青の炎妃はご機嫌ナナめ (蒸しぷりん)
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プロローグ
炎国の姫君


 昔々あるところに、それはそれは可愛らしいお姫さまがいました。

 

 彼女は青い鬣と黄金の瞳をもち、幼い頃から炎を操る能力に長けておりました。

 お姫さまは両親にたいそう愛されて育ちましたので、少々わがま──コホン、失礼。勝気な娘さんになってゆきました。

 

 お姫さまはお友達が欲しかったのですが、お父さまもお母さまも許してはくれませんでした。

 何故なら、お姫さまの一族はとても強く、長く生きられる代わりに、生まれる赤ちゃんの数が少ないからです。

 もしものことがあったらと、お父さまとお母さまは少々モンペ──コホン。お姫さまのことが心配でなりませんでした。

 しかし、幼いお姫さまはそのことを寂しく思っていました。周りの生き物は、楽しそうにお友達と遊んでいるのに。

 お友達と楽しい時間を過ごしてみたいというお姫さまの夢は、年を重ねても消えることはありませんでした。

 

 そんなお姫さまもやがて独り立ちをし、巨大で美しい結晶のそびえる場所へと辿り着きました。

 そこに棲む者たちは皆が戦い好きで、負けん気の強いお姫さまは勇んで相手をしました。

 負け知らずのお姫さま。いつしか結晶のそびえる地の生き物たちは、お姫さまを敬い遠ざけるようになってゆきました。

 

 お姫さまは、ある日はじめて家族以外の男性に出会いました。彼女は心躍り、あっという間に恋に落ちてしまったのです。

 

 しかしその男性は、お姫さまのお父さまよりもずっと年上。もしかしたら、お祖父さまくらいの年齢かもしれません。

 お姫さまには歳なんて関係ありませんでしたが、彼女の熱烈なアタック──コホン、好意を男性はずっと断っていました。

 自分以外にもきっと良い相手が見つかる、こんな老骨などやめておきなさい、などと言って。

 

 それでも、何度も思いを伝えるうちに男性は、お姫さまの純粋な気持ちを受け止めてくれるようになったのです。

 そうしてお姫さまは、若いお妃さまになりました。

 

 男性──いえ、王さまはお妃さまをとても大切にしてくれました。お腹に赤ちゃんも授かり、溢れんばかりの幸せを感じる日々。

 

 ですが、幸せはそう長くは続きませんでした。

 ある日、王さまは突然姿を消してしまったのです。

 

 お妃さまはカンカンに怒りました。理由も話さずに、自分を置いてどこかに行ってしまうなんて絶対に許せません。

 そうしてお妃さまは、王さまの残したわずかな痕跡を辿って、彼を探しにいくことにしました。

 

 日ごとに大きくなっていくお腹を抱えて、たった独りで──……。



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第一章 夫婦喧嘩はガルクも食わない
ドレスコードは純金で


 ぽた、ぽた、と高い天井から雫が落ちる。だがそれは結露でもなく雨漏りでもない。

 世にも奇妙なことに、雫の一粒一粒が金色に光り輝いているのだ。

 

 

 惑星の中身をぶち撒けたのではないか。そう錯覚するような、猛烈な熱と光のエネルギーが暴れ狂う。

 息を飲むような黄金の宮殿はもはや、主以外のすべてを拒絶していると言えた。

 

「……まったく。龍とヒトの領域は、こうまで違うものかしらね」

 

 素早く納刀した狩人はポーチから水筒を取り出し、頭から中身をかぶった。地上では冷たく喉を潤したそれは、沸騰するほどに熱されている。

 だがその熱湯さえも、ここでは生ぬるく感じた。

 

 この状況が生き物によって作り出されたものだなどと、誰が信じるだろう。しかし、その事実を証拠付けるように、隅々まで金で縁取られた黒い鱗が大きくうねった。

 

 

 ここは新大陸を血管する地脈の一角に造られた、古くより存在する自然の宮殿。

 金が水のように降り注ぐという、現実離れした光景も、ここではまったく珍しくない。それどころか、壁も床も見渡す限りすべてが黄金だ。

 滴り落ちる金属は、天井から氷柱のように垂れ下がり、豪華なシャンデリアを形成していた。

 上層では隙間から差し込む空の光も、地下深くには届かない。それでも黄金の輝きは決して失われることはない。何故なら、"光源がそこに存在する"からだ。

 

 みるみるうちに、周囲の温度が上昇していく。

 喉から胸部にかけてがコオォ……と赤熱化したかと思うと、とてつもない熱さの龍の吐息が吐き出された。

 雄火竜リオレウスのものとは、そもそも質が異なる。後者が炎の球を吐き出すならば、前者は熱そのものを吐き出しているようであった。

 

「ッ! ……あら。やるじゃない女神さま」

 

 間一髪。

 灼熱の奔流の直撃を免れた狩人は、焼けた喉で呟く。

 呼吸すら困難な空間は、体温を下げようと皮膚が分泌した汗も瞬時に蒸発してしまう様だ。

 

 気の遠くなるような年月を地の底で過ごす龍が、人間の言葉など知る由もない。

 だが焦熱の元凶はその高慢な口ぶりに憤慨するように、首をもたげて唸るような咆哮をあげた。

 

 "それ"は身体だけを見て例えるならば、蜥蜴のよう。しかし蜥蜴というにはあまりにも巨大で、強靭な生命力を持ち合わせていた。

 黄金で造られた豊かな乳房や羽織りは、彼女の怒りと共に溶け落ち、金色の敷物と化した。高価な金糸の織物など、この光景を前にすればくすんで見えることだろう。

 

 美の権化。豪華絢爛。これらの言葉がこれほど似合う龍が、かつてこの世に存在しただろうか。

 黄金の地母神とも謳われるかの龍を、人々は爛輝龍マム・タロトと呼んだ。

 

 

 

 爛輝龍は海豚のような声を上げて身体をたわめるや、地面ごと抉るような体当たりをしてきた。

 常の竜とは桁違いな巨躯は、人の身で避けるにはかなりの労力と判断力を要する。

 なんとか仲間が巻き込まれていないことを確認すると、狩人の一人が声を張り上げて鼓舞した。

 

「もう少しの辛抱よ! それまでこんがり肉にならないように!」

「ふっ、あんたもね。ジェナ!」

 

 ジェナと呼ばれた女性は「言われなくても」と武器の吹き口にふっくらとした唇を当てた。

 既に四人が疲弊しているのは明らかだった。勿論、古龍の調査を担えるだけの精鋭が集められている。

 とはいえ、避けることの叶わない熱による水膨れやびらんだらけの皮膚に、数々の打撲などの怪我。そして何より身体を苛む熱が、狩人たちの気力を削いでいた。

 そもそも地母神の怒りを前にして、ここまで生き延びられていること自体が奇跡と等しい。

 

 鋭く息を吸い、収束させた空気で弦を震わせると場違いな──否、ある意味ではよく似合う嫋やかな音色が響き渡る。

 凍て刺すレイギエナの魂が込められた狩猟笛リルン=グレイシア。

 その調律は聴いた者の気分を落ち着かせ、ジリジリと炙られていた皮膚の痛みの感覚を遠のかせた。

 同時に焦りや恐怖が和らいだことで、狩人たちの動きが目に見えて俊敏になる。

 

「せっかくここまで追い詰めたんだ、あの馬鹿でかい角を持ち帰ってやろうじゃねえか!」

 

 五期団の男は軽弩(ライトボウガン)の銃口を高く構え、爛輝龍の頭部に向けて数発撃ち込んだ。そのうち二発が角の付け根に着弾し、地母神は僅かに顔を引く素振りを見せる。

 

 爛輝龍の最大の特徴は、雲羊鹿を彷彿とさせる、己の頭部よりも巨大な巻角だ。

 そして狩人たちが求めているものこそ、この角だった。彼らが所属するのは新大陸古龍調査団。古龍調査のプロフェッショナルである。研究サンプルの獲得を目的として、狩人たちは地母神の住まう黄金郷へと足を踏み入れていた。

 調査は幾度となく重ねられ、地母神のまとう金属やら足跡などの痕跡やらは、十分に手に入った。一期団が追うことの叶わなかった古龍を知るために、次に欲しいのがその大角というわけである。

 

 角は執拗に狙われ続け、右側の表面にはヒビが走っていた。

 だがその王冠は、纏った黄金が剥がされて傷つけられてもなお輝きを失わない。彼女こそがこの宮殿の主であることを、如実に表していた。

 

 ジェナは角から視線を外さず、左手の小型の弩を構えた。

 それこそが調査団が新大陸で生きていくうえで作り出した数々の機能を持つ装備、スリンガーである。付属の金属の爪(クラッチクロー)は持ち主の体重を支えられるほどに頑丈だった。

 

「そろそろ折れてもいい頃、なんだけど……ねっ!」

 

 ジェナはクローを支えとして、まるで大道芸のように笛をくるくると回した。そして勢いよく蹴り上げて息を吹き込むと、ピシピシと音を立てて爛輝龍の胸に霜が張り巡らされる。

 片や規格外の高温、片や超低温。発生した氷は瞬時に溶かされて蒸気となったが、爛輝龍は後ずさった。

 そして下がった頭部へ向けて、ジェナはクラッチクローを撃ち込んだ。金属の鉤爪は爛輝龍の角を捉え、ワイヤーが巻き戻ると同時にジェナは空高く跳躍する。

 

「雌火竜に炎妃龍、そしてあんた。よくもこう熱いオンナばかりが集まるものだわ」

 

 自らの角を狙われていると悟った爛輝龍は、ブレスを吐こうと咄嗟に口を開いた。しかし先ほど胸元に打ち込まれた氷で、造熱器官の温度が十分に上昇せず、吐き出すのに間に合わない。

 白金に煌めく角を脚台にすると、ジェナは長く連れ添った愛器を振りかぶった。

 

「折れろおぉぉおッ!!!!」

 

 するとそれまでの硬さが無かったかのように──否、硬かったからこそ。岩に割れ目ができるように、その角は一息に折れて地面へと落下した。直後、大出血が起きる。

 爛輝龍の熱でも固化すらしない血液は、黄金の床を真紅に染めた。

 

 古龍の最も大事な器官を。自分が折り取ったのだ。

 ジェナは着地すると、息を整えながら口角を上げた。駆け寄ってきた仲間の称賛に、ジェナは手を振って応える。

 

 人間を意にも介さずに闊歩していた爛輝龍も、こちらを明確に脅威と見做したことだろう。

 警戒心の強い古龍のことだから、これで爛輝龍は地脈の奥深くへと姿を消す筈だと。

 そう、誰もが思っていた。

 

 

 

「なんだコイツ、逃げない……?」

 

 盾斧(チャージアックス)使いは、訝しげにフィールドの中央を見つめる。その言葉に、残りの三人はハッと振り向いた。

 

 彼の視線の先には、柱へと蛇のように巻きついた地母神の姿があった。誰も見たことのない構えに、精鋭たちは身構える。

 地母神の眼差しは爛々と光っており、殺意が剥き出しになっていた。

 

「ウソでしょ。まだやろうっての?」

「……わたし、救難信号撃ってくる」

 

 そう告げて背を向けた太刀使い。

 だが、彼女が黄金の宮殿を脱出することは叶わなかった。

 

「うわあああっ! 何これっ!?」

 

 宮殿を揺らがせたのは、圧倒的な質量を伴った熱。ただその一言に尽きる。

 爛輝龍は岩に巻きついたまま、超高温のブレスを上に向かって吐き出している。

 やがて熱によって天井は白熱し、溶かされた黄金が雨のように降り注ぎはじめた。だがそれは雨よりもずっと質量が大きく、粘度をも併せ持つ。

 

「外側に逃げろ、早く!」

 

 目に入れば失明、などと生易しいものではない。液状になるまで熱された金属は防具を焼き、その中の皮膚や筋肉すらも焼く。

 ジェナの後ろで悲鳴が上がる。振り返れば、軽弩使いが顔を押さえて苦悶していた。

 盾斧使いが血相を変えて助けに走る。哀れだが、もう元通りの顔に戻ることはないだろう。

 

 脅威は降り注ぐ黄金だけではない。ただでさえ獄熱だったというのに、一気に上昇した気温も侵入者へと容赦なく牙を剥いた。

 次第に頭がジンと重くなり、意識が朦朧としてくる。ジェナは覚束ない手つきでクーラードリンクの瓶を開け、中身を飲み干した。こんなものは気休めだ。

 脳まで茹だってしまえば、人間の身体は使い物にならなくなる。何の変哲もないタンパク質は、この凄まじい熱の中はそう長く耐えられない。

 

 地母神の怒りは、すでに頂点に達していた。当然だろう、己の最も尊ぶ王冠を奪い取られたのだから。輝く黄金を捨てても、唯一手放さなかったものを。

 爛々と燃える横長の瞳孔が、ジェナを捉える。

 

「逃しちゃくれないってわけね、女神さま。いいわ、やってやろうじゃない」

 

 ジェナは笛を握りしめ、不敵な笑みを浮かべた。

 伊達に"白き風"の紋章を背負って新大陸で生き抜いてきたわけではない。危険なモンスターの集う『導きの地』の調査だって、うまいこと数をこなしているという自負があった。

 

 ジェナは体全体を使ってリズムをとり、この後のイメージを頭の中で固めた。残りの二人も続く。

 金属が頬を流れ落ちるような状態で固まっていたが、軽弩使いも諦めてはいないらしい。何よりも、諦めたら死が待つのみということを、皆が経験則で分かりきっていた。

 

 これ以上熱を吐き出しても意味がないと悟ったのか、爛輝龍は黄金の重さをものともしない強靭な四肢で駆け寄ってきた。

 彼女が口を開けると、ずらりと並んだ鋭い牙が目の当たりになる。

 四人は各々で回避し、地母神に向かって武器を構えた。

 

 だが怒りに燃えた爛輝龍がそれで許す筈がない。強靭な尾で狩人たちがいた場所を薙ぎ払うと、黄金が抉れる。

 太刀使いはスウッと息を吸うと、瞬時にその尾をいなした。

 鍛えられた刃とその太刀筋は、揺らめく空気の中でも鋭く光る。

 

「がッ……!?」

 

 だが、直後に聞こえたのは息が詰まったような彼女の声。

 見やれば、人の身体よりも二回りほど大きな角が太刀使いにのし掛かる形になっていた。

 

「セルマ!!」

 

 爛輝龍は尾を避けられることを承知した上で、太刀使いに悟られる前に足元にあったそれを飛び道具として使ったのだ。

 プライドの高い地母神ならば、自らの角を杜撰に扱うことなどしないだろう。そんな狩人たちの油断をついてきたのだった。

 例えるならばそれは、ハンマーをいくつか束ねた重量が、そのまま身体に乗っているようなものだ。

 

「あぅ、う、動けない……!」

 

 早くあの角を退けなければ、潰された部分が機能しなくなってしまう。

 だが何よりも。

 ズン、ズン……とわざと速度を落とした足音が、残酷にも近づいてきていた。

 

「待って……セルマ……!」

 

 そんな言葉など、怒れる龍には届かない。咄嗟に駆け出したものの、それが何の意味もないことは分かっている。ジェナとセルマが居た位置は、フィールドの端と端だ。

 爛輝龍はジェナと同じ方向を向いているため、閃光玉は効かないだろう。この笛では高周波を出して驚かせることもできない。

 どう頑張っても、親友を助けられないのか。

 どこまでも無力な自分に吐き気がした。

 

 その時、爛輝龍の欠けた角の付け根で何かが光った。直後、爛輝龍は悲鳴を上げて大きくのけ反る。

 

「なに……?」

 

 ジェナは状況を飲み込めず、きょろきょろと辺りを見回す。

 

「救難部隊だ! 怪我人は下がれ!」

「お疲れ。後は任せてくれよな!」

 

 声の方に振り向くと、爛輝龍を怯ませた者に続き、武器を背負った人々が黄金郷へと降りてきたのが見えた。

 彼らは広く顔を知られている。何故なら彼らこそが、調査団の誇る推薦組だからだ。

 

「よかった、助かった……!」

 

 盾斧使いは安堵の息を漏らす。他の二人もほっとした表情を見せる中、唯一ジェナだけがあんぐりと口を開けていた。

 

「は?」

 

 爛輝龍の頭から、人影が飛び降りる。危なげもなく着地したその横顔にも見覚えがある。むしろ心当たりしかなかった。

 

「青い星だ、助けに来てくれたんだ!」

 

 人影──その女性は、推薦組の中でずば抜けた狩猟能力を持っている。人一倍鮮やかに任務をこなすうちに付けられた二つ名こそが、調査団の希望とされる"導きの青い星"だった。

 青い星は大きく跳躍し、角が無くなって曝け出されたその場所に飛び込む。そして首の上で、情け容赦なく鎚を振り下ろした。

 

 骨が砕けた、嫌な音が響く。その直後、龍の身体が崩れ落ちて動かなくなった。

 だが、爛輝龍はまだ息絶えたわけではない。ただ脊椎を外し、首から下の神経を断っただけだ。彼女の四肢は、もう二度と動くことはないだろう。

 

 青い星は間髪を開けず、力を溜めるような動作の後に岩を駆け上がる。

 爛輝龍はなおも抵抗するように睨み付けていたが、もうこの身体ではどうにもできない。

 そして青い星は再び鎚を振り上げ、頭部と頸の境目に打ち当てた。地母神は悲鳴すら上げられないまま、地面へと崩れ落ちる。

 爛輝龍はもう、ピクリとも動かない。そうして辺りには静寂が生まれた。

 

「……はあ?」

 

 古龍の絶命と共に、周囲の温度が緩やかに下がっていく。まるで、先程までの熱気が嘘だったかのように。

 そのうち、仲間から歓声が湧き上がった。これまで成し得なかった爛輝龍の討伐を果たしてしまったのだから。

 だが推薦組が仲間たちを助けてくれている中、ジェナはただ突っ立っていることしかできない。

 これからというところだったのに。すべて横から掻っ攫われたのだと気づくまで、かかること数分。

 

 その時後ろからとん、と肩を叩かれた。

 徐に振り向いた先には、凛と背を伸ばした青い星。彼女は晴れやかに笑った。

 

「あんたが奴さんの角を折っておいてくれて助かったよ。ありがとね」

 

 ジェナはしばらく呆然としていた。だがやがて拳を握りしめ、わなわなと唇を震わせた。

 最後に止めを刺すところだったのに。自分はまだやれたのに。美味しいところだけ持っていかれた……!!!!

 

「はあああああーーーーッ!?!?」

 

 

 殺気の消えた黄金郷に、ジェナの絶叫がわんわんと響いた。

 

 これは優秀なのにいつもちょっぴりツイてない、女ハンターの物語。

 



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巻き込まれるは白頭巾

 

 小鳥の囀りが、朝の空気を彩っている。

 緑のカーテンから漏れる光が、肌の輪郭を淡く照らしていた。

 

 下着の左胸部分に詰め物を入れ、紐を肩に掛ける。やや前屈みになって落ちてきた髪をかき分け、慣れた手つきで金具を留めた。

 傍に流れた乳房を収めてかたちを整えると、ベッドの上で待っていた新しいインナーへと手を伸ばした。

 

 目の際に筆を滑らせ、瞼には暖色の鉱石(雲母など)由来の輝きを。

 あかく染まった紅さし指をくちびるに撫で付けると、ぱっと鮮やかな色がのる。

 

 窓から差し込む朝日を照明がわりに、鏡の前で右に左に。瞼の中心が自然光を受けて、細かくきらめいた。

 擦り膝をして後退すると、小さな鏡に胸元までが写る。

 ジェナはにっと口角を上げた。

 

「……よし」

 

 

 

 声をかけてドアを開けると、湯気の立つマグカップを傾けていたセルマが顔を上げた。

その装いはインナーに緩いシルエットのズボンで、休日をのんびりと過ごすつもりらしい。

 

「いらっしゃ……って、おお……!」

 

 セルマの視線はジェナを上から下まで舐めるように見た。

 

「やっぱ似合うね。綺麗だよ、ジェナ」

「ありがと。あんたに一番に見せたかったの」

「嬉しいこと言ってくれるじゃん」

 

 ジェナがその場でくるりと回ると、長い袖が光を弾きながら揺れた。

 例えるならばそう、まるで人魚姫のような。それでいて色合いは黒と金を基調としており、格調高い印象を受ける。

 白薔薇のあしらわれた胸元と、腰に走る曲線がメリハリを生み、なんとも艶やかだ。

 

 セルマはしばらくニコニコと眺めていたが、やがて「適当に座って」と伸びをした。

 

 爛輝龍の討伐から早数週間。

 思いがけず、角どころか全身という貴重なサンプルが手に入ったことで、一期団を含めた研究者らは大いに喜んだ。

 彼らは亡骸が腐ってしまう前にと寝る間を惜しんで調べていたため、数日は昼夜を問わずに研究所から明かりが漏れていた。

 

 これまで調査していた爛輝龍とは明らかに異なる。そう判断した編纂者が早々に救難信号を飛ばしていたことで、救難部隊が最奥に辿り着くに至ったのだった。

 ジェナたちが受けた調査依頼は、元々は上位クエストとして処理されていた。

 だが、その信号とこれまでに確認されていなかった行動をとったことから、急遽格上げされてマスターランクと見做された。

 

 そんな爛輝龍の角を折り取った功績は大きいとされ、ジェナも導きの青い星と同等の報酬が貰えることになった。

 工房でカタログと睨めっこして選んだデザインをもとに作られたのが、今ジェナが着ている装備というわけだ。

 

「でもジェナ、もう化粧して大丈夫なの?」

「肌が再生してるから良いんだって。スッピンで外なんて出歩けないもの」

「それは同感」

 

 地母神を追い続けた者達は皆、少なくはない負傷をしていた。古龍に武器を向ける調査において怪我で済んだことは僥倖と言えるかもしれないが。

 金属を浴びた軽弩使いは勿論のこと、爛輝龍に肉薄していた近接武器使いたちも、重症軽症を問わず火傷を負っていた。

 

 防具で覆われていた部分は、金属パーツの部分のほかは大方無事だった。

 しかし女性陣は特に顔を露出する装備を着ていたため、日常生活には多少支障が出た。職業上慣れているとはいえ、やはり気分の良いものではない。

 ジェナとセルマは普段以上に乾燥に気を遣い、地道に皮膚が修復するのを待った。

 その努力のおかげか、今は随分良くなってきていた。顔の皮膚は血流が良いため、浅い傷や火傷は治りやすいことも要因ではあっただろう。

 

 セルマは腕に巻いていた結い紐でふわふわな髪を束ねると、ジェナに笑いかけた。

 

「わたし、ずっと安静にしてるのも飽きたなぁ。この後お茶しに行かない?」

「行きたい!」

「決まり。わたしもダッシュで顔作るからちょっと待ってね」

 

 セルマは後ろの棚に手を引っ掛けると、体重をかけて椅子を傾ける。そしてもう片方の手で棚を開けてポーチを取り出すと、慣れた手つきで化粧を始めた。

 

 

 

 日中は強い日差しの照りつける古代樹の麓も、朝は比較的穏やかな光に包まれる。

 新大陸古龍調査団の第一の拠点・アステラは、今日も活気に満ち溢れていた。

 

 ジェナとセルマの利用している居住区を出て少し歩くと、南国の植物の飾りが見えてくる。

 ジェナはセルマが階段を上るのを手伝いながら、漂ってくる香ばしい匂いに胸を弾ませていた。

 

 筋骨隆々としたシブいアイルーが料理長を務めるその食堂は『武器と山猫亭』と呼ばれている。

 娯楽の少ないアステラの人々にとって、大事な憩いの場だ。昼前だというのに、空席を見つけるのが大変なほど賑わっている。

 

 椅子が一つ取られて、三人が座れるテーブルにちょうど二人分の空きを見つけ、ジェナは先客に声をかけた。

 

「隣、いいかしら?」

 

 少年──そんな年齢の人間がここ(新大陸)にいるわけがない──青年はジェナの姿を見て少し目を見開いたが、すぐににこりと微笑んで椅子を引いてくれた。

 

「どうぞ」

「ありがとう」

 

 ジェナとセルマは席につくなり、楽しげにメニューを眺めはじめた。

 日光の下で一層輝く装いに、周りから視線を向けられていることに気づいてはいたものの、ジェナは気にも留めない。

 

「あたし、今日は太ることなんか気にしないで甘いもの食べるって決めてるから」

「ちょっとやめてよ。太るとか言うと余計太るよ」

「そうだった!」

 

 そんな会話を挟みつつ。

 給仕アイルーに注文し終えると、セルマが「そういえば」と切り出した。

 

「今朝うちに黄金郷の再調査依頼が届いてたよ。あんたも聞いてるんじゃない?」

「ああ、あれね。正直ハンターじゃなくて学者連中の出番だと思うんだけど」

「本当それ」

 

 ジェナがやや大袈裟に溜息を吐くと、セルマは頷いた。

 ジェナはお冷やを口に含み、ふと思ったことを呟く。

 

「古龍にこんなこと思うのは変かもしれないけど、爛輝龍ってなんか親近感湧くのよね。どうしてかしら」

「ネイルじゃない?」

「いや適当か!!」

 

 別にジェナとて真面目な答えを期待していたわけでもないが。

 セルマはゆるく笑っていたが、やがて笑みを収める。

 

「……それでさ。ごめんなんだけど、わたしちょっとまだ行けないや」

 

 セルマは申し訳なさそうに眉を下げた。

 その下腿は石膏で固定されており、一目でまだ完治していないことが分かる。

 セルマの足は、爛輝龍の角がぶつけられた際に、その衝撃と重みで複雑に折れてしまっていたのだった。

 

「そうよね。寂しいけど無理はしないで、セラ」

「うん、ありがと」

 

 二人は微笑み、肩を寄せ合った。

 

 

 

 やがて運ばれてきたのは、二つのカップと肉球の象られたなんとも可愛らしいティラミスだ。

 赤いスカーフを巻いたアイルーは、ジェナの前にカップを置くと、ミルクを使ってラテアートを披露してくれた。

 

「カワイイー! ずっと我慢してたのよね」

「こっちも美味しいよ。一口飲む?」

「飲む!」

 

 林檎の香りを移した紅茶は氷が浮かべられており、暑いアステラでは嬉しい一杯だ。

 ティラミスも滑らかなチーズと、ビスコッティからじゅわっと滲み出る珈琲の香りや酸味がたまらない。

 これは元々セリエナの宴で提供されていたメニューらしい。だが女性をはじめとした甘党たちからの熱い要望により、アステラでも食べられるようになったのだった。

 

 二人はしばらく各々でティラミスを味わっていたが、やがてジェナが口を開いた。

 

「でもその後の仕事もしばらくあたし一人かぁ。どうしようかな」

「ジェナならソロでもいけると思うけどね」

 

 セルマは氷をかき混ぜながら瞬きをする。だがジェナは首を振った。

 

「知ってるでしょ。あたし、サポートの方が好きなの。組む相手がいないとやる気出ないわ」

「うーん……」

 

 セルマは口に含んでいた紅茶を飲み込むと、パッと顔を上げた。

 

「あ、じゃあわたしが戻るまで新しい人を探そう。そこの君! この子とペア組まない?」

「なんで!?」

 

 ジェナは危うくカフェラテを吹き出しそうになった。

 唐突に指名されたのは、隣に座っていた青年だ。

 彼はまるい目に困惑を浮かべ、ぱちぱちと瞬かせている。当然の反応だろう。

 

「えっ……ぼく、ですか?」

「そう、ウルムー頭巾の君だよ。もしかして他に組んでる人いたりする?」

「居ないですけど……」

「いやいやいやいや」

 

 セルマはおっとりしているのに、思い切りが良すぎるところがある。

 それに、確かに彼は浮空竜パオウルムーの白いふわふわな毛皮を使った装備を着ていた。とはいえ、いくらなんでも初対面の相手にウルムー頭巾は失礼すぎやしないだろうか。

 ジェナは慌てて遮った。

 

「ごめんなさいね。この子、たまに突拍子もないこと言い出すの」

「君、見たところハンターだよね。武器は何を使うの?」

「あたしの話聞いてる?」

 

 そんな二人のやり取りを見て、青年は朗らかに笑った。笑顔になると、より幼い印象を受ける。

 

「あはは、大丈夫ですよ。ぼくは操虫棍を扱います」

「わぁお、クールだね。ちなみにわたしは太刀」

「そうなんですね。そちらの方は?」

 

 青年からの問いに、ジェナは口角を緩めた。

 

「狩猟笛を使うわ。……そういえば名乗ってなかったわね、あたしはジェナ。こっちはセルマよ」

「よろしくね〜」

「リュカです。よろしく」

 

 三人はそれぞれ握手を交わす。

 セルマはいつになく饒舌にリュカに話しかけ続けた。その大きな目の奥には、何かを探るような光。

 

「今まであんまり姿見かけなかったけど、リュカ君ってもしかしてセリエナ住み?」

「住まいはアステラですよ。ただ、キャンプで過ごすことが多いもので。今はレポートの報告に帰ってきたところですね」

 

 新大陸ではハンターに限らず、仕事でしばらく家を開けることも珍しくない。

 現に調査団の基礎を創り上げた一期団の人々も、自身が追うもののために数年間帰って来ないなんてことはザラにあった。生きていることさえ判れば、割と自由なのだ。

 

「へえ、そうなんだ。ルームメイトとかいるの?」

 

 その問いに、リュカは首を振った。

 

「今は一人暮らしをしています。二等部屋では雑魚寝でしたけど」

「あはは。なるほどねぇ」

 

 アステラ、三期団の研究基地、そして前線拠点セリエナには、それぞれ調査員達が住む居住スペースが存在する。

 中でもアステラは功績に応じて格上げされるシステムになっており、複数人で部屋を共有する二等部屋ではプライバシーなどない。

 そのため、一人での快適な暮らしを求めて昇格を目指す者も少なくはなかった。

 

 セルマは紅茶を一口飲む。

 その間に、ずっと聞くばかりだったジェナもリュカに話しかけた。

 

「あたし達、新大陸に来てから今までペアでやってきたの。今は導きの地を主に調査してるわ」

「導き……? ああ、掲示板に貼ってあった例の場所ですか!」

 

 導きの地が見つかってから、大分時間は経っている。それなのにこの反応ということは。

 

「あなた、本当に出ずっぱりだったのね……」

「いやぁ、お恥ずかしい限りです。ぼくフィールドワークの方が好きなんですよね」

 

 ジェナが唖然としていると、リュカは苦笑いしながら頬をかいた。

 その言葉通り、肌には枝などが原因であろう細かい引っ掻き傷がたくさんできている。大人しそうに見えて、案外やんちゃなところもあるようだ。

 "天才と変人と問題児の集まり"と謳われる調査団に所属するだけのことはある。基本的に調査団の人間は、自分がどれに属するかの自覚はないが。

 

 ジェナはしばらくリュカを見つめていたが、やがて顔を綻ばせた。

 

「……フフ。あなた、面白いわね」

「面白い、ですかね?」

「ええ、とっても」

 

 ジェナにつられてリュカも微笑む。

 一方でセルマはというと、既に我関せずといった様子でティラミスを頬張っていた。自分で種を撒いたことだというのに、あまりに自由すぎる。

 ともかく、リュカとならばこの先うまくやっていけそうだ。

 

 ジェナは手を差し出した。

 

「改めてあたしから言わせてね、リュカ君。もし良かったら、あたしとペアを組んでくれないかしら」

「貴女となら楽しい時間を過ごせそうだ。ジェナさん、こちらこそよろしくお願いします」

 

 互いにニッと口角を上げる。

 そして二人は改めて、固く握手を交わした。これで晴れてペア結成だ。

 

「早速だけど、黄金郷の調査に同行してほしいの。流石にまだほかの爛輝龍は居ないと思うけど、念のためね」

「分かりました。出発はいつですか?」

「そんなに急ぎでもないらしいんだけど、できれば明日の早朝には出たいわ」

 

 ジェナは地図を取り出して簡単に計画を立てはじめた。

 爛輝龍は複数確認されており、個体ごとに棲家が異なるため、前回同行していなかったリュカを案内する必要がある。

 注意事項やルートなどを確認していき、やがてある程度話がまとまった。

 

「あ、そうそう。あたしのことはジェナでいいから。敬語だと疲れるし、タメ口でよろしく」

「わかった。ぼくのことも好きに呼んで」

「じゃあリュカで。また明日ここで会いましょう」

「うん。またね」

 

 代金を支払い終えると、ジェナとセルマはリュカに手を振って席を後にした。

 これから楽器の調律やら携帯食料などの準備やら、やることは盛り沢山だ。

 

 

 

 帰りがけ、ジェナとセルマはぽつぽつと会話を交わす。

 

「ところで、珍しく初対面のリュカを質問攻めにしてたじゃない。そんなに運命感じたの?」

 

 ジェナの能天気な問いに、セルマは「何言ってるの」とでも言いたげな目線を向けた。

 

「そりゃ相手の人となりくらいは見極めるよ。大事な親友を任せるんだから」

 

 ジェナは目を瞬かせる。思いつきでゴリ押ししていたのだとばかり思っていたが、まさかあれが自分のための行動だったとは。

 それからふふっと笑いをこぼし、セルマの脇をつついた。

 

「大丈夫よ。あんたって意外と心配性よね」

「何とでも言って〜」

 

 セルマはひらひらと手を振る。

 その時、頭の天辺にぽつりと冷たい滴が落ちてきた。

 

「うわっ」

「どうしたの?」

「雨降ってきた。こんな時に幸先悪いわね」

 

 雲行きが怪しいと思っていたら、大当たりだ。アステラは年に渡って気温が高く、降雨量も多い。

 それでもこういう日くらい晴れてくれればいいのに、運の悪さは相変わらずだ。

 

 ジェナは深くため息を吐いた。

 

 



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焦がれる妃の落とし物

 

 翌朝、熱の鎮まった黄金郷跡にて。

 出発した時はまだ星が見えていたのに、もう空はすっかり明るくなっている。

 

「ワオ驚いた。君どこから来たの? その金どうするの?」

「……」

 

 フィールドに到着してまだ間も無い。

 だが、ジェナは既にクエスト帰りのような疲労感に襲われていた。

 その原因は目の前で騒いでいる白頭巾。

 

 白頭巾──もといリュカは、黄金郷特有の環境生物を見るなり目を輝かせてすっ飛んでいったのだった。彼が拠点になかなか戻ってこない理由が判った気がする。

 あちこちでしゃがみ、背伸びし、仕舞いには小さな環境生物に話しかけ出す始末。金そのものには興味を示さないため、リュカの好む対象は生き物のみらしい。

 それだけならまだ良いが、探索に夢中になるあまり何か言っても生返事しか遣さない。

 

「あっ待って、ぼくもそっち行くから! ……あれ? 居なくなっちゃった」

「ハァ……」

 

 果たして自分は幼児の子守を請け負ったのだったか。否、そんな訳はない。

 リュカの腕に止まった猟虫も、心なしかうんざりしているように見える。

 ジェナは呆れ顔でリュカに声を掛けた。

 

「ちょっと、あたし達がここの安全確認を担ってるのよ。珍しいのは分かるけど、環境生物探しなら後にして頂戴」

「はぁい」

「返事は短く!」

「はいっ」

 

 鋭く言って、リュカはようやく背筋をぴしりと伸ばした。

 昨日会ったばかりなのに、まるで別人のようだ。セルマにしろリュカにしろ、どうしてこう自分の周りはマイペースな人物が多いのか。

 良く言えば相方と似ているため、やりやすさはあったものの、セルマはここまで自由ではない。

 

(男の子のお母さんって大変なんだろうな……)

 

 ギルドカードを見る限り、リュカは若いながらも成人している。この組織のチェックは厳重であるため、偽装はできないだろう。

 この歳でこれならば、もっと小さなうちは気苦労が絶えないに違いない。道理で逞しくなるわけだ。

 

 ジェナは既に数えるのを諦めた溜息を吐き、クーラードリンクを口に含んだ。現大陸と違って氷結晶やにが虫を使わない、独特な清涼感のあるこの味は未だに違和感がある。

 今のところ、他のモンスターの気配は無い。行動開始すればリュカも流石に着いてくるだろうし、もう行ってしまうことにした。

 

「ここから一気に下へ行けるわよ。お先に!」

「えっあれ、ジェナ? ……あっ、待ってー!」

 

 声を掛けるのとどちらが早いか、ジェナは勢いよく自然の滑り台へと飛び込んだ。

 サラサラとした砂は摩擦抵抗が少なく、楽に移動ができる。せっかくの新しい装備だというのに、臀部が汚れることに構いもしないのはハンター故か。

 少し遅れてリュカが着いてきたことを確認すると、ジェナは正面を向いて長い滑り台を束の間楽しんだ。空気の層によって若干温度差があるが、その中を突っ切っていくのは気持ちがいい。

 

 この通路は小さな洞窟のようになっており、所々に開いた穴から辺りの様子が確認できる。勿論ジェナとて仕事は忘れていない。

 洞窟内はその名の通り金色をしたコンジキウロコウモリが飛び交っているが、空間把握に優れた彼らがぶつかることはなかった。

 

 踊り場が見えてくると、膝を曲げて速度を落とす。完全に止まった後、ジェナは息を潜めて双眼鏡を取り出した。

 遅れて降りてきたリュカに、人差し指で静かにするよう伝えると、二つのレンズを覗き込む。

 古龍の居なくなった跡地は、それまで機会を窺っていた狡猾なモンスターが潜んでいる可能性があるためだ。

 だが、しばらく観察しても妙な動きや気配は見当たらなかった。同じようにレンズを下に向けていたリュカも、特に異常を見つけてはいなさそうだ。

 

「……ん、今のところ大丈夫そうね。でも念のため隠れ身の装衣は着ておいて」

「わかった」

 

 二人は双眼鏡を仕舞うと、環境に紛れる小型のマントを羽織った。

 高台から降りると、つい先日まで爛輝龍が使っていたルートに出る。

 そして金でできた氷麗の先にあるのは、爛輝龍が最初に牙を交える場所として選んだ、地下に広がった空間だ。

 主が居なくなったその場所は伽藍堂。

 時折コンジキウロコウモリのものらしき鳴き声と羽音は聞こえるが、あまりにも生き物の気配が少ない。

 

 爛輝龍の匂いを覚えている導蟲は青く発光してはいるものの、虫籠から遠く離れる様子はなかった。彼らは一度覚えた匂いを追って集まる習性があるため、調査団ではペイントボール代わりにされている。

 ホギャホギャと騒いでいた奇面族ガジャブーすら見当たらない神殿は、より厳かな雰囲気を醸し出していた。

 

「なんかこう、思ってたのと違うなぁ……」

 

 リュカはしばらく歩き回りながら地面や空中を観察していたが、やがて残念そうに独り言る。

 

「爛輝龍が去った後の黄金郷は枯れてしまうそうよ。まだ綺麗ではあるけど、ここももうじきね」

 

 リュカは残念そうに「そっか」と呟く。

 高台に上って地図に情報を書き込んでいたジェナは、ふと思い付いたように口を開いた。

 

「ねえ、昨日から思ってたんだけど。一つ聞いてもいいかしら」

「なに?」

「その格好、暑くないの?」

 

 ジェナの質問に、クーラードリンクの瓶に口を付けていたリュカは目を瞬かせた。

 

 リュカの装備に用いられているパオウルムーの毛皮は、空気と同時に熱を溜め込む性質を持つ。それはパオウルムーが陸珊瑚の台地の中でも、冷風の吹き渡る比較的高い層を住処としているためだろう。

 それ故、その素材を利用した装衣は防寒具として用いられていた。

 

「あはは、面白い質問だね。暑いに決まってるじゃないか」

「いや暑いんかい!」

 

 言葉とは裏腹に、リュカは汗一つかかずにけろりとしている。勿論ドリンクの効果もあるだろうが。

 アステラで着ているのも相当だが、まさか煮えたぎる地脈近くの黄金郷にまで着てくるとは思わなかった。

 上層は既に冷めてひんやりとしていたけれど、下層は暖房を焚いているかのようだというのに。

 他に装備を持っていないとしても、全員に支給されたレザー装備がある筈だ。そんな格好をした人間が隣に居ると、見ているほうが暑い。

 

「せめて頭巾だけでも外せばいいじゃない」

「だって背低くなるでしょ?」

「あ、そう……」

 

 確かにリュカはジェナよりも背が低い。

 身長を鯖読みしたいなら他の防具を着ればいいのでは、というツッコミはぐっと飲み込んだ。ジェナだって、利便性を無視してでも装飾や服装を楽しみたい気持ちは解る。

 それに、操虫棍を扱うのに身軽に動き回れる素材はちょうどいいのかもしれない。

 

 日光の差す天窓の下でリュカは頭巾を外し、パタパタと手で仰ぐ。

 その時、どこか既視感を覚えてジェナは目を瞬かせた。

 

「……え?」

 

──今、何か……。

 

「ん? ジェナ、どうかした?」

 

 リュカは不思議そうにこちらを見つめている。それまで影になってよく見えなかったその瞳は、空色をベースに榛色が花開くような模様をしていた。

 それにしても、自分はどこに違和を感じたのだろう。どうしても思い出せない。

 

「……いえ。ごめんなさい、何でもないわ」

「そう? ならいいけど」

 

 その感覚が何なのかは結局分からないままだったが、気のせいだと思うことにした。

 ジェナは思案を振り切るように「さて」と立ち上がった。

 

「今のところ異常はなさそうだし、下へ進みましょう。この先は溶岩が剥き出しになっているから注意して」

 

 下層につながる爛輝龍が開けた大穴からは、入る前から熱気が漏れ出ていた。

 二人は足元に気を付けながら降りていく。

 

「まるで龍結晶の地みたいだ。あっちは結晶でこっちは黄金。新大陸はゴージャスだね」

 

 龍結晶の地は、地脈の黄金郷の下層と同様に溶岩地帯が広がるフィールドだ。

 名が表すように、人間はおろかモンスターすらも小さく見えるような、鈍い輝きを放つ結晶が鎮座している。

 その結晶の正体は、燃え尽きた古龍の生命が分解されたエネルギー。地脈を通じて流れ込んだそれらが結晶化したものが、豊沃な大地を作り出していた。

 

 そんなリュカの言葉に、ジェナはふとあることを思い出す。

 

「そういえば、龍結晶の地はいま立ち入り禁止だったわよね。確かテオ・テスカトルとナナ・テスカトリが営巣中だとか」

 

 テオ・テスカトルとナナ・テスカトリはそれぞれ炎王龍、炎妃龍と呼ばれる古龍だ。赤と青の体毛を持つ彼らはその名の通り、雌雄関係にある。

 目撃することすら難しいテスカト種は、現大陸では二頭同時に発見されたという報告はない。

 しかし新大陸では時折一緒にいる様子が確認されており、ここが彼らの繁殖地なのではないかと言われていた。

 

「うん。ラブラブだよ」

「あら、まるで見てきたみたいに言うじゃない」

 

 ジェナが揶揄ったものの、リュカはニコニコしながら頷いた。

 

「だってあそこの調査に入ってたの、ぼくだもの」

「それ何の冗談?」

 

 思わず溢れた言葉に、リュカは口を尖らせる。

 

「本当だってば。意外とぼくって優秀なんだよ」

「自分で言うことじゃないわね……」

 

 それにしても、とジェナは感嘆した。

 まさか新しい相棒が、気性が荒いことで有名な古龍たちが棲まう地の調査をしていたなんて。

 新大陸のテオ・テスカトルは比較的穏やかな性格とされている。実際にジェナも近くで見たことがあるが、目が合った程度ではどこ吹く風という反応をされた。

 

 だが雌のナナ・テスカトリは別だ。繁殖のために新大陸へ訪れた彼女たちは、現大陸で確認されている個体以上に凶暴だと聞く。

 以前、青い星との戦闘で負傷したテオ・テスカトルが闘技場に逃げ込んできたことがある。その際、彼を食べようと襲いかかってきた古龍ネルギガンテから、守護するようにナナ・テスカトリが舞い降りたという話は有名だ。

 いま営巣しているのは、彼女とは別の個体だという。

 

 リュカは溶岩を踏まないよう、ゆっくりと歩を進めながら「でもね」と呟いた。

 

「ついこの前、テオが急に変な行動をし出したんだよね」

「変な行動?」

 

 ジェナが鸚鵡返しをすると、リュカは頷いた。

 

「ナナが寝ている時にそわそわしてたかと思ったら、炎で岩を溶かして巣の周りを塞いじゃったんだ。しかも近くにいたディノバルドまで追い払ったんだよ」

「へえ……奥さんを守るためかしらね。でも、それのどこが変なの?」

 

 古龍の生態は謎に満ちている。

 悠久の時を生きるという彼らなら、番を守る行動をとっても何らおかしくないような気がした。火竜の番でさえも、雌が眠っている時には雄が見張りを担うことが確認されているのだから。

 だが、他に誰がいるわけでもないのに、リュカは辺りを見回して声を潜めた。

 

「なんとテオが、そのままナナを置いてどこかに行っちゃったんだ。ナナのお腹が大きくなっても仲睦まじくしてたから、てっきり二頭で子育てすると思ってたのに」

「まあ……そこまでするなら浮気ってわけでもなさそうね。何か理由があるんでしょうけど」

 

 リュカは汗を拭いながら、やれやれと首を振る。

 

「そしたら案の定ナナが激怒しちゃって。周りを焼きながらテオを探し始めたんだ。そりゃもうおっかないよ、鬼の形相ってああいうのを言うんだね」

「あなたねぇ……」

 

 あはは、とリュカは軽く言ってのけたが、全くもって笑い事ではない。

 下手をすれば、夫を探しに来たナナ・テスカトリによってアステラが全焼する、などという事態も有り得るのだから。

 

「それでナナはどうなったの? まだ龍結晶の地にいるんでしょう?」

「今のところ、ね。でも外に出るのも時間の問題だと思うよ。だから報告に来たってわけ」

 

 リュカの言葉に、ジェナは顔を青くした。

 

「あなた、あたしと組んでる場合じゃないじゃない! それこそナナの動向を観察し続けるべきだわ」

「まあそうなんだけどね、だから班で追ってはいるよ。……でもあのナナ、若いけど見境なく暴れるほど馬鹿じゃない」

 

 リュカは「邪魔したらコゲ肉にされるだろうけど」などと戯けながら、足を上げて靴の裏が焦げていないか確認する。

 

「それに、新大陸古龍調査団は言ってみれば対古龍のエキスパート揃いだ。その装備……ジェナだってマム・タロトと戦ったでしょ? 何の防衛設備もない村とは違うんだよ」

 

 リュカは目線だけをすっと真っ直ぐジェナに向けた。

 その眼差しに宿る鋭い光に、ジェナは息を飲む。つい先ほどまでの無邪気さは、すっかり鳴りを潜めていた。

 リュカの言葉の意味──それは、もし危険が及ぶようなことがあれば、身籠ったナナ・テスカトリに刃を向けるということだ。

 

「ぼくは馬鹿がつくほど生き物が大好きだけど、いざとなれば武器を取る。ここ(新大陸)で生きていくなら、縄張り争いには勝たなくちゃ」

 

 その言葉とは裏腹に、リュカは腕に止まっている猟虫を優しい手つきで撫でた。

 人間は裏表だけでなく、場合に応じてたくさんの面を使い分ける。

 この青年には、一体どれほどの面があるのだろう。だがなんとなく、面は異なってもそこから導き出す答えはぶれないのではないかと思った。

 ジェナはしばらく雰囲気に呑まれて黙り込んでいたが、やがてぽつりと呟いた。

 

「……そう、それがあなたの生き方なのね」

 

 リュカは神妙な顔で頷く。

 その真摯さが、ジェナには何故かとても眩しいものに思えた。

 

 無言で再び歩き出した二人の顔を、金と溶岩が赤く照らしている。

 ひたすらに広い空間で、それらがぐつぐつと煮立つ音だけが響いていた。

 

 

 

 結局、最下層にも当時の戦闘の跡のほかには、目立った異変は見当たらなかった。

 爛輝龍を失った黄金の宮殿はどこかくすんでいて、まるで主を弔うための装いに自ら変化したかのようであった。

 

 上層へと戻る道中、リュカが口を開く。

 

「ちょっと話は戻るけど、ジェナの装備は今回の個体から作ったの?」

「ええ。想像以上に報酬が手に入ったから、いっそのこと一新しようと思ってね」

「そうなんだ。どんな個体だったの? 角はやっぱり大きくうねってた?」

 

 リュカは目を輝かせて訊いてくる。

 これほど露出のある防具でも、リュカの視線からは下心が一切感じられない。悪い気はしなかった。

 

「まあ、大分うねってはいたわね。最後折っちゃったけど」

「ワオ、ジェナが折ったの? すごいや!」

 

 リュカの純粋な反応に、ジェナは肩を竦めて首を振った。

 

「角だけよ、角だけ。まったく、苦労して追い詰めたのに、あの人にトドメを華麗に刺されちゃったの。まるでキリンの王子様みたいだったわ」

「あの人って?」

「青い星よ、言わせないで頂戴」

 

 ジェナは顔をしかめる。

 もし青い星たちが来てくれなかったら、状況は悪化していただろうし、セルマもあの怪我では済まなかっただろう。

 それでも、というより寧ろそのことがジェナにとっては腹立たしかった。自分やあの場にいたメンバーでは、青い星一人にすら敵わないという事実が。

 

「まあ、ランクが上がったからもういいけど。悔しがっても仕方ないし、あたしはあたしの仕事をするまでだわ」

 

 つんと澄ましたジェナを見て、リュカはふふ、と笑いを溢した。

 

「何よ、いま笑うところあった?」

「いや。なんか格好良いなぁと思って」

「格好良い? どこがよ」

 

 そんなやり取りをしながら、二人は最上層への入り口をくぐる。ここまで来れば、後はもう翼竜の待つベースキャンプへ向かうのみだ。

 あちこちに輝く金属の付着した谷間は、音がよく響く。

 

 その時、突然ジェナの導蟲がしゃらら……と一斉に飛び立った。それに続いて、リュカの導蟲もふわふわと輝きながら飛んでいく。

 

「まあ、何かしら」

「青い光……殺気も感じられないし、マム・タロトの痕跡に反応したのかな」

 

 二人は顔を見合わせ、導蟲の光を辿る。

 程なくして、虫たちが集まっている場所をいくつか見つけた。モンスターの痕跡で間違いないだろう。

 だか彼らは、近寄っては勢いよく離れるような、奇妙な動きをしていた。

 その中央にあるものを見て、リュカはハッと息を飲んだ。

 

「あれは……!」

 

 黄金の散りばめられた地面や壁を舐めていたもの──それは、小さいながらも燃え続ける、蒼い炎だった。

 蒼くなる程に高温の炎を扱う竜や龍は少ない。ましてや燃え続けるエネルギーがあるものなど、それだけで特定される。

 

 二人は急いで隠れた。炎があるならば、まだ近くにその主がいる可能性がある。

 しばらく日光がレンズを照り返すことにすら気を使って双眼鏡を覗いていたが、やがて近くに危険はないことを認識した。

 警戒は解かないまま、その根源へと歩み寄る。

 

「あちゃー……間違いないわね。道理で他のモンスターも尻尾を巻いて逃げる訳だわ」

 

 ジェナは嫌な予感が当たった、と溜息を吐いた。

 

 時間が経っている様子であるのに、延々と燃える炎。

 その傍らにある、獣のような肉球と鋭い爪のある足跡。

 

 これはもう、確定だ。

 

「──まさかのナナちゃん黄金郷わず」

 

 その呟きを、洞窟に吹き渡る風が攫っていった。



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老いた王の探しもの

更新お待たせいたしました。





 ジッというランプの音と共に、薄暗い空間に明かりが灯る。女人がそれを吊るすと、テント全体が字を書ける程度に明るくなった。

 

 ここは黄金郷の最浅部にある、調査団のベースキャンプだ。

 龍脈の流れる溶岩地帯から少し離れたところにあるものの、下から上がってくる空気は暖かい。

 調査を終えたジェナとリュカは、もう日も落ちているからと、ここで夜を明かすことにした。

 

「エリア二、三、四は生物はやや減少しているが目立った異常なし。エリア一にて炎妃龍ナナ・テスカトリの痕跡あり……っと。次はテオの痕跡集めかなぁ」

 

 リュカは口の中でブツブツと呟きながら、なんとも楽しそうに調査レポートを書き綴っていく。

 傍らで調査中に書き留めたメモの内容をその都度伝えていたジェナは、何度も口を開いては躊躇って閉じていた。

 

 新しい相棒はどうやら筆まめらしい。武器に猟虫を留まらせ立て掛けるやいなや、率先して報告書作成を始めたのだった。

 だが。

 

(……なんて字を書くの! 何が書いてあるのか全然読めないわ)

 

 留め跳ねも適当なうえ、筆圧が弱く細い。

 ジェナには今どの部分を書いているのか分からず、かなり先まで読んでしまって何度も聞き返された。

 こんな釣りミミズがのたくり打ったような字で、報告を受ける責任者は解読できるのだろうか。

 ジェナは手元のメモと見比べてみる。自分もそう綺麗な字が書けるわけではないが、走り書きよりも見てくれが劣るとはどういうことだろう。

 もともと黄金郷調査を任されていたのは自分なのだし、何度も代わろうかと声を掛けようと思った。だが、会って二日しか経っていない相手にそこまで言って良いものか。

 

「……あの、リュカ?」

「なに?」

 

 思い切って声をかけると、リュカはパッと顔を上げた。

 

「…………やっぱり、何でもないわ」

「えー、そう言われると気になるなぁ」

 

 純粋なリュカの視線が痛い。

 ジェナは目を泳がせ、視界に入ったある物へと咄嗟に話題を変えた。

 

「あ、あー……それ。誰宛ての手紙なの?」

「これ? ユウラさん宛てだよ。テスカト調査担当の人なんだ」

 

 リュカはジェナに封筒を手渡した。

 

「ジェナも見たことない? 長い髪を束ねた竜人族の学者さんなんだけど」

「長い髪……ああ、生態研究所でたまに見かけるわね。あの人の名前、初めて知ったわ」

 

 青みがかった長い髪とほっそりとした身体の線が思い浮かぶ。さほど目立つわけではないが、端正な顔立ちが印象的な人だった。

 大して話したこともないのにすぐに思い出せたのは、その容姿による影響が大きい。

 

「ユウラさん、今セリエナに行っちゃってるんだよね。だから副所長に報告ついでに渡してもらおうと思って」

「ついでって……」

 

 ジェナの呆れた視線をものともせず、リュカは書き上げた報告書を両手で掲げる。

 誤字や脱字の有無を確認するよう頼まれたが、正直ジェナには本当に合っているかは判断できなかったので適当に流した。

 

 その時、外からフシューという音が聞こえ、ジェナは慌ててテントの垂れ幕を潜る。

 音の源は簡易な竈門だ。火にかけられた鍋からは、白い泡が溢れ出していた。

 火から下ろすと泡のかさが徐々に下がっていく。それを見届けて、ジェナはほっと息を吐いた。

 

 鍋の中で湯気を立てているのは、携帯食料として持ち込んだ腸詰めと干し飯を煮込んだ簡単な雑炊だ。

 ハンターは長期任務を受けることも多い。そのため少しでも食事を楽しめるよう、狩場に持ち込む調味料は工夫されている。

 かき混ぜると、とろみのついた飯がなんとも良い匂いを漂わせた。

 そのうち、匂いにつられたリュカがテントからひょこりと顔を出した。

 

 息を吹きかけながら熱々のそれを口に運ぶと、粉末にした出汁の香りや腸詰めの旨味が広がる。 

 うまいうまいと頬張るリュカに、ジェナは目を細めた。

 

「ぼく一人だと、腸詰めとかを炙ってそのまま食べるだけで済ませちゃうんだ。フィールドでおいしいごはんが食べられるの新鮮だなぁ」

「あら、そうなの? 気に入ってもらえたなら良かったわ。せっかくだし食事は楽しみたいじゃない」

 

 無いものは仕方ないが、あるものは存分に活かしたほうがずっと良い。

 それがジェナが新大陸に来て学んだことだった。

 

 自分たち五期団が来る前のことは話で聞いただけだが、拠点は初めて足を踏み入れた頃よりも大分豊かになっている。

 それは人材が増えたことで、各々が得意分野を活かして発展に尽力してきたからだ。

 

 そのおかげで、初めは凍えた木々や岩ばかりだった寒冷地にも立派な前線拠点(セリエナ)ができた。

 とはいえ寒いところは苦手なので、こちら側(アステラ)に留まったけれども。

 

「そういえばジェナってどこ出身なの?」

 

 食べ終わったリュカは、猟虫に蜜餌を吸わせながらジェナに問いかけた。

 ジェナは口に付けていたマグカップを離す。

 

「タンジアの近くの村よ。辺鄙なところだから多分知らないと思うわ」

「ワオ奇遇だね、ぼくタンジア出身なんだ! ……あれ? 近くってことは、もしかしてあのモガ!?」

 

 目を丸くしたリュカに、ジェナは笑って首を横に振った。

 

「ううん、違うわ。あたしの村に海の民は居なかったもの」

 

 モガは、暖かく自然豊かな島の外れに存在する、海上にある村だ。

 海洋資源が豊富で、タンジアの港にもよくモガ産の魚介やら加工品やらが並べられていた。

 そこでは人間と、水掻きを持つ海の民と呼ばれる人々が手を取り合い、原始的な生活を営んでいるという。

 

「びっくりした。てっきりナバルデウスが現れたっていう村なのかと思った」

「顔にでかでかと残念って書いてあるわよ。……とはいえ、こっちにも被害がない訳ではなかったわ」

 

 ナバルデウスは深海に生息する古龍だ。小さな村一つなら、軽く収まってしまうのではないかと思うくらいの巨体をもつと言われている。

 とある個体は、モガの村の近くにある海底遺跡に棲息していた。

 だが角が異常発達したストレスにより、彼は壁に自らの身をぶつけるようになったらしい。

 

 海の中の巨体が壁にぶつかればどうなるか。

 海流は荒れ、壁を伝って地面は揺れる。地震の被害はジェナの村にまで及んだ。

 そんな時に暴れるナバルデウスを鎮めて見せたのが、モガの村のハンターというわけだ。

 

「あの人はまごうことない英雄よね。調査団にいるかどうかは知らないけれど」

「まあ……そうなるよね」

 

 リュカはどこか歯切れの悪い返事をした。薪を舐めて揺らめく炎が、彼の輪郭を照らす。

 その反応にジェナは何か事情があることを察したが、敢えて聞かなかった。

 調査団は優秀な人材が揃っているが、そのぶん人に聞かせたくない過去を抱えた者も多い。

 

 ジェナは一つ息を吸い、話題を切り替えた。

 

「ねえ、リュカはどうして操虫棍を使うようになったの?」

「ジャックとずっと一緒にいられるから」

「即答! だと思ったわ」

 

 リュカの言葉が通じているのかどうかは謎だが、ジャック──リュカの猟虫はどこか嬉しそうに美しい翅を動かした。

 ジャックは桃色の毛に緑のラインが入った翅のシナトモドキで、ジャックというよりはフランソワといった見た目をしている。

 操虫棍はその名の通り、猟虫を操りともに戦う武器だ。狩りに有益なエキスを猟虫に採取してもらうことも、長い棍棒を使い空を翔ることもできる。

 壁に立て掛けられたそれは、轟竜の荒々しい素材がふんだんに使われていた。

 

「ハンターになってから、ずっと一緒に成長してきたんだ。かわいいでしょ」

 

 蜜餌を吸い終えたジャックはくるりと口吻を戻した。

 ジャックのふわふわな頭を撫でながら、今度はリュカが訊ねる。

 

「ジェナはどうして狩猟笛を?」

「うちの家は代々、女子に横笛を吹けるようにさせるの。だからその延長ね」

「ワオ、お洒落だなぁ」

 

 ジェナは苦く笑う。

 

「ひいお婆ちゃんも、まさかあたしが武器として楽器を使うとは思わなかったでしょうけど」

「あはは。一気にワイルドになったね」

 

 笑いを収めたリュカは、唐突に何か閃いたように「あっ」と声を上げた。

 

「ハンターになった後はタンジアに居たんだよね? ってことは、ぼくたち前に会ってたかも!」

「そうかもしれないわね。でも仮に会っていたとしても、気付かなかったと思うわよ」

 

 思わずぽろりと溢してしまい、ジェナは咄嗟に空になった器に目を落とす。

 ジェナの言葉にリュカは首を傾げた。

 

「どうして?」

 

 ジェナは少し躊躇ってから口を開いた。

 

「……その頃のあたしは、今みたいに女の格好をしていなかったもの」

 

 ジェナは無意識にもみあげの髪を一房いじる。

 現大陸でハンターをしていた頃は、周りに女として見られるのがどうしても嫌で、体型の隠れる男物の防具ばかり着ていた。

 声も高い方ではないし、身長もある。ギルドカードさえ見せなければ、成り行きで組んだハンターには案外バレなかった。

 

 今も男のように短くしている髪は、当時の名残だ。伸ばそうと思っても、どうにも居心地が悪くなって切ってしまう。

 

「あ……」

 

 急にこんなことを告白されても、リュカは困るだけだろう。

 ジェナは取り繕おうと口を開きかけたが、当の本人は思いの外はやく返事をした。

 

「そうなんだ。メンズにも格好いいデザインいっぱいあるもんね」

 

 さらりと言ったリュカに、ジェナは目を瞬かせた。

 これまでされてきた反応や、想像していた反応とは全く違うものだったからだ。

 

「……驚いた。あなた、セルマと同じことを言うのね」

「あれ、そうなの? ぼくも素敵だと思うけどなぁ」

 

 ジェナは頷いた。

 あの時、はじめて揶揄うどころか怪訝な顔も同情もせずにすんなりと受け入れてもらえた。それがどんなに嬉しかったことか。

 

 一拍置いて、形容しがたい温かさがじんわりと胸を満たしていく。

 触れられたくないところには踏み込まず、自然に肯定してくれる存在が貴重であることは、ジェナには痛いほど分かっていた。

 

「……ありがとう」

「えーと……どういたしまして?」

 

 リュカはキョトンとしている。

 一方で、ジェナの表情は穏やかだった。

 

 

 

 リュカが眠ってしまった後も、ジェナはテントの外で丸太に腰掛けていた。

 自然の天窓から差し込む星月の明かりは、昼間と違い黄金を静かに煌めかせる。光の筋のうち一本は、健気に咲く花を照らしていた。

 

(──もしあの日、あの人を追いかけなければ……)

 

 自分が異性に負けない強さを求めてハンターを志すことも無かっただろう。そして当然ここにも居なかった筈だ。

 これまで傷ついて苦しんできたことも、そのうちの半分くらいはきっと経験せずに済んでいた。

 

 それでも、いま感じる喜びは確かに胸の内に在るものだ。

 苦しみと引き換えに、否、その苦しみがあったからこそリュカのありのままの言葉が嬉しいと感じるのだろう。

 

 様々なことを乗り越えて、女性として強く生きると決めた。それこそ、あの導きの青い星のように。

 けれど、今はどうしても渦巻く感情に押し流されるままになってしまう。そのことが悔しかった。

 

 青白く照らされる花々をぼんやりと眺めながら、ジェナはひっそりと頬を濡らした。

 

 

 

 

 

 

 時は遡って、同日の昼を過ぎた頃。

 まだ二人からの報告は届いていないにもかかわらず、アステラの一部は不穏な空気に包まれていた。

 

 流通エリアを一望できる甲板の上。

 そこでは銀髪を刈り込んだ老練の司令官と、学者の装いをした女性、日に焼けた白髪の女性が広いテーブルを囲っていた。

 少し離れたところに老ハンターが腰掛けている。

 

「なんだと? テオ・テスカトルが陸珊瑚の台地に……!?」

 

 上官から鋭い目つきと声を向けられた女性は、びくりと肩を震わせる。

 だが彼女も新大陸古龍調査団の一員だ。すぐに表情を引き締めて報告を続けた。

 

「当時レイギエナやナルガクルガなどの目撃情報も無かったため、エリア八の植生を調査していました。突然、重い足音が聞こえて振り返ったところ、テオ・テスカトルがわたしを見下ろしていて……」

 

 学者は声を震わせる。

 ハンターや編纂者ではない彼女にとって大型モンスター、しかも古龍が間近に迫っていたなど、さぞかし恐ろしかっただろう。

 隣の女性は彼女に気遣わしげな眼差しを向ける。

 

「かの龍が陸珊瑚の台地にいる筈はありませんし、幻覚かとも思ったのですが……」

 

 総司令は表情一つ変えずに先を促す。

 学者は少し息を整えてから報告を続けた。

 

「すぐに拠点に戻ることも考えましたが、位置が割れることを恐れてキャンプへ向かいました。

 しかし、テオ・テスカトルはキャンプまで追いかけてきたのです。入り口を覗き込んだり、離れた位置でずっと様子を窺ったりしていました」

「何を目的にそのようなことを……」

 

 総司令が低い声で呟くと、隣で聞いていた白髪の女性──フィールドマスターが口を開いた。

 

「ここまで聞いて予想はついたと思うけど、炎王龍は三期団の研究基地にも来たの。何せあそこは陸珊瑚の台地なら、ほとんどの場所から見えるからね。

 爺様たちが外にすっ飛んでいったら、全員の顔を眺め回すようにしてたわ」

 

 フィールドマスターの言葉に、総司令は眉間のしわを深めた。

 

「その後、テオ・テスカトルはどこへ行った?」

「台地の西側に飛んで戻っていったけど、その後は見失ってしまったわ。流石に水気の多い東や下層には行かないと思うけど」

 

 その時、傍らで話を聞いていた老ハンターがテーブルへと歩み寄った。

 よく使い込まれた太刀と雌火竜の装備は、彼がまだ現役であることを示している。

 

「そのテオ・テスカトルはもしや、角が片方折れていたのではないか?」

「……!」

 

 老ハンター(ソードマスター)の言葉に、学者はフィールドマスターと顔を見合わせ、首を縦に振った。

 総司令が「知っているのか」と問うと、ソードマスターは頷く。

 

「はい、片角の個体でした。おそらく古い傷であると思われます」

「うむ。ならば間違いはなかろう。……龍結晶の地に、片角の年老いた炎王龍がいたのだが、先日姿を消したという」

「なるほどね……」

 

 三人は表情をさらに険しくした。

 

「やはりその個体だったか……しかし何故その炎王龍が陸珊瑚の台地へ? 火薬を目的に飛来するならば、別個体だとしても前回のように闘技場を狙う筈だが」

「わからぬ。陸珊瑚の台地はネロミェールやキリンの縄張りがある故、そう容易く出入りできぬだろうが……」

 

 総司令は腕を組んでしばらく考えていたが、ふと眉を上げてフィールドマスターと学者に尋ねた。

 

「……どちらもテオ・テスカトルに敵意は無かったのだな?」

「ええ。むしろあの炎王龍だと思えないほど穏やかな顔をしていたくらい」

「こちらでも敵意は感じられませんでした。今回は観察を目的としていたようです」

 

 それを聞き、総司令は「ふむ」と束の間目を閉じる。

 

「炎王龍の行動は、我々人間の動向を気にしているとも取れる。明確な目的が不明確である以上、万全の態勢を整える必要があるだろう」

 

 総司令は再び目蓋を開けた。

 灰青色の瞳は一見すると静かだ。しかし、その内には強い光を湛えていた。守る者の目だ。

 

「報告、ご苦労だった。……これより警戒を強化する為の緊急会議を開く。君、悪いがそれぞれの班のリーダーの招集を頼む」

「承知いたしました」

 

 学者は一礼すると、駆け足で階段を降りていった。

 

「まだ陸珊瑚の台地もあの一件からそう経ってないっていうのに、忙しくなるわね」

 

 フィールドマスターがやれやれと首を振る。だがその表情はどこか楽しそうだ。

 

「老齢の古龍……一人一人の顔を見ていたということは、調査団の中に誰か探している者がいるのだろうか……」

 

 総司令の呟きに、フィールドマスターとソードマスターは顔を上げた。

 

 謎は深まるばかりだが、少しずつ真実への道標を見つけていくしかない。痕跡を追って調査することには皆慣れている。

 

 森のどこかで、小さな青い歌姫の調べが常よりも切なく響いた。



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茹だる暑さとつむじ風

 

 立っているだけで汗ばむ気温のアステラ。

 日差しが強いのは常のことだ。しかし、今は空気そのものが暑いため、日陰に入っても気休め程度にしかならない。

 

 そんな中、二人の男女が掲示板を覗き込んでいた。

 

「なになに、ナル……アタタ、イメ?」

「ナルハタタヒメよ、リュカ。イブシマキヒコとこの古龍の繁殖行動と思われる行動で里が被害……なるほど。災難だったわね」

「わざわざ言い直さなくても」

 

 ジェナは意にも介さず、口の中で呟きながら文章の続きを追う。

 二人が覗き込んでいる竜皮紙。それは、現大陸で起こった古龍による災害についての報告書だった。

 

 竜人族のように見た目と年齢が離れているわけではない、年若い彼らがなぜ機密情報とも言える古龍の文献を読めているのか。

 それは、彼らが属する組織の特性によるものだ。

 

 新大陸古龍調査団では新大陸のみならず現大陸のことも、古龍に関する情報は上層部以外にも広く伝わる。

 それが新大陸での調査の鍵となったり、緊急時に命を守る術を編み出すきっかけになったりするためだ。

 

「はぁー、あっちでも雌雄がとやかくやってるってわけ? どこのカップルも随分お盛んだこと」

「いや言い方……」

「あら、本当のことじゃない」

 

 リュカは若干引き気味だったが、ジェナはあっけらかんと返した。この辺りに男女のノリの違いを感じる。

 

「まあ、向こうとしては後継ぎを残すのに必死なんでしょうけど。その周りはモンスターもヒトも、自分達の生活を守ろうとしてるだけだし」

「それはそうだね」

 

 

 

 ジェナはやれやれと首を振ると「それで」と持っていた木箱を置き、振り返った。

 

「こっちは炎王と炎妃の痴話喧嘩に巻き込まれてるって訳ね。まったく、これも仕事とはいえ良い迷惑だわ」

 

 拘束弾を利用できるバリスタ、大砲、各々の弾と火薬に、大量の閃光玉の入った木箱。

 そういった物騒な品々が、流通エリアの床板を軋ませていた。

 緊急で集められた兵器であるため、未だ使用できるまでに準備が整っているものは少ない。

 

 調査員たちは皆、早足で物資を運んだり兵器を組み立てたりしている。だがその表情は緊張している者、何やら楽しげにしている者などまちまちだった。

 中にはセリエナから駆けつけた調査員もいるらしく、見慣れない顔ぶれが何人かいた。

 

「みんな大規模な迎撃自体は慣れてるけど、やっぱり準備期間はピリつくよねぇ」

 

 ぼやくリュカも、拘束用の縄を巻いている最中だった。

 

 先日、陸珊瑚の台地で炎王龍テオ・テスカトルが目撃されてすぐに、総司令は迎撃の手筈を整え始めた。

 杞憂で終わればそれでよし。

 だがもしもの事があった時に準備ができていなかった、では済まされないのだ。

 

 そして老練の司令官の読みは当たり、ここ二日ほどでアステラ周辺の気温が跳ね上がった。

 今や拠点全体が物々しい雰囲気に包まれている。

 いくら暑くて美しい海があったとしても、これではバカンスには向かない。

 

「黄金郷ほどじゃないけど、拠点がこう暑いと滅入るものね。水を飲んでも飲んでも汗になっちゃうわ」

「そりゃあ炎の龍が近くにいるんだもの。大蟻塚だって、彼らがいれば陽炎が見えるよ」

 

 炎王龍が陸珊瑚の台地で観測された時は、これほどまで暑くはなかったという。

 つまり、炎王龍のほうは冷静な状態ならば、自らの熱が周囲に及ぼす影響を理解したうえで行動範囲を広げているということだ。

 

 だとすれば、残る可能性は二つ。

 炎王龍が体温を上昇させるような出来事が起こったか、もしくは怒れる炎妃龍が迫っているか。

 どちらにしても、アステラの近くで起こっているのだから事態は切迫している。

 

「こんな暑いとバテちゃうよね。ねー、ジャック」

 

 リュカの腕に留まったふわふわの猟虫も、心なしか元気がない。

 リュカはジャックを撫でてやりながら「そういえば」と呟いた。

 

「今テオナナがそれぞれどこにいるのか知らないけど、これだけ暑ければ火事になるんじゃない?」

 

 さらりと怖いことを言ったリュカに、ジェナは首を傾げる。

 アステラは船を解体して出来た拠点だ。

 土台以外の多くが木製のそこで火事になってしまえば、調査員の殆どがしばらく屋根無しで生活することになる。……それは冗談として。

 

「どうかしらね。でもマグダラオス迎撃の時も、溶岩さえ当たらなければ火薬に引火することは無かったわ」

「そうだった。ま、今はアステラの兵器を信じるしかないかぁ」

 

 熔山龍ゾラ・マグダラオスは、ジェナたち五期団が新大陸へ渡るきっかけとなった古龍だ。

 燃え盛る火山のような巨体を持っていた彼は、出会った時には既に長い年月を生きていたのだという。

 彼が死に場所として選んだのは、新大陸すべてを焼き尽くす可能性のある場所だった。

 そこで調査団は彼を海へと送り出すよう、迎撃の形を取ったのだった。

 

「マグダラオスも、これじゃ静かに眠れないわね。今はとにかく、テオナナの目的とルートを探らなきゃ」

 

 リュカは頷き、地図を広げた。

 数箇所に赤でばつ印が付けられている。

 

「今のところ見つかっているのは、地脈の黄金郷と大蟻塚の荒れ地でのナナの痕跡、陸珊瑚の台地でのテオ目撃情報。まあ、テオを追ったほうが効率がいいよね」

「ええ。……この時点では、規則性は無さそうね」

 

 ジェナの言葉に、リュカは再び頷いた。

 

「片っ端から探すしかないや。陸珊瑚と瘴気は他の調査班がもう行ってるから……」

 

 その時、流通エリアの中央から「おーい、お前達ー!」と声をかけられ、二人は振り返った。

 

「突っ立ってるなら手伝ってくれよ! 調査に行くならしょうがないが」

 

 そう呼びかけるのは、四期団の先輩だ。遠くから見ても顔が良いとはどういうことだろう。

 

「ごめんなさーい! 今これ運びまーす!」

 

 ジェナは慌てて木箱を持ち直し、彼の方へと駆けていく。

 リュカもそれに続いて、巻き終えた縄をバリスタのほうへと運んだ。

 

「助かるよ……ってかお前達、ナナの痕跡見つけたんだろ。それこそ調査に行かなくていいのか?」

 

 四期団の顔が良い先輩──この際ハンサム先輩と呼ぶ──は、ジェナの荷物を受け取りながら首を傾げる。

 

「ちょうどその話をしていたんです。行動の規則性がまだ分からないし、どこの調査に行こうかしらって」

 

 ハンサム先輩は少し考えた後「それなら」と呟いた。

 

「古代樹の森あたりはどうだ? アステラがこれだけ暑くなってるんだし、大ハズレってことは無いと思うぞ」

「ああ、確かに……そうしてみます。ありがとうございます」

 

 ハンサム先輩も現役のハンターだ。こういう時の勘や洞察力には優れている。

 

 彼と別れると、ジェナはしゃがんでポーチを開け、中身を再度確認した。

 回復薬の消費期限は切れていない。携帯食料も十分にある。念の為クーラードリンクも持ったし、緊急時にメルノスを呼ぶモドリ玉もある。

 

 荷物をしまい終えた時、タイミングよくリュカが戻ってきた。

 

「おかえり、リュカ。さっきの続きだけど、先輩が古代樹の調査はどうかって提案してくれたわ」

「ただいま。古代樹か、確かに理に適ってる」

 

 リュカはうんうんと頷いた。

 

「あたしはすぐにでも行けるわよ。昨夜ベッドで眠れたから疲れも取れたし」

「ぼくも同じく。よし、それじゃリーダーさんに伝えたら行こうか」

 

 どこへ誰が何の目的で向かうのか。

 一人一人の命と責任の重い調査団では、報告・連絡・相談が欠かせない。

 

「帰ってくる頃にはユウラさんからも返事が来てる筈。あの人なら、何か掴んでるかもしれない」

「そうね……いま何が起きてるのか、これから何が起こるのか。早いとこ知りたいものだわ」

 

 そんな呟きが、アステラの喧騒の中に消えた。

 

 

 

 

 所変わって、古代樹の森。

 普段から鬱蒼としたここは様々な生き物が生息している為、生命の密度が濃い。

 

 だがしかし。

 

「まあ、ある程度予想はできたわね」

「そうだね。だろうなーと思った」

「ツイてるんだか、そうじゃないんだか」

 

 そんな二人の視線の先にあったのは、風で薙ぎ倒された木々。

 それも、一部だけが力任せにもぎ取られたように根本から倒れている。明らかに暴風が局所で起こったと分かるような、凶悪な痕跡だ。

 吹き溜まった落葉の上には、折れたばかりの細かな枝やら塵やらが落ちている。

 

 青い光を発する導蟲について行き、まず見つけたのがこの痕跡だった。足跡もこの辺りにしか無いため、飛んで移動したのだろう。

 焦げた形跡の一つもない道を示すものだから、妙な予感がしたと思ったらこの有様だ。

 

「どうする? これ即報告案件だよね」

「ええ。明らかにキレてるし、一旦引いたほうがいいかも」

 

 この痕跡は確かに古龍のものだ。しかし、ジェナとリュカが追っていたテスカトのどちらでもない。

 人は彼の龍を鋼龍──もしくは風翔龍クシャルダオラと呼ぶ。

 目撃例の極端に少ない古龍の中でも、比較的人々の目に留まることの多い古龍だ。

 

 基本的に新大陸の古龍たちは仲が悪い。

 異種同士が鉢合わせようものなら、すぐに縄張り争いを起こす。そこに居合わせたハンターは地獄を見ると言われていた。

 実際に、テスカトとクシャルダオラが龍結晶の地で縄張り争いを繰り広げた際には、炎の竜巻が上がったという。

 

 生息地域がある程度離れている時さえ、いつ彼らが合流するか分からない危険がある。

 それなのに、元々クシャルダオラの縄張りである古代樹の森にテスカトが足を踏み入れればどうなるか。言わずとも知れたことだろう。

 

「でもこのクシャルダオラ、めちゃくちゃ暴れたわけじゃないね。ただ一時的に『キーッ!』って地団駄踏んだみたいな感じ」

「いやどこのオバサンよ。まあでも確かに、あの龍が暴れたらこんなに静かじゃないわね」

 

 今のところ、炎王龍の痕跡はまだ一つも見つかっていない。

 足を踏み入れていない上層からも、何かが燃えるような音や戦闘音は聞こえてこなかった。

 つまり炎王龍もしくは炎妃龍は、付近には来ていても古代樹の森へは訪れていないということだ。

 

 二人は木に生えたリュウノコシカケに腰掛けた。

 ジェナは胸元からペンを取り出し、手早くメモを取る。

 

「こうなると、近くに来てるのはナナ説が濃厚かなぁ。大蟻塚の、古代樹寄りのところに来てるのかも」

「そうね。普通なら彼女の行動範囲は砂地寄りだし、これくらい気候が変わってもおかしくないわ」

 

 リュカは両手を組んで伸びをした。一方ジャックは慌てて腕にしがみつく。

 

「これは伝書よりも直接伝えたほうがいいよね。あーあ、来たばっかだっていうのになぁ」

「こういうことは早いうちに済ませたほうがいいわ。すぐ帰りましょう」

「了解。帰ったらぼくらも兵器の準備かぁ」

 

 指笛を吹くと、甲高い鳴き声とともに翼竜が舞い降りてくる。

 スリンガーを彼らの脚に引っ掛け、二人は日が高いうちにアステラへと引き返したのだった。

 

 少しずつ、だが確実に気温が上昇していることにも気づかずに。



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共に感ずるは隻のみか

 いま古代樹の森周辺には、二つの太陽があった。

 一つは長い年月に渡り世界を照らす。一つは牙を持ち、炎国を治める。

 

 それらによって温められた空気は、上昇気流をつくり出す。

 朝方までは晴れていたのに、いつしか空模様は怪しくなってきていた。

 

 それはさておき。

 

 

 

「うっそでしょおおぉぉおお!!!!」

「ジェナーーーーッ!!!!」

 

 そんな悲鳴が上がったのは古代樹の森の空高く。ちょうどアステラが見えてくる辺りでのことだった。

 何かが真っ逆さまに落ちていく。

 それは人の形をしていた。否、紛れもない生身の人間だ。

 

(ツイてない。本当にツイてない……!!)

 

 ジェナは自分の運の無さを呪った。耳元では轟々と風が唸っている。

 まさか、飛竜と同じ高さから落ちることになるなんて。翼を授ける飲み物があるなら今すぐ欲しい。

 日頃の行いだろうか?

 ここ最近で心当たりは……無くはないが、こんな仕打ちを受けるほどのことをした覚えはない。一体自分が何をしたと言うのか。

 

 ジェナは風に煽られながら、遠くなっていく相方と翼竜たちへ絶望の眼差しを向けていた。

 

 

 

 

 

 何故こうなったのか。その理由は至極簡単だ。

 所謂"八つ当たり"である。

 

 哀れな通行人ジェナは、ものの見事に古龍からのとばっちりを食らうことになったのだった。

 

 ジェナとリュカは四半刻ほど前に、森の中で天災が局所で起きたかのような痕跡を発見した。

 それが明らかにとある龍の荒れを示していたものだから、二人はアステラへ報告する為に帰路についた。

 

 調査団は基本的に、人に慣らした翼竜で移動を行う。空路のほうが圧倒的に早く目的地に着くためだ。

 だが、そのことが仇となった。

 

 突然、髪を揺らす風の方向が変わった。それに違和感を覚え、ふと振り返った直後のこと。

 

 突風──否、そんな柔なものではない。目も開けていられないような剛風が、翼竜もろとも吹き飛ばした。

 上空から太陽を覆い隠した大きな黒い影こそ、ジェナがこんなことになった元凶だった。

 

 風翔龍クシャルダオラ。

 風を操るその龍は、その青く涼やかな瞳に隠しきれない苛立ちを滲ませていた。

 常であれば、縄張りに人が居たくらいで気にするような龍ではない。

 

 龍の起こした風圧で翼竜の脚にぶら下げたロープは大きくたわんだ。

 さらに怯えた翼竜が滅茶苦茶に飛び回ったことが拍車をかけ、ジェナは振り落とされてしまったのだった。

 そしてあろうことか、同時にリュカも遠くまで飛ばされてしまった。

 

(なんて災難なの……! まだ死にたくない!)

 

 腸が浮くような感覚が気持ち悪い。

 ジェナは辺りを見回し、まずスリンガーのロープを巻き戻した。何かに捕まるなら、再び伸ばした方が良い。

 だがロープを伸ばそうにも、まだ引っ掛けられる木のある高さまで至らない。

 ジェナはひたすらに浅く息をしていた。ここで気絶でもしたら終わりだ。

 

 そもそも、あんな奥地でクシャルダオラの痕跡が見つかること自体おかしいと気づくべきだった。

 危機に敏感なアプトノスどころか、普段うろついているジャグラスも警戒して姿を見せなかったのだから。

 古代樹に居る時のかの龍は、非戦闘時はエリア五で寛ぐ姿と頂上で休む姿しか確認されていない。

 

(もしかして、あのクシャルダオラは偵察をしていた……? だとすれば、暴風雨が起こっていないのも頷けるわ)

 

 縄張り、もしくはその付近まで近づいたテスカトを迎撃するには、一見自分に都合の良い天候に変えてしまった方が良いように思える。

 しかし、もし追い出すだけでなく攻撃を仕掛けることそのものを目的としているならばどうか。一点に集中した方が無駄な体力を使わずに済むため、より苛烈な攻撃を当てられる。

 

 もしそこまで考えてかの龍が行動しているのだとしたら、余程強い恨みがあるのかもしれない。

 古龍の感情は人間には測りきれないが、時には似た思いを持つこともあるのだろう。

 

 そんなことを考えているうちに、随分と高度が下がった。

 ジェナは身体を捻り、スリンガーを射出する。

 すると、何かに引っ掛かった感触。これで上手くいけば良いが。

 

「っ……!」

 

 肌が剥き出しになっている背中や腕を、枝や木の葉が引っ掻いていく。

 

 咄嗟にスリンガーを伸ばしたは良いが、あまりにも身体が落ちる勢いが強すぎた。その刃は枝を捉えていたものの、その枝自体が下に引っ張られて外れてしまう。

 

 最初に捉えた枝のほか、いくつかの木に引っ掛かったが、どれもジェナをぶら下げるまでには至らなかった。

 しばらく落ちた先で、ようやく太い幹に刃が食い込み、止まれると思った。

 だが。

 

「いッ、ああっ……!」

 

 身体が勢い良く引かれた反動で、左肩から脇にかけて痛みが走り、ジェナは呻き声をあげた。

 

(いけない、左腕に負担をかけちゃう……!)

 

 幸い、関節が外れてはいない。

 だが、このままでは左腕がぱんぱんに腫れ上がってしまうのではないか。そんなことが脳裏をかすめ、ジェナはひゅっと息を呑んだ。

 

 ジェナの左胸は、乳房とその周辺のリンパ節の一部がない。そのため健常であった頃よりも動きや生活が制限される。

 感染に弱くなるだけでなく、左腕にダメージが加われば専門的な治療を要するほどの浮腫みが発生するなど、様々な後遺症への不安があった。

 切除から寛解まで日数は経っているものの、アステラの医師からは十年以上経っても酷い浮腫みが起きることがあると説明されていた。

 

 ハンターである以上、どうしても怪我をしたり身体を酷使したりする機会はある。実際、マム・タロト戦の後はかなり苦しい思いをした。

 それでもこまめにケアをして、できるだけ後遺症が発症しないよう気を遣いながら生活していた。

 今着ている防具も、左腕が露出しないように配慮されている。

 

 冷や汗をかきながらも、ジェナは何とかもう片方の手でワイヤーを掴もうとする。

 だがうまく身体を持ち上げられず、足を振って勢いをつけることにした。

 

 実は、ジェナはあまり高所が得意ではない。敢えて下は見ないようにしていた。

 

 一度スリンガーを掴んだらなかなか離さない楔虫と違い、ただの幹は深く刺さらないとすぐに刃物は抜けてしまう。

 ふいに手応えがなくなり、ジェナは目を見開いた。身体はすぐに落下していく。

 

(あ……これマジでまずいかも)

 

 ついに掴む枝が無くなった。

 短い髪が風に靡くのが、ゆっくりとして見えた。

 

 かなり下の方まで降りてきたとはいえ、下手に着地すれば脊髄を損傷しかねない。

 そうなればハンターとして暮らすどころか、これまで通りの生活まで難しくなる。

 

 だが、もう受け身をとるしか方法がない。

 ジェナは観念して頭を抱え、ぎゅっと身体を丸めた。どうせ頑丈な身体だ、死にはしないだろうという期待を込めて。

 

 直後、ジェナの身体は硬い地面──ではなく、ビロウドのような温かい何かに受け止められた。

 それは衝撃を吸収し、ジェナは何度か跳ねた後に身体の前面から地面へと落ちた。

 

「いったたた……助かった、のかしら」

 

 ジェナはヒリヒリとする手を叩いて土を落とす。

 

「……あら? でも今……」

 

 自分は一体何の上に落ちたのだろう。あの感触は明らかに葉っぱではなかった。おそらくベースキャンプのテントとも違う。

 それらを除外した柔らかい何かとは。

 

 後ろから視線を感じる。

 ジェナは嫌な予感がして、おそるおそる振り返った。

 

 まず目に映ったのは、赤く立派なふさふさしたもの。

 視線を上げると、天に向かって生える厳めしい牙と、こちらを見下ろす蒼い瞳がそこにあった。

 目が、合った。

 

「あ……ッ!」

 

 モフッ。

 この場に似合わない気の抜けるような感触が、叫びそうになったジェナの口をすぐさま覆った。

 というより、口だけでなく顔全体が覆われている。

 視界いっぱいに緋色が広がっており、周りが何も見えない。おまけに口に少し毛が入った。

 

「……!?」

 

 それは温度は高いが火傷するほど熱くはなく、まるで悴んだ指を温める懐炉のようだった。

 息を吸うと、まず鼻腔を擽るのは薄い硫黄の匂い。それから鼻の奥で灰と焦げたアイルーを混ぜたような匂いがする。

 何だこれは。いや察しはついているが、念のためジェナは恐る恐る手で探った。

 するとゴツゴツとしたものと、その先から生えているらしいもふもふに触れる。

 

 もふもふの正体。

 それは、他ならぬテオ・テスカトルの尻尾だった。感触を堪能している場合ではない。

 ジェナはテオ・テスカトルの翼の上に落ち、助かったのだ。

 

 牙を持つ太陽。灼炎の帝王。炎国の王。

 いくつもの異名を持つこの龍こそ、いまアステラを騒がせている炎王龍テオ・テスカトルだった。

 その身に纏う龍炎は万物を焼き尽くし、粉塵による爆発は形あるものを忽ち崩す。

 

 とうとう騒ぎの源を見つけた。しかもこんな形で。

 舌の奥が乾き、心臓が痛いくらいに鳴っている。

 当然だ、古龍と触れるほど近くにいるのだから。圧倒的な生命は、ただそこに在るだけで畏怖の念を抱かせた。

 

 気づかれないよう背に手を伸ばすと、武器の無機質な感触があった。

 だが微かに唸り声が聞こえ、ジェナは即座に手を離す。この動作のみで判るということは、おそらく人間と交戦したことがある個体なのだろう。

 ここで敵対されれば命は無い。

 翼に落ちてきたのに、怒られなかっただけ有り難いと思うことにした。

 

 ジェナはテオ・テスカトルの尻尾を少し押し除け、おそるおそる顔を上げた。

 

 その龍は、木の葉の影になる場所で身体を伏せていた。

 見覚えのある風景から推測するに、ここは飛雷竜トビカガチの巣の近くの窪みらしい。

 うまい具合に木が広範囲を覆っており、龍が身を隠すのには申し分なさそうだ。

 だが近くに水場があり湿っているため、炎を纏う龍にとっては決して居心地の良い場所では無いだろう。

 

 その炎王龍は、よく見ると体毛の色はくすんで皮膚も乾燥しており、身体のあちこちに傷がある。

 それらの特徴から、老齢の個体らしいことは察しがついた。

 

 そして何より、荒々しくうねる角は片方のほとんどが欠けてしまっていた。それは古い傷であるらしく、欠損部は丸みを帯びている。

 

 報告書にあった通りだった。

 

「貴方は……」

 

 思わず呟くと、再び眼前に尻尾をかざされる。ジェナは大人しくそれに従った。

 元は凶暴な古龍だ。

 いくら老齢の個体は温厚だと言われていても、気に触れるようなことをすれば、躊躇なく鋭利な牙がジェナの首を裂くだろう。

 

 ハンターたるもの、こういう時に臨機応変に対応するのは慣れている。恐怖はあれど、それを一旦飲み込んで冷静な自分を作ることも日常茶飯事だった。

 

 その時チラチラと赤い何かが視界の端に映り込み、ジェナはそちらを見た。

 危機が迫ると腹の色を変えるキッチョウヤンマが一匹、赤い光の尾が見えるほどに激しく飛び回っていた。

 

 ふいに炎王龍の長い耳がぴくりと動いた。

 一拍置いて、木の孔から強く風が吹き込み、草や枝が大きく揺れる。この風圧は、ただの飛竜によるものではない。

 

 炎王龍はそちらを見遣り、木の陰へと身を寄せた。同時にジェナも引き寄せられる。

 直後、黒い影が遠くの空を横切るのが見えた。

 

 キッチョウヤンマの知らせは、ここに炎王龍が座していることだけを指しているわけではないようだ。

 龍の怒りが迫っている。それは小さな生き物にとっては忌避すべきものだ。

 炎王龍がジェナの口を塞ごうとしたのは、風翔龍から見つからないよう静かにしろということらしい。

 

 ジェナは炎王龍の尻尾と腹の間に挟まれ、身を固くしていた。

 

(──それにしてもこのテオ、どうして隠れているのかしら)

 

 炎王龍の身体を見る限り、戦闘経験は豊富なことは窺い知れる。

 傷の多い個体、それも古龍にとって大事な器官である筈の角に修復不可の傷があるのだ。

 これは炎を操る能力が半減したとしても、この個体が生きていけるだけの強さがあることを表している。

 それほどまでの強者が、何故。

 

 あのクシャルダオラの目的は、おそらくこの炎王龍の居場所を炙り出すことだろう。

 ジェナが覗き込むと、炎王龍はちらりとこちらを一瞥し、すぐに視線を戻した。その瞳には、どこか焦ったような色が滲んでいた。

 調査団の者に対して敵意が無いというのは本当らしい。誰かを探しているかもしれないとも聞いている。

 

 ジェナは少し緊張を解き、辺りを見回した。

 相棒はどこだろう。自分と同じように落ちたのか、それとも無事にアステラへ着いたのか。

 

(とにかく今はリュカを探さなきゃ。でもこのテオ、あたしが動くのを許してくれるかしら……)

 

 声を出すことは許してもらえなかった。

 とことん目立つ行動を避けているとなると、ジェナがここから離れることすらできないかもしれない。

 

 それに、今すぐに戻ろうとすれば、アステラの位置を教えることになりかねなかった。

 防衛の準備を敷いているそもそもの理由は、万が一この龍が来訪した際に拠点を守るためなのだから。

 

 どうしたものかと溜息をひとつ。

 

 その時、炎王龍が唐突にびくりと身体を震わせた。

 

「熱っ……!」

 

 急激に熱気が身体を包み、ジェナは思わず後ずさった。

 臨戦態勢になったのかと、すぐさま背中の武器に手をかける。

 

 だが当の炎王龍はジェナに見向きもせず、苦しげに肩で息をしていた。

 彼が顔をしかめるたびに、鬣のあたりで炎がちらちらと揺らめく。

 その様子を見て、ジェナは武器から手を離した。

 

 きっと今の熱波は故意ではない。

 この炎王龍は何らかの理由で、炎や熱を制御しきれなくなっているのだろう。

 もしかしたら急激な気温の上昇も、この炎王龍の抑えられない力によるものかもしれない。

 折れた角が原因か、それとも傷の痛みによるものか。

 

(それとも……)

 

 ジェナは眉を下げた。

 

 古龍が新大陸へと渡ってくる理由はいくつかあると考えられている。

 新たな命を宿す繁殖のために来る者、ここで果てた命を糧にした膨大なエネルギーに惹かれて来る者。

 そして、新大陸を死に場所として選び訪れる者。

 

 この炎王龍には妻子がいるとのことだから、繁殖も一つの理由ではあるのだろう。

 だが彼の年齢と今の挙動から、この先長くないことが感じ取れた。

 

(だったら尚更、この龍はどうして……)

 

 妻子を置いて、本来ならば訪れることのない場所へと足を踏み入れているのか。

 死期が近いならば、大事な相手と最期の時間を過ごすべきだろうに。死に顔を見せない為にわざとやっていることなのだろうか。

 

 しばらくすると、炎王龍の容体は落ち着いたようだった。少しずつ浅かった呼吸が戻っていく。

 

 やがてキッチョウヤンマの動きが落ち着き、腹の色は赤から黄へと変わった。

 警戒を解いてはいないが、すぐに身に危険が及ぶことはないと判断したのだろう。

 

 ジェナは躊躇っていたが、そっと炎王龍の後ろ足に触れる。

 野生のモンスターであれば牙を剥きそうなものだが、彼は静かな眼差しを寄越すのみだった。

 

 ひとつ息を吸い、じっと老王の蒼い瞳を見つめた。

 

「ねえ、貴方は誰を探しているの?」

 

 言葉が届くとは思わない。

 けれど、問い掛けずにはいられなかった。

 

「貴方には、貴方を追いかけてくれる相手が居るんでしょう。とても、とても大事な存在の筈よ。それなのに……どうしてこんなことをしているの?」

 

 理解しているのかいないのか、炎王龍はひたすらにジェナの言葉に耳を傾けている。

 ジェナは胸を抑えた。

 

「大事な相手に置き去りにされるのは、つらいものよ。思っていればいるほど、深く傷つく……」

 

 リュカに話を聞いた時から、ずっと思っていた。この龍の番であるナナ・テスカトリは、どれほど傷ついたことだろうと。

 表向きでは興味がないふりをしていたが、その実は炎妃龍に共感してしまっていたのだ。

 

 ふらりと現れて村の危機を救ったあの人に、心を奪われた少女時代。

 あの人がこちらへと振り返れば、世界が鮮やかに色づいたかのように思えた。

 気まぐれに触れられれば、彼も自分を愛してくれているのだと。若さゆえの愚かな勘違いをした。

 

 盲目な恋から目が覚めれば、残ったのは心に負った爛れの酷い火傷のみ。

 月日は流れ、少女はひとりの女となった。

 それでもまだ、あの日の熱情が胸を焦がす。

 あの人がいつか自分のもとへ戻ってきてくれるのではないかと……そんな甘い幻想を抱いて、今も囚われたままでいる。

 

 その灼けつくような気持ちを味わったからこそ、子を孕んだ身で番を追う炎妃龍が哀れでならなかった。

 

 いまリュカがここに居たら、彼はなんと言うだろう。

 ジェナはゆっくりと瞼を閉じ、心のままに言葉を伝えた。

 

「あたしには貴方の事情はわからない。口を出す権利もない。でも……そこまでして貴方が何をしたいのか、知りたいの」

 

 木の孔の中には、鳥の囀りと鞴のような呼吸音のみが響いている。

 炎王龍は何も答えない。

 身動ぎもせず、先ほどジェナがしたようにこちらをじっと見ていた。

 

 やがて、眼前の巨体がのそりと立ち上がる気配がする。

 ジェナは顔を上げた。

 

 炎王龍は柔らかな毛に覆われた翼を広げ、力強い四肢で地面を蹴った。ジェナよりもずっと大きな身体は、いとも簡単に空へと舞い上がる。

 「着いてこい」と言われている様子でもない。やはり言葉は伝わらなかったのか。

 もとより、モンスターと意思疎通ができるなどとは思っていなかったけれど。

 

 炎王龍はあっという間に高度を上げ、空を泳ぐように飛んで行った。

 その方向をぼんやりと眺めていたジェナは、ハッと身を見開いた。

 

 あちらはアステラのある方角だ。

 炎王龍はやはり調査団の拠点を見つけていたのか。そして好機を見計らい、向かうつもりでいた。

 

 ジェナや他の調査員を襲わなかったからといって、拠点に何もしないとは限らない。

 以前、普段は陽気な同期が、その時ばかりは神妙な顔をして語ってくれた。昔、故郷の村付近に渡りを控えた炎妃龍が足を踏み入れた際、森は燃え盛り大きな被害が出たのだと。

 今回も炎王龍の目的が分からない以上、こちらは警戒するしかない。

 

 慌てて立ち上がった時、聞き慣れた声がしてジェナはそちらへ振り返った。

 

「ジェナ、どこにいるのー! 返事してー!」

「リュカ! あたしはここよ!」

 

 ジェナの声が届いたらしく、足音はこちらへと近づいてくる。

 程なくして、ジェナがいた場所に通じている木のトンネルからリュカが上がってきた。

 

「ジェナ! よかった、怪我はない?」

「ええ。リュカ、()()()もよ。無事でよかった」

 

 リュカは安堵した表情でジェナに駆け寄る。

 再会を喜び合うのも程々に、ジェナはすぐさま相棒の腕を掴んで駆け出した。

 

「テオ・テスカトルが見つかったの。急いでアステラに戻らないと!」

「なんだって! それでテオはどこに?」

 

 翼竜が見つけやすい位置まで木の幹を駆け上がったジェナは立ち止まる。

 そして輪にした指を唇にあて、リュカを見た。

 

「──アステラよ」

 

 

 

 

 

 




ジェナ、そこ代わってほしい。
うらやまけしからん。
ちなみに副題は「テオ! あなたテオっていうのね!!」です。


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手土産は粉塵で

実際アステラ防衛戦もあったんだろうな。
見たいなぁ、どこかで語られないかなぁと思う日々です。


 生温い風が人々の頬を撫ぜる。

 時折熱くなったり冷たくなったり、両方が混ざったりを繰り返すそれは、えもいわれぬ不気味さを孕んでいた。

 

 

 

「ハ〜ア、誰か可愛いコ居らへんかな〜……っておお! あのコはなかなか」

「おっ、あないなところにオッサンが居んで!」

 

「イヤなんでやねん! ……じゃなくて。そのズッコケ翻訳やめろ馬鹿」

「え、良いやんオッサン。シブいやん」

「やかましいわ」

 

 漫才のようなやり取りを繰り広げるのは、五期団のとある凸凹コンビ。

 手で拡声器の形を作って声当てをしていたずんぐりとした方は、相方の言葉にコテンと首を傾げた。お世辞にも可愛くはない。

 

「でもあの龍、ボクらのことよう見てんで。べっぴんな女の子探してるんちゃう?」

「んなわけあるか。皆ピリピリしてるんだからしゃんとしろ、しゃんと」

 

 のっぽな方は汗を拭いながら、やれやれと溜息を吐く。思わずツッコミを入れてしまったが、こんなことをしている場合ではないのだ。

 

 彼らの視線の先には、太陽が在った。

 だが、その太陽が見えているのは分厚い雲の下だ。気温はかなり高まっているが、陽炎は見えない。

 しかもここは調査拠点アステラである。決してフィールドから見ている景色ではない。

 

 もう言わずとも判るだろう。

 現在アステラの上空には、一頭の炎王龍が飛来していた。

 

 かの龍は戦闘時でなくても炎や発火している粉塵を纏うことがあるが、今はそのどちらでもない。

 天の光が雲で遮られているため、黄金の冠も赤い鬣も、炎が無ければどこかくすんで見えた。

 それでもなお、洗練された気高さは失わない。折れた角でさえ、かの龍を勇猛に魅せた。

 

 炎王龍はその翼で上空に留まり、あちこちを眺めている。その様はまるで、王が城下の視察にでも来ているかのように思えた。

 

 調査団の誰もが固唾を飲んで炎王龍の行動を凝視している。少しでも敵意を向けられれば、こちらとて黙っているわけにはいかないからだ。

 プーギーや戦闘経験のないお手伝いアイルー達は、ハンター達の後ろから覗いている。

 風が髭を撫ぜれば、すぐさま悲鳴を上げて隠れた。

 

 触れれば切れてしまうような、細い糸がぴんと張り詰めているような感覚。

 そんな空気が、今のアステラに漂っていた。

 

 

 

***

 

 

 

「第五期団ジェナ・オズモンド、リュカ・エイモズ。只今戻りました!」

「よく戻った。悪いがすぐ位置についてくれ」

 

 ジェナとリュカがアステラに着いたのは、皆が炎王龍に対する厳戒態勢を敷いた後だった。

 あれから最速で飛んできたものの、やはり古龍の翼には敵わない。

 炎王龍は既に人探しとみられる行動を開始していた。

 

「あっ、ジェナ! 無事でよかった。リュカ君も」

「セルマ! あんた出歩いて大丈夫なの?」

「うん、なんとか。この足でもバリスタくらいなら撃てるしね」

 

 その言葉通り、まだ覚束ない足取りながらも直立することはできていた。

 セルマに今の状況を尋ねると、まだ膠着状態が続いているとのことだった。

 

 アステラの者たちへ総司令から下された令はひとつ。

 "調査員は皆、炎王龍の前に姿を見せること"だ。

 

 炎王龍が飛来する前から、アステラの位置が近いうちに割り出されるであろうことは察しがついていた。

 アステラ、特に最も高いところにある集会エリア「星の船」は夜になると明かりが灯る。その為、古代樹の森や大蟻塚の荒れ地からはよく見えるのだ。

 モンスター達は拠点に立ち入って来ることこそしないものの、すぐ近くまでは近づいて来る。それが、新大陸でのモンスターとの距離感だった。

 

 だとすれば話が早い。むしろ炎王龍が探している者がここ(アステラ)に居るのかどうかを探ってしまおうというわけである。

 

 作戦は、こうだ。

 まず皆が丸腰で炎王龍を待つ。

 有事の際に対応できるよう兵器の傍に控えつつも、現時点ではこちらに敵意は無いことを示す為だ。

 そして炎王龍がどう出るか、その行動を観察する。これが一番の目的だ。

 

 大まかに考えられる結果は二つ。

 

 一つは、炎王龍の探し求める人物がここに居る場合。

 もし炎王龍がその人物に対して何かしらの怨みがあって攻撃してくるようであれば、全力で迎え撃つ。

 そうでなければ、慎重にかの龍の動向を見守る。この場合も、何か危険が及ぶようであればすぐに反撃ができるよう手筈を整えてある。

 万が一炎王龍がその人物を連れ去ろうとした場合は、控えている調査員が尾行することになっていた。

 

 そしてもう一つは、ここにその人物が居なかった場合。

 探しているのはセリエナに居る調査員なのか、そもそもそれが調査団の者ではないのか。

 

 時に、多くの古龍の寿命は、人間からすれば気が遠くなるほど永いという。長寿とされる竜人族でさえも及ぶかどうか。

 もしかすれば、あの炎王龍はずっと昔に会った者のことを覚えていて、そしてもうその者はこの世に居ないのかもしれない。

 それが真実であれば気の毒な話だが、まだ彼の事情は不明だ。

 

 流石にセリエナの存在は知らない筈であるし、今見つからなかったとしても再び時間を置いて来訪する可能性がある。

 その人物が見つかるか、炎王龍が諦めるまでは気が抜けなかった。

 

 

 

「リュカは準備を。報告はあたしが行くわ」

「わかった、頼んだよ」

 

 ジェナは炎王龍の状態を警戒しつつ、早足で人々の間を縫って進む。

 目的の人物──総司令は砲台の後ろで腕を組み、事の元凶をじっと見据えていた。

 だがジェナが歩み寄ると司令官は鋭くこちらを一瞥し、すぐに「どうした」と耳だけを傾ける。

 

 ジェナは一礼すると、事の顛末を端的に伝えた。

 総司令は報告を聞き終えると、しばしの間瞑目した。

 

「なんと……」

 

 溜息を吐いたのは、総司令の傍らにいたソードマスターだった。何かと因縁があるという炎王龍の弱った姿には、思うところがあるのだろう。

 

「報告ご苦労だった。持ち場で引き続き警戒を」

「承知いたしました」

 

 ジェナは一期団の要人たちに頭を下げると、すぐにリュカとセルマの元へと駆けていった。

 

 

 

 物々しい雰囲気の中で、くちゅん! とお手伝いアイルーがくしゃみをした。

 炎王龍は一瞬そちらに視線を寄越したが、すぐに興味をなくしたように顔を背けた。

 それに気づいていないアイルーがブンブンと顔を振ると、赤茶色の何かが舞う。

 

 赤茶色の物体の正体。

 いまアステラの上空には、わずかながらも何か──粉塵が舞っていた。

 テオ・テスカトルの翼には短い体毛が生え揃っており、代謝が激しい。人間の髪の毛と同じように、古くなれば老廃物が落ちたり毛が抜けたりするのだが、厄介な点が一つ。

 

「この粉塵、どうにかならないものか。もし引火でもしたら、とんでもない大爆発を起こすぞ……」

 

 四期団のハンターが苦々しく呟くと、周りで聞いていた者たちの表情が強張った。

 

 炎王龍のアステラ来訪で最も人々が危惧していたこと。

 それは、広範囲にばら撒かれた粉塵の大規模な爆発だった。粉塵は可燃性であり、僅かな静電気すらも火種となり得るのだ。

 現在は意図的に撒き散らしているわけではないようだが、それでもかの龍が羽ばたくたびに舞い落ちてくる。

 

 この中には、炎王龍と応戦した経験のある者もいた。

 その為、炎王龍が牙を激しく打ち付けて粉塵に引火させ、外敵を爆発に巻き込む攻撃方法はよく知られている。

 

 特に今は大砲などの兵器が大量に置かれている為、一瞬たりとも気が抜けなかった。

 

 その時リュカがふと思いついたようにマフラーを外す。

 炎王龍が来るかもしれないということで、火事を防ぐために予め至るところに水瓶が用意されていた。

 リュカは水瓶にマフラーを浸すと、軽く絞ってブンブン振り回し始めた。

 

「粉塵がきたら、こうやってみるのは、どう?」

 

 水気を含んだ布を振り回すことで、吸着させようということらしい。これならば引火するおそれは減る。

 ジェナを含めた周りの調査員は納得するが、気になる点が一つ。

 

「でも、テオを刺激しちゃうんじゃない……?」

「大丈夫。あのテオ、この動きは見慣れてるから。何せぼくがずっと目の前でやってたからね」

 

 リュカはえへんと胸を張る。

 

「ヒュウ、クレイジーだね。さすがリュカ君やるぅ〜」

「あんたって本当、なるべくして新大陸の調査員になったのね……」

 

 そういえばリュカはテスカト調査担当だったと思い出す。

 調査員たちは、半ば呆れながらも真似をし始めたのだった。

 

 

 

「撃龍杭砲の準備はできているな」

「はい、燃料も装填済みです。問題ありません」

 

 二期団の職人が返答すると、総司令は表情を変えずに頷く。

 

 撃龍杭砲は、イヴェルカーナ襲来時のセリエナ防衛戦で用いられた強力な兵器だ。

 一見すると巨大な大砲のようだが、砲口から打ち出されるのは鋭い杭。それが撃龍槍のように回転しながら龍の身体を貫き、最後にはダメ押しとばかりに爆発する。

 準備には時間と労力を要するが、その分得られるものは大きい。調査団にとっての大事な切り札だった。

 

 テオ・テスカトルの襲来を予測していた総司令は、予め撃龍杭砲を運び込むよう手筈を整えていたのだ。

 

 セリエナからそれを運んできた物資船は、既にあちらへと戻った。

 炎王龍が姿を現したのは、その船が水平線に消えていくかいかないかくらいの時分だった。

 

 あれから四半刻ほどが過ぎている。

 炎王龍は未だに退かない。こちらに敵意を向けていないこと以外、何もわからなかった。

 何度も往来を繰り返し、時折近くまで降りてきては一人一人の顔を眺める。しかし特定には至っていないようだ。

 

 これまで敵対してこなかったという炎王龍。

 彼の目的を探ることで、テスカト種の行動原理に関して新たな知見を得られる筈だ。

 学者を含む調査員たちは恐れが三割、期待が七割といった具合でこの時を待っていたのだった。

 新大陸古龍調査団の知識欲は、一般の者からすれば呆れるほどに底が知れない。

 

 とはいえ、ここに居るのは決して恐れ知らずの者ばかりではなかった。

 

「おい、大丈夫か」

 

 バリスタの側で真っ青な顔をしている調査員に、同期が気遣わしげに声をかけた。

 

「……ッ、わ……わか……な……いき、で、き……な………」

 

 彼の手は小刻みに震えており、異様に早い呼吸を繰り返していた。過呼吸を起こしているのだ。

 周りの介抱でなんとか落ち着きを取り戻したものの、調子を崩しているのは彼だけではなかった。

 

 新たに五期団が加入してから、古龍を含めたモンスターの迎撃自体は回数を重ねている。

 だが、そのいずれも拠点とは別の場所でのものだった。セリエナ防衛戦も拠点のすぐ近くとはいえ、ある程度離れた兵器置き場での戦いだった。

 しかし今回は戦闘エリアのすぐ側に居住スペースがある上、この場に居るのは武装したハンターだけではない。もし今回失敗すれば、被害は目も当てられないことになるだろう。

 その思いが、戦闘慣れしていない者の肝を縮み上がらせた。

 

 一刻も早く指示を。

 そう心の中で司令官に懇願する者も少なくはなかった。

 冷戦とまではいかなくても、ひたすらに長く感じる緊迫した事態に、調査員達は誰もが手に汗を握っていた。

 

 組織の特性上、この中には古龍と相対してきた者も多い。戦闘になってもなお見事に爪を逃れ、生き延びて見せた猛者も一人や二人ではない。

 だがその一方で、古龍によって故郷を追われ、恐怖を植え付けられた者もいた。自分たちを脅かしたその存在がどんなものかを知る為に、調査団入りを志願した者も。

 今の状況は、彼らのトラウマを引き出すには十分すぎるほどのものだった。

 

 新大陸古龍調査団には多くの人が集まっているからこそ、それぞれが古龍に対しても様々な思いを抱えている。

 柔軟で優秀な者が選ばれた組織とはいえ、心の内には対応し切れないことだってある。

 だがその誰にとっても、いま降りている沈黙は等しく恐ろしい。

 

 総司令は、眉間に皺を寄せてその薄い唇を閉ざしたままだ。

 傍ではソードマスターが控えているが、彼も刀を鞘から抜くことはなかった。

 

 

 

 どれくらい時間が経っただろうか。

 もしかするとまだ半刻も経っていないのかもしれないし、その何倍も過ぎているのかもしれない。

 

 次第に風が強くなってきた。

 それに伴って船の帆はなびき、波模様は荒れ始めている。どうやら炎王龍がいる影響で上昇気流が発生しているらしい。

 

 炎王龍は何度目かの旋回を終えると、目的の人物は居ないと判断したらしい。

 やがて諦めたように高度を上げていった。

 

「終わった、のか……?」

 

 誰かがぽつりと呟く。

 これほどまでに準備を整えて、杞憂に終わるとは。喜ばしいことだが、落胆する様子を見せる者もいた。

 

 炎王龍の姿はどんどん小さくなっていく。

 やがて空中で姿勢を変え、炎王龍はある方向へと翼を広げた。

 その様子を誰もが目で追っていたが、ある時突然叫び出した者がいた。

 

「そんなッ、あっちはセリエナだぞ!」

「はぁ!? 馬鹿言うな、炎王龍が寒冷地になんて向かうわけないだろ!」

「アイツの目的は人探しなんだろ? だったら可能性はゼロじゃない!」

 

 炎王龍は船が去る間際で飛来したという。調査員の言うように、船の進む方向を見ていてもおかしくはない。

 最初の叫びから、一瞬にしてざわめきが広がっていった。

 

「撃龍杭砲はここにあるっていうのに、どうするのよ!」

「今みたいに観察するだけかもしれないじゃないか。あっちには優秀なハンターが揃ってる、きっと大丈夫だ……!」

 

「セリエナにはあいつが居るんだ。喧嘩ばっかりで、まだちゃんと思いも伝えられてないのに……もし拠点ごと燃やされでもしたら、オレは……!」

「ちょっと、不謹慎なこと言わないでよ!」

「やっぱりアタシ、セリエナに戻るわ……! 少しでも戦力にならなきゃ」

 

 常であれば聡明で勇猛な調査員たちも、今ばかりは少なくない人数が恐慌状態に陥っていた。

 それは古龍の恐ろしさを身に染みて識っている彼らだからこその怯えだ。対象を知らなければ、正しく恐れることもできない。

 

 その時、研究班をまとめる竜人族の男性がリュカの肩を叩いた。

 

「こんな時にすみませんね、セリエナから君宛ての手紙が届いているのです」

「あ、もしかしてユウラさんから!」

 

 急いで書かれたものらしく封蝋も不格好だったが、この字はまさしくユウラのものだ。

 リュカが礼を言って手紙を受け取ると、研究班リーダーは緊張を顔に浮かべつつもにこりと微笑む。

 まさかリーダー直々に届けてくれるなんて。副所長といい、割と研究班の人々は偏屈か親切かの二極化している気がする。

 

 今読んでいる時間は無さそうだが、おそらくセリエナの現状報告も書かれている筈だ。

 リュカとジェナは、顔を見合わせて頷いた。

 

 慌てふためく声とそれを宥める声が充満する中、それらを収めるように「静粛に」と凛々しい一声が響く。

 すると水を打った様に静かになった。

 

 人群れが捌けていき、声の主が前線に立つ。老いても尚しゃんと伸びた背筋は、怯んでいた者たちの士気を再起させた。

 

「撃龍杭砲を積んで船を出すには時間を要する。だが、炎王龍の移動スピードを鑑みるに、ハンターだけなら増援に向かっても遅くはないだろう」

 

 その言葉で、人々の表情に晴れ間が差す。流石のカリスマ性だ。

 総司令は「だが」と眉間のシワを深くした。

 

「いま我々が恐るべきは鋼龍と炎妃龍の存在だ。よって、セリエナへの増援要員とアステラに残る者で分ける。

 ハンターはこちらへ、その他は即時船の準備を!」

 

 指示を聞き終えるやいなや、調査員たちは表情を引き締め、すぐに行動を開始した。

 情報伝達と切り替えの早さに関しては、調査団はトップクラスだ。

 

 その時、突風がアステラに残っていた粉塵を吹き飛ばした。

 人々が見上げた先には、空を駆ける黒い影。

 

 一拍置いて、目も開けていられないような剛風が拠点を吹き渡った。




ナナの7話。フフッ。

寒いオヤジギャグはさておき、いつもお読みくださりありがとうございます。感想、読了ツイート、ここすき、評価などとても励みになっております。

次回で一章が終わ……終わればいいなというマイペースさですが、お付き合いいただけると幸いです。


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往く者は追い 来る者は拒む

 胸を掴まれるような苦痛に襲われるようになり、どれほどの時が過ぎたろう。

 その間隔が短くなるにつれて、私は己の命が消えかかっていることを悟った。

 

 何も知らずに残される妻と子には、本当に可哀想なことをしてしまった。赦しを乞うことすら叶わないが、これが今の私にできる精一杯。

 あの子らには、どうか幸せに生きてほしい。

 私はじきに生命の谷へ降り、我が身が召されるのを待たねば。

 

 だが……それまでほんの僅かばかり、あと僅かだけでも猶予が欲しい。

 決して今ここで倒れるわけにはいかぬのだ。

 

 どうしても、どうしても私は──……。

 

 

 

 

***

 

 

 

 張り詰めていたアステラの空気は、瞬く間にどよめきに包まれた。

 紙面を彩る淡墨のように空間を滑ってゆくのは、黒い風。

 

 常ならば棲まう生き物に好きにさせて物言わぬ古代樹すら、木の葉や枝をざわめかせていた。

 それまで凪いでいた波は荒れ、碇の下ろされた撃龍船でさえも大きく揺れている。

 

 吹き飛ばされたバリスタの弾が、カラカラと音を立てて流通エリアの床板を転がっていく。

 それを上手いこと足で止めた調査員は、屈んで拾う。その周囲の人々は皆、厳然たる面持ちで空を見上げていた。

 

「なんてこと、クシャルダオラまで来ちゃったわよ……」

 

 暴れ狂う風が髪をなぶる。ジェナはそれが目に入らないよう、手で押さえつけていた。隣のリュカは、フードが飛ばされないよう必死だ。

 多くの調査員が苦戦している中、ふいに坊主頭の四期団が空を指差す。

 

「見ろ、テオを追いかけていったぞ!」

 

 風を操る術に長けた龍は、当然その身の任せ方も熟知していた。翼を折り畳み、抵抗を最小限にした姿勢で炎王龍の元へと滑空するように飛ぶ。

 こちらのことなど、まるで意に介していない。

 はじめは、鈍色の空に鋼の身体は保護色になって目立たないかと思われた。が、輝く龍風は黒曜石の刃物のように雲を裂いて吹き抜ける。

 

 風を翔け、瞬く間に炎王龍と距離を詰めた龍は少し間を開けて身を翻すと、相手の背に向けて猛々しい咆哮を上げた。

 それはさながら、武人の宣戦布告。これだけ狡猾に居場所を炙り出しておきながら、奇襲をかけようという気は無いようだ。

 妙なところで垣間見えた義理堅さはどこか人間臭く、薄気味悪くもあった。

 

 己へと向けられた敵意に、炎王龍は静かに瞳を閉じる。

 おそらく彼に戦う気は無かったのだろうが、それを風翔龍が許すようには到底見えない。ややあって翼をはためかせ、背後へと向き直った。

 碧い虹彩が、温く湿った空気に触れる。

 

「熱っ……!」

 

 直後、下で見ていた誰もが即座に顔を手で覆った。

 

 一気に周囲の温度が上昇していったかと思うと、次の瞬間には燃え盛る焔の鎧を身に纏った王の姿があった。

 羽ばたく二頭の龍は、互いに唸りながら牙を剥く。

 炎王龍の赤い鬣は敵意と興奮によって膨れ、対する風翔龍の眼差しは刃物のように冷たい。

 

 

 

 遥か頭上で熱く冷たい紫電が閃くさまを、調査員らは固唾を飲んで見据えていた。

 既に点のように小さく見えるというのに、伝わってくる緊張感は大型飛竜と相対した時のそれを上回る。自ずと武器や兵器にかけられた手に力がこもった。

 

 新大陸古龍調査団という特殊な組織でなければ、これほど多くの人間や竜人、獣人が古龍同士の睨み合いを観測することは無かっただろう。

 考えうる限りでは、最悪と評価すべき一歩手前といった事態か。

 幸運なのは、龍たちは少し離れた海の上にいること。そして、こちらに直接敵意を向けられていないこと。

 

 人々の中心で誰よりも鋭い眼差しを龍たちに向けていた司令官は、隣から聞こえてきた嘆息にちらりと目線を向けた。

 

「やはり逃してはおかぬか……この戦、如何様に動く?」

 

 ソードマスターの問いに、総司令は再び空へと視線を戻す。

 

「ここで下手に動けば、龍たちの怒りを買うのみだろう。クシャルダオラはともかく、テオ・テスカトルにまで敵対されれば尋常ではない被害が出る。……指示を、しなければ」

 

 間もなく戦いの火蓋は切って落とされるに違いない。そうなれば、こちらも多少なりとも統制が崩れることは免れない筈だ。

 総司令とて、調査員たちを信じていないわけではない。だが、今は心の支えとなるものが必要だろう。己の従うべき指示が。

 こういう時こそ、自分のような立場の人間が柱となる必要があることは身に染みて解っていた。

 

 総司令は後ろを振り返り、声を張り上げた。距離も離れており強風にかき消される為、自らの声が龍たちを刺激することは無いだろうと踏んで。

 

「今回はクシャルダオラを撃退対象とする。奴が射程範囲に入ったら、毒弾を撃てるガンナーを中心にこちらへの被害が最小限になるよう迎撃せよ。閃光玉は機会を吟味してから投げろ」

 

 重弩・軽弩使い(ガンナー隊)と弓撃隊の者たちは顔にさっと緊張を走らせる。その中には、ジェナたちと共に爛輝龍の熱を潜り抜けた者もいた。

 クシャルダオラが纏う風の鎧は、現大陸においては毒や閃光で視覚を奪うことによって弱まることが統計的に確認されている。新大陸で確認されている個体では風を弱める効果はあまり期待できないが、毒の閾値が低いことに変わりは無いようであるとも。

 よって、かの龍に武器を向けるハンターはそのいずれか、もしくは両方を備えることが鉄則とされた。

 

 だが忘れてはいけないことに、今回はテオ・テスカトルも居る。

 調査員たちの間で再びどよめきが起こった。もし身の危機を悟った炎王龍に大爆発(スーパーノヴァ)を起こされれば、一貫の終わりだ。

 古龍の多くは環境を大いに崩さない程度の理性も持ち合わせてはいるが、一度敵意を持った相手には容赦しない。歳を重ねた炎王龍といえども、それが覆されることは無いだろう。

 

 総司令は未だに冷戦の続く海上をちらりと見やると、再び声を張った。

 

「だがテオ・テスカトルには決して手を出すな! 意図的な攻撃でない限り、建物への被弾は甘んじて受けろ」

 

 その指示に、調査員の半分近くは嘘だろう、という顔をした。仲間と長い時を過ごしたこの場所を見捨てるのか、と。

 

 シンボルとなる「星の船」は拠点中から集めた布と葉で覆い隠し、加工場の前には急ごしらえの防護壁が建てられた。

 ゾラ・マグダラオス誘導作戦の時とは違い、今回はギルドからの物資を待っている余裕は無かった。その代わり、前回の砦を解体した資材を有事の際に備えて残しており、急遽それらを組み立てて一つの壁を作ったのだった。

 ただし資材の多くはセリエナの建設に用いられたため、壁の耐久性はあまり期待できない。

 

 叶うならばアステラの動力源である水車や料理場、そして貴重な資料のある研究所も護りたい、というのが調査員らの願いだった。しかし、いくつも壁を作れるほどの時間と資材の余裕は無い。

 そこで食糧や研究資料を持ち出し、防護壁の裏へと一所にまとめた。

 だが、何もしないよりはましだとは言え、もし壁が破られれば大惨事になる。調査員たちが心配しているのは、そこだった。

 

 無論、痛手は痛手だ。だが、と老練の司令官は精悍な眉間に深くしわを寄せる。

 彼には守るべきものがあった。それはこの新大陸古龍調査団そのものだ。

 施設や設備は、時間と手間は要するがまた造り直すことができる。

 だが失われた命は、二度と戻らない。集められた一人一人が、かけがえのない知識や技術を持っているのだ。

 新たな命の誕生と成長を待つほどの余裕は、この組織には無かった。

 

 もし炎と竜巻が混ざり合った火災旋風が起きれば、拠点ごと燃やし尽くされる。古龍に対抗できるハンターがいくら居ようとも、そうなってしまえば全て終わりだ。

 それを防ぐためには、炎王龍の攻撃が少しでもこちらに向かないようにする選択肢を取るしかない。

 風翔龍という共通の敵を作ってしまえば、その間は突きつけられる矛先を一つにできるのだから。

 調査員を尾行して拠点を突き詰めるだけの賢さを持った炎王龍ならば、その意図を察するだろう。

 ただし、相手はモンスターだ。必ずしも味方についてくれる、もしくはそういう行動を取ってくれるとは限らない。

 

 どれほど危機的状況に陥ったとしても、足掻き続ける。今回の選択も、ぎりぎりではあるがこれ以上ないものだった。

 アステラの一部を失うことになろうとも、闘技場に鮨詰めになって全員が命を落とすよりは余程ましだ。

 

 やがて総司令の意図を察した調査員たちは、然りと頷いた。

 そして各々が武器を握り、空を見据える。

 

 

 

 その時、熱風の吹き渡る大気を二つの咆哮が震わせた。

 ついに、睨み合いが終わったのだ。

 

 風の流れが変わる。

 炎王龍の後ろに滑り込んだ風翔龍は、すぐさま後脚で脇腹へと蹴りかかった。

 クシャルダオラはもう一つの異名が表す通り、鋼のような金属質の甲殻を持つ。

 凄まじい重量だろうに、当の本龍は重さなど感じていないかのように軽やかな振る舞いをする。

 骨の代わりに甲殻がその役割を果たしているとされるが、一体どれほど強靭な筋肉が鎧の身体を動かしているのか。

 細身の脚から繰り出される蹴りは、見た目以上の威力だろう。

 

 だがそれはするりと避けられ、風翔龍の眼前に青と橙が混じった火の粉が弾ける。

 炎王龍が素早く顎を閉じ、牙を打ちつけた。

 刹那、閃光とともに小爆発が連続して起きた。それはエネルギーを溜めた爆弾と等しい。"小"とは形容したものの、人に当たれば容易に半身が吹き飛ぶ。

 

 風翔龍は即座に下に飛んで爆発の範囲から抜け出し、間合いを測る。

 だが紅い光が炎王龍の口端から漏れ、風翔龍は瞬時に身を翻した。

 直後、太い炎の柱が薙ぎ、海面がジュワジュワと沸騰する。浅瀬にいて逃げ切れなかった魚が、横になって浮きあがってきた。

 炎王龍は避けられることも承知の上だったらしい。間一髪で避けたものの、下腿の甲殻が一部焦がされた。

 

 それだけでは終わらない。

 風翔龍が気づいた時には、周囲が粉塵に囲まれていた。逃れようと翼を振り上げる前にカチ、と音が鳴る。

 すぐさま起こった大規模な爆発に、海上が赤く照らされ、不自然な波が起こった。

 先程よりも威力は抑えられているとはいえ、爆ぜる範囲は比にならない。まるで包囲網のようだ。

 風翔龍は逃げ切れなかったらしい。体勢こそ崩さなかったものの、身体のあちこちから黒い煙が上っていた。風の鎧は解かれてしまっていたようだ。

 息つく暇も与えない一方的な攻撃に、風翔龍は悔しげに唸り声をあげる。

 

 やられる一方になるものかと風翔龍は翼を広げ、空高くまで飛び上がる。そしてその翼を炎王龍に向けて一気に閉じた。

 炎王龍の纏っていた炎が消えかかるほどの豪風。炎王龍は咄嗟に目を閉じ、鬣や黄金の王冠がバサバサと形を崩した。

 風圧とともに風翔龍の身体も大きく後退するが、対空時における気流の扱いはそちらが上手だ。

 

 せっかくできた隙を無駄にする龍ではない。風翔龍は身体をやや捻ってたわめる。

 炎王龍は姿勢を乱したものの、翼を何度か羽ばたかせて持ち直していた。

 だが次の瞬間、風鋼の槍が回転しながらその腹へと突っ込んだ。

 

 炎が散り、広範囲に火の粉が舞う。

 今の一撃で炎王龍に大きなダメージが入っただろう。地上で戦いの行く末を見つめる誰もがそう考えた。

 

 しかし、ばたばたと暴れ出したのはビロウドのような翼ではなく、折り畳まれていた鈍色の翼。

 見れば、もがく風翔龍の首は巨大な犬歯にがっしりと捉えられている。風翔龍が身体を動かすたびに牙の先端が食い込み、ミシミシと音が鳴った。

 強大な力を持つ古龍といえど、やはり経験の差がものをいうのだろう。戦略をもってしても、老功な炎王龍には歯が立たなかったようだ。

 

 炎王龍は頭を振りかぶり、無慈悲に風翔龍を海へと投げ落とす。

 一直線に鈍色の身体が落ちた海面は水飛沫を上げる。遅れて、アステラにまで風と波が押し寄せた。

 炎王龍は力を誇示することもなく、風翔龍のいる場所から背を向ける。

 

 それは、縄張り争いの決着がついた瞬間であった。

 

 

 

「す、すごいわ……」

 

 ジェナは開いた口が塞がらなかった。周りからもいくつもの溜息が聞こえた。

 かかった時間はほんの僅か。それも、バリスタの届かないほど離れた場所で起こっていた争いだというのに、迫力が桁違いだった。

 現に、まだ心の臓がばくばくと痛いほどに鳴っている。もし古代樹の森で敵対されていれば、自分の命は無かっただろう。

 

「此度は杞憂に終わったか」

 

 成り行きを見守っていたソードマスターが呟く。周囲にいた者たちは、その言葉にほっと胸を撫で下ろした。

 総司令は頷くことも首を振ることもせず、未だ二頭の龍を見据えている。

 

 圧倒的な力でねじ伏せた炎の王。老いを感じさせない戦いぶりに、誰もが感嘆した。

 ジェナは炎王龍が森で苦しむ様子を見て危惧していたが、こちらが加勢するまでもなかったようだ。まもなく風翔龍は飛び去っていくだろう。

 

 ややあって海面が盛り上がり、風翔龍が顔を出す。ずぶ濡れになったその姿は哀れだった。

 風翔龍がわざわざこの場を用意したのは、おそらく復讐のため。大方、寝床を取られたといったところか。

 それなのにあれほど一方的にやられては、さぞかし悔しい筈だ。

 

「……!」

 

 総司令とソードマスターを筆頭に、戦い慣れたハンター達は息を飲んだ。

 

 青い眼差しが炎王龍を捉える。

 その目から、闘志は消えていなかった。

 

「こっちに来たぞアイツ……」

「まさか八つ当たりしようっていうの!?」

 

 風翔龍が蛇のように身体をくねらせ、こちらへと向かってくる。バリスタの射程範囲まではあと少し。調査団の者たちは一斉に武器を向け、照準を合わせた。

 だが風翔龍は調査団には目もくれず、アステラ近くの小島へと泳ぎ着いた。そして岩肌に前脚をかけると、よじよじと登り始める。

 

「なんや、カワイコちゃんはクシャルダオラやったんか」

「言ってる場合か阿呆」

 

 炎王龍の姿はみるみるうちに小さくなっていく。流石に疲れを見せたが、移動の意思は無くなっていないようだ。

 総司令はセリエナ行きの船を出す指示を出しあぐねていた。今この場を有力なハンターが離れては、次の波を越せるかどうか。

 ここで判断を誤れば、大きな被害が出る可能性がある。

 

 だが、その決断が下される前に。

 風翔龍の翼が、再び空を掴んだ。

 




一章終わりませんでした。
戦闘シーンってどうしてこう難しいのでしょう。

というわけで、次回に続きます。風翔龍呼びについてはまたその時に。
今後も見守っていただけると幸いです。


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爆炎と颶風の狭間で

 

 

 大粒の雫が皮膚を叩く。ぽつぽつと形容するにはやや重すぎるそれは、吹き荒れる風によって弾丸のように威力を増した。

 沈みこむような雲は、龍の怒りとともに内に秘めた水の重みに耐えきれなくなっていた。

 

「兵器を覆え! 火薬は濡らすな!」

 

 調査員たちは上空を警戒しつつ、船の帆やら毛皮やらで弾薬箱を覆う。

 火薬は薬莢の内部に入っているとはいえ、濡れてしまえば使いものにならなくなるためだ。

 

 その渦中。

 しとどに濡れた鋼の翼は、憤怒の形相で雲下の太陽を追う。

 皆が火薬を守るのに必死になっている中、呆気にとられてその様子を見ていたハンターが口の中で呟いた。

 

「あれ、クシャの角ってあんな形だったっけ」

 

 風翔龍の角は、灰水晶が結晶化していく過程のような甲殻が重なり、対をなす形となっている。

 かの龍の角もつい先程までは、誰もが思い浮かべる形をしていた。

 だが、今は。まるでキリンの角が二つになったような。かといってキリンのそれと違い鋭く尖っているわけではなく、霜が張り付いているかのような。

 そんな美しくも奇妙な角が、風翔龍の頭を飾っていた。

 

「いいえ、あんなものは初めて見ました。老齢とみられる個体でも、角そのものに大きな変化はなかった……これは大発見ですぞ!」

「力の暴走なのか、意図的なものなのか。若さや病が原因か、はたまた別のものなのか……実に心躍るな」

 

 これまで確認されたことのない現象に、学者たちは目を輝かせた。一方で傍にいたハンターは必死で彼らを壁の中へと戻す。

 

「先生方、前に出ないでください! 吹き飛ばされたいんですか!?」

「おお、それは名案」

「迷案ですよッ!」

 

 風翔龍の角は極低温だという。それは素手で触れれば、たちまち皮膚に張り付き全身の熱を奪われてしまうほど。

 あの角は、周りの雨粒が瞬時に凍りついたものだろうか。

 

 話題の中心にいる風翔龍は、小さくなっていく炎王龍の背に向けて再び咆哮を放った。まるで、まだ負けていないとでも言うように。

 炎王龍はちらりと一瞥したが、すぐに何事もなかったかのように翼を上下させる。一度決着は付いたのだから、もう相手をしてやる義理は無い。

 

 風で掻き消されている筈の唸り声が、人々の耳に届く。それは龍の憤怒を目にした者の幻聴なのか、本当にここまで届いている音なのか。

 

 風翔龍は、待ち伏せをしていた龍と同一とは思えない勢いで炎王龍に突っ込んだ。かの龍がもし人間ならば、こめかみに青筋が浮かぶのが見えただろう。

 こうなっては流石の炎王龍も応戦しないわけにはいかない。風翔龍の体当たりを避けると再び翼を広げて吼えた。

 

 風翔龍が身に纏う風は粉塵を吹き飛ばすことは可能だが、生憎いま炎王龍が纏っているのは炎だ。下手をすれば風翔龍に不利な立ち回りになる。

 全て見通したような眼差しを向けられ、悉く腹の立つ老いぼれだ、と言わんばかりに風翔龍は低く唸った。

 

「風翔龍ってさ、元々錆びたクシャルダオラを指す言葉として用いられていた呼び名だったらしいんだ」

「え?」

 

 双眼鏡を覗いていたリュカがふいに呟く。ジェナは目を瞬かせた。

 

 クシャルダオラの外殻は金属質であるため、古くなると赤く錆びていく。そして、錆ついて硬く可動域の狭くなった甲殻の下には、脱皮の時を待つ新しい純白の甲殻が眠っているという。

 新雪のような色のクシャルダオラの話は、ハンター達の間では半ば都市伝説のようなものとして扱われていた。それを目にした者の数は指折りで数えられるほどに少ないからだ。

 しかし脱ぎ捨てられた抜け殻は、あちこちで発見されている。先日、渡りの凍て地の頂上でも発見されたらしい。

 

 脱皮直後の非常にデリケートな時に外敵から狙われないため、脱皮前のホルモンバランスの変化によるストレスが溜まっているため。

 そんな理由からか、錆びたクシャルダオラは非常に気性が荒い。

 普通のクシャルダオラは一般的には鋼龍の名で通っている。目の前にいる龍も、一見錆びているようには見えなかった。だが。

 

「あの龍の執念、まるで錆びてる時みたいだ。一体何がそんなに気に食わなかったんだろう」

「何かの復讐のつもりだったのかしらね。それにしては随分と力量差があったようだけど」

 

 黒い風を纏った風翔龍は、炎王龍にがむしゃらに攻撃をしていく。

 後ろ脚で蹴り飛ばし、鋼身の側面を叩きつけ、小さいが鋭利な牙を剥いて。骨格の近いモンスターならば大抵が行うだろう攻撃の数々。

 あれでは炎で炙られるうえ、余計な体力を消耗するだろうに、当の本龍は気にも留めていない。

 炎王龍は躱したり往なしたりして上手いことダメージを逃していた。だが、蓄積されたそれは身体に堪えたらしい。

 そもそも炎龍という種は、ずっと滞空して戦うような戦法は用いない。一戦目からの疲労が、老いた炎王龍の動きを鈍らせていた。

 

 体当たりを喰らった相手がふらりと一瞬よろめいたのを、風翔龍が見逃す筈がない。

 びゅう、と再び空気の流れが変わる。

 風翔龍の口元の空気が見る見るうちに歪んでいき、小さな牙の間で何やら白い粒の混じった球が形成されていく。

 やがて吐き出された弾丸は、炎王龍へと真っ直ぐ向かった。

 

 炎王龍は咄嗟に上空へ回避するが、直後に大きく後退した。と言うよりも、吹き飛ばされたと形容するのが相応わしい。

 球が直撃したわけでは無いのにもかかわらず、だ。見れば、翼の下端も一部が白くなっている。

 炎王龍を通り過ぎていった氷混じりの球は、やがて空中で解けていった。

 

 風翔龍の攻撃がそれで終わる筈もない。今度は長い首と胸を反らせ、大きく息を吸い込んだ。

 風翔龍は肺にあたる器官を十分に膨らませると、一点に集中させた空気を海に向けて吐き出した。

 圧された空気は海面に当たると、水を巻き上げて回転を起こす。はじめは小さかったそれは、瞬時に風翔龍の体躯を包み込むほどの竜巻となった。

 いくら龍の炎といえども、あれに呑まれれば勝つ術はない。

 周囲の空気や海がかき混ぜられ、異様なエネルギーが溜まっていく。

 

 そして恐るべきことに風翔龍はもう一つの竜巻を作り出し、炎王龍を両側から挟んだ。

 これでは後ろしか空いていない。考え無しに逃げようとすれば、風翔龍の思う壺だ。

 

「……あの竜巻、まさか放って置いたらこっちに来るんじゃないの?」

「た、大砲とかでどうにかエネルギーを分散できないか?」

 

 調査団にも緊張の色が走る。

 吹き付けられる暴風により、雨が波のような形となってアステラを濡らした。

 

「まったく、ハチミツ盗られたアオアシラみたいな執念深さだな」

 

 バリスタに弾を込めていたハンサム先輩は、水を吸って束になった髪を後ろに撫でつける。

 

「テオはだいぶ疲れてるみたいだ。海上でやられちゃったらそれまでだけど、もし陸地を求めるならこっちに降りてくる可能性が高い」

「そろそろ備えないといけないってわけね」

 

 リュカ達の言葉に、周囲の人々は気を引き締めた。

 

 風翔龍が作り出した竜巻に、炎王龍は束の間考える。ここで焦りを見せないのは、多くの経験を積んでいる故。

 その時間は僅か数秒にも満たなかった。

 

 炎王龍は風翔龍に飛びつき、前脚でがしりとその首の根と脇腹を掴む。

 予備動作から体当たりをされると踏んでいた風翔龍は驚き、逃れようと翼を激しく動かした。しかし炎王龍の強靭な前脚は、その程度では離れない。

 絡み合った二頭の身体は互いの押す力が拮抗し、空中で鈍と紅の塊が動き回る。

 

 燃える翼が後ろの竜巻に触れんばかりに近づいた、その刹那。

 炎王龍は内側に身体をたわめ、身体の周囲にはバチバチと音を立てて火の粉が弾ける。

 それは先程の爆発の前に起こったものとよく似ていたが、いま活発に燃焼しているのは局所ではない。炎王龍の身体を覆う規模である。

 見まごうことない、超新星爆発の名を冠する攻撃の予兆。

 

「む……?」

 

 訝しむ声は、風に巻かれて消える。

 

 明らかに異様な様子に、風翔龍は必死にもがいた。だが、身体を掴まれていた時点で結末は決まっていたのだ。

 

 辺りが一瞬にして煌々と照らされる。

 その直後。宴で打ち上げられる花火の比ではない耳を劈くような爆音が、アステラ上空に低く轟いた。

 

 爆発の際に発生したエネルギーに相殺され、二つの竜巻は水蒸気となって霧散していく。

 爆風によって起きた波が、二度三度と船着き場の床板を覆う。アイルーの中にはひっくり返る者もいた。

 

「どうなったの……?」

 

 ジェナは口の中で呟き、濡れたレンズを拭って双眼鏡を覗く。流石のリュカも、心なしか不安そうな表情だ。

 今のダメージを喰らえば、鋼の鎧を持つ風翔龍とて無傷では済まないだろう。

 良くて骨折と熱傷、悪くて絶命。たとえ前者だとしても、渦の中へ落下して顔を海面に浮かせるほどの力が残っていなければ、まず助からない筈だ。

 

 雨と立ち込めた霧が邪魔をして、よく見えない。

 ジェナは双眼鏡に押し付けた下瞼にぎゅっと力を入れていた。

 しかし、別の方向から見ていたガンナー隊の一人は目を見開いた。

 

「避けろッ!!」

 

 次の瞬間、巨大な何かが水蒸気を突き破ってアステラ方面へと突っ込んできた。

 幸いそれが直撃した者は居なかったようだが、人々は何事かとそちらを見やる。

 だが彼らの目が捉える前に、それは音を立ててアステラの入り口に続く足場へと着陸した。否、墜落と言う方が正しいか。

 そこでゼエゼエと肩で息をする身体からは、じっとりと濡れた鬣が重そうに垂れ下がっている。──炎王龍だった。

 

「ふむ……やはりか。本来、炎王龍が座すは灼熱地帯。こう雨に打たれては、爆発の質も落ちるというものよ」

 

 ソードマスターが甲冑の下で呟く。

 炎王龍の起こした大爆発は、あれほどの威力がありながら完全なものではなかったのだ。もし何の障害もなく終えていたならば、衝撃波も今の比ではなかっただろう。

 爆発の予兆に違和感を覚えていたのは、炎王龍と因縁のある彼と、交戦経験のある数名のみだった。

 

 対する風翔龍はというと。

 流石に無傷とまではいかず、身体のあちこちに焼け焦げた痕があった。そのうちいくつかはひしゃげている。

 風翔龍は黒い煙を鬱陶しげに振り払う。爆風など浴びて気持ちの良いものではない。

 それでも、空に留まり続けた。

 爆発の瞬間、即座に大気を操り自分の周囲に冷気の層を作り出していたのだ。

 そして駄目押しとばかりに吐いたブレスによって、限界の近かった炎王龍は吹き飛ばされた。

 

 炎王龍は悔しげに空を見るも、未だ立ち上がることができない。どうやら、先程の大爆発で力を使い果たしてしまったようだった。

 それは老いが原因か、はたまた病が原因か。苦しげに腹を上下させ、じっと蹲っている。

 

 ジェナとリュカをはじめとして、炎王龍の状態を知っている者達は息を詰めて様子を見つめていた。

 ヒトに近い種を除き、多くの生き物は痛みを表に出そうとしない。

 飼われたアプトノスの餌の食いつきが悪いと思ったら病に罹っていた、歩き方がおかしいガーグァの足の裏に棘が刺さっていたなど、よく観察しなければ判らないことが殆どだ。

 だが、この炎王龍は誰が見ても苦痛に苛まれていることは明らかだった。それほどまでに、身体が悲鳴を上げているのだろう。

 

 その一方で、これは好機とばかりに、風翔龍の角を取り巻く空気が再び白く凍りついてゆく。

 この風翔龍は、応戦経験そのものは少ないのだろう。それはその場で見ていた誰もが感じていたことだった。

 しかし、おそらくは。それを補えるだけの体力と、大気を──風を操る才に恵まれた。

 

 風翔龍は炎王龍の側へと舞い降り、空中で体を捻る。

 みるみるうちにかの龍の身体を囲むように風が起こり、海面からは水が、近くの樹木からは葉や枝が巻き上げられた。

 このまま竜巻が直撃すれば、アステラにも大きな被害が出る。防護壁の裏にあるものも吹き飛ばされる勢いだ。

 

 風翔龍は身体をたわめる。

 閉じられていた鈍色の翼が、展開される。

 

 叫び声が、アステラにこだました。

 

 次の瞬間、辺り一面がカッと眩い光に焼かれる。

 人々が声に従い目を覆う中、ドプン、と何かが海中に落ちる音だけが響いた。黒々とした水面に白い泡が広がっていき、辺りには束の間の静寂が訪れる。

 

「あーあ、とうとう喧嘩を売っちまったよ。あのおっかねえ龍によお!」

 

 咄嗟に閃光弾を放ったのは、あの頰に火傷痕のある軽弩使いだった。彼の相棒の盾斧使いは「アイツやりやがったな」と言わんばかりに苦笑している。

 ガンナー隊と弓撃隊は一斉に風翔龍の落ちた場所へと照準を向け、あるいは弦を引き絞っている。

 それに続き、バリスタや大砲の側にいた者達も武器の向きを合わせた。

 

 もう逃れることはできない。

 間違いなく、かの龍からは敵と見做された筈だ。

 あの風の凶器は、間も無くこちらへも向けられる。一度視界を奪うという手段を使ってしまった為、しばらくは同じ手には引っかからないだろう。

 

 重い水の膜を突き破るように、再び濡れた鋼の身体が現れる。

 その眼差しは、心底憎たらしげにアステラの人々を舐め回していた。

 

 数では圧倒的にこちらの方が有利だ。

 しかし立地上ある程度固まった布陣である為、大規模な竜巻を起こされれば一気に戦力が削がれてしまう。

 通称ネコタクと呼ばれる救助アイルーの数も、怪我人の治療をする場や人数も足りない。

 高齢の学者などは壁の中に隠れているが、彼らのことも守り切れるかどうか。

 

 まるで蜘蛛の糸が風で震えているかのような緊張感が、アステラ中を包んでいる。

 風や波の音、そしてギリギリと弦が引き絞られる微かな音だけが響いていた。




随分お待たせしてしまいましたが、一話完結は夢でした。
次話は明後日あたりに投稿できたらなと思っております。宜しくお願い致します。


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アステラ防衛戦

 

 

 

 背後の古代樹はザワザワと噂話をしている。まるで森全体が意思を持っているかのようだ。

 

 戦場に閃光が放たれてから、僅か数秒。

 風翔龍はやがて、意を決したように翼を広げる。

 

「撃てーッ!」

 

 号令と共に、引き絞られていた他のバリスタの弦が一斉に解き放たれた。

 調査員の中には、己の武器のほかに兵器を使って峯山龍ジエン・モーランなどの超大型古龍との戦いを潜り抜けてきた者も多い。

 彼らはゾラ・マグダラオスの弔いの際にも大いに活躍した。

 そして、今も。

 

 発射されたバリスタ弾は風を切って進み、弧を描いて風翔龍へと向かっていった。

 標的にされた龍は、避けながら瞬時に風で壁を作る。だが全ての弾を防げたわけではなく、何発かが堅い鎧に刺さった。

 それでも付けられた傷は凹み程度だ。龍の勢いと戦意を削ぐにはまだまだ足りない。

 威力の面では大砲を使いたいところだが、ここで使えば人に対する被害の方が大きくなってしまう。

 

 鈍色の甲殻から、びたびたと残った水が滴る。

 それらが振り切られたかと思うと、鋼の身体はアステラへ急降下した。

 幸い皆が避け切ることができたが、風翔龍の纏う風によって、近くにあったものは吹き飛ばされる。

 踏み潰されたバリスタやその弾も折れ、もう使える状態ではない。

 

 中距離は危険だと判断したのか、風翔龍は風を纏いながらバリスタ隊の方へと駆けていく。

 ジェナは咄嗟にセルマの方を見遣るが、既に彼女は安全な場所へと退避しているようだった。どうやら周囲の仲間が配慮してくれたようだ。

 

「盾部隊は前へ! それ以外の者は弾に当たらないよう退避せよ!」

 

 バリスタ隊は対象を絞られないよう、即座にその場を散るようにして離れる。

 調査団は個々もしくは少人数編成での調査が主であり、隊列を成して連携することは少ない組織だ。

 それでも、これまでに幾度か全体での大規模な戦闘を経験してきている。ギルドから選ばれた調査員らは、総崩れしない程度には強固な連携をとって見せた。

 

 風翔龍が射程距離に侵入した途端、ガンナー隊は一斉に毒弾を撃ち込んだ。

 銃口から光が弾け、次々に弾丸が宙を走る。

 

 現大陸では毒弾を生成する際、生物の牙などの毒腺から分泌された液や、毒キノコから煮出したもの等の異なる毒を用いる。

 だが新大陸で弾やビン、投げナイフに塗布するものとして使用を許可されている毒は、毒テングダケから抽出されたものに限られているため、拮抗作用などを気にする必要はない。今回の作戦では、剣士達には他の毒を用いた武器は使わないよう指示が出されていた。

 毒によって局所を麻痺させ、身体の動きが鈍ったところを剣士が攻める。それが当初の目的だが、果たして毒がどれほど鋼の身体に撃ち込めるか。

 ちなみに戦いの直前、毒テングダケと強い鎮痛剤の原料となるマンドラゴラの大量の納品依頼に、首を傾げる調査員もいたのはここだけの話。

 

 ただ弾を受けるわけもなく、風翔龍はその場で尾を振り回して弾をはじこうとした。

 

「うおッ、あぶねっ!」

 

 不規則にはじき返された弾を、銃槍使いが咄嗟に盾で弾いた。

 毒弾は注射器のような構造になっており、刺入部から内部の毒液が注入される。

 たとえ撃った者が被弾したとしても一発程度では即死することはないが、対モンスター用であるためその毒は強力だ。

 

 派手な印が龍の動きに合わせてチラチラと見えることから、風翔龍の甲殻の隙間に何発か入ったらしい。

 それでもすぐに効果が出るわけではないため、油断はできない。

 

 ガンナー隊は追加の毒弾を撃ち込んでいく。その一方で剣士は、自分たちが出るタイミングを窺っていた。

 

 風翔龍は大きく息を吸い込み、風のブレスを吐き出す。

 それは普段であれば物資班が目印として使う歯車のすぐ傍にいたハンター数名を吹き飛ばした。床板が割れ、破片となって飛んでいく。

 いずれも脊椎は無事であったようだが、武器を背負った仲間の下敷きになり、脱臼や骨折をした者も居た。

 周囲の仲間がすぐに負傷者を下がらせ、救助アイルーが回収していく。

 

 あの大竜巻を起こせばすぐに事が済みそうなものだが──そして誰もがそうならない事を願っているが、風翔龍にその気は無いようだ。

 というよりも、先ほどの戦いで疲弊していると捉えた方が正しいか。

 

 炎王龍がいまどうなっているか、確認できるほど余裕のある者はいない。常であれば物見櫓で見張っている者も、今日ばかりは戦闘員となっている。

 過呼吸を起こしていた調査員は、裏方で怪我人の手当てを手伝っていた。

 

「奪われて、たまるもんか」

 

 リュカは風翔龍を睨みつけ、棍棒を握る。彼の手に止まった、日頃は感情の読めないジャックの瞳も、今はどことなく好戦的に見えた。

 

 ジェナや他の狩猟笛使いは、目配せをしてタイミングを測っている。音の刺激はモンスターを引き付けるため、今回の作戦では容易に動けない。

 

 やがて毒弾が尽き、ガンナー部隊はぽつぽつと後ろに下がっていく。

 まだ風翔龍の動きは鈍らない。

 だが、その時を待ち構えていた剣士達は、背に手をかけて駆け出した。

 

 まるでファンファーレのように、様々な笛の音が鳴る。それはぶつかり合う事なく重なり合い、狩人達の士気を高めた。

 率先して飛び出したのは、機動力を誇る双剣使い。それに続き、様々な武器を背負ったハンター達が互いに干渉しないよう攻撃を重ねていく。

 通常のクエストでは戦闘参加可能人数は四人までとされているが、いま目の前で起きているのは拠点の防衛戦だ。そんなことを考えている暇はない。

 とにかく龍の戦意を削ぎ、防護壁へと向かわせないようにしなければ。

 

 風翔龍は盛んに風を起こし、時には防具へ、時には武器へと変化させていく。

 その度に避けきれなかった人の身体は宙に舞う。ぽつぽつと戦場に居られる人数は減っていったが、治療が済んだ怪我の軽い者は戦線復帰をしていたため、その場で循環ができていた。

 

 その時、風翔龍が重心を低くする。これは大竜巻を起こす前兆だ。

 拠点ごと吹き飛ばされる。誰もが青い顔で身構え、後ずさった。

 

 だが、いつまで経っても龍の足元で小さな旋風が起こるのみ。やがて、人々は龍の挙動がおかしいことに気づき始めた。

 痙攣が起き、ふらついている。先程打ち込まれた毒が回ってきたのだ。

 何よりも驚いているのは風翔龍自身だった。おそらく、ここまで身体に影響を及ぼす毒を受けるのは初めてなのだろう。

 

 身の回りの風こそ消えないものの、立っているのがやっとであるようだ。

 風翔龍は弱みを隠そうとしているようだったが、著しい変化に身体が追いついていなかった──否、むしろ毒物によって起こった反応で変化が起きているのだから、適応していると言うべきか。

 

 ジェナは武器を握り、幾度目かの波で仲間と共に突撃する。

 これは炎王龍との戦闘を前提に練られた作戦だが、一度の攻撃人数は四人までとなっている。

 ここだけ切り抜けば通常のクエスト形式と同じではあるが、近接武器の人数が多くては、弱点を正確に狙うことは難しい。

 対モンスター用の武器は大きく、仲間同士で干渉してしまうことが多い。そのうえ、人に刃を向けることは御法度とされているためだ。

 

 ジェナ達と後ろで控えた仲間が入れ替わろうとしている時、不意に背後に熱を感じた。

 ハッとジェナが振り返ると、豪炎が螺旋を描いて空から降り注ぐのが見えた。周囲の空気は陽炎のように揺れている。

 

 人々の驚愕をよそに、炎王龍はちらりと視線だけを寄越した。

 

 炎王龍は、おそらく理解したのだろう。ヒトが己に協力しているという、この状況を。

 果たして炎王龍は調査団の行動をどう捉えているのか。なんとも不可思議な共闘だが、あちらも老練の個体だけあって適応が早い。

 

「すごいや……こんなこと、生きてるうちに経験できるなんて思わなかった」

 

 リュカが思わず感嘆の声を漏らす。

 だが、誰よりもその思いを痛感しているのは。ジェナは後ろを振り返る。

 一期団を象徴する赤い布が、炎に照らされている。

 総司令、そして兜の下の表情はわからないがソードマスターもこの刹那を噛み締めているように見えた。

 ここからでは目視できないが、大団長の元オトモアイルーである料理長も、何か思うところがあるに違いない。

 

 毒で身体の動きが障害されている最中で炎王龍の吐き出すブレスに曝され、流石の風翔龍も怯みを見せる。

 なんとか角は死守したものの、炙られた翼の変色が激しい。

 調査員らは粉塵で引火しないよう、濡れた布を何度も絞りながら応戦する。

 

 そんな攻防を繰り返し、早くも一刻が経過しようとしていた。

 

 不意打ちで閃光弾を用い、龍風を解きながら戦っていたものの、龍は既に弾への対処法を身につけてしまっていた。

 眼前に何かが撃たれると、すぐに目を瞑ってしまう。ハンター達はその際の隙を狙って攻撃するようにしていたが、龍も空中へと飛んでしまうようになった。

 

 炎王龍も応戦するが、次第に風翔龍の動きに機敏さが戻ってきていた。吐き出す炎も躱されてしまう。

 既に毒が代謝されてしまってきたようだ。若き龍の生命力と臓器の強靭さは底知れない。

 

 なんとか効けばと再び放たれた閃光弾。だが龍はそれを嘲笑うかのように目を瞑って羽ばたく。

 

「逃すかッ! ──ジャック!」

 

 龍から吸ったエキスを、ジャックは雪のような羽を震わせて霧状にする。

 白く光を反射するそれを吸い込んだリュカは、床板が外れて金網のみになった床を全速力で駆け抜けた。

 

 風翔龍が向けられた敵意に気づく頃。

 リュカは棍棒を振りかぶり、自分の進む場所へと突き立てる。金網であまり安定しないが、狩場ではもっと戦いにくい環境ばかりだった。

 強く握った棍棒を杖のようにして自身の体重を預け、床を強く蹴って飛び上がる。

 まだ距離が足りない。リーチのある武器とはいえ、かすった程度では威力は期待できない。

 リュカは操虫棍の射出機構を後方に向け、その反動で飛翔した。常よりも強い風が耳元で唸る。

 此処では、操虫棍を扱う者のみが飛竜のように空を泳ぐ術を持っていた。こんな時、浮空竜の軽い素材は己に味方をしてくれているように感じる。

 

 風翔龍は近づいてくる気配に、何事かと目を開ける。

 その蒼く純粋な眼球へと、リュカは棍の対をなす刃を容赦なく振り下ろした。

 

 ギャッと悲鳴が上がり、巨体が地に墜落する。空中にいた分、金網は大きく歪んだ。

 その身体に潰されないよう人々が散り、リュカは側へと飛び降りる。

 リュカが着地する瞬間に飛び立ったジャックは、衝撃を逃す回転が終わると再び腕に止まる。

 

「そこを退けッ!」

 

 鋭い叫び声が響き、再びジャックが羽ばたいた。

 考える間もなくリュカが慌てて駆け出した直後、背後から何かが爆発したような轟音が響く。

 砂煙が濛々と巻き上がっている。それが引いてきた頃に見遣れば、風翔龍の頭には回転する槍のようなものが──巨大な杭が、刺さっていた。

 

 龍を撃つ杭は、ギャリギャリと火花を散らして風翔龍の角を削っていく。

 風翔龍は悲鳴を上げてのたうち回り、その身体や長い尾に人や兵器が巻き込まれた。こう暴れていては、近づくこともままならない。

 

「アイツ、防護壁に……!」

 

 少し離れた場所で見ていたハンター達が血の気の引いた顔で呟く。

 風翔龍は闇雲に駆け回り、その巨体は人々や物資を守る防護壁へと向かっていた。

 

 だが防護壁にぶつかる直前、ドンッと音を立てて風翔龍の頭部で爆発が起きる。

 その爆風の中心にいた龍は、上体を起こしたままふらりと横に倒れ込んだ。角は折れ、見るも無残な姿となっている。

 今の衝撃が直接頭に響いたのだ。おそらく、脳震盪を起こしているに違いない。外殻に損傷があれば、脳にまで達している可能性もある。

 

 風翔龍はしばらく起き上がることすらできず、浅く呼吸を繰り返していた。

 誰もが固唾を飲んでその様子を凝視する。炎王龍すらも、その一員だった。

 

 風翔龍は、やがて生まれたての仔ケルビのようによろよろと立ち上がる。もはや炎王龍に対して咆哮をする気力も残っていないようだった。

 それでも、よく光る青い瞳から力強さは失われない。圧倒的な生命の輝きだった。

 風翔龍はボロボロになった翼を広げ、ふらつきながらも古代樹の森方面へと飛び立っていった。

 

 程なくして雨は止み、厚い雲の間からは柔らかな陽脚が差し込む。"晴天を呼ぶ龍"とはよく言ったものだ。

 

「や、やった……遂に……」

「そうだよ、わたし達がアステラを守ったんだ!」

 

 調査員たちの緊張が解けていく。雨に濡れた髪や頬が、日差しに照らされていた。

 

 やがて炎王龍も翼を広げ、上空へと飛び去っていく。太陽に重なる王の姿は、どこか哀愁を漂わせていた。

 それを見送りながらジェナはリュカの隣に立ち、厳しい顔で呟く。

 

「彼、まだ諦めていないのね。あたし達もここを発つ準備をしなきゃ」

「そうだね。……見届けよう、彼の目的と願いを」

「ええ」

 

 余韻もそこそこに、総司令は司令エリアの階段を上がる。そして息を吸い、精悍な顔をさらに引き締めた。

 

「セリエナへの出航用意を再開しろ! クシャルダオラはしばらく戻らない筈だが、念のため撃龍杭砲はこちらへ残す。軽傷者は重傷者の手当ての手伝い、もしくは片付けを行うこと。

 そして参加を予定していたハンターのうち、軽傷、または無事な者はすぐに準備せよ! 以上、解散!」

 

 それを合図に、人々は己の為すべきことへと手をつけ始めた。

 

 

 

***

 

 

 

 白い空から、灰色の影を落として雪が降り頻る。息を吐くと、蒸気の塊がほわほわと高く上っていった。

 

 その中に、こちらへと近づいてくる黒い点が一つ。

 

 雪混じりの風が、佇む女性の黒い髪を靡かせた。

 その女性──腕を組んで空を見上げていた青い星はフ、と口角を上げる。

 

「やっぱり外さないね、我らが若き司令官は」

 

 彼女が立っているのは、調査団の物的な戦力が集まる前線拠点セリエナの兵器置き場。

 現在ここには、一部を除いた推薦組の者達が揃っていた。

 

「こればっかりは喜んでいいのか分かんないスね〜。アンタを除いて!」

「あら、何か言ったかい?」

 

 女性が凄むと、青年はケラケラと陽気に笑った。

 

 撃龍杭砲という戦況をも変え得る強力な兵器がアステラに渡った今、セリエナの戦力は低くなる。

 もし緊急事態が起きた場合に備え、セリエナには推薦組が多く残っていたのだ。

 

 その中心で、一人の青年が──セリエナの司令官が振り返った。

 

「気を引き締めていくぞ。皆、くれぐれもケガなんかするなよ」

 

 彼は総司令の実の孫である。まだ若く経験は浅いながらも、祖父譲りのリーダーシップと懐の深さで、調査員達からは信頼を置かれていた。

 いつもの調査班リーダー節に皆は頷き、表情を綻ばせる。この言葉さえあれば、無事に帰ってこられるという確信めいたものがあった。

 

 互いを鼓舞する言葉を掛け合う者、拳を合わせる者、大切な相手とハグやキスをする者。

 調査団は万全の対策と準備をしつつも、常にこれが最期になるかもしれないという意識を持っている者が多い。

 ヒトの領域外へと踏み入るハンターや研究者の中でも、僻地で生活する新大陸古龍調査団という組織だからこその意識だ。

 

 そんな彼らの視線を一身に浴びて、一頭の龍が雪の砦に降り立った。

 

 

 




 おかげさまでようやく一章完結です。次章以降も精進して参りますので、どうぞよろしくお願いします。

 また第一章完結に伴い、数年前のジェナの話(R-18につき閲覧注意)を全体公開に致しました。
https://syosetu.org/novel/283123/


↓以下は細かい描写に関する事項なので、興味のある方はどうぞ。

 自然のギミックを除いて調査団の利用する毒は毒テングダケが主でしたので、毒成分としてはテングダケやベニテングダケに含有されるイボテン酸を参考にしました。方法としては熊などに対する麻酔銃を参考にしております。
 しかし毒キノコの毒に関して、経口摂取における中毒症状までは調べられたのですが、現時点において静脈注射や筋肉注射などの方法での症状が判明しなかったこと、麻酔銃に用いられる薬剤は中枢系に作用するものであり、モンスターハンターにおける毒とは異なるものと判断しましたので、今回のような描写となりました。
 ゲーム中の毒弾とは異なるため、その点は創作と割り切っていただけたらと思います。

 またモンスターの疼痛描写に関しては、犬や猫の疼痛ガイドラインを参考にしておりますが、至らぬ点もあるかもしれませんのでご了承ください。


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炎妃の旅路
迷える炎妃を誘う者


 お妃さまは、来る日も来る日も王さまを探しました。

 

 空を飛んでも見つからないのなら、地面を歩いて。近くに居ないのなら、遠くへと。

 住み慣れた結晶と溶岩のお城を飛び出して、どれほどの時間が経ったことでしょう。

 

 きらびやかな黄金の宮殿に、甘い匂いのする鮮やかな森、むかし訪れた広い砂漠。

 どこを歩いても、王さまの姿はありません。まれに足跡や匂いの残っているところはありましたが、どれも古くなっているもの。

 砂漠のそばの森が、不自然に暑くなっていることには気づきませんでした。お妃さまの周りも勝手に暑くなるので、空気が混ざってしまうからです。

 

 はじめは怒っていたお妃さまも、だんだん心細くなっていきました。

 思えば、王さまと一緒になってから独りになったことはほとんど無かったのです。

 それまで慣れていた筈の孤独が、お妃さまの頬を濡らしました。せめてお友達がいれば、こんなに寂しくはなかったのかもしれません。

 

 お妃さまのお腹は、日を追うごとに大きくなっていきます。

 赤ちゃんが元気にすくすく育ってくれていることだけが、お妃さまにとっての救いでした。

 わたくしはお母さまになるのだから、頑張らなければ。お妃さまは、王さま探しを続けることを決めました。

 

 そしてお妃さまは、ついにご先祖さまが眠るという谷まで辿り着いたのです。

 

 そこは薄暗くて骨だらけで、嗅いだこともないような臭いが漂う場所。

 誰もいない筈なのに、コソコソとずっと誰かに見られているような気がします。

 お妃さまは、得意の炎で自分の身を守ることにしました。周りを照らす灯りにもなるのだから、一石二鳥です。

 

 ふと足の裏を見ると、赤や茶色の変なもので汚れていて、思わず悲鳴を上げてしまいました。

 今までこんなに身体を汚したことはなかったのです。だって箱入り娘だったんですもの。

 お妃さまの蒼い炎で黄色いモヤは消えていたのですが、そんなことを気にする余裕はありません。

 

 とうとうお妃さまは怖くなって、助けを求めました。

 自分の声が暗い洞窟に響いていきます。

 もしかしたらおびき寄せられて、何か怖いものが出てくるのではないか。お妃さまは後悔し始めました。

 

 その時、しゃなり、しゃなりと足音が聞こえました。

 お妃さまが振り返った先には、ホコリだらけの──いえ、何やら風変わりな装いをした見たこともないモノが居ました。

 目を凝らすと、白いフワフワの下からは黒い腐った肉のようなものが見えます。生きていたら、身体からそんなものが見える筈がないのです。

 お妃さまは大変驚いて、一目散に逃げました。まだ飛べる広さはありませんでしたから、嫌でも走るしかありません。

 

 しかし、ずっと王さまを探し回って疲れ切っていたお妃さまは、巨大な骨に躓いて転んでしまったのです。

 辛うじてお腹は守りましたが、恐ろしい龍は足音を立てて近づいてきます。

 

 その龍は、迷子なのかとお妃さまに問いました。実は、彼も谷を治める王さまだったのです。

 お妃さまが恐る恐る頷くと、谷の王さまは赤い唇を弓形にしました。

 そしてこう言うのです。強い者の集う場所へお行き、と。

 

 元々お妃さまが住んでいた結晶の地も、強い者が集まってくる場所です。他にもそんな不思議なところがあるというのでしょうか。

 

 怪しげな谷の王さまを信用していいのかわかりませんでしたが、お妃さまはお礼を言ってすぐにその場を後にしました。

 

 谷の王さまは、機嫌よく自分のお妃さまの待つお城へと帰って行きました。じゅるりと口端から落ちそうになった涎を拭って。



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第二章 生命照らすは雪灯り
船が揺らすは心まで


 

 常よりも荒い波が、一隻の船を大きく揺さぶる。

 元々、新大陸ではその波の荒さが原因で船の往来を阻むことが知られているが、今は船が出せるぎりぎりのラインだ。

 それはおそらく、先程の古龍天候によるものなのだろう。炎王龍は熱を、風翔龍は冷気を。それらが理から外れた動きをすれば、自ずと周囲の環境は掻き乱される。

 

 柔らかな橙色の照明に照らされた船内は、やや汗と潮の匂いが籠っている。戦闘を終えた直後のことであるから、皆身を清める余裕は無かった。

 そこに食べ物の匂いが混ざり、いかにもハンターの集まる食事場といった様相だ。

 

 だが船の中は、程々に賑わいながらも羽目を外すような者はいない。

 普段からずっと酒を飲んでいる飲兵衛や、不安を紛らす為に飲んでいる者もゼロというわけではなかった。しかし、いずれもその面持ちには緊張の色が浮かぶ。

 

 それにしても、船の揺れが強い。

 真っ青な顔で口を押さえて窓へと駆けていった同期は、隣の仲間に背をさすられている。

 それを見ていたジェナも、ぐったりと机に伏せていた。

 

「ジェナ、大丈夫?」

 

 リュカが水の入ったジョッキと冷たいおしぼりを手渡してくれる。

 それらを礼を言って受け取りながら、ジェナはゆるく首を振った。

 

「頭痛が治らないわ。こんな時にタイミング悪すぎ……」

 

 まさか月のものの前兆が被るなんて。本当にツイていない。

 暦ではまだ先のことだったから、考えもしなかった。ここのところ忙しかった為、ホルモンバランスが乱れたのだろう。

 経血の手当てをするにはまだ早いが、ジェナは月経前が最も不調になる体質だった。

 

 胃が空の状態だと良くないからと、ジェナはテーブルに用意されていた林檎を齧った。旬の時期ではないので酸味が強いが、中々いける。

 それから狩猟に持ち込む回復薬と同じ成分の薬を口に含み、水で流し込んだ。

 ジョッキのほのかな木の香りが心地良いが、いま薬を飲んでも四半刻ほど過ぎないと効き目は出ない。

 

 先程の戦いで気圧が大幅に変化したことに加え、この揺れと籠った空気。

 そう多くない窓際の席は、先程の同僚のように三半規管がやられた者で埋まっている。モンスターと揶揄されるようなハンターだからといって、全員が特別頑丈なわけではないのだ。

 

「あんたはこの揺れの中で文読んでて、よく気分悪くならないわね……」

 

 ジェナはズキズキと痛む頭をおしぼりで押さえながらぼやいた。

 

「ぼく、昔から何しても酔わないんだよね。唯一酔ったのは爆走ネコタク一回だけかなぁ」

 

 リュカは猟虫用の蜜餌を吸うジャックを撫でながらあっけからんと言い放った。

 ネコタクはチケットさえあれば、怪我人でなくても運んでもらえる。だがまれに、その運転手アイルーの性格でとんでもない暴走車に当たることがあった。

 

 さて、ジェナの視線の先にあるのは、リュカが手に持っていた紙の束。

 それは防衛戦が始まる前に研究班リーダーが直々に手渡してくれた手紙だった。学者が書いたものにしては珍しく、端正な字がぴしりと並べられている。

 

「それ、あんたのところの学者さんからだっけ。なんて書いてあったの?」

「報告ご苦労様〜だって。ユウラさんも色々大変だったらしいよ」

「まあ、そうでしょうね」

 

 リュカが手紙を手渡す。

 ジェナは額のおしぼりの間から目を覗かせ、書かれた文章にざっと目を通した。

 

────

 

 エイモズ君、報告ご苦労様です。

 送っていただいた文書、拝読しました。

 

 テオ・テスカトルとそれを追うナナ・テスカトリの行動、また周辺環境への影響に関しては把握できました。

 そして新しくペアを組んだ方がいらっしゃることも。貴方が誰かと組むなんて、余程息の合う方だったのですね。喜ばしいことです。

 

 さて、炎妃龍ですが。主が居ないとはいえ、まさか黄金郷まで踏み入るとは……大胆な王妃もいたものですね。

 

 此方も地殻変動の影響は大分落ち着いてきましたし、本当は私も仕事を中断してそちらに向かいたかったのですが……探索している時に古代のお方から「此処に居た方が良い」とお告げがあったのです。

 我々調査団は彼らの助言に度々導いていただきましたから、此度も従わねばと思いました。もしかしたら、長年私が追ってきたものに相見えるやもしれません。

 

 きっと、これから何かが起こるのでしょう。私はその時まで此方で待つことにします。

 エイモズ君は引き続き調査を継続してください。ばったりと会った際や会議の際にお話を聞けること、楽しみにしておりますよ。

 

追伸

詳細に伝えてくださるのは大変有難いのですが、もう少々字を濃くはっきりと書いていただけますと助かります。宜しく頼みます。

 

パパダキス

 

────

 

 やや堅い筆跡と文調でありながら、随分と朗らかな手紙だ。送り主の人柄がなんとなく伝わってくるような気がした。

 ジェナが顔を上げたタイミングで、リュカは眉を寄せて首を傾げる。

 

「おかしいな、ユウラさんまだ老眼って歳じゃなさそうなのに」

 

 手を目から遠ざけてピントを合わせる仕草をするリュカに、ジェナは呆れた視線を向けた。

 

「悪いけどあたしもユウラさんと同意見だわ」

「えっジェナもう老眼始まってるの?」

「んなわけないでしょ、あんたの字が読めないんだっての! 百歩譲って形は気にしないとしても、薄すぎよ!」

 

 ジェナがペシペシと手紙を軽く叩きながら抗議すると、リュカは心外だという顔をした。

 

「ワオ……え、まじか」

「自覚なかったのね……」

 

 そんな主人をよそに、ジャックは蜜を吸うのに夢中だ。流石にリュカが可哀想なのでもう少し気にしてあげてほしい。

 ペアを結成してからまだ一月も経っていないが、リュカともだいぶ打ち解けてきたとジェナは思う。くだらないやり取りに大袈裟に溜息を吐いて見せつつも、その表情は柔らかくなっていた。

 

 ジェナはふと空になった封筒に書かれた差出人の名前を見て、合点がいく。

 

「なるほど、ユウラって下の名前だったのね。道理で最初ピンとこなかったわけだわ」

「呼びづらいからそっちで良いよってさ」

 

 リュカもテーブルの上の皿へ手を伸ばし、林檎を一つ手に取って齧る。

 ジェナは「へぇ」と少し目を開いた。

 

「思ったよりフランクな方なのね」

「身分とか年齢とかあんまり気にしない人なんだ。流石にタメ口だと優しく窘められるけど」

「そりゃそうよ」

 

 ジェナは水を飲み干した。少し頭痛がましになってきたような気がする。

 

「まだセリエナにいるなら、この後パ……ユウラさんとは合流する形になるかしらね」

「そうだね。テオが着いてたらバタバタするだろうけど、その前後で話せたらいいなぁ」

 

 リュカは一度食べかけの林檎を置いて、いそいそと懐からハンターノートとペンを取り出す。

 そのノートには文字とスケッチがびっしりと描き込まれており、他人が読むのには随分時間がかかりそうだ。

 

 早速リュカが描き出したのは、相対する二頭の龍だった。生き物好きは観察眼にも表れているようで、簡単な絵だが線が生き生きとしている。

 どうやら先刻の古龍らの戦いを記録しているらしい。

 前のページにはいつの間にか、アステラを飛ぶ炎王龍についての事項らしきものが書かれていた。

 そしてあちこちに環境生物の落書き……ではないだろうが、スケッチが描いてあった。

 

「リュカ、あんたこんなに生き生きとした絵が描けるなら、環境生物のあの方とかにも一目置かれてるんじゃないの?」

 

 新大陸には固有の環境生物も数多く存在する。

 そんな彼らをこよなく愛し、自らもフィールドに赴くほどに情熱を向ける調査員が、環境生物のリスト管理を担っていた。

 噂によると、若いながらも次期当主として期待されている人らしい。所謂お偉いさんだ。

 

「あー、あのお姉さん! フィールドでばったり会ったらよく語ってるよ。この前はハコビアリ貰った」

「もらっ……え、そのハコビアリはどうしたの?」

「勿論うちにいるよ。任務があるとなかなか帰れないけど、巣の元が食べ物代わりになるやつだから食料問題は多分大丈夫」

 

 アリが家にいるという光景はあまり想像したくなかったが、リュカのことだから逃げないよう対策もしているのだろう。

 

「な、なるほどね。……他には何か飼ってるの?」

「カスミジョロウが二匹! 天井にいるんだけど、それぞれ性格違ってかわいいんだよ。害虫も食べてくれるし」

 

 この瞬間、ジェナはリュカの家には上がれないことを確信した。

 いくら大自然を相手にするハンターだからといって、苦手なものは苦手なのだ。狩猟時などのやむを得ない時以外は極力関わりたくない。

 ジャックを筆頭とする猟虫は、腹部を凝視しなければ大丈夫といった具合だ。ふわふわしているところは可愛いと思う。

 

 リュカは林檎の芯ギリギリのところまで齧りながら、ペンをくるくると回す。行儀は良くないが、器用なものだ。

 

「それにしても、お告げって何だろう。古代竜人の方には、一体何が見えてるんだろうね」

「わからないわ。竜人族はあたし達よりずっと長寿だって聞くし、古代竜人って種族もそうなのかもしれないけど……経験に裏打ちされた勘ってやつなのかしらね」

 

 寿命が長ければ長いほど、多くの物事に出会う機会は増える。無論、残された時間をどう使うかはその者次第ではあるけれど。

 何百年も生きるという感覚は、自分達にはわからない。それと同様に、アリのような寿命の短い生き物の感覚もわからない。

 短命の生き物からすれば、きっと人間が何を思い何を糧にして生きているかも、謎のままなのだろう。

 

 要は、想像することはできてもすべての価値観や感覚を理解するのは不可能なわけだ。これは文化や母語となる言語が異なる場合にも存在する溝である。

 

「ユウラさんも、きっとぼくらとは違う視点で生き物を見ているんだろうな。いつだって、ぼくが知らないことを沢山話してくれるんだ」

 

 リュカは肘を突き、どこか憂いを帯びた笑みを浮かべる。その声音はいつもよりも低く落ち着いている。

 彼がこんな表情をすると思わず、ジェナは少し面食らって見つめてしまった。

 

「本は先人達が残してくれた知識の積み重ねだ。だからそれを読めば、自分で発見したり検証したりしなくても知識が入ってくる。でも、それだけじゃ得られないものもきっとあって……」

 

 リュカはテーブルの上で指を組んだ。

 

「学者さんってすごいなと思うよ。ぼくはそんなに学があるわけじゃないから、どちらかというと誰かの新しい発見を教えてもらう側なんだ」

「確かにすごいけど……でも、あなたも調査団のハンターでしょう? しかもテスカト調査の最前線を担うチームの一員よ。モンスターと相対する中で新たな発見に出会うこともある筈だわ」

 

 ジェナが問いかけると、リュカは「そうなんだけどね」と顎に手を当てて考える。

 

「確かにこの組織に入って、自分も発見をする側に立った自覚はあるよ。というか、日々発見の連続だ。……でもなんかこう、考え方というか、見る角度が違うんだなって思うことは多々あるんだ」

 

 寂しそうな横顔に、ジェナは言葉を失う。

 リュカはまだ若い。望めばきっと色々なものが手に入るのに、どうしてこんなにも諦めることに対して抵抗が無くなってしまっているのだろう。

 ……否、おそらく抵抗が無いわけではないのだ。

 

「いや本当、ないものねだりだよね! せっかく貴重な経験ができる立場にいるのに、これ以上何を望むんだって話になっちゃうよ」

 

 リュカは取り繕うように笑って見せた。あまりにも慣れたその一連の動作に、ジェナは胸が痛む。

 

 ふと視線を逸らすと、窓の外の風景が目に入る。

 外は段々と落ち着きを取り戻していた。波が収まるにつれて、窓際で船酔いに苦しむ者も減っていく。

 

 食べ終えた食器を下げてくれた給仕アイルーに礼を言うと、ジェナは再びリュカに向き直った。

 

「何も知らないあたしが言えることじゃないかもしれないけど……少なくともあたしには、リュカが好きなものを目の前にした時の姿は、輝いて見えるわ」

「え……」

 

 リュカは目を瞬かせる。

 

「もっと希望を持ってもいいと思うわよ。せっかくこんな所まで来たんだから、自分のやりたいようにやった方が面白いじゃない?」

 

 ジェナはニッと口角を上げて見せた。

 リュカはしばらく唖然としていたが、やがて安堵したように溜息を吐いた。

 

「……そうかも、そうだよね。新大陸まで来たんだから、生まれも育ちも関係ないよね。みんな縛られずに好きなことにひたむきに生きてる……」

 

 再度リュカが顔を上げた時には、ぎごちなかった笑みは晴れやかなものになっていた。

 リュカにはこれくらいの年相応な表情のほうが似合う。

 

「ありがとう、ジェナ。ぼく、知らないうちに自分に枷をはめてたみたい」

「フフ、あたしは何もしてないけど? 気楽にやっていきましょ。今はそんなこと言ってられないけどね」

 

 リュカは「それもそうだね」とケラケラ笑った。

 

 

 

 ジェナは狩猟笛の汚れを拭き終えると、調律をし始めた。チューニングピンをハンマーで回し、一音一音の高低を確認していく。

 最後の音の余韻が響く頃、ふと思ったことを呟いた。

 

「それにしてもあのテオ、孕った妻がいるのになんで人探しの独り旅なんてしてるのかしら。もしあたしが旦那に同じことされたら口聞かなくなるわよ」

 

 リュカは操虫棍の刃を研ぎながら首を傾げる。

 

「ここまで見てきたけど、やっぱわかんないよね。あれじゃない、老後を楽しもう〜的な?」

「だとしても、よ。子どもが生まれてからにすれば良いじゃない。探してるナナがあまりにも可哀想だわ」

 

 炎妃龍は必死に炎王龍を探していたと聞いた。

 だが風翔龍との戦いがあったにもかかわらず炎妃龍がアステラに来なかったということは、おそらくまだ会えていないのだろう。

 

 あの炎王龍が考えなしに自分勝手なことをするとは思えなかった。それでも、残された炎妃龍に感情移入してしまうのだ。

 

「……あたし、ちょっとだけナナの気持ちがわかる気がするの」

「ジェナ……」

 

 ジェナは俯き、太腿の上で拳を握った。

 

 子どもを身籠れば、何かと不安になりやすい。

 ホルモンバランスの乱れによるものは勿論のこと、今後のことや子どもがちゃんと成長しているかなど、考えるべきことが山積みなのだから。

 どんどん変わっていく身体に、長く続く身体の不調。そのまま誰からも助けがなければ、心の病を患ってしまう妊婦もいるという。

 そんな時に自分を置いて姿を消した夫。なんと酷いことをするのかと憤慨するのも頷ける。

 

 何よりも、大切な相手に置いていかれるつらさは分かっているつもりだった。

 自分は相手にとって、その程度の存在だったのだと突き付けられる絶望感と孤独を。

 そんな中でも炎妃龍が追いかけようとした気持ちも、痛いくらいに共感してしまう。

 

 ジェナが見せた暗く濃い影の部分に、リュカは眉を下げる。

 少し考えたのち、リュカは黙ってジェナの傍に居ることを選んだ。

 身体は触れず、言葉もかけない。ただ、独りにさせないことで救われるものもある。

 

 

 

 船は段々セリエナへと近づいていく。

 もしかすれば今はもう、事が始まっているかもしれない。

 

 少しずつ冷たくなっていく潮風が、船の中を通り抜けていった。




PMSってしんどいよね。

というわけで二章が始まりました。
今後どう展開していくか、見守っていただけると幸いです。


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雪に消えゆく焔を追って

 

 

 

 時は一刻ほど遡る。

 

 

 

 宙を舞い踊る雪の花は、朝日をちかちかと弾く。

 

 吐く息すら白く凍るこの地では、別段珍しくもない光景だ。

 岩山を彩る銀世界の中では、そのきらめきはすぐに消えてしまう。

 またあるものは、豊かな地熱で起こる湯気や煙突の燻りの中に溶けていく。

 

 渡り着いた人々が雪に閉ざされた峡谷を開拓して創り上げた、温もりと静寂が共にある止まり木。

 野心に溢れ新たな知を求める人々が、さらに活動範囲を広げんとして築き上げた砦。

 それこそが、此処──前線拠点セリエナだった。

 

 セリエナの北側には、赤い布の括り付けられた紐が、まるで結界のように張り巡らされている。

 その下にあるのは、大掛かりな兵器を保管しておく兵器置き場だった。

 

 手前には予備の弾などを保管したり見張りを担当する者が休んだりするための天幕が、両側には大砲やバリスタといった標準的な兵器が置かれている。

 

 一見すると立体的な闘技場のようにも見えるが、その実は言ってしまえば物置だ。

 普段は兵器の整備を担う者や物見櫓から見張りをする者がいる程度と、まず日頃の調査には用のない場所である。

 しかし今は、セリエナの調査員の半数以上が弾薬の入った箱などを持って足速に行き来していた。

 

 そんな中、ごった返す天幕の近くでぽつりと佇む人影がひとつ。

 尖った耳は霜焼けしないよう帽子に仕舞い、長い髪も結ってしまい込んでいる。読み終えた竜皮紙を後ろに重ねるのに、悴んだ手は何度か滑って失敗した。

 

 ほう、とその人物が息を吐くと、白い塊は空一面の鈍色に解けていく。来たばかりの頃は物珍しかったそれにも、もうすっかり慣れてしまった。

 雪風が、首元を覆う毛皮から漏れた息で凍った前髪をなびかせる。

 目を守る睫毛は、降った雪と息の凍った水滴で重く、白くなっていた。

 

 周りでは、調査員たちが頻りに情報を伝え合っている。

 清潔な水や包帯に十分な薬品が整っているか、長期戦になった場合に備えて食糧の備蓄は十分か。特にテスカトとの戦闘になれば火傷は避けられないため、輸液の為の生理食塩水は膨大な量が必要となる。

 そして砲弾に弾を込め終えただの、速射砲の整備が整っただの、物見櫓からもまだ標的が観測できないだの。

 班のリーダー達から報告を受けた司令官はそれら一つ一つに頷き、仲間を労う言葉を掛けた。

 風通しは良いものの、なんとも物騒な情報交換である。

 

 そんな言葉が飛び交うことは、やや稀ではあるが慣れたものだ。

 長い航路の末に辿り着いたこの場所に足を踏み入れてから、新たな船は二度にわたってこちらへ来た。

 特に最後の船が到着してからは、護衛を頼みながら自らも龍の域へと足を伸ばすことも増えている。

 

 仲間がテントの天幕を持ち上げてこちらへと歩み寄ってくる気配を感じながらも、その人物はただ目を閉じていた。

 

「ずっと外にいては凍えてしまいますよ、ユウラさん」

 

 ユウラと呼ばれたその人は、相手の目的が自分だとわかると柔らかな笑みを湛えて振り返る。

 ニッと人好きのする笑みを浮かべるのは、セリエナの生態研究所で働く同僚だ。

 同じ竜人族でも、調査団に所属しているのは腰の曲がった爺様方──豊かな知恵と経験を重ねた聡明な学者がほとんどだ。数少ない自分と同じ若者であるため、ユウラは学に対して情熱的な彼に対して親しみを覚えていた。

 

「ご心配をどうもありがとう。でも、今はどうしてか外に居たい気分なのです」

 

 ユウラが「凍えないようには気をつけますね」とウインクをすると、学者はやれやれと溜息まじりに苦笑した。

 都市ヴァルクスに近い火山地帯の出身であるユウラにとって、セリエナの寒さは身に堪える。

 物心ついた頃から溶岩に慣れ親しんでいたため、きっちりと仕事をこなしつつも寒い寒いと騒いでいる者には、心の中でこっそりと共感していた。

 

 温泉が沸いている分いくらかましになっているとはいえ、吹き付ける風は恐ろしく冷たい。

 少し前に爺様方や若き期団長らは大峡谷の向こうへ行こうと勇んだが、ユウラはアステラに留まることを選んだのも、暖かさが心地よかったからだ。

 セリエナへと派遣された当初はすぐにでも帰りたいと思っていたが、今は何故かこの雪風に当たっていたかった。

 

 新大陸は龍脈が各地に張り巡らされているため、溶岩が湧き出ている場所は多い。

 だが溶岩地帯と呼べるのは龍結晶の地か、導きの地の最下層くらいなものであった。少し奥地へ行くと硫黄のにおいのするあの暑さを懐かしむこともある。

 

「それで、炎王龍のほうはどうなんです?」

 

 スッと笑みを収めた同僚に、ユウラは唇を一文字に引き締めた。

 

「アステラの現状はまだ報告が届いていないのでなんとも言えません。が、先程の伝令からして、セリエナのある方角は知られてしまっているのでしょう……だとすれば、準備は万全にしておくに越したことはありませんね」

 

 月並みなことしか言えないが、これ以上はユウラ個人の力でどうにかなることではない。

 現大陸の都市のように、他の街などとすぐに連携が取れるわけではないアステラとセリエナは、互いでまめに情報共有を行う他なかった。

 

 現時点で分かっていることは、龍結晶の地に縄張りを構えていたテスカトの番のうち、雄が巣を残して立ち去ったことと、その大まかなルート。

 雌がそれを追っており、黄金郷などのあちこちで痕跡が発見されているが、防衛戦の為の人材不足でまだ発見されていないこと。

 そして、雄──炎王龍はヒトもしくはヒトに関する何かを探していること。

 

 片角の年老いた炎王龍とその番の若い炎妃龍は、ユウラが発見してからずっと観察してきた個体だった。

 調査団では青い星と牙を交えた個体らに注目が集まっていたが、ユウラはこちらの番の調査をさせて貰えるよう上に頼み込んだ。テスカトだけに、焦がれていたと言っても過言ではないかもしれない。

 それは恋や愛欲とは異なるもの。自分は彼を独占したいとも、情を抱こうとも思わない。

 ただ、釘付けにされてしまって目を離すことができない。そんな不思議な存在だった。

 

 どうしてか、胸が苦しくなるほどの懐かしさを覚えるその姿。

 護衛がいるとはいえ、学者の自分は安全のために双眼鏡で拡大した姿しか見たことがなかったが、遠目から見守れれば十分だった。

 

 傍目からすれば、研究熱心な学者として映るだろう。対象に魅入られて、そのことしか頭に入ってこないような。

 それは他の学者とも同じかもしれない。だが奥底にあるのは、研究への意欲ではなく個人的な感情だ。

 この思いが何に由来するか理解できるまでは、周りに悟られてはいけない。いつしかそう思うようになった。

 こういうところが、変わっていると言われる所以なのかもしれない。が、今は周囲も負けず劣らず奇人や変人ばかりだ。

 

 ユウラはそっと目を伏せる。

 

「龍とヒトは異なる。……それでも私には、あの彼(・・・)が我々に危害を加えるとは思えないのです」

 

 含みのあるその言葉に、学者はぴくりと眉を上げて発言の主に視線を向けた。

 ゾラ・マグダラオスや性別の判明するリオス種などのモンスターに対して代名詞を用いる者は時たま存在する。

 しかし今のユウラの口振りからは、敢えて意味の籠った遣い方をしているように聞こえた。

 もしくは、"何か意味を持っていると解っているのを隠していた上で"思わずポロリと溢れてしまったかのような。

 

 学者は目を瞬かせる。

 疑っている訳ではない。だが調査団にとって有益な情報を握っているのだとすれば、なぜ共有しないのか。

 龍と人が異なることはよく解っているつもりだ。けれど、ユウラが言いたかったことの核心は別にある気がした。

 

「……あなたは、何を知っているんですか?」

 

 実際、咎めるような言い方ではなかった。純粋に、疑問を投げかけただけといったような。

 それに対してユウラは僅かに動揺を見せ、困ったような笑みを浮かべた。

 

「ごめんなさい、私自身もよく分からないのです。……とはいえ、私がずっと研究対象として追っていた龍ですので。他の方よりも、ほんの少しだけ多く彼を観察しているというだけですよ」

 

 言い方こそ柔和だが、それは"これ以上は踏み込むな"という線引き。

 学者は尚も見つめていたものの、ユウラはそれ以上は何も言わず、再び雪の降り止まない空へと視線を移した。

 

 

 

***

 

 

 

 いつしか窓からは、冷たい風が吹き込むようになってきていた。

 アステラを出た時のままの格好ではもういられない。既に周りの者は分厚い毛皮のケープやコートを羽織っており、渡りの凍て地が近いことを如実に示していた。

 

 いま乗船している者の多くは四期団と五期団だ。アステラから来た者もいれば、セリエナから出張に来ており戻る最中である者もいる。

 その殆どがハンターであるため、こう──端的に言うならば、むさ苦しい。

 出航当初と比べれば船の中は騒がしく、足音すらもかき消されてしまう。

 

 そんな中、ジェナは奥のテーブルに移り、温めて香辛料を効かせた果汁に息を吹きかけていた。

 果汁に香り高い木の皮を乾燥させたものと、芳香と辛みのある根を混ぜたそれは、身体を芯からぽかぽかとさせてくれる。

 セリエナには香辛料が豊富にある。そのうちの一部はアステラにも輸入され、食材の貯蔵や食欲増進効果に一役買っていた。

 これ以上ハンター達の食欲が増しても困ると、激務の給仕アイルーからの愚痴があったのはここだけの話だ。

 

 リュカは用を足しに行っているため、今このテーブルに居るのはジェナ一人。

 ふいにトン、と肩を叩かれ、ジェナは振り返った。

 

「はぁい、ジェナ。ご機嫌いかが?」

 

 聞き覚えのある、低くも艶やかな声。

 そこには上質な毒妖鳥の装いに身を包み、赤い唇に笑みを浮かべた大柄なハンターが立っていた。

 

「キャシー!」

 

 キャシーことキャスリーンは、ジェナの同期だ。セリエナが創られてからは、渡りの凍て地の偵察を兼ねた食料調達係として奔走していたらしい。僻地生まれのキャスリーンは、自給自足術に長けている。

 さっぱりとした姉御肌な性格の彼女は、皆から慕われていた。

 

 ジェナはさっそく隣の椅子を引き、腰掛けるよう勧めた。そして料理を運び終えた給仕アイルーを呼び止め、キャスリーンの分を注文する。

 

「アステラに来てたなら、声を掛けてくれたら良かったのに。そのリップカラーも似合ってるわ」

「まったく呑気ねぇ……でもありがと。話したいのは山々だったけど、それどころじゃなかったんだから。アタシ達がセリエナに情報伝達をしてたのよ」

「うわ、そりゃ大変。お疲れ様」

 

 キャスリーンは手を組んで肘をついた。それからトテトテとアイルーが運んできてくれたカップを受け取り、ふと辺りを見回す。

 

「そういえばセルマちゃんはどうしたの?」

「マム戦で怪我しちゃって、まだ療養中なの。その間、代わりにペアを組んでるのが──」

 

 その時、席を立っていたリュカがこちらへ戻ってくるのが見えて手を振る。

 彼が戻ってくるや、ジェナは相方の腕をぐいっと掴んだ。

 

「──この子ってわけ。こちらはリュカよ、彼女はキャスリーン」

「もー、この子って歳じゃないよ。……あ、僕はリュカです。こっちはジャック。よろしく」

 

 ジェナに文句を言いつつ、リュカが手を差し出す。勿論ジャックの掴まっていないほうの手で。

 キャスリーンは束の間目を瞬かせたが、やがて握手に応じた。

 

「アタシはキャスリーン、大剣使いよ。キャシーでいいわ」

 

 挨拶もそこそこに、三人は飲み物を片手に談笑していたが、そのうち船の中が騒がしくなってくる。

 そろそろセリエナも間近だ。

 碇の用意やら天候確認やらで人々がばたついている中、キャスリーンはジェナにだけわかるように手招きした。

 それから周りを少し見て、そっと耳打ちする。

 

「ジェナ、アナタあの子と組んで大丈夫なの?」

 

 心配の言葉に、ジェナは息を吸い、曖昧に微笑む。

 

 キャスリーンは、ジェナの過去を知っている数少ない存在だった。

 自分はこれまで"性"で苦しんできた、だから新大陸で生き方を変えたいのだ、と打ち明けてくれた彼女なら、信頼できると思ったのだ。

 この苦しみは、経験した者にしか解らない。そう心を閉ざしていたジェナに優しく触れたのは、セルマとキャスリーンだった。

 

「どんな経緯でペアになったかはアタシは知らないけど……でも、もしつらくなったら。その時は無理しないほうが良いわ」

「ありがと、キャシー。……でもね。リュカとは組んでまだ日が浅いけど、彼には色々救われてるの」

 

 ジェナは静かな笑みを湛えた眼差しを、ウルムーの後ろ姿へと向ける。

 

「どうしてかは分からないけど、今はあたしにとっての転機なんじゃないかって。そう思うのよ」

 

 ジェナの横顔に、キャスリーンは暫く何も言えずにいた。灰青の瞳の揺らぎが、どこか危うげに見えたのだ。

 だが少しして、ふぅと溜め息を吐く。

 

「まあ、何かあったら言いなさいな。話を聞くくらいならアタシにもできるから」

「ありがと。あーあ、キャシーがずっとアステラに居てくらたらいいのに!」

「はいはい、褒めても何も出ないわよ」

 

 ジェナを適当にあしらい、キャスリーンはカップの残りを飲み干した。コト、と空になったそれをテーブルに置くと、ハンカチで口元を拭く。

 

「さあ、もうじきセリエナに着くわ。降りる準備をしないとね」

 

 ジェナはキャスリーンと別れ、戻ってきたリュカと共に甲板への階段を上った。

 

 

 

 吹き込む雪混じりの風の中、あかい火の粉が舞っている。

 何処かの国では、紅と白は縁起の良いものとされているらしい。

 けれど今この地を染めるそれらの色は、常を超えるもの。

 

 凍える寒さの中でもすぐに消えない生命の焔は、雪降る温もりの地で脈打っていた。




ここまでお読みくださりありがとうございます。
最近多忙でヘロヘロだったので、いつにも増して誤字脱字が多いかもしれません。


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皇帝座すは六花の砦

 そのいのちは、燃えた。

 小さな灯火はやがて赤い焔となり、青を慈しみ。

 

 父となるも、子と対の青を喪い、生の惨さを呪い、儚さを悲しみ。

 孤独の傷を舐め合い、新たな青に出会い、己の生に光を見出して。

 

 長い長い生涯。

 他のいのちと比べれば永遠のよう。

 それでも尚、龍の生は己が魂の望みを叶えてくれはしなかった。

 

 龍の願いは数あれど、残された時間はあと僅か。

 それならば、せめて贖罪の機を我に与え給えと。

 

 

 

 そして……──。

 

 

 

***

 

 

 

 紅い翼が空を掴み、風が起こるたびに周囲の雪が溶けていく。辺りには濛々と水蒸気が立ち込め、熱の源すらも覆い隠していた。

 湿った雪の匂いと何かが焦げたような匂いが混ざり、なんとも言えないものとなっている。

 

「遂にお出ましだよ、牙を持つ太陽が」

 

 ルージュの隙間を通った低く艶のある音が、呟きへと形を成す。

 

 青い星を中心として、戦闘に特化した精鋭らは熱源を見上げていた。その視線は敵意を押し隠しつつも、歓迎ムードとも言い難い。

 

「……何が目的かは知らないけど、故郷(ティンベン村)の悲劇を繰り返させはしないぜ。オレだって強くなったんだ」

 

 鋼龍の防具を纏った青年──エイデンはその眼差しに険しい光を浮かべ、武器の柄を強く握った。普段の陽気さも、今ばかりは鳴りを潜めている。

 彼の故郷に被害をもたらした炎妃龍は、炎王龍の対となる龍だ。目の前にいる龍はその個体でなくとも、思うところがあるのだろう。

 編纂者リアは、そんなバディの傍らにそっと寄り添うように立った。

 

 実際、いつ炎王龍が暴れ出しても戦闘要員ができる限り減らないよう、彼に姿を見せる際の班とその順番も決めてあった。

 推薦組で編成された精鋭チームはトップバッターだ。それは、こちらにはこれだけの戦力があるのだと知らせる為の牽制でもあった。

 流石に調査班リーダーなどの、組織運営における要人は安全を第一に立ち回ることになっているが。

 

 炎王龍がただ其処に在るだけで、漂う空気感はがらりと厳かなものとなる。セリエナの兵器置き場が、まるで宮殿や城に変わってしまったかのようだ。

 

 ここには可動式の速射砲や大砲、防護壁なども設置されていた。これはイヴェルカーナの襲来が予測された際に、二期団をはじめとする調査員たちが至急で造り上げた設備だ。

 それらで時間を稼ぎ、撃龍杭砲を完成させて第一次のセリエナ防衛戦を堪え切ったのは記憶に新しい。

 尤も、その作戦はイヴェルカーナが防護壁に執着してくれたからこそ、撃龍杭砲(リーサルウェポン)を用意する為の時間稼ぎに成功したものだったが。

 

 機構が凍り付いてしまわないよう、十分に整備もしてある。ここに居るのは経験も豊富な者たちであり、それらを活用してうまく立ち回れさえすれば、古龍相手でも劣ることはまず無いと思われた。その時点で油断をするような若輩者もセリエナには居ない。

 

 だが、幸か不幸か少しずつ舞い降りる炎王龍の動きは覚束なかった。当然だろう、あんな激戦の後に遠距離を移動してきたのだから。

 そして何より、極寒の空気は炎を司る龍にとっては猛毒以外の何物でもなかった。

 

 あと少しで着陸するという時、龍はフッと力尽きたように羽ばたくのをやめてしまった。

 

「ああっ……」

 

 間も無く、その巨体はズン、と音を立てて崩れ込む。龍の体温で、地面の雪が溶けてしまっていたことが皮肉だった。

 あの高さでは骨折には至らないだろうと推測されるが、骨密度が低下した老個体であれば体重に耐えられないかもしれない。

 

「まあ、そうなるだろうな」

「どうして……こんなになってまで、ここに来る必要があったっていうの?」

 

 ギャラリーの一部からは心配げな声が上がる。いくら拠点に侵入してきたモンスターとはいえ、警戒状態でないならばそこに在るのは体温のある生命なのだ。

 しかし炎王龍の目的が不明である以上、無闇に近づくこともできない。

 

 やむ事なく降り続く雪は、炎王龍の角や冠を白く化粧しては溶けて老いた身体を濡らしていく。

 寒空の下に在る炎王龍の姿は、美しくも哀れだった。やはりかの龍が最も燃え盛るのは炎の宮殿に座している時なのだ。

 

 調査団の者たちは、ひたすらに待った。

 統率する若き司令官も、自らの判断を誤らないよう慎重に、かつ冷静に場をじっと観察している。

 重い沈黙の中。雪混じりの甲高い風の音、そして鞴のような呼吸音とパチパチと何かが燃える音だけが響く。

 

 やがて炎王龍はふらつきながらも徐に立ち上がり、四つの脚で地面を掴む。

 その蒼い眼差しは、周囲へと向けられた。

 

 

 

 炎王龍は、すう、と息を吸った。

 

 己を取り囲むのは、姿形は異なれど先程の"巣"にいた者たちと同じもしくは近縁の生き物。そして探し求める者の、おそらくは仲間だ。

 だが、いま見えている中には居そうにない。折角ここまで来たというのに、徒労に終わるのだろうか。

 

 冷たい空気を取り込み続けた呼吸器も、疲れを無視して動かし続けた翼も、地面に打ち付けた場所も、どこもかしこも痛い。

 それでも、ようやくここまで辿り着いたのだ。この機を逃すわけにはいかない。もし会えなかったとしたら、失意にこの身体は動かなくなってしまうだろう。

 

 炎王龍は、大小様々な鋭い牙の生え揃った口を大義そうに開く。

 そして、細く鳴いた。獣によく似た、しかし唸りとは異なる声。これまでの威厳が嘘のような、どこか寂しげな声。

 

 

 

 オォウ、オゥゥ……と切ない鳴き声が響いては雪に消えていく。

 

「歌姫ならぬ、歌ジジだな」

 

 青い星の後ろで何人かが吹き出した。

 発言主のとぼけた弓使いは、すぐさま「こんな時に馬鹿言ってるんじゃないよ」と相方の姉御肌な剣斧使いに引っ叩かれる。

 

 そんなことは構いもせずにじっと炎王龍を観察していた受付嬢は、ううんと唸った。

 

「仲間を呼んでいるのでしょうか……でも、テスカトのこんな声は聞いたことがありません。ナナ・テスカトリを呼んだとしても、一体何をするつもりなんでしょう」

「さあ、どうなのかしらね。リオスは瀕死になるとおどろおどろしい声で番いを呼ぶけど、これは危険を知らせるものとは違うんじゃないかい?」

 

 受付嬢の呟きに、青い星が返す。彼女らの後ろ姿は、相棒というよりは歳の離れた姉妹や師弟のように見える。

 

「今のところ、敵意は無さそうだな。アステラからの報告にあった通りだ」

 

 調査班リーダーが青い星の隣に並ぶ。それから振り返り、指令を出した。

 

「武器はまだ出すなよ。極力、炎王龍を刺激しないようにして観察を続けるぞ。後続部隊もゆっくり出てきてくれ」

 

 調査班リーダーが先程の元凶をチラリと見ると、弓使いは気まずそうに頭をかいた。

 人々は頷き、炎王龍の前に姿を表しては待機を続ける。そんな中、テントの近くにいる編纂者と学者のみが筆を走らせていた。

 炎王龍が降り立ってから、どれほどの時間が経っただろう。一刻、もしかすればまだ数分しか経っていないのかもしれない。

 

 この寒さで何もせずにじっとしていると、身体の芯から冷え込んでくる。事前に支給されていたホットドリンクさえも、気休めだった。

 ヒトの身でこの様なのだから、寒さを苦手とする炎王龍にとってはもっと過酷だろう。

 だが炎王龍はそんな様子は見せず、未だにキョロキョロと辺りを見回して落ち着かない様子で歩き回っている。時折クンクンと匂いを嗅いでは、再び鳴き声を上げるばかりだった。

 

 その時、受付嬢が瞬きをし、指を唇に当てた。

 

「……もしかして、テオ・テスカトルはここに目的の何かがあるって確信したんじゃ。私には、その匂いが残っているからああしているように思えます」

「確かに一理あるわね。……でも、だとすればそれは一体誰なの? 心当たりのある人はいないのかしら」

 

 リアは辺りを見回すが、誰もが首を横に振る。

 

 限界が近いのだろう。次第に炎王龍の周囲にも、雪が溶けずに降り積もるようになっていった。

 赤い筈の鬣は、雪のせいで白いのか、老いのせいで白いのか最早判別がつかない。欠けた角に六花が積もるさまは、哀愁を帯びていた。

 

 やがて炎王龍は息を深く吸い込み、一際大きな声で唸った。その後、フ、フ、と息を吐き出す音を立てる。

 

 その時、テントの傍らで弾かれたように顔を上げた者がいた。

 

「……あれ? この声、どこかで……」

 

 ユウラは目を瞬かせ、眉を顰める。

 ずっと観察してきた龍だが、研究の為に見ている時には聞いたことのない声。初めて聞く筈なのに、なぜか耳の奥に同じ波長が残っている。

 

(故郷の近くで炎王龍は観測されていないし、こんな声は聞いたことはない筈。それなら、私はいつどこで聞いた?)

 

 ユウラはもっとよく聴こうと、耳当ての付いた帽子と襟巻きを外した。目を閉じて耳を澄ませる様子を、同僚の学者が目の端で見る。

 すると一際強く吹いた雪風が、束ねられていた髪を大きく靡かせた。

 

 

 

 ちらちらと何かが視界に入り、炎王龍はふとそちらを見遣る。

 青みがかった髪を認めたその時。炎王龍は、目を見開いた。

 

 それまで早く揺れていた豊かな尾が、垂直になる。

 古龍は表情で感情を伝えることはない。

 だが素人目でもそうと分かるくらいには、炎王龍の蒼い双眼からは喜色と安堵が溢れ出ていた。

 

 

 

「どうやら、見つけたみたいだね」

 

 青い星が炎王龍の視線の先を見遣ると、皆の目が一斉にユウラの方へと向いた。

 

「え……私?」

 

 ユウラは困惑を隠せなかった。

 研究の為に他の者よりも近くへ行く機会があったとはいえ、その対象に探されるような関わりはしていない。

 炎王龍への憧憬の念も懐かしさも、勝手に自分が抱いているものの筈だ。

 それなのに、何故。

 

「あの龍はあなたを探していたんじゃないですか、ユウラさん」

 

 隣で学者がそっと促すと、ユウラはまだ状況を飲み込めていないながらも頷く。

 炎王龍が歩み寄ってくると、人の壁は自然に解けていった。ユウラもそれに合わせて足を踏み出す。

 

 その時、着港を知らせる笛の音が鳴り響いた。

 

 




ここまでお読みいただきありがとうございます。
約一ヶ月ぶりの更新となってしまいました。

タイトルにフフッとなってくださった方は同志です。
元はこのタイトルではないですが、おそらくどのクエストをモチーフにしているか、そろそろお分かりになるのではないでしょうか。

次回も楽しんでいただけると幸いです。


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滅日

 

 

 

 船から降りたジェナ達は、目の前の光景を固唾を飲んで見守っていた。

 

 兵器置き場の広間では、龍と人が向かい合っている。

 龍の炎は既に消えそうなほどに弱く揺れており、その鬣は冷たく濡れていた。それでも、青髪の竜人の元へと歩み寄る。

 威風堂々。雪の中で衰弱していようとも、彼の姿はまさにその言葉を体現していた。

 

 竜人は困惑しながらも、炎王龍に倣って少しずつ歩みを進めていく。

 周囲で見守る精鋭たちは、ある者はいつでも武器が出せるように、ある者はすぐに救助に駆け付けられるようにと構えていた。

 

 だが人々の心配をよそに、やがて一頭と一人の間の距離は投げナイフの投合すら届くほどに近づいた。

 鳥の羽ばたきすら許さないほどに空気は張り詰めている。ただただ、龍の吹子のような呼吸と雪風の音のみが支配していた。

 

 両者はやがて、歩みを止める。まるで何かの儀式のようだ。

 炎王龍の巨大な牙が覗く。その瞬間、誰もが武器を構えて駆け出そうとしたが、ソードマスターが手で制止した。

 

 その牙は竜人を傷つけることなく、喉奥から低い唸りを発するのみ。声が意味するところは、その場にいる誰にも分からなかった。

 炎王龍はしばらくの間、竜人に何かを語り掛けていたようだったが、やがて口を閉じて黙り込んでしまった。

 

 竜人──ユウラは束の間訝しげに眉を顰めていたが、炎王龍の目の奥に宿る光を認める。

 その瞬間。

 

「あ……!」

 

 ユウラは弾かれたように顔を上げた。

 

 独りで泣いていた自分に寄り添ってくれた、大きな身体と包み込んでくれた尻尾。ザラザラとした舌の感触。温かな蒼い眼差し。そして、自分を優しく呼ぶ鳴き声。

 それまで無かった筈の記憶が、次々と脳裏にフラッシュバックしていく。

 

 夢で見た記憶かと思ったが、それにしては具体的で鮮明すぎる。ならばきっと、現実だったのだろう。

 何十年、何百年前のことだろうか。それでも彼と自分は、昔会ったことがあったのだ。

 自分は彼をなんと呼んでいたのだったか……そう、確かそれは。

 

「……おてんとう、さま?」

 

 その言葉を聴き、炎王龍は懐かしげに目を細めて喉を鳴らした。

 

 お天道様。

 大地に恵みをもたらす太陽を、神と崇めるその呼び方。

 炎王龍は"牙を持つ太陽"とも呼ばれる古龍だ。龍を、もしくは龍の姿が見えずとも彼らによる自然災害を畏れる地域は少なくはない。

 よって、この名称もそういったところから来ているのであろうことは想像がつく。

 だが一体、自分はいつどこでこの言葉を知ったのだろう。少なくとも、大人になってから数百年は聞いていない。

 だとすれば、子どもの頃か。

 

 そこまで辿り着いて、ユウラは目を見開いた。

 

(──そうだ、おばあちゃんが……)

 

 あの山にはお天道様がいらっしゃるんだよ、わたし達をいつも見守って下さっているんだよ、と。祖母は幼い自分を膝に乗せて話してくれたのだ。

 ユウラは額に拳を当てる。どうして今まで忘れていたのだろう。

 そもそも、薄情にも家族のことすら忘れていた。

 

(お父さん、お母さん、おばあちゃん、おじいちゃん……集落の、皆……)

 

 集落。

 そうだ、昔住んでいたのは山の麓の小さな集落だったはずだ。アプトノスやケルビが草を食む、静かな場所。

 ならば自分はいつお天道様と出会ったのだったか。母の胸に抱かれていた頃、父に遊んでもらっていた頃、祖父母と手を繋いでいた頃。

 順々に思い出そうとするが、途切れ途切れの記憶はなかなか繋がらない。

 

 ユウラは顔を顰め、必死に思い出そうとしていた。その様子を静かに見守っていた炎王龍は、大きな鼻面をユウラの頭に擦り寄せた。

 その温かさと感触に触れた途端、再び記憶が花開いていく。

 

 お天道様に連れられて入って行った、暑いけれど熱くない不思議な場所。お天道様の寂しげな横顔。悪夢にうなされ続けた毎日。

 

 そもそも、あの時の自分が独りで泣いていた理由。それは、帰るべき場所がどこにも見つからない為だった。

 年を重ねたからと、少し遠出したあの日。家族や友達に自分はもう大人なのだと証明するために、集落から離れた湿地へと出掛けたのだった。

 しかし、幼い足ではすぐに疲れ果ててしまう。日が落ち、大きな音や降り注ぐ灰に驚き、泣きべそをかきながら光の方へと歩いて行った先で。

 集落は、跡形も無くなっていた。家族の住む家も、友達と遊んだ高台も、何もかも。

 幼いユウラを導いた光は、煮えたぎる溶岩だったのだ。大切なものすべてが、熱くぎらぎらとした溶岩の、中に。

 

「ぅ、あ、あああ……」

 

 ユウラは口を手で覆い、首を横に振った。

 

 あんなこと思い出したくない。

 でもお天道様について思い出したい。

 二つの望みが互いを引き裂いて、埋まっていたユウラの記憶を乱しながら弾き出していく。

 

 混乱してその場にうずくまってしまったユウラを、炎王龍はじっと見つめていた。

 その眼差しには、隠しきれない悲しみが浮かんでいた。

 

 

 

***

 

 

 

 モンスターとヒトは相容れない。それが、狩る側に立つ者らの常識だった。

 世界には乗り人なるものも存在するというが、この拠点にいる中では圧倒的に前者の価値観で生きてきた者が多い。

 

 だが、ここは新大陸。これまでの常識など塗り替えられるのが当たり前の生活をしてきた人々の集まる場所だ。

 

 いま目の前で起きている出来事にも、適応しつつあった。

 

「ユウラさん、大丈夫かな……」

 

 リュカは、人々の視線の中心にいる人物を心配そうに見つめる。

 自分たちはあくまで仕事を共にするという間柄だ。過去のことについて、深く詮索することはなかった。

 だが、今のユウラはあまりにも辛そうだ。かの人を苦しめているのは、一体どのような記憶なのだろうか。

 

「あの反応からして、解離性健忘といったところだろうね」

「かいりせい、けんぼう?」

 

 ジェナが鸚鵡返しをすると、その言葉を発した調査員が頷く。

 人は何か事故や家族を失うなどの衝撃的な出来事が起こると、そのことに関する記憶が失われたり、関連するものを無意識に避けたりするのだという。

 そんな脳のメカニズムが、ユウラを混乱させているのではないか。それが彼の推測だった。

 

 その時、ひとりの竜人族の老女が深く嘆息した。

 他の年老いた者と同じように若者の腰くらいまでしかないものの、その背筋はすっと伸びている。

 聡明なその学者は、ゆっくりと口を開いた。

 

「あの子の生い立ちから考えれば、無理はない。何せ私の故郷──そしてあの子の生まれた集落は、炎王龍に滅ぼされたんだからね」

 

 彼女の言葉に、皆が目を見張る。

 

「他人の過去を勝手に明かすのは私とて気が引けるが、このことは今の調査団にも関わる……よって、私の口から話そう」

 

 学者曰く。

 むかし、休火山の麓に小さな集落があったのだという。

 

 そこでは竜人の一族が代々暮らしてきた。周囲の人里との交流は、細々とした交易や嫁婿のやり取りくらいのもの。伝統的で慎ましやかな暮らしを、長年続けてきたのだった。

 ユウラはその集落の長の子だった。ユウラが生まれた頃、学者はちょうど嫁ぎに出る年頃だったという。

 

 そんな彼らにはある特徴があった。

 女も男も濃さや質は違えど、皆が青みがかった髪と金色の瞳をもって生まれてくるのだ。

 

「私はもう老いて色が抜けてしまったが、あの髪こそ我らが一族の色。青の炎妃からの祝福を受けた者の色なのさ」

 

 その言葉に、皆の視線がユウラの元へと向く。

 青みがかった銀色の髪。それは、現大陸で知られる炎妃龍ナナ・テスカトリの鬣と同じ色だ。

 新大陸に飛来する炎妃龍の体色は婚姻色とされている。よってユウラの髪はもう番がいる、もしくは独り者の色だった。

 

「では、その集落では炎龍たちとなんらかの繋がりがあったと?」

 

 ジェナが尋ねると、老女は頷いた。

 

「半ば形骸化していたがね。姿を見た者はほとんどいないが、太陽の恵みをもたらす龍として祀られていた。

 まあ、我々の寿命でも一人がこの世に生まれて老いて死ぬくらいまでの間、火山は眠ったままだったから……きっとお天道様──山の主も、席を外していたんだろうさ」

 

 「しかし」と学者は目を閉じた。

 

 ある年、お天道様は戻ってきた。それも、蒼炎を纏うお月様を連れて。

 苛烈で警戒心が強いことで知られる種族ではあるが、お天道様は温厚でおおらかな性格だったという。

 よって、集落の何人かがその番の姿を目にしていた。今考えてみれば、学者らにとっては目を輝かせるような光景だっただろう。

 

 お天道様とお月様の間には、やがて新しい生命が宿った。

 そうなれば流石に目撃される回数は著しく減ったものの、集落の人々はめでたいことだと喜んだのだという。

 御子が生まれればきっと、我々の住む地にも素晴らしい利益がもたらされるだろう、と。

 

 老女は閉じていた瞼を開いた。

 白いまつ毛に縁取られた金色が、暗く揺れる。

 

「だが、人々が待ち望んでいた未来は、訪れなかったのさ。御子は生まれることなく、お天道様の怒りと悲しみが辺り一帯を支配した。それに呼応して、眠っていた山が目を覚ましたんだ。

 ……酷い有様だったよ。尤も私はもう別の村へと嫁いでしまっていたから、見たのは全て終わった後の光景だったがね」

 

 それはまるで、古龍の在り方をそのまま表したような話だった。

 彼らにとっては、他の生き物と同じようにただそこに在るだけ。家族を持ち、喜びや悲しみを感じ、生きているだけなのだ。

 それでも、自然は彼らの持つ強大な力に引き摺られてしまう。

 

 おそらくは、元々浅いところまでマグマ溜まりが上昇してはいたのだろう。それが、炎王龍によるなんらかの原因によって圧力が下がり、溶岩が噴き出してしまった。

 そしてその麓にあった集落には火山灰が降り注ぎ、溶岩流によって飲み込まれてしまった──。

 なんという悲しい災害だろうか。

 

「村にいたほとんどの者は、巻き込まれて亡くなったよ。あの子(ユウラ)もてっきり逝ってしまったかと思ったけれど……奇跡的に生きていてくれた。

 だが、次に会った時。この調査団入りした時には、成長して大人になっていたあの子に集落の記憶はほとんど無かった。あまりの悲しみから、あの子自身の心を守ろうとしたんだろうね」

 

 その災害が起きた後、しばらくしてから学者は故郷に何が起きたのかを探りに行ったのだという。

 危険を承知で、それでも真実を突き止めるために。

 

「お天道様の怒りと悲しみ、と私は言ったね。怒りってのは私の推測だけれど、そう考えるに至った根拠はある。

 ……火山の麓に炎妃龍と、その腹の中から小さな炎妃龍のものらしき骨が見つかったのさ。おそらく、母体も胎児も助からなかったんだろう。哀れだが、よくあることだね」

 

 それに巻き込まれたのだから哀れなどとは言っていられないが、と老女は苦く笑った。

 龍と共に生きる者の達観は、周りには痛ましく映った。

 

「そんなことが……」

 

 ジェナは唇を噛み、俯く。

 あの炎王龍は、むかし妻と子を同時に亡くした過去があったのだ。だからこそ、新しい番にもずっと寄り添っていた。

 

「それなら、どうして新しい奥さんを置いてまでこっちに来たんだろう? そんな過去があるなら、尚更新しい家族も大事だろうに」

 

 リュカは首を傾げる。

 

「その理由こそがおそらく……いや、きっとあの子なのさ」

 

 老女は表情を和らげ、ユウラを優しい眼差しで見つめた。

 

 

 

***

 

 

 

 故郷を失った記憶と、お天道様に守られて過ごした優しい記憶が綯交ぜになっていく。

 

 思い出さなければ、どれほど平穏な日々を過ごせたことだろう。

 けれど、思い出せたからこそ再び大好きだった龍に、本当の意味で会うことができた。

 

 ユウラは思わず手袋を外して手を伸ばす。

 炎王龍──お天道様は、それを厭わずに受け入れた。

 

 ヒトの体温よりもずっと熱い筈の、ゴツゴツとした皮膚。

 しかし今は、雪風に晒されて自分とそう変わらなく感じる。こんなふうになってまで、お天道様はどうして自分に会いに来てくれたのか。

 

 その時、触れていたところの熱が急に上昇し、ユウラは思わず手を離した。

 何事かと見やると、お天道様は苦しげに肩で息をしている。明らかに敵意は見られなかったため、この熱は制御できなかったものだろう。

 

 考えてみれば、自分が初めて会ったときには既に成体だったのだ。

 そして新大陸で再会し、観察しているうちに彼が高齢の個体であることがわかった。

 

 

 

 つまるところは。

 限界が、すぐそこまで来ているのだと。

 そう、悟った。

 

 




ご無沙汰しております。
今回もここまで読んでくださりありがとうございます!

現在はまだ外は明るいですが、この話が投稿されている頃には、わたしは狩猟音楽祭の余韻に浸りきっていることかと思います。この日に投稿できてよかった!

そろそろ炎王龍編の終わりも近づいてきました。
今後もお付き合いいただけると幸いです。


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落日

 

 

 

 嗚呼。

 太陽の冠を戴く王は、瞼を閉じた。

 

 胸の中央が、ドクドクと早鐘を打っている。

 不定期に訪れる痛みは、そうとはっきり判るくらいには間隔が短く、強くなっていた。

 

 足底は冷や汗で濡れているだろうが、今は雪の冷たさでそれがどちらの感覚なのか判らぬ。

 どちらにせよ、身体が悲鳴を上げていることは確かだ。無理をしてあの鱗紋の少ない若造の相手をしたことも祟っているに違いない。

 もうすぐ己の命は終わりを迎えることだろう。

 そうなる前に、と炎王龍は目の前の小さな存在をじっと目に焼き付ける。

 

 私の大事な大事な子ども。

 青みがかった鬣は、生まれてくる筈だった実の娘と同じなのやもしれぬ。

 だが、娘は妻の胎からこの世に出る前に逝ってしまった。実際に姿を目にしたのは骨になってしまった後だったため、本当のところは分からない。

 娘だと知ったのも、頭蓋骨にある小さな角の形を見たからだった。

 

 そんな時、妻子を一度に喪い悲嘆に暮れる己の前に現れてくれた、哀れな迷い子。

 のちに、この子の帰る場所を奪ってしまったのは己だと気がついた。

 しかし私は贖罪の方法を知り得なかった。だからこそ、己が帰る場所となるべく決心したのだ。

 共に眠り、共にそれぞれに合ったものを食し、共に大地を駆けた。僅かではあったが、己の中ではずっと輝き続ける瞬間であった。

 

 いずれこの子も成長して己の家族を持つだろうと、子の行く末に思いを馳せた。その時に、この子の種族の仕来りを知らないようでは話にならぬ。

 彼らは巣立ちをしないようであったが、己の懐にいつまでも居させてはこの子の為にはならぬだろう。だから一度は自ら身を引き、他の群れの元へと導いた。

 それでも、長い年月の果てにこの大陸まで追いかけてきてくれたのだ。

 はじめは私だと気がついていないようだったけれど、今思い出してくれたのだから構わない。

 これまで、ある程度の距離を置くのは成長したこの子にとって大切なことなのだろうと、敢えて気づかないふりをしていたが……本当は、こうして傍に寄り添いたかったのだ。

 最期に無理をしてでも追いかけてきて良かったと、心から思う。

 

 苦しむ私を見て、子の顔が心配そうに歪む。ヒトは表情で感情を伝えるのだと知ったのは、この子との時間の中でのことだ。

 久方振りにこうして触れ合えたのに、こんな思いをさせたくはない。呼吸も苦しいが、心配をかけないようにしなければ。

 

 己が病に蝕まれていることに気付いたのは、この子の姿を見かけなくなってからだった。

 ヒトの都合は解らぬ。だが、このままでは二度と逢えなくなってしまう。そんな焦りが、己が身を動かした。

 残される妻と生まれてくる赤ん坊に会えないことは心残りだが、あの場に残ったとしても己が逝くのが先だったろう。

 それならば、叶う望みだけでもと我儘な行いをしてしまった。この子の仲間を辿って巣を探し、ようやくここまで辿り着いたのだ。

 

 大地の糧となる前に、最期にどうしても慈しみ育てた我が子に会いたかった。

 愚かやもしれぬが、血の繋がりや種族の違いなど些細なものだと思っていたのだ。

 

 子は、頬を擦り寄せてきた。

 何か鳴き声を上げているが、ヒトの鳴き声は複雑すぎて正確には理解ができない。共に暮らしていた時も、仕草や行動で互いの意思を伝え合っていた。

 

 それでも、幼い頃のように縋り付いてくる小さな身体が愛おしい。妻と共にこの子や赤子の成長をずっと見守っていられたなら、どんなに幸せだったろう。

 だが、私は長く永く生きた。頑丈だった身体も流石にガタが来ていて、休みたいと訴えている。

 

 さあ、時は満ちた。名残惜しいが、もう行かなばならぬ。

 これ以上ここに留まっていては、生命の炎が先に燃え尽きてしまうだろう。愛子に屍を見せるのはあまりにも酷だ。

 

 

 

 炎王龍はユウラをじっと見つめ、心底愛おしげに頬擦りをする。

 そして、踵を返してゆっくりと冷たい潮風の吹く方へ歩き出した。

 

 

 

***

 

 

 

「驚いたな。古龍とあれほどまでに親密になることがあるなんて……」

 

 去っていく炎王龍の背に、調査班リーダーが感心したように呟く。

 

 彼は新大陸の生まれだが、新大陸古龍調査団に所属しているからといって特別古龍との関わりが多いというわけではない。

 むしろ、古龍の危険さをよく知った大人たちに囲まれて育ったため、彼らに対しての姿勢は慎重ですらあった。

 

「万が一に備えて護衛の支度を整えますか?」

「……いや、必要ないだろう。テオ・テスカトルではなく他の脅威が想定されれば、そちらに警戒してもらう」

「承知しました」

 

 提案した五期団のハンターは、司令官の言葉にやや目を見開きつつも承諾して下がった。

 

「イヴェルカーナが居なくなったとはいえ……あの氷の稀聖を討伐したハンターと互角に渡り合う、氷刃佩くベリオロスのいる凍て地にまで来るなんてね。それも、あの学者サン(竜人たった一人)に会う為だけに」

 

 青い星が腕を組んで唸った。

 氷刃佩くベリオロスは、元々渡りの凍て地の中でも調査団の未調査地域に生息していたモンスターだ。

 老練の彼は特殊個体として位置付けられ、古龍に負けずとも劣らない知性と豊富な経験があった。

 青い星が例に挙げた、彼と交戦したハンターすら軽くはない怪我を負っていたのは、皆の記憶に新しい。

 

「そんな危険を冒してまで逢いたかった人、か……」

 

 ジェナがぽつりと呟くと、リュカはちらりとそちらを見る。

 一方で、青い星はやれやれと首を振った。だがその表情はどこか嬉しそうだ。

 

「まったく、素晴らしい愛を見せつけてくれるじゃないの。ねえ?」

 

 青い星が後ろにいた編纂者を肘で突くと、彼は苦笑を浮かべて助け舟を求めるように隣へ目線を動かした。

 巨大な刃で隠れて、視線の先に居るのが誰かまでは分からなかったが。

 

 そんな時、場の流れを変えたのは雪を穿つエッジが板を叩く音。それは若き司令官の方へと響く。

 

「司令官、ご報告が」

 

 足速に人並みを掻き分けて来たのは、医療班のうち獣人やポポ、翼竜などを診る者だった。

 

「直接診ていないため定かではありません。ですが他の先生方と相談したところ、炎王龍の状態を鑑みるに心ノ臓の病を患っている可能性が高いと判断されました」

「そうなのか?」

 

 彼は「簡単に言えば、ですがね」と眉間のしわを寄せたまま頷いた。

 怪我をしているわけでもなく、急に激痛が走るものとしては複数の要因が挙がる。

 脳血管の疾患であれば、いくら痛みに強い龍といえどこうして立ってはいられないだろう。

 末期の癌であれば、もっと癌細胞に栄養を奪われて身体は痩せ細っているだろう。

 腹膜炎であれば、もっと若い個体に発症するだろう。

 臓器の捻転であれば、瞹気やえずく様子が見られるだろう。

 

 他にも可能性はあるだろうが、現時点で最も有力なのは心疾患の説だったと彼は言う。

 

「他のモンスターであれば除外するものですが、古龍という長命な生き物ですので。

 最初に龍が痛みを感じているような様子を見せてから、二十分が経過しましたから……あの苦しみ方からすると、おそらくもう一刻と持たないでしょう」

 

 その言葉に調査班リーダーは目を見開いた。

 

「なんだって? もしそうなれば、生命エネルギーが暴発するかもしれない……!」

「いぇーい! ドカーン!」

 

 爆発好きな五期団ハンターのはしゃぎ様に、皆は一斉に凍て地の小川よりも冷たい視線を向けた。

 彼は目を瞬かせ、クリクリと視線だけを動かす。

 

 若き司令官はゴホン、と咳払いをした。

 

 古龍の絶命時には、エネルギーが解放されることもあるという。ゾラ・マグダラオス誘導作戦の目的は、熱エネルギーが暴発して新大陸が火の海になることを防ぐためだった。

 アステラで多くの者が目にした、威力の抑えられた超新星爆発(スーパーノヴァ)でさえ竜巻を消し飛ばすのだ。あの爆発さえ、己の生命に影響が及ばない程度に調整されていただろう。

 後ろで聞いていたソードマスターは、ふむ、と唸る。

 

「かの龍の力をもってしては、此処は保たぬだろう。手を打つなら早い方が良い」

「でも、イヴェルカーナの絶命時には何も起こりませんでしたよ。その後の地殻変動だって、アン・イシュワルダが原因でした」

 

 受付嬢が首を傾げる。それに対して、エイデンが返した。

 

「だとしても、テオ・テスカトルは炎の龍ッス。絶命時、どんな高熱を発するか分からないぜ。そうなれば、爆発物の置かれたここはおしまいってわけさ。蒸気機関や工房が熱でやられちまう可能性だってある」

 

 その一言で、精鋭たちの顔に険しい色が浮かぶ。

 アステラが無事だったからといって、こちらも同じようになるとは限らない。

 

 せっかく築き上げてきたセリエナが、もし見るも無惨な姿になってしまったら。その場合、少なくはない死傷者も出る筈だ。

 故意ではないとはいえ、この龍を許すことはできないだろう。

 そうなる前に、なんとか防がなければならない。

 

「大砲に詰めてある弾以外、全て運び出そう。アステラは戦闘に巻き込まれたそうだが、ここにクシャルダオラは居ない。セリエナを守ることが優先だ」

 

 調査班リーダーは、その場にいた調査員を素早く二つに振り分けた。

 自身の役割を果たすべく、彼らはすぐに動き出す。

 

 幸い、炎王龍は長くここに留まるつもりはないらしく、外海へと向かって歩き出した。

 だが、あまり近くで絶命されては場所によっては雪崩が起きたり、津波が押し寄せたりする可能性もある。

 酷なことだが、早く遠くへ行ってほしいというのが見守っている多くの者の思いだった。

 

 ただ一人を除いて。

 

 

 

***

 

 

 

 お天道様はゆっくりと、だが確実に雪の溶けた泥に足跡を残していく。

 

 はじめのうちこそ追いかけようとしていたユウラだったが、お天道様の足取りを見てやがて足を止めた。

 もう、振り返ることは無いのだろうと──一度止まってしまえば、再び歩み出す力はもう残らないのだろうと確信したのだ。

 

 吹曝になりビリビリと這うようだった頬の痛みが、ほんの僅かに和らぐ。

 顎へと伝ったそれが凍ってしまったことに気づいたのは、お天道様の逞しい翼が徐に持ち上げられた時だった。

 だがそれは、すぐに次の雫によって溶かされていく。

 

 先ほどやっとのことで口にした思いの丈。あまりに必死で、自分でも何を言ったのかはほとんど覚えていない。

 

 無意識のうちに記憶を奥底に仕舞い込んでいたのは、調べ物をしているうちに自身の集落についての書物を目にしてしまった為だった。

 その書物には、炎王龍によって集落が飲み込まれたのだと書かれていたのだ。あまりの衝撃に、数日まともに食事さえ喉を通らなかった。

 だが共に暮らしていた頃、そして今のお天道様を見れば、他の生き物の暮らしを故意に奪うような龍ではないと解る。

 だから貴方を赦すと。そう、伝えた。

 

 鈍色の空に、銀青の髪が靡く。それはさながら、炎妃龍の焔のようだ。

 その蒼炎の中、お天道様は雪の降り頻る北の空へと飛ぶ。そして足場の悪い谷を抜けると、再び歩き出す。

 それを幾度か繰り返し、やがて海際へと到達すると、今までより一層大きく翼を広げた。

 

 ユウラは、夢中になって駆け出した。

 

「あ、ちょっと!」

 

 同僚が呼び掛けるが、その声はユウラの耳には届かない。

 かの龍の挙動に目を配りつつも、調査員らは各々の役割を果たす。

 組織としては団体行動を乱すのは御法度だが、いまのユウラを責める者は居なかった。

 何故なら、ここにいるほとんどが別離の悲しみを知っているからだ。たとえ別種の交わりだとしても、その絆を理解するだけのこれまでの経験と適応力がある。

 ここまで来たらそっとしておいてやろうというのが、皆の見解だった。

 

 漏れた嗚咽が、白く空へと溶けていく。

 

 あの時、かみさまが助けに来てくれた、と救われたような気持ちになっていたのだ。

 でもお天道様は、人智を超えたかみさまだけれど霊的な神様ではなかった。

 確かに、大元の原因はお天道様だったのかもしれない。けれど、家族も故郷も何もかもを失ったユウラを、庇護してくれた。まるで我が子のように愛してくれたのだ。

 

 お天道様はふらつきながらも、空へと高度を上げていく。

 妻子の待つであろう龍結晶の地を目指すのか、それとも瘴気の谷で死を待つのか、はたまた別の場所を目指しているのか。

 ここからでは、お天道様の目的は分からない。

 

 だが、もう二度と会えないことだけは理解できてしまっている。

 胸が張り裂けそうに痛い。つらく過酷な道のりだったろうに、最期に自分の顔を見に来てくれたのだ。

 小さくなっていく後ろ姿を目に焼き付けようと、ユウラはただただ空を見て追いかけた。後から後からと滲んでくるものが邪魔なのに、振り切ることができない。

 兵器置き場の砦に登り切ってしまうと、もう先には進めなかった。

 内まで凍みた丸太に手を着き、息を切らしてその場にしゃがみ込んだ。

 

 最期に頬擦りをしてくれた時の温もりと優しい眼差し、そして伝えてくれた沢山の愛情が身に染みる。

 ユウラはひとり、橙色の寒空へと微笑んだ。

 

「ありがとう……っありがとう、私のおとうさん」

 

 その囁きは誰の耳に届くこともなく、静かに雪の中へと吸い込まれていった。

 

 

 

***

 

 

 

「これで、一安心かしらね」

 

 青い星がぽつりと呟く。

 各々の仕事をしながらも、その場にいたほとんどの者が同じことを思っていた。

 それまで黙っていたリュカは、ジェナと目を合わせて調査班リーダーの元へと歩み寄った。

 

「どうした」

「ぼくらで、彼の様子を見に行っても良いでしょうか。思い入れのある個体ということもあるけど……伝えてあげたいんだ、彼の最期を」

 

 それが誰に対するものかを、調査班リーダーはすぐに察した。彼は交互にリュカとジェナの顔を見る。

 彼らの眼差しから真剣な光を認め、やがて若き司令官は頷いた。

 

 海原を滑る凍てついた風が、耳元で唸る。刺すような冷たさのそれは、他のモンスターの毛皮を借りたとしても身を蝕んでいく。

 自分達を乗せてくれている翼竜も、そう長くは持たない。

 こんな寒さの中、炎王龍はよくセリエナまで飛んできたものだ。それはかの龍の愛情深さを表す指標として、これ以上ない行動だった。

 

 とうに遠くへ行ってしまったと思っていたが、炎王龍にはすぐに追いついた。

 もう、早く飛ぶ力は残されていないのだ。こちらにも気づいてはいるだろうが、反応する気力もないようだった。

 それでも今羽ばたくのを止めれば、さらに冷たい水が身を包むだろう。

 

 ジェナがそんなことを考えていた矢先、ふらふらと飛んでいた炎王龍の身体が大きく傾いた。

 

「ああっ……」

 

 その燻んだ赤い身体は、わずかな火の粉を散らして海へと落ちていく。

 思わずそちらへ向かおうとしたジェナを、リュカが手を伸ばして止めた。

 振り返ると、リュカの目元が真っ赤になっているのが見えた。それは寒さによるものだけではないだろう。

 

 大きな水飛沫を一つあげ、炎王龍の姿は見えなくなった。

 紺碧の海面に、白い泡の模様だけが浮かぶ。いくら待てども、その泡が再び増えることはもう二度となかった。

 懸念されていたエネルギーの暴発も起こらなかったようだ。獲物を待ち構える捕食者がかの龍を喰らいに来たのか、それともただ沈んでいっているのか。

 できれば後者であってほしい、というのが二人の願いだった。

 

 誰もが想像していた以上に、呆気ない最期だった。

 だが、彼は敢えて愛する者に囲まれる死を選ばなかったのだ。これで、これで良いのだろう。

 

「……彼は、きっとこれで安心して眠れる。行こう、ジェナ」

「…………ええ」

 

 

 

***

 

 

 

 後にその出来事はクエストとして処理され、ソードマスターによって「滅日」と名付けられた。

 百事に凶であるという日を指すその言葉。人々の拠点に来る筈のない古龍が来訪するという事態は、聞き齧っただけでは大厄災を連想させる。

 だが、それだけの意味ではないことは、その場に居合わせた皆が理解していた。

 

 

 

 そのクエストが書類として出来上がる頃。

 青い星らを導いた龍の消えた場所にて、蒼い炎が静かに揺らめいていた。

 




テオ・テスカトルが大好きなんです。ここまでお読みいただきありがとうございます。

動物の心筋梗塞は極めて稀で、その程度も軽いそうな。ただ、弱肉強食の世界に生きてはいても永い時を生きる古龍という種ならばもしかすれば、という妄想の産物です。だから現実世界の獣医さんはこういう判断はしないと思います。


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蒼炎の双月輪
炎妃降り立つは雌の園


 

 

 

 王さまを探し続けているお妃さまは、やがて不思議な場所に辿り着きました。

 

 前も見えないくらい濃い霧を抜けてまず見えたのは、天高くそびえる岩山の数々。そこはまるで一つの大きな島のように見えました。

 しかしよく見ると、場所ごとに全く異なる風景が広がっているのです。

 緑と水の豊かな森に、見慣れた砂だらけの荒れ地、見たこともないような色鮮やかな台地、真っ白な砂のある崖。

 

 それら全てに共通しているのは、どこかピリピリとした緊張感があること。世間知らず──コホン。無邪気なお妃さまにも、迂闊に降りてはいけないことは自然と理解できました。

 谷の王さまが言っていた強い者の集まる場所は、きっとここに違いありません。

 彼の言葉は本当だったのだ、やっと辿り着いたのだと、お妃さまは嬉しくなりました。

 

 しかし、重いお腹を抱えて長い間飛んできたお妃さまはもう疲れ切ってしまっています。はじめはドコドコとお腹の中を元気よく蹴っていた赤ちゃんも、次第に静かになっていきました。

 もしかして赤ちゃんに何かあったのではないかと、お妃さまは心配でたまりません。よく辺りを確認してから、砂漠へと舞い降りました。

 

 太陽は沈みかけ、辺りは橙色の光に包まれています。霧の中程ではありませんが、空気はだんだん冷えてきました。

 お妃さまは、昼間の日差しでまだ温かい砂にぴったりと大きなお腹をつけて座り込みます。

 やがて赤ちゃんが動くのを感じ、ほっと息を吐きました。どうやらお腹の中で眠っていただけのようです。

 お妃さまにとって初めてのお産ですから、どのくらいで赤ちゃんが産まれてくるのかも分かりません。

 けれども、お妃さまにはそろそろ赤ちゃんがお腹から出たがっているように思えました。

 

 元気な赤ちゃんに早く会いたいのは当然です。しかし赤ちゃんがいては、王さまを探すことはできません。

 早くしなければと、お妃さまの焦りと王さまに対する苛立ちは強くなる一方です。

 この辺りからは王さまの匂いはしません。でも、この島を探していればきっと見つかる筈なのです。

 ここまで来れたのだから大丈夫、とお妃さまは自分を励ましました。

 

 その時、お腹の下から何やら振動を感じ、お妃さまは咄嗟に空へ飛び上がりました。直後、砂の中から何か巨大なものが飛び出して来ました。

 巨大なものの正体を確認する間も無く、それまでお妃さまを照らしていた太陽の光が何者かに遮られます。

 どうやら、敵は一体では無いようです。

 お妃さまは疲れた身体に鞭を打ち、蒼い炎を身に纏いました。

 

 太陽を背にした何者かは、お妃さまに問い掛けました。侵入者として扱われたいか、客として扱われたいか、と。

 愚かにも──コホン。必死だったお妃さまは牙を剥きました。いま負けたら、赤ちゃんを守ることができないと考えたのです。

 

 直後、下から鋭い角を振りかざして土色の巨大なものが迫ってきました。お妃さまは、それがまさか飛べるだなんて思いもしませんでした。

 なんとか避けた後、炎で応戦します。しかし疲れてしまっていたお妃さまは、いつもの力が出ませんでした。

 あっという間に、壁際へと追い詰められてしまいました。それまで負け知らずだったお妃さまは、悔しくて仕方がありません。

 

 このままでは二本の角で貫かれると思った刹那。そこまで、と鋭い声が響きました。

 声の主がお妃さまと二本角の間へと、優雅に舞い降ります。それは光を虹のように弾く、月の女王と称するに相応しい金色の身体を持っていました。

 

 これで解ったでしょう、と蒼炎を揺らめかせて金色は言いました。今の貴女が独りで居るのは危険過ぎる、それなのに戦おうだなんて何を考えているの、と。

 お妃さまはムッとしましたが、同時に不思議に思いました。まるで自分のお母さまのようです。見ず知らずの自分に何故そんなことを言うのでしょう。

 戦う構えを解いた二本角も、やれやれといった様子でお妃さまを見ています。

 

 金色はお妃さまがここに来た理由を問いました。

 行方をくらましてしまった王さまを探しているのだと渋々答えると、金色と二本角は厳しかった眼差しを和らげました。

 どうやら、お妃さまが自分たちに危害を加えるために来たわけではないと分かったようです。

 

 お妃さまは思い切って、王さまを知らないかと尋ねました。しかし、彼女たちは残念ながらそんな殿方は見ていない、と答えました。

 それを聞いて大層気を落としてしまったお妃さまに、金色と二本角は先ほどとは打って変わって優しく寄り添いました。

 彼女たちがくれた温かさに、お妃さまはそれまで我慢していたものがとうとう堪えきれなくなってしまいました。ずっとずっと、独りで心細かったのです。

 やがて金色は、今夜は私たちのところでお休みなさい、と言ってくれました。

 

 寝る前にお妃さまは問いました。どうしてわたくしに優しくしてくれるの、と。

 すると彼女たちは、私たちと同じだから、と答えました。

 金色と二本角は、二本角に赤ちゃんがいた時、金色に助けられて以来のお友達なのだと言います。お互いに番はいるようでしたが、一緒にいる時間は彼女たちの方が長いのだと。

 それを聞いて、お妃さまはとても羨ましく思いました。お妃さまも、小さい頃からずっとお友達が欲しかったのです。

 でも、これまで両親に止められてきたのです。自分からなんて言えません。

 

 これからどうするつもりなの、と二本角はお妃さまに尋ねました。

 お妃さまは返事に困ってしまいます。

 家に帰って産みたいけれど、もう時間がなさそうであること。その前にどうしても王さまを見つけたいのだということ。

 それを聞くと、金色はある提案をしました。

 実は金色のお腹にも新しい命が宿っていて、ちょうど卵を産みにお妃さまのお城の方面へと向かうと言うのです。金色が砂地を開ける間は、赤ちゃんのいない二本角がこの場所を守るようでした。

 だから私と一緒に来れば良い、そうすれば独りで向かうよりも安全になる、と金色は告げました。

 

 お妃さまは大いに喜び、金色の提案に乗りました。チョロ過ぎ──コホン。それまでに、なんとしても王さまを見つけなければいけません。

 金色は心当たりがある、と言いました。しかしそこは厳しい寒さで、身籠ったお妃さまに耐えられるわけが無いとも。

 それでも、ようやくここまで来たのです。今更諦められる筈がありません。

 

 こうしてお妃さまは、翌日その場所へ旅立つことを決心したのです。

 王さまの大切なもののある、静かな雪に囲まれた場所へと。



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第三章 揺らめく炎は涙色
白雪包むは家族の温もり


 

 

 

「さてと、私たちは西側の開拓調査に戻ろうかな。まさかナナはここまで来ないだろうし」

「"そのまさか"の事態は、残ったお前らに託すぞ。まあ、救難信号が上がったらすぐ駆けつけるよ」

 

 四期団のハンターが凛とした声で告げる。その相方であるベニカガチ装備のハンターは頷き、彼女と共に翼竜の指笛を吹いた。

 

 炎王龍の姿が見えなくなってしばらく経つと、人々は運びかけていた火薬や、食料に水、医療器具などを片付けた。

 果たしてこれは杞憂に終わったと処理して良いものか判断しかねるものだったが、少なくとも拠点そのものに被害はなかったと言えるだろう。

 炎王龍の訃報を聞いたユウラは、涙を浮かべながらも納得した様子を見せた。ずっと観察していたのだから、ある程度の覚悟は決まっていたのだろう。

 

 ひと段落ついた頃に解散令が出され、調査員らは嬉々として記録をし出したり帰路についたりと、各々の行動を始めたのだった。

 あれから日はあっという間に暮れ、今は星が瞬く空に煙突からの煙が立ち上るばかりだ。

 

 そんな時に問題が一つ。

 

「宿が足りない?」

「そうなのですニャ。大変申し訳ありませんが、今晩はできる限り他の方のお部屋に泊まっていただけると助かりますニャ」

 

 ルームサービスは困ったように下を向いた。

 アステラからの増援は、セリエナでは予想外だった。こうした時の為にある程度の宿は確保されているとはいえ、数は限られている。

 

 そもそも、広いアステラの居住区には一人暮らし用の建物も複数用意されているが、セリエナは利用できる土地が少ない。

 そのため定住しているとしても、青い星や一期団など一部の者以外は二人以上で同居している調査員がほとんどだった。

 それはバディ同士であったり、仲の良い同期や先輩後輩であったりと、部屋割りは自由だ。

 

「うーんどうしよっかな、ぼく友達の家大体出禁なんだよね」

 

 あっけらかんとしたリュカの言葉に、ジェナは呆れた眼差しを向けた。

 

「あんた一体何したらそうなるわけ?」

「いや〜謎だよね。連れてきたウロコウモリと月光ゲッコーが、新しい環境にびっくりして逃げちゃっただけなんだけどなぁ」

「そりゃ出禁だわ。あたしだってそうするもの」

「そんな。ちょっとくらい情けをかけてよ」

「イヤよ」

 

 ちぇ、とリュカは口を尖らせた。

 

「それにしても困ったわね……あたしも、こっちで仲が良い同期あんまりいないのよね。キャシーのところに泊めてもらうのもあれだし」

「お仲間!」

「やかましいわ」

 

 そんなジェナに、通りかかった青い星が「あらあら」と揶揄うように絡んでくる。腰に手を当てただけの、ちょっとした仕草でさえ様になっているのがジェナには腹立たしい。

 

「かわいこちゃんがお困りかい? うちで良ければ空いてるけど」

「謹んでお断りしますわ」

 

 青い星は、ジェナが自分に対しジェラシーを向けていると知っている。

 ツンとしたジェナの言葉に美女は「なぁんだ残念」と全く残念でなさそうにころころ笑って去って行った。

 ジェナは溜息を一つ吐く。

 

 現大陸時代やこちらに渡ってすぐの頃は、友達の家に泊めてもらうことや、同衾してそのまま朝まで、なんてことも可能だったのだが。

 これまでジェナに誘われて断る男など居なかった。胸のサイズだけならば、青い星にだって負けない。

 しかし前者はともかく、今のジェナに後者を選ぼうとは思えなかった。事情を知らない者に自らの身体を見られれば、ぎょっとされるに決まっている。

 

 そんな時、調査班リーダーがこちらへ歩いてくるのが見えた。

 

「お、いたいた。確かあのテスカト夫婦をずっと調査してたのはお前だったよな。部屋決め中で悪いが、ちょっと来てくれないか」

「はい」

 

 リュカは調査班リーダーに連れられ、司令エリアへと向かう。

 やがてルームサービスも用事で後ろに引っ込んでしまい、ジェナはカウンターの前に一人になってしまった。

 

 誰かあてを探すために居住区の門を潜ろうとした時、一匹のアイルーがとててて、とジェナの隣を駆け抜けた。どこか見覚えのある後ろ姿にふと立ち止まる。

 アイルーは凍った木製の渡り廊下を器用に駆けていく。その先では、一人の男性が玄関で靴の雪と泥を落としていた。

 

「あれは……」

 

 彼もジェナの同期だった。そういえばこちらに居たんだっけ、なんてことを思う。

 彼とはゾラ・マグダラオスを弔った晩、宴の火照りのままに一晩だけ関係を持った。

 しかしそれ以来雑談や仕事を共にすることはあれど、一線を越えることはなかったと記憶している。

 

 彼は駆け寄ってきたアイルーを抱き寄せ、その頬に軽く接吻をした。以前はそんなにアイルーが好きだとは聞かなかった気がするが。

 新大陸においては多くの者に共通することだが、彼も胸の内に孤独を秘めている人だった筈だ。その彼が、あんな表情をするなんて。

 ジェナは思わず柱の影に隠れた。

 

(もしかしてアイルーとデキてるの……!?)

 

 そんなまさか。だが他種族との一線を超えた交わりも、この業界(ハンターという人々の間)では珍しくはないと聞く。

 それに、つい先ほどはもっととんでもない光景を目にしたのだ。既に感覚が麻痺してしまっていた。

 

 その時、住居の内側からドアが開いた。先ほど青い星に突かれていた編纂者だ。

 彼は再び嬉しそうに目元を和らげた。口の形から「ただいま」と言っているのが分かる。どうやら彼のお相手はアイルーではなかったらしい。

 

(あ……そうか)

 

 そこまで考えて、ふとジェナは無意識のうちに距離の近い二人以上の集団を結びつけるものを、すべて恋愛感情だと決めつけていることに気がついた。

 彼らだって、ただの仲の良い同居人かもしれないというのに。

 

 ここ(新大陸古龍調査団)ではずっとこのひとと一緒に居たい、と思う友人とも、友人という関係のままで傍に在ることだって許される。

 傍に居る権利が欲しいからと、恋人へと関係性を変えて価値観の違いから別れてしまうことも、周囲から結婚を急かされるようなこともない。

 要は、すべてが自己責任である代わりに自由なのだ。そうした縛りがない分、関係が解けるのも早い側面もあるけれど、家族になるということのハードルも低かった。

 

 ジェナは目を伏せる。

 名前の無い関係性が許されることに加えて、個人の肩書きすらもさして重要ではない。何故ならこの組織内では、親や子といった親族が一緒に所属している者が圧倒的に少ないのだから。

 また現大陸に家族を残した者が、情を交わしたほかの誰かと束の間の関係を結ぶこともあった。

 公に言えることではないが、故郷や家族から離れたいま、心の奥の寂しさは誰にでもある。それが皆解っているからこそ、揶揄いはすれど、その行為を責めるような者も居なかった。

 もし現大陸へと帰ることになれば、終わったり形を変えたりしてしまうかもしれない関係性。人々はどこかその儚さを楽しんでいる節もあった。

 

 誰とも添わないでいようが、恋人を持とうが、一時の噂にはなったとしても組織で生活する上の利害はない。

 そうした人間関係のことでごたつくくらいならば、己の興味のある研究や調査へと精を出す。その適度な無関心さが、今までのジェナには居心地が良かったのだ。

 

 ジェナはしばらく彼の入っていった住居のドアをぼんやりと見つめていた。

 

 おそらく今の生き方が、彼の見つけた幸せの形なのだろう。第三者は割り入ることのできないと感じる、不可視の確かな壁。

 これまで彼にそんな思いを抱いたことなど無いというのに、まるでふられたような気分だった。

 ──否、きっとこれは彼自身がどうこうという話ではないのだ。

 

 ジェナは詰めていた息を吐き出した。明かりに照らされ、白い蒸気の塊が空にのぼっていく。

 ふとジェナは辺りを見回した。雪で吸収されて聞こえづらいが、そこにはたくさんの生活の欠片が響いている。

 

 仕事の話に混ざるのは、互いを労わる声、夕飯に何を食べたいか、今度の記念日はどう過ごすか。

 今思えば、自分がセリエナに訪れたのは造設中のみだった。こうして人々の生活が根付いた様を見るのは初めてなのだ。

 

(なんだか……)

 

 子どもの声こそ聞こえないものの、そこにはいくつもの家庭の温もりがあった。

 彼らの関係性そのものはさほど重要ではない。けれど人々の間にある絆は、確かにセリエナを帰る場所として創り上げていた。

 過酷な寒さが距離を縮めているのだろうか。それともアステラにもこういう雰囲気はあって、ただ自分が気づかなかっただけなのか。

 

 普通は喜ぶべきその温かさは、今のジェナに諦めにも似た孤独と寂寥感を覚えさせた。

 欲しくても手に入れられなかったものを、いつの間にか皆が当たり前のように手にしている。

 自分だけではないと思っていたのに。そういうものから逃れたくてここに来た筈なのに。

 勿論独りで楽しくやっている者も居るだろう。実際これまでのジェナだってそうだった。

 それでも、こんなことで不安になってしまうくらいには、自分はまだ未熟なのだ。

 

 やはり、ここも自分の居場所ではないのかもしれない。そんな思いが、古代樹に種を宿す花のように静かに咲いた。

 

「ジェナ、調査班リーダーと所長が……ジェナ?」

 

 駆け寄ってきたリュカは、思わず閉口する。

 ジェナの灰色の瞳は、今にも雪空に溶けていってしまいそうに思えた。

 

 リュカに気づいたジェナは、曖昧な笑顔を作って見せた。

 

「ごめんなさい、ついボーッとしちゃったわ。なに?」

「……ねえ、ジェナ。大丈夫?」

「え? ああ……ええ。大丈夫よ」

「あー……」

 

 リュカは束の間言い淀んだ後、ジャックと目を合わせる。そしてジェナに返すようににこ、と笑う。

 

「ねえ、そろそろ甘いものが欲しくならない?」

「甘いもの?」

「うん。さっきリアさんにとっておきの情報聞いてきたんだ。来て!」

 

 そう言うと、リュカは駆け出した。途中でつるりと滑って転びかけるも、すぐに楽しそうにジェナを呼ぶ。

 まだ状況の飲み込めていないジェナは目を瞬かせつつも、リュカの後を追いかけた。

 

 司令エリアの前に来ると、大きなテーブルを囲んで生態研究所の面々が集まっているのが見える。

 そういえば先ほど調査班リーダーがどうの、と言いかけていたのだったかとジェナは思う。

 その中心にいた調査班リーダーに、リュカは「すいませーん!」と呼びかけた。

 

「ちょっとおなか痛いので明日報告しまぁす!」

「はい!?」

 

 ジェナは目を点にする。

 

「はぁ……あのやんちゃ坊主め。またか」

「おい、腹が痛いやつの挙動じゃないぞ。明日、絶対来るんだからな!」

 

 一方で、自由な行動をする人間に慣れっこの所長と調査班リーダーは、呆れた眼差しを向けた。

 だがリュカは構いもしない。ジェナはというと、双方をきょろきょろと見るばかりだ。

 

「え、ちょっと。いいの?」

「大丈夫大丈夫! この前の話聞きたいだけらしいから」

 

 テーブルの奥では、リアとエイデンがくすくすと笑っていた。いってらっしゃい、とでも言うように手を振られる。

 気休めにもならないが、ジェナは最後に司令エリアの方へ向かって頭を下げた。

 

 

 

 セリエナの集会浴場兼酒場である「月華亭」は、大規模な作戦の後も──否、そんな出来事の後だからこそ賑わっていた。ちょうど皆が飲み始めるような時分なのもあるだろう。

 酒場の席だけでなく、湯気の立つ温泉も疲れを癒す調査員でいっぱいだ。

 

 リュカは奥の方に空いている席を見つけると、素早く陣取ってジェナを手招く。

 それからジェナが座っている間に給仕アイルーを呼び、何やら耳元に囁いた。

 

「ねえ、何を頼んだの? 悪いけど、あたし今あんまりお腹空いてないのよ」

「それは多分大丈夫。運ばれてきてからのお楽しみ!」

 

 やがて給仕アイルーは、落としそうで落とさない絶妙なバランスでトレーを運んできた。

 

「お待たせいたしました、本日のトッテオキですニャ!」

 

 温かい紅茶と共にテーブルに置かれたのは、こんがりと狐色に焼け、いかにも美味しそうな割れ目のある焼き菓子だった。

 甘く香ばしい匂いが漂い、食欲がそそられる。

 

「あと、これは料理長からの伝言ですニャ。ニャ!」

 

 アイルーはそう言って下手くそなウインクをすると、頭を下げて戻っていった。

 思わず笑いを溢したジェナを見て、リュカは内心ほっと胸を撫で下ろす。そして明るい声でジェナに呼びかけた。

 

「さ、温かいうちに食べよう。いただきまーす!」

 

 早速リュカは焼きたてのシュークリームにかぶりつく。

 それに倣ってジェナも一つ手に取る。割ってみると、中からはまだ湯気の立つ黄金色のカスタードクリームがのぞいた。

 思い切って頬張ると、サクサクの生地の食感の後、バニラの香るとろりとしたクリームの甘さが口の中に広がった。

 

 ジェナは思わず目を丸くする。

 室内にいても吹き込んでくる風で身体が冷えていたので、この温かさが嬉しい。疲れた身体にはたまらない、幸せな味だった。

 

 シュークリームを食べきってしまうと、二人は少し温くなってしまった紅茶を口に含む。

 満足げな息を吐いたジェナに、リュカは微笑みかけた。

 

「ちょっとは元気出た?」

「ええ、おかげさまで。ありがとう」

 

 ジェナが目を細めると、リュカは「そっかぁ」と嬉しそうにした。

 若いのになんとも気障なことをしてくれるものだ、と可笑しくなる。それと同時に、こちらを気遣ってくれる優しさが身に染みた。

 

「あ、そうそう。今日泊まる部屋なんだけど、さっき調査に行く人がいて空きが出たんだって」

「ああ、よかった。二人分あるの?」

 

 そう聞くと、リュカは少し申し訳なさそうに眉を下げる。

 

「それが、一部屋しかなくて……ツインなんだけど大丈夫?」

「ああ、まあそうなるわよね。あたしは別に良いわよ」

 

 調査に行った際も、休憩は交代だったとはいえ同じベースキャンプで過ごしたのだ。今更どうということはない。

 それを聞いたリュカは、安堵の表情を浮かべた。

 

 二人が紅茶を飲み終える頃には、もう良い時間になっていた。心なしか、受付嬢たちの顔にも疲れが見える。

 だが集会所の賑わいは、未だに途絶えることがない。

 

 リュカとジェナは、酒精を帯びた空気の中を通って宿へと向かうのだった。

 

 




ここまでお読みいただきありがとうございます!
予め書き溜めてあったシーンなので早めに更新ができました。

実は、はじめの二人はUSJのコラボで登場した先輩ハンターさん達です。きっとギルオス装備のお姉さんもどこかにいるのでしょうね。
ずっと同じフィールドや拠点を舞台にして書いていると、この作品ではどこまで描写していてどこを書いていないのかが分からなくなってくるのが玉に瑕ですね。ですが、今回も大好きなセリエナを書けて満足です。

次回もお楽しみいただけると幸いです!


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氷のような女人の心も

 

 

 

 酒が入ってわいわいと賑わう人々の間を縫って歩きながら、ジェナは辺りを見回した。ややあって目的の窓口を見つけ、リュカに声をかける。

 

「あ、ちょっと待って。買っていきたいものがあるの」

「いいよ。何を買うの?」

「日用品を色々ね、すぐ召集がかかったから用意する余裕なくて。リュカはいいの?」

 

 ジェナの問い掛けに、リュカは「あー」と目を瞬かせた。

 

「必要なものは宿に揃ってるだろうし」

「アステラならね。でも、こっちの宿なんてここ住みの人が使うばかりなんだから、用意されてないと思うわよ」

「ワオ、結構さらっとディスるね」

 

 アステラは期の更新ごとに大勢が流入してくることが想定されている拠点だ。それでも足りないところは雑魚寝、というのが定例だったが。

 しかし何かがあった時の為に、宿もいくつか余分に用意されている。噂によると、現大陸の将軍クラスの人物も招けるとか。

 

 ジェナとリュカがそんなやり取りをしていると、後ろから「ちょっとちょっと」と聞き慣れた声に呼び止められる。

 

「セリエナの宿だって、全てが愛のハリボテ城じゃないのよ。いくら可愛いジェナでも聞き捨てならないわぁ」

「愛のハリボテ城?」

「ちょ、キャシー唐突な下ネタやめてもらえる?」

 

 むくれ顔のキャスリーンは、ジェナの背後で仁王立ちをしていた。彼女がするその表情は迫力満点である。

 ジェナが冗談だと取り繕おうとした時、またしても聞こえてきた後ろからの声に遮られた。

 

「じゃが実際、アステラの宿は空きが無いってことが無いけぇのぉ。こっちは手続きが面倒くさくてかなわん。狭いしのぅ」

 

 シブいハスキーボイスの主の調査員は、これまたシブい仕草でサングラスを掛け直す。

 

 船をばらして施設が造られるというシステムは、セリエナでも用いられている。セリエナがやや手狭なのは、土地の限界だけでなくアステラの余りを使っているからという背景もあった。

 

「狭いけど、やっぱりいろいろ便利なのよね。あたしは寒いのが苦手だから向こう(アステラ)を選んだけど、そういう意味での快適さなら引けを取らないかも」

「なんかここを創る時、推薦組から不便なのはイヤだってブーイングがあったらしいよ」

 

 巻き込まれないよう、二人はそっと耳打ちして会話をした。

 

 アステラの「星の船」は景色や外の空気が味わえるのは最高だが、アクセスが不便という意見が多数あった。それを踏まえて、居住区や鍛冶場などどこからでも入れるようにされたというわけである。

 

 鬼芋酒を呷るシブい調査員に対し、キャスリーンはやれやれと首を振った。

 

「だだっ広くて部屋が多けりゃいいってもんじゃないでしょ。ルームサービスだって手が回りきってないじゃない」

「そんなの、使うとこだけ綺麗にしときゃええんじゃ。しかもアステラは海も綺麗で洗濯物もよく乾くしのぅ」

「あら、洗濯物なんて凍らせれば乾くんだから変わらないわよ。こっちだって流氷も綺麗だし、空気が澄んでるから夜空もよく見えるわ」

 

 ディスリスペクトの応酬が続くかと思いきや、今度は唐突な拠点自慢大会が始まった。

 ジェナとリュカが唖然として聞いていると、周りからも続々と参戦者ことタチの悪い酔っ払いが集まる。どさくさ紛れに、酒場の物資補給係までも参戦していた。

 

「セリエナだって負けないっす! 宴だってこれまでは先輩方の意見ばっかり通ってたけど、今は自分達がこんなにセンス抜群に飾り付けてるんすから!」

「いやいやデザインより派手さだろ。やっぱ花火がなきゃ宴は始まらねぇよな、ギブソン! セリエナも見習いやがれ」

「おいオレを巻き込むな!」

「ロマンチックさが足りないのよ、アタシ達くらいの歳なら花火より天燈だわ」

 

「お、なんの喧嘩? オレも混ぜてよ!」

「アンタは黙ってなさいエド」

 

 調査団は悪ノリに全力を出すような大人ばかりである。しかも夜も更けたこの時間帯、酒場は飲兵衛で溢れているときた。

 皆がそれはそれは楽しそうに喧嘩をしているので、どんどん人が集まってくる。

 

「オレ腹減ったから一抜け〜」

「おいアステラ民にはそこらへんの肉でも食わせておけ! アステラ民ならそれで満足する!」

「そ……!? 瘴気の谷に生えてるもん齧ってた奴に言われたかねぇ!!」

 

 ここで料理には口を出さないのがなんともらしい(・・・)

 もし今ここで引き合いに出せば、料理アイルー達の怒りを買って自分の胃袋が不利になることが分かりきっているためだ。

 

「あははは! 正直アキンドングリの背比べだよね」

「あんたも結構言うじゃない。それにしても、チアジャギィ(ツインテール)ちゃんが仕事に戻ってくれれば助かるんだけど……」

 

 未だに下火になるそぶりも見せない、あまりに大人気ない拠点自慢大会。ジェナは火種を作ってしまったことを後悔した。

 というかチアジャギィちゃんこと物資補給係は素面の筈なのだが。

 

 リュカが朗らかに笑っている一方で、ジェナは大きな溜息を一つ吐いた。

 

 

 

「ワオ、見てあんなところにカブトムシ!」

「カブトムシ? 何かの見間違えじゃないの、こんな寒いところに居るわけないでしょう」

「でも不死虫もにが虫も所構わずいるよ? いま出発口の橋の下に……って待って〜!」

 

 紙袋を持って集会所を出ようとすると、一斉に翼竜たちからの熱い視線(餌くれコール)が向けられる。

 ジェナ達はそれを無視しながら重い扉を開けた。リュカはちょっと申し訳なさそうにしていたけれど。

 

 建物から出ると気温差でやられる──などということは無い。

 何故なら、外だろうが室内だろうが関係なく寒いのだ。風が無いだけマシ、というのは窓すらなく全体が吹き抜けになっている建物には通用しない。

 暖炉の前や物陰でもなければ、容赦なく寒風の吹曝にされる。

 

「はあ……こんなに着込んでるのに寒いわ」

「まったくだよね。よく生活できるよ」

「あんたはいつもと同じ格好してるからでしょうが」

 

 ジェナがコートの合わせを押さえながら呆れた眼差しを向けると、リュカは心外だという顔をした。

 

「パオウルムーの毛皮は防寒の装衣にも使われてるんだよ? これなら全身防寒!」

「できてるの?」

「ぶっちゃけ分かんない。寒いものは寒い」

「言わんこっちゃないわ」

 

 一方で彼の腕に止まるジャックは何食わぬ顔をしている。

 猟虫はどんな気候でも順応できる生命力の強さは前提として育てられるが、もこもことしたジャックの毛は防寒の役割も果たすのだろうか。

 

 ジェナは滑らないように一歩一歩床板を踏み締めた。ひっきりなしに息で視界の一部が染まり、深く吸い込めば思わず咳き込んでしまう。

 

 寒さの割に、雪の降りは兵器置き場に僅かな火の粉が舞っていた頃よりも落ち着いていた。

 道の傍に掻き出されたそれらは踏まれて泥を含み、絶妙なもこもこしたシルエットを作っている。道沿いに点々と設置された明かりを照り返し、ぼうっとした光を放っていた。

 

 前線拠点セリエナの夜は、昼間よりは穏やかでも静まり返ることはない。アステラでも夜遅くまで調査に出ている者もいたが、セリエナは日勤、準夜勤や夜勤が明確に分けられている班が多い。

 過酷な環境であるからこその、人数を常に把握し極力減らさないための工夫である。今の時間は、夜勤担当の者たちが己の仕事に勤しんでいた。

 

 建物の窓から漏れる明かりを横目に見つつ、ジェナとリュカは集会所と居住区をつなぐ橋を渡る。

 ここからならば、セリエナの逆側にある兵器置き場も見下ろすことができた。炎王龍が立ち去った今、残るのは調査班のうち警護を担う一部のみだ。

 

「あーあ、どうせなら足湯も入りたかったわね。いっぱいで無理だったけど」

「荷物を受け取ったら、足湯だけとは言わず温泉に入りに行こうよ。あんなに大きなお風呂、ここでしか味わえないもの」

 

 セリエナに着いてすぐに兵器置き場に向かったため、荷物は船に置いたままだった。おそらく既にルームサービスが届けてくれているだろう。

 

「あら素敵ね。でも、遠慮しておくわ。あたしのことは気にせず行ってらっしゃい」

 

 リュカは目を丸くした。

 

「ええ、せっかく来たのに? サウナもあるし肌もツルツルだってさ」

「いいの。一人でくつろぎたいから部屋の備え付けを使うわ」

 

 別に嘘はついていない。人目を気にしていては、疲れを癒すどころか心労が溜まる一方だとジェナは思う。

 先ほど入浴していた者たちを見ると、湯浴み衣は露出範囲は少なく作られてはいたけれど、脱衣所で誰かと会うことは避けられない。

 

 自分と違う姿や行動をしている人がいれば、自ずと視線はそちらに向くものだ。

 ハンターであれば痕が残るような大怪我を負う者は少なくない。爪や牙で傷を負うのは日常茶飯事だ。

 だが、身体の部位の欠損となると話は別だった。同性とはいえ、手術創のある片方だけ平たい胸をジロジロと見られるのは耐え難い。

 

 このことを知っているのはセルマとキャスリーンだけだから、リュカはジェナの態度を不思議に思ったことだろう。……彼にも、伝えるべきだろうか。

 

 そこまで考えて、ジェナはハッと目を見開いた。

 

(──え? いやいやまさか……)

 

 リュカに伝えてどうするというのだ。一時的に組んだバディなのだから、わざわざそんなプライベートなことを言う必要はない。

 こんな重たいことを聞けば、まだ若いリュカはきっと困惑する筈だ。

 四肢の怪我を明かすのとは、訳が違う。左胸が無い自分を許容して、それでもなお女として見てくれと頼むようなものではないか。

 

 自分はいつの間にリュカをそういう目で見ていたのか。己の浅ましさに、ジェナは耳が熱くなるのを感じた。

 リュカは大切な相棒だ。寂しさと罪の意識を紛らわす為に、一夜を共にする男ではない。

 

「……ジェナ?」

 

 急に黙り込んだジェナを、リュカは無垢な瞳で見つめる。

 ジェナは何故か込み上げてきた熱いなにかを飲み込み、曖昧に微笑んでみせた。うまく笑えているかは分からない。

 

「……なんでもない、なんでもないの」

 

 リュカの優しさに触れて、空虚だった胸の内が照らされるような感覚は何度も味わった。

 これまで心に付けられてきた傷すら、包み込んで癒してくれる光。その暖かさに、いつしか首まで浸かっていた。

 

 だが、自分はそんな幸せを掴んで良い人間ではない。

 一時の恋情に心を奪われ、知らず知らずのうちに生命を胎の中で殺した。いくら少女だったとはいえ、そんな愚かな女が明るい道を歩んで良い筈がない。まだ若いリュカの人生を、縛って良い筈がないのだ。

 

(それに、この身体を見ればリュカだってきっと……)

 

 病に蝕まれ、その後の人生と引き換えに失った左胸。それはジェナにとって、女性としての自分を失うことも意味していた。

 ジェナが恋焦がれた男は、初潮を迎えて間もない少女の胸を弄った。その記憶と感触が、ずっと後を引いて離れない。ジェナの胸への執着は、初恋の相手への執着でもあったのだ。

 優しいリュカはきっと、あからさまに拒みはしないだろう。だが彼とて男性だ。

 リュカに哀れみの目を向けられたら、自分の中のすべてが音を立てて壊れてしまう気がした。

 

「……そっか」

 

 リュカはしばらく心配そうにこちらを見つめていたが、やがて納得したように頷いた。

 また、二つの足音が雪と泥の混じる床板を響かせ始める。

 

 位の高い者の住居だと一目でわかる大きな建物の通りを過ぎると、ひと回り小さな建物が点々と存在する場所に出た。

 そのうちの一つは、先ほどの"彼"の家だ。

 あの日、孤独の中にジェナを映し出した群青の瞳。それはきっと今は大切なものを映し、それは同時に温かな光を宿しているのだろう。

 

 リュカと並んで歩きながら、心の奥底では凍傷がじわじわと広がっていく。

 ジェナはそれをただただ感じていた。




ここまでお読みいただきありがとうございます。

副題はトゥーランドットのオマージュです。どちらかといえば、ストーリー的には蝶々夫人の方が近いのですけれどね。


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熱砂に煌めくは青の輝き

 

 

 

 星の瞬く紺色の端が、微かに白み始めた時分。

 そんな早朝に呼び出しを食らい、ジェナは大急ぎで眉毛だけ描いて宿を飛び出した。

 

 見慣れた大きなテーブルの向こうには、一人の青年が立っている。

 揺らめく暖炉の炎が、険しく刻み込まれた眉間のしわを一層濃くしていた。

 

「オズモンド、確かお前が荒地地帯の担当だったよな。至急、導きの地へ向かってほしい」

「えっ……どうしてです? 他の者の立ち入り禁止令は撤廃されていないとはいえ、しばらく落ち着いていた筈なのに」

「──そこで見つかったんだ、身重の炎妃龍が」

 

 

 

 結構な音量でルームサービスが起こしにきたというのに、リュカはまだ心地良さそうに寝息を立てている。

 彼の顔の周りが明るくなり過ぎないように気をつけながら、ジェナはその寝顔をランタンで照らした。

 

 リュカを起こそうかとも思ったが、これは自分に命じられた任務だ。それに、炎妃龍ナナ・テスカトリは戦闘時に大人数であればあるほど、犠牲が増えやすい古龍だと言われていた。

 現大陸では警戒心の強さゆえに複数人の狩人の前に姿を現さなかった彼女らは、この地では我が子を守るために自ら爆心となる。

 そんな危険へと、リュカを巻き込みたくはなかった。作戦もまともに練れていないのだから、実力のある他の同期も誘うべきではない。

 

──嫌な役を任せて悪いが……。

 

 先ほど招集に応じた際のやりとりが、ジェナの脳裏に蘇る。

 

──何かあれば戦闘になることも、覚悟してくれ。昨日のテオ・テスカトルのこともあるし、もしナナ・テスカトリがこちらを敵対視しているなら見過ごせない。

 

 セリエナを統率する若いリーダーの灰青色の瞳は、苦悩に揺れていた。

 古龍の危険に対する警戒を怠ることは無かったとはいえ、彼も新大陸の生まれだ。身籠ったナナ・テスカトリとその子に親近感を覚えていた部分もあるのだろう。

 もしものことがあれば、炎妃龍を胎の赤子ごと討伐せよという令。それは酷だが、仲間や拠点を危険に晒さないためには選ばざるを得ないものだ。

 ハンターならば、誰しもが経験するジレンマ。ジェナとてこれが初めてではない。

 凍りついた胸の奥に乾いた風が吹くのを感じながらも、その言葉にきっぱりと頷いたのだった。

 

 ジェナは冷気を防ぐ毛皮を脱ぎ捨て、熱を吸収する爛輝のドレスを身に纏う。その上にコートを羽織れば、ここを越えるくらいの寒さは耐えられるだろう。

 壁に立て掛けた愛器へと手を伸ばすと、その傍で白い翅脈がランタンの灯りを反射した。

 

「ジャック……」

 

 ジャックは感情のわからない瞳でこちらを見つめていた。動いているから、起きているのは確かだろうが。

 柔らかい毛の生えた頭にそっと触れると、ジャックはこてんと首を傾げた。

 

「行ってくるわ。あなたの主人をよろしくね」

 

 静かに閉まったドアが、夜が明ける前に再び外の風の唸りを内に入れることはなかった。

 

 

 

***

 

 

 

 ただの砂を黄金に変える朝焼けが眩しい。

 柱のようにそびえる岩の間を通り抜ける風が、髪や袖を靡かせる。

 それは乾いていたり湿っていたり、冷たかったり温かかったり……そんな常ではあり得ないような気候の変化すら、ここでは日常だ。

 ほんの数ヶ月前まで主に活動していたというのに、どこか懐かしくさえ感じるその風景。青い星のように輝く女人が、滅尽龍ネルギガンテに導かれた地。

 

 ジェナは風にかき消されゆくその匂いを、胸いっぱいに吸い込んだ。

 

 

 

 アステラ付近の"大蟻塚の荒地"によく似た、けれど箱庭のように小規模に収まっている砂地。

 堅殻を持つ草食竜らは群れて辺りを警戒し、ノイオス(翼竜)らが、屍肉を狙って岩棚から地上を見下ろしている。それがこの地の常であった。

 

 しかし最近は、縄張り意識の強い筈の小型モンスターらは潜み姿を現さない。ここが今、立ち入り禁止となっている所以。

 それこそが、昼夜を問わず大地に煌めく月の女王だった。

 

 金火竜リオレイア希少種。

 遠い上空からでも分かるほどの、年月を重ねた身体が放つ虹色の反射。

 それらが頻りにチカチカと日光を撥ね返すことから、ジェナは彼女が周囲を警戒しているのを悟る。

 付近に蒼い炎は見当たらなかったが、調査員が気づくならば、リオレイア希少種が気づかない筈がない。果たしてリオレイア希少種はナナ・テスカトリと敵対しているのだろうか。

 

 爛輝龍のこの装いでは、照り返す光ですぐにあちらに気づかれるだろう。隠れ身の装衣を着たとしても、空中では影になってしまうのだから意味がない。

 ジェナは翼竜に指示を出し、荒地エリアから少し離れたところへと降り立った。

 

(──森林地帯との繋ぎの場所で見つかったとはいえ、ナナが目撃されたのは荒地地帯の筈だけど。それに……)

 

 リュカの話によるとテスカトが居る場所は陽炎が見えるほどに急激に気温が上昇するという。

 しかし今は、今は防寒具を脱いでも少し汗ばむ程度。普段の荒地地帯とそう変わらない。

 ジェナが対面した炎王龍は身を潜めていたり衰弱していたりしたため納得できるが、炎妃龍も潜む理由があるのだろうか。

 リオレイア希少種の様子から、炎妃龍が既にここを離れているとは考え難い。

 

 この地帯に留まるようになったリオレイア希少種(月の女王)は、聡明な竜だった。

 番も侍らせずに上品かつ悠々と闊歩しているのは、彼女に相応の力と経験があるからこそ。縄張りに入れば威嚇はされるものの、こちらが退散すれば争いには発展しない。

 それでも反抗する不届き者には一切容赦せず、耐火に優れているにも拘らず身体中に酷い火傷を負ったディノバルドが見つかったこともあった。

 

 どうやら元々棲息していた雌のディアブロスと意気投合したようで、ディアブロスはなんと繁殖期(黒に染まる時)でさえも女王には手を出さなかった。

 そんなある意味では温和な性格の女王が、なにかを警戒している。あの何が起ころうとも我関せずといった態度を貫き通す彼女が、だ。

 それほど炎妃龍を脅威と見做しているのだろうか。

 

 砂地から森林へと植生の移り変わる泥濘にも、草食竜の姿は無かった。

 常ならば水溜まりで蠢いているテツカブトガニも、今日は何かに怯えるように泥に潜んでいる。

 ジェナは隠れ身の装衣を鞄から取り出し、粘着面へと周囲の砂を振りかけて身に纏った。

 

 風で飛んでくる細かい砂粒が、装衣の隙間から入り込んで重なる。目に入らないように下瞼に力を入れていると、遮光もできるのだから一石二鳥だ。

 ジェナはわずかな動きも他者に認められないよう、時間をかけて顔を出す。

 

 この分岐点は見通しが良い代わりに、周囲からも丸見えになってしまうのが玉に瑕だ。

 だから向こう側へは回らず、茂みの隙間から危険を確認するしかない。

 

 まず西側にはリオレイア希少種、再確認しても他の生物の気配は感じられなかった。東側は、驚くほどしんと静まり返っている。

 いつもは優雅にサボテンを食んでいるディアブロスさえも、どこかへ姿を消していた。どうやら、身籠った炎妃はただ他のエリアへと逃れたわけでは無いらしい。

 

 不気味なほどに静粛な荒地地帯。猛り爆ぜるブラキディオスが出現した時さえ、生命の気配の消えなかった場所が今やこの様だ。

 これは迂闊に近づくべきではない。これまでのハンターとしての経験が、そう告げていた。

 じっとりとした冷や汗が背に滲む。

 

 その時、張り詰めた大気が荒々しい咆哮によって打ち破られた。

 音の反射が起こる地形でないため、そう遠くはないものであることを察する。

 こんな鳴き声、炎妃龍は発しただろうか。リオレイア希少種やディアブロスのものとも違う、低く腹から響き渡るような声。

 

 最悪の事態が、ジェナの脳裏に過ぎる。

 

(ちょっと、やめてよね。荒地レディースとナナだけでもものすごく厄介なのに、四体同時なんて御免よ……!)

 

 本当にツイていない。この運の悪さは一体誰譲りなのか。

 しかしまだそうと決まったわけではない。鉢合わせることが無ければ良いのだから。

 身籠った雌ならば、危険を回避するかもしれない──否、あの気性の荒い妃が黙って見過ごす筈がなかった。

 

(あたしはどう立ち回るべきかしら。取り敢えず、セリエナやアステラに飛来しないようにすればいいのよね)

 

 おそらく臨月を迎えているであろう炎妃龍。彼女のそもそもの目的は、姿を消した番を探すことだった。

 あまりに酷なことだが、炎王が旅立ったことを炎妃はおそらく知らない。きっと赤ん坊が生まれる前に探してしまいたいと思っているのだろう。

 

 だが、渡りの凍て地はテスカトが滞在するには全く適さない場所だ。

 しかもその寒さは、子の宿る子宮の筋肉をも収縮させてしまう。

 臨月だとしても、もし妊娠週数が足りず胎児が十分に育っていなかったら。生まれても息をすることもできずに死んでしまうだろう。

 あの環境が、お産に甚大なる悪影響を及ぼすことは明らかだった。哀れだがセリエナへ行かせないことは、彼女と赤ん坊を守るためにもなるのだ。

 

 ジェナはそっと目を伏せる。

 古龍の繁殖は、ヒトにとっては必ずしも喜ばしいこととは限らない。

 それでも一度は子を宿した身としては、母親が我が子の元気な産声を聞けずに終わってしまうのは、悲しすぎると思った。

 ジェナの子は母親の自覚のないまま流れてしまったが、あの親子は違う。両親に生まれてくることを願われ、すくすくと育ってきた子どもなのだ。

 

 できるならば、炎妃龍のお産に脅威がないようにしてやりたい。

 もしかしたらあの聡いリオレイア希少種ならば、謎の咆哮の主から彼女を守ろうと動いてくれるかもしれない。

 

 だとしたら。ジェナは表情を引き締め、目をしっかりと開けた。

 

(なるべく手を出さずに様子を見て、いざとなればアステラ防衛戦と同じように動けばいいわ)

 

 自分ならばやれる。あの灼熱地獄で怒れる爛輝龍の角を折ったのだ。きっと今回もうまくいく筈だ。

 ジェナは自己を鼓舞し、背中の愛器リルン=グレイシアの柄をぐっと握る。その滑らかで冷たい感触は、恐怖の炎を鎮めるには十分だった。

 

 ジェナは隠れ身の装衣を被り直し、一歩を踏み出した。

 

 

 

(これは……!)

 

 アステラへ五期団が渡ってきて間もない頃、何者かの痕跡が頻繁に見つかるようになったことがある。

 ゾラ・マグダラオス捕獲作戦とほぼ並行して行われていたその対象の調査。当時は導蟲が青く光ることすら珍しく思えたものだ。

 

 特徴的な、その痕跡。

 頑強な岩に深く刺さるのは、長く鋭い棘。

 

「ネルギガンテ……!」

 

 咆哮の主は、滅尽龍だったのだ。なにかと調査団、そしてテスカトと因縁の深い古龍。

 青い星をここへと導いた"金剛の棘"は、今は姿を消している。おそらくこの滅尽龍は、彼が居なくなったのを良いことにここを狩場にしようとしているのだろう。

 滅尽龍ネルギガンテという種は、古龍を好物とする。

 そうなれば、真っ先に狙われる対象は決まりきっていた。

 

(ナナはこのことを知っているのかしら。それで身を潜めている……?)

 

 そうなれば、リオレイア希少種の行動とディアブロスの姿が見えなかったことにも納得がいく。

 彼女たちで身籠ったナナ・テスカトリを匿っている可能性が高かった。

 

 導きの地全体は、蟻塚のように入り組んでいる。自分自身がハコビアリになったようにも感じるほどだ。

 ネルギガンテから身を隠す場所も、調査団よりも自由がきく彼らならよく知っていることだろう。

 

(何事もなく終わればいいけど……ともかく、彼らの位置を把握しなくちゃ)

 

 ジェナは岩に刺さった棘のうち、小さなものを一つ引き抜いて採取筒に入れた。

 途端に、元々リオレイア希少種の匂いで青く輝いていた導虫がわっと集まる。滅尽龍の匂いを覚えれば、きっと導いてくれることだろう。

 

 どこか炎妃龍の炎にも似た青い輝きは、ふわふわと一筋に収束していく。

 ジェナはそれを辿り、再び足を踏み出した。

 




今回短めです。


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紫炎飾るシャンデリア

ご無沙汰しております。
時間を置いての更新となりましたが、お楽しみいただけると幸いです。


 セリエナに下りる夜の帷は広い。

 皆が起き出す頃にはまだ太陽が昇りかけていた空は、昼前になってようやく明るくなってきたのだった。

 

 そんな中、うろうろと歩き回る巻き毛の若者が一人。

 若者──リュカはすれ違う面々を呼び止めては、眉を心配げに下げていた。

 欠伸をしながら階段を上がってくる、夜勤明けの先輩を見つけてリュカは駆け寄る。

 

「先輩すいません、ジェナ見ませんでした?」

「ジェナちゃん? 見てないなぁ。どうしたの?」

「朝から姿が見当たらなくて……」

 

 朝起きると、ジェナの荷物は綺麗に片付けられていた。ベッドに触れてみても体温は既に消えており、自分が起きるよりだいぶ前に宿を出たことが分かったのだ。

 そんな時、ジャックがドアにしがみついて盛んに翅を動かしているのが目に留まり、宿を飛び出して来たのだった。

 

 本来ならば司令官である調査班リーダーに聞くのが一番良いだろう。だが、今日に限って姿が見当たらない。

 流石にジェナの行き先までは分からなかったようで、ジャックの案内は掲示板までで止まっていた。

 掲示板には、クエストや調査に出かけた者の情報が貼り出される。

 だがそこにはジェナの名前はなく、結局行方が知れないままとなっていた。

 夜勤制があるとはいえ、人の目は限られているため、臨時の仕事までを把握するのは難しい。

 一部の人間が知っているとしても、不規則な仕事ではその時点で上に報告が行っているとは限らないため、情報を持っているのが誰かまでは分からない。

 

「でもこの時間だし、掲示板更新されてるんじゃない?」

 そこで調査団の報告・連絡・相談システムを支えるのが、情報を統括して貼り出す仕事である。

 出かける前に自分で貼っていく者もいるが、多くは受付嬢が受注した書類を定時でまとめて掲示する。特に緊急事態であれば、後者であることがほとんどであった。

 

 先輩の言葉に合点がいき、リュカは目を丸くする。同時に、胸が妙にドクドクと鳴り始めた。

 はじめは慣れない拠点に一人でいるのが不安だった、というのも勿論あった。だが先輩の言葉を聞き、どうにも嫌な予感がしたのだ。

 ジェナが自分に何も言わず、置き手紙も残さずに出かけるならば、それこそ緊急性の高い依頼に違いない。しかも本来彼女が受け持つ地域は、好戦的なモンスターの集う導きの地だと聞く。

 今までこんなことは一度もなかった。フィールド調査もモンスターの狩猟も、ジェナは必ず自分に伝えてくれていたし、着いてくるかと誘ってもくれていた。

 余程切迫した調査だったのか。一人で行こうとする気持ちも分からないでもないが、それでも何故起こしてくれなかったのか、と思う。

 同時に、自分の寝つきの良さは兄にもよく笑われていたことを思い出し、ばつが悪くなる。

 

(だとしても、ここまで一緒にやってきた仲じゃないか。何も言わずに置いていくなんてひどいや)

 リュカは眉間に皺を寄せてむくれた。

 もっと自分を頼ってくれれば良いのに。自分もそこまで柔ではないことは、アステラ防衛戦で証明したつもりだったのに。

 焦燥感と苛立ちに、思わず下唇を噛む。

 

「アドバイスありがとうございました。それじゃ」

 リュカは先輩に軽く頭を下げるやいなや、未だ泥のぬかるむの中央エリアへと駆け出した。

 そんなリュカの様子に、ジャックは落ち着かなそうに羽を擦り合わせていた。

 

 虫の知らせは、人々が思っている以上によく当たるのだ。

 

 荷車を引くコポポが、何やら落ち着かない様子で頻りに鳴く声と、それを宥める男性調査員の声が、泥混じりの雪の中へと吸い込まれていった。

 

 

***

 

 

 風で舞い散る砂粒の中には、蟻塚の脆くなった部分から剥がれたものも混じっている。

 それを即座に瞬膜で防ぐと、捕食者はフンと荒く鼻息を吐いた。

 

 炎の龍は、煮えたぎる溶岩の泉もしくは熱砂の湖に姿を現す。自身の経験に基づき、捕食者は溢れる涎が蒸発してゆくのも厭わず獲物を探し回った。

 

 このやや規模の小さな砂地は、最近捕食者が構えた縄張りの中にあった。捕食者はそこで、元々の主である金色の竜と青色の龍が争っているのを目にしたのだ。

 青色の龍の腹は大きく膨らみ、今にも赤ん坊が産まれようとしていた。

 龍の仔は良い。あれほどまでに小さくても、舌を満足させてくれる旨味と栄養に富んでいる。

 年を重ねた金色の雌は、腹の足しにはなるがかかる労力と報酬が釣り合わない。何故なら彼らには、捕食者が求めるたまらなく甘美な血が流れていないのだ。

 

 捕食者は、ちらりと黒く硬化した棘を見た。

 少し前までは、竜には劣らずとも龍の血を啜ることは叶わなかった。

 だが今は違う。筋肉は逞しく発達し、地を砕く力も手にしたのだから。未だ若くはあるが、弱い龍であれば抑え込めるだけの臂力を備えている。

 

 そして、今ようやく見つけた。あの、うまそうな子持ちの龍を。

 こんなに目立つ色をしているのに、珊瑚ならともかく乾いた岩陰に隠れられるとでも思ったのか。大方、隣の二本角(草を喰む竜)の入れ知恵だろう。

 異なる世界を見る瞳を持つことを、理解していないのだ。とはいえ、自分もこの知恵を授けてくれた龍が居たから識っているのだが。

 

 極力音を立てないように岩を盾に近づいていく。だが警戒心の強い母親なだけあって、気付かれるのが一瞬だったのは言うまでもない。

 母龍は己を見て逃げようとしたが、すかさず棘を飛ばしてやった。こんな馳走を逃すものか。

 すると二本角がけたたましい咆哮をあげ、こちらへと突っ込んできた。捕食者は翼を広げ、難なく横へとかわす。

 なんと身の程知らずなことだろうか。異種同士での庇い合いなど、片腹痛い。

 

 捕食者は涎をぼたぼたと垂れ流しながら、舐め回すように雌たちを見た。

 二本角は再び頭を下げ、こちらへ突っ込もうとしている。奴らは正面からの衝撃には強いが、横からの衝撃には対抗する術を持たない。

 ならば、厄介な金色の雌が来ないうちに片付けて、母龍も薙ぎ倒してしまえば良いのだ。

 

 捕食者は空へと飛び上がり、歓喜の吠え声を轟かせた。

 

 

***

 

 

 日頃より強者の集う導きの地は、今や血に飢えた龍の狩場となっていた。

 

 岩陰に隠れていても、油断していれば鋭い棘や凄まじい熱波が押し寄せる。

 幸いまだこちらには気付かれていないようだったが、時間の問題だろうとジェナは思っていた。

 

 "悉くを滅ぼす"と組織が呼んだ金剛の棘を持つ龍は、未だ姿を消したままだ。

 だが、かの種族にはそもそも尽くを滅ぼす龍の異名がある。それは即ち、生まれ持った力そのものの強さがあるということ。

 

 かの種族は、炎だの風だのといった不思議な力は持たない。そんなものは、必要がないのだ。

 ただ鍛え抜くべきは、己の肉体のみ。経験は生き抜くことさえできれば自ずと付いてくるもの。

 あの金獅子でさえ蒼角の獣(キリン)から得た力を操るというのに、それすらも厭う生き様を調査団は幾度となく見せ付けられていた。

 

 そしてそれは、いま目の前でも繰り広げられている。

 角竜の巨体が、宙に浮いていた。飛竜として空を飛んでいるのではなく、下から拳で突き上げられている。

 

(いくら繁殖期じゃないとはいえ、あのディアブロスを持ち上げちゃうなんて……!)

 

 ジェナは言葉を失っていた。

 

 勢いをつけて運動エネルギーを用いるならまだしも、この滅尽龍は少し前腕を引いただけで角竜の首根っこを持ち上げてみせた。

 角竜は苦しげにもがき、悲鳴を上げている。あれではさぞかし苦しいことだろう。

 ネルギガンテの前足は物を掴むのに適さないため絞められてはいないのだろうが、あの自重を首だけで支えさせられているのだから。

 現に、角竜の頑丈なフリルはみしみしと音を立てていた。

 

 滅尽龍はちらりと後ろを見やると、彼女を思い切りそちらへと投げる。

 その方向には、逃げ遅れた腹の大きな炎妃龍の姿があった。

 

「あっ!」

 

 炎妃龍は咄嗟に後ずさるも、足をもつれさせて滝壺へと落ちてしまう。

 炎の龍は水に濡れることを良しとしない。火種となる粉塵も牙も濡れてしまえば、炎の鎧は纏えないのだ。

 己の体温で灼熱の風を生み出すことはできるが、その温度もたちまち蒸発熱へと変わってしまう。炎妃龍の切り札は無くなったも同然だ。

 

 その場だけ陽炎ができていたエリアの気温が急激に下がり、嫌な風の流れが頬を舐めていく。

 アステラで戦意を丸出しにしていた風翔龍の生み出すものとはまるで違い、どこか嘲笑うようなその風。

 

 炎妃龍は未だ動けずにいる角竜を見たのち、腰を落として低く唸る。

 ずぶ濡れになりさらに動きの鈍くなった今、彼女はその場から動かないことに決めたようだった。

 

 滅尽龍はこれで狙いやすくなったと言わんばかりに吼えた。

 それに対し、炎妃龍も負けじと鋭い牙を剥き出しにして咆哮をあげる。たっぷりと水を吸い、雫の滴る鬣さえ美しい。

 隆々とした肉体を躍らせる暴君と、不利な立場でも誇りを失わない王妃。まるで、絵画の中の世界のようだった。

 そんな様子を、ジェナは固唾を飲んで見守る。

 今の自分にできるのは、責任をもってこの場の状況を記憶し記すことのみ。下手に手を出して命を落とせば、組織の駒がひとつ消えるのだから。

 自分は、新大陸古龍調査団。その名の通り、古龍らの生き様を識りたいと願い駆ける者だ。

 流石に編纂者ほどに情報を巧く綴ることに長けてはいないが、ありのままを伝えようと心に決めた。

 

 炎妃龍が息を吸うと、牙の間がコオォと輝く。直後、滅尽龍へと強烈な炎の柱が吐き付けられた。

 滅尽龍は地を蹴ってかわしたが、怒れる妃がそれを許す訳がない。すかさず着地点を計算し、そちらに高出力の火焔を放った。

 避け切れずにそれを鼻面に喰らった滅尽龍は大きくのけ反る。

 滅尽龍が目を瞑った一瞬の隙に、炎妃龍は長い尻尾を鞭のようにしならせ、巨大な角のある顔を張り倒した。

 水を吸って重くなっているうえに、その水分は既に炎妃龍の体温で熱湯と化している。堅い棘や甲殻で覆われた滅尽龍の顔面といえど、ひとたまりもない。

 

 炎王龍が炎ならば炎妃龍は粉塵、と記したのは誰であったか。その説を覆すように、この炎妃龍は巧みに炎を操った。

 炎妃龍が吐き出した炎はいつの間にか地面に引火しており、青い撒菱がフィールド中に広がっていた。

 靴を履いていても、たちまち溶けてしまうような高温。だが、件の滅尽龍は体液の煮えたぎるゾラ・マグダラオスの背も平気で歩き回っていた上、龍結晶の地のガジャブー達を追い出して居座っていた。

 炎くらいでは、あの一見柔らかそうに見える肉球は火傷すらしないのだろう。

 

 ジェナは隠れ身の装衣に塗した砂や草が極力落ちないようにしながら、じっとりとした額を手の甲で拭う。

 これまで痕跡は辿ってきたが、炎妃龍ナナ・テスカトリを直接目にしたのは初めてだったため、ここまでフィールドが暑くなるとは思わなかった。

 番の炎王龍がアステラに飛来した際は、海沿いだったことも関係しているかもしれないが、炎は青くなるほどに熱を増す。

 今すぐにクーラードリンクが飲みたい。しかしポーチを探っていては注意力が散漫になってしまう。

 唯一、リルン=グレイシアを背負った背中だけがひんやりとしているのが救いだろうか。暑くなるのを前提に低めの音程でチューニングしたが、おそらく焼け石に水だろう。

 

 炎妃龍は口端に火を燻らせ、ここぞとばかりに体勢を崩した滅尽龍に組みかかる。だが、その判断が間違いだった。

 滅尽龍は未だ目は開かないながらも、炎妃龍の胸を蹴り飛ばした。

 

「ああっ……」

 ジェナは思わず口を手で覆った。

 重い蹴りをもろに食らった炎妃龍は呻き、後ずさる。咄嗟に腹を庇う動きが痛々しかった。

 胸の甲殻は欠けていないが、あれでは骨折まではいかずとも胸骨や肋骨にかなりの衝撃があったことだろう。

 

 滅尽龍は即座に体勢を立て直す。だが炎妃龍も首を振ると翼を大きく広げた。

 いつの間にか水滴は乾き切っている。ならば、次に来るのは──。

 

 ジェナは彼らに気づかれるのも構わず、咄嗟に岩陰へと逃げ込んだ。

 直後、これまでとは比べ物にならないくらいの熱風が吹き荒ぶ。防具そのものは熱に強いが、露出した肌がチリチリと焼けるように熱かった。装衣など、見た目以外に役に立ちはしない。

 

 薄目で辺りを見ると、先ほどまでジェナが居たところに生えていた苔は一瞬にして乾き、一部は焼け焦げていた。もし避けていなければ、自分もああなっていたかと思うとぞっとする。爛輝龍を相手していた時に地獄を見たのだから、二度もあんな目に遭うのは御免だった。

 ヒトの身体は、火竜の炎すらもまともに喰らえば簡単に蛋白質がいかれて正常な働きをしなくなる。リュカから彼らの行動を聞いておいて良かったと、心底思った。

 蒼炎が落ち着くと、ジェナは再び装衣を目深に被り様子を窺う。

 

 辺りに立ち込める焦げた臭いは、周囲の草木や地面が燃焼しただけではないだろう。滅尽龍は、盾にしていた翼をちょうど広げるところだった。

 あの地獄の炎を浴びてもなお、膝を着きすらしないのは流石古龍というべきか。

 かの龍の棘は物理的な衝撃によって折れ、新しい棘に生え替わる性質を持つ。だが今喰らった凄まじい熱波では、むしろ黒い棘は熱を吸収するため身体にまでダメージが通っていたのではなかろうか。

 

 角竜はというと早々に地中へと退散していたようで、やがて地響きと共に姿を現した。ここで逃げてしまえば良いものを、炎妃龍の隣へと立ちはだかる。

 ディアブロス特有の地中からの強襲を行わないのは、誤って炎妃龍に当たるのを危惧してのことなのだろう。

 

 炎妃龍が粉塵を撒こうと腰を落とした瞬間、滅尽龍は四足で火の粉の舞う中を駆け、その逞ましい腕を振り上げる。

 やや反応の遅れた炎妃龍は慌てて飛び退こうとするも、滅尽龍の前脚が蒼い翼を掴んだ。

 そこへ角竜が砂を撒き散らしながら双角を振り上げるが、滅尽龍は炎妃龍を捕らえながら体当たりをかました。

 

 だが、いくら古龍のような属性を操る力を持たない種と言えども、砂漠の暴君の名も伊達ではない。巨体による衝撃に一瞬怯みはしたものの、重厚な甲殻はそう簡単に棘を通しはしなかった。

 角竜の骨格は、縄張り争いをするのに適応した進化の仕方をしている。つまり、正面からの衝撃にはすこぶる強い。

 滅尽龍の意識が炎妃龍に向いた瞬間、角竜は強く地面を踏み締めた。

 発達した筋肉を収縮させ、滅尽龍の無防備な腹側がこちらに見えた瞬間。溜めたエネルギーが、一気に解放される。

 

 鋭い角と角が、ぶつかり合った。火花でも散りそうな勢いの衝突に、空気が震える。

 飛竜や古龍といったカテゴリーは、ヒトが後から付けたものだ。名付けられた彼らにとって、生まれ持った能力に差異はあれど、そんな区別など知ったことでは無い。

 砂をも踏み締める蹄の下で土が割れ、ヒビが入っていく。角竜の発達した筋肉が蒸気を発しそうなほどに縮み、血管が浮き出ていく。

 これは角竜が押し負けるか。そう思った次の瞬間、地面に薙ぎ倒されていたのは滅尽龍だった。

 

(なんですって!?)

 ジェナは目を見開いた。まさか黒く染まる時期でも無いのに、古龍に力で勝ってしまうとは。

 滅尽龍は体制を立て直すと忌々しげに息を吸い、思い切り声として吐き出した。その荒々しい牙が不揃いに並ぶ口元からは、湯気すら出ているように錯覚する。

 ついに滅尽龍は、捕食対象としてだけではなく攻撃対象として彼女達を見定めたようだ。一対ニだというのに、まるで気後れする様子は無い。

 

(両者は大体互角といったところかしら。ただ、ナナがいざという時に弱点になるかもしれないわ)

 ジェナは唇を噛んだ。大方、滅尽龍の狙いは孕った炎妃龍だろう。多くの生物は赤ん坊や雛が生まれてから母親のいない隙を狙うが、苛烈な性質で知られる炎龍の雌がそんなことを許す筈が無い。ならば、万全な力を発揮できない今が狙い目というわけだ。

 

 吼え声に意識を引き戻され、ジェナは顔を上げた。滅尽龍の爪が、角竜の襟飾りを掴んでいる。必死にもがく角竜だったが、角の付け根を滅尽龍の上腕が押さえ込んでいるために叶わない。メリ、と嫌な音がして、その身体は羽ばたくことをせずに宙を舞う。ぐったりと力の抜けた角竜は、竜一頭分ほどの高さの崖の下へと投げられてしまった。

「熱っ……!」

 直後、凄まじい熱波が肌を焼き、ジェナは装衣の裾を握った。閉じた瞼の隙間からかろうじて見えたのは、青紫。気高き炎が、最高潮の怒りに染まった色だ。

 それはまるで、一瞬で森が灼熱の黄金郷へと変わってしまったかのよう。黄金で彩られた地中の世界をそう呼ぶならば、涼しげにすら見える色で彩られたそこは青の宮殿と呼ぶべきか。

 草木の焼け焦げた宮殿の中央には、揺らめく影が一つ──否、上下に二つ。風で炎のカーテンが翻ると、それらは露わになった。

 空には月の女王、大地には炎の皇妃。

 

 怒りで爛々と燃える眼差しが、滅尽龍へと向けられていた。



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陽炎映すは胡蝶の夢

 

 

 

 燃えない筈の砂が燃えている。

 否、その場に生えた僅かな草や昆虫など、燃える物質が全て酸素と化学反応を起こしている為に、そう見えるのだ。

 

 青い炎に包まれ、燃えていない空間も熱に揺れている。

 熱の根源は雌たちだが、三対一で優勢になったわけではない。首を折られた角竜は、既に虫の息だった。ジェナのいる位置から全貌は見えなかったが、あの角竜が戦線に復帰してこないのだ。おそらく、もう生きられないだろうことは察しがついた。

 月の女王を一瞥するや、滅尽龍は角竜の落ちた崖下へと飛び込んだ。すぐさま覗き込んだ炎妃龍は後退り、ウゥ、ウゥフ、と哀しげな鳴き声をあげた。

 妃の鳴き声の合間に、バリバリと何かが砕ける音がする。明らかに攻撃ではないその間隔から、何か硬いものを砕いて喰っている音だと直感的に思った。

 その光景を直接目にしたであろう月の女王は、どう思うか。ジェナが目線を移した先に、答えはあった。

 

 一瞬、光蟲が絶命したかのように辺りが光に包まれた。だがその光は熱を伴っている。

 熱の根源──月の女王の頭が、胸が、煌々と輝いていた。炎龍ならまだしも、生物が纏うには高温すぎる焔が、彼女を唯一の女王たらしめている。

(これが、報告にあった劫炎状態!)

 高温の炎に包まれたフィールドでは、瞬きをする度に残像が瞼の裏でちかちかとする。まるで太陽をずっと見続けているかのようだ。

 

 ジェナは、一瞬耐熱の装衣を羽織るべきか迷った。装衣は重い防具の上に着用することを想定して作られている為、あまり丈夫ではない。

 戦闘に巻き込まれた際の切り札として取っておこうと温存していたが、炎妃龍と金火竜が揃った今そんなことを気にしている余裕は無かった。

 ジェナは木陰に潜み、火竜の翼膜でできた外套を羽織る。多少熱を持ってはいるが、先程と比べれば遥かにましだ。

 

 低い咆哮と共に、再び周囲の気温が上昇した。息をする度に肺を焦げ臭い熱気が焼いていく。黄金郷とは全く異なる暑さ、熱さ。

 耐え切れずクーラードリンクを取り出そうとしたその時、頭上から何かが降ってきたのが目の端に映り、慌ててその場を退く。

 直後、燃え盛る塊がジェナの居た場所へと勢いよく落ちてきた。雪のように舞う火の粉が触れる度、植物が火に飲まれていく。

 

(あ、危なかった……)

 心の臓が早鐘を打っていた。

 もし避けられず当たりどころが悪ければ、気を失ったまま灰になるまで身を炙られていただろう。息ができないほどに熱い筈なのに、背筋に冷たいものが流れて止まらない。

 落ちてきたのは木の幹らしきものだった。それを中心として、忽ち炎が燃え広がっていく。直接吐き出される火の当たるところだけではとどまらず、いつの間にか広範囲に引火を繰り返していたらしい。

 ここを越えていくのは不可能だと判断し、ジェナは怒りの渦巻く方へと歩み出した。目立たないように端を歩きたかったが、草木は全て青白い炎に包まれているため、既に燃え切っている地面を選んで足を踏み出すしかない。

 

 炎妃龍は近づいてきたジェナを一瞥して牙を剥く。瞬時に攻撃してこないあたり、ジェナの存在には気づいていたらしい。

──あのナナ、若いけど見境なく暴れるほど馬鹿じゃない。

 黄金郷で、リュカが面白そうに口端を上げていた姿を思い出す。

(なるほど、確かにそうみたいね)

 とはいえ、警戒状態にある炎妃龍が今すぐに襲いかかってきてもおかしくはない。極力妃を刺激しないよう、目を合わせずに息を潜めて足を動かす。勿論、いつでも武器を出せるよう背には手を掛けて。

 

 だが、その緊張はけたたましい咆哮によって破られた。

 月の女王は崖下の滅尽龍に向かって、上空から蹴りかかった。まるで雄火竜のようなその蹴りを、滅尽龍は危ういところで躱わす。

 だが、女王はそれを読んでいたかのように長い尾をしならせた。激昂しているとは思えない冷静な判断。しかもとにかく動きの切り替えが早い。

 滅尽龍はその攻撃をまともに喰らい、よろよろと後ずさる。しかし女王は息つく暇すら与えず、再び身を翻らせた。

「あっ!」

 先程とは打って変わり、角竜を容易く持ち上げていた滅尽龍の身体が宙を舞う。日光を弾き返すのは、折れた無数の棘の破片だ。

 だが滅尽龍もただやられているわけではない。二度目の毒棘の束を喰らう前に、咄嗟に前脚を伸ばしていた。その鋭い爪が、月の女王の翼膜を捉えていたのだ。

 二頭はもみくちゃになりながら、崖下のさらに奥へと転がり落ちていった。

 

 滅尽龍の姿が消えると、炎妃龍はジェナには目もくれず、翼を広げて一目散に角竜の側へと舞い降りた。瞼を閉じたままの角竜の頬を優しく舐め、哀しげに鳴く。  

 そして、顔を上げた。意を決したように猛々しい咆哮を上げるや、熱気の漏れ出る穴へと飛び込んでいった。

 

 ここで逃げることもできたが、乗りかかった船だ。ジェナは意を決して駆けてゆき、楔虫へ向けてスリンガーを射出した。

 左腕に軽い衝撃を受け、金具を楔虫がしっかりと掴んだことを感じる。グリップを握ると、勢いよくロープが機構に巻き戻ると同時にジェナの身体も楔虫の方へと引っ張られていった。

 ロープを撓ませて金具を外し、二つ目の橙の光へ向けて再び撃ち出す。

 だが、急に目元に弾けるような熱さを感じ、反射的に瞼を閉じてしまった。その直後、嫌な感触が腕に伝わってきた。

 

「え──」

 空気中を狂い踊る龍の火の粉がロープに引火したのだと気づいたのは、勢いよく宙に放り出された後だった。編まれた縄が千切れた際の反動は、見かけ以上にすさまじい。

 既に絶命した角竜の、折れた角が間近に迫ってくる。咄嗟に身を捻りなんとか避けたものの、欠けて鋭くなっている部分が背を引っ掻く。

「づっ……!」

 カッと焼けるような鋭い痛みが背に走り、ジェナは顔を顰めた。

 本当にツイていない。そもそも、運の良い日など自分に来るのかとすら思えてくる。

 なんとか受け身を取って地面に転がるも、足場が不安定で留まることができない。摩擦による熱さが、地肌そのものの熱さへと変わるまではそうかからなかった。

 

 ようやく止まった頃には、身体は岩肌で擦り傷だらけになっていた。呻きながらなんとか半身を起こして目に入った光景に、ジェナははっと息を呑んだ。

(ここは……溶岩地帯の入り口だわ!)

 ジェナの前にあったのは、黒々とした火山岩でできた洞窟だ。滅尽龍と月の女王らが落ちた衝撃で、穴は人間が一人通れるかどうかくらいになっている。奥からは特有の臭気をもつ熱風が吹きつけ、禍々しい赤光がちらちらと漏れていた。

 新大陸において剥き出しの溶岩が見られるのは、龍結晶の地である。よく似ていることから察せられるように、ここもエネルギーに満ち溢れている為、力を蓄えんとするモンスターが集う。ジェナも、片手で数えるほどしか足を踏み入れたことがなかった。

 

 洞窟の奥から伝わってくる竜の怒声と地響きに、ジェナは眉を顰めた。

(すぐに出てくるだろうと思ったけど、まだ続ける気かしら)

 火竜の希少種に観測されている劫炎状態は、頭部から胸元にかけては内部が透ける程の炎を纏う。だが、彼ら自身が熱に強いというわけではなかった。リオス種がずっと火を吐くことができるのはその恐るべき皮膚の再生能力ゆえであって、溶岩に生息する生き物ではないのだ。

 とりわけ今の月の女王は、腹に膨らみがあった。つまり彼女もまた、炎妃龍と同じように身籠っているということだ。腹に抱えた卵を守る為にも、そう長くは留まらないだろうとジェナは思っていた。

 

(ここから出てくるのは無理でも、ナナが入った場所がある筈なのに。崩れるような音はしなかったわ)

 この目で確かめてみるしかない。先ほど決した覚悟を再度自らの胸に問い、目を閉じて息を長く吐く。

 瓶の蓋を開け、清涼感のある水薬を一気に呷ると、ジェナは黒い岩に手足をかけ始めた。

 直接溶岩に触れないようにしながら、少しずつ身体を進めていく。足場は不安定で、今にも崩れて龍と竜の争いの最中に崩れ落ちてしまいそうだ。

 途中で何度か熱気が迫り、ジェナは手で目を覆った。だが何故か足を進める度に温度が下がっていくような感覚に、眉を顰める。

 

 その時、一つの考えに思い当たり、ジェナは目を見開いた。熱気は上へと移動する。炎妃龍が飛び込んだ今、洞窟の上部は尋常ではない程の高温となっていた。

(ナナはいま激怒している筈。そうなれば、ここはきっとナナの感情に呼応するわ……!)

 雌雄を問わず、テスカトは火山地帯の奥深くに生息している。炎龍の名を冠する彼らの能力は、炎や粉塵を撒き散らすに留まらない。それは、まさしく一夜にしてユウラの故郷を溶岩で飲み込んだ力であった。

 ぐらぐらと揺れる地面は、おそらく地脈の自然な活動によるものだけではない。黒い岩に亀裂が入るのも、時間の問題だろう。

 

 これでは月の女王が外に出られない筈だ。うまくいったとして灼熱の空気の層を通るのは一瞬かもしれないが、それを邪魔してくる龍がいる。

 何より、ここは地脈の心臓部とも言える場所だ。熱だけではなく、臭気の元である有毒ガスも多量に発生する。いくら比重の重いガスは下に移動するといっても、龍や竜たちの翼が空気をかき混ぜてしまうのだから意味がない。

 いくら若い個体といえども、滅尽龍の硬い棘と甲殻を砕く力は月の女王と炎妃龍らには無かった。それでも有機物を燃やし続ける炎が酸素を奪い、ガスが溶岩地帯に適応していない生き物の血液を侵食していく。

 実際、滅尽龍ははじめ怒りのままに暴れ回っていたが、案の定と言うべきか次第に動きが鈍くなってきていた。いくら古龍といえど、生命活動が阻害されれば無敵では居られない。彼らもまた、煮えたぎる溶岩の傍で生きる龍ではないのだ。

 まだ洞窟に入ったばかりで姿勢を低くしているジェナでも苦しくなってくる程なのだから、滅尽龍は相当量のガスを吸い込んだだろう。

 だがそれは月の女王も等しい。この阿鼻叫喚な状況で、火山環境に適応しているのは怒れる炎妃龍だけだ。

 

 炎妃龍は咆哮を上げるや、水を得た魚のように滅尽龍に焔を吐き掛ける。それまでは容易く避けていたというのに、滅尽龍は放射されるそれをまともに浴びていた。明らかにおかしい状況だ。

 次々に溶岩が噴き出し、傾斜のある地面を流れ出している。月の女王はなんとか翼を動かして避けるが、ずっと飛び続けるのは難しいだろう。

 ここにいれば、いずれは自分も足場をなくして焼き尽くされるのを待つのみになる筈だ。

 

(このままじゃ、あたしも含めてナナ以外はみんな死んでしまう。もしかすると、ナナのお腹の子もダメージを負っているかもしれない)

 ジェナは熱と中毒症状で朦朧とした意識の中後ずさる。もうこれ以上は自分の身体に支障をきたすと直感が告げていた。今すぐに逃げなければこちらがやられてしまう。隣のエリアからであれば、まだ逃げられるかもしれない。

 喉がカラカラに乾いて張り付き、我慢できずにジェナは装衣の中で激しく咳き込んだ。砂と血が混じったような味が、喉奥に絡みついている。

 

 彼らがジェナに直接的な敵意を向けていないのがまだ救いだった。ジェナは龍たちの攻防を掻い潜り、噴き出す溶岩を避けながら壁を伝って隣エリアへの避難を試みた。出口はゾラ・マグダラオスの亡骸に近い奥しかない。

 あと少しで逃れられると思ったその時、出口の方から身の毛もよだつような咆哮が聞こえてジェナは足を止めた。

(この鳴き声、まさか!)

 

 その時、滅尽龍が最後の力を振り絞るように空高く舞い上がった。月の女王はそれを止めようと翼を持ち上げたが、足をもつれさせて倒れ込んでしまう。炎妃龍が制止よりも月の女王を気にしたのが、運の尽きだった。

 滅尽龍は腹の大きな炎妃龍へと照準を定め、垂れてきそうな涎を啜る。この一撃さえ決まれば、上手い肉にありつくことができるのだ。

 

 

 

 青い星が氷の入ったグラスを弄びながら口端を上げた瞬間が、ふと蘇る。

──奴が突然吠えて舞い上がったら、覚悟しておくことさね。

 どこか気怠げな様子で、目の奥に妖しい光を宿していたあの姿。確かその後は──。

 

「ダメよっ!」

 ジェナが大剣のように笛を構えて炎妃龍らの前に飛び込もうとした瞬間、後ろの岩が吹き飛ばされる。溶岩の迸る傍らを、銀青色の風が一陣吹き抜けた。

 銀青が炎を纏う前に。そしてジェナがそれが何かを認める間すらなく。

 地に穴を開けるような衝撃が、全身をしたたかに殴り付けた。

 

 

 

***

 

 

 

 最期まで残る感覚は、聴覚なのだという。だからこそ、息を引き取った後にも声を掛け続けるべきなのだと。

 いま遠くから自分を呼び掛ける声は、夢なのか現なのだろうか。

 

 ゴツゴツとした地面から、平らな何かに身体を横たえられる感覚。地面が揺れて防具が擦れる度に、全身が焼け付くように痛んだ。痛みがあるということは、まだ生きているのか。

 途中で何度か上下が変わったり体勢が変わったりしたが、意識がぼんやりとしてよく分からない。

 やっとの思いで腫れて重い瞼を開けると、柔らかな光の中でふわふわとした髪、そして空色に榛色が花開いた瞳がぼんやりと見えた。チラチラと視界に三角の耳も映るので、アイルーもいるらしい。

「──ジェナ……っ」

 彼が、涙声で自分の名を呼んでくれている。こんなに想ってもらえるなんて、自分はなんと幸せなのだろう。

 それにしても、どうしてあなた(・・・)がここに居るのだろう。嗚呼そうか、自分は温かいシーツの中で長い長い夢を見ていたのかもしれない。

 名前を呼びたいのに、乾いた舌を前歯に持っていく、ただそれだけの動きができない。眠りから目を覚ましただけなのに、息をする度に胸が痛いのは何故なのか。

 目の端に滲んだ涙が、ひりひりと痛む頬を伝った。

 

 

 

***

 

 

 

 救護班の通称ネコタクアイルー達がジェナを運ぶ傍らを、リュカは必死に走っていた。耐熱の装備はボロボロになっていたし、免疫の装衣を着せたけれど、あの状態ではあまり意味がないかもしれない。

 調査対象の炎妃龍たちはまだあの地獄に残っている。そのことに気がついたのは、溶岩地帯を抜けて柔らかな草が生い茂る場所まで辿り着いてからだった。

 ベースキャンプまではかなり高低差がある。アイルーが運ぼうとするのを制し、リュカは彼女の力の抜けた身体をおぶさって安全な場所へと運び込んだ。

 

 アイルーが応急処置をしている間に何度も呼びかけて、ジェナはようやく目を開けた。リュカは心底安堵し、その場にへたり込んでしまう。

「ああ、君は、君だけはこんな形で巻き込みたくなかったのに……」

 リュカはジェナを抱き締めようとしてから、真っ赤になった肌が目に入り、そっと髪を撫でるだけに留め置いた。

 アイルー達は慣れている分やることは手早いが、やや雑だ。本当ならば自分が手当てをしたいが、それだけの技術は無い。ネコタクが来たのだから、間も無く他の救護に当たる人員も来るだろう。

 リュカはジェナの手を優しく撫でた。

「すぐに帰れるからね、ジェナ……っ。ぼくが傍に付いてるから……」

 

 その時、乾いたジェナの唇の間から微かに声がした。聞き返すと彼女は大義そうに、どこか夢見心地な声で呟いた。

「ギヨー、ム……」

 リュカは頭から氷水を掛けられたような心地になった。別の相手の名前を呼ばれたからとか、そんな生優しい理由ではない。

 どうしてその名前をジェナが知っているのか。同姓同名の別人を呼んだのかもしれないが、自分の顔を見て呼ぶということは。何故だか、とても嫌な予感がした。

 

 束の間でもその名前の人物として接してあげた方が、ジェナは幸せだろうか。だがそれを想像すると、えもいわれぬ苦いものが込み上げた。

 今生の別れになどしたくない。だから。

「ううん、ギヨームじゃない。ぼくはリュカだよ、ジェナ。君の、君の──」

 ジェナは焦点が合っているかよく分からない目でこちらを見ている。

 相棒だと言えば良いのに、ただその一言で良いのに、どうしても言葉が出ない。胸にとても大きな何かがつかえているかのようだった。

 

 ジェナがそれ以上言葉を口にする力が尽きたのを察したのか、アイルーはイキツギ藻と浮空竜の皮を加工した酸素マスクをジェナの顔に被せた。気管切開をする訳ではない為会話はできるが、使用者にとっては負担が大きくなる。

 彼女が自発的に何かを話そうとしていないならば、きっと今はその時ではないのだ。リュカは曖昧に微笑み、再びジェナの手を優しく撫でた。

 

 その時、翼竜の羽音と共に空に影が差す。リュカはそのまま黙って救護班へとジェナを任せた。

 ジャックに軽く目配せをすると、彼と空を翔ける棍を背負い直す。そして自分をここに運んできてくれた翼竜に向けて、甲高い指笛を吹いた。

 

 




ご無沙汰しております。ここまでお読みいただきありがとうございます。


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後悔残して火は消えて

 

 

 

 時はやや遡り、地面に降りる影が僅かに傾く辺りの頃。

 

 つい先ほどまでは生ぬるい潮風が頬を撫でていたのに、今は雪混じりの突風が肌を刺している。

「すごいねジャック、こんな場所ぼく初めてだ」

 飛ばされまいと腕にしがみついているジャックは、きょろきょろと辺りを見回すように小さな頭を動かしている。紅い触角やふさふさした体毛は、風でぺたんこになっていた。

 噂を耳に挟むのみだった導きの地は、ジェナの言う通りなんとも不思議な場所だった。遠目では様々な種類の木々に覆われた豊かな島といった印象だったのに、少し高度を下げてみれば大蟻塚の聳える砂地、水源の豊かな陸珊瑚の礁など、新大陸の古龍の亡骸で創られた循環がまるでジオラマのようになっている。本来ならばこれほどまでの地形や気温の変化が、一所に密集している訳がない。

 地図は確認してきたものの、リュカが自分がどこに向かっているのかよく分からないまま翼竜にぶら下がっていた。風の流れは不安定で、自分よりはこの地に慣れている筈の翼竜も飛びづらそうにしている。

 

 だが、この心臓を跳ねさせているのは期待だけではない。リュカは不安で締め付けられた肺になんとか酸素を送ろうと、口を窄めて深く息を吸う。

(──ああ、杞憂で終わってくれないかな)

 セリエナの掲示板に貼り出されていたのは、一枚の通知。所謂、緊急クエストと呼ばれる類の書類だった。その難易度を示す星印は、普段リュカが受注しているものよりも二つも多い。ターゲットは、荒地地帯で観測されたナナ・テスカトリ一頭。観察クエストの扱いだが、やむを得ない場合は討伐も可と記載されていた。そして、クエスト参加者の名札は一名分しか貼られていなかった。

 リュカは唇を噛む。いくらあの個体が比較的温厚とはいえ、古龍を相手にするクエストに一人で行ってしまうだなんて。炎妃龍にパーティ戦で臨む危険性は理解している。だが、身重の古龍の周りに何が集まってくるかなど、指示を出した司令官は承知している筈なのに。

 ふと聞こえてきた鳴き声に、リュカは眉間に込めた力を緩めて視線を下げた。強者の集う地だと聞いているが、その割には木々の間からアプトノスやらアプケロスやらが長閑に寝そべっているのが見える。炎妃龍が付近にいるというのに、なんという呑気さだろう。この平穏が、かえって不気味だった。

 

 その時、身の毛のよだつような咆哮が後ろからこだまする。リュカとジャックは身体を硬くし、次の声を待って耳を澄ませた。これは飛竜種の一部が危機状態に陥った際に番を呼ぶ声だ。

 直後、二度目の咆哮と共に黒々とした──否、鈍く光を弾く銀青の竜が脇目も振らずに飛び去っていくのが見えた。広げられた逞ましい銀翼は、まるで刃物のように大気を切っていく。

(リオレウス……にしては随分と黒っぽい。光の加減で違う色に見えているのかな……いや、違う。あれは……!)

 リュカは目を見張った。白銀の火輪と称される体色。導きの地という特異な環境を生息地にしていること。そして巨体をものともしない風の扱い。それらの特徴から導き出される説は、彼が火竜の中でも希少種と呼ばれる個体であるということだった。リオレウスそのものは生息域も広く、比較的多く観測される。しかし去年新大陸でも確認された亜種や希少種などは、その名が表すように滅多にお目にかかれない。実際、調査を担当する龍結晶の地でも他のハンターからの亜種の発見報告があったが、リュカはその姿すら見たことがなかった。ましてや希少種など、相見えるとは思いもしなかった。その姿を瞼に焼き付けようと目を凝らす。

 リオレウス希少種が飛び去った方角は、地図を見る限りは行き止まりだった。だがさらに下層を書き記した二枚目へと目を移すと、赤々とした溶岩が描かれている。そこに、身重の炎妃龍が居るという確信があった。そして、おそらくジェナも。

 次の瞬間、下から襲い来るすさまじい熱波。リュカが翼竜を逃し、慌てて飛び込んだ時に目に映ったのは、銀火竜と共に弾き飛ばされ、力なく宙を舞う女人の姿だった。

 心ノ臓が止まるかと思うのと裏腹に、身体は咄嗟にそちらへと駆け出していた。もし今の衝撃に加えて銀火竜の巨体に下敷きにされてしまったら。

「間に合えッ!」

 熱波と共に、あちこちに折れた棘が散らばる。間一髪だった。

 自分も大きく体勢を崩しながらも、なんとかジェナの身体を抱き留め、這いつくばって銀火竜から離れる。すれすれのところを毒のある鉤爪が通り、肝が冷えた。洞窟の奥にはマグマの中に蒼く光る体毛が見え、炎妃龍がその場にいることだけが分かった。

 そこからはどうやって過ごしたか、よく覚えていない。熱気でまともに息もできないままにジェナを抱えて走り、大慌てで近くに控えていたネコタクを呼んでいた気がする。とにかく必死だった。

 

***

 

 昼下がりでも鬱蒼とした上層部に設置されたベースキャンプは、緊迫した雰囲気に包まれていた。ネコタクアイルー達が見守る中、鋭く指示が飛び交って迅速に手当てが行われていく。

 リュカは足の位置をずらして僅かに背伸びをし、応急処置が行われている隙間から様子を窺った。ぐったりとしたジェナの口元を覆うマスクの表面を、定期的に水滴が覆う。その呼吸が弱いことは、知識のないリュカにも分かった。

 銀火竜の巨体が盾になってくれたのは幸いだったが、武器もろとも折れたジェナの両腕は、関節でないところからおかしな方向へ曲がってしまっている。それに加えて、表出した皮膚は赤い水脹れがあったり白くなっている部分があったりと、酷い有様だった。熱傷を負った部分は清潔なガーゼで保護され、水で冷やされている。

(あれ……?)

 ジェナの胸元には、左にだけ保護剤越しでもわかるような不自然な凹みがあった。そこにあったものを筋肉ごとくり抜かれたような凹みは、果たして今回受けた傷だろうか。そこまで考えて、治療を受けて無防備な異性の胸を凝視してしまった無礼に気づき、慌てて視線を外す。

 

 救護班が処置を行っている合間にも、大小様々な爆破音と敵意に満ちた咆哮は続いていた。もしあの場でジェナとリュカもターゲットにされていたとしたら、ここまで逃げ切れていなかっただろう。

 ジャックに目配せをし、武器を背負い直す。その拳は、小刻みに震えていた。春に思いを馳せる時期にあれだけ後悔したのに、再び我が事に大切な人を巻き込んでしまった。しかも、またしても自分がその場に居ない時に。

 ハンターになってからも、これまでふらりと誰かと一緒にクエストに行くことはあっても、一定期間ペアを組んで狩りをすることは無かった。それは、その相手に自分の尻拭いをさせたくなかったからだ。自分でやりきれない時に誰かを頼ることと、自分の失態を庇ってもらうのとでは訳が違う。青い、頑固だ、などと言われたとしても、それだけは線を引いていたかった。そして、同じ失敗だけは繰り返すまいと、そう思い続けてきたのにこの様だ。

 歯を食い縛るリュカに、救護班の護衛ハンターが同情を含んだ眼差しを向けた。背負う武器とその装いから見るに、おそらく彼女も導きの地の調査に携わっていたのだろう。

 

 自身の指笛を聞いた翼竜が来る前に、リュカはちらりと後ろを振り返る。

 若い竜人族の医師が端的に指示を出しつつ、救命衣に身を包んだ調査員の男女と共に治療を施していく。ジェナはまだ意識があるのか無いのかぐったりとしていて、されるがままだった。

 知りうる限りの状況や予測される怪我の範囲・種類は説明したし、ジェナに対して自分ができることはこれ以上無い。中継地点に運ばれるのか、研究基地もしくはセリエナまで戻るのか。行きと同じように空路なのか、海路を使うのかも詳細はまだ分からないが、ハンターとしてやるべきことは道中のモンスターを退けることのみだろう。

 冷静な自分と、無意識に腹の奥に燻る激しい何かが共存しているような感覚。動じずにいられている部分すら、それが本当にそうなのか特定できる術は今はない。もはや、自分は何に対して鳩尾を炙る怒りを覚えているのかすら判別がつかなかった。

 

 その時、頭上から甲高い鳴き声と共に影が落とされた。リュカは避難場所から飛んできた翼竜の方へ左腕を伸ばす。頭で考えずとも、これまでこなしてきた順序の通りに体が動いていた。

「待って」

 スリンガーのトリガーを引こうとした時、それまでの業務の話とは明らかに異なると判る声がした。それが自分に向けられたものだと気づき、握ろうとした手を緩める。

「仕返し、しに行くんですか」

「えっ」

 リュカは思わず振り向いた。声の主と視線は合わない。黒髪を耳の位置で一つに束ねた細面の男は、管の繋がる結露した袋を搾り出しながら問いかける。淡々としたその声質は硬くはないが、聴いた者にはっとさせる響きを伴っていた。

「あなたの事情は詳しくは知らないし、大きなお世話かもしれません。でも、このまま彼女を残して行って、本当に後悔しない?」

 その時、初めて自分がスリンガーだけでなく、操虫棍の持ち手にも指を掛けていることに気が付いた。ジャックはどことなく心配そうにこちらを見上げている。

 

 いま自分はなんと言われた? 仕返し。自らに害を与えた相手にやり返すこと。確かに今の自分を客観的に見ればそう見えるかもしれない。だがそんなこと、滅相も──無いとは、言い切れなかった。

 リュカが返事に窮していると、彼は炎妃龍と同じ黄金色の瞳でこちらを一瞥し、すぐに視線を戻して治療を続けた。まだ会話は終わっていないと抗議をしたくなるが、自身の置かれた状況を顧みて首を振った。

 元々救護班が来る際に付いてきた護衛のハンターはいるが、古龍の暴走で気が立っている周囲のモンスターに襲われる可能性が高い。そうなれば人手が多い方が良いのは明白で、自分が抜ければジェナ達を守れなくなるリスクも跳ね上がる。

 それに、もしもこのまま飛び立ったら、危険の回避などと理由を付けてあのモンスター達へ無闇に武器を向けてしまうかもしれない。激怒している炎妃龍だけでなく、手負の金火竜もその番もいる。そしておそらく、ジェナの防具に刺さっていた棘の主も。冷静な判断力を失った今の自分が行けば、あっけなく致命傷を負い調査団の労働力を失うことになる可能性もある。

「ぼくは……」

 リュカは自分の手を見た。自分が発端となったならば、己の尻拭いくらいはしなければ。いま責任を取ることは、狂乱状態になった古龍達を止めることではない。

 ふいに腕を掴まれるような感覚がして、そちらへと目をやる。すると、いつもは腕から動かないジャックが、肩まで登ってきていた。

 まるで自分の選択を肯定してくれているかのようだ。猟虫が人間の言葉や感情の機微を理解している訳ではないだろうが、今のリュカにはそう思えた。

 

 自分を呼んだのにどうして飛ばないのか、とでも言いたげにこちらを見つめる翼竜の口に餌を放り、その嘴を撫でる。それから一つ息を吸い、空間の外へと繋がる狭い入り口を潜った。

 匍匐前進で出てきたリュカの頭上から、ふいに声が掛けられる。

「来たね、ふわふわクン」

 足を組んで立っていた護衛ハンターは、使い古された八つ折りの地図をポーチから取り出した。まだリュカは口すら開いていないのに、護衛ハンターは全てお見通しといったように不敵な笑みを浮かべた。

 護衛ハンター──彼女はイライザと名乗った──は定期的にセリエナから導きの地へと通っているらしく、地理やモンスターの縄張り等の危険な空域にも詳しかった。特に今回は飛行能力を有する身重のナナ・テスカトリ、リオス希少種の番、ネルギガンテが関わっている。イライザは起こりうるリスクを考慮し、少しでも安全で早く着く最適なルートを導き出した。

「──分かった? それじゃあ後衛をお願い。……それにしても、さっきの話を聞いて察したよ。キミ、セルマちゃんが言ってた子でしょ」

 唐突な話題にリュカは目を瞬かせた。

「知り合いなんですか?」

「こっちに来たばかりの頃、同室だったの。そこのジェナちゃんと一緒にね」

 イライザはちらりとベースキャンプの様子を見て、飛行船に置いてある火打石を打ち付けた。リュカは息を飲み、その罪悪感に頭が下がった。

「ごめんなさい。ぼくがペアを組んでいながら」

「アハハ誰に謝ってるの? 面白い子。確かにキミの行動は遅かった。……でも、あの書類、上から人数制限はされていなかった。ここの荒地のことも詳しいんだから、キミを呼ばないっていう判断ミスをしたのはジェナちゃん」

「そんなこと──」

 否定しようとして顔を上げると、どきりとして背筋が伸びた。イライザは笑みなど浮かべてはおらず、そのエキゾチックな目元に鋭い光を宿していた。瞬時にこれはリュカへの慰めなどではないと理解する。ややあってイライザは厳しい表情を崩し、首をすくめた。

「ま、後の祭りだけどね。今はジェナちゃんの無事を祈りましょ」

 その時、中で処置をしていた女人から声が掛かる。

「こちらの準備は整いました。今から至急セリエナへとジェナ・オズモンドさんを移送します。護衛をお願いします」

 途方もなく長く感じていたが、実際は四半刻も経っていなかったらしい。リュカとイライザは頷き、球皮の膨らんだ飛行船の傍で控えていた翼竜へと合図した。

 

***

 

 上空からセリエナが見えた時には、既に拠点内では受け入れ準備が進められていたらしい。徐々に高度を下げ、拠点に着陸した飛行船へと人々が駆けてゆく。

 毛布に包まれた身体を目にして、リュカは足元が凍り付いたような感覚を味わった。

「え……ジェ、ナ……?」

 ジェナの焼け爛れた左腕は、右の二倍ほどにまで膨れ上がっていた。どんなに重い怪我でも、こんな状態になるのは見たことがない。火傷でこれほどまでに腫れてしまうものだろうか。もしこのまま、腫れが引かずジェナの腕が使えなくなってしまったら。自分が間に合わなかったせいで、彼女のハンター人生を途絶えさせてしまったことになる。

 ショックを受けて呆然としているリュカに、傷口を保護していた妙齢の女性が慮るような声色で伝える。

「傷で身体の中の巡りが滞って、浮腫んでしまっているの。でも今は火傷の治療が優先されます。あなたもお辛いでしょうけど、火傷はとても痛いから、目が覚めたら寄り添ってあげて」

 彼女の黒真珠のような瞳は、真摯な眼差しをリュカに向けた。逆に言えば、寄り添うことしかリュカにはできないということだ。

 ジェナが処置室へと運ばれていくのを、リュカはただただ見つめていた。

 

 ふいに視界に大きな白いものがちらつき、リュカはハッと意識を戻す。ジャックは元気のないリュカを心配してくれたらしい。相棒を抱き留め、リュカは近くにあった椅子へふらふらと座り込む。

(──それにしても、まさかあの名前で呼ばれるなんて)

 意識の朦朧としたジェナに呼ばれた名前が、記憶の奥にしまい込んだその顔が、ぐるぐると頭の中を掻き回している。

 ギヨーム・エイモズ。それがリュカの兄の名前だった。大好きだった、そしてリュカの罪悪感の象徴でもある存在。家を出てからは、消息すらつかめていない。

 偶然、名前が同じだけの他人を呼んだのかもしれない。偶然だと思いたかった。ジェナの眼差しにこもった熱が、瞼を焼き付いて離れない。

 リュカは唇を噛み締め、暫くの間ジャックの頭を撫で続けていた。




ご無沙汰しております。ようやく更新することができました。


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旅立つ生命と育む生命
炎妃の嘆きは空に消ゆ


 

 

 いよいよ出発の日です。

 

 ここのところ危険な怪物が彷徨いているからと、金色は先に安全確認をしに行きました。その間、二本角とお妃さまは砂地の岩陰に隠れて彼女の帰りを待ちます。

 しかし、怪物は隠しても隠れ切らないお妃さまの蒼い炎を見つけてしまったのです。怪物はしめしめと近づき、お妃さまと二本角に襲い掛かりました。

 

 お妃さまを守るために身体を張って怪物と戦った二本角は、再び目を覚ますことはありませんでした。たとえ番から真実の愛のキスをされたとしても、戻ってはこないでしょう。

 しかし、悲しみに暮れている暇はありません。恐ろしい怪物は、なおもお妃さまを食べようと襲いかかってくるのです。金色と共に、お妃さまは必死に戦いました。

 

 お妃さまの怒りに応じて溶岩の泉はどんどん温度を上げ、辺りには毒が立ち込めていきます。火山に慣れたお妃さまはへっちゃらでしたが、金色は段々苦しそうになっていきました。そしてそれは、怪物も同じでした。

 自分の不利を悟った怪物は、最後の力を振り絞って空高く飛びました。溶岩洞から逃げるのかとお妃さまと金色は追いかけようとしますが、怪物はくるりとこちらを向きました。

 お妃さまと金色をまとめて押しつぶそうと、怪物はものすごい勢いで飛びかかってきます。

 その時、銀青色の風が溶岩洞の中へ飛び込んできました。なんと、金色の旦那さんが助けに来たのです。

 

 旦那さん──仮に銀色としましょう──は、身体を張って金色とお妃さまを守りました。そしてその側では、小さな生き物もお妃さまを守るように立ちはだかっていました。

 渾身の攻撃が当たらなかった怪物は悔しがりながらも、自分にはもはや勝ち目がないことに気がつきました。しかし、あのお妃さまが逃げることを許す筈もありません。

 銀色が金色を安全な場所へ逃がしている間に、お妃さまは溶岩のほうへと怪物を追い詰めました。お妃さまの怒りで溢れ出した溶岩で、もはや足の踏み場はほとんどありません。怪物も少しの間なら平気でも、あまり長く居れば足が焼けてしまいます。

 大切なお友達を傷つけられ、奪われて、カンカンに怒ったお妃さま。青い粉塵のドレスを纏って翼を広げ、世にも恐ろしい地獄の蒼炎で、たちまち怪物を炭にしてしまいました。それも一回では済みません。お妃さまが落ち着く頃には、溶岩洞は初めの頃とまるっきり違う風景となっていました。

 

 大事なことを思い出したお妃さまは、金色を探して飛び去りました。重たいお腹のことも、今は気にしていられません。少し離れた泉で、銀色の見守る中、金色は横たわって休んでいました。

 お妃さまが駆け寄ると銀色は、己の力を理解しなさい、と厳しい眼差しを向けました。お妃さまが近づくことすら許しません。

 しかし金色は、この娘だけが悪いわけじゃないの、と番を宥めました。そして、悲しそうに目を伏せます。

 誰よりも悲しい筈なのに心を乱さなかった金色に、お妃さまは居た堪れなくなりました。

 そんなお妃さまに、金色は静かに告げました。憎むべきは、あなたじゃない。あの娘が守り抜いた分、あなたとあなたの子は生きるの、と。銀色も、番の言葉に耳を傾けていました。

 お妃さまはこの辛さを忘れまいと、二本角との思い出を心に刻み込みました。

 

 

 傷が少し癒えた頃、お妃さまは金色と銀色と共に、二本角の眠る島から飛び立ってゆきました。

 どれくらいの距離を飛んだことでしょう。お妃さまの故郷であり、金色と銀色の目指す場所でもある場所を通り過ぎてゆきます。

 やがて、これまで感じたことのない寒さが、お妃さまの身体を包み込みました。お妃さまが白い砂だと思っていたものは、雪という冷たい水の塊なのだと銀色が教えてくれました。

 

 白い陸地が近づいてきた頃、金色は前に進むのをやめて、その場で羽ばたきました。私たちが送ってあげられるのはここまで、とお妃さまの背を優しく押します。

 お妃さまは二頭にお礼を言って、真っ白な大地へと翼を広げました。ようやく、ようやく王さまに会えるのです。

 王さまはどうしてお妃さまと赤ちゃんを置いてまでこんなところに来たのか、理由を聞きたくて仕方がありませんでした。もしかしたら、会えたとしても喜んでもらえないかもしれない──否、そんなことは許しません。だって、お妃さま自らわざわざ探しに来たのですから。そして王さまと一緒に、家族でお城へと帰るのです。

 

 赤ちゃんの眠るお腹を寒さから守るように前脚で抱え、お妃さまはしんしんと振る雪の中を飛んでゆきました。




これまでのおさらいを含めた童話パートでした。
お察しいただいているかもしれませんが、白雪姫もモチーフの一つとなっています。

次回は人間パートに戻っていきます。引き続きお楽しみいただけますと幸いです。


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第四章 青の炎妃はご機嫌ナナめ
アイスブルーの爆心地


 ベッドが面積の殆どを占める部屋へ、カーテン越しに昼下がりの柔らかな光が差し込んでいる。温められた室内とは裏腹に、ここへ来る道中は雪が降っていた。

 

 部屋の主は静かに寝息を立てているが、美しい褐色の肌は広範囲が赤く爛れ、包帯や被覆材などで保護されていた。その傍らには点滴やら酸素療法の道具やらが置かれており、それらが主の生命を繋ぎ止めている。リュカは手袋越しに主──ジェナの手をそっと握った。

 

 導きの地の調査での事故から、既に三日が経った。セリエナへと運び込まれたジェナは、個室での集中治療が続けられている。ペアを組んでいたこともあり、リュカの面会はなんとか許された。が、非常に病原菌に感染しやすい状態だからと、一日のうち僅か四半刻程度のみしか傍に居られない。それでも、リュカは毎日ジェナの元へと通った。

 リュカが傍にいる間も、ジェナは眠っては痛みで起きて再び眠る、というサイクルを繰り返していた。これは強い鎮痛薬の副作用もあるのだという。眠れている時は良いが、薬が切れた時の苦しみようがあまりにも哀れで、リュカは胸が締め付けられる心地を何度も味わった。しかし強い薬を下手に使えば、呼吸が止まってしまう恐れもあるらしい。

 飛び込んだ瞬間に息を止めていたのか、幸いにも気道は火傷せずに済んだようだった。爛輝龍の装甲で覆われていた場所は守られていたが、大きく露出している首から上、肩や胸元などのダメージが大きかったらしい。皮膚が壊死してしまい、移植をしなければいけない部分もあった。骨が折れてしまい、固定された両腕も痛々しい。

 

 リュカは点滴を引っ張らないように気をつけつつ、そっと薄い毛布をかけ直す。鼻の管の位置を直し、傷んでしまった髪にそっと触れた。

 ジャックはここに入って来られないのが残念だが、ジェナとふたりきりで居られることがリュカにとって有り難くもあった。自分の目の下にできた隈を指でなぞり、リュカは溜息を吐いた。

 ジェナの意識が比較的はっきりとしたのは、ちょうど昨日の面会から帰ろうと腰を上げた時のことだった。

──りゅ、か……?

 その声を聞いた途端、リュカは腰が抜けそうになりながらも、ベッドサイドに膝をついてジェナの手を取った。

──そうだよ、ジェナ。ぼく、リュカだよ。

 意識を取り戻した安堵と、今度こそ自分を認識してくれた喜びに、視界がぼやけて自分の声までも掠れてしまう。

 ジェナはぼんやりとした表情で幾度か瞬きをした後、全てを思い出したように目を見開いたのだった。

──ナナは、無事……?

 開口一番がそれなのか。リュカはたまらなくなって、顔をぐしゃぐしゃにしながらジェナの手を両掌でしっかりと握った。

──ナナはきっと無事だ。でもそんな、そんなことより、ジェナのほうが大事だよ! 独りで行かせてごめん。こんなことになって……ごめんね、ジェナ……。

 思わず口をついて出た言葉に、リュカ自身も心のどこか冷静な部分で驚いていた。そして、これまでずっと追いかけてきた対象がどうでも良く思えてしまうくらいには、リュカにとってもジェナは大切な存在になっていたのだと。そう、気が付いた。

 取り乱すリュカを、ジェナはしばらく不思議そうに見つめていた。だが、保護具を着けていない胸と、包帯で巻かれてもなお腫れ上がっていると分かる自身の腕を見て、その灰色の目はみるみるうちに絶望に染まっていった。

──そう、そうなの。……あんたには、あんたにだけは。こんな醜い姿、見られたくなかったわ。

 ジェナの口から溢れた本音に、リュカは声を奪われたかのように何も言えなくなってしまった。

──悪いけど、ひとりにしてちょうだい。

 静かに、だが明らかな拒絶の意思を伴ったジェナの虚ろな声が忘れられない。その響きは、棟の外で待っていたジャックを連れて宿へ戻った後も、ずっと頭から離れなかった。

 それから一睡もできないまま丸一日が経ち、居ても立っても居られずにリュカは再びジェナの元へと来たのだった。傍に居るからといっても、できることは何もない。ジェナが大好きなお洒落はおろか、食事も取れずに血管から栄養を入れ、排泄すらも繋がれた管で行い、ひたすらに薬で痛みを和らげながら傷が治るのを待つばかり。自分が怪我をした時ですら、ここまで辛くはならなかったというのに。

 ジェナの髪を撫でながら物思いに耽っていると、面会の終了時刻を知らせるノックが聞こえる。リュカは静かに立ち上がった。

 

 意気消沈して廊下を歩くリュカの肩に、ジャックが擦り寄った。周りは皆忙しそうで、まるで自分一人だけが取り残されているかのようだ。

 病棟を出て居住区を通り過ぎ、門の前で足を止める。昨日と同じように宿に戻っても、時間を浪費するだけだろう。

「ぼく、どこで間違っちゃったんだろうね……」

 ジャックを撫でながら、リュカは柱にもたれかかる。報告書はなんとかその日のうちにまとめた筈だが、曖昧だった。しかしそれを提出する時、指南役の気遣わしげな眼差しと言葉が痛かったことだけは鮮明に覚えている。

 ジェナを残してアステラに戻ることなどできないし、かといってこのまま何もせずにセリエナに滞在するわけにもいかない。頭を冷やす時間が欲しかったけれど、具体的に何をしたら良いのか考えられなかった。

 

「おう、こっちじゃ見かけない顔だなぁ。見たとこオレと同期か。そんな所に突っ立って、誰かと待ち合わせか?」

 声を掛けてきたのは、くすんだペールピンクの騎士のような防具を身に纏った男だった。一目で蛮顎竜アンジャナフの素材を用いていると判るが、リュカが見たことのあるものよりも貫禄を感じる風貌だ。

 リュカは束の間言葉に迷ったが、ありのままの状況を伝えることにした。

「いや……相方が、調査で大怪我をしてしまって。正直、どうしたらいいか。途方に暮れてます」

「そうなのか、そりゃ気の毒になぁ。それじゃあ、オレと一緒に蒸気機関管理所で蒸気を焚きに行かねえか? 今は導きの地まで燃料を採掘しに行ける状況でもねえし」

「蒸気を、焚きに……ですか?」

「ああ。簡単なようだけどよぉ、攻めるだけじゃなくて、引き際をちゃあんと見極めなきゃいけねえ。やり出したらハマるぜ!」

 バイザーで表情はわからないが、その下の瞳はきっと輝いているのであろうことは察せられた。新大陸の地を踏む者は、その殆どが好奇心と情熱の塊だ。

「えっと、具体的には何をすれば?」

「行けばわかるって。こっちだこっち!」

 追記事項。新大陸古龍調査団の兄貴姉御は基本的に割と強引だ。

「お前、そんな引っ張っちゃ、そいつが可哀想だろ。蒸気焚くの頑張れよなー!」

「うわ、なんか温かいの超えてむしろ暑くなりそ〜!」

 途中でアロイ装備の先輩や、ジャグラス装備の同期に揶揄いまじりに見送られる。司令エリアの前を通り掛かると、目が合った獣人学者に微笑まれた。なんだかんだで皆助けてはくれないらしい。

 リュカはぐいぐいと手を引かれ、雪の積もった階段を上がって行った。

 

 いくつもの巨大な歯車が連なって噛み合い、また次の回転を生み出している。蒸気があちこちに張り巡らされたパイプから濛々と漏れては、小さな部品一つ一つの振動から巨大な機械を揺らす程のエネルギーへと変わっていく。

 それらの原動力となっているのは、圧力メーターのような機械の傍らに鎮座している炉だ。アイルー達が放り込む燃料を食っては火の粉を吹き出し、パワーを生み出している。

 この大規模な機構こそが、セリエナを支える大切な動力源となっている、蒸気機関だった。蒸気が噴き出す部分や炉の近くの雪は溶けており、それらが凍ってスケートリンクになる前に蒸発してしまう。

 そんな中、蒸気や機械の音にも負けない叫び声の応酬が響く。

「おやっさん、次は右だ! そんで左、中央!」

「おうよ、任せとけぃ!」

 おやっさんと呼ばれた竜人の老練──技術班リーダーは声に応えながら、舵のようなパーツを回したり、骨製のレバーやらを上げ下げしたりしている。レバーと言っても、ヘルメットを被っている技術班リーダーの身長を優に越す大きさだ。新し物好きの同期は、針の振れ幅やら蒸気の勢いやらを気にしつつ、技術班リーダーへと合図を出していく。時折小さな圧力計が光るたびに、大きく蒸気が噴き出した。

「ワオ……」

 リュカは、一歩引いた所でしばらくぽかんと見つめていた。セリエナには立派な蒸気機関があることは知っていたし、面白そうではあるけれど、いざ手伝えと言われても何が何だかまったく分からない。生物に関しては多少知識があると自負しているが、絡繰や機械にはとんと疎かった。

 水を得た魚のようになった同期に取り残されていると、くいくいと袖を引かれる。そちらを見れば、煤で汚れた頭巾を被った三匹のアイルーが、こちらを見上げていた。

「あのおニイさんが他の人を連れてくるなんて珍しいのニャ。ボクらがサポートするから、ふわふわハンターさんも一緒にどうニャ?」

「ふわふわ……って、ぼくのこと?」

「ニャ! きっと楽しいニャ、ホショウするのニャ」

 三匹はリュカの返事を待つ前に、轟々と音を立てる機械の前へぴょんと飛び出した。それを見た同期は身を引き、リュカにくいくいと手招きをした。リュカはジャックと目を合わせるとごくりと唾を飲み、梯子を登っていく。

 すると、こちらを認めた技術班リーダーの迫力のある眉毛がくいっと上がり、つぶらな瞳が顕になった。

「ほう、お前さんも蒸気機関管理所に興味があるかね。それなら、気楽に手伝ってゆけい!」

 お手伝いアイルー達はそれぞれが小さな圧力計の前に陣取り、蒸気の様子をじっと見始めた。その時、突然右端にいたアイルーの髭がきらりと光り、彼または彼女が飛び上がって手を振り出す。

「ええと、右! 左、中央! です!」

 リュカは同期に倣って、アイルーの指示通りにパイプの順番の合図をした。すると、蒸気はまるで喜んでいるかのように勢いよく吹き出し、大きな方の機械の針が右へと触れる。

「うおぉ! 大当たりも人生の一部よ!」

 技術班リーダーの嬉しそうな声に、リュカはうまくできたのだと実感する。アイルーの方を見やると、彼らはぴょこんぴょこんと飛び跳ねてリュカにグッドサインをしてくれた。なかなかに楽しい。リュカは口元に笑みを浮かべた。

 度々失敗はしつつも次第に慣れてきたリュカは、アイルーの合図がなくとも予想をして技術班リーダーにサインを出すようになった。そのうち、ゲージがオレンジ色から赤色へと変わる。それを仁王立ちで見ていた同期はニヤリと笑った。

「よぉし、あとひと踏ん張りだな! おやっさん、行くぜぇ!」

「任せておけぃ!」

 リュカはアイルー達の手が回っていないと思い、燃料の投下を手伝うことにした。アイルーは梯子を降りては、笊に燃料となるという龍脈炭を積んで戻り、炉へと放り込む。リュカは見よう見まねで、梯子の下に積んである黒い塊に手を伸ばした。

「ワオ、龍脈炭ってこんなに重いんだね!」

 一つ一つは普通の石炭よりもやや重たいくらいだが、ある程度の量になるとずしりと重力に引っ張られる。アイルーがあの小さな身体で軽々と持ち上げていたのが不思議だった。

 額を伝った汗を手の甲で拭い、リュカは溜息を吐く。ジェナが心配な気持ちは変わらないが、作業に集中していると、余計な不安や憂鬱さは消えていった。

 手袋についた煤を払っていると、リュカはふとおかしなことに気がつく。

「……ん?」

 機械がガタガタと震え、異常なほどに蒸気を吐き出している。アイルーは嬉々として燃料を投下し続けるが、何やら技術班リーダーは慌てている様子だ。

「おい、それ以上はいかん……! アイルーよ、やめい、やめい!」

「いけねえ、しゃがめ!」

 最後の一掬いをアイルーが炉に放り込む。同期の声に伏せた次の瞬間、大爆発が起きた。

「うわーっ!」

「ニャーッ!」

 アイルー達は空高く舞い上がり、倒れ込んでいた技術班リーダーをクッションにして転がっていった。リュカと同期は咳き込みながら立ち上がる。ひどく煙たいが、蒸気機関管理所の近辺の施設には大きな影響は無かったらしい。

「ぷっ……あはははは! 面白かった!」

「だろぉ!?」

 腹を抱えて笑い出したリュカの肩を、新し物好きな同期は嬉しそうにばしばしと叩いた。その眼差しには、安堵の色も混じっていた。

 燃料を運び続けた手のひらと腕がジンジンと熱を持っている。もしかすると、いくつかまめができているかもしれない。技術班リーダーは腰をさすりながら懐から何やらチケットを取り出し、礼だと言ってリュカと同期に渡した。

 

 ヘトヘトになったリュカは梯子を降りると、ジャックと共に床へ寝転んだ。ジャックの白いふわふわな身体も煤で汚れてしまっている。後で綺麗にしてやらねばと思っていると、複数の足音と共に振動が伝わってきて、リュカは顔を上げた。

「あら、誰かと思ったら。はぁいリュカ。眠くなる亜種のコートに変えたのかと思ったわ」

「やあキャシー。ちょっと蒸気機関管理所のお手伝いをね」

 黒いロングヘアを靡かせて腰に手を当てているのは、キャスリーンだった。その隣には、オールバックに眼鏡という見た目とは裏腹に口がよく回る青年と、赤毛にがっちりとした体格の青年がいる。その足元には真っ白なオトモアイルーもちょこんと立っていた。

「ワハハハハ! やっぱ今の爆発はここか。今回もまたド派手にやったよなあ、こりゃ景気がいいや」

「いつにも増してすごい音だったのニャ、びっくりしたニャ〜。ね、旦那さん」

「ああ。君、怪我は?」

「大丈夫です、ありがとうございます。いやあ、お騒がせしまして」

 口々に話しかけられ、リュカは後ろ手で頭を掻く。その時、片付けを手伝っていた同期が梯子を降りてきた。

「お前、初っ端から最終形態に行けるなんて才能あるぜ。またやろうや!」

 リュカは頷き、ご機嫌な同期に手を振る。それを見ていたキャスリーンは大剣を背負い直した。

「アタシ達、クエスト帰りなの。リュカ、アンタ汗を流しに集会所に行くでしょ? ついでに皆でごはんでも食べましょうよ」

 そう言われて、タイミング良くキュウと腹の虫が鳴く。よく考えると、帰ってきてからまともに食事を取っていなかった。

「お誘いありがとう。じゃあ、ぼくらも参加させてもらおうかな」

 リュカが微笑むと、オールバックの青年は調子良く口笛を吹いた。

「いいね。あ、腕相撲で負けたヤツの奢りな!」

「エド、アンタそう言ってアタシに負けるの何回目?」

 一方、赤髪の青年と白いアイルーは申し訳なさそうな顔をした。

「悪い、今日は向こうが飯を作ってくれる日だから──」

「はいはいアンタ達は今回パスね、ゴチソウサマ。じゃあまた後で」

 二人を見送ると、リュカ達は集会所の大きな扉に手をかける。火照っていた身体が冷えてきて、そろそろ温まりたい時分だった。

 

 その時、唐突にセリエナ全体へと行き渡る甲高い警報が鳴り響いた。その音は、聴いた者の不安を煽る。

「なんだ!?」

「見てみましょ」

 音の出所は、北側。つまり、兵器置き場の方向だった。リュカ達は上から兵器置き場を見下ろせる水車近くの踊り場へと駆け寄る。

 目を凝らすと、物見櫓で誰かが大きな旗を振っているのが見えた。その旗の色が示すことはただ一つ。

 

「古龍襲来! 皆、位置につけ!」

 

 一面を雪雲が覆う空に、一点の青が花開く。それはしばらく旋回していたが、やがて翼は垂直に降りる動きへと変わった。

 

 青の炎妃が謁見の場に選んだのは、奇しくも亡き王と同じ、セリエナの兵器置き場であった。




お読みいただきありがとうございました!
蒸気機関の爆発音って、確実にモンスター刺激しますよね。


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燃ゆる生命の道導

 

 

 

 まだ陽が沈む時分ではないというのに、空は一面ロゼ色に染まっている。ちらちらと舞っている筈の雪は、冷え固まって結晶となる前に悉く水の姿へと戻ってしまう有様だ。

 

 空にポツリと浮かぶ小さな点だったものが、重たそうに腹を抱えて、ゆっくりと舞い降りてきているのが視認できるまでには、そうかからなかった。空模様を変えた張本龍──ナナ・テスカトリ自身やその身体を包む炎は青いというのに、周囲はまるで暖かな陽だまりに照らされたかのようになっている。

 

 今まさに炎妃龍が舞い降りようとしている兵器置き場には、知らせを聞いた少数の精鋭と、調査班リーダーを中心とした要人らだけが待機していた。そして不用意に刺激しないよう、テントの外に出ているのは青い星と調査班リーダーの二人のみ。とはいえ、繁殖期を除けばハンターが単独の時にしか姿を見せないと言われるほど警戒心の強い炎妃龍であれば、待機している人々の気配には容易に気づいてしまうだろうが。そもそもセリエナにいる殆ど全員を兵器置き場に集めた炎王龍来訪時の方が奇妙だったのだから、これは妥当な対応と言えるだろう。

 

 ただでさえ通常デザインよりも大きくはだけた防寒具の襟元をぱたぱたと扇ぎつつ、調査班リーダーは唸った。

「じいちゃんからの手紙の通りだな。前回と同様、迎撃するかどうかはひとまず様子を見てから判断しよう」

「わかったよ、司令官。──しかし、初動は古龍の中でもピカイチなお妃サマだからね。わたしらも、臨戦体制になっておくに越したことはない」

 青い星は、紫のアイシャドウで彩られた双眸を細めた。普段は調査で飛び回っており殆ど拠点に戻ってこない彼女が、半月ほどセリエナに留まっていた理由。それこそが今目の前で起こらんとしている、怒れる炎妃の飛来への備えであった。

 相棒が板を踏む音が近づいてくると、青い星はぼそりと呟いた。

「滋養をつける為に火薬を食べに来た……訳じゃなさそうだね」

「ええ。報告書を読んだ限り、近海で息絶えたテオ・テスカトルの番が彼を探しに来た、という説が有力です」

 若い娘の生真面目な回答に、青い星は憂いを帯びた眼差しを青い龍へと向けた。

「哀れで、そして惨めなものよ。取り残される側ってのはね。それにわたしらは、番の訃報を伝える術すら持たないんだから」

 青い星が重く吐いた溜息は、白い塊となり虚空へと立ち昇って解けてゆく。人間離れした功績を数多く残し、いつしか導きの青い星と呼ばれるようになった。その横顔がつくり上げられる過程には、他者の不憫な境遇を憐れむだけでなく、実体のある悲しみとして捉えられるだけの経験があった。

 ふいに手を握られ、青い星はハッと物思いから覚める。受付嬢は「だからこそ」と、真っ直ぐな目で青い星を見つめた。

「せめて結末を見届けましょう、私たちの目で」

「そう……そうね。できることを、やらないと」

 この娘のこういうところに、自分は随分と救われている。青い星の口からは、今度は微かな笑いが小さな塊となって漏れた。

 

「彼女を憐れむ暇があるのか、なんてお前には言う必要は無いな。──念の為、あの学者先生にも来てもらっているが」

 冗談を言ってからすぐに真剣になった調査班リーダーの表情に、青い星は「ああ」と納得した。ユウラ・パパダキスは、前線拠点へと炎王龍が飛来する切欠となった人物だった。あの炎王龍が育ての父親のような存在だったらしいということは後に噂となったが、それ以前に炎龍夫妻の行動を観測してきた学者でもあった。

「それこそ暫くは様子見だよ、あんたの言う通りね。ここ最近は感覚が麻痺してしまっているけれど、面識の有無が必ずしも良い影響を与えるとは限らない」

 青い星はちらりと後ろへ目線をやった。テントを囲うようにして立て掛けられた篝火は、不安定な気流によって揺れている。

 その時、こちらを認めて警戒を露わにした炎妃の咆哮が、木々に積もった雪を地面に落とした。

 

***

 

 炎妃龍は怯えていた。

 番の起こした爆発かもしれないと、凍えながらも藁にも縋る思いで音を辿った先に有ったのは、一つの峡谷を占める何かの巣だった。

 視認できる以上に、あちこちから気配や微かな殺気を感じる。これまでは、規模の大きな群れや複雑に組まれた巣など、ホギャホギャと喧しい小さな生き物くらいしか見たことがなかった。一体、どこにどれだけの数が潜んでいるのか。威嚇に加えて、自らを奮わせる為に放った咆哮さえも、頼りなく聞こえた。

 少し上の方には、棒のような何かから立ち上る黒煙が幾筋か見える。しかしそれらはどうにも番のものとは異なるようで、これ以上近づく気にはなれなかった。

 

 やっとここまで来たのに、手掛かりすらも見つけられないのか。か細い鳴き声を上げた時、火薬の匂いの中に微かに忘れられない匂いがした気がして、炎妃龍は目を見開いた。爆発音とは違い、間違えようのない匂いだった。希望を見出して元気を取り戻した炎妃龍は、改めて足元へと目を向けた。

 どうせ縄張りの中に入ってしまったのだから、宙にいても地に降りても同じだろう。ホバリングを続けていた炎妃龍は、意を決して雪の中へと足を踏み入れた。そのあまりの冷たさに、足先から全身の毛が逆立つような感覚が走り、思わず飛び上がってしまう。

 本当にこんなところに番が来たのだろうか。腹の子に障るから早く切り上げなさいと、金色の竜に警告されたことを思い出す。しかし、番に繋がりそうな糸の切れ端をようやく見つけたのだから引き下がれない。

 炎妃龍は咆哮と共に炎を纏い、すぐに攻撃ができるようにした。それを見た小さな生き物が警戒を強める気配を感じたが、今は構っている時間はない。

 炎妃龍は、ふと先ほどよりは脚が冷たくないことに気がついた。下を見やれば、雪とやらが自分の周りから少しずつ溶け始めている。成程、炎を纏ってさえいれば多少は寒さを凌げるのかと納得した。

 炎妃龍は小さな生き物たちの動向に目を光らせながらも、攻撃をすることはせずにゆっくりと足を踏み出した。

 

***

 

 外見よりもずっと広く感じるテントの中は、炎妃龍が降り立ったことにより暑いくらいの気温となっていた。

「あーあ、氷麗角が先に来ると思ってたのにな。賭けに負けちまった」

 垂れ幕の隙間から外の様子を覗き込んでいる相方に、リアは呆れたように溜息を吐いた。

「馬鹿な賭けはいつか身を滅ぼすわよ、エイデン。それに、あの龍が恨んでるのは、こっちじゃなくてアステラの人達でしょうし」

「はは、違いないな」

 アステラまで炎王龍を追いかけに来た、角に強力な冷気を纏った風翔龍は、"氷麗角"という異名をつけられた。拠点の人々は、調査団に対して敵意の無かった炎王龍に手を貸す形となり、第二の侵入者を追い出すことに成功した。束の間の共闘相手であり第一の侵入者でもある炎王龍は、目的を果たすとさっさと飛び去ってしまい、ここセリエナへと訪れたのだった。

 あのアステラ防衛戦からは、まだ一月も経っていない。それなのにこんな短期間の間に二回も古龍が拠点へと来訪するなど、夢にも思わない出来事だった。ちなみに、一部の酔狂な学者は目を輝かせている。

 

「あの、私も外の様子を見ても?」

 遠慮がちに声を掛けられ、エイデンは素早く安全を確認すると、声の主に手招きをした。ユウラは礼を言ってエイデンとリアの間にしゃがみ、熱気の発生源を覗き込んだ。

 炎妃龍は時折唸り声を上げつつも、頻りにクンクンと辺りの匂いを嗅いでいる。彼らが共に在った頃の仲睦まじい様子を思い出し、ユウラは胸の痛みに顔を歪めた。ここまで来たのなら、彼女はやはり番の逝去を知らないのだろう。ずっと見守ってきた龍の、雪で薄まっているであろう匂いに縋る姿に、なんとかできないものかと思考を巡らせる。もしかすると、自分に強く匂いが残っているかもしれない。

「あ……」

「どうしたんスか?」

 とある事を思いつき、懐を弄り出したユウラを、リアとエイデンは不思議そうに見つめた。ユウラが取り出したのは、赤い毛糸で編み込まれたお守りだった。それは仄かな熱を宿しており、触れずともその周囲の空気までもが微かに暖かい。二人はすぐに何の毛で出来ているかを理解して息を飲む。

「私は炎王龍の形見を持っています。それをうまいこと渡すことができれば、彼女も理解してくれるかもしれません」

 ユウラの言葉に、リアが口を開くより先にエイデンがきっぱりと首を横に振る。

「いいや、それは危険すぎます。もし俺たちに番を殺されたと勘違いすれば、ナナはきっと恐ろしい速さであなたに炎を吐きかける筈だ」

 俺はそれを知っている、とエイデンは目を伏せた。それまでの剽悍さは、鳴りを潜めている。その顔に浮かんだ激しい痛みの記憶に、リアは相方の肩をそっと抱いた。

「それなら、どうすれば……」

「いずれにしろ、ナナは近いうちに匂いを辿ってここを嗅ぎ当ててしまうでしょう。だとすればそれは懐に仕舞っておいて、警戒状態にならないうちに、あなたの顔を見せてしまうのが得策かもしれません」

 つまり、炎王龍自身の匂いは残っているが血の匂いを纏っていないユウラであれば、自分達が直接手を下していないと証明できるのではないか。リアは「でも」と付け加えた。

「これはかなり、無鉄砲な案だわ。炎王龍はあなたと交流があったみたいですけれど、炎妃龍は違うでしょう? あたくしの相棒やヴィオラさんが付いているとしても、ナナがもし急に激昂でもしたら対処できない」

 リアの忠告に、ユウラは唇を噛んだ。確かに彼女の言うことは的を射ているし、あの炎王龍が特殊な個体であったからと、本来持つべき警戒心が緩んでいる自覚はあった。ヴィオラとエイデン──青い星たち推薦組は確かに卓越した狩猟技術を持っているし、窮地に陥った際の判断力も非常に優れているけれど、そこに自分という荷物がいることがどのような意味を持つくらい、ユウラにも理解できる。

 その時、エイデンが何かを思いついたように「あっ」と顔を上げた。

「そういえば、テオとナナの調査をしてたハンターがいたよな。そいつはどうしたんだろう」

「ああ、エイモズ君のことでしょうか。彼も、確かセリエナに残っていた筈です。……そうですね、彼ならば或いは」

 ユウラは、結果次第では手放すことになるかもしれないお守りに額を付けると、瞼を閉じてぎゅっと握り締めた。隙間風で冷たくなっていた指先と額から、おてんとうさまの温もりが伝わってくる。まるで彼が傍に居るかのような心地を覚え、ユウラは顔を上げた。

 

 

 

 一方その頃、兵器置き場の南側。峡谷の小高い場所にあるセリエナでは、人々がいつも以上に忙しなく働いていた。

「ちょっとマジで来ちゃったの!? ねえねえ、これってクーラードリンクを飲めば良いの? それともホットドリンク?」

「知らないよ。ってかあんた、耐寒の護石いつも付けてるんだから、ホットドリンクなんて飲まなくても良いんじゃない」

「こんなの気休めだもん、寒いものは寒いんです〜。……あ、テオの時は変わらなかったけど、もしかしたらナナが来たらちょうど良い気温になるかも!」

 緊急事態だというのに、肝っ玉の座った女性陣は手と同じくらいに口をよく動かしていた。ドンドルマのように拠点へ古龍が来るような事態に慣れている者もいるが、そうでない者さえも惑わずにてきぱきと自らのやるべきことをこなしている。これはイヴェルカーナ来襲時より、細々と続けてきた訓練の甲斐もあるだろう。アステラの防衛のために撃龍杭砲がセリエナに無い今、リーサルウェポンというよりは人々の連携が重要だった。

「ありったけの水を持って来い! 今度こそ拠点を燃やされたら困る!」

 ナナ・テスカトリの放つ熱波──通称ヘルフレアは、テオ・テスカトルの起こす大爆発による影響範囲を遥かに凌駕する。セリエナに飛来したテオ・テスカトルは酷く衰弱していたこと、そして彼がこちらに敵意を示さなかったことから、拠点の炎上は杞憂に終わった。しかし、繁殖期のナナ・テスカトリは非常に気性が荒いという報告が相次いでいる。この個体は比較的温厚とされているものの、先日の導きの地では大規模な縄張り争いが起きたという報告書が張り出されていた。

「はっは、心配せずとももう手配できているよ。流石はボスだよね」

 物資補給係が後ろをくい、と指差す。その先には、四期団を中心とした調査員達が水の入った桶を手に兵器置き場への階段を降りていた。雪や氷だけでなく、一定の水量を保つ川が流れているのは拠点にとって重要だ。

「彼女、ホント堂々としていて恰好いいわよねえ。セリエナを燃やされちゃうのは困るけど、燃やされちゃったらと思うとワクワクしちゃう!」

 ボスと呼ばれた当の本人──物資班リーダーは、相変わらず掴みどころのない笑みを浮かべている。そのよく光る黒い瞳は、矛盾すら楽しむ余裕はそこから生まれているのだと思わせる何かを感じさせた。

「洒落にならないこと言わないでくださいよ」

「あーらそうかしら。でも頼もしい五期団くん達がいるじゃない」

 降り立った炎妃龍は未だに明確な攻撃はしてきておらず、睨み合いが続いているらしい。血気盛んな炎妃龍がああまで静かだと、かえって肝が冷えるものがある。

 若干引き気味のハンター達に、おっとりした武具屋が弾丸の入った木箱を運びながらあっけらかんと言い放った。

「女の子にとって冷えは大敵なのにね〜。もしあのナナがアタシの友達か娘だったら、妊婦がこんな所に来るなんて〜、って叱り飛ばしちゃうかも〜」

 この人も大概で、嫋やかな外見に似合わず心臓に剛毛が生えている。ハンター達はさらに一歩後ずさった。

 

 皆声は抑えているものの、相乗効果で中央エリアは賑やかになってしまっている。それらの会話を聞き流していたリュカは薬品を箱に詰める手を止め、兵器置き場──ではなく、ジェナの眠る棟へと目を向ける。彼女が身動きを取れない今、もし炎妃龍の吐き出した火炎があの建物に当たりでもしたら。考えるだけで吐き気がした。周囲はなんとも呑気なものだが、リュカは心底恐ろしくて笑う気にはなれなかった。

 その時、見知った後ろ姿が目の端に映り、そちらへと視線を移す。火竜の翼膜で出来た装衣を配っているイライザに声を掛けようか迷ったものの、今はその時ではないと口を結んだ。

 

 睨み合いが始まってから、一体どれほどの時間が経ったのか。リュカの元に向かって、滑りやすい階段を駆け上がってくる人影があった。

 

 それと同時に、二度目の空気を震わせる咆哮が前線拠点セリエナへと響き渡った。

 




ここまでお読みいただきありがとうございます。
ナナは人間で言うところの妊娠39週2日くらいなので、本当にあと少し。自然なお産のタイミングばかりは神のみぞ知る、です。
そして少しネタバレになってしまったような気もしますが、エイデンの体験はLOTGをご参照ください。


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されど気高き我が魂よ─凍てる嘆きと戴く冠─

 

 お妃さまは、既に限界が近くなっていました。はじめは新鮮だった寒さは、炎でましになっているとはいえ、身体に障ります。

 お腹の赤ちゃんに何かあったらどうしようと、お妃さまは自分の行いをとても後悔しました。ものを知らないことは、時に大きな災いをもたらすこともあるのだと、王さまがかつて教えてくれたことを思い出しました。

 

 それでも、どうしても大好きな王さまに会いたいのです。お妃さまは、辺りの匂いを一生懸命嗅ぎました。王さまがここに居たことは間違いありません。でも、それなら一体どこへ行ってしまったのでしょう。

 もしかしたら、行き違いになってしまったのかもしれないと思いました。王さまはお妃さまがお城で待っていると思って、先に帰ってしまったのかも、と。

 だとしたら、金色や銀色と一緒に行けば良かったのかしらと首を傾げます。でも、谷の王さまは確かに「強い者の集う場所にお行き」と言ったのです。お城に帰るべきなら、最初からそう言ってくれた筈でした。尤も、谷の王さまが本当のことを言っているとも限りませんけれど。

 

 その時、こちらを観察していた小さい生き物の中で、お妃さまの方へと歩いてくるものがありました。棒を背負った、真っ白でふわふわしているそれは、慎重にゆっくりと、ですが確かに近づいてきます。

 よく見てみれば、その姿には見覚えがありました。相手はこちらから隠れているようでしたが、今までも時折視線を感じることがあったのです。油断をしていたのか、たまにその白いふわふわが岩陰から見えていることがありました。

 ふわふわの腕に付いたこれまた白い蛾が、鬼灯のような目でじっとこちらを見ているのが怖くて、お妃さまは後退りしました。

 お妃さまの緊張が最も高まる直前で、ふわふわの生き物は何かを雪の上に置きました。そして、お妃さまの方を向いたまま後ろに下がっていったのです。

 いま攻撃をしてしまえば自分はやられないという期待に似た焦りと、相手の巣の中でそんなことをしては自分が危険な目に遭うという冷静な考え。両親からの教えや経験に基づいたそれらの思考が巡った後、お妃さまは後者を選びました。

 

 ふわふわが置いていったものからは、離れていてもとても懐かしい匂いを感じました。お妃さまは、ふわふわが自分から十分に離れるのを確認すると、一目散にそれに飛びつきました。

 雪の上にそっと置かれていたのは、明け方の空を燃やすお日さまのような色の毛でした。間違いありません。これは王さまの立派なたてがみの一部です。

 でも、その毛の周りの雪は、お妃さまのものと違って溶けることはありません。抜けてから時間が経ってしまっているようです。すれ違っていたとしても、そんなに経っている筈がないのに、です。

 

 お妃さまは遠く離れたふわふわを見つめました。なぜあなたがこれを持っているの? と。

 ふわふわは何もせず、じっと俯くばかりです。こちらに襲いかかってくる様子もありません。──とても、嫌な予感がしました。

 お妃さまは、鳴きながら辺りをうろうろと歩き回ります。王さまに、その声に応えてほしくて。何度も、何度も鳴きました。それでも、返事はありません。

 周囲の小さな生き物の方を見ても、俯くばかり。王さまが来た筈なのに、色や角の形以外は王さまによく似た姿のお妃さまに対して、何もしてこないのです。それなのに、王さまのたてがみを持っているなんて。

 

 もしかしたら、王さまはこの場所で長い眠りについてしまったのではないかと。だから、形見を渡されたのではないかと。

 身体がすうっと氷のように冷えていくような心地がしました。そして、炎が燃料を飲み込んで大きくなるように、お腹の中から沸々と熱い何かが込み上がってきました。

 

 お妃さまはとうとう、自分が知らないうちに"女王さま"になっていたことに気づいてしまったのです。

 

 

 

***

 

 

 

 一気に上昇した気温に、針葉樹に積もっていた雪がぱらぱらと落ちる。

 炎妃龍は、慟哭した。否、そうとしか見えないような悲痛な咆哮を上げた。

 

 遠い場所でも腹に響くモンスターの咆哮に、誰もが反射的に身構える。縄張りの侵入者への威嚇、同種の雌に他の雄より強いとアピールすること、仲間への警戒の呼び掛け、傷つけられた怒り。その多くは、戦闘開始の合図だ。

 セリエナにはハンターの多く所属する四期団と五期団が集まっているため、こうした際に必要以上に狼狽えないのは大きな強みだった。

 

 炎妃龍は頻りに唸り声を上げ、うろうろと歩き回っている。警戒対象が近くにいない時の歩き方とは違い、同じ場所を行ったり来たりするのを繰り返していた。

 その場の空気は、弓を限界まで引き絞った時のように張り詰めていた。一体何が炎妃龍の感情失禁及び、こちらを攻撃対象と見做すトリガーになるか分からない。誰もが一歩も動けない状況が続いていた。

 

「あのふわふわクンが八つ当たりされないといいけど」

 ブルネットの女性は、縄をつなぐ杭に肘をついたまま細く溜息を吐いた。炎妃龍の姿が確認され、至急兵器置き場に召集されたのは、青い星を中心とした推薦組と調査班リーダーのみ。そんな中、テスカト夫婦の調査を担当していたリュカにも急遽来てほしいと先ほど声が掛かっていた。

 噂によると、あの炎妃龍は彼の姿を見ても、近づき過ぎた際に威嚇はすれど攻撃はしてこなかったという。単に温厚な個体だったのか、リュカの距離感の取り方が絶妙だったのか。

 だが、これまでがうまく行っていたからといって、此度もそうなる確証はない。知性のある古龍とはいえ相手は野生のモンスターで、しかも今は混乱している。彼女と一切関わりのなかった推薦組よりは、炎妃龍が激昂する可能性がほんの僅かに下がるかもしれない、というだけだ。

 しかし拠点のすぐ側まで古龍が飛来した今は、その"ほんの僅か"が多くの人の運命を決めることになる。

「イライザ、こっちに来てくれ。避難ルートを再確認する」

「わかった、いま行く」

 同期の声にイライザは、ちらりと炎妃龍を見て、ゆっくりと後ろに下がった。

 

 炎妃龍を刺激しないようにと、残りの人員は拠点での待機令が出ていた。それは、拠点の大規模な損壊の防止と、非戦闘員を安全に逃すのを任されていることを意味している。

 前線拠点セリエナから切り立った山を一つ越えてしまえば、すぐに狩人たちの繰り出す渡りの凍て地へと出てしまう。最近開拓された西キャンプも、老練の氷牙竜の縄張りと程近い為、安全とは言えない。

 大感謝の宴の時期に灯籠を飛ばす海沿いの陸地もあるけれど、そこへ辿り着くには兵器置き場へと近づく必要があった。

 

 とはいえ、まだ動くには時期尚早と言えた。炎妃龍が高台を越えてこちらへと飛来するならば、龍の翼に人の足は追いつけない。万が一気が立った炎妃龍が多くの人々が逃げた方へと来てしまえば、青い星たちも間に合わなくなってしまうだろう。

 唯一、逃げ遅れる可能性の高い怪我人と病人だけは、すぐに避難できるよう準備が整えられていた。救護病棟の入り口に繋がる廊下は、怪我人やら救護班員やら医師やらでごった返していた。自力で歩けない者は車椅子やベッドの上で待機しており、不安な面持ちで落ち着かない者、戦線に出られないことを悔やむ者、外に興味を示している者など、その反応は様々であった。

 入院している者の殆どは普段モンスターと相対しているハンターだが、自身が病床にあり丸腰の今は、一般人と何ら変わりはない。物々しい雰囲気の中で、内心の不安が怒りとして発現する者もおり、それを救護班員が宥める声も廊下の囁き声に混じっていた。

 

 そんな中、車椅子に腰掛けた女人がひとり、窓からじっと兵器置き場を見ていた。その首から上や手の殆どを覆うようにガーゼや包帯が巻かれており、中でも浮腫んだ左腕はその全体がベルトで圧迫されていた。

「傷の痛みは大丈夫?」

 白衣を着た調査員に声を掛けられ、女人──ジェナは頷いた。今は痛み止めが効いているおかげか、我慢できないほどの苦痛ではない。

 不意に拠点中に鳴り響いた警報音で目が覚め、気づけば着の身着のままで病室から運び出され、今に至る。事情を知ったのは、調査員による一言程度の簡易な説明と、廊下で盛んに交わされる囁き声からだった。

 本当は外に出て様子を見たかったけれど、ただでさえ忙しそうな彼女達の仕事を増やすわけにはいかない。それに、テスカトの調査をしていたジェナは誰よりも様子が気になるだろうからと、ここまで連れてきてくれたのは彼女の厚意だった。掠れ声でジェナが礼を言うと、調査員は切れ長の目を和らげた。首に掛かった名札には、コストネルと書いてある。

 ここからでは防護壁を支える柱に隠れてよく見えないけれど、真っ白な雪に炎妃龍の青はよく映えた。攻撃しているような様子は無いため、まだ戦闘体制になっていないらしいことは辛うじて分かる。

「テオ・テスカトルの時も肝が冷えたけど、今はそれ以上ですね。何も起こらないといいけど」

 コストネルの呟きに、ジェナは頷いた。

 もし先日の戦いで大怪我を負っていなければ、調査に携わった自分もあの場にいたかもしれない。滅尽龍の捨て身の攻撃を受けてなお生きているのだから、まだ運が良かったほうだけれど、内心複雑だった。

(リュカ……)

 白い防具が雪に溶け込んで見づらかったけれど、先ほど炎妃龍の前でしゃがむような仕草をしたハンターは間違いなくリュカだという確信があった。そうでなければ、炎妃龍があんな反応をした筈がない。

 リュカを拒絶してしまった記憶が蘇り、ジェナは俯く。ジェナの言葉を聞いた瞬間の、あの表情が脳裏に焼き付いて消えない。ずっと調査をしてきた炎妃龍よりも、ジェナの方が大事だとまで言ってくれたのに。彼がその言葉を口にすることは、どれだけ大きな意味を持つだろう。そこに、何よりも切実で純な想いが表れていた。

 ジェナは右手を握り締めた。大切な人を傷つけたのは自分なのに、何を一丁前に傷ついているのか。今はただ、ここで彼の無事を願うしかない。

 ジェナは、再び炎妃龍に意識を戻す。硝子の棺で眠ったという逸話の姫君が目覚めることができたのは、それが御伽話だったからだ。リュカと共に最期を見届けた、流氷の棺の奥底で眠る炎王龍は、もう二度と目を覚ますことはない。

 

 やがて、炎妃龍の動きが変わった。牙を剥き、リュカに向けて身体を低くしている。それを見て、ジェナは血の気が引いていくのを感じていた。

 炎妃龍はおそらく、リュカが炎王龍の命を奪ったと勘違いをしている。当然だろう、炎王龍が海で亡くなったことなど、彼女には知る由も無いのだから。

(違うわ、そうじゃないのに……!)

 しかしジェナの思いが、遠く離れた炎妃龍に届く筈がない。

 炎妃龍が再び吼えると、鬣が内側からぽうっと光り、蒼や橙の火の粉がスワロフスキーのように彼女を輝かせる。美しいその姿は、炎妃龍が臨戦体制になったことを示すものだった。

 数日前、あの滅尽龍を一瞬で燃やし尽くしてしまった炎妃龍だ。いくら出産が迫っているからといって、逆鱗に触れれば人一人、否この拠点を一瞬で火の海にすることは容易いだろう。ハンターとしてのリュカの実力を信頼していないわけではないが、それでも焦燥が胸を締め付けた。

 思わず立ち上がりかけたジェナの肩に、そっと、だが動けないくらいの力で手が添えられる。見上げれば、人数確認を行なっていたコストネルが、こちらを黒真珠のような瞳で見つめていた。

「あなたはまだ動いてはだめ。心配でしょうけど、安全なところに居るのがあなたの仕事です」

「でも……」

「今あちらに行ったとて、あなたに何ができますか? 私はここの職員だけれど、ずっとハンターを相手にしているからある程度のことは想像できる。あなたのやるべきことを見失わないで」

 厳しい言葉だった。だが、彼女の言葉は的を正確に射ている。ジェナは唇を噛み締め、頷いた。

 

 炎妃龍がリュカの方へと駆けてゆく。冷え固まった溶岩すら砕く前脚が、あっという間にリュカへと迫る。逃げる素振りすら見せないリュカに、ジェナは全身の血が凍りつくような感覚を味わった。

 だが、その爪がリュカを切り裂く前に、炎妃龍は唐突に減速した。彼女の歩幅ではあと数歩の距離が進めず、ゼエゼエと肩で呼吸をする。煌々としていた鬣からも、いつしか光が消え掛かっていた。

 ブレスを吐けば、目の前のリュカなど簡単に焼くことができてしまうのに、その気力すら無いようだった。だが抵抗は諦めていないようで、呻き声の中に時折威嚇をするような唸りが混じった。

 

 ジェナは理解してしまった。とうとう、陣痛が始まったのだと。炎妃龍の姿にかつての自分を重ねかけて、首を振る。

(あれはあたしが味わったものとは似ても似つかない、尊い痛みだわ)

 母の胎で大きく育った子が、真っ暗な世界から出て外の光を浴びようとしている。あの子は、今この瞬間も生きている。その事実に、訳もわからないまま視界が滲み、頬のガーゼが水を吸っていく。

 無事に生まれてほしかった。炎妃龍に、自分は叶わなかった母親となる喜びを知ってほしかった。だが彼女が人間に敵意を抱いた今、少しでも攻撃をしてきたならば、こちらは彼女を討つしかなくなってしまう。拠点を知られてしまった以上、たとえ撃退に成功したとしても、棲家まで追い掛けて命を奪う他ない。そうなれば、せっかく生まれた赤ん坊も母親なしでは生きてゆかれまい。

 

「陣痛には波があるから、まだ暫くは生まれないでしょうけど。もしここで生まれてしまったら、ナナはここから動けなくなってしまうし、私達もこの拠点を手放す訳にはいかない」

 コストネルの言わんとすることを察し、ジェナは目を瞑った。誰かを攻撃しても、ここで出産しても、いずれにしろ炎妃龍とその子龍は命が尽きるまで武器を向けられ続ける。そもそもこの気温の中では、いくら母親の傍にいても赤ん坊は凍え死んでしまうだろう。親子も自分達も助かる道は無いものかと考えても、何も思いつかなかった。

(リュカ、どうか無事でいて……!)

 リュカ自身の為にも、炎妃龍と子龍の為にも。そして無責任ながら、自分の為にもそう願ってしまっている。いつしか、炎妃龍への思い入れはリュカに匹敵するほどにまで膨れ上がってしまった。こちらが一方的に共感しているだけだというのに。

 だがジェナの願いはきっと、拠点にいる多くの者の願いでもあるだろう。仲間が命を落とすことも、無垢な命が消えてしまうことも、望む者はそうそう居ない。

 それを裏付けるように、リュカと炎妃龍を見つめる皆の眼差しは、真剣な光を宿していた。

 

 

 

 痛みの持続時間は短かったようで、炎妃龍は体勢を立て直す。本当はすぐにこんな所から立ち去りたいだろうに、自身から番を奪ったであろう相手を前にして、彼女が背を向けることはない。

 リュカは、静かに涙を流していた。炎妃龍の悲嘆を前に、頬を手で拭うこともなく。ジャックが心配そうに上がってくるが、今のリュカには応える余裕がなかった。

(重いお腹を抱えて、せっかくここまで辿り着いたのにね。彼がここに来なければ、こんなことにはならなかった)

 瞬きをすると、頰が引き攣れる。気温の影響で不規則に暴れる雪風で、涙が凍っていくのだった。

 不幸な運命に翻弄される彼女を哀れに思う気持ちはある。だが、自分は新大陸古龍調査団のハンターだ。甘ったれた姿勢が、大事なものを失う引き金となることは痛い程に理解していた。もう二度と、自分の身勝手で全てを失う惨めさは味わいたくない。

 

 リュカは敵意や殺気は決して抱かず、だが得物だけはすぐに手に取れるように身構える。どうか、自分が勝手に愛着を感じていた龍に、この鋒を向けることにならないようにと。

 

 だが、炎妃龍は再び牙を剥いた。

 




ここまでお読みいただきありがとうございます!

ジェナは自身のことを卑下していますが、わたし自身は流産の痛みがお産の痛みに劣るなどということは全く無いと思っています。どちらもその瞬間に痛みを感じていたことは確かで、それは他人がどうこう口を出せることではありません。
センシティブな話題が多くなっていきますが、結末を見届けていただけると幸いです。


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