雪ノ下雪乃は偽物である (恥谷きゆう)
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そうして物語は始まる

 朝目覚めたら、違う人間になっていた。しかも性別が変わって、女の子だった。

 

 衝撃の目覚めから数分、ベッドの上で自分の体を細部まで確認した僕は、溜息をついた。きめ細やかな肌。短い手足。まだ小学生といったところだろうか。発達途上の体には、まだ女性らしい曲線はない。

 

 ベッドからよろよろと立ち上がる。体のバランスに違和感を覚えながら、見覚えのない部屋に置いてあった大きな鏡の前に立つ。

 長い黒髪を後ろに流したその顔を見た瞬間、僕は驚愕した。

 

「雪ノ下……雪乃……?」

 

 そこに映っていたのは、僕の好きだった物語、『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』のヒロイン、雪ノ下雪乃の幼い姿だった。

 

「……本物の彼女は、どこに?」

 

 驚愕と共に、最初に感じたのは、凄まじい罪悪感だった。僕がこの体になる前にいた、本物の雪ノ下雪乃は?どこに行ったんだ?死んでしまったのか?どうすれば戻ってきてくれるんだ?

 

 何よりも、何よりも……!

 

「物語は、どうなるんだ?」

 

 配役から間違っている物語は、果たして成立するのか?

 僕が好きでたまらなかったあの物語が、僕のせいでなくなる?そんなの、たえられない。

 

 だから僕は、雪ノ下雪乃を演じることにした。

 

 それからの僕は、いや、私は、必死になって本物の雪ノ下雪乃に近づくために努力した。

 まず勉学。元々勉強は得意ではなかったが、たくさん時間をかけて勉強した。そして、努力など一つもしていないような澄まし顔で教師からの賞賛を受けた。

 

 友達と楽しそうに話す同級生を尻目に、必死に学んだ。おかげで本物と同じように友達がいなくなったのは、思わぬ成果だった。雪ノ下雪乃ならば、孤高でなければならないだろう。

 

 厳しい親の期待に応え、優秀な姉の後を必死に追った。姉の前で雪ノ下雪乃を演じるのは大変だった。正直なところ、あの姉を欺けたとは思えない。実家にいる間、私はいつ彼女が自分を偽物だと暴き立てるのかといつも不安に思っていた。

 

 立ち振る舞いも、美貌に似合うような優雅なものを必死に身に着けた。足を開いて座らない。表情を大きく動かさない。背筋はピンと伸ばす。常に他人の目を意識する。

 元々男として意識のあった私にとって苦痛でしかなかったそれは、年を追うごとに必要事項を増やしていき、決して要領の良くない私の頭を圧迫した。日々立ち振る舞いを矯正して、やがて自分が元々どんな振る舞いをしていたのか分からなくなった。

 

 こうして、雪ノ下雪乃の偽物が完成した。継ぎ接ぎだらけで、本物とはほど遠い偽物だった。でも私は雪ノ下雪乃だった。

 

 さて、私の醜い努力など、仔細に語る必要もあるまい。重要なのは、高校二年生の春。物語のはじまりだ。

 

 これから始まる物語をハッピーエンドにすることで私のこの人生という演劇はひとまず大きな区切りを迎えることとなる。

 しかしながら、なんの因果か私という異物が入り込んでしまった以上、もはや同じ物語を完璧になぞることこそが起こりうる最高のハッピーエンドとは言えないだろう。

 

 であれば、ハッピーエンドは私が演出しなければ。そうでなければ私が雪ノ下雪乃であることを、私はこれから一生肯定することができない。私という異物が存在するから他人が、登場人物たちが幸せを享受できないなど許容できない。

 決意はとうの昔に済ませた。あとは、演者の一人として物語を演出するのみだ。

 

 

 ◇

 

 

 開け放たれた窓から届く陽光が、手元の文庫本の頁を照らす。光は風に靡くカーテンに遮られて、ゆらゆらと揺れていた。耳元を吹き抜ける風、そして私が頁を捲る音。控えめな音のみが存在する、穏やかな空間だった。

 けれど私は知っている。もうすぐ、この静寂は終わる。

 

 先刻、平塚先生のところに部室の鍵を取りに行った際にたまたま目に入った、机の上に置かれた作文。書いた生徒の名前は比企谷八幡。「青春とは悪である」という一文から始まる、万人の肯定する青春に抗する、あまりにも青々しい作文。青春とは悪であるという傲岸な主張。

 けれどそれは、彼が短い人生の中得た実感や周囲への冷徹な観察眼に基づいた信念の表れだった。

 

 やがて、物語の始まる音がした。

 

 静謐な室内に、無遠慮なノック音が響く。それと同時に颯爽と平塚先生が入ってきた。

 

「邪魔するぞ、雪ノ下」

「先生……ノックをしたら返事を待つものでは?」

「まあ細かいことはいいじゃないか。──おい比企谷、入ってこい」

「なんなんすか、急に連れてきて。だいたい、俺には反省するようなことなんてないですよ」

 

 部室の扉の前に立ち、気だるげに言う彼を見る。濁った瞳、頼りない猫背、そして重力に逆らうようにピンと立ったアホ毛。

 間違いなく彼だ。比企谷八幡だ。前世ではのめりこんだ物語の主人公、彼が目の前に現れ、私は感動する。

 実在する比企谷八幡が、すぐ目の前に立っている。その事実に心臓はどくどくと脈を打ち始め、頬が僅かに熱くなる。

 

 外面だけは努めて冷静さを保ちながら、平塚先生に疑問を投げかける。

 

「それで、そこのぬぼーっとした人は?」

「ああ、彼は比企谷八幡。奇妙な怪文書を作文として提出してくるような問題児でな。ここでお前と一緒に奉仕活動に励んで、その性根を叩き直してもらおうと思ってな」

「お断りします。こんな不審者と二人きりで部活なんて身の危険を感じます」

 

 私は胸を抱く素振りを見せて、彼を睨みつける。ちなみに、抱くような胸は育たなかった。原作の忠実な再現には、ファンとして感心である。悔しくなんてない。

 

「いやなに、こう見えてもこいつはリスクリターンの計算のできる小悪党のような人間でな。どうせそんな大したことはできない。そういう意味では安心していい」

 

 知っている。後に理性の化け物と言われるような男だ。軽率なことはしないだろう。

 しかし、これで確信できた。人を見る目が確かな平塚先生がこう言うのだ。間違いなく、彼は私の知る比企谷八幡なのだろう。

 

 彼がここに来たということは、始まるのだ。あの物語が。美しくて、間違いながらも進んでいく、青春ラブコメが。

 けれど、私は知っている。その配役には、最初から間違いがある。──偽物の紛れ込んだ青春ラブコメは、正しく終わることができない。

 

 

 思案に耽っていると、平塚先生が「じゃあ後は頼んだぞ」などと言いながら部室を出ていくところだった。ピシャリと扉が閉まると、比企谷八幡と二人きりになってしまった。

 

 気まずい雰囲気が漂う。本物の雪ノ下雪乃ならきっと、傍若無人に振る舞い、罵倒のような会話劇を繰り広げたのだろう。

 ひとまず、こういう時は雪ノ下雪乃の思考をトレースしよう。今までの人生だっていつもそうしてきた。

 私は意を決し咳払いをすると口を開いた。

 

「それで、あなたはいつまでそうやって突っ立っているの?」

 

 初対面の同級生に無礼な態度を取られて若干憮然としながら、比企谷八幡は教室の後ろに積み上げられた椅子を一つ取ると、適当なところでそれに腰かけた。

 どっかりと座った彼が私の顔を見て、少し目を逸らした。今、雪ノ下雪乃の顔面の綺麗さにビビったな。視線を少し逸らしたまま、彼が話しかけてくる。

 

「それで、ここは何をする部活なんだ?」

「さっきの話が聞こえなかったのかしら?ここは奉仕部よ。生徒から相談を受けて、その悩みを解消するの。まあ、ただ解決してあげるだけじゃ本人のためにならないから、あくまでも最終的に解決するのは本人に任せている。こんなところかしら?」

「ああ、つまり魚を欲する人間に魚を与えるのではなく、釣りの仕方を教える、みたいな話か」

「見た目のわりに理解が早くて助かるわ。見た目のわりに」

「いちいち相手を罵倒しないと会話できないの?……慈善事業かよ。めんどうなもん押し付けられたな」

「あなたのような人間が人の役に立てるのだから、泣いて喜ぶべきだと思うのだけれど。ねえ、穀潰しヶ谷君?」

「俺の未来を正確に予想したような渾名を付けるのはやめろ。そもそも俺の将来の夢は専業主夫だ。穀潰しと一緒にしてくれるな」

 

 実際専業主夫なら余裕でできそうなのが怖いところだ。平塚先生とかあっさり受け入れてくれそう。

 

 思考を振り切り、目の前の主人公に言葉をかける。

 

「それで、私はあなたを更生させればいいのかしら?……その腐った目を見るに、望みは薄そうね。諦めていいかしら?」

「ちょっと?頼んでもないのに勝手に更生を諦められても困るんですけど?そもそも、自分に更生の必要性を感じないな」

「変わろうという意思がないなんて唾棄すべき怠惰ね。少しは前に進もうという気概がないのかしら?」

 

 思ってもいない、おそらくは彼女はこう言うだろうという言葉を投げかける。前に進むどころか自分の決断で人生を決めてこなかった人間がなにを言うのだろうか。

 

「変わらないことは別に悪いことじゃないだろ。むしろ些細なきっかけ1つで変わっちまう自己なんて自己って言えるのか?変わろうとするなんてことで簡単に変われるならみんな理想の人間になってるよ」

 

 堂々と持論を言い放ち、彼の瞳が私の顔を見やる。黒々とした瞳に見つめられると、私の薄っぺらい本性を見透かされそうで、私は視線を外した。

 

「そんなものは言い訳に過ぎないでしょう。変わろうとしなければ、いつまでも思い描く自分にはなれないじゃない」

 

 私が言うのはあまりに似合わない理想論を吐く。

 最低限、私は思い描く彼女の姿に限りなく近づけた。だが、私は。彼女という仮面を外した私はどうだろうか。少し、確固とした自己を持った彼が羨ましくなった。

 

 

「──とにかく、比企谷君。協力するように言われたのだから、明日からはよろしくね」

「……おう」

 

 平塚先生は勝負がどうこうという話はしなかった。私の負けん気を煽るよりも、率直に協力するように言った方がいいことに気づいているのだろう。私の演技には目もくれず、的確にこちらの心理を見抜いてくる。全くもってやりづらい相手だった。

 

 

 ◇

 

 

 家のドアの前で立ち止まり、制服のスカートのポケットから鍵を取り出す。鍵には「パンさん」という可愛らしいパンダのキャラクターのキーホルダーが付いていた。

 雪ノ下雪乃ならばこういうものを好むのだろう。そう思って集めていたパンさんグッズだが、気づけば私自身も好きになっていき、今では立派な趣味となった。

 

 こんな風に、私が原作の彼女と同じものを好きになるということは珍しくない。コーヒーよりも紅茶が好き。慣れ合いよりも孤高が好き。犬よりも猫が好き。

 

 それは演じる上で好都合とも言えるのだろう。しかし、私はたまにこう考えてしまうのだ。私の価値観が雪ノ下雪乃になっていくのなら、本当の、本物の私とは何なのだろうか。この世界で目を覚ました時から偽物の私には、分かるはずもないことだった。

 

 

 閑話休題。この自分1人しかいない家は、私にとって、この世で唯一雪ノ下雪乃を演じる必要のない場所だ。

 制服を脱ぎ、ゆったりとした部屋着に着替える。同時に作っていた清楚さも立ち振る舞いをかなぐり捨てた()()は、勢いよくベッドへとダイブした。ボフン、という音と共に仰向けに倒れる。

 全身の力が抜けていく感覚。ピンと伸びしていた背中を緩ませ、ピシリと張り付けていた無表情を引っぺがす。

 

 リラックスモードに入ったボクは、枕を抱いて小さく呟いた。

 

「……ボク、実在する比企谷八幡と話したんだよね……。えへへへ……」

 

 外では絶対に出せないような笑い声を出す。正直、涼やかな高音でもなければ聞くに堪えないレベルの気持ち悪さだった。キャラ崩壊なんてレベルじゃないが、大丈夫だ。今のボクは雪ノ下雪乃ではないのだ。

 

「あの腐った目とか、想像通りだったなあ……。あの作文を見た時には確信してたけど、本当に奉仕部に来てくれるなんてなあ……。いやあ、一ファンとして感動だよ全く」

 

 相対していた彼の姿を思い出す。気だるげな猫背。ピンと伸びたアホ毛。そして、意外と整った顔。

 

「……あれ?」

 

 思い返していると、自分の体に不思議な違和感を覚える。頬がほんのり暑くて、鼓動が早い。目を閉じれば、比企谷八幡の顔が思い浮かんで。まるで。まるで、恋みたいな。

 

 ──そう思った瞬間、全身の血の気が引いた。

 

「──ッ!違う!」

 

 耐え難い気持ち悪さ、嫌悪感。ボクはたまらず洗面所へと駆け込んだ。

 

「あり得ない、あり得ない、あり得ない、あり得ない!」

 

 蛇口をいっぱいに捻ると、ボクは冷水を顔に引っ掛けた。少し、冷静さを取り戻す。顔を上げると、真っ青な美少女と目があった。その事実に、また気持ち悪さがぶり返す。

 

「ボクは男だ!ボクは確かに男だったんだ!──でも。今は女で……」

 

 先ほど考えていたことを思い出す。ボクの趣味嗜好は、雪ノ下雪乃の影響を受けている。コーヒーよりも紅茶が好き。慣れ合いよりも孤高が好き。犬よりも猫が好き。

 

 であれば、恋する対象も、女よりも男になっていてもおかしくない?

 

「……ちがう」

 

 声は、思っていたよりもずっと弱弱しかった。

 思えば、この世界で目覚めてからずっと雪ノ下雪乃を演じるのに忙しくて、恋愛なんて考えてもみなかった。

 今のボクは、一体どっちなんだろうか。その問いに答えなんて出せなかった。

 こうして、1人の夜は過ぎていく。

 




Q.偽乃は比企谷八幡と交通事故の時に会っているのでは?
A.交通事故の時にはただ見かけただけ。実際に会って、話をしたのは奉仕部の部室が初めて。
事故の時は気が動転してそれどころじゃなかったり……というのはこの物語が続けば語ることがあるかも


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まだ由比ヶ浜結衣のクッキーはまずい

 扉が開き、今日も瞳を濁らせた彼が入ってくる。昨日ぶりに奉仕部の部室を訪れた比企谷君は、文庫本に目を落とす私に一瞬目を向けると、やや視線を逸らして小さく頭を下げた。……なんだか、前世の自分を見ているようだ。

 それを見届けた私は、返事をせずに再び頁へと視線を落とした。すると、比企谷君の呆れたような声が聞こえてくる。

 

「この距離でシカトかよ……」

「あら、どこかの国の挨拶だったの?少なくとも私は知らないわね」

「……コンニチハ」

「はい、こんにちは」

 

 ばっちり煽ると、比企谷君は引きつった笑みで挨拶をしてくれた。うん、雪ノ下雪乃とはたぶんこんな感じだ。

 

「今日も来たのね。意外だったわ」

「ああ、仕方なくな」

「へえ、もしかして私のこと好きなの?」

「ちげえよ。なんだそれ、自意識過剰か」

「あら、違ったの」

 

 興味なさげに返答してやると、比企谷君は眉をひくひくさせながら、自分の席に座った。この傍若無人っぷり、いかにも初期の雪ノ下雪乃っぽい……!心中で自画自賛していると、比企谷君が話しかけてきていた。

 

「なあ、昨日も思ったが、お前のそのひん曲がった性格、どうにかならないのか?仏門にでも入った方がいいんじゃないか?」

「いいえ、別に不便していないもの。むしろあなたが頭を丸めて悟りの道を目指した方がいいんじゃないの?煩悩ヶ谷君」

「人を煩悩に塗れた俗物みたいに言うな」

「あら、でも私の胸を下卑た目で見てきているじゃない」

「みっ、見てねえし」

 

 比企谷君が大きく顔を逸らした。うんうん、顔を見るのが気恥ずかしくて、視線が下がった結果胸のあたりで視線が止まるんだよね。分かる分かる。心中の男の私が同情する。

 

「……なあお前、そんな性格で友達いるのか?」

 

 再び視線を上げた比企谷君が、急に痛い質問をしてきた。今度は私が視線を逸らす番だった。

 

「……そうね、まず友達の定義から提示してほしいものね」

「ああ、もういいわ。それ友達いないやつの台詞だわ」

 

 比企谷君の私を見る目が、若干生ぬるいものになる。くっ、私だって作ろうとすれば友達の一人や二人……!

 

「……そうね、あなたには不快な話かもしれないけれど」

「もう今までの話で十分不快になってるよ」

「私ってとても可愛くて優秀だから異性にとてもモテるの」

「……すっげー不快だわ。今までになく」

「──だから、同性からは好かれないの。……こう言えば、友達のいないあなたにも分かるかしら?」

「お前にそれを言われるのはムカつくな。……まあ、分かるよ」

 

 比企谷君は呆れたような目で見てくるけれど、私にとって異性に好かれるというのは不快でしかなかった。自分の中の認識は同性なのに、男から欲情の籠った目を向けられる。それは想像していたよりもずっと不快で、精神的にくるものがあった。

 

「──そんなの、間違っていると思わない?優れた人間が蹴落とされる世界。醜い人の嫉妬が世界を支配する。そんなのおかしいじゃない。だから、変えるのよ、世界を、人を」

 

 その理想は、私のものではなく雪ノ下雪乃のものだ。間違ったことが嫌いで、正しくあろうとし続けていた少女が掲げた理想。それを、偽物である私が騙る。ああ、なんて間違い、なんて醜いのだろう。それでも、私は雪ノ下雪乃を演じる。この先にハッピーエンドがあると信じて。

 少しの沈黙が場を支配した。やがて、私の言葉に少し考えこむように黙り込んでいた比企谷君が、おずおずと口を開いた。その瞳は、いつになく真剣だった。

 

「──なあ、雪ノ下。なら俺が友達に」

 

 その、共感と、羨望と、嫉妬と、その他さまざまな感情を含んだ呟きを、私は──

 

「お断りよ」

 

 凍えるような笑みと共に、バッサリと、切り捨てた。

 

 

 

 

 その日の夜。自宅にて。

 

「うわあああああ!ボクなんであんなこと言ったんだよおおお!友達になりたかったよおおおおおおお!」

 

 ゴロゴロゴロ。自宅のベッドの上で回転し続ける女子高生の姿が、そこにはあった。というかボクだった。

 断った時の、比企谷君の微妙に傷ついたような顔がフラッシュバックする。自分の放った、容赦のない断り文句が脳内でリピートし続ける。

 ごめん比企谷君。君はボクのロールプレイの犠牲になったんだ……!

 

 誰にも見せられない醜態を晒して数分。ボクはベッドからむくりと起き上がった。

 

「はあ……雪ノ下雪乃やめたい……」

 

 何も背負っていない、何者でもないボクだったなら、きっと彼と友達にだってなれたはずなのに。嘆きは、誰にも聞き届けられることはなかった。

 

 

 ◇

 

 

 奉仕部に彼が加入してから数日が経った。あれからほとんど毎日部室で会っているが、彼との間にはあまり会話はない。そもそもファーストコンタクトの印象から最悪だっただろう。口の悪い女。きっとそんな印象を抱いたはずだ。

 

 相談者が訪れることもなく、離れた席で文庫本のページをめくり続ける日々が続いた。

 彼は、その時間をどう思っていただろうか。退屈だっただろうか。それとも、静寂の中に心地良さを感じてくれただろうか。彼の暗い瞳は、その内心を明かしてはくれない。

 

 しかし、二人だけの静かな平穏はもうすぐ終わりを迎える。そろそろ、彼女が来る頃だろう。ちょうどそう考えていた時、静かな教室に弱々しいノックの音が響いた。胸の高まりを抑え、冷静そうな声を出す。

 

「どうぞ」

 

 誰かに見られていないか確認するように辺りを見渡し、教室に素早く入ってきた彼女の視線がこちらに向く。

 

「し、失礼しまーす」

 

 画面の向こうで散々見た顔だった。整った、やや童顔な顔立ち。着崩された制服。明るい髪の上にちょこんと乗っているお団子ヘアーが良く似合っている。

 

「奉仕部にようこそ。座って頂戴」

 

 ついに、由比ヶ浜結衣がこの教室に来た。物語の本編、その最重要人物がここに揃った。

 

「な、なんでヒッキーがここにいるの!?」

 

 ああ、やっぱり私の知る由比ヶ浜結衣だ。

 

 

「クッキー作りを手伝ってほしい?なんだそれ。いつもつるんでるような奴に頼めばいいんじゃないか?」

「いやあ、でもそういうガチっぽいの合わないっていうかなんていうか……」

「……まあ、話は分かったわ。それなら私にも手伝えそう。では、さっそく行きましょうか──もちろん、比企谷君も」

 

 関係なさそうな態度をしている比企谷君に釘を刺すと、彼は露骨に顔を歪ませた。瞳はマジかよこの女と言っていた。……まずいクッキーができたら、絶対食べさせてやる。

 

 

 場所は変わって調理室。私は彼女にお菓子作りについて教えていた。

 

「変にアレンジを加えようとするのはやめて頂戴。そういうのは基礎の出来ている人間のやることよ」

「え、でも美味しくなりそうだよ?」

「美味しくならないから言っているの。お願いだからレシピ通りに作ってくれないかしら?」

 

 由比ヶ浜さんの料理下手は想像以上だった。

 正直、私が教えたらなんとかなるんじゃないかと思っていた。私は本物とは違い凡人なので、できない人間の心情も分かる。だから、教え方だって下手じゃないはずだ。それはほとんど唯一本物に勝てる点だと密かに思っていた。

 しかし、そんな私でも、奔放な由比ヶ浜さんを御しきることはできなかった。

 

 クッキーづくりをしていたはずの私たちの前には、黒ずんだ物体が佇んでいた。比企谷君の言葉を借りるなら、木炭。私風に言うなら、ダークマター。

 

「……食えると思うか?」

 

 比企谷君が戦々恐々といった様子で聞いてくる。どんよりとした瞳が、常よりも光を失っていた。

 

「比企谷君、あなたに女子の手料理を食べるというご褒美をあげましょう」

「手料理?雪ノ下にしては冗談が下手だな。これは……これは、なんだ?」

「とにかく、この木炭を食べるわよ。ほら、由比ヶ浜さんも」

「うう……やっぱり食べないとダメ?」

「あなたが食べなかったら誰が食べるの!私も付きあうから、ほら」

 

 黒々としたそれを口に入れると、途端に苦みが口腔を蹂躙した。

 

「ッ!ケホッケホッ」

 

 口を押さえて咳き込む。危ない。雪ノ下雪乃らしからぬ声を出す所だった。「ウッ」とか「オエッ」とかそういう感じの。

 

「リアクションが毒物を食べた人間のそれなんだが……本当に大丈夫かよ」

「つべこべ言わずにあなたも食べなさい。紅茶は特別に用意してあげたから」

 

 二人が目を白黒させている様子を眺める。表情のコロコロ変わる彼らを見ていると、やっぱりここに存在する人間なのだなあ、などと感慨に浸ってしまう。画面の向こうの、あるいは紙面の中の登場人物ではない、実在する人間である彼ら。

 

 完食する頃には、カップの紅茶はすっかりなくなっていた。クッキー(?)を食べた由比ヶ浜さんの表情は暗かった。

 

「やっぱり向いてないのかな、こういうの。私、雪ノ下さんみたいに才能ないし、多分頑張っても無駄なんだよ」

 

 彼女が弱音を吐いた。このセリフに応えるのは、私の役割だろう。

 

「向き不向きを論じる前に相応の努力をしたらどうかしら?才能もそう。そういうのは、血の滲むような努力をした人間がそれでも尚届かなかった時に初めて口にしていい言葉よ。あなたのそれは薄志弱行な人間のつまらない言い訳でしょう」

 

 当初考えていたよりもずっときつい言葉が出たことに自分でも驚いた。

 すぐに後悔と自己嫌悪に襲われる。思ったよりも、彼女の言葉に気持ちが揺らいでいたらしい。

 凡人だった自分が彼女になるために必死に努力したこと。努力の結果得た、本物に迫る能力を、何も知らない他人にすべて才能の一言で片付けられたこと。

 

 彼女ではない、完璧ではない私という人間が過剰に反応したようだ。冷静になるために一呼吸置く。

 由比ヶ浜さんに嫌われてしまっただろうか。恐る恐る、私は謝罪を口にしようとした。

 

「ごめんなさい。言い過ぎ──「かっこいい……」

「「は?」」

 

 由比ヶ浜さんは、私の言葉に目をキラキラさせて感動しているようだった。

 結局のところ、話は概ね私の知る筋書き通りに進んだ。

 由比ヶ浜さんは雪ノ下雪乃の在り方に惹かれた。

 お菓子作りの方は比企谷くんの「味じゃなく気持ちが大事だろ」という鶴の一声で解決した。少なくとも由比ヶ浜さんにとっては比企谷くんが言うのであればそれが正解なのだろう。

 由比ヶ浜さんは、照れ隠しにプリプリと怒りながら帰ってしまった。

 

 騒がしさの過ぎ去った調理室で、私は比企谷くんと二人で調理器具の後片付けを行っていた。彼もさりげなく帰ろうとしていたので、私の特技、雪ノ下雪乃風極寒スマイルをお見舞いしてやると、「なぜ俺が……」などとぶつくさ言いながら手伝ってくれた。

 

「あー、雪ノ下」

「なにかしら?」

 

 話しかけづらそうに、比企谷くんが私の名前を呼ぶ。

 

「初めて会った時に、変わらないことは悪いことじゃないとか言ったこと、その、気に障ったのなら悪い。別に他人の努力を否定する気はないんだ」

「……いいえ、気にする必要はないけれど」

 

 どうやら、あの時私が何に怒ってしまったのか見抜かれてしまったらしい。ああ全く恥ずかしい。そして同時に、この人生で初めて私自身を見られたような気がして、少し嬉しくなってしまった。

 

 

 調理器具はあらかた片づけ終わった。めんどくさそうに片づけをしていた比企谷君は、そわそわと帰りたいアピールを私にしてきている。

 

 しかし、もう少しだけ付き合ってもらおう。

 

「比企谷君、手本に作った私のクッキーが余っているの。食べていってくれない?」

「……ああ」

 

 少しガックリしたような態度で、彼が手近な椅子に腰かける。クッキーを適当な皿に載せて、彼の目の前に置く。我ながらそれなりに良い出来になったと思う。加えて、サービス。再び紅茶を入れて、カップをクッキーの横に添える。

 

「……至れり尽くせりだな」

「ええ。お金を取ってもいいくらいよ」

 

 急に優しそうな行動を取り始めた私に、比企谷君は訝しげな目を向けてきた。なかなか口を付けようとしない。

 

「……そんな警戒しなくても、食べられないものは何もいれてないわよ?」

「食べれるものでなんか入れたのか?」

 

 私がクッキーにハバネロでも入れるような人間に見えるのだろうか。

 私自らクッキーをつまみ、紅茶で流し込んで見せると、彼はようやくクッキーに向き直ってくれた。

 

 

 由比ヶ浜さんの指導に夢中になっているうちに、かなりの時間が経っていたらしい。気づけば調理室には夕陽が差し込んできていた。運動部の威勢のいい掛け声も聞こえなくなっている。

 

 こんな原作にないイベントを私が起こしたのには、理由がある。彼と二人きりで、さらに手作りのクッキーを食べてもらう。こんなイベントを経て、自分の心がどう動くのか、それが知りたかった。

 

 私の作ったクッキーを食べる比企谷君の様子を見る。最初は恐る恐る。そして一口食べてからは次々とクッキーを口に入れていく。夕陽に照らされた顔が、少しだけ緩んだ。彼は私のクッキーを美味しいと思ってくれたのだろうか。

 ──ああ、やっぱりだ。私の胸は少し鼓動を早め、顔が少しだけ熱い。この感情が恋なのか、それとも単に好きだった物語の主人公に会えた興奮なのか、私は答えを出せずにいた。

 

 二人しかいない調理室に、無言の時間が流れる。カタ、とソーサーにカップを置く音。小さなポリポリというクッキーの砕ける音。それらが茜色の空間に溶け込み、耳を撫でる。あまりに静かなこの空間にいると、学校の中にいることを忘れてしまいそうだった。

 

 視線を戻し、自分で入れた紅茶を飲む。飲みなれたはずのそれは、少しだけ甘酸っぱかった。

 

 

 ◇

 

 

 クッキー作りの依頼を一応は完了した翌日、部室には由比ヶ浜さんの姿があった。私としては一安心という気分だ。本物の雪ノ下雪乃が存在しない以上、彼女が奉仕部に入らないという未来もあり得ると思っていた。

「やっはろー」という由比ヶ浜さんの元気な声に挨拶を返す。一応雪ノ下雪乃として彼女がここにいることをいぶかしんで見せる。

 

「あれ、私あんまり歓迎されてない感じ!?……そうだ。ゆきのん、昨日はなんか変なこと言ってごめん。ゆきのんみたいななんでも出来る人が努力してないはずがないもんね。無神経だった」

「いいえ、気にしないで。私のほうこそ言い過ぎだった」

 

 彼女にも私があっさり見抜かれてしまった。昨日と同じように羞恥に襲われ、そして不本意にもうれしさを感じてしまう。

 どうやら私は完全に演者になることはできないらしい。孤高の彼女になるために他人との関わりは最低限にしてきた。だからこそ私の仮面は今まで揺らぐことはなかった。

 

 しかし今は、かつて憧れた彼、彼女と共に過ごす今は。私は彼女になりきれない。

 



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それでも葉山隼人はみんなのヒーローだ

 いくつかの依頼を受けているうちに、気づけば春は過ぎ去り、窓から初夏の匂いが流れてくるようになっていた。

 わずかな暑さの籠る奉仕部の部室には、珍しいことに部外者が二人もいた。

 そのうちの一人、葉山君の話を頭の中で纏めながら、言葉を紡ぐ。

 

「なるほど。つまりそのチェーンメールをなんとかしたいということね」

「そうなんだ、クラスで出回ってて……なんとかならないかな?」

 

 状況は、私の知っている通りの物だった。葉山君といつも一緒にいる三人を悪く言うチェーンメールが、クラスに出回ってる。不愉快だし、クラスの雰囲気も悪くなっているから、どうにか解決できないか。そんな相談が奉仕部に寄せられたのだ。

 

 葉山くんが曖昧な笑みを浮かべながら、私に尋ねてくる。彼がこうやって私に話しかけてくるのは極めて珍しいことだ。どうやらよほど困っているらしい。

 

 

 微笑を浮かべている昔馴染みの方に目を向ける。目が合うと、彼はほんのわずかに目線をそらした。誰にも愛想よく接する彼らしからぬ態度。

 

 ……未だに私を助けられなかった自分を恥じて、私に助けを乞うことに負い目でも感じているのだろうか。馬鹿馬鹿しい。

 彼が小学生の私を助けられなかったのだとしても、それはしょうがないことだった。自ら不幸にならんとしている人間なんて助けようがない。

 

 葉山隼人はすでにたくさんの素晴らしい人間と関わっているはずなのに、どうして未だに私なぞ気にするのだろうか。

 ……いけない。思考がそれている。罪悪感を覚えている人間を見て自分が罪悪感を覚えるなんて、どうかしている。気を取り直して、目線をあげる。

 

「チェーンメールの解決策なんて1つしかないじゃない。犯人を特定して吊し上げる。それ以外に何があるの?」

 

 葉山君の目を見て、告げる。彼の顔がわずかに陰った。

 

 実際、かつてのいじめの類は全部そうだった。まだ私が小学生だったころ。すまし顔で孤高を貫く私に、周りの人間は反感を覚えたのだろう。陰口を叩かれる、上履きは隠される、教科書は破かれると散々な目にあった。あの時は、子どもの無邪気な残酷さが私に容赦なく降りかかっていた。

 そしてそれらは、葉山君が介入しようと教師に訴えようと、止まることはなかった。結局のところそれらの解決方法は一つ。根本から絶つしかないのだ。

 

 葉山君が曖昧な笑みで口を開く。

 

「……もっと穏便な解決方法はないかな?」

「私、あなたは過去から何も学ばない鳥頭ではなかったと記憶しているのだけれど、勘違いだったかしら?」

 

 思っていたより強い言葉が出ると、葉山君の顔から表情が消えた。それを見て、少しの後悔に襲われる。彼はなにも言い返してはこなかった。

 

「……では犯人を暴いて、その後どうするのかはあなたの裁量に任せる。それで構わない?」

「ああ。助かるよ」

 

 とはいえあの頃とは、私が小学生だったころとは、状況も役者も違う。

 彼なら、比企谷八幡なら、気づくだろう。

 この物語の主人公は、みんなの期待に応えようとする正統派ヒーローではなく、斜め上の方法で問題を解消してしまうダークヒーローなのだから。

 

「原因……チェーンメールの原因か……。あ、あれじゃない?職場体験のグループ決め」

 

 由比ヶ浜さんの元気な声が聞こえた。私が彼の活躍について思い出そうとしている間に、話はどんどんと進んでいた。

 

 グループ分け。それは、高校生にとっては案外重要なイベントだ。誰と仲が良くて、誰と仲が良くないのか。そんな曖昧なものが、ハッキリとした形になって現れてしまう。

 だから思春期の少年少女は、誰と職場見学に行くのかについて病的なまでに気にする。特に、必要なグループの人数と普段交流しているグループの人数が一致しない場合、そこに諍いが発生することすらある。

 

「ああなるほど、グループ分けで誰かがハブになるって話か?それでわざわざこんなことしたのか……」

「そうか、それであんなことに……いったい誰がそんなことを……」

 

 葉山君が顎に手を当てて考え出した。

 

「ハッ、そんなのお前のグループの誰かに決まってるだろ」

 

 比企谷君が、口元を歪めて笑った。葉山君を嗤うように。それを見た葉山君の表情が固くなる。口を開いた葉山君の語気には、鋭さがあった。

 

「そんなはずはない!あいつらはみんないいやつだ!だいたい、メールには全員の悪口が書いてあって……」

「そんなの、自分に疑いが向かないために決まってるだろ。どんだけめでたい頭してんだよ」

 

 比企谷君のきつい言葉に、葉山君の視線が一層鋭くなる。比企谷君の濁った瞳と、葉山君の刺すような瞳が交錯する。由比ヶ浜さんがその様子を見てあわあわとしていた。

 張り詰めた空気が部室を支配した。突如訪れた沈黙には、いつもの奉仕部のような心地よさはない。

 

 それを吹き飛ばすように、私は大きく咳ばらいをした。

 

「ンンッ……とにかく、犯人を捜すのなら、同じクラスの二人が適任だと思う。由比ヶ浜さん、お願いできる?」

 

 私の言葉を受けた由比ヶ浜さんの顔が、パッと明るくなった。

 

「ゆきのんが私にお願いを……うん、任せて!友達を疑うのは少し気が引けるけど、私もチェーンメールには嫌な思いしてたからね。解決してみせる!」

「他人事みたいな顔をしている比企谷君も、よろしくね」

「……雪ノ下、適材適所という言葉に聞き覚えはないか?」

 

 どんよりとした瞳で問いかけてくる比企谷君。その顔にはありありと、めんどくさい、と書かれていた。

 だから私は、笑顔で言葉を返した。

 

「比企谷君みたいな人に適所なんてないでしょ?居場所がないのだから」

「図星だが、お前に笑いながら言われるのはムカつくな!」

「あら、ごめんなさい。真実は時に人を傷つけるって本当だったのね」

 

 比企谷君は顔をひくひくと引きつらせながら、閉口した。きっと何を言っても無駄だと悟ってくれたのだろう。

 

「ゆきのん、私には何かないの!?」

「由比ヶ浜さんは……そうね、依頼内容を忘れないでね」

「……私、馬鹿にされている?」

「馬鹿にはしてないわ。ちょっと頭が残念だとは思っているけれど」

「うわあああ!ゆきのんひどい!」

 

 私に言葉を受けた由比ヶ浜さんは、突然抱き着いてきた。あまりにも急なことに対応できなかった私は、されるがままに抱擁を受ける。

 

「暑い……」

 

 や、柔らかい……!自分の胸のあたりに、何か温かくて柔らかいものが押し付けられている。ああ、これが由比ヶ浜さんの胸……!大きい……!前世の自分が夢見て、恋焦がれた男のロマンが、そこにはあった。

 巨乳を押し付けられて、その感覚を堪能する。突如叶えられた前世の夢に、私の鼓動は早鐘を打ち始めた。顔のあたりに熱が籠る。暑いなんてものじゃなかった。まさか……これが恋……?

 この体に生を受けて十年ほど経つが、今ほど雪ノ下雪乃になれてよかったと思ったことはなかった。

 

 

 私が衝撃を受けていた頃、その様子を見ていた葉山君が、こっそりと比企谷君に話しかけていた。

 

「仲、いいんだな」

「は?……ああ、あいつらはな」

「君もだよ」

 

 葉山君のひそひそ声は、私の耳に辛うじて届いていた。

 ……彼の言う通り、私は比企谷君と仲良くなれているのだろうか。由比ヶ浜さんの腕の中で、私は少し考えてしまった。

 

 

 

 

 数日後、部室には奉仕部の三人と葉山君が集っていた。由比ヶ浜さんの報告を聞いていたが、やはりめぼしい成果はなかったようだ。続いて、比企谷君に話を聞く。

 

「犯人は分からなかった。しかし、分かったことがあるぞ」

 

 比企谷君が得意げにニヤリと笑う。いつも卑屈に曲げられている唇は弧を描き、目の淀みが心なしか消えている。普段の態度とはかけ離れた表情。

 ……不意打ちでそんな顔を見せるのはやめてほしい。私の胸が跳ね上がったではないか。

 

「あの葉山たち四人のグループは、全員が友達じゃないんだよ。葉山と他三人は友達で、それ以外はみんな友達の友達。そんないびつなグループなんだよ」

「……それが分かっても、犯行動機の補強にしかならないじゃない。原因を消さないと、問題は解決しない」

「いいや、消すのはもっと別のものだ。葉山、聞きたいか?」

 

 比企谷君の薄い笑みに、葉山君は恐る恐る頷いた。

 

 

 

 

 かくして、物語は私の知るように進む。葉山隼人以下三人のグループを、四人のグループに。

 問題となっていた職場見学のグループを、葉山君以外の三人で組ませる。そうすることで、葉山君たちのグループに存在するわだかまりを解消する。

 その結果葉山君が一人になってしまうが、まあ彼なら大丈夫だろう。

 

 ダークヒーローは、彼だからこそ思いついた方法で問題を解消してみせた。物語は正しく進んだ。

 

 

 後日、奉仕部の部室で比企谷君と二人きりになった時のことだ。

 

「それで、葉山君のグループはあなたの言ったように上手くいきそう?」

「そんなのあいつら次第だろ。俺には分かんねえよ」

 

 比企谷君は気だるげに言うと、手元にあるマックスコーヒーを啜った。……本当にマックスコーヒー飲んでる。なんだか感動だ。私も飲んでみた事があるが、あまりの甘さに缶の半分くらいでリタイアしてしまった。

 それに合わせるように、私も缶コーヒーを飲んだ。こちらはブラック。安っぽい苦みが、口の中に広がる。

 

「……コーヒー飲んでるなんて珍しいな。いつも紅茶だったよな」

「ええ、確かにそうね。……少し、嫌なことを思い出したものだから」

 

 へえ、と興味なさげに相槌を打った比企谷君が、またマックスコーヒーを飲む。

 職場体験という言葉を聞いて、思い出したのだ。比企谷八幡と、由比ヶ浜結衣の決別。比企谷君の拒絶と、由比ヶ浜さんの涙。あのイベントは確か職場見学の後に起こるはずだ。

 

 ……何か、比企谷君に言うべきだろうか。数日前から堂々巡りを繰り返す思考は、やはり同じ結論へと至る。あの決別は、彼らが経験するべき山場だ。だから、私が変に口出しをするべきではない。

 けれど、思ってしまうのだ。私はこれから、結果を知りながら、彼が傷つくと知りながら、彼の選択を傍観するのだろうか。分かっている。彼の苦悩も間違いも、物語を完成させるうえで必要なファクターなのだ。

 それでも、私は自分に問いかける。すべて知りながら傍観するお前は、神にでもなった気か?と。

 

 

 ふと顔を上げると、比企谷君がぼんやりと校庭を眺めていた。西日に照らされた校庭では、運動部がまだ元気に活動していた。

 

「……何をぼーっと見ているの?グラウンドの運動部を見ていても、突然着替え始めたりしないわよ?」

「ちげえよ。……というか、テニスのとき着替え見られたの未だに気にしてるのな」

「あっ当たり前でしょう!そもそも警察に通報していないことを感謝すべきじゃないかしら!?なんなら、今からでも変質者として突き出してあげてもいいのだけれど!」

 

 あればっかりは計算外だった。当時の、テニスの試合をした後のことを思い出す。

 

 

 テニス勝負が終わった後、私は由比ヶ浜さんと取り替えた服を元に戻すために、校舎の影で着替えをしていた。

 比企谷君がラッキースケベを決めることを知っていた私は、由比ヶ浜さんの提案を拒否したのだ。しかし、由比ヶ浜さんに意外に強い体で引っ張られていき、外での着替えを余儀なくされた。

 

 それでも、私という異物が入った以上あの奇跡が起こらないのではないか、と少し期待したのだ。

 だってそうだろう。ラッキースケベというやつはヒロインがされるもので、偽物である私は対象外なのではないか、などと少し考えてしまったのだ。その結果が、これだ。

 

「はいゆきのん、スカート」

「ありがとう。……由比ヶ浜さん、少し急いでくれないかしら。誰か来るかもしれない」

「大丈夫だって、こんなところ誰も」

「ゆきのし、……あっ」

 

 ちょうど上も下も中途半端に着た辺りで、比企谷君は突如現れた。彼の視線が、私の肢体に突き刺さる。

 ──見られた。下着も、肌も。そう思った瞬間、私の顔は羞恥に真っ赤になって、動揺のあまりとんでもないことを口走ってしまった。

 

「──なっ……なんでボクまで!?」

「「……ボク?」」

「ッ!うるさいっ、死ね!」

 

 私の放り投げたラケットは、的確に比企谷君の額を撃ち抜いた。倒れる彼は、最後に満足げな笑みを浮かべていた。

 

 

 

 ……思い出したらムカついてきたな。

 

「今、通報した方がいいかしら?」

 

 睨みを利かすと、比企谷君は「やべ、用事思い出した」などと言いながら、素早く部室を出ていってしまった。……この借りは、いつか返そう。

 



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どうしても雪ノ下雪乃は方向音痴である

アニメ準拠


 奉仕部の部室には、ここ最近のような騒がしさがなかった。少し傾いた日に照らされた部屋の中には、比企谷君と私のページをめくる音だけが寂し気に響いている。由比ヶ浜さんは、職場見学の日から一度も奉仕部に来ていない。

 ……そろそろ、聞いておくべきだろう。少し大きな音を出して、文庫本をパタンと閉じる。すると、比企谷君が顔を上げてこちらを見た。

 

「……由比ヶ浜さんは今日も来ないみたいね」

「ああ、またなんか用事でもあるんだろ」

 

 私の言葉に、比企谷君が気まずげに顔を逸らした。その態度は、何か知っていると言っているようなものだった。

 

「……比企谷君、由比ヶ浜さんと何かあったの?」

「何か?いいや、取り立てて話すようなことはなかったよ」

 

 比企谷君はあまり多くを話したがらなかった。その様子を見て私は、これ以上踏み込むことを少し躊躇う。

 元々、比企谷君と私の会話はあまりお互い踏み込んだことは聞いてこなかった。家族構成とか、趣味とか、そういうものは不思議と話題に上がって来なかった。

 

 その、近すぎず、遠すぎないような距離感に、私もどこか居心地の良さを感じていたのだろう。けれど、今から私は、少し踏み込む。

 軽く唾を呑み、しっかりと言葉を紡ぐ。

 

「比企谷君、私に何ができるのかは分からないけれど、試しに何があったのか話してくれないかしら?」

 

 彼の黒々とした瞳をじっと見て、話す。すると、彼は小さく溜息を吐いて、口を開いてくれた。

 

「いや、本当に大したことじゃない。──ただ、俺はあいつとの関係が間違って始まっていたってことに気づいて、だからそれを終わらせようとしたってだけだ」

「……曖昧な表現ね」

 

 本当は、全部知っている。彼が優しい彼女を拒絶した理由。そして、そうなった原因が何であったのか。きっと、知りながらそのいびつな関係を構築することに一役買ってしまった私にも、責任はある。

 だから、ほんの少しだけ踏み込む。

 

「比企谷君、由比ヶ浜さんが奉仕部に入ってからのここでの時間。私、それなりに気に入っていたみたいなの」

 

 最初は、単に好きな物語が目の前で見れる、という興奮だった。けれど、ここで過ごしていくうちに、それは少しずつ変わっていった。憧れから、親しみへ。物語から、現実へ。

 この空間を失いたくない。その想いは、もはや物語の整合性がどうとか、そういう枠を超えてしまっていた。私は、由比ヶ浜さんがいて、比企谷君がいる奉仕部がいい。

 

 ここ二か月の日々を思い出していると、不思議と言葉は出てきていた。

 

「だからね、比企谷君。──付き合ってくれないかしら?」

 

 

 その日、自宅にて。

 

 制服を脱ぎ、ハンガーにかける。それは私にとって、纏っていた雪ノ下雪乃という外皮を脱ぎ捨てるようなものだった。

 放課後家に帰り、制服を脱いでからは、私は雪ノ下雪乃ではない。それは張り詰めた精神を緩めて休憩させるための、自己暗示のようなものだった。

 ゆったりとした服に着替えると、ベッドへとダイブした。ボスン、という音と共に、うつ伏せに倒れる。

 

 満を持して、ボクは叫んだ。

 

「ちっがあああああう!なんでボク告白の台詞みたいなこと言ってんの!?」

 

 そんなつもりではなかったのだ。ただ、買い物に付き合って欲しかっただけなのだ。ボクは彼にも一緒に由比ヶ浜さんの誕生日プレゼントを買ってもらい、仲直りのきっかけにしてもらいたかっただけだったんだ。

 それが、なんで「付き合ってくれないかしら」になるっていうんだ!

 

「ウウウウウ!」

 

 ベッドに顔を伏せて呻く。思い出すだけで顔が暑くなってしまう。

 告白紛いの言葉を発した後の、比企谷君の顔を思い出す。最初は何を言われたのか分からないというような、きょとんした顔をしていた。その後。理解が及ぶと顔を真っ赤にして、狼狽えていた。……まずい。思い出していたらまた顔が暑くなってきた。

 

 ちなみにあの後、正気に戻ったボクは、慌てて発言の意図を説明した。由比ヶ浜さんの誕生日がそろそろであること。プレゼントをするために買い物に付き合って欲しいこと。

 その結果比企谷君は納得してくれたが、顔は少し赤いままだった。

 

「フー……」

 

 ……少し、落ち着こう。深呼吸を一つ。ボクは雪ノ下雪乃。何事にも動じない、クールビューティー。そのはずだ。解いたはずの自己暗示をかけ直す。

 

 冷静になってくると、今後のことに考えが及んだ。

 

「でも、結局ボク、比企谷君と一緒に出掛けるんだよね……いや、デートじゃん!」

 

 うわあああ。分かっていたはずだけど、改めて考えるとすごいことだ。どうしよう。

 

「確か、原作だとツインテールで……」

 

 鏡の前に立って、髪を手で纏める。上の方で纏めるツインテール。

 

「いや恥ずかしい!めちゃくちゃ恥ずかしいよこの髪型!」

 

 似合っていないわけではない。むしろ、普段よりも少し幼く見えるところにギャップなど見えていい感じだと、ボクの中の男の部分は囁いている。でも、なんか恥ずかしい。高校生にもなってツインテールなんて、とかそういう価値観が染みついているからだろうか。

 

「そうだ、服も選ばないと」

 

 約束をしたのは週末なのに、ボクはいそいそと準備を始めていた。その胸には、正体不明の高揚感があった。

 

 

 週末は、私にとって雪ノ下雪乃を演じる必要のない、貴重な休息の時だ。自宅でゆっくりとくつろぐ。そうすれば、誰にも自分を見せる必要がないので、非常に気が楽なのだ。

 

 でも、外出する時にはそうはいかない。人の目につく所に出ていく以上、雪ノ下雪乃らしく振舞わなければならない。ただでさえこの美貌は人の目を引くのだ。

 前世のだらしのない私のように、寝ぐせが立っているなんて論外。身だしなみを整えて、この美貌に相応しい服を見繕う。さらに出かけている間はずっと人の目を意識しなければならない。それなりの労力だ。正直、休日にわざわざ外出するのはあまり気が進まない。

 

 それでも、今日ばかりは私には行くべき場所があった。

 

 日曜日の昼過ぎのショッピングモールにはたくさんの人で混み合っていた。人混みをなんとか進み、待ち合わせ場所まで進む。なんだか買い物を始める前に疲れてしまいそうだ。

 

 少しショッピングモールをうろうろして、ようやく人混みの先に特徴的なアホ毛を見つける。

 

「お待たせ、比企谷君。……ああ、そちらが話にあった妹さんね。休日にわざわざ付き合わせてしまってごめんなさい。今日はよろしくね」

 

 比企谷君の隣には、中学生くらいの少女がいた。ぱっちりとした目。大きく露出した額。明るそうな雰囲気。そして頭頂部には、重力に逆らうようにピンと立ったアホ毛が存在している。

 ああ、比企谷小町だ。画面の向こうの存在だった彼女にこうして出会えたことに、高揚感を覚える。

 私の目の前にいる彼女は、元気良く挨拶をした。

 

「はい、比企谷小町です。よろしくお願いします!……お兄ちゃん、こんな美人さんと知り合ってたの?やるじゃん!」

「いや、本当に知り合っただけだぞ。というか会うたび会うたび罵倒されているから、お前の期待しているようなことはないぞ」

「比企谷君、初対面の人に私が性格の悪い女だと吹聴するのはやめなさい。あなたの目が腐っているからそう見えるだけでしょう」

「ほら、さっそく罵倒してきた!見たか小町。あれは薔薇みたいなものだからな。綺麗だなと近づいていったら鋭い棘に突き刺されるぞ。気をつけろ」

 

 綺麗……。

 

「雪乃さん、腐った目をしたお兄ちゃんの言うことはあまり気にしないでください!」

「小町、お前もか!?」

 

 ……仲が良さそうだ。少し、羨ましい。

 

「では、早速だけど行きましょうか。若い女性向けの商品はこっちよね」

「……雪ノ下、そっちはトイレだぞ」

 

 気まずげに比企谷君に指摘されて、足を止める。……仕方がないではないか!この体は元からひどい方向音痴だったのだ。私は悪くない!

 

 

「比企谷君は何を買うか目星を付けてきたの?」

 

 入ったのは、明るい色で装飾された、若い女性向けの雑貨屋だった。比企谷君に話しかけながら、商品を手に取る。……私にはあまり用途の分からないものばかりだ。実のところ私は買うものを決めているので、比企谷君待ちだったりする。

 

「いや、贈り物なんてさっぱりだからな。もらったことなんてロクにないし。だから小町に色々聞きたかったんだが、あいつどこいったんだ……?」

「まあ、比企谷君なんかよりずっとしっかりしてそうな妹さんならきっと大丈夫でしょう」

「一言余計だけどな。……大人しく()()で探すか」

 

 私の商品を物色する手がピタリと止まる。二人で。その言葉を聞いて、改めて比企谷君と二人きりであることを意識してしまった。まずい。意識しだすと何だか体が暑くなってきた。何か別のことに集中しないと。

 

「比企谷君、由比ヶ浜さんの好きなものとか知っている?」

「……いや、そういえばあんまり知らないな。……なんだ、料理が上手くなりたいってことくらいなら知っているが」

「そうね。では、少し調理関係のものを見てみましょうか」

 

 彼に顔を見られないようにクルリと回り雑貨屋を出る。そして少し足早に別の店へと向かうと、比企谷君が慌てて付いてきた。

 ……なんだか二人きりで近くを歩いていることが少し気恥ずかしくなってきたのだ。

 

「雪ノ下!そっち違う!トイレ!」

「……」

 

 ああ、本当にこの体は!

 



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いつでも私はあの瞳が怖い

 ペットを連れていた由比ヶ浜さんとの偶然の邂逅を果たした後も、私たちは買い物を続けていた。ちょうど由比ヶ浜さんを部室に呼び出すこともできたし、後は気持ちを籠めた贈り物を渡すだけだ。

 

 

 

 

 君の宝石のような瞳を見つめていると、私はいつも吸い込まれてしまいそうな感覚に陥る。こちらを見上げてくる小さな黒は澄み渡っていて、ともすれば鏡のようだ。

 純粋な気持ちを持って鏡面を見つめれば、凪の湖面の如きそれは、こちらをじっと見つめてくれる。

 かと思えば、突然こちらに背を向け、その美しいかんばせを隠してしまうこともある。

 その気まぐれな様子は、まさしく我こそが地上の王者であると言わんばかりだ。

 嗚呼、君のその瞳は、まさしくあらゆる財宝を超越する至上の輝きを持つ宝石の如く!その芸術性の前に、人は皆首を垂れて──

 

「……にゃあ……にゃあ」

「──のした!おい、雪ノ下!買い物は終わったぞ!」

 

 その無粋な声に、私は至上の芸術に浸る至福の夢からの覚醒を遂げる。

 現実への回帰を果たした私が最初に感じたのは、猛烈な羞恥心だった。

 

「……っ!いるのならいると言ってちょうだい!比企谷君の存在感のなさには全く呆れたものね!」

「何回も名前呼んだだろうが!それなのにお前がいつまでも猫ににゃあにゃあ囁いていたんだろ!?」

「言いがかりはよしてちょうだい。いったいどこの世界に、ショッピングモールの往来のど真ん中で猫に向かってにゃあにゃあ囁き続ける女子高生がいるっていうの」

「まさしくお前だよ!」

「虚言癖もそこまで行きつくともはや特技ね。あなた、詐欺師なんか向いてるんじゃないの?」

「お前の方がよっぽど向いてるわ!」

「……まあいいわ。特別に今回のことは不問にしておきましょう。買い物は済んだのだし、帰りましょう」

 

 赤くなった顔をこれ以上見られないように素早く翻り、歩き出す。……我ながら無理のある切り抜け方だった気がする。

 

 ショッピングモールを、出口の方へと真っすぐに向かう。奇跡的に、今回は迷わなかった。

 少し遅れて比企谷君も付いてくる。その瞳は、心なしかいつもよりも腐っていた。今頃、マジかこの女とか思っているのだろうか。

 

 しかし、順調に歩を進めていた私の体が、ピタリと動きを止めた。……猫を見た時と同じ反応だ。こういう時はだいたい、雪ノ下雪乃の体の好むようなものが近くにある。

 視界の先にあるゲームコーナーには、パンダのパンさんのぬいぐるみの入ったクレーンゲームが存在していた。

 ……ああ、このイベントか。猫を眺めているうちに忘れていた。

 

「……ゲームしたいのか?」

「いいえ、ゲームに興味はないの」

 

 言いつつも、視線はパンさんのぬいぐるみから動かない。くっ、動け、私の体!パンさんのぬいぐるみなら家に死ぬほどあるだろう……!

 

「あー、なんだ、あれ、やるか?」

 

 私の顔は、自然と縦に頷いていた。

 

 

 

 

 これでも、前世の頃にはクレーンゲームは何度かやったことがある。操作方法すらまともに分からなかった原作の雪ノ下雪乃とは違うのだ。

 私ならきっと、クレーンゲームの景品を取ってもらうなんてヒロインムーブをせずに、自分でぬいぐるみを華麗に取れる!

 ……そう、思っていた。

 

「なるほど、そういう重心なのね」

「あのパンさん、ちょっと重すぎじゃないかしら」

「あっ……今たしかに掴んだはずだったのに……」

「くっ……また……あのアーム部分、緩くしすぎじゃないかしら?」

「おい雪ノ下、もうやめた方が……」

「いいえ。次は取れる。もう一度」

 

 何枚目か分からない百円玉を投入すると、軽快な音楽と共にアームが動き出す。やがて、私の口から何度目か分からない溜息が漏れた。

 

「……お前、ゲーム下手くそだな」

「……そう言うなら、あなたはさぞ上手いのでしょうね」

 

 もう一枚百年玉を投入して再挑戦しようとしていると、後ろにいる比企谷君が話しかけてきた。気が立っていたので、ついぞんざいな返事をしてしまう。

 

「ああ、昔小町に散々景品を取ってくれとせがまれたからな。おかげで上手くなったんだ。小町が俺におねだりするのが」

「そっちが上手くなったのね……」

「まあ、ちょっとどいてろって。俺が確実に手に入れてやるから」

 

 比企谷君が私に語り掛けるので、その場から一歩下がった。比企谷君が私の前に立つ。ああ、これで比企谷君にぬいぐるみを取ってもらうのだっただろうか。……なんだか、悔しい。

 そう思っていたが、しかし比企谷君はスッと右手を上げてゲームセンターの係員を呼びつけた。

 

「あ、あのーすいません。これ欲しいんですけど」

「はい、こちらのパンダのパンさんでよろしいですね」

 

 係員は慣れた手つきでクレーンゲームを操ると、瞬く間にパンさんのぬいぐるみを取り出した。そして、比企谷君に爽やかな笑みで手渡した。

 

「ほら」

「……呆れた手口ね」

 

 比企谷君が私にぬいぐるみを差し出す。

 ああ、そうだ。比企谷八幡とは、こういう人間なのだ。頭が良くて、でも捻くれていて、最低な手段で人の悩みを解消してしまう。

 

 勘違いだったのだ。クレーンゲームを正々堂々攻略してぬいぐるみを取ってやる、なんてそんなヒーローらしいやり方、彼らしくない。回り道をして、抜け道を使って、ズルをして、比企谷君は私にこのぬいぐるみを差し出してくれた。それが、なんだかとても嬉しかった。

 

「……あなたが取ったものなのに、本当にもらっていいの?」

「当たり前だろ」

 

 比企谷君が、少しぬいぐるみを突き出してくる。目を合わせようとすると、わずかに逸らされた。

 そっと、ぬいぐるみを掴む。それと同時に胸中には温かい気持ちが溢れてきて、私

 は素直な感謝を口に出そうとした。

 

「……比企谷君、その、取ってくれて──」

「あれー、雪乃ちゃん?」

 

 聞きなれた、無粋な声に邪魔をされるまでは。

 

 

 声の主は、周囲にいた知人らしき人間に一声かけると、こちらに歩み寄ってきた。

 やがて、彼女の、雪ノ下陽乃の姿が明らかになる。

 

「あ、やっぱり雪乃ちゃんだ。久しぶりー。隣にいるのは?もしかして彼氏?あらー、雪乃ちゃんも隅に置けないなあ。うりうり」

「違うわ、ただの同級生よ」

 

 姉さんは一息に言うと、私のことを肘でつついてきた。鬱陶しい。

 

「そっちの子の名前は?」

「比企谷君よ、私の同級生」

「へえ、比企谷君……」

 

 姉さんが一瞬比企谷君に値踏みするような目を向ける。それは、普通の人間なら姉さんの美貌に見とれて見過ごしてしまうような、一瞬の間のことだった。

 しかし、比企谷君はその目を見て、わずかに目を細める。

 

「私、雪ノ下陽乃って言うんだー。よろしくね、比企谷君!」

「はあ、よろしくお願いします」

 

 美人に元気に話しかけられた比企谷君は、わずかにきょどりながら返事をした。そのまま、姉さんと比企谷君は取り留めのない話を始めてしまった。

 その様子を、私は黙って見つめる。自然と姉の挙動の一つ一つに目が行き、話している内容に聞き耳を立ててしまう。

 

 姉が誰かと話している所を眺める。そんな時、私はいつも恐怖に襲われる。それは、私が偽物であるということが突然暴露されてしまうのではないか、という根拠のない不安からだった。

 

 私が偽物であること。正確には、突然この、全くの他人の体で意識を取り戻したこと。それは、私にとって最も知られたくない秘密だ。

 だってそうだろう。それはつまり私はこの世界の人間ではないことの証左であり、私がこの世界に産まれた本物の雪ノ下雪乃をいないものとした決定的証拠であるのだから。

 

 そして、姉だけは、私のこの秘密を知っている、と私は考えている。小学生の頃、私がまだこの体に慣れていない頃、姉に決定的な一言を言われたのだ。

 

『──ちがう。雪乃ちゃんはそんなこと言わない』

 

 あの時ほど恐怖を感じたことはなかった。今ここにいる自分全てが否定されているような感覚。その恐怖は、今も私の中に残っている。

 そしてそれは、私が雪ノ下雪乃を演じる理由の一つだ。雪ノ下陽乃に、大切な妹が他人にすり替わっているという疑念をこれ以上抱かせないこと。それはこの物語をハッピーエンドに導くことと同じくらい大事なことだった。

 

「でも、雪乃ちゃんが同級生の男とお出かけなんて本当に珍しいからさ。ねえ、雪乃ちゃん?」

「ええ。でも、それだけで邪推されるような云われはないわ。比企谷君とはなんでもないと説明したじゃない」

「そんなこと言ってー。実は二人は行くとこまで行っちゃってんじゃないのー?」

 

 ああ、雪ノ下陽乃の、あの笑っているようで全く笑っていない目の奥のなんと恐ろしいことか。あの黒い瞳に晒されるだけで、私の醜さまで全部暴き立てられてしまうような錯覚を覚えてしまう。

 

「──じゃあ、雪乃ちゃん、比企谷君、またね!」

 

 嵐の如く、雪ノ下陽乃は去っていった。私と比企谷の間に、少しの沈黙が降りる。やがて、比企谷君がポツリと呟いた。

 

「お前の姉ちゃん、すげえな」

「そうね。容姿端麗で、人付き合いもそつなくこなす。さらに文武両道とくれば人はみんな姉さんを褒め……」

「いや、ちげえよ。まあそれもそうだが、俺が言っているのは、あの強化外骨格みたいなのだよ」

 

 ああ、やっぱり気づくのか。

 

「なんつうか。外向けの顔っつうか、そういうのが凄いって言いたかったんだよ。あんな完璧なの、初めて見た」

 

 人の悪意に揉まれて黒く濁ったその瞳は、姉の本性を見抜いてみせた。

 では、私のことは。ひょっとして、私が偽物であることすら、彼は気づいてしまうのではないだろうか。根拠のない不安は、急速に私の胸の中で発達していき、やがて問いとなった。

 

「……じゃあ、私は?」

 

 詳細不明の私の問いかけに、比企谷君は少し考えこむように黙り込んだ。ゲームコーナーの騒がしい音が、どこか遠くのもののように聞こえた。

 やがて、彼の口から答えが紡がれる。

 

「ああ、たまに姉みたいな時はあるな。強化外骨格ってほどじゃないけど、なんか体に薄い皮でも被って、その外皮に合うように行動しているように、たまに見える」

「……そう」

 

 やっぱりか。雪ノ下雪乃を演じる私は、本物ではない。だから、それは当然の言葉だった。しかし私は比企谷君の言葉に、少しの落胆を覚える。私は、どんな言葉を期待していたのだろうか。

 少し間を置いて、でも、と比企谷君が言葉を続けたのを聞き、少し顔を上げる。

 

「──でも、笑った顔は姉と全然違うな。雪ノ下のは、なんていうか、本物って感じがする」

 

 彼の言葉を聞いた瞬間、私の体には春の日差しを浴びているような温かさが充満した。本物。その言葉は、私の胸の奥深くに突き刺さった。

 自分はこの世界で目覚めた時から偽物である。そんな意識を持った()()が、初めて肯定されたような感覚。そんな錯覚に陥ってしまったのだろう。

 ああ、いけないな。そんなことされてしまったら、もうしばらく顔を直視できそうにないや。

 

 顔を見られないように、くるりと身を翻して、比企谷君に背を向ける。

 

「──じゃあ、比企谷君。用は済んだようだし、私は帰るわ」

「あ、ああ」

「……今日は、楽しかったわ」

 

 最後に一言添えて、私は立ち去った。

 



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その様子に、雪ノ下雪乃は思い出す

『──でも、笑った顔は姉と全然違うな。雪ノ下のは、なんていうか、本物って感じがする』

「ウウウウウ」

『──でも、笑った顔は姉と全然違うな。雪ノ下のは、なんていうか、本物って感じがする』

「うわあああ!馬鹿!ボケナス!八幡!なんで肝心な時には全く照れずにそんなこと言うんだよお!普段きょどってるくせに!未だにボクの美貌に時々見惚れてるくせに!ちょっとかっこいいとか思っちゃったボクはどうすればいいんだよおおおお!」

 

 その夜、ボクは自室で比企谷君を一通り罵った。

 

 

 ◇

 

 

 じめじめとした暑さにうんざりしてきた頃、学校は一学期が終了し、学生たちの待ち望んだ夏休みに突入した。

 高校生の夏休みは、何物にも代えがたい貴重な時間だ。青春を過ごす若者は、自分たちの最も楽しい時間が過ぎ去ることを惜しむように、日々を精一杯楽しもうとする。

 友人と遠くに出掛ける者。1人で長期休暇を満喫する者。あるいは、恋人との逢瀬を堪能する者。その楽しみ方は様々だろう。

 

 かく言うボクは、貴重な夏休みのほとんどを家で過ごしていた。夏休みの課題をして、二学期の予習と一学期の復習をしていれば、いつの間にか日も暮れていた。優等生、雪ノ下雪乃を演じることも簡単ではない。

 

 けれど、こんな風に必死に取り繕うのも、高校二年生までだ。物語が終わる頃になれば、ボクは雪ノ下雪乃を演じることを少しだけ止めてみようと思う。今世の家族とは少し距離を置いて、ひょっとしたら奉仕部とも距離を置いて、自分というやつを見直してみたい。──もしもそうしたら、今のボクにはいったい何が残るのだろう。

 

 

「おい雪ノ下、そろそろ目的地に着くぞ。起きてるか?」

「はい。少し考え事をしていただけです」

 

 車を運転している平塚先生に話しかけられて、意識が浮上してくる。少し、目を閉じて思考を巡らしていた。外界の情報が入って来なくて頭がクリアになるのはいいが、周りの人間に意識が向かなくなるのはあまり良くないな。人に隙を見せるなんて、雪ノ下雪乃らしくないだろう。

 

 目を閉じる前と同じく、膝のあたりに重みがある。見下ろすと、由比ヶ浜さんが私の膝に頭を乗っけてくぅくぅと眠っていた。

 目を閉じて力の抜けた顔は、普段よりも一層あどけない。車が出発した当初はうるさいほどに私に話しかけてきていた由比ヶ浜さんだったが、三十分もすればうつらうつらとしだして、ついには力なく私の膝に倒れ込んできた。

 

「由比ヶ浜も起こしてやってくれ」

「はい。……由比ヶ浜さん、起きて」

 

 気持ちよさそうに眠っているので少し気が引けたが、華奢な肩をポンポンと叩きながら、呼びかける。彼女は何事かむにゃむにゃと呟いたかと思うと、再び瞼を固く閉ざした。

 少し、起こし方を工夫した方がいいだろうか。

 

「ンンッ……結衣!いつまで寝てるの!遅刻するわよ!」

「ハッ!ありがとうママ!……あれ?」

 

 飛び起きた由比ヶ浜さんはあたりとキョロキョロと見渡すと、やがて事態に気づいたらしく、顔を真っ赤にした。

 

「ゆ、ゆきのんひどい!」

「あなたが一度で起きないのが悪いのよ」

「そんなぁ。……待って。今ゆきのん結衣って呼んでくれた?」

「気のせいじゃないかしら」

 

 由比ヶ浜さんがキラキラした目で見つめてくるので、そっと目を逸らす。

 

「ねえねえ!もう一回呼んでよ!結衣って呼んでみて!」

「しつこいわよ。寝坊助のガハマさん」

「ゆいが抜けた!?」

 

 もう一回、もう一回としつこく迫ってくる由比ヶ浜さんから逃れるように、視線を窓の外にやる。緑がいっぱいの自然の風景が、どんどんと流れてくる。ああ、キャンプに来たって感じだな。

 

 

 

 

 車から降りると、葉山君たち一同と合流して平塚先生から今回の活動について説明を受ける。曰く、小学生の林間学校、その雑事を手伝って欲しい、とのこと。

 比企谷君はめんどくさいとかやりたくないとか考えていそうな腐った目をしていたが、思考を読めるらしい平塚先生に一睨みされると、諦めたようにため息をついた。

 

 実際のところ、雑事と言っても四六時中作業しているわけでもなく、水着で遊ぶ時間までくれるのだから、結構良心的であると言えよう。平塚先生にはこんな機会をくれたことに感謝をしなければ。

 

 

 その後は、林間学校の手伝いがしばらく続いた。

 

「由比ヶ浜さん。梨の方を回すの。そのやり方だと、また実の六割くらい削り取ってしまうわ」

「うーん。ママがやってたの見てたんだけどなぁ」

「見ていただけなのね……」

「比企谷君、上手いのね。意外だったわ」

「専業主夫志望として研鑽を積んだからな。任せろ」

「でも私の方が上手いわ」

「さらっとうさぎさんを作るな。リンゴじゃねえんだから」

 

 由比ヶ浜さん、それと比企谷君や小町さんと雑談しながら、小学生に配る梨を剥いたり。

 

「由比ヶ浜さん、クッキーづくりの時にも言わなかった?余計な隠し味は不要なの。分かったらその桃をしまいなさい。どこから持ってきたの」

「ゆきのん手際良いね」

「一人暮らししていればこれくらいできるようになるものよ」

 

 小学生たちと同じようにカレーを作ったり。

 

 そうこうしていると、やがて小学生たちの間にあるひずみが見えてくる。

 一見和気あいあいとやっている小学生たち。その中に、明らかに輪に入れていない、もっと言えば仲間外れにされている女の子がいたのだ。名前を鶴見留美。綺麗な黒髪をした女の子だった。

 その少女は、道を歩いている時も、食事の時も、いつも五人組の集団の中で、明らかに一人になっていた。……なんだか、既視感のある光景だった。

 

 部外者である私たち高校生でも分かってしまう程の排斥。見ていてあまり気持ちのいいものではなかった。

 そんな彼女を見かねたのだろう。小学生がグループに分かれてカレーを作っている時だった。葉山君が、グループで仲間外れになっていた彼女に話しかけていた。

 

「カレー、好き?」

 

 それは、彼なりの手の差し伸べ方だったのだろう。しかし、それを見た私は思わずため息を吐いた。

 

「悪手だな」

 

 比企谷君が私に同意するように呟いた。まるで過去の私のよう。葉山君に話しかけられて困ったように硬直する鶴見留美を見た私の率直な感想だった。

 

 鶴見留美は葉山君からそっけなく顔を背けると、その場を去っていった。当然だろう。日陰者が突然人気者にスポットライトを当てられた時に取れる行動なんて、逃げることくらいだ。

 葉山君は少し困ったような笑みでそれを見送ると、残った四人の少女の相手をし始めた。

 

 気づけば、彼女が私と比企谷君の近くに来ていた。別に話しかけてくるわけでもなく、鶴見留美は私たちの近くに止まった。ボッチが三人集まった。当然会話は発生しない。

 

 視線は何となしに日向で声を張り上げている葉山君へと向かった。

 

「じゃあ、せっかくだし隠し味入れるか、隠し味!何か入れたいものあるひとー?」

 

 葉山君が言うと、小学生たちが各々の意見を主張し始めた。すると、鶴見留美に張り付いていた嫌な視線が消えた。さすが、切り替えが早い。

 

「はいっ!あたし、フルーツがいいと思う!桃とか!」

 

 小学生の声に混ざって、由比ヶ浜さんが声を張り上げていた。周りの小学生たちが度肝を抜かれたような表情をする。しかも発想が小学生並みだ。

 由比ヶ浜さんは苦笑いの葉山君に何事か諭されると、肩を落としてトボトボとこちらに歩いてきた。その様子に、比企谷君が呆れたような声を出した。

 

「あいつ、バカか……」

「ほんと、バカばっか……」

 

 意外な事に、鶴見留美が反応した。冷たい声には、小学生らしからぬ憎悪と諦観が籠められていた。

 

「世の中なんてそんなものだぞ。早めに気づけて良かったな」

 

 比企谷君がどんよりとした声で応えた。そんな彼に、鶴見留美が値踏みするような視線を向ける。

 

「名前」

「は?」

「あんたの名前。なんていうの」

 

 その比企谷君に対するあまりにも不遜な態度に、気づけば口を挟んでいた。

 

「名前を聞くなら、まず自分から名乗るものではないかしら?」

 

 私の目を見ると、鶴見留美が怯えたような態度になった。やがてぼそぼそと名乗り始める。

 

「……鶴見留美」

「私は雪ノ下雪乃。そっちのは比企谷八幡よ」

「物扱いかよ……ああ、あっちが由比ヶ浜結衣な」

「なになに、どうしたの?」

 

 話を聞きつけてた由比ヶ浜さんがこちらに近寄ってくる。図らずして、奉仕部による留美さんのヒアリングが始まった。

 

 

「──私、小学校はもう諦めたの。だってみんなガキなんだもん。だから一人で上手くやっていって、それで中学校に上がったらまた新しい友達を作ればいいかなって」

 

 小学生らしからぬ諦観を湛えた声音で、彼女は話す。今の絶望を。未来の希望を。でも、私は知っている。その未来図には、決定的な綻びがあることを。

 

「そうはならないわ。聡明なあなたなら分かっているんじゃないかしら?中学生になっても、今の関係性が終わるわけじゃない。小学校の負の遺産を背負ったまま中学校に上がって、それで新しく入ってきた人たちも一緒にハブだのいじめだのを始めるだけよ」

 

 私の言葉を聞くと、留美さんは下を向いて唇を噛んだ。その様子に、なんだか過去の私が重なった。

 

 私も、小学生の時には友達なんて全然できなかった。周りはみんな子どもで、私が澄ました顔で満点のテストを受け取ればすかした嫌な奴だと言われ、男子からの告白をすげなく断ると、お高くとまっていると言われた。

 

 仕方のないことだと思った。私は、雪ノ下雪乃という存在になってしまった。完璧で孤高な人間にならないといけなかった。そう思って、誹謗中傷は受け流してきた。

 

 でも、根っこが凡人である私の精神が傷つかないわけではなかった。教科書に書かれた低俗な罵倒文句。隠された上履き。水浸しのトイレ。嘲笑と悪口。全部残さず覚えている。

 人の悪意を一身に受けるとはこんなに辛かったのか、と私はこの体に生を受けて初めて気づかされた。

 

 留美さんは独白する。自分も友達をハブにしたこと。いつの間にか、今度は自分が仲間外れにされていたこと。友達に打ち明けた秘密が、いつの間にか笑い話にされていたこと。

 ぽつぽつと話す彼女に、由比ヶ浜さんが優しく語り掛ける。けれど、部外者の私たちでは根本的な解決はできない。比企谷君もそれが分かっているのだろう。複雑な表情で、何かを考えこんでいる。

 

「中学校でも……こういうことになっちゃうのかなぁ」

 

 留美さんは涙を堪えるように言った。その言葉に返答できる者はいなかった。

 



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当然、星は私に何も教えてくれない

「それで、君たちはどうしたい?」

 

 孤立していた留美さんのことを話すと、平塚先生は静かに問いかけてきた。夜のキャンプ場に集った高校生たちに沈黙が下りた。風が葉を揺らすカサカサという音が、やけに大きく聞こえる。

簡単に答えられる問いではなかったのだろう。いつも明るい様子の由比ヶ浜さんですらも考えこむように黙り込んでいた。

 重い口を開いたのは、真剣な表情をした葉山君だった。

 

「俺は……できれば、可能な範囲でなんとかしてあげたいと思います」

 

 その模糊とした言葉は、私のどこか深いところに突き刺さった。

 

「あなたでは無理よ。そうだったでしょ?」

 

 小学生の頃が思い出された。排斥された私。ヒーローらしく救おうとしてくれた葉山君。それを許さなかった歪んだ世界。

気づけば、私は葉山君を睨みつけていた。彼は気まずげに目を逸らした。……ああ、いけないな。こんな感情、完璧な雪ノ下雪乃らしくない。

 深呼吸を一つ。それで私はもう一度雪ノ下雪乃の仮面を被っていた。

 

「私は、あらゆる手段を用いて彼女を救います」

 

 堂々と、彼女の理想を口にする。彼女ならこう言うだろうから。けれど、それだけではなかった。孤独を嘆き、未来への絶望を吐き出した彼女の様子は、私には他人事には思えなかった。彼女を救うのは、あるいは過去の私自身を救うためなのかもしれない。

 

「雪ノ下の結論に異論のある者はいるかね」

 

 平塚先生の静かな言葉に、誰も口を開かなかった。

 

「そうか。……では、私は寝る。後は好きにしたまえ」

 

 平塚先生が去ると、すぐに高校生たちによる議論が始まった。さまざまな案が出る。趣味で友人を作ればいいという意見。新しい友人を探せばいいという意見。

 多種多様な意見は確かに参考になる部分はあったが、解決には遠そうだった。そんな中、葉山君が口を開いた。

 

「やっぱり、みんなで仲良くできないと根本的な解決にならないじゃないか」

「……さっき言ったことをもう忘れたの?あなたでは無理だったじゃない」

「でも、今は無理じゃないかもしれない」

「昼間の振る舞いを見るに、あなたには無理よ。まるで成長していないじゃない」

 

口を突く言葉は必要以上に鋭く、きつかった。そんな私を見かねた三浦さんが、葉山君を庇うように声を上げた。

 

「ちょっと!さっきから聞いてれば何?なんで隼人がそんなこと言われなきゃいけないわけ?」

「あなたには関係のない話でしょう?」

「関係あるし!だいたい何?せっかくみんなで楽しくやろうってしてる時にその態度。そんな風にみんなを見下ろすような態度ばっかり取ってるから誰かさんみたいにハブられるんじゃないの?」

「見下ろされている、というのはあなたの被害妄想よ。劣っているという自覚があるからそう思うのではなくて?」

「っ!あんた、そういうことばっか言ってるから……」

「優美子。やめろ」

「隼人……。ふんっ!」

 

 白熱してきた口論は、突如として終わりを迎えた。葉山君の低い声。それには、常とは違う有無を言わせぬ迫力があった。

 その声を聞いて、三浦さんはそれっきり話さなくなってしまった。夜のキャンプ場に、沈黙が下りた。話し合いどころの雰囲気ではなくなってしまったので、その場は解散。話し合いは翌日以降に持ち越しとなった。

 

 

 

 

 夜の山には、明かりが無い。常に街灯に照らされている都会の夜闇とは違い、まさしく一寸先すら見通せないほどの闇。夜空にまたたく星が、辛うじて私を照らしてくれていた。

 

 さて、こうして夜中に一人で外に出て星を眺めているのにはわけがある。

女子部屋に戻った後のことだ。不満を募らせていたらしい三浦さんが、ついに私に突っかかってきたのだ。

雪ノ下雪乃として黙っているわけにもいかなかった私は、それに反論。言い合いは白熱し、結果として三浦さんが途中で泣きだしてしまった。そんなわけで、私は気まずくて部屋を出てきたのだ。三浦さんの泣き顔を見ていると、結構な罪悪感に襲われた。

 

まあ、どちらにせよこうして部屋を出てくるつもりだったのだ。この夜のイベントはぼんやりとだけれど覚えている。雪ノ下雪乃と比企谷八幡の、星空の下の邂逅。雪ノ下雪乃はここで、彼に自分の想いを語るのだ。

 

「でも、私にあんな想いなんて存在しないな」

 

 ただこの体に生まれてしまっただけでの、空っぽの私。雪ノ下雪乃としてこうあらねばならぬという義務感と少しの感傷だけで鶴見留美を救うと嘯いた私が、いったい彼に何を語るというのだろうか。

 もやもやとした思考を抱えた私は、なんとなしに星空を見上げる。煌びやかな星々は、私になんの答えも授けてはくれない。

 

 ふいに、背後の茂みからカサと音がした。振り返ると、そこには比企谷君の姿があった。ようやく来たか。

 

「星でも見に来たのか?」

「いいえ、少し部屋に居づらくて」

 

 都会の喧騒から遠ざかった森の中では二人の声だけが静寂によく響いた。まるで恋人の逢瀬だな、なんて考えてしまう自分の思考を断ち切り、言葉を紡ぐ。

 

「三浦さんが突っかかってきてね。三十分以上かけて完全論破していたら彼女泣いてしまって……今は由比ヶ浜さんが慰めてくれているわ」

 

偽らずに告げると、比企谷君は少し引いたような態度を見せた。

彼が言葉を繋がなかったので、再び星空を見上げる。チラと確認すると、彼も空を見上げていた。今、私と彼は同じ光景を見ている。そう思うと、この退屈な夜も悪くない気がした。

 

「……なあ、葉山と何かあったのか?」

 

沈黙の森に、突如として比企谷君の言葉が静かに響いた。普段の彼とは違う、少し踏み込んだ質問。星を見つめたまま、私は答えた。

 

「小学校が同じだったの。それと、親同士が知り合い」

「ああ、家族ぐるみの付き合いってやつか」

「ええ」

 

 私の言葉が少ないので、自然と比企谷君も口を閉じる。再びの沈黙が落ちる。遠くから、鈴虫の鳴き声が聞こえた。なんとなしに髪を弄って、今度は私から口を開いた。

 

「ねえ、比企谷君は留美さんを救う手立ては思いついた?」

「なんとなくはな。まだはっきりとは分からない」

 

 言葉には、少しの葛藤があるようだった。私は、彼の思考を読もうと、物語の記憶を辿る。

この後、彼は留美さんの周りの人間関係を根こそぎ破壊することで問題の解消を図る。それは解決とはほど遠い、斜め下の手段だ。彼らしいと言えば彼らしい。

 

けれど比企谷君は、そのことを後で悔いることになる。あの時鶴見留美を救おうと用いた手段は間違っていたのではないか、と思い悩む。

その後悔は、その葛藤は、きっと彼という少年が成長するのに必要な過程だったのだろう。だから、私には余計な口出しなんてできない。

 

「ねえ、比企谷君」

「なんだ」

「たとえあなたの選択が間違っていたとして、あまり自分を責めないでね」

 

 私から言えるのは、せいぜいこれくらい。本当は、もっとやれることはあるのだろう。私が主導して解決策を提案するとか、もっと別の案を出すとか、できなくはないだろう。けれど私は、比企谷君が成長するために、と自分に言い聞かせて、それをしない。

 

「……なんだ急に。優しすぎて別人かと思ったぞ」

「私は優しくなんてないわ」

 

そう、私は全く優しくない。あなたが懊悩する様を観察者気取りで眺める嫌な女だ。

 

「情けは人の為ならずって言葉があるじゃない?」

「ああ、人に情けをかけると巡り巡って自分に優しさが返ってくるってやつか?」

「そうよ。だから、私があなたに優しかったとしたら、それは私のためなの。だからね、比企谷君。私のためにもう一つ言うわ」

 

 私が傷つくあなたを見て傷つかないために、言葉をかける。

 

「なんだよ」

「あなたの関わった人が傷ついたとして、それが全部自分のせいだと思いあがらないでちょうだい」

「……なんだそれ。俺はそんな殊勝な人間じゃない」

「どうかしらね。……そろそろ戻るわ」

「おう」

 

 歩みを進め、女子部屋の方へ。その前に、私は比企谷君の方を振り向いた。

 

「さようなら」

 

手を振ろうかと迷って力なく上がった右手を、少し迷って下げる。きっと、暗がりだから見えなかっただろう。

 

 



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やはり私と彼の関係は間違っている

 水着。それは普段隠れているあれやこれやが露わになってしまう、悪魔の装束だ。

 

「ゆきのん、早く早く!」

「ええ」

 

 朝日が、川の水面に反射してキラキラと輝いている。川の深さは、腿のあたりまで浸かる程度。

 ブルーの水着に身を纏った由比ヶ浜さんが私に大きく手招きをすると、その動きに合わせて大きく開かれた胸部がたゆんたゆんと揺れた。誇示するまでもなく私に敗北感を刻みつけてくるそれは、まさしく非人道兵器だ。

 

「食らえ結衣さん!」

「キャッ! やったなあ小町ちゃん!」

 

 元気な様子の小町さんは、淡いイエローの水着が良く似合っていた。

 

 仲良さげに水を掛け合う二人の下へと、私も歩いていく。パレオで体が隠れているとはいえ、肌を見せるこの格好には少し抵抗があった。でも、私に水着を持っていかないという選択肢はなかった。由比ヶ浜さんにお願いされたのだ。雪ノ下雪乃たる私が断ることなんてできなかった。

 

 足をひんやりと冷やす川を進んでいく。

 

「……あれ」

 

 いつの間にか、元気な二人の姿が見えなくなっていた。少し足を早めて、川を進んでいく。すると、女の子らしい高い声に交ざって、聞き覚えのある低い声が聞こえてきた。木の陰から様子を見ると、比企谷君が水着姿の二人と相対していた。ぽりぽりと頬を掻きながら、比企谷君が由比ヶ浜さんに言う。

 

「その、なんだ、いい感じだな。似合ってるし」

「そ、そか。……ありがとう」

 

 少し顔を赤くして由比ヶ浜さんの水着姿を褒める比企谷君。……なんだろう。青春ラブコメの波動を感じる。彼らの下にツカツカと近寄る。

 

「比企谷君、あまり気持ちの悪いニヤケ顔を晒すのはやめなさい。通報するわよ」

 

 振り返った比企谷君は、私の姿を確認すると固まった。その顔は、先ほどと同じく赤みがかっている。

 

「……な、何をいつまでも見ているのかしら」

 

 風でひらめいたパレオが元に戻ると、比企谷君の視線も外れた。

 少しの気まずい無言の時間を過ごしていると、私たちの来た方から、平塚先生、三浦さん、海老名さんが現れた。

 

 次々と現れる容姿の整った女性たちの水着姿に、比企谷君は釘付けになっていた。今までになく彼が青春ラブコメの主人公している気がする。

 

 少し離れた場所で楽し気に水をかけあっている小町さんと由比ヶ浜さんを眺めていると、いつの間にか、三浦さんが私の下に近寄ってきていた。昨日泣かせてしまったので、少し気まずい。しかし三浦さんは昨日のことなど気にしていないように私にずんずんと近寄ってくると、私の胸を見下ろして呟いた。

 

「フッ、勝った」

 

 コイツ……私が気にしていることを……! 言い負かされてあっさり泣いちゃったくせに! 普段偉そうに接している由比ヶ浜さんに赤子みたいにあやされてたくせに! 

 雪ノ下雪乃らしからぬ罵倒を心中で一通り吐き捨てて、前を見る。すると、比企谷君が何か憐れむような目でこちらを見ていた。

 

「なんだ、その、姉を見るに可能性はあるから」

「そうですよ雪乃さん、元気出してください」

 

 比企谷兄妹が慰めの言葉を口にする。比企谷君は、言い終えると、少し唇の端を上げた。その慰めるように浮かべた下手くそな愛想笑いは、なんだかとてもムカついた。

 

「ボ……私の胸についてそれ以上言及するのはやめなさい。そもそも女性の価値を胸の大きさで決めようという極めて男性的な価値観には違和感しかないわね。小さいからどうとか、大きいとかどうとか、そういう二元論的な思考に囚われていること、それ自体が恥ずべきことだとどうして分からないのかしら。ねえ、比企谷君?」

 

 ぎろりと睨みつけると、比企谷君は胸とは一言も言ってねえし、などと呟きながらすごすごと退散していった。

 

「雪ノ下、お前にはまだ将来がある。まだ悲観するような時期じゃないさ」

「大丈夫だよゆきのん、小さくても可愛いよ!」

 

 その後も平塚先生と由比ヶ浜さんにまで励まされる。なんだろう、私の胸はそんなにも憐れまれたり励まされたりするようなものなのだろうか。みんなの愛想笑いが痛い。むしろ自信がなくなった気がする……。

 

 

 ◇

 

 

 その後、川辺での留美さんとの会話を終え、私たちは彼女を救うという決意を改めて固めた。

 その具体案実施の舞台は夜、小学生たちのお楽しみイベント、肝試しだ。

 

 

 原作通り、比企谷君が問題の解決策ならぬ解消策を出した。

 概要としてはこうだ。肝試し中、葉山君など小学生と仲良くしていた高校生たちが突如豹変し、留美さんのグループを恫喝しだす。信じていた人たちによって窮地に立たされた小学生たちは、その醜い本性を晒すことになる。グループ内での責任の擦り付け合い。罵り合い。

 そんな内紛をした彼らは、その不安定な友情を根本から破壊されることになる。そうすれば、留美さんの周囲の人間関係は崩れ去り、彼女を取り巻く嫌な雰囲気は消え去ることになる。

 

「みんながぼっちになれば争いも揉め事も起きないだろ」

 

 比企谷君の言葉には、なんだか重みがあった。

 

 

 目の前では、留美さんたちグループが葉山君たちに脅されていた。真っ暗な森の中には、小学生たちの動揺から震えた声とすすり泣きだけが響いていた。

 

 

「ここからね」

「ああ。鶴見留美を取り巻く人間関係をぶっ壊す」

 

 もうすでに十分怖がらせているが、本番はここからだ。怯え切った小学生たちに、最後の追い込みをかける。

 

「さあ、あと一人残るやつを選べ。早くしろ」

 

 五人のうち半分だけは舐めた口をきいたことを許してやるから、半分は残れ。そう冷酷に告げた葉山君に真っ先に差し出されたのは、留美さんだった。

 予想通りの展開。葉山君の顔が、いつか見たような苦々しいものになり、すぐに元の無表情に戻った。

 しかし明らかにのけ者である彼女の他に、もう二人犠牲者が要る。

 

「由香のせいじゃん」

「違う! 仁美が最初に言い出したじゃん」

「もうやめようよ。みんなで謝ろうよ……」

 

 小学生たちの醜い争いは紛糾し、すすり泣きが静かな夜の森に響いた。

 

「……そろそろ頃合いか」

「待って」

 

 比企谷君がネタばらしに出て行こうとすると、由比ヶ浜さんがその袖をそっと掴んだ。

 

「五、四、三……」

「あの……」

 

 留美さんが手を上げる。カウントダウンをしていた葉山君の視線が彼女に向かった、その瞬間だった。夜闇に閃光が走った。光の奔流が視界を埋め尽くす。カメラのフラッシュ音。その後に、留美さんが同級生を逃げるように促す声。

 

「……留美ちゃんがみんなを助けたの……?」

「……ああ」

「本当は仲良かった、のかな?」

 

 由比ヶ浜さんは、少し嬉しそうに言った。けれど、きっとそういうわけではなかったのだろう。

 

「誰かを貶めないと仲良くしていられないようなのが本物なわけねえだろ」

 

 比企谷君が否定する。忌々し気に。でも、彼の言葉はそれで終わらなかった。

 

「……けど、そうやって偽物だってわかってて、それでも手を差し伸べたいって思ったなら、そいつは本物なんだろ、きっと」

「……そう、なのかしら」

 

 僅かな憧憬の籠った彼の言葉に、思わず自分を重ねてしまう。私は偽物だ。偽物の雪ノ下雪乃だ。それでも、本物に手を伸ばし続ければ、いつかこのボクが本当の自分だと認めることができるだろうか。

 

 かつての比企谷君の言葉を思い出す。私の笑った顔が、本物だと言ってくれた。正直、どういう意図で言ったのか私には分かりかねる。姉さんの嘘のように完璧な笑みよりも自然だったとか、単にそれだけだったのかもしれない。

 私に背中を向けて佇んでいる彼に、聞きたくなってしまった。私は本物になれるのか、偽物のままなのか。裁決を、下して欲しくなった。

 

 

 ◇

 

 

 その後は、少しキャンプファイヤーを楽しんで、私の奉仕部の夏は終わった。夏休みはまだまだあるけれど、もうおしまいだ。その理由は、このキャンプの終わりにあるイベントだ。

 

 行きと同様に私たちを乗せた平塚先生の車が、学校に到着する。そこで私を迎えたのは、あの事故の時と同じ車だった。

 

「はろーゆきのちゃん、迎えに来たよ」

 

 姉さんのその宣言は、私の夏休みが終わったことを告げていた。

 でも、それどころではなかった。私は後ろを振り返り、比企谷君と由比ヶ浜さんの反応を確認する。

 

 ……ああ、やっぱりだ。比企谷君は、驚いたような、失望したような、それ以上の何か複雑な感情が渦巻いているような、そんな表情をしていた。何に対する失望なのか、私には良く分かった。

 由比ヶ浜さんの方も、また違った複雑な感情を抑え込んだような顔をしている。

 

「……、じゃあね、比企谷君、由比ヶ浜さん」

 

 扉を閉めると、ハイヤーは静かに走り出した。

 

 ああ、嫌になるほど原作通りみたいだ。キャンプの終わり、比企谷八幡は自分を轢いた車の持ち主が、雪ノ下家であることを悟る。その時彼は、虚言など一切吐かない潔白な雪ノ下雪乃像に裏切られることになる。

 虚偽を憎み欺瞞を嫌う彼にとってのある種の理想像であった雪ノ下雪乃が隠し事をしていたこと。それから、何より雪ノ下雪乃に理想を押し付けていた自分自身への失望。

 そんな複雑な感情から、二人の距離は少し遠ざかることになる。けれどこれは、きっとあの事故を防ぐことができなかった私の罰なのだろう。回想する。あの日の思い違いを。過ちを。

 

 

 ◇

 

 

 あの事故のことは、よく覚えている。忘れられるわけもなかった。私が総武高校への初めての登校のために、雪ノ下家の運転手である都築の運転する車に乗っていた時のことだ。

 

 揺れ一つない高級車の座席で、私はその時が訪れる瞬間を今か今かと興奮を抑えきれず待っていた。だってこれは、原作が始まる瞬間に他ならないのだ。奉仕部の面々を巡る縁、その始まり。さらに、比企谷八幡と由比ヶ浜結衣に実際に会えるのだ。一ファンとして、見逃すわけにはいかなかった。

 

 ハイヤーは進む。この先に訪れる事件など知らずに。早朝の通学路には人気がない。後部座席の車窓から眺める景色も単調だ。

 私が僅かに眠気を感じ始めた頃、事件は起こった。唐突だった。法定速度の六十キロちょうどで進む車の前に、突如として犬が躍り出た。都築が急ブレーキをかける私の体が前のめりになり、シートベルトが体を締め付けた。けれど視線は前にやったまま。

 

 ハイヤーは犬を轢いてしまうか、という瞬間、小さな影の前に立ちはだかる少年の姿があった。犬を抱き、車から逃れようとする比企谷八幡。けれど、間に合わない。車の速度が速すぎる。──そこで私は、ようやく自分の過ちに気づく。

 

「──都築!」

 

 ハイヤーは、少年と衝突するにはあまりに速度が乗りすぎていた。ともすれば、少年を殺しかねないほどに。

 血の気が引く。そうだ。この事故で彼が死なない保証など、どこにあったというのか。どうして私の知っている通りの物語が進むと確信できたのか。急ブレーキの甲高い音がけたたましく鳴る。私は祈るように、顛末を見届けた。

 

 結果として、比企谷八幡は重傷を負ったが命に別状はなかった。

 

 けれど今回の事故は、私の認識を正すのに十分すぎた。彼らは登場人物などではない。今ここで、生きている。どうしてそんな単純なことに気づけなかったのだろう。私だってこの世界で生きているのに。

 

 なぜ比企谷八幡が事故に遭っても五体満足で総武高校に通えると信じられたのだろう。運転手の都築に一言言えばよかったのではないか。今日の登校時間をずらすとか、道中気を付けるように告げるとか、方法はいくらでもあったのではないか。

 そんな重大なことを、私はただ原作の重要シーンが見られるなどというふざけた理由で、怠ったのではないか。

 

 車内から、倒れる比企谷八幡を眺めていた時、私は自分の過ちに気づいた。言ってしまえば、この時から、私と彼の関係は間違っていたのだ。

 



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いつまでも私は疑心暗鬼に囚われている

 わずかに傾いてきた日の差す部室で、私は半ば無意識に言葉を紡いでいた。

 

「──まだあまり一般的ではないけれど、サテライトオフィスという形でテレワークが実施されている例もあるわね。IT化の進んだ今だと、職種によってはわざわざ同じ場所に集まって仕事をする必要性が薄くなってきているかもしれない。もちろん、対面コミュニケーションの重要性というものも決して無視できるものではないのだけれど」

「へえ……。よくわかんないけど、じゃあそのテレワーク? ってやつが普及したら、パパも仕事するために家を出かける必要がなくなるってことかぁ」

「そうだよ。だからな、将来的には人類は家から出なくて済む未来が来るはずなんだよ。俺がしているのはその予行演習に過ぎない。むしろお前たちが遅れてるとまで言える」

「うわあ。ヒッキー、そこまで家から出たくないんだ……」

「引きこもりくんらしいわね」

「ほっとけ。……」

 

 由比ヶ浜さんの言葉に同調する。しかし私の罵倒文句を聞いた比企谷君は、気だるげに一言返すだけだった。何か言おうとして口を噤んだようなその態度に僅かな違和感を覚える。けれど私も何か言うわけでもなく、手元の読めていない文庫本へと目を落とした。

 

 部室に漂う空気は、夏休みを経て大きく変わった。明確な諍いがあったわけではない。由比ヶ浜さんも比企谷君も休まず部室に来ているし、私だって欠かさず出席している。

 けれど、交わされる会話に、どこか距離があった。原因はきっと私だ。私と比企谷君の関係が、少し変わってしまった。夏休み前は、良く言えば遠慮のいらない関係だったのだが、今ではお互いに微妙な遠慮が生まれ、会話が弾まない。

 

 やはり比企谷君に、思う所があるのだろう。虚言など吐かないと言っていた私が、隠し事をしていたこと。あの事故の当事者だったことを黙っていたこと。

 分かっている。それは私が紙面上で読み、知っていたことだ。比企谷君の、完璧な人間である雪ノ下雪乃像が裏切られたことへの失望、勝手に幻想を抱いて勝手に失望してしまった自分への失望。

 

 でも、本当にそれだけだろうか。偽物である私に比企谷君が抱いた失望は、本当にそれだけだったのだろうか。あまり目の合わない比企谷君の真っ黒な瞳を眺めていると、不安になってくる。

 例えば、疑念。私の語る信念が、全て噓っぱちだったのではないかという疑いを比企谷君が持ったとしたら。ひょっとしたら部室にすら来なくなるかもしれない。

 

 物語の通りに、私は振舞えているのだろうか。答え合わせの機会は訪れない。台本はないのにエンディングだけが決定している演劇をしているようだ。演者である私には、観客の表情を伺うことすら許されず、ただ愚直に滑稽に踊るしかないのだ。

 

 そして、私が物語を正しく導けているのか、試される時が来た。高校生たちの一大イベント、文化祭だ。

 

 

 文化祭実行委員会の最初の集まりは放課後、会議室で開催された。予定通り実行委員になった私は、早めに席に座ってあたりをぼんやりと眺める。二人組の女子。キョロキョロとあたりを見渡す男子。部屋に着くなり、既に到着していた生徒の方へと駆け寄っていく女子。

 

 そして、いた。特徴的なアホ毛の、目の腐った男子高校生。彼は私と目が合うと、少し驚いたように目を見開いた。けれどそれ以上何か言ってくるわけでもなく、視線を逸らすと気だるげに席へと向かっていく。

 やがて定刻が過ぎる頃には、静かだった会議室はざわめきに満ちていた。至る所からおしゃべりの声が聞こえてきて、とてもこれから何か始めようという雰囲気ではない。

 しかしそんな秩序のない空間に、突然華やいだ声が聞こえた。

 

「はい、ではみなさん、文化祭実行委員会を始めますよー」

 

 不思議と人の気を引き寄せるその声に、ざわめきがスッと収まる。

 

「今日はみなさん集まってくれてありがとうございます、生徒会長の城廻めぐりです! みんなで、文化祭成功させるぞ、おー!」

 

 ふわっとした感じの挨拶に、すかさず生徒会員たちが拍手すると、実行委員たちも釣られて拍手をした。こうして、寄せ集めの実行委員は、一応のスタートを切った。

 

 城廻先輩の挨拶が済むと、早速委員会最初の活動が始まった。良く言えば大役、悪く言えば貧乏くじである役職。委員長決めだ。

 

「雪ノ下さんもダメか……。誰かいませんかー?」

 

 城廻先輩が可愛らしい声で委員長の立候補者を呼びかけるが、静寂の会議室からは中々声が上がらなかった。私が内心まだかまだかと待っていると、やがて自信なさげな小さな声が響いた。

 

「あの……誰もいないなら、私がやってもいいですけど……」

 

 来た。やっとだ。おずおずと手を上げたのは、相模南だ。

 

「やってくれるんだ! ありがとう!」

 

 城廻先輩に促された相模さんが自己紹介をして、前に出ていく。……少なくとも、委員長を決める段階までは上手くいったようだ。後は、私が彼女の依頼を受けるだけだ。

 前に出て、緊張した面持ちで話している彼女を見る。私が知っている通りなら、失敗する彼女。私は、それを知りながら止めることはしない。

 

 

 ◇

 

 

「うち、実行委員長やることになったけどさ、こう自信がないっていうか……。だから、助けてほしいんだ」

 

 部室を訪れた相模さんの依頼は、だいたいこの言葉に要約されるだろう。

 

「あなたは自己成長を目標に掲げていたはずだけれど」

 

 すぐに承諾するにはあまりにも他人頼みな態度に、私は小首をかしげてみせる。相模さんは、少し慌てたように連れてきた取り巻きに話しかけ始めた。

 

「い、いやあ、なんていうの。仲間と助け合うのも成長っていうか? 一人でやるのもちょっと心配だなっていうかさ」

「うんうん」

「そうだよね。初めてだから不安だよね」

 

 付和雷同といった様子の友人たちに気を良くしたらしい。相模さんは少しふてぶてしさを取り戻し、私に向き直った。

 

「ってわけで、手伝ってもらえないかなあ」

「……それって……」

「ええ、構わないわ。私実行委員だから、出来る範囲で手伝いましょう」

 

 由比ヶ浜さんが何か言おうとしていたので、それを遮るように了承の返事をする。比企谷君と由比ヶ浜さんが、驚いたような顔をしているのが嫌に印象的だった。

 

 

「──それじゃあ、明日からよろしくね!」

 

 終始軽い調子の相模さんは、これでもう全部解決したとでも言いたげな表情で私に言うと、足取り軽やかに奉仕部を去っていった。

 

「どういうつもりなの、ゆきのん」

 

 いつもとは違う由比ヶ浜さんの低い声。自然、応答する私の声にも硬さが混ざる。

 

「どうもこうも、私が個人で依頼を受ける。ただそれだけよ」

「部活は文化祭までは無しって言ってなかった?」

「ええ、だから私一人でやる」

 

 由比ヶ浜さんの瞳の鋭さに内心たじろぐが、決して態度には出さない。真っ直ぐに彼女を見つめる。

 

「でも、それってなんかおかしいよ! なんでゆきのん一人でやるの?」

「その方が効率がいいというだけ。それに由比ヶ浜さんには関係ない話よ」

「でも、ゆきのんは困ってる人をただ無条件に助けるような人じゃなかったよね! ……なんていうのかな、今回の依頼の件、なんかゆきのんらしくない!」

「え──」

「私、今日は帰るね!」

 

 由比ヶ浜さんはそう言い捨てると、脇目も振らずに部室を出て行ってしまった。やや遅れて、比企谷君が追従するように出ていく。

 

 けれど、私はそれどころではなかった。彼女が発したある一言がきっかけで、私は懊悩と恐怖に支配されてしまった。

 例えるなら、今立っている床が突然消え去ってしまい、何もない奈落へと落ちていく浮遊感にも似た恐怖が、全身を支配していた。

 

「らしく、ない……?」

 

 私が、雪ノ下雪乃らしくない? どうして。なぜ。どこが。どうやって分かった。偽物だって、由比ヶ浜さんにバレた? 比企谷君にも? 

 

 らしくない。それは、私にとって呪いの言葉だった。その言葉をかけられた過去の記憶を思い出す。小学校で、足を広げて座ってしまった時。ピンクではなく青を選んでしまった時。転んだ子に手を差し伸べた時。中学校で、テストで百点を取れなかった時。友達になれそうな子ができた時。

 そして、事故を起こしたハイヤーに乗ろうとする私を見る、比企谷君の驚いたような表情。

 それらを思い返すたびに私の心は恐怖に支配される。私らしくない。雪ノ下雪乃らしくあらねばならないのに。でも私は、本当は雪ノ下雪乃ではなくて──

 

「……違う。由比ヶ浜さんがそんなこと思うわけない。そんなのは、弱くて完璧じゃないボクの妄想だ」

 

 何を考えているんだ。由比ヶ浜さんの言葉にそんな深い意味なんてありはしない。少しいつもと違う行動をしたボクに対して違和感を覚えただけだ。その、はずだ。

 いくら言い聞かせても、ボクの不安定な心は恐怖を訴え続けていた。

 

 ドクドクという音が聞こえそうな心臓のあたりに手を当てる。前世のボクには存在しなかった緩やかな膨らみの感触。

 ああ、根拠のない恐怖に、おかしくなってしまいそうだ。あるいは、こんなことを考えてしまうボクは、とっくにおかしかったのかもしれない。

 

「せめて、文化祭実行委員くらい務まらなきゃ雪ノ下雪乃じゃない、かな」

 

 誰もいなくなった部室を眺める。がらんとしたこの部屋は、ひどく広く感じた。

 



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本当に、雪ノ下陽乃は分からない

 あの日相模からの依頼を受けた雪ノ下は、後日文化祭実行委員副委員長に就任した。そしてその日から、容赦のない専制政治──いや、相模が名目上は上だから傀儡政治か──を始めた。

 ポスター設置箇所の提示から、有志団体確保のための地域賞の創設まで、分野を限定しない雪ノ下の活躍は、執行部に属していない俺の耳にまで届いていた。その活躍は、もうあいつが実行委員長でいいんじゃないかと思う程だ。

 

 実行委員会の定例ミーティングも四回目になった。会議室の前に座る雪ノ下は、隣に座る委員長の相模を差し置いて、会議をテキパキと回していた。

 

「──ポスターの掲示箇所の交渉を進めてください。それから、ホームページの更新も急いでください。特に我が校を受験予定の中学生はこまめにチェックしているはずです。いち早く対応を」

「有志参加団体は昨年までの記録から、地域の方々への打診をしてください。例年、地域との繋がりを掲げている以上、参加団体の減少は避けないと」

「では委員長、終わりの合図を」

「えっ……あっ、うん。じゃあ、今日もお疲れ様でした」

 

 最後だけまともに発言を許された相模が号令をかけると、ようやく終わったとばかりに委員会が解散する。

 弛緩した空気の中で話されるのは、雪ノ下副委員長への賞賛ばかりだ。徹底的な作業の効率化、膨大な知識からの、各方面への助言、提言。年上だろうが容赦のない氷のような態度。

 

 口さがない者は、相模の空気っぷりを嘲笑することすらあった。

 相模もその空気を分かっているのか、取り巻きを連れてスタスタと会議室を後にしていた。その背中は自信なさげに曲がっている。

 当然だろう。同級生が派手に活躍している横で、置物のように座っているお飾りの委員長。その心情は想像するに難くない。

 

 分かっているのか、雪ノ下。お前は相模を救うことなんてできてないぞ。

 めぐり先輩と何か会話している雪ノ下の美しい横顔を見る。めぐり先輩のゆるっとした雰囲気と相対しても、その氷のような態度は崩れていなかった。

 

 ……やはり、最近はいつも以上に表情が硬いような気がする。気のせいでなければ、ピンと伸ばしていた背筋もわずかに曲がっている気がする。

 もしかして、あいつなりにいっぱいいっぱいだったりするのだろうか。委員会を支える彼女がどんな苦労をしているのか、俺は知らない。

 

 きっとあの雪ノ下なら大丈夫だろうとは思う。既に作業は前倒しで進んでいる。順調としか言いようのない進捗だ。けれど、あいつが完璧ではないことを知ってしまった俺には、その成果はあいつが無理をした結果ではないのかと疑ってしまう。

 そして、俺のそんな予感が正しかったことは、雪ノ下陽乃の襲来をきっかけとして実行委員に訪れた変化によって明らかとなった。

 

 

 俺がなぜか葉山と一緒に実行委員へと向かうことになった時だった。文実の本部となった会議室から、いつもとは違う類のざわめきが聞こえてきていた。開始前の実行委員には不釣り合いな、少し張り詰めたような、僅かな緊張感。

 廊下から中の様子を見ると、そこには夏休みにも会った、雪ノ下陽乃の姿があった。どうして学校にあの人の姿があるのだろう。

 

 何やら話しているのは、陽乃さんの他に、めぐり先輩、そして雪ノ下雪乃だ。

 

「姉さん、何しに来たの?」

「何その怖い表情。やだなー。有志団体を募集してるって聞いたから来たんだよ」

 

 姉に対する雪ノ下の表情は、いつも以上に冷たく、硬かった。それを見かねためぐり先輩が、慌てて説明をする。陽乃さんを呼んだのは自分であること。在学中にバンドで演奏して文化祭を盛り上げていたこと。

 

 その様子を見ていた葉山が、自然に会話に加わっていく。陽乃さんに対する態度には、長い付き合いを窺わせる気安さがあった。……そうか、雪ノ下姉妹とあいつは幼馴染だったな。

 

「ね、雪乃ちゃん、出ていいでしょ?」

 

 一通り会話を交わした陽乃さんが、雪ノ下に話しかける。陽乃さんの砕けた態度に対して、雪ノ下の顔は硬いままだ。

 

「好きにすればいいじゃない……。それに、決定権を持っているのは私じゃないわ」

「あれ、雪乃ちゃん実行委員長じゃないの?」

「すいませーん。遅れました」

 

 ちょうど陽乃さんが問いかけた時、相模が会議室に入ってきた。謝罪を口にしているが、その表情は少しも悪びれていない。

 

「あの子が実行委員長よ」

「へえ、あの子が……実行委員長が、遅れて来るんだ」

 

 その途端、先ほどまでの表情豊かな様子が嘘だったように冷徹な顔になった陽乃さんが、相模をじっと観察する。その威圧感のある態度に、相模がわずかにたじろぐ。

 

「え? あ、あの、実行委員長の相模です……その、なんですか?」

「……いいね! やっぱり文化祭を最大限楽しめる者こそ、実行委員長でなくちゃ! なんだっけ、さかがみさん? まあいいや、委員長ちゃん、いいね!」

「あ、ありがとうございます」

「で、委員長ちゃん、ちょっと聞いて欲しいんだけど──」

 

 相模が表情を綻ばせる。おそらく、実行委員長になってから初めての、肯定的な言葉。それに気を良くしたのだろう。相模は陽乃さんからの文実へのいくつかの要求を、大して考えもせずに吞んでいた。

 それを見ている雪ノ下は何か言いたげにしていたが、結局口を挟むことはなかった。

 

 

 そんな顛末を遠くから眺めてた俺は、我関せずとばかりに自分に与えられた席へと向かった。

 葉山や雪ノ下、陽乃さんなど華やかな人間の揃うあの空間は、同じ部屋なのに遠い場所に感じた。

 けれど、そんな空間にいたはずの陽乃さんは俺の姿を確認すると、きらびやかな空間を抜け出してこちらへと近寄ってきた。

 

「働いているかね、青少年」

「ええ、俺は下っ端ですからね。それはまあ馬車馬の如く」

 

 卑屈な笑みを浮かべると、陽乃さんはそうかそうか、と満足げに頷いた。……この人、何しに来たんだろうか。

 

「でも、比企谷君がこんな場所にいるとは思わなかったよ。何、委員会に好きな子でもいた?」

「違いますよ。なんか平塚先生にハメられて、仕方なくです」

「そっか、静ちゃんの差し金か」

 

 陽乃さんはぽつりと呟くと、こちらの目をじっと見つめ始めた。雪ノ下とは似て非なる美しい顔に、少し動揺する。

 

「ねえ、比企谷君。今の雪乃ちゃん、どう思う?」

 

 唐突で漠然とした問いだった。少し考えながら、言葉を紡ぐ。

 

「……相模の助けて欲しいって依頼を受けた時から、らしくねえなあ、とは思ってましたね。積極的に前に立つようなことする奴じゃないですし」

 

 由比ヶ浜の依頼を受けた時から、助けて欲しいと言いつつ自助努力をしない人間を嫌うような、そんな高潔な奴だったはずだ。──ああ、でも、高潔というのは俺の押し付けだったかもしれない。

 キャンプの終わり、事故の時と同じハイヤーに乗り込む雪ノ下のこちらをチラと見た時の顔を思い出した。いつもの冷静そうな顔に、一瞬現れた不安と後悔の色。あの時俺は、雪ノ下は俺と同じ人間なんだと、実感を持って悟ったはずだ。

 

 自分で吐いた言葉についで思考を巡らせていると、陽乃さんが真剣な表情でこちらを見ていた。

 

「比企谷君」

「はい?」

「その、らしくない、っていう言葉、雪乃ちゃんには言わないで」

 

 この人の印象とは大きく外れる、妹を想う優しい姉のような言葉に、俺は思わず陽乃さんの顔をじっと見つめた。

 

「私も未だにどうしてなのか良く分からないけど、そのたぐいの言葉は、雪乃ちゃんが一番嫌がるから」

 

 真剣な表情に、思わず視線を逸らしてしまった。

 

「……あなたは、妹の嫌がることを率先してやる人だと思っていましたけど」

「生意気言うじゃんか、このこの!」

 

 陽乃さんの細い人差し指がにゅっと伸びてきて、俺の頬に突き刺さった。

 

「痛い痛い! もしかして結構怒ってますか!?」

「──私は、雪乃ちゃんのためにならないことはやらないつもりだよ」

 

 ぽつりと、独り言のように呟いた。──その一言は、俺が見た中で最も雪ノ下陽乃が内面を晒した瞬間だったのかもしれない。

 

「それってどういう──」

「みなさん、ちょっといいですかー?」

 

 全く底の見えない陽乃さんの、ふと見せた内面に俺が追求しようとすると、会議室に突如として響いた無遠慮な声に遮られた。陽乃さんもそちらを見ているので視線を上げると、いつになく上機嫌な相模が実行委員に呼びかけていた。

 

「やっぱり、文実は自分が文化祭を楽しんでこそ、人を楽しませられるのかなって思うんです」

 

 どこかで聞いたような理屈を白々しく吐いて、実行委員長は続けた。

 

「文化祭を最大限楽しむには、クラスの方も大事だと思います。仕事も順調に進んでいることだし、少し仕事のペースを落とすっていうのはどうでしょうか?」

「相模さんそれは──」

「いいこと言うねー。私の時も、みんなクラスの方でもすごく頑張ってたなー」

 

 何か言いかけた雪ノ下を牽制するように、俺の隣にいた陽乃さんが明るく相模の言うことを肯定した。雪ノ下が冷たい視線で陽乃さんを貫いたが、彼女は涼しい顔でそれを受け流した。

 

「先人の知恵には学んだ方がいいって言いますし、私情は挟まず、みんなで文化祭を楽しみましょう!」

 

 相模の言葉に、その場にいた文実メンバーから、ちらほらと拍手が送られる。その場の空気がそれに賛同するのであれば、雪ノ下と言えども安易に否定はできない。どうやらこの案は可決されたらしい。

 

「本当にいいこというね。ねえ比企谷君」

 

 陽乃さんが俺に笑いながら話しかけてくる。俺には、彼女の意図が全く分からなかった。

 先ほど一瞬その強化外骨格の中身が見えたと思ったその人は、また俺の分からない、底の見えない人に変わってしまった。

 

 せめてもの抵抗に、俺は問いかける。

 

「……妹さんのためにならないことはしないんじゃないんですか?」

 

 陽乃さんはいつも見せたような底冷えするような笑みを浮かべて答えた。

 

「君に私の行動を理解してもらう必要なんてないよ」

 

 

 




話がなかなか進まなくてすまない……


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いつになく雪ノ下雪乃は不調である

 長時間見続けていたので、目の前のパソコンの画面が何だかボヤけて見えてきた。私は手を止めると、誰かが入れてくれたらしいお茶を一啜りする。視線を上げて会議室を見渡してみると、人の少なさに驚かされた。

 

 相模さんからの、実質的な実行委員解放宣言から数日が経った。あの日から、文実の出席人数は減り続けていた。その分仕事の進みが遅くなり、私がこなさなければならない仕事は増える一方だった。

 有志団体の申し込みは増える一方で、書類の処理が次々と溜まっていく。クラスの出し物の申請内容も確認しなければ。食品を扱う出し物の場合は、特に面倒な手続きが必要になる。宣伝広報の仕事だってまだまだたくさんある。

 

「……はあ」

 

 分かってはいたことだ。相模さんのあの発言を止められなかった時点で、こうなることは予想できた。文実の出席率が急低下すること。本物の雪ノ下雪乃ですら疲弊するような仕事量が私に降り注ぐこと。あの時どうにか未来を変えようとしなかった私には、何も言う資格はない。

 それでも、思うのだ。

 

 あの相模とかいうやつ、ロクに仕事しないくせに余計なことだけしてくれるな!! 

 

 ……おっと、自室でもないのに雪ノ下雪乃ではないボクが出てしまった。疲れてるのかな。疲れてるんだろうな。

 長時間同じ姿勢で座っているせいで、腰が痛む。パソコンの画面を少し見ただけで、目がチカチカしてくる。なんということだ。これでは帰ってから猫動画を見て癒されることもできない。

 私が今夜の楽しみを奪われたことに絶望していると、突然爽やかな声に話しかけられた。

 

「雪ノ下さん、有志の書類を提出しに来たんだけど」

「それなら右奥に」

 

 ぼんやりとしてきている意識とは裏腹に、口から出る言葉は凛然としていて、まるで他人が話しているみたいだ。今日も今日とて、私の雪ノ下雪乃という外殻は正しく機能している。

 返事をしてから遅れてチラと視線をやると、葉山君の姿が映った。ああ、今彼と会話していたのか。

 そのまま比企谷君と何事か会話しだす彼から視線を外し、私は再びパソコンの画面に向かい合った。

 無機質な白い光に、目の奥の方がガンガンと痛んだ。

 

 

「でも、雪ノ下さんがほとんど仕事をやっているように見えるけどな」

 

 少し声を張り上げた葉山君の言葉に、キーボードを叩いていた私は何事かと顔を上げる。見ると、葉山君と比企谷君がこちらをじっと見ていた。

 

「……何かしら?」

「いや、葉山が文実の仕事、雪ノ下がほとんどやってるんじゃないかってな」

「こっちの方が効率的というだけよ。何か問題が?」

 

 冷たく言い放つと、葉山君も同じような口調で言ってきた。

 

「でも、その状態じゃ遠くないうちに破綻する」

「……」

 

 普段の彼らしからぬ強い言葉に、思わずそちらに向き直る。見ると、彼の隣に比企谷君も言外にそれに同意しているように見えた。

 その態度に、思わず言葉が口を突いて出てきた。

 

「……比企谷君も、そう思う?」

 

 ああ、なんて()()()()()言葉なのだろう。こんな、縋るような、自分の行動の答えを他人に任せるような言葉なんて、雪ノ下雪乃ではない。こんな弱さを見せるつもりじゃなかったのに。

 

 恐る恐る観察していると、私の言葉を聞いた比企谷君は少し驚いたように目を見開いた。その動作に、私は全身が冷えるような恐れを抱く。

 しかし比企谷君の言葉は、私の恐れていたようなものではなかった。

 

「……そうだな。雪ノ下が一人でやってきたことを否定する気はないが、遠からず限界が来そうな気がするな」

 

 その言葉を聞いて、私は少し自分の肩の荷を下ろすことができた気がした。

 

「……そうね。仕事の分担を少し考え直してみましょうか」

「俺も手伝うよ。有志の統制なら、他人事じゃないし」

「部外者に頼るのは流石に悪い気がするけれど」

「気にしないで。俺だって文化祭が成功してほしいのは同じだし」

 

 相変わらず非の打ち所がない微笑を浮かべたままで、葉山君はさわやかに言い放った。先ほどの突き放したような冷たい言葉が嘘だったみたいだ。

 

 簡単に、仕事の割り振りについて城廻先輩とも話し合うと、その場は解散となった。

 負担を減らすために分担するとはいっても、副委員長である私にしかできない仕事も多い。……やれるだろうか。凡人である私に。言いようのない不安を飲み込む。

 私は今日の持ち帰る仕事を鞄に詰め込むと、席を立った。

 

 

 

 

 その後一週間ほど、私は少しだけ量の減った仕事をこなしていた。けれど、正直なところ疲労は溜まっていく一方だった。放課後会議室に閉じこもって作業しては、終わらなかった仕事を鞄に詰め込み、家でこなす日々。一日中パソコンの画面を見ているせいか、最近は寝つきが悪くなってきた。

 

 雪ノ下雪乃らしくあらんと毎日自炊していた食事も、最近ではカップ麺や栄養食で済ませることが多くなってきた。時間がないというのもあるが、以前よりも食欲がない気がするのだ。

 

 会議室で仕事をしていると、時々城廻先輩が話しかけてくるようになった。曰く、顔色があまり良くないようだが無理していないか、とのことだった。

 ありがたい心遣いだったが、不調を悟られるようでは、雪ノ下雪乃としては失格だ。私は反省し、学校では一層気を引き締めるようになった。

 

 そんな日々を過ごしていた時のことだった。

 

 

 鳴り響く携帯のアラーム音に重たい瞼を引っぺがされる。晴れ晴れとした朝日がカーテン越しにボクを照らしてくるが、心の中はどんよりとしたままだ。アラームを止めた携帯を持ち、なんとか立ち上がり洗面所へと向かう。

 

 なんだか体が重い。足元がおぼつかず、フラフラしている。まだ寝ぼけているのだろうか。気づけば、視界までぼやけていた。意識までぼんやりとする。

 ……ボクは、今何をしていたんだっけ? いつの間にか、上下の感覚すらあやふやになっていた。混濁した意識は、ついには体を制御することすらできなくなった。唐突に訪れる浮遊感。いつの間にか、ボクの頭は地面へと急接近していた。鈍い痛みと共に、意識が遠ざかる。

 最後に考えていたのは、学校に休みの連絡しなければ、ということだった。

 

 

 自宅のフローリングの寝心地は最悪だった。頭の下の固い感触に意識を強制的に覚醒させられ、そのたびに何度も無理やり眠りについた。

 何度目かの起床の際に、半ば無意識に学校に連絡は済ませたらしい。携帯の履歴には、学校に電話した跡が残っていた。会話の内容は覚えていない。それに安心したボクは、硬くて冷たい床の上で、眠りに就くことにしたのだ。

 

 ベッドまで戻って眠るという、当たり前の判断すら頭に浮かんでこなかった。自分の頭が鉛でも詰まっているかのように重く、とても起き上がれる気がしなかったのだ。

 

 そんなボクの意識が完全に覚醒するのは、インターホンの音を聞いた、午後四時過ぎのことだった。

 

 

 

 ピンポーン、という甲高い電子音に、重たい頭が痛んだ。ボクは薄目で、リビングに設置されているインターホンの画面を確認する。何やら、二人ほど、エントランスで立ち往生しているように見える。……宅配便には見えないな。

 鈍く回る頭で、なんとか思考を巡らす。来客。二人。時刻は……夕方か? 誰だろう。

 

 もう一度、インターホンが鳴る。その音を聞いた瞬間、ボクの頭の中で急に全てが繋がった。おぼろげに認識していた携帯メールの受信音。二人組。放課後。原作の知識。──由比ヶ浜さんと比企谷君が来た!? 

 

「ッ!」

 

 その考えに思い至った瞬間、未だまどろみの中にあったボクの意識は、急覚醒を果たした。立ち上がる。全身が痛みを訴えかけてきて、頭の奥がガンガンと痛んだ。慌てて、インターホン越しに由比ヶ浜さんと比企谷君との会話を試みる。

 

「はい」

 

 自分の喉から出てきた声は、想像以上に弱弱しかった。

 

「あ、ゆきのん! 大丈夫!?」

「心配してわざわざ来てくれたの? ありがとう。でも大丈夫だから」

 

 できるだけ元気のよい声を出そうとしているのだが、喉から出てくるのは、か細い声だけだった。

 

「いいから開けろ」

 

 比企谷君のいつもとは違う、硬い命令口調に驚く。彼の表情は、いつになく真剣だった。

 少し考えて、ボクは言葉を返す。

 

「十分、待って」

 

 

 通話を打ち切ったボクは、急いで身支度に取り掛かった。跳ねまくった髪を整える。顔を洗う。鏡の向こうのボクは、ひどい顔色をしていた。……こればっかりが誤魔化しようがないな。

 服を着替える。雪ノ下雪乃が部屋着にしていても違和感のないもの。ダボッとした白のニットに、ロングスカートを合わせる。……家でスカートを穿くのはなんだか違和感がある。

 芳香剤を使い、少しでも女の子の部屋らしくする。

 

 最後に、何よりも大事なことだ。ボクは姿見の前に立つ。綺麗に伸ばされた黒髪。恐ろしいほどに整った顔立ち。女の子らしい服装。それを眺めながら、自分に言い聞かせた。

 

「ボクは雪ノ下雪乃。ボクは雪ノ下雪乃。ボクは雪ノ下雪乃」

 

 くつろいでいた、ただのボクから、完璧な雪ノ下雪乃になるための儀式。ボクの中での、内面を隠すための区切りのようなものだ。

 そうこうしていると、いつの間にか十分経っていた。インターホンから、二人に入ってくるように呼びかけ、オートロックを解除する。

 

 しばらくすると、家の前のインターホンが鳴った。ドアを開くと、なんだか数日ぶりに会った気がする由比ヶ浜さんと比企谷君の姿があった。

 

「どうぞ、入って」

 

 

 我が家のリビングまで入ってきた二人は、興味深げに部屋中を見渡していた。

 そんなに見られると不安になるな。ボクは、プライベートまで完璧に、雪ノ下雪乃を演じれているのだろうか。鏡の前で自分に言い聞かせたことを思い出す。そうだ、ボクは雪ノ下雪乃なんだ。

 自己暗示で自信をつけてから、満を持して、ボクは二人に話しかけた。

 

「……それで、ボクに何か用があった?」

「「ボク……?」」

「……あっ」

 

 うわあああああああああああ! 一人称だけそのままだった! 

 



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ついにボクは一歩踏み出す

「……それで、ボクに何か用があった?」

「「ボク……?」」

「……あっ」

 

 ボクは今、この体に生を受けて以来、過去最大の危機を迎えていた。目の前には、ボクの発言に訝し気な顔をしている奉仕部の二人の姿。

 

「あっ、ちがっ……その、ボクは……ああ、違う! そのボ、私」

 

 奥の方がガンガンと痛み続ける頭は、思考が全く回らなかった。また要らないことを口走ってしまい、余計に動揺していしまう。

 知られたくない、知られてはいけなかった秘密を知られたことへの動揺と恥ずかしさ。愚鈍に動く頭は激しい感情にすっかり支配されてしまった。

 顔が暑い。二人の顔をまともに見れない。

 

「……ゆきのん、おちついて」

 

 普段幼い印象の由比ヶ浜さんに、落ち着いた様子で諭されてしまった。

 その言葉に少し正気を取り戻した私は、一度大きく深呼吸をした。

 息を吸いこむのと同時に、なんとか仮面を被り直す。雪ノ下雪乃という仮面、外皮。

 

 完璧に整った私は、きりっとした表情を作ると、小首をかしげてみせた。

 

「それで、私に何か用だったかしら?」

「流石に今の誤魔化すのは無理だろ……」

 

 無情にも、比企谷君は呆れた顔で言い放った。

 助けを求めるように由比ヶ浜さんの方を見ると、なんだか我が子を見る母親のような目をしていた。

 

「可愛いし、いいんじゃない?」

「うっ……」

 

 優し気な瞳が痛い……。

 

「その私……」

「……」

「うぅ……。なんだよなんですかボクに何か用でしたか!?」

 

 どうすれば分からなくなったボクは、とりあえずキレた。

 雪ノ下雪乃という外皮のなくなったボクが二人の前でどう振舞えばよいのか、全く分からなかった。

 ボクのやけくそな発言を聞いた由比ヶ浜さんは、満足したとでも言うように沈黙を破った。

 

「いやぁ、今日ゆきのん急に学校休んだじゃん。体調大丈夫かなぁって心配だったから来たんだ」

「問題ないよ。大丈夫」

「さっきの醜態を見て大丈夫だと思えるかよ……」

 

 余計なことを言った比企谷君を睨みつけた。しかしいつもとは違って、彼は私の目線に少しも動揺していないようだった。

 

「上手く隠してたけど、最近のお前明らかに疲弊してたからな」

「……そう。気づかれてたんだ」

 

 そっか、ボクが必死に外面を取り繕っていたこと、彼には分かってしまったか。

 

「……ヒッキー、分かってたなら、どうして助けてあげなかったの? 私、お願いしたよね」

 

 少し怒ったような調子で、由比ヶ浜さんが比企谷君に言う。いつにない彼女の姿に、比企谷君には動揺が窺えた。

 でも、それは違う。

 

「違うわ。……違う、由比ヶ浜さん。比企谷君は執行部には関係なくて、何かできるような立場じゃなかったから……」

「でも、だからってゆきのんが全部背負い込むことなかったんじゃない? ……今日のゆきのん、すごく体調悪そうだよ」

 

 どうやら由比ヶ浜さんにも、ボクの虚勢は通じていなかったらしい。

 

「でも、ボクがやらないと」

「どうして?」

 

 間髪入れずに、由比ヶ浜さんが問いただしてくる。表情は真剣で、嘘や誤魔化しなんて許さないと言っているようだった。

 

 そんな彼女に釣られて、ボクは自分の本心を吐き出す。吐き出して、しまう。

 

「──だって、だってボクは、雪ノ下雪乃なんだよ! 弱いボクでいちゃいけないんだ! 必要なのは完璧な私なんだよ! ボクの憧れたみんなのために! それは絶対に必要なことだったんだ!」

 

 感情のままに言い放ってから、乱れた呼吸を落ち着けるために大きく息を吸い込む。

 冷静になった頭に浮かんだのは、激しい後悔だった。──ああ、ボクはいったい何を言っているんだろう。

 

 しかし、ボクが声を荒らげる様子を見ても由比ヶ浜さんは動揺せず、静かに言葉を紡いだ。

 

「……私にはゆきのんが何を言っていて、具体的に何にこだわっているのか、よくわからない。ただ、ゆきのんが心からそう思っていることはすごく伝わってきたよ。──でもさ、ゆきのんは、ありのままでもいいんじゃないかな」

「……ありの、まま」

 

 そんなの、今更できっこない。そう言うのは簡単だったが、由比ヶ浜さんの真剣な表情を見ていると、それだけの言葉では不十分な気がした。

 

「……正直なところ、ボクにとってのありのままが、本心が、本物が、どんななのかなんて、ボクにも分からない。……こうありたいという理想は、外皮は、もうボクの一部になっていて、本当のボクがどんなだったのかなんて、もう分からない」

 

 本当の自分と取り繕った自分の境界線なんてものはあやふやで、ともすれば存在しないのかもしれない。はじまりから偽物だった私の本物なんて、どこにもないのかもしれない。

 でも。

 

「でも、由比ヶ浜さんがそう言うのなら、少しだけ、完璧にならんとしている私じゃなくて、凡人のボクも、出せたらいいな」

 

 ボクは、今できる精一杯の言葉を吐くと、無理やり笑った。不格好だっただろう。不安で頬は引きつったようにしか上がらなくて、唇は僅かに曲げただけ。ボクが鏡の前で練習した雪ノ下雪乃の笑みとは違う、ボク自身の笑み。

 

「……うん、待ってる!」

 

 由比ヶ浜さんは、ボクなんかよりもずっと素敵に笑った。

 その様子を見ていた比企谷君が、一瞬だけ満足そうに笑ったのが視界の端に見えた。

 

 

 

 

「……でも私、文実のことは良く分からないから、ゆきのんのこと上手く助けられないな。ああ、こんなことだったら、私も文実に入れば良かった」

 

 由比ヶ浜さんは、悔いるようにそう言った。相変わらず、どこまでも優しい女の子だ。

 

「ああ、それなら俺に考えがある」

 

 比企谷君は、思わせぶりに言うと、ニヒルに笑った。その表情は、とても彼らしくて、ボクは少しの間、呆然とそれを眺めていた。

 

 

 

「それでは委員会を始めます。議題は文化祭のスローガンについてです」

 

 結局ボクは、あの後もう一日学校を休んだ。本物の雪ノ下雪乃なら一日休んだところ、ボクは二日。凡人の限界というやつだったのだろう。でも、その事実に対してかつてほどの焦りは感じなかった。由比ヶ浜さんは、そして比企谷君はただのボクでも受け入れてくれた。その事実はボクの胸の中に希望として残り続けて、温かい気持ちにしてくれた。

 

 

 

 

「こんなのどうっすか? 『人~良く見たら片方楽してる文化祭~』」

「いやあ、人という字は、人と人が支え合ってできているとか言うけど、実際片方明らかに寄りかかってるじゃないですか。それがこの、犠牲の上に成り立っている文実の様子を端的に表してるんじゃないかなって思いまして」

 

 比企谷君の衝撃的な発言を受けて、会議の空気は凍り付いた。まるで悪役のように、皮肉気な笑みを浮かべてみせる彼。直接的に馬鹿にされた相模さんなどは、怒りで頬をひくひくとさせていた。

 

 けれど、その発言のおかげで私は文実を上手く動かすことができた。

 

「相模さん、今日の会議は解散にしましょう。どのみちこれからいい案が出るとはとても思えないもの。スローガンは、各自で考えてくることにすればいい。明日以降を全員参加にすれば、この遅れも取り戻せる。──異論は、ありませんね」

 

 比企谷君がヒールをしてくれたおかげで、私が文実の緩んだ空気を引き締めることができた。

 でも、比企谷君はこれで嫌われ者になってしまった。会議が終わり、席を立つ人々の口から次々と聞こえる、比企谷君を中傷する言葉。

 ……こうなると分かっていて止めなかったのだから、私はやはり嫌な人間だ。

 

 しかし、みんなに遠巻きに見られている比企谷君の元へと行く生徒の姿があった。城廻先輩だ。

 

「残念だな。君は、真面目な子だと思っていたから」

 

 いつものほんわかとした雰囲気はなりを潜めて、城廻先輩は本当に残念そうに比企谷君に言った。

 色々な言葉をぶつけられても平然としてた比企谷君は、この時だけは少し俯いていた。

 

 ……これくらいなら、許されるかな。

 

「城廻先輩、比企谷君は実行委員のことを思ってやってくれたんだと思います」

「……雪ノ下さん?」

 

 私の言葉を聞いた城廻先輩は、驚いたように、目を見開いた。

 

「今の空気のままでは、委員会がまともに機能することはなかったでしょう。でも、さっきの彼の発言で、それが変わりました。この集団の敵となった彼が、頑張っていない人のことを馬鹿にするのなら、みんなは仕事を頑張らないといけない。言ってみれば、彼は優れた指導者よりも集団を団結させるもの、明確な敵としての役割を全うしてくれたんです」

 

 現状ではあまり実感の湧かない言葉だろうが、城廻先輩は理解してくれただろうか。観察していると、やがて先輩は難しい顔をしながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「……それでも、今みたいなやり方はなかったんじゃないかなって思うよ」

「先輩──」

「でも、比企谷君が考えなしにあんなこと言ったんじゃないってことは、なんとなく分かった。……だから、さっきの私の言葉は、少し軽率だった。ごめん」

 

 城廻先輩はそう言うと、スタスタと会議室を出ていった。いつの間にか、会議室に残っているのは私と比企谷君だけになっていた。

 城廻先輩の背を目で追っていた比企谷君が、扉が閉まったのを確認して口を開く。

 

「……お前があんなこと言う必要なかったんだぞ」

「先輩のこと? あまり気にしなくていいのだけれど」

 

 視線を逸らす。虚空を見つめて、答えを返す。彼が私のしたことにあまりいい顔をしないことは、なんとなく分かっていた。でも、やった。

 

「憐れみや施しならいらないぞ」

「そんなものじゃないの。ただ、あなたには感謝しているから」

「感謝されることなんてない。あれは俺が勝手にやったことだ」

「いいえ。それでも、私は言うわ」

 

 虚空を漂わせていた視線を、比企谷君の黒い瞳へと向ける。彼の全てを見透かしてしまいそうな瞳を見つめていても、今は怖くなかった。

 

「──ボクを助けてくれて、ありがとう」

 



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少しだけ、雪ノ下雪乃はさらけ出す

ボク比率高め(当社比)


 文化祭という非日常に突入した学校は、いつになく賑やかだった。

 私はあたりを見渡して、廊下を行き交う少年少女を眺める。

 自分の教室の呼び込みをする生徒は、派手な色をした看板を持って、喧騒に負けないように声を張り上げている。

 お化け屋敷の前で楽し気に会話している女子生徒は、見慣れない高校の制服を着ていた。

 笑いながら廊下を歩いていく総武校生のカップルはあまりにも幸せそうで、比企谷君が見たら「リア充爆発しろ」とでも言いそうだ。

 

 こんな幸せそうな景色を見ると、ようやく自分が実行委員としての役割を全うできたという実感が湧いてくる。達成感と充足感で胸がいっぱいになる。辛かった日々は、この日この光景を見れただけで全部報われた気がしてくる。

 比企谷君も、こんな気分になっただろうか。

 

 ゆっくりとあたりを見渡していると、ふと目に留まる光景があった。喫茶店の出し物をしているクラスの前に、特徴的なアホ毛と気だるげに丸められた猫背を見つけた。

 自然、足はそちらに向いていた。

 

「周りは賑やかなのに、あなただけ葬式にでも来ているようね、陰気な比企谷君」

「ハッ。俺はいつも通りにしているだけだ。むしろ、学校行事一つで浮かれ切ってるやつらの方がおかしいんだよ」

 

 周囲を見渡して目を腐らせながら、彼は答える。

 けれどその態度の裏に、苦労して準備を進めた文化祭が無事に開催できたことへの喜びや安堵が隠れているようにも見えた。

 

「お前は仕事か?」

「ええ、見回りよ」

 

 文化祭という非日常に浮かれ切った生徒たちが何かトラブルを起こしていないか監視するのも、文実の重要な役目だ。

 まあ、自分のクラスでやっているファッションショーに顔を出したくないというのもある。クラスに戻ったら、まず間違いなく着せ替え人形にされる。

 

「あなたは記録の仕事、できているの?」

「ああ、まあボチボチな」

 

 比企谷君が首から下げているカメラを掲げる。腕にはめられた腕章には、「文実・記録」

 の文字があった。どうやら彼も仕事をこなしていたらしい。

 

 

 少しばかり、喧騒に溢れる廊下を二人並んで歩く。見回りという仕事上、教室一つ一つを観察して歩く私。その横で、なんとなしに文化祭の風景を眺めている比企谷君。

 会話はなかったが、彼の隣にいると、不思議と安心できた。

 

 きっと、あの日素のボクを見せることができたからだ。私は自分の心情を、そう分析した。

 雪ノ下雪乃としてではなく、ボク自身として接しても、受け入れてくれた奉仕部の二人。二人の前なら、この体に生を受けてからずっと付き纏っている、完璧にあらねばならぬという強迫観念めいたものが少しだけ和らいでいくような気がした。

 

「あのクラス、申請内容とやっていることが違うわね」

 

 ふと目に留まった光景は、とあるクラスの出し物だった。中から聞こえてくるのは、ゴトゴトという何かが走る音と、キャーキャーという楽しそうな叫び声だ。

 

「……ジェットコースターでもやってんのか?」

「申請内容通りなら、教室の中をゆっくり走るゴンドラで景色を見せるだけだったはず。……あの、代表者の方はいますか?」

 

 言いながら、私は不思議な既視感のようなものに囚われていた。こんな筋書きを、どこかで見たような……。

 

「やば、文実だ」

「どうする? とりあえず乗せちゃう?」

「乗せちゃえ乗せちゃえ!」

 

 私の言葉に動揺した生徒たちは、何事か話し合ったかと思うと、私の腕を掴み無理やりゴンドラに乗せようとしてきた。

 唐突に訪れた危機に、思わず助けを求めるように比企谷君の方を見てしまう。

 

「あっちも文実?」

「乗せちゃおう!」

 

 私が見たせいで文実だと気づかれた比企谷君も、腕を掴まれ教室の中へと誘導される。

 あれよあれよという間に、私と比企谷君は狭いゴンドラの中に乗せられてしまった。私の後から乗せられた比企谷君が、窮屈そうに私の近くに迫ってきた。

 

 ここまでくれば、私にも分かる。これは原作にもあったイベントだった。すっかり忘れていた。どうやら祭りの雰囲気にあてられて浮かれていたのは、私も同じだったらしい。

 

 私と比企谷君の押し込められたゴンドラが、大きな音を立てながら動き出す。

 ……それにしても。

 

「比企谷君、近いのだけれど!?」

「しょうがねえだろ、狭いんだから。ちょっと待て、動くから……」

「ひぁっ! どこ触ってんの!? ボク怒るよ!」

「……いや、すまん」

 

 比企谷君のひんやりとした手が素肌に触れて、思わず高い声が出てしまう。比企谷君が低い声で謝罪を口にした。

 なんとか体勢が整ったらしい比企谷君が動きを止める。冷静さを取り戻した私は、ゴンドラの揺れの中で彼を観察する。

 

 ゴトゴトというゴンドラの走る音は、私の鼓動の音に搔き消されていた。比企谷君の体がすぐ近くにあると、心臓がひどくうるさい。

 

 ──少し前までのボクならば、自分の心臓がドキドキと音を立てることに気持ち悪さを感じ、自分の気持ちを拒絶したのだろう。

 けれど、今のボクは違う。奉仕部の二人にボクを受け入れてもらえた今なら、このままでもいいか、なんて思えてしまった。

 

 正直、この胸の鼓動の正体がなんなのか、未だに良く分からない。恋情なのか、友情なのか、それとも主人公である彼への憧憬なのか、区別なんてつかない。

 でも、それでいいと思った。比企谷君や由比ヶ浜さんと一緒にいると、胸が少し温かくなる。今はその事実だけで十分だと思えた。

 

 覆い被さるようにして私の近くにいる比企谷君の体は驚くほどに大きくて、私の体が彼よりもずっと小さいことを思い知らされた。

 これだけ近づいて初めて、彼はこういう匂いをしているんだと気づいた。

 顔を上げればすぐそばに比企谷君の顔があって、ゴンドラが大きく揺れれば唇と唇が接触してしまいそうですらあった。

 

 ともすれば脱線でもしそうなほど不安定に揺れ続けるゴンドラの中で、私は比企谷君の顔を眺めて続けていた。

 

 

 ◇

 

 

 文化祭という名の祭りは終わり、後には思い出だけが残った。いや、俺の場合仕事が残ってたわ。文実最後の仕事、報告書が残っている。

 

 色々あった文化祭も無事終了を迎え、俺は夕陽の照らす特別棟の廊下を歩いていた。橙色に染まった廊下には誰もいない。その様はひどく寂し気で、少し前まで文化祭という非日常に彩られていたとはとても思えなかった。

 

 俺がこんな場所を歩いているのに大した理由はない。ただ、普段の俺には縁の遠い騒がしさに長時間囲まれていたせいで、静かな場所を求めていたのかもしれない。

 ボッチは普段人混みの中にいないので、周りに人のいる環境に身を置き続けると自分の居場所に帰りたくなるのだ。──だから、そこで彼女と会うのは必然だったのかもしれない。

 

 向かう先は、なんだか久しぶりに行く気がする奉仕部室だ。から、と扉を開くと、夕陽に照らされる美しい少女の姿があった。

 

「……あら、比企谷君。どうしたの?」

 

 何やら書類作業をしていた雪ノ下は、現れた俺に問いかけると小首をかしげた。きょとんとした顔が夕陽に照らされている姿があまりにも美しくて、俺は少し顔を逸らした。

 

「いやなに、文実の報告書できる場所探してたんだよ。お前がここ使ってるなら他探すわ」

「いいえ。私は構わないから、ここを使ったら?」

 

 いつになく毒のない様子の雪ノ下に、なんとなく断るのも気が引けた俺は、扉を閉め、いつも使っていた椅子に座った。

 

 机の上に報告書を広げ、記入を始める。その様子を目で追っていた雪ノ下が、いつになく柔らかな表情で話しかけてきた。

 

「何やってるの? ボクにも見せて」

「ッ! ゴホッゴホッ……」

 

 その言葉を聞いた瞬間、俺は動揺のあまり思いっきり咳き込んでしまった。

 

「どうしたの?」

 

 こてん、と首をかしげる雪ノ下。

 

「……いや、急にボクとか言いだしたから」

 

 少し前まで頑なに隠そうとしていたそれをあっさりと口に出したことに驚いた。

 言ってしまえばそれだけだった。しかし雪ノ下は俺の言葉を聞くと、少し不安そうな顔をして言った。

 

「えっと、素のボクは、嫌い?」

 

 恥ずかし気に俯いて、だけど視線は上目遣いにこちらを向いていた。頬を赤らめながら、雪ノ下は小首を掲げて聞いてきた。……かわいい。

 

「……」

 

 ……ハッ! あぶねええええ! 数秒意識が飛んでた。戸塚でボクっ娘耐性が付いてなかったら即死だった……。

 

「いや別に好きにすればいいんじゃねえの」

 

 口先ではなるべく興味なさげに言ったが、内心はそれどころではなかった。

 

 かわいい。めっちゃかわいい。何だあれズルだろ。普段すまし顔してるくせに急にそんな態度取られると勘違いしてしまうのでぜひやめて欲しい。俺の理性が危ない。

 

 俺のバクバクと音を立てる心臓の様子など知らないように、雪ノ下は言葉を紡ぐ。

 

「えっと、ボク由比ヶ浜さんに言われたこと色々考えたんだけど、せめて奉仕部室の中でくらい、このままでいようかなと思ったんだ。三人だけの時だけ、少しだけね」

 

 いつもよりも幼い、というか中性的な印象を与える話し方だった。俺に対して罵詈雑言を飛ばしてきていた彼女は、どこか行ってしまったようだった。

 

 そんな風に、普段とは比べ物にならないほど柔らかい印象の雪ノ下だったが、突然咳ばらいすると、急にいつものすました顔になった。

 

「ンンッ……そうだ、比企谷君。全校生徒の嫌われ者になったんですって? 気分はどう?」

「ああ、最高だな。人生でここまで注目浴びた事もなかったからな」

「そのポジティブさは私も見習いたいものね……」

 

 私、と自分を呼称した雪ノ下は、これ見よがしに深々と溜息を吐いた。その様子は、数か月で俺の見慣れた雪ノ下その人で、先ほどまでの柔らかい表情は嘘のようだった。

 

「……なんだ、『素のボク』はもう終わりか」

 

 揶揄うように言うと、雪ノ下は鋭い目線を俺に向けてきた。その威圧感は凄まじく、喉の奥で変な音が出た。

 

「誰がそんな恥ずかしいこと言うの? あなたの気持ち悪い妄想を垂れ流すのはやめてくれないかしら?」

「あっ、ハイ」

 

 あまりにも理不尽な物言いだったが、眼の圧に負けた俺は大人しく白旗を上げた。

 

「あんな恥ずかしいこと、そう長く続けられるわけないじゃない……」

 

 聞こえるか聞こえないかギリギリくらいの声量で、雪ノ下はぼそりと言った。

 

「でも、比企谷君のおかげで相模さんが責められることもなくなったわ。──本当に、誰でも救ってしまうのね」

「そんな大層なもんじゃねえよ」

 

 文実の準備段階から、実行委員長としての未熟さを晒していた相模。そんな彼女は、閉会式の前に発表するはずだった地域賞の集計結果と一緒に音信不通になってしまう始末。

 実行委員長としての責務を放棄し多方面に迷惑をかけた相模は、きっと本来なら責任を問われるはずだったのだろう。

 

「大きな間違いを犯した相模さんは、本来なら糾弾されるはずだった。けれど、戻ってきた彼女は比企谷君にひどい言葉を言われた被害者というポジションに収まっていた。これをあなたのおかげと言わず、なんと言うの」

「俺がそんなこと考えてなくて、ただ相模にムカついてただけだって言ったらどうする?」

「あなたがそんな無意味なことしないことくらい、私にはよく分かっている。──ボクがどれだけ君のことを見ていたと思っているの?」

 

 ふいに言われたその言葉に、心臓がドクンと跳ねる。見ていた、なんて言われてしまうと、変な期待を抱いてしまいそうだ。

 自分の顔の熱を誤魔化すように、俺は適当に言葉を吐きだす。

 

「ああ、あんなに的確に俺を罵倒してくるんだもんな。良く見てるよ」

「単にあなたが欠点だらけだから、いくらでも罵倒文句が思い浮かんでくるだけよ」

「悪いな、でも俺はこんな自分でも結構好きなんだ」

「ああ、それは私も──」

「やっはろー!」

 

 雪ノ下が何か言おうとした瞬間、元気の良い言葉を共に、奉仕部室のドアが勢いよく開かれた。廊下には、何やらテンションの高い由比ヶ浜の姿があった。

 

「文化祭お疲れ様! ってことで後夜祭、行こ!」

「行かない。で、後夜祭って何?」

「知らないで断ったの!? ねえゆきのん、行こうよお!」

 

 由比ヶ浜は今度は雪ノ下の方に向き直ると、駄々をこねるように懇願しだした。

 

「私のように交友関係の狭い人間が行っても気を遣わせるだけよ」

「ええー。……あ! ゆきのん、部室では私禁止って言わなかった!?」

 

 由比ヶ浜は、突然謎のルールを言い出した、しかし雪ノ下の方には覚えがあったのか、少し顔を逸らした。

 

「知らない話ね。由比ヶ浜さんの思い違いじゃない?」

「言ったよ! ゆきのん最後は認めたじゃん!」

「そいつ、さっきまでボク口調だったぞ」

 

 由比ヶ浜に真実を告げると、由比ヶ浜の大きな目が、さらに大きく見開かれた。

 

「どういうことゆきのん!? ヒッキーの前だけでは素の自分を見せるってこと? ずるいよゆきのん! 私にも可愛い姿を見せてよ!」

「……暑い」

 

 ハイテンションに言い切った由比ヶ浜は、雪ノ下にぴったりとくっつくと、ずるいずるいずるい、と念仏のように唱え始めた。

 

 斜陽に照らされた部室は、穏やかな温かさを保ち続けていた。

 



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未だに、雪ノ下雪乃は囚われている

原作読み返してて、金閣寺のことを鹿苑寺とか言っちゃうのゆきのんらしいなと思いました



 文化祭という大きなイベントを越えた奉仕部には、穏やかで居心地の良い空気が流れていた。放課後に三人で部室に集まって、来るかも分からない相談者をのんべんだらりと待ち続けている。

 部活動と言うには、少し穏やかすぎる日々。けれど私にとってそれはかけがえのない日々だった。

 

 

 湯沸かしポットがポコポコと音を立てているのに気づいた私は、雑誌を脇に置き、紅茶を入れる準備に取り掛かる。それに目ざとく気づいた由比ヶ浜さんが、無邪気に喜び出した。

 

「やった、おかしだ!」

 

 紅茶を入れるのにももう慣れたもので、てきぱきとした動作で三人分の紅茶を入れる。少し寒くなってきた部室に、紅茶の湯気が三つ分立ち昇った。

 二人の前にカップを置き、由比ヶ浜さんが持ち込んだ茶菓子をテーブルの真ん中に置く。こうして、私たちの放課後ティータイムの準備が整った。

 

「ありがとーゆきのん」

「……サンキュ」

 

 二人からの感謝の言葉に、軽く頷いて答える。それだけで、私の胸は少しだけ温かくなった気がした。

 乾杯の音頭があるわけでもないのに、なんとなく三人同時に紅茶に口を付ける。温かい液体が喉を通って、少し冷えた体にほんのりと温かさが染みた。

 

「もうすぐ修学旅行だねー。どこ行くとかもう決めた?」

 

 由比ヶ浜さんの元気な声に、私は先ほどまで読んでいた観光雑誌の内容を思い出した。

 私たちの修学旅行の行き先は京都に決定している。西の古都は魅力でいっぱいだ。由緒ある神社仏閣に、歴史の重みのある観光名所など、見るべき場所はたくさんある。

 

 少し早口に、私は話し始めた。

 

「そうね、ベタだけど鹿苑寺は外せないんじゃないかしら。それから、慈照寺。ああ、竜安寺の枯山水は是非とも一度は見ておきたいものね。それから、来年私たちも受験生なことを考えると、北野天満宮もぜひ行っておきたいところね。……由比ヶ浜さんも行ってみるといいわ」

「へえ、どうして?」

「学問の神様を祀っているところだからよ。由比ヶ浜さんには特に必要でしょ?」

「……あれ、いま馬鹿だって言われた!?」

「気のせいじゃないかしら」

 

 いつものようなやり取りをすると、比企谷君にジトッとした目を向けられた。その淀んだ目は、「うわっ、コイツ性格悪っ!」などと思っていそうだ。

 

「シスコンの比企谷君も行っておきたいんじゃない? 妹さん、受験生でしょ?」

「そうだが……お前、俺の妹のことまで良く把握してるな」

「……たまたまよ」

 

 比企谷家のことなら良く知ってるよ。何回も原作を読み直したからね。なんて言えなかった。

 変に怪しまれただろうか、と少し比企谷君を観察していたが、そこまで気にしている様子もなかった。「ふーん、流石ユキペディアさん」などと呟いて、彼は紅茶を啜った。

 

 その顔を眺めていると、なんとなく修学旅行でのイベントを思い出した。

 

「修学旅行、か……」

「どうしたのゆきのん、なんか心配ごと?」

「……いいえ。ただ友達のいない比企谷君にはつらいイベントだろうな、と少し憐れに思っただけよ」

 

 思わず口から出た言葉を、適当に誤魔化す。

 私の適当な言葉に目を濁らせた比企谷君は、反撃を試みてきた。

 

「クラスに友達がいないのはお前も一緒だろ」

「私に友達がいないのはその通りだけど、誘ってくれるクラスメイトはいるもの。名前すら覚えられていない比企谷君とは一緒にしないで欲しいものね」

「俺がクラスメイトに名前を覚えられていないことすら把握してんのかよ……」

「……」

 

 しまった。またボロが出た。これではまるで、私が比企谷君に興味津々のようではないか。

 

「……ていうかゆきのん、あれから全然ボク口調で話してくれないよね。部室ではありのままでいてくれるんじゃなかったの?」

 

 突然痛いところを突かれた私は、真っすぐにこちらを見てくる由比ヶ浜さんからそっと目を逸らした。けれど彼女の視線は、ずっと私の顔を見たままだった。

 無言で見つめられる時間が数秒流れ、比企谷君がポリポリと茶菓子を食べる音が嫌に大きく聞こえた。

 

「分かったよ。ボクの負け。……これでいい?」

「うん!」

 

 そんなに満足そうな顔で言われたら、ボクも恥ずかしさを我慢するしかないじゃないか。

 ずっとやり取りを黙って眺めていた比企谷君が、少し口角を上げながら声をかけてくる。

 

「相変わらず、由比ヶ浜に弱いな」

「仕方ないじゃない……じゃん。笑顔の由比ヶ浜さんには、わた……ボクは逆らえないんだよ」

 

 つっかえつっかえに話すボクを、比企谷君はずっと口角を上げたままで眺めていた。……非常に腹が立つ表情だった。

 

「比企谷君、文化祭でゴンドラに乗った時にボクにしたこと、ここで打ち明けていいの?」

 

 ゴンドラの窮屈さによる事故であることは分かっているが、それでもボクの体を触ったことは重罪だ。今からでも通報も辞さない。

 

「……いやあれはほんと不可抗力だったんだよ。悪かったから許してください」

「フンッ、分かったんならボクを揶揄おうなんて二度と思わないことだね」

「……ボク口調のゆきのんと話してるヒッキー、いつもちょっとにやけてるよね」

 

 ボクたちのやり取りを見ていた由比ヶ浜さんが、ポツリと呟いた。その言葉を聞いた比企谷君が、目に見えて動揺する。

 

「いや、それはいつも毒舌がムカつく雪ノ下が弱った様子なのが面白いだけであって、決して不埒な感情があるわけじゃないんだが」

「ふーん」

 

 由比ヶ浜さんの細められた目が、比企谷君の狼狽する様子をじっと見つめていた。

 先ほどまで強気だった比企谷君が由比ヶ浜さんのジトッとした視線に怯えている様子を眺めながら、私は紅茶を飲む。うん、うろたえる比企谷君を眺めながら飲むと美味しい。

 紅茶を味わっていると、ふと思い出すことがあった。

 

「そうだ。二人とも、良かったら修学旅行三日目の自由行動、一緒にまわらない?」

「もちろんいいよ! ゆきのんからそれ言ってくれるの、嬉しいな」

 

 由比ヶ浜さんが、心底嬉しそうに微笑む。相変わらず、表情の一つ一つが魅力的な女の子だ。

 

「ヒッキーも、いいよね?」

「……まあ、いいんじゃねえの」

 

 渋々といった体で、比企谷君が肯定する。

 

「比企谷君は由比ヶ浜さんと一緒にまわれるのが嬉しいのに、つい不愛想な態度取っちゃうんだよね。しょうがないね。男子高校生だもんね」

 

 ボクがうんうんと頷くと、比企谷君が抗議するように腐った目をこちらに向けてきた。

 

「そうなの? ……照れるなぁ」

 

 由比ヶ浜さんが少し顔を赤くして言う。可愛い。

 

 

 ボクが続けて、三人で行く場所について検討を始めようとした時だった。

 

 部室のドアが三回ほどノックされた。その音を聞いた瞬間、ボクは一瞬で仮面を、外皮を被り、雪ノ下雪乃に戻っていた。

 

「どうぞ」

 

 私の声に反応して部室に入ってきたのは、戸部君をはじめとする、葉山君のグループだった。──ああ、やはり来るのか。

 

 

 

 

「何かご用かしら?」

 

 問いかけると、部室をじろじろと眺めていた彼らはこちらに向き直り、事情の説明を始めた。

 

 

 戸部君が同じグループの海老名さんに告白したいので、それを手伝ってほしい。

 

 だいたい要約すればそんな話だった。そんな単純な依頼を話すまでに、信用できない比企谷君には話せないとか余計なことを口走ったりとか、話す話さないで躊躇したりだとか無駄な時間があったが、まあ私の知る通りに歴史は動いた。

 

「……でも、部外者である私たちではお役に立てないと思うのだけれど」

「いやー、そこを何とかさ。雪ノ下さん、オナシャス!」

 

 軽い口調で、だけど真剣な目をして、戸部君はお願いしてきた。

 

「ねぇねぇゆきのん、手伝ってあげようよ。結構真剣みたいだしさ」

 

 由比ヶ浜さんが同調してお願いしてくるのを横目に確認しながら、私は腕を組み、考えを巡らした。

 

 正直、気は乗らない。だってこの依頼を受けてしまえば、原作通りになってしまうかもしれない。

 比企谷君の嘘告白。そして、そのやり方を否定する奉仕部の二人の拒絶。居心地の良い関係を築いてきた三人の間には、大きな溝ができることになる。

 たとえ私が比企谷君を拒絶しなくたって、由比ヶ浜さんはきっといい顔をしないだろう。

 

 ──それに、何よりも私は、今の奉仕部の関係が崩れるのが嫌だ。

 三人でなんとなく部室に集まって、なんでもないような時間を一緒に過ごす居心地の良い空間がなくなってしまうかもしれない。そんなの、嫌だ。

 

 最初は義務感だけだった。奉仕部を設立したのも、原作通りにするため。比企谷君を受け入れたのも、主人公だから。由比ヶ浜さんと仲良くなったのも、原作通りにするため。そのはずだった。

 

 いつの間にか二人は私の、いや、ボクの深いところまで入ってきていて、今ではボクにとってかけがえのない人になってしまった。

 だからこの関係を、失いたくない。比企谷君の成長のためだとか、三人が乗り越えるべきターニングポイントであるとか、もはやどうでもいい。そう思えてしまうほど、ボクは今の関係が好きだった。

 

 

 しかし現実は、私の思いなんて知らないように時を進める。

 

「──ゆきのん、手伝ってあげようよ」

 

 先ほどまでとは違い、真剣な様子の由比ヶ浜さん。私は知っている。こんな顔をした由比ヶ浜さんは、簡単には引かないこと。諦めないこと。

 

 自分の中の懸念と、由比ヶ浜さんの真剣な目。その板挟みにあった私は、思わず、比企谷君の様子を確認してしまった。

 

 彼は、何も言わずただ私の言葉を待っていた。

 ──その黒々とした瞳は、私が雪ノ下雪乃らしくあるかどうか見張っているようだ。そう、思えてしまった。

 

 

「……仕方がないわね。そこまで言うならその依頼、少し考えてみましょうか」

 

 結局のところ、私は由比ヶ浜さんの頼み、戸部君の依頼を受けることにした。原作の流れから逸れるのが嫌だった、というのが一つ。それから、由比ヶ浜さんの真剣な瞳にほだされたのが一つ。

 最後に、私の被害妄想が一つ、だろうか。

 

 ああ全く、ありのままにいるということは、なんて難しいのだろうか。

 



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どう見ても、海老名姫菜は腐っている

今回の主人公は海老名さんです


 テーブルの上には、京都観光について取り上げられている雑誌などが大量に広げられていた。紙面に印刷された色とりどりの写真を一つ一つ指さしながら、私たちは観光コースについて検討していた。

 

「見て見て、石清水八幡宮だって! ヒッキーの名前みたいな神社があるよ!」

「由来的には同じだろうな。八幡大菩薩ってのは武の神様で、清和源氏なんかにも信仰されていたらしい」

「菩薩? アッハハ、ヒッキーには似合わないね!」

「は? 俺めちゃくちゃ菩薩だろ。優しいし、慈悲深いし」

「あなたのどこが慈悲深くて優しいの……?」

 

「うーん、こっちなんかいいんじゃない? 恋占いの石! 目を瞑って離れた石のところまで辿り着けたら、恋が成就するんだって!」

「俗っぽいけれど、悪くないわね。候補に加えておきましょうか」

「いいんじゃねえの。ほどほどに馬鹿っぽい」

「ヒッキー言い方!」

 

 ついに修学旅行前日だ。戸部君の告白を成功させるための話し合いもそれなりに深まってきた。私の手元のメモ用紙には、戸部君と海老名さんのデートプランについてぎっちりと書き込みがされていた。

 

 ワイワイと、賑やかに話し合いを続けていた部室。しかし、ふと会話が途切れた瞬間、ドアを控えめにノックする音が聞こえてきた。

 ──その音に、私は言いようのない不安を覚えた。

 

「どうぞ」

「失礼します」

 

 私が声をかけると、ドアがゆっくりと開く。

 入ってきたのは、海老名さんだった。奥ゆかしい印象を受ける整った顔立ちに、赤色のフレームの眼鏡。

 その瞳の奥に、見つめていると不安になるような冷たい光が灯っているように見えるのは、私が彼女について既に知識を持っているからだろうか。

 

「奉仕部のみなさん、はろはろー」

「夏休みのキャンプ以来ね。そこの席にどうぞ」

 

 明るい感じで挨拶をした彼女に、相談者用の席に座るように促す。

 

「へえ、ここが奉仕部かぁ」

 

 使われていない椅子や、テーブルの上に広げられた雑誌を眺めながら、彼女は席についた。眼鏡のフレーム越しに、彼女と目が合う。

 

「その、実は相談があるんだけどさ」

 

 腰かけた彼女は、早速といったように本題を切り出した。

 

「実はその、とべっちのことなんだけどさ」

「ととと、とべっち!? どうしたの? 何かあった!?」

 

 つい先ほどまで彼女とくっつけようと画策していた人物の名前をあげられ由比ヶ浜さんが、目に見えて動揺する。

 

「その、とべっち、さ……」

「とべっちが!?」

 

 頬を赤らめて、おずおずと言葉を紡ぐ海老名さんの様子に、由比ヶ浜さんがぐい、と身を乗り出す。比企谷君がまさか、というように身を乗り出す。もしかして、戸部の恋は叶うのか、と。

 

 満を持して、海老名さんは言い放った。

 

「とべっち、最近、葉山君とヒキタニ君と仲良すぎてヤバい! 三人の密すぎる関係性に大岡君と大和君のジェラシーがもうフルマックスで、三角関係通り越して五角関係だよ!」

 

 だよ……だよ……だよ……。

 海老名さんの渾身の叫びは、放課後の特別棟に良く響いた。廊下に反響する声が良く聞こえるほどに、部室には恐ろしいほどの沈黙が訪れていた。

 

 生で聞くと想像以上だった海老名さんの慟哭に気圧された私は、やや遅れて問いかける。

 

「ええと……つまり何が言いたいのかしら……?」

 

 私が追及すると、虚空を見つめていた海老名さんの首がぐりんと回り、こちらを向いた。眼鏡の奥の瞳には、サバンナの猛獣の如き危険な光が爛々と輝いていて、私は辛うじて悲鳴を押し殺した。

 

「雪ノ下さんも興味あるの? あるよね? あるってことだよね! やっぱり今までのヒキタニ君はヘタレ受けだったから自分から行く、ってのはなかったんだけど、最近のグループ分けの時も、なんていうかヒキタニ君から誘ってるっていうか? 誘い受けっていうか? 私的に新しい境地を開いてしまった比企谷君に興味津々っていうか……」

「やめろ。やめてくれ……」

 

 比企谷君が呻くように海老名さんを制止した。懇願した、と言ったほうが良かったかもしれない。その目の濁り具合は、私が今まで見た中でも一番のものだった。

 

 命乞いのような懇願が通じたのか、悪魔にでも憑かれたかのように妄想を口から垂れ流していた海老名さんは、落ち着いた印象を受ける話し方に戻ってくれた。

 

「まあともかく、最近戸部君とか葉山君が、どうにも大岡君や大和君と距離できちゃってるのかなあ、って思ってさ」

「なるほど。つまりあなたは、男子たちの関係性が変わってきていることが気になると?」

「男子たちの関係性……。雪ノ下さん、中々妄想を膨らませるようなワードセンスしてるね。今度そのタイトルで一緒にBL本作らない?」

 

 海老名さんは私の言葉に謎の反応を示すと、深淵の底からこちらに手を差し伸べてきた。

 

「私何かおかしいこと言ったかしら……」

「安心しろ雪ノ下。おかしいのはあっちだ。お前は間違ってない」

「あっはは。姫菜、いつもこんな感じだから……」

 

 一向に話が進まない……。

 

「けっきょくあなたは、何が言いたいのかしら?」

「なんていうか、今までと違うのは嫌だなっていうかさ。──今まで通り、みんな仲良くやりたいなってさ」

 

 その言葉に、裏の真意が垣間見えてしまうのは、きっと私だけじゃないだろう。チラと比企谷君の様子を見る。彼は、何か考えているような様子だった。

 ──やはり、気づいてしまうのだろうか。叶えてしまうのだろうか。彼女の望みを。

 

「まあそういうわけで、修学旅行でも美味しいの期待してるよってこと。雪ノ下さん、お邪魔しま……」

 

 私の顔をじっと見た海老名さんは、突然ピタリと動きを止めた。原作知識にない海老名さんの反応に、私は困惑する。

 

「どうかした?」

 

 眼鏡が部屋の照明を反射して、海老名さんがどんな目をしているのか私には窺い知れなかった。

 彼女が突然言葉を区切って数秒、部室には沈黙が流れた。彼女が今度は何を言い出すのか、恐る恐ると待つ三人。

 海老名さんは、眼鏡の向こう側から私の顔をじっと見つめているようだった。

 

 ただならぬ様子に、私は突然ある可能性が思い浮かんだ。

 

 聡明な彼女は、今の私に、偽物の私に違和感を覚えたのではないか。

 

 根拠のない発想だった。けれどそれは、私が最も恐れていることだった。姉さんが突然私を疑い出したあの時のように、底の知れない彼女が、あっさりと私の正体を見抜いてしまうのではないか。

 私の内から湧き出た恐怖に、全身が冷えるような感覚に襲われる。どれだけ小さな可能性であろうと、私は自分を暴き立てられるのではないかという恐怖に、全身を震わせるしかなかった。

 

 固唾を呑んで見守る私に、海老名さんはゆっくりと口を開く。

 

「雪ノ下さんさ……」

「何かしら……?」

 

 静かな声に、恐る恐る言葉を返す。

 やがて、光レンズの奥の目が露になる。その瞳は──キラッキラと輝いていた。

 

「女装した男の子だったりしないかな!?」

「……は?」

 

 何を言われたのか理解できなかった。比企谷君の心底理解できないというような言葉を皮切りに、海老名さんは畳みかけるように言い募った。

 

「やっぱり雪ノ下さんを見てると私のBLセンサーがびんびんに反応してるんだよね! いや、故障かな、私も耄碌したかなとか思ってたんだけどさ、やっぱり反応してるんだよね! 比企谷君との禁断の恋の予感って言えばいいのかな? 一回そう思ったらもう妄想が止まらなくってさ!」

「あの」

「女子だらけのクラスに、訳あって女装して潜入した男の娘がさ、学校でも有数の美少女として知られちゃったりして、それで男子たちに言い寄られるんだけどやっぱり同性だからそういうのが嫌で、うっとおしくて、人を遠ざけるようになるわけ!」

「いや」

「それで部室に籠って本ばっかり読んでいて、『ボクの青春なんてこんなものか』なんて諦めたように溜息を吐く日々を過ごすんだけど、ある日入部してきたヒキタニ君は、雪ノ下さんの男とは思えない美貌に全然動揺しないわけ。それにちょっとムッとした雪ノ下さんはさりげなく誘惑してみたりとかするんだけど、ヒキタニ君は目を腐らせるばかりで全然反応してくれないの! ムキになって誘惑しているうちに気づいたら本気になっちゃってる自分がいて、雪ノ下さんは動揺する。男同士なのにこんな感情持っちゃっていいのかな、とか悶々としてる時に、結衣が入部してきて、状況は一変するの。結衣の女の子らしい魅力にヒキタニ君が惹かれているのを見て雪ノ下さんは──」

「──海老名さん」

「はい」

 

 私の目を直視した海老名さんは、ピタリと口を閉じた。

 

「趣味というのは気の合う者同士で楽しむものであって、他人に押し付けるものではないと思うの。違う?」

「イイエ、違わないです」

「分かっているのなら、私の前でその妄言を垂れ流すのは止めなさい?」

「ハイ」

 

 引き攣った顔で、海老名さんは返事をした。

 

「んんっ……。では、失礼しました」

 

 気を取り直したように言うと、海老名さんは背を向けて、部室を後にした。

 

「じゃあヒキタニ君、よろしくね」

 

 最後に、一言残して。

 比企谷君は、最後の言葉の意味を考えているようだった。

 

 



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いつでも、平塚静は彼らを見ている

 翌日、修学旅行はつつがなく決行された。行先は京都。歴史ある神社仏閣の並ぶ観光地だ。

 朝早くに起きて東京駅に集合した総武高校の二年生たちは、ワクワクとした表情で新幹線に乗り込み、非日常へと旅立った。

 

 新幹線には、クラスごとに固まって乗った。高校生が一緒に乗るわけだから、当然車内はすぐに話し声でいっぱいになった。

 

 今頃、F組の面々の乗る車両では比企谷君が隣に座る戸塚君にドギマギしたり、車窓から見える富士山にはしゃぐ由比ヶ浜さんに接近されてドキドキしていることだろう。

 元男子高校生として、羨ましい限りである。あれでリア充爆発しろとか言ってたんだから、本当爆発してくれって感じだ。

 

 私は小さく溜息を吐くと、座席に座り直した。窓際に座る私の隣の座席は空席だった。きっと隣人は、仲の良い友人とおしゃべりに出掛けたのだろう。

 

 背もたれに身を預け、目を閉じる。クラスメイトの控えめな話し声と新幹線の走行音をBGMにして、私は思考することに集中し始めた。

 

 私はこの修学旅行でどうするべきか。

 比企谷君に、偽告白をさせないのか、それとも私の知る原作通りに進めさせるべきなのか。

 ずっと考えていたことだったが、答えは出なかった。

 

 私個人としては、比企谷君に偽告白による問題の解消なんてしてほしくない。今の奉仕部に、亀裂を生んでほしくない。

 

 けれど、私が比企谷君の行動を阻止する、というのも、簡単にやっていいことではない気がするのだ。紙面から読み取った私にはよくわかる。あれはきっと、色々な人の複雑な想いが交錯した結果だったのだ。

 比企谷君が問題を解消しなければ、戸部君と海老名さんの関係はどうなる。葉山君のグループの雰囲気が悪くなってしまうかもしれない。

 ──いいや、私が本当に恐れているのは、そんなことではない。

 

 比企谷君が挫折を経験しなければ、私の知るように物語は進まないかもしれない。ハッピーエンドが遠ざかるかもしれない。

 私の不安とは、要約すればそんな身勝手な懸念だった。

 

 私が勝手な行動をしたせいで、誰かが不幸になるのではないか。そんな思いがよぎってしまい、私はどうしても決断を下せずにいた。

 

 答えの出ない無益な思考を断ち切った私は、なんとなしに空を見た。修学旅行初日の空は、嫌になるほどに快晴だった。

 

 

 

 

 京都駅に到着し、いざ観光と意気込んだ私を迎えたのは、清水寺の凄まじい人混みだった。

 クラス全員で本堂まで続く列に並ぶが、私はすぐに人の多さに嫌気がさしてしまった。

 人気スポットだけあって、清水寺前は平日にもかかわらず長蛇の列で、本堂まで辿り着ける気配が全くない。待ち時間に楽しげに話すクラスメイトを横に、私は寒さに身を震わせていた。

 

 ようやく本堂に入る頃には、虚弱気味な私はすっかり人混みに疲弊していた。

 

 クラスメイトに誘われて、欄干で集合写真を一枚。疲労のせいで、表情はあまり取り繕えなかった。

 その様子を心配したクラスメイトに促されて、私は境内の建物に背中を預けて一息ついていた。

 心配して付いてきてくれたクラスメイトには、観光を楽しんでくるように言って先に行ってもらった。今頃、恋占いの石あたりにでも行っただろうか。

 視界の先には、石の周辺の人だかり。見ているだけでもうんざりしてきそうだ。

 

「どうして行列なんてものが存在するのかしら……。人類の中で戦争の次に不必要なものね……」

 

 独り言が口をついて出てしまった。ふと、顔を上げる。境内の端からは、観光地のワイワイという賑わいが良く見えた。

 ふと寒さを感じた私は、そっと肩を抱いた。

 

「独り言も、答えてくれる人がいないと虚しいものね」

 

 また、独り言を一つ。言葉は誰にも聞かれることはなく、晩秋の寒空に溶けていった。

 

 

 その後も罰か何かかと思う程歩かされた。銀閣が素晴らしいのは分かったが、私の体力の無さから、観光を全力で楽しむような気力は湧かなかった。

 何かとハイスペックな雪ノ下雪乃ボディだが、こういう体力の必要な場面では不便極まりない。私自身あまり外出しないのもあるが、それにしても疲労がひどい。

 

 夕方にホテルに着いてからは、体を休めることに徹していた。夕食を取り、風呂に入った頃、ようやく体力が回復し、気力も湧いてきた。

 元気が少しだけ戻ってくると、少しやりたいことも思いつくものだ。私はホテルの売店を覗くために、ロビーに下りていた。

 

「……あった。パンさん京都モデル……!」

 

 手を伸ばして、ふと視線を感じた。あたりを見渡す。人気のないロビーには、何やら目を濁らせた少年が一人立っていた。

 

「……おう」

 

 私はパンさんに伸ばしていた手をそっと伸ばして、彼をじっと見つめた。

 少しの静寂。遠くで、総武生らしき騒ぎ声が聞こえた。

 比企谷君が沈黙の間に居心地悪そうに身じろぎするのをゆっくりと見届けてから、私は口を開いた。

 

「あら比企谷君、奇遇ね」

「いやいや。恥ずかしい場面をなかったことにすんなよ。バッチリ見てたわ」

「何のこと? 私の人生に恥じるべき点なんて何一つないのだけれど」

「相変わらずの自信過剰だな……」

 

 呆れたように反応を返してくれる比企谷君。その様子がなんだかひどく懐かしい気がして、私は口角が上がりそうになっていることを自覚した。

 

「わざわざこんな時間に下りてきて、どうしたの?」

「罰ゲームだよ。飲み物買ってこいってよ」

「なるほど、つかいっぱしりね。似合ってるわよ」

「ほっとけ」

 

 僅かに視線を背けてぶっきらぼうに言い放った比企谷君は、それっきり何も言わなかった。

 少しの間、互いに話題を探すような間があった。けれどその沈黙は居心地の悪いものではなくて、彼と共有するのならこんな時間も悪くないと思えた。

 

 ふと、頭に浮かぶことがあった。戸部君の告白の件だ。

 

「戸部君と海老名さんは順調?」

「ぼちぼちだ。あんま普段の様子と変わんないっちゃ変わんないな。まあ、まだ初日だしな」

 

 気だるげに、彼は報告してくれた。

 

「ちゃんと手伝ってあげた?」

「ああ。まあ学校外つっても同じメンバーとずっと一緒にいるからな。正直いい雰囲気になるってのは難しいんじゃねえか」

「それもそうね」

 

 きっとまだ彼は、嘘の告白をして戸部君の告白を止める、なんてこと思いついていない。──今ならまだ、彼を止められる。そう思って、私は恐る恐る、口を開いた。

 

「比企谷君──」

「何だ二人とも、こんなところでどうしたんだ」

 

 少しだけ小さくなった私の声は、突然現れた平塚先生の声に遮られた。

 

「いえ、飲み物を買いに。先生こそどうしたんですか。サングラスなんかつけて」

 

 比企谷君の問いに、平塚先生は少し恥じらうように頬を赤らめて小さく呟いた。

 

「その……これからラーメンを食べに……」

 

 言い方は乙女なのに、言ってることは漢だ……。

 

「……いや、二人ならちょうどいいか。付いて来い。口止めに、ラーメンくらい奢ってやろう」

「まあ俺はいいですけど」

「生徒に賄賂を贈る姿勢が正しいのかは疑問ですが……私も行きます」

「ほお、雪ノ下があっさり了承するとは思わなかったな」

「せっかくの旅なんですから、新しい体験もしたいじゃないですか」

 

 実際は、昼間は人混みに疲れて観光を満足にできなかったので、少しだけどこか行きたい気分だったのだ。

 何よりも、ラーメンだ。元男子高校生としては、やはり気になる。

 家の近場のラーメン屋には人の目が気になっていけなかったが、平塚先生に連れていかれるなら、まあ大丈夫だろう。

 

「雪ノ下は寒いだろう。これを着るといい」

 

 平塚先生はバサッとコートを私に投げてよこすと、颯爽とタクシー乗り場へと歩んでいった。

 ……かっこいい。

 私と比企谷君は、慌てて平塚先生の頼もしい背中を追う。

 

「俺も寒いんすけど」

「比企谷は少し我慢だ。冷え切った体で食うラーメンは最高だぞ」

 

 こうして、私たちは夜の京都へと繰り出すことになった。

 

 タクシーに乗って数分。私たちは、「天下一品」とでかでかと書かれたラーメン屋に到着した。

 

「行くぞ」

 

 店内にはそれなりに空きがあった。カウンターに、三人並んで座る。

 

「こってりで」

「俺もこってり」

 

 慣れた様子で注文した二人が、こちらを見てくる。慌てて、私も注文しようとしたが、ふと迷ってしまう。……この体、夕食後のラーメンなんて入るだろうか。

 

「……雪ノ下は取り皿でももらって少し麺を分けてやろう。どうだ?」

「……そうですね。お願いします」

 

 平塚先生の提案にありがたく乗らせてもらう。

 全く、ラーメン一杯も気軽に食べられないなんて、不便な体だ。

 

 

 汁につかないように髪を抑えて、どんぶりから掬い上げた麺を頬張り、一気に啜る。少し硬い麵の食感。油たっぷりの汁に良く合う。

 なかなかに美味しい。私も一杯頼むべきだっただろうか。

 

 内心感動しながら湯気の立つラーメンを無言で啜っていると、平塚先生が話かけてきた。

 

「雪ノ下は修学旅行を楽しめているか?」

「初日は人混みにあてられてしまいましたね。でも清水の舞台は見れたので、そこは満足しています」

「そうかそうか。それならいいんだ」

 

 満足げに頷くと、平塚先生は豪快に麺を啜った。その声音は優しくて、なんだか聞いているだけで安心できるような気がした。

 そんな頼もしい大人の横顔を眺めていると、不思議と言葉が転がり出てきた。

 

「──平塚先生」

「んん……なんだ?」

 

 応じる声は、いつもより少し柔らかい。

 

「──自分の行動で誰かが不幸になるかもしれないとして、それでも自分の考えを押し通すことは正しいと思いますか?」

 

 漠然とした問いにも、こちらに向き直った先生は真摯な顔で聞いてくれた。

 

「ふむ、具体的には?」

「はっきりとは言えませんが。……私は自分の幸福のために、ある行動を起こしたい。いや、あることを止めたいんです。でもそれは、他の誰かを不幸にするかもしれなくて。私のエゴを押し通すことは、正しいことなんでしょうか」

 

 私の曖昧模糊とした言葉を聞いた平塚先生は、箸をおき腕を組んだ。

 

「状況にもよる、と言うのは簡単だな。……そうだな、事情を良く知らない私から言えるのは、問題の解決方法が常に二者択一だと思わないことだ」

 

 平塚先生は二本指を立てて、言葉を続けた。

 

「君は、君が行動を起こすか、起こさないかの二択しか存在しないと思い込んでいるんじゃないか? 人間関係には、いつだって複数人の想いが交錯するものだよ。──君の行動だけで物事が動くと思わないことだ」

「それ、は……」

「周りの人間をよく観察して、本当に自分にはその二択しかないのか良く考えてみたまえ。人間関係というものは学校の試験とは違って選択肢があるわけでもないし、もっと言えばはっきりとした正解なんてないんだよ。私には、今の君は少し焦って、視野が狭くなっているように見えたよ」

 

 落ち着いた様子で言い切ると、平塚先生は話はここまでだ、というようにラーメンを啜った。

 先生の言葉を反芻する。選択が二つに一つだと思うな。視野を広く持て。──焦るな。

 

「……そう、ですね」

 

 静かに呟いたが、平塚先生はもうこちらを見なかった。

 

 

 やがて、私の中で結論が固まってきた頃、私たちは店を出た。

 




平塚先生の、アドバイスはするけど最後の決断は生徒にゆだねる姿勢、好きです


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唐突に、彼女は「ボクたちの将来の話」を始める

「では、私はコンビニで酒盛り用の酒を買ってくる。気を付けて帰りたまえよ」

 

 ラーメン屋を出て開口一番、平塚先生は言い放った。

 ……カッコよかった先生はどこに行ってしまったのだろうか。教師としてそれでいいのか、などと思っていたら、あっという間に先生は夜の闇に消えていった。

 

「じゃあ、帰るか」

「ええ」

 

 短く言葉を交わすと、二人で歩き出す。私はゆっくりと歩く比企谷君の数歩後ろを歩く。

 

 晩秋の冷たい風が頬を撫でたので、私は平塚先生のコートを首元まで引き上げた。薄着の比企谷君は寒そうだな、なんて眺めていたら、私はふと気づいた。

 

 静かな夜の道を、比企谷君と二人っきりで歩いている。

 そのことを意識するとなんとなく気まずくなった私は、少し足を早めて、横にいる彼に話しかけた。

 

「美味しかったね、ラーメン」

「ああ」

「でもボクはもうお腹いっぱいだよ」

「ッ……ゴホッゴホッ! まあ、晩飯後だったからな」

「何動揺してんの?」

 

 ボクがジトッと見つめると、比企谷君は少し顔を逸らした。

 

「いや、急に別人かってくらい話し方変わったら、そりゃビビるだろ」

「ふーん。……顔赤くない?」

「いや全然。たとえ赤いとしてもそれは天下一品のホットなラーメンを食べたから俺の顔までホットになった結果であって、決して何か感情的な要因があるわけじゃないな」

「うわ、すごい早口……」

 

 少し足を早めた比企谷君が前に行き、顔が見えなくなってしまう。

 そんな彼を見ていると、なんとなくボクはさっき考えていたことを話したくなった。

 

「ねえ、比企谷君。ボクは決めたよ」

「なんだよ」

 

 振り返りながらも、足は止めない比企谷君。

 

「君がどんな決断をしても、それをありのままに受け入れるってこと」

「……何の話だ?」

「ん? ……うーん、ボクたちの将来の話?」

「ボクたちの将来の話!?」

 

 何を思ったのか、比企谷君はピタリと止まると突然大声を出した。

 

「うるさいよ比企谷君。近所迷惑」

「いやいやいやいや。その言い方だとまるで俺とお前の間に末永い将来があるようで……」

「は? あ──」

 

 思わぬ言葉に、足を止めてしまう。冷えた体の中心が、激しい感情の影響でじんわりと暑くなるような感覚があった。

 慌てた私は、早口で自分の言葉を意味を伝える。

 

「ち、違うから! 全然そんな深い意味なんてないから! そんな深い話じゃなくて、これからの付き合いの話っていうか!」

「つ、付き合い!?」

「違うよ! 全然違うよ! ボクそんな男女交際的な話全くしてないよね!?」

 

 ぶんぶんと手を振って否定するが、比企谷君は納得できないと声をあげた。

 

「そういう誤解を招くような言い方しただろお前!?」

「ふ、ふん! 何言ってもすぐ色恋沙汰に結び付けるなんて比企谷君も案外子どもだよね!」

「いや、今のは絶対言い方に問題が! ……いや、いったん落ち着こう。お前顔真っ赤だぞ」

「いや、比企谷君も真っ赤なんだけど」

 

 とはいえ、冷静ではなかったのも事実だ。なんか余計なことまで口走ってしまったし。

 私は大きな深呼吸を一つした。冷たい空気が肺に入ってきて、心も冷静さを取り戻してきた。

 深呼吸をするボクを見て、比企谷君は呆れたように声をかけてきた。

 

「なあ、前から思ってたんだけどなんでその口調の時そんな無防備なの? 普段のお堅い令嬢みたいな態度どこ行ったの? いや、普段も結構ボロ出してるような気もするけど……」

「いや、普段は常に気を張ってるっていうか言動にも気を付けてるんだけど、素のボクだとそういうの緩むっていうか。なんていうの? 自分が美少女なのをつい忘れちゃうっていうか」

「自信過剰なのは一緒か。嫌な共通点だな……」

 

 自信過剰というか、事実だ。ボクは自分の容姿について、他の女性よりも遥かに客観的に見ていると自負している。なんたって男の意識があるし。

 

「あれ、ボク何の話をしようとしていたんだっけ」

「知るかよ。衝撃発言のせいで何言ってたか忘れたわ」

 

 ああ、そうだ。ボクが偽告白を阻止するのかしないのか、そんな話だ。

 

「まあ、君に話す必要のあることでもなかったかな。忘れて」

「そうか」

 

 そして、二人の間には再び沈黙が下りた。静かな夜の京都を歩く。ゆっくりと歩く彼の背中を見ていると、ボクの中で再び決意が固まった。

 

 偽告白を阻止する必要なんてない。そのことで頭を悩ますなんて、馬鹿げたことだったんだ。

 問題はその後。奉仕部内での関係性の方だ。

 

 たとえ今回の件がどんな形で解消されようとも、ボクがその後の三人の関係を取り持っていればいい。ボクの結論とは、簡単に言ってしまえばそういうものだった。

 

 平塚先生の言う通り、ボクは偽告白を阻止するかしないかの二者択一こそが問題だと思い込んで、そのことばかり考えてきた。

 でも、違う。ボクにとって大事なのは、そんなことじゃなかった。本当に大事なのは、大切な奉仕部三人の関係性。

 温かいあの部屋の中に存在する、ガラス細工のようにキラキラと輝くあの時間こそが、ボクが気に掛けるべきものだったんだ。

 

 であれば、告白の結果がどうであれ、ボクは三人の関係性を保持することを考えるべきだったんだ。

 どうして、他人の行動に口を出したりしようなんて考えていたんだろう。ボクはもっと、原作がどうとか関係なく、ただ自分にとって大事な人たちとどう付き合っていくのか、それだけを考えていれば良かったんだ。

 

「……きのした、雪ノ下! 着いたぞ」

「……うん」

 

 比企谷君の声に顔を上げると、いつの間にか夜の闇は遠ざかり、ホテルのロビーの人工的な照明の下にいた。

 どうやらボクは、周りの景色すら見えなくなるほど思考に集中していたらしい。

 

 ここから自分の部屋まで戻るので、彼とはここでお別れだろうか。

 

「悪かったね。ボクのペースに合わせてもらって」

 

 道中、比企谷君はずっとゆっくりと歩いてくれていた。それはきっと、後ろを歩くボクを気遣ってのことだったのだろう。

 少しだけ笑って礼を言うと、彼は少し顔を逸らして答えた。

 

「……別に、良く妹と外出するから、その時の歩くペースがくせになってただけだ。どうってことねえよ」

「そっか」

 

 そんな様子が彼らしくて、ボクはまた少し笑った。

 

「送ってくれてありがとう。じゃあまた──」

「雪ノ下、さん……?」

 

 唐突に、ホテルのロビーに第三者の声がした。

 何かとんでもないところを見られてしまった予感に、ボクはゆっくりと振り返った。

 

「綱島さん……」

 

 そこにいたのは、私のクラスメイトの一人だった。

 明るくて、恋愛話に目がない彼女は、ゆっくりと何かを確かめるように私たち二人を交互に見ると、やがて目をキラキラ輝かせながら部屋へと向かっていった。

 

「待って綱島さん! 何か勘違いしてないかしら!?」

 

 慌てて、私はその後を追う。

 部屋のドアを勢いよく開けた綱島さんは、開口一番こう言った。

 

「み、みんな! 聞いて聞いて! 雪ノ下さんが、夜の逢瀬してた!」

 

 噂話好きの女の子たちが、なんだなんだと顔を出してくる。

 

「ち、違うの綱島さん! たまたま会っただけで!」

「しかも彼氏のコート着てた!」

「本当に違うから! このコートは……本当に違うから!」

「しかも見たことないような顔で笑ってた!」

「……違うから!」

 

 私の反応を見た女の子たちは、だんだんと目を輝かせていった。

 

 こうして、私の長い長い夜の弁明が始まった。

 




Q.綱島さん誰?
A.今回限りの登場予定のオリキャラ、モブです

Q.雪ノ下クラスメイトと距離近くない?友達?
A.原作でも恋バナを追求される程度の間柄ではあったみたいなので、今回みたいな話になりました。
 後はまあ、修学旅行の夜という特別な時間でいつもより遠慮がなくなったとか、そんなところです。
 雪ノ下とクラスメイトの距離感はあまり描写がなかったので、これが正解だったのかは謎です。


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こうして、ボクは間違える

 修学旅行の二日目は何事もなく過ぎ去った。あえて特筆すべきこととして上げるとすれば、龍安寺で比企谷君たちのグループと出会ったことだろうか。

 

 私として予想していたことだったし、特段動揺はなかった。

 しかし、私と比企谷君が秘密の逢瀬をしていたと思っていたクラスメイトたちは違った。

 私が何気なく比企谷君に話しかけにいっただけで、ひそひそと話を始め、私が彼女らの元に戻ると、すごい勢いで質問をぶつけてきた。

 

「実際いつから付き合っていたの?」

「どこが良かったの?」

「きっかけは? クラス違ったでしょ?」

「その……どこまで済ませたの……?」

 

 こんな調子だ。いくら否定しても全く怯まない彼女らの様子に、私は終始押されっぱなしだった。

 

 しかしそれ以外は順調だったと言えよう。一日目は疲れたという感想しか浮かばなかった京都観光だったが、二日目は私も楽しめた。

 

 

 

 

 そして、私にとって最大の関心事である修学旅行三日目。自由行動の日だ。

 

 

 学校が予約している朝食をキャンセルした私は、京都の一角に存在する小奇麗なカフェで優雅にコーヒーを飲んでいた。

 朝の店内にはまだ人はまばらで、空いている席もちらほらと見受けられる。

 

 私がたいして好きでもないコーヒーなんて飲みながらここに座っている理由は一つ。由比ヶ浜さんがここに比企谷君を連れてくるのを待つためだ。

 私たち奉仕部の三人は、自由行動であるこの修学旅行三日目に一緒に行動することを約束していた。

 

 二人を待っているからこそ、私はこの真っ黒いコーヒーを飲んでいると言える。

 なんとなくブラックコーヒーを飲んで待っていた方が、大人っぽく見えるかな、なんてよく分からない思考が働いた結果だった。

 

 とはいえ。

 

「……やっぱり苦いな」

 

 私はテーブルに備え付けられていたガムシロップを三つほど掴むと、一つずつ黒々とした液体へと投入していった。

 トドメにスティックシュガーを投入。完璧だ。

 カップに口を付けると、途端に口の中に甘さが広がった。

 

「あ、ゆきのんいた!」

 

 私が元の苦さがどこか行ってしまったコーヒーを楽しんでいると、遠くから由比ヶ浜さんの声がした。見ると、元気に手を振ってくる由比ヶ浜さんと、彼女の後ろを眠そうな目で歩く比企谷君の姿があった。

 

「遅かったわね」

 

 言いながら、私はガムシロップとスティックシュガーのゴミをそそくさとテーブルの端に追いやる。そして、カップの中身を一気に飲み干した。

 ……良し、次に頼むコーヒーはブラックで飲もう。

 

「なに? なんで雪ノ下が? なんで俺ここに連れてこられたの?」

 

 未だに状況を把握していないらしい比企谷君。その黒々とした目も、どこか眠たげだ。

 

「ここでモーニングを取るのよ、比企谷君」

「え? 何その文学的表現。朝取るの? 昼と夜しかなくすってことか? おいおい、最高かよ」

 

 寝起きゆえかとぼけたことを言い出す比企谷君。

 

「いいからヒッキー早く座って。頼んじゃうから」

 

 寝言は寝て言えと言わんばかりに比企谷君の肩を押す由比ヶ浜さん。眠たげな様子は少しもない。

 

 やがて、三人分の朝食が到着する。プレートの上に綺麗に並べられた洋風の朝食。

 いただきます、と三人で口をそろえて言うと、奉仕部三人の少し遅めのモーニングが始まった。

 

「今日私たちが回るところ、改めて説明するわね」

 

 伏見稲荷大社。東福寺。嵐山。それから、忘れてならない北野天満宮。

 一つ一つの観光名所について説明していくと、比企谷君と由比ヶ浜さんがへーだとかほーだとか相槌を打つ。

 

「どれも見たいけれど、有名だから人混みが予想されるのが今から憂鬱ね……」

「ゆきのん体力ないもんね」

 

 由比ヶ浜さんが何気なく言った言葉に、内心同意する。

 その通りだ。最後に訪れる予定の嵐山まで無事辿り着けるだろうか……。

 

 ブラックコーヒーの苦みをオレンジジュースを飲んで上書きしていると、どうやら二人の食事も済んだらしい。

 

「じゃあ、奉仕部での修学旅行、行きましょうか」

 

 立ち上がりながら言ったそのセリフは思ったよりずっと弾んでいて、私は少し気恥ずかしさを感じた。

 

 

 

 

 伏見稲荷の有名な千本鳥居をくぐりぬける。朱色の鳥居が何本も並んでいる景色は壮観だ。

 しかし、その道のりはなかなかに険しかった。ただでさえ上りになっていてしんどいというのに、さらに周りは人だらけときた。私を殺す気だろうか。

 

 伏見稲荷に着いてしばしば、私は高所から京都を一望するベンチにぐったりと座り込んでいた。

 

「大丈夫か」

「ええ、少し休めば下れそう」

 

 ぶっきらぼうに聞いてきた比企谷君に答えて、私はまた京都を一望する絶景に目を向ける。快晴の京都はどこまでも見渡せそうだった。

 そして今、比企谷君も同じ景色を見ているのだと思うと、私は少し嬉しくなった。

 

「ここも恐ろしい人だかりだったけれど、次の東福寺は紅葉の名所よ。……下手すればここ以上の人だかりが予想されるわ」

「お前なんで人混み苦手なのにこんな予定にしたの? 遠まわしな自殺?」

「……せっかくだから楽しみたいじゃない」

「……そうか」

 

 口数は少なく、それから由比ヶ浜さんが戻ってくるまでの間、私と比企谷君は同じ景色を眺めていた。

 

 

 伏見稲荷を下りて、次に向かったのは東福寺だ。紅葉の最盛期は過ぎたとはいえ、予想通りの人混みだ。

 内心それにうんざりしながらも、私は二人と一緒に、鮮やかに色づいた木々を眺める。寺の古めかしい景観も相まって、非常に写真映えしそうな景色だ。

 

「あれ、姫菜たちだ」

 

 由比ヶ浜さんが指さした方を見ると、何やら紅葉をバックに写真を撮る一団がいた。戸部君と海老名さん、それから葉山君と三浦さんの四人組だ。

 

「なんかとべっちと姫菜、仲良さそうじゃない?」

「……いや、いつもと変わらねえな」

 

 ぼそりと呟いた比企谷君に、内心同意する。仲は良さそうだが、いつもと同じ人間と一緒にいるせいで特別な雰囲気になるのは難しそうだ。

 

 眺めていると、やがて向こうの一団がこちらに気づいた様子を見せた。由比ヶ浜さんが大きく手を振ると、四人がこちらにやってきた。

 

「や」

 

 短い挨拶と共に、合流する一団。葉山君と由比ヶ浜さんが会話を始める。

 ふと、私は視線を感じた。見ると、三浦さんが獲物に襲い掛かる直前の狼のような目でこちらを見ていた。

 ……そういえば彼女とはサマーキャンプ以来か。未だに泣かせてしまったことを根に持っているのだろうか。

 

「……」

 

 私に思うところはないが、雪ノ下雪乃として舐められるわけにはいかない。すかさず、鋭い目線で睨み返す。私と三浦さんの間に冷たい空気が漂い始めた。

 私が三浦さんとの面白くもないにらめっこを始めた頃、ふと、かすかに聞こえてくる声があった。

 

「ヒキタニ君」

 

 ちょうしっぱずれな、不自然に明るい声だった。しかし不思議と空気に溶け込んでしまいそうなほどに存在感のないものだった。

 声の主である海老名さんはするりと背中を向けると、人混みの中へと歩いていく。

 そして、比企谷君はその背中についていくように人混みの中に紛れていった。

 

 それは、よほど注目していなければ見逃してしまうような、極めて存在感のない動きだった。

 

「……」

 

 少しだけ、迷う。きっと今、海老名さんは比企谷君に「依頼」の確認をしているのだろう。例えば、今私がそれを邪魔しに行けば、比企谷君の動き方も変わるだろうか。

 

 一瞬、葉山君の姿を見る。彼もまた、戸部君が関係を進めないことを望んでいる。だからこそ遠まわしに戸部君が海老名さんと二人きりになることを邪魔していた。

 目の前で私を睨みつけてきてくる三浦さんを見る。キツイ言動に反して友人想いの彼女も、関係が壊れることを望んでいない。

 

「……いや、ボクは見守ると決めたんだ」

 

 誰にも聞かれないように、小さく呟く。自分の決断を、全うしよう。比企谷君の決断を、尊重しよう。

 三浦さんから少し視線を外して、紅葉を見る。

 突風に、鮮やかな落葉が視界を埋め尽くした。色鮮やかで美しいそれは、しかし自然の移ろいやすさを表している気がした。

 

 

 

 

 夜の嵐山には、人の気配が全くと言っていいほどなかった。喧騒の遠ざかった山中には、竹の葉が擦れ合う音だけが静かに存在した。

 夜の山は真っ暗だが、ここには光源が二つあった。一つは、ライトアップされた竹林。青白い竹がぼうと光る様はなんだか幻想的だ。

 そして、竹林の寒色系の光とは対照的に暖かみを感じる光を灯す灯籠。美しい光を灯す灯篭は足元に等間隔で並べられて、道を照らしてる。

 浮世離れした雰囲気は、特別なイベントを実行するにはうってつけだ。

 

 やはり戸部君はここを告白場所に決めたらしい。

 

 

 

 

「……なら、最後の最後まで頑張れよ、戸部」

 

 比企谷君は緊張した面持ちの戸部君の真剣な想いを聞くと、そう言って励ました。

 他にも大和君や大岡君、それに葉山君に励まされた戸部君は、覚悟を決めたように表情を引き締めると、ゆっくりと現れた海老名さんの元へと歩み始めた。

 

「……成功するといいね、ゆきのん」

「……そうね」

 

 成功するなんて微塵も思っていないのに、そう返して、私は戸部君と海老名さんの様子を見守った。

 

 夜の嵐山に佇む海老名さんの顔には、いかなる表情も浮かんでいなかった。私には、まるで彼女がこれから判決を聞く被告人のように見えた。

 反対に戸部君は、ひどく緊張した面持ちだ。しかしその瞳には確かな熱が籠っていて、その想いが本気であることが伝わってくる。

 

 やがて、覚悟を決めたらしい戸部君が口を開く。

 

「あのさ……」

「うん……」

 

 ぎこちない言葉の応酬は、普段の二人の快活な様子とは打って変わって緊張感に溢れていた。

 

「俺、さ……」

 

 戸部君が躊躇するように言葉を切る。

 カサカサという竹の葉の擦れる音が、ひどくうるさい。竹林の間を抜けてきた冷たい風が私の首元を撫でた。

 

 やがて、戸部君と海老名さんの間にある緊張感が極限まで高まった時のことだった。

 

「ずっと前から好きでした。付き合ってください」

 

 その声は、戸部君の口からでもなく海老名さんの口からでもなく、彼らの元に突然現れた比企谷君の口から発せられていた。

 

 

 後から振り返れば、はっきりと分かる。

 それを見た私の胸に芽生えたのは、納得でも失望でも賞賛でもなく、──嫉妬、だった。

 

 

「──ッ」

 

 口から意味を為さない声が漏れる。その感情の正体を、その時の私は分からなかった。──分かっていれば、あんなことにはならなかったのに。

 

 比企谷君は葉山君と何事か話した後で、ゆっくりとこちらに戻ってきた。その背は、いつもよりも曲がっているように見えた。

 

 そんな彼に、私はこう告げた。

 

「あなたのやり方、嫌いだわ」

 

 由比ヶ浜さんが隣で息を吞む音がした。でも、止まれない。

 

「上手く言えないけれど、嫌い」

 

 違う。ボクは嫌いなのではなく、嫌だったのだ。

 比企谷君が、誰かに告白しているのが。比企谷君が誰かのものになるのが、たまらなく嫌だったのだ。冷静になったボクにはそう分析できた。

 しかしあの時あの場所にいる私はただ自分の感情に戸惑うだけだった。

 

「先に戻るわ」

 

 だから、私の言葉は、全部八つ当たりで。

 

 ボクはその時、紛れもなく()だった。

 




こうして、ボクは間違える


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深々と、雪ノ下雪乃は思い悩む

「はあ……」

 

 回想を終えたボクは、自室のベッドで大きなため息を吐いた。

 あの夜から一日。修学旅行から帰って、自宅に戻ることができたボクは、ようやく自分の振る舞いを冷静に思い返すことができた。

 

 正直、今日はずっと自分の感情に整理がつかなかった。

 どうして自分があんなこと言ってしまったのか分からなかったし、意味もなく比企谷君にきつく当たってしまったことへの自己嫌悪でいっぱいだった。

 

 でも、感情の整理を終えた今なら分かる。あの時のボクは比企谷君の行動に嫉妬の感情を覚えていて、だからあんな八つ当たりみたいなことをしてしまったのだ。

 

「はあ……」

 

 二度目のため息。

 ボクが嫉妬からあんな行動をしてしまったことを思い返すと、改めて一度棚上げにしていた問題に意識が向く。

 

 すなわち、今のボクは男なのか女なのか。

 ──いや、比企谷君にあんな醜い嫉妬をしてしまったボクはきっと、女なのだ。

 しかし、それを受けいれられない自分がいる。

 

「ボクは確かに、男だったはずだったんだ」

 

 しかし、その事実はもはや確認のしようなんてなくて、男だった頃のボクなんて記憶の中にしか存在しない。

 

 気持ちが落ち着かず、枕元に置かれたぬいぐるみをなんとなしに掴む。

 パンダのパンさんのぬいぐるみ。特に意識せず掴んだそれは、いつか比企谷君にUFOキャッチャーで取ってもらったものだった。

 

「……ぬいぐるみが枕元に置いてある男子高校生なんていないか」

 

 いつの間にか変化していたボクの嗜好。それを確認して、改めて自分の変わりように気づかされる。

 手元に引き寄せたパンさんを、体で包み込むように抱き寄せる。

 

「……」

 

 柔らかい布地で作られたぬいぐるみに触れていると、なんだか安心できる気がした。

 

 ……そう、安心感。ボクが比企谷君に感じているのは、きっと安心感だと、そう思っていた。

 素のボクをさらけ出せる、この人生で二人だけの存在。

 そんな彼に抱く不思議で温かい感情を、ボクは本当の自分を受け入れてもらえる安心感だと錯覚して、そうだと思い込んでいた。

 でも、違った。

 

 比企谷君と一緒にいると、少し鼓動が早くなって、体温が高くなる。

 比企谷君と話していると、楽しくなる。口角が上がってしまいそうになる。

 

 同じようにボクを受け入れてくれた由比ヶ浜さんには感じなかったそれは、思い返せば安心感とは違った感情だった。

 

 理解はできる。でも、納得はできなかった。

 

「……この感情を受けいれることこそが、ありのままに生きるってことなのかな、由比ヶ浜さん」

 

 問いが口をついて零れ、ボクしかいない部屋に虚しく響いた。

 でも、本人にそんな問いをぶつけることなんて、できそうになかった。

 だってボクは、由比ヶ浜さんの想いを知っている。泣いてしまうほどに切なくて、息を呑んでしまうほどに優しい、その想いを。

 

「……寝る、か」

 

 答えは出るはずもなく、問いはボクの胸中をグルグルと周り続けていた。

 

 

 ◇

 

 

 修学旅行後、最初の学校の日が来た。私は憂鬱な気持ちで学校に向かうと、放課後までの時間を、上の空で過ごした。

 

 そして、放課後。重い足で部室に向かった私は、いつもの場所に座り、読めるわけもない文庫本を広げる。

 

「……やっはろー」

「こんにちは」

 

 少しして部室を訪れた由比ヶ浜さんに、短く挨拶する。いつもと違って、目が合わない。それ以上言葉を交わすことはなく、彼女は静かに携帯をいじりはじめた。

 

 しばらくして、もう一度ドアが開いた。今度こそ、比企谷君が入ってくる。その顔はいつもよりも暗い。

 

「来たのね」

「ああ」

 

 口数は少なく。目線が交錯することはなかった。

 

 ……謝らなければ。

 思ってもいないことを口にしてしまったこと。八つ当たりしてしまったこと。選択を見守るなどと決意しておきながら彼のやり方を否定したこと。

 

 私が躊躇っているうちに、由比ヶ浜さんが口を開いた。

 

「葉山君たち、思ってたより普通だったね。少しくらい告白騒ぎの影響があるかなって思ってたんだけど、びっくりするくらい今まで通りだった」

 

 おずおずと、由比ヶ浜さんが切り出した。

 

「ああ、今まで通りだったな」

「……そう」

 

 小さく肯定するが、私の頭の中はそれどころではなかった。

 

 謝らなければ。比企谷君に思ってもみないことを言ってしまったこと。彼を否定するようなことを言ってしまったこと。

 しかし私の口は、思ったように動かなかった。

 

 ──怖い。真実を告げることが。あまりにも弱いボクをさらけ出すことが。ボクを受け入れてくれた彼に、否定されるかもしれないことが。

 

 結局のところボクには、ありのままに生きるなんてできないのかもしれない。

 

「なんていうかさ、みんなが何考えてるのか分からなくなっちゃった」

 

 ぽつりと、由比ヶ浜さんが呟く。みんな、という言葉には、比企谷君も含まれているようであった。

 

「……他人の考えていることなんて、完璧に分かるはずもないわ」

 

 口から出てきた一般論を垂れ流す。結局のところ、私は何一つ本音を話せないままだった。

 

 三人の間に、重い沈黙が下りる。誰もが言うべき言葉を探して、誰も見つけられていないような、そんな沈黙だった。

 

 そんな時だった。部室に、軽いノックが響いた。

 

「どうぞ」

 

 まるで地獄の底に垂らされた蜘蛛の糸を見つけた罪人のような気分で、私は入室を促した。

 

「失礼する」

 

 返事をしっかり待って入ってきたのは、平塚先生だった。先生は少し部室を見回すと、短く問いかけてきた。

 

「何かあったかね?」

 

 流石の慧眼だ。しかしその問いには、誰も答えられなかった。平塚先生は沈黙という答えを受け取ると、少し首をひねる。

 

「ふむ……頼みたいことがあったのだが、日を改めたほうがいいか?」

「それでもいいですけど、どのみち変わらないですよ」

 

 目を見て問いかけられた比企谷君が言葉を返す。

 

「そうか。……では、入ってきてくれ」

「失礼しまーす」

 

 可愛らしい声とともに入ってきたのは、きらりと光るおでこがチャーミングな生徒会長の城廻先輩だった。

 

「こんにちは」

 

 そして、その後ろからもう一人。初対面のはずの彼女は、私には見覚えのある人物だった。

 ああ、自己紹介なんてされなくても分かる。セミロングの亜麻色の髪に、可愛らしい顔立ち。くりくりとした瞳は小動物を思わせる愛らしさだ。触れれば折れてしまいそうな華奢な体付きは、庇護欲をそそる。

 一色いろは。私の知る物語にも登場した、後輩ヒロインだ。

 

 

 

 

 一色さんの紹介を済ませた城廻先輩は、さっそく本題を切り出した。

 

「もうすぐ生徒会選挙があるでしょ?」

 

 比企谷君と由比ヶ浜さんが少しきょとんとした顔をしているのを見て、私は代わりに言葉を返す。

 

「はい。もう公示も済んでいますね。候補者も張り出されていますね」

「そうそう。私たち生徒会の引退前最後の仕事が、その選挙の運営なんだけどね」

 

 城廻先輩も生徒会長引退か。三年生とはほとんど関わりがなかったとはいえ、少し寂しいような気もしてくる。

 

「それで、その選挙で、この一色さんは生徒会長の候補なんだけど……その、一色さんを落としてあげたいの」

 

 奇妙な依頼だった。しかし、既に知識のある私には納得できる話だった。

 

 前提として、一色さんは女子に嫌われるタイプの女子だ。小悪魔的な言動と、男を惑わすような思わせぶりな態度。一言で言えば、あざとい。男受けはいいかもしれないが、女子には不評だろう。

 そういうわけで、彼女は同級生の女子から嫌がらせを受けた。この嫌がらせというのがタチが悪かった。なんと嫌がらせの首謀者たちは、署名を集めて一色さんを生徒会長に勝手に推薦したのだ。

 

 そんなわけで勝手に生徒会長に立候補させられてしまった一色さんだが、もちろん乗り気ではない。

 当然だろう。嫌がらせのせいで一年生から生徒会長になるなんて、簡単に承諾するほうがどうかしている。

 

 しかし生徒会長の立候補者は彼女一人。このままいけば、流れのままに生徒会長になってしまう。

 

「つまり一色さんが生徒会長にならないように、なんとかできないか、と」

 

 私の知るように話は進み、確認の意味を兼ねて私は問い返した。

 

「そうそう。なんとかお願いできないかな」

 

 城廻先輩の困ったような声を聞くと、なんとかしなければならないような気がしてきた。

 

 私は先輩から少し視線を逸らすと、考えを巡らせた。

 正直、修学旅行やその後の出来事のことで頭がいっぱいで、このイベントについては何も考えていなかった。今や遠い記憶となりつつある、原作知識を思い出す。

 

 確か、これは最終的には一色さんを比企谷君が説得して、彼女に生徒会長になってもらうことで丸く収めたはずだ。

 しかし、その前にはさまざまな紆余曲折がある。比企谷君と葉山君の交流があったり、比企谷君が小町さんに動く理由をもらったり、雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣が生徒会長に立候補しようとしたりして……。

 

「……あ」

 

 そこまで思い出してから、私の頭にある発想が浮かんできた。全部丸く収まる、単純な解決方法。何よりも、私を苦しめてきた胸の痛みをどうにかできる解決策。

 

 どうして私が今こんなに苦しいのか、どうして自分の性別についてこんなに思い悩まなければならないのか。どうしてこんなに自己嫌悪に苦しんでいるのか。

 

 比企谷君と一緒にいるからだ。

 

 彼といるからこんなに胸が苦しい。ひどいことを言ってしまった自分が嫌いになる。

 

 ──だから、私が生徒会長になって、奉仕部と距離を置けばいい。

 その決意は不思議と私の胸にすんなり入ってきて、これしかないと思えた。

 



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ひそやかに、雪ノ下雪乃は宣言する

 相談のあった後日、奉仕部では一色さんから詳しい話を聞くために、彼女を呼び出していた。

 既に部室の相談者の席には一色さんが座っていた。けれど、彼女にはまだ本題の話を始めないように言ってある。

 

「いろはちゃん部活は大丈夫だったの?」

「はい、葉山先輩にちょっと用があるって言って抜けてきました……もしかして結衣先輩、何か伝えてくれましたか?」

「え?いや、何も言ってないよ」

「そうですか……」

 

 既に面識があったらしい由比ヶ浜さんが、彼女と親し気に談笑していた。姦しい様子はなんだかまさしく女子高生といった感じで、私が入り込む余地などないような気がした。二人の話し声をバックに、私は文庫本のページを捲った。

 

 私たち三人が集まって、少し経ってからのことだった。何の前触れもなく部室のドアが開かれた。その先には、いつものどんよりとした瞳をした比企谷君の姿。

 

「来たのね」

「ああ」

 

 交わす言葉は短く、温度はなかった。一瞬交錯した視線は、しかし彼の方から外される。

比企谷君が席に座るのを横目に確認してから、私は一色さんに声をかけた。

 

「では、話を始めましょうか、一色さん」

「はーい」

 

 間延びした返事をした一色さんが、自分の置かれた現状についての認識を簡単に示す。生徒会選挙が迫っていること。生徒会長候補が自分しかいないこと。できれば信任投票で落ちるのは避けたいこと。壇上に立つこと自体はさして抵抗がないこと。

 

「私たちが取れる方策と言えば、他に候補を立てて一色さんに負けてもらうことくらいね」

「あっはい。それなら構わないです」

 

 私の言葉に応えて鷹揚に頷く様すらなんだか可愛らしい。きっとそんな所作一つ一つが計算づくで、魅力的に見えるように工夫の凝らされたものなのだろう。

 

 可愛い自分を演じる姿は、親近感を覚えなくもない。

 

「候補の選定を急がなくてはならないわね。選挙まではもう時間がない。さらに、立候補には三十人も推薦人を集めなきゃ。由比ヶ浜さん、すぐに候補のリストアップに入りましょう」

「うん」

 

 由比ヶ浜さんに呼びかけた後、私は無意識に比企谷君の方を向いていた。

私の目線を認めた比企谷君が、低い声で自分のスタンスを述べる。

 

「昨日も言ったように、俺は俺で好きにやるぞ」

「そう」

 

 努めて興味無さげに言って、私は再び一色さんの方を向いた。

 

「私たちで立てる対立候補の公約はもう考えてあるの。差別化を図るために、一色さんはこれを参考にして、違う公約を考えてもらえる?」

「へえ、早いですね……ふむふむ」

 

 公約を読み始める一色さんを眺めていると、比企谷君から冷静な声が飛んできた。

 

「それだと、お前らが立てる対立候補は傀儡候補になるんじゃないか?」

「……」

 

 そう、とも言える。しかし今それを認めるわけにはいかない私は、詭弁を展開する。

 

「もちろん、候補者にも自分の意見を出してもらうつもりよ。それに私たちが関わるのはあくまで選挙まで。それからの生徒会の運営には関わらない以上、傀儡とは言い切れないわ」

「いや」

「それに」

 

 尚も言い募ろうとする比企谷君を、言葉で押しとめる。

 

「あなたが一色さんの応援演説をしてヘイトを買って落選させるなんてふざけた方法よりはずっとマシよ」

 

 比企谷君がいらない傷を負う必要なんて、どこにもない。

 

「また、お前は俺のやり方を否定するってことか」

「……」

 

 伏し目がちだった先ほどまでとは打って変わって、彼は私の目を真っ直ぐ見て言った。

黒々とした瞳は、私の醜い内面まで全部見通してしまいそうで、私はそっと目を逸らした。

 

「……少なくとも、私の言う方法はあなたの自己犠牲的で場当たり的で欺瞞による先送りな解決策よりはずっとマシよ」

 

また、詭弁。しかし比企谷君は、怯まず言い返してくる。

 

「自己犠牲?ハッ。そんな陳腐な言葉で、俺の行動をくくってくれるな。だいたい何が欺瞞だ。お前の言う現実離れした解決策の方が、よっぽど欺瞞に満ちてるだろうが」

 

 嫌悪感を言葉に滲ませて、比企谷君は吐き捨てた。

 返す言葉などもたない私は、ただ黙ることしかできなかった。

 

 欺瞞。そうだ、私の存在それ自体が、もう欺瞞なのだ。私が雪ノ下雪乃となってしまったその瞬間から、私は欺瞞で、虚偽で、偽物だ。

 押し黙る。そんな私の様子を見た比企谷君もまた、気まずそうな顔をして黙ってしまった。

 

 

「……あのー」

 

 気まずい沈黙に、耐えかねるとばかりに一色さんが声をあげた。

 

「ひとまず方針は分かったので、今日はもういいですか?私も公約考えてきますから」

「そうね。今日はひとまず解散しましょうか」

 

 その言葉を待っていたと言わんばかりに、一色さんが部室を出ていく。

やや遅れて、背中を丸めながら外へと向かう比企谷君の姿。斜陽に照らされる部室には、私と由比ヶ浜さんだけが残された。

 

 私が行動を起こすとすれば、このタイミングか。

私は席を立つ。

 

「……由比ヶ浜さん、少しお手洗いに」

「うん」

 

廊下に出れば、そこにいたのはちょうど比企谷君だけだった。ちょうどいい。

 

「比企谷君」

 

 呼び止めると、比企谷君は気まずげな表情で振り返った。先ほど言ったこと、言われたことを気にしているのだろうか。

以前の私なら、彼にそんな顔をさせてしまったことに一喜一憂していただろう。

しかし決意を固めた今の私は、比企谷君が多少表情を変えたくらいでは動揺はなかった。

 

「なんだよ、俺は勝手にやっていいんだろ」

「ええ。その前に、一つだけ」

 

 私はつかつかと比企谷君に近寄ると、少し深呼吸をしてから言葉を紡いだ。

 

「今回の依頼、私に解決策がある」

「……なんだ」

「――私が生徒会長になる」

 

 その時の比企谷君の表情には、さまざまな感情が渦巻いているようだった。驚愕、疑念、それから、失望、だろうか。

 

「なぜだ」

 

 短く、呻くように比企谷君は言った。

 

「適任だからよ。それに何より、私がなりたいの。生徒会長に」

「部活は」

「私は引退ね。生徒会長だって、人を救うことはできる。私の目的はそれで達せられる。奉仕部である意味がないじゃない」

「由比ヶ浜には、言ったのか」

「いいえ。彼女には悪いけど、ギリギリまで黙っているつもり」

 

 私の返答に、比企谷君は怒ったように顔を歪めた。

――ああ、あなたが由比ヶ浜さんのために怒ってくれて良かった。

 

「だから、比企谷君が頑張る必要なんてないわ。この件は私に任せてちょうだい。ああ、一つだけ。……私がいなくなっても、由比ヶ浜さんとは仲良くね。これは私からの最後のお願い」

 

 言わなければならないことは、全て伝えた。そう思った私は、返事を聞くまでもなく背中を向け、部室へと歩き出し始めた。

 

 

 

 

「ふざけんな」

 

 比企谷君が最後に吐き捨てた言葉は、私の耳には届かなかった。

 

 

 

 

 雪ノ下雪乃は、俺の目を真っ直ぐに見て言った。自分の決断。部活からの引退。そして、最後のお願い。

 

 ふざけんな。

 

 それが俺の偽らざる本音で、率直な感想だった。

 

 だってお前は、何一つ本音で話していない。いつも強い意志の灯っている瞳は、どこかぼんやりとしていて、覇気がなかった。つま先から頭部までピンと伸ばされていた体は、どことなく力がなく、いつもの迫力がなかった。

 

 何よりも。俺はもう知っている。お前が自分の奥深くにある本音を語る時は、自分のことをボクと自称する。

 

 でも俺は、あの場で彼女の言葉を嘘だと断言できなかった。もっと踏み入って話せば、彼女は本音を話してくれたかもしれないのに。

彼女の嘘を暴こうとした結果、もっとおぞましい本音を暴いてしまうかもしれない。俺の中にあるのは、そういう未だに底の見えない彼女に対する恐れだったのかもしれない。

 

けれども、彼女の虚勢は、ともすれば自分の嘘を暴いて欲しいと言っているようだった。

 



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深々と、比企谷八幡は考える

 私が比企谷君と会話をしてから、一週間ほど過ぎただろうか。何だか一日が長くなったような気分だ。ずっと気分がどんよりとしていて、時間が経つのが遅い。

 

 私は生徒会長になって奉仕部を辞めることを決断したが、由比ヶ浜さんにはそのことを話さなかった。止められる、と直感的に分かっていたからだ。

 そして、もし私が話せば由比ヶ浜さんも生徒会長に立候補してしまうかもしれない。

 私は、奉仕部には由比ヶ浜さんと比企谷君の二人で残ってほしいのだ。

 

「ゆきのん、会長の件、やっぱり優美子もダメだったよ」

「……そう。そろそろ候補者もいなくなってきたわね」

 

 徒労に終わってしまうだろう作業に由比ヶ浜さんを従事させてしまっていることに罪悪感を覚えながら、私は言葉を返す。

 

 目ぼしい生徒会長候補もいなくなってきた。もし希望があるとすれば、今日話し合いに応じてくれた葉山君だろうか。

 

「でも、隼人君が話に応じてくれて良かったよね。隼人君なら、一色さんと決戦投票になっても負けなそう!」

「そうね」

 

 しかし、葉山君が話し合いに応じてくれることはないだろう。

 私は、彼がなぜ私たち二人を呼び出したのか知っている。

 

「……そろそろ時間ね。出ましょうか」

「うん」

 

 葉山君に指定されたカフェは、学校から少し離れている。二人で荷物をまとめて、学校を出る準備をする。

 

「……はあ」

「……どうしたのゆきのん、ため息なんてついて。疲れてる?」

「いいえ、なんでもないの。ありがとう」

 

 今から見る光景を想像して、そして、それに対して自分が感じる感情を想像して、憂鬱になっただけだ。

 

 

 夕方にもなると、私たちのように制服姿で出歩いている学生も珍しくない。若人たちの活気ある声によって、街は喧騒に包まれていた。

 

「えーっと……あ、あそこだ!」

 

 自分が方向音痴であることを良く弁えた私は、道案内を由比ヶ浜さんに任せていた。比企谷君とショッピングモールに行った時からの成長を感じる。

 

 

 落ち着いた雰囲気の店内に入り、目立つ容姿をしている葉山君を見つける。けれど、その横にはとある人物がいた。

 

「……え、なんでヒッキーが」

 

 由比ヶ浜さんの呆然としたような呟き。葉山君と一緒にいたのは、比企谷君、それと見知らぬ女子生徒二人だった。

 

 ──ああ、あの嵐山の夜と同じ感情が湧き上がってくる。比企谷君が女の子と一緒にいることへの嫌悪。比企谷君を誰かに取られるのは嫌だという、醜い独占欲。嫉妬。

 それが胸中にモヤモヤと漂って、私はひどく不快な気分になった。

 

「……来たか」

「……なんで、あいつらが……」

 

 葉山君の表情を押し殺したような顔と、比企谷君の驚いた顔。

 ダブルデートの最中、事あるごとに比企谷君を馬鹿にしていた二人の女子生徒に向かって、葉山君は堂々と言葉を述べる。

 

「見ての通り、比企谷は君たちよりもずっと素敵な奴と親しくしている。うわべだけ見て悪く言うのはやめてもらおう」

 

 葉山君らしからぬ、他人を拒絶する言葉だった。

 温厚な彼にそんなことを言われるとは思わなかったのだろう。葉山君とのデートを楽しんでいたはずの女子生徒二人は、ショックを受けたような顔をすると、その場を去っていた。

 後に残ったのは、葉山君と奉仕部の三人だけだ。

 

「選挙の打ち合わせと聞いて来たのだけれど」

 

 思っていたよりずっと冷たい言葉が出たことに、自分でも驚く。葉山君は私の言葉に少し驚いたように目を見開いた。

 

「生徒会の選挙の話を、葉山とか?」

 

 状況を把握していなかったらしい比企谷君が確認してくる。

 

「うん。えっと今日は隼人君が生徒会長の件、受けてくれるかもって話で、それで私たちにここに来るように言われてたんだけど……」

 

 由比ヶ浜さんが慌てたように説明する。葉山君は、ずっと黙ったままだった。

 

 その時、この場で話をしている四人以外の声が聞こえてきた。

 

「ふーん、そういうことだったんだ」

「……姉さん」

 

 少し離れた席に座ってこちらを見ていたのは、雪ノ下陽乃だった。

 相変わらず感情の読めない表情をした姉さんが、こちらに近寄ってくる。

 

 その様子に、私は言いようのない不安感を覚えた。

 ……大丈夫だ。たとえここで姉さんが生徒会長にならないのか、なんて挑発してきたところで、もうすでに決意を決めた私には関係のない話だ。恐れる必要なんてない。

 

 しかし、姉さんの言葉は私の予想を大きく超えたものだった。

 

「ちょっと見ないうちに女の子の顔するようになったね、雪乃ちゃん?」

「──ッ!」

 

 その言葉に籠められた意味を、私が履き違えるわけもなかった。

 姉さんには、私が嫉妬を覚えたことなんて、まるわかりだったんだ。

 いつになく軽薄な笑みで、姉さんは言葉を続ける。比企谷君の目の前で。

 

「でも、自分の感情には素直になった方がいいんじゃない?」

「──姉さんには、関係のない話よ!」

「ふふ、いつになくおっきな声」

 

 クスクスと、姉さんはおかしそうに笑った。姉さんが私をからかってくるのはいつものことだったが、こんなにも心を揺さぶられたのは初めてだった。

 

「……話し合いができないのなら、用はないわね。今日はもう帰るわ」

 

 これ以上何か言われたくなかった私は、踵を返し、店を出ようとした。今は比企谷君の顔を見たくなかった。

 最後に、姉さんと比企谷君が何か話している声が聞こえてきた。

 

 

 ◇

 

 

 長い、あまりにも長い一日を終えた俺は、帰るなりリビングのソファーに座り込んだ。このまま目を閉じれば気持ちよく眠れるだろう。

 けれど俺は、浅く座り直し、姿勢を正した。まだ、考えるべきことが残っている。背筋を伸ばしたままで、俺は目を閉じた。

 

 目を閉じれば、いつだって思考に集中できる。誰とも話さずに思索に浸れるのは、ボッチの長所だ。

 誰よりも一人で過ごしてきた分、誰よりも色々なことを考えてきた。友人の定義について。名作の真意について。哲学の問いについて。

 それから、数少ない知り合いについて。

 

 

 今日の奇妙なお出かけの終着点、カフェで出会った陽乃さんは、雪ノ下に挑発的な言葉をかけたかと思うと、俺にも意味深な言葉を残してきた。

 

「どうか、君だけは、雪乃ちゃんを見捨てないで」

 

 余裕そうな普段の声音とは違う、真摯な響きがあったように見えた。……いや、それすらも演技の可能性があるのが、雪ノ下陽乃の怖いところなのだが。

 

 ともかく、雪ノ下陽乃にすらあんなことを言わせるほどに、今の雪ノ下が不安定に見えたということだろう。

 

 であれば俺は、今一度雪ノ下雪乃のことを分析し直さなければならない。この半年ほど浅からぬ付き合いをしてきた、彼女のことを。

 

 

 雪ノ下雪乃は不思議な人間だ。初めて見た時は、冗談みたいに美しい少女だと思った。端正な顔に、真っ直ぐ伸びた黒髪。初めて見た時は、彼女が一人で本を読んでいるさまを絵画のようだと思ったものだ。

 

 話してみると、やたら口の悪い嫌な奴だと思った。視線は俺を貫かんばかりに鋭かったし、口を開けば無駄に多い語彙から放たれる罵倒文句ばかり。容姿の良さと同じくらい性格が悪いと思った。

 

 でも、よく話してみるとそれだけではないのが分かった。優れた容姿に相応しい清楚な言動は、よく見れば時折演じているようにも見えた。薄い外皮で自分を覆っているような、そんな違和感。けれど、彼女が理想の姿であろうとしていることだけはよくわかった。

 

 深くかかわると、どうにも彼女は想像以上に自分を演じていることが分かった。一人称には驚かされたが、ボクと自称する彼女は、いつもよりずっと表情豊かで、何よりも楽しそうだった。

 

 ──そんな彼女は、今何に悩み、何を必要としてるのだろう。

 雪ノ下雪乃の宣言を思い出す。

 

『──私が、生徒会長になる』

 

 どうして彼女がそんなことを言ったのか、見当もつかなかった。でも、何か無理をしているのだと俺の直感は囁いていた。

 だって、奉仕部にいる彼女はあんなに自然体で、楽しそうだった。

 

 分からない。分からない。分からない。

 ──分からないから、俺は分かるかもしれない奴に聞くことにした。

 

 ◇

 

 

 私と由比ヶ浜さんは、いつも昼食を部室で取っていた。この昼食会は私と彼女の交流が始まってからずっと続いてきたことで、部活内での雰囲気が少し悪くなってきてからも、ずっと続いていることだった。

 

「ゆきのん、やっぱり隼人君もダメそうだったよ。……どうする?」

 

 箸から手を離した由比ヶ浜さんは、こちらに向き直って問いかけてきた。いよいよ打てる手がなくなってきた、生徒会選挙の候補者探し。

 私が由比ヶ浜さんに打ち明けるとすれば、そろそろだろうか。

 

「……由比ヶ浜さん、私──」

 

 言いかけた時だった。なんの前触れもなく、ドアが開く。向こう側には、最近部室では見かけなくなっていた比企谷君の姿があった。

 

 わずかに、息を呑む。比企谷君の目には、これまで見たこともなかったような光が灯っているように見えた。

 堂々と、比企谷君は私に問いかけてくる。

 

「雪ノ下、自分が生徒会長になるって決断は、まだ翻す気はないか?」

「……え? ゆきのんが生徒会長になるの?」

「……まだ言ってなかったのか」

 

 由比ヶ浜さんの驚いたような声に、比企谷君が驚く。

 そうだ。言うことを先延ばしにし続けて、結局ここまで来てしまった。

 

「ええ。相談しようとは思っていたのだけれど」

 

 自分でも詭弁だと分かっているので、声が小さくなる。由比ヶ浜さんの視線が厳しいものになる。

 

「でも……そしたら部活は……?」

「私は辞めるわ」

「嘘……」

 

 信じられない、という顔で、由比ヶ浜さんは呟く。

 私は罪悪感を覚えるが、しかし今は言わなくてはならないことがある。

 

「由比ヶ浜さん、これは私個人の決断で、後悔なんて一つもないの。適任者が他に見つからない以上、私が生徒会長になるのが一番丸く収まる解決策だと思う。だから、由比ヶ浜さんがいちいち気に病んだりする必要はないわ」

 

 だから、由比ヶ浜さんが生徒会長になろうとする必要なんてない。そう言いかけて、言葉を飲み込む。

 私たちの顔を厳しい目で見ていた比企谷君は、確認するように私に問いかけてくる。

 

「それが、雪ノ下の意思なのか」

「……ええ。誰に言われるわけでもなく、私が決めたの。だから、比企谷君たちは何もしなくていい」

 

 下を向きそうになる視線をなんとか比企谷君に合わせて、ハッキリと言う。

 

「雪ノ下……」

「──もう、いいでしょう。私は食べ終わったから、教室に戻るわ」

 

 何事か言おうとした比企谷君を押しとどめるように大声で宣言すると、私は弁当をテキパキと片づけて、部室の外へと向かう。

 

「鍵は開けっ放しで構わないから」

 

 振り返らずに言い放つと、私は後ろを振り向かずに、教室への道をトボトボと歩く。

 

 

 ◇

 

 

「由比ヶ浜」

 

 一人の少女のいなくなった教室で、二人は会話を交わしていた。

 

「うん」

「雪ノ下の言うこと、全部本心だと思うか?」

「ううん。でも、ゆきのんはたぶんそれを認めないと思う」

「由比ヶ浜」

「なに?」

「俺を、助けてくれないか」

 




次回、最終回 12日投稿


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もう雪ノ下雪乃は偽物ではない

最終回です


 由比ヶ浜は、俺の頼みに、何も言わずに静かに頷いてくれた。

 だから俺は、自信をもって雪ノ下を止めるために動くことができた。

 

「ゆきのんは、きっとヒッキーの素直な言葉を必要としているよ」

 

 その言葉を信じた俺は、まずあいつが素直に話を聞く状況を作ることにした。

 

 

 

 

 既に、Twitterで集めている、一色が生徒会長になることへの賛同者のリストは四百を超えている。インチキによって作られた、砂上の楼閣とも言えるリストだったが、一色との交渉材料としては十分だ。

 

 満を持して、俺は図書室に呼びつけた一色と、話を始めた。

 

「ああ、お前に整理してもらってるこれはな、お前の生徒会選挙の賛同者なんだよ」

 

 思わぬ言葉に、一色が息を呑む。

 畳みかけるなら、今。

 

「──なあ一色、お前、悔しくないのか? 雪ノ下に惨めに選挙で負けて、お前は校内の笑い者だぞ」

 

 なんでもないようなフリをしていたが、一色の手は強く握りしめられていた。

 そうだ。自分を可愛く装うことに余念のないお前が、プライドのない人間なわけがない。馬鹿にされて、黙っていることに納得したわけがない。

 

「でも、お前が選挙に勝って生徒会長になったらどうだ。一年生で生徒会長になった、立派な生徒という肩書き。さらに、お前はもう一つの特権を得ることができる」

「なんですか?」

「『一年生で生徒会長になって部活にも出ている健気で大変な私』という肩書きを得たお前は、大義名分の下に葉山を頼ることができる。好きなんだろ? 葉山のことが。自分のことを気にかけて欲しいんだろ? なら、これは好機だ。お前は堂々と葉山を頼る口実が出来たことを喜ぶべきだ」

 

 俺の言葉を聞いていた一色は、やがてポツリと呟いた。

 

「先輩、もしかして頭いいんですか?」

「まあな」

「……でも性格は悪いですね」

「おい」

「いいですよ。先輩に乗せられてあげます」

 

 俺の言葉に被せるように、一色は呟く。下を向いていた顔がこちらに向く。

 

 その表情は、驚くほどに底意地の悪そうな笑みで。不思議と、そんな顔の方が魅力的だと思えてしまった。

 

 

 ◇

 

 

 夕焼けの眩しい部室で、私は一人本を読んでいた。

 比企谷君が部室に来ないのはここ最近ずっとそうだったので意外でもなんでもないが、ついには由比ヶ浜さんまで部室に来なくなってしまった。

 ……やはり、私が勝手に部活を辞めるなどと言ってしまったこと、怒っているのだろうか。想像に、自己嫌悪が湧き上げる。

 

 でも、好都合だったかもしれない。優しい彼女は、部活を辞めても私を気遣おうとするかもしれない。それではダメなんだ。

 私は完全に奉仕部との繋がりを断たなければ。そうしなければ、未練がましい私はまたこの部屋に戻ってきてしまうかもしれないから。

 

 普段とは違いもの悲しさを感じる静けさに包まれた部室で、私は本を広げていた。中身なんて少しも頭に入ってこなくて、ただ文字の羅列の上を、目が滑っていく。

 

 そんな虚しい時間は、唐突に終わりを迎えた。

 

「やっぱり、ここにいたか」

 

 聞きなれた低い声。

 いつの間にか扉は開かれていて、その先には比企谷君と由比ヶ浜さんがいた。二人一緒に部室に来るなんて、珍しい。

 そう思って様子を窺っていると、どうにも二人とも奇妙な緊張感に包まれていた。

 

「……どうかしたの?」

 

 やや気まずさを感じながら、私は声をかける。彼らと最後に話した時のことを思い出す。そういえば、突き放すようなことを言ってしまったっけ。

 

「生徒会選挙についての話をしにきた」

 

 単刀直入に、比企谷君は言った。その後ろで、由比ヶ浜さんが小さく頷いている。奇妙な構図に、私は違和感を覚えた。

 

「前も言ったように、その件は私が生徒会長になることで全部解決するって……」

「いいや。その必要はもうなくなった」

 

 そう言って、比企谷君は紙束を机の上に叩きつけた。

 恐る恐る、私はその中身を確認する。人の名前らしきものが記載されたリスト。

 ……これは、まさか。

 

「それは、一色いろはの生徒会長推薦人のリストだ。全部でだいたい四百人分ある」

「それ、は……」

 

 どうして。どうして比企谷君が、一色さんの生徒会長就任のために動いている。

 私は確かに、比企谷君に何もしなくていいと言ったはずなのに。

 

「一色は、これを見て生徒会長になる決意を固めてくれた。だから、お前が生徒会長になる理由なんてもうなくなったんだよ」

「……ゆきのんが部活を辞める理由なんて、もうないんだよ」

 

 比企谷君の言葉を肯定するように、由比ヶ浜さんが言う。

 

 比企谷君がそう言うのは、ある意味で原作通りだ。でも、由比ヶ浜さんがどうして……? 

 考えても分からない。彼らが何を思ってこうしたのか、分からない。

 

「どうして、比企谷君も由比ヶ浜さんも、私の言葉を無視するの!? 私は自分がなりたいから生徒会長になりたいんだってハッキリと……」

「ゆきのん」

 

 胸を突く想いのままに吐き出した言葉は、自分でも驚くほどに激情を含んでいた、けれどそれは、由比ヶ浜さんの穏やかな声にピタリと止められる。

 

「あの時みたいに、本音で話してよ」

「本音って……私はいつだって本当のことを!」

「違うな」

 

 比企谷君の声もまた、いつも以上に落ち着いていた。私の動揺とは対照的に落ち着き払った二人の態度に、私の苛立ちが増していく。

 

「お前は生徒会選挙の件が依頼されてから。いいや。きっとあの修学旅行の夜から、全然本音で話していない」

「そんなこと、比企谷君に分かる訳が!」

「──分かるに決まってんだろ! お前の本音と虚勢の違いなんて、分かりやすすぎるくらいだ! ……どれだけ、見てきたと思ってんだ」

「ッ!」

 

 息が、詰まった。

 

「ゆきのん」

 

 声を荒らげた比企谷君とは対照的に、由比ヶ浜さんの声は静かなままだった。

 

「ありのままをもっと見せて欲しい。その思いは、いつも変わっていないよ」

 

 泣きたくなるほどに優しい声だった。

 

「私、は……」

 

 声に詰まる。急にそんなことを言われても、何を言っていいのか分からなかった。

 

「雪ノ下」

 

 再びの、比企谷君からの呼びかけ。私は俯いていた顔を上げ、彼の顔を見る。

 

「多分、お前も俺と似たところがある。いつだってやることなすことに言い訳つけてて、自分の本心ってやつに向き合わなかった。逃げ道を常に探していている。……でも、お前の逃げ道は俺たちが塞いだ。そのための署名集めで、そのために俺は色んな人に頼った。その上で、俺はお前に問いたい。──本当にお前は、生徒会長になりたいと思っているのか?」

「……違う」

「じゃあなんで……」

「違う違う違う! ()()は、この部活が何よりも大事で、居場所で、かけがえのないものだったんだ! でも、だから、壊したくない! ボク一人の身勝手な感情のせいで、この温かい居場所が壊れてしまうかもしれない! そんなの、耐えられない!」

 

 不思議と目頭が熱くなってくる。

 口にしてしまえば、不思議と自分の本心が胸にスッと入ってくる想いだった。

 

 自分の嫉妬が苦しいから、比企谷君から離れたい。それも十分にある。

 けれど、それだけじゃなかった。この感情がこのまま重たくなり続ければ、やがて由比ヶ浜さんすら敵視してしまうかもしれない。

 無意識にそれを恐れたボクは、二人から距離を取ろうとした。

 

「それはいったい……」

「待ってヒッキー」

 

 なおも追求しようとする比企谷君を押しとどめたのは、落ち着いた様子の由比ヶ浜さんだった。

 

「お姉さんに言われたこと?」

 

 核心を突かれたボクは、ただゆっくりと頷くことしかできなかった。怖くて、由比ヶ浜さんの顔は見れなかった。

 

『雪乃ちゃん、ちょっと見ないうちに女の子の顔するようになったね』

 

 フラッシュバックする、姉さんの言葉。図星だったし、何よりも人にも見抜かれるほどに自分の感情が大きくなっていることが、たまらなく恐ろしかった。

 

「そっか。でもね、ゆきのん、それは私も同じなの」

「由比ヶ浜さん、も?」

 

「私だって、同じような感情に揺さぶられれて、翻弄されてるの。ゆきのんにそんな暗い感情を向けてしまって、それがたまらなく怖いことだってある。──でもさ、それでもいいと思うんだよ。だって、私たちは女の子なんだから」

「違う……」

「え?」

「ボクは、私は、ちゃんとした女の子じゃない! 生まれた時からずっと、目覚めた時からずっと! 偽物のまんま! 半端者のまま! だから苦しい! この胸にこんな感情があることが! こんな想いを持ってしまったことが!」

「ゆきのん……」

 

 嗚咽交じりに、ボクは全てをさらけ出したしまった。いつの間にか、涙が溢れ出してきていた。

 ああ、由比ヶ浜さんが困ってしまった。言うつもりじゃなかったのに。一生胸の中に隠しているつもりだったのに。

 何を言っているのか分からなかっただろう。ボクが何を思っているのか、分からなかっただろう。後悔で胸が苦しい。握りしめた手が痛い。

 

 でも、そんなボクにも、比企谷君は言葉をかけた。

 

「雪ノ下。お前が何を言っているのか、全部理解できたなんて絶対に言えないけどな。でも、これだけは聞かせてくれ。……お前は、どうしたい? どう、なりたい」

「ボク、は……」

 

 頭をよぎる、今までの思い出。比企谷君と初めて会った時のこと。由比ヶ浜さんと初めて会った時のこと。一緒にキャンプをしたこと。文化祭を成功させるために頑張ったこと。修学旅行で京都を見回ったこと。この部屋で、なんでもないような時間を一緒に過ごしたこと。

 

 全部全部キラキラした思い出で、目を逸らしたくなってしまいそうなほど、本物だった。

 そしてボクは、そんな現実離れしたキラキラしたものに、たまらなく憧れていた。

 

 だから。

 

「ボクは、本物になりたい」

 

 視界はいつの間にか涙でいっぱいで、声は掠れていて、それでもその言葉は、ボクの正直な、ありのままの気持ちだった。

 

 その言葉を吐きだすのと同時に、他にも色々なものを吐き出せたような気がする。修学旅行の夜からずっと続いていた気がする憂鬱な気持ちが、ようやく晴れたような気がする。

 いつの間にか、湧き上がってきた涙が頬を伝った。視界はぼやけていたが、二人が満足そうな顔をしているのはよくわかった。

 優しい顔を見たら、なんだかもう一度泣けてきた。いつの間にか立ち上がっていたボクはゆっくりと椅子に座り直すと、手で顔を覆い、もう一度涙を流し始めた。

 

 

 

 

「……はあ。……比企谷君、女の子の泣き顔じろじろ見るの止めてくれない?」

「わ、悪い……」

 

 なんだか見つめられているのが気恥ずかしくて、ボクは文句を言った。

 ようやく落ち着いてきたボクは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。まだ少し目が痛い。夕焼けがやけに眩しかった。

 

「今日はもう遅いし、帰りましょうか」

「うん! まだ明日、だね!」

「だな」

 

 言葉には、最近なかった温かさがあった。

 

 ……しかし、帰る前に確認しなければならないことがある。

 

「比企谷君、ボクと由比ヶ浜さんの会話、聞いてたよね」

「当たり前だ」

「ボクたちの話していた感情が何なのか、分かった?」

「い、いやさっぱりだな。そもそも人の感情なんてものは当人にすら分からないものであって、ましてや他人の感情のことなんて分かるはずも──」

「ふーん。まあいいけどね」

 

 ボクの言葉を聞くと、比企谷君は安心したように胸を撫でおろした。……この様子。

 ボクはスッと比企谷君に近づくと、耳元に口を近づけて、息を吹きかけるように言った。

 

「本当は分かっているくせに」

「ッ!」

「アハハハハ!」

 

 慌てて耳を抑える比企谷君の様子がおかしくて、ボクは高らかに笑った。

 ボクもかなり恥ずかしかったので、彼から距離を取ってから言葉を紡ぐ。

 

「──二人とも、ありがとうね。こんな面倒くさいボクを見捨てずにいてくれて」

「面倒くさい人との付き合いはヒッキーからいっぱい学んだからね! 任せてよ!」

「なんだ、俺が罵倒される流れだったか今の」

 

 比企谷君もまたボクと同じような面倒くさい人間だからこそ、こんな手を使ったのかもしれない。本音を語る前に逃げ道を全部塞いで、言い訳を奪って、それから話を始める。

 全く、気恥ずかくなるほどによく分かっている。

 

「それから、ごめんなさい。修学旅行の時に比企谷君のやり方を否定したのは、多分単なるボクの八つ当たりだった。嘘の言葉で比企谷君を傷つけた。だから、ごめんなさい」

「いや何、お前の言ったことだって間違ってたわけじゃない。今更気にする必要なんてねえよ」

 

「うん、ありがとう。──最後に、こんなボクだけど、これからもよろしくね」

 

 よろしくね、ボクの本物。

 




長々と読んでくださってありがとうございました
これにて完結です
少しこの後の番外編を書くかも?

活動報告更新すると思うので、興味あったら見てみてください



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番外 色々吹っ切れたTSボクっ娘ヒロインは止まらない

本編後すぐの話です


「比企谷君、デートをしましょう」

 

 単刀直入に、雪ノ下雪乃は電話越しに規定事項を読み上げるように言い放った。

 

「は!?」

「以前行ったショッピングモールに12時に集合ね。一緒にご飯食べよ。場所は前と同じところで」

「いや、俺にも用事が……」

「え? ニチアサでしょ?」

 

 なんで分かったんだよ。あいつ怖い。

 

「時間に余裕は作ったから、ちゃんと来てね。じゃ」

 

 ぶつ、と切れる電話。あれ以来色々変わった雪ノ下だったが、傍若無人なところは変わらなかった。

 

 しかし急にデートってなんだ。休日はろくに会ってなかったのに急にデートとか色々すっ飛ばしすぎじゃないか? 

 というか、俺とアイツは数日前までやや微妙な関係性だったわけだが、いきなり休日に電話かかって来て呼び出されるのは何かおかしくないか? いや別にアイツと一緒に出かけるのが嫌というわけではないのだが。しかし心の準備というものが俺にもあるのである。

 

「……とりあえず二度寝するか」

 

 突然の事態に頭が追いつかなかった俺は、ひとまず脳を休ませるために睡眠を取ろうとした。

 しかし、聖域であるはずの俺の部屋のドアが、突如として開けられる。

 

「お兄ちゃん! 何やってるの!?」

 

 愛しの我が妹、小町だった。

 日曜日の朝に惰眠を貪るという極めて人間的な行いをしようとしていた俺は、妹の突撃に抗議の声をあげる。

 

「なんだ、小町。俺はこれから二度寝をかますつもりだったんだが」

「いやいやいや、今日お出かけなんでしょ?」

「え、なんでお前が知ってるの」

 

 怖い。気づかないうちに俺の私生活は完全に妹に掌握されてしまったのだろうか。

 

「雪乃さんからメールあったよ。お兄ちゃんが逃げ出さないように見張っておいてくれって」

「ええ……」

 

 なんだあいつ、怖すぎだろ。俺を絶対に逃がさないという確固たる意思を感じる。

 

「しかし待ち合わせは12時だ。それまで何してようと俺の勝手だろ?」

「何言ってんの。小町のファッションチェックはまだ始まってすらいないよ?」

 

 ドヤ顔で言う小町は、心底楽しそうだった。

 ああ、これは長くなる。今日のニチアサは録画かな。

 

 

 

 

 ようやく小町のファッションチェックに合格を果たした俺は、日曜日の活気あふれるショッピングモールに来ていた。

 正直、この人混みの中で方向音痴のアイツと合流できるか心配だった。しかし、そんなものは杞憂だったと思い知らされた。

 

 無秩序に行き交う人の視線が、ある一点でピタリと止まる。何か特異なものに目が止まってしまったような、そんな反応。そんな視線を辿れば、俺の探していた人物はすぐに見つかった。

 

「雪ノ下」

 

 不安げにキョロキョロとあたりを見渡していた雪ノ下は、俺の顔を見ると小走りにこちらに近寄って来た。

 

「よかった。全然見つからないから、来てないのかと思ったよ」

 

 砕けた口調で、雪ノ下は言った。

 

「……また迷ったのか」

「いや別に。ちょっと来るのが早かっただけだし。ボクだって一度来て学習してるし」

 

 そう言ってそっぽを向く姿は、なんだかひどく幼い印象だ。

 

「今日はそっちのお前なのか」

 

 今までは、部室の外では頑なに私口調だったのに。それはなんだか雪ノ下にとってひどく大事な変化なのだろう。そして、きっといい変化だ。

 

「うん。ボクはボク。まあでも、これは君と一緒だからだよ。じゃ、行こうか」

 

 そう言ってくるりと後ろを向いた雪ノ下の長いスカートがふわりと翻った。

 口調こそ砕けていたが、その後ろ姿から伺える雰囲気はまさしく深窓の令嬢といった様子だ。なんだか見た目から受ける印象と言葉から受ける印象がちぐはぐで、少し不思議な感じを受ける。

 

 そんな後ろ姿を見て、俺にはどうしても伝えなければならない言葉があった。

 

「雪ノ下、そっちはトイレだ」

「うそ、また!?」

 

 

 俺に方向を確認しながら雪ノ下が向かったのは、たくさんの人で賑わうフードコートだった。

 スペース内に所狭しと並べられたテーブルは、すでに9割ほど埋まっているように見受けられた。家族連れや学生のグループの集うここは、ひどく騒がしい。

 雪ノ下は上階に存在する小奇麗なレストランの方が好みだったかもな、などと考えていると、店舗をぐるりと見渡していた雪ノ下がくるりとこちらを向いた。

 

「比企谷君、ラーメン! ラーメンがあるよ!」

「は? そんなもんでいいの?」

「いいの! 比企谷君と食べるラーメンだから価値があるの! いいから並ぼ?」

 

 何やら興奮気味な様子の雪ノ下は、俺の服の裾を握ってグイグイと引っ張って来た。

 あの……服が伸びるんですけど……。

 雪ノ下の指さしたラーメン店の様子を見る。繁盛しているらしく、それなりの人数がカウンターの前で待っていた。

 

「待て雪ノ下。お前先に席取っておいてくれ。俺が受け取ってくる。何食う?」

 

 俺が注文を聞くと、雪ノ下はなぜか嬉しそうに笑った。

 

「もしかしてボクが人混みで疲れないように気遣ってくれた?」

「……」

 

 そういう意図がないといえば、噓になる。

 

「……ああ、小町と出かける時に躾けられたんだ。男が注文取ってこいってな」

「ふーん。デ……トの時に他の女の子の名前を出すのは減点だけど、気遣いは有難く受け取っておくね。ありがとう」

 

 デ……トとは……。その単語を言うのが恥ずかしいなら最初から言わなきゃいいのに。というか電話では堂々と言っていたような……。

 

 礼を言った雪ノ下は、スタスタと空いている席の方へと向かっていった。

 

 

 

 

 湯気の立つどんぶりがテーブルの上に二つ。安めのラーメンを前にした雪ノ下は、割り箸を手に、丁寧に「いただきます」と言った。

 俺も合わせて「いただきます」と言うと麺を掬い上げ、一啜りした。

 

 雪ノ下の様子を窺うと、意外なことに音を立てて麵を啜っていた。

 

「ラーメンも啜れない世間知らずだとでも思った?」

 

 俺の視線に気づいたらしい雪ノ下が、なにやら得意げな顔で言ってくる。

 ……いや、それくらいでドヤ顔されても。

 しかし雪ノ下の珍しい顔を見れた俺は、何か得をしたような気分になった。

 

 いいとこのお嬢様みたいな雰囲気だった雪ノ下と、こうして一緒に安いラーメンを食べている。なんとなくだが、今までのどこか壁のあった雪ノ下とは、こんなことできなかっただろうな、と思った。

 

 

 

 

 腹ごしらえを終えた雪ノ下は、なぜか男物の洋服を販売する店舗の並ぶエリアまで来ていた。

 

「なんでこんなところに?」

「いや、せっかくだし比企谷君の服を見繕ってあげようかなとか思ったり。あとボクも用がある」

「へえ」

 

 なんだか意外だ、と率直に思った。雪ノ下といえばいつも清純なお嬢様然とした恰好をしている印象だった。現に今日だってそうだ。

 

 

 店内を彷徨い、艶々とした黒一色のジャケットを体に合わせる雪ノ下の顔は真剣だ。しかしその華奢な体には、男物の上着は少し大きく見える。

 自分に合わせると、今度は俺の体に突き出してくる。

 

「ふんふん。比企谷君が黒を着ると暗すぎるか。本人が暗いし」

「ほっとけ」

 

 売り場のハンガーにジャケットを戻す雪ノ下。その後も手に取るのは男っぽいものばかりだ。

 

「なんだ、イメチェンでもしようとしてるのか」

 

 雪ノ下の今まで見せてきたファッションとは志向が違う気がする。ほっそりとした指で厚い生地のブルゾンを弄ったままで、雪ノ下は答えた。

 

「うーん、まあイメチェンというか、今までのボクからの脱却というか。こういう服、今まで……今の人生で、買ったことなかったから」

 

 何やら少し深刻そうな表情をした雪ノ下。その顔を見ていると、言葉が自然と出てきた。

 

「なんだ、変わりたいっていうのは分かったが、別に無理する必要ないんじゃないか? 好きでもない服着たってそれは変わったとは言えないと思うぞ」

 

 焦ってないか、と言外に問いかけるが、雪ノ下は意外と落ち着いた様子で答えた。

 

「いや、ボクはこういうのが好きだった……気がする」

「気がするって……」

 

 他人事のように、雪ノ下は言った。

 

「まあでも『あるべき私』だってもうボクの一部だし、今までの趣味嗜好を全部捨てたいってわけじゃないんだ」

 

 今までの趣味嗜好、と言いながら、雪ノ下はなぜかこちらを見た。

 

「でも、ボクが本物であるためには、自分の好きなものとか欲求がどんな風になっているのか、もう一度見つめ直す必要があると思ったんだ」

 

 雪ノ下は、大事そうに「本物」という言葉を使った。

 彼女がどんな意味でその言葉を使ってるのか、ハッキリとは分からない。けれど、不思議とその響きは俺の胸にストンと落ちて、納得させられてしまった。

 

「それで、ファッションか」

「うん。……よし、これにしよ。あ、比企谷君にはあれなんか似合うんじゃないかな」

「……俺の分まで選ぶのか?」

 

 その後、雪ノ下指導のもと、俺の分の服を買う。高めのアウターを似合う似合うと言われて買わされた俺は、紙袋片手に店を出た。雪ノ下も同じように片手に紙袋を持っている。

 

「今度着てるとこみせてね」

「機会があればな」

「何その機会を作る気のない返事。──絶対に見せてもらうから」

「お、おう」

 

 なんだその気迫は。雪ノ下の用は先ほどの店で済んだらしい。あてもなく歩きながら、彼女は俺に尋ねてくる。

 

「比企谷君は何か見たいものとかある?」

「今日録画してきたプリキュアだな」

「ぶれないね……」

 

 歩きながら、なんでもないような会話を雪ノ下と交わす。そんな当たり前のことが、ひどく久しぶりな気がした。

 

 思えば、あの修学旅行の夜から、雪ノ下とこんな風に会話をすることがなかった。口を開いてもどこかよそよそしい言葉を交わすだけ。

 そんな状態を打破して、こうしてまた関係を築くことができるなら、俺も恥を忍んで人を頼ったかいがあったというものだ。気恥ずかしいので言葉には出せないが、俺はそんな風に思った。

 

「なあ、雪ノ下」

「ん?」

「お前は、本物になりたいんだよな」

「……うん」

 

 やや気恥ずかしそうに、雪ノ下は頷く。彼女のそんな様子も当然だ。理想や夢なんてものは、素面で語るには恥ずかし過ぎるものだ。

 だから俺も、恥ずかしさを堪えて言葉を紡ぐ。

 

「お前の言う本物ってやつがどんなものなのか、俺には分からない。きっと由比ヶ浜だって分からなかったと思う」

 

 突き放したような物言いになってしまったが、雪ノ下の顔に動揺はなかった。きっと彼女も分かっているのだろう。言葉で全部伝わるなんて傲慢であること。相手の考えが完全に分かる、分かり合えることなんて有り得ないこと。

 

「でも、その二文字にお前の色んな感情が、理想が、生き方が詰まっているのは分かった。だから、俺にもお前の本物を見せて欲しい。──そして、共有させてほしい」

 

 出てきたのはあやふやで傲慢な言葉で、きっと言いたかったことが全部伝わったわけじゃない。でも、雪ノ下は全部分かったように静かに頷いた。その頬は、少し赤らんでいるように見えた。

 

 

 黄昏の教室で彼女が透明な涙を流した日。彼女が本物と口にしたとき。

 俺も、それが欲しくなった。

 彼女の言う本物と、俺の焦がれる本物はきっと違う。俺たちは似ているようで全く違う人間で、同じ言語を話していても考えていることを全部伝えられるわけじゃない。だから、二人の本物が重なり合う日はきっと永遠に来ない。

 

 でも俺は、彼女と俺の本物が同じだったらいいと、そう思ってしまった。

 



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番外 姉妹の雪解け

 奉仕部には、いつの間にか一色さんが入り浸るようになっていた。談笑の輪にするりと入り込む一色さんは、さながらこの部の一員だ。

「――ええ……流石先輩ですね」
「そうそう、ボクも――」
「ボク!?」

 一色さんは、急に立ち上がった。その態度に、ボクは遅れて失態を悟った。
 しまった。一色さんがいる時は私で通していたのに。部室だからって気が抜けていた。
 何を言われるんだろう。恐る恐る観察していると、やがて一色さんは言い放った。

「雪乃先輩あざとすぎませんか!?」
「君に言われたくないな!?」


 

 自室でまったりしていると、突然携帯が鳴り出した。この軽快なメロディーは、電話の着信音だ。

 また由比ヶ浜さんだろうか、と思って画面を見ると、ボクの心臓は飛び跳ねた。ちょうど今、彼のことを考えていたからだ。

 意味もなく髪を撫でながら、ボクは電話に出る。

 

「……もしもし」

「雪ノ下、突然すまん」

 

 比企谷君は、電話口でまず最初に謝罪を口にした。平坦な口調に聞こえたが、良く聞けばその声は少しだけ上擦っていて、緊張が感じ取れる。おおかた、同級生の女子に自分から電話する機会なんてそうなかったのだろう。

 嬉しくて弾みそうになる声を押さえつけて、ボクは冷静そうな声で応えた。

 

「珍しいね。どうしたの?」

 

 問いかけるが、比企谷君の言葉は歯切れが悪かった。

 

「いやその、なんだ。今週の日曜日なんだがな」

「うん」

「あー、前にお前と由比ヶ浜が葉山に会いに来たカフェまで、来れないか?」

「え……?」

 

 衝撃に、ボクは危うく携帯を落としかけた。比企谷君の、照れたような、言いにくそうな物言い。

 もしかしてそれは、デートの誘いというやつだろうか。

 

 

「うーん、買ったはいいけど本当に似合うかな? 比企谷君喜んでくれるかな?」

 

 当日の朝、鏡の前でくるりと反転してから、ボクは唸った。今日のコーディネートは、いつもとはひと味違う。

 艶々とした黒のブルゾンに、ぴっちりとしたジーンズ。おまけに、長い髪は後ろでひとまとめにした。ポニーテール、というやつだ。

 一言で言えば、男っぽい服装だった。

 

「顔がいいから何着ても似合う気はするんだけど、やっぱりいつもと違う恰好だと不安だな……」

 

 自分の顔を極めて客観的に観察しながら、ボクは自分の姿を分析した。

 似合っている、気はする。スリムな体のラインに沿った黒の衣服は、さながら燕尾服をきっちりと着た執事のような印象を与える。けれど羽織ったブルゾンがカジュアルな印象を与える。

 男装の麗人、なんて言葉がボクの頭にふと浮かんだ。

 

「今までのボクだったら、絶対に着なかっただろうな」

 

 きっと、誰かにこの姿を見られたら、ボクが雪ノ下雪乃じゃないと暴かれるんじゃないかと不安になったはずだ。

 比企谷君と由比ヶ浜さんがボクの思いを聞いてくれなければ、ずっとそのままだったはずだ。

 本当に、二人には感謝してもしたりないくらいだ。

 

「……よし、行こう」

 

 最後にショルダーバッグをかけて、ボクはウキウキした気持ちで家を出た。

 

 

 カフェまでの道で迷うことはなかった。日曜日の昼下がり、わいわいと賑わう通りを歩き、目的地まで一直線に向かう。少なくない視線を通行人から感じたが、今のボクにはあまり気にならなかった。

 

 おしゃれな扉を開けて、店内へ。店員さんに待ち合わせしていることを伝え、席をぐるりと見渡す。

 ……いた。ぴょこりと飛び出したアホ毛が特徴的な少年が、奥の席に座っている。こちらに気づいた様子はない。

 少しだけドキドキしながら、ボクは彼の元へと小走りで近づいた。

 最初にかける言葉は、もう決めてある。未だにこちらに気づかない彼の肩を小突いて、ボクは言い放った。

 

「比企谷君っ! ボクをデートに誘うなんていい度胸してるじゃん!」

 

 彼が何か言う前に、同じテーブルから別の声がした。

 

「雪乃……ちゃん……?」

「姉さん!?」

 

 ボクの姉、雪ノ下陽乃が、見た事もないほど驚いた顔でこちらを見ていた。

 

 

 

 

 互いに驚いた顔で見つめ合うボクたち姉妹に、比企谷君はおずおずと声をかけてきた。

 

「まあ、とりあえず座ったらどうだ」

 

 半ば放心状態で、ボクは席に座った。バレた……ボクとか言ってるのが姉さんにバレた……。

 

 意外にも静かな口調で、姉さんはボクに話しかけてきた。

 

「久しぶり、雪乃ちゃん。ここで会った時以来だよね?」

「ええ……」

 

 上手く動かない頭で、ボクは自然と仮面を被り直した。けれど、以前と同じ口調で話すボクの態度に姉さんは少し悲し気に笑った。

 

「私には、本当の雪乃ちゃんを見せてくれないの?」

 

 いつものわざとらしい態度ではなく、本当に悲しそうな姉さんに、ボクは少し動揺した。

 

「……本当なんて、そんな大層なものじゃないよ。ボクはただ……ただ、奉仕部の二人の前では、少しだけ自分を出すようになったってだけ」

「そう。……よかった」

 

 少しだけ嬉しそうに見つめる姉さんの視線に、ボクはまた動揺してしまった。

 ……どうして、そんな目をするんだ。あなたは、姉さんはボクが雪ノ下雪乃らしくないことをするのが、嫌だったのではないのか。遠い昔から、確かに姉さんはボクが私らしくあるか監視していると思っていたのに。

 

 頃合いを見て、比企谷君が口を開く。

 

「なんだ、雪ノ下と陽乃さんの間には、何かすれ違いがあるんじゃないかと思ってな。それで俺が、陽乃さんを呼んだんだ。話をしませんかってな」

「比企谷君が、姉さんを……」

 

 それは、なんだか面白くない。でも今の本題はそれではないだろう。感情を飲み込んで、ボクは先を促す。

 

「それで、比企谷君はどうしたかったの?」

「どうしたい、っていうと分からんがな。ただ俺は、妹に誤解されているのは嫌だろうと思っただけだ」

 

 妹、という言葉を出す時、比企谷君は少しだけ優しそうな顔をする。

 

「私も比企谷君に話がしたい、って言われただけだからね。今日は何かしようと思って来たわけじゃないの」

 

 姉さんは穏やかにそう言うと、手元の湯気を立てるコーヒーカップに手を伸ばした。

 ……動揺して気づかなかったが、ボクはまだ何も注文していなかった。少し迷って、姉さんと同じものを注文する。

 

 注文を受けた店員さんが去っていってから、ボクは恐る恐る言葉を紡いだ。

 

「……姉さんは、ボクがこんな口調なことに怒ったりしないの?」

 

 ボクの言葉に、姉さんは少しだけ目を丸くした。

 

「どうして?」

「どうしてって……」

 

 ボクは、何かしらネガティブな反応が返ってくると思っていた。だから緊張しながら聞いたのに、なんでもないような態度の姉さんに、肩の力が抜けたような気がした。

 

 卓上に沈黙が流れる。ボクは何を言えばいいのか分からなかったし、姉さんも珍しく何を言えばいいのか迷っている様子だった。

 

 笑顔で近づいてきた店員さんが、ボクの前にコーヒーカップをことり、と置いた。黒々としたそれは、ほんのりと湯気を立てている。

 ちら、と二人の顔を見る。ボクは少しだけ迷ってから、ガムシロップとスティックシュガーを掴み、カップに投入した。

 そんな様子を眺めていた姉さんが、声をかけてきた。

 

「……ねえ、雪乃ちゃんは、もしかしてずっと、私に言われたことを気にしていたの?」

「え?」

 

 真剣な表情に、ボクはかつての姉さんの言葉を思い出した。

 

「『──ちがう。雪乃ちゃんはそんなこと言わない』」

 

 確かに、あの言葉はボクを縛る一因になっていた。でも。

 

「気にしていたかもしれない。でも、ボクがこうなったのは姉さんのせいじゃない。ボクの判断で、ボクの生き方だよ」

 

 今だから、言える。雪ノ下雪乃たらんとして生きていたボクも、ありのままでいるボクも、全部がボクだ。だから、姉さんがそんな悲痛な顔をする必要なんてない。

 

「そう。──私ね、小学生の頃、雪乃ちゃんが急に変わった時、雪乃ちゃんがどこか遠くに行ってしまう気がしていたの」

 

 つつ、とカップのふちをなぞりながら、姉さんは語り始めた。

 

「それが良い悪い、じゃなくて、雪乃ちゃんが変わっていくのが怖かったの。だから、余計なこと言っちゃったかもしれない」

 

 どこか遠くを見つめながら、姉さんは続けた。

 

「私はね、あれ以来雪乃ちゃんが分からなくなっちゃった。他人の考えていることなんて簡単に分かると思っていたんだけど、大切な妹の考えていることだけは分からなくなっちゃったの。それが、怖かった」

「姉さん……」

 

 自分の思いをこんなにあけすけに話す姉さんを、ボクは初めて見た気がした。

 

「だから、雪乃ちゃんが自分の思うままに振舞えるようになったなら、私は嬉しい。……ああ、結局私はこれを言いたいだけだったのかもしれない」

 

 そう言って、姉さんは自然に笑った。

 それを見たボクの胸中には、不思議なほどの安心感が広がった。自分で思っていたよりも、姉にどう思われているのかが、ボクはずっと気になっていたらしい。

 

 話がいち段落したことを察したらしい比企谷君が口を開いた。

 

「陽乃さんは、俺がお前の本音を聞くために行動する時に背中を押してくれたんだ。……この人、多分お前が思っているよりずっとシスコンだぞ」

「ちょっと比企谷君! 生意気なこと言うなあ、このこの!」

 

 スッと席を立った姉さんが、比企谷君の背中をバンバンと叩く。

 

「いたっ……いたっ! 力強くないですか? ──いった!」

「レディに失礼なこと言うと雪乃ちゃんあげないぞ?」

 

 ……なんだか仲が良さそうだ。

 

「姉さん、比企谷君をおもちゃにするのはその辺にして」

「あれ、雪乃ちゃんもしたかった? 思ったより広いよ、背中」

「それは知ってる」

「あっうん」

 

 比企谷君と服を選びに行った時を思い出す。猫背なので分かりづらかったが、服を合わせると意外と背が大きいな、なんて思った。

 

「姉さん」

「うん?」

 

 まっすぐに目を見て、ボクは姉さんに声をかける。こんなにも晴れ晴れとした気持ちで姉さんと話したのは、初めてだった気がする。

 

「この後、買い物に行かない? ……もちろん、比企谷君を連れて」

「いいよ!」

 

 ボクによく似た顔で、姉さんは笑った。なんだか嬉しくて、ボクもつられて笑ってしまった。

 

 

「俺の意思は……?」

 

 比企谷君の呟きには、誰も答えなかった。

 




書きたいと思っていた話はこれで最後です
ここまで付き合って下さった方ありがとうございました!


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