ヒットマンに憧れて (エタノールの神様)
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プロローグ
きっかけ 天皇賞(春)


「4コーナー回ってライスシャワーが先頭にたった!あーやっぱりこの馬は強いのか!」

 

実況の杉元アナウンサーが興奮している。それだけではない。場内がどよめいている。92年の菊花賞でもない、93年の天皇賞(春)でもない。このどよめきは、ライスシャワーへの祝福、勝ってくれという願いから生まれたものだ。

 

「ライスシャワーが先頭だ!ライスシャワー先頭!ライスシャワー先頭!」

 

皆ライスシャワーを見ている。不調を乗り越えて、悪役の罵りを越えて、先頭を駆けるライスシャワーを見ている。

 

「インターライナー来る!内からエアダブリンが差を詰める!ライスシャワー完全に先頭だ!ライスシャワー完全に先頭!」

 

皆の視線の先にはライスシャワーがある。ライスシャワーが懸命に走っている。

 

「外からステージチャンプ!外からステージチャンプ!ハギノリアルキング来た!ハギノリアルキング来る!」

 

脚色が鈍ったライスシャワーを見て皆不安になる。応援の声に悲鳴が混じる。

 

「ライスシャワーが完全に先頭だ!外からステージチャンプ!」

 

外から驚異的な末脚でステージチャンプが上がってきた。逃げ切れ!逃げ切るんだ!がんばれライスシャワー!そんな声がスタンドのあちこちから聞こえてくる。

 

「ステージチャンプが二番手に上がったぁーライスシャワー!」

 

実況はライスシャワーが勝ったと宣言、しかしガッツポーズが上がったのはステージチャンプ。

 

「ライスシャワーとステージチャンプ!」

 

1着、2着は写真判定。その結果をみんなが見守る。

 

「やーやったやったライスシャワーです!」

 

どこからともなく的場コールが聞こえる。

 

「おそらくミホノブルボンも、メジロマックイーンも喜んでいるんではないかと思います!ライスシャワー今日はやったー!」

 

おじさんがひとり、騎手の名前を叫ぶ。

 

 

まーとーば!まーとーば!!

 

 

私はその声に重ねて、叫ぶ。

 

まーとーば!まーとーば!!

 

どこからともなく子供の声が重なる。

 

まーとーば!!まーとーば!!

 

それはいつしか、スタンドの観客全体の声となって。

 

 

まーとーば!!まーとーば!!

 

そのコールは、勝ち馬、ライスシャワーが検量室に戻ってもなお、続いた。本当に、アナウンスで制止されるまで。

 

 

 

 

 

私はそのレースで、とある騎手に憧れた。

 

その騎手は、馬に乗ってから、降りるまで、ずっと馬を第一に考えて騎乗する。

 

その騎手は、ウィニングランはしない。走り終わった馬の健康を確認することが優先されるべきだと考えているから。

 

その騎手は、勝ってもガッツポーズはしない。主に頑張ったのは馬であって、騎手は乗って、ペース配分を手伝い、道を示しただけだから。

 

その騎手は、強い。

 

その騎手のかっこよさ、謙虚さは、当時中学三年生の私の進路を150度ほどねじ曲げるには十分な輝きだった。

 

これは、私が騎手になって、愛馬と共にとある海外G1を勝つまでの記録を記した物語。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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ヘリオスとヒメ
最初の仲間、リアルヘリオス


競馬学校での厳しい指導や空腹などの苦難を乗り越え、1999年、私は中央競馬騎手免許の交付を受けた。平地、障害両方である。

 

競馬学校というのは鬼畜の文字がよく似合う厳しい校風で、私の同期でも脱落者が数名出た。その内訳は、空腹に耐えられなかった者、馬とわかり合えなかった者、精神を病んだ者など多岐に及ぶ。私は一年生の時にすでに180cmの高身長でありながら体重を44kgに維持するという、非常に苦しい試練を課せられたが、競走馬の方がもっと苦しいのだと考えると耐えることができた。

 

競馬学校から少し離れたところによく来るラーメンの屋台にはとてもお世話になった。空腹に耐えかねて脱走し、コンビニエンスストアに向かうもラーメンの匂いには逆らえず一杯頂き、脱走がばれぬように走って帰るという所業を週一で繰り返していた。…よくばれなかったものである。

 

一番苦しかったのはあまり筋肉がつかないように運動制限をしたことである。私は入学当初から180cmの大柄であるから下手に筋肉をつけると体重44kgなんぞ簡単に突破してしまう。私の減量は管理栄養士の指導のもと食事量を減らして、しょっちゅう便所に行く方法によって行っていた。空腹の度合いが馬からもわかるくらいひどかったのか訓練馬に飼い葉を薦められたこともあった。案外美味しかった。

 

さて、遂に中央競馬騎手免許を取得した私、飼葉慧は厩舎実習でお世話になった美浦トレセンの中岡次郎厩舎所属の騎手となった。

中岡調教師は人情に厚い先生で、そのせいか中岡厩舎には未勝利馬や条件馬がたくさん所属している。私としては毎週1頭は中岡厩舎の馬がレースに出ているのでレース経験を積むという観点からはとてもありがたい。

 

今はリアルヘリオスという馬に乗せて頂いている。四歳の牡馬だ。

 

「次ウッドチップコースですけど、なにか指示ありますか?」

 

「そうだな、残り800メートルからちょっと強めに追ってくれ。」

 

「わかりました、中岡先生。強めですね。ヨシ!行くぞヘリオス」

 

「ヒン」

 

「そっちは坂路!ウッドチップコースはあっち!」

 

「ヒン!」

 

「柵を飛び越えようとするな!」

 

…この通り、リアルヘリオスはちょっと我が強い。乗り役が気にくわないと言うことを聞かないし、ひどいときは振り落とされる。今は乗り代わりで僕が乗っているが、前の騎手は完全に嫌われて降りたそうだ。

 

こういうときに馬を宥めるのも騎手の仕事。積極的に馬とコミュニケーションを取る努力をし、馬の信頼を勝ち取る。

 

「ブルルっふう」

 

リアルヘリオスはやっと行く気になってくれたようだ。

 

 

美浦トレセンの南調教馬場、ウッドチップコースは一周1600メートル。今から一周半走って、最後の800メートルをちょっと強めに追う。それまでは馬なり。

 

「ヨシ、行くぞヘリオス」

 

走り出しは順調、馬なりに達したヘリオスは歩調軽やかにウッドチップコースを駆ける。乗り心地は良いとは言えないが、その分力強さが伝わってくる。

 

ヘリオスがスピードを上げた。まだ400メートルしか走っていない。手綱を引いて抑える。まだだ、まだそのときではない。落ち着いて走ろう。

 

コーナーに差し掛かる。柵から少し距離をとって曲がろうとするヘリオス。中岡先生から「できるだけ内に寄せて走るように」と言われているので少しづつ内埒に寄せる。ちゃんと注意して走ればぶつかる心配はないことを体感させるようにコーナーを曲がる。

 

反対側の直線に入る。カーブから解放された安堵からかヘリオスが少しスピードを上げた。まだだ、一定を保つんだ。そう言い聞かせるようにわずかにハミを引く。少し耳を絞っている。イラついているようだ。

 

またカーブに入る。今度はヘリオスの方から内に寄っていったから驚いた。恐ろしく呑み込みの速い馬だ。しかし手綱は少し引っ張ったまま。結構行きたがっている。

 

コーナー終わりかけ、残り800メートルとなった。手綱を緩めてゴーサインを出す。少し強めに追う。ヘリオスは解放されたような感じで一気に走り出す。中岡先生から「直線は少し外に出してくれ」と言われているので少し外に出す。…良い調子だ。そのまま…そのまま…ん?ちょっと斜行してないか?ふくれないでくださいますかヘリオス様。これまずいんでないの?あっこれ大変な奴だ。他の馬の邪魔になってないと良いなあ。

 

 

 

とある4月の週末の土曜日。

 

京都競馬場、第6レースは4歳未勝利、芝2000メートル。

 

私が騎乗するリアルヘリオスは一枠二番。中岡先生からの指示は「中団後方で待機、3角下りが終わりかけたら仕掛けろ」。京都の下りから仕掛けるのはご法度じゃなかったっけ…

 

この前リアルヘリオスの血統表を見せてもらった。父ホクトヘリオス、母シャダイカグラ、母父リアルシャダイ。よくよく考えれば奇跡の血量、ヘイルトゥリーズンの3×4。責任感が一気に増す。この馬を未勝利で終わらせてはいけない。心の中のリトル中岡先生が囁く。

 

図らずして、私の目標は初騎乗初勝利に定まった。

 

パドックを終えたリアルヘリオスを厩務員から受け取った。

 

「ちょっとイレ込んでるので気を付けてくださいね。」

 

「わかりました。ヘリオスと一緒に頑張ってきます。ヨシ!行くぞヘリオス。」

 

「ヒン!」

 

ヘリオスの首を撫でる。うん。調子はよさそうだ。

 

だんだん緊張してきた。えっと、ゲートから飛び出すときってどうやってたっけ、差し馬の乗り方ってどうだったっけ、京都競馬場の3コーナーはどう進むのがヘリオスにとって一番良いんだろう、そもそも隣のトマトマトマトは結構強いって噂だったっけ、確か新馬戦レコードで1着入線したけど最初のコーナーで斜行して降着になったんだっけ、隣だから気をつけなきゃ、レース前の震える脚をどうやって落ち着かせてたっけ、この不安がヘリオスに伝わってたらどうしよう…

 

「わっ!」

 

急にヘリオスが跳ね出した。…スキップかな?スキップだよな?

 

あぁそうか、ヘリオスは私の緊張をほぐすために揺らしてくれたんだ。

 

「ありがとうヘリオス」

 

答えはない。ヘリオスはすでに集中している。

 

奇数番の馬のゲートインが終わり、ヘリオスたち偶数番のゲートインが始まる。ヘリオスは2番だから偶数番では最初だ。

 

ゲートインが終わって係員が離れた。

 

「よーい!」

 

ガコン!

 

初騎乗のレース、ゲートが開いた。

 




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覚めない熱気と爆走を

『スタートしました。リアルヘリオス好スタートしかしゆっくりと下げていきます、ハナを切ったのはトマトマトマト鞍上は竹豊、あまりリードはとりませんしかし二番手ジークカイザーに一馬身のリードを取りました。』

 

ゲートが大嫌いなヘリオスらしい飛び出しで好スタートを切った私たちはそのままスッっと後ろに下げた。下げたというよりは飛び出したあと他の馬よりゆっくり加速した感じである。

 

中岡先生の指示通り中団後方に位置どることができ、さらにコース内側を周っている。脚をためるには絶好のチャンスであるが、4レースを走った馬体重612kgの巨大馬が荒らしたのか馬場状態が悪い。ちょっと外にコースを取り直したいが斜め後ろに馬がいて、このまま横移動すると進路妨害になってしまう。

 

ややスローペースで1コーナーを曲がっていく。馬場状態の良いちょっと外側をとるべく、例の斜め後ろの馬が外にふくれたタイミングでこっちもわざとちょっとふくれる。ヘリオスが少し抵抗する。ヘリオスは馬場状態より距離の方が疲労に繋がると思っているのか、それとも木曜の調教で内を走ったら褒められると思っているのか。

 

『さあ、各馬1コーナーを曲がって2コーナーを駆けていきますが先頭トマトマトマトが少しづつリードを広げ始めましたがしかし他の馬はあまり反応しません。ジークカイザー守安照正がペースを上げたのみです。先頭から位置取りを確認しましょう。トマトマトマトが先頭、3馬身開いてジークカイザー…』

 

バックストレッチに入った。この直線が終わったら3コーナー、通称「淀の坂」。中岡先生には坂の終わりがけから仕掛けろと言われているが、すでに内埒一杯に囲まれて抜け出しようがない。どうする。どうすれば良い。

 

ヘリオスの方も耳を絞っている。ヘリオスは前の馬が蹴り上げた土をもろにかぶって冷静でいられる馬じゃない。ヘリオスがかかってコントロールできなくなったら、ここで外に出ようとして斜行してしまったら。ヘリオスはもう23戦して未勝利だ、今年は2月からずっと連闘している。ここで勝ち上がれないと、ヘリオスは終わってしまうかもしれない…

 

いや、集中するんだ。どこか、一瞬でも進路は開けるはずだ。コーナーでも、直線でもその隙を見逃してはいけない。先頭トマトマトマトは3コーナーをゆっくり進むだろう、おそらくそのまま4コーナーまで息を入れて、直線でスパート。ならばこちらは中岡先生の指示より少し早め、坂の下りを利用してロングスパートを掛けてやる。ヘリオスはフラストレーションを溜めに溜めまくっている。これなら。

 

『…7番手に2番リアルヘリオス関東馬、続いて10番のブレザームーン、その横に4番のコメノカケユがいて、後ろに5番ゴールドツアー、並んで11番のダンツアサシン、最後方8番のトライピオで先頭から殿まで17馬身開いていたのが3コーナー入って縮まっていきます!』

 

3コーナーの坂に入る。ヘリオスも他の馬と同じようにペースを落とすまいと力んで行く。私は登りで力まないように手綱を引く。ヘリオスの耳の絞り方が変わる。今まで泥をかけてくる前の馬に向いていたヘリオスの怒りが鞍上の私に向いた。ヤバい。今指示聞いてくれたら後で角砂糖あげるから。勝ってくれたら2倍あげるから。今は言うことを聞いてくださいヘリオス様。聞いてくれたら勝たせてあげるので。

 

坂の下りに入る。まだ進路は開かない。ヘリオスは未だ私に怒りを向けている。ヘリオスが他の馬を威嚇してくれたら簡単に進路が開きそうなのになあ…何て軟弱な考えをしてしまう。仕方ない。横目で後ろを確認。ちょっと空いてる。少し強引だが今ならいけるかも。

 

手綱を一気に緩めて、鞭を持っている方の手でゴーグルを拭う。調教の時にヘリオスに勝手に思い込まれたスパートの合図。するとヘリオスが尻からロケットを噴射したような加速度でスパートしていく。こんな馬がなんで今まで未勝利だったんだ。もっと早く勝ち上がって朝日杯とか弥生賞を勝っていてもおかしくない。そう感じさせるには十分なスピードで二番手集団まで上がっていく。

 

『トマトマトマトは依然3馬身のリードを保ったまま、ジークは一杯になって後退していく、しかし後方からなにか1頭スッと上がってきた、リアルヘリオスだ!鞍上は今日が初騎乗の飼葉慧!しかし依然トマトマトマト先頭で第4コーナーをカーブして最終直線へと入っていきます!』

 

さあ行くぞヘリオス!今日とるのはいつもの二着じゃなくて映えある1着だ!カーブの遠心力を利用して馬場状態の良いコース中央を走るぞ!斜行しちゃダメだ!そっちは観客席!まっすぐ進むんだ!

 

『先頭はトマトマトマト!トマトマトマト!しかし二番手にリアルヘリオスが居る!左に斜行しているが取り直した飼葉慧!さあリアルヘリオスが追いかける!!届くか、トマトマトマトに届くか!』

 

ヨシ立て直した!良い子だヘリオス!そのまま行くぞ!気合いいれた方がいいか?鞭をいれた方がいいか?いれるぞ!それイッパーツ!

 

『さあ届くか、届くか、並んだ!並んだ!そして今ゴールイン!』

 

 

 

 

勝てたのか?差しきれただろうか?いや、そんなことよりヘリオスは大丈夫だろうか?

 

 

「1着2着は写真判定です。着順が確定するまでお持ちの馬券は捨てずにお持ちください。」

 

ヘリオスの呼吸、歩調共に問題無さそうだ。ヨシ、検量室まで行こうヘリオス、後で角砂糖をあげよう。勝ってくれたからリンゴもあげよう。この前青森の親戚がくれた高級品だぞ。

 

竹豊がウイニングランをしてない辺りヘリオスが勝ったのだろうか?少なくとも竹豊に敗けを実感させるくらいには走れたということで良いんだろうか。

 

「ブルルル」

 

「あっごめんよヘリオス、ちょっと考え事してて…」

 

俺の上で変なことを考えるなとばかりに嘶くヘリオス。私たちはそそまま後検量に向かった。

 

 

検量中、竹豊騎手とお話をすることができた。

 

「お疲れ様、慧くん、すごい追い上げだったね。差しきられたかと思ったよ。」

 

「ハハハ…」

「まだ審議してるね。どっちが勝ったのかな。」

 

あの竹豊からの「勝ち負け」に関する話題。どう答えれば良いのか。ゴール板の地点でほぼ差はなかったのだからあまり謙遜してはいけないのかもしれないし、竹豊様の手前、不遜な発言をしてはいけない。どう答えるのが良いのだろうか。

 

「僕はね、まだトマトの方が残ってたと思うよ。」

 

「えっと…好き嫌いの話ですか?」

 

「どうしたらそうなるの?」

 

ヤバい。完全に間違えた。どう考えてもレースの話で、豊さんが言った「トマト」は競走馬の「トマトマトマト」であってナス科のトマトではない。

 

「慧くん、深呼吸深呼吸。」

 

そうこうしているとアナウンスが聞こえてきた。

 

『6レースは次のように確定しました。1着、トマトマトマト、勝ち時計1:59.7。2着リアルヘリオス、ハナ差。3着トライピオ、5馬身。4着…』

 

「おめでとうございます、竹先輩。」

 

「ありがとう慧くん、君も頑張ったね。」

 

「頑張ってくれたのはヘリオスです。僕は乗っかって指示を出した重りに過ぎないです。」

 

初騎乗初勝利は成らなかったが、リアルヘリオスを勝ち上がらせるためのヒントが見えてきた気がした。

 

 

 

ところで私はリアルヘリオス専属みたいなことをしていて良いんだろうか?リアルヘリオスが早く勝ち上がってオープン馬になる…というより菊花賞の出走権を獲得してしまったら血統から見ても成長から見ても菊花賞に行くだろうからそしたらヘリオスから下ろされちゃう…

 

そんなのは嫌だ!ヘリオスの主戦は私だ!絶対に菊花賞までにかちあがらせて僕もそれまでに32勝を上げるんだ!これは絶対だ!確定事項だ!誰がなんと言おうと諦めないぞ!えいえいおー!

 

 

などと心のなかで叫んで居ることは中岡先生にも竹先輩にも丸見えなことも知らず、一人奮起する私であった。

 

 

 

 

 

 

 




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暴脚DASH~新人騎手は狂気の馬を卸しきれるか~

私は今週の平日にリアルヘリオス以外の馬の調教にも行っていた。無論中岡厩舎の競走馬ではあるが、ヘリオスと違って一般的な競走馬ではない。

 

何を隠そう、暴れ馬だ。

 

名をセンリノヒメという。四歳の牝馬で、父は気性難サンデーサイレンス、母はフライングローパス、母父は狂気の馬ディクタス。ご存知、勝たない馬ステイゴールドと父、母父が同じである。

 

私は競馬学校にいた頃、ステイゴールドのレースを何度かテレビで見たことがある。騎手に絶対に心を開かない、開いてやるつもりのないプライドの高い馬という印象が強かった。私の同期に芝浦という奴がいて、馬とうまくコミュニケーションをとれずにやめてしまったのだが、なんとなくそれに似ている。芝浦はかなり努力し、訓練馬とコミュニケーションをとろうとしてたまたますべてのアプローチが裏目に出た可哀想な状況であったが、熊沢騎手とステイゴールドの場合は熊沢騎手がどんなに譲歩してもステイゴールドがはねのけているように見えた。

 

それとかなり似通った血統の馬に私が乗るのである。先週まではヘリオスと同じ騎手が乗っていたが、こちらもヒメに完全に嫌われて降りたそうである。

 

水曜に交代して初めて騎乗しようとした際に蹴りが飛んできて焦ったものである。センリノヒメは感情が読みづらい馬で、本当に何を考えているのかわからない。トレセンに居るときは常に暴れている感じで大人しいのは猫が馬房に持ってきたネズミを嬉々として踏み潰しているときくらいである。私はヒメに乗ることがサイコパスの手綱をとることとあまり変わらない気がしてその夜は眠れなかった。結局その後、ヒメの調教は怖くて乗れなかった。いや、乗らなかった。…それに比べてヘリオスのなんと優しいことか。

 

そして今、京都競馬場第8レース、4歳1600万下、牝馬限定の芝1800メートル。

 

『今ゲート前の映像ですが、未だにセンリノヒメがゲートインを嫌がっています。飼葉騎手と町山厩務員が必死に引っ張っていますが一向に動く気配がありません。』

 

厩務員からヒメを受け取って返し馬をしたは良いが、ゲートインを嫌がり全く動かなくなってしまった。泣きたい。

 

ヘリオスと違って、ヒメはご褒美を用意するという方法では言うことを聞いてくれない。ヒメ自身が納得するまで動いてはくれない。ヒメはしっぽ引っ張ったらキレるから通常の方法が取れない。どうしたら良いの(涙)?

 

厩務員さんが引っ張ってくれてるけど一向に動く気配がない。どうしよう。このままじゃヒメが競走除外になっちゃう。馬上で土下座でもしてみるかな?

 

「お願いします動いてください絶対に走りの邪魔はしませんから」

 

「慧くん、そんなのじゃヒメは動いてくれないよ…」

 

「ヒメ大好き!世界一愛してる!ゲートインしてくれたら慧くん嬉しいな!」

 

「ヒトの娘でもそれじゃ動かないんだからダメでしょ」

 

「うわっ気持ち悪」

 

「生添先輩…そりゃないですよ…」

 

私がヒメに頼み込み、ヒメが拒否し、厩務員が感想を述べる混沌としたゲート前に、生添先輩とゲートを潜って飛び出したローリングフローラ号が戻ってきた。そしてゲートインしていく。ご感想は…ごもっともである。

 

「ねえ頼むよヒメ、ゲートインしてくれよぉ。生添先輩もうゲートインしちゃったじゃん。」

 

「他の馬と比べてもヒメちゃんうごいてくれないよ…」

 

何度でも言おう。泣きたい。なんだよもう。騎乗二回目にしてとんでもない気性難に乗る羽目になるなんて。ああ競馬の神よ。私はなにか悪いことをしたのですか?何の罪に対する何の裁きですか?

 

 

「ヒメータノムカラゲートインシテクレヨオ!」

 

『おおっと飼葉騎手の魂の叫びが響きわたりますが…動きました!センリノヒメようやくゲートイン!』

 

なんだよ。素直じゃないか。今までのイヤイヤはなんだったんだ?

 

ええっと忘れかけてたけど、中岡先生からの指示は「3コーナーまで抑えて、そこからは好きなように走らせろ。ただしできるだけ進路を広くとること」…要は京都競馬場だけど外側を走れ、ということだろう。けど結構馬場の内側が荒れてきたからみんな外よりに進路をとるんじゃないかな…そしたら外の方が進路狭くなるんじゃ…

 

「よーい!」

 

「ヒヒーン」

 

「うわっ!」

 

立ち上がらないでよ!危ないじゃんか!

 

『おおっと一番人気センリノヒメ立ち上がった!』

 

ガコン!

 

ゲートが開く!

 

『センリノヒメまた立ち上がった!出ない出ない!1万大観衆からどよめき!』

 

ええ…

 

もうカオス。ワケわかんない。8馬身遅れてしまった。

 

『各馬向こう正面を駆けて行きますが先頭はローリングフローラ、二馬身のリードです鞍上は生添謙一、続いてマリモアクセル…』

 

しかしヒメにもプライドというものはあるようでじわじわ詰めていく。こちらとしても3コーナー…いや、せめて4コーナーまでには馬群後ろにはついておきたい。

ただ、ヒメがだいぶイラついている。耳をおもいっきり絞っていて、その怒りはなぜか私に向いている。極端に乗り心地の悪い走りをしているのもわざとだろう。水曜に初めて乗ったときはもっと乗り心地はよかった。

 

ハッ、これではいかん、ちゃんと騎手としての仕事をせねば。

コース取りはほぼ自由、かなり遅れてしまったので荒れてないところを自由に走ることができる。ヒメも自然と荒れてないところと荒れてるところの境界くらいの馬場を選んで走ってる。あんな生活をしててどうやったらこんなに賢くなるのか。

 

ハッ!殺気!どこからか?前の馬か?…違う。ヒメからだ。変なことを考えていては振り落とされてしまう。現に振り落とされかけている。

 

『…9番手に5番メグロアツコがいて、最後方に出遅れたセンリノヒメでありますが8馬身あった差を今2馬身まで詰めました、見事な手綱捌きです飼葉騎手!』

 

直線半ばまでにセンリノヒメ自身の力でだいぶ遅れを取り戻した。だがここからが問題だ。もうすぐ京都競馬場第3コーナー、坂に差し掛かる。中岡先生に聞いても今までヒメは本気らしい本気を出したことがないらしく、ここまで勝ち上がったのも流れに乗っただけだそうだ。つまりヒメの力は未知数。あまり高く評価して拍子抜けな結果になってもいけないし、あまり低く評価して乗るとヒメの機嫌を損ねる。さあどうする。今追うか、後で追うか。勝利のため、選択を迫られる。回答期限の第3コーナーは、もう、すぐそこに迫ってきている。

 

メグロアツコに並んだ。位置取りはアツコの外。アツコは後ろに位置どっているからここから内にはいる事も可能ではある。さあどうする。先頭のローリングフローラまでおそらく20馬身。

 

 

『依然先頭はローリングフローラ、気持ちよく逃げております。リードは2馬身から3馬身、一番人気センリノヒメは今後ろから2番手、なんとあの出遅れがありながらもう上がってきています!』

 

下手な追い方をするとヒメの気分を害してやる気をなくしてしまう。しかし追わないと負けてしまう。さあどうする。ヒメは私に殺意を向けている。

 

今なら芝浦の気持ちがわかる気がする。どんなに祈っても、馬に気持ちが届かない。無理に伝えたら気分を害してしまうし、何もしなくてもなにか気に障ることがあると殺意を向けてくる。よくよく考えたら当然だ。僕ら人間は肉だって食べる捕食者。馬からしたら敵も同然。わかり合えない個体とは永遠にわかり合えない。

 

『さあ第3コーナーに差し掛かっていって10頭が固まっていきます。さあ、どの馬が勝ち、条件を突破するのか。晴れて自由の身になる馬はどの馬か!』

 

場内実況が微かに聞こえてくる。そうか。自由の身になる、か。

 

第3コーナーの坂の上、私はムチをズボンの中に押し込み、いつも短く持っている手綱をこれでもかと長く持ち、込めるちからを弱めた。

 

 

私の答えは、ノーコントロールだ。

 



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おいおい、冗談はよしてくれよ

『各馬3コーナーの坂の上を駆けて行きますが…おおっと!飼葉騎手ムチをズボンに押し込んで手綱を長く持ちました!センリノヒメに対する絶対の自信の現れか!』

 

ここからはヒメの自由だ。前を追っていくもよし、直線まで待つもよし。ただしこれ以上待つと勝てないってなったら私が追うけどね。さあヒメ、競走が嫌で早く終えたいなら一番先にゴールして見せろ!

 

『先頭はローリングフローラ未だ3馬身のリードがあるが一杯になったか、追い上げてくるのはマリモアクセルでありますがセントラルドガマも追いかけてくる!続いてセカンドインパクト的馬均!出遅れた一番人気センリノヒメは未だ最後方から三番手を追走しています!』

 

10頭の選ばれしサラブレッドたちが坂を下っていく。ヒメは坂の下りを利用して速度をあげたがちょっと外に膨れた。仕事を放棄するな。ちゃんと誘導しろ。お前はジョッキーだろ?それとも馬で興奮する変態なのか?ヒメはそう主張するようなコース取りで駆け下りていく。

 

ヒメが一瞬だけ、白目を剥いてディクタスアイでこちらを睨む。わかった。追う。だが4コーナーまで待ってくれ。調教を見ていたからわかる。ヒメにはスタミナがない。その上、コーナーから仕掛けるとかなりズブい。仕掛けるのは直線に入ってからだ。

 

手綱を短く持ち直し、ズボンの奥深く…とまではいかないがズボンに突っ込んだムチを引っ張り出そうとする。またヒメが一瞬ディクタスアイでこちらを睨む。そうだよな。尻に触れたムチで打たれたくないよな。ということで私はムチをもう一度ズボンにしまった。

 

馬群は縮まってきて、10頭だてのくせして17馬身もあった先頭との差が8馬身まで近くなった。ここで追えば先頭に立てる。しかし我慢だ。ここで仕掛けてはヒメの末脚を鈍らせてしまう。ここはなんとしても我慢だ。ジョッキーがかかって何になる。負けにしかならないだろう。直線まで我慢だ。今抜いたってゴールで先頭じゃなきゃ意味がないんだ!

 

『さあ残り600メートルの標識を通過して最初に4コーナーを回ってきたのはマリモアクセルとセントラルドガマ!セカンドインパクトも追ってきているが各馬曲がりきって最終直線に入って参りました!』

 

ヒメ、いくぞ。

一気に追う。ムチは使わず己の手で叩く。ヒメは私の指示に珍しく応え、一気に加速していく。コーナーでかなり膨れてしまって観客席ギリギリを走っているがほとんど荒れていない馬場をヒメは足取り軽やかに駆けて行く。おそらく実況席から見たら黒山の人だかりに隠れてしまって見えていないのではなかろうか。しかし我々には関係ない。ヒメはこの直線で全てを斬り捨ててオープン馬になるのだ!

 

ドスン、ドスンと足音が響く。とても大きなストライドで、ちょっと遅めのピッチで駆け抜けるヒメの姿はさながら千里の馬。

 

 

 

しかし、しかしである。

 

 

私の左の鐙は加速の衝撃で壊れていた

 

それでも、私は右の鐙に7割の体重を載せ、左の鐙の残った部分に小指の付け根付近をおもいっきり押し付けて残り3割の体重を載せる。そしてヒメと前の馬を追う。

 

正直言って左足が痛い。すぐにでも競走中止したい。底の半分を失った鐙は残った部分をブーツに食い込ませて間接的に私の足を痛め付ける。とんでもない激痛だ。でもゴール前だ。ヒメがオープン馬になるチャンスだ。これを私の都合で奪うわけにはいかない!

 

『マリモアクセル懸命に逃げる!セントラルドガマも懸命に追う!しかし後ろからセカンドインパクトだ!セカンドインパクト来ている!しかし外埒一杯をなにかが移動している!栗毛の馬体と紫ベースの勝負服!おそらくセンリノヒメです!おそらくセンリノヒメ!』

 

ヒメは最高速に乗って駆けて行く。先程まで絞っていた耳は完全に風になびくのみ。風圧がすごい。ゴーグルをしていなかったら目が乾いていただろう。そのゴーグルを通して斜め前に見えるのはゴール板ただひとつ!

 

『全てを抜き去ったセンリノヒメ!センリノヒメ先頭でゴールイン!』

 

やった!勝った!やったぞヒメ!お手柄だ!

 

私は興奮のあまり、ヒメの首筋を軽く叩く。やったぞ、お前は勝ったんだぞ、と。癖馬にしてはやるじゃないか!

 

そして、ふと思い出す。鐙が壊れていたことを。改めて足元を見ると、左の鐙は完全に底を失い、私の左足は鐙ではなくヒメの馬具に体重を預けていた。恥ずかしい限りである。もうイギリス製の安いのに頼るのはやめよう。

 

このままヒメに騎乗するのは難しいので、下馬してヒメの手綱を引いて後検量に向かう。できるだけ内埒近くを通って、実況席からも見やすいように。

 

『下馬した飼葉騎手が、レースに勝利したお姫様をエスコートして、今、優雅に歩いて帰っていきます。』

 

ヒメはさすがにあの激走で疲れたようだ。なぜか僕のほうが歩くスピードを合わせて、ゆっくりと、ゆっくりと歩いて行く。

 

後検量にいくと、生添騎手が隅っこでしょぼくれていた。なんでも3コーナー下りでローリングフローラ号が一杯になった後、気を悪くして4コーナーで逸走、競走中止の上に振り落とされたのだそう。幸い人馬共に怪我はないそうだ。

 

また、セカンドインパクト号に騎乗していた憧れのスーパージョッキー、的馬均騎手からお祝いの言葉をいただいた。

 

騎手免許交付に際してのメディアのインタビューで「目標のジョッキー」に挙げたからだろうか。「まずは1勝、おめでとう」の一言のみだった。それでも私にとっては憧れのジョッキーになにか言われるというのはとても嬉しいものだった。

 

しかし状況は一変。レースが確定し、いざ表彰式へ…となると、ヒメが表彰式を拒否しだしたのだ!

必死に引っ張る厩務員をズルズルと引きずって馬房へ向かって一直線!意地でも表彰されてやるもんかという強い意思を感じた。

 

仕方がないので表彰式は中止。

 

先に私がインタビューを受けることになった。

 

デビューしてわずか二戦目で初勝利だの、癖馬をよく卸しただの、コース取りの理由だのたくさん聞かれた。ちょっと聞かれ過ぎて疲れたが、競馬はスポーツであると同時に巨大なエンターテイメントであることを思いだし、笑顔を装ってインタビューを終えた。

 

ジョッキールームに戻ると、私は疲れがどっと押し寄せてぐったりしてしまった。たまたま出会った田中克春騎手に「あんまり悪い姿勢でだらけてるといい馬に乗れんようになるよ」と言われてしまった。仕方がないので迎えのタクシーが来るまで姿勢をただして椅子で寝るのだ。むにゃむにゃ…ミスターチービー…サンデーサイザンス…

 

 

 

 

 

 

 



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スーパールーキー

木曜日の美浦トレセン。

曇り空で日が照らない南調教馬場の発馬訓練場に私たちはいた。今週末のゲート再審査を最優先目標にして、センリノヒメの調教が行われている。しかしそれでもヒメはゲートに入ろうとしない。尻尾吊りを使ってゲートより尻に注意を向けさせても、ゲートに入ろうとしない。なお尻尾吊りの取り付けの際に町山厩務員がヒメの蹴りを見事胸部に食らってしまい気絶、馬の足音響く美浦トレーニングセンターにサイレンを響かせること無く救急車が飛び込む事態となったのは数分前の出来事である。

今ヒメに騎乗しているのはまさかの中岡先生であるが、歴戦の元騎手をもってしても全く動かない。ゲートを横目に睨み付けて一歩も動かない。尻尾吊りのロープを引っ張ると今度は虚空に向かって蹴りを放つ。こうなったヒメには手がつけられない。

 

「中岡先生…代わりますよ。」

 

「慧、お前はこのセンリノヒメを少なからずコントロールしていたな、」

 

「??いいえ???全然言うことを聞いてくれないので匙を投げただけですけども??」

 

「いいや、あの1600万下でお前はヒメを乗りこなしていた。少なくとも4コーナー以後はな。」

 

「いや…まあ…確かに直線でやっとヒメが走ってくれましたけど…」

 

「お前のような免許とって二週の若造に乗りこなせてワシに乗りこなせん訳がない。」

 

中岡先生が乗っていたのは結局元騎手のプライドからだったようである。私の感想をはっきり言おう。ワケワカンナイヨー!ナンデヒメニナカオカセンセーガノッテルノー?

 

中岡先生と林調教助手がセンリノヒメと格闘するのを補助し続けて30分。

 

「こりゃダメだ。慧、やってくれ」

 

中岡先生が折れた。

 

よっこいしょっと声を出して中岡先生がヒメの鞍から降りようとする。するとヒメは胴をぶるぶるさせて先生を振り落とす。定年まであと6年の老体は、バランスを崩して頭から地面に突き刺さった。

 

…合掌。あっけない最期である。

 

念のため確認。

 

「中岡先生!!大丈夫ですか!?生きてますか!?」

 

「生きとるから、慧、乗れ」

 

一安心である。

 

なお私が乗った後のヒメは、しばらくごねた後にしぶしぶゲート訓練を行った。その間、リアルヘリオスがウッドチップコースからこちらを羨ましそうに見てしまい調教にならなかったという話を昼に調教助手から聞いた。

 

 

 

若手騎手の木曜の午後というのは、結構忙しいものである。

まず、所属厩舎の馬の出馬投票を任される。今週末に中岡厩舎から出走するのは14頭。内3頭が重賞競走に出走するためすでに投票が終わっている。今回投票するのは一般競走に出走する11頭。

 

今週の当番は4つ上の牧山騎手。お世辞にも騎乗成績がよいとは言えないため中岡厩舎に残って騎乗技術を磨いている先輩である。

 

そしてその14頭にリアルヘリオスもセンリノヒメも含まれていないし、中岡先生から新しく乗る馬の指示もなかった。

ということで私は今週末は完全にフリーなのだ!よって今さらではあるが他厩舎に営業に行ってくるナリ!

 

私のちゃりんこはどこにおいとったかな…と、自転車を探していると、厩舎のインターホンが鳴った。中岡先生は朝の調教で異常のあった馬の様子を見に行っているため私が出ることになった。…のだが。

 

「はい!中岡次郎厩舎です!」

 

「飯柄厩舎から来ました、山内調教助手です。」

 

「国江田厩舎から来ました、内田調教助手です。」

 

「栗東の調教師の白伊じゃあ。よろしゅう。」

 

「調教師の児島太です。」

 

「栗東で調教師やっとる大窪や。」

 

…ん?結構な権威のある方々が来てる気がするんだが。

 

失礼があってはいけないため、とりあえず室内に招き、お茶を用意する。むぎ茶の淹れ方ってこれで良いんだっけ…なんてトンチンカンなことを考えながらいれていると、白伊調教師から爆弾が投げられた。

 

「お前さん、若手のくせして良い乗り方するのぅ」

 

「そっ…そんなに褒められることは…」

 

「いやいや、あの乗り方は馬をよぅ理解して心を通じ会わせとるもんにしかできん。お前さんの持ち味じゃ。」

 

「…っそんなことは。馬の言葉なんて未だにさっぱりです。」

 

ピギャー!白伊さん怖い!眼光と表情だけでもチビりそうなのにこんなしゃべられたら大が漏れてしまう!

 

「まあまあ、白伊さん、ひよっこをそないにいじめたらあかん。ほら、慧君が小そうなってもーてるがな。」

 

「むっ。いじめていたつもりはなかったのだが…」

 

大窪さんナイスフォロー!

どう言うことだ!みんなして集まってきて僕をほめにきたのか?煽てても転厩しないぞ?

いや違うだろう!何か目的があって中岡厩舎に集まってきたんだ!それを聞かなくては!

 

「ええっとぉ…皆さんお揃いでどのようなご用件でしょうか?」

 

僕の発言から数秒間。皆さん黙って顔を見合わせていた。いやどう言うこと?私変なこと言いましたか?(不安)

 

「そんなの決まっておろう。騎乗依頼じゃ。」

 

…………

 

……………

 

………………

 

…………………は?このひよっこを乗せるためにわざわざ栗東から?調教師御自ら?

 

訳がわからなくなった私は調教師さんたちの依頼をイエスマンの如く全受けしてしまい、土曜は京都で合計7レース、日曜は中山で合計8レースに騎乗することになった。

 

その後、この話を聞いた中岡先生が独身寮に寿司を出前してくれた。しかし量が多かったので先輩と一緒に頂いた。なお好物の赤身は全部先輩が持っていってしまったので先輩の好物のウニを全部食ってやった。

 

部屋に戻って、受け取った勝負服を確認していると、大窪調教師から受け取った勝負服にミスがあるではないか。柄がよく似ているし、会社は違えど社長が同じなのだから間違えるのも仕方ないとは思うが…

明日、京都の調整ルームに入る前に栗東トレセンに寄って代えてもらおう。

 

なお明日、初めて新幹線に乗る。今まで遠出と言えば飛行機であったし、先週京都に行ったのは中岡先生の希望で寝台列車であったのでとても楽しみである。

 

 

 

 



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気を引き締めて、いざ

迎えた土曜日。京都競馬場の調整ルームにある木馬を使って、私は騎乗フォームの確認をしていた。

 

有名どころの騎手は、騎乗フォームについて「馬の邪魔にならないように気を付けている」とよく発言するが、私はこれに当てはまらないタイプであるらしい。

 

私の騎乗フォームは「馬の好みに合わせる」ことを重視した格好である。

例えば、中岡厩舎のリアルヘリオスの場合は「背中にちゃんと信頼できる騎手が乗っている感覚」があるとヘリオスは安心して勝負に出てくれるので、ヘリオスの背中を少しだけ脚で挟むようにして、あなたの背中には私がちゃんと乗っていますよ、という存在感を与えてやることに一番注意して騎乗する。

逆に癖馬、センリノヒメの場合は「走っているときの後ろに引っ張られる感覚と前から押し返される感覚が大嫌い」であるので、空気抵抗の小さいフォームをとることを最優先する。体の姿勢は勿論であるが、鐙の踏みかた一つとっても空気抵抗はおいくらニュートンと変わってくるので細部まで注意を払う。

 

さて、話は変わって今日のレースである。私は1レースから7レースまでぶっ通しで騎乗する。内訳は平地レースが6戦、障害レースが1戦。騎乗するどの馬も他厩舎の馬。

私にとって、この状況は非常によろしくないものである。

前述したように、私の騎乗は馬とコミュニケーションがとれていることを前提に行われるものである。普段から調教で乗っていたからこそ、信頼関係を構築でき、気性難の馬からもわずかながら心を開いてもらえたのだ。

だが今回はそれが全くない。騎乗依頼が来たのは木曜日の午後。その後に騎乗予定馬の調教に乗ろうとしても、美浦の馬が京都競馬場に行くときは前日の午前3時には出発するから乗れなかったし、新幹線は6時からしか動いていないので関西に着くのは早くて9時だから栗東の調教には間に合わない。飛行機で行けば間に合ったかもしれないが、羽田も成田も空港に着く前に調教が終わってしまうし、茨城空港から神戸空港に行けばそこから栗東までの移動中に調教が終わってしまう。(滋賀県が「びわこ栗東駅」を新幹線に作る運動をしているので私はそれに期待する)しかも公正競馬に努めるため全部JRAの許可を得てからチケットをとるので木曜日からだとどれも間に合わない。

つまり、今日騎乗予定の馬たちとはほぼコミュニケーションをとれていない状態でレースに望むのだ。今の心境は不安でいっぱいである。

 

心を落ち着けるため、本日騎乗する競走馬たちのことを考えてみる。

 

1レース、芝2000メートル、4歳未出走戦。騎乗馬は7枠7番のマサコゴールド、牝馬である。父サッカーボーイ。管理している白伊先生によると、厩舎に来てから調教をいやがり、とりあえずレースで勝てるようにするまで2ヶ月を要したそうだ。なおゲートなどの狭いところに入ると寝てしまう癖がある。

 

2レース、ダート1200メートル、4歳未出走戦。騎乗馬は8枠11番のスタンドゼファー、牡馬である。父ヤマニンゼファー。美浦トレセン飯柄厩舎所属で、スピードとパワーのある馬。少々虚弱な体質であるためスタミナを伸ばす調教ができなかったそうだ。

 

3レースはダート1400メートル、牝馬限定の4歳未勝利戦。騎乗馬は2枠2番のヒトミユウコ。父リアルシャダイである。栗東トレセン大窪厩舎所属で、坂路を6回走ってもまだダートコースで暴走する余力があるという素晴らしい持久力を持つ馬。

 

4レースもダート1400メートル、こっちは普通の未勝利戦。騎乗馬は8枠11番のサクラリクオウ。父にイブキマイカグラを持つ牡馬である。美浦トレセンの児島太厩舎所属。大人しい、肝が据わっている、図太い、聞き分けが良い、調子が悪いときは仕草で伝える、それでいて勝負根性はある。一見扱いやすそうな競走馬であるが、いったいなぜ未勝利戦に?

 

5レースは障害芝3180メートル。古馬オープン戦。騎乗馬は1枠1番のリゲルロードスター、父はダイユウサク。国江田厩舎所属で、先生によると飛越が非常に上手な馬らしい。何と新馬戦から前前走まで四連勝だそうだ。なおすべて別々の騎手による勝利。馬主さんは勝ち方に納得がいかなかったのだろうか。

 

6レースは芝1600メートル、4歳未勝利。騎乗馬は6枠11番のクリドクター。父はドクタースパート。管理する飯柄先生によるとデビューが遅かったのとこの距離の適性が合わないのが重なってなかなか勝てないそうだ。

 

私のの今日のオオトリ、7レースは4歳500万下。騎乗馬は6枠6番のオトコマエ。父はサッカーボーイ。白伊厩舎所属で、ゲート縛りの被害者第二号らしい。私はこういう調教は動物虐待な気がしてあまりよろしくない感情を抱くが、馬の精神面に影響が出ていないことを望む。…ヘイローみたいな馬だったら嫌だなあ。

 

こうして頭に浮かべてみると、どの馬も初対面の騎乗であることが1番の不安材料となる者ばかりである。とても心配だ。

 

改めて木馬にまたがり、フォームを確認する。六時には調整ルームからジョッキールームに移動しなくてはならない。それまでに各馬が好みそうな騎乗フォームを見つけなければ。

 

勝負開始まで、あと5時間。

 

 



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障害飛越、初騎乗

『最後の障害を、飛越いたしまして、リゲルロードスターが先頭で直線に向いて参りました!』

 

障害競走は馬にかなりの負担がかかる。競走の高速化を抑制し安全競馬に努めるため、負担重量は重い。障害競走の性質上、距離が長く、持久力が必要なのに飛越の際は後脚の瞬発力と前脚の柔軟性を必要とする。結構な高さの障害なのに勝つためにはギリギリの飛越をしなければならないため人馬共に精神をすり減らす。

 

ロードスターは最終障害を飛越したあとにもう安心とばかりに脚を緩めていたため、まだレースは続いているぞと鞭を見せようかと思ったが、ロードスターはかなり疲労しており一度息をいれてから直線に入るべきと考えて、直線までそのまま馬なりで走らせた。

 

3馬身後ろには二番手の牝馬と女性騎手。私と同期の紅一点。私と同じくコーナーで息を入れる作戦のようだ。だが、彼女はおそらく知らない。その牝馬にナメられていることに。息をいれようと手綱を緩めたが最後、二度と速度を上げることはないだろう。

 

『リゲルロードスターが逃げる!リゲルロードスターが逃げる逃げる逃げる!リードを一気に6馬身とりました!ムチは入れません!ただ馬を信じて追う飼葉慧騎手!』

 

一方、こちらは絶好調。初めて乗る背中なのに信じられないほど気の合う馬である。先頭にたって後ろに差をつけたら軽やかに走るだけの競馬。人馬ともにスッゴク気持ちがいい。

 

『後続はもう届かない!リゲルロードスター一着でゴールイン!』

 

手綱を引いて、レースの終わりを告げる。ゆっくり、ゆっくり減速させて歩調を見る。よし、大丈夫だ。安心して国江田先生に返せる。

 

しかし、なんだろうかこの歓声は。この競走はオープン競走であって、こんな重賞競走のような歓声が沸き上がるはずがないのだ。

 

「ブルルル」

 

「あっごめんよ。早く帰ろうか。」

 

ヘリオスの時と同じく、ロードスターに促されて検量室へ向かう。ロードスターは、勝ったのだから早く帰って美味しいリンゴを食べようと思っていたのだろう。レース後の楽しみを奪うわけには行かない。

 

この後私は2レースに騎乗したが、第6レースを勝利、第7レースを2着で終え、ジョッキールームで休む。さすがに七連闘すると18歳の若い体も悲鳴を上げる。第7レースに至っては競走後に脱水症状を起こしているのを必死に隠していたことが、鞍下のオトコマエにはバレバレだったようでレースが終わるとすぐさま振り落とし、馬体の影を歩かせてもらう始末。情けない限りである。体調管理という今後の改善点が見つかった。

 

夕方、東京に向かう新幹線の中で、私は今までの騎乗をノートにまとめていた。

 

今日の戦績は7戦4勝、2着3回。2着の際の勝利馬との着差はどれも一馬身以内。…デビューからわずか9戦ではあるが、なにげに私はデビューから連対を外していないことに気づいた。

 

これの要因は、おそらく馬とコミュニケーションを積極的にとろうとしていたことでは無いかと考えた。

馬とコミュニケーションがとれるというのはジョッキーにとって最大の武器となり得る。馬がどう走りたいかと、騎手がどうやって勝たせたいかをすり合わせ、折り合いをつけるのにコミュニケーションがとれていることは非常に有利である。かの馬事公苑花の十五期生の一人、福長祥一騎手はこの能力に秀でていたから、大量の勝ち星を上げることができたとも言われている。その能力をてにいれかけているのだから、これは一層努力せねばと思った。

 

しかし、それでは折り合いがついていたのにハナ差で負けた初騎乗レース、リアルヘリオスの未勝利戦の説明がつかないことに気がついた。あのレースでは終始リアルヘリオスと折り合いがついていたが、トマトマトマトを差しきれなかった。これはなぜだろうか。

普段のリアルヘリオスの様子から、馬に「気安く関われる優しい人畜生」だとおもわれているのではないか、と仮説をたてた。しかし、今日騎乗したマサコゴールドとオトコマエ(どちらもサッカーボーイ産駒)からは、ヤンキーで言うところの「信頼できるけどお前は手下」の扱いを受けていた気がすることからこの仮説は否定できる。行き着いた結論は、「馬に下に見られている」ということ。もしそうだとしたらそれはなぜなのか。

 

考えに考えた結果は悲しい結論であった。私の今のスペックは、

18歳男性

職業:中央競馬騎手

身長:183cm

体重:47kg

である。これの何が馬に下に見られる原因になるのかというと、身長と体重である。女性ならスレンダーで美しいのだろうが、私は男性なのでひょろひょろのもやしというイメージが先行しがちである。馬から見るとそのイメージが先行逃げ切りを決めてしまったのではないだろうか。

 

まずは明日に向けてこれを改善しよう。馬には一度「気が合うひょろひょろ」のイメージを中団に控えてもらって、「頼れる若いの」のイメージをもってもらおう。

 

『次は終点、東京、東京でございます。山手線、京浜東北線………京葉線はお乗り換えです。』

 

まずは降り遅れないように荷物をまとめなくては。筆記用具が展開された机を見て、まだまだ名手の夢は遠いなあ、と考えてしまう私であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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複勝が万馬券なら単勝は十万馬券

中山競馬場第3レース、4歳未勝利、ダート1200メートル。私が騎乗するのはスターリンピンク。牝馬だ。

父ソヴィエトスターから連想で名付けられたそうだが、牝馬にスターリンはいかがなものだろうか。申し訳程度にピンクがついているが、もしかして蹴りグセ注意のリボンからつけられたんじゃなかろうか?

そして縁起が悪い。ソビエトは八年前に崩壊した。崩壊した国の指導者の名前を競走馬につけるのは、私としては受け付けない。崩壊…故障されたらたまったものではないからである。私の騎乗精神上、どうしても一頭一頭に深めの愛着がわいてしまうため故障されたら涙が止まらなくなるのは目に見えている。経済動物である以上は競走馬に感情移入することはあまり好ましくないのだろうが、彼らは騎手と馬券と金だけでなく夢も乗せているから、感情移入するなという方が無理だ。

 

話は戻ってスターリンピンクである。入れ込む様子もなく、落ち着いていて、それでいて闘志を感じる歩き方だ。これなら十分に勝ち上がれる。

 

「スターリンピンクの鞍上、飼葉慧だって。」

「もしかしたらこれは複勝万馬券あるんじゃないの?」

「マジかよ鞍上乗り変わって飼葉だったのかよ。てっきり今まで通り豪腕の号原かと思ってたわ。スギノクリスティー軸で買っちゃったけど今から買い直し間に合うかな」

 

あれが俗に言う競馬生活者ってやつだろうか。万馬券?と言うことはオッズが100倍越えてるんだろうか。

 

誰かそういうの知ってそうな先輩いないかな…いた!横矢間先輩!あの人ならそういう賭け事とか詳しそう(偏見)だから聞いてみよう!

 

「横矢間先輩、僕って今万馬券なんですか?」

「君じゃなくてスターリンピンクがね。オッズ見てみなよ、複勝125倍だって」

「????なんで???」

「珍しいよね、未勝利戦なんて賭ける人少ないのに。」

「よくわからなくなってきたので騎乗イメージに集中します…」

「ははは、それがいいね。かずおもたけしもまだそういうのは理解できてないし」

 

聞く人を間違えたかもしれない…普通こんなに仕上がった馬が125倍ってあり得ないと思うんだけど…。あっ、横矢間先輩が自分の馬のオッズ見てめっちゃ納得してる。

さっき5歳児や0歳児と同列に扱われた気がするが気のせいだろう。きっと気のせいだ。気のせいということにしておこう。

 

騎手騎乗の号令がかかる。ゆっくりと鐙をふんで騎乗する。

 

「今日は頑張ろうな、ピンク」

「この子ピンクって言われても反応しないので同志スターリンって呼んであげてください」

「今日は頑張ろう!同志スターリン!」

「ヒン!」

「ええ…」

「なんでもオーナーさんが共産オタクだそうで。」

「厩舎でまでそう呼ぶ必要はないじゃないですか」

「先に馬に刷り込まれていたんじゃあ直しようがありませんよ。走る調教と呼び名の調教を一緒にしてたら未勝利がなくなるまでに間に合いません。」

「それもそうですね。」

 

まあ馬名はただの馬名だ。馬名というのはその馬の競走人生を彩る一つの要素でしかない。スッゴク恥ずかしい馬名で登録されたとしても、強ければその名前は恥ずかしくもなんともないのだ。一気に勝ち上がって一着をとり続ければ『なんと強い馬だ!スターリンピンクの独裁レースでした!』なんて実況されるかもしれない。逃げ馬だし。

 

そのためにも、まずは1勝。私と一緒に勝つんだ。頑張ろうな、スターリンピンク。

 

 

 

 

 

さて時は進んで枠入りであるが、暴れるということも特になくすんなり入った。本馬場入場の時からちょっと感じたのだが、同志スターリンは少々寡黙なようだ。鞍上を信頼して身を任せているようにも感じるし、鞍上にしたいことを要求すれば応じてもらえると思っているようにも感じる。

 

大外の15番クールフレンドがゲートインして、発走合図がかかる。

 

「よーい!」

 

ガシャン!

 

ゲートが開き、レースが始まった。同志スターリンはグイグイとハミをとって先頭に立つ。芝からダートに移り、他の馬がピッチ走法に切り替えるなかスターリンピンクはストライド走法のまま先頭で砂の上を駆ける。良馬場のために脚が深く沈むダートコースであるが、しっかり地面をとらえて走っている。いい調子だ。

 

『先頭を駆けるのはスターリンピンク、3馬身のリードをとっている鞍上は飼葉慧騎手。続いて15番クールフレンド…』

 

埒から少し離れたところを走るようにコースをとる。ハミを引くとスターリンピンクは素直に反応する。「わかってるじゃない」と言わんばかりの身のこなしだった。スターリンピンクは少しばかり斜行癖があり、あまり内に寄せておくと埒と接触する危険がある。自覚があったのかと思いつつ、指示にしたがってくれる馬のありがたみを噛み締めた。

 

ペースはどうなっているだろうかとハロン棒を見る。景色の流れからすると1ハロン11秒前後。しかし事前の風向きとヘルメットの紐の風切り音からは1ハロン11.5前後と読み取れる。どちらにせよ少々ハイペースか。中山の下りであるから少し危ないかもしれない。

 

直線が終わり第3コーナーにかかっていく。…ちょっとペースを落とそうか。ここまでかかり気味に走ってきたのだから少し休ませて直線で勝負すべきだ。ゴール前の急坂に備えて体力を温存しておきたい。あとコーナーは落ち着いて内を周りたい。

スターリンピンクの手綱を引く。少し抵抗して加速しようとしたものの、すぐにペースを落としてくれた。だんだん後ろがつまって来ているがスターリンピンクは気にしていない。

 

ふと右後ろを見る。エイシンシャーロンが最後方でポツンしている。横矢間先輩の得意技だ。馬の調子から考えるとあれは絶対に後ろから伸びてくる。横矢間先輩が少し笑っている。不気味だ。悪魔の笑みに見えてきた。正直に言うと怖い。

 

ふと横矢間先輩と目が合った。面白いものを見せてやるとでもいうようなニチャアとした笑みに変わった。横矢間先輩が追い始める。まだ3コーナー終わりだ。いやポツンだからここで仕掛けないと間に合わないのか。

 

『未だスターリンピンクが先頭で第4コーナーに差し掛かりますが、後ろからエイシンシャーロン横矢間典弘が上がってきた、クールフレンドは一杯になったか後退していく!』

 

まだコーナーだが仕掛けよう。直線で仕掛けていたら加速が間に合わない。そう思って私は手綱を扱いて追い始める。スターリンピンクはすぐさま反応してペースをあげる。ピッチはあまり上げずストライドを大きくするスターリンピンクの走法では加速に少々時間がかかる。今からでも間に合うかどうか。

 

『4コーナーをカーブして、スターリンピンクが先頭だ!スターリンピンク先頭!外からエイシンシャーロン!外からエイシンシャーロンが中団から一気に追ってくるぞ、すごい脚だ!』

 

スターリンピンクは少しずつ加速している、もう少しでトップスピードだ、と思ったところで後ろから大きな足音が迫ってきた。おそらくエイシンシャーロンだろう。でも抜かせはしない。私はゴール前でも冷静に姿勢を崩さぬよう全力で興奮する精神の安定に努める。

 

ゴールまであと200メートル、視界にエイシンシャーロンが入ってきた。落ち着け、今は坂だ、中山の関門だ、勝ちたければ絶対に姿勢を崩すな。スターリンピンクならこのまま追えば勝ってくれる、ゴールまでリードを残すことができる。

『スターリンピンクが逃げる!外からエイシンシャーロン追い上げる!その差は一馬身から半馬身まで詰まったか!』

 

エイシンシャーロンが視界に堂々と入ってくる。しかしまだゴーグルの左側に映るだけだ。まだ行ける、まだ勝ってる、がんばれ、がんばれスターリンピンク!あと二完歩、一完歩!あと少し!

 

『スターリンピンクとエイシンシャーロンが全く並んでゴールイン!わずかにスターリンピンクが優勢に見えましたがどうでしょうか!』

 

 

 

 

よし、まだ残ってたはずだ。よくやったぞスターリンピンク、あれは絶対にお前の勝ちだ。

 

掲示板を見る。一着二着は写真判定になっているがあれは絶対にスターリンピンクの方が残っていた。そう思いながらスターリンピンクの首を撫でる。ブルブルと鳴くスターリンピンクの手綱をとって口向きを変え、検量室へ向かう。

 

道中で着順確定のアナウンスを聞き、スターリンピンクの馬上から掲示板を見る。一着の欄には3番、スターリンピンクの馬番号が光っている。おめでとうスターリンピンク。これで未勝利脱出だぞ。

 

勝利の喜びもつかの間、私は次のレースのため道を急ぐ。今日この後も連闘で8レースまで騎乗が入っている。斤量に影響を与えぬよう、2倍に薄めたスポーツドリンクを三口だけ飲む。体調管理が思っていたより大変であるが、そういうのを任せられるバレットがいないのは若手騎手だから仕方ない。

 

次のレースも勝たなくては。本日の第11レースが皐月賞なせいか、勝利に焦る私だった。

 

 

 



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競馬学校、夢の15期生

「ヒットマンに憧れて」を閲覧の皆様にお知らせがあります。
この作品では、飼葉慧をはじめとする架空騎手、リアルヘリオスやセンリノヒメなどの架空馬が出てきております。もちろん彼らは史実にはいなかった連中ですので、すでに史実改編は発生しています。
お知らせしたいのはその先です。ここから先のお話では、本作主人公飼葉慧の登場によるバタフライエフェクトで、史実で種牡馬が引退する年が変わったり、史実有名馬の父馬が変わったりします。もっと言うとG1勝ち馬が変わりますし、史実で途絶えているとある血統が飼葉騎手のせいでSS系とタメ張り始めます。
それでもいいよ、この作品は面白いよ、そう思える方のみこの先へお進みください。
ちなみにとある血統のヒントは…とりあえずヘイルトゥリーズン系のスタミナ&末脚担当としておきます。
なお史実で馬齢表記が改定されるまでは旧馬齢表記です。


火曜日の朝。月曜の休日が開けてジョッキーたちの一週間の始まりである。

 

私はいつも通りリアルヘリオスとセンリノヒメの調教に騎乗する。センリノヒメは寝起きの気性が特に荒いので先にリアルヘリオスの調教が行われる。その間センリノヒメは猫と一緒に寝起きで荒れる精神を落ち着かせるのだ。

中岡先生からの指示はダートコース2周、馬なりで走らせた後に坂路を一回。なおすべて同厩舎のヒメカミブルースと併せて行うことになっている。おそらく最終直線での追い比べに強くすることが目的だろう。

 

準備運動を終えて、ヘリオスは他の中岡厩舎の馬と列をなして美浦トレーニングセンターの南調教馬場に向かう。4月も終わりであるが、日の出前の早朝の時間帯はまだ気温が上がっておらず寒い。ヘリオスたち競走馬からは湯気が立ち上る。調教が始まっていないのにすでに私のジーンズは馬の汗でビシャビシャであるが、まあこれは毎度のことなので仕方がない。

 

さて、列の最後尾でのんびりしていたヒメカミブルースがダートコースに到着したので併せ馬開始である。ブルースの鞍上は牧山先輩。土曜に私が京都で七連戦している間に阪神で9連勝して晴れてあんちゃん卒業だそうだ。私があんなに苦戦している間に…と考えると悔しい限りであるが、それは四年の年の差、技術の差であるからこれから腕を磨く他ない。牧山先輩には夜道は馬の後ろ蹴りに気をつけて頂くとしよう。しばらく先輩と談笑しつつ馬場の外側を早歩きさせてウォーミングアップを済ませた後、ヒメカミブルースとリアルヘリオスの併せ馬が始まった。

 

馬なりであるからコース取りは馬場の中央からちょっと内側にずれたライン。ブルースの半馬身後ろを追走している。馬なりとは言うがヘリオスの馬なりより少し速いのではないだろうか。

 

そんなことを考えながらヘリオスの様子を見ていると、最内を交流重賞に出走する馬が全速力で駆けていった。それに刺激されたのかヘリオスが思いっきり掛かってしまい、前に行きたがってしまった。まだ半周しかしていないのに全力でハミをとるヘリオスに私は少々びっくりしながらも手綱を引いて鞭を見せて抑える。

 

ヘリオスは未勝利であるが、3歳の6月からほぼずっと連戦していてレース経験は24戦と豊富である。しかし24戦している割にはめちゃめちゃピュアな性格をしていて、先程のようなことですぐに掛かる。その上人の選り好みが激しく、嫌いな人は振り落としたり蹴り飛ばしたりする一方、好きな人には顔をすり付けたりべろべろなめ回したりする。

 

性格を考えると「ほんとに24戦した歴戦の未勝利馬なのか…?」と疑問に思うことはあるが、乗ってその能力を実感してみると、「こいつはなんで未勝利なんだ?」という疑問に変わるのがヘリオスの面白いところである。

 

さて、話は戻って鞍下の様子である。掛かったのはすぐに抑えて馬なりに戻ったものの、めっちゃ走りたがってウズウズしているようだ。ハミを引っ張ってこそいないが脚を余してますよアピールがかなり激しい。全力は坂路調教まで待ってくれ、これが終わったら坂路コースで全力出していいから。

 

一周を終えて二周目に入るが、ヘリオスはほとんど疲れを見せない。馬なりだから当然では?と思うかもしれない。ところがどっこい、美浦トレーニングセンター南調教馬場のダートコースは一周2000メートル、例え馬なりであっても少しは疲れるものなのだ。それを少し疲れていると言うにはあまりにも余裕な様子でまだ走っているのだから能力の高さが伺える。

 

もしかして前走は仕掛けるのが遅かったのではないか、コーナーを曲がるとそんな考えが頭をよぎる。この持久力なら、京都の登りから仕掛けてもバテなかったのではないか、斜行を恐れて早めに外に出さなかったのが敗因だったのではないか。今となっては後の祭りだが、どうしても思い出してしまう。

 

ーーヘリオスとヒメカミブルースのダートコースでの併せ馬は、ヘリオスが少し先着する形で終った。

 

…この後ダートコースから坂路までの移動中に柵を飛び越えてショートカットしようとするヘリオスを止めるのが大変だったのは言うまでもない。

 

 

 

さて、寝起き不機嫌で暴れ狂うセンリノヒメをリンゴでなだめて調教を終えた後は調教スタンドで朝ごはんである。お腹が空いてついたくさん食べそうになるがここは我慢。体重47kgをキープするのだ。まだ新人騎手だから負担重量48kgもあり得る。そんなときに乗れないとあっては騎手として下の下の烙印を押されてしまう。…喜多村君の卵焼き美味しそう。

 

「…っ!あげないぞ!」

「とらないよ!」

 

同期の喜多村くんであるが、めっちゃ仲良くしてもらっている。喜多村くんの独身寮での部屋が階を挟んで真下であるので、夜中に騎乗の反省をノートに書いているとそのわずかな音も丸聞こえのようだ。

 

「はっはっはー。若いのは元気でいいねえ。隣失礼するよ」

 

「岡辺先輩、おはようございます!」

 

先週から私たち競馬学校15期生はやたら岡辺先輩に話しかけられるようになった。最初は自分がしょっちゅう惜しいところで負けるからかなと思っていたが、どうやら15期生全体にコンタクトを取っているようだった。

 

さて、岡辺先輩の朝ごはんであるが…本当にそれは朝ごはんなのか?そんなに食べて体重超過しないのだろうか。見るからにたんぱく質が多すぎる気がするのだが…

 

(喜多村、突っ込め)

 

(やだよ、レジェンドのごはん事情に口挟めるかよ)

 

(レジェンドだから聞くんだろ、どうやって体重抑えてるのか)

 

(自分で聞けよ)

 

(やだよ怖いもん)

 

お互いに聞きたいが聞けないことを押し付け合っていると、ついに助けがやって来た。

 

「おはようございます岡辺先輩」

 

「おはよう、横矢間君」

 

「最近ごはん多いみたいですけど、体重大丈夫ですか?」

 

「最近筋トレをはじめてね、」

 

「なるほど~それで最近量が多いわけだ」

 

((ナイスノリさん!))

 

筋トレか、なるほど。確かに筋力をつければ多少無理な姿勢でも維持しやすくなるな…でも私は体重が増えやすいからな…

 

朝ごはんを食べ終えると、特に取材もなかったため私はすぐに厩舎に戻った。

 

厩舎に戻ると、見知らぬ男性がいた。中岡先生によるとリアルヘリオスの馬主さんだという。気合いを入れてペコペコ頭を下げていると、馬主さんから驚きの発言が飛び出した。

 

「飼葉くん、ヘリオスは青葉賞を勝てるかな?」

 

その言葉に、私だけでなく中岡先生も硬直した。

 

すぐさま思考に入る。競馬四季報や優駿、サラブレなどの雑誌の情報、美浦トレセンでみた他の馬たちの様子などから東京2400メートルを全力で再現する。うん、勝つ可能性は十分にある。だが、出走できるのか?

 

「勝てる可能性は十分にあります。しかしそもそも出走できるのかどうか…どうですか、中岡先生」

 

「いや、今年の青葉賞はフルゲート割れるから出走自体は大丈夫だ。」

 

馬主さんの一瞬の安堵。しかし中岡先生は現実を突きつける。

 

「青葉賞は勝てるかもしれません。しかし、青葉賞に出すということはダービーを狙うんでしょう?はっきり言います。ヘリオスはダービーを勝てません。屋根が慧なら入着はしますがダービー馬になるのは限りなく無理に近いです。」

 

中岡先生は、少し間を空けて馬主さんに聞いた。

 

「それでも、青葉賞に出ますか?」

 

馬主さんの答えは、YESだった。

 

しかしこれは、暗に私に重責を乗せることを意味する。

 

青葉賞でヘリオスに騎乗するには、それまでに20勝をあげなくてはいけない。

ダービーになると32勝をあげないといけない。

 

私は現状、17戦9勝。まずは、後二週で11勝をあげなくてはならない。

 

試練が、始まった。

 

 



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勝利を重ねろ

4月24日土曜日、東京競馬場。

なんと中岡先生のお陰で、12レースすべてで騎乗することになった。熱中症に気を付けなければ…

 

今日のレースには重賞競走が無く、すべてのレースにおいてまだ9勝の私にも騎乗資格がある。問題があるとすれば特別競走が含まれるため、若手減量の恩恵を受けられないことだ。しかしそんなことに甘えていてはダービーはおろか青葉賞にも騎乗できないかもしれない。まずは重賞競走騎乗資格の20勝が目標だが、目指すのは32勝。G1騎乗資格を得るのだ。…今日11勝すれば青葉賞は大丈夫じゃん。頑張ろう。

 

昨日の厩舎出発前、私は中岡先生にこんなことを言われている。

「正直に言って、お前が青葉賞までに20勝できるか不安しかない。」

だが、こうも言われた。

「だが、お前が勝ち数が足りず悔しがる姿よりヘリオスに乗って府中の坂を駆け上がってくる様子の方がが簡単に想像できる。」

その府中の坂を駆け上がるレースが青葉賞かダービーかは知らないが、私はだいぶ期待されていることを実感した。

 

で、今、第一レース前。ダート1400メートルの四歳限定未勝利戦で、トウカイテイオー産駒の牝馬、ミヨノエルフに騎乗するのだが、前検量で問題が起きた。

本競走の斤量であるが、まずハンディキャップではないので牡馬55kg、牝馬2kg減。一般競走なのでそこに見習い騎手減量制度が適用されて、私はまだ9勝なので3kg減。よって負担重量が50.0kgとなったのだ。

そして今日の私の体重を見てみよう。メートルグラム法に則り、市販の巨大電子天秤(要は体重計)の値は48.2kgである。

そしてミヨノエルフは中型馬。鞍は競馬学校卒業の時に栄養士さんからプレゼントされたMサイズの鞍である。

 

検量の結果は…

 

「50.5kgです。」

 

500gオーバーである。

 

更衣室に戻って、勝負服の下に着ているシャツを脱ぐ。そしてパンツの要らんところをハサミで切る。ついでに肌着も腹の部分を切る。よし、これで大丈夫だろう。体感としてはだいぶ減ったぞ。

 

「50.3kgです。」

 

まだ斤量オーバーである。

 

「くそっ!これ以上何を脱げばいいんだ!」

 

「ゴーグル外せばいいじゃないですか。」

 

「斜行して免停になれと?」

 

「では靴下は?」

 

「負けろと?」

 

「パンツは?」

 

「社会的に死ねと?」

 

「朝ごはん吐けば?」

 

「…もうそれしかない。」

 

すぐさま便所に行って以下略。

 

再検量。

 

「49.9kgです。」

 

「…重りつけるか」

 

「そうしましょう。」

 

朝ごはん…おかわりしなきゃよかった…

 

----------

 

『ミヨノエルフ一着!さすがはテイオーの娘!』

 

勝った。だいぶ圧勝した。実況の言う通り、とても力強い走りだった。たぶん芝に来れば秋華賞辺りでセンリノヒメの強敵になるだろう。…走り方があまりにも力任せだから、もし芝を走ったならば芝が耕されてしまうだろうが。

 

 

続いて第2レース、4歳未勝利戦、ダート1600メートル。私の騎乗馬はソヴィエトスター産駒の牡馬、セタノスター。

この馬の騎乗契約であるが、今日乗る馬の中で唯一私が契約をとってきた馬である。その輝く馬体、可動域の広い脚、それを美浦トレセンの南調教馬場で見てから一度は乗ってみたいと思っていた。どうしてもレースで乗ってみたいと思った私は、同馬を管理する志摩田調教師に頼み込んでこのレースに限り騎乗できることになったのだ。

…決してヘリオスやヒメから浮気したわけではない。

 

ちなみにこのレース、出馬表のジョッキーの欄を見ると錚々たるメンバーが並んでいる。

 

レジェンド岡辺さん、憧れのヒットマン的馬さん、勘違いガッツポーズの海老名さん、メジロパーマーやトウショウファルコの田面気騎手、ポツンポツンのトリックスター横矢間騎手、東のユタカこと芳田豊騎手、シリウスシンボリでの活躍が記憶に残る加糖騎手、競馬学校一期生の天才芝田騎手。

 

どうやって勝てと?

いや勝ち方はいくらでもあるんだ。いくらでもあるんだけど私の勝ち方の持ち合わせのどれを試しても、それぞれの作戦でやられたら不味いことを得意とする騎手が揃ってしまっている。作戦面でのアドバンテージはほとんど無いに等しい。こちらにあるアドバンテージは、セタノスターの身体能力だけ。

 

 

-------------

 

『鞍上飼葉は叩かない!ノンステッキで駆け抜ける!セタノスター圧勝!今日の飼葉は調子がいいぞ!』

 

…私はリュックか背負子だろうか。セタノスターが強すぎてなんだか不安になってきたぞ。

 

 

 

私はそのままの調子で勝ったり、ハナ差負けたりを繰り返し、平地5勝、障害1勝をあげて、通算勝利数を平地28戦14勝、障害2戦2勝となった。

 

振り返ってみると障害競走に限れば無敗である。中山大障害を飛ぶ日も来るのではないかと思いつつも、まずは青葉賞を目指して勝利を重ねようと誓うのだった。

 

 

 

 

 

 

なお余談であるが、今日騎乗した馬が全部美浦所属なのをいいことに後日厩舎にいき状態の確認と騎乗させていただいたことへのお礼、負けた馬に関しては謝罪をしてきた。

特に負けた馬の謝罪では謝る度にゴール板にハナ差届かない強烈な記憶がフラッシュバックして涙がぼろぼろでてきた。

 

次は勝とう、そう心に刻んだ。



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いざ重賞。とどけタイトル

更新は不定期です。完結する頃には第三次競馬ブームが終わっているかも知れませんが、よろしくお願いします。


「本日ゲストとして来ていただいたのは、今年デビューの新米にして現在平地27勝、障害3勝の大記録を挙げた飼葉慧騎手です!」

 

なんでだろう。まだ重賞競走を勝利どころか騎乗してもいないのにゴールデンタイムの番組のコラム的なコーナーで私の特集が組まれている。本当になんでだろう。頭の中でユートピア牧場の青い勝負服を着た人と出口牧場の赤い勝負服を着た人がギターを弾きながら踊り始めた気がする。つまるところ私はひどく混乱しているようだ。

「どうもっ!飼葉慧ですっ!」

声が上ずる。落ち着いて脳内深呼吸していると司会のお姉さんが少し助けてくださった。

「もしかして緊張していらっしゃるのかしら?」

少し落ち着いた。ここは第一印象が大事だ。気合い入れて行こう。

「そりゃあ初めてのテレビですから緊張しますよ。僕はどこぞの二世騎手じゃなくて一般家庭出身ですから。」

ちょっとした冗談を加えた渾身の回答。ヘリオスの馬主さんから「困ったら竹豊をいじるといい」と言われていたが本当だろうか。笑いをとることには成功したようだが不安でしかない。

「ははは、今から竹騎手と比較するようなことはないと思いますよ。」

…三重春さんは察しがいいんだか悪いんだか。私は美浦の人間だから栗東の人間ほど話がうまいわけではないのを理解してくださったのか、それとも竹豊をいじられて悔しかったのか。真相は本人が知るのみである。

 

さて、私の今までの来歴のVTRと称する事実上の黒歴史公開ビデオが公開された。やはりそのなかでは、95年の春の天皇賞で二番目に的馬コールを始めた中学三年生の背の高い少年の姿がピックアップされていた。私である。

恥ずかしながら私がコールをしたのは最初にコールを始めたおじさんの声が聞こえてきたのにつられたからという理由であるが、それでもこのレースでコールを始めずにはいられなかった。それほどに、あのときの的馬均とライスシャワーのコンビというのは私の脳みそに焼き付いて永遠に離れないのである。

「飼葉騎手はこれがきっかけで騎手を目指すようになったのね」

司会のお姉さんが、私に発言を促す。これは何分ほどしゃべればいいのだろうか。カンニングペーパーのスタッフの方をチラッと見る。いや白紙かよ。なにか教えてくれよ。

「はい。話せば長くなるので簡潔に済ませますが、このときに的馬騎手に感動したのが一番の決め手ですね。」

あんまり長々と話してもいけないので簡潔に済ませる。周りから感嘆の声がでる。…やっぱりこういう番組は苦手だ。大勢の間合いをとりながら発言するのは僕には難易度が高い。

「そんな飼葉騎手ですが、巷では乗っている馬によって騎乗の格好が大きく違うとの噂です。飼葉さん?そこのところどうなのかしら」

「あんまり教えたくないんですが…」

「そこをなんとかしてくださらない?」

…………………………………………

ところ変わって、ここは栗東の多原厩舎。元天才ジョッキーの多原調教師が珍しくゴールデンタイムにテレビをつけていた。目的はただひとつ。今波に乗っている若者が失態を犯さないか見守ることだ。

 

テレビを食い入る様に眺める多原調教師がさすがに気になったのか、とある調教助手が声をかけた。

 

「テキ、そんなに飼葉が気になりますか。」

「そりゃあ気になるさ。自分と同じタイプのジョッキーだもの」

 

多原調教師と同じタイプのジョッキー。その言葉が意味するところは、飼葉慧が希代の天才ジョッキーの素質を持っている、そんなところだろう。しかし、レース映像をみる限り、私にはとても…そうは見えなかった。

 

「飼葉はそんなにすごいジョッキーなんでしょうか。私にはテキほど馬乗りがうまいようにはとてもみえませんが。」

 

「バカなことを言うんじゃないよ!」

 

突然の大声だ。最近の多原調教師は声を荒げることが多くなってきたが、今の叫びはその比ではなかった。そして多原調教師は調教助手の襟ぐりを掴み、怒鳴り付けた。

 

「君は騎乗の本質を理解していない。馬に乗るということは馬に負担をかけるということだ。馬にとってジョッキーは本来邪魔でしかない。」

 

そういうと多原調教師は調教助手を投げ捨て、壁にかけてある騎乗用の鞭を手に取り力説した。

 

「いいか、競馬というのは馬が本来出さないような力を無理やり引き出して行われるものだ。この鞭が使われることからもわかる通り馬が走るのを嫌がる馬でさえ無理やり走らせている。」

 

「鞭を打ったら走るのをやめてしまう馬にたいしても鞭を見せることで今走るのをなめたら叩くぞと脅す。」

 

「それが飼葉と何の関係が…」

 

これは失言だった。この調教助手の一言が、多原の怒りに油を注いだ。いや、油どころではない。ガソリンを注いだに等しかった。

 

 

「君は本当に飼葉ジョッキーのレースをみたのか!?彼はほとんど鞭を使っていない!」

 

言われてみれば確かにそうだと調教助手は思った。しかし多原調教師は考える暇を与えず捲し立てる。

 

「彼はここぞと言うときに鞭をあまり入れずとも馬に合図している。それに馬もしっかり反応している。その時馬が飼葉ジョッキーに反抗していたか?最初の4、5レースは馬が反抗していたが、それも馬自身に納得させて走らせている。ここまで馬と会話できるやつが私と彼以外にいるか?いたとしてもそれこそ福長祥一くらいだろう?」

 

「でも…彼は多原さんほどじゃ…」

 

多原調教師はかなり声のトーンを落とし、落ち着いて調教助手に一言吐き捨てた。

 

「ここまで言ってわからないようなやつは私の厩舎にはいらない。今すぐここから出ていきなさい。」

 

厩舎開業の時からいた調教助手をクビにするほどの激情のなかでも、多原調教師は飼葉が失言を仕掛けたのを聞き逃さなかった。飼葉慧は若い頃の多原と似ている。だからこそ、しっかり守り、進むべき道を彼が納得できる形で見つけさせなければならない。この飼葉慧という若い芽を、全力で育てよう。多原調教師の目標が、明確に転換された瞬間だった。

 

翌日、多原は違法薬物と酒をすべて処分した。

 

 

 

 

 

 

 

 

今日は青葉賞本番。第9レースまでに2勝を挙げ、東京競馬場の走り方も慣れてきた。私は控え室からパドックを歩くリアルヘリオスを見つめていた。東京までの短距離輸送では特に疲労もないようで、町山厩務員が持つ引き綱を右へ左へと元気に振り回している。癖馬であることに変わりはないようだ。

 

青葉賞に出走している馬は1勝馬か2勝馬がほとんどだ。そのなかにポツンと1頭未勝利馬、リアルヘリオス。優先出走権は三着までだが、未勝利馬は二着に入らないと優先出走権が得られない。だから確実に、絶対に勝つ。

 

 

 

騎手騎乗の号令がかかり、厩務員からヘリオスを受けとる。歩様問題なし、入れ込む様子なし、闘志よし。ヘリオスは万全の状態に整っている。

 

「しばらくレースに出ていないせいで勝負勘が鈍っているかもしれません。けど飼葉君ならそこもしっかりフォローできるよね?」

 

「どんとこいです。ヘリオスとダービーへの切符、つかんできます。」

 

青葉賞、馬場入りまでもうすぐだ。

 



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大外、八枠十六番、リアルヘリオス

ゲート前まではすぐだ。しかしちょっと準備運動、返し馬をしてヘリオスの調子を見る。調子はよさそうだ。

 

東京競馬場芝2400メートル、青葉賞。ダービーと同じコースのトライアルであるが、未だここの勝者からダービー馬は出ていない。ヘリオスをそのジンクスを打ち破る最初の馬にする。そう覚悟を決めて、ゲート入りを待つ。

 

少々首のふりが激しい。しばらくレースに出ていなかったから久しぶりのレースに緊張しているのだろう。大丈夫だ、大丈夫だと首を撫でる。すると首のふりがだんだん落ち着いてくる。

 

発走準備の赤旗が上がり、ファンファーレが鳴る。それにつれて歓声も大きくなる。青葉賞の発走位置はスタンド前だからこの歓声がなかなかに曲者だ。周りを見るとこの歓声のせいなのか、ペインテドブラックが入れ込み始めた。少し前まで大人しくしていたのに、首を左右に振っていてまったく落ち着きを見せなくなった。

 

そのペインテドブラックもゲート入りして、刻一刻とレースが迫ってくる。頑張ろう、ヘリオス。ここで勝ってダービーに行くんだ。

 

どんどん枠入りが進んでいく。大外枠はゲート入りからスタートまでの時間がほとんどない。そこに注意して乗らないといけない。内枠と違ってまったく余裕がない。

 

ついに大外16番、私とリアルヘリオスの枠入りが終わった。

 

「よーい!」

 

ガコン!

 

『スタートしました!まず先手をとるのはスティアーズマンか、いやしかしケイエムチェイサーに譲って控えるが、大外からなんと!リアルヘリオスがハナをとりに来ます!…がこれも後ろに控えました。乱れた展開です。』

 

青葉賞は東京競馬場2400メートル。スタートしてほぼすぐに一回目の4コーナーが来る。ハナをとるならそれまでに先頭を主張しておかないといけない。なぜなら向こう正面で先頭に出ようとすると急坂を駆け上がることになり最終直線までに脚を残せないから。

 

今日の作戦は先行押し潰し。ヘリオスは連闘のしすぎで古馬並みのスタミナがついている。それに前に行きたがる気性もあるから、これらを余すところなく活かす作戦だ。

前にはスティアーズマンとケイエムチェイサー。スティアーズマンは我々の外側斜め前で控えるようだが、まずはこれを突っついていく。スティアーズマンの視界にはバッチリ入り、鞍上の勝浦騎手の視界にはチラチラ入るように内につけながら、だんだんと、気付かれないように増速していく。一気に増速するのはまだだ。まだそのときではない。

 

ヘリオスは珍しく掛かっていない。ハミの引きもそこまで強くないし、指示を伝えるのに支障は出ていない。むしろこのちょこまかとした動きを楽しんでいるようだ。よし、この調子ならヘリオスのスタミナはゴールしても尽きないだろう。

 

『各馬第3コーナーを回っていきますが、ケイエムチェイサーが先頭で二馬身のリード、続いてスティアーズマンとその内並んで16番リアルヘリオス鞍上はこれが重賞初騎乗の飼葉慧、その後ろ一馬身に2番のフューチャアイドルが中団の先頭………』

 

 

チラッと後ろを確認する。この先行押し潰し作戦は後ろがついてきていないと意味がないが…ついてきているようだ。

前に向き直るとケイエムチェイサーが少しペースを落とそうとしている。スローペースに持ち込もうとしているのか。私たちとしてはスローペースになると不利だ。どうにかしてスタミナ勝負、地獄のステイヤー決着に持ち込みたい。

 

問題はここからだ。自分だけハイペースではいけない。他の馬もハイペースにさせて疲れさせないといけない。そのためには前で競り合い、その上で後ろについてきてもらわないといけない。しかし、リアルヘリオスはオッズの上でも、他馬の騎手からも注目されていないから、あまり前に出ても「どうぞどうぞ、勝手に逃げて自滅してください」となりかねない。いつ、仕掛ければいい。

 

ゴール板までの距離が残り1500メートルしかないことを示すハロン棒が横を流れていった。

 

 

 

「ありゃあやっちまったなぁ~」

今リアルヘリオスを駆る若人が所属する厩舎の調教師である中岡調教師は、そう呟いた。

その気持ちはわかる。とてもよくわかる。こんな場合は控えずにさっさとハナをとって逃げるべきだった。もし私が乗っていたとしてもそうする。間違っても控えたりはしない。出遅れでもしたら出ムチを使うことさえ厭わないだろう。

 

現に彼は迷っている。迷う事態になっている。三番手に控えてしまったことで、有効に競りかける方法を見失っている。

 

「もしああなってしまったら、多原さんならどう切り抜けるかい?」

 

彼から会話が振られる。さてどうするだろう。競りかけるなら…ケイエムチェイサーがペースを落として、スティアーズマンが追い付きかけたくらいで………そうか。そのタイミングだ。

 

「もうすぐ、仕掛けますよ。」

 

私には、勝ち筋が見えてしまった。

 

 

 

 

『前半の1000メートルをただいま通過致しまして、そのタイムは1分ちょうどであります、速くもなく遅くもなくといったところか。先頭は変わらずケイエムチェイサー…』

 

もう仕掛けよう。このままぐずぐずしてたら拾える勝ちも拾えなくなる。手綱を緩めて軽く鞭でたたく。さっさと先頭にいってしまおう。このスローペースで末脚勝負になるとヘリオスは不利だ。

 

ヘリオスがじわじわと上がっていく。スティアーズマンを抜いてケイエムチェイサーに追い付いていく。後ろの先輩方は驚くだろうか。想定内だろうか。私としては焦っていてほしい。

 

3コーナー入り口でケイエムチェイサーを追い抜いた。ヘリオスの息づかいにはまだ大きな余裕が見える。大ケヤキで息を入れる必要はないだろう。もうここまで来たら後に引けない。ここから力押しで勝つしかない!

 

『おおっとリアルヘリオスがあがっていきます、外目を突いて上がっていく!遅いと見た、このペースは遅いと見た飼葉慧騎手!』

 

さあ勝負だ。他の馬みんな潰して勝ちにいくぞ!ヘリオス!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




次の更新はたぶん一年以上後です。


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