もしも歳が離れていたら (夕暮れの家)
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1話

「焼き肉定食、焼き肉抜きで。」

周囲の“なんだこいつ”、とでも言いたげな視線に耐えながらいつもの通りそんな注文をする。

目の前にいる食堂の職員さんも、最初の方こそ周りと同様に奇異の目を向けてきていたが、今ではすっかり慣れたのか、注文の際に笑顔すら浮かべて対応してくれるようになった。

周りから変なものを見るような目で見られてるなか、自分に好意があるわけではなくても笑顔を浮かべてくれるのはありがたいな、何て思いながら、料理を待つ。

量が少ないからか、心なしか他の料理よりも早めに出てきたそれを持っていつもの席に座り、手を合わせて“いただきます”と小さく呟いて食べ始めた。

 

「上杉君また一人で食べてるぜ。」

 

「やべー」

 

みたいな会話が聞こえた気もするが、無視を決め込む。聞こえないふりをする。いつものことだ。それに、そんなことに時間を割く気なんてないのだ自分には。

はぁ、と溜め息をひとつつく。食事中だがポケットから単語帳を取り出し、午後の英語の小テストの勉強をすることにした。

勿論とっくに全て暗記しているが、念のためにだ。高校に入学して今まで、全てのテストで満点なんだ、変なところで1点でも落とすのは癪に触る。勉学というのは足りないことはあってもやりすぎるなんてことはない。やればやるだけそれは数字として表れてくる。

 

「あ、あの!」

 

ざわざわと、周囲の声が心なしか普段よりも大きいように感じる。こちらに向けられている視線も普段より多い。

 

ふと、その喧騒の中に違和感を覚える。小学生のように高い声が混ざっていたように思えたのだ。もはやその大半を単語に支配された頭の片隅に浮かんだそんなことを即座に馬鹿馬鹿しいと切り捨てる。いくらうちが珍しい小、中、高と一貫の学校だとしても食堂はそれぞれきっちり分かれている。こんなところに小学部の生徒がいるわけがないのだ。

 

「あのっ、すみません!」

 

「ん?」

 

今度はさっきより近くから、聞き間違得ようもないほどはっきりと聞こえた声に、たまらず集中を切り顔をあげると、そこには頭から漫画みたいなアホ毛を生やした少女が立っていた。顔を赤くし、余裕のかけらもないような表情でこちらを見ていた。

 

「私に勉強を、教えてくださいっ!」

 

そして訳の分からないことを、言っていた。

───────────────

 

「それで、どういうことだ?」

 

そう言って向かいに座った少女を見る。

さっきは声だけで小学生だと言ったが、うちの学校の小学部の制服を着ているところを見ると、本当にそうなのだろう。だからと言ってなぜこんなところにいるかなんてことは全く分からないのだが。

 

「…先程は突然すみません。改めてお願いします、私に勉強を教えてくれませんか?」

 

そう小学生らしくもない言葉づかいで言い、少女が頭を下げると、そのアホ毛も一緒にピョコリと動いた。

本当にどうなってんだあれ…。って今はそうじゃないな。

 

「俺にそれを頼むことになった経緯を知りたいんだが…。」

 

「そ、そうですね、すみません。では───

 

そう言って少女が語った経緯は、以下の様なものだった。

曰く、自身は小学6年生なのだが、成績が振るわず、このままでは中等部に上がる際に行われる進級試験に落第しかねないこと。

曰く、最初は教師に分からないところを質問しに行っていたのだが、あまりに頻繁だったのと自分の理解が遅いせいで最近ではその教師たちに質問をしに行くと嫌な顔をされるとのこと。

曰く、それならば、小中高一貫という性質を活用して、年上の頭の良い先輩に教えて貰おうと思ったとのこと。

 

「…それで、俺のところに来たと?」

 

「はい、高校1年生の学年1位はあなただと聞いたものですから。」

 

そう言ってどうでしょうか…?と恐る恐るという風に上目遣いでこちらを伺う少女を前に考える。

正直言うと、面倒だ。俺は部活には入っていないが、自分の勉強があるのであって、他のことに割いている時間など無いのだ。

そう思い、断ろうと口を開いたが、直前で思い止まる。ひとつ気になることがあったのだ。

 

「なんで高校生の俺なんだ。先輩なら中学部に同性の頭いい奴なんていくらでもいるだろ。」

 

そう聞くと、少女は唇を噛み、俯いてしまった。

 

「中等部の方々には、断られてしまいました。皆、私みたいな馬鹿には、教えたくないと、口を揃えて言いました。」

 

「…そうか。」

 

そう、何かに耐えるように体を縮こまらせて言う様子を見て、分かってしまった。…いや、理解させられたと言った方がいいか。

うちの学校は、高校こそ共学だが、小中は女子校なのだ。

所謂お嬢様学校というやつで、そこの成績優秀なやつらは総じてプライドが高く、自分よりも出来の悪いものを見下す傾向にある。早い話、小中学部のスクールカーストはほとんどが学力と家の権力で成り立っているのだ。…全体がそうではないと信じたいものだが。

 

更に質が悪いのは、そういう輩のほとんどは、小さいころから最高の教育を受けているだけあり本当に優秀だと言うところだ。

うちの学年こそ一位は俺だが、他の学年は成績上位者のほとんどはその手の奴等だ。

うちの小学部から中学部への進級試験はある程度の難易度を誇るが、落ちるやつ等毎回一人いないかどうかなのだ。現時点で落第しそうなやつ等、格好の的なのだろう。

 

…つまり、そういうことなのだ。

心無い言葉を投げつけられたのだろう、嘲笑われて、悲しい思いをしたのだろう。

 

そして最後の望みをかけて俺のところに来たのだろう。

 

「だからっ、あなたに、あなたにも断られたらっ、もうっ!」

 

目を潤ませ、言葉に詰まりながら少女が此方を見上げてくる。

最初に小学生らしくもないと思った敬語も崩れてしまっている。

正直に言えばこんな話承諾する理由などない。自分の勉強の時間を他人の都合で削られるなど真っ平御免なのだ。断ろう、そう思い口を開いて──

 

拒絶の一言を、発することが出来なかった。まるで誰かが喉まで出かかっている言葉を必死に抑えているような、そんな妙な感覚。

 

“みんなも、───も、えがおにするの!”

 

ふと、何の脈絡もなく自分が道を正す切っ掛けになった少女の姿が頭をよぎる。あの時自分は何を誓った?親父と、病弱で笑うことの少なかった妹を幸せにすることだ。

あの子だったらどうするだろう。そんなの決まってる、きっと自分のように言葉を止めて迷うそぶりなんて見せない。

 

「…分かった、教えてやるよ。」

 

気づけば、そう口に出していた。

それを聞いた少女は、一瞬呆けたように目を見開き、次の瞬間、ほっとしたように表情を緩めていた。

 

「…はい、はいっ!ありがとうございますっ!」

 

らしくないことをした、面倒なことを引き受けてしまったという気持ちがないわけではない。

ただ、きっとここで自分が断ってしまえばこの子は今のように笑うことなどなく、唇をかみしめて俯いて。それでもしっかりと頭を下げてお礼を言って自分の前から去っただろう。

 

他人のことは嫌いだ。人の努力を指差して嗤ったり、大した努力もしていないくせにそれ以上の結果を求めようとする。そんな奴ら、どうなっても構わないと思っている。

 

…そんな奴らと一緒になりたくなかった、人の努力を嗤いたくなんてない。泣きそうになりながら必死に前を向こうとしているやつの道を閉ざすなんて自分がやっていいことではない。

 

それ以上に、笑ってほしかった。らいはも昔は良くやっていた。感情を押し殺して、どうにか耐えようとして、自分が我慢すればいいんだとでも言いたげな表情。この子はらいはではないが、重ねてしまった。そんな表情は見たくなかった。

 

本当に、らしくない。

 

「…お前、名前は?」

 

「え?」

 

未だに頭を下げたままでいる少女に声をかける。もういい、そんなに感謝されるほど立派なことをやったわけではないのでこそばゆいし、なにより周囲からまたチラチラと感じるようになった視線が痛いのだ。

 

 

「名前だよ、名前。勉強教えるならそれくらい知っておいた方が良いだろ。」

 

「そ、そうですね。失礼しました。

 中野五月と言います。五月と呼んでください。」

 

「五月か、分かった。俺は上杉風太郎だ、呼び方は…、まぁ、何でも良い。」

 

「上杉…、上杉君。上杉君で良いですか?」

 

「あぁ、良いぞ」

 

「上杉君…、本当に。本当に、ありがとうございます。」

 

「…俺はまだ何もやってないぞ?」

 

「それでも、です。」

 

そういってうっすらと笑う少女ーー、五月の目の下には先ほどまでは顔を俯かせていたため気づけなかったが、くっきりとした隈が浮かんでいた。眠れていなかったのだろうか?察することしかできないが、相当参っていたようだ。

…無理もないのだろう、小学生が周囲から多くの心無い言葉を投げられて、弱るなという方が無理なのだろう。

 

ぽたりと、一筋の水滴が頬を伝ってテーブルの上に落ちる。それを境に決壊し、一粒、また一粒と伏せた瞳から零れ落ちる。

 

「辛かったっ!もう、やっぱり私じゃ無理なんじゃないかってっ!」

 

「そうか。」

 

「だれにも頼れなかったっ、誰も助けてくれなかったっ!」

 

「…そうか。」

 

「私は、わたしは、あなたを信じてもいいんですか…?」

 

泣きながらそう言ったあとに、蚊の鳴くような声でごめんなさい、と言って俯いて黙り込んでしまった。ぽろりぽろり落ちる水滴は拭われることもなく膝まで落ちていく。どうすればいいかわからず自分の頭へもっていこうとした手を、ふと思いなおして五月のこちらへ差し出すような形になっている頭に伸ばした。

 

「頑張ってるやつを、笑ったりしない。」

 

返事はなかったが少しまとう雰囲気が柔らかくなったのを確認して、頭から手を離す。

 

「ぁ……。」

 

「五月、今日はもう帰れ。」

 

予想外の言葉をもらったからか、それとも先ほどの言葉で落ち着いたのか、泣き止んだ様子の五月が首をかしげる。その様子にほっとしながらも言葉をつづけた。

 

「帰ってゆっくり寝ろ、睡眠不足だと満足に頭に入ってこないからな。」

 

「あ、あの……。」

 

「明日の放課後、図書室でな。」

 

「…は、はいっ!ありがとうございます、上杉君っ!」

 

振り返った時、五月は安心したように、それでいてあふれる喜びを抑えきれないかのように笑っていた。確かに、笑っていた。

 

「今日初めてちゃんと笑ったな、あいつ。」

 

初めて見るようで、どこか懐かしい…、そんな笑みだった。

 

 

 

 



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2話

その少女──中野五月にとって、勉強ができる、ということはそれだけで憧れの対象になるほど、大きなことであった。

 

それは、彼女の母親が教師だったことが強く影響しているだろう。

 

彼女にとって母親は、大好きな存在であり、憧れであり

 

──そして、もう手の届かない所に行ってしまった自分の理想である。

 

今から1年と少し前、いつも通りに姉妹達と学校から帰り、「ただいま」と言った彼女の目に飛び込んできたのは、

 

「お帰りなさい」と暖かく出迎えてくれる声ではなく

 

 

──床に倒れた最愛の母親の姿だった。

 

「お母さん、お母さんっ!

 目を開けてよぉ!」

 

「一花、早く救急車呼んで!」

 

「う、うん!」

 

「お母さん…、嘘だよね?」

 

「お母さんっ!私、まだ何も返せてないよ

 役に立てて無いよ!行かないでよぉ!」

 

その後、救急車に運ばれて行った先の病院で、医師の奮闘もむなしく、亡くなってしまった。

 

五月はあの時の事を、一年以上たった今でもまだ鮮明に思い出す。

あの、母親が亡くなる直前に少しだけ意識を取り戻し放った言葉を。

 

「ごめんなさい…、私はまだあなた達に教

 なければいけないことが沢山あるのに。

 

 でも、もう一緒には居れないようだから

 

 ごめんね、

 一花、二乃、三玖、四葉…、五月。

 あなた達は────」

 

 

幸せになってね

 

声は聞こえなかった、でも姉妹で誰一人それを理解しないものはいなかった。何故か、聞こえないはずなのに、聞こえたのだ。

 

──それが母親の最期の言葉となる。

 

その後のことは良く覚えていない、気づいたら次の日の朝で、周りには4人の姉達が寝ていた。

その時はまだ寝惚けていて、現状を整理できていなかったのだろう。何故こんなに早く目を覚ましたのだろうと寝起きの頭を振りながら居間に母親の姿を探しに行って──

 

母親の代わりに待っていた空っぽの部屋に、現実を突きつけられた。

あぁ、もうあの声で

 

「おはよう」も

 

「行ってらっしゃい」も

 

「お帰りなさい」も

 

「お休み」も

 

…「ありがとう」も

 

聞くことはできないんだと、思い知らされた。

 

「うぅ…、あぁぁぁ、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!

 

 おがあさぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」

 

 

またあの声で自分の名前を呼んで欲しかった

 

もっと褒めて欲しかった。

 

もっと色んなことを教えて欲しかった。

 

そのどれもがもう叶わない。まだまだ母親にべったりだった五月にとってはそんな現実はあまりにも重すぎた。

 

 

 

 

 

泣きつかれてふらふらと寝室に戻った五月の目に入ってきた光景は、いつもの姉達のの寝相の悪さが遺憾なく発揮された光景ではなく、何処か寂しそうな表情をして、互いに寄り添って眠る4人の少女の姿だった。

 

それを見た五月の胸に生まれたのは、

一つの決意。

 

“私が…、私が皆を守らなきゃ。

私がお母さんになるんだ。”

 

それは、姉妹の中で一番母親が好きで、いつも一緒にいた五月だからこそ、出来たことな

のかもしれない。

 

それから五月は常に“母親”を意識した立ち振舞いをするようになった。

 

話し方も変えた、誰に対しても、それこそ姉妹に対してですら、敬語で話すようになった。

 

そして何より、勉強に打ち込むようになった。それは母親の最期の言葉を聞いてのことだ。

 

“お母さんが教えられなかったこと全部、私が頭が良くなって皆に教えるんだ。”

 

しかし、五月の成績は伸び悩む。それは生来の不器用さが邪魔した結果であり、今まであまり勉強などしてこなかったつけでもあった。

 

彼女達がそれまでいた学校は普通の小学校であり、そこまで勉強を必要としてなかった、ということもあった。

 

テストもたまには有るものの、難しいものではない。授業を聞いていれば、半分くらいは取れるような簡単なものだったのだ。

 

しかし、それは今の父に引き取られて転校した先では通用しなかった。

授業が難しかったのだ、単純に。

 

それは五月がついていけるようなレベルでは決してなく、それは彼女の姉達も同様であった。

定期的にあるテストも難しく、それで点数をとれない彼女達は周囲から馬鹿にされた。

 

いや、正確に言えば口に出して言われているわけではないのだ。別に苛められるわけでもなく、友達として喋らないわけでもない。

それでも分かるのだ、周りの目は確かに自分達を馬鹿にしている、と。

 

それに対する姉妹の反応はそれぞれだった。

 

自分は馬鹿だからと言って笑って諦める者

 

勉強よりも交友関係を、姉妹を大事にしようとする者

 

どうせ自分なんかといじける者

 

母親を失った悲しみから立ち直れず、未だに塞ぎこんでいる者

 

結局諦めずに勉強を続けたのは、五月だけだった。小学2年生の途中から、何を思ったのか勉強に熱心に取り組んでいた四葉でさえも、塞ぎこんでしまい部屋から出てこない。

 

 

そんな状況でも、五月は折れなかった。折れるわけにはいかなかったのだ、何故なら自分は“母親”なのだから。

 

分からないところは積極的に教師に質問に行った。それこそ理解できるまで、何度も、何度も聞いたこともある。

 

…そうしているうちに、段々と教師が自分を避けているように感じることが増えた。

 

質問に行っても大抵何か他のことをやっている。聞けたとしても、理解が遅いとあからさまに呆れたような顔をされ、時にはため息すらつかれることもあった。

 

そして聞いてしまったのだ、職員室にその日の分からなかったところを質問しに行ったとき、教師同士の会話が部屋の中から聞こえてきた。

 

「あの中野…五月だったかな?

 あの子、いつも簡単な所ばかり聞きに来

 て、正直もうそろそろ迷惑なんだよね。」

 

「そうですよね、それに理解が遅いから何

 回も同じ説明をしないといけないじゃな

 いじゃないですか。

 凄い時間とるんですよね、あれ。」

 

「それに結局テストでは出来てないしな。

 やっぱり元がダメならいくらやっても

 ダメなんだよな。」

 

「違いないですね、はははは!」

 

五月は無言でノックしかけた手を下ろし、教室に戻った。

悔しかった、悲しかった、そして何よりそれだけ言われても何も言い返せない自分が…

情けなかった。

 

「お母さん…私はどうすれば良いですか?」

 

お母さんの代わりになると誓ったのに…、私は何もできていません。

先生にすらあんなことを言われてしまいました。

…私には、無理なのでしょうか?

っ!いいえ、こんなことを考えてはダメです。

先生が無理なら、先輩に教えてもらいましょう。幸いこの学校は小中高一貫です、頭の良い人も沢山いるでしょう。

そうです、それがいいです!

 

そう思いつき、行動に移した五月だったが…返ってきたのは、教師以上に辛辣な言葉の数々だった。

 

「あなた、こんな問題も解けないの?

 それなら見込みなんて無いわ、さっさと

 学校辞めたらどうかしら?」

 

 

 

「理解が遅すぎるわね、これでは何かの

 奇跡で中等部に進めたとしてもすぐに躓

 くわよ、早く辞めた方が身のためね。」

 

 

 

「あはははは!こんなに馬鹿な人初めて

 見たわ。ねぇ、どうすればそんなに頭

 悪くできるの?」

 

 

頼む人頼む人皆に馬鹿にされ、見下され、嘲られ…

無理に奮い立たせていた五月の心はもう、吹けば折れてしまうほどに弱りきっていた。

 

それこそ、後一度でも同じような言葉を掛けられていたら、折れてしまっていただろう。

 

中等部ではもう無理だと悟り、向かった高等部。食堂で職員に成績優秀者は誰か分かるか、と聞いて指差されたのは、一人で食事をしている背の高い男子だった。

 

“女の人じゃないんだ…”

 

最初に思ったのはそれだった。

五月にとって男性との会話は、転校前の学校で少し話したことがあるくらいで、年上に至ってはほとんど経験が無いのだ。

 

“少し…怖いですね”

 

その男子が目付きの悪い方だったのも原因しただろう。少し尻込みしてしまったが、どうにか勇気を出して声をかけた。

 

「あ、あのっ!」

 

─────────────

 

最初は気づかなかったのか無視されてしまったが、もう一度声をかけると気づけてくれた。

慌てて色々変なことを口走ってしまったような気もするが、今までの人のように自分を馬鹿にするでもなく何も言わずに、静かに自分の話を聞いてくれた。

 

だからだろうか、言うつもりの無いことまで言ってしまったのは

 

「だからっ、あなたに、あなたにも断られたらっ、もうっ!」

 

零れ出てしまった本音だった、助けて欲しいという悲鳴だった。この人に見捨てられたら、もうダメだと心の何処かで分かっていたのかもしれない。

 

「…分かった、教えてやるよ。」

 

その言葉が聞こえてきたとき、一瞬その意味が分からなかった。だが、ちゃんと理解出来ると、嬉しさが溢れてきた。

きっと端から見ると可笑しいくらいに笑っていたのではないだろうか。

 

…思えば、心から笑ったのは母が亡くなってから初めてのことだった。

 

 

その後、名前を教えてもらい、今日から教えてもらう約束をして彼とは別れた。

 

“上杉君…上杉君ですか”

 

喜んでいる自分をみて、彼は微かに笑っていた気がする。

 

…呆れられてしまったでしょうか?

 

もし彼にまで見捨てられたら、そう思うと何故だかひどく悲しくなる。

でも、彼なら大丈夫と、そんな気がするのだ。

「それでは、宜しくお願いします。」

 

「ああ、宜しく。」

 

放課後、俺は約束通りに図書室に来ていた。

目の前には自分の勉強道具を広げ、張り切っている五月がいる。

…やる気出してるとこ悪いんだがそれはしまってもらわなきゃな。

 

「教える前に、どれぐらいの学力か知りたいから、このテストをやってもらうぞ。

合格点は…そうだな、60、いや、50点あれば良い」

 

「分かりました」

 

さて、成績が振るわないとは言っていたが、どの程度のレベルなのやら…。

 

 

 

 

 

「採点終わったぞ、点数は…

 …22点だ。」

 

「ううぅぅぅぅぅ、ごめんなさい…。」

 

 

 

 

図書室で勉強を始めようとすると、彼はテストをすると言った。何でも私の学力の程を知りたいらしいのだ。

それを聞いたとき、私はとても怖くなった。

 

“このテストで点数が悪かったら上杉君も私を見捨てるのでは?”

 

と、そう思ってしまったのだ。

彼は大丈夫だ、一部では思っていても、教師や先輩に向けられた視線が、投げつけられた言葉が、それを確信に変えてくれない。

 

彼は合格点は50点だと言った、ならそれ以上の点数を取れば大丈夫だと、自分を無理に納得させてテストに挑んだものの…

 

 

 

結果はその半分にも満たないという酷いものだった。

 

顔をあげることができなかった。彼の顔をみるのが恐かった。あの静かな夜空のような目に、自分を嘲るようないろが浮かんでいると想像しただけで、身がすくむような思いがした。

 

「ごめんなさい、ごめんなさいぃ…」

 

「あぁ、それじゃあ──」

 

「ごめんなさい!もっと頑張るから、

 頭良くなるからっ、だからっ!」

 

 

──私を見捨てないで

 

 

そんな悲鳴は、言葉になる前に消えた。

ぽん、と軽い、それでいて暖かい重みが、頭にのったからだ。

 

「……ぇ?」

 

 

その重みは、ゆっくりと五月の頭を撫でていた。まるで壊れ物を扱うような、ぐずる子供をあやすような、優しい手つきだった。

 

「大丈夫、大丈夫だ。

 …その、勉強出来るようになりたいから

 俺のところに来たんだろ?

 

 なら今出来なくても気にしないで良い。

 大丈夫だ、見捨てたりしないさ。」

 

見上げるとそこにあったのは、困ったように笑いながらも、優しさを目にたたえた彼の姿だった。

 

──あぁ、大丈夫なんだ

 

気づけば涙が溢れていた。これほど心から安心出来たのは、母が亡くなってから初めてのことだった。

 

「ど、どうした?大丈夫か?」

 

そう言って慌てる彼の姿がおかしくて、でもそのせいで手が離れてしまったのが寂しくて、全く似ていないのにまるで母のように安心できるその暖かさが恋しくて

だからだろうか、口からぽろりとこぼれだした言葉があった。

 

 

 

「………お父さん?」

 

 

 

 

 

点数を伝えたら取り乱してしまった五月に少し困惑する。

…怒られると思ったのだろうか?それとも、俺に見放されるとでも思ったのだろうか。

 

目の前で泣きそうな様子で謝る五月を見てられなくて、気づけば妹を慰めるときのように頭を撫で、声をかけていた。

 

一瞬びくりと震えて、おそるおそるといった様子で顔をあげてくれた五月は、安心したような顔をして──、次の瞬間静かに泣き出してしまった。

 

「ど、どうした?大丈夫か?」

 

何かやってしまっただろうか?そう思い慌てる俺に、更なる混乱が襲いかかった。

 

 

「………お父さん?」

 

「……え?」

 

一瞬何を言われたか分からなかった。

すぐに自分が何を言ったか理解したらしい五月が慌て始め、それにあわせて再起動する。

 

「すすす、すみません!

 今、何てことを言ってしまったのか!」

 

「…落ち着け、何でそんなことになったか

 は聞かないが…。

 その、お父さんは勘弁してくれ。」

 

「…そう、ですよね…。」

 

そう言ってしゅんとする五月。自分では無自覚なんだろうが…、何故だかこちらが悪いことをしているようで落ち着かない。

 

「えぇ~っと、その、なんだ。」

 

「?」

 

「まぁ、他の呼び方なら、別に…。」

 

そう言うと、ぱっと表情が明るくなる。

自分でもつくづく甘いなと思う。いつからこんなに年下に弱くなってしまったのだろうか。

 

「……お兄ちゃん。」

 

「は?」

 

「お兄ちゃんって呼んだらダメ…ですか?」

 

「…まぁ、たまにならな。」

 

随分と予想外な呼び方をされてしまったが、嬉しいそうにしているこの子を見ていると、ダメとは言えなかった。

…何か事情があるんだろうな。

そうは思うが、他人である自分が踏みいる訳にはいかない。

 

そんなことを考えながら、嬉しそうに笑う五月に声をかけ、テストの復習を始める。

 

「宜しくお願いしますね、お兄ちゃん!」

 

「…あぁ。」

 

何かに必死で、それでいて危うくて、少し押せば折れてしまいそうな少女だ。

そんな子が、今は笑ってくれている。

それが嬉しくて、風太郎はほんの少し、笑みを溢すのだった。



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3話

最近、五月ちゃんの様子がおかしい。

といっても、別に悪いおかしさではないのだ。どちらかというと良い、いや、非常に良いおかしさだと言えるだろう。

 

とにかく機嫌が良いのだ、ふとしたときに一人で少し笑っていることも増えた。

 

“少し前まではすごい思いつめた表情をしてたのになぁ、どうしたんだろ?”

 

そんなことを思ってはみるが、本当はすごく嬉しいのだ。母が亡くなってからの五月ちゃんは端から見ていてもかなり危うい様子だったからなぁ、とその時のことを思い返してみる。

 

“うん、やっぱり笑っててくれるのが一番だね!”

 

ただ、五月が元気になっていることは良いものの、気になることが無いではない。

それは、何が原因で元気になったのか?ということだ。

 

一花が知る限りでは、自分達姉妹と一緒にいるときには、それらしきことは無かったように思える。

 

“となると、やっぱりあれが理由なのかな?“

 

ここで一花の言う“あれ”とは…

 

「あ、五月ちゃん帰る準備おわった?

 早く帰ろう?」

 

「すみません一花、今日は人と約束がある

 ので…。」

 

「あちゃ~、今日もなんだ?」

 

「はい、ですので…」

 

そう、これだ。

この頃五月は放課後帰らずに人と約束があると言って何処かに行ってしまうことが増えているのだ。

 

「分かってる分かってる♪

 …でも早く帰ってきなよ、皆心配するから

 ね?」

 

「ありがとうございます一花、それでは。」

 

「うん、いってらっしゃ~い。」

 

増えたにも関わらず、同学年で五月が姉妹以外と仲良くしている所なんて見たことがない気がする。

…なんとも不思議なことだ。

 

「怪しいなぁ。」

 

と、遠ざかっていく五月の背中を見送りながら一人ごちる。

…実際のところ、心配なのだ。

五月があれだけ楽しそうにしているので、悪いことではないとは思うのだが…。

 

「やっぱり気になるよ、五月ちゃん。」

 

母が亡くなってから、彼女は“自分が母親の代わりになる”などと言って口調まで変えてはいるが、やはり一花にとって、いや、彼女達姉妹にとっての五月は妹なのだ。

 

甘えん坊なのに、甘え下手なかわいい末っ子なのだ。

 

そんな妹が自分達の知らない所でなにかをしてるというなら、心配してしまうのも仕方ないことだろう。

仕方ないったらないのだ。

 

…だから今こうして五月ちゃんの後をつけているのも仕方ない事なんだ。

 

心配しているのは本当でも、三割ほどは野次馬根性で五月の背中を追う一花であった。

 

 

 

 

 

てっきり小学校の何処かにいくと思っていたのに、五月ちゃんが向かったのは予想外にも高校の図書室だった。

 

「は、入りづらい…。」

 

普段から読書をあまりしない一花にとっては小学校の図書室でさえ未開の土地、ましてや高校の図書室ともなれば入るのはかなりハードルが高かった。

 

「どうしよう…、でも五月ちゃんはもう

 入っていっちゃったしなぁ。」

 

悩みながら入り口付近をうろうろする事五分程、やっと意志が固まったようだ。

 

「よし、ちょっとだけ見てすぐに出よう。」

 

図書室の扉を音がたたないようにそぉ~っと開けてまたそぉ~っと閉める。

 

入ったことは殆どないが、静かにしなければならないことぐらいは知っているのだ。

 

“はぁぁ…、頭良さそうな雰囲気…。”

 

随分、小学生にとってはかなり広い部屋の中、聞こえるのはページをめくる音と誰かの呼吸の音だけだ。

 

少し、いやとても居心地が悪い。

感想だって頭の悪そうなものしか出てこないくらいだ。

 

“五月ちゃん、こんなところにいるの?大丈夫かな…。”

 

そう心配しながらぐるっと見回して見るが、見当たらない。どうやら奥の方にいるようだ。

入るのにも結構覚悟がいったのに…と気が引けるが、そこはかわいい妹の為。

五月ちゃんが何をしてるか気にな…、いやいや心配だから!と気合いを入れて──

 

──やっぱりそぉ~っと歩きだした。

 

 

奥の方に進んでいくと、微かに二つの声が聞こえた。一つは低く、もう一つは高い声だ。

 

“この声…、五月ちゃんかな?”

 

声のした方に行き本棚の陰から顔だけだして覗いてみる。

 

“五月ちゃんと…、男の人?”

 

そこにあったのは、五月と高校生の男の人が勉強をしている姿。見るに、五月がその人に勉強を教わっているようだ。

それだけでも十分に驚くに値する光景ではあるが、それ以上に一花の目をひいたのは、五月の浮かべている表情だった。

 

──笑顔、それは久しく見ていなかった五月の母に向けていたような、そんな笑顔だった

 

その表情を見て、「すわっ、どういうことじゃい!」と声をあげそうになっていた一花は慌てて口を押さえた。

 

何となく、邪魔してはいけないような、そんな気がしたのだ。

 

この頃急に元気になった末っ子が、そんな顔を向ける人がいる。それが意味するところは明白で、

 

“そっか、あの人が五月ちゃんを元気にしてくれたんだ。”

 

だとしたら、感謝しかない。自分には、自分達には出来なかったことだ。

 

誰にも寄りかかれず、必死に頑張っているのを、誰よりも近くにいて見ていたのに何も出来なかった。

 

“良かったね、五月ちゃん。

それと…ごめんね、頼りないお姉ちゃんで。”

 

五月を支える役目になってあげられなかった。その事に後悔はある、それはもちろんだ。

でも今は喜ぶべきなんだろう。

 

──支えを失った子が、また寄り掛かることの出来る相手を見つけた。

 

嬉しいことだ、喜ぶべきことだ、そしてとても、そう、とても───ことだ。

 

“?”

 

自分の胸によぎった馴染み深いようで、それでいて覚えがない感情に首をかしげる──が、それも一瞬のこと。

 

“良いもの見れたし帰ろうかな、うん、

五月ちゃんが帰ってきたら問い詰めることにしよっと♪”

 

ん~っ、とのびをしてふとまた五月の笑顔に目を向け、目を細める。

この事を皆の前で聞いたら、五月ちゃんはどんな反応をするのだろうか?

 

慌てるのだろうか、それともあんな風に笑って話してくれるのだろうか。

 

“今日は久しぶりに騒がしくなりそうだなぁ”

 

母がいなくなってめっきり静かになってしまった我が家の食卓は寂しいものだったが、今日は違うと思うと心も踊る。

 

「よし、かえろうっと!」

 

 

 

 

 

 

 

この頃、テストが返ってくるのが少し楽しみになった。

依然として点数こそ悪いものの、返ってくる度に少しずつ自分の成長が感じられる気がするのだ。

 

それに、テストで点数が上がったと彼に報告したら、「ま、まだまだだけどな。」などと一言多いものの、誉めてくれるのだ。

 

今日のテストも持っていったら誉めてくれるでしょうか?

…また最初みたいに頭も撫でてくれるかな?

 

は!? い、いけません!これでは何のために勉強してるか分からないじゃないですか!

 

にへらっ、と相好を崩してはすぐに我に返ったようにブンブンと頭を振る五月は、端から見ると相当に変だ。

 

そんな様子が彼女の姉達の心配を加速させているのだが…、まぁ仕方のないことだろう。

 

 

 

「上杉君、上杉君!」

 

「…ん、五月か、どうした?」

 

「見てください、今日返って来たテストで

 す。教えてくれた問題がでて、出来たんですよ!!」

 

 

こうして放課後に勉強を教えてもらうことも日課になってきた。

…しかし、テストが返ってくるといつもの見せに来るな。

 

本人には自覚は無いのかもしれないが、全身から「誉めて誉めて!」という雰囲気があふれでてきている。ついでにアホ毛もブンブン揺れている。

…ホントに犬みたいな奴だな。

 

誉めてやると、更に嬉しそうな顔をするのだ。こうも嬉しそうにされると、些細な事でも誉めてやりたくなるものだ。

 

まぁ、最初から少しはましになったとは言え、まだまだだから甘やかすつもりは無いけどな。

 

 

 

 

「よし、今日はここで終わるか。」

 

「ありがとうございましたぁぁ…。」

 

「ほら、死んでないで立て。帰るぞ。」

 

「うぅ…、疲れました…。」

 

 

そう言ってさっさと行ってしまう上杉君を慌てて追いかける。彼は優しいのに、こういうところは本当に無頓着だ。

…それに家まで送っていってもくれないのだ。普通は「危ないから」と言って送ってくれるものじゃないですか!?

 

不満を込めてジト目で彼を見る。

 

「どうした五月、腹でも減ったか?」

 

「ふんだ!お兄ちゃんなんて知りません!」

 

「…何で?」

 

 

その後も考えていたようだが、結局分からなかったようで、そのまま道の途中で別れることになった。

 

一人になった帰り道、隣に誰もいないのはやはり寂しい。隣には何時だって姉妹の誰かがいたから、思えば今までは一人で帰ることなんて無かったのだ。

 

…上杉君のことは姉妹には言っていない。

聞かれたときに、人との約束と言って誤魔化してしまったのだ。

 

別に隠すつもりはなかったのに、気づいたら口から出てしまっていた。

…どうしてなんでしょう?皆に上杉君のことを知ってもらいたく無いのでしょうか?

 

それは、ただ単に幼い独占欲から来たものか、はたまた別の何かなのか…

 

今はまだ分からない。何にせよ、まだ小さな種火である。

 

それがこの先どのように育っていくかなど

 

 

 

──それこそ、神のみぞ知ることだ。

 

 

 

 

 

「そう言えば五月ちゃん、放課後図書室で

 高校生の男の人と居たよね~。」

 

「「「 !?!?!?!?!? 」」」

 

その発言に対する反応は様々だった。

 

バン!と机を叩き立ち上がる者

 

目を見開いて驚きを表現する者

 

そして…、飲んでいたお茶を噴き出してしまった者。

 

 

「…五月、汚い。」

 

「す、すすすみません三玖!

 い、一花!見てたんですか!?」

 

「ちょっと五月!男ってどういう事!」

 

「に、二乃、取り敢えず私の話を───」

 

「私達に内緒であんな事してるなんて…

 お姉ちゃん悲しいなぁ。」

 

「一花ぁ!!」

 

「五月!ホントに何してたのよ、答えなさ

 い!」

 

「二乃、うるさい。

 それじゃあ五月もしゃべれない。」

 

「三玖!ありがとうござい───」

 

「五月も、早く吐いて。」

 

「私に味方はいないんですか!?」

 

思った通りに騒がしくなった。本当に、これ程騒がしいのはいつぶりだろうか?

まるでお母さんがいる頃に戻ったみたい、そう思え、懐かしむように目を細める。

 

…でも足りない物がある。誰よりも快活に笑っていた妹が、ここにはいない。

 

「……四葉。」

 

楽しそうにしている妹達に水を指したくなくて、大きな声は出さずに呟くにとどめる。

 

誰よりも元気で、太陽のように笑っていた下から二番目の妹は、お母さんがいなくなってからは、まるで何かを見失ってしまったような、そんな顔をして部屋に引きこもってしまった。

 

ご飯は食べてくれるものの、一緒に食べることは無くなってしまった。

 

「また、一緒にご飯食べて…、一緒に騒ごうよ、四葉…。」

 

「一花?どうしたの…?」

 

「う、ううん、何でもない!

 ほら二乃、五月ちゃんの言う通り勉強しかしてなかったら、落ち着いて!」

 

「う…、本当でしょうね!

 五月!その男に手出されたりしてないでしょうね!」

 

「な!?て、手なんて…

 上杉君はそんな人じゃありません!!」

 

「…上杉?」

 

バタン!という扉の開く音に驚いて、そちらに顔を向けると…

 

そこには、驚き、喜び、期待、悲しみ…

様々な感情をごちゃ混ぜにしたような表情をした、四葉がいた。

 

「五月、もっと、詳しく教えて。」



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4話

幸せは、失ってから初めてそれと気づくものだ。そんな言葉が頭に浮かんだ。

 

それをなくして初めて、大切だったと、かけがえのない物だったと気づくのだ。

どんなに手をのばしても、大切なんだと声を枯らして叫んでも、それが戻って来ることはない。

 

だからきっと、幸せとは日常の事を言うのだろう。

何気ない日々でも自分がいて、大切な人達がいて、何事もなく一日が終わり「また明日」と手を振ること、それが幸せなのだろう。

 

だから小さい事、何気ない事への感謝を忘れた者から、「幸せ」を忘れるのだ。

 

そこにあるのに、手に持っているのに、他を羨み、目を反らしてしまい、いつの間にか見ているのに見えなくなってしまうのだ。

 

…失ってからでは遅いんだ。

なくしてから気づいても、あの微笑みも、暖かい手も、最後にした約束でさえもう叶わない。

 

残るのは後悔だけだ。どうしてもっと噛み締めなかったんだ?どうしてもっと大切にしなかったんだ?

どうして、どうして、どうして…。

 

俺は間違えた。あんな日々がずっと続くと思っていた。失う前に…気づくことができなかった。

 

「母さん、かあさん! 

返事してくれよ、今日も、今日も帰ったら

パン焼いてくれるっていったじゃんかよ!」

 

もうこの声はとどかない。返事は返ってこない。その目は閉じられたままだ。

 

 

もし叶うのならば、もう失わないように、後悔する事がないように…

 

 

 

 

 

 

 

 

「はっはー! 上がりだ!

 俺の勝ちだな!」

 

京都に向かう新幹線の中、金髪にピアスという到底小学生には見えない格好をした男の子

──上杉風太郎は、そう言って騒いでいた。

 

これから修学旅行に向かうのだ。

父親の立派なカメラもこのためにくすねてきたし、以前から気になっていた女の子とも同じ班になる事が出来た。

 

前日は柄にもなく楽しみで寝るのが遅くなってしまった。それで寝坊しかけたことは笑えないが。

 

とにかく、テンションをあげるなという方が無理だったのである。

 

家が貧乏な風太郎にとっては記憶に残っている限り人生で初めての旅行だ。

楽しい日々になる、そのはずだった。

 

…だが、始まってみればどうだ?

何の事はない、気になっていた女の子には自分よりもずっと親しい様子の男子がいた。

 

自分に向ける表情とは違う、そう気づけば、それが何を意味するのかは明白だ。

 

──期待するだけ無駄だったということだ。

 

 

落胆よりも惨めだ、という感情が先に来た。

なにも知らずに一人で期待して、現実を突きつけられた。

小学生だった俺の淡い想いは、恋に成長することすらなく儚く散ったのだ。

 

…惨めだなぁ

 

 

 

 

気づけば班を抜け出し、一人で京都を歩いていた。

あそこに居たくなかった、もうこれ以上あの二人を見ていたくなかった。

 

…つまり、逃げ出したんだ。

 

 

 

 

 

カメラに写される景色は綺麗だ。観光名所の写真、華やかで、賑やかで、明るい。

誰が見たってそう思うだろう。

 

そこに撮影者の気持ちなんて写らない。

 

 

レンズから目を離し、ため息をつく。

そのままシャッターをきっていたら明るい写真が撮れていたであろう景色も、今の自分の目にはそうは写らない。

 

皆楽しそうに笑っている。隣にいる誰かと話し、写真を撮って京都を満喫しているのだろう。

 

自分とは違う、そんな姿はひどく眩しく、そして羨ましかった。

 

 

 

 

──視界の端を真っ白な影が横切った。

 

タタタッとそんな足音が喧騒の中にあっても嫌にはっきりと風太郎の耳に届いた。

 

今年小学校に上がった妹と同い年ぐらいだろうか。

真っ白いワンピースに身を包んだ少女だ。

脇目もふらず、そんな言葉がぴったりの様子で走っていたその子は、風太郎の見ている先で

 

──勢い良く転んだ

 

「おいおい…。」

 

足を挫いてしまったのだろうか、その少女はすぐに立ち上がろうとしたが、また倒れてしまう。

 

…それなのに、彼女の周りに助けようと動く人は居なかった。

 

誰も彼も、まるでその少女が見えていないかのように素通りしていく。

 

楽しげな人々のなか、一人で倒れたままの少女はひどくその場に不似合いだ。

 

…あいつも、一人ぼっちか

 

見ていられない、そう思って立ち上がっていた。

いつもなら、「かわいそうだな」くらいに思っただけでそのままにしていたかもしれない。

ただ今は、今だけは放っておく事が出来なかった。

 

「おい、どうした

   ……大丈夫か?」

 

声に反応して、少女は顔を上げた。

目が大きく、薄い赤色の髪をした少女だ。

 

目に涙をためながらも、泣いてはいない。

必死に痛みを堪えているのだろうか。

…強い奴だ。

 

「おにいさん、だれ?」

 

「俺の事は良いだろ、今はお前だよ。

 …立てないのか?」

 

「…うん。」

 

「はぁ…、取り敢えず運んでやるから背中

 乗れ、それくらい出来んだろ。

 いつまでも道の真ん中じゃ不味いだろ。」

 

どうにかして背中に乗る事が出来た少女を先程までいた場所に連れていく。

軽い、見たところ同い年くらいであろう妹と比べても随分軽い気がする。

充分にご飯を食べられていないのだろうか。

 

 

階段に座らせ、足の怪我の様子を見る。

──酷いものだった。

膝は擦りむけ、血が出ている。

右の足首は、やはり挫いていたようで赤く腫れ上がっていた。

 

この怪我で良く泣かなかったなと思い見ると、涙は目から今にも溢れそうで、唇を噛み締めて我慢している。

 

…やはり、とても痛いのだろう。

 

「痛いなら泣けば良いだろ…。

 こんな怪我じゃもう歩けないよな、早く帰った方が良い。

 送ってってやるから、ほら、家何処だよ」

 

「やだっ!」

 

「いや、嫌だって…。」

 

早く治療した方が良いと思い、家まで送ってやると言うのに、強く突っぱねられてしまった。それからどんなに言っても「嫌だ」の一点張りだ。

 

…そろそろ周りの目が気になってきたんだが

 

「おっきいおてら、いかなきゃ

 いけないの!」

 

「だからその足でどうやって行くんだよ。

 帰った方が良いぞ。」

 

「いくんだもん!」

 

「そうかよ、なら俺はもう知らねーぞ。」

 

良かれと思って言っていることに反発され続け、つい強く突き放したような言い方をしてしまった。

 

 

妹と同じくらいの女の子に何をやっているんだ。

背を向けてすぐに後悔した。どうにかして説得してやろうと振り向く。

 

目に入ったのは、怪我をしているのにも関わらず歩こうとした少女がバランスを崩し倒れる姿だった。

 

「…あぁっ!もう連れてってやるから動こうとすんな!」

 

「ほんとっ!?」

 

駆け寄りそう言うと、今度こそ泣きそうだった少女の顔がパッとほころんだ。

 

「あぁ、その代わり行ったらすぐ帰るんだ

 分かったな?」

 

「うん!」

 

 

 

 

 

 

 

 

「んで、何て言う寺にいけば良いんだ。」

 

「えっとね、おっきいおてら!」

 

「嘘だろ?名前分かんねぇのかよ…。」

 

 

 

 

 

 

 

「♪~、♪~」

 

背中の上の奴はさっきから随分とご機嫌だ。

…呑気な奴め。

あれから聞いてみると、どうやら特定の寺とかではなく本当にただ大きい寺に行きたかっただけらしい。

 

「おっきいおてら!」しか言わないから理解するのに随分時間がかかってしまった。

 

「おにいちゃんのかみのけ、なんできいろなの?」

 

「黄色じゃねぇ、金髪だ。」

 

「きんぱつ? きんいろなの? 

 ん~、きいろだよ?」

 

「金色なんだよ。」

 

何が面白いのか人の髪の毛をいじりながらころころと笑う少女相手にはどうにも強く出られない。

取り敢えず今は清水寺に向かっている。

っていうか俺もでかい寺何てそこ以外に知らないしな。

 

「ねぇねぇ、きいろだよ?」

 

「…もう黄色でいいさ。」

 

 

 

最近の京都は風情がある、と言いきるにはいささか人が多すぎる。

特に外国人観光客の多さは異常だ、正直もう酷いときなんて京都には日本人よりも外国人の方が多く要るんじゃないかと思う程だ。

 

本殿まで行く坂を人の多さに辟易しながらのぼる。

坂を上り始めてから上り終わるまでに背中の上の奴が色んな物に目移りするから大変だった。

 

特に土産物屋の前からは大変だったな…

そのまま素通りしようとしたら耳元で騒ぐのだ。お前ここに何か用事があったんじゃないのか。

 

 

「おっきい!」

 

「…そうだな。」

 

疲れていたとしても今まで写真でしか見たことのないものを実際に見ると感動もひとしおだ。

だから観光地というものは人気なのだろうか

 

「それで?

 何かやることあるんじゃないのか。」

 

「かみさまに、おねがいごとするの!」

 

「お参りな。」

 

 

少女の要望通りお参りをする。

おい、背中から身をのりだすな危ないから。

なに?お賽銭入れたいって?

…しょうがないな。

 

俺もまぁ、何か祈っておくか。

そうだな…、あの二人仲悪くならねぇかな。

 

 

 

 

 

…罰当たりそうだわ。

 

 

「あ、あれなに?

 みたいみたい!」

 

「用事終わったんだからもう帰るんだぞ。」

 

「やだっ!いーきーたーいっ!

 ねぇおにいちゃん!」

 

「あぁもう!分かったから耳元で叫ぶんじゃねぇ!」

 

 

用事が終わって帰らせようとしたら、我が儘を言い始めた。耳元で叫ぶから質が悪い。

 

周囲からは多くの微笑ましい物を見るような視線を頂戴している。

仲の良い兄妹とでも思われているのだろうか。

 

…勘弁してくれ、俺の妹はこんなに騒がしくないぞ。

 

 

 

結局我が儘を聞いて他の所にも行くことになってしまった。

あっちに行きたい、こっちに行きたいと休みなく言うもので、それに付き合っていたら気づけば随分と時間がたっていた。

 

もうかなり傾いていて、夕陽といっても差し支えない様子の太陽に目を細め、背中の少女に声をかける。

 

 

「おい、そろそろ帰らないと不味いだろ。

 そもそも寺に行ったらすぐ帰るっていう

 約束だったんだぞ。」

 

「う~、まだおにいちゃんといっしょにい

 る…。」

 

そう言って唸る少女に、少し笑みが溢れる。

随分と絆されたものだと自分でも可笑しくなってくるが、これ以上甘い顔は出来ない。

 

流石に暗くなるまで小さい女の子を外に出しておくわけにはいかないのだ。

 

「そんなこと言ってもダメだ。

 ほら、もう帰るんだぞ。」

 

「…うん。」

 

そう言うと思ったよりずっと素直に従ってくれた。もうこれ以上ごねても無駄だと悟ったのだろうか。

 

まぁ、一人で歩けない少女をそのまま帰らせる事は出来ないので、家まで送って行くことにはなるのだが。

 

 

 

と、バス停に向かう途中で、財布を探しているのか、先程からごそごそやっていた少女の動きが唐突に止まり、その代わりにおそるおそるといった調子で声をかけられた。

 

「お、おにいちゃん…。」

 

「…なんだよ。」

 

なんとなく嫌な予感がしつつも、聞かない訳にもいかず、そう返事をすると、返ってきたのはもう頭を抱えたくなるような言葉だった。

 

「おかね…、もうない…。」

 

 

 

 

 

 

 

「大体あそこで御守り五つも買ったのがダメだったんじゃねーの?」

 

「うう…、でもみんなのぶんもいるもん…。」

 

「皆って家族か?それにしても多くねぇ?」

 

「おおくないもん!いつつごだからぴったりだよ!」

 

「え?五つ子って…、マジ?」

 

バスに乗れず帰れないことが判明した後、仕方なく周辺にあった公園にきていた。

 

そして元凶は今ブランコにのってご満悦だ。

足怪我してんのに大丈夫なのかね?

 

「そういえばお前…、何で寺に行きたかっ

 たんだ?別に観光したかった訳じゃない

 だろ?」

 

「かんこー?」

 

「いや、それはいいだろ…。

 それで、どうなんだよ。」

 

ずっと気になっていたことを訪ねてみる。あそこまで頑固に寺に行くんだと言い張るなら何かしら理由があるんだろうと思ったのだ。

 

「…あのね、おかあさんがげんきないの。」

 

「…あぁ。」

 

「みんなしらないけどね、よなかにこっそりおくすりのんでるの。」

 

「だから、だからね?

 かみさまにおねがいして、おかあさん、

 げんきにしてもらいたかったの!」

 

「…そうなのか。」

 

少女はそれからつっかえつっかえしながら、彼女の家族のことを話してくれた。

珍しい五つ子である彼女の姉妹のこと、父親はおらず貧乏であること。

 

…そして、彼女の母親のこと。優しくて、綺麗で、大好きな母親であること。

 

衝撃を受けた、この少女は母親を元気にしたい、その為だけに倒れて、歩けなくなっても歯をくいしばって必死に前に進もうとしていたのか?

 

少し自分の思い通りにいかなかっただけでふてくされていた過去の自分が恥ずかしく思えてくる。

 

俺は何をやっている?こんな小さな子が必死に何か出来ることを探してやっているのに、俺は…

 

「凄いな、お前。」

 

「…え?」

 

「お母さんのこと、大好きなんだな。」

 

「うん!だいすき!」

 

「離すなよ、忘れるなよ。

 …絶対だ。」

 

「うん?」

 

唐突な俺の言葉に戸惑った表情をし、首をかしげる少女。

…当然だな、何の脈絡もないんだから。

 

「俺の母さんな、もう居ないんだ。」

 

はっと息を飲む音が聞こえる。分かってはいなくても頭のどこかにはその可能性を持っていたのだろうか。

 

…ごめんな、怖い思いをさせるかも知れない。

これは俺の我が儘だ。聞きたくないのなら、耳を塞いでくれても…、かまわない。

 

「大好きだって伝えるんだぞ、恥ずかしがっちゃいけない。何度も、何度でも。

…言えなくなってからじゃあ遅いんだから」

 

もっと笑いかけて欲しかった、大好きだよ、と言ったら私もだよ、と微笑むあの顔が好きだった。

この少女の母親がそうなるとは限らない。

…でも忘れて欲しくないんだ、その母を思う気持ちを。

 

「なぁ、約束だ。」

 

「…?」

 

 

今は俺が何を言ってるのか良く分からないかもしれない。

 

 

「お母さんを元気にしたいんなら、神頼みじゃなくて自分の力で楽させてやろうぜ。」

 

「…できないよ、おりょうりも、おせんたくもできなかったよ…。」

 

 

この心優しい少女が、絶対に俺の様に成ることがないように。

 

 

「いいや、お前ならできるさ。

 勉強して、すげぇ頭良くなって、沢山金稼いで楽させてやろう!」

 

「…おべんきょう?」

 

「そうさ、俺もまだ大切な家族が居るんだ。

 …妹が居るんだ。

 あの子には、俺みたいな貧乏はさせたくない。」

 

「だから、俺は妹を、お前はお母さんを楽させてやるために──」

 

 

高らかに歌い上げてやろうじゃないか。

 

絶対にこの子に後悔なんてさせてはいけない。俺の様に後から気づくなんてことは、あってはいけないんだ。

 

 

「──頑張って頑張って、嫌って言うほど

 大切な人を笑わせてやれる大人になろう。

 二人でだ!」

 

 

少女に向き直り今までの自分を振り払うようににっと笑う。

 

ここから俺も変わろう、もううじうじと過去の傷を自分で抉ることのないように。

 

 

「わたしも…、出来るかな。」

 

「出来るさ。」

 

「おべんきょう、にがてだよ?」

 

「俺だってそうだ。」

 

「おかあさん…、わらってくれるかな?

 げんきになる?」

 

「そうするために頑張るんだ。」

 

「…うん!がんばるよ!

 がんばってみんなも、おかあさんも、

 おにいちゃんもえがおにするの!やくそくっ!」

 

 

そう言って満面の笑みを浮かべる少女は、太陽のように輝いていた。

 

小指を結び、顔を見合わせて笑いあう。

強くて、優しくて、眩しい子だ。

 

その光に照らされ、考えてしまった。俺の様に空っぽの人間でも、何か出来るのではないか。誰かに必要とされる人間になれるのではないか、と。

 

この子はこの約束を忘れてしまうかもしれない、幼い頃の事だ、それはしかたないだろう。

 

それでもいい、そのままでいてくれ、笑っていてくれ。その笑顔に、優しさに照らされ、励まされる人はこれからも沢山いるだろうから。

 

もし君が笑えないなら、笑わせてあげられる、頼られる存在になるためにも

 

──俺は変わる。

 

これは誓いだ、俺も君の様にどんなに倒れても前に進めるような、そんな強い人間になるんだ。

 

 

 

その後、見回りの警官に見つかり俺は学校の宿に、少女は家族に連絡がいった。

 

少女の迎えには男の人が来た。何でも彼女の母親の知り合いらしい。

最初から最後まで殆ど表情が変わらなかったんだが…、怒っていたのか?

 

「帰るよ。」

 

「うん…、おにいちゃん!」

 

「どうした?」

 

「なまえ!なまえしらない!」

 

そう言われてはっと気づく。

 

「あぁ…、そうだったな。

 

 上杉、上杉風太郎だ。」

 

「ふうたろう…、ふうたろうくん!」

 

「なんだよ。」

 

「またね!」

 

 

最後に彼女はそう言った。何も考えないでいった言葉かもしれない、それでも、「またね」と言ったのだ。

 

 

 

 

写真から目を離し、ふっと息をつく。

清水寺で彼女にせがまれて撮ったものだ。

 

背中の上の彼女は笑っている。

この写真を見れば頑張れるんだ。

いつか“また”その時に、君に必要とされるために、君を笑顔にするために。

 

 

 

 

 

──あの子は今、笑っているだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

その名前が耳に入ったとき、いてもたってもいられなくなり、思わずドアを勢いよくあけて声をあげていた。

 

当たり前だ。大切な名前だ、忘れることのないように、色褪せることのないように、心の宝箱に入れて、いつだって呼びたいと思っていた名前なんだ。

 

同じ場所にもし君がいたら気づいてもらえるように、目立つリボンをつけた。

 

町を歩いていて、金髪が目に入るといつも君かもしれないと胸が高鳴った。

 

君は知っているだろうか?

こんな気持ちは全部全部、君がくれたものなんだ。

 

ずっと会いたいと思っていた、あの時言えなかったお礼が言いたかった。

それに今度は私の名前を…、呼んで欲しい。

 

 

 

 

今高校生くらいで、上杉。それだけでも彼のことを思い浮かべてしまうのは仕方ないことだった。

 

もっと知りたい、聞きたい、でも本当に彼だとしたら、私は…。

 

「五月、もっと、詳しく教えて。」

 

 

 

 

 

 

「──ということなんです。」

 

話を聞いて確信した。彼だ、絶対に彼だ。

容姿は随分と変わっているようだが、中身は何も変わっていない。

 

あの時自分にしてくれたのと同じように、今度は妹まで助けてくれている。

 

あの時の、優しい彼のままだ。そう思うとなんだか胸が暖かくなる。

 

それに、学年一位であるという事実。

彼はあの約束を守っているのだろう。

 

あの時は勉強が得意でないと言っていた。きっとずっと努力してきたんだろう。

 

本当なら直ぐにでも会いに行きたい。

会って話したい、彼と出会ったあの日からの四年間、話したいことが沢山あるのだ。

 

でも…

 

 

「出来ないよ…。」

 

「?どうしたんですか四葉?」

 

「う、ううん!なんでもないよ。」

 

出来ない、出来るはずがない。自分にその資格はない。

だって私は…

 

 

折れてしまったから。

 

 

心配する姉妹達を振り切り、自室に戻って鍵をかける。

ドアにもたれるとそのままずり落ちるように座り込んだ。

 

五月に頼めば彼に会える、ずっと望んでいたはずなのに、そう考えるとどうしようもなく嬉しいはずなのに。

 

 

「っ!…なんでっ!どうしてなの…。」

 

どうしてだろう、この顔は笑みの形を作ろうとはしない。

 

どんなに嬉しいと思っても、笑おうと思っても、浮かぶのはどこか歪な笑顔だけ。

 

──まるで笑い方を忘れてしまったように。

 

あの太陽のような笑みはもうそこにはない。

 

 

 

 

「こんな私に誰かを笑顔にすることなんて…

 

 

 

──出来ないよ

 

そう呟いて膝に顔を埋める。

 

静まりかえった部屋に響くのは小さい嗚咽の音だけだ。

 

 

 

 

 

 

「ごめん…、ごめんね、風太郎君。」

 

 

 

 

 

 



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5話

「ただいま。」

 

そう言いながら家の扉を開ける。

今日も五月と図書室での勉強会…いや、授業?をしていたので、家に着く時間が普段より遅くなってしまった。

図書室の閉館時間ギリギリまで粘っていた訳なのだが、まだまだ空は明るいままだ。

 

日が長くなってきたなぁとか、もうすぐ期末テストで、それが終わったら夏休みだから思う存分勉強できるなとか、そんなことを考えていると、家の奥からパタパタという音が聞こえ、今年小五になる妹──らいはが顔を出した。

 

「お帰り、お兄ちゃん!

 ご飯出来てるよ~!」

 

「ああ、ありがとならいは。」

 

家は母親がいない。らいはが生まれてすぐ死んでしまったのだ。

元々体が弱かったのに色々無理が重なってそのまま急に…だ。

 

今はらいはが家事を一手に担ってくれている。自分だって体が弱いのに、料理や洗濯、その他もろもろを彼女がやっているのだ。

 

勿論任せきりという訳ではない。手伝えるときは進んで手伝っている。

…ただ、俺も親父もバイトと仕事で家にいることが少ないからな、必然的に大部分は任せてしまうことになってしまっている。

 

本当に苦労をかけている、本当ならもっと友達と遊ばせてやりたいし、好きなものも買ってやりたい。

やはりもっとアルバイトの時間を増やすべきなのだろうか。

 

「今日はカレーだよ~。」

 

「おお!久しぶりだな。」

 

ただ、中途半端にバイトを増やすだけだと家にいる時間がさらに減り、徒にらいはの負担を増やすだけだ。何処かに効率的に稼げる仕事がないものか。

 

 

 

 

「いただきます。」

 

「いただきまーす。」

 

二人で向かい合っての夕食だ。

家にはテーブルなんてないので、勉強するとき、ご飯を食べるときにはちゃぶ台を出してきている。

 

家にはないと言ったが、果たしてテーブルは有るのが普通なのか?

むしろちゃぶ台を使うのが日本の家庭の有るべき姿なのではないのだろうか?

 

と、そんな馬鹿なことを考えていると、らいはが食べる手を止め、じっとこちらを見ていることに気づいた。

 

「…どうした?」

 

「お兄ちゃん、この頃帰ってくるの遅いこと増えたよね。」

 

「それは…、悪い…。」

 

 

何かと思ったらこの頃の俺の帰宅時間についてのようだ。

確かに五月に勉強を教えることで帰るのが遅れることが多くなってしまっている。

…寂しい思いをさせてしまったのだろうか。

 

間違いなく五月は悲しい顔をするだろうがやはりここは覚悟を決めて勉強会の頻度を減らすと言って──

 

「──んでしょ!」

 

「え?なんだって?」

 

少し考え込んでいたせいで、らいはの言ったことを聞き逃してしまい、難聴系主人公のような返しになってしまった。

 

「悪い…、もう一回言ってもらえるか?」

 

「もう!だからお兄ちゃん、彼女出来たんでしょ!」

 

「…は?」

 

全く予想外の単語に一瞬頭がフリーズしてしまった。

俺に?彼女?なぜ?

 

「…一応聞いておくぞらいは、なんでそう思った?」

 

「だってお兄ちゃん、友達いないでしょ?」

 

「ぐふっ!」

 

「中学校の時から友達と遊んでる所なんて見たことないからね~。

だから今さら遅くまで遊ぶ友達なんて出来ると思わないし!」

 

「ぐはっ!」

 

「だから彼女でも出来たかな~って!」

 

「まて、待て待て待て…。

 結論から言うと彼女なんて出来てない。

 それに俺にだって友達くらい──」

 

「いないでしょ?」

 

「はい…。」

 

妹は強かった。少しの反論も許されず完封されてしまった。

くそ、俺にも友達くらい…

 

うん、やっぱりいないな。そもそもクラスメイトの名前すら覚えてなかった。

 

「はぁ…、遅れたのは前も言ったが図書室で勉強してたからだ。

それ以上もそれ以下もないぞ。」

 

「でもお兄ちゃん、家が一番勉強捗るって言ってたじゃん!」

 

「う…、俺そんなこと言ったか?」

 

「うん!」

 

「…そうか。」

 

「なにか隠してるでしょー?

 やっぱり彼女──」

 

「出来てないぞ。」

 

 

その後もしつこく聞いてくるらいはをどうにか宥めようとしていると、不意に携帯がなった。

 

「悪いらいは、電話だ。」

 

「えー、終わったらまた聞くからね!」

 

「もう勘弁してくれよ…。」

 

 

そう言いながら立ち上がり、携帯を取り出すと、そこには“中野五月”という名前が表示されていた。

 

噂をすればなんとやらってやつか、廊下に出て通話ボタンを押すと、直ぐに何故か少し申し訳なさそうな声が聞こえてきた。

 

「もしもし、上杉君ですか?」

 

「あぁ、五月、どうした?」

 

「あの、今時間大丈夫ですか?」

 

「大丈夫だが…、何か用か?」

 

「あの、私は止めようとしたんですが…、

 あぁっ!すみません!取り敢えずスピーカーにしますねっ!」

 

「おい、何言って──」

 

「あんたが上杉とか言うやつね、五月に何したの?」

 

聞こえてきたのは、五月に似てはいるが、勝ち気さがにじみ出ている少女の声。

そして五月との一番の違いは、敬語ではないことだ。

 

というか誰だこいつ。

 

「…誰だ?」

 

「誰だじゃないわよ!とにかくあんた──」

 

「ちょっと二乃!すみません上杉君、上杉君の話をしたら姉が話したいと言ったので…。」

 

「それは構わないんだが…、お前姉なんていたんだな。」

 

「はい!そうなんです!

 実は──」

 

「ちょっと!とにかくあんた、五月に何かしたら許さないわよ!」

 

「いや、別に何もしねぇよ…。」

 

「そんなの分からないじゃない、出来るだけ五月に近づかないで!」

 

「いや、それは俺が決めることじゃ──」

 

「二乃!上杉君は私に勉強を教えてくれてるんです!それは困ります!

 とにかく上杉君は優しい人です、何度も言ったじゃないですか!

 もう、そんなことを言うなんて…。」

 

「あ、ちょっと五月──」

 

急に二乃、と呼ばれていた方の声が聞こえなくなった。

なんというか…、嵐みたいなやつだったな。

 

「すみません上杉君、少し話してみたいって言うから繋いだのに…。」

 

しゅんとした様子の五月の声。

頭のアホ毛も一緒になって萎れている光景が目に浮かぶようだ。

 

「いや…、ちょっと驚いたが大丈夫だ。

 気にするなよ。」

 

「はい…。」

 

「それより他に用事は有るか?」

 

「ありません…。」

 

「そうか、じゃあな。」

 

そう言って電話を切ろうとすると、慌てた声で引き留められた。

 

「あっ、待ってください!」

 

「? なんだ?」

 

「え、えっと…、上杉君!」

 

「だからなんだよ。」

 

「おやすみなさい!」

 

「…あぁ、おやすみ。」

 

少しの間何か電話の向こうで口をもごもごさせて言い渋っていたようだが、どうやらこれが言いたかったらしい。

 

なんでそんなに言い渋ったのかは知らないが、どうやら今度こそもう何もないらしい。

じゃあ、と告げて電話を切り居間に戻ろうと視線をそちらに向けると──

 

──目をきらっきらに輝かせたらいはと目があった。

どうやら一部始終を聞かれていたようだ。

 

…しかも最近で一番楽しそうな顔をしている。なんでだろうな、らいはが楽しそうなのは嬉しいのだが、こう、嫌な予感しかしない。

 

「お兄ちゃん!やっぱり彼女じゃん!」

 

「だから違うんだって…。」

 

「じゃあ五月さんってだれなのかなー?」

 

「はぁ…、もう説明するから勘弁してくれ。」

 

 

 

その後、らいはの猛攻に陥落した俺が、五月のことを洗いざらい話し、今度らいはを五月に会わせる約束をさせられたのは至極当然のことだった。

 

…やはり妹は強かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

ついさっきまで上杉君の声がしていた携帯をじっと見つめる。

考えてみれば彼に電話をかけたのは初めてだ。いつも連絡をするときはメールだったし、何か用があっても電話をしようとすると、何故だか最後の“発信”のボタンが押せないでいたからだ。

 

それが今日は半ば二乃に押しきられるような形ではあるが、すんなりとかけることができた。

 

「えへへ…。」

 

今日はよく眠れそうだ、とそう思いながら携帯を抱き締めた。

 

 

 

「おやすみなさい、お兄ちゃん。」

 



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6話

らいはに五月と会わせる約束をしてしまった。

最初は何をどう考えたのか五月のことを俺の彼女だと勘違いして根掘り葉掘り聞いてくるだけだったのだが、誤解を解いて事情を説明していき、自分と年の近い女の子だと分かると途端に

 

「会いたい!」

 

と言い出してしまった。そこからはもう大変だ。どうしても会いたいと言って聞かないらいは相手にどうにか宥め謝り物でつろうとしてそもそもつるものがないことに気づいたりして、──結局涙目+上目遣いで「お兄ちゃん…、ダメ?」と言われて折れた。

 

自分がらいはのあのお願いを断れたことがあっただろうかと考え、分かりきっている答えに苦笑した。当然、無い。あんまり昔になると覚えていないがまず無いだろう。

 

そもそも何かをねだる、ということが少ないのだ。その少ないお願いすら叶えられずに、どうして兄などと言えるだろうか。

 

──今回のお願いはさすがに勘弁してほしい類いの物ではあったが。

 

 

そんな思いが顔に出ていたのだろうか、考え事をしていた俺に横から声がかかった。

 

「どうしたんですか上杉君、なんでそんな苦虫を噛み潰したような顔をしてるんですか?」

 

「いや…、俺そんな酷い顔してたか?」

 

「いえ、そこまでではないですが…、なんというか、こう、少し嫌なことを思い出した~、みたいな顔をしていたので。」

 

酷い顔なんてしてないですよ、ところころ笑いながら言うのは五月だ。

悩んでることに一応お前も関係してるんだけどな、と言ってみたくなったがそれは止めておいた方がいいだろう。

 

そんなことを言ったら興味をもった五月がそれについて聞いてきて煩くなるだろうし、そうなったら俺は最終的には折れて話してしまうだろうから。

 

ここにいるのが自分と五月の二人だけならば、それでらいはと五月を会わせる約束を取り付けられるかもしれないしそれでも良いのかもしれないが、今はダメだろう。

 

「いや~、フータロー君、酷い顔じゃないけど変な顔はしてたよ!」

 

その原因となるのがこいつだ。名前は確か…、一花だったか?ショートカットの髪に、友達が多くいるであろうと容易に想像できる明るい性格。そして五月と全く同じの顔。先程急に押し掛けてきたときは、五月の姉だと名乗っていた。

 

姉だと言うのに小学校の制服を着ているということは、五月と同い年であるということだ。顔が全く同じだから、双子なのだろうか。

 

…いや、それにしてもだ。

 

「失礼だな、変な顔とはなんだ。」

 

「え~、だって変な顔だったよ?」

 

しょうがないじゃん、そう言って笑う顔は五月と全く同じで──、いや、少し違うか?

まぁ殆ど同じだ。

 

これで髪型が同じだったら絶対に見分けられないだろうな、なんて思いながら五月の方を見ると、一瞬首を傾げた後、わたわたと手を振りながら、大丈夫ですよ、上杉君の顔は変じゃないです!と言ってきた。

 

違う、そうじゃないんだよなぁ。

 

 

 

 

 

一花の居る前で五月にらいはと会ってくれと頼む、つまり、この勉強会以外で会う約束をしようとするのは無理だろう、先程会ったばかりだが、こいつの前でそんなことをしようものならかなり面倒なことになるのが目に見えている。

 

年上に対して遠慮も何もなくからかうなんて普通にやるだろ、こいつ。

 

…はぁ、そういうわけで未だに話を切り出せてすらいない。今日中に五月と約束してくるってらいはに言っちまったのになぁ。

 

どうすれば良いのか全く見当もつかず、ああでもないこうでもないと考えていると、横から延びてきた手が、服の裾をくいと引いた。

 

「あの、どこか具合でも悪いのですか?

貴方が勉強中にぼうっとするなんて…。」

 

「あぁいや、別にそういう訳じゃないんだが…。」

 

そこまで言ってふと思う。というのも、別に直接言わないでも良いのでは?ということだ。

 

「(その…、な、頼みたいことがあるんだが

 此処じゃなんだから後で連絡する。)」

 

「え?は、はい!」

 

少し声をおとしてそういうと、何やら驚いていたようだが、元気よく返事をしてくれた。

っておい、そんなに大きな声で返事したら…

 

「え?なになにどうしたの?」

 

「いや、何でもないぞ。」

 

「そ、そうです!ななな何でもないですよ!」

 

「ふ~ん?怪しいなぁ~。」

 

「おい、そんな騒いでたら──」

 

「図書室ではお静かにお願いします。」

 

「「「すみません」」」

 

 

 

 

「ずっと思ってたんだがお前は勉強しないのか?」

 

「ん~、私はいいよ。どうせ馬鹿だからできないし。」

 

「…本当に顔以外は似てないんだな。」

 

「それはどういう意味かな~?」

 

「いてっ!痛いから突っつくな!」

 

 

 

放課後勉強会に一花(勉強するとは言ってない)が加わったことにより風太郎ロリコン疑惑が加速したとかしないとか。

 

 

 

 

 

 

 

話してみての印象は変な人だ、それとなく聞いてみても五月ちゃんに勉強を教えるのに何か見返りを求めている訳ではないらしい。

 

それに、何度も何度も五月ちゃんがわかるまで、嫌な顔一つせずに教えている。

…変な人だなぁ。普通そんなに何度も同じことを聞かれたら口には出さなくてもあきれた顔くらいはするんじゃないかな?

 

私がからかっても返しはそっけないようでちゃんと聞いてくれている。

…年下の私にからかわれても、不快になったりしないのだろうか。

 

不思議だ、どうしてこの人は五月ちゃんに対してはあんなに優しそうに笑うのだろう。

不思議だ、どうして私もあんな風に誉めて欲しいだなんて思うのだろう。

 

どうしようか、また次ここに来て私も勉強道具を持っていたらこの人はどういう顔をするのだろうか。

 

…いや、私には五月ちゃんみたいな真面目さがない。やる気がない奴が隣でダラダラやってたってただの迷惑だろう。

 

それにそもそも五月ちゃんみたいに教えてくれるとも限らない。五月ちゃんよりも更に勉強が出来ない私を教えたらいくらこの人でも馬鹿すぎて呆れた顔をするだろう。

 

…それは、なんかやだな。

 

でも私が何かからかうようなことを言えばそのときはこっちを見て話してくれるから。

 

また、来ようかな。

 

今度は何を言おうかな、そうだ、「五月ちゃんのことが好きなの?」なんてどうだろう。

 

そう言ったらなんて言うのかなぁ。

 

ふふ、楽しみだな。



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7話

「お兄ちゃーん!起きて、ご飯だよ~。」

 

ゆさゆさと体を揺さぶられる感触に段々と意識が浮上してくる。

 

…だがまだもう少し寝ていたい、昨日は勉強がいやに捗ったせいで布団に入ったのは日の出の少し前といったところだからだ。

休日の朝の勉強の時間が削られるのは少し痛いが、まだもう少し布団にくるまっ…zzz

 

「もう!今日は五月さんに会わせてくれるんでしょ、おーきーて!」

 

「…それは午後からだからまだもう少し…zzz。」

 

そういえばその約束は今日だったか、結局あのあと五月にはメールを送って予定を取り付けた。

五月が了承してくれたことをらいはに伝えると大層喜んでいたしそれなら俺も嬉しい。

 

ただ、気が合わなかったりなんなりで変なことにならなければ良いのだが…zzz。

 

「もう!お兄ちゃんずっと寝てたからそろそろお昼だよ!お昼ご飯!」

 

「…………!?」

 

バッと布団をはね除けて枕元にあった時計で時刻を確認する。

 

…11:45

 

「なんてことだ…。」

 

「どうしたのお兄ちゃん、急に。」

 

「貴重な休日の午前の勉強時間が…。」

 

「…もうちょっと早く起こしてあげた方がよかったかなぁ?」

 

 

 

 

 

 

 

「いただきまーす!」

 

「いただきます…。」

 

集合時間は一時だからまだ時間は有るが、有り余っているというほどでもない。

起きたばかりでまだ何の準備も出来ていない俺とは対照的に、らいはは既に準備万端のようだ。

 

「もうお兄ちゃん…、いつまで引きずってるの?」

 

「でもならいは…、休日の午前中は3時間以上は勉強できるんだぞ?」

 

「はいはい分かったから~、早くご飯食べて準備しといてね!」

 

「はい…。」

 

今の悲しみを精一杯伝えようとしてみるが、軽く流されてしまった。

年々扱いが雑になってきている気がするな…、このままいったら数年後には「お兄ちゃんなんて嫌い!」と言われてしまうかもしれない。

 

…そんなことになったら俺は生きていけるだろうか?

 

「無理だ…。」

 

「? 本当にどうしたのお兄ちゃん、大丈夫?」

 

「らいは…、せめて葬式には出てくれよ…。」

 

「???、もう、なんだか知らないけど早く準備!」

 

 

 

バシャバシャと顔に冷水をかけて洗うことで、漸く頭がスッキリしてきたのを感じる。

 

タオルで顔を拭き、私服に着替えた後で改めて時刻を確認すると、正午を20分ほどまわった時間になっていた。

もうあまり時間はないか、そう思うが、準備と言っても後は勉強道具を鞄に詰めるだけなのでそう時間はかからない。

 

ぱっぱと必要なものだけを放り込んで、何やら奥の方でゴソゴソやっていたらいはに声をかける。

 

「おーいらいは!準備終わったぞー!」

 

「はーい!」

 

元気が良い返事がかえってきて、奥から出てきたらいはだが…。

 

「何か荷物多くないか?一応勉強しに行くんだが…?」

 

「細かいことは気にしないの!」

 

「はぁ、図書館なんだからあんまり騒ぐことはしないようにな。」

 

「そんなの分かってるよ~。」

 

「そうか?ならいいんだが。」

 

そう言ってらいははニコニコ…、いや、ニヤニヤしてる!?

…なぜだ、もの凄く嫌な予感がするんだが。

 

「らいはさん?その荷物の中身教えてもらえないかな?」

 

「細かいことは良いの!ほら、行くよー!」

 

「いや、別に細かくないと思う…、あ、おいちょっ!」

 

「ほらほら早くー!」

 

「はぁ…、もうどうにでもなれ…。」

 

 

 

 

 

 

 

「そういえば親父はどこに行ったんだ?

 今日は休みだからって昨日酒飲んでたろ。」

 

「ん~、何かね、久しぶりに昔の友達から連絡が来たから会いに行くって言って10時くらいに出てっちゃったよ?」

 

「ふーん、そうか。」

 

「あ、興味ないでしょー。」

 

「まあな。」

 

「そ、即答…!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

普段、五月の朝は早い。姉妹で一番早起きして朝食の準備をしている二乃よりは遅いものの、真面目な性格のせいもあり、早寝早起きは彼女の基本である。

 

ただ、この日に限っては非常に寝起きが悪かった。それもその筈、今日のことが楽しみなのと緊張しているのとが相まって昨日中々寝付けなかったせいで、殆ど寝ていないのだ。

 

「あら五月、ちょっと遅かったわね。

 朝ごはんできてるわよ。」

 

「ぉはよぉ…、たべる…。」

 

「まだ半分寝てるじゃない…、ほらすぐ出すからそこ座って。」

 

「ぅん…。」

 

珍しいわね、この子が朝こんなになるなんて。いつもの敬語も抜けちゃってるし。

何かあったのかしらね、今なら聞き出せるかしら?

 

「ほらほら座りながら寝ないで…、昨日夜更かしでもしたの?」

 

「…ぅん?」

 

「何でそんなに眠そうなのかって聞いてるの。」

 

「ぅん…、ちょっと…、ねれなくて…。」

 

「だから、その理由を聞いてるのよ。」

 

「きんちょうしちゃったから…。」

 

「あぁもう!その内容を聞いてるんじゃない!…ダメね、もう寝ちゃってるわ。」

 

 

元々目が半分閉じかかっていたのが完全に閉じてしまったのを見て、ひとつため息をついてスプーンを持ったまま寝てしまった妹の肩を揺する。

 

「そんなに眠いならまだ寝てなさい、たまには二度寝も良いものよ。」

 

「…ぇ?でも…。」

 

「そんなんじゃ起きてても仕方ないでしょ、大丈夫よ、一花なんて五度寝くらいは平気でするんだから。」

 

「ぅぅ…、そうかな…?」

 

「そうよ、ほら早く部屋戻って寝ちゃいなさい。」

 

「ぅん…。」

 

頷きはしたものの、「やっぱりごはん…」なんて言いながら普段よりは少な目な量の朝食を食べ終えた五月は、目を擦りながら自分の部屋に戻っていった。

あれだけ眠そうなのだ、自分で起きてくるまでは寝かせてあげよう。

 

そうこうしていると、ほかの姉妹達も起き出してきた。

 

「おはよう二乃。」

 

「三玖、おはよう。」

 

「…五月は?」

 

「すごい眠そうだったから部屋にかえしたわ、まだ寝てるでしょ。」

 

「そう、ご飯できてる?」

 

「出来てるから降りてくる前に一花起こしてくれないかしら?」

 

「ん、分かった。」

 

そう頼むと、案外素直に了承してくれた。もう少し面倒だなんだとごねるかと思ったのだが、今は虫の居所が良いらしい。

いい夢でも見たのかと思いながら食器を運び準備をしていると、扉が開く音と共に眠そうな一花と一仕事終えたと満足そうな顔の三玖が出てきた。

 

「ふわぁ~ぁ、おはよう二乃。」

 

「おはよ、もう出しちゃったから早く食べてね。」

 

 

これで今リビングに出てきている人数は三人、自室に寝に戻った五月を抜いても一人足りていない。

 

「一花、四葉は?」

 

そう聞くと、朝食を食べていた手は二人ともピタリと止まってしまった。

 

「ううん、一応声はかけたんだけどね。」

 

「…そう。」

 

いつまでも立ち止まっていてもなにも変わらない。私たちのなかで一番母に甘えた子だった五月ですらこの頃は前に進もうとしているのに…。

 

「もう我慢ならないわ!今日という今日は部屋から引きずり出してやるんだから!」

 

「わわっ、止めときなよ二乃!」

 

「二乃…、無神経。私たちは待つべき。」

 

「わ、分かってるわよそんなの…。」

 

分かっている、そう、分かっているのだそんなことは。今まで何度も声をかけては、時にはドアさえ開けてもらえず、また仮に聞いてくれたとしてもひどく申し訳なさそうな顔で「ごめん、まだ無理なんだ。」と告げられるだけだったのだから。

 

見たいのはそんな表情ではないのに。姉妹の元気印だった彼女の扉は今日も、開かない。

 

結局その後は、沈んでしまった雰囲気を見かねた一花の一言でこの話は流れたが、やはり皆思うところがあったのだろうか、それとも少し寂しくなったのだろうか。

いつもなら朝食後は各々好きなことを始めるのだが、今日は三人で集まって遊んでいた。

 

そんなこんなで時間を潰していると、気づけば時刻は正午を回り、12:30となっていた。

 

「二乃~、お腹すいたぁ。」

 

「あら、もうこんな時間。じゃあすぐ作っちゃうからどっちか五月起こしてあげて。」

 

「分かった、行ってくる。」

 

そういえば五月、緊張しちゃってとか口走っていたけど…、何か用事があったのかしら。

まぁ、もし用事があるならこんなに寝ないでしょうから大丈夫かしらね。

 

 

 

 

「五月、起きて、もう昼過ぎだよ。」

 

「ぅぅん…、あと五分…。」

 

「お昼ご飯だよ。」

 

「んむぅ…、おひるごはん…?

 ……お昼!?」

 

ガバッという擬音がつきそうなほどの勢いで飛び起きた五月は、周りを焦った様子で見回したあと、必死な顔で訪ねてきた。

 

「三玖!今何時ですか!?」

 

「え…、さっき見たときは12:30だったけど。」

 

「あああぁぁぁぁ…。」

 

この世の終わりもかくや、という表情で頭を抱えてうずくまる五月、頭の上でヒョコヒョコと揺れるアホ毛も相まって端から見ると可愛らしいが…、本人はそれどころではないのだろう。

 

「い、五月…、どうしたの?」

 

「三玖!」

 

「う、うん!?」

 

「二乃にご飯食べれなくてごめんなさいって言っといてください!」

 

「え…?五月どうするの?」

 

「人と約束してるのですみません!」

 

「うん、分かったけどどこ行くの…?

 あ、行っちゃった。」

 

見たこと無いような早さで着替えた五月は、既に用意してあったらしい荷物をひっつかむと部屋を飛び出していってしまった。

外では一花の困惑したような声と、二乃の引き留める声が聞こえたが、振り切ったのかすぐに玄関の扉が閉まる音が聞こえてきた。

 

「ちょっと!五月どうしたの?」

 

「うん、何か約束があったみたい。」

 

「そ、そうなの…、悪いことしちゃったかしら…。」

 

「???」

 

 

 

 

 

「遅ぇ…。」

 

季節は夏前、寒くもくなく暑くもない最適な気温…、というわけではなく少し蒸し暑い程度だ。

最近の温暖化の影響でも受けているのだろうか、季節の上ではまだ春なのにこれならばいざ夏になってしまったのならばどれ程のものか、とげんなりする。

 

暑い日は嫌いなのだ、勉強していても汗で腕に紙が張り付いてくるしそもそも集中しにくい。

その上、夜は暑すぎて本当の意味での眠れない夜と化すのだから笑えない。

 

「なぁらいは、やっぱり中に入って待ってないか?」

 

「ん~、でもそしたら来てすぐ見つけられないじゃん。」

 

「でも暑くなってきたしなぁ…。」

 

「そうだねぇ…。」

 

そう話す二人の声に元気がないのも気のせいではないのだろう。時計の針が示す時刻は13:10、つまり五月は完全な遅刻であった。

 

更に十分後、風太郎がもう帰ろうかと言い出してらいはがひっぱたいて止める等という光景がみられるようになった頃、やっと視界に見覚えのあるアホ毛が入ったきた。

 

「はぁっ、はぁっ、お待たせしました…。」

 

「あぁ、遅いな。」

 

「コラ。」

 

待たされていたのは事実なのでそう言うとらいはに後ろから叩かれた。

抗議の意思を込めて目線を送ると、そういうとこだよね…、と呆れたような視線が返ってきた。

 

「大丈夫ですよ五月さん、私達もさっき来たばかりですら。」

 

「なに言ってんだらいは、もっと前についてただろ。」

 

「だからそういうとこだよお兄ちゃん。」

 

「ありがとうございます…、あの、あなたが?」

 

「あ、はい!妹の上杉らいはです!いつもお兄ちゃんがお世話になってます。」

 

「あ、い、いえお世話になっているのは私の方で…。」

 

本当にいつも優しく教えてくれて助かってます!と笑う五月にふと笑みがこぼれる。

自分でもらしくないと思っている教師の真似事だが、こいつが笑うと悪くないと思えてしまうから不思議なものだ。

 

まぁそれはおいといて、だ。大方寝坊でもして急いできたからだろうが…。

 

「おい五月、寝癖ついてんぞ…。あぁそこじゃない、ほら、直してやるからこっち来い。」

 

「え、あ、あの……、わっ。」

 

頭の後ろの方に寝癖がついていたので直してやる。そのついでにアホ毛もどうにかならないか試してみたが…、ダメだった。

これはもうそういものなんだ、諦めるしかないのだろう。

 

「ありがとうございます…。」

 

「あぁ、じゃあはい──」

 

くううぅぅぅぅぅ………

 

「す、すみません…」

 

「なんだお前、昼御飯食べてないの──「五月さん!コンビニ行きませんか!お兄ちゃんはここで待ってて。」──えぇ…?」

 

被せるようにそういうと、五月の手を引いて行ってしまった。なんだってんだ全く…。

 

十分程たって、返ってきた五月とらいはは、手にコンビニの袋を持ち、五月にいたっては肉まんを頬張っていた。

 

「上杉君!お待たせしました。」

 

「あぁ…、図書館のなかで肉まんはダメだろ、どこか座れるところ探そう。」

 

「さんせーい!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、そこら辺のベンチにて

 

もっきゅもっきゅ

 

「美味しいです!!」

 

((すごい食べるな…))

 

「おい、そんなに食べたらふと「お兄ちゃん?」…何でもない。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて…、じゃあ始めるか。これから勉強するが、らいははどうする?」

 

「私も学校の宿題があるからやってるよ。」

 

「らいはちゃん!分からなかったら教えてあげます!」

 

「らいははお前より頭良いぞ。」

 

「えっ…。」

 

始まるまでにひと悶着あったものの、いざ始まれば、何時もよりも静かな環境、そして元々集中力は高いのでだらけるようなことはなく、ちゃんとした勉強会となった。

    

途中忠告はしたのに五月がらいはに勉強を教えようとして撃沈するなんて一幕はあったが…

らいはは早々に宿題を終わらせて、横で本を読んでいるが…

 

「五月、おい。」

 

「むむむむ…。」

 

「休憩にするぞ、俺はトイレに行ってくるから休んどけよ。」

 

 

 

ついでに飲み物も買ってくるから少し時間がかかる、そう言って彼は行ってしまった。

休めとは言われたけれど…、この問題を解いてからでも遅くはないはずです!

 

あとちょっとで解けそうなんです、ここまでできたなら最後までできるはず──

 

「五月さん五月さん。」

 

「はいっ!」

 

「うわ、ビックリした!

 あのね、お兄ちゃん今はあんな勉強魔人だけど昔はそうじゃなかったんだよ。」

 

「え…、そうなんですか?」

 

「うん、知りたくない?」

 

 

 

自販機で飲み物を買い、らいはと五月のいる席に戻ると、二人して体を寄せあって何かひとつの本を読んでいるようだった。

 

「おい、なにみてん……だ!?」

 

端から見ると微笑ましい構図だが俺にとっては全く笑えなかった。何故ならその読んでいた本とは…

 

「俺の小学校の卒業アルバムじゃないか!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて、言い訳を聞こうか。」

 

「これやったら面白いと思ったので!」

 

「よし有罪だ。」

 

「あの…、ダメだったでしょうか…。」

 

しゅんとして見るからに落ち込んでいる様子の五月を見ると、何故だか此方が悪いことをしているような気分になる。

 

「ダメという訳じゃないんだがな…、あんまり見てほしくないんだ、今と全然違うだろ。」

 

「すみません…。」

 

「お兄ちゃん五月さんをいじめないで!」

 

「いや、いじめてはいないぞ?」

 

「あの、上杉君、どうしてそんなに勉強するようになったんですか?

何か切っ掛けがあったんですか?」

 

切っ掛け、それならある後にも先にも俺が変わろうとした切っ掛けはあの京都での一日、それだけだ。

でも、何でだろうな。

 

「…言いたくないな。」

 

 

 

 

 

言いたくないと、そう言われた。考えてみれば上杉君に面と向かって拒絶されたのは初めての事かもしれない。

私が切っ掛け、と口にしたとき、彼は何かを懐かしむような、どこか遠くをみつめるような、そんな顔をしていた。

 

その出来事は、きっと彼の特別なものなんだろう。簡単に他人が立ち入ってはいけないものなんだろう。

 

でも、でもいつか、いつかは聞きたいな。

 

聞かせてくれますか?上杉君。

 

 

 

 

 

 

それから勉強を再開して数時間ほど、ずっと本を読んでいたからからいはちゃんも少し退屈そうにしているし、私も集中力が切れてきた。

 

ちらりと上杉君を見ると、時計を確認していたようで、ちらりとこちらを見ると、言った。

 

「そろそろ終わるか、らいはも飽きてきてるしな。」

 

あぁ、終わっちゃう。もっとらいはちゃんと話してみたい。

らいはちゃんはひとつ下なだけだけどとても可愛くて、なんだか妹ができたみたいで楽しかった。

末っ子の私にとってはとても新鮮な気分だ。

 

もっと上杉君と話していたい、明日は日曜だから会えないのに。何で休日は学校がないのだろう。

 

「そんな残念そうな顔すんなよ…、なんだ、まだ勉強したかったのか?」

 

そうじゃないよ、もっとお兄ちゃんと話してたいの、なんて我が儘言ってもいいのだろうか。

でも、今ですら私の我が儘に付き合わせて勉強を教えてもらっているようなものなのにそんなこと──

 

Prrrrrrrrrrr Prrrrrrrrrrr!

 

「電話……?」

 

「もしもし、五月君かい?」

 

「お父さん!?」

 

 



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8話

「よお、久しぶりだなマルオ。

 珍しいな~、お前から声かけてくるなんてよ。」

 

「名前を呼ぶんじゃないといつも言ってるだろう…、久しぶりだな勇也。」

 

久々の休日、ゆっくりできる日なんてそうそう無いので今日は一日だらごろしてやろうと昨日酒を何時もよりも多目に飲んだのが祟ったか…、ホンの少しだが頭が痛い。

 

ったく急に呼び出すんじゃねぇよ、相変わらずこっちの予定なんざ考えてないんだろうな。

 

ガシガシ頭を掻きながらそんなことを考える。頭を掻いても頭痛はちっとも良くなりはしないが少しは気が紛れるってもんだ。

マルオとは、まぁ、なんだ、言ってみれば腐れ縁のようなものだ。何故エリートコースまっしぐらのこいつと借金で首が回らなくなっちまっている俺が未だに付き合いが有るのかは謎だが。

 

…いや、謎じゃあねぇか、中野先生のお陰なんだろうな。

 

「で、何の用なんだよ。わざわざ呼び出してただ話してぇだけってのはないだろ。」

 

「酒臭いな…、あまり近寄らないでくれ。

そう変な顔をするんじゃない、うちの娘のことで少し相談したいことがあってね。」

 

「あぁ?中野先生の?

 …いや、悪い。それでどういうことだ。」

 

「実はな──」

 

マルオが言ってきたのは娘達の成績のことらしい。何でもこのままだと中学にあがるときの試験に五人ともども落第しかねないらしい。

あの先生の娘が頭が悪いだなんてなかなか信じられたことじゃあないが、こいつがいってんだ、嘘じゃねえんだろ。

 

「…それで?俺にどうしろと。」

 

「最近、一番下の子の成績だけ上がってきていてね、気になって聞いてみたら上杉、という高校生におしえてもらっていると言っていた。

心当たりは、ないかい?」

 

「その下の子ってのは五月って名前か?」

 

「ああ。」

 

「それならその教えてる高校生はうちの風太郎だな、昨日らいはと話してたぞ。」

 

「…そうか。」

 

そういったマルオは、少し考え込むような仕草をした後、顔をあげて真っ直ぐ此方を見てきた。

随分と真剣な雰囲気に、こりゃ茶化す訳にはいかねぇなとこちらも少し背筋を伸ばす。

 

「…勇也、頼みがある。」

 

 

 

 

 

 

五月との勉強会を終え、いい人だった!と興奮気味のらいはとぐれていた頃の自分を暴露されほんの少し機嫌が悪くなっていた風太郎を出迎えたのは、幸せそうに大口を開けて眠る父親の馬鹿でかいいびきだった。

 

玄関の扉を開ける前から響いてくる音に、近所迷惑だと頬がひきつる。

居間までいくと案の定掛け布団も被らずにねっころがっている父親の姿。

 

「…らいは、叩き起こしてやれ。」

 

「はーい!お父さん、起きてー!」

 

台詞だけ聞くと只娘が父親を起こす微笑ましい場面としか思えないが、実際やってることはかなりえげつない。

 

うわぁ、今何で殴った?教科書か?結構分厚い奴じゃないかあれ、らいは怒らせるのはやめとこ…。

 

「ぐふっ!」

 

「おーきーてー!」

 

「ら、らいは起きる!起きるから止めてくれ!」

 

娘に教科書でしばかれる親父を横目に夕飯の準備をする。

今日はらいはも一緒に外出していたので昼に夕飯の準備までらいはがやってくれていた。

料理しなくてもいいなら食器を運ぶ云々の雑用は俺と親父、男の仕事だ。

 

「お、そうだ風太郎。」

 

情け容赦ない目覚ましに速攻起こされたらしい親父に、はよ手伝えと顔を向けるとそう声を掛けられた。なんだと返すと急ににやにやと笑いだした。

 

「い~いバイト、見つけてきたぞ~。」

 

その笑いかたに、とてつもなく嫌な予感がしたのは言うまでもない。

 

結局そのバイトについて親父が教えてくれたのは、家庭教師のバイトで、給料が相場の五倍であるということくらいだった。

 

…正直、何かヤバいバイトの気しかしない。しかし俺がそう言ったときの親父の返答は、

 

「人間の、あー……、なんとかって臓器は半分なくなっても大丈夫らしいからなんとかなるだろ。」

 

だった。息子に臓器を売れってのかこのくそ親父…。

いや、流石に冗談だというのは分かるがそれにしても怪しい。本当に大丈夫か…?

 

それ以外のことはどれだけ聞いても知らぬ存ぜぬの一辺倒。もっとあるだろ例えばどんな生徒なのかとかよ…、そういえば「いきゃわかんだろ。」と返された。確かにそうだけども。

 

流石にどれくらいの年か分からないと何を教えていいのかも分からないと食い下がると小六だということはわかった。絶対もっと詳しく知ってるよな、何で教えねぇんだよ。

 

しかし困ったことになった。家庭教師は平日の放課後にもあるらしい。五月に何て言えばいいんだ…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、開始は明後日の月曜日からだからな。」

 

「はぁ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「家庭教師、ですか…。」

 

自分の声が沈んでいるのがはっきりと分かる。多分電話の向こうの父親にも伝わってしまっているだろう。

それでも、無理に取り繕う気には到底なれっこなかった。

 

父親が家庭教師をつける、と言い出す理由は分かる。それほどまでに自分達の成績は悪いのだ。

でも、でも、なんで今になってなのでしょう。

家庭教師何て来たら、上杉君との勉強会は…。

 

「あの、お父さん!家庭教師なんて必要ないです、私達は大丈夫ですから──」

 

「先方にはもう話をつけてある、他の子にも話をしておいてくれ。」

 

「そんな…。」

 

一縷の望みをかけて反対してみようとしてみたものの、バッサリと切り捨てられてしまった。

どうすればいいのでしょうか…、私にとって家庭教師は喜ぶべきことなのかもしれないのに、素直にその先生を受け入れられる気がしません…。

上杉君は私を馬鹿にしません、いえ、たまにからかったりはしてきますけど何回だって丁寧に教えてくれます。

でも、それが普通じゃないって知ってるから。私みたいに理解が遅い子にあそこまで付き合ってくれる人の方が稀だって身をもって知ってるから。

 

…怖いです、家でまであの心底呆れたような、「もうお前には期待しない。」と言いたげな視線に晒されなければいけないのでしょうか。

 

それ以上に、あの優しい時間が終わってしまうかも知れないことが心底、怖い。

 

 

 

 

 

 

 

お父さんからの知らせを聞いたときの姉妹の反応は決して良いものではなかった。いや、誰も受け入れる気がないので最悪と言ってもよいのではないか。

 

一花は「どうせサボるから怖い人じゃないといいな~。」と笑い、三玖はなにも言わないがその顔からして良い気はしていないのだろう。

二乃に至っては「私がそんな奴叩き出してやるわ!」と息巻いている。何時もならば諌める場面だが、ふと本当にそうしてくれたら…、などと考えてしまい慌てて首を振った。

 

いけません、お母さんなら絶対こんなことは考えないです。せっかく家庭教師の方がきてくださるのだからちゃんと受け入れて勉強出来るようにしないと…。

 

そうしていると、ふと横から視線を感じたのでそちらを見ると一花が心配そうに此方を見ていた。

 

「五月ちゃん大丈夫?なんか顔色悪いけど…。」

 

「い、いえ大丈夫です!それよりも二乃が変なことしないように注意しなくてはいけないですね。」

 

「五月ちゃん。」

 

「そうです、教師の方に呆れられないように勉強もしなくちゃ──」

 

「五月ちゃん!」

 

はた、と気づく。いつの間にか一花だけでなく二乃と三玖まで此方を見ている。

 

「あ、あの私──」

 

「五月ちゃん、一人で抱え込まないで。

頼って良いんだよ。」

 

───あぁ、ダメだなぁ私。

 

「い、一花ぁ、私怖くて、また、また私なんかダメなんだって言われるんじゃないかって……。」

 

お母さんの代わりになるって決めたのに、ひとつ決めたことすらやり通せない、弱い私だ。

泣いて、泣いて口から本音が出ていこうとするけれど、全て吐き出してしまったら何かをなくしてまう気がして口をつぐんだ。

そうしたらそれすら何故か悲しくて、やるせなくてまた、泣いた。

 

 

「…落ち着いた?」

 

「うぅ…、ぐすっ、すみませんでした……。」

 

「大丈夫よ五月、嫌なやつだったら直ぐに止めさせるから。」

 

「五月、ほら大丈夫だから…。」

 

五月ちゃんが泣いたのなんて久しぶりに見た、何かを堪えるような表情や悲しい顔はたまに見たけど、私たちの前で泣いたのなんて本当に久しぶりだ。

 

…この頃は笑ってたのにね、フータロー君のお陰で。それに昨日もすごい機嫌良かったのに。

あ、もしかして五月ちゃんがここまで弱ってるのって。

 

「…フータロー君との勉強会が減るから?」

 

その呟きは、今は二乃に甘やかされ三玖に慰められている末っ子には聞こえなかったようだ。

 

ふーん?これはやっぱりそうなのかな~?

 

面白くなって来た!とばかりににやにやして五月ちゃんを見るが……。

 

「いや…、ないよね。」

 

思い直した、あの子に限ってそれはない。だって五月ちゃんだよ?座右の銘は花より団子、可愛い服より三度の飯を地でいく子だ、ないない。もしあったとしても気づかないで病気かなんかと間違えるに決まってる。

 

「家庭教師がフータロー君みたいな人だったらいいな~。」

 

もしそうだったなら少しだけ…、少しだけ頑張ってみようかな。

 

 

土曜の夕方、もたらされた知らせは五人をどう変えるのか。

 

いつまでも同じままではいられない。つい先ほどまで夕暮れだった空がふと見てみれば真っ暗になっているように、綺麗なものほど直ぐに消えていってしまうのはこの世の摂理なのだろうか。美人薄命とも言うだろう。

 

季節の変わり目に吹く風は色々なものを運ぶ。繋ぐ命を運び、匂いを運び、新しい季節を知らせてくる。

 

吹き込む風はよくも悪くもその場の形を変えていく、地面を削って整えるのも、きれいな花でその場を覆うのも、全ては吹くその風次第なのだろう。

 

 

 

 

 

 

四葉は困惑していた。下の階の姉妹達の話によると、家庭教師何てものが来るらしい。

そうなったら自分はどうすれば良いのか。

いくらこのままではいけないと思い始めているとは言っても、急に部屋から引っ張り出されるかもしれない可能性が出てきたならそうなるのも仕方ないだろう。

 

「どうしよう…。」

 

分かっているのだ、動かなければなにも変わらないことも、姉も、妹も皆自分を待ってくれていることも。

踏み出せば良いのだ、ドアを開けて、一言心配掛けてごめんねと言えば良いだけなのにその一歩が遠い。

 

四葉と言う少女は昔からそうなのだ。五人の中では一番元気で、人当たりもよく、様々なことに積極的だと他人からは思われ勝ちだが、いざというときにへたれることが多い。運動関連ならばどんな大舞台だとしても堂々とプレーするので全くそうは思われないのだが、実はへたれなのである。

 

どうしようどうしようと部屋の中をあっちに行ったりこっちに行ったりとうろうろする姿は完全に不審者である。彼女の姉妹が見たのなら、心配の種をまたひとつ増やすこと間違いなしだ。

 

それにしても、だ。いくらへたれだとしても部屋のドアを開けるだけにこれだけ躊躇するだろうか?

いや、流石にしない。理由が有るのだ。

 

ぐいっと口角を指で持ち上げてみる。出来上がったのはなんとも不格好な笑顔。

 

「どうしてなんだろうな…。」

 

母親の突然の死、それに追い討ちをかけるように突きつけられたどれだけ努力しても自分は人並み以下にしか勉強ができない、という事実は、いともたやすく四葉から笑顔を奪い去った。

 

自分が生きていく目標と、その手段さえ立て続けになくしてしまったことは、まだ子供である彼女には、あまりにも大きすぎたのだ。

 

それからというもの、四葉はうまく笑えない。今までは部屋にずっといたため姉妹達にはばれていないが、出ていってしまったのなら確実にばれるだろう。

 

何故笑えないのか分からない、姉妹達にこれ以上心配は掛けたくない、でもこのままでいるわけにもいかない。

そんな状況に四葉は完全にどうして良いか分からなくなってしまっていた。

 

…だからだろう、下から聞こえてくる不穏な会話を聞き逃してしまったのは。

 

 

 

「家庭教師が来たら四葉はどうするんだろ…、やっぱりそのままなのかな?」

 

「どうだろうね、でも…、怖い人だったら無理矢理出されたりしちゃうかも。」

 

「そんなことさせるわけないじゃない!」

 

「でも大人の人に私たちが勝てるでしょうか…?」

 

「男の人だったら絶対に無理だろうねぇ。」

 

額を付き合わせて悩む四人、五月もやっと落ち着いて一人で座っている。ただ、まだ目元が赤いのに気づかれていないと思っているのは本人だけだ。

 

頭を悩ますのはやはり下から二番目の妹のことだ、あの子は人一倍明るいが、その分悩み事等を一人で抱えこんでしまうきらいがあるのだ。

今までは心配して声を掛けてはいたが自分で解決してくれたらと思い、あまり干渉はしてこなかった、しかし、もうそうはいかなくなってしまった。

 

一番に立ち上がったのは、やはり中野家の誇る暴走機関車だった。

 

「もういいわ、全員で四葉を部屋から引っ張り出すのよ!」

 

「二乃、それじゃああんまり意味ない気が…。」

 

「誰とも知らないやつにされるよりは良いでしょ。」

 

「そういうものでしょうか…。」

 

「うーん、まぁ流石にそろそろちゃんと話したいしね。」

 

「じゃあ決まりね!」

 

 

 

 

 

バァン!と音をたてて扉が開かれる。急なことに中であーでもないこーでもないと悩んでいた四葉は文字通り飛び上がった。

 

「わひゃあ!」

 

「四葉!今日はもう無理にでも出てきてもらうわよ!」

 

「二乃、でも…。」

 

「でもじゃないっ!ほらいくわよ。」

 

「四葉、やっぱり話してくれなきゃわかんないよ。」

 

「そうだよ~、ほら、いこ?」

 

「久しぶりに一緒にご飯食べましょう!

 …寂しかったんですよ?ずっと。」

 

「みんなまで…。」

 

「四葉、なんでかなんて無理には聞かないわ。でも、でもね、せめて一緒にいなさいよ。家族じゃ、ないの……。」

 

うっすらと目尻に涙をためながら言い募る。誰より家族を愛しているのは彼女だ、気丈に振る舞ってはいても、妹がずっと部屋から出てこないことを姉妹の中で一番心配し、そして寂しがっていたのだろう。

 

いつも強気な彼女のそんな姿は、どうしても踏み出せなかった最後の一歩を、四葉に踏み出させた。

 

涙が、溢れる。それはいつも一人で流していたものとは違う暖かい涙だった。

 

 

「二乃、ごめんね。ちゃんと、ばなずから、ごべんねぇっ……」

 

「許すわよっ、ばかっ!」

 

「四葉ぁ、良かった…」

 

「四葉ぁっ、もうずっとはなせないかとっ、もうにどとしないでくださいっ!」

 

「あはは、皆泣きすぎだよ…。」

 

「一花だって泣いてるじゃないっ!」 

 

「うん……、うん。だって嬉しいんだもん。」

 

 

 

 

 

「「「「お帰り、四葉」」」」

 

 

母の死以来初めて、皆で一緒になって泣いた。五人にとっては大きすぎた母の死、きっと皆で泣いて、そして笑って乗り越えていくのだろう。

涙も、笑顔だってひとつでもかけたらダメなのだ。

 

──だって、五つ子なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「笑えなくなった?」

 

「うん…、そうなの。」

 

四葉は全てを話した。京都で会った男の子のこと、そこでの約束のこと。

そして、母の死と今の学校で全てを折られてしまったことも。

 

…ただ、風太郎の名前だけは伏せた。その名前を言えば、何故か彼と会ってしまっている五月に、皆に気づかれてしまうと思ったから。

 

風太郎君には、会わせる顔なんてないから。

 

皆だって情けないと言うに違いない、そう思って俯いたが、誰もなにもいってこない。

どうしたのか、そう思って恐る恐る顔をあげると、急に抱きつかれた。

 

「わぷっ、み、三玖?」

 

「四葉は頑張ってた、四葉はすごい子だよ。」

 

「もっと早く言いなさいよっ、ばか!

 ばかばかぁ…。」

 

「ううぅぅぅ…、ごめんねぇ四葉、一緒にいてあげられなくて。」

 

「四葉、気づけなくてごめんね、辛かったよね…。」

 

「そんな、悪いのは私で──」

 

「そんなことない!」

 

「皆四葉が頑張ってたって知ってるよ、ダメなんかじゃない、悪くなんかない。

私達の自慢の家族だよ?」

 

「あ……。」

 

心に刺さった刺が、いつも代わらずまるで自分を責めるように感じていた痛みが、ホンの少しだけ、やわらいだ気がした。

 

「ありがとう、皆。」

 

本当に、私なんかとは違って、優しくて、強くて、大好きな家族だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後は笑おうとしたけど、やっぱり出来たのはひどく不格好な笑顔だった。

 

 

 

 

 

 

五月に勉強会を出来なくなるかもしれない、と伝えることができないまま迎えてしまった月曜日、らいはには今朝しこたま怒られた。

 

…いや、連絡しようとは思ってたんだ、でもなぁ、何て言い出して良いのか分からなくてな。

 

まぁ、もうそんなことも言ってられない。

家庭教師は今日からだから、放課後図書室にいるであろう五月には伝えなければならないのだ。

 

はぁ、気が重い。

 

 

 

 

 

放課後、図書室に行くといつもの場所に五月が一人で参考書を広げて座っていた。

高校の図書室に小学生が一人、というのは随分と奇妙な光景に思えるが、もう何回もそこで勉強しているので、周囲も全く気にしていない。慣れたものだ。

 

近づいていくと、気配に気づいたのか、五月も顔をあげた。

 

「「なあ(あの)──」」

 

被った、それはもう見事に被った。こういうときに口をつぐんで相手に譲ってしまうのは日本人の美徳なのか、それとも短所なのか。

 

「そっちから…」

 

「いえ、上杉君からどうぞ。」

 

「あぁ、分かった。

実はな、新しいバイトが入っちまった。

今日は教えられない。」

 

「…そうですか、私も今日は用があったので。

次はいつなら大丈夫ですか?」

 

「その…、な。そのバイトは平日の放課後直ぐにあってな、もしかしたらもう教えられないかも…。」

 

「そんなっ!」

 

ガタッと音をたてて立ち上がる、色々言いたげな顔をしているが…

 

「五月、帰りながら話そう。

 …ここは図書室だ。」

 

大きい音で、周囲の注意を集めてしまった。

五月もそれに気づいたのか、周りに頭を下げて手早く荷物をまとめて外に出た。

 

 

 

「…なぁ五月、無理かもしれないとは言ったが、まだ分からないんだ。だから──」

 

「でも、可能性は低いんでしょう?」

 

「…あぁ。

  ………五月?」

 

もっと色々いうかと思ったが、何故か静かだ。自分よりも二回り以上も小さい少女は、俯いたまま立ち止まってしまった。

 

「おい、大丈夫か?」

 

「……やだ。」

 

服の裾を握りしめられる。

 

「やだ、やだよぉ、おにぃちゃん……。

みすてないでよぉっ!」

 

「…ごめんな。」

 

 

 

 

 

 

 

「ぐすっ、家あっちじゃないんですか。」

 

「いや、バイト先がこっちらしくてな。

 ついでだ、送ってくぞ。」

 

「……うん。」

 

すっかり引っ付き虫となってしまった五月を放っておくこともできず、道を聞きながら家まで進む。

 

…待て、このでかいマンション親父にもらった地図の場所と同じなんだが。

 

「おい五月、本当にここなのか?」

 

「…ぇ?そうですよ?」

 

「俺のバイトの場所もここなんだが。」

 

「……そのバイトって家庭教師ですか?」

 

「あぁ、…ぁ?もしかして…?」

 

五月も俺と同じ結論に至ったようだ。いつのまにか俺から離れてぷるぷる震えている。

 

「そ、それをはやくいってよぉ!」

 

腰の辺りをおもいっきり叩かれた。痛ぇ、理不尽だ。

 

悪いのは親父だ。絶対に俺じゃない、誓ってもいい。

 

 

 

 

 

「なぁ五月、このバイトって給料が普通の五倍らしいんだが、何でか分かるか?」

 

「あれっ、言ってませんでしたっけ?」

 

そういった五月が開けたドアの先にあったのは横にあるのと全く同じ顔、顔、顔、顔…。

 

「あれっ、フータロー君じゃん!」

 

「アンタが家庭教師?私の家族になんかしたら許さないから!」

 

「二乃、最初から喧嘩腰は良くない…。」

 

「嘘……。」

 

その光景により、急激な負荷をかけられた俺の脳は、限界を越えた速度で高速回転。

ひとつの答えを導き出した。

 

「おい嘘だろ…?」

 

「私たち、五つ子の姉妹です。」

 

 

 

 

 

 

俺は、今でもあの日を夢にみる。あの、俺の人生が変わり始めたあの夢のような日を。

 

「夢のような日って、ふふ。

あの五つ子だって初めて知った日でしょ?

夢のようだなんて見えなかったけど。」

 

隣で純白のドレスに身を包む彼女が微笑む。

今日は結婚式、俺を変えてくれた彼女と、契りを交わす日だ。

 

「そうだね、夢は夢でも…」

 

いつまでも夢で見るであろうあの日は──

 

 

 

 

 

 

──とんでもない悪夢だ。

 

 

 

 

 

 

これは、どこにでも有るような俺と彼女が出会い、そして結ばれる物語。

退屈かもしれないが、是非お付き合い願いたい──

 



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9話

申し訳ありません、投稿順番が間違っていたようで…、あわてて修正しました。


「五つ子って本当なのか?」

 

機嫌良さげに俺の腕を引っ張る五月にそう訪ねる。実際五つも同じ顔が並んでいれば信じる他ないのだが、どうにも頭が受け入れてくれないのだ。

 

そりゃあそうだろう、双子や三つ子ならまだしも、五つ子なんて聞いたこともない。

 

「本当ですよ?同い年ですけど皆私の姉です!」

 

「あぁ、お前一番下なのか…、まぁそうだろうな。」

 

「納得するの早くないですか!?」

 

「あ~、というか離してくれ。さっきからお前の姉の視線が怖い。」

 

そうなのだ。先程から、というか入った瞬間からだな、四人から、特に蝶の髪飾りを着けた奴とでかいリボンを着けた奴からの視線が凄い。

 

俺何かしただろうか、いやこいつらとは初対面だからなにもしてないとは思うのだが…、

 

何か初めてあった気がしないんだよな。まぁ五月で同じ顔を見慣れてるせいだろうが。

 

「ちょっとアンタ!」

 

「ん?」

 

やっと五月に手を離してもらい、一息つこうとすると間髪いれずにきつい声音が飛んできた。んん?この声の感じ、聞き覚えがあるな。

 

「あ、お前あの電話の奴か?」

 

「電話?あ、あんたもしかして上杉って奴?五月に近づくなって言わなかったかしら。」

 

「だからそれは俺が決めることじゃねぇって…。」

 

うん、こいつはちょっと苦手だな。こう最初っから敵意を向けられたらこう思うのも仕方ないだろう。

 

このくらい可愛いもんだと笑って受け入れられる器の大きさがあれば良いのだが、生憎俺にそんなものはない。

 

「はぁ…、とにかくこれから家庭教師をやる上杉風太郎だ、よろしく頼む。」

 

ざっと全員を見回してみる、なぜかニヤニヤしてる奴、敵意全開の視線を向けてくる奴、探るような視線を向けてくる奴……、今はとりあえず全員座ってくれてはいるが、完全に受け入れられているわけでは無さそうだ、

…五月を除いて。

 

「上杉君!今日はなにをやるんですか!」

 

「おー、元気いいな、取り敢えず落ち着け。

まぁそもそもだ、俺は生徒が五人もいるなんて聞いてないし、何を目指して教えればいいのかも知らん、分かる奴いるか?」

 

「あれ~、フータロー君そんなのでいいの?」

 

「親父が教えてくれなかったんだよ。いきゃわかるってな…、まぁそんなことはいいんだ、一花分かるか?」

 

「分かんなーい♪」

 

「言い方ムカつくなおい。」

 

こいつはぶれないな…、一回しか会ったことないが、扱い雑でも大丈夫そうな感じがする。真面目な五月とは正反対なタイプだな、

 

前のときは勉強している五月の横で全く勉強していなかったが…、大丈夫だろうか。

 

「あの…、お父さんに電話したらどうでしょう?」

 

「あぁ、それが良さそうだな。

 …番号分かるか?」

 

「あ、私が貸しますよ。」

 

「そうか、悪いな。」

 

 

 

 

 

 

 

 

私の携帯を持った上杉君がベランダに出るとすぐに一花と二乃が声をかけてきた。

 

「五月ちゃん家庭教師フータロー君でよかったね~、いつ知ったの?」

 

「ついさっきです、上杉君も全く知らなかった見たいで…。」

 

「言ってたね、何でだろうね?」

 

「五月、私はあいつに近づくなって言ったわよね?」

 

「二乃が私の交友関係を決めないでください!」

 

「なっ…。」

 

「でも私も二乃に賛成、あの人ちょっと怖い…。」

 

「「そんなことない(です)!」」

 

三玖の言うことを否定しようと声をあげると、同じ内容で声が重なった。

私と同時に声をあげたのは、先程から妙に静かだった四葉だ。

 

「四葉、どうしたんですか?」

 

「ご、ごめん!何でもないよ、うん何でもない…。」

 

四葉はわたわたと手を動かし、何でもないと言ったあと、何か思い詰めた顔をして自分の部屋へと戻っていってしまった。

それに続くように二乃も立ち上がる。

 

「私はあんな奴認めないわ!五月、あんたも早く離れなさいね。」

 

「あ、二乃…。」

 

…行ってしまった、見ると残った三玖と一花も腰をあげようとしている。

 

「三玖、上杉君は怖くないですよ?」

 

「目付き悪い…、あと変な髪型。」

 

「確かに見た目はそうかもしれませんが…、あぁっ、待ってください!」

 

「とにかく、嫌。」

 

「…一花ぁ。」

 

「あはは、みんなこうだしやっぱり私も勉強はしたくないなぁ。」

 

そう言って一花と三玖も部屋に戻っていってしまった。そして、リビングに残ったのは私一人。

 

「…どうしましょう。」

 

無駄に広いリビングは、一人でいるには寂しすぎる。まだ始まってもいないこの家での家庭教師は無駄に前途多難のようだ。

 

教師本人はまだその事に気づいていないが。

 

 

 

 

 

 

「──つまり、娘さんを五人全員中学への進級試験に合格させることが当面の目標、ということですか。」

 

「そうだ、宜しく頼むよ。」

 

「はい、分かりました。」

 

中学への進級試験はそれなりの難しさだと聞く、小学校から教育に力を入れていることもあるだろう。

 

ただ、小中はお嬢様学校のようなものだ、テストは難しくても、あまりに悪い点数を取らない限り落とされないらしい。

それこそ赤点をとったりしない限りは。まぁ親に配慮してのことだろう。

 

それならこの条件は簡単なのではないか?

 

「時に、夏休み前最後のテストが近いね、そこにハードルを設ける──

──と言いたいところだが、君のことは五月君から聞いている。

今回は止めておこう、期待しているよ。」

 

「ありがとうございます。」

 

まぁそうだな、取り敢えず全員がどれくらいの成績か確認するところから始めよう。

まさか全員が五月並みなんてことは…、無いよな?それでも五月位やる気があればなんとかなると思うが…。

 

「…考えても仕方ないか。」

 

自作のテストは一人分しかないんだがどうしようか。

 

 

ベランダから部屋に戻ると、部屋の中がずいぶんと寂しいことになっていた。正確に言えば、人がいなくなっていた。

 

「…どういうことだ。」

 

「すみません…。」

 

「あぁ、お前を責めてる訳じゃないんだ。

取り敢えず電話ありがとな。」

 

「皆部屋に戻ってしまって…。」

 

部屋か、家から出てってないだけましなのだろうか。しかしもうこれだけで分かるぞ、五月以外やる気ないな。

 

俺はここでやっていけるだろうか。

 

「仕方ない、呼びに行くか。」

 

 

 

 

「手前から私、四葉、三玖、二乃、一花の部屋です。」

 

「一人一部屋とかセレブかよ…。」

 

いや、分かってはいたんだ分かっては。

そもそもこのマンション馬鹿でかいしその上この部屋は最上階だしな。

ただ小学生にこんな見るからに広そうな部屋一人に一部屋ってどういうことだ。

 

本当にお嬢様なのか…。普段のこいつの振る舞いを見ているととてもお嬢様のようには見えないのだが、こうして自分の家との格差を見せつけられると納得せざるを得ない。

 

「生まれた順番の数字が名前に入ってるのか?」

 

「そうなんです、私は五番目で一番下だから五月ですね。」

 

「へぇ、分かりやすいな。じゃあこの部屋の四葉は四番目か。」

 

「はい!四葉は転校する前は率先して勉強してたんですよ、最近は元気がないですけど、本当は凄く明るい子です!」

 

「それなら授業もちゃんと受けてくれるかもな。」

 

その子の印象は何かに怯えている子、だった。部屋に入ってきた俺を見て、一瞬何かを求めるように手を伸ばしたが、直ぐに下ろして俯いてしまった。五月に聞いた元気な子、というのとの違いに戸惑ってしまう。

 

…一体何があったのだろうか、そして何に怯えているのだろうか。普通に考えるなら急に家に来た俺にだろうが、授業を受けることはすんなり受け入れられてくれたのでどうも違う気がする。

 

ただ、それは本人の問題だ。あくまで他人の俺はそういうことにあまり踏み込むべきではないのだろう。

 

取り敢えず下の階に戻ってもらい、次の部屋に向かう。次は三番目か、確か名前は…

 

「三玖は私達の中で一番頭が良いんですよ、上杉君と気が合うかもしれません!」

 

 

 

 

「嫌」

 

「うぐっ…。」

 

「そもそもどうして教師が学生なの?この町にまともな家庭教師はいないの?」

 

「三玖っ、言い過ぎですよ。」

 

「五月も、五月は警戒心が無さすぎ。」

 

辛辣だった、感情を込めないで正論で殴ってくる分二番目よりも正直きつい。

ただなぁ、受けてくれなきゃ困るんだが。

 

「まぁ、気が変わったら言ってくれ。」

 

そういい残して、次の部屋に向かう。しかし次はあの最初から敵意むき出しだった二番目だ。部屋に入ったとたんに拒絶の言葉が飛んでる来る気しかしないな…。

 

「部屋にもいないってどういうこと!?」

 

「おかしいですね、確かに部屋に戻っていったのに…。」

 

まぁいい、次だ次。次は…、一花か。果たしてあいつはやる気が有るのだろうか。

 

「一花とは会ってますよね、一花は…。」

 

「おいなんで途中で言いよどむんだよ、ちょっと分かるけども。」

 

ドアを開けるとそこはジャングルだった。そう言いたくなるくらいに汚い部屋だった。

 

「なんだこれは…、こんなところに人が住めるのか?」

 

「人の部屋を未開の地扱いしてほしく、無いなぁ~。」

 

見た感じだれもいなかったのでこいつもかと思ったが、ベッドの布団がモゾモゾ動き出したのでそうでないと気づく。

どうやら寝ていたようだ。…この短時間で?

 

「一花は片付けが苦手で…。」

 

「いや苦手なんてレベルじゃないだろうこれは。」

 

思わず真顔になってしまう。それほど衝撃的な光景だったのだ。まさしく足の踏み場もないといったところだ。

 

「まさかフータロー君が教師とはね~、

知ってる?五月ちゃん昨日は先生が怖い人だったらどうしようって───」

 

「わわっ、い、一花!」

 

「あはは、冗談だって~。」

 

「おい、ふざけてないで下に行くぞ。」

 

当たり前のように五月をからかう一花を催促する。いつまでもベッドから出てこようとしないのだ。

 

布団を掴んで引っ張ると慌てたような声をあげて布団に更にくるまられた。

 

「あー、ダメダメ。

 服着てないからダメだって!」

 

「何でだよ!」

 

何で布団から出ようとしないのかと思えばそんな理由だったらしい。しかしそうとは知らなかったとはいえ悪いことをしたな。

 

「悪い、少し考えなしだったな。」

 

「えっ?う、ううん私も悪かったし…。」

 

「服着たら下の階に来てくれるか?」

 

「…うん、分かったよ。」

 

思ったよりもずっとすんなりと了承してくれた。さてと、取り敢えずこれで全員まわったが…、一応受けてくれそうなのは三人か。

多いのか少ないのか。

…というかこいつ一花ってことは一番上なのか?

 

部屋を出る寸前でそう気付き、振り替える。

 

「この部屋も少しは片付けろよ、なぁお姉ちゃん?」

 

「なっ…。」

 

 

 

 

下の階に降りると四葉はすでに降りてきており、キッチンの方から何やら香ばしい匂いがしてきていた。

 

「この匂いは…、クッキーです!」

 

五月はその事に気づくと信じられないほどの速さでキッチンに突撃していってしまった。

その後、少し言い争うような声が聞こえてくる。どうやらつまみ食いをしようとして怒られているらしい。

怒っているのは声を聞く限り二乃のようだ。部屋にいないと思ったらそんなところにいたのか…。

 

ふと視線を感じ、そちらを見ると四葉がこちらをじっと見ていた。

 

「なんだ?何か用か。」

 

「ふ、ううん。上杉さんは、何で学生なのに家庭教師なんてやってるんですか…?」

 

恐る恐るという風にそうきいてくる。まぁ確かにそこは気になるところかもな。

 

「…あまり人に言う様なことじゃあないんだがな、家は貧乏なんだよ。それでな。」

 

「そう…なんですか。それは──」

 

あぁ、やっぱり言うべきではなかったかもしれない。いらない気遣いをさせてしまったようだ。

何かいけないことをしてしまった子供のように俯いて声を小さくする四葉の頭に、つい五月にたまにするように手を伸ばしてしまった。

 

「お前が気にすることじゃない、嫌なこと聞かせて悪かったな。」

 

「そんなことっ、あの、それよりも手が…。」

 

「っと、悪い。嫌だったか。」

 

「いえ、そうではないんですが…。

う、上杉さんは───」

 

「クッキー作りすぎちゃった、食べるー?」

 

「二乃の料理は絶品ですよ!」

 

何かを聞こうとした声は、キッチンから出てきた二人の声にかき消された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キキッというブレーキの音と、着きましたよという声に意識が覚醒する。

…どういう状況だ?

 

「お客さん、家ここでしょ?」

 

言われて外を見ると確かに自宅だ、うえすぎと書かれた看板は見間違う筈もない。

俺が座っているのは助手席のようだ。

 

「何で…。」

 

「お客さん、出発する前からぐっすりでねぇ。」

 

若いからって無茶するんじゃないよ、と笑う人の良さそうなタクシー運転手を見ながら状況を整理する。確か俺は二乃の作ったクッキーを食べてその後──

 

「っあれか。」

 

そうだ、差し出された水を飲んだ後直ぐに眠くなってその後の記憶がない。あれに何か入っていたのだろう。

そこまでするか普通…。

 

「料金4800円になります。」

 

「はっ?そんな大金もって…。」

 

「カードでお願いします。」

 

突然告げられた事実上の死刑宣告に動揺する俺だったが、運転手はそれをまるっと無視して後ろから出されたカードで決済を終えた。

後ろの席を見ると、カードを差し出した五月と、四葉が乗っていた。

 

しっかりした妹さんだねぇ!双子かい?と聞いてくる運転手に、否定しようと口を開けるがその時には五月と四葉に声をかけていた。全くこちらの話を聞く気がない。

 

「妹さんたちも早く降りな!」

 

「え、あの、ちが───」

 

「なんだい、どこか行きてぇのか?こんな遅い時間に子供が出歩くもんじゃないよ。

ほら兄ちゃんと一緒に帰りな。」

 

「だからちが──」

 

口を挟む隙もない、あっという間に五月と四葉まで下ろされてしまい、タクシーは行ってしまった。

 

「…どうする?」

 

「どうしましょう…。」

 

「あ!やっぱりお兄ちゃんだ、それに五月さんも!あ、あれ?五月さんが二人?」

 

「あぁ、そいつは四葉だ。五月の姉でな。」

 

「そうなんですか!じゃあお二人ともせっかくここまで来たんですから夕飯食べていきませんか?」

 

「…良いのですか?」

 

「らいはがいいなら俺はいいぞ、四葉はどうする?」

 

「…私も、お邪魔しても良いですか?」

 

 

 

 

 

どうしよう。どうしようどうしよう。

昨日皆に色々話したお陰で落ち着いてきていた心がまたざわめいてきている。

 

まさか、家庭教師として風太郎君が来るなんて誰が思っただろうか。

 

五月から聞き出して知ってはいたが、本当に当時とは全然印象が違う。二乃はどうも嫌ってるみたいだし、三玖は怖いなんて言っていたけれど、そんなことはない。優しいところは何も変わってない。

 

風太郎君は覚えているのだろうか、家庭教師なんてやれるくらいに頭が良くなっているのだから約束は守ってくれているのだと…、覚えているのだと、思いたい。

 

それに比べて私はどうだ、罪悪感で、惨めさで押し潰されそうになる。これは、こんなことは話せない。ごめん皆、話すって昨日言ったのに。

 

風太郎君は私の事は気づいてないみたい。少し話してみたけど何も言われなかった。あの時話していた妹さんについて聞きたかったけど、二乃に遮られてしまった。

 

後から考えると良かったのかもしれない、だって風太郎君にとっての私は今日初めてあった他人で妹のことなんて知っているはずがないから。

 

気づいてくれていないことは、悲しいけれど少しほっとした。だってこんな情けないところ見せたくない、見てほしくない。

 

家庭教師をするなら私の成績なんてすぐに知られてしまうだろう。その上で気づかれてしまったら…。

 

失望した顔をする風太郎君が思い浮かんで思わず震える。そんなことは、絶対嫌だ。

…きっと私が笑えなくなったのは罰なんだ、約束が守れず、努力してもしても出来ないダメな私への。

 

それなら私は他人の振りをしよう、私は風太郎君──上杉さんと今日初めて会った唯の生徒、そうすれば──

 

 

 

 

胸の奥から聞こえた軋むような音には、聞こえないふりをした。

 

 

 

 

 

 

 

 

…どうして私はここにいるのだろう。二乃が上杉さんを眠らせて、それに怒りたかったのに怒れなかった。…だって、他人だもの。

 

でも何故か上杉さんを送っていくという五月に着いていくと言い出してしまい、上杉さんの家まで来てしまった。

 

今目の前にいるのは、あの時言っていた妹さんだろう。

夕飯を食べていくのに五月は乗り気だが、私は少し気後れしてしまう。だって、上杉さんの家庭事情を知っているから。

 

自分だけでも帰ろうと口を開いたけど、出ていったのは全く逆の言葉だった。

 

「…私も、お邪魔しても良いですか?」



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10話

「がっはっは!嬢ちゃん達が風太郎の生徒なのか、まぁゆっくりしてけよ!」

 

「「は、はい…。」」

 

「おい、親父やっぱり知ってただろ。あと自分の外見考えろ。」

 

四葉も五月も家に入ったは良いが親父に怯えたのか借りてきた猫のようにおとなしくなってしまった。五月に至っては半分以上俺の後ろに隠れてしまい、顔だけが出ているような状態だ。

 

しかし、あまりこいつらを家に入れたくはなかった。理由としては何となく、というのもあるがやはり──

 

「ボロいだろ、うち。」

 

「いえっ、そんなことは!」

 

物珍しそうに見回しているところに声をかけると、慌てたようにそう返された。

図星だったのだろう。そりゃあそうだ、うちは他の家と比べてもボロく見えるのにあの立派なマンションと比べたのならもはや別世界の様なものだろう。

 

居心地が悪くなってしまったのか、手をわたわたさせながらさらに言いつのる。

 

「そのですね、ちょっと前までは私達もこんな感じの家に住んでいたので、その、懐かしかったというか…。」

 

「へえ、そうなのか?じゃあ今は何であんな──」

 

「カレー出来たよ!」

 

「食べたいです!らいはちゃん、手伝いますよ!」

 

「じ、じゃあ私も…。」

 

「ありがとうございます、えっと…。」

 

「四葉ですよ、らいはちゃん。私の姉です!」

 

「四葉さんっ、ありがとうございます!」

 

カレーという言葉にそれまでの会話をまるっと忘れてしまったかのように笑顔でぱたぱたとらいはの方にかけていった後ろ姿を見つめながら今の会話について考える。それが本当であるのなら、何故急にあんなthe.金持ちみたいなマンションに住むようになったのだろう。

 

…いや、あまり考えるのは止めておこう。恐らく家庭の事情だろうし、きっとろくなものではないのだろう。

 

ふと、五月とらいはに挟まれて少し困ったような顔をしている四葉を見て思った。五月が言っていた四葉と今目の前にいる四葉は全く別人のように思える。

 

そうなってしまったのも、そこに理由があるのだろうか。思えば、あの食堂で自分に声をかけてきた五月も今と比べると随分と不安定だった。

 

笑っていたとしても此方の何気ない一言ですぐに不安を募らせて泣きそうになってしまうような状態だったのだ。

 

四葉も、同じ様な状態なのだろうか。俺は何かに怯えているようだと思ったが、それに加えてよくよく思い出してみるとこの子の表情が大きく動いたところを見た覚えがない。

 

それに関しては三玖もそうだが、四葉はなにか違う。何だろうな、無理矢理押し殺してるとでも言えばいいのか、そんな感じがするのだ。

 

俺は他人だ、この子達の家庭の事情は知らないし、踏み込んでいくべきでもない。

 

ただ、五月はまだ不安定とはいえ自然に笑うようになってくれた。自惚れではないが、その原因となったのは俺だとも思っている。

なら、他人ならば他人なりになにか出来ないかと、そう思うのだ。

 

…一応、家庭教師だしな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…雨だ。」

 

「…雨ですね。」

 

「土砂降りだね~、あ、雷。」

 

「…どうしよう。」

 

「五月ちゃんも四葉ちゃんも泊まってけ!遠慮は要らねぇよ、風太郎が床で寝ればすむことだからな!」

 

夕飯を食べ終えて、五月と四葉が帰ろうとした時に狙いすましたように降り始めた大雨、ご丁寧に雷と強風のおまけ付きでタクシーは来られないらしい。

 

おんぼろの我が家は先程から風にあおられてギシギシいっている。流石に壊れはしないと分かっているが、それでもうるさいものは煩いし、聞く人によっては怖いだろう。

 

結局泊まることになってしまった二人は、もう家に連絡を済ませて、今は布団を敷くのを手伝っているところだ。

 

うちには一応来客用の布団が一組あるが、それだけだ。人数的に布団が足りない、親父がいった通り本当に床で寝るはめになりそうだ。

 

流石に枕だけはと親父のものを強奪し、寝転がっても大丈夫そうな場所を探していたが、泊めてもらう側なのにそんなことをしては申し訳なさすぎて寝れないと四葉と五月が言ってきたので、その二人が一つの布団で寝る、ということに落ち着いた。

 

 

 

布団が一つ増えたことで、ただでさえ狭い我が家が今夜は特に狭い気がする。もう既に電気は消えており、時刻は深夜もいいとこだ。

角度的に時計は見えないが、日付はもう変わったのだろうか。

 

全く衰えることなく吹く風は今も家に鈍い音を響かせ続けている。

どうにも目が冴えてしまって眠れない。疲れている筈だが、今日はそれ以上に衝撃的な出来事が多すぎたからだろうか。

 

眠れない以上はずっとこうしていても仕方ない、少し勉強でもしようと起き上がると、隣で同じ様に起き上がる姿があった。

 

「四葉、どうした?」

 

「…分かるんですね、リボンつけてないのに。」

 

暗くてよく見えないが、驚いている気配は伝わってきた。それにしても、だ。見分けるのは簡単だと思うが。

 

「当たり前だろ、顔は同じでも違うところがあるからな。」

 

例えばこの二人だったら髪の長さとかな、そうでなくてもアホ毛のあるなしですぐ分かるだろう。

そう言うと、四葉は息を飲むような音をさせた。

 

「上杉さん、聞きたいことがあるんです。

良いですか?」

 

断ってはいけない、茶化してはいけない。決して強い言い方ではないが、そのような雰囲気だ。不思議とこちらも背筋がのびてしまうような気がした。

 

「上杉さんは、どうしてそんなに笑えるんですか?…前をむけるんですか?」

 

「…、すまん、質問が抽象的すぎて何が言いたいのか。」

 

「上杉さんのお母さん、もう…いないんですよね。」

 

どうして四葉がそれを知っている、五月にも言っていない筈だ。それなら四葉はもしかして───

 

そこまで考えていや、と内心首を振った。よくよく考えてみれば、家の中にもう母さんがいないと分かる、または推測出来るものなんて幾つもある。大方それらを見て推測したのだろう。

 

そしてこれを聞けばもう分かる、四葉が、この子達の不安定さは母親が亡くなったことが原因なのだろう。その気持ちは痛いほどよく分かる。

何か適当なことをいって煙にまくことはできる、普段ならそうするだろう。ただ…、今はそんなことはするべきではないのだろう。

 

「時間が解決してくれるもんだ、どんな傷だって時間がたてば薄れていくもんだ。」

 

「そう…、ですか。」

 

四葉の声が明らかに落ちこんだようなものとなる、それはそうだ。“今”を苦しむ奴はそんな言葉は求めていないのだから。

 

「…なんて言う人は多いだろうな。」

 

「え?」

 

時の流れは確かに多くの物を洗い流していく。どれだけ大切だと、手放したくないと思ったものでも、いずれは薄れていってしまうのだろう。

…だが、それがどうした?

あれほどの後悔を、悲しみを消し去ってしまう術を俺は知らない。

たとえ薄れていくとしても、想い続ける限りいつだってそれらは隣にあるのだ。

 

「悲しみは消えない、後悔も消えない、もう届かないんだから。

最初は下を向いたって良い。だけどいつかは前を向かなきゃならないんだ。

俺の場合は、そうだな。切っ掛けがあった。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…何を聞いているんだろう、私は。

 

私にとってのお母さんは、大好きで大切で、いつまでも一緒にいてほしい人で。

風太郎君との約束から、私の頑張る目標だった。

 

不思議だった、風太郎君も、そのお父さんも、らいはちゃんでさえ今が楽しいという風に笑っている。

どうして笑えるの?なくしたものの大きさは同じ筈なのに。

忘れちゃったから?思い出さなくなったから?…だとしたら、やだな。

 

「悲しみは消えない、後悔も消えない、もう届かないんだから。

最初は下を向いたって良い。だけどいつかは前を向かなきゃならないんだ。

俺の場合は、そうだな。切っ掛けがあった。」

 

私は、前を向けるのだろうか。約束したのに、お母さんになにもできずに、ただやった気になっていただけなのに。

 

…顔向けが、出来ない。母親と、風太郎への申し訳なさに自然と頭が下がるが、ふと風太郎の言葉の中に気になる物を見つけた。

 

「切っ掛け?」

 

「あぁ、そうさ。何もかも嫌で、自棄になっていた俺を変えてくれた約束だ。」

 

その気持ちをなんて言うのだろう。歓喜?それとも恐怖だろうか。心の中を言葉にできないような感情が暴れまわっているような感触。

 

覚えていないと思った。だって自分を見ても、顔が同じ姉妹達を見ても何の反応も示さなかったから。

でも、覚えていた。覚えていてくれたんだ。

あの時勉強は苦手だと言っていたのに、今は家庭教師をやる程になっている。

きっと凄く努力したんだろう。…自分とは、違って。

 

「上杉さんは、その女の子が約束を守れていなかったらどう思いますか?

…頑張っても、勉強が出来ないんだったらどう思いますか。」

 

…私はどう答えて欲しいのだろう。きっともう突き放して欲しいのだ。

他でもない上杉さんの口からそう聞けば、諦められるから。完全にもう、他人だって…

 

上杉さんが少し口を開く。

 

 

『おい、どうした

   ……大丈夫か?』

 

忘れなきゃ、いけないんだ

 

『大体あそこで御守り五つも買ったのがダメだったんじゃねーの?』

 

ちゃんと聞いて、ちゃんと……

 

『離すなよ、忘れるなよ。

 …絶対だ。』

 

…ぃやだ

 

『大切な人を笑わせてやれる大人になろう。

 二人でだ!』

 

嫌だ嫌だ!手離せないよ、聞きたくないよっ!

 

 

「あのっ、やっぱりっ。」

 

「頑張ったんだろ?ならいいじゃねぇか。

俺はあの子が笑っててくれればいいんだ。」

 

「…え?」

 

「あの約束は、あの子に俺みたいになって欲しくなかったからしたんだよ。

…母さんに、伝えたいことを伝えられなかった俺みたいに。

 

そのせいで、随分苦しめてしまったみたいだな。なぁ四葉、…悪かったな。」

 

「わ、私はちが…。」

 

「いいんだ、いいんだよ四葉。

お前の覚えているお母さんは笑ってるか?お前は、大好きだってちゃんと言えてたか?」

 

申し訳なさそうに眉を下げた上杉さんにそう言われ、思い出したのは姉妹皆に抱きつかれ囲まれて笑うお母さんの姿だった。

どうして今まで忘れていたのだろう。今までは自分が失敗したとき、悪いことをした時に怒った母や、困った顔をした母だけだったのに。

 

そうだ、いつもは笑わない母は私や姉妹達に大好きだと、そう言われたときは必ず笑っていた。

 

「でも、私はお母さんになにも返せなかった!」

 

「それは違うぜ、四葉ちゃん。」 

 

その叫びに答えたのは、目の前の風太郎ではなく少し離れた場所に寝ていた勇也だった。のっそりと状態を起こしてこちらを見る。夕食の際に見せていた快活に笑っていた表情とはまた違う、しかし温かみを感じさせる笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。

 

「親ってのはなぁ、子供にそう言ってもらえるだけで報われるんだ。幸せでいてくれればそれでいいんだ。

間違っても何も出来なかったなんて言っちゃいけねぇんだよ。」

 

それだけ言うと、外の空気吸ってくるわ、と言ってポン、と四葉の頭に手を置いた後本当に出ていってしまった。暗く、静まり返った家の中にガチャリと扉の閉まる音が響く。

 

「なぁ四葉、俺はお前のおかげで変われたんだ、お前の笑顔に救われたんだ。

お前の母親だってそうだった筈だ。

自分を責めないでくれ、

…笑っていてくれないか。」

 

…あぁ、どうしてこの人は、本当に私が痛がっているときに、助けてほしいときに隣に来てくれるんだろうか。

 

「わたし、お母さんのためになってた?」

 

「あぁ。」

 

「ダメじゃないの?」

 

「あぁ。」

 

「風太郎君は、私のこと馬鹿にしない?嫌いにならない?」

 

「なるわけないだろ、むしろ感謝してるんだ。」

 

俺と出会ってくれてありがとう、そう言って笑う彼に、あの夜の金髪の男の子が重なった。

そこまでくると、もう、無理だった。

 

凍った心が溶けていく、今すぐ思うままに泣きたい、と体は言うが、それは出来ないのだ。

 

──だって“笑ってくれ”と言われたから。

 

だから私は泣くんじゃなくて──

 

 

 

 

勇也が戻って来て目にしたのは、相も変わらず良い姿勢で眠りにつく息子と、それにしがみつくようにして寝る一人の少女の姿だった。その表情は起きていたときと同一人物とは思えないほどに緩んでいる。

 

「…こりゃあ予想以上だなぁおい。」

 

息子の思いがけないたらしっぷりに頬をひきつらせるが、それも一瞬。穏やかな表情になっていた。勇也自身も、この不安定な少女を

気にかけていたのだから。

 

…いつの間にか雨はやみ、風も止まっていた。

 

 

 

 

次の日風太郎は四葉に顔を蹴り飛ばされて起床し、その様子を見た五月が騒いだのは言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 



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11話

どうしたものか、と校門を通りながら考える。夏休み前のテストの開始まで今日であと一週間。日程は確認していたので、高校と小学校でテスト開始日が同じであることはわかっている。教科的な問題で小学校のテストは一日で終わるのだが…、そんなことは別に考えなくてもいいだろう。

「風太郎くん!」

自分の勉強はいいのだ、とっくのとうに全範囲の勉強を終えている。なんだったら今からやれと言われたって全教科で満点を取って見せることだって可能だろう。

…問題はあの五つ子どもだ。

「あ、あれ?聞こえてない?ふうたろうくん?」

あれからどうにかこうにか全員集めて実力確認のためテストを受けさせる事に成功した。そこまでは良かったのだが、結果は惨憺たるものだった。なんと5人の点数の合計で何とか100点を少し超えたところという実際に合計点を自分で計算していなければ信じられないような結果だったのだ。唯一の救いは五月が点数を稼いでいてくれたところだろう。それがなかったなら5人で100点にも届いていなかった可能性すらある。

取りあえず何かの役に立つかと思って全員がどの問題ができてどれができなかったか纏めたノートを取り出してみる。

見渡すばかりの×印に頭痛がしてきた気がして眉間を揉む。そうやってもう一度見返してみても結果は変わらないままだ。

「風太郎君!無視するならこっちにも考えがありますよ!」

特に四葉だ、こんな簡単なテストで一桁を取ってくれるとはさすがに思わなかった。いや、他も五月を除いて団栗の背比べみたいなもんなんだが、流石に一桁は絶望的な何かを感じざるを得ない。

「とうっ!」

「ぐはっ!」

考え事をしながら歩いていたせいで、後ろから突っ込んできた四葉に気づくことが出来ずに腰にまともに突進を食らってしまった。

その衝撃で取り落としてしまったノートを拾いなおし、上機嫌そうに腰に引っ付いていた四葉をその頭についているリボンを掴んで引きはがす。

「なんだよ四葉、今お前のせいで頭痛してるんだから腰まで同じにしないでくれ。」

「ぇぇえええ⁈大丈夫ですか?」

「大丈夫…、と言いたいとこなんだけどな。」

先ほどまでは暗いことばかり考えていたが、明るいことだってある。それが今俺にタックルをくらわせた上で全く悪びれずにニコニコ笑っている四葉だ。

俺の家に泊まってからというもの、四葉は最初の元気のなさが嘘のように元気になった。まさに五月が言っていた性格に戻った訳だ。

自分としても四葉があの京都で会った少女その人だとわかって嬉しかった。もう一度会いたい、お礼を言いたいと思ってはいたものの、本当に会えるとはあまり思っていなかったのだ。結局あの時こいつが“また”といったのはその通りになった。

考えてみれば、俺が初めて五月に会ったときに感じたあの似ている、という感じは正しかったわけだ。それならなんで四葉にあったときに気づかなかったんだという話なのだが、それは四葉の様子があの時と全然違ったからだろう。

あの京都の子は、楽しそうに、よく笑う子だった。それは今も変わっていない。元に戻った四葉は、記憶にあるのと全く同じ笑顔でよく笑うんだ。本当に良かったと思う。

柄にもなく色々なことを言ったが、それはそれで良かったのだろう。

…会う度に突撃してくるのはやめてほしいが、俺の身が持たん。

その思いを込めて四葉を見ると、キョトンとした顔をした後、何かを思いついた様子で手を打った。

「どうしたんですか、風太郎君…。

あ!喉が渇いたんですね!じゃあこの四葉がひとっ走りいって───」

全く伝わっていない、俺は本当に走り出そうとした四葉の首根っこを捕まえて、気になったことを尋ねてみる。

「それで?五月はどうした。こういう時はいつも一緒だろ。」

不満そうな顔をしていた四葉がそれを聞くと、さっと顔をそらした。おまけに下手糞な口笛まで吹いている。

「…おい。」

「お、置いてきちゃいました。走ってきたので…。」

「はぁ、やっぱりな。」

「あ、やめてください、リボンは!リボンだけはー!」

お仕置に頭から生えているリボンを引っこ抜いて校門のほうを振り返ると、ちょうど少し涙目になった五月が走ってくるところだった。

「よ、四葉ぁ、ひどいじゃないですか…。」

「ご、ごめんごめん…。」

「それは前も聞きましたよっ!」

まったくもうっとお冠な五月だが、朝起きて四葉が元気になった姿を見たときはそれはもう喜んでいた。その喜びようといったらよく事情の分かっていないらいはがつられてしまうほどだった。

その時のことを思い出して笑っていると、五月に不満そうな顔を向けられた。

「上杉君も笑ってないで何か言ってください!四葉に走られたらぜったいについていけないんですよっ。」

「分かった分かっただから落ち着け…。四葉、五月を置いて一人で走ってくるんじゃない。迷子になるだろ、五月が。」

「気を付けます!」

「なりませんよ迷子になんて!四葉はホントにわかってるんですか?」

「分かってるよ~。」

少し前までは考えもしなかったほどこの頃の帰り道は騒々しい。それに疲れる。五月だけならまだ良かったのだが、元気すぎる四葉が加わったせいで、非常に疲れる。

 

 

…ただ、なんだろうな。

「風太郎君!五月!早く来ないとおいてっちゃいますよー!」

「ほら、行きましょうよ上杉君。」

──こんなのも、悪くはないな。

自分の口がほんの少し笑ってしまっていることには気づいていない風太郎であった。

 

「さて、目標を決めようか。」

「目標ですか?」

「そうだ、本当なら全部の教科での赤点の回避、と言いたかったんだがそれは無理だとここ数日でいやって程分かった。」

そう言ってリビングにはいるものの勉強道具を出さずに遊んでいる一花をギロリとにらんだ、するとやれやれというような仕草をしてやっと勉強道具を出し始めた。うぜえ。

「しょうがないなぁフータロー君は。」

しまいには口に出してそんなことを言い出した一花を横目に、本題に入る。

「はぁ…、だから全部じゃなくて2つ、出来たら3つの赤点回避を目標にしていこうってことだ。今からその教科を自分で決めて勉強するのをそれに絞るぞ。」

ちなみに、こいつらのテストは五科目、つまり英数国理社全部ある。…小学校なのに英語のテストがあるんだぞ?驚きだね。

まあ内容としては全く難しくはないんだが、こいつらにとっては未知の言語なのでちんぷんかんぷんらしい。

まあ最初はそうだよな。

「わたしは理科と国語と…、英語にします。」

「じゃあ私は国語と社会と、んーと、国語!」

「おい、国語二回言ったぞ。」

「え?えへへ…、じゃあ理科で…。」

 

「私はねー、算数と理科と…、英語かな。」

 

「よし、じゃあやってくぞ。」

 

各々自分の得意とする教科を選んだようだ。まぁ得意と言っても今の時点ではギリギリ赤点くらいのものなのだが…。

 

まぁそれでもやる気があるのは良いことだ。勉強は正しい努力をすればやった分だけのびる。なかには全く努力をしないでも良い成績を叩き出すものもいるにはいるが、そうでないのだがら、一歩一歩歩いていくしかないのだろう。

 

さて、ここにいる三人は、意外なことに一花もなんだかんだ言いながらもちゃんとやっている。このままいけば二科目、もしかしたら三科目の赤点を回避できるかもしれない。

 

問題は後の二人だ。

 

二乃は今日もいない、どうも友達と遊びにいってるとかなんとか。ただもう五時過ぎてんだよな…、最近の小学生って夜遊びすんの?

 

三玖は今自室にいるらしい。

居るのなら参加してもらいたい。呼びにいくか。

 

「三玖を呼びに行こうと思うんだが…、先に聞いておきたいとこあるか?」

 

「はいはい!ここわからないです!ここ!」

 

「どこだ?…おい、それ以前の問題だぞ。

このライトはRじゃなくてLだ。」

 

「あっ…、何回目でしたっけ…?」

 

「五回目だな。」

 

「す、すみません…。」

 

本人がしょぼんとうつむくのに同調するように頭のリボンも萎れている。五月のアホ毛といいこのリボンといい…、この姉妹はどうなってるんだ。

 

萎れてしまったリボンを直してやる。

 

「まぁ気にすんな、出来るまでやれば良いんだ。」

 

「は、はい!」

 

「四葉、本当に元気になったよね。」

 

「はい、よかった、良かったです…。」

 

「わっ、五月ちゃん泣いてる!?」

 

 

 

 

「フータロー君。」

 

二階に上がる階段の途中で一花に呼び止められた。質問かと思ったが、問題を持ってきているわけではないしそうではないらしい。

 

五月も四葉も此方が気になるようでちらちらと目線を送ってきている。早く戻れ、そう言おうとしたが、いつになく真面目な表情の一花を見て、ぐっと思い止まった。

 

「なんだ?」

 

「四葉のこと、ありがとね。

五月ちゃんも四葉も何もいってなかったけど、フータロー君がなにかしてくれたんでしょ?」

 

「俺は…、いや、確かにそんなところだな。」

 

「五月ちゃんが元気になったのも君のおかげだ、本当にありがとう。

…本当は、家族で、お姉ちゃんの私がやるべきだったから。」

 

風太郎は目をしばたたかせた。どうやら自分は中野一花という少女の一面しか見ていなかったらしい。悪戯好きというか、うざったい所しかないやつで基本素直な五月とは似ていないなと思っていたが、こんな一面もあったらしい。

 

「おお…、お前真面目な話もできたんだな、見直したぞ。」

 

「んなっ!失礼な、私だってちゃんとしたら出来るんだからね!」

 

「あぁ、そうみたいだ。お前はお姉ちゃんだ。ちゃんと長女してんだな。」

 

そう言って笑うと、一花はさっとそっぽを向いて何か口の中でごにょごにょと言い出した。

 

「べ、別に…。そんなの当然だよ…。」

 

どうやら照れてるらしい。その横顔を見ていると、ふと悪戯心が沸き上がってきてしまった。普段散々やられているお返しだ、と笑みを口元にたたえて思うままに実行に移す。

 

「なんだ?照れてるのか?珍しいなぁ。」

 

そう言いながら額をつついてやると、顔を真っ赤にして、ち、ちがうもん!と言って四葉と五月の下に勢いよく戻っていってしまった。満足である。

 

 

 

 

 

さて、三玖の部屋の前についたのだが…、こいつは初日からいつも家にいるのにも関わらず、勉強に参加しようとしない。

 

今日こそは!と意気込んでドアを叩くも、返事がない。聞こえなかったのかともう一度叩いたが、何も反応がない。

 

さては初日の二乃のパターンかとおもい、取り敢えず部屋の中を確認してみるかとおもい、ドアを開けた。鍵はかかっておらず、すんなりと開いた。

 

それでも何の反応もなかったので、やはり居ないのかと一瞬思ったが、そうではなかった。

 

三玖はつけっぱなしのゲームのモニターの前に突っ伏して寝ていた。近づいてよく見てみると、何のゲームかはその特徴的な画面ですぐに分かった。

 

「歴史モノ…、戦国武将のゲームか。」

 

その声で、もしくは気配を感じたのか、三玖がもぞもぞと動きだし、顔を上げた。

 

「ん………?」

 

寝ぼけているようで目の焦点が合っていなかったが、目の前のゲーム画面と俺の顔を何度も繰り返し見た後、血相を変えて俺の腕を掴んだ。

 

「……見た?」

 

いや、見てないといったらダメだろうか。

 

…ダメなんだろうな。

 

 



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12話

日間ランキング6位…?
何か見間違いでもしているのでしょうか。


気に入らない、認めない、絶対に認めたくない。

荒々しくエレベーターのボタンを叩く。

一つ、また一つと近づいてくる数字を見ながら唇をかみしめる。本当は分かっているのだ。五月があれほどなついている時点で悪い人ではないなんてことは。

 

でも、言葉巧みに騙されている線がないとは言い切れない。いや、ちゃんと見るまでは絶対にそうだと決めつけてかかっていたが、見ているうちにそんなことはないことくらいは嫌でも理解させられた。  

──悪い人どころか、いい人、お人よしに分類されることだって本当はもう分かっているのだ。

そこまで分かってなお反抗の姿勢を見せるのは、つまらない意地のようなものだった。

どんなものだろうと、誰だろうと自分たち五人の中に入ってくることはできない、そんなことは許さない。そんな意地だった。

どこか抜けている姉、そして世間知らずで可愛らしい妹たちを近づいてくる不逞の輩から守らなければ、そう決意して、のこのこやってきた家庭教師には睡眠薬を飲ませて追い返し、その後も徹底的に反抗を続けた。

そのことで妹に何と言われようと、それが彼女たちのためになるんだと信じて、そう自分に言い聞かせて。

───そして、いつの間にか引き返せないところまで来てしまっていた。

気がつけば、私は一人だけ置いて行かれてた。

家に帰ると、リビングでの勉強会はまだ続けられていた。…勉強会というには教えている一人以外の目が死んできているので違うような気がしないでもない。強いて言うなら地獄のしごき、とでも言うべきだろうか。

まぁそんなことは大した問題ではないのだ、問題なのはなぜこんな時間になってもあの家庭教師は図々しく居座っているのか、ということと、家には居るが、自分と同じく授業への参加を拒み続けているものだとばかり思っていた三玖がそこにいたことだ。

「なんっっでっ……。」

脇目もふらずに自室に駆け込んだ。いや、逃げ込んだといったほうがいいかもしれない。実際に二乃はその光景から逃げ出したかったのだ。だってそれは、自分が一番恐れていたものだったから。

自分が、自分の行動のせいで決してそこには入ることができなくなってしまった光景だったから。

中野二乃という少女は、周囲に見せる苛烈な性格とは裏腹にその本質はとても弱いのである。姉妹を、自分の家族たちを大切に思うあまりに家族に近づいてくるものには過剰反応をしてしまうが、自分が大切だ、と思った相手に嫌われることを極端に怖がる少女なのだ。

今までは彼女の姉妹たちも、その二乃の過剰と言えるほどの対応を気にしていなかった。近づいてくる者たちは彼女たちにとってどうでもいいばか者ばかりであったし、何より実際ろくでもない奴らが多かったから。

だが今回は、仕掛けた相手が悪かった。風太郎にはもともと五月が尋常ではないレベルで懐いており、それに加えて直ぐに一花、四葉も懐いた。特に、五月と四葉は詳しくは話してくれなかったが、風太郎の家に泊まってから四葉は以前のように笑うようになった。

きっと彼のおかげなのだろう。そう誰でも思うだろう。でも、そう気づき、お礼を言わなければと思ったのはあれだけ反抗して、いやなことを言って、果ては睡眠薬まで飲ませてしまった後だった。

引くに引けない、その状況を一言で表すならこれだろう。

ただ、ずるずるとその状況を引きずってしまう彼女は大切なことに気づいていなかった。その彼女の“強さ”を振るう目的が、家族を守るためからいつの間にか自分を守るために変わってしまっていたことに。

 

「あれ、二乃帰ってきたね。」

先程まで死んだように机に突っ伏していた一花が組んだ腕の上に自分の顎を載せる、というだらけ切った姿勢でそう切り出した。もうすっかり勉強する気はないらしい。まぁさっきまでは真面目にやっていたし良しとするか。…この後もあるしな。

「二乃、やっぱり出ないんだね。

…呼んでこようかな。」

 

「ほんの数日前まで参加してなかったお前からそんな言葉が聞けるとはな…?」

 

「う、うるさいもん。フータローのバカ。」

 

今日は試験前最後の土日を前日に控えた金曜日。風太郎としてもここで追い上げておきたいという思惑があったこともあり、一花が急に言い出した“泊まっていかない?”という提案にのっている。言い出した本人は早速その軽はずみな提案を後悔し始めているところであるが。

 

段々と一花も察し始めた通り風太郎には“これで今日はみっちり勉強ができるぜ!”という思考しかない。さすがのフータロー君も少しくらいは遊んでくれるんじゃないかな?という甘い考えはこのままでは実現することなく散るだろう。

 

とにかく、今日はいつもならもう帰ってる時間になっても中野家に残って勉強を教えられる日なのだ。だから、今日はいつもは顔を合わすことすらしてくれない二乃と話すことが出来る、そしてあわよくば勉強に参加させようと思っていた。

 

…その目論みは初っぱなから躓いたわけだが。

 

それでも、“部屋に行っちゃったなぁ、じゃあ諦めるか”というわけにはいかない。とにかく今日がテスト前に二乃とまともに話ができる最後のチャンスかもしれないのだ。限界まで食い下がってやろう、と思い立つ。

「二乃は俺が呼びに行く、疲れただろうし暫く休憩にしよう。」

休憩の一言に思いっきり脱力する者や、まだあるのかと文句を垂れる者、そしていそいそとお菓子を取り出す者…、おい、夕飯入らなくなるぞ。

さて行こうかと腰を上げると、机の上に伸びていた四葉もい、一緒に行きます!と言って立ち上がった。

一人で行くつもりだったがまあいいか、二乃は俺に対してのあたりが強いから、四葉がいてくれたら多少ましになるかもしれない。

さて、行きますか。

今度はどんな断り文句と罵倒が飛んでくるんだろうか。小学生だから言い負かすのは簡単なのだがそんなことはしたくない。

…取りあえず今日はまともに話を聞いてくれることを祈るとしようか。

コンコン、と部屋のドアをノックする。

「二乃、いるか?」

「…なによ、気安く呼ばないで。」

ドアを開くこともせずに中から声が返ってきた。心なしかその声にいつもよりも勢いがないように感じる。

「なあ、授業に参加───

「しないわ、早く帰って。」

バッサリ切られた、取り付く島もないとはこのことだろう。横にいる四葉がむっとしたような顔をして口を開こうとしたがそれを手で制して言葉を重ねる。

「なあ二乃、なにが気に入らないんだ?言ってくれれば直して──

「うるさいっ!!」

叫び声とともにドアが勢いよく開かれる。それをなした本人は唇をかみ、顔を真っ赤にしてこちらを睨みつけていた。

「なんでまだここにいるのよっ!早く出ていきなさいよっ!!」

そういって俺のことを思いっきり引っ張って一階に向かわせようと、自分の部屋から遠ざけようとする。どうにも、見たことのない姉の様子に戸惑っている後ろの四葉の存在にも気づいていないようだ。

「あんたが来たからみんなおかしくなった!五人だけの家族なのに!ここにいていいのはママだけなのにっっ!」

「おい二乃、」

「うるさいっ!あんたが悪いのよ!あんたが──」

癇癪を起こしたように喚く二乃。標的にされているのは自分だ、完全に理不尽なのでここは怒るべきなのだろうが、なぜだかそんな気にはならなかった。代わりに、“それ以上言わせてはいけない”という直感めいたものが浮かんでくる。

「おい、──」

だめだ、とそう言おうとしたが間に合わなかった。ダメもとで伸ばしてみた手だって間に合わない。そしてその言葉は放たれる。

「──あんたなんていなければ良かったのにっ!」

「…二乃?」

俺の横からかけられた声に二乃の動きがピタリと止まる。そうせざるを得ない程の迫力と重みがその一言には籠められていたのだ。

二乃は恐る恐る、といった風にそちらを向く。そちらには目に怒りをいっぱいに湛えた四葉の姿があった。

「なんで、そんなこと言うの?」

「……」

「風太郎君に謝ってよっ!」

二乃の表情が痛みに耐えるようにくしゃりと歪む、いつの間にか五月も四葉のそばに来ていて、二乃を非難するようにそちらを見ている。そして階段のほうからは一花と三玖もこちらを見ている。

空気としては最悪だ。今日はもう二乃を参加させるのは無理だろうと思い、ともかく今はこの場を収めることを最優先にして口を開く。

「四葉、五月落ち着け。大丈夫だから、な?」

なにが大丈夫なのか自分でもよくわからないが、そう口にする。俺も思っているよりもずっとこの状況に動揺しているらしい。

家族ではない、言い方は悪いが部外者の自分でこうなら、こいつらの動揺はどれほどだろうか。

「風太郎君、でも…。」

「そうですよ上杉君!二乃は…」

言い募る二人の頭に手を置き、頼むからと、そういうと二人のまとっていた剣呑な空気が少し和らいだ。

しかしそれにほっとしたのもつかの間、事態はそれでは終わらなかった。

「なによ…、皆そいつの味方ばっかして!」

その一言に、落ち着きかけていた四葉と五月のまとう空気が再び険しいものに変わる。

「に、二乃落ち着いて。ほら四葉と五月ちゃんも、ね?」

流石に見かねたのか間に一花が割って入る。だが、そのフォローが功をなすことはなかった。

「…うるさい、うるさいうるさいっ!

皆…、みんな嫌いよ!」

「二乃っ」

「うるさいっ!もうこんな家出て行ってやる!」

そういうと、二乃は一花の制止も聞かずに横をすり抜けて本当に出て行ってしまった。バタンと勢いよく閉められたドアの音だけが家の中に響いた。

 

 

「どうしよう…」

大分日が長くなってきている季節にもかかわらず、辺りはもう夕闇が迫ってきている。それと自分一人であるということが余計に不安をあおる。これで寒い時期だったなら最悪だっただろう。

少しでも気を抜けば泣いてしまいそうになるのを必死にこらえて歩く。勢いよく飛び出してきたのはいいが、行く当てなどないのだ。友達の家に行こうにも徒歩圏内にはないし、何も考えずに出てきたので財布の類は何も持っていないのだ。なお悪いことに携帯まで置いてきてしまった。

「もう…、帰れないし。」

途方に暮れて立ち止まる、もう周りを気にせず思うまま泣いてしまおうか、そう普段の彼女ならば絶対に考えないことを考えてしまっている。

しかし思うがままに、と行動に移そうとしたとき、二乃に声がかかった。

 

 

「あれ、五月さん?」

 

 

 



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番外?ー1

風太郎と三玖のお話です


昔からずっと、自分に自信が持てないでいた。私には一花みたいな社交的で皆に好かれるような性格もないし、二乃みたいに強く、堂々としていられるわけでもない。四葉みたいに運動ができて皆に優しくなんてできないし、五月みたいに決めたことをやり抜けるような真面目さもない。

私の姉妹達は皆に沢山、たくさん凄いところ、誇れるところがあるのに私にだけ何もない。最初は皆同じ横並びで一緒に歩いていたのに、一人また一人と早歩きになり、小走りとなり、そして走ることができない私だけが置いて行かれた。

置いて行かれるのは怖い、一人になるのは怖かったから精一杯走ろうとして、皆に追いつこうと頑張ったけど、足がもつれて転んでしまった。

…そして、痛みに耐えて起き上がった時にはもう手遅れだった。

皆に置いて行かれてる、と気づいたのはいつのことだっただろうか。正直に言えばはっきりとは覚えていない。でも多分ずっと前。お母さんが私の誕生日にこのヘッドホンをくれた頃のことだったと思う。

今思えば、お母さんは私がこんな事を考えてしまっていることに気づいていたのかもしれない。私はお母さんがくれたヘッドホンを付けている間はオドオドせずにすんでいたし、落ち着いていられた。

だってこれをつければ周りの音は聞こえないし、それだったら視線だってあんまり気にならないから。

つけていなかったら、周囲の視線を感じる度に馬鹿にされてるんじゃないかと思ってしまう。蔑まれているんじゃないかと疑ってしまう。

…実際そんなことはないのは分かっている。だって周りの人みんなが私の事を知ってるわけじゃないし興味があるわけでもないから。

でも、怖いんだ。分かっていても、気づいていたとしても、それを実際に言葉にして叩きつけられたら私はきっとその痛みに耐えられない。立ち上がることが、出来ない。

……だって私は、私には皆みたいな強さなんてないから。

ヘッドホンはいつだって私の首にある。何度も転んだし、落としちゃったりもしたから傷だらけでもう音なんて聞こえないけど、これはお母さんがくれたものだから。ずっと、ずっと弱い私を守ってくれてるものだから。

まだこの先もずっと、私はきっとこのヘッドホンを手放せないのだろう、ずっと、頼ったままなのだろう。

私が何かに寄りかからず立てる日なんて、一人でちゃんと歩ける日なんて来るのだろうか。

 

…寂しい、何時だって私は膝を抱えて泣いている昔のまま変われていない。皆が次々と殻を破って翼を羽ばたかせたり大空を飛ぶことを夢見たりしているのに自分だけ卵の中から出ることすら怖がって出来ないでいる。

皆当たり前のようにやっていることだけど、踏み出すことってとても、とても怖いことだ。

 

家庭教師がくるって、急に五月から知らされた。

…どうしたらいいんだろう。家庭教師なんていらない、来てほしくない。

戦国武将のことなら四葉がくれたゲームが面白くてやってるうちにたくさん覚えたけど、それだけだ。

他は全くできない。だから、戦国時代のことだけ出来ることなんて直ぐにばれてしまうだろう。

そして、馬鹿にされるのだろう。変だって。私だってそう思う。周りの人はテレビに出てくる俳優やアイドルが好きだっていう人ばっかりなのに、私だけ好きなのは髭のおじさんだから。

でも直接言われるのは、やだな。聞きたく、ないな。

じゃあどうすればいい?簡単だ、拒絶すればいいんだ。出来るだけ冷たい表情で、冷たい声音で。弱いところも怯えてるところだって見せないように心に殻をかぶせて。

 

不安になったら首元のお守りに手を添えて。

教師の人が出て行った部屋で一人ヘッドホンをつける。

 

 

 

 

…ほら、これで何も聞こえない。

 

 

「………ぅう?」

部屋に誰かが入ってきた気がして目が覚めた。まだぼんやりとしたままの頭を振りながら後ろを見ると、家庭教師の人がいた。勝手に入って来たのか、そのことに少しむっとしながらいつものように断りの言葉を放とうと思って口を開いた。

 

でも、あれ?その視線は私でないところに向いている。

その視線の先をたどってみると──

つけっぱなしの戦国武将のゲーム画面があった。

「っっ!?!?」

慌てて画面を消し、教師の人の方を振り返って必死に聞く。

「………見た?」

「ああ、勝手に見て悪かった。

その、好きなのか?戦国武将。」

見られてた、見られてた見られてた!

…ばれて、しまった。

「うん、変だよね?……笑ってくれて、いいよ。」

知ってる、知ってるもん。変だってこと。ヘッドホンを握りしめながら次に降ってくるであろう言葉を待つ。覚悟を決めて、せめてその言葉で立ち上がれなくならないように。

「は?変じゃないだろ。寧ろいいことじゃないか、好きなことがあるのは。」

だからだろう、かけられた言葉の意味が一瞬分からなかった。

俺には何もないからな、という教師の人の方を向いてみる。

「変じゃ、ないの?」

「ああ、しかしそれなら三玖は歴史ができるのか?」

「う、うん。」

「おぉ、凄いな!じゃあ今日の授業の内容は歴史にするから───」

変じゃないのかな、良いことなのかな。私はこのことを誇っていいのかな。それに──

「…凄い?私が?」

「凄いだろ、なんでそんなに不安そうなんだ。」

笑いながらそう言ってくれた。思ってもみなかった、私が凄い、なんて言ってもらえるなんて。その言葉はいつだって他の人の物だったから。

嬉しい、 その優しい言葉に縋ってしまいたい。しかし俯いた拍子に顔に当たったヘッドホンの感触に急速に浮ついた頭を冷やしていく。

凄い、その言葉が自分に一番相応しくないことを私が一番分かっているのだ。両手でヘッドホンを掴んで顔を隠すように持ち上げる。

 

「私は、凄くなんてないよ。」

 

視線は下に、俯くことで前に垂れ下がった髪の毛で顔を隠す。

 

「歴史だって戦国時代のところしかできない。皆みたいな長所は私にはない。凄いのは、皆の方。」

 

きっとこの人だって私が勉強が、歴史が出来ると思ったから凄いといっただけ。別にそんなことはないと知ってたら凄いなんて言葉は出てこなかったはずだ。

 

視線がさらに下を向く、体が縮こまる。

 

「何言ってんだ、凄いだろ。」

 

「…え?」

 

「好きなこと一つに熱中できるってのはそれだけで才能だ。俺は羨ましいぞ、三玖のことが。」

 

その言葉と共に目の前で動いたような音にほんの少し目をあげると、視線を私と同じ高さにまで下げて少し困ったように微笑んでいる顔があった。俺にはそんなもの無いからな、と付け加えられた言葉に、目を瞬かせる。

家庭教師なんてやってるんだから勉強が好きなんだと思っていた。

 

「そうなの?」

 

「あぁ、戦国時代の事は一通り分かるが何が面白いのかまでは分からなかった。

だから、俺にも教えてくれないか?」

 

代わりに俺は他の教科を教えよう、面白いかどうかは分からないけどなと冗談めかして笑う。そんな顔が見ていられなくてまた下を向いた。

でも、気持ちは下を向いていない。

 

嬉しい、初めて自分の好きなものを肯定してくれた。嬉しい、初めて家族以外に凄いだなんて言われた。

…嬉しい、私の話を好きなものについて知りたいと言ってくれた。

 

「ふ、フータロー、今までごめんなさい。…授業、私も参加してもいい、かな?」

私でも出来るかな、頑張れるのかな。

「そうか、全然いいぞ。大歓迎だ!じゃあ下で待ってるから筆記用具だけ持ってきてくれ。」

そういうと立ち上がって部屋から出ていこうとするフータロー。言われた通り筆記用具を探そうとしたが、はっと大事なことに気づく。…まだ、お礼を言ってない。

「ま、待って!」

慌てて引き留めようと立ち上がったが、急だったのが祟ったのか足が椅子に引っ掛かり──

あ、と思った時にはもう手遅れだった。

「おい、大丈夫か!?」

結構派手に転んだからか、フータローが気づいて戻ってきてくれた。…大丈夫じゃない、受け身が取れなかったから打ったところが痛い。全身が痛い。

でも、そんなことは今は気にならなかった。首元が軽い、いつもと違う感覚に急に不安が押し寄せてくる。

「あ、ああああぁぁぁぁぁ…。」

お母さんがくれたヘッドホンが、壊れてしまっていた。

 

「うぅ…、ぐすっ、お母さんがくれたのなのに…。」

耳に当てる部分の片方と、他の部分が分離してしまった。ヘッドホンはそんな無残な姿をさらしていた。

どうしよう、これがなかったら。お母さん、お母さんお母さんっ!

…どうすればいいの…?

と、何故か二つに分かれてしまったヘッドホンをじっと見ていたフータローがちょっと貸してくれないか、と言って私の手からひょいとそれらを取り上げた。

「あっ、か、かえしてっ!」

抗議する私を宥めながら分離されてしまった二つを見比べていたフータローは、思いもよらなかったことを口にした。

「やっぱりか、これ最初から外れるように細工してあるぞ。」

「…………え?」

そういう商品じゃないと思うんだけどなと言いながらなおもヘッドホンを弄繰り回すフータローをしり目に、私は衝撃を受けていた。

元から外れるようになってた?じゃあ、直るの?

「フータロー、直せるの?」

「ああ、直せると思うぞ。ただ、なんか紙が中に入っててな…。」

見せてもらうと確かに入っている。結構奥の方だったから私より指が太いフータローでは取れなかったのかな。

「……取れたっ!」

折りたたまれているそれを、破ってしまわないように慎重に開いていく。結構昔の紙らしく、もろくなっているのだ。

開ききったその紙には短いものの何か書いてあって───

──そして、それはお母さんの字だった。

 

 

<三玖、貴方は好きになったもののために一生懸命になれる子です。

ゆっくりでも着実に進んでいける子です。

 

三玖、貴方は凄い子なんですよ。

前を向いて下さい。私はちゃんと見ていますからね。>

言葉が、出なかった。やっぱりお母さんは気づいていたんだ。それで、いつか私が気が付くようにこんなことを──

「こんなのっ、気が付くわけ、ないじゃんっ

お母さんっっ!。」

ポタリ、と紙のはしに水滴が落ちる。慌てて目をこするも、涙は止まってくれずにあとからあとから零れ出てくる。

 

そんな私の頭にふ、と安心する重みが乗った。ゆっくりと動くそれはまるでぐずる私をあやしてくれたお母さんの手のようで──

「う、あ、あ、ぁぁああああああああっ!」

それ以上堪えることなんて出来なかった。目の前のぬくもりに顔を埋めて泣きわめく。そんな私をフータローは何も言わずに受けとめて、私が泣き止むまで傍にいてくれた。

「フータロー、ありがとね。」

「…ああ、気にすんな。それより大丈夫か?」

私のせいで汚れた服を気にも留めずに私の心配をするフータローに少し笑いが零れる。

「うん、もうだいじょうぶ。」

「そうか」

 

「わっ、…えへへ。」

フータローはそういって笑い、またさっきと同じように頭を撫でてくれた。

本当に暖かい。こうされると安心するし、それになんだか顔が熱くなって胸が苦しくなる。

「あのね、フータロー。わたし頑張るよ。」

「?」

フータローは私の急な宣言に不思議そうな顔をしている。その顔が面白くて、少し笑ってしまった。

言いたいことが、あるんだ。きっと私が気づいていなかっただけで、お母さんはずっと私を見てくれてた。

…でも、もうお母さんはいないから。

お母さんは私を凄い子だっていってくれたけどやっぱり私は弱いから。だからね、フータロー

「だから見てて、ちゃんと、見ててね?」

「…あぁ、任せとけ。ずっと見ててやるよ。」

 

そう言ってフータローはにっと笑ってくれた。私も笑った思うけど、きっと泣いた後だから変な顔になっちゃってたと思う。

 

 

──私はまだ弱くて、何かに寄りかからないと立っていられないけど。

いつか、首に何もつけなくても大丈夫な日が来るだろうか。

…いつか、一人で、ちゃんと自分の足で立って横に並んで歩きたいから。

 

がんばるよ、だから────

「お母さんも、見ててね。」

きっと、きっと雲の上から見ててくれてる。

頑張りなさい、って

 

そんな声が聞こえた気がした。

 



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番外?ー2

中野家五つ子の長女、中野一花は基本的に自由奔放である。彼女の行動に規則性は無い、その時々の気分によって全く異なる選択肢をとるだろう。

同じように彼女が興味を向ける対象も、短い周期で移り変わっていく。長く続かない、という意味で“三日坊主”なんて言葉があるが、三日持てばいいほうだ、大体の場合次の日になれば違うものに興味は移っている。

その様子を見てまるで気まぐれな猫のようだ、なんて言ったのはどこの誰だっただろうか。

言い得て妙というのはこのことだろう。中野一花という少女の行動はまさに気まぐれな猫そのものだ。

しかし、ここ最近そんな彼女の興味を引き続ける存在がいる。何を隠そう、家庭教師として度々自宅にやってくる高校生である上杉風太郎の事だ。一花が風太郎に興味を抱き始めて早一か月がたとうとしている。基本的に三日も興味が続きやしない一花にとってはこの記録は驚異的である、いや、もはや空前絶後の出来事だといえる。

実は風太郎の何が彼女をこうまで惹きつけるのかは実は一花自身にもよく分かってはいないのだ。最初はかわいい妹である五月を元気にしてくれた人であるから近づいてみただけなのだから。

 

朝、布団を頭から被り起床を全力で拒否しながら覚醒しきらない頭の中で最近の興味の対象である頭の上に双葉を咲かせた変わった年上の家庭教師について思いを馳せる。なぜだか分からないが自分の興味を引き付けてやまない存在だ。

…なんでだろ?

きっとからかうと反応が面白いから、きっとそうだよね。普段はそっけない反応ばっかりだけど不意打ちした時は本当に面白い反応してくれるんだよね!ふふ、あれはわらっちゃったなぁ。

それに、私がどんなこと言ってもちゃんと聞いて…くれるし…。

四葉や五月ちゃんに勉強を教えてあげてるところを見てたらなんかね、お兄ちゃんがいたらこんな感じかなぁ、なんて…。

ううん、ダメだよ。私はお姉ちゃんなんだからもっとしっかりしなきゃ。こんなんじゃだめだよね。

あっでも四葉、朝は弱いからもうちょっと寝かせ──

「もー!起きてよ一花ー!」

あぁっ、おふとんが!あぁーーーっ!

「~~♪~~♪」

鼻歌交じりに学校の敷地内をぶらぶら歩く、手は後ろに組まれており、そしてそこには弁当の包みが持たれていた。当然一つ下の妹である二乃が作ったものである。一花は料理ができないわけではないが、学校に持っていく弁当を自分で作ることはない、否、出来ない。

なぜなら朝は起きられないから、起きることが出来ないから!

とまあそれは置いておいて今の時刻は昼休み、一花は校内で弁当を食べるのによさそうな場所を探して歩いているのだ。実はこの学校、だてに小中高が一つの敷地内に収まっているわけではなく、無駄に広いのである。

風太郎だって入学してから二週間くらいは迷った、そりゃあもう迷った。五月と同じくらい迷っていた可能性まである。実は風太郎と五月が初めて会ったあの時、五月が何事もなく高校の食堂までたどり着き、そして何事もなく自分の教室まで戻ることが出来たのはある種の奇跡だったのだ。

それがなければ彼と彼女達の今の関係もあり得なかった訳で。

そう思うと神様というのも時たま、粋な計らいをするものだと思えてくるものだ。

一花がなぜわざわざそんな広い敷地内で昼食をとる場所を探しているのかと言えば、単に好奇心からである。いつもは姉妹五人で集まって食べているのだが、時折気が向いたときにこのように敷地内を探検して気に入る場所がないか探しているのだ。

ちなみに目指すはこの無駄に広い校内の完全制覇である。

一花が探しているよさそうな場所は基本的に静かな場所や日当たりがいい場所、あったかい場所、リラックスできる場所……

本人は認めないだろうが、完全に猫が好むような場所だ。

以上の事より中野一花は猫である。Q.E.D.証明完了。

異論反論抗議質問口答えは一切認めない、これは世界の真理である。

…はっ!…まぁこれも置いておきたくはないが置いておくとしよう。

そんなわけでよさげな場所を探してあるき回っているのだが一向に見つからない。どうしようかなぁと思いながら更に歩いていると、ふと見慣れた後姿が目に入った。無論、風太郎である。どうやらいつの間にか高校の敷地内まで入り込んでいたようだ。

相変わらず同年代に友達がいないのか一人で、それに加えてまだこちらに気が付いていない風太郎を見て一花の顔に無意識のうちに笑みが浮かぶ。

よぉし!

そう気合を入れて走り出した一花は、まったく気づく気配を見せない風太郎の背中に勢いよく──

「フータロー君っ!」

「うぉおっ!?」

体当たりを食らわせた。さすがに倒れはしなかったものの驚いた声を出してよろめいた風太郎をむふーっと満足気に眺めた後、お誘いをかけてみる。

「お昼一緒に食べようよ~?」

「い、いてて…。なんだ一花か。嫌だぞ俺はこれから食堂に行くんだ。」

「え……、ひどいよフータロー君、折角そのためにここまで来たのに…。

うぅ…、ぐすっ。」

「あぁ分かった!分かったから泣くな、な?」

「やったー♪じゃあどこで食べる?フータロー君いい場所知ってる?」

「っておい!引っ張るな!せめて購買でなんか買わせろ!おい一花!」

「さあ行こ!」

結局風太郎が昼ご飯を購入することはできなかった。

「…で?何か言い訳は?」

「ごめんなさい…。」

場所はその後すぐに見つかった日差しが暖かく居心地とても良いところ、そこで一花は風太郎に尋問?説教?を受けていた。

「じゃあなんだ?お前は何の理由もなしに俺の腰に突撃して、ついでに俺が昼飯を買うのを妨害したと?」

「はい…、そのとおりでございます…。」

うつむいて返事をする。風太郎の顔は見えていないが、少し怒っていることくらいはそれでもわかる。

…嫌われちゃったかな、フータロー君、行っちゃうのかな。

恐る恐る風太郎の方を伺うと、風太郎ははぁ、とため息を一つついた後、一花の頭をガシガシと撫でた。

「んな顔すんなよ…、ここまで来たんだからお前が弁当食べ終わるまでは付き合ってやる。

ほら、早く食べろ。」

「えっ?う、うん…。」

予想外の言葉に少し動揺したが同時に安心もした。だってこれで風太郎は自分がお昼ご飯を食べ終わるまではいてくれるのだ。

…でも、隣で手持ち無沙汰になってしまっている風太郎を見て罪悪感がつのった。そして、何も持っていない風太郎と自分の手の中の弁当を見比べて、あることを思いついた。

「フータロー君、はい。」

「…その卵焼きはなんだ。」

「あげる、お昼ご飯ないんでしょ?」

「それを食べろと?」

「うんっ!」

「はぁ…、分かったよ。」

この時一花は全くそんな気はなかったのだが、風太郎の側に立つとこの会話はこういうことである。

「…その(差し出してる)卵焼きはなんだ。」

「あげる、お昼ご飯ないんでしょ?」

「それを(そのまま)食べろと?」

「うんっ!」

「はぁ…(こいつは言い出したら聞かないしな)、分かったよ。」

つまりどういうことかというと…、一花が風太郎にいわゆる“あーん”をしたことになるのである。

ぱくっ

「っっ!?!?」

「おお、美味いな…。どうした一花?」

「な、ななな何でもないよ!?うん!」

当然そんな気はなかった一花は動揺する。

え?何でフータロー君そこから食べたの?これじゃあ私がこのお箸使って食べたら。

…間接キス…、だよね…?

「ふ、フータロー君!残り全部あげるよ!」

「ん?いやお前全然たべてないじゃないか、流石にそれは悪い。」

「い、いいのいいの~、私おなかいっぱいだから!」

「そ、そうなのか。なら遠慮なく…。」

そう言って食べ始めた風太郎を見てさらに気づく。あれ?私あのお箸使って食べてたよね?じゃああれも…間接キス…?

予想外のことが重なりすぎて膝を抱えてうずくまってしまう。漫画やアニメならば確実に頭からプシュー、と煙が出てきていただろう。

そんな一花の様子を見て何かを勘違いしたのか、風太郎が声をかける。

「なんだ一花、眠いのか?なら今のうちに寝ちまえ。」

そう自分の膝を叩きながら言った。それは風太郎にとっては何気ない動作だったのだが、その時の一花を侮るなかれ。全く正常な判断ができていなかった。

「うん…。」

そういうと、胡坐をかいていた風太郎の足の間に乗り込んで体を丸めたのだ。

その様子は、まさに猫のよう。これは小6にしてはまだまだ一花が小柄だったから出来たのだろう。

そしてそんなにその場所は気持ちよかったのか、すぐにねむりこんでしまった。きっとその場所の日差しの良さも手助けしたのだろう。

「おい一花?はぁ…、ダメだもうねてやがる。」

対する風太郎は諦めの境地に達していた。黙々と弁当を食べ進めた。

…だが、ここで誤算があった。小学生女子の弁当とはいえ、それはいつも風太郎が食べている焼肉定食焼肉抜きに比べればおおかった。

そして、二乃が作ったものであり、味も学食の物と比べて上である。

そんなものをこの日差しがよく暖かい場所で食べたらどうなるか…。

解:寝る

その後、放課後まで寝た二人はたっぷり警備員と教師に叱られましたとさ。

 

 



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15話

二乃が出て行ってしまった後、その衝撃から一番に立ち直ったのは風太郎だった。

「くそっ!」

そう溢し、先程二乃が出て行ってしまったドアの方に走り出そうとする。いくら一般的な男子高校生に比べ大きく下回る運動能力を誇る自分でも、相手が小学生女子ならばまだ追いつける可能性があると、そう踏んだのだ。

確かに、その絶望的に低い運動能力に定評がある風太郎であろうと、その時点で全力疾走で追いかけることが出来たのなら、ギリギリ、そうギリギリ二乃に追いつくことが出来ただろう。

ただ、そうはならなかった。走り出そうとした風太郎を止めた者がいたのだ。

「いいよ、フータロー。二乃なんてほっとこうよ。」

風太郎の服の裾をしっかりと掴んだ三玖はいかにも不機嫌だと主張しているかのように少しその頬を膨らませ、心なしか目つきも何時もよりも険しかった。。その機嫌の悪さに比例するように、服を掴む手にも力が入っている。走り出そうとした風太郎を止めるために掴んだので、自然力がこもってしまったのだろう。もっとも、もしそんなに力をこめていなかったとしても風太郎は服を掴まれた時点で止まっていただろうが。

「三玖、放してくれないか?」

「…いや。」

「はぁ…、何に怒ってるんだ。」

意地でも放さない、というようにもう一方の手も加えてぎゅうっと服を捕まえたままいやいやと首を振る三玖に少し毒気を抜かれた風太郎は、そのまま振り返って尋ねる。

「だって…、フータローにひどいこと言ったもん。」

「そうですよ、あんなこと言う二乃なんて知りません!」

その一言にそれまで黙っていた五月も乗っかり、四葉もその後ろでその通りだと言わんばかりの顔をしている。唯一、二乃と四葉の間に入り止めようとしていた一花だけは、そんな妹たちの様子を見てオロオロしている。

家族というものは不思議なものだ、親しいが故、近すぎるが故にどんなに大切な存在だったとしても時にその距離を見誤る。どうでもいいと切り捨てても、きっと次の日には元に戻ると知っているから、そう思っているから。

…ただ、それでは間に合わないこともあるから。もう手が届かなくなってしまうこともあると風太郎は知っている。当たり前だと思っていても、何時だってそこにあるものだと信じ込んでいても時に細かな砂のように形を成さずに両の手から零れ落ちてしまうことがあることを知っている。

だから、この状況を肯定するという選択肢は彼にはなかった。

「三玖、四葉、…五月もだ。それはダメだ。俺のために怒ってくれたのは嬉しいがな。」

そんなことは滅多に起こらない、そうだったとしても可能性が少しでもあるなら潰さなければならない。

もうすでにこの子たちは一度亡くしているのだから。

「二乃は一人で外に行ったんだ、あんな状態だから注意力散漫になってるだろう。

もし車にひかれたら?誘拐でもされたら?……二度と会えなくなるかもしれないんだぞ。」

風太郎の話を聞いているうちに四人の顔色がどんどん悪くなっていく。一人だけどうしたらいいか分からずにオロオロしていた一花もそこまでは思い至っていなかったようだ。

「に、二乃が…。」

先程まで行かせまいと風太郎の服を掴んでいた三玖もすっかり顔を青くして二乃の事を探しに行こうとしている。他の三人も似たようなものだ。

それこそ、止めなければ全員が冷静さを欠いたまま外に飛び出していってしまいそうな様子だ。

…ただ、それでは無闇に危険を増やすだけだ。

「ま、待て待て落ち着け。二乃は俺が探してくる。

そうだな…、四葉、ついてきてくれるか。」

「なんでよフータロー君!皆で手分けして探したほうが──」

「落ち着け一花、そんな慌ててるのに皆バラバラになったら危ない。俺が行ってくるから留守番しててくれないか、な?」

「う…、で、でもじゃあなんで四葉は…。」

「お前ら皆顔一緒なんだから一人はいたほうが人に聞くときいいだろ、それに四葉なら髪型も近いしな。」

「……分かった。」

「よし、良い子だ。三玖と五月もいいな?」

「……うん。」 「…分かりました。」

「じゃあ行くか、四葉も──

…四葉?」

全員が納得してくれたところで今度こそ行こう、と四葉に声をかけたが俯いたまま動く様子がない。不思議に思い近寄ってその顔をのぞきこむと四葉は──

顔を青くし、異常なほどに震えていた。

私が二乃に強くいったから、私がおおきな声をだしちゃったから、わたしがせめるようないいかたをしたから

──でも、二乃は風太郎君に酷いことを

それでも、あんな言い方はなかったんじゃない?もっと言い方があったんじゃない?あんな言い方をしなかったら、二乃は──

私が、私が、私が、私が、私が、私が、私が、私が、わたしが、わたしが、わたしが───

「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ!」

息が苦しい、うまく呼吸をすることが出来ない、視界がゆがむ。

 

わたしがわるいんだ。ほんとはだいすきなのに、わたしのせいで

めまいがする、足元がおぼつかない、力が、ぬける──

ポスリ、と倒れる寸前暖かい何かに受けとめられた。

「…風太郎君、みんな?」

様子がおかしい、というのは顔を見た瞬間に分かった。ひどく震えていたし、何より顔が真っ青だったから。慌ててどうしたのかと声をかけようとすると、それを拒むように四葉の呼吸が荒くなり、そしてふっとその体から力が抜けた。

「お、おい!?」 「「「四葉!?」」」

その体が崩れ落ちる前に、なんとか受け止める。心配そうにこちらを見ていた他の三人も慌てて駆け寄ってきた。

四葉が、今気づいたとでもいうようにやっと顔を上げる。その顔に浮かんでいる表情は、怯え、だった。

この表情は見たことがある。四葉が変わる前の、あの時に浮かべていた表情と同じだ。母に何もできなかったと、悔い、嘆いていたあの時と全く同じ表情なのだ。

そっと、いまだ震えて荒い呼吸をくり返している四葉の頭を安心させるように何度も撫でる。

「四葉、ごめんな、不安にさせちまった。お前は悪くない、二乃も大丈夫だ。」

「…ほんと?」

「あぁ、ほんとだ。」

そういうと、幾分安心したのか風太郎の服をぎゅっと掴みほんの少し笑った後、全身の力を抜いた。荒かった呼吸は穏やかになりつつあるし、震えももう止まっている。

「…寝ちまったか、これじゃあ四葉は行けないな。

じゃあ一花、頼めるか。」

「う、うん!」

外に出るともうすでに太陽は傾いてしまっていた。これでは一時間としないうちに辺りは暗くなってしまうだろう。

「一花、どこか二乃が行きそうな場所はあるか?」

「う、うん。こっち!」

「よしっ!」

「いない…。」

探し回ること三十分強、あたしはもう大分暗くなっているのにも関わらず、二乃の居場所どころか目撃情報すらつかめていなかった。

まずいな…、完全に暗くなったらそれこそ…。

「あの、すみません。このへんでこいつと一緒の顔の女の子を見ませんでしたか?」

「妹さん?かわいいわねぇ。こんな時間に出歩いてたら危ないわよ?

…あら、あなたさっき蝶の髪飾りつけて歩いてなかったかしら?」

「!それどこですか!?」

「あっちのほうよ、金髪の柄の悪そうな男性がいっしょだったから記憶に残っててねぇ。」

「ッ!ありがとうございますっ!」

それを聞いた瞬間、脇目も降らすに飛び出したい衝動にかられたがまだお礼を言っていないことと、隣で不安そうにこちらを見上げる一花の存在を思い出して何とか踏みとどまる。

「風太郎君、今のって…。」

「のれ、行くぞ!」

一花を背負い、出せるだけの速度で指示された方向に走り出す。浮かんでしまった最悪の想像を打ち消すように走って、走って、はしって──

「お?なにやってんだ風太郎。」

 

 

「親父…。」

声をかけてきたのは親父だった。一花は背中でえ?お父さん?などと言っている。大方俺と見た目が違いすぎて戸惑っているのだろう。

「今日は止まってくるんじゃなかったのか?」

「悪い、今は急いで──、ん?」

見た目?

自分の格好を改めてよく見てみる。いつもの事だったので気にも留めていなかったが、いい大人が()()にサングラス。一言でいうと──、()()()()

「おい親父、まさかとは思うが…。四葉と五月の姉妹を連れて歩いたりしてないよな?」

「ん?あぁ、二乃ちゃんか?それなら買い物の途中にらいはが見つけてなぁ。今家にいるぞ。」

「はぁ…、そうかよ。」

安心して一気に力がぬけた感じだ。一花も背中の上でぐで~っ、と脱力している。

「んで、親父はなんでここにいんだよ、買い物とかはおわってんだろ?」

「らいはに追い出された。」

「………。」

堂々とそんなことをのたまう親父に憐みの視線を送る。小五の娘に家を追い出される父親ってどうなんだよと視線で問いかけるとふいと顔を逸らされた。どうやら自覚はあったらしい。

「まぁ何にせよに二乃が無事ならよかった。それじゃ…。」

「おい待て、お前家に行くつもりか?それならやめとけ。」

「…なんでだよ。」

「そ、そうですよっ!」

「はぁ…、そっちで何かあったんだろ?会ったときあの子泣きそうだったからな。

話してみろ。」

「…なるほどな。やっぱりお前らは来ないほうがいい。」

「だからなんでなんだよ。」

「風太郎も、そっちの嬢ちゃん…、一花ちゃんだったか。二人とも冷静じゃねぇ。一晩寝て、頭冷やして明日来な。」

冷静じゃない、そのことは自分でも薄々わかっていたことだったので何も言えなかった。確かに、こんな状態で二乃とあったとしても先程の二の舞となってしまうだろう。

「…わかったよ。」

 

 

「はいっ、二乃さんここに座ってね!」

「あ、ありがとう…。」

今は五月と四葉の友達だという女の子の家にいる。一緒にいたこの子のお父さんはちょっと怖かったけど…、優しくて、かっこよかった。家に着いたらすぐこの子に追い出されてたけど…。

それにしてもあの人、誰かに似てるような…?

「その…、貴方は五月と四葉の友達だって言ってたけど学校は違うでしょ?その、なんで…。」

失礼な話かもしれないが、この家はその…、小さいし、ぼろい。とても色々なことにお金をとられるうちの学校に通えるとは思えないのだ。この子と五月たちはどこで知り合ったのだろうか。

「あれ?お兄ちゃんから何も聞いてないんですか?」

「お兄ちゃん…?あの、その人の名前は?」

「上杉風太郎だよ!家庭教師やってるでしょ?それで私はらいはっていうの!」

「ぇえええ!?」

 

「ぇえ!?」

 

え?私、もしかしてとんでもないところに来ちゃった?

 

 

 

 



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16話

コトコト、コトコトとガスコンロの上にのせられた鍋の音だけが部屋に響く。

…気まずい。

目の前で長い黒髪を揺らしているこの女の子があのいけ好かない家庭教師の妹であることが分かってから暫くこの雰囲気のまま。

 

私は何を言っていいかわからなくなっちゃって黙ってるんだけど…。この子、らいはちゃんが何も言わないのは私に気をつかってくれているのだろうか。

何を言えばいいんだろう、普通ならここでらいはちゃんの兄、あの家庭教師の話題を出すべきなんだろうけど、私全く関わってこなかった、いや、私が拒絶してたから何も話せるようなことがない。

あいつに関する記憶と言えば、授業に参加させようとしてきたあいつに私が色々言っちゃた事や、家庭教師だとわかる前に五月に近づくなと釘を刺したこと、それと、それと、それと…。

 

全部本人の妹に言えたような話じゃあない。

本当ならここは「お兄さんにはいつもお世話になっていて~」みたいな無難なことを言って、それでなんとか話を繋げていけばいいのだろう。それで何とかなるはずだ。

…でも、出来ない。なんでだろ、出来ないや。

それは意識しての事ではなかった。ただ、それは自分勝手な意地をはって、拒絶して、酷いことも何度も言ったはずなのに諦めずに自分に向き合おうとしてくる風太郎の姿勢が二乃の心を少なからず動かしていたということの証拠なのだろう。

ただ、それも今日で終わりなのだろう。五月から、四葉から、…皆から向けられた視線を思い出し体が震える。あの怒りに満ちた目、自分が悪いんだと、そのことを叩きつけられた様なあの衝撃。

…気づかされたんだ。私は、いつの間にか自分の事しか考えてなかった。皆があいつの周りで楽しそうに笑っているあの光景を見れば、あいつがいたほうがいいなんてこと直ぐに分かったはずなのに。

嫌われちゃったかな。多分、ううん、絶対そうだよね。こんな自分勝手な子なんてみんな嫌だよね。

…あいつももう、私の事なんて嫌になったよね。

もう、皆と笑えないのかな。あの楽しそうな輪の中に、まるでママがいた頃みたいに皆が笑ってる輪の中に私はいないのかな。

思考はどんどん悪い方向に転がっていく。坂道を転がり落ちる球みたいに加速して、時間がたてばたつほど嫌な想像が浮かんでくる。

もう、私なんて“いないほうがいい”んじゃないか────

パンッと乾いた音が部屋に響き渡り、ついでに思考の海に溺れそうになっていた二乃をすくい上げた。

その音に驚いて、いつの間にか俯いてしまっていた顔を上げると、腕まくりをして手を叩いた後だからか両の手のひらを合わせたらいはちゃんがこちらを見つめていた。

「二乃さんっ!」

「な、なに!?」

ガバッという効果音がぴったりな程の勢いで立ち上がって自分を呼んだらいはちゃんの勢いについつられてしまった。

きっと今の私は何が何やら、みたいな顔をしていることだろう。

そんな私を見てらいはちゃんはふっと表情をゆるめた。

「…なにがあったかは聞きません。どうせお兄ちゃんがなにかやっちゃたんでしょう。

とにかく今は!ご飯を食べましょう!あったかいご飯を!それで今日は泊まっていってください!」

「え、あ、あの…。」

「今日はカレーですよ!はいっ、そこに置いちゃってください!」

「あの、お父さんの許可とかは…。」

「だいじょーぶですよそんなの!」

そんなわけない、そして自分みたいなのがそんなにお世話になるわけにはいかない、とそう言おうとしたとき、扉の開く音とともにらいはちゃんの父親が帰ってきた。

「たでーまー、らいはー、もういいかー?」

「あ、お父さん!二乃さん泊ってもいいよね?」

「おー、いいぞー!」

「えっ?ちょ、ちょっと待ってください!」

「あ、お父さんスプーン出して!」

「おう、分かった。」

「あの……。」

 

 

「美味しい?二乃さん?」

…美味しい。なんだろう、作ってるところを見ても、食べてみても特別な味付けなんてしてないし、別に高級な食材を買ってるわけでもなかった。でも、美味しい。

暖かいんだ、まるで、まるで───

ママがつくったカレーみたいだ。

『お母さん、おかわり!』

『…五月、そんなに欲しいなら私のあげる。』

『三玖、ダメだよそれくらい全部食べなよ!』

『そうよ!…五月も食べすぎじゃない?』

『…む、いつもこっそりピーマン残してる四葉に言われたくない。』

『うぇぇ?なんでばれたの?』

『三玖、四葉も。残さないで食べなさい。…それと一花、野菜を二乃の皿に移そうとするのをやめなさい、ばれてますよ。』

『え?えへへ…、って痛い!いたいいたい!』

ぽたっ、と雫が床に落ちた。

「…あれ?」

「に、二乃さん!?どうしたんですか?」

「ううん、なんでもっ、ぐすっ、ないわよ…。」

笑ってごまかそうとしたけど、上手くできただろうか。いや、出来てなかっただろう。そんなことは心配そうにこちらをのぞき込んでくる顔をみればわかる。

懐かしくて、恋しくて、胸が締め付けられるような気がした。どうして私はあんなことをしちゃったんだろう。

気に入らなかったからだろうか。なら何で気に入らなかったのだろう?

妹たちに近づいてくる嫌な奴だと思っていたからだろうか。いや、そんなことは最初の方にそうでないことはわかってた。

…なら何で?

──認めたくなかったから。ママがいたときみたいにあいつを中心にして皆が笑ってる、そんなところを見たくなかったから。

 

そこは、ママの場所なんだから。

 

“なにも知らないくせに、なにもなくしたことなんてないくせに!分かったような顔してこないでよっ!”

少し前に自分があの家庭教師にぶつけた言葉がよみがえってくる。そうだ、私はママ以外があそこにいるのが嫌だったんだ。

いつでも優しくて、何でも知ってて、凄く綺麗なママは私の憧れだった。目標だった、…大好きな、人だった。

そんなママを亡くした私の、私たちの事なんてあいつに分かりっこない、そう思ったんから。私みたいに懐かしむことしかできない訳じゃない、そんな奴に踏み込んできてほしくない。

そうだ、これは嫉妬だ。私は一人で勝手に嫉妬して、意地を張って、拒絶して。…馬鹿みたい、それで皆に嫌われてしまった。ふ、と自嘲気味の笑みが漏れる。

でも、でもあいつには、…貧乏だけど、こんなに可愛い妹がいて、私たちには居なかったお父さんまでいて、お母さんも──

そこまで考えて思考が止まった。そういえば、ずっとこの家のお母さんだけ見当たらない。

「…らいはちゃん、お母さんって、今日はいないの?」

そう聞くと、らいはちゃんは一瞬目をしばたたかせて、次に困ったように笑った。

「二乃さん、私のお母さんは──」

もういないんです。

一瞬何を言われたのか分からなかった。だってそんなこと考えもしなかったから。「お兄ちゃんが小さいときに亡くなって」と続けるらいはちゃんにもうやめて、と叫びたくなる。

だって、だってそれじゃあ。私が言ったことは、全部、ぜんぶ。

「あ、あぁ……。」

あいつもなくしてた、同じだった。分かってたんだろう、私たちの状況も、どんな気持ちなのかも、あいつは分かっていたんだろう。あいつのおかげで皆楽しそうに笑うようになって、それなのに私は拒絶して、嫌なこともたくさん言って、あまつさえ不幸自慢みたいな、ことを。

もういない人の事をまるでいるように、そのことであんなふうに言われたらどう思う?

耐えられない、耐えられるわけが、ない。

「あやまら、なくちゃ。」

自分が立っていた地面が急になくなったような、そんな感覚におそわれる。私の言ったことはどれだけあいつを傷つけただろう。私はどれだけ、心無い言葉を吐いていたのだろう。

とにかく謝らなければいけない、その思いに体を突き動かされ、立ち上がって扉の方に向かおうとしたが、それはならなかった。がっしりとその手を掴まれて阻止されたからだ。

「二乃さんっ、落ち着いて!どこに行くっ、つもりですか!」

「あやまらなきゃっ、私、わたし酷いことを、たくさん──」

「二乃ちゃん」

冷静さを失って無我夢中で動こうとする私を止めたのは、どこか聞き覚えがある低くて優しい声だった。

「落ち着きな、そういうのは明日にすりゃあいい。何があったのかも話したいなら話せばいいし、嫌なら黙ってりゃいい。

とにかく今日は夕飯食べて、思いっきり寝とけ。」

その言葉とともにぐしゃぐしゃと頭を乱暴に撫でられた。そのせいで髪がぐちゃぐちゃになってしまう。普通なら怒っているところだが、今はその荒っぽさが少しありがたかった。

…話さなければいけない。きっとこの人たちも私を嫌いになるだろう。でも、この人たちの家族に酷いことをしてしまったんだから。

「きいて、くれますか。」

涙を拭い、二人に向かって膝を正した。

 

「なるほどなぁ…。」

「………。」

全部話した。私が言ってしまったことや、取ってしまった態度も全部。

「皆からも嫌われてしまいました。本当に私は、わたしはっ!」

きっと嫌われてしまっただろう、軽蔑されただろう。そうなっても仕方ないんだ。だってそれだけの事をしたんだから。でも、そうなったら、なってしまったら。

──私はどこに行けばいいんだろう?

「二乃さん。」

さっきから黙ってしまっていたらいはちゃんが口を開いた。なにを言われるのだろう、そう考えると身がすくむ。自然と顔が下を向いてしまう。

「反省してるんでしょ?謝りたいんでしょ?」

「…うん。」

「ならいいよ!きっとお兄ちゃんも五月さんたちも二乃さんのこと嫌いになったりしてないし!」

「そんなはずっ。」

嫌われてないはずがない、らいはちゃんはいいと言ってくれた。…きっととても優しいのだろう。そして、その兄のあいつもきっとおなじくらい優しかったんだ。…でも、私はその優しさを踏みにじり続けたんだから。

「あ~、二乃ちゃん?勘違いしてるみたいだから言うが、絶対嫌われてないぞ?」

その言い方は、否定しようとしてもできない程確信に満ちていて、いい返すことが出来なかった私は首を傾げた。なにか、そう言い切れる理由があるのだろうか。

「嫌いなやつを汗だくになって必死に探したりはしないよな、あいつ運動は出来ないのに随分走り回ったみたいだぞ?」

「……え?」

探してた?私の事を?

「ショートカットの子も一緒だったぞ、随分心配してるみたいだった。

…ほら、嫌われてなんてねぇだろ?」

一花まで、私を、心配して探してくれてた?あんなこと言っちゃたのに、酷いこともしたのにっ!

…あいつも、皆も、私を嫌いになんてなってないの?

「よかっ、た。」

「ん?」

「よかったよぉっ、ぐすっ。」

「…はは、良かったなぁ。」

本当は怖かったんだ、謝るときに、またあの視線を向けられると思うと本当に怖かった。「お前なんか嫌いだ」という感情を皆から、あいつからぶつけられるかと思うと足がすくんでしまってた。

安心した、全身から力が抜けた。きっとらしくない程泣いてしまっているだろう。

…皆も、あいつも私の事を嫌いになってない。本当に、本当に良かった。そうだったら良いと思っていても、あるはずがないと切り捨てていたから。

 

でも、だからといって私のしてしまったことがなくなるわけではない。

…ちゃんと謝ろう、今までの事を全部。

そしたらあの授業に入れてくれるかな?

 

…また、皆と笑えるかな?

 

 

「…なあ。」

 

「なにー?」

 

背中にのせてから、別に走る必要がなくなっても降りなくなってしまった一花に声をかける。なにー?じゃねえよ自分で歩け。

 

「いつも料理は二乃がやってるんだろ?夕飯どうすんだ?」

 

「あ…、どうしよ?」

 

「はぁ、やっぱりか。材料買って帰るぞ、そうだな…、カレーでもつくってやる。」

 

「え?フータロー君料理出来るの?」

 

「カレーしかできないけどな、だからスーパーよってくか。」

 

「はーい!」

 

「あとお前は早く降りろっ!」

 

「いやーだっ!」

 

「やだじゃない!」

 




遅くなってしまい、申し訳ないです。とりあえずやっとまとまった時間が取れたので今まで書き溜めていたものを一気に上げたいと思います。とりあえず現時点で23話まで出来ているのでそこまでは。


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17話

まだ朝早く、私はあいつのお父さんに送ってもらって自分の家の前まで帰ってきていた。

 

時刻で言えば私が朝御飯を作るために起きる時間より少し早いくらいだ。

 

あの子達は、あいつはもう起きてるだろうか。

 

まだまだ太陽の角度も低い早朝だ、空気は澄み、空には雲一つない。耳をすませばチチチという小鳥のさえずりすら聞こえてくるだろう。

 

「あのっ、送ってくれてありがとうございました!」

 

「おぉ、気にすんな。…頑張れよ。」

 

「…はいっ!」

 

感謝を伝えるために深々と頭を下げる。1秒、いや、2秒ほども下げていただろうか。顔をあげるともう此方に背中を向けてしまっていて、片手を上げてひらりと手をふっていいた。

 

それが目に入ると同時に胸に込み上げてきたものを堪えるように、また深々と頭を下げた。

 

 

 

 

すぅ、はぁと家のドアの前で深呼吸をする。大丈夫、大丈夫といくら思っていても、言い聞かせていてもやっぱり怖いものは怖いんだ。

 

いざここに立つとどうしても考えてしまう。もし拒絶されたら、やっぱり嫌われていたら、なんて。

 

取っ手に手を伸ばして、やっぱり躊躇して止めて、また手を伸ばしてなんてことを何度か繰り返す。

 

このままじゃいけない、そう思いいっそう深く息を吐いて自分の両頬を勢いよく叩いた。

 

パァン!と音が誰もいないマンションの廊下に鳴り響き、頬はじんじんと痛む。

…お、思ったより痛い、強く叩きすぎたかも。

 

とにかく、気合いは入った。最後に一言よしっ、と言って今度こそドアの取っ手に手をかけて、勢いよく──ではなくそっと開ける。

 

「二乃ぉぉぉぉぉぉ!」

 

「わぷっ!」

 

そして開けた瞬間、家の中から突進してきた誰かに抱きつかれて背中から廊下に倒れこむことになった。

 

「二乃、大丈夫?どこも怪我してない?変な人に何かされてもない?」

 

「あんたのせいで今背中が痛くなったわよっ!」

 

「あたっ!」

 

私に抱き着き、瞳に涙を浮かべながら過剰に心配してくる四葉に、一瞬昨日の衝突のことを忘れて何時ものように対応してしまう。

…何よ、これじゃああんなに怖がってた私が馬鹿みたいじゃない。

 

「…ふふっ。」

 

「?どうしたの二乃、頭うった?」

 

「違うわよっ!」

 

まるで昨日の事が嘘だったかのような四葉との会話に、自然と顔もほころぶ。

うん、今ならちゃんと言えそう。

 

「四葉、…四葉。ごめんね。昨日のことも、その前のことも。ごめんなさい。」

 

「え?う、ううん私こそあんなに強く言っちゃってごめん!」

 

二人して謝りあったあと、顔を見合わせてまた笑う。

 

「ねぇ四葉、そろそろ家入らない?」

 

「あ、そうだね。まだドアの前だったね…。」

 

「あんたが突っ込んできたせいでね。」

 

「わっ!い、言わないでよ…。」

 

「ふふっ。」

 

四葉に押し出されたせいでまだ家に入れていなかったので、改めてドアを開けて家に入る。

…入ると直ぐに、隠しきれてないアホ毛が見えた。と言うことはあと二人も居るんだろう。

 

「五月、三玖、一花。ごめん、私、自分勝手だった。本当にごめん。…迷惑、かけたよね。」

 

頭を下げたままで居ると、ぽすっと軽く押される感覚と共に誰かが抱きついてきた。

 

「二乃ぉ、心配したよぉ。」

 

「…五月、ごめんね。」

 

頭をぐりぐりと押し付けてくる五月をそっと抱き締め返す。

…本当に、今なら自分がどれだけ馬鹿なことをやっていたかよく分かる。

 

「うん、許すよ二乃。でも私たちよりも謝るべき人がいるんじゃない?」

 

「そうだよ二乃、フータローにも謝ろ?」

 

「…うん。」

 

いつの間にか私たちから一歩離れたところまで来てたあいつに自分から一歩近づく。

 

考えてみれば初めてだ、あいつ、上杉に自分から近づくことなんて。いつもいつも、一歩近づかれたら二歩下がるなんてことをしてたから。遠ざかることばかりしてたから。

 

「あのっ、…ごめん、なさい。今までのこと全部。わた、わたし、酷いことたくさん言っちゃって…。」

 

違う、ちがうの。もっとちゃんと謝りたいのに、もっと言うべきことが沢山あるのに。

 

言葉が出てこない。どうやって話せば良いのかわからない。

 

それが悲しくて、情けなくて、……申し訳なくて口に出した言葉は段々と小さくなっていき、遂には消えてしまった。

 

俯いた顔を上げられない。自分よりもずっと高い位置にあるあいつが今どんな顔をしているか、見るのが怖かったから。

 

一瞬のち上からはぁ、というため息が聞こえてきた。やっぱり、そう思って次の言葉に備えて目をきつくつむる。

 

…だけど、思っていたような言葉が降ってくるようなことはなかった。

 

「あー、あのな、お前が俺を嫌ってた理由も分からなくは無いぞ。俺だってらいはに知らないやつが近づいてたら絶対に許さない自信があるしな。

…その、だからな。あんまり気にするなよ。」

 

顔をあげると、此方を睨んでいるようなことは全くなく、むしろひたすらに気づかって様子だった。

視線をさまよわせながら言葉を重ねる姿に、少し笑いがこぼれる。

 

不器用な優しさは、見た目は違えどその父親のものにそっくりで。

似てないと思ったけどやっぱり親子なんだなぁって思えるものだった。

 

優しい、やさしいなぁ。でもその優しさに甘えるだけじゃダメなんだ。

 

「ううん、気にしないなんて出来ない。だからちゃんと謝るわよ。…本当にごめんなさい。

私も、授業に参加させてくれませんかっ!」

 

「…あぁ!それなら許すさ。大歓迎だ!これから頑張ろうぜ、二乃!」

 

「…うん!」

 

さっき四葉とやったみたいに顔を見合わせて笑いあう。きっと今まで私がやってしまったことを私は忘れることはできないんだろう。

 

でも、できたらいつかこんなこともあったな、なんてこいつと笑いあうことが出来るようになるんだろうか。この事で揺らがないくらい、仲良くなることが出来るんだろうか。

 

 

そんな未来があったら良いのにな、なんて。

 

 

 

 

「二乃ぉ~、朝御飯作ってよ。」

 

「そうです!なんか二乃の料理が食べたい気分です!」

 

「あんたはいつもでしょ…、っていうか昨日の夜はどうしたの?」

 

「フータロー君がカレー作ったんだよ?」

 

「…おいしかった。」

 

「ふーん?じゃあ朝御飯はなんで作ってないの?」

 

「カレーしか作れねぇんだよ…、朝からカレーとか嫌じゃないか?」

 

「私はいいですよ?」

 

「それは五月だけだよ!」

 

「ふふ、じゃあ作っちゃうわね。上杉、あんたも食べるでしょ?」

 

「あぁ、ありがとな。」

 

「…私も手伝う。」

 

「あんたは座ってて!絶対!」

 

 

 

朝御飯を食べ終わり、初めて五人全員揃った授業を始める。…感動だな。ここまでにどれだけ苦労したことか…。

 

「さて…、昨日今日と色々あったとはいえまさか忘れてないと思うが…。」

 

五人そろって頭の上に浮かんだハテナマークが見えそうな顔をしている。

…いや、本当にまさかと思って言ってみたんだが、嘘だよな?

 

「テスト、明日。」

 

おい、へーみたいな顔をするな顔をそらすな逃げようとするなお菓子を食べるな!

 

四葉は…、反応がないな。

 

「おーい四葉、生きてるか?」

 

手を目の前で振ってみても反応がない。目は虚ろでどこを見ているのか全く分からない。

…まるで屍のようだ。

 

「よ、四葉…。」

 

「魂が口から出てきてない?」

 

全くこいつらは…。

 

時間が勿体ないがこれは説教だ。ここで発破をかけておかないと明日悲惨な結果を叩き出すのが目に見えてる。

 

確かに昨日みたいなことがあれば少し気が削がれてしまうのかもしれないが、ここまで気が抜けてしまっていてはダメだ。

 

一発ガツンと言っておかなければ。

 

「お前ら全員そこになおれ!説教だ!あと四葉は起きろ!」

 

「いたっ!はっ!ね、寝てないよ!」

 

「寝てたって…、はぁ、大体お前らはだな───」

 

 

 

 

「──だから気を緩めるなんてもっての他だ、分かったか!」

 

「はいぃ…。」

 

「足が痺れました…。」

 

「頑張ります…」

 

「フータロー、足痛い。崩してもいい?」

 

「でもフータロー君、私達今まで結構頑張ったよ?」

 

説教が終わったと思った瞬間、好き勝手なことを言い出す五人。まぁ流石に長かったし、誇張しすぎたところもあったか。

 

でもそれなりに気は引き締まったみたいだ。顔を見れば分かる。

 

「そんなことは分かってるさ、ちゃんと勉強した分だけテストに出せれば赤点は越えられるくらいはやってる。…まぁ全教科は無理だが目標の教科ぐらいはな。」

 

「へへ~。」

 

そう言って一花の頭をぐしゃりと撫でる。そう、こいつらは今でこそこんなのだが、昨日のことがあるまでは本当にきちんとやっていた。

一番最初の生徒である五月なんて特にだ。ずっと真面目なやつだとは思っていたが、ここ最近の努力は目を見張るものがある。

 

「二乃は…、あぁ責めようとしてるんじゃない。今から複数科目は無理だろうから取り敢えず絞ろう。多分英語が得意だよな?」

 

「…うん。」

 

頑張ってる姿を見てるから、どれだけ苦しんでるか知ってるから、ちゃんとその努力を実らせてやりたいんだ。

…例えどれだけ時間が限られていたとしても。

 

「よし、じゃあそれでいこう。全員今日で追い込むぞ、覚悟しろよ?」

 

 

「「「「「うんっ!」」」」」

 

二乃だってきっと自分と向き合おうとしている。なら、俺は全力でそれに答えよう。

 

 

 

 

「よし、お前らちゃんと筆箱持ったか?テスト前の復習もいいが疲れない程度にしろよ?特に五月。」

 

「は、はいっ!」

 

「どうしても分からない問題があれば飛ばすんだぞ、他の解ける問題で点数を稼げ、それから──」

 

「フータロー君、不安なのは分かるけどそろそろ行かないと遅れるよ?」

「なっ、俺は不安じゃねーよ。ただお前らにアドバイスをだな…。」

 

「さー行きましょう風太郎君!」

 

「…不安だわ。」

 

「…二乃は自業自得な気も。」

 

「う、うるさいわね!」

 

 

彼と彼女らの戦争が、今、始まる──

 



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18話

チャイムの音とともに鉛筆を手に取り、裏返しに机の上に置かれていたテスト用紙を表向きにする。数秒前までは静まり返り異様な緊張感が漂っていた教室には紙をめくる音と名前を書き込んでいるであろうペンの音が一斉に響き渡ることとなった。

───学期期末テストの開始である。

この学校は小中高と一貫であるという珍しさもさることながら、他にも異質な点がいくつかある。その一つがこのテストというわけだ。何が珍しいかというと、まず小中高全ての学年、クラスで同時に中間、期末テストが実施されるというところだ。

流石に小中の生徒が赤点を取ったところで留年はないが、補習はある。そもそも小学生に国数英理社と五科目のテストを中高の生徒同様にやらせている時点で察することが出来るだろうが、教育には大いに力を入れているので、当然補習も厳しいものだ。

そして一花達五つ子は赤点の常習犯であるがゆえに、補習の常習犯でもある。…教師たちには半ば諦められてはいるが。

さらに、日程を合わせるためだか何なのかは知らないが、全てのテストは一日に詰め込んで行われる。

…これがどういうことかお分かりだろうか?中高を卒業した方、もしくは今まさに現役なんです!という方ならわかるだろう。そう、地獄なのである。小学生の頃はまだいい。いや、五教科五時間を一日にやるのは小学生にはつらいだろうがまだいいのだ。

問題は中高だ。通常の中高の中間テスト、期末テストは数日に分けて行われる。科目も増え、テスト時間も増えることもあるだろうが、それによってできた時間でテストの採点をする意図もあるだろう。

しかし、それが一日にすべて詰め込まれる。もう一度言おう。つまり、地獄なのだ。毎回テスト期間に入ると学園全体が異様な雰囲気に包まれ、前日ともなると最早顔が鬼気迫ってくる。

そして全てのテストが終わった瞬間、歓声が響きわたり、前日徹夜で無理をして詰め込んでいた者は机に突っ伏して死ぬ。

そんな一風変わったイベント、それがこの学校におけるテストなのである。

因みにテスト終了後は終業式まで休みになり、終業式の日に一気にテストが帰ってくる仕組みとなっている。

悩んでしまっているのかあまりテスト用紙に何かを書き込む音がいつもよりまばらな気がする周囲をしり目に、どんどんと回答欄を埋めていく。今回の最初の教科は地理だ、暗記教科なのであまり悩むこともなく問題の答えを導き出す。

この調子なら今回も満点をとれる、問題ないだろうと、そう判断して少し手を止める。

少し休憩だ、これからもたくさんあるのだから最初から根を詰めてしまうのはよくない。

朝、全員がふざけながらも緊張した顔をしていたが、自分は励ますことしかできずに送り出すことになってしまった五人の教え子たちに思いをはせる。…あいつら、ちゃんとやれているだろうか。

やれることはやった。限られた時間の中で出来るだけの知識を伝えたつもりだし、あいつらもそれについてきた。

他よりも教えられる時間が短かった奴もいるが、その遅れを取り返そうと必死にテキストにかじりついていた姿も見ていた。

落ち着いてやれよ、お前らなら大丈夫だから。

あれ?この答え回答欄に合わない…。ど、どうしよう?どこ間違えたんだろう?もう解きなおす時間なんて残って無いよ…。

と、とにかくそれでももう一回やるしか…。でもそれじゃあ終わるわけない、よね。

ああっ!こうやってる間にも時計進んでるのに!

思わず頭を抱えてしまう。この問題配点大きいよね…、落としたら、まずいよね…。とにかくやるしかないっと思い立ち、しまいかけていた計算用紙を取り出しなおした。

「あ……。」

『問題を解くときには途中式はちゃんと残しとけ、見直しに使えるし、綺麗に残して置いたら間違えに気づきやすくなるからな。』

途中式ちゃんと残してある!じゃあこれを辿っていけばもしかしたら時間内に終わらせられるかも…。

「むむむ…。」

英文の内容が頭に入ってこない、焦ってどんどん悪い方向に転がって行ってしまっているのが自分でもわかる。何時だってこうだ。分からなくって、それに焦って、そのせいでまた頭が回らなくなって…。それで気が付いたらテストが終わってるんだ。

どうしよう、折角教えてもらったのに、これじゃあ…。

『英文は分からないときは鉛筆か何かでなぞりながら主語、動詞、補語とかの関係を確認してゆっくり読むといい。偶に何も頭に入ってこないときもあるもんな、ゆっくり読み直せばいいさ。別に満点目指してるわけじゃないんだろ?』

すぅ、はぁと深呼吸を一つして英文の最初の単語に鉛筆をあてる。丁寧に、ていねいにと心でつぶやきながらゆっくり読んでいく。

あれ?少し、少しだけ内容わかってきたかも。それに、おちついてきた気がする。時計をちらりと見る。

よし、まだ時間は残ってる。

「もう、ひと頑張りよ、私……。」

歴史なら出来る、でも…。

やっぱり歴史から離れるとわからないや。地理とか、政治の事とか。フータローに教えてもらったと思うんだけどなぁ。

…やっぱり、私じゃ無理なのかな。頑張っても、ダメなのかな。

カラン、と止まってしまった鉛筆が手から離れて音を立てて机に転がった。それで周りの視線を少し集めてしまったが、すでにパニックになってしまっている私には全く気にならなかった。

『三玖、お前は歴史に関してはもう十分知識がある。まぁ偏ってはいるがな…。だから他の知識は歴史に関連付けて覚えてみようぜ。例えばだな──』

…そう、そうだよね。まだ諦めちゃだめだ。歴史に関連させて覚えたんだから、歴史の知識を辿っていけば思い出せるはず。

辿っていくと身振り手振りでどうにか興味のなかった知識を私に覚えさせようとするフータローが浮かんできた。

「ふふっ。」

見ててくれるって、言ったもんね。じゃあ、私も頑張らなくちゃ。

こ、この選択問題ぜんぶ何言ってるか分からないよ…、ちゅうしょうてき?ってやつだよね。まず数を絞らなきゃいけないのにこんなのどうすれば…。

とにかく文章に戻って問題になってそうなところを読み直してみるけどやっぱり何を言ってるのかわからない。どうしよう、もう一回文章全部読み直してみる?でもそんなことしたらほかの問題が…。

『選択肢を絞りたいときは選択肢同士を比べて違うことを言ってる部分だけ文章を確認するんだ、それと必ず、とか絶対、とか言ってるやつは疑ってかかったほうがいい。極論ってやつだ。』

むむ…、よく見てみたらこれ大体全部同じだ。違う部分は…、ここかな。じゃあこの部分だけを探してみよう!

──言われた通り、早とちりしないように、大雑把にならないように。

もう失敗したくないんだ、頑張りたいんだ。風太郎君は私の事をダメじゃないって言ってくれたんだから。

…でもまだ自信をもって大丈夫だなんて言えない。私が失敗した事実は消えてないんだ。

だから頑張って、頑張って今度は──

「すごい、よくやったなって褒めてもらいたいなぁ。」

分かりません…、この実験については昨日やったはずなのに。どうしてもここから先が何をすればいいのか分からないんです。

だって!ここに書いてあることだけじゃどうやったって答えを出せるはずがないじゃないですか!

後一つ…、あと一つなんです。あと一つ条件が分かりさえすれば答えが出るはずなのに…。

『お前は一回解き始めると分からなくてもそのまま突き進んでいこうとする癖がある。分からなかったら一回戻って問題文を読み直してみるんだ。そしたら結構見落としてることがあるもんだからな。』

そうです…、そうですね。一回落ち着きましょう。とにかく最初から確認してみるんです。今回は何もわからない問題はとばして解いているので時間には余裕があるんです。

…まあほんの少しですけど。

でも、解き終わることすらできなかった頃からすれば大きな進歩なんです!

今はまだ、上杉君みたいに満点なんて望むべくもないけど。一歩ずつ進んでいければ、いつかは──

「…なんて、まだまだですよね。」

 

 

「…やめっ!」

全てのテストの終了を告げるチャイムの音とともにかけられた教師の声を聞き、息を吐きながら鉛筆を投げ出すように机の上に転がした。

「ふう……。」

背もたれに全体重を預けるように後ろに少し反る。普段こんなことをしようものなら後ろの人にぶつかりそうなものだが、今日はテストだ、席同士の間隔が離れているからそんな心配はない。周りは友達同士でテストの内容について興奮気味に話し合ったり、苦行が終わった喜びに雄たけびを上げたりしているが、自分はそんなことをするつもりはないし、そもそもする相手もいない。

手早く荷物を鞄に詰め、HRの終了を待つ。とにかく早く帰りたいのだ。集中力には自信があるが、これは流石に堪える。

…それに、自分よりも早くテストが終わっているのでもうとっくに帰宅しているだろうあいつらがどうだったのかも気になるのだ。

「あー、あと上杉は少し残ってくれ、すぐ終わるから。じゃあ解散だ。」

「は……?」

え?俺なんかしたか?記憶をさらってみるが、呼び出されるようなことをした覚えはない。周囲からの訝しげな視線に耐えながら、教卓に向かう。

俺も帰りたかったんだがなぁ…。

「はぁ…、ボランティア、ですか?」

「そうだ、参加したら内申点をやるって話でな。それでも全然人が集まらなかったもんで内申が必要そうな奴に声かけてんだよ。…上杉、お前大学は上目指すんだろ?ならやって損はないぞ、なんせお前基本的に成績優秀なのに体育がな~。」

「く…、拒否権はありますか?」

「まぁあるけどな、別に悪い内容じゃあ無いんじゃないか?お前には。」

「…どういうことですか?」

「ほら。」

短い声かけとともに渡されたプリント、ボランティアの内容についての説明にざっと目を通す。…なるほどなぁ、たしかに考えたほうがいいのかもしれない。体育の成績が絶望的なのは事実だしな、それを補えるというならありがたい話だ。

「…考えておきます。」

「おう、分かった参加だな!じゃあ夏休みの最後、頼むぞ。」

「え、ちょ…。」

「小学校の先生に伝えておくからなー。」

…行ってしまった。相変わらず勝手な人だ。クラスで孤立しがちな俺をちょくちょく気にかけてくれる良い人ではあるのだが、たまにこういう無茶ぶりをしてくる。

まぁ、今回はいいか──。そう思いながら手元のプリントをもう一度見る。

~~小学部林間学校お手伝いのお願い~~

さて…、トランプでも用意しておくか。

 

「さてお前ら…、問題用紙をだせ。答え合わせの時間だ。」

翌日、五つ子のマンションに行き、そういうと全員から疲れただの休みたいだの今日はいいじゃんだの不平不満が出るわ出るわ。

ため息を一つつき、にっこり笑う。目の前の奴らがもの凄く怖がっているような気がするが、そんなの知るか。

「だ、せ。」

「「「「「はい……。」」」」」

全員分の問題用紙を集め、さっさと解いて答え合わせをしようとした、が…。額に手を当て、本日二回目の

「…おい、お前ら!なんで問題用紙に答書いておかないんだよ…、答え合わせ出来ないだろうが!」

「だ、だってそんな余裕なかったんだもん!」

「そんなに早く解き終わらないわよ…。」

「そうだよフータロー、問題解くだけで必死だったんだから。」

「…ごめんなさい、風太郎君。」

「あの…、怒って、ますか?」

不安そうにこちらを伺う様子にぐっと言葉に詰まる。…まぁそうか、たしかに今のこいつらにそこまで求めるのは酷だったかもしれない。これは俺が考えなしだったかも、しれないな。

「怒ってねぇよ…。そうだな、そこまで考えが及んでなかった。今回は…、仕方ないか。」

寄ってきていた四葉と五月の頭をぐしぐしと撫でる。ほら、大丈夫だからもうそんな顔すんなって。…本当にこいつらのこういう顔に弱いな俺は。

「しかし困ったな…、今日は答え合わせと間違えたところの確認だけのつもりだったから他にやるものがない。

いっそのことテスト内容全部解説するか?」

そう聞くと皆仲良くぶんぶんと首を振っている。そうだよな、そんなことしたら何時間かかるか分かったもんじゃない。

…じゃあどうするか、一回帰って教材持ってくるか?でもそれは時間がもったいないしな…。

そう考えていると、不意に横から手を引っ張られた。

「ほらっ!もうやる事ないなら今日はいいじゃん!今日くらいフータロー君も一緒に遊ぼうよっ!」

「一花…、そうはいってもこっちは仕事でぇっ!?こら引っ張るな一花、四葉も!」

「風太郎君遊ぼうよ!ほらここすわって!」

「いいじゃない、ならご飯も食べていきなさいよ。」

「…フータローも人生ゲーム、やろうよ。」

「だがな…、それなららいはにも言わなきゃいけないし…。」

「あ、じゃあ私が言っておきますね。」

「は?何でお前らいはの電話番号知ってるんだよ、おい五月!」

本当にこいつらは…。ただ、昨日までずっと頑張ってたんだし、まぁ、今日だけならいいか。息抜きも大切だからな、あまり根を詰めすぎてもどこかでパンクしてしまうだけだからな。

「…しかたないな。」

「ほんとっ!?」

「あぁっ!やるなら徹底的にやるぞっ!先ずは人生ゲームだな、じゃあ俺が銀行をやろう。」

「の、ノリノリだね…。」

「初めて見るテンションね…。」

「じゃあ私フータローの隣。」

「あっ、ずるいです!」

「よーし、やろう!」

「なぜだ…、なぜ止まるマス全てで金を払わなければならない…。あそこで保険に入っていればっ!」

「一着なのに一番所持金が少ないね…。」

「ま、まぁそんなこともあるわよ。」

「ふ、フータロー、気にしないほうが…。」

「風太郎君弱いですね!所持金私の十分の一じゃないですか!」

「ぐはっ!」

「う、上杉君ーー!」

ペンタゴン最上階の一室の明かりは、その日はいつもより長くついていたという──。

 

 

 



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19話

終業式、それは夏ならば暑くて暑くて耐えられないような気温の中冷房どころか扇風機すら存在しない体育館とかいう蒸し風呂に全校生徒がまとめてぶち込まれ、全身から噴き出す汗の不快さに耐えながら更に退屈極まりない校長のどうでもいい──、もといありがた~いお話を聞くことを強要され、冬ならば分厚さの足りない制服の生地に内心悪態をつきながら寒さに震えながら整列し、いざ座る許可が出れば思いもよらぬ床の冷たさに震えながらやっぱり校長のお話を聞かされる不合理極まりない行事である。

今すぐに全国の学校は始業式と終業式を放送ですますようにするべきだ、全国の学生を精神的苦痛から解放せよ!

…こんな事を考えてしまっている俺はきっと疲れているんだろう。やはり昨日面白い問題を見つけて明け方まで寝ずに机に向かってしまったのが悪かったのだろうか。絶対そうだな、うん。

正直にいえば、こんな何の得にもなりそうにない話を聞くくらいなら単語の一つでも覚えたいところだが、生憎と勉強道具の類は持ち込んではいけないし、かと言って寝ようとしてもこんな居心地の悪い空間で寝ることなんて出来ない。確実にうなされる。

…まぁ、とにかくなにが言いたいのかというと

「………あちぃ。」

この一言だ。温室効果ガス仕事しすぎなんだよ。いやほんと、まじで。もうちょっとさぼっても怒らないよ?

「……暑い。」

「次、上杉。」

出席番号順に呼ばれてテスト結果と通知表を手渡される。席に戻り、全ての科目の欄に書かれている100という数字を見て、ようやく肩の力が抜けるのを感じた。

今回はあいつらの事に随分と時間を割いたからいつもより自分の勉強の時間をとることが出来なかった。だからなんだというわけではないが、まぁ万が一ということもある。少し、不安だったのだ。

これで今回も学年一位だな、とつめていた息をはきだしつつついでとばかりに通知表にも目を通す。…うん、体育の欄は見なかったことにしようか。もう少しで評定2の教科なんて俺は知らない。

黒板の前に立ち、夏休みの注意事項などを言っている教師の話を聞き流しながら明日からの予定に思いをはせた。当然補習などあるはずもなく、部活にも入っていないので今のところ予定と呼べる予定は入っていない。毎年の事だ、同級生と遊びに行くなんてことは今回もないのだろう。

…まぁ今年はいつもよりは忙しくなるか。本当は宿題を大量に出して家庭教師の回数を少なくすることも考えてはいたのだが、そんなことをしてはあとが怖い。夏休みが終わったあとに気が付いたら文字通り頭がリセットされていましたじゃあ笑えないからな。いつも通りの頻度でいいだろう。

「──夏休みだからと言って羽目を外しすぎないこと、じゃあ終わりだ。いい夏休みをな!」

その言葉とともに一気に騒がしさを増した教室を急いで出る。今日は俺だけのテスト結果が返ってくる日ではないのだ、どちらかというとこちらの方がよっぽど気がかりだった。

あいつら、どうだっただろうか。思ったよりも出来てなくて落ち込んでいないだろうか、別に今回のテストが出来なかったからと言って中学に進学できなくなるわけではないのだが、それでも、だ。

…これから毎回テストのたびに俺はあいつらの結果の心配をしなければならないのだろうか。いつもこんな感じだと心臓が持ちそうもない、それが進級テストだったりしたらなおさらになるだろう。

それまでに心配する余地すらなくなるようにしないとな、そう思って少し気合を入れて図書室に急ぐ。

とにかく後の事は結果を聞いてからだ。

図書館につけば、もう五人ともそろっていた。今日は終業式とそのあとのHRだけだから終わる時間にそこまでの差はないはずなんだが、教師の話が短くすんだとかそんなところなんだろうか。…まあそこは気にしても仕様がない。

さぁ、確認だ。

「じゃあ、一花から順番にだし見せてもらおうか。」

そう言って手を差し出すと、いつもは茶化す一花も今回はまじめな顔をして点数が書いてあるであろう紙を渡してきた。

ゆっくりとその紙を開いて結果を見る。確か、一花が重点的にやってた教科は数理英だったな、さて結果は…。

国:22 数:44 理:31 社:18 英:33

「おぉ…。」

きちんと目標は達成している、確かにギリギリではあるが一花は目標としていた三科目赤点回避をやって見せていた。

「ちゃんと出来てるじゃないか、理科は本当にギリギリだけどな。」

「む!一言多いよ!そこはただ褒めるだけでいいじゃん!」

「よし、次二乃な。」

「酷い!」

腰のあたりにテレフォンパンチを繰り出してくる一花をはいはいとあしらいながら二乃に向き直る。二乃は一瞬躊躇するようなそぶりを見せたが、黙って成績の紙を渡してきた。

国:15 数:20 理:28 社:14 英:40

二乃は俺が紙を開くのを見ると、唇をかんでうつむいてしまっていた。前の一花の点数と比べてしまったのだろうか、それで自分の点数を見て…、落ち込んでしまったのだろうか。

「二乃。」

膝を曲げて同じ目線までおり、そう名前を呼ぶ。手を握りしめ俯いてしまっていた少女はそれにビクッと反応して、ゆっくりと顔を上げた。

「お前、自分の点数見てどう思った?」

「っ!ごめん、なさ……。」

「…あぁ、悪い、そうじゃないんだ。前日頑張ったからもっと取れると思ってたか?」

怒ってるわけじゃない、そう伝えようと出来るだけ穏やかに、そう心がけて質問する。その問いに二乃はこちらが怒っていないと分かったようで、コクンと黙ったまま頷いた。

そうだよな、頑張ってたもんな。見てたよ、知ってるさ、でもな。

「でもな、一花はお前より前から頑張ってたんだ。そりゃあお前よりもいい点数取れるだろうよ。」

その言葉に、二乃は傷ついたような顔をしてしまった。…これは言葉選びを間違えてしまっただろうか、どうもこういうのは苦手だ。らいはにもよくデリカシーがないと怒られる。…そもそもデリカシーとはいったい何なのか。

とにかく、だ。

「今は負けてるのはしょうがない、だからこれからだ。やめたりしないだろ?」

ほら、と言って二乃の頭を少しこずく。本当ならば一日頑張った程度でいい点数がとれるなんて片腹痛いわ!くらいのことを言うところだが、やっと前を向いて頑張り始めたこの子にそんなことを言うのは酷というものだろう。

黙ったままだが確かにうなずいた二乃に成績の紙を返して握らせる。悔しいとおもって、その後頑張れるならばきっとこの子はきっとのびる。俺にできるのはせいぜいそのあと押し程度だ。せめて、努力に裏切られたと後々思うことがないように力を尽くそう。

「じゃあ次は三玖だ。」

「…うん。」

少し離れたところにいた三玖に向きなおって声をかけるとトテトテと擬音が聞こえてきそうな足取りで近づいてきて、紙を渡してきた。…自信があるのだろうか、無言だが早く見てとばかりにグイグイと押し付けてくる。

分かった、分かったからちょっと待ってくれ。そんなにされたら見たくても見れないだろうが!

期待した目を向けてくる三玖を片手で制しながら少しよれてしまった紙を開く。

国:28 数:32 理:28 社:70 英:13

「社会は平均点越えてたんだ。」

あまり表情をかえないままふんすっとばかりに胸を張る三玖を横目に内心の驚きを口に手を当てて覆い隠す。確かに三玖が社会が得意であることは分かってはいたが、まさかここまで取れるとは思っていなかった。

得意なのは歴史に偏っていたので、歴史や地理、政経などの科目が分けられていない小学校のテストでは今のままではあまり点数は望めないと思っていたのだ。

紙に目を落としてすぐに口に手を当て、そのまま反応がない俺の姿に不安を覚えたのか三玖が俺の服の裾を引っ張ってきた。

「ねぇ…、どうしたのフータロー。何かダメだった?」

「ち、違う違う。ちょっと驚いててな…。」

「?」

コテンと首を傾けて何に?と無言で問いかけてくる。本当にあんまり表情動かなくて口数も多いほうじゃないのに分かりやすいな、…将来変な奴に騙されたりしないだろうか、こいつらを見てると少し心配になってくる。

「お前の点数にだよ、頑張ったな、三玖。」

「え?…う、うん!」

「でもまだまだだぞ、もっと取れるさ。」

「…頑張る!」

両手を胸の前で握って気合を入れる三玖に頑張れ、と返して次の四葉の方を向く。

…と、先程までもう少し遠くにいた四葉が直ぐ目の前にいてたたらを踏んだ。あっぶねぇ、もう少しでぶつかるところだった。

「風太郎君!」

「お、おう。」

「見てください!こんな点数初めてです!」

その言葉とともに勢いよく差し出された紙を受け取り、目を通す。そんな俺の様子を四葉は機嫌よさげに両手を後ろ手に組んでリボンを揺らしながら眺めている。…目がきらっきらしてるな。どうですか!って副音声が聞こえてきそうなくらいだ。

国:34 数:09 理科:18 社:30 英:26

…目標達成とはいってないが、二科目で赤点回避ができている。最初のテストで一桁を取っていたことを考えると大きな進歩だろう。ちゃんと頑張ってたのは知ってるんだから、今回だけは数学の一桁点数には目を瞑ってやろう。

…次やったらげんこつだがな。

とにかく、今はこいつを褒めてやらなければ。

「…頑張ったな、ほら。」

「え?…あ、えへへぇ…。」

リボンを崩さないように気を付けながら四葉の頭を撫でくりまわす。…本当に普段人を褒めたりしないもんで語彙力が死滅しがちだ。知識量は豊富だと自負はしているが、こういうところはてんでダメだな。本でも買って勉強するか、とそう思ったが自分の財布の中身を思い出して踏みとどまった。

…また今度にしておくか。

「…よし、最後は五月だな。」

そう言って四葉の後ろにいた五月に手招きする。五月はアホ毛を揺らしながらこちらに近づいてくると、握りしめた紙をこちらに──渡さずに胸元に引き寄せた。

「あ、あのっ!まだ見てないんです、……一緒に見てくれませんか?」

「あぁ、いいぞ。……いいんだがな、五月。」

「?なんですか?」

「紙、握りつぶしてるぞ。」

「え?…た、大変です!」

五月が握りつぶしてしまい、一部しわが寄ってしまった紙を二人してのぞき込む。…なんだかんだ言って五月が一番長く頑張ってるんだ。ちゃんと結果に結びついているといいんだが…。

国:35 数:30 理:61 社:23 英:31

ちゃんと目標の三科目での赤点回避は出来ている、それに理科は60点を超えているな。平均点には届いていないものの、他の科目と比べて流石得意科目といえる結果だな。

「ん……?」

赤点ラインの30点を超えた科目が…、国語に算数、理科、英語…?

「い、五月お前…。」

「う、上杉君…。」

「やったな!目標以上じゃないか!」

「やった!やったよお兄ちゃん!」

そう言って嬉しさ余ったのか飛びついてきた五月をどうにか受け止める。余程嬉しかったようで、やった、やったといいながら服に頭をぐりぐりと押し付けてくる。…本当に、良かった。

今まで頑張っても身にならなかった経験をしてきたからか、五月にはどうにも自分の努力を信じ切れていない節があった。それを考えると…。

いかん、点数でいえばまだまだなのに目頭があつく。

「あの~、五月ちゃん、…お兄ちゃんってなに?」

「「あ」」

「そ、そうよ!なんでそいつのこと…。」

「?フータロー、お兄ちゃんなの?」

「風太郎君がお兄ちゃんなら嬉しいです!」

五月の発言に反応して、一花たちがにわかに騒ぎ出す。確かに自分の妹が知らん奴をお兄ちゃんだなんて呼んでたら騒ぎもするか。とにかく何故か頬を膨らませて不満をアピールしてくる一花とこちらを威嚇してくる二乃に弁解をしようと口を開きかけたが、背後から悪寒を感じて振り返ると──

──図書委員らしき人がにっこりといい笑顔でそこにいた。

「騒ぐなら、出て行ってください、ね?」

「は、はい…。」

有無を言わせぬその様子に俺も一花たちも、黙ってその場をあとにすることしかできなかった。

 

帰り道、ここ数日の緊張から解き放たれ、元気に夏休みはどこに行きたいか、何がしたいかなどを話し合ってる五つ子を家まで送りながら考える。

今回は努力に見合った形での結果が出てきたが、毎回こうだとは限らない。それに、目標達成できているとは言っても点数的にはまだまだなのだ。…やっぱり夏休みで何とかするしかないよな。

「…なぁお前ら、夏休みは取りあえず三日に一回のペースで授業やるつもりなんだが、もっと少ないほうがいいか?」

「「「「「え?」」」」」

「…え?」

振り向いて全員がシンクロして疑問の声を投げ返してきたので、答えに困っておうむ返しになってしまった。こういうところを見ると、本当に五つ子なんだなと思ってしまう。…いや、全員同じ顔ではあるんだが個性豊かだからな、どうも五つ子であることを忘れることがあるんだ。

「フータロー、毎日来ないの?」

「テスト期間は毎日来てたじゃん!」

「いや、それはテスト期間だからでな…、他のバイトもあるから毎日は無理だぞ?」

「えー!毎日来てくださいよ!私たち頑張りますから!」

「へぇ、あんた他になんのバイトやってるの?」

「ケーキ屋のバイトだな。」

「ケーキ!?行ってもいいですか?」

「き、来ても別に割引なんてできないぞ?」

「いいわよそんなの別に。」

「お店の名前教えてください!皆で行きますから!」

「はぁ…、あんまり騒ぐんじゃないぞ?」

「…甘すぎるのは、あんまり好きじゃない。」

「抹茶味とかもあったはずだが…。」

「ほんとっ!?」

昼下がりの街を六人で並んで歩く。本当にこいつらに関わるようになってから毎日が騒がしいし忙しい。…ほんと疲れるのなんのって。

らしくないことしてるなぁと、そんな声にならなかった言葉はそのまま宙に溶けていく。そんなことを思いながらもおれの口元は弧を描いている。

「あれ?フータロー君なんで笑ってるの?」

「…なんでもねぇよ。」

だって、こんな少し前なら想像もしなかったような毎日が、今は楽しいんだ。

…来年のこの時期、この子たちが全員笑って同じ学校にかようことができるように、そう内心で手を合わしかけて、やめた。

それを実現させるのは──

「俺と、こいつらだよな。」

神仏に頼るのは最後の最後だ。まずは、人事を尽くそうじゃないか。

 



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20話

 

普段の自分ならば絶対に来ることなど無いであろう高級レストランにいて、目の前には如何にもと言う様な料理が出てきているのにも拘らず、早く帰りたいなどと切実に願ってしまうのは罰当たりなことなのだろうか。

 

いや、今この状況に限っては十人中十人とまではいかなくても十人中九人くらいは自分に同意してくれるのではなかろうか。

──お願いだから何か喋ってくれ!怖い!

向かいには背中に定規でも入れてるのではなかろうかと疑ってしまうほどに真っすぐ背筋を伸ばして表情を微塵もかえぬままこちらを見つめる男性が座っている。

先程からその視線に耐えかねてそんな念を送ってみてはいるものの、相変わらずの鉄面皮、全く何の効果もないようだ。先程から全く動かないその視線から逃げるように顔を少しそらしながら現実逃避気味にそんなことを考えていると、正面から聞こえてきた咳払いの音によって現実に引き戻された。

…つい先程何か言ってくれと考えたばかりだが、いざ相手が口を開くとなると今度は急激に不安になってしまう。これはあれだ、蛇に睨まれた蛙、いや、教師に睨まれた小学生の気分だな。これから説教が飛んでくると分かっているときのあの緊張感にどこか似ている。

何かやってしまっただろうかとこの二か月足らずを振り返ってみるも、これといった覚えはない、ないったらない。

ではなぜこんな状況に陥ってしまっているのか。外は真夏の日差しに加えて高い湿度のせいで筆舌に尽くしがたい居心地になってしまっているものの、そこは高級レストラン、空調は完璧で不快さなど一つもない。それにも関わらず背中から嫌な汗が噴き出してすぐさま冷房によって冷やされてしまっている。そろそろ寒くなってくるのではないか。

この夏まっただ中、一時だけでも涼しいを通り越して寒いなどと感じることなど贅沢なことなのかも知れないが、そんなことで喜ぶ気分になどなれない。とりあえず今はこの空気をどうにかしたい。

…本当になぜこんなことになってしまったのだろうか。

「あっっっちいぃ……。」

今日も今日とて五つ子の待つマンションに向かう。こんな言い方をすると毎日行っているように聞こえるかもしれないが、流石にそこまでではない。五日か六日に一度くらいは行かない日があるのだ。…いや、家庭教師としての仕事は三日に一度のペースで休みがあるはずなのだが、休みのはずの日であっても質問したいことがあるだのなんだので呼び出されるので結局そんなペースに落ち着いてしまった。

折角の夏休みなので予定があれば断るなりなんなりできたはずだが、生憎とうちのカレンダーに予定らしき予定は記入されていない。夏休みの最後の最後に一つある事にはあるが、それは今関係ないだろう。

それに折角やる気を出してくれているんだ、それを予定もないのに無碍にするというのもなかなかに心が痛む。なんだかんだ言って断ることはいまだにできていない。

あれこれと御託を並べてみたが、今日は普通に家庭教師の仕事がある日だ。頼み事ではなく仕事なのだからどんなに暑くてアスファルトからあがってくる熱気で頭がゆだりそうでも行かねばなるまい。本当に、先程あまりの暑さに負けて自動販売機で購入した冷たい水がなければ倒れていたかもしれない。

いつもならば絶対にしないことだが、こんな炎天下の中で倒れる可能性を考えたら間違った選択ではなかったはずだと自分をなんとか納得させながら、現実逃避気味に自転車の購入を真剣に検討してみる。自転車があればこの行き来も随分と楽になるだろう、いやしかしそのためだけに少なくないお金を費やすのは少し……。

「あ、風太郎君!待ってましたよ!」

ぐるぐると迷路に迷い込みそうになっていた思考は唐突にかけられた明るい声によって切られ、引き戻された。気づかないうちにもうついてしまったのかと思い回りを見渡すもまだ見上げるだけで首が痛くなるような高層マンションは少し遠くに見えている。じゃあなんだとさらに見回すと少し先で元気に跳ねながら手を振る少女が目に入った。

「四葉か…、迎えに来てくれたのか?」

「いえ!ランニングの途中だったんですが遠くに風太郎君が見えたので!というわけで一緒にいきましょう!」

「元気だなお前…、こんなに暑いってのに。」

「ほら行きますよ!家まで競争です!」

「やらねぇよ…、こんな暑い中走ったら死んじまう。」

「むぅぅ……。」

断ったことで四葉はむくれてしまったが、こちらとしては無茶言うなという話である。ただでさえ体力がないのにこの暑さである、冗談抜きで死んでしまう。

「ほら、行こうぜ。お前もこんな暑さのなか走ったんなら疲れてんだろ。歩きだ歩き。」

「あ、は、はい!」

走るのは嫌だが一刻でも早く室内には入りたいのでそう言って少し早足になると、四葉も慌てたように返事をして横に並んできた。トレードマークであるリボンも心なしか機嫌よさそうに揺れている。

…それにしても暑い。十年くらい前はここまでの暑さではなかったような気がするのだが、年々日本の夏は過ごしにくくなっている。どうしたものか、やはり最低限の体力くらいは付けておくべきなのだろうか。

「?どうしたんですか風太郎君。」

「あ~、俺も少しくらいは体力付けるべきかと思ってな。」

「じゃあ私と一緒にランニングしませんかっ!」

「あぁ、そうだな……。ってなんだって!?」

自分の言ってしまった事に気づいて慌てて訂正しようとするももう後の祭り、四葉はじゃあ早速明日の朝一緒に走りましょうっ!と嬉しそうにしている。その様子に言いかけていた言葉を飲み込み、上げかけていた手はそのまま頭の後ろに持って行った。まぁいいか、とこぼしながらもまたも自由なはずだった時間が無くなったことに密かにため息をついた。

夏休みとは言っても別に特別なことをするわけではない。そもそも勉強とは日々の積み重ねだ、ごくまれに少しの時間に詰め込むだけで好成績をたたき出す者もいるが、そうでないのなら毎日弛まぬ努力をつづけるしかないのだ。

そんなわけでやっていることは夏休み前とほとんど変わっていない。変わったことと言えばやる教科を絞ることをせずに万遍なくやっていることぐらいだろうか。

変わったことはやらないといっても夏休みは長い、出来ることは多くあるのだ。出来ることならば次のテストまでの予習だってこの夏休みで終わらせたいものだ。

「四葉あんた汗でびしょ濡れじゃない!お風呂入ってきなさいよ。ほら、着替えは用意しておくから。」

玄関口で出迎えてくれた二乃は、四葉の様子を見かねたのかそう言うとこちらを見て少し眉をひそめた。

「…あんたもそのあと入る?」

そう言われてみると自分も四葉程ではないがいつもより汗をかいていることに気づいた。ただ、だからと言ってわざわざ風呂にはいるほどではないだろう。

「いや、俺はいい。着替えもないしな。」

「それもそうね。」

お風呂場に走っていった四葉を横目に、二乃の後ろをついてリビングに入ると冷房に冷やされた空気が明けたドアから流れ出してきて汗を急激に冷やしていった。授業は四葉が出てきてからにするか、とそこにあった椅子を引き寄せて座って。一息ついた。

「…あれ、今日は一花いないのか。」

「そうなんですよ、なにか用事があるみたいで…。珍しいですよね。」

「昼過ぎには帰るって言ってた。」

「じゃあ今日のお昼は少し遅めにするわね。上杉、あんたも食べてく?」

「あぁ、そうだな。こんな中一回帰るのも面倒だし、頼んでもいいか?」

いつもなら一度家に帰ってまた戻っているところだが、今日に限っては真昼間の一番気温が高い時間に出歩きでもしたら倒れてしまう気がしたのでそう答えると、二乃は一瞬驚いた顔をした後、任せなさい!といってキッチンの方に歩き出そうとしたが、はっと何かに気が付いたのか顔を赤くして立ち止まってしまった。

「…もしかして今から作ろうとしたのか?まだ朝だぞ?」

「う、うるさい!仕込みをしようとしただけよ!」

まさかと思った事を口に出してみるとまさかの図星だったようでもともと赤くなっていた顔をさらに赤くして噛みついてきたあと、ソファーにあったクッションに顔を埋めてしまった。そしてそれを面白がったのかちょっかいを出した三玖と喧嘩を始めてしまった。

「あの二人本当は仲悪いんじゃないのか…?」

「そんなことないですよ、喧嘩するほど仲がいいってやつです。」

その様子を眺めながら何とはなしにつぶやくと、いつの間にか横に来ていた五月がそれを拾って笑いながら否定した。

…まぁ喧嘩つってもキャットファイトみたいなものだしな、それもそうかと納得してうなずいていると不意に携帯の着信音が鳴り響いた。

「あ、わたしですね。」

そう言って五月はテーブルの上にあった携帯を手に取ってリビングから出て行ったが、二言三言話すとすぐに戻ってきて俺に携帯を差し出してきた。

「……どうしろと?」

「お父さんが上杉君と話したいって言ってるんです、…代わってもらえませんか?」

あぁなるほどと納得すると同時になぜ、という疑問も頭をよぎった。ただ雇い主のいうことだ、聞かなければなるまい。

「もしもし」

「あぁ、上杉君かい?直接会って話をしたいんだが、今日の昼はあいているかな?」

そのあとは折角昼ご飯を作ってくれると言ってくれた二乃に事情を説明して謝って──文句を言うといって本当に電話をかけようとしたので止めた──、予定よりも随分早く切り上げて一花を待つこともせずに指定された場所に行き、今の状況になっているというわけである。

「…勇也は元気かい?」

「へ?」

開いた口から放たれた予想外の言葉に一瞬思考が停止しかけるも、何とか持ち直す。いさなり、勇也…と頭の中で漢字変換がなされ、それに該当する名前の金髪サングラスの親父が頭の中でサムズアップを決めてきた。

「親父と知り合いなんですか?」

そう聞くと先程から全く動かなかった表情が僅かに動いた。

「聞いていなかったのか。勇也と僕は学生時代の友人でね…、まぁ腐れ縁というやつだよ。」

聞いていない、そうは思ったが思い返してみればこの家庭教師のバイトは親父が持ってきたものだし、その前日に知り合いに会いに行くと言って珍しくどこかに出かけていた。

よくよく考えれば分かってもいいようなものだった。

「あぁ、今日呼んだのはそうじゃないんだ。お礼が言いたくてね。」

「お礼ですか?」

お礼ね…、先程までの雰囲気的にそんな言葉が出てくるとは思ってもみなかった。本当に、あの不穏な空気は何だったのか…。もしかしてこの人どうやって切り出そうか考えてただけなのか?

「…あの子たちの母親が亡くなってから、皆元気がなかったんだよ。それが最近になって元気になったようでね。電話で聞く限り君のおかげのようだと分かった。

……あの子たちを元気にしてくれて、感謝する。私は、色々知っていながら何もできなかったからね。」

そう言っておもむろに頭を下げた。いきなり大人に、それも雇用主に頭など下げられたら誰だって焦る。もちろん俺もその例に漏れることなかった、

「あ、頭を上げてください!大したことはしてませんよ…。」

「それでも、だ。」

頑なに頭を上げようとしない姿にかなりの居心地の悪さを感じてしまうが、ここでその感謝を受け取ろうとしないのはわざわざこんなところに呼んで、年下に頭を下げるなんてことまでして感謝の意を示しているこの人に失礼というものだろう。

「…頭をあげてください、あいつらが元気になったのも、成績が上がったのもあいつら自身が頑張った結果です。俺はただ背中を押したに過ぎません。だから、今度あいつらを褒めてやってください。」

「…そうだね、それもそうだ。」

その後はその話題に戻ることなく和やかに食事が進んだ。雇用主──マルオさんは殆ど表情が動くことはなかったし、会話もお世辞にも弾んだといえるほどあったわけではなかったが、最初のあの空気に比べればずっとましだった。

マルオさんは五つ子の事を話すときは少し雰囲気が柔らかくなる。あいつらからこの人の事を聞いたことがあまりなかったから少し不安だったんだが、この人は分かりにくいだけできちんとあいつらの事を見ているし、愛しているようだ。

…ならなんであの家にあいつらだけで住んでいるような状態にしてしまっているのかは疑問だが、そこは色々な理由があるのだろう。他人がそこまで首を突っ込むわけにはいかないし、この人とあいつらなら何かあっても大丈夫だろう。

「随分時間をとってしまった。悪かったね。」

「いえ、こんな所に来るのは初めてだったのでいい経験になりました。…それより良かったんですか?俺の分まで払ってもらって…。」

「わざわざ呼びつけておいて払わせるなんてことは出来ないよ、…江端に送らせよう、もういくといい。」

「な、何からなにまで…、ありがとうございます。」

家庭教師として雇った少年が車の中に消えて、その車が遠ざかるのを見送りながら一つため息をついた。本当に彼には感謝してもしきれない。五月君が懐いていると聞いて、少しでもあの子たちの為になればとおもい打った手だったがここまでの効果があるとは正直なところ思っていなかった。

それに、彼が大金を稼ぐことが出来るのならそれは間接的にアイツの助けにもなる。

「お前の子とは思えないほどいい子じゃないか…。しかしやはり平気だと言って無茶な働き方をしている。どうにか休ませることが出来ないものか。」

踵を返して自ら運転する車に向かいながら思案する、学生時代の悪友は最愛の人を亡くしてからは借金の工面に東奔西走している。頼んでくるのなら肩代わりの一つや二つしてやるのだが、変に頑固なあいつの事だ。そんなことは天地がひっくり返ったとしてもあり得ないだろう。

この家庭教師の目的もきづいているのだろうが、絶対に恩に着てなどほしくないものだ。お金以上の事を彼はやってくれたのだから。

「…旅行券でも送ってやるとしよう。」

親友、などとは口が裂けても言うことはないだろうが、あの悪友が少しでも羽を伸ばせることを願って。

 

傷つけでもしたら弁償額が目ん玉が飛び出るような額になるであろう高級車に揺られて送られること十数分、俺はマンションの下まで戻ってきていた。

「送って下さりありがとうございました。」

そう言って執事然とした格好の壮年の男性──江端さんに頭を下げてマンションの中に入る。初めは使い方が全く分からなかったオートロックに最上階の部屋番号を入力しようとしたが、そこにすでに先客がいることに気が付いた。

「一花、今帰ってきたのか。ずいぶん遅いんだな。」

「え?あ、フータロー君か…。驚かせないでよ!」

「そんなつもりはないんだがな…。」

鍵を探していたのか鞄の中をまさぐっていた一花に声をかけると、まったく気が付いていなかったのか少し体が跳ねた。…驚かせてしまったようだ。

「まぁ悪かったな。しかしお前どこ行ってたんだ?」

「あ、あった…。え、え~と、ちょっとね。」

エントランスへ続くドアを開けながらたははとごまかす様に笑う一花に少し不信感を覚え、もう少し聞いてみようと口を開いたが、その言葉は被せるように言葉をついだ一花にさえぎられた。

「それよりフータロー君!お祭り行こうよお祭り!」

「…祭り?」

「うん!ほら、らいはちゃん?っていう妹さんも誘ってさ!」

祭りねぇ…、確かにらいははあまり同年代と遊びに行くことがない。夏休みなんだ、少しはらいはが楽しいと思うこともやらせてやりたい。その点、こいつらがいるなららいはも楽しいだろう。

「そうだな、行くか。」

「ホント!?じゃあ今日の夜ね!」

「まぁそれはいいんだが…、一花は昼ご飯どうしたんだ?」

「?そとで食べてきたけど…。」

「あいつら食わずに待ってるって言ってたぞ。」

「え?そ、それは謝らないとだね…。」

「特に二乃と五月にはな。」

「あ、あはは…。」

 



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21話

思うに、夏休みの宿題の片付け方は人によって三パターンに分かれるのではなかろうか。

 

最初の三日で終わらせてしまう者、毎日コツコツ進めていたらいつの間にか終わってた、という者。そしてーー、最後の一日まで手付かずで放置し、焦って徹夜するも結局終わらない者。

自分からしてみれば最後に分類されるものは全くと言っていいほど理解ができない。夏休みを楽しむのはいいが、気になることは片付けておいたほうがよっぽど心置きなく休暇を堪能できるのではなかろうか。

 

ちなみに俺は課題を出されたその日に終わらせる派だ。…そういう奴に限って一行日記とかやるのを忘れるんだって?うるせぇほっとけ、一回それで失敗してるんだから。今年は全部の行を「今日は一日中勉強した」で埋めといたさ。

なぜ今そんな話をしているのかというと、俺の目の前にそんな馬鹿が五人も揃っているからだ。

 

…まったくもって度し難い。計画性ってもんがないのかこいつらには。

「…最低三分の一、いや四分の一くらいは終わらせないと祭りにはいかせんぞ!」

「横暴だ!おーぼーだよフータロー君!」

「そうよ!あんたの出す課題やってたら学校の宿題やる時間なんてなかったのよ!」

「…終わらない、これじゃあお祭り行けないよフータロー。」

「むぅ…、浴衣も用意したんですよ?」

「そ、そうです!なにも今日やらないでもいいじゃないですか!」

「ええい!五分の一に減らしてやるから口じゃなくて手を動かせ!」

尚も文句を垂れ流しながらもなんとか全員が規定量を終わらせることが出来た。花火が始まるまではまだ時間があるが、祭りはもうはじまっているだろう。

 

そのまますぐに向かうのかと思っていたが、何でも浴衣に着替えるとかで少し時間がかかるらしい。着替えるから妹ちゃんを呼んで来いとたたき出された。

エレベーターのボタンを押して、表示される数字がひとつずつ大きくなっていくのを何とはなしに眺める。

もう夏真っ盛り、日もかなり長くなり、もう夏祭りも始まっているであろう時間なのに日はまだ落ち切っておらずちょうど町中が茜色に染まっているような様子だ。

増え続ける階数表示とは反対に、日が落ちていくとともに段々と気温は下がっていく。下がったとはいっても熱帯夜という言葉が表す様にお世辞にも快適な気温とは言えないだろうが、それでも日差しがない分昼間よりはよっぽどましなのだろう。

今日は珍しく体感で涼しい、と言えるくらいには気温が下がっている。僅かに服を揺らす風がいつものような不快さを伴っていないことを確認し、ほ、と安心したように息をついた。

良かった。らいはは体が強くない。昔と比べれば丈夫になったと言えばなったが、それでも暑い中をはしゃぎまわればそれで倒れてしまうかもしれない。ただ、この気温ならばその心配はないだろう。

そう結論付けて、念のため水筒は用意しておくようにと連絡するために携帯を取り出してメールアプリを開くが、それと同時に目の前のドアが開いたのでとりあえず後にしてくかとそのままポケットに突っ込んで“1”と書かれたボタンを押し、早く出発しろとばかりに“閉”とかかれたボタンを長押しする。

…エレベータで居合わせた他人と絶対に目を合わせようとしないあの暗黙の了解は何なんだろうか。

 

こんな狭い空間に知らない人と一緒にいるとなるとどうにも気まずいのは分かるが、そこまでしなくてもいいのではないか。

…まぁそう言っときながらおれもーーー

「わー!待って待ってフータロー君!」

「お、おおっと…。」

ぼーっと変なことを考えていたところに架けられた言葉に反射的に“開”のボタンをおすと、ギリギリで閉まるのをやめて空き始めたドアを通って一花が走りこんできた。

「何やってんだお前…、っていうか早いな?着物ってそんなに簡単に着れるもんなのか?」

「え、えっとね?私は複雑なのが面倒だったから帯の結び目とか後付けなんだ。だから皆よりも簡単に着られるの。」

「へぇ…、そんなのあるのか。便利だなぁ。」

「ふっふー、そうでしょ!」

「お前を褒めたわけじゃないんだが…。」

自分のことでもないのに胸を張って自慢する一花にあきれた視線を送りながら疑問になったことを聞いてみる。一花も含めた五人とは後で合流する予定だったはずだ。

「なんで来たんだ?」

「む、酷い!それにこの格好見てなにかいうことないの?」

「あー、うん…、うん。」

「君に期待したのが間違いだったよ…。

私も妹ちゃんに会っておきたかったの!それに私と三玖だけフータロー君の家行ったことないし…。」

一階につき、空いたドアを抜け、さらにエントランス前の自動ドアも抜けて外に出る。

エレベーターに乗る前は赤かった空もすっかり日が落ちてもう薄暗くなってしまっている。どこからか夏祭りの開催を知らせる太鼓の音が聞こえ、町の空気もどこか浮ついているように思える。

その雰囲気にあてられたのか心なしか先程よりもテンションが高くなった一花をあんまりうろちょろされて迷子になられても困るとなだめながら自宅へと向かう道を歩き始めた。

 

ただ、そんな思惑をあざ笑うかのように監視をするりと抜けた一花は悪戯っぽく笑って此方を横目で見ながら小走りで前に出る。そしてこちらに向き直り後ろ向きに歩きながら何か話し出そうとして…、浴衣の裾を踏んずけてバランスを崩した。

「何やってんだ、せっかくの浴衣が汚れたらどうするつもりだよ。」

「あ、あはは…。ありがと、フータロー君。」 

咄嗟に前に伸ばされた手を掴んで引き戻す。後ろ向きに倒れそうになったことで少し怖かったのか一花の表情は少し強張っていたが、お仕置きだといって軽く頭を小突いてやるとすぐにそんなことは忘れてむくれた表情を見せてくれた。

その後も一花は興奮が抑えられずに絶えず動き回っている。こういうところを見るとやっぱり姉妹なんだなと感じる。普段の四葉にそっくりだ。その頭にはリボンなんてついてはいないし、髪の長さも違うがその姿は重なって見える。

「あんまり動き回るな、また転びそうになっても知らんぞ。」

とはいってもこいつには四葉程の運動能力はない。運動能力が高校生男子としては最底辺の俺でもまだ捕まえられる範疇だ。捕まえてこれ以上動き回るんなら置いていくという脅しで大人しくさせる。

 

…おかしいな、らいはよりも年上なはずなのにどうにもそうは見えない。

「五月や三玖くらい大人しくしてくれたらなぁ…。」

 

 

ガツンと、何か重いもので頭を殴られたような衝撃だった。

置いて行かれないように精一杯動かしていた足も知らず知らずのうちに止まってしまっている。普段の私ならば笑って流せただろう。気にもしないで茶化した答えを返すことだってできただろう。

でも今は、今だけは無理だった。

…今はすこし、後ろ暗いことがあるからだろうか。

「一花?どうした?」

分かっていたんだ。自分は他の子と比べればよっぽど面倒くさく、悪い子であることなんて。飽きやすくて、面倒だって思ったことはすぐに投げ出してしまう。…自分には無理だってあきらめてしまう。

でもね、でも…。頑張ってた、私、最近は頑張ってたんだよ。

比べてほしく、なかったなぁ。

君にだけは。

 

いつまでも、何回でも辛抱強く五月ちゃんが理解できるまで教えてた君だから。私がどんなにからかっても嫌な顔一つしない君だから。

 

…面倒そうな顔はするけど。

周りに合わせるように作った外面じゃない“私”でいても大丈夫だと思った、家族以外で初めての人だから。

“私”を見てほしかった。長女としての私じゃなく、外で皆に嫌われないようにと仮面をかぶってる私じゃなく

 

五人の中の一人でもない私を。

私は今どんな顔をしてるんだろう。フータロー君は…、あぁ、やっぱり心配そうな顔してる。

そんなつもりで言ったわけじゃないんだよね。

分かってる、そんなのわかってるの。私が勝手に変な風にとって、勝手に傷ついて…。

フータロー君にそんな顔をさせちゃってる。

やっぱり私は嫌な子だ。君にそんな顔させたくなんてないのに。

「…一花?」

ここで何でもないって笑えればいいんだろう。笑ってごまかせばきっと深くは聞いてこない。そしたらほら、それでいいじゃん。

じゃあ、それができない私はきっと嫌な子で、ずるい子なんだろう。

「…ねぇ、ふーたろーくん。もし私が勉強よりもやりたいことがあるって、そっちを優先したいっていったなら。どう思う?」

立ち止まってこちらを振り向いているフータロー君に近づいて、その服を掴む。

…あぁ、ずるいなぁ。ほんとうに、嫌な子だ

その時私はどんな答えを期待してたんだろうか。どうでもいいって、つきはなしてほしかったんだろうか。それともいつもみたいに勉強しろ、って言ってほしかったんだろうか。

きっと私は止めてほしかったんだろう。いつもみたいに、アホなこと言ってないで手を動かせ、なんて言ってほしかったんだ。

 

君ならそういうと思ってたから。

「…やりたいことがあるってのはいいことじゃないか。真面目にそのことに向き合ってるってんなら止めはしないさ。」

「………ぇ。」

「勉強以外の選択肢があってもいいじゃないか。失敗したってそこから得られるものもある。何事も挑戦だ。」

だからだろう、言われたことをうまくかみ砕けなかった。理解したくなかったのかな。

 

じゃあフータロー君は、フータロー君は私が何してたっていいっていうの?

わたしはあそこにいなくてもいいって、そういうこと、なのかな……。

「そうなると進学テストが不安になるが…、まぁ一花なら大丈夫だろ。」

なんでよ、なんでそんなこといえるの?私なら、長女だからしっかりやるだろうって。

妹たちがやってるんだから当然だろって、そういうことなの?

 

いやだよ、なんで?そんなこと言うの?

 

“私”を見てよ。

 

 

…やっぱり、“私”なんてどうでもいいのかな。

「一花は要領がいいからな。短い時間でも集中すればたくさんのことが出来る。授業に出れなかったとしても俺が他の時間を使って教えてやるさ。

まぁ…、なんだ。期待してんだよ、お前には。」

「…そう、なの?」

その言葉は、長女だとか、そんな立場もなにもなく、ただ“私”の事だけを見て、考えてくれているものだった。

 

見ててくれるの?見てて、くれたの?

 

望んでいたことだったのに、いざ突きつけられると中々信じられないのは何でだろうか。

 

「お前が頑張ってたところは見てた。優先したいって言っても投げ出したりしないだろ?」

「うん…。期待してるの?“私”に?」

「?あぁ、そうだぞ。…何度も言わせないでくれよ。」

「ふ、ふふ~、そっかそっか!」

嬉しいなぁ、ちゃんと私を見ててくれてた。“私”を、だ。言葉一つでこんなにすぐに気分が高揚してしまうなんて自分でも単純だと呆れてしまうほどだ。

 

…でも、これで決心がついたよ。

「じゃあもっと頑張らなきゃね、期待してくれてるフータロー君のためにもね!」

「…ん?おい今の話はなんだったんだよ。」

「なんでもなーい!」

「そんなわけ…、って走るなって!」

止まれって、それは無理だよフータロー君。だって、だって今とまっちゃったらーーー

君に顔を見られちゃう。

…こんな緩んだ顔、見せられるわけないよ。

 

 

「あ、風太郎君に一花、らいはちゃんも!こっちですよー!」

「わぁ…、並ぶとホントに皆同じ顔だ!すごいね、お兄ちゃん!」

「俺はもう割と見慣れてるんだが…。」

「やっぱり驚くよねー、ね、らいはちゃん!」

「うん!」

らいはと一花を連れて集合場所に到着、他の四人はすでにそこで待っていた。あまり心配はしてなかったが一花もすぐにらいはと仲良くなった。話を聞いた限り二乃とも仲良くなったみたいだし、らいはも仲がいい相手が増えて嬉しそうだ。

後は…、三玖だが仲良くなれるだろうか。三玖どうも人見知りするようなので、すぐには無理だろうが…、周りに姉妹が皆いるんだ、俺が心配しても仕方ないだろう。

とにかく夏祭りだ、花火はどこぞの店の屋上をかしきっていてそこで見るらしいので場所取りの必要はない。ならそれまでは屋台を回っていて問題はないだろう。それにしても花火一つにそこまでするのか…ブルジョワだな。

「花火は何時からだ?」

「19時から20時まで。」

「じゃあそれまで屋台行こー!」

こいつらはいつも騒がしいが、今日はいつもに増して騒がしい。一花一人をあんまり動き回らないように抑えるのも大変だったのに…、五人となるともうこれ無理なんじゃないか?

「らいは、はぐれないように服でも掴んでろよ。」

「はーい。」

「らいはちゃん、金魚すくいやりましょう!」

「あ!やるやる!」

「ってひっぱるな!」

「四葉お前…、これは取りすぎだろ。店がつぶれる、飼える分以外返してこい。」

「えー!せっかく頑張ったのに!」

「これじゃあ他の人が楽しめなくなるだろ、ほれ、早くいけ。」

「むー!」

「ほれ、もう機嫌直せよ。」

「納得いかないです!同じ顔なのに一花にだけおまけだなんて…」

「か、髪型の問題だったのかなぁ…?」

「…もう一個買ってやるから機嫌直せ、な?」

「ほんとっ?」

「このお面、かわいい。」

「お、おう…。かわいい、か?」

「うん、かわいい。すみません、これください。」

「…それひょっとこじゃね?」

「あんまり時間もないの!行くわよ!」

「随分張り切ってんな。」

「当り前よ!…花火はママとの思い出なんだから。毎年絶対に皆とみるの。」

「…なるほどな。」

それは皆張り切るわけだ。母親との思い出、誰よりも家族を想うこいつだもんな。たった一時間のためだけにわざわざ店の屋上を貸切るくらいの価値がそこにあるんだろう。

しかし人が多くなってきた。出来るだけ気を配ってはいるが、様々な屋台に全員が気をとられていて、どんどん間がはなれていってしまっている。四葉とらいはなんて特にだ。

「おおいお前ら!このままじゃはぐれる!屋台はもうおわりにーーーー」

『大変長らくお待たせいたしました。まもなく開始いたします。』

アナウンスとともに周りにいた人が一斉に同じ方向に動き始めた。全員を集めようとした俺の声はかき消され、まだ見えていた全員の姿は人ごみに消えて行ってしまっている。

「くそっ、このままじゃ全員はぐれるぞ!」

なんとか流されないように踏ん張りながら周りを見渡す。せめてすぐ近くにいた二乃だけでも合流を…

「痛っ、誰よ足踏んだの!

…みんなどこ?ねぇ四葉、一花!五月!三玖!…上杉!」

「…いた!」

身長故押しつぶされそうになっている二乃をみつけ、どうにかこうにか人ごみをかき分けて傍まで行く。

「二乃、はぐれないようにここ掴んでろ。」

「あ…、ありが、とう。」

「とりあえず借り切ったていう店のところまで行こう、道教えてくれ」

「う、うん!」

時間をかけてなんとか人ごみをぬけ、借り切ったという店に着いた頃にはもう花火の開始時間ギリギリになっていた。もしかしてと思い、周りを見渡してみるも誰一人として他の奴の姿は見えない。

「ここか?」

「ええ、もう皆来てるはずよ!」

最初の打ち上げに間に合うように店の人に謝りながら階段を駆け上る。果たして最初の一発にはどうにか間に合ったが、屋上にはーーー誰もいなかった。

「…おい。」

「どうしよう……、そういえばこのお店の場所、私しか知らない…。」

花火特有の破裂音が辺りに響き渡る。普通なら絶対に見ることが出来ないほど綺麗に見えるが…、残念ながら今ここにいるのは二人だけだ。

 

…迷子探しか。この場合誰が迷子になるんだ?もしかして傍から見たら俺たちも迷子だったりするのだろうか。

 



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22話

人の少ない夏祭りなんて嫌だ、屋台の少ない夏祭りは味気ないものだ、なんて殆どの人は言うだろう。

ただ、今このときだけは普通に歩けるくらいには人が減ってくれないか、と切に願ってしまうのは果たして間違っているのだろうか。

今更ながら花火を見るために移動する人や我関せずと屋台をみて回る人の波に揉みくちゃにされながら思わずため息をついてしまった。

こんな調子では見つかるものも見つからない。もし何かの軌跡で視界の中に入ってきたとしても見失ってしまう。

それにいくら夜で涼しいと言っても夏は夏だ、こんな人が多いところでとどまっていては暑くて暑くてたまったものではない・

額から流れ落ちる汗を拭いながら目的地に向かって一歩踏み出した。

 

あの後慌てて探しに行こうと踵を返した二乃を止めて決めたことは幾つかある。

探しに行くのは自分一人であること、二乃はここで他の皆が来るのを待っていてほしいこと。

そして、連絡できる四人に電話をして居場所が分かれば風太郎に教えること。

二乃の電話番号は持ってなかったのでその場で交換した。

「よし、じゃあ頼むぞ。取り敢えず四葉と一花に電話をしてくれ。」

「う、うん…。五月には?」

「五月の電話番号はしってるからな。」

「なんでよっ!あ……、そ、そうだったわね。」

「?もう行くからな。」

「うん、行ってらっしゃい…。

あ!ちょっと!ちょっと待って!」

「ぐえっ」

走り出そうとしたところに思いっきり服を引っ張られたので首が閉まった。

思わず変な声が出た上に咳き込んでしまった。何するんだとばかりにその元凶に視線で抗議すると、なにやら下の方を指差して興奮している。

「あれ!あれ三玖じゃない?」

「あー…、確かにそうだな。」

その指の指し示す方をたどってみると確かに見覚えのあるひょっとこの面に長めの髪が見てとれる。

三玖は祭りの喧騒から外れた少し暗いところで膝を抱えて座って小さくなっている。おそらくあの面がなかったらここからでは見つけられなかっただろう。

何がどう役に立つかは分からないものだ。そう思いながら不安そうに周りを見回している子の元に急いだ。

人混みを掻き分け掻き分け、時に迷惑そうな表情を向けられながらもやっとこさ三玖を視界に捕らえた。…と思ったらまた浴衣を着た一段に遮られてしまって喉元まで登ってきていた名前を呼ぼうとした声は溶けて消えた。

 

急ごうとすればするほど人の流れに逆らうようになってしまって進めなくなってしまう。どうにか手を前に差し出してその一団を突破することに成功する。

「三玖!」

気づいてくれれば儲けもの、それで此方に来てくれればなお良い。そんな気持ちで声をかけた。

その声は祭りの喧騒に掻き消されてはっきりとは届かなかったようだ。

ただ、呼ばれた気がした。そんな程度だったのか俯いていた顔をあげ、周りをキョロキョロと見渡している。

もう一度、手を振りながら声をかけると此方に気づいたようで、目があった。

「ふ、フータローっ!」

余程不安だったのか、泣きそうな顔をしている。

無理もない。五人のなかで一番気弱な子だ。急にこんな人混みのなかに一人で放り出されたら怖かっただろう。

此方の姿をみとめ、走ってこようとしたのか勢いよく立ち上がったが、動き出す前に足が力が抜けたかのようにがくんと折れ、前のめりに倒れてしまった。

足を挫きでもしたのか、そのまま立ち上がれないでいる。

 

二乃の時もそうだったが、この人ごみの中では小さいと潰されてしまいがちだ。三玖も人に流されていく中でそうなってしまったのだろうか。

「大丈夫か、立てるか?」

「ううん…、ごめん。足、踏まれちゃって。」

そう言われてみると、足の甲が赤く腫れている。歩きなれていない格好で、さらに足をけがなんてしていたら普通に歩くのは無理だろう。

取りあえずの応急処置で腫れているところを布で巻いてやる。

「ほかの奴らがどこに行ったか分かるか?」

「分かんない…、皆はぐれちゃったの?」

「あぁ…、二乃だけは借りた店の屋上にいる。あそこなんだがな。」

「…ちかいね。」

足の応急処置を終わらせ、そのまま手を取って立たせる。三玖はどうにかそのまま一人で立とうとしているようだが、怪我をした方の足に体重がかかるとやはり痛いのか顔をしかめてまたバランスを崩す。今度は倒れることがないように支え、声をかけた。

「仕方ない…、三玖、おぶされ。」

「え…、いいの?」

「お前くらいなら大丈夫だ。早くしろ、時間がない。」

「う、うん!」

後ろでおずおずと動く気配がして、ぽすっと

背中に重みが加わった。

 

軽い、一花もそうだったがこの子もだ。絶望的に力がない自分が言うんだから相当だ。

もっと食べろよ、五月を見習え。

 

三玖の倍は軽く食べているであろう五月も全く同じ体格なのは不思議だが。

 

「…ふふっ。」

 

「どうした、なに面白いことでもあったか。」

 

「ううん、何でもないよ。」

 

先程まで一人でいることが不安で目尻に涙を溜めていた子は、今は自分の背中で機嫌良さげに笑っている。

 

遠慮がちに肩に置かれるだけだった手は首にまわされ、首を絞めないように気を使ったのか力はほんの少しだけこめられている。

 

顔が近い、暑苦しいと突っぱねようかとも思ったが、今は良いだろう。

 

顔は見えないが 、笑っているのだ。それならば仕方ない。

 

…本当に、こいつらには甘いなと少し自分も笑った。

 

 

 

「そこからあいつらを探してくれないか?四葉か五月ならすぐにわかるだろ。」

「なんでわかるの?」

「リボンとアホ毛。」

「…なるほど。」

三玖を背中に乗せたまま祭りの会場を進む。怪我人をおぶっているのが効いたのか、さっきまでよりもよっぽどスムーズに進むことが出来た。

 

そんなことならば自分よりも小さい子の足を踏んで怪我させるなんて事をするな、なんて思ってしまうのだが、犯人がここにいるとも限らない。

 

言っても仕方ないだろう。

周りを見て回るだけではらちが明かない。道行く人に聞いて回ることにした。

こういう時は五つ子というのはとても便利だ。三玖に顔を上げてもらって同じ顔を見ませんでしたか?と聞くだけで済む。

五月らしき子を見た、という人の話に従ってその場に向かうと確かにそれらしきアホ毛が人ごみの中で揺れているのが見えた。

 

いや、見つけたのは俺よりも高い目線で探している三玖だったが。

「二乃~、ぐすっ、三玖、四葉ぁ。上杉君、どこですかぁ…。」

「五月、泣いてるよ。」

「あぁ…、もっと早くに見つけてやれればよかったんだが。…五月!」

さっきの三玖は泣きそうになっていただけだが、五月は思いっきり泣いていた。

三玖と顔を見合せ、声をあげて名前を呼ぶ。

 

五月はその声で此方を向き、パッと明るい表情を浮かべて駆け寄ってきた。

 

「う、上杉君!どこ行ってたんですかっ!迷子ですよまいごっ。」

「いや、迷子はお前だろ。泣いてたし。」

「泣いてませんっ!」

「五月、私もいる。」

「…三玖?どうしたんですか?怪我したんですか?」

やっと家族と合流できたので安心しているのだろうか。目元を赤くしながらも泣いてなんていないと言い張る姿に笑いが零れる。

 

五月が泣いているところなぞ何回か見ているから別に誤魔化さなくてもいいだろう、というと、五月にはそういう問題じゃないんですっと怒られ、背中の三玖には思いっきり耳を引っ張られた。

お前も泣きそうになってただろ、と背中に向かって言うと更に頬も引っ張られた。

 

ともかく後三人だ。花火の時間はあと四十分ほど、一旦二乃に連絡をとって現状を報告することにした。

なんだかんだ言っても二乃だって家族と離れて今は一人でいるんだ。少なからず不安に思っているだろう。

三玖と五月と無事に合流できたことを知らせる。二乃には一花と四葉に電話をかけてくれと頼んでいたはずだ、と思い聞くと、四葉は連絡がついてらいはと一緒に二乃のいる店に向かっている事を教えてくれた。

ならあと一人だな、と少し安堵の息を吐きつつ一花はどうだったんだ、と聞いてみる。

「一花は電話に出てくれないの。

…ねぇ、どうしよう。一花に何かあったのかもっ!」

電話口から聞こえてくる声は必死だ。見えはしないがその顔もきっと切羽詰まっているのだろう。

 

人が多かったからなどと言い訳をしようと思えばいくらでもいえる。だが、元はと言えば自分が目を離したのが悪い。監督不行き届きってやつだ。

何としてでも見つけ出す、そう約束して電話を切り、探そうと足を踏み出したところで横から袖を引っ張られ止められた。

 

五月が何か言いたげにしているのだ。そういえばいつの間にか背中の三玖と話していた声が聞こえなくなっていた。

電話をしていたので、気を使わせてしまっただろうか。

「あの、一花なら私見ました。」

「なにっ、どこでだ、どっちに行った?」

「お、落ち着いてフータロー。」

五月の話を聞いてみると、俺たちと合流する少し前に遠目に一花を見つけたらしい。

 

それなりに距離は離れていたそうなので見間違えも疑ったが、それは絶対にありませんっと、頬を膨らませながら否定された。

それならばなぜ五月は一人でいたのか、という話なのだが…。

「知らない男の人と一緒にいた?」

「はい…、でも無理やりという感じではなく知り合いみたいで。その…。」

「声がかけられなかったと。…まぁいいさ。それでどっちに行ったんだ?」

「あ、あっちだったと思います!」

折角見つけたのだから自分が声をかけていれば良かったと謝ってくる子に気にするなと言い、言われた方向に急ぐ。この場合は五月は何も悪くない。

…それよりも今は一花だ。さすがに走るときには人を背負ったままだと大変なので三玖は五月に頼んで見ていてもらうことにした。

 

場所はちょうどすぐそばにあった時計塔の下だ。あそこならば見失うことなんてないだろう、自分が戻ってくるまでそこを動くなと言い含めておいた。

ーー息が切れる、普段走ったりなんてしないから急に動いたせいで足の筋肉が悲鳴を挙げている気がする。これは明日筋肉痛だな、と思いながらも足を止めるわけにはいかなかった。

思い出すのは二乃が家を飛び出して行ってしまった時の事だ。あの時は一緒にいたのは親父だったが、今回はそんなことはない。

 

五月は親父と一回顔を合わせているし、そうならそうというはずだ。

本当に五月にーー、こいつらに会ってからは走り回ってばかりだ。精神的にも肉体的にも疲れさせられる。

走り続けること少し。屋台もまばらになり、人も少なくなってきた祭り会場の端で、見覚えのある柄の浴衣が見えた。

 

一花だ、そう思い、早く追いつくべく足に力をこめる。

声の届くくらいの距離までより、声をかけようと手を上げかけたが、その場の雰囲気に押されてついその手を下げてしまった。

一花はこちらに背を向けており、その表情を窺うことは出来ない。

 

ただ、何か確固たる意志をもってそこにいるのだということだけは察することが出来た。

ばれないようにすぐそばの物陰に身を隠してすぐ、一花と向き合っていた男の人が口を開いた。

「一花ちゃん、それでもう心は決まったの?」

「…はい。」

「!!じゃあ子役をやってくれるのかい?嬉しいよ、一花ちゃんならきっとすぐにでも役がとれるようになる!」

聞こえてきた予想外の内容に思わず声をあげてしまいそうになり慌てて両手で口を押えた。

 

つまりはこういうことなのだろうか、一花はあのおっさんにスカウトでもされてて、今その返事をしている。

今日の一花の様子がおかしかったのもこのせいだろうか。

…いや、十中八九このせいだろう。あいつが言っていた勉強よりもやりたいことっていうのはこの事なのか?

一花が決めたことならば俺にそれに口を出す権利など無い。夏祭り前、日が落ちた家までの道であいつに言った通り俺は一花が遅れをとらないようにカバーしてやることくらいしかできない。

 

ただ、何だろうな。口でもああいったし、実際そうするべきなんだろうと思っていても少し、少し引き留めたいなんて思ってしまう。

子役と言えど芸能人の端くれのようなものだ。もし役をもらえるようになれば勉強の時間をとるのは至難の業になるだろう。

 

もしもそうなってしまった時、いくら一花自身が頑張っても他の四人と違う学校に行くことになってしまいかねない。

つい数時間前の自分と正反対の事を考えてしまっている。それだけ混乱しているのだ。ああもうっと小さく声に出して頭を掻きむしった。

「じゃあ取りあえず直近のオーディションを受けてみようか?一応渡しておいた台本のやつ、今日あるんだけどーーー」

今日?これから?冗談じゃない!それじゃあこいつらがみんな揃って花火を見ることが出来ないじゃないか!

 

母親との思い出なのだと、少し寂しそうに笑った二乃の顔が頭をよぎる。

それだけは止めなければならないと飛び出したのとーーー

ーーー 一花が深く頭を下げたのは同時だった。

「でもごめんなさい、お断りさせてください。」

今まで一花が話を受けると思って話していた髭のおっさんも、もちろん俺も予想を裏切られて硬直してしまった。

「スカウトしてくださったのは本当に嬉しいです。仕事場まで見せていただきました。でも、でも今はやらなくちゃいけないことがあるんです。」

「君は才能がある!磨けばきっと光るはずなんだ。……もったいない気もするけどね。」

「…ちゃんと私を見てくださってありがとうございます。でも、

才能がない“私”でも、期待してくれる人がいるんです。」

「…そうかい、それなら仕方ないね。でも今はなんでしょ?また、声かけさせてもらうからね。」

「ッはいっ!ありがとうございます!」

物陰の後ろに戻って座り込み、頭をかいた。

…最後に言っていた頑張らなきゃ、というのはそういうことだったのか。

 

思わず緩んでしまった口を押える。なら、俺もその覚悟にふさわしいくらいに頑張らなければいけないな。

「わっ!ふ、フータロー君?なんでここに居るの?」

「あー、焼きそばを買いに来てな。」

「焼きそばの屋台なんてここにないけど…。」

「……」

「……」

「はぁ…、お前を探しに来たんだよ。行くぞ、皆待ってる。」

「ちょ、ちょっとまって!…もしかして聞いてた?」

「…何のことだ。」

「あー!目逸らさないでよ!絶対聞いてたでしょ!もー!」

さっきまで真剣な雰囲気で自分の選択を語っていた少女は今は横で頬を膨らませている。

 

きっと悩んで悩んで出した答えなのだろう。…選択肢があるのはいいことだ、俺が言ったことだ。

選択肢があって、そのうえでこちらを選んでくれたなら後悔なんてさせないようにしないとな。

「やる気が有り余ってるようだなお姉ちゃんよ。これから思う存分しごいてやる、覚悟しろよ。」

「…うんっ!覚悟したよ!」

そう言って元気よく一花は笑った。ご丁寧に敬礼姿勢までとってだ。

笑ってその頭を乱暴にかき混ぜてやる、なんだか悲鳴を挙げてるが知らん。

電話にも出ずに心配かけたんだ、髪が多少乱れるくらい甘んじて受け入れるといい。

 

 

結局全員がそろって花火を見ることが出来たのは二十分ほどだった。

 

本来の半分にも満たない時間だ、悪かったと二乃に謝ったが、全員で見れただけで充分だと笑っていた。

ただ、やはり全員がそう思っているわけではなかったようで、今は四葉の提案で公園で買った花火セットで花火をしているところだ。

らいはも、五つ子も皆楽しそうに走り回って楽しそうに宙に幻想的な軌跡を描いている。

 

…俺はベンチで休憩だ、無理して動き回りすぎた。今日は昼の一件と言い一花の子と言い、胃に穴が開きそうになることが多すぎた。

本当に今日は疲れたーーーーー

「あれ、フータロー君寝ちゃってるね。」

「…目開けたまま寝てるわね。」

「フータローと線香花火したかったのに…。」

「…風太郎君、大丈夫かな?」

「し、仕方ないですよ!今日は私たちの為に走り回ってくれてたんですよ?」

本当に…、私たち皆君にはお世話になってばっかりだよ。迷惑だって思われてないかな?

空いたままの瞼をそっと閉じさせ、無防備な頭にそっと触れてみる。

「…ありがとう。」

直ぐ近くにいる姉妹にも聞こえないくらいの大きさでつぶやいた。…私たちの為に頑張ってくれたんだよね。

「今日はおやすみ。」

その寝顔に向かってそっと微笑む

「これからもよろしくね、ーーー

ーーー君が先生で、良かった。」

 

 

 

 



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23話

 

「風太郎君!遅いですよー!」

 

「ぜぇ、ぜぇ…、し、死ぬ…。」

 

こちらは疲労で死にそうになってるのに、その元凶となる殺人的ハイペースを生み出した本人は目の前で元気に跳ねている。

 

その頭で揺れているリボンを引っこ抜いてやろうかとも思ったが、今はそんな元気もない。

 

勘弁してくれ、ただでさえ昨日のことのせいで筋肉痛なんだ。と口にしようかとも考えたが酸素の足りない脳みそを精一杯回してやめた。

 

代わりに朝っぱらから走ることになってしまった原因となる自分の軽はずみな発言を後悔することに決めた。

 

迂闊に返事をした昨日の自分に怒ればいいのか、それともわざわざ朝っぱらから家に押し掛けやがった四葉を呪えばいいのか。

 

取り敢えず今はそんなことを考える元気もない。

 

普段運動しないにもかかわらず二日連続で重労働を強いられている足の筋肉が先ほどからしきりに悲鳴を上げているという事実からはもう少しだけ目を逸らすことに決めた。

 

 

 

「本当に体力ないんですね…。」

 

「だから…、ぜぇ、言っただろ…、はぁ…。」

 

公園で一旦休憩という話だったので倒れ込むようにベンチに座り、天を仰ぐ。

 

「あの、ごめんなさい…、無理をさせたかった訳じゃないんです。これ、飲んでください。」

 

「あぁ、悪いな…。」

 

四葉が手渡してくれたスポーツドリンクをあおる。

 

生き返り…、はしないが少し楽になった。

 

もう日陰になっているこのベンチから動きたくないと疲れた頭でそう思っていると、隣に四葉が座ってきた。

 

「風太郎君、風太郎君は家庭教師ですよね…?」

 

「…?あぁ、そうだが。」

 

「じゃあ、何で勉強以外も色々してくれるんですか?」

 

「勉強以外?そんなこと…。」

 

いや、思い返してみれば沢山やっている。それに夏休み終わりに林間学校の手伝いも控えている。

 

しかし、何でそんなことをしているか、か。

 

「風太郎君は優しいです…、私も、皆もそれに甘えてばっかりです。

 

無理して、ないですか?」

 

「今お前のせいで無理したところだよ…。」

 

「す、すみません!でも、そうじゃないんです。

…お母さんは、無理して倒れちゃいました。」

 

この子達の母親のことはよく知らない。話してはくれなかったし、自分から聞くべきことではないと思っていたから。

 

でも、今の言葉でほんの少しわかった気がする。こいつらは五人もいる、年代が別々ならまだしも五つ子だとその世話の忙しさは言葉には言い表せないほどだっただろう。その育児の疲れが死因の一つだったのだろうか。

 

あんな金持ちの父親がいるのにどうして、とは思う。

 

だが、もしそうだとしたら隣で不安そうに瞳を揺らして此方を窺っている子は、俺が同じようになってしまわないか心配しているのだろうか。

 

優しい子だ、そして思い込みが激しい子だ。あの日の京都でも、この子は転んで傷ついても歯をくいしばって前に進もうとしていた、母親に元気になってほしい一心でだ。

 

「倒れるわけないだろ、お前の母親とは苦労の量が違う。俺はいつもお前らと一緒にいる訳じゃないからな。」

 

「でもっ!…でも、最近少し疲れた顔してました。だから私は、もっと、良い子に…。」

 

「良い子だったら朝家に押し掛けて走らせたりせんぞ。」

 

アホな事を抜かす奴の額にデコピンをくらわせてやった。

 

この子は変に一人で抱え込みすぎる。前だって抱え込んで、塞ぎこんで、性格まで変わってたじゃないか。

 

「お前もあいつらもそのままで良いんだ。ちびっこが変な気まわしてんじゃねぇよ。」

 

「でもぉ…、もし風太郎君まで倒れちゃったらっ!また、また前みたいに皆悲しくなっちゃう!せっかく皆楽しそうに笑うようになったのにっ!

 

…無理、しないでよぉ!」

 

すがり付くように、しかし遠慮がちに片方の手だけでほんの少し服を握ってきた手は震えていた。

 

俺が無理しているように見えたのだろうか。昨日こいつらの前で疲れて寝てしまったのが悪かったのかもしれない。

 

不安にさせてしまった。確かに夏の暑さにやられて疲れた顔もしていたかもしれない。

 

「…大丈夫、大丈夫だ。」

 

あぁ、こんなとき何て言えば良いんだろうか。不安で押し潰されそうになっている子を安心させるにはどうしたら良いんだろうか。

 

リボンの形をくずさないようゆっくりとその頭を撫でてやる。

 

昔らいはがぐずったときはこうすれば泣き止んだんでいた。記憶にある妹よりもずっと大きいが、段々と強ばっていた体から力が抜けていくのは同じだな。

 

「なぁ、四葉。…お前らの母親の事、聞かせてくれないか。」

 

「なんでですか?」

 

「大好きな母親なんだろ、知っておきたいんだよ。」

 

「…うん。」

 

四葉は話してくれた。大好きな母親のこと、教師だったんだ。厳しくて、いつも正しくて、かっこよくて、でも綺麗で。

 

とても優しい人だったらしい。

 

あまり笑わないけど、たまに笑ってくれるととても嬉しかったんだと泣き笑いのような表情で話してくれた。

 

「大好きだって沢山伝えられたんです、私もですよって笑って返してくれたんです。

 

…風太郎君のおかげですよっ!君が、言ってくれたからっ。」

 

母のことを語るこの子の目は輝いている。もっと、もっと母には良いところがあるんだと、もっと凄いんだと言葉を探している。

 

確かに、あの時京都で俺は言った。俺の様に成ってくれるなと願いを込めて約束をした。

 

あの約束はこの子を縛るものになってしまっていたけど、言葉は届いていた。

 

俺の様に、言えなかったと後悔なんてしていない。

 

それがたまらなく嬉しかった。

 

「…あぁ、会いたかったなぁ。きっと、素敵な人だったんだろうな。」

 

「はいっ!お母さんは凄い人です!今度家にある写真を一緒に見ましょう!」

 

「そりゃあ良い、よっ、と!」

 

勢いをつけて立ち上がる。そろそろ帰らなきゃならん。らいはが朝御飯つくって待ってるんだ。

 

「四葉、俺が何でお前らの面倒見てるかだったな?」

 

「は、はい!」

 

「危なっかしくて放っとけないからだよ問題児どもめ。ほら、早く帰れ。

お前が俺の心配なんて10年くらい早い。」

 

「むぅ!何ですかその言い方!」

 

「また、後でな。」

 

「…ッはいっ!また後で!」

 

手を振ったあと背を向けて歩き出す。最後にあの子は笑ってくれた。

 

「風太郎君、ありがとうございます!

 

 だ、大好きですよ!」

 

「…そういうのは本当に好きなやつに取っておけ。」

 

背中に勢いよく引っ付いてきたやつを引き剥がす。

 

能天気に笑いやがって、俺もお前も結構汗かいてんだぞ。暑いんだよ。

 

「…違うのに。」

 

 

 

 

 

 

小さく呟いた声はきっと届かなかった。だって、風太郎君は変わらず面倒そうな顔をしてたから。

 

困ったとき、悲しいとき、…私が助けて欲しいって叫んだときにいつも隣に来てくれる人だ。

 

これ以上言ったらきっと風太郎君を困らせちゃう。だから…、今は、まだもうちょっとこのままで。

 

「風太郎君!私、頑張りますよ!」

 

「何をだよ…、良いから離せ。」

 

いつかきっと、君の隣に立てますように。

 

 

 

 



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24話

「暑いよ…、フータロー君!こんなんじゃ集中できないよ!」

あぁもうっと声を上げて一花が後ろに倒れこんだ。その額には汗が滲んできている。その横で黙々と課題に取り組んでいる五月も時折手に滲む汗のせいで腕に紙がくっついてきて不快そうだ。

「そろそろ扇風機で誤魔化すのも限界ね…。」

二乃ももう限界のようで、後ろに手をついてげんなりとした顔をしている。三玖に関しては少し前にノックアウトされて今は冷たい麦茶を飲みながらの休憩中だ。

四葉だけは元気そうだ。この子は毎日走ってるからな。ただ元気は有り余っていてもこの暑さで集中するのは難しかったようで先程から色んな事に気を散らしまくっている。

さて、普段から家に冷房など無いためまだ我慢できている俺はともかく、こいつらにはこの暑さの中で勉強に集中しろというのはやはり酷な話だったようだ。

 

今日はいつものようにこのマンションに来てドアを開けたら、いつも通り冷気が外に流れ出すのではなく、むしろ外よりも暑いんじゃないかと疑うほどの熱気を叩きつけられたから驚いた。

聞くと、冷房が壊れてしまったそうだ。昨日までは普通に動いていたのにいつの間にか、とのことだ。今日は目覚まし時計じゃなくて寝苦しさに起こされたと三玖が少し疲れの残る顔で教えてくれた。

 

起きざるを得ないくらいの暑さだったため、いつもは寝坊する一花まで皆と同じくらいの時間に起きだしてきたそうだ。なんか皮肉よね、二乃が笑って言っていた。いつもはどれだけ起こしても起きないのに…、と遠い目もしていたが。

いいのかお姉ちゃんよ、妹に結構言われてんぞ。

なにはともあれ、このままでは勉強どころではない。唯一勉強に集中できているといってもいい五月の集中力だって長くは持たないだろう。そう思って五月の横まで行き、一旦休憩にしようと声をかけた。

それを聞いた五月は、ふっと体の力を抜いてーーー

ーーーそのまま机に突っ伏した。

「…おい、大丈夫か?」

「上杉君…、喉渇きました……。」

「あぁはいはい、持ってきてやるから。」

冷えた麦茶をもっていってやると、ゆっくりと起き上がって両手でコップをもってちびちびと飲み始めた。リスかよ。

 

便乗して持ってきてほしいと言っていた一花と四葉にも運ぶのを手伝ってくれた二乃と手分けしてわたしてやる。

そしていったん座ってどうしようか考えようとすると、後ろから五月に服の裾を引かれた。

「お腹もすきました……。」

「……お菓子でも食うか。」

少し呆れた顔をした二乃がお盆にお菓子を載せて持ってきてくれたので、それを囲んでの作戦会議だ。俺の隣には五月が座っている。

 

一人でソファーの方に座ろうとしたのだが、服をしっかり握られて動けなかったのだ。そんな捨てられた小犬のような眼をされたら無下にもできん。

 

どうも昨夜暑くてあまり眠れなかったくせに無理して集中力を続かせていたようで今は眠いようだ。さっきからお菓子を食べながらも時々目をこすっている。

「さて、こんな事じゃ今日はもう勉強なんて無理だろ。休みにするか。」

そう宣言すると、先程の五月のように机に突っ伏していた一花が起き上がって声を上げた。

「勉強しなくていいっていうなんて…、ホントにフータロー君?」

「お前だけ課題増やしてやってもいいんだぞ、そんなにやりたいなら。」

「あ…、ふ、フータロー君だぁ…。」

ひきつった顔であはは、と笑いながら引き下がった一花は、となりの二乃に自業自得よ、と小突かれていた。

 

一花は余計なことを言っては毎回課題を増やされそうになってあわてている。なんだかんだ今までは本当に課題を増やしたことはないのだが、一回くらいはやるべきなのだろうか。

「とにかく、今日は無理そうだからこれで終わりだ。課題もなしだ、ゆっくり休め。」

「か、帰っちゃうの…?」

 

これ以上ここにいても意味ないしな、と荷物をまとめて立ち上がろうとしたら、やっぱり服を掴んだままだった五月に止められた。

 

…いつもの敬語も抜けちまってる、無理はするなとあれほど言っておいたのにな。

 

根を詰めすぎるのも良くない、そう言ったって五月には頑張り過ぎてしまうところがある。

 

「ほれ、俺がここにいてももうやることないからな。

…あぁもうそんな顔するなよ、分かったよ、もうちょっと居てやるから。」

 

頑張り屋でいつもはあまり積極的に甘えてくることがない末っ子にたまに甘えられるとどうも断れない。

 

そう苦笑して、まだ眠そうながらも先程よりも機嫌よさげにまたお菓子を頬張る五月の隣に腰掛け直した。

 

 

 

 

 

さて、そんなことを言っても今はこの家の冷房は壊れている。

 

普段は景色が綺麗だという利点が目立つ最上階も、今は日差しを遮るものがなにもないという欠点が全面に押し出されてきている。カーテンを閉めても部屋の気温が段々上がってくるのを感じる。

 

とにかく、このままこの家に留まると暑くて死にそうだ。

 

まだ帰らないにしても何か対策をしなければなるまい。

 

「取りあえずお前は寝とけ、ほれ、そんなんじゃ起きてるほうがつらいだろ。」

 

ちょうど横でこくりこくりと船をこぎはじめていた五月を立たせて自室へと向かわせる。まだ昼ご飯まではいくらか時間がある。その間だけでも寝ることが出来れば少しは元気になるだろう。あとで扇風機も部屋に持っててやろう。

 

「……寝たら、帰らない?」

 

「はぁ?」

 

部屋の前でドアを開けてやると、今までよりも一層、いっそう強い力で服を握りしめられて引き留められた。思わず眉をひそめて俯いたままの五月を見やる。さっきまだいるって言っただろ、とも離してくれ、とも言うことが出来なかった。。

 

「…五月、」

 

「ほら、もう寝ちゃいなさい。こいつは帰っちゃうような薄情者じゃないって知ってるでしょ?」

 

「…二乃、でもぉ。」

 

「…大丈夫だから。」

 

どうかしたのか、という言葉は下から扇風機を運んできてくれた二乃に遮られた。二乃は閉められたドアに手を当てて少し考えこんだ後、こちらを向いて、言った。

 

「…ちょっと、聞いてくれる?」

 

 

 

 

 

「五月はね、寂しいのよきっと。」

 

「…どういうことだ?」

 

二乃は、壁に体重を預けながらそんなことを言った。どういうことだ、とは言ったがもちろん言葉の意味が分からないわけではない。いままでも偶にこんなことはあったから分かってもいる。

 

ただ、今日は今までのそれとはどこか違う気がしたんだ。

 

「私たちのママが死んじゃったのは知ってるでしょ?

それでね、パパはそのあとに私たちを引き取ってくれた人なんだ。

…ママが死んじゃう少し前までは、ちょっと知ってるだけの、他人だったんだ。」

 

こちらに目線を向けないまま二乃は話す。二乃とってもあまり触れたくない話なのだろう。平静を装っていても、手は強く握りしめられて震えている。

 

「おい、無理しないでも…。」

 

「いいから聞いてっ!!」

 

大声に反応して、階下にいる奴らがどうしたのかと心配そうに声をかけてきた。なんでもない、なんでもないとどうにかなだめて向き直る。二乃はごめんなさい、と小さくつぶやいた。

 

「最初はね、五月は新しく来たパパに積極的に話しに行ってたのよ。

ママがいなくなって、自分が代わりになるって言ったってやっぱり甘えられる人が欲しかったのかもね。」

 

でもね、パパは忙しいでしょ?と諦観交じりの笑顔を浮かべる、そのいつも見せている強気なものとは全く違う表情に、声をかけることが出来なかった。

 

「あんまり家にいないのよ。偶に私たちが起きてる時間に来てくれて、少し話せても絶対に朝起きたらいないの。それで、私たちも、あの子もちょっとずつ、ちょっとずつ諦めていちゃった。言いたいことが言えなくなっていっちゃった。

あの子ね、誰にも言わないけど泣いてたのよ。寂しいって。

だからね、えっと、えっと……。」

 

手をあたふたと動かしながら言葉を探す二乃の頭を撫でてやってその言葉の先を遮る。小さな声で髪が乱れるじゃない、と不満を溢されたが、笑って無視だ。

 

「帰らねぇよ、さっきも言ったしまだ昼にもなってないしな。」

 

「…ぅん。」

 

寂しいのは五月だけみたいな言い方をしてたが、きっと二乃も多かれ少なかれ寂しい思いはしていたんだろう。そうでなければさっきの五月みたいに俺の服を掴んできたりしない。

いつだってしっかりした、背筋が伸びた姿を見せてくれる二乃だって家族を亡くした一人の女の子だ。失念していた。どこかでこいつなら大丈夫なんじゃないか、という思いがあった。

 

…もっとしっかりしないとな。

 

 

 

 

 

 

「そういえばお前らって、マルオさんとそんなに仲良くないの?」

 

「…あんまり話したことないのよ。いつも仏頂面だし、口数も多くないじゃない。」

 

「…電話でもか?」

 

「うん、大抵私たちの方が一方的に話してるだけなの。」

 

「(…あの人絶対なに話していいか分からなくなってんだろ)そ、そうか…。」

 

「そうなの、パパは私たちのこと嫌いなのかな…?」

 

「それはない、断じて。」

 

「そ、そうなの?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「プールにいきましょう!」

 

そのあと少しして一階に降りると、やけにテンション高めの四葉に絡まれた。

 

「プールですよ、プール!涼しいじゃないですか!」

 

「いや、それは分かるんだがな…、なんで急に?」

 

プールだプールだと飛び跳ねながらアピールしてくる四葉の頭を上から押さえつけながらその後ろから近付いてきた一花に尋ねる。お前暑いのに本当に元気だな、少し分けてほしいくらいなんだが。

 

「ご、ごめんね、涼む方法を考えてたら急に言い出しちゃって…。」

 

「まぁそれはいいんだが…、で、どうなんだ?」

 

「へ?」

 

「お前は行きたいのか?」 

 

「あー、それは…。」

 

「はっきり言えよ、まったく…。」

 

少しの時間綿綿と視界をさ迷わせた後、遠慮がちにこちらを見上げながら頷いた四葉の頭を軽く小突く。

こいつは夏祭りの日からなんだか少し遠慮が見られる。いや、遠慮なのかは分からないんだが、前よりも少し避けられている気がするのだ。

 

「二乃と三玖はどうだ?」

 

「わ、私も?えっと、涼めるなら行きたい、かも…。」

 

「フータローとプール、行きたい…。」

 

「二乃はもっとわがまま言ってもいいんだぞ?三玖を普段の一花を見習えよ。」

 

しかし、全員行きたいのか。五月は寝てるから分からないが、皆行きたいというのだから、どうせ行くことになるだろう。

俺としてはどこかの公共施設で涼みたい気分だったのだが…。

 

こいつらも頑張っている、ご褒美ってことならまぁ良いだろう。ごく最近夏祭りにも行った気がするが、まぁ気にしないでおこう。

 

「…よし、じゃあ行くか。」

 

「本当ですかっ?」

 

「あぁ…、でも俺水着もってないな。」

 

「大丈夫です!大体の物はプールで買えるので!」

 

「そうなのか?それならいいんだが。」

 

「じゃあさっそくーーー」

 

「まて、まだ昼ご飯たべてねぇし、何よりまだ五月が寝てんだろ。」

 

そ、そうでした…と笑う四葉のリボンを一通りひっぱってやってから、冷たいお茶を持ってきてくれた二乃に礼をいって座る。

涼みに行くと決まったといっても、五月がおきて、昼ご飯を食べてからだ。

 

それまではあと少し、この暑さに耐えなければなるまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「プールだー!」

 

「あ、おい走るな!」

 

「あっ、屋台!なんか屋台がありますよ上杉君!唐揚げが食べたいです!」

 

「おまえさっき昼ご飯食べたばっかりじゃん…。」

 

『そこの女の子、プールサイドを走らないでください。』

 

「あーもう!す、すみませんホントに!」

 

「フータロー君、ほら、泳ごうよ~。」

 

「お前ら頼むから大人しくしてくれ…。」

 

プールについた、ついたはいいのだが泳いでもいないのにもうヘトヘトだ。思えば夏祭りの時のことから、こいつらが大人しくしないことなんてわかりきっていたことなのに…。

 

何も言い含めておかなかった少し前の自分をぶんなぐってやりたい気分だ。いや、何か言っておいたとしてもどうせあんまり変わらなかっただろうが。

 

取りあえず目の届かないところにはいくなとだけ言い含めたが、分かってるにか分かっていないのか微妙なところだ。一花は四葉に引きずられてすぐにプールに入れられていた。

 

そのあとをこちらを振り返りながらも二乃が続き、さっきから唐揚げ唐揚げうるさかった五月も連れて行ってくれた。ありがたや。

 

少し深めの場所もあるプールだったので、心配してみていたが、分かっているようでそこには近づかないようにしている。やはり水が冷たくて気持ちいいようですぐにはしゃいだ声を挙げながら水の掛け合いを始めていた。

 

「…さて。」

 

そういって横で浮き輪を抱えたまま動こうとしない三玖に声をかけた。

 

「で、お前はいかないのか?」

 

「…ううん、い、いくよ。」

 

何かがあやしい。さっきから目が泳いでるし、なによりこいつだってプールに行きたいって言ってただろ。

 

「お前もしかして…、泳げないのか?」

 

「う…、ち、違うもん!」

 

「…泳げないんだな、そうならそうとーーー」

 

「お、泳げるから!」

 

「あ、おい!」

 

そういって勢いよくプールの方に走って行ってしまった。さっきプールサイドは走るなとあれほど…、しかも入っていったあの場所はなぁ…。

 

「ふ、フータロ~……。」

 

「はぁ、やっぱりか…。」

 

一番深いところに行ったらそうなるだろ、そこお前の身長よりも深いからな。はぁ、浮き輪を持っててくれて助かった。そうじゃなかったら確実に溺れていた。

 

「ほら、そんな深いところはやめとけ。あいつらと同じくらいのところで普通に遊べばいい。」

 

「むぅ、フータローのバカ、ばれたくなかったのに。」

 

「…いや、無理だろ。」

 

「~~ッ~!」

 

「痛い痛いから叩くな!」

 

 

 

 

「しかもさっきの自爆だし…。」

 

「……。」

 

「痛い!痛いって!」

 

 

 

 

 

さて、俺は涼みたかっただけだし、余りあいつらから目も離したくなかったので基本的に見守っているだけのつもりだったのだが、それがあいつ等には気に入らなかったらしく無理やりボール遊びに参加させられた。

 

運動は苦手だと何度言ったら…。どうにもこいつらには何度言っても通じないらしい。

 

「てやぁ!」

 

「あだぁ!」

 

四葉が打ったボールが頭に直撃する。少し痛む額をさすりながら恨めし気に四葉を睨むが、明後日の方向を見て口笛を…、吹けてないな。

 

「ちょ、ちょっと休憩させてくれ…。」

 

「えー?フータロー君まだあんまり動いてないじゃん!」

 

「おれはお前らみたいに元気じゃないの…。」

 

プールサイドの日陰に座って一息つく。本当に元気なもんだ。一人かなり疲れた顔した奴もいるが、まぁ大丈夫だろう。それでも楽しそうだしな。

 

そう微笑ましいな、と思ってみていると。四葉が一人上がってこちらまで歩いてきた。

意外だ、あいつは休憩なんてせずにずっと遊ぶと思ってたのに。

 

「いいのか、遊んでなくて?」

 

何も言わずにすとんと自分の隣に収まった四葉に声をかける。トレードマークのリボンは濡れてもいいやつに変えているらしい。そこまでしてつけなくてもいいんじゃないか?というと、大事なことなんだと怒られた。

理由を聞いても笑ってはぐらかされてしまったが、譲れないということはよくわかった。そこまで言うことでもないだろう。

 

「風太郎君は、五月に甘いですよね。」

 

「そうか?」

 

「そうです!その…、ずるいです!」

 

「何がだよ。」

 

なぜか拗ね気味の四葉が言う内容をまとめると、なんでも自分もじぶんも!だそうだ。よくわからんが…、とにかくなにか我儘を聞いてほしいのだろうか。

 

「わかった、分かったから…。何か一つ我儘聞いてやるよ。」

 

「本当ですか!?じゃ、じゃあ…、

 

 

一緒に、遊んでください…。」

 

「…ああ、任せとけよ。」

 

 

 

 

 

その後、体力を気にせずに遊び倒したせいで次の日筋肉痛と日焼けの痛みにに苦しむことになったのはまた別のお話。

 



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25話

「おぉ風太郎!旅行行くぞ!」

「温泉ーっ!」

「はぁ…?」

帰るなりテンションの高い親父のドアを開けての第一声がそれだった。いや、テンションが高いこと自体はいつもの事なのだが、今回は玄関まで出迎えに出ていたらいはも一緒になって騒いでいる。

らいはが一緒になって騒ぐとは珍しいこともあったものだ。いつもならご近所様の迷惑になるでしょ!といって止める側なのに。

旅行だのなにしようかだの二人で楽しそうに話し始めたのを留め、詳しい話をきく。確かに旅行に行けるとしたら行きたい気持ちはある。それに、うちは貧乏なので旅行なんてここ数年では言った記憶なんてない。だかららいはは覚えている限りでは家族で旅行なんてしたことがないのではなかろうか。長期休暇のたびに友達がどこへ遊びに行った、そこで何をしたかなんて言う話を聞いて、顔には出さないけれどうらやましい思いをしていたことはしっているのだ。

「まてまて、旅行つっても費用はどうするんだ?うちにそんな金ないだろ……。」

「ふっふっふっ…、聞いて驚け風太郎!これを見ろ!」

「それなら見て驚けじゃないのか…?ってどうしたんだこれ?」

「温泉旅館の宿泊券だ、マルオから送られてきてな~。明日からお盆休みだ、折角だし行こうぜ?」

「そうだよ!行こうよお兄ちゃん!」

「いや、行くのはいいんだが…。それ、二枚しかなくね?」

「ああ、お前は自腹だ。」

「嘘だろ!?」

自腹といわれてもらいはが喜んでいるから行かないとも言えず、どうしたものかと悩んでいたら背中からもう一枚出してきた親父に大笑いされた。子供みたいなことずるんじゃないと無駄に高いところにある頭をしばこうとしたらひょいと避けられてまた笑われた。

 

手渡されたチケットをまじまじと見つめる。間違いなく温泉旅館の宿泊券だ。あまりにも唐突だったのでもしかしたら詐欺にでもあったのかと疑ってしまったがその線はなさそうだ。そもそもマルオさんからのものだしな。

とにかく、マルオさんには感謝しなければならないだろう。どういう意図があってこの旅券を送ってきてくれたのかは分からないがおかげで親父も、らいはも喜んでいる。

…本当にあの人には頭が上がらない。

何をもっていこうかだの、何が食べてみたいだのと楽し気に話し始めた二人を横目に、そんなことを考えながら参考書のページをめくった。

「もうっ、お兄ちゃんも考えてよ!」

「あでっ!…らいは、お盆は俺の頭を叩く用の武器じゃあないんだぞ?」

「ほら、一緒に荷造りするよー!」

「はいはい…。」

 

 

船、ここはフェリーの上だ。親父とらいはは横でトランプをやっているが、俺にはそんな余裕はなかった。船酔いをしてしまったのだ。車などでは酔うことはないので油断していたのだが、どうも船はダメらしい。念のために酔い止めを飲んでおけばよかったなんて今更考えても後の祭りである。

いつもならばらいはがこんなにはしゃいでいるのは珍しいので嫌な気分になどなるはずもないのだが今この時だけは頭に声が響くので少し…、いやかなりやめてほしい。…そんなことを思ってはみても死んでも口には出せないが。

……うっ、気持ち悪い。

「…お兄ちゃん、大丈夫?」

「だ、大丈夫……うっ。」

「はっはっはっ!だらしねぇな風太郎!船酔いくらい気合でどうにかしろよ!」

「無茶言うな…。」

そんなにつらいなら甲板の方に出たらどうだ?という提案にありがたく乗って、船上に続く階段を上る。こういう時は自分の体力のなさを恨みたくなる。船酔いに体力はあまり関係がないのかもしれないが、少なくとももう少し体力があればまだましだったのではなかろうか。

「おぉ…。」

実を言うと船に乗るのは初めてだったりする。船上に出てすぐは強風に顔をしかめたが、それも慣れてしまえばそうということはない。それよりも今まで見たことのない景色に目を奪われていた。

「水平線なんて初めて見たな…。」

見渡す限りの青、旅行先の島は思ったよりも遠いようで、まだその影は見えてきていなかった。その代わりに見えるのは水平線だった。確かに地球は球体であることを示す様に歪曲していることが見て取れる。

家にはテレビなんてないため、人生で初めて見るその景色に先程まで苦しんでいた船酔いすら忘れて見とれていると、腕にピトリと冷たいものがあてられた。

「のわっ!」

予想もしていなかった事態に思わず体がのけぞってしまった。またも親父の仕業かとその顔があるはずの場所を振り返って睨みつけるも、誰もいない。そのまま下に視線をずらして行くと…、いた。

俺の反応が思ったよりも大きかったのでびっくりしたのか、おそらく先程あたった冷たいものであろう缶ジュースを差し出した姿勢のまま固まってしまっている。

「…三玖、お前何でここに居るんだ?」

「なんでって…、フータローは旅行でしょ?」

「あぁ、そうだが…。」

「うん、私たちも。」

「そうなんだけどなぁ…。」

どうにも要領をえない。俺たちも旅行で、三玖、こいつがいるなら他もいるだろうから三玖達も旅行。こんなところにいるのだからそれは分かるのだが、そうじゃないのだ。

偶然行先と行く時間が一致したと考えられなくもないが、それにしては三玖が驚いていないし、そもそもいると知っていたかのような態度なのだ。

「俺がこの船にいるって知ってたのか?」

「?…うん、知ってたよ?」

疑問に感じたことを尋ねてみれば、帰ってきたのはあっさりとした肯定、しかもなんでそんなこと聞くの?なんていう言葉が聞こえてきそうなほどの不思議そうな表情と傾げた首のおまけつきだ。

これは俺が悪いのだろうか?

何とも納得のいかない話である。

「…なんで知ってたんだ?」

「え?だってお父さんが手紙と一緒に旅行券送ったって…、一緒に行かないかって誘ったって言ってたから。」

「聞いてねぇぞ親父ぃ…。」

またも原因は自分の父親である。このごろ疲れ果てる原因は大体は騒がしい五つ子達だが、それはもとはといえば父親のせいでもある最近はこんな事ばっかりだ…、と思わず頭を抱えてしまった。おずおずとした手つきで背中をなでてくれる三玖の思いやりに泣きそうになる。

「だが…、お前だけか?ほかの四人は?」

「お父さんがフータローがこの船にいるかもって言ってたから…、探しに。」

「…何人か迷子になってそうだな。あとそのジュース、美味しいのか?」

「抹茶ソーダ、美味しいよ?…飲んでみる?」

「い、いや。遠慮しておく。」

折角のお盆休みに温泉旅行、久しぶりにゆっくりできると思っていたら直ぐこれだ。どうやら今年の夏休みは、どうあってもゆっくりすることは許されないらしい。

「?フータロー?どうしたの?」

黙ってしまった姿に不安を覚えたのか、首を傾けながら訪ねてくる三玖の頭を少し乱暴に撫でた後、勢いをつけて立ち上がる。その拍子に船の揺れに足を取られて転びそうになったが…、まぁそれはご愛敬だ。

「よし、あいつら探しに行くか!」

髪の毛が乱れたのが不満なようで、頭を押さえながら頬を膨らませてこちらを見上げる三玖の手を引いて座っていたベンチから立たせてやる。

「…探しに?」

「船の中俺を探し回ってるんだろ?…五月なんて絶対迷子だ。島に着く前に見つけてやらんと。」

いつの間にか目的の島を視認できるところまで来ていた。思ったよりも長い時間船上に出ていたらしい。相変わらず強く吹き付ける潮風に目を細めながら、これから始まるであろう騒がしい数日間に思いをはせた。

「おいおいマルオ!なんでここに居るんだよ、聞いてねぇぞ!」

「あのチケットと一緒に手紙を送っていたはずなのだが…?」

「はぁ?そんなの……、あったかもしれんな。」

「はぁ…、見もせずに捨てたな?これだからお前は…。」

島に到着した後、無事に全員合流を果たしてそのまま旅館に向かっていた。知ってはいたとしても親父とマルオさんが知り合いだということは正直あまり実感がわいていなかったのだが、先頭の方で仲良さそうに話しているのを見ると実際そうなのだろう。

ルオさんの表情はやっぱり変わらないままだが、その雰囲気はどこか楽しそうだ。

「パパがあんなに楽しそうにしてるのなんて初めて見たわ…。」

「そうだね、いつもああなら怖くないんだけどなぁ。」

隣を歩く一花と二乃はそんな見たことのない義父の様子に驚いているようで、興味津々だ。マルオさんとの関係は二乃からも聞いていた通りあまりいいものではなかったようなので、この旅行を通して少しでも関係改善してくれればいいと思う。

 

「そういえばなんでお前らはこの島に旅行に来ることにしたんだ?行っちゃあ何だが…、あまりメジャーな場所じゃないだろ?」

 

「…おじいちゃんが旅館やってるの。」

 

「あぁ…、なるほどな。」

 

船着場から旅館までは徒歩ではそれなりの距離があるようだ。荷物は最低限にしておいたおかげで俺はまだ大丈夫だが、五人の中で一番体力のない三玖はすでにきつそうだ。

 

「…ねぇ、あと、どれくらい?」

 

「あと半分くらい残ってるわよ?」

 

「無理…、ぜったいむり…。」

 

「あぁもう、荷物持ってあげるから頑張りなさいよ!」

 

「三玖はいつもそうだよねぇ~。」

 

 

先頭に親父とマルオさん、そのすぐ後ろに元気いっぱいの四葉とらいは、そして五月。それにすこし遅れて一花、二乃、三玖、そして俺だ。

 

いつもならば五月も四葉にはついていけなくてこちら側なのだが、今はらいはに久しぶりに会えたのと旅行ということでテンションが上がってついていけているようだ。

 

船内では見事に迷子になってたのにな。予想どおりあのまま探しに行かず放っておいたら一人だけ船から降りれないなんてことになっていたかもしれない。

 

毎度毎度手間をかけさせる、と機嫌よさげに揺れるアホ毛をジッと睨んでやると、何か悪寒でも感じたのか五月はぶるっと背筋を震わせていた。

 

 

 

 

 

「ついたー!」

 

「たーっ!」

 

「ホントに元気だな四葉…、らいはも…。」

 

「…つかれた。」

 

旅館に到着したのはそれからさらに二十分ほど歩いた後だった。四葉とらいはは相変わらず元気いっぱいに両手をあげて目の前の旅館に向かって歓声を上げているが、三玖なんて疲れすぎて語彙力が死滅している。かくいう俺も途中から二乃の代わりに三玖の荷物を引き受けていたのであまり人の事を言えない状態だ。

 

「あれ~?情けないなぁフータロー君!もっとがんばろうよ!」

 

「うるせぇ…、課題増やすぞ…。」

 

「ふぇ?ほーぼーふぁー!」

 

膝に手を当てて休んでいる俺が面白かったのか、一花が背中をつつきながらからかってきたので頬を指でこねてやって撃退する。最近の一花はこれをやると早めに大人しくなるのだ。こいつは何をいっても懲りてくれないのでこの手段には随分と助けられている。

 

こねくり回してやる度に変な声が出るので、なんだか面白くなってきて続けていると不意に後ろから肩に手を置かれ、耳に他の誰にも聞こえないくらいの声量のしゃがれた声が届いた。

 

「…孫に手ぇ出したら…、殺すぞ…。」

 

「はぁっ、はいっ!」

 

思わず素っ頓狂な声が出てしまった。急いで振り返ると、そこには親父とマルオさんに挨拶すら老人の姿があった。間違いなく先程の声を出したのはあの人なんだろうが、今の見た目と先程の声がどうにも一致しない。

 

「どうしたのフータロー君?」

 

「…あの爺さん、おっかないな。」

 

「…?優しいお爺ちゃんだよ?あんまり喋らないけど…。」

 

優しい、か。早い話じじ馬鹿という奴なのだろうか。それならば納得できる。そう考えてみるとマルオさんと少し似ているのかもしれない。しかし、見る限りあの二人は血のつながった親子という感じではない。それならばあの人は母方の祖父なのだろう。

 

…それでも、どこか似ている。あいつらを大切に思っているところとか、怒らせたらダメそうなところとかな。

 

とにかく、この旅館ではあの爺さんを怒らせないように気を付けないとな。また一つ疲れがたまる原因が増えたことに、ひそかにため息をついた。

 

 

 

 

「うわぁ、凄い!」

 

「おぉ……。」

 

「なかなかいい部屋じゃねぇか!」

 

割り当てられた部屋はそれなりに立派な和室だった。どうにも小学校の修学旅行の部屋を思い出してしまうが、それは言ってはダメだろう。窓から見渡すことのできる景色は京都のそれとは随分違ったものだし、そもそも一緒に泊まる相手が級友ではなく家族なのだ。

 

「さて、何しようか…。」

 

「温泉入ろうぜ、温泉!」

 

「まだそんな時間じゃないだろ…。」

 

既に着替えとタオルまで準備して温泉に向かう気満々の親父をはたいて止める。まだ昼過ぎだぞ、なに阿呆なこと言ってるんだ、というとそれがいいんじゃねぇかと真顔で返された。その様子をニコニコ笑いながら見ていたらいはは、今は部屋に置いてあったテレビに夢中になっている。

 

仕方ないな、家にはテレビなんてないから見ようと思ったら友人の家でしか見ることは出来ないし、自分の自由に番組を変えることは出来ないだろう。次々とチャンネルを切り替えてみては目をきらめかせて食い入るように見入っている。

 

これは暫くてこでも動かないな、と親父と顔を見合わせて苦笑しその場に腰を下ろした。

 

「風太郎。」

 

「…なんだよ。」

 

「オセロでもやるか、久しぶりに。」

 

「ははっ。そうだな。」

 

親父が荷物を最大限詰め込んだキャリーバッグからオセロを引っ張り出してくるのを頬をついて待っていると、不意に携帯が鳴った。差出人は五月で、内容は…、あぁ、なるほど。

 

「らいは!五月達が部屋でゲームやるそうだ、行くか?」

 

「いくっ!」

 

「よおし、行って来い!俺は親父をオセロでぶちのめしてからいくから。」

 

「おぉ?上等じゃねぇか!」

 

テレビの前から動きそうになかったらいはは、その一言であっさりと部屋から出て行ってしまった。メールでは俺も御呼ばれしていたが、その前に親父の先約がある。

 

親父と向かい合ってオセロをするなんて何年ぶりのことだろうか。もう思い出せないくらい前の事だ、最後にやったときはどちらが勝ったのだったか。

 

「…なぁ風太郎、お前変わったよな。」

 

パチリと、親父が盤面に置いた黒が白一つひっくり返して黒に変える。

 

「そうか?」

 

パチリ、パチリと一手ごとに目まぐるしく盤面の様子は変わっていく。随分と懐かしい感覚にすこし口の端の方が上がってしまっているのを感じる。

 

「あぁ、いい方向に変わったよ。よく笑うようになった。」

 

「……。」

 

「五月ちゃん達のおかげなんだろうなぁ!はっはっは!」

 

「ほれ、角とった」

 

「んなぁ⁉」

 

珍しくまじめな表情で話す親父がなんだか照れ臭く、つい誤魔化してしまった。いつの間にか昔負けっぱなしだったオセロでは親父に勝てるようになってしまっていた。負けてふてくされて、それを笑われていた俺はもういない。

 

…でも、なんだろうな、こういうのは。多分こういうんだろう。

 

目の前で口に手を当てて真面目にああでもないこうでもないと試行錯誤している父親の姿を見やって、ばれない様に自分も口に手を当ててほんの少し笑った。

 

 

ーーーー幾つになっても、親にはかなわない。

 

 

 

 

 

 



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26話

さて、旅行に来た時にやることと言ってまず一番に思い浮かぶことと言ったら何だろうか。そりゃあ場所によって変わりはするだろうが、大多数が思い浮かべるのは観光だろう。

 

そもそも観光が目的で旅行をするのが大体なのではなかろうか。ただ、こと今回に限ってはそうではなかった。俺たちは昨日急にここに来るのが決まったのでまずこの島に何があるのかなんて知らないし、五月たちは実家に帰省しているようなものだ。

 

自然、昼下がりに到着したとはいってもなし崩し的にこの日はまぁ外に出なくてもいいか!なんてことになってしまった。

 

そして五月たちの部屋で持ち込んできていたらしいボードゲームや、テレビゲームを騒ぎながらやること数時間。親父はマルオさんと一緒に温泉に行ってくるそうだ。先ほど機嫌よさげに日本酒片手に温泉のほうに向かっていった。

 

温泉につかりながら一杯やる算段らしい。頼むから飲みすぎないでくれ、とだけ釘はさして置いた。普段ならば絶対に聞くことはないが、今日はマルオさんが一緒にいる。まぁあまり心配しなくてもいいだろう。

 

そして、今の俺が何をしているかというと

 

「…おい、こんなの分かるわけないだろ。無茶言うなよ。」

 

「わ、分からないよ~!五月さん、手ぇ挙げて!」

 

「さすがに引っかからないだろそんなのには。」

 

全員が五月の格好をした五人を前にして、五つ子ゲームなるものを仕掛けられていた。一人一人の強烈な個性のおかげでこの頃はあまり感じなくなっていたのだが、いざ全員に同じ格好をされるとこいつらが見た目だけは全く同じだということを思い知らされる。五つ子ってすごいな。

 

正直言うと全く分からないのだ。隣にいるらいはもお手上げなようでどうにか本人たちから聞き出してやろうという方向にシフトしている。それではまったく意味がない気もするのだが。

 

「お母さん曰く、“愛”があれば見分けられるらしいです。」

 

「なんだそのトンデモ理論…、っていうかお前五月だろ!口調的に!」

 

「さぁ~、どうかなぁ?」

 

「くっ、今度は一花に見えてきた…。」

 

その後も俺とらいははむきになってどうにか見分けてやろうといろいろ試してみたものの、見た目は全く同じなのでやはり無理なものは無理であった。いや、あんなの無理だって。

 

こいつらも昔は全員全くおなじ格好をしていたらしい。今と違って髪型も全員同じだったそうだ。今はその当時と同じ髪型なのは二乃一人になってしまっているようだ。

 

なんでか理由を聞くと、なぜか一人思いっきり顔をそらしたやつがいたが、全員同じ格好なので誰か分からない。諦めるしかなかった。

 

久しぶりに全員同じ格好なのが楽しかったのか、それとも俺とらいはの反応が面白かったのかは知らないが、暫くそのままでいるそうだ。お爺ちゃんに見せるんだと言って楽し気に出て行ってしまった。

 

騒がしい奴らが出て行ってしまい、一気に静かになった部屋でらいはと顔を見合わせてから、どちらからともなく噴き出した。

 

「片づけるか。」

 

「…そうだね!」

 

ボードゲームやらなにやらがやった後そのままに散らかされている部屋を見回してため息をつく。そしてひょいひょいと手慣れた様子で片づけを進めていくらいはと、いつも問題を起こしてばかりの五人組とを比べてまたため息をついた。

 

らいはのほうが年下なんだよなぁ……。

 

 

 

 

 

「”愛”があれば見抜けるって言ってたけど、私だって五月さんたちは大好きなのに!

 …なんでみわけられないのかな。」

 

「あぁ、そうだな…。長いこと一緒にいれば自然と分かるようになるかもなぁ。」

 

「それじゃだめなのー!」

 

 

 

旅行という非日常にいたからか、随分と注意力が散漫になってしまっていたと自分でも思う。とにかく、そのとき俺も、らいはもきづくことができなかった。

 

 

ーーー全てが同じに見えた五人の中に、一人だけとても思いつめてしまっている奴がいることに。

 

 

「…上杉君。」

 

旅館の人に夕食の準備が出来たと言われ、自分の部屋に戻る途中で、マルオさんに出くわした。温泉からはとっくに上がっていたようで、髪の毛も全く濡れた様子は見えない。

 

親父が酒を持って入っていたのですこしは酔っているのかとも思ったが、まったくそんなことはないようだ。気になって訪ねてみると、酒はめでたい日しか飲まないんだ、と返された。

 

「あの子たちの後でいい、零奈に…、あの子たちの母親に挨拶してやってくれないか。

 君ならきっと零奈も喜んでくれる。」

 

次いで発せられた言葉には、即座に返答することはできなかった。あいつらの母親…、そうか。その名前すら自分は知らなかったことに今更ながら気が付いた。あいつらの母親ならばきっと綺麗な人だったのだろう。

 

「分かりました。…お墓はどこにあるんですか?」

 

「ああ…、そうではないんだ。墓は此方にはない。墓に入れるための遺骨をとりに来ているんだ。」

 

「そう…ですか。」

 

聞くことを間違えた、と思った。直ぐにわかることだったのかもしれないが、口に出しては言いにくいことだったに違いない。

 

「その…、すみません。」

 

「いや、いいんだ。きっとあの子たちももう挨拶は終わっただろう。案内するよ。」

 

マルオさんに案内されて入ったのは客室とは全く違う、誰かの私室だったと一目で察せられるような部屋だった。その部屋の中に、ポツンと一つだけ部屋に合わないものがあった。遺影と、簡易的な仏壇だ。

 

遺影に写っている人は、やはりとてもきれいな人だった。その写真は薄く笑っていたが、後でマルオさんは少しでも笑っている写真を探すのにとても苦労したんだ、と寂し気に笑いながら教えてくれた。

 

仏壇の前に座り、手を合わせる。お盆だからといって帰ってきている死者の声が聞こえたなんてことはもちろんなく、部屋の中は静かなままだ。

俺はこの人のことをほとんど知らない。ただ、あいつらを見ていればどれだけあいつらが母親を大好きか、どれだけ母親に愛されているかは少しくらい分かるというものだ。

 

(…俺にできることはあまりない。でも、あなたが不安に思わないくらいにはあいつらが笑えるように全力を尽くしましょう。

だから、安心してください。)

 

なんて、偉そうに。自分が思ったことを自分で思い返して心中で苦笑した。そもそも俺は家庭教師で、あいつらはその生徒だ。俺はこんなことを言える立場にない。

 

ただ、あいつらに必要とされている間は自分にできることはやろうと、そう思った。

 

 

 

 

 

ーーだからだろうか、一瞬、なにを言われたのか分からなかった。

 

「---家庭教師をやめてください。」

 

「…本気か?」

 

「えぇ。」

 

普段とは全くちがう余所余所しい態度で、五月の姿をした”誰か”は、俺に向かってそう言い放った。

 

 

 

 

 

 

 

 

部屋に用意されていた夕飯を親父とらいはと自分の三人で食べ終わったあと、俺は旅館の中庭に向かっていた。夕飯前、五月に相談があると呼び出されたのだ。因みに本当に五月かどうかはアホ毛で確かめた。さすがにあのどんなにやっても重力に逆らおうとする不可思議な存在が他の四人にもあるとは思えないので、あれは五月で間違いないだろう。

 

…とはいえ、ここは初めて来る旅館の中。見事に中庭とはどこかが分からない。とりあえず受付に行こうと歩いていると、前に五月と思われる後ろ姿が見えた。

 

「…五月!」

 

一瞬名前を呼ぶのを躊躇いはしたが、違ったならそう反応してくれるだろうと思ってそのまま声をかけた。

 

「…あ。」

 

「ちょうどよかった、俺も中庭に行くところだったんだ。…だが場所分からんからここでもいいか?

なんだよ話って…。」

 

「え、えと…。」

 

五月は少しためらう様子を見せたが、すぐにこちらを真っすぐに見て口を開いた。

 

「上杉君は、私たちの関係をどう思っていますか?」

 

「…家庭教師と生徒だろ?他に何があるってんだ。」

 

突然の問いかけに、訝りながらも答えを返す。わかりきっている事だろうと五月に視線を投げると、そこには何かに耐えるように唇を引き結んだ五月がいた。

 

「では…、なぜあなたは私たちの家庭教師をしているのですか?」

 

「それは…。」

 

それは、あまり考えたことのない問いだった。理由は…、あるんだろうが今すぐに言葉にしろと言われると難しい、漠然としたものだ。

 

「報酬が高いからですか?」

 

「…まぁ、それもあるな。」

 

「じゃあ、報酬が良ければ教えるのは誰でもいいんですか?」

 

「…そんなわけ」

 

「でも見分けられなかったじゃないですかっ!ちゃんと“私たち”を見てないんじゃないですかっ!」

 

咄嗟に言い返すことができなかった。俺がこいつら五人を見分けられなかったのは紛れもない事実だったから。そのことで、俺の中に迷いが生じてしまっていた。俺は、こいつら一人一人のことを見ているつもりで、本当はそうではなかったのではないか、と。

 

黙り込んでしまった俺を見かねたのか、再び五月が口を開く。

 

「…勝負をしましょうか。”私はだれでしょう?”

あなたがきちんと私たちを見てくれているなら、分かるはずです。

もし分からなかったのなら、この関係に終止符を打ちましょう。

 

 

 

ーーーー家庭教師をやめてください。」

 

「…本気か?」

 

「えぇ。」

 

そういって五月、いや、五月の格好をした誰かは俺の目を真っすぐに見返してきた。冗談を言っている雰囲気ではない。いわれたことをうまくかみ砕くことが出来ずに混乱している俺をしり目に、そいつは踵を返して部屋に戻ろうとしてしまう。

 

「お、おい!もっと説明をーーー!」

 

とにかくもっと詳しい話を聞かなければならないと手を伸ばして引き留めようとしたが、その手は相手の肩をつかむことはなく、そのまま俺の体は宙に舞った。

 

「…は?」

 

状況が分からず痛む背中を抑えながら上をむくと、ついさっきまで死んだように微動だにせずにカウンターに座っていた爺さんそこにいた。どうも俺はこの爺さんに投げられたらしい。

 

「…孫に手をだすなと、言わなかったか?」

 

耳元で殺意満点の声音で言われた言葉に、俺の思考は停止した。

 

…もう、わけわからん。

 

 

 

 

 

五月の格好をした誰かは、気づいた時にはいなくなっていた。

 

とりあえず、中庭に行くとしよう。

 

「あの~、中庭ってどこですか?」

 

「そこだ」

 

「わぁ、すぐそこ。」

 

中庭は受付から本当にすぐそこのところにあった。見てみれば、そこに立っている五月の姿も見える。

そこに似るなら、先ほどの俺たちに気が付いても良さそうなものだが、どうも先ほどまで俺たちがいた廊下はあそこからは視覚になっているようで、気が付いた様子はない。

 

「あの、爺さん。あいつはいつからあそこに?」

 

「…お前さんらが言い争ってる時からいた。」

 

「そ、そうですか…。因みに俺と話してたのは誰か分かったりします?」

 

「……、それを言ったら意味がないだろう。」

 

「…そうですね。」

 

とにかく、あれは五月ではないということは分かった。五月も何か俺に話があるらしいが、俺もこのことを五月に少し相談したい。

 

早く考えをまとめて、どうにかしてあれが誰か突き止めなければならない。

 

 

 

ーーーもう一度見つめなおそう、なぜ俺がこいつらの家庭教師をしているか。

 

 

 



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