 ご飯はちゃんと食べていますか?」

 

 次の次の次の週。 宝塚記念が開催される、前の週。 金曜日の夕方。

 我が物顔でトレーナー室に居座る少女はふかふかのソファに座り込んで、己のトレーナーにそう聞いてみた。

 鈴の縁を擦り上げるような、高く掠れた声音だった。

 

 そんな声を受けたトレーナーは手元の端末からのっそりと視線を上げて、少女の顔をぼんやりと眺めた。 焦点の合わない瞳に生気はない。 薄っぺらい理性だけを宿していた。

 

「……あぁ」

「そう……なら良いんです。 あと、今日も早くに寝てくださいね。 トレーナーには健康になってもらわないといけないですから」

「あぁ」

「健康っていうのは本当に大事なんですよ。金銭には代えがたいほど大切です。

 ねぇ、トレーナー。 あなたは……その、崎川トレーナーに勝ちたいのでしょう? なら、そのあたりもちゃんとしてくださいね」

「あぁ」

「……でも、そうですね。 もしわたしがブルボン先輩にも勝てれば……一応ある意味で、トレーナーの方が優秀ということになるのでしょうか」

「あぁ」

 

 勝ちたいですね、と口にする。 肯定が返ってくる。

 盛大にお祝いしましょうね、と言葉にした。 肯定が返ってくる。

 

 何を言っても肯定、肯定、肯定ばかり。 否定は一度たりとも存在しない。

 言葉のキャッチボールは成立しておらず、故に、これは会話ではなかった。 ファインドフィートが語るだけの、ただの独り言だ。

 

「ブルボン先輩だけじゃなくて……宝塚記念にも、勝たないといけないですね」

「あぁ」

「このまま無敗で……なんて願うのは、烏滸がましいにも程があるのでしょうけど」

 

 けれど、彼女が為すべきは変わらない。

 背負うものが増えて、背骨が今にも砕けそうになっているけれど、ギリギリの所で耐え続けている。 耐え続けてしまえる。

 つまり、これからの旅路に何ら支障はない。

 むしろそれを弾みにして、より遠くまで跳ねなければならない。 少女は自分自身に、そう必死に言い聞かせていた。

 

「勝たないと。 報いないと。 今までの全部に、正しさを……」

 

 窓の外から差し込む赤い日光の中へ、暗示を込めて。

 そこで、言い淀む。 数ヶ月前までならすらすらと言えていた筈の言葉だった。

 だというのに喉の奥に栓をされてしまったように中々頭を出さずに、胸の中に引っ込んでしまう。

 それはきっと、あの日のトレーナーの言葉が胸に残っているせいだ。

 

「……ねぇ、トレーナー」

 

 男の痩せこけた顔を見て、少女は思った。

 本当にひどいヒトだ、と。 あんな時に、あんな顔を見せられたせいで、無意味なものとして忘れることが出来ないのだと。

 夢を追うことを止めろと言うのなら、これから何に縋れば良いのか。 何のために生きろというのか。

 その答えはもう何日も考えて探しているけれど、切っ掛けさえも掴めないままだ。 それでも考えることを止めることができない。

 そうさせてしまう程に、トレーナーの献身はあまりにも強い毒だった。 ファインドフィートには効きすぎる毒だった。

 目を覚ませばいつの間にか過ぎていた時間。 勝手に成長していた身体。 精神と肉体の齟齬。 世界に置き去りにされたかのような、現実味のない疎外感。

 その苦しみを味わった彼女は、その重みがよくよく理解できてしまうからこそ。 だから、無視する事ができない。

 

「あんなこと、知りたくなかった。 見たくなかった。 聞きたくなかったのに」

 

 最後に選んだのはトレーナーであるけれど。

 しかしそこに至るまでの道程を作ったのは、作ろうとした起点にあったのは、間違いなく彼女だったから。

 実行したのは女達であっても、最初に始めたのはファインドフィート自身だったから。 罪の形を今この瞬間もさめざめと見せつけられているから。

 逃げ道が、どこにもない。 足掻くことすら難しい。

 

「……わたしはいま、間違えているのでしょうか」

「あぁ」

「これが、あなた達にも捧げる行いだとしても?」

「あぁ」

「……あなたの結論は、そんな有様になっても変わらないんですね」

 

 そして返ってくるのはやはり肯定、肯定、肯定だ。 バカの一つ覚えのように繰り返される。

 それを、白い耳で受け止めて。 少女は、緩やかに眉の端を垂らした。

 

「……ひどいヒト。 やっぱり、大人なんてきらいだ。 だいっきらいだ」

 

 啜り泣くように。 静かに怒るように。 微かに笑うように。

 ごちゃまぜになった感情を織り交ぜて、軽やかに謡って。

 それっきり。 口を噤んで黙りこくる。

 

 それでも、部屋の中は静寂には程遠い。 窓の外から蝉の鳴き声が延々と響いてくる。

 彼女が黙ろうと何をしようと自然の声は止まらない。 時間の流れも止まらない。

 たかだか二週間の寿命で、掌よりも小さな命で。 それでも懸命に叫ぶのは求愛の唄だった。

 みーんみんと鳴くだけの単調な唄だったが、少女は存外それを好んでいた。

 どこまでも原始的であれど、だからこそ美しい唄だったから。

 

 それに聴き惚れながら、ソファーの上にごろりと寝転ぶ。 靴下は脱ぎ捨て、素足を端からぶらつかせた。 今日は既にトレーニングを終えた後。 意識を保つだけでも中々大変だ。

 故にこうして寝転べばそれだけで、少しずつ着実に眠気の泥に呑まれていく。 少しずつ、少しずつ。

 

 ……やがて、完全に眠る前にふと思ったのは。

 せめて夢の中ぐらいでは全部を忘れてしまいたいな、なんて。 そんな、隠しきれない本音だった。

 

 

 ◆

 

 

 

 ──新幹線が大阪へ着く。 鉄の箱がレールを滑り、大きな車輪がゆるゆると停止した。

 振動が完全に収まったことを確認して、手荷物を抱えて立ち上がる。

 住居のある府中とは全く違う土地であるのに、彼女の服装は私服ではなく学生服のままだった。

 が、目的を考えたなら今日の彼女が身に纏うのは正装であるべきで、彼女にとっての正装とは学生服である。 故に、これで正しかった。

 

「……トレーナー。 早めに移動しておきましょう。 その……ほら、わたしはタクシーに乗れないですから」

「あぁ」

「車は、怖い物です。 あんなに速く走れるうえに、大きくて、重たくて、そのくせ急には止まれない。 そんなの、危険に決まってるじゃあないですか」

「あぁ…………そうだな。 だがまぁ、キミも電車なら大丈夫だろう」

「……それは、はい。 一応は」

「行くぞ」

 

 目的。 正装を必要とする目的。 それはつまり、宝塚の舞台。 冠の六である。

 最後の一年、その前半分。 総決算がもうすぐそこにあった。

 

 ……そうと思えば、やる気を奮い立たせるべきだけれど。

 しかし、どうにも気分が落ち込んだままだ。 せっかく二文字以外の返事を貰えたのに、うまい返しが何も出来ない。

 前を行くトレーナーの背を追いかけながら、背負ったリュックの紐を握り締める。 が、気持ちの糸は引き締まらない。

 

 その原因は何か。 なんて、考える必要すらない。

 思い当たる物は一個や二個ではなく、両手の指では足りない程度に多すぎた。

 多くの人々に"お前の道は間違っている"と突き付けられてきたけれど、それでもこの道を肯定したくてここまで来た。

 ……けれどその肯定のために、多くの大切を踏み躙ってしまった。 幾重にも連なったその事実こそが、背中に重くのしかかっている。

 そして結局、進むべきと思っているのはファインドフィートと、彼女が縋る女達と、何も知らない大衆だけ。

 急速に土台が綻び、グラついていくような、そんな浮遊感さえ感じてしまう。

 

 時には、悍ましい感覚を振り払おうと走り続けた事もあった。

 が、効果は何もなかった。 むしろ焦燥感が強まる始末だ。

 解法が分からない数式を前に、頭を抱えている時のような、酷くもどかしい感覚。 うなじがかっと熱くなって、頭の回転が徐々に鈍くなっていく感覚。

 ファインドフィートを悩ませる物は、そういう感覚によく似ていた。

 まるでほどけてくれないそれはまさに呪縛。 夜を越えても、何度越えても、決して消えてくれない重しだった。

 

「……ねぇ、トレーナー。 公式の分からない計算問題に突き当たったとき、どうしますか?」

「公式を調べる。 教科書でもインターネットでも、何処にでもあるだろう」

「その公式を調べられない時……たとえば、試験の時に突き当たったら、どうしますか?」

「後回しか、当てずっぽうで答えるか……」

 

 電車に乗り込んで、ロングシートの席に座って。

 少女は、すぐ隣の大人に教えを乞うてみた。

 視線はまっすぐ。 真正面の窓ガラスへ向けたままだ。 空は雲がかかっていて、外の景色は少しだけ薄暗い。

 

「諦める。 無駄だろう、考えた所で」

「……そう、ですよね。 だって、出来ることなんてたかが知れてますよね」

 

 ガラスに映る自分自身へ、そっとため息を飛ばす。

 賢しい大人はそうやって前に進むらしい、と。

 では、大人と同じように解答を諦めた上で苦しんでいる今は、一体何なのか。

 諦めたことが悪いのか。 だとするなら、この苦しみが与えられた罰なのか。

 

 ……なんて、ファインドフィートはそんな疑問を誰に向けるでもなく吐き出す。

 しかし、隣の大人から肯定が返ってくる事はなかった。

 なんとなく、ちらりと真横を盗み見る。

 男の顔についている眼は何処を見ているのかも定かではない。 ファインドフィートを見ておらず、空も見ておらず、窓ガラスに薄く反射するばかり。

 少女は、それに深い安堵を覚えてしまった。

 惨めだ。

 

 

「……ここで降りるぞ」

「あぁ……そう、ですね。 ここからは歩いていかないと」

 

 朝と変わらず、浮遊感に魘されながら。

 一歩一歩を踏みしめて、道程を越え、ついに阪神レース場へ足を踏み入れる。

 綺麗に清掃された関係者向けの通路を通り、事務処理を済ませ、流れるように控室へ通されて。

 

 それから数時間後の本番に向けて、逸る精神を落ち着かせた。

 ──今日の朝は"目覚まし時計"が何処にもなかった。 だから大丈夫。 まだチャンスは残されている。

 今となっては、自己暗示が大した意味を持たないことを知っている。

 そのくせに悪足掻きの如く、何度も何度も自分に言い聞かせた。

 

「……わたしはまだ大丈夫。 まだ走れる。 まだ、負けていない。 今日はまだ、負けていない」

 

 それから、大きく深呼吸をして。

 強引に、形だけでも気持ちを落ち着かせて。

 

 一度、控室からトレーナーを追い出した。

 それから制服や下着も全部脱ぎ去り、染みひとつない勝負服のセットに着替える。

 身だしなみを簡単に確認した後、トレーナーを再度招き入れ──ドアの横で立たされている姿が可哀想だったから、次からは部屋の中で壁を見ていてもらう事にする──靴を履き、蹄鉄の点検を済ませた。

 諸々の準備を終えた頃には、第9レースの"舞子特別"が開催されている所だった。

 

 つまり、時間が余ってしまった。

 とりあえず起動した携帯端末で中継映像を見ながら、残り時間を浪費する方法を考える。 何もしない、というのは無理だった。 とにかく気分が落ち着かない。

 

 まず、レースを観戦するという案はあっさりと破棄してしまう。 今見た所で内容が頭に入ってこない事は明らかだった。

 それに刻一刻と出番が近付くほどに身体中が疼いて仕方がないのだ。

 身体をぶるぶると軽く震わせてみてもまったく拭い取れない。 どうしようもなかった。

 

 だから、必死に身体を動かす。 興味もない本を読む。 あれやこれやと策を弄して時間を潰す。

 が、あんまりにも落ち着かない。

 そのせいで、うなじが今にも焦げ付きそうだった。

 

 チックタックと時を刻む時計を時折に確認しながら、潰して、潰して、潰して。

 何度も、大げさにため息を吐いた。

 

 

「……やっと、時間ですね」

 

 何度も中継映像を見た。 同じ回数を断念した。

 何度も本を開いた。 同じ回数だけ本を閉じた。

 そこまでしてようやく経過した時間を確認し、少女は重々しく頷く。

 

「トレーナー、わたしの準備は出来ています」

 

 つま先を床に打ち付ける。 音の調子はいつも通りだ。

 少女はもう一度頷いて見せ、すぐ傍らのトレーナーへ視線を向ける。

 その青色には淡い焦燥が滲んでいて、普段の冷静に見える様子とは程遠かった。

 

「スタッフさんがもうすぐ来るでしょうから、応対は任せました」

「あぁ」

「わたしのコンディションは、別に問題ないですよね?」

「……あぁ」

 

 対し。 男の表情は、やはり変わらない。

 生気を欠いたままで、少女の言葉に肯定だけを返す。 どこまでも都合のいい男だった。

 

「わたしが走るところ。 ちゃんと、見ていてくださいね」

「…………あぁ」

 

 それでも、何度でも繰り返し言葉を投げる。

 噛んで含めて、言い聞かせるように。 まるでいつか、前みたいな軽口を叩いてくれるのではないかと期待するように。

 ……が、それは無意味である。 いくら言葉を投げたところで、この男は三年目が終わるまでただの肉人形である筈だからだ。

 他の誰でもないファインドフィート自身が、身を以て知っていた。

 

「だって、わたしが『ファインドフィート』なんですから。 あなたにはわたしが走るところを見届けてもらわないと」

「…………」

「わたし達はもう二度と、消えたくない。 忘れられたくない。

 ……だから、トレーナー。 どうか、裏切らないで、くださいね……」

 

 そして、のたまう。 彼女自身も忘れた側でありながらも。

 自覚があるのか、ないのか。 その二択であれば間違いなく前者に当て嵌まるけれど、しかし、それを承知した上で舌の根を湿らせる。

 その傲慢な在り方は、ついぞ捻じ曲げられなかった。 譲れなかったのだ。

 たとえ誰が相手であろうとも譲ることが出来なかったから、今のこの瞬間がある。

 

 もし、対立する相手が姉であろうと関係なく、ここにある彼女は頑固なままで変わらない。

 信じているからこそ、愛しているからこそ、変われない。

 

「……お父さん」

 

 やがて、ぽつりとこぼれ落ちた弱音を残してドアを開く。 地下の道を通り、ターフの上に行くために。

 その弱音の正体は一体何だったのか。 何を思って口にしたのか。

 思考を巡らせることはせず、口の端を結ぶ。 どうせいくら考えても分からない事だと、ファインドフィートは諦めていた。

 それに、仮に答えを得たとしても意味がない。 彼女のこれからに影響を及ぼすことは、ありえなかった。

 

 

 ◇

 

 

 阪神11レース。 宝塚記念。 春の冠、そのひとつ。

 それを求めて辿り着いたのは、曇り空の下だった。 空の鈍色が故に、芝の緑が普段よりも色褪せて見える。 が、普段と比較したなら当然の事だ。

 だってファインドフィートは晴れの日以外のレースに出たことがない。

 今の今まで、一度もだ。 それが数回繰り返される程度であれば、ままある事だろう。

 けれども三年間だ。 その間、ただの一度も雲が掛かった事さえ無いのは相当に珍しい。

 

 一年を通して雨が降る日数は約120日。 三分の一近くは雨が降っている計算になる。 もちろん、曇り空になる頻度は更に多い。

 そうでありながら今日に至るまで日光と共にあったのは、幸運の一言だけでは片付けられない何かを感じさせる。

 ──()()なんて言って濁しても、ファインドフィートにはその原因に心当たりがあったのだが。

 

 そっと首筋を撫でて、何時かの悍ましい感触を思い出す。 あの純粋に濁った愛を思い出す。

 その愛の主は、退化を重ねているという。 役割を放棄したから退化が始まったという。

 だからだろうな、とターフの端で微かに思った。

 

 順当に考えてありえるのは、時間経過によってそれだけの機能を失ったこと。 あるいは、リソースを節約するための縮退運転に移行したこと。

 正直、どちらでもよい事だ。

 

 ひとつ明確なのは、ファインドフィートは今後、更に厳しい挑戦を強いられること。 それのみだ。

 以前は日光さえあれば際限なく活力と気力が湧いてきたものだったが──その補助が何もないせいか、やる気を測る指標は絶不調をマークしていた。

 もちろん、だからレースに出ないなんてことはありえない。 やる気は所詮やる気。 精神の調子だ。

 肉体の調子は万全だったから何も問題はない。

 

『各ウマ娘、続々とゲートに入っていきます』

 

 ゲートに向かう。 その道すがら、横を見た。

 そこには、芝の上を悠々と歩く同胞がいた。

 アグネスデジタル、グラスワンダー、マヤノトップガン、メジロライアン。

 そして、ミホノブルボン。

 本来はスプリンター、あるいはマイラーであった彼女も、今となってはミドルディスタンス(中距離)における最有力選手だ。

 今回の出走者はみなG1タイトルの獲得者ばかり。 パワーインフレーションが起こっていると評しても過言ではない。

 時折、有力チーム間で開催される王者の会合(チャンピオンズミーティング)も際立った猛者ばかりがあつまるというけれど──今回のレースも、それに優るとも劣らぬ程の顔ぶれが集まっている。

 

 そんな彼女等に、身体ひとつで挑戦する。

 自信なんて欠片もないのに、それでも全力を振り絞る。 そう考えるだけで、身体が震えて仕方がない。

 武者震いなどという勇ましさではなく、緊張や恐怖という矮小さで。

 

『3枠5番、ファインドフィートが最後にゲートイン』

 

 それでも、必死に殻を被って取り繕う。

 手は、胸元へ。 心臓に祈りを詰めて。

 その祈りを捧げる先は片割れたる姉。 遠い日の、神さまだった女の子へ。

 勝利を捧げるために、両足の筋肉に神経を通した。

 

 そして響く、鋼の音。 ゲートが開く瞬間。

 土の弾ける音が、呼吸の悲鳴が号砲となる。 十六の気魄が、曇り空へと。

 

 


 

 

 Break a leg(幸運を)! 

 

 



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53話

 

 

 

 

 本をめくる。 小さな白い手を、紙の上に滑らせる。

 光源は机の横の小さな卓上照明。 紙幣もなしに購入できる程度の安物だ。

 

「足りない」

 

 光量が、なのか。 情報が、なのか。

 対象は口にしなかったが、視線の先はページの端っこに載った四行や五行そこらの文章。

 故に状況からは、後者を指しているとも推察できる。

 

「足りない」

 

 その本は、一応医学に関連する書籍だった。

 とはいえ厚みはそれなりに薄く、文体もさほど堅苦しくないもの。 つまり一般層向けのライトな書籍である。

 少女が見ていたのはその本の中の、一枚のページの、その端っこの一角。 "準一卵性双生児"に関する記載を睨みつけていた。

 それは世界全体で見ても片手の指ほどしか確認されていない非常に稀有な症例である。

 だから、なのか。 専門書でも何でもない本には大層な情報は何も載っていない。 むしろ、その存在を載せているだけ十二分かもしれない。

 

「足りない」

 

 その()()()な書籍に曰く。

 準一卵性双生児とは、過受精した卵子が()()()()()()によって分裂して双生児となる。

 主な特徴は、一個体の中に異なる遺伝子が混在(モザイク)するキメラとして出生すること。

 発生原理が故に多少の遺伝子の欠損を伴うこと。

 そして通常の一卵性双生児ではありえない、一つの卵子から男女の双子が産まれること。

 簡素かつ大雑把ではあるが、おおよそは間違っていない。

 

 ……彼女が何故それを調べているのかと言えば、自分たちがそれだったから。 だから状況ぐらいは詳細に知りたかったのだ。

 とはいえ、過去に発見された症例とは多少状況が異なる。

 なにせ姉と弟は種族すら違うのだから、どれほど参考になるのかすら不明だ。

 姉の中にはヒトの細胞が混ざり、弟の中にはウマ娘の細胞が混ざっている。 規格の異なるそれを宿したまま、成長しているのだ。 間違いなく珍しい──少なくとも、インターネットにより世界が繋がって以降は初の事象である。 そもそも発見することが難しい故に、本当に世界初なのかは疑問が残るけれど。

 

 けれど、それを初めて知った時。

 それが自分達を指す症例であると知った時、とてもとても大きな衝撃を受けた。

 

 

 まず弟は、その時点で兆候があったから納得をした。 身体の脆さの原因を理解できた。

 そして、そのうえで、姉から血肉を奪って産まれた事を後悔して。 狂おしいほどに、後悔して。

 姉という()()()()()()女の子を不完全なものとした己を、深く呪った。 先が短いだけなら、まだ良かったのに、と。

 

 もちろん、悲しくない訳ではない。

 彼も大人になってみたかったから、それを許されないというのは悲しいし、悔しい。

 まだまだ見たいものがたくさんあった。 まだまだ行きたい所がたくさんあった。 叶えたい夢だってある。 あるいは、いつかはどこかの誰かに、素敵な恋をしてみたかった。 これからの未来に希望を抱いていたのだ。

 それが無理だとすると、胸が抉られそうになってしまう。

 ……けれど、それよりも気になったのは自身の片割れ。 姉のことだった。

 やがて置いていく事になるであろう、もう半分。 愛しき片割れに何かを残したいと、そう思うようになった。

 

 

 そして、対する姉は。 産まれた瞬間から──否、産まれる前から共に育った弟を想う彼女は、初めて運命を呪った。

 彼女は、弱り始めた弟の姿を知っている。 いつの間にか追いかけっこすら出来なくなった弟を知っている。 いつの間にか、自力で立ち上がれなくなっていた弟を知っている。

 いつの間にか、死臭を漂わせ始めた弟を知っている。

 

 だからある日、その原因を両親の会話から盗み聞いて。 心底、本当に、本当に、自分自身を嫌悪した。 許せなかった。

 より良いパーツを譲り与えなかった胎児の己を、純粋に、どこまでも憎悪した。

 何故、弟は弟なのか。

 より()()()()であれば──それを与えていれば、もっと長生き出来たかも知れないのに。

 なんて、呪って、呪って、呪った。

 

 だから、それが差異だ。 双子の自我を隔てたものだった。

 姉は、弟すら知らない顔で、ひっそりと執着を募らせて。

 そして"それ"が、たったひとつの"それ"こそが、姉と弟を完全なる別個の存在として確立させる。

 

 好悪も価値感も全て同じ? 同じ方向だけを見ている? 

 確かに、過去はそうだった。 全く同一の存在だった。

 けれども姉は、先に産まれたから姉なのだ。 その自負こそが少女に成長を促してしまった。

 

 

 その少女は、本の紙片を握りしめた。

 くしゃくしゃのシワが刻まれた紙を、インクごと。

 やがてちぎり取られた塵屑を()()()な瞳で見下ろす。 大人になりかけの歯をぎりぎりと食いしばりながら。

 

「時間が、足りない……っ」

 

 ──そして姉は、『姉』として獲得した価値感に従い、己の弟を生かす手立てを模索し始める。

 タイムリミットは、精々三年。 それが未だ十歳の彼女達に与えられたもの。

 ただそれだけの、ほんの僅かな時間だった。

 ただそれだけを与えられたのが、いつかの少女達だった。

 

 

 ◆

 

 

 駆け出す(コンセントレーション)

 身体を前へ()()()()、重心の移動のみで初速に入る。

 傾いた身体を膂力で強引に制御し、まず先頭を奪うための態勢を整えた。

 そして、この序盤戦で必要なものは何か。

 速度が大事であることは間違いない。 ゲートに即時反応することも大切だ。

 が、それらだけでは不足。 本当に必要なのは他先行ウマ娘をねじ伏せるだけのパワー……つまり、加速力。 立ち上がりの速さ。 ファインドフィート自身が持つ数少ない強みである。

 

 それらを以て先行争いに挑み──当然のようにかち合ったミホノブルボンと追い比べる。 栗毛と芦毛。 ほぼ同体格の少女二人がせめぎ合う。

 が、しかし。 それもほんの数秒。 数十メートルの間だけだった。 肝心の栗毛がすぐに進路を譲ったからだ。

 

 故に大した駆け引きもなく、あっさりと先頭が確定した。

 その先頭となった芦毛──ファインドフィートは、すぐ真後ろについた少女の所在を足音で把握し、ほんの少しの疑念を挟んだ。

 が、そもそもミホノブルボンは()()()()走り方をする少女だとして気を取り直す。 あくまでも正確無比な体内時計によって刻まれるラップに従う戦法。 それが彼女の持ち味だ。

 つまり、気にするだけ無駄だった。 そう一人で納得し、後方から意識を外す。

 

 そのまま風の壁を身体ひとつで引きちぎり、空気の層を撹拌して。

 ある程度定まった順序の先頭を、無心でひた走った。

 

『最初のコーナーをカーブ、先頭は5番ファインドフィート、1バ身後方に8番ミホノブルボン、続けて2番マヤノトップガン──』

 

 遠心力で外に流れる身体を筋力で引き止める。

 びゅうびゅうと風が吹き、耳をさらう。 髪をさらう。 けれどそれには気を取られずに、自分自身のリズムを保つことに専心した。

 ……そうして可能な限り理想的なレース運びを目指しているけれど、身体の状況は理想的には程遠い。

 一歩一歩を踏み出す度に、左の足首がぎしりぎしりと軋んだ。

 

『向こう正面、メインディスプレイ前に先頭が到着。 タイムは例年よりもかなりハイペースですね。 解説の半田さん、こちらはいかがでしょう?』

『先頭の子に掛かってる様子はありませんね。 おそらく、彼女の作戦でしょう。 後続もそのつもりで着々とペースを上げて行っている模様』

 

 外野は知らない。 彼女の事を何も知らない。

 故にこれまでの実績と能力値から現状を分析し、おそらく目的通りだろうと太鼓判を押す。

 今までも似たような状況下で結局問題なかったから、とか。 出揃っているデータ的にこの速度で適正だから、という、様々な要因を含めて勘案した結果だ。 彼らが間違えているわけではない。 ただ、前提の認識に齟齬があるだけだ。

 

 今のファインドフィートは、以前ほどの際立ったスタミナを持たない。 優秀(A)ではあれど卓越(S)には程遠い程度だ。

 だから、走れば息が切れる。

 息継ぎは粗く、心臓の動きは鈍いまま。 脈拍が必要な基準まで上がり切らない。

 ある意味それが普通の状態であったけれども、しかし。 日光に灼かれた時間に慣れすぎていたから、その"普通の状態"における走り方が些か拙い。

 ()()()()のある日を境に失って以降慣れるためのトレーニングは積んでいたが、それでは不足だった。

 故に彼女は、逃げてから差すという普段の走りが再現できないまま。

 すぐ後続の少女から、距離を引き離せなかった。

 

(あぁ)

 

 そのうえ空気は生ぬるく、重たい。 気温は高く、湿気ている。 身体にへばりついてきて、振り払うのも一苦労だ。 まるで世界そのものがファインドフィートの邪魔をしてくるよう。

 しかしそれが本来のあるべき姿だと、今更ながらに思い出す。

 

 本来、世界が味方してくれるなんてありえない。

 世界は味方ではなく、敵でもない。 ただそこにあるだけの物で、そこにあるための物。

 世界があるから、ファインドフィートは呼吸できている。 それ以上でも以下でもない。

 普遍的なそれが嘗ての日に望んでいたもので、今はそこに立ち返っただけの事だ。

 そうと思えば──心の底から、ほんのちょっぴりの勇気が湧いてくる。

 

 だからまた、大きく口を開いて吐息を漏らした。

 風の中を突き抜けながら、白んでくる頭を必死に持ち上げ続ける。

 最後のコーナーカーブの入口が、ぱっくりと口を開いて待ち受けている。 その入口めがけて、土を飛ばした。

 

(喉が、渇いたなぁ)

 

 次いで思うのは、ゴールまで後どのくらいなのかという疑問。

 100秒が1秒に圧縮される感覚の中で目減りしていく体力が、正常な思考能力さえ奪い去ってしまった。

 

 ……とはいえ自身の状態を判別できるだけの思考能力は残っていたから、"考えるだけ無駄"という結論を出す事は出来た。

 故に、答えも出せないくせに湧いてくる思考はすべて置き去りにする。

 宝塚記念は2200メートル、右回り。 二分間の夢の舞台。 たったそれだけしかない僅かな時間を無駄にできる余裕なんて、何処にもないのだから。

 

(苦しい)

 

 そして駆けて、大した加速もなしに三番手以降をどうにか5バ身ほど引き離して、ついに最終コーナーに差し掛かる。

 タイミングを見計らい、左のつま先の角度を内転させた。 途端に横殴りで襲いかかる遠心力を受け、苦悶を吐き出す。 唾は出ない。

 乾燥しきった舌で喘ぐように浅い呼吸を繰り返して、必死に内ラチのギリギリを攻める。

 後方の足音だって一層激しさを増していたから、ファインドフィートが速度を緩めることは許されなかった。 十分な息継ぎを行う余裕さえない。

 

 ……けれど、まだそれだけだ。 足は動く。 前に進める。

 太陽がないから何だというのか。

 体力の不足? なんだそれは、そんなもの関係ない。 気力で補え。

 速力の不足? くだらない、そんなものは根性で振り絞れ。

 自分を激しく叱咤して、更なる加速を試行する。 姿勢を低く、低く沈めて。 両手の振りでバランスを確保し、身体の柔軟性に物を言わせて可動域を確保して

 意図的に、大きく息を吸って。 深く息を吐きながら、姿勢を低く沈める。 ぎちぎちと、ぎりぎりと、背骨と足首が悲鳴を上げていた。

 

 けれど、身体が上げる悲鳴を全て押し殺して。

 そして、最終直線へ至る。 最後の追い比べだ。

 ついに後方の足音も彩りを変え、激しい地鳴りを引き連れて土煙を巻き上げている。

 芝が抉れて土が露出する。 その土はあっという間に剥げた。 そして吹き飛ぶ。 蹄鉄で削られる。 それが意図的でなくとも、勝手に後方へ飛んでいく。

 飛んで、飛んで、飛んで。 16の蹄跡で地を均していた。

 

 その姿はずっと昔の、1000マイルを走った祖先たちにも似ていた。 特に血気盛んな眼光が瓜二つだ。

 ギラギラ煌めく瞳で、開き切った瞳孔で前を見る。 普段の気性が荒くれだろうと、温厚だろうと気弱だろうと関係ない。 ただ、昂りに身を任せている姿こそが今ある真実だ。

 もちろん、ファインドフィートも同じだった。

 誰よりも血走った目。 眉間に寄った皺。 こめかみに浮かぶ青筋。 口の端から流れる白霧。 どれを取っても理知的には程遠い。

 これが元はヒトだったなど、誰に言っても戯言として一笑に付されるに違いない。 靴に合わせて歪んだ結果が、これだった。

 

「捉え、ました……!」

「────」

 

 ……しかし、だからといって、完全に知性が振り切れている事はなく。

 上がってきたミホノブルボンの声を受け止め、無言で耳を引き絞るだけの知覚能力は残っている。

 

 それに、ここで上がってくるのは想定していた。

 ファインドフィートにとっては数少ない、深い信頼を向けているのが彼女だ。 その感情は盲信と言っても過言ではない。 姉によく似た彼女を、しかし姉とは違う彼女を、深く信じていた。

 もし仮に、いつか誰かにとどめを刺されるとして、その相手を選べるのなら、なんて考えてしまう程度には。

 

『三番手が入れ替わりグラスワンダー上がってきました! さらに外からメジロライアン! ここから先頭を取るのは厳しいか!?』

『先頭はファインドフィート、二番手はミホノブルボン、差は二分の一バ身程度か。 しかしミホノブルボンまだ伸びる。 まだ加速。 差がじわじわと縮まっています』

 

 けれど、その"もしも"は今ではない。

 まだ、負けたくない。 負けたくなかった。

 だから前へ進むために、蹄鉄を以て芝を抉る。 太ももは乳酸が溜まりきってぱんぱんだ。 肺の中身は空っぽだ。 ひどく苦しい。 次の瞬間にでも倒れ込んでしまいそうだった。

 

 が、残りは200メートル。 あとほんの少し。 ほんの少しの苦行を越えるだけで報いが待っている。

 自分をそう騙して気力を振り絞り、ひゅうひゅうと吹く呼吸もどきで足掻きながら、ゴールラインを目指して。

 すぐ真後ろから響く友の蹄鉄の音を受けて、追い立てられて。

 ファインドフィートは、赤味がかった視界のままで幻を追いかけた。

 

 そして、残りの100メートル。

 痛烈に軋む左足首を、黙殺する。

 ぎしぎしと、ぎしぎしと、ぎしぎしと、歪みゆくそれを妄執のみでねじ伏せる。

 もう折れる、と身体が悲鳴を上げている。

 まだ行ける、と精神が絶叫を上げている。

 相反する二相を抱えたまま、奥歯を噛み潰して。 一歩、三歩、六歩と跳んで。

 

「こひゅ」

 

 白む頭のまま、ゴールを越える。 越える筈だった。 後ろとの差はおよそ40cm(アタマ)

 ゴールラインを越える寸前のほんの一瞬に、多くの感傷が湧き出てきた。

 それは夢を裏切らなかった安堵であり、他の15名に勝ち切った充足感であり、死に損ないが冠を取った事への罪悪感であり。

 己のトレーナーに対して、ほんの少しは恩を返すことが出来るのではないかという僅かな期待だった。

 ミホノブルボンに勝つことでトレーナーの能力を証明できたなら、幾らかは報われるのではないかと。

 ファインドフィートは、そんな期待でほんのりと胸を膨らませた。 子供らしく無邪気な夢想だ。 全部全部がうまくいくと思い込んでいる。

 彼女はその勢いのまま、右のつま先を前へ蹴り出して。

 そしてただひとりのまま、最後の一線を越えて。

 

 

 ──次いで着地した左足から、ぼきり、と。

 太い枝を折ったような生乾きの音が、頭の中に反響する。

 

 その衝撃は腹を通って、頭を揺らした。

 その衝撃は、腹の前には股関節にあった。 股関節の前には左の太ももにあった。 太ももの前にはふくらはぎにあった。 ふくらはぎの前が、衝撃の発生源だった。

 つまり、左の足首から。

 

「ぁ」

 

 もう黙殺なんてさせないぞ、と身体が主へ反逆する。

 

 まず、前傾姿勢が歪んだ。 維持できない。 急速にバランスを失う。

 反射的に四肢に力を込めたけれど、左の足は身体を支えられなかった。 そして、右の足は地面に届かないままで。

 故に身体が、ぽぉんと跳ねる。 支えをなくして宙ぶらりん。 風を切って地面と並行に飛ぶ。

 浮遊感に包まれて、内臓が重みをなくす錯覚を得た。

 

 そして当然、その瞬間が永遠になる事なんてありえない。

 芝の緑は少しずつ、顔へ近付いてくる。 時間感覚がスローモーションに変化するけれど、あくまでそれはスローモーション。

 現実味が遠ざかっても、音が消えても、時間は前に進んでいくものだ。

 

 

 すぐ眼前、40cmに地面が迫る。 一面の緑だった。

 そこに、両腕を突き出す。 芝に突き立てる。

 

「ぅ」

 

 しかし、ぐしゃりと。

 途端にひしゃげて潰れた。 前腕の中ほどで骨が砕けた。

 視界の中で変形していく腕を青褪めた瞳で見送りながら。 少女は、真反対の赤に意識を奪われていた。

 

 そして、ぴしゃりと。

 飛び散った赤色の血が芝よりも早く、頬に衝突する。 それは生暖かいぬめりを伴っていた。

 反射的に、悍ましいと感じる。

 真っ赤な飛沫。 両親と姉にもらった血肉の血。 ザクロのようなモドキとは違う、本当の赤色。

 最後にあの飴玉を食べたのは何時だったろうか、と思い出す。

 ザクロの味と血の味はどの程度違うのだろうか、とくだらない疑問を抱く。

 けれど今の彼女に味覚は無いから、ザクロの味も血の味感じ取れないし、比べることも当然出来ない。 それは少しだけ寂しかった。

 

 そんな、刹那の間の現実逃避だ。

 当然、何の意味も持たない。 少女もそれを知っていた。

 

 だから、それ以上抗うことはせずに、砕けた両腕で頭を抱え込む。

 未だ空中。 時速70kmの空の旅。 地面に衝突するまで残りゼロコンマ1秒。

 

 本当に、僅かな時間だ。

 その僅かな時間には、すぐ真後ろから響く親しい誰かの絶叫で満たされていた。 きんきんと耳をつんざく声は子供の泣き声にそっくりだ。

 そして、緑へ衝突する寸前に()()()()()のようなものを一瞬だけ突っ切って、一際強い向かい風を顔に浴びて。

 

 それっきり。 結末は変わらない。

 ()()()と同じく、決して逆らえず、運命に喉首を締め上げられる。

 

 

 そうして、地面に衝突する。 芝の上を転がり滑る。

 あっという間に意識を絶やして、血色の轍を作り上げた。

 芝の上を真っ赤に濡らして。 両腕を砕かれ、左足まで折れたまま芝の上に倒れ伏して。

 

 彼女は知らない。

 轟く悲鳴や、ただ見守っていただけの人々の青褪めた顔も、遅れて到着した少女達の動揺も。

 そして、すぐに追いついた少女の、喘鳴を零す姿も。 震える手で止血を始める姿も。 涙にまみれた顔も。

 何も知らないまま、ファインドフィートは無責任に眠りこくる。

 

 しかし明日のファインドフィートはきっと、悪夢を見ないに違いない。

 だって少なくとも、勝ってはいるのだから。

 

 


 

 

 If you're happy and you know it(あなたはいま幸せですか),

 Clap your hands(幸せなら手を叩きましょう)! 

 

 



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54話 : シニア級:前半/エピローグ

 

 

 物語における主人公に必要なものとは、何か。

 

 まず、主人公には原点となる思いが必要である。

 何のために物語を始めるのか。 何のために立ち上がったのか。 その指針がなければ始まらない。

 

 そして、大切に思う友たる者が必要である。

 支えなくして人間は立ち上がれない。 故に、主人公には傍らに立つ友がいなければならない。

 

 最後に、主人公を構成する核。 熱量が必要である。

 即ち、勇気。 獅子の心。 それがなければ前に進むことさえ叶わず、理想に溺れてしまうからだ。

 何よりも、主人公とは勇気ある者でなければいけない。 誰よりも雄々しく、気高くなければ。

 

 だから、ファインドフィートは。

 

 


 

 

 盗み聞きをした日からこそこそと、弟の目すら盗んで動き回っていた。

 図書館に行った時や、本屋を散策する時、弟が眠った後の深夜。

 それらの時間に本とインターネットで知識を漁って、自分にできることを探してみる。 少しだけ引き伸ばした夜更かしの時間は、いつの間にか毎日繰り返される日常に変化していた。

 もちろん、最終的な目標は弟の延命である。

 

 ……とはいえ、それは医者の仕事である。 あるいは、親が挑むべき問題である。

 けれども彼女は、"はいそうですか"と納得できるほど聞き分けの良い子供ではなかった。

 何といっても、相手が弟だ。 そして彼女は姉だった。

 だから指を咥えて待っている事なんてできないし、それが良いとも思いたくない。 ()()()()のではなく、思いたくないのだ。

 彼女はそういう、頑固な性質をしていた。 弟によく似て。

 

 そんな頑固な彼女は悩みに悩みを重ねながら、夜更けにひとり、ディスプレイを眺めていた。 母の携帯端末を勝手に借りて、である。

 毎日毎日飽きもせずほんの少しの時間を積み重ねて、僅かな可能性を探り続けた。

 

 けれども、冴えた答えは何時になっても見つからない。

 時計の短針が頂点を越えてしばらくした頃。 少女はディスプレイの光を消して、ぽつりと呟いた。

 

「……金が、必要ですね。 結局それがなければ始まらない……」

 

 布団の上をごろりと転がる。 枕にぽすりと顔を埋めた。 柔軟剤の香りが鼻腔を満たす。

 そして、すぐ隣で弟が寝ていたから、起こさないように気を付けながらうんうんと唸った。

 

「可能性があるのは、やはり心臓移植……。 ですが、順番待ちが長すぎる。 補助人工心臓でどのくらいまで持つのか……」

 

 うつ伏せの状態からもう一度、ごろりと転がる。

 今度は弟の側に向かって身体を半回転と少し。 さらりと流れる短めの芦毛──ヒト耳だから、白髪と呼ぶべきか。

 その白髪へ指先を伸ばして、一房をつまみ取り、赤い瞳を暗闇の中で輝かせる。

 毎日夜更かしをしているせいで、眠気が殆どなかった。 いっそ明日の朝まで起き続けていようかと考えてしまう程だ。

 

「……確実性を求めるなら、やはりアメリカに行くしかない。 でも、ウチは……貧しくはないとしても、際立って裕福でもない。

 移植の順番を抜かせるほどの金は用意できない……。 じゃあ足りないなら募金で、というのは厳しいですね。 金額が金額だ。 簡単には集まらない」

 

 弟の頬を撫でる。 もちもちとして、柔らかい肌だった。

 未だに筋張ることはなく、線は細いまま。 もうすぐ十を数える年の頃だというのに、この少年は少女然とした風貌から変わらない。

 姉はそれに強い安心感と、大きな不安感を抱いていた。 矛盾している自覚はあった。

 そうして相反する感覚はしかし、互いを邪魔することはなく、ただ弟の将来を憂うだけの物だ。

 

「……けど、ただの募金じゃなくて、注目を得られるだけの要素と、大義があったなら」

 

 反対側へ身体を転がす。 視線の先は、また本棚だ。

 その中にある一冊の背表紙を、薄暗い中で睨みつける。 当然、明かりはないから文字は読めない。

 しかし記憶の中に明瞭な形があったから、見えなくとも(そら)んずることは簡単だった。

 

「トゥインクルシリーズ……」

 

 年齢の壁はある。 才能の壁もある。 安定性なんて何処にもない。 ただの賭けだ。

 けれども、得られるリターンは余りあるのだ。

 何も出来ない子供の身でも、使い道としてはもっとも有効的な可能性が高い。

 

「金が、いるから。 私に出来ることは、そんなに多くないから。 どうせなら、私の時間を投じるだけの価値はある……。

 もしも私が有名になったら募金で……いいえ、違う。 そんな他力も必要なしに、私自身の力で、この子を」

 

 メインプランには、できない。 確実性があまりにも欠けているからだ。

 自分の人生ならまだしも、弟の人生を救う手段とするには愚策以外の何物でもない。 彼女の中には、そう考えるだけの冷静で現実的な部分も存在していた。

 しかし、あり得るかもしれない()()()の想像が、夢という釣り餌を垂らしてくるのだ。

 

 ファインドフィートがテレビの向こうに見た舞台は、目が潰れてしまいそうなほどキラキラと輝いていた。

 正直に言って、憧れた。 かっこいいとも口にした。

 この世界に生を受けたひとりのウマ娘として、そこで走る情景を想像するだけで心が昂ぶる。

 けれども、その昂ぶりを磨り潰すほどの強迫観念が震えるのだ。

 あそこなら、夢が叶う。 あそこなら、弟を救える。

 そんな衝動が、少女の内面をやたらめったらに掻き回していた。 どろどろに、ぐちゃぐちゃに。

 

「私のヒトミを」

 

 そうして溶け合った衝動が囁きかけた。

 "あの立場さえあれば、全てが叶うのではないか"と。 そんな、甘美に過ぎる誘惑が理性を誑かす。

 

 やがて、元々あった無邪気な憧れを盲目的な愛情が塗り潰して。

 執着心という指針が、羅針盤の芯にぴったりと収まった。

 

「……ヒトミ」

 

 身体を半回転させる。

 すぐとなりの白い顔を、ゆっくり眺めた。

 微かな死相を纏い始めた、相貌を見て。 口の端を、きゅっと引き締める。

 

 とにかくファインドフィートは、自身のもう半分に置いて行かれたくなかった。

 奇しくも、未来の弟──次のファインドフィートと似た、そんな願望を抱いていた。

 

 だって、愛し合う二人はいつも一緒であるべきだから。

 父と母がそうであるように、親と子がそうであるように、姉は弟を愛していたから。 だから、共に居るのが一番いいと確信していたし、共に居続けたかった。

 未だ幼い彼女にとって、家族こそが世界だった。 それが、幸せを構成する全てだった。

 

 

 ◆

 

 

 じわじわと、眠りの海から浮上する。

 薄くまぶたを開いて、濁りを秘める青色を覗かせた。

 まず、その視界を埋め尽くしたのは真っ白な天井。

 そして何も考えずに、靄が掛かった頭を横に傾かせれば、日光を透過する大きめの窓と白いカーテンがあった。 その窓の向こうではセミが鳴いている。 みーんみんと鳴いている。 眠りを妨害する喧しい鳴き声だった。

 そんな鳴き声から眠りを守っていた布団も白く、枕も白く、ベッドのパイプでさえも白い。 白、白、白ばかりだ。

 

 その情景を、寝ぼけ眼で眺めて。

 鼻を刺激する薬品の匂いに気付いて、ここが病室であることを理解した。 あんまりにも、馴染みが深い光景だった。

 ここまできてようやく、意識が明瞭に目覚め始める。

 

「……わたし、は」

 

 囁き声はひどく枯れている。 喉がカラカラに乾いていた。 舌の根っこもだ。

 空気を吸うだけでも痛んでしまう程に、潤いを失っていた。

 

「ゴールの後、転んだんでしたっけ」

 

 その証拠だと言わんばかりに痛む身体。

 頭が痛む。 胸が痛む。 両腕と、左足首の痛みは特に酷い。 辛すぎて吐いてしまいそうだった。

 それに下腹部も痛くて、じんじんと寒気が滲んでくる。

 ……腹についてはともかく、レース後に転倒したが故の痛みであることは明白だ。

 

 真横を見れば点滴スタンド。 輸液で満たされた袋から、管がにょろりと伸びている。

 その管は──布団のせいで見えないが──ファインドフィートの右腕の、上腕部に繋がっているらしい。

 が、それはどうでも良い。

 ともかく目覚めたなら、患者である彼女はナースコールを鳴らすべきだ。

 姿勢を変えないまま、頭部だけを緩やかに動かして周囲を探す。 そして枕の真横に大きなボタンを拵えた板を見つけた。

 両手は包帯でぐるぐる巻にされているから手は使えないけれど、顎を乗せれば押せないこともない。

 それが少女を看護している者達の意図であることは、寝起きの彼女でも理解できた。

 

 けれど、なんとなく。

 なんとなく、今は誰にも会いたくなかった。 誰にも姿を見られたくなかった。

 だから結局どうすることも出来ずに、ただ天井を見て。

 

 

 ──特に脈絡も前兆もなく、女達が現れた。

 亜麻色と金色の女達だ。 ベッドの両隣に立って、にこにこと笑顔を浮かべていた。

 

『──まずは、おめでとうございます。 あなたは晴れて六冠を戴きましたぁ。 ええ、誇らしいですねぇ。 頭を撫でてあげましょう』

 

 亜麻色の女がたおやかに笑い、少女の真横に腰を下ろす。 尻の下の布団は一切沈まず、音もない。

 そして、柔らかい手で少女の白い頭を撫でた。 優しい手付きだったけれど、僅かにねちっこかった。

 

『夢が叶うまで残り三分の一。 ふふ、良い具合じゃないかしら』

『本当ですねぇ。 一時はどうなることかと思いましたが……終わり良ければ全て良し、とも言いますからねぇ』

『まったくね』

 

 夢。 さも当たり前のように、金色の女が口にした言葉。

 夢という言葉はまったく、これ以上無く便利だった。 いい意味でも悪い意味でも。

 中身がどれだけ醜悪でも、それが夢だと口にするだけで、ある程度はきれいに装飾できてしまう。

 

 ファインドフィートは、その夢に生かされた。 多くの夢に支えられた。

 彼女の体は夢と同じもので出来ていて。 だからこそ根っこの部分は、どうしようもなく脆くて、儚い。

 どれだけ身体が育っても、これだけ情緒が育っても変わらなかった。

 その根っこが変わる時があるとするなら、きっと大人になる瞬間ぐらいだ。

 

『安心してくださいねぇ。 別に結果の取り消しなんてされてないですから。

 ……ちょっとした放送事故になって、世間は大騒ぎしてますけど』

『それに肝心の勝者が意識不明。 本当に勝利扱いで良いのか……みたいな話になったらしいわよ?』

「……そう、ですか」

 

 やや間を空けて口にしたのは、歯切れの悪い返事。

 "心ここにあらず"と表すのがもっとも適切であろう語り口のまま、視線を天井から泳がせる。

 

 そうして、ここではない何処かを見て思い返した。

 最後の直線で転んだ時の情景を。 空を飛んでいたほんの一瞬を。

 その時ファインドフィートは、確かに声を聞いていた。 心に突き刺さる声だった。

 それは観客の悲鳴ではなく、すぐ真後ろから響く声だった。 そしてすぐ真後ろに居たとするなら……なんて。 態々そういう状況証拠を並べて推理する必要すらない。

 

 弾ける血を見た少女の絶叫は、よく知っている声だったから。 現実逃避を許さないほど、知りすぎている声だったから。

 あの瞬間の声がずっと、目覚めた今も頭の中でリフレインしている。 心が落ち着かないほどに生々しく、繰り返し鳴り響いている。

 だから心を囚われたまま、結局言葉を発さない。

 

 そんな彼女を不審に思ったのか、亜麻色の髪の女がそっと顔を覗き込んでくる。

 

『……どうしたんですかぁ? もしかして寝ちゃいましたか?』

 

 ──そう言いながらも、互いの視線は合っていた。

 だというのに甘ったるく問いかけてきたのは、一体何故なのか。

 

 皮肉だろうか、と薄っすら推察する。 しかし、すぐにその仮定を投げ捨てた。

 そも、この女にそれ程の情緒はない事を知っている。 それに、言葉の真意がわかった所で意味はない。 答えはどうでも良いのだ。

 

「ねぇ、女神さま」

 

 掠れた声に反応して、女が穏やかに微笑む。 覗き込んだ姿勢は変わらない。

 顔と顔の距離は三寸と少し。 流石に近すぎる。

 しかし少女には、それを突き返すほどの気力はなかった。

 だから仕方なくそのままの距離感で、女の目を見つめ返す。 ただの一色に染まった、空っぽな女の目を。

 

「ぼくは……ぼくが、勝ったとして。 最後まで勝ち続けたとして。 ぼくは本当に、正しくなれるのでしょうか。 姉さん達に意味を与えることができるのでしょうか。 ぼくらは、価値ある誰かになれるのでしょうか」

 

 掠れた声だった。 けれど、対面の女には十二分に届く声量である。

 この場にいる全員がヒトではなかったから、多少小さな声でも問題はない。

 

 だから、あれこれと頓着せずに思ったことを垂れ流す。

 話に脈絡はない。 話の意図が曖昧だ。

 伝えたい事を明確にするのは話術の基本であるけれど、その簡単な整理すら怠っている。

 

 しかし少女にはその自覚すらなく、伽藍堂の瞳で女を見つめ返す。

 空っぽと空っぽと空っぽ。 この場にいる全員が空っぽだ。 その前提を踏まえて見ると、いっそ虚しい光景だった。

 

「今のぼくが正しくないなんて、分かっていました。 きっと最初から、分かっていました。 だって、何をしても受け取ってもらえないんですから。

 ……そもそも、弔いや贖いは生者のための物です。 ぼくが為したところで何の意味もない。 ただの自己満足」

 

 正しくない、とは。 それはファインドフィートが過ごした()()()のこと全てを指している。

 生き延びたことも、夢に挑んでいることも、友の手を振り払ったことも、自身の過ちを知りながら止まらないことも。 そして、日常を慈しんだことさえも。

 それらの全部が、片割れが望んだことの真反対へ向けて全力疾走している。

 友達もトレーナーも、身近な誰しもだって望まぬ道だ。

 

 そもそも、姉がここにいる、と信じていたのは。 ただ、幼い心が縋るだけのまやかしだった。 信じたかった。 信じていたかった。 だって、そこにいるのであれば償えるから。

 そのくせに、当然の事実から目を逸らし続けていたのがファインドフィートという少女だった。

 

「ぼくは……分かってた。 けど、縋りたかった。 姉さんは、ぼくにとっての神さまだったから」

『あら。 それを私達の前で言うのね。 いえ……言えるようになった、が正しいのかしら』

「……はい。 姉さんは本当は神さまじゃなかったから、言えます。

 あのひとは、本当は、ぼくと同じように産まれて、ぼくと同じ目線で生きて、同じ早さで年を取っていくだけの、女の子だったんです。 そんな当たり前のことに、昔のぼくは気付けなかった」

 

 そしてその事実に気付かぬままに家族を失い、過去を失い、片割れを失い。

 名前という唯一の識別符号も失って、少年は誰にもなれない誰かに成り果てて。

 自我を構成するアイデンティティの尽くを失った。

 

 しかし、片割れの献身によって新たな個を獲得してしまったから。

 だから少女は壊れることすら出来ず、延々とあの日の延長線上に立ち続ける。

 想いを継ぐとはつまり、そういう呪いだった。 死を許さない、何よりも残酷で優しい呪い。

 せめて、死にゆく者は死者らしく突き放すべきだったのに。

 

「でも、ぼくに出来ることはありました。 せめて、姉さんの夢を叶えて。

 ぼくが代わりになってあげないとって、そう思ったんです」

 

 目を閉じる。 瞼の裏にある姉の笑顔を思い出す。

 そして、そこに重なる友達の顔へ、蚊のなくような声で言い訳を絞り出した。

 

「……だって、葬式だって出来ていないんですよ? 誰も、ぼくらを見つけてくれなかった。

 そんなの、あんまりじゃあないですか」

 

 目を開く。

 姉の笑顔も、友達の無愛想な顔も、どちらも現実の景色に溶けて消えた。

 

 口にしたのは全て単なる言い訳だ。 そんな事は彼女自身が分かっている。

 それでも熱に浮かされる子供のようにとめどなく、頭の中身を垂れ流した。

 "姉さんの夢のため"とか、"家族の死に理由を与えたかったから"とか、"捨てた宝物を無駄にしないため"とか、"友達との思い出を冒涜した自分には義務がある"とか。

 舌の上を転がるそれらの理由を、女達へ語って見せる。

 結局のところ、自身の領分を弁えずに背負い込みすぎただけなのに。

 ファインドフィートはとにかく、病的なまでに頑固だった。 姉によく似て。

 

「ぼくは止まっちゃいけないんです。

 みんなとの思い出を、踏みにじって。 みんなにもらった思いを、放り捨てて。 ブルボン先輩や、テイオーさんにも、たくさん迷惑をかけて。 トレーナーまで、ぼくのせいで傷付けて。 姉さんを、ひとりで逝かせたのに」

 

 だから止まれないし、止まることを許せない。

 たとえファインドフィート以外の全てが許すとしても、ファインドフィート自身が許せない。

 

 だからそこで一度言葉を区切って、女達の顔を見た。

 亜麻色の女は優しく微笑んだまま、少女の顔を見下ろしていた。

 黄金色の女は空っぽな笑顔で、ベッドに肘をついて、少女の顔を見下ろしていた。

 そして、何方も今の言葉を否定しない。 黙して何も語らない。

 それを理解して少女は、ただ安堵した。

 

「……楽な方に逃げるなんて、ダメです。

 夢が叶わないから、なんですか。 幸せになれないから、なんですか。 この先に破滅しかないから、なんだって言うんですか。 そんな事が……たったそれだけの事、ぼくが諦めていい理由にはならない」

 

 だから、自分の心をへし折る。

 夢が叶わなくても。 幸せになれなくても。 この先に破滅があるとしても。 ファインドフィートは、それでも良かった。

 

『……それじゃあ、あなたは。 今、私達の目の前にいる、たったひとりのあなたは。 お姉さんの殻を脱いだ、ただの子供としてのあなたは』

『夢が叶わなくても、と言うあなたは、何を求めてるのですか? 償いや弔いは、何のためにあるのですかぁ?』

 

 声音に、糾弾する意図はない。 けれどその疑問は、不思議なほど深く突き刺さった。

 少女の剥き出しになった心を無慈悲に貫いて、毒を滲ませる。

 

 一度瞬いて、薄い息を吐き出す。

 そして、巡った毒が頭の中をぐるぐる回る。 ぐるぐる回る。 ぐるぐる回る。

 少女はしばし、言葉を忘れてしまった。

 

「何の、ために」

 

 何のために。

 夢が叶わなくても良いとするなら、何故追いかけるのか。

 幸せになれない事を知った上で、何故走るのか。

 破滅が待っていると知りながら、崖の先を目指すのは何故か。

 

 そもそも、未来ではなく、既に死に絶えた家族の為に生きるのは何故か。

 受け取り手のない献身に殉じるのは、何故だったのか。

 こんな物、誰も求めてないのに。

 何故、何故、何故、と。

 

「何のために」

 

 義務や義理、使命、役割。

 ひとつひとつ、鎧のように纏っていた理由(いいわけ)を剥ぎ取っていく。

 ぽろぽろと、塵屑のようにほどけて離れていく。

 

「…………」

 

 そうして、ただの子供に立ち返って。

 少女の胸に最後まで残っていたのは、深い罪悪感だけだった。

 

「……ぼくに、だって」

 

 あんまりにも、ちっぽけで。

 どうしようもなく惨めになる、湿った声音で。

 

「ぼくにだって……裁かれる権利ぐらい、あっても良いじゃないですか」

 

 けれどもそれが、少女の根っこにある本性だったから。

 もしかすると、いつかは許されるかもしれない、なんて、ぽつりと零した。

 

 姉さんに、両親に、友達に、みんなに許されて。

 抱いた罪悪感もキレイに濾過されて、まっさらな魂になって、今度こそ姉さんに会いに行けるかもしれない。

 そんな、妄想に近い願望だった。 姉の夢を()()にして抱え込む、本当の願いだった。

 

 それでもファインドフィートは、裁かれたかったのだ。

 罪悪感を感じるのなら、その身には罪が宿っている。

 罪が宿っているなら、罰が必要だ。

 罪人はその魂を裁かれて、ようやっと過ちを正される。 正された果てにこそ、素晴らしい終わりがある。

 

 それが『ファインドフィート』という物語の終着点だ。

 少女は、そう信じていた。 そう信じる事しか出来なくなった。

 それ以外の道は既に無くなってしまっているから。

 

『……えぇ、えぇ。 大丈夫。 大丈夫ですよぉ。 私は見捨てませんからね。 だって、こんなにもちっぽけで、健気で、かあいらしいじゃないですかぁ』

『そう、大丈夫。 あなたはこれから正しくなるのよ』

 

 その背を押し続けた女達がにっこりと笑った。

 黄金の目。 魔性の目。 執着が見え隠れする、童女の如き無邪気な目。

 バッタの足をもぎ取る子供のように、善悪の天秤を有さぬ白痴の女達。

 たった数年で獲得した人の心モドキで、愛した子供に囁きかけた。 女達は、報いる方法をこれしか知らなかったのだ。

 ただ、『約束』を守る。 それだけが、愛を証明する縁だった。

 

『救われぬあなたに、痛みを施しましょう』

 

 『約束』。

 それは嘗ての姉との間に交わされたもの。 『姉』から『弟』へ引き継がれたもの。

 『約束』。

 それは『弟』を生かすこと。 心臓を継承すること。

 『約束』。

 それは強い身体を与えること。 そして立ち上がるための支えとして、『姉』の夢を『弟』に繋ぐこと。

 いつかの未来を目指せるように、明日を生きる身体を。 その願いも今となっては皮肉でしかないけれど。

 

 しかし『約束』の根底にあったのは、家族を繋ぐ愛だった。 間違いなく、偽りのない愛だった。

 その意味を履き違えた女達は結局、自分達の破綻を理解できないままで。

 

『あなたは『ファインドフィート』としての物語を完成させるの。 あなた自身の手で、『ファインドフィート』の人生に区切りをつけるんですよ』

『きっとね、あなたにとっては何よりも苦しい罰になる筈よ。 他の誰でもないあなたの手で、お姉さんの人生に区切りをつけるのだから』

 

 だから、変わらず突き進むために。 突き進むための道をつくる。

 対話もせず、自問自答で答えを出して、それで納得していた。 より良い未来(おわり)のための答えを、そこで確定させていた。

 永い時を生きた女達にとって、未来とは()()()()()()でしかない。

 

『……私達の祝福も、今年の終わりまでは持つわ。 だから、あなた。 勇気を振り絞ってね』

『物語を完結させるために、あなたが走るんですよ。

 家族の想い(カーネリアン)を受け継いで、綺麗な思い出(カランコエ)を両手いっぱいに抱えて、大きな勇気(ライオンハート)を胸に秘めて夢に挑むの。 そうしたらほら、まるで主人公みたいでしょう?』

『素晴らしい終わりになるわ。 きっとこれ以上に豪華なお葬式なんて存在しないし……あなた達は、やっと永遠になる。

 それと……あなたが死んでも。 ちゃんと、ちゃぁんと、向こうであなたのお姉さんを見つけてあげるから。 あなたと会わせてあげるから安心なさい』

「……あぁ。それは」

 

 少女は、無色の吐息を漏らした。

 亜麻色の女の髪の毛が、うっすらと黒に染まり始めている様子を眺めて。

 ああ、終わりが近付いているんだなぁと、ぼんやりとした直感を抱いた。

 

 

 女達はそれだけ言い残して、またあっという間に姿を消した。 もはや慣れたものだ。

 現れた瞬間の恐怖も、消えた瞬間の安堵も、どちらにも慣れてしまった。

 

「それは、ほんとうに、魅力的です」

 

 ひとりぼっちになった病室の中。

 姉さんには怒られちゃうかな、と小さく零して、苦しげに眉を垂らした。

 そして、どんな形であれ向こうに行くことは歓迎されないだろうな、と呟く。

 彼女も分かっていた。 逆の立場に立って考えて、自分自身で納得する。

 しかし、それでも。

 

「……でも、頑張ったんです。 ぼくだって、頑張って生きてみたんです。

 けど、ひとりは寂しい。 ひとりは寒い。 姉さんに手を繋いでほしい。 お父さんに頭を撫でてほしい。 お母さんに抱き締めてほしい。 またあのひと達に、おはようって言いたい。 おやすみなさいって、言いたい」

 

 全部を理解した上で、天秤の上にのせて。 少女は何故かつっかえる喉で、そんな願いを口にした。

 

 ……だから、仕方がないじゃないかと思う。

 友達のことは大切だ。 トレーナー達のことも、嫌いではない。

 無意味なことの積み重ねが愛おしくなるなんて、思いもしなかった。

 だからこそ、少女は、自分が異物であることを厭うたのだ。

 愛しているのに、ではなく。 愛しているからせめて、綺麗なままで訣別したかった。

 

「……だから、ごめん」

 

 生きるために与えられたその脚で、自分自身を踏み潰す。

 何度も何度も、何度でも。

 その果てにどうなるか、なんて。 分かっているのに。

 

 少女は思う。 友を。

 きっと悲しんでくれるだろうな、と。

 きっと怒ってくれるだろうな、と。

 心を弄ぶ悪魔とやっていることは変わらないだろうに、憎んではくれないかな、と。

 

 それならあの時、ああすればよかったとか、こうすればよかったとか。

 今更な案ばかりが思い浮かんでは消えて、頭の中でぐるぐる回る。 ぐずぐず腐る。

 ファインドフィートはもっと早くに思い知るべきだった。

 破綻した本性を理解するべきだった。 そして、振り切れるべきだった。 中途半端だったから、どんどん傷口が広がっていく。 もがけばもがくほど、首に絡まる糸が深く食い込む。 喉首を締め上げられる。

 

「ごめんなさい」

 

 ──けど、仕方がないじゃあないか。

 

 あの日は死に損なったけれど、結局死んでしまっているのだ。

 肉体ではなく、心が既に死んでいる。

 だから、仕方がない。 本当に、仕方がない。

 そもそも、ファインドフィート自身に明日を目指す気力が無かったから。

 

「ごめんなさい」

 

 結局行き着くのは、ああ、お前が全て悪いんだという、そんな自罰の呪いばかり。

 そうでなくては何故ここにいるのか、筋の通った理由がないではないかと。

 そうやって信じる事が、正気の支えになっていた。

 

「……ごめん、なさい」

 

 口の端が歪む。

 嗚咽が隠しきれなくなってきた。 姉と同じ顔も、今となっては涙でぐちゃぐちゃだ。

 しかし砕けて役立たずになった腕では隠すことも、涙を拭うことも、自分の首をへし折ることも、何も出来ない。

 

「産まれてきて、ごめんなさい……っ」

 

 だから今の彼女にできる事は、延々と許しを請う程度。

 

 生き残ってごめんなさい。 産まれてきてごめんなさい。

 世界がこんなに綺麗だなんて知りたくなかったのに、知ってしまったのです。

 だから、ごめんなさい。 穢してしまって、ごめんなさい。

 愛してしまって、ごめんなさい。

 

 そんな嘆きを、何度も何度も震える声で囁く。

 響く嗚咽を聞く者も、止まらぬ涙を見る者も、誰もいない。

 だから仮面も殻もなにもなく、裸の心で悲嘆に溺れる。

 

 そして、幼い破滅願望を星に願うのだ。

 無慈悲に正しく裁かれて、いつか、再会するために。

 

 


 

 

 If you’re happy and you know it(あなたはいま幸せですか),

 Stomp your feet(幸せなら足をならしましょう) ! 

 

 



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最終章 / 『ファインドフィート』
55話


 Twinkle Star(星に願いを)! 

 

 


 

 

 走っている。 芝の上を走っている。

 曇り空の下で、強い風の中を掻き分けて。

 切れる息と弾ける汗、跳ねるつま先、浴びた土埃。

 それらの上等な化粧で着飾って、ミホノブルボンは少女の背に追い縋る。

 誘うようにひらひらと舞う白布と青布までの距離は、あとほんの数メートルだ。 なんて言っても、その数メートルを縮めるのが酷く難しい。

 体力は既に限界を迎えているし、足は乳酸が溜まり切ってパンパンだ。

 しかしそれでも限界を超えるために気力を振り絞って、一歩と一歩の間隔を広げて足を回す。

 

 一歩分の距離を縮めて。 半歩分の距離を離されて。

 二歩分の気力を一歩に凝縮して、再度の駆け引きに挑む。

 

 互いの距離は1メートル以下。

 ゴールまでは20メートル以下。

 先頭はファインドフィートで、数歩遅れてのミホノブルボン。

 酸欠気味の脳味噌で、この距離と今の残り時間を考える。

 ここから差し返せる可能性はあるのか。 勝ち筋はどこにあるのか。

 

 ……そんな事を何度考えても、導き出される答えは変わらない。

 つまり、今回はこの順位が覆ることはない。

 感情はさておきとして、理性的な部分が薄っすらと確信していた。

 

 どうしようもなく悔しくて、悔しくて、悲しくもなってしまう答えだ。

 けれど、間違いなく全力を出した。

 今までに獲得した全てを振り絞った。 言い訳の余地が介在しないほど、全てを出し切った。

 だからミホノブルボンは、訪れるだろう結果に納得はしていた。

 

 残りの距離は、2メートルと少し。

 ゴールに至る寸前に、この後何を言おうかと考えてみる。

 別に今考える必要はない──なんて、事の順序を理解できるほどの思考能力は残っていなかった。

 酸欠でぼやける思考のまま、浮つく考えを回す。 くるくるくるりと言葉を捏ねる。

 それに、思考の最中であっても入念に鍛えた身体は変わらず全力を振り絞り続けていた。 だから何も問題はない。

 

 足は大丈夫ですか、だろうか。

 楽しかったですね、も良い。

 今日は早めに寝ましょう、とも言いたい。

 

 ──けれど、何にしてもまずは互いの健闘を称えるところから。 そう思い直す。

 言いたいことはいくらでもあるし、次こそは活動休止の意思を引き出したい。

 しかし頑張ったのだから、小言も諭旨(ゆし)もその後で良い筈だ、と。

 そう、一秒にも満たない刹那で思考を完結させて。

 

 前方に意識を向けた少女の耳に、ぼきり、という。

 そんな、生乾きの音が聞こえた。

 

「ぇ」

 

 眼前の背中が、不意に跳ねる。

 

 スローに変化した視界の中で、折れ曲がった足を見つけた。

 鳴った音の原因は一目瞭然で。 それが致命的なものだとすぐに気付いて、ぞわりと、背筋に怖気が伝う。

 

 骨折。 そして、転倒。

 その先にあるものなんて、考えずとも分かる事で。

 答えを導き出すと同時に、喉の奥から悲鳴が溢れた。

 けれど当然、その声では少女の身体を繋ぎ止める事はできない。

 

 両腕で受け身を試みる。

 そして失敗する。

 ぐちゃりと、両腕の肉が花開いた。

 

 それでも辛うじて頭部を守る姿勢をとって地面に衝突し、芝の上をごろごろと転がっていく。

 血の轍を撒き散らして、芝の緑を染め上げながらの七回転半。 赤色の軌跡が刻まれる。

 

「まって……っ!」

 

 その身体を追いかけて。

 追いかけて、追いかけて──数秒を駆けて、ようやく追いついて。

 

 脱力しきった肢体と処女雪を穢す赤色に、引きつった喉で吐息を漏らした。

 

「……嘘、嘘、嘘です。 こんな、事、計算外です。 だって、こんな事ありえては──」

 

 現実逃避だ。 現実逃避でしかない。 つまり無意味だ。

 そんな事、ミホノブルボン自身が他の誰よりも分かっていた。

 

 必要なのは泣き言ではなく行動。 迅速な救命措置。

 それをミホノブルボンと、ミホノブルボン以外の人々が、世界が望んでいる。

 たとえ、救命対象に望まれていないとしても。

 それでもまだ、終わりは許されない。

 

「──ぁあッ!」

 

 横向きに倒れていたファインドフィートを仰向けにする。

 振動に対する反応はなく、瞼は下ろされたまま。 つまり、意識レベルはかなり低い。

 

 状況確認を迅速に済ませた後は、両腕の上部を抑えて、どうにか間接圧迫止血を試みる。

 左足も折れているけれど、それよりも腕の出血──特に右腕の出血が酷い。 開放骨折しているせいだ。

 白い皮ふを突き破って、赤色をまとった橈骨がひょっこりと顔を覗かせている。

 ともすれば、この骨が動脈を傷付けている可能性さえあった。

 

「大、丈夫……大丈夫です。 出血量はまだ致死量では、ありません。 だから、だから……」

 

 それでも、出血量さえ少なければ大丈夫の筈だ。 少なくとも、命は。

 

 ……命は、大丈夫だけれど。

 けれど、ふと、考えてはならないことを考えてしまう。

 両腕を抑えながら少女の身体に視線を滑らせて、歪んだ左足を盗み見て。

 骨が折れているなら、あるいはここでもう、止まってくれるのではないかと。

 そんな妄想を抱いて──すぐに顔を俯かせて、ぎゅっと唇を噛み締めた。

 

「……どうして、こんな事に」

 

 そしてただ、医療スタッフの到着を待つ。 担架を担いでいる女性達はもうすぐそこだ。

 抑えた両腕からの血は勢いを弱めているけれど、しかし流血は止まらない。

 

「どうして……っ」

 

 とくり、とくり、とくり。

 少しずつ、血が抜けていく。

 とくり、とくり、とくり。

 抑えていた手に伝わる鼓動が、緩やかになっていく。

 

 嫌な予感がもう一度、背筋をずるりと舐めた。

 

 手から伝う感触を信じたくなくて、倒れ伏す少女の顔を覗き込む。

 表情は虚ろで呼吸は浅く、死者の顔と見紛う程に生気がなかった。

 しかし、目がゆっくりと開かれて。

 それから焦点の合わない目でミホノブルボンを見つめ返して、唇を小さく震わせた。

 

「……ご、めんなさい。 ごめんなさい、ねえさん……」

 

 懺悔。

 ファインドフィートが口にしたのは、ただそれだけ。

 

 受け取り手なんて居ないのに、それすら理解せぬまま、自分勝手に放り出して。

 純粋に安心しきった顔で瞼を下ろす。

 それからすぅぅ、と、長い息を吐ききって。

 長い長い息を、全部吐き出して、肺の中身を空っぽにして。

 いつしかゆったりと、胸の動きが、少しずつ──。

 

 

「──待ってッ!」

 

 ──叫ぶ。

 布団を蹴飛ばす。 薄い毛布が壁にぶつかった。

 衝突の後にずりずりと床に落ちていくそれを見送って、少女は、汗にまみれた顔を俯かせた。

 髪の毛が額に張り付く。 首筋が冷たい。 背筋もぐっしょりと濡れている。 薄手のパジャマは肌に張り付いていて、身体中を不快感が覆っていた。

 

「……ゆ、め?」

 

 呆然と、自分の手を眼前に翳す。

 彼女が口にしたのは、ただそれだけの状況確認だ。

 窓の外の真っ暗闇が現時刻を表して、ベッドの上にある事実が寸前までの状況を物語っている。

 

「夢。 夢、あれは、夢……」

 

 だから、彼女を苦しめた景色は夢の産物。 夢に見た結末も幻だ。

 現実のファインドフィートは、今も病院で治療を受けている真っ最中。

 結局、夢の中の想像は杞憂でしかない。

 

「夢の、はずなのに」

 

 けれど、あの時感じた恐怖は、確かに存在したものだったから。

 口の中の苦味を中々飲み込めなかった。

 

 流れていく血と、薄まっていく生気と、輪郭を帯びる喪失感。

 その何れもがあの時のミホノブルボンに、ありえざる結末を予感させるものだったから。

 だからその感覚だけは、決して幻にはなってくれない。

 現実であろうと、夢の中であろうと、いつになっても。

 

「……ぅぷ」

 

 両手を見る。 両手を見た。

 真っ白い肌に映える赤色と、ぬめりを伴う感触が、今も消えてくれないままで。

 

 

 ◆

 

 

 看護師が、ドアの前から振り返る。

 白髪交じりの女は目尻をほんのりと垂らして、病室の中央の、白い少女に向けて口を開いた。

 

「それでは、なにか御用があればそこのナースコールを押してくださいね。 どんな些細な事でも構いません。 暇、という理由でも良いですから」

「……どうも、ありがとうございます」

「ああ……それと、冷やしたタオルを持ってきます。 少しだけ待っていてくださいね」

 

 はい、と返した彼女が寝っ転がっているのは白いベッドの上だった。

 今のファインドフィートの世界は、ただのそれだけ。 それだけで完結している。

 両腕と左足はギプスで固定されていて、寝返りをうつ事さえ容易ではない。

 そんな彼女が外を出歩けるがないのだ。

 だから何もかもが人任せ。 食事も着替えも、何もかもだ。

 排泄さえ自力で出来ないのだから筆舌に尽くし難いものがある。

 恥ずかしい、というよりも、ただただ惨めだった。 無様だった。

 

 また、自分の首をへし折りたくなる程に。

 

「……みんなは、どうしてるのかな」

 

 少し赤く腫れた目で、窓の外の空を見上げる。

 現実逃避の視線の先では、鳶が悠々と飛んでいた。

 視力が衰えた今の目ではおぼろげな輪郭しか見えないけれど、鳴き声が特徴的だったから分かりやすい。

 

「うらやましいなぁ……」

 

 零したのはささやき声。 ベッドの上に染みるだけの物。

 だから、その言葉は誰かに向けられた物ではなく、ただの雑音に等しい。

 

おまえ(とんび)も、あいつ(バッタ)も、あいつ(セミ)も、みんな綺麗でうらやましい。 みんな自由に生きて、自由に死んでる。

 ……そんなの、わたしよりもよほど上等じゃないですか」

 

 やがて口にしたのは、そんな羨望だった。

 

 とはいえそれに意味はなく、ファインドフィートにできるのは精々視線で追いかける程度。

 鳶になることはできないし、虫になることもできない。 彼女はファインドフィート以外の形になれない。

 その程度であれば、彼女も理解している。

 しかし、あるいはだから、綺麗なものに近付いてみたかったのだと。

 何も知らずに、何も知らないから、愚かな願望を口にする。 いつもと同じだ。

 

「そう……そうですね。 せっかくだしナースコールで屋上へ……いえ、流石にこれで呼ぶのも悪いですか……。

 そもそも、わたしの身体で屋上に連れて行ってもらえるのかも分からないですし」

 

 うぅん、と唸り声を上げる。

 理由は気晴らし。 くだらない羨望によるもの。 つまり、大した意味のない移動だ。 ファインドフィートにとって、それで他者に負担を強いるのはまったく良くない考えだった。

 とはいえ、通常は"気晴らし"というだけでも十分な理由として成立する。

 ……残念ながら、彼女はそれを許せるほどの自己肯定感は有していなかったけれど。

 

 だから、頭の横のナースコールを睨みつけて、それっきり。

 ボタンを押して、ヒトを呼び出す所まで辿り着けない。

 

 

『……何を、してるの』

 

 そうして幾分か後。

 何もせず黙りこくったままの彼女を見兼ねてか。 ドアをするりと()()()()()、黒い少女が姿を現した。

 

 突然の遭遇。 が、驚愕の声は出ない。

 ファインドフィートは大したリアクションを返すことはせず、頭の向きをくるりと反転させて、ドアの側へ向ける。 正直なところ、ここ最近の()()()()ですっかり慣れてしまっていた。

 それが良いのか悪いのかといえば判断に困るが、少なくとも良くないことは明らかだった。

 

「こんにちは、ひいお婆ちゃん。 今日は物陰にいないんですね」

『……』

 

 視線の先の少女は、やはり顔が全く見えない。

 マンハッタンカフェからすると『お友達』。 ファインドフィートからみると『ひいお婆ちゃん』。

 今回は後者の二人称で呼ばれる少女は、小柄な身体で呆れたような身振りを取る。

 顔が見えない事を彼女自身も理解しているからだろう。 やや大げさな意思表示だった。

 

『別に、いつも好きこのんであそこに居るわけじゃないけどね』

「……そうなんですね。 じゃあ、ゆっくりしていってください。 もてなすことは出来ませんが……」

『うん、勝手にいる。 ひ孫は気にしないで』

 

 どちらも年若い。 あるいは、まだ幼いと言い換えてもさほど齟齬が無い容姿だ。 三世代を隔てる呼称を用いるには違和感が大きすぎる。

 が、どちらもそれに触れることはなく、極々自然にやり取りを成立させていた。

 

 それにファインドフィートには、黒い少女を疑う理由も、拒絶する気力も無かった。

 ヘンテコな存在には慣れていて、なにか害をなされる訳でもない。

 ならば嫌うより、好んでいる方がよほど気楽である。

 受け入れる理由はそれだけで十分だった。

 

『で、何しようとしてたの? ケガ、まだ治ってないでしょ』

「いえ、その……大した理由は無いんですけど、屋上に行きたくて」

『そっか……』

 

 『ひいお婆ちゃん』がベッドの真横の椅子に座り込む。 その動作に音はない。

 纏う制服の揺れる裾を、視線で追いかけて。 ファインドフィートはふと、未練がましい自分を自覚した。

 それが日常と共にあったからか、自身の身分を証明する基盤だからか。

 そんな理由を思い浮かべる度に、また、少しずつ虚しくなってしまった。

 

「ここは、退屈ですから。

 自分じゃ何もできなくて、ただ時間が過ぎるのを待つだけで。 看護師さんは優しいけど、いつも忙しそうですし。

 ……あと、今までと違うから、気分が落ち着かないのもあります」

 

 これをくだらない感傷だと吐き捨てるのは、中々難しい。

 学園で過ごした時間が少し長すぎたせいだ。

 縋る先の日常を思い浮かべると、舌の先に苦味が染みるのを自覚した。 それがくだらない錯覚であるとも、理解していた。

 

「だから……ええ。 きっと、わたしは寂しいのでしょう」

『……そっか。 私達は、寂しがりやな生き物だからね』

 

 寂しさを埋めてくれる誰かのぬくもりを知っているから、ひとりぼっちである事を寂しいと呼んでしまう。

 誰かのぬくもりを愛するほどに、寂しさはより一層深くなっていく。

 少女は、それを身を以て知っていた。 寂しさを癒やす方法も、また同じく。

 

『とにかく、ちゃんと治さないとね。 あと、そのうちカフェ達もお見舞いにくる予定だから……その時にはちゃんと元気な姿を見せられるように、頑張ろう』

「……」

『ね、ひ孫。 みんな、あなたを心配してたよ』

「そう、ですか……」

 

 けれど、また顔を合わせた時、何を話せば良いのか。 どんな顔をしたら良いのか。

 いくらか考え込んでみたが、答えが全くわからない。 合わせる顔がないとはまさにこの事だった。

 もちろん会いたい気持ちはある。 それは偽りではない本当の気持ちだ。

 しかし顔を見せれば、それが負担になってしまうのではないかという、ちっぽけな怯えも存在している。

 

 故に悩む。 故に苦しい。

 矛盾の中でもがいて、もがいて、口を開いて。

 

「……そういえば、ひいお婆ちゃん。 転んだ時に助けてくれて、ありがとうございました」

 

 そして結局言葉にしたのは、非常に下手な話題転換だけだった。

 椅子に座ったままの『ひいお婆ちゃん』の見えない顔を見つめて、夢が続くことを喜んだ。

 

「あなたのおかげで、まだ走れます。

 あのまま転んでいたら……たぶん、もっと酷いことになっていましたから。 だから、ありがとうございます」

『……そ、う』

 

 もしも普通に転んでいれば、またやり直すハメになっていたから。

 故にファインドフィートには実に有り難い手助けだった。 忘れたい記憶なんてひとつもない。 無くしたい身体機能だって存在しない。 何も欠けずに済むのであれば、それが一番いい。

 なんて、『ひいお婆ちゃん』の願いとは裏腹に。

 『ひ孫』に向けた善意を逆手に取られた形になっていたから、当人にしてみれば堪ったものではないけれど。

 

 別に、走ることは良いのだ。 夢を追いかけるのも良い。

 その、絶対に負けたくないと願う心も。 誰に望まれなくとも、己の道を貫く意志も。

 何があっても立ち続けるという覚悟も、実に好ましい。

 けれど死者に全てを委ねて、心の有様まで捻じ曲げるのは、とてもではないが見ていられなかった。

 個人的な心情からしても『ひいお婆ちゃん』には看過できないことで、だから必死に知恵を絞っているのに。

 

 しかし、中々どうしてうまく行かない。

 そう、見えない顔で臍を噛んで。

 熱を帯びる気持ちを落ち着けるために、大きく息を吐いた。

 

『……もう少しケガが良くなったら、屋上に連れて行ってあげる。 だから今は何も考えずに、ゆっくり休んで』

 

 そして結局、『ひいお婆ちゃん』は何も追求しなかった。 何も問い詰めなかった。

 ただ、ベッドに横たわる子供の額をさらりと撫でて、手のひらで両の瞼を軽くおさえた。

 

「……ひんやりして、気持ちいい」

『そっか。 良かった』

 

 会話も、それっきり。

 その後の病室に響くのは、少女の寝息と、窓の外の鳥の声だけになる。

 窓ガラスのお陰でくぐもってはいるけれど、まったく、やかましい鳴き声だった。

 ぴーひょろろ、ぴぃひょろろ、と、どこか遠くの空から。

 

 

 ◆

 

 

 それから。

 

 ファインドフィートの入院生活は相変わらずで、とても退屈なものだった。

 本は読めない。 携帯は弄れない。 ペンも持てない。 当然運動もできない。 出来ることはなにもない。

 ……否、両手を使えなくとも出来る趣味程度はあるのかもしれないが、彼女はそういう趣味を知らないし、これから持つ気力もなかった。

 だから結局出来るのは、ベッドの上で寝っ転がる程度。

 あとは精々、看護師が気休めとして設置したラジオの音楽を聞き流すぐらいだ。

 とはいえ、最低限の教養としての知見はあれど、音楽そのものにはさして明るくない。 だから楽しむことは出来ず、本当に、単なる気休めでしかならなかった。

 

 それでも、どうにか時間を浪費する。 怪我を治すために、退屈をラジオの音で塗りつぶす。

 日が昇り、東から西へつつーと滑り、また空の果てへ落ちていく。

 ファインドフィートが観測できるのは窓枠のうちに収まる範囲だけではあるが、それでも可能な限りを視界に収めて。 白と白と、時折まざる赤の中に包まれる。

 それがここで目覚めてからの4日間。 レースの日から数えて5日後にある、尊厳を失い続けるだけの新しい日常である。

 

 そんな日々の中、6度目の太陽が中天に坐した頃だった。

 

 その時のファインドフィートも、ラジオに耳を傾けて、意識を半分ほど手放していた。

 考えることがあるとするなら、ギターの音が少し大きいな、とか。 ボーカルの音量はもうちょっと大きい方が良いんじゃないかな、とか。

 そういう、特に説得力のない、無責任な感想を抱くだけ。

 

 それをたっぷり10曲分ほど吐き出したタイミングで。

 ふと、ドアの向こうの廊下から足音が響いた。

 

 半ば反射的に耳をぴんと立てる。

 そして放り投げていた意識の半分を拾い上げ、音の質に意識を向けた。

 看護師や医者の巡回の時間はまだ先の出来事。 『ひいお婆ちゃん』であれば、そもそも足音を鳴らさない。

 では、一体誰の足音なのか。 あいにくと心当たりがなくて、寝っ転がったまま小首をかしげる。

 

 こつん、こつん。 足音が響く。

 規則正しいリズムは、非常に良く耳に馴染んだ。

 

「……あ、ブルボン先輩……?」

 

 困惑した。 だって、彼女が今日来るなんて聞いていなかったから。

 しかし当然ながらドアの向こうに伝わる事はなく、足音は止まらない。

 こつりこつりと近付いて、音の主がドアの前で停止した。

 そして訪れる静寂が、五拍と半の虚無を満たして。

 

 ノック、ノック、ノック。 規則的に三度鳴る。

 それを聞いて、少女は。 ただ、"あぁ"と、か細い溜息を零した。

 

「…………」

 

 考えていなかった訳では、無いのだ。

 遅かれ早かれ、対面するのだろうとは思っていた。

 けれど、後回しにしたかった。 遠ざけたかった。

 合わせる顔が無い。 顔を見せたくない。 だから、ひどく焦ってしまう。

 

 ファインドフィートは、あの日の悲鳴を覚えていた。

 泣き叫ぶような、心臓をきゅっと引き締めるような、いっそ聞き手の彼女が泣いてしまいたくなるような。

 そんなどうしようもない悲鳴が、鼓膜の奥に残留している。

 だから、ああ、嫌なものを見せてしまったなと、愚かしい罪悪感を抱いてしまって。

 みっともないそれ故に、面会謝絶を願っていた。

 

 ……けれど、どういう訳か。

 少女の願いは叶わなかったのだと、今ある現実が物語っていた。

 

「……ど、うぞ。 開いてます」

 

 ──ここに来たならもう仕方がない。 逃げ道なんてない。

 そう、自分の心をどうにか宥めて。 おそるおそる、ドアの裏に声をかけた。

 そして、そこから更に一拍の間。

 僅かな静寂を挟んで、ゆっくりとドアが開く。

 

 次いで、こんにちは、と声が響いた。 栗毛の少女が顔を覗かせる。

 馴染み深い少女の顔は薄っすらとやつれていて、目の下には隈まで出来ていた。

 

 それに対し、こんにちは、と返した。

 かくいう彼女の顔も少しやつれていて、目の下には涙の跡が垣間見えていた。

 つまり、二人揃って酷い顔だった。 かたや隈。 かたや腫れ。

 ほんの数日前の凛々しい姿とは、天と地ほどもかけ離れている。

 

 さりとて、それを笑い合うことは出来ない。

 ただ、互いに互いの隠しきれない喪失感の香りを嗅ぎ取って、また胸の痛みを強めるだけ。 和気あいあいとした再会にはならなかった。

 

 そして訪問者であるミホノブルボンは、部屋に入って後ろ手にドアを閉じた。

 それから、ためらいがちに口を開いて……また、口を閉ざした。

 まず、目を覚ましていることに安堵した。 だから、それを喜ぼうと思った。

 しかし嫌でも目につく両腕と左足の包帯を見て。 現実味を増す喪失感の前に、喜びの情が失せていく。

 

 その様相を見たファインドフィートも気を利かせようとしたが、どうにもうまい言葉を見つけられない。

 彼女が口にできたのは、当たり障りのない挨拶の言葉だけだった。

 

「……なんだか、久しぶりな感じがしますね。 少し前までは一緒にいたのに、不思議です」

「私、も……同意します。 現実に経過した日数と……体感の日数に、ギャップがあります。 つまり……『色々な事』があったから、体内時計に誤差が生じているのでしょう」

「そう、ですね。 そうなのでしょう。

 わたしも……ここに来てから、時間感覚が狂ったような気がしてますから」

 

 なら、その影響です。

 彼女はそう言って、手荷物を揺らした。 大きなボストンバッグだ。 ファインドフィートは見たことがない代物だった。

 中身が何かと問いかければ、ファインドフィートの日用品や、ちょっとした雑貨、衣服や下着などの品々だと答えが返ってきた。

 そこでやっと合点が行く。

 つまり彼女が訪れた理由は──面会謝絶状態の少女に顔を見せることが出来た理由は、同居人としての立場があってこそだった。

 もちろん、ファインドフィートの()()を踏まえた上での判断でもあったけれど、その意図を知る由はない。 推測できるほどの余裕もなかった。

 

「ありがとうございます。 荷物に関しては……たぶん、そこの机のあたりに置いてくれれば良いかと。 あとで看護師さんが回収してくれると思います」

 

 わかりました、と返事をひとつ。

 ベッドの上の少女とは違う無傷の両腕でバッグを抱えて、舌先で示された机の上に運んだ。

 

 それから軽い音と共にバッグを置いて、小さな息を吐いて。

 ベッドの脇に設置された椅子に、肩を小さくして座り込む。

 

 そして、向けられた目と目が合う。

 どちらの青も鏡合わせのように、不安気に揺れていた。

 

「……フィートさん。 その……怪我は、大丈夫ですか」

 

 やがてためらいがちに告げられたのは、また当たり障りのない言葉だった。

 慰めるでもなく、能天気に励ますでもなく、感情的表現を努めて排した現状確認。

 たったそれだけの言葉を口にするのが、今のミホノブルボンにとっての限界だった。

 

 なにせ、頭の中が一杯一杯だ。

 怪我を痛ましく思う気持ちはある。

 心配に思う気持ちだって、これ以上要らないほどにある。

 快復を願う気持ちはいっそ溢れてしまいそうだった。

 

 けれど、それらの中にたった一粒の気持ちが混ざり込んで。

 思考の収拾がつかないほど、ぐちゃぐちゃにかき回されていた。

 

「ええ、まぁ……左腕は早めに治りそうです。 右腕も──多少は後遺症は残るかもしれませんが、その程度。 感染症の不安もありましたが、特に問題は無いと。

 足は──」

 

 そこで一度、唇を噛み締める。

 そっと、ささやき声で傷口を舐めた。

 

「足は、治します。 だから、大丈夫です」

 

 その声音を聞いて"じゃあ大丈夫ですね"と納得できる筈がない。

 不純物だった一粒の気持ちを、確固たる物に変わってしまう。

 

 だから、つまり、この怪我は治さなくても良いんじゃないか、と。

 そんな思いが混入して、また、頭の中を痛烈に掻き回すのだ。

 

「……そう、ですか」

 

 ファインドフィートという少女は、夢を叶えるために走っている。

 夢を叶えるために必要なものは何か。 それは身体だ。

 もちろん、他に必要な物はいくらでもある。 労力や金銭、時間、学力だって欠かせない。

 しかし土台として必要なのは、身体である。 身体ひとつを張りさえすれば夢を目指せる。

 逆に言えば、それがなければ何も始まらない。 永遠にゼロのままだ。

 

 ミホノブルボンはその前提を踏まえた上で、逆を考えた。

 夢を叶えるために身体が必要なのであれば。

 逆に夢を諦めさせるために必要なものは、何か。

 

 それは、喪失である。 夢の真逆。 獲得の反対。 それこそが喪失である。

 たとえば、その足。 夢を駆けるための足だ。

 もしそれを失えば、夢を諦めるしかない。

 足とは夢へ繋がる手段であり、切符であり、権利であり、尊厳である。

 それを失う事と夢を諦める事は等号で接続できる。 過去との地続きを破断させて、強制的に区切ってしまえる。

 そこまでしてようやく、あるべき道を選べるようになるのだ。

 

 だから。

 このまま、二度と走れないようになってくれたら。

 これ以上、苦しまなくても良くなるのではないか。

 ならばもう、治さなくても良いのではないか、なんて。

 

 ミホノブルボンは、縋るように考えてしまった。

 その可能性に縋る以外の道が思いつかなかったのだ。

 

 ……もちろん、その祈りが少女に届く事は無いけれど。

 

「……諦めませんよ、わたしは」

 

 手を使わずに、腹の力だけで身体を起こす。

 白い長髪が遅れてついて来た。 ともすれば芦毛ではなく、白毛と見紛うほどに色の薄い髪だった。

 入学当初は今より銀の風味が強かった筈だけれど、今は殆ど見えなくなっている。

 

 ……芦毛とはメラノサイト(色素細胞)が過剰増殖することによって発現する毛色だ。

 そのせいで芦毛のウマ娘は色素細胞が枯渇する時期が特に早く、年嵩を重ねるほど白毛のそれに近付いていく。

 だがそんな芦毛事情を踏まえても、彼女の変化は些か早すぎた。

 

 単なる体質として、他の芦毛よりも枯渇するのが早いだけか。

 あるいは強いストレスを受けている事の影響で色が抜けているのか。

 詳細な理由は不明だったが、とにかく、彼女の白色が強まっている事だけは明らかな事実だ。

 そのせいでより一層、浮世離れした色香が病室の中に溶け込んで見える。

 

「あとみっつ。 あとみっつあれば、わたしの夢が叶うんです」

 

 そして、薄い桜色の唇に、確かな輪郭を得た破滅願望をのせて。

 ミホノブルボンが抱いた不安感を、正しいものとして肯定する。

 

「ですから……秋の天皇賞に出ます。 来年なんかは待ちません。 今年の秋には、必ず」

「……警告、します。 骨折からの復帰は、容易ではありません。 年単位を掛けても、結果が伴うとは限らないのです。 ですから──」

 

 四年目にまわしても良い筈だ。

 引退理由としては実に真っ当なのだから、もう諦めても良い筈だ。

 ここで無茶を重ねるほうがよほど悪い結果に繋がる。

 

 なんて、言い連ねるだけの説得材料はいくらでも思い浮かんだ。

 正当性はミホノブルボンにあって、妥当性もまた同じく。 間違っているのは、この期に及んで諦めないファインドフィートだけである。

 

「……ねぇ、ブルボン先輩。 これは、わたしが選んだ道なんです。

 他の誰でもない、ここにあるわたしが決めた事なんです」

 

 だからそれは、覆るべき指針だった。 けれど。

 

「わたしだけは諦めちゃいけない。

 わたしに、諦める権利なんてない。 そんなこと、許さない」

 

 

 ──続く言葉と、目を見る。

 返す言葉の代わりに、"あぁ"と、掠れた呻きを零した。

 いっそ対面の白い少女にも聞こえない程小さな声で、結んだ唇の端っこから。

 死んだ人間に囚われるとは、こんなにも惨い物なのかと、失意を込めて。

 

「だから、ブルボン先輩。 わたしを、そんな目で見ないでくださいよ」

 

 けれども、ファインドフィートにはこれが真実だった。 これが、正しい命の使い方だった。

 だから対面の彼女へか細く請願して、小さく薄く微笑んだ。

 にこり、というより、ふわり、と表現するべき淡いもの。

 いつかの面影を色濃く残す、柔らかい笑顔だった。

 

「せめて、怒ってくれたら良かったのに」

 

 これが。 未だに幼いこれが、ミホノブルボンが初めて見る笑顔。

 ずっと見たかったはずなのに。 いつか笑わせてみせると、意気込んでいたはずなのに。

 

 だというのに。 いざ見てみると、どうしようもなく虚しくなる。

 心のなかにぽっかりと、底なしの穴が空いてしまったようだ。

 そして、いつかの日に夢見た幸福が、砂になってほどけていく。

 さらさらと、ざあざあと、風に吹かれて飛んでいく。 あっさりと遠ざかる。

 少女の未来と等価の重さは、ひどく軽かった。

 

「……怒る、なんて。 理由がありません。 それに、私は……フィートさんに会えて、本当に嬉しかった。 今日、あなたの顔を見て、本当に安心したのです」

 

 だから。 それでも。

 生きていて欲しいと願うことは間違っていないのだと、ミホノブルボンは、心の底から信じていた。

 その願いを過ちと断ずる権利は、この世の誰も有さない。

 それさえも許さない世界であれば、こんなに美しい筈がないのだから。

 

 だから、信じていた。

 まだ手遅れではないのだと、信じたかった。

 

 


 

 

 ファインドフィート

 星に願いを掲げてみる。

 お星さま、お星さま、どうか裁いてくださいな。

 

 ミホノブルボン

 寝ても覚めても、真っ白い子の赤と泥で汚れた姿が瞼の裏に浮かんでくる。

 赤色が、赤色が、赤色が、あの子の平穏を奪っていく。 いっそ、嫌いになりそうだ。

 

 



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56話

 

 女神さまは愛情深い存在です。 だから己が子を愛しています。

 たとえ神さまじゃなくなっても、愛しています。

 愛しています。 愛しています。 愛しています。

 我が子の心も、自分自身を削ってでも、愛したいのです。

 

 


 

 

 ミホノブルボンとの再会から二週間が経った。

 これをたったの二週間、と表すべきか。 はたまたもう二週間、と表すべきか。

 ファインドフィートの所感としては、どちらかと言えば後者の表現が適切だった。

 真白い病室で過ごす時間は思っていたよりあっという間に過ぎていき、怠惰に興ずるほどの余暇もなかった。

 ……もちろん、楽しい時間だから短く感じただとか、そんな優しい理由ではない。

 ただ、眠る時間が長くて、起きている時間もプカプカと浮かぶ夢見心地だったから、時間感覚が狂っていたというのが本当の理由だ。

 そしてその生活が気楽なモノかと言えば、当然ながら否定する他ない。

 

 左右の腕も左足も骨折済み。 痛くない筈がない。

 特に右腕ときたら、皮ふの上から折れた骨を固定しているのだから、異物感もかなり酷い。 本格治療の再手術が始まるまでの一週間は、それなりに苦痛だった。

 そして手術後は──プレートを()()()固定した後の右腕と、左腕と左足をギプスで保護して、骨が繋がるまで休息と治療の反復横跳び。

 休む。 電気を流す。 食べる。 超音波を当てる。 眠る。 それに炎症がある程度収まってからは湯治も始まった。

 もちろん自力で入浴は出来ないから、基本的に看護師、中でも体力的に優れたウマ娘の手を借りることが多かった。 流石の彼女にも羞恥心はある故に、ただ普通の生活を送るだけでも大きなストレスになってしまう。

 そうして怪我を治すだけの生活に従事するだけの二週間だ。 やはり、気楽には程遠い。

 

 しかし、医師も驚くほどの早さで繋がった骨がその生活の正当性を保証する。

 少しずつでもリハビリに取り組めるほどに快復しているのだから、成果としては十二分だ。

 それを指して、素晴らしく良好な経過だ、と喜ぶ医師もいる。 コップを自力で持った彼女へ、良かったね、と喜ぶ看護師もいた。

 

 けれど、ファインドフィート自身の感慨としては。

 どうしてか、周囲の人々の意と反して、素直に喜べないでいた。

 顔は以前までの仏頂面で、ミホノブルボンに見せた微笑みはすっかり鳴りを潜めている。

 望みが叶った事に安堵はしていても、中々喜びと結びつかないのだ。

 

「……ぬか喜びするのが怖いから、でしょうか。 骨が繋がったと勝手に舞い上がって、また折れる未来もありうるから、かもしれません。

 ……不思議ですね。 わたしの事なのに、わたし自身が、これっぽっちも分からない……」

 

 呟きひとつ。 疑問もひとつ。

 包帯まみれの左手でベッドの手すりを掴み、のそりと起き上がる。 微かに震える手の筋に、負担をかけないよう慎重に。

 そして机の上に視線を向けて、小さく首を傾げてみた。 僅かにくすんだ長髪が窓の外の日光を反射する。

 

「お前は、どう思いますか?」

 

 なんて、虫かごの中に。

 ()()()()()()わざわざ見舞いに訪れたエアグルーヴ副会長が置いていったそれへ。

 

「こんな事だれにも聞けないですからね。 ただでさえ負担を掛けているのにこれ以上、なんて……そんなの許されません。 ……そうでしょう?」

 

 そして、しばしの沈黙。

 ラジオの電源は切られていて、窓はきっちり閉められている。

 空は無風で、鳥も飛んでおらず、故に自然の音は何も響いて来ない。

 

 だから返答があればすぐに判別できるのだけれど、それはつぶらな瞳で黙りこくるだけだった。

 赤色の身体と黒色の斑点もあわさって何処となく可愛らしい雰囲気をしていても、所詮は虫。 言語を解する知能はない。

 

 ……もちろん、ファインドフィートとて知っている事である。

 が、それはそれ。 せっかく机の上を間借りしているのだ。

 ちょっとぐらい暇つぶしに付き合ってくれても良いじゃないかと、そんな無理難題を突きつける。

 しかし無意味である。それはみーんみんとも鳴かないし、カナブンのような羽音も出さない。

 所詮は、ただのてんとう虫だった。

 

「ほら、見てくださいよ。 ギプスがやっと外れたんです。 ご飯もじぶんで食べれますし、お風呂も自分で入れるようになりました。 だから少なくともそれは喜ぶべきだと思うんですよね」

 

 このてんとう虫を連れてきたエアグルーヴは3日後には回収するとも言っていた。

 実際、ここに置かれた所で世話なんて出来ないし、一時的に置くのはさておき、長期になると病院側の規則的によろしくない。

 だから一定期間で持って帰るというのは、実に正しい選択だ。

 故にこそ、ファインドフィートは何も気にせず頭の中を吐き出せた。

 バッタ(仮初めの自由)セミ(限りある生命)に向けたものと同じ羨望を、よりにもよって囚われのそれに向けて。 悪意もなしに、虫かごの中を羨んだ。

 

「どうしてでしょうね。 思っていた以上に……そう、現実感みたいなものが、無いんです。

 そのくせに頭がふわふわと浮ついて、これっぽっちも落ち着かなくて……ねぇ、不思議じゃないですか?」

 

 そしてもう一度、"どうしてでしょう"と、軽い口調で問いかけた。

 自身の本性を言葉にしてしまったのだから、むしろ地に足つけた現実感に囚われるものかと思っていた。

 言葉にするとは、曖昧な思考に形を与えるということだ。

 だから、これ以上わき見する必要は無くなって、裁かれるために全てを費やせば良いのだと。

 結局、その先で全てが叶うのだと、そう信じているから。

 

 けれど存外、そういった重荷を感じない。 むしろ逆に意識が軽くなるばかりだ。

 ふわふわと、プカプカと、頭の中身が落ち着かなくて、いつになっても夢見心地。 現実の輪郭が日に日に曖昧になっていく、奇妙な落下感。

 ファインドフィートの脳内はそうして、いつになく混沌としたモノに満たされていた。

 

 

「これだって、そうです」

 

 ──枕元の雑誌を手に取る。

 表紙に記された名前は月刊トゥインクル。 名前の通りトゥインクルシリーズを取り扱うメディアであり、世間一般での知名度も特に高い。

 それは扱う内容の質が良いというのもあるし、熱量のある記事を提供することで知られているのもある。

 

 その表紙を色のない表情で、ぺらりとめくってみた。

 最初に数ページの目次、そしていくつかの広告。

 そこから更にページをめくって出てきたのは、あらゆる意味で忘れられない宝塚記念の特集記事だ。

 未だに動きの悪い指先をうまく操りながら、指先で文字を追いかける。

 

 

 まず、最初の見出しが"大波乱"、"勝者不在のウイニングライブ"。 始まりからして不穏な言葉だ。

 そのせいでそれ以降の全体の雰囲気に至るまで、若干の薄暗さを匂わせていることは否めない。

 いくら格式高いレースであれど──否、だからこそ、生まれた瑕疵が大いに目立つのだ。

 九冠を取るなどという大言壮語を吐いていたくせに、神聖なターフを穢した愚か者の姿がくっきりと。

 

 それこそ記事の中で手ひどく扱われるのかと思いきや──その当事者を責める文言はどこにもなく。

 不運だったとか、芝の質と合っていなかっただとか、レース間隔に無理があっただとか、事前の検査が粗雑だった可能性があるとか、文面に踊るのはそういう問題提起ばかり。

 そういう細やかな配慮も、月刊トゥインクルの特徴のひとつではある。 けれど、しかし。

 もっと責めてくれた方が気が楽になったのにと、無責任な感想をこぼしてしまった。

 

 だって、挙げられた理由がどれも違うのだ。

 事故の原因とはつまり、以前から存在していた予兆を黙殺していた事に他ならない。 故に責任があるのは他の誰でもない彼女自身であって、紛うことなく彼女自身の行いの結果である。

 どうあがいても超人にはなれやしないのに、惰弱な現実逃避で傷を大きくした罪は大きい。

 

 そう、心に溜まる罪悪感を噛み締めながら。

 ゆっくりゆっくり、ページをめくった。

 

 次に顔を覗かせたのは、数ページにわたる16名それぞれの来歴。

 そこに加えてレースに向けた取り組みや意気込み、その後に得た教訓まで全て余さず載せられている。

 中にはもちろんファインドフィートの姿もあって、取材時の写真もある。

 正直なところ、彼女自身はこの取材の事を殆ど覚えていないが──カラー写真の青い瞳を無愛想に細める姿も、いささか険のある表情を浮かべているのも、間違いなく彼女自身だった。

 

 それを見て、愛嬌が無いなと自分自身の顔に評価を下す。

 多少の人生経験を得たとはいえ、初対面の人物に対する恐怖感は中々どうして消えてくれない。

 だから、ではある。 それ以上の理由は存在しない。

 が、これでは『ファインドフィート』という殻の功績の面に対してはともかく、ファインドフィートという個への感情はあまり良くないだろうな、ともぼんやりと考えていた。

 

 ……とはいえ、それはそれ。

 ミホノブルボンとセットで写っているモノでは随分柔らかい雰囲気を醸し出しているおかげで、そういう愛嬌もそれなりにはカバー出来ていたのだ。

 見栄えの良い外面に価値を見いだせる性格であれば気付けたのかもしれないが、そんな事は今更でもある。

 

『──筆者個人の所感としては、無理のない道を歩んで欲しいところだ。 来年以降のレースに出走するでも良し、タレント系やアイドル系の道を志すでも良し。 今後も氏の活躍に期待したい』

 

 結びの言葉を、軽く読み流す。

 それからぽぉんと、雑誌を枕元に放り投げた。

 

「……ブルボン先輩のあれだって、仕方のない事です。

 けれどわたしは……それでも責めて欲しかった。 そう願ってしまうのは、烏滸がましいのでしょうか?」

 

 否。

 烏滸がましいのか、ではない。 疑問を挟む余地すらなく、烏滸がましいのだ。

 何時も何時も頭の中にへばりつくその願いは結局叶わないまま。 誰もが同じだ。 ファインドフィートを責めない。

 本性を知らないのだから当然であるけれど、その上にある現在こそが矮小な愚かさを証明する。

 

「そうですね、例えば……"上ばっかりを見ていたせいで転んでしまったバカやろう"なんてどうですか? 

 ほら、わたしにピッタリです」

 

 どうでしょう。

 小首をかしげて、小さな小さな虫の甲めがけて息を吹きかける。

 が、当然返事は返ってこない。

 

「まったく、お前は冷たいですね。

 ちょっとぐらい鳴いてくれたって良いじゃないですか」

 

 そもそもの話だ。

 まず、てんとう虫は鳴くという機能を持たない。 それは種としての特徴であって、冷たいも何も関係ない。

 無知とはそういう愚かさを内包する物である。 誰かに糺されたかったにしても、多少は相手を選ぶべきだったろうに。

 ファインドフィートは悪びれもせず、尻尾で布団を叩いて。

 

 おもむろに顔を上げ、ドアの方へと舌の向き先を変えた。

 

「ねぇ、テイオーさんもそう思いませんか?」

 

 こつり。 ドアの向こうで物音が鳴る。

 発生源は足か、指先がドアにぶつかった音なのか。

 それは定かではないが、しかし、てんとう虫よりはよほど分かりやすい意思表示だった。

 

「……どうぞ、入ってください。 まだ、面会終了の時間まで余裕はありますから」

「──」

 

 暫しの逡巡。 少しの動揺。 一つまみの歓喜。

 ()()気まずい関係が続いていた故の感慨は、相手の少女に少なくない躊躇を与えた。

 何せ最初の発端は、ファインドフィートが一方的に避け始めた事にあるのだ。 拒絶でも無視でもない急な方針転換は、少しばかりの違和感を匂わせるモノだった。

 

 ……けれど、ただのそれだけだ。

 ドアの向こうの少女はその感慨をあっさりと胸の奥に引っ込めて、かわりに、おずおずとドアを開いた。

 活発な表情は鳴りを潜めていたけれど、紛れもなく、友人であるトウカイテイオーのかんばせだった。

 

「お久しぶりですね。 すこし、痩せましたか?」

「……うん、ちょっとだけ。 フィートも……ちょっと痩せたみたいだね」

「ん、目で見て分かるほどですか。 わたしの目では……さほど、体型は変わっていないように見えていましたが」

「ホントにちゃんとご飯食べてるの〜? うりうり~……わ、お腹ほっそ……」

 

 ──そして、切り替えてからは早かった。

 明るい振る舞いで距離を詰めてスキンシップを図る姿は以前とまったく同じもの。

 なすがままで脱力しながら、安堵と罪悪感を抱く。

 考えなしに遠ざけるには同じ時間を共にしすぎたのもあるし、ファインドフィートの精神構造からして耐えられなかったというのもある。 どちらにせよ、彼女の弱さが招いた状況だった。

 

 ……それに対するトウカイテイオーは。

 少女の健康診断も兼ねて腰に手を回して、半ば素で驚いていた。

 実際、ひと目見た時点で少女らしい脂肪が薄れている事は察していた。

 僅かに細くなった──元々細かったが──首周りから、おおよその減少量は予測していた。

 事実、その見立てはさほど間違っていなかった。 全体の印象にちょっとした変化を与える程度の僅かなものだが、確かに肉は減っている。

 が、その下にある筋肉がさほど衰えていない事は予想していない。 腹に顔を埋めつつ、少女は密かに瞠目していた。

 

 人体もバ体も同じだが──寝たきりの状態は恐ろしい速度で筋力の劣化(廃用性筋萎縮)を招くもの。

 それが身体のメカニズムである以上仕方のない話ではある。 が、一週間で十パーセントもの筋力が失われると思えば、とんでもなく恐ろしい現象だと言わざるを得ない。

 もちろん、その劣化を防ぐためにマッサージを施したり、電気刺激を与えたりはする。

 あの手この手で筋肉に役目を与え、筋肉による自殺を予防する。

 とはいえ、やはり限界はあった。

 現代の技術力では克服できない仕組み(システム)。 それが、アスリートにも恐ろしい怪我の予後だ。

 

 だから、筋肉も相応に痩せているのかと思っていたが……実際のところは、想定外に状態がいい。

 骨さえ治ればすぐ日常生活に戻れるのではないかと期待してしまうほどに。

 

 うぅむ、と唸りながら腰から手を離す。

 そして肩まわりや背中、無事な範囲の二の腕や太ももを撫でて、腹と同様にしっかりと筋肉が詰まっている事を確認する。

 

「フィートってさぁ、なんか謎の治療受けたりした? 注射打たれたりとか、カラフルなカプセル飲んだりとか……」

「痛み止めの注射をうけたり感染症対策の抗生物質を貰ったぐらい……ですかね。 別に変わった治療は受けていないと思いますが」

「えぇ~、ホントォ?」

 

 であれば、体質か? 偶然、この病院の環境とファインドフィートの身体の相性が良かったのか? 

 否、そんな真っ当な理由で説明できる訳がない。

 異常だ。 異質だ。 奇跡でもなんでもない、ただの怪奇現象だ。

 生物としての仕組み(システム)を克服するなんぞ、そんなこと出来る筈がない。

 

 ……故に、尋常ならざる怪奇現象としての原因へと、思考の手を伸ばす。

 返ってくる答えは、意外なほどあっさりと手の内に収まった。

 

「…………」

 

 歯を食いしばる。

 もっともあり得るのは、(なにがし)。 仮称として、そう呼んでいる何か。

 病院に訪れて以降、ある程度明確な輪郭を帯びてきた存在だったが──もし本当に、今までにもあった違和感の正体であるなら、今回の異常現象の原因においても第一候補として挙げられる。

 

 というより、正直なところ。

 

 トウカイテイオー自身の予想としては、まず間違いなく某の影響だと考えていた。

 だって、そうでなくては説明の付かない事が多すぎるのだ。

 むしろ他の原因を探す方が非効率的かつ非合理に思えて仕方がない。 某以外の可能性なんて何があるというのか。

 

 だからさっさと相応の対策を取ってしまえばいいとも思うのだが……実に歯がゆい事に、その肝心の対策が思いつかない。

 仮にぱっと思いついたとしても、それを実行に移す前に"失敗する確信"を得てしまう。 まるで()()()を伴っているかのような生々しい確信だった。

 それを理論ではなく本能の段階で忌避してしまうから、結局動けず何も解決しないままで──。

 

「あの、テイオーさん……?」

「っとと、ゴメンゴメン」

 

 困惑の声を受けて思考を打ち切る。

 少女の身体から離れ、トウカイテイオーは浅い溜息を吐いた。

 そして"今考えることじゃなかったなぁ"、とちょっとした反省を胸中に述べて、椅子の上に戻って──誤魔化しを込めて"意外と居心地が良くって"と茶化す。 案外冗談ではない。

 戸惑いと羞恥の混ざる尻すぼみの相槌を受け止めて……今の時間ぐらいはただの友人として在ろうと結論を出す。

 

 それから、暫しの年頃の少女らしい雑談を経て。

 何気なしに病室を見渡した視線をふと、机の上に留める。 その正体はそれなりに馴染みあるものであった。 が、故に困惑を込めて眉の端を吊り上げた。

 

「虫かご、って……いやいや、お見舞いに持ってくる物じゃないでしょ。

 誰さ、こんなセンスない物持ってきたのは~。 ゴルシかゴルシ、それともゴルシ?」

「ああ……それですか。 エアグルーヴ副会長が持ってきてくれた物です。 真っ白な部屋に彩りを与えるために、だそうですよ」

「嘘でしょエアグルーヴ……花はともかく虫って。 誰かに毒されたの……?」

 

 もちろん病院の許可は貰ってますよ、という補足は頭に入らない。

 ファインドフィートが語った行動とトウカイテイオーの知るエアグルーヴ像が中々噛み合わないのは一体どうしたことかと、そればかりが頭の中を占めているせいで余裕がなかった。

 エアグルーヴという少女は実にお堅い人物で、真面目であり、才色兼備な生徒の鑑である。 少なくとも、トウカイテイオーはそのように記憶している。

 それこそ冗句もあまり通じないような、特にマナーや礼儀に拘るタイプであったと記憶していたが──。

 はて、随分珍しい事をするのだなと、驚き半分感心半分の声が漏れた。

 

 実際のところ、このてんとう虫というチョイスは嘗てのファインドフィートとのやりとりによって決められた物なのだが──生憎とトウカイテイオーはその過去を知らないし、ファインドフィートも覚えていない。 あるいは、当のエアグルーヴでさえも。

 花壇の前で薄ぼんやりと交流を重ねた時間も、今となってはひだまりに溶けて消えた後。

 あるとするなら、思い出の残りカスぐらいのものだった。

 

「本当に、助かってるんです。 多少手は動かせるようになっても暇なことに変わりはないですからね。

 その子には、ちょっとした話し相手になってもらってます」

「そう、なんだ。 そんなに話し相手がほしいならボクに電話してくれても良かったのに」

「……ええ、そうですね。 次からはそうさせて貰っても良いですか?」

 

 話し相手がてんとう虫とは中々もの寂しい絵面だが、事実として大いに役に立っていたのは違いない。

 暇つぶしの相手だけではなく、病室の代わり映えのない景色に変化を与えたり、今のようにトウカイテイオーと会話する口実を作ったりと。

 まったく、小さな体躯には見合わぬ活躍ぶりだった。 図体ばかり大きくなったファインドフィートとは随分違う。

 

 羨ましいなぁ。 羨ましいなぁ。

 ほんの一瞬だけの嫉妬を視線に練り込んで、虫かごの中、葉っぱの隙間を盗み見る。

 ……否、盗み見ようとしたけれど、片目の機能を殆ど失った視界では、その身体を見つけることが出来なかった。

 

「……虫かご、近くに持ってきてもらえますか?」

「いいよ~……っと、はい。 っていうかこれ待てるの?」

「はい、これぐらいなら大丈夫です」

 

 微かに震える両手で、しっかりと受け取る。

 そして膝の上にのせて、真上からかごの中を見下ろした。

 そこまでしてようやっと見つけられたてんとう虫は、やはり矮小な身体をしている。

 赤い甲と、黒い斑点。 それ全てをあわせても、小指の先にも満たぬ大きさ。

 そのくせ少女の羨望を一身に受け止めているのは、憐れむべきか、称賛するべきか。

 

 ……どちらであれ、ファインドフィートの主観による羨望が少々歪んでいる事は明らかだった。

 それを自覚している故に悟られぬよう内に秘めて、またくだらない雑談に興じる。

 

 つもりは、なく。

 

「ねぇ、テイオーさん」

 

 ところで、と。

 ふと、普段通りの論調で、何気なく口を開いた。

 虫かごから視線をあげて、対面の顔に目を合わせる。

 そして明日の天気を予想する時と同じ温度で小首をかしげた。

 

 気付いたことがあるのだ。

 ミホノブルボン、マンハッタンカフェ、ゴールドシップ。

 訪れた少女達のうち、この数人だけが、まったく同じ色の顔をしていること。 それと、その色が少し見慣れた物であること。

 それは一体何故なのか。 一瞬の疑問を挟む必要すらなく、答えはあっさり弾き出された。

 

「また、墓を暴いたのでしょう?」

「……ぇ?」

 

 故に、言葉も飾らず直接的に問を投げて。

 対面。 受け手の少女は、ほんの一瞬だけ思考を停止させた。

 

 その後に、喉を引き絞って、どうにか声をひねり出す。 ひどく情けない、疑問符を言語化しただけの鳴き声だった。

 吐息と大差ない物でも最低限の役目は果たせたのか、飾りを欠いた白耳がぴくりと揺れる。 そして疑問の意味をしっかりと汲み上げる。

 一度、二度と頷いて、比較的動かしやすい左手で顎を撫でつけ、ぱちりと瞬いた。

 

「だって、行ったのでしょう? あの病院に。 ブルボン先輩と……カフェさん、ゴールドシップさん、でしょうか。 少し珍しい組み合わせだ」

「……あ、あ~……何か勘違いしてるんじゃないかな? それにほら、あの病院っていうのはどの病院の事かなぁ。 病院って言ったって沢山あるし、なんならここだって病院だし──」

「──わたしが、姉さんの心臓を移植された病院です」

 

 ひゅう。 もう一度吐息が漏れる。

 

「わたしが死んだ病院。 わたしが死に損なった病院。 姉さんが死んだ病院。 わたしが産まれた場所……あのお医者さんは、まだ元気でしたか?」

「……え、と」

「わたしが最後に見たのは──確か、ここに来て一年目の頃でしたか。 お墓参りのお供物を相談させてもらった時です。 あの頃から、ずっと泣きそうな顔をしていて、気になっていましたが……どうやら、変わりはないみたいですね」

 

 真っ黒い隈も、痩けた頬も、光のない瞳も、どこぞのトレーナーにそっくりだったと思い返す。

 ただし向けてくる感情はまったく違ったから、その差が互いの存在感を別の物に変化させていたとも思う。

 

 そんな男の眼差しを頭の片隅に置きながら、すぐ側の少女の目を見つめた。

 かすかに暗く、ぬるい湿度の光。 快活な光を隠した目。 それはどこか、あの男の物に似ていた。

 

「わたしの命を救ったくせに、いっつも罪悪感にまみれた目でわたしを見てくるんです。 別に、あのヒト()何も悪いことをしてないのに」

 

 その罪悪感に満ちた瞳は、医者の主観によるもので。

 その罪悪感の否定するのは、ファインドフィートという少女の主観によるものだった。

 この衝突に善も悪もありはしない。

 ……そう割り切れていたなら、傷はもう少し浅くなっていただろうか。

 

「知っていましたか? ヒトの思いって、伝染する物なんですよ。

 たとえば、あのヒトの陰気な感じとか。 その、罪悪感のこもった眼差しとか……ふふ、よく似てますね」

 

 そして、薄い笑顔を浮かべて。

 相対する少女の目に人差し指を向けた。

 自分自身にも当てはまっている事すら理解せぬまま淡々と、目と目の熱を交換する。

 しかし視線と視線の交差は、ほんの束の間のことで、トウカイテイオーが先に目をそらした。

 

 少女が言うように罪悪感を感じている自覚は無かったが──ただ、居た堪れないと感じてしまった。

 だって、そう語る少女の目こそが。

 

 

 ……続く言葉は、悟られぬうちに飲み込んだ。

 

「……ごめんね」

「ああ……いえ、わたしは怒っているわけでも、謝ってほしいわけでもなくて……。

 一個だけ、あなたに聞きたい事があるだけなんです」

 

 けれど、何と言うべきものか。 視線を下げてうぅん、と唸る。

 本題は、未だ言語化出来ぬこれだ。

 正直、墓を暴いた事そのものは()()()()気にしていない。

 家族の墓を暴いたのなら流石の彼女も動転せずに居られないが、そうでないなら問題は無かった。

 

 だから、気にしているのは墓を暴いた先。

 暴いた結果に見た物。 そして感じた事。

 

 視線を上げる。 少女の背にある白いカーテンが、茶色い頭髪を際立たせていた。

 

「……わたしのこと、嫌いになりましたか?」

 

 そして、ぽつりと呟く。

 この場に限った疑問ではない。

 ずっと前の天皇賞の頃から、抱え続けていた物だった。

 

 あの、負けた筈だった天皇賞を、トウカイテイオーは覚えていないだろう。

 春風の中で駆けた先頭の景色も、初めてぶつけ合った本音も。

 与えた傷も与えられた傷も、全て目覚まし時計の騒音にかき消されてしまった。 だからファインドフィートと、女達──某だけが覚えている。

 微かな残滓を頭の片隅に残していたとしても、所詮はそれだけだ。

 

 地続きの罪悪感を抱くのも、それを罪深いと罵る事が叶うのも、もはや彼女だけなのだ。

 

 故に暴かれた墓の土でコーティングして、言葉のカタチに丸めて投げつけた。

 "わたしのことを嫌いになりましたか"。 "わたしの墓を嫌いになりましたか"。 "わたしの願いを嫌いになりましたか"。

 

 ……とはいえ、である。

 トウカイテイオーの視点からしてみれば頓珍漢な問いかけでしかない。

 長々と考え込むほどの深みを持たず、ある意味では答案付きの問題用紙にも等しかった。

 

「どうして?」

「……何も聞かずに、教えてください。 わたしは……あなたの、答えを聞きたい」

 

 だからそう言われても、一番困るのはトウカイテイオーだった。

 他の問いであれば、そう簡単に答えを出すべきではないと考える。 真摯に向き合い、その上で言葉を紡ぐ心掛けはある。

 

 しかし、嫌いになったのか、と問われても。 彼女は答えをひとつしか有さなかった。

 

 うぅん、と語尾の伸びた呻きを上げて、尻尾をぷらりと垂れ流す。

 さて、さて、さて。 何と答えた物だろう。

 適当に返すと下手な受け取り方をされかねず、しかし深掘りしても意味はない。

 であるなら──結局、トウカイテイオーが知る範囲で、ありのままを答えることしか出来なかった。

 

「……嫌いになってないよ。 っていうか嫌いも何もさ、そもそもフィートは何も悪いことしてないじゃん。

 ボクらが勝手にフィートの過去を探りに行って、勝手に、キミの傷を漁っただけで……」

「それ自体は、ええ。 もう、良いんです。 今のわたしにとって、昔のわたしの墓は大した意味を持ちませんから」

 

 本当に聞きたかったのは。

 墓の中にあった自分の、傷を与えた自分の。 偽りのない姿に対する、偽りのない本音だった。

 

「……だって、ほら、気持ち悪いじゃないですか。 死んだ人間のくせに、こんなにも浅ましく生に縋ってる。 姉さんの死さえも利用して、わたしは目を覚ましてる。

 そんなわたしが、あなた達を傷つけて、誰かの夢を踏み躙ってる。

 だからわたしは、わたしの事が嫌いです。 そうです……どうせなら、あの日にあのまま──」

「フィート」

 

 なんて、許されざる願いを口にしようとして。

 自制する間もなく、名前を呼ばれて蓋をされる。

 

「それ以上言ったら、ボクでも怒るよ」

「……ごめんなさい」

 

 論調は、驚くほどに強かった。

 そしてそれ故に、ひとつの納得を齎す。

 

 つまり、逃げて楽になる選択を許さない人物が、少なくとも一人はいる。

 この一人というのは、もっと突き詰めれば幾人かは増えてしまうだろう曖昧な数字だ。 世界は優しいけれど、それ以上に残酷な顔も持っているのだ。

 たとえば、罪の在り処である痩せっぽちの男も許さないだろう。

 あるいは、初めての友達であるミホノブルボンも許さないに違いない。

 その事実を抱きとめて、また、困ったふうに眉をたれ下げた。

 

 

 ──もしかすると、この"裁かれたい"という本性さえも否定されてしまうのでしょうか。 この愛の形は、否定されるモノなのでしょうか。

 

 そんな予感を抱いてしまえば、胸がちくりと痛んでしまった。

 理解されたい、とまでは思っていないけれど。 ただ、()()()()()()として許してほしいと願うのも、罪深いことなのか。

 ファインドフィートが彼女に求めているのは、いつまでも、変わらずにいて、日常というひだまりに居させてほしいだけだった。

 

 そう願う事すら、今となっては。

 

 

 ──アラームが鳴る。 弾かれたように時計を見やった。

 示された時刻は16時。 トウカイテイオーが訪れた時からカウントすると、ピッタリ15分。

 

「もう、面会終了の時間、ですね……。

 ……テイオーさん、今日は来てくださってありがとうございました。 また後でLANA送りますね」

「……うん。 ボクからも送るから、今度はちゃんと返信してね?」

「ええ、もちろん。 話したい事が、たくさんあるんです」

「ほほー、言うようになったねぇ。 あのフィートが……!」

 

 そして、あぁ、もう終わりなのかと、手のひらいっぱいの寂寥感と、小指の先ほどの安堵感を抱く。

 

 対するトウカイテイオーはそんな彼女の内心を知ってか知らずか、ただ残念そうに耳を垂れさせていた。

 それから何を言うのかと思えば、ただ頭をわしゃわしゃとめちゃくちゃに撫でて、髪を乱して、僅かな体温だけを残して身体を離していく。

 あとは"ばいばい"と"またね"を交わして、今日はそれっきり。

 

 

 がらり、ドアを開ける。

 ひょい、廊下に躍り出る。

 そして元気よく振られた手に向け、緩慢な動きで振り返す。

 それから漸く帰路についたトウカイテイオーの姿を、ドア越しに見送って。

 

「……あ、虫かごを戻してもらうの忘れてました」

 

 ……ふと気付いたそれを見下ろした。

 膝の上に乗せたままの虫かごは、先程までと変わらずてんとう虫の居城として機能している。

 少しだけ溢れた水に申し訳なくなるけれども、しかし今の彼女にはどうしようもない。

 確かに虫かごを持ち抱えることはできるが、持って歩くまでは出来ないし、中身を整えるのも中々難しい。

 今の状態で細かな作業なんて出来ないし、力加減を誤りかねない。

 せっかく治り始めている所を自分の力でまた破壊するのは、彼女とて望んではいなかった。

 

「……ねぇ、お前も困りますよね。 わたしの膝の上よりは、葉っぱの上にいるほうがよほど心地良いでしょうに」

 

 同意を求めたとしてもてんとう虫は何も返さないし、何も解さない。

 無機質な瞳で、少女の顔を見上げるのみだ。

 

 


 

 

 ファインドフィート

 左目の視力の喪失の代わりに、次のレースに出場できる程度の回復力を得た。

 それらが対価に釣り合うのかは、さて。

 彼女はそれに頓着できるほどの余裕を持っていない故に、答えはきっと出てこない。

 

 トウカイテイオー

 逃げることを許さなかった。

 

 エアグルーヴ

 何も覚えていない。

 けれど、花壇の前のぬくもり程度はこの手のひらが覚えている。

 何時かの日の、ちっぽけな約束も、きっと。

 



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57話

 

 だから、女神さまは思いました。

 "私がこんなにも愛しているのだから、きっとこの子も愛してくれるに違いない"。

 

 だから、女神さまは信じています。 無邪気に幼く、信じています。

 "これも全部あなたの為なの"。

 "私があなたを裁きましょう、私があなたに与えましょう"。

 "あなたの為に、あなたの為に"。

 

 そこに間違いがあるなんて、露ほどにも思っていません。

 だって、愛の前には全てが等しく塵芥。 命の価値は不平等。 愛は全ての免罪符。

 "人間って、そういう物でしょう? "

 

 


 

 

 そして、ついに一ヶ月が経過した。

 やっと一ヶ月が経った。 もう一ヶ月が経った。

 どちらの感覚が適切かと問われれば、少し考え込んでしまう程度の、実に微妙な長さだった。

 

 ただ、その一ヶ月で骨は歪みもなく繋がり、退院できる所までこぎ着けたのだ。 たとえ頭がおかしくなるほど退屈な一ヶ月だったとしても、少女は別に構わなかった。

 かつての有様を思えばまさに奇跡。 左目を差し出した甲斐はあったろう。

 神経系に異常なし。 筋繊維も難なく動く。 関節の可動域は……多少狭くなったが、まだ許容範囲内。 今後のリハビリ次第で回復できる筈だ。

 つまり、骨の強度以外はかなり良好な経過だった。 寝たきり生活ゆえの劣化はなく、元の姿に限りなく近い。

 ……とはいえ、その為に捧げた対価が相応なのかと言えば。

 

 ──やはり、少し考え込んでしまう程度の、曖昧な重さである。

 適切か、否か。 妥当か、不当か。 この喪失が正しいのかと言えば、さて、どうだろう。

 

 差し出したものは目。 その視覚。

 外界の情報源のうち80%を占める感覚器官、五覚のうちの最重要パーツの半分。

 それが、骨折からの()()()()()()()復帰のために失われた。

 

 ……納得は、している。 諦めを多分に含んだ物だったが、受け入れている。

 たとえ、対価そのものの重さが不当であったとしても──それでもと、不条理を願ったのはファインドフィートだ。

 であるなら、他の選択肢なんて存在しない。

 砂漠で水を買うのと同じように、不当は妥当に成り果てる。

 ただ、自己の感情という要素も含めて、得た物と失った物がつり合っているのかを考えると。

 ファインドフィートは、途端に何も言えなくなってしまった。

 

 記憶の喪失よりも直接的で、味覚の消失よりも明確。

 ある意味で()()()()()代償であるからこそ、生々しい実感を伴っていて。

 

 

「……あぁ、いけない。 早く準備を進めないと……」

 

 ──そこで、思考を打ち切った。

 こんな事、いくら考えてもキリがない。

 答えの出ない問題用紙の前で頭を抱え続けて何になるのか。 時間の無駄。 資源の無駄使いだ。

 

 ……であるなら、無視した方がいい。 何にせよ、やっと退院できるのだ。

 さっくりと準備を済ませて、はやく寮に帰りたい。

 

 そう頭を揺らして気分を入れ替え、ぽっかりと内部を晒したカバンを見て。

 入院中に使っていたタオルや衣類、櫛や香油など諸々を詰め込んでいく。 もちろん、使うのは自分の両手だ。

 

 

「……まぁ、こんな所ですね。 大した量じゃない。

 忘れ物は……大丈夫でしょう。 無くなった所で困るものじゃないですし」

 

 最後に呟きを吹きいれて、ボストンバッグのジッパーを閉める。

 荷物を持ってきた際にも使われたそれをまたパンパンに膨らませて、傍らに置いた。

 

 退去するまでの時間は、残り30分。 微妙な時間だ。

 今から移動しても何もできない故に、ベッドの上で時間を潰す。 妙に疼く手首とうなじをしきりに擦りながら、深々と腰を沈めて。

 

「……そう、だから大丈夫。 あとはリハビリも全部終わらせて、トレーニングに向けて仕上げるだけですから。 だから、大丈夫」

 

 その声音は胡乱な響きをしていて、子供の寝言にも似ていた。

 

 大丈夫、大丈夫。 まだ走れるから大丈夫。

 誰であれ、何であれ、信じて擲った物が意味を成さない物だったなど、可能性すら考えたくないに決まっているから。

 だから夢の道は続くのだと、信じていられる。

 

 

 ……けれど。 大丈夫の筈なのに、バッグの持ち手を握った手が震えていた。

 手の甲までを覆う包帯と、剥き出しの肌の境目を眺めて、ただ不思議そうに目を瞬かせる。

 

 怪我、ではない。 今までこんな事はなかった。

 では心因性か? 否、今この瞬間に不安はない。 不信もない。 だから心も問題ない。

 問題ない筈なのに、震えがまったく止まらない。

 だから仕方なく逆の手で押さえて、微かな鈍痛ごと握りしめた。

 

 止まらない。 何故だろう、と考えてみる。

 分からない。 五文字の答えを出す。

 

「……わたしの前には、道がある。 前だけには、道がある。 隣には大好きな人達がいて、何もかもが満たされている。 なのに、どうして……」

 

 思考を何度もループさせて。 毎回同じ答えだけを弾き出して。

 何度も何度も何度も、堂々巡りを繰り返す。

 まだ走れる。 だから大丈夫だ。 まだ走れる。 だから大丈夫だ。 まだ走れる。 だから大丈夫だ。

 

 ただそれだけの言葉を吐き出す。

 そして目の前に、もう一度自分の手を翳してみた。

 

「……どうして?」

 

 ……けれどもやはり、指の震えは落ち着かないままだ。

 鉄の香り、土の匂い、心臓の音、くもり空、割れた貝殻。

 それらが混ざって、幾重にも重なったせいで、真っ白い病室にも溶け込めない。

 

 腐った赤色が、にっこりと笑っていたから。 きっと。

 

 

 ◆

 

 

 車椅子の車輪が回る。

 くるくるくるくる、音もなく。

 

 真新しいアルミのフレームに身体を乗せて、そのままエレベーターを降り、エントランスを目指す。

 膝の上にはボストンバッグと己の尻尾。 頭上には赤い耳飾り。 服装は学園の制服。

 すぐ背後には、車椅子を押す中年頃の女性看護師。 ファインドフィートの病室にラジオを置いてくれたのもこの女性だった。

 

 そのままゆっくり目的地に近付く度に、いまさら、退院する事への実感が湧いてくる。

 ……もちろん、退院したからといって、すぐに以前と同じ生活に戻れる訳ではない。

 リハビリは必要だし、念のため暫くは車椅子──または松葉杖で生活しなければいけない。

 しかしそれでも、家に帰れるという事実だけで気分が高揚する。

 

「今日は、人が少ないんですね」

「ええ、珍しいわぁ。 普段だったら暇を持て余した方々が……って言ったら悪いわね。 ともかく、もう少し()()()()()んだけど……どうしたのかしら」

 

 些か閑散とした通路を通り、腰の曲がったお婆さんを横目に総合受付前を通過する。

 そこまで来たらエントランスまで10メートルもない。 少女の半分だけの視界には、十名足らずの人影が見えていた。

 

「あらま……トレーナーの方が来てるみたい。 思ってたよりも結構誠実──っとと、ごめんなさいね。 あなたの前で言うことじゃなかったわね」

「いえ……まぁ、あのヒトは誤解されやすいですから」

「あら、そうなの……いえ、でも私が悪かったわ。 あんな記事を見たもんだから、てっきり──」

「……てっきり、何ですか?」

 

 続きを問うたけれど、看護師は歯切れの悪いごまかしを口にするのみだった。

 少しだけ振り返って視線を投げても、気まずげに視線を逸らす。

 少女自身は特に変なやり取りをした記憶もなかった故に、ただ疑問符を浮かべて小首を傾げることしか出来なかった。

 

 ……とはいえ、己のトレーナーの人相の悪さが関係しているのだろうな、と。

 前後の流れから薄っすらと推測して、やや大げさに溜息を零した。

 

「……トレーナー、本当に優しいヒトなんですよ。 ぶっきらぼうな顔ばかりしてるのに意外と優しいですし、真正面から向き合ってくれますし……。 ああ、もうちょっと愛想が良ければ完璧だったのに」

「へぇ……ちょっと意外。 そういうタイプなのねぇ」

 

 沁み沁みと語る看護師の態度に"その通りです"と胸を張る。

 子供が己の親の功績を誇る様にも似て、無邪気な内面がちらりと尻尾の先ほど見せていた。

 

 しかし、ファインドフィートは彼の過去を知らない。

 何が好きで、何が嫌いなのかも知らない。 何のために名誉や金を求めるようになったのかも、何も知らない。 あるいは彼を構成する何れにも大した重みはなく──本当に、嘗ての彼が吐き出した通り、特筆するべき要素が欠片も無いのかもしれない。

 けれどもファインドフィートはその真偽を判ずる事も出来ないほど、何もかもを知らなかった。 それを諭されて、ようやく自覚できる程に何も知らなかった。

 

 知っているのは、ただ、ああ見えて情に深く、信頼に値するような、数少ない大人であること。

 そして何よりも、偽りなく向き合ってくれたこと。

 ただそれだけ。 ただそれだけであっても、少女が慕うには十分な理由だった。

 

 ──そうして尻尾を跳ねさせているうちに、エントランスに到着した。

 己のトレーナーの姿を認めて、悟られぬうちに居住まい、特に尻尾を正す。

 無関係な人間に見られていても然程気にしないが、当人に見られるのは流石に気まずい。 今の彼女であっても、その程度の機微はまだ備わっている。 少なくとも、今はまだ。

 

「まぁでも、頼れる人間だっていうなら安心だわ。 本当に、退院おめでとう」

「……ありがとうございます」

 

 くるくるくるくる、車輪が回る。

 エントランスの中央、玄関口、退院の場に近づいていく。

 

 出迎えてくれたのは()()()()()()主治医と、幾名かの看護師。 生活介助をしてくれた(ウマ娘)も居る。

 各々がにこやかに歩み寄ってきて、口々におめでとう、と祝福の言葉を投げかけてきた。

 そのうえ花束まで受け取って、嬉しいような、恥ずかしいような。 そのどちらもが微妙に混ざりあう、曖昧な気持ちになってしまった。

 

「今日まで、お世話になりました」

 

 彼らの隙間から見る景色の中にはトレーナーも居て、彼はやはり仏頂面のままでファインドフィートを見つめていた。

 そこに意志が宿っていないのだとしても、この場に居るという事実そのものが喜ばしかった。

 

 くるくるくるくる、車輪を回す。

 周囲の人々と会話を交わしながら、ゆっくりゆっくり中央に近付いて、通り過ぎて。

 

 玄関側のトレーナーとの距離を縮める。

 近くで見た男の身体は前よりも更に肉付きが良くなっていて、ようやく"病的"な細さから"やや一般的"な細さに近付いていた。

 あともう一年ほど健康的な生活を続ければ、おそらく"普通"の太さになれるだろうペースだ。

 

 そんな彼にお久しぶりですね、と挨拶してみた。

 返ってきたのは極めて素っ気ない同意だけ。 ……正直、ちょっとだけ残念だ。

 けれども自発的に車椅子のハンドルを握ってくれたから、それで全てをよしとする。 もちろん、ここまで連れてきてくれた看護師にもお礼の言葉は忘れない。

 

 

「焦らずゆっくり、ね。 これから先、まだまだ沢山の出会いが待ってるから」

「うんうん、早く復帰したい気持ちも分かるけど急がば回れって言うからね。

 ……そうだな、何と言うんだったか……あぁ、Take it easy(気楽に行こう)、だね。 うん、それが良い。 人生、それぐらいの心構えで居るのがちょうどいい塩梅なんだ。 けど……何かあったら、またここにおいで」

「まぁ、先生ったら何言ってるんですか。 来る機会がないならそれに越したことは無いんですよ。 ね、フィートさんも健康には気をつけて」

 

 それから、実に大人らしい注意事項諸々を受け取って、上っ面だけの素直な頷きを返す。

 

 つまり、彼らが言いたいのはこういうことだ。

 たくさん食べて、たくさん眠り、よく遊び、よく学べ。

 焦らずゆっくり、遠回りで、生ぬるい日常に浸っていろ、と。

 それが健全というもので、あるいは、『ファインドフィート』という少女ではなく、単なる怪我人である少女に向けられた物だった。

 

 ……けれども、考えずにはいられないのだ。

 何を食べても味はしないし、寝ても悪夢ばかりだし、遊ぶ余暇はなく、学んだところで無為になる。

 焦らずゆっくり? 急がば回れ? あまつさえ、気楽に行こう、などと。

 そんなものに、一体何の価値があるというのか。 必要なのは結果だ。 無意味な過程に価値はない。

 ファインドフィートにはそうとしか捉えられず、故に、彼らの意に反する道しか選べない。

 

「……はい、そうですね。 また何かあったら、ここで診てもらいます。

 その時はまた、よろしくお願いしますね」

 

 だから、必然。

 ひどく薄っぺらい社交辞令を舌先に乗せるのが、いま出来る精一杯だった。

 

 

 ◆

 

 

 ことり。 街道の端、歩道の段差で身体が跳ねる。

 合わせて白髪がさらりと揺れて、太陽の光を淡く乱反射した。

 車椅子を押してもらいながらの帰路は、およそ快適とは言い辛い有様だ。

 

 なにせ、季節は盛夏。 時刻は真昼。

 天から差す光は強く、網膜と肌を焦がしながら這い回る。

 当然ながら熱も相当なもので、汗がじっとりと滲み、前髪が額に張り付いてしまう。

 こめかみに浮かぶ雫は珠のように膨れ上がって、時折、重力に負けては顎を伝い、胸元まで落下していく。

 

 せめて風が吹いてくれたらもう少しマシだったのに、と額を拭う。 包帯が水気を吸って、少しだけ重くなった。

 生憎と、今日の天気はほぼ無風。 通行人は皆無で、車も殆ど走っていない程だ。 それこそ、セミの鳴き声すら聴こえない猛暑である。

 耳をすませばアスファルトの歪む音が聴こえてくるのではないか。 なんて、妄想してしまうほど、茹だる熱気がこの街を呑み込んでいた。

 ファインドフィートは相当に我慢強い質ではあるが、あくまでも単なるひとの子。 この熱と汗の不快感は疎ましくて仕方がなかった。

 

「お父さ──トレーナー。 暑いです。 日傘とか無いんですか?」

「……悪い、持ってきてない。 あと五分でバス停につくから我慢してくれ」

「む……そうですか……。 なら、仕方がないですね……」

 

 ……そもそも最初は、車で移動しようという話があったのだ。

 なのにそれを嫌がったのは、他ならぬファインドフィートである。

 彼女自身にワガママを言った自覚があるだけに、あれやこれやと文句をつける気はなかった。

 

 だからそこで、口を慎む。

 唇の端を掠めていく汗の軌跡もそのままに、薄い桜色を引き締めて。

 

 それ以外に出来ることと言えば、アスファルトの上を滑りながら熱気に歪む町並みを眺める程度。

 ただ目を開いているだけで後方に景色が流れる様は新鮮で、いくらか無聊を慰めてくれる。

 

 

「それで、身体に問題はないか。 必要に応じてリハビリメニューを調整するぞ」

「……なるほど、問題。 問題ですか……」

 

 そんな彼女の様子を退屈していると見做したのか。

 男は愛想の欠片もない顔で、今後の話を口にしだした。

 

 ……こういう時ぐらいは世間話から始めても良いのではないか、と思わなくもない。

 今の寮の様子とか、トレーニングシューズの新作とか、男の過去の話とか。

 

 どうせ時間は余っているのだ。 今からあれやこれやと脳味噌をこねくり回して育成プランを練ろうにも、実行に移せるのは暫く後のこと。

 今の少女が努力を重ねた所で、あっという間に努力の範疇を超えてしまう。

 つまり、それが正真正銘の破滅だ。 自滅、と言い換えても良い。

 

 焦って怪我の治りが早くなるのなら幾らでも焦る。

 とにかく努力を重ねた分だけ復帰が近付くのであれば寝食の時間だって惜しんで励む。

 けれど必要なのは努力と休息のバランスであって、努力の絶対量ではない。 そんな事ぐらいは、今のファインドフィートでも理解できた。

 ……だからたまには、余分な話に耳を傾けてみたかった。 けれど。

 

「……今のあなたは、確かにそうですよね」

「何がだ」

「いえ……気にしないでください。 ただ……わたしのバカさ加減に、呆れてるだけですから」

 

 ……ともかく、内容自体はひどく真っ当だ。

 身体の問題。 リハビリメニュー。 復帰に向けた現実的なプランの立案。

 それに対して何と言ったものかと、眉間に小さなシワを寄せて考える。

 

「それで……身体について、でしたか。

 こうして車椅子に乗っている時点で今更な質問だと思うのですが……いえ、あなたが聞きたい事は分かっています。

 言語化し辛い異常、今後に後を引きそうなもの……それらも含めて何も問題ない、と言えれば、良かったのかもしれませんが」

「問題、あるのか」

「…………」

 

 指を持ちあげて、額に張りつく前髪を払いのけた。

 汗に濡れた糸束がまぶたから離れて、生ぬるい新鮮な空気に触れる。

 

 けれど、視界は晴れずに半分のまま。

 眼前を覆う物は何もなくとも、少女の世界は一切変わらない。

 その現実と、今後訪れる障害を意識して──明確な実感を伴い始めたそれに、気怠い溜息を漏らした。

 

「左目が見えなくなりました。

 この状態でもうまく走る為の練習をしないといけません」

「……怪我のせいか?」

「いいえ、無関係です。 ……少なくとも今のトレーナーが気にするべき事ではありませんから、詮索は無用です」

 

 まず、遠近感が狂っている。

 これによってレース中の位置取りの難易度が急激に上昇し、下手をせずとも彼女以外にまで悪影響を及ぼしかねない。

 そして、左右の三半規管と視覚のズレのせいで平衡感覚まで失われている。

 結果的に真っ直ぐ走行する事さえ難しくなり、フォームも崩れやすくなる。

 これは、ただ"走る"という行為そのものにもダメージを与えてしまうモノだった。

 以前のように柵スレスレの内ラチ(インコース)を攻める事はできないし、際どい駆け引きを仕掛けることもできない。

 時速70キロメートルの世界では、あまりにも重たいハンデだった。

 

「新しいトレーニングメニューの考案、お願いします。

 最低限、事故の危険性を無くすぐらいには慣らさなければ」

 

 それでも、せめてもの救いがあるとするなら、それはファインドフィートが大逃げを可能とする脚質であることだ。

 とにかく最初から最後まで一番前を走っていれば、自分以外に危険は及ばない。

 

 これでもし追い込みや差しでしか走れない脚質なら、夢を諦める羽目になっていたかもしれない。

 たとえば、片目界隈の先駆者──タニノギムレットのような空間把握能力でもあれば話は違った可能性はあるが、ファインドフィートには関係ない。

 事実として、少女には対応できるだけの技能がなかった。 だから今あるのは基礎スペックでのゴリ押し戦法だけ。 あまりにもか細い希望だったが、しかし、辛うじて夢の先に繋がる蜘蛛の糸程度の役は果たせていた。

 

「それと……。 ……トレーナー。 次の目標レースは京都大賞典です。 あと三ヶ月ぽっちしかありませんので、可能な限り最速でプランの構築をお願いします。

 ……あなたには、随分と無理をさせてしまいますが……」

「了解、した。 プランは来週までにまとめておく」

「ありがとうございます」

 

 それっきり、会話が途切れる。 同時に車輪も止まった。

 ひとまずの目的地、バス停に到着したからだ。

 幸いにも屋根がついている形式で、日陰に潜り込んだおかげで若干涼しくなった気がする。

 そこでようやく人心地がついて、少女は額を乱雑に拭った。

 精々五分と少しの移動だったというのに既に汗だくで、レースの後の余韻にも似た疲労感を感じてしまう。

 

 車を拒否したのはファインドフィート自身であったとはいえ、流石にこれ程の負担になるとは思っていなかった。

 己の浅慮を後悔してしまうぐらいには、今日の夏の日差しは堪えた。

 

 では、単に巻き込まれただけのトレーナーはどうなのか。

 緩慢な動きで背後を見上げた。

 男も少女に負けない量の汗を流していて、顔も真っ赤だ。 炎天下での行軍は、運動不足の体躯には負担が大きすぎたらしい。

 そしてそれもまた、己の選択のせいなのだと理解して、へたりと耳を垂らした。

 

 

「……トレーナー、水ぐらい飲んだほうが良いのでは? ほら、ここ自動販売機ありますよ」

「ん、あぁ……そうだな。 熱中症に、なってしまうな……少し、待て。 今買ってやる」

 

 少女が示した先。 バス停のすぐ傍らにある自動販売機。

 男はそこに鈍い歩みで近付いて、水がたっぷりと入ったペットボトルを購入した。 残念ながらスポーツドリンクの類は扱っていなかったらしい。

 それをまた鈍い歩みで持ち帰る姿を見守って──自然に差し出されたそれを、溜息とともに突き返した。

 

「トレーナーが先です。 今のあなた、わたしよりもよほど死にそうな顔していますよ」

「そうか……?」

「そうです。 だからはやく飲んで、ベンチに座っていてください……どうせ、バスはもう暫く来ませんから」

 

 少女自身、喉の乾きはまだ許容範囲内だった。 少なくとも、相対する男を休ませた後でも問題ない程度だ。

 そして男に拒否権など無く、故に少女が望んだ通りに動き出す。

 ベンチに座って、水を飲んで、額の汗を拭いもせずに呆けて。

 そんな死人じみた姿を、横目で眺めていた。

 

「……トレーナー。 あなたが、わたしのトレーナーで良かったと思います。 あと……ごめんなさい」

「そうか……。

 ……少し待て、キミの水も用意する」

「ああ、もう少しゆっくりしていても……いえ、ありがとうございます」

 

 男がまた水を買う。

 水気の滴るボトルのキャップを開けて、しっかりと少女に手渡した。

 

 ひとくち水を飲めば、それだけで喉や胃がひんやりと冷える。 心地よかった。

 舌先で唇に残った水滴を舐め取り、日陰と日向の境界線に息を吹きかければ、その吐息でさえも冷気を含んでいるように思える。 無論、錯覚だ。

 

 ──それからやがて、道の向こうから大きなバスが身体を見せるまで、二人揃ってじっと黙りこくっていた。

 その静寂は居心地の悪さを含まない、優しいものだった。

 

 夏の暑さこそ大変だが、不快感に慣れている少女にとっては差し引きでプラスに傾く。

 そう。 それこそ舌の先を摘まれた時の、名状し難い感覚を思えば……大体すべて無視できる気すらしている。 アレに勝る恐怖なんてそうそう無いに違いない、なんて、無意味な自信を持てる程に。

 

 

「……バスが来たな、やっと」

「ええ……やっと、ですね。 思っていた以上に、長い道のりでした」

 

 右方を見やればバスが走っていた。 一般的な市民バスだった。

 重苦しいエンジン音を引き連れて、車線の上を潰していく。

 近付いてくる排気ガスの匂いは、いっそ鼻がひん曲がりそうになるほど臭い。

 

 じわじわと姿を大きくしていく鉄の箱を見て、立ち上がったトレーナーが再度車椅子の取っ手を握る。

 

「……トレーナー、これ、どうやって乗るんですか?」

「スロープを付けてもらう。 まぁ……運転手に頼めば設置してもらえる筈だ」

「なるほど、そういう……。 バスの運転手さんも大忙しですね」

 

 そして、タイヤの軋む音と共に到着する。

 空気の抜ける音、開くドア、顔に吹き付ける冷気。

 声をかけるまでもなく、車椅子用のスロープを抱えて姿を見せた搭乗員。

 日陰の向こうにあるそれらに、足置き場に乗るつま先を向けて。

 

「……ねぇ、トレーナー。 今日は……わたしのわがままを聞いてくれて、ありがとうございました」

 

 後ろ背越しに男に声をかけたけれど、返事は別に求めていなかった。

 ただ言いたいだけ。 ただ伝えたいだけ。 反射行動の積み重ねである人形に何を言っても、何かの変容を生み出す事はない。

 リンゴを放れば地に落ちる。 水面に石を落とせば波紋が生まれる。 風が吹けば髪が揺れる。

 それによって何かが起こるわけではなく、単なる物理現象が連鎖的に発生するだけ。

 ファインドフィートとトレーナーの仲は所詮、そういう物だった。

 

 ……だからくだらない執着を覗かせても、一切の変化を齎さない。

 

「……トレーナー」

 

 エンジンの音に飲まれて砕ける。

 少女の声はか細い故に、己の耳以外の何処にも届かない。

 

「お父さん」

 

 だから、この縋る声は届かない。 届かない。 届いてはならない。

 これは幸せを運ばない。

 少女にも、男にも、父にも、誰にも、冒涜だけを押し付ける。

 

 だから重ねるべきではないと、理解しているのに。

 

 


 

 

 顔は覚えていない。

 名前も覚えていない。

 一緒に過ごした思い出もない。

 どんな人だったのかすら分からない。

 

 だから今できるのは、きっとこういう人だったのだろうと想像する事だけ。

 きっと、頼れる人なのだろう。

 きっと、賢い人なのだろう。

 きっと、強い人なのだろう。

 きっと、諭してくれる人なのだろう。

 

 たとえば、そう。 あなたのように。

 

 



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58話

 

 

 ────。

 

 


 

 

 リハビリ、休養、勉強。 リハビリ、休養、勉強。

 

 退院して二週間。 来る日も来る日も、復帰に向けた土台作り。

 なにせレースの開催までの猶予は残り少ないのだ。

 ファインドフィートに与えられたのはたったニヶ月足らず。

 ()()()()筋力の劣化は殆ど無かったが、怪我の影響は未だに後を引いている。

 既に仮骨硬化期(繋がった骨の補強)は終えているが、その後の数ヶ月──通常であれば──を要する再造形(リモデリング)期は未だ途中。

 車椅子も松葉杖も既に卒業しているが、しかし。

 万全の状態でも負荷の大きい全力疾走に、今の足がどれだけ耐えられるのか。

 

 ……なんて言えども、ファインドフィート自身はさほど問題視していなかった。

 気にしているのは、片目の視界でどれだけやれるか。 そこに尽きる。

 

 まず、ゲートから出る所から問題がある。

 毎回ほぼ最速に近いレベルでゲートから飛び出している彼女であったが、それは両目が揃っていた時のこと。

 残念ながら、片目になった彼女はゲート難である。 ゴールドシップ(気分屋)スイープトウショウ(駄々っ子)と同じ属性だ。

 ただし彼女等とは違って気性を原因としない故に、"改善の余地がある"とも、"改善の余地がない"とも言い切れない。

 もし後方から追い上げるタイプであれば比較的影響は少なかったかもしれないが……現実は真逆の脚質であった。

 

 しかもそれだけではなく、レース中のコーナーカーブも大回りを強いられるし、フォームは崩れやすくなるし、まったく面倒事ばかりだ。

 だからこそ必死に気力を奮い立たせて、練習に励んでみては、いるけれど。

 

「──なので、まずはこうしてゲート練習に励んでいる、という訳です。 コーナー練習だとかはもう少し治ってから……全力疾走に耐えられるようになってから、ですね」

「なるほど。 経緯はよく分かりました。 ですので、もう一度言います。

 ……もう夕方です。 早く片付けて帰宅しましょう」

「……もう少し練習してからで、良いですか?」

「その提案は24分前と12分前にもお聞きしました。 これで3度目の警告です、フィートさん」

 

 少しばかり──そう、ほんの少しばかり気が立っている様子のミホノブルボンの前で。

 少女は薄い微笑みを浮かべながら、ゲート練習用の鉄扉を指で撫でる。

 屋内練習場の一角を占領していた彼女のお供は変わりなく、鈍い光を反射していた。

 

 何度も額をぶつけてしまったから、少し赤くなった肌。

 失敗の痕跡を手のひらで隠して、壁に掛けられた時計を見る。 針は、未だに夕方を指し示していた。

 

「……フィートさん、良いですね?」

「…………。 はい、分かりました」

 

 了解の意を返したものの、納得はしていない。 それに疑問もある。

 授業を終えてからずっと練習に取り組んでいたが、この予定を誰かに言った記憶は無かった。 トレーナー経路で繋がる筈は無かったし、LANAのやり取りでも書いた記憶はない。 自室のノートに予定を記しているわけでもない。

 だというのに、ここでトレーニングを行っているという情報が何処から伝わったのか。 まるで分からなかったのだ。

 

 ……だが、予定を知られている事自体は別に良い。

 誰の口から伝わったのか、友人か、教師か、善意を騙る第三者か。 そこはどうでもいい。

 

 しかし、やたらと練習に反対してくるのはまた別だ。

 冷たい口ぶりで連れ帰ろうとする少女と相対して、どう対応したものかと思い悩む。

 本来なら夏合宿の時期であるのに、態々退院に合わせて寮に戻ってきた彼女に不義理なことは言いたくなかった。

 

「……でもやっぱり、もう少しだけ練習してからはダメですか?」

「ダメです。 許容できません」

「はい……」

 

 それに、理不尽な物言いをしている訳でもないのだ。

 他人の視点から考慮すれば、なるほど、止めるのも仕方がないと、渋々ながら納得できる程度。

 もし仮に逆の立場であったなら──間違いなく、ファインドフィートも同じ行動をしていたからこそ理解できる。

 

(とはいえ、慣らしの練習にとにかく時間を使いたいのも事実……)

 

 はてさて、困った。

 矮小な悩みを抱えつつ、一旦の対応として鈍い動作で練習機の周囲を片付け、軽い点検を済ませる。

 色々思うところはあるが、まずはやり過ごす為に。

 

 そしてこの場をやり過ごせたら、見つからないよう時間をずらしてみるべきか。 大雑把に時間を計算し、おそらく気取られないであろう移動予定を組み立ててみる。

 メニューは、トレーナーに改めて作成してもらえば良い。 場所は最悪外部の設備を借りる。

 ミホノブルボンやトウカイテイオーなど、特に邪魔しそうな面々にさえ見つからなければ、何とかなるのではないか、と粗雑なプランを考えた。

 

 ……しかし、見つからない時間といえば深夜以外にありえない。

 寮にいる時間は殆ど常にミホノブルボンと行動していて、寮の外でも誰かしらの目がある。 たとえば、今日のように。

 

 つまりこのプランは、22時の門限を無視するという前提に成り立つものだ。

 もし学園に伝われば問題になるかもしれない……否、確実に問題になる。 事前に申請するとしても、一体どんな理由を書けるというのか。

 トレーニングを止められたくないから外に出ます、なんて、受領される筈もなし。

 まだ未成年である彼女が夜にほっつき歩けばやはり目立つし、補導の対象にもなりかねない。

 しかも深夜をトレーニングに充ててしまえば睡眠時間を削る羽目にもなってしまう。

 考えれば考えるほど、穴だらけの破綻したプランだった。 流石に成功するとは思えない。

 

「……明日からは、私も手伝います。 ですから……今日は帰りましょう、フィートさん」

「わかり、ました」

 

 ……実に、困ってしまった。

 結局、こういう心配を振り切ることが出来たなら何も悩む必要もなくなるのだけれど、そんな事が彼女に出来るはずない。

 

 そうなると、残された方法は正攻法だけ。

 実績の積み重ね。 無理ではなく妥当である事の証明。

 ファインドフィートの身体には適切な負荷しか与えられていないというデータさえ提示できれば、この少女を納得させられるに違いない。

 

「……結局、こうなるんですね」

 

 諦念。 納得。 部分的に相似する色を瞳に重ねて、対面の少女のつま先を見下ろす。 少しだけバツが悪かった。

 それから若干の間を空けて、"まぁ、仕方ないか"と渋々受け入れた。

 

 最終的により良い結果を導き出せるのであれば、一日程度のズレには目を瞑る。

 時にはこういう妥協策も必要なのだと、頑固な彼女にしては殊勝な考えを建前にして。

 

「……じゃあ、今日は帰りましょうか。 ブルボン先輩」

 

 練習機の横。 壁際。 フローリングの上に置いていたカバンを持ち上げ、薄く微笑みかける。

 赤いジャージを汗で汚すことすら出来ず、思っていた成果を出せもしなかった。

 残りの猶予は少ない上に、克服すべき弱点は放置されたまま。

 

 けれど。 あれやこれやと理由をつけた物の、一番の理由は他にある。 至極単純な理由だ。

 つまりファインドフィートは、安堵の吐息をこぼす彼女を、どうしても裏切れないだけ。 それだけだった。

 

 ……それに、一緒にいる時間だけは、手を穢す赤色が消えてくれたから。

 怪我を言い訳に出来る今の間だけでも、せめて、なんて。

 

 

 ◆

 

 

 明くる日の、更に次の日。 八月も中旬を迎えた頃。

 ファインドフィートはバスに乗って、ちょっとした遠出をしていた。

 服装は普段通りの学園制服だったから、どこかへ遊びに行く、という風情でもない。

 どちらかといえば表情は真剣なもので──親しい人物なら察せられる程度の僅かな差異だったが、ともかく浮ついた雰囲気は何処にもなかった。

 

 早い話が、目的地は夏の合宿所であった。

 ひと夏の間だけの合宿である故に残りの期間はそう長くない。 が、せっかく利用できるのなら使わない手はない。

 つい先日までは一応、療養に専念するとして学園に留まってはいたが、今はもう殆ど治っているのだ。

 それこそ多少ハードなトレーニングにも耐えられると医療機関にだって保証されている。

 もちろん、二度目の骨折なんて愚を犯さぬよう細心の注意を払うべきだが、その警戒が必要なのはもう少しの間だけだ。

 

「……とはいってもトレーナー(お父さん)、本当にこのメニューだけなんですか?」

「ああ、そうだ。 キミの骨の強度を勘案の上で決めたんだから覆らないぞ」

「それは……そうかもしれませんが。 しかしこれでは……」

 

 さすがに少なすぎるのではないかと、唇の先を尖らせる。

 すぐ後ろの座席、ノートパソコンを弄るトレーナーに向けて、もう少し厳し目の代案は無いかと尋ねた。

 が、考慮もされず"存在しない"と突き返されるのみ。 非情だった。

 

「今が八月で、京都大賞典が十月の頭。 天皇賞の秋が十月の末頃。 時間の余裕はあんまりないと思います……」

「だとしても、だ。 急に負荷を上げるのは許容できん。 段階を踏んで慣らしていけ」

「…………仕方ないですね」

 

 焦燥交じりの呟きをこぼして、車窓にもたれ掛かる。

 手元の紙束を膝の上に放り投げ、紙面の文字から目を逸らす。

 神経質になるべき時はたしかにあって、それは今だ。 理解している。 納得もしている。 間違っているのは己なのだという答えは、いつだって頭の中に居座っている。

 そしてその自縄自縛の正当性は、過去の過程が肯定していた。

 

 あるいは、今の男にならファインドフィートの意志を強制することはできるだろう。

 しかし、それを選ぶのは嫌だったから、大人しく矛を収める。 こうして窘められるのも、()()()()()幸福なことなのだ。

 

「でも……多少の無茶はさせてくださいね。 何もなしに勝てるほどわたしは優秀じゃないですから」

「……キミは十分、優秀だと思うが」

「まさか。 本当に優秀ならこんなにやり直す必要なんて無かったですよ。

 そもそもわたしなんて、姉さんの下位互換でしかないですから」

「俺はキミのお姉さんを知らない。 だから、想定に挟む意味はない。 今目の前にいるキミが、ファインドフィートだからな」

「…………そう、ですか」

 

 諦めとともに、窓ガラスに耳をくっつける。 吐息が車窓に当たる度に、薄く曇る。

 その即席のキャンバスに絵を描きながら、到着までの時間を浪費することに挑戦してみた。

 たとえば猫。 たとえば犬。 たとえば星。 描いて、消して、曇りを作って、また描いてみる。

 ……だが所詮、手慰みのくだらない暇つぶしだ。 こんなもので残りの移動時間全てを消費しきれる筈がない。

 

 

 はぁ、と、大きな溜息をもうひとつ。

 今までで一番大きな曇りが出来たが、また指を伸ばす気にもなれない。

 窓ガラスに反射する青い瞳が退屈に淀んでいる様を眺めて、しかし何をやる気も起きず。

 自分の尻尾の毛並みを延々と整えるぐらいしか、出来ることは何もなかった。

 

 

 ◆

 

 

 海沿いの合宿所に到着したのは、昼過ぎになる頃だった。

 徐行運転で駐車場に侵入し、指定の位置まで移動する。

 それから、ききぃ、と鳴るブレーキ音の余韻までを確かめて、鈍重な所作で立ち上がった。

 長い時間座りっぱなしだったせいで凝り固まった肩や腰。 座席の傍らで大きく伸びをして軽くほぐし、車の前方を見る。

 既に、ドアは開いていた。 潮風の香りが漂い始める。

 

トレーナー(お父さん)、これ、持って降りますね?」

「ん……あぁ、すまないが頼む。 一応精密機械だから丁寧にな」

「ええ、もちろん」

 

 そうして抱え上げた黒いケースは見た目にそぐわぬ重さで、トレーナーが持つにはやや積載量オーバーだろうと確信させるほど。

 これをバスに持ち込んだ時は彼自身の手で持ち込んだ筈だが──随分と無理をしたのだろうな、とほんのりと哀れみを抱かせる。

 今の彼女であれば指先でつまめる程度の重さでも、それでもヒト耳には十二分に効く重さなのだ。 もし仮に、ファインドフィートが以前の肉体であれば、無理をしたとしても一時持ち上げることすら叶わなかったに違いない。

 

「あとついでにコレ……この、アンクル入りのダンボールも持って降りときますね。 トレーナー(お父さん)も程々の所で切り上げてください」

「分かった」

 

 左腕で、俵を抱えるようにダンボールを保持。

 右腕と脇でボストンバッグをはさみ、右手で黒いケースを持つ。

 過積載なにするものぞと言わんばかりの風体で、悠々とバスから降りた。 久方ぶりの外気と日光だ。 やけに目に染みる。 片目だけなのに、か。 片目だけだから、か。

 何にせよ、目を細めたせいでただでさえ狭い視界が更に狭まった。

 

 そして、その視界の奥。

 大きな合宿所に隣接する駐車場の端、アスファルトとの境目に、見覚えのある形を見つける。

 

 おや、と片眉を上げる。

 目をさらに細めてじっと見てみれば、ファインドフィートもよく知る少女──トウカイテイオーのものだった。

 そして七月から合宿に参加しているのだからジャージ服を着ているのかと思いきや、着用しているのは普段通りの小綺麗な私服。

 まるで夏休みを謳歌する学生のようにも見えて、少しだけ不思議だった。

 

「──やっほ、フィート! 時間通りだね! 荷物持とっか?」

「こんにちは。 今朝も電話でお話しましたが……その、そんなに気を使わなくても良いですよ。 殆ど治り切ってますから」

「いーからいーから」

 

 なんて言いながら、抱えていたダンボールやボストンバッグを奪い取る。

 少女が語る"殆ど完治した"、というセリフも殆ど信じていないのが態度からも見て取れる。

 とはいえ、否定の言葉を口にしても結果が変わらないことは明白だ。 残念ながら。

 

 故に仕方なく、諦めと共に、最後に残った右手のケースを抱え直した。

 

「……では、早速荷物を置いて──」

「荷物置いたら遊びに行こうよ。 ほら、せっかくの海だし!」

「──荷物を置いて、先にトレーニングを済ませます。 ですから……ほら、テイオーさんは先に遊んでいてください。 わたしは気にしなくて良いですから」

「え~、せっかくこんなにいい天気なのに!?」

「いい天気だろうと何だろうとたいして関係ありませんよ」

 

 耳と尻尾を垂らして、無言の抗議をするトウカイテイオー。

 そんな彼女の前で呆れたふうに頭を振って、宿舎の側につま足を上げる。

 

「──それではまた後ほど……あ、荷物は自力で持っていきますから」

「いやいやいやいや、待って待って。 ボクがこんなにお願いしてるのに酷くない? ねー! 遊ぼうよー!」

 

 はぁ、と気の抜けた声で相槌を返す。

 ファインドフィートの目に力はなく、淡々と物事を進めようとする考えが薄っすらとにじみ出ていた。

 そんな彼女にあれこれと言い募ってどうにか気を引こうとするが、生憎と気のない返事が返ってくるのみ。

 せっかくの海だから泳ぎたい、とか。 偶には食べ歩きもしたい、とか。 こういう時ぐらいは先輩風を吹かせたい、とか。

 赤裸々な欲望──欲望と言うには些か純粋すぎるが──を語って、尻尾を絡ませる。 当人が比較的小柄なことも相まって、駄々をこねる子供にしか見えなかった。

 

 "トレーニングが終わった後なら付き合いますから"、と代わりの案を出しても中々受理されない。

 曰く、昼に行くのと夜に行くのは全く違う、と理由まで付けて。

 そうして歩みを止められると振りほどくのも容易ではなかった。

 

 ならばどうするのか。 ケースを右手の先にぶら下げたまま、うぅむと唸って悩みだす。

 そんなファインドフィートを見てか、単にタイミングを見計らっていたのか。 トウカイテイオーがさもいい案を思い付いたと言わんばかりの顔で口を開いた。

 

「うん、わかった! じゃあ交換条件ね! 遊び終わったらボクも併走する! あとスズカも連れてくるから! 大逃げ同士、何かしらいい刺激になるんじゃないかな!?」

「ええ……」

「ハイ決定! スズカも多分大丈夫って言ってくれるよ!」

 

 そう、特に関係のないサイレンススズカの身柄を持ち出した代案だ。 まだ了解も取っていないのに随分な気合の入りようだった。

 だが出された条件はさほど悪くない。 否、むしろ良い。

 少しの時間と引き換えに、優れたお手本を用意してくれるというのだから。

 つまり、()()()としても十分。 多少遊びにふけても最終的に良い方向に向かうのであれば、きっと。

 ファインドフィートも別に遊びたくない訳ではないのだから、それなりに魅力的な提案だった。

 

「ちなみに遊びに来てくれなかったらスズカはお預けだよ。 少なくとも合宿所に居る間は一緒に走らせないから」

「む……そうきましたか」

 

 しかし、さて。 どうしたものかと首を傾ける。

 右へ左へ傾けて、考えて。

 中々踏ん切りがつかなかったから、バスの中のトレーナーに意見を求めようとした。

 

 ……が、何かを言うまでもなく立てられた親指が返された。

 ふたりの会話はバスの中にまで届くほどの音量だったようで、席に座る運転手の曖昧な笑みが答えを物語っていた。

 

 

 はぁ、と溜息をつく。 ゆらりと尻尾を振る。

 そして上ずった納得の意と共に、仕方がないと向き直った。

 

「……まったく、そこまで言われたら仕方ないですね。

 遊び終わったら、わたしのトレーニングにもちゃんと付き合ってくださいね?」

「よっし、そうこなくっちゃ! 

 あ、フィートの水着はこっちで用意してるから安心してね。 どうせスクール水着しか持ってきてないだろうし」

「何か問題でも……?」

「大アリだよ、海を何だと思ってるのさ!」

 

 そこまでしてようやく。 "じゃあ荷物だけ置きに行こう"と話の前進を見せる。

 それに、何もせずに外に立っているだけでも疲れてしまった。 額にじんわりと浮き始めた汗の粒を片手で拭い、遮蔽の下で目を細めた。

 細い視界の中で、ぼやけた少女の顔が、くっきりと明確に定まる。 それはそれは綺麗な笑顔をしていて──その目が己を見ている事に矮小な喜びを感じてしまうのだから、ひどく現金なものだった。

 

「ほら、こっちこっち!」

「そんなに急がなくてもいいのでは……?」

「実はブルボンを待たせてるんだよね、フィートを遊びに連れていくって約束してさ……!」

「えぇ……」

「だから軽めの駆け足! 軽めね、軽め!」

 

 ぶっきらぼうな言い草とは裏腹に声音は高く、内側から僅かな高揚を滲ませている。

 そして今なら、表情にも、その内面がほんの少しだけ垣間見えていた。 彼女も所詮、単なるひとりの子供なのだ。

 

 それからもう一度己のトレーナーに声をかけて、片手間の返事を合図にアスファルトを蹴り上げる。

 前に立ったのはトウカイテイオー。 後ろを追うのはファインドフィート。

 

 終わりかけの夏の空。 遠くに尾を引く飛行機雲。 海の向こうの入道雲。

 その下で、潮の香りで尻尾を濡らして、小さくも大きい背中を追いかけた。

 最後の夏を楽しむために。

 

 


 

 

 潮騒の音が聞こえる。

 どこまでも耳障りな、気持ち悪い音だった。

 

 



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59話

 

 

 ────。

 

 


 

 

 照りつける日光。 吹き抜ける風。 青い海。

 白い砂浜に突き立てられた二つのパラソルと、日陰に敷かれたレジャーシート。

 多くの学園生で賑わう砂浜の一角であるそこが、今日の集合地点だった。

 到着後の諸々の手続きを終え、一足先に移動していたトウカイテイオーに指定された場所だ。 目印は白と緑のパラソルで、ファインドフィートの視界にはそのひとつしか見当たらなかったから、まず間違いない。

 幸いにも色覚は残っている。

 

 所在なさげに肩を丸めながら、それなりに多い生徒の隙間を縫って歩く。 ごった返している、という程ではないが、注意しなければ普通に衝突しそうな場面がチラホラと見受けられた。

 ファインドフィートは片目である故に、尚更気をつけなければならない。

 

 右を見る。 左を見る。 足を前に進める。

 横目で見る周囲の少女達が着ている水着は大体市販の物で、スクール水着を着用しているのは少数派だった。 というよりも、トレーニングを行っているらしき面以外──各々の自由時間を過ごす者はみな、遊び用の華やかなものだ。

 当初の彼女はスクール水着で来るつもりだったが、なるほど、と頷く。 遊ぶ時はきちんとした物を選ぶのがセオリーらしいと、今更ながらに実感した。

 

 とはいえ、その遊び用の水着を着ているのは中々落ち着かない。

 テレビでも見かけるようなビキニとは違う物で比較的肌の露出は少ないが、どうしても慣れなかった。

 

 ……スクール水着であれば、まだ良かったのだ。 着用は簡単で、動きやすくて丈夫。

 水泳するには丁度よくて、羞恥以前にトレーニング用装備の印象が先行するから──自分を納得させるのも簡単だった。

 

 が、今着ている水着は別である。

 完全に遊び目的で見栄え重視。 さざ波をモチーフにした浅緑と空色のデザインは、肉体の年齢に見合う程度に可憐だ。

 だから、これに価値を見出だせない。 見出だせないから、拒否感がある。

 そもそも、自意識は未だに十歳を迎えたばかりの少年だ。

 だというのに可愛らしい()()を着るのは流石に──筆舌に尽くし難いものを感じてしまう。 何故これを買ってきたのか、とも少しばかりの不満もあった。

 ……ファインドフィートの前身を知る者は殆ど居ないのだから、そういう事情を汲み取れなんて言える筈もないのだが。

 

「……ってことは、あの病院でも前のわたしの事はあまり知れなかったんでしょうか。

 お医者さんもわたしを忘れたのであれば……確かに、あの人達に伝わる事はないんでしょうけど」

 

 元の性すら知られていないのであれば、この状況にもすんなりと納得がいく。

 ……だからといって、出来る事は何もないのだが。

 

 胸元の傷跡を申し訳程度に隠しながら、砂浜を踏む。

 指の間に入り込む砂を蹴飛ばしながら、つま先で軌跡を描いた。

 

 そして、下ばかりを見て歩いて。

 そのせいで、前から飛んできたビーチボールに反応出来なかった。

 

「────」

 

 顔で受け止める。 衝突したボールがぽぉんと跳ねる。 感触自体はとても柔らかく、肌に傷をつけるものではなかった。

 が、その程度の衝突でも意識に空白を生み出すには十分だ。

 跳ね返ってころころと転がっていくボールを見送るも、困惑が脳内を埋め尽くす。

 

 一体誰のボールなのか。 何故飛んできたのか。

 その答えは、慌てて駆け寄ってきた少女が全身で表現していた。 もはや言葉を聞くまでもない。

 

「ごっめんフィート! 思ってたよりストレートに入っちゃった!」

「……あぁ、はい。 痛くも何ともないので別に構いませんが……」

 

 つまるところ、犯人はトウカイテイオーだった。

 曰く、空気を入れたばかりのボールを投げ飛ばしたら偶然ファインドフィートの顔に衝突したらしい。

 もっとも、何故投げ飛ばしたのかは結局謎のままである。 きっと大した意味はないだろうけれど。 目の前にぷっくり膨らんだボールがあったから投げただとか、そんなレベルだ。

 

「うぅ……ごめんよフィート。 でも表情が固くて助かったね……」

「わたしの顔を何だと思ってるんですか……まったく。 鉄仮面とか言われてたのは単なる比喩ですよ」

「えへへ、知ってる」

 

 ともかく、ようやく合流だ。

 集合場所に足を踏み入れ、パラソルの下に集まっていた面々の輪に混ざり込んだ。

 

 まず一人目は──またもや砂浜でビーチボールを蹴り飛ばしているトウカイテイオー。 学ばない。

 二人目はやけに大きなかき氷を携えたミホノブルボン。 売店で買ったのだろうか。

 三人目には、不思議と久しぶりという気がしないマンハッタンカフェ。 珍しく髪型を変えて、額を出している。

 更に加えて……一応四人目としてカウントするけれど、ファインドフィートとマンハッタンカフェにしか見えていない『お友達/ひいお婆ちゃん』。 服もカフェに合わせてか、フリルをあしらった黒い水着を装着している。

 

 みな、多少の馴染みがある面子だった。

 そして、その彼女等が馴染みのない水着を着ていることに新鮮味を覚える。

 あるいは()()もこういう場面があったのかもしれないが──生憎と、今のファインドフィートの記憶には残っていなかった。

 

「どうも、お待たせしました」

「……。 私達もつい6分前に集合が完了した所です。 つまり、誤差の範疇かと」

「……ブルボンさんのかき氷はまだかなり残っていますから……フィートさんも、ひとまず座ってゆっくりしては……?」

『ひ孫、直接顔を合わせるのは久しぶり』

 

 一瞬だけ、胸元の傷跡に視線を感じた。

 ……が、勘違いとも錯覚するほど一瞬の出来事だった。

 何事も無かったかのように目を逸らして普段通りに振る舞う先輩に合わせて、シートの端に腰を下ろす。

 それからひんやりと冷えるプラスチックと日差しの下の熱砂との境目に、ゆらりと尻尾を置く。 臀部が微かに熱かった。

 

「では改めて……やぁやぁフィート、すっごく似合ってるよ! さすがはワガハイの盟友、マックイーンのチョイス……いいセンスしてるね!」

「……あぁ、道理で……テイオーさんならフィートさんに()()()()()()()と思っていましたが、そうだったんですね。 とてもお似合いですよ、フィートさん」

「それどういう意味~!?」

「その、テイオーさんの私服を思うと……ですね……。

 ……まぁ、そういう意味です……」

「ちなみに、サイズは私から提供しました。 目測ですが、誤差はプラスマイナス5ミリ以下かと」

「目測……?」

 

 目測。 サイズを目で測ったということ。

 ミホノブルボンが発言した情報の入手経路にそこはかとない違和感を感じる。

 

「……まぁ、いいでしょう」

 

 が、途中で思考を放棄した。 色々と情報量が多すぎたのだ。

 少女の矮小なる脳みそは、あっさりとキャパシティオーバーを起こしてしまっていた。

 

 だから、まあ。

 何にしても、誰かに手間を掛けて選んでもらった物だし、と。

 流されるように、羞恥を溶かさぬままに飲み込んだ。

 

「……ところで、集まったのは良いんですが」

 

 今もビーチボールと戯れているトウカイテイオーに顔を向ける。

 そして、これから何をするのかと問うてみた。

 すると行動からも分かる通り、"とりあえずビーチバレーしたい"と返ってくる。 せっかく用意したのだからそれはそうだろう。 納得だ。

 

「でもさ、他にやりたいことがあればそっちでも良いよ? どーせ時間はたっぷりあるし」

「他に……ですか」

 

 指先を顎にあてる。

 他にやりたいこと。 他に出来ること。 選択肢。

 口の中で転がしてみれども中々咀嚼できなかった。

 

「ブルボン先輩は、なにかありますか?」

「……いえ、特に希望はありません。 フィートさんとテイオーさんにおまかせします」

「では……カフェさんは?」

「同じく、おまかせで。 私としては……タキオンさんの暴走から、逃げていたいだけですから」

「……なるほど、困りました」

 

 困り眉を垂らし、一応自分でも考えてみる。

 けれどもやはり、何も思い浮かばない。

 もし水泳が得意であれば水中レースと洒落込むのも良かった。 が、残念ながら少女は泳ぐのが苦手だった。 犬かきすらできない筋金入りのカナヅチだ。

 

 ……というよりも、選択肢を考える以前に、である。

 ファインドフィートはそもそも、海での遊び方をほとんど知らなかった。

 

 昔、家族で海に行ったような記憶はあったが、しかし、当時の彼女──彼に、遊びに興じるほどの体力はなかったのだ。

 遊んだ経験がなければ、知識だって存在しない。

 知識だけを蓄えた所で、できないのなら一層惨めになるだけだったから。

 

 だから彼女が知っているのは焦げつく夏の暑さと、光に反射して波打つ水面と、それらを眺めるパラソルの下の、僅かに冷えた空気程度だった。

 どう解釈しても"遊び"とは言えない色褪せた"それ"が少女が持つ数少ない海での記憶である。

 

 つまり、いくら考えたところで無意味だ。 他の選択肢を提示する事なんて出来ない。

 無知とはそういうものだった。 無知なる者に選ぶ権利などない。

 これも、あれも、それも、どれも、全てにおいて同じ事だ。

 

「特に何もなければ……うーん、とりあえずバレーしながら考えよっか。 出来る事なんて沢山あるんだしさ」

「……ええ、そうですね。 きっとそれがいい」

 

 だから、ただ、曖昧な笑顔で頷く。

 そして、差し出されたボールを受け取った。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ビーチバレー。 続けてスイカ割り。 幾つかのチームを混ぜたビーチフラッグ大会。

 それからメジロマックイーンとライスシャワーの大食い大会を見たり、サーフィンをしているウオッカとダイワスカーレットを眺めてみたり。

 その後は浮き輪で波に流されたりと……元々思っていた以上に夏を楽しんだ。

 夢を目指す『ファインドフィート』にとっては、大した意味を持たない時間だ。 けれども一個人としてのファインドフィートには、大きな意義を持つ時間だった。

 頭を空っぽにして地を駆けるのも、遊びのために頭を悩ませるのも、どちらもとにかく楽しいのだ。

 この場に姉さんもいればよかったのに、と、小さく呟いてしまうほどに。

 

 走って、砂まみれになって。

 海水に浸かって、びしょ濡れになって。

 日光を浴びて、からからに乾いて。 そしてまた、砂に塗れる。

 遊んで、遊んで、遊んで、束縛を欠いた仮初めの自由を謳歌する。

 

 

 そうしている内に、空の果てに朱色が混ざり始めた。

 日は傾き、遠くの夜を引き連れてくる。

 楽しい時間もやがて通り過ぎていくもの。 本当に、あっという間に。

 没頭すればするほど体感時間は須臾の領域にまで圧縮されてしまう。

 

「もう、こんな時間だなんて」

 

 知らずの内に訪れていた変遷の始点。

 目に見えた時間の区切りを波打ち際から見つめる。

 

 みなでの遊びの時間も一段落がついて、各々まばらに自分の時間を過ごし始めた頃だった。

 

「……あぁ、でも。 わたし」

 

 ふと囁く。

 "わたし"。 "私"ではなく、"わたし"。

 この場にいる自己だけを指す言葉。 『姉』のそれとは違う響き。

 ほんの少し舌っ足らずで柔らかく、自己の輪郭を撫でるだけの言葉だ。

 その"わたし"が、ぽつりと心の内をこぼした。

 

「わたし、楽しかった」

 

 寄せては返す波の音に飲まれて砕けるほど、小さく。

 満ち足りているように。 物足りなさを感じているように。 寂しさを漂わせるように。 無邪気な童女のように。

 何れの表現にも相似していて、しかし毛の先ほどの相違が介在する声音だった。

 

 もしも共通する色があるとするなら、根幹にある執着から染み出した色ぐらいだろうか。

 その執着の色が黒いのか、白いのか、青いのか、赤いのか。

 雑多な情で塗り重ねられているせいで、見ただけではちっとも分からないけれど、根っこには確かにそれがあった。

 もしも正体を知りたくば、その雑多な情を爪先で引き剥がすか、どろどろに溶かして拭うしかない。

 

 そうして日の下に曝したなら。 そこには裁きを求める顔とは違う、また別の顔がある筈だ。

 ……執着の向かう先が、なにも一つだけとは限らない。

 

「……そろそろ戻らないと」

 

 ──ならばこそ、終わらせなければ。

 名残惜しさを滲ませる視線を、もう一度周囲に投げて、五歩隣のミホノブルボンに歩み寄る。

 

 

「先輩、ブルボン先輩」

 

 "もうそろそろです"、と。

 心底から惜しみつつも、離脱の意を伝える。

 すると少女はぱちくりと目を瞬かせて、なるほど、と一度頷いた。

 元々の予定は事前に教えてある。 故の得心だ。

 

 

 ──しかし、大変困ったことがある。

 ミホノブルボンは、まだ己の後輩を帰したくなかった。

 だって、せっかくの合宿で、せっかくの海で、せっかくの自由時間なのだ。

 なのにもう終わらせるなんて……あんまりにも、勿体ないではないか。

 

 

 だから、軽い口調で。

 今日の晩ごはんを言い当てようとする時と然程変わらない温度で。

 ミホノブルボンにとっての、実に()()()()()代替案を口にする。

 

「では、トレーニングは明日に回しましょう」

 

 提案ではない。 断言する口ぶりだ。

 反論されるなんて露ほどにも考えていない語気で、極々自然に話を進めていく。

 日常会話の延長線上。 単なる世間話だ、所詮は。

 

「何せ今日のフィートさんは移動当日です。 フィートさんはまだ三年目に入ったばかりですから、もしかするとしっくりこないかもしれませんが……今日一日を休養に使うのは至極真っ当であり、何ら可笑しいことはありません」

「いえ、それは違──」

「違いません。 なぜなら、私やライスさん、テイオーさん……チームスピカの皆さんも同じだったからです。 適切に休養を挟み、適切に遊ぶ。 只管トレーニングに打ち込むよりも、安定して高いパフォーマンスを維持できる事は明らかです。

 つまり、これが自然なのです」

「…………っ」

 

 それからファインドフィートの目をじっと見つめて、"何か変なことを言いましたか? "と小首をかしげる。

 

 変なことか、否か。 これを明確な二択で表現するなら、否──変なことは言っていないと言う他ない。

 なにせこれを言っているのが、よりにもよって無敗の二冠だ。 妄言というには実績が伴いすぎている。

 その上チームスピカだって、あの面子だけで八大競走の大半を勝っているのだ。

 揃いも揃って結果を出しているだけに反論を打ち出せない。

 

 あるいは、ファインドフィート自身の実績を持ち出すことも不可能ではない。

 が……その実績がやり直しの上に成り立つ統計上の外れ値であることは自覚していたからこそ、口に出すことは憚られた。

 

「……ですから、今日は何も考えなくていいのです。 遊ぶことこそが今一番()()()行いです」

「そう、でしょうか……?」

「はい。 ()()()()()()()()

 

 そこからさらに続けて断言されて。

 流されるように、"そうかもしれない"、と思えてしまった。

 常に冷静沈着な彼女らしくない口ぶりであったけれど、ファインドフィートには実に効果的だった。 自分自身の芯を持たず、自己を嫌悪している彼女にとっては。

 

「不安に思うことは何もありません。 これが最良の結果を生むのですから」

「……本当に? でもわたしは──」

「本当です。 私に嘘を発言する機能は搭載されていません」

 

 二の句まで封じられてしまえば、もう。

 

「さぁ、まずはシャワーで砂を落としましょう。 それから少し一息入れて、お散歩しましょう。

 夜になったら大浴場でお湯に浸かって、ゆっくり疲れをほぐすのです」

 

 もはや、従うことしか出来ない。

 

 だってここには、ファインドフィートしかいない。

 悪影響を及ぼしかねない存在には()()()敏感な女達は眠っていて、表に出てくることはない。

 それが意味することはつまり、指揮者の不在である。 だからこそ、今の彼女に新しく与えられた言葉達は、命令に等しい重みを有してしまう。

 

 ……もちろん、ミホノブルボンという少女に悪意はなかった。

 心理戦を仕掛けているだとか、そういう小難しい話でもない。

 

 けれど今まで多くの失敗を乗り越えてきた彼女は、失敗した時の感情の、その残り滓を抱えている。

 幾重にも積もっていく沈殿物は日を追うごとに大きくなっていく。 少しずつ、じわじわと肥えていく。

 そうして僅かな知識を蓄えながら、ああしろ、こうしろと、心の奥底から囁きかけてくるのだ。

 失敗する度に、また夢になって溶けるというのに。

 

 

 ◆

 

 

 そして、時計の針をぐるりと回す。 分針を6周。 時針を半周だ。

 ミホノブルボンの宣言通りに過ごした後の夜中。 和風の広間に所狭しと敷かれた敷布団の一角にいた。

 そうそう感じた事のない強い疲労感と共に、部屋と同じく和風の布団に寝そべる。 近場の商店街を散歩した所までは良かったが、大浴場の段階で少々大変な目にあってしまった。

 最終的にどうにか折り合いをつけて風呂に入ったけれど──少女の精神はそもそも幼かったから、そう大きな壁はなかった。 喉元過ぎれば熱さを忘れる、それと同じだ。

 服を脱いで浴場に入った頃には何も考えなくなっていたから、きっとそういう事だった。 間違いない。

 

 ……とにかく、である。

 結果的にはさっぱりした。 肌もつるつるだ。

 それに何よりも、自分以外の誰かに背中を流してもらうのは何故か楽しくて、ひどく懐かしかった。 満足だ。

 

 

 それから湯冷めしないうちに体操服に着替えて、ちょっとした余暇を過ごして。

 今はそのあとの、就寝時だった。 つまり一日の終わりだ。

 結局トレーニング出来なかったな、と独りごちたけれど、発言に反して声音はどこか満足気だった。

 

 

 ……それほど充実した時間を過ごしたのだから、疲労感は間違いなくある。

 だというのに、中々眠れない。

 目を瞑って羊を百匹数えても、ちっとも眠気が訪れなかった。

 

 それは一体何故なのか。

 答えは、白い首筋に薄っすら滲む汗にあった。

 つまり、とにかく蒸し暑いのだ。

 夢を見るのが怖いからとか、胸が痛むからとか、そんなよくある理由ではなかった。

 

 腹の上に通気性抜群の薄っぺらい毛布をかけただけなのに、胸元にまでじっとりと汗が浮かび始める。

 部屋の隅では扇風機が回っているけれど、時折届くそよ風だけでは夏の暑さを拭えなかった。

 

 それもその筈。 右腕にはセミにようにしがみついて来るトウカイテイオーがいて、太ももの上には何故かミホノブルボンの頭が乗っている。 そこそこの重装備だ。

 だからひたすらに、蒸し暑い夜だった。

 

「……あつい。 寝てるだけなのに、あつい」

 

 そのせいで、なのか。 やけに目が冴える。

 真っ暗闇の中、パチリと瞬いた。

 光はない。 故に青は反射せず、部屋の中は変わらず暗黒に閉ざされたまま。

 

 だから、視覚以外──耳の感覚が研ぎ澄まされてしまう。 やけに気になって仕方がなくなる。

 扇風機の低い駆動音。 鈴虫の甲高い鳴き声。 十の寝息。

 そして他に聞こえるのは、潮騒の音。

 延々と、滔々と、鼓膜をねぶる。 此処に来てから一度も途切れなかった鬱陶しい雑音だ。

 

 ……これが、ひどく気持ち悪い。

 眉根を寄せて苛立ちを面に出すほど、気持ちが悪い。 吐き気を催してしまう。

 

 しかも延々と繰り返す音は、存在する筈のない意思を持っているかの如く、誘うように振る舞いはじめるのだ。

 引いて寄せて、拡大と縮小を重ね、言葉に類似した規則性を表す。

 ざざぁ、ざざぁざざぁ、ざざぁ。 耳を塞いでも指の隙間をすり抜けて、頭を苛む。

 どうあっても聞き続けるしかないなんて、ひどい拷問だ。

 

 やがて、未熟な嫌悪感が掻き立てられて限界に至るまで──さほど大した時間はかからなかった。

 

「……っ」

 

 ため息を一つ。 苛立ちで二つ。

 

 右腕の拘束から音もなく抜け出し、上体を起こす。

 そして目を覚まさせないようミホノブルボンの頭を持ち上げ、トウカイテイオーの腹に乗せる。 トウカイテイオー自身は近くに進出していたサイレンススズカにしがみつかせておく。 ちょうど都合がよかった。

 

 それから二人の寝息に変調が無いことを確認して、ゆっくりと立ち上がった。

 衣擦れの音に気付かれた様子はない。

 今この部屋で目を覚ましているのは、やはりファインドフィートだけだった。

 『ひいお婆ちゃん』ですら部屋の隅の方で丸くなって眠っている。

 

 ……幽霊なのに変だな、と思わなくもない。

 あるいは、真っ当な生き物でなくとも眠る機能だけは共通するのか。

 その理論であればファインドフィートの事もまとめて説明できるから、多少の筋は通っているように錯覚できる。

 ……そもそも『ひいお婆ちゃん』が幽霊ではない、という可能性も残っているから、この考察に意味はないのだが。

 

「……どうしてこうも、寝相が悪いひとが多いのやら……」

 

 抜き足、差し足、忍び足。

 眠る少女達を踏まないよう気をつけながら、間をすり抜け外を目指す。

 

 襖を開けて、廊下にするりと這い出して。

 白い尾を引きながら、すり足で外を目指す。

 

 

 そうして、広間からひとりが消えた。

 誰かに知られることもなく、幽霊のように無音で消えた。

 あとに残ったのは扇風機の音、鈴虫の鳴き声、そして多くの寝息だけ。

 他には何もない。 普遍的な夏の夜がそこにあった。

 

 だから潮騒の音なんて、そもそも存在しなかったのだ。

 きっと、最初から。

 

 


 

 

 昔から、藁を掴んで溺れる事だけは得意だった。

 

 



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60話

 

 

 ────。

 

 


 

 

 まんまるに肥えた月。 透き通る星海。

 湿った潮風。 冷たい空気。 固い砂浜。

 合宿所を抜け出した先の海辺は、昼とは真逆の顔をしていた。

 

 それに、少し肌寒い。 当然ながら気温も昼とは真逆だ。

 夏用のジャージを着てしっかり前も閉じているけれど、それでも不足だった。

 肩を抱きながら擦ってみれども寒気がしつこく付き纏う。

 

 ……けれども停滞した静寂に沈む世界は、その寒気を忘れさせる程に美しかった。

 

「これだけでも態々寝床を抜け出してきた甲斐はありました」

 

 呟きと共に、砂浜と波の境目に視線を落とす。 ぽたりと、鼻から血が垂れた。

 白い砂に赤が混じれども、ファインドフィートの目では差異を捉えることは出来なかった。

 

 そして赤を拭いもせず、上下の空に己を晒す。

 空と鏡合わせの水面に映る、不明瞭な月。 波紋の上で、か細く揺れる星の香り。

 今も鼓膜をねぶる潮騒の音とは別の、純粋な波の音。 自然の呼吸。

 

 一身に受け止めるこれを息を呑むほど美しい、とでも表現するべきなのか。

 曖昧な基準しか有さぬ身であるから、どうとも断言できなかった。

 けれども、心に訴えかける物がある事は違いない。

 

 ふつふつと湧いてくる情動。

 ほんの少し唇を揺らせば、なんとなく喉の奥から空気が漏れる。

 望郷、哀愁、羨望。 そういう、さしたる重みのない情が、薄く空に立ち上っていった。 だからおそらく、ファインドフィートはこの景色を楽しむことが出来ていた。

 

「……たぶん、見たのは初めてですね。 夜の海がこんなに綺麗だなんて、知らなかった」

 

 対し、空の海。

 ファインドフィートにとっての、御供の(ヒトミ)にとっての自由の象徴。 夢の徴。 過去の残骸。

 もうぼやけてあんまり見えないけれど、やはり美しい。 上も下も、どちらも。

 ただ、(本物)に手を伸ばしても掴めやしない。

 (偽物)には手を届かせることは出来るけど……すぐ、指の間をすり抜けてしまう。

 どうあっても、星を手中に収める事はできなかった。

 

 

 ……そうして夜と戯れて。

 幾らか待っていれば呼び出し主が姿が現すだろうと思っていたが、しかし。

 どうしたことか誰も訪れず、そのくせ音は止まらない。

 あんまりにも不義理な扱いが、ひどく癪に障った。

 

「……いったい何がしたいんですか、ほんとに」

 

 靴を脱ぐ。 波打ち際につま先を入れる。

 ぱしゃぱしゃと軽く蹴って飛沫をあげた。

 用もなく夜の意味に出張っているほど暇ではない。 こうして暇を潰していられる内に、早めに姿を現して欲しいところだった。

 

 ひとつ、ふたつ、みっつ。

 大海の(ふち)で、潮騒の音をかき消すように。

 よっつ、いつつ、むっつ。

 ねぶる音を、忌まわしい音を、飛沫に溶かしたくて足の甲を振るった。

 淡々と、一時の水遊びに興じて──。

 

 

 さほど、間を置かずに。 背後から、砂を踏む音が聴こえてくる。

 ファインドフィートのものよりも軽く、小さい足音だった。

 その音の主へ振り返ると同時に、さざ波が止まる。

 

「……あなたがわたしを呼び出したくせに、随分と待たせるじゃあないですか」

「謝罪する。 少し、準備に手間取ってしまってな」

「はぁ……いいでしょう。 ……色々と、言いたいことはありますけどね」

 

 銀の御髪。 紫の瞳。

 見知った誰かとよく似た冷たい相貌。 体格はその見知った誰かよりも小さいが、全体的にそっくりだった。

 ただし、両足は半分ほど透けていたから、どう見ても尋常なる存在ではなかった。

 『ひいお婆ちゃん』とは少し違う、浮世離れした色香。

 どちらかと言えば女達──女神によく似た匂い。

 少女が知る女神は二柱だけだったが……しかし、そもそもの三女神という名前から本来は三柱から成る存在だと察せられる。

 故に、目の前の女が最後の一柱なのだと理解するまで、そう大した時間は掛からなかった。

 去年の夏からほんの少し尻尾を出していた、未知の存在。 既知の女達と比べると随分と薄弱な覇気を纏っていた。

 これを芯をなくした姿、とでも表するべきなのか。 ともかく、ファインドフィートが銀髪の女を女神()()()と定義したのは自然な流れだった。

 

 叶うなら関わり合いになりたくなかった、けれど。

 顔を合わせてしまったなら仕方がないと、女に向けて潮でべたつく唇を震わせた。

 

「こんばんは。 海の香りがするひと」

「こんばんは……。 吾とは初めまして、だな」 

「……ええ、初めまして」

 

 そして、できれば会いたくなかった、なんて。

 隔意を視線に込めて、砂浜につま先を沈めた。

 恐怖と失望が交雑した末の色はひどく淀んでいて、青ざめた瞳を醜く歪めた。

 

「それで」

 

 その目のまま発した声はひどく冷たい物だった。

 もしかすると生まれて初めてかもしれない。

 こんなにも強張って、嫌悪の滲む声を出したのは。

 

「一体、何の用ですか? 

 少なくとも、あの煩い音さえ無ければわたしからの用はありませんが」

 

 そんな奇妙な感慨も、戸惑いも置き去りにして耳を後ろに引き倒す。

 眉間に薄っすらしわを寄せ、常よりも鋭くなった目尻で、相対する女の顔を見た。

 

 何かを言いたげに一度口を開いて──閉じて、また開く。

 そうして何事かを躊躇っている様子の女が言葉を発するまで、波の音色で場を満たした。

 幸いにも忌まわしき潮騒の音はすっかり息を潜めている。

 多少の余裕を見せられる程度には、であるけれど。

 

「……。 あぁ、用ならある。 あるとも」

「そうですか。 でもわたしにはありません。 あんまりにも煩かったので此処まで来ましたが……ええ、あれを止めてくれたらそれで良いです」

「音を止めるのは構わないが──帰られるのは困る。 申し訳ないが、汝に用がなくともここに居てもらおうか」

「は。 一体どの口が……」

 

 そもそも何故、いまさら。

 狭めた喉の奥で、棘まみれの疑問を抱く。

 

 用がある、といっても。

 初対面の女に語れる事は殆どない。

 

 ……それに正直なところ。 ひとめ見た瞬間から、ファインドフィートはこの女が嫌いだった。

 初の顔合わせでありながら隔意をまるで隠せていない。

 原因は誰かしらから良くない()()を受けているのか、あるいは一種の()()()()のせいなのか。

 どちらにせよ、自分以外に嫌悪の情を向ける事自体は例外的だった。

 

「……第一、何故夜に呼ぶ出すのですか? 別に明日の昼でも良かったでしょうに」

「昼は……ダメだ。 お前達の所の番犬に噛みつかれる」

「はぁ……?」

 

 とにかく、苛立ちが止まらない。

 いっそこのまま帰ってしまおうか、とすら思ってしまう。

 もう夜も遅いのだ。 早めに寝直さなければ明日に響くに違いない。

 

 ……ただ、そう思案しているのが態度に出ていたらしい。

 女は軽く眉を吊り上げて、ファインドフィートを叱咤してきた。

 

「良いから話を聞け。 さもなくばまた耳を塞ぐ」

「……なるほど。 つまり、あなたはそういうひとなんですね。

 いえ、まぁ……良いでしょう。 どうぞ、一旦足を止めますから」

 

 そして、分かりやすい脅しで少女を拘束する。

 さもきかん坊に言い聞かせようとする言動は不快で、やはり、苛立ちが収まらなかった。

 

 やはり神であろうと、もどきであろうと、所詮ヒトではないのだ。

 どうあがいても価値観の齟齬は変わらず、互いの間に横たわっている。

 

 その透明な壁を証明するかのように、女は特に気にした様子もなく、淡々とした表情で少女に近寄ってきた。

 一步、透けた脚が砂を押しのける。

 

「単刀直入に言うぞ。

 まず、汝。 そやつらに頼るのは止めろ。 吾が言うべきではないかも知れぬが、人格が破綻しきっている性悪だぞ。

 何も、汝の望みは他者に委ねるべき物では無いはずだ」

「……はぁ、それで?」

「っ……神というものは、願われた通りに力を振るう性質をしていない。

 むしろ歪曲して理解したつもりになって、余計なことをしでかすモノだ。 歴史からして、どこも同じなのだぞ」

「そう……何か問題ありますか?」

「だから……っ! 

 ……だから、汝が求める事は叶わんと言っている。 何も弔いそのものは否定せぬが、別にそう云うものに縋る必要はないだろう。 汝は汝の友を悲しませたいのか?」

 

 必死に平静さを保とうとする女の願いを受け止めながら。

 しかし少女は、やけに冷めた目で相対する女の顔を見ていた。

 

 悲しませたいのか、と問われれば。 もちろん、否だ。

 他人を自分から悲しませたい欲求なんて存在しないし、それを求めるほど傲慢にはなれない。

 

 けれども、悲しませたくない気持ちと裁きを求める心は両立する。

 各々は別個の事象であって、そこに繋がりはない。

 端的に言えば、それはそれ、これはこれ、とでも区切るべきもの。

 片方のみの情に訴えかける言葉では、彼女を縛るなんて出来なかった。

 

「……あなたの言いたいことは分かりました。

 でもね、わたしは裁かれたいんです。 わたしは死者として、罪の精算を受けたい」

「裁き……? 何故? 理解できん。 そこに何の罪がある? 罪がなければ罰もない。 それがあるべき理で、覆ることのない世の摂理だ」

「……どうやら、あなたとわたしでは前提の違いがあるみたいだ。

 いいですか? 罪があるから裁きを与えられるのではなく、わたしが裁かれたいから罪があるんです。

 その想いだけで、わたしの権利は正当なものになる。 女神さまが与えてくれるから、わたしは正しい。 咎められる筋合いはない」

 

 一度、目をつむる。 大きく息を吸って、吐き出して。

 ニ秒後、目を開ける。 苛立ちを薄れさせた顔で、夜空を見上げた。

 それからチグハグな女の顔を見て、僅かに目を細めた。

 

「少なくとも、これを咎めるべきはあなたではない筈だ」

 

 こういう事を言う者もいたのか、と、意外に思わないでもない。

 女神を構成する一要素ではなかったのかと、疑問に思う気持ちもある。

 

 どこまで知っていて、どこから知らないのか。

 それも分からないが、何であろうと変わらない。

 

 だってこの女は、何もしなかった。

 虐げもせず、助けもせず、無視もしない。

 束の間の自由? 選択の尊重? 一体何を言っているのか。

 それは何も選ばなかっただけ。 敵でも味方でもない、なんて、そんなもの、恐ろしくって仕方がないのに。

 そのくせにうろちょろと耳の周りを飛び回り、雑音を垂れ流す。 なんと鬱陶しいことか。

 

 そうして、ただ憐れむだけの視線を投げてくるのが精神を逆撫でる。

 そんな目で見られるほど落ちぶれてなどいない。 死者には、死者なりの矜持があるのだから。

 

「でも、あの方達は責任を取ろうとしてくれているのです。

 だから……わたしは、これで構いません」

 

 たとえ、死に損なったのがその神のせいでも。

 たとえ、今ある苦しみが神のせいでも。

 それでも、裁かれる権利を行使できる。

 マイナスでしかなかった命を、ゼロに戻す事ができる。

 

「"わたし"は、御供の(ヒトミ)が産まれなかったらという"もしも"を形にしたいから」

 

 そして、決定的に取り違えた『姉』の願いを語った。

 生き損ないの彼女。 愛しの半分。 その夢を主軸とした、己を否定する旅路を。

 

 "もしも"、御供の(ヒトミ)が産まれなければ。

 "もしも"、ファインドフィートの血肉が分かたれず、単一の個として産まれたなら。

 "もしも"、御供の(ヒトミ)などという欠陥品が混ざらなければ。

 その果てには不純物のない、完璧な『ファインドフィート』が産まれるに違いない。

 それこそ九冠をとってしまうような素晴らしい誰かが産まれる筈だ、なんて。 妄想の中のメアリー・スー(最高の主人公)を誇らしげに抱えて、少女はひとり微笑んだ。

 

「欠けることなく、完璧な状態で産まれてきた『ファインドフィート』を世界に残す。

 この夢が叶ったなら……きっと、その末路に勝る裁きはありません」

 

 つまり、夢の成就が責任を取るという事だった。

 成就の先こそが双子の人生の結びになる。

 笑顔にそぐわぬ、波の音色に混ざらない硬質な声で宣言した。

 

「……だからわたしは、今年で最後です。 来年には行けない。

 夢の成就を願うまでが、わたし達と女神さまで結んだ『約束』です」

「……愚かにも、程があろう。 そんな約束を守って何になる……?」

「さて……少なくとも、わたしの尊厳は守れますね」

 

 そこに良いも悪いも存在しない。

 

「……あと。 あんまり長く居ると、みっともない顔を見せちゃいそうですし」

 

 ただ結果がある。 歪みを正した、結末だけがある。 あるがままの世界に戻る。

 ファインドフィートの最後は、そうあるべきだった。

 

「……結局、あなたには関係ない。 別にいいじゃないですか、今まで通りで。

 あなたは何も見なかった。 そう思っていてくれたら全てが丸く収まるんです」

「それでも……吾には義務がある。 祀られた者として、果たさねばならぬ義務が」

「結構です。 あなたはもう女神さまじゃない。 だから、何にも縛られていない。

 だから、ねぇ。 別にいいじゃないですか」

 

 湿った脚でもう一步。

 砂を押しのけて、一見穏やかに見える薄い笑顔を浮かべる。

 

「そもそも、あなたがわたしにかかずらう必要はないはずだ。

 こう言うと何ですが……ありふれているでしょう。 わたしみたいな孤児(みなしご)は」

 

 更に一步、歩み寄る。

 脚の透けた、未だに何も知らない女に。

 

「何故、わたしに触れるのか。

 ……今目の前にいるあなたに限った話ではなく、女神さまもです。

 あなた達は何故、わたし達を見つけたのか。

 その答えをずっと考えていましたが……えぇ、最近、ひとつだけわかった事があります」

 

 少女が一体何を話しているのか。 何を話したいのか。

 女はどうにも意図を掴み損ねて、疑問の入り混じった顔で、無言で続きを促した。

 

 正直な所、興味本位だ。

 神として欠けたが故の物なのか、はたまた女個人の知的好奇心からくる情動か。 あるいは、自己だからこそ見えない本性を知りたがったのか。

 その(いず)れであるのかは、女自身でさえ理解できてなかった。

 

「たとえば、道端で死にかけている犬を見つけたとき。 たとえば、飢えて死にそうにな猫を見つけたとき。

 その時、その子達を救える力があったのなら、誰しもが救おうとするでしょう。 わたしだってそうします。 何もせずに死なせるのは可哀想ですから」

 

 なにも犬や猫に限った話ではない。

 ねずみでもいい。 リスでもいい。 可哀想と思える生命体なら何でも。

 大事なのは、庇護すべき格下の存在であるということだ。

 

 つまり、その死にかけが人間だろうと同じく当てはまる。

 可哀想だから手を伸ばす。 己に力があるから、軽い気持ちで手を伸ばせる。 その可不可に責任感の有無は関係ない。

 

「……だからね。 あなた方の思いというのは、これなんですよ。 きっと。

 それが悪い、という話ではありません。

 あなた方はただ、相応の姿勢でいてくれたらいいんです。

 救った後に責任を取るのも、看取るのも、あるいは無視をするのも。 全てあなた方の自由だ」

 

 ファインドフィートが思う答えとは、これだった。

 嘗ての少女は、空に御座(おわ)していた頃の女達の行いに問いを投げかけたこともあった。

 愛していると嘯く口を持ちながら己を灼く。 そんな人でなしの価値観を理解出来なかったからだ。

 

 けれど年数を重ね、多くを失った今だから見えてくる物もある。

 

 つまり、立場をわかりやすい形に入れ替えてしまえば良いのだ。

 神をヒトに、ヒトを小動物に。 そして、前提として言葉の壁を挟み込む。

 そうしてしまえば……虚しいほど、よくよく分かってしまう。

 

「わたし達は、女神さまに訴えかける言葉を知りませんから」

 

 ヒトが犬や猫と同じ言葉を話せないのと同じように。

 ヒトは、神と同じ言葉を話せない。

 ただそれだけの、簡単なことだった。

 

「……そのせいでしょう。 確かに、女神さまがくれた"しあわせ"はわたしが思うものとは違っていました。

 けれど皆と出会うことが出来たから、それで良いのです。 わたしは満たされてる。

 わたしは皆に会えて幸せだったから、今度こそ納得して終われる」

「……流石に嘘だろう。 納得など、出来るはずがない」

「いいえ、本当です。 わたしは」

 

 ひとりの人間として。 虚飾などなく、確かに満ち足りていた。

 だからこそ、眩しすぎる。

 

「もう、これ以上の未来なんて要らない。 わたしには長すぎるし、バチ当たりだ」

 

 そもそも奇跡がいくつか連なってようやく十三年は生きられるかどうか、という身体だった。

 いまさら限界を超えてまで欲しがろうとするには、先を生きる気力がない。

 

 であるならば。 やはり裁きの後に、あるべき姿に戻らなければならない。

 『姉』の夢を叶えて、家族の死はその為にあったのだと価値を与え、自己を徹底的に否定し、弔いと成す。

 そして今度こそは手と手のしわを合わせて、墓の中に入って静かに眠る。

 土は土に、灰は灰に、塵は塵に。

 大きな足跡を残した最後にあるこれが、少女の正しい結末だった。

 

「だから、あなたも選んでください。 わたしを看取るか、無視する道かの(いず)れかを」

「……なにも、結果を残すだけが全てではない。 他にもあるだろう。

 生きた痕跡を残したいというのであれば、思想を誰かに継げばいい。 元々の夢──星を追う学者になるでも、自身の子を残すでも、何でもあるではないか。 何故駄目なのだ……?」

「言っても今のあなたには分かりませんよ。

 それに、あなたはわたしを理解しなくても良いんです。 ただ、選んでくれたら」

「────」

 

 それから、幾らかの間を置いて。

 口を噤んだ女を見て、薄っぺらい笑みを浮かべた。

 

 そして少女は、あぁと、口の端から吐息を零した。 納得を多分に含んだ吐息だ。

 この悩む姿は腹立たしいほど優柔不断で、底なしに愚かしくも見えて、微かに見覚えのある面影を宿していた。

 

 女の顔を見ていれば、今考えていることが手に取るように分かる。

 前に進む先がいくつもあって、どの分岐が失敗に繋がるのか予想できない。 だからとにかく恐ろしい。 見えない物が恐ろしい。

 女はまさにそういう顔をしていて、少女自身も見慣れた面だ。

 

 きっと、だから似てしまったのだろうな、なんて。

 実際に伝えるでもなく、言葉を胸の中に産み落とす。

 

 そのせいで欠けてしまったのだ。 結局。

 

「……別に、この場で答えろとは言いません。 いえ、もう答えなくてもいいです。 結果で示してくれたら、別に構いません」

 

 歪む視線。 浮かぶ苦悩。

 それらをついに見ていられなくなって、視線を外した。

 そして、くるりと背を向ける。

 

 語るべきは語った。

 示すべきは示した。

 あとは責任が果たされることを願うばかりだ。

 

「それでは……もう、会う必要がないことを願っています。 お互いのためにも、ね」

 

 潮風に濡れた髪が重たい。

 軽く振り回しただけなのに、後ろに引っ張られるような錯覚を感じてしまう。

 

 とはいえ錯覚は錯覚。 脱ぎ捨てた靴は履き直さずに両手に持って、来た道を引き返す。

 幸いにも足跡はまだくっきりと残っていたし、十分に目視できる程度に月が明るかった。

 

 だから後は辿るだけ、だったけれど。

 

「待て……。 まだ話は終わっていない。 まだやり直せる筈だ」

 

 女はしつこかった。 まるで、縋るような言葉が背中に降りかかる。

 救いの手を差し伸べる側こそが、逆に救いを求める声をしている。 なんて、ひどい矛盾だ。

 

 何がそこまで駆り立てるのか。

 眉根を寄せて考えてみたけれど、今日初めて顔を合わせたばかりの少女にはまるで分からなかった。

 ただ、単なる義務感によるものと言うには少しばかりしつこすぎる。

 

「……いいえ、もうこれ以上は不毛です。

 もっと前に、あなたがより良い方法をぶら下げていたのなら、きっとわたしはあなたに従っていたのでしょう。

 けれど、そうはならなかった」

「違う、違うんだ。 まだ間に合う。 汝はまだ孤独ではない。 まだ壊れきっていない。 今からでもその中身を摘出すれば、もっと……!」

「何のために?」

 

 だから突きつける理由は、ただの一つだけ。

 吹く風に言葉を乗せて、背中越しに放り投げた。

 

「だってあなた、わたしを見てないじゃないですか」

 

 結局、その一点だけは変わらなかった。

 女にとってのファインドフィートはあくまでもレンズもどき。

 青い目の向こうにある色付きの景色を見るためのものだった。

 

 レンズの向こう側に何があるのかまでは、神ならぬ少女は知らない。 けれど透過する視線が執着の在り処を物語っていた。

 そも、女の語る選択肢。 解放とは、そもそも誰のためにある物なのか。

 求めていない物を押し付けるのは、はたして救い足り得るのか。

 答えは否。 いっそ無様な悪徳である。

 

 故にファインドフィートとこの女は、思想を共にできない。

 

「待ってくれ」

 

 後ろの正面から、尚も縋る女の声が聴こえる。

 

「待て」

 

 しかし止まらない少女に追い縋ろうと駆け出して。

 そのくせ半透明の脚は見た目通りに機能不全を起こしているのか、軽い音と共に転んでしまった。

 

「……っ」

 

 目で見ずとも転んだことぐらいは把握できるものだ。

 だからかつい一度振り返って、その足を見てしまって。

 心の底から憐れむように、眉の端を垂らした。

 

「……希望を見せるだけ見せて、それっきり。

 だから、あなたはわたしの女神さまじゃない」

 

 放られた言葉が明瞭な壁を作る。

 己の女神でないのであれば、己に関わる必要性はない。

 今の女がどういう状態なのかは知らずとも、どうであれ自分に関わらない方がよほど価値ある時間を過ごせる。 少女はそう信じていた。

 

 

 ……そうして完全に突き放す寸前だ。 ふと、もう一つだけ伝えたい言葉があった事を思い出した。

 個人の好悪はさておきとして──今日の一日が楽しかった事は、決して嘘ではない。

 そしてそれが目の前の女に齎された事も、確かに理解していたから。

 

「……でも。 今日の事は感謝しています。

 これから先何があっても、わたしはあなたを恨みません」

「────」

 

 多少裏切られるぐらいなら、許してしまえる。

 この一日はそれだけの価値があった。

 たまには今日みたいに思い出を作っておくのも良いかも知れない、と、今後の身の振り方を多少考え込んでしまうぐらいには。

 

 

 ──何も語らなくなった女から、ふつと視線を切る。

 そして今度こそ、帰り道を歩き出した。

 

 なぜこうも首を突っ込みたがる物なのか、とか。 そんな益体も無い愚痴を零しながら。

 何せ、もう結論は決まり切っていた。

 それすら知らずに"まだ間に合う"なんて、どうしようもなく無意味な問答だ。

 

 鶴と亀は滑って転んだ。 ずっと昔に転んでいた。

 だというのに、無理に引き起こしたからこんな歪みが生まれてしまった。

 肥大化した自重に耐え切れなくなって、相反する想いを抱いて、ついには四肢から腐り始める。

 その上隠していたつもりだった本性すら日の下に晒された。

 ずっと目を閉じたままでいれば、これほど歪むこともなかったろうに。

 

 ともかく、歪んでしまったのなら正さなければ。

 

 


 

 

 ……おいおい、これどーすんだよ。 お前が自信満々に"吾に任せよ!"とか言うから任せたんだが?

 こう、胸の中身抉り取って除霊! みたいなのはできねーの?

 

 ……無理?ゴルシちゃんそろそろキレていいか?

 ってかよぉ、そもそも三女神って何なんだよ。なぁ。

 



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61話

 

 "予想外のこともありましたが、よく跳ね除けてくれました"。

 『太陽』の女神さまがクスクスと笑います。

 "もうそろそろ障害もなくなる頃合いかしら"。

 『王冠』の女神さまが残りのリソースと突き合わせて悩んでいます。

 

 もちろん、女神さまは走った軌跡を顧みません。

 その軌跡が生み出す波紋も、また同じく。

 

 


 

 

 ずっと昔のことだ。

 電気がヒトの手に降りてくるよりも前。

 蒸気による機械化の可能性が示されるよりも前。 世界周航により、人々が急速に繋がり始めた頃。

 

 中東(アラブ)の辺鄙な片田舎に、ひとりの芦毛の女がいた。

 祖先に肖った名前を与えられただけの、どこにでも居る女だった。

 

 かといって、別に無個性だった訳では無い。

 喋り方がやや堅苦しく、融通の利かない性格。

 地を駆けることが好きで、干した藁の香りが好みで、砂嵐が嫌い。

 そんな彼女の自慢といえば、他の同胞よりも一等丈夫な身体を持っていた事だった。

 どれもこれも個を象徴する要素としては立派なものだ。 ……人並み程度には。

 

 そして人並みであるが故に、女の一生に特筆すべき点は殆どなかった。

 ただ、産まれて。 身の丈からちょっとはみ出た夢を見て、必死に追いかけて。

 程々の挫折と、身の丈にあった成功を収める。

 やがて生まれ育った地を離れて海を渡り、恋した相手と番になって子を育み、独り立ちする子を見送る。

 女の一生を簡潔に表せば、ただそれだけの物だった。 程々に劇的で、程々に凡庸。

 それら全てをひっくるめて、普通の人生だった。

 

 けれど、そんな普通の人生にもほんの少しの特別はあった。

 たとえば、女の娘達がレースで好成績を収め続けていたこと。 故に十分──視点によっては、特筆すべき要素とも言えるかもしれない。

 もっと言えば娘達から拡がった血統は後世まで続く物となった。

 だから未来の(すえ)からしてみれば、あるいは価値のある人生だったのだろうか。

 ……ただ、それは娘達の功績であって、女自身はさほど関係ない物だ。

 やはり女は、あくまでも優秀止まりの存在だった。

 

 

 だから、その女が紛いなりにも『海』の女神として振る舞えていたのは、ある種のバグのようなものでしかない。

 

 三女神信仰に習合された始祖の一として、であっても、あまりにも器が足りていない。

 いくら祖先に似ていても、あくまで芦毛の祖の分岐先に過ぎず、結局別の存在だ。

 故に女──『海』の女■が振る舞えるのは、あくまでも三女神の『海』を構成する一要素としての姿のみ。 あくまでも一時だけ表に出ている断片だ。

 

 故に、大層な力なんて存在しない。 深い叡智もなく、ヒトを惹き付けるカリスマもない。

 元が祖霊でしかない女は、故に零落してしまえばあっという間。

 僅かな人間性を獲得した(思い出した)としても、力がなければ意味などない。

 遅すぎたのだ、結局。

 

 

「本当に?」

 

 打てる手などない。

 全て手遅れだ。 決断を先送りにしすぎた。 決断するべきだと、決断できなかった。 致命的だ。

 その女は諦めを滲ませる口振りで、己の(すえ)に語りかけた。

 

「本当に?」

 

 破綻していた。 最初から破綻していた。

 義務感故に手を伸ばそうとしていたけれど、それでは何も掴めないのだ。

 (すえ)の部屋の片隅に座り込みながら、半透明の脚を抱え、唇を薄く歪ませる。

 

 見よ、この有様を。

 一時の全能感と、身の丈から外れた視座を得た先を。

 所詮は亡霊。 あくまでその場しのぎの代用品。 不具合で一時的に自我を獲得しただけの愚者だ。

 しかも今となっては、肉を持つ子とさほど変わらぬ無力な存在である。

 そんな己がいまさら何かを選ぶなど、あまりにも非合理的すぎると、部屋の主に突き返した。

 

 

「……じゃあお前はそーやってビビリ散らかしてるだけでいいのかよ。

 アタシらみたいにハタチも生きてないガキに良いように言われてよ、そんなので満足してんだな?」

 

 満足。 否、そんな事はありえない。

 少しでも満たされていたのなら、きっと何かを選ぶことは出来た筈だ。

 けれどもその本音は何故か言い返せず、色もなく見下ろしてくる瞳を見返して、ふつと視線を切る。

 

「まだあんだろ、何か」

 

 選びたくない。 それは事実だ。 失敗が恐ろしいから、選びたくない。

 ……けれど、選ばないことを選ぶには、少しばかり近くなりすぎた。

 今の世を見て、ヒトを学んで、非情を疎む感性を欠片程度にでも持ち合わせてしまったから、不選択を貫くのも叶わない。

 

「なぁ、吐けよ。 ご先祖様なんだろ、オメー。 ちったぁ威厳見せろよ、なぁ」

 

 では、もしも選んだとしたらどうするのか。

 選んで、結果が選ばなかった場合よりも悪いものだったら? 一体どのようにして責任を取れば良い。

 償う方法すらありはしないのに、一体どうやって。

 

「……ひとつだけ、ある」

 

 その責任を負うのが、これ以上なく恐ろしい。

 ヒトひとりの命なんてどうしようもなく重すぎて、背負えない。 背負いたくなかった。

 

 ……だというのに、すらりと言葉が這い出てくる。

 いっそ当の女でさえも不思議に思ってしまうほど、中々出なかった言葉が急速に輪郭を帯びて。

 乾いた唇がパキリと亀裂を生んで、薄皮が剥けてしまった。

 

「もう一度、()()()()()、死なせてやれ」

 

 ああ、本当に。

 

 

 ◆

 

 

 二回。

 それは京都大賞典で目覚まし時計が鳴った(コンティニューした)回数だ。

 そうまでして勝ちを掴んだ京都大賞典は、名の通り京の地で開かれるG2のレースである。

 所謂トライアルレースに分類されるもので、上位成績を収めた者に天皇賞(秋の盾)への優先出走権が与えられる。

 

 とはいえあくまでも()()出走権であって、出走そのものに必須のレースという訳ではない。

 トライアルレースで一着を取らずとも、レーティング順位の上位五名以内に入っていれば問題ない。

 そして幸いにも、ファインドフィートは後者の条件を既にクリアしていた。

 

「つまり、別に勝ち切らずとも良いレースだった。 勝つに越したことがないのは確かだが……あくまで調整目的だからな。 体に無理をさせるほどでもない」

 

 男は手元のタブレットから顔を上げて、くたびれた声で少女に呼びかけた。

 自我がない人形の割にはもっともらしい感情を面と舌に貼り付けて、やれここの疲労がひどいだの、脚の筋が炎症を起こしているだの、理論立てて指摘を並べる。

 

 対し、ソファーに寝っ転がっていた少女に応えた様子はない。

 確かに疲れた、などと小学生レベルの感想を零しているぐらいだ。 中身の年齢を思えば妥当ではあるけれど、良い姿勢とは言い難い。

 

「良いか? 一度折れてしまっている以上、"多分この程度なら大丈夫だろう"は通用しない。 身体の不調は常に疑い続けたほうがいい」

「ええ……まぁ、そうですね。 トレーナー(お父さん)のおっしゃる通りかと」

「……分かったのなら今日と明日は休みする。 休み明けで無理をして、また怪我をしたら笑えない」

「…………はい、ごめんなさい」

 

 人形にしては随分と熱の籠もった訴追である。

 真摯に、偽りなく、正当性のみで弁舌を振るう。

 

 ……とはいえ、ファインドフィートにだって多少の言い分はあるのだ。

 以前とは違って暖房器具の恩恵を受ける部屋の中央で、少女は

 

「確かにトレーナー(お父さん)の言っている事は正しいです。 そこは認めます。

 ですが……多少の無理はしたほうが良い慣らしになるのは間違いないかと。 実際、レース前よりも今のほうが明らかに身体のキレが良くなりましたし、位置取りだってG1でも十分動けるぐらいには整いました。

 トレーナー(お父さん)にしてみればそこもトレーニングで補え、という話なのかも知れませんが……」

 

 ()()的には、間違いなかったと言える。

 

 なにせ、G1に比べるとまだやさしい相手が多い。 しかし絶対に勝てる相手かと言えば、そんな事はない。

 本調子のファインドフィートでも普通に負け得る。

 つまり相応のプレッシャーを味わいながらレース勘を取り戻すには、実にお誂え向きの舞台であった。

 G2で慣らした上での天皇賞であれば、着実にトレーニングだけを積み重ねた先よりも最終的なやり直し回数は減るかもしれない。

 綿密な計算などない感覚上での想像であれど、自信はそれなりにある見立てだった。

 

「それに……期待に応える事も、出来ました。 だから、これで良かったのです」

 

 だから、概ね満足している。

 片目の失明という公表を経ても尚さほど衰えなかった人気。

 少女はそれに応えて──やり直しの上に成り立つものであっても、確かに勝利を簒奪出来たのだから、十分上等だ。

 

 ……それに、本来は一回きりのチャンスだった。 そして、そのチャンスを最初に掴んだ"誰か"がいた筈なのだ。

 その"誰か"を押しのけて得た結果なのだから、これを最適解ではないなどと口走るのはとても出来なかった。

 

 もちろん、思うことがないと言えば嘘になる。

 実情がどうであれ、死者が生者の脚を引っ張っていることに変わりはないのだ。

 しかし少女は、この罪悪を贖う術を、裁きの果て以外に知らなかった。

 痛み、嘆いて、別れて。 私人としてのファインドフィートは、精一杯苦しみながら果てればいいと、心の底から信じていた。 最後に何を齎すのか、後の事から目を逸らして。

 その姿は少女が嫌う者によく似ていて、ひどく愚かしい。

 

「……なぁ、大丈夫なのか? 調子が悪いなら今日はもう帰って休んだ方がいい」

「ん……ああ、いえ。 調子は……まぁ、そんなに悪くないです。 もう少し次に向けたプランを今のうちに──」

「そんなに、ということは多少は悪いんだな。 じゃあダメだ」

「……。 ……揚げ足取りはカッコわるいですよ」

「格好悪くても結構。 素直に言わないキミが悪い」

 

 これで本当に人形なのか。 ファインドフィートは訝しんだ。

 自我が無いにしてはやけに頭が回りすぎる。 いや、頭の回転は別に関係ないのか? 

 もうよく分からなくなってしまった。

 

「……トレーナー(お父さん)、ちょっと屈んでください」

「あぁ、分かった」

 

 人形のくせに一応の主人を軽々しく扱うし、過去の行動に準じた反射行動の積み重ねでしかない筈なのに的確にファインドフィートの頭を押さえつけてくる。

 あるいは、心理を忠実に再現したからこその結果がこれなのか。

 もしそうであれば、一体自我とは何なのか。

 今までは振る舞いの方向性を柔軟に定義するのが自我だと思っていたけれど、こうも想定外の対応ばかりされると自我そのものの疑問さえ湧いてくる。 もはや哲学の領域だ。

 

トレーナー(お父さん)、頭を撫でてください」

「あぁ」

「……別に、言うことを聞かない訳じゃないんですよね……。 じゃあどうして?」

 

 やさしい手付きだ。

 頭に触れる感触に、じっと目を細めて、もう一度疑問を舌に乗せる。 もう既に、半分以上は形骸化した疑問だった。

 どうして、などと口走った所で何も生まない。 "ただそうあるもの"として受け取っておけば十分で、それ以上は必要ないし、それ以下に貶める意味も存在しない。

 もし仮に答えがあっても、今の少女には頭を撫でる感覚だけが真実だった。

 

「──じゃあ、今日はもう帰れ。 身体を動かすのはストレッチ程度に留めておくように」

「決定事項ですか? トレーナー(お父さん)、ずるいですよ」

「まだ知らなかったのか? 大人ってのは基本ずるい生き物だぞ」

 

 ちらりと窓の外を見る。 現時刻は17時前で、陽が傾き始めている。

 遠くに浮かぶ飛行機雲にも朱色が混ざって、日常の景色にほんの僅かな彩りを与えていた。

 

「日が落ちるのも早くなってきた。 だから暗くなる前に、な」

「……ええ、そうですね」

 

 けれどきっと、彩りとして楽しめるのは今だけなのだ。

 いつかは見慣れた物になって、単なる日常の景色に成り下がる。

 そう思ってもう一度見てみれば、ほんの少し特別なものにも見えてくる。

 

「……今日出来ることは全部やり終えていますし、続きは明後日にしましょうか」

「それがいい。 最近は気温の高低差も激しいからな、何かあったらすぐに教えてくれ」

「ええ、トレーナー(お父さん)も」

 

 だからこそ、そのほんの少しの特別を大切にする。

 空を見上げながら道を歩いて、花壇と共に朱色に混じる。

 そうして思うのは、帰り着いたあとのことだった。

 日記を書いて、軽く勉強をして、少し遅れて帰ってくるだろう先輩を出迎えて、一緒にご飯を食べに行こう。 そんな代わり映えのない、ただの予定。

 

 だから与えられる特別とは、ほんの少しだけでいいものだ。

 毎日毎日、代わり映えのない日々に、ちょっぴりの特別を積み重ねていく。

 少しずつ、少しずつ。 こつこつと、ゆっくりと。

 脆く儚いそれこそを、少女は日常と呼んだ。

 

 

 ◆

 

 

 こつり。 さらさら。

 白い電灯の下、ペン先を紙面に走らせる。

 机を前にした少女が相対するのは学生らしく分厚い教科書とノート、ではなく。

 それらをまとめて横において、代わりに青い日記帳につらつらと文字を書き込んでいた。

 

 この日記帳も、今にして思えば随分長いこと使ってきたものだ。

 元々かなりの量を書き込める、いわゆる五年日記と呼ばれる物だったが、それでも残りのページはかなり少ない。 今年いっぱい使えば、最後に1ページ残るか否かという残量。

 そうと思えば、ほんのりとした感慨も浮かんでくる。

 事故の前の数年間と、入学してからの三年間。 その間にあった苦楽を共にして来たのがこの日記帳である。

 人生の集大成、と表すには少々首を傾げてしまう。

 が、人生を構成する一片(ひとひら)、と言い換えるとストンと腑に落ちる程度に大きい存在だった。

 

 日記帳の後ろのページへ書くのは、いつもその日にあったこと。

 たとえば、朝起きた時にパジャマのボタンが取れてしまった、とか。

 クラスメイトの子(アグネスデジタル)がお腹を空かせて倒れていたからカフェテリアに運んであげた、とか。

 あとは『ひいお婆ちゃん』が猫を追いかけている場面を見つけたり、トウカイテイオーの蹄鉄を点検してあげたり。

 そういう大した起伏のない、しかし宝物のような出来事を、昨日も今日も明日も記録する。

 せめて証を残すために祈りを込めて、温度をそのまま書き記す。

 記憶ではいともたやすく消えてしまうけれど、文字は別だ。 文字は時間も距離も超えてくれる、人類のもっとも偉大な発明品のひとつだった。

 

 

「──あぁ、しまった。 もうこんな時間ですか」

 

 しかし、だからといって全てを記すのは当然不可能。

 紙のスペースが無いのもあるし、時間がないのも理由に挙げられる。

 

 時計に曰く、現時刻は18時前。 じきにミホノブルボンが帰ってくる時間だった。

 尻尾をぴんと上げて、いそいそと日記を畳む。

 それから赤裸々に綴った本音を他の誰にも見られないように机横の引き出しに放り込んで、鍵を閉めた。 もっとも、誰にも見られないように、なんて今更かも知れないが。

 

「では……まず、数学からですね」

 

 ようやく教科書を開いて、ノートの白に軌跡の黒を刻む。

 ただ、さほど意味のない物だ。 学校での勉強が将来役に立つとは言うけれど、その将来自体が存在しないのだからどうしようもない。

 せめてテストで赤点を取らない程度に努力はするけれど、やはり少女は必要以上を望むことが出来なかった。

 

 それに、負ける度にこういう細やかな知識は時折失われていく。

 数学の式は虫食いで、国語の文は粗雑になる。 家庭科の針仕事だって何時になっても中々慣れないし、美術センスは壊滅的なまま。

 あったかもしれない成長が気まぐれに無かったことになるのは、少女のやる気を根こそぎ奪っていくには十分だった。

 

 

 そして、気怠げに勉学と向き合ってからほんの数分後。

 はやくも飽き始めていたファインドフィートの耳を、聞き慣れた音が刺激した。 ミホノブルボンの足音だった。

 

 ピンと立つ耳をドアに向けて──さり気ない様を装うために、再度教科書に視線を落とす。

 少なくとも、今の少女にも、だらけきった姿を見せたくないと思える程の羞恥心はあった。

 音もなくドアが開く。 普段通りの装いをした栗毛が姿を表した。

 トレーニングの後に汗を流してきたのか、石鹸の淡い香りがファインドフィートの鼻を擽った。

 

「……おかえりなさい、ブルボン先輩」

「はい、ただいま戻りました。 フィートさんは……勉強中ですか」

「ええ……もうすぐ小テストがあるらしくて」

 

 荷物を置く様を流し見て、今日もしっかり追い込めたのだなぁ、と何処からの目線とも知れぬ感想をこぼす。

 手や脚の動き、重心の揺らぎ、呼吸の深さ。

 そういうパラメータを何となしに意識してみれば、存外分かりやすいのだ。 その頑丈な身体が、少しだけ羨ましくなる。

 

「補習になったら色々と面倒ですからね。 はやめに合格ラインまで勉強しておいた方が後々有利でしょう?」

「同意します。 学業を疎かにしてしまうと結果的にマイナスになるイベントが多くなるかと」

 

 "では、分からない所があれば是非質問してください"、と先輩らしい助け舟を用意されて。

 少女は、ちょっとだけ困ったふうに眉を垂らした。

 逃げ道を自分自身で塞いでしまったことに今さら気付いてしまったのだ。

 

 ……ともかく、今日一日は真面目に勉強に取り組まなければいけない。

 やっぱり嘘です、やる気は欠片もないので走りに行きたいです、なんて、言い出せる筈もなかった。

 

 ひとつ、歯の間にため息を通す。

 秋になって乾燥し始めた唇をちろりと舐めて、ペンを軽く握りしめた。

 まずは数学から。 心の内で宣言して、もう一度のろのろと緩慢な動きで取り掛かり始めた。

 

 

「……フィートさん。 少々よろしいでしょうか」

「はい……?」

 

 ……が、横から口を挟まれて動きを止める。

 一体何事か、と視線を返してみれば、ミホノブルボンがカバンから取り出した雑誌を机に広げてくる。

 何処となく見覚えがあるような気もする、カラフルなファッション誌だった。

 

「ジョーダンさん……トーセンジョーダンさんからお借りしたものです。 ここ最近の流行をまとめた物ですが──」

 

 一度言葉を区切って、ぱらぱらとページを捲る。

 色とりどりのおしゃれな服や靴が表れては消え、少女達の記憶に微かな痕跡だけを残していく。

 

「……ここです。 この42ページを見てください」

「えぇ……と、髪型特集、ですか? 皆さん随分と手が込んだ髪型をしていますね……。

 あと……これはゴールドシップさん? いつも頭につけてる飾りが無いから一瞬誰かと思いました」

「ええ、おっしゃる通りです」

 

 そして、人差し指で芦毛の髪を指し示す。

 その髪型はいわゆるハーフアップと呼ばれる物。 日頃()()()()彼女には似合わぬクールな表情を浮かべていて、頭の飾り以前の部分でも判別が付き辛い。

 どこぞの名家のご令嬢にも見える気品は、当人を人柄を知っているほど頭に混乱を齎してくる。

 

「髪型を変えればそれだけでも印象が変わることはご理解いただけたかと」

「まぁ……写真で見ると尚更、ですね」

 

 ミホノブルボンは、次にファインドフィートの髪を見た。

 

「つまり、フィートさんの髪型を変えてみたいです」

 

 何てことはない。 スキンシップの動機付けだ。

 もちろん髪型云々については偽りではないけれど、本音は結局そこにある。

 

 早い話、ほんの少しでも夢以外に視線を向けさせようとする、涙ぐましい努力だった。

 空へ手を伸ばすだけではなく、他の世界も見て。

 あるいは、その先に縋る先を見つけて欲しい、なんて。 淡い願望だ。

 少しずつ少しずつ積み重ねるために、いつ崩されるとも知れぬ意思を指に乗せる。

 まるで賽の河原のように、一途に。

 

「まぁ……別に構いはしませんが」

「……! では早速失礼して……」

 

 が、本来なら阻止するべきだろう女達はこれを見逃した。 どうでも良かったのだ。

 あとは勝つだけ。 我が子は揺らがぬ芯を持っていると確信した故に、余裕のままにクスクス笑う。

 ミホノブルボンという少女は今までで()()()()道を閉ざした人物ではあるけれど、それも全く気にならない。

 愛ゆえの行いなら仕方がないなと、方向性を違えた共感を秘めて、無機質な笑みを深めるだけだ。

 もはや己達の身体が際限なく脆くなっている事も、まるで気にならなかった。

 

 

 そんな部外者の心の内は、当然ながら少女達は知る由もない。

 ミホノブルボンが雑誌を脇において、少女の背後に回って髪に触れる。 真っ白な髪だ。 もはや白毛と変わらない。

 僅かにぱさついた一房を手にとって、一度奥歯を噛んで。

 ゆっくりと丁寧に、十の指を白に沈めた。

 

「……フィートさん、少し冬毛になっていますね。

 最近は食事量も少し減っている様子ですし、新陳代謝が低下しているのでは?」

「言われてみれば……。 必要な栄養素は摂取している筈なんですけどね」

 

 普段よりも柔らかい毛に包まれた耳を少し揺らしながら、訝しむように首をかしげる。

 新陳代謝の低下。 寒さに対する反応。 日照時間の減少。 理由としてありえるのはそれらの三つぐらいだ。

 しかし、そう考え込む必要はない。

 もし新陳代謝の低下が原因であればコンディションを意識する必要はあるだろうが、その程度。 結果的に勝てれば何でも良かった。

 

 髪と耳を弄られながらもそんな結論を弾き出して、意識の外に放り投げて。

 本来の目的通り、三度目の正直として教科書に意識を向けた。

 ペンを握って、数式を脳味噌に刻み込む。 幸いにも覚えるだけなら得意で、梃子摺るところは特に無かった。

 細い炭の線が止めどなく紙面を滑り、カリカリと先端から削れる音を響かせる。

 

 

「……出来ました。 どうぞ、手鏡です。

 ……いかがでしょう、フィートさん」

「ん……。 他の方がやっているのはよく見かけましたが、わたし自身がこういう華やかな髪型をしているのは……なんというか、不思議な感じがしますね」

 

 ほぅ、と感心のため息をこぼす。

 翳された手鏡をしげしげと見つめ、横髪の一房をつまみ上げた。

 ファインドフィートは普段も最低限の体裁は整えるが、それ以上は然程気にしない(たち)だった。

 そんな彼女であっても多少は興味を惹かれるのか、頭を左右に捻って髪を揺らしていた。

 

 物珍しさ、というのもある。

 普段見慣れた姿でも、髪型一つ変えるだけでかなり印象が変わるとはついさっき聞いた話だ。

 けれどそれを身を以て体験すると、中々不思議な心地になってしまった。

 首を軽く回転させて側頭部を覗いてみると、キレイに編み込まれた白が見える。 ただの毛束を弄っただけなのに気品が漂っていると錯覚できる。 不思議だった。

 

「折角です。 他の髪型も試してみませんか?」

「……ええ、良いですよ。 わたしも少し、楽しくなってきました」

 

 それに、『姉』の違う側面を見つけることにも繋がるのだ。 少女に断る理由は何もなかった。

 

 髪を結わえて、鏡を見て、語彙力に乏しい感想を返して、ミホノブルボンが満足気に尻尾を振る。

 それから一度髪を解いて、また別の髪型を結わえ始める。 その間に教科書と向かい合ってちまちまと勉強を進めて行く。 身体だけでなく、心も休まる余暇の過ごし方だった。

 趣味の尽くを喪失した今となっては、尚更に。

 

 そんなループを繰り返すうちに、いつしか髪型に似合う服装に話が飛躍する。

 終いには休養日の予定埋め(服屋巡り)まで話が波及して、相槌を打つ度に勝手にスケジュールが埋まっていった。

 ……もちろん、嫌ではない。

 休養日の過ごし方に大層な決まりは特にないのだ。

 精々過度なトレーニングを禁止して、食事をしっかりと管理する程度。

 たとえ遊び歩いたとしても、誰かに謗りを受ける事はありえないだろう。

 

 休養日の過ごし方をそこまで考えて。

 スケジュール帳を引っ張り出しながら、ふと思い出した。

 ついさっきまで触っていた青い日記帳と、延長線上にあるもの。

 三年目の終わりを見据えたひとつの思いつき。

 

「そういえばブルボン先輩。 山登りにご興味はありませんか?」

「山登り、ですか? はい、プライベートでも偶に行くことはありましたが……」

 

 スケジュール帳を開く。

 背中の向こうで、身動ぎする音を聞いた。

 遅れて自身が言葉足らずであった事に気づき、少しだけ上擦った声を上げる。 思っていたよりも小さな声量だった。

 

「あぁ、えっと……。

 その、もう少し後……天皇賞が終わった後ぐらいに、ついてきて欲しいところがあるんです。 そこが山の上で、あんまり楽しいところでも無いですけれど……」

 

 ただし、見所は特に無い。 ただの山だ。

 強いて言えば頂上の広場が綺麗で、静寂に浸れる空間である事ぐらい。

 良く言えばのんびり呆けるには丁度よく、悪く言えば味気ない山。

 しかし少女には、一等思い入れのある土地だった。

 

「さほど長い時間をかけるつもりはありません。 ただ……一度だけ、あなたに来て欲しいんです」

 

 ……本当は。

 山のことは、誰にも伝えないつもりだった。

 けれど誰にも知られないままと終わるのかと思えば、少しだけ胸の中がもやもやしてしまう。

 あるいは、訪ねてくる人がいなくなる未来が恐ろしいのかも知れない。

 

 だから、誰かひとりには教えたくて。

 その相手を考えると、自ずと、この相対する少女の顔が浮かんできた。

 『姉』以外では一番多くの時間を共有したからだろうか。

 

「……はい、承知しました。 フィートさんが、あなたが望むのであれば」

「ありがとう、ございます。 ……安心しました」

 

 心底から絞り出した囁きをこぼして、一度目を閉じる。

 そして小さく細い呟きを紙に落とした。

 "ああ、本当に"。 吐息を多分に含む響きは、少年のそれに酷似していた。

 

 その安心とは、何を理由とする物なのか。

 拒絶されなかったから、なのか。 自分を尊重してくれたから、なのか。

 あるいは、また別の、捻くれた願いの表れか。

 他人(だれか)に借りた上辺だけの言葉では、どうにも言い表せそうになかった。

 

 


 

 

 墓の下に還るまで、残りはあと冠三つ。

 

 



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62話

 

 小さな選択の積み重ね。 風よりも軽い吐息の塊。

 これは、誰かに届けるべきなのだろうか。

 足元に転がったモノを見下ろしながら、小首をかしげる。

 届けるべきだろうか。 届けないべきだろうか。

 

 悩めど悩めど、二択の片方を捨てられない。

 けれど。 "べき"の是非は分からなくとも、少女はこれを届けたいと思った。 残したいと思った。

 

 だから女神さまは顧みなかった波紋のひとひらを、少女は拾い上げた。

 紛うことなきにんげんとして、少女は。

 

 


 

 

 朝がくる。 夜になる。

 黄昏時(夕暮れ)から彼は誰時(夜明け)に至るまで、太陽と月が互いを追いかける。

 

 この一サイクルを一日として、七サイクルの繰り返しを一週間とする。 これが、存外早いのだ。

 いつかの偉人は、時の流れを矢が飛ぶ速さにも(たと)えたけれど、まさしくその通り。 あっという間だった。

 蝉の声も消えて久しい。 木々の緑が色褪せたのも、もうしばらく前の事だ。

 夏にみた青い海の記憶もまた、同じように褪せて、輪郭すら日を追うごとに曖昧になっていく。

 

 秋になった。

 

「今年も残り三ヶ月……か。 そろそろ衣替え、ですね」

 

 まだ薄手の服を着ているけれど、限界は近い。 それに耳や尻尾は冬毛だというのに、衣服だけ薄手というのは、少しばかりアンバランスだ。

 そう、呟きを机の上に転がす。 誰にも受け取られず、ころりと転がりながら溶けていく。

 

「……もう、残り三ヶ月、なんですね」

 

 今年の残り三ヶ月。 今生の残り三ヶ月。

 どちらも正しい表現だ。 二つは等号で結ばれ、つり合っている。

 それらを、同時に舌の上に乗せた。

 しかし二枚舌には成れない少女は、うまく噛み分けることも出来ず、ひとり椅子に座り、鬱屈と腐るばかり。

 

 "めんどうだなぁ"と、上体を反らす。 気怠い本音を天井に放る。 重力に引かれて返ってくる。

 それを受け取ることはせず、顔をすり抜けた言葉を拾いもせず。

 もう一度、"めんどうだなぁ"と呟いた。

 後ろ髪を背中と椅子とで挟んでしまったから、少しの痛みを堪えて。

 

 何がめんどうなのか。 服を替えないといけないからか。 それはそうだ。

 もっと厳密に言えば、残り三ヶ月のために服を替えないといけないから、である。

 少女は、そういう変な細かいところでは面倒臭がる質だった。

 

 けれども、何もしない訳にはいかない。

 本当に、時間が過ぎるのはあっという間なのだ。

 やるべき事をやっておかなければ、すぐに時間切れになってしまう。

 部屋の隅に掛けられた時計も、チックタックと針を鳴らしてファインドフィートの耳を責め立てていた。

 

 チックタック、チックタック。 大変だ、大変だ、余裕はないぞ! 

 ……なんて、そんな陳腐なアフレコを妄想してしまう程に、真に迫った針の音が。

 

「……はぁ。 これを終わらせたら服屋にでも行きますか。

 たしか……そう、最近芦毛に人気のブランドがあったはずです。 ゴールドシップさんやマックイーンさんを誘って行きましょう」

 

 それがいい。 それがいい。

 自分に言い聞かせてやる気を奮い立たせる。

 足を伸ばして、つま先までピンと立てて、胸を大きく張って、身体をほぐす。

 最低限、ペンを持って紙に向き合える程度には整った。

 

「早く済ませましょう」

 

 そして手に取ったのは、机の上にあるいくつかの封筒。 紙が擦れて、反抗的な音を上げた。

 茶封筒、黄色の封筒、レターパック。

 個人的な手紙や、どこぞの業者に向けた依頼書、資産の権利書だったりと内容は様々だ。

 これらの処理を、多少なりとも余裕があるうちに済ませておきたかった。

 

 今はまだ視界は半分だけでも残されているし、色覚だって正常だ。 文字も読める。

 けれどずっと保持されるかといえば、そんな保証は何処にもない。

 だから、今だ。

 すぐ傍らまで擦り寄ってきた未来を受け入れて、満ち足りている今だからこそ、ペンを握れる。 折れるほどの力みはなく、すり抜けるほどの弱さもない。 今だった。

 

「まずは……家の処分から、ですね。 日記を見た限りは時々掃除しに帰っている……らしいですけど、来年からはそうもいきませんし。 売るか、譲るか……さて」

 

 もし親戚がいたなら譲り渡すのも良かったと、透明な呟きを漏らす。

 立地はそんなに悪くないし、設備も建物自体もまだまだ綺麗だ。

 双子が産まれたのとほぼ同時期に建てられた家だから、築年数も比較的浅い。

 四人が住んでいたのは十年。 一人が暮らしたのが三年。 一人が出ていって二年。 合わせて十五年。

 総合的にみて悪くない家である事は間違いない。

 

 それを多少でも縁のある人物に譲り渡せたら良かった。

 ……が、生憎と、その縁のある人物が居なかった。

 ファインドフィートの記憶には、どこにも。

 

 ひょっとすると、探せばいるかもしれない、と思ったことはある。

 祖父や祖母、叔父や叔母、従兄弟、従姉妹。

 そういう血縁は、実はファインドフィートが思い出せないだけで世界の何処かに残されているのではないかと期待した。 だから探した。

 けれどもそんな彼、彼女等に繋がる導線は、結局今の今まで見つからないままだった。

 どこを訪ねても、誰を訪ねても、いつの間にか振り出しに戻っている。 何も掴めない。

 いつしか、探すことを諦めてしまっていた。

 

 それに、法と人に定められた後見人が血縁者ではない──己の主治医になった時点で、もう出会うことは無いのだろうと納得している。

 諦めのように後ろ向きな感情ではなく、きちんと飲み干して、消化していた。

 

「……でもあの人に全部任せるのは、流石に可哀想ですから。 今だって、たかが元患者なのにこんなにも手を煩わせて──」

 

 続く言葉を歯で千切る。 舌を噛む感触にも似た、生理的な不快感が歯の裏をねぶる。

 

 壊れてしまった人を想った。 隈を深く刻んだ、死相の浮かぶ顔を思った。

 これ以上追い詰めるのは、いくらなんでも憚られると、口を一文字に固く結ぶ。

 

 ……とはいえ、ファインドフィートに出来るのはあくまでも可能な範囲で、である。 全部を済ませるのは、不本意ながら不可能だ。

 本当に全てを処理したくば生前葬をあげなければならない。

 

 つまり、多少は忙しくさせてしまう。 時折手を止めることは出来るけど、息を抜けない程度には後見人達の時間を奪っていく。

 けれど多忙とは、時には人の心を救う妙薬になり得るものだ。 下手な薬よりも、よほど。

 ならばこれぐらいは許容すべきだろうと、許容してほしいと、薄っぺらい理由を紙のうえに貼り付けて、ペン先を滑らせた。 黒い線が、僅かに震えながら蛇行している。

 

「だから、これも。 あれも。 それも。 全部意向を示すだけ。 手筈を多少整えておくだけ。 それでいい、はず。

 そう、ですよね……」

 

 茶色の封筒を開く。 中身は後見人向けの書類だ。

 昔から家にあるものを全部まとめて処分するために、そういう業者向けに依頼を出して欲しいと書いてある。

 どうせ大切なものは何も残っていない。 それらは全て自分の手で捨てるか、燃やした。

 今回もまた自分の手でサインを(したた)めて、指針を示す。

 

 黄色の封筒には、自分が保有している資産の全てを入れておく。

 権利書であったり、口座の情報であったり、全てだ。

 いくらかは迷惑料代わりにトレーナーの口座に放り込んだけれど、それでもまだまだ多い。

 両親から受け継いだ遺産もあったが大部分は少女自身の収入だ。

 それこそ孫の代まで養える程度の、相当に(おお)きい金がある。 使い道のない死に金だけれど。

 

 そして最後のレターパックに入れるのは、個人的な手紙で──否。

 この表現では正しくないな、と(かぶり)を振って、手紙と表しかけた己のこめかみを小突く。

 

「遺書ぐらいは、しっかり書かないといけないですよね。 せっかく、今回()ちゃんと用意できるんですから。

 ……こういうのを不幸中の幸いって言うんでしたっけ」

 もうしばらく後、今年を終えて、新しい年を迎えて二、三日経った頃合いに、みなに届けるために。

 真新しい厚紙の袋に、各々に向けた十数枚の封筒をいれて、のりづけして閉じる。 この空気は、きっと三ヶ月前の物になって届く。

 その空気は一体どんな顔に迎えられるのだろうかと、想像してみる。

 レターパックを手に取った時の顔、分配された封筒にペーパーナイフをさし込む顔、ぱっくり開いた封筒の中の便箋をみつけた時の顔。

 どの輪郭も酷くおぼろげで、歪んで、ぐちゃぐちゃに壊れている。 どうしても、顔のカタチに整えて想像することができなかった。

 

 ……しかたなく、程々の所で諦める。

 終わったあとの事を考えた所で、今の自分にできる事も、今の自分がしていい事も、どちらもそう多くないことを理解していた。

 だからひとり、終活マニュアルと、郵便物を引き出しの中に放り込んだ。

 次の出番はニヶ月と少し後。 日付指定で郵送依頼をする時だ。

 

 そして引き出しを閉じる、前。

 

 ふと、"ああ、そういえば忘れていました"と呟いて手を止めた。

 新しく書き始めた便箋に、ずっと窓際に鎮座しているアネモネの植木鉢の扱いを記しておく。

 

「誰に貰った物なのかも、どんな思いで受け取ったのかも、今のわたしには分かりません。 ……けど、誰かに繋がなくては」

 

 便箋を掴み、もうひとつを引き出しに放り込む。

 鬱屈と淀むため息と一緒に、暗がりの中にそっと隠した。

 

 

 ◆

 

 

 がこん。

 鉄のゲートが開く。

 動きの起こりの時点で身体を前に投げ出して、可能な限りロスをなくしたスタートダッシュを決める。

 軸にした右足で地面を押し、逆の左足で二歩を踏んだ。

 

 つまるところ、ゲート練習。

 屋内トレーニング施設の一角にある専用エリアに、ファインドフィートの姿はあった。

 何度か擦ったせいで赤くなった鼻の頭に保護テープを貼りながらも、こりずに練習を続ける。

 ゲートが開く。 飛び出す。 コンマ数秒早い。 ゲートが開く。 飛び出す。 呼吸が合わなかったせいで踏み込みが浅い。

 

 以前の出来を思えば散々な動きだったけれど、しかし先月に比べると遥かにいい仕上がりではあった。

 少なくとも本番で出遅れない程度には、そこそこ精密なスタートダッシュが出来る。

 加えて、先のG2でレース勘を大体取り戻しているのだ。

 何もゲート回りに拘らずとも、本番の天皇賞は上手くいくはずだ……と気楽に思い込もうにも、残念ながら不可能だった。

 

 粘着力の弱くなったテープを引き剥がして、小さく肩を丸める。

 課題は未だに盛り沢山。

 全ては消化できないのが明らかなほどで、背と肩にのしかかって小山を形成していた。

 

「ゲート訓練だと、これ以上の改善は見込めない気がしますね」

「……やはり、一ヶ月そこらじゃあ限界があるか」

「少なくとも以前みたいに毎回顔をぶつけることはなくなりましたし……まぁ、進歩はあったからよしとする、で良いんじゃないでしょうか」

「そうだな……」

 

 傍らで観察をしていたトレーナーへ、最低限の自信を込めて頷いて見せる。

 他にできることは、正常だった頃に積み重ねた経験と、また新しく積み上げた経験を上手い具合に擦り合わせて実践するぐらい。 それで何とかなる。 何とかするしか、ない。

 残りの時間はそう多くないのだから、適切に分配しなくては。

 

 首筋に伝う汗を手ぬぐいで拭いて、やや温度の高い息を吐き出した。

 その吐息が乾いた唇を撫でて、僅かに湿らせる。

 

 もう、秋だった。 乾いた空気と、冷たい温度が、ひとの言葉よりもなお雄弁に四季を語る。

 動きを止めればつま先が冷える程度には夏から遠く、しかし、動けば多少なりとも汗が滲む。

 夏からも、冬からも遠い、どっちつかずの季節だった。

 

「じゃあレース場に移動しますか? ブルボン先輩と崎川トレーナーもそろそろ向こうに到着する頃合いでしょうし……」

「ああ、そうだな……。 崎川、か」

「……トレーナー(お父さん)、いきますよ」

 

 骨張った男の顔は、肉人形には勿体ないほど生々しく、出来の良い嫌悪感を滲ませている。

 過去の情動の再現しかできない故に、これもきっと単なる焼き増しに過ぎない。

 何があったのだろう、と考えたことはある。

 けれど大人の世界はまだ遠く、故に少女は何も知らない無知を良しとした。 知る必要はなく、解決する方法もない。

 だから思うべきはひとつ。

 仲直りできる機会を数カ月先に遠ざけた事を、悔いるぐらいだ。

 

「ねぇ、トレーナー(お父さん)。 来年になったら、ちゃんと話し合ってくださいね。

 これは命令とかそういうのじゃなくて、ただの個人的なお願いです」

「……」

「生きていれば言葉をかわせる。 言葉をかわせるのなら、分かり合える。

 ……なんて、わたしが何も知らないから言えるのでしょうけど……でも、突き詰めればこういう物なんじゃないでしょうか」

 

 歩きだしてしばらく、すぐ真後ろの男に言葉を放る。

 返事はない。 吐息も、歩調も、さざ波一つ立たない。

 今の男の顔は、振り返らずとも分かった。

 のっぺりとした、色がなく、動きもない、無機質な表情をしているのだ。

 頬の骨の下にある浅い影が口の周りを固めて、蝋人形のように、冷たいひとになる。

 少女はその温度を知っていた。 身を以て、よくよく知っていた。

 

 別に、その振る舞いに悪意があるわけではないのだ。

 過去の再現という許された範疇にないから、何にも振る舞えないだけ。 何にもなれないだけ。 肉人形は前に進めないものだった。

 

 トレーニング施設を出て、丁度中天に座した太陽の真下に身体を晒す。

 空は晴れ、雲もなし。 風は弱くも強くもない。 過ごしやすい環境だ。

 手を伸ばせばジャージの袖口から覗く肌が日光を浴びて、じんわりとぬるい熱を伝えてくれる。

 未だに残る縫合痕も、光のお陰で目立たなくなっていた。

 

「……わたしの言葉は覚えていなくても良いんです。 ただ、せっかく言葉が通じるかもしれないのに遠ざけてばかり、なんて。 ……ちょっと、寂しいですから」

「分かっ、た」

「ふふ……これには、ちゃんと反応を返してくれるんですね」

 

 和解の道を目指して欲しい、という言葉に理解を示したのか。

 覚えていなくてもいい、という言葉に理解を示したのか。

 そのどちらが正なのか問おうにも、本当の彼は今も眠ったまま。

 故にファインドフィートと彼が本当の意味で分かり合う機会は、もうどこにもない。

 

 

 ◆

 

 

 空が青かった。 芝も青かった。

 字にしたら同じ青。 目にしたら違う青。

 今日の使用者はさほど多くないのか、はたまた広い芝との対比のせいなのか、深い静けさを感じさせる青だった。

 もし隅っこで喋っても、何処にも届かず消えてしまうに違いない。

 

 その青の端にあるこじんまりとした荷台に手荷物を置いて、入念なウォーミングアップを始める。 神経の繋がっていない心臓へ血を送り、幻痛を歯の根で噛み締め、徐々に炉心として機能させていく。

 視線の先では既にミホノブルボンが走っていた。 綺麗なフォームで、ブレもない。

 現役として走っている年数を考えればもうじき引退の道もチラつき始める頃合だけれど、今の彼女を見る限りでは、まだ遠い未来の話のように思えた。

 以前に骨を折った事がある、なんて、今の彼女を見たものには想像すらできないだろう。 ファインドフィートが目指す姿そのものである。

 

「準備ができたらウォームアップ……軽いジョギングから始めるぞ。 その後はミホノブルボンと併走だ」

「了解しました。 準備運動は五分で終わらせます」

「そんなに急ぐな。 十分はかけろ」

「……では、八分で」

「時間を値切ろうとするな。 とにかく十分だ、分かったな?」

「仕方ないですね……」

 

 伸展、収縮。 筋繊維と関節に熱を与える。

 左足が、ひどく疼いている。 一度折った部位が、冷たい空気を感じているせいなのか。 ジャージの布程度では冷気を完全に防ぐことはできないらしく、骨の芯が大げさな悲鳴で訴えようと、架空の喉笛を張り詰めさせている。

 今叫ぼうか、いいや走り出してから叫ぼうか。 それとも走り切ってから叫ぼうか。

 なんて、うずうずと、ずきずきと、骨の奥底で痺れというカタチを得て、厚顔無恥にも這いずり回っていた。

 これは俗に言う、古傷が痛む、という現象だ。

 踵で芝を蹴り飛ばすが、やはりやわな衝撃では拭いきれなかった。

 

「……ウォームアップ、いってきます」

「ああ、気を付けてな。 何か異常があればすぐ言うように」

 

 ふ、と息を吸い込む。

 けれど"はい"とも"いいえ"とも、何も返事を返さないまま背を向ける。

 そして常歩から駈歩(ハッキング)へ、徐々にリズムを変えていく。

 始めはじわじわゆっくりと、柔らかい足取りで芝を掴む。

 

 叶うなら、風に乗りたい、と思った。

 あるいは、風になりたい、でもいい。

 

 すぅっと風を切って。 ゆびさきから肘へ、肘から肩へ。

 冷たい空気が背中を流れ、尻尾を撫でるのだ。

 開いた口から喉を通り、肺を鋭く突き刺す。 握る先のない手のように、冷たく、軽い空気で。

 一歩を駆ける度に、地を蹴る衝撃で肺の中身が溢れだすように、風と一体になりたかった。

 

 けれども現実のファインドフィートは決して風になることはなく、あくまでも肉を持つひとつの命として、芝の上を駆けている。

 ふと空を見上げる。 羨望と祈りを込めて、一瞥をくれる。

 空の青と芝の青はやはり何処までも違うものでしかないのだと、無情に物語る現実が横たわっていた。

 

 

 ◆

 

 

 マンハッタンカフェは、その姿をぼんやりと眺めていた。

 まばたきも殆どせずに、白い少女の周りの空間へ、じぃっと焦点を合わせ続ける。

 いくら日が出ているとはいえ肌寒い事に変わりないだろうに。 レース場を一望できる観客席の最上段、淵の縁に座ったままで。

 

 秋風が時折に吹き、頬を撫で、黒い毛先を解す。

 乾燥した空気のせいで、少しパサついている。

 

「……元気になった、訳じゃないみたいだね。 あの子」

 

 そしてぽつりと、脈絡もなく呟いた。

 その一言は独り言に見えて、しかし、実際はすぐ隣に座る見えざる『お友達』に向けた物だ。

 言葉の尻を"みたいだね"と曖昧な表現で飾った割に、断定的な響きを含む音で、石のような硬さと冷たさがいくらか混入していた。

 

「雰囲気は柔らかくなったように見える。 前までの人を怖がる仕草だって、殆どない。 けど……」

『……単に、諦めただけに見える? それとも開き直ったように見える?』

「両方、かな」

 

 先んじて出された推察に、同意を返す。

 憂鬱だった。 とにかく、憂鬱だった。

 ざらつく言葉をざらつく舌で包んだせいなのか。 心の表面を撫でる自分の声音が、なんとなく不快に思えてしまう。

 

「どうして、こうなるんだろうね」

 

 いっとき瞼を下ろし、長く、深く、重い息を吐き出す。

 肺の中身を空っぽにして、冷たい空気を取り入れる。

 キンと凍てつく鋭さが、喉の奥から体の芯を貫いて、頭のてっぺんから抜けていく

 当然、その感触は何の慰みにもならなかった。

 

 

 ──息を止める。 瞼を上げる。

 そういえば、と努めて大きな声を出した。 元の声質が声質である故に迫力はない。

 けれど相対的に──当人的には大きい、場の空気を切り替えられる程度の声量で、『お友達』と芝の端っこへと別の話を投げかけた。 出口のない問答ほど気力を消耗する物はないのだから。

 

「その、前から気になってたんだけど、ね。 二人は学園に来てから出会ったでしょう? 

 なのに何でフィートさんの事をひ孫って呼ぶの? ……まさかだけど──」

『そのまさかじゃないよ。 ただ……"向こう"だとひ孫だったからってだけ。 今は半分だけだけどね……』

「"向こう"……ね。 そっか」

 

 ……が、空気が重い。 『お友達』の声も寂しげだ。 受け止めた鼓膜が水に沈んだのかと錯覚するほど、重苦しい。 やがて話題選びを間違えたことを遅れて悟った。

 耳を伏せ、ばつが悪そうに隣のつま先に視線を落とす。

 

『でも、まだ生きてるから』

 

『お友達』は寂しげに笑って、膝を抱えた。

 笑って、といっても、マンハッタンカフェからはその顔が見えない。

 どれだけ近付いたとしても、髪のカーテンを上げたとしても、顔を構成するパーツは何一つとして明瞭な像を結ばない。

 けれど声音と、仕草と、今まで培ってきた関係が、真っ黒い少女の口元を幻視させた。 穏やかに描かれた弧を、そこに。

 

『……多分、あの子は臆病なほうの半分なのかな。 姉のほうと"向こう"のあの子はそこそこ気性が荒かったみたいだけど……う~ん、荒さはちょびっとしかなさそう。 普段で二割ぐらいかな。 レース中だと八割かも』

 

 それに、話が普通に続いていくのなら、別に悪い物ではなかったのだろうと思えた。

 望郷、懐古。 少女らしい身なりには見合わぬ、とぼけた感傷。 何時にもまして掴めない。

 相槌に気不味さを込めながらも、マンハッタンカフェは大人しく聞き手に回ることしか出来なかった。

 

『ああ見えてプライドがとんでもなく高いタイプだね』

「そう、かな……? 二割とか八割っていっても……ある? そんなに」

『あるある。 基本形態でもグラスワンダーの四分の一ぐらいある』

「えぇ……」

 

 返せたのは、困惑とも否定ともつかぬ吐息程度だ。

 ああ。 うん。 そうなんですね。 意外です。

 そんな反応、面白みもないだろうに、『お友達』はくすりと笑って口元あたりを抑えていた。 今度は寂しげなものではなく、ほんのりと明るい調子だ。

 

『本当に落ち着いた顔しか持たない子なんてそうそう居ないからね。 カフェだって、ほら……昔のノートにウマ娘に産まれなければ犯罪を犯してたかもとか、血に飢えた猟犬とか──』

「この話はやめようか」

『はぁい』

 

 けれど、口を閉じさせる。 口を閉じた。 鉄仮面の上に平静を装って、気不味さのない静寂にまた浸る。

 そうして朱色をほんのり散らした頬を、再び芝に向けた。

 視線の先で走るのはミホノブルボンと、いつの間にか連れてこられたらしいサイレンススズカと、ファインドフィート。 そして何故か後ろから猛追するゴールドシップ。

 特定一名の笑い声がレース場の端まで届いてくる。

 豪快ながらも堂に入った声は迫力も備えていて、どことなくテレビアニメで見るような悪役にも通じる。 20分後には負けていそうだ。

 

『……あっ、スズカがゴルシに捕まった。 いつ鬼ごっこになったんだろ……』

「ゴールドシップさんだから」

『そっかぁ』

 

 だが、とにかく平和だった。 少なくとも、表面上は。

 昼下がりの空気はやわらかく、ぬるい膜になって、レース場の端から端までを包みこむ。

 だから響く声はどこか遠く、細く、遠くの方で鳴る草木のざわめきのよう。

 降り積もる全てが、停滞する静寂を形作る。

 

 また、風が吹く。 太陽の光はかすかに淡い。

 あんまりにも穏やかだったから、何となくコーヒーを飲みたい気分になってきた。

 長い前髪の一房が左右に揺れて、視界に不明瞭な影が落ちて。 空の雲よりは澄んだ気持ちで、尻の下の石を温め続けていた。

 

 

「お~いカフェ~、こんなところに居たのかい。 随分探したよ」

 

 ──ただ、穏やかな時間はほんの一時だけのものだった。

 背後からの呼び声がするりとメスを入れてくる。

 正体は分かっている。 顔を確かめるまでもない。

 マンハッタンカフェは露骨にうんざりとした雰囲気を纏いながら、鈍い動作で振り返った。

 

「……今度は、タキオンさんですか。 あなたが態々私を探しに来るなんて、あんまり良い予感がしないのですが……。

 ……もう、帰ってもいいですか?」

「そんなつれないこと言わないでおくれよ~。 それに帰るといっても私達のラボに、だろう? じゃあここで話そうが話さまいが同じじゃないか」

「あの部屋がいつから貴女のラボに……? あの空き教室は元々私が許可を得て用意した趣味の部屋だった筈ですが……」

「でも半分は私のラボだろう? 今は」

「それは、生徒会のひと達に保護者役を頼まれたからです。 だから私は仕方なく……」

「で、受け入れてくれたわけだ。 やっぱりカフェは何だかんだ言って優しいねぇ」

「……本当に、このひとは……」

 

 ああいえばこういう。 こういえばああいう。 何を言っても響かない。

 だからマンハッタンカフェは、未だに口で完勝できた試しがなかった。

 その事実はお互い同じだけれど、正当性は間違いなく己にあると確信しているからこそ、そもそも勝負が成立している事自体を認めたくない。

 

 それから、耳を何度か震わせて。 のろのろと、一步分横にズレて座る。

 そうして生まれた空きスペースを見たアグネスタキオンが、これ幸いと腰を下ろす。 制服の上から着た白衣に、薄っすらと土埃がついた。

 

「それよりも聞いておくれよ、とても良いニュースがあるんだ」

「へぇ……何となく、悪いニュースも続きそうな言い回しですね」

「あったほうが良いかい? 様式美は守るためにある物だしね」

「まさか」

 

 呆れたふうに肩を揺らす。

 悪いニュースは、もうお腹いっぱいだった。

 

「で……その話、長くなりますか?」

「カフェの態度次第さ」

「……はぁ……」

「ハハ、かなり本気目のため息だ」

 

 そもそも聞かない、という選択肢は何処にも無いのか。 もちろん無い。

 アグネスタキオンのブレない言動から、そんな本音が透けて見えた。

 

「……早く、本題に入ってください」

 

 けれど過去の実績から逃げ切れないことはよく知っている。 故に仕方なく、居住まいを正した。

 何だかんだでそうして付き合うのが原因だろうに、マンハッタンカフェはそれを自覚していないのだ。 つまり、ある意味自業自得でもあった。

 

「覚えているかい? 随分前に燃えた資料の事を。 私の三日間の努力の産物が完全な灰に変身してしまった瞬間を」

「……えっ、と……どれの事でしょう……? すみません、候補が多すぎて……」

「ンン~、そう来たかぁ。 怪奇現象ここに極まれりだねぇ」

 

 さて、どこから話そうか。 唇を尖らせ、右へ左へ頭を揺らす。

 風の隙間を泳ぐようにくせ毛を漂わせて、ここではないどこかを見つめた。

 

「まず……前提として、目覚ましのベルという迷信がある。

 "レース前日の夜に、レースに負けた夢を見る"、"負けた瞬間、目を覚ます"、"身体のコンディションが不自然なほど良くなる"、"デジャヴまみれのレースを走る"。

 レースの結果は……まぁ、伝わる地域によってマチマチだねぇ。 ともかく、やり直しの迷信さ」

「やり直し……なるほど。 誰しもが一度は考えることでしょうし、別にそういう迷信があるのは普通なのでは……?」

 

 さもありなん。 生きていれば誰しも一度は考えることである。

 競走の世界に限った話ではなく、どんな世界に生きていようと今とは違う"もしも"の先を妄想してしまうもの。

 あの時ああしていたら。 この時こうしていたら。

 意味などないと当人が最も理解しているだろうに、それでも止められない。

 いわば、心の奥底に根付いた本能に近しい。

 誰だって、幸せを──今よりもいい人生を求めているのだから。

 

「で、この迷信。 知名度は然程でもないが、随分と長い歴史を持ってるのさ。

 時代や地域ごとにバリエーションがあって、大昔……紀元前のギリシャならプラトンの水時計、中国ならろうそく時計、日本なら線香時計……。 近代ではどこも私達がよく知る機械式の目覚まし時計が主軸になってるねぇ。 いやはや、実に興味深い」

「はぁ……?」

「分かるかい? 

 こんなにも広い地域で長年に渡って存在しているのに、知名度だけは低い。 こんなチグハグな迷信、違和感しかないじゃないか」

 

 くぐもった笑い声を半分受け流しながら……言われてみればなるほど、と頷く。

 マンハッタンカフェ自身、今聞くまでまったく知らなかった迷信だが──アグネスタキオンの言葉を信じるなら、ずっと大昔から存在しているらしい。

 実際それを知らなかったからこそ、確かに不思議だなと疑問符を吐き出した。

 

「だから頑張ったんだよ。 毎日の研究と同時並行で、私とモルモットくんの睡眠時間を削ってまで! そうしてようやく──ようやく、資料を復元出来たんだ!」

「はぁ……そうなんですね。 お疲れ様です。 特にトレーナーさんが」

「ハハ、無関心~」

 

 ……比較的有意義な会話は、そこまでだった。

 

 アグネスタキオンがマンハッタンカフェに寄りかかる。

 そして眉を顰めた少女へ、常と同じように絡み始めた。

 

 ところで、燃やしたのはカフェの『お友達』じゃないのかい?、とか。

 言いがかりはやめてください。 証拠はあるんですか? 証拠を出してください、とか。

 前科があるじゃないか。 それで疑うなって言うほうが無理があると思うよ、なんて。

 

 

 特に意義のないじゃれ合いに変化して。

 その二人から少し離れた場所に移動した『お友達』だけが、数十秒前の冷たさを保っていた。

 

『目覚まし時計……』

 

 口の中で反芻する。

 思い浮かべたのは、少し前の朝の光景だ。

 レースの日、目覚まし時計の音で目覚めたファインドフィートが、音の発生源であるそれを強引に叩き潰していたその姿。

 ひっそりと、ベッドの下に隠された2つのベルと金属片と、折れた長針と歪んだ短針。

 その後、不自然なほど"いい状態"で保たれた調子。 まるで未来を見て来たかのように迷いのなさすぎるレース。

 『お友達』は、それら全てを隠れて見ていた。 物質に縛られない身体というのは、こういう時には非常に役に立つ。

 日常生活を送る中で常に周囲を警戒するなぞ、体力も気力も擦り減らす真似を実践する人間がどれほどいようか。

 

 そしてファインドフィートは普遍的な感性を有していたがゆえに、棚の陰も、ベッドの下も、洗面所のドアの裏も気にしなかった。

 だからこうして『お友達』に、見られてはならぬ姿を晒してしまったのだ。

 

『まさか……で片付けるのは、それこそ変な話か。 寄生虫に取り憑かれているという前提情報を踏まえればなおさら。

 私の推理が正しければ、たぶんファインドフィートは目覚まし時計を使って、レースを勝てるまでやり直している……』

 

 横目で傍らの二人を見やる。

 和気藹々と──『お友達』の視点では──仲良く喧嘩中だ。

 まったくもって不本意だが、未だに()()の審議で衝突している。 『お友達』はアグネスタキオンからの信用のなさを知り、密かに耳を垂らした。

 

『……何にしたってタイミングが良すぎて気持ち悪いな。

 でも、そうだね。 目覚まし時計。 使いようはあるのかも』

 

 何者かの意図を薄っすらと感じるような気もするけれど、悪意は感じなかった。 十分だ。

 

『使いよう、使い道、使い方……うん、何か思いつきそう』

 

 バカと鋏は使いよう。

 目覚まし時計だって、使い方次第では。

 

 

「……なんだか寒気がするねぇ。 カフェ、キミの『お友達』のせいかい?」

『冤罪だよ』

「冤罪だそうです。 謝ってください。 誠意を込めて」

 

 そう、冤罪だ。

 今はまだ。

 

 


 

 

 この日に得た記憶も、さて。 一体いつまで残ってくれるのだろうか。

 神ならぬにんげんである少女には、見当がとんとつかなかった。

 

 だから、もし忘れてしまっても良いように、日記帳の端にさらりと書く。

 "お別れの言葉は引き出しの中にある"。 "しばらくの間は、しばらくが続く限り、忘れていよう"。

 これで安心だ、と。 少女は、痛みを忘れるための免罪符を得て、くすりと笑った。

 

 



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63話

 

 やり残した事は? 

 

 


 

 

 準備はできたか。

 後ろ背で、男の声を受け止める。

 冷たくも温かい、溶けかけのアイスクリームみたいな声だと、子供じみた感想を抱く。

 

 踵を、床に打ち付ける。 勝負服の裾を揺らす。 首につけたチョーカーの、窮屈な束縛感を指でなぞる。

 身体の調子は最悪で、最高だった。

 初参戦の前々回は四着、前回は一バ身差の二着だったが、今回は確実に一着を獲れる自信がある。

 

 だからこの男に、トレーナーに、準備万端ですと言ってやるだけで良い。

 これで勝てると、のたまえば良いのだ。

 出口の奥、地上から打ち寄せる声を、己の一色に染め上げると。

 

 だというのに、この時のファインドフィートは、どうしてか即答できなかった。

 口を開けて、震える下唇を軽く噛んで、息を吹く。

 

「この天皇賞で勝てば七冠で、天皇賞春秋連覇の肩書も増えるな。 はは、随分立派な箔が付くじゃないか」

「最初の頃を思えば……なおさらに、ですね」

「あぁ。 最初に見た時からこいつは走るタイプだと思ってたから、それほど意外でもないが」

「つまりトレーナー(お父さん)の見立ては正しかった、と。 皆に自慢してもいいですよ」

「最初の選抜レースを見た人間は全員同じことを思っただろうし、俺の見立てが優れていたって訳でもないんだがな」

 

 だが、契約したのは彼だけだった。

 他の人間に靡かなかったのは、一体どうしてだったか。 昔のことすぎて、もう思い出せない。

 

「けど……そう、ですね。 きっと、大丈夫です。 ここまで来れたんです。 次も、わたしが」

 

 唇を噛む。 やはり無味だ。

 ただ、苦痛を、存在しない筈の痛みを以て打ち震える鼓動を、手のひらで押さえる。

 

「……わたしが、勝ちます。 見ててくださいね、トレーナー(お父さん)

「もちろん。 キミが一番速いことを証明してくれ」

 

 とくり、とくりと、規則正しく刻まれる拍を感じ取って、仄暗い勇気の灯火に浸る。

 ざらりと鼓膜を撫でる男の声から、義務感という名の後押しを抽出する。

 一歩ずつ、牛のように重苦しい歩みで、光の射す出口のほうへ。

 

『今回無くなったのは認知機能の切れ端ですよぉ。 もちろん、レースには影響ない範囲なので安心してくださいねぇ』

『見当識……時間感覚が曖昧になったりちょっと現実感がなくなるぐらいかしら。 身体機能って燃料としての効率が中々良いのよねぇ。 ……まぁこれぐらい、我が子なら平気でしょ』

『ちなみに次のやり直しは記憶を使いますよぉ、比重が大きめのを。 忘れたくないならもっと頑張って、今度こそ勝ちましょう?』

 

 

「けどな、怪我はするんじゃないぞ。 もしも予兆があったら無理せずに棄権してくれ」

 

 返事は、ついぞ返さずに。

 

 

 ◆

 

 

 腰の下から伝わる衝撃。 規則的に鼓膜を叩く鉄の嘶き。

 姿勢を保つ背筋が些細な疲労を訴えている。

 少女はそれらを受けて、ぱちりと目を開いた。

 

 涙のコーティングで霞む視界を、半ば停止した思考で左右に揺らす。

 水分で屈折した光がファインドフィートの眼前を雑に撫でて、あるべき像を曖昧に放り投げていた。

 

『この電車は各駅停車、■■行きです。 お急ぎのお客様は次の停車駅で──』

 

 二度、三度と瞬きを繰り返す。

 うちに涙が剥がれ、ようやく普段通りの解像度を獲得して、薄緑色のロングシート──電車の内装が、理解できる視覚情報に翻訳され始めた。

 

 そして衝撃を受けて時折に跳ねる身体と、ガラス越しにへばりつく陽光を受けて。 ようやく、今この時が現実である事を悟った。

 先程までの地下通路は夢の景色。

 天皇賞の秋は、もう一週間前に通り過ぎた過去の事だった。

 

 現在のファインドフィートは、ミホノブルボンと一緒に、電車のロングシートに座っている。

 だから当然ながら過去と現実は同時に存在しないし、重なることもない。

 

「で、ブルボン先輩はいまだに夢の中……と」

 

 肩に乗った栗毛の頭を揺らないよう背筋を固めながら、ほうとため息をつく。

 頬に当たる耳の感触が、妙にささくれだった心を癒やしてくれる。

 けれど、夢から滲む余韻は中々晴れないままだった。

 

 それは負けたから、なのか。 否、そんな事はありえない。

 ファインドフィートは──否、『ファインドフィート』は、持てる物すべてを使って勝利を得たのだから。

 では、勝ち方に不満があるから、だろうか。 それとも勝ったという事実そのものが気に入らないからか。

 なんて、つらつらと幾つかの推測を頭の片隅に並べ立てる。

 ……が、その何れもが"これだ"と言える重さを有さなかった。

 

「……ねぇ、ブルボン先輩。 夢に近づくのも、意外と苦しいものなんですね。 テレビで見ていた頃はてっきり……もっと、先頭の景色は綺麗なもので、抱えてる悩みなんて何もないのかと思ってました。

 色んな人に褒められて、色んな人に応援されて、色んな人に愛されるのは、もっと……」

 

 けれど、現実は違った。

 まだ実績がなかった頃は、抱えている物が少なかった頃は、悩みもぼんやりと淡かった。

 心を切り刻まれる事はないし、夢の中で責め立てられる事もない。

 昔は、今よりも遥かに身体が軽かった、とさえ思う。

 昔は。 ひとりで立つことも出来なかったあの頃でさえ、もっと自由だったと、今にして。

 

 だというのに何故、今になってこうして思い悩むのか。

 

 答えは既に、そこにあった。

 ファインドフィートは決して口にしない──できないが、自分の浅ましさが浮き彫りになったせいだと、無意識下で自覚している。

 与えられた命で、与えられた力で、他者の勝利を奪う。 そこに罪を見出さずにはいられないのだ。

 けれども、負ければ夢に対する背信だ。 ファインドフィートは決して、裏切りたくなかった。

 

「本当は悩むまでもないモノの筈なのに……。 わたし、どこかおかしくなっちゃったのかな」

 

 まさか既に選んだ道を省みる日がくるなど、二年前のファインドフィートであれば想像もしていなかったろう。

 そして結局、今日も選択を先送りにした。

 愚かしい、と罵る声が聞こえる。 それは、あどけない少年の声をしていた。

 

 

「……ブルボンせんぱーい」

 

 とぼけた顔をして、人差し指をたて、隣の少女の頬をつつく。

 ぷにぷにとして柔らかい。 何よりも温かい。 生きている者の温度だった。

 指先に伝わる感触を楽しんでいるうちに、眉根にシワができた。

 しかし、目は閉ざされたままだった。

 

「ふふ……もう少しだけ、寝ててくださいね」

 

 一通り頬をこねて、満足する。

 それからファインドフィートも同じように、瞳の青を瞼で隠して、少しだけ寄りかかった。

 同じ体格、同じ体型、同じ重さ。 故に、多少寄りかかったとしても問題なくつり合う。

 

 だから今ここにいるファインドフィートが思うべきは、この電車で向かう先の土地と、すぐ隣に座る少女の事だけ。 現実にある、この時間だけを思えばいい。

 

 そうすれば、普段は息が詰まる帰路も、不思議と呼吸がしやすくなった。

 あれこれ無駄なことを考えて気を紛らわせずとも良いぐらいには。

 

「もう少し、だけ」

 

 薄く開いた口の端からすぅ、と息を吸って、ふ、と歯の隙間から吐く。

 肺の中身と交換したのは、埃っぽい車内の空気だというのに、少しだけ身体が軽くなった気がした。

 

 

 ◆

 

 

 二度のうたた寝、二度の覚醒を経て、頭の中をリセットして。

 ファインドフィートとミホノブルボンが足を踏み入れたのは、小高い山の中。

 目的は、いつかの約束通りの墓参りだ。

 

 綺麗に整備された山道を並んで歩き、真昼の涼しい風を浴びる。

 頭上の枝葉のカーテンは、日差しを遮るほどの密度を有していない。

 おかげで地面はよく乾燥していて、とても歩きやすかった。

 

「ステータス『リラックス』……。 想定よりも15%程、起伏が緩やかです。 まるでピクニックですね」

「レジャーシートやお弁当を持ってきて本当のピクニックをしても良かったかもしれないですね。

 御供家(うち)の私有地なので他の人もいませんし、気分転換にはちょうどいいかと」

「でしたら、次に訪れるときは本格的に準備をしましょう。 ……折角です、ライスさんやテイオーさんも誘いたいです」

「……ええ。 次の機会があれば、是非」

 

 くしゃり。 枯れ葉を踏む。 登山用の靴の裏で、葉の繊維をすり潰す。

 粉々になった薄茶色は、風にさらわれ、散り散りになって、やがて山に溶けていく。 桜吹雪の真逆。 草木と土の乾いた匂いがした。

 そして、飛んでいくそれを追いかけて、昼を告げる町内放送が木々の隙間をすり抜けてくる。 滔々と、鈍く響く。

 やがて歪な余韻を耳に残し、幹の(うろ)に呑まれて消えた。

 

 一度振り返って、街の方角を眺める。

 もちろん、人工物は何も見えない。 町内放送はずっと遠くから聞こえていて、その距離は麓までの長さとイコールである。

 そこから自分たちの行軍速度を計算して、日が昇っているうちには寮に帰れるなと、安堵の吐息をついた。

 

「墓参りは早めに終わらせます。 そのあと山の中を軽く見て回って……そうですね。 駅前のゲームセンターにでも行きませんか?」

「……私はそのプランで問題ありません。 ……ですが、それほど急がなくてもよいのでは?」

「ああ、いえ。 急ぐ、つもりはありません」

 

 リュックを背負い直す。

 肩に食い込む紐を握って、清掃道具の重さを分散させる。

 

「ただ……あんまり長く居座ってるのも、気まずい、ですから」

 

 

 歩く。 歩く。 歩いた。

 草木の陰に潜む、ほんの少しの非日常を楽しみながら、山道を登って。

 やがて高低差が失せ、山道ではなく砂道になった頃。

 少女二人の眼の前が、唐突にひらけた。

 

「目的地はここです。 見晴らし、中々良いでしょう?」

 

 入り口から中央まで続く砂道を視線で追いかけてみれば、突き当たりに立派な墓石が鎮座している。 ようやっと終点だ。

 トレセン学園からの道のりにかかった時間を考えれば、中々の長旅であった。

 

 日の出と同じ時間に起きて、モーニングルーティンをこなし、二人して眠い目をこすりながら電車に乗る。

 もちろん普段のトレーニングに比べると、まるで大したことはない労力だ。

 が、あくまでも休みの日で、義務とは無関係の行事という前提条件が、うまく意識を切り替えさせてくれなくて。 だからなのか、ちょっとした疲労感を感じてしまう。 年相応といえば、それまでの話ではあるけれど。

 

「……ここにあるのは、あのお墓だけなのですね」

「ええ、まぁ。 景色は良いので隅っこにベンチでも置こうと考えたことはありましたが……ここに来るひと、ほとんど居ませんからね。

 わたしと先生──主治医のひとと、おじいちゃん……院長先生ぐらいです」

「あぁ、あの……」

「でも……院長先生は、最近体調が悪いらしくて。 だから結局、わたし以外に来てるのは先生ぐらいでしょうね。 ああ、でも手入れしてくれる業者さんもいましたか……」

「……先生方とは、今でも交流は続いているのですか?」

 

 砂道を辿る。

 道との境目に生えていただろう緑色はすっかり茶色になって、枯れ草の秋を彩っていた。

 

「時々電話をしたり、顔を見せたときに一緒にのんびりするぐらいです。

 あのひと、ちっとも休まないって院長先生からも心配されてるんですよ。 なのでわたしが強引にお願いして、休んでもらってます。

 ……ああいうのをワーカーホリックって言うんでしょうね」

「ワーカーホリック……」

「わたしのお願いは大体聞いてくれるのでまだマシです。 ……そうそう、前持ってきたお供物はお酒だったんですけど、それも先生に用意してもらったんですよ。 どんな理由があっても、わたしには買えませんから」

 

 その一言一言の──ワーカーホリックとは少し意味合いが変わるが──殆どが自分に跳ね返ってくることを、ファインドフィートは自覚していない。

 だからか、ミホノブルボンから呆れたふうに見られても、何が何だかわからないと小首をかしげるばかり。 ……もっとも、当のミホノブルボンもその面では大して変わらないのだが。

 

「……フィートさん。 今日は丸一日予定が空いていますよね?」

「えっと……はい。 おっしゃるとおりですが……」

「では、寮に帰ったらお泊りの準備をしてください。 ライスさんとロブロイさんのお部屋にパジャマパーティーしに行きます。 許可は──想定では、98%の確率で貰えるかと思われますので」

「それは随分と急な……いえ、お二人が良いというのであればわたしも構わないんですが。 ……しかし、なぜ?」

「……。 ただ、そうするべきだと思ったからです」

「そうですか……」

 

 

 言葉を区切り、立ち止まる。 すぐ目の前に墓石があった。

 リュックサックをおろし、刻まれた字の溝を視線でなぞる。

 花立てに生けられた花は、まだ瑞々しかった。

 

「……丁度、先生も来ていたみたいですね。 わたしに教えてくれても良かったのに」

 

 そうしたら三人で一緒に、と。 その先生が居心地の悪さに苦しむだろう想像をして、けれど現実にならなかったからすぐに頭から振り払う。

 

「こんにちは。 久しぶりですね」

 

 こんにちは。 いつもとは少しだけ毛色が違う声音だ。

 雨と水のように、雪と氷のように、空と大気のように。 そっくりだけれど、ほんの少しの差異がある。

 こんにちは。 表面を撫でながら、もう一度呟く。 墓石に染みる。

 音を吸う機能なんてないのに、跳ね返りはせず、ただ染み込む。

 だから返ってくるはずの"こんにちは"は、ついぞ少女の耳に届かないままだった。

 

「今日は友だちにも来て貰ってるんですよ。 わたしと同じ部屋の先輩で、とても良くしてもらっているんです」

「初めまして、ミホノブルボンです。 フィートさんには私こそ良くしてもらっています。 ……つまり、私にとっても、大切な友達です」

「……ん、ちょっと恥ずかしくなりますね。 ふふ」

「恥ずかしい事は何も言っていないかと思いますが」

「あー……えっと、その……とりあえず掃除しちゃいましょうか。 ブルボン先輩は上から水をかけてもらってもいいですか? わたしがタオルで磨きますので」

 

 朱色を帯びた頬を見られないよう墓石に向けて。 リュックサックから、水が入ったボトルと真新しいタオルを取り出す。

 そして今回も棹石(さおいし)の天辺から水を流して、石全体をタオルでぬぐう。 以前と違って協力者もいるから、掃除自体が終わるのはあっという間だった。

 ……もっとも、主治医が先に掃除をしていたらしく元々汚れてはいなかった。 故にあくまでも形式的で、儀礼的な行為である。

 

 掃除が終われば線香に火を点けて、線香立てに突き刺す。 ひとり三本、合わせて六本だ。

 立ち上る細い煙と古ぼけた匂いで墓石を燻した。

 墓にあるべき五供(ごくう)を完璧に満たせた訳ではないが、これで及第点は貰えるだろうと、ひとり大きく頷く。

 

「……」

 

 それから、墓参り最後の工程。 合掌だ。

 ミホノブルボンに声をかけて、膝をつき、手を合わせて、瞼をおろす。

 胸中に浮かべるのはこの一年間での歩み。 一握りの伝えたいこと。

 

 ……しかし、そうして手向けようとした言葉は、意味を持ってかたまる前に、頭の中でばらばらに砕けてしまう。 言葉と言葉が繋がらない。 喉は、ずっと引きつったままだった。

 音もなく隣に膝をついたミホノブルボンも、手を合わせたままで何も言わない。 ファインドフィートは、その沈黙が有り難かった。

 

 

 たっぷり、六秒後。 目を開ける。

 知らずのうちに止めていた呼吸を再開する。

 

 横一文字にきつく結んでいた唇を緩める。

 予め塗っていたリップクリームのお陰か、動きに淀みはなく、口が開いた。 墓ではなく、隣の少女へ向けて。

 

「……ブルボン先輩は」

 

 視線は、墓の表面に固定したままで。

 平面な視界の隅の、線香のゆらめく煙を見守りながら、風に吹かれて。

 濁りのない声で、ひとつの問いを投げた。

 

「ご両親の事は、好きですか?」

「……? はい、好きです。 お父さんも、お母さんにも、私は『愛情』と呼ばれるものを抱いています」

「そう、ですか。 ……きっと、ご両親からしても同じ気持ちでしょうね」

 

 突拍子もない、と言えば、突拍子もない疑問。

 けれど問われた少女は僅かな逡巡の後に、すらすらと直情的な回答を返す。

 年頃にありがちな虚飾はない。 羞恥もない。 平常心そのものだ。

 どうにも、ほんの少し恥ずかしくなってしまった。 共感性羞恥とは少し違うが、いくらか近い。

 

「……もうひとつ、教えてください。 ブルボン先輩はなぜ、ご両親の事が好きなんですか?」

「何故、とは?」

「言葉通りの意味です」

 

 一度、区切って。

 視線を真横に向けて、心の底から不思議そうに。

 普段よりも尚、調子の低い声で問いを投げかけ続けた。

 

 両手は今も合わされたまま、形だけの祈りを捧げている。

 

「どうして、好きだと思うようになったのですか? 

 優しいから、ですか? 今まで育ててくれたから、ですか? きっとブルボン先輩には、ブルボン先輩の理由があるはずです」

「理由……ですか。

 ……すみません、考えた事がありませんでした」

 

 けれど、聞かれたからにはと、頭を揺らしながら思考を巡らせ始めた。

 

 ──ミホノブルボンは、両親を仲睦まじい夫婦だと認識している。

 元トレーナーで無骨な父と、元教え子で真反対の性質を持つ母。 どちらも尊敬に値する人物である。

 しかし、だから好きなのかと言えば、自信を持って頷けなかった。

 もちろん、好きを構成する一因ではある。 しかし、"だから"の理由にするには如何なものかとも思える。

 

 不器用な笑顔が好きだから。 それも一因だ。

 夢を応援してくれたから。 それも一因だ。

 愛してくれたから。 それも一因だ。

 

「つまり。 "だから"の理由は多くの一因の積み重ねであって、一言で断言できるものではない……私は、そう解釈しています」

「……そうですか。 本当に、いい人達なんですね」

 

 はにかむような薄い笑みには、欺瞞の色は欠片もない。

 

 だからこそ、自身の羨望が浮き彫りになっていることを、ファインドフィートは自覚していた。

 敬意を払うに値する親であること。 夢を応援してくれる親であること。

 その親がまだ生きていて、これからも思い出を作れること。 "これから"があること。

 それらに嫉妬してしまうのは、ファインドフィートが未だ幼いから──そう結論付けるのは、簡単だ。

 ほんのりと、ひっそりと、胸の奥に秘めた嫉妬は、小さかろうとも確かに燃えている。

 

「ああ、でも……良かった」

 

 それと同時に、安堵も。

 

 親に向ける愛情に理由があるのなら、それこそが正しいのなら。

 きっと自身の親も同じで、慕うに値する人物だったのだろうという確信が持てる。

 

 ……たとえ両親の記憶がなくとも、両親を見る姉の顔ぐらいは覚えているのだ。

 そして、はにかむような薄い笑顔で、母と思わしき人物に抱きついていたのも、たしかに覚えている。

 だからこそ、安堵した。

 眼の前の顔と、記憶の中にある顔が重なっているから。

 愛された記憶などない分際で、親を愛しているなどとうそぶく己の情よりは──よほど信用できる答えだ。

 

「じゃあ、安心だ」

 

 薄く笑う。 柔らかくほどけて、はにかむような、薄い笑顔だった。

 頭の片隅に居座っていた小さな疑問に答えが出て、胸のつっかえが失せたようで。

 この瞬間は姉の弟ではなく、親の子として、心の底から。

 

 

「……ふふ、ごめんなさい。 変なことを聞いちゃいましたね。

 でも、ありがとうございます」

「いえ……。 ……」

 

 両手を離して吐き出された、たった十文字の言葉。

 それを受け止めた少女は、一度口を開いて、もごもごと言い淀んだ。

 

 ……無言で続くかもしれない何かを待ってみる。

 けれど結局、何でもありませんの一言だけで区切られた。

 ただし、その割には歪んだ表情だった。 本当に何でもないのであればもっと透明な色をするだろうに、と、不思議に思わないでもない。

 追求はしないが、目に滲む濁りは、不思議と印象に残っていた。

 

 

 そして、ふつと。 続いていた会話が途切れる。

 墓前からようやく立ち上がっても、肩と肩の間にあるのは沈黙、微妙な距離感。

 時折風が吹いては押し流そうと尽力してくれているけれど、そよ風ごときではどうにもならなかった。

 

 墓石の灰と黒のまだら模様に伝う水が、ぴちゃりと落ちた。

 飾りの先端から、地面の小さな水溜りへ。

 生まれる波紋を見下ろして、硬いまぶたを閉ざす。

 

「……でも、そっか。 わたし、もう、見つけてもらえないんだ」

 

 "良い子にしてたら助けてくれる"。

 父と母、どちらの言葉だったのか。 日記には残されておらず、故にファインドフィートは答えを知らない。

 思い悩んだことはある。 答えを求めたこともある。

 けれど、もう何の意味もない言葉だった。

 そう、すとんと腑に落ちた。

 

 何故、どうして、と呪った日々の答えは、ずっと鏡に映っていたのだ。

 

 

「──そろそろ下りましょうか。 思っていたよりもはやく終わりましたし、ゲームセンターのあとはケーキバイキングにも寄りませんか? 奢りますよ」

 

 目を開く。 舌先で封じる。

 そうして見せかけの平常運転で、一歩。

 油のない歯車を強引に動かし、軋みをあげた。

 

「……はい。 移動には賛成します。 ですが奢りは不要です。 むしろ私が出します」

「じゃあここまで付き合わせちゃった事のお詫びも兼ねて、ということで……」

「フィートさん……。 いいですか? 私は先輩です。 そして、あなたは後輩です。 どちらの立場が上か、分かりますね?」

「急に体育会系になるのは卑怯かと」

 

 口ぶりとは裏腹に、心底楽しそうにくすりと笑う。

 来た時に通った道を遡り、枯れ葉を踏んで、風と遊ぶ。

 

 折角だからお土産も買おうか、と提案してみれば、同意の言葉が返ってくる。

 日々カロリー計算に心血を注いでいるトレーナー達の苦労を知ってか知らずか。

 無邪気に知っている名前を列挙していく。 トウカイテイオー、ゴールドシップ、マンハッタンカフェにライスシャワー、メジロマックイーン、エトセトラ。 持って帰る手間を考えれば相手をもっと減らすべきだろうに。

 そんなことも気にならない程に、今のファインドフィートは気分が良かった。

 

「……ブルボン先輩。 今日はありがとうございました。

 この場所は、もう思い出さなくてもいいです。 でも、頭の片隅に残してもらえたら……嬉しいです」

「ご安心を。 私は記憶力に自信がありますので」

 

 続く自慢げな鼻息と、子供らしい自信満々な顔。

 何となく崩したくなる表情だったから、つい指が伸びてしまうのも仕方ない。

 

「むぐっ」

「えへへ……やっぱりやわらかいですね。 メジロ饅頭に倣ってミホノ餅とか出すのも良いんじゃないですか?」

 

 頬を人差し指でこねて、ころころ笑う。

 反撃として繰り出される手をするりと躱して、後ろ足で葉っぱを散らした。 視力的には隻眼のくせに、随分とこなれた動きで。

 

「ブルボン先輩。 ほら」

「むぅ……」

 

 胸元を左手で押さえ、逆の手を差し伸べる。 手を繋ぐ。

 何が面白いのか、ころりと笑った。

 

 

「……"わたし"の事、忘れないでくださいね」

 

 そして、小さく、密かに。

 大局にはまるで無関係な、極めて個人的な欲求をこぼす。

 

「『ファインドフィート』じゃない、この"わたし"だって。 誰かの中には残っていたいんです」

 

 もし叶うのなら、それはあなたであってほしい、なんて。

 少女はそっと、握る力を強めた。

 握られた側の手も、また。

 

 


 

 

 もう無いよ。

 

 



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64話

 

 

「フィートさん? どうしたの?」

 

 幼気な声を受け止める。びくりと、肩が跳ねた。

 夢うつつだった意識が明瞭になり、足元が定まる。

 そして、小さな困惑と共に、視線を前に放り投げた。

 

 窓から射し込む日。明るく照らされた廊下。長い直線と、まばらに散らばる少女達。

 放課後特有の弛緩した空気感のせいで、どこか生ぬるい。停滞感、と言い換えてもいい。

 

 ファインドフィートは、止まりかけた歩みをとっさに再開して、声の主──すぐ隣の少女を見下ろした。黒鹿毛で片目を隠した少女が、ファインドフィートを見上げていた。

 対面で気遣げに揺れる瞳が、鋭く突き刺さって、頭の片隅がもどかしさに震える。

 前にも似たような事があった気がするな、なんて。今となっては手遅れの追憶を浮かべて。

 

「いえ……失礼、少し気が抜けていたみたいです。それで……えぇ、何の話でしたか」

 

 (かぶり)を振った。

 しかし、ふわふわとした感覚はまったく抜けない。

 はてさて、一体なぜ自分がここにいるのか。それすらも、分からない。

 思い出そうにも前後の記憶は存在せず、断裂した場面が映像として思い浮かぶのみ。

 足元は今にも雲になって消えそうで、ふとした瞬間に、また無意識の海に溺れそうになる。

 

「本当に? 疲れてるなら無理しないでね……?」

 

 けれども、まだ動ける内は社会生活を営んでいたかったのだ。逃げてしまえば楽になれるだろうな、なんて、不毛な妄想をしながらも。

 それが失敗し続けている事は火を見るよりも明らかだというのに、仮初めの日常に縋り続ける。

 単なるわがままだった。

 

 

「えっとね……明日はフィートさんのお誕生日でしょ? だからみんなでケーキ買いに行きたいの。いい、かな?」

「誕生日……? 

 ……あぁ、そっか。もう11月か……」

 

 そして、頷く。顔には薄っぺらい驚きが滲んでいた。

 そこには、もう誕生日だったのか、という純朴な驚きと、ファインドフィートの視点では──親交の浅い少女からその言葉が飛び出たことに対する驚きが、それぞれ微量に混ざり合っていた。

 

 たしかに、11月の半ばは双子の誕生日だ。

 ウマ娘は一年の前半に産まれるものが多いけれど、彼女らは珍しくそこから大きく外れて、産まれた。

 早すぎたのか、あるいは遅すぎたのか、それすらも判別がつかない曖昧な時期の、寒い未明。

 冬の始まりが、彼女らが産まれた日だった。

 

 懐かしいな、と郷愁に目を細める。

 ……そして同時に、何かが引っかかった。

 

 じんわりと湧き上がる違和感に、じっと眉根を寄せる。

 喉の奥に小骨が突き刺さったときのように、もどかしい熱。うなじがむず痒くなって仕方がない。

 

「フィートさん、どうしたの?」

「いえ……何かを忘れているような気がして」

 

 何かを忘れるなんて今更のことだ。白々しい。

 そう罵る存在は──幸いにも、ファインドフィートしかいない。おかげでゆっくりと記憶を漁れる。

 いつの間にか、すっかり軽くなった箱を前にして、少女は残り少ない記憶の糸を手繰り寄せた。

 

 今日のやり残し、ではない。ファインドフィートの記憶は"今日"のラベルを保存できない。

 昨日の思い残し、でもない。ファインドフィートの意識は"昨日"の続きを認識できない。

 つまり、今とは繋がりのないもの。時間によらないもの。時系列の外。知識の領域。

 そこまで行き着いてしまえば、疑わしきを導き出すのは存外すぐのことだった。

 

「……あ。今日は21日ですよね? たしか近くのケーキ屋さんは定休日だったような気がするのですが……」

「ううん、14日だよ? ……あれ? フィートさんのお誕生日って15日、だよね?」

「え……? わたしの誕生日は22日──」

 

 そしてまた薄っぺらい驚愕を舌にのせようとして、はたと気付いた。

 11月22日。それは、ファインドフィートの誕生日だった。御供瞳の誕生日でもあった。

 

 だが、今は違う。

 ファインドフィートは。

 『ファインドフィート』は、死没と同じ日に産まれたのだから。

 

「──いえ、15日であっています。11月の、15日です。……ごめんなさい、ちょっと寝惚けてたかもしれません」

「そ、そうなの……? 夜はちゃんと寝ないとダメだよ?」

「ん……善処します。できる限り」

 

 とは言ったものの、さて。

 正直、有言実行できるとはこれっぽっちも思っていない。

 善処するという言葉は所詮その場しのぎ。実現性など有さない。

 

 だって、何を目的に、何を以て、どう改善するというのか。

 もし人並みにあわせよと言うのであれば、まずファインドフィートは、病院に監禁されるところから始めなければならない。そうなってしまえば、秘している欠落も隠しきれなくなるに違いない。

 だから善処とは、目的の真逆をいくものでしかなく、故に決して実行されない。……ひどい皮肉だ。

 

 それを誰よりも理解している少女は、目元の薄黒い隈をこすって、鈍いため息を吐く。

 空気よりも重たい息は、誰にも触れずに落ちていく。

 

 

「──ま、何にしても……ちょっと早いけどお誕生日おめでと。いやはや、あのフィートもついに……ついに、何歳だっけ? 元が大きかったからちょっと分かんなくなっちゃった……」

「あぁ、テイオーさん。もうミーティングは終わったんですか? ちなみに明日で……15歳になります」

「んー、スペちゃんがやらかしちゃってさ。トレーナーがお冠だったから先に抜けてきちゃった」

 

 "いやぁ、まさかあそこで大食い大会に飛び入り参加しちゃうなんてね"。トウカイテイオーはケラケラと軽いノリで笑う。

 当然、スピカのトレーナーとしては堪ったものではないだろう。日々の気苦労に加えての、それ。

 ファインドフィートもライスシャワーも、彼に同情を抱かずにはいられなかった。

 

「ところでさ、二人してどこ行くの? まぁまぁ珍しい組み合わせじゃん……っと、そういえばケーキ買いに行くんだっけ? もうそんな時間?」

「えっとね、これからフィートさんと一緒にタキオンさんのところに遊びに行こうとしてたの。買いに行くのは、そのあとで良いかなって」

「カフェさん経由でお誘いいただきまして。なんでも……新しいリラクゼーションドリンク……? というのが出来たらしいんです。せっかくお誘いを頂いたので、行ってみようかなと」

「んぇ、タキオンの新作? それって大丈夫なの?」

「た、多分……大丈夫、だよね?」

「……さぁ。わたしもタキオンさんの噂話程度なら色々と聞いていますが……今回はカフェさんを経由しているんです。問題はないでしょう」

「あ~、それならたしかに大丈夫かぁ。あっても色々聞かれたりするぐらいでしょ」

 

 アグネスタキオンは知的好奇心旺盛なタチで、好奇心を満たすためにあれこれと話をしたがる少女だ。その理由付けのドリンクと考えれば、なるほど。別に不自然ではない。

 マンハッタンカフェがそれに協力した事は珍しいが、押しに押されて仕方なく、の可能性も十分にあり得る。

 他人に迷惑をかけない範囲であれば、彼女の頭はかなり柔らかい。少女が保護者としての信頼を獲得している理由のひとつだ。

 そう納得して、ピタリと横につく。黒、白、茶の順番で並んだ。

 

「じゃあ出発進行~。ワガハイをしかと護衛せよ~」

「……ふふ。なんだか懐かしいですね、それ」

 

 真横の姿。澄んだ覇気。肩のあたりにくる頭。

 こうしてくだらない会話に興じるのも、ひどく懐かしい気がした。

 

 ライスシャワーと話すのだって、そうだ。

 もはやファインドフィートは覚えていないが、一年目や二年目の頃はそれなりの頻度で交流を重ねていたのだ。だというのに、三年目のいまとなっては顔を合わせることすら殆ど出来ていない。

 昔は、一緒に買い物に出かけることもあったろう。一緒にお菓子を食べて、ミホノブルボンもまじえて、遊戯にふける事もあったろう。

 けれどその記憶の殆どは失われ、記録の輪郭をなぞるしかできない。今のファインドフィートに出来るのは、薄い懐かしさを抱きしめる程度だった。

 

 

 けれど、そもそもの話で。

 そんな過去を懐かしむ資格なんぞ、一体どこにあるというのか。

 

「……えぇ、本当に。まったく、まったくですよ。見る夢は選べないにしても、もうちょっと他にあるでしょうに」

 

 大きく、息を吸う。意識を尖らせる。

 たったそれだけ。それだけで懐かしい景色は、幻のように脆く、儚く消えていく。

 

 停滞した廊下は、弛緩の果てに崩れ去る。

 黒鹿毛の少女は、いつかと同じく夢として消える。

 鹿毛の少女は、懐かしい笑顔を浮かべて、記憶の中に溶けていった。

 

 そうして、全部が剥がれ落ちる。

 今まで見ていたのは、何もかもが、幻覚だ。幻覚だった。

 白昼夢のように生々しいだけの、ただの幻。

 代わりに広がったのは、見慣れた白い部屋。無機質で冷たい感触は、間違いなく現実のそれだった。

 

「はぁ……」

 

 鼓膜を揺らすのは、大勢の人々の歓声と、声援と、それにも負けずに響く大きな蹄鉄の音。

 それからようやく定まった足元を認識して、ここがレース場の控室であることを悟る。

 否、そもそもそういった情報を収集する必要すらなかった。ただ、自分の体を見下ろせばいい。

 そこにあるのが白い服であれば、それはレース前しかありえない。もし泥に汚れていればレース後だ。つまり、今のファインドフィートが気にするべき全てがそれで分かる。

 ……その何れにも当て嵌まらないのであれば、さっさと気を抜いてしまえばいい。もう、それで、全てが事足りるようになった。

 

「……いまのわたしを見たら、テイオーさんはなんて言うんでしょうね」

 

 ベンチに座り込み、行儀悪く足を乗せて、膝を抱える。

 そして、あぁ、と。

 納得の意にも、無念の声にも取れる、どっちつかずの呻きをこぼす。

 きゅっと結ばれた横一文字の口が、やわらかな失意を象っていた。

 

「わたしは」

 

 思い出すのは、いつかの、どこか。記憶の中に淡く残る、トウカイテイオーの問いかけ。

 "後悔してないの? "なんて、あまりにも直情的な問いかけは、今も胸に突き刺さったままで。

 ……しかし結局、心残りにはなり切れなかった。少女のひと刺しは傷と同化して、それっきりだ。

 

「テイオーさん。わたしは結局……こういうバカだったんです。わたしは強くなれなかった。わたしは、後悔をなくそうとは思えなかった」

 

 いま、思うに。

 後悔を抱いて、それを消化できるのは、強いものの特権だ。

 後悔を後悔のままにせず真正面から向き合い、答えを出す。そんなこと、ファインドフィートにはできなかった。

 

「わたしも、あなたにみたいに強くなりたかった」

 

 囁いて、臍を噛むように口の端を結ぶ。

 

 けれども、強くなったとして、それで。

 ……それで、後悔を消化できるのか? 

 その選択を胸を張って選べるのか? 

 ファインドフィートは、その帰結を考えていなかった。

 

 消化した想いは、何になるのか。

 ファインドフィートの血肉になるのか、それとも何処にも行けなくなって、ただ消えるのか。

 消化した先の姿すら想像できない身で、形のない強さを求める欲求は、"愚かしさ"と呼ぶべきではないのか。

 ……それを何と定義するにしても、きっと"正解"とは呼べない。ファインドフィートが求める"正解"は、そのような欠陥を有さない。

 

 だから、少女達の間にあったそれを突き詰めてしまえば、単なる主義主張の違いだった。

 だから、正解なんて存在しないし、トウカイテイオーのそれが正しい訳でもない。

 もちろん、ファインドフィートも。

 

 「……羨ましいなぁ」

 

 膝に顔を埋めて、いじけたふうに息を吐いた。

 隣の芝生が青く見えているだけなのだ、結局は。

 

 ……それを理解したところで、羨望は消えないのだが。

 

 

『じゃあ良いじゃない、無視しちゃえば。あなたは変われないのだから、どうしようもないの。

 あなたとあの子の双方が納得できる結末なんて存在できないのよ』

「……女神さま」

『はぁい。あなたの女神、王冠よ。太陽のほうは寝ちゃってるから私だけ出てきたわ』

 

 そんな、少女の思考をあざ笑うかの如く。

 机のふちに腰掛けた女がくつくつと笑った。

 

『それにしても……ふふ、あなたも物好きね。

 結局忘れちゃうのにああして言葉を交わすんだもの。友情関係は同等関係……あなたのそれは、当てはまるのかしら?』

「…………」

 

 ふたりの視線は絡まない。

 少女は膝を抱えたまま床を見つめる。

 女は、足をぶらつかせながら天井ばかりを見つめる。

 黒いひび割れのはしる足がゆらゆらと、反復運動を繰り返す。その動きに音はなく、故にこの部屋は静寂に包まれていた。

 

 けれど一時だけ訪れた静寂を、また女の声が破る。

 無邪気に、とは言えない。薄っすらと欲を滲ませる声は、少しだけ人間臭かった。

 

『あなたがあの子達と言葉を交わしたのは、どうして? もちろん、燃料に使えるから別に悪い事じゃないのだけれど……ねぇ、どうして自分から足を踏み出したの?』

 

 踏み出した。たしかに、ファインドフィートから踏み出したことは、幾度もあった。

 その最たるものは墓参りだ。あれこそ必要なかったものだ。

 なくてもマイナスにはならない。そして、プラスにもならない。燃料としても、友好の深さとしても、あるいは数値として扱える全てにおいて、きっと変わるものはない。

 言ってしまえば、ファインドフィートの欲でしかないのだ。

 

『ねぇ、ねぇ。そもそもあなたにとっての友達って何なのかしら。利害関係? 踏み台? それとも、都合のいい道具が欲しかった? ……私に言ってくれたら用意してあげたのに』

「……っ」

『ああ、そうすると……あなたは、本当の友情は感じていなかったのかしら? ……本当は、苦しみを運んでくるあの子達が嫌いだったんじゃないの?』

「……女神さま。あなたは……あのひと達を嫌ってほしいと、思っているんですね」

『さぁ。どうだと思う?』

 

 もし嫌えるのであれば。もし、そうであれと願えるのなら、きっとファインドフィートは楽になれる。

 仮初でも良い、嘘でもいいのだ。

 "だいきらいだ"と口にしてしまえば、きっとそれは疵になる。疵になれば、ひび割れる。ひび割れれば、やがて砕ける。

 つまり、苦しみの根っこが取り除かれるのだ。時間はかかっても、いつかは。

 そして天秤は、正しくなる。女達にとっての最適解が実現する。

 

 ……けれど、違うのだ。

 正しかろうと、何であろうと、しかし違うと少女は言う。

 

「だって、あのひと達がいたからわたしはここまで来れたんです。あのひと達がいたから、わたしは満足して、いける」

『……そう』

 

 苦しみがあった。悲しみがあった。けれど、それを上回る、喜びがあった。

 合理的ではない。矛盾だらけ。その想いは夢の正反対を向いている。

 それでも、ファインドフィートはそれを愛していた。

 愛している。

 

「お葬式に来てくれたら、嬉しいなぁ」

 

 

 そしてまた、ポツンとひとりきり。

 

 少女以外誰もいなくなった部屋の中央で、ベンチに腰掛け、両手をあわせて、祈るように肩を丸める。

 矮小な背。卑屈な器。まさしく愚か者。

 そんな彼女を見つめるのはベンチの前の、机の上の、雑多に散らばる小道具ばかりだった。

 蹄鉄ハンマーだとか、冷却スプレーだとか、目元の隈を隠すための化粧品だとか。

 ただカバンの中身をひっくり返しただけの無秩序が、合わせ鏡のように、我が物顔で横たわっている。

 それらを片付けるでもなく、手をつけるでもなく、放ったらかしたままで時間を浪費し続けた。

 

 一分、五分、十分。

 時間の重みを誰よりも知っていた筈の彼女は、しかしそれを実感するための機能を失っている。

 故に、思考を巡らせることすらもせず、有益に消化することもせず、ただ、薬にも毒にもなれない呼吸だけを重ねて。

 

 

 そして、いつか。

 ついに、遠くで歓声が上がる。

 続く解説の声。壮年の男の声。しわがれた重みのあるそれが、第11レースが終わった事を語る。勝者の名は、聞き覚えのないものだった。

 ジャパンカップは12レースだったから、つまり、ようやくファインドフィートの出番だ。

 

 のろい仕草で顔を上げて、気怠げに目を伏せる。

 立ち上がったのは、部屋のノックが鳴ってからだった。

 



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65話

 

 

 第12レース、ジャパンカップ、18名の中の中央枠。

 いち早くゲートに入り込んだ、白い姿。

 他は鹿毛や栗毛ばかりだったから、唯一の白はよく目立つ。

 

 ミホノブルボンはそれを、観客席の最前列で見守っていた。

 遮るものがない視界には芝と空が広がっていて、こざっぱりとした世界は寒々しかった。

 

「……私も、本当は出走するつもりだったのですが」

 

 口惜しげに、耳を伏せる。

 枠の中のいずれかに自身の姿を重ねて、しかし幻想でしかないそれを悔やんだ。現実は今ある通りでしかないのだ。

 

 確かに、ミホノブルボンにも出走権限はある。実際、ジャパンカップの出走者候補に推挙されていた。

 では、何故出走しなかったのか。

 まだ得ていないトロフィーを欲するのは、ヒトだろうとウマ娘だろうと変わらない欲求で、少女にも()()はあった。

 ……状況も、心情も噛み合っていてなお選べなかったのか。

 そうであれば、ミホノブルボンの意志の外側に理由があるべきで。

 そして同時に、どうしようもなく逆らえないものであるべきで。

 

「せめて、ピークがもう少し長ければ──私も、あそこに居たのでしょうか」

 

 畢竟、誰だろうと時間には抗えない。

 

 ただ、それだけ。

 ただそれだけのシンプルな答えが、少女の前に立ちはだかっていて。それは、誰だろうと乗り越えられない壁だった。

 有史以前も、有史以降も、絶対に変わらない不変の法則だ。

 逆らう努力そのものは誰にでも認められるべきだが、逆らう事は許されない。あくまでも、そういうものだった。

 

「……ブルボンは、後悔してる?」

「マスター……」

 

 隣に立つ、紫の目。どこか無機質な、女の顔を見上げる。

 ヒールのせいでほんの少し高くなった目を追いかけて、小さく口ごもった。

 

 少なくとも、選んだのはミホノブルボン自身だった。十分に考えて選んだ道だった。

 だから、まさか、"無理をしたかった"と言い募れる筈もない。

 昔であればともかく、十分に成熟を果たした今はもう。

 

「ステータス、『平静』。……問題ありません、マスター。私の待機地点は、ここですから」

「そう。なら良いの」

 

 ……思うところこそあれど、飲み込む。

 しっとりとして、気持ちの悪い喉越しを、眉を顰めながら耐える。

 今になってああだこうだと言ったところで何も変わらないのだ。

 賽を持つのは、今もゲートの中にいる彼女達だけ。ターフの外にいる者が賽を持つのは許されない。

 ミホノブルボンは、己の領分をよく弁えていた。

 

 

「……?」

 

 それからすぐにレースが始まる……かと、思いきや。

 誰かの右靴が落鉄──蹄鉄が外れ落ちた──というアナウンスと共に、若干の遅延が知らされる。ゲート付近で半泣きになっている少女が、少しだけ目立っている。とはいえ、すぐに打ち直せるものだから目くじらを立てるような事でもない。

 

 少女が目を回しながら右往左往する姿をのほほんと見守る中、ふと、隣の女があちらこちらへ視線を送っている姿が視界に入り込む。

 手元には携帯端末。時折見下ろす様子からして、現在進行系で連絡を取り合っているのだろうと察せられる。

 

 ……マナーが悪いことを承知でディスプレイを覗く。おや、と首を傾げた。

 てっきり、後輩の芦毛のトレーナー相手かと思い込んでいたのだ。が、ディスプレイに映っている名前は知らない人物のそれ。少し、気まずくなった。

 

「……マスター、どなたをお探しなのですか?」

「ああ、うん……昔、色々とお世話になった人がいてね。ここに来るって言ってたんだけど……」

最前列(ここ)に……ですか。

 ……この人混みです。辿り着けないのでは?」

「うーん……トレセンバッジつけてるだろうし、皆なにかしらを察して前まで通して……は、くれないかぁ、流石に。困ったわ」

 

 崎川は眉根を寄せて、また周囲を見渡した。

 その視界の外を補うために、ミホノブルボンも周囲に視線を送る。

 人相は分からなくとも、人を探す素振りをしている人物を見つけるぐらいはできる──筈だ。

 ……筈だったが、残念ながら人混みを見渡すには背丈が足りない。ミホノブルボンは無力だった。

 

 とはいえ、ヒールの補助をうけている女の視界は、比較的ひらけていたらしい。

 ある一点を見つめて、表情がぱっと明るくなる。

 

「っと、見つけた。先輩っ、こっちです!

 ……あ、すみません、あの人うちのベテラントレーナーで……ええ、はい。ごめんなさい。すみません……」

 

 周囲の客に頭を下げて、件の人物が入り込めるだけのスペースをなんとか空けてもらう。幸いにも心優しい者が多く、事はスムーズに進んだ。

 

 そうしてやってきた人物は、やはりミホノブルボンは見たこと無い男だった。

 白いスーツを着込み、サングラスをつけている。それに、衣服では隠しきれない体格の良さも見て取れた。

 少しばかり威圧感のある風貌だが──崎川に気にした様子はない。

 にこにこと、普段見ることのできない明るい笑顔を浮かべていた。少し、衝撃を受けてしまう。

 

「……よう、崎川。久しぶりだな」

「ええ、お久しぶりです。直接顔を合わせるのは……六年ぶりですねかね」

「距離が距離だからな。俺とて向こうで教え子を持つ身だ、そう簡単には帰ってこれん」

 

 男が立ったのは崎川の隣。三人で横並びだ。

 

「それで、お前が……」

「ミホノブルボンです。……あの、お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」

「黒沼だ。よろしく頼む」

 

 黒沼。男の名をころりと舌の上で転がす。

 不思議と、よく馴染む響きだ。ともすれば、慣れさえも感じるほどに。

 本当に初対面だろうか、としげしげと眺める。しかし男の風貌は記憶の中の誰とも符号せず、事実は覆らない。

 だから、ただ、不思議な心持ちだった。

 

「この人、私の先輩トレーナー兼先生なの。今はフランスのトレセン学園で教鞭をとってるわ。髭面だしサングラスつけてるしやけに体格いいし、まるでヤの付く自由業みたいな出で立ちだけどね」

「……サングラス以降は余計だ、崎川。お前は相変わらずみたいだな」

「もちろん。だって先輩が海外に行ってから、たったの6年そこそこですもの」

 

 ともかくミホノブルボンは、自分が知らない過去があったのだと、理解した。

 少なくとも、悪い人間ではない。十分だ。

 具体的な理由なんぞ何もない直感で、しかし今まで違えたことはない直感で、黒沼という男を信用した。

 

「マスターのマスター……大マスターとお呼びしても、いいですか?」

 

 黒沼を見上げる。顔の大部分はサングラスで隠れて見えない。

 けれど、怖いとは思わなかった。

 むしろよく馴染む気がして、また、不思議な気持ちになる。

 

「……おい、崎川……」

「素直な子でしょう?」

 

 レースが始まる十秒前の、ちょっとした一幕だった。

 

 

 ◆

 

 

 無言になった3人が見守る先で。

 がこん、と音を立ててゲートが開いた。

 飛び出した18名が蹴飛ばす芝は、ほんの少し湿り気を帯びている。

 昨日降った雨の残り香が、ミホノブルボンの鼻をくすぐる。

 

 そして、まず先陣を切ったのはやはりファインドフィート──。

 

「……違うな。記録を見た限りじゃあ大逃げを基本戦法にしてた筈だが……今日は差しか」

 

 では、なく。

 まずハナをとったのは四番人気、メジロパーマーだった。

 ヒトの走りによく似たフォームで、しかしヒトには似つかぬ速さで駆ける。

 

 風が、吹いていた。

 

「みたい、ですね……。初期のころは差しだったと思えば、適性がないわけではないでしょうし。見るからにB……A寄りのBか。であれば、ズラシとしても有効かもしれません」

「そもそも大逃げってのは身体への負担がデカい。他の戦法で勝てるんならそれに越したことはない、が……」

 

 位置取りは、良い。

 後ろ過ぎず、前過ぎない。中団のなかでもやや内寄りで、きちんと躱せば抜けることができる位置。

 理想的というほどではないが、最初の一手としてはまずまずと言ったところか。

 ミホノブルボンは、人知れず胸を撫で下ろしていた。

 

 ……が。

 続きの動きを見て、そっと眉を顰める。

 

「妙だな。まだ後ろに下がっている……?」

 

 纏わりつく、違和感。

 隣の隣に立つ黒沼が口にしたように、ファインドフィートはさらにスルスルと順位を下げていく。

 その足取りに淀みはなく、惑いもない。意図したものであることは明らかだった。

 

 そして、最後方に位置を固定して、ようやく止まる。

 後ろから二番目になった目の前の少女を風除けにして、じっと息を潜める姿は、いっそ不気味だ。

 

「だが、ありだな。今まで同じ戦法で勝ってきた分、他の相手からも相応に警戒されてる筈だ。

 あっただろう対策を多少なりとも無視できるんなら十分ありだ。見るからに付け焼刃じゃないのもプラスだな」

 

 ごうごうと、大きな音と共に蹄跡が刻まれる。

 湿った土と、草の匂いがより濃くなり、風に乗って運ばれてくる。

 ヒトの鼻では好き嫌いが分かれる匂いだ。

 周囲の人々のなかには、僅かに顔をしかめる者も、いる。

 だが逆に、ウマ娘の幼子や、その母と思わしき女性は、微かに顔をほころばせていた。

 もちろんミホノブルボンは後者の側だ。どこか懐かしい匂いが、ささくれだった心を癒やしてくれるから。

 

 

 ……そうして各々が見守る先で、ついに先頭が向こう正面に到達した。

 1000メートルを通過してのラップタイムは一分を切っている。ややハイペースな展開だった。

 

「彼女のトレーナー……(アレ)がこの作戦を考えたのでしょうね。総合的には勝率を損なわず、なおかつ身体の負荷を和らげようとしているのは、(アレ)にしては中々いい考えです」

「……見解には同意するが……お前ら、まだ仲を拗らせているのか。もうお互い良い年をした大人だろうに」

「良い年をした大人だからこそ、ですよ。お互い頭が固くなってしまって、打ち解ける時期を逃してしまった」

 

 そんな芝の上を見つめながら、なんとなしに片耳を隣の会話にも傾けた。

 話の流れからして、妹分のトレーナーの話だろうことは理解できる。その人物が、己のトレーナーと仲を違えていることも理解している。

 以前から一緒にトレーニングをする機会もあったから、大まかな人柄も、そこそこ詳しく知っていた。

 

「私は……あれのスタンスが気に入らない。夢を見せるよりも現実的かつ身近な実績……金稼ぎを目的とした育成方針。それの全てが悪いとは言いません。ですが……いささか、夢というのを小馬鹿にしすぎでしょう」

「……理想だけじゃ食っていけない、ってのは、事実としてある。夢じゃ腹は膨れねぇんだ。ヒトも、ウマ娘もな」

 

 だから会話の内容は、なんとなく把握できた。

 つまり、彼のスタンスの話だ。

 不相応な夢を追わせるより、安定した実績を積ませよう、という事である。

 無理をして怪我をしてしまえば、場合によっては将来に影を落とすものになる。そういう危険を避けて、堅実な勝利を積ませて、金を与えてお茶を濁す。俗物的だがありえなくもない考えだ。

 

「……フィートさんが彼をトレーナーにした理由は、そこだったらしいですし」

 

 いつか、聞いたことがあるのだ。

 ファインドフィートは何故、葛城という男をトレーナーとしたのか。

 悪い選択肢だと思ったことはないが、なぜ彼なのかはいまいち腑に落ちなかった。

 だって──こう言うのはあんまりかもしれないが──もっと良い選択肢はあったはずなのだ。

 彼よりも経験豊富なひと。彼よりも直感に優れたひと。彼よりもよいバックアップ体制を構築できたひと。

 そういうひとは確かにいて、彼女はそれを選ぶ側だった。

 

 では何故、そういうひとびとを選ばず、彼を選んだのか。

 それも、実際に聞き出した。ファインドフィートと一緒に暮らし始めて、二年が経った頃だった。

 

「……"確かに、俗物かもしれませんが"」

 

 ゆっくりと、なぞる。

 蹄の音の隙間をするりと抜けていく、しとやかな語りで、薄まった感慨を形にした。

 

「"何も知らないわたしにとって、あのひとが唯一分かるひとだったのです"。"わたしが差し出せる誠意と、あのひとが示せる信頼が、たまたま金だっただけ"。

 "形のないものを信じたくなかったあの頃のわたしには、あのひとだけが人間だった"……フィートさんは、そう教えてくれました」

「……そう。あれでも、あれだから良いと言う子もいたのね。……騙されそうで心配になるけど……そう、そっかぁ……」

 

 金、というのは。

 俗な響きを持つ言葉だが、しかし何も悪いものではない。

 あいまいな信頼を、形ある物に替えたもの。価値に、換算したもの。

 それを提示するのは、ある種もっとも誠実であると称せるのかもしれない。

 ミホノブルボンには、そう思えた。

 

 ……それに、あるいは、そういう彼だから何があっても傷つかないでくれるだろうと、そう予測していたと、はにかみながら教えてくれた。

 結局それが叶わぬ願いだったと知ったのは、随分早い段階だったとも。諦めたようで、しかし吹っ切れたようでもある、明るい顔だった。

 

 きっと、悪いひとはいなかったのだ。最初から。

 

 それが良いことだとは、理解している。

 けれど、考えずにはいられない。

 悪者がいれば良かったのに、なんて。

 

 たとえば、幼い頃に見ていたアニメ。

 画面の中にはいつだって悪者がいた。主人公の敵で、その話の元凶となった誰かがいた。

 その悪者を倒せばすべてが、文字通りのすべてが解決して、苦しみも、悲しみも、全部正しく精算される。そういう、都合の良いマスターキーが存在していた。

 

 だから、思ってしまう。

 そういう悪者がいれば良かったのに、と。

 ひどく歪んでいて、浅ましい欲望だと知りながらも、都合の良い悪者を求めてしまった。

 お前が悪いのだと、糺したかった。

 

 

「ま、何にしても今はレースね。ほら、もう第三コーナーよ」

「……はい。観戦モードに移行します」

 

 消化できない何かが、ぐるぐると胃の中でのたうち回る。

 ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐると。

 何度も何度も吐き出そうとしたのに、いつも無理やり飲み込んでいるせいだ。

 それが決して消化できないと知りながら、時間が解決してくれないと知りながら、後回しにし続けていたゆえの報いだ。

 

 けれど、しょうがないではないか。

 

 それを吐き出す、ということは、相手を傷つけて、自分も傷つけること。

 傷つけて、傷つけられて、傷を共有して、互いの血で繋ぐ。そして心を、折ってしまう。

 最後に残るのは、互いに刻んだ傷だけだ。傷だけが、際限なく積み重なっていく。

 

 ……幸か不幸か、ミホノブルボンはやり直しの事実を知らない。しかし、薄々察してはいる。

 だから、吐き出す寸前の怖気と、飲み込んだ時の安堵が、正解を選んだ時のそれによく似ていることを、本能的に理解していた。

 だから、吐き出さなかったことは正しくて。

 だから、吐き気を催す胃の中のむかつきも、あるべきパーツなのだと誤魔化せた。

 

 

「仕掛け始めたな」

 

 ──第三コーナーを越えて、最終コーナー。

 そこに入る寸前から、ファインドフィートはぐんぐんと足を伸ばしていた。

 飛ぶ汗に湿った土が張り付いて、混ざり、泥んこまみれの化粧を施す。真っ白い髪も、服も、肌も、どんどん汚れていく。

 

 18から17、躱して16、すり抜けて14、内側から追い越して13。

 高かった姿勢を低くしての加速。さらに加速。スピードの向こう側に近付いていく。

 それを、観客たちはわぁわぁと騒ぎ立てるのだ。無邪気に、どこまでも無邪気に。

 

 その声が、どうにも癪に障った。

 

 何も知らないのに、と。あれの本当の顔を、見ていないのに、と。

 決して誰も悪くないのに、掴みかかって叫びたくなる。

 

 そんな風に考えてしまう自分が、少しだけ嫌いになった。

 昔は、この声が大好きだったのだ。

 頑張れ、と叫ぶ声が、大好きだった。負けるな、と響く声が大好きだった。

 その向かう先が自分であっても、自分でなくても、ほんのちょっぴり熱を分けてもらえるから。

 

 けれど、今はもう。

 

 

「……私は」

 

 追い越して。

 追い越して、追い越して、ゴボウ抜きにして5。競り合いに勝って3。

 そこで失速しかけて、けれど強引に振り絞った力で再加速して、2。

 最終直線は残り半分以下、勝利は射程圏内だ。

 

「こんなにも、あなたに触れたいと願っているのに」

 

 こんなにも、遠い。

 

 歯の根を、噛み締める。それでも、どうして、と囁く声がこぼれた。

 群れが走り抜けるのは、観客席の目の前だ。ミホノブルボンの、本当にすぐ目の前だった。

 手を伸ばせば届くのではないかと思えるほど、近い。

 けれど実際は、見かけ以上の距離がある。

 

 走るものと、見るものの違い。

 ターフと観客席を区切る柵。その壁は見た目以上に厚くて、高い。

 本当に手を伸ばしただけでは届くはずがないのだと、無言で物語っている。

 今日だけではない。昨日もそうだ、一昨日もそうだ。

 一週間前も、一ヶ月前も、一年前も。

 ……いつだって、乗り越えられない壁が、目の前にあった。

 

 それでも、と足掻いても、結局行き着く先はこれなのだ。

 だから、向こうからも歩み寄って欲しかったのに、その少女は一切手を寄越さない。

 ただ、そこに居るだけだった。そこにいて、穏やかに微笑むだけだった。

 今あるだけで十分なのだと、誇るように。

 

「そんなにも、私は頼りないですか……?」

 

 それが、虚しい。虚しかった。悲しかった。

 ミホノブルボンは、感じたそれを、無力感だと定義した。

 

 

 おぉ、と、隣から冷たい女の声が聞こえる。やるな、と、野太い男の声が聞こえる。

 近いようで、しかし遠い声が、朧に反響して、鼓膜をざらりと撫でていく。

 

 ゴールラインを一番に駆け抜けた白い姿を追いかけて、そして少女は、言葉もなく天を仰いだ。

 空は、ひどい曇り空だ。

 きっと、もうすぐ雨が降る。

 

 



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66話

 

 

 ドアを潜る。

 真っ白い控え室の真ん中へ、足を進める。 つけたままの蹄鉄が、こつこつと音を立てる。

 床が傷つくことに頓着せず、あるいはそもそも気付かぬに。

 ただ、小さなうめき声だけをこぼした。

 そして、土埃や泥に汚れた身体を震わせて、辿り着いた先のベンチに座ることもせず、ただただ茫洋と揺れる。

 

 このジャパンカップで、ファインドフィートは負けてしまった。

 

 今回のファインドフィートは、()()()()()()()()()で走って、そして後方から差されて負けた。

 ミスはなかった。これと言った原因も、少なくとも今分かるものではない。

 想像の中ですらその程度の、些細なものしかない。

 

 それでも、負けた。

 言い訳の余地は何処にもない。否定もできない。

 あの瞬間、ファインドフィートは完璧ではなくなった。『ファインドフィート』としての虚像は解けて、溶けて、消えてしまった。過去に擲った宝物を道連れにして。

 

 その実感が、ターフから離れた今になって、少し遅れて肩を叩く。

 凍えるほどに冷たい手で、現実を突きつける。ただ、ただ、叫びたくなった。

 勝つことだけが存在意義だというのに、負けてしまったそれに一体どんな価値があるというのか。

 精々、生贄としての機能しか持たない肉人形だ。それも、この現代ではさしたる意味を持たない。

 

「……ぁあ」

 

 それを、誰よりも深く理解していたから。

 少女はただ、頭を抱えて蹲った。

 

 敗北に慣れることはない。何度負けたとしても、それと同じ回数だけ苦しむ。否、苦しまなければならない。

 罪が、罪が、罪が、ファインドフィートを逃さない。

 罪には罰が必要だ。

 

 だからせめて、と。

 単純な思考回路のまま、左手の小指を握りしめる。

 

「……っ、ぁぐ……」

 

 ぽきり。軽い音が響く。

 ぺきり。湿った音が響く。

 行動の意味をさほど理解せぬまま、自分の手でへし折った。

 小指を折った。薬指を折った。負けた数だけ、指を折った。

 そして、ほんの少しでも裁かれた気になりたかった。楽に、なりたかったのだ。

 

 当然、それはほんの一時気を紛らわせるだけのもの。

 根治には程遠い、一時的な麻酔。しかも、使えば使うほど心を歪める劇薬だ。

 けれどそれしか縋る先がないのだから、どうしようもなかった。

 

「……ぅ、ぅあ……っ。つ、次は、次なら、わたしは勝てる。勝てる、はずなんです……。

 だ、だから、今回は、間違いで。あっちゃいけない可能性で……あっちゃいけないわたしは、裁かれ、ないと」

 

 ぼきり。中指を折った。

 傷付いた神経が悲鳴を上げて、大小の破片になった骨が内部の肉に突き刺さる。

 涙が出そうなほどに、痛い。

 それに、胸の痛みもかつてと変わらないまま。ただ、純粋な痛みが少女の頭を埋め尽くす。

 

 けれど、それっぽっちの痛みでは到底足りなかった。

 裁きが、足りない。喘ぐように呟く。

 全然足りない。まるで報えていない。呪いを込めて、呟く。

 

 だからもう一回。もう一回だけ。

 次は絶対に勝つから、やり直しを。

 ……なんて、何度目になるかもわからない"もう一回だけ"を、(こいねが)う。

 折れて歪んだ手で祈りを象って、どうか、どうかと。

 まるでバカのひとつ覚えだ。

 

 しかし、そうすれば自身の中の女神さまが応えてくれるのだと知っていた。

 恥も躊躇も既になく、子供が親に助けを求めるように──親に向けるにしては酷く歪んだ思いを、頭上に掲げる。

 

『分かります、分かりますよぉ。勝ちたいですよねぇ』

 

 そして、必然。

 

 するりと降ってきた言葉が、やさしく撫ぜた。

 少女はそれを受け止めて、あぁ、よかったと、本当によかったと、安堵してしまうのだ。

 そしてさらに祈りを強めて、縋りつく。

 そればかりが繰り返される。そればかりが、待ち受ける。

 延々と、明日になるまで終わらない。

 

 だから、どう転んでも待つのは破滅。

 上を目指せば干からびて、下に沈めば溺れ死ぬ。いったい、ミミズの自殺とどれほどの違いがあろうか。

 

『じゃあ今回も目覚まし時計を鳴らすために……。そして強くなるために、あなた自身を削ぎ落としましょう?』

『どれがいい?なにがいい?あなたは何なら差し出せる?』

 

 けれどファインドフィートは、その明るく歪んだ声に依存しきっていた。

 

 やり直し。

 強くてコンティニュー。

 削り落とした余白に、別の"何か"を注入する儀式。

 女達はころころと、けらけらと笑いながら、少女の左右に陣取った。

 

 指を指す。示したのは耳。つまり、聴覚。

 指を指す。示したのは喉。つまり、声。

 指を指す。示したのは顔。つまり、表情。

 女達は、結局のところ、少女が走れるのなら何でも良かった。

 求められたのも、求めているのも、最終的な結果だけだからだ。

 リザルトが高得点になるのなら多少のデメリットは許容するべきだし、躊躇してはならないとも考えていた。

 

 とはいえ、何でもかんでも使える訳では無い。

 日常生活を送る必要はあるし、生命維持のための機能は残さなければならない。

 それに、走る機能そのものはさほど損なわないように配慮も必要だ。

 だから今まで削ってきたのは、肉体へのダメージがない記憶領域や、可能な範囲での身体機能。ある意味では、優しさとも表せるかもしれない。

 

『……とは言うものの、ねぇ。そろそろ残りが少なくなってきたわね』

『まぁ今まで二桁はやり直していますからねぇ。レースでもそうですし──この子のお友達に邪魔されちゃったりしてますから。その度にやり直してれば流石に消費も嵩んじゃいますよぉ』

『やり方をもう少し考えたほうが良いかしら』

『今更じゃありませんかぁ?やり直して、その都度祝福を与える。散々議論した上での方式じゃあないですか』

『そうだけど、ねぇ……このまま続けても結局全部なくなるでしょう』

 

 そして、女達が悩ましげにかわした会話を聞いて、小さく肩が震えた。

 下げたままの頭と首筋を、じっとりと冷たい予感が這いずっていく。ずるりと、いやな存在感を主張する。

 

 どうしてだろうか、少しだけ考える。

 女達の会話が不穏なのは……ファインドフィートにとっては、いつものことだ。

 生殺与奪の権利は当然のように握られていて、それが大前提。当然の摂理とでも言わんばかりの口ぶりで、ファインドフィートの行く先を話し合っている。

 もちろん、当事者の意志は考慮されない。それもまた、いつも通りだ。

 

『……ああ、そうだっ!良いことを思いつきました!』

 

 だけれど、肩の震えが止まらない。

 

 いつも通り、ではない。

 声を聞く度に、衣擦れの音を聞く度に、床に向けられた視界に裸足が映り込む度に、冷たい予感が何かを訴えかける。手首を見れば肌が栗立ち、冷たい汗も滲んでいた。

 

 そして、つい耐えかねて、頭を上げる。

 柔和にほころぶ女の顔が、視界いっぱいに広がった。

 

『もう十分育ったでしょうし──もう、全部使い切りませんかぁ?』

 

 それ。

 女の指先が、ファインドフィートの胸元を小突いた。

 

『あなたが過ごした三年間の、芯の部分。一番おおきな思い出。今まで使った小枝じゃなくて、幹や根っこ』

 

 そう、言われて。

 明言されるまでもなく、何の記憶なのかすぐに分かってしまった。

 ファインドフィートにとっての、三年間の主軸にあったひとびとの記憶。

 姉みたいな友達と、空みたいに尊大な友達と、細っこい哀れな大人。

 そんなひとびとと過ごした、木漏れ日の思い出。

 

『それ、きっと良い燃料になると思うんですよ。だって、あなたを──"あなた"を育てた思い出だもの。それだけ大きくて、重たいはずなんです。

 だからそれを削ぎ落とせば、きっと、もっと高く飛べる。今までみたいに"勝てるまでコンティニュー"っていうのも大変でしょう?疲れるでしょう?苦しいでしょう?』

『……確かにそうね。空っぽになったほうが速くなれる筈だもの。何度も小刻みに苦痛を味わうより、一度限りの最大の苦痛で済ませたほうが楽でしょ』

 

 今までは、負ける度にコンティニューを繰り返してきた。

 逆を言えば負けなければコンティニューしなくても良い──何も失わずに済む方法だった。

 何故そうなったのか、ファインドフィートは知らない。けれど事実として、()()()()()、最小の犠牲でやり過ごせる方法である。

 

 女達は、それをやめてしまおうと言う。

 

 もうファインドフィートの中身が空っぽになっているから。より正確には、なくしても問題ないものを殆ど使いきったから。

 だから今までの方法に見切りをつけて、一括で全てを支払おう。

 コンティニューなんて必要ないほど、誰にも負けないレベルに祝福を盛ってしまえ、なんて、頭の悪い……しかし、確実な解決方法を提示している。

 

 その意図も、『ファインドフィート』の目指す先と矛盾しない。

 徹頭徹尾、女達の見る先はぶれていない。

 だから正しい未来は、やはり従順に従った先にあるのだろうと思えてしまった。

 

 今この瞬間に、間違いなど無い。

 全て正しい、依然変わりなく。

 ファインドフィートはそう信じていた。

 ……信じていたけれど、喉の奥でぐつぐつと煮える何かが、その信仰に疑問を投げかけている。

 

 ──本当に?

 

『じゃ、やり直しましょう?今度はきっと勝てるわ。次も、勝てるはずよ』

『身軽になったあなたなら、もっと速く走れるはずですものねぇ』

 

 ──本当に、差し出していいの?

 

 差し伸べられる手。

 少女の合意を待っている、血の気のない白い手だ。

 もしその手を取れば、ファインドフィートは喪失と共に立ち上がるのだろう。

 空っぽの身体はさぞかし軽く、心地よく走ってくれるに違いない。ファインドフィートはそうして、芝の緑と空の青に混ざって、満足して終わっていく。

 そんな未来が、選択の先に待ち受けている。

 

 ──本当に、それでいいの?

 

 けれど、思わずにはいられない。

 三年間の思い出を失うことの重みと、大きさを。

 嘗ては空っぽの肉人形だった少女を、ひとりのにんげんに育てた想いを。

 

 ──裏切っても、いいの?

 

 迷わずには、いられない。

 天秤の右の皿に、夢をのせて。

 天秤の左の皿に、記憶をのせる。

 一年目の頃は、右が大きく沈んでいた。

 二年目の頃は、右が少しだけ沈んでいた。

 三年目になった、今は。さて、どうだろうか。

 ファインドフィートは、やはり迷ってしまう。迷うことが、できてしまう。

 

「……女神さま」

 

 女の手を見た。

 今も少女が手を重ねるのを待っている。

 無邪気に優しく微笑んで、夢の先に連れて行こうと待っている。

 ファインドフィートが手を取るものだと疑いもしていない。

 

 だから、少女は手を伸ばした。

 か細く震える指先を虚空に踊らせて、ゆっくり、ゆっくりと近付ける。

 迷いと、恐怖が、見えない鎖になって、震える手を絡めとる。

 

 もう、指と指が触れ合う距離だ。

 

「──」

 

 そして、その手を。

 

 

 ○

 

 

 ぱん、と。

 短く、乾いた音が響く。

 

 女の手はあらぬ方向を向き、微かな赤みを帯びていた。

 つまり、振り払ったのだ。その手を、力いっぱいに。

 

 女達の顔は、氷のように固まっていた。

 怒りも困惑もなにもない。

 ただ、理解できない現象を前に、須臾の硬直が延々と繰り返されるばかり。

 

 そして、当の本人の顔には。

 どうして、という疑問ではなく、やってしまった、という後悔でもなく、やっぱりか、という納得だけが浮かんでいた。

 だからこそ、ただの突発的な行動ではなく、あくまでも自らの意志による拒絶なのだと、言葉よりもなお雄弁に語る。

 

 ファインドフィート──()()()()

 それが、()()()の選択だった。

 おまえはおまえの意思で、それを選んだのだ。

 

 確実な勝利を諦めたおまえの前には、茨の道しか残されていない。

 三年間の記憶を抱えたまま夢を叶えたいなぞ、強欲にも程がある。

 であるならば、相応の苦難があって然るべきだった。

 

「女神さま。これは、ダメなんです」

『……どう、して?それを使えば確実に乗り越えられるのに』

『分かってるの?私達はギリギリの瀬戸際を走っているのよ?それにほら、今までも沢山使ってきたのに今更じゃないの』

「確かに、今まで多くを使ってきました。今更だっていうのは、わかります。今までの全てに優劣をつける、バカなことだって、わかってます」

 

 もうしばらく浸れていた筈の日常には、戻れなくなる。

 なぜなら、フィート。おまえは、記憶の代わりになる何かを捧げるつもりだ。

 その代わりになる何かが一体どれほどの欠落を招くのか、理解しているのか?

 ……もし、理解していないのであれば、まだ救いはあった。 

 けれど、おまえは全てを理解していた。その選択の先を、全てだ。

 納得して、そうであっても構わないと、決意さえ抱いていた。

 

 ひどい矛盾だ。軸がぶれている。おまえは、何になりたかったのか。

 おまえは、おまえの解を出し終えている筈だろうに。

 

「だと、しても」

 

 その目に曇りはない。

 語り口はいつになく滑らかで、惑いもない。

 

「この思い出だけは、渡したくないんです。女神さまにも、お父さんやお母さんにも」

 

 居直って、両膝と、両手を床につける。折れ曲がった指が、ひどく痛んだ。

 その痛みを紛らわせるために、一度、大きく息を吸う。

 そうして目の前の女に、こつこつと言葉を紡いだ。奉じるように、厳かに。

 

「姉さんに、だって」

 

 それは祈りのようでありながら、決して盲目的ではない。

 譲れない最後のひとつを渡さないように、強く、強く抱え込んでいる。

 利他ではなく、利己による執着の発露。

 混じりっけのないそれは、独占欲。醜くくも、()()()()()感情だ。

 

「これは、わたしのもの。わたしだけのもの。"ぼく"じゃなくなった"わたし"の、"わたし"だけの……たいせつな思い出」

 

 つまりおまえは、それほど愛していたのだ。

 あの輝かしい、真昼の日々を。

 

「……だから、ごめんなさい」

 

 こつりと、額を地面に擦りつける。

 

「とらないで」

 

 それが、おまえの綻びだ。おまえの弱さだ。

 知りうる限り、もっとも従順な姿勢で許しを乞うたのは、おまえの願いだ。

 

 だが、同時にこれが認められるべきものではないと、誰よりも理解している。

 女達とは違って捧げた物の重みを知っているからこそ、なおさらに。

 

 

『そう。……そう、だったんですね』

 

 頭上から降ってきた声音はやわらかくて、トゲがない。

 かといって肯定する響きには遠くて、僅かに否定に傾いている。

 それは、おまえが聞いたことのない声だった。

 

 反射的に頭を上げてしまいそうになるのも仕方がない。

 おまえが知るその女は、無機質で、けれど粘着質で、常識の通用しない化生のようなものだった。

 今の姿はそんな印象からかけ離れていて、輪郭を掴めない。

 いまも震える身体だけが、女の声を評価するパラメーターになっていた。

 

 ……何にせよ、言うべきは言った。吐いた言葉は取り消せない。

 今のおまえにできるのは、沙汰を待つだけだ。

 

『でもね……ねぇ、フィートちゃん。分かってるんですかぁ?

 あなたがそれを守りたいのなら、代わりがいる。代わりの、やり直すための燃料がいる。あなたの身体を強くするための対価が、たくさんいる。……それでも、ですかぁ?』

「覚悟の上です。……それに、使えるものはまだあるじゃないですか」

『……ええ。けどそれは──次点で良質な対価、あなたの身体機能を燃料にしないといけないの。今までみたいにコンティニューを繰り返して最小の犠牲を目指すにしろ、一回きりの最大の犠牲で確実な勝利を目指すにしろ、どっちだろうと変わらないわ。あなたは、人形になる』

「分かってます」

『はぁ~……まったく、これっぽっちも分かりませんねぇ。夢のためなら全部を投げ出せるんじゃあなかったんですかぁ?』

 

 ちくり、ちくりとふたりの言葉が突き刺さる。

 呆れたふうの白々しい苦言が、頭上から降りかかった。

 

 さりとて弁明するでもなく、否定することもなく、己の主義主張を曲げぬままで、額と床をくっつけ続ける。

 やがて受け入れられるまで、テコでも動かないつもりだ。

 

 白い服の裾は、泥ではなく、埃に汚され始めていた。

 

『本当に、捨てないつもりですかぁ?』

「……はい。もう、わたしには捨てられません。わたしはあのひと達との思い出と一緒に、最後を迎えたい」

『…………はぁ~~…………』

 

 頭上から降り掛かったのは、大きく、長く、重たいため息。

 平伏した姿勢では見えないが、女達は、とくに太陽の女は、光のない瞳でおまえを見下ろしている。

 けれどおまえにはおまえなりの代案があったし、女達だって保険のひとつやふたつは持っている。だから、問答無用でやり直しのベルが鳴ることはない。

 パワーバランスが偏っている時点で、安心できるとは言い難いが……。

 ……それでも、おまえには十分だった。

 

「女神さま。わたしが正しいのか、間違っているのか、今も分かりません。結局、いつか結果に追いつかれるまでは、正誤は分からないんです。

 ……それは女神さまに連れてきてもらった今までの道のりだって、同じです。わたしは結局、理想そのものにはなれませんから」

 

 悟ったふうの独白を、女達は遮らなかった。

 声音が部屋に染みて、静寂を上書きする。

 

「でも、でもね、女神さま」

 

 そこでふつと、言葉を区切った。

 すぅと息を吸って、頭を上げた。

 

 埃がついた額や、泥がついたままの頬を拭うこともせず、女達を見つめ返した。

 王冠の女は、少しだけ離れた位置に陣取っていた。

 太陽の女は、おまえの直ぐ目の前にいる。黒ずんだ毛先を揺らして、ちりちりと、焦げつくような熱を放っていた。

 熱の正体は、怒りだろうか。悲しみだろうか。

 ともかく、この女には似合わず、人間臭い何かを滲ませている。

 

 それを表す言葉としてもっとも適切なのは、きっと、"嫉妬"だ。

 

 けれどその内面を、おまえは知らない。

 知らないからこそ、はにかむような笑顔で、無邪気に口を開く。

 それこそがおまえの、本当の顔だった。

 

「わたし……なんだか、後悔しない道を選べた気がするんです」

 

 フィート。

 おまえは結局、自分の心を明らかにしたいだけだった。

 

「これから先も、わたしは後悔しない。テイオーさんに言ったようなでまかせじゃありません。

 これを捨てたらきっと、わたしはわたしを見失う。でも持ち続けている限り、わたしはわたしとして苦しむことが出来る。

 ……だから、これでいいんです」

 

 言って、笑う。

 自分勝手に、満足感のあふれる顔で。

 

 正しくても、間違っていても、どちらであっても後悔しない。

 おまえには、確信があったのだ。

 

『黙りなさい』

 

 女にしてみれば、その顔はひどく憎たらしい物だったのだろう。

 

 可愛さ余って憎さ百倍、というべきか。

 歪んだ欲求に従った太陽の女が、するりと手を伸ばす。

 掴んだのは、おまえの顔。おまえの、柔らかい頬。爪を立てられて、血が滲む。

 

『あなた達はね、そんなに難しい事は考えなくていいんです。私達を……私を信じなさい。ただ、走りなさい。何度でも、何度でも、何度でも、私が走らせてあげますから』

 

 そして、滔々と言い聞かせる。

 聞き分けの悪い子供へ、女にとっての通理を説く。

 

 "子供は大人の言う事に従っていれば良い"。

 "背伸びするな"。"背丈にあったものだけを見ろ"。

 "考えるな"。

 "考えるな"。

 "考えるな"。

 

 なんて、今まで通りに、今まで以上に、思想を押し付ける。

 

 ……けれど、対するフィートの表情は凪いでいた。

 意味を理解していないのか?

 いいや、そんな筈はない。だって、今までは従順に従っていたのだから。

 だからこれは、理解した上のもの。

 理解した上で、頷きもせず、まっすぐに対面の目を見つめていた。

 

 それすらも、女の神経を逆撫でると知らずに。

 

『……っ。第一、あなたが正しい道を選べたことなんてありましたかぁ?ねぇ、ヒトミちゃん。産まれるべきではなかったあなたを愛しているのは私だけ。どんなにおバカなあなたでも、私の言う事を聞いていれば正しくあれるんです』

 

 おまえは揺らがない。

 

『何のために生き残ったのですかぁ?あなたのお姉さんは何のために、あなたにすべてを託したのか……分からない筈ないでしょう?』

 

 おまえは揺らがない。

 

『ねぇ、ねぇ、正しくありたいでしょう?正しくあらないと、報いないと、いけないのでしょう?』

 

 おまえは、揺らがない。

 意志は変わらず、撤回しない。

 

 故に女が求めた言葉は、決して口にされなかった。

 

「……女神さま。あなたの名前は何ですか?」

『は……?』

 

 代わりに飛び出したのは、そんな疑問だ。

 心の底から出たものではない。口先だけの、その時ふっと浮かんだ思考を言葉にしただけのもの。

 眉の端をほんの少し垂れさせて、眼の前の女の顔を見上げていた。

 

「あなたに好きな人はいましたか?」

『何を、言って……!』

「あなたは、その誰かに見つけてもらえましたか?」

 

 下手に言葉を選ぼうとせず、ひどくまっすぐに、けれど感慨のこもらない声で言う。

 だから、そのせいなのかもしれない。

 おまえの言葉は、女の胸に、深く突き刺さってしまった。

 

「わたしは、見つけてもらえましたよ」

『────』

 

 沈黙。停止。無音。しばしの静寂が部屋を包む。

 女は、理解に困窮した様子で硬直し、半開きの口を閉じることもしなかった。

 好きな人、とか。誰かに見つけてもらえたのか、とか。意味のない、意味の分からない質問を、空っぽの脳内に反響させる。

 

 そして、やっと意味を理解したのか。

 すっと、表情が抜け落ちた。

 

『もう、いい』

 

 波の失せた声だ。熱のない声だ。

 形容できる表現はいくらでもあるけれど、明確な事実はひとつだけ。

 

 我慢の限界を超えてしまったのだ、きっと。

 

『もういいです。

 連れて帰ります。明日なんてあげない、許さない。あなたは私のもの。このまま、ずっと、眠りにつきなさい。光なんて二度と見せない。あなたは私の──』

 

 頬を掴んでいた手が、するりと首にかかる。力が籠もった。

 そして歪んだ女の顔を、おまえはぼんやりと見つめていた。

 欲に染まった目は爛々と輝いていて、やはり人間臭い。

 もはや、この瞬間の女はおまえよりも人間らしいほどだった。

 

 そんな女の目を、ほんの一瞬だけ眺めて、これからどうしたいのか悩んでしまう。

 どうするべきか、という観点で言えば、おまえは抗うべきだ。

 夢を叶えなくてはいけない。望んだ終着点を求める気持ちに変わりはないのだから。

 そして抗い方は、たった今学んだ。

 反射的な行動であれど、その瞬間の感覚は、今も身体に染み付いたままだ。

 

 けれど、さて。

 女神なくして夢を追いかけるなぞ、いったいどうすれば叶うのか?

 やり直し(コンティニュー)がいる。祝福(ブースト)がいる。茨の冠(いのち)がいる。おまえ単独では、勝ち残れない。

 故に結論、不可能。おまえには、抗えない。

 

 そう、おまえには。

 

 

『あのねぇ、何言ってるのよ。許すわけないでしょ?私はね、この子が夢を叶えるところを見たいの。あなたのオママゴトに興味はないのよ』

 

 続けて響いたのは、冷たい声だった。

 それから、太陽の真横から王冠が顔を覗かせる。

 普段の高飛車な様子とは違った、鋭い眼差し。真冬の石より冷たい目を己の同胞に向けて、手首を引っ掴む。

 

 ぎちりと、軋む音が聞こえた。

 

『はぁ……あなたも邪魔するんですかぁ?血統頼りの末端風情が……ヘロド、あなたの血が本当に青いのか、確かめて差し上げましょうか』

『何ひとりでボルテージ上げてるのよ……。

 いい?私はこの子が最小の犠牲を目指そうが、最大の犠牲で一発勝利しようがどっちでも良いの。無くなるのが記憶だろうが身体機能だろうが、最終的には勝つんだもの。本当にどっちでも良いわ』

 

 そこで、ひと区切り。

 口を閉ざした太陽をみやって、少しだけ力を緩める。

 

『……まずはこの子から手を離して、深呼吸しなさい。頭に血が上りすぎよ』

『…………』

 

 返事はなかった。

 しかし、ゆっくりと、太陽の手から力が抜けていく。それが答えの代わりだ。

 

 ようやく平時の雰囲気に近付いたことを感じて──表情は変わらず能面のようだったが──王冠も、掴んでいた手を離した。

 そして、結論を纏めにかかる。

 

『で、フィートちゃんは記憶をなくしたくない。それは別に良いんじゃない?どうせ終着点は変わらないし。途中経過が、手段がいくら変わろうと、目指す先は変わらない。……そうでしょ?』

 

 つまり、フィート。おまえは最後の一線を守りきったのだ。

 それがきっと、尊厳と呼ぶべきものだった。

 

『選んで。これぐらいの選択は尊重するわ』

「私が望むのは確実な勝利です。ですが記憶は失いたくありません。……だから、代わりを使ってください。使えるもの全部です。

 ……もう、心残りはありませんから」

『そ』

 

 また、手が伸びる。白い頭に、王冠の指がかかる。

 髪を一房すくい上げ、一度、優しい手つきでゆるりと梳いた。

 青い目に浮かんだ疑問は、しかし、すぐに溶けて消える。もう意味の無くなるものだと分かっていたからだ。

 

『じゃ、まずは感覚機能からいきましょう。物の形が見えて、音が聞ければ十分でしょ?』

「……はい。構いません」

 

 身体が、軽くなっていく。

 音もなく、始めから無かったかのように、霞のように消えていく。

 ひとつ、またひとつ。数えることすら難儀なほど、軽やかに。

 色が消えた。模様が消えた。匂いも何もしなくなって、あったはずの肌寒さもいつの間にかなくなっていた。

 昨日と明日の境目と同じだ。夜明けと黄昏時と同じだ。境界線が曖昧になって、混ざり、平坦になる。

 数え切れないほど多くの要素で作られていた世界が、単一のそれに限りなく近づく。

 世界が、色褪せる。

 

『……はぁ~……。まぁいいでしょう。ヒトミちゃん……いえ、フィートちゃん。これからあなたの中身を燃やします。燃やして、空いたスペースに因子を──あなたを強くする夢を、継ぎ足します。あなたは夢と同じもので出来ている。……忘れないでくださいね?』

「はい……っ。心得て、います」

 

 やがて臓器も順々に機能を低下させて、最低限を残して眠りにつく。

 空っぽになっていく自分の体を見下ろして、吐き気がこみ上げた。

 けれど、吐き出しはしない。歯を食いしばって、ただ、耐える。

 

 喉元さえすぎれば、なんとかなる。

 なんとかなって、なんとかなれば。

 ……あとは、今までの道のりを、精算するだけ。

 ここから先に、分岐はない。ここから先に、失敗もない。上振れも下振れも存在しない。

 リザルトを確認できるようになるまで、待つだけだ。

 

『よし、脳機能も大体要らないわね。正直、こんな複雑なのよく分からないけど……たぶん運動野あたり残しておけば何とかなるでしょ。後頭葉は……あ、視覚のためにいるのね。じゃあ頭頂葉……も、いる。前頭葉は良い……良いわよね。で、言語野は……』

『もう要らないでしょう。だって、残り一ヶ月ですもの』

『……ま、そうね。消しましょっか』

 

 やがて、意識まで薄れていく。

 深い眠気が訪れ、目つきが胡乱に淀む。

 息を吸えば意識が引っ込み、けれど息を吐いても戻らない。

 不可逆の眠りが、おまえを捕らえた。

 

『あぁ、声もいらないでしょう』

「────」

 

 そして、最中で。

 完全にまぶたが落ちる寸前、最後の最後に口にしようとしたのは、一体何だったのだろうか。

 ……それを知るのは、それを知っているべきなのは、他の誰でもないおまえだけだ。

 

 フィート。おまえにもまだ聞こえているだろうか。

 おまえを望む声は、今も日本中に散らばっている。おまえに願い、おまえを愛する者が、星の数ほどいる。

 

 フィート。おまえにはもう、聞こえないのだろうか。

 ぱらぱらと、屋根を打つ雫の音が。びゅうびゅうと吹く風の声が。

 外では雨がふり始めている。土の上の水たまりは、じきにおまえよりも大きくなる。

 

 



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67話


(感想、評価、誤字報告、ありがとうございます。いつも大変励みになっております)

(今回投稿分は64話~67話となっていますため、未読の方は先にそちらから読んでいただければと思います)

(それと、お知らせです。
68話以降は、最終話まで書き終えてから投稿することにいたしました。
理由としては、現在の執筆速度では1話ごとの間隔が長くなり、その間にモヤモヤとした思いを抱かせてしまう可能性があるからです。
私の筆が早ければ全て解決する問題なのですが……。

プロットでは残り6話前後で本編が完結する見込みです。
次回の更新は、気長に待っていただけると幸いです)



 

 

 何かを見落としている気がする。

 ミホノブルボン、あなたの1日は、そんな違和感から始まった。

 

 とはいえ、具体的には何を見落としているのだろうか。実に残念ながら、あなたはとんと見当がついていなかった。

 物なのか人なのか、もしかすると予定かもしれない。いやいや、それとも夢だとか希望だとか、そういう曖昧なものの可能性だってある。

 ……いい加減すぎる、と思うだろうか? だが、違うとは言い切れない。

 

 あなたはとにかく、そんな何かを見落としている。

 あなたには、その確信だけがあった。

 かも、ではなく。だろう、でもなく。間違いなく、何かを見落としているのだ。

 

 ……そしてあなたは、強く思っている。

 その何かは、見つけなければならないものであると。

 強迫観念にも似た想いを日々募らせて、ずっと手を伸ばし続けていた。

 それは焦りのような、じんわりと焦げつく熱を帯びて、あなたのうなじに纏わりつく。今この瞬間も、あなたを捕らえて離さない。

 

 残念ながら、その焦りが解消される兆しはない。前へ進もうとしているのは気持ちだけ。

 違和感の正体は中々掴めず、現実は何も変わらないままだった。

 

 それでも、一日は始まってしまう。

 

 身体を起こして、眠い目をこする。

 冬用の布団はふかふかで、あたたかく、寝起きのあなたを誘惑して止まない。

 加えて、窓の外から断続的に響く雫の音が、あなたを眠りの世界に引き戻そうと画策している。

 もう少しだけ眠っていよう、まだまだ余裕がある。そんな悪魔の誘惑が、そっとあなたに囁きかけた。

 

「……くぁ……」

 

 その魅力に抵抗するように、あくびをひとつ。ううんと背伸びで、もうひとつ。

 血の巡りがよくなったおかげで、じんわりと眠気が晴れる。

 少し項垂れていた頭を持ち上げて、今度こそ、しっかりと両目を開いた。

 

「……起床、完了しました。ステータス、良好……ミホノブルボン、発進、します……」

 

 ゆるく縛っていた髪紐をほどいて、床に足をつける。フローリングはひんやりと冷たくて、寒かった。肩を縮こませても誤魔化せない。

 もしこの部屋にファンヒーターがあったなら、すぐにスイッチを点けて、その前に陣取って動かなくなっていたに違いない。

 

 ……()()()が幼い頃も、そうだった。

 いや、あの子に限らずとも、きっと何処の子も似たような物だろう。

 今日のような真冬の朝には、子供よりも一足先に起きたお父さんがヒーターの準備をしている。

 そのうちに火が点いて、温風が勢いよく吹き出し始めたタイミングになって、子供がようやく目を覚ましてリビングに顔を覗かせるのだ。

 そして熱に惹かれる猫のようにするりと、お父さんとヒーターの間に小さな身体を差し込む。

 寝ぼけ眼に吹き付ける暖かい風は、とても心地よかった筈だ。そこから暫く動かなくなるほどに。……あの子は、そんな時間が大好きだった。

 ある意味で、冬の風物詩とも言える。

 あなたも、同じだったのだろうか? 

 

 

 ……もし違っても、それはそれで構わない。どちらにせよあなたの部屋のヒーターは故障中だ。

 あなたが風物詩を好むひとであっても、もう暫くは実現不可能である。

 

 ともかく、つまり、あなたはもう暫くこの寒さからは逃げられないのだ。

 フローリングも、スリッパも、本棚も、机も、机の上の教科書だって、寒くてひどく強張っている。

 あなたもそれらに負けないように立ち上がって、もう一度ゆっくりと背筋を伸ばした。伸ばして、ほぅと息を吐く。

 

 

 そしてふと、小首をかしげた。

 この部屋はこんなに広かっただろうか、と訳の分からない疑問を覚えてしまう。

 前はもっと狭かったような、そんな気がして──。

 

「──?」

 

 ……あなたは一度、隣のベッドに視線を向けた。

 いつからか空いたままのベッドが寒々しく、マットレスだけの体を横たえていた。

 

 その瞬間──ほんの少し、ほんの僅かな違和感が顔を覗かせて。

 ……けれどその違和感は、蓋をするまでもなく、あっという間に小さくなっていく。違和感があったという痕跡だけを残して、輪郭ごと暗がりに引っ込んでしまった。

 

 

 ミホノブルボン。あなたの一日は、この繰り返しだ。

 12月に入って以降、ずっと変わらない日常だ。

 前は無かったはずの違和感が、あなたに纏わりついて離れない。

 そのくせまったく正体を掴めず、あるいは掴もうとした瞬間にすぐに隠れてしまうのだから、あなたにはどうしようも出来なかった。

 

 ……それ故のやるせなさと共に窓に寄って、勢いよくカーテンを開ける。

 断続的に聞こえる雨音からも薄々と察してはいたけれど、やはり、期待していた朝日はない。

 

 いまは午前6時、11分。

 外は、まだ薄暗い。窓ガラスを叩く雫でさえ、夜の色を残していた。

 

 

 ○

 

 

 掲げた傘を雫が叩く。

 "ざあざあ"というほど強くはない。どちらかといえば"ぱらぱら"と、まばらな雨が降っていた。

 その静かな音を共連れに、少しだけ明るくなった空の下で、学園への道を歩く。

 

 その間、声はない。

 あなたは今、ひとりで歩いている。

 誰かと待ち合わせていた訳でもないから、別におかしいことはない。

 ……けれどあなたは、そこに奇妙な物足りなさを感じていた。あるべきものが足りていないような、違和感だ。

 ()()を構成するパーツが欠けたままなのに、()()を強引に成り立たせているようで、どうにもしっくりこない。

 

 あなたはふと、隣を見た。

 そこには誰も居ない。誰も居ないのは、おかしくない。おかしくない筈だ。

 けれど、何かを見落としていて、何かを忘れている。

 あなたにはやはり、その確信だけがあった。

 

「はぁ……」

 

 視線は隣を通り越して、道端の水たまりに到達する。

 しとしとと生まれる波紋を眺めて、栗毛の尻尾をくるりと丸めた。

 傘からはみ出て濡れた毛先が、ほんの少しだけ重い。

 

 

 それからも、右へ左へ、足りない何かを視線で探しながら道をゆく。

 時折水たまりを避けたり、ジャンプで越えながら、ゆっくりと。

 湿気った匂いから逃れるように歩みを進めてみるけれど、どこに行ってもあなたに纏わりついてきた。

 

「……あれは」

 

 その、逃避行の最中。

 朝になっても明るいままの街灯の下に、見覚えのある姿を見つける。

 一瞬、忘れていた何かだろうか、と期待した。

 一秒後、満たされなかった自分を鑑みて、あれは違うのだと落胆する。

 だが、それはあんまりにも自分勝手だ。

 ……あなたは自身の感情を内省して、しょんぼりと耳を伏せた。

 

 ともかく、突然勝手に期待されて、勝手に落胆されたその人物は、あなたのトレーナーの先輩だ。

 あなたが"大マスター"と呼ぶ彼が、ぽつんとひとり佇んでいる。

 黒くて大きい傘を広げて、手元の本──雑誌と思わしき何かを見つめている。

 

 彼の服装は以前見た白スーツではなく、白いジャージ姿になっていた。

 そしてなぜか、ジャージの下は何も着ない独特なファッション。入念に鍛えられた男の胸筋と腹筋が、外気に晒されていた。

 色々と気になる点はあるが……まず、寒くないのだろうかと、あなたはそんな疑問を覚えてしまった。

 

 傘をさしていても雨の冷気は防げないし、雨が降っていなくてももう冬だ。ウマ娘であればともかく、ヒトには厳しい寒さである。

 いったい何があったのかと、好奇心半分心配半分で足を向けた。ぴしゃりと、水たまりを踏んで。

 

「大マスター、おはようございます」

「あぁ……朝は早いんだな、ミホノブルボン」

「はい。早寝早起きは私の得意分野です。

 ……ところで大マスター。何故、ジャージの下は何も着ていないのでしょうか? 現在の気温は摂氏5度、ヒトには厳しい寒さかと推測しますが」

「……俺は慣れてるからな。何も問題ない」

 

 "問題ない"も何も、どこが"問題ない"なのか。

 服を着ていない時点で風紀秩序的にかなり問題がある筈だが──ミホノブルボン、あなたはそこで疑問を覚えるタチではなかったらしい。

 なるほど、と、一体何がなるほどなのか分からない頷きと共に、納得してしまった。どこに()()()()出来る要素があったのだろうか? 

 

 とにかく、あなたは物怖じしないタイプだった。

 

 やけに肌色の多い男の隣に立って、彼の手元に視線を向けた。

 あなたの推測通り、それは雑誌だった。

 

「……疑問。何を見ているのですか?」

 

 横からちらりと覗き込めば、レーシングカーにも似た鋭利なデザインの車体や、その値段がずらりと載っていた。

 ただ、その値段はとても安く、ともすれば子供の小遣いでも買ってしまえるほどに低価格。疑問に思ってよくよく見れば、車体も相応にチープな外観だった。

 

「ラジコン、ですか?」

「いや、これはミニ四駆の……すまん、単なる趣味のブツだ、気にするな。それより何か用があるんじゃねぇのか? 授業は──まだ、余裕がありそうだな」

「はい。現在時刻は6時55分、『とても余裕』です」

 

 そうか、と。男は硬い声で答えて、雑誌を折り畳んだ。

 それから……ふたりとも口数が多くないせいか、少しの間会話が途絶えた。

 ミホノブルボン、あなたにとって彼──黒沼と顔を合わせたのは二度目だ。まだ、彼と何を話せば良いのか分からないのだろう。

 だがそれは黒沼にとっても同じだ。後輩の教え子という微妙に遠い立ち位置の少女に何を話せば良いのか分からないのだ。

 どうにか場を繋いでくれたのは、ぱらぱらと降りしきる雨音だった。

 

「──大マスター。大マスターは、普段は海外のトレセンにいるとお聞きしました。今回はなぜ日本へ?」

「……理事長に用事があった。そいつはもう済ませたが……ついでに、未だに不仲な後輩共が気になって、な」

 

 ようやく絞り出した疑問が、軽く打ち返される。

 その話に出てきたのは、不仲な後輩。

 なるほど、と頷いた。

 あなたには件の人物が誰なのか、すぐに分かった。

 つまり、あなたのトレーナーと、そのトレーナーの同期の男のことを指しているのだと。

 

 

 ……しかしどうしてか、何かが引っ掛かる。

 

 何が引っ掛かったのか? 何処に、違和感を覚えたのか? 

 ……そう。あなたが疑いの目を向けたのは、その同期の男を知っていること、それそのもの。

 もっと言えば、不仲な同期というには遭遇した機会が多いことに、である。

 だって、あなたのトレーナーならまだしも、あなた自身には会う理由がないはずなのだ。

 

 けれど、確かに覚えている。

 あなたは、その男と、葛城という男と顔を合わせたことがあって……しかし、会話をしたことはそう多くないことを。

 

 まるで、そう。

 母と一緒に歩いていた時、母の知人と会った時の感覚。

 友人と一緒に過ごしていた時、友人の姉妹と会った時の感覚。

 では、そう感じた理由は一体何なのか。

 ……あなたはそれを、思い出せずにいる。それに、視線を向けられずにいる。

 

 だが、あなたは何も悪くない。当然の事なのだ。

 ()()()の原因になりかねないのだから、隠されるに決まっている。

 

「崎川とは上手くやれているのか。あいつは……教え子に寄り添えるタイプだろうが、人の機微に疎い。何でもかんでも確率とやらで判別するきらいがあった。お前とは、どうだ」

 

 あなたはそうとも知らずに頷きを返しながら、ありもしない原因を探している。

 ……ミホノブルボン。あなたのそれは、もう無意味な行いでしかないのに。

 

「マスターは私に良くしてくださっています。それに……機微に疎いのは、きっと私にこそ当てはまる評価です。

 ……私はいつもマスターに助けてもらってばかりでしたから」

「そうか。……あいつも、トレーナーをやってるんだな」

 

 また、会話が途切れる。

 

 黒沼は言葉を探すようにじっと眉を顰めて、白い吐息を吐いた。

 サングラスが曇って、彼の姿を少しだけ間抜けに装飾する。

 

「……お前にも教えておいてやる。いいか、大人だろうと子供だろうと変わらねぇ。人間である以上、どうしても分かり合えない事はある。主義主張が一致する奴ばかりじゃねぇからな。だが、だから道を違えるべきだ、なんて決まりはない」

 

 部分的に白くなったレンズが、あなたを見下ろす。

 視線は、隠れて分からない。けれど強い語調が隠された目を幻視させる。

 きっと、鋭い眼差しが、あなたを見下ろしていた。

 

「必要なのは、喧嘩だ」

「喧嘩……?」

「そう、喧嘩だ。口でもいいし、拳でもいい」

 

 ジャージのポケットに、雑誌を持った手を差し込んで、今度は地面に視線を向ける。

 入り切らずにはみ出した紙は湿気っていて、字のインクがぼんやりと滲んでいた。

 

 ただ、あなたにはそれが見えていないのだろう。

 真横の顔を見上げて、理解に窮した様子で口を噤んでいる。

 

「肝心なのは真正面からぶつかり合うこと。てめぇのそこが気に入らんと想いを叩きつけろ。そして叩きつけられろ。互いの尖った部分を潰し合って、落とし所を見つける。……そうすりゃ、少なくとも一歩前には進めるだろう」

「……落とし所」

 

 そして、噛み締めるように、頭の中で繰り返す。

 あなたはきっと、それが必要になると感じたのだろう。

 落とし所とやらを求める相手も忘れてしまったというのに、それでも。

 

 ……だが、それも、あなたの理解が足りていない証拠である。

 

 あなたは忘れているのだ。

 忘れたものに手を伸ばそうと足掻いても、たったそれだけで思い出せるはずがない。

 いうなれば、透明なガラス玉をプールに落としたあと、また手探りで見つけ出すようなものだ。それが無理難題であることは子供にも分かるだろう。

 ……ひょっとすると、膨大な時間と労力を費やせば再度手にすることも叶うのかもしれないが、あなたには叶わぬ事だ。

 

「……そうだな、ついでにいい言葉を教えてやる。どんと構えて、一歩も引かずにこう言ってやれ」

 

 分水嶺は、とっくに越えている。

 あなたがいくら足掻いたところで、あなたが求めている姿も、あなたが求めた日常も、息を潜めてそのままだ。

 



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