立ち上がれ、ミスターシービー (ふーてんもどき)
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プロローグ:三冠ウマ娘の終着点

 

 

 

 風が唸っている。既に息切れは始まっている。

 

 

 周囲からは十万人を軽く超える人々の熱狂的な歓声が響く。しかし今、それを一身に浴びて走る彼女には聞こえてすらいないだろう。

 

 レースの中盤から仕掛けたロングスパートにより、スタート時点で最後方にいた彼女は今や一番手に躍り出ていた。最終コーナーを回る頃にはバ群と大きな開きができる。

 

 その中で追って来ている者が一人いる。最後の直線を迎えるに当たって、上がってきた二番手との差は三バ身と余裕がある。

 

 しかしその差がまるで心許ないことを彼女は知っている。残り三ハロンの道のりが途方もなく長く険しいことを、彼女は知っている。

 なにせ後ろから迫る相手は別格だ。

 

 史上初、デビューから無敗でクラシックロードの三冠を勝ち取り、その後シニア級の並みいる猛者を退けて四度のG1タイトル奪取。最も格式高いとされる有数の競争を七度制するという前人未到の大偉業を成し、今もなお全盛期の最中にある永遠なる皇帝。

 

 その強さと恐ろしさを、彼女はよく知っている。最も近くで見てきたと言っても良い。

 

 同じ三冠の栄誉を手にしているというのに、彼我の間には笑ってしまうほどの差がある。今までに何度、苦渋を飲んできたことか。

 決して勝てないと思い込み膝を折るのに十分な敗北を重ねてきた。それでも今こうして遮二無二走っていることを彼女自身も可笑しく思っている。

 

 

 

 風が唸っている。息はとっくに上がっている。

 激しく伸縮を繰り返す肺が痛む。直線の半ば、ラスト1ハロンを示すハロン棒が目の前に迫る。

 

 猛然と迫り来る皇帝との差はすでに一バ身未満。じわりじわりと詰められている。あと少し粘れば、もうちょっとを駆け抜ければ辿り着ける栄光の頂があまりにも遠い。

 これまでの経験を鑑みれば負ける展開だ。確実に負けると、彼女の記憶が告げる。

 

 

 

 けど、それでも……。

 

 

 

 

 新緑の野芝が萌える、四月某日。

 その日の京都競バ場には十万人に差し迫る異例の大観衆が詰めかけていた。

 天皇賞と呼ばれるレースが開催されるということで毎年多くの観客がやって来るが、今年に限っては運営の想定すら遥かに上回る数の人々が楕円型の場内に押し合いへし合い入り乱れている。

 

「どっちが勝つかな」

「そりゃルドルフだろ。今までの戦績見れば明らか」

「俺はシービーに勝って欲しいなあ」

 

 レースオタクの男たちが月刊トゥインクルや場内販売のパンフレットを見ながら話している。同じような話題が観客席の至るところで挙がっていた。

 

 今日この場で、三冠ウマ娘の対決が見られる。

 それが例年を軽く超える観客数の理由だった。

 

 選ばれたウマ娘たちが一生に一度だけ挑めるクラシックロード。その花道を代表する三つのレースがある。

 皐月賞、日本ダービー、菊花賞。

 それら全てを勝ち抜いた猛者だけが得られる三冠という称号は特別なものだ。速く、強く、運も味方につけなければならない。何年にも渡って誰一人獲得できないこともザラにある。正しく世代最強を示す唯一無二の呼び名。

 そんな稀代の肩書を持つウマ娘同士が今日、激突する。世紀の決戦に京都競バ場は熱狂の坩堝と化していた。

 

 前座が済んだばかりで本命のレースはまだ始まってもいないと言うのに、大人数による歓声は競バ場地下をも揺らすほどだ。

 薄暗い地下バ道に木霊し、関係者以外立ち入り禁止の扉を抜け、選手控え室が並んでいる廊下にまで、その振動が僅かに届いている。

 

 控え室の一つにミスターシービー様と名札の貼られた部屋がある。そこで黒鹿毛のウマ娘がストレッチをこなしていた。

 

「すごい歓声。ここまで届くなんて」

 

 黒鹿毛のウマ娘こと、ミスターシービーが頭のてっぺんにあるウマ耳を立てて呟く。

 レースが間近に迫った今、控室にいるのは彼女一人だけだ。トレーナーにもチームメイトにも集中する時間が欲しいからと言って人払いをした。

 

 一人でいるには些か広すぎる控室。その壁に備え付けてあるテレビの液晶画面には天皇賞春のニュース中継が映っている。来場者数が九万人を突破し、まだ増えていることをリポーターが伝える。

 

『注目はもちろん新旧三冠対決でしょう。今回こそはミスターシービーが勝つのではないかと多くのファンも期待を募らせています。しかし一番人気はやはりシンボリルドルフ。果たして三度目の正直となるのか……』

 

 ストレッチを終えたミスターシービーはリモコンを手に取りテレビの電源を消した。鏡台の椅子に腰掛けて目を瞑り、雑音を頭の中から振り払い、精神を統一する。

 

(期待、ね)

 

 三度目の正直。しばらく前から世の話題を席巻している天皇賞春について語られる際に繰り返されてきた言葉だ。

 ミスターシービーとシンボリルドルフ。二人の三冠ウマ娘が戦うのは本日のレースが初めてでは無い。前年秋のジャパンカップと年末グランプリの有マ記念で、ミスターシービーはシンボリルドルフに惨敗している。どちらも世界的に格式の高さが認められている国際G1。日本でも最高峰と言えるその舞台でミスターシービーは二度も辛酸を舐めた。

 

 勝ち星が減ってもなお彼女のファンは多く、今度こそはとミスターシービーの活躍に期待を寄せている。しかしその期待は今や重荷でしかない。かつて勝ち取った三冠の栄誉は、真新しい無敗三冠の称号を持つシンボリルドルフの前に霞んでしまった。

 これから行われる3200mのレースで、ミスターシービーは完全に挑戦者として見られている。そんな彼女に「今度こそ勝ってくれ」と願うファン達の声援は、シービーとルドルフの差が誰の目から見ても明らかである事実の裏返しだった。

 

 瞼を開く。

 レースに臨む気持ちを整えたシービーの目には、それでも隠し切れない憂いの色があった。

 

「んじゃ、ぼちぼち行きますか」

 

 気軽に、しかし己を鼓舞するかのように言って、肩を回しながらシービーは控室を後にする。

 まだレースの開始までは時間があるが、ファンサービスも必要だ。

 ミスターシービー()はターフの演出家。余裕な態度と劇的なレース展開で人々を魅了して止まない、三冠ウマ娘なのだから。

 

 地下バ道を抜けて表に出たミスターシービーを万雷の拍手喝采が迎える。歓声を受け、徐々に自分の中で勝負の熱が高まるのを感じ、シービーは拳を握りしめた。

 

 勝つ。勝とう。私の追い込みで。

 

 快晴の中で行われた、春の天皇賞。

 ミスターシービーは五着の結果に沈んだ。

 

 

 

 

 クラシック三冠という称号が現実のものとなったのは遥か昔、まだテレビ画面がモノクロだった時代だ。

 日本ウマ娘レースの歴史上、初めてセントライトがその偉業を成し遂げてからというもの、次の達成者が現れるのを望む声は高まり、また競技者であるウマ娘たちの多くが三冠制覇を目標に掲げることとなる。

 

 セントライトが引退してしばらくの年月が経った後、ナタの切れ味と称されるほどの末脚を持つシンザンが二代目の座を勝ち取る。また、有マ記念と秋の天皇賞を合わせて五冠を制した彼女の活躍ぶりは今も伝説として語られる。

 

 しかしそれ以降、実に十数年もの間、クラシック三冠の栄光を手にするウマ娘は現れなかった。

 皐月賞と日本ダービーに勝ち、二冠にまで上り詰めた者なら何人かいた。しかしそのいずれも菊花賞を前に故障したり調子を崩したりで出場すら出来ず、或いは初めて挑戦する3000mという長距離の壁に阻まれ膝を屈した。

 

 そんな状況が何年も続き、次第に主要なファン層の世代は移り変わり、セントライトはおろかシンザンの活躍も遠い過去のものとなっていく。栄えある称号は時の移ろいと共に錆びつき「もう三冠ウマ娘は現れないのではないか」と噂する声も少なくなかった。

 

 しかし世の風潮に一人のウマ娘が待ったをかけた。

 その者の名はミスターシービー。

 良血の元に生まれた彼女は幼い頃からその才能を期待されていた。

 そしていざ本番で走ってみれば圧巻のポテンシャルを発揮してデビュー戦を快勝。共同通信杯、弥生賞も勝ち上がり、クラシック級となってからますます強さに磨きのかかった彼女に人々は三冠の夢を見た。

 

 果たして、その夢は叶えられた。

 不良バ場だった皐月賞、レース展開に恵まれなかった日本ダービーを勝ち切り、そして最後の鬼門たる菊花賞で彼女は新たな伝説を打ち立てた。

 

 曰く、そのウマ娘はタブーを犯した。

 

 彼女が挑戦した菊花賞の舞台は京都競バ場の3000m。そこで勝つためには、絶対とも言えるセオリーが存在する。3コーナーからの勾配をゆっくり上り、ゆっくり下るというものだ。

 一番キツイところで体力を温存し最後の直線で全力をふり絞る。多少なりともウマ娘のレース知識がある人々にとっては常識と言って良い話。

 

 だがバ群の最後方で控えていたミスターシービーは件の坂に入る手前から猛然と進出を開始した。

 

 余談ではあるが、シービーは事前にトレーナーから指示を賜っていた。「私はいつ仕掛けていいの?」と鼻息荒く、レース前からすでに掛かり気味だった彼女にトレーナーは「向正面からぼちぼち行ってもいい」と言った。

 これは無論、ほんの少し位置取りを上げても良い、程度の意味だったのだがシービーは何を思ったのか「全力でかっ飛ばせ」と解釈し、その通りに意気揚々と集団をごぼう抜きした。

 レース後のインタビューでトレーナーが明かしたその一連のやり取りは今もファンの間で笑い話となっている。

 

 閑話休題。

 

 上り坂でぐんぐん加速し先頭に並び、坂を下る頃には完全に抜け出してしまったミスターシービーに、場内からはどよめきが上がった。無論、歓声ではなく悲鳴の意味でのどよめきである。

 三冠がかかった大一番でまさかの暴走。ゴール前の直線でミスターシービーは猛者二十人の追い込みを受ける形となる。あまりの惨事に観客は「やはり三冠は夢であったか」と諦め、シービーのトレーナーは急性の高血圧でぶっ倒れそうになった。

 

 しかしそんな周囲の反応などどこ吹く風とばかりにミスターシービーは直線で更なる加速を見せ、三バ身差で勝ってみせた。

 あまりにも強く、あまりにも常識外れ。史上三人目の三冠ウマ娘にして、文句無しの世代最強が誕生した瞬間だった。

 

 人々は待ちに待った三冠ウマ娘が現実のものとなったことに熱狂し、そして———。

 この時がミスターシービーの走りのピークになるとは、露ほども思わなかった。

 

 クラシック期の終盤、当然出走するものと思われたジャパンカップと有マ記念を回避し、ファンは少なからず困惑し落胆する。

 特に国際式典としての特色が強いジャパンカップでは「何故、日本最強の選手が出ないのか」と海外勢から厳しい批判の声もあった。脚部不安のためやむを得なかったのだが、明確な故障ではなく僅かに不調といった程度のものであったため理解され難かった。

 脚部不安による療養は難航し、冬から春へ、さらには夏へともつれ込み、同世代が勝ち星を挙げ後輩が名を馳せる中でそれを見ているしかない時期を過ごす。

 

 次にミスターシービーがG1レースを制するのはおよそ一年後、秋の天皇賞でのことだった。

 かつての末脚の切れ味そのままに、同秋の毎日王冠で差し切れなかったライバル、カツラギエースを見事に制しコースレコードを打ち立てて勝利する。ファンは期待を超えるシービーの活躍に歓喜した。

 

 しかしその年のトゥインクルシリーズでは、ミスターシービーの復活劇すらも霞む、とんでもない事が起こっていた。

 

 シービーの世代の一つ下であるクラシックで、またもや三冠を達成した者が現れたのだ。しかもそれまで全戦全勝。無敗三冠という全く新しい偉業が成されたのである。

 

 シンボリルドルフ。

 総生徒数約二千人の中央トレセン学園の現生徒会長であり、後に皇帝の二つ名と共に語られる彼女は、その異名に全く見劣りしない功績を残すこととなる。

 同じ三冠ウマ娘ではあるが、シンボリルドルフの走りはミスターシービーのそれとまるで異なる。好位置につけ、仕掛け時を誤らず、余力を残して勝利する。完成されていると言っても過言ではないレース運びは盤石であり、人々に「レースに絶対は無いが、シンボリルドルフには絶対がある」とまで言わしめた。

 見ている者をハラハラとさせる劇的な追い込みでやってきたミスターシービーとはまさに対極に位置する選手である。

 

 当然の帰結として、二人の対決は熱望された。

 同じ時代に三冠ウマ娘が二人も現れるなど前代未聞。いや、空前絶後となるかもしれない奇跡だ。

 

 斯くしてミスターシービーとシンボリルドルフは戦うこととなる。都合三度。ジャパンカップ、有マ記念、春の天皇賞。

 

 そして格付けは済まされた。

 

 シンボリルドルフが春の盾を手にし、シンザン以来の五冠を達成するその横で、入着することすらやっとのミスターシービーがそこにいた。

 



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一話:仮初の契約

 

 

 レースを心から楽しめなくなったのはいつからだろう。

 シービーは歩きながら考える。片手には松葉杖をつき、片足にはギプスが巻かれている。

 

 ミスターシービーの脚部不安が判明したのは春の天皇賞が終わって間も無くのことだった。完全な故障には至らない、脛骨に精密検査でもなければ知りようのないほんの小さな傷が入っている軽度のものだが、世間は大きく落胆した。

 

 皇帝シンボリルドルフに三度目の敗退。そしてトゥインクルシリーズを通しての度重なる脚部不安。

 もうミスターシービーはダメなのではないかという噂が何処からともなく囁かれ始めた。一部の人間が流したその噂話はSNSによって瞬く間に広がり、今では検索のサジェストに『ミスターシービー 引退』と出るまでになった。

 

 例えば、ネットニュースにはこのような記事が載っている。

 

『ミスターシービー、復帰は絶望的か。ここ最近頭角を現してきたカツラギエースや、先日ついに五冠を達成したシンボリルドルフらの栄光とは逆に、かつての国民的スターであるミスターシービーの凋落ぶりにはいたたまれないものがある』

『天皇賞・春の終盤では一度は先頭に立ち、かつての菊花賞を彷彿とさせたものの、結局伸び切らず最終直線ではシンボリルドルフを筆頭に次々と抜き返され五着という結果に沈んだ。その走りに全盛期の切れ味は無く、凡走という評価も仕方のないものだった』

『現在、脚部不安が発覚したことにより再び休養期間に入ったとのこと。ファンからは期待よりも心配や不安の声が大きい。当初、世間を賑わせていた三冠ウマ娘対決も今回のレースで決着はついてしまったと見ていいだろう。一部の専門家はミスターシービーを早熟型の選手と評し、既にピークを越えた今、トゥインクルシリーズのトップ層やドリームシリーズで強豪と渡り合うのは難しいだろうという見解を出しており……』

 

 パッと、そのニュース記事を映していた液晶画面が暗転する。トレセン学園のはずれにある喫煙所でニュースを読んでいた老年の男は深くため息をついた。片手には吸いかけの両切りタバコ。口に含んでいた煙が広がり、換気扇に吸い込まれていく。

 

「なーに辛気臭い顔してるの」

 

 唐突に喫煙所の扉が開き、一人のウマ娘が入ってきた。松葉杖をついたミスターシービーだった。

 一瞬肩をビクリとさせた男だったが、やって来たのがシービーだと判ると息をついて苦笑した。

 

「ここは学生の来るような所じゃないぞ。煙臭いだろ、シービー」

「トレーナーのせいで慣れちゃったよ。まあ確かにちょっと煙たいけど」

「足はどうなんだ。痛むか」

「ううん。痛くも痒くもないのにギプス着けなきゃならないなんて本当嫌になるよ。ねえ取っちゃダメかな、トレーナー?」

「君みたいなウマ娘が無茶するからギプスが要るんだよ」

 

 隣に腰掛けたシービーを横目に見て、トレーナーと呼ばれた男は残り僅かなタバコの火を消した。

 

「あと、元トレーナーだろ」

 

 ミスターシービーの言葉を訂正する。細かい事を、とシービーは笑うが男にとっては聞き流せなかったらしい。

 

「つれないなあ。私にとって吉田さんはずっとトレーナーなんだけど」

「嬉しいがね、今のトレーナーに失礼だろう、それは」

「いいのいいの。もう関係無いし」

 

 年老いた男性トレーナーこと吉田の小言に対し、かつての教え子であるミスターシービーは笑ってみせた。気楽そうでいて、どこか諦念の混じった複雑な微笑。

 

「私、もうチーム辞めたからさ」

 

 さらりと重大な発言をしたシービーは、スマホを取り出して適当にウマスタグラムなどを見始める。何でもないことだと言い張るように。「お、このお店美味しそう」

 

 それでもミスターシービーは誤魔化すのが上手なウマ娘ではなかった。ウマ耳が僅かに吉田の方に向いている。画面をスクロールする指の動きは単調で、食べ物の写真など全く見ていなかった。

 

 シービーの様子を見ていた吉田は少しして「そうか」とだけ言った。淡白な返事にシービーが不満そうな顔をする。

 

「そうかって、なんか軽くない?」

「君がこうと決めたのなら異論は無いさ。無理して続けることもない」

「……うん、そうね。無理することないよね」

 

 吉田は言いながらギプスが巻かれたシービーの足をちらりと見た。歴史に残ると讃えられた脚。三冠を取った、あるいは吉田に三冠をもたらした才能の塊。

 今も自分が彼女のトレーナーだったら。そんな思いが込み上げ、吉田は戒めるように眉間を揉んだ。

 

 ダイヤの原石だったミスターシービーを三冠ウマ娘に磨き上げたのは間違いなく吉田の手腕があってこそだった。

 長年かけて築いたチームを若いサブトレーナーに託し引退を視野に入れていた吉田が、最後に担当したウマ娘。それがミスターシービーであった。

 入学して間も無い中、シービーはすでに学園中を我がもの顔で楽しそう走り回っていた。ダートだろうが芝だろうがその日の気分で矢鱈めったら駆けずり、匂いが良いからという理由でウッドチップの敷き詰められたコースを何周もしたり、高等部中等部を問わず見かけたウマ娘を誘って併走したりと、その自由奔放さは当時から有名だった。

 奇遇にも、吉田は神出鬼没なシービーを何度か目にすることがあった。ただ単純に、楽しそうに走る彼女を眺めることが、いつしか吉田の楽しみにもなっていた。

 そんな姿勢を気に入ったのか、シービーの方から吉田に声をかけ、逆スカウトの形で専属契約と相成ったのである。

 

 二人はトゥインクル・シリーズを駆け上がった。デビュー戦からクラシック三冠を取るまでの約二年はまるで綺羅星のように一瞬で過ぎ去り、日本全土を沸き立たせ、競争の歴史に大きな蹄鉄の跡を残した。

 

 しかし栄華の時代は長く続かなかった。シービーがシニア級に上がり、脚部不安から長期休養に入った折、二人は紆余曲折あって契約解除に至った。

 当時のことを思い出す度に、吉田の中では言い表しようのない感情が渦巻き、心に暗い影を落とす。

 

 ギプスの巻かれたシービーの足を横目に見ながら考える。自分は本当に正しい道を選ぶことが出来ていたのかと。

 

 懐にあるタバコの箱に手が伸びる。自分が無意識に新しいタバコを咥えようとしていたことに気付いた吉田は、それを恥じるようにそっと懐へ戻した。

 

「チームを抜けるってこと、まだ公表はしていないのか」

 

 さっきまで見ていたネットニュースを思いながら吉田は聞いた。ミスターシービーがチームを脱退するとなれば必ず話題になるはずだが、そういった情報はまだ公に出回っていない。

 

「今朝、チームトレーナーに退部届を出したばかりだからね。でもまあ普通に書類受け取ってくれたし、受理されると思うよ。そうしたら私は一躍時の人ね」

 

 引退疑惑が騒がれる中でチームを辞めたことが報じられれば、いよいよミスターシービーの競技者人生は幕を閉じることになる。三冠ウマ娘の引退とはれば、一時的にではあるが、各メディアがこぞって大々的に取り上げるには十分な話題性があるだろう。

 

「向こうのトレーナーは何て言ってた」

「別に、何も。まあホッとしたかもね。私ってほら、自分で言うのもなんだけど変わり者じゃん。なのに肩書きは三冠ウマ娘だからさ。外野からも色々と言われるだろうし扱いにくかったんじゃないかな」

「……なかなか自分のことを客観的に見れるじゃないか、シービー」

「えー、ひどーい。そこは「そんなことないぜ」とか言って慰めるところでしょ」

 

 わざとらしく文句を言うシービーに「事実じゃないかね」と吉田が笑う。冗談で笑い合ったのも束の間、吉田はシービーに尋ねた。

 

「それで、これからどうするつもりなんだ」

 

 聞かれて、シービーの表情がにわかに固くなる。しかしそれも一瞬のことで、普段通りの飄々とした微笑を作ってみせた。

 

「なーんにも考えてない。まあ当分は走らないかな」

 

 足もこれだしね、とギプスを巻いている方の膝を叩くシービー。

 

「トレーナーはさ。どう思う?」

 

 レースを続けるか、辞めるか。自分の行く末を問うシービーの声は僅かに低い。吉田はしばらく間を置いてから月並みな答えを出した。

 

「君のやりたいようにやれば良い。なに、走るだけが人生じゃないさ」

「……ま、そうだよね。私は私らしくなくっちゃね」

 

 私らしく、自由に、何にも囚われず。

 

 聞かずとも吉田の言葉をあらかじめ知っていたシービーは呟いた。

 彼は出会ってからずっとそうだった。ウマ娘の意思を尊重し、レースで勝って名を上げるよりも幸せであったり将来を明るいものにすることを重視する。

 

 だからこそ吉田と組めていたことを、シービーは今になって自覚した。

 一般的なチームに入ってみて初めて、自分はどうも人と上手く折り合いを付けられないことに気付いた。気性難と呼ばれる部類に入るらしい、とシニア二年目になってようやく悟った次第である。

 気乗りしないからと、そんな理由でサボることも何度かあった。併走する時も「前を抜かすな」とか「ここで抜け」と細かく指示されるのが思いのほか窮屈だった。

 

 天皇賞春を走り終え、ウィニングライブでのバックダンサーの務めも果たした後で開かれた反省会でのこと。シービーの着順に対してチームトレーナーはどこか納得している風だった。このくらいが妥当だろうと言外に言われた気がしたのは自分の勘違いではないだろうと、ミスターシービーは思うものだ。

 

 そこからチーム脱退までの話は早かった。レース後に義務である精密検査を受けてみれば今回の脚部不安が判明し、それを機にシービーから脱退を宣言。用意してもらった申請書にサインと判子を押して、さっさと引き上げてしまったという訳だ。

 

 なんていったって私は自由の代名詞。一つのことに拘るなんてナンセンス。常に楽しくなくちゃ仕方がない。

 

 ミスターシービーは心の中でそう唱える。

 

「何にせよ宙ぶらりんじゃ色々と都合が悪いだろう。シービー、トレセン学園で孤立無援は割とキツいぞ」

 

 そんな彼女の心情を知ってか知らずか、吉田は厳しい現実を突きつける。トレセン学園はあくまで競争ウマ娘の育成を目的とした場所だ。トレーナーと契約を結ぶかチームに加入するか、或いは教官の指導を受けて鍛錬に励むか。そういった立ち居振る舞いが当然のものとして求められる。

 例えば、怪我を治すための医療費とて無条件で立て替えられるわけではない。その後の復帰への意欲があってこそ、理事会から多額の補償が認められる。チームは辞め、トレーナーもいないシービーは今やトレセン学園における社会的弱者だ。吉田が言っているのは、そうした現実的な問題についてだった。

 

「どうかね。私と契約するとか」

 

 さらりと出た吉田の言葉に、シービーは目をパチクリとさせた。

 

「えっ、トレーナーが、私の担当になってくれるの?」

「仮契約で一応の面倒を見るという形だがね。君さえ良ければ」

「いやー、うん。そうしてくれると私としてはすごく助かるんだけどね」

 

 珍しく言葉を濁すシービーに「どうした」と吉田。シービーは気まずそうに視線を泳がせる。

 

 

「やっぱり変かなあ。トレーナーとの契約解除を言い出したのは私の方だし、て言うか私がほとんど強引に押し切った感じだったし……」

 

 吉田とシービーが袂を分かったのは昨年の春頃のことだ。原因はシービーの脚部不安にあった。三冠を取った後、断腸の思いでジャパンカップと有マ記念を回避した吉田の判断は結果として正しかった。

 

 柔軟性に優れるシービーの足は天性の加速力を持つ反面、故障しやすいという厄介な特性もあった。日本ダービー後にもその兆候はしばしば見られたが、シニア期に入ってついに表面化した。

 

 当時、貴重な三冠ウマ娘を管理できていないとして吉田はバッシングに晒された。大抵の場合、ウマ娘の不調、故障の責任は全てトレーナーが背負うことになる。当然の事実であるため老練の吉田は記者の追及にあっても泰然としたものだったが、シービーはそれが許せなかった。

 シービーは激怒した。烈火のごとく憤り、偏向的な記事を書いた大手出版社に直談判(カチコミ)しに行こうとする事態にまで発展しかけた。前任からトレセン学園を託されたばかりの年若い現理事長、秋川やよいの「危機~!」という悲鳴が広大な学園全体に木霊したとかしなかったとか。

 

 そうして最終的に、これ以上吉田に迷惑をかけないためにシービーは契約解除を申し出た。

 

「元々は引退しようとしてたトレーナーを私が無理やり捕まえたようなものだからさ、きっと今が潮時なんだよ。私なら大丈夫。三冠ウマ娘なんて引く手数多だし、他のチームにでも入ってレースに復帰して、ばんばん勝っちゃうから」

 

 一年前、今と同じように飄々とした態度と楽天的な笑顔でシービーは言った。

 

 最初こそ反対していた吉田だったが、シービーがいつまでも頑ななことと、彼女自身の競技人生を考えた末に、契約を解除する方向で話はまとまった。吉田が受け持っていたチームに入るかという話も出たが、それだと吉田との繋がりを完全に断ち切れず悪評のネタにされるかもしれないからと、シービーが断った。

 

 昔とった杵柄で指導するには、彼女の才能は手に余る。吉田は常々そう感じていた。もっと若くて溌剌としたトレーナーに任せた方が将来的にシービーのためになる。そう考えた末の妥当な、苦渋の決断であった。

 

 その時のことを引きずってか、シービーの歯切れは悪い。吉田は気にする必要などないと宥めた。吉田も今は担当ウマ娘を持たず、教官への指導や地方での講演など、もっぱら後進の育成に力を注いでいる身だ。

 人気の三冠ウマ娘を受け持っていた一年前とは状況が何もかも違うのだ。形だけの仮契約を結ぶくらい迷惑でも何でもない、というのが吉田の意見だった。

 

 ミスターシービーも自分の立場を本気で不安に思っていたのだろう。申し訳なさそうにしつつも、結局は吉田の提案を受け入れた。

 

「じゃ、これからまたよろしくね。ミスター・トレーナー」

「こちらこそ。とは言っても君の当面の仕事は絶対安静だから。これからはこんな所までほっつき歩いちゃダメだよ。散歩も当分禁止だ」

「えー! やだやだやだ、つまんない!」

「落ち着きがないところは本当に変わらんなあ君は。ほら、もう夕暮れだよ。今日は大人しく寮に帰りなさい」

「あーもうなんかやる気なくなった。絶対安静ならさ、寮まで私のこと負ぶって行ってよ、トレーナー」

「無茶言うな。もう七十近いんだぞ」

 

 狭い喫煙所から吉田とシービーが出て、それぞれの帰路に着く。

 片方は松葉杖をつき、片方は腰を曲げており、どちらも歩みは遅い。赤い夕陽が二人の影法師を長く伸ばしていた。

 

 斯くして、三冠を巡って世間を賑わせた二人はトレセン学園でも稀な再契約を結んだ。

 

 目標のレースも無い。トレーニングも行わない。復帰の目処も立っていない。ただ現状を引き延ばしにするためだけの、仮初の契約を。

 



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二話:皇帝の憂慮

 

 

 

 昼下がりの生徒会室は静謐だった。紙の擦れる音と、ペンで文字を綴る音だけが響く。

 

 会長の名札が立てられた机には生徒会長であるシンボリルドルフが座し、流れるような手際の良さで種々様々な書類を捌いている。昼休憩の時間を割いての執務中だ。

 エアグルーヴとナリタブライアンの副会長両名は、他の役員と一緒に席を外している。生徒会室内での作業に限らず校内の見回りやポスターなどの配布、生徒間での問題事での呼び出しなど、トレセン学園生徒会の活動は多岐に渡る。

 

 二千人弱のマンモス校。しかも校風は限りなく自由。それをまとめているのだから、生徒会長であるシンボリルドルフの辣腕は推して知るべしである。

 

「これ終わったわよ、ルドルフ」

「ああ、ありがとうマルゼンスキー。助かるよ」

 

 シンボリルドルフの傍でアンケートの集計を手伝っていたウマ娘、マルゼンスキーが書類の束をルドルフに手渡す。

 ルドルフの親友である彼女もまた、すでに輝かしい成績の数々を残した素晴らしい競走ウマ娘だ。あまりの強さにマルゼンスキーが走るレースでは他の選手が何人も出走を取り止めたというのは、彼女を語る上で欠かせない逸話である。

 

「私の方も区切りが良いし、少し休憩にしよう」

「それじゃあコーヒーでも淹れるわね」

「いや、手伝ってもらっている身でそれは申し訳ない。私が淹れるとも」

「ルドルフったら、友達同士で固いことは言いっこ無しでしょ。いいからいいから。座って待ってて」

 

 給湯室に向かい、しばらくして二人分のカップを持ってきたマルゼンスキーにルドルフがお礼を言う。上手く淹れられたようで、コーヒーを一口飲み「うん、チョベリグ!」とマルゼンスキー。

 

 コーヒー党のルドルフもお気に召したようで一口一口を味わって飲み、ほっと息をつく。

 

「いつも手伝ってもらってすまないね。別に生徒会役員でもないのに、遊びに来ている君にこうも毎回書類仕事ばかりやらせるのは忍びないよ」

「私は気にしてないわよ。こっちが勝手に来てるだけだし。て言うか、また口調が固い。そんなんじゃ後輩ちゃん達から距離を置かれちゃうわよ」

 

 マルゼンスキーの冗談交じりの小言に思うところがあるルドルフは苦々しい顔で「むう」と呻く。

 

 常に全生徒の規範となるべく精進を怠らないルドルフは理想的な生徒会長としての顔を持つ反面、その質実剛健ぶりから生徒たちに敬遠されてしまっている。今や伝説のシンザンと並ぶ記録を達成し、よりいっそう皇帝の二つ名に相応しくなったルドルフだが、それがさらに他生徒との溝を深めていることに頭を抱えていた。

 

 もちろん他愛のない会話をするにあたってもルドルフは全力投球である。決して手を抜くことはしない。

 しかし生徒会の仕事やレースと違ってこれが中々上手くいかない。以前購入したダジャレ全集で培った知識は、残念ながら会話の潤滑油たり得なかった。無念。

 

「やはりまだまだ未熟なのだ……もっと研鑽を積み、ジョークの精度を上げなければ」

「ルドルフってば努力は凄いけど、なんかズレてるのよねぇ」

「む、どういうことだろうか」

 

 変な方向に勇往邁進して行こうとする親友にマルゼンスキーがため息をつく。彼女も彼女で人のことを言えぬ奇抜なセンスをしているのだが、それに関しては割愛する。

 

「まあ良いんじゃない? あなたの夢に近づいていることは確かなんだから」

 

 ドンマイドンマイ、とマルゼンスキーが笑う。

 

 高貴な家柄に生まれ、厳しい両親の教育のもと育ったルドルフが幼い頃から掲げる目標。

 全てのウマ娘が幸せになれる世界を創ること。

 まだ年端もいかぬ内に定めた夢は、何度となく周りから笑われてきた。バカにされたと言うよりは、本気だと思われなかった。大抵は「子供の言うことだから」で一蹴される。それに対してルドルフが噛み付かなかったのは生来の穏やかな性格もあるが、彼女自身も大言壮語であることを重々承知していたからだ。

 

 しかし、だからと言ってすんなり諦めてしまえるほど、シンボリルドルフは物分かりの良いウマ娘ではなかった。

 生徒会長の座に就いたのも、トゥインクル・シリーズで走るのも、全ては人々の為に。頼れる生徒会長としてあまねくウマ娘をサポートし、無敵の皇帝として皆に追うべき背中を見せ続ける。

 

 使命を己に課して早数年。シンボリルドルフは今もなお、道の半ばにいる。

 

 マルゼンスキーに励まされたルドルフは「ありがとう」とはにかんだ。一見して穏やかな笑顔には僅かな憂いの色があった。

 

「そうそう。さっき集計していたアンケートでね、今度のエキシビジョンレースの一番人気はやっぱりあなたみたいよ。ルドルフ」

 

 紙の束をルドルフに見せながらマルゼンスキーが言う。

 

 六月の始めに、生徒会が毎年企画している模擬レースが行われる。エキシビジョンで記録に残らないとは言っても規模はなかなかのもので、トゥインクル・シリーズのファンの多くが観戦に訪れる一大イベントだ。

 

 例年、地方の重賞レースにも引けを取らない盛り上がりを見せるが、今回は注目のされ方がいつもと異なっていた。誰であろう、五冠ウマ娘となったシンボリルドルフが出るのだ。普段ならどのウマ娘が有力か方々で予想されるものだが、巷で噂になっているのは「他の選手がルドルフにどう喰らい付いていくのか」といった話題が主である。

 

 シンボリルドルフに対する期待はもはや止まるところを知らない。実力がさらに円熟したこのシニア期でいったいどれだけの功績を残すのか、誰もが注目している。

 エキシビジョンなどは勝って当たり前。宝塚記念を獲っての二大グランプリ制覇、秋の天皇賞を勝っての春秋天皇賞制覇、ジャパンカップでのリベンジ、有馬記念連覇などといった、どれか一つだけでも目の眩むような偉業をまるで当然のごとく求められている。

 今年度の冬から新たに始まるビッグレース、URAファイナルズもまた然り。開催まで半年以上もあるそのレースでもルドルフが優勝するだろうとあちこちで予想が立っている

 

 今やシンボリルドルフは台風の目。トゥインクル・シリーズという巨大な流れの中心にいることは紛れもない事実だった。

 

「推薦による出走予定者の方もだいぶん固まってきたみたいだね。どれ、錚々たる顔ぶれじゃないか」

 

 生徒会長として行事が盛り上がっていることが純粋に嬉しいのだろう。マルゼンスキーのまとめた資料に目を通して微笑むルドルフの瞳は、しかし一人のウマ娘の名前を探していた。

 

 ミスターシービー。

 探すまでもなくその名は目に止まる。ルドルフの優勝を予想する多くの人々が、それと同じくらい三冠ウマ娘同士の再対決を望んでいるらしかった。ルドルフに次ぐ二番人気。推薦投票では断トツでトップに上がっている。

 

 残念ながら、彼女の出走は叶わないだろう。天皇賞春の後に発覚した脚部不安。つい先日ギプスが取れたようだが、まだ本番に出られるような状態ではない。今はゆっくりと休養することが第一だ。

 もっとも、万全な状態まで回復したところで、ミスターシービーが復帰するのかは分からないが。

 

「ルドルフ、大丈夫?」

 

 声をかけられて顔を上げる。マルゼンスキーが心配そうな顔で、とんとんと自分の眉間を指す。それでようやく、ルドルフは知らぬ間に自分がしかめ面になっていたことに気付いた。

 

「ああ、すまない。大丈夫だ。どのウマ娘も一筋縄ではいかなそうだから、つい真剣になってしまった」

 

 そう誤魔化すも、マルゼンスキーは変わらず憮然とした表情だった。

 

「シービーのことが心配?」

「……ああ。少し、ね」

「彼女、この前チームを辞めたらしいわよ。それで前に組んでいた吉田トレーナーと再契約したんですって」

「知っているとも」

 

 生徒会の情報網によって誰よりも早くそのことを知っていたルドルフは頷く。ミスターシービーが未だに復帰については何も言及していないことも。

 今回のエキシビジョンレースやその他の催し物はまだしも、URAファイナルズに三冠ウマ娘のミスターシービーが出ないとあっては、少なからず波紋を呼ぶだろう。

 

 全てのコース、全ての距離に分かれた、全てのウマ娘が実力を遺憾なく発揮できる祭典。それこそがURAファイナルズの指針。就任した当初から秋川やよい理事長が発足した、全く新しい形式での一大レースイベントである。それが三年の準備期間を経て、ようやく来年の新春に開かれる。

 コースは芝かダート、距離は1400mの短距離から3000mの長距離までと幅広く行われるが、その参加資格を得るのは苦難の道である。曲がりなりにも優駿の頂点を決めようという大会だ。生半可な成績の者では選考段階で弾かれる。トゥインクル・シリーズを駆け抜けた一握りのウマ娘が切符を手に出来る。そして予選から決勝までの過酷なレースを勝ち抜くことで初めて王の栄冠を得られるのだ。

 

 しかし、ことシンボリルドルフにおいては既に切符を手に入れている。かのシンザンに並んだ稀代のウマ娘をURAが放っておく筈もない。具体的には、三冠を獲った去年の秋にはもう出場を請われていた。なにせ多額の資金を投じて企画された新設レースの初回だ。ここでしくじれば三年の準備が全て水の泡。参加権獲得のため実績作りに励んでいるウマ娘たち以上に、レースを運営するURA側も必死だった。出来る限り盛り上げる必要がある。トレセン学園の顔でもあるルドルフに白羽の矢が立つのは必然であった。

 そしてそれは、もう一人の三冠ウマ娘であるミスターシービーも同じことだろう。世間ではなにかと面白くない噂が立っているが、やはり彼女も抜きん出た実力者の一人としてオファーを受けているはずである。

 

 ただし今のシービーが出走を表明するか否か。吉田トレーナーとの再契約の噂を聞いたルドルフは最初こそ密かに喜んだが、後になって仮契約と知り一抹の不安を抱えていた。

 

 ルドルフの脳裏に過るのは先の天皇賞春のこと。最終コーナーでまくって上がり一度は先頭に立ったミスターシービーを、その後、直線で抜き返した。

 すれ違う時、僅かに見えた彼女の横顔が、ルドルフの頭から離れない。悔しさも焦りも無い、レースの熱が抜け落ちてしまったかのような、無機質なその顔が。

 

「また怖い顔してるわよ」

「……度々、申し訳ないな。少し疲れているのかもしれない」

「あなた今日は朝練の時から調子良かったじゃない。寝不足って顔でもないわよ」

 

 マルゼンスキーの鋭い指摘を受け、ルドルフは押し黙った。確かに、身体の健康に関してはすこぶる好調である。完全無欠の生徒会長は健康管理においても抜かりは無かった。

 

 しばらくの沈黙の後、ルドルフはため息を一つこぼして言った。

 

「もしもシービーが引退したら、私は少なからずショックを受けるだろう。今だってもう一度本気の彼女と競いたいと思っている。だが、それはあくまで私情だ。私の行く道には関係無い」

「そう……でもやっぱり寂しくなるわよね。これからのレースに、もうシービーが出ないかもしれないなんて」

 

 ルドルフは肯定も否定もしなかった。誤魔化すようにコーヒーに口をつける。

 

「ルドルフは出るのよね、URAファイルズ」

 

 マルゼンスキーの質問に、ルドルフはしっかりと頷いた。そこだけは譲らないと固い意志を示すように。

 

「当然だとも。これから学園の顔にもなる大切なレースなのだから。私は出場するし、必ず勝利するさ」

「そうじゃなくて……あなた自身は出たいと思っているの? 出場して走りたいって、そう思えている?」

「……ああ、もちろん」

「なんだかね、私は最近心配よ。ねえルドルフ。あなたが最後に自分のためだけに走ったのって、いつなの?」

 

 生徒会室の窓から差し込む陽光は僅かに傾き始めている。もうじき昼休憩の終わりを告げる予鈴が鳴るだろう。

 

 結局ルドルフは最後の質問に答えぬまま、ぬるくなったコーヒーを飲み干した。

 

 



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三話:宙ぶらりん

 

 

「ラスト一本、気合い入れろ」

「はいっ!」

「ペースが落ちているぞ。そんなことで先行を捉えられるか!」

「はいぃぃ……!」

 

 トレセン学園の練習場の一角、坂路トレーニング場にウマ娘たちの走る音が響いている。へろへろのウマ娘たちに檄を飛ばしているのは、トレセン学園でも一、二の厳しさに定評のあるチームを率いる黒沼トレーナーだ。

 

 トレーナーの目の前を、先行していた一人のウマ娘が駆け抜ける。ピッとタイマーか押される電子音。

 

「良いタイムだ。カツラギ」

「ハア、ハア……ありがとうございます」

「一周軽く流して来い」

「はい」

 

 苛酷な坂路ダッシュを終えた直後にも関わらず、すぐに息を整えたウマ娘、カツラギエースはトレーナーの指示に従ってクールダウンに向かう。

 その後、続々と他のチームメイトもメニューを消化し、インターバルの時間に入った。

 

 現在、カツラギエースはトゥインクル・シリーズの第一線から退いている。と言うのも、次のステージであるドリーム・シリーズに向けて一から鍛え直しているからだ。狙うは夏。ウマ娘の頂点の一つとも言えるサマードリームトロフィーが今の彼女の目標だった。

 前回の有馬記念ではシンボリルドルフ、ミスターシービーと並んで三強と呼ばれたカツラギは、遥か先を見据え今もなお牙を研いでいる。次こそはライバルを超えるために。

 

「カツラギ先輩、やっぱり凄いです!」

「ほんと。今日は行ける!って思ったのに、全然追いつけませんでした」

「ありがと。二人も確実に強くなってるよ。最後まで粘る根性もついてきたし、自信持って良い」

 

 カツラギエースが喉を潤しながら後輩と会話していると、中等部の新入りが小走りで駆け寄り話しかけてきた。

 

「あ、あの、さっきからカメラ持ってる人が先輩のこと撮っていて……」

 

 記者だろうか。取材の予定は聞いていない。そもそも、そういった話はいち生徒である自分ではなくトレーナーに言うべきでは。すぐ側にいるんだし。

 

「あっちの方に」

 

 後輩が指さす方を見て、カツラギは合点がいった。コースから離れた土手の上。確かに、黒鹿毛のウマ娘が大きなカメラをこちらに向けている。見知った顔だった。憎たらしいほどに。

 

 カメラを携えたミスターシービーは、カツラギが自分に気付いたと知り、笑顔で大きく手を振った。それを見てカツラギがため息を漏らす。

 

「これちょっと持ってて」

 

 スポーツドリンクの入った水筒を後輩に預け、坂を登ってシービーの元へ向かう。その背中からは何故かレースの時のような迫力が滲み出ていた。

 

「な、なんか先輩怒ってない? なんで?」

「さあ……」

 

 カツラギが近付くと、シービーは「やあ」と軽く手を上げた。もう片方の手には一眼レフのカメラを持っている。落とさないよう首からバンドで吊り下げているそれは一目で高級品と分かる物だ。

 

「何の用? 敵状視察でもしに来たってわけ?」

「違う違う。暇だったからトレーナーが持ってたカメラ貸してもらってさ。学園の風景でも撮ろうかなーってね」

 

 どこか棘のあるカツラギの物言いに動じた様子も無く、シービーはサッとカメラを構える。

 

「カツラギ選手、現在の調子はどうですか。なんちゃって」

「まったく……こっちは暇なんて無いってのに」

「あ、一枚撮るから笑顔でピースとかしてくれない?」

「しない」

 

 心底面白くない、といった表情でカツラギは腕を組む。パシャパシャとシービーは何回かシャッターを切った。

 

「前のチーム辞めてから随分と楽しそうじゃん、シービー。ギプスもとれたみたいだし」

 

 カツラギの視線が下に向き、シービーの足を見る。サポーターをしてはいるが、すでにギプスをしなくてもいいくらいには回復しているらしかった。

 雨の中でも平気で散歩をするシービーにとって、安静にしなければいけない時期はさぞかし苦痛だっただろう。

 

「いやあ、やっぱり気の合うトレーナーと組んでると違うね。あれやれこれやれって言われないから、のびのび出来るし」

 

「のびのび、ね」

 

 カツラギの呟きには僅かな含みがあった。

 

「あんたさ、まだ走る気あるの?」

 

 一瞬、シービーが固まった。

 畏怖と尊敬の混じった眼差しで遠巻きに二人のやりとりを見ていた後輩のウマ娘たちは、にわかに走った緊張に尻尾の毛を逆立てた。

 

 シービーとカツラギの視線が交錯する。その刹那、僅かにシービーの目が逸れかけたことを、カツラギはしっかりと見ていた。

 

「そりゃあ私はウマ娘だもん。いつでもどこでも走るよ。ま、今は足を治すのが先決だってトレーナーに釘刺されてるけどさ」

「レースに出るのかって聞いてるの」

 

 カツラギは答えをはぐらかされることを許さなかった。シービーの言葉に被せて畳みかける。

 それでもシービーは笑顔を浮かべたまま、のんびりとした口調で言った。

 

「んー……どうだろうね。そこら辺はまあ、神のみぞ知るっていったところかな」

 

 付き合ってられない、とでも言うようにカツラギは舌打ちをする。

 そんな二人の元に後輩のウマ娘がおずおずと近付いてきて、もうそろそろインターバルが終わる時間だとカツラギに伝えた。練習場の方を見れば、チームメイトたちが指示を仰ごうと黒沼トレーナーの周りにぞろぞろと集合し始めている。

 

 お邪魔しました、と言って駆けていく後輩の後を追い、カツラギも歩き出す。その背中をシービーが見送っていると、カツラギはふと振り返って言った。

 

「宙ぶらりんでいるくらいならサッサと辞めなよ、シービー。周りうろちょろされても迷惑だし、今のあんた見てるとなんかイラついてくるよ」

 

 しばらくして、シービーの眼下で厳しい訓練が再開される。先頭をきって走るのはやはりカツラギエースだ。シニアの一年目を乗り切ってさらに熟達した彼女の走りは、遠くから眺めていても素晴らしいの一言に尽きるものだ。

 

 その練習風景にシービーが再びカメラを向けることはなかった。間も無くして彼女が立ち去ったあとには、無音の風が吹き抜けるだけだった。

 

 

 

 

「でさあ、カツラギったら私のこと睨んでこう言うんだよ。周りうろちょろされたら迷惑だって。流石に酷くない?」

 

 トレーナー室でソファーに深々と腰掛けたミスターシービーが愚痴を溢していた。一眼レフカメラを弄り、大容量メモリに記録されている写真を見ながらも、今日の不満をこぼし続ける。

 

「人のカメラを勝手に持ち出した罰と考えたら丁度良かろう」

 

 パソコンで何やら作業をしている吉田が答える。物言いこそ辛辣だが、返せと言わないあたり大して気にしていないのだろう。シービーもそれが分かっているので「ごめんごめん」と言いつつも悪びれた様子は無い。

 

「しっかし、トレーナーが撮ってるの家族かウマ娘の写真ばっかりだね。せっかく良いカメラ持ってるのに、旅行とか行って綺麗な景色撮らなくていいの? 海とか山とか」

「トレーナー業をしていると遠出をする時間が無くてね。まあ今は昔よりも余裕があるんだが、今度は老いた身体がついていかん。ままならないものだよ」

「そっかあ」

 

 勿体ないなあ、とシービー。

 カメラの中に何百枚とあるウマ娘たちの写真はどれも写りが良い。大抵はどれもこれも走っている時のものだがブレが無くよく撮れている。

 

「何なら今年の夏、私と一緒に海でも行く? ほら、足も普通に歩けるようになったし」

「何か奢ってもらおうって魂胆だな」

「バレちゃったか」

 

 冗談めかして笑うシービーにつられて吉田も微笑む。

 

「いいのさ。一番撮りたかった写真はもう撮れているからな」

「年頃のウマ娘の写真を? うわー、なんかそれ変質者っぽくない?」

「おいシービー、そういうことは言わんでくれ。いや本当に。女学園はそこのところ厳しいんだよ」

 

 権威あるトレセン学園は常に不祥事の種が芽生えていないか監視の目を光らせている。古株のベテランとて、いち男性トレーナーである吉田は震えるばかりだ。

 

「でも私の写真は無いのね」

 

 不服そうにシービーが口を尖らせる。メモリの最初まで遡ってみても吉田の最後の担当ウマ娘である自分が写っていないではないか。由々しき事態である。「シービーはどこだ」とミスターシービー本人は心の中で叫んだ。

 

「昔の写真は選別してUSBメモリとかに移しているんだよ」

「なんだそういうこと。ちょっと見せてよ」

「ここには無いよ。私の自宅に保管してある」

「じゃあ今からトレーナーの家に行こうよ」

「無茶言うな。これでも仕事中だから、こっちは」

 

 そう言いつつ、吉田はパソコンの電源を落として立ち上がった。几帳面に整理された棚から書類を何枚か取り出してファイルに挟む。鏡を見て髪を軽く整え、白シャツの上からジャケットを着る。

 他所行きの支度をしているらしい吉田に「どこへ行くの」とシービーが聞いた。

 

「ちょっと理事長に呼ばれていてね。君について話したいことがあるらしい。と言うわけで、君も一緒に来なさい。シービー」

「えー!」

 

 唐突な話にシービーは柄にもなく叫び声を上げた。慌てるあまり手が滑ってカメラを取り落としそうになる。

 

 稀代の三冠ウマ娘であるミスターシービーも、職員室に呼び出されれば拒否反応を示す程度には平凡な女子高生である。それも今回は一介の教師などではなく学園のトップに立つ理事長から直々に話があると言うのだから、悲鳴の一つも出るというもの。嫌そうな顔を隠しようもなかった。

 

「私はちょっと足がアレだし、ここで安静にしてるってことで……」

「何言っとるんだ。ギプスがとれたのを良いことに昨日も今日も学園中歩き回っとったじゃないか」

「本当に私も行かなきゃダメ?」

「当たり前だろう。君の進路の話なんだから」

「進路かあ。なんか三者面談みたいで嫌だなあ」

「まあその表現はあながち間違いじゃないな。私は保護者ではなく教師側だがね」

「尚更やだー」

 

 文句を垂れながらも、今回は吉田が折れてくれないと悟ったシービーは重い腰を上げた。吉田の後に続いてトレーナー室を出て行く。

 

 机に置かれた一眼レフカメラの液晶画面は、シービーが消し忘れたためにまだ光っていた。

 そこには今日撮ったカツラギエースの走る姿が映されている。

 

 かつての有馬記念で三強と呼ばれたうちの一人、格段に血統が弱く才能に恵まれなかったカツラギエースは、しかし誰よりも努力家だった。どれだけ辛酸を舐めても、本番のG1レースではシービーに勝てないという不名誉な評価をされても、決して諦めることはなかった。

 

 静止している写真の中でも彼女の目は鋭く、闘志に燃えている。それがシービーの心胆を寒からしめるのであった。

 



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四話:それぞれの煩悶

 

 

 

 吉田とミスターシービーが理事長室に入ると、すでに会議特有の物々しい雰囲気が漂っていた。

 上座に座るトレセン学園理事長秋川やよいに着席を促されてから、二人は理事長と向かい合う形でソファに腰かけた。トレーナー室にあるものとは明らかに違う高級な質感に「おお」とシービーは思わず小声で感嘆する。

 

 本校舎の最も高い場所にあり、大きな窓からはトレセン学園が誇る雄大なターフと、そこを走るウマ娘たちの姿を一望できる理事長室。そこには今、錚々たる面子が揃っている。

 理事長である秋川やよいと、その秘書の駿川たづなは言わずもながな。数々の実績を残してきた最古参トレーナーの吉田と、彼の担当ウマ娘であり三冠バのミスターシービー。

 さらには生徒会長のシンボリルドルフと、彼女が所属する現No.1チーム・リギルの元トレーナーである老婆までもが鎮座していた。

 

「東条、なんで君が」

 

 吉田はシンボリルドルフの横にいる老婆に声をかけた。

 彼女の名を東條銀という。東条家と言えば桐生院家にも引けをとらないウマ娘育成におけるトレーナー業の名門であり、本家の人間が今までに何名もURA幹部に就任している実績を誇る。

 そんな中で東条銀は「ウマ娘を育てる以上に価値あることは無い」として、家の者たちにURAの管理職に行くよう促されても頑なにトレーナー業を続けた。

 吉田とは同期の桜。すでに定年は超えている。ジャージ姿であろうと、最強のチームであるリギルの基盤を作り上げた老体からは吉田に勝るとも劣らない貫禄が滲み出ていた。

 

「この子の付き添いさね。うちの孫娘はまだ自分の仕事で手一杯なもんで、あたしが駆り出されたってわけさ」

 

 銀に『この子』と呼ばれたシンボリルドルフが畏まって吉田に頭を下げる。

 孫娘というのは東条銀の後継としてリギルを引き継いだ東条ハナのことだ。言わずもがな東条家の一員であり、難関として知られる国家資格、中央トレーナーライセンスの筆記試験において満点を叩き出した才媛として名高い。なおかつ試験の評価に驕らない気概の持ち主で、祖母である銀の元でサブトレーナーとして働き、長い下積み期間を経てようやく正式にリギルのトレーナーの座に就いた。

 十人以上のウマ娘の世話を一手に引き受けるその管理能力は素晴らしいの一言に尽きるが、本人に面と向かってそう褒め称えれば「祖母にはまだ及びません」と真摯かつ冷ややかな答えが返ってくるだろう。

 

「すみません、吉田トレーナー。理事長がミスターシービーのことについてあなたと話をされると聞き及びまして、不躾ながら私も意見を交換したいと思い、同席させていただく運びとなりました。急なことでしたので、正確な連絡が行き届かなかったことについては何卒ご容赦ください」

 

 シンボリルドルフが滔々と淀みなく、まるで事前にカンペでも用意していたかのように述べる。吉田は「そうかい」と頷いた。

 見ると秋川やよい理事長は笑顔を浮かべながら『許可!』と書かれた扇子を広げて頷いている。この場を取り仕切る彼女が他者の同席を許している以上、吉田からも特に何か言うことは無かった。

 

 ちらりとルドルフの視線が横に流れ、吉田の隣にいるシービーに向く。それに気付いたシービーはにこやかに笑ってひらひらと手を振った。

 ルドルフはなんと返したら良いのか分からなかったようだった。シービーと同じように手を上げようとして、あまり馴れ合う場でも無いと思ったのか咄嗟に引っ込め、ただ曖昧に微笑んだ。

 

 余裕を持った対応をしたように見えたシービーだったがその実、彼女も動揺していた。密かに吉田のジャケットの裾を引っ張って「なんでルドルフがいるの!」と言外に抗議する。無論、そんな抗議は吉田に黙殺されてしまったが。

 

 やや気まずい空気の中で、秋川理事長だけは学園が誇る二人の三冠ウマ娘を前にしてにこにこと柔和な笑顔を浮かべている。

 

 秋川理事長の話はシンプルだった。ミスターシービーにURAファイルズに出て欲しいというものだ。シンボリルドルフは既に出走を決定していることが吉田とシービーに伝えられる。

 

 三冠ウマ娘対決。四度目ともなり多少マンネリ気味ではあるが、運営側はどうしてもそれをURAファイナルズの売りにしたいらしい。すでに広報部の方ではルドルフとシービーを前面に押し出した広告を作成し始めているとのことだ。「まだこちらは出走を決めてもいないのにそれはどうなんだ」と吉田。

 秋川理事長もその意見に大いに賛同しながら、しかしURA本部の意向だから無碍には出来ないと言う。どれだけ大きな組織でも、上が幅を利かせて勝手を通すところは変わらない。

 

「さしあたって吉田トレーナーとミスターシービーさんには正式な担当契約を結んでもらいたいのですが、いかがでしょうか」

 

 秋川理事長に代わって概要を説明していた駿川たづなが問いかける。

 吉田は何も言わずにシービーの答えを待つ。

 トレセン学園はウマ娘第一主義だ。トレーナーが口を出すことはあれど、出走するレースを選ぶのも誰と担当契約を結ぶのかも、最終的な決定権はウマ娘本人に委ねられている。

 

 僅かな沈黙の後、シービーは変わらず余裕をもった笑顔を浮かべて答えた。

 

「すみません。まだなんとも言えないんです。足が万全じゃない状態で、ちゃんとした復帰の目処も立っていないですし。そんな中で契約をしたらトレーナー……吉田さんにも迷惑をかけてしまうと思いますから」

 

 つまるところ返事は保留ということだ。

 予想していた回答だったのだろう。秋川理事長もたづな秘書も、重ねて出走登録を迫ることはなかった。吉田と東条銀の二人も難しい顔をしてはいるものの口は閉ざしている。

 

 ただ一人、シンボリルドルフが挙手をして理事長に発言の許可をとった。

 

「シービー、私からもお願いする。どうかURAファイルズに出てくれないか」

 

 そう言って頭を下げるルドルフ。固い声色には学園を盛り立てていくことを誓った生徒会長としての責務が滲んでいる。

 

「出場して、私とまた走って欲しい。本大会は今まで注目度の低かったダートや短距離レースも脚光を浴びる絶好の機会だ。必ず成功させなくてはいけない。君の圧倒的な末脚が必要なんだ」

「ルドルフは大会を盛り上げるために走るの? それってなんだか面白くないね」

 

 シービーはそっぽを向き、鼻で笑うように言った。

 

「面白いかどうかという次元の話じゃない。私たちは先駆者として、後に続く者たちに追うべき背中を見せなければいけないと、そうは思わないかい」

「思わない」

「シービー……」

 

 高い理想をにべもなく否定されたルドルフの口が微かにわななく。同志に裏切られたような屈辱を受けながらも、決して怒りを露わにしないのは彼女の生来の優しさであり、皇帝や生徒会長といった肩書きから来る自負心の為だった。

 

「……ルドルフはさ、誰のためにレースやってる?」

 

 シービーが流し目を送る。

 

「無論、皆のために」

「そう……まあそう言うよね、ルドルフなら。でもごめん。私にはさっぱり分からないよ、その感覚」

「っ……!別に私は、理解を強要したりは……!」

 

 思わず立ち上がりそうになったルドルフの肩に、東条銀が手を置く。二人の若いウマ娘のやり取りを静観していた老婆はただ一言「落ち着きな」と言い、腰を浮かせかけていたルドルフを座らせた。

 

 本来の議題から逸れてヒートアップしそうになっていた自分を鑑みて、ルドルフは肩身が狭そうにしながら「申し訳ありませんでした」と周りに謝った。

 そのしおらしい姿は、いつも彼女が表に見せている凛々しい皇帝の印象とはまるで違う。他生徒が見れば驚くべき光景だろう。事実、ここ一年においてどれだけ理不尽な要件に振り回されようと、ルドルフが今のように取り乱しかけたことは無かった。

 

 そうやってルドルフが頭を下げる一方で、シービーも気まずそうに目を逸らしたままだった。行き場を失った視線がどこを見るでもなく宙を泳ぐ。

 それに助け舟を出したのは吉田だった。

 

「まあ理事長。シービーもこう言っていますし、もう暫く猶予を貰えませんか。当面は治療に専念したいということもありますから。病院からはあと一ヶ月もせん内に走れるようになるだろうと言われているので、これからのことを考えるのは完治を待ってからでも遅くはないと思いますが」

 

 落ち着いた吉田の説得に秋川理事長も納得し、URAの理事会にもそのように掛け合ってみるとのことで、話はひと段落した。学園内の有力者が集まった物々しい会議の割には実にあっさりとした幕引きであった。元々、URAから催促されたというだけで秋川理事長本人としては療養中のシービーにあまり無理強いをしたくはなかったのだろう。

 

「秋川理事長。URAの方には私からも口添えしておくよ。理事会のジジイどもは頭が固いからね」

「感謝! 恩に着ます、東条トレーナー!」

 

 東条銀は家の伝手で一般のトレーナーよりもずっとURAと深い繋がりがある。年若い秋川理事長だけでは説得に何かと苦労するだろうと考えての心遣いだった。

 自分たちでは決して頭の上がらない重役たちをつかまえてのジジイ呼ばわりに、理事長の側に控えている駿川たづなは冷や汗を流していたが。

 

 ふと、東条が吉田に視線を向けた。学生時代から何十年と競い続けてきた二人の目と目が合う。東条はさりげなく口元に手をやってジェスチャーを送る。今夜一杯付き合えという合図だ。吉田は怪訝そうにしながらも小さく頷いた。

 

 それから間も無く吉田とシービーは退室していった。去り際、ルドルフは何事かを言おうとして、しかし何も言えず、最後までシービーと目を合わせることもなかった。

 

 その後、URAへの報告に関して理事長と東条銀が二言三言話し合い、ルドルフと東条の二人も理事長室をあとにした。

 廊下を歩いている間も悩ましげな顔をしている教え子の様子を横目に見ながら、東条は慈母のように微笑んだ。

 

「気にすることは無いよ、ルドルフ。色々思うことはあるだろうけど、あんたはこれまで通り立派にやれば良い」

「……はい、ありがとうございます。トレーナー」

「元トレーナーだよ」

「すみません。癖が未だに抜けなくて」

 

 他愛もないやり取りをしてようやく強張っていた気が抜けたのか、ルドルフは苦笑した。それでもまだ彼女の憂いは晴れていないようだった。

 

(仕方のない子だよ、全く)

 

 東条銀は心の中で呟きつつ、今晩の吉田とのサシ飲みについて考えを巡らせていた。

 

 

 

 

 理事長での一件の後、シンボリルドルフは生徒会室に顔を出して平然と仕事をこなし始めた。副会長のエアグルーヴがお疲れではないかと心配してきたが、いつものように笑って流し、隙のない生徒会長として振る舞う。

 

『ルドルフは誰のためにレースやってる?』

 

 筆を動かしながらも、ルドルフの脳裏には先ほどのシービーとの会話か繰り返されていた。

 皆のため、と常に用意している言葉が口をついて出た。それが偽らざる本心であると改めて自己認識する傍ら、本当にそれだけなのかと問いかけてくる自分がいる。

 

 正直に言うと、分からないというのが本音だった。

 どうすれば矛盾や過不足なく心の内を言葉に出来るのか、ルドルフには分からなかった。

 

 半ば無意識にシービーが納得出来るだろう台詞を捻り出そうとして「バカなことを」と自分を叱る。

 上辺だけを整えた偽りの言葉に人を納得させる力など宿らない。これまで生徒会長として獅子奮迅の活躍をしてきたルドルフは、学生の身でありながらそのことを深く理解していた。

 しかし、ならば彼女の問いにどう答えれば良かったのだろう。そんな堂々巡りの問答がいつまで経っても頭から抜けない。

 

『最後に自分のためだけに走ったのはいつなの?』

 

 以前、マルゼンスキーに言われたことまでもが思い出される。あの質問にも答えることは出来なかった。今も納得のいく解答は出せていない。そもそも自分のために走る必要があるのか、と皇帝としてのシンボリルドルフが問い詰める。

 

 全てのウマ娘のために。

 その理想だけを追えばいいではないかと。

 

 そんな自問が浮かび、ルドルフは呆れたように鼻で笑った。

 

(だとしたら可笑しな話だ。今日の私はなぜ、あんなことをシービーに言ったのだろう。後輩を導く義務が我々にはあるなどと。まるで彼女が走らないことを責めているみたいじゃないか。強要するつもりなんてなかったのに、なぜ……)

 

 つい先程の理事長室でのことを思いながら、ルドルフは鬱々とした気分になる。最初は生徒会長らしく、毅然とした態度でシービーと理事長の間に立つつもりで参加したにも関わらず、どうしてああなったのか。もっと言いようがあっただろうかと後悔せずにはいられない。

 

 ルドルフは書類仕事を黙々とこなしながらもシービーについて考えを巡らせる。

 

 ミスターシービーが三冠を獲った年、彼女より一年遅くデビューしたルドルフはまだジュニアクラスにいた。

 決して誰にも漏らしたことなど無いが、当時のルドルフには常に緊張が付き纏っていた。

 

 選抜レース以前から引く手数多だったルドルフは結局、専属トレーナーを持たず最強チームと名高いリギルに所属することを決めた。ウマ娘たちの象徴となるべくクラシック三冠を当面の目標として掲げていたルドルフにとって、間違いなくそれが一番の近道だった。

 そう。デビューする前、ルドルフは既に三冠制覇を各メディアに大々的に宣言していたのだ。それも最終目標ではなく、あくまで最低限の目標。通過点として。

 もう後には引き返せなかった。ルドルフは自分の才能と努力を正しく評価し自信を持っていたが、その反面で、やはり十数年も三冠を達成した者がいないという事実が目の前に立ち塞がっていた。数多のウマ娘を阻んできた絶壁。その高さはこれまでのレース史が十分過ぎるほどに示している。

 しかし、だからこそルドルフはそれを乗り越えなければならなかった。我々は前に進むことが出来るのだと、手の届かぬ夢など無いのだと証明するために。

 三冠を獲り、シンザンの五冠すら追い越して未来を切り拓く。それこそがシンボリルドルフが己に課した責務である。

 

 ルドルフは思い返す。

 ここまで来るのも決して楽な道ではなかった。仰々しく大口を叩いておいて達成出来なかったら、自分は今後どうなるのか。夢は潰えるのか。そんな不安ばかりが募る時期もあった。特にクラシックを控えたジュニア期などは満足に食事が喉を通らない日もあったほどだ。

 

 私は本当になれるのだろうか。ずっと現れなかった三冠ウマ娘に。

 

 心の奥底に抱えていた不安は、しかし、1人のウマ娘の前に払拭されることとなった。三人目の三冠ウマ娘の称号はシンボリルドルフではなく、ミスターシービーという同年代のウマ娘の手に渡った。

 

 ———届いた。三冠に届いた。

 

 当時、波乱の菊花賞を手に汗握る思いで見守っていたルドルフは、一着でゴールし高々と拳を突き上げるシービーに目を奪われた。

 

 ———自分だって。

 

 熱い思いが込み上げるのと同時に、それまで感じていた不安や重圧は夢か幻のように霧散してしまった。どこまでも自由な掟破りのウマ娘が、前を塞いでいた壁をいとも容易く打ち砕き、その先に続く道を示してみせたのだ。

 

 ルドルフは思い返す。

 あの時、自分が掲げる理想の一端を、他でも無いミスターシービーに見たのだと。クラシック三冠をかけた戦いの中で確かに、私はあの飄々とした黒鹿毛の背中を追っていたのだと。彼女の不思議なカリスマ性に惹かれたのは、決して自分だけではないはずだ。

 

(やはり今のレース界にはシービーの存在が必要不可欠だ。今日は迂闊だったが、私の意思は変わらない。また日を改め、今度は彼女と面と向かい合う形で……)

 

「……長。会長」

 

 横からかけられた声に、ルドルフは思考の海から抜け出た。見るとエアグルーヴが心配そうな表情で側に立っていた。

 

「こちらに記入漏れがあります。それと、これは誤字だと思うのですが……」

 

 さっき終わらせた書類がいくつか手元に戻ってくる。普段なら絶対にしないような凡ミスばかりだ。ルドルフは羞恥に頬を染め、謝りつつそれを受け取った。

 

「会長、お疲れのようでしたら今日はもう休まれては」

「いいや。大丈夫だとも。少し考え事をしてしまっていてね。けれどある程度の結論は出た。今からはちゃんと集中して、机の上の仕事くらいは片付けて帰るさ」

 

 エアグルーヴは多忙を極めるルドルフのことを普段から何かと心配している。そんな彼女を安心させるよう笑いかけ、ルドルフは再び書類に向き合った。

 頬を叩いて気持ちを切り替える。仕事をこなす手際にもう迷いはない。生徒会長としてのシンボリルドルフは今日も快調だった。

 

 

 

 

 都心の街中。とあるビルの上階にひっそりと店を構えているバーがある。吉田がその扉を開くと、カウンター席に座る一人の先客がこちらを見てグラスを掲げた。

 

「遅くなってすまんな東条。次の講演会の資料をまとめていたもんだから」

「構わないよ。一人でちびちび楽しんでいたさ」

 

 吉田が東条銀の隣に腰掛けると、注文するよりも早く一杯のカクテルが出された。行きつけのバーのマスターは、吉田が一杯目に必ずソルティドッグを頼むことを知っている。

 塩がまぶされたグラスの縁に口をつけてカクテルを飲む。そうして一息ついたところで吉田は東条に話しかけた。

 

「珍しいな。最近では東条から飲みに誘うことなんて無かったのに」

「なに、気が向いただけさ。ハナにリギルを託してから私も色々と思うところがあってね」

「不安かい」

「まさか。あれでも私が出来る限り鍛え込んだんだ。あんたんとこのチームにだって負けやしないさね」

 

 吉田と東条のチームは常に頂点をめぐり競い合っていた。吉田の後を継いだ男は普段の言動こそちゃらんぽらんで金にもだらしない所があるが、ウマ娘を想う気持ちは人一倍強い。

 突飛な思いつきが多く、ツイスターゲームを練習メニューに組み込んだり合宿メニューでトライアスロンを提案したりと、昔ながらのやり方を極めてきた吉田とは対極の育成方針。

 だからこそ彼なら新しい時代を牽引し、チームを任せられると吉田は信じている。

 

 自分のチームに対する想いは東条銀も同じなのだろう。自慢げに語る彼女は「ただ……」と続ける。

 

「心配があるとすればルドルフだね。あの子は手がかからなさすぎる」

 

 リギルが入部希望の新入生に課すレース形式の試験をシンボリルドルフは難なく突破した。当時のことについて東条銀は述べる。あの時点でルドルフの走りは既に完成していたと。

 

「教えることが無いし、仮にあったとしてもすぐにものにしちまう。トレーナー泣かせな子だよ」

「いいじゃないか。才能があるに越したことはない」

「どうだかな。何でも出来る分、溜め込むこともあると思うんだがね。ハナの奴が根っからの管理したがりなんで、昔は折り合いも良くなかった。ルドルフが入った当初は私も苦労させられたもんさ」

 

 東条がため息混じりに言う。文句のようにも聞こえるが、その口調には孫娘や担当したウマ娘への慈しみが込められていた。

 

「あんたんとこのトレーナーはどうなんだい。ハナの同期らしいが、仲が悪いのかハナの奴に聞いてもあまり答えないんだ」

「そうなのか? こっちの方では仲が悪いといった話は聞いていないが。むしろ君のお孫さんを尊敬しているようだったよ。あの徹底主義は自分には真似できないってね」

「へえ。それハナに伝えとくよ。陰で喜びそうだ」

「すれ違わんように、二人で話す機会があればいいんだがな。今度この店でも紹介してみるか。俺たちのように常連になるかも」

「いいかもしれないねぇ」

 

 二人の老人は静かに語り合いながら酒を酌み交わす。

 学園のこと、チームのこと、自分たちが育てたトレーナーのこと。何十年も積もった経験はいくら掘り返しても尽きることがない。

 そうして話題は自らの過去のことに流れていった。

 

「うちの若造が言うんだ。俺は最高のウマ娘を育ててみせる、とね」

 

 何杯目かになるカクテルを飲みながら吉田が言う。酔いが回ってきたのか顔が少し赤い。

 

「あんたと随分似た口じゃないか。専門学校の頃、三冠ウマ娘三冠ウマ娘って、あんたがしょっちゅう騒いでいたのを思い出すよ」

「トレーナーなんて最初は皆そんなものだろう。俺も若かった。今ではすっかり丸くなったがね」

「けっ、どこが。チームを引き払ったと思ったらちゃっかり他のウマ娘を捕まえて、しかも念願の三冠まで獲った男がよく言うよ」

 

 呆れたように言う東条に、吉田は照れ隠しに笑いながら頭を掻く。

 

「はは、いやあ、彼女には三冠を獲らせようなんて思っていたわけではないんだ。ただ学園のそこら中で楽しそうに走る姿に目を奪われてね。気付いたら向こうから契約を持ちかけられていた」

 

 当時のことを懐かしむ吉田の声。

 三年前、走るために生まれたような子だと、ミスターシービーを初めに見た吉田はそう思った。ウマ娘というのはそれ自体が走ることに特化した身体をしているわけだが、多くのウマ娘を見てきた吉田をして、ミスターシービーの走りは特別に見えた。

 

 最強のウマ娘を育てる最高のトレーナーになる。若かりし頃、その意気込みを胸にトレセン学園にやって来た吉田も数多くいるトレーナーと同様にウマ娘との関係に悩み、己の理想との違いに葛藤し続けてきた。

 大抵のトレーナーは年月を経れば経るほど単純な勝利ではなく、ウマ娘の幸せを願うようになる。吉田もその例に漏れなかった。三冠制覇を夢見るあまり傷付けてしまったウマ娘もいる。そんな過去の反省があって、老練の吉田はシービーを見守ることに徹していた。

 

「我儘で奔放な子だよ。大人しく指示に従ってくれることもあれば、晴れてるから山に行きたいとか言って聞かないこともあった。そっちのシンボリルドルフとは違った意味でトレーナー泣かせだったな」

「知ってるよ。有名だからね、あんたらは。ルドルフが「シービーはあれでレースに間に合うのでしょうか」って何度も心配して聞きに来たよ」

「俺だって心配はしたさ。でもそれで勝ってしまうんだ。びっくりするよ本当に」

 

 吉田が何気なく自分の懐に手を入れる。取り出したのはラミネート加工された一枚の写真だった。彼の趣味であるカメラで撮ったお気に入りの一枚なのだろう。写真を見つめる彼の顔は穏やかだった。

 

「あの子はなんと言うか、他とは違う。比べにくいのさ。だから見極めづらい」

 

 吉田の手元の写真をちらりと見ながら、東条は目を細める。酒が入っているにも関わらず、シワの寄った目元は真実を見透かすように鋭利だった。

 

「で、どうなんだい。そのシービーの調子は」

 

 聞かれて、吉田は酒を多めに口に含んだ。アルコールで、喉の奥まで出かかった感情を押し流すように。

 

「悪くはないよ。回復も順調だ。今日も理事長室までエレベーターを使わず階段で上ったくらいだしな」

「あの子のエレベーター嫌いは相変わらずかい」

「性分だな。相手の出方を見てじっと待つのが耐えられんらしい。思えばあいつにゲート練習をさせるのが一番難しかったなあ」

 

 今のレース界隈では先行策が主流だ。スタミナを保持しつつ好位置を争う。先行策が戦術として有効であることはシンボリルドルフやカツラギエースといった強者たちが証明している。

 そんな中でシービーが最後方からの追い込み一本でやってきたのにはそれなりの理由がある。

 スタートが上手いか下手か。ゲートが開くと同時に飛び出して良いポジションを確保できるか。その点においてシービーは下手の部類だった。いわゆるゲート難である。

 ジュニア期、出遅れが目立ったシービーだったが、天性の末脚によって勝利を拾っている。吉田はそれを逆手に取り、馬群での争いを避けて後半一気にまくり上げる追い込み戦術の可能性をシービーに見た。

 その成果がクラシック三冠であり、その弊害がここ最近の黒星であることは言うまでも無い。ルドルフらを始めとした、シニアに入って熟した先行ウマ娘たちに対して、最終直線での伸びが要となるシービーの追い込みでは今一歩のところで及ばないのだ。

 

 ただし、今は戦術やスタートの良し悪しがどうこう以前に、シービーに走る意欲が残っているかという問題があるわけだが。

 

「あんたは、シービーに走れとは言ってないんだね」

 

 東条は確信めいた口調で聞いてきた。

 

「今が選手としての山場だろう。今日の様子じゃ本当に仮契約以外のことはしていないみたいじゃないか。早いうちに色々と話し合っておいたらどうなんだい」

「人に指図されたところで、はいそうですかと言いなりになる子でもないからな。それに俺はあくまで、あの子の意思を汲むに過ぎんよ」

 

 どこか諦念を滲ませて言う吉田に、東条は面白くないとでも言うように鼻を鳴らした。

 

「あんたいつもそうだ」

「ん?」

「意思を汲むと言えば聞こえは良いが、肝心なところで相手の出方を見て顔色伺って……そういう態度が相手を一番困らせる」

 

 東条が酒を飲み干し、タバコを咥えて火をつける。おかわりを伺うマスターに手を振って今日はもう十分だと伝える。

 

「本当にあの子のことが好きなら強引に抱きしめてやるくらいで良いんだよ。愛してやる気が無いなら、一切合切手を引くんだね」

 

 落ち着いた内装の店内に煙がくゆる。

 火を分けてもらった吉田は何を言い返すわけでもなく俯いて、東条の言葉を噛み締めるようにタバコを吸う。

 いつもより辛い煙が肺を満たした。

 

 

 



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五話:とあるウマ娘の日記(一部抜粋)

 

 

 

【2月×日】

トレセン学園から合格通知書が届いた。

今でも信じられない。お父さんとお母さんもすごく喜んでくれた。

 

お母さんがお祝いだって張り切って夕飯を作りすぎちゃったけど残さず全部食べられた。

 

トレセン学園では寮に入るから、入学したらしばらく家のご飯は食べられない。今のうちにたくさん食べておきたい。

 

 

 

【4月〇日】

制服を着ると自然と気持ちが引き締まる。これからは私も中央のトレセン学園の生徒なんだと自覚する。

 

しかし私と同じ新入生だけでもすごい数だ。中学の比じゃない。

皐月賞や日本ダービーで勝てるのがこの中のたった一人だという事実を初めて実感した気がする。

 

大丈夫。気持ちじゃ絶対に負けない。

 

走って勝って、今までレースオタクとか言ってバカにしてきた連中を見返して、私が笑ってやるんだ。

 

 

 

【4月☆日】

同期にとんでもない奴がいる。ミスターシービーっていうらしい。

選抜レースで一緒に走ったけど手も足も出なかった。才能ってやつ? けっこういいとこの出らしい。

一着でたくさんのトレーナーからスカウトを受けていたけど全部断ったみたいだ。なんかムカつく。

 

それで今度は二着だった私の方にスカウトが来たけど、なんか「この子でもいいや」って感じで妥協された気がして、全部断ってしまった。

 

どうしよう。入学早々ヤバいかも。

 

 

 

【4月*日】

チームに入ることになった。トレーナーは黒沼さんっていうグラサンをかけたムキムキの怖そうな男の人。

 

つーか怖かった。入部試験でいきなり3000メートル走らされた。しかも実戦形式。そんな長距離のレース走ったことないからペースなんて分かんないし、皆バテてた。途中でリタイアしちゃった子もいる。私は根性で最後まで走り切った。

 

死ぬかもって思ったけど、見込みがあるって言われたのは嬉しかった。これから頑張ろう。

 

 

 

【9月☆日】

デビュー戦勝てた!

すっごく嬉しい。坂路トレーニングとかその後で自主練するのとか滅茶苦茶きつかったけど、全部報われた気分。

しかも8バ身差の圧勝。観客や司会だけじゃなくて、いつも無表情な黒沼トレーナーまでびっくりしてた。どうだ見たか。いや、実は私もびっくり。

 

これって私にも才能があるってことだよね。努力した分だけ結果がついて来るって、そういうことだと思う。

良かった。お父さんとお母さんにも良い報告が出来る。

 

 

 

【11月@日】

今日のレースは最悪だった。13着。思い出したくもない。

 

当たり前だけど、レースの世界は甘くないんだ。皆勝ちたいんだから、皆努力してる。

 

やっぱり私の才能は平凡みたい。トレーナーにもそう言われた。

だから誰よりも必死になって努力を積み重ねなきゃならないんだ。埋もれないために。

 

そろそろジュニア期が終わってクラシックに入る。ホープフルは回避するつもり。次こそは慎重に、必ず勝って、ずっと目標にしている皐月賞への切符を手に入れるんだ。

 

 

 

【4月+日】

皐月賞で走った。勝ったのはミスターシービー。私は11着だった。

 

シービーは強敵だからって、トレーナーと一緒に過去のレース映像を見て対策を練ったけど、それでもあの暴力的な末脚には勝てなかった。ビビッて伸びきれなかった自分が憎くて堪らない。

 

出遅れるくせになんで追いつけるんだろう。不良バ場をものともしないし。しかも走り終わった後はいつも清々しそうに笑ってるし。

 

やっぱり才能か。ムカつく。

 

 

 

【5月〇日】

今日はトレーナーに怒られた。勝手に自主練習してたことがバレたのと、あとは変な走り方してたから。

 

どっちも私が悪い。うちのチームの練習は凄く厳しいから下手に自主練してもオーバーワークになるだけ。分かってはいても日本ダービーが控えてるんだって思ったら居ても立ってもいられなかった。

 

でも走り方については、言い訳のしようもない。て言うか忘れたい。トレーナーも忘れてくれないかな。

端的に書くとシービーの真似をしてた。

追い込みでごぼう抜きするあれを真似たくて色々やってみたけど、てんで駄目。最低のタイムしか出なかった。

 

トレーナーにも言われたけど、そもそも向いてないんだ。私はやっぱり先行で堅実に戦わなきゃいけない。

大丈夫。NHK杯では勝てたじゃないか。自分を見失うな。

 

 

 

【5月@'日】

また負けた。また負けた! ふざけんな!

これでシービーは二冠ウマ娘だ。くそっ、かっこいい。ちくしょう。

 

世間はもうシービーの話題で持ちきりだ。誰も彼も、あいつが三冠を獲ることを期待している。そりゃそうだ。あんなに強い奴そうそう出てこない。ダービーポジションをガン無視して勝てるなんて夢にも思わなかった。

 

これから夏になる。七月には長期合宿が待っている。それを過ぎたらもうクラシック期も折り返しだ。

憧れの一年が終わってしまう。このまま燻っていたくない。

 

世間が期待してるからって勝ちを譲る気は毛頭ない。シービーは十中八九、菊花賞トライアルのどれかに出走してくる。それに合わせて私も出走できるようトレーナーに相談しよう。

 

勝ちたい。

 

 

 

【7月〇'日】

合宿だからってわざわざ海に来る必要ある?って思ってたけど砂浜での走り込みとか海で泳ぐのとか、やってみるとけっこう効果がある気がする。

心なしか練習に身が入りやすい。日常とは違う環境にいるからだろうか。毎日新鮮な気分だ。

あとやっぱり楽しい。黒沼トレーナー、ビーチバレーめちゃくちゃ上手いし。

 

それはそうと、昨日シービーが吉田トレーナーと一緒に帰ってしまったらしい。体調を崩したから実家で療養するって話を又聞きした。もう合宿には復帰しないかもしれない。

 

夏合宿ではどのウマ娘も実力が一回りか二回りは成長するってトレーナーが言っていた。

まあシービーくらいの才能があれば関係ないかもしれないけど。

大丈夫だろうか。

 

 

 

【10月△日】

京都新聞杯でついにシービーに勝った。でも正直なところ納得はしていない。

 

夏の間中、シービーは夏風邪を拗らせていたらしい。それで結局、合宿に戻ってくることもなかった。

この前のセントライト記念は回避しての出走だったけど、それでも万全じゃなかった筈だ。これを勝ち星に数えるのはちょっと違う気がする。

 

次は菊花賞だ。初めて本番で走る3000メートル。

そういえば入学したての頃、チームの試験で走らされたのも同じ距離だった。今じゃ調整のために一日に何本も走っている。

 

大人になるにつれて時間が早く過ぎていくってお父さんが言ってた。その感じ、今はちょっと分かるかも。

 

 

 

【11月€日】

20着。シービーが三冠を獲った。

あんな大歓声はじめて聞いた。

 

あーあ。なにやってんだろ、私。

 

 

 

【11月N日】

今日は久しぶりの全休。なんだか走りにキレがなくて、トレーナーから心配されて特別に休みを貰ってしまった。チームの皆んなにも迷惑をかけた。

 

不貞腐れている場合じゃない。クラシック三冠が私の最終目標ってわけでもないんだ。

 

やっぱり走るのは大好き。

その気持ちだけは誰にも負けないって、今でも胸を張って言える。

 

だから、うじうじするのは今日でおしまいだ。きちんとシニア期の計画を立ててトレーニングに打ち込んでいかなきゃ。

 

それはそうと、先日のジャパンカップにはシービーが出なかった。理由はよく分からない。吉田トレーナーはインタビューで「万が一を考慮して」とか言ってたけど怪我でも脚部不安でもないのに慎重すぎじゃないか。外部からもけっこう批判されてるし。

 

もしくは、またシービーの気分任せでこうなったのかも。ジャパンカップを走る気分じゃないとか、そういうの。あいつならそれもあり得そうなのがヤバい。主人公サマの特権ってか。

 

駄目だ。またいじけた感じの文章になってる。

こんなのチームの後輩たちにはバレたくない。気を付けよう。

 

 

 

【1月1日】

チームの皆で初詣に行ってきた。おみくじは末吉。

後輩の一人が大吉出るまで何度も引いていたけど、あれじゃもう運勢とか関係ない気がする。嬉しそうだったから良いけど。

 

実家に帰る子たちの方が多いけど今年の私は居残り組だ。少しでもターフから離れるのが惜しい。

お父さんとお母さんには悪いけれどシニア期はとことん詰めたい。やれるとこまでやる。

 

そういえばシービーは有マ記念も回避していた。せっかく三冠を獲ってファン投票も集まったはずなのに、何を考えているんだろう。

 

 

 

【4月○日】

新入生がわんさか入ってきた。どの子も見るからに緊張している。入学した時は私も同じ感じだったのかなってしみじみ思う。

 

うちのチームにもたくさんの入部志願者がきて、黒沼トレーナーは忙しそうにしていた。

 

私も忙しかった。たくさんの子からサインをねだられる。全然慣れてないからただの署名みたいになっちゃったけど良かったのだろうか。

 

その中で私に憧れてチームに入ったのだと言う子がいた。GⅠでは一度も勝ってないし、シービーみたいに華々しい戦績も残せていないのに、私を見るその子の目はとてもキラキラしていた。

なんか尚更負けられなくなった気がする。先輩としての重圧だ。

 

正直、ちょっと嬉しかった。

 

 

 

【4月?日】

シービーが脚部不安で長期休養に入るって話がニュースで流れた。

雑誌なんかでも記事になっている。ジャパンカップと有マ記念を走らなかったのもそれが理由か。

 

あいつは目の上のたんこぶだけど、目標でもある。早く良くなって復帰してほしい。じゃないと張り合いが無い。

 

お見舞いは……まあ私が行かなくても他が放っておかないだろうから、別にいいか。

 

 

 

【5月×日】

シービーが吉田トレーナーとの契約を解除したらしい。学園中その話で持ちきりだ。

 

あの二人すごく仲が良かったはずだけど何があったんだろう。やっぱりシービーの足が原因なのか。けど、ただの脚部不安で契約解除までいく? よく分からない。

 

廊下を歩いていたらシービーとすれ違ったので聞いてみたが、はぐらさかれてしまった。いつも通り何考えるのか分からない笑顔をしてたけど、どこかあいつらしくないと言うか、覇気ってやつが無かったように感じた。

 

いや、他人の心配をしている場合じゃない。私は私で頑張らなきゃいけないんだ。

 

それにきっとシービーなら大丈夫。

吉田トレーナーと契約を解除した途端にスカウトされまくってるらしいから、足が良くなればすぐにレースにも復帰するだろう。

 

 

 

【6月⚪︎日】

勝ったー!!

ついに、ついにGⅠ初勝利だ!

宝塚記念一着だ!

どうだ見たか、やってやったぞ!

 

ウイニングライブの後、チームの皆と焼肉で祝勝会をした。お金はトレーナーが快く出してくれた。

うちはけっこう大所帯だしウマ娘は基本的に人間よりもたくさん食べるから大丈夫かなって思ったけど、こんな時のために小口で貯金してあるらしい。ほんと、トレーナーには頭が上がらない。

 

でも油断してはいられない。今回の宝塚記念にはシービーが出てないんだ。ベストコンディションのあいつを倒さなきゃ私はきっと満足出来ない。

 

それにもう一人、気になる奴がいる。生徒会長のシンボリルドルフだ。

デビュー前から噂にはなっていたけど、この前クラシック二冠を達成してしまった。しかもこれまで負け無し。

 

皐月賞と日本ダービーは現地観戦に行って実際に見てきたけど、はっきり言って怪物だ。私より一年遅くデビューしたのに、あの先行策の完成度は異常だ。少し自信無くす。久しぶりに才能が羨ましいと思った。

 

このまま行けば必ずシービーとシンボリルドルフの二人とぶつかる日が来る。

それまでに限界まで鍛え込むんだ。一日だって無駄にはできない。

 

ああ、でも今日の焼肉は美味しかったな。

 

 

 

【7月×日】

今年も夏合宿の季節がやってきた。

かなりの猛暑だ。学園のターフで走ってたら絶対にバテる。

 

今回はシービーも来ている。中堅どころのチームに入ったみたい。

しかし脚がまだ本調子じゃないのをいいことに毎日ろくにトレーニングもしないで遊んでいる。あれじゃただのバカンスだ。

 

あいつのとこのチームトレーナーも何でなにも言わないんだろう。

単純にシービーを制御するのを諦めているのか、三冠ウマ娘だからちょっとくらい手を抜いても勝てると思っているのか。

もし後者だったらぶん殴ってやる。

 

こっちは忙しくて仕方ない。

はしゃぐ後輩たちの気を引き締めるのにも一苦労だ。強化合宿に来たのだから普段よりも真剣に取り組まなきゃいけないのに。

 

そんな愚痴をこぼしたら先輩から「去年のあんたも同じようなものだったよ」と言われてしまった。

 

嘘だ。私は去年も真面目だったはずだ。

 

 

 

【10月△日】

毎日王冠で勝った。

格付けはGⅡだけど厳しさはGⅠにも全然劣っていなかった。その中で勝てたのは嬉しい。

 

何より、今日はシービーの復帰戦だった。最終直線で仕掛けてきたシービーを抑え込んでの一着だ。

 

あいつはやっぱり強かった。

上り三ハロンのタイムを見てゾッとした。夏に遊んでいたのが信じられない。

 

けど、それ以上にあの凄まじい追い込みをねじ伏せることができるようになった自分に感動している。時が経てば努力も発言権くらい持つんだ。私の今までのトレーニングは決して無駄じゃなかったんだ。

 

文句なしの勝利だったと思う。トレーナーからもそう言ってもらえた。

でもなぜかスッキリしない部分がある。

言葉じゃ上手く説明できないし、自分の中でも明確な理由が分からない。

ゴールした時もウイニングライブの時も、ずっと心の片隅にモヤモヤがある感じ。

今こうして日記に書いてみても納得のいく答えは出ない。今日のレースで満足できない点があっただろうか。

 

私自身の走りに問題が無いなら、シービーに原因があるのかも。

分からない。

勝ったのは素直に嬉しいのに、変な違和感が残っていて、それが少し気持ち悪い。

 

 

 

【10月#日】

してやられた。秋の天皇賞の盾を取り逃した。最後ものすごい競り合いになって、私は五着になってしまった。

 

一着はシービー。後から何度もレースの映像を見返したけど、シービーは今回もほとんど最終直線に入ったくらいで仕掛けて来ていた。

どうしてあれで届くのか。もう二年以上の付き合いになるけど未だに解せない。本当に理不尽な才能だ。

 

けどこれでハッキリした。毎日王冠の時に感じた違和感はやっぱり私の勘違いだった。

 

次走は前からトレーナーと話し合って決めてある。ジャパンカップだ。去年は不安が強かったので回避したけど今年はガチで行く。

そこで全力のシービーと戦って、絶対に私が勝つんだ。

 

 

 

【11月€日】

京都のレース場まで菊花賞を観に行った。ルドルフが三冠を達成した。

 

二年連続で三冠ウマ娘が出るなんて奇跡みたいだ。

これからのレースの歴史の中で、こんなことがもう一度でも起こり得るのだろうか。今はたぶん、レース史の大きな転換点。その中心に私も立っている。

 

ルドルフはレース後のインタビューで今年のジャパンカップへの出走を表明した。

世間はお祭り騒ぎだ。どこもかしこも三冠ウマ娘対決に熱狂している。

 

それに対して、非公式のレースの予想サイトで私は10番人気。

こうなると逆に燃えてくる。

 

三冠がなんだ。絶対に退かないし、負けないぞ。

 

 

 

【11月*'日】

嬉しいのに、嬉しくない。なんだこれ。おかしい。

 

私はジャパンカップで勝った。

選び抜かれただけあって海外のウマ娘たちは恐ろしいほど強かったけど、それでも勝てた。

日本のウマ娘がジャパンカップの優勝トロフィーを持ち帰れたのは私が初めて。とても名誉なことなんだ。

 

でも、どうしたって納得がいかない。

ルドルフもシービーも腑抜けた走りをしやがった。

 

ルドルフは体調不良だったみたい。

菊花賞から中一週での強行スケジュールが祟ったのかも。それでも十分に強かったけど、選手ならベストコンディションでレースに臨むのが当然じゃないのかって気持ちが治まらない。

 

でも何より許せないのはシービーだ。

あいつ、10着だった。

 

これまでのレースの最終直前で毎回感じてたあの重圧が今日は全く感じられないと思ったら、バ群に沈んでいたらしい。

そのくせライブでもインタビューでもしれっとした顔してるし、意味分かんない。あんなレースで悔しくないのだろうか。

私だったら悔しくて死ぬ。

 

こんなんで勝ったって喜んでいたら、私がバカみたいじゃないか。

ほんと、ふざけんな。

 

 

 

【12月31日】

今年のお正月は実家で過ごしたくて帰ってきた。

やっぱり落ち着く。今日ばかりはトレーニングもせず家でずっとゴロゴロしていた。

こんなに贅沢な時間の使い方したのいつぶりだろう。

 

有マ記念を走って、一つ決心がついた。

 

私はもっと上を目指したい。

ルドルフに負けてしまったけど得たものは大きかった。

自分の才能でドリームトロフィー・シリーズに挑戦できるか迷っていたけど踏ん切りがついた。『そこそこ良いとこまで行った』程度で終わりたくない。

 

そのことをお父さんとお母さんに改まって報告した。

レース選手を長くやっていると怪我の心配もあるし反対されるかもと思っていたけど、二つ返事で賛成してくれた。

 

もう憂いは無い。目標はサマードリームトロフィー。来年の夏まではレースに出ず特訓漬けだ。

地道な練習あるのみ。頑張るぞ。

 

今、外から除夜の鐘の音が聞こえている。もう少しで年越しだ。

この一年はあっという間だったけど、その分濃い一年だった。

どうか来年もいい年になりますように。

 

 

 

【4月+日】

春の天皇賞の観戦に行った。ルドルフが勝った。

 

これでシンザン以来の五冠達成だ。

皆が皆、皇帝と呼んではやし立てている。

噂では凱旋門賞を目標にした海外遠征プランを練っているらしい。どこまでのし上がれば気が済むんだろう。

 

って、私も人のことは言えないか。上を目指せばいつかは再びぶつかる日が来る。それまでに爪を十分研いでおこう。

 

しかし気になるのは五着になったシービーだ。

最後、全然伸びなかった。

 

あいつの走り方ってあんなんだったかな。

追い込みには違いないんだけど、どこか肩肘張ってるって言うか、固い印象を受けた。

一緒のレースで走っている時は気付かなかったけど観客席から見ると一目瞭然だ。

 

正直、今のシービーは見ているのが辛い。

 

 

 

【6月〇日】

トレーニングの小休憩中、シービーがこっちを盗撮していたので少し話した。

 

春からつけていたギプスはとれたみたいだけど、練習は再開していないらしい。いつも暇そうに学園のどっかをぶらついてるって噂を聞く。

 

ひょっとして、もう走る気が無いんじゃないか。

 

凄んで聞いてみたけど、あいつはヘラヘラ笑ってまともに答えなかった。でも私から目を反らしかけたのは見逃さなかった。

 

頭にくる。

後輩やトレーナーが側に居なかったらシービーの胸倉を掴んでいたと思う。

 

あいつのあんなに腑抜けたところなんて、見たくなかったよ。

 

 

 

 

 

 

 新月の夜半。栗東寮の一室で、一人のウマ娘が机に向かいペンを走らせていた。

 部屋の明かりは勉強机に備え付けられた小さなスタンドの光だけ。窓の外にはチラチラと僅かな星が瞬いて見える。

 

 書き終わったのだろう。日記帳を閉じて鍵付きの引き出しにしまい、机の灯りを消す。すぐ側で寝ている同室相手を起こさないよう静かに伸びをしてから布団に潜り込む。

 

 瞼を閉じればすぐに睡魔がやって来る。

 意識が落ちるまでの数分間、微睡みの中でカツラギエースは強く思う。

 次こそは勝ちたいと。

 ただそれだけの思いが彼女の心を焦がしている。

 

 

 そしてどうか、ライバルも同じ気持ちでありますように、と。

 

 

 



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六話:ルドルフとの約束

 

 

 

 騒音の絶えないゲームセンターの一角で、ミスターシービーはゲームに興じていた。一人きり、帽子とサングラスで変装をしてのお忍びでの外出である。

 

 オンライン対戦のできるレーシングゲーム。

 コーナリングでも加減速でも些かのミスさえ無く、シービーはぶっちぎりでゴールした。後ろで見守っていた見物客たちは圧巻のプレイに舌を巻いている。

 

「すげえ、ハイスコアだぜ」

「尻尾があるからウマ娘なんだろうけど、見ない顔だよな。お前知ってる?」

「いや知らん。ユーザーネームもほら、ただのゲストプレイだし」

「トレセン学園の子かなあ。ちょっと声かけてみるか」

「高嶺の花すぎんだろ。止めとけって」

 

 リザルト画面にランキングが表示される。その一番上にシービーの記録が載る。さらに二位から五位までも連続して『guest』の名前とそのタイムが表示されている。今日のうちにシービーが塗り替えたのだ。

 

 色めき立つ周囲の反応とは対照的に、シービーはつまらなそうにため息をついて席を立った。ナンパ目的の男たちが声をかけようかどうか迷っている内にスタスタと歩いて店から出てしまう。

 

 昼間の街中は歩くだけで汗が滲む。梅雨入りが近付き、気候はすでに夏の様相を呈していた。

 他のゲームセンターやカラオケ店、ウマスタグラムで話題になっているお洒落な喫茶店を眺めながら、シービーはあてもなくほっつき歩く。持て余した暇を潰そうにも、思いつく遊びはあらかたやってしまった。

 

 今年も海へバカンスにでも行ってみるか。仮契約では合宿の許可は取れないので自腹での旅行になるが、誰に迷惑をかけるでもなし。人気の少ない静かなビーチでも探してみようかしら、とシービーは考える。

 

 結局、街の中で適当な暇潰しができなかったシービーはトレセン学園に戻ってきて、なんとなく吉田のトレーナー室に訪れた。

 ドアノブを捻ってみれば鍵はかかっていない。垂れ気味だったシービーの耳が僅かに上向いた。

 こほんと咳払いを一つして、勢いよく扉を開ける。

 

「やっほー。遊びに来たよー……あれ?」

 

 明るい声で部屋に入ったシービーが固まった。

 トレーナー室にいたのが吉田老人ではなく、生徒会長のシンボリルドルフだったからだ。

 

「やあ、シービー」

 

 いつもシービーが寝転んでいるソファーに行儀良く座っているルドルフが穏やかに声をかけた。

 シービーは驚きや戸惑いを押し殺し、努めて余裕のある笑顔で返した。

 

「なんでルドルフがここに? トレーナーは?」

「君に用事があって探していたんだ。学園内を一通り回った後にここを訪れたら、トレーナー会議に向かう途中の吉田さんと出会してね。シービーなら来るはずだからと云うことで、ここで待つ許可を貰ったのさ」

 

 言われて、シービーは携帯を確認した。何人かの友人から「会長が探してたよー」というメッセージの通知が来ている。

 

 滔々と語るルドルフは陶磁器のカップを持ち、紅茶をすする。見ると机にはポットや茶菓子なども用意されている。

 生真面目なルドルフが他人の物に勝手に手をつけるはずもない。待つ間自由にして良いと、吉田が用意したのだろう。

 その事実がシービーの心に僅かな波風を立たせる。

 

「で、用事って?」

「二つある。一つは生徒会長としての小言だ。最近、授業にちゃんと出席していないらしいじゃないか。君のことだ。単位は計算しているんだろうけど、トレセン学園は文武両道を校訓としている。生徒である以上は、出来るだけ真面目に参加して欲しい」

「ああ、うん。ごめんごめん」

 

 ひらひらと手を振って全く悪びれずに謝ったシービーに、ルドルフが目を細める。

 

「ちなみに、今日はどこへ行っていたんだい?」

 

 シービーの手が上がったまま、一瞬固まる。失った行き場を求めるように長い黒髪を弄り始める。

 

「ゲーセンだよ。ゲームセンター。でもまあ思ったよりつまんなかったから止めてきたけどね」

「そうか、ゲームセンターか。私は行ったことがないな」

「だろうね」

「……」

「…………」

 

 会話が長く続かない。

 気まずい空気の中、お互いに微笑みを張り付けている。

 

「で、もう一つの用事って?」

 

 シービーはルドルフの隣に座った。茶請けのクッキーを一つ摘んで食べる。

 

「これが本題なんだが」

 

 聞かれて、紅茶を飲みつつ考えるように一拍置いてから、ルドルフは口を開いた。

 

「生徒会長としてではなく、私個人としての用件。と言うよりはお願いだ。もちろん聞き入れるかどうかは君の自由だが、私としては」

「回りくどいのは好きじゃないの。ハッキリ言って」

 

 いつになく長いルドルフの前置きをシービーがばっさりと切り捨てる。ルドルフは表情を崩さなかった。ただ僅かに耳を垂れて「すまない」と言った。

 

「今月、エキシビジョンマッチのレースが行われるだろう」

「あるね。そういえば」

 

 気のない返事をするシービーに、ルドルフはぐっと喉奥で唾を飲み込む。

 

「そのレース、私の応援に来てくれないか」

 

 シービーは思わず振り向いて目を瞬かせた。

 てっきり出走してほしいって言われると思っていた。顔にそう書いてある。

 

「いやいや、私が行かなくてもルドルフを応援してくれる人は文字通り五万といるでしょ。そもそも応援なんかなくたってエキシビジョン程度、絶対に勝つに決まってるって」

「私がそうして欲しいんだ。他の誰でもない。シービー、君に観に来て欲しい」

 

 強い意思の宿ったルドルフの瞳がまっすぐにシービーを見つめる。有無を言わせぬ眼力。

 相手の真意を探るように見つめ合うこと数瞬、シービーは「わかった」と頷いた。

 

「いいよ、そこまで言うなら観に行く。特にすることもないし。場所は東京レース場だったよね」

「……ああ、ありがとう。感謝する」

 

 あまりにもあっさりと了承されてルドルフは面食らった様子だったが、礼だけを言って立ち上がる。まだ紅茶が入っているポットはそのままに、自分が使ったカップのみを律儀に洗ってすすぐ。

 

「もう行くの?」

「用事は済んだからね。トレーナー会議もそろそろ終わる頃だろうし、私もこれからトレーニングがある」

 

 ルドルフはそう言って自分の学生鞄を担ぎ、扉を押し開ける。

 いそいそと出て行こうとした彼女は、しかし不意に足を止めた。

 

「私は先に行っているよ。シービー」

 

 ウマ娘の耳にも聞こえないほど小さな呟き。ルドルフがぽそぽそと独り言を言ったようにしか聞こえかったシービーは首を傾げる。そんな彼女に振り返ることなく、ルドルフは今度こそトレーナー室を後にした。

 

 残されたシービーは大きくため息をつき、ソファーに仰向けに寝転んで足を投げ出す。

 

 ゲームセンターで吐いたものとは違う、憤懣やる方ない気持ちが込められた、長く重いため息だった。

 

 



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七話:挫折

 

 

 

 その日の空はよく晴れていた。先日の雨で馬場こそ稍重なものの、レース観戦には絶好の日和である。

 

 メインレースは十一番目の発走になるが、それを待たずして既に客席は賑わっている。

 正午過ぎに行われる特別枠、トレセン学園生徒会主催のエキシビジョンマッチがあるためだ。特設会場で行われるウイニングライブも含めたその催し物を見るために集まった人は多い。

 

「さすが指定席。見晴らし良いねぇ」

 

 椅子に腰掛けたシービーが言う。トレセン学園の制服ではなく、夏らしいラフな私服姿だ。

 彼女の隣に座る吉田はタバコが吸えず口寂しいのか飴を転がしている。

 

「久しぶりだな、シービーからレース観戦に誘われるのは。しかも指定席のチケットまで取っておくなんて。君にしては珍しいじゃないか」

「うん、まあ、知り合いから貰ってさ。それよりもほら、レースの予想でもしようよ」

 

 シービーは売店で買った情報誌を広げて見せる。次走、メインレースに勝るとも劣らないエキシビジョンの予想が載っているページを開く。

 そこには当然のごとく一番人気かつ専門家の◎三つを全て独占したシンボリルドルフの名前があった。予想も何もあったものではない。

 話題の出鼻を挫かれたシービーは苦笑いしつつ情報誌を閉じた。

 

 スピーカーから次のレースの案内放送が流れる。控室で準備を終えたウマ娘たちが続々とターフの上に姿を見せ始めた。

 総勢十八名。

 その中でも一際目立っているのは言わずと知れた五冠の皇帝、シンボリルドルフだ。ファンサービスで彼女が手を振れば、観客席からはどっと歓声が沸き上がる。

 今や日本が国を挙げて誇る大スターの姿を、ミスターシービーは静かに見つめていた。

 

 しばらくしてウマ娘たちはスタート地点にあるゲートへと向かって行く。流石に生徒会が選りすぐっただけのことはあり、今からシンボリルドルフと戦うというのにどのウマ娘も萎縮するどころか闘志を漲らせている。

 

「ねえ。トレーナーはさ、また私に走って欲しいと思う?」

 

 ぽつりと口を突いて出たシービーの質問に、吉田は穏やかな声で答えた。

 

「もちろん。私は君の走りに惚れ込んだ一人だからね。ファンとして、トレーナーとして、君が走っている姿を見ていたい」

 

 聞くまでもなく知っていた答えだ。シービーは曖昧に微笑む。

 

 吉田は「でもね」と言葉を続けた。

 

「私はなにも、君が勝つことで優越感や満足感を覚えたいと思ったことは一度も無いよ。ただ君に幸せでいて欲しいだけなんだ。レースで走ろうと、野原を駆け回ろうとね」

「じゃあ……私がもうレースで走らなくなっても良いの?」

 

 ずるい質問だと分かっていながら、シービーは吉田に聞いた。聞かざるをえなかった。

 

「それは君が決めることだ、シービー。どこで走り何に幸せを見出すのか。そればかりは誰も答えてなどくれない。君が決めなければならないんだ」

 

 シービーは目を見開いた。

 吉田がこんなにもハッキリとした正論を突きつけてきたことは今までなかった。

 

 隣でターフを見つめる吉田。その顔は自分を甘やかしてくれる好好爺のものではなく、真にウマ娘の幸福を思う者の真剣さがあった。

 

 

 各ウマ娘がゲートに収まりスタートを待つ。出走前のファンファーレが鳴り響く。

 

『今日の主役は彼女をおいて他にいません。シンボリルドルフ、一番人気です。期待通りの結果を出せるのか注目が集まります」

 

 司会が人気順にウマ娘を紹介していき、最後にルドルフの名が呼ばれる。

 ゲートの中で肩を回しながら気を高めているルドルフの瞳は完全に臨戦状態のそれだった。鋭く猛々しい強者の双眸。

 

 一瞬の静寂の後、ゲートが開け放たれ、ウマ娘たちが横並び一直線でスタートを切った。

 逃げの得意な二人のウマ娘がハナを奪い合いながらぐんぐんと伸びていく。三番手が少し後ろから先頭を追いかけ、さらにその後方内側にルドルフが控える形となる。

 

 進むにつれて十八人の列は縦長になっていく。逃げ二人が全くペースを緩めることなく後続を引き離しているからだ。

 

「大逃げだね」

 

 シービーが呟く。吉田は頷いた。

 

「シンボリルドルフに勝つための賭けだろうな」

「あれで勝てるかな」

「いいや、まず間違いなく最終コーナーで捕まる。シンボリルドルフの前にいる子は先行だが、逃げに引っ張られてやや掛かり気味だ。足は残らんだろう」

「じゃあ後ろの子たちは?」

「厳しいな。後ろからあの位置のシンボリルドルフを出し抜くには彼女より早くスパートを仕掛けるしかないが、それには尋常ではないスタミナが要る。どうやっても差し切れんはずだ」

 

 吉田の意見は正鵠を射ていた。

 レースがそろそろ終盤を迎える頃。第三コーナーを過ぎたあたりで力が尽きてきたのか逃げを打っていたウマ娘が垂れ始める。その反対に、機を伺っていた後続のウマ娘たちがペースを上げる。

 しかしそれに合わせてルドルフもまた徐々に位置取りを上げ始めた。

 

 直線を抜けて最終コーナーにさしかかる頃には前を走っていたウマ娘を次々に抜き去り、集団の先頭に立つ。

 

『さあいよいよ最後の直線。シンボリルドルフが先頭だ。やはり強いシンボリルドルフ。このまま決着がつくのか』

『完璧な試合運びですね。ここから彼女を差し切るのは至難ですよ』

 

 司会と解説がルドルフの実力に感嘆する中、その声をかき消すかのような歓声が上がった。

 一人のウマ娘が猛然とルドルフとの差を詰め始めたのだ。

 

 最後尾で足を溜めていたらしい彼女は、コーナーで大きく膨らみながらも瞬く間にバ群を抜いてシンボリルドルフに迫る。GⅠレースに出ても見劣りしないであろうその豪脚は残りニハロンでルドルフを射程圏内に収め、もう半ハロン進めば皇帝の影を捉える。

 

『シンボリルドルフ逃げ切れるか!?』

 

 ルドルフはふと目線を上に向けた。

 ほんの一瞬の誰にも気付かれない、レースにも影響しない刹那の出来事。

 しかし確かに、指定席からターフを見下ろすシービーと、レースで走るルドルフの視線は交わった。

 

 瞬間、シンボリルドルフは本気のスパートに入った。

 

 ストライドを極限まで広げ、芝を蹴り込む。極めて完成度の高いフォームの変形はまったくロスを生むことなく力の全てを加速に注ぐ。

 

 たったそれだけで勝負は分たれた。

 

 もはやシンボリルドルフの背中を追える者は誰一人としていない。追い縋っていたウマ娘も引き離されていく。汝、皇帝の神威を見よ、と言わんばかりの独壇場。

 

 シービーは椅子から立った。まだ続いているレースに背を向けて歩き出す。

 

「どうした、シービー」

「……ちょっとお手洗い」

 

 吉田が止める暇も無く、シービーは競バ場の屋内に姿を消した。

 

 トイレには向かわず、階段を降りていく。その途中で一際大きな歓声が聞こえてきた。どうやら決着がついたらしい。勝者が誰かは見るまでもない。

 

 外に出て、人がいる場所を避けるように競バ場の敷地から立ち去り、最寄りの公園に足を運ぶ。

 

 自販機で炭酸飲料を買ったシービーはベンチに座る。競バ場とは違って静かな場所だ。

 

 しかし目を瞑れば、先程のレースが脳裏に映し出される。克明に、まざまざと。

 

 さすがは五冠の皇帝。美しく、強い走りだった。

 

 

 

 ———ああ、敵わないなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 レース中、ルドルフが上の方を見たのは全くの無意識であった。

 

 二人分の予約をとっておいた指定席。

 そこにいるミスターシービーの姿をみとめた瞬間、ルドルフの心は熱く燃えた。

 

 

 レースが始まる前、いや始まってからも一抹の不安がルドルフにはあった。もしかしたらシービーは来てくれないのではないか、という不安が。

 

 シービーは奔放だが約束を破るような傍若無人の徒ではない。来ると言ったからには来てくれるのだろう。

 そう信じてはいても、今のシービーから感じる儚さや危うさのようなものを思うと、ルドルフといえど心中穏やかではいられなかった。

 

 今日、シービーにレースを観に来てほしいと頼んだのはひとえに、彼女に立ち直ってもらいたかったからだ。

 

 しかしそれを言葉にしたところで、ルドルフの伝えたいことの半分も相手に伝わるかどうか。理事長室での会議の一件を経てルドルフは悟った。

 今のシービーに想いを伝えるには言葉では足らない。言葉では薄いのだ。

 

———我々はターフを走るウマ娘だ。どんな会話よりも雄弁に語らう方法がある。

 

———さあ、私の背中を見てくれ。クラシック三冠で私が君を追ったように、今度は私を追ってくれ。私はいつでもここにいる。逃げも隠れもしない。だから安心して追ってくれ。

 

 

 ルドルフは満願の思いでラスト一ハロンを駆け抜けた。迫っていたウマ娘に五バ身差をつけての圧勝だった。

 

 最後の直線での走りは自分でも満足のいくものだった。人の心を動かすに足るものであったと自負できる。

 

 歓声鳴り止まぬ客席に向けて手を振りながら、ルドルフはまた上を見る。

 

———どうだ。見ていてくれたか。

 

 

 しかしそこにシービーの姿はなかった。

 

 ついさっき、走っている時は確かに居たのに、いつの間にいなくなってしまったのか。

 

 ルドルフは少しの間、ファンに向けて手を振ることも笑顔をふりまくことも忘れて、シービーのいない指定席を見つめていた。

 



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八話:誰よりも!

今回は漫画原作の傑作アニメ『ピンポン』の名言をかなり流用しています。これまでもしばしば使わせてもらっていましたが、今回は特に顕著です。出来る限りピンポンとウマ娘の双方をリスペクトし、自然に読めるよう丁寧に書いたつもりですが、もしもピンポンのファンで本作を読みご不快に思われる方がいましたら、誠に申し訳ありません。
ただ、自信作ではあります。


 

 

 

 そろそろ三十分は経つだろうか。

 

 レース場の外れにある公園の片隅で、シービーはぼんやりとしている。半分ほど飲んだサイダーは既にぬるくなってしまっている。シービーがブランコを漕ぐたびに金具がキイキイと鳴る。

 

 隣接するレース場の方からは新たに歓声が聞こえてくる。エキシビジョンマッチの次のレースが終わったのだろう。

 

 吉田のもとへ戻ろうかとシービーは考える。

 いいや、今更だ。お手洗いに行くと言って席を離れたが、トイレにしては時間が経ち過ぎた。見たいレースがあるわけでもなし、戻ったところで恥をかくだけだ。

 

「はっ、それも今更だよねぇ。恥なんて十分かいてきたし」

 

 シービーが鼻で笑って自嘲する。

 

 もう辞めよう。これきりだ。

 シービーは心の中ではっきりとそう思う。

 

 レース場に戻らず、さっさと帰ってしまおう。トレーナーには悪いけどメールで一報入れれば良いし、なによりレースから足を洗えばもう関わることもなくなる。

 

 あとは全部すっぱりと切り捨てて、それでおしまい。

 

 もっと早くにそうすべきだったのだ。自分らしくもなく未練がましくしがみついて、つまらない時間を過ごしてしまった。

 これからは自由気ままに風の吹くまま、何処へなりとも行ってしまおう。

 此処ではない、誰も自分を知らないずっと遠くに……。

 

 

 

「ここに居たか、バカ野郎」

 

 かけられた声に耳を立て、シービーはブランコを揺らすのを止めた。「あっ」と驚いた声が漏れる。

 

 顔を上げた先、そこにはカツラギエースがいた。

 

「カツラギ? なんでここに」

「レース観戦。あんた達と同じ指定席のブースにいたんだけど、気付かなかった?」

 

 走っていたのか、カツラギは僅かに息を切らせている。話を聞くに、レースの途中で出て行ったシービーを追いかけるも見失い、探し回ってようやくここへ来たらしい。

 

 シービーは立ち上がった。カツラギよりもシービーの方が背は高い。立てば必然、カツラギを見下ろす形になる。そして不敵に微笑めばいつも通りのミスターシービーが完成する。腰に手を当て、ぬるくて不味いサイダーを飲む。

 

 そんなシービーを、カツラギの視線がまっすぐに射抜く。この状況で見栄を張るなんて無意味だと告げるように。

 

「見るからに走ってきたって感じだね、カツラギ。ジュース奢ってあげようか?」

「いらない。それと、別に無理して余裕あるフリしなくていいよ」

 

 世にも珍しいシービーの奢りをすげなく断り、カツラギは二つあるブランコの片方に腰掛けた。

 カツラギの声に剣呑な雰囲気は無く、どこか落ち着いている。或いは、腹を据えている、と言う方が正しいか。

 少し話があるからとカツラギに促されて、シービーも再びブランコに座る。

 

「エキシビジョンマッチはさ、ルドルフが勝ったよ」

「だろうね」

 

 シービーが最後までレースを観ていなかったことを知っているカツラギはそこを話題の切り口にした。見るまでもない、とシービーは頷く。

 

「あいつ有マの時よりも強くなってる。もう同期の中には敵がいないんじゃないかって感じ」

「だよねー。なんたって無敵の皇帝サマだからね」

 

 まるで他人事のようにシービーが笑う。しかしどことなく自嘲を含んだその言葉に、カツラギは僅かに視線を鋭くした。

 

「だからって絶対に勝てないわけじゃない。少なくとも私は、才能だけならルドルフよりも上の奴を知ってるよ」

「いないでしょそんな化け物」

 

 一笑に伏すシービーに向けて、カツラギはハッキリと言った。

 

「あんただよ。シービー」

 

 シービーの顔から笑みが消えた。

 お世辞でも冗談でもなく、本気で言っているのだと、カツラギの真剣な眼差しが訴えている。その瞳に気圧されて、シービーは視線を逸らした。

 

「笑えない冗談言わないでよ」

「私が冗談言ってるって思うわけ? チームでも堅物で通ってるんだけど」

「今までのレース結果忘れた? カツラギだって春天以外は一緒に走ったでしょ。何をどうしたらそんな考えになるんだか」

「一緒に走ってきたから言ってんだよ」

 

 我慢ならないとばかりにカツラギは立ち上がった。いまだに俯いているシービーに熱の籠った言葉を投げかける。

 

「私はURAファイナルズに出るよ。だからシービーも出て。そこで決着をつけよう」

「はあ? カツラギはドリームシリーズの方に上がったじゃん。何を言って……」

「知らない? 今回のURAファイナルズはトゥインクルシリーズだけじゃなくてドリームの方からも参加できるんだよ」

 

 ここ最近、まったくレース情報に触れてこなかったシービーには初耳だった。

 初開催ということもあり、来年の新春にあるURAファイナルズではドリームトロフィー・シリーズに上がっている選手にも参加権が与えられている。コンセプトの一つに優駿の頂点を決めるというのを掲げている大会である。出来るだけ実力の高い選手を集め、大会の水準を高めることで興行力を上げようというのだ。

 それ以外にも単純に、ドリームシリーズの選手が参加出来ないのは不公平であるという意見もあって、少なくとも初回は枠を広げる方針が取られている。

 無論、カツラギエースもシンボリルドルフと同様に最有力の選手として推薦状が来ており、URAに参加の意を表明していた。

 

「……だからって私が出る必要はないでしょ。そこまで強くないってのに、みんな私のこと買い被り過ぎなんだって」

「そんなことない」

「ブランクは空いているし、そもそも私の才能なんてクラシックの時期で頭打ちになってることくらい、結果見れば分かるでしょ」

 

「違う! あんた逃げてるだけだ!」

 

 もはや不機嫌な表情さえも隠さずに言うシービーに対し、カツラギは初めて声を荒げた。

 

「いつもそうやって分かった風なこと言って、ろくに走り込みもしないで……逃げてるだけだろ!? なんでそれだけの才能を殺す!?」

 

 上から向けられる言葉を嫌って、シービーもまた立ち上がった。カツラギに背を向けてブランコを囲う柵に手をかける。

 

「私もうレースから足洗うって決めたから。中途半端にやるくらいなら辞めろってさ、カツラギの台詞だよ」

「本気でやれって話だよ! いつまでガキみたいに拗ねてんだ。現実見なきゃ前に進まないだろ」

「カツラギに負けて、ルドルフにも負けて、これから引退するのが私の現実だよ」

 

 シービーはカツラギの剣幕から逃げるように耳を絞る。

 

「私が一部でなんて言われてるか知ってるでしょ。最弱の三冠ウマ娘だってさ」

「あんたそんなの真に受けてるわけ? じゃあ何さ、そのあんたに負けた私たちは何なんだよ」

「……カツラギは凄いよ。シニアに上がってからめきめき強くなって、ジャパンカップでも勝ったじゃん」

 

 だからもう良いだろうと、シービーは薄く笑う。私なんかにこだわる必要はどこにも無い。何をそんなに熱くなっているのだと、自嘲と諦念を混ぜ合わせた声でせせら笑う。

 

 それを聞いたカツラギは、ついに感情の沸点に達した。

 

「ふざけんなッ! 私はまだ真っ向からあんたに勝ってない! 心の底から、菊花賞の時のあんたに勝てたって思えたことなんて、まだ一度も無いんだ!」

 

 想いの丈を全て乗せたカツラギの言葉は、シービーにこれ以上の言い訳をさせることも許さない。ただひたすらに、何も飾らない明け透けな本心を相手にぶつける。

 

「私もシービーみたいな才能が欲しかった! フォームもペース配分も、蹄鉄やシューズだってあんたを真似たことがある! でもあんたにはなれなかったよ!」

「ッ……」

「同期の皆、あんたに憧れてた。ルドルフだって……私たちにとってあんたはさ……!」

 

 カツラギの涙まじりの声。シービーは背を向けたままでいる。

 

 その背中を平手で思い切り引っ叩くように、カツラギは言った。誇り高い彼女が決して認めたくはなかっただろう事実を、しかしどこまでも真っ直ぐに。

 

「あんた誰より走るの好きじゃんよ!!」

 

 慟哭にも似たカツラギの叫びは辺り一帯に響き渡り、夏の高い空にも届かんばかりだった。

 公園に静寂が戻る。シービーは柵に寄りかかったまま俯き、言葉を尽くしたカツラギは肩で息をしている。

 

 複雑な感情がない混ぜになった視線をシービーの背中に向けながら、カツラギはこぼれそうな涙を堪えてぐっと喉を鳴らした。

 シービーがこちらを見ていないとは言え、今は少しでも情けない姿を晒したくはなかった。その一心で胸を張り、気丈な声を絞り出す。

 

「才能が無いとか、次にそんなくだらないこと言ったら蹴り飛ばすから」

 

 シービーは尚も動かず黙っている。

 カツラギは踵を返し、濡れた目尻を拭った。

 

「続けろ、レース。いっぺん血反吐出るまで走り込んでみろ。そうすりゃちょっとは楽になれるだろうよ」

「……」

「冬に待ってる。分かったか、ミスターシービー」

 

 もうこれ以上言うことは無いと、カツラギが去っていく。

 シービーは顔を伏せながらも、昔より遥かに逞しく見えるライバルの背中を横目で追う。

 

 そうしてカツラギが公園から立ち去った後、シービーは苦虫を噛み潰したように煩悶とした表情を浮かべ、癖っ毛の頭をがしがしと乱暴に掻き乱した。

 

 

 

 

 気付けば、シービーは学園に帰って来ていた。ソファーに寝そべって何をするでもなくぼんやりと呆けている。

 

 今シービーがいるのは寮の部屋ではなく、吉田のトレーナー室だ。

 どうやって帰ったかは記憶が漠然としてよく覚えていないが、状況を見るに半ば無意識でトレーナー室へ来て、合鍵で入ったらしいことは分かる。

 

 窓からは夕陽の赤い光が差し込んでいる。スマホの時計を見れば18:27とある。そこから画面をスワイプして通知歴を見ると、吉田から何件か連絡が入っていた。数時間前、ちょうど公園でカツラギと話していたくらいの時間に『何処へ行ったのか』と心配がるメッセージが入っており、それ以降はメールも電話も特に無い。

 おおかたレース場に戻ったカツラギが吉田に大丈夫だとでも伝えてくれたのだろう。

 

『心配かけてごめん。先帰っちゃった』

 

 やや簡素すぎる返事を送り、シービーは沈み込むように深々とソファーに背もたれる。

 

 大きなため息がこぼれる。

 スマホを弄ってSNSやネット検索などをしてみるが、気乗りせず点けては消してを繰り返す。何をする気にもなれないが、何かをしていなければ気持ちが落ち着かない。

 そろそろ寮で夕食の時間になるが今日は他の誰かと食卓を囲む気分でもないので、シービーはソファーの上から動かない。

 

「ああ、もうッ」

 

 暫くしてシービーは堪らず跳ね起きた。生来、じっとしていることが出来ない性分である。

 やり場のないモヤモヤとした気持ちを発散させられないかとウロウロ動き回り、ややあって部屋の片隅にある掃除道具に目がいく。

 

「たまには掃除でもしてあげますか」

 

 シービーは妙案得たりといった顔で頷く。老人介護ってやつだ、と些か失礼なことをのたまう。

 

 吉田は几帳面であり机の上も棚の書類も特に散らかってはいない。逆にシービーの持ち込んだ私物はそこかしこに転がっており、シービー本人ですらどこに何があるやらきちんと把握していない有様である。しかしそんなことは棚に上げて「仕方ないなあトレーナーはなあ」と辺りをゴソゴソ漁る。

 

 一つ一つ、散らかした物を片付ける。この部屋から自分がいた痕跡を消していくその作業は禊にも似て、綺麗になっていく部屋とは対照的にシービーの心は複雑に乱れる。

 

 もう終わりにするのだと楽に思いながらも、一方で寂しくもあった。

 このトレーナー室で過ごした時間はあまりに長い。持ち込んだ私物の数が思い出の深さを物語っているように思えて、それが時折シービーの手を鈍らせた。

 

「あ、ヤバ」

 

 誤って物干し棚に足を引っ掛けて倒し、衣紋掛けにかけてあった吉田の上着を床に落としてしまう。いそいそと棚を戻して上着を拾い上げる。

 

 汚れが付いていないか確認するために上下を逆さにして見たところ、上着の内ポケットから何かが落ちた。プラスチック製のカードのような物が床に当たりカツンと硬い音を立てる。

 

 丁寧にラミネート加工された一枚の写真だった。

 裏向きになっている紙面の端には撮影日が記されている。

 

 シービーはそれに見覚えがあった。

 吉田が一人でいる時、たまに懐から取り出して眺めていたものだ。その中身は確認したことが無かったが、おおかた孫の写真だろうとシービーは考えていた。

 

 三年ほど前、シービーがまだジュニアクラスにいた頃、初孫が産まれたのだと言ってまだ目の開いていない赤ちゃんの写真を見せられた。

 あの時の吉田の幸せそうな顔は、このラミネート加工されている写真を眺めている際の表情とそっくりだった。

 

 今ではあの赤ちゃんが普通に歩いているんだろうな、などと時の流れをしみじみと感じつつ、シービーは写真を拾い上げて見てみる。

 

「あっ……」

 

 思わずシービーは声を漏らした。

 

 そこに写っていたのは他でもない自分自身。

 ミスターシービーだった。

 

 緑と白を基調とした勝負服を着て、肩にはG1レースを制したウマ娘に与えられる優勝レイを掛けている。レイには金色の刺繍で菊花賞の文字。

 

 忘れるはずがない。

 

 空模様も、芝の匂いも、鳴り止まぬ歓声も。たった一枚の写真があの日見た景色を、鮮やかな色彩すら伴ってシービーに思い出させる。

 

 優勝レイを肩に掛けてトレーナーに写真を撮ってもらったあの瞬間どれほど幸福だったか、曇りのない満面の笑顔でピースをしている写真の中の自分が物語っている。

 

 

 秋風が運ぶターフの匂いを嗅いだ気がした。

 

 走り抜けた後の疲労と爽快感が足に残っているように思えた。

 

 三冠を讃える観客の拍手喝采が今にも聞こえるようだ。

 

 

 「君はすごい子だ」と破顔するトレーナーと、そんな彼に「でしょ?」と生意気に答える自分。

 

 

 

 当時行ったやり取りが、感じた喜びさえもそのままに、シービーの脳裏に映し出される。

 

(こんなに大事な気持ちを、私は今まで……)

 

「シービー?」

 

 後ろから聞こえた声にシービーがハッとして振り向けば、扉を開けて入ってきた吉田と目が合った。格好を見るにどうやら今しがたレース場から帰ってきたらしい。

 

「まったく、何も言わず帰るから心配したぞ。偶然会ったカツラギエースが無事だと教えてくれたから良いものを……ん?」

 

 安堵のため息と共に小言を投げかける吉田は、シービーが手にしている写真を見てバツが悪そうに頰をかいた。

 

「あー、なんだ。それはだな」

「……ねえトレーナー。いつもこの写真、見てたよね」

「どうも思い出深くてな。しかし君に無断で持ち歩いていたのは悪かったよ。あまり良い気分はしないだろう」

 

 何か勘違いしているらしい吉田を無視してシービーは詰め寄る。

 ものすごい気迫だった。表情は真剣そのもので、爛々と輝く瞳の奥には意思の炎が燃えている。

 

「トレーナー!」

「な、なんだ。そんなに怒ることはないだろう」

「違うってトレーナー! もう一回、私と本契約を結んでよ!」

 

 シービーの言葉に吉田が目を見開く。

 

「走り方から教えてよ! 私レースでてっぺん獲りたいの!」

「……なるほど、てっぺんか」

 

 吉田の顔から戸惑いが消え、シービーの気持ちを見極めるように彼女の瞳を見つめ返す。

 

「私本気だよトレーナー。カツラギにもルドルフにも勝って、勝って勝って、勝ちまくりたい! URAファイナルズだけじゃなくて、どんなレースでも誰よりも自由に、強く速く走りたいの!」

 

 必死に訴えるシービーの声には飾り立てた雰囲気など一切無い。小さな子供のように闇雲で直情的、しかしだからこそ純粋無垢な煌めきがあった。

 

「君のブランクはあまりに長い。尋常ではない努力が必要になる。半端な覚悟なら、時間を無駄にするだけだぞ」

 

 吉田はそう言いながらツカツカと歩き、仕事机の方に向かう。

 

 違う。半端なんかじゃない。

 

 そう反論しようとしたシービーを遮るように、吉田は重要書類の棚から一枚の紙を取り出してシービーに手渡した。

 

 『専属契約申告書』と書かれたそれには、トレーナーが記入すべき欄が既に全部埋められている。後はウマ娘本人がサインと判子を押せば、いつでも提出できる状態だ。

 

「覚悟しろよ、シービー」

 

 吉田が不敵に笑う。

 その目に、自分と同じ感情の滾りを見てとったシービーは頷いた。

 

 もう二度と挫けはしないと固い意志を込めて、力強く頷いてみせた。

 



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九話:猛特訓

 

 

 

「いいかいシービー。君はまず体力作りから始めなければならん」

 

 決意を新たにしたエキジビジョンマッチの翌日。

 本契約のための申請手続きを終えた後、吉田は厳粛な口調で言った。

 

「いかんせん時間がない。URAファイナルズまでに理想的な仕上がりにもっていけるかどうか、かなり際どいところだ。今までにない苛酷なトレーニングメニューを組む必要がある。ついて来られるかね?」

 

 ホワイトボードに箇条書きでトレーニング内容が書かれていく。その中にはシービーが苦手としてあまりやり込んでこなかったものもあるが、当の本人は「オールオッケー!」と親指を立ててみせた。

 

「任せてよトレーナー。やる気は最高潮だし足の調子も良いし、何でも来いだよ」

 

 相棒の頼もしい発言に吉田はにっこりと笑って頷く。

 

「では明日からトレーニング開始だ。練習場の予約をとってある。今日は足を慣らすために外周を流して、寝る前にはストレッチをしっかりと行うように」

「ラジャー! 早速走ってくるね」

 

 柔軟を終えたシービーは元気良く飛び出ていく。その瞳は目標に向かってキラキラと光っている。

 

 生き生きとした愛バを見送りながら、吉田は熱い夏の訪れを感じてにこやかに微笑んでいた。

 

 

 

 

「んぎぃぃぃぃ! 無理いぃぃぃ!」

 

 トレセン学園に数ある練習場の一角で空気をつんざくような悲鳴が上がった。

 女子らしからぬ声の主はミスターシービーだ。彼女が一歩を踏みしめる度に、黒々とした物体の山が動く。

 

 タイヤ引き。

 トレセン学園でも日常的に見られるトレーニングの一種である。ウマ娘用のバカでかいタイヤを引き摺って歩くそれは、前へ進むためのパワーを著しく鍛えることが出来、ウマ娘たちから「つらい」「重い」「嫌い」と圧倒的な不人気を誇る。

 普段の数倍下半身を酷使する苦痛に耐えなければならない上、思い切り走れないという束縛感までセットだ。並大抵のウマ娘は根を上げ、ジムの器具を使った筋力トレーニングで十分という結論を出す。

 

 そして今、シービーは通常の倍のタイヤを引き、腕には重りを着け、さらに平地ではなく坂路を走らされている。無論上り坂。地獄の刑罰もかくやという様相である。

 

「死ぬ、死ぬってこれ、トレーナー!」

「安心しなさい。時速三キロの走行で死んだウマ娘はいない」

「鬼ぃぃぃ!」

「ははは、懐かしい呼ばれ方だ」

 

 シービーの絶叫と吉田の穏やかな笑い声が響く坂路練習場。

 

 どこから伝わったのかミスターシービー復帰の朗報を早々に聞きつけた後輩ウマ娘たちが練習風景を見学しに来ており、あまりの鬼畜トレーニングを目の当たりにしてすっかり青ざめている。

 

 いや、彼女たちは何よりも、カリスマの頂点とも言えるシービーが物凄い形相をしていることに唖然としていた。

 爽やかに駆ける三冠ウマ娘を見に来たというのに、現実にあるのは歯を食いしばって目を剥きタイヤを引き摺る光景である。そのショックは隠しようもない。

 

「三冠ってすげえ」

「わ、私たちも頑張ろうね!」

「あれやるの? 無理……」

「でもでも先輩だってやってるし、あれくらいしなきゃ三冠とれなくない?」

「いやシービー先輩も無理って言ってるけど」

 

 その日、シービーはぐったりと泥のように眠った。

 また、念入りなストレッチと練習の止め時を吉田が見極めたことにより翌日に疲れは残らず、朝起きてみれば全快していた。仮病でサボる隙すらない。「おのれトレーナー」とシービーは恨み言を吐いてトレーニングに向かった。

 

 

 

 ある日のトレーニングは水泳だった。夏日となり人気を博している屋内プールは、連日多くの予約が殺到し非常に混み合う。

 

 そんな中で吉田とシービーはたった30分間の予約を取った。

 せっかくのプールが30分しか使えないのは口惜しい。けどトレーニング自体が楽なのは正直ちょっと嬉しい。

 などと練習前に考えていたシービーは、十数分後にはその甘ったれた感想を打ち砕かれることになる。

 

「どうだシービー。全力のバタフライを50メートル。10秒休んでまた再開。十セットこなせば中々効くだろう」

「こ、こんなにキツイとか、聞いてないけど……?」

「キツくなければ練習にならんぞ。さあ、まだ時間は残ってる。そろそろ息も整っただろう。もう十セットやりなさい」

「あ、悪魔ぁ……」

「懐かしい呼ばれ方だ」

 

 走行トレーニングで最もネックになる足への負担が水中では心配要らない。それに加えて心肺機能の強化が見込め、空気の約800倍の密度がもたらす運動強度がスタミナを鍛えてくれる。さらに吉田が提案したインターバル式メニューにより短時間で高い効果が期待できる。

 

 おかげで30分も経てばシービーは疲労困憊で息も絶え絶えとなった。プールサイドで見学していたウマ娘たちは戦慄した。

 

 

 

 ある日は重い蹄鉄を付けての坂路トレーニング。

 またある日はダンスレッスンを踏まえた体幹トレーニング。

 雨が降ればジムを利用して普段の練習ではあまり負荷をかけられない部分を重点的に鍛える。

 

 吉田の用意するメニューはそのほとんどが高強度の運動になる。その上でシービーの弱点である骨への負担をできる限り削いでいる。

 平たく言えば、安全ではあるが体力的にしんどい練習をもの凄い密度でこなすということだ。シービーは春先からの休養期間中についた贅肉(本人曰く、ちょっとありえない)を一ヶ月弱のうちに全て燃焼しきってしまった。

 

 

 

 そして七月が目前に近づいた晴れた日のこと。

 シービーは坂路特訓をこなしていた。夏合宿に向けて大半のウマ娘たちが準備に取り掛かる時期。しかし今年のシービーにそれは関係ない。

 

「そろそろ併走とかしないの?」

 

 トレーニングの合間の休憩時間、水とカロリーバーで補給しながらシービーは聞いた。

 

「体力作りが優先だと言っただろう。それに足の骨の治癒もまだ完全ではないと見込んでいる。今は耐える時期だよ」

「でもさあ、私は早くレース感覚取り戻したいんだよね。このままじゃ競争ウマ娘じゃなくて体力オバケのウマゾネスになっちゃうよ」

「ならないならない。ほらもう一本行ってきなさい」

「でもでもでも」

「50秒切れなきゃ一生これだぞ」

 

 ぶつくさ文句を言いつつシービーが坂路のスタート地点に向かう。

 タイヤを引かず、重りも無い。着けている蹄鉄も比重高めの特殊蹄鉄ではなく、通常練習用の軟鉄製である。

 

 吉田が坂を登る上での要点をいくつかシービーに伝える。

 重りで鍛えた腕はいくら振っても疲れず推進力を保ってくれる。苛酷なタイヤ引きをこなしてきた足腰は着実に全盛期の加速力を取り戻しつつあり、水泳で培った強い心肺はどれだけ苦しくとも安定した呼吸を可能にする。

 

 正しいリズム、正しいフォームを、全速力で。

 

 四ハロンの急な上り坂をシービーが駆け抜けると同時、吉田がタイマーを止めた。

 

「どうよトレーナー! いったでしょ今の!」

「……良い仕上がりだ。シービー」

 

 満足気に笑う吉田の言葉に、シービーは喝采を上げて高々とジャンプした。疲れているのも忘れて全身で喜びを表す教え子を、吉田は温かく見つめていた。

 

「併走の件だがね、少し待ってくれんか。私に一つ考えがある」

「ん、いいよー。それはそうと明日のメニューはどうするの? まだ聞いてないけど」

「明日は休みにしよう。今まで根を詰めてきたからな。それに今後のことで少し、話したいこともある。休みと言っておいて悪いんだが、昼に私と出かける時間を空けておいてくれるか」

 

 吉田のお願いをシービーは二つ返事で承諾した。久しぶりの全休が貰えるとあって、それだけで有頂天だった。

 

 

 

 明くる日の正午に吉田はシービーと共に街中の喫茶店に入った。レトロな雰囲気の純喫茶。吉田の昔からの行きつけらしい。吉田はハムと卵のサンドイッチを、シービーはウマ娘用の大盛りナポリタンを食べながら話し合った。

 

「ねえトレーナー。よくよく考えたらさ、合宿に行かないなら今年の夏は私たち何するの?」

 

 話の口火を切ったのはシービーのそんな発言だった。

 専属契約をしたものの、時期が遅すぎたために吉田とシービーが合宿に参加できる枠は既に無かった。

 合宿もタダでは行けない。長期の積み立て計画があり、そこからチームの人数や評価点などによって予算が割り振られる。シービーたちはその枠組みから零れ落ちたわけだ。

 

 そうなると必然トレセン学園に居残ることになるが、皆が合宿で出払っているのを良いことに、学園のトレーニング場や器具を使い放題になる。それは常に満員御礼の屋内プールも例外ではない。大規模整備があるので完全に自由に、とはいかないが普段よりもメニューを組みやすくはなる。

 

 シービーはそれを利用して合宿ばりに鍛えるのだろうと当たりをつけていたが、吉田は全く異なる道を見据えていた。

 

「海外に興味はないかい」

 

「……え、海外?」

 

 目を瞬かせてオウム返しに尋ねるシービーに吉田が頷く。

 

「アメリカさ。ニューヨークにトレセン学園の姉妹校がある。日本とは違ってダートが主体のタフな世界だ。校風なんかもここより自由で対戦相手にも困らない。どうかね」

「ちょ、ちょっと待ってよ。私にアメリカ行って、ダートで走れって?」

 

 吉田について行くと決めたシービーでもこれには困惑し抗議の声を上げた。

 URAファイナルズまで時間が無いと言ったのは吉田の方だ。それなのにアメリカ遠征など無謀が過ぎるのではないか。そう異議を唱えるシービーに吉田は首を振った。

 

「遠征ではないよシービー。短期留学さ。アメリカのレースを制するのではなく、あくまで向こうの環境を利用して力をつけるのが目的になる」

 

 日本の科学技術は世界的に見てもトップレベルの水準を誇る。しかしことウマ娘スポーツ工学に関して言えば、欧米や欧州には一日の長があった。

 歴史の長短はもちろん、URAによる統制管理がその原因だった。一本化された組織が業界全体を牽引することは必ずしも悪いことではないが、柔軟性に欠けるという明確な不利がある。政府の外郭法人でもあるこの巨大組織を成り立たせるには細かな規則を必要とし、固められた制度は往々にして新たな技術や思想が浸透するのを拒む。

 

 その点において、地域ごとに各々発展してきた欧米のレース界は良くも悪くも型に囚われない。有体に言えば自由さが目立つのだ。まだ日本では認知度の低いトレーニング法や、試験段階にも至っていないウマ娘専門の医療技術が広く普及していたりする。

 もちろんバ場を始めとして環境は大いに異なり、ウマ娘によっては海外に行って力をつけるどころか逆に不調をきたす者もいる。心身が不安定な中で結果を出せるはずもない。慣れ親しんだ土地を離れるのはそれなりにリスクを伴うものだ。

 

 しかし、シービーには合うはずだと吉田は確信していた。若かりし頃、研修生としてアメリカに渡り、実際にその目で見てきた吉田だからこそ自信をもって勧められる提案だった。

 

「短期留学って……そんな簡単に出来るもんなの?」

「向こうに私の古い友人がいてね。相談してみたら、まあ君一人の枠くらいどうとでもなるらしい」

 

 もう相談したんだ。で、オッケーだったんだ。

 

 シービーは唖然として吉田を見つめ返す。「このじいさんマジか」と顔に書いてある。

 

「いや、でもさ、お金の問題とかあるでしょ。実家は頼りたくないし。留学するためのお金なんてすぐに用意できないよ」

「心配するな。うちの理事長を通してURAに掛け合ってみたら補助金を出してくれることになったよ。留学費用を全額肩代わりしてもらえる。まあ、必ずURAファイナルズに出場するという条件付きだがね」

 

 もう話したんだ。で、そっちもすんなりオッケーだったと。

 

 トレーニングで吉田とはほとんどの時間一緒だったはずなのに、いつの間にそんな根回しをしていたのか。理解が追いつかないシービーはため息と共に天井を仰いだ。

 

 いや、理解はしている。話の本質は至ってシンプルだ。

 自分が行くか行かないか、ただそれだけ。

 

「もちろん強制じゃない。ただいつでも動けるように準備を進めただけで、実際に行くか決めるのは君だ。まあ重く考えず、好きな方を選んだら良い。どちらにせよ、私がトレーナーとして君のためにベストを尽くすことに変わりはないからな」

 

 吉田の言わんとしていることをシービーは分かっていた。責任や義務を自分に求めているのではない。道を選ばせるという彼の行為の元になっているのは、純粋な信頼に他ならない。

 

———覚悟しろよ、シービー。

 

 以前、吉田から言われたことを思い起こす。

 そうとも。覚悟はあの時すでに決めていた。何を迷う必要があるというのか。

 

 天井を向いたまま目を瞑って黙考していたシービーは、吉田に向き直って笑った。

 

「参ったなあ」

「何が」

 

「英語、もっとちゃんと勉強しとけば良かったなって」

 

 

 

 

 府中にあるウマ娘総合病院の一般病棟。

 その一室、窓際のベッドの上にシンボリルドルフがいた。

 

 白い病衣を着た彼女は上体を起こして、ただ静かに人通りや車の流れなど外の何でもない景色を眺めている。

 

(今頃、生徒会は合宿の手配で忙しくしているのだろうか)

 

 本来は会長として陣頭に立つべきルドルフは病床に座したまま、ぼんやりとそんなことを考える。

 

 エキシビジョンマッチから間も無くのこと、宝塚記念を控えていたルドルフは怪我を負った。本番前日、阪神レース場での試走の際に転倒してしまったのだ。

 

 人間であれば転んだところで大したことなど滅多に起こらないが、ウマ娘の場合はそうもいかない。なにせ彼女たちの足が出す最高速度は時速70kmを超えることもある。その速さが仇となって大きな怪我をすることは、ウマ娘にとって決して珍しくはない話だ。

 

 今回、ルドルフが転倒した原因はレース場の芝の張り替えがきちんと行われていなかったことにある。一部の芝がめくれ、そこに足を取られて転んでしまったというのが事の顛末だ。チームリギルの現トレーナーである東条ハナが「コースの管理もろくに出来ない場所でうちの選手は二度と走らせない」と激怒したことはニュースでも取り上げられ、多くの人が知るところである。

 

 ファン投票で一位に選ばれていた宝塚記念。そして東条ハナと密かに練っていた凱旋門賞を目標とした海外遠征プラン。その二つを断念し、加えて療養のために夏合宿には遅れての参加となる。

 せめて生徒会の仕事くらいならばと学園に戻ろうとしたルドルフだが、副会長らを始めとした役員全員に「安静になさってください」と言われてしまい、現状に至る。

 

 不意に訪れた束の間の休息は、しかし皇帝の心をいささかも安らげることなく、むしろピリピリと焼けつくような焦燥を募らせる。こんなところで立ち止まっている場合ではないのにと、そんな思いばかりが胸に溜まり、病院の外を見つめるルドルフの表情は無意識のうちに険しくなっていく。

 

 

 ふと、ルドルフの耳がピクリと動いた。部屋の外から音が聞こえたのだ。

 

 レース中でも風切り音と歓声の響く中で競争相手の足音を聞き分ける聴覚は、静かな病院内では僅かな音も聞き逃さない。それが聞き慣れた親しい人物の足音ともなれば尚更。

 

 足音は案の定、ルドルフ病室前で止まった。

 

「入るよ」

 

 ややしわがれた老婆の声。ルドルフがどうぞと言うと、元トレーナーである東条銀が入ってきた。

 

「ルドルフ。加減はどうだい」

「御心配には及びません。と言っても、走れるようになるにはまだ時間がかかるとお医者様にも言われていますが」

 

 ルドルフは明るい口調で言い、元気であることを示す。

 東条銀は持ってきた花のアレンジメントを窓辺に飾った。何種類かのガーベラと薔薇をまとめたものだ。それを見たルドルフの顔がほころぶ。

 

「エアグルーヴからですか」

 

 ルドルフの右腕である生徒会副会長のエアグルーヴは趣味で花を育てている。何事にも熱心な彼女のそれはもはや趣味の域に留まらず花壇の管理係と言うほうが適切な仕事ぶりであり、育てた花は学園を彩り、時には他生徒たちの手に渡って人々を和ませている。

 東条銀が持ってきた花もエアグルーヴ手製のものだった。

 

「ああ。あの子が育てたもんだ。自分は忙しくて見舞いに行けないから代わりに渡してほしいと、何べんも頭を下げられたよ」

「申し訳ありません。私なんかのためにわざわざ」

「礼なら直接エアグルーヴに言うんだね。それと、私なんかって言い方はよしな。不健康だよ」

「そう、ですね……今晩あたりエアグルーヴに電話してみます」

 

 ルドルフは愛おしそうにガーベラの花弁をそっと指で撫でる。先ほどまでの焦燥感に駆られた険しさなど全くない穏やかな顔で花を慈しむ。

 

 しかしそれでも僅かな憂いの色は消えなかった。

 ほんの些細な、他人であれば気付かないであろう機微。

 

「じっとなんかしていられない。そんな顔だね」

「……銀さんの目は誤魔化せませんね。お恥ずかしい限りです」

 

 ルドルフが苦笑する。いち学生がするようなものではない、大人びた微笑みだった。

 

「怪我がこんなにも不便なものだとは知りませんでした。精神的にも追い込まれる。他人の苦労も知らず、怪我をしたウマ娘たちに前を向けだの諦めるなだのと宣っていたとは、生徒会長失格です」

 

 実際にそのような強い口調では言っていないものの、ルドルフは出来る限り怪我をした生徒たちの見舞いに行き、励ましの言葉を送っている。

 しかしいざ自分が励まされる側に立ってみれば、今までとは違ったものが見えてくる。

 

 真摯なルドルフの言葉に虚飾はなく、本気で悔やんでいる様子が伺えた。

 

「反省したのなら次に活かせる。気負い過ぎないようにね」

「ええ、そうですね。活かしてみせますとも」

 

 だから早く、復帰の目処を。

 

 目の奥に再び焦燥が燻り始めたルドルフを見て、東条銀は一枚の紙を荷物から取り出した。

 

「これもエアグルーヴから預かってきたものだ。どうしてもあんた直々に目を通して判子を押してほしいとさ」

 

 ルドルフはやや怪訝そうに書類を受け取った。『短期留学申請書』と書かれている。

 

 生徒会の仕事の指揮は現在、エアグルーヴに一任している。その関係で彼女には一時的に会長としての権限が与えられている状態だ。自分を介さずとも良いだろうに、何故わざわざ書類を一枚だけ寄越してきたのか。

 それに、この時期に短期留学というのも珍しい。行き先はアメリカのニューヨーク州とある。そんな話は聞いていなかったが急遽決まったのだろうか。

 

 書類の上から下へと読み進めたルドルフは、その申請者の名前を見て目を丸くした。

 はじめて明らかに表情を変えた教え子に、東条銀は不敵に笑いかける。

 

「帰国は年末になるらしい。どう見ても、URAファイナルズを見据えた武者修行さね」

「ああ……トレーナー。貴女は悪い人だ。こんなものを見せられたのでは、もう居ても立ってもいられなくなるじゃありませんか」

 

 ルドルフの瞳は爛々と輝いていた。先程の焦りから来るものではなく、歓喜と興奮による熱烈な光だった。

 

「なに、急ぐ必要は無い。あんたが今すべきことは怪我を治すこと。そうしたら特訓でもなんでも付き合ってやるよ」

「えっ、トレーナーが……いや銀さんが、私のトレーニングを?」

「トレーナー呼びで構わないよ。今はね」

 

 驚いて振り向いたルドルフに銀が頷き、握手を求めて手を差し出す。

 

「ハナに頼まれたんだ。あんたが完全に回復して合宿に合流するまでの間だがね。どうだい。もう一度私の指導を受ける気はあるかい」

 

 迷う理由など何処にもなかった。ルドルフは一切の躊躇いなく銀のシワだらけの手を握り返した。トレセン学園の最古参トレーナー。数多のウマ娘を育て、皇帝たらしめるだけの実力を自分にもたらしたその手を。

 

 斯くして、もう一組の三冠コンビの再結成が相成ったのである。

 

 

 

 

 

 

『おまけ』(台本形式)

 

 

 

銀「急ぐ必要は無いと言ったが早く治るのに越したことはない。喜びなルドルフ。今日はあんたにとっておきの施術師を紹介してあげるよ」

 

ルドルフ「え、施術師ですか。この病院の医師ではなく?」

 

銀「私の古い付き合いのなかに鍼灸をやっているのがいてね。特に笹針が上手いんだ。治してきたウマ娘は数知れず。エソ、鼻出血、屈腱炎に繋靭帯炎……」

 

ルドルフ「は!? くっけん……えっ、繋靭帯炎!? 笹針で治るものなんですかそれは!?」

 

銀「まあ生憎と本人は忙しいからと来られなくてね。代わりにお弟子さんが来てくれているよ」

 

ルドルフ「来てるって、今ここにですか?」

 

銀「ああ。おーい、入っておくれ」

 

ガララッ

 

安心沢「こんにちわ〜、安心沢刺美でェ〜す! ワォ、あんし〜ん☆」

 

ルドルフ(!?!?)

 

銀「なに、見てくれは少々アレだが、師匠の腕は本物さ。その元で十年間も修行を積んできたんだから信頼もおけるさね」

 

安心沢「そうそう。こちとら十年の下積み(お茶汲み)があるのよ! ああ、五冠ウマ娘になっても決して精進を怠らず皇帝と呼ばれるに相応しくあろうとするルドルフちゃんを施術できるなんて、もうスッゴク幸せ! さ、ブスッといっときましょ、ブスっと」

 

ルドルフ「い、いやちょっと遠慮したいと言うか……何故もう注射器を持っているんですか!?」

 

安心沢「それは私が笹針師だからよ。それと手に持ってるのはお注射じゃなくて、さ♡さ♡は♡り♡ 」

 

ルドルフ「ヒッ」

 

安心沢「ワォ、安心してなさそ〜う。でも大丈夫よ。いつもは効果別に秘孔をどれか一つ選んでもらうんだけど、今回は特別にぜーんぶ突いてあげる☆」

 

ルドルフ「大丈夫とは?」

 

銀「んじゃ、ちゃっちゃとやっておくれよ。このこと、病院側には言ってないんだからさ」

 

ルドルフ「トレーナー!?」

 

 

 ルドルフは動けないのをいいことに全身隈なく秘孔を刺された。

 

 ブスッ♡と大成功だった。

 

 



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十話:well come to USA

 

 

 

 七月某日。

 日本を発ち、13時間ほどのフライトを経たシービーは何事もなく税関を抜け、アメリカの大地に降り立った。

 

 変装など何もしていないが、彼女を取り巻くファンはいない。日本ならば街中を歩くだけでも人だかりが出来かねないが、空港ですれ違う人々の誰もが自分を気にも止めない。そのことがシービーには新鮮に感じられた。

 ここでは一介のウマ娘であり、それ以外の何者でもないという事実がほんの少し心地良かった。

 

 吉田と二人、空港のロビーで待っているとサングラスをかけた老年の男性が声をかけてきた。

 見るからに気さくな人物で、辿々しい発音で挨拶をするシービーの肩を「よく来た! よく来た!」とバンバン叩く。

 彼こそ、今回のアメリカ留学で二人の世話係を快諾してくれた吉田の古い友人、チャーリー氏その人であった。

 

 格安の使い捨てSIMカードだけ買った後は息つく暇もなく車に乗せられ、ニューヨークのトレセン学園に向かう。

 

 ラジオを聞きながら悠々と運転するチャーリー氏はひとしきり吉田との会話を楽しんだ後、後部座席にいるシービーに声をかけた。

 

「お嬢さん、日本のトレセン学園じゃ一室二人の相部屋が基本らしいな。ウチもそうなんだよ。部屋に限りもあるから、悪いがお客様扱いってわけにはいかない。俺の担当ウマ娘と同室になるが構わんか」

 

 吉田に通訳してもらったシービーがもちろんと頷く。「Good」とチャーリー氏。

 

「ウチのは気性が荒くてな。今まで何人もの同室相手と喧嘩して、全員追い出しちまってる。困ったもんだが、君なら大丈夫だろう? 誰とでも仲良くなれるらしいじゃないか」

 

 チャーリー氏の言葉をそのまま日本語にして伝えた吉田を、シービーが軽いジト目で見る。どうやら色々と尾ひれを付けて相手方に自分のことを話しているらしい。後で問いただすとしよう、とシービーは心に決めた。

 

「どんな子なの? 歳は?」

 

 シービーの質問にチャーリー氏が答えていく。

 

 

 一言で表すのなら凶暴。

 

 歳は当年とって十四歳とシービーより二つほど下だが、年上に対するマナーや敬語などは期待できないこと。(もっともシービーはplease以外で畏まった英語など使いこなせないが)

 

 自分の物に対しての執着が人一倍強く、他人が所有物に触れてきたら激怒するかもしれないこと。

 

 

 少し話を聞くだけでも十分に厄介そうだと分かる。

 

「だが根は真っ直ぐで良い子なんだ。仲良くしてやってくれたら嬉しいよ」

「まあそれは会ってみなきゃ分からないけど……それで、強いの?」

 

 シービーがそう聞くと、チャーリー氏はにやりと口角を上げた。先ほどまでは愛娘のことを語る父親のようだったのに、一転して老獪なトレーナーとしての顔になる。

 自分が見出した才能を誇らずにはいられない伯楽の性。

 バックミラーに移るチャーリー氏の顔を見て、なるほど確かにこの人は吉田トレーナーの親友なのだな、とシービーは納得した。

 

「強いとも。まだデビュー前ではあるが、底が知れん。俺が見てきた中でもピカイチの才能がある。まあ癖が強いんで、その辺にいるヘボトレーナーじゃ分からんだろうがな。ガハハハッ」

 

 相当な自信があることは、吉田に通訳してもらうまでもなくシービーにも伝わった。

 デビュー前とはいえ、様々なウマ娘を見てきたであろうベテランのトレーナーが太鼓判を押しているのだ。生半な実力ではないはずである。

 

 対して、シービーは日本のクラシック三冠を獲ったと言っても、ダートは初心者もいいところ。チャーリー氏の担当ウマ娘は併走相手として申し分ないだろう。

 

 

「彼女の名はサンデーサイレンスという。保護者として俺からも一つよろしく頼むよ、Ms.シービー」

 

 

 

 

 学園に着いたシービーたちはチャーリー氏の案内のもと、校内施設を一通り見て回った。

 流石は国際色豊かな多国籍文化といったところで、過半数は白人系だが日系や中国系やアフリカ系など様々な人種のウマ娘がいる。顔立ちが違うせいで自分は周囲から浮くかもしれない、というシービーの密かな心配は杞憂に終わった。

 

 むしろ留学生であるシービーよりも、彼女の前を歩くチャーリー氏の方が目立っているようだった。

 廊下や中庭ですれ違うウマ娘がチャーリー氏に手を振って挨拶し、その中には仲良さげに二、三言話していく娘もいる。話している内容はあまり聞き取れないが、ウマ娘たちがチャーリー氏に向ける笑顔に尊敬の色があることはシービーの目にも明らかだった。

 

「チャーリーは私と同じでチームを引き払っていてね。第一線から退いてはいるが、教官職は今も現役でバリバリやっているらしい。彼の教えを受けて慕う子が多いんだろう」

 

 吉田にそう教えられて「なるほど」と頷くシービー。

 注意してチャーリー氏と学生たちの会話をよく聞けば、トレーニングの効果についてや「おかげで強くなれました!」といったような意味合いのことを話していると何となく分かる。

 

 その過程でチャーリー氏が連れているシービーの知名度もやんわりと上がりつつ、しばらくして学園の案内は済んだ。しかし日本の中央トレセン学園と比べてもだだっ広い敷地の全てを網羅することは出来ず、最後には地図を渡されて「あとはこれを参考にするように」と言われた。

 

 

 

 夕暮れ近くになって校外に出て、これから住むことになる寮へ向かう。トレーナー寮とウマ娘の寮は歩いて数分の距離にある。もちろんトレーナーはウマ娘寮への出入りが禁止されている。逆もまた然り。

 

 吉田たちと別れたシービーは事前に用意したカンペで寮母に挨拶を済ませ、合鍵を受け取って案内された部屋に向かった。

 

 一応の礼儀としてノックすると、しばらくして内側からドアが開いた。

 中から出てきたのは背の小さな青鹿毛のウマ娘だった。

 チャーリー氏から聞いていたサンデーサイレンスの特徴と一致する。背格好と、何よりも初対面のシービーに対して露骨に敵意を向けるその鋭い目が。

 

「えーと、ナイストゥミートゥ。アイムミスターシービー……」

「Are you fucking newcomer? go home!」

 

 もの凄い勢いでドアを閉められた。

 

 突然のことに唖然とするシービーだったが、罵倒されたことと歓迎されていないことはよく分かった。

 

 さしものシービーも「これ仲良くなれるかなあ」と遠い目になる。

 ぼーっと突っ立っているわけにもいかないので、取り敢えず部屋に押し入る。「出て行け! フ○ック!」などと騒ぎ立てるサンデーサイレンスの横で荷下ろしをした。

 

 寮母が整えてくれたらしい綺麗なベッドと、上にも下にも物が散乱してシーツがめちゃくちゃなことになっているベッドがそれぞれ部屋の両脇にあり、どちらを使えばいいかはすぐに判断がついた。

 

 フ○ックだの何だのと喧しいサンデーサイレンスに対してシービーは日本語で適当に相槌を打っていたが、不意にサンデーの方が部屋から出て行ってしまった。

 しばらくして戻ってきた彼女は黒と黄色のビニールテープを持っており、それを部屋の端から端へと掛けてしまった。テープには『keep out』と書かれている。

 

「こっから先はアタシの領地だ。入ったら殺すからな」

 

 サンデーの言いたいことはシービーもすぐに分かった。

 どうやら彼女はシービーを追い出すことを諦めた代わりに不可侵条約を結ぶつもりらしい。

 

 もっとも、平等とは程遠いが。

 如何せんシービーの場所が狭すぎる。部屋全体の四分の一ほどのスペースしか与えられていてない。

 「根は真っ直ぐでいい子」と言っていたチャーリー氏の評価に疑問を持ちつつも、シービーはひとまずこの部屋の先住民の顔を立てることにした。

 

 なお、トイレに行ったり部屋のドアから出入りするためにはビニールテープをくぐってサンデーの陣地に入らざるを得ず、その度にサンデーは怒っていた。

 

 

 



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十一話:新たなライバル

 

 

 概ね、シービーの留学生活は好調であった。

 カタコトなりに誰彼構わず気さくに話そうとする彼女はクラスに溶け込むのも早く、一ヶ月ほど経った今では友達になったウマ娘たちとトレーニングの息抜きがてら連れ立って遊びに行くこともあった。

 

 トレーニングの質も決して日本のトレセン学園に劣るものではなく、むしろインタビューなどの雑事が無いおかげでより集中することが出来ている。勉学も単位さえ取得すれば後は自由にしていい校風のため、シービーにとってはありがたいことこの上ない環境であった。

 

 そんな中で一つ難点を挙げるなら、やはりサンデーサイレンスの存在である。

 口も態度も悪く気に入らないことがあればすぐに突っかかってくる聞かん坊。その上シービーがまだ英会話に慣れていないのもお構いなしに喋るのでコミニュケーションに苦労する。

 特に最近、自分がシービーよりもダート適正に秀でていると分かってからというもの、連日のごとく併走という名の模擬レースを仕掛けてくるようになった。

 

 

 

「よっしゃ、これで私の五連勝! 日本の三冠ウマ娘ってのも大したことねえなあ!」

 

 シービーより一寸早くゴールしたサンデーが上機嫌な口調でそう宣う。

 吉田とチャーリー氏が見守る中で繰り広げられる二人のレースの戦績は、圧倒的にサンデーがリードしていた。シービーもこの異国のダートコースに慣れつつあり着実に成長しているのだが、やはり適正の壁というのは埋め難いものがある。

 

 サンデーサイレンスは紛れもない天才だった。

 技術がどうとか体の特徴がどうとか、そんなちゃちな話ではない。もっと根源的な、常人がどれだけ努力しようと決して辿り着けない境地にある精神力。

 魂の器の違いとでも言うべき勝負強さがサンデーにはあった。そんな勝負根性から来る競り合いでの強さは破格の一言に尽きる。

 事実としてシービーの追い込みですら、あと一歩のところでサンデーに届いていない。

 

「トレーナー! こんなぬるいレースじゃアタシの脚が錆び付いちまうよ。そろそろ併走相手変えた方がいいんじゃねえの?」

 

 生意気な減らず口を叩くサンデーに、チャーリー氏は「さてどうしようか」と隣にいる吉田に含みのある視線を送る。

 その意図を察した吉田は頷いて言った。

 

「よし、では相手を変えるとしようか」

 

 そうして四人が向かったのは芝のコースだった。吉田はシービーとサンデーにここでもう一度併走をしろと言う。「相手を変えるってのは何だったんだよ」と詰め寄るサンデーをチャーリー氏が宥めすかし、なんとかスタート位置に行かせる。

 

 吉田はすでに準備を整え終えたシービーに近付いて声をかけた。

 

「どうだねシービー、彼女との併走は」

「んー、学ぶことは多いよ、本当に。後ろから付いて走ってるからコツも掴みやすいし。負け越してるのはちょい悔しいけどね」

 

 大人びた余裕のあるシービーの返事に、吉田は満足そうに頷く。

 

「足の調子はどうだ」

「ぼちぼちかな。併走ならあと何本でも問題ないけど。本当にいいの、芝で?」

「ああ。これは向こうのトレーニングでもあるんだ。我々ばかりが教えてもらう側というのも申し訳なかろう」

 

 吉田がニヤリと笑う。

 

「優しく教えてあげなさい。シービー」

 

 

 間もなく開始されたシービーとサンデーの併走。

 ロケットスタートを決めたサンデーがぐんぐんとシービーを引き離す。対してシービーは追い込み態勢で静かに機を伺う。

 

 サンデーが振り返ってシービーの位置取りを確認したのは一回きり。既に敵ではないと見ているのか、それ以降は見向きもしない。

 

 そうしてレースは早くも中盤を過ぎ、最後のコーナーに差し掛かろうとしていた。

 

「チッ、やっぱ芝はやりづれえなあ!」

「そう? 私はダートより走りやすいけど」

 

 背後から聞こえた声にサンデーがギョッとして振り向いた刹那、並ぶ暇もなくシービーが内側から一息に抜き去ってしまった。サンデーが慌てて追い縋るも、シービーの加速について行けない。

 

 吉田の「相手を変える」という言葉の意味がここで浮き彫りとなる。

 先程までと比べ、ターフの上を走るミスターシービーはまるで別人だった。力強くしかし華麗に、どこまでも悠々と飛ぶように駆けていく。

 天衣無縫の三冠ウマ娘。その面目躍如である。

 

 サンデーの油断も原因ではあるが、何よりもシービーの末脚が驚異的だった。着実にかつての力を取り戻し、超えつつある。

 結局、直線に入ってのラストスパートで二人の差はさらに開き、レース結果は六バ身差でシービーの圧勝となった。走り終えたシービーは、少し遅れてやって来たサンデーに清々しい笑顔を向けた。

 

「どう? ちょっとは見直してもらえたかな」

「チクショウが! もう一本だ、もう一本!」

 

 サンデーが悔しそうに吠えて、シービーをスタート地点まで引っ張っていく。

 

「なあチャーリー。良いライバルになりそうだろう」

「全くだ。助かるぜ。サンデーの併走に付き合ってくれる相手を探すのに苦労していたんだ。なにせ根気がいるからな」

「シービーは根気など必要としていないよ。あの子はただ走るのを楽しんでいるだけなんだ」

 

 トレーナーに確認も取らず再び走り出してしまった二人を、吉田とチャーリー氏が微笑んで見守っていた。

 

 

 

 

 それからというもの、サンデーのシービーに対する態度が少しづつ変化し始めた。

 

 まず併走以外でも何かと勝負を挑んでくるようになった。

 バーベル上げの重さ比べや腹筋腕立て伏せなどの速さ比べ、お菓子をかけてのカードゲームやボードゲーム、果てはカフェテリアで衆人環視のなか大食い勝負をふっかけたりしてくる。

 歳が違い、体格差や経験差があるためシービーが勝つことが多いのだが、それに負けじとサンデーはさらに熱くなって勝負を仕掛けてくる。

 

 新顔の留学生と問題児のサンデーサイレンスが仲良くしてる。そんな噂が生徒の間で一瞬にして広まり、物珍しさで見物しに来たウマ娘たちとも交流の輪が広がっていった。

 サンデーは「うっとうしい」と文句を言っていたが、近寄ってくるウマ娘たちを無理やり追い返したりしない辺り満更でもないようだった。

 

 併走での勝負も相変わらず続いている。ただしダートのみをこなしていた最初の一月と違い、ダートと芝の半々で行うようになった。

 これはサンデーの希望だった。

 良くも悪くも勝負好き。シービーを格下ではなく、対等に張り合う存在だと見直した故の、無意識な変化だった。

 

「こっちの得意な方だけで勝っても面白くねえ。言い訳も出来ないほどコテンパンにしてやるぜ」

 

 概ねそのようなことを言って、定期的に芝の方でもシービーにレースを挑んでいる。そして負けては盛大に悔しがっている。

 

 ダートではサンデーが。芝ではシービーが。

 それぞれが得意とする方で勝ち越しながらも切磋琢磨し、二人の実力は如実に上がっていた。

 

 

 

「素晴らしいな、ミスターシービーは」

 

 いつものように競い合っているシービーとサンデーを眺めながらチャーリー氏が言った。

 

 今日のコースはダート。上り坂を駆けあがっていくサンデーにシービーが追走する。

 距離はまだ全体の半分も過ぎていないが、シービーはサンデーの後ろにぴったりと張り付き決して離れない。つまり追い込みではなく先行策をとっている。

 

「追い込み専門だとばかり思っていたから驚いたぜ。この僅かな期間でダートに慣れるばかりか、サンデーに付いて行くレベルで先行策を身に付けるとは。コースも走り方も、普通は急に変えても出来やしない。こりゃあヨシダが入れ込むわけだ」

「あの子、実はデビュー戦では普通に先行して勝っているんだ。それを思い出してやらせてみせたらすぐに出来るようになったよ。課題だったゲート難も真面目にトレーニングするようになってから解決した」 

「追い込みだと思っていた注目株が本番でいきなり先行に移ったら、誰だって度肝を抜かれる。良い武器を手に入れたもんだ」

「ああ。だがシービーの最大の武器はやはり末脚だ。それを活かすためにも、ここでみっちり力を付けさせてもらうよ、チャーリー」

「ハッハッハ、そうしろ! その代わりこっちもとことん利用させてもらうからな」

 

 サンデーは引き離そうにも離せないシービーを相手にやりづらそうにしている。しかしその顔はどことなく晴れやかで、純粋に勝負を楽しんでいるように見える。

 

 そんな教え子の様子を見つめ、チャーリー氏はサングラスの下で優しげに目を細めた。

 

「あの子に友達が出来るとは。楽しそうで、本当に良かった」

 

 

 

 

 シービーの留学期間もとっくに半ばを過ぎた、十二月のある夜。

 サンデーは自分のベッドに寝そべり携帯ゲーム機で遊び、シービーは英単語帳をペラペラと捲って流し読みしている。それぞれが黙って各々の好きなように過ごす、もはや日常となった光景。部屋の床にはもうほとんど用を成していない『KEEP OUT』のテープが落ちている。

 

「ねえサンデー。暇。ちょっとお喋りしようよ」

「あ? ちょい待て。今ボス戦だから」

 

 しばらくして飽きたのか単語帳を閉じたシービーが話しかけ、サンデーは面倒くさそうにしつつもそれに応じた。

 

「前から気になってたんだけどさ、チャーリーさんとサンデーってどんな関係なの?」

「どんなって……トレーナーとその担当ウマ娘だろうが」

「うーん。それだけじゃない気がしているんだよね。ほら、たまに親子みたいに見える時があるって言うか。チャーリーさんが前に自分のことを保護者だって言っていたし」

 

 シービーがそう言うと、サンデーは苦い顔をした後、ため息をついてゲーム機の電源を切った。

 

「まあ、半分当たっているな」

「半分?」

「義理なんだよ。義理の親子。アタシはトレーナーの養子ってわけ」

 

 シービーは言葉を詰まらせた。養子にということは、実親とは縁が切れていることに他ならない。

 つまりサンデーには暗い過去があるということだ。

 

 シービーも質問をする前にその可能性が頭を過らなかったわけではない。しかし裕福な家庭で育ち、生活の面では苦労らしい苦労をしてこなかった彼女にとっては、どこかぼんやりとした絵空事のような話。無意識に悪い可能性の方に蓋をして考えないようにしていた。

 

 心の底では藪蛇と分かっていても止まれなかったのだ。仲良くなり、互いに互いを好敵手と認め合う間柄になったからには、相手のことをより詳しく知りたくなってしまう。

 軽率だった。シービーは心の中で自分を小突いた。

 

「ごめんサンデー。私……」

「別に気にしなくていい。探せばどこにでもあるような話だし。ここまで聞いたら気になるだろ。お前になら、最後まで話してやる」

 

 謝るシービーを遮ってサンデーはそう言い、ポツポツと自分の過去を語り始めた。

 

 

 

 生まれはケンタッキー州。別に家が貧乏だったわけではないが、両親の仲が悪くサンデーがまだ学校に通い始める前に親は離婚し、母に引き取られ母子での二人暮らしになる。

 

 しかし間も無くして母親が失踪する。

 まだ小さかったサンデーにはなぜ母がいなくなってしまったのか分からず、今でも判然としないが、とにかくこの時点でサンデーは捨て子となった。

 

「あまりよく覚えちゃいないが、気付けば施設で暮らしていた。カトリック系の孤児院さ。ウマ娘の子供だけを受け入れているところで、アタシと同い年くらいの連中がけっこうな数いた。同じ年頃のウマ娘がたくさん周りにいるってのが新鮮だったことは覚えている。まあ、面白い奴なんてほとんどいなかったけどな」

 

 サンデーは孤児院でも浮いた存在だった。決して輪の中に加わろうとしない無愛想な子供。それに加えて周りと比べても一際体格が小さくて貧相だったこともあり、サンデーをバカにするような空気が子供たちや口さがない職員たちの間で生まれ始めた。

 手入れしなければすぐにボサボサになる青鹿毛の髪は不潔に見られ、他の子らより形の悪い足は「みっともない」と評されたことさえある。

 

 誰からも愛されなかった。

 ウイルスに罹りひどい発熱と下痢により生死の境を彷徨った時でさえ心配すらしてもらえなかった。

 

 ただ一人、劣悪な環境の中でも出来たウマ娘の友人だけが、一晩寝ずにサンデーの看病をしてくれた。そのおかげで人生の山場、九死に一生を得たのである。

 

 当時のサンデーにとって、そのウマ娘は友人と言うより何故か自分に付き纏ってくる変な奴程度の印象だった。

 いつも駆けっこを挑んできてはサンデーに負けて泣き、しかし次の日にはけろっとしてまた挑戦してくる。明るい性格で他の人とも良好な関係を築けていたというのに、なぜ自分のような爪弾き者のところにも来るのかサンデーは理解に苦しんだ。

 

「口を開けばすぐにレースレースってうるさかった。ケンタッキーダービーで勝つのが夢だって恥ずかしげも無く言うんだぜ。そうすりゃ母親が自分に会いにきてくれるって信じてる、どうしようもない奴だった。バカだよな。来るわきゃねえし、来たところで金目当てに決まってるのによ」

 

 ニヒルな笑みを浮かべてサンデーが言う。しかし友人のことを語る彼女の目元はいつになく優しく、慈愛と哀愁を帯びていた。

 

「まあ、根性だけは誰にも負けちゃいなかった。本当に勝てたかもな、ケンタッキーダービー……あいつが今も、生きていたら」

「えっ……生きていたらって……」

「死んだんだ。五年くらい前に。遠足の日の帰り道で、アタシたちの乗っていた車が事故って、アタシ以外の全員が死んだ」

 

 何組かに別れたグループの内、サンデーのいる組だけに悲劇が襲った。運転手の心臓発作による衝突事故。それにより運転手共々、一緒に乗っていたウマ娘たち十人が死亡し、なんの運命の悪戯かサンデーだけがただ一人、ボロボロになりながらも生き長らえた。

 

 友人はサンデーの隣に座っていた。彼女が咄嗟に抱きしめて庇ってくれなければ自分も死んでいただろうと、サンデーは言う。

 

 しばらくして退院し孤児院に戻ったサンデーを待っていたのは、以前よりも更にひどくなった迫害だった。生き残りのサンデーは他者からして見れば疫病神以外の何者でもなかった。誰も彼もが腫れ物を扱うように遠ざかり、行事にも満足に参加できない日々。

 

 そんな彼女に転機が訪れたのは今から三年前のことだった。ちょっとした子供向けの講演会でやって来たチャーリー氏と出会ったのだ。

 サンデーは千載一遇の好機を逃すまいとした。「あっちに行け」と周囲が追い出そうとするのも無視して、チャーリー氏に自分の走りを見て欲しいと懇願した。

 

 名伯楽との出会いは金の鉱脈を発見するに等しい。

 人生で初めて、サンデーはその才能を認められた。

 そして孤児院から引き取られてチャーリー氏の養子となり、ニューヨークのトレセン学園で過ごし、現在に至る。

 

 

 

「アタシは勝つ。勝って勝ちまくって、アメリカで一番のウマ娘になって、今までアタシをコケにしてきた糞ったれの世の中を見返してやるんだ」

 

 自分に言い聞かせるように決意を口にするサンデーの瞳には、模擬レースの時と同じく尋常ではない熱意が宿っている。

 

 勝利への執念に燃えるその目にシービーは覚えがあった。うじうじとしていた自分に発破をかけた、どこまでも真っ直ぐなウマ娘、カツラギエースの顔がシービーの脳裏に過ぎる。

 

 シービーは苦笑にも似た微笑みを浮かべた。

 どうも自分は、この手合いに弱いらしい。壁を乗り越えるどころか突き破ってでも前に進もうとするその姿をどうしようもなく好ましく思ってしまう。

 

「……私はサンデーみたいに重いものを背負っているわけじゃないけど、勝ちたい気持ちなら分かるよ。痛いくらいに」

「ハッ、知ったかぶりはよせよ。アタシは何も共感欲しさに話したわけじゃねえ」

「知ったかぶりなんかじゃないよ。勝ちたくて堪らないの、私も。だから海を渡ってアメリカまで来ちゃった。今だからこそ思うんだ。たとえ何処で生まれてもどう育っても、本当に才能なんか無かったとしても、きっと私はレースで勝ちたいんだって。私がミスターシービーである限りはさ」

 

 辛い過去を包み隠すことなく教えてくれたサンデーに対する礼儀として、シービーもこれまでの自分の経歴を語った。

 恵まれた環境で育ちながらも、人生初の挫折から逃げて転げ落ち、拗ねて腐って、進むべき道を見失っていた情けない自分の話を淡々と述べる。

 

 サンデーは聞き流したり途中で茶々を入れたりすることもなく静かに聞いていた。初めて会った時の彼女からは想像もできないほど神妙に。

 今のシービーの目標であるURAファイルズと、そこで競い合うシンボリルドルフやカツラギエースについての話は特にサンデーの興味を引いた。

 

「へえ、URAファイルズか。日本人も面白いこと考えるもんだな」

「初開催だし上手くいくかどうかはまだ分からないけどね。私はそこで走るんだ。思いっきり、誰よりも速く」

 

 明け透けな思いを語るシービーの中に何を見たのか、サンデーもまた先程のシービーのように微笑んだ。

 

「じゃあまずはアタシに完勝してみろよ」

「もちろん。ダートの、ケンタッキーダービーと同じ条件のコースで負かしてあげる」

 

 挑発的な言葉の応酬とは裏腹に、二人の顔は憑き物が落ちたかのようにスッキリとしたものだった。

 

 気付けば既に寮の消灯時間は過ぎていた。サンデーさえも頭の上がらない鬼寮長に見咎められては事なので、二人は急ぎ部屋の電気を消してそれぞれのベッドに潜った。「Good night」とシービーが言う。

 

 暗くなった部屋の中。沁みるような夜の静寂が、今日もトレーニングに勤しんだ二人のウマ娘を眠りに誘う。

 

 そうしてもう眠ろうかという時、サンデーはシービーの方を向き、グッドナイトの代わりに言った。

 

「……なあシービー」

「なに?」

「明日やろうぜ、勝負。ケンタッキーダービーと同じ条件で」

 

 

 



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十二話:模擬レース・ケンタッキーダービー

 

 

 

 ニューヨーク・トレセン学園の練習場には模擬レース用に各地域の主要競バ場を限りなく再現したコースが存在する。ベルモントパークやサンタアニタやキーンランドなど、本番前の調整には事欠かない。

 

 冬はオフシーズンなので利用者は減るのだが、今日に限っては多くのウマ娘やトレーナーが一ヶ所に集まり、本番さながらの盛り上がりを見せている。

 

 チャーチルダウンズ競バ場を模したトラックに設定された10ハロンのコース。つまりケンタッキーダービーの仕様である。

 取り巻く観客は選抜レースを凌ぐほどに多く、牽引車を使って運ばれたスターティングゲートは二十人用の長大な物だ。

 

 この大規模な模擬レースの主役は二人。学園きっての問題児サンデーサイレンスと異国の優駿ミスターシービーである。

 

 当初はいつも通り二人で勝負をしようしていたが、『ケンタッキーダービーと同じ条件で』という話を聞いたチャーリー氏が「俺に任せろ」と張り切って準備をし始めた。

 その結果、十八人のウマ娘たちが急遽レースに参加することになった。それもただ適当に集められたのではなく、デビュー戦を快勝した新進気鋭の者やジュニア級の重賞を勝っている者など相当の実力者が揃っている。そこにサンデーとシービーも加えてちょうど二十人。

 

 ケンタッキーダービーの模擬レースが催されるという噂は燎原の火のごとく学園中に駆け巡り、あれよあれよと言う間に観客が集まってきた。

 

『10番人気は皆さんご存知、暴れん坊のサンデーサイレンス。続きまして11番人気にミスターシービー』

 

 どこから現れたのかマイクを持った司会役のウマ娘が参上し、いつの間にか決まった人気順に出場選手の名前を読み上げていく。

 

 サンデーとシービーは二十人中の10番と11番という何とも微妙な順位。元々は二人のレースであったものの、そんなことは観客には関係ない。1番人気には重賞レースを二連勝中のホープが推されている。

 

 出走ウマ娘の誰もが見るからに気炎万丈といった雰囲気で、サンデーとシービーの二人を立てようという様子は一切無い。全力で勝ちをもぎ取りにいく。そんな意思が見て取れる。

 久しぶりに感じるピリピリと張り詰めたレースの空気に、シービーは胸を躍らせた。

 

 抽選によりそれぞれに出走枠が割り振られる。

 サンデーは一枠一番の最内。シービーはその正反対の大外枠での出走となる。無論、二十人という大人数でのレースでロスのある外枠は不利でしかない。

 

 

 ゲートが開き、ウマ娘たちが一斉にスタートを切った。

 

 牽制しあった結果、十人を超える先行集団が一つに纏まっての混戦状態となる、その中でも一際背が小さいサンデーサイレンスは懸命に好位置をキープし続ける。

 後続の集団からさらに下がり、殿から虎視眈々と機を狙うのはミスターシービーだ。

 

(今回は追い込みか……)

 

 サンデーはバ群に飲まれないよう四苦八苦しながらも、シービーの動向をちらちらと確認している。

 

 全体的に俯瞰して見ればスローペースの展開。しかし場の空気はゴールが近付くにつれてどんどん緊迫していく。

 

 向正面の半ばを過ぎ、コーナーに差し迫る頃合いで勝負の質が変わる。ペースの保持と相手のかく乱などを含めた位置取り争いから、スパートの仕掛け時を探る心理戦に移行する。

 定石は、先行なら最終コーナーを曲がってからのスパート。後ろならもう少し手前で仕掛ける。

 上がり三ハロンを自己ベストで駆けるのが理想的。あとは他のウマ娘の動きによって変化する状況にどれだけ対応できるかが勝負を制する鍵となる。

 

『後続が先団に追いつき第3コーナーを曲がります。抜け出すのは容易ではありません。1番人気はまだ控えたまま』

 

 意識の切り替わるタイミング。

 思考の隙間。

 

 そんな幾許にも満たない瞬間に割り込むように、シービーの鬼脚が炸裂した。

 

『この中から誰が……いや来ました。最後方から一人、ものすごい勢いで上がってくる。11番人気ミスターシービーがまくって上がる!』

 

 自分がいつスパートを切るか。そのことに思考を割いていたウマ娘たちを、シービーは大外からまんまと出し抜いた。

 競り合いに持ち込む暇など与えない。晴れ続きで固く締まったダートを蹴り、順位を上げ続ける。

 

 歓声を上げるギャラリーに混じって、観察眼に優れた何人かのトレーナーが驚嘆しどよめいた。

 シービーの加速があまりにも滑らかだったのだ。アメリカ人であれば誰もが知る伝説を彷彿とさせるほどに。

 

 ビッグレッドの異名を持つレース界の至宝、セクレタリアト。

 

 アメリカのクラシック三冠をはじめとして数々の伝説を作った彼女の最大の武器として知られるのが等速ストライドだ。

 

 走り方には大別して二種類ある。歩幅は狭く歩数で速度を出すピッチ走法と、その逆のストライド走法。どちらに向いているかは先天的なものがあり、それによって得意バ場や脚質が変わってくる。

 無論、どちらとも使いこなせれば確実に武器が増えるので、どの競争ウマ娘もそれなりに練習を積む。

 

 しかしセクレタリアトはストライド、つまり歩幅をコースやレース展開に合わせて自由自在に変えることが出来た。彼女にしてみればピッチ走法やストライド走法の中にもいくつもの細かい段階があり、常に最適解の走り方をすることであらゆるバ場に対応してみせた。そこに天性の筋力とバネが加わり、無類の強さを誇ったのである。

 

 これと比べれば、二種類の走法しか持たない普通のウマ娘はせいぜい3段変速付きの自転車のようなもの。前後輪合わせて22段階のギアを仕込んだロードバイクに勝てるわけがない。

 

「やってくれるぜヨシダ。いつの間にこんなとんでもねえ飛び道具を用意していやがった……!」

 

 見る者を竦ませるような笑みを貼り付けたチャーリー氏の額に冷や汗が滲んでいる。そんな彼の横でレースを観戦している吉田の表情は涼しいものだ。

 

「なに。留学に来る前から地道に教えてきただけさ。それにまだ本家ほどの完成度ではないだろう。等速ストライドもどき、と言うべきものだよ」

「チッ、あれで"もどき"などと、人が悪いぜ」

 

 シービーの走りには全く無駄がない。足の回転数はさほど変わらないのにストライドは徐々に伸び、それに伴ってぐんぐんと加速していく。

 

 この走法の最も素晴らしいところは足への負担が軽減されることにある。スパートに入っていきなりストライドを最大まで広げる従来のものとは異なり、段階的に広げていくことで負荷を分散する。

 しかも地面を蹴る際に余計な力がかからないため、加速をスムーズに行える。追い込み策を得意とするシービーにとってはこれ以上なく適合する走法であった。

 この高等技術を覚えるための才能は元から十分にあった。難点と言えば飽き性なシービーの性格だったが、一念発起した初夏から現在の冬にかけての鍛錬が、この異国の地でついに実を結んだのである。

 

 最終コーナーを曲がり終え、直線の入り口に突入する頃合いでシービーは先頭に立った。

 勢いは保ったまま。いやさらに増している。もともと股関節が極端に柔らかい彼女が叩き出す最高速度は凄まじい。スタミナとパワーを十分に鍛えた今、レース終盤でその速度が翳ることは無い。

 日本のウマ娘を格下だと侮っていた周囲のウマ娘やトレーナーは、その圧巻の走りにただ唖然としている。

 

『最初に抜けてきたのはミスターシービー。足色は衰えない。このまま決まってしまうのか』

 

 勝負を決するべく後続を突き放しにかかる。

 

 しかしそこに一人、追ってくる者がいた。

 

「シービーィィ!」

 

 コーナーからの立ち上がりで集団を切り裂くように飛び出してきたのはサンデーサイレンスだった。名前を叫ばれてシービーが後ろを見れば、サンデーが恐ろしい気迫と速度で追って来ている。

 

 唯一、彼女だけがシービーの早仕掛けを察していたのだ。これまでに何十回と併走をしてきたことで得た好敵手への理解がサンデーにはある。

 だからこそ加速を合わせることが出来た。

 それまでは内ラチ側に控えていたせいで前を塞がれ多少のロスが生まれたものの、自分よりレース経験が豊富なウマ娘たちをねじ伏せて進出してきた実力と根性は驚嘆に値する。

「あれが本当にデビュー前の子か」と、何処からともなくそんな声が漏れ聞こえる。

 

 前を走るミスターシービーと、それを追うサンデーサイレンス。差はたったの半バ身。コースは言わずもがなサンデーの得意なダートであり、スタミナも早々にスパートをかけたシービよりは余裕があるはず。

 

 しかし縮まらない。

 

 ラスト1ハロンを過ぎても尚シービーの勢いは留まるところを知らず、サンデーはその背中を見続けている。常に競り合いの強さで相手を負かしてきたサンデーの粘り強い末脚が、もう一押しのところで通じない。

 

 ふと、鬼気迫る表情で走っていたサンデーの顔が和らいだ。ほんの一瞬の、刹那にも満たない時間。

 しかしゴールの直前、シービーの後塵を拝するサンデーの顔は確かに穏やかだった。

 

『サンデーか、シービーか! 先頭は変わらない! これが日本のサムライスピリッツ! ミスターシービー、今、先頭でゴール!』

 

 ワッ、と大きな歓声が上がる。

 走り抜けたシービーは速度を緩めつつ、燃焼しきった身体に酸素を取り込むように天を仰いで息を吸った。

 

 久しく味わっていない、晴れやかな気分だった。

 周囲を見渡せばウマ娘やトレーナーの区別なく、全員がシービーコールを叫んでいる。スタンドの前で立ち止まり、拳を高々と掲げて見せればさらに爆発的な大歓声が響き渡る。まるで本当に G1レースを制してしまったかのような盛り上がりだ。

 

「ゼェ、ゼェ……ハァ」

 

 少し遅れてシービーの側に来たサンデーは、息が整うのも待たず「おい!」とシービーに叫んだ。

 

「お前ずりぃよ! あんな隠し玉持ってるなんてよ!」

「あははっ、真剣勝負だもん。奥の手の一つや二つ隠してるもんだよ」

「ああ、チクショウ、チクショウ! めちゃんこ悔しいぜクソッタレ!」

 

 今までの併走トレーニングで負けた時の比ではないほど地団駄を踏んで悔しがるサンデーだったが、ひとしきり叫んだ後、改めてシービーの方に向き直った。

 

「でも、めちゃんこ楽しかったぜ、シービー!」

 

 快晴の空のように清々しい、汗に濡れた満面の笑顔。あまりに明け透けで屈託のないサンデーの言葉に一瞬だけ面食らったシービーだったが、彼女もまた嬉しそうに微笑んだ。

 

「うん。私も楽しかった。最後サンデーが追って来ているのを見て、すっごいワクワクしたよ。またこんな風に走ろうね。サンデー」

「当たり前だ。また、な」

 

 どちらからともなく手を差し出す。二人が握手を交わした瞬間、周りからはゴールした時よりも大きな拍手喝采が鳴り響く。吉田とチャーリー氏も、一緒に走った他十八人のウマ娘たちも、皆がこの模擬レースの主役だった二人に賛辞を送っている。

 

 シービーは堂々と胸を張り、サンデーは照れ臭そうにしながらも、たくさんの人々に手を振っていた。

 

 



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十三話:ただいま

 

 

 クリスマスがすぐそこに近付いた十二月某日。ニューヨークには例年より少し遅めの初雪が降っていた。

 

 チャーリー氏の運転でJFK国際空港まで送ってもらったシービーと吉田は土産物で膨れた大荷物を空港のカウンターで預け、筒がなく搭乗手続きを済ませた。二人を見送るためにチャーリー氏とサンデーサイレンスが付いて来ている。

 

 あとニ時間もしない内に飛行機に乗り込み、アメリカから離れる。

 これが初めての本格的な旅だったシービーは、思い出を残して帰るのはこんなにも後ろ髪を引かれるものなのか、と痛感していた。それほどまでにアメリカで過ごした数ヶ月は、彼女の中で価値のあるものとなっていた。

 

 四人で食べる最後の食事になるからと、早めの昼食を空港内のカフェテリアで頂く。

 老人二人はコーヒーと軽くつまめるものを。サンデーとシービーはウマ娘用に作られた野菜たっぷりの特大ハンバーガーを注文した。

 アメリカに来た当初はマスタードを抜いてもらうように頼むことですら苦労していたシービーだが、今ではさらりと自分好みのオーダーを言えるようになっていた。

 

「見てみろよ二人とも。ジャパンの皇帝が七冠目を獲る気満々だぜ」

 

 チャーリー氏が売店で買ったスポーツ誌を吉田たちに広げて見せた。そこには確かにシンボリルドルフの写真と、彼女のこれまでの偉業を讃える記事が載っている。

 

 夏の怪我を乗り越えたルドルフは一月ほど前の晩秋、ジャパンカップで去年の雪辱を果たし、その経歴を六冠に上書きした。神の領域と言われていたシンザンを記録の上とはいえ、ついに追い抜いたのだ。もはや国内史上最強の地位は揺るぎないものとなっている。

 彼女はインタビューにおいて「次は有マ記念に出る」と明言している。

 必ず勝つだろう、とシービーはレースを見るまでもなく確信していた。そして七冠の皇帝となったシンボリルドルフとURAファイナルズの中距離部門で戦うことになる。

 

 URAファイナルズという真新しいレースイベントは海外でも話題になっているらしく、雑誌の中で特集を組まれている。

 

 注目されている選手はルドルフだけではない。カツラギエースは大目標であったサマードリームトロフィーこそ五着と振るわない結果だったが、近年に新設されたオータムドリームカップではハナ差で一着をもぎ取り、強豪ひしめくドリームステージでも確実に頭角を現してきている。

 

 そして記事の片隅にはミスターシービーの名前もある。アメリカ修行での成果や如何にとか、何とか。

 ただし先のケンタッキーダービーの模擬レースに関しては報じられていない。学園内で何の告知もなく行われたため、目敏いマスコミも割って入ることが出来なかったのだ。

 シービーの特訓の成果は隠されたまま、URAファイナルズ本番でのお披露目となる。

 

 

 そうやって雑誌などを読みつつ、のんびりとしている内に時間が過ぎ、そろそろ搭乗口に向かおうかと一同は席を立った。

 

「チャーリーさん、親切にしてくれてありがとう。貴方のおかげでこの留学生活をとても有意義なものにできました」

 

 保安検査場前での別れ際、シービーは随分と流暢になった英語でそう言う。

 練習場の予約などは勿論、学園の内外を問わず色んな場所への案内やマナーやジェスチャーなどの細かなことも教えてくれたチャーリー氏にはいくら感謝してもし足りない。大人びた感謝の言葉を述べるシービーに「帰っても頑張れよ」とにこやかに笑うチャーリー氏。

 

 チャーリー氏と固く握手をした後、シービーはサンデーの方にも握手を求めた。

 

「サンデーも、ありがとね。楽しかったよ」

 

 しかしサンデーはふいと顔を背けてしまった。

 シービーが部屋を引き払う準備をしていた朝から口数が少なく、空港に着いてからは黙ったままだ。先程のカフェテリアでの食事でも一言も発さなかった。

 

「ね、ほら、握手しよう」

 

 シービーが諭すようにそう言うと、ややあってサンデーは口を開いた。

 

「……本当に、クリスマスはこっちで過ごさねえのかよ」

 

 まるで拗ねた子供のようにボソボソと言うサンデーをチャーリー氏が窘める。

 

「サンデー。短期留学の規定上、それは無理だと前から言っているだろう。それに彼らにも予定がある。この日に発つことは最初から決まっていたことなんだ」

「でも少し残ればいいだけじゃんか! それにさ、トレーナーん家のミートパイすげえ美味いんだぜ、シービー。あとそれからクリスマスプティングも出るんだ。な、食いたいだろ?」

 

 養子であるサンデーは毎年のクリスマスをチャーリー氏の家で過ごす。チャーリー氏の妻が作るスペシャルディナーがいかに美味しいかを語り、サンデーはシービーに残るように言った。そうやって駄々をこねるサンデーの瞳は僅かに潤んでいる。

 

 そんな彼女の手を、シービーは優しく握った。

 

「ごめんねサンデー。私は行かなきゃ。日本で私を待ってくれている人たちがいるの。アメリカで過ごした時間を無駄にしないためにもちゃんと帰らなくちゃ」

「……ッ、知るかよ、そんな」

 

 感情に任せて乱暴に手を振りほどこうとしたサンデーだったが、それよりも早くシービーが彼女を抱き寄せた。シービーよりも頭ひとつ分小さいサンデーはすっぽりと覆われる形になる。

 暴れるかと思われたサンデーだったが、突然のことに戸惑っているのか、シービーの抱擁に対して大人しくしている。

 

「ライバルでいてくれて、ありがとう。本当に楽しかったんだ。私、絶対に忘れないから。だからサンデーも忘れないで」

「……うん」

「また走ろう。レースでも併走でも、なんでもいいからさ。絶対にまた会って一緒に走ろうね。約束だよ、サンデー」

「……うん、わかった」

「サンデー大好き!」

 

 最後に一際強くサンデーを抱きしめた後、シービーは吉田を伴って颯爽とその場を立ち去った。

 

 チャーリー氏は彼らの姿が見えなくなるまで手を振り、サンデーは少し赤くなった目でシービーの背中を見つめていた。

 

 

 

 それから暫くして、一機の飛行機が空へ飛び上がっていった。

 だんだんと小さくなっていくそれを、空港の屋上からチャーリー氏とサンデーサイレンスの二人が眺めている。友を乗せ、日本へ行ってしまう飛行機を。

 

「風のように爽やかな子だったな」

 

 珍しくサングラスをとったチャーリー氏が言う。彼の横にいるサンデーは何も言わず、じいっと飛行機を見ている。

 横腹に並ぶ窓が見えるくらい近くにあった機体は、やがてその細長いシルエットしか分からなくなり、一つの点になり、それも瞬きをした瞬間にフッと雲の中へ消えてしまった。

 あとにはただ、何の変哲も無い空が広がるばかりだ。

 

「日本、か……」

 

 飛行機が見えなくなっても尚、空を見上げていたサンデーがぽつりと呟いた。

 哀愁と寂寥感の漂う彼女の顔は、しかし憧憬を見つめるように真っ直ぐで、その瞳は確かな熱を帯びていた。

 

 

 

 

「ねえトレーナー。まだ着かないの?」

「その質問何回目だ。ちょっとは辛抱しなさい」

「してますー。はあ、もう走って日本帰りたい」

 

 行きの時も散々したやり取りをすること数知れず。

 夜になってようやく羽田空港に着き、そこからさらに国内便で成田空港へ。

 シービーは長時間のフライトで固まった関節を鳴らしながら身体を伸ばし、荷物を受け取って空港のロビーへ出た。

 

 その瞬間。

 

「おかえりなさい、ミスターシービー!」

 

 夜の空港とは思えないような大きな歓声が上がった。

 

 シービーを待ち構えていたのはトレセン学園のウマ娘たちだった。数え切れないほど大勢いる。

 制服を着ている者やジャージ姿の者。昔レースで競った顔も何人かいる。中にはシービーが中等部の頃にお世話になったOGの先輩までちらほら見える。皆、一様に笑顔で手を振り「おかえり」とシービーに言う。

 上には横断幕が掲げられており、見るからに即興で作られたであろうそれには、やはりと言うべきか『おかえりシービー!』と書かれている。

 

 短期留学の日程の詳細を外部に漏らしていないため出待ちのマスコミやファンなどはいないが、偶然その場に居合わせ騒ぎを聞きつけた人々も「なんだなんだ」と寄ってきた。そしてシービーの姿を見た途端、熱狂して出迎えの輪の中に加わる。

 

 驚きのあまり暫くは耳と尻尾をピンと立てるばかりだったシービーだが、だんだんと事態を飲み込み始める。

 自分の帰国を歓迎する声が沁みるように胸を満たし、帰って来たんだという実感を沸かせる。

 

 シービーはその喜びを隠すことなく、笑顔で皆に手を振り返してみせた。

 

「ただいま」

 

 

 

 

 クリスマスイヴのトレセン学園は華やかなものだ。生徒会が主軸となって毎年恒例のパーティーが開催される。

 この日ばかりはカフェテリア全体が生徒たちに貸し出され、鉄の規律を重んじる風紀委員でも手の施しようがない無法地帯と化す。

 特に普段からハメを外しがちなタイキシャトルやダイタクヘリオスなどの狂喜乱舞たるや尋常ではなく、何とか場を取りまとめようと孤軍奮闘するエアグルーヴは大変な劣勢に立たされている。

 

「おい何だこの肉の塊は!? 予算にこんなもの入ってないぞ!?」

「本場アメリカンのBBQデース! 普通はターキーやパイを食べるんですけど、日本のクリスマスはブレイコーですからやりたい放題しまース!」

「やり過ぎだ! おい止めろ! そんなバカでかい燻製機を持ってくるな、食堂内に臭いがつくだろうが!」

「あ、リブ焼いたの? 私も食べたーい」

「ああもうシービー先輩まで……!」

 

 帰国したばかりのシービーも完全に周りと同調して騒いでいる。年上として皆を抑制するばかりか他のウマ娘たちの暴走を助長することしかしない。

 もう一人の生徒会副会長であるナリタブライアンは会場の片隅で肉ばかり食べており、エアグルーヴはもはや青息吐息だった。

 

 

 

 そんな喧騒から離れ、今日は閉じられているはずの生徒会室にシンボリルドルフの姿があった。パソコンに向かって淡々とデータ入力の仕事をこなしている。

 作業が一区切りついたのか、ルドルフは眼鏡を外してぐっと伸びをした。

 

 彼女がクリスマス会に顔を出していたのは一時間程度。生徒会長として乾杯の音頭を取り、夕飯を済ませてきただけだ。

 エアグルーヴたちと一緒に仕事をしようとしたが「会長は有マ記念が控えているので休んでいてください」と気遣われ、また夜更かしをすることはリギルの東条ハナトレーナーから禁止されているので自然とパーティーから追い出される形となってしまった。

 

 レースに備え、言われた通り眠らなければいけない。そう思っても寝付けそうになかったルドルフはこっそりと生徒会室に入り、やらなくてもいい仕事をやっていた。宴の余韻ではない、ふつふつと沸き立つような感覚が胸の奥にあり、何かしていなければ落ち着かなかった。

 

 一息ついてみても依然として胸のざわめきは鳴り止まない。

 さてもう一仕事、とパソコンの画面に向き直った時、ガチャリとドアノブを捻る音がして誰かが部屋に入ってきた。

 

 びくりと肩を震わせたルドルフだったが、入ってきたのが旧知のウマ娘、カツラギエースだと分かってホッと息を吐いた。

 

「やっぱここにいたか」

 

 カツラギは如何にも仕事中といった様子のルドルフを見て、呆れたように言った。

 

「どうしたんだいカツラギ。まだ下ではパーティーの最中だろう」

「そりゃこっちのセリフ。外の空気でも吸おうと思って中庭に出たら生徒会室の灯りが点いていたからさ。そんで来てみたら、本当にあんたが一人で仕事してるんだから驚いたよ」

「面目ない」

 

 ルドルフが恥入りながらも眠れないことを正直に打ち明ける。「まあ気持ちはその分かるけどね」とカツラギ。

 

「有マ記念に緊張してる、ってわけじゃないんでしょ。最近のルドルフ妙にそわそわしていて変だし。今日だって、パーティーの時シービーの側に行かないようにしていたみたいだし」

「……御明察だな。うん、少し浮ついているのは自分でも分かっているんだ。URAファイナルズのことを考えるとどうしても胸がざわついてね。何かしていないと気が済まないんだよ」

 

 眉根を寄せて弱った顔をするルドルフに、カツラギが顎をしゃくって席を立つように言う。

 

「今、タイキがホットチョコレートを作って皆に配ってるんだ。それ飲んだらちょっとは落ち着いて寝られるかもよ」

「そうか……ではありがたく頂戴するとしよう」

 

 二人は生徒会室を出て夜の暗い廊下を歩く。コツコツと靴を鳴らす音は、冬の澄んだ冷たい空気によく響く。

 

「URAファイナルズが楽しみなのは分かるけどさ、そればっかり考えてて足元掬われんなよ。まずは有マ記念に専念しなきゃ。そうだろ?」

「ああ、もちろんだ。心配はいらない。私は必ず期待に応える結果を出すとも」

「別に心配なんてしてないけど……」

 

 そうやって話す途中でルドルフはふと窓に目を向けた。ぼんやりと窓に映る自分の顔は贔屓目に見ても浮ついてなどいなかった。

 ただ、優等生としての仮面の下に野獣のような獰猛さが見え隠れしている。

 

(やはり今夜は眠るのに苦労しそうだな)

 

 カフェテリアに入り、皆に温かく迎えられながらも、ルドルフの胸から狂熱が冷めやることはなかった。

 

 



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十四話:URAファイナルズ開幕

 

 

 

 URAファイナルズ予選のブロック分けと枠番が決まったのは年が明けて間も無くのことだった。

 

 トレセン学園で最も広い施設である第一体育館に設えた抽選会場。そこに出場選手たちのトレーナーが一堂に集まり、くじ引きを行った。秋川理事長やURA代表の挨拶によって始まったそれは格式高い式典でもある。カメラを構えた記者も大勢来ており、有力と目されている選手の枠番が決まる度に一喜一憂していた。

 

 距離、バ場ごとに分けられた各部門それぞれにスポットライトが当てられた本大会。格付けの差こそ無いものの、注目度はやはり芝の中距離部門がダントツのトップを誇っている。ドリームシリーズで活躍中のカツラギエースの参戦、アメリカから帰ってきたミスターシービーの復帰、そして先の有マ記念でついに七冠を達成した王者シンボリルドルフと、その陣容だけでも異彩を放っている。

 特に吉田がシービーのくじを引いた後、リギルの東条ハナが引いたルドルフの枠番が読み上げられた時の盛り上がりはかなりのものだった。

 

「負けませんから」

 

 壇上から席に戻る際、東条ハナは吉田にそう言った。彼女の祖母の若かりし頃を思わせる鋭く怜悧な視線に、吉田は微笑みながら頷いた。

 

 

 朝から始まった抽選会は夕方近くになってようやくお開きとなった。やっと解放された吉田はネクタイを緩め、トレーナー室ではなく練習場の一つへと足を運んだ。

 夕陽でオレンジ色に染まったターフでは、長い黒髪をなびかせてミスターシービーが走り込んでいた。吉田が来たことに気付くと、手を振って駆け寄ってくる。

 

「お疲れシービー。頑張っているな」

「トレーナーの方こそお疲れ様。抽選会、終わったの?」

「ああ。この歳じゃ座りっぱなしも堪えるなあ」

 

 腰を叩いて伸ばす吉田とは対照的に、シービーは元気一杯といった様子で息を弾ませ、身体を冷まさないよう足踏みをしている。

 

「それで、どうなったの?」

「君はAブロックからの出走になる。枠番は四枠八番で真ん中。優勝候補筆頭のシンボリルドルフは予選ブロックが違うから、当たるとしたら決勝だよ」

 

 抽選会場が沸いた理由がそれだった。URAファイナルズという真新しいビッグレース自体への関心も高いが、何より一時期は無いかもしれないと思われていた四度目の三冠ウマ娘対決が決勝戦で行われるとあっては、騒ぐのも無理はない。

 シービーとルドルフの両名が勝ち上がれば、という前提に立った話ではあるが、それさえ叶えば文句なしの頂上決戦が実現する。

 この絵に描いたような運命の巡り合わせは既にレース関係者たちの間で波紋を呼んでおり、明日にでも多数のマスコミがドラマチックかつ大々的に報じることとなるだろう。

 

 しかしその結果を直感的に察していたのか、シービーは何を言うでもなく落ち着いている。

 

「それで、他の相手は?」

 

 聞かれて、吉田はやや勿体ぶるように頬をさすりながら答える。

 

「本戦、準決勝で当たりそうなところであまり目ぼしい選手はいない。強敵には違いないが今の君の敵ではないだろう。心に余裕を持って走ればいい」

「まあそれは良いんだけどさ、肝心の初戦はどうなの?」

「うーむ。だいたいはデータから見てもさほど脅威となることは無いんだが……」

「濁さないで、ハッキリ言って」

 

 シービーは足踏みを止めてじれったそうに促した。吉田は「ああ」と頷いて、今度こそ真っ直ぐにシービーの方を向いて言った。

 

「予選の四枠七番。つまり君の隣に来るウマ娘なんだが……」

「うん」

「カツラギエースだ」

 

 その名前を聞いた瞬間、シービーは目を丸く見開いた。

 

 これまでに何度も鎬を削りあってきた、終生のライバルと呼ぶに相応しいウマ娘。学園でも随一の厳しさで有名な黒沼トレーナーの鬼指導に耐え抜き、基礎を盤石に固めた彼女の強い走りは容易には突き崩せない。

 

 吉田の見立てでは、もし今回のURAファイナルズ中距離部門でシービーが負けるとしたら、その相手はシンボリルドルフか或いはカツラギエースだろうと考えている。

 その内の一人と最初に当たるということは、シービーが予選で敗れ去り本戦の出場権すら獲得できなくなる可能性があることを意味する。そんなことになれば、強行的なアメリカへの短期留学は何だったのかと方々から批難を受けかねない。

 

「そう。予選でもうカツラギとね」

 

 しかしそんな重圧を、シービー本人は全く感じてはいないようだった。大きく開いた目はすぐに不敵に狭まり、瞳の奥には炎が燃え盛っている。居ても立ってもいられない様子で、再びその場で腿上げをしたり飛んだり跳ねたりして、走る準備を整え始める。

 

「トレーナー。もう何周か走ってくるよ。日本のバ場で走る感覚は取り戻してきたけど、レースまでに出来るだけ馴染んでおきたいし」

「足の調子は?」

「最高」

「よし、行ってくると良い」

 

 吉田が言い終えるよりも早く、シービーは走り出していた。

 最高だと自負した調子に偽りは無し。

 夕陽が写す影法師さえも置き去りにしそうなほど速く、まるで空を飛ぶように軽快に駆けて行った。

 

 

 

 

 レース本番を来週に控えたある日、カツラギエースは映像資料館の個室に篭っていた。

 

『ミスターシービー上がって来た。第3コーナー上りで来ましたミスターシービー。果たして下り坂をどう下るか」

 

 液晶画面に映るレース映像は二年前の菊花賞のものだ。カツラギが着けているウマ娘用のイヤホンからは当時の司会の声と、大観衆の声援が響く。

 これまでに何十回と繰り返し視聴してきた映像を見るカツラギの目は真剣そのもので、シービーの僅かな動きも見逃さないように瞬きすらしない。

 

『ミスターシービーだ。大地が、大地が弾んでミスターシービー! これが史上に残る三冠の脚!』

 

 ゴールすると同時にカツラギは画面の電源を消した。イヤホンを外し、長時間の視聴で疲れたのかパイプ椅子の背もたれに体重を預け、目を閉じる。

 

 いや、彼女は今も集中状態にあった。

 瞼の裏にターフを思い描く。

 東京レース場、2000メートル。予報で見た一週間後の天気は晴れ。無風、もしくは走りに影響が出ない程度の微風を想定。冬なので空気が乾燥している。

 

 スタートを切り、一度18人の先頭に立つ。発表されたURAファイナルズ予選の同ブロックに、逃げウマ娘が一人いた。スタートの後は彼女にハナを走らせながら自分のペースの範疇で二、三番手の位置を保持する。多少外に流されても順位は譲らない。出場選手の傾向から見ると、四番手以降を走らされれば肝心な局面でブロックの不運に遭う可能性が高いからだ。

 まだ皆がスパートをする前、最終コーナー手前で加速し、中盤まで先頭にいさせた逃げウマ娘に迫る。捕まえられれば理想的だが、そうでなくとも良い。抜かせまいとして足を早めさせ、ペースを乱させることが目的。

 

(たぶん、アイツはここで来る)

 

 一際大きな足音が背後から迫ってくる。今までに散々聞かされてきた恐るべき追い込みの足音。ミスターシービーがスパートを掛けて来たのだ。

 先程までビデオで見ていた菊花賞のまくり上げ、そして毎日王冠で味わされた上がり3ハロンの豪脚。それらを基準にシービーの能力を上方修正。これ以上なくシビアに、自分にとって厳しい展開を予想する。

 

 夏に吉田トレーナーと本契約を結んだ後、シービーがどれほど苛酷なトレーニングに打ち込んでいたかをカツラギは知っている。あの熱意、運動量がアメリカに渡ってからも持続していたとなると、URAファイナルズで戦うことになるシービーはおそらく過去のどのレースで競い合った時よりも手強い。間違いなく最強だ。

 故にカツラギの中には慢心など一切無い。希望的観測を捨て、己の能力を鑑みて、ベストパフォーマンスを発揮するためのシミュレーションを繰り返す。

 

 追ってくるシービーに対してスパートを合わせる。絶対に遅れてはならない。掛かり気味になってコーナーで膨らんだ逃げウマ娘の内側を突き、最短コースで直線に一番乗りする。

 シービーの末脚は脅威だ。しかし逃げ切れる。

 残した足を最終直線でフルに使い切る練習は今までに嫌というほどしてきた。その成果を十全に発揮できれば抑え込める。

 

 半バ身差で、捩じ伏せられる。

 

 やがてゆっくりと目を開いたカツラギは、肩の力を抜いて大きく息を吐いた。

 

「……勝てる」

 

 そう呟いたカツラギの声には、確信を得た力強さがあった。

 再び目を瞑り、感慨に浸る。

 

 どれほどこの時を待ったことか。どれだけ思い焦がれてきたことか。

 

 ようやくだ。ようやく……。

 

「もう一度、あんたとの対決を……!」

 

 

 

 

 

 

 URAファイナルズ芝中距離の予選当日は、先週からの予報通り快晴の中で迎えられた。

 

 第十一レースの芝2000メートルが間も無く開催される。ターフには勝負服に身を包み準備を終えたウマ娘たちが続々と姿を現し、柔軟を行なったり観客に向けて手を振ったりしている。誰もが選び抜かれた優駿たち。予選とはいえ客入りはG1レースと比べても見劣りしない。

 

 現在ターフにいる十八人のウマ娘のなかでも特に注目を浴びているのはカツラギエースだ。評論家からも◎二つと○一つを付けられた文句なしの一番人気である。

 準備運動をして身体を温める彼女の並々ならぬ気迫は遠目でも伝わり、何らファンサービスをしなくとも客の関心を集める。

 

 突然、ワッと観客が沸いた。

 最後の一人であるミスターシービーが地下バ道をくぐって遂に登場したのだ。およそ十ヶ月ぶりにお披露目する勝負服に変わりは無く、しかしそれを着こなすシービーの身体は明らかに以前より磨きがかかっている。

 まるでゴール直後のような声援を浴びながら、シービーがにこやかに手を振ればさらにファンは熱狂する。

 

「相変わらず凄い人気じゃん、シービー」

 

 カツラギが近付いて話しかけてきた。対抗心を隠そうともしない彼女に、シービーは振り向いて笑う。

 

「まあ、一応は三冠ウマ娘だし? でもそう言うカツラギがちゃっかり一番人気なんだよね。ファンの皆もレースの勝敗にはシビアだからなあ」

「思えば初めてだよ、人気順であんたより上に来たのは」

「そうだったかな。ま、レースが始まればそれも関係なくなるけどね」

「違いない」

 

 ミスターシービーはカツラギの三つ下、四番人気に推されている。クラシックで猛威を奮っていた時と比べれば低いと言わざるを得ないが、長期間レースから離れていたことを考えると、やはり依然としてシービーへの期待値も高いことが伺い知れるというものだ。

 

「お手柔らかに」

 

 シービーがそう言って手を差し出すと、カツラギは握手の代わりにその手をペシンと叩いた。

 

「全力でぶっちぎってやるから」

 

 たったそれだけのやり取りで、観客たちのボルテージは最高潮に達する。

 会場は温まった。あとは各々が走りで魅せるだけ。

 

 

 

 ファンファーレが鳴り響く。選手たちがスターティングゲートに入っていく。

 

 カツラギは隣のゲートに収まったシービーをちらりと見て、すぐに視線を前に向けた。

 そうするだけで世界はガラリと姿を変える。

 

 観客の声援は遠く、ターフの匂いは濃く。

 隣にいる相手の鼓動まで聞こえてきそうなほどに集中力が高まっていく。

 

『さあ、全ての選手がゲートに入り……』

 

 一瞬の静寂の後、扉は開かれ、世界が加速する。

 

『今、スタートしました!』

 

 カツラギは誰よりも上手くスタートを切った。

 予定通り、一番最初にハナを奪うことに成功する。それに張り合おうとして上がってきた外枠出走の逃げウマ娘をすんなり通してやり、二番手につける。無駄を全て削ぎ落とした巧みな走行。

 

 コーナーを曲がって最初の直線へ。ここまで来ればある程度レースの形というものが出来てくる。前と後ろが詰まって団子になっているのか、その逆で縦長か。ハイペースかローペースか。そういった展開が定まってくる。

 

 カツラギは耳を澄ませる。気配と足音からして自分の斜め後ろにピタリとくっ付いてきているのが一人。そのすぐ後ろには先行集団が一つに固まっている。差し狙いのウマ娘たちもそれほど離れずに付いて来ている様子。

 さて肝心のシービーはどの辺りに控えているのか、とカツラギは後ろをチラリと見た。

 

 見て、その顔が驚愕に染まった。

 

 自分のすぐ後ろにいると思っていたウマ娘が、他でも無いミスターシービーだったのだから。

 カツラギと視線が交錯したシービーは不敵に微笑んでみせる。

 

 驚きを露わにしたのはカツラギだけではない。走っている他のウマ娘たちも、観客も、トレーナーやURA職員も、皆一様に予想を裏切られ唖然としていた。

 

『追い込みのシービーが後方にいません……いや、いました! 二番手カツラギエースのすぐ後ろにミスターシービーいました。逃がさないと言うようにピッタリとマークしています。久しぶりのレース、まさかの先行策を取りましたミスターシービー』

 

 クラシック級に上がってからはずっと追い込み一筋でやってきたシービーの大胆な作戦変更。予想だにしなかった事態に、レースを走っているウマ娘たちの間には少なくない動揺が走る。

 警戒を強めて先行集団は前のめりに、それに伴って後続の過半数も差を詰める。それだけのウマ娘たちが固まると威圧感も相当なもので、カツラギの前を行く逃げウマ娘も押されるように僅かに速度を早める。結果としてかなりのハイペースな展開が作り出された。

 

 当初、カツラギは自分のトレーナーと話し合い、皆が最後方に控えるミスターシービーを警戒してローペース寄りの展開になるだろう、と予想を立てていた。

 それが開始早々に全く逆の形で崩され、心の中で舌打ちをする。

 

(コイツ、なんで今になって先行を。動揺を誘うためか? それとも追い込みじゃ勝てないと見切りをつけた?)

 

 疾りそうになる脚を理性で抑えつつ、カツラギはもう一度シービーの方を見る。

 リズムは安定している。掛かっている様子もない。いかにも楽しそうに目を輝かせて走る様は紛れもなく小憎らしいライバルのそれだ。

 どう見ても敵の動揺を誘うためだけの一か八かの賭けに出た感じではない。修練は積んできたのだろう。その自信が迷いのない走りから見て取れる。

 

 視線を戻したカツラギは動揺を鎮め、心を決めた。

 

(マジでこっちと同じ土俵で勝負するつもりなんだな。アンタはほんと思い通りにいかないね……いや、それでこそ、か)

 

 ホームストレッチを抜けて3コーナーへ。レースは早くも半分を過ぎ、目前に最終コーナーが迫る。

 

(でも、勝つのは私だ!)

 

 カツラギが速度を上げて先頭のウマ娘に詰め寄る。すると予測通り、先頭を死守したいそのウマ娘も早めのスパート態勢に入った。そのままコーナーに入り、僅かに膨らんだ逃げウマ娘の内側を突いて先頭の位置を掠め取る。

 カツラギの動きは見事と言う他になかった。

 内側が開くと言っても、実際にそこへ入り込むには位置取りとタイミングを見計らう確かな目が要る。しかもカツラギが仕掛けたことによって後ろのウマ娘たちもそのほとんどが早め早めに上がろうとしてきている。その中でバ群に飲まれず、一瞬できた風穴から抜け出すのは困難を極める。

 

『最終コーナーを曲がり終えます。最初に上がってきたのはカツラギエース。しかし他のウマ娘も続々と追い上げています。ミスターシービーは前を塞がれ四番手、これは厳しいか』

 

 カツラギは勝利を確信した。シービーは自分より抜け出すのに手間取った。これは同じ先行策での戦いでは致命的だ。

 今のシービーは迫るバ群を背にハイペースのレース展開に乗ったせいで、追い込みの時のような鋭い末脚が活かしきれないはず。そうなれば必然的に早くゴールするのは位置的に有利なカツラギの方となる。

 もっとも、追い込みで来ていたとしても混戦になった集団に阻まれてシービーは伸びきれなかっただろうが。

 

 カツラギが最高速度に達する。歯を食いしばり、全力で腕を振って、身体にある全ての要素を推進力へ変える。

 シービーの恐るべき末脚をも捩じ伏せるために鍛え込んだ直線での粘り強さ。それを遺憾なく発揮する。

 

 さあ、勝利はもう目前に。

 

「ッ……!」

 

 もはや前へ進むことだけに意思の全てを向けていたカツラギの耳が、にわかに背後の音を捉えた。

 

 長大なストライド。足の回転も極めて速い。信じられない速度で自分に迫って来ている。

 

 それが誰かなど、振り向いて確認する必要もなかった。

 

『ミスターシービーが来た! ミスターシービーが集団を抜け出してもの凄い速度でカツラギエースに迫ります! やはり最後はこの二人の一騎打ちか!』

 

 あの集団の中からシービーがどうやって抜け出すことに成功したのか、今のカツラギに知る由は無い。しかし一緒に走っていたウマ娘たちはレース後のインタビューで口を揃えてこう言っている。「魔法にかけられたようだった」と。

 

 魔法の正体、自由自在にギアを変える等速ストライドを駆使して、シービーはカツラギに追い縋る。既に二人の間には半バ身ほどの差も無い。

 カツラギの足色は衰えない。今までの血の滲むようなトレーニングが彼女のトップスピードを維持させ続ける。

 しかしシービーの勢いは更に増していた。一足一足の蹴り込みは鋭く鮮烈で、限界など無いかのように速度を上げる。

 

 そうして外から遂にカツラギを追い抜き、先頭に躍り出た。

 

 距離は残り50メートル。シービーがさらに前へ出て、差を一バ身に広げる。

 カツラギは懸命に食い下がりながらも、その目に焼き付けるようにシービーの背中を見ていた。

 

 

 強くて、華麗で、キラキラしていて。

 

 その煌めきは、走っているターフまで色鮮やかに輝かせるようで。

 

 ずっと憧れ続けていたその背中を見つめていた。

 

 

『先頭は変わらない! 今、ミスターシービーが先頭でゴールイン!』

 

 ゴールした瞬間に会場が沸き返る。

 大型ビジョンの隣にある確定板。その一番上にシービーの出走番号である8の数字が表示される。二着カツラギエースとの差は一バ身。誰の目にも明らかな、実力による押し切り勝ちだった。

 

『やってくれました! 久しぶりのレースを制しましたミスターシービー! ライバルであるカツラギエースとの激戦を制し、無事に本戦へと駒を進めました』

 

 観客の拍手と歓声がシービーの胸を満たし、同時に勝負の熱が取り払われていく。後に残るのはひたすらに清々しい充足感だけだ。

 そうして口々に「おめでとう」と言うファンたちにシービーが手を振っていると、横からカツラギが声をかけてきた。

 

「シービー」

「カツラギ……どう、強かったでしょ、私?」

 

 言葉を選ぶための逡巡は短かった。シービーが胸を張って何の謙遜もなくそう言う。

 その笑顔にカツラギもつられて笑ってしまった。

 

「ああ、負けたよ」

 

 憑き物が落ちたかのように晴れやかな表情で、カツラギはシービーの肩をポンと叩いた。

 

「ルドルフによろしく」

 

 それだけを言い残してターフから去っていく。シービーは鳴り止まない歓声に応えながらも、早々に地下バ道に引いていくカツラギの姿を目で追い続けていた。

 

 

 

 

 カツラギが地下バ道に入って奥まで行こうとすると、同じチームのウマ娘たちが駆け寄って来た。皆でここまで走ってきたのか、軽く息が上がっている。「お疲れ様」とか「よく頑張ったね」と言う同級生もいれば、言葉にならないくらい泣きじゃくっている後輩もいる。というかカツラギを尊敬している大半の後輩は泣いていた。

 

 そんな彼女らをレースで負けたカツラギが逆に慰めるというあべこべな形になりながらも、カツラギは仲間たちからの労いを受けた。

 

 後輩の一人が言う。カツラギ先輩がレースの後すぐにこっちに来たから心配したのだと。

 

「ありがと。でも大丈夫だよ。ちょっとお手洗いに行くだけだから」

 

 そう答えてやんわりと皆を帰しつつ、カツラギは一人で選手用の手洗い場に向かう。都合よく自分の他には誰も居らず、シンと静まり返っている。

 別に一人になれるなら、トイレだろうが控室だろうが構わなかった。

 

 もう限界だった。

 カツラギは瞑った目から涙を零した。嗚咽もなく、ただ静かに、カツラギは一人でこっそりと泣いた。

 悔しくて、それなのに嬉しくて。堰き止めきれない感情の渦が涙となって溢れてくる。

 

 ああ、何も変わらない。

 私の憧れは変わることなくターフの上にある。

 

 満願成就の思いを胸に、震える唇で、カツラギはついぞ本人の前では言わなかった言葉をひっそりと口にした。

 

「おかえり、シービー」

 

 

 






カツラギエースの墓石には以下の文が彫られているそうです。

『あの"ジャパンカップ"を想い出します
 "ジャパンカップ"の感動を!!
 もう一度、君とミスターシービーの対決を!!』


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十五話:唯一人

 

 

 

 URAファイナルズ決勝戦を目前にした記者会見では、二人のウマ娘が特に注目を集めていた。

 一人はいつも通り予選から危なげなく勝ち進んできた七冠の皇帝、シンボリルドルフ。

 もう一人は好敵手カツラギエースを討ち取りその勢いのまま決勝に上りつめてきたミスターシービーだ。

 

 シービーが壇上に立つと、大量のカメラのフラッシュが彼女を出迎えた。決勝への意気込みや身体の調子など、普遍的な質問に答えていく。

 

「決勝戦ではついにシンボリルドルフ選手と戦うことになりますが、ミスターシービー選手は本レースに臨むにあたってどのような心境でしょうか」

 

 絶対にされるだろうと思っていたルドルフ関連の質問。きちんと事前準備をしてきたシービーは落ち着いて答えた。

 

「緊張していないと言えば嘘になります。相手が格上であることも認めなければいけない事実です。しかしその上でも自分なりに最高の走りをしたいですね」

 

 するとそれを皮切りに、他の記者たちも続々と手を上げ、対ルドルフについての話を深掘りしていく。勝算のほどや具体的な戦術について知りたがる者、ルドルフが走った先の有マ記念やジャパンカップへの感想を聞く者、あるいは過去にシービーがルドルフと戦った春の天皇賞などのレースについての意見を求める記者もいた。

 中には敗戦という名の傷に塩を塗り込むような失礼な質問もあったが、シービーは吉田とアイコンタクトを取りながら答えられるものとそうでないものに分け、真摯かつ無難に対応してみせた。

 そして最後の段になって、ある記者が手を挙げた。

 

「URAファイナルズが始まってから準決勝まで、ミスターシービー選手は全て先行策で勝利を収めていますよね。世間では勝つために先行策を身に付け、追い込み策には見切りをつけたと噂されていますが、それは事実なのでしょうか」

 

 シービーは口元に手を当てて考える素振りをした後、にこりと笑ってみせた。

 

「私が追い込みで走るか、先行で走るか。そんなのはどうでもいいことでしょう」

「えっと……どういう意味でしょうか」

「意味なんて無いってこと。ただ全力で走る。今も昔も、変わらないのはそれだけだということです」

 

 はぐらかされるような形の答えをもらった記者が首を傾げている間に、シービーは吉田を伴って壇上から降りて行った。たくさんの人々がまだ質問があると彼女を引き止めるが、それをすげなく躱してシービーは会場を後にした。

 

 その日の晩にはシービーについての考察やURAファイナルズ決勝での予測に関するネットニュースが次々に更新されていった。中には記者会見での一件を受けて、やや辛辣な非難めいたニュースも上がっている。

 曰く『シービーは敗北の屈辱に耐えられず、先行策に逃げたのだ』と。

 

 

 

 

 記者会見から少し経ったある日、決勝戦も間近だからと体調を整えることに注力するよう言われたルドルフは生徒会室から締め出しを喰ってしまった。

 走り込もうにも、チームトレーナーの東条ハナにトレーニングメニューを徹底管理されているため勝手は出来ない。

 

 とは言えトゥインクルシリーズ四年目ともなればこういった扱いにも慣れたもので、ルドルフは大人しく部室で雑誌の最新号に目を通していた。

 チーム・リギルの部室は東条ハナの意向で整然と片付いており、本棚には常に新しいレース情報誌が並べられる。ルドルフが何気なく手に取ったその中の一つにザ・ターフという大御所のものがあり、そこには以下のような記事が載っていた。

 

『ミスターシービーは勝利に貪欲になった。今までの追い込みを捨てて先行策をとったのがその最たる証拠だ。彼女がまたターフに立つようになったのは喜ばしいが、ミスターシービーのファンとしては平凡な先行策に傾倒し、彼女の代名詞でもあったあのトリッキーな追い込みと決別して、走りから自由さを失ってしまったことは寂しくもある』

 

 気に食わないと言いたげに、ルドルフは眉を顰めた。続けて他の評論家も似たような感想を記事の中で述べている。

 

『ルドルフには敵わないだろう。これまでの戦歴も黒星ばかりだし、何よりシービーの付け焼き刃の先行はルドルフの絶対的な走りに通じない。勝ち目は薄いと言わざるを得ない』

 

 ルドルフが苛立たしげに雑誌を閉じたのと、部室の扉が開いて人が入ってきたのは同時だった。ルドルフは模範生に相応しくない態度を見せてしまったことに焦りかけたが、入ってきた人物が恩師の一人である東条銀だと分かると肩から力を抜いた。

 

「ピリついてるね、ルドルフ」

 

 そう言ってチョコレート菓子を渡してくる。引退した身だからとあまり部室に顔を出さない東条銀だが、今日はルドルフの様子を見るという目的がてら甘い物を差し入れに来たらしい。

 チョコレートだけに「ちょこっとだけだよ」と銀が言うと、親父ギャグ好きのルドルフはそれだけで破顔し、目に見えて緊張が解けたようだった。

 銀の好意に甘えて茶も淹れてもらい、包み紙からチョコレートを一つ取り出して食べる。

 

「珍しいね、あんたが雑誌なんかの記事に腹を立てるのは」

「面目ありません」

「いいさ。普通のことだし、そう畏まるもんでもないだろ。それで、そこに書いてあることは私も読んだが、あんたはどう思ったんだいルドルフ」

 

 聞かれて、ルドルフは厳粛な口調できっぱりと言い放った。

 

「無知蒙昧と言わざるを得ません。彼らは評論家と名乗っているにも関わらず何も分かってはいない」

 

 彼女らしくもない辛辣な酷評。銀は面白がるように笑い、続きを促した。

 

「私も予選から準決勝までのシービーの走りを見ていました。特に予選のカツラギとの勝負。あれを目にして何故、付け焼き刃などと言えるのか理解に苦しみます。勝利に固執して自由さを失ったなどと、どうしてそのような見方になるのか」

 

 ルドルフは静かに熱く語った。全く逆であると。シービーは追い込みに拘らなくなったのだ。戦術の幅を広げ、より自由に走るようになった。それがルドルフの見解だった。彼女の真剣な眼差しは、目の前にいる東条銀ではなく、ターフに立つ強敵を見据えて輝いている。

 絶対王者としての地位を手に入れたルドルフには、しかし慢心も油断も一切無い。銀は満足そうに頷いた。

 

「まあ私もルドルフとだいたい同じ意見だよ。逃げってことはないだろうが、今のシービーはどの位置から仕掛けてくるか分からない。私たちはレースが始まるその時まで、常にいくつかの選択肢を抱え続けなきゃならないってわけだ」

「はい。その迷いは少なからず走りに影響を及ぼすことになるでしょう。他のウマ娘にとっては」

 

 他、とルドルフは断言した。すなわち自分は違うと。シービーがどのように走ろうが絶対に動揺することはないと確信を持って告げた。

 

「私は、自分の最も強い走りを知っています。どんな状況になろうともそれを見失わず徹底するのみです」

「そこまで分かってるなら、トレーナーとして何も言うことはないね。頑張りなよルドルフ」

「はい」

 

 ところで、と銀は言葉を続けた。ふとした思い付きを気軽に話すような口調で。それでいて相手を核心を射抜くような鋭い視線で。

 

「一つ聞いておきたいんだが、ルドルフ、あんた誰のために走るんだい?」

 

 どこかで聞いたことのある質問だった。以前はなんと答えたのだったか。

 ルドルフは少し考えた後、先ほどとは違いやや力なく答えた。

 

「……わかりません。皆のため、これからのレース界のために走りたいという思いと、シービーとの対決を心待ちにする私欲的な思いがあって。どちらを優先させるべきなのか、今の私には……」

 

 悩むルドルフに銀は微笑んで、もう一つチョコレートを手渡した。

 

「なに、急いで結論を出すもんでもない。我武者羅に走っていれば自ずと分かることもあるさね。だから思い切り、後先なんて考えずに走ってくるといい」

 

 何気ない励ましの言葉。しかしことシンボリルドルフに対して、銀がこうも念を押して言うことは今までに無かった。

 故にルドルフは決して忘れまいとして「思い切り走れ」という言葉を胸の奥深くに刻み込んだ。

 

 

 

 

 真冬の東京レース場にかつてない大観衆が詰めかけていた。今日に限っては全国津々浦々から老若男女を問わず、コアなレースファンから普段はそれほどウマ娘のレースに興味のない層まで、多くの人々が集まって来ている。

 

 第十一レース、つまりメインレースに設定された決勝戦を目的に観客は続々と入って来ており、その来場者数はすでに前年の天皇賞・春にて京都レース場で記録された九万人を軽く超えている。

 優駿たちの頂点を決めるというふれ込み、そして一部では実現し得ないとまで言われた四度目のミスターシービーとシンボリルドルフの対決。この二つの要素が社会現象と言えるほどに日本全土を沸かせたのである。

 

「うわぁ、すっごい人数ですよ、カツラギ先輩」

「うん。予選の倍以上は観客いるね、確実に」

 

 カツラギエースもまた、チーム総出で客席の最前列に陣取り、レースの開始を今か今かと待っていた。後輩の一人は興奮のあまり落ち着かず、特大サイズのポップコーンを持たされて早る気持ちのままにモグモグと食べている。

 

「勝てますかね? シービー先輩」

「さてね。相手が相手だから」

 

 ターフの上に選手たちが出揃い始めている。一番乗りはシンボリルドルフだ。彼女が現れただけで会場からは爆発したような歓声が響く。

 カツラギの横で後輩たちがレースの予想を巡って侃侃諤諤の議論を重ねていると、その反対側からぬうっと黒沼トレーナーが現れた。

 

「先行策を取るならば、ミスターシービーにとって至極厳しい戦いとなるだろう」

 

 カツラギたちが黒沼トレーナーの方を向き、話に耳を傾ける。

 

「どういうことですか?」

「シンボリルドルフの走りは次元が違う。予選でうちがミスターシービーにやられたような不意打ちなら分からんが、手の内が割れている今は同じ土俵で戦うには難しいものがある、ということだ」

「じゃあ、シービー先輩は負けちゃうってことですか?」

「えーそれ困る! カツラギ先輩に勝ったんだから、決勝戦でも勝ってもらわなくちゃ」

「念を送ろう、念!」

「勝て〜勝て〜」

「まだシービー先輩入場してないけど?」

 

 両手を前に突き出して謎の念を送り始めたウマ娘たちを横目に、黒沼トレーナーはカツラギに聞いた。

 

「カツラギ。現在のミスターシービーと戦った者としてお前はどう思う、このレース」

「……トレーナーの言う通り、シービーの先行策がルドルフに通じるかは厳しいところだと思います」

「ふむ」

「しかしそれはあくまでシービーが先行で走った場合です。私は世間で言われているように、アイツが勝ちに拘って先行策を身に付けたとは思っていません」

「ではミスターシービーは従来の末脚勝負の差し、もしくは追い込みに戻して走ると?」

 

 そう聞かれて「どうでしょう」とカツラギ。シービーと走った彼女にも、そこから先の展開など予想しようもない。仮にシービーが追い込み策に戻ったとして、それですんなり勝てる戦いでもないだろう。結局のところレースに絶対は無く、蓋を開けてみるまで勝負の綾は分からない。

 

 しかし、とカツラギは言葉を続けた。

 

「このレースは勝ち負け以上の意味を持つ試合になるかもしれません。特にルドルフにとっては」

 

 どういう意味かと黒沼トレーナーが問おうとしたその瞬間、ルドルフが入場した時と同じか、それ以上に大きな歓声が上がった。誰が姿を現したのかは見るまでもなく明らかである。

 

「シービーの走りはなんて言うか、本当に自由なんです。走るのが楽しくて楽しくて仕方ないといった感じで」

 

 拍手喝采の中、堂々とターフに舞い降りた黒鹿毛のウマ娘を見ながらカツラギが言う。相変わらず真面目な顔をしてはいるが、その目はキラキラと輝いていて、まるで漫画のヒーローを目の当たりにした子供のようだった。

 

「そんな奴と全力でぶつかれたら、少なくとも、私は……」

 

 

 

 

 時間は少し遡り、選手控室でのこと。

 シービーが柔軟をこなしている部屋の外で、吉田と他数人の大人たちが話し合っている声がする。

 

 つい先ほど、アポ無しで取材を求めて記者がやって来たのだ。たまにこうした輩がいる。選手の集中力を欠くわけにはいかないので大抵はトレーナーが断りを入れるが、それですんなりと相手が引き退ることは少ない。

 彼らが聞きたがっているのは挑戦者としてのシービーの意見だ。王者シンボリルドルフにどう立ち向かうのか。三冠ウマ娘という肩書きの重みをどのように捉えているか。まだ一度も先着できていない現状をどう思っているか。

 それら興味本位の質問に試合を控えた選手のメンタルに対する気遣いは無く、吉田は取材陣を控室から締め出した。

 

 しばらく話し声が続いた後、ぞろぞろと複数の足音が遠ざかっていき、吉田一人がシービーの控室に戻ってきた。

 

「しつこかったがURAの職員に手伝ってもらって帰らせたよ。全く、ああいうのは今も昔もどこにでもいるなあ」

「ありがとねトレーナー」

「何の。それより身体はほぐれたかい、シービー」

「ばっちし」

 

 吉田が聞くと、シービーは笑顔で答えた。

 

「温まったしそろそろ行くよ」

 

 控室を後にして地下バ道に赴く。もう他のウマ娘たちはレース場に向かったのか、二人だけで歩くトンネル形の道は静かなものだ。

 

 歩くにつれて歓声が近付く。

 しばらくして吉田は立ち止まった。ここから先は神聖な不可侵の領域。勝ち上がってきたウマ娘のみが入ることを許される特別な舞台。見送り、声をかけられるのはその手前までだ。

 

「シービー、気負わんようにな。君は君の思うがままに走れば良い」

 

 吉田の言葉に振り向いたシービーは首を傾げ、ややあって「ああ、さっきの取材のこと?」と笑った。

 

「別に気にしてないよ。トレーナーが追い払ってくれたし、私はなーんとも思ってないよ」

「そうか。それなら良いんだが……」

 

 本人がそう言うのならと納得しつつも、どこか思い詰めた表情が消えない吉田にシービーが微笑む。こんなにも心を砕いてくれる人が側にいるのにどうして不安なことがあろうか。そんな意志の強さと温かさを込めてシービーは言った。

 

「あはは、逆にトレーナーの方が気にしてる感じじゃない。大丈夫大丈夫。せっかくの大舞台なんだしさ、もっと楽しんでいこうよ」

 

 その楽天的なセリフは、吉田にかつての菊花賞の出走前を思い出させるものだった。何か一つでも良い戦術はないものかと頭を捻っていた吉田に、シービーは言ったものだ。気楽に走って、それで勝ったり負けたりするくらいで良いと。

 目の前にいる少女は、実際にそうして三冠ウマ娘になってしまったのだ。何かに縛られることもなく、悠々と、ただ己を貫いた結果として。

 

「君は、何も変わらんな、シービー」

 

 吉田の言葉に「もちろん!」とシービーは胸を張る。

 

「ねえトレーナー、ここからでも聞こえるでしょ? ものすごい歓声が。あれを一身に浴びて熱くなってさ、その燃えた気持ちのままに走る。私は結局、それだけで良かったんだよ。三冠ウマ娘としてとか、追い込みの代名詞とか、自由に走らなきゃとか、そんなのはどうでもよくてさ。どんな風に走っても私は結局ミスターシービーなわけよ。他の誰でもない、唯一人のウマ娘」

 

 達観しつつも無邪気に笑うシービーに吉田もそれ以上何か言うことは無く、笑って手を振った。

 それに軽く手を上げて応え、シービーは踵を返して再び歩き出す。

 頂上決戦の舞台に向けて。すぐそこに待つ、因縁の相手の元へ。

 

 

———それにさ、誰に何を言われようと。

 

 

 URAファイナルズ芝中距離部門、決勝。

 その幕が開ける。

 

 

———レースが始まったら、そこは私たちの世界。でしょ?トレーナー。

 

 

 

 



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十六話:私たちの世界

 

 

 

『ついにこの日がやって来ました! URAファイナルズ芝中距離部門、決勝! 距離は2400メートル。コースも日本ダービーと同じ条件で行われます』

『優駿たちの頂点を決めるにはこれ以上なく相応しい舞台ですね』

 

 ファンファーレが鳴り止み、出走するウマ娘たちが続々とゲートに入っていく。ここまで勝ち上がってきた十八人の顔はそのどれもが精悍であり、発散される熱意は見る者に冬の冷たく澄んだ空気を陽炎で歪ませているような錯覚さえ与える。

 

『二番人気はミスターシービー。二枠三番での出走です』

『先行策に転向して安定感が増しましたから、この内枠は彼女にとって有利に働くでしょう』

 

 名前を読み上げられたシービーが観客席に向けて手を振れば、団扇やメガホンを持ったファンや横断幕を引っ提げて駆けつけた人々が沸き返る。

 その中に静かにこちらを眺めるカツラギエースの姿を見つけて、シービーは彼女に向けてウインクしてみせた。呆れたように顔を背けられる。シービーは予想通りの反応が返ってきたことに満足しつつ、一つ深呼吸をした。

 

『そして一番人気はやはりこのウマ娘、五枠九番シンボリルドルフ。静かにスタートを待ちます』

 

 観客を沸かせるシービーとは対照的に、ルドルフは腕を組んで目を瞑り泰然とした構えを取っている。彼女が既に高度の集中状態にあることは誰の目にも明らかだ。今にも放電現象が起こりそうなほど空気が張り詰めているのを、観客さえも肌で感じ取っている。

 

 トップクラスのウマ娘が2400メートルを走るのにかかる時間はおよそ二分半。たったそれだけの時間に彼女たちの努力と夢と覚悟の全てが凝縮されるのだ。

 

 全ての選手がゲート入りを完了する。

 その瞬間だけは誰もが息を呑む。瞬きすら許されない、痛いほどの静寂が流れる。

 

 

 緊張が極限まで高まった瞬間、ゲートが開かれ、弓から放たれた矢のようにウマ娘たちが一斉に駆け出した。

 出遅れは一人もいない。横並びでのスタート。

 

 徐々にそれぞれが己の位置を定めて縦に長い列が形成されだした時、ほとんどのウマ娘が何かを探すようにきょろきょろと左右を見回し始めた。

 彼女たちの探しものは前にも横にも無い。

 当然だ。それは最後尾に着けているのだから。

 

『ミスターシービーは後ろの方。後ろで脚を溜めています。この最終戦で追い込みのミスターシービーが帰ってきました』

 

 準決勝までで育てた先行のキャリアをあっさり捨てての最後方追い込み態勢。それに対して動揺したウマ娘が半分。もう半分は警戒しながらも乱れず自分の位置取りを保持することに徹している。

 その中でも一人、シンボリルドルフだけは全く後ろを振り返ることもなく集団の前の方で最適な位置をキープし続ける。

 

 2コーナーを抜けて向正面に入る。1コーナーの中程からここまで長い下り坂となっているが、それにしても全体のペースがやや速いことを後ろで見ていたシービーは察する。

 

 今、このレース展開を作っているのはシービーでもなければ、ハナを進む逃げウマ娘でもない。シンボリルドルフだ。

 彼女がいつでも抜け出せる好位置にいる。ただそれだけの事実が周りのウマ娘の緊張を高めてペースを早めていた。

 おそらくは無意識下での作用。トップ層のウマ娘をしてさえ精神力を消耗させられるその威圧感こそ、シンボリルドルフが真に皇帝たる由縁である。

 

 まるでルドルフを中心に強力な磁場が発生しているようだった。周囲を巻き込み、引き寄せ、いつの間にか全体を自分のペースに合わさせてしまう。

 単純な速い遅いでは片付けられない、勝負としてのレースでの強さ。

 

 シービーはその磁場から離れた場所で機を伺う。

 二、三人のウマ娘がシンボリルドルフを何とか押さえ込もうとしてかなり外側を走っている。巨壁の如く聳えるあの先行集団をぶち抜くための機会をシービーは息を潜めて探り続ける。

 

 

 直線が終わって3コーナーを曲がり始める。残す距離はちょうど1000メートル。すでにレースはその道程の半分以上を過ぎ、いよいよ佳境に入る。

 

 ここからは緩やかな長い上り坂が最終直線まで続く。東京レース場のホームストレッチは525.9メートルと長く、しかも入ってすぐのところに高低差2メートルの急な上り坂が待ち構えている。勝つためにはそこを抜けて尚、他を圧するだけの余力を残しておかなくてはならない。

 

 必要なのは好位置の堅持。最終コーナーを曲がり切るまでロスを減らしてスタミナを蓄え、しかし決して先頭から離され過ぎない。

 この優駿たちの中で勝とうとしたら、そういった立ち回りにならざるを得ない。

 

 そんな中、シービーは未だに最後尾から二、三番手あたりを走っていた。勝利を目指すのならば徐々に位置取りを上げて前の集団に食い込まなければいけない段階。

 

 しかしシービーには一つの思惑があった。

 

 心臓がうるさいくらい跳ねている。大胆な大仕掛けをするのはいつだって心が震える。ワクワクして、足にはとっくに火が点いていて、もう我慢なんて出来そうにない。

 

 シービーの口元に笑みが浮かぶ。

 レース前。まだ直撃インタビューの記者たちが来る前の時間、シービーはほんの少し吉田と戦術について話し合った。戦術とは言ってもあまり具体的なものでもなかったが。

 

 

 

「身体は十分にほぐしておくんだぞ。腕周りもしっかりな」

「そりゃそうするけどさ、他に「こう走れ」ってアドバイスとか無いの?」

「無いよそんなの。シービー。今の君は私が知るなかでも最高の選手だよ」

 

 吉田からの賛辞を軽く受け止めたシービーは「それじゃあさ」と思い付きを口にした。

 

「レースの中盤くらいでも、私が行きたいな〜って思ったら仕掛けちゃっていいわけ?」

 

 それは菊花賞を彷彿とさせる言葉だった。

 三冠がかかったあの時も、シービーは吉田に同じようなことを聞いた。どこで仕掛けて良いのかと。それに対して吉田は位置取りを少し上げてもいいという意味で「向正面からぼちぼち行っていい」と指示を出したのだった。

 二年越しに同じ質問をされた吉田老人は、何も悩むことなく笑って答えた。

 

「君が行けると思ったその時に行きなさい」

「ぼちぼち? それともガーッと?」

「どちらでも良い。心の赴くままに———」

 

 

 

 控室でのやり取りが脳裏に過った瞬間、シービーの瞳に炎が灯った。

 

 先頭までの距離は約17バ身。

 その遥か先、ゴールに狙いをつけてギアを上げる。一つ、また一つと僅かずつ、しかし確実に。吉田に背中を押してもらった、その勢いのままに。

 

———全力でかっ飛ばせ。

 

「了解!」

 

 残り1000メートル弱。

 ミスターシービーが猛然と進出を開始した。

 

『さあ第3コーナーを回って第4コーナーへ……ここで、ここで上がってきましたミスターシービー! まだゴールまでは距離がありますが現在中団の半ばほどまで上がってきております。いや、まだ加速する! もうスパートに入ったのでしょうか!』

 

 レース場内の注目が一斉にシービーに集中する。外からするすると順位を上げ、すでに先行集団を捉える位置まで来ている。

 

 中団後方で控えていた差しウマ娘の何人かか慌てた様子でシービーのあとを追い始めたが上手くついていけない。

 それもそのはずだ。アメリカのダートで鍛え込んだシービーの加速は質が違う。無闇について行こうとすれば確実に伸び悩んで無理が来て、やがては失速する。

 ただ一人疾走するシービーは、ついに大外から回り込む形で先行集団を抜き去って行く。

 

 ルドルフの側を通り過ぎる。

 彼女だけは他と違い、シービーの方を見なければ一切の動揺も見せない。恐ろしさすら感じるほど自分の走りに徹している。

 

 シービーもまたその場で張り合うようなことはせず、そのままの勢いで逃げているウマ娘に迫り、スタミナ切れで垂れてくるのを待たずして第四コーナーの走行中に追い抜いてしまう。

 

『ミスターシービーが前に出ました。信じ難い早仕掛け。後続も追い縋っていますが差は徐々に開いていっています』

『スタミナが持つか心配ですね。あれで掛かっていないとしたら驚きですが……』

 

 周りから聞こえてくる評価も、観客の野次や声援も、ここまで来ればどこ吹く風。芝がめくれるほどの蹴り込みで勝負を決めにかかる。

 

 しかしその快進撃を阻む足音が、後ろから聞こえ始めた。

 

『シンボリルドルフが行ったー! 残り三ハロン、ここで来ました皇帝シンボリルドルフ!』

 

 それは春の天皇賞の再現か。シービーと叩き合いになった相手こそ居ないものの、終盤になってからのルドルフの追い上げはまさにかつての天皇賞そのもの。

 

 絶好の位置とタイミングで飛び出した七冠の皇帝が背後に差し迫る。

 シービーの額に冷や汗が滲んだ。

 

 

 風が唸っている。既に息切れは始まっている。

 

 周囲からは十万人を軽く超える人々の熱狂的な歓声が響く。しかし今、それを一身に浴びて走る彼女にはもはや聞こえてすらいない。

 

 最後の直線を迎えるに当たって、上がってきたルドルフとの差は三バ身と余裕がある。

 

 しかしその差がまるで心許ないことをシービーは知っている。残り約500メートルの道のりが途方もなく遠く険しいことを、彼女は知っている。なにせ後ろから迫る相手は別格だ。

 

 同じ三冠の栄誉を手にしているというのに、彼我の間には笑ってしまうほどの差があった。今までに何度、苦渋を飲んできたことか。

 決して勝てないと思い込み膝を折るのに十分な敗北を重ねてきた。それでも今こうして遮二無二走っていることを彼女自身も可笑しく思っている。

 

 最終直線の難所、坂を駆け上がる。ルドルフとの差がさらに詰まる。等速ストライドを身につけて尚、皇帝の盤石な走りが上回るのか。

 

 風が唸っている。息はとっくに上がっている。

 激しく伸縮を繰り返す肺が痛む。ラスト1ハロンを示すハロン棒が目前に迫る。

 

 迫り来るルドルフとの差はすでに一バ身未満。じわりじわりと詰められている。あと少し粘れば、もうちょっとを駆け抜ければ辿り着ける栄光の頂があまりにも遠い。

 これまでの経験を鑑みれば負ける展開だ。確実に負けると、シービーの記憶がそう告げる。

 

(けど、それでも……)

 

 

 懸命に腕を振る。頭の中が真っ白になりスパークを起こす。限界に達しつつある足は今にも千切れてしまいそうだ。

 

『ミスターシービーここまでか!?』

 

 気配が真横に並ぶ。

 そうか、もうそこまで上がってきていたか。

 

 意識も朦朧とする中、シービーはふと視線を並んできたルドルフに向けた。

 そこに大した意図はない。どんな余裕顔で上がってきたのか気になっただけのこと。

 

 霞む視界。横を見て。ルドルフの横顔を見て。

 

 

 シービーは瞠目した。

 

 

 そこには余裕など一欠片も無かった。

 必死に、荒い息を吐いて、血眼になるほど目を見開いて。その端正な顔を歪ませて、ルドルフは我武者羅に走っていた。

 なりふり構ってなどいない。皇帝の威厳も七冠バの誇りもかなぐり捨てて、ただ一人のウマ娘として全身全霊で駆けている。

 

(……そうか、勝ちたいんだね、ルドルフ)

 

 静止したように感じられる時の中で、シービーは息を深く吸った。

 

(私と全力で戦ってくれるんだね)

 

 胸に熱いものが宿る。もう燃え尽きたかに思われた何かが火を吹いて蘇り、心の臓腑を拍動させる。

 

(嬉しいよ。走ろう。一緒に走ろう。魂から焼き付いて離れない、最高のレースをしよう)

 

 ギアが上がる。

 有り得ざるもう一つの段階に移行する。

 

 それはスピードの向こう側。

 ウマ娘の可能性の極致。否、そこを超えた先にあるもの。

 

 シナプスが弾け、インパルスが走る。

 迸る想いが心臓を熱くする。沸騰しそうなほどのパワーを秘めた血液が押し出され、体の隅々に巡る。

 大腿を通りつま先にまで達したそれはシービーの全細胞で爆発的な燃焼を起こし、全てが、加速する。

 

「行くよ、ルドルフ!」

 

 大地を弾ませるようにその黒鹿毛は飛んだ。或いは、天を翔けるように楽しげに。

 

 今、この瞬間、この土壇場で。

 誰よりもレースを愛する天衣無縫のウマ娘、ミスターシービーが蘇った。

 

『並ばない、並ばない! ミスターシービーさらに加速する! 並びかけたシンボリルドルフを抑え込んでまだ伸びる! 皇帝を相手に三冠バの意地を見せるかミスターシービー!』

 

 

 ルドルフは必死に食らいつきながらも、僅かに前にいるシービーの背中を見つめている。

 

 全身の細胞は狂喜していた。前へ進めとただそれだけを命じている。

 前へ、前へ、ひたすらに前へ。

 

 たったそれだけのことが堪らなく楽しい。前を追いかけて全力で走るこの瞬間が何物にも代えがたく愛おしい。

 ウマ娘としての幸福、その最たるもの。レースの最中だというのに、ルドルフの心はそんな勝敗など度外視した思いで一杯になった。

 

 集中力が外界を遮断する。真っ白になった世界の中でシービーだけが色鮮やかに駆けている。それに引っ張られるように自分も全力で走っていた。

 

 眩しい太陽の光を見るようにルドルフの瞳が細まる。

 胸に満ちるのは焦りでも怯えでもない。可能性という名の希望を追いかけ、心は生まれたてように無垢に洗われる。

 

 

 

(ああ、そうだシービー。君はいつだってそうだったね)

 

 

 

 彼女はその脚で常識を覆し、闇を吹き飛ばす。

 

 何よりも単純で、明るく、楽しく、輝いている。

 

 

 

(私にとって君は———)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゴール板を先頭で駆け抜けたのは、ミスターシービー。

 

 その瞬間。満天下のもと、優駿たちの頂点が誕生したのだ。

 

『ついに、ついについにやり遂げました! URAファイナルズ決勝、そして四度目の三冠ウマ娘対決を制したのはミスターシービーです! 会場からは今、割れんばかりのシービーコールが鳴り響いています!』

 

 大気を震わせる歓声の中、シービーが腕を振り上げる。

 吉田も、東条銀も、カツラギエースも。皆が皆、笑顔で拍手を送り、シービーの勝利を祝福していた。

 

「おめでとう、シービー」

 

 賛辞は観客席からだけではなく、後ろからもかけられた。シービーが振り向けば、自分と同じくまだ肩で息をしているルドルフが、清々しい微笑みを浮かべて拍手を送っていた。

 

「素晴らしい走りだったよ。まさに天衣無縫かつ勇猛果敢。あまりの気迫に総毛立ってしまったほどだ。文句なく君がこの舞台の王者だよ」

「ありがとう。ルドルフも凄かったよ。並ばれた時、もう駄目かもって思ったくらい」

 

 二人が握手を交わす。シービーが差し出した手をルドルフが取り、柔らかく握った。

 

「いいや、私ももっと努力しなければと思ったよ。研鑽を積み更なる高みを目指すとしよう」

 

 話すうちに、ルドルフの唇がわななき始めたことにシービーは気付いた。

 

「だから……だからね、シービー……これから……」

 

 気丈に振る舞っていたルドルフの声が震える。握る手はいつの間にか固く、熱い涙が零れて頰を伝う。

 

 観衆が見守る中、恥も外聞も無く、ルドルフは鼻を啜って声を上げ、幼子のように泣いていた。

 

「次は、私が勝つから……! だからまた、一緒に……!」

「うん、うん。何度でも走ろう。大丈夫だよ。私はずっとターフの上にいるから」

 

 たった今、友情よりも深い絆で結ばれた二人を、観客たちの拍手喝采が讃える。

 それはゴールした瞬間よりもさらに大きく、しかし温かな慈しみに満ちたものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 ウマ娘が走る意義とは何か。

 なぜ彼女たちは走ることに幸福を見出すのか。

 

 その普遍的な答えは未だに見つからず、ウマ娘の数だけ存在する運命が、千差万別の思いが、今日もターフを駆けている。

 

 しかしインタビューで何故走るのかと聞かれた際、ミスターシービーは満面の笑みでこのような答えを残している。

 

「走る理由? そんなの、私がミスターシービーだからに決まっているでしょ」

 

 

 



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エピローグ:道は続く

 

 

 

 トレーナー室に温かな陽光が差している。デスクの上にあった物はそのほとんどが片付き、壁際には段ボールが積まれている。腕を捲った吉田老人は自分の物の整理を一通り終えたようで、満足そうに頷いた。

 

「へいトレーナー。元気してる?」

 

 ノックも無しに扉を開けてミスターシービーが入ってきた。トレセン学園のジャージを着て、今しがた走ってきたのか息を弾ませている。

 

「シービー、どこに行っていたんだ。残っているのは君の物ばかりだよ。もうじき引き払うんだからさっさと片付けてしまいなさい」

 

 吉田の小言を聞き流しつつ、シービーは忘れてきたボトルに口をつけて喉を潤す。

 

 つい先日、二人は正式に契約を解除した。

 吉田の体力の衰え、ドリームシリーズに上がったシービーのチーム移籍。そうしたいくつかの理由が重なっての別れ。今のシービーならば何処へ行ってもちゃんとやっていける。吉田もそう信じているが故に、円満な離別となった。

 

 そうと決まればいつまでも部屋を占拠しているわけにもいかず、長年使い続けてきたトレーナー室を引き払うことになった。

 レース関係の資料やデータ集、吉田が講義に使うための書類などで埋め尽くされていた棚も今は分解されて部屋に存在しない。

 

「いやあ、こうして片付いてみると寂しいもんだねえ」

「何を言っとるか。君の小物は全然片付いていないだろ」

「やる気を出せばすぐよ、すぐ」

 

 シービーはひょいと吉田の側にある空き段ボールを取り、そこへ乱雑にぽいぽい物を詰めていく。

 分別も何もあったものではない。隙間だけを埋めるように詰め込んで「はいおしまい」と手を叩く。十分にも満たない早技であった。

 

 教え子のあまりの大雑把さに、走ること以外も教えるんだったと吉田は嘆息する。

 

「あれ、トレーナー。私の写真どこいったか知らない?」

「これだろう。床に落ちとったぞ」

 

 シービーに聞かれるのを予想していたのか、吉田はサッとそれを取り出して手渡した。

 

 ラミネート加工された一枚。そこにはかつての第一回URAファイナルズの時に撮影した、ミスターシービーとシンボリルドルフが写っている。

 優勝レイを肩にかけたシービーは満面の笑顔で、ルドルフは取材以外で誰かと写真を撮るという慣れない行為に照れながらも微笑んで。

 青々としたターフを背にしてどちらも実によく撮れている。

 

「やー懐かしい。めっちゃ汗かいてるし、冬に撮ったようには見えないなあ」

「それはいいが、誰かと走っていたのを抜けて来たんじゃないのか。早く戻らなくて大丈夫かい」

「ああうん。そうなんだけどさ。サンデーがこの写真見たいって言うからボトル取りに来たついでに持って行こうかなって」

 

 シービーの言うサンデーとは、言わずもがなサンデーサイレンスのことである。

 アメリカのクラシックレースで強敵イージーゴアと鎬を削りながらも二冠を達成した彼女は、翌年のBCクラシックさえも制した。

 

 BCクラシックは芝ダート混合の国際ランキングで常に最上位の格付けにあるレースだ。肩を並べるのはフランスの凱旋門賞やイギリスのインターナショナルステークスや日本のジャパンカップなど、世界的に名高いレースばかり。その最上位に他のダートレースは名を連ねない。

 つまりBCクラシックに勝つということは、ダートの世界チャンピオンになることを意味する。

 

 そうしてアメリカの誇る英雄となったサンデーだが、つい最近何を思ったのか海を跨いで日本にやって来た。しかも中央トレセン学園への留学。

 まるで帰化でもするような勢いで日本に馴染み、カタコトの日本語でシービーを始めとして誰彼構わず模擬レースをふっかけている。今や中等部でも高等部でも話題に上がる有名人だ。

 

「サンデーサイレンスと併走か」

「そうそう。でもサンデーだけじゃないよ。元々はカツラギと走る約束してたところにあの子が飛び込んで来たわけ」

 

 カツラギエースもずっと現役を続けている。それどころか、シービーとルドルフがドリームシリーズに参戦したのを機にさらに勝負に熱を上げ、今も最前線を駆け抜けている。

 

「カツラギにはこの前のウィンタードリームでしてやられたからね。ルドルフもだいぶ悔しかったんだと思うよ。今日はリベンジだって言って燃えてるんだ」

「おいおいシービー。まさかルドルフまで飛び入り参加かね」

「もちろん。仲間はずれはナシでしょ」

「全く……そんなドリームマッチが野良試合で行われるとURAが知ったら、向こうのお偉方は卒倒してしまうだろうなあ」

 

 何でもないことのように笑って言うシービーに吉田は呆れて肩をすくめる。

 

 外からシービーを呼ぶ声が聞こえる。訛りの抜けない喋り方はサンデーサイレンスのものだ。レースの主役がなかなか戻ってこないことに痺れを切らして呼びに来たらしい。

 

「ヤバいヤバい、噛まれちゃう。じゃあひとっ走り行ってくるよ、トレーナー」

「ああ。いってらっしゃい」

 

 手を振ってシービーが元気よく飛び出ていく。騒がしくも楽しげなウマ娘たちの声が遠ざかっていくのを、吉田は心地良さそうに聞いていた。

 

 

 空は快晴。

 春の風が新緑の香りを連れ、薫風となって吹いている。

 

 いつも、何処でも、何度でも。

 風も音も、光さえも追い越すように、軽やかに。

 

 ミスターシービーは今日も走っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 
これにて完結です。最後までお読みいただいた皆様、本当にありがとうございました。

【以下、言い訳垂れ流し】

本作はタグや八話『誰よりも!』の前書きにある通り、ピンポンというアニメをオマージュしたものです。
オマージュと言うか、一部はほぼパクリです()
そりゃ普通はオリジナルがベターだけど、疑いようのない正解が存在しちゃってるから……。それを使わずに格落ちすると分かっていながらも突き進めるほど強くないと言うか……。
はい、まあそんなこんなで、私の実力のみで書き上げられたとは言えない作品です。

最後に、もし本作を気に入ってくださった方の中にピンポンを観たことがない読者様がいましたら、是非とも観ていただきたい。
絵にクセはありますが慣れればそれも味。話のクオリティは唯一無二。ウマ娘のアニメ(特に二期)の熱いスポ根要素に惹かれた人ならば必ずや琴線に触れることでしょう。
同士が欲しいんじゃ(本音)

ではまた。
今度は前作のオリジナル作品『廃れた神社の狐娘』の続編を作っていこうかと思いますので、良ければそちらもよろしくお願いします。


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