歴史の中のウマ娘 (友爪)
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自動車打ち壊し運動 、バ車ウマ娘について

 ウマ娘世界ことわざ。

 

【バ車ウマの様に働く】

 大切にしてくれる雇い主のためにも一生懸命に働く事。

 転じて、理想的な雇用関係の例え。

 ニポンのサラリマンは「俺もバ車ウマみたいに扱われたい」と頻繁に居酒屋でぼやいている。

 

 

 ◆

 

 

 決定的に「技術がウマ娘を凌駕した」ターニングポイントというのは、ワット以降の蒸気機関でしょう。

 産業革命期の蒸気機関車は、ウマ娘より速く長く、力強く走りました。

 石炭の煙をモクモクさせながら人間さんを運ぶ蒸気機関車を眺め、煙たい表情をしたウマ娘たちは「でも機関車は線路の上しか走れないもんね」と、まだ余裕でいました。

 

 しかし、内燃機関(エンジン)の開発に伴い、道路に自動車が進出してくると、そんな虚勢も崩れます。

 中でも当時の《バ車ウマ(御者)》たちは、仕事が無くなってしまうんじゃないかという不安──それ以上に、自動車への激しい嫉妬に狂いました。

 

「人間さんを運ぶ役目は、ウマ娘に生来与えられた権利であって、機械なんぞはお呼びでない!」

 

 そして遂に、《自動車打ち壊し運動》がヨーロッパ各地に勃発。

 ウマ娘たちが徒党を組み、クソデカハンマーで次々に自動車を叩き壊す──これは誰もが一度は見た事がある、教科書の写真ですよね。

 

 特に運動が激しかったのがイギリスでした。

 英国バ車ウマギルド(現存組織)の主張によれば、

 

「車なんか使ったら、旅先でご主人にお茶を淹れてあげる事も出来ない!」

 

 との事──旅先で主人と一緒に優雅に紅茶を嗜む、というのが英国御者として一つの理想モデルだったのですね。

 さて、そうして自動車をぶち壊しまくるのが功を奏したものか、イギリスでは、

 

・専属御者を抱える者が自動車を購入する際は、そのウマ娘の承認書を得なければならない。

・自動車はウマ娘を超える速さで道を走ってはならない。

・急なエンジン音で、みだりにウマ娘を脅かしてはならない。

 

 等々、謎の条例が施行されます。

 その後色々あって、ウマ娘と自動車は和解します(マルゼンスキーさんの車好きというのは、歴史を読み解けば、ある意味感動的な話です)

 

 過激な《自動車打ち壊し運動》の結果、イギリスではヨーロッパ諸国に比して、取り返しのつかない自動車産業の遅れを取る羽目になりますが──しかし、逆にそれが廃れゆくバ車文化の保全にも繋がる事となりました。

 

 現代のイギリスにおいても、糊のきいた燕尾服にシルクハットという御者ウマ娘が行き交っています。

本職の御者が、これ程に活き活きしている光景を見られる町は、今となっては世界を見渡してもロンドンだけとなりました。

 

 それを見た海外の旅行者は「さすが紳士の国」と感心し《イギリスの御者ウマ娘》は一つの観光産業として有名であります。

 

 

 ◆

 

 

 ツキの無い日だ。

 この冬の夜の英国で、コートも羽織らない青年はくしゃみをした。

 朝から靴紐は切れるし、診療所に患者は来ないし、糊口をしのぐための副業小説も売れない。

 おまけにパブでやけ酒をしていたら、トランプに負けてコートまで剥ぎ取られてしまった。

 すってんてんである。

 財布を覗けば、硬貨一枚、明日のパン代が残るばかりであった。全く空でなかったのは、あのトランプ詐欺野郎の慈悲に違いなかった。

 

 ともかく青年は冬の路肩を歩き出した。

 自宅までの辻バ車を探すためだった。無論、バ車代まで支払ったら明日のパンも食えないのは承知である。しかし、アルコールに浸った青年の脳では、その件が大した問題でない様に感じられた。

 今日の全てにおいて何処か非現実的というか──つまり、やけくそなのであった。

 

 パブから歩いて程なく、辻バ車は捕まった。

 如何にも寒そうに足踏みをしていた辻バ車ウマ娘は、お客の顔を見付けるとにっこり笑って、尾っぽを振った。

 所々ほつれた燕尾服に、くたびれたシルクハット、塗装の剥げたバ車──うん、高くつくは無さそうだ、これに乗ってやろう。

 青年は些か乱暴にバ車に乗り込んで、ぶっきらぼうに住所を告げた。「ああい」と前から愛想の良い返事があって、バ車はごとごと走り出した。

 速くはない、小走りといった具合である。その揺れの穏やかさが彼の胃には有難かった。今、激しくシェイクされては逆流必至であった。

 御者は、男の顔色を察したのだろうか。最後の最後にツキが戻ってきたのかもしれないと、男はぼんやり思った。

 

 青年が背もたれに深く寄り掛かると、尻の方でがさがさ音がした。見れば、新聞紙が尻と座席に挟まっている。それを引き出し、路肩のガス灯にかざす様にして読んでみる。

《英国バ車ウマギルド》発行のタブロイド──青年は何度か読んだ事がある。この組合に参加する御者のバ車には、必ず備え付けられている紙面だった。

 帰宅の暇潰しに、流し読みしてみる。

 八百屋のニンジン特売情報が一面にデカデカ載っていた。迷いなく青年はページを捲った。

 そこには《自動車》への非難の数々がビッシリ書かれていた。

 

 曰く。ウマ娘の雇用を奪う、軽薄で気品の欠片も無い、うるさくてビックリする──等々。

 その下には《御主人が自動車を買った私はお払い箱》という、連載小説が載っていた。ロンドンのバ車ウマ娘を主人公にした、近頃ちょっと話題の連載である。飛び飛びではあるけれども、青年も読者の端くれだった。

 読めば、遂に主人公が御主人からクビを言い渡される場面だ──むらむらと、青年の胸に怒りが湧いてくる。

 

 彼は御者ウマ娘という従事者が嫌いでなかったし(むしろ好きだし)、自動車という科学技術の産物に懐疑的でもあった。

 例えば御者ウマ娘は、優れた五感で道路の危険を察知するけれども、自動車というのはとにかく音がうるさくて運転手の感覚を鈍らせる。急に停止出来るかどうかも怪しいものだ。

 慣れ親しんだバ車の方が余程信頼出来るのに、自動車のせいでバ車ウマの雇用が脅かされるというのは、全体、憂慮すべき事態ではないか。

 噂に聞くところに拠ると、首都ロンドンでは過激なウマ娘たちが自動車を打ち壊す運動を画策していると言うが、しかし、彼には反対する気持ちには全くなれないのだ──

 

「この道も、明るくなりましたねえ」

 

 人知れず義憤にかられていた青年へ、不意に御者が語りかけた。青年はタブロイドから顔を上げて、御者ウマ娘のくたびれたシルクハットを見る。

 

「私が小さい頃っちゃあ、ガス灯なんか立って無くて、町中暗かったんですがね。今じゃあ、どこもかしこもピカピカで」

「そりゃ、今の方が走りやすかろうな」

「あはは、違いないですがね。ですが、私は寂しい気もするんでさ」

「寂しい」

「へえ、お客さんみたいに、若い人は分からんかもしれませんがな。昔、町の暗闇には怖あいモンスターが隠れてるんじゃないかと、震えたもんでさ。そういう時には、暗闇にはモンスターでなくて、妖精さんが居るんだと、自分に言い聞かせたもんで」

 

 車輪がごとごと音を立てている。

 ガス灯の灯りは、タブロイドの文字を読めるまでに照らして、特に五感に優れるウマ娘であるなら、路肩の隅々まで見えるのだろう。

 

「でも、ガス灯が立ってみてガッカリ。暗闇の中には、モンスターも、妖精さんも居なかったんでさ。何処まで行っても、冷たい石畳があるばっかりで」

「そりゃ、そうだ」

「ええまあ、そりゃそうなんでさ、その通りで。そんなもんは居ねえって、分かっちまった。はい、便利になりまして」

 

 御者ウマ娘の声色は喜ぶ様にも、悲しむ様にも聞こえた──そうして話しているうちに、目的地に着いた。

 青年は最後の財産、硬貨一枚をウマ娘に渡す。

 

「ありゃ、お客さん。こりゃちょいと足りませんね」

 

 平素であれば、この青年は「まけろ」と交渉していたに違いなかったが、しかし、この日に限っては何故かそういう気分にはなれなかった。

「次に払うから、つけておいてくれ」と青年が言うと「いやあ、まけておきまさ」と、御者ウマ娘は言った。

 それでも明日のパン代も無い青年は頑固で、自分の名前をウマ娘に無理矢理メモさせた。

 

「アーサー・コナン・ドイル。どうだ、書けたか」

「へえ、まあ……出世払いを期待してまさ」

 

 そう笑顔で言って、御者ウマ娘はガス灯の光の中を、ごとごと去って行った。

 

 



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江戸時代初期、踏み絵について

 思い付いた短編小話を連載にしてみました。
 面白い歴史系アイデアを感想欄に書いて頂くと、作者が喜びます。


 江戸時代初期、長崎奉行は頭を悩ませていた。昨今、長崎では異国の宗教が拡がりつつあり、その取り締まりに追われていたのである。

 奉行所側から捜査を行うにも、こと信仰心の問題であり、確たる証拠を挙げるのは限界がある様に思われた。しかし、このまま対策を講じねば天下国家を揺るがす大事になりかねぬ。

 何か妙案は無きものか──はたと奉行は顔を上げ、膝を打った。「これだっ」彼は効率的に異教の民を炙り出す良策をひらめいたのである。

 

 早速の翌日。

 彼は近場の村人を奉行所に呼び出した。不意の御召に、何やら分からぬ村人は不安げに首を傾げる。

 すると奉行は紙を一枚広げて見せた。痩せ細った男が磔刑にされる絵図である。

 

「ここに描きたるは、天下御禁制の異教の神である。そちらに異教を敬う心無くば、足踏みにしてみるが良い」

 

 村人たちは顔を見合わせて、ほっとした。何か罰せられるのものかと思っていたのだ。そんな事なら朝飯前とばかり、村人は次々に関わりの無い異教の神を踏み付ける。

 しかし──最後に順が巡ってきた村ウマ娘だけが、絵を踏めなかった。えいっ、と掛け声して膝を上げてみるものの、踏み下ろす事がどうしても出来なかったのである。

 村ウマ娘は問答無用でお縄になった。

 

 次の日も、奉行は別の村人を呼び出して同じ事を試させた。やはり、そこの村ウマ娘も絵を踏む事が出来なかった。次の村も、その次の村も同様であった。

 奉行は頭を抱えた、これは由々しき事態かな。

 知らぬ間に長崎のウマ娘は、これほど異教に侵されていたのか。広大な田畑を一生懸命に耕すウマ娘、それを軒並み牢に入れてしまっては、年貢がおぼつかなくなってしまう。

 

 何と、もしや。

 奉行は不意に恐ろしい不安に駆られた。彼は大声を出して、とある部下を呼び出した。彼女は直ぐに飛んで来た。

「御奉行、私をお呼びですか」と耳をぴょこぴょこさせている。忠義に厚い武士の鑑、奉行が特に信頼を寄せているウマ娘であった。

 奉行は徐に懐から絵図を取り出して、武士ウマ娘の前に広げた。ここ数日と同じ様に、これに関わらぬのなら足踏みにせよ、と命じた。

 

 不安は現実となった。

 武士ウマ娘は見るからに狼狽した。目を白黒させ、尾っぽを忙しなく動かしている。「さあ、早く踏め」奉行は半ば祈る様な心地で言った。

 忠義厚い武士ウマ娘は、頑張ってその命に従おうとした。ぎゅっと目をつぶって、足を振り上げる。そのまま暫し固まって、しかし、出来ず。

 ウマ娘は絵図から飛びずさって土下座をした。

 

「どうか御容赦を、こればかりは出来ませぬ!」

 

 奉行は己の血の気が失せていくのを感じた。そんな、まさか、最も信頼した部下でさえも天下に背くと言うのか──武士ウマ娘は、半べそをかいて、正直に白状した。

 

「そこに描かれたるが何処の誰だか存じませぬが、それでも人間さんを踏み付ける(・・・・・・・・・・)なんて……とても可哀想で出来ませぬっ! この不忠者をお許し下され、御奉行」

 

 即日、お縄にされた村ウマ娘たちは放免されたのだった。

 

 




「馬は人間を踏まない」という事から、蹄鉄が交通安全お守りになっている、現実の話が本当に好きです。

ウッカリ踏んじゃうのは除く。


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ソビエト建国とウマ娘について

 全ての国民が平等なパラダイスみたいな国を作りたかった時のウマ娘です。



 ウマ娘を政府官僚に就けた場合の最強特性『腐敗しない』に着目して全く新しい国家体制を作り上げようという試みこそ、ソビエト社会主義共和国連邦であった。

 

 二十世紀初頭、ロシアの労働環境というのは全く悲惨なものであった。旧来の皇族に搾取され、新興の資本主義者に搾取され、そして追い討ちをかけるように世界大戦が勃発し生命まで搾取されるのである。

 

 民衆は貧困に喘ぎ、そして支配階級に対する憤怒は爆発寸前であった。

 とある革命家、ウラジーミル・レーニンは思った。

 世に蔓延るブルジョア共は、プロレタリアウマ娘から搾取するばかりで、彼女たちが可哀想だ。

 

「ならばいっそウマ娘に経済を計画させてしまえ。万国の同志ウマ娘よ、団結せよ!」

 

 いや、そうはならないだろう。またぞろウマ娘愛好を拗らせたお兄様が現れたぞ──と当初こそ世間の目は生暖かかった。ところが知っての通り、民衆の怒りを味方に付けたレーニンは共産主義革命を成し遂げてしまったのである。

 ここに、ソビエト社会主義共和国連邦が爆誕した──それは『ウマ娘官僚による計画経済』という史上最大規模の社会実験の始まりでもあった。

 

 それはマルクスの『資本論』に、共産主義国家の素晴らしさが説かれていても、肝心の作り方が書いてなかった故の苦肉の策とも言えたが、ある意味、レーニンは正鵠を射ていたのだ。

 ウマ娘たちには『他者を苦しめて私腹を肥やす』という発想が希薄だったからである。二十世紀初頭の資本主義体制下で、ウマ娘が資本家に良い様に食い潰されてしまうのも同様の理由であったろう。

 

 さて、アメリカ合衆国がずっこけたのを発端に世界中が大恐慌に喘ぐ中、ソ連だけは逆に経済を飛躍させていた。

 一番には、官僚ウマ娘に計画させた『集団農業』が大成功したからである。

 

「これからは皆平等で、誰かがお腹を空かせなくても良いんですか? やったー!」

 

 と、ソ連全土のウマ娘は勤労意欲に燃えていた。初期のソビエトは、間違いなく全世界の労働者階級の理想国家であった。

 ウマ娘は決して賄賂を取らなかった。取るとしても、収穫期の畑からカゴいっぱいのニンジンをちょろまかす程度で(それも農家さんに持たされていた感がある)、腐敗とは無縁であった。

 

 また官僚ウマ娘は『計画』に幻想や欺瞞を持ち込まなかった。現実に則した無理の無い持続可能な経済成長──それは実際に、ロシアで凍死と餓死を激減させるという効果を上げた。

 彼女たちの『計画』は常に理想国家を実現するためのものだったのだ。

 

 そう、レーニンが生きている間と、その後暫くは良かったのだ。

 だがレーニン亡き後の権力者に登ったのが、ミスター猜疑心、鉄の男、筆髭おじさん──ヨシフ・スターリンである。

 

 本来、レーニンの跡目として有力視されていたのはトロツキーというウマ娘であった。

 彼女は熱心かつ優秀な共産主義者で、先の革命時の内戦では赤軍を創始し、同時に指揮者としても活躍するというソビエト連邦の立役者である。

 そんな革命の情熱に胸を焦がすトロツキーであったが、同志レーニン亡き後、すっかりしょんぼりして全く熱意を失ってしまった。

 そして「港が凍らない温かい所で暮らすね」と同志ウマ娘に言い残し、メキシコに移住してしまったのである。

 

 そして、労せず最高権力を掌握したのがスターリンであった。

 その男はとにかく恐れた。何を? と言えば、ソ連の官僚がウマ娘で占められている事である。彼は疑った。

 

『このままではウマ娘に人間が支配されてしまうのではないか?』

『力で敵わないウマ娘に権力まで握られたら、人に反抗する術は無いのではないか?』

 

 これは歴史上の最高権力者がしばしば取り憑かれる猜疑である(例、始皇帝)。

 疑心暗鬼に陥ったスターリンは徐々に官僚を人間に置き換えていった。ソ連建国を支えた古参のウマ娘たちの解任は、確かに別の手段を以てする組織の『粛清』であった。

 しかし、強制的に解任されたからといって、ウマ娘は特に権力に拘泥する素振りもなかった。敬愛なる同志レーニンが亡くなって気分が落ち込んでいた事もあり、さっさと田舎に帰ってしまったのだ。

 

 こうしてソ連は『腐敗しない官僚』という最大のアドバンテージを、自ずから投げ捨てた。その後のソビエト連邦の末路は、皆様知っての通りである。

 トロツキーが跡を継いでいれば、スターリンが官僚ウマ娘の粛清を行わなければ、ソビエトは未だ健在であったろう──とは、ソ連崩壊直後のロシア人の言葉である。

 

 ソ連崩壊時、多くのスターリン像は引き倒され、打ち壊された。対照的にレーニン像のほとんどは健在であり、今なおロシアの各地で理想国家設立の夢に破れた後の祖国を見守っている。





コンセプト。人間がやった共産主義は失敗したけれど、ウマ娘がやったら割と成功するんじゃね?


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ソビエト建国とウマ娘について②

興が乗ったので一日で書きました。
全ての国民が平等なパラダイスみたいな国を作りたかった時のウマ娘、その②。


 十月革命を経て評議会(ソビエト)の一派、多数派(ボリシェヴィキ)独裁が開始されると、その総帥であったウラジーミル・レーニンはとうとうロシアの広大な大地を意のままにする権力を手に入れた。

 いきなり政府官僚にウマ娘を採用し出した事から《とち狂ったお兄様》と西側諸国に揶揄されがちなレーニンであるが、実物の彼はいち共産主義者として唯物論的思考をする合理主義者であった。

 革命政権を樹立するにウマ娘を官僚に据える事は、周りにどう思われようと、彼にとっては合理的な選択であった。

 

 ウマ娘は「人間さんに指図して働かせる」という仕事が、あまり得手でない事は大昔から知られていた。

 これは歴史上、ウマ娘の為政者が少なかった理由でもある(遊牧地帯は除外)。

 しかし知っての通り、レーニンは半ば強引にウマ娘を官僚に就けてしまう。彼にとって合理的(・・・)な行いという確信があったのだ。

 上手くいくはずがない、と皆思った。官僚ウマ娘など古今東西に聞いた事も無い。同志レーニンの考えが分からない──実は《とち狂ったお兄様》という異名は、最初はソ連内部で発生したのかもしれない。

 

 しかし、下バ評は覆された。

 官僚ウマ娘をいざデスクに向かわせてみると「人間さんに無理させちゃ駄目だもんね」と極めて高等な知性を発揮して、実地調査に基づく現実的、そして公平平等な『計画』を打ち出したのだ。

 これは驚くべき発見であった。人民(ウマ娘自身を含む)は何となく、ウマ娘は官僚に向かないという常識があったからである。

 ウマ娘に備わる物事の本質を見抜く力(・・・・・・・・・・)──ただ一人その能力を確信し、常識を破ったという意味でもレーニンは『革命家』であった。

 ソ連の一次産業(食糧生産)は、前話に先述した様に、国内のソビエトウマ娘たちの努力も手伝って徐々に伸長した。官僚ウマ娘たちの精力的な労働で、飢えと寒さで命を落とす人民は激減した事は巨大な功績であろう。

 

 こうして、レーニンはウマ娘を大々的に官僚に据える試みを成功させた訳であったが、しかし一日中デスクに齧り付く環境はウマ娘の精神衛生に宜しいとは言えなかった。

 メンタルがウマ娘の仕事効率を大きく左右する事は昔々から知られているが、文官仕事も例外ではなかった。

 そのためにレーニンが、週末に職場内での草レースの開催を奨励し、家庭菜園を営むための郊外の土地(ダーチャ)を配分し(ソ連の土地は須らく国有であるため、正確には土地用益権を与えた)、官僚ウマ娘のストレス緩和に努めた。

 

 また、レーニンは更なる労働の効率化のためには、悪徳資本家の様に闇雲に働かせるのではなく、適切な労働時間でなければならないと考えた。

 そしてソビエトは世界で初めて『一日八時間労働』を法律で定めた国家となる(革命以前は一日十二時間以上酷使される環境が平然とまかり通っていた)。

 ご存知の通り一日八時間労働は現代においてもワールドスタンダードである。

 

 これら施策を現代的福利厚生の黎明であると見なす場合がある──しかし、これは単にレーニンの唯物論的な効率主義と、ウマ娘愛好に基づいた施策に過ぎない。

 とはいえ、この時代の資本家に『労働者を大切に扱う』概念など皆無なのであり、動機こそウマ娘の精神衛生上の問題としても、現実にそれを行ったレーニンの影響は大きい。

 事実、これら施策が当時の労働者階級(プロレタリアート)には礼賛をもって受け入れられた事からも明らかだろう。

 

 因みに、計画段階では法律を適用するのはウマ娘限定と構想していたレーニンだったが「そういう不平等は共産主義に反しますよ……?」と官僚に凄まれたので考えを改めたという経緯がある(らしい)。

 

 

 ◆

 

 

 レーニンは、競バに関する改革を行った事でも有名である。曰く、

 

「競バをブルジョア的な賭博の場にしてはならない。ましてや一部階級に独占されるなどもってのほか。ウマ娘の輝く勇姿は、全ての国民で共有されるべきである!」

 

 またぞろお兄様が何か言い出たぞ──再び世間は生暖かだったが、不断の決意とカリスマで本当に実現してしまうのが並のお兄様ぶりではない革命家ウラジーミル・レーニンだった。

 ロシア革命以前は王侯貴族や資本家など、それまで上層階級限定の娯楽であった競バを、レーニンは広く国民に開いた。競バ賭博も禁止した事で、一躍女性や子供にも広く受け入れられる国民的娯楽となる。

 これもまた、競バを国営非営利の催しとするモデルの先駆けと言えるだろう。

 後になってこの非営利モデルを諸国が模倣した事を思えば、ひょっとすると、ソビエト無くして今のURAの形も存在していなかったのかもしれない。

 

 さて、そんな同志レーニンであったが、今や国民的娯楽と化した競バに気を良くして、共産主義特有のクソデカ競バ場の建設を画策した。

 その幾何学的だが独創的なデザインイメージ図を、嬉々として官僚ウマ娘たちに提案すると、彼女らはお互いウマ耳を寄せあって「ああかもね、こうかもね、そうかもね」と試算を始めた。

 そして試算の結果、

 

「そんな予算は何処にもありません同志レーニン」

 

 とバッサリ袈裟懸けにされた。否、それはそうだった。ただでさえ競バの無償化で相当に予算を圧迫していたのだから。

 流石にしょげるレーニンだったが、そんな事でめげるタマならソビエト連邦は存在していない。

「計画するだけなら問題無いだろう」と開き直って、政務の合間を縫いながら壮大な競バ場の構想を練り出した。提案を切って捨てた官僚ウマ娘もノリノリで計画に参加したらしい(確かに計画を妄想している時が最も楽しいかもしれない)。

 

 そしてソビエトの叡智を結晶した、綿密極まりない夢の巨大競バ場構想が出来上がった。何せ実現させなくても良い(・・・・・・・・・・)建築物のため、予算度外視の完全な趣味の産物である。

 そこでレーニンの欲求は満足したらしく、この素晴らしい計画書を大切に机にしまい込んだ──そして後年、スターリンが件の計画書を発掘し巨大な《レーニン競バ場》を建設した事は、彼の数少ない善行として語られているが、その話は後に回そう。

 

 

 ◆

 

 

 ソビエト建国以来、遍く人民を慰撫したウラジーミル・レーニンだったが、激務が祟り脳梗塞で急逝してしまう。

 全ソビエトウマ娘は心のトレーナーさんの突然の訃報に涙に暮れた。どれくらいの悲しみかと言えば、同志レーニンの遺体を永久保存(エンバーミング)して一般公開するくらいの喪失感であった。

 レーニン廟の長大な行列と、その前の《赤の広場》でのたうち回る官僚ウマ娘の悲哀が一先ず落ち着くと──後継者は誰にするかという、現実的な問題が立ちはだかった。

 

 下バ評ではトロツキーというウマ娘が最有力であった。彼女は積み上げた実績、名声共に申し分ない正統後継者である。

 ロシア内戦時、皇帝派のウマ娘に共産主義の素晴らしさを演説して味方に引き込んでしまう雄弁。トロツキーを中心に赤軍を創設し、指揮者としても超一流で連戦連勝する戦略・戦術眼。ロシア全権を負い、第一次世界大戦の講和交渉を務める──等々、色々と凄いウマ娘である。

 だかしかし、前話で述べた通り、彼女は傷心のままメキシコに移住してしまう。

 その後のトロツキーは、家の中で山登りがしたかったらしい妙な人間さん(何故かピッケル片手に家を訪ねて来たらしい)と友好を育んだりしながら、彼女は彼女で悠々自適に共産主義活動に勤しんだという。

 

 ここで不意に後継者に浮上したのがヨシフ・スターリンという人間だった。

 官僚ウマ娘たちには「おひげ」と呼ばれた、レーニン政権下に人事権を握った男である。

 スターリンはレーニン死後、与えられた人事権を振りかざして政敵を陥れる事で、権力の座を上り詰めるのを生業にする謀略家であった。

 そして最大のライバル、ロシア全権トロツキーをどうして追い出してくれようと悩んでいるうち、当人が突如引っ越してしまったため少々困惑しながら最高権力を掌握した、という経歴の持ち主だった。

 

 そう、スターリンは皆に望まれた指導者ではなかった。

 本来その立場にあるはずだったトロツキーに譲ってもらった(・・・・・・・)という世評が、否応なしに漂っていた。

 それがスターリンには屈辱であった。世評を覆すために、彼は何としても偉大なる同志レーニンの大業を超えなければならなかった。

 幸いにも優秀な官僚ウマ娘はそっくり残されている。これを最大に利用してやろう──と、直ぐさまスターリンは《五ヵ年計画》を立案し、粛々とした遂行を官僚ウマ娘に求めた。

 計画の内容とは、

 

『今後五年(五年とは言っていない)の間に、全工業生産250%増、重工業330%増、農業生産150%増、農地の20%集団化を目標とする』

 

 という、途方も無い計画であった。

 早速官僚ウマ娘たちはウマ耳を寄せ合って「ああかもね、こうかもね、そうかもね」と検討していたが、さほど時間を要さず返ってきた回答というのは、

 

「それは無理です同志スターリン」

 

 袈裟懸けだった。鋼鉄の男は鼻白んだが、一応理由を聞いた。

 すると筆頭官僚ウマ娘が応じる。

 

「各産業というのは一見個別の様に見えて、実は密接に絡んでいるのです。産業を成長させるためには、全体のバランスを慎重に検討しながら、現実に則った計画を立てる必要があります。それらを無理に推し進めれば、どんな社会の歪みを起こすか見当もつきません。

 一朝一夕に生産高を激増させられる等という幻想(・・)は、どうかお捨てになる様に。それより、この素晴らしい共産主義国家の未来を憂い、一歩一歩着実に前進していこうではありませんか同志スターリン」

 

 ぐうの音も出ない正論だった──凡人なら反省する所でも、ヨシフ・スターリンという人間は一味違う。

 どうやら『レーニン体制の保守派が己の野望を阻止しようと企んでいる』としか思えなかったらしい。

 確かにレーニンは強固な決意を宿した男だった、しかし理路整然とした諌言をされれば(特にウマ娘からであれば)受け入れる事の出来る政治家だった。

 しかしスターリンというのは、諌言の全てを猜疑心に落とし込む政治家だったのである。《鋼鉄の男》は、あだ名の通り、他の意味で極めて頑なであった。

 

 官僚ウマ娘は私の大業を阻止しようとしている。もしかすると、同志レーニン亡き後の権力の座を独占しようと企んでいるためではないのか。思えば、ソ連官僚は全員ウマ娘で占められているではないか。これはウマ娘が愛らしい笑顔の下で、人間を支配しようと画策する動かぬ証拠だ、そうだ、そうに違いない!

 

 そんな薄暗い猜疑を積もらせていたスターリンの下に、とある自称農学者がやって来た(来なくて良い)。

 彼はトロフィム・ルイセンコと名乗り、代替わりしたソビエト指導者に高々とプレゼンした(しなくて良い)。

 

「官僚ウマ娘の発言は西側のブルジョアに毒されており、政治的に正しくありません。それに比べ私の理論とは完璧に共産主義的であり、つまり、五年の間に農業生産を倍増させる(・・・・・・・・・・)事も可能です!」

 

 ルイセンコの理論を抜粋要約すると、

 

『人間社会とは異なり、自然界には階級が存在しない。故に、自然界の同種の生命同士では資本主義社会のような醜い競争は起こりえない。作物を密植(隙間無くぎっしり植える事)しても土中の養分の奪い合いになる事はなく、密に植えた分だけ収穫量が増えるであろう』

 

 という事だ。

 上記怪文書に関して、もはや筆者からは反駁も何も無い。全て読者諸君の良識にお任せする──ともかく、スターリンはこの理論に飛び付いた。

 何故ならば、正に彼の野望をあらゆる方面で担保するかの様な理論だったからである。或いはルイセンコがその心理に付け入ったのか、今となっては推測の域を出ない。

 

 この控えめに言ってトンチンカンな農法に対して、無論、官僚ウマ娘は猛反対した。慎重な計画立案がどうだとか、そういう段階の話ですらない。

『みんな平等に豊かになれる』という、同志レーニンが遺したソビエト建国の理念ごと揺らぎかねないのだ。

 官僚ウマ娘たちは連日スターリンに詰め寄って、一生懸命にエセ農学者ルイセンコを遠ざける様に言ったが──悲しいかな、ウマ娘はそういう非難めいた告げ口が得意ではなかった。

 ましてやミスター猜疑心ことスターリンである。官僚ウマ娘たちが下手に権力にしがみつこうとしている様にしか見えず、益々不信感を強めるばかりであった。

 遂に説得を諦めた官僚ウマ娘は去り際、悲しそうに呟いたという。

 

「同志レーニンは、私たちを信頼してくれたのに……」

 

 その発言は双方にとって完全な決裂であった──以後、スターリンは正式に《五か年計画》遂行から官僚ウマ娘を除いた。

 間もなく、匿名の密告があったとして官僚ウマ娘は告発される。それは、

 

『官僚ウマ娘は毎年収穫された野菜を横領し、ボルシチを作っていた』

 

 という根も葉も有る内容だった(これくらいしか告発のネタが無かったとも言う)。この『深刻な汚職』を口実に、スターリンは官僚のポストを信頼のおける(・・・・・・)人間に置き換えていったのだ。

 明らかに無理があろう『粛清』にも関わらず、意外なほど異議は唱えられなかった。官僚ウマ娘から振る舞われるニンジンボルシチを毎年楽しみにしていた最寄りの共産党員(人間)は震え上がっていたのが一つ。

 

 加えて、これは注意すべき点であろうが──ウマ娘による官僚独占に対する恐怖は、何もスターリン特有の感情ではなかったのだ。

 レーニンによる人事革命、官僚ウマ娘の大成功は、古い価値観を捨てきれない人々にとって程度の差はあれ怖いものだった。これはどうしようも無い精神の慣性(・・)であった。そのため件の『粛清』はスターリンの強行というより、割にすんなり進んでしまったという面は否めない。

 

 そして肝心の更迭された官僚ウマ娘たちは一言の異論も述べず「承知しました同志スターリン」とだけ言い残し、各々さっさと故郷に帰って行った。強奪された権力に拘泥する素振りは一切無かった。

 この時スターリンは、官僚ウマ娘がその影響力を行使して武力で以て抗議してくるかもしれぬと疑っており、大いに身構えていたのだが、トロツキー以来の拍子抜けであった。

 

 ともかくスターリンの大業を阻む邪魔者は居なくなった。

 満を持して《五ヵ年計画》を、一新された信頼のおける(・・・・・・)人間官僚と共に、ルイセンコ式農法を軸に遂行する事になる。

 官僚ウマ娘による綿密な『計画』により順調に伸長していたソビエト食糧生産は、そうして大打撃を受けた──この後に起こった悲劇を詳しく著述する事は、どうかご容赦願いたい。

 ウクライナを襲った人工的大飢饉と言えば、概ね読者の皆様方に伝わるであろう。

 筆者から一つだけ言えるのは、それも官僚ウマ娘たちの『粛清』さえなければ起こりえない悲劇だったという事である。

 

 こうして、ソビエト連邦の黄金時代は一時の儚い夢として終わった。

 

 

 ◆

 

 

 当然と言うべきか、スターリンの《五ヵ年計画》という共産主義的幻想は大失敗した。

 熱心で賢明でかわいい官僚ウマ娘を粛清し、こんなエセ農学者を用いたという事でスターリンの評判はどん底に落ちた。

 しかし、そんな旨の報道は許されない。彼は政治的正統性のため、また己の尊厳のため、レーニンを超える偉大な指導者である事をアピールし続けなければならなかった。

 鋼鉄の男は、個人崇拝に踏み切った。

 

 必然、失敗の責任は転嫁される。

 何せ完全無欠の政治指導者スターリンが間違うはずがない。上手くいかないのは、共産主義に非協力的なブルジョア農民、或いは西側スパイの妨害のせいだとされた。

 計画の根本から間違っている等とは、誰も指摘しなかった。指摘するべき人材は既に田舎に帰っており、新たに出てこようものなら、ある日突然行方不明になった。

 スターリンの猜疑心は居るはずもない敵対分子(・・・・)を生み出した。そしてソ連全土に、歴史に悪名高い《大粛清》の嵐が吹き荒れる。

 

 苛烈な大粛清は、ソビエト連邦の象徴たる国旗にまで及んだ。

 初期ソビエトの国旗は、共産主義のシンボル《鎌と槌》そして《蹄鉄》である。前者が、(カップ)状の後者の中に収まっている形を取る。

 

【挿絵表示】

 

 それは、建国の父レーニンと、それを支えた官僚ウマ娘を象徴するものであった。

 しかし官僚ウマ娘の粛清後、スターリンは国旗から《蹄鉄》を引き剥がしにかかった。従来の国旗という国旗は、街の中心に集められ焼却された。

 燃えゆく《鎌と槌と蹄鉄》を見た時、ソ連国民は短いソビエト黄金時代の終焉を悟ったという。

 

 なお、ここまで独ソ戦前である。

 

 一人の男の采配ミスと猜疑心とによって、パラダイスみたいな国になるはずだったソビエト連邦は地獄の地獄と化した。

 だがしかし、この期に及んでスターリンは国民に愛されたい(・・・・・・・・)という願望を持っていた。

 ここまでしておいて、そんな健気さを宿しているのは、もはや不気味としか言い様がないが──とにかく、彼はレーニンの様に愛されたかった。愛に飢えていたと言っても良いだろう。ウマ娘さえ信じられないという深刻な疑心暗鬼の裏返しかもしれない。

 この時《五ヵ年計画》がずっこけた反作用で、国父レーニンの株が爆上がり(と言うと資本主義的だが)していた事にも、スターリンは激しく嫉妬した事だろう。

 

 そんな折、スターリンはレーニンが計画した壮大な競バ場の設計図を発掘する。

 それは単なる趣味の産物にしては緻密過ぎる様に思えた(ところがどっこい)。渡りに船と直感したスターリンは、早速国民に向かって、

 

「同志レーニンが惜しむらくもやり残した壮大な事業を、他ならぬ私が継承するのだ!」

 

 と巨大な《レーニン競バ場》の建設を高らかに発表した。

 同志国民は満面の笑みに拍手万雷であったが、そうしなければシベリアに送られるというだけの動機であって、内心では全くこの筆髭おじさんを信じていなかった。

 けれども、いざ完成してみれば、それはソビエト連邦の威信を全身で感じさせる、共産主義の勝利を確信させる様な素晴らしい競バ場であった。

 事実、西側諸国ですら《レーニン競バ場》完成度そのものを悪く言う事は叶わない程であった。

 

 同志国民は今度こそ本気で喜んだ。筆髭おじさんもたまには善行を行うのだな──もっともスターリンが担ったのは、例の綿密極まりない計画書を建築家に丸投げしただけであったが(それで円滑に工事が進んだというから、レーニンと官僚ウマ娘の叡智の証明である)。

 そうして国民が喜んだ反面、かつて官僚ウマ娘が苦言を呈した通り、国家予算的に相当無理をしていた。官僚ウマ娘の『粛清』以後、ただでさえ厳しいソビエト財政を更に悪化させたため賛否両論分かれる所である。

 

 だが「偉大なる全ソ連ウマ娘の心のトレーナーさん、同志レーニンに勝利を捧げる」をスローガンに、

 

《赤の広場杯》

 

 が、このレーニン競バ場で開催され、ソ連崩壊まで国民を大いに慰撫した事だけは確かだ。

 そして、ソビエト建国の父と、それを支えた官僚ウマ娘に敬意を表した《鎌と槌と蹄鉄》の優勝旗──今や、往年のシンボルを冠する旗はこれだけになってしまった──を手にする事は、ソビエトウマ娘にとってどんな共産主義勲章よりも名誉な事だったのである。

 

 



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アラビアのウマ娘と月星教について

 アラビアという土地は厳しい砂漠地帯である。

 今でこそ石油王が闊歩しているイメージが先行するかもしれないが、人類が化石資源を片端から燃し始める前は全く貧しい土地であった。

 砂漠気候で農耕に向かないため、点在するオアシスでナツメヤシや小麦が細々栽培される以外では、遊牧もしくは商業活動で生計を立てる人々が大多数であった。食料生産が限定される以上、人々が広く豊かになるというのは決して無い土地柄だったのである。

 そして、生活基盤たる商業活動の担い手として重用されたのがウマ娘という人類(・・)であった。

 

 時は中世、七世紀初頭。

 当時のアラブウマ娘が素晴らしい肉体を持っていた事は、ウマ娘ファンの諸兄であるからして全く既知の事実だろう。

 アラビアの気候に順応したウマ娘は、残酷なまでの渇きに耐久し、重い商材を引くだけの筋力があり、何より相当我慢強かった。

 文句も言わず、皆の生活を循環させるためにせっせと働くアラブウマ娘を人間たちが頼りに思う事は自然であったろう。

 あとそこに居るだけで可愛かった。

 

 さて、ここで言う肉体とは、近代競バに臨んでという意味でもある。

 敏捷、体力、力強さ、精神、かしこさ──いずれも高水準でバランスが取れており、後の名君《改悛王》下のポーランド王国によってヨーロッパ競バが興隆した際は、アラブウマ娘の肉体が理想のテンプレートとなった。

 

 それは同時にアラブウマ娘が戦に滅法強かった事も意味していた。

 ヨーロッパウマ娘駆士の正面突撃は何人たりとも止められず、遊牧地帯のポニーちゃんは無尽蔵のスタミナで一撃離脱を繰り返すけれども、しかし状況に応じて遠中近を素早く切り替えられる柔軟性はアラブウマ娘を置いて他になかろう。

 

 この特性によって、アラブウマ娘部隊というのは指揮官にとって非常に使いやすい(・・・・・)兵科だった。

 噛み砕いて言うならば、ジャンケン勝負で相手が一手しか出せない所、常にグーチョキパーで戦っているようなものである。

 指揮官を選ばず、あらゆる状況に適応可能な、勝ち易く負けにくい柔軟性──それはつまり、多方面作戦が可能(・・・・・・・・)である事を意味していた。

 アラブ文化圏が、東はペルシア、西はイベリアまで、広大な版図を築く事が出来た軍事的な理由がそれである。

 

 そしてアラブウマ娘を精神的に結束させたのが正しく《月星(げっせい)教》の存在である。

 七世紀初頭、月星教以前のアラブウマ娘は悩んでいた。

 それは、人間から受ける差別(・・)のためであった。

 

 

 ◆

 

 

 とあるアラブウマ娘がメッカの町を歩いていた。

 浅黒い頭に砂と日除けの布を巻き、その間から飛び出した耳は垂れている。この夕方の市場(バザール)の盛況に似つかわしくない不景気な顔と尾っぽをぶら下げて、あてどもなく足を動かしている。

 

 ウマ娘はメッカを拠点に持つキャラバン商隊の看板ウマ娘であった。

 今回の行商はかつて無い大繁盛だったものの、帰路に酷い砂嵐に見舞われ、危うく全滅しかけた。しかし彼女はアラビアの八百万の神に祈りを捧げ、砂を噛み締め、決死で荷車を引いた。

 その結果、一人も欠かさずメッカに帰って来る事が出来たのだ。

 

 市場を歩いていると、また露店の数が拡大した様に思った。横目に、ペルシア絨毯の見事な柄が入った。その横では、珍しい、ラテン(ベネツィア)人が貴金属を扱っている。

 この頃、メッカの町の隆盛ぶりにはちょっと驚くものがある。

 何でも、北方の二大国が長らく戦争をしていて、絹の道(シルクロード)が事実上断絶してしまったから、東西の商人たちは止むなくペルシア湾から紅海まで迂回航路を取っている。その補給地点にメッカは都合が良いらしい。

 何にしても俺らには有難いことさ──と、商人仲間から聞いた事がある。

 

 ウマ娘は有難いとは全然思わなかった。戦争なんか止せば良いのに、と思っただけだった。

 だが実際、彼女が看板を張るキャラバン商隊の羽振りが良く、今回の行商が大いに儲かったのは戦争のお陰でもある。

 その荷引きっぷりを「我らの幸運の女神よ」と商隊長に褒め称えられ、報酬に色を付けて貰ったのは嬉しかったが、依然パッと使う気にはならなかった。そんな事で、この虚しい心は晴れないだろうと自分を知っていた。

 

 重い懐がじゃらじゃら鳴っている。

 その金属音を本能的に聞き付けたか、露店の主たちはしきりにウマ娘を呼び止めて自慢の商品を勧めてきた。

 

「そこな道行くおウマさん。あなたのような尊い方に、似合いのお飾りが御座います」

 

 それは宝飾を散りばめたべっ甲の(くし)だとか、刺繍を施した滑らかな絹の布だとか、ウマ耳に引っ掛ける金銀の飾りだとか──いずれもウマ娘の審美眼に魅力的で、一瞬心が動くのだが、それらに手を伸ばし、懐の物を気前良くばら撒く気にはやはりなれなかった。

 

 あらゆる誘惑を跳ね除けて、ウマ娘は早足(人間にはちょっと追い付けない速さ)に市場を抜けた。

 市場を抜ければ、途端に景色が寂しくなった。ただ、拡大し続ける市場から出たごみが無造作に投棄されいる。とても綺麗とは言えない。

 辺りの岩の形を見渡して、彼女は気が付いた。少し前まで閑静な岩場だったはずで、何度か腰掛けて小休止した記憶がある場所だった。

 昔、此処で月や星を眺めたのだ。

 ウマ娘の心中に虚しさが募った。懐が重い。普段引いている荷車の何分の一にも足らない銭袋が、やけに足にのしかかる様だった。

 

 ぴくりとウマ耳を動かす。人の気配がした。ごみ溜りの中である。

 お化けかもしれない──ウマ娘は筋肉を緊張させて、直ぐに解いた。確かな息遣いを聞き取ったからである。お化けは息をしない。

 近付くと、ごみの最中に老婆が座り込んでいた。それはそれでウマ娘は驚いて声をかけた。

 

「お婆さん、こんな所でどうしましたか」

「はぇ……これは、おウマさん」

 

 老婆は力無く深々頭を下げた。ウマ娘は顔を上げる様に言うと、恐る恐る面を見せて事情を語った。

 

「実は食べ物を探していたのですが、見付からず、くたびれて座っていたのです。おウマさんに話すのも恥ずかしい事です」

 

 ウマ娘は頬っぺたをもぞもぞさせてから、聞いた。

 

「頼る人は居ないのですか」

「息子が一人居りました。これが親孝行で、商売上手な良い息子で……ですが二年前、不渡りを出しまして、家財から何から形に取られてしまいました。失意の中で、息子は病を得て亡くなりました。なので今は独りです」

 

 ウマ娘は尾っぽを静かに揺らした。彼女のキャラバンが繁盛する裏に、今メッカで起こっている実情を見た。

 成功する者の影で失敗する者が居る。何という商売の大原則──腹を撫でてみる、中には重い物がぎっしり詰まっていた。ウマ娘は懐に手を伸ばして、一掴み、そのまま老婆の前に拳を出した。

 にっこり微笑んで、言う。

 

「少ないですが、これで御飯を食べて下さい」

 

 差し出された金貨の束に、老婆は目を丸くして頭を振った。

 

「そんな、勿体無い」

「心配しなくても、今回の行商で一杯儲ったんです。働かなくても半年は食べていけます。どうか遠慮せずに」

「いいえ、私の様な人間如き(・・・・)が」

 

 老婆は再び頭を下げて懇願する様にしわがれた声で言った。

 

「尊いおウマさんが一生懸命働いて得たお金を、人間如きが奪う訳には参りません。そんな事は人が許しても、八百万の神様が許さないでしょう。どうか、お手をお戻しになって下さい、どうか……」

 

 拳が差し出されたまま、沈黙が流れた。ウマ娘は息をするのを忘れていた。ようやく出てきた言葉は、

 

それもそう(・・・・・)、ですね」

 

 額を岩場に擦り付ける老婆を後に、ウマ娘は再び徐に歩き出した。市場(バザール)とは反対側に歩き、早歩きになり、やがて走り出した。

 何か恐ろしく、冷たい巨人に追い立てられている気がした。

 

 嗚呼、何故だろう。涙が溢れて止まないのは。ウマ娘が人間さんより尊いのは当たり前(・・・・)じゃないか! 一体何のつもりだったんだ私は──

 

 訳の分からぬ涙を振り切る様に、アラブウマ娘は滅茶苦茶に走った。恐らく、市場の周りをぐるぐる回っているだろうという事だけ自覚していた。

 やがて疲れ果て立ち止まった時、ウマ娘は自分が未だ金貨を握り締めたままだった事に気が付いた。

 腕にうなりをつけて、夕闇の中に思い切り投げる。懐中の物も、此処で全部放ってしまおうかと考えた。後で誰かがそれを拾って使う方が、まだしも有意義な気がした。

 そして銭袋に手を伸ばした時、はたと声をかけられる。

 

「そこなおウマさん、品物を見ていきませんか」

 

 涙の止まぬ目を向ければ、この寂しい場所にも関わらず露店を広げる商人が居た。

 ウマ娘は怪しく思った。第一に、こんな辺鄙な場所で商売をしている事。第二に、今の様子の自分に声をかけた事だった。

 想いが耳に出ていたのだろう、何か言われる前に男は応えた。

 

「私は市場(バザール)から締め出されているから、こんな場所でしか商売出来ないんだ」

 

 市場出入り禁止を食らっているらしい、頬に照れ笑いを浮かべるおじさんが悪人で無い事は、直ぐに彼女には分かった。理由は無い、直感である。ウマ娘の直感は大体当たる。

 

 雑貨商人の周りをぐるっと二周回りながら涙を拭いて、ウマ娘は言われた通り品物を見た。数少ない貧相な品物──否、そうではない。彼女の商売人としての鑑定眼は見逃さない。

 品出しに余白が目立つから貧相に見えるだけで、良く観察すれば、いい加減な商材は一つも無い。値段を聞いてみる。良心的だ。

 ウマ娘は薔薇の香水を手に取った。前の長旅で、大切な毛並みを彩る香水を切らしていたのだ。匂いを嗅いでいると、心が幾らか落ち着いた。

 ウマ娘はこれを買う事にした。懐に手を伸ばしながら、ふと、あんなにお金を使う気にならなかったのに、今自然と取引をしようとしている自分を不思議に思った。

 

「どうしてあんな事を?」

 

 代金を受け取りながら、おじさんが尋ねた。金貨を投げ飛ばした事を言っているのだろう。ウマ娘はちょっと、いや大分恥ずかしく思った。

 むしろ胸を張って、ウマ娘は誤魔化さず答えた。

 

「お婆さんに金を恵もうと思ったけれど、断られたので投げ捨てた。思えば私の間違いで、ウマ娘が人間に恵むなんて不自然な行為だ。ウマ娘は人間さんより尊いんだからね」

「別にそんな事はないだろう」

 

 アラブウマ娘はびっくりして耳が反り返った。尾っぽも逆立つ。一瞬、おじさんが何を言っているのか分からなかった。

 

「ウマ娘も人間も、神の前では皆平等だ」

 

 さらりと過激な発言をするおじさんを、彼女は愕然として眺めた。そして、怒りの顔を作って詰め寄る。

 

「あなたは自分が何を言っているのか分かっているのか」

「もちろん」

「ウマ娘はえらいんだぞっ! 人間さんの何倍も働けるし、耳と尾っぽだって生えてるんだ」

「それがどうしたんだ」

「どうしたって……だって人間さんは皆言うじゃないか。ウマ娘は生まれながらに働き者で、かわいいから、尊いんだって」

「でも私はそう言わない」

「話にならない、この冒涜者め!」

 

 ウマ娘は激しく地団駄を踏んで見せた。尊き生き物の怒りに触れた人間は、ただ伏して許しを乞うはずであった。しかし、この男は平然として動じた様子が無い。

 成程、こんな危険思想の人物が市場から締め出しを食らうというのも道理だ。ウマ娘を自分を奮い立たせながら非難を続ける。

 

「良く聞け、この無知者が。パレスチナの《救世主》という人は、人間さんとウマ娘は兄妹だと仰ったという。即ち、神の子とウマ娘は同列に尊いという事じゃないか」

「……彼が言いたかったのはそういう事じゃない」

「アラビアの八百万の神々だって、ウマ耳を生やした御姿が殆どじゃないか。これはウマ娘が人間さんより尊いという何よりの証拠で──」

「違う、唯一神の他に神は無し!」

 

 急におじさんが大きな声を出したので、またアラブウマ娘はびっくりして小さくなった。

 

「ならばウマ娘に問う。太陽が厳しく照り付けるのはウマ娘と人間を区別するだろうか、砂が吹き付けるのはどうか、喉が渇くのは、腹が空くのはどうか、如何に!?」

「そ、それは同じだね」

「そうだ、神の御業は万物に平等なのだ。ウマ娘が人間より沢山働けるのは当たり前だ、神がウマ娘という人々をその様に創造されたのだから。ウマ娘にだって生まれ持った資質に差があるだろう。あるウマ娘が他の娘より力が弱いからって、君たちは差別するのか」

「そんな事は無い、キャラバンの皆で助け合ってる」

「ならばウマ娘と人間だって同じ事だ。人間は生来ひ弱い生き物だ、その力の中で精一杯生きている。そこに上も下も無い! 言うなれば、皆全て生きているだけで偉いのだ。その営みの中では、誰か一人得をすれば良いというものではない。生きとし生けるものは、神に与えられし力の範囲で、平等に助け合って生きていかねばならんのだ」

「そんな、そんな事……」

 

 何か反論しようとして、彼女は言葉が紡げなかった。それは今まで見聞きした何事よりも、目の前の見知らぬおじさんの言葉が胸に落ちたからである。

 

「今一度言おう。神の前にはウマ娘も人間も平等(・・・・・・・・・)なり。唯一異なるとすれば、敬神の念の深さにのみ拠って決まるのだ──さあ良く聞いて」

 

 呆然としているウマ娘を、優しい眼差しで見詰めて言った。

 

「君が困っているお婆さんを助けようとしたのは、決して間違いなどではない。持つ者が、持たざる者を助けようとする真心こそ、真に尊いものなんだ。皆が君の様な気持ちで他人を助けようとすれば、世界はもっと優しくなるはずなのだよ」

 

 アラブウマ娘はぽろぽろ涙を零した。それは先の頬を凍らす様な冷たい涙ではなかった。

 彼女がこれまで言いたかった事、聞きたかった事を全て聞けた気がした。

 メッカが興隆するに従い募った虚しい心の穴が、暖かいもので満たされたと感じた。

 

「おじさん、本当ですか。ウマ娘(わたしたち)は人間さんを助けても良いんですか」

 

 男は頷くと同時に、ウマ娘は膝を折って平服した。よよよ、と落涙しながら何度も拝礼する。

 

「あなたこそは神の使徒。私はあなたに帰依します」

 

 男はウマ娘に近寄って肩に手を置いた。

 

「顔を上げて、私を拝んではならない。既に先達が伝えた様に、我々は兄妹なのだから。そして私が今あなたに伝えた様に、我々は平等なのだから。拝礼するのは偉大なる唯一神のみに留めなさい」

 

 アラブウマ娘は顔を上げて夜空を見た。

 そして夜空の月と星の美しさに、偉大なる神の御業と、その前の平等を覚ったのである。

 

 

 ◆

 

 

 メッカの市場から締め出されていたおじさんが、町からも締め出しを食らうのは間も無かった。

 それもそのはず、彼が説く《月星教》の人類平等の教えは社会基盤を揺るがす危険新興宗教に他ならなかった。また単純な感情論として、

 

「尊いウマ娘を貶める人でなし!」

 

 というものがあった。

 現実には全く反対で『ウマ娘は生まれながらに尊い』という人種差別(・・・・)から脱却しようとした改革者だったのだが、やっぱり人間には直ぐに理解されなかった。

 

 平等と喜捨を是とする教えのため、在来商人たちから迫害を受ける。そして従来のアラビア半島の多神教徒は勿論の事、十字教徒、果ては六芒(りくぼう)教徒からすら迫害を受け、遂にメッカに居られなくなった時、付き従うのはたったの七十名──否、七十名も居たと言うべきか。

 

 メッカから北の町に移る際、おじさんに付き従う五十余名のウマ娘たちは悔し涙で道中を濡らしたという。

 何故この人の慈愛が皆には分からないのだろう──対して、優しいおじさんは堂々としたもので「何時か皆分かってくれるよ」と、しきりに皆を励ましたという。

 それから移住先の町で布教を始めると、彼を信じる者はどんどん増えた。

 ウマ娘だけが「尊い尊い」と持ち上げられる世の中に違和感を感じ、苦しむウマ娘がそれだけ多かった証拠だろう。

 彼女らにとって、困っている人間さんに躊躇いなく手を差し伸べられるという事は、果てしなく心を朗らかにする行為だったのだ。

 

 因みに、彼らの布教方法の一つとして著名なのが、人間とウマ娘が並んで歩く(・・・・・)というものがある。

 今でこそ何の変哲もない行為なのだが、当時のアラビア世界では、尊いおウマさんと並んで歩くなど不遜であるので、人間如きは三歩後ろを歩くのが常識だった(キャラバンでも常にウマ娘が先行して行進した)。

 だがしかし、月星教徒は人間もウマ娘も横並びに町を練り歩くのである。それも楽しそうに談笑しながら──それは人類平等(・・・・)の精神を高らかに宣言して回る布教に他ならなかった。

 並んで町行く月星教徒を見たアラブウマ娘たちは、指を咥え耳をへたらせ呟いた。

 

「いいなあ。」

 

 そして月星教のアラブウマ娘は爆発的に増加した。

 メッカを出た時にはたった七十人だった信者が、八年後には一万人に膨れ上がるという正に爆発的増加であった。

 満を持して、優しいおじさんとウマ娘軍団はメッカに乗り込んだ、そして「こんな物があるから駄目だ」と怒り心頭の軍団はウマ耳の偶像を徹底的に破壊し(もったいない)、高らかに勝利宣言を行った。

 遂に彼は、最も偉大な《預言者》としてメッカ(故郷)に凱旋を果たしたのだった。

 

 その後も《月星教》共同体は破竹の勢いで拡大した。

 偉大な預言者が死去する十年余までにアラビア半島全域を制圧。ウマ娘と人間が横並びに歩く光景も増えた。

 以後も勢いは止まらずエジプトを制圧、直後にペルシアを制圧。その後、短い内乱を挟むものの、まだまだ拡大は止まらない。

 そして遂に南地中海一帯(・・・・・・)を制圧。勢い余ってイベリア半島まで進出し、十字教圏と地中海を挟んで睨み合う形で共同体の拡大は停止した。

 

 そして、拡大を止めた月星教文化圏は内政に注力する様になる。

 世界の理法を解き明かす事は、偉大なる神の御業に近付くための努力である──という理念の下、非常に多岐に渡る学問(サイエンス)が大いに発展した。

 のみならず、古代ローマ帝国崩壊後、中世ヨーロッパが伝承出来なかったギリシア哲学をも吸収し、しかも発展させた。今日アリストテレスが読めるのは、まず月星教徒のお陰と言って過言あるまい。

 アラビアンナイトの舞台ともなったバグダードには《知恵の館》と呼ばれる図書館が建設された。そこには月星教徒の全ての学問が集積されており、当代一のアカデミックな場所であった事に疑い無い(そしてウマ娘朝モンゴル帝国に破壊された)。

 

 この急速な月星教文化圏の拡大の背中を支えたのは、冒頭に述べた通り、アラブウマ娘の戦争に滅法強い肉体である。

 その猛烈さたるや、率直に言って一般欧州駆士等ではお話にもならない──この言説は、史上最強トレーナーとも言われるサラディンと対十字軍部隊、げに恐ろしきモンゴル帝国軍を野戦で撃退(・・・・・)したマムルークウマ娘バイバルス、他諸々の列伝が担保する。

 

 上記の軍事的後ろ盾は勿論であるが──しかし、月星教の拡大について最も注意して特筆すべきなのは《預言者》の従来の人種差別を否定し、人類平等を説く教え(・・・・・・・・・)が積極的に受け入れられた(・・・・・・・・・・・・)事なのだ。

 

 アラビア人の優しいおじさんが唱えた人類平等の精神。

 パレスチナの《救世主》が伝えきれなかった事を、メッカの《預言者》が紡いでくれたのだ──少なくとも月星教のウマ娘は、我々の頭上に平等に昇る美しい月と星を見上げて、そう信じている。



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十字教とウマ娘について

 別作の『蒼きウマ娘 〜ウマ娘朝モンゴル帝国について〜』から、十字教に関する記述を抜粋、修正してまとめました。

 最後に福音記者《マグラダのマリア》について加筆しています。


 はっきり言おう(アーメン)。今日あるだけの糧と、愛をウマ娘に分け与えなさい。そうすれば明日の貴方は多きを与えられるだろう。

 

 ──紀元一世紀、エルサレムにて。

 

 

 ◆

 

 

 十字教の黎明期について。

救世主(メシア)》が磔刑に処された後、ローマ帝国内でウマ娘が布教活動に奔走したのは周知の事実である。

 彼女たちは、十字教が国教化されるまで約三百年の長きに渡り、地中海沿岸一帯を駆け回った。

 彼女たちは《救世主》がどれだけやさしい(・・・・)方であったか、懸命に言葉を尽くした。

 

「主は言われました。人間さんとウマ娘は、実は兄妹だったんだよっ」

 

 この布教(?)──の根拠となる《マリアによる福音書》は以下を記す。

 

『主と使徒たちが町を歩いていると、とあるウマ娘が盗み食いの咎で激しく責められていた。

 主は間に割って入ると、怒る人々を丁寧に宥め、騒ぎを収められた。

 使徒は、その親身さを不思議に思って理由を尋ねた。すると、主は澱みなく応えられる。

「私はウマ屋に生を授かりし者。どうして、あなたは私の兄妹について尋ねるのか」

 庇われたウマ娘は、その言葉に感激して罪を悔い改め、一行に付き従った』

 

 太古の昔から、数少ないウマ娘は貴重な労働力・戦力として重宝され、神格化されることもしばしばあった。

 その様に人間と良好な関係を築きつつも──何処か違う人々(・・・・・・・)という無意識の隔たりが確かに存在していた。

 

 しかし《救世主》は、それを打破した。

 ウマ屋(今で言う運送屋)で産まれたという由来を持つ彼は、ウマ娘を兄妹であると断言した。我々は同じ神の下に産まれた子であり、隔たりは存在しないと説いた。

 それは相互認識の革命であった。

 彼の教えが広がるに連れて、ウマ娘はコミュニティの何処か違う人々(・・・・・・・)から、自然な一員(・・・・・)として、緩やかに転換していったのだ。

 

 この教えがウマ娘にとって、どれだけ喜ばしい事であったろうか。大好きな人間さんに寄り添うばかりでなく、寄り添われる存在になれたのだ。

 ウマ娘からして、正しく彼は《救世主》であった。

 

 十字教の黎明期にウマ娘が活躍したという流れを受けて、宣教師はウマ娘とペアを組む、という習慣が何時しか生まれた。

 我々日本人にとっては、宣教師フランシスコ・ザビエルと、お供ウマ娘の肖像画が最も馴染み深いのではないだろうか。

 

 

 ◆

 

 

『さて《救世主(メシア)》に従うウマ娘たちは過越祭のためのレースに向け鍛錬を欠かさなかった。

 しかし、その土地の聖職者(ラビ)に疎まれていた一行は、当日になってレース会場に入れなくさせられた。

 善きウマ娘たちは、ガリラヤ湖のほとりで膝を抱え、大いにしょんぼりとした。

 

 そこに主がお越しになられて、桶に湖の水を汲むと、座り込んだウマ娘たちの足を順に洗うのである。

「先生、とても勿体無い事です」善きウマ娘たちは遠慮したが、主は黙っておられた。全員の足を洗い終えると、感激するウマ娘に主は仰る。

 

よくよく、はっきり言っておく(アーメン、アーメン)。主の命によって、その足は清められたと。善きウマ娘は幸いである。その足の運びが何人に阻まれる事も無い。見よ、前のバ場の広さを。風が吹き、波が打とうと、幸いな者は安らかに歩む」

 

 そして主は凪の湖に向けて進み、その水面を歩かれたのである。

 

「立ちなさい。その両足は既に清められたのです。私が初めと終わりの合図をしましょう。ただ力を尽くしなさい」

 

 善きウマ娘は主を信じて進んだ。どうであろう、皆が水面を歩き、そして全速に駆けた。誰一人、足首までも沈む事は無い。

 さあ、先頭はマルタと後尾はマリアの姉妹であった。ガリラヤ湖のレースを、人々はほとりで見ていた。

 その人々は《救世主》を敬って「確かにあなたは神の子です」と言った』

 

 ──マリアによる福音書より。

 

 

 ◆

 

 

『それは断食行明けの、晩餐の時である。

 主と使徒、また従うウマ娘は大層腹を空かしていた。

 ベタニアのマルタは、皆のため腕によりをかけ料理を作った。卓には次々と芳しい皿が並べられた。

 主が、その日の糧を与えて下さった神に祈りを捧げようとした頃、ふと戸を叩く者があった。

 マルタが応じると、そこに丸々として豊満なウマ娘が居て、糧を分けてくれるように乞うた。

 

 このウマ娘を町で知らぬ者は無かった。地方レースで活躍した彼女は、この町の大商人に見初められ、連れて来られた途端、朝から晩までパクパクして止まらなくなった。

 商人の屋敷で出される食事に飽き足らず、こうして町の人々に乞うて回っては、追い払われているのだった。

 

「私たちは断食明けで、とても分けられる食べ物はありません。大方、先生のお優しい評判を聞いたのでしょうが、何でも聞き入れられると思ったのなら間違いですよ」

 

 マルタが、この図々しい同族を退けようとした時であった。奥で見ておられた主が語りかけられた。

 

「マルタよ。どうしてその人を入れてあげないのですか。可哀想に痩せて、今にも飢え死にしそうな、その方の姿が見えないのですか」

 

 皆は驚いた。主の言葉の意味が分からなかったからである。

 皆は、身体の形を見ていた。しかし、主は魂の形を見られたのである。

 

 急な客人を、主は自分の隣席に招かれた。そして、手ずからご自分のパンを半分に割き、またご自分の葡萄酒を差し出される。

 肥満したウマ娘は、分けられたパンを一口食べ、杯に一口付けた。それで手が止まった。

 

「先生、どうしてでしょうか。もう一杯で、食べられないのです。不思議な事です」

 

 そのウマ娘は酷く震えていた。

「安らぎなさい」主は、優しい眼差しで怯えた人を宥められる。

 

はっきり言いましょう(アーメン)。あなたは今を境に、飢える事も、また渇く事もありません。あなたが今居る場所で、山盛りの皿を何枚平らげ、壺ごと葡萄酒を干しても、また直ぐにお腹が空くし、喉も渇くでしょう。

 しかし私が与える糧は、あなたを永遠に満たし、潤し続けるものなのです。さあ、あなたが本当に居るべき場所に走って戻りなさい」

 

 彼女は両目からそれぞれ一雫の涙を流した。ものも言わず立ち上がるや、直ぐに主の言葉通りにした。

 故郷まで走り帰ったのである。町の人や、かの商人ですら誰も後を追わなかった。

 

 翌年、エルサレムで行われたレースに、大差で勝利したウマ娘がいた。その細身が麗しいウマ娘が何処の誰であるか、初めは皆気が付かなかった。

 

「ただ私は一杯に満たされたのです」

 

 勝利の秘訣を答えたウマ娘の声で、皆はようやく正体に気が付いた。

 この様に《救世主(メシア)》は、たった一口のパンと葡萄酒によって、飢えたウマ娘を満たされたのである』

 

 ──マリアによる福音書より。

 

 

 ◆

 

 

 聖遺物紹介《聖マルタのかわらけ》

 

 上記の場面で、マルタが料理を盛り付けた食器セット。

 この食器を用いた料理は、何でも絶品になる上、食べても食べても無くならないという伝説がある(曲解感が否めない)。

 この食器を巡ったウマ娘たちの熾烈な戦い(ウマファイト)を経て、尽く散逸。

 現代では、その一部と伝わる破片が世界各地に点在するが、殆ど真偽不明。

「破片を繋ぎ合わせて復元しよう」と、あるウマ娘女博士が熱心に主張したが、当然却下された。

 

 

 ◆

 

 

 十字教聖人紹介《マグラダの聖マリア》

 

 福音記者。救世主の母親と同名だが別人なウマ娘。

 儀式用の供物を盗み食いして怒られていた所を救世主に助けてもらい、それ以降、主と使徒の一行に従う様になる。

 

 マルタの妹。瞬足で料理上手でしっかり者、しかもドラゴンをぶっ倒したりする姉マルタとは違い、のろまで食いしん坊でおっとりしていていた。

 しかし不思議な愛嬌があり純真だったので、姉や使徒、特に救世主からは可愛がられていた。

 

 救世主が磔刑に処される瞬間、他のウマ娘は余りにも辛すぎて直視する事が出来なかったが、マリアは号泣しながらも目を逸らさなかったという。

 処刑後三日を経て、救世主が墓から復活を果たした姿を初めに発見し、その事を走って使徒たちに伝えた。余りにも現実離れした話に「でもマリアの言う事だから」と信じてもらえたらしい(それだけ信頼されていたのだろう)。

 

 救世主の昇天後、福音記者となる。

 主との思い出を想起しながら身体中インク塗れになって書き上げた福音書は、文章表現が余りにも独特だったらしく(原本未発見)、使徒ヨハネに校正してもらった。

 これは福音書冒頭に『著者マグラダのマリア、校正者ヨハネ』とはっきり書いてある。因みに使徒ヨハネは、洗礼者ヨハネと区別するために"校正者ヨハネ"と呼び習わされている。

 

 ヨハネの助力もあり仕上がった《マリアによる福音書》は、救世主とウマ娘との関係を生き生きと描き出し、大切な十字教の正典として聖書に収まっている。



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遊牧ウマ娘と略奪婚について

 遊牧ウマ娘といえば、北方から風の様に現れて農村から男を略奪していくイメージを抱かれがちだ。ある意味では間違ってはいないのだが、これは農耕民側の視点が多分である。

 彼女らは、さぞ飢えた獣の様に涎を垂らし無秩序な欲望に身を任せた連中なのだろう──と思われるだろうが、その実は真反対で、略奪婚は厳しく統制されていたのである。

 

 遊牧地帯では何故かウマ娘ばかりが産まれるのはご承知の通りである。生物学的な謎は置いておくにしても、古来より草原が慢性的な男性不足であったのは間違いない。

 集団を維持するためには、他所から連れてくるしかなかった。そのための手段として略奪婚があるのである。

 

 しかし無秩序という訳にはゆかない。皆好き放題にやらせておくと、あっという間にウマ娘人口が爆発し、ただでさえ乏しい草原の資源では賄いきれなくなってしまう。

 そのために大量の餓死者を出し、滅亡した歴史上の遊牧民族は例に事欠かない。

 

 遊牧ウマ娘は、何時しか社会秩序として、また生存戦略の一環として、厳しい貞操観念で自らを縛る事にした。

 農村から男を略奪していく彼女たちは、普段貞淑過ぎる程に貞淑な──つまり初心なウマ娘の集団であった。涎を垂らして男を攫っていくのは、その瞬間的にそうであるだけだった。

 逆説的に、そうでない遊牧民は全て滅んだ。

 

 そして彼女たちには、秩序を敷く強い統制者が必要不可欠であった。特にユーラシアステップのリーダーを『可汗(カガン)』と呼ぶ。

 可汗の必要条件は、カリスマと実力を備えているのは勿論の事、羊さんの放牧地の分配など利権の調整能力が第一であった。

 そして中でも可汗の仕事として重要なのが略奪婚の調整であった。

 

 夫が欲しい。貞淑な遊牧ウマ娘は口にこそ出さなかったが、誰しも強く願っていた。

 しかし当時の結婚とは、現代の様に個々人で片付く問題ではない。遊牧ウマ娘たちは氏族で固まっており、さらに氏族は部族で纏まっている。当然ながら部族は他部族と仲が良かったり反目していたりする。

 そして囲い込む男の数は揉め事の種になりやすい。

 

 部族を束ねる頂点に立つ可汗は、部族間の利害関係を見ながら、そこに勲功を加味して、更には全体の人口バランスさえ考慮に入れて略奪婚の権利を配分しなければならない。

 緩め過ぎれば人口バランスが崩れ、かといって締め付け過ぎれば恨みを買って殺される──如何に可汗が並々の能力で務まらないか分かるであろう。

 そうした可汗の苦慮の下、功を立てて略奪婚が許された遊牧ウマ娘は、

 

『この度の功に報いんがため、三人まで攫う事を許す。この数の限りで氏族間で分配して良い。一人までなら属する部族内で権利を譲渡しても良い。ただし他の部族に権利を譲渡してはならぬ。当人が略奪の途中で反撃を受けて死んだ場合、最も近しい近親者へ権利が移動する。その権利を放棄する時は可汗から補償として羊さんを──』

 

 という風な細々した制約付きの略奪婚の権利を与えられる。そして翌日にでも、意気揚々と投げ縄を肩に引っ掛け農村地帯に駆けていくのである。

 

 では辛抱たまらず秩序を破って男を攫ってきた場合どうなるかといえば──厳罰が待っていた。

 ウマ娘にとって生命の次に大切な毛並みを切り取り捨てられて部族から追放されるのだ。遊牧生活において仲間から全く切り離される事は、即ち死を意味している。

 しかもさびしい。

 そうなってしまったが最後、泣く泣く攫ってきた男の故郷へ一緒に帰って畑を耕す場合が多かった様である。

 

 以上の様に遊牧ウマ娘の略奪婚とは、農耕民側の色眼鏡を取り去れば、欲望に身を任せた行動とは程遠い、実に合理的な社会活動の一部であった。

 中世十二世紀末に現れたチンギス・ハーンが世界帝国を築き上げられたのは、この分配と調整がなべて公平だったのが一因であるとも言われている。

 

 

 ◆

 

 

 前二百年、中華は長城の内側(・・・・・)である。

 この中華世界からすれば辺境と呼べそうな土地に一つの農村があった。この中華北限の村は古来北方遊牧民との係争地になりがちであったが、秦の始皇帝による万里の長城建設のお陰で、ここ十五年程は平和を享受出来ていた。

 

 しかし秦国の滅亡と楚漢戦争という中華世界の混乱に伴い、勢いを増した遊牧ウマ娘帝国《匈奴》は、度々長城の内側を脅かす様になっていた。楚漢戦争を制した高祖劉邦は、匈奴征伐のため大軍を率いて親征したが、遊牧民特有の駆射戦法(走りながら弓を射る戦法、パルティアンショット)に敗北を喫する。

 そして皇族の男児を匈奴の主《冒頓単于(ぼくとつぜんう)》に送り、何とか講和を結んだ──そういう時代だった。

 

 

 その中華辺境の村の、更に外れの草むらに匈奴ウマ娘二人が身を潜めていた。葉の付いた木の枝を両手に掲げて変装もばっちりである。

 随分歳の差がある。一方が本格化直後の若ウマで、もう一方は盛りを過ぎた老バだ。ただ、ウマ耳をぴょこぴょこさせて前方の村を注意深く窺う様子が同調していた。

 

「おばあ、どの人が良かろう」

 

 若ウマが尋ねた。老バは「そうさな」と少し草むらから身を乗り出して応じた。

 

「例えばあそこに、村外れをぷらぷらしてる小綺麗な男がおるじゃろ」

「うん、あれなら簡単そう」

「ああいう白くって軟弱そうなのは、駄目じゃ。持って帰っても直ぐに死ぬ」

「難しいね」

「うむ、折角の単于からの褒美、無駄にしてはいかん。それに私も曾孫の顔が見たい」

 

 若ウマは強めに鼻を鳴らしてから、祖母に倣い身を乗り出して目を忙しなく動かした──先の漢軍との戦で若ウマは奮闘し、大功を立てた。その恩賞として冒頓単于から略奪婚の権利を配分されたのだ。

 ところが遊牧民の若ウマにありがちな様に、彼女は男を選ぶ目に自信がなかった。草原に男が居ない訳ではなかったが、目を合わせるだけでかあっと上がってしまって、眼力を鍛えるどころではなかった。

 けれども白状するのは恥ずかしくて「男なんかに全然興味無いもんねっ」と虚勢を張っていた所、経験豊富な祖母は察して、同伴しようと申し出てくれたのだった──不意に若ウマの目が止まった。暫く黙り、唾を飲み込んでから言う。

 

「おばあ、あの人」

 

 徐ろに指差した先には、地面に何か棒を振り下ろしている浅黒く日焼けした男が居た。額の汗を拭う腕の筋肉は盛り上がっており、薄い唇と濃い眉はぎゅっと絞られて如何にも頑固そうな。しかし、近くを村人が通る時は「よう」と都度の挨拶を欠かさない。

 祖母は大きく頷いた。

 

「あれは良い。丈夫そうだし、頭も良さそうじゃ。それじゃ他も見てみて……」

「あの人が良い」

「急くな、時間はある」

「あの人が良い」

 

 同じ事を二度言った孫を見やれば、既に投げ縄を手に握りしめていた。爛々として目線が固定され、息は深く早く、頬が少し紅い。

 

「あの人が良い」

 

 聞かれてもいないのに三度目を言った。もう外からの言葉は届かない風である。

 若い頃の自分にそっくりだ──祖母は口角を上げた。

 

「良かろ。じゃが、まだ日が高い。夕闇に乗じるぞ」

「でも、待ってる内にいなくなっちゃう」

「安心せい。土をほじくる連中というのは、日暮れまで決してそこを離れん」

「そうなの、何で?」

「知らん」

「……分かった」

 

 はやる若ウマは先達の言葉に従った。

 日が傾き初め、他の村人たちがぼちぼち撤収しても、その男は未だ棒で土をほじっていた。都合が良い。孫は祖母の横顔に無言で訴えた。しかし人生の先輩は首を横に振る。

 何度か同じやり取りを繰り返し、とうとうお日様が半分地面に潜った。男は独りだ。若ウマは瞬きも忘れて目を血走らせている。

 今にも勝手に飛び出して行きそうになった頃、老バは人一人入る大きさの袋をばさりと広げた。そして、にやりと笑う。

 

「行け」

 

 正に引き絞られた弓矢が放たれる如く、屈強な匈奴の若ウマは草むらを飛び出した。投げ縄にひゅうんひゅうんと勢いを付け、投擲した。

 

 ──そして月日は流れ、かつての若ウマが今度は祖母となり、自分の孫に結婚の作法を手ほどきするのであった。

 



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電撃戦とタンポポコーヒーについて①

 

 ウマ娘駆兵は死んだ。

 

 そう揶揄される様になったのは何時の時代からであったろうか。

 古くはアレクサンドロスのヘタイロイから、ナポレオン時代の胸甲駆兵まで。その勇猛さで幾万の敵を打ち破り、可憐さでは荒む仲間を和ませ続け、二千年余の長きに渡り戦場の花であり続けたウマ娘駆兵。

 その戦場に咲く花を決定的に摘み取ってしまったのは──人類が初めて経験した未曾有の大戦に違いない。

 

 第一次世界大戦。

 もっとも当時は二度目(・・・)があるなんて想像もしないから単に《世界大戦》と呼ばれたが──バルカン半島での暗殺事件を発端に、複雑に絡み付いた相互安全保障の網目は、あれよあれよと欧州列強を大戦争の渦中に引きずり出した。

 

 誰も想像だにしなかった。

 フランス革命以後、勃興した《国民国家》。

 それは国民の人権と選挙権を保証し、中世的な階級制度を完全に崩壊させた。そして国民が均一化された時、彼らは本来地球上に存在しない国境(・・)というものを強く意識した。

 産業革命以後、勃興した《資本主義》。

 自由な富の流動はグローバリズムを促し、科学の進歩は従来と比較にならない程に加速した。便利に、もっと便利に! その熱量は、何時しか人間が人間らしく在るための哲学の歩みを追い越した。

 これら人間社会を進歩させるための発明(・・)が、人類に大厄災をもたらすとは。

 

《総力戦》の時代の到来である。

 

 戦争とは前線に立つ貴族だけで完結するものではなくなった。銃後の国民生活──人的・物的資源を国中隅々までひっくり返し、前線に全投入(オールイン)する戦争形態は、間違いなく戦争史の節目であった。

 

「クリスマスまでには帰ってくる」

 

 戦場に赴く兵士の言葉として、しばしば聞く表現である。

 何をのんきしているのか、と思うなかれ。そう思えるのは、現代の我々に二回の世界大戦の悲惨さが骨の髄まで染み込んでいる故なのだ。

 しかし、当時の人々は誰一人として《世界大戦》という大惨事を未体験であった。

 クリスマスには戦場から帰還して、功名話を土産に家族と温かい食卓を囲む──そういう未来を、一兵卒から将軍に至るまで皆信じていた(・・・・・・)のだ。

 こんなにぞっとする話もなかろう。

 

 つまり、戦争の新しい形態と人民の認知の間には残酷なまでの隔たりがあったという事である。

 戦場には古の英雄が示した様な、気高い《駆士道(シヴァルリー)》が今なお息づいており、自分もそこに身を投じるのだ──と、心の少年の部分に無邪気な憧れがあった。

 

 ウマ娘に関しても事情は同じだった。というよりウマ娘こそ、この認知の差の被害者であったと言える。

 さてヨーロッパウマ娘の多くは、寝物語に中世駆士の伝説を聞いて大きくなる。

 

 最期の一兵卒になるまで奮闘し主君(トレーナー)に忠愛を尽くした、ドイツの聖駆士ローラン。

 欧州を蹂躙するウマ娘朝モンゴル帝国を稀なる軍略で撃退した、イングランドの大英雄マーシャル。

 国家存亡の危機に立ち上がり遂には劣勢を覆し祖国を救済した、フランスの聖女ジャンヌ。

 覇権を相争うイベリア半島に万人平等の理想郷を建てるべく奮闘した、スペインの愚者バビエカ。

 

 いずれも国家の危機に毅然として立ち向かった英雄だ。俗に《中世四大駆士》と呼ばれる優駿らに、幼き日の憧憬を懐かないウマ娘など皆無であった。

 そして各国の広報局もウマ娘たちの憧憬を重々承知で、それを戦争プロパガンダに利用した。無邪気なウマ娘は瞳を輝かせて戦場に趣き、そして絶望した。

 

 塹壕戦の悲惨さは、ここでは詳しく記すまい。敢えて端的に著すのならば、足が腐る(・・・・)環境であった──比喩ではなく物理的に。

 それでも兵士は逃げなかった。これもまた従来の戦争では考えられない事であった。

 国民国家成立以前の戦争は、貴族と傭兵の戦争である。ある程度戦って、段々旗色が分かってきたら適当な所で逃げ出して、一つの会戦を終結させる事が出来た。

 

 しかし国家のために戦う(・・・・・・・・)兵士というのは逃げなかった、否、逃げられなかったのだ。

 彼らは己の命より大切な想像上の存在(しばしば国家とか民族とか言われる)というものを信じ、共有していた。なれども近代国家の強さは、その点にこそ拠っており、切り離し難いものであった。

 そうして世界は適当な戦争の辞め時というものを完全に見失ってしまった。

 

 人間さんが逃げないのだから、ウマ娘も逃げなかった。

 そもウマ娘という人類種は全体的に争い事を嫌っている。それに反してまで戦場に赴く動機は、人間さんが頑張って戦うのを支えたかったからである。決して国民国家などという想像上の産物のためではない。

 何時の時代もウマ娘は地面に足を付けて、自分の手の届く範囲のもののために生命を懸けるのだ──そして、手の届く範囲(・・・・・・)の境界線が曖昧になってしまった事こそがウマ娘の悲劇であったろう。

 

 ウマ娘兵の士気は塹壕の中で次々に崩壊した。

 元来、ウマ娘兵の士気維持の難しさは昔から知られている。走る事はウマ娘の本懐だ。ただ待機して動かないというのは生物として土台無理がある。

 昔の戦争であれば、はちみつを舐めさせるなど一時しのぎで間に合う場合も多かった。しかし辞めるに辞められない塹壕戦はそれも不可能にした。朝夕ともなく降り注ぐ砲弾も、音に敏感なウマ娘の精神を殊更にすり減らせた。

 

 シェルショック(・・・・・・・)──過酷なストレスで心身に変調をきたした状態をそう呼ぶ。先ずウマ娘兵、次いで人間兵が戦争の狂気に呑まれた。

 この一種の心的外傷(PTSD)患者の映像が残っているが、本当に見るに堪えない惨状である。人間の持つ、人間らしさの一抹をも許さない戦場の残酷さが分かる。

 事情はどの国も異なるという事がなかった。誰もが早期決戦を望んでいた。今にもシェルショックで戦闘不能になりつつある戦場の花(・・・・)の様子に焦り、恐怖し、拙速たる運用を急いだ。

 

 即ち、駆兵突撃(・・・・)の敢行である。

 

 死んだ目をしたウマ娘兵は、銃剣を両手に次々に塹壕を飛び出して突撃した──そして敵の塹壕を突破する遥か手前で機銃掃射になぎ倒された。何度も何度も、陣営に関係なく、ひたすら繰り返された。

 塹壕と塹壕の間には、散華した花が積もり積もった。

 

 愚かだと思われるだろうか? しかし各国は、もはやそれしか戦術を持たなかったのだ。

 塹壕とは、敵陣地を回り込もうと掘られる。当然それをさすまいと、相手も塹壕を伸ばす。それを回り込む様に更に塹壕を伸ばす。下手な囲碁を指す様に、無限に塹壕は伸びていき、遂には海岸まで進出してしまった。

 国境線そのものが一つの塹壕になった──つまり敵を破ろうとした場合、()()()()()()()()()()()になってしまうのだ。

 そんな事は皆が分かっていた。分かっていて、やるしかなかったのだ。

 

 ウマ娘たちが為す術なく機銃掃射になぎ倒される光景は人間たちの目に焼き付いた。そして思った──

 

 

「嗚呼、ウマ娘駆兵は死んだ」と。



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電撃戦とタンポポコーヒーについて②

 

 塹壕を突破出来ず機関銃の前に為す術なくなぎ倒されるウマ娘駆兵の悲壮な姿は、国籍を問わず大変なショックであった。

 駆兵突撃とは古今東西、何人も阻む事の出来ぬ力の象徴であり、畏怖の対象であり、憧れであった(東洋文化圏には赤兎来々(赤兎が来た)が馴染み深い)。その神聖な領域を、遂に人類のテクノロジーは決定的に凌駕してしまった。

 産業革命以後『科学によってウマ娘に追い付け追い越せ』というのが人間の通念であった。達成の暁には明るい未来があると信じて疑わなかった。

 

 しかして到達したのは、制御不能な大量殺戮の完成だった。

 

《世界大戦》はテクノロジー進歩の恐ろしさ、虚しさを、人類にまざまざと見せ付けた。けれど今更技術開発の駆け足を止める事は叶わない。足を止めれば、あっという間に隣人に食い殺されてしまうのは必定であった。

《国民国家》と《資本主義》の上に成立する近代国家モデルが社会を進歩させた事には間違い無い──しかし蓋をして見ないようにしていた負の側面が、世界大戦という形で爆発したのである。

 

 

 テクノロジーによって駆兵が無力化されたショックは、ある意味、更なるテクノロジーで現状を超えていくための原動力となった。

 そうして欧州各国にて、駆兵に代替して塹壕を踏破する新兵器開発競争の幕が上がる。

 

 史料は実に試行錯誤の跡を見せてくれる。

 初期には、大きな浴槽を引っくり返した様な装甲をウマ娘複数人に被せ、ついでに敵を威嚇し怖がらせる様なハリボテの顔を付けて突撃すれば良いのでは? と考案された。

 悪くない案に思われた。シンプルでコストも低く即時投入可能という点で、軍部の反応も上々──けれども、いざテストをしてみると曲がれない(・・・・・)という致命的欠陥が判明したため『ハリボテ計画』はあえなく頓挫した(しかも別に怖くなかった)。

 

 ハリボテが旋回しようとしてずっこけ四散する素っ頓狂な試験映像が残っており(一部ネットユーザーに人気の様子だ)、今でこそ珍兵器扱いなのだが『ウマ娘の力に頼って何とかするのは無理っぽい』という知見を得るためには大切なプロセスだったとも言える(はず)。

 やがて研究はウマ娘頼りから完全に脱却し、純機械的なベクトルにシフトしていったのである。

 

 そして大戦中期、かの新兵器はイギリスで発明された。

 不細工な鉄の箱へ無理矢理に内燃機関(エンジン)を積み込んだ──コードネーム《水槽(タンク)》なる新兵器を見て、英国ウマ娘駆兵はせせら笑う。

 

「こんなブリキ缶が私たちより役に立つんですか?」

 

 返す言葉も無かった。現地の兵士たちも同じ様に思い、恐らく当の搭乗員もそう思った。それは如何にも鈍重そうだったし、しかも全然可憐じゃない。開発技術者チームだけが何故か自信満々だった。

 道半ば立ち往生するのがオチだろう──だがしかし、結果は全く予想に反した。

 駆兵が手も足も出なかった機銃掃射の雨の中、水槽(タンク)は有刺鉄線を踏み千切り、塹壕を半ば乗り越える一定の成果を上げたのである。

 技術者たちの歓声が上がった。その様子を物陰から眺めていた英国駆兵たちは唖然として、それから「むきーっ!」と地団駄を踏んで悔しがった。

 

 戦場の花は私たちだった。なのにあんな不細工な鉄塊如きに。もう私たちは人間さんを守ってあげる事も出来ないのか──既にずたずただったウマ娘駆兵のプライドは殊更に踏み躙られた。

 水槽(タンク)、後に正式に《戦車》と呼ばれる新兵器を、いっそ敵より憎々しげにウマ娘は睨めつけた──欧州には未だ《自動車打ち壊し運動》の名残が漂っていたのである。

 

 

 一方、銃後の国民生活も限界に達しつつあった。生産活動を担う働き盛りの男と、流通活動を担うウマ娘が根こそぎ動員されてしまっては当然だった。

 生活に困窮する市民は、なおも戦争を止めない政府に不満を爆発させた。欧州各地で『誰が作り、誰が運ぶ?』と記されたプラカードを掲げた行進が列をなした。

 そしてそれが弾圧されると、より先鋭化した一揆(・・)に発展──全く負のスパイラルである。国体は崩壊寸前だった。

 

 特筆して炎上したのが《指導人(トレーナー)一揆》と呼ばれる大衆反乱である。

 当時、戦場の実情を広報する事は厳しく統制されていた。悲惨な塹壕戦の実態は銃後の戦意に関わるし、若者を死地に輸出するためのプロパガンダとも完全に相違するものだったからだ(望んでそうしたかった訳でもなかろうが、他に成す術なかった。重すぎる罪悪感に精神を病んだ宣伝担当官は枚挙に暇がない)。

 しかし人の口に戸は立てられぬ。戦場の花に憧れて笑顔で出征していったウマ娘たちが、どんな末路を辿ったか──戦局悪化に伴い徐々に明らかになっていった。

 

 民衆は怒った、怒り狂った。その怒りのエネルギーたるや筆舌に尽くし難いものがある──指導人(・・・)一揆とは言いつつ主体は銃後の女性や老人だったとも言われるが、新聞の『ウマ娘を愛する指導人よ、今こそ立て!』という各国語の見出しに触発されたものであるので便宜上そう呼ばれる。

 

 何はともあれ、筆者としても贔屓のあの娘がシェルショックに蝕まれ、機関銃になぎ倒される光景を想像しただけで気がおかしくなりそうである。

 また読者の皆様も同様であろう(何故ホモ・サピエンス(人間)はこれ程にホモ・サピエンス・エクウス(ウマ娘)を好いているのかは大変興味深い疑問だが、体系的に説明するためには進化論にまで踏み込まねばならないため割愛)。

 

 指導人一揆は、瞬く間にヨーロッパ全土に波及した。一般民衆の怒りが、それを鎮圧するはずの軍人にまで延焼すると、いよいよ手が付けられない。

 もはや戦争どころではなかった。このままでは敵に攻め込まれる以前に、国民によって政府組織が破壊されかねない。各国は沈静化させるために急速に講和に向けて動き出した。

 戦争プロパガンダは一転して平和のためのプロパガンダへ変身した──随分と都合の良い事だが、確かに効果があった様である。

 

 フランスやイギリスの様に何とか沈静化に成功した国がある一方、しかし、失敗した国があった。

《ロシア帝国》並びに《ドイツ帝国》である。

 

 片や世界大戦以前から反乱の火種が燻り続けており、片や東西両方面の戦線を抱え特に戦争被害が甚大であった。指導人一揆がそのまま《革命》のエネルギーに転化されるには、そう長い時間がかからなかったのである。

 両国は相次いで帝政が崩壊。先ずロシア革命によって《ソビエト社会主義共和国連邦》が成立。言わずもがな、世界初の社会主義一党独裁制の国家である。

 次いで間をおかずドイツ革命によって《ヴァイマル共和国》が成立。変わって資本主義民主共和制を掲げた国である。

 かつてフランス革命が起こった際、余波を恐れた周辺諸国はフランスに積極的な軍事介入を行った──だが今回ばかりは周辺国にそんな余力も無かった。それを果たして幸いと言って良いものか。

 

 皆疲れ果てていた。何でも良いから戦争を終わりにしたかった。そうして国力を疲弊させるだけ疲弊させて、各国が指導人一揆のパワーに折れる形で、講和は締結されたのである。

 戦争はなし崩し的に開始され、またなし崩し的に終了。一体何のために戦って何のために死んだのか。誰が真の勝者で敗者なのか──それら一切のわだかまりは解消されないまま、四年の歳月を経て一度目(・・・)の世界大戦は一応の終結を見た。

 

 

 ◆

 

 

《駆士道》という不文律の倫理規範の消滅は、一方で国際法の進歩も生み出した。

 凄惨に過ぎる争いを止めた人間が、打って変わって人権擁護活動に意識を傾け始めた時、または世界恐慌前夜、

 

『人間の都合で純粋無垢なウマ娘を軍事利用するのは道義的にどうなのか』

 

 と、ようやく提唱される。

 そうしてアメリカ合衆国を仲介役に、ウマ娘の徴兵(志願兵はその限りではない)を禁ずる平和条約が国家間で批准される流れとなった。

 正しく歴史的快挙に世界が沸いた。あの大戦は悲劇ばかりを生み出した訳ではなかったのだ──という代償的思考もあったのだろう。

 

 さて各国首脳が集まる平和条約祝賀パーティーにて、全ウマ娘を代表するスイス産まれの彼女は満面の笑みだった。彼女は各国大臣の前で嬉しそうに耳を動かして言う。

 

「私たちが戦争に巻き込まれなくなるのは、とっても喜ばしい事です……ところで、人間さんが戦争を止めるのは何時頃になりそうですか?」

 

 人権擁護家(・・・・・)の人間さんたちは大いに赤面したという。

 



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電撃戦とタンポポコーヒーについて③

 サクッと電撃戦まで進むつもりが一次大戦~二次大戦までのドイツ史みたいになっちゃった。まあ良いや……


 

 一体誰が真の勝者だったのか不明瞭なまま、また戦車とウマ娘の和解も見ないまま、ただ荒廃だけを残して《世界大戦》は終わった。

 戦後、軍当局はウマ娘兵科の用途転換を余儀なくされていく。塹壕戦と機関銃という新たな戦争形態によって、ウマ娘駆兵が完全に時代遅れ(・・・・)になった事が明示されてしまった。何より当の彼女たちが、

 

「あの不細工なブリキ缶とは一緒に置かないで下さい」

 

 と、物言わぬ戦車(しんじん)に威嚇して仕方がなかったためである。《自動車打ち壊し運動》に発端する内燃機関とウマ娘の溝の深さが分かる──先鋭化したウマ娘がクソデカハンマーで戦車を破壊しようとして重装甲に弾き返され、図らずも新兵器の堅牢さを証明してしまったという事例も散見される。

 同時にウマ娘人権運動の高揚などの要因も重なった。遂に当局は前衛からウマ娘駆兵を下げる事とし、主として後方支援への再配置を下命する。

 所謂『ウマ娘を後ろへ』運動は世界一律の潮流であり、応じて戦略も再構築される事となった。

 

 

 とりわけ、ヴァイマル共和国(元ドイツ帝国、先の革命で帝政崩壊)ではウマ娘の後方移動が如実に見られた。

 しかし、それは自発的ではなく強制的な移動であった。《指導人一揆》からのドイツ革命という、内側からのコンボで速やかに継戦不能となった当国は、とにかく周辺諸国から目の敵にされていた。

 国際的な制裁とも言うべき講和条約──ヴェルサイユ条約においては、莫大な戦争賠償金と、屈辱的な軍備制限を飲まざるを得なかった。その条項の中に前線ウマ娘の大規模後方移動も含まれていたのだ。

 それは実質的にウマ娘の前線参加の一切を禁じるという極端なものであった。戦勝国側の「ドイツを再起不能にする」という意図が垣間見える。かくして中世ベルリン駆士団からプロイセン王国まで連綿と続いてきたドイツ駆士は息絶えた。

 ヴェルサイユ条約が俗に『駆士道の死亡診断書』と称されるのはこのためである。

 

 ヴェルサイユ条約は軍隊のみならず経済をも破壊した。

 莫大に課された賠償金の支払いが滞るや否や、フランス及びベルギーはドイツ工業の心臓部であるルール地方占領に踏み切る。

 心臓を絞り上げられたショックにより元からガタガタだったドイツ経済は完全に屋台骨を折られる。貨幣の信用は際限なく下落し続け、必然物価は上昇し続け、遂にハイパーインフレーション(・・・・・・・・・・・・)に突入した。

 

《図1.マルク紙幣をむしゃむしゃする独ウマ娘》

 

 有名な上の写真は、天文学的インフレが起こったヴァイマル共和国にて、パン一個買えなくなったウマ娘たちが一斉にマルク紙幣を食べ始めた時の一枚である。正に貨幣価値の暴落という現象を分かり易く説明しているだろう。

 なお証言によると紙幣の味わいは、

 

「まじでまずい。」

 

 らしい(ウマ娘は専門の草食動物ほど高効率ではないにしろ、パルプ(セルロース)を炭水化物にまで消化分解出来る微生物と消化管内で共生している。草しか生えてない場所に住む遊牧ウマ娘などは共生度合いが高い)。

 そしてウマ娘がパンの代わりにまずい紙幣をむしゃむしゃ食べている一方、造幣局では「味付きインクで刷ったらどうかな?」と、ある意味恐ろしい案が検討され始めた──が、その頃が混乱のピークであり、以後のドイツ経済は徐々に安定を取り戻していく。

 

 経済安定化の背後に居たのは例の星条旗、アメリカ合衆国であった。

 二十年代。ヨーロッパ(特に大英帝国)が疲弊した事により、いよいよ突出した経済力を確立するに至った米国は資本の貸付を増大させていった。主戦場となった欧州は、どこもかしこも火の車で復興融資のニーズがあったのだ。

 そして、お札を食べる位に困窮していたドイツには特に手厚く融資を行う──もちろん友愛外交などではない。米国は米国で、これ以上欧州秩序が乱れるのを嫌ったのである。

 政治秩序のバランスが予測の外へ倒れ、貸付が焦げ付いてしまったら全て水の泡だ。必要以上に弱ったドイツには早く国際プレイヤーとして持ち直して貰わねばならない。

 フランスなど一応の戦勝国においても、賠償金が払えなくなる程ドイツが窮してしまったら、それはそれで困るのだった。無論ハイパーインフレ下のドイツにとって外資の支援は喉から手が出る程に欲しい。

 こうして各国の利害関係により、二十年代ヨーロッパはアメリカの支援に依存するという構造へ傾いた──しかし、この構造は間もなく根底から倒壊する。

 

 

 二十年代末、ウォール街大暴落(ブラック・サーズデー)

 南無三、世に言う《世界恐慌》の始まりだ。説明は省くが、要するにアメリカの巨大資本が突然消滅しまくった事件である。

 

《図2. 株券をむしゃむしゃする米ウマ娘》

 

 上の写真は、昨日まで大きな価値があった筈なのに今や紙切れと化した株券をウォール街の道端で食べるウマ娘である──株券の味わいについては同上。

 白黒写真でも目に光が無い事が伝わるだろうか(通称、株で有り金全部溶かすウマ娘の顔。実は個人特定されており、クイックメルトさんという方。その後、諸々の取材費が生活の足しになって助かったらしい。七十年代に没するまで投資で損をした人々を励まし続けて自殺抑制に貢献したとされ、米国政府から受勲されている)。

 

 当時の米国株と言えば「とりあえず買えば儲かる魔法の商品」めいて見られていた節があって、靴磨きの少年ですら株について語ったという。

 そんなバブル景気が続く訳もなかった──しかし歴史を見てみると、国際的動乱というのは本当に驚く位に起こってみるまで分からなかった(・・・・・・・・・・・・・・・)場合が多い。いま現実に社会構造の内に在りつつ、客観視する事が如何に難しい試みであるか分かる。

 

 

 さてヨーロッパ大陸に視点を戻すと、にわかにアメリカの支援が打ち切られ大混乱に陥っていた。各国は自国の市場保護のため、自由貿易から保護貿易へ急速に舵を切る──要するに儲けを出すより安定を求めたという事だ。

 この市場と植民地を囲い込む閉鎖的経済が、所謂《ブロック経済》と呼ばれるものである。

 植民地を確保している国は良い、しかし、先の世界大戦で既に身ぐるみ剥がれていたヴァイマル共和国は正に惨憺たる有様であった。

 

 世界貿易の縮小により、今まで荷運び業に就いていた運送ウマ娘の大量失業が発生。流通業大打撃の余波で数多くの企業が連鎖倒産。空前の大不景気が現出した。

 首都ベルリンでは『なんでもやります』と書かれた看板を持った無職ウマ娘が働き口を求めてうろうろしていたという。「食いっぱぐれなし」で昔から通るウマ娘すらその様なのだから人間は尚更だった。

 なお無職ウマ娘が問題になるケースは歴史上でも数える程しか見付けられない。古い例だと、海の民にぼこぼこにされて滅亡寸前のヒッタイト王国(世界最古のトレーナー、キックリさんの出身国)などがある。

 

 貧困に喘ぐドイツ国民は遂に怒りのエネルギーを爆発させた。国際的な屈辱を与えられ、紙幣を食べさせられ、ようやく希望が見えてきたと思ったら再び大不景気に叩き落とされる──憤懣やるかたなしとはこの事だろう。

 ドイツ国民はやり場のない怒りの矛先を探し始めた。その怒りは先ず無力な政府当局に向けられた。政治を非難する抗議デモが連日行われ、共和国政府は信用を失墜させ続けた。つい先日の革命で、君主制から移行したばかりのドイツでは《民主制》という体制そのものへの疑念が膨らんでいった。

 また一方的にドイツに重責を問う歪な国際秩序──ヴェルサイユ体制を非難し、それを押し付けた周辺諸国に怨恨を募らせる。

 戦後、声高に叫ばれた『国際協調』という理想は、不景気という圧倒的現実を前に打ち捨てられていった。そうして国際協調とは真逆の、ナショナリズムを過度に煽り立てる論ばかりが台頭してくる。

 

「本来のドイツ人は優れた民族なのだ! このままで良いはずがない!」

 

 それは明らかに敗戦以後の卑屈さの反動に他ならなかった。

《優生学》なるエセ(・・)科学が急激に台頭してきたのもこの頃である。優生学者の主張は概ね以下の通り。

 

『優等人種が劣等人種を支配するのは自然の摂理である。それによって社会を新しい段階に進化させるのは優等人種の崇高な、また自然的な使命なのだ』

 

 この社会論と進化論をそれぞれ誤解した上に混同させたかの様な説は、売上げ欲しさの木っ端ブン屋が主張したものではない。正真正銘の学術領域(・・・・)から発せられた論説なのだ。

 恐らく平時であれば陰謀論者にしか見向きされない様な愚説に過ぎなかっただろう──しかし科学というものは、時として論拠の正当性の検討もされぬまま、ただ社会ニーズに汲み上げられて普及してしまう事がある。とある政治的主張を『科学的に正しい』と担保するためならば、畢竟、論拠の有無などどうでも良い事にされてしまう。

 特に怒りと不満で逼塞した社会に顕著な傾向らしい。これは現代を生きる我々も常に警戒しておかねばならない『科学的に』という言葉の罠であろう。

 

 こうして恣意的な弱肉強食を是とする優生学は自己肯定感の低いドイツで大変に流行し、それを基幹にする政党も数々誕生した。

 だがしかし、一世を風靡した学問(・・)は、

 

 

「じゃあウマ娘が人間を支配してなきゃおかしくない?」

 

 

 という、たった一つの反証で完全論破される。

 考えてみればそうである。歴史上、ウマ娘が人間さんを種として支配しようとした例は一つも無い(・・・・・)のだから。

 かの恐ろしい《ウマ娘朝モンゴル帝国》ですら、元よりウマ娘を君主に戴く習俗の集団が世界を席巻したというだけであって、別にウマ娘が人間さんを支配しようと目論んだ訳ではない。複雑な社会要因が偶然その時代に合致したというだけであって、ウマ娘が優等種だからという必然性の問題ではないのだ。

 ウマ娘という人類は、他者を支配して悦に入る暇人みたいな事に興味を持たない。ご近所のウマ娘さんと会話をすれば直ぐに分かる事だ。言うに事欠いて自然の摂理(・・・・・)とは大ボラも甚だしい。

 

 余談であるが──このウマ娘の挙動は分かり易く弱肉強食の理論に反しているので、古代から人間は不思議に思っていたらしく、様々な角度から検討されてきた。優生学が一瞬で廃れたのは、連綿と続いてきた哲学の働きでもあるのだ。

 古代ギリシアの哲人に曰く「弱肉強食の克服こそ即ち知恵のなす力であり、知を愛する事、つまりは哲学である。そして知を愛する事とは即ちウマ娘を愛する事である」と理論武装した哲学者はウマ娘といちゃついてたという。

 正しいかどうかはともかく、とてもギリシア的と言える。

 

 閑話休題。

 結局の所、圧倒的論理破綻を解消出来ぬまま、優生学というエセ科学は自ら広げた風呂敷に呑み込まれて消滅した。連鎖して優生学を基幹にした有象無象の政党も解散する。

 けれども、民主制への疑義や、ナショナリズムの高揚が沈静化した訳ではない。あくまでドイツの利権のために他国に物申せる強気な政府(・・・・・)を求める過激な右翼勢力の伸長は止まらなかった。

 

 そして右翼勢力と同等の勢いで伸長していたのが左翼勢力──共産主義勢力である。

 というのは、大恐慌で世界中の経済が壊滅的打撃を受ける中、たった一国社会主義経済に移行していた《ソビエト連邦》はノーダメージだったのだ。

 ドイツウマ娘が紙幣(まじでまずい)をむしゃむしゃしていた二十年代、《狂ったお兄様》ことウラジーミル・レーニンの建国したソ連は黄金期にあった。

 かしこくて腐敗せず、しかもそこに居るだけでかわいい官僚ウマ娘による完全無欠の計画経済というパラダイスみたいな政治システム(この時点では)を間近で眺めていたドイツには、共産主義に傾倒する者が少なからず居た。

 その伏線が世界恐慌という資本主義の脆弱性を露呈した事件によって顕在化してきたのである。

 

 かくして、ヴァイマル共和国内部では右翼勢力がナショナリズムを煽り、左翼勢力が革命を叫び、両者が顔を合わせれば殺傷沙汰を起こし、その間を無職ウマ娘がうろうろ歩き、けれども皆が飢えているのは同じ──という地獄の地獄になった。

 

 



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インドの転輪教とカンタカの走禅について

 

 

『走即是止。止即是走。』

 

 

 

 

 尊者カンタカ、また走自在菩薩。

 言わずと知れたインドの《転輪教》の開祖《覚者》の一番弟子。

 主人が出家する際、付いて行くの行かないので散々押し問答した末に、美しい白毛を断髪(ウマ娘にとっては一大決心)してまで無理矢理弟子になった元祖押しかけウマ娘。

 

 絶世の美ウマである彼女が四六時中ぴったりそばに居たせいで、修行中の主人が生臭(・・)扱いされる苦労もあったが、苦行で死にかけた主人を介抱して息を吹き返させるなどの活躍も多い。

 そんなカンタカであるが、主人が悟りを開き"覚者"となった後も、

 

「私は御主人が悟る前どころか、王子様時代からの旧知だもんねっ」

 

 新参の弟子に古参アピールが止められないという執着(・・)を捨てる事が出来ず、弟子になるのは一番早かったものの、悟りを得る事は中々出来なかった。

 ある時、長引いた雨季のせいか湿度極まったカンタカにより《覚者誘拐事件》が引き起こされた際、

 

「見よカンタカ、世界は美しい」

 

 という覚者の教えで、目の前に広がる大地が、自分なんかより遥か以前から主人を見守り、どころか遍く生命を育んだ最古参である事に気が付く。

 果たして、己の小ささを思い知ったのと同時に、悟りを開いたのだった。

 

 悟りを得たカンタカは《走禅》を創始。

 走りながらにして精神を座す(・・・・・・・・・・・・・)という、ウマ精神の究極の境地であった。

 なお《走禅》の哲学はメンタルトレーニングの一環としてトレセン学園にも一部導入されており、宗教観念に薄い日本ウマ娘でも、知らず知らずカンタカの教えに触れているのである。

 

 因みに《転輪教》の教えでは、寺院には例えどんなに小さくとも走自在菩薩(カンタカ)を祀るスペースを設けないと、天罰により脳天を蹴り割られて死ぬという言い伝えがあるため、寺院の何処かには絶対にカンタカの像がある。

 大方の例では手水舎の近くに祀られているので、皆もお寺に参拝したら探してみよう。

 

 

 ◆

 

 

 静やかな精舎に一人の尼ウマ娘が座している。目を閉じ、口を噤み、印を結んで座している。

 激しく照り付ける昼間の日光から、ちょうど菩提樹の陰になる位置の、平たく小高い岩上であった。

 ウマ娘の頭から垂れる真っ直ぐな白毛は、彼女の法衣ばかりか、巨石の上を覆ってしまう程に長く、木漏れ日に当たる部分がきらきらと輝いて見えた。

 額の真ん中に法輪の飾りを着けていて、それは彼女が微動だにしないのと同じく、僅かに揺れる事もなかった。

 

 尼ウマ娘の前に、一人のウマ娘が現れて、座った。

 ウマ娘は一人、また一人と集まっていき、夕方までには遂にウマ耳の林となる。かの林は、そよ風が吹く度に、わさわさと動いた。

 誰もかれもが、白毛の尼ウマ娘の下に集うインドウマ娘であった。彼女らの間に言葉は無かった。じっと耳を前に傾けて、静寂の中を待っていた。

 そして地平線に太陽が没し、お月様がはっきり輝いた時、岩の上から清らかな声が響いた。

 

「走っている……」

 

 うっすら開いた瞳が、皆を見渡した。

 その目は穏やかで揺らぐ所がなく、かといって冷たい訳でもなく、諸々のウマ娘に安らぎを与える様な深い色であった。

 

「ウマ娘よ、一切が走っている」

 

 はてな、と皆は一様に首を傾げた。今この時、我々は足を止めているのではと思った。

 白毛の尼ウマ娘──尊者カンタカは、柔和に微笑んで、尋ねた。

 

「この中に、走る時は出来るだけ長くたのしく走り続けたい、そう思う娘は居るかな」

 

 はあい、と皆が揃って手を挙げた。

 

「じゃあ、一度も休憩しないで走り続けられる娘は居るだろうか」

 

 尊者カンタカの問いに、先ず短距離が得意な娘から手を下げ、次いで中距離が得意な娘が手を下げ、最後に長距離が得意な娘が手を下げた。

 上げっぱなしのウマ娘は、遂に居ない。

 

「そうだよね。どんなに長距離が得意なウマ娘でも、休憩せずに走り続ける事は出来ない。鳥さんが止まり木無しに飛び続ける事が出来ないのと同じ様に。それなのに何故、走り続けたいと願うのだろうか──」

「カンタカ様……っ」

 

 最前に座っていた聴衆ウマ娘の一人が、急に平伏して尊者の話を遮った。「だめだよ」とか「ずるいよ」とか、注意する声にも耳を貸さず、そのまま顔を上げない。

 少しの時を置いて、尊者カンタカが「どうしたの?」と優しく聞くと、鹿毛のウマ娘は今にも泣きそうな顔を上げて言った。

 

「カンタカ様、どうか助けて下さい。僕は東の町から七昼夜を駆けて参りました。僕はその町で一番足が速いウマ娘だったんです。でも一年前、転んで足を折ってしまいました。それから思う様に走れなくなって……指導人さんは、きっと大丈夫だと言ってくれます。友達も皆が励ましてくれます。

 でも、でも僕は怖い! ずっと一番でいたいんです、指導人さんに見離されたくないんです。あんなに走る事が大好きだったのに……カンタカ様、僕は苦しいんです」

 

 そうして、わあっと声をべそをかくウマ娘に、誰も異議を唱えなかった。その苦しみが、まるで自分の事の様に、深く心へ刺さったからである。

 此処へ集ったインドウマ娘たちは、誰しもが悩みを抱え、ウマ生に迷い、よすがを求めて尊者を訪ねて来た。

 走る事が好きで好きで堪らなかったのに、何時しかそうでなくなってしまったから、苦しみ喘ぎ、縋って来たのである。

 尊者カンタカは、やがて静かに応じた。

 

「悩める方よ。私は答えよう。一度、足を止めてごらんなさい」

「お言葉ですが、カンタカ様、僕はこの通り一年も止まりっぱなしです」

「いいえ、あなたは走っているよ。初めに申した通り、此処に集まるウマ娘も皆、止まっている様で、走っている。その苦しみについて、今日は話そうか──」

 

 そうして尊者カンタカは、ゆっくりと己の指導人について──目覚めた人(・・・・・)について、話し始めた。

 

 

 

 

 私の御主人──尊き覚者は、二十九歳で出家されて八十歳で涅槃(ニルヴァーナ)を得るまで、世の中の人々が真の法を歩むために、生涯説いて回られた。

 そして皆が知る様に、最も長い間を連れ合った弟子が、私なんだ。

 

 私が御主人の愛バになったのは、まだ出家される前だった。その時の御主人は歳若き王子様で、私はほんの子ウマだった。

 はっきり覚えているよ。初めて御姿を見た時、後光がさして見えた。この世の中で……いや、天上でも天下でも、この宇宙で一番尊い方だと思ったよ。

 その時から御主人は、私の全てになったんだ。

 

 御主人は優しくて頭が良くてかっこよかったけれど、何時も浮かない顔をしていたよ。

 しかもお身体が弱くて、閉じこもりがちだったから、よく私は御主人の手を引いて「お外が綺麗ですよ」って言って連れ出してた。そうしたら少し笑ってくれて、私は何より嬉しかったんだ。

 時には他のウマ娘と駆け比べをした。勝負は何時も私の勝ちだった。誰にも負けなかった。そしたら御主人も褒めてくれて、だから私は走るのがたのしかったよ。

 

 でもやっぱり御主人は何時も独りで悩んでいた。そうした末に、出家を決心されたんだ。お父さんもお母さんも奥さんも子供も捨てて、夜にこっそり城を抜け出した。

 気が付いたのは私だけだった。それで付いて行ったら「付いて来るな」と言われたよ。でもお身体が心配だったから、それでも付いて行ったら、とうとう御主人は怒り出して、揉み合いになった。

 怒った顔の御主人は初めてだったから、びっくりしたけれども、この白い毛並みをバッサリ切って見せたら同行を許してくれたよ……皆、そんなに尾っぽを立てて驚かなくても。私にとっては、毛並み以上に御主人が大切だっただけだよ。

 

 御主人は色んなお坊さん(バラモン)を回って問答をされた。でも、どんなに問答を重ねても満足出来なかったみたい。

 偶に「修行者がウマ娘と同行するなんて、けしからん、実にけしからん。真面目にやる気が無い生臭め」とか言われて、私が蹴っ飛ばしてやろうとしたら、御主人は何時も止めたよ。優しいね。

 それから問答に満足出来なかった御主人は、苦行の道を選ばれた。お身体が弱かった御主人がだよ。私は泣いて暴れたけれど、今度ばかりは御主人の意志は固かった。

 茨に身を晒したり、火の中を歩いたり、水に潜ったり、ごま一粒しか食べられなかったり……それを六年間も! 思い出すだけでつらくなるね。

 実際に何度も死んじゃいそうになって、その度に私が御主人をおんぶして走って、一生懸命に介抱したよ。

 

 ある日は、御主人が餓死しそうになって、でも食べ物が無くておろおろしていた時に、スジャータちゃんという娘が乳粥をくれたんだ。優しいね。

 御主人はゆっくり乳粥を食べて、心身を回復させてから申された。

 

「カンタカよ、苦行のし過ぎは良くないなあ。死んでしまったら何にもならない。もう止めるよ」

 

 私はとっても嬉しかったけれど、その後に、

 

「独りにしておくれ。私は考えたい」

 

 と言われて、それは私にとって御主人が苦行しているより辛かったけど、苦行を始める時と同じ位ご意志が固かったから、仕方無く私はスジャータちゃんの所でお世話になったんだ。

 

 暫くして、御主人は自分から戻って来た。

 私は、はっとしたよ。そのお顔は安らかで、初めて会った時よりも、もっと後光が輝いて見えた。私は感涙を流した。やっと御主人が、答えを見付けたんだと思った。

 その時から、御主人は《覚者》になったんだ。

 

 覚者は私に、悟り得た事を教えてくれたけど、何が何だか良く分からなかった。でも、それでも覚者の心が安らかな事は、私の心の安らぎだったよ。

 そうして覚者が初めに教えを説いたのが、よりにもよって鹿さんのお家だったけれども*1、その教えが沢山の人に受け入れられていく様子は嬉しかった。

 

 私一人しか居なかった弟子も、いっぱい増えた。

 人間さんや、ウマ娘も沢山……後からやって来て、覚者と仲良くしようとする人が沢山。嬉しかったし、私を慕ってくれる人も多かったけれど、何だかもやもやしていたよ。

 それで新しく来た弟子には、特にウマ娘の弟子には「私が一番弟子なんだよっ」て教えてあげたんだ。

 

「カンタカよ。妹弟子には親切にしてやりなさい」

「はい、世尊よ」

 

 覚者は何度も私に言って、私もそれを守った。私には沢山の妹弟子が出来て、尊敬してくれる娘も沢山いた。

 駆け比べをすると、何時も私が一番だった。妹弟子は褒めてくれた。勿論、御主人も褒めてくれた。でも私は何だか、段々走るのがたのしくなくなっちゃった。

 

 覚者がお出掛けになる時は、何時も私が付き人として付いて行ったよ。旅先で素晴らしい教えを説かれて、弟子はどんどん増えた。

 私は新しい弟子に、毛並みが綺麗だとか、足が速いだとか、かしこいだとか言われて慕われた。でも、走っても走っても、昔の様にたのしい気持ちにはなれなかった。

 

 私は苦しかった。満たされなかった。

 皆は尊敬してくれるけれども、それじゃ足りなかった。もっともっと、走りたかった。

 何故? それが自分でも分からなかった。

 昔は、死にかけた御主人をおんぶして走るだけでたのしかった。御主人の安らぎが、私の安らぎだと思っていたのに、それなのに苦しかった。

 そんな時だったよ。御主人の付き人はずっと私だった、永劫に代わる事もないだろうと思っていた。なのに、代わる様に言われちゃった。

 

「これからは、アーナンダに付き人を頼む」

 

 私はそれを聞いた時、頭が真っ白になって、訳が分からなくなって、気が付いたら覚者をおんぶして逃げ出してたんだ……こらっ、皆「やった」とか「すごい」とか喜ばない様に。これは誤ちなんだから。

 

 いや、まあ。実際、私の心は弾んでいたよ。覚者を攫って、また二人きりで、昔の様にたのしく走れると思った。

 それから、しつこい追っ手を撒いて、ようやく落ち着いた場所で覚者を下ろした。

 静謐な土地だった。草は青々として涼やかに揺れて、目の前には清らかな泉がこんこんと湧き、彼方には雄大なヒマラヤが綺麗に見えた。

 

 覚者を誘拐した私は、彼に怒られるか、それとも悲しまれるかと思った。それで良いとさえ思っていた。何にせよ視線を独り占め出来る、しめしめ、と。

 でも、覚者はどうもしなかった。それどころか、下ろされた場所で静かに瞑想を始めたんだ。

 待っていたのに、私に何にも言わなかった。言ってはくれなかったんだ。

 それで、堪らなくなって、私から語りかけた。

 

「どうして何も言ってくれないのですか」

 

 そうしたら、覚者は目を開けて答えた。

 

「お前は私の言葉が欲しいのか」

「私はあなた様を攫いました、悪い事をしたんですよ」

「既にそうと分かっている人に、何の言葉がかけられようか」

「逃げようと思わないのですか、助けを呼ぼうとは思いませんか」

 

 私が聞くと、覚者は静かに笑われた。

 

「カンタカよ。人間がウマ娘から逃げられると思うか。また、本気を出したお前に、誰が追い付けると思うか。そんな事を一々心配していて、どうしようと言うのか。私は此処に止まっているだけだ」

 

 こころ安らかな言葉だった。私が言葉に詰まって言い返せずにいたら、覚者は続けて語られた。

 

「カンタカよ。振り返れば、この様に二人きりで言葉を交わす機会は久しくなかったなあ。私は、この様な顛末に至り、今、お前と語り合いたいと心から思う……覚えているだろうか。私が故郷を出て、正しい人の生き方を求め旅を始めた日の事を」

「はい、世尊よ。はっきり覚えています。勝手に付いて行った私は怒られましたが、この毛並みを切って捨て、決心を示しました」

「ああ、驚いたとも。私はあの時、このウマ娘の心は、想像していたより遥かに堅固なのだと気が付いた。世界一愛らしいのみならず、何と立派なウマ娘だろうかと感心を致した」

「えへへ」

「然れどカンタカよ。同じく思ったのだ。私は国を捨て家族を捨て、それでもお前だけは、捨てる事が出来なかった。それは私自身の心の弱さではないのかと」

「世尊よ。それは違います、私が無理矢理付いて行ったので御座います」

「その様に、お前が押しかけてきたと言い訳するのは簡単だ。けれども、本当は私自身がお前と離れる事が辛かっただけではないだろうか。思えば、王城で兄妹同然に青春を過ごし、お前には世話になり通しであった。お前は私の事をすっかり分かっていて、何不自由をする事が無かった」

「勿体なきお言葉です。世尊の安らぎが、全く私の安らぎであり幸せなのです。それなのに……」

 

 私は少し言うに躊躇って、けれども穏やかな覚者の目を見て、言う事にしたんだ。

 

「世尊よ。どうしてアーナンダなんかに付き人を任せるのですか! 私の方が、あなた様との付き合いが長く、万事すっかり分かっています。それに、私の方が速いのに」

 

 私は、いても立ってもいられず、ぱあっと駆け出して目の前の泉を一周して見せた。

 戻って来くると、覚者はいつもの様に満足気に微笑んでおられた。

 

「お前の走りは、まるで飛ぶ様だ。お前は私が出家してから長い間、かくの如き純一なる無量の身体と、言葉と、心とで、十分私に尽くしてくれた。真に善い行いをしてくれた」

「全然、十分ではありません。全く足りないのです。まだまだ私は走りたいのです」

「カンタカよ。何を急ぎ、走っているのか」

「世尊よ、私は走っておりません」

「いいや、お前は走っている。安んじよ、心配無い。疲れたろう。おいで、此処に止まって休みなさい」

 

 私にとっては、今までのどんな言葉より、この時の言葉が衝撃だった。がーんだった。私は膝から折れて、覚者の足に縋った。

 

「御主人、私の御主人! お願いです、止まれだなんて言わないで。どうか、私から逃げて行かないで下さい。私はあなた様のために、永遠に駆けていたいのです。

 ずっと一緒だったじゃありませんか。私の目には御主人の姿しか映らない事を、あなた様は知っているはずです。御主人、私は怖いのです。もしも、あなた様を失ってしまったら……私は全てを失ってしまいます。そう考えるだけで、堪らなく寂しいのです、苦しいのです」

 

 私は身悶えた。この身に纏わり付いて離れぬものは、まるで全身を焼き焦がす炎の様に、私を苦しめたから。

 覚者は、縋り付いて泣きじゃくる私の白い毛並みを撫でて申された。

 

「泣くなカンタカよ。私はこの様に説いたではないか。全ての愛するもの、好むものからも離れ、別れ、異なるに至るという事を。凡そ生じ、存在し、滅するべきものであるに、それが滅びないという事がどうして有り得ようか。カンタカよ、かかる理は存在しない。

 それは、例えお前の足がどんなに速くとも追い付けるものではないのだ。人間がウマ娘に敵わぬ様に、どうしてウマ娘が諸行無常に追い付けようか」

「御主人。私はあなた様の言葉を一句違わず記憶しております。日々、何度となく妹弟子に語り、聞かせ、教えています。なのに、どうしても私の心は、未だあなた様の悟った実質を解し得ないのです。愚物。私はどうしようもない愚物です」

 

 私は、ますます覚者の懐に顔を埋めて泣いた。その香りを、今この瞬間だけでも感じていたかったんだ。

 覚者は私が落ち着くのを待ってから、仰った。

 

「我が愛バ、カンタカよ。今こそ伝えたい。私とお前は似ている。先に申した様に、私もお前と別れる事が酷く辛く、苦しかった。知恵者と呼ばれる人々と問答を重ね、形在るこの身体を痛めつけても、どうしても私にはわからなかった。お前はその折も、私に尽くしてくれたね。何度も命を助けられた、ありがとう。

 しかし私は、肉体の苦しみ以上に、この心が苦しかったのだ。何故この様に苦しむのか、この苦しみを静めるためにはどうすれば良いのか……そうして、あの時、菩提樹の下で独り静かに考えてみた。

 すると、わかった。生きとし生けるものは、己の感知する範囲にのみ恩を受け、繋がっているのではないのだと。自分という存在をじっと見つめ辿っていけば、父や母や、人や動物や虫や木や草や、そしてウマ娘……この宇宙の遍く生命に繋がりを持っている。その一つ一つが不思議な縁で互いに支え合い、だからこそ相互に存在たらしめているのだ。

 それ故にカンタカよ。何も寂しがる事はない。万物は移ろい滅び去る。しかし我々という存在を根底で繋ぐものは、生ずる事も滅する事もない、不死のものであるから」

 

 私は顔を上げ、目と耳、そして心を動かして彼を眺めた。

 

「お前は何時も、曇りの無い真っ直ぐな眼で私を見てくれた。一度立ち止まって、その心の眼を使い、周りを見てごらん。昔、閉じこもりがちな私の手を引いてくれた様に──」

 

 覚者は、世界を指さして申された。

 

「見よカンタカ、世界は美しい」

 

 私は、指の先を見た。

 広い広い世界があった──そして、ふっと気が付いたんだ。

 こうして、ふと止まって見れば、この広い大地には沢山の生命が育まれていて、私はそれに属する命の一つに過ぎない。

 御主人、覚者さえ特別ではないんだ。誰しもが同じ、諸々の生命の中に支えられて立っている、ただの生き物。

 人間さんも、ウマ娘も、区別は無いんだ。

 

 私は、自己という存在が、御主人無くして存在し得ないと信じていた。また、昔お身体の弱かった御主人が、私の支え無しには自立出来ないという慢心があった。

 どんなに仲間が増えた所で、結局は二人だけで生きているのだと思っていたんだよ。

 でも違った。見渡す限り、みんな生きている愛おしい仲間だった。

 

 私は何て小さい範囲を、訳も分からず、休みもしないで、ぐるぐる走っていたんだろう。覚者の言う通り、私は疲れていた。じたばたしていた足を止めて、そして安らかに景色を眺めてみた。

 

 私は思った──嗚呼、本当に綺麗だなあ。その中に繋がって居られるのはありがたいなあ、って。

 

 それからもう一度、覚者を見た。

 その人は私から離れる事もなく、近づくこともなく、そこに正しく思い、正しく止まっておられた。

 気が付けば、御主人に対する私の燃える様な感情は消え失せていた。けれど不思議だね。これまでよりも、ずっと近く、慕わしく思えたんだ。

 

「尊き方よ。わかりました」

 

 手を合わせて伝えたら、覚者は嬉しそうに微笑んで、こっくり頷かれた。

 

「帰ろう。私を乗せて、走っておくれ」

「かしこまりました、世尊よ」

 

 私は来た時と同じ様に覚者をおんぶして、仲間たちの方に走った。

 諸々は過ぎ去り、滅ぶ。けれど私は己の意志で確かに駆けているんだ。あんなに快く走るのは、初めてだったよ──

 

 

 

 尊者カンタカは岩の上に、正しく思い、正しく止まっていた。月明かりに長い白毛がぼんやり浮かび、額の法輪は仄かに光った。

 その光の中に、衆生のウマ娘たちは尊いものを見出していた。

 

「同胞よ。『ウマ娘は走るために生まれた』と古来言う。それは決して、誰かと競走して勝ちたいとか、人間さんの視線を独り占めしたいとか、そんな貪欲にがんじ絡めにされて走るという事じゃない。

 私たちが生まれたのは、その娘自身の心が、生き生きと、清々しく、確かに大地を踏みしめて、たのしく走るためなんだよ」

 

 また尊者は、自分に泣き付き平伏したままの鹿毛のウマ娘に指して語りかけた。

 

「ウマ娘は、人間さんから離れて生きる事は出来ない。誰かのために駆けるのは決して悪い事じゃない、時に足へ活力を与えてくれるでしょう。けれどウマ娘(わたしたち)は駆けている最中、得てして視野を狭め、目の前に見えるものだけに執着し、離れ難く感じてしまう。私は言っておく。その執着こそが、愛するものを己から遠ざけてしまう、苦しみの根源なんだと。

 怖がる事はない。一度足を止めて、執着から離れ、周りを御覧なさい。あなたが生きている上で、本当に大切な事は何かと、安んじて想ってみると良い。その場所でしか見えない景色がきっとあるはずだよ。そう、速さの向こう側の景色(・・・・・・・・・・)が……」

 

 尊者カンタカは暫し言葉を切った。荒く肩で呼吸をして、ぐらりと頭がよろめく。

 あっ、と件の鹿毛のウマ娘が尊者を支えた。その息遣いから、白毛の比丘尼が酷く疲労している事が分かった。

 

《覚者》が齢八十で涅槃を得てから、何年を経ただろうか。

 その愛バの齢は既に主人のそれを超え、ウマ娘の命である足腰は衰え、尾っぽは落ち込み、付き人の支え無しには歩く事すら叶わない程に衰弱しきっていた。

 かつて空を飛ぶ様に駆けたというウマ娘は、今や死を待つばかりの老バであった。

 

「同胞よ。私はこの通り、人生の旅路を通り過ぎ、足腰は老い朽ち、老衰を待つばかりの身体となった。世尊が涅槃に入られた時と同じ様に……移ろい往くものに、人間さんもウマ娘も関わりない。

 同胞よ。私には、あなたたちの苦しみを知る事も、たちどころに癒す事も出来ない。自分の道は、自分で踏みしめて往きなさい」

 

 衆生のウマ娘たちは衰弱したカンタカの姿を眺めて、しくしく涙を流していた。その様子を見て、尊者は呼吸を整え、宥める様に言った。

 

「けれど同胞よ。心配は要らない。『自らを島とし、自らを拠り所として、他人を拠り所にせず、法を島とし、法を拠り所として、他のものを拠り所とせずにあれ』。

 御主人が教えてくれたんだ、良いでしょ。だから私は、大好きな御主人と別れても、寂しく思う事は一度もなかったよ。憶えておいて。走る事が、生きる事がどんなに苦しくたって、正しき法は、しあわせになる道は何時でも目の前に開けているんだ……」

 

 比丘尼の表情や声色に、不安や恐れというものは微塵も感じられなかった。ただありのまま、安らかに世界の在り様に面していた。

 そして尊者カンタカは、幼少から《覚者》と共にあった己の越し方を顧みて、またこの世に生を授かった一人のウマ娘として──感懐を込めて同胞たちに語った。

 

「走る事はたのしい。世界は美しいし、生命は甘美なものだ。あなたに幸あれ」

 

 ほうっと息をつく尊きウマ娘は、その時確かに──誰よりも速く、たのしく、人生を駆け抜けていたのである。

 

 

 ◆

 

 

 走りながらに止まる──そのウマ精神の境地を《走禅》と名付けたのは、実はカンタカ自身ではない。

 彼女の入滅後、その教えを経典に纏める際に名付けられたものである。カンタカにとっては名前なんてどうでも良く、それよりも生きた教えとして順々と説く事を大切にしたからだと言われている。

 この姿勢は《覚者》と全く同様であった。

 

《転輪教》と《走禅》は、その後インドウマ娘たちの足によって世界中に伝播された。伝播するに連れ徐々に体系化され整えながら、詳しく語るときりがなくなるので詳細は省くが、飛鳥時代の日本に伝来する。

 本邦の伝説的トレーナー、ウマ屋戸皇子──つまり聖徳太子の時代である。

 そして《転輪教》の神々は、日本土着の神々と合体(しゅうごう)したり、やっぱりそうじゃなくなったりしながら、現代に至る。

 

 冒頭でも述べた通り《走禅》は、トレセン学園の授業でも一部教えられている──のだが、大抵の生徒はトレーニングの疲れからか、うとうとしたり、堂々と居眠りしていたりする。

 さもありなん。日々ライバルたちとしのぎを削り合う、厳しい勝負の世界に身を置いているトレセン生にとって、尊者カンタカの教えは深過ぎるというか、端的に言って退屈(・・)なのである。

 普段ならば、先生が一喝して叩き起す場面ではある。しかし、カンタカは生前「最近の若ウマは師の話を真面目に聞かない」と憤慨する弟子ウマ娘に対して「そのままで良い、私の教え無しにたのしく走れる事に越したことはないよ」と、まるで未来を見越した様に説いた。

 だから敢えて先生らも厳しくしないでいるのである(それを良い事に昼寝の時間(・・・・・)呼ばわりする不届きな生徒も居るらしいが)。

 

 青春を謳歌するトレセン生は、ほとんど走禅を意識して駆ける事は無い。

 しかし、壁に突き当たった時、挫折した時、また手にした勝利に虚無を感じた時──その時、己を深く見つめたウマ娘にこそ、走禅の教えは胸に迫ってくるのである。

 

 一流のウマ娘には必ずトレーナーが付いている。何時も近くに居て互いに影響を及ぼし合う中にこそ、ウマ娘は成長出来る。

 更に家族や友人のために駆けているという娘、何か大切なもののために駆ける娘も居る。

 ウマ娘という人類は、何かのために走る時、人間には信じられない程の底力を発揮する人々である。

 けれども、ふとした時に考える。

 

 一体私は何のために生まれて、何のために走っているのだろう?

 

 そこへ行き着く過程は様々であれ、ウマ娘として生を受けた以上は逃げられない巨大な葛藤を前にして、苦しみもがいたウマ娘は古来どれだけ居た事だろうか。

 

 

 とあるウマ娘について話をしよう。

 そのウマ娘は、現役時代から自他共に妥協を許さないストイックな気性であった。走る事を楽しむなど不純である、全ては結果に付随するものだ──と、彼女は厳しいトレーニングを自分に課した。

 そして順調に重賞勝利を重ね、遂にGIレースを制覇した。それどころか、トレーナーをも恋人から最愛の夫へと電撃的に手に入れてしまった。

 トレセン卒業後は実業家としても活躍する。自身の経験を活かし、ウマ娘用のトレーニンググッズ販売で成功を収め、大きな財産を手にした。

 正に順風満帆バッチグー、羨まないウマ娘は居ない人生の成功者であった。

 

 とある日、仕事の資料作りに齧り付いていた彼女は、最近走れていない事にふと気が付いた。気が付いたからには、じっとはしていられないのがウマ娘という種族である。

 久々に走ってみようか。自社製のトレーニングウェアに着替えて、近所の運動場に移動し、いざ走ろうとした時──どうした事だろう、一歩も足が進まなかったのである。

 そんなバ鹿な、と何度も足を上げようとしたが、全て徒労に終わる。彼女は大変に落ち込んで、しょんぼりした。

 走れないウマ娘なんてウマ娘じゃない──そう自分を責め立てた。

 

「私は追い付かれた」

 

 と彼女は己を指して表現した。今まで目を背けていた全てものから、遂に逃げ切れなくなったのだと。

 自分は今まで、輝かしい勝利から、名声、財産、最愛の人まで、望むままに手に入れて来た。けれども、それで私は幸せだったのだろうか。何か自分の意志とは別の、大きくて怖いものに突き動かされていただけではないだろうか。走れなくなった自分が、本当に自分の望んだ姿なのだろうか。

 人生を振り返り、自分の手中に掴み取った様々なものを眺め──否。実は宝物を所有していると思い込んでいただけで、在りもしない幻影にしがみついていただけだったのかもしれない。

 

 嗚呼。何もかも、虚しい。

 

 誰もが羨むウマ娘は、他人に理解し得ない孤独に沈んだ。仕事も手に付かなくなってしまった。

 ただ一心不乱に駆けていられた過去を懐かしんだ。あの頃に戻りたい、ただ走る事だけ考えていられたあの頃に──そうして学生時代のアルバムを見たり、あの頃好きだった音楽を聴いたり、古ぼけた教科書を引っ張り出して読んだりしてみた。

 やがて彼女はある教科書のページを捲った。表紙には《道の教科書》とあった。

 

 ウマ娘は、心打たれた。

 当時は歯牙にもかけなかった授業の合間の昼寝の時間(・・・・・)、まともに読むのはこれが初めてかもしれない教科書。

 そこに書かれた、遥か遠い昔の、自分とは全然縁がないと思っていた尊者カンタカと《走禅》の教えに、尾っぽが震えた。

 

 いても立ってもいられなくなって、彼女は着の身着のまま我が家から飛び出した。

 目の前に、そして後ろにも道が伸びている。その事が妙に恐ろしかった。世界に独りぼっちだと感じた。暫く動けずに立っていたが、やがて暖かい手に背を押される様にして、一歩、だけ踏み出した。

 踏み出す事が出来たのだ。

 ウマ娘の目から涙が溢れ出た。膝から折れて、咽び泣いた。

 

 私は、初めて本当の意味で走る事が出来たんだ──その目で、広い世界を見た。

 綺麗だ。本当に、世界は美しい。

 

 その後、心配して外に出てきた夫に肩を抱かれ、家に戻った彼女の顔には晴れ晴れしたものがあった。

 翌日から職場に復帰するも、以前の様に何かに取り憑かれた様な仕事ぶりではなく、何だかのびのびして打ち込んでいたという。

 アスリート志向であった彼女の会社は、以後、子ウマ向けにも商品を売り出し、これもヒットさせた。

 そして休日には、草レースチームでたのしそうに走る社長ウマ娘の姿があった──

 

 

 以上が《走禅》にまつわる、とあるウマ娘の話である。

 一見、順風満帆だったり能天気そうに見えるウマ娘でも、心の隅には恐怖と孤独を抱えて生きているものだ。

 その疑問は、ふとした瞬間に湧き上がってくる。

 

 何のために生きているのか?

 何のために走るのか?

 

 二千五百年前の世界に生きた尊者カンタカは、現代のウマ娘たちに対面して、暖かく答えてくれるのである。

 

 

 ◆

 

 

 トレセン学園、道の教科書より引用。

 尊者カンタカの《走禅》の教えについて、要点が纏められた経の現代語訳。

 

『走禅の完成者たる、悟ったウマ娘に礼し奉る。

 

 求道者にして聖なる走自在菩薩(カンタカ)は、誠に走るという事を実践していた時に、一つの真実を悟り得た。

 走る事は、全く、たのしい。

 更に彼女は、走るという事の本性が、即ち止まる事であると体得したのであった。

 

 止まると言っても、それは走るという事を離れてはいない。

 また走るという事が、止まるという事を離れてもいない。

 凡そ走るという事は止まる事なのであり、止まるという事は走る事なのである。

 相互は一体なのであり、だからこそ相互で在らしめるのだ。

 

 走る事は一途である。

 一途が故に、前に見えるものは変わらない。

 前に見えるものが変わらなければ、止まっているのと同じである。

 走れば走る程、心はそこに止まっている。

 それなのに、ずっと走ろうとするのは、むりぃであろう。

 

 止まる事は自由である。

 自由が故に、四方を見渡すものは移ろい変わる。

 四方に見えるものが移ろえば、それは走っているのと同じである。

 止まれば止まる程、心はそこに走っている。

 それなのに、ずっと止まろうとするのは、むりぃであろう。

 

 走らねば生きてゆけず、また止まらねば生きてゆけない者なのに、ただ片方を求めるのは虚しい。

 ひた走る事に取り憑かれたり、ただ止まる事に執着したりするのは、つまらない事だ。

 だから、それぞれの真ん中でいなさい。

 

 この世は無常である。

 あらゆるものは空である。

 しかし、決して虚無ではない。

 空を知り、煩悩を離れ、誠に止まる。

 そうして初めて見える景色があるのだ。

 

 尊い方は仰った。

 追い付けないものへ急いでどうする。

 何もあなたから逃げてはいない。

 安んじよ、心配無い、そこに止まりなさい。

 

 尊い方は仰った。

 背を押すものへ逆らってどうする。

 何もあなたを邪魔したりしない。

 安んじよ、心配無い、そこに走りなさい。

 

 尊い方は仰った。

 安んじよ、心配無い、ありのままで居なさい。

 

 走りながらに止まり、止まりながらに走る。

 この立場においては 速いという事も無く、遅いという事も無く。

 逃げも無く、先行も無く、差しも無く、追い込みも無く。

 勝つ事も無ければ、負ける事も無い。

 心が走りから遠く離れているから、誠の走りを悟り得るのである。

 

 その走りの完成によって、遂に区別は除かれる。

 区別が除かれるから、全ての掛かりは取り払われる。

 掛かりが取り払われるから、誠に走る事が出来る。

 誠に走るという事は、たのしいものだ。

 その様にして、過去、現在、未来の三世におわす目覚めたウマ娘は、完成された走りの中に安住しているのである。

 

 それ故に、ウマ娘は知るべきである。

 大いなる悟りの真言、走りの完成の真言。

 無上の真言、無比の真言。

 それは、あらゆる掛かりを取り払い、たのしく走る事を真実にするものである。

 

 走る者よ、走る者よ。

 彼岸に走る者よ。

 彼岸に全く走る者よ。

 悟りに、幸あれ。

 

 これが偉大なる走禅の完成についての経である』

 

 

 ◆

 

 

 走れども走れども。わたくしは何処へ向かい、到達する訳もない。それを知る、かしこいウマ娘は実に安楽の境地へ赴く。

 

 ──尊者カンタカ、走自在菩薩

*1
鹿野苑の事。古今東西のウマ娘が何故か鹿をライバル視しているのはご存知の通り。



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転輪教説話『四門出遊』について


インドの転輪教とカンタカの走禅について』、の続きというか、前日譚です。
転輪教の説話にはウマ娘が度々出てきて面白いです。


 夜半である。一人の人間が、河畔の菩提樹の下で禅を組んでいた。

 顔色は悪く、両目は落ち窪み、骨と皮ばかりの隙間に血脈がありありと浮き出ている。しかし、彼の纏う雰囲気は清浄であり、静寂であり、後背に光を抱く様であった。

 

 修行者は悩みを抱えていた。

 かの悩みは、これまでに出会った何者にも解決しえぬ、深く、複雑で──それでいて単純なようにも思える、酷く難しい悩みであった。

 彼はその悩みを解消するために、あらゆる努力を惜しまなかった。しかし現実に、ここに至っても未だその悩みを抱いている。

 彼は座禅を組んで、静かに己の来し方を顧みて、今一度、考えてみたかった。

 

 

 ◆

 

 

 彼はカピラヴァストゥと言う土地(現代で言うインドとネパールの狭間)に生を受けた。父は土地の王であり、彼はたった一人の太子であった。

 母は早いうちに亡くなり、その分も太子は父王の愛情を一身に受けて育てられた。何不自由をすることも、苦労に思う事もなく、周囲に恵まれて育った。文武の才にも恵まれ、将来を待望された。

 しかし彼は、その境遇に対して無邪気な幸福を享受する事はなかった──むしろ自分の生まれを想い、また他人の生まれを想っては幸福(・・)について悩む事が多かった。

 幸福とは何であるか?

 それについて思い悩む余り、常に表情は晴れず、自室に塞ぎ込みがちな子供であった。

 

 太子の様子を心配して、父王は可愛い我が子の心の霧を晴らす仕事に腐心した。

 季節折ごとの宮殿を太子一人のためだけに建築した。その宮殿で、また考え得る限りの快楽を彼に注いだ。

 しかし、地上のあらゆる悦びを以てしても──彼の心を満たすことは叶わない。

 

 父王は、彼に国一番の瞬足であるウマ娘を従者に付けた。彼女の名は《カンタカ》という。「一番のウマ娘を従者に付けて喜ばない男子はいない」そう考えての事である。

 また今まで誰にも懐こうとせず、つん(・・)として気位の高い白毛のウマ娘は、不思議と、この笑顔を見せない少年にだけは心を開いたのだった。

 

 新しい一回り年下の速くて美しい従者にも、太子はこれといって反応を見せない。

 しかしカンタカは「お外が綺麗ですよ」と、相変わらず部屋にこもる太子を半ば強引に引っ張り出す。腕を引いて庭園を一緒にウマ散歩すると、初めはしぶしぶといった感じだった太子の顔も、悠然たるヒマラヤの景色を前に頬が綻んだ。

 

「本当だねカンタカ、なんて綺麗な景色だろう。私は知らなかった」

 

 これ以降、太子は愛バに信頼を寄せる様になり、そして二人の様子を物陰からこっそり眺めていた父王も喜んだ。そうしてカンタカはカピラヴァストゥの王家に欠かせない存在となったのである。

 さて、カンタカは王城主催で度々行われる駆け比べに悉く勝利した。すると太子は微笑んで、彼女を褒めるのだった──彼は後に語った。

 

「私は母を早くに亡くし、父王は政務に忙しく、兄弟は無かった。ただカンタカが私にとっての家族であった」

 

 白毛のウマ娘は太子の憂いを晴らすため、外界について一生懸命に話す。少しずつ少年にも心境の変化が起きて、外に興味を示す様になっていった。

 そして太子が文武両道の立派な青年に成長した時、父王から宮殿外への外出許可がおりた。たった一人の後継者として過保護なまでに守られてきた太子は、ようやく出遊の機会を得たのである。

 まずカンタカが喜んだ。何しろ、何時の日か太子と一緒に外出する事を夢見ながら空のバ車(・・・・)を引いて街を練り歩くという予行演習を何年間も行っていた程である(またカンタカちゃんが空のバ車を引いているわよ……と街の人に囁かれていた)。

 今日からは本当に御主人を乗せる事が出来る! 冷静を装っても興奮の隠せていない耳尾の専属御者に太子は微笑みつつ、珠玉の散りばめられて煌びやかな、しかし妙に使い込まれたバ車に乗った。

 

「とばしますか?」

「ううん」

「とばしましょうか?」

「いや」

「とばしてさしあげます」

「ゆっくり行こう。私は見てみたいから」

「かしこまりました」

 

 見送りに来た父王のはらはらした視線を背に、バ車はゆっくりと宮殿の東門(・・)を出発した。

 城下町の様子は父王の善政のお陰か活況である。その賑わいが、太子には何もかも珍しく新鮮に写った。それもそうであろう。これまでの人生で青年が目にしたのは宮殿の中の有様のみである。

 天女の如き若くて美しい踊り子、岩の様に筋骨隆々の力士。そしてカンタカ程ではないがぴんと耳に張りがある、カンタカ程ではないが艶々した尾っぽの、カンタカ程ではないが瞬足のウマ娘──それが太子の目にした世界というものだった。

 街の住人たちも、今日はカンタカちゃんが空ではないバ車を引いていたので、驚きと祝福の視線を投げかけた。心なしか白毛のウマ娘は誇らしげである。バ車の上に鎮座するは、文武両道で心優しいカピラヴァストゥの時期国王、そして自慢の御主人であった。

 

 しばらく城下町を進んでいると、少し先の方で、足元のおぼつかなくて杖を使う人がバ車の進路を退こうとして尻もちをついた。

「あっ、殿下失礼致します」御者は言うとバ車から離れ、少し先まで走って行った。そして転んだ人の手を取って立たせ、安全な道脇まで導いてから、再びバ車に戻ってきた。

 それをじっと見ていた太子はウマ娘に尋ねた。

 

「友なる御者、カンタカよ。あの者はどうしたのか。彼の様子は私たちとは異なっている」

「殿下。彼は老人であるのです」

「老人とは、一体どういう者であるのか」

「殿下。老人とは、もう長生き出来ないという者です」

「御者よ。それならば私もお前もまた、老いを避けられないのだろうか」

「殿下。あなたも私もまた、老いを避けられないのです」

 

 カンタカが答えると太子は驚き、慄き、次にはバ車を宮殿に引き返す様に頼んだ。ウマ娘は残念そうにしながら従った。

 太子は自室にこもって『老い』というものについてじっと考え、悩み、苦しみ、そして思った。

 

「あの様な姿は私に相応しくない」

 

 太子は、はたと気が付いた。己の中に『若さ』という驕りがある事に──それから彼は心底反省を致す様になった。

 

 

 別の日、カンタカはお出かけしましょうと言った。何時もの様に太子を部屋から引っ張り出してきた御者は、今度は南門(・・)からバ車を出発させた。

 そこは風光明媚な並木道で、風の通る涼しい場所であった。御者のお気に入りで、何度もこのバ車で来た事があると言う。嬉しそうに妙な事を話す愛バの調子に、太子の心も少し爽やかになった。

 

 しばらく並木道を進んでいると、道端にうずくまり、低く呻く人が居た。

「あっ、殿下失礼致します」御者は言うとバ車から離れ、その声の方に走って行った。そして、苦しそうな人の背を撫でて、励ましの言葉を掛け、幾らかの施しを与えてから、再びバ車に戻って来た。

 それをじっと見ていた太子はウマ娘に尋ねた。

 

「友なる御者、カンタカよ。あの者はどうしたのか。彼の様子は私たちとは異なっている」

「殿下。彼は病人であるのです」

「病人とは、一体どういう者であるのか」

「殿下。病人とは、苦しい病いから回復するか分からないという者です」

「御者よ。それならば私もお前もまた、病いを避けられないのだろうか」

「殿下。あなたも私もまた、病いを避けられないのです」

 

 カンタカが答えると太子は驚き、慄き、次にはバ車を宮殿に引き返す様に頼んだ。ウマ娘は残念そうにしながら従った。

 太子は自室にこもって『病い』というものについてじっと考え、悩み、苦しみ、そして思った。

 

「あの様な姿は私に相応しくない」

 

 太子は、はたと気が付いた。己の中に『健康』という驕りがある事に──それから彼は心底反省を致す様になった。

 

 

 別の日、カンタカはお出かけしましょうと言った。この日の太子は多少抵抗したが、所詮人間がウマ力には勝てず部屋から引っ張り出された。御者は、今度は西門(・・)からバ車を出発させた。

 そこは閑静な農道で、東門の活況とは異なる景色であった。ここは御者が物思いをしたい気分の時に来る場所で、何度もこのバ車で来た事があると言う。太子は「もしかして我が愛バは空のバ車を引いていたのか?」と勘繰った。そんな勘繰りは一先ずよそに、太子は物思いに沈んだ。

 

 しばらく農道を進んでいると、向こうの方から何やら人の集団がやって来た。彼らは思い思いに目元を抑え、涙をすすり、集団の中心には布が掛けられたかごを負っていた。

「あっ、殿下失礼致します」御者は言うと、バ車を道の真ん中から端に寄せて止まり集団の通り過ぎるのを待った。

 それをじっと見ていた太子はウマ娘に尋ねた。

 

「友なる御者、カンタカよ。さっきの人々の集まりは何だろう。あの中心の染められた布かごは何だろうか」

「殿下。あの者は死人であるのです」

「死人とは、一体どういう者であるのか」

「殿下。死人とは、母や父や親族らが彼に会う事は出来ず、彼も母や父や親族らに会う事は出来ないという者です」

「御者よ。それならば私もお前もまた、死を避けられないのだろうか。私は、父王やお前に会えなくなるのだろうか。父王やお前は、私に会えなくなるのだろうか」

「殿下。あなたも私もまた、死を避けられないのです。どんなに愛しい人でも、何時かは会えなくなるのです」

 

 カンタカが答えると太子は驚き、慄き、次にはバ車を宮殿に引き返す様に頼んだ。ウマ娘は残念そうにしながら従った。

 太子は自室にこもって『死』というものについてじっと考え、悩み、苦しみ、そして思った。

 

「あの様な姿は私に相応しくない」

 

 太子は、はたと気が付いた。己の中に『生』という驕りがある事に──それから彼は心底反省を致す様になった。

 華やかなる宮殿の外、三つの現実を目にした彼は涙を流し、これまで以上に苦しみ悶えた。老い、病い、死──どの様な人間であれ、ウマ娘であれ、最期は苦しんで滅んでいく。家族同然、否、それ以上に想う愛バ、カンタカともいずれ離れねばならぬ。耐えられない。であるならば、私は何のために生まれてきたのだ。

 自分は今まで、あらゆる悦楽に浸って暮らしてきた。それに何の意味があったのか。ただ快楽を追い求める生き方では本当の幸福は手に入らないのではないか。真の意味で幸福を手にするためには、どうすれば良いのだろう。

 嗚呼、虚しい──

 

 

 一層暗く、無口になってしまった太子に、カンタカは容易に声を掛ける事が出来なくなった。自分のせいかもしれないという負い目もあったのだ。

 また、贅を尽くした豪華絢爛な宴を断固として拒否する後継者に父王は困り果てた。太子の気を引ける物といったら、もう思い付かない。結局、王はカンタカに何とか息子の気分を晴らしてくれるよう頼み込んだ。ウマ娘も困ってしまったが、しかし国王命令である。

 恐る恐るお出かけに誘ってみると、意外にも太子は反発しなかった。一言も発さず、バ車に乗った。御者は、今度は北門(・・)からバ車を出発させた。

 北門の方角は御者も余り来た事がなかった。存じない道を進むのに不安を覚えながら、一切の会話も無く、何となく薄暗い感じの林を進んだ。

 

 しばらく林を進んでいると、とある木の根元に座する人を見た。その人は穏やかで、混乱の少なく、静謐な空気をまとった人であった。

「あっ、殿下失礼致します」御者は言うと、その座する人の前で立ち止まって、ウマ耳と頭をぺこりとさせて黙禱を捧げた。暫しそうしてから、再びバ車を発進させた。

 それをじっと見ていた太子は、この日初めて口を開いてウマ娘に尋ねた。

 

「友なる御者、カンタカよ。あの者はどうしたのか。彼の様子は私たちとは異なっている」

「殿下。彼は修行者であるのです」

「修行者とは、一体どういう者であるのか」

「殿下。修行者とは、良き法を実践し、良き寂静を実践し、良き善行を実践し、良き孝徳を実践し、良き非暴力を実践し、良き生命への哀れみある者ということです」

「なんと」

 

 カンタカが答えると太子は驚き、目を見開いて、次の瞬間にはバ車を飛び降りた。いきなり積極的な行為に、御者は尾っぽを立ててびっくりした。

 太子は一心不乱で走って今来た道を引き返し、修行者の前に立った。息を切らして修行者なる者に尋ねる。

 

「お尋ねします。あなたはどうなさったのでしょうか。あなたの様子は私たちとは異なっています。お尋ねします、私は知りたいのです」

 修行者はゆっくり目を開いて答えた。

「若き方。私は修行者であるのです」

「あなたが修行者であるというのは、どういう事でしょうか」

「若き方。修行者とは、良き法を実践し、良き寂静を実践し、良き善行を実践し、良き孝徳を実践し、良き非暴力を実践し、良き生命への哀れみある者という事です」

 

 太子は衝撃を受けて立ち尽くした。正に天の啓示を受けたという心地であった。

 後から、正気に戻ったカンタカが慌てて追い付いた。「急にどうかしたのですか、怪我はありませんか」と、おろおろする御者に太子は清々しく告げた。

 

「友なる御者、カンタカよ。それゆえ、バ車を内宮に引き返して欲しい。ならば私は、いま髪と髭を剃り、袈裟をまとい、家から出家しようと思う」

 

 カンタカは再びびっくりして、天を突かんばかりに尾っぽを逆立てた。



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転輪教説話『駆け落ち村』にカンタカの説いた事について

 

 そこで尊者カンタカは、妹弟子であるアーナンダに告げた。

「さあ、アーナンダよ。今日はあの村へ托鉢に参ろう」

 すると若きウマ娘アーナンダは尊者に言った。

「カンタカ様。お止めになった方が良いと存じます」

 訳を問うと、アーナンダはウマ耳を倒し、口ごもって答えた。

「あの村について耳にした事があります。指導人さんと無理矢理に駆け落ちした者たちの寄り合いだとか。あなた様は、そういうウマ娘の足に任せた行為の戒めを説かれます。きっと歓迎されないでしょう」

「そうであれば、なお、わたくしは行かねばならぬ」

 悟ったウマ娘は答えて言った。妹弟子は驚き、持ち前の心配性を見せた。

「では、先んじて私が参って説明しましょう。何事かあっては心配です」

 

 言って、アーナンダは村の方に走って行った。暫くして、尊者カンタカは一抱えもある丼鉢を持って托鉢に赴いた。

 村はひっそりしており、戻って来たアーナンダはおどおどしていた。尊者が村の奥の集会所まで赴くと、村民はそこに集まっていた。

 村ウマ娘たちは、屋内に夫たちを入れておいて、自らは前で徒党を組んでいた。耳を絞り、悪い虫を追い払う様に尾っぽを激しく動かしていた。そして、一番前に立っていた村ウマ娘が言った。

 

「自らを『目覚めたウマ娘』等と語る者よ。あなたは、この村に何をしに来たのですか? そこの、お若い弟子から聞いたのにもかかわらず、何をしに来たのですか?」

 

 力任せに夫を担いで逃げて来たというウマ娘たちは、腰を低く落とし、眼差しを激しくさせていた。尊者は一抱えある丼鉢を見せて「これへ」と答えた。村ウマ娘は嘲笑した。

 

「否。そればかりでは、ない。私たちも、あなたの噂を聞いた事があります。我々を叱りつけ、反省させにやって来たのでしょう。

 けれど、ようやく見付けた心の休まる所を、安住の地を、どうして脅かすのですか? 目覚めたと語る者よ、お帰り下さい。己を大切にされるならば、帰った方が幸いです。我々は、ただ放っておいて欲しいのです」

 

 周りの村ウマ娘たちも「そうだそうだ」と高く言った。アーナンダは心配し、おどおどして姉弟子の裾を引いた。尊者は微笑んで、気に掛けず、村民に言った。

 

「しかし、同胞よ。あなたは安らかな様に見えない」

 

 そして尊者が一歩踏み出すと、村ウマ娘たちは一歩下がった。これまで彼女たちを説得しようと試みる様々な知恵者を見てきた。しかし徒党を組んで威嚇するウマ娘を相手に、全然怯まない行者は初めてだった。そこで尊いウマ娘は尋ねた。

 

「皆さん指導人さんはすきですか?」

『すきです。』

「私も師がすきです。」

 

 ウマ娘一同は、うんうんと頷いた。

 

「けれど師はこの前、涅槃に──亡くなりました」

 

 村ウマ娘たちは、今度は二歩前に進み出て、尊者の顔を確かめた。そんな風には見えない。が、その微笑みは嘘を吐いている様にも見えなかった。

 

「同胞よ。指導人さんとお別れするのは怖いですか? その後ろの建屋に指導人さんを閉じ込めて、安心ですか?」

 

 駆け落ちウマ娘たちは答えられなかった。激しい威嚇は消えて、ただ怯えが残っていた。

 彼女たちは、愛する人間さんを独り占めしたかった、片時も離れたくなかった。しかし何故だか、二人きりでは居られなくて、結局こうして寄り合いを作っていた。

 尊者カンタカは「よっこらしょ」と丼鉢を置いて、徐に座した。つられて、村ウマ娘たちも座った。絞られていたウマ耳は、ぴんと前に向けられていた。

 

「同胞よ。わたくしは説く。人間さんはウマ娘に勝てない──そう思った事から、恐怖が生じる」

 

 村ウマ娘は、はっとして息を呑んだ。

 

「同胞よ。実を申せば、わたくしも師を担いで逃げた事があった。安住と、寄るべき処とを求め、自慢の足で逃げた事があった。その事から、わたくしに恐怖が起こったのである。

 世界は何処も堅実ではない。どの方角でも全て動揺している。走りに走り、わたくしは遂に恐怖に取り憑かれていない住所を見付けなかった。

 わたくしは自己の心を貫く、見がたき恐怖の矢を見つけた。さあ、汝と同じ恐怖の矢に刺されたウマ娘の姿を見よ!

 その矢に刺された者は、あらゆる方角を駆け巡る。そのじたばたする様子は、まるで水の少ない所にいる魚さんと同じ様なものである。此処に水があるだろうか? 欲するものがあるだろうか? と苦しみもがく。

 その苦しみから相互に抗争をせねばならぬ。毎日の抗争から、また震えて、見えざる恐怖の矢に刺される──」

 

 一番前に座していた村ウマ娘が手を挙げた。

 

「自らを『目覚めたウマ娘』と語る者よ。それでは、その恐怖の矢を見るためにはどうすれば良いのですか? あなたと同じ目覚めを得るにはどうすれば良いのですか?」

 

 目覚めたウマ娘は答えた。

 

「同胞よ。そのために、知らねばならぬ。例え空から指導人さんが降ってきて、地から指導人さんが湧き出し、無量の指導人さんが片時も離れず世話を焼いてくれたとて──あなたの渇愛が満たされる事は、ない。

 あなたの心すら、あなたのものではないのに、それなのに、どうして指導人さんが自分のものになるのだろうか?

 同胞よ。あなたは心の休まりと、安住を得た、とわたくしに告げた。しかし、違う。あなた方は未だ走り続けている。恐怖の矢に貫かれ、じたばたして、逃げ続けている。心が休まるどころか、疲れ果てているのではないか?」

 

 全身をウマ耳していた村ウマ娘たちは、泣き伏して嗚咽した。

 

「ああ、目覚めたウマ娘よ! あなたは真実を仰りました。私は怖いのです。あの日、奪って逃げた指導人さんが、別の誰かに奪われないかと。また、突然別れる日が来るのではないかと。

 こうして閉じ込めても、手を繋いでいても、それから抱き着いていても、まだ怖いのです。お願いします。その見えざる恐怖の矢を引き抜く術を説いてください!」

 

 己の指導人が宇宙一だと信じるウマ娘たち、各々は懇願した。

 

「同胞よ。わたくしは説く。人間さんはウマ娘に勝てない──と思う、弱さに打ち勝て。

 走る足を止めて、静かな心で世界を見よ。恐怖に負けないという勇気を奮い、本当の自己の安らぎを学べ。がんばれ、煩悩に負けるな。世間における諸々の束縛の絆にほだされてはならない。絆は、自己の恐怖を制する手綱とせよ。

 安らぎを求めるウマ娘は誠実であれ。傲慢でなく、偽りなく、悪口を言わず、怒る事なく、優しい者であれ。たった一人の指導人さんを大切に想う様に、その様に、他の生き物に対しても慈しみの心を起こすべし。

 そうして『走る心と、止まる心』を知った時──恐怖の矢は引き抜かれる」

 

 駆け落ち村のウマ娘たちは、感激して手を合わせた。

 

「目覚めたウマ娘よ。見事な事です、素晴らしい事です! あなた様は法を説かれました。本当の寄る辺を説かれました。私たちに教え、励まし、喜ばせたのです。

 目覚めたウマ娘よ。あなた様の説く『走る心と、止まる心』に帰依します!」

 

 たちまち、じめじめした場所に閉じ込められていた指導人たちは解放され、号泣する妻と抱擁した。

 そうして、尊者カンタカと妹弟子アーナンダは、丼鉢を山盛りにして帰って来た。

 

 

 ◆

 

 

 自他を見聞しては優越する事に躍起になっている娘、彼女は走るたのしさから遠のく。怠りなまけ自堕落な習慣に浸っている娘、彼女は走るたのしさから遠のく。

 我の方が速しと驕り昂ぶる娘、彼女は走るたのしさから遠のく。全ては無為だという影に怯える娘、彼女は走るたのしさから遠のく。

 これら極端を貪らず、自他を見聞しては内省し、日々研鑽向上に努め、身辺の諸々の事に感謝し、自己をそのままに見つめる娘、彼女こそ走るたのしさに近づく。

 

 ──尊者カンタカ、走自在菩薩



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劉備玄徳が愛バ、的盧の生き様について

的盧(てきろ)

 

 劉備玄徳の愛バ。名誉逃げウマ娘。兵法三十六計の具現化。名前は額に白い点がある相から。

 三国志に良く知られる様に、劉備という人の前半生は全く敗走続き、流浪の根無し草であった。

 されど、何度惨敗しても命だけは拾う事が出来たのは的盧のお陰だった──と、劉備本人が振り返っている。

 

 とにかく臆病な気性で、剣の切っ先を向けられるのもおっかないという有様だった。そのため関羽・張飛の様に戦働きでは全然役に立たなかったが『死中に活を求む』という点で、的盧に及ぶ将は居なかった。

 敗走中、号泣しながら凄まじい鬨の声を上げ、矢雨を尽く切って落とし、戦列は大盾ごと吹き飛ばし、そして一度突破致せば全てを置き去りにする(味方を含め)。こと撤退戦に関しては、正に千切っては投げる剛勇無双の大立ち回り!

 逃げる劉備に的盧あり──という噂が流れ劉備追撃が断念される事もしばしば。

 

 ある時、主従共々谷際に追い詰められ「的盧よ、的盧、もはやこれまで!」と泣き言を言う劉備を、ひょいと背負うや大地をひと蹴り。燕もびっくりな大跳躍は谷を越え、逃げ延びたという逸話がある。

 的盧自身は「無我夢中で全然覚えてないよ」と自信なさげに語った。もっとも、この時だけではなく毎度そうだったという。

 劉備はそうして生き延びる度に、深く的盧に感謝した。

 

 その後、劉備は諸葛亮という稀代の軍師に授けられた、かの有名な《天下三分の計》を実行すべく蜀の攻略を決意する。

 漢帝国復興のため、今や天下国家に大きく飛翔しようと、一世一代の戦に臨む劉備の傍らには、やはり的盧の姿があった。

 正に乾坤一擲の時! 的盧は自らをして先見隊を申し出た。あの泣き虫で臆病な的盧が初めて見せた積極性であった。「お主は近うに居てくれれば良いものを」劉備は大いに渋るも、最終的には諸葛亮の進言もあり受け入れた。

 

 

 しかして主君を離れ先行した的盧は──敵の待ち伏せに遭い壮絶な討死を遂げたのである。

 

 

 余りにも唐突に愛バを失った劉備の慟哭は筆舌に尽くし難いものであった。桃園の兄弟の言葉も耳に入らないほど取り乱す劉備に、軍師諸葛亮は一本の書簡を献上する。

 それは、的盧が敬愛する主君に書き遺した献策であった。

 

 曰く『我が君は天に飛翔せんとする大龍です。しかし何時までも私が如き逃げウマ娘が側に居ては、いざとなれば逃走出来る……という心の甘さが消える事は無いでしょう。やがて必ず、その弱点を敵に突かれる日が来ます。それ故に、私は去るのです。

 今や我が君の下に忠臣は集い、私の役目は終わったのです。だから、もう大丈夫。これからは逃げ道を心配せず、信頼に足る臣を頼り、ただ一直線に大道を走りませ。

 嗚呼、私に悔いの一片でもありましょうか。貴方様の愛バは生涯、幸福でした』

 

 書簡を読み終えて、劉備は諸葛亮に尋ねた。「お主はこれを知っていて、的盧を行かせたのか」と。

 軍師はがくりと膝を折り、落涙して答えた「私には、どうしても的盧殿を止める事が叶いませなんだ。彼女ほどの覚悟を持った忠勇の士が他にいるでしょうか。小生などは足元にも及びませぬ」と。

 劉備は黙して、ただ静かに頷いた。

 それから間もなく、劉備率いる軍は蜀を攻略し《三国時代》の幕が上がったのである。

 

 

 我々は知っている。

 逃げるという選択肢を選べなくなった劉備玄徳が《夷陵の戦い》で大敗を喫するという史実を。

 だが、あの時、あの瞬間──的盧が命を賭して劉備の覚悟を固めなければ、蜀を取る事や、まして漢中へ上る事も出来なかったかもしれぬ。

 一方で、的盧が生きていれば夷陵で敗れなかったかもしれない。

 また的盧を止められず、己の力量不足をつぶさに悟った諸葛亮孔明は、生命を燃やし尽くすまでの忠節を蜀漢に捧げたであろうか?

 げに天命とは測り難し。

 

 勝つまで逃げる(・・・・・・・)──を信条に、逃走を重ねた名誉逃げウマ娘。その命を散らすまで意気地無しと低く見られていた、そんな彼女の生き様は、

 

「これが諦めないって事だ!!」

 

 と、後世のウマ娘に強烈なメッセージを遺してくれた。

 

 



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スイス傭兵ウマ娘について

 

 近世初期のヨーロッパ。

 スイスウマ娘は嘆いた。

「もう耕せる土地がないよ〜(´;ω;`)」

 スイス貴族は嘆いた。

「庭園が全部菜園になっちゃった(´;ω;`)」

 仕方がないので暴力を売る事にした。国家主導の傭兵稼業の始まりだ。同時に永世中立国スイスの産声でもある。

 

 庭木をぶっこ抜かれているのも、石畳を剥がされるのも堪ったものではない。庭園を二度も三度も耕し返すのは全体無益だ。

 山羊飼いにも成れず、あぶれてしまったウマ娘には出稼ぎに行ってもらう他、全く仕様がなかった。

 けれども独りで地元を出るのはさみしい。似た境遇のスイスウマ娘たちはぎゅっと身を寄せ合い、斧槍(ハルバード)の練習もくっついて行った。

 そうして山育ちの傭兵ウマ娘は一揃いで国外出荷されていった。遠のくアルプスの山々に心細さを感じながら。

 

 当時ヨーロッパの戦争原則といえば重装駆兵による正面突撃──つまり駆士の作法に則る──とはいえ当時からして、既に駆士の戦術は陳腐化が否めないものとなっていた。

 この没落の主たる要因は「手塩にかけて育てた愛バを失いたくない」という諸侯(トレーナー)の吝嗇、また駆士道(清廉・忠勇・許されざる恋)というウマ美学の爛熟による。

 中世的封建制の戦争は命のやり取りというよりは、儀礼の面が大きくなってしまった。()としてより強く、より美しく──これにより本来取れたであろう戦術の幅を、自ずから狭い柵の中へ閉じ込めてしまったのだった。

 

 上記ウマ美学に染まりきった欧州に、戦の作法も何も知らないスイスウマ娘は山奥からのこのこ下りてきた。素朴に「地面が平らだなあ」と思ったらしい。

 場所はフランス、雇用主は他ならぬフランス国王だ。自主独立の野心を興した大貴族ブルゴーニュ公、その鎮圧が仕事である。

 これを『ブルゴーニュ戦争』と呼ぶ──要するに外国人の内輪揉めの助太刀だった。

 

 さて、フランスといえば重装駆兵の本場だ。駆士道という文化が早く花開いた土地柄もあり、屈強にして華麗な駆士が揃い踏みである。

 その洗練された風体に、山育ちの田舎ウマ娘らは斧槍を抱いて「ほえ〜」と見惚れた。

 相対する駆士はムッとした様子で石突を鳴らす。「誉れ高きフランス駆士が雇われ田舎ウマ娘ごときに負けてたまるか」という意地があった。また身を寄せ合っているスイス傭兵の様子は、一駆当千を目指す駆士の感性からして如何にも臆病そうに見えた事だろう。

 

 さあ開戦のラッパは吹かれた。

 スイス斧槍兵ウマ娘は怯えた様に身体をくっつけ益々一丸となる。対してブルゴーニュ公麾下、重装駆兵は闘魂注入、雄叫びも後ろに猛然正面突撃(ランスチャージ)を敢行。臆病な田舎者を粉砕するべく全力で突っ込んだ。

 

 賤しき傭兵は成す術なく雲散霧消──だが意外! スイスウマ娘は全く崩れなかった!

 一体何をした?

 単純明快。

 ふんばった(・・・・・)のだ。

 

 忘るべからず──スイスウマ娘は生まれも育ちもアルプス山脈だ。あの峻険な山の隘路を、ちょっと信じられない量の水や薪を担いで毎日毎日往復する民なのだ。

 そんじょそこらのウマ娘とは、ふんばる足腰の出来が違う。

 加えて密集陣形の利。前の仲間が押されても後ろの仲間が支え、更に三番目の仲間が押し返す。駆兵突撃の勢いは封殺された。足が止まった所を、三四人掛かりで斧槍の鉤爪部分を引っ掛け転ばせてしまう。

 重鎧のウマ娘は一度転んだら容易には立ち上がれない。もがく所をポカポカ叩く。そうして大人しくさせてから──何と鉄靴をその場で脱がせてしまう(・・・・・・・・・・・・・・)。後で靴代金(くつしろきん)と替えるためだった。

 

 恥である。戦うウマ娘にとって上無き恥辱だ。正に駆士道も何もあったものではない蛮行だった。

 裸足のフランス駆士は火を噴きそうな赤面を隠して逃げ戻る。名誉に賭けて! 奪われた鉄靴を奪還するまでは、とてもとても恥ずかしくて戦場になんて出てこれない。

 これにて戦闘不能。

 

 自慢の愛バが辱めを受け次々戦闘不能に陥る様を見て、敵方大将ブルゴーニュ《突進公》は戦車(チャリオット)の上でいきり立った。

「この礼儀知らずの蛮民めが!」

 御者ウマ娘を伴い渾名の通り突進したブルゴーニュ公だったが、同じ理屈で封殺。斧槍で引き倒された所をポカポカ叩かれる。

 ブルゴーニュ《突進公》は死んだ。

 

 大将が頓死したので戦争は終結、傭兵契約も満了である。

 フランス王との契約金と、ぶん取った靴代金でスイス傭兵ウマ娘は大いに懐を温めた。うれしい。大部分を地元に仕送り、少しを奢侈に、残りを路銀に充てて「ばいば〜い」と次なる仕事場を求めて発って行った。

 

 震えたのは元雇用主のフランス王だった。

 諸説ありつつも、何だかんだ正面衝突では無敵! と無邪気に信じていた駆士が眼の前で完封されてしまったのである。

 スイスウマ娘恐るべし──大問題は、彼女らが傭兵(・・)という事だ。傭兵に名誉もしきたりも有るものか。そこに存在するのは純粋な理論のみ、銭払いの多少で簡単に敵方へ転ぶだろう。明日斧槍で撲殺されるのは我が身である。

 

 以降、フランス王家はスイス傭兵のお得意様となった。

 ただし同じ事を考えるのはフランス王だけなはずがない。何せ「雇えば勝てる」のだから。雇用費はインフレする、需要と供給の問題。

 だが如何に足元を見られようが、その点でフランス王は一貫していた。彼女らが敵味方の狭間でふらふらしている時は、金子を積み上げ、揉み手してでも味方に引き入れた。

 これがスイスの永世中立政略である。

 スイス傭兵への支払金で道路が舗装出来るだろう──その関係はフランス革命まで実に三百年間も続く。

 

 そして、もう一つのお得意様がバチカンである。

 スイス傭兵の無類の強さを聞きつけた聖職者たちは、それを臨時の助っ人ではなく常設の衛兵(・・・・・)として雇う事を願った。

 しかし常設ともなると、何とかしてバチカンへの帰属意識を持ってもらわなければ恐ろしくって堪らない。

 そこで教会伝家の宝刀をすらり。バチカン衛兵は『神聖な職務』であると、これでもかと太鼓判を押しまくる。ところで太鼓判はタダである。雇われ衛兵は「そうかも。」と微妙に思った。宝刀の切れ味は微妙だった。

 物は試しにルネサンス美術家に色彩艶やかな制服をデザインさせてみる。効果は抜群だ! 報奨はそこそこで良いからバチカン衛兵の制服を着たい──というスイスウマ娘が列を作った。

 果たしてバチカンの目論見成れり。

 

 時代は下り、槍兵の密集陣形が陳腐化し、スイスの血の輸出は廃業、歴史書に記されるだけの存在となった。

 しかしバチカンのスイス衛兵だけは、今もルネサンス時代の鮮やかな制服に袖を通し、自身の持ち場でふんばっている。

 



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夏の禹帝の治水について

 

◆夏の()

 

 気が付いたら帝になってた中華の人、記念すべき第一号。伝説的な《夏》王朝の初代帝。

 紀元前二千年頃、ウマ娘を大規模動員しての黄河治水事業に史上初めて成功したすごい人間さん。

 

 ご存知、人類は大河のほとりに文明を作りたがるものである。それは同時に、河川氾濫に悩まされる事と不可分であった。

 ナイル川のほとりに住むエジプト人は暦を発明し、氾濫を予期した。ナイルが上流から運んでくる地味豊富な土というたまもの(・・・・)を文明発達の前提としたのだ──言い方を変えれば、河川氾濫の抑止をすっぱり諦めた事により文明を育んだのである。

 

 しかしエジプト文明は稀有な例だ。大多数の人類社会は、やはり河川氾濫という圧倒的破壊力を常に恐れた。

 住居や田畑をまとめて洗い流してしまう暴れ水──その抑止のために懸命に祈り、供物を捧げ、夜を徹してウマ娘を踊らせ、時には人身御供(いけにえ)を水面に投げ入れ、水神の怒りを鎮めようと苦慮した。

 その程度しかやれる事が無かったのである。河川氾濫の前に人類は断然無力であった。

 

 しかし、それを覆す人類史上のパイオニアが現れる。

 それは古代中華の()という人間さんだった。

 

 彼は時の帝に「黄河氾濫を治めよ」という勅命を受けた。この時の「治めよ(・・・)」という言葉に含まれるニュアンスは、水神に祈るなり何なりして大自然の御意志へ伺いを立てるべし、という所か。

 具体的には古い呪術儀式を学びて行い、たまに面倒臭い段取りを付け加えては「人の身で可能な限りは全部やってますっ」という納得感を醸し出す仕事であり「にもかかわらず黄河が暴れるのは彼の職務怠慢である!」と民に吊るし上げられるスケープゴートでもあった。

 哀れといえばもっとも哀れだが、紀元前二千年当時の社会秩序を保つためには重要な役割だったと留意してほしい。

 

 さて早速、禹は水神に捧げるための豪華な供物や、舞踊に巧みなウマ娘を手配──と思いきや、何を考えたか、単独堀棒(ショベル)で黄河周辺の土をほじくり出した。

 たまたま近くを通りがかった中華ウマ娘は、親切心から「そこを耕しても直ぐに流されちゃうよ」と教えてあげた。禹はにっこり破顔して答える「耕しても流されないために耕すのだ」と。中華ウマ娘はちょっと考えて、尾っぽを逆立たせた。

 なんとびっくり! この禹という人間さんは、物理的(・・・)に大河に立ち向かおうとしているらしい。

 それは無茶だと皆口々に言った。そんな五行(しぜん)への叛逆は聞いた事もない、水神の気分を損ねるだけだから止せと言った。事実、直ぐに黄河は氾濫して禹の数年分の仕事を洗い流してしまった。

 

 ほら見た事か──と天下の笑いものにされる禹を中華ウマ娘は哀れんだ。近くで祭壇を作るのに宜しい丘を教え、更には供物の準備を手伝ってあげると申し出た。

 しかし禹は親切をやんわり断った。どころか「絶対やれる」と同じ場所を掘り返した。頭から泥を被り、毎日少しずつ少しずつ土砂を運ぶ男の姿を、近所のウマ娘たちは哀れんだ。

 そして天命であるかの様に再び黄河は暴れ狂い、禹の仕事は清算された。自らも畑を流されてしまった中華ウマ娘たちは、しょんぼりして、流石に気落ちしたであろう禹を訪ねた。

 

 

「絶対やれる」

 

 

 禹は全然しょんぼりしてなかった。

 謎の確信(と表現する他ない)を懐いて、またぞろ同じ場所をヒトの力で掘り出した。もうそろそろスケープゴートにされそうな雰囲気も、彼には全く関係無かった。

 あくまで物理的に、真っ向から黄河に挑み続けた。

 莫大な泥と逆境にさらされながら「絶対やれる」と健気さの欠片も無く、破顔一笑する禹の姿に、近所の中華ウマ娘たちは逆に励まされた。萎びたウマ耳をぴょこんと立ち上げ「やれるかも」と、ぼんやり思う様になった。

 そうして、この人間さんを手伝う中華ウマ娘がぽつぽつ出始めた。初めに近所のウマ娘から。

 

 珍妙な真似をしている奴ばらがいる、ちょっと見に行ってやろうじゃないか──離れた土地の民が、好奇心であれ哀れみであれ、見物しにやって来た。

 しかし『珍妙な真似』で済ませるには、禹たちの眼差しは余りに真剣であった。早朝から日の暮れまで土砂に塗れる仕事ぶりを笑いものにする人も居たが、何かスゴ味に感じ入る人の方がずっと多かった。

 真剣なウマ娘というものは、それはもうマジで真剣なんだよ! と天の法にも定められている。語るに及ばず不文律、故に強力な説得力である。

 

 禹の水を治める(・・・・・)試みは、従来の納得感を醸し出すだけの仕事ではなくなっていった。

 事業に感化された中華ウマ娘が増えるに連れて「できるかも」という漠然たる感覚は「絶対やれる」という、謎の禹の確信に近づいていった。

 

『絶対やれる。諦めない。絶対やれる』

 

 そんな感じの詩を、何処かのウマっ子が適当な調子(メロディー)を付けて歌い出す。聞くともなしに聞いた禹が、そのお気楽な鼻歌に併せて土を掘る。それをウマ聴力で聞いて、そのうち皆が歌い出した。

 不思議なものだが……ウマ娘は歌いながら手を動かすと何倍も頑張れる。泥塗れのボロこそが彼女たちの勝負服であった。謎の禹の確信が、謎のウマ力を引き出した。

 

 工事半ば、禹は仕事に打ち込み過ぎて半身不随となった。男の確信は(何故か)揺らがない。ウマ娘の肩を借りながら、毎日現場を監督する。その噂はウマ娘の足を伝って広まった。

 なんかすごい人間さんがいる、助けなきゃ(義務感)──感化された中華ウマ娘は益々増えた。

 禹の仕事は、中華ウマ娘を大動員した『治水事業』へと進化した。そして文明と切っても切り離せない大河の猛威を、()()()()()()()()()()()()()事に成功したのである。

 時にここへ至り、禹は昔教えてもらった『祭壇を作るのに宜しい丘』へ足を運び、適切な供物を捧げ、中華ウマ娘は皆歌い踊り、水神に恭しく謝意を表したという。

 

 さて勅命の達成を、禹が不自由になった半身を引きずって帝の宮殿に報告へ赴いた時──気が付いたら禹は玉座に座り、冠を戴いていた。

 伝説的な《夏》王朝の開闢である。

 

 どうか筆者を責めないでほしい。この辺り、史書に具体的な記録が無いのだ。後世人としては、本当に『気が付いたら帝に成ってた』様に見える。

 共に大志を成した大勢の中華ウマ娘を武力に転じて脅し取ったのではないか? という説もあるが(むしろそれが妥当とも思えるが)、結局の所は分からない。

 分からないものは仕方がないから『帝位は徳のある人物へ自然と渡る』という風に解釈して、これを禅譲などと呼ぶ。

 

 禹の戴冠後、記録が残るのは彼の行動指針について全く変更は無かったという事である。

 相も変わらず「絶対やれる」という謎の確信で、大勢の中華ウマ娘を巻き込む、所謂、()()()()()をした。

 贅沢をせず質素に暮らし、田畑の収穫量に目を光らせ、適宜に税を調整し、煩雑なだけの儀式慣例を廃し、そして率先して泥を被った。

 その結果、周辺国は夏の禹帝の徳を崇めて自ずから朝貢を求めてくるようになった──これが後々まで続く中華世界の政治の理想形となった。

 

 人類は水を治める事が可能である!

 禹帝の治水事業は、なかんずく東方アジアでは偉大な先例となった。人類は暴れ川を前に祈る事しか出来ない、という認識を完全に塗り替えた。

 以後、治水の神として信仰を集めたのも成り行きであろう。

 禹帝の伝説は海を越え、我が日本国でもかつて水害が多かった土地を中心に、石碑や像が百数十ヶ所確認されている。

 彼をかたどる像は大抵が史書に忠実に、謎の笑顔である。



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お遍路ウマ娘さんについて

 

 弘法大師空海ゆかりの霊場、四国八十八箇所を巡る。人間さんの足だと平均四十五日ほどかかるが、ウマ娘だともっと早い。

 かといって過酷な事には違いなく、相応の覚悟が必要だ。ウマ生に行き詰まりを感じたり、岐路に立たされたウマ娘が己と向き合うために発心する事がある。

 それがどういう意味であれ『満足するまで巡る事』が重要だと言われる。

 

 思い立ったが吉日。白衣を纏い、脚半を締め、金剛杖を握り、菅笠へウマ耳をすっぽり通す。

 一二周目では大抵が駈歩(かけあし)で、参拝も簡略に行う娘が多い──どうしても見知らぬお遍路ウマ娘と比べてしまうからである。

「ああ、彼女は私を追い抜いた」

「ああ、私は彼女を追い抜いた」

 そういう競争心に終始して、終わる頃にはヘトヘトになり「私はこんなに早く巡拝を済ませたんだぞ!」と得意気に言う。

 しかし、そこで満足するウマ娘はむしろ少ない。心のしこりは消えないままだ。縋り付く様な思いだけが強くなる。

 

 走即是止、止即是走。

 走自在菩薩(カンタカ)様の経を唱える。

 走ること即ち止まることであり、止まること即ち走ることである。

 わけがわからないよ。

 

 三周目を経た頃から、必然、追い抜き追い抜かれながらも別の事を考え始める。

「いま私を追い抜いた彼女も、きっと抱えきれない想いを秘めてるのだろう」

「いま私が追い抜いた彼女は、大層くたびれていた。助けられる事はあるだろうか」

 足と共に思考は巡り変質し、比較の対象が自己の内面に向いてくる。

 

 競う事で頭が一杯で気が付かなかったけれども、一二周目の時は親切にしてくれた人たちが沢山いた。

 水をくれた人、握り飯を分けてくれた人、屋根を貸してくれた人──何より無事を祈ってくれた人がいた。だから今もこうして歩けている。

 嗚呼、私よ、私よ!

 想起せよ、想像を致せ。

 これまでも、これからも、同じ事ではないか。競争心に支配される時、人は孤独になる。けれども逆に、他者を思い遣る心を起こせば人は孤独ではありえない。

 嗚呼、そうだ。私は助けられてきた。今この時も。ありがたい。願わくは、その縁に繋がって居させ給え。

 そういう想いを込めて、もう八十八度、じっくり問いかけるのである。

 

 走ること即ち止まることであり、止まること即ち走ることである――

 

 やがて、それがどういう意味であれ、お遍路ウマ娘は『結願(けちがん)』を遂げて故郷へ帰ってゆく。

 たまに帰らないで四国をぐるぐるしている娘もいるけれど。

 

 

 ◆

 

 

 古来、お家に帰らないでぐるぐるしている行者(・・)に目覚めたウマ娘さんには御霊験があると言われている。

 筆者が取材に行った折、地元の方に尋ねたら、おおよそ通過する場所と時とを教えてくれた(感謝します)。その場所の岩に腰かけて待っていると、運良く出会う事が叶った。

 薄暗く、しかも結構な山道であったのだが、もの凄いスピードだったと思う。あれは何キロ位出ていたのだろう? 迫り来る白装束の行者ウマ娘さんは、正直、少し怖かった。

 恐る恐る糧食と、替えの草鞋(なんぼあってもいい)を手渡すと、彼女は神妙に数珠を擦り合わせ、むにゃむにゃ御経を唱える。

 それから笠をちょっと上げ、

 

「あなたと私の今日は、好い日でありますように」

 

 と、晴れ渡った顔で笑いかけてくれた。背中とウマ耳をぺこりとさせて、颯爽、去っていった。

 あれ以来、運気が上がった気がする。

 

 

 ◆

 

 

 走ったから辿り着く所があるかい?

 止まったから辿り着かない所があるかい?

 それより君、今日は好い日だねえ。

 

 ──とある聖者と呼ばれたウマ娘。



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【未満】ナポレオンの愛バ、マレンゴ元帥という夢幻

 私が勝手に愛してやまないオリジナルウマ娘。
 ナポレオンの愛バ、芦毛の《マレンゴ元帥》についての激重妄想を最低限整えたものです。
 何せナポレオン戦争はいくらでも深堀り出来てしまうので、とりあえずこれ位でネタを放出しないと耐えられませんでした。

 めくるめくフランス革命の腹から出たウマ娘と人間、二人の天才。その二人が、竹バの友から政敵へと変わり、そして別れゆく物語です。
 行間の妄想は、もう一杯あるけれど、色々と激重過ぎる。

 マレンゴ元帥に格好良い二つ名とか付けてあげたいよね(溺愛)


 

◆マレンゴ元帥

 共和制フランス軍人ナポレオン・ボナパルトの愛バ、竹バの友。

 帝制フランス皇帝ナポレオン一世の政敵。

 著名なナポレオンの戦いには凡そ参戦しており、()()()()などとも言われる《アウステルリッツ三帝会戦》の勝利に寄与した事は有名。

 しかし、ナポレオン最後の戦いである《ワーテルローの戦い》には不参であった。

 後半生は英国の駆兵教官として長く教鞭を執り、二度と祖国に帰る事なく天寿を全うした。

 生涯未婚、子も無かった。俗にはランヌ元帥(人間)へ淡い思慕を懐いていたという。

 

 

◆軍バとしての出発

 戦争に火砲が必須になった時代、しかし、砲兵科はウマ娘に全然人気が無かった。

 主には「うるさい」「びっくりする」「なんかこわい」が理由で、確かに人間より繊細な聴力を持つウマ娘にとっては分厚い遮音耳カバーを装備したとしてもストレスが大きかったのである。

 そして、もっぱら花形である駆兵科に人気が取られていた事もあった。砲兵科はその成立から常に牽引ウマ娘の不足に悩まされていたのだ。

 例外的に砲兵科へ志願してくるウマ娘といえば……一癖も二癖もある娘ばかりで、だがそういうのに限って謎に優秀だったという。

 

 ナポレオンの愛バ《マレンゴ元帥》はその筆頭だろう。

 砲煙弾雨の演習中、必須装備である耳カバーも付けずに眠りこけるという、その胆力というかズブさというか、それを教官は叱って良いやら褒めて良いやら分からなかった──という逸話は有名だ。

 砲声を子守唄くらいにしか思っていない心臓に毛の生えた田舎ウマ娘は、ある意味で士官学校の有名人だった。とんでもなくズブな芦毛がいるらしい──その噂がナポレオンと運命的に知り合うきっかけにもなった、というのは後世の潤色である。

 

 

◆相棒ナポレオンとの出会い

 コルシカ島産まれのナポレオン・ボナパルトという士官候補生、これも成績を下から数えた方が早い位の田舎者だった。

 マレンゴとナポレオン。この出来が良いとは言えない二人が組まされたのは全く学校側の都合というもので、別に運命的でも何でもなかった。しかし、事実、二人を組ませてみると成績が飛躍的に上昇した。

 実は割と良くある現象である。人間とウマ娘の間には不思議な相性というものがあって、合わない時は徹底的に合わないものだが、その逆もある。マレンゴとナポレオンは後者だった。

 昔から「ウマが合う」と言う──否、二人はそんな言葉では形容不能であろう。

 

 ウマが合う、ウマ娘と人間の軍人ペア。二人は指導人(トレーナー)と競争バの様に、互いに人格と能力とを成長させるケースがある。マレンゴとナポレオンは違う。しばしば互いを思慕する事で能力を発揮するケースもある。マレンゴとナポレオンは違う。

 ()()

 その極めて奇異な共通点が、しかも完全に重なっていた。単なる学校の都合が、歴史を変える軍才を急速に開花させた。マレンゴに見えるものはナポレオンにも見えていたし、ナポレオンに見えるものはマレンゴにも見えていた。

 戦場に立っては、早ウマを仲介せずとも同じ事を思考し、剛毅果断、戦果を最大化させるための連携が取れた。

 正に『一心同体』とは二人の事を言うのであろう──傍目には互いに悪態を吐いている様にしか見えなかったと言うが。

 

 

◆黄金時代

 自由・平等・博愛。人間は生まれながらにして平等である──祖国フランスに革命の炎が巻き上がっていた。

 相次ぐ国難のため、若い士官も戦地に駆り出される。そしてマレンゴが直々に練兵した砲兵ウマ娘隊は猛威を発揮した。

 とてつもない速さで火砲を牽引し、敵の態勢が整う前に横っ腹へぶちかます。一度で崩れなければ、直ぐさま移動し別角度からぶちかます。その機動力、火力は間違いなく界最高水準であった(見事に癖ウマ娘しか居なかったけど)。

 そして敵の秩序に綻びが見えるやいなや──いや、それ以前に綻びを予知したナポレオンは「前へ」と号令する。

『モンジョワ!』

 鬨の声が挙がり、古式ゆかしい駆兵突撃が敢行される。フランス胸甲駆兵の先陣を駆けるのは猛将ミュラである(マレンゴとはめっちゃウマが合わなかったが能力は認め合っていた)。

 革命以後成立した史上初の《国民軍》。それを軍事史上の天才二名が手足の様に動かす分進合撃と内線作戦は大陸軍(グランダルメ)の不敗神話を作り上げた。

 

 古代の英雄ハンニバル・バルカに倣い、アルプス山脈を越えるという奇想天外な戦略も、二人なら不可能ではなかった(ポール・ウマローシュ作『一つ外套に包まって寒いと叫びながらアルプスを越えるナポレオンとマレンゴ』。ナポレオンのアルプス越えと言えばダヴィッドの絵画が有名であるが、記録に忠実に再現すると多分こんな感じだよね……という絵画。さむそう)。

 

 旧態依然のヨーロッパ諸国は()()()()()()()()()()()()()()()というものに太刀打ち出来なかった。

 一体全体、何の理由があって身分卑しい一般庶民までもが『祖国のため生命を賭す』事が可能なのだろうか? フランス大陸軍は全く理不尽で、不気味な、意味不明の強さに思えた事だろう。

 ナポレオンとマレンゴが組んだ戦場には、常に勝利の栄光が付いて回っていた。ただの田舎者コンビから、最高の民衆の守護者、元帥まで駆け上がるまでたったの数年であった。

 共和制フランス両元帥は言う。

 

『我々の辞書に不可能という文字は無い』

 

 

◆相棒の皇帝即位

 

「ギロチンで死なない奴がいるのか?」

 

 フランス皇帝即位の内報を聞いた時のマレンゴ元帥の言葉。ルイ16世が蘇ったのかと思い怖かったらしい。元帥にとっては、死者蘇生より相棒の皇帝即位の方が現実味を帯びない事象だったのだろう──それは共和制フランスの死を意味していた。

 同年、マレンゴ元帥は《フランス大元帥》の任官を拒絶。()()ナポレオンへの深い失望を察するに余りある。

 

 

◆帝政崩壊に際して

 フランス大陸軍(グランダルメ)の優駿、マレンゴ元帥は、竹バの友ナポレオン・ボナパルトが皇帝に即位した時、全く祝福したりせず「調子に乗んな」と冷たくあしらった。

 須く祝福されるものだと思っていたナポレオンは鼻白み、激しい口論となったという。

 以後、両者の関係は冷えたものとなる──マレンゴは『自由・平等・博愛』というフランス革命の精神が、利己的拡大の口実へ変質しつつある事に気付いていたのである。

 

 マレンゴ元帥は大陸軍(グランダルメ)を率い《アウステルリッツ三帝会戦》に芸術的勝利を演出したが、際限無く拡大する《ナポレオン戦争》には政治的に対立姿勢を取った。

 彼女が密かに思慕していた──と言われるランヌ元帥(人間さん)がオーストリア戦役で壮絶な戦死を遂げると(切断した片足が化膿して亡くなった、ウマ娘にしてみると悼ましき事この上ない)、皇帝の()()の様相をいよいよ濃くしてゆく。

 

 そして遂にロシアを懲罰するのだ、と息巻く皇帝ナポレオンに対し「調子に乗るのも大概だ!」と激昂した。

 元帥はロシア遠征に強く反対意見を唱え続け、それを疎んだ皇帝は愛バを露骨に遠くへ配置した。そして遂にモスクワ占領間近にして、マレンゴ元帥は()()()()()()

「勝てば皇帝(ツァーリ)にしてもらえるとでも? バカバカしい」と吐き捨てたという。

 この独断にナポレオンは激怒、かつては一心同体であった《フランス無敵コンビ》は完全に決裂した。

 

「マレンゴ、ズブの駄バ娘めが! 奴だけは私を分かっているはずだ。なのに何故分からぬ振りをするのか。怠慢、裏切りに他ならぬ!」

 

 しかし皇帝怒りの炎もつかの間、ロシア最強の猛将、冬将軍が襲来。仏本軍は惨めな撤退を余儀なくされる。

 逃げ惑う仏本軍を容赦無く追撃する露軍。だがここで、後方で待ち伏せていたマレンゴ元帥が逆奇襲を断行。露軍を壊乱させ、それ以上の追撃を断念させた。

 結果的に、マレンゴ元帥は仏本軍の損害を最小限に留めた──という功績で先の独断は不問にされる。

 

 大敗を契機に失脚したナポレオンは島流しに処されたものの、しかし、彼は流されたエルバ島から舞い戻る。恐れ慄いたルイ18世はしめやかに亡命。

 そしてパリでは彼を歓呼を以て迎える民衆も多かった。まるで英雄の凱旋の様であった──国民に歓迎された皇帝は、機嫌良く周囲を見渡して手近な兵士に尋ねる。

「ところでマレンゴは何処か。軍議を要する」

「恐れながら陛下、元帥閣下は不在であります」

「来ていない? まさか」

 マレンゴ不在の報告にフランス皇帝は多大なショックを受けた。この時ナポレオンは、士官学校時代「俺たち二人で無敵だぜ!」と肩を組みあった竹バの友を失った事にようやく気が付いたのである。

 

 ヨーロッパの問題児が舞い戻った事に反応して、欧州諸国は第五回対仏大同盟を結成。イギリスのウェリントン公爵を筆頭に、今度こそナポレオンにとどめを刺すべく押し寄せる。

 それからの皇帝の指揮は明白に精彩を欠いていた。己が既に裸の皇帝であると男は自覚していた。

 マレンゴ元帥不在のまま行われた《ワーテルローの戦い》──必然の様に敗れた彼は「一体何処から間違えた」と激しく自問しながら惨めに最後の戦場を逃れた。

 

 ほうほう後背の陣に逃げ帰ると、何とそこには芦毛のウマ娘、マレンゴが居た。

「やあ、なんてざまだい」

 のんびりティーカップを置いて、ウマ娘は続ける。実はイギリスから戦術顧問として呼ばれているから、お別れを言いに来たのだ──呆気に取られるナポレオンの肩へ雑に腕を回した。

「お別れだ、元気でやれよ兄弟」

 親友の言葉に、はっと、ナポレオンは肩を組み返して言った。

「お別れだ、俺に会えないからって寂しくて泣くなよ」

「調子に乗んな」

 マレンゴ元帥は笑って答えた。

 

 

◆引退後の活動

 相棒の失脚後、才を買われ英国で軍事顧問をしていたマレンゴは、かの国の王政下では政治的に微妙な存在だった。が、政治主張をすることも無く、概ね粛々と職務に励んでおり、士官学校の生徒ウマ娘からも人気があった。

 ナポレオンとマレンゴの無敵コンビの名声は欧州中に轟いていたのである。

 

 牙を抜かれた様になったまま時は過ぎ、とある軍事祭典の日。その参加者が凄まじい。

 ワーテルローの戦いでナポレオンを撃退した《鉄の公爵》ウェリントン。

 そして若い時分、ネルソン提督下で戦った経験もある《船乗り王》ウィリアム四世。

 と錚々たる面子が揃い踏みの舞台で、マレンゴは独唱を許された。これは軍事ウマ娘にとって大変名誉であり、普通は海外出身の彼女が許される事ではなかった。それだけマレンゴ(元)元帥の仕事ぶりが評価されていたという事だろう。

 当然準備も丹念になる。打ち合わせ(リハーサル)では英国の軍歌を歌う予定であり、フランス人の彼女も嫌な顔一つしなかったらしい。

 

 しかし、土壇場(ほんばん)でマレンゴが高らかに歌い上げたのは『ラ・マルセイエーズ』。

 

  行こう 祖国の子らよ

  栄光の日が来た!

  我らに向かって暴君の

  血まみれの旗が掲げられた

  聞こえるか戦場の

  残忍な敵兵の咆哮が?

  奴らは汝らの元に来て

  汝らの子と妻の喉を搔き切る!

  武器を取れ市民らよ

  隊列を組め

  進もう! 進もう!

  汚れた血が我らの畑の畝を満たすまで!

 

 よりにもよって()()()()()()()()()()()()()()()()()()である。

 フランス語を解する貴族、高級将校は一同真っ青。

 しかし、外国語が良く分からない士官以下は、芦毛のウマ娘の美声に拍手喝采だった。まるで、そこには()()()()()として戦場に立った、無敗の元帥が復活した様にも見えた。

 

 この異常事態に当の本人は、いたって涼しい顔でうやうやしく一礼して壇上を去ってしまう。

 そして、公爵と国王は──誰よりも強く手を叩いていた。

 彼ら古株の兵が知っている恐るべき異国の名将、往年のマレンゴ元帥と再会した気がしたのであろう。

 その祭典の()()は、大いにイギリス国内で議論を巻き起こしたが──やがてフランスに伝わると市民たちは大喜びしたと言われている。

 

 

◆マレンゴ((もと))元帥、英国将校との問答

Q. ナポレオンってどんな人?

A. かっぺ。

 おだてりゃ木にのぼる。

 二角帽の被り方がダサい。

 女を見る目がマジでない。

 匂いフェチ野郎。

 南の島でバカンス。

 

Q. 一緒にアルプスを越えましたよね?

A. ハンニバルのばか。

 

Q. ナポレオン皇帝即位について?

A. カペーはギロチンで死なないのかと思った。

 

Q. フランス大元帥の任命を蹴ったのは何故?

A. 貰っても勝てないでしょ。

 

Q. ナポレオンは何故ワーテルローで負けた?

A. ヘボだから。

 

Q. 史上最も優れた将軍は?

A. ナポレオン・ボナパルト。

 




『ラ・マルセイエーズ(女声)』
https://youtu.be/FTIk66b3dds?si=q_Vw4_K3y2hvENwm


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【行間】フランスのスブタイ将軍、マレンゴ元帥


前話にコメントを付けて下さった方々、ありがとうございます。またウマ娘世界史に興味を持って下さった方々、本当に感謝します。

マレンゴ元帥について、行間を埋めるとても良いコメントがありましたので一部取り入れさせて頂きました。
モンゴルウマ娘に評価された時のマレンゴ元帥です。

※本作は同作者『蒼きウマ娘 〜ウマ娘朝モンゴル帝国について〜』と世界観を共有しております。


 フランス革命によって産声を上げ、ナポレオン&マレンゴが率いた《国民軍》は、ウマ娘朝モンゴル帝国の《国民皆駆兵》以来、軍事領域のメジャーアップデートであった。

 マレンゴ元帥は、それを強く自覚していたと思われる。彼女が提唱し、完成させた《分進合撃》は明らかにモンゴル軍の用兵に学び、発展させたものだった。

 また一命と名誉を賭した敵駆兵の突撃へ向け、容赦無く()()()()をぶち込む──という乾いた徹底性においてもモンゴルウマ娘を仰いでいる節がある。

 

 時代は違えど芦毛のマレンゴ元帥はスブタイ将軍の弟子であった。

 これはモンゴルウマ娘がパリ男(パリジャン)を略奪した事に起因して(遊牧ウマ娘にとっては至って正当な婚姻)、一般フランスウマ娘はモンゴルを憎たらしく思っている──という文化的背景を考えると、マレンゴ元帥の視野が如何に俯瞰的であるか良く分かるだろう。

 ちょっとレイヤーの高さが違う。

 

 ところで、革命フランス内では『誰が仏軍のローランか?』という議論がしばしば盛り上がりを見せていた(ローランというのは、かつてモンゴル帝国と勇敢に闘い主君と共に散った伝説的駆士。みんなのあこがれ)。

 欧州軍バにとって中世以来の伝統であり、大きな関心事だった。ウマ娘の沽券に関わってくる。

 

 そして人々の口に真っ先に挙がってくるのは、マレンゴ元帥 or ミュラ元帥だった。

 多分に気分屋のきらいがあるミュラ元帥は、そういう取り巻きのおべんちゃらに上機嫌だったと言うが(根が素直だった)、マレンゴ元帥は特段喜ばなかった。

 理由を聞くと、

 

「いや、だってローラン死ぬじゃん」

 

 ずばり言い切り、返す刀で気を良くしているミュラ元帥へ、

 

「君は敗北者になぞらえられて実に喜ぶのだな」

 

 と、さらり。

 マレンゴ元帥に言わせれば、駆士ローランは師スブタイに惨敗した敗北者に過ぎなかった。そしてまた『自分が戦っても余裕勝ち』と当然の様に思っていた。

 何たる不遜──自覚が無い分、超不遜である。

 そんな訳だからミュラ元帥とはめっちゃウマが合わなかったし、他のウマ娘、どころか人間さんからも少し変な目で見られていた。

 唯一分かってくれたのはナポレオン・ボナパルトだけだった。二人で組んでいる間は、不世出の天才マレンゴは孤独ではなかった。

 

 

 やがて、その唯一の理解者を見捨ててでも──共和主義の信念を貫き通したマレンゴ(元)元帥はイギリスで教鞭を執った。

 最終的に相棒(ヘボ)がウェリントン公爵に負けたので自分も英国に下ろう──という心境だった様だ。そこそこ真面目に働いている。

 生徒の英国ウマ娘も《ワールシュタットの戦い》戦史解説では、やはり駆士ローラン忠愛の散華ばかりに目をきらきら輝かせて、スブタイ将軍の用兵の冴えに注目する教え子は現れなかった(未だモンゴルウマ娘はならず者集団という一般認識だった)。

 マレンゴも、どうせ理解もされない、孤独を深めるだけの内容をわざわざ教育するつもりはなかったらしい。

 

 しかし、思ってもいない所から評価が来た。

 遥か東アジアの《清》帝国よりである。

 

 時は既に十九世紀半ばに差し掛かっていた。

 よくわからん理由で欧州列強にボコボコにされた挙げ句、立て続けに《太平天国の乱》という大規模宗教反乱で、軍バ人材が払底した中華帝国は《センゲリンチン》という、たまたま清に縁故があったモンゴルウマ娘を大抜擢した。

 宗教反乱、夷狄の採用──という何時もの末期症状セットである。今のところ特効薬は発見されていない。

 そして太平天国(自称)の鎮圧を命じられたセンゲリンチンは、瞬く間に反乱軍主力を壊滅せしめた。つよい。

 幸か不幸か、ヨーロッパの情報が豊富に輸入される様になった清国である。たまたまだろう、センゲリンチンは一昔前の欧州で大暴れした芦毛のウマ娘の名前を知った。

 そして、こう評す。

 

「マレンゴ元帥は、フランスのスブタイ将軍だね」

 

 侮辱である──いや、モンゴルウマ娘センゲリンチンからすれば最上の褒め言葉なのだろう。

 だがヨーロッパ人からすれば、あの大英雄ナポレオンと肩を並べたマレンゴ元帥が、野蛮なモンゴル人と同格にされるのは侮辱に該当した。

 センゲリンチン将軍の()()を口実に、清はイギリスから嫌がらせ(定期)を受けた。かわいそうである。

 

 センゲリンチンの失言はイギリスの蒸気船に乗って七つの海を越え、ブリテン島にまで届いた。

『あろうことかモンゴル人がマレンゴ元帥を侮辱した、謝罪と賠償を求める!』新聞社はこぞって記事を書き立てた。平常運転である。

 無邪気な英国ウマ娘たちは、新聞片手にマレンゴ()()当人へ吶喊した。

 

「直ぐに発言を撤回させましょう!」

「許せません!」

「教官はフランスのローランです!」

「くやしいですっ!」

 

 迫真のウマ耳の林が、ずいずい詰め寄る。すっかり白くなった芦毛の老教官は新聞を一部受け取って、ゆっくり、二度三度と目を通した。

 

「撤回の必要無し」

 

 生徒ウマ娘は、後年こう振り返る。

 あんなに笑顔のマレンゴ教官は後にも先にも見た事がなかった、と。



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ナイチンゲール看護駆兵隊について

 

ジェネラル(将軍)・ナイチンゲール

 

 クリミア戦争にて《ナイチンゲール看護駆兵隊》を統率した看護師。偉大なるヒト娘。

 彼女が率いるウマ娘駆兵は、クリミア戦争において最も士気と練度が高かったと言われる。通常の駆兵隊と異なるのは、救命のための部隊であると言う事。

 

 当初のナイチンゲール女史は母国以来の数十名の仲間と、ごく限られた権限しか持たなかった。女史は衛生環境の改善から始めて根気強く、或いは虎視眈々と機会を待った。

 やがて、絶望の淵から命を救われた戦傷ウマ娘兵が女史の理念に感激して、そのまま合流する……という流れを繰り返すうちに、とうとう看護団は《駆兵隊》と呼べる位に規模が膨れ上がった。

 

 ウマ娘たちは持ち前の力強さで敵を打ち倒すよりも、敵味方も関係無い傷病看護のため戦場を駆け回る方に勇気を奮い起されたのである。

 戦場で散ったと思われていたウマ娘が、実は一命を取り留めており、ナイチンゲール女史の下で働いていたという事例が度々あったらしい。

 

 ナイチンゲールの仕事が始まった。当機立断、自分を慕って集まったウマ娘たちに指示を飛ばす。

 いつの間にやら組織されていた英仏土連合の《ナイチンゲール看護駆兵隊》は、たぶんどっかから拾ってきた戦バ車で最前線に赴く。そんな権限は無い。

 鉄風雷火もなんのその、看護駆兵が颯爽と走る! 硝煙の中に倒れ苦しむ兵士を、バ車はひらりと掬い上げ、強制的に野戦病院に収容する。そんな権限は無い。

 感銘を受けた地元のオスマントルコウマ娘が物資を寄付してくれたり、ハンドメイドで病院を拡充したりする。そんな権限は無い。

 私財を惜しみなく投じて崩壊しかけていた兵站線を再構築し、医療物資が滞りなく調達出来る様にした。そんな権限は無い。

 ナイチンゲールは狂っていた。

 

 当然の結果。野戦病院に軍本部の連絡員がやって来て、渋い顔でつらつら苦情を申し立てる。

 ナイチンゲールさん。一体全体、貴女は何の権限で活動しているのですか。勝手にウマ娘駆兵を接収するとは何事ですか。それら諸々の物資は何処から湧いて出てきたのですか。そもそも何故看護師が砲弾降り注ぐ戦場に出てきているのですか──苦情の一部を要約するとこんな感じである。

 ナイチンゲールは負傷兵の包帯を取り替えながら聞こえないふりをしていた。連絡員がいよいよ痺れを切らすと、女史はとある書簡を鼻先に突き付けた。内容はこの様なものだった。

 

『イギリス・ハノーヴァー朝第六代女王ヴィクトリアの名において、フローレンス・ナイチンゲールの活動を認可するもの也』

 

 連絡員は言葉を失った。なんとこの看護師は軍本部の苦情を見越して、英国女王のお墨付きを取り付けていたのである。女史は黙って包帯を巻く作業を再開した。

 ナイチンゲールは狂っているのに、すこぶる知性が高いという、最も手が付けられないタイプのヒト娘だった。

 

 天下御免の活人鬼と化した《ナイチンゲール看護駆兵隊》は以前にも増してやりたい放題になった。

 本物の将軍たちの作戦会議に、何故か列席していた。百戦錬磨の護衛ウマ娘に囲まれ、それ以上に圧を発するナイチンゲールの眼力に、本職らは何も言えなかった。

 何処から調達してきたのか、ナイチンゲール自身も英国式駆兵服に袖を通してバ車で戦場を駆けた。怪我人を次々に掬っては容赦無く病院にぶち込んだ。

 

 彼女とウマ娘駆兵たちの野戦病院では死ぬ事が許可されなかった。死ぬの禁止である。

『たとえ死んでいても、ナイチンゲールさんの前では生きていなければならない』という軍法があった。軍法違反はこれ以上無い不名誉であった。

 耐え難い疼痛に「死んだ方がマシだ!」と泣き叫ぶ重傷者も、奥からずんずん歩いて来るナイチンゲールの顔を一目見たら「生きてた方がマシです」と撤回した。

 

 ある時、膨れ上がった《ナイチンゲール看護駆兵隊》の戦力に期待し、英国の将軍が野戦病院へ直々に攻撃支援を要求しに来た。

 しかしてナイチンゲールは炎の如くブチ切れ、正論パンチでボコボコにした挙げ句、将軍を撤退に追い込んだという。

 以後、彼女はジェネラル(将軍)・ナイチンゲールと異名を取る事になり、ますますウマ娘たちの敬愛を集めた。

 彼女が外を歩けば、

 

「ジェネラル!」

「ジェネラル・ナイチンゲール!」

 

 と声が上がり、ウマ娘駆兵は誰もが背筋を伸ばして敬礼した。女史は鷹揚な仕草で挨拶を返したという(照れくさかったと後年述懐している)。

 

 そんな将軍(・・)にも重大な欠点があった。休み方を知らなかったのである。

 放っておくと、戦バ車で砲煙弾雨を潜り抜けていたり、何時間もぶっ通しで包帯を巻いたり、無限にリネンを洗濯したり、連日徹夜でランプ片手に病院内を巡回したりした。

 ウマ娘の体力でもちょっと無理な働き方だった。このままでは卒倒するか、さもなくば神経に異常をきたしてしまう(ある意味元々異常であったものの)。

 であるから、女史を慕うウマ娘駆兵にとっては、彼女の休ませ方(・・・・)が死活問題として浮上した。

 さて現存する『ナイチンゲール将軍の休ませ方覚え書』によるとこうである、

 

・本人に事前通達してはならない。

・最低でもウマ娘三人で奇襲し身体を地面から持ち上げる。

・どうにかしてベッドに縛り付ける。

・アヘンチンキをスプーンで口にねじ込む(なおも鎮静化しない場合もう一杯)

・なお脱走した際はラッパを吹き──

 

 等々、全くためにならない項目が列挙してある。

 拘禁され、見張りも付けられた活人鬼ナイチンゲールはただでは起きない。身体の代わりに、極めて明晰な狂った頭脳を働かせた。病院で集めたデータから、死因分析のための統計を作り始めたのだ。

 ウマ娘に物理で休まされた折に作成したこれらの統計が、後に《中陸軍省》と呼ばれる自宅兼事務所の活動の根幹になった。

 

 やがて、クリミア戦争は終結した。イギリスを含む連合軍の勝利であった。

 約二年間の従軍の間に数多の生命を救ったナイチンゲールは、自らも全く健康体でウマ娘駆兵と共に母国へ帰還した。

 帰国後の彼女の活動といったら、これまた凄まじいものがある……幾ら書いても足りないためここでは省略させてもらおう。

 しかし奇声を上げながらベッドに縛り付けられ、ウマ娘にえっちらおっちら運搬される光景だけは、戦時中と同じだったという。

 

 現代でも英国ウマ娘に一番好きな歴史上の人間さんを尋ねると、ナイチンゲール女史の名前が上位に上がってくる。

 また、英国式駆兵服を着た凛々しいジェネラル・ナイチンゲールの肖像に誓いを立てる《ナイチンゲール誓詞》の伝統は、世界中の看護師に引き継がれている。

 



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