神喚ぶ鈴に慈しみの雨を (夢臥水)
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壱ノ章 花々の鎮魂
終焉と芽吹き


 輪廻する季節と、命の賛歌。

(2021年の春から、他サイトで現在も連載している話になります。設定の濃いオリキャラが登場しますので、苦手な方は閲覧を控えて頂けますよう、どうぞお願い致します。お手数ですが、閲覧前に、作品全体の概要をご確認下さい。)

【※原作204話後の大正軸で展開する、冨岡義勇の遅咲き青春浪漫譚。
義勇さんと固定オリキャラのダブル主演、第三者目線(ヒロインの詳細設定を後書きに記載)になります。女夢主の夢小説ではありません。】


 時は大正。幾百年もの月日を懸け、膨大な痛ましい犠牲と引き換えに取り戻した、ありふれていながらも何よりも尊い、平穏な日々がそこにあった。

 繰り返される暮らしの営みの中の、ささやかで温かい命の灯火が、ある時突然、残酷極まりない、血生臭い形で奪われるという悲劇は、もう無い。

 

 しかし、遺された人々の生は、終わってはいない。託された煌めく想いは在れど、その場所は、光と闇、表裏一体の世界。美しいものがあれば、醜いものも存在し、諸行無常なのが常だ。傷ついた体と、癒えることのない心の痛みを宿しながら、“彼ら”は、今日もそんな世界で生きている。

 これは、その中の一人である、凪いだ水面の如く闘い抜いた剣士の、後日譚である。

 

 

 ──事の始まりは、かつての戦友であり、弟弟子の竈門炭治郎からの誘いだった。

 

 鬼舞辻無惨との闘いが幕を閉じてから、およそ一年程経った、麗らかな小春日和の午後。

 ついこの間まで、素肌にぴりつくような冷えた空気が、ほんの少し和らいだような中、ようやく日の光が射し込み始めた空を、いつもの鎹鴉が、軽やかに浮遊しながら文を届けて来た日のことだ。

『…こんな風に、季節の移り変わりを感じるようになったのは、何時以来だろうか。』

 鬼殺隊の一員としてのやり方と同じ形で、同じ仕草で文を受け取るだけでも、今は違う景色を見ているかのように感じる。

『…春がまた来たのだな。』

 久しく穏やかな気分になれていたため、今年は、一人でのんびりと桜を見に行こうか、等と考えていた。

 

 炭治郎は、今でも時々、他愛ない内容の文を送ってくれている。口下手な上に筆不精のため、あまり返事を返せない自分に、甲斐甲斐しく近況を知らせてくれる弟弟子からの文を、何時も困惑と微笑ましさの混ざった気持ちで読んでいたが、今回はいつもと趣が違うと、封を開ける瞬間から、俊敏に勘づいた。

 高揚を抑え切れていない、踊るような文面は変わらないが、読み始めて直ぐに、一気に血の気が引いた。

 要約すると、柱仲間の胡蝶しのぶの継子である、栗花落カナヲの案で、初代花柱の命日に、今は彼女の家である、かつての蝶屋敷の庭に植えられた、『必勝』という名の、桜の木の下で催しを行うので、義勇にも是非参加してほしいということだった。

 我らが鬼殺隊の長年の悲願であった、鬼がこの世界からいなくなって初の命日に、勝利の祝杯と、散っていった仲間の鎮魂を兼ねて集まる、厳粛な宴である。

 カナヲを始め、竈門禰豆子、我妻善逸、嘴平伊之助、神崎アオイ、宇髄天元と奥方三名、煉獄父子、産屋敷家一同まで参加するという状況に、これは重大案件だと悟り、義勇は、静かにため息をついた後、頭を抱えた。

 

 厳かな催しとはいえ、大勢で集まる宴のような類いは、大の苦手なのだ。何しろ、あの派手好きな宇髄や、騒がしい善逸と伊之助、陽気な煉獄父子もいる。

 不死川実弥は、『いくら輝利哉様も参加するとはいえ、そんな辛気臭い行事は苦手だ。仲間の追悼は個人でやる。』と言って、断ったらしい。

 宇髄らとは先日、半ば強引に連れ出されて温泉に行って来たが、あれとはまた訳が違う。今回は、盛大な酒の席だ。儀式が終わった後は、今夜は夜桜見物だと、彼を中心に、延々飲み明かすに決まっている。そして、またいつものように、面倒な思いをするのが関の山だと予測していた。

 自分も不死川のように、宴席は苦手だと言って、断ろうかとも思い悩む。しかし、未だに名前負けしていると自負してはいても、元水柱としては、弟弟子が参加する、殉職した仲間の慰霊行事を断るというのは、兄弟子として面目が立たない。それだけは、断じて有り得ない。

『ご都合がよろしければで構いませんし、決して無理強いはしませんが、義勇さんが来て下さると嬉しいです!』

と、屈託のない笑みが、透けて見えるかのように締められた弟弟子の手紙を、義勇は複雑な気持ちで見つめ、眉間をひそめた。

 

「…断れる訳ないだろう。」

 

 どのような催しかは知らぬが、取り敢えず返事をどう書くか、先ずはそれからだな……

 先程の落ち着いたのどかな気分は、とっくに消え失せている。脳裏にほのかに浮かんでいた、麗らかな桜の像は、この窮地をどうしたら最善に乗り切れるか、という思考に掻き消された。今は、その場で自身がひたすら狼狽えている様子しか、想像出来なかった。

 

 

 一ヶ月後の、新月の春の夜。まだ少し、ひやりとしてはいるものの、どこか優しい空気に満ちている。見事に咲き誇った、満開のソメイヨシノの幹の陰に隠れるように、義勇は座り込んでいた。

 月明かりの無い、漆黒と藍色を混ぜたような夜空の中、その場だけ薄紅色の雲がふわりと覆ったような空間を、辺り一面に灯された松明の炎が、幻想的にゆらゆらと照らしている。

 

 例の桜の宴に参加すると返事を出した後、その日のうちに、炭治郎の歓喜溢れる文が届けられた。

 何故、あえて夜に行うのか、と質問し返すと、何でも夜更けにしか出来ない、特別な儀式があるらしいからだと言う。なんだそれは…と義勇は困惑した。やはり、これは、夜通し呑み倒させられる兆しだと、投げやりな気分になる。

 

『…景色は悪くないのだがな。』

 

 顔を見せるや早々に、禰豆子やカナヲ達と共に駆け寄られ、

「お久しぶりです! 義勇さん!」

と、太陽のような満面の笑顔で迎えられ、そのまま左腕を引っ張られながら、彼らの近くに座らせられた。義勇に会えて嬉しさを隠しきれない炭治郎は、

「今日は来て下さって、本当に嬉しいです!有難うございます!」

という類いの言葉を連呼しながら、茶や菓子を次々に差し出している。

「いや、お前達が変わらずで良かった。」

 それでも、弟弟子や禰豆子達の、久方ぶりに見る笑顔は、本当に嬉しく思った。

 

 あの死闘から生き残った者が、変わらず幸せそうにしているのを確認できて、心から安堵したばかりでなく、熱い感動さえ覚えた。心無しか、自身の口元が少し綻んでいるのさえ感じる。

「お前はお前で、相変わらずだねぇ~」

と、此れまた相変わらずの宇髄天元に、背中をバシバシ叩かれながら絡まれ、

「最近はどうよ? いい加減、浮いた話の一つくれぇねぇのか?」

と詰め寄られても、以前程の不快感や、疎外感は感じない自分に驚いた。(まだ、彼に酒が入ってなかったからかもしれないが。)

 もう鬼殺隊の水柱という責務はない、冨岡義勇という一人の人間として、ここに居るからか。それとも、あの凄まじい闘いを経て、自分の中で何かが変わったのか……

 しかし、やはり気持ちはどこか思わしくない。居たたまれないというべきか、今までにはなかった類いの後ろめたさが、心の底に、ぽこん、と時折湧き出すのだ。

 

 決戦後、蝶屋敷に入院中と退院後、仇討ちという生きる理由を急に失ったからか、暫し間、自身は少々気がふれて、不安定になっていたと、宇髄や不死川などから、義勇は聞いていた。

 残された余命という時間を、何をどうして過ごしたら良いのかわからず、無気力で自棄気味になっていた事は、自分でも覚えている。

 多大な犠牲と労力を賭け、姉と親友の仇を討ち、鬼のいない世界を創るという悲願を成し遂げた。共に闘った戦友達は、皆、前に進んでいて、しっかりと生きている。

 自分の望みは全て叶った。もう良い。もう十分だ。いつ寿命が尽きて、召されても良い。心からそう思ってしまっていたが故だろう……

 

 今は、炭治郎達、後輩の幸せと行く末を見守るのが、自分の役目だと考え、だいぶ心は落ち着いていた。にも拘らず、以前の自虐的な後ろめたさが減った代わりに、絶えず脳裏によぎるのは、その炭治郎始め、鱗滝師匠にまで言われた言葉……

 

『義勇さんは、絶対に幸せになって下さい!!』

『姉や仲間の分も生きて、命を繋げろ。義勇。』

 

 

 …………──────────

 

 

「冨岡さん。」

 

 意識が彼方へ飛んでいた中、頭上から小鳥のさえずりのような声が降ってきた。はっ、と我に返り、背中の痛みはどこかに忘れ、義勇は顔を上げる。

 睫毛の長い、藤色の澄んだ大きな瞳が、こちらを見つめている。竈門炭治郎の同期である、栗花落カナヲだった。少し緊張したような面持ちで、義勇の目の前に、彼女は佇んでいる。

「今夜は、初代花柱様の大事な日に、わざわざお越し頂き、本当に有難うございます。」

 律儀な態度で丁寧に挨拶し、カナヲは、ぺこりと頭を下げた。




 閲覧頂きありがとうございました。こちらにも簡易的に詳細を記載しておきます。

【※生存キャラ、ほぼ登場。原作準拠。ファンブック2のネタも絡みます。(小説は未読)縦読み推奨。原作程度のグロ表現、中~後半にR-15程度の性描写があります。
ヒロインと結ばれ結婚、子供が誕生する過程までをメインに描きますので、出産や子育て描写はさわり程度になります。
痣の死ネタ前提なので、全体的にシリアスですが、恋愛小説なので甘さもある物語です。一応、ハピエン方針。】

(誤字脱字や加筆があれば、予告無しで随時訂正していきます。個人的な願望と妄想が盛大に炸裂している、素人の不定期マイペース更新なので、温かい目で読んで頂けたら幸いです。)

【固定オリキャラ設定】
●名前→久世すずな(草花のスズナから。花言葉:慈愛、奉仕、晴れ晴れ。実になるカブは大変滋養があり、古来から神を呼ぶ食物とされている。)
●瞳→珊瑚色の朱眼(古から御守りや薬にされていた珊瑚から)
●髪→蜂蜜色がかかった亜麻色ストレートロング(蜂蜜も亜麻から採れる食用油も、滋養のある食材の一つ。
●実家は由緒ある神社。家族全員を鬼に殺された、訳ありの元巫女見習い。三人姉妹弟の長女。相手の纏う“気”(オーラ)を得る感覚が鋭く、身体治癒能力がある。
●義勇さんより二つ年下。儚げ癒し系。見た目は恋雪や琴葉の雰囲気に近いですが、妙に芯の強い頑固さや天然な面も有り。


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春宵の舞

 散って逝った花、遺され咲き続ける花々へ。


【※設定の濃いオリキャラが登場します。お手数ですが、ご覧頂く前に、シリーズ全体のあらすじをご確認下さい。】


 そう言えば、この娘も、随分変わったな……と義勇は感心した。

 自分と同じく、他人と積極的に関わろうとしないどころか、意思表示すらまともに出来なかった彼女は、今では、あの蟲柱の胡蝶しのぶに代わり、医師として頑張っていると、炭治郎からの文で誇らしげに聞かされたばかりだ。

 人の心情に鈍いとよく言われる自分でも、カナヲの変化と成長は、はっきりと感じられた。これも、胡蝶の意志が、しっかりと受け継がれているからなのだろう。

 そして、彼女を守るのは自分だとばかりに、太陽のような笑顔の大事な弟弟子が、しっかりと隣に寄り添う姿がある……

 

「輝利哉様が来られましたら、例の儀式が始まりますので、どうぞご観覧下さい。」

 意味深に微笑みながら、カナヲが屋敷の建物の方へちらりと視線を送った。炭治郎の文にもあった、宵の儀式のことかと察する。

「…神事か。慰霊が目的なのか?」

 正直、義勇はそのような神事には、あまり関心がない、というより、むしろ懐疑的だった。仮に、救いをもたらす神が存在するのなら、残虐非道な鬼が蔓延る世界など生まれないし、何の罪もない命が、理不尽に苦しめられる事など起こらないはずだ、と考えていたのだ。

 人の境地を超えた醜い化け物なら、目が腐るほど見てきていて、その度に容赦なく滅した。“冷徹で無情な水柱”と、時に隊員内で揶揄された事もある。鬼と化した人間の懺悔の言葉、身内や友人の助けを乞う声を無視し、刃を振り降ろしたこともあった。

 その度、下手に動じないように、己の心までを殺しながら、鬼と変わらぬ残酷な所業に、自らの手を染めたのだ。

 神は助けるどころか、何もしてくれない。頼れるのは、鍛え上げた自分の技量と頭脳だけ。甘い夢すら、何の意味ももたらさない。そもそも、その大切な夢を守れなかった自分には、見ることすら許されないと考えていた。

 

『振り向くな。迷うな。揺れるな。惑うな。考えるな。』

『走れ。跳べ。振り切れ。斬れ。殺せ。殺せ。滅せ。滅せ。滅、滅、滅!!!』

 

 任務という名の討伐と、無我夢中に鍛練を繰り返していくのに比例して、心が麻痺して壊れていくのは判った。そのうち、鬼を前にしても、憎悪すら沸かなくなっていった。無機質な兵器の如く、ただ鬼という形のモノを殺す。贖罪と自らに課した、そんな日常……

 自分が選んだ道とはいえ、そんな風に辛酸を舐め、泥沼を掻き泳ぐ日々があったからこそ得た、今の平穏な毎日だ。慰霊というのは尊い行いだが、そんなお伽めいた所業は、どのように、どんな人間がやっているのか、義勇は無性に知りたくなったのだ。

「…蝶屋敷をカナエ姉さんが取り仕切っていた頃、家族全員を鬼に殺された、巫女見習いの方が保護されました。」

「体が回復された後、鬼殺に疲れた隊員の心の機能回復や、屋敷の花の世話をして下さっていたそうで……その方が、初代花柱様を偲ぶ舞を、毎年、命日に奉納して下さっているのです。」

 突然、少し冷淡な口調になった義勇に、少し戸惑いながら、カナヲは、師範であり姉である、胡蝶しのぶから聞いていたことを話した。

 

 ──巫女。神々に遣え、個々其々の能力を活かし、村や里に奉仕するため、特別に選ばれた若い未婚の女性。

 懐疑的とは言うものの、そのような者達まで鬼の被害にあっていたのかと、義勇は改めて悲しく思った。討伐のために地方に向かった際、村人からそのような話を聞いた事はあった為、認識はあった。しかし、実際に神事を拝んだことはないし、効力を目の当たりにしたこともない。

「…そうか。」

 やはり、半信半疑のままだ。どのようなものか見当もつかない。他人の心の治癒という大層な芸当が、自らも鬼の犠牲者であるにも拘らず、本当に成せるのだろうか、と思った。

 

 せっかくの機会だ。今宵、その鎮魂の舞とやらを拝見するのも悪くないか……と、感情の起伏があまりない義勇の心に、珍しく好奇の小波が起こっている。

 今日は、妙に心の奥が、様々な方向にざわめくな……と、自身にも理解できない心境に戸惑っていた。

 

 

「輝利哉様!!」

「産屋敷様が来られたぞ!」

 

 煉獄槇寿郎や宇髄の歓喜の声が響き、はっと、義勇は我に返った。少し離れた元蝶屋敷の庭先に、産屋敷家の現当主で輝利哉とその姉妹が、揃って佇んでいる。一斉に一同は駆け寄り、近くにかしずいた。

「そんなにかしこまらなくて良い。皆、久方ぶりですね。」

「今宵は、わざわざご足労頂き、誠に感謝致します。」

「では、早速ではありますが、宵の儀式を始めましょう。」

 

「…すずな殿。」

 

 輝利哉が振り返った先に、暗がりの中、『すずな』と呼ばれた、一人の女性が頭を垂れ、お辞儀をしながらかしずいていた。

「面を上げて良いぞ。」

 言われるがまま、その女性はゆっくりと 顔を上げ、義勇らの居る方へ向いた。銀細工と紫の生花で出来た、冠のような頭部の装飾と、顔と肩まわりにふわりと纏った、薄紅色の羽衣で面立ちはよく見えないが、いかにも巫女らしい、白装束に紅椿のような色合いの袴を履いている。

 手元には、同じ紫の生花と銀製の鈴が装着された杖と、おそらく羽衣と同じ素材で作られたのであろう、白鶴の羽のような扇子が握られていた。印象的なのは、薄い青紫の三色菫(ビオラ)で二つに分けた髪を、更に深紅の髪紐で纏めて結わえられた、巫女としては異質な、蜂蜜色がかかった亜麻色の長い髪だ。

 顔は判らないが、松明の炎の灯りに照らし出された彼女の出で立ちは、たちまち、その場を凛と研ぎ澄まし、異次元のような神秘性のある空間に変えた。

 女性に目がない善逸や宇髄だけでなく、炭治郎や煉獄親子、禰豆子や、面識のあるカナヲまでが呆気にとられてしまっている。

 一方、義勇はと言うと、女性以前に人に関して疎いため、どちらかと言うと、今までに目にしたことが無い類いの人間に対しての、敬遠と疑念の感情の方が大きく、ひどく冷めた目で静観するように見ていた。

 

「では、始められよ。」

 

 気づくと、おそらく紫宛らしき生花の冠と、薄紅色の羽衣を纏った巫女は、『必勝』の桜の木の、真下に立っていた。

 しん、と静まりかえった空間の中、彼女の右手にある杖に連なった銀製の鈴の音が、シャラン…と響き渡った。直ぐ後に、左手に持つ白鶴の羽根のような扇が、ふわりと宙を仰ぐ。

 頭上から次々に舞い落ちる、桜の花吹雪が周りを取り囲み、緋色の松明の灯火が、彼女の亜麻色の長い髪に反射し、黄金色に揺れながら煌めく。

 シャラ…シャラン…リン……という澄んだ鈴の音色に合わせ、ふわり、ふわり、と扇が宙になびく。しなやかに、ゆるやかに、降り上げる腕に合わせて、純白の振り袖と薄紅の花びらが舞い踊り、この儀式に参加しているかのように見えた。

 体に纏った薄紅色の羽衣を、動きと共に腕に絡ませ、静かな春風のように動き、舞う姿は、まさに優麗という表現がふさわしい、まるで花の精霊、天女のようだと、一同は魂を抜かれたような面持ちで見ていた。

 少しずつ、少しずつ、それぞれの心の奥底にある、ひんやりとした哀しみが、じんわりと緩和され癒えていくような、そんな感覚が涌き出てくる。

 逝ってしまった者、遺された者、全ての魂にそっと寄り添い、温かく包み込まれるような、至極優しく、深い慈しみに溢れた雰囲気が、その場一体に漂い、溢れていた。

 

 炭治郎は、何故か、幼い頃に父が見せてくれた、ヒノカミ神楽を思い出していた。あの雰囲気とは、また違う趣ではあるが、どこか通じるものを感じる。

 もしかしたら、花の呼吸に所縁のある舞なのだろうか……と考えていた。

 一方、生まれて初めて目にする光景に、義勇は釘付けになっていた。神事がどうかという類いの念は、既に消え失せていて、眼前で繰り広げられている、幻想的で不可思議な、至極心地の良い現象に、徐々に心を奪われていく。

 思い出すのは、胡蝶カナエが存命していた時に見た事がある、花の呼吸の技だが、それとはまた違う趣向のものだ。

 

『何だ…これは……』

 

 

 儀式が終盤に差し掛かった時、突如、強烈な突風が彼女を襲い、肩周りと顔を覆っていた、薄紅色の衣が乱れ舞い、宙を飛んだ。

 あっ、と一同が気にかけた瞬間、顔を覆っていた衣が、ふわっ、と浮いた。

 終始、彼女を凝視していた義勇の眼と、顔があらわになった巫女の眼が、一線で繋がった。深い紺碧の瞳が、視線の先にある、珊瑚色に力強く揺らめく瞳を捉える。

 

 一筋の閃光がほとばしったかのような、ほんの僅かな、刹那の出来事だった。が、互いの瞳の鮮烈な光は、其々の心を撃ち抜き、芯の底の最も柔い部分に、その存在が、しかりと刻み込まれた。




【おまけ(登場した花の花言葉)】

●紫苑→あなたを忘れない、追憶、思い出、遠方の人を想う
●三色菫(ビオラ)→(全般)少女の恋、誠実、信頼、物思い、私を想ってください
(青)→誠実な愛、純愛
(紫)→揺るがない魂、思慮深さ、誠実
誠実で一途な片思いを応援する花なのだそうです。
巫女が装着していた三色菫は、薄い青紫のイメージです。

 紫苑は、鎮魂の儀式の花冠ということで装着していますが、三色菫は……誰かさんへの恋心の表れということで、単に巫女さん本人が好きな花という設定で、筆者が着けさせました。


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巫女と猪

 憂うように、笑う人。


【※設定の濃いオリジナルキャラが登場します。お手数ですが、作品をご覧頂く前に、シリーズ全体の概要をご確認下さい。】


 突風により、突如飛ばされかけた薄紅の羽衣を、巫女は、華麗に宙返りしながら掴み取り、両腕を広げながら着地し、シャラン…という音と共に、舞は静かに終わりを告げた。

 

 鈴の音が収まると、あちこちで涙をすする音が響いていた。あの凄惨だった闘いの中で、散って逝った者の顔が次々に浮かび、それぞれの想いを馳せながら、心を震わせている。

 善逸に至っては号泣、あの伊之助までが、鼻をグスグスさせている。そして、これからも、また懸命に生きなければという、気が引き締められる衝動に駆られていたのだ。

 義勇も皆と同じ状態だったが、また違った意味で衝撃を受けていた。あの、一瞬の閃光のような出来事。目の前で朱色に揺らいで光った、力強く澄んだ珊瑚色の瞳が、脳裏に焼きついて離れないでいる。

 

 しばらくして後、誰からともなく、パチ…パチ…という音が鳴り始めた。次第に、軽やかな拍手が重なり続け、その場の想いが一つになる。

 巫女はその様子を見届け、静かに一礼をした後、花吹雪を背に、スッ…とその場を去り、

「後は任せるよ。」

と、言い残した輝利哉達と共に、屋敷へ戻って行った。

 

 

 儀式が終わり、感傷的な気持ちが落ち着いてきた頃、誰からかの一声で、夜桜の宴が、徐々に始まり出した。

 皆、とても高揚した良い気分になっていた。宵闇の中、彼方此方に松明の明かりが灯り、薄紅色の花吹雪を浴びながら、陽気な雰囲気に満ちている。

 

 すっかり昂っている伊之助は、両手に串団子を持ち、振り回しながら踊り、浮遊しながら暴れている。どうやら、先程の舞の真似をしているらしかった。

「なぁ、さっきの、あの巫女の人は、花見には来ないのか?」

 先程の鎮魂の舞に、いたく感動した善逸が、鮭の握り飯を頬張りながら、炭治郎の隣にいる栗花落カナヲに問いかけた。その言葉を俊敏に聞きつけた、宇髄天元も加勢する。

「そうだよなぁ! 俺達の仲間の為に、わざわざ来て、あんな派手にスゲェの演ってくれたってのに、ハイさよなら、って訳にはいかねえよ!」

 「天元様。」と、窘める雛鶴をよそに、是非会いたい、と日本酒の瓶を握り締め、息巻きながら詰め寄る。

 二人の剣幕に少々たじろぎながら、カナヲは弁解した。

「あの…あの方…すずな様は来られません。ご遠慮したいそうです。」

「なんでだよ! 巫女さんは、こういう賑やかな席に来たらいけねぇのか?」

「いえ…そういう訳ではないですが、素顔を見せて、先の儀式の印象を壊したくないと仰っていて……それに、穏やかな方ですが、対話があまり得意でないらしいので。」

 口元をまごつかせながら、懸命に説明するカナヲの言葉に、大木の下に一人隠れるように、少し離れた場所に居た義勇が、緑茶を飲みながら、ぴくり、と反応した。

「そんなの気にしねえよ! 俺らは、さっきの舞の礼がしたいだけだ。口数少ないってのも、冨岡で免疫ついてるから安心しろ!」

 前半は同意するも後半の発言に、義勇は名指しされたことに気分を害しながら、宇髄を少し睨んだ。

 そんな兄弟子の様子を見て慌てながらも、炭治郎も同意する。

「大丈夫だよ。カナヲ。皆彼女に感謝してるんだ。おかげで、とても良い式になったんだから。」

 日溜まりのような温かい笑顔で言う、大好きな人の優しい言葉を聞き、カナヲは、

「わかりました。まだ屋敷にいらっしゃると思いますので呼んで来ます。」

と、宇随らに伝え、元蝶屋敷の方へ駆けて行った。

 

 

 暫し後、瞳と同じ朱色の着物姿の女性が、カナヲと連れ立ってやって来た。

 巫女装束から着替え、化粧も落としたのであろう彼女…すずなは、先程の神秘的で華やかな雰囲気は無く、淑やかで楚々とした印象の女性だった。

 腰まである、所々が蜜蝋色に反射し煌めく、亜麻色の長い髪を靡かせ、耳の辺りの髪を後ろにまとめ、深紅の髪紐で一つに結んでいる。目鼻立ちも、目の覚めるような美女というよりは、どちらかといえば線が細く、円らな目に小振りの唇という、儚げな造りをしていた。

 このような素朴で可憐な女性が、あの優麗で見事な舞を披露したのかと、一同は少し驚き、息を飲んだ。

 

「すずなさん、今日は有難うございました!」

「とても素敵でした!」

 直ぐ様、最初に揃って切り出したのは、炭治郎と禰豆子だった。さすが竈門兄妹…と思いつつ、宇髄や善逸たちも、後に続く。

「いやぁ、見事だったぜ。派手に最高だったわ。」

「俺、あんなに感動したの久しぶりです!」

 次々に浴びる称賛の言葉に、すずなは、少し照れ臭そうにはにかみ、初めて口を開いた。

「いえ、喜んで頂けて良かったです。今年は、例年よりも特別な夜になると、カナヲさんから伺っていたので……」

と、尺八の澄んだ音色のような声を溢し、安堵したような表情を浮かべた。義勇より二つ年下だと、カナヲから聞いていたが、年齢のわりにどこか幼い、あどけない微笑みを浮かべている。

 

 騒ぎを聞きつけ、少し前まで、串団子を手に踊っていた伊之助が、いつの間にか俊足に飛んで来た。

「すずなぁ! お前、スゲェなぁ! やっぱ、山育ちはちげぇな! 俺様や権八郎と、同じ臭いがするだけあるぜ!!」

 猪の被り物の鼻を、フンフン、と鳴らしながら、すずなの顔に近付け彼女の肩をバシバシと叩く。その場にいた全員が青ざめ、白目を剥いた。

「止めろ伊之助!! 失礼だろ!!」

「何言っちゃってんのぉお~?! そんな訳ないでしょぉ!!」

 同時に絶叫しながら、炭治郎と善逸が、伊之助を急いで引き剥がす。

 

 そんな二人と猪姿の少年を、すずなは瞳孔を見開き、ぽかん、とした表情で見ていたが、次第に頬が緩み、ふ、ふっ、と耐えかねたような息遣いを漏らした。

 そして、ふわっとした柔らかな笑みを浮かべ、あははっ…と、笛が明るく高らかに鳴るような、気持ちの良い笑い声を上げた。

「そうです。すごいですね……私の故郷は、山奥にあります。」

「そうか!! そうだろう!! 俺様は、猪に育てられたんだ。お前は、あれか? 狼か何かか? 犬みてえな顔だしな!!」

「ふふ…違います。私の親は、神社の人ですよ。」

「ジンジャ? 何だそれ、どっかの洞穴か?」

「イ~ヤア~アァ~ア~!! もういい加減にしろォ~!! 伊之助ェェ!!」

 この状況に耐えきれず、炭治郎と善逸、禰豆子、カナヲに加え、怒り心頭のアオイまでが飛んで来て、揃って羽交い締めにしながら、伊之助を引きずって行った。

 

 残された宇髄と雛鶴、そして義勇は、其々顔面蒼白の面持ちで、変わらず機嫌良さげに、くすくす、と、まだ可笑しそうに笑っている彼女を、恐る恐る見遣った。

 驚愕したのはこっちだ。初対面で、あの伊之助に動じず、しかも、楽しそうに話す女性を初めて見た。気を遣っているのかもしれないが、元とはいえ、彼女は巫女だ。おそらく神聖な場所で、厳かな教育を受け育ったはずだ。

 対話が苦手とあれば尚更、言っては何だが、ああいう粗野な振る舞いは苦手だろうに、何故か、この娘は、本当に嬉しそうに受け入れている。

 様々な女性を見てきた、経験豊富な宇髄でも、この不可思議なタイプに、何と声をかけて良いのか計りかねていた。

 

 そんな中、意を決したのは、義勇だった。腰を上げ、大木の陰から出て来た。彼らの元上官として、代わりに詫びなければ、と思ったのだ。

「あの……大変失礼をした。申し訳ない。」 

 律儀に頭を下げた彼に、すずなは、少し驚くような表情と仕草を見せた後、

「いえ…! 大丈夫です……なんだか羨ましくて。あんな素敵な関係……」

 そう言って、正座させられ不貞腐れた伊之助を、必死な形相で説教しているアオイ、善逸、炭治郎。そして、彼らを狼狽えながら宥める、禰豆子とカナヲの姿を、まるで、貴重な宝でも眺めるような面持ちで、切なそうに眺めていた。

 

 彼女の瞳からは、先程の舞で放っていた、力強く揺らめく珊瑚色の光は、もう消えていた。代わりに、何かが欠けたような憂いがかかっていたが、邪な仄暗さは感じられない。

 朱の硝子玉のように曇り無く澄んでいるが、きらきらした宝石というよりは、控えめに艶めく天然石のような風合いをしている。

 

 義勇は、本当に不思議な娘だ、改めて思った。今までに会ったことの無い類いの女性だが、どこか懐かしい雰囲気を感じる。

 そんな心許ない様子の、かつての柱仲間を、宇髄天元は雛鶴と共に、意味ありげに静観していた。




【おまけ噺】

 霊魂の供養ではありませんが、疫病退散の願を込めた舞を、巫女さんだけでなく、舞妓さんも京舞として奉納されることもあるらしいです。
 他、疫病退散祈願のやすらい祭り(祈祷師の方が凱旋する)を、京都では春に行うそうです。奈良では鎮花祭と呼ばれています。


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弐ノ章 灯籠流転
悪戯


 重なる面影、転ずる心。

【※設定の濃いオリキャラが登場します。お手数ですが、ご覧頂く前に、シリーズ全体の概要をご確認下さい。】


 義勇にとって様々な面で心に残った、あの夜桜の宴の夜から、一週間余り経った、とある日の昼前。いつもの行きつけの蕎麦屋の前に、義勇は居た。

 また炭治郎からの文の誘いで、先日の来てくれたお礼がしたいので、久しぶりに蕎麦をご馳走したいという内容だった。

 『礼などいらない。』と断ったが、『大事な話があって、直接会って話したいんです。』と返され、また半ば強引に呼び出されたのだ。

 

 ぽかぽかと暖かい日差しが辺りを照らしていて、とても麗らかな陽気に満ちた、気持ちの良い午後だった。

『…最近は、よく呼び出されて誰かと会ってるな。』

 長年、心身を削る日々を送っていて、ゆっくり食事をとることも少なく、それが当たり前になっていた。

 元々出不精な上、不本意にも柱になってしまった後ろめたさから、鬼殺隊の仲間とも距離をとっていた、以前の自分からは考えられないことだった。これも、平穏な日々のおかげなのか否かわからないが、周りの変化と共に、自分も変わっていってるような気がする。

 

 そんなことをぼんやりと考えながら、それにしても、炭治郎が珍しくやけに遅い、と不審に思った。いつも自分より先に来て待っている、律儀な弟弟子なのだが…嫌な予感がする。

 

「……冨…岡様?」

 

 からん、という小さな下駄の鳴る音と、尺八の音色のような、柔らかく澄んだ声が、義勇の右耳に入り込んできた。

 振り向くと、蕎麦屋から少し離れた所に、珊瑚色の着物に菫色の縦縞模様の帯を締めた、見覚えのある亜麻色の長い髪の女性が、とても驚いた表情で義勇を凝視していた。

「あ…花見の……」

 驚愕を隠せず、彼女の何倍も茫然とした面持ちで、義勇は自分の目を疑った。紺碧の瞳孔が開き、いつにも増して言葉に詰まり、口元が強張る。

「…何故、ここに?」

「カナヲさんとアオイさんと、お蕎麦を食べるお約束をしているんです。この間の儀式のお礼がしたいから、ご馳走させて欲しいと言って頂きました。」

 「少し遅れてしまって。」と、自分を恥じる彼女を見て、義勇は何かを察した。血の気が一気に引くのを感じる。眼前の視界が歪み、ぐらつくのを抑えるのに必死だ。

「来ません。」

「…えっ?」

「おそらく二人は来ない。俺も竈門炭治郎と待ち合わせ中だが、まだ来ておりませんので。」

「え?! そんな。でも、どうして……」

 すっかり狼狽しながら混乱している彼女を凝視する中、先日の夜桜見物の御開きの際、矢鱈にやつきながら、妙に怪しい眼差しで自分を見ている、宇髄天元を思い出していた。

 あの夜に何を思ったのか知らないが、色事に敏感なあの男が、何かを企んでいるのが、女性に疎い、鈍いとよく言われる自分でも分かる。

 大方、炭治郎やカナヲ達を利用して、自分を嵌めたのだと察した。今度は沸騰するように、ふつふつと怒りが湧いてきたが、この女性に罪は無いと、努めて冷ややかに抑え込む。

 

「…どうやら俺が嵌められたようだ。貴女にまでご迷惑をかけて申し訳ない。」

 とりあえず、自分への謀に、この女性を巻き込んでしまったことに罪悪感を感じ、義勇は深く頭を下げた。

「そんな! 迷惑だなんて。また貴方に会え……」

 驚きと勢い余って、すずなが思わず叫んだ瞬間、ググゥー……、という腹の音が、二人の間に響いた。

「あ…すみません……」

 顔を真っ赤にしながら俯いて、自分の腹を抑えるすずなを見ているうちに、怒りの波しぶきが上がっていた義勇の心が、少しだけ凪いだ。醤油と鰹出汁の混ざった、食欲をそそる香りが漂ってくる蕎麦屋の入り口を見て、少し考えた後、ふう、と息を吐く。

「ここの蕎麦は美味い。お詫びにご馳走します。」

 そう言って、スタスタ、と店内に入って行った義勇を見て、すずなは思わぬ展開に戸惑ったが、慌てて後に続いた。

 

 

 店内に入るや否や、店主は、常連客の義勇を笑顔で迎えた後、後ろの見慣れない女性を見るなり仰天したが、奥の特等席に慌てて案内してくれた。

 いつものを頼む、と義勇は告げ、すずなも同じ物を注文する。仕切りで囲われ、窓から手入れされた裏庭が見える、個室のような席だった。

「…遠慮しなくて良い…です。好きな物を…頼んで下さい。」

「大丈夫です。きっと、一番美味しいのでしょう?」

 そう言って嬉しそうに微笑む彼女を見て、義勇は、また懐かしいような、どこかで会ったような感覚に襲われた。そんなはずはない。こんな笑い方をする女性に会ったことは無かった。

 戸惑う脳裏に、鬼との闘いで亡くなった、かつての仲間の女性の顔が、次々に横流れで走っていく。胡蝶カナエの、花が咲いたような華やかな笑顔、胡蝶しのぶの、どこか張り詰めた穏やかな笑顔、甘露寺蜜璃の、屈託の無いはつらつとした笑顔とも違う。姉の蔦子は、凛とした面持ちで、朗らかに笑う人だった。

 一方、この女性は、瞳に憂いはあるものの、見ていると落ち着くような、柔らかい木漏れ日のように、ふわり、と微笑む。纏っている空気が、どこか違うからだろうか……

 

 ずっと見られていることに気づいたすずなは、義勇が気を遣って、色々考えてくれているのだと思い、口を開いた。

「あの…敬語は良いですよ? 私の方が年下ですし…気を遣わないでください。」

「…わかった。」

 自分より二歳下だと、栗花落カナヲの以前の説明で認識していたはずが、儀式の時の厳かな印象のせいか、自然に敬意の概念があったことに気づく。

 

 話しているうちに注文した蕎麦がきたので、義勇は早速食べ始めた。左手での暮らしもだいぶ慣れたため、円滑な手つきで、いつものように箸を持ち、静かに蕎麦を口に注ぎ入れながら、向かいの席のすずなに視線を向けた。

 彼女は、義勇が食べ始めたのを見届けてから、熱い湯気の立つ麺に、小さな口で息を吹きかけ、猫舌なのか、少しずつ冷ましながら静かにすすっていた。

『…俺の右腕のことには、一切触れないのだな。』

 あの優麗な舞を披露した、神秘的で華やかな巫女の気配は、やはり感じられない。どこか浮世離れした儚い雰囲気はあるが、素朴でおっとりとした普通の娘だ。

 なら尚更、片腕の無い男の事情が気になるだろう。鬼に家族を殺され、蝶屋敷にいたのなら、カナヲ達に、多少は聞いていて察しているのかもしれないが、逆に、色々と心配して気にかける素振りもない。何と言うか、警戒心や猜疑心という類いの念が、全く感じられないのだ。

 

「冨岡様。これ、とても美味しいです。」

 

 口元を掌で覆って隠しながらも、まだ蕎麦を頬ばったまま、すずなは心底嬉しそうなあどけない笑顔を、義勇に向けた。

『…ああ、こういうところは、炭治郎や禰豆子に、少し似ているかもしれない。』

と、義勇は思った。自分よりも年下であって、無防備さが子供っぽく感じるにも拘らず、彼らと同じように、その場を温かく包み、邪なものから優しく守るような空気に変える。

「…そうか。」

 不本意にも観察するような真似をしていたことがきまり悪く、素っ気なく返してしまったが、反面、行きつけの店の、決まって食べる同じ蕎麦が、いつもより美味しく感じた自分に、内心戸惑っていた。

 

 

 食事の時間はあっという間に終わり、二人は店を出た。(食後、二階の逢引き部屋を使うと思っていた店主は、あっさり帰って行った義勇達に拍子抜けしていた。)

 蕎麦屋に入る前は、詫びが終われば早々と帰宅し、宇髄らに抗議しようと考えていたが、あの時、静かに渦巻いていた怒りは、大分消えていた。

「今日はご馳走様でした。気を遣って頂き、感謝します。」

 そう言って、再び、ふわりと笑みを浮かべた後、すずなは、丁寧にぺこりと頭を下げた。

「いや、本当にすまなかった……宇髄の命だろうから、栗花落らを責めないでやってくれ

「そんな。本当に美味しかったですし……おかげで楽しかったです。」

『…楽しかった…だと?』

 

 頬を少し薄紅に染めてはにかみながら、心底嬉しそうに、顔を緩ませている彼女の言葉が、それこそ巫女が使う、まじないの呪文のように聞こえた。

 その場にいた他の人間なら、誰もが社交辞令には聞こえなかっただろうが、義勇には社交辞令云々を通り越して、聞き慣れない単語の羅列にしか思えなかった。

 気の利いた会話以前に、話らしい話さえしていない。ほとんど無言のまま、一緒に蕎麦を食べただけだ。それなのに、この女性は、さっきの時間に真に満足しているようなのが、義勇には理解不能だった。

「…それなら良いが。」

「はい。今日、ご一緒できて嬉しかったです。」

「…変わっているな。貴女は。」

 心無しか、少し憂いの消えた、曇りの無い朱の硝子玉のような瞳で、優しく微笑む彼女に軽い眩暈を覚え、義勇は思わず本音を溢していた。




【おまけ噺】
 章タイトルは、お盆が終わる頃、先祖や亡くなった方の魂を、現世から冥土に無事に送る為、其々の家の名を書いた灯籠を川に流す風習、『灯籠流し』から捩りました。京都の五つ山の送り火のような儀式です。
 先に召された人々が遺してくれたものが、次々に流転し、新たな道へ導いていく様子を表したつもりの造語です。


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めぐりあわせ


 静寂の碧い灯影、雨上がりの虹彩。

【※設定の濃いオリキャラが登場します。お手数ですが、ご覧頂く前に、シリーズ全体の概要をご確認下さい。】


 気づいたら、考える前に口から言葉が出ていた。不思議だ。彼女の憂いのある澄んだ瞳は、自分の内実を全て映し出し、隠している方が余計に気まずくなるような、妙な衝動に駆られる。

「…よく言われます。職業柄もありますけど、この世の人間ではないようだとか。」

 少し寂しそうに微笑み、自嘲気味に言うすずなを見て、義勇は慌て、急いで弁解した。

「俺は、何もしていないからだ。口下手だの、言葉も足りないとも、よく言われる。楽しいなど……」

 悪い意味ではなかった、と伝えたい衝動が自分を突き動かし、焦りながらも珍しく口が回る。

 

 そんな義勇を見て、すずなは、ほっ…と安心したような表情をした後、重大な秘密を明かすかのような面持ちで、思い切ったように、ゆっくりと口を開いた。

「…私、身寄りがなくなって、蝶屋敷でしばらくお世話になり始めて、『久世』という新しい名字を頂いた頃、負傷して治療にいらした、冨岡様をお見かけしたことが、何度かあるんです。」

 義勇は驚き、すずなを凝視した。そんなことは全く知らなかった。彼女の存在すら、耳に入っていない。

「あちらの方で話しましょうか。」

と、蕎麦屋の近くから離れ、小さな広場のある方へ歩き始める。

「私が、元巫女見習いだと知ったカナエ様の頼みで、恩返しをしたかったこともあり、隊員様の心の機能回復のお手伝いをさせて頂き始めました。」

「冨岡様は、こちらの方に来診されたことはありませんでしたが、いつも生気の無い、哀しそうなお顔をされているのが、ずっと気になってました。」

 少しきまり悪そうに、義勇から目を逸らし、澄んだ青い空を見上げながら、当時の彼の憂いた紺碧の瞳が過って、思い切ったように続ける。

「顔色が悪くやつれ切っていて、目の下に酷い隈も作ってらしたので、あまり眠れていないのではないかと思ってました……特に、瞳に光が全く無かった。」

 まるで、全てを近くで見ていたかのような口ぶりをする彼女に、少々おののきと気恥ずかしさを、義勇は感じた。

「他の柱の方も、怪我の治療にいらした時は憔悴しきっていて、何かしらの重い影を抱えていらっしゃるのは分かりました。けれど、冨岡様は、また少し違っていて……」

「影と同じく、静かに燃える灯火を繊細で硬い器に隠して、それに気づかないまま自身を痛めつけ、死に急いでおられるような、そんな危うい気配を感じたのです。」

「その器もいつか壊れて灯火も消えて、貴方の全てが失せてしまうのではないか……とても心配でした。」

 

 広場に着くと、すずなは振り返ってまた笑顔を見せたが、何時にも増して淡く、切なげだった。

「声をかけようか何度も迷いましたが、何時の日からか、憑き物が取れたかのように、幾分か落ち着かれていたので、少し安心してました。」

「闘いが終わってからは、意気消沈しておられたようですが、段々と安定されているようだったので、本当に良かったです。」

 義勇は完全に言葉を失っていた。口下手だからではなく、すずなの思いがけない話に、何も言えなくなっていたのだ。

 

 全く無自覚で、自身でもよく解らなかった心情を、数える程、姿を目にしただけであろうに、当たり前のように言い当てて見透かしている。

 また、こんなにも思いやりに溢れた言葉を聞くのは、いつ以来だったろうか。常に相手の様子を伺い、傷痕を優しく包み込む、肌触りの良い綿の布地のような、温かく真っ直ぐな善意が、彼女が纏っている柔らかな空気から、じんわりと伝わってくる。

 

「…柱の者も、来たのか?」

 ふと、自分以外の柱は、彼女のことを知っていたのか気になった。

「柱の方含め、隊員様全てになりますが、其々の私事に関わるのと、隊の士気に影響するとのことで、カナエ様としのぶ様が勧められた方にしか、私の存在は申し上げていません。」

「あと、守秘義務がありますので、今、存命されていない方になりますが、皆様、一度も来診されたことはありませんでした。」

「霞柱様の記憶改善の為に、何度かお話をしましたが、あまりお力にはなれず……カナエ様としのぶ様が、鬼殺に加えて蝶屋敷の仕事が祟り、反って不眠気味になられた時に、生薬を処方したことはありましたが。」

 すずなが明かした事実に、改めて、柱として闘った仲間の強靭な精神力に感服すると共に、皆其々、自分の知らない所で苦労を重ねていたことを察し、何とも言えない歯痒さと、自身の未熟さを、義勇は感じた。

 

 

 いつの間にか、すずなの足元に、数匹の猫が集まって来ていた。どうやら野良猫のようだ。犬を筆頭に、動物が苦手な義勇は、たちまち硬直し、冷や汗をかきながら後退りし、その場から少し離れた。

「可愛い。どうしたの?」

 少し警戒して震えている、茶と白の混ざった猫の前にしゃがんで、そっ、と右手を差し出し、普段よりも更に、声を和らげて話しかける。

 にゃあ…にゃあ……と彼女に何かを訴え、甘えるかのように擦り寄り始めた猫と、すずなは嬉しそうな顔で、まるで対話するかのように戯れ始めた。少し離れた場所から、一匹の黒い猫までが、こちらの様子をじっと伺っている。

「…凄いな。俺は、動物は……」

「苦手なんですか? あ、でも……」

 気づけば、二、三匹の雀が集まって来て、義勇の肩に乗ってくつろいでいる。

「随分、慣れていらっしゃいますね。」

 楽しそうに、ふふっ、と軽やかな笑い声をあげたすずなに、義勇は気恥ずかしいような、居たたまれない衝動に駆られた。

「鴉や…鳥は、大丈夫なのだが……」

「猫は、特に警戒心が強いですから、じっとして、こちらから心を解けば、直に慣れますよ。」

 気づけば、先程の黒い猫までが、彼女の後ろに隠れるように寄り添っていた。

 

「…これも、巫女の力なのか?」

 

 段々と警戒を解いて、すずなに身を許していく猫達を見て、何か特殊な力の影響なのかと、義勇は問わずにいられなかった。

「…いえ。私は、巫女として大したことは出来ません。患者さんの心情や体の状態を伺って、気が休まる効果や安眠作用のある、生薬や薬草を処方したり、思い悩まれていることを聞いたりするだけです。」

 巫女としては珍しいのであろう、蜂蜜色がかかった亜麻色の腰まである長い髪が、風に揺れて蜜蝋色に反射する。耳の辺りの後れ毛を抑えながら、また、少し自嘲気味に微笑む彼女を見て、義勇の心に大きな波紋が起きた。

『この感じは、どこかで……』

「私には、三つ下の仲の良い妹がいました。芹菜…彼女も巫女見習いで、もっと様々な能力がありました。霊感が強くて邪気を祓ったり、明るく賢くて、巫女らしい漆黒の髪で見目も麗しい、将来有望な後継者だったんです。」

 目の前の猫と後ろの黒い猫を、同時に優しく撫でて愛でながら、少し息を飲み、強張った口調で続けた。

「…ですが、妹の方が、鬼に殺されてしまいました。」

 

 義勇は、何故か、錆兎のことを思い出していた。そして、彼女の心境が、過去の自身と重なる。

 才ある者の代わりに、自分が生き残ってしまった罪悪感と後ろめたさ。不条理な世界への怒りと哀しみが渦巻き、そんな行き場の無い塊を抱え、亡き者の命を背負って生き続ける苦しみは、痛い程、解る。

 自分は、鬼殺という形にしがみついて償うしかなかった。だが、彼女は違う。自分とは違う、という熱い衝動が、心に強い波風を起こした。伝えなければならない、これだけは。

 

「久世。」

 

 口数の少ない義勇の、急に改まった声色での自身への呼び掛けに、はっ、とした面持ちで、すずなは彼を見上げた。

「…俺は、神の力とやらは信じていない。だが、先日の舞は、本当に良かった。観ていて救われる人間がいるというのも、解る気がする。」

 義勇の言葉に、すずなの円らな目が大きく見開き、段々、朱の光が灯っていく。

「貴女と接していると、皆心が休まり、和むのだろう。卑下することは無い。」

 

 刹那、信じられない、気恥ずかしい、心底嬉しい、といった、様々な感情の入り混じった表情を浮かべた後、出会ってから最上級である笑みを、すずなは溢した。

 まるで、雨上がりの虹のような、儚くも透明感のある、綺麗な笑顔だった。心無しか、朱の瞳に雨粒のような涙が滲んでいる。

 予想以上の彼女の反応に、今度は胸元を掴まれるような衝撃、芯の奥底から湧き上がってくる不可思議な高揚という、次から次に起こる、初めての感覚が、義勇の全身に生まれては弾け、駆け巡った。

 

 

 そんな二人に対して、野良猫達は無視されて面白くないのか、再び、にゃあ…にゃあ……と、強く鳴き始めた。

「…この子達、お腹が空いているのでしょうか?」

 はっ、と我に返ったすずなが、心配そうに猫に向き直る。

「握り飯でも買って来よう。近くに店があった。」

「えっ…良いのですか?」

「…むやみに餌付けするのは気が進まないが、少しなら大丈夫だろう。」

 気恥ずかしいのを誤魔化そうと、店のある方を向きながら、義勇は素っ気なく提案した。

「有難うございます!!」

 

 ───また、本当に嬉しそうに、笑う……

 

 

 すずなから離れ、通りに向かいながら、『柄にもなく、悲鳴嶼さんや不死川のような真似をしてしまった。』と、義勇は思った。

 深い理由は無い。些細な事であんなに喜んでくれた彼女に、もっと何かしてやりたかったのだ。

 

 ……ただ、それだけだった。

 

 

 義勇が立ち去った後、すずなは、そのまま猫達と楽しげに戯れていた。実は、ずっと情を寄せていた彼と食事ができて、色々話せて、更に自分の行いを認めてもらえたのが、至極嬉しく、久方ぶりに溢れる幸福感を噛みしめていた。

 

 ───その時。

 

「あらまあ、すずちゃんやないの?」

 

 聞き覚えのある方言の、年配の女性の声が耳に入り、瞬間、すずなは即座に青ざめ、硬直した。

 恐る恐る、振り返った先には、見覚えのある顔。確か、実家の神社があった同じ村の、近所の……

「なんや生きとったんかぁ。てっきり、とっくに鬼に喰われたと思っとったわぁ。」

 強烈な目眩を覚え、喉元が詰まり、寒気が全身を貫き、冷や汗が吹き出る。

 

 ──甦る、あの忘れることの出来ない、血生臭い、凄惨な夜。

 家の前に鳴り響く、地割れのような轟音と耳をつんざくような雄叫び。

「きゃあぁー!! ねえさまぁー!!」「すず姉様ぁー!! 助けてぇー!!」という、幼い妹と弟が、自分に助けを乞う甲高い悲鳴。

 そして、自分のいる“あの”部屋に飛び込んできた、必死な母の形相……

 

 

 ───視界が、また、闇に堕ちた。





【おまけ噺】

 話のタイトルは、『運命の巡り逢わせ』と『心情を廻り合わせる』を掛け合わせて付けました。訳ありの二つの人生が巡り、転じて、重なり合う様子を表したつもりです。


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左腕

 救い、守るということ。

【※設定の濃いオリキャラが登場します。お手数ですが、ご覧頂く前にシリーズ全体の概要をご確認下さい。】


 左手に握り飯の包みを下げた義勇は、足早に、すずなの元へ急いでいた。

 何故、自分はこんなに懸命になっているのだろうか。あの猫達が気になったのもあるが、何より、あの心が温まるような綺麗な笑顔が、もう一度見たかった。

 彼女にもっと喜んで欲しい、芯から笑って欲しい。ただそれだけの思いが、今の義勇の原動力であり、体の奥底で沸々と湧き始めている、未知の躍動感を助長させていた。

 

 店が混んでいた為、予想以上に遅くなってしまった。彼女と野良猫達が、どうして居るかが気になる。その時、向かい側から、艶やかな黒毛に蒼い目の猫が、義勇の元へ駆けてきた。すずなと戯れていた、あの黒猫だ。自分に対面するなり、にゃあ…にゃあ…と必死に鳴いている。

「どうした。」

 少々たじろぎながら、義勇は尋ねた。さっきまで、あんなに自分を警戒していたのに、何故こんな急に……

「…………!!」

 何かを察知した。俊敏に駆け出し、元居た方へ走る、黒猫の後を追った。

 

 

 猫が連れて行った先は、先程まで居た広場だった。視線の先には、胸元を押さえながら、崩れ落ちるようにしゃがみ込んでいる、すずながいた。彼女の周りを、先程の野良猫達が、次々に鳴き声をあげながら、心配そうに取り囲んでいる。

「…久世!!」

 思わず鋭い声をあげ、義勇は、強く呼び掛けるように叫んだ。側に駆けつけ、しゃがみ込んで彼女を覗き見ると、首と胸元を押さえながら、カッ、と眼を見開き、必死に呼吸しようとしている。

 

 …ハアッハッ…グクッ…ハアッ……!!

 

「どうした?! 何があった?!」

 返事は無い。息の切れる苦しい音と、消え入りそうな吐息が止まらない。呼吸をするので精一杯な様子だ。

 尋常ではない状態なのは明らかだった。しかし、どこかに傷や怪我があるようには見えない為、手練れた応急処置が出来ない。何かの持病か? しかし、医術の心得の無い義勇には、どこの診療所に連れて行けば良いかわからない。内臓や呼吸器官の病か? こんな時、あの胡蝶がいれば……

 

 顔をしかめて困惑する義勇を、よほど苦しいのか涙の滲む目で見つめ、左手で胸元を押さえながらも、震える右手を義勇に差し出し、ゆっくりと指を動かした。鬼殺隊士の間で、暗号のように使っていた、あの指文字だ。

 『ち、よ、う』──── 蝶?

「蝶屋敷か?」

 こくん、と頷くすずなに、カナヲかアオイなら対処法がわかるのだろう、と思った義勇は、

「わかった。待っていろ。」

と、左手をすずなの肩を置き、足早に通りに向かった。

 

 とは言うものの、馬車では、元蝶屋敷まで随分と時間がかかる。鉄道は、あの状態のすずなを乗せて行くには、いつ状態が急変するか分からず危険だ。

 少し迷い、考えた後、近くの馬車まで走り、義勇は急患だ、と呼び止めた。広場まで急ぎ足で戻り、まだ苦しみながらしゃがみ込んでいる、小柄な彼女の体を、左腕を駆使して慎重に背中に乗せる。両腕を自身の首に巻きつけ、待たせていた馬車の元へ走った。騎手に頼み、扉を開けてもらった後、自分の屋敷までの住所を告げる。

 ここからなら、竹林の自分の屋敷の方が近い。直ぐに寛三郎に頼み、鎹鴉を通じて、カナヲ達の居る元蝶屋敷まで文を届け、屋敷にいる者を急患で呼び寄せる算段だった。状況的に、絶対安静が最優先だと考えた義勇は、一先ず、病体の彼女を屋敷で休ませようと考えたのだった。

 

 

 ガタン、ガタン、という、馬車の揺れが病体に障らないよう、自分の膝にすずなの頭を乗せ、着ていた水色の羽織を布団代わりに、義勇は彼女の体にくるませた。

「…み…か様…すみ…せ…ん……」

 激しくも消え入りそうな息づかいの中、掠れた声を振り絞りながらも、心底すまなそうに、すずなは詫びた。

「喋るな。もうしばらくかかるが、何とか堪えろ。」

 こくん、と額に汗の滲む顔で頷き、口元に少し笑みを作った後、また咳き込み始める。目が虚ろだ。意識も朦朧としているのだろう。

 

 鬼との闘いの後に、事後処理を担当する隠の一部の者が、あまりに酷い惨状を目にして、彼女と似たような状態になっているのを、何度か見た。中には、激しい吐き気で動けなくなる者、正気を失う者もいたのだ。

 自分が目を離した、あの数十分の間に、一体何があったのか……直前の最上級の笑顔との比が激しく、彼女の事情が気になって仕方なくなると同時に、

『助けなければ、今度こそは。』

という、強く熱い想いが、めらめら、と心の内で静かに燃えていた。

 

 ──姉さん、錆兎……俺に、力を貸してくれ。

 

 ぎりっ、と奥歯を噛みしめ、義勇は、きつく目を瞑った。

 

 

 暫し後、屋敷に到着して直ぐ、また同じように、すずなを背負ったまま走り、義勇は、家の中に駆け込んだ。一先ず、客間にゆっくりと横にならせ、左腕で手早く布団を敷き、また彼女を慎重に抱えて寝かせる。

 そして、『久世すずなが、呼吸困難状態。元水柱邸まで、至急治療に来て欲しい。』と簡潔に書いた文を、突然の義勇の帰宅と、来客に驚いている寛三郎に頼み、元蝶屋敷まで飛ばした。

 カナヲかアオイが来るまでの間にと、湯を沸かして湯たんぽを作り、客間の彼女の布団に入れ、手ぬぐいをぬるま湯に浸し、額の汗を拭いてやる。

 先程よりは、少し息づかいが治まった気はするが、ハアッ…ハアッ…と、まだ苦しそうにしているすずなの横に、義勇は正座して顔を覗き込んだ。

「しっかりしろ。もうすぐ栗花落らが来る。大丈夫だ。」

 額に冷や汗を滲ませながら、すずなは、虚ろな眼で義勇を見上げた。珊瑚色の瞳は、すっかり曇っていて涙で覆われていた。焦点も合っていないのがわかる。

 こんな時、他にどうしたら良いのか、義勇には判らない。身体の傷なら、多少の処置はできる。自分が風邪などで熱が出た時は、ひたすら耐えていた。だが、このように苦しんでいる人間には、何もしてやれない。自分の無力さを呪った。

 

 鬼殺隊に居た頃は、今は無き右腕で刀を持ち、姉と親友の仇である鬼を滅する為、力足らずとも修羅に闘い、少なからず命を救ってきたつもりだった。自分を庇って死んだ、二人への贖罪が一番大きかったが、その為にはそれしか出来なかった、選べなかったからだ。

 鬼のいない世界である今は、多少の不便や後遺症はあっても、右腕にも剣術にも未練はなかったが、刀無しで人を救う方法が判らない。医術も無く、気の利いた慰めの言葉すら、自分には見つからないでいる。

『…俺は、やはり無力だ。何も守れない。』

 久しく自己嫌悪に陥った、その時だった。

「グッ…ハアッ…じい…さ…ま……」

 激しい息づかいに混じり、蚊の鳴くような掠れた声が、義勇の耳に入った。すずなの譫言のようだ。

『じい…さ…ま? おじいさま? 祖父のことか……?』

 よほど心細いのかと、義勇が察した時、まだ幼子だった頃、風邪を引いて高熱を出した時、姉の蔦子が、付きっきりで看病してくれた時のことが甦ってきた。熱にうなされ泣いている自分に、そうだ、あの時、姉は……

 少し躊躇ったが、義勇は左腕を伸ばし、すずなの右手を取り、恐る恐る、小さな掌を優しく握った。瞬間、すずなはひどく驚いた表情で見上げる。が、次第に、口元を嬉しそうに緩ませた。血の気が引いて、青白くなっていた頬が、段々と薄紅色に染まっていく。

 そんな彼女を見ているうちに、自身の頬も赤くなっていくのが分かり、義勇は、思わず目を反らした。

 

 妙な気分だ。居たたまれない思いで一杯で、今すぐ逃げ出したいのに、掌にしっとりと感じる、汗ばんだ柔らかな感触が、至極心地好くて、吸い付いたように離れない。

 少しでも、彼女の救いになりたくてやった行いなのに、自身の方が高揚し、次第に安らいでいくという状態に、この女性と出会ってから、自分が今までの自分でなくなっているという事態に、義勇は気づき始めていた。





【おまけ噺】

 筆者の趣味で、義勇さんのお相手は、彼が苦手という、まさかの犬っぽい風貌の女性にしました。外伝で触ろうとはしていたので、興味はあるけど接し方がわからない人なんだろうな、と思ったので……
 指文字も外伝からヒントを得ました。長く蝶屋敷にいたヒロインなら、胡蝶さんや隊員から教わっていそうだと考えたので、使える設定です。


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参ノ章 彩づく日常
犠牲者



 矛盾していく波紋。

【※設定の濃いオリキャラが登場します。お手数ですが、作品をご覧頂く前に、シリーズ全体の概要をご確認下さい。】


 手を握り合ったまま、どれくらいの時間が経ったかわからないでいた。幾分か安心したのか、すずなの息づかいが少し和らいだように見えた時、

「冨岡さん!!」

という呼び声と共に、顔面蒼白状態の栗花落カナヲが、大きな鞄を抱えながら屋敷の門に駆け込んで来た。

 慌てて手を離し、屋敷の玄関まで向かい、義勇はすずなの寝ている客間に迎え入れる。二人共、今日の謀のことは、すっかり頭から抜け落ち、忘れていた。

「すずな様!!」

 呼び掛けと同時に、カナヲは布団の隣に座り込むなり、直ぐに鞄の中から、注射器の入った容器、液体の入った瓶、薬草らしき臭いのする袋、昔、蝶屋敷で使用していた寝間着などを取り出した。

 カナヲの対処は手慣れたものだった。注射器で、すずなの左腕に薬らしきものを投入し、襟元を緩めて聴診器を差し入れる。

「随分、汗をかいていらっしゃるので着替えて頂きます。冨岡さんは…あの……」

と、少し恥じらいながら目配せし、察した義勇が、慌てて客間を出た後、着ていた珊瑚色の着物から、寝間着に着替えさせた。

 

 

 暫し後、ようやく安心した様子で、カナヲは、義勇のいる居間までやって来た。

「…鎮静薬を打ちましたので、息切れや動悸は、直に治まります。もう大丈夫です。一眠りされると思いますので、目覚められたら、こちらの生薬を煎じて、飲ませて差し上げて下さい。」

 そう伝えながら、生薬の入った袋を義勇に渡し、頭を下げた。

「冨岡さんの迅速な判断のおかげで、大事に至らないで済みました。本当に有り難うございました。」

「いや、助かった。よく処置の仕方がわかったな。さすがだ。」

 すずなの容態が安定したことと、カナヲの医師としての成長に感嘆し、高揚した声をあげた。

「当時の出来事を聞いて、しのぶ姉さんが記録していた、すずな様の診療録(カルテ)が残っていたので、それを見て、必要な薬を持って来ました。」

「…このような事例が、前にもあったのか?」

 今回が初めてではなかったことに少し驚き、義勇は心配そうに尋ねた。

 そんな彼を見て、この半日の間で、二人の関係が少し変わったことを、カナヲは瞬時に感じ、少し迷った後、口を開く。

「…医師として、本当は口外してはいけないので、内密にして頂けますか?」

 自分は口が固いから大丈夫だ、と言わんばかりの、至極真っ直ぐな眼で、義勇は深く頷いた。そんな彼を凝視した後、言葉に詰まりながらも、打ち明け始める。

「カナエ姉さんづてに、しのぶ姉さんから聞いたことと、診療録の記録からなので、私も詳しくは知らないのですが……」

「…すずな様は、昔、蝶屋敷に保護されてからも、しばらくの間、かなり気が不安定で、鬼に襲われた夜のことを思い出すと、今のような状態になっていたそうです。」

 ああ…と義勇は、少し納得した。今日、何があったかはわからないが、自分も姉と錆兎を殺された後は気が狂いそうだった上、鬼の討伐の際は、似たような状態に陥った遺族も、沢山見てきた。更に、人一倍気の優しい彼女なら、無理もないことだと思った。

 

 しかし、続きを話そうとするカナヲは、明らかに躊躇っていて、何かに怯えるような声色に変わった。

「…そして、ある日『私の遺体を、鬼の贄にして下さい。そうすれば、鬼は鎮まりますから。』と、遺書を残して自害しようとされたことがあったそうです。幸い、巡回の者が止めて助かりましたが……」

「…………?!」

 涼やかな眼を見開き、義勇は絶句した。あの娘が、何故、そんなことを……心の水面に、幾つもの波紋が広がる。

「当時、花柱だったカナエ姉さんが、必死に説得したそうです。『贄を捧げても、鬼が滅することは決して無い。それよりも、貴女にしかできないことがあるから、どうか生きて、私達に力を貸して下さい。』と。」

 義勇の脳裏に、あの夜桜の儀式で優麗に舞っていた、すずなの姿が再生された。そして、自分に向けた、あの雨上がりの虹のような、心底嬉しそうな笑顔も。

「それから心身が回復するまでの間、屋敷の花の世話や掃除等をしながら暮らされていましたが、しばらくは、茫然自失状態だったそうです。自分が贄になっても無駄だということが、相当、堪えられたようです。」

 痛ましいものを想像するような、非常に辛そうな表情で、カナヲは続けた。

「体力が戻って退院されてからは、蝶屋敷の近くの長屋に住まわれて、助けが必要な時、こちらに通って頂いていたのですが……」

 

 二人の間に、暫し無言の時間が流れた。義勇は完全に意識が飛び、思考が停止したまま茫然としていた。

 鬼殺隊にいた時、むごたらしい話や状況は、自身の心を滅却させないと参ってしまうくらい見聞きしてきた。そのような類いの話は、自分にとって日常茶飯事だったのだ。

 しかし、あの素朴で弱そうな彼女が、そこまでの強く激しい思いで、我が身を犠牲にしようとしていたことが、ひどく衝撃的だった。

 自分を含め、鬼殺隊に入った人間は、いつ命を落としてもいい覚悟でいた。辛く厳しい鍛練も、死地の前線で闘うのも、いつか必ず、鬼を滅するためという目的があったから、男女問わず、皆耐えられたのだ。

 だが、すずなが似たような行い、しかも無駄死にしかならないことを信じて、犠牲になろうとしていたことが、義勇には、何故か受け入れ難かった。

 単に、痛ましく哀しいというだけではなく、彼女にだけは、そんなことをして欲しくなかったという、自分のことは棚上げした、ひどく矛盾した思いが、心の中で大きく渦巻いている。

 

 

 いつの間にか、外が暗くなり始めていた。夕焼けの暁が、段々と宵に包まれている。大切なことを言わなければと、はっ、とした様子で、カナヲは慌てた。

「…あの、もう数日は薬を飲んで、このまま安静にして頂きたいのですが、アオイに診療所を任せたままなので、すずな様の身の回りのことを、禰豆子ちゃんに来てもらってお願いしようと思うのですが、いかがでしょうか?」

「いや、必要ない。俺が世話をする。」

「えっ……?!」

 カナヲは、自分の耳を疑った。有無を言わせない態度の義勇に、戸惑いを隠せない。

「あの山から下りて来て、急に何日も家を空けるのは、禰豆子も徒労であろうし、炭治郎達も困るだろう。」

「あの、ですが冨岡さん。その、すずな様は、元とはいっても巫女さんで、まだご結婚もされていない方で……」

 元神職で嫁入り前の若い女性だから、独身男性の一人暮らしの家に置いていく訳にはいかない、と、カナヲは拙い言葉で必死に伝えようとしたが、義勇は、今一つ解っていないようだった。

「…………? 昔、姉の身の回りの手伝いをしていたから、多少は慣れている。責任を持って世話するつもりだ。」

 女性の生活のやり方は知っているから大丈夫だ、と主張する義勇には、何故、カナヲがこんなに狼狽え、必死に止めようとしているのか解らなかった。

 少しでも、この娘の力になりたいという、僅かな下心も邪念も感じさせない、義勇の曇りのない澄んだ眼差しで、何度も押し問答され、その勢いにカナヲは、とうとう根負けした。

 

 帰り際。寛三郎に、『冨岡さんの動きを見張っていて欲しい。まずい展開になったら、直ぐに元蝶屋敷まで知らせて欲しい。』と、念のためにこっそり頼んだが、屋敷に戻ったら、早く炭治郎に相談しようと決め、元水柱邸を後にした。

 

 

「…冨…岡さ…ま……?」

 

 夜の帷が落ちた頃、少し寝ぼけたような、掠れた呼び声が部屋に響いた。

「起きたか。具合はどうだ?」

 少し離れた場所から、ずっと様子を伺いながら、昼間の握り飯を食べていた義勇は、すずなの顔を覗き込む。

 先程に聞いた、彼女の衝撃的な過去は、一先ず忘れ、動揺を抑えようと、義勇は精神を凪いだ。眠る前よりもだいぶ呼吸が整い、血が通って顔色が良くなった彼女を見て、少し胸を撫で下ろす。

 カナヲが置いていった生薬を煎じ、湯呑みに入れた物を、そっと手渡した。

「だいぶ落ち着いたようだな。栗花落から預かった薬湯だ。」

「…大変ご迷惑をおかけしました。本当に申し訳ありません。何てお詫びしたらいいか……」

 消え入りそうな声で詫びながら、ゆっくり正座した後に両手をついて、そのまま深く頭を下げた。

「気にしなくていい。もう数日は、ここで安静にしていろ。」

「えっ?! それは……」

 がばっ、と顔を上げ、驚きと懐疑的な感情の混じった表情で、垂れ気味の円らな目を、更に丸くするすずなだったが、見返す義勇の眼差しは、善意と労りの念に満ちていた。

「無理をして動いて、悪化したら良くないだろう。ここには俺しかいないから、気兼ねしなくていい。」

「あの…でも……」

 “義勇しかいない”、“成人男性と二人きり”という状況に、ますます激しく動揺し、困惑と驚愕のあまり、口をぱくぱくさせている彼女を見て、

「喉が痛むのか? 随分咳き込んだからな……腹も減っただろう。蜂蜜を溶かした生姜湯と、昼間の握り飯を持って来る。」

 そう誤解し、彼女の瞳の曇りも消えたことに安心した義勇は、また炊事場に行ってしまった。

 

 茫然としているうちに、すずなは、自分の顔が、段々、熱を帯びていくのがわかった。そんな彼女の側に、ずっと一部始終を見ていた寛三郎が、とことこ、と心配そうにやって来た。

「…御主、スズナトイウノカ? …大丈夫ジャ…儂モオルゾ。」

 とりあえず、ぐらつく思考を落ち着かせようと、すずなは、半ば逃避するように、ごくごく、と喉を鳴らしながら、苦い薬湯を飲み干した。





【おまけ噺】
 大変厚かましい概念ですが、ヒロインの喋り声、当方の脳内では、声優の石○由依さんの声で再生されております。彼女のファンなのと、イメージがしやすいので助かってます。


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濾過

 浄め、呼吸する深海。

【※設定の濃いオリジナルキャラが登場します。お手数ですが、作品をご覧頂く前に、シリーズ全体の概要をご確認下さい。】


 暫し後、蜂蜜入りの生姜湯を持って来た義勇は、一緒に握り飯の包みも渡した。

「他にも何か食べるか? …差し入れで貰った大福餅くらいだが。」

 また立ち上がり、奥の戸棚へ向こうとする彼を見たすずなは慌てた。これ以上、手間をかけるのが心苦しく、思い切り両手を振る。

「そんな。もう十分です。気を遣わないで下さい。有難うございます。」

 そんな彼女を、義勇は少し眉を潜め、困ったような表情で見返した。

「食欲が無いなら無理強いはしないが……足りないなら遠慮なく言え。体に悪い。」

 若干、彼が悲しそうな気を醸し出したのを、すずなは瞬時に感じ取り、逆に申し訳なくなった為、結局、大福も頂くことにした。

「美味いか?」

 布団の横に、盆に乗せた大福の器を置き、義勇は胡座をかきながら問う。

「はい。美味しいです。餡子は好きですし…このくらいの量なら食べられそうです。」

 握り飯一つに続き、餅をゆっくり頬張りながら、子供のように顔を綻ばせるすずなを見て、ようやく満足した様子を見せた。

 しかし、義勇自身は、あまり大福に手をつけていないでいる。目の前の人間が美味しく食べているかの方が、よほど大事なようだった。

 この人は、本当に情の深い、優しい人なのだと、すずなは思った。きっと素敵な家族に愛されて育ったのだろうと、自分まで幸せを分けてもらったような温かい気持ちになる。

 

 ふと、片腕で独り暮らしの、彼の日々の食事が気になった。部屋はわりと綺麗に片付いているし、外には洗濯物も干してある。

 もしかしたら、良い女性がいるのかもしれないし、お節介かもと思ったが、満足に栄養が摂れているのかが心配になり、すずなは、恐る恐る尋ねた。

「あの、食事は、普段どうされているのですか?」

「時々、輝利哉様の使いの者が、手製の弁当や食材を届けて下さっている。簡単に調理したり、あとは近くの店で食べている。」

 ちなみに、洗濯や掃除で一人では難しいことは、その使いの者に任せているのだと、特に気にする風でも無く、義勇は淡々と言った。

「良かった。お料理されるんですね。」

 様々な面で安心し、思わず感嘆の声をあげた。義勇は、何故そんなに感心するのか解らず、不思議そうな表情を隠せない。

 

「あの、よろしければ、明日から私がご飯を作りましょうか。今回のお礼もしたいので……」

 大したことは出来ないが、せめて、恩を一泊一飯で返したいと、張り切る素振りを見せたすずなだったが、義勇は、ぴしゃりと止めた。

「礼などいらない。明日は、一日中安静にしていろ。無理は危険だ。」

「でも…このまま何もお礼をしないのは、居たたまれません……」

 彼女が予想以上に辛そうに呟き、項垂れたので、義勇は慌てた。困らせるつもりはなかった為、激しく動揺する。

「わかった。なら、明後日の夕飯に、何か馳走になろう。明朝は、俺が作る。夕刻には、先程話した、輝利哉様の使いが来るから大丈夫だ。」

 これを聞いて、彼女が、ようやく心底嬉しそうに安心した表情を見せた為、この話は終わり、そのまま其々の部屋で就寝することにした。

 

 

 深夜の丑三つ時。部屋の中も外も、不気味なくらい静かな夜だった。すずなは客間、義勇はいつもの寝室に布団を敷き、床についていた。

 しかし、すずなは、なかなか寝つけないでいた。今日一日の間に、あまりに様々なことが起き過ぎていて、思考が回り巡り、気が高ぶり興奮している。暗闇が怖いならと、義勇が少し離れた場所に置いてくれた、ランプの仄かな炎が、今の慰めだった。

 何より、襖一枚の向こうに若い大人の男性…しかも、“あの”彼がいると意識すると、気になってますます眠れない。こちらの部屋にまで、規則正しい静かな寝息が、微かに聞こえて来る。

 一方、義勇は、昔の全集中常中を使って、半分は意識を覚醒させ、彼女の容体が急変しないか気にかけていたのだが、そんなこととは知らないすずなは、また症状が発生しないか不安で、何度も寝返りを打ちながら、今日一日を降り返り、一喜一憂していた。

 

 しばらく経ち、ようやく眠りに落ちたすずなは、また同じ“あの夜”の中にいた。

 ──目の前で母が血塗れになりながら倒れ、恐怖で動けない自分を、舐めるように値踏みした鬼が、鋭い牙を剥き出しながら、卑しい笑みを浮かべている。

 自分に向けて悪臭の漂う口が向けられた瞬間、鬼の首が激しい血飛沫と共に消えた。代わりに、周囲に霧雨のような水飛沫が降り、血の臭いを一気に浄化していくようだった。その切れ間に自分を見つめたのは、あの哀しくも美しい色を含んだ、深い紺碧の瞳……

『暗くて、澄んだ海底……』

 そんな風に感じた瞬間、その揺らめきに吸い込まれるように、意識が遠退き、悪夢は掻き消えた。

 

 

 窓から、金色の光が射し込んで、どこかからか鳥のさえずりが聞こえてきたことに気づき、すずなは目を覚ました。ゆっくりと体を起こして、辺りを見回す。

『…家じゃない。ここは……?』

 朦朧とする思考の中で、昨日の出来事が急に蘇ってきた途端、顔の熱が上がる。

『そうだ。あの方の屋敷に……』

 その時、炊事場から温かい空気と共に、味噌のような香りが部屋に漂って来たことに気づいた。食欲を優しく湧かせる匂いが、不安で狼狽える心に沁みて、泣きたい気分になる。

 

「…起きたか? 入るぞ。具合はどうだ?」

 

 鼠色の縞模様の浴衣の上に、藍染の羽織を羽織った姿の義勇が、心配そうに尋ねながら、小振りの鍋らしき物を盆ごと左手で支え、客間に入って来た。

「お、お早うございます。 お言葉に甘えてすみません。」

 緊張をなるべく抑えながら、せめて感謝の意は伝えなければと、すずなは心を奮い立たす。

 客間に移したちゃぶ台の上に、湯気のたつ小鍋を置くと、義勇はすずなの方を向いた。

「簡易な物で悪いが、朝飯だ。食えるか?」

「はい。お腹は空いていますし…大丈夫です。」

 その言葉に安心し、義勇は布巾越しに小鍋の蓋を開ける。ふわぁ…と、辺りに味噌の香りが広がり、すずなは感嘆の声をあげた。

「わ…良い匂い……」

 義勇が作ってきたのは、味噌で煮込んだ、鍋焼きうどんだった。卵、白菜、ネギ、豆腐などが、ぐつぐつと、まだ煮発っている。

「温まるし、滋養にも良いだろう。これは、片手でもなんとか作れる。」

「有難うございます……」

 控えめながらも、至極感動したように、薄紅に染まった頬を綻ばせるすずなを見て、

『何故、この娘は、こんな些細な事で、ここまで喜ぶのだろう。』

と、義勇は、また不可解を隠せず、怪訝な表情を浮かべた。

 

「頂きます。」

 両手を合わせ、昨日の蕎麦と同じく、少しずつ息を吹きかけ冷ましながら、麺や具材を頬張るすずなは、高級料理を食べるかのような、本当に幸せそうな、恍惚な表情をする。

 食欲が戻ってきたのかと安心したが、そんな彼女を見ていると、修行時代に、錆兎と笑いながら食事をしたことや、姉が作ってくれた料理を喜んで食べる自分の姿が、次々と脳裏に蘇ってくる事に、義勇は戸惑っていた。

『楽しかった分、悲しくて思い出したくなかったのに、何故だろうか……』

「とても美味しいです。お料理お上手ですね。」

 昨夜苦しんでいた時の曇りどころか、いつもの憂いの消えた瞳と、ふわり、とした笑顔を向けられ、はっ、と我に返る。

「鱗…昔、剣技を教わった師匠が作ってくれたのを、真似ただけだ。」

 そう。錆兎と共に、三人で鍋を囲んで食べた……修行は厳しくきつかったが、あの時間は楽しかった。

 そんな思い出話を聞き、すずなも自身の記憶が甦り、思わず言葉にする。

「私も、年の暮れやお正月は、母も祖母も神社の行事で特に忙しかったので、祖父が、私達姉弟によく雑煮やお汁粉を作ってくれました。」

「…父は、私が物心つく頃に母と離縁したので、祖父が父親代わりだったんです。」

 昨日、苦しみのあまり、彼女が譫言で祖父の名を呼んでいたことを、義勇は思い出していた。自分も幼い頃に父親を亡くしたけれど、鱗滝師匠が父のような存在だったのかもしれない。彼女の心境に通じるものがあった。

 自身の最も深い場所に閉まっていたものが、吸い寄せられるように、喉奥から解れて零れ出す。

「…俺は、幼子の時に、両親が病気で死んだ。それからは姉と二人だった。」

「…そうだったんですね。」

 

 ずっと情を寄せていた人と、何かしらの不思議な縁で再会し、何気ない会話をして、同じ物を美味しく食べて、お互いのことを語り合って、一日のありきたりな時間を共に過ごしている。

 きっと、これから何があっても、この尊く貴重な時間は、一生忘れないだろうと、すずなは思った。彼との会話、彼の仕草、彼の表情を、脳裏に刻み付けて、しっかりと覚えておきたい。

 この数日間の幸せな思い出さえあれば、この先の自分の人生に、どんなに辛く苦しいことや、耐え難い孤独が待っていたとしても、最期まで生きていける気がした。

 

 ふと、居間の隅に大切そうに吊るされている、亀甲柄とえんじ色の半々模様の羽織が、すずなの目に映った。彼の姿と共に、何度も目にした羽織であり、年季が入っていて繕った跡もある為、相当思い入れのある品なのだろう、と察した。

「あれも、お師匠さんか、大切な方からの贈り物ですか?」

 うどんを食べ終わり、処方された薬湯を飲みながら、すずなが尋ねる。

「…鬼に襲われて亡くなった、姉と友の形見を合わせて作った、昔の隊服の羽織だ。無惨との闘いでかなり破損したが、炭治郎…弟弟子の妹が直してくれた。」

 哀しく切なそうに眺めながらも、どこか懐かしいような思いで、するり、と口にする義勇だった。こんなに穏やかな気分で、他人に話せるようになった事が奇妙でありつつ、そんな自身に驚き、どこか安堵する。

「も、申し訳ありません…私……」

 一方、迂闊にも余計な事を聞いてしまったと、すずなは自分を責めていた。湯呑みを持って俯いている。

「構わない……お前も家族を亡くしたのだろう? 襲われた後の病の件も、昨夜、栗花落から聞いた。」

 労りに満ちた眼差しで言う、義勇の気遣いに感謝しながらも、彼が、自分の過去をどこまで知ってしまったのかが、ずっと気になっていた。

 あんな自身でも受け入れ難い事実は、彼にだけは絶対知られたくないけれど、ここまで世話になった以上、話さない訳にはいかない、と腹を括る。詰まる息を飲み込み、恐る恐る、すずなは口を開いた。




【おまけ噺】
 タイトルは『ろ過』の漢字表記です。花の他に水が好きなのですが、執筆にあたって様々な表現方法を提供してくれるので、とてもありがたい存在です。最推しが水属性キャラで、本当に嬉しかったです。


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形見分け

 嘘のような、真実。

【※設定の濃いオリジナルキャラが登場します。お手数ですが、作品をご覧頂く前に、シリーズ全体のあらすじをご確認下さい。】


「…冨岡様。あの、昨日の昼間あったことなのですが……」

「無理に話さなくていい。今は養生することだけ考えろ。」

 義勇らしい、簡素で突き放すような口調だったが、至極有難い言葉が心に沁みて、すずなは涙が出そうになった。

 話せるようになるまで待ってくれているのだろうか。同じような経験をしたからとはいえ、なんて思いやりのある人なのだろうと、改めて心が震えた。

 

 そんな彼に応える代わりにと、ある覚悟を決め、すずなは、側に置いてあった自分の巾着を手に取る。

「…私も、形見があるんです。」

 白地に紅椿柄の巾着から、大切そうに白い布包みを取り出し、中身を開いた。

「巫女見習いとして稽古を始めた時、祖父が特別に仕立ててくれた、記念の髪紐です。」

 深紅と菫色の糸に、所々に金の糸を織り混ぜた、美しい組紐だった。あの夜桜の舞の時にも着けていたが、女性の装飾に疎い義勇は気づかないでいた。

 しかし、改めて見て、彼女の亜麻色の髪に良く似合いそうだと思った。本当に祖父が好きで、大事にされていたのだろうと、温かな気持ちになる。

「それから数年後に、祖母と共に流行り病で亡くなりましたが…大切な御守りです。」

 少し哀しそうな眼差しを向けながらも、いとおしい思いを込めるすずなを見て、思わず言葉が零れた。

「…ずっと、お前を守ってくれたのだな。」

 自分の羽織と同じように、その髪紐は、彼女にとって生きる為の支えだったのだろうと思った。それでも、贄になる為とはいえ、自害を選ばなければならなかった事情が、気になって仕方なくなっていたが、聞けばすずなを苦しめるのが予想できるので、迂闊に尋ねることができないでいた。

 

「あ、髪……」

 

 髪紐を見て、ふと、自身の身なりのことを思い出したすずなは、後頭部付近に手をやり、慌てた。昨日、倒れてからであろう、耳周りの髪を後ろに結び、まとめていたのがほどけ、散り乱れていたことに気づいたのだ。恥ずかしそうに俯き、とりあえず手櫛で整えようとする。

「お見苦しいところをお見せしてすみません。直ぐにとかします。」

 急いで、巾着から竹細工の櫛を取り出したすずなを見て、彼女に対して、親しみの情を抱き始めていた義勇は、ゆっくりと口を開いた。

「良ければ、俺が鋤くが……」

「え?! あの……」

 自身の耳を疑う。何かの聞き間違いだろうかと、すずなは、眼をぱちぱちさせた。

「昔、姉の髪を結うのを手伝っていた。片腕だが鋤くくらいならできる。」

「そんな。一人で大丈夫ですよ。」

 ようやく彼の言葉の意味を理解したすずなは、目を見開きながら動揺し、思い切り手を振った。未婚で男性経験も無く、若い男性に髪を触れられたことなど無い上、こちらは彼を意識しているから緊張する。

 自分のことを女性として、彼の方は少しも意識していない故の発言なのだろうけど、それでも躊躇するのは当たり前だった。

「…嫌か?」

 また、少し悲しそうな不満気な目で、義勇は尋ねる。こんな風に言われると、もう断り切れなかった。何故、こんなに優しくしてくれるのだろうかと、嬉しい反面、すずなは彼の意図が解らず、また混乱する。

 

 半月形の櫛を借り、義勇は、すずなの後ろに回り膝をついて、亜麻色の髪に差し入れた。ゆっくり、ゆっくりと、少しずつ丁寧に、櫛を通し解きほぐしていく動作が、とても心地良い。

 随分と慣れているようだったので、姉とこんな風に頻繁に触れ合っていたのだろうかと、すずなは思った。

 ふと、視線だけを後ろにやると、ちょうど耳の辺りを鋤いている様子が目に入った。義勇は、とても穏やかで楽しそうな表情をしている。

 幼子が大切な宝物を発見したかのように、涼やかな紺碧の瞳が、きらきら、と輝いているのがわかった瞬間、温かい閃きが弾けた。

『嗚呼…お姉様との思い出に、浸っていらっしゃるのね……』

 心の奥が、切なくもじわりと温かくなる。女性として意識してもらえていなくても、自分の髪の手入れなんかで、少しでもこの人を癒し、救えるのなら、それでも良いと思った。

 

 

「有難うございました。冨岡様は、何でもお上手ですね。」

 至福の時間は、あっという間に終わってしまった。動揺した気持ちを抑えながら、丁寧に礼をするすずなに、身だしなみを整えたいだろうと考えた義勇は、更に提案した。

「…汗も流したいだろう。風呂も貸すが、まだ安静にしていた方が良い。手拭いと湯を張った桶を持って来るから、それで体を拭け。着替えは、姉が着ていた浴衣しか無いが、それを出すから使ってくれ。」

「とんでもないです!! そんな大切な物を使わせて頂く訳にはいきません!!」

 今となっては、もう大抵のことには驚かないと思ったが、さすがにそれは良くないと、すずなは珍しく声を荒げ、とても困った表情をしたが、義勇は微塵もぶれなかった。

「使わずに生地が劣化していくよりは、お前が使ってくれた方が、浴衣も姉も喜ぶだろう。」

「私になんて、恐れ多いです。」

と、続けて断ったが、「そんなことはない。」「気にするな。」と、真っ直ぐな眼差しで何度も説得され、結局、根負けして使わせてもらうことになった。

 本当に、この瞳には敵わない……と、すずなは改めて、自嘲気味に愕然とする。

 

 少し経って、湯を張った桶を左手、手拭いを右肩にかけて戻って来た義勇は、押し入れの奥から浴衣の入った包みを取り出し、すずなに渡した後、自分は縁側にいると言い残し、客間を出て行った。

 浴衣の包みと、枕元の湯桶、そして義勇が出て行った襖を交互に見つめ、すずなは迷い、困惑する。近くに人の居る気配は無いとはいえ、若い男性の家で裸になるのは、さすがに躊躇した。

 暫く考えた後、蝶屋敷の寝間着を脱ぎ、手拭いを湯に浸し、少しずつ自身の体を拭き始めた。今までの彼の言動を振り返ると、不思議と信頼感が湧いてきたのだ。

 

 顎辺りの首の付け根に、赤黒い紐状の痣が薄く浮かんでいる箇所に、すずなは手をあてた。自害しようとした時のものだ。髪を鋤いてもらった時はうつむいていたので、彼に気づかれなかったようで、本当に良かったと思った。

 巫女としての責務を果たす為とはいえ、蝶屋敷で療養していた時に髪を結っていた、まさか、あの組紐を使って贄になろうとしたなんて、とても言えるはずがなかった。

 あの時は、最期のお役目の為だから祖父はわかってくれると思い、あんな所業をしたけれど、今となっては、自虐的な虚しさと後ろめたさに駆られるだけだった。

 そんな品を、彼の大切な形見と同列に語って良いのか憚られたが、せめて、大好きだった祖父が遺してくれた唯一の物だと、義勇に聞いて欲しかったのだ。この痕だけは、彼に知られないようにしなければと、自身の首を押さえた。

 

 

 体や髪を丁寧に拭き、桃色の浴衣に着替えたすずなは、そっと、居間に顔を出した。

 義勇は、縁側の近くで胡座を掻き、将棋盤を前に、眉間をひそめながら難しい表情をしていた。時折、パチリ、パチリ、という、駒が盤の上で動く、軽快な音が聞こえて来る。柔らかな午後の春の陽射しが射し込み、彼の青みがかかった艶やかな黒い髪に反射し、まるで、一枚の絵のようだと、すずなは思った。

 

 視線に気づき、義勇はすずなの方に顔を向けた。薄桃に白梅柄という、愛らしい模様の浴衣が、彼女の白い肌に映えて、とても似合っていると思ったが、口には出せず目を反らし、代わりに違う言葉を発した。

「…起き上がって大丈夫なのか?」

「はい。お陰様で、もうだいぶ平気です……こんな大切な物を貸して頂いて、本当に良いのですか?」

「構わない。さすがに、それは羽織れない。」

 彼が、珍しく冗談めいたことを言うので、円らな目を更に丸くして驚いた後、すずなは、ふふっ、と笑い声を上げた。盤の近くに寄り、少し離れた所に正座する。

「…将棋をされるのですか?」

「少し、嗜む程度だ。」

 彼女の軽やかな笑い声に、内心気を良くしながらも、盤からは目を離さず、義勇は言った。

「お祖父様も、将棋が趣味で、よく指していました。懐かしいです……対局出来る者が近所にいない、とぼやいていましたから、冨岡様に会われたら喜んだでしょう。」

 笛の音のような喜びの声をあげるすずなに、義勇は、ずっと気になっていたことを、気づけば口にしていた。

「…様呼びは止めろ。俺は、もう柱でも、鬼殺隊でもないのだから。」

 終始、優しく穏やかでありつつも、どこか近寄り難い距離があった彼の心が、急にすぐ側に入り込んできたような気がしたのが嬉しく、すずなは「解りました。」と言って、微笑んだ。

 

 この人と過ごしていると、過去の楽しかった事も、辛かった事も、失ってしまったものも、全てが今までと違って見えてくることを、二人はお互いに対して感じていた。

 恐ろしい面影や忌まわしい過去に、怯えて嫌悪していた夜は、相手の存在を気にかけ、優しい思い出と共に過ぎていく。どんなに辛く悲しくても、無理矢理迎えていた朝は、今日一日を始めるため、生きるために動き出す時間に変わる。

 理由はわからない。ただ、心の奥底のしこりが融けて変化し、明るい方に移ろいでゆく……それだけは、はっきりと実感していた。

 

 

 夕暮れ時。何時ものように、弁当や食料を抱えてやって来た、輝利哉の使いの者達が、“あの”冨岡義勇の屋敷に見知らぬ若い女性がいる、という状況に遭遇した。

 それだけでも衝撃だったが、更に、女物の寝間着や襦袢の洗濯を何気無く頼まれた事に、まるで超常現象にでも遭ったかの如く、内心ひっくり返ったのは、言うまでもなかった。




【おまけ噺】
 ここまでで、二人が段々惹かれ合っていく過程を描いたのですが、義勇さんの心情表現は、本当に難しいですね…(苦笑)
 増して、恋に落ちる様子なんて摩訶不思議な領域です……毎回、義勇さんに全集中憑依して考えてますが、恐らく始終、ヒロインの子とタッグを組んで、彼女をアシストするようなスタンスでいると思います(汗)


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肆ノ章 追憶
馨る雨


 零れ、融けていく心。

【※設定の濃いオリジナルキャラが登場します。お手数ですが、作品をご覧頂く前に、シリーズ全体のあらすじをご確認下さい。】


 宵の頃。輝利哉の使いから運ばれた手製の弁当を、居間に戻したちゃぶ台を挟み、二人は向かい合いながら夕餉にして食べていた。(使いの者達は、彼らの様子が気になって仕方ない、という素振りを見せながら帰って行った。)

 白米やおかずを少しずつ頬張りながら、相変わらず、心底嬉しそうな、ほわほわ、とした空気を醸し出している彼女を見ているうち、義勇はずっと思っていたことを、また吐露した。

「…また聞くが、何故、そんなに楽しそうなんだ?」

 一時は呼吸困難を起こし、あんなに不安定になって苦しんでいた姿からは想像出来ない様子に、困惑と不可解さを隠せない。

「…変ですか?」

「あの店の蕎麦やこの弁当が、そんなに美味いのかと。」

「…田舎育ちなので、都会のご飯は新鮮ですが、それだけじゃないです……」

 まごつきながら、すずなは苦しい言い訳をなんとか絞り出した。一番の理由は、義勇と食事ができること自体が嬉しくて、何でも美味しく食べられるからだなんて、とても言えるはずがない。

 

 そんなすずなの気持ちなど知らない義勇には、彼女が何を考えているのかが、とても興味深かった。

「…今日一日、退屈しなかったか?」

 女というのは話すことが楽しみで、話術の高い男を好むものだと、今までの経験や宇髄の入れ知恵で信じてきた為、ここまで沈黙の続く男は、さすがに嫌なのではないかと気にしていた。

「そんなこと、無いです。元々、静かな時間が好きですし、沢山喋るのも苦手で……冨岡さんの様子は、“気”で伝わってくるので大丈夫です。」

『“気”だと?』

 義勇は、また初めて聞く類いの話に興味を惹かれた。久世すずなという人間の、根本的な部分に触れたような気がする。

「人は、其々身に纏っている、独特の空間のようなものがあって、それを感じ取ることで、相手の人柄や精神状態が、漠然と判るんです。」

 炭治郎の鼻による匂いでの判別のようなものだろうかと、義勇は思った。

 あの夜桜の宴の時、初対面の伊之助達にも、全く動じなかった姿を思い出す。巫女にしては、やけに無防備で変わった娘だと思ったが、そもそも、先入観という概念が欠如しているからなのか……

「冨岡さんからは、とても澄んでいる清涼な“気”が、いつも滲み出るように流れてくるので、少し話せば安心します。勿論、具体的な思考までは判りませんが……」

「…そうか。」

 会話の流れと勢いで、思わず称賛するような本音を言ってしまったすずなに、義勇は、何と返したら良いかわからず、気恥ずかしさのあまり、頬を薄紅に染め口ごもってしまった。既に、食事の味など判らなくなっている。

 

 そんな彼を見て、自分まで居たたまれなくなったすずなは、話題を変えようと思った。

「…ところで、明日の夕餉は、どうしましょうか? 好きな物を言って下さい。」

「夕餉……?」

「今回のお礼のことですよ……忘れちゃったんですか?」

 呆気にとられながらも、見返りに執着しない彼らしいと、すずなは微笑ましく思った。

「ああ…気にするなと言いたいが……本当に注文付けて良いのか?」

「はい。何でもとは言えませんけど、なるべくご希望に添えるよう頑張ります。」

「…鮭大根……できるか?」

 義勇の一番の好物である。近くの飯屋でも食べられるから恋しい訳ではないが、何故か、すずなの手製が食べてみたいと思い、少し遠慮がちに伺う。

「鮭大根…ですか? 鰤大根なら作った事ありますし、やってみます!」

 意気込みを見せて張り切ったのは良かったが、今、屋敷には、鮭も大根もなかった。片腕の義勇が調理するのは無理があるので、使いの者は持って来なかったのだ。

「明日、買いに行こう。少々歩くが、小さい商店街がある。鮮魚店もあった。」

「では、そうしましょう。」

 明日は、二人で買い物に行けると、すずなは内心とても高揚し、嬉しく思った。

 

 今夜は、初めて風呂場で体を洗い、同じように客間で眠りについた。こんな日々が、毎日当たり前のように死ぬまで続いたら、どんなに幸せだろうと願ってしまうが、それは叶わぬ望みだと解っている。

 せめて、どうか、この時間が、最後まで幸せに過ごせますようにと、すずなは天に祈った。

 

 

 翌日の昼過ぎ。元水柱邸から徒歩で数十分後、商店の並ぶ町に着き、まずは、石鹸など屋敷に足りない物と、八百屋で大根を買った。途中で、花売りの荷台に立ち止まり、菜の花や菫、桜草など、美しい春の花を二人で眺めたりもした。

 まるで、夫婦の買い物や逢瀬のようだと、すずなは束の間の至福の時を楽しんでいた。

 

 夕刻に近づき、最後は一番嵩張る鮭だと、鮮魚店に向かおうとした時、さっきまで晴れていた空から、ポツリ、ポツリと、僅かな水滴が落ちてきた。

 頭部に冷たい水の感触を感じ、二人が上を向くと、空はあっという間に灰色の雲に被われ、曇天に染まっていた。落下して来る水滴が次第に増えていき、段々と勢いを増していく。

「夕立か? 一雨来るな。どこか軒下に行こう。」

 買い物籠を手にしたまま、義勇はすずなを振り返り、目線で合図した。

 「はい。」と頷き、急ぎ足になった義勇の後を、すずなは、小走りで必死について行く。

 

 ようやく、立派な瓦屋根の民家に着いた頃には、景色はすっかり雨模様になっていた。足元にどんどん水溜まりが増えていき、地面に落ちて跳ね返った水滴が、二人の着物の裾を濡らしていく。

「…当分、止みそうにないな。」

「春の嵐ですねぇ……」

 さっきまでの晴天が嘘のように、どしゃ降りと化した光景に、義勇はひどく困った様子を見せ、恨めしそうに呟く。当然、傘は持っていない。これからどうするべきか……

 すずなの方は、この状況に他に思うことがあるかのようだった。当然、同じく困惑していたが、違うことが脳裏に過っていた。

 バタバタ、と地面に落ちた雨水がはね上がり、次々に立ち上がる雨飛沫から、湿度を帯びた水の匂いを感じる。“あの夜の夢”に見た、美しい水流を思い出していたのだ。

 

 そんな心許ない様子の彼女を、不思議そうに見返した瞬間だった。

「…………っ!!」

 義勇の右腕に、突如、鈍い痛みが強く走った。思わず形の良い眉をしかめる。

「どうかしましたか?」

 義勇は、彼女に余計な気を遣わせないよう、なるべく平静を装おったが、失った右腕の後遺症が、思った以上に酷く発症し、思わず左手で患部を押さえる。

「…痛みますか?」

 昨夜話していた通り、すずなは、今の彼の状況を、大体察しているようだった。

「…雨の日は、少しな。大したことは無い。直に治まる。」

 

 なんとか堪えようと、辛そうに耐える様子を見て、すずなは、ひどく迷ったような素振りを見せた後、何かを決意したような面持ちで、真っ直ぐに義勇を見据えた。

「…冨岡さん、すみません。少しばかり失礼します。」

 そう言うな否や、そっと、義勇の右腕の辺りに、小さな両手を優しくあてた。目を閉じて精神統一し、意識を集中させながら、袖口から右手を差し入れ、白いシャツ越しに、肩の付け根辺りから、ゆっくりと労るように撫でていく。

 

 突然の思いがけない行動に、義勇は激しく動揺し、止めさせようと思ったが、すずなの至極真剣な様子に息を飲み、そのまま動けずにいた。

 細い指先で、痛みの元を探るように、優しく筋肉をほぐしていくような仕草が、患部にとても心地よく感じる。気づけば驚いたことに、傷口の痛みは、幾分か和らいでいた。

 まだ僅かに違和感はある上、右腕の傷が治った訳ではないのは分かるが、痛みがかなり楽になったことで、義勇は安堵した。

 しかし、代わりに、すずなは少し疲れたような表情で、自身の心身を整えているように見えた。額に少量の汗が滲んでいる。

「…これは、お前の力か?」

 深呼吸を繰り返す、憔悴気味の自分を見つめながら、真剣に問いかける義勇に、すずなは、こくん、と小さく頷く。

「これで、蝶屋敷の患者を診ていたのか?」

 こんな風に治癒する度に、毎回疲弊していては、彼女の方が参ってしまうのではないかと、義勇は心配になった。

「いえ。これは家族と親類、実家の神社の関係者など、ごく一部の方しか知りません。頻繁に使う事は、許されていないので……」

「なら、何故、俺になど……」

と、思わず義勇が問いかけた瞬間、すずなは、とても困ったような、しかし、どこか熱のある、思い詰めた眼差しで、彼を見返した。

 

「…………。」

 

 義勇は、彼女から“特別な”何かを感じ取った。人のことに鈍いと言われる自分でも、人間には、他者が迂闊に触れてはいけない、いくつかの情念があるということを知っているつもりではいた。

 しかし、そんな中でも特に、このような熱い好意に満ちた情を、ここまで真っ直ぐに向けられたのは、生まれて初めてのことだ。

 

 

 そんな最中、彼方からゴロゴロと、雷鳴が鳴り響く音が聞こえてきた。雨脚はますます強まり、バシャビシャという、水の蠢く音が激しさを増す。

 軒下を出れば、たちまち滝に打たれたように、水浸しになりそうな勢いだ。とはいえ、いつまでもここに居る訳にはいかない。

 見上げた灰色の空が、段々、夕闇に包まれてきたことに気づき、

「…まずいな。」

と、様々な念を混じながら、義勇は呟いた。

 

 少し考え、着ていた水色の羽織を脱ぎ、すずなの頭に被せた。突然、視界が明るい晴天のようになり、“彼”の香りに包まれ、心が強く揺さぶられる。

 この辺りに馬車は無い。屋敷までは、歩いてだいぶかかる。まだ体が回復しきっていないすずなと、右腕に後遺症を抱える自分が、この大雨の中を濡れて帰るのは気が引けた。

「仕方ない。どこか近くの宿を探そう。」

「…はい。」

 白地のシャツ姿のまま振り向き、すずなに提案し、義勇は軒下を出たが、予想通り、あっという間に雨に打たれた。湿り気を帯びた空気が、体中にまとわりつく。

 全身を濡らしながらも寄り添うように、二人は、町の奥の方へ、駆けた。




【おまけ噺(登場した花の花言葉)】

●菜の花→(全般)明るさ、快活、小さな幸せ
●菫→(全般)謙虚、誠実、小さな幸せ(紫)愛、貞節(白)あどけない恋、無邪気な恋、純潔
●桜草→青春の喜びと悲しみ、初恋、憧れ、自然美

 花がとても好きなので、作品にちょいちょい登場させて、物語の彩りに使わせて頂いております。鬼滅には、モチーフで沢山出てくるので、一つ一つ調べて楽しんでいました。


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“柱”


 長い雨宿り、永い追憶。

【※設定の濃いオリジナルキャラが登場します。お手数ですが、作品をご覧頂く前に、シリーズ全体のキャプションをご確認下さい。】


 

 暫し歩き、一軒の小さな民宿を見つけた二人は、全身ずぶ濡れ状態で、入り口の扉を開けた。店主らしき初老の男が、人の良さそうな笑顔で出迎えたので、すずなを玄関付近に待たせて、義勇は男に歩み寄る。

「急ですまない。一泊で、単部屋を二つお願いしたい。」

「お兄さん、すみませんねぇ。生憎、この嵐で、一人部屋が満室なんですよ。二、三人用なら少し空いてますが。」

「……?! いや、一人部屋でないと困る。」

 申し訳なさそうに詫びる店主の男の言葉に、義勇は、血の気が引くような感覚に襲われた。

「お二方、御夫婦か何かじゃないんですか? 可愛らしい方ですねぇ。」

 宿主の男は、不安そうな顔をしながら辺りを見回している、すずなの方をちらりと見て、茶化すように尋ねた。

「ふうっ……?!」

 切れ長の眼を、此れでもかという位に見開き、義勇は小さく叫んだ。妙な冷や汗が、全身から吹き出る。

「違う! 彼女はただの連れだ。」

「そうなんですか? 失礼しました。いやぁ、大変似合いですから、てっきりそうかと。」

 複数用の部屋を、二部屋借りる程の現金は持っていない。やむを得ない、背に腹は変えられないと、義勇は覚悟を決めた。

「…わかった。では、二、三人用を頼む。」

「衝立がありますから、それを使って下さいませ。」

 せめてものと気を利かせたのであろう、宿主の言葉が、却って義勇の心に小波を起こす。自分とあの娘は、他人からはそんな風に見えるのかと、非常に動揺していた。

 また、相部屋だということに、今更ながら狼狽えている自分にも疑問を抱く。この二日間、彼女と一つ屋根の下で、普通に寝食を共にしていたではないか。就寝は別室だったが、場所が変わっただけなのに、何故、変に意識し慌てているのだろう。

 この事を伝えたら、彼女はどんな顔をするかが気になったが、案の定、すずなも同じく狼狽し、複雑そうな表情を浮かべ、白い頬を薄紅に染めてうつむいた。

 

 とりあえず、休息を採らなければと、二階の奥部屋の襖の扉を開けた途端、二人共、力が抜けてしまった。

 複数用とは言うものの、簡素で小振りの和室の部屋だった。小さな小窓からは、建物が震えるような雷鳴と共に、水の蠢く音が聞こえてくる。

 ずっと雨に打たれ続けたせいで、二人共、頭から爪先までずぶ濡れだった。髪や着物の裾から、ぽたぽた、と雨滴が滴り落ちている。

「あの……これ、有難うございました。すぐに乾かしますね。」

 動揺している心が、なるべく露呈しないよう平静を装い、すずなは、頭から被っていた、義勇の水色の羽織を外し、窓際に吊るそうとした。

「待て。」

 彼女の首筋に水滴が滴り、長い髪が貼りついているのを見て、義勇は、すずなの肩を大きな左手で掴み、半ば強引に引き止めていた。

「随分濡れている。冷えるぞ。」

 彼女の体調を案じ、すっかり水浸しになった髪から滴り落ちる、冷たい雨雫を受け止めるように、毛先を握るように手に取る。

「先に、これで拭け……」

 肩にかけていた宿主から借りたタオルで、濡れた髪ごと頭を包んだ時、義勇は、すずながうつむき、両手で羽織を抱えながら、耳まで顔を真っ赤にしていることに気がついた。

 予想外の反応に、つられて自身の頬も強張り、熱くなっていくことに気づいたが、ぎこちない手つきで、そのまま彼女の髪を拭いた。

 

「…有難うございました。先に、湯浴みさせて頂きます。」

 

 もう、限界だった。いきなり髪や肩に思い切り触れられ、更に優しくされたことが引き金になり、うっかり感情が零れて露呈してしまった。

 自分の気持ちが、とうとう彼にばれてしまったのではと、すずなは内心、血の気が引いていた。押し隠していた想いが溢れ返って、胸が苦しくて堪らない。こんな時なのに、頭から濡れ鼠になっている彼に対して、妙な艶を感じ、触れられた肩や頭部だけが、雨で冷えた体の中で、熱く脈打つ。

 この状況に耐えかね、とりあえず風呂に入り、温まって落ち着こうと思った。ずっと平穏に過ごせていたのに、それすら壊れてしまう。変に気まずくなってしまうのは、絶対に嫌だった。

 

 一方、義勇は、羽織を吊るし、着替えの浴衣を抱えながら、すずなが自分から逃げるように部屋を出て行ったことに、少しショックを受け、茫然としていた。またそんな自身を持て余し、どうしたら良いのか分からず、途方に暮れている。

 心音が妙な波動で脈打ち、息が胸奥で詰まる。外の雨音に合わせるかのように、心の水面にまで雨がひっきりなしに降り注ぎ、幾つもの波紋が生まれては、不規則に揺れ動く。

 このような状態になるのは経験が無く、最早、何が原因なのかもわからない。このまま明日まで過ごせるのかという、生まれて初めて感じる類いの感情に襲われていたが、とりあえず、自分も湯浴みして精神を落ち着かせ、温まることにした。

 

 

 風呂から上がった後、義勇は、宿主に夕餉と共に冷酒を頼んだ。得意ではないが、飲むと大抵酔いつぶれて寝入ってしまう。この状況を何とかやり過ごすために、義勇は酒の力を借りようと思ったのだ。

 冷えた体はすっかり温まり、浴衣に着替えた二人は、改めて部屋で向かい合うや否や、お互いの姿を思わず凝視していた。

『…こんなに小さく、色のある娘だったか……?』

『…こんなに大きくて、艶のある方だったかしら……?』

 同じ白地に水色の縞模様の浴衣。同じ仕様の服を着ると、お互いの身長や体格差など、性の違いが比較されるように露呈し、妙に意識してしまう。

 

「…お酒、飲まれるのですか?」

 いつの間にか運ばれていた、夕餉の膳と共に並んだ冷酒を見て、すずなは少し驚いた。

 この状況で酒を頼んだ、彼の意図が読み取れず困惑したが、伝わってくる“気”が、邪心や色欲ではなく、自分と同じく動揺や不安であることがわかったので、至極申し訳ない気持ちになった。

「…下戸だが、たまには良いかと……お前も飲むか?」

という、義勇の言葉に、彼なりの気遣いを感じ取ったすずなは、「…はい。少しなら。」と頷き、彼の盃に酌を始めた。

 

 明日になったら、このまま別れるかもしれないと思い詰めているすずなは、夕餉を食べながら、自分も冷酒を口に含んだ。自分の恋情がばれてしまったなら、もう彼の屋敷には居られないし、二度と会ってもらえないかもしれない。

 素面では、“あの過去”を最後まで話せる自信がなかったが、自分も酒に弱い。酔っていれば、勢いで話せそうな気がした。気まずいまま別れるくらいなら、どうしても伝えたいと、覚悟を決めて、口を開く。

「…冨岡さん、突然ですみませんが、私が倒れた時のこと、お話していいですか?」

「……? 構わないが……」

 突然、神妙な面持ちで語り始めたのが不思議だったが、気になっていたことでもあった為、耳を傾ける。酒が回り始めた二人は、幾分か気が軽くなっていた。ほろ酔い気味ではあるが、意識や思考ははっきりしている。

「一昨日の昼過ぎ、冨岡さんが握り飯を買いに行かれた後、昔、実家の近所に住んでいた方と、偶然再会したんです。」

「私は、鬼に喰われていたと思っていたらしく、とても驚いていらっしゃいました。そして、まだ喰われていなかったことにも……驚いていました。」

 話の中に、何かしら仄暗い違和感を感じ取った義勇は、酒の手を止め、すずなの顔を思わず凝視した。珍しく表情が無く、他人事のように冷めている様子だ。

「覚えていらっしゃらないと思いますが、私、蝶屋敷の前にも、一度、冨岡さんとお会いしてるんです。」

 驚いて、彼女の姿を記憶から探し始めた義勇を前に、出来る事なら封印してしまいたい、哀しく忌まわしい過去を、すずなは話し始めた。

「…実家が鬼に襲われた夜の二日後、私は贄として献上され、いずれにしろ、鬼に喰われて死ぬ予定でした。」

 

「…………?!」

 

 突如明かされた、あまりに残酷な真実に、義勇は青ざめ絶句した。そんな彼を見て、なるべく重苦しくならないようにと、すずなは淡々と口にする。

「あの頃、私の故郷でも、村人が何者かに殺される事件が、何度か起こりました。鬼か物怪の仕業だ、鎮めなければならない。生け贄が必要だと、村中で騒ぎになりました。」

「神に仕える巫女が献上されたら、鬼も満足して鎮まるだろうと、私と妹が候補に上がりました。ですが、妹は巫女らしい黒髪で多才、私と同じ治癒能力の素質もある後継者だから、鬼になどやる訳にはいかない。それで、異質な髪色で長女でもあった、私が選ばれたんです。」

 『贄』という単語に、昔、蝶屋敷で自害しようとしたという、彼女の過去を思い出した。鬼から助けられたはずなのに、自ら命を投げ出そうとした理由が解り、何とも言えない深い哀しみが、義勇の心に過る。

「当時、私の力を高額な金銭と引き換えに利用していた得意様と、実家の長であった母は渋りましたが、鬼に殺されては元も子も無いので、最終的に両者共に納得しました。これが、お前の巫女としての最後の役目だと言って……」

「…………!!」

 耳にしたことはあっても、実際に存在するのか半信半疑だった、これは所謂、“人身御供”、“人柱”の話かと、義勇は、ぎりっ、と奥歯を噛んだ。酒の酔いは、既にどこかへ飛んでいる。

 

 先程、自分の右腕の痛みを緩和させた、あの力を利用する者がいないはずが無い。この娘は、家の為に自分の力を売っていたのだ。身体に多少の代償がくることも厭わず……

 心を深く抉るような、あまりに理不尽でむごい所業を、至極当たり前の事のように語る彼女に対し、驚きと同時に、強い憤りを感じた。

「贄として献上するため、私は屋敷の地下部屋に移ることになり、そこで数日、寝泊まりしました。そんな時、鬼の方が、先にやって来たんです。」

「地鳴りのような轟音と、妹達の悲鳴で異変にすぐ気づきましたが、何が起こったか分からず狼狽えていると、血相を変えた母が飛び込んで来て、鬼が来たから早く出て来て、直ぐに喰われるよう言いました。」

「いよいよか、と覚悟を決めた瞬間、母が絶叫しながら倒れました。後ろから現れたのは、私の何倍もの大きさの、恐ろしい目や血塗れの牙をぎらつかせた、鬼でした。」

 

 当時の恐怖に耐えるかのように、すずなは、一度、息を飲み込み、きつく目を瞑った。が、すぐに放心状態の義勇の方を見返し、一番伝えたかった事を、必死に喉奥から絞り出す。

「恐怖で固まってる私を見て贄だと気づき、雄叫びを上げながら、鬼が覆い被さってきた瞬間、目の前の首が、血飛沫と共に消えました。」

「その時、代わりに現れたのが……貴方でした。」





【おまけ噺】
 ようやく、ここまで進展できた……という感じです (苦笑) 大体、折り返し地点になるかと予定してます。


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生殺与奪

 選ばれた、二人の“生還者”。

【※設定の濃いオリジナルキャラが登場します。お手数ですが、作品をご覧頂く前に、シリーズ全体のあらすじ概要をご確認下さい。】


 記憶に無い、というよりは、義勇にとっては、かつて無我夢中に行ってきた、幾多余りの討伐のうちの一つでしかなかった。

 結果的に自分が助けたという人間の中に、目の前の女性が入っていたという事実は、とても感慨深いが、深い哀しみを感じずにいられない。鬼からは彼女の命を助けられたようだが、本当の意味では救えてはいなかったのだ。この娘を、真に脅かしていたものは……

 

「あの時の、水飛沫と共に光るような、刀の流麗な動き、貴方の紺碧に煌めく瞳がとても綺麗で、あんな状況だったのに魅了されてしまったのを、今でもよく覚えています。」

 話している間、完全に憂いがかかっていたすずなの珊瑚色の瞳に、僅かに光が差した。抑揚のなかった声色に、突然、いつもの柔らかさが少し戻ったことが、義勇には不思議だった。

「声も出せずにいた私に、貴方は、怪我は無いかと聞いて下さった後、誰かにもう一体いますと呼ばれて、『事後処理の者が来るまで、ここに隠れていろ。ここまでは鬼は来させない。』と言って、去って行かれました。」

「…不思議ですよね。鬼の贄になる為に居た場所だったのに、貴方が来てくれてから、身を守ってくれる場所に変わったんです。」

 ふっと、何かを取り戻したかのように微笑み、改めて、義勇の瞳を真っ直ぐ見据え、すずなは深く頭を下げた。

「ずっと、貴方にお礼を伝えたかったんです。今回も含め…本当に有難うございました。お陰で、今、こうして生きていられてます。」

 長年、彼女が抱えてきた、並々ならぬ情念と、健気な気丈さに圧倒された義勇は、返す言葉が見つからなかった。

 

 

 夜も更け、二組の布団の間に衝立を挟んで、二人は床についた。が、眠れる訳がなかった。すずなは何度も寝返りを打ち、義勇は布団から出て、近くの壁にもたれたまま胡座を掻き、天井と布団、衝立を、何度も交互に見つめている。お互いの存在を、衝立越しにひしひしと感じ、意識するなというのは不可だった。

 義勇に至っては、今日に限って、何故か酒が効いてくれない。少しも眠気を感じず、むしろ変に目が冴えてしまっていた。思考にぼんやりとした靄と軽い目眩だけが残り、何の為に慣れない酒を飲んだのかと、自身を呪った。

 そんな中、衝立の向こうから、澄んだ小さな呼び声がした。

「…冨岡さん、起きてますか?」

「…ああ。」

「さっきは、驚かせてしまって申し訳ありませんでした。」

「いや。大丈夫だ。」

 遠慮がちに微かに響く声に、壁際から衝立の近くまで移動し、そこでまた胡座をかいて座り込んだ義勇は、耳に神経を集中させ、すずなの言葉を拾おうとする。

「ご迷惑でなければ、私事を徒然と語っていいですか? なんだか落ち着かなくて……」

「…構わない。俺も眠れない。」

 さっきは、告白された過去が衝撃的過ぎて、未だ消化出来ない部分や、彼女の内面について触れることを期待し、承知する。

「有難うございます……鬼に襲われてから、今まで何の為に頑張って、何を信じていたら良かったのか、ずっと判らなくなっていました。何も無い空間で必死に足を動かして、息をしているようでした……」

 酒の影響で、気が緩み弱気になっているのか、今度は、声色が暗くなっている様子に、彼女の異変を感じ取る。

 

 衝立の向こう側で、すずなは仰向けになって、虚ろな眼で天井を見上げていた。義勇に聞いてもらいたいのか、自身に言い聞かせているのか、自分でも把握出来ない感情を紡いでいるようだった。

「死ぬことが務めだったはずの私が、本当は死ななくても良くて、生きて巫女として貢献するはずだった妹が、結局喰われてしまって……何が正しかったのか、何に怒れば良いのか…今でもわかりません。」

『…………。』

「何の為に唯一の能力を極めて、金銭と引き換えとはいえ、人を助けていたのか……贄になることも、なついてくれていた可愛い妹や弟を守れるなら、ずっと認めて欲しかった母が喜んでくれるなら、婿入りした祖父が受け継いできた家を救える為なら、それでも良いと、自分で決めたはずだったのに。」

『…違う。』

「命と引き換えるのが無駄なら、せめて、心の治癒と鎮魂という形で、貴方方のお役にたちたいと、私なりに出来ることをしてきましたが……」

 

『…違う!!』

 

 気づけば衝立をずらし開け、義勇は、すずなの前に姿を現し、仁王立ちしていた。見下ろす紺碧の瞳は、暗く深い悲しみに加え、どこか怒りの色を含み、炎のように揺らめいている。

 突然、目の前に現れた義勇に、いつの間にか起き上がり、布団の上で足を崩していたすずなは、ひどく驚いた表情で、鬼気迫る様子の彼を見上げた。

「…巫女の役目や宿命という、その重要性は、俺には正直わからない。」

 一旦、軽く息を吸い、喉奥から絞り出すように、義勇は、精一杯の言葉を吐いた。

「だが、お前だけは死ぬな! 尊厳を守れ! 何がなんでも、陽の下で生きろ!!」

「お前の力は、治癒や舞だけではない! お前と接していて救われた者も、沢山いたはずだ!!」

 鬼以前に、身内や村民に存在を利用され、生殺与奪の賽を、自分一人に背負わされていたというに、まだ他者を気にかけ心を砕く所業……怒りと苛烈な自責で心を閉ざしていた義勇には、到底理解出来なかった。

 しかも、彼女は、そんな自身を無能だと、本気で卑下している。そんな様々なやるせない憤りが、胸奥に激しく燃え上がり、吐き出さずにいられなかった。

 

 一方、出会ってから、最も激しい口調で激昂し、涼やかな碧眼を見開きながら、自分に感情をぶつけてくる義勇につられ、すずなも本音が胸底から弾け出す。

「…それは、それは、貴方の方です!」

「あの時、あの場所で助けてくれたのが、貴方だったから、今日まで私は生きて来られたんです!」

 突然、珍しく声を荒げた彼女の言葉が芯を貫き、義勇は、はっ、と息を止めた。脳裏に、姉と錆兎の笑顔が過る。そして、炭治郎のあの言葉も……

「他の柱の方でも、命は助けて頂けたのかもしれない。でも、その後に出会ったのが、貴方、冨岡さんだったから、少なくとも、私は救われたんです。」

「…どうして、俺なんだ?」

 昔、姉に鬼から庇われて以来、ずっと知りたくて堪らなかった疑問を、彼女に代表してぶつけるかのように、義勇は呟いた。

「闘いの最中や貴方の過去の、詳しい事情は知りません。ですが、自身まで滅して叱責するかのように、懸命に努力しておられる様子は見ていました。」

 当時の彼を思い出したのか感極まり、片方の朱の硝子玉から、一粒の滴が零れ落ちる。

「あの生き地獄のような中でも、気高く澄んだ“気”を放っていた貴方が、全てに絶望した私を叱咤して、負の念を浄化して生かしてくれた……」

「私一人の命じゃ足りないかもしれませんが、そんな濁流のように、貴方が生き抜いてくれたから…私は……」

 

 全身からほとばしるような、すずなの渾身の叫びが終わるのを待たず、何時の時からか、義勇の最も柔い部分に根付いていた種火が、最高峰まで一気に猛り、燃え上がった。

 気づいた時には彼女の前に膝を着き、細い腰を大きな左手で掴んで、強引に抱き寄せていた。自身の奥底から熱く滾る、何かが自分を駆り立て、そうせずにはいられなかった。

 しかし、直ぐに自身の大胆な行為に驚愕し、急いで離そうとしたが、掌も腕も、必死に抵抗するように動かず、彼女の華奢な体全体を胸元に擦り付けるように抱えたまま、自身の操縦が不可になった義勇は、完全に固まってしまった。

 突然の展開に、すずなは、全体重を義勇に預けた状態だった。抵抗することもまだ出来たが、抱かれた腕の強い力と、四十度近い、彼の熱い体温に憑かれたかのように、息が止まって硬直し動けなかった。

 まだ乾き切っていない髪は、まだ少し湿っていて、冷たい。だが、顔は湯上がりのように火照っている。左肩を包む、大きく固い掌の感触と、眼前の太い首筋から感じる、石鹸と微かに汗の混ざった“彼”の匂い、仄かに芳る酒混じりの空気が誘うように漂い、完全に思考が停止した。

 しばらくして動揺が少し治まり、今の事態を把握すると、困惑と喜びが入り混じり、高揚した想いが一気に溢れ、じわり、と瞼の下に涙が滲む。

 

 一方、錯乱する思考の中で、義勇は、彼女の髪がまだ冷たく湿っていることが気になり、少し体を離し、何気なく左手で、後頭部の髪を掴み撫でた。

「…まだ湿ってるな…寒くないか?」

 掠れた低音の声を絞り出すように呟き、陶器のような白い頬を、少し薄紅に染めながら、真っ直ぐな眼差しで珊瑚色の瞳を見つめた。

 すずなは、そんな彼の意図が解らず、円らな眼を見開いたまま、何も言葉が出て来なかった。生まれて初めて向けられた類いの“気”からは、何も読み取れず、金縛りにあったように口も体も動かない。

 自身の顔の火照り、どく、どく、と早鐘のように五月蝿く鳴り打つ心音、手先の甘い痺れ、鼻先を擽る仄かな酒の匂い、後頭部に感じる義勇の固い手の感触だけが、唯一分かる感覚だった。

「…は、はい…少し……」

 息を飲み込み、ようやく蚊の鳴くような声を、薄紅色の唇から溢した。全身が震えるような感覚は、寒いからなのか、気が高ぶっているからなのか、最早わからなかったが、不思議と恐怖はあまりなかった。彼と触れ合っている、心地好さの方が勝っていたのだ。

 

 

 いつの間にか雨は止んでいたらしく、しん、と辺りは静まりかえっていた。暗がりの中、小窓から青白い月明かりに照らされた、すずなの珊瑚色の瞳には涙が滲み、葡萄酒のような深みが揺らめいている。白い頬は薄紅に染まり、小さな唇は、微かに震えている。

 それでも、必死に自分と向き合おうとしている彼女を見つめているうち、義勇の身体の奥底から、どくん、と激しくも甘い衝動が、泉のように湧き上がってきた。

 

『…………?!』

 

 生まれて初めて感じる、渦巻くような熱い塊は勢いを増し、次第に、自身の吐息が熱を帯び、段々深くなっていくのが判った。しかし、どうやってそれらを静めて抑えたら良いのか判らず、『まずい。止めろ。』など、様々な思考が、ぐるぐると脳裏に過り焦りつつ、それらは全て激流に押し流され、体全体を促す熱量に変換されていく。

 胸奥が苦しく詰まり、すずなの後頭部に置いた左手が、激情に抗おうと震える。が、その力は直ぐに無効化した。至極心地の良いものに触れた時のように、吸い付いて手が離れない。

 ──ごくり、と息を飲み込み、せめて、なるべく怖がらせないよう、傷つけないようにと、戸惑った表情で、そのまま長い指で優しく髪を鋤きながら、彼女の白い額に、ゆっくりと唇をあてた。

 彼の思いがけない行為に驚愕し、一瞬、びくっ、と体を震わせたすずなだったが、額に生まれて初めて感じる柔らかな感触から、全身に甘い震えが貫き渡り、妙な高揚感が生まれて弾けた。

 彼女が体を震わせたので、義勇は、一度、唇を離した。が、直ぐに薄紅に染まった柔らかな頬にも同じように押し当て、細い首筋、鼻先、額と、優しく愛でるように、ゆっくりと繰り返し、柔く口付ける。

 

 女性への愛撫の方法など、思春期を全て鬼殺に捧げ、心身を磨り減らしていた義勇は、ろくに知らない。

 ただ今は、目の前で懸命に息をしている、惹かれて止まない、温かな命《ひと》に……触れたかった。




【おまけ噺】

 恋は理屈ではないと言いますが、あの義勇さんの心が動くのはどんな人物かを、筆者なりに考えた結果、こんな風になりました (汗)
 生きる事に罪悪感と後ろめたさを抱えてきた二人ではありますが、やはり似て非なるものはあって、『生かされた』かどうか、という点に注目しました。
 義勇さんは『自分のせいで大切な人を死なせた』という点で、自罰的意識と贖罪義務で生きてきた人ですが、すずなは『死ぬ事を望まれていたのに生き残った』という人です。
 更に、その義務すら実は無駄骨だったという事で、その観念も壊れて不安定増し。唯一の大切な人との思い出やアイデンティティーすら歪んだものに変わって、死という方法で解消されるはずだった、元々の自虐的概念だけが残ってしまった。
 それでも、彼女本来の気質か、自分と真逆の雰囲気醸して、同じような考えで生きてたら驚くし、惹かれるんじゃないか…?と思ったのです。(こんな事言ってますが、未だに義勇さんの恋愛観は掴めてません(苦笑)吾峠先生にインタビューさせて頂きたいくらいです。)
 『自分に無いものを持つ者に惹かれる。』というのは、よく聞く恋愛語録ですが、巷の長続きしているカップルや夫婦って、考え方や世界観がどこか似ているので、参考にさせて頂きました。


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伍ノ章 水蜜月
燃え滾る蒼



 渇に注いで、満たされる。

(※終始、R-15程度の性描写が続きますので、苦手な方はご注意下さい。最後までは致しておりません。)

【※設定の濃いオリジナルキャラが登場します。お手数ですが、作品をご覧頂く前に、シリーズ全体のあらすじ概要をご確認下さい。】


 

 触れられる度に動揺し、微かな驚きの声を上げるも、すずなに抵抗する気は起こらなかった。箇所に感じる甘い痺れと、彼の口元から仄かに芳る、日本酒の匂いが鼻先をふわりと擽り、酔いしれるように、じわじわ、と思考を奪っていく。

 

 ふと、何も感じなくなったことに気づき、閉じていた眼を、そっと開けた。すぐ眼前に、藍がかかった長い睫毛に縁取られ、艶やかな熱を含んだ蒼の瞳が、甘い響きの吐息の音と共に、自分の様子を心配そうに見ているのが、視界に映る。

 視線に捕らえられたように完全に言葉を失い、一寸の沈黙の後、その蒼さが段々、視界全体に広がっていくのと同時に、また、反射的に眼を閉じた。

 そんな姿を確認した瞬間、義勇は、彼女の顔を包み込むように大きな左手を添え、こうすることが当たり前かのように、潤う薄紅の唇に自身の唇を、今度はより深く、熱く、重ね合わせた。

 

 ───柔く、甘く、心地好い……至福というのは、こういうことを言うのだろうか……

 

 初めての接吻の感触に酔いしれて、薄れていく理性の中、義勇は少しだけ眼を開け、名残惜し気にゆっくりと唇を離してから、彼女の様子を伺った。

 情を交わした者との愛撫は、こんなにも幸福で、満ち足りた想いに溢れるものなのかと、胸が締め付けられる。

 

 一方、先程から自身に起きている現状が信じられず、顔を耳まで紅色に染め、すずなは完全に放心していた。想定を超えた事態が続いたことで、思考が彼方に飛び、恍惚とも言える表情を浮かべている。重ねられたばかりの、弾力のある砂糖菓子のような小さな唇が、濡れたように艶めき、微かに震えていた。

 非常に動揺しているようではあったが、自分を怖がり、抵抗する気配は感じないように、義勇には思えた。受け入れてくれたと思って良いのか……

 

「…す、まない……嫌なら、噛んで逃げてくれ。」

 

 顔を彼女の耳元に近づけ、囁くように伺いを立てた刹那、再び湧き出した渦に呑まれ、また首元の髪を掻き包むように、左手ですずなの後頭部を支えながら、今度は勢い強く、彼女の唇を奪った。

 身体の奥底からじわじわと沁み込んでくる、狂おしい衝動に合わせ、角度を変えながら食するように繰り返し口挟み、自らの舌を彼女の歯間に割り入れ、小さく柔い舌に絡め、吸い、味わっていく。

「う…ふあ…ん……」

 急に押し入ってきた、大きな熱い舌を受け入れ切れず発せられた、艶のあるすずなの悲鳴、微かな酒の匂い、自身の口内に伝い交じる、花蜜のようなほんのりとした甘い味が、義勇の思考を彼方へ飛ばした。

 彼女の小さく並んだ歯列、滑らかな上顎の内側を舌先でなぞる度に、口内に湧き出てくる甘い液と、自身の唾液が交わり、波打つ音色が、静かに、響く。

 

 

「う…はあっ……」

 暫し、互いの口内を揺蕩い続け、名残惜しそうに、義勇はゆっくりと唇を離す。粘のある水の糸が、二人の口元を繋げた。すずなは息を上げながら、けほっ、と軽く咳き込み、義勇は繋がった糸ごと、口元をぺろりと舐め込む。

 頬を薄紅に染め、困惑と高揚の入り混じる、蕩けるような表情を浮かべながら、艶やかな視線を向けてくる、彼女の瞳は涙で覆われ、熱のこもった朱の光が揺らめいていた。

 そんな扇情的な光景が視界に映った瞬間、義勇の中で、何かが、完全に壊れた。脳裏に僅かに残っていた理性が、火花のように弾け飛ぶと同時に、華奢な体を包んでいる彼女の浴衣の帯を、シュルッ、という衣擦れの音と共に引き解き、緩んだ襟元の隙間に左手を差し入れ、白い肌を覆っている布地を、もどかしげに背中の方へずり下げた。

「え……?!」

 小さく驚きの声を上げたすずなだったが、彼の耳には入っていない。露になった形の良い鎖骨、細い肩、小振りの水蜜桃のような二つの乳房が目に入った瞬間、義勇は釘付けになり、見とれてしまった。

 青白い月明かりに照らされた、触れると消えてしまうのでは、と思うくらいに透けた、真珠の彫刻のように、きめ細やかでほっそりとした美しい肢体を、思わずじっと眺め、息が止まる。既に薄紅色に染まっているであろう、自身の頬が、段々と熱くなっていくのが判った。

 

 一方、生まれて初めて若い大人の男性、しかも、ずっと慕い焦がれていた人に、自分の裸体を見られているという状況に、すずなは羞恥心に耐え切れないでいた。

 顔から火が出そうな勢いで、初めて義勇に少し抵抗し、固い腕の中でもがき、隙のある右へ隠すように上体を反らす。

 が、そんな仕草が、今の義勇の瞳には大変可愛らしく映り、反って劣情を煽った。目元に血流が雪崩込み、細い肩を支えていた左手に力がこもり、強引に彼女の体勢を元に戻す。

 口元が、ふっ、と僅かに歪むように微笑んだ瞬間、眼前の白い首筋や胸元に吸い寄せられるように、唇を何度も落とし、艶かしく舌を這わせた。

 柔くしっとりした肌を、優しく愛でるように舐め上げながら、未だ筋力のある左腕で、華奢な身体をしっかりと支える。

「や、待っ…てく…う…んあんっ……」

 舌や唇を動かす度に発する愛らしい嬌声、慣れない快楽に身を震わせる反面、必死に自分の背中に掴まってくるすずなが、義勇にはいとおしくて堪らなかった。触れ合った素肌から、全身にじんわりと伝わってくる温もり、彼女が纏う優しい空気が、心の扉を容易く開かせる。

 

 ───可愛い…愛しい…もっと悦ばせたい…もっと欲しい……もっと満たしたい……

 

 生まれて初めて湧き続ける情欲に任せるように、義勇は自身の体重をかけながら、完全に身体の力が抜けている、すずなの右腕を掴んだ。そのまま、ゆっくりと押し流し、柔らかい布団の上に、とすっ、と組み倒す。

 急に視界が反転し、瞳に映った天井の木目に驚き、不安そうに目元を泳がせる彼女を安心させようと、再び額に優しく口付けた後、しっとりした弾力のある膨らみに、顔を押し当てた。

 右側は啄みながら舐めほぐし、もう片方は、闘いで研磨された傷跡の残る、骨張った左手で大事そうに包み、長い指で優しく揉み上げていく。

「や…待っ……!!…みおか…さ…うぁ…んっ……」

 癖の強い、義勇の艶やかな黒髪が、視界の全てを占拠し、日本酒と石鹸混じりの“彼”の香りが、絶えず鼻先を擽る。熱く、柔く、ざらり、とした感触が、自分の乳房の敏感な部分で、絶えず艶かしく動き続けている。

 そんな経験したことの無い、甘い痺れと熱い快楽が全身を貫く、今の事態がどういうことなのか、特殊で厳格な家柄の箱入り娘だったすずなには、把握できる余裕も知識もなかった。

 長年、ずっと慕い続け、信頼する彼の熱い温もりが全身に伝わり、たまらなく心地好くて、逃げることなど出来なかった。

 

 次第に、自身の嬌声に恥じらい、手の甲で口元を塞いでいるのか、籠るような吐息混じりの音色が響き始めた。

 細い首を振る度になびく、亜麻色の長い髪の動きに煽られるように、次第に膨らんでいく欲情の渦に、義勇は支配されていった。形の良い膨らみの先端に咲く、小さな梅蕾までを口内に含み、舌先で愛撫していく。

「…う…ふぁあっ……?!」

「…声…抑えなくて…いい……聴きたい……」

 いつもの自分はどこかに消えたように、するり、と欲情に溢れた本音が零れ、掠れ響く。底無しの愛欲の沼に沈んでいくように、深く、深く、溺れていった……

 

 

 はぁっ…はぁっ…、と激しく息を荒げ、義勇は、片腕で自分の体を支えながら、改めて、すずなの顔を覗き込んだ。涙を滲ませた焦点の合っていない朱の瞳が、自分に問うように揺らめいている。

 突然始まった情事に不安で堪らないだろうに、自分に全てを委ね、身体を預けてくる、この愛い人を、これ以上、これから、どうしたら良いのか ────

 うなじ付近に舌先で触れた瞬間、すずなの全身に震えるような衝撃が貫き、反射的に少し仰け反った。刹那、彼女の顎下の付け根に浮かぶ、紐状の赤黒い痣が、義勇の蒼の瞳に映った。

 皮肉にも、敢えて白い肌に目立つよう刻まれた、刻印のような痛々しい有り様に、驚いて唇を離す。彼女の背負う痛みを、改めて俊敏に感じ取った。

 以前、蝶屋敷で自害しようとした時のものかと、瞬時に察したが、やたら細く、独特な編み様の紐で締め上げたような跡に、“何か”が過る。脳天を殴られたような衝撃で、義勇は我に返り、青ざめた。

「…これは…まさか、あの……」

 

 ──この痣を付けた、“物”は……

 

 すずなの様子を見ると、とうとう見られてしまったこと、自身が後ろめたくて堪らないかのように、必死に顔を背け、何も言わず辛そうに目を瞑っている。どうやら、自分の後ろ暗い部分の全てが、義勇に知られたことを察したようだった。

「…………。」

 おそらく、これが一番、彼女が口にしたくないことだったのだと思った義勇は、非常に申し訳なくなり、ひどい罪悪感に苛まれた。

 心から詫びるような思いで、首筋の付近にそっと唇を当て、少し躊躇いながら、痣の上をなぞるように舌を小さく動かし、優しく労るように舐め始める。

「えっ!! ひゃ…あっ……」

 予想外の行為に、また驚きと甘い刺激に耐え切れず、すずなは小さな悲鳴を上げながら、また軽く仰け反った。

 彼の熱い舌先が、忌まわしい首元で動いているという奇妙な状況に狼狽え、何故、こんなことをするのだろうと、改めて激しく動揺する。が、舌の動きが、先程の情事よりも優しく柔らかなことから、段々、自分の哀しい気持ちを慰め、埋め直そうとしてくれているような、優しい“気”が、じわり、と滲み伝わり、温かく嬉しい気持ちで締め付けられ、泣きたくなった。

 

 次第に、刺激に慣れてきたのか、少し余裕が出たことで、大きな犬に首もとを舐められ、じゃれつかれるような心地好い擽りに変わってきたことで、すずなは軽やかな笑い声を上げる。

「…ふふっ…あは…くすぐった…いです。冨岡さ…ん……」

 細い指で涙を拭きながら、義勇の方に顔を向けると、少し安心したような表情をしていた。しかし、瞳の色が、先程までの艶のある蒼から、少し涼やかな紺碧に変化していた。彼の異変を感じたすずなは、真顔に戻り、言葉を飲む。

 左腕で彼女の体を、再びいとおしげに抱きしめ、戸惑いの色を浮かべる顔や、乱れた髪を優しく指で撫でながら、義勇は、哀しい瞳で優しく微笑んでいた。それは、先程まで激流の如く、自分を求めていた男性とは違い、いつもの穏やかな彼だったので、すずなは困惑する。

「…と…みお…か…さん……?」

 月明かりに反射し、蜜蝋色に変化しながら煌めく長い髪は散り乱れ、胸元だけでなく下肢部分や、すらり、と伸びた白い足まで、あられもなくはだけさせたまま、すずなは、か細い声で問いた。

 『どうして、急に…?』と、様々な意味合いで言わんばかりに、不安そうに見上げる彼女を見つめ、義勇は、喉奥から振り絞るように、掠れた低い声を溢し出す。

「…す…まなかった……もう…止める。」

「…………?」

「…こんなことを、して…おいて、この先…どうすれば…いいのかわからない……本当に、申し訳ない……」

 

 真っ白で柔い雪原の上に、紅色の小さな花びらを幾つも散らせた、愛しい人の上半身を、乱れた彼女の浴衣を手に取り、義勇は被い隠した。





【おまけ噺】

 R-18の境目が今一つわからないので、いやこれは16歳でもヤバいだろう、と判断されましたら指摘して下さい。なんとか書き切りましたが、濡れ場って難しいですね……(爆)


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水ノ月


 掴めそうで、すり抜けていくもの。

(※直接的な場面はありませんが、性的な表現をする単語が出てくるのでご注意下さい。)

【※設定の濃いオリジナルキャラが登場します。お手数ですが、作品をご覧頂く前に、シリーズ全体のあらすじ概要をご確認下さい。】


 

 茫然とした表情のすずなの体を、義勇は、左腕でゆっくりと支えながら、そのまま起き上がらせた。いつの間にか、自身も上半身がはだけた状態になっていたが、先に、彼女の素肌をなるべく隠そうと、浴衣を整え始めている。

 ふと、彼女の内股の辺りが、少し濡れたように艶めいていることに気づき、顔を再び真っ赤に染めながら、手拭いで軽く拭いてやった。

 そんな彼をずっと見ていて、少し安堵した反面、どこか寂しさも感じたすずなは、自分が義勇を軽蔑して嫌ったと思われたと考え、胸元を隠しながら、慌てて口を開いた。

「…冨岡さん。あの、大丈夫ですよ…? 嫌じゃなかったです……」

 遠慮がちに発せられた、彼女の至極大胆な言葉に驚き、義勇は内心焦りながら、気恥ずかしい思いを含んだ、怪訝そうな視線を向けた。恥じらって頬を薄紅に染めているが、変わらず曇りの無い珊瑚色の瞳に、偽りは感じられない。

 

 一方、すずなは、自身の心に僅かに存在する、儚い勇気を振り絞り、長年募らせてきた想いを、ついに、口にした。

「…突然で驚きましたけど……私は、貴方を…お慕いしています……」

「…ですから、はしたないのは…承知ですが…貴方なら、構いません……」

 不意討ちに放たれた、彼女の直向きで真っ直ぐな告白に、罪悪感で溢れ返りそうだった義勇の心の水面に、流星群が落下したような、大きな波紋と波しぶきが起こった。また彼女に触れたい衝動が湧き出したが、今度はなんとか、ぐっと、堪える。

 何故、この娘は、己の尊厳を踏みにじられ、散々利用されてきたにも拘らず、またこのように、他人に全力で向き合えるのかと不可解に思う反面、どこか憧れに近い思いを抱いた。

 しかし、状況が状況なだけに、努めて冷静さを取り戻し、燃え滾っていた感情を、必死に鎮める。

「…久世。俺が、さっきお前に何をしようとしたのか、本当に解ってるのか…?」

 危ういくらいに無防備で、貞操観念を疑いたくなるような発言に対し、半ば呆れながら問いかけたが、こんなところも彼女らしくて、愛らしいと思ってしまう自分がいた。

 

 これから行おうとしていた行為は、おそらく、彼女の想像の範疇を超えたものだ。自分も、長年、鬼殺に明け暮れていた為、そんなに知識がある訳ではないが、構わないというのは、言っても先程のような、恋仲の相手との色のある戯れ程度のものだろう。

 性的な欲とは程遠い、無垢な愛情表現の一つのように捉えているような言葉に、義勇は躊躇いを隠せなかった。ますます、彼女を下手に傷つけたくない、大切に扱いたいという想いが高まる。

「…男女の契りのことなら、漠然とですが、知っています。経験は無いですが……」

「婚前交渉だぞ…? 褒められたものでは無い…… 」

「…………。」

 困ったように黙り込んで、俯いてしまったすずなを眺めながら、義勇は、深く、重い自責の念を改めて感じた。性的経験が無い事は、彼女が巫女の家柄という点で想定していたはずだった。本来なら迂闊に手を出してはいけない、慎重に扱うべき女性だったのだ。

 とは言うもの、決して軽薄な情ではなく、真剣な想いからの行いであったが、衝動的だったのは否定できない。この娘との未来まで考えた上ではなかった。

 内実、片腕では満足に抱いてやることすら出来ないことを、情事の最中に痛感していた。仮に、婚姻を結び夫婦になったとして、まず、日常生活で支障が出るだろうし、彼女の負担になるのは間違いなかった。

 更に、もし何かあった時、片腕だけで守れるのだろうか。逆に、自分が危険因子にならないだろうか。何よりも、自分には痣による余命が確定している。持ってあと三年未満、もっと早いかもしれない。大切な人に置いて逝かれる悲しみは、十分に解っているつもりだった。今まで辛い目に遭ってばかりいたすずなに、あんな身を裂かれるような痛い思いまでは、絶対させたくない。

 

「…俺を含む、痣を発現させた、柱の寿命の事は、知っているのか?」

「知っています。竈門炭治郎さんの痣のことを、全てが終わった後にカナヲさんから聞いて、風柱様と貴方にも、寿命があることを伺いました。」

「なら、何故、俺などと……」

 思わず、昨日、右腕の痛みを治癒してもらった時と、似たような疑問をぶつけていた。近い将来、至極辛い思いをするに決まっている。何も短命の自分じゃなくてもいいだろうと、問いただしたくなっている。

「貴方は、今までで一番、清廉で、高潔で、温かいと思った殿方です。時間が短くても……叶うなら、側にいたいです。」

「無限城に出陣されたと聞いた時、二度と会えないかもしれないと、既に一度、覚悟しました。私だって、明日、何かの不運で死ぬかもしれないんですよ…?」

「…………!!」

 頑なに閉じていた心の、最も柔い部分を開かれ、思い切り揺さぶられたところに、とどめの一言で撃ち抜かれたような衝撃が、義勇の奥底で弾けた。紺碧の瞳孔を見開き、変わらず真っ直ぐ見つめてくる、力強く朱に揺らめく瞳を見返す。

 ある日突然、鬼という未知の脅威に曝され、自分と家族の命が脅かされた、彼女ならではの考えであろうことが、痛い程に感じられた。

 この一年もの間に、産屋敷家の人脈で、縁談の話は幾つかあった。寿命の件があるにも拘らず、無惨を倒した元柱との婚姻話に飛びつく、藤の花の家紋の名家は少なくなかったのだ。

 鱗滝師匠にまで諭され、命を繋いで子孫を残せるのならと、一度だけ見合いもしてみた。健康で家柄も申し分ない女性を勧められたにも拘らず、どこか他人事のように冷めた自分がいて、ただ自分の子を産んでもらうだけの関係を築くことに抵抗を感じた。

 見合い結婚は普通の事例であるし、子供は、向こうの家が大切に育ててくれるだろうと思った。しかし、形だけの妻になる女性や、利害の一致しかない関係の夫婦の子は幸せになれるのかと、ずっと思い悩んでいたのだ。

 

「…それは、あくまで仮の話だ。お前に相応しい、もっと健康な良い男がいる、という事実も変わらない。さっきは、本当に済まなかった……」

 すずなの並ならぬ覚悟に圧倒されながらも、内心至福に溢れていたが、必死に抑え隠しながら、すっぱりと切り返した。

「…そんな、謝らないで下さい……お慕いしてから数年経ちますが、気持ちは変わりませんでした。この数日間で、益々好きになってしまっています……」

「私に相応しい方って、何ですか? お慕いしているのでは…駄目なのですか? やっぱり、私は、貴方に相応しくない…という…ことですか…?」

 自身の首元に触れながら震える声で問い始め、二つの朱の硝子玉から、幾つもの水滴が溢れ出した。出会ってから初めて、悲しみの感情を爆発させたすずなに、義勇は狼狽え、激しく動揺する。

 どんなに苦しい時も耐えていた彼女が、自分の言葉で、こんなにも涙を流しているという事態に、かつて無い程の罪悪感に打ちのめされそうだったが、全身全霊を懸けて、精神を凪いだ。鬼殺に対して無情になる方が、まだ楽だと痛感しながら。

「違う!! “俺”が、君に相応しくないからだ。解ってくれ。」

「…わ…から…な…いです……いつか近いうちに来る、悲しみ…を避ける為に、貴方といられる時間が…何も無くなる方が、ずっと…辛いです……」

 両手で顔を隠した彼女から、嗚咽の音が響き出した。本格的に泣き始めてしまったようだ。

 思わず宥めたくなり、義勇は左腕を伸ばした。が、彼女の前髪に触れる寸前で、指を止め、引っ込めた。今度こそ、感情に流されて判断を誤ってはいけないと、文字通り、心を鬼にした。

 いっそのこと、非情な酷い男だと嫌って、諦めて欲しいとまで思い詰めている。声を殺しながら、未だ泣きじゃくるすずなから目を反らし、義勇は、辛そうに眉間をしかめ、ぎりっ、と奥歯を噛み締めながら、衝立越しの自分の布団に戻って行った。

 

 一刻前まで、熱く情を交わし、艶のある甘い空気に満ちていた部屋が、哀しい別れの予兆に変化していく。

 宵闇の中、二人をずっと青白く照らしていた満月は、遠く離れた藍空の中、変わらず朧気に揺らいでいた。

 

 

 ──翌朝。雨が止んだ曇天の空の下、宿の前に二人は佇んでいた。

 義勇は、このまま鉄道を使って、すずなを蝶屋敷近くの自宅まで帰すつもりだった。自分の屋敷まで一緒に戻ったら、別れる決意が鈍りそうだったからだ。

 泣き腫らした顔をしたすずなの白目は、少し赤くなっている。まだ決心のつかない中、義勇の持っている買い物籠に目をやり、ふと、あの約束を思い出した。

「そういえば、まだ、御礼の料理をしていませんね……」

「礼ならしてもらった。もう痛まない。」

 そう言いながら、自身の右肩を軽く動かし、哀しくも穏やかな表情を向けた。つられるように左腕の振動に合わせ、籠からはみ出た大根の葉が揺れる。

 そんな彼を見て、決意はもう変わらないのだろう、とすずなは悟った。未練がましいのは重々承知だが、気持ちの整理は未だつかない。

「処方薬の残りは、後で直ぐに郵送する。」

 そう伝えた後、最寄り駅まで送り、彼女の自宅付近までの切符代を渡した。『そこまでしてもらうのは気が咎める。』と、すずなは断ったが、義勇はその小さな手に握らせる。

 これが、おそらく最後のやり取りで、もう二度と会わない、会えないだろうと、互いに予感していた。張り裂けそうに苦しい痛みが、其々の心に襲いかかる。

 至極寂しそうな表情を浮かべながら、名残惜しそうに、すずなは、憂いの濃い眼差しを向け、義勇を見つめる。彼の姿を、脳裏に刻んで忘れないようにしたかった。

「…冨岡さん。本当に、色々とお世話になりました……さようなら。」

「…ああ。」

 せめて最後は笑って別れたいと、何とか口元にぎこちない笑みを作り、切なげに微笑みながら、すずなは丁寧にお辞儀をした後、一見もせず、ゆっくりと、改札に向かって行った。

 そんな彼女の後ろ姿を、義勇は身を裂かれるような感覚に耐えながら、視界から消えるまで、ずっと見送り、眺めていた。

 

 

 重い足取りで、自分も元水柱邸に戻った義勇は、家に入った瞬間、昨日よりも殺風景に感じる、見慣れた空間に戸惑った。まるで、部屋中に咲き誇っていた満開の花畑が、一晩で枯れ落ちてしまったような、哀愁の漂う悲壮感に満ちている。

「…スズナハ戻ランノカ?」

「ああ。」

 寛三郎は、すずなと一緒に帰って来なかったことに驚き、何かあったことを察したようだった。昨日、とても嬉しそうに出掛けて行った二人を見送ったのだ。今夜は夕餉を作ると、彼女ははしゃいでいた。そして、今の義勇は、整った目元や眉を歪め、辛そうに唇を噛み締めている。

「…ヨイ娘《コ》ジャッタノウ…義勇……」

「…ああ、そうだな。本当に……」

 彼女の柔らかな優しい笑顔や、軽やかな笑い声が甦る。

「義勇…変ワッタノウ…アノ女子《オナゴ》ガ大切ナンジャナ……」

 元々高齢だった寛三郎は、いつ寿命が来てもおかしくない状態だったが、弱々しい声で伝えた。

「…だからこそ、俺みたいな男が、一緒になってはいけない……」

 自身に言い聞かせるように、義勇は呟いたが、末端は泡沫の如く、掠れ、淀んでいた。




【おまけ噺】

 タイトルは『陽炎 稲妻 水の月』という日本古来の慣用句から。『手に届きそうで、掴めないもの』という意味だそうです。
 本編は…ありがち(?)なすれ違い勃発です。義勇さんが、罪な男化したかもしれないですが、筆者の策略のせいなので、このまま温かい目で見守ってやって下さい……
 あと、婚前交渉に関しては、当時の価値観故の流れなので、筆者独自の思想とは無関係ですのでご了解下さい。


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表裏一体

 もう片方を、探し求める。

【※設定の濃いオリジナルキャラが登場します。お手数ですが、作品をご覧頂く前に、シリーズ全体のあらすじ概要をご確認下さい。】


 同日の就寝。寅の刻。今夜もなかなか寝つけず、義勇は、何度も気だるげな寝返りを打っていた。

 居間の柱時計の音だけが、カチ、カチ、と響いてくる寝室。片付けた客間からは、当然、彼女の寝息は聞こえない。鬼殺に忙殺されていた日々の夜は、いつ出動命令があるか判らない為、まともに眠れることは少なかったが、今は異なる理由だった。

 少しでも気を緩めると、すずなは、無事に家路に着いただろうか、飯は食えただろうか、また発作を起こして苦しんでいないか、悪夢にうなされていないか等、様々な事が心配で落ち着かない。

 

 瞼を閉じると、ふわり、とした優しい笑顔が脳裏に浮かぶ。続いて、尺八の音のような澄んだ呼び声が耳に鳴り、心がほぐれる。

 掌にまだ残る、さらさらとした長い髪と、しっとりした滑やかな肌の感触、野花のようなほのかに甘い香り、柔く甘い唇…昨夜、彼女と触れ合った時の記憶が、生々しく甦ってくる。

 このように、何かに憑かれたような熱い情を何と称するのか、対人に疎いと言われる自分でも判る。生まれて初めて、胸奥に渦巻くほろ苦さに、義勇は途方に暮れた。

 彼女の為にと、自分から突き放したのに、今にも壊れておかしくなりそうな自身に呆れ、くっ、くっ、と自虐的に喉奥を鳴らし、乾いた笑い声を上げた。

 

 

 ──翌朝。寝不足の重い体を動かし、食欲不振の中、義勇は、何時もの暮らしの営みを始めた。彼女と出逢う前の生活に戻っただけなのに、何もかもが色褪せて見える。

 昨夜までは、このまま姿を見ず時が経てば、この苦しい痛みも、ほとぼりが冷めて落ち着くはずだと考えていたが、おそらく戯言にしかならないだろうと予感していた。むしろ、共に過ごした記憶が遠退けば遠退く程、痛々しさは増すだろう。既に、脳内から爪先までの全てが、気がふれたかのようにすずなの面影を求め、乞うように叫び出している。

 もしや彼女は、何年もの間、こんな身を焦がす想いで過ごしていたのかと、改めて、罪悪感を募らせた。だからと言って、自分の運命に巻き込む決心はつかない……

 

 その時、コン、コン、という、屋敷の門を何度も叩く音が、室内まで聞こえてきた。まさか、彼女が戻って来たのかと思い、義勇は、急いで開けに駆けた。

 扉の向こうにいたのは、ひどく慌てた様子の、竈門炭治郎と禰豆子、栗花落カナヲ、我妻善逸、嘴平伊之助、宇髄天元だった。意外な来訪者に戸惑い、目の下に青い隈を作った顔で、沈んだ声色で問いかける。

「…なんだ、お前達か……何かあったのか? こんな朝から、揃いも揃って……」

 彼らに罪は無いと解ってはいたが、落胆した思いを隠せなかった。

「なんだとは随分だなぁ、おい。……誰だと思ったんだよ?」

 気分を害したように憤慨する反面、にやり、とした笑みを浮かべ、宇髄が意味ありげに問う。彼は、義勇の今の状況を、大体把握しているかのようだった。

 

 気まずくて堪らない思いだったが、取り敢えず、彼らを中に招き入れ、居間に通した。茶を持って来ようとした義勇を引き止めるかのように、炭治郎が、息巻くように話し始めた。

「義勇さん!! カナヲから全部聞きました! 急いで文を送ったのに、全然返事が無いから、直接来ちゃいましたよ!」

 どうやら家を空けていた間に、炭治郎の鎹鴉が、寛三郎に文を届けていたらしかった。昨日は心労で憔悴しきっていて、目を通す余裕がなかった為、気づかなかったようだ。

 とは言うもの、文の返事が疎かなのは、今に始まった事ではない。何故今回に限って…と義勇は本音を漏らす。

「だからと言って、こんな急に……」

「何言ってるんですか?! 義勇さんの一大事じゃないですか?!」

 事の始まりの、宇髄による謀の事は、お互いすっかり忘れている。夜桜の宴以来に顔を合わせ、二人は、一方通行な会話を始めた。

「ところで、あの巫女さん…すずなさんは? いないんですか?」

 きょろきょろしながら、辺りを見回す炭治郎に、現状を思い出した義勇は、また顔を曇らせる。

 

 そんな彼の様子と、女の影が屋敷の中から完全に消え失せている事で、元忍の宇髄は、何かに勘づいた。

「…冨岡。お前ら、暫くここに帰らなかったんだなぁ。二人揃って、どこでしっぽりやってたんだよ?」

「…………?! 買い物に出て、急な嵐に遭った為、一晩雨宿りをしただけだ。」

 『何故、この男にばれてしまったのか。』と、義勇は、どきり、とした。思わず、一昨日の情事が脳裏に過って狼狽えてしまい、顔の熱が上がる。

 そんな珍しい様子の、“あの”元水柱を見て、また俊敏に察した。

「…お前。まさか、あの巫女さんに…手を出して……」

 『接吻でもしたのか。』と、宇髄は問うつもりでいたが、先に、ひどく口ごもりながらも、後輩の前にも拘らず馬鹿正直に、義勇は全てを暴露した。

「…所謂、未遂だ……情に呑まれてしまった……救いようの無い未熟者だ…俺は……」

「み…す…って、おまっ……?!」

 掌で額を抱え、真っ赤な顔でうなだれている彼を凝視しながら、何かの聞き違いか、と疑いたくなる単語に、宇髄は仰天した。

 焚き付けたのは自分だった上、温泉での様子を見るからに、多少は女と遊んだ方が良い、あの娘とは相性が良さそうだったし、あわよくば恋仲に…ぐらいには考えていた。

 しかし、今までハイハイしていた赤子が、いきなり二本足で走り出した位の展開に驚愕し、彼らしかぬ羞恥心で真っ赤になってしまった。

 

 ずっと二人のやり取りを聞いていた善逸は、嫉妬と怒りが頂点を振り切り、血管を浮き出し泡を吹きながら、仰向けに倒れた。始終、異次元の話としか思えないでいた伊之助は、「おい。大丈夫か、紋逸。」と、善逸を介抱している。

 年頃を迎えていた禰豆子は、その場を想像してしまい、顔を赤く染め震えながら、『きゃー!!』と叫び出しそうな口元を、両手で塞いで必死に我慢していた。

 最も青ざめているカナヲは、この屋敷にすずなを置いてきた責任がのし掛かり、顔面蒼白状態になっている。

 そんな中、炭治郎は、禰豆子と同じく、茹で蛸のように耳まで真っ赤になりながらも、ずっと心を閉ざしていた尊敬する兄弟子が、一人の女性に特別な情を抱いたという事態に、どこか感動を覚えていた。

 

 暫し経ち、ようやく、少し冷静さを取り戻した宇髄は、続きを促した。

「…で、怒らせて、あの子は帰ったってことか?」

「違う。俺が、帰るよう頼んだ。」

「はあ? なんだそりゃ。」

「…俺を受け入れてくれた。痣のことを知っているのに、ずっと慕っていたと言ってくれた。そんな彼女には、手を出してはいけないと思った。」

 意味わかんねぇ…と言わんばかりに、宇髄はため息をついた。

「有難てえ話じゃねぇか。もう、一緒になれよ。お前だって気に入ったんだろ?」

「だからこそだ。いつ死ぬかわからない痣者の男が、彼女の貴重な人生に関わってはいけない。」

 痛みを堪えながらも、大事なものを必死に守ろうとしているかのような面持ちで、義勇はきっぱりと言い放つ。『…これは、馬鹿みたいに本気で惚れているやつだ。』と、彼の真剣な眼差しに圧倒され、宇髄は息を飲んだ。

 柱仲間でいた頃、普段は、地味に気配を消して黙り込んでいたが、この男の剣技の実力は認めていた。しかし、あの頃とはまた違う、凛とした気迫を帯びた、雄々しい表情をしている。あの冨岡が…こんなに絆されるとは……

「…お前、またそんな地味な事考えてんのかよ。本当、筋金入りだわ。」

 心底呆れた反面、妙な感慨深さを感じる宇髄は、柄にもなく、熱く吐き投げた。

「そこまで惚れた女一人、残された余生分、全て賭けて幸せにしてやるってぐらいの、覚悟はないのかよ!!」

「生を共にしても、何もしてやれない!! 時間が無さ過ぎる。無責任に置いて逝くのは、御免(こうむ)る!!」

 声を荒げ叫んだ後、少し言い淀みながら、義勇は続ける。

「…割愛するが、あの娘は、酷い目に遭ってばかりだった。これからは穏やかに、笑って生きて欲しい。」

 少なからず事情を知っているカナヲは、彼の気持ちが解る気がした。しかし、自分にとって唯一無二の男を愛した、一人の女としての、すずなの想いと覚悟も、同時に痛い程、沁み入る。

 

 そんな時、ずっと黙って話を聞いていた炭治郎が、思い切ったように、口を開いた。

「…義勇さん、俺も痣者です。」

「お前は、まだ十年近くあるだろう。俺はもって後、数年……」

「いつ死ぬかわからないのは、俺も同じですよ。」

 義勇は、はっ、とした。すずなのあの言葉が甦る。

「むしろ、俺の方が、短期間で呼吸法に加えて、境地にまで達したので、体がいつ衰えるか判りません。」

「…義勇さん、実は、俺とカナヲは、婚約します。」

 炭治郎の突然の吉報を要約すると、かつてから情を通わせていたカナヲと、初夏に婚約することにしたので、二人で報告に行く予定だったという事だった。

 ただ、まだお互い年若い為、炭治郎がもっと暮らしを落ち着かせ、カナヲが医師として一人前になり次第、なるべく早く結納し、祝言を挙げるという。

 あの雪降る日に出会ってから、共に闘い、一度は命を落としかけた弟弟子と、その彼を身を粉にする想いで救った、柱仲間の大事な継子が、家庭を築き、幸せになろうとしている。

 義勇にとって、これほどめでたく、嬉しいことはなかった。犠牲になった仲間達の想いを繋ぎ、懸命に生きようとする姿に、疲弊していた心が高揚し、柄にもなく目頭が熱くなった。

 

「…迷っていた俺の背中を押してくれたのは、カナヲなんです。」

 義勇は、炭治郎の隣で少し恥じらいながらも、凛とした面持ちでいる、カナヲを見た。彼女の藤色の瞳は、どこかで見たような強い光を宿している。

「…冨岡さん。これを。」

 カナヲは、一枚の銅貨を差し出した。蝶屋敷に引き取られた頃、自分で何も決められなかった彼女に、胡蝶カナエが渡した物だ。

「炭治郎と生きていくと決めた事に、これは使っていません。無限城での闘いでも、です。」

 失明するのを承知で、姉二人の仇討ちと炭治郎を救う為に、終の型を使ったことは、後に義勇も聞いて知っていた。

「自分の心が判らない私に、カナエ姉さんは、始め、表と裏の結果で、物事を決めるよう言いました。炭治郎は、以前、最初から表を出し続けると決めて、これを投げてくれました。」

「ある時、気づいたんです。どちらが出たとしても、これは、私の心だと。」

 彼女は、一体何を言いたいのだろうと、義勇は、怪訝そうな表情を浮かべていた。

「冨岡さんは、裏を望んでいらっしゃって、すずな様は、表を求めている。けど、お二人は違うようで、同じではないでしょうか?」

「根が繋がっている、表と裏は切り離せないんです。どちらが欠けても、その魂は存在出来ないから、求め合って……惹かれ合う。矛盾していますが、今だからこそ、お互いが必要なのではないですか…?」

 

 ずっと、暗闇の中で動けないでいた心の奥に、カナヲの言葉が響いた瞬間、義勇の脳裏に何かが弾け飛び、ふわり、と舞った。




【おまけ噺】

 ヒロインが、花の呼吸由来の神事の舞を踊り、蝶屋敷の世話になった過去があること、当方の推しの一人なことから、カナヲが、よく義勇さんに絡んで登場しましたが、どうやら、この物語の陰のキーパーソンになりそうです。
 愛した人の寿命が短いという運命を、どう受け入れるか……自分が、カナヲやすずなの立場ならどう考えるか、かなり悩みながら書きました。そして、そんな相手の想いを、負い目を感じる側はどうするのか……炭治郎は決断したようですが、義勇さんは、如何に。


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陸ノ章 龍神の花嫁
源泉


 心の種を、育てる。

【※設定の濃いオリジナルキャラが登場します。お手数ですが、作品をご覧頂く前に、シリーズ全体のあらすじ概要をご確認下さい。】


 ずっと沈んだまま息苦しかった心に、カナヲの渾身の言葉が染み入り、ようやく風穴が開いた気がした。義勇からずっと漂っていた、張り詰めていたような匂いが、少し柔らかくなったことに、炭治郎は気づく。

「義勇さん……」

「…皆、有難う。暫し、考え直す。」

と、義勇は礼を言った。やつれて深い影を落としていた彼の瞳に、少し光が戻ったことを確認した炭治郎達は、その後、近況報告をした後、彼を案じ、屋敷を後にすることにした。

 

「義勇さん!! 思い詰めないで下さいね!! 俺で良ければ、また相談に乗りますから!!」

「考えんのは良いけどよ。くれぐれも、変に抱え込むなよ。まぁ、元々色恋なんて面倒なもんさ。」

 口々に義勇を励まし、労る言葉をかける炭治郎や宇髄の中、カナヲは黙ったまま、義勇をじっと見つめていた。改めて見ると、今の彼女の藤色の()は、すずなと同じ光を宿していると、義勇は思った。何度も振り返り、笑顔で手を振る炭治郎と、禰豆子を始めとする後輩達と同僚を、以前、『羨ましいくらいに素敵な関係』と、言っていた彼女の姿が過った。

 

 

 食事を済ませた後、義勇は、狭霧山を訪ねることにした。考えるとは言ったものの、未だ迷路の出口が見つかりそうに無い義勇は、無性に、鱗滝師匠に会いに行きたくなったのだ。

 無いと困るだろうと思い、処方薬の残りは行きしなに郵送したが、今頃、彼女はどうしているだろうかと心配になり、憂いが募る。

 

 昼を回った頃、ようやく古巣に到着した。一年中、霧に包まれる狭霧山は、冬を越しても、どこかひんやりとした空気に満ちている。それでも木々の隙間から零れる金色の日差しや、地面に咲く野花、爽やかに薫る新緑が、春の訪れを感じさせていた。

 麓にある鱗滝の家の前に着いた義勇は、師が在宅していることを願い、深呼吸した後、扉の戸を叩き、挨拶した。

「…急な訪問、大変失礼致します。ご無沙汰しております、先生。冨岡義勇です。」

 慌てて出迎えた鱗滝は、ぺこりと頭を下げた義勇に驚愕した。最後に会ったのは、ちょうど半年以上前位だったろうか。蝶屋敷から退院した後、利き腕を失った彼を案じ、片腕での生活に慣れるまでの間と、この家で暫く暮らした以来であった。

 ひどく疲弊し、憔悴気味の様子で、わざわざこの山まで赴いて来たことに、異変があったのは一目瞭然だったが、鬼のいなくなった世界で何かあるとしたら、仲間の不幸か、自身の何かしらの変化だろうと思い、内心、珍しくも狼狽える。

「…突然、どうした。何があった。」

 部屋の中に招き入れ、急いで茶を用意した鱗滝は、間髪入れず、愛弟子を促す。

 

 そんな師に対し、義勇は、短くも激動の連続だった、この春の一部始終の出来事を、簡素に、ゆっくりと話した。

 縁あって、慰霊の儀式で一人の女性と出会い、何時の時からか情を寄せていたこと。彼女の忌まわしい過去と、自分の鬼殺隊時代の因縁。痣の寿命を承知の上で、自分の側にいたいと言ってくれたこと、しかし、そんな彼女の人生を案じ、別れたこと……

 青天の霹靂とは、まさにこのことだと、鱗滝は思った。義勇の突然の告白に、宇髄や炭治郎と同じく、長年、深い悲しみと自責の念から、ずっと心を閉ざしていた義勇が、一人の女性に思慕を抱いたという状況に仰天していた。

 が、同時に、非常に痛々しい様子ではあるが、今まで見たことの無い類いの、とても凛々しく逞しい表情をしている、我が子同然の愛弟子の成長を感じ、じん、とした感動が、小波のように押し寄せている。

 

 縁談の話があると聞いた時、命を繋ぐには良い話だろう、と勧めたことはあった。しかし、実際に一度見合いをして断った後は、頑なに妻を娶ることを拒み続ける義勇が、心配で仕方なかったのだ。

 そんな彼の、闘いは終わったとはいえ、未だ哀しみで凍てついたままの心を溶かし、寄り添った女性とは、一体どのような娘なのだろうと、師として並ならぬ関心を寄せた。

 

「…お前にとって、その娘は、どんな風に見えるのだ?」

「ど…んな風…ですか……」

 恩師の問いに、隈を作った涼やかな眼を見開き、白い頬を薄紅に染め、義勇は気恥ずかしさで口ごもった。口下手な上に抽象的な表現は苦手なのだが、すずなの姿を思い浮かべながら、ゆっくりと、丁寧に言葉にしていく。

「…一見、無防備で危うく…脆弱に見えます。が、内実は、どんなに踏まれても人を案じ…光ある方を向き、慈しみを失わない。」

「直向きで…日陰に咲く、可憐な野花のような…人…です……」

 彼女の印象を口にしていく度、恋慕が再燃していく自身に、不可思議な高揚と同時に、深い哀しさを感じた。

 

 一方、こんなにも饒舌に、他人を褒め語る義勇に驚き、二人の繋がりが確かなものになりつつあることを、鱗滝は悟った。

「…その娘は、何故、お前の側で生きたいと言ったのだ?」

「…近いうちに来る…別れより、私との時間を無くす方が…辛いと……」

 彼女の泣き顔を思い出しながら、辛そうに唇を噛む義勇の言葉に、鱗滝は、少し考えるような素振りを見せた後、彼を促した。

「ついて来い。見せたいものがある。」

 二人は小屋を出て、共に狭霧山の山中に向かった。

 

 

 山道を登り、奥に入って行ったその先は、荘厳な出で立ちの、見事な滝壺だった。昔、修行時代に、鍛練の一環として連れて来られたことがあった崖だ。

 凄まじい轟音と共に、獰猛に滾る水流が蠢き、噎せかえるような水の匂いが、どしゃ降りの雨天時のように、辺り一面に溢れている。

「前にもお前と来たな。」

「…先生は、水と一つになれ、なんて仰いました。」

 少し懐かしそうに呟く鱗滝を見つめ、義勇は微笑みを浮かべた。そんな愛弟子を横目に、鱗滝は語り始める。

「ここは、狭霧山の源泉だ。この滝壺があるから、此処等一帯は、水の恵みを頂ける。」

「生き物は皆、水無しでは生きられん。渇き切れば、朽ちて死ぬのみ。勿論、人間もだ。」

 凄まじい勢いで打ち流れ、目線の下で激しくぶつかり合う水流の動向を、鱗滝は凝視しながら続けた。

「…だが、人はまた特別だ。心にも糧が入っていないと、心身共に荒み、衰えてゆく。厳しい試練や辛い困難と戦い、耐え、生き抜く為の力が必要なのだ。…何か、わかるか?」

 そう問いながら、自分の瞳を凝視する鱗滝に対し、義勇は、師が何を言いたいのか解らないでいた。困惑したまま、目先の滝壺と師匠を、代わる代わる見つめ、沈黙する。

「…何があっても消え失せることの無い、心の源。その娘にとって、それは、お前なのではないか? 義勇。」

 義勇の心の奥底で、今朝、弾け飛び、舞ったままの銅貨に、ふわりと、優しい風が吹いた。

「例え、お前自身を無くしても、共に築いた思い出や繋いだ想いは、その娘の中で生き続ける。子ができれば、尚更、その力は増すだろう。」

 

「…その娘は、日陰に咲く野花のようだと言ったな。」

 先程、自身が語ったすずなの喩えが、改めて師の口から語られることに、義勇は、今頃になって照れを感じた。

「種を心に宿していても、清い雨が降り、水がなければ芽は出んし、健美な花を咲かすことは出来ん。勿論、命が育ち、遺すものも生まれん。」

「…その娘が望んでいるのは、そういうことではないのか? 義勇。お前の力で、今度は陽の下で咲かせてやれ。」

「先生……」

 師の言葉に、浮遊した銅貨に温かな光が当たり、心の中で降下していくのを、義勇は感じた。迷い続けていた暗闇の出口に、自身も引き寄せられるようだった。

 

 

 その後、鱗滝に少し一人にして欲しいと頼み、以前に炭治郎から聞いた、錆兎が現れたという、あの岩の御神体に向かった。

 あの壮絶な別れからずっと、訪れることを躊躇い、二の脚を踏んでいた、かつて鍛練の一環で自分も斬り込んだ、あの巨大な丸い岩だ。

 奥に進むにつれ、段々空気の薄くなる山道を、義勇は黙々と歩いて行く。鬼殺隊の現役時代よりは、さすがに体力は落ちたが、呼吸法はまだ使えるので、なんとか辿り着けた。

「…錆兎。居るか?」

 記憶の中に存在する像のままの御神体を前に、緊張を抑えるように一呼吸した後、誰もいない岩に向かって、義勇は声をかけ続ける。

「炭治郎を鍛えてくれたと聞いた。礼を言う。やはり、お前は凄いな。敵わない。」

 不敵な笑みを浮かべ、豪快な笑い声を上げる彼の面影が、眼前に浮かび、甦る。

「…あの選別で、お前が生きていたらと、何度も思った。鬼殺隊に入った後も、お前ならどうするかと、共に闘えたらと、無意味だと解っていても、何度も願った。」

「お前は、俺の理想だったが、源泉でもあったんだな……」

 修行の厳しさに挫けそうな時は、錆兎の背中を見ることで耐え抜けた。いつか自分もこうなるのだという憧れが、足掻いて生きる力になった。

「…驚くだろうが、こんな俺にも、守りたい(ひと)ができた。」

「だが、彼女は俺とは違う。弱いが、強い。どんなに打たれても、また希望を見出だす。」

「…なのに、こんな未熟で、短命の俺を慕っていて、側にいたいなどという…本当何故なんだろうな…錆兎……」

 

 

 ──刹那、さあっ、と、至極温かな空気が、辺りを包んだように感じた瞬間、力強く響く、胸が締め付けられる程に懐かしい声が、頭上から降って来た。

 

 “お前が、水柱だからだ。”

 

 ざわり、とした衝撃が全身に走った。瞳孔を見開き、動揺で震える自分の耳を疑う。あの痛恨の夜以来、姿も声も、一度も見聞きしていないが、間違えるはずがない。

 痛い程に哀しく、乞うように欲していた音色が、今、確かにここにあった。

「…さ…びと?…錆兎、お前なのか……?!」

 狼狽える義勇に、声の主は、変わらず威厳ある低音で続ける。

 

 “お前は、とっくに俺を超えている、正真正銘の、水柱だ。”

 

「違う!! 超えるなど…お前や先生に恥じぬよう闘っただけだ、俺は……」

 姿の見えない主に向かって、精一杯の声を張り上げ、木々の切れ間から見える青い空に、義勇は叫んだ。

 

 “馬鹿だな……結果、心身共に、水の力を宿す柱と化したというに、自覚が無いのか? ”

 

 “男なら、成し遂げた事に誇りを持て!! 悲しみに負けるな!! 冨岡義勇!!”

 

 降ってくる言葉の振動と気迫に圧倒され、義勇は息をすることを忘れた。この主は他人行儀に、自分を違うモノのように語っている。

 

 “お前が守りたいと切望している、お前をずっと見守っていたその女は、それを解っているから、お前を慕い、信頼しているのだろうに、お前が否定するのか?! ”

 

 頬に、鋭い痛みが走ったような気がした。叱咤するようにひっぱたかれたような、熱く、優しく、懐かしい痛み。義勇の両の目から、熱い水滴が、零れる。

「…錆…兎……」

 

 “今度は、お前が、繋がれる番だ。”

 

 その言葉を最後に、どんなに耳を澄ましても、声はもう聞こえなくなった。

 代わりに、いつかの春宵に聴いた、小さな鈴の奏でる音色が、迷路の出口へ誘うように、優しく、軽やかに、自分を呼んだような気がした。




【おまけ噺】

 様々な考え方や生き方があると思いますが、うちの義勇さんは、ようやく、過去のしがらみと向き合い、覚醒し、新たな一歩を踏み出しました。
 彼が今までに紡いで来たもの、出会った人達、全てが一つの線になり、新しい道筋の羅針盤になることを願ってやみません。
 表現が未熟なので、以上の思いを上手く伝えられたか不安ですが、最後まで頑張って書いていきたいと思います。(まだ結構、続きます(汗))


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宝物

 病メル時モ、健ヤカナル時モ。

(※直接的な場面はありませんが、性的な表現をする単語が出るので、念のために R-15タグ付けしました。)

【※設定の濃いオリジナルキャラが登場します。お手数ですが、作品をご覧頂く前に、シリーズ全体のあらすじ概要をご確認下さい。】


 どのくらいの時間が経ったのだろうか。木々のざわめきと、鳥のさえずりだけが残った御神体の前で、義勇は、暫しの間、その場に立ち尽くしていた。

 が、夕焼けが宵に落ち始めたのに気づき、急いで鱗滝の待つ、麓の小屋に戻った。

「先生、有難うございました。」

 茶を入れ、自分を待ってくれていた師に向かって、丁寧に頭を下げる。

「…良い顔になったな。」

 やつれてはいるが、どこか清々しい、晴れ晴れとした表情に変化した義勇を見て、鱗滝は『ああ、もう大丈夫だ。』と確信した。

 長年引き摺っていた、古傷の痛みを乗り越えた様子に、愛弟子の多大な成長を感じ、芯から感動を覚える。

 

「…錆兎が、“冨岡義勇”を叱ってくれました。」

 目元を細め、嬉しそうに微笑む義勇に、鱗滝は、少し驚く素振りを見せたが、「そうか。」とだけ返し、今夜はここに泊まり、休むよう促した。

「いえ、このまま戻ります。玉砕になるかもしれませんが……やらなければいけない事があるので。」

「そんなぼろぼろの状態では、向こうが気にする。」

と、鱗滝はなんとか説得し、取り敢えず精をつけろ、と何時かの前夜のように、鍋や焼き魚などを振る舞い、愛弟子の健闘を祈った。

 

 

 狭霧山から戻った翌朝。自分の屋敷に戻り、身支度を整えてから、宇髄天元の屋敷を、義勇は駆け込むように訪ねた。

 突然の来訪に、当然、宇髄は仰天したが、義勇は息を荒げながら、既婚者である彼に、必死の形相で問いかける。

「…宇髄。求婚とは、どのようにしたら良い?」

 いきなり訪ねて来た挙げ句、このようなことを藪から棒に尋ねてくる、相変わらずなかつての戦友に、宇髄は戸惑い、呆れた。が、ようやく腹が決まったのだろうと察し、

「ったく。ド派手に世話の焼ける奴。」

と、悪態をつき苦笑しながらも、どこか嬉しそうに、にやり、と笑った。

 

 

 皐月晴れの夕刻。カナヲの診療所近くの、小さな住宅街にある一軒の長屋では、久世すずなが、無気力に日常を送っていた。義勇と別れてから数日、案の定と言うべきか、食事も喉を通らず、まともに眠れていなかった。

 雨宿りの夜、彼と肌を重ねた記憶と感触が心に焼き付き、まだ胸元に薄く残る、幾つもの小さな紅い跡が、悲しみを煽り、心を抉る。思い切り泣き叫びたいのに、そんな力すら出て来ない。生きる希望が消え失せて、時が止まってしまったようだった。

 彼と会う事すら叶わなくなった今、これから何を支えに生きていけば良いのか……こんな状態にも拘らず、発作が起きていないのが、せめてもの救いだった。

 

 そんな時、コンコン、と扉を叩く音がした。来客など滅多に無い為、びくっ、と驚く。

「…突然、すまない。俺だ、冨岡だ。」

 あり得ない呼び声に硬直し、すずなは耳を疑った。とうとう、幻聴が聞こえ始めてしまったのかと、自嘲する。

 人の気配はあるものの、返事の無い扉の向こうに、すずなが無視しているのだろうと思ったのか、声の主は、遠慮がちな声色で続けた。

「…俺の顔など見たくないだろうが……そのまま聞いてくれないか…?」

 間違いない。彼だと確信したすずなは、反射的に、急いで扉を開けると、目の前に、最後に見た姿と変わらない、愛しい人の姿があった。見慣れない洒落た柄の紺の着物に、いつもの水色の羽織を着ていて、大きな紙袋を下げている。

 数日ぶりに見る義勇に、激しく動揺すると共に、不覚にも胸が高鳴る。しかし、別れを告げられたのに、何故、再び自分を訪ねて来たのだろうと、不可解な気持ちは否めず、自然と心に予防線を張っていた。

 

 一方、目の下に酷い隈を作り、すっかり憂いのかかった()をしている、青白い顔のすずなを見て、心中を察した義勇は、先ずは、先日の件について、きちんと詫びなければと思った。

「この間は、一方的な形になってしまい、本当にすまなかった……」

「今日は、君に言わなければならない、大切な事があるから来た。」

 頭を丁寧に下げた後、続けて本題に入ろうとしたが、脳と口を懸命に動かそうとすればする程、喉が詰まってしまった。緊張で、妙な汗が吹き出る。

 あれだけ最善な台詞(セリフ)を考えて来たというのに、すずなの顔を見た途端、全て彼方に吹っ飛んでしまった。

「…体の方は、どうだ? 昨日、薬を郵送したが。」

「…あ…はい。幸い、発作は無いです。薬は、まだ……」

『違う。気になってはいたが、これではない。』

と、義勇は改めて自身に苛立つ。案の定、彼女は、困惑した表情を浮かべている。長く立ち話になりそうなのを察し、周りの目を気にしたすずなは、提案した。

「…場所を変えますか? 近くに、静かな小川があります。」

「…あ、ああ…助かる……」

 家の鍵を閉めて、すずなは義勇と並んで歩き出した。また、こんな風に共に歩けるとは思わなかった為、不意討ちにあったように、心が波打っている。

 一方、義勇は、これから話す内容の重大性に押し潰されそうだったが、懸命に精神を凪いで落ち着かせていた。

 

 少し歩き、住宅地から開けたような場所に、さらさら、と小川が流れている、静かな川辺に着いた。近隣住民の散歩に使われているのだろうか、わりと綺麗に整備されていて、所々に、濃い桃色や赤、白のツツジ等、季節の花が咲き誇っている。

「ここなら、あまり人が来ませんので、ゆっくり話せます。」

 そう言って、すずなは義勇と向かい合った。そして、ずっと気になっていた彼の手元の紙袋から、華やかな良い香りが漂っていることに気づき、視線を送る。

「あの、それは…?」

「あ…君に……」

 気づかれてしまった為、左手に下げていた大きな紙袋から、大きな球体を取り出し、義勇は、そっと手渡した。

 白百合、青と黄と紫の風信子(ヒヤシンス)、桜草、白の雛菊、千日紅、カスミソウ……色鮮やかな花々が、すずなの腕の中を美しく彩る。強張っていた頬が、自然に綻んだ。

「綺麗……」

「以前、花を嬉しそうに見ていたから、好きなのかと思った。」

「だが、詳しくないから、花売りに求婚向けの花を聞いて、君に似合いそうなのを、俺が選……」

 緊張と照れ臭さでまごつきながらも、言い終わる前に、義勇は言葉を止めた。すずなの片方の朱の硝子玉から、雫が一筋の線を描き、流れ落ちていたからだ。

「どうした。やはり、嫌だったか…?」

 また泣かせてしまった。何か口走ったような気はしたが、失言したかと、義勇は焦った。

「…求…婚って…あの、本…当です…か? でも、何故…良いの…ですか……?」

 『求婚』という思わぬ単語が飛び込んで来たことで、自身の耳を疑い、喜びと戸惑い、猜疑心の混ざり合った、至極複雑な感情に襲われ、すずなは支離滅裂な言葉を溢していた。

「ああ、本当だ……もっと、上手く渡すはずだったのだが…すまない。」

「…十分で…す…有、難う…ご…ざいます……」

 涙声になり、花束で顔を隠しながら、本格的に泣き出しそうな彼女に、義勇は慌てた。

「待て。まだ、ある。」

 懐に忍ばせていた小箱を取り出し、左手に握らせる。肌触りの良い上質な布の感触に、すずなが気づいたことを確認し、蓋を開けた。

「きっと、よく似合う。」

 中で煌めいているのは、小さな紅珊瑚と金剛石(ダイヤ)の付いた、美しい指輪だった。宇髄に紹介してもらった宝飾店で、懸命に選んだ品だ。

「最近は、宝石の付いた指輪を贈ると聞いて、君の()と同じ色を選んだ。珊瑚は、御守りとしても良いらし……」

 義勇の説明は、既に、彼女の耳に入っていなかった。右手に花束、左手に小箱を持ったまま、石と同じ珊瑚色の両の眼孔を見開き、大粒の水滴が零れ落ちている。

 先程まで絶望の底にいたところを、いきなり極楽に引き上げられたような心境だった。状況の振り幅の大きさに、心が追いつかないでいたのだ。

 

「気に入らなかったか…? すまない。不甲斐ないな、俺は……」

「違…います! だって急に…こんな…嬉し……」

「…辛い思いをさせたな。本当に済まなかった……俺はこんな風に、神とは程遠い、未熟で至らない男だ。それでもいいのか…?」

 こくり、と頷き、すずなは止めどなく溢れる涙を流したまま、何時ものように、ふわり、と微笑み、義勇の紺碧の瞳を、真っ直ぐ見つめた。

「…貴方は、私の、清廉な水の神様です。だから、貴方が良いんです。」

 鱗滝師匠や錆兎の見解通りの、彼女の純粋過ぎる答えに、頬の熱さに加え脳の芯が、くらくら、と揺らぐのを覚え、義勇は息を飲んだ。

 その清廉な神が、今どんな事で苦悩しているのか、この娘は理解しているのだろうか。変わらず、無垢な好意に溢れた、澄んだ眼差しを向けて来るすずなに、妙な罪悪感と背徳感を感じた。

 

「…出来るなら、祝言まで避けたいのだが…時間が惜しむのでな…けじめが無く、申し訳ないのだが……」

 既に紅色に染まった顔を、急に左手で覆い隠し、義勇は今まで以上に口ごもっている。そんな彼が、何を言わんとしているのか、今一つ解らないのであろう、曇りの無いすずなの朱の()を、義勇は捕らえ、見つめた。

 骨張った大きな左手で、戸惑う彼女の左手を指輪の箱ごと包み取り、涼やかな目元を泳がせながら、ついに口にした。

「このまま共に屋敷に戻って、俺と暮らしてくれないだろうか…?何時までの運命(さだめ)か判らないが、俺の…冨岡義勇の、妻として……」

 終始、驚きと喜びで見開いていた、すずなの涙で滲む珊瑚色の()に、強い光が煌めく。

「…申し訳なく…ないです…冨岡さん……幸せです…宜しくお願いします……」

 涙に濡れた顔で、すずなは極上の笑みを浮かべていた。いつか見た、雨上がりの虹のような、淡くも貴い、何よりも愛おしい笑顔。

 歓喜と至福に溢れ、思わず見とれてしまったが、義勇は握っていた手を離し、少し不満そうに言った。

 

「…義勇だ。君も、冨岡になる。」

 

 はっ、とした表情に変わったすずなは、少し俯き、澄んだ声を躊躇うように、微かに溢した。

「…ぎ、ゆう…さ…ん…義…勇さ…ん、義勇さん……!!」

 後半は叫ぶように、何度も愛しい人の名を呼びながら、すずなは感極まり、義勇の胸に飛び込んだ。懐かしく心地好い"彼″の香りが、ざわめいていた心を落ち着かせる。

 ずっと、ずっと……口にしたい言葉だった。ようやく呼ぶことを赦されるのが嬉しくて堪らず、水色の羽織を掴み、広い背中にしがみつく。

 そんな彼女を、義勇は、片腕でしっかりと受け止め、頬を亜麻色の頭に擦り寄せた。

「…す…ずな……すずな……!!」

「義勇さん……義勇さん……」

 愛しい人が自分の名を涙声で呼ぶ度、比例するように、きつく()を瞑りながら、抱き締める腕に、より力を込めた。

 至極乞いていた“彼女”の香りが鼻腔を擽り、心の奥底に溜まっていた、一番伝えたかった想いが、熱のこもった低音の声に乗って、唇から零れる。

「…側にいて…欲しいのは……俺の方だ…すずな……」

 もう拒絶しなくて良い、という赦しが、心の蓋を外した。絶対に離しはしない、離したくないという、確固たる決意と熱い激情が、関を切って泉のように湧き上がってくる。

 

 いつの間にか、辺りは宵闇に包まれ、夜の帷が降りていた。

 頭上の夜空には、金剛石(ダイヤ)のような星々が、ちらほらと見え隠れし、ようやく互いを受け入れられた二人を祝う、宴の灯りのように瞬いていた。




【おまけ噺】
 自分の気持ちを言葉にするのが(そもそも、錆兎の件で感情の起伏すら乏しそう)、大の苦手な義勇さん、頑張りました!!
 元々、言葉は拙くとも、脳内と肝心な時の行動がすこぶる格好良いのが、彼の魅力だと思っているので、こんな風になるかなと考えました。

 最推しの義勇さんに対して、『作者なりのご褒美+好みの詰め合わせ』で、今回生み出したヒロインでしたが、彼女について考えているうち、愛着が湧いて仕方なくなりました。
 物語の着地点が段々定まってきましたが、義勇さんだけでなく、すずなにとっても、幸せな結末を用意したいと考えております。
 にしても…所謂ムズキュンを意識して書いたとはいえ、本当に初々しくて甘酸っぱいですね……
 殺伐とした時代や環境で、ろくに恋を知らないまま大人になった純粋な男女が出会い、初めて知った人の温かみや色恋が、一世一代の純愛に昇華するという設定は、筆者の大好物なのですが、自分が書いたものを、正気に戻って読み返していると、毎回爆発します……

 何はさておき、こんなスローに長々と続く物語を、ここまで読んで頂けている方々には、本当に感謝しかございません!!(泣)


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ミズガミ

 死ガ二人ヲ別ツマデ、ノ約束。

【※設定の濃いオリジナルキャラが登場します。お手数ですが、作品をご覧頂く前に、シリーズ全体のあらすじ概要をご確認下さい。】


 其々の想いを伝えることに夢中になっていた二人は、時が経つのを忘れていた。

 始終、眼前が晴天のような色に被われていた、すずなより先に、義勇の方が夕闇に気がつき、慌てて体を離して辺りを見回す。

「すまん。一刻も早くと思ったが、遅くなった……」

 急に、心地好い感触が消えたことに戸惑う彼女に、申し訳なさそうに詫びた。もう夕餉の頃合いだ。

「屋敷に向かうとしても、腹が減っただろうし、荷造りもあるな……」

 そんな義勇を見て、すずなは思い切ったように、遠慮がちに提案する。

「…ちょうど、夕餉の支度の途中でした…… 狭いですけど、家《うち》に泊まっていかれますか…?」

「いや。今日は、まずい……」

 このまま一夜を共にしたら、また、彼女の気持ちなどお構い無しで、情欲に負けそうな自身を危惧した義勇は、心の中で距離を取った。

「……そう…で…すか。」

 彼なりの男の葛藤がわからないすずなは、何故そんなにまずいのだろうと、少し寂しそうに呟く。そんな彼女の様子を見て、決意が鈍らぬよう目を反らしながら、義勇ははっきりと示した。

「近くに宿が無ければ、栗花落の医院の施設を頼る。明朝、此方に迎えに来る。荷造りも手伝おう。」

 そう言い残し、少し名残惜し気に立ち去ろうとした時、くんっ、と右側を引かれる感覚が走った。驚いて振り向くと、紅色に染め上がった顔で俯きながら、すずなが、右袖の羽織の裾を握りしめている。

「…ぃ、かな…いで、ください…… 今度こそ、二度とお会い出来ないと思ってました…… 我が儘と承知ですが…お願い、です……」

 花束を抱えながら、決死の覚悟のように震える声で懇願するすずなに、義勇は驚いた。こんな甘えるような意思表示を、彼女が見せたのは初めての事だ。

 先日、自身の未熟な言動で、突き放すような別れ方になり、至極辛い思いをさせてしまったと、未だ自責していた義勇は、きつく目を瞑り、全身全霊で己を制し、覚悟を決めた。

「…わかった。だが、何もしない。安心しろ。」

 内実、すずなの真意は違っていた。一晩中、一緒にいてくれるなら、今日が初夜になっても構わないと覚悟していた為、少し拍子抜けしたが、嬉しく思った。

「大丈夫です…有難うございます。未だ心が追いつかなくて…… 少し落ち着かさせて下さい。」

「構わない。」

 そう言って、互いの様子を気にしながら、二人は歩き始めた。花束を抱えたまま頬を薄紅に染め、自分の少し後ろに付いて来る彼女を、時々振り返りながら、また、共に帰路につける喜びを、義勇は噛みしめていた。

 

 

 長屋に戻るなり、すずなは急いで炊事場に駆け込んだが、

「すみません。先に、これを……」

と、伺いを立て、抱えていた花束の包みを解いた。新聞紙の上で、茎の根元を手早く鋏で切り、水を注いだ硝子の花瓶に形良く生ける。

「…随分、手慣れているな。」

「礼儀作法の稽古として、お花と日舞は、子供の頃から、祖母に仕込まれましたので……」

 そんな幼い頃から、自分の責務と向き合う生活をしていたのかと、義勇は少し驚く。彼女がどんな幼少期を過ごしたのか、改めて気になった。

 料理の続きを始めるすずなに、義勇は自分も手伝おう、と気遣い、薪をくべて火を興し始める。襷掛けをして割烹着を纏い、隣で懸命に包丁を動かす彼女からは、何故か郷愁めいた趣を感じた。

 記憶の中に朧気に存在する、遥か遠い昔の、懐かしい風景や像が呼び起こされる。

 

 夕餉の時間帯を少し過ぎた頃、麦入り白飯、根菜と油揚げの味噌汁、カレイの煮付けが、二人の膳に並んだ。

「今ある材料で作ったので、簡素ですみません。」

「そんなことはない。旨そうだ。」

 涼やかな瞳を輝かせ、まず、カレイに箸を差し入れ、義勇は嬉しそうに口へ運ぶ。小ぶりの口を開き、白飯を頬張る彼に安堵すると共に、すずなは、ふわふわした感覚でいた。これから毎日、こんな風に過ごせるという事に、未だ実感が湧かない。明日になれば消えてしまう、一晩の幸福な夢のように思う。

 

 食事が終わり、義勇の突然の心境の変化に、まだ疑問が消えないでいたすずなは、向かいで緑茶を飲んでいる彼に、恐る恐る問いかけた。

「あの、義…勇さん……」

「何だ?」

 まだ慣れないのであろう、たどたどしい口調で自分の名を口にするすずなに、愛しさと同時に、擽るようなもどかしさを覚える。

「…あの、どうして、私を娶ると、決めて頂けたのでしょうか……?」

 ごふっ、と軽く噎せ、動揺を隠せず、義勇は目を泳がせた。彼女本人に向かって口にするのは羞恥を伴う話ばかりだ。軽く咳払いをした後、頬を薄紅に染め言い淀みながら、なるべく簡潔に告白する。

「…自分から告げたが、思った以上に、堪えてしまってな…… 師匠にまで相談した。」

「…君の事を話したら、その娘は今、お前の力を必要としているから、側にいたいのだろう、と言われた。」

「…そうだったんですか。」

 そんなに想ってくれていたことが嬉しくもあるし、その通りであるが、自分の事をどんな風に師に話したのかが気になった。しかし、冷静沈着な義勇が、目を白黒させ、激しく狼狽えているので、これ以上は聞きづらい。

 

「そうだ。指輪を……」

「あ…それは、明日、貴方の屋敷でお願いしたいです……」

 詳しく話せない罪を償いたく、義勇は頬を薄紅に染めたまま提案したが、正式に彼の屋敷に嫁ぐという形で身につけたいすずなは、同じ色味の頬で遠慮がちに頼んだ。

「…わかった。そうしよう。」

 そんな彼女に、せめて隣に、というように、自身の左側の床を、とん、と静かに鳴らし、じっと見つめる。戸惑いながらも、すずなは嬉しそうにはにかんで正座した。

 

 彼女の膝上に重ねられた、皹などで少々荒れてはいるが、透き通るように白い手の甲や、細く伸びた指先にある、桜貝のような爪に見入る。所謂白魚の云々とは、このような手を差すのだろうと、義勇は思った。

 まじまじと観察するように、自分の手を凝視している彼に対し、すずなは照れときまり悪さを感じ、義勇の左手を、そっと右手で取る。

「義勇さ…んの手は、良いですね。」

「きめ細やかなのに、大きくて、指も長くて、骨ばってしっかりしていて…… 綺麗。」

 自分の手と比較するように、珍しそうな眼差しを向ける彼女が、義勇には不思議だった。

「…………? 剣胝や傷跡だらけだろう。」

「貴方が、血の滲む努力を積んできた証……勲章です。」

 そのまま優しく左手の指で、いとおしそうに撫でているすずなを見ているうちに、義勇はざわめきを感じた。至極心地良いけれど、止めて欲しいようなもどかしさと共に、妙に後ろめたい思いが湧き出す。

 

「…そんな立派なものじゃない。」

 自分の手を一瞥し、肘から先を無くした右腕に目をやり、軽く動かしながら、自嘲気味に冷めた口調で言う。

「怒りだけで剣を振るってきた手だ…… 憎悪と血の臭いしか染みついていない。姉と友を殺した鬼と…弱い自分への嫌悪で闘った。それだけだ。」

 急に辛辣な物言いになった彼に驚き、すずなの心に、ひやり、とした悲しみが過った。

「沢山の人を助けられてきたのでしょう……? 命懸けで。」

「買いかぶり過ぎだ。守れなかった者、傷つけた遺族も多い。」

「…私が、何度も救われた手でもあります。」

 今までの出来事を振り返りながら呟き、影の差した紺碧の瞳を見つめた。一回りも大きな義勇の左手を、自分の両手で包み、祈るように、すずなは更に強く握る。

「貴方がどういう思いだとしても、私は、この手が好きです。そんな風に侮辱する人は、貴方本人でも、嫌です。」

 少し怒ったように言い放った彼女の言葉に、冷暗な色になった眼を見開き、顔を背け、義勇は、ふはっ、と小さく吹き出した。

「何故、笑うのですか?」

 初めて笑い声を溢した彼に驚き、少し戸惑ったが、不思議な胸の高鳴りを、すずなは感じた。

 そんな彼女を尻目に、義勇はまだ可笑しそうに、くっ、くっ、と喉を静かに鳴らしている。大真面目な顔で、珍しく膨れ面をしている彼女の方に向き直る。

「悪かった。少々、意地悪を言った。」

「…本心なのでしょう?」

「…………。時々、思う。」

 

 本心だと言い当てられ、内心動揺しながら遠い目をしている義勇に、すずなは、一つの話を始めた。

「ある地方に伝わる、龍神様の逸話をご存知ですか?」

「龍神?」

 唐突な彼女の言葉に、お前は水の力を宿す柱だ、と言い残した、錆兎の言葉を思い出す。

「神々と繋がる、地上の巫女が后になることで、龍神様は、代わりに天から雨を降らせるんです。地上の穢れを浄め、大地を潤し、人々の望みを叶える。」

「その后の役目を、贄と呼びますが……」

 暗い声色と表情に変わったすずなに、自分の過去を思い出したのだろうと、義勇は思った。

「龍神様が、この世の穢れを全て請け負い、再生させているなら、私には、鬼も人間も関係無く思えます。一方的に神と呼ばれて、万物の業を、一人背負わされるのは哀しいことです……」

「人に奉仕する巫女として失格ですけど…… もし、龍神様が、義…勇さんのような方で、私の力を必要としておられるのなら、后でも贄にでもなりたいと、今は本気で思います。」

 何かが宿ったような瞳をしているすずなに、義勇は少しおののきを感じた。自らの存在意義を失った彼女は、自分を龍神のように見ているのだろうか。

「…俺は、神じゃない。」

「勿論です…が、自他の痛みを濁流のように背負って、天に召されようとしている貴方が、高潔で優しい、水の神様に思えてならないのです……」

 気恥ずかしさと居たたまれなさ、そして、相変わらず慈愛に満ちた優しさと、健気な好意をぶつけて来る彼女が、愛しくも心配になった。もっと自身を守って欲しいと思うが、彼女から見た自分も、もしかしたら同じなのかもしれない。

「貴方と同じように、穢れにまみれた自分の手を蔑んでおられるなら、尚更……」

 

 それ以上、言わせるのが心苦しくなり、思わず彼女の背中を掴み、ぐい、と強引に抱き寄せた。刹那、びくっ、と体を強く震わせ、すずなは硬直した。彼女の予想以上の拒絶反応に、義勇は少し驚き、体を離す。

「…すまない。」

「違……! 人に触れるのは大丈夫ですが、突然、触れられるのに慣れてないだけです。すみません。」

 慌てて弁解し、申し訳なさそうに俯くすずなに、義勇は、胸が締め付けられるような情が募った。早くに両親を亡くし、鬼殺に身を投じた自分でも、姉や錆兎、炭治郎達と楽しくじゃれ合った記憶はある。

 しかし、情を許した相手であるはずの自分にでも、彼女はこんなに萎縮している。実は、他者からの温もりを知らずにいたのか。常に優しさに溢れ、家族がいたのなら、当然満たされていると思っていた。

「そうか… 以前は、本当に嫌な思いをさせたな……」

「いえ! 大丈夫です。驚きましたけど、貴方なら……」

 誤解して欲しくない、という思いが急き立てるように湧き出す。本当は、今も触れて欲しい。もっと近くで……という、ふわふわした高鳴りが瞳に集まり、自然と熱のある眼差しで、すずなは義勇を見つめた。

「どうした?」

 彼女の艶やかな視線を感じ取った義勇は、自身の奥底に、躊躇いと情欲の混じった熱い渦を感じる。

「……いいの…か?」

 すずなは、こくり、と頷く。しかし、ありったけの力で、義勇は目を反らした。

「いや、やはり駄目だ。君も憔悴しているし・・・抑える自信が無い。」

「この間のようなことなら……」

 構わないのに、と言いた気な、すずなの寂しそうな珊瑚色の瞳に、決意が揺れそうになったが、屋敷に迎えるまでは手を出さないと、改めて強く誓い、向き直る。

「只でさえ、祝言前から共に暮らすのだ。せめて、きちんと…俺の家に迎えて、それ…から……」

 後半は、紅色の顔を左手で隠し、消え入りそうな声になっていた。どこまでも律儀で誠実な彼を、改めて、すずなはいとおしく思う。こういうところに惹かれ、惚れたのだから仕方ないと、自身の情を封じた。

「…そう、ですね……すみません。夜更けですし、休みましょうか。」

「…ああ。」

 

 二人で二組の布団を敷き、義勇は内側に着ていた襦袢、すずなは生成りの浴衣に、風呂場で交代で着替える。

「…腕、痛みますか?」

「平気だ。」

 安堵したすずなは、ふっ、と息を吹きかけ、ランプの灯りを消した。暗がりの中、煩悩を打ち消すように、其々布団に潜り込む。

「お休みなさい。」

「…ああ。また、明日。」

「はい。また、明日……」

 『また明日』という言葉が、何故か、至極温かく、妙にこそばゆい想いを生み出す。明日も当たり前のように共に過ごすという、不透明なようで確固たる、指輪や契りのような誓い。

 それが赦される関係になれたことに、この上無い幸福を噛み締めながら、其々、久方ぶりの深い眠りについた。




【おまけ噺・前章で渡した花束の花言葉】

 まず、白百合は、当時のプロポーズアイテムの鉄板だったらしいです。現代の薔薇にあたるようです。
*花言葉→清浄、純潔、尊厳、堂々たる美(山百合だと飾らない愛)

●風信子(青)→変わらぬ愛、(紫)→悲しみを乗り越えた愛、(黄)→あなたとなら幸せ
●雛菊(白)→無邪気(全般的→希望、平和)
●桜草→青春の喜びと悲しみ、憧れ、初恋、自然美
●千日紅→色褪せぬ愛、不滅、不死、不朽
●カスミソウ→幸福、感謝、清らかな心、親切

 ちなみに、求婚した川原の周りに咲いていたツツジですが、全般的→慎み、節度、自制心。
濃い桃色→恋の喜び。白→初恋。赤→燃え上がる想い。紫→美しい人、です。
 何ですか、この清廉潔白な純愛100%感……(爆)

 勿論、義勇さんは、花言葉の意味は知りません(笑) 花売りの人に求婚向けの花を聞いたり、すずなに似合いそうなのを頑張って選んだ(作者が持たせた)結果、こうなりました。調べるのは少し大変でしたが、楽しかったです。

 ***

 本編は…ようやくくっついたものの、なかなか次に進展しない、相変わらず焦れ焦れな二人です。(既に1ステージ経験してしまったからかもしれないですが(汗))
 義勇さんならこんな風に考えるかな、すずなはこう言うだろうな、と考えながら書いていると、それぞれが自由に動き出してしまって、なかなか此方の思う展開になってくれません……
 今回は、お互いの闇を少し吐露しています。気を許したからこそできることではありますが、二人の世界に入ってしまいました。
 鬼がきっかけで、自責に駆られて自分を卑下する、元水柱の義勇さんと、自身の存在意義を見失った、元巫女のすずな。
 自分を愛し愛される、普通の人間らしい幸せを知らない二人の物語に、もう暫くお付き合い下さい。


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漆ノ章 小夜曲
夜伽噺


 敬イ愛ス、密ノ夜。

(※R-15程度の性的な単語が出ますので、苦手な方はご注意下さい。)
【※設定の濃いオリキャラが登場します。お手数ですが、作品をご覧頂く前に、シリーズ全体のあらすじ概要をご確認下さい。】


 白金色の陽の光が、小窓からほのかに差し込む。朧気な意識の中、すずなは目を覚ました。

 何時も迎えている朝だと思ったが、隣に敷いた布団の中で、静かな寝息をたてている男性を見て、頭が一気に冴えて動揺する。安心しきった顔で眠っている義勇がいたからだ。

 昨日の一連の出来事は、一夜明けたら醒めてしまう夢ではなかった。自身の現実に起きた幸福であることを、ようやく実感し始める。

 しかし、よほど疲れ切っていたのだろう。深い呼吸を繰り返し、微動だにしない彼を起こさないよう、かつてない躍動感を抱えながら、朝餉の支度を始めた。

 

 家中に味噌の香りが漂い始め、義勇は目を覚ました。一瞬、自分がどこにいるのか判らず動揺し、辺りを見回した。

 硝子(ガラス)の花瓶に生けられた、見覚えのある美しい花々が目に入った瞬間、昨日の記憶が甦り、落ち着きを取り戻す。

「お早うございます。気分はどうですか?」

 起き上がった義勇に気づき、はにかみながら朝の挨拶をする割烹着姿のすずなに、懐かしい疑似感が過った。

「……以前と、逆だな。」

 不思議そうにする彼女を眺めつつ、義勇は、ふっ、と安堵に満ちた笑みを浮かべた。

 

 

 朝餉の後、二人ですずなの荷造りを始めた。一先ず、身の回りの物をまとめ、家具や生活用品の運搬、大家への手配は、輝利哉の使いに頼むことにした。

 今日が祝言ではないと言うもの、初日から飯炊きをさせるのは気が引ける、と義勇が言って、行き付けの食事処で夕餉を採る事になった。

「高級料亭でなくて申し訳ない。」

と、義勇は詫びたが、彼の普段の生活に溶け混めることが、すずなは嬉しかった。

「貴方の暮らしが知りたいので良いです。」

 そう言ってあどけなく笑う、相変わらず真っ直ぐな彼女に、義勇は何と応えれば良いか判らず、

「……そうか。」

と、薄紅に染まる顔を反らして口ごもる。こんな時くらい、気の利いた言葉を掛けてやりたいのに、何も浮かばない。今日程、自分の口下手さを恨んだことはなかった。

 

 夕餉を済ませ、宵に落ちた頃、二人は懐かしくも新鮮な思いで竹林を抜け、ようやく屋敷に辿り着いた。

 玄関に入るなり()ぐ、寛三郎が二人を出迎えた。

「義勇? スズナモ、帰ッタノカ?」

「はい。戻って来ました。」

 嬉しそうに挨拶するすずなを見遣った後、照れ臭そうに、義勇は改まった口調で言う。

「寛三郎。今日から俺の……妻になる。宜しく頼む。」

「……妻、ジャト? ソウカ…… 義勇、良カッタノウ……」

 ぽろぽろ、と涙を溢す寛三郎に、二人は驚き、狼狽える。

「おい。寛三郎? 泣くな。」

「本当二、辛ソウデ心配ジャッタ……」

「……!! すまなかった。もう大丈夫だ。」

 自身の恥態を彼女に暴露されることを危惧し、義勇は慌てて、すっかり老いた相棒を宥め始める。また、尊い光景に出逢えた、とすずなは思った。

 彼を囲む人々は、皆こんなにも優しく、温かい。その中に、これから自分も入れるのだろうか。入って良いのだろうか、と改めて憚られた。

 

 

 夜更けになり、義勇が先に湯浴みをし、寝室に向かった。温かい湯に浸かりながら、すずなは自分の体を両手で抱く。以前とは違い、今夜こそが、“その”時だろう。

 怖くないと言えば嘘になる。閨事(ねやじ)の流れはあまり知らない。何が起こるか分からないのが恐ろしかった。

 しかし、女としてその日を迎えるのなら、処女を捧げるのなら、彼しか考えられない。そう決意したすずなは、覚悟を決め、念入りに体を洗った。

 

 

 仄かに照らされた行灯(あんどん)の幻想的な光の中、白い襦袢姿の義勇は、布団の上で背筋を伸ばして正座し、すずなが来るのをじっと待っていた。目を瞑り、動揺を抑えようと精神統一している。義勇にとっても、一世一代の大切な夜だ。微かに震える左手を制する。

 暫し後、すっ、と襖が開き、白い襦袢姿のすずなが、寝室に現れた。

「お待たせ致しました。義勇さん…… いえ、旦那様。」

「不束者でございますが、どうか末永く、宜しくお願い致します。」

 少し離れた所に正座し、両手をついて丁寧な口調で挨拶した後、礼儀正しく頭を下げる彼女に、義勇は、妙な居心地の悪さを感じた。

「いや、此方こそ……宜しく頼む。」

 厳かでありながら、艶っぽい密やかな空気が辺りに漂い、暗がりの二人を、蜜夜に誘う。

「だが、暫くは、義勇で良い。どうも落ち着かない。」

「……解りました。」

 

 沈黙が続き、張り詰めた気まずい空気が満ちる。互いに緊張しているので、約束していた大切な行いを、義勇は始めることにした。

「すずな。これを……」

 昨夜の指輪の箱を手にし、側に来るよう義勇は目配せした。すずなの(あか)の瞳に光が煌めく。

 高鳴る鼓動を抑えながら近寄り、真向かいに正座すると、義勇は彼女の左手を膝に乗せ、紅珊瑚と金剛石(ダイヤ)が煌めく指輪を手に取り、慎重にはめた。

 薬指の華奢な付け根に、誂えたようにすんなりと吸い付く。すずなの表情が、魔術でも見たかのように、ぽかん、と変わる。

「私の寸法、どうして……」

「手の大きさは覚えていたから、宇髄の奥方に頼んで参考にした。」

「有難うございます。宇髄さんと奥様方に、今度お礼をしたいです。」

 高揚した顔で微笑む彼女に、義勇の胸奥に焼けるような痛みが走った。只、感謝の意を表しているだけであろうに、ちりつくような嫉妬を感じたのだ。自分はこんなに独占欲の強い男だったのかと、内心動揺する。

 そんな彼の側で、薄紅の花が綻ぶような蕩けた面持ちで、すずなは薬指の指輪を眺めていた。

 

「嬉しいです…… 義勇さん、あの……」

 何とか喜びを伝えようと、義勇に眼差しを向けた。ずっと彼女を見ていた彼と視線がぶつかる。途端に居たたまれなくなり、今度は恥じらって俯く。挙動が落ち着かない様子に、義勇は、少し心配になった。

「大丈夫か。」

「は、はい……」

 怯えているのか、すずなは、明らかに体が震えている。

「俺も初めてだ…… そんなに気負うな。」

「すみません……」

「未知の事柄なら、無理も無いが。」

 また少し、体が強張ったすずなに、義勇は穏やかな口調で続けた。

「俺に慣れてからで構わない。」

「一つの床で共に過ごす…… 暫くはそれで良い。」

 正座したまま、照れを含みながら微笑み、『来い。』と、柔らかに口を動かし、微かに泳ぐ眼差しを向ける。

 そんな優しい誘惑に、「はい。」と応えて勇気を振り絞り、すずなは、更に寄り添うように足を崩して座り込む。横になるには、まだ時間が必要だった。躊躇いながら、救いを求めるような眼差しで、自分の夫になる人を見上げている。

 そんな(うぶ)な彼女を、義勇は、じっ、と静観していた。内心、もどかしさで焦れていたが、至極可愛らしくもあるので、様子を伺っていたのだ。

 

 ようやく身体を少し傾けた瞬間、ふわっ、と掛け布団で包み隠し、彼女をそのまま引き寄せた。

 突然、温かく柔らかい感触に包まれたと思った瞬間、眼前に広い胸板が迫り、布団越しに腕らしき硬いもので巻かれているのが判った。覚えのある石鹸混じりの 、懐かしい“彼”の香りが、鼻腔を擽る。

 座り込んだまま、布団ごと抱え込まれた状況が判った瞬間、すずなは、頬を真っ赤に染めて狼狽えた。

 そんな彼女が(めご)くもありつつ、ぽつり、と義勇は溢した。

「まだ、俺が怖いか……?」

 はっ、と見遣ると、義勇は紺碧の瞳に陰りを落とし、少し寂しそうな気を醸していた。掠れた声で、ぼそぼそと続ける。

「何もしないと言っただろう。」

「違、います…… 緊張して……」

 眉を八の字に曲げ、上擦った声で詫びながら、申し訳なさそうに俯くすずなに、少し我に返り、義勇は内省した。

「すまない。性急だったな。」

「……白状すると、俺も、この手で事を成して、本当に良いか憚れている。」

 彼女を前にすると、妙な本音が零れる事に改めて戸惑いつつ、自身の左手を見つめる。

「…………?!」

「だから、少しずつ来てもらえば……良い。」

「……はい。」

 昨夜の話を思い出し、この優しい人は、そんな風に思っていたのかと驚く。恐々と両手を伸ばし、彼の襟元を掴み、ゆっくりと額を擦り寄せた。

 そんなすずなに、義勇は薄紅の頬を少し緩ませ、彼女から見えないよう、至極嬉しそうに微笑んだ。

 

 ふと、首元の締め痕の事を、すずなは思い出す。

「……あの、以前は、お見苦しいモノをお見せしてすみませんでした。」

「大丈夫だ。俺が悪かった。」

 彼女の痣の辺りに、義勇は、そっ、と親指で触れ、優しく撫でた。動揺と甘い刺激に、ぴくり、とすずなは反応する。虚しさしかなかった首元を、こんな風に意識するのは初めてだった。

「でも、折角、助けて頂いたのに、無下にするような事……」

「気にしなくていい。君の事情だ。」

「……一族の中で、大して役立たなさそうな私を可愛がってくれた祖父に、報いたかったんですけど……」

 自身も右手で首に触れ、少し自嘲気味に言うすずなが、義勇は、ただ、ただ悲しかった。苦味のある擬似感に襲われる。

「やめろ。」

「後ろめたくなる思いは、わかる。だが、もう自分を責めるな。」

 ぴしゃりと制しながら、妙な矛盾を奥底に感じたが、彼女の憂いた朱の瞳に向け、必死に説き放つ。

「君は、悪くない。」

 すずなは、喜びと疑心の混じった、至極切ない複雑な表情をした。彼女の心に刻み込まれた傷は、首の痣よりも濃く、深いのだろうと痛感する。

「役目など…… ただ、居ればいい。」

 今度は訝しげな表情を浮かべた彼女に、義勇は慌てた。変に誤解されたか? やはり、言葉が足りないか。急いで付け加える。

「存在するだけで安らぎを与え、和ませる…… 容易く出来る事ではない。」

「誰も、気付かなくとも、直向きで…… そう、野に咲く、花だ。」

 淀みながらも言い放った後、すずなを見遣ると、彼女は俯き、一輪挿しの桃の花のようになっていた。自ら両手を伸ばし、義勇の背中に細い腕を回し抱きつく。

「……すみません。ご免なさい。もう、もう十分です。有難うございます……」

 少し涙声だった。寡黙で口下手な義勇が、ここまで言ってくれたことが、堪らなく嬉しくもあり、申し訳なさで溢れていたのだ。

 いくら自分が情けなくて惨めでも、もう、むやみに言ってはいけない気がした。後ろ暗い痛みが、別の類いの罪悪に変化した瞬間だった。

 

「貴方は…… あなたの瞳は……紺碧の、澄んだ海のようですね。」

「……以前は、暗い海底に沈んだような色をされていました。」

 少し我を取り戻したすずなは、義勇の頬を両手で包み、想いを込めて、囁く。

「鬼舞辻の所になど行かないで欲しいと、本当は、恥も外聞(がいぶん)も捨てて止めたい思いでした。」

「生きていて下さって、良かった……」

 思いもよらなかった彼女の本音に、義勇は涼やかな碧眼を見開き、呼吸が止まった。

 与えられた余生を、あと僅かの命と思うか、まだ続く生の義務と捉えるか。この一年、その狭間で生きていた。先に逝った戦友を思えば、贅沢な苦しみだとは思う。

 姉と親友への贖罪は果たしたが、利き腕を失い、痣者の寿命という代償を背負った。後遺症に耐えながら、刻一刻と近づく、死と向き合う日々。

 逝く事に迷いはなかった。だが、どうしようもない虚無感に苛まれても、自ら絶つことは決して出来ない。共に闘い、召された仲間と、命懸けで助けてくれた人への冒涜に思えた。

 とは言うもの、自分だけ幸せな思いをして良いのか憚れてもいた。何故、また自分が生き残ったのか、自身の役目とは何かと、何度も繰り返し、内心問い続けていた。

 それでも、この愛しき娘は、生きていて良かった、と言う。にわかには理解し切れないし、弱さなのかもしれない。が、素直に『嬉しい』と、初めて思った。

 彼女の言の葉が、心の水面にひらり、と落ち、今までに無い形状の波紋が広がる。至極切なく、優しい波動に、無性に泣きたい衝動に駆られた。私用の布団に包まれているすずなを、更に強く抱き締める。

 

 ようやく落ち着き出すと、其々、すぐ側にいる愛しい人の存在に意識が集中し始めた。湿度のある息づかい、肌に感じる温もりに、心が解れて満たされていく。この世界で確かに生きているのだと、リアルに実感するようだった。

「……もう、休むか?」

 そろそろ、理性の限界に近づいていた義勇は、抱き合っていた腕を緩め、少し体を離す。

「義、勇さん…… あの……」

「どうした?」

「いえ。ただ、私、おかしくて……」

 上擦った声で呟き、すずなは明らかにまごついていた。微かに身体が震えているのが判る。

「…………?」

「何だかふわふわして…… 苦しくて、どうにかなりそうで……」

 はぁ…… と一息ついて、すずなは潤いを含んだ珊瑚色の瞳を、義勇に向けた。見たことの無い位に蕩ける、熱のこもった朱の眼差しに戸惑い、ごくり、と息を呑む。

「すず、な……?」

「義勇さん……」

 自分の背中を抱く細い腕に、遠慮がちに力がこもると同時に、しとやかに艶めく音色が響いた。

 

「……すきです。」

 

 ──ぞくり、とした強烈で甘い衝撃が、義勇の全身を駆け抜ける。初めて聞く、すずなの情欲に満ちた言葉だった。

 自分の妻になろうとしている人の、女としての変化を察した義勇は、ぐっ、と息を飲み、彼女の肩を掴んで向き合った。再度確かめるように、躊躇いながら問いかける。

「……止まれない、ぞ?」

 そんな彼を見つめながら、すずなは、何時になく恍惚とした表情で小さく頷き、緊張もあるのか、きゅ、と口元を結び、微笑みを浮かべた。

 刹那、義勇の奥底で何かが弾けた。滞留していた覚えのある熱い渦が、瞬く間に激流と化し、全身に襲いかかる。静かに呼吸していた吐息が、微熱を帯び、深くなり始めた。

「…………っ!!」

 きつく目を瞑り、一瞬、迷った後、何時かの蜜月夜(みつげつや)に見た、深い朱が揺らめく瞳を凝視する。

 

 白い浜辺に打ち寄せる小波の如く、少し寄せては、躊躇い退く、という流れを幾度か繰り返す。

 彼女の背に直に左手を回し、(さら)うように、微かに開閉する薄紅の唇を、義勇は自身の唇で被った。

 ずっと乞い焦がれ、求め止まなかった、柔く耽美な感触と、懐かしく心地好い温度に憑かれ、二人は、初夜の帳に沈んだ。




【おまけ噺】

【登場する花の花言葉】
●桃の花→私はあなたの虜、魅力的、天下無敵
***
 今回は、過去最も、心情描写が難しかったように思います。特に、義勇さんは口数が少ないので、状況説明などで補うからか、いい表現が浮かばないわ文字数増えるわで、長々してまとまらない……
 そんな状態ですが、ようやくいちゃつき出しています(爆)(焦れったさは変わりませんが)
 自分の中でスイッチ入って決断したら、急に動き出すのが冨岡義勇、と解釈してますが、見ている方は驚きそうですね(汗)

 双方ともに、自分の傷や望みよりも、相手を思いやり、受け入れて歩み寄る、擦り合わせるのは、とても難しい事だと思います。
自分の傷の深さは自分にしか解らない。相手が根本的に治してくれるのを期待するのは酷なことです。
 完全に理解してもらえなくても、相手が側に居てくれるなら、相手から貰える少しのモノがあれば、自分は自分と闘いながら、痛みも甘受して生きてゆける。そんな関係に憧れます。

 ……なんだか、つらつらと語ってしまいました。すみません。意味不と思ったらスルーして下さい。


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幾千一夜の願

 開花する、生命(いのち)の性(さが)

(※序盤から終盤まで、R-15~R-18程度の性描写がありますので、苦手な方はご注意下さい。最後まで致しておりますが、なるべくまろやかな表現にしました。ただ、境目が微妙で判断できないので、ヤバいと判断されましたら御指摘願います。)

【※設定の濃いオリキャラが登場します。お手数ですが、作品をご覧頂く前に、シリーズ全体のあらすじ概要をご確認下さい。】


 

 二度目の接吻は、何度かゆっくりと角度を変えながら、互いを愛でるように(ついば)むものだった。

 柔く温かい唇が、ちゅ……くちゅ……と重なる度に、其々、恋情と色欲を抑えていた(たが)が、一つずつ外れていく。蕩けるようにまろやかな熱い渦が、じわじわと思考を奪いながら、体全体に沁み渡るのを感じていた。

 彼女の上唇を軽く舐め、義勇が口内を開くよう促すと、すずなは奥に潜めていた舌を自ら差し出す。何時の間にか、互いの求めるものを把握した、恋仲の睦事(むつじ)と化していた。

「ふっ……う……」

 彼女の口元から零れる艶かしい吐息と、花蜜のようなほのかに甘い液に酔いしれる。自分の舌を懸命に受け入れ絡ませてくる、小さな舌の動きが可愛らしくて堪らない。

 互いの唾液が交ざり合い、静かに波打つ妖艶な音色と、次第に強まる心音に合わせ、其々の体に添えた指先に、至極甘い痺れが走る。

 薄目を開け、義勇は彼女の様子を伺った。少し苦しそうにしながらも、すっかり蕩けた朱の瞳に涙が滲んでいる。そんな扇情的な光景を目の前にし、自身の熱も次第に上がってゆくが、慈しみと欲情の狭間で、未だに揺れていた。

 

 互いの口内を揺蕩(たゆた)いながら、いつかの嵐の夜のように、すずなの腰紐を静かに解くと同時に、躊躇(ためら)いながら、義勇は彼女の襟元を緩ませた。以前、手にした覚えのある、柔らかな乳房を手探り寄せると、彼の指先の快い感触に反応し、微かに艶やかな音が鳴った。

「あ……っ……」

 湯浴みで熟れた、彼女の胸元に()る水蜜桃を、そっと掴み取る。節くれ立った義勇の掌にすっぽり収まってしまうそれは、少し指を曲げただけで簡単に形を崩し、しとやかに溶けてしまう。柔い感触を確かめるように、何度か揉み上げた。

 自分の乳房が、そんな風に彼に触られていると意識しただけで、すずなの鼓動は五月蝿(うるさ)く高鳴り、吐息は熱を帯び、更に深くなっていく。

「ふあ……ん……」

 もどかしい甘美な刺激に耐え切れず、羞恥と快楽で震える嬌声が、濡れた口元から漏れる。そんな艶やかな音色が引き金になり、彼女の口内を堪能しながら、一層、意識と力を集中させ、柔い果実を優しく揉み撫でていく。

 義勇の両肩に掴まった状態のすずなは、じわじわと自身を浸食していく、これまで以上の耽美な快楽に打ち震えていた。

 

 乳房の頂に咲く蕾を、くりっ、と指先で弄られた瞬間、びくっ、とした振動が、電流のように走った。以前、触られた時よりも大きな刺激に驚き、重なっていた唇を、すずなは、慌てて力任せに引き剥がす。

「あ、待っ……て……!!」

 脱がされた襦袢(じゅばん)が、申し訳程度に腕に引っ掛かった状態の彼女は、はだけた胸元を両手で隠すように押さえて、薄紅に染まった顔で俯いた。

 突然、愛撫を中断されて残念に思いながらも、そんな可愛らしい反応が微笑ましく、義勇は、敢えて少し、意地悪く問いかける。

「……何故だ?」

「前より、震えます……」

 涙混じりの視線で訴えるすずなだったが、今の義勇には、努め鎮めていた欲情を煽る、生温い追い風にしかならなかった。僅かに口角を上げ、鼻にかかる穏やかな声で返す。

「……それで良い。」

「え……?」

 好いた女を悦ばせられているという状況が、男としては嬉しく、すがるように問いかける彼女から視線を反らした。

 今まで抑え続けていた、経験したことの無い熱量の業火の塊が、狂ったように次々に形を変えて支配してくる。そんな激しい想いを、気づけばそのまま口にしていた。

 

「もっとだ……」

 

 程よく筋のある、彼女の白い太ももを持ち上げ、片膝の上に座らせる。少し驚き、涙の滲む眼で、すずなは彼の顔を見た。義勇の瞳は、何時かの夜と同じく、深い紺碧から萌茂るような蒼色に変化している。

「…………?!」

「少し、手荒くなる……怖くなったら……殴れ。」

 言うが早いが、先程、指先で弄った梅蕾を、そっと口内に含み、舌先で愛撫し始めた。彼女の腰回りに左腕を回し支え、乳房から下腹部へ向かって、柔く滑らかな感触を味わうように、丁寧に舌を這わせる。

「ひあっ……や……あ、あっ……」

 今まで以上に昂る衝撃に耐えきれず、一段と高らかな甘い音が鳴った。激しい羞恥に駆られ、すずなは、思わず口を右手で塞いだ。そんな彼女を見遣り、淫靡(いんび)な欲に溢れた声色で、義勇は制止する。

「……前も言ったが……口は抑えるな。」

「や……ど、うして、です……か……?」

()い声だ……聴いていたい……」

 低音に響く雄の音が、すずなの耳に艶かしく響く。そんな彼の変化に、どくん、と芯から震えたが、ふるふる、と首を左右に振り、必死に抵抗した。

「や……はしたな……です……」

「俺しかいない……大丈夫だ。そんなに嫌か……?」

「…………!!」

 少し不満気に見つめてくる彼に、すずなは困ったように眉を下げた。求められるのが嫌な訳ではない。ただ、至極淫らな姿を曝しているだろう、今の自分を受け入れられないのだ。

 未だ躊躇うすずなの右手首を、義勇はそっと掴み、捕らえた。左手は自身の体を支える為に、彼の肩に乗せているので抵抗出来ない。

 彼女の右手に優しく唇をあて、再び、水蜜桃のような膨らみに咲く蕾に、ぱくり、と喰らいついた。

「ふあっ……?! や、あぁ……ん!!」

 唇や舌を動かす度に鳴り続ける、愛らしい喘ぎ声に気を良くし、義勇は速度を上げた。熟れた果実から柔い下腹部までに口付けては啄み、舌を這わせ優しく舐め上げる、という動作を、小波が幾度も反復するように繰り返す。

 事が満ち足りれば、仄かな灯に照らされ、真珠色に艶かしく揺らめく、細い首筋、鎖骨部分にも濡れた唇をあてる。既に、蕾は膨らみ、今にもふくよかな紅い花を咲かそうとしていた。

 

 

 暫し経ち、とうに()の刻は過ぎた頃。湿度を帯びた呼吸を繰り返し、息絶え絶えに懇願する、すずなの声が響いた。

「……ぎ、ゆさん……それ……も、駄目、です……」

「駄目なのか? 良いのだが……」

 彼女のしっとりした柔い身体と、可愛らしい反応をもっと味わいたくて堪らない、という欲情に呑まれていた義勇は、するり、と本音を溢した。

 少し汗ばんだ彼女の身体から、蜜糖のような魅惑的な香りが漂い、酒に酔わされているような感覚になる。

 間髪入れず与えられる快感に耐え切れないすずなは、義勇の胸元に顔を擦り付け、自身の口を塞ごうと考えた。少し強引に体を傾け、彼の緩んだ襟元を、自由の利く左手で、少しずり下げる。

 

 ──上がっていた呼吸が止まった。すずなの()に映ったのは、義勇の体中に刻まれた、無数の傷痕だった。

 打ち身のような青黒い痣や、治り切らず盛り上がった斬られ痕、出血が止まらず傷を焼いた時の、火傷の赤黒い痕……

 (あま)りに痛々しい光景に、攻められていた事を忘れ、すずなは、涙混じりの(まなこ)を盛大に見開いた。すっかり蕩けていた桃色の顔を、くしゃ、と歪める。

 この数を超える凄惨な夜を、彼は潜り抜けてきたのだと思うと、心臓が掴まれるような苦しみが走ったのだ。

 左手の薬指に光る、瞳と同じ紅珊瑚の護り石に、祈るように軽く口付けた後、傷痕一つ一つをゆっくりと指先で撫でた。両の(まなこ)から大粒の水滴を溢しながら、少しでも和らげば、と懸命に精神を込める。

 

 思いがけない彼女の行為に、今度は義勇の方が驚愕した。燃え滾っていた頭は一気に冴え、代わりに別の焦燥に駆られる。

「おい……?! もう痛くない。大丈夫だ。」

 今にも、治癒能力を発動させようとしているすずなを、上擦った鋭い声を上げ、何とか制止しようとした。代償で、彼女の体に負担がかかるのは承知だったからだ。

「…………っ!!」

 焦りと情欲の狭間で揺れた末、彼女の二の腕を左手で掴み、強引に押し流した。華奢な身体に覆い被さり、敷き布団に組み倒す体勢になる。

「…………?!」

 驚いて茫然とした表情を浮かべ、困惑した様子のすずなに向かって、喉奥から絞り出すように、言葉を溢した。

「やめろ…… 頼む……」

 隣に自身も倒れ込み、ほぼ一糸纏わぬ姿の彼女を、腕も足も全て絡め、全身で抱き締める。

「君だけは……俺の犠牲になるな……」

 こもった声で懇願するように吐く、義勇の身体は微かに震えていた。すずながそっと見遣ると、彼の蒼の()にも涙が滲んでいた。詳しい事情を知らない彼女は、戸惑いながらも優しく、彼の頬に手を当てる。

「犠牲、じゃありません…… 望んでする事です。」

 納得いかないとばかりに、形の良い眉をしかめ、義勇は顔を歪めた。

「義勇さんが悲しむのは……人の痛みばかりですね。」

 嵐の夜。自分の独白に、彼が悲しみの怒りを表した事を、すずなは思い出していた。水柱としても、夜桜の儀式で再会し、共に過ごした日々でも、自身の痛みで悲しむ様子は見たことが無い。

「……それは、君だ。」

 何のことだろう、と言いたげな彼女に、義勇は説き放つ。

「傷つけられたら怒れ。もっと自衛しろ。」

「……怒りたい、ですが、どんな風に表したら、良いか判らないのです…… 義勇さんも、怒り返すというのは、苦手でしょう……?」

 怒り方を知らない。自身の守り方がわからない。生い立ちと経験の影響なのだろうか。それでも、他者の為になら何でもしようとする彼女が、非常に心配だった。

 が、同時にいとおしくもなっていた義勇は、図星を突かれたと、呆れ半分に観念し、ようやく少し微笑んだ。

「……なら、以前のように、俺に吐け。」

「では…… 私も……」

 嬉しそうに呟いた後、すずなは、彼の広い胸元に顔を埋めた。薔薇色の小さな舌で、傷痕一つ一つを労るように舐める。擽るようなもどかしい悦びが、義勇の身体でざわめいた。

「以前、あなたがしてくれたのが……嬉しかったので……」

 また、新しい形の波紋が、心の水面に幾つも広がる。切れ長の蒼の眼を盛大に見開き、再び熱を帯び出した顔で、義勇は彼女に向き合った。この女性は、何時(いつ)もこちらの度肝を抜き、不意討ちに淡い光で包むような言動をする。

 そんな彼の強い眼差しから目を反らし、はにかみながら、すずなは続ける。

「これでは、治りませんが……」

 少し申し訳なさそうに言う彼女の身体を、再び抱き締め、きつく目を(つむ)る。湿度を帯び、しっとりとした柔らかな感触。血の通った温かい素肌から、とくとく、と愛しい生命(いのち)の音が聴こえる。

「……すずな。」

 羞恥と動揺、再燃しつつある激情の合間で揺れていたが、やがて、左手で彼女の頭を包み、丁寧に名を呼んだ。戸惑いで揺れる唇を(さら)い、自身で深く沈め、捕らえた。

 

 

 ──蜜月夜(みつづきよ)に潜む魔術は、心の奥底を少しずつ掻き出し、個を甘美に溶かし、交じる。

 暗闇で影がぼやける分、純白の布地が大きく波打つ様は、鮮烈に冴える。

 幾度も蕩けては呑み込み、この瞬間を逃すまいと、深く沈める……

 

 

 行灯(あんどん)の灯りは、何時の間にか消えていた。下腹部から全身に広がる、生まれて初めての鈍痛に耐えながら、亜麻色の髪を乱して、愛しい人にしがみつく。彼の汗ばんだ広い背に、すずなは、懸命に細い指を掻き立てていた。

「はっ……あ、好……きです……ぎゆさ、ん……すき……」

「辛くないか? 痛まないか……?」

 何度も労る問いかけをする度、安心させるかのように、彼女の額や頬に、義勇は濡れた薄い唇を何度も当てる。ひたすら自分を気遣う彼に、いとおしさが胸奥を締め付け、すずなは、もどかしく苦しかった。

 自分でも見たことのなかった秘所に触れられた身体は、すっかり熱く火照り切っている。蕩けるような思考の中、彼の燃える蒼の()をしっかりと見つめた。恥じらいの中に懇願を含んだ声を、喉奥から振り絞る。

「……好きに、して……く……ださい。」

「何、を言っ……」

 彼女の真意が判らず、義勇は戸惑った。詰まる息を呑み込む。

「もう、大……丈夫です、から……あなたの、望む……まま……お願……い……」

「やめろ!! 煽るな……!!」

 彼女の言わんとしていることを察した瞬間、義勇は頬を一気に燃やし、惑う視線を反らした。

 が、すずなは、その肩に額を精一杯擦り寄せ、すっかり力の抜けた身体で、彼女なりの渾身の欲を、唇から発した。

 

「私が……野花なら……」

 

「──あなたに、摘まれたい。」

 

 

 ────────…………

 

 

 それからの記憶は、朧気だった。自我は何処(どこ)か彼方へ去り、がむしゃらに彼女の全てを曝し、奪い取り、自分だけのものにしてしまいたい、という獰猛な獣のような塊が、自身を乗っ取っている感覚に、始終、義勇は襲われていた。

『これでは、彼女を執拗に狙い、喰らう、鬼と変わらないな……』

 時折、微かに甦る理性が、そのように自分を自嘲的に見ていたようにも思う。

 一方、すずなは、幾度か反転する視界に戸惑い、その度、思い出すと羞恥で震えるような、未経験の体勢になった事を覚えていた。

 先程、指で触れられた秘所に、彼の熱い吐息を感じた。甘噛みのように激しく口吸われた跡を、胸元だけでなく背や手足、首筋に幾つも残された。決して離さないと主張するかのような、古傷に沁み込むように刻まれた刻印。

 この人は、存外、熾烈(しれつ)な情を胸内に秘めているのかもしれない、と何度も遠退く思考の中、すずなは思った。強烈で耽美な衝撃が、何度も全身を貫く度に、苦しくて堪らないのに、こんなにも至福に溢れる痛みがある事も知った。

 粘のある温かい水流が自身の内に溢れ、(まぶた)の下で真っ白な閃光がほとばしる中、癖のある艶やかな黒髪が擽る耳元で、

 “すきだ。”

という、囁くような甘い音色が、薄れゆく意識の中で、幾度も聴こえた気がした。




【おまけ噺】
 今回の話タイトルは、アラビアンナイトの『千夜一夜物語』から捩りました。『千一夜物語』とも称するそうです。
 お姉さんと錆兎を亡くして、鬼殺隊に入ってからの義勇さんにとって、夜というのは、鬼が絡んだ残酷な事柄に向き合ったり、悲しい記憶が蘇ったり、自責に苦しんだりと、まさに拷問のような時間でしかなかったと思うのです。(炭治郎や他の柱も皆そうですね……)
 決戦が終わってからも、安心して普通に眠れるようになるまで時間がかかったでしょうし、妻になる人と愛し合う幸せな夜、なんて考えもしなかったはずです。
 状況は違いますが、シェヘラザードが語った物語のように、彼にとっては御伽噺並みに、非常に耽美な一夜になることを表現したくてつけました。
 一々、ここで説明するのもどうかなと思ったのですが、意味不に思った方もおられると踏んで、弁解しておきます。

*********

 ようやく、結ばれました(苦笑)一応、恋愛小説と謳っているのと、上の解説でもありますが、かなりハードル上げてしまったので、持てる力をフル稼働させて、何とか書き上げました。
 とはいえ、以前もでしたが、濡れ場の描写に不慣れな上、義勇さんが雄味強くなる過程が難しくて、必死に妄想したら爆発しまくりました……
 初めは、前回と同じR-15位の描写で、と思って書き始めましたが、段々、予定より盛り上がってしまったので、抑え方にも悩みました。なんちゃってな未熟な仕上がりだと思います。すみません……

 この物語を書く動機である、『義勇さんに(筆者なりの)ご褒美(救いと愛)を』プロジェクトも佳境に入りましたが、まだ、もう少し続きます。
 ここまできたのに? と思われるかもしれないですが、幾星霜の未来に繋ぐという、仕上げがまだ残っているのです。
 ただ、救いを~なんて、大層な太鼓判売ってしまった割に、何が義勇さんにとっての救いなのか、書いているうちに解らなくなる時があります(汗)
 ただ、彼が幸せに命を全うして、何かしら遺すものがあるよう、うちのヒロインと一緒に頑張っていきたいとは思っております。
 毎度ながら、ここまでお付き合い下さり、本当にありがとうございます!


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 鈴生りの光が、成る。

(※直接的な場面はありませんが、性的な単語や表現が出ますのでご注意下さい。)

【※設定の濃いオリジナルキャラが登場します。お手数ですが、作品をご覧頂く前に、シリーズ全体のあらすじ概要をご確認下さい。】


 屋敷中に、白金色の淡い光が差し込み、義勇は眩しさで眼を開けた。やけに神々しい光だ、と感じた瞬間、左腕の柔らかな重みに気づく。

 どこか艶のある無垢な表情で、安らかな寝息をたてているすずながいた。彼女の後頭部越しに、なんとか指を伸ばし、蜜蝋色に透ける柔らかな髪や、すべやかな白い頬に、そっ、と触れる。

『嗚呼……温かいな……』

と、心から安堵した途端、ぎゅっ、と目頭が熱くなった。愛しい人が、目の前で息をしている。温かい血が通っている。それが、どんなに素晴らしく尊いのかという事を実感し、視界が水の膜で揺らぎ、霞んだ。心無しか、身体の奥底からみなぎるように、熱く激しい力が、次々に湧いてくる気がする。

「義……勇さ、ん……?」

 気配に気付き、ゆっくりと(まぶた)を上げ、ぼんやりと目覚めた彼女を見つめ、ずっと揺れ動いていた心を固める。

「すずな。」

「君を、俺に……護らせて欲しい。」

 もう、迷いはなかった。与えられた時間が、あとどれだけなのか判らない。が、残りの命を全て懸けると、自身に誓うように呟く。

 

 一方。改まった様子の彼の言葉に、まだ意識が朧気だったすずなは、耳を疑った。

「……今、何て?」

「『幸せ』を、君に贈りたい。」

 聞き慣れない言葉の連呼に、何かのまじないの呪文だろうか、と寝惚け気味の頭で、すずなは思った。反射的に、思っている事が零れる。

「……もう、充分、幸せですよ?」

 何故、突然、彼がそんな事を伝えてきたのか解らず、不思議そうな表情を浮かべている彼女を見て、義勇は戸惑い、自省した。

「……いや、そうではなく…… すまない。唐突だった。」

 腕の中で横になっているすずなに、自身も寝転がったまま向き合い、改めて、澄んだ珊瑚色の瞳に誓うように、口にした。心無しか、彼女の瞳の憂いは、霞む程までに薄れていた。

 昨夜の蒼から何時もの紺碧に戻った、愛しい人の瞳の煌めきが眼前に迫る。そんな状況に、すずなは動揺し、見惚れた。

「君を、幸せにしたい。これから、もっと。沢山。」

 花束を抱えて求婚に来た時や、初夜の床に入る前、自分に賛辞の言葉を述べた時よりも、ずっと精悍で、毅然とした顔付きをしている彼の様子と、真剣な言葉の意味を理解した瞬間、すずなの胸奥が、ぎゅっ、と詰まった。

 喜びというのは、時として、心を締め付ける位の苦しみを伴うのだと、初めて知った。両の朱の硝子玉が、つうっ……、と温かな水滴を含み、伝い流す。

 それを、そっと、吸い取るように義勇は口付け、温かな布団の中で、彼女を全身で抱き締めた。慈しみ、護るように素肌と素肌を擦り合わせ、一つの命をいとおしいと想うとはどういう事かを、改めて実感していた。

 

 

 微睡みの中で幸福感に蕩けていた二人は、次第に空腹を感じ始めた事で、ようやく、意識が現実の領域に戻ってきた。

「……腹が空いたな。少し遅いが、朝餉にしよう。」

「あ、それは、私が……」

 すずなは、慌てて起き上がろうとしたが、全身がぐったりして、手まで力が入らない。そんな彼女を見て、昨夜の自分の所為が甦り、義勇は、全身の熱が一気に上がった。

「まだ、休んでいて良い。随分……無理をさせた。」

「ですが……」

「出来たら、こちらに運ぶ。待ってろ。」

 そう言って、申し訳程度に襦袢(じゅばん)を羽織った半裸姿のまま、急ぎ逃げるように寝室を出て入った彼の背中を、同じく熱をもった顔で、すずなは見とれていた。

 

 食欲を湧かせる良い匂いが漂ってきた頃、味噌汁と卵焼き、昨日握り飯にした白飯の膳を、義勇は寝室まで運んで来た。布団から少し離れた場所で、何時かのように、二人は向かい合って朝餉を食べる。

「……そう言えば、君の事を何も知らないな。」

 少し寂しそうに、義勇は呟く。自分を妻となり、これから共に暮らしていくのだから、彼女の事がもっと知りたいと思った。

「……好きな料理は、何だ?」

「えっ、と……」

 あまり意識して来なかったのか、口ごもるすずなだったが、暫し後、思い出したように溢す。

「……あ、お豆腐…… 特に、高野豆腐が好きでした。」

「そうか。」

「あと、(かぶ)に思い入れがあります。」

「蕪……?」

 あまり聞き慣れない食材の名に、義勇は不思議そうな声色で返した。

「……『スズナ』という花が実をつけると、蕪になります。やせた地でも育ち、とても滋養があることで、昔から神を呼ぶ食材と言われているそうです。」

「離縁した植物学者の父が、いずれ神職に就く私に、と名付けたそうで…… 験担(げんかつ)ぎをしたい時は、必ず食べるんです。」

 少し言い淀みながらも切なげに微笑み、また一つ、自分の事を明かしてくれたすずなを、義勇は嬉しく思った。

「……良い名だな。」

 思わず、優しい声色で返す。厳しい地でも健気に生き、治癒をもたらす実を成す花。彼女を形容している名だと思った。

「義勇さんの名前、素敵な字面だと思ってました。由来はあるのですか?」

「……俺も父が付けたと聞いたが、意味は知らない。物心ついた頃に病死したから、未だにわからん。」

「『義を見て為さざるは勇無きなり』」

「何だ? それは……」

 聞き慣れない言葉を、さらり、と口にする彼女に、義勇は呆気にとられる。

「いつか読んだ書物にありました。確か、孔子の論語だったでしょうか…… 『人として為すべき義を知りながら、実行しないのは勇気が無いからである』という意味です。」

「……確かに、俺は、意気地が無い。」

「違います。逆です。あなたは、常に忠義に溢れ、勇気ある事ばかりされてきました。避けることだって出来たのに、敢えて、茨の道を痛ましい位に歩かれて来た。そうでしょう?」

 『買いかぶり過ぎだ。』という言葉を喉に詰め、照れ臭さで居たたまれなくなった義勇は、俯いて味噌汁を飲み切る。この女性(ひと)は、自分を誉め殺しにでもするつもりなのだろうか、と思った。

 『違う。そうじゃない』と何度否定しても、常に真っ直ぐな、信頼の眼差しを向けてくる彼女が眩しすぎて、たまに申し訳なくなる。

「お父様の意図は分かりませんが、あなたにぴったりの名だと思います。」

 至極幸せそうに、ふわり、と淡い虹のように、すずなは微笑んだ。儚いのに、目映(まばゆ)い。見ているだけで心が安らぎ、力が再び宿る。自分の妻となった女性は、今更ながら、本当に不思議な人だと、義勇は思った。

 

 

 食事を済ませた二人は、汗を流そうと、交代で湯浴みをすることにした。片腕の義勇を案じ、すずなは、それとなく気を回す。

「何かお手伝いはありますか?」

「気にしなくて良い。ずっと一人でやってきた。」

「……妻として、あなたのお役に立ちたいです。」

「炊事や洗濯で、充分だ。」

「……例えば、火興(ひおこ)した後、お背中を流します。洗い(にく)いでしょう?」

『……背中を、流す?』

 瞬間、彼女から顔を反らし、義勇は努めて精神を凪いで落ち着かせたが、耳まで紅く染まっている。

「……着物のまま、風呂に入るのか?」

「…………?!」

 自分がとんでもなく大胆な提案をしていた事に気づいたすずなは、義勇の何倍も顔を真っ赤に染め上げ、蚊の鳴くような声で、「いえ……」と答えた。

「……ゆっくり休んでろ。」

 その場から逃げるように足早に去ったが、『夫婦というのは、そのような事もするものなのだろうか。』と思った。途端に、妙にこそばゆい、糖蜜のように甘い感情が、ざわめくように泡立つ義勇だった。

 

 

「急いてすまないが、祝言の日取りは、如何(いかが)しよう?」

 其々、湯浴みを済ませ落ち着いた後、早速と言わんばかりに、義勇は、向かい合って提案した。時間が急いている為、少し慌ただしく無粋にも感じたが致し方ない。

 しかし、別の不安材料が、すずなの内にあった。身寄りを無くした後の彼女は、蝶屋敷での臨時診察と神事の奉納代という、産屋敷家からの給金と、皮肉ではあるが、主に、自身の能力で得た金銭、宝飾品などの実家の財産を、少しずつ売却して賄われていた倹約生活だった。その為、白無垢や改まった嫁入り道具一式を、新調して持参する余裕は、とても無かったのだ。

 そのことを、すずなは言いにくそうに義勇に相談すると、『全て、俺が手配する。』と即答した。

「そんな。申し訳ないです。」

「気にするな。俺の為でもある。」

「……どういう事ですか?」

「いや、少々、思うことがあってな……」

「…………?」

 心配そうに自分を見ている彼女の姿に、心の中の重みが、少し掻き出されるような衝動に、義勇は駆られた。

「……以前、姉がいたと、話したが。」

「祝言の前夜に、鬼に殺された……俺を庇って。」

 この話を口にする時は、まだ、心が痛む。至極辛そうな表情で語る、初めて耳にする彼の悲しい過去に、すずなは、思わず口元を押さえた。長年慕っていた人の、今も消えない心の傷が、少し解った気がした。

「……だから、せめて、君には豪華な白無垢を着て欲しい。きっと、よく似合う。」

「……はい。有難うございます。」

 これ以上の遠慮は、逆に彼の気持ちに水を差すような気がしたすずなは、義勇の言葉に甘えようと微笑み、了承した。

 

 

 数日後。以前、すずなと訪れた商店街に、一人買い出しに出た義勇は、何時もの食材の他に、鮭と大根を買った。明日、産屋敷邸に赴き、所帯を持つ事になった報告をすると決めた義勇は、『今夜は、以前交わした、例の約束を果たす日にしないか。』と、彼女に提案したのだ。

 夕刻に帰宅して早々、張り切って調理を始めたすずなは、『今日は、火興しから全部一人でやりたいです。』と言って聞かなかった。初めて鮭大根を作るという彼女の様子を、義勇は心配そうに、ちらちらと隠れながら伺う。

 宵に落ちた頃、良い匂いを漂わせながら並んだ鮭大根を、義勇は瞳を輝かせながら頬張った。よく煮込んだ鮭と大根から、醤油と具材の出汁が混ざり合って口一杯に広がり、更に、彼女らしい素朴で優しい風味が加わる。ほっ、と心が温まった瞬間、紺の着物の膝に、ぽたり、と滴が落ち、染みが付いた。

「…………?!」

 自分の眼から、一筋の(しずく)が垂れ落ちていることに、義勇は驚いた。慌てて手の甲で拭う。

「あの、何か良くなかったですか? すみません。」

「違う。とても美味い。だが、何故……」

 狼狽えるすずなを他所に、ぽこん、ぽこんと、静かに湧き出る泉のように涙が止まらない。女性の前で泣くなど、男としてあり得ない、と激しい自責に駆られた。が、反面、そんな自身が可笑しく、妙に笑えてもくる。

 

 今まで鮭大根を食べて、こんなに不可思議な状態になったことはなかった。鬼殺隊に入った後も、好物である此れを食べる時は高揚し、嬉しく思える貴重な時間だったが、こんなにも切なく、温かい想いが、次々に溢れてくることはなかった。締め付けられるような懐かしい感覚もあるが、また違う幸福感が生まれては流れ、全身に満ちる。

 困惑しながらも隣に寄り添い、そっ、と手拭いを差し出し、彼の頬に流れ続ける水滴を、すずなは優しく拭った。

「……有難う。」

 至極穏やかな笑顔を浮かべ、義勇は彼女を見つめた。心配そうに自分の様子を伺う、彼女の顔を見て、流星のような眩い光が、脳裏に幾つも瞬く。

 ──身体中に、新しい息吹を感じる……温かい……瑞々しい水流……

『もう、何かが変わる事など無いと、思っていたのにな。』

 時は巡っていたのだ。確実に。あの最後の闘いで、自分の全て……人生は終わったと思っていた。後は、そのまま一刻一刻を受け入れ、ただ日々を重ねながら、命尽きるまで待ち、生きるだけだと。

 

 この人と過ごしてゆくうちに、いつの間にか、新しい命の源に身を委ねていたのだ。側にいて欲しい、とは思ったが、ずっと探していたのかもしれない。温かく、新たな目映(まばゆ)い光、道筋を……

 神の存在や運命など信じていなかったが、奇跡のような確率で、彼女と出逢えた事だけは、これから何が起こったとしても後悔はしない。いや、しないよう残りの人生を精一杯生きると、義勇は、自身を鼓舞した。




【おまけ噺】
 今回も、一応進展はしていますが、恋愛以外の動きも、やっぱりスローですね (苦笑) あれだけ心が壊れてしまった人が、人間らしい感情を取り戻すのは簡単にはいかないだろうなぁ、とは思ってましたが……すみません。難産というやつです。
 『幸せ』は、一人一人違った形があると思いますが、義勇さんが、今までの人生の中で失ったものだけじゃなくて、散々苦しんだからこそ、実感できる温かさや、得られた幸せもあることを願います。
 二人の新婚生活のエピソードなどは、もっと掘り下げて書きたいのですが、延々と続いて蛇足になってしまいそうなので、そちらの方は外伝として、別に書いていこうと考えています。


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