魔女狩り聖女 (甲乙)
しおりを挟む

◆◇ 登場人物 ◇◆

 本作の主な登場人物を簡単に紹介します。ネタバレはありません。

※イラスト協力:村人JJ様
 氏には本作の二次小説も書いていただけました。

【二次創作】白聖女と黒騎士【魔女狩り聖女】
https://syosetu.org/novel/290702/

 こちらは本編のネタバレを含みますので、ご注意ください。


 

旧聖都ポエニスの人々

 

ポエニスはカエルム教国の中央に位置する、かつての聖都である。

激戦と惨禍により聖都の座を追われたこの街は、今や魔女狩りの最前線として知られている。

 

 

レーベン

――貴公を、狩るぞ

 

主人公。

魔女狩りを生業とする「騎士」の一人だが、聖女を持たない異端者。

聖性の恩恵が無い為に常人の域を出ず、故に魔女狩りの為には手段を選ばない。

彼がシスネと出会った時から、この物語は始まる。

 

【挿絵表示】

 

 

シスネ

――(きたな)い。それでも騎士ですか

 

ある夜にレーベンと出会う白髪(しろかみ)の女。

魔女狩りを生業とする「聖女」の一人だが、騎士を持たない異端者。

聖都からの異動後、不本意ながらもレーベンと魔女狩りを共にすることとなる。

自身のことを多くは語らず、謎が多く複雑な女。

本名はシスネレイン。

 

【挿絵表示】

 

 

ライアー

――おう、死ぬのは御免だからな

 

レーベンの数少ない友人。カーリヤの騎士にして幼馴染でもある。

ポエニス騎士の中でも指折りの実力者で、鍛えあげた肉体そのものを武器とする。

苦労人。

 

 

カーリヤ

――待たせたわね、まだ生きているかしら?

 

レーベンの数少ない友人。ライアーの聖女にして幼馴染でもある。

輝くような美貌と豊麗な肢体の持ち主で、聖性と長銃の扱いにも長けた実力者。

世話焼き。

 

 

アルバット

――使い手に阿った弱化調整(デチューン)なぞ愚行だよ。だいたい何も面白くないじゃあないか

 

機械仕掛けの眼を持つ技術者。

変人揃いの技術棟の中でも穎脱(えいだつ)した変人にして天才。あるいは狂人。

実験の見返りとして、レーベンに様々な武器道具を提供する。

 

 

ヴュルガ騎士長

――貴様(おまえ)たちが何を考えようと、(おれ)にはどうでも良いことだ

 

ポエニス教会を統括する、騎士たちの長。

極めて冷静かつ冷酷。その言動から感情は一切感じられない。

 

 


 

 

聖都グリフォネアの人々

 

魔女禍の蔓延の後につくられた、新たなる聖都。

教会を主軸とした、聖女と騎士の街でもある。

 

 

エイビス

――悪いことは言わん、その女には関わらないことだ

 

聖都でも珍しい女の騎士。

見習いを終えたばかりで魔女狩りの経験こそ無いが、才に恵まれている。

シスネとは何らかの因縁があるようだ。

 

 

シグエナ

――聖女なんて、ほんと割りに合わない役目(しごと)ですよねー

 

エイビスの聖女。

十数年に渡って魔女狩りを続けてきた歴戦の手練れだが、それ故に歪んでもいる。

過去に三人の騎士を介錯してきた。

 

 

イグリット聖女長

――皆さん、魔女狩りの時間です

 

聖都の大聖堂を統括する聖女たちの長。

その姿を直に見た者は少ない。

 

 


 

 

その他の人々

 

カエルム教国には様々な人々がいる。

誰もが魔女禍と隣り合わせに、いつか降りかかる悲劇を忘れながら生きている。

 

 

ミラ

――あなた、聖女さん?

 

魔女狩りの中でレーベン達が出会う、幼い少女。

年端もいかない子どもだが、その瞳はひどく暗い。

父と姉の三人で暮らしているらしい。

 

 

ユアン

――出ていけ、ここは俺達の家だ

 

ミラの父親。

聖女と騎士に対して敵意を抱いている。

二人の娘がいるらしい。

 

 

 

 

レグルス

――僕を、貴女の騎士にしてはくれないだろうか

 

故人。

 

 

 

 

 

 

 

 

ドーラ

――■■■■■━━━━

 

???

 

 

 

 

 

 

 

 




 この他、幾人かの人物あるいは人外が登場します。









 おまけ「聖女おっぱいマウスパッド」

【挿絵表示】


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

序章 聖女なき騎士
白聖女


 まったく聖女らしくない女だった。

 月明りに浮かびあがる、真っ白な長い髪。纏っている物こそ聖女の装束だが、その上から巻かれた何本ものベルトがほっそりとした体を締めあげ、その全てに様々な武器が括りつけられていた。短剣に短銃、それはまだどの聖女でも持っている物だが数がおかしい。見えただけでもそれぞれ三つ以上持っている上に、腰のベルトに連なるのは炸裂弾と焼夷弾、更に背中には長銃まで担いでいる。

 荒く息を吐きながら震える手で弾薬を装填している聖女に、黒髪の騎士――レーベンは声をかける。装備よりも、ずっと気になっていたことがあるのだ。

 

「貴公、騎士はどうしたんだ?」

 

 聖女と騎士は一対の存在だ。契りを交わした時から常に生死を共にする。どちらかが役目を降りるか、あるいは死ぬ時まで。この「狩り」の中で聖女が一人でいるとすれば、それは騎士が死んでひとり逃げているということだが、彼女はどうもそうは見えなかった。

 ガチン、と。乱雑に弾倉を戻した聖女がやっとレーベンを見る。その瞳は、夜空のように黒かった。

 

「……あなたこそ、聖女はどうしたのですか」

 

 澄んだ声に聞き惚れてしまったが、痛いところを突かれた。レーベンに聖女はいない。死んだのではなく最初からいないのだ。

 故に、こうして負傷した体の治療も「薬」に頼るしかない。雑嚢から取り出した再生剤の蓋を開け、容器から突き出た針を動かない足に突き刺す。これで三本目。副作用が怖いが仕方ない。

 続けて武器の状態も確認する。刃こぼれした片手剣はその場に捨て置き、背負っていた斧を手にした。残りの武器の数も心許ない。聖女がいればこんな面倒とも無縁なのだが。

 横目で隣の聖女を見れば、こちらに背を向けていた。雑に束ねられた白い髪が尾のように揺れている。隠れていた岩から顔を出して「敵」の様子を見ているのかと思ったが、様子がおかしい。

 

「それに、なぜ裸なのですかっ」

「下は履いているんだが」

 

 鎧はとっくに破損し、その下の騎士装束も襤褸(ボロ)布になって脱ぎ捨ててしまった。ズボンが無事で良かったと心底安心する。白髪から覗く、月明りだけでも分かる程に赤い耳。潔癖なことだ。

 

「そういう問題じゃ――」

 

 

『お父さん』

『お父さん、どこにいくの』

『お父さん、お父さん』

 

 

 澄みきった森の空気にその女の声はよく響いた。まだ年若い女の声。そこに下手糞な弦楽器のような雑音を混ぜれば、こんな声に聞こえるだろうか。それに加え、草を踏む軽い足音と、土を踏みしめる重い足音が同時に聞こえてくる。聖女が息を飲み、短銃を両手で握りながら身を固くする。

 レーベンもようやく動き出した足で立ちあがった。まだ感覚は戻ってきていないが、まあ何とかなるだろう。立ち上がって、まず口を開いた。

 

「なあ貴公、貴公」

 

 返事は無言の平手だった。頬を張られるように口を塞がれて、間近に迫った黒い瞳に睨みつけられる。「静かにしろ」と、唇の形だけで伝えてきた。

 

『どこにいったの?』

『お父さん、ねえ』

『どこにいくの』

 

 女の歪んだ声は徐々に大きくなっていく。聖女にひとつ提案があったが、その時間は無いらしい。諦めて斧を握る。口を塞いだままの手を舐めたらどんな反応をするのかと、(よこしま)な気持ちが湧いてきたところで白い手は離れていってしまう。もったいないことをした。聖女の肩を軽く叩いてから、レーベンは岩影から飛び出した。

 

『お父さん、そこにいるの』

 

 月明りだけでは森の奥まで見通せない。相手の姿もまだ見えない。声だけを頼りに走る。

 

『お父さん』

 

 声が近い。おそらく、あと二十歩ほど。まだ姿は見えない。背を低くして走るレーベンの姿も、向こうには見えては――。

 

『どこ!』

 

 声と共に、かすかな金属音と、弦が撥ねる音と、矢が空を切る音を聞いて。

 

「ぬがっ」

 

 体を横に転がす。回る視界の中で、地面に突き刺さる矢。飛来する矢は見えなかった。運が良かっただけ。故に次は絶対に撃たせてはならない。転がる勢いのまま立ち上がり全力で走る。二射目がいつ来るかなど分からない。それが十秒後だろうと一秒後だろうと、レーベンにできることは間合いを詰めることしかない。

 

『どこにいったの!』

『そこにいるの!』

『お父さん! お父さん!』

 

 草を踏み散らして、木の根を飛び越えて、大きな木の影を抜けた先で、月明りに照らされた相手の姿をレーベンは見た。

 

 まず目につくのは、ぬらぬらと(うごめ)く黒い泥。

 不定形のそれから覗く体は女特有の丸みを帯びているが、その所々から変形した白い骨が突き出ている。特に後ろ腰から伸びた二本の骨は泥を血肉のように纏い、一対の後ろ足を成していた。異形と化した下半身に対して、その上はまだ人としての面影を残している。

 

 ()()

 レーベンは狩りの対象と、ようやく対峙した。

 

『お父さん、そこにいたの』

 

 四足二腕。半人半獣。そんな姿となった魔女がレーベンに顔を向けてくる。だがその頭はもう泥に覆われ、どんな表情をしているのかも分からない。ただ肥大化した左目だけがギョロギョロとレーベンの姿を捉えていた。この暗がりで遠距離からの狙撃を可能とした秘密はあれだ。暗かろうと遠かろうと、こちらの姿は丸見えに違いない。

 魔女が新たな短矢(ボルト)を装填した石弓(クロスボウ)を向けてくる前に、レーベンは斧を振り上げていた。遠距離は完全に魔女の間合い。断じて距離を離してはならない。今ここで狩る。

 だが、そう考えていたのは相手も同じだったか。

 斧は虚しく空を切り、魔女の姿が消える。視線だけで追えば、泥の後ろ足で力強く地面を蹴り飛ばしながら暗がりに走り去っていく魔女の姿が見えた。

 

 ――まあ、そう来るか

 

 これで仕切り直し。またレーベンは一方的に狙撃されながら後を追わなければならない。泥沼の消耗戦。本来の聖女と騎士であればむしろ有利な戦いだが、ここに聖女はいない。

 だが味方がいないわけではなかったか。

 暗い森の奥で火色の閃光が散る。それにほんのわずかに遅れて銃声が鳴り響いた。その音が鳴りやまない内にレーベンはまた走り出す。

 

 

 

『お父さんっ』

『おどっ、おどうっ!』

 

 パン、パン、と等間隔で鳴り響く銃声と、魔女の悲鳴。銃声の発生源はすぐに見つかった。暗い森の中で火薬が放つ光はよく目立つ。

 太い木から半身を出して短銃を撃ち続ける白髪の聖女。胴体を狙った二連射、基本に忠実な教本通りの射撃。六発目が命中するのと、魔女が石弓を構えたのはほぼ同時だった。

 巨大な左目の瞳孔が蠢き、正確無比な矢が聖女に放たれる。だが的である聖女は既に木に身を隠していた。どんなに正確であろうと石弓は石弓、太い木を貫くほどの威力は持っていない。矢が幹に突き刺さると同時に、反対側から聖女が短銃を突き出す。装填するには早すぎる、おそらく別の銃に持ち替えたのだろう。懲りずに魔女が短矢を矢筒から抜くが、そうはさせられない。

 

「ぬんっ」

 

 まず足を潰す。振り上げた斧が今度こそ魔女の後ろ足に叩きこまれた。見た目以上に硬い泥を抉り、中心の骨を半分断った感触。聖女がいれば一撃だったが、いないものはいない。逃げられない内に斧頭を踏みつけて骨を断つ。

 

『ああ゛っ! おどうざん、お父ざんっ!』

 

 痛みに悶えているなら好都合。すかさず残りの後ろ足も断つが、それで斧の刃は限界を迎えた。聖銀(せいぎん)の斧も聖女の力――聖性(せいせい)を通さなければこんなものだ。むしろ鉄より脆い。だから一撃で狩ってやることもできない。

 

「悪いな」

 

 薄っぺらな謝罪を口にして、魔女の手からこぼれ落ちた石弓を蹴り飛ばす。人の姿に近くなった体を踏みつけて、刃こぼれした斧を頭めがけて振り下ろした。

 

 閃く鈍色の光。砕けたのは斧の方。

 

 一瞬の怯みを突かれ、足を払われる。転倒し、起き上がろうとした時にはもう魔女は獣のような身のこなしで駆け出していた。聖女に向かって。

 

『たすけて! お父さん!』

 

 意味の無い叫びを向けられても聖女は冷静に見えた。両足を広げ、両手で握った短銃をピタリと魔女に向ける。だがそれは。

 避けろと、声をあげる間も無かった。耳障りな金属音と共に銀色の短銃が宙を舞う。魔女の右手に握られた、鈍色の山刀。

 

「あっ!」

 

 押し倒される聖女。眼前に迫る山刀を握る魔女の手を、聖女の手が掴み止めていた。その手はぶるぶると震え、刃は徐々に下がっていく。単純な体格と筋力の差だ。女としては太い魔女の腕に比べて、聖女のそれはあまりにか細い。

 そうはさせられない。

 

「なあ、おい」

 

 後ろから声をかければ、おそらく反射的に魔女は振り向いた。その左目に、右手を突きこむ。

 

『おどうぁぁ――――っ!』

 

 固いような柔らかいような、巨大な眼球を掴んだ感触にレーベンは口を歪めた。強化剤で筋力を(かさ)上げした右手に全力を注ぎ、握りつぶす。

 魔女の絶叫が声量を増し、滅茶苦茶に振り回される山刀を寸でのところで避けた。悠長にはしていられない。早く止めを。

 何か武器は無いか見回し、聖女の背中に括りつけられた長銃が目に留まる。引き抜こうとして、だが金具が外れない。聖女が何か言っているが、もう時間がない。仕方なく聖女ごと抱きかかえるようにして長銃を魔女に向ける。

 祈りの言葉より先に、引き金を弾いた。轟音と共に放たれた散弾が魔女の頭を吹き飛ばす。潰れた巨大な左目も、頭を覆っていた黒い泥も、すべて吹き飛んだ。残ったのは口と、右目だけ。

 

『お、とう、さ……』

 

 倒れ伏した魔女の残った口が最期の言葉を遺し、残った右目からは黒い泥が涙のように流れていた。

 すぐに長銃のレバーを引いて、次弾を装填する。銃口は魔女から外さない。そのまま十数えても動き出さないことを確認し、ようやくレーベンは息を吐いた。

 だが胸元に熱を感じて視線を下げる。そこにはレーベンの胸板に顔を埋める聖女の、震える白い髪と赤い耳が見えた。そういえば上半身はずっと裸だったことを忘れていた。よく無傷で切り抜けられたものだ。だがさすがにこの体勢はまずいのではないか。そう、思い直して。

 

「悪いな」

 

 薄っぺらな謝罪と、聖女の平手打ちはまったくの同時だった。

 

 

 ◆

 

 

 森を進んだ先に建つ山小屋。そこに三人分の死体があった。聖女と騎士、そして魔女の犠牲になった猟師の男。その内、猟師の死体は狩られた獣のように解体され、騎士はその最中で放置され、聖女だけは唯一きれいな状態を保っていた。

 暗い森の中で、()せ返るような血臭が充満している。もちろん気分の良いものではないが、この程度で吐いていては騎士など続けていられない。ランタンを手に死体を検めている聖女も、顔を(しか)めはしても狼狽(うろた)えた様子は無かった。

 

「お父さん、か」

 

 バラバラになった死肉の傍に置かれていた猟師の頭を照らしながら、レーベンは呟く。この魔女狩りの前に近隣の村で集めた情報によれば、森の山小屋には猟師の父娘(おやこ)がいたはずだ。ならば娘はどこにいったというのか。もう今更、考えたところで仕方のないことではあるが。

 同じく転がされている騎士の顔に見覚えは無かった。眉間に突き刺さった矢から、あの魔女を狩ろうとして返り討ちにあったのだろうと推測できるだけ。最後に、聖女の死体を見ていた聖女に声をかける。

 

「知り合いか?」

「……はい」

 

 そういえば、聖都(せいと)から増員が派遣されるという話を聞いた気がする。この二組、正確には一組と一人がそれだとすれば辻褄が合う。小さく祈りの言葉を紡いでいた聖女が、ひとつ頷いてから話しだした。

 聖都からの道中、立ち寄った村で魔女出没の話を聞いた。教会への依頼はまだ出されていなかったが、被害が増える前に狩ることにした。二手に分かれて森に入り、だが見つけた時にはもう手遅れだったのだと。

 

「諦めて、自決したのでしょう」

 

 死んだ聖女の胸元は血で赤く染まっていたが、矢は刺さっていない。その右手に握られたままの短銃を見るに、騎士が倒れた直後に自決したと考えるのが自然だろう。聖女が持つ短銃の、()()()使()()()だった。

 聖女と騎士は一対の存在。契りを交わした時から常に生死を共にする。この聖女が自決したのは騎士に対する信頼の証だったのか、それとも魔女に(なぶ)り殺されることを拒んだのかは、もう分からないが。

 どちらにせよ、この二人は最後まで聖女と騎士であったのだ。レーベンと、この白髪の聖女とは違って。

 

 

 

 木々の隙間から光が差し込んできていた。夜明けが近い。死んでいない方の聖女の横顔を眺めながら、レーベンは遂に切り出した。

 

「俺を、貴公の騎士にしてはくれないだろうか」

 

 聖女が、ゆっくりとレーベンを見る。

 朝日に照らされた髪と肌は輝くように白く、それに対して瞳は吸い込まれそうなほどに黒い。清貧を現す灰色の装束と相まって、その姿は白黒(モノクロ)画のようで、どこか病んだ印象すら覚えるほどの、美しい聖女に見えた。

 端的に言えば、一目惚れだったのだ。

 

「俺の、聖女となってはくれないだろうか」

 

 

 

「お断りします」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ポエニスの聖女と騎士

「まさか、あの流れで断られるとは思わなかった」

本当(マジ)かお前、今度はいったい何やらかしたんだ、お前」

 

 旧聖都ポエニス。その北端に位置する教会の食堂で、レーベンは同僚と朝食の席を共にしていた。

 精悍な顔に好奇心と呆れを浮かべている茶髪の偉丈夫――ライアーは、レーベンの数少ない友人の一人でもある。何をやらかしたと、その友人に聞かれてレーベンは首を捻った。

 二日前、いつものように魔女狩りの依頼を受け、いつものように一人で現地の森に向かった。そしてまたいつものように一人で魔女を狩り、だが装備の殆どを失った上に負傷し、這う這うの体で岩陰で休んでいたところ、あの白髪の聖女が転がり込んできたのだった。

 同じ森で二体の魔女が同時出現。完全な偶然、そして悪夢だ。あの村も教会に依頼を出す前に聖都から来た騎士と聖女が幸運にも村に訪れた。結果として迅速に魔女狩りは成され、被害は最小限で済んだと言えるだろう。魔女二体など、場合によっては村ひとつ消えてもおかしくはなかったのだから。

 

「まったく心当たりが無いな。そもそも俺は彼女の前で果敢に魔女を狩ったはずだ」

「一応聞いておくけどな、ちゃんと服は着てたか?」

「下は履いていたとも」

 

 ライアーはパンを飲みこんだ後、深く溜息をついて椅子に(もた)れる。騎士らしく鍛えあげられた大柄な体が、丈夫なはずの椅子をギシギシと鳴らしていた。

 

「お前って、腕はまあまあの筈なのに、なんでこう、その……馬鹿なんだろうな」

「半裸か。半裸なのが駄目だったのか」

「当たり前だろ」

 

 本来、聖銀で造られた武器と鎧は聖女の聖性を流すことで修復される。肉体の傷も同様だ。それによって、騎士は体の負傷も武具の損傷も気にせず戦い続けることができる。だがレーベンに聖女はおらず、魔女狩りの後は常に傷だらけであった。しかも半裸だ。

 

「貴公は良いな。傷も治る、武器も直る、半裸にもならん。聖女さまさまだ羨ましい」

「まあ助かってはいるけどよ、でもあのじゃじゃ馬と四六時中いっしょにいるってのはなかなか……」

「誰が、じゃじゃ馬ですって?」

 

 カツン、と靴の高い踵が鳴らす音に顔を向けると、長身の女がレーベン達を見下ろしていた。

 波打つ金髪に切れ長の碧眼。濃い化粧と、それを活かせるだけの美貌を持った派手な女であった。灰色の装束は彼女もまた聖女の一人であることを示しているが、際どい位置に入れられた切れ込みと大量の装飾品によって、もはや娼婦のドレスのような有様である。

 

「カーリヤ、お前またそんな恰好で……」

 

 派手な聖女――カーリヤの姿を見たライアーが頭痛を堪えるように眉間を押さえる。この男、軽薄そうに見えて案外堅いところもあるのだ。己の騎士のそんな姿を見ても、カーリヤは気にした様子もなく椅子に腰かける。長いスカートの切れ込みから覗く長い脚を悠然と組むと、近くの席に座る少年のような騎士が顔を赤くしていた。気持ちは分かるのだが、隣にいる少女のような聖女が表情を険しくしていることにも気付いた方が良いのではないだろうか。

 

「で? レイがまた振られたの?」

 

 どこから話を聞いていたのか、意地の悪そうな笑みを浮かべたカーリヤが身を乗り出してくる。美貌と同じぐらいに存在を主張してくる胸の膨らみを眺めつつ、レーベンは昨夜のことをもう一度話した。

 

「まったく心当たりが無いな。俺は常に騎士らしく振舞っていたはずだ」

「女の胸をじろじろ見ながら話す騎士とか、世も末ね」

 

 ひどい暴論であるとレーベンは内心で憤慨した。見せておいて見るなと言うのか。なんだその胸元を晒す装束は。谷間に金貨でも挟めば良いのか。銀貨でも良いだろうか。抗議の意味も込めて更に凝視していると、ライアーに襟首を掴まれたカーリヤが遠ざかり、椅子に座り直した。

 

「ま、聖女には潔癖も多いから。聖都から来たっていうのなら尚更でしょ」

 

 潔癖とも清貧とも程遠そうな聖女が、そんなことを(のたま)いながら少年のような騎士に片目を瞑ってみせる。頭を撃ち抜かれたように固まった少年を、同じぐらいに顔を赤くした少女が引きずってどこかへと消えていった。彼はどうなってしまうのだろうか。

 だがなるほど。ほんのわずかなやり取りでも、あの白髪の聖女はひどく潔癖であるように見えた。無意識に無遠慮な視線でも送っていたのかもしれない。大いに反省すべき点であったが、ひとつ腑に落ちないこともある。

 

「だが、あの聖女の胸は小さかったぞ」

「……あんたって、本当に、なんでこう……馬鹿なのかしらね」

 

 先程のライアーと似たようなことを言う。本物の聖女と騎士とは考えまで似るものなのだろうか。

 

 

 

「おい、騎士長だ」

 

 ライアーが小声をもらし、居住まいを正す。他の聖女と騎士たちも、カーリヤでさえ表情に緊張を走らせ、食堂内の空気がぴんと張り詰めた。

 食堂の入り口をくぐってきたのは、見上げるような巨躯を持つ禿頭(とくとう)の男だった。それでいて殆ど足音も立てないまま食堂の中央まで歩みを進めた後、(いわお)のような強面で皆を睥睨する。

 ヴュルガ騎士長。このポエニス教会を統括する、歴戦の騎士である。

 

「おはよう。諸君」

 

 騎士長の挨拶に、食堂中の騎士と聖女から「おはようございます」の合唱が響いた。レーベンも一応それに倣っておく。だが当の騎士長はといえば最初から笑顔の影すら見せない。先の挨拶にもまるで感情はこもっていないように聞こえた。淡々と、そのまま本題に入る。

 

「聖都からの増員だ」

 

 騎士長の巨大な影に隠れるようにしていた細い影がその姿を現す。レーベンは灰色の目を見開いた。

 ほっそりとした痩身。白い顔。白い髪。伏せられていた瞳の色は、黒。

 

「……シスネレインと申します。聖都から参りました。よろしくお願いします」

 

 淀みなく、最低限の挨拶と共に細い腰を折る白髪の聖女――シスネレイン。見間違えもしない。あの夜に出会った、あの聖女だった。

 

「不明な点があれば他の者に聞くように。皆も教えてやれ。以上だ」

 

 伝えることのみを伝えて、騎士長はさっさと退室してしまう。入室から一分と経ってはいない。ただ、食堂の中央に佇む聖女と沈黙だけが残された。誰も言葉を発せずにいるとシスネレインも歩き出し、食堂の端に置かれた盆を手にする。パンとスープ、ただそれだけを乗せると隅の席にひとり座った。食事を始めるのかと思えば、両手を組んで目を伏せる。食前の祈りだろうか。

 やがて食堂内からひそひそと小声が聞こえはじめる。「二組じゃなかったのか」「ここに来る途中で」「騎士はどうした」そんな言葉が目立った。不躾といえば不躾だが、もっともな疑問でもある。聖女と騎士は常に一対の存在なのだから。

 レーベンとて教会では浮いた存在である。聖女と共にあることもなく、常に独りで魔女狩りを行う変わり者。十六歳で騎士となってから五年、ずっとそうして生きてきた。

 故に、そんなレーベンがあの聖女に近づこうとするのは必然であった。

 食べかけの朝食を盆に乗せ、静かに席を立つ。魔女の背後に忍び寄る時の要領で、足音を立てず、だが素早くシスネレインの座る机に向かった。レーベンの隠密は功を奏し、彼女は向かいの席に座る男の存在には未だ気付いていない。省略することもなく律儀に食前の祈りを呟いている。そして祈りが終わり、シスネレインが目を開けた時。

 

「っ!?」

 

 ガタッ、と。危うく椅子ごと倒れそうなほど仰け反った。見開かれた黒い瞳が自分に向いているのを見て、奇襲もとい悪戯を成功させたレーベンは内心で喝采をあげた。

 

「貴公、また会ったな」

 

 何事もなかったようにパンをちぎりながら言う。精いっぱい笑顔を見せたつもりだが、日頃カーリヤからは「顔の筋肉が死んでいるのかしら」と称される無表情のせいで、笑っているようには見えなかったかもしれない。

 対してシスネレインは怪訝そうに目を細め、何か思い出したように目をかすかに見開き、そして心なしか温度の下がった目でレーベンを見た。

 

「……その節は、どうもお世話になりました」

 

 まるで感情のこもっていない言葉だった。形式的な謝意と共に形式的に頭を下げ、それで話は終わりだとばかりに食事を始める。もうレーベンには目もくれないが、この程度で諦めていては騎士など続けていられない。

 

「俺はレーベンという」

「そうですか」

「貴公はシスネレイン」

「そうですが」

「長いからシスと呼んでも良いだろうか」

「お断りします」

 

 隙が無い。元より、レーベンも口が上手い方ではない。むしろ精いっぱい話した後も何故かひどい誤解をされていることの方が多いのだ。ひどい話である。

 

「ではシスネレと」

「お断りします」

「間をとって、シスネではどうか」

「……」

 

 ついに返事すら無くなった。だが断られないということは、そう呼ぶことを許されたということではないだろうか? レーベンは前向きに、そう考えた。

 

「よろしく、シスネ」

 

 机ごしに手を差し出すと、すこし間があいてからシスネも手を出し、軽く触れるだけの握手をかわす。仮にも同じ釜の飯を食う仲間であり、あまり無下にしても礼を失するとでも考えたのだろう。計画通りであった。華奢な手の感触にレーベンは内心で両手を振り上げて歓声をあげていたが、ライアーからは「薬のやりすぎで顔の筋肉が麻痺したんじゃないのか」と称される無表情のせいで、お互いに素っ気ない挨拶を交わしたようにしか見えなかっただろう。

 ……シスネが机の下で手を拭うような動きをしたのが見えたが、気のせいだと思うことにした。

 

 

 

「いや、すまんな、うちの馬鹿が迷惑をかけて」

「紹介しよう、シスネだ」

「なんであんたが紹介するのよ」

 

 食事を終えたらしいライアーとカーリヤが、空の食器を乗せた盆を手に話しかけてきた。ちなみに食器は二人分をライアーが運んでいるのでカーリヤは手ぶらである。「ジャムぐらいつけたら?」と共用のジャムが詰められた小瓶をシスネの前に置くと、「……ありがとうございます」と平坦な声が返ってきていた。

 

「私はカーリヤ。こいつは私の騎士のライアー。そしてこの馬鹿がレイよ」

「騎士のライアーだ。よろしく頼む」

「馬鹿のレーベンだ。よろしく頼む」

「せめて否定して」

 

 道化じみたやり取りを目にしてもシスネに笑みはなく、気のない相槌をたまに打つのみであった。ただ、際どい位置をやたらと露出させたカーリヤの改造装束を見る目は明らかに冷たい。対して装束をきっちりと着こみ化粧気もないシスネは、清貧を体現した模範的な聖女に見えた。

 ただ一点を除いて。

 

「それで、貴公に騎士はいないのか?」

 

 カチャリ、と。シスネの持つ(スプーン)が皿に当たる音が、やけに響いた。ライアーとカーリヤの顔が強張り、聞き耳をたてていたのだろう周囲の聖女と騎士たちも動きを止める。レーベンにとっては何をおいても聞かなければならないことであったが、まずかったのだろうか。レーベンは口が上手い方ではないのだ。カーリヤのようにはいかない。

 

「いないのであれば、俺を貴公の――」

「お断りします」

 

 盆を手に、シスネが席を立つ。カーリヤ達に軽く頭を下げてからその場を後にし、それを目で追っていたレーベンの灰色の目と、黒い瞳が交わる。どこまでも冷たい目であった。

 食堂を出ていく華奢な背を見送ったところで、二人分の溜息が聞こえてくる。見れば、二人の友人がまったく同じ姿勢で額に手をやっていた。仲が良くて羨ましい。

 

「お前なあ……見たか? あの目」

 

 ライアーが「おお怖い怖い」と自分の肩を撫でている。カーリヤは腕を組みながら(カラス)の死骸でも見るような目でレーベンを見下ろしていた。ただでさえ目に毒な胸元が更に強調されて、レーベンとしては目が離せない。

 

「好意の反対は、無関心というだろう」

「そうね」

「ならば、嫌われたとしても一歩前進だとは思わないか」

 

 盆で頭を叩かれる音が食堂に響いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

騎士レーベンの日常、その朝

 レーベンという男は変わり者の騎士である。

 変わり者ではあるが、()()()()()()現在の評価は特に悪い訳ではない。騎士という地位を鼻にかけることはなく、だが常に騎士らしい振る舞いを心がけている。中肉中背、つまりはポエニス騎士の中では小柄でありながらその技量は高く、鍛錬も欠かさない。若くして多くの魔女狩りを行い、依頼の成功率も決して低くはない。

 だがそれでもレーベンはポエニスの教会内でも浮いた存在であった。その理由はいくつかあり、何を考えているのかまるで分からない無表情のせいであったり、時折みせる奇行のせいでもあったが、ここ数日はそれが更に顕著となっていた。

 

 

 

「それで、何か言い残すことはあるかしら」

「弁明の機会すら与えられないのか、俺には」

 

 旧聖都ポエニス。その教会の中庭で正座させられたレーベンは、己を見下ろすカーリヤに抗議していた。対してカーリヤは、早朝だというのに化粧も万端な美貌を不機嫌そうに歪めながら、手にした長銃でトントンと肩を叩いている。

 

「発言を許可するわ。手短に述べなさい」

「俺は無実だ。断じて覗きなどしてはいない」

「おかしな話ね。じゃあ、さっき私が撃った不審者は誰だったのかしら?」

 

 それは間違いなくレーベンであり、その頬には銃弾が掠った痕が確かに残っている。この聖女、威嚇でもなんでもなく本当に撃ったのだ。彼女の腕前なら狙いを外すことはないだろうが、それでも顔の真横の幹に実弾を撃ち込まれた時は肝が冷えた。いかにレーベンであっても中庭の木から転落することは避けられないというものである。

 

「俺はただ朝の鍛錬の為に木に登っていただけだ。その方がより実戦的に鍛えられる」

「この遠眼鏡は何の鍛錬に使うのか答えなさい」

「誠に申し訳なかった」

 

 動かぬ証拠を突きつけられ、レーベンは即時降伏を選択した。芝生に額を擦りつける勢いで頭を下げていると、頭上から二人分の溜息が聞こえてくる。

 

「まったく……これで何回目?」

「ライアーとの共犯も数に含めるなら、十は下るまい」

「俺を巻き込むなよ!?」

 

 我関せずと静観していたライアーが泡を食ったように口を挟んできた。なお、レーベンとライアーがかつて二人で聖女たちの居住棟を覗いたのは事実である。二人ともまだ未熟な騎士であった頃、鍛錬ばかりの辛い日々には癒しが必要だったのだ。

 閑話休題。

 

「あー、それであれか、また例の彼女か」

 

 カーリヤが信じられないことを聞いたように己の騎士を見ていたが、それから顔を背けながらライアーが話を戻してくる。例の彼女とは言わずもがな、数日前に聖都からやって来た聖女――シスネのことである。そもそも今回、レーベンが木の上から遠眼鏡で聖女棟を覗くという強硬手段をとったのも、件のシスネがほとんど外に出てこないからだ。

 

「彼女には大事な話がある。ずっと出入口で待っていたのだが」

「だから出てこないんじゃないの?」

 

 だがレーベンはシスネに避けられていた。あの夜の出会いから既に良くは思われていないようだったが、レーベンに心当たりはまるで無い。半裸で抱きすくめてしまったのことはあったが、あれは不可抗力というものだろう。

 

「ひどい話だ。俺とて、こんな手は本意ではなかった」

「ちなみにお目当ての聖女さまは見られたのかしら」

「見えたのは貴公の寝間着ぐらいだな」

 

 ガチャリン、と長銃を曲芸のように回転させ、片手で弾を装填した長銃をカーリヤが向けてくる。その目は本気であった。さすがに看過できなかったのかライアーが止めに入り、だが何故か相当に怒っているらしいカーリヤが顔を真っ赤にして何か喚き散らしている様を眺めていると、視界に白い影が掠めた。

 

「お……」

 

 レーベンは灰色の双眸を見開く。中庭に現れたのは白髪の聖女。シスネであった。さくさくと芝生を踏む軽い足音が徐々に近付いてくる。以前は束ねられていた長く白い髪は解かれ、歩みに合わせて揺れ広がる様は、それ自体が白い聖衣のようにも見えた。数日ぶりに目にする姿に、だが言葉が出てこない。完全に目を奪われていた。

 やがてレーベン達の近くまで歩いてきたシスネは、未だ取っ組み合っている二人に目礼しながら通り過ぎ、ただ座ったままのレーベンを一瞥し、そして転がった遠眼鏡を目にして、足を止めた。

 

「……」

 

 気まずい沈黙であった。ライアーとカーリヤが言い争う声も聞こえない。レーベンが座る位置からシスネの顔は白髪に隠れて見えず、ただその華奢な肩がふるふると震えているのは確かに見えた。

 

「……(きたな)い」

 

 ぼそりと、久しぶりに聞く声もまた怒りと侮蔑に震えている。振り返り、レーベンを見下ろす黒い瞳にはもう、一切の温度が失われていた。

 

「それでも、騎士ですか」

 

 レーベンが何かを言う前にシスネは立ち去ってしまう。先程とは打って変わって芝生を踏みつけるように歩く姿はどこか少女じみていたが、さすがに今それにどうこう感じる余裕はレーベンにも無かった。

 

「ライアー、泣いても良いだろうか」

「俺の方が泣きてえよ!」

「そ、そうか」

 

 目を離している間にいったい何がどうなったのか。頬に赤い手形をつけたライアーが、カーリヤの椅子になりながら自棄気味に叫んで返す。その上で、カーリヤは腕を組んでそっぽを向いていた。

 

 

 ◆

 

 

 いつまでも落ち込んではいられない。教会の騎士である以上は仕事を果たさなければならず、騎士の仕事とはつまり魔女狩りである。レーベンもまた魔女狩りに向かうことにした。

 

「片手剣を二本。あと両手剣。なるべく丈夫なのを」

 

 教会本棟の地下倉庫。武器庫でもあるそこでレーベンは武器を選んでいた。薄暗い地下でも白銀の輝きを放つそれら全ては聖銀――聖性形状記憶銀で作られた武具である。

 

「盾もだ。いやそれは大きすぎる。その隣のが良い」

 

 レーベンの注文に従い、倉庫番である教会の職員が机に武器を並べていく。既に顔なじみとなっている彼は、今日もうんざりとした顔で机と棚とを往復していた。

 

「斧も欲しい。短くて重い物で。あと長銃と弾。それから炸裂弾と焼夷弾はあるか」

 

 本来、騎士は一振りしか武器を持たず、このように大量の武器を持ち歩くことは無い。その必要が無いからだ。聖銀には聖性を流されることで記憶された元の形に戻る性質があり、多少の破損や劣化であればその場で修復できるのだ。反面、聖銀自体の強度はさほど高くない。むしろ鉄より脆く、手荒に扱えばすぐに壊れてしまうため聖女のいないレーベンは数を揃えるしかない。

 大きな鞄に武器を押し込み、まとめて肩に担ぐ。あまりの重さに肩紐と金具がギチギチと鳴る音が地下室に響いた。

 

「あと、薬だ」

 

 暗い顔で管理表にペンを走らせていた職員が、顔を上げる。

 

「再生剤と強化剤、あと鎮痛剤。中和剤もあれば、ありったけ」

 

 完全に狂人を見る目であった。

 魔女狩りに用いる多様な薬物は、確かに教会の用意した物である。だがそれは聖女が負傷や死亡した際の緊急時に使用する程度の物で、レーベンの注文は明らかに異常だった。それでも必要なのだから仕方がない。

 倉庫番の彼はうんざりとした顔でまた奥へと消えていった。もはや文句の一つも言いはしない。魔女狩りの度にレーベンが大量の武器を持ち出すのはいつものことなのだから。そして、その持ち出した武器のほとんどを壊してしまうのも、いつものことだった。

 

 

 ◆

 

 

 今回レーベンが選んだ依頼は、ワートの町に現れた魔女の討伐。内容はいたって単純、ワートの町も馬車で三時間とかからない距離だ。上手くいけば日帰りでこなせるかもしれない。

 教会の待合所には、既に何台かの馬車と、今から魔女狩りに向かうのであろう聖女と騎士たちがぞろぞろと集まっていた。皆が二人一組で馬車に向かう中、レーベンだけが一人で馬車に乗り込む。周囲から多少の視線は感じるが、それもいつものことだった。

 

「ああ、あんたかい」

 

 声をかけてきたのは、中年の御者だった。レーベンとは顔なじみであるが、お互いに名前は知らない。

 

「今日も一人か。聖女さんはまだ見つからんので?」

 

 何本か欠けた歯を見せながら親しげな、あるいは下卑た軽口を叩いてくる。小汚い風貌と相まってこの御者の馬車は人気が無いのだが、それを特に気にしないレーベンが空いた馬車を選ぶため頻繁に会う間柄となっていた。

 

「お寂しいことで。他の騎士サマは、みぃんな別嬪の聖女を連れてるってのによ」

 

 ヘラヘラと笑いながら馬に鞭をくれる。粗雑な口調とは裏腹に馬車は緩やかに走り出し、簡素な座席に座るレーベンにもほとんど揺れは伝わらなかった。この御者、性格はともかく腕だけは確かなのだ。

 

「まったく羨ましい限りだ。どこかに独り身の聖女などいないものか」

「望み薄ですなぁ。あっしも生き残りの騎士サマを乗せたことはあっても、聖女サマはさっぱりで」

 

 多くの場合、騎士が死んだ時に聖女はすぐにその後を追う。故に聖女だけが生き残ることは稀であった。シスネに対して興味が湧いたのも、その辺りの事情が関連している。

 

「だがな貴公。いたのだよ、その独り身の聖女が」

「ほう!」

 

 ひどく高い声をあげながら、御者が座席を覗き込んでくる。その目は爛々と好奇に輝いていた。

 

「で、ついにヤったんですかい?」

「最近、聖都から来たらしくてな。偶然、魔女狩りの最中で会ったのだよ」

「そんで、その場でヤったんですね?」

「俺の聖女となってはくれないか頼んではみたんだが、その時は断られた」

「でもヤったんでしょう?」

「何故か嫌われているが、まあ、まだこれからだろう」

「とりあえずヤっちまえばいいんですよ、話はそれからですぜ」

「なるほど」

 

 たしかに、多少は強引にいっても良いかもしれない。下卑た笑い声をあげながら手綱を握る御者を横目に、装備の確認をしていく。引き抜いた両手剣の鏡のような刀身に映った己の顔は、いつになく緩んでいるようにも見えた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

騎士レーベンの日常、その昼

『おかあさんよ』

『おかあさん、今かえるからね』

 

 食虫植物のように開かれた、魔女の巨大な右手。レーベンの体をまるごと掴み喰らわんとしていたそれに左手の盾を割りこませる。つっかえ棒となった聖銀の盾がメキメキと折れ曲がり始め、その前に首を落とそうと右手の斧を振り下ろした。

 

『おがっ、えげっ!』

 

 一度、二度、三度目で刃に亀裂が入り、四度目で砕けた。舌打ちする間も無い。次の武器を手にしようとして、同時に盾も砕けた。ばきり、と盾とレーベンの左腕が潰れた音が響く。当然、激痛が走るがそれに悶えてはいられない。そうやって動きを止めてしまえば、そのまま左腕を咀嚼(そしゃく)されるだろう。再生剤にも限界はある。隻腕になるのは御免だった。

 ベルトから炸裂弾を二つ掴み取り、辛うじて残骸がぶら下がっていた胸当てに叩きつける。火打石の要領で着火したそれを、斧で割った魔女の首に突きこんだ。

 

『まってて、まってて』

 

 本来は遠くから投擲する炸裂弾だが、この至近距離、しかも左腕は咥えられたままで離れることもできない。どうしようもなく、ただ外套で頭を覆った。

 

『おかあさん、いま――』

 

 爆風が魔女の首とレーベンを吹き飛ばした。

 

 

 

 吹き飛んだ魔女の首を見つけ、剣は構えたままで十数える。首も体も動き出さず、炎に焼かれて蠢くこともなくなった黒い泥がぐずぐずと崩れていくのを見て、ようやく剣を下ろした。念のためにもう一度燃やしておこうと、焼夷弾で火を放つ。ごうごうと燃える赤黒い炎が周囲の木々に広がらないよう見張りながら、手近な岩に腰をおろした。

 今回の魔女狩りは、まあ上手くいった方だろう。武器の損耗は半分程度。鎧は壊れたが服は無事だ。だが薬はすこし使い過ぎたかもしれない。再生剤を打った左腕が痛みだして、飲み過ぎは悪いと分かってはいてもどうにも耐え難い。一錠だけにしようと鎮痛剤を取り出して、だが震える指はそれを落としてしまった。

 白い錠剤が、コロコロと転がっていく。

 

「――ふへ、」

 

 それがやけに可笑しくて、腹の底からこみあげてきた笑いで肩を震わせながら、それでまた傷が痛みだす。感情の振れ幅が大きくなるのも薬の副作用だ。再生剤か、鎮痛剤か、強化剤か、中和剤か、どれの副作用だったかはよく思い出せない。大事なことだから覚えていたはずなのに。記憶が混濁するのも薬の副作用だ。どの薬の副作用だったかは――。

 思考が何巡もしているのに気付いた時にはもう、魔女の死骸は燃え尽きていた。

 

 

 ◆

 

 

「ありがとうございます騎士さま。これで皆、安心して眠れます」

「は? え、 ああ、はい」

 

 意味のない笑いが収まるのを待ってから、依頼主である町長の家を訪ねた。出迎えてきた初老の男性に見覚えはなかったが、口ぶりからして町長なのかもしれない。

 

――まずいな

 

 まだ記憶が混濁している。あまりボロを出さない内に退散することに決め、礼がしたい泊まっていけせめて食事だけでもと引き留めてくる町長らしき男性の言葉を、のらりくらりと受け流す。

 

「女神の導きのあらんことを」

「女神の導きのあらんことを」

 

 お互いにお決まりの聖句を言い交わしてから、足早に町の出入口に向かった。

 

 

 

 迎えの馬車はいなかった。そういえば夕方に迎えに来る予定だったかもしれない。いや朝だっただろうか? 次からは紙に書いておこうと決める。とりあえずここで待っていれば、いつかは迎えに来るだろう。そう考え、木陰で仰向けに寝転んだ。

 太陽は、まだ南からわずかに下りはじめたあたり。昼寝にはちょうど良い。寝ている間に薬が抜けて、起きたあたりで迎えが来れば理想的だ。なかなか冴えた計画だと自画自賛して、目を閉じる。

 

「あなた、騎士さま?」

 

 計画はさっそく頓挫した。目を開ければ、赤毛の幼い少女がレーベンを見下ろしていた。その隣には少女と同年代だと思われる少年もいる。まさかとは思うが、念のために聞いておくことにした。

 

「貴公ら、教会の迎えか?」

「なに言ってんだ、あんた」

 

 違ったようだ。正直、起き上がるのも億劫だったが寝転んだまま話すわけにもいかない。レーベンも一応は教会の名を背負っている身だ。子供相手であっても礼を失すれば苦情が送られてしまうかもしれない。レーベンでも教会に対してそれぐらいの恩義は感じている。立ち眩みを堪えつつ、少年と少女の前に膝をついて座った。

 

「いかにも、こう見えて教会の騎士だ」

「聖女さまはー?」

「生憎、ここにはいない」

「どこにいるのー?」

「どこにいるんだろうなぁ」

 

 レーベンの方が聞きたい。

 

「いねーのかよ、偽物じゃん!」

「失礼な。この鎧の紋章を見るがいい」

「壊れてんじゃん!」

「そうだった」

 

 少年の無邪気で残酷な言葉に怒りは覚えない。偽物と、そう呼ばれるのも初めてではない。騎士には聖女が常に共にあるのだと、こんな子供でも知っているのだから。現に、この町に着いてすぐに訪ねた町長からもひどく疑われたものだ。

 ……記憶が戻ったのは良いが、よりによって嫌な記憶だった。

 

「わたし聖女さまになるー!」

「つまり俺の聖女になってくれると」

「おれのだっての!」

 

 顔を赤くした少年が、夢を語る少女を守るように立ちはだかる。腰帯に差していた木の剣を構えるのを見て、レーベンはかすかに笑った。薬の副作用ではない、本物の笑いだった。

 

 聖女の素質とは、決して珍しいものではない。

 聖性自体は誰もが持っている物であるが、それを体外に放出するには特殊な才能が必要となる。だが才能とは言っても、十人も集めれば四人か五人は見つかるという程度のものだ。この少女が聖女になれる可能性も充分にあるだろう。

 だが、その才能は女にしか無い。理由は定かでなく、定かでないが故に「女神の加護である」とされているのが現状だ。女神の力が宿るのは女のみ。なんとも分かりやすい。

 

「つまり貴公は騎士になると」

「おうよ!」

 

 騎士は誰でもなれる。

 聖女から体に聖性を流されることで、体内の聖性が励起(れいき)される。身体能力は劇的に向上し、体の傷もすぐに治癒される。そうなれば誰もがほぼ不死身の超人。特殊な才能など必要ない。強いて言えば体格に恵まれた頑強な男が望ましいというぐらいだ。ヴュルガ騎士長やライアーのような。見たところ、この少年も年齢の割りに体格は良い。鍛えれば良い騎士となるだろう。

 

「では、そんな貴公にはこれをやろう」

 

 教会の紋章が刻まれた片手剣……の鞘を少年に差し出す。どうせ中身は折れてしまったのだ。再利用するから持ち帰れと言われてはいるが、鞘ごと壊れたとでも言っておけば良いだろう。

 

「中身ねーじゃん!」

「礼ぐらい言いたまえよ。親が見たら泣いてしまうぞ」

「おかあさん、まだかえってこない……」

 

 危機は思わぬところからやって来た。ばっ、と少年と共に首を巡らせると、大きな目から涙をこぼしそうになっている少女。少年と目が合う。目配せは一瞬。

 

「すっげー! すっげーかっこいい剣……の入れ物! ありがとう騎士さま!」

「はっはっは、では稽古もつけてやろうではないか、かかってきたまえよ」

「うおーいくぞー!」

「ぐはーやられたー」

 

 少年の迫真の演技に応える形で剣を交えていると、少女の涙はひっこみ、徐々に笑顔が戻りはじめる。だが少年とは違い、レーベンに演技の才能は無かった。

 

 

 ◆

 

 

 結局、町が夕日に照らされるまで少年と少女に付き合うことになってしまった。ようやく迎えに来た教会の馬車に乗り込み、町の出入口で手を振る二人に見送られながら町を後にする。荷馬車とそう変わらない簡素な馬車に揺られながら、レーベンは彼らの言葉を思い出していた。

 

『わたし聖女さまになるー!』

 

 聖女の素質とは決して珍しいものではない。だがそれでも聖女の数は常に不足している。理由は単純で、聖女になりたがる者が少ないからだ。確かに、あの少女のように憧れの目で聖女を見る者も多いだろう。皆に敬われ、愛される立場だろう。報酬も市井で働くよりは遥かに多くを得られるだろう。

 だが、やはりそれ以上に危険なのだ。常識外の存在である魔女と対峙し、それを狩る。しかも()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。聖性によって超人と化す騎士とは違い、彼女らは只人のまま魔女と戦う必要がある。

 それに加え、魔女は聖女を簡単には殺さない。魔女に捕らわれた聖女は、拷問じみた残虐な方法でゆっくりと時間をかけて嬲り殺されるという。聖女が自決用の武器や道具を多く持つのはその為だ。

 ならば全てを分かった上で、それでも聖女となる道を選ぶ理由とは。憧憬、崇拝、名誉、報酬、だがやはり最も多いのは、憎しみだ。

 魔女に家族を殺された、魔女に故郷を滅ぼされた、あるいは家族が魔女となった。同じ悲劇を減らす為に、魔女に復讐する為に。そういった理由で教会の門を叩いた聖女をレーベンは何人も知っている。そしてまた、あの少女もそうなろうとしているのかもしれない。

 少女の母親は七日も前から帰ってきていない。だからああして毎日、町の入り口で帰りを待っているのだと。そう言っていた。

 ……そういえば今日レーベンが狩った魔女が初めて出没したというのは、その頃ではなかったか。

 少女の母親は、少女と同じ赤毛をしている。もし町の外で見かけたら教えてほしいのだと。そう言っていた。

 ……そういえば今日レーベンが狩った魔女の首には、赤毛らしき髪が残ってはいなかったか。

 考えても仕方がないことだ。事実がどうあれ、レーベンにはどうしようもないのだから。

 

「……?」

 

 ポエニスに着くまで一眠りしようと、座席に寝転ぼうとした時、懐から折りたたまれた紙片が舞い落ちる。拾い上げたそれは「迎えの馬車は夕方」と記された、自筆の覚え書きだった。書いた覚えは、まるで無かったが。

 

「……ふ、へ」

 

 こみ上げてきた笑いに口を歪める。薬の副作用ではない、本物の自嘲だった。

 レーベンは今日、新たな聖女が生まれる切っ掛けを作ったのかもしれない。だが、それを自分が知ることは無い。レーベンはそう考えて目を閉じる。

 あの少女が成長し、聖女となる。自分がそれまで生きているとは、思わなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

騎士レーベンの日常、その夜

 暗い街道を馬車は進む。月明りの乏しい夜であったが、大型のランタンと夜道に慣れた馬によって危なげなく進み続けた。この国にも野盗の類はいなくもないが、わざわざ教会の騎士が乗っていると分かる馬車を襲う命知らずもいない。魔女と渡り合う騎士にかかれば常人が束になっても敵いはしないのだから。

 もっとも、今この馬車に乗っているのは半壊した装備を身に着けながら眠りこける騎士が一人だけなのだから、御者としては戦々恐々である。だが幸い馬車は何事もなくポエニスへと到着した。

 

「騎士さま、着きましたよ」

 

 目を開ければ、あの小汚い御者ではなく別の男がレーベンを見下ろしていた。そういえば帰りは別の馬車が迎えに来ていた……気がする。まだ薬が抜けきってはいないらしく寝起きも相まって意識に靄がかかったようだが、あまり居座っても彼にも迷惑だ。転ばないよう注意しながら、なんとか馬車から降りた。

 もう夜更けだがレーベンの仕事はまだ終わらない。魔女狩りを完了した報告、貸与されていた装備の返却、消耗または破損させた場合はその報告。特に装備破壊の常習犯であるレーベンには気が重い。すべて明日の自分に丸投げして寝てしまいたいが、ヴュルガ騎士長の顔を思い出してなんとか重い足を動かした。顔も恐ろしければ中身も恐ろしいのだ、あの騎士長は。

 

 

 

「お、帰ったのか」

 

 受付には先客がいた。茶髪の騎士――ライアーが、己の聖女を肩に凭れさせて長椅子に座っている。

 

「貴公も、仕事帰りか」

「まあな、なかなか手強かったぜ」

 

 見れば、ライアーの大柄な体が纏う鎧は左腕の部分が破損している。その左腕にしなだれかかる、金髪の聖女。

 

「またか。酒を()りながら魔女狩りとは恐れ入る」

「ちげーよ、仕事の後はすぐ飲みに行くって聞かねえんだ」

 

 意識の無い金髪の聖女――カーリヤの顔は赤く、完全に酔いつぶれているようだった。酒精で上がった体温に煽られた香水の匂いと酒臭い吐息が入り混じって、場末の酒場のような匂いが漂ってくる。暑いのか、ただでさえ大きく開いていた胸元を更に(くつろ)げようとする手をライアーが掴んで止め、太腿がむき出しになったスカートをライアーが整えるという攻防が続いていた。二人とはもうそれなりに長い付き合いのレーベンであっても、相変わらず目に毒な光景である。

 

「よし良いぞ、もっとやりたまえよ」

「……頼むから、あまり見ないでやってくれ」

 

 夜間の受付担当らしい職員の青年が、書類に目を落としながらもチラチラ視線を送っている。レーベンは特に意味もなく彼の視線を読み、胸と脚のどちらを好んでいるのかを見抜こうとした。どうやら脚のようだった。

 ライアーはそんな他人の視線に悩まされているようで、頭を抱えながら溜息をついた。そうしている間にも、またカーリヤがスカートの切れ込みから脚を伸ばす。さっさと手続きを済ませれば良いのではないかとも思ったのだが。

 

「いや、破損の報告が面倒でよ……」

「――ん、うーんにゃ……」

 

 ライアーの願いが通じたのか、気の抜けた声と共にカーリヤが目を開く。切れ長の碧眼はいつになくとろりと垂れ下がっており、普段とは別人のようだった。

 

「らいあー?」

「おいカーリヤ寝るな! 寝る前に直してくれ頼むから!」

「いいよー」

 

 別人のような笑顔で別人のような声を漏らすと、カーリヤの手がしゃなりとライアーの左腕に触れる。

 そして、聖性が開放された。

 カーリヤの指先から溢れる青白い光。まるで青い炎のようだと常々レーベンは思っている。鎧を構成していた聖銀に聖性が流され、メリメリと金属音をたてながら記憶されていた元の形状に戻っていく。半分程度が欠損していた手甲が完全に修復されるまで、五秒とかからなかった。

 鎧の修復を終え、聖性の光が消える。カーリヤの手がぱたりと椅子に落ち、少女のような寝顔を見せながら再び意識を手放した。「世話のやける……」とぼやきながらも、ライアーの顔に険は無い。

 その光景を、レーベンは灰色の目でじっと見続けていた。

 

「……じゃあな、お先」

「ああ、おやすみ」

 

 ライアー達の手続きはすぐに済んだ。どこかばつの悪そうな顔をレーベンに向けながら、眠るカーリヤを横抱きにして去っていく。あの破損の仕方から見て彼の左腕も負傷していたはずだが、それはきっと既に治されていたのだろう。

 ……未だ再生剤の痛みと副作用に苛まれるレーベンの左腕とは違って。

 心なしか増してきた左腕の痛みを堪えつつ、レーベンも受付に向かう。壊した鎧、斧、盾の破損報告。消耗した焼夷弾、炸裂弾、長銃の弾丸の使用報告。服用した各種薬物の量の報告と、規定を超えた服薬を行った理由の報告、その他諸々。すべての手続きを終えた時にはもう、早朝と言って良い時間になっていた。

 

 

 

 騎士は誰でもなれる。

 聖女の聖性を受け入れれば、誰もが超人になれる。重厚な鎧を身に纏い、それでいて獣のように俊敏に駆けまわり、鳥のように跳び回る。武器の損耗も気にせず、己が信頼を置く唯一にして最高の得物を一振り携えて戦いに向かう。どれだけ傷つこうと聖女に癒され、それ故に恐れることなく魔女に立ち向かう。皆が憧れる騎士の姿。男の夢。

 だがそれは聖性を受け入れられればの話だ。レーベンは誰の聖性も受け入れられなかった。どの聖女とも適合できなかった。ごく稀にいるらしい落ちこぼれ。古い時代においては処刑すらされていたという異端者。

「聖女なき騎士」それがレーベンだった。

 

 

 

 朝霧に包まれた薄暗い中庭を、ひとり歩く。旧聖都であるだけあって、教会の中庭はそれなりに広く見事な物だ。庭師によって整えられた木々や草花、大きな池などが白い霧に包まれている様は幻想的ですらある。

 だがそこを歩くレーベンの気分は最悪と言って良い。魔女狩りから約半日、過剰な服薬と無理な狩りのツケが後遺症という形で回ってきたのだ。再生剤を打ち過ぎた左腕はひどく熱を持ち、ドクドクと脈打つように痛む。それなのに指先は震えが止まらなかった。中和剤は使ったが、それはそれでまた副作用があるのだ。どの薬をどれだけ使ったのか、ついさっき報告したはずなのに思い出せない。そもそも報告が正しかったのかさえ怪しい。

 痛みと熱に耐えかねて、袖も捲らないまま池の中に左腕をつっこむ。熱さと冷たさが()い交ぜになって、感覚の麻痺という形でわずかに痛みが遠のいた。今の内に飲んでおこうと、一錠だけくすねていた鎮痛剤を懐から取り出そうとするが、死体のようになった手では上手く取り出せない。どうしようもなくなって、破り捨てるつもりで乱雑に上着を脱ぎ、薬を取り出そうとして。

 

「う……ぉ」

 

 目の前が暗くなり、池の中に転げ落ちる。

 

 

「あぶないっ!」

 

 

 転げ落ちる前に、左腕を強く引かれた。高い声と掴まれた左腕の痛みに、飛ぼうとしていた意識が覚醒し、なんとか池への転落は避ける。かわりに腕を引いた誰かの影が間近に迫り、衝突は避けようとして、だが避けられず抱きつくような形になった細い影ともんどりうって芝生の上に転がった。

 

「大丈夫ですか! 怪我は!?」

 

 柔らかい芝生とはいえ、打った後頭部が痛む。だが頭の後ろ側が痛むということは、レーベンを助けた誰かを下敷きにすることだけは避けられたらしい。その誰かは既に起き上がり、仰向けになったレーベンに声をかけ続けている。視界は未だ霞がかっており、朝霧と夜明け前であることもあって顔はよく見えない。

 

「……あぁ、すまない、ありがとう」

「まだ起きないでください。いま誰か人を……」

 

 正直このまま寝てしまいたいぐらいだったが、寝転んだまま礼を言うわけにもいかない。レーベンでもそれぐらいの礼節は弁えている。だが起き上がろうとする体を華奢な手が押し留め、その手の感触と、目の前で揺れる真っ白な髪に、今度こそレーベンの意識が完全に覚醒した。

 

「き、こう」

「医療棟はどこだっけ……。ああもう聞いておけばよかった!」

 

「私の馬鹿!」と焦ったような小声を漏らしている誰か――シスネは、介抱している相手が誰なのか気付いていないようだった。まるで見たことのない不安そうな表情を浮かべながら、落ち着きなく辺りを見回している。

 

「医療棟は、あっちだ」

「分かりました! すぐに戻りますから、うごか、ない、で……?」

 

 普段のレーベンなら余計な悪戯のひとつでも仕掛けるところだったが、さすがに今その余裕は無かった。だが何かするまでもなく、シスネの黒い瞳がレーベンの顔に焦点を結び、そして固まった。

 

「……」

 

 さっきまでレーベンを介抱していた慈悲深い聖女はどこにいってしまったのか。今やシスネの瞳は池の水のように冷たい。だがその手が、上着を脱いだままのレーベンの胸――つまりはむき出しの胸板に置かれていたことに気付くと、ぶわっと顔を赤くした。おそらく反射的に振り上げられた平手にレーベンも反射的に身構えるが、頬を打たれることはなかった。明らかに本調子でない相手に平手打ちを見舞うのは気が引けたのか、手を下ろしたシスネが立ち上がる。

 

「……人を呼んできますから、そこで大人しくしていてください」

 

 だからついてくるなと、言外にそう言っているような声。故に、軋む体に全霊を注いでレーベンは立ち上がった。足早に医療棟へと向かうシスネの後を追い、こちらを見ないまま足を速める華奢な背に追いすがる。

 

「いや、本当に助かった。礼を言う」

「あなただと分かっていれば助けませんでしたが」

 

 まさかの特別扱いであった。内心で膝をつき両腕を広げながら天を仰ぐレーベンを引き離さんと、ほとんど小走りになったシスネが上ずった声で続ける。

 

「だいたい、なんで、また、裸なんですかっ」

「服を着れば今ここで貴公が介抱してくれるだろうか」

「そういう、問題じゃ、ないでしょうっ」

「ところで貴公、膝枕というものを知っているだろうか」

「……元気そうですね?」

 

 怒りが裏返った末の、笑いを含んだような声。振り向きざまの平手が直撃し、レーベンが池に転落する水音が早朝の中庭に響いた。

 

 

 ◆

 

 

「おはよう貴公ら、今日も空が綺麗だ」

「いきなりどうした」

「……ぁー、ぇー」

 

 既におはようという時間ではない昼下がり。閑散とした食堂を訪れたレーベンを出迎えたのは、疲れ果てた顔のライアーと、変わり果てた姿のカーリヤであった。特にカーリヤはボサボサに乱れた金髪といい、青白い顔といい、色気の欠片もない野暮ったい寝間着といい完全な別人であった。昨夜に見た、あどけない少女のような姿ともまた異なる姿。要するに二日酔いである。

 

「聖女カーリヤは三人いるらしい。羨ましいことだ。炸裂弾をやるから爆発したまえよ」

「また変な薬でもキメたのか?」

「ぃー、ぅー、ぇー……」

 

 机に突っ伏して意味不明な言葉を漏らしているカーリヤを後目に、パンとスープとサラダとベーコンとチーズとその他諸々を盆に乗せられるだけ乗せて席に着く。いつになく空腹を覚えていた。

 

「……お前、何かあったか?」

「ぉー……、ぁー……」

 

 かきこむように食事を始めるレーベンを見て、ライアーが心配そうな顔を向けてくる。ひどく世話焼きなこの男は、魔女狩りの後はほとんど何も口にしないレーベンのことも気にかけていたのだろうか。精悍な顔に浮かんだ濃い隈からも、昨夜から寝ずにカーリヤを介抱していたことは容易に想像できる。当の聖女は、目の前に置かれた大量の食事に顔を青くしていたが。

 何があったか。思い出すのは、白い髪、黒い瞳、赤い顔。そして慈悲深い聖女の姿。未だに左腕は痛み、抜けきっていない薬が体を重くしているが気分だけは晴れやかだった。珍しく食欲もある。

 

「シスネに殴られて池に落ちた」

「それで元気になるお前と友人(ダチ)を続けるべきか一度考える必要があるな」

「……、ぉぉぅ……っ!」

 

 カーリヤの口から危険な声が漏れた。ばっ、とライアーと共に首を巡らせると、蒼白な顔で口を抑えている聖女。ライアーと目が合う。目配せは一瞬。

 

「池だ。池に行こう」

「無理だっての! 桶だよ桶もってこい!」

「――っ! ――――っ!」

「カーリヤお前ほんと勘弁してくれよ頼むから!」

「これは無理かもしれないな」

 

 

 

 旧聖都ポエニスの教会には、変わり者の騎士がいる。

 どの聖女とも適合できず、だが騎士を続け、独りで魔女を狩り続ける、変わり者。

「聖女なき騎士」レーベン。未だ彼の隣に立つ聖女はいない。

 今は、まだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

魔女狩り聖女

Witchhunt Saint -Prequel-

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「だから池に行こうと言ったんだ」

「うるせえ、黙って手ぇ動かせ」

「ほんと、ごめん……」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一章 魔女のいる国
汝、聖女を愛せよ


 カエルム教国は、広がる大海原と険しい山々に囲まれた国である。気候はやや寒冷だが、豊かな自然の恩恵と容易には攻め込めない地形に守られている。名の無い女神を創造主として崇める女神信仰を国教とし、その教皇が代々国を治め、永らく平和と発展を保ってきた。戦とは縁遠く、信仰に裏打ちされた人々の心は篤い。決して大きくはない土地は地上の楽園とまでは呼べずとも、充分に豊かで平和な国であったのだ。

 

 だが、「魔女禍(まじょか)」が全てを変えてしまった。

 

 それが発生したのは、今からおよそ二百年前だと言われている。正確な時代は不明。どこで、どれだけ発生したのかも不明。根拠となる史料が極端に少ないからだ。それまで正確に記されていた歴史書が魔女禍を境に曖昧になっていることからも、当時の混乱ぶりが窺える。

 原因も不明。分かっていたのは、その病あるいは呪いが女にしか現れないということ。故に、不安と恐怖の矛先が女達に向けられる事は避けられなかった。多くの女達が捕らえられ、幽閉され、意味も無く拷問され、遂には処刑された。魔女禍を根絶する為に女を根絶やしにしろなどと、そんな悪い冗談のような惨事すら時には現実のものとなった。

 皆、恐ろしかったのだ。母が、姉が、妹が、妻が、娘が、恋人が、隣人が、そして自分が。ある時突然、化物に変わってしまうなど。一度魔女になってしまえば、もう二度と人には戻れない。体からは黒い泥が溢れ出し、全身の骨が歪み、異形の姿へと変貌する。そして見境なく人を襲うのだ。

 魔女禍と、その恐怖は国中に広がった。魔女によって多くの人々が殺され、それとそう変わらない程の女達が「予防」と称して殺された。人口は急激に減少し、国力は衰える一方。誰もが疑心暗鬼になり、人心は乱れに乱れた。

 広い世界の片隅で、カエルム教国はひっそり滅びようとしていた。

 

 それを救ったのが聖女。つまりは「聖性」の発見と、それを利用した技術の発展だった。身体能力の劇的な向上、脅威的な治癒能力、聖性形状記憶銀の開発……。聖性技術が、魔女に対抗する為に利用されたのは必然だった。騎士の誕生だ。

 そして、遂に教国は魔女狩りに乗り出した。そこから先は多くの英雄譚で語り尽くされている。幾人もの聖女と騎士たちが果敢に戦い、人々を救い、魔女を狩り、そして散っていった。多大な犠牲を積み重ねた末に、教国はほぼ全ての魔女を狩ることに成功したのだ。

 

 だが、魔女禍そのものを根絶することはできなかった。原因がまったくの不明である以上、完全な予防も治療も不可能なのだ。数こそ減ったが、それでも魔女は現れ続けた。

 魔女がいなくならない以上は聖女も騎士も必要だった。各地の教会に聖女と騎士が遣わされ、断続的に現れる魔女を狩り続けた。やがて教会そのものが魔女に対抗する為の組織へと変わり、人々の心の拠り所となっていくことに時間はかからなかった。

 

 心が荒み切っていた国民も徐々に平穏を取り戻していった。魔女に怯えることこそあれど、聖女と騎士がそれを狩ってくれる。特に聖女は女神の加護を受けた者たちとされ、敬愛を以て人々に受け入れられた。魔女が女からしか生まれないように、聖女もまた女からしか生まれない。もはや害獣のように扱われていた女達の地位も、奇跡的な回復を見せることとなる。

 こうして、二十年以上続いたカエルム教国の暗黒時代は終わりを告げたのだ。

 

 

 ◆

 

 

「大騎士コルネイユは言った。“汝、聖女を愛せよ”と」

 

 コルネイユとは、教国の暗黒時代を終わらせた最初の騎士たち、その一人である。当時はまだ迫害されていた女達にも分け隔てなく接し、また特に己の聖女を愛したことでも知られている。

 

「故に、聖女とは皆すべからく敬われるべきであると、俺はそう考えたのだ」

「あら、そう」

 

 ポエニスの教会。その本棟の中央広間で座るレーベンは、カーリヤを筆頭とした幾人かの聖女たちに囲まれていた。遠目からは若く美しい聖女たちを侍らせた色男に見えなくもないが、現実のレーベンは広間の隅に追い詰められている上に、聖女たちはみな顔に青筋を浮かべている。中には聖女の武器である短銃や短剣に手をやっている者までいることからも、レーベンが危機に瀕していることは明らかであった。

 カツン、と。踵の高い靴を鳴らしながらカーリヤが前に出る。そのまま、正座させられたレーベンに視線を合わせるように屈んだ。スカートの切れ込みから覗く(なま)めかしい太腿に目をやっていたレーベンの視界を遮るように、幾枚かの小さな金属板をズラリと並べて見せる。

 

「じゃあ、これは何かしら」

「写銀だ」

 

 写銀(しゃぎん)とは、近年になって生み出された聖性技術である。遠眼鏡に精密な発火装置と薬液を仕込み、レンズに映った景色を聖銀の板に焼き付けることで、絵筆で描くよりも遥かに正確な絵を残すことができる。本来はそれなりに大がかりな仕掛けを必要とするが、レーベンはある伝手により小型の写銀器を手にしていた。

 

「もっと詳しく言いなさいな」

「貴公をはじめとした、聖女たちの写銀だ」

「もう一声」

「売り値は銀貨一枚なり」

 

 スパーン! と丸めた紙束で頭を叩かれる音が広間に響く。所詮は紙のため怪我こそしないが、痛いものは痛い。遠巻きに見守っていたライアーをはじめとする男達――レーベンを取り囲む聖女の騎士たちと、騒ぎを聞きつけて来た警備職員たちは、処刑される罪人か出荷される子牛でも見るような目を向けてくる。無論、助けは無い。

 

「つまり、あんたは私達の写銀を勝手に撮って、しかもそれを売ったというのね?」

 

 事実である。とある理由によりレーベンは纏まった金を必要としていた。本来であれば魔女狩りに励んで稼ぐところだが、時期が悪かった。ここ最近は魔女出没の報せも無く、平和な日々が続いていたのだ。当然、依頼も無い。

 そこでレーベンが考えた金策が、聖女たちの写銀を撮って売りさばくというものだった。教会の内外で露店を広げ、売上も上々。敬愛する聖女たちの姿絵を多くの人に届け、教会への信仰と信頼を確かなものとする。更には己も金を得られるという、この上ない名案であった。

 ……と、そのことを掻い摘んで説明したはずだが、気が付けば己を取り囲む聖女たちからは一様に表情が抜け落ちていた。レーベンは知っている。人は本気で怒った時に大声をあげたりはしない。ただただ、無言で暴力を振るってくるのだと。

 

 

 

「だがなカーリヤ。この際に言わせてもらうが、貴公のその姿はあまりに目に毒なのだよ。現に貴公の写銀は銀貨三枚でも売れた。物によっては五枚だ。そもそも女の姿という物はただそこにあるだけで蠱惑的なのだ。貴公のように若く美しい女であれば尚更だ。見るなと言われても無理なのだよ。なあ貴公らもそう思うだろう?」

 

 聖女たちから一通りの制裁を受け、目立たない位置に少なくない量の傷を刻まれたレーベンは半ば自棄になって周囲の騎士や野次馬に声をかけた。

 だが彼等は、その声から逃れるように顔を伏せる。やはり助けは無かった。その中にはレーベンから写銀を買った者も幾人か混じっていたが、今この場でそれを暴露するほどレーベンも人を捨ててはいない。ただ少し泣きそうになっただけである。

 

「……まあ、良いわ」

 

 だがカーリヤの怒りは収まったらしい。何故かわずかに顔を赤らめ、癖のある金髪をいじりながら再びレーベンに視線を合わせる。

 

「レイ、私も鬼じゃないの。稼いだ分を全部渡せば、それで許してあげる」

 

 慈悲深い微笑を浮かべながら、眼前の聖女は調略を始めた。だがつい今しがたレーベンに加えられた凄惨な暴行は贖罪に数えられないらしい。金も名誉も全てを毟り取らないと気が済まないというのか。レーベンは内心で憤慨したが、今は雌伏の時と己を納得させる。第一、無い袖は触れないのだ。

 

「悪いが、もう全て使った」

 

 交渉決裂。眼前のカーリヤが笑みを濃くした。笑みではあるが、その実その表情は悪意そのものにしか見えない。いかにしてレーベンを痛めつけるか、レーベンが最も嫌がり恐れるものは何か、今まさにそれを考えている顔だ。

 

「……あの」

 

 聖女の悍ましい微笑に戦慄していると、人垣の外から澄んだ声が響く。カーリヤが首を巡らせ、それに続いたレーベンは目を見開いた。

 

「通してもらえますか」

 

 聖女たちの間を縫って現れた、白髪の聖女。同じ灰色の装束を纏っている為か、他の聖女たちに比べて華奢な痩身が際立って見えた。その聖女――シスネは周囲の聖女たちにしきりに頭を下げながらこちらに歩いてくる。そんなシスネに対し聖女らは自ら道をあけるが、それは親切によるものというより、どこか他人行儀さを感じさせる動きだった。

 シスネがポエニスに来てから七日。カーリヤが言うには、未だに彼女は一人で過ごしているらしい。聖都からの異動、しかも騎士のいない聖女など明らかに異質であり、どこか近寄りがたく思われているのだと。その上、シスネ自身も他者と必要以上に関わろうとはしない為、ポエニスの聖女の中で彼女は既に浮いてしまっていた。

 ようやく人垣を抜けたシスネはカーリヤに目礼し、レーベンには一瞥もくれず通り過ぎた後、依頼が貼り出される掲示板の前に立つ。だがそこには何の依頼書も貼られてはいない。かすかに肩を落としたように見える細い背中を眺めていたカーリヤの赤い唇が吊り上がるのを見て、レーベンの脳が警鐘を鳴らす。

 

「ねえぇ、ちょっとシスネさん聞いてもらえるかしらぁ?」

 

 身の毛もよだつような猫撫で声で、カーリヤがシスネの肩を抱く。「ひっ」と小さな悲鳴が聞こえたが、残念ながらシスネの顔は見えなかった。女としては長身なカーリヤに絡みつかれるシスネの姿は、それこそ悪漢か何かに絡まれる薄幸の少女のようである。こそこそと耳元で囁かれるのがくすぐったいのか、か細い体を更に縮こまらせている。是非カーリヤと替わらせてほしいと、レーベンは考えた。

 だがカーリヤが例の写銀をシスネに見せ、後ろ手にレーベンを指さし、更に別の聖女が大袈裟に泣き真似を始め、シスネの肩が震えはじめたのを見て、ようやくレーベンは己の危機を悟った。逃げ出そうにも背後は壁、周囲は最初から聖女たちに囲まれている。退路は無い。

 

「あなたという人は……!」

 

 振り返ったシスネの黒い瞳は、抑えきれない怒りに揺れているようだった。その背後に並ぶカーリヤと聖女たちが三日月のような笑みを浮かべる。もはや彼女たちが本当に聖女であるのかレーベンは自信が無くなってきた。

 

「あぁ、その、なんだ」

 

 レーベンは元より口下手だが、シスネの前ではそれが更に顕著だ。ならば黙っているべきかもしれないが話はしたい。言葉を選んでいると、シスネの手に丸めた紙束が手渡される。ほんのわずかに躊躇う様子を見せていたが、周囲の聖女たちがうんうんと頷くと吹っ切れてしまったようだ。

 

「貴公の写銀は、売っていないぞ」

 

 本日二度目の、紙束で頭を叩かれる音が広間に響く。

 だがまあ、シスネが聖女たちと打ち解けたのだから良しとしよう。レーベンは、前向きにそう考えた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

機械仕掛けの剣

 旧聖都なだけあって、ポエニスの教会は広い。一般の国民も出入りし女神に祈りを捧げる聖堂、魔女狩りの依頼を管理する本棟、聖女と騎士がそれぞれ住まう居住棟、負傷者や一般の傷病者も治療を受けられる医療棟、その他にも様々な棟が建ち並び、慣れない者であれば道に迷うことは請け合いである。

 今レーベン達が向かっているのは、教会の中でも隅の方に建てられた棟だった。

 

「そもそも何故、貴公らがついてくるんだ」

「レイがいったい何に無駄遣いしたのか、ちゃんと見ておかないとね」

「まあ、俺も興味はある」

 

 そこに用があるのはレーベンだけであるが、好奇心を丸出しにしたカーリヤとライアーも共に歩いていた。もっとも、カーリヤについては先の写銀騒動でレーベンから回収し損なった金銭のことを根に持っているのかもしれないが。

 そうこうしている内に、高い石壁で囲まれた武骨な棟に辿りつく。一見、牢獄か何かに見えなくもないが、その石壁は人の侵入や脱走を防ぐ為の物ではない。今も石壁の向こう側からは銃声や、時には爆発音までもが聞こえてくる。

「技術棟」と、過剰なまでに分厚い鉄板に、その建物の名前が刻まれていた。

 

 魔女禍によって進歩したのは聖性技術だけではない。冶金技術、火薬をはじめとした薬学など、当時は開発途上であった技術も魔女に対抗するため急速に進歩した。非聖性技術などとも呼ばれるそれらは、銃や炸裂弾といった聖性に依らない独特の武器を生み出すこととなる。技術棟とは、そういった非聖性武器の研究と開発が行われている場所であった。

 

 武骨な外観と変わらず、技術棟の中もまた飾り気が無く雑然としていた。見慣れた形の銃から、見慣れない形の銃、あるいはもはや意味不明な鉄の塊などが無秩序に並び、鉄と油と火薬の匂いが充満した廊下を三人で歩く。

 ライアーは滅多に入らないであろう技術棟の内部をきょろきょろと見回し、今日も派手に着飾ったカーリヤは色々な意味で浮いていた。この中でただ一人通い慣れたレーベンだけが迷いなく道を進み、やがて一行は階段を降りて薄暗い地下室へと入った。

 足の踏み場も無いとはこのことか。机の上、椅子の上、床の上、あらゆる場所が鉄の何かで埋め尽くされた部屋だった。同じくそこら中に散乱した紙には何かの図面と、ひどく読みづらい文字が所せましと書きこまれている。部屋ではなく倉庫、倉庫ではなくゴミ置き場と言われた方が納得できそうな場所。その奥の暗がりで、ゴソゴソと何かが動いていた。

 

「入るぞ、アルバット」

 

 積み上げられた何かで開け閉めすらできなくなっていた扉に形だけのノックをし、三人は中に足を踏み入れる。レーベンの声に手を止めた動く何かが、ぐるりと振り返った。

 

「おお、おお、君か。待っていたよ」

 

 ひどく小汚い男だった。着ている服は元が何色だったのかも分からないほど油に汚れており、伸びっ放しの髪と髭は混ざり合った上にやはり油に塗れている。

 だがまず目立つのは、その顔の上半分を覆う何かだった。仮面と呼ぶには武骨に過ぎ、兜と呼ぶには繊細に過ぎる。目があるであろう位置には細長い円筒が伸び、その先端のレンズがランプの光を反射している。蝸牛(カタツムリ)蛞蝓(ナメクジ)の触覚に見えなくもないが、その本数と位置は左右でデタラメだった。その異様な「眼」と、顔を覆う髪と髭のせいで年の頃はまるで分からない。

 一目で不審だと分かる男――アルバットの姿を目にして、ライアーとカーリヤが顔を引きつらせているのが見なくとも分かる。だが既に知古と言って良い仲のレーベンは、常と変わらない無表情でアルバットに声をかけた。

 

「また物が増えたんじゃないのか。少しは片付けたまえよ」

「バカを言うんじゃないよ君ぃ、これでも大量に処分したじゃあないか」

「そうなのか」

 

 山積みされた何かに触れないよう慎重に、だが慣れた足取りで奥に進むレーベンの後を、大きな体を縮こませるようにライアーが続く。更にその後ろを歩くカーリヤが時折「うえぇ」とえずくような声を漏らしていた。その二人に顔を向けたアルバットの眼が、チュイィ……と奇怪な音をあげる。

 

「おや、おや、珍しい。ワタシの他にも友達がいたのかね君ぃ」

 

 ずりずりと足を擦るように近付いていくアルバットに対し、二人はおそらく無意識に後ずさっていく。そんな態度に気を悪くした様子もなく、アルバットは髭に隠れた口をニタリと歪ませた。

 

「いや、いや、イイ体をしているじゃあないか。ウフッ、ウッフフッフ……」

 

 いったいどちらのことを指しているのか、レーベンは割と真剣に悩む。ライアーは平均的な男性より頭一つ分以上は高い体躯に筋肉を万遍なくつけた、騎士としては理想的な体型をしている。カーリヤは言わずもがな、男も女も視線を向けずにはいられない艶めかしい肢体の持ち主だ。

 当の二人はまったく同じように顔を青ざめさせ、まったく同じような動きで自分の体を抱きながらじりじり後ろに下がっていく。カーリヤはともかく、ライアーは大変に気色悪い。

 

「そろそろ見せてくれ。もう出来ているんだろう」

「おう、おう、そうだった、そうだった」

 

 二人の友人を変人の魔の手から救う為にも、レーベンは本題に入ることにした。アルバットも興味を失ったのか、あるいは最初から冗談のつもりだったのかあっさりと踵を返す。その後ろで、二人がまた同じ動きで胸を撫でおろしていた。

 

「ついさっき調整を終えたばかりさね。イイ仕上がりだよ、君ぃ」

 

 涎でも垂らしそうに口を歪めながらアルバットが向かった先は、部屋の中央の大きな机だった。どこもかしこも物に溢れた部屋の中で、その机の上だけはぽっかりと穴が空いたように片付いている。そこに汚らしい布をかけられた何かが置かれていた。「さ、どうぞ」と手をやられ、レーベンはその布を取り去る。

 

「……ふへ」

 思わず、レーベンは薬でも無ければ滅多に見せない笑みを漏らし。

 

「へぇ……?」

 興味を抑えられない様子でライアーが覗き込み。

 

「何これ」

 カーリヤは気の無い声で切り捨てた。

 

 それは、剣だった。

 黒光りする武骨な片刃の刀身。大きさはひどく中途半端で片手剣とも両手剣とも言えないが、柄は長く両手持ちだ。

 だが何よりも目を引くのは、鍔の部分に(こしら)えられた何らかの仕掛けと、柄に伸びる()()()だった。

 機械仕掛けの剣――機械剣が、三人の視線を浴びながら鎮座している。

 

「……重いな」

「でも頑丈だよ。だいたい、重くないと吹き飛んでしまうじゃあないか」

 

 手に取ってみると、見た目以上に重い。片手で掲げれば腕が震える程で、強化剤なしで振り回すのは難しいだろう。だが重心の位置は悪くなく、奇怪な仕掛けを取り付けられていることを考えれば上々と言える。様々な角度に掲げながら()めつ(すが)めつ眺めていると、黒い刀身にライアーが目を細めた。

 

「これ、聖銀じゃないのか?」

 

 たしかに、この黒光りする輝きは聖銀のものとは明らかに異なる。聖銀が見せる白銀の輝きは、騎士の武具の象徴でもあるのだ。チュイィ、と。聖銀という言葉を聞いて、アルバットが顔を顰めたように見えた。

 

「聖銀だなんて、あんなもの脆くて使い物にならんよ。これは東のシデロス鋼、混ぜ物なしさね」

「おいおい……」

 

 仮にも教会の中で公然と聖銀を貶める発言に、ライアーが周囲を見回す。だが当然、地下室にはこの四人の他に誰もいない。

 

「だいたい、聖女がいなければ碌に使えもしないじゃあないか。未だに聖銀武器なぞ使う騎士の気がしれんよ」

「……その騎士と聖女の前で、ずいぶんな言い草ね」

 

 カーリヤが切れ長の目を更に尖らせながら腕を組む。アルバットの言葉が気に障ったらしく、靴の高い踵を苛立たしげに鳴らしていた。ライアーは己が貶されたことよりも、むしろカーリヤの機嫌が損なわれたことを恐れているようだ。一触即発とまではいかないが険悪な雰囲気。だがまたアルバットの眼が鳴る。

 

「勘違いしちゃあいけないよ、お嬢さん。ワタシは聖女も聖性技術も好かんが、君のように美しく豊麗な女性は大好きなのさ」

 

 チュイイィィン。アルバットの眼が激しく駆動し、カーリヤの姿――主にその胸のあたりに伸びる。その複雑怪奇な眼にか、あるいはアルバットそのものに戦慄した顔のカーリヤが、胸元を両腕で隠しながらライアーの背に隠れた。見られたくないのならば何故わざわざ晒すのか。カーリヤの考えがレーベンは時々わからなくなる。

 

「あー、で、その引き金は何だ? まさか銃でも仕込んでんのか?」

 

 場の空気を変えたい意図が半分、好奇心が半分といった様子でライアーが話を向ける。眼の長さを戻し、待ちかねたかのようにアルバットが語りだした。

 

「ここに注目。鍔の所に穴があるだろう?」

「ああ」

「ここに炸裂弾か、焼夷弾を入れるだろう?」

「ほう」

「そして引き金を弾くだろう?」

「へえ」

「すると、刀身から炎が噴き出る」

「馬鹿じゃないの?」

 

 最後はカーリヤが真顔で言い放った。ライアーはただ無言で天を仰ぐ。

 

「馬鹿とは心外だね。魔女には炎が有効なのだと君らも知っているだろうに。これ一つで斬ると同時に焼くこともできる優れ物だよ。しかもあえて既存の装備を燃料に選んだことで補給も容易な設計だ。どうだい親切だろう。威力は一つで充分だが二つ入れることもできるよ。ここ一番で決めたいという時におすすめさ。炸裂弾と焼夷弾の組み合わせで炎の性質も変わるという汎用性まで兼ね備えているのだよ。シデロス鋼を材質に選んだのもこの金属が炎に強い特性を持っているからだ。通常の鋼よりも重いがむしろその重さが炸裂時の安定性に繋がってだね――」

 

 チュイイイィィィ!

 全ての眼を動かしながらまくし立てるアルバットに、二人は抱き合うような姿勢で壁際まで後ずさっていく。あれでも手練れの騎士と聖女なのだが。

 レーベンはただ機械剣を構え、振り、引き金を弾いて澄んだ金属音を楽しんだ後、満足げな息をついた。

 

「良い仕事だ、アルバット」

「そうだろう、そうだろう、分かってくれるのは君だけだよ、友よぅ」

 

「馬鹿じゃないの……」と再び呟くカーリヤの目はレーベンにも向けられていたが、冷たい視線などもう慣れたものである。だが改めて機械剣の出来を検めていると、あることに気付いた。

 

「アルバット、この――」

 

 

 ◆

 

 

「馬鹿じゃないの」

「そう言ってやるな。ああ見えて腕は確かなのだよ」

「あんたに言ったのよ。ていうか両方よ」

 

 機械剣を受け取るとすぐにアルバットは一行に興味を失い、レーベンも長居は無用とばかりに外に出れば太陽はもう南まで上がっている。薄暗い地下に慣れた目には眩しい。

 

「馬鹿だ馬鹿だとは思っていたけれど、そんな馬鹿な物にいくら使ったのよ、この馬鹿」

「俺はいったい何度馬鹿と言われるんだ」

「だけどまあ、相当に値が張っただろ。貯金とかしないのかよ」

 

 聖女と騎士は、役目を降りない限りその生活は全て教会に保障される。だがそれは衣食住を現物で支給されるという意味であり、金銭は別だ。稼ぎたければ依頼、つまりは魔女狩りをこなす必要がある。稼いだ金銭をどう使うかは個人の自由だが、明日をも知れぬ身の聖女と騎士である。それぞれの趣味嗜好に散財してしまう者も少なくはない。例えば目の前のカーリヤなど、その化粧や香水が上質で高価な物であることはレーベンにも分かる。……あとは酒か。

 対照的に、ライアーは何についても倹約している節があった。彼が今までこなしてきた魔女狩りの数を考えれば、その蓄えは相当ではないだろうか。

 そしてレーベンは、稼ぎのほぼ全てをアルバットを始めとした技術棟の面々に気前よくばら撒いてしまっている。この機械剣や小型写銀器、実用化前の武器や薬物など、魔女狩りに必要な装備をそろえる為だ。

 

「貯金か。無いな」

「無いって、お前……」

「ねえ、ちょっと」

 

 カーリヤの声に顔を向ければ、道の向こうから誰かが走ってきていた。教会の職員服を纏ったその男はレーベンの前で立ち止まると、膝に手をつきながら息を整える。下を向いた顔から滴り落ちる汗が地面にいくつも染みを作り、長い時間を走り回っていたことが窺えた。明らかに尋常でない様子に、三人ともに意識を切り替える。

 

「こ、ここに、居られましたか……っ」

「大丈夫か、落ち着けよ」

「何かあったの?」

「騎士レーベン!」

 

 突然の名指しに、レーベンは思わず自分を指さす。ライアーとカーリヤも、困惑したような顔を向けてきた。職員の男が続ける。

 

「ヴュルガ騎士長がお呼びです!」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

騎士たちの長

「レイ! あんた本当にいったい何やらかしたのよ!」

「いや、あれだろ。やっぱり写銀の……」

「俺を売ったのか、カーリヤ。貴公はひどい女だ」

「売ってないわよ! 売ったのはあんたの方でしょう!」

 

 ヴュルガ騎士長からの呼び出し。その報せを聞いた三人は矢も楯もたまらず本棟に駆け出した。よくよく考えればライアーとカーリヤまで来る必要は無いが、おそらく全員が冷静ではなかったのだろう。

 それ程までに、あの騎士長は恐ろしい。

 敷地の中央に建てられた本棟まで全力で駆け、だがさすがに棟内を走るわけにはいかず早歩きで先を急ぐ。

 

「名指しで呼び出しって、これは相当だぞ、おい……」

「あまり虐めてくれるなよ。こう見えて動揺しているんだ」

「あんた本当に顔に出ないわよね、腹が立つわ」

 

 まるで我が事のように青褪めているライアーと、理不尽な怒りをぶつけてくるカーリヤと共に階段を登る。大広間のある一階、職員たちの詰所である二階、そして最上階の三階に騎士長の執務室がある。永遠とも思える階段を登り続け、だがあっという間に扉の前に辿りついてしまった。

 それこそ騎士長を思わせるように大きな扉の前に立ち、背負いっぱなしだった機械剣はライアーに預ける。胸の前で両手を組み不安げな視線を向けてくるカーリヤは普段の様子とは異なり、まさに聖女そのもののようでレーベンはかすかに苦笑した。深く息を吸ってから、覚悟が萎まない内に扉を叩く。

 

「失礼します」

 

 

 ◆

 

 

 室内に体を滑り込ませ、扉を閉める。執務室の中は整然としており、殺風景というわけでもなくいくつかの調度品が置かれていた。だがそれは、ただ置くべき物を置くべき場所に置いたとでもいうような、感情の感じられない部屋だ。それこそ、部屋の主と同じように。

 部屋の奥まで進めば、当然ながら騎士長がいた。その巨大な体を執務机に押し込みながら大量の書類にペンを走らせている。背にした窓から差し込む光が髪を剃り落とされた禿頭を光らせているが、それを茶化せる者がこの世に存在するとは思えない。

 ヴュルガ騎士長。このポエニス教会の統括者であり、歴戦の古強者であり、同時に最強の騎士とも呼ばれる男。そして、おそらく全ての聖女と騎士にとって恐怖の象徴でもある。それはレーベンも例外ではないが、この時ばかりは別のものに気を取られていた。何故なら、部屋には先客がいたのだ。

 

「貴公……」

「……」

 

 先客である白髪の聖女――シスネは、思わず声を漏らしたレーベンに視線を向けることもなく部屋の中央で直立していた。そこから二歩ほど離れた位置にレーベンも並ぶ。騎士長は未だ書類に目を落としたままで、部屋の中は静寂だけが漂っている。コチコチと、機械式の置時計の音がやけに響く程の。

 横目でシスネを見れば、細い首筋に汗が光っている。緊張しているのか、体に沿わされた手が灰色の装束を掴んでいた。その手もかすかに震えているのが見える。未だ騎士長は顔をあげない。気は進まないが、こちらから声をかけるべきか。レーベンは覚悟を決めた。

 

「騎士ちょ――」

「これを見ろ」

 

 レーベンの言葉を待っていたのか、ただの偶然か。右手でペンを走らせながら左手で一枚の紙を机に滑らせる。わずかな逡巡の後、机の前まで歩み出て紙を手に取る。一礼してから元の位置に戻り、そこでようやくレーベンは紙に目を落とした。

 何の変哲もない依頼書だった。現地に赴き、魔女を狩る。ただそれだけの単純な内容。ここ数日こそ数が激減していたが、それ以前であれば毎日のように貼りだされていたような、ありふれた依頼書だ。だが内容こそ簡単に理解できたが、ここに呼び出された理由についてはまるで分からない。

 首を傾げていると、横から視線を感じた。まっすぐ向けられるシスネの黒い瞳に吸い込まれそうな錯覚を感じたが、催促するように目を細められて依頼書を手渡す。書面に目を通している横顔を眺め、読み終わったらしいシスネもまた首を傾げるのを見て、そこで再び騎士長の声が響いた。

 

貴様(おまえ)たち二人で行け」

 

 その言葉を、レーベンはすぐには理解できなかった。理解する前に、シスネが一歩前に出る。

 

「騎士長、それは」

「契りを交わせとは言わん。今後は二人で組んで仕事をしろ。それだけの話だ」

 

 騎士長の声からは相変わらず何の感情も読み取れない。レーベンは己が人の心の機微には疎いと自覚しているが、レーベンでなくともそう感じるだろう。まるで岩が喋っているかのような、あるいは岩に向かって喋っているかのような。そんな声だ。

 

「苦情が届いている」

 

 理由は何なのか。その疑問が湧いたと同時に岩の声が響く。何かを言いかけたシスネが口を噤んだ。

 

「聖女と騎士の派遣を依頼したはずが、何故片方しか来ないのか、とな」

 

 それはこの五年間、常にレーベンに付きまとってきた声だ。聖女と騎士は一対の存在。この国の人間であれば誰もが知っている。レーベンも、その例外は己の他にはシスネしか知らなかった。故に、その例外を組ませて体裁を保つ。そういう、本当にただそれだけの話なのだろう。

 レーベンは腑に落ちたが、シスネはそうでなかったようだ。

 

「事情は、分かりましたが、でも、私は」

()()()()()()()()

 

 全身が粟立つ。置時計が一瞬動きを止めた、ような気がした。

 何年前だったか。ライアー達と共に挑んだ、「あの魔女」と対峙した瞬間が脳裏に蘇る。騎士長の声は平時と変わらないものであったが、それでもレーベンの体は今すぐここから逃げ出そうとしていた。直接に声をかけられた訳でもないというのに、この威圧。シスネはどうなってしまったのかと、横を見れば、

 

「お――」

 

 ぐらり、とシスネの痩躯が倒れてきて、思わず抱きとめる。あまりにか細い肩と、同じ人間とは思えない重みの無さに、干からびた死体を運んだ時のことを思い出した。嫌な記憶が過るのも束の間、一瞬遅れて宙に舞った白い髪からカーリヤの香水とも異なる芳香を感じ、腹の底からざわざわと得体の知れない衝動を覚える。

 シスネはこの状態に暴れ出すこともなくレーベンの腕に凭れていた。元より白い顔からは完全に血の気が失せ、黒い瞳も焦点が合っていない。気絶こそしてはいないが、一人で立てるようにも見えなかった。

 

「今後は二人で依頼を受けろ。三度は言わん。以上だ」

 

 遂に一度も顔を上げないまま、騎士長は一方的に話を終わらせた。シスネに対する仕打ちといい、いくらなんでも目に余るものではあったが、それに何か異を唱える力も権利も度胸もレーベンには無い。ただ、シスネの背を支えながら扉へと向かった。

 

 

 ◆

 

 

「そりゃあ災難だったな」

「まったくだわ」

 

 執務室の前で待っていたライアーとカーリヤが、放心したシスネと共に出てきたレーベンを見て唖然とし、質問攻めの末に何故かカーリヤに頭を叩かれた後、とりあえずシスネを休ませようと四人で一階の食堂へと向かった。ちょうど昼時を過ぎた為か人は少なく、貸し切りのようだった。

 

「飲める? 熱いわよ」

「……ありがとう、ございます」

 

 カーリヤが甲斐甲斐しい様子でシスネとライアーに紅茶の入ったカップを手渡す。シスネの隣に腰掛けると、そのまま自分のカップに砂糖を入れてから口を付けた。……レーベンにだけは紅茶を用意してくれないあたり、未だに写銀のことを根に持っているのかもしれない。

 

「災難なんてものじゃないわよ、よりにもよってこの馬鹿と」

「俺と組むことが災難のように聞こえるんだが」

「そう言っているんだけど?」

 

「ああ、かわいそうに」とシスネの肩を抱いて頭を撫で始めるカーリヤ。何だかんだと言って、ライアーと同じく世話焼きなこの聖女である。聖都からひとり異動してきたシスネのことも気にかけているらしい。

 当のシスネは、まだ騎士長の威圧から立ち直れていないのか、されるがままになっている。……だが頭に押し付けられているカーリヤの豊満な胸に向ける視線が、どこか敵意に似ているのはレーベンの気のせいだろうか。

 

「……まあ、がんばれよ」

 

 紅茶を啜りながら、ライアーがどこか含みのある視線を向けてくる。それを受けて、レーベンは力強く頷いた。さすがは第一の友人である。どこぞの派手な聖女と技術棟の変人とは役者が違う。

 そもそもレーベンは、シスネと聖女と騎士の契りを交わす為にあれこれ画策していたのだ。あいにく既に二度も断られているが、ここにきて運が回ってきた。今ならあの恐ろしい騎士長に感謝しても良い。

 

「改めて、よろしく頼む。シスネ」

 

 正面のシスネに視線を合わせ、机ごしに手を差し出す。握手ではない。掌を上に向けた、相手から手を取ることを待つ姿勢だ。聖女と騎士の間では通例の、契りを求める仕草。

 ごくりと、隣のライアーが固唾を飲んでいるのが分かる。カーリヤも、そっとシスネから身を離した。

 シスネは、差し出された手をじっと黒い瞳で見下ろす。

 

「……騎士長の命令には、従います」

 

 顔を上げたシスネの瞳には、強い光があった。先程までの弱々しい姿とは別人のような。

 

「でも、あなたとだけは、契りは交わしません。……絶対に」

 

 黒い瞳から放たれる強い光。強い、拒絶の光だった。

 ぐいと紅茶を飲み干し、席を立つとカーリヤ達に目礼してシスネは足早に去っていく。靡く白い髪を目で追いながら、あの時に感じた芳香を思い出そうとするが、その香りの記憶はもう曖昧だった。

 後には、ただ無意味に手を差し出したままのレーベンと、それを眺める二人の友人だけが残された。そのままの姿勢でライアーに顔を向けると、壁の方を向きながら紅茶を啜っていた。こっちを見たまえよ。いっそ笑ってくれ。カーリヤの方を見れば、やはり無言で手にカップを乗せられた。シスネが飲み干した空のカップだ。片付けてこいということだろう。慈悲は無かった。

 

「それ舐めたら蹴るわよ」

 

 無言で席を立つレーベンに、無慈悲な聖女から無慈悲な言葉が投げかけられる。さすがのレーベンもそこまでする気は無い。ただ少し泣き出したくなっただけである。

 憂鬱な気分で下膳用の机に向かっていると、手にしたカップに残された熱がじわじわと掌に伝わってくる。後ろからは「あちち」とライアーが紅茶を冷まそうとしている声が聞こえた。そういえば、これを一気飲みしていたシスネは無事だったのだろうか。特に意味もなく、レーベンは心配になった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

銃と刃と彼女の瞳

「片手剣を二本、両手剣は……いらんか。代わりに短剣をくれ」

「短銃を二丁お願いします。それと短剣を三本」

 

 教会の地下倉庫。顔なじみの倉庫番の彼が、相変わらずうんざりした顔で武器を並べていく。普段より更に疲れたような顔をしているのは、レーベンと同じぐらいに大量の武器を注文するシスネがいるからだろう。

 

「あと手斧、長銃と弾、炸裂弾と焼夷弾」

「私にも長銃を。弾薬はまだありますか」

 

 倉庫番の彼は、黙々と武器と弾薬を並べ続ける。その顔はどこかやつれたようにも見え、もしかしたら次に来る時は別の職員に替わっているかもしれない。そうレーベンは思った。

 シスネは、隣に立つレーベンには目もくれず長銃のレバーを何度も引いて動作を確認している。可動部に耳を当てて部品の噛み合わせを聞いている姿は堂に入っており、長銃を扱う手つきも慣れたものだ。

 

「……すみません、別の銃に交換を」

 

 どうやら御眼鏡には適わなかったらしい。だが倉庫番は管理表に目を落とし、ガリガリと頭を掻いた。在庫が無いのだろうか。頻繁に長銃も壊しているレーベンとしては責任を感じなくもない。

 

「これなら良いか?」

 

 自分の前に置かれた長銃を、そのままシスネに手渡す。わずかに逡巡した後でシスネは長銃を手に取り、再び動作確認を始めた。レーベンは、代わりにシスネが返した長銃を手に取る。

 

「……レバーの部品が劣化しています。弾詰まりしても知りませんよ」

「その時は貴公の聖性に期待しよう」

 

 ガチリ。不吉な音に顔を向ければ、長銃の照門ごしに黒い瞳と目が合った。弾は入っていないと分かっていてもゾッとしない光景である。

 

「言ったはずです。貴方と契りは交わしません」

 

 適当に両手を上げてみせるとシスネは長銃を下ろし、次は短銃を一丁ずつ検めていく。可動部を念入りに見つめる様を不安げに見つめている倉庫番に、レーベンはいつもの注文を出した。

 

「薬をくれ。いつものやつ」

 

 シスネが手を止める。やがて各種薬物の入った箱が丸ごと机に乗せられ、その中身のほとんどを鞄に詰めていくレーベンを見て、その顔から色を失くした。

 

「……何の真似ですか」

「何がだ」

「それが何か分かっているのですか」

「再生剤と、強化剤と、鎮痛剤と、中和剤」

 

 黒い瞳がレーベンを見て、そしてすぐに鞄に手を伸ばしてきた。ひったくられる鞄を見送っていると、シスネは鞄を逆さまにして中身を机にぶちまける。ゴロゴロと転がっていく薬たちが落ちそうになり、倉庫番が慌てて拾い集めた。

 

「何の真似だ?」

「……何がですか」

 

 明らかに不機嫌さを増したシスネが、ぞんざいに答えながら拾い集めた薬を箱に放りこんでいく。いくつかの薬瓶だけを残して、再び大量の薬が詰められた箱を倉庫番に突き返した。その気迫に気圧されたように、彼は箱を抱えて倉庫の奥へと走り去っていく。憐れな男だ。

 レーベンは、ひどく心許ない量となった薬を手に取った。

 

「これでは足りないんだが」

「薬には用法と用量があります。馬鹿でも知っていることだと思っていましたが」

 

 言外に馬鹿だと言われた。確かにいつも薬を過剰に服用しては痛い目を見ているレーベンではあるが、ここまで言われたのは久しぶりである。何年か前に、ライアーとカーリヤにこっぴどく説教されたことを思い出した。

 だが聖女のいないレーベンにはそれが必要なのだ。シスネにも拒絶された以上は今まで通りの方法で魔女を狩るしかない。とはいえ、この様子では正規の薬を得ることはできそうもなく、後でアルバットを訪ねる必要があるだろう。

 出発までの予定を考えている間に、シスネは弾薬と炸裂弾と焼夷弾を自分の鞄に詰めていく。箱の中は既に空に近く、倉庫番の表情がどんどん暗くなっていった。

 

「待ってくれ。俺の分が無くなるんだが」

「知りません。私が先に取りました」

 

 弾薬に用法と用量は無いのだろうか。わずかな残りを鞄に詰め、遂に空になってしまった箱を見ながら倉庫番と一緒に溜息をついた。そんなレーベン達を置いて、シスネはさっさと外へ続く階段を登っていく。これもアルバットに頼まなければならなくなった。もしかしたら今回の依頼は赤字かもしれない。

 諦め悪く箱を逆さまにしている倉庫番と目が合い、また深い溜息が地下倉庫にふたつ響いた。

 

 

 ◆

 

 

 今回の依頼は、カクト鉱山地帯に出没した魔女の討伐。カクトはポエニスから馬車で約五時間。近隣の依頼を受けることが多かったレーベンとしては遠方と言える距離だ。今まで一人で魔女狩りに向かっていたレーベンは、馬車に揺られている間は景色を眺めているか寝ているぐらいしかやることがなかった。だが今は違う。

 

「ああもう、お尻いたい。もう嫌。ライアーちょっと揉んでくれない?」

「揉まねえよ!」

「貴公は大丈夫か。飴は食べるか」

「いりません。お構いなく」

 

 一人では広すぎた荷台も、四人もいればさすがに狭い。しかも大柄なライアーと、隙あらば脚を伸ばそうとするカーリヤも一緒である。シスネは華奢な体を行儀よく座席に納めているが、銃と弾薬が詰められた鞄はそれなりに大きい。レーベンは言わずもがな、大量の武具が大荷物と化している。結果、荷台の中はひどく狭苦しいこととなっていた。

 何故このようなことになっているのかと言えば、ライアー達もカクトの近隣での依頼を受けたからだ。何故かここ最近は数が減った魔女狩りの依頼。数少ないそれを勝ち取った二人がついでとばかりにレーベン達の馬車に相乗りしてきたのが、つい一時間ほど前のことである。

 

「いや、悪りぃなホント」

「まったくだ。今からでも遅くないから降りたまえよ」

「あんたをシスネと二人きりにしたら、何するか分からないでしょ」

 

 心外である。これでもレーベンは紳士で通っているのだ。少なくともレーベン自身はそう思っている。確かにシスネと二人で移動するのが楽しみで飴など買ってきてしまったが、拒絶された相手を無理矢理どうこうするほどレーベンも獣ではない……つもりだ。

 だがどこまで本気か分からないカーリヤの言葉を聞いて、シスネは顔を強張らせながら狭い荷台の中で距離をとろうとする。いつの間にか荷物から出された短銃を手にしているのを見て、色々な意味で心配になってきた。だがいくら何でも、この場で発砲するほど短慮ではないだろう……と思いたい。

 

「貴公、きっと冗談だ。危ないからしまってくれ」

「近付かないでください」

 

 この狭さでは、近付くも離れるもあったものではない。つまりは少しでも身を乗り出せば、短銃が火を吹くかもしれないということだ。何故このようなことになってしまったのか、名の無い女神にぜひ聞いてみたい。

 とはいえ、以前は無視されるばかりだったレーベンの言葉にも、今はシスネも答えてはくれる。契りこそ交わさないが、共に仕事をする気にはなってくれたということだろうか。レーベンは前向きに、そう考えた。

 

「……何がおかしいのですか」

 

 レーベンの顔を見ていたシスネの瞳が更に鋭さを増す。だがそれよりも先に、レーベンを含めた三者の視線が集中した。突然の注目に、シスネの方が身を固まらせる。

 

「な、なんですか」

「ああ、いや。よくこいつの表情(かお)が分かるなって」

 

 ライアーが不思議そうな、あるいは感心したような目をシスネに向け、シスネも不思議そうな目で見返す。チラと黒い瞳がレーベンを一瞥し。

 

「……笑っていますよね」

「いえ、私にも分からないわ。いつもの馬鹿面よ」

「ついでに俺を罵倒しないでくれるか」

 

 ライアー達が驚くのも無理は無い。なにせレーベンの無表情は筋金入りである。レーベン自身も悩まされており、鏡の前で無理矢理に作り笑いをしようとしてようやく口の端が歪む程度だ。一部の同僚や職員からは「騎士長を思い出すから」と矯正を望まれたことすらある。さすがにあの騎士長ほど人の心を捨てた覚えは無いというのに、ひどい話だ。

 だが何故かシスネにはそれが分かるらしい。レーベンはまたかすかに笑った……と思う。

 

「なるほど、運命か」

「……は?」

「誠に申し訳ない」

 

 対してシスネは顔に出やすい(たち)らしい。道端で腐る(カラス)の死骸でも見るような目を向けられて、レーベンはそそくさと荷台を後にした。そこまで睨むことはないではないか。

 

 

 

 ついに居場所が無くなったレーベンは、仕方なく荷台を出て御者の席に座った。当然そこには馬の手綱を握る御者がいる。

 

「おやおや騎士サマ。仲間外れにされたので?」

 

 顔なじみの、中年の御者。どこまで話が聞こえていたのか、いつもの下卑た笑みを浮かべながら面白そうに尋ねてくる。レーベンとしてはまったく面白くないが。

 

「せっかくお仲間ができたってのに、お可哀そうに」

「黙りたまえよ。もう写銀を売ってやらんぞ」

「ヘヘ、その節はどうも」

 

 まったく謝意も敬意も感じられない顔で頭を下げる御者を横目に、レーベンは憂鬱に溜息をつく。先の写銀騒動の際、この御者は上客でもあった。かなりの枚数を買い占めていくのを見て、御者とはそんなに儲かるものかと疑問に思っていたが、この男どうも写銀を転売していたらしい。

 とはいえ、ポエニスでしか店を広げていなかったレーベンとは違い、御者として行く先々で写銀を売っていたのだ。双方ともに稼ぎを得、更に聖女の姿絵をより遠くの地まで届けられたと考えれば、心も豊かになるというものである。

 

「いやしかし、本物はたまりませんなぁ。普段はあっしなんかの馬車には乗ってくれないもんで」

 

 見れば、御者の手には手綱と共に小さな鏡も握られている。おそらくは、それでカーリヤの姿を盗み見ているのだろう。レーベンもそれに倣い、手鏡を取り出して荷台の中を窺う。

 レーベンが座っていた席は、既にカーリヤによって占拠されていた。長い脚が惜しげもなく伸ばされ、呆れた顔のライアーがスカートの裾を正す。シスネは我関せずといった様子だが、黒い瞳はどこか憎々し気に剥き出しの長い脚を見ていた。その視線に気付いたらしいカーリヤが悪戯っぽく笑いながら何かを言い、顔を赤らめたシスネがそっぽを向く。ライアーは額に手をやりながらも、その口元は緩んでいる。

 ひどく和やかな雰囲気だった。当然、レーベンとしては歯噛みする思いである。

 

「あの聖女め。次は着替え中の姿でも写銀に納めてくれる」

「ほう、それはまた高く売れそうですなぁ」

 

 嫉妬と私怨を剥き出しにしながらカーリヤへの復讐を画策するレーベン。一方、御者は過激な写銀かあるいはそれを売り捌いた後の稼ぎに鼻の下を伸ばしていた。その手の鏡が、くいと角度を変える。

 

「そういや、あっちの聖女サマの写銀は撮らなかったので?」

 

 先日、シスネ自身に言ったようにレーベンは彼女の写銀は一枚も売っていない。その理由について口にする気は無かったが、御者は嫌らしく笑いながら適当な推測を並べ始めた。

 

「まあ、地味ですしねぇ。お体の方も貧そ……華奢なようで」

「……、分からん奴だな貴公。そこが良いのだよ」

「へぇ、意外ですな。あっしはてっきりあっちの豊満な聖女サマの方がお好みなのかと」

 

 的外れではなかった。カーリヤの美貌と肉体美は男を魅了してやまず、レーベンとて例外ではない。ならば何故、彼女とは正反対なシスネの事がここまで気になるのかと言えば、それは自分でもよく分かってはいないのだ。

 

「まあ、まあ、女の好みなんて人それぞれですしねぇ」

「……そういうことだな。かの女騎士ヴァローナこそ理想とする者もいるらしい」

「うへえ。あの人喰い鬼(オーガ)みたいな……いや失敬。屈強な騎士サマですかい」

 

 ヴァローナとは、最初の騎士たちの一人にして最初の女騎士である。その特異性から姿絵や石像も多く遺されているが、そのどれもが筋骨隆々とした半裸の姿であることも有名だ。多分に誇張されているだろうことを(かんが)みても、ライアーよりも屈強な女だったのではないだろうか。正直なところゾッとしない。

 

「でもあの方の英雄譚は、あっしも好きですな。あのポエニス防衛の戦いとか」

「アレか。鎧を脱ぎ捨てて裸で魔女の群れに単身突撃したという」

「あそこだけは空でも言えますわ。挿絵が官能的だった(エロかった)もんで」

「挿絵か。なら聖女シーニュも良いぞ。魔女に捕らわれて服を破られたくだりの絵がそそる」

「ほほう!」

 

 わりと禄でもない会話に花を咲かせていると、首筋に冷気を感じた。気配的なものではない、現実に冷たい物が首に当てられているのだと遅れて気付く。隣の御者もまた動きを止めていた。持ったままだった手鏡を傾ければ、鏡ごしに目が合う黒い瞳。

 

「黙って手綱を握っていただけますか」

「「はい」」

 

 両手に握った短銃をそれぞれ二人の男に当てるシスネの目はどこまでも冷たく、だがその顔は真っ赤であった。そこまで怒ることはないではないか。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

魔女に至る病

「じゃあな、お前らも気をつけろよ」

「ほんと気をつけなさいよ、シスネ。その馬鹿が変なことしてきたら撃っていいから」

「もう良いから、さっさと行きたまえよ」

 

 早朝にポエニスを出て約五時間。街道の分かれ道でレーベンとシスネだけを降ろした馬車が、今度は南へと進んでいく。

 荷台から顔を出したカーリヤが物騒な助言をし、シスネが無言で頷いていた。仲を深められたのなら結構だが、だしに使われるレーベンとしてはたまったものではない。ニヤニヤと笑いながら遠ざかっていく聖女の顔にしっしと手を振り、レーベンはひとつ息をついた。視線を横に向ければ、カクトの町へと道が続いている。その道を、シスネは既にひとりで登り始めていた。

 カクトは、教国の東側に広がる鉱山地帯にある町の一つである。様々な鉱物の採取と、それを使った鉄工を主な産業としており、遠くに見える建物からはいくつもの煙突が伸びている。近付くほどに、各所の鍛冶場から響く鉄音も聞こえてきた。それと、抑えきれないシスネの息遣いも。

 土地柄か、町へと続く上り坂はかなりの急斜面だ。登り始めて十分と経たない内に、シスネの足が遅れてきた。聖女である以上、ある程度は鍛えているだろうが限度はある。元より見ていて心配になる程に華奢な体だ。その上、長銃や弾薬が詰められた鞄を担いでいるのだから、いつ転ぶか見ていて気が気でない。

 

「貴公、大丈夫か。荷物は俺が」

「結構です。触らないでください」

 

 荷物に手を伸ばすと、存外にしっかりとした声で拒絶された。上げたままの手を所在なげにしていると、荷物を担ぎ直したシスネが再び歩き出す。鬱陶しげにかき上げられた白い髪が宙を舞う様が、目に焼き付くようだった。細い首筋に光る汗を眺めていると、不意にシスネが振り返る。

 

「……この際なので言っておきますが」

 

 息が上がっているせいか、あるいは別の理由か。赤い顔の中で光る黒い瞳は、やはり強い拒絶の光を放っている。

 

「私は、あなたが嫌いです」

「そうだろうな」

 

 ここまで冷たくされていれば嫌でも分かる。それが人の心の機微に疎いレーベンであってもだ。

 

「この際だから、理由を聞いても良いだろうか」

 

 それとなく、シスネが転んだら支えられる位置につきながら聞いてみる。確かにシスネの前では半裸であったり覗きを見つかったりと碌な姿を見せてはいないが、だからといって敵意すら感じる視線まで向けられる謂れは無い。まして、これから共に命がけで魔女狩りを行うのだ。仮にも味方であるレーベンに対する態度としては異常とすら言える。

 だがシスネは、レーベンの問いをただ鼻で笑った。

 

「穢い人を好む人間がいるとは思えませんが」

 

 (きたな)い。いつぞやの朝にも、シスネからそう言われた。カーリヤの言うように、聖都の聖女とはやはり潔癖なのだろうか。理由がそれだけとは思えないが、シスネにはそれ以上語る気はないようだ。ならば、レーベンもここは引き下がるしかないのだろう。

 

「俺を嫌うのは構わんが、仕事はしっかりと頼む」

 

 話している内に、町への入り口の前まで辿りついた。鉱山の町らしい武骨な石造りの周壁に、立派な鉄の門扉がレーベン達を出迎えている。周壁の上からこちらをじろじろ見ている門番に向けて、教会の紋章が刻まれた首飾り――騎士証を掲げて見せると、重い音を響かせながら門が開きだした。

 

「……言われなくても、分かっています」

 

 シスネの声は鉄の音にかき消されそうな小声だったが、それでもレーベンの耳にはよく響いた。

 

 

 

 教会の使いであることを告げれば、門番の一人が町の教会まで案内してくれるという。門番とシスネの後を追い、カクトの町に足を踏み入れた。

 活気のある町だった。ポエニスからもそれなりに離れた辺境といっても良い町だが、それでも多くの人が行き来している。大通りには石畳が敷かれ、鉄か何かを積んだ馬車が重そうに車輪を鳴らしながら通り過ぎていった。土地柄か、すれ違う男たちも皆たくましい体つきをしている。活気のある鉱山の町。

 だが。

 

「女が、いないな」

「……はい」

 

 ぼそりと、独り言のつもりで漏らした声に、すこし前を歩くシスネが小さく応えを返した。顔は前に向けたまま視線を周囲に巡らせると、建物の窓からはいくつかの顔が覗いているのが見える。どれも、女の顔だった。

 魔女は女から生まれる。言い換えれば、人間の半数は潜在的な魔女ということだ。恐れを抱くにはあまりにも数が多く、巨大すぎる。故に、教国の民は皆それを忘れながら生きているのだ。己もいつかは死ぬという事実を、誰もがあえて意識しないように。

 だが、その忘れようとしていた魔女が身近に現れればどうなるか。肌で感じる死の気配は人々から容易く冷静さを奪い、不安と恐怖は病のように伝播していく。そして、それらが最後に行きつくのは必ず女たちだ。

 

「町長の指示だよ。女はなるべく外に出るなってさ」

 

 案内役の門番にも聞こえていたらしい。まだ少年らしさを残した青年は、精悍な顔に不安を滲ませながらレーベンらを見やる。

 

「なあ、本当なのか? 魔女がいる町の女は、みんな魔女になっちまうって……」

「それは……」

 

 シスネが口ごもる。違うと断じることは簡単だが、魔女禍の原因は未だ分かっていないのが現状だ。いかにもな迷信に聞こえる青年の言葉も、もしかすれば真実かもしれない。事実、一つの村の女が続けて魔女になったという例も少なからずある。レーベンもシスネも教会の名を背負ってここにいる。不確かなことを口走るわけにはいかないのだ。

 シスネの沈黙を是と捉えたのか、青年の顔が青褪める。母か姉か妹か、彼の家族にも女はいるのだろう。あるいは恋人か。そう考え、レーベンは口を開いた。

 

「貴公の説を否定はしないが、他にこういう説もある」

 

 青年が縋るような視線をレーベンに向け、シスネが険を増した黒い瞳を向けてくる。また何か余計なことを言おうとしている、とでも思われたのかもしれない。

 

「“魔女を生む真の病とは、絶望である”」

 

 青年が首を傾げ、シスネは何故か俯いた。

 それは最初の騎士たちの筆頭、大騎士コルネイユの言葉だ。曰く、心が傷つき絶望した女は魔女へと堕ちる。それ故に、教国の暗黒時代は生まれてしまった。かつて行われた凄惨な女狩りこそが、魔女禍を蔓延させた真の罪なのだと。

 存外に当を得た説だとレーベンは考えている。近しい女が魔女となり、それに絶望すればその女もまた魔女となる。魔女になるかもしれないと謂れなき迫害を受け、絶望した女がやはり魔女となる。青年の迷信に聞こえる言葉も、かつての暗黒時代も、「絶望」こそが魔女禍の原因だとすれば辻褄は合ってしまうのだ。

 とはいえ、その説を公的に認めてしまえば、聖女が生まれる前に教国が推し進めていた女狩りこそが魔女禍の原因だということになってしまう。だからこそ、聖女や騎士ほど大っぴらにこの説を口にすることは(はばか)られる。そもそも、絶望つまりは人の心などという不確かな物が原因だとすれば、魔女禍の根絶など夢物語だ。全ての女から絶望を取り除けなど、人の世から全ての争いを失くせと言っているのと変わらない。それこそ絶望的だ。

 

「まあ、要するにだ」

 

 コルネイユの格言を言って聞かせた後、いつの間にか歩みを止めていた青年の肩を叩く。

 

「女は大切にしたまえよ。それが魔女になるかもしれない女でもだ」

 

 この町は上手くやっている方だろう。女たちを家へと隔離し、他者との接触を極力おさえる。不安こそ感じれど、謂れなき非難や暴力まで受けることは無い。仮にコルネイユの説が正しければ、これだけで次の魔女が生まれる可能性は低くなるはずだ。……もっとも、それは魔女が必ず狩られるという確証があればの話だが。

 黙って話を聞いていた青年は、ふと弱々しく笑った。

 

「いいのかよ、騎士さまがそんなこと言って」

「言ったのは俺ではない。偉大な騎士コルネイユである」

 

 元より真っ当な騎士とは言えないレーベンではあるが、それでもこれ以上の悪評は避けたい。責任転嫁されたかの大騎士には悪いが、腐っても後継の一人であるレーベンの為に犠牲になってくれても良いだろう。レーベンは開き直った。

 冗談の一つと受け取ったのか、青年は苦笑の表情が濃くなる。

 

「でもコルネイユってあれだろ。“好色の騎士”だろ?」

「不敬だな貴公。二股三股どころか九股など、もはや伝説ではないか。敬いたまえよ」

「聖女を三人侍らせてたからすっげえ強かったって本当なのかな。そんな事できんの?」

「さてな。なにせ俺は聖性を受けたことが無……いやなんでもない」

 

 また禄でもない話に花を咲かせていると、バキリと道のいたる所に落ちていた鉄クズが砕ける音が響く。見れば、シスネが忌々しげに憐れなゴミを踏みにじっていた。

 

「先を急ぎましょうか?」

 

 ニコリ、と。初めて見るシスネの笑顔は凍りつくような作り笑いであった。レーベンとしては眼福でも、隣に立つ青年はそうでもないようだ。カタカタと震えながら少女のようにレーベンの腕を掴んでくる。申し訳ないが大変に気色悪い。

 速足になったシスネに追い立てられるように青年が先導する。それに追いすがりながらシスネが発砲しなかったことにレーベンは安堵した。彼女が存外に短気であることは、ここ数日で分かっていたことだ。

 視線だけでシスネの顔を覗けば、その白い顔は既に無表情に戻っている。ついさっきに見た笑顔はまだ目に焼き付いており、写銀器を持っていれば良かったとレーベンは自省した。

 

 

 

 辺境であることを鑑みても、カクトの教会はこじんまりとしていた。周りの民家とそう変わらず、むしろ鍛冶場のある工房などの方がよほど立派な造りをしている。だが荒れているわけではなく、小さな庭も綺麗に整えられていた。

 案内役の青年と別れ、正門の前でしばらく待っていると、入れ替わるように大柄な男が大通りから現れた。四十路も過ぎたような男盛り。火に焼けた赤銅色の肌と太い手足を持つ、いかにもな鉱山の男であった。

 

「悪い悪い、合鍵をどこに置いたか忘れっちまって」

 

 挨拶も無しに、ガチャガチャと玄関の鍵を開けた大男は「さあ入った入った」と先に立って教会に入る。レーベンとシスネもそれに続いた。

 教会の中は、簡易的な祭壇が玄関に設えられている以外はほとんど民家のようであった。外観と同じく掃除も行き届いてはいるが、そこかしこから生活の匂いを感じる。居間とも台所ともつかない部屋の椅子に大男が腰掛け、机を挟んでレーベンたちも席に着いた。

 大男はカクトの町長だと名乗った。だが町長とは言っても、この町では数年ごとに持ち回りで町長を務めることになっているらしい。町の運営はあくまで合議制であり本業はあくまで鍛冶屋だというのも、その丸太のような腕を見れば納得というものである。

 

「しかしまあ、ずいぶんと若いんだな。どっちも細っこいし、ちゃんと食ってるか?」

 

 白い歯を見せながら、大男――町長が笑いかけてくる。侮っているというより、ただ単に物珍しさか年長者らしい世間話のようだった。レーベンも騎士としては若い部類ではあるが特別に若いわけでもない。体型も目の前の町長に比べれば大抵の男は細身だろう。もっとも、シスネの痩せた体に関してはレーベンも心配に思ってはいた。

 

「まったくだな。色々と細くて小さくて心配になる。ちゃんと食べているのか貴こ――」

 

 冗談のつもりでシスネに話を向ければ案の定、机の下で足を踏まれた。予想外だったのは、その踏み方があまりに容赦の無いものであったことだろうか。

 

「お構いなく。そろそろ依頼の件をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「お、おう」

 

 声も出せずに悶絶するレーベンには目もくれず、作り笑いを貼りつけたシスネが町長に話を促す。さすがに聞き逃すわけにもいかず、痛みを堪えながらレーベンも姿勢を正した。

 ……小さな舌打ちの音が聞こえた気もするが、空耳だと思いたい。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

狩りに赴く前に

 町長の話によれば、最初に魔女が目撃されたのは五日前。町より更に東の、現在は使われていない廃坑の付近だという。仕事帰りの鉱夫たちが夕日の中で動く異様な姿の生き物を見かけ、慌てて下山してきたらしい。

 

「その魔女の姿は詳しく分かりますか? 何かの動物に似ていたとか」

「いやそれがな、あいつら泡食って逃げてきたみたいで、その辺はなんとも……」

 

 魔女は例外なく異形の姿をしており、同じ姿形のものは一体とていない。故に、()()()()()()()()()()()()()という点が最も恐ろしい。その為、事前に可能な限り情報を集めておくことが魔女狩りの定石だが、今回のように何も分からないということも少なくはなかった。

 

「誰も見ていないということですか?」

「いや見てないわけじゃないらしいんだが、皆バラバラなんだよ。トカゲだって言ったりヘビだって言ったりよ。クモだって言った奴もいたな」

「……いえ、充分です」

 

 几帳面に、シスネが紙に情報を書き記していく。今まではレーベンが自分で情報を集めていた。一人で魔女を狩っていたのだから当然だ。だが今はシスネが率先して町長から情報を聞きだしてくれており、レーベンはただ横で話を聞いているだけで良いのだから楽なものである。……シスネが単にレーベンの存在を無視しているだけなのかもしれないが。

 

「ここ最近で、行方が分からなくなった女性はいますか?」

「いない。町中の家を確認したから、それは間違いないぜ」

 

 ふむ、と。シスネが唇に手をやった。彼女はどうか分からないが、レーベンは半ば予想していたことではあった。町の雰囲気がまだ明るかったからだ。町の中で魔女が生まれ、周囲に大きな被害を受けた町というのは、もっと陰惨とした雰囲気に包まれている。

 この町の住人が魔女となったわけではないのならば、何処ぞの魔女が偶然この町に迷いこんできたということだろうか。それも珍しいことではあるが、まったく無いわけでもない。

 

「ところで、」

 

 シスネが一旦ペンを止め、言いにくそうに口を開く。

 

「この教会の聖女と騎士は、今どこに?」

 

 問いの形ではあるが、実際はただの確認だろう。町には小さいながらも教会があり、そこに住まう聖女と騎士がいた。だというのに、わざわざポエニスまで依頼を出した。つまりは、そういうことだ。

 

「……もう三日になる」

「そう、ですか」

 

 心なしか固い声でシスネが答えた。

 この教会に住んでいたのは、町長とそう変わらない年代の聖女と騎士だったらしい。既に一線を退いたような二人だったが、魔女が目撃されてすぐに女たちを家から出さないよう町長に指示を出した。そして朝を待ってから廃坑に向かい、一度は帰ってきたものの、その次の日にはもう帰ってこなかったのだと。

 平静に見えた町長の声は徐々に震えだし、大柄な体は俯いていく。

 

「一度、帰ってきた時にな、言われたんだ。ポエニスに依頼を出しとけ、ってよ」

 

 シスネはもう何も記していなかった。ペンを握ったまま、町長の震える声を聞いていた。

 

「止めりゃあ良かったんだ……くそったれ」

 

 頭を垂れた町長の髪には、まばらに白髪が混じっていた。それが元からなのかどうかはレーベン達に知る由もない。ただ、無言で肩を震わせる町長の体は、やけに小さく見えた。

 

 

 ◆

 

 

 シスネが机に銃を並べる。六連発の短銃が二丁。更にもう一つは女の手には余るような大型の短銃だ。更に長銃を机に立てかけ、それらの弾薬も鞄から取り出す。

 机を先に取られたレーベンは、仕方なく床の上に武器を並べた。別の部屋に行けば机か寝台ぐらいはあっただろうが、元の住人たちのことを考えればそれも憚れる。町長からは好きに使ってくれて構わないと言われてはいても、レーベンにもそれぐらいの感傷はあるのだ。

 

「楽で良いな」

 

 二本の片手剣をそれぞれ鞘から抜いてみながら言う。町長は既に立ち去った後だ。必然的に、シスネが顔を向けてくる。

 

「今までは、拠点も借りられなかった」

 

 今までレーベンは一人で魔女を狩ってきた。時にはライアーや他の騎士たちと合同で狩りに向かったこともあるが、それよりも一人であったことの方がずっと多い。聖女と騎士は一対の存在。故に、聖女のいないレーベンは常に不信の目を向けられてきた。本当に騎士かどうかも分からない相手に拠点となる場所を貸してくれる物好きなど、そうはいなかったのだから。

 

「あなたは、いつから聖女がいないのですか」

 

 短銃に弾薬を込めながらシスネが呟く。キリキリと弾倉が回される音が何度か響いた。

 

「最初からいない。五年ぐらいだな。貴公は?」

「……三年」

 

 鎧を着けながら質問を返せば、予想に反してシスネが答える。だが、その前には騎士がいたのか、とまでは聞けなかった。聞いたところで答えてくれるとも思えなかったが。そのままレーベンが黙ってしまえば、シスネもそう話すことはない。ただ二人が装備を身に着ける音だけが部屋に響いた。

 

 レーベンの鎧はいくつかある種類の中でも最も軽装な物だ。それを更に省略して身に着ける。胸当て、左手だけの手甲、膝当て、それぐらいだ。兜はかぶらず、鎖帷子(チェーンメイル)を仕込んだ首巻きに頭を通す。理由は単純、重いからだ。聖性による身体強化は望めず、更に大量の武器も装備しなければならない以上、鎧まで着こんではまともに動くこともできないのだ。

 椅子に腰掛けたシスネが靴を脱ぐ。簡素な短靴のかわりに、武骨な長靴(ブーツ)に白い足を通した。次に何本かのベルトを慣れた手つきで体に巻き付けていく。細い体が更に締め上げられ、聖女の装束ごしでも体の線がはっきりと見えている。髪紐で白髪を雑に束ね、髪先を指で跳ね上げた。

 

 腰の両脇にそれぞれ片手剣を()く。手斧も左腰のベルトに差し、短剣は右腿に鞘ごと括りつけた。長銃の弾薬を並べたベルトを腰に、炸裂弾と焼夷弾のベルトは肩に巻く。更に長銃と雑嚢を後ろ腰に吊り下げ、中に各種の薬物を詰める。視線だけでシスネを覗き、こちらを見ていないことを確認してアルバットから購入した()も素早く詰め込んだ。最後に、火除けの黒い外套(マント)を肩から羽織る。

 細い腰の両脇にホルスターを提げ、そこに短銃を二丁差し込む。何度か抜き差しを繰り返して、位置を調整していた。シスネの手には大きすぎるような大型の短銃は左脇のホルスターに提げる。三本の短剣はそれぞれ、腰と脇と足首に。弾薬と炸裂弾と焼夷弾をまとめて納めたベルトが最後に細い腰に巻かれた。

 

 専用の鞄を開け、中から剣を取り出す。黒光りする片刃の刀身。中途半端な大きさ。柄の仕掛けと引き金が目を引く、機械仕掛けの剣。今回はじめての使用となるそれを背に担いでいると、長銃の点検をしていたシスネが手を止める。

 

「何ですか、それは」

 

 好奇心というよりは、親が子の悪戯を見つけたかのような反応だった。レーベンと機械剣を()めつける黒い瞳からは、ただただ呆れしか感じられない。

 

「特注品だ。技術棟の知り合いに頼んだ」

「……ちゃんと試し使いはしたのですか」

「何を隠そう、今回が初だ」

 

 ゴトリと、シスネが長銃を机に置いた。そのまま、武骨な長靴で重い足音を鳴らしながらレーベンの前まで歩んでくる。

 

「渡しなさい」

 

 有無を言わせぬ口調で手を出してきた。だがこればかりはレーベンにも譲れない。なにせ高かったのだ。

 

「これは俺の私物なんだが」

「だから何ですか」

「最初は俺が使いたい」

「そういうことじゃありません!」

 

 突然の大声に思わず仰け反っていると、「あーもう!」とシスネが白い髪をガリガリと掻きだす。まるきり子供のような仕草だった。

 

「馬鹿ですか! そんな、まともに動くか分からない物を! 暴発したら死にますよ!?」

 

 ただでさえ無表情な顔を固まらせているレーベンに対し、叫んで疲れたのかシスネが椅子に腰掛ける。額に手をやりながら、「ここまで馬鹿だったなんて」と色々な意味で絶望的なことを呟いていた。

 場の空気を変えた方が良いかと、レーベンは皮肉な笑みを浮かべたつもりで声をかける。

 

「俺の心配をしてくれるのか? ずいぶんと優しいじゃあないか、貴公」

「は?」

「馬鹿で誠に申し訳ない」

 

 ここで赤面のひとつでもしてくれたのなら可愛いものであったが、シスネはどこまでも憎々しげな目を向けてくる。額に青筋すら立って見えるのだから、レーベンとしては恐ろしくて仕方がない。

 とはいえ、このまま機械剣を没収されるのを黙って見ているわけにもいかないのも確かである。レーベンとて、伊達や酔狂でこんな物をアルバットに注文したのではないのだから。だがそう言ったところでシスネも納得はしないだろう。レーベンは落としどころを探ることにした。

 

「分かった。では、こうしよう」

 

 

 ◆

 

 

 申し訳程度に舗装された道の両端に、ごつごつとした岩肌が続いている。廃坑の入り口には古びた看板に立入禁止の文字が刻まれ、それに並ぶように立てられた真新しい看板に、また立入禁止の文字が大きく刻まれていた。レーベン達が立つのは鉱山と廃坑の分岐路にあたる場所だが、鉱山の方からも人の気配は感じられない。屈強な鉱夫たちとはいえ、魔女がいるかもしれない場所の近くで働く気はないようだ。

 ベルトから焼夷弾を一つ抜き取り、機械剣の柄に装填する。弾薬でもないというのに滑らかに穴の中に納まる様は、さすがの腕前と言えるだろう。アルバットも変人ではあるが腕だけは確かなのだ。そうでなければ、レーベンもさすがにアレを知己だとは思いたくない。

 機械剣を構えながらシスネを見れば、彼女は既に水の入った木桶(バケツ)を手に構えている。レーベンの言葉もアルバットの腕も信用する気は無いようだ。

 

「よし、では行くぞ」

 

 シスネは機械剣の試用を済ませていないことを不満に思っている。ならば、魔女狩りに向かう前に一度使ってみれば良い。レーベンの提案した妥協案に、シスネも一応の理解は示してくれた。故に、ちょうど無人となっていた鉱山で機械剣の試し斬りを行うことにしたのだ。ここならば周囲に炎を撒き散らしても被害は少なく、最悪の場合でもレーベンが大火傷を負うだけで済むだろう。……たぶん。

 シスネが目だけで促し、レーベンは引き金を弾き、そして爆炎が刃を成した。

 

「うぉ……っ」

「ひゃっ!」

 

 炎の勢いは予想以上であった。どういう仕組みなのか、片刃の刀身が燃えあがるように噴き出る炎は、まるでそれ自体が刀身のように長く伸びる。なるほど、この状態で斬りつければ炎に弱い魔女には大きな効果を発揮するだろう。だが。

 

「――熱っつ!」

 

 ガラにもなく大きな声が出た。左手にしか手甲を着けていないレーベンの右手は厚手の革手袋で覆われているが、それ越しでも悲鳴をあげるような熱さ。だからといって剣を手放すわけにもいかず必死に熱さを堪えていると、炎は徐々に弱まることもなく一瞬で消える。それでも、黒光りする刀身からは熱気が立ち上っていた。

 レーベンはひとつ息をついてから、右手を振りながらシスネに声をかける。

 

「どうだ貴公。これならば迅速に魔女を狩ることができ――」

 

 返事は水であった。顔面と右腕を水に叩かれ、固まった姿勢のまま黒髪から水を滴らせているレーベンを労わってなのか、シスネは作り笑いを浮かべてくれた。

 

「次もちゃんと動くと良いですね?」

 

 労わりではなかった。シスネの疑念も怒りも未だ収まってはいないらしく、冷たい笑みでゾッとしないことを警告してくる。木桶を元の場所に戻したシスネはもうこちらには目もくれず廃坑へと向かい、レーベンも無言でそれに続いた。

 水そのものはありがたいが、大半は顔にかかってしまった。わざとだろうか。おそらく軽い火傷を負ったらしい右手を撫でてから、レーベンは機械剣を背に戻した。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

多難たる前途

「二手に分かれましょう」

 

 ようやく仕事を始められるかと思えば、いきなりこれである。普段はライアーやカーリヤから発言を咎められる側であることが常のレーベンではあるが、さすがにこれは看過できない。

 

「待て貴公。すこし待ちたまえよ」

 

 友人たちがよくそうしているように、額に手を当てながらシスネの前に歩み出る。一人で廃坑への道を進もうとしていたシスネは、道を塞がれて露骨に顔を顰めた。もう苛立ちを隠そうともしない。

 

「……何ですか。ただでさえ出発が遅れているのですが?」

 

 機械剣の試用によって出発が遅れたのは事実であるが、それも半分はシスネに原因があるのではないだろうか。レーベンはそう考えたが、それを今ここで口にするほど勇敢でも愚かでもない。

 

「騎士長の命令を忘れたのか。俺たち二人で組んで仕事をしろと言われただろう」

「私とあなたで同じ依頼を受けろと言われたのです。一緒に行動しろとまでは言われていませんが?」

「魔女の姿すら分かっていない。単独で狩るには危険すぎる」

「魔女の居場所すら分かっていません。だからこそ二手に分かれて探すべきでは?」

「だがそれは――」

 

 ああ言えばこう言う。どうにもシスネに譲る気は無いらしく、弁が立つ訳でもないレーベンに勝ち目は薄い。そうこうしている内にも時間は過ぎており、太陽は既に南から下りはじめていた。これ以上、押し問答を続けている暇は無い。

 

「というか貴公、ただ単に俺と一緒にいるのが嫌なだけだろう」

 

 む、とシスネが押し黙った。どこかばつの悪そうな顔で岩壁の方を向くが、そちらには何も無い。どうやら図星のようだが、レーベンとしては非常に残念な結果である。

 

「これは魔女狩りだ。私情を挟まないでくれ」

「……」

 

 こちらに向き直ったシスネの顔にはありありと不満の表情が浮かんでいたが、言い返してくることは無かった。深い溜息をついた後、ようやくシスネが折れる。

 

「……今回だけですよ」

 

 今回だけなのか。レーベンの言は正論であったはずだが、まるでこちらが駄々をこねたかのような口ぶりである。シスネと並んで歩き始め、先程よりも下がった太陽を見ながらレーベンは小さく溜息をついた。

 

 

 ◆

 

 

 廃坑というだけあり、岩山のそこかしこに坑道への入り口が開いていた。閉鎖の理由が鉱物を採り尽くしたからなのか、坑道を掘りすぎて地盤が弱ったからなのかは定かでないが、どちらにせよ坑道は蟻の巣のように複雑な繋がりをしているようだ。もし中に迷いこみでもすれば、冗談抜きで遭難しかねない。

 無論、そうならないようどの入り口も封鎖されているが、その塞ぎ方が異様であった。太い鉄格子がしっかりとはめ込まれ、更にその上から厚い木板で蓋をされている。人どころかネズミすら入れなさそうな塞ぎ方には、どこか偏執的なものすら感じられた。町長によれば閉鎖は十年以上前のことらしいが、どの入り口も古びてはいても壊れてはいない。定期的に手入れもされているのだろう。

 

「ありがたい話だが、何なんだこれは」

 

 鉄格子をつかみながらレーベンが呟く。力を入れて揺らしてみてもビクともしない。もし坑道の中に魔女が入りこんでいたら、この魔女狩りの危険度は一気に跳ね上がる。レーベンとシスネの一組、ましてやどちらも真っ当な聖女と騎士ではない二人には荷が重く、最悪の場合はポエニスに更なる応援を依頼しなければならないだろう。もっとも、全ての入り口がこうも厳重に封鎖されているのならば、その可能性は低そうだが。

 

「これを」

 

 シスネの声に振り返れば、長銃で木板の端を指していた。赤い塗料で何かが描かれた跡があり、そしてそれはレーベンもシスネも見慣れた物だった。

 四本の直線だけで構成された、交差した二本の剣を模した意匠。教会の紋章だ。つまりこれは。

 

「カクトの聖女と騎士がやったのか」

 

 シスネも頷く。あらかじめ、魔女が入りこめないように封鎖していたのかもしれない。町長に応援の依頼を出すよう指示していたことも含め、周到で用心深い二人だったようだ。

 

「急ぎましょう」

 

 その用心深い二人が、レーベン達の到着を待たず魔女狩りに向かった。どこかうすら寒いものを感じつつ、歩き出したシスネの後を追った。

 

 

 ◆

 

 

 廃坑を歩いて回る。どの入り口にも破られたような跡は無く、ならば魔女は外にいるはずだが見つからない。見落としが無いよう慎重に見回りながら、鉱山を上へ上へと登っていく。やがて坑道の数も少なくなり、おそらくは山の中腹まで登った頃には太陽は既に西へと傾き始めていた。

 道の傾斜も厳しくなってきたが、前を歩くシスネの足は速い。ぜえぜえと吐息の音も止まず、焦っていることは明白だった。

 

「貴公、すこし休もう」

 

 振り返ったシスネが鋭い目でレーベンを見下ろす。白かった顔は赤らんでおり、汗で前髪が貼りついた額を鬱陶しげに手で拭った。

 

「何を、呑気な」

 

 言葉の代わりに水筒を投げ渡す。反射的に受け取ったそれを手にシスネは抗議の目を向けてきたが、レーベンが道に座り込むのを見ると、溜息をついてから水筒の栓を開けた。

 シスネが水を呷る音を聞きながら、登ってきた道を見下ろす。カクトの町の煙突が霞んで見え、それなりに上まで登ってきたことが分かる。だが魔女はいない。どうしたものか。

 

「登るしか、ないがな」

 

 シスネに返された水筒はずいぶんと軽くなっていた。飲み口をしばらく眺めた後、手で拭ってから残りを口に流し込んでいると、固い声でシスネが急かしてくる。

 

「今からでも遅くありません。二手に分かれて探しましょう」

「やめたまえよ。もう日が暮れる」

「ですが、」

「今回だけは付き合う。そう言ったのは貴公だ」

 

 見なくとも、シスネが黒い瞳で睨んできているのが分かる。やがて、当たり散らすように足元の小石を蹴ってから近くの岩に腰掛けた。相変わらず、苛立つと所作が子供っぽい。

 

「……以前(まえ)から思っていたのですが」

 

 空になった水筒を片付けながら顔を向けると、長銃を抱くように座り込んだシスネが口を尖らせていた。

 

「その喋り方は何なのですか」

「……ああ」

 

 何を言い出すかと思えば、魔女狩りとはまるで関係の無いことだった。進展の無い状況にシスネも相当参っているのかもしれない。

 レーベンの芝居じみた口調は、最初の聖女と騎士たちの英雄譚に倣ったものだ。聞く者によっては年齢にそぐわない古風な印象にも、あるいはごっこ遊びのような幼稚な印象にも聞こえるかもしれない。そしてレーベンとて、何の意味もなくこんな言葉遣いをしている訳ではない。

 

()()()()()だろう?」

「聞いた私が馬鹿でした」

 

 はあ、と。完全に呆れたような溜息をついて、シスネは組んだ足の上で器用に頬杖をつきながらそっぽを向いてしまった。どこか行儀の悪い姿勢を見るに、存外これが彼女の素なのかもしれない。赤みを帯びてきた空を眺めながら、レーベンはそう思った。

 

 

 ◆

 

 

 切り立った岩の上に作られた道を慎重に歩く。元は頑丈であっただろう木の柵も、今やボロボロでいつ崩れてもおかしくはない。シスネの長靴に蹴られた小石が転がり落ちていくのを見て、同じように滑落する己の姿を幻視した。本来の騎士であればこの程度の岩肌は飛び降りることはもちろん駆け上がることすら可能だが、当然レーベンにそんな芸当はできない。

 

「貴公、あまり石を蹴らない方が良い。魔女にこちらの位置がバレる」

 

 レーベンの魔女狩りはいたって単純だ。身を潜めながら索敵し、先に魔女を見つける。そして死角から忍び寄り、一息に急所を抉る。騎士というよりは暗殺者じみた不意討ち。卑怯と言ってしまえばそれまでだが、それが聖女のいないレーベンに出来るもっとも安全な戦い方だった。

 

「おかしな事を。魔女の方から来てくれるなら好都合でしょうに」

 

 だがやはりシスネは不満そうだった。確かに、本来の聖女と騎士であればわざわざ身を隠すことは少ない。魔女は見境なく人を襲うが、特に聖女を優先して狙う傾向がある。その性質を利用し、自分たちを囮に魔女を誘い出すというのも定石の一つだ。

 

「それは魔女の情報が充分にあればの話だろう。今回は違う」

「ああ言えばこう言う……。それとハッキリ喋ってくれませんか。ボソボソと言われても聞こえません」

「これはわざとだ。貴公こそもう少し声を落とし――」

 

 カラカラと、石が転がる音が聞こえた。

 レーベンはすぐに岩陰にしゃがみこみ、シスネは長銃のレバーを引く。岩陰から飛び出そうとするシスネを手で制し、小さな鏡をそっと向こうに差し出した。角度を調整するも、見えるのはただ岩と空ばかり。動く物が何も無いことを確認した後、片手剣を一本抜き、息を殺しながらレーベンは角を曲がった。

 足音を立てず、小石を蹴らず、だが速足で進む。魔女が近くにいるかもしれない以上、のんびりと歩いている訳にはいかない。後ろから長銃を構えたシスネが無言でついてくる。さすがに今この状況でレーベンのやり方に口を出す気は無いようだ。岩陰に沿うように、地面を滑るように、慎重に歩みを進め、だが結局は、魔女どころか鳥や獣の類すら見つかりはしなかった。

 その代わりだとでもいうように、一本の槍が地面に突き刺さっている。

 

「見てくる。そこから援護してくれ」

 

 小声で伝えれば、シスネは小さく頷いた。身を低くして、レーベンは槍に近付いていく。鉱物の集積を行っていたのか、開けた場所にトロッコ用の線路が何本も残されていた。身を隠せそうな場所は少ないが、それは魔女も同じこと。だが油断はせず、周囲に気を配りながら大きく迂回するように槍に近付く。だがやはり、何も起こることなく槍まで辿りついた。

 その槍は場違いな程に白銀の輝きを放っており、それはつまり聖銀の槍であった。聖性を流されることで常に万全の状態に復元される、不自然な完全性。だがその槍はレーベンの知る物とは形状が若干異なる。特注品か、あるいは旧式のような。

 

――なら、これは

 

 レーベンの推測を裏付けるように、その柄にはべっとりと黒く乾いた血がこびり付いていた。更に、地面の砂利にも点々と血痕が残されている。その先には断崖。手招きしてシスネを近くまで呼び、腹ばいになってレーベンは崖下を覗き込んだ。

 ゾッとする程の高さであった。その底に、鎧らしき物を着た人型が落ちているのが見える。雑嚢から遠眼鏡を取り出して、落とさないよう注意しながら覗き込めばもっと細かく確認できた。その人型の周囲に広がった、赤黒い血の飛沫まで。すこし離れた場所に、灰色の装束を着た人型も見つけた。その頭と腕がおかしな方向に曲がっている様を認めて、レーベンは短く黙祷する。

 

「どうでしたか」

 

 レーベンに背を向けて周囲を警戒していたシスネが、視線はそのままに尋ねてくる。ゆっくりと身を起こして、レーベンは努めて平坦な口調で答えた。

 

「死体が二人分。カクトの聖女と騎士だろう」

「……そうですか」

 

 最初から分かっていたことだった。彼らはここで魔女と戦い、敗れ、崖下に落とされた。聖女もまた同じ運命を辿ったのか、それとも身を投げて自決したのかは分からないが、今となっては大した違いでもないだろう。レーベンは遺品となった槍を引き抜き、赤い空を見上げた。

 

「今日は、ここまでだな」

 

 シスネも無言で長銃を下ろした。結局、魔女はその痕跡すら見つからなかった。ただでさえ足場の悪いこの場所で、姿も分からない魔女と暗闇の中で戦うなど無謀でしかない。

 遺品の回収と、その持ち主と聖女の死亡を確認。今日の成果はそれだけだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

マンダルとアナ

「そうか……いや、分かっちゃいたんだ」

 

 シスネを先に教会に帰し、町長の家を訪ねて経過を報告する。家は工房も兼ねているらしく、レーベンが訪ねた際には火の入っていない炉の前で、町長は意味もなく金床を叩いていた。

 

「明朝、改めて魔女を探すつもりです」

「そうしてくれ。マンダルとアナさんも、なるべく早く迎えに行ってやりたいからな」

 

 マンダルとアナ。それがあの二人の名前らしい。レーベンが持ち帰った槍を遠い目で眺めている町長にかける言葉は見つからず、軽く一礼だけして工房を後にした。

 

 

 

 辺境の町らしい、食堂と酒場と宿屋が一体となったような店に入ると、店内の視線がレーベンに集中した。居心地の良いものではないが、教会の使いであっても余所者であることに変わりはないのだから、どこもこんなものだろう。なるべく目を合わさないようにしながら、机の間を進む。

 

「いらっしゃい騎士さま。ご注文は?」

 

 そんな余所者を笑顔で出迎えたのは、店主だと思われる女だった。女は外出を避けるよう通達されてはいるが、店を閉めるわけにもいかないのだろう。代わりの者にも任せないということは、一人で切り盛りしているのかもしれない。なんにせよ、逞しい女だとレーベンは思った。

 騎士証を見せ、簡単な食事を二人分包んでもらうよう注文する。そうすれば代金は支払わずとも済むが、それとは別に銀貨と銅貨を何枚か机に並べて果実酒と焼き菓子を注文した。明日からもこの町で魔女狩りを行う以上、住人の心証はなるべく良くしておきたい。……レーベンの懐はこれでほぼ空となってしまったが。

 

「若い騎士さまだね。聖女さまもそうなの?」

 

 注文の品ができあがるまでの間、結った髪を揺らしながら手を動かす店主と他愛もない話をする。町長からも似たような話をされたあたり、この町の住人にとって聖女と騎士というのはマンダルとアナが基準なのだろうか。聖女と騎士の年齢は十代から三十代が主であり、むしろ四十を超えていたらしい二人の方が珍しい部類だ。レーベンも、それ以上の年代で現役の騎士となるとヴュルガ騎士長しか知らない。大抵の者はその前に役目を下りたか、それとも死んだかだ。

 ちなみに、レーベンは今年で二十一歳となり、ライアーはその二つ上である。カーリヤについては一度尋ねた際、ひどい目に遭わされた。彼女と昔馴染みであるライアーなら知っているだろうが、彼は彼で決して語ろうとはしない。もっとも、孤児であるレーベンの年齢も推定でしかなく、シスネの年齢など知るわけがない。

 

「さてな。教会に帰ったら一度聞いてみよう」

「いやいやダメだって! 女に歳は聞いちゃいけないよ、常識だよ」

 

 カーリヤが例外ではなかったらしい。貴重なことを教えてくれた店主から紙袋を受け取り、出口へと向かおうとした時、

 

「……二人の仇をとってね。お願い」

 

 商売柄なのか、恐るべき情報通だ。店主の小声に小さく頷いてから、今度こそ出口へと向かう。背後からは鼻をすする音も聞こえたが、彼女にもまたかける言葉は見つからなかった。

 

 

 

 町の空気が変わっていた。日も沈み、町角に掲げられた松明で照らされた道を歩く。その道のそこかしこで、暗い顔で話し込む男達や、大声で泣く子供の姿が見受けられる。

 騎士マンダルと聖女アナの死。町長はそれを隠さず、むしろ周知することを選んだらしい。人の口に戸は立てられず、断片的に伝わる情報というものはかえって不安を煽り立てる。不確かな噂で町全体を混乱させるぐらいならば、悪い報せであっても正確な情報を伝えるべきだと、そういうことだろうか。

 女の外出制限といい、名前だけの町長とは思えない手腕だと言える。あるいは、それらも含めてマンダルとアナの指示だったのか。つくづく、皆に慕われた優秀な聖女と騎士だったらしい。

 

 

 

 教会の前には人だかりが出来ていた。その殆どは女であり、少女から老婆まで、外出を制限されているにも関わらず教会の前に集まっている。人垣の向こう側に白い髪が見え隠れしており、もしやシスネが何か難癖でもつけられているのかと足を速めた。

 こういった町の状況では、聖女と騎士、特に前者に対して期待と敬意が裏返った末の理不尽な怒りがぶつけられることはままある。まして、レーベンとシスネは魔女も見つけられずに戻ってきているのだ。役立たずだと詰られても返す言葉は無い。

 だが人だかりから聞こえるのは、そういった罵声ではなかった。

 

「マンダルさんは本当に良い人でね、うちの旦那の仕事もよく手伝ってくれたんだよ」

「なんであんなに良い人たちが死ななきゃいけないのさ……」

「聖女さまいつ帰ってくるの? しんだなんてウソだよね?」

「そんな、アナさん……」

「頼むよ、あんた。二人をはやく弔ってやりたいんだ」

 

 どれもが、マンダルとアナを悼む声だった。二人は二十年近く前からこの町に住まい、近隣に現れる魔女を狩りながら町を守ってきた。魔女狩りだけでなく町の仕事にも精を出し、鍛冶場に入り、鉱山で鶴嘴(つるはし)を振るい、厨房で料理をし、子供たちの面倒を見てきた。二人は常に夫婦のように共にあり、そして町の一員であったのだと。そう、皆が口々に語っていた。

 シスネはそれを聞かされながら、一つ一つに応え、頷いていた。その表情は真剣そのもので、本心から返事を口にし、亡き先達に敬意を示していることが分かる。元より、彼女は顔に出やすい質なのだから。

 

「私が、必ず魔女を狩ります。必ず」

 

 繰り返し、そう宣言するシスネの声は、自分に言い聞かせているようでもあった。

 

 

 ◆

 

 

 最後の一人を見送ったシスネが深々と細い腰を折り、再び頭を上げた後にレーベンと目が合う。夕方よりもやつれたように見える顔の中で、黒い瞳が細められた。

 

「……見ていたのですか」

「俺が出てきても面倒になりそうでな」

「趣味が悪いと言ったのです」

 

 口を開けばレーベンへの罵声が飛んでくる。苛立たしげに息を吐いてから教会に入る姿を見るに、案外シスネも鬱憤が溜まっているのかもしれない。聖女である前に人間なのだから、それも仕方のないことだろう。八つ当たりであろうと彼女の気が楽になるのなら、それも騎士の仕事だと思うことにした。

 

「とりあえず食事にしよう。腹が減った」

 

 自分の分の包みだけを抜き、残りを丸ごと手渡す。予想外の重さだったのか紙袋を落としそうになったシスネが慌てて両手で持ち直し、「……ありがとうございます」とか細い声で礼を口にした。だが果実酒の瓶と焼き菓子の包みを見ると、また瞳に非難の色を浮かべる。

 

「何ですか、これは」

「もっと強い酒が好みだったか?」

「わざと言っています?」

 

 酒が入った状態で魔女狩りに赴くつもりか、そもそも食事を恵んでもらうだけでも心苦しいのに酒と菓子までせびったのか、それでも騎士か、恥を知れと、しまいには机を叩きながら説教を始めるシスネ。

 対してレーベンは、いま飲みたくないのであれば魔女狩りの後に飲めばいい、そもそも自分は下戸(げこ)であり酒は飲めない、酒と菓子は自腹を切った、あと腹も減ったしせっかくの食事も冷めてしまうからそろそろ許してくれないか誠に申し訳なかったと、何故かまた謝罪するはめになったが、もう腹の虫が限界だから気にしないことにした。

「紛らわしい……」「怒鳴ってすみません」と一応謝罪の言葉を並べるあたり、シスネも律儀なものだ。

 

 

 

 パンの肉挟みを齧りながら、シスネが呟く食前の祈りに耳を傾ける。食卓から視線を横に向ければ、それだけで玄関の簡易祭壇が目に入る、机はそんな位置に置かれているようだった。つい三日前までは、この机でマンダルとアナが共に祈り、共に食事を口に運んでいたのだろう。夫婦のようであったと、口を揃えて語る女たちの言葉をレーベンは思い出していた。

 騎士はほぼ全員が男だ。女の騎士もいないことはないが、少なくともレーベンはあのヴァローナしか知らない。聖性による身体強化は元の肉体に強く影響され、つまるところ筋肉量が物を言う。故に女騎士というものは極端に少ないのだ。そして聖女は全員が女である。聖性を扱う才能は女にしか無いのだから当然だ。

 それ故、共に死線を幾度も越えた騎士と聖女が、男女の関係となるのは決して珍しいことではない。最初の騎士と聖女たちの英雄譚でも、彼らと彼女らの恋物語(ロマンス)を謳った物は数多く残されている。現在においても、騎士と聖女が共に健在のまま役目を降り、夫婦となって余生を過ごすというのは「成功例」の代表的な一つだ。

 教会も名目上、騎士と聖女がそれ以外の関係となることは良しとしていないが、ほぼ黙認しているようなものだ。よほど規律に厳しく、潔癖な者であれば話は別かもしれないが。

 例えば、目の前の聖女のような。

 

「ずいぶんと、仲の良い二人だったようですね」

 

 やっと祈りが終わったシスネが、包み紙を開けながら呟く。その口調にどこか棘のようなものを感じ、さすがにレーベンも口を挟んだ。

 

「だがな貴公、彼らは」

「勘違いしないでください。二人とも立派な方だったと、私もそう思っています」

 

 シスネが強い口調で告げる。事実、マンダルとアナは立派に役目を果たしただろう。二十年に渡ってこの町を守り、住人たちに慕われ、そして最期は魔女狩りに殉じた。更に自分たちの死期を悟ったかのように的確な指示を遺し、死後にまでこの町を守ってみせたのだ。

「ですが」シスネが急に弱々しくなった声で続け、

 

「最後にこうなることは、分かっていたでしょうに」

 

 聖女と騎士の物語は、いつだって悲劇で終わる。

 これは、聖女と騎士の英雄譚すべてに共通する結末だ。内容は多分に誇張されてはいても、結末だけは悲劇で終わる。これは、聖女と騎士の歴史が始まった時から、彼らと彼女らが皆ことごとく悲劇に散っていったという事実を示しているのだろう。

 そして、これは自明の理でもある。聖女と騎士である以上は魔女狩りを続けなければならず、魔女がいなくならない限り、いつか必ず魔女に敗れて死ぬ。それを良しとしないのであれば役目を降りるしかなく、そうなればもう聖女と騎士ではなくなる。

 故に語られるのだ。聖女と騎士は、必ず悲劇で終わると。

 

「そう、だな」

 

 レーベンとて、寝台(ベッド)で安らかに死のうとは思っていない。騎士をやめる気は無く、ならばいつか魔女に敗れて死ぬのだ。そしてそれは明日かもしれない。

 机の向こうでもそもそ口を動かすシスネの指には、簡素な意匠の指輪が光っていた。見慣れた形の聖女の指輪――毒針が仕込まれた自決指輪だ。騎士を失った聖女が、魔女に嬲り殺される前に使うための物だが、一人で魔女を狩っていたらしいシスネでもそれを着けている。

 仮に明日レーベンが死んだとして、シスネは自分の後を追うのだろうか? いや、きっとそんなことはないだろう。安堵とも落胆ともつかない感情を押し込めるように、空になった包み紙を握りつぶした。

 

 

 

「……これ、辛くないですか」

「そうか? そうなのか」

 

 

 ◆

 

 

 寝室には寝台が二つ並んでいた。

 

「……」

「……」

 

 故人の寝床を使用することに躊躇が無いわけではないが、しっかりと眠り万全な状態で魔女狩りに臨むことこそ二人への手向けだろうと、寝室に入って目にしたのがこれである。夫婦のようであったと、町の皆が口にしていたのだから、これも予想できてしかるべきであったか。

 

「貴公はどっちが良い」

「出ていってください」

 

 その後、短銃を手放そうとしないシスネをなんとか説得し、寝台の一つを協力して廊下に移動することに成功した。無論レーベンが廊下である。ひどい話だ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

追う者、追われる者

「二手に分かれます。異論はありませんね」

 

 翌朝。日の出と同時に再び鉱山に入り、開口一番シスネは言い放った。返事も聞く気はないらしく一人で歩き出した細い背中を見送ってから、レーベンも廃坑への道を歩き出す。

 昨日は廃坑の半分以上を探し回ったが、見つかったのはマンダルとアナの遺体と遺品だけ。魔女の痕跡は何ひとつ無く、ならば魔女は既に移動しており、いるとすれば廃坑ではなく今も使われている鉱山の方だろう。シスネに言わせればそういうことらしい。

 二手に分かれること自体はレーベンも妥当だと思っている。鉱山が閉鎖されて既に六日、カクトの町の人々にも生活があるのだ。これ以上の時間はかけられない。二人がかりで鉱山を探すことも考えたが、まだ廃坑も全てを見て回った訳ではない。まずは昨日、マンダルとアナの遺体を発見した場所を目指すことにした。

 

 

 

 長銃を手に、ひとり廃坑の道を歩く。周囲には人気もなく、木々も生えていない廃坑はひどく静かだ。人も鳥も虫も、魔女もシスネもいない。ただ黙々と足音を殺しながら山道を登っていく。

 今までずっとレーベンは一人で魔女を狩ってきた。故にこうして一人で索敵することには慣れており、むしろ昨日のように聖女を連れていることの方が異例であった。シスネも三年の間、一人で魔女を狩っていたというのだ。彼女もまた一人の方が慣れているのかもしれない。

 

 ――最初からこうするべきだったか

 

 昨日、シスネを説き伏せて二人で行動したことについて私情を交えたつもりは無い。無いが、まったく無かったかと問われればどうだったか。結局のところ、腹の底ではシスネと共にいたいという私情があったのではないか。

 そもそも、シスネに契りを交わす意思はまったく無い。彼女自身がそうはっきり宣言してしまっている。ならばシスネがいようといまいとレーベンに聖性の助けは無く、二人で行動することにどれだけの意味があるのか。シスネがレーベンに対して協力的ならばともかく、彼女はあの調子である。遅かれ早かれ、この歪な協力関係は瓦解する運命だったのかもしれない。

 考えれば考えるほど憂鬱な思考が頭を占め、そうこうしている内に集積場へと辿りついた。ここから先は未探索の場所だ。意識を切り替えるように長銃のレバーを引くが、そのレバーの動きに妙な抵抗を感じ、ポエニスでシスネがこの長銃を交換していたことを思い出す。たしか、レバーの部品が劣化していると言って――。

 

「……?」

 

 その記憶に違和感を覚える。長銃に目を落とし、聖銀の輝きを放つ部品を眺め、そして。

 そこに映る、「目」を見た。

 

「――――!」

 

 弾けるように振り返り、狙うより先に引き金を弾く。轟音と共に放たれた散弾が断崖の淵を削り、白い土埃が朦々と舞った。その中で、黒い蛇のような何かが断崖の下に引っ込む様を確かに捉える。

 レーベンはすぐに踵を返して岩陰に戻り、しゃがんだ足元から鏡を差し出す。息を潜めて鏡を睨み、周囲は耳が痛いほどに静かで、風は無く、土埃はなかなか晴れず、ただじっと断崖を見て、やがて。

 ひょこり、と。再び「目」が現れた。

 

 ――出たな

 

 鏡から目を離さないまま、片手で準備を始める。長銃を背に戻し、かわりに機械剣を抜いた。柄に焼夷弾を装填し、雑嚢から取り出した強化剤の針を首筋に刺す。冷えた異物が血に乗って全身を巡るような錯覚に身震いし、だがすぐに体が脈打つように熱を持ち始める。機械剣を握りしめる右手の革手袋が、ぎちぎちと擦れる音を鳴らした。

 レーベンはもういつでも戦える状態だったが、断崖から突き出る「目」の持ち主――魔女は未だきょろきょろと集積場を見回している。どこか間の抜けたその様に苛立ちを覚え、だがそれは強化剤の副作用によって感情の振れ幅が大きくなってしまっていることを自覚し、だがその自制心も徐々に薬に侵され、いっそこちらから仕掛けるかという考えが頭を過り、「目」が再び引っ込んだ。逃げられる。そう考えて腰を上げそうになり、それより先に、魔女が遂にその姿を現した。

 その魔女にはもう、人としての面影は残されていなかった。ぬらぬらと蠢く黒い泥の塊。それが這いずるように断崖から現れ、砂利を黒く侵していく。手足も頭も無い塊の中で、ただ触覚か何かのように細く伸びた部位の先に眼球だけが剥き出しの状態で辺りを見回していた。

 

『怖い』

『怖い』

『はやくあっちへ』

 

 レーベンが見てきた中でも、特に異形の魔女であった。魔女となって長い時間が経っているのか、泥の量つまりは躰の大きさが通常の倍近くある。元の体は完全に飲みこまれたのか消失したのか、それらしい形はどこにも見えない。人どころかどんな生き物にも似ておらず、強いて言えば触覚が一本だけの蛞蝓(ナメクジ)とでも言えば良いだろうか。

 

 ――永命魔女(ながらえまじょ)か? いや、それよりも

 

 レーベンが最も警戒しているのは姿などではない。

 あの魔女は隠れていたのだ。おそらくは昨日、レーベンとシスネがこの場所に来た時、魔女は既にここにいた。あの不定形の体を断崖に貼りつかせ、触手の先についた目だけを覗かせてこちらを見ていた。

 魔女は見境なく人を襲う。それが魔女に共通する性質だったはずだ。相手が誰であろうと近付く者すべてに牙を剥き、目についた者すべてに襲い掛かる。一時でもそうしなかったというだけで、あの魔女の異常性は充分に過ぎた。何をしてくるのか分からない。それが魔女の最も恐ろしい点なのだから。

 

『逃げて、逃げて』

 

 魔女はズルズルと体を這わせ、どこへ向かうともなく集積場の中を蠢いている。触手の目は依然として周囲を見回しているが、岩陰に隠れたレーベンの姿は見つけられていないらしい。

 

 ――()るか

 

 シスネがこちらに来るのを待つという手もある。人気のない鉱山の中で、先にレーベンが撃った長銃の銃声はよく響いていた。あれを聞いたシスネがこちらに向かっている可能性は充分にあるだろう。

 だが、魔女は目の前。しかもこちらの存在に気付いてはいても見つかってはいない。レーベンの狩り、奇襲にはもってこいの状況だ。それに、道を登ってきたシスネが正面から魔女と鉢合わせする恐れもある。

 焼夷弾をもう一つ取り出し、魔女の体と目の動きを見ながら機を計る。魔女が遠くも近くもない位置に移動し、目が向こう側を向いた瞬間、レーベンは着火した焼夷弾を放った。

 

『逃げないと、はやく、』

 

 魔女を飛び越えるように放物線を描く焼夷弾を見たらしい目が動き、魔女の動きが止まる。焼夷弾が地面に落ちるのと、炎を噴き出すのと、レーベンが岩陰から飛び出すのは全くの同時だった。

 

『にげぇあああぁぁ――っ!』

 

 眼前で燃え広がった炎に目を焼かれたのか、触手が体の中に引っ込んだ。そして炎から逃げるように地面を這いずるが、その時にはもう、レーベンは引き金を弾いていた。

 

「づあっ!」

 

 機械剣から炎の刃が伸びる。炎を纏わせた横薙ぎの一撃が魔女の体に食い込み、蠢く黒い泥が焼け落ちていく様を眼前で捉えた。炎はレーベンの手も焼いていくが、目の前で炎に挟まれる魔女の姿を見ているとどうでも良くなってしまう。

 

「ふ……へは……っ!」

 

 炎は人を昂らせる。そしてレーベンの狩りに炎はつきものであり、薬もまた然りだ。副作用で(たが)の外れかけた精神に、炎に焼かれる魔女の姿は刺激的に過ぎた。

 だが機械剣の燃料はすぐに尽き、炎が消えると同時にレーベンに残されていた理性が頭を冷やす。すぐに間合いを離して武器を交換。右手に片手剣、左手に長銃。時を同じくして、全身から黒煙を噴きながら魔女が滅茶苦茶に暴れ始めた。

 

『逃げて! 逃げるの!』

 

 武器を両手に構え、魔女の側面だと思われる場所に走る。片手剣で斬りつけ、傷口に長銃を捻じ込んだ。発砲。

 

『おぼぅっ!』

 

 魔女が内側から弾けるように膨張し、傷口から赤黒い泥が噴き出る。それを顔に浴びながらレーベンは長銃を抜き、いつかカーリヤがやっていたようにレバーを起点に回転させた。曲芸じみた動きでレバーが無理矢理に引かれ、薬莢の排出と次弾の装填、そして撃鉄が同時に起こされる。今の発砲はあまり音が響かなかった。故に今度は魔女を外から撃つ。

 三度目の発砲。命中こそしたが、ここで魔女が動いた。

 

『はやく――――っ!』

 

 魔女の巨体が、()()()。全身を(たわ)ませるようにした後、風に吹かれた布のように跳びあがったのだ。その形からも大きさからも想像できないような動き。あまりに現実味を欠いた光景に、落ちてくる魔女の姿をゆっくりと幻視した。

 呆けている場合ではない。体を思い切り横に転がす。身に着けている武具やら地面の岩やらで体を切り刻まれる思いだが、そんなことは気にしていられない。すぐに体を起こし、落下してくる魔女の衝撃に備える。だが魔女は落ちてこなかった。

 

『走って! はやく!』

 

 魔女の躰が布のように広がり、風に乗って飛ぶ。(たこ)のように高度を上げ、そして山道の斜面に沿って信じられない速さで下っていってしまった。

 

「滅茶苦茶だ……」

 

 魔女が隠れ、そして逃げた。しかも空を飛んで。さっきまでの昂りが嘘のように呆けてしまい、だが勿論いつまでもそうしてはいられない。空を飛べないレーベンは、その足で山道を駆け下りた。

 

 

 ◆

 

 

 駆け下りて百も数えない内に、下から銃声が聞こえてきた。走る速度を上げ、蛇行した通路の柵を飛び越えて急斜面を一気に飛び降りる。着地と同時に体を転がして衝撃を逃がすが、それでも足首に嫌な痛みが走った。倒れたまま足に再生剤を突き刺し、容器を放り捨てて再び走り出す。間に合わなければ元も子もない。

 走る間にも絶え間なく銃声が響き、木製の何かが派手に壊されるような音が混じる。封鎖された坑道への入り口をいくつも通り過ぎ、放置されたトロッコの残骸を飛び越え、巨大な岩の塊から飛び出し、そしてシスネがこちらに銃口を向けた。

 

「ぅおっ!」

「あっ!?」

 

 思わず両手を上げ、シスネが黒い瞳を見開く。そのまま撃たれなかったのは、運が良かっただけかもしれない。

 

「脅かすな!」

「脅かさないで!」

 

 お互い素に戻ったような叫びを交わし、だがすぐに我に返って周囲を見回す。集積場ほどではないが、それなりに開けた場所だった。トロッコ、木箱、岩、周囲は遮蔽物に囲まれ、シスネが手にした長銃を忙しなく周囲に向けている。この廃坑にいるということは、やはり銃声を聞きつけてこちらに向かって来ていたらしい。

 

「魔女は?」

「まだ倒していません。何発か当てましたが、すばしっこくて」

 

 シスネと背中合わせになりながら、片手剣と長銃を抜く。矢継ぎ早に状況を確認するが、その言葉に引っかかりを覚えた。

 

 ――()()()()()()

 

 たしかに特異な魔女だった。空を飛んで逃げた際の速度はレーベンの足では到底追いつけない程で、だからこれまでシスネは一人で戦っていたのだ。だがあの蛞蝓のように這いずっていた姿を思い出す。はたしてあの動きに俊敏さなど感じるだろうか? 疑問に埋め尽くされようとするレーベンに答え合わせをするように、魔女がその姿を現した。

 

『見つけた、見つけた』

 

 それは六本足の獣か、あるいは虫に見えた。しなやかな肉体を持つ肉食獣と、生理的な忌避感を抱かせる多足虫をかけ合わせたような。

 

「違う」

「え?」

「違う、こいつじゃない」

 

 人の面影を失い、黒い泥しか見えない躰はたしかに、先程レーベンが逃げられた魔女と同じだ。だがその形はまるで異なり、そして何より「声」が違う。

 魔女の声。生前の声に壊れた弦楽器のような雑音を足した歪な声。何の力も何の意味も無い、ただ垂れ流されるだけの声だが、今この時だけは意味を持った。あの魔女とは声が違う。つまり、アレは。

 

「俺が追ってきたのはこいつじゃない。別の魔女だ」

「……そんな、じゃあ」

 

 隣に立つシスネが息を飲んだ。

 

「二体いるってことですか!?」

 

 悲鳴のようなシスネの声と同時に、六本の足を撓ませ、一瞬の停滞の後で、弾けるように魔女が駆けだした。

 

『逃がさない――!』

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レーベンの狩り

 獣とも虫ともつかない姿に相応しく、その魔女は異様な動きでレーベン達へと襲い掛かった。六本の足が不規則に蠢き、だが滑るような速さで迫ってくる。

 

『逃げるな!』

 

 その魔女に頭は無い。ただ(サソリ)の尾のように後部から伸びた触手の先に、剥き出しの眼球がぶら下がっているだけだ。その「目」にレーベンは既視感を覚えたが、それより先に魔女が牙を剥く。あの魔女が獣ならば頭があったであろう場所、そこから尖った白い骨が鋭く突き出していた。

 

「ぬんっ」

 

 正面から飛び掛かってきた魔女の牙を片手剣で打ち払う。返す刀で足の一本でも落とそうとしたが、それこそ獣のように軽やかな動きで飛び退ってしまった。更にシスネの短銃が連続して火を吹き、だがやはり全て避けられる。彼女の言う通り、なかなかにすばしっこい。そのまま魔女は、乱立する遮蔽物の向こうへと消えていった。

 

「一撃離脱か。厄介な」

 

 片手剣の刃を検めながら魔女の性質を推し量る。俊敏さを活かして飛び掛かり、あの牙で串刺しにする。仕留め損えば、退いてまたやり直す。単純なものだが、それだけに破るのは難しい。何せ動きが速く、そして牙は鋭い。骨という物は人体でも特に固い部位であり、現に片手剣の刃は既に刃こぼれしていた。脆い聖銀の刃では何度も受けられないだろう。

 攻めあぐねるレーベンに対し、短銃に弾薬を装填し終わったシスネが声をあげる。

 

「あの魔女は私が狩ります。あなたはもう一体を追ってください」

「……」

 

 どうするべきだろうか?

 魔女が二体いるのならば、二手に分かれる手もあるだろう。シスネの言う通り、この場は彼女に任せてレーベンは先の魔女を追う。

 だがあの魔女はどこにいった? 空を飛んだと言っても、鳥のように飛び去ったわけではない。あくまで凧のように滑空して山を下りていっただけだ。なのに少なくとも目に映る範囲にはおらず、シスネも見てはいない。そもそもあの魔女は隠れていた。また隠身に徹されでもすれば、そう簡単には見つけられないだろう。

 最悪なのは、もう一体が麓の町に入った場合だ。町には聖女も騎士もおらず、ならば始まるのは一方的な殺戮でしかない。そして例の説が正しければ、惨劇に絶望した女が次なる魔女と化す。そうなってしまえば、もうカクトの町は終わりだ。

 シスネ一人で戦えるだろうか? 彼女の実力の程はまだ知らないが、もう三年も一人で魔女を狩っているのだ。魔女の一体ぐらい狩れるはずだろう。

 いや本当に一体なのか? あの魔女はまた近くに隠れているのではないか? レーベンが離れた途端に、二体がかりでシスネを襲うのではないか?

 行くべきか? 行かないべきか? 二手に分かれるか? 二人で戦うか?

 考えは纏まらない。時間は待ってくれない。さあどうする。どうするべきだ。どうすればいい。

 さあ! さあ! さあ!

 

「……あぁ、面倒くせぇ」

 

 薬の影響なのか、素の口調で無意識にぼやいてしまった。だが同時に吹っ切れた。開き直ったとも言える。長銃を背に戻し、代わりに炸裂弾と焼夷弾を手に取っていると、痺れを切らしたようにシスネが叫ぶ。

 

「何をしているのですか! はやく行――」

「もういい。面倒だ。あれを殺してから考える」

 

 シスネとカーリヤ、時にはライアーからでさえ馬鹿と言われてばかりのレーベンである。自分でも賢いとは思っておらず、ならば本当に馬鹿なのだろう。馬鹿が頭を使ったところで、時間の無駄でしかない。

 いくつかの炸裂弾と焼夷弾を適当に放る。轟音と共に爆炎と粉塵が周囲に撒き散らされ、同時に二本目の強化剤を首に打った。立て続けの凶行に走るレーベンに、シスネが唖然とした顔を向けてくる。

 

「あ、なた……」

 

 その表情が、やけに可笑しくて。

 辺りを舐める炎が、やけに官能的で。

 炎の中を逃げ回る魔女の影が、やけに滑稽で。

 

「ぐ、ふっ、へひ……っ!」

 

 レーベンは、笑った。

 

 

 ◆

 

 

 強化剤が一本、再生剤と中和剤が二本ずつ、鎮痛剤が一瓶。それがシスネの言うところの「用量」であり、ポエニスの倉庫から持ち出せた全てだ。故に、今レーベンが打った二本目の強化剤はアルバットから購入した物、しかも開発中の代物である。

 

『どうせいつも二本も三本も打っているんだろう、君ぃ? だから最初から濃度を倍にしておいてあげたよ』

『つまり原液か。打ったら死ぬんじゃないか』

『死ねばいいじゃあないか』

『なるほど』

 

 元よりあの変人との付き合いは利害によるものであり、互いに友誼(ゆうぎ)を感じているわけでもない。実験動物の代わりになることで、最新の武器や薬物を格安で入手する。それがアルバットと交わした契約だ。結果としてレーベンが死のうとアルバットが知ったことではなく、そしてそれはレーベンも同じことである。

 

 

 

 右腕を振り上げる。握りしめた片手剣の柄がギシギシと鳴り、このまま握り砕けそうだ。鳴っているのは指の骨の方かもしれないが、もう痛みも感じない。鎮痛剤も混ぜられていたのだろうか。アルバットも意外と気が利く。

 

「おあぁっ!」

 

 張り詰めた石弓が弾けるように、右腕を振り下ろした。投げ放った片手剣は一直線に魔女へと飛来し、だが寸でのところで避けられる。

 狙い通り。魔女の背後にあった岩に激突した片手剣は砕け散り、聖銀の破片が散乱した。

 

『げあっ』

 

 飛び退ったばかりで不安定な姿勢だった魔女は、散弾じみた聖銀を半身に浴びて地面に転がる。そしてその上に、レーベンの影が差した。

 

「死゛ねよっ」

 

 長銃を魔女の躰に突き刺し、引き金を弾く。零距離で炸裂した散弾が、魔女の足の一本を根本から吹き飛ばした。飛び散る赤黒い泥、魔女の悲鳴、レーベンの笑い声。

 もう一度引き金を弾いても何故か弾は出ず、仕方なくレバーを引くと折れてしまった。だがレーベンは冷静であった。少なくともレーベンはそう思っていた。

 長銃を棍棒がわりにして魔女の足をもう一本叩き折る。それでもまだ魔女の足は四本も残っている。銃身がひしゃげた長銃を投げ捨てて斧を手にしたレーベンの首に、黒い触手が巻きつく。

 

『見つけた、見つけた!』

 

 魔女の後部から生えた、尾のような触手。それが死角から巻きつき、レーベンの首を締めあげる。帷子入りの首巻をしていても、気道の圧迫は防げない。魔女に組みつき、何度も上下を入れ替えながら地面を転がる。そのうち赤みを帯び始めた視界に剥き出しの魔女の眼球と、白髪の聖女の姿が映った。

 

「なにじてる、撃でっ!」

 

 大小の銃を構えたまま突っ立っているシスネに叫ぶも、何故か撃とうとしない。

 

「あなたに当たるでしょう! 馬鹿っ!」

 

 意味が分からない。撃った弾がレーベンに当たったところで、それの何が問題だというのか。どうも彼女はあまり冷静ではないようだった。自力でなんとかするしかない。

 酸欠になった体はひどく動きが鈍い。斧を振るう力は無い。斧は捨て、短剣を抜き、そして己の首に突き刺した。

 

『ぎえっ、が』

 

 首に巻きついた魔女の触手。それを断ち切り、勢い余った刃が首巻の帷子も貫通する。首の肉をいくらか抉ったようだが、元より痛みも無い。ようやく開放された気道から空気を吸い込み、激しく()せかえった口から鮮血が飛び散った。

 首を押さえながら二本目の再生剤を打つ。首の傷はすぐに塞がり、だがひどく熱を感じた。手にした空容器は見慣れた正規品の物ではない。アルバットの薬だ。間違えた。

 

「お、ぶえ……っ」

 

 魔女を焼いてもいないというのに、肉の焼ける臭いがした。周囲を見回しても、トロッコや木箱の残骸が燻っている程度で焼死体など何処にも無い。なのにすぐ近くで感じる異臭。焼けているのは己の首だと遅れて気付いた。

 凄まじい効果。そして出血によって血が上っていた頭も冷えたのか、名案が浮かんだ。再生剤の効果が切れるまでにケリをつける。

 

『追って! 追うのよ!』

 

 触手ごと目を失い、足も減ったというのに魔女の動きは鈍らない。頭から鋭い骨を生やし、稲妻を描くように迫ってくる。

 対してレーベンは右手に片手剣を、左手に短剣を構える。そして右腕で首を、左腕で腹を守った。さあ来い。

 

『つかまえた――!』

 

 魔女が跳び、一本の槍と化す。狙いは頭だった。レーベンの胸は未だ無傷な胸当てに守られている。腹も手甲を着けた左腕に守られている。だから頭を串刺しにしようとしたのだろう。魔女なりに多少の知恵は残っているらしい。

 だが浅知恵だ。

 ぞぶり。骨の切っ先がレーベンを貫く。

 

「づか、まえだ」

 

 ガラリと、片手剣が地面に落ちる音が響く。右の前腕を骨に貫かれ、逸れた切っ先に頬を抉られても尚、レーベンは倒れていなかった。魔女の足がレーベンの体を蹴り、離れようとする。だが。

 みぢみぢと、力を込められた右腕の筋肉が骨を締めあげていた。強化剤に侵された筋肉は元の倍以上の力で収縮し、再生剤に侵された血肉は異物ごと傷を塞いでいく。魔女の牙は、レーベンの右腕に完全に捕らえられていた。

 

『ぐおぇっ』

『あがっ! ごえっ!』

 

 捕らえた魔女を蹴り上げ、地面に叩きつける。そのまま馬乗りになり、左手の短剣で滅多刺しにした。何度も。何度も。短剣が折れれば、足元の片手剣を拾い上げてまた刺す。それも折れれば、石を手にする。石はいくらでもあった。何度も殴る。何度でも。殺すまで。殺すまで。

 

『逃が、ざないぃ――っ!』

 

 断末魔じみた声と共に、魔女の牙が伸びる。否、伸びたのは牙ではなく、頭。泥の胴体に埋もれていた魔女の頭部が、ついに姿を現したのだ。

 人としての面影は、かろうじて残っていた。だがもう女としての、個人としての面影は無い。ただ頭蓋骨に干からびた皮膚を貼りつけた死体の顔。がらんどうの両目がレーベンを見やり、その口から生えた骨は未だにレーベンの右腕と繋がっている。

 そっと、優しい動きでレーベンの左手がその首を撫でた。

 女神の導きのあらんことを。だがそんな聖句は、今のレーベンの頭に残ってはいなかった。

 

「くたばれ」

 

 抉られた頬で、いっそ狂気めいた笑みを浮かべて。レーベンは魔女の首をねじ切った。

 

 

 ◆

 

 

 もう声も発さない魔女の頭を骨から引きちぎり、躰とは離れた位置に放る。再生でもされては堪ったものではない。そのまま、熱に浮かされたような心地で十数える。

 さすがに疲れた。このまま眠ってしまいたいが、まだ終わりではない。もう一体の魔女を追わなければ。残った装備は。薬の残数は。

 霞ががってきた思考を無理矢理に回し、だが四数えたところで、魔女の躰が立ち上がった。

 

「……はっ」

 

 今更レーベンも驚きはしない。元より魔女とは常識外の存在。頭を落としても死ぬとは限らない。

 まだ魔女狩りは終わらない。魔女は死んでいない。レーベンも死んでいない。

 ならば、戦わなければならないのだ。

 武器もまだ残っている。最後にして最強の切り札。機械剣。

 だが右腕はもう使い物にならない。左腕だけで振るえるだろうか。薬が要る。

 これ以上、薬を使えば死ぬかもしれない。当然だ、己は騎士なのだから。

 三本目の強化剤を取り出して、その手を、白い手が掴んだ。

 

「――う、ぉ……?」

 

 どん、と。何かが体にぶつかり、首筋から何かが流れ込んでくる。

 急速に冷えていく体と思考。いっそ明瞭になった視界に、真っ白な髪が舞った。

 

「いい加減、頭を冷やしなさい!」

 

 脱力した足では体を支えられず、砂利だらけの地面に倒れ伏す。目の前に転がるのは未使用の強化剤と、中和剤の容器。それらをまとめてシスネの長靴が無残に踏みつぶした。背に圧し掛かられる感触を覚え、首にまた何かの薬――おそらくは中和剤を打たれる。

 

「……お説教は後です。覚悟しておくことですね」

 

 耳元で囁かれた声は怒りに震え、いっそ笑いすら含んでいた。色々な意味で鳥肌が立ったが、どうにも癖になりそうである。もう一度やってくれないだろうか。

 横倒しになった視界の中で、魔女と対峙するシスネの細い背中を見ながら、レーベンはそう思った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

シスネの狩り

 倒れ伏すレーベンの目の前で、シスネと魔女の戦いが始まった。

 本来、聖女が単身で魔女と戦うことなどあり得ない。騎士が倒れ、聖女が健在ならば退くのが定石だ。無理ならば騎士を介錯した後に自決する。それが本来の聖女と騎士の在り方。

 だが、今ここには真っ当な聖女も騎士もいなかった。

 右手に長銃を提げ、左手の短銃を歩み寄りながら連射。魔女との距離はさほど離れてはいないが、不安定な姿勢の上に左手一本で放たれたというのに六発すべてが魔女の躰に突き刺さる。

 

『逃が、にに、逃げ、げ』

 

 既に頭も失くした魔女が声をあげる。いったいどこから声を出しているのかまるで分からないが、今それは重要ではない。むしろその躰の形の変化こそがよほど大事であった。

 生まれたての獣のように立ち上がろうとする魔女に対し、素早く屈んだシスネが長銃を構える。遠くも近くもない最適な距離で放たれた散弾が、魔女の足を一本ずつ丁寧に撃ち潰していく。

 

『ごわ、ご、ごうぇあっ』

 

 再び地面に倒れた魔女にシスネは容赦なく焼夷弾を放った。魔女の絶叫と共に燃え上がる赤黒い炎に煽られて、白い髪と灰色の装束が靡く。その間もシスネは魔女から目を離さず、手元も見ないまま長銃と短銃に弾薬を装填した。

 シスネらしい堅実で丁寧な戦い方だった。その後も全身を焼かれた魔女が立ち上がろうとするも、その足を挫くようにシスネの銃が火を吹く。彼女は必要以上には魔女に近寄らず、常に最適な距離を維持していた。銃声が響き、魔女が倒れる。ベルトから弾薬を抜き取り、淀みの無い動きで装填する。シスネは無駄弾を撃たず、弾薬の残りも充分。このまま続ければ、まず間違いなくシスネが勝つだろう。

 だが魔女というものは、何をしてくるのか分からない。

 

『ごわ、いぃ――っ!』

 

 魔女の全身から骨が突き出す。もはや獣でも虫でもなくなった泥の躰が収縮し、それは爆発寸前の炸裂弾を思わせた。

 シスネがトロッコの陰に飛び込み、レーベンは機械剣を手に体を丸めた。

 炸裂。小さな矢と化した骨が、泥と共に全方位へと射出される。それこそ炸裂弾で魔女を狩った時に似た光景だが、これは魔女自身が起こした現象であった。百をとうに超えるであろう骨の矢が無差別にばら撒かれ、衝撃で舞い上がった砂利と泥が遅れて雨のように降り注ぐ。仮に数人がかりであの魔女を狩ろうとしていたならば、一網打尽にされていてもおかしくなかった。それ程の規模の攻撃。

 

「大丈夫ですか!?」

 

 シスネは無事なようだった。いくつも矢が突き刺さったトロッコから顔を出し、魔女から目を離さないまま大声でレーベンの安否を尋ねてくる。

 

「まだ死んでいない」

 

 レーベンも生きてはいた。地面を這っていたのが幸いしたのか、機械剣しか盾が無かったにしては上出来だろう。そのまま、ずりずりと這って岩陰に隠れる。

 

「見れば分かります!」

「それは良かった」

「怪我は無いか聞いているのですよ馬鹿っ!」

 

 シスネはいつにも増して短気で、なかなか会話が噛み合わない。何を言っても罵声が返ってきそうな予感がして、ひらひらと手を振って答えた。「もういいから大人しくしていて!」と吐き捨てられるが、言われなくとも何もできそうもない。だが戦う準備だけはしておかなければならないだろう。

 飛散した泥で黒く染まった広場の中心で、魔女がまた形を変えていた。頭も手も足も無く、ただ蠢く不定形の泥。そこから生えた、先端に眼球をぶら下げた触手。

 

「……そういうことか」

 

 もう見間違えようもない。あれは集積場でレーベンが取り逃がした魔女そのものだ。それを裏付けるように、先程はまるで違う「声」を魔女があげる。

 

『逃げ、てぇ――っ!』

 

 叫びと共に、眼球の触手が伸びる。否、躰そのものが細長く伸び、蛇か蚯蚓(ミミズ)のような姿へと変貌したのだ。先端の眼球が、忙しなく周囲を見回す。

 トロッコから飛び出したシスネが短銃を連射する。だが魔女は細長い躰を激しく蠕動させ、的を外した銃弾は無意味に土埃をあげるだけで終わった。シスネの舌打ち。ああも的が細ければ、当てるのは容易ではない。短銃をホルスターに戻し、長銃を手に魔女に走り寄る。確かに散弾ならば当てやすいだろう。だが、しかし。

 魔女の眼球がシスネを捉え、恐れおののいたかのように全身を震わせる。そして、再び骨を生やした。

 

「――っ!」

 

 シスネが踵を返し、トロッコに隠れる。炸裂。再びばら撒かれた骨の矢をやり過ごし、間髪入れずシスネが飛び出してくるが、今度は無傷とはいかなかったようだ。白い頬に赤い血の痕が鮮やかに残っており、解けた髪の一部も赤く染まっている。

 魔女は動きを鈍らせていた。あれだけ派手な攻撃だ、それなりに消耗するのかもしれない。なんにせよ好機であり、シスネも大胆に近付いて長銃を構える。だが引き金を弾く前に、黒い瞳が見開かれた。

 銃身の一部が破損していた。おそらく、先の攻撃で矢が掠ったのだろう。掠っただけで聖銀も破壊する威力にはゾッとしないが、良くも悪くも大雑把な攻撃だ。対処は難しくない。それに、聖銀とは聖性を流すことで修復される特殊金属。聖性を扱えない騎士(レーベン)はともかく、聖女(シスネ)にとっては何ら問題にならない程度の破損だった。

 その、はずだった。

 

「く……っ」

 

 何故か、シスネは長銃を投げ捨ててしまった。代わりのように、脇のホルスターから短銃を抜く。短銃とはいえ、その大きさは他の二丁とは段違いであった。銃身に至っては倍も長く、大ぶりの短剣ほどもある。その大短銃を両手で握り、魔女の躰に押し当てる。

 轟音。

 

『おぶぉぇあっ!』

 

 間近で落雷でもあったかのような音と共に、魔女の躰から泥が噴き出す。一か所ではない、銃口を押し当てられた場所と、その反対側からだ。なんという威力か。見た目以上に硬くそして柔らかいあの泥を、ただの一発で貫通してしまった。

 だが、銃弾の威力とはつまり反動の強さでもある。騎士でも持て余しそうなあの銃を撃ったシスネは無事なのだろうか。

 

「ぁ……ぐ、」

 

 無事ではなかった。発砲と同時に二歩分ほど吹き飛ばされて尻もちをついたまま、苦悶の表情を浮かべている。銃身を中ほどで折ると巨大な薬莢が飛び出し、地面に落ちたそれは空気を揺らめかせるほどの熱気を放っていた。なんとか体を起こしたシスネが次弾を装填しようとするが、その手はぶるぶると震え上手くいかないようだ。どちらにせよ、あれ以上は撃てそうにない。

 

『逃げて!』

『逃げて逃げて逃げてぇ――っ!』

 

 過剰なまでに強力な一撃に、ついに魔女の(たが)が外れた。絶叫と共に激しく蠕動(ぜんどう)、その細長い躰そのものが巨大な鞭となり、所かまわず叩きつけられる。

 

「あがっ」

「ああぁっ!?」

 

 レーベンは隠れていた岩を粉砕され、破片と綯い交ぜになって吹き飛ばされた。シスネは直撃こそしなかったものの、崩れ落ちた木箱の下敷きとなってしまった。それでもなお魔女は暴れ続け、封鎖されていた坑道の入り口、その一つの蓋が鉄格子ごと粉砕される。

 まずい。

 頭を打って朦朧とする意識の中でも、それだけは確信した。あの魔女は隠れ、逃げようとしている。ならばあの坑道に逃げ込むことは火を見るより明らかで、しかもあの蛇のような躰は坑道では極めて有利な武器となる。断じて逃がしてはならない!

 そしてそれは、シスネも同意見だったようだ。

 

「こ、んの――っ!」

 

 坑道の中へと頭をつっこみだした魔女の躰に、木箱に押しつぶされていたシスネが短剣を突き刺す。そのまま魔女に引きずられる形で木箱から脱し、長いスカートの裾が破れる音が聞こえた。

 

『はやくはやくはやはやくやくはやく――っ!』

「あ、ぐ、あああぁぁ――――っ!」

 

 そこから先は我慢比べであった。魔女は何をおいても坑道の中に逃げ込もうとし、両手の短剣を魔女に突き刺したシスネは、剥き出しになった足を岩壁について踏ん張る。魔女が逃げようとする程に短剣がその躰を切り裂き、だがもう止まろうとはしない。シスネは女の恥じらいもかなぐり捨てたような顔と体勢で魔女を引き留め、だがもう限界は近いようだった。

 

「もらうぞ」

「……へ?」

 

 気の抜けた声を無視し、シスネのベルトに手をかける。その下をなるべく見ないようにしながら炸裂弾を抜き取り、機械剣に装填した。

 

「ちょ、あなた――!」

 

 言葉を返す時間は無い。左手だけで握った機械剣を引きずりながら、坑道の中へと飛び込んだ。

 

 

 

 暗がりの中で、黒い泥の躰が蠕動している。既に全長の半分以上を逃げ込ませている魔女の頭を目指して走り、小さくなり始めた入り口からの光、それがわずかに反射する魔女の眼球を、見た。

 

「なあ、おいっ!」

 

 レーベンの大声が坑道内に反響する。びくりと魔女の躰が震え、反射的に振り返った魔女の眼球と目が合った。人らしい反応。魔女も人であった証。それを利用する。

 そういえば、シスネと初めて会った夜もこの手を使った。頭の片隅でそんなことを思い出しながら、機械剣を振り上げ、引き金を弾く。

 

「――――――っ!」

 

 言葉も発せないほどの衝撃。

 焼夷弾を用いた機械剣が炎の刃とするならば、炸裂弾を用いた機械剣は純粋な破壊の刃だった。爆炎が噴き出したのは刃ではなく峰。瞬間的に噴出した炎が刃を加速させ、同時にその刃を激しく振動させる。

 まして、今回は炸裂弾を()()装填していた。更に剣を握るのは左腕一本、その上、強化剤の効果は既に中和されている。その上更に、レーベンがこれを用いるのは初であった。

 

「ぬあ――っ!?」

 

 そんな状態で、暴れ馬そのものとなった機械剣を御することなどできるはずもない。英雄譚で語られる騎士たちなら可能だったかもしれないが、生憎レーベンはそうではなかった。ただ柄から手を離さないでいるのが精いっぱいである。

 

『に、げえぁぇぇ――っ!』

 

 加速した刃は魔女の眼球に深々と食らいつき、振動する刃が内側から魔女の躰を破壊する。だがまだ刃は止まらず、細長い躰を縦に裂き、両断し、地面にまで刃が達し、冗談のような亀裂を坑道の壁まで走らせて、ようやく止まった。

 斬壊音が響き渡り、反響し、それも止む。魔女はもう声を発さず、だがすぐに不吉な音が坑道内を満たしはじめる。

 

「……あぁ、これは、……まずいな」

 

 魔女の、おそらくは首を落とした。だがもうそれで安堵していられる状況ではない。踵を返し、パラパラと小石が降り始めた坑道を出口に向かって走りだす。

 レーベンも寝台で安らかに死のうとは思っていない。だが崩れ落ちる坑道で生き埋めというのは、死に方としては下に位置するように思えた。つまるところ、今ここで死ぬのは御免こうむりたい。そう考え、未だ力の入りきらない足を必死に動かしながら出口を目指す。その内に地鳴りのような音が響き始め、だがまだ出口は遠い。

 なんとか間に合うかどうか、そんな瀬戸際。よりにもよってその時に、レーベンの足を引く者がいた。

 

『に、げえぇ……ああぁ……』

 

 一体目の魔女と同じ、干からびた死体のような姿。そんな姿の魔女が、横たわる躰から上半身だけを生やして、レーベンの足を掴んでいた。

 

「……、……そうか」

 

 足元から坑道の揺れが伝わってくる。もういつ崩落してもおかしくはない。

 だが魔女はまだ死んでおらず、レーベンも死んではいない。ならば、戦わなければならないのだ。

 己は騎士。いつか魔女狩りの中で死ぬ。それは今だった。それだけの話だ。

 レーベンが機械剣を構え、魔女がその口から骨の矢を生やし、

 

 

「――どいてっ!」

 

 

 レーベンを押しのけたシスネの、大短銃が火を吹いた。

 魔女は、断末魔すらあげずに頭を粉々に吹き飛ばされた。もしかしたら何か叫んでいたのかもしれないが、どちらにせよ坑道内で反響した銃声にかき消されていただろう。現に耳元で発砲されたレーベンは聴覚が麻痺し、更に平衡感覚も失くして転んでしまった。

 

「――、――――!」

 

 シスネが何か言っているが、まったく聞こえない。立ち上がろうとすると頭がぐらぐら揺れて、たたらを踏む。そんな状態のレーベンをシスネが担ぎ上げるように肩を貸し、一歩一歩、倒れこむようにして揺れる地面を走りだした。

 地面は揺れ続け、頭も揺れ続け。耳は聞こえず、前方からの光が目を焼いて何も見えない。口の中は血臭で満たされ。感じるのはただ、すぐ傍で走るシスネの体温だけ。

 真っ白な光で満たされた、無音の世界。何故だかそんな、どこか神秘的な世界の中をひたすらに走り、走り、走って。

 

 

 

「いやああああぁぁぁ――っ!?」

 

 回復した聴覚が最初に捉えたのは、すぐ傍でシスネがあげる、聞くに堪えない悲鳴であった。

 同時に、すぐ後ろで天井が崩落し、その衝撃で二人まとめて出口から吹き飛ばされる。

 

「ぐあっ」

「ぶえっ!」

 

 二人でもんどりうって地面に転がり、すぐに降り注いだ土砂と小石に全身を叩かれ、最後に降ってきた機械剣が二人の頭のちょうど真ん中に突き刺さった。

 

「……」

「……」

 

 もうもうと立ち込めていた土煙が過ぎ去り、見上げた先は、腹が立つほどに澄んだ青い空。

 もはや何も言う気も起きず、ただ二人の深い溜息だけが青空に溶けていった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

残されたもの

「――魔女は!?」

 

 しばし青空を見上げていたレーベンは、すぐ隣から響く絹を裂くような声に、眠りそうになっていた目を開ける。見れば、明らかに取り乱した様子のシスネが立ち上がっていた。気付いているのかいないのか、長いスカートが腰まで裂けており目のやり場に困る。

 

「落ち着きたまえよ、魔女はもう狩っただろう」

「違います! もう一体いたでしょう!」

「……あぁ」

 

 軋む体を起こしながら、今にも町に下りていこうとしているシスネを引き留める。

 

「あれは共喰魔女だ、知らないのか」

「とも、ぐい……?」

 

 シスネが首を傾げる。

 共喰魔女(ともぐいまじょ)とは、複数の魔女が融合した姿だ。魔女は時を経るほどに人の姿を失うと言われ、そういった魔女が更に複数いた場合、互いに引かれ合った末に共喰いを始めることがある。その結果が、つい今しがた狩ったあの魔女だ。一つの躰に二つの命を併せ持った、非常に厄介な魔女であった。

 

「そういえば、そんな魔女もいると聞いたことがある……気がします」

「珍しいからな。俺も直に見たのは久しぶりだ」

「……じゃあ、」

「仕事は終わりだ」

 

 一瞬の間の後、倒れるようにシスネが座り込んだ。「よかったぁ」と呟く声は聞こえたが、俯いており表情は見えない。残念に思いながら、レーベンも先の魔女のことを思い返す。

 共喰魔女が目撃された事例は少ない。そもそも魔女とは隠れ潜むことをせず、見境なく人を襲う。そうすれば教会へと魔女狩りが依頼され、よほどの事が無い限り、数日中には狩られることとなる。魔女の性質と、その犠牲者を用いた鳴子(なるこ)。残酷なようだが、それこそがカエルム教国が百数十年の時をかけて創りあげた、魔女狩りの仕組みなのだ。

 故に、ああも人の姿を失うまで狩られずにいる魔女など決して多くはないはずだ。まして、それが二体いたなど、今回レーベン達は悪い意味での奇跡を目の当たりにしたと言える。

 

「運は、無い方だと思っていたがっ、まさか、これ程、とはな……っ」

 

 痛みを堪えながら説明していると、俯いたまま動かなかったシスネが顔を上げる。

 

「……何をしているのですか」

「いい加減、抜いて、おきたい……っ」

 

 共喰魔女の内、あの獣とも虫ともつかない魔女。あれに貫かれたレーベンの右腕には未だ骨の牙が刺さったままだ。それを掴んで抜こうとするが、どうにも抜けない。アルバット謹製の怪しげな再生剤のせいだろうか、無理矢理に塞がれた傷は骨の牙もそのまま咥えこんでしまった。

 

「やめなさい」

 

 見慣れた呆れ顔に戻ったシスネに左手を掴まれた。ひとつ溜息をついてから、レーベンの傍らにしゃがみこむ。裂けたスカートから覗く白い足には細かな傷が目立ち、心配に思いつつもやはり目を逸らした。

 じっとレーベンの傷を睨んでいたシスネが瞳を伏せ、また溜息をつく。

 

「……仕方ありませんね」

 

 レーベンの目が期待に輝いた。

 聖性による傷の治癒は、騎士には必要不可欠なものだ。どれだけ鍛えようと、どれだけ鎧を纏おうと、魔女にかかれば人の肉体など脆弱に過ぎる。簡単に傷つき、あっさりと死ぬ。だがそれでは騎士が何人いても足りないのだ。

 聖女がいないレーベンには当然、聖性で傷を癒された経験も無い。だが特に聖性の扱いに長けた聖女と、適合率つまりは相性の良い騎士であれば、時には欠損した四肢すら再生すると言われている。刺さった骨を抜き、傷を塞ぐなど、聖性にかかれば瞬く間に癒してしまうだろう。

 だがシスネの手に聖性の輝きは無く、代わりのように鋭利な刃が輝いていた。

 

「……貴公」

「なんですか」

「それは何だ」

「医療用の小刀ですが」

 

 淡々と答えながらもシスネは携帯していた小鞄(ポーチ)を広げ、そこには様々な形状の刃物や器具が整然と納められていた。医療棟の医療者たちが用いるような、否、まさしくそのものである。

 

「そのままでは抜けません。傷口を切開します」

 

 澄ました顔で、恐ろしいことを言い出した。

 

「動かないでくださいね。余計な所を切っても知りませんから」

「待て、分かった。分かったから貴公。せめて鎮痛剤を飲ませてくれ」

「駄目です。あなた、いったいどれだけ薬を使ったか分かっているのですか?」

 

 忘れてはいない。強化剤と再生剤、更に中和剤を二本ずつだ。ただし、アルバットの薬は量も濃度も遥かに高い為、実際はその倍は下らないだろう。どう見ても明らかな過剰服用であるが、ならばもう一錠ぐらい変わらないではないか。

 ずいとシスネが顔を近付けてくる。血と汗の匂いと共に漂ってくる芳香にどうこう感じる余裕も無い。何故ならば、シスネの表情は例の作り笑顔であった。

 

「言いましたよね? 薬には用法と用量があり、それは馬鹿でも知っていることだと言いましたよね?」

 

「言いましたよね?」そう繰り返される問いは、レーベンが魔女の首を執拗に抉り続ける様に似ていたのかもしれない。

 

「殉教者キノノスは言いました。“愚者(バカ)につけられる薬は、痛みだけ”」

 

 最初の聖女の一人、キノノス。極めて敬虔な教徒であった彼女は戒律を破る者に容赦せず、己の騎士にさえ凄惨な罰を幾度も与えたという。狩った魔女より、罰した同胞の数の方が多かったという話なのだからゾッとしない。

 そしてキノノスの再来と化した聖女が小刀を手に迫ってくるのを見て、逃げ場を失くしたレーベンは諦めて歯を食いしばった。

 

 

 ◆

 

 

「お疲れ様でした。もう動いて結構ですよ」

 

 抜いた骨をぞんざいに放り、水筒の水で手の血を洗い流しているシスネの声を聞きながら、レーベンは虚脱して空を見上げた。動いて良いと言われても、もう動けそうもない。

 

「……良い腕をしているな貴公。聖女にしておくのが勿体ない」

「どう致しまして」

 

 皮肉も通じない。レーベンは不貞腐れた。

 だがシスネの技術は確かなものであった。躊躇いもなく小刀で肉を開き、癒着しかかっていた骨を引き抜き、糸で縫い合わせた。教会で支給される物ではない、レーベンには見慣れない薬を塗り、その上から巻かれた包帯は強くも緩くもなかった。

 それらの処置を、シスネは足でレーベンを押さえつけながら敢行したのだ。どれだけ耐えようと痛いものは痛く、どうしたって身体は反射的に暴れてしまう。加えて、眼前に迫るシスネの細い脚線から目を逸らすことにも必死で、なかなかの地獄であった。

「さて」と、シスネがスカートの裾を払いながら立ち上がる。大きく裂けた裾から、所々が血と砂に汚れた白い足が見え隠れし、レーベンは努めて目を逸らす。とにかく先程から彼女の裂けたスカートが気になって仕方がない。スカートそのものより、シスネ自身がそれに気付いているかどうか、という点が。

 

「私は町長に報告をしてきます。ついでに人も呼んできますから、ここで大人しくしていてください」

 

 ありがたい話ではある。疲労と薬の副作用でレーベンの全身はひどい倦怠感に支配されており、どうにも足元がおぼつかない。シスネ自身も無傷というわけではなく、彼女にレーベンを担いで山を下りろというのも酷な話だろう。

 だが町に下りれば、当然そこには人がいる。女たちはまだ外出を制限されているのだから、必然的に男ばかりがいるということだ。それはあまり、よろしくない。

 

「……貴公」

「はい?」

「その、なんだ」

 

 解けていた白い髪を束ねながらシスネが振り返る。その拍子に翻ったスカートからまた目を逸らしながら、慎重に言葉を選んだ。

 

()()には、気を付けたまえよ」

 

「足元」の部分を特に強調しながら言う。この上なく無難な言葉選び、口が上手い訳でもないレーベンとしては会心の出来であった。だがシスネは、ただ呆れ顔で見下ろしてくる。

 

「ご心配なく。あなたと違って、薬物は使っていませんから」

 

「自分の心配をしたらいかがですか」と捨て台詞を残し、裂けたスカートを翻しながらシスネは山を下りていってしまった。

 ひとり残されたレーベンは黙ってシスネの背中を見送っていたが、やがて軋む体を再び横たえて青空を見上げた。きっと彼女は気付いているのだろう。魔女を狩っていれば装束が破れることなど日常茶飯事であり、スカートが裂けたぐらいでは気にしないに違いない。そうだと思いたい。

 見上げた太陽はようやく南に上ろうとしている。ひどく長く感じたが、まだ昼にもなっていなかったのかと、霞がかってきた頭でレーベンはそう考えた。

 

 

 

 その後、シスネが呼んできた町の男たちによってレーベンは教会まで担ぎ込まれることとなる。

 だがその前に、怒りと羞恥で顔を真っ赤にしたシスネがわざわざ汲んできたらしい水桶をレーベンに浴びせ、屈強な鉱夫たちが揃って目を丸くしていた。どうやら気付いていなかったらしい。

「気付いていたなら言ってください!」とは彼女の弁だが、仮に言っていればまた何らかの制裁を加えられていたのではないだろうか。どちらにせよ詰みであった。本当にひどい話である。

 

 

 ◆

 

 

 黄昏の町に、大小様々な慟哭が響き渡っている。レーベンとシスネは、教会の前でその源である人だかりを遠巻きに眺めていた。レーベンは薬の副作用やら後遺症やらで立っていることすら辛い状態であったが、この時ばかりは寝ていられない。

 マンダルとアナの遺体は、男たちの手で断崖の底から回収された。腐敗は元より、損壊も激しいのだろう。分厚い布で覆われた二人の遺体に、だが多くの人々が縋りつき、泣き崩れていた。その中に、どこか見覚えのある壮年の大男や、若い青年、髪を結った女の姿を認めて、レーベンは額に手をやった。

 記憶が混濁している。薬物、その中でも特に中和剤の副作用だ。

 

「なあ貴公。あの大柄な男は、俺たちと会ったことがあったか?」

 

 小声で尋ねれば、シスネは察したように溜息をついた。ゆるく頭を振ってから、視線は前に向けたまま小声で話し始める。

 

「……あの男性は町長です。今回の依頼主ですから絶対に粗相はしないでください。革鎧を着た若い男性も、町を案内してくれた方です。あと――」

 

 面識があったらしい人々のことを一人ずつシスネが説明してくれる。話さえ聞けば、忘れていたことが嘘だったように記憶が戻ってきた。今まではそうやって説明してくれる相手もいなかったレーベンとしてはありがたい限りである。

 喧噪でかき消されそうな小声を聞きもらすまいと耳を近付けると、先ほど湯浴みをしていたシスネの白髪から湿った香りが漂ってきた。囁くようなシスネの声、いつにも増して澄んだそれが耳朶をやさしく叩き、人々の喧噪と慟哭ですらもう遠く感じる。瞼が、ひどく重かった。

 

「ちょっと、聞いているのですか!」

「んあ?」

 

 小声だが鋭い声に目を開け、だがすぐにまた眠気が襲ってきた。目を半開きにしてふらついていると、盛大な溜息をついたシスネに肩を支えられる。

 

「……もういいですから、中で寝ていてください」

 

 そっと玄関の扉を開け、教会の中に戻る。簡易祭壇を通り過ぎ、台所兼居間である部屋に入ってすぐ置かれている長椅子(ソファー)に放られるようにレーベンは横になった。シスネはすぐに立ち去り、だが思い出したように寝室へと入った後で、毛布をレーベンの頭に投げつけてくる。聖女とは思えない雑な行動。町の人々には見せられない。

 直後、玄関からこちらを呼ぶ声が聞こえ、今度こそシスネは去っていった。遠くから感謝や労いの言葉と、それに答えるシスネの澄ました声が聞こえてくるが、もう眠気は限界だった。横になったまま、もぞもぞと毛布をかぶって深く息をつく。

 この長椅子はどこか不自然な位置に置かれていると思っていたが、成程こうして担ぎ込まれる分には都合の良い位置であった。マンダルとアナも、どちらかがこうして長椅子に横になることが多かったのだろうか。あの二人にも町の人々には見せない姿があったのかもしれない。だがそれはもう、永遠の謎となってしまった。

 薄く目を開ければ食卓と椅子が見える。そこに置かれたレーベンたちの装備を見ながら、

 

 ――そういえば、シスネに何か聞かなければいけなかったか

 

 だが混濁した記憶と眠りに落ちる寸前の意識は、聞くべきだったことを朧気にしか思い出せない。まあ、思い出せないのなら重要なことではなかったのだろう。そう開き直り、レーベンは目を閉じる。

 

 

 

 眠る騎士の前で、半壊したままの長銃が、その聖銀の欠片を光らせていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

死ぬには良かった日

「世話になったなアンタら! また来いよ、今度は一杯奢るぜ!」

 

 ガハハ! と町長の豪快な笑い声が朝の町に響く。

 鉱山の町の朝は早いらしい。レーベンたちが起きた時は既に町中が活気づいていた。鶴嘴(ツルハシ)円匙(スコップ)を担いだ屈強な男たちが山に向かい、大量の洗濯物を抱えた逞しい女たちが井戸の周りで手と口を動かし続ける。そこかしこの工房からは鉄を叩く音が鳴り響き、何台もの馬車が大通りを所せましと行き来していた。

 きっとこれがカクトの町の本来の姿なのだろう。マンダルとアナ。ついに生きて会うことのなかった、偉大な先達が守ってきた町だ。

 

「生憎、酒は飲めないもので。茶でよければ」

「私もその、お酒はあまり……」

「なんだよなんだよ、つれねえなぁ! マンダルなんざ朝まで飲んでそのまま山に行ったってのによ!」

 

 ガハハ! と笑い続ける町長の目には涙の跡がくっきりと残り、その息も酒臭い。祝杯と弔いを兼ねてしこたま飲んだのだろうが、それでも火の入った工房で槌を振るっているあたりは流石と言えよう。先日までのどこか虚ろであった気配はもう微塵も無く、豪快で粗野な性格が露わになっていた。

 これもまた、彼の本来の姿なのだろう。時間と酒の助けによって、ようやくマンダルとアナの死を受け入れられたのだ。そしてそれは、この町の住人すべてにも言えるのかしれない。

 

「……まあ、なんだ。ありがとよ、本当にな」

 

 太い指で頬を掻きながら、町長が岩のような手を差し出してくる。それに応えると、レーベンの手は万力のように握りこまれ、「いだだだだだだだ!」とガラにもない声をあげてしまった。町長がまた豪快に笑い、隣のシスネも口元に手をやって笑いを堪えている。……仮にも己の騎士が痛めつけられて笑うのはどうなのだろうか。

 

「マンダルに比べりゃ、まだまだだな! 精進しな!」

 

 白い歯を見せながら最後に笑い、町長は工房の奥へと戻っていく。彼とマンダルがどのような関係であったのかは、レーベンたちに知る由もない。だが工房の壁に飾られた聖銀の槍を見れば、わざわざ尋ねるのは野暮というものだろうか。

 マンダルの遺品である槍を引き取りたいという町長の要望に対し、レーベンは二つ返事で了承した。本来は教会に持ち帰るべき物であったが、既に装備破壊の常習犯であるレーベンである。装備が足りなくなって使った末に壊したとでも言っておけば良いだろう。倉庫番の彼のうんざり顔が目に浮かぶが、ポエニスの倉庫番となったのが運の尽きであったと諦めてほしい。

 シスネには反対されると思っていたが、彼女はただ我関せずと瞳を伏せているのみであった。

 

 

 

「あれ、騎士さま達もう帰っちゃうの?」

 

 荷物を担いで大通りを歩いていると、食堂であり酒場であり宿屋でもある店の前で、店主の女と鉢合わせた。寝起きなのかボサボサの髪は結われておらず、緩い寝間着のまま通りに水を打っている。しどけない姿で目のやり場に困るが、本人は気にした様子もなく大きな欠伸をしながら丸出しの腹を掻いていた。むしろシスネの方が顔を赤くしている有様である。

 

「あーらら、近くで見るとかわいい聖女さまじゃん。ちゃんと連れてきてよねー」

「あの、もう人も多いのですから、そういう恰好で外に出るのは」

「へーきへーき、いつものことだし。……むしろ昨日の方が驚きだったって。足が丸出しの聖女さまがいきなり山から下りて――」

「忘れてくださいお願いします」

 

 ケラケラ笑う店主を店の中に押しやろうとしているシスネのスカートは、しっかりと縫い合わされていた。傷の縫合ができるのだから、服の補修などお手の物なのだろうか。縫合も裁縫もさっぱりなレーベンとしては想像するしかなく、ただ右腕の傷を包帯の腕から撫でた。

 

「せっかくだから何か食べていかない? 酔っ払い共が何人か寝てるけどさ」

 

 店主の言葉に惹かれ、覗き込んだ暗い店内には、酒精と男の汗の臭いがむっと立ち込めていた。目を凝らせば、店の片隅には半裸や全裸の男たちが死体のように折り重なっており、いくら何でもここで食事をとる気にはならない。羽目を外すにも程があるだろうに。

 

「遠慮しておこう。そこの聖女が彼らに何をするか分からないからな」

「私を何だと思っているのですか」

「まあ、あの山ザル共も、よくアナさんにしばき倒されてたからねー」

 

 店主の意外な言葉にレーベンが振り向き、シスネも瞳を丸くした。

 曰く、酔っぱらって店主に狼藉を働いた男を素手で殴り倒した。酒と賭博にかまけて妻子を泣かせていたろくでなしが泣いて許しを乞うまで説教を続けた。余所の町から来た商隊との小競り合いから発展した大乱闘の末、最後に一人立っていた。……など、アナの武勇伝は枚挙に暇がないのだという。

 どう聞いても多分に脚色されているが、それでも恐ろしいものは恐ろしく、カーリヤの方がまだまともな聖女に思えてくる。もっとも、彼女はああ見えて聖女らしい慈悲深さも充分に持っているのだが。

 

「でも、アナさんはもういないんだから。私もあいつらも、しっかりしないとね」

 

 寂しげに呟いた店主は、レーベンたちに背を向けて打ち水を再開した。水音に混じって鼻をすする音が聞こえてくるが、やはり掛ける言葉は見つからない。だがシスネは違ったらしい。

 

「あなた達が、そう、思えたのなら」

 

 振り向いた店主が赤い目で見返し、一瞬たじろいだシスネが黒い瞳でそれを正面から受け止めた。

 

「……聖女の役目は、魔女狩りです。それ以外にはありません」

「だから、もしも、それ以外で、誰かを助けられたのなら」

「それはもう聖女ではなく、一人の人として、アナさんは、素晴らしい方だったのだと、思います」

 

「私のような未熟者が、生意気かもしれませんが」と、そうシスネは締めくくった。

 それを黙って聞いていた店主は、シスネの言葉を噛みしめるように空を見上げる。閉じた目から一筋だけ涙を流してから、

 

「――ほんと生意気だよ! この小娘ちゃんがさぁ!」

「ぅぎぇあぁっ!?」

 

 涙を見られた気恥ずかしさからか、必要以上に大きな声を出しながらシスネにじゃれつく。子供の悪戯のようにその脇腹を突っつくと、だがシスネは予想以上に大きな声を出して跳びあがった。なんとも形容しがたい声に、道行く人々も足を止め、シスネの白い顔が更に赤く染まった。

 

「え、なに、あんた脇腹(そこ)弱いの?」

「やめてください本当にやめてください人を呼びますよ」

 

 人を呼ぶも何も、もう既に注目の的である。両手で脇腹を守りながらじりじり下がっていくシスネに嗜虐心を刺激されたのか、店主はニヤニヤと笑いながらワキワキと手を動かしはじめる。それを絶望したような顔で見たシスネが脱兎の如く逃げ出し、ひとしきり笑った店主は目尻の涙を指先で拭った。

 

「あーあ、ほんとかわいい聖女さまだこと。大事にしなよ?」

「むしろ俺の方が大事にしてほしいが」

「はぁ?」

 

 その後、結局は軽食を包んでくれるとの店主の言葉に引き留められ、あっという間に出来上がった紙袋を受け取る。

「また来なよ!」と、笑顔で手を振る店主に見送られ、今度こそレーベンは町の出口へと向かった。

 

 

 

 シスネは停まった馬車の陰で蹲っていた。繋がれたままの馬が不思議そうに彼女の白髪を眺めている。

 

「……貴公、」

「何も言わないでください」

 

 更に「何か言ったら刺しますよ」と低い声を出されてはレーベンは黙るしかない。刺すと言ったら刺すのだろう。彼女はそういう聖女(おんな)だ。

 しばらくの間、蹲ったまま何かブツブツ呟いているシスネの白髪を馬と共に眺める。飽きたらしい馬が大きな欠伸をし、レーベンが青空を見上げた頃、ようやくシスネは立ち上がった。

 

 

 

 大通りを下り続け、ついに町の出口である鉄扉に辿りつく。だがそこは異様な空気に包まれていた。

 

「ほら、留め具が緩んでるよ。ほんと、だらしないんだから」

「分かった分かった……おい、自分でやるって!」

「動かないの」

 

 見覚えのある若い男――門番の革鎧を、更に若い娘が整えている。だが距離が近い、というより殆ど密着しながら留め具を締めていた。

 

「今日は暑くなるから、お弁当は無しね。お昼は家に帰るんでしょ?」

「お、おう」

「待ってるからね、ふふ」

 

 止めを刺すように娘が青年の頬に口付け、固まった彼を置き去りに娘が去っていく。その足取りは踊るように軽やかであった。……己はいったい何を見せられているのだろうか。

 顔を赤くしたシスネがわざとらしく咳払いしてようやく、青年は持ち場に戻ってきた。

 

「あ、ああ、聖女さま達。もうお帰りなんですか?」

「……ええ」

「見せつけてくれるじゃあないか貴公。仕事をしたまえよ」

 

 レーベンの皮肉に対して彼は、「ふへへ……すみません」と照れくさそうに頭を掻くが、その顔は緩みきっていた。随分とまあ、仲の良いことである。

 

「よし炸裂弾だ。彼にやって爆発させよう」

「あなたは何を言っているのですか」

 

 シスネが自分を落ち着かせるように咳払いし、澄ました顔で言う。

 

「若い方なのですから、恋人ぐらいいるでしょう。何を大袈裟な」

「あ、妹です」

「そう、妹ぐらい……え?」

 

 今度はシスネが固まり、炸裂弾が残っていなかったか荷物を漁っていたレーベンも顔を上げる。

 黙ってしまったレーベン達を聞き役と捉えてしまったのか、青年の惚気(のろけ)話は止まらない。彼の妹が如何に兄思いで献身的で料理上手で愛らしいかを力説するその目は、少年のように輝いている。

 だが何故かその時、レーベンの脳裏にはアルバットが機械の眼を駆動させている姿が浮かんだ。あの変人に重ねるのは失礼極まりない気もするが、重なってしまったのだから仕方ない。妹というものを持ったことのないレーベンには分からないが、兄妹とは皆このように仲睦まじいものなのだろうか?

 

「なあ、貴公には妹……いや弟はいないのか? どの家族もああいう風にするものなのか?」

「しませんよっ! 妹も弟もいますけどしませんから! 私だっておに……兄にもしません!」

「そ、そうか」

 

 シスネに尋ねると予想以上の剣幕で返された。しかし彼女には随分と家族が多いらしい。

 

「これで、あいつも一緒に外を歩けます。聖女さま達のおかげだよ」

 

 妹について語り終えたらしい青年が、涙ぐみながらシスネの手を両手で握る。シスネは体を跳ねさせたが、青年の謝意を無下にはしなかった。澄ました微笑を浮かべながら、青年にされるがままになっている。もしレーベンが同じことをしたらどうだろうか。まず蹴られるだろうな、とレーベンは考えた。

 

 

 ◆

 

 

 カクトの町を後にし、立派な鉄門から外に出る。急な坂道を下るレーベン達を、何台もの馬車が追い抜いて行った。他の町に鉄を運ぶのだろう。この町が活力を取り戻していることを実感する。

 上りはそれなりに苦労した坂道を、今度はさほど苦労せずに下っていく。それは、魔女狩りの前より大きく減ってしまった荷物のせいでもあったが。なんにせよ、ものの数分でレーベン達は目的の場所へと辿りついた。

 町の外の共同墓地。その中でも特に新しい二つの墓の前に立つ。マンダルとアナはここに葬られた。住人たちの希望と、本人たちの遺言によって。

 シスネは弾薬と長銃の残骸が入った荷物を置くと、墓の前で跪いて祈り始める。小さな祈りの言葉が、風に乗ってレーベンの耳にも届いた。

 レーベンは機械剣の入った鞄を担いだまま、シスネとある程度の距離をとった位置で簡素な祈りを捧げた。祈りはすぐに終わり、近くにあった木製の長椅子に腰掛ける。

 見上げた空は快晴。影のような(カラス)がくるくると空を回った後、どこかへと飛び去っていく。視線を下げれば、もう遠いカクトの町の煙突群が見える。もくもくと立ち上るいくつもの煙。町長も今頃は炉の前で鉄槌を振るっているのだろうか。

 更に視線を下げれば、シスネが見える。こちらに背を向けており顔は見えず、祈りの言葉に耳を傾けながら、そよ風に靡く真っ白な髪を眺めていた。

 

「……そうやって」

 

 ぽつりと、シスネの澄んだ声が風に混じって聞こえた。独り言かとも思ったが、その声には聞きなれた険が含まれており、つまりはレーベンに向けた声であった。

 

「そうやって、じっと見るのをやめてもらえませんか」

 

 微動だにせず、レーベンに背を向けながらシスネは言った。こちらを見もせずに言い当てるあたり、彼女は視線に敏感なのだろうか。

 

「そんなに見ていたか?」

 

 視線を外し、視界の端にだけ細い背中を納めながら聞く。シスネはこちらを見ず、お互いに明後日の方向を向きながら会話をした。

 

「見ているではないですか。気が散るのでやめてください」

「そうなのか」

「自覚すらありませんか。本当に救いようのない人ですね」

「……そうなのか」

 

 それにしても、レーベンを罵倒する時は相変わらず饒舌である。無視されるよりは良いかと先延ばしにしていたが、そろそろ白黒をはっきりさせておかなければならないだろう。レーベンは腹を括った。

 

「貴公、今でも俺のことは嫌いか」

「はい」

 

 即答であった。さすがに心が折れそうだが、もう引き返せない。

 

「今でも、俺と契りを交わす気は、」

「ありません」

「そうか、なら――」

 

 立ち上がり、シスネの傍まで歩く。怪訝な顔で見上げてくる聖女に、手を差し出した。

 

「なら今ここで聖性をくれ。それで駄目なら諦めよう」

 

 騎士となって五年。幾人もの聖女に頼み、聖性を流してもらった。その全てで拒絶反応を起こし、誰一人として適合はしなかった。レーベンには何らかの欠陥がある。それが何であるのかは未だに分かっていない。

 だからきっと、シスネとも適合はしないのだろう。

 

「それで終わりだ。もう二度と貴公には関わらないと誓う」

 

 レーベンとて断腸の思いではあるが、これがお互いの為だと考えたのだ。

 何故シスネが一人で魔女を狩っていたのかは知らないが、それが彼女の望みならそれで良い。そうでないなら、誰か別の騎士と契りを交わせば良い。

 レーベンは元に戻るだけだ。また一人で魔女を狩り、いつか一人で死ぬ。ヴュルガ騎士長の命令には背くことになるが、あの冷酷な男も話が通じないわけではない。このまま歪な関係を続けることに何の利点も無いことを説けば、否とは言わないだろう。……おそらくは。

 

「……」

 

 だが何故かシスネは目を逸らした。膝の上で両手を強く組み、こちらに手を出そうとしない。

 

「貴公?」

 

 彼女にとっても悪い話ではないはずだった。今ここで、ただ一度だけ聖性を使えば、嫌う相手と縁を切ることができる。もう付きまとわられることも無い。

 

「…………ます」

「なに?」

「お断りしますっ」

 

 予想できなかった突然の答えに固まっていると、素早く立ち上がったシスネが墓地を後にする。遠くに教会の馬車の白い幌が見えた。置いていかれたレーベンは、しばらく墓の前でシスネの言葉の意味を反芻してから彼女の後を追う。

 

「貴公、それは何だ。このまま俺と仕事をしたいという意味か」

「違います! どうしてそうなるのですか!」

 

 馬車に向かって速足で進むシスネの後を追い、シスネの足も徐々に速くなっていく。

 

「あなたのことは嫌いですし契りだって交わしません! そして聖性を一度だってあなたに使いたくはないと言っているのです!」

「そうか、そうか、そういうことにしておこう」

「……あなた本当に何か勘違いしていませんか。私は聖女シーニュじゃありませんからね!」

 

 最初の聖女たちの一人、シーニュ。最も美しく、最も慈悲深い聖女とされる彼女を謳った詩歌は数知れず、だが同時に彼女は炎のように苛烈な気性の持ち主であったとも言われている。毒と険に満ちた言葉とは裏腹に、慈悲深く献身的な聖女。その可憐な落差に少年たちは恋焦がれ、少女たちは胸を高鳴らせるのだ。

 

「今日は良い日だ。貴公のことを色々と知られた」

「ああそうですか良かったですね私は最悪の日でしたっ」

 

 今回の魔女狩りは、上手くいった方だろう。

 共喰魔女、つまりは二体の魔女を討伐。住人への被害は無し。崩落した坑道も廃坑であった為、損害は軽微。

 犠牲は町に常駐していた聖女と騎士の二名。だが彼らの生き様と死に様は、この上なく立派なものであったのではないか。少なくともレーベンはそう思った。

 

「ああ、良い日だったとも」

 

 レーベンは、そう思ったのだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二章 弱者たちの夜
逢魔が刻


 最初の騎士たちの一人、ジャック・ドゥ。

 英雄譚に謳われる聖女と騎士の中でも、その存在は極めて異質である。

 

 曰く、不自由な身体で戦い続けた不屈の男。

 曰く、最弱の騎士と呼ばれながら、多くの魔女を狩った最良の騎士。

 曰く、悪辣な手口で魔女を罠に嵌め、時には同胞をも犠牲に魔女を狩った最悪の騎士。

 曰く、聖女を道具として扱い、幾人もの聖女を使い潰した聖女殺し。

 曰く、聖女が生まれる以前から魔女を狩り、更にそれ以上に多くの女を「予防」した女殺し。

 

 その他、幾つもの悪名を轟かせる彼は多くの英雄譚で悪役として描かれ、そして他の騎士の例に漏れず、彼もまた悲劇で終わる。だがその最期は魔女狩りの中には無かった。

 彼に狩られた魔女、その家族達による報復。捕らえられ、生きながら炎に焼かれるその瞬間まで、彼は悔い改めることは無かったという。

 

 ――救えぬ莫迦(ばか)どもめ

 ――貴様らの大事な家族とやらを、我は殺してやったぞ

 ――どれだけ涙を流して悼もうが、あれらはもう欠片も人では無かった

 ――脳味噌の底まで腐った売女のように

 ――泣いて我に礼を言うだろうさ!

 

 いったい、どれ程の情念を魔女に抱いていたのか。

 片目と片腕を失っても尚、魔女を狩り続けたのは何の為だったのか。

 どこにでもいる平凡な農夫であったはずの男を、何がそこまで変えてしまったのか。

 彼の心の内など今となっては知る由も無く、仮に目の前で蘇ったとしても答えなど得られないだろう。

 

 

 だが確かなのは、魔女も元は人であり、そして家族がいたということだ。

 

 

 ◆

 

 

 ゴトゴトと揺れる馬車の中で、レーベンは何度目かの目覚めに至った。荷台の中は橙色の光に満たされており、幌ごしでも今が黄昏時であることが分かる。ずり落ちそうになっていた体を持ち上げ、狭く固い座席に座り直した。

 カクトの町を出て六時間というところか。未だにライアーとカーリヤが向かった町には着かない。これだけの時間があればレーベン達だけポエニスに帰ることもできたが、馬車の運行については教会の本棟が決めていることだ。一介の騎士に口出しできるものではない。

 欠伸を噛み殺し、小さく体を伸ばすと体中の骨が音を鳴らした。血の巡りが悪くなっていそうな足を揉んでいると、正面の席に座っていた同乗者がかくりと頭を垂らす。

 その白髪の聖女――シスネもまた、座席に座ったまま眠っていた。特徴的な黒い瞳は閉じられ、薄い唇が半開きとなった寝顔は少女のようにあどけない。……涎さえ垂らしていなければ。

 更にその手には、栓も抜かれたままの果実酒の瓶が緩く握られていた。先日にレーベンが買ってきた物であり、己が下戸である以上はシスネが飲むしか無い。それ故、一仕事終えたシスネが一杯飲もうと非難される謂れは無いが、やはり人に見せられる姿とは思えなかった。酒は苦手などと言っていたのは何だったのか。

 

「……」

 

 どうしたものか。とりあえず酒瓶だけでも回収しておこうと慎重に手を伸ばす。もし体に触れでもしたら彼女の短銃が火を吹きかねず、揺れる馬車の中ではそれなり以上に気を遣う作業であった。ゆっくりゆっくりと手を伸ばし、同時にシスネの瞳が開かないか注視する。馬車の揺れに合わせて頭と白髪が揺れ、その毛先が鼻を掠めた時には眩暈を覚えたが、気合いで堪えた。

 なんとか無事に酒瓶を掴み、だが同時に馬車が急停止する。

 

「ぁいた……っ!」

 

 レーベンは素早く座席に戻り、シスネは慣性で頭を壁に打ちつけた。しばらく頭を押さえながら俯き、痛みを堪えるように唸った後で顔を上げる。寝起きなこともあってか、生理的な涙で潤んだ黒い瞳は黒曜石を連想させた。

 目が合ったが、じっと見るなと言われた手前レーベンは目を逸らし、だがそれをシスネが何か勘違いしたらしい。

 

「……言いたいことがあるなら言えば良いでしょう」

「何の話だ」

「お酒を飲んで居眠りする女がそんなに滑稽ですか」

 

「笑いたければ笑ってください」とそっぽを向くシスネはひどく子供っぽく見え、案外本当に酔っているのかもしれない。現に、回収した酒瓶はそれなりに軽い。その後も睡眠薬代わりだの捨てるのは勿体ないだのと聞いてもいない言い訳を並べ始めるシスネから逃れるように、レーベンは御者台に出た。

 

「ああ騎士さま、申し訳ない」

「構わんよ、何があった?」

 

 人の良さそうな顔をした御者に尋ねれば、困った顔をして前を向く。その視線を追えば、夕闇に沈もうとする街道の中央に、細い人影があった。

 何の変哲もない、若い娘に見えた。地味で質素な平服を着た、どこぞの村娘のような。だがその顔は背にした夕日のせいで影となって見えず、腰まで伸びた亜麻色の髪だけが印象的だった。

 

「どいてくれと言っているんだけども、あのまま動かないんでさ」

 

 御者の言葉を聞きながら、レーベンも娘の姿から目を離せない。どこにでもいそうな娘だというのに、どうにも違和感を覚える。

 

「この近くに村なんてありましたか?」

 

 いつの間にかシスネも御者台に出てきて娘を凝視していた。思いのほか近い距離と、わずかな酒精の香りに思わず仰け反りそうになる。そんなレーベンの様子に構わず、シスネは御者の広げた地図を覗き込んでいた。

 

「……いちばん近い所でも、三里はありますな」

 

 ちらとシスネの黒い瞳がこちらを向く。それに頷き返し、レーベン達は荷台に戻った。

 

 

 

 荷台の裏から降り、シスネにはここに残るよう小声で伝える。頷いたのを確認してから、レーベンは街道に出た。

 

「貴公、こんな所でどうした? 何かあったのか?」

 

 威圧的にならないよう注意し、大きな声で娘に話しかける。人並以下であるレーベンの表情筋では笑顔も見せられないが、かわりに両手に何も持っていないことを見せながらゆっくりと歩み寄っていった。

 

「俺たちは教会の使いだ。何か困っているなら力になれるかもしれんぞ」

 

 教会。その言葉に娘はわずかに反応したように見えた。俯き加減なまま微動だにしなかった体が揺れる。人里離れた場所の怪しげな娘。そしてあの反応。

 当たりか。レーベンは内心で確信した。

 

「――魔女でも、出たのか」

 

 娘が顔を上げる。

 その顔は、黒い泥に覆われていた。

 弾かれるようにレーベンの右腕が動き、後ろ腰に隠していた手斧を掴み取る。一挙動で投げ放ち、それを追って走り出した。

 だが。

 

「――――っ!?」

 

 娘――魔女の顔面に斧を投げ、その隙に組み伏せて短剣で止めを刺す。そんな脳内で描いていた戦術は初手から覆された。投げられた斧は魔女の頭を割ることもなく、街道に刃をめり込ませて終わる。避けられたのではない。外してもいない。

 信じがたいことに、斧は魔女の頭をすり抜けたように見えた。あまりに異様な結果に、レーベンも思わず足を止める。

 

『……』

 

 多くの場合、魔女は意味も無く喋り続ける。人であった頃の口癖や習慣、あるいは断末魔を連呼することが多く、壊れた弦楽器のように歪な声で喋り続ける様は魔女の恐ろしさと悍ましさの象徴でもある。だがこの魔女は一言も発さず、ただじっと街道で佇むのみだ。前例の通じない異様な魔女。短剣のみで戦うのは無謀でしかなく、故にレーベンは動けなかった。

 その沈黙を破るように銃声が鳴り響く。振り返るまでもない、シスネの短銃だ。弾丸の軌跡など見えるはずもないが、やはり当たっているようには見えない。魔女は微動だにせず、その衣服すら絵画のように動かなかった。三度の銃声が木霊しても、魔女はまだそこにいる。

 

「どうして……」

 

 近くまで走り寄ってきたシスネが、再び短銃を構える。それを手で制し、視線だけは魔女から外さずにおく。

 

「やめろ。弾の無駄だ」

「この距離ならもう外しません」

「外してはいない。だが当たってもいない」

 

 意味不明なことを言っている自覚はあるが、実際にそうなのだから始末に負えない。結局はシスネも短銃を構えたまま何もできず、ただ沈黙だけが漂っていた。

 

 

 

 どれぐらいそうしていただろうか。

 魔女が背にしていた太陽が地平線に沈み、魔女の姿も朧気になってきた頃、遂に魔女が動いた。弾かれるようにレーベン達も身構え、だが魔女はこちらに向かってくることはない。ただ、ゆらりと体を揺らめかせて、街道の横の森へと吸い込まれるように消えていった。

 

「……どうしますか」

 

 短銃を下ろしたシスネが考えあぐねたように意見を求めてくる。だがレーベンとて考えあぐねているのは同じだ。

 攻撃の当たらない、正体不明の魔女。まるで喋らないことといい、襲ってくることもなく去ったことといい、魔女の性質からも離れすぎている。情報があまりにも足りない。

 更にレーベン達は装備の大半を失っている状態だ。手持ちの武器は手斧とシスネから借りた短剣のみ。機械剣はあるが、燃料となる焼夷弾と炸裂弾がほとんど残っていない。薬も鎮痛剤以外は使い切ったか、シスネに処分されてしまった。シスネは長銃を失くしたぐらいだが、肝心の弾薬が心許ない。

 冷静に考えれば、退くべきだろう。このまま予定の町に向かい、ライアー達と合流する。彼らがまだ戦えそうなら共闘し、無理ならポエニスに戻って報告する。そして日を改めて再び狩りに来れば良い。

 だがレーベンは、荷台に置かれた装備を手に取った。

 

「このまま追おう。どうにも嫌な予感がする」

 

 魔女は何をしてくるのか分からない。あんな得体の知れない魔女なら尚更だ。

 ライアー達と合流するにしても、彼らがいる町までは更に六時間以上かかる。往復すれば戻ってこられるのは明朝だろう。それまであの魔女がここに留まる保障は無く、近くの村や町に向かうとすれば間に合わない。まして、あのカクトの町を襲いでもしたら寝覚めが悪いなどというものではない。

 そして懸念は他にもあった。

 

「最近、魔女狩りの依頼が少なすぎるとは思わないか」

 

 荷台で残り少ない装備を身に着けながら独り言のように漏らすと、同じく装備を整えていたシスネが顔を向けてくる。

 

「カクトの共喰魔女もそうだ。あんな珍しい魔女、そう見られたものじゃあない」

 

 複数の魔女が融合した姿――共喰魔女。それ自体も相当に珍しいが、レーベンはそれ以上にあの魔女の様子が気にかかっていた。積極的に襲ってくることもなく隠れ潜み、まるで何かから逃げていたかのような。あるいは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 減少する魔女。逃げる魔女。そして、あの亡霊のような魔女。これらは果たして偶然なのだろうか。

 

「……それは、私やあなたが考えることではないと思いますが」

「そうだな。だから俺達が探りに行くのだよ」

 

 仮に何か大きなモノが動いているとして、それに対してどうこうするのは教会の上位職員たちの仕事だ。一介の騎士とすら呼べないようなレーベンが考えることではなく、だが彼らにしても考察の材料が無いことには何も始まらない。それを探し、持ち帰る者が必要なのだ。

 

 

 

 夕闇に包まれた街道を、大型のランタンを掲げた馬車が速度を上げて走り去っていく。それを見送ってからレーベン達は森の前へと立った。

 あの御者には、カクトの町と今回の魔女狩りについての簡単な報告と、ライアー達への伝言を手紙に纏めて渡してある。最悪、ここでレーベン達が死んだとしても教会へ報告は届くという算段だ。

 

「さて、行くか」

 

 返事の代わりのように、シスネが短銃を抜いた。その腰には頑丈なランタンが重そうに吊るされている。それを横目に、レーベンは己の装備を改めて確認した。手斧、短剣、機械剣、焼夷弾と炸裂弾が一つずつ、そして即席の松明。それで全てだ。魔女狩りには明らかに装備が足りないが、今回はあくまで偵察。あの魔女に関してある程度の情報を手に入れられれば良い。もっとも、それでも充分に危険ではあるのだが。

 

「状況が状況だ。二手に分かれるとは言ってくれるなよ」

「……分かっています」

 

 心底嫌そうな顔でシスネが答える。今回はやけに素直だった。

 太陽は完全に沈み、目の前には月明りに浮かび上がる森の暗闇が広がっている。人の本能をかきたてるような恐怖を抑え込んで、レーベン達は暗い森の中へと足を踏み入れた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

くらやみの少女

「ひ……っ!」

 

 森に入ってすぐ、真後ろからシスネの引きつった声が聞こえてレーベンも肩を跳ねさせた。振り返れば既にシスネは短銃を前に向けており、すぐに頭を戻して前方に目を凝らす。

 

「うぉ……っ」

 

 レーベンも思わず声を漏らす。確かに心臓に悪い光景であった。

 ほんの十歩ほど先に、あの魔女がいたのだ。相変わらずどこにでもいそうな娘の姿で、細い木の陰に立っている。だが何故か、その姿は暗闇に浮き出るように鮮明だった。

 

「……待っていたのか?」

 

 魔女が森に去ってからそれほど長い時間が経った訳ではないが、すぐさま追った訳でもない。シスネと御者を交えて最低限の相談をし、装備を整え、報告と伝言を手紙に(したた)めた。魔女が森の奥まで進むには充分な時間であり、何らかの痕跡を辿りながら追うしかないと思っていたのだが、どうにもあの魔女には調子を崩されてばかりだ。

 

『……』

 

 レーベンの疑念に応えるように、魔女は踵を返して森の奥へと消えていく。比喩ではなく、闇に溶け込むようにして「消えた」のだ。それを見届けてから、知らず固まっていた体から力を抜き、努めて軽い声を出した。

 

「魔女というより、幽霊だな」

「やめてください縁起でもない」

「お、おう?」

 

 同じことを考えていたのか、シスネが引きつった顔で睨んでくる。腰元のランタンで下から照らされたせいで、その顔はなかなかに迫力があった。

 聖女や騎士であっても、幽霊といった存在に苦手意識を持つ者はいる。魔女は確かに常識外の存在だが、それでも確かな血肉を持ち、手で触れられるのだ。刃で斬り、銃で穿ち、炎で焼けば狩ることができる。幽霊のように理解の範疇から完全に外れた存在をこそ、人は恐れるのかもしれない。そういうわけで、幽霊を怖がっているシスネを揶揄(からか)うのは止めた方が良さそうだった。

 

 

 

 その後も、魔女との奇妙な追走は続いた。魔女が姿を消した方向に進むと、また遠くに魔女が姿を現す。そしてまた姿を消す。その繰り返しだ。

 徐々に身体と精神が魔女狩りとは別種の緊張に強張っていくのを自覚する。追えば追うほど、アレは魔女ではなくもっと別の怪異なのではないかという疑念が膨らんでいく。魔女の狩り方ならばいくつも知っているレーベンであるが、幽霊の(はら)い方など碌に知らない。たしか水や銀、塩が苦手だとかなんだとかは聞いたことがあるが。

 

「あなたは……」

 

 何の前置きもなくシスネが話しだし、歩みは止めないまま後ろを見れば、ただでさえ白いシスネの顔が闇に浮かび上がっていた。ひどく暗い顔をしていることもあって彼女の方が幽霊に見えたが、黙っておく。

 

「あなたは、人を殺めたことは、ありますか」

「いきなりどうした」

 

 いったい何故、この聖女はこの状況でこのような話を始めるのか。レーベンは理解に苦しんだ。

 

「あなたが何か、その……の、呪われるような真似をしていないか、聞いただけですよ」

「やめろよ縁起でもない」

 

 思わず素の口調で抗議してしまった。自分で思う以上に、レーベンもこの異様な状況に疲弊しているのかもしれない。

 

「怖いのですか?」

 

 ――怖がっているのは貴公(あなた)だろうが!

 

 喉元までせりあがった言葉をなんとか飲みこむ。普段は滅多に笑顔も見せないくせに、こんな時に限ってレーベンを(わら)うような顔を向けてくるシスネに内心で憤慨した。この聖女、他人(ひと)を怖がらせることで己の恐怖を誤魔化すつもりではなかろうか。

 

「……魔女は含めるのか?」

「魔女以外です」

「なら、まあ、……何人かは」

 

 この国にも野盗の類はいる。教会の馬車をわざわざ狙う命知らずは少ないが、それでもいない訳ではない。単に無知だったのか、食い詰めて後が無かったのかはレーベンの知ったことではなく、降りかかった火の粉は払うのみであった。また、他の聖女や騎士と合同で魔女狩りに向かった際、瀕死の騎士や被害者を介錯したこともあった。あれを殺人に含めるかどうかは是非が分かれるところだが。

 なんにせよ、殺めた人数を自慢げに語るほど血に酔っているつもりは無い。思い出して気分の良いものでもない為、努めて数えないようにしていたこともある。レーベンは言葉を濁した。

 

「そういう貴公は、どうなんだ」

 

 その問いに深い意味は無かった。ただ(いたずら)にレーベンを怖がらせようとするシスネに若干の不満を覚えていたこともあり、つい踏み入ったことを聞いてしまった。それだけだった。

 だがそれを、レーベンはすぐに後悔することになる。

 

 

「――――()()()

 

 

 怖気がするほど平坦な声で、シスネが答える。

 暗闇の中で見たシスネの顔は――虚ろに、わらっていた。

 見てはならないものを見た。

 背後を歩く聖女の、(はら)の底の澱みを垣間見た気がして、レーベンは前方の暗闇に視線を戻す。炎の明かりで削られる闇の方が、よほどマシに思えた。

 

 

 ◆

 

 

 前方に明かりが見えて、レーベン達は歩みを止めた。

 人魂などではない、たしかな火の明かりだ。ゆらゆらと揺れるそれは人体の動きそのものであり、おそらくはランタンの類であった。

 人がいる。その事実に安堵と同時に疑念が生まれた。このような人里離れた森の奥にいる人間など、真っ当な者であるはずがない。野盗か。そう考えて明かりを消そうとするが、それよりも相手に気付かれる方が早かった。

 ぴたりと、明かりの動きが止まる。相手が何者であるかも分からず、レーベン達はただ様子を窺うことしかできない。その内に相手の明かりが奇妙な動きを始めた。ゆらりゆらりと、左右に一定の感覚で揺れ始める。こちらを窺っているのだ。

 

「どうする?」

「……行くしかないでしょう」

 

 投げやりにも聞こえるシスネの声に頷き、相手の動きに倣って松明を揺らす。それを見たらしい相手がこちらに近付いてくるのを認めて、レーベン達もゆっくりと進みだす。

 上下に揺れる明かりが近付いてくる。レーベンは努めて自然体で歩きながら、右手に握った手斧を背中に隠した。

 更に明かりが近付いてくる。朧気にランタンを持つ人影も見え始める。背後から、シスネが短銃の撃鉄を起こす音が聞こえた。

 明かりが近付いてくる。だがその人影の小ささにレーベン達は足を止めた。

 

「子供……?」

 

 唖然としたようなシスネの声が、レーベンの内心を代弁した。

 年の頃は十にも届かないような、幼い少女だった。子供には大きすぎる立派なランタンを左手に持ち、右手には空の木桶(バケツ)をぶら下げている。着ているのはありふれた平服であり、だがほつれや泥汚れが目立っていた。

 

「一人なの? お父さんとお母さんはいる?」

 

 どうしたものかと思案していると、シスネが柔らかな声で少女に話しかける。屈んで視線を合わせる動きには淀みがなく、その顔も作り笑いではなく柔和な微笑だった。明らかに子供の相手をすることに慣れており、どちらかと言えば子供が苦手なレーベンは彼女に任せることにした。

 

「……」

 

 だが少女の顔に表情は無く、ただ黙ってシスネとレーベンの顔を見比べている。その大きな瞳と一瞬だけ目が合い、そこに少女らしからぬ(かげ)を見てレーベンは目を細めた。

 

「私は――な、ちょ……っ」

 

 澄ました声で話していたシスネが、今度は上擦った声をあげる。見れば、木桶を置いた少女の小さな手がシスネの薄い胸元に触れていた。そのままぺたぺたと体を(まさぐ)り、やがて脇腹に達した辺りでシスネが激しく身悶える。さすがに子供相手に手荒な真似はできないのか、されるがままになっているシスネから目を逸らし、レーベンは意味も無く暗闇を見つめていた。

 

「あなた、聖女さん?」

 

 声変わり前の、独特な高い声で少女が口を開いた。視線を戻せば、まくり上げたシスネのスカートをじっと見ており、レーベンは再び目を逸らす。どうやら、シスネの着た聖女の装束を確かめていたらしい。

 

「……ええ、教会から来たの」

「じゃあ、あなたは聖女さんの騎士さん?」

 

 くるりと、少女の顔が人形のようにレーベンを向いた。問いの形こそとっているが、少女にとってはただの確認なのだろう。だがそれはレーベンにとって難問であった。

 答える前にシスネの表情を窺う。さっきまで少女に見せていた微笑はどこにいったのか、シスネは苦虫を噛み潰したような顔でこちらを睨んだ後、ぷいと顔を逸らした。

 

「……ああ、そうだとも」

「ふーん」

 

 探るような目を向けてくる少女に内心で冷や汗を流す。子供とは存外に鋭いものだ。二人の不自然な態度に勘づかれたのかもしれない。

 

「私はシスネレイン。シスネでも良いから」

「ミラ」

 

 話を逸らすように笑顔で自己紹介を始めるシスネに対し、少女――ミラは無表情で答えた。流れに沿ってレーベンも名乗ったが、ミラからは一瞥されるのみに留まる。解せない。

 

「それでね、ミラ。お父さんかお母――」

「お父さんはあっち」

 

 ランタンの紐を首に通し、木桶を持ち直したミラがシスネの手を取って歩き出した。どこか強引なその動きにシスネがたたらを踏みながら続き、レーベンも後を追う。

 

「貴公、」

「分かっています」

 

 小声で注意を促すとシスネも固い声で囁き返す。例え年端もいかぬ少女であろうと、不審であることは変わりない。お父さんとやらが実在するとして、それが野盗でないとも限らない。仲間もいるかもしれない。

 警戒は解かないまま、ミラに連れられて森の奥に進む。遠くに、小屋のような影が見えていた。

 

 

 

 途中、沢の近くに立ち寄ったミラが木桶に水を汲んだ。暗闇の中だというのに危なげなく作業を終え、相当に手慣れていることが分かる。元々、水汲みの為にここを歩いていたのだろう。

 

「重いでしょう、貸して」

「ん」

 

 だが、ほぼ満杯に水を汲んだ木桶は少女の手には余る物だったらしい。シスネの言葉に対し、ミラは遠慮することなく水桶を渡した。そしてシスネはそれを無言でレーベンに手渡してくる。拒否権は無かった。

 

「ミラは、お父さんと二人で暮らしているの?」

「お姉ちゃんもいる」

 

 両手に松明と水桶を持った状態で二人の会話に耳を傾ける。言外に、母はいないと言っているように聞こえた。

 

「家族の他には誰かいる?」

「三人だけ」

 

 ミラの言葉を信じるなら、野盗という線は薄いか。この少女は論外として、父親と姉の二人だけで略奪が行えるとは思えない。

 

「いつから、ここに住んでいるの?」

 

 今度はすぐに答えが返ってこなかった。何を数えているのか、小さな手の指をしきりに折っている。

 

「二年ぐらい」

「そんなに……」

 

 鬱蒼とした森だ。人が住むに適しているとは思えない。まして、最も近い村までは三里。歩いていけない距離ではないが、少なくともこの少女には無理だろう。現にミラの身なりは清潔とは言えず、極端に飢えてはいないようだがその体も痩せていた。

 

「ここ」

 

 小さな山小屋だった。申し訳程度に開かれた場所に建てられた、簡素なあばら家。狭い畑には雑草のような作物がまばらに生え、屋根には鳥獣の肉がいくつか吊るされていた。自給自足の、質素な生活の跡が散見される。

 

「まってて、お父さんに話してくる」

「ミラ」

 

 レーベンから水桶を受け取り、粗末な扉に手をかけたミラをシスネが呼び止める。彼女は雑嚢から取り出した包みをミラの手に握らせた。見覚えのある紙袋。カクトの町で買った焼き菓子だ。

 

「あげる。みんなで食べてね」

 

 ミラは何度かシスネの顔と紙袋を見比べてから、(おもむろ)に紙袋へ顔を埋めた。そのまま、噛みしめるように焼き菓子の香りを嗅ぐ姿には、レーベンでもどこか居たたまれないものを感じる。

 

「……ありがと」

 

 紙袋に顔を埋めながらミラが呟き、今度こそ小屋の扉を開けた。屈んだままのシスネは、物憂げな顔でそれを見送っている。レーベンもまた、ミラの後ろ姿を凝視する。

 伸びっ放しの、その亜麻色の髪に既視感を覚えた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

森の奥の父娘

 ミラを待つ間、小屋の周りを軽く探索する。忘れてはならないが、レーベン達は魔女を追ってここまで来たのだ。だがミラと会う直前を最後に、あの魔女は姿を現していない。月明りにだけ照らされた周囲を見回しても、あの娘の姿をした奇妙な魔女はどこにもいなかった。

 木々の間をゆっくりと見て回り、ちょうど一周する頃に小屋の扉が開いた。

 

「……教会の方ですか」

 

 出てきたのは、中年の男だった。気弱そうに下がった(まなじり)だけが特徴の、どこにでもいそうな男。彼がミラの父親だとすれば四十路に届くかどうかといったところだろうが、それよりも一回りは老けて見える。痩せくたびれ切ったその雰囲気のせいだろう。

 ユアンと名乗ったその男は、やはりミラの父親だという。そのミラは、父の傍らでじっとこちらを見上げていた。

 

「それで、聖女さま達がこんな所に何用ですか」

 

 敵意とまではいかない。だがユアンの落ちくぼんだ目には、レーベン達に対する隠しきれない警戒が浮かんでいた。そこに聖女に対する敬愛は欠片も見つけられない。その目に、レーベンは見覚えがあった。

 こういった事例は初めてではない。そしてそれは、シスネも同じだったらしい。

 

「私は魔女を追ってきました。この近くにいると思われますが」

 

 前置きも無く、威圧的な口調でシスネが口火を切った。単刀直入な物言いにユアンは明らかに動揺し、ミラがその足をぎゅうと掴む。

 

「心当たりは、ありませんか」

 

 白状しろとばかりに、シスネが迫る。

 おそらく、ユアン達は魔女を(かくま)っている。この虫も殺せなさそうな男が、幼い娘をつれてこんな森の中で暮らしている理由が他に見当たらない。

 近しい女、特に家族が魔女となった場合に、それを狩ることをよしとしない者たちは多い。赤の他人が魔女となった時と比べれば態度の変化が甚だしいが、それも人の情というものだろうか。家族というものを知らないレーベンにとっては、想像することしかできない。

 だが当然、魔女を匿うことは立派な罪だ。魔女を人に戻す方法は未だ発見されず、魔女は例外なく人を襲う。一体の魔女が生み出す被害と悲劇の数を考えれば、遺された家族がどれだけ嘆こうが放置することは許されない。ここまで状況が揃っているのであれば、この父娘に対して多少は強引な真似をすることもできる。聖女と騎士には、その裁量も任されているのだから。

 だがそれでも、否だからこそ、シスネはあくまで自白させようとしているのだろう。「己が罪を自白した者は、その罪を一等減ずる」と、教国の法にも記されている。シスネらしくもない威圧的な口調もその為だ。

 ……もっとも、その口調は普段のレーベンに対するものとひどく似ていたのだが。

 

「ここに魔女はいない、帰ってくれっ」

 

 早口で捲し立てながらユアンが扉を閉じようとする。だがその前に、レーベンの手が扉を掴んだ。

 

「悪いことは言わん。居場所を教えたまえよ」

 

 口が上手い訳でもないレーベンにこういった仕事は向かないが、シスネの気遣いを無駄にさせるつもりもない。扉に挟まれた手がじんじん傷むのを堪えつつ、内側から引っ張られる扉を無理矢理に開かせた。レーベンとて腐っても騎士だ、ただの中年男に力負けする理由は無い。

 

「今なら、まだ間に合うぞ」

 

 シスネに勘づかれないよう、視線だけでミラを指してみせる。剣呑さがにじみ出ていたのか、レーベンの灰色の目を向けられたミラが父親の足に隠れた。それを見たユアンは、下がった眦を精いっぱい持ち上げるように睨んでくる。娘を拷問されるとでも思ったのだろうか。

 暗い森の小屋で、文字通りの睨み合いが続く。四者ともが沈黙を守り、重く張り詰めた空気がいつまでも続くかと思われた時、

 

「……わかった」

 

 ユアンが、諦めたように頭を垂れた。

 

 

 

 ランタンを手にしたユアンが森を歩き、レーベン達がそれに続く。小屋からさほど離れてはいない場所の山肌にぽっかりと開いた洞窟。その狭い入り口から、ユアンは無言で中へと入っていった。

 

「このまま狩る気ですか?」

 

 ユアンに続こうとすると、シスネに呼び止められる。元はと言えば、カクトからの帰りの道中で遭遇した魔女を追ってきたのだ。残りの装備は心許なく、まともに魔女を狩れるかも分からない。それでも、魔女の情報だけでも持ち帰れないかとここまで来たのだ。

 もしこの洞窟に何らかの方法で魔女を閉じ込めているのであれば、ユアンを連行してポエニスまで戻ってもまだ猶予はあるかもしれない。最悪、洞窟の入り口を炸裂弾で崩落させても良い。

 だがそれも、魔女化がどれほど進行しているかによる。結局は魔女の情報を得なければ始まらない。

 

「見てから考えよう」

「本当に行き当たりばったりですね、あなたは……」

 

 臨機応変と言ってほしい。

 

 

 

 洞窟の中はやはり湿った暗闇に満たされていたが、部分的に崩落したような箇所もあり、そういった天井の穴からは月明りが差し込んでいた。深緑色の苔や、よく分からない茸が生えた洞窟の中はどこか幻想的でもある。

 ユアンの姿は既に無く、湿った地面で足を滑らせないよう注意しながら足早に進む。中は特に入り組んでもいない一本道。道を間違えることはないだろう。道を進み続け、そして奥に異様な物を見つけた。

 それは、山積みされた土嚢(どのう)だった。洞窟の空洞を完全に塞ぐようにぎっしりと積み上げられている。その数は百や二百では足りず、奥にまで続いているとすればいったい何個あるのか。誰がやったのかなど考えるまでもなく、そしてこの奥には間違いなく魔女がいるのだろう。

 土嚢の壁に一歩近付き、死角になっていた暗がりから鋭い声があがった。

 

「動くな!」

 

 あえてゆっくりと顔を向ければ、予想通りの光景が見られた。険しい顔で武器を向けてくるユアン。だがその手に握られた武器だけは予想外であった。

 

「どこから、そんな物を……」

 

 背後のシスネが代弁してくれる。ユアンの手にあるのは、聖銀の輝きを放つ長銃。レーベンにもシスネにも見慣れた教会の武器だ。盗んだのか、横流しした愚か者でもいたのか、だが今それは重要ではない。

 

「やめたまえよ。罪が重くなるぞ」

「黙れ!」

 

 だらりと両手を上げながら、それとなく背中でシスネを通路に押し戻す。ユアンの手つきは見ているだけで危なっかしく、銃の扱いに慣れていないことは明白だ。それでも装填されているのが散弾だとすれば、この距離では致命傷にもなり兼ねない。あまり刺激しない方が良いだろうか。

 

「撃ってくれるなよ。聖女に当たりでもすれば後が怖いぞ」

「黙れって言ってるだろっ!」

 

 どうしたものか。説得はまあ無理だろう。少なくともレーベンにできる気はしない。とにかくあの長銃をなんとかしなければ。撃たれる前に組み付けるか? やるしかないだろう。最悪、自分が撃たれてもシスネが何とかしてくれるだろうか。

 他に手も無い。ならば運任せ。自棄にも似た開き直りでレーベンが飛び掛かろうとした、その瞬間。

 

 

「うごかないで」

 

 

 舌足らずな声が、レーベンの背後にいるシスネの更に後ろから響く。同時に、シスネの息を飲んだ息遣いも。

 

「ミ――」

「うごいたら撃つから」

 

「しゃべっても撃つ」と続けるその声はまったく震えていない。この期に及んで手の震えを抑えきれていない眼前のユアンとはまるで違う。

 何故なら彼女はまだ幼く、その小さな手に握った凶器の殺傷力も、それを使えばどうなってしまのかも理解してはいないのだ。だからこそ恐ろしい。

 

「お姉ちゃんは、ころさせない」

 

 ミラに短銃を突きつけられたシスネが、ゆっくりと両手を上げた。

 

 

 ◆

 

 

 戻った小屋の中は、外観の印象通りに閑散としていた。簡素な(かまど)と、寝台もなく床に敷かれた汚れた毛布。他には碌な調度品も無く、父娘(おやこ)の苦しい生活が窺える。

 

「貴公、大丈夫か?」

 

 中央の柱に縛り付けられたレーベンは、同じく縄で縛られたシスネに声をかける。だが彼女はただ、もがもがと呻くのみであった。

 

「そうか、元気か」

「――、――――っ!」

「誠に申し訳ない」

 

 相変わらず何を言っているのかは分からないが、どうせレーベンへの罵声だろうと予想して謝っておく。

 ごく適当な拘束だけで済まされているレーベンとは違い、シスネは雁字搦めに縛られていた。全身に縄を打たれ、目隠しと猿轡までされている。芋虫のような姿で床に転がされた様は、なかなかに痛ましい。

 普通は逆なのではないかと思われれるが、聖女と騎士であれば正しいとも言えるだろうか。どんなに拘束しようと、聖性の助けを得た騎士にとっては何ら意味を成さないのだから。とにもかくにも聖性の使用を封じる為に、シスネの方を厳重に拘束したのだろう。

 

「その状態でも聖性は使えるのか? 試しに使ってみてくれないだろうか」

 

 拘束された状態で、器用にシスネがそっぽを向いた。どさくさに紛れて契りを交わせないかと思ったが、そこまで甘くはないらしい。加えて、

 

「あばれたら撃つから」

「そうだな、貴公もいたな」

 

 今も傍らでは、ミラが短銃をレーベンの頭に突きつけていた。幼い少女が武骨な短銃を構えている姿はどこか非現実的で、だがその銃には実弾が装填されており、ごく現実的な脅威であった。そして何よりも、彼女の引き金はひどく軽い。下手な真似をすれば、あっさりと風穴を開けられてしまう。

 

「重いだろう。それを置いたらどうだ」

「ん」

「俺が悪かった。撃たないでくれ」

 

 撃鉄を起こす音が耳元で聞こえ、慌てて謝罪する。きっとミラに脅しのつもりはなく、ただレーベンを撃つ前動作として撃鉄を起こしたのだろう。あまりに無邪気な殺意に今更ながら震えあがる思いであった。緊張感があるのか無いのか分からないやり取りに、転がったままのシスネが呆れた視線を向けている……気がした。

 

 

 

 夜も更け、レーベン達を見張るミラが眠そうな目を擦り始めた頃、粗末な扉を開けてユアンが見回りから戻ってきた。その手にはまだ、ランタンの他に長銃が握られている。

 

「おかえり、お父さん」

「おかえり」

「……本当に、仲間はいないんだろうな?」

 

 心なしか嬉しそうな表情になったミラの頭を撫でながら、ユアンが疑いの目を向けてくる。レーベンの挨拶は無視された。

 

「さっき話した通りだ。俺達は二人だけで魔女を追ってきた」

「追ってきた? 嘘を言うな、ミルスは外に出ちゃいない!」

 

 ミルス。それがあの少女の姿をした魔女の名前らしい。そしておそらくは、この男の娘であり、ミラの姉なのだろう。

 だが確かに妙な話ではある、あの洞窟の奥に閉じ込められていた魔女が、どうやって森の外まで出てきたのか。そして、何故レーベン達をここに案内するような真似をしたのか。

 

「髪の長い娘だった。色は茶色。歳は、十五ぐらいか」

「お姉ちゃん……」

 

 ユアンは険しい顔を崩さないが、ミラが答え合わせをしてくれた。もしかすれば別の魔女である可能性もあったが、彼女の反応を見るとそうではなさそうだ。

 

「嘘だ、ありえない、他に出口なんて無い、どこも破られていない」

 

 ぶつぶつと自分に言い聞かせるように呟くユアンの様子は危うく、今この場でもっとも精神の均衡を欠いているのは間違いなく彼であった。どうにも怪しい雲行きに、何か打開策は無いか頭を巡らせる。

 

「――ミラ、外に出ていなさい」

「うん」

 

 だが特に賢いわけでもないレーベンの頭が名案を閃く前に、ユアンが急に落ち着いた声を出した。ミラはそれに何ら疑いを持たず、素直に小屋の外へと出ていく。そして、ユアンは小屋の隅に立てかけてあった何の変哲もない道具――斧を手にした。

 

「……貴公、馬鹿な真似は」

「黙れ」

 

 更に、床に転がされたシスネの襟首を掴んでレーベンの前まで引きずってくる。縛られた細い体を踏みつけ、その足首に斧の刃先を乗せた。シスネの体が一瞬だけ震える。

 

「本当のことを言え。じゃないと、この女には痛い目を見てもらう」

 

 ユアンの目は、ギラギラと危険な光を放っていた。そこには優位への驕りも無ければ、できもしないことを騙る怯えも見られない。つまりは本気なのだ。

 

「まずは足だ。はやく言え!」

 

 目を血走らせながらユアンが叫ぶ。斧が振り上げられ、抵抗できないシスネが覚悟するように身を縮めた。

 だがいくら詰問されようとも、レーベン達は本当に二人で来たのだ。拘束は解けず、説得も無理。ならば、あとは口から出まかせを並べてなんとか隙を作るしか無いか。レーベンには荷が重いが、やるしかない。

 

「ああ分かった俺達の負けだ本当のことを言おう、実は――」

 

 

 ドン、と。重い音が遠くから響く。

 遅れて、薄い床ごしに地面の揺れを感じ取った。

 

 

「お姉ちゃんっ!」

 

 小屋の外からミラの高い声が響き、軽い足音が遠ざかっていく。ユアンはレーベンと外を見比べ、舌打ちし、長銃とランタンを掴み取ってから外へと走り去っていった。

 レーベンの足元に、斧だけを残して。

 

「……珍しく、ついているな」

 

 これで今夜の運を使い果たしていなければ良いのだが。斧に足を伸ばしながら、レーベンはそう思った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

大破壊

 斧で縄を切り、シスネの拘束も解いてその際に体に触っただの触っていないだので一悶着もあった末、奪われていた装備を身に着けて小屋から飛び出す。同時に、地響きにも似た重い音がまた響いていた。音の方角には、あの洞窟しか無い。

 

「行きましょう!」

 

 明かりを用意する間もありはしない。走り出したシスネの白い髪を追って、レーベンも夜の森へと駆けだした。だが、もはや事態は最悪の方向へと進みだしているように思える。

 

 

 

 ミラはひとり木陰に佇んでいた。木にしがみつくようにして不安げに洞窟の入り口を見ていたところで、駆け寄ってきたレーベン達に目を丸くする。

 

「ミラ!」

「えっ? なんで……」

 

 声をかけながらシスネが屈み、ミラの体に怪我が無いかを検める。状況に頭が追いつけていないのか、ミラはされるがままになっていた。

 

「ミラ、お父さんはどこ?」

「あ、あっち」

 

 震える小さな手が指したのは、やはりあの洞窟だ。口を開ける暗がりの奥で、ランタンらしき光が瞬くのをレーベンの目が捉えた。

 

「俺が見てくる。その子を頼んだ」

「……気を付けて!」

 

 シスネの返事も待たずに駆け出し、後ろから聞こえた意外な言葉に振り返りそうになったが、今はそれよりも魔女狩りだ。すぐに洞窟の前まで辿りつき、鞘から短剣を抜く。息を整えてから、洞窟の中を進もうとし、だがそれよりも先に奥から誰かが走り出てきた。

 それは当然、ユアンだった。一瞬だけ目が合い、しかしすぐに走り去り、そしてレーベンも洞窟の奥にあるソレを見る。

 

「おいおい……」

 

 思わず独り言を漏らす。洞窟の奥にあった、否、今まさに迫り来るモノ。それは闇にも似た、黒い泥そのものだ。体の硬直は一瞬、すぐさま脱兎の如く逃げ出す。そして、背後からの衝撃と轟音。

 

「ぬおぁっ!?」

 

 ほんの一昨日の、カクトの廃鉱山で崩落に巻き込まれそうになった時のことが脳裏に過る。それ程の衝撃に吹き飛ばされ、小石と雑草だらけの地面を転がった。

 

『なんで、なんで』

『どうしてなの』

 

 その高い声には聞き覚えがあった。声変わりこそ過ぎたが、まだ幼さを多分に残した少女の声。

 

「おねえ、ちゃ……」

 

 似た声で、ミラが呆然と呟く。傍らにいたシスネに引き起こされ、彼女らがいた場所まで吹き飛ばされていたことに内心で驚いた。頭を振って立ち上がり、だがやけに暗い。深夜の森の中ではあるが、今夜は満月が煌々と照らしていたはずなのだが。

 その理由は、すぐに分かった。

 

「でかいな」

「何を呑気な……」

 

 月明りを遮る巨大な影。それを見上げて無意識に口から出た独り言にシスネが返す。その声も、心なしか震えているように聞こえた。

 その魔女はまだ人としての面影を残していた。二本の足で立ち、二本の腕を持つ人型。胴体に比べて太く短い両足が、その破壊的な自重をなんとか支えている。頭は無く、全身を黒い泥で構成され、だがその大きさだけは常識の外にあった。レーベンとシスネを縦に並べ、更に倍にしてもまだ半分にも届かない、そんな大きさ。

 

「どこを斬れば良いんだ、あれは」

「私に聞かないでください」

 

 握ったままだった短剣を鞘に戻す。あの巨体のどこに突き刺したところで、棘が刺さったようなものだろう。両手剣か大斧でも欲しいところだが、今ここにある最大の武器は機械剣だけであった。大きさ自体は両手剣より小さく、しかも燃料となる炸裂弾と焼夷弾は一つずつしか無い。

 

「貴公の得物も効くとは思えんな」

「同感です。しかも弾がもうありません」

「本当か。笑える」

 

 シスネの武器は短銃が二丁と、短剣が二本のみ。威力不足も甚だしく、そもそも聖女の武器は護身用であり自決用なのだ。並の魔女ならともかく、あんな巨大な魔女に通用するとは思えない。更に弾薬すら足りないというのだから、もう笑うしかないだろう。まったく笑えないが。

 

「でも、これなら……」

 

 ホルスターからずるりと引き抜かれたのは、シスネの手には余る大型の短銃。カクトの共喰魔女の躰を一撃で貫通せしめた、大短銃だ。おそらくは特注品であろうそれなら、あの魔女にも手傷ぐらいは負わせられるだろうか。

 

「頼もしいな。弾は何発ある?」

「喜んでください。あと一発です」

「それは良かった」

 

 この状況で皮肉を口にするあたり、シスネも半ば自棄になっているのかもしれない。それはレーベンも同じことだ。

 とにかく、これで手札は出揃った。有効打となり得るとすれば、機械剣による攻撃が二回、大短銃による攻撃が一回、そんなところだ。しくじれば勿論、後は無い。

 

『なんで、どうしてよ』

 

 レーベンが覚悟を決めるのを待っていたかのように、魔女がこちらを見下ろす。目どころか頭すら無いが、そのような動きをしたように見えた。

 

「来るぞ、来るぞ」

「ミラ、手を離さないで」

「う、うん」

 

『どうして――!』

 

「走れ!」

「走って!」

 

 その巨大な両腕が、ついに振り下ろされる。小細工など何も無い、特異な力などでもない。ただ巨大で、ただ重く、ただ強い。大質量による純然たる「力」が、大木を冗談のように薙ぎ倒した。

 だがそれで終わりではない。今の攻撃ですら片腕による打撃でしかない。あの魔女には四肢があり、その全てが同等の破壊力を有しているのだ。

 破壊。破壊につぐ破壊。右腕が、左腕が、右脚が、左脚が、大木を、大岩を破壊しつくしていく。もはや魔女とすら呼べない。それはまさに災害そのものだった。

 

「どうするんですかっ! どうするのアレ!」

「俺が知るかぁ!」

 

 背後から迫る破壊から全力で逃げつつ、破壊音にも負けないような大声が飛び交う。当然ながら素の口調であった。

 暗い森の中、下手をすれば木に正面衝突しかねないが、だからといって足を止めればそれでも死ぬ。月明りと直感だけを頼りに、ひたすら森の中を駆けまわる。だが徐々に巨大な影が月明りを遮りはじめる。巨大な足音が背後まで迫っていた。

 

「そっちはだめ!」

 

 いつの間にかレーベンが抱きかかえていたミラが叫んだ。いったい何がどう駄目なのか、考える余裕も、他に走る道も、そして時間も無い。あっという間に垂直の山肌、つまりは行き止まりに突き当たってしまった。

 

「だめだってば!」

「そんな!」

「戻れ戻れ戻れ!」

 

 反転して逆走。当然すぐ前に魔女が迫っており、その巨大な足が今まさににレーベン達を、

 

「くぐれ!」

 

 巨大な影の真下に月明りは届かず、闇と同化した魔女の躰もほとんど見えない。だが目を凝らす間もなくただただ直感と勢いだけでとにかく前に体を投げ出した。すぐ傍で地鳴りのような足音とシスネかミラの甲高い悲鳴が耳を貫く。

 転がり、回る視界の中で、一瞬だけ夜空を見上げる。輝く満月を背景にして、()()()()()

 

「――――!」

 

 極限状態の集中が生み出した時間の停滞。その中で針先ほどの突破口を見つけ、すぐに時間が元の流れを取り戻す。

 

「貴公! おい! シスネ!」

「なんですか!」

 

 先程まで必死で走った道を今度は逆に走る。だが走る方向が逆になっただけで、事態は何ひとつ好転していない。体力も無限にある訳ではない、いつか追いつかれる。勝負に出なければならないのだ。

 

「頭だ! 魔女の頭に頭があった!」

「何言ってるんですか!?」

 

 あの瞬間、魔女の躰の頂点に頭が見えたのだ。巨体に比べれば豆粒のように小さな頭が。

 

「頭を潰す! その銃で撃て!」

 

 ハッと気付いたようにシスネが大短銃を見る。そして、未だ背後で大暴れしながら追いかけてくる巨大な影を見て、

 

「できるわけないでしょう馬鹿ぁ!」

 

 正論であった。狙撃用でもない銃で、あの高い位置にある小さな頭を一発で仕留める。しかもこちらは逃げながら、相手は暴れながらだ。英雄譚でももう少しまともな奇跡を起こしそうなものである。百回も挑戦すれば一回は当たるかもしれないが、残りの弾薬は一発しか無かった。残りの命もだ。

 もっと策がいる。せめて魔女の動きを止めるか、あるいは頭を下げさせるような策が。必死に足と頭を動かし、だが策が浮かぶ前に銃声が響いた。

 

「ミルス!」

 

 もしや自棄になったシスネが発砲したのかと思ったが、濡れ衣であった。どうやらこちらを追ってきていたらしいユアンが、空に向かって長銃を放ったのだ。その音に気を引かれたのか、魔女の進行方向が変わる。

 

「戻りなさいミルス! 良い子だから!」

 

 ――くそが!

 

 内心だけで悪態をつき、今度は逆に魔女を追う。魔女が彼に向かっているのは、決して父の言葉に従ったからではない。ただ別の獲物に目移りしただけのことだ。魔女に言葉など届くはずもないのだから。だが未だ現実が見えていないあの男にも、どれ程の言葉が届くというのか。

 レーベンの脳裏に、酷薄な考えが首を(もた)げた。

 

 ……助けるのは無理ではないか

 ……あの男はもう駄目だ

 ……このまま、いっそ

 

「お父さん!」

 

 腕の中のミラが叫ぶ。

 

「くそが!」

 

 直に悪態をつき、シスネにミラを押し付け、かわりに腰の短銃を抜き取る。何か叫んでいるシスネの声を無視し、魔女の巨体に向かって六度発砲した。あの巨大な的に外す気はしないが、だからといって効いた気もしない。現に魔女の巨体は一切動じず、ただレーベンの方に向き直っただけであった。だがそれで良い。

 ボン、と。魔女の胸のあたりで炎が咲く。頭を狙って投げた焼夷弾だが、そう上手くはいかなかった。

 

『なあぁっ、なんで! なんで!』

 

 魔女は炎に弱い。あの魔女も例外ではなかったようだが、大きさがまるで異なる。炎だけで致命傷を与えるなら焼夷弾があと三十個は欲しいところだが、今使ったのが最後の一個だ。

 子供じみた動きで炎を叩く魔女を後目に退散する。未だ攻勢には出られず、虎の子の焼夷弾もほぼ無駄にした。状況は悪くなる一方であった。

 

 

 ◆

 

 

「ミラ! 無事か!」

「お父さん!」

 

 ユアンと合流して更に走り、魔女の巨影も見えなくなった山肌の陰でようやく足を止める。シスネが抱えていたミラを下ろすと、すぐに父親の元へと駆け寄った。

 レーベンはもう息切れで喋る気力も無い。シスネに至っては地面にへたり込んでしまっている。無言で短銃を返すと、やはり無言でそれを受け取った彼女は薬莢だけを捨ててホルスターへと戻した。もう弾薬が無いのだろう。

 とにかく武器が足りない。レーベンの目が、ユアンの手の長銃に留まる。

 

「貴公、それを貸し……いや返してくれ」

「なんだと」

 

 そもそも彼の持つ長銃は教会の武器だ。どうやって手に入れたのかは知らないが、それはこの際どうでも良い。

 

「あの魔女を狩るんだ。それが要る」

「あの子は殺させんぞ!」

 

 一瞬で逆上したユアンがレーベンの頭に長銃を向け、引き金が弾かれるより先にレーベンの手が銃身を掴んだ。森の中に銃声が響く。

 

「……ああ、くそが」

 

 やはり装填されていたのは散弾だった。力ずくで銃口を上に向けさせたが、散弾のいくつかがレーベンの頭を掠めていた。垂れてきた血が目に沁みる。だが目は閉じずに、ユアンの血走った目を見返す。

 

「なあ、貴公も見ただろう。アレのどこが人間だ。どう見ても化物じゃないか」

「黙れ」

「アレはもう貴公の娘じゃない。彼女はもう死んだ。死んだんだ」

「黙れ」

「アレは魔女だ。狩るべき敵なんだ」

「黙れぇ!」

 

 叫びと共にユアンの蹴りが腹に突き刺さる。疲労で反応が遅れ、地面に蹴り倒されてしまった。更に運悪く岩に後頭部を打ち付けて意識が飛び、暗くなった視界の中でレバーを引く金属音を聞いた。

 

「やめて!」

 

 甲高い声と銃声は同時。閉じようとする瞼を気合いでこじ開け、後ろからシスネに羽交い絞めされているユアンが暴れていた。羨ましい、などと場違いな思考が一瞬だけ頭を過る。

 

「いい加減にして! こんな事をしている場合ですか!」

「うるさい! 放せ!」

「このままじゃみんな死ぬ! ミラだって!」

「うるさい……っ!」

 

 娘の名に、ほんの僅かにユアンの顔が悲痛そうに歪んだ。だがそれも一瞬のこと、すぐに激情に塗りつぶされた顔でシスネを振り払う。

 

「うるさいうるさいうるさいっ! もうお前らの言う事なんて聞くものか!」

 

 癇癪を起こした子供のように叫び散らしながら長銃のレバーを引く。その目に見えるのはもう、レーベン達への敵意と、そして。

 

「何が聖女だ! 何が騎士だ! この人殺し共が!」

 

 ユアンの目に、レーベンは狂気を見た。

 きっとこの男も、かつては良い父親だったのだろう。そうでなければミラもあそこまで心を許してはいない。その彼を、いったい何がここまで変えてしまったのか。

 

「お前たちはそうやって――」

 

 彼を変えたのは。

 

 

「俺の女房も殺したじゃないか!」

 

 

 いったい、何だったのか。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ひとでなし

 一度だけなら、耐えられたのだ。

 

 

 

 ユアンという男は、どこまでも平凡な男だった。

 聖都からも旧聖都からも遠く離れた辺境の村。つまりは田舎に生まれ、そこで人並の幸福と不幸を甘受しながら、ただ平凡に生きてきた。

 平凡に成長し、平凡に働き、平凡に恋をし、同じく平凡な女と結ばれた。

 だがその平凡な女は、ユアンにとってどんな聖女よりも美しい妻であった。彼女の手料理より美味いものなど知らなかったし、彼女との間に授かった二人の娘より愛らしい存在などこの世にいなかった。

 ユアンという男は、たしかに幸せだったのだ。

 

 

 

 ある日、妻が魔女となった。

 いつものように妻と娘に見送られながら働きに行き、いつものように家に帰ると、妻は見たことのない化物に変わっていた。

 何が起こったのか。なぜ妻が魔女になったのか。何も分からなかった。

 何も分からないまま、妻だった魔女が村人を殺す様を見ていた。

 何も分からないまま、妻だった魔女が聖女と騎士に殺される様を見ていた。

 心中お察しする。誠に残念なことだった。だが貴方とお子さんは生きていた。不幸中の幸い。女神の導きのあらんことを。そんなことを言って、連中は去っていった。

 村人たちは泣いていた。妻に殺された村人の死を悼んで、そして妻の死を喜んで、泣いていた。

 だれも、妻の死を悼んではいなかった。みんな、妻の死を喜んでいた。

 もう、何も分からなかった。

 

 

 

 ユアンが悲しみと絶望の底から這いあがるまでに、一年の時を要した。その間、家に閉じこもり、酒に溺れ、自暴自棄になって、ただ生きていた。

 上の娘――ミルスには、本当に苦労をかけた。穀潰しの父親に代わって、毎日働いていた。いなくなった母親に代わって、幼い妹の世話をしていた。こんなどうしようもない、父親とも呼べない男にも優しく笑いかけてくれた。

 その笑顔は、妻にとてもよく似ていて。

 少しずつ、少しずつ、ユアンは力を取り戻していった。ただ悲しみが風化しただけかもしれない。ただ酒で忘れただけかもしれない。

 だがそれでも、ユアンという男は、再び立ち上がったのだ。

 

 

 

 ユアンは働いた。今までの自分を振り払うように働いた。すべては娘たちの為。ミルスとミラ、二人の娘たちの幸せの為。苦労をかけた分、もっと美味いものを食べさせて、もっと綺麗な服を着せて、もっと愛情を注いで。

 そしていつか、娘たちが自分の家族を得たら、それを笑って送り出そう。思い出の中の妻と笑いあって、娘たちの家族に囲まれて、老いて死のう。

 それで良い。それが良いのだ。それがユアンという平凡な男の、ちっぽけな幸せ。

 ひとつの大きな苦難を乗り越えた。それがユアンの小さな誇りだったのだ。

 

 

 

 ある日、娘が魔女となった。

 

 

 

 一度だけなら、耐えられたのだ。

 一度だけなら、乗り越えられたのだ。

 二度はもう、無理だった。

 

 

 ◆

 

 

 狂い叫ぶユアンの言葉を、レーベンとシスネはただ聞いていた。

 家族の魔女化という、この国ではありふれた悲劇。それは一度ならず二度までも、ユアンから幸せを奪っていった。

 そしてユアンは全てを捨て、全てを拒絶してこの森の奥へと逃げ込んだ。魔女となったミルスを洞窟に閉じ込め、ミラとただ二人、ここでひっそりと生きていたのだ。

 二年間、ずっと。

 

「出ていけ」

 

 半狂乱で叫んでいたほんの数秒後に、ひどく冷めた声でユアンが言う。その急激な落差は、彼が半ば狂気の中にある証左でもあった。

 

「出ていけ、ここは俺達の家だ」

 

 そう言って、また長銃をレーベンの眼前に向ける。引き金を弾かないのは、彼の最後に残された理性のせいだろうか。

 

「あの子は殺させん。出ていかないなら、殺してやる」

 

 

 

「そうかい」

 

 自分でも意外なほど、冷えた声が出た。

 そのレーベンの声に、シスネが俯いていた顔を上げ、ミラが怯えたように父親の足にしがみつく。ユアンはただ、レーベンを睨み据えていた。その濁り切った目を、正面から見返す。

 

「なら、もう止めんよ」

 

 レーベンにユアンの苦しみなど分からない。何故ならレーベンに家族はおらず、故に家族が魔女となる苦しみなど知りようもない。そんなレーベンの薄っぺらな言葉など、何の意味も成さないのだろう。

 説得はできないのだ。ならば。

 

「だがな」

 

 レーベンは短剣を抜いた。あの巨大な魔女には何ら役に立たず、だが人の一人なら容易に殺害せしめる凶器を。

 

「それでも俺は、あの魔女を狩るんだ」

 

 魔女。その言葉に、再びユアンの目に激情が宿る。

 

「魔女じゃない、ミルスだ! あの子は俺の娘だ!」

 

 レーベンの言葉はユアンに届かない。そしてそれは逆でも同じことだ。元よりユアンの言葉も、その幸福も不幸も、レーベンには理解できないのだから。

 だがアレは魔女で、己は騎士で、そしてこの父娘(ふたり)はもう敵なのだ。それだけは理解できる。

 

「俺はアレを殺す。邪魔するなら貴公(あんた)達も殺す。文句があるなら止めてみろ」

 

 

 

 ユアンの背後に忍び寄っていたシスネが、その首に中和剤を打ち込んだ。

 少なからず鎮静作用もあるそれは、耐性の無いユアンには効果覿面(てきめん)だったようだ。すぐに気を失って地面に倒れ、手から零れた長銃をシスネが素早く回収する。

 

「お父さん!?」

「ごめんね。大丈夫、寝ているだけだから」

 

 血相を変えて父親を揺り起こそうとするミラの手を止め、優しげな声とは裏腹に鋭い瞳をレーベンの手元に向けてくる。視線に気付いたレーベンは短剣を背に隠した。

 

「ミラ、よく聞いて」

 

 屈みこんでミラの肩に両手を置きながら、シスネは黒い瞳でミラを見上げる。ミラも不安げに瞳を揺らしながらも、目を逸らそうとはしなかった。

 

「お父さんのことは、好き?」

 

 こくり、とミラは頷いた。何故そんな当たり前のことを聞くのか分からないと、そんな疑問すら抱いていそうな顔だった。

 

「お姉さんのことは?」

 

 今度は、ほんの一瞬だけ間があった。だがそれでも、ミラは頷いた。

 

「聖女のことは、嫌い?」

 

 ぎゅう、とミラが唇を噛んだ。それは少女のたどたどしい言葉よりも雄弁に、その心情を物語っていた。

 二年間。大の大人であっても決して短くはない時間だ。この幼い少女にとっては、もはや半生と言って良い。その間、例えユアンにそのつもりが無くとも、彼の教会に対する不信と憎悪はミラにも伝播していったのだろう。

 母を殺め、父と姉と自分をこの森に追いやった仇。それがミラにとっての聖女であり騎士なのだ。

 

「……そう。そうだよね」

 

 シスネが頭を垂れ、解けていた白髪もはらはらと地面に垂れる。その髪に付いていた枯れ葉を、ミラの手が摘まんで落とした。

 

「私もね、そこの騎士さんのことは嫌いなんだ」

「おい」

 

 思わず抗議の声が漏れた。何故いきなりそこでレーベンの話になるのか。しかもまた嫌いだと言われた。非常に傷つく思いである。

 

「でもね、気持ちは同じなの」

 

 そう続けて、シスネもまたミラのように唇を噛んだ。言いたくないことを言おうとするように。

 

「私も、あの魔女を、……ミラのお姉さんを、狩るよ」

「――っ!」

 

 表情に乏しかったミラが、はじめて顔を歪めた。歪めて、腰帯に差していた短銃を小さな手で掴む。

 

「あっ!?」

 

 だがその短銃は、次の瞬間にはシスネの手にあった。目を見張るような早業、ミラの手は引き金にかけた指もそのままに固まっていた。そのまま弾倉を開くと、全弾が込められているのがレーベンからも見える。

 武器を失くしたミラの顔は怯えの一色に染まっていた。後退ろうとする少女の手をシスネが掴み、ミラの喉からひゅっと音が漏れる。

 シスネの黒い瞳とミラの大きな瞳が交差し、そしてシスネは短銃を再びミラの手に握らせた。

 

「え……」

「ミラはここにいて。あなたがお父さんを守るの、いい?」

「う、うん」

 

「いい子」と、伸びっ放しの髪を撫で、シスネも立ち上がる。長銃を手に立ち去るシスネを追って、レーベンも足早にその場を後にした。

 

 

 

 暗い森を無言で進む。沈黙に耐えかねたレーベンは前を歩くシスネに声をかけた。何故か、そういう気分だった。

 

「上手いものだな」

 

 レーベンを囮にしてユアンの背後に忍び寄る冷静さも、中和剤で無力化する機転も、ミラを体よく丸めこむ話術も、レーベンには無いものだ。皮肉ではなく本心からの言葉だったが、シスネは皮肉と受け取ったらしい。

 

「あなた程ではありませんが」

「そう言ってくれるなよ。これでも自信を失くしそうなんだ」

 

 レーベンがしたことと言えば、ただの力押しだ。刃と暴力をちらつかせて、それでユアン達が引き下がるならそれで良し。だがそうでなかったのなら、その時は――。

 

「……脅しでも、あんなことを言うのは感心しません」

 

 足を止めたシスネが、正面からレーベンを見返す。その黒い瞳は、今まで見た中でもっとも厳しい光を放っているように見えた。

「脅しではなかった」そう言おうとして、口を噤む。「脅しだったということにしておいてやる」と、そういうシスネの気遣いなのではないか。特に根拠もないというのに、何故かレーベンにはそう思えた。

 

「……誠に申し訳なかった」

「二度としないでください。いいですね」

 

 声もなく頷くと、踵を返したシスネが再び歩き出す。その細い背中を見ながら、己に姉というものがいたらこのような感じなのだろうか、などと。そんなことをレーベンは考えた。

 

 

 ◆

 

 

『どうして、どうしてよ』

『なぜ、なんで』

『なんでなの』

 

 地鳴りのような足音の合間に、歪んだ少女の声が木々の上から響いている。巨大な影がゆっくりと森を歩く様を、木の陰からレーベンは眺めていた。

 ミルス。ユアンの娘。ミラの姉。魔女。

 不運な娘だとは思う。母が魔女となって幸せは崩れ去り、壊れかけの家族を必死に支え、ようやく元の形に近付けたかと思えば、最後は自分自身が魔女となってしまった。何故だ、どうしてだと繰り返されるその問いはもっともな物なのだろう。この世の全てを憎んでいたとしても何らおかしくはない。

 運の無い、哀れな少女なのだ。

 

「……悪名高きジャック・ドゥは言った。“構うものか――」

 

 ――構うものか。殺してしまえ

 ――目を閉じろ。頭を凍らせてから、もう一度ようく見るが良い

 ――アレのどこが、人間だ?

 

 月夜の森に、銃声が木霊する。

 魔女の声が途絶え、重い足音がこちらを向いたのが目を閉じていても分かる。空に向けた長銃を下ろしながら、かの悪騎士の言葉通りに頭の芯を凍らせ、レーベンは灰色の目を開いた。

 

「……でかいな」

 

 最初と同じ感想が口から零れた。大きい。あまりにも大きすぎる。木々よりも背の高い人間など、この世にいるはずもない。そうだとも、アレのどこが――。

 

『お姉ちゃん!』

『あなたは、人を殺めたことは、ありますか』

『何が聖女だ! 何が騎士だ! この人殺し共が!』

『なんで、どうして』

 

 ガチン、と。最後の炸裂弾を機械剣に装填する。それを背に戻し、手に長銃を提げ、レーベンは魔女と対峙した。

 

「構うものか」

 

 もう全て遅すぎるのだ。

 ミルスはもう魔女となり、二度と人には戻れない。

 この森に隠れ潜んでいた家族は、レーベン達に暴かれた。

 魔女は洞窟から脱し、もう止まることはない。

 己は騎士であり、今まで何体(なんにん)もの魔女(おんな)狩って(ころして)きた。

 今更、何を躊躇うのだ。

 

「殺して、しまえ」

 

 誰に見せることもなく、レーベンは笑った。

 上手く笑えたと。そう思った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

英雄ではなくとも

 とは言ったものの、レーベンにできることはそう多くない。機械剣の一撃がいかに強力であろうとも、あの魔女の大きさでは足を斬りつけるだけで精一杯だ。仮に足を潰せたとして、それだけで魔女が死ぬわけもない。本来の騎士であれば木々の間を跳び回るだの魔女の躰を駆けあがるだの出来たかもしれないが、生憎ここにいるのはただの騎士擬き(レーベン)であった。

 

『どうして! どうして!』

 

 歪んだ少女の声で癇癪を起こしながら、まさに駄々をこねるかのように魔女の巨体が暴れ始めた。ただそれだけで木が次々と圧し折れ、岩が粉砕され、抉られた地面の土砂が(つぶて)となってレーベンに襲い掛かる。

 

「すこしは、加減したまえよ……っ」

 

 もう既に三度は死にそうであった。荒れ狂う嵐の前に生身で立つが如き自殺行為。だがそうでもしなければあの魔女は狩れないのだ。ただひたすら、木屑と石片と泥土を浴びせられながら目的地に向かって走る。

 

「っ!」

 

 頭上に影がかかる。前へ前へと進み続けていた体を急停止させ、振り返る間も惜しくただ仰向けになるようにして後ろへ跳んだ。その眼前を、魔女の巨大な足が通り過ぎていく。なんとか受け身をとると同時に、地鳴りそのものな足音が響いた。

 休んでいる間も無い。頭に被ってきた外套を撥ね退け、痛む肺も無視して再び走り出す。魔女の足を通り抜け、だが後ろから足音は追ってこなかった。

 見れば、魔女は辺りを見回すような動きをしている。どうやら見失ったらしい。レーベンの黒髪と黒い外套は闇夜にとけ込むようで、あの魔女にとっては膝までも届かないようなこちらを見失うのは仕方のないことではあった。本来であれば絶好の機。だが今は違う。

 

「こっちだ!」

 

 大声を張りあげ、更に長銃を放つ。寸胴な胴体に散弾が余さず着弾するが、やはりまるで効いてはいない。だがこちらを向かせる効果はあったようだ。

 

『なんで! なんでなの!』

 

 再び始まる嵐との追いかけっこ。何故このようなことをと問われれば、それは勿論「仕掛け」の場所まで魔女をおびき寄せる為である。

 遠くに、小さな火の灯りが見えていた。

 

 

 

 目印のランタンが吊るされた大木。森の中で見つけた一際大きなその木が、レーベン達の選んだ仕掛けの要だった。

 

「は……っ、はぁ……っ」

 

 その大木に手を付き、乱れに乱れた呼吸を整える。なんとか命からがら、ここまで魔女を誘導することができた。これでようやく第一段階が完了である。そう、まだ始まったばかりなのだ。

 

「はあ……、は――、」

 

 呼吸を鎮め、集中する。

 ここから先は一発勝負。更に勝負は一瞬で決まる。博打も良いところだが、細かな作戦も仕掛けも用意する余裕は無かった。元より、そういった硝子(ガラス)細工のような策は実戦で役に立たないとレーベンは考えている。何事もそう上手くはいかないのだ。特にレーベンは。

 ならば後は臨機応変。シスネに言わせれば行き当たりばったり。生と死の一線だけを見極め、後はすべて出た所勝負。そんな風にしてレーベンは魔女を狩ってきた。

 

『なぜ、なぜ、なぜ』

 

 引き離してきた魔女が追いついてきた。一歩一歩進む度に揺れる地面が、残り時間を示しているようだった。

 レーベンは無言で武器を握る。右手に機械剣、左手に長銃。やることは単純、とにかく足を止める。だがその具体的な方法は今になっても明瞭には浮かんでこなかった。だからこそ両手に武器を握り、切られる手札を増やしておく。

 魔女が近付く。レーベンは動かない。

 魔女が近付く。レーベンはまだ動かない。

 魔女が近付く。そろそろか、否まだ遠いか。

 魔女が近付く。もうすぐそこ。

 魔女が近付く。行けよ臆病者。

 

『なんで――』

 

 巨大な右足がレーベンを踏みつぶす刹那、地を這うようにレーベンは駆けだした。

 足を潰す。だが潰せるのは一本だけ。どっちだ。どっちを潰す。

 右か、左か。軸足か、その逆か。近い方か! 遠い方か!

 

「――」

 

 半分ほどが空白となりつつある頭が選んだのは、魔女の左足だった。理由など分からない。あるいは、どちらでも良かったのかもしれない。機械剣を振り上げ、引き金に指をかける。

 

 だがその瞬間、右腕に痛みが走った。

 

 忘れていた。レーベンの右腕は負傷している。カクトの共喰魔女に貫かれ、シスネの荒療治を受けてから二日も経っていない。

 そして思い出す。炸裂弾を用いた機械剣の威力、その衝撃。破壊力の代償として、その刃は暴れ馬そのもの。

 その刃を、この右腕で御せるのか? 強化剤も無いのに?

 当てられるのか? 外せば後は無いというのに?

 外せば皆、死ぬ。レーベンも、ユアンもミラも、そしてシスネも。

 レーベン(おまえ)に、それが出来るというのか。

 

「――」

 

 これが英雄譚であったのなら、出来るだろう。レーベンが英雄であったなら。

 だがこれは現実で、例え物語であったとしても、きっとレーベンは英雄の役ではない。それはレーベン自身が嫌というほど知っている。

 

「――」

 

 だから。だから。

 ほんの刹那に、レーベンは考える。英雄でない己にも、平凡な騎士ですらない己でも出来る、もっと確実な方法を。

 刃を御せないと、いうのなら。

 

「――――!」

 

 左手の長銃を魔女の足首に押し当てる。発砲。飛び散る泥。動じない魔女。

 右手の機械剣を振り上げる。だが引き金はまだ弾かない。

 長銃を投げ捨て、両手で握った機械剣で狙いを澄ませる。

 ぞぶり、と。長銃で穿った足首に機械剣の刀身を突き刺す。深く、深く、刃が全て埋まるまで。

 

『あぁ、がっ』

 

 魔女の悲鳴。レーベンの笑み。

 

 ――あぁ、()()()()()()()

 

 引き金が弾かれ、柄に装填された炸裂弾が中で弾ける。複雑怪奇な機構がその衝撃と炎を余すことなく刀身に伝え、峰から爆炎を、そして刀身から破壊の衝撃を解き放った。

 

『あがぁ――っ!』

「ぬあぁ……っ!」

 

 魔女が叫び、その足首に埋まった機械剣が炸裂した炎で内側から焼き尽くし、振動する刃が固い泥を斬り裂き、斬り裂いて、そしてついに魔女の躰から飛び出した。そのまま勢い余り、大木の幹に刃をめり込ませる。

 

『な、んでぇ――』

 

 魔女の足を断つことは出来なかったが、その左足首は半分程が抉られていた。レーベンにはこれが精一杯。だが充分だ。

 ぐらりと、魔女の巨体が傾ぐ。大木の根本に倒れたレーベンを巨大な影が覆い、それに押し潰される前にレーベンは叫んだ。

 

「シスネ――――ッ!」

 

 あとは聖女にお任せである。

 

 

 ※

 

 

 魔女はその巨体の膝をつかせた。巨大な質量が地に落ち、森の木々がグラグラと軋む。倒れる寸前に眼前にあった木にしがみつき、巨体をなんとか支え、動きを止めた。

 

『なんでなの』

 

 その直後、頭上で何かがガサガサと枝葉を揺らした。反射的に頭を上げ、同時に何枚もの葉が顔に落ちてくる。そして葉よりも幾分は重い何かが、躰の上に降り立った。

 

『なぜ――』

 

 煌々と輝く満月。それを背にして、細い人影が魔女を見下ろしていた。

 夜風に靡く白い髪は月光に照らされて、青白い光を放つ。

 その中で、夜空よりも黒い瞳と目が合って。

 

「――――のあらんことを!」

 

 炸裂した炎が、視界をいっぱいに塗りつぶした。

 

 

 ◆

 

 

 女神の導きのあらんことを。祈りの叫びと共に轟音が響き、己を押し潰す寸前で止まっていた魔女の躰が震えた。今度こそ潰されてはたまらないと這いだし、だが更に頭上から不吉な声が響く。

 

「うわ、あ、……きゃあ――!」

 

 悲鳴と共に何かが落ちてきて、それが何かなど考えるまでもなく両手を広げ、そして今度こそレーベンは押し潰された。

 

「あぅ――っ!」

「ぐぁ――っ!」

 

 枯れ葉が積もった柔らかい地面と、固いとも柔らかいともつかない何かに挟まれ、レーベンの胸の中で何かが軋んだ音を聞く。胸当てが無ければ骨折していた。

 

「い、た……」

 

 レーベンの上で体を起こした何か――シスネは打ち付けたらしい腰か尻を撫でている。胸当ての上に乗るそれが今にも己の顔にずり落ちてきそうで、レーベンはなんとか声をあげた。

 

「どいでぐれ、重い……」

「……重いって言わないでください」

 

「刺しますよ」と低い声と共に見下ろされてレーベンは震えあがる思いである。もう既に刺されるのと同じ程にひどいことになっているが。先に立ち上がったシスネに手を引かれて上体を起こし、だがもう立ち上がる気力も無い。ただ倒れ伏した魔女の躰を眺めながら十数える。

 シスネと共に立てた作戦はこうだ。

 なるべく高い木を選び、その上に予めシスネが登って待機する。レーベンがそこまで魔女を誘導し、なんとかして魔女の動きを止める。ユアン達の小屋から調達してきたロープを伝ってシスネが魔女に取り付き、大短銃でその頭を撃ち抜く。

 作戦とも呼べない穴だらけの作戦に、仕掛けとも呼べない杜撰(ずさん)な仕掛け。だが元より人手も武器も時間も何もかもが足りない。切れる手札と、英雄ではない己でも出来そうな手段をなんとか捻りだした結果であった。

 

「コルネイユのようにはいかんな」

 

 十数えても巨大な躰は動きださず、レーベンはぼそりと独りごちた。

 コルネイユは最初の騎士たちの中でも特に人気が高く、その活躍を綴った作品は数多い。大騎士の名は伊達ではなく、騎士の中の騎士であったと、そう謳われるほどだ。彼ならば、レーベンなどよりもっと鮮やかな勝利を見せただろう。

 

「当然です。人体とは重いものですから。聖性の助けも無しにあんな、聖女を抱えたまま飛んだり跳ねたり出来るわけないでしょう。英雄譚の読みすぎですよ。それに彼の女癖の悪さです。誇張されてはいるでしょうが、九股など女の敵などというものではありません、九回刺されても文句は言えないでしょうに」

「そ、そうか」

 

 レーベンは単にかの大騎士の武勇を指して言ったつもりだったが、どうやらシスネは彼女の体を受け止められなかったことを言ったと勘違いしたらしい。先ほどの静かに怒った顔といい、案外気にしているのかもしれない。

 なお、彼女の言う通りコルネイユの女癖の悪さは尋常ではなかったという。九人の恋人との逢瀬(デート)が重複してしまい、その全てを同時進行させようとして当時の聖都(ポエニス)を東奔西走した伝説を知らない者はいないだろう。英雄色を好むとは、まさに彼のことである。

 閑話休題。

 

「魔女は狩れたのだから、良しとしてくれ」

「まあ、良いでしょう」

 

 シスネと他愛のない話をしている間も魔女の躰からは目を離さなかったが、動き出す気配は無い。ようやく緊張から開放され、どっと疲れが押し寄せてくる。思えば、カクトでの魔女狩りから一日挟んでの大仕事だった。最初は偵察のみの予定だったというのに、何故こうなってしまったのか。

 思わず寝てしまいそうになるレーベンの肩を、白い手が揺り起こした。

 

「起きてください! まだ終わっていませんよ」

「そうだった」

 

 魔女は狩ったが、仕事はまだ終わっていない。ユアンとミラ、あの二人をこのまま放っておく訳にはいかないのだ。良い意味でも、悪い意味でも。

 

「あぁ嫌になるな。気が重い」

「同感です」

 

 座ったままで、木の幹にめり込んでいた機械剣を引っこ抜く。勢い余って後ろに転び、仰向けになった視界にシスネの呆れ顔が映った。ゆるゆると頭を振ってから、こちらに手を出してくる。

 自然とその手を取り、また自然に肩を貸してくれるシスネに凭れながら歩き出す。何の疑問も抱かずそんな体勢になっていることに気付いたのは、何歩か歩いた後でのことだった。

 

「……ありがとうございました」

 

 何の事かと顔を向ければ、思いのほか近い位置にシスネの横顔が見えて、慌てて視線を前に戻す。こうして肩を貸してもらっている以上、礼を言うのはこちらの方であるはずだが。

 

「受け止め……下敷きになってくれて」

「あ、あぁ」

 

 その事かと、思わず胸当てを撫でる。だがその感触に違和感を覚え、更に思わず口に出してしまった。

 

「胸当てがへこんだ」

「重くて悪かったですねっ!」

 

 

 

 

 

 

『どう、して』

 

 背後から聞こえた声と、総毛だつ悪寒にシスネを突き飛ばす。間髪入れずに振り返り、だが次の瞬間には仰向けに倒されていた。

 

「あっ!?」

「が……っ!」

 

 シスネの悲鳴とレーベンの呻きはほぼ同時。地面に倒れたのも同時。それ程の速さ。

 

『なん、でよ』

 

 レーベンの顔に、冷たい泥の飛沫が落ちる。夜空と満月を背にした魔女の顔があった。半ば泥に覆われ、その隙間から覗く虚ろな視線がレーベンを見下ろす。

 躰を起こした魔女が胸の前で両手を組む。祈るように。だがその手は頭上に掲げられ、槌と化したそれはレーベンの顔面に振り下ろされようとしていた。

 銃声。

 

「な……っ」

 

 呆然としたシスネの声が遅れて聞こえた。更に遅れて、己を押し倒していた重みが無くなっていることに気付く。弾かれるように立ち上がると、三つに割れた胸当てだった物が足元に散らばった。

 

「見えたか?」

「無理です」

 

 硝煙が立つ銃口を魔女に向けたまま、震えを帯びた声でシスネが答える。

 魔女は、十歩は離れた岩の上に立っていた。この一瞬でだ。なんという速さか。

 

『なんで、どうして、なんで』

 

 ぼたり、ぼたりと、魔女の顔から泥が落ちていく。魔女もまた涙を拭うように顔を擦り、遂にはその相貌が露わになった。まだ幼さを残した少女の顔。その顔立ちは、ミラによく似ていた。

 月明りに照らされた肌は死体のように青白い。その身に纏う平服だったであろう衣は黒い泥に塗れ、荒みきった喪服のようでもあった。ミラと同じ亜麻色の髪が夜風に揺れている。

 人の面影を残すなどというものではない。もはや少女の姿そのものの魔女がそこにいた。

 

「すみません……しくじったようですね」

「気にするな」

 

 魔女は常識外の存在。頭を潰されても死ぬとは限らない。あるいは、あの異常な速さで避けたのかもしれない。頭部に見えていた小さな頭は、全身があの巨体に埋もれていたに過ぎなかったのだろう。どちらにせよ、予想など出来るはずもない。

 レーベンが英雄ではないように、シスネもまたそうではないのだ。

 

「弾は」

「あと、三発」

「どうしたものかな」

 

 残る武器は、機械剣と短剣と手斧。シスネは短銃一丁と短剣が二本。それで全てだ。だが機械剣の燃料は尽き、ただの両手剣でしかない。シスネの大短銃は弾切れ、短銃も残り三発。先ほど放り捨てた長銃を探すが見当たらない。魔女が「脱ぎ捨てた」巨体に埋もれてしまったのか。

 元より武器が不足した中で絞り出したというのに、未だ魔女は健在。逃げ出したいところだが、あの俊足から逃れられるとは思えない。本当に、まったく、

 

「どうした、ものかな」

 

 だが英雄ではないレーベンの頭には、もう何も浮かびはしなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

泥沼に踠く

 策が浮かぼうが浮かぶまいが、そこに魔女はいて魔女狩りはまだ終わっていない。逃げることもできないのならば戦わなければならないのだ。例え、勝ち目が薄くとも。

 

「援護してくれ。無駄には撃つなよ」

 

 シスネの返事も待たず、ゆっくりと間合いを詰めていく。機械剣は背に、右手に手斧、左手に短剣。相手の手札が速さであることは既に分かっている。故に大振りな機械剣よりも、小振りな片手武器を選択した。

 ただ岩の上で佇む、少女の姿をした魔女に一歩ずつ近付く。それは奇しくも、昨日の夕方にあの幽霊のような何かと遭遇した時と似た状況だった。あの時は隙を作って組み伏せようとしたが幻のようにすり抜けてしまった。今回は通じるだろうか。レーベンを押し倒した時には確かな重みを感じていたが。

 レーベンが近付く。魔女は動かない。

 レーベンが近付く。魔女はまだ動かない。

 レーベンが近付く。そろそろか、否まだ遠いか。

 レーベンが近付く。もうすぐそこ。

 レーベンが近付く。やれよ臆病者。

 あの時のように手斧を振り上げる。動かなかった魔女が、ゆらりと顔を上げる。

 そのまま手斧を投げつける――ふりをして、足元の小石を蹴り上げた。狙いは過たず小石は魔女の眼前に迫る。だが魔女は瞳すら閉じず、何の威力も無いそれをただ顔に受けた。

 

 ――くそが!

 

 小細工はあっけなく失敗し、だが既に駆け出していたレーベンはもう止まれない。魔女の顔に当たった小石が地に落ちるより早く間合いを詰め、その脳天に手斧を振り下ろす。

 ばきん、と。刃が骨を打つ音と感触を捉えた。

 

「……くそが」

 

 確かに手斧は魔女の骨を打っていた。だがその骨は魔女の左手そのものであり、魔女の左手は手甲のような骨に覆われていた。つまるところ、魔女の手が手斧の刃を掴み取っていた。

 

「お――」

 

 ぶん、と視界がぶれる。ぐるぐると回る視界の中に逆さまになった魔女や眼下に広がる夜空が見え、背と頭に固い木と柔らかい地面が叩きつけられる感触を覚え、最後にようやく己が投げ飛ばされたことを知覚した。

 

「ぉ、うえ」

 

 体を起こそうとして、こみ上げてきた物を地面に吐き出す。血の混じった胃液をぶちまけてから立ち上がり、ぐらぐらと揺れる視界が再び横倒しになった。

 目の前に機械剣が転がっている。短剣はどこに行った? 手斧は、目の前の魔女が握り潰した。

 

「ご、」

 

 平手に頬を張られる。体術や拳闘などというものではない。ただ子供が我武者羅に手足を振り回すような、技の欠片もないただの力。だがその単純な力が、あまりにも強すぎた。

 骨の手甲に覆われた右拳がレーベンの全身を滅多打ちにする。同じく骨に覆われた左手がレーベンの頭を掴んで引き起こす。倒れ伏した体を、骨の足甲に覆われた両足が何度も蹴り上げた。

 力任せ。ただただ力任せ。速さなど、その力の副産物に過ぎなかったのだ。あの巨体が全てを破壊する災害ならば、今のこの魔女は全てを叩きのめす暴力そのものだった。

 付け入るならば、もうそこしかない。

 蹴り転がされた勢いを使って立ち上がり、次の瞬間には顔面に迫っていた右拳を頭を振って避ける。魔女の虚ろな目は、だが次に打とうする位置を愚直に見つめていた。それを読んだ。

 

「う、おぬあぁ――っ!」

 

 最後の気力を振り絞り、魔女の躰をすり抜けて後ろをとる。そのまま腰に両手を回して持ち上げた。だがその小さな躰は信じがたい程に重い。無理を重ねた体が悲鳴をあげ、だが放すわけにはいかない。これこそが突破口。頭上に垂らされた光の糸、その最後の一本。バタバタと打ち上げられた魚のように暴れる手足に体を打たれながらも、絶対にその足は地面に着けさせない。もう後は無いのだ。もう本当に。

 

「シ――」

「動かないで!」

 

 呼びかけるまでもなく、シスネはすぐ傍に来ていた。魔女の背に組みついたレーベンの背に更に組み付くようにして密着し、魔女の手足の届かない最短の位置から短銃を押し当てる。

 銃声が一発、二発、三発。全てが魔女の後頭部に命中した様をレーベンはまさに眼前にした。血のように噴き出す泥を顔に浴びながら、祈るように魔女を凝視し続ける。頼むから、もう死んでくれ。

 

『ど、うじで』

 

 祈りは届かなかった。

 ぐるりと魔女の頭が真後ろを向いてレーベンを見つめる。吐息が唇を舐めるような距離にある魔女の顔、その額に開いた三つの穴からは赤黒い泥が流れ落ちていた。

 ばきばきと魔女の四肢が逆方向に折れ曲がり、レーベンの胴体に巻きつく。そのまま万力のように締めあげられた。

 

『なんで、なんでなんで』

「……っ、……」

 

 もう呻きすらあげられない。それこそ魔女のように手足を逆方向に折り曲げられるまで、この締め技は続くのだろう。くしゃくしゃに丸められた紙屑のようになる己の姿を幻視しながら、レーベンは意識を手放そうとしていた。

 

「やめなさい! やめてっ!」

 

 悲鳴のようなシスネの声に意識が浮上し、同時に全身の骨が軋む激痛に内心で悲鳴をあげた。

 シスネは白い髪を振り乱しながら、魔女の胸とも背とも分からないそこに短剣を何度も突き刺している。懇願するような悲痛な声とは裏腹に悪鬼のような様相だなと、現実を放棄し始めている脳は呑気なことを考えていた。

 

「やめ――」

 

 そのシスネの姿も、一瞬で消えてなくなった。魔女の左腕であった右腕が鞭のように振るわれて彼女を弾き飛ばしたのだ。悪い冗談のような速さで吹き飛んだシスネが、遠くの木に当たって地面に転がる。その音も悲鳴もレーベンには聞こえなかった。それ程に遠い。

 

『なぜ』

 

 魔女の手足が解け、支えを失ったレーベンは地面に倒れる。狭くなり始めた視界の中で、首と手足の向きを戻しながら魔女が歩いていく。その先には、人形のように転がるシスネ。

 シスネは死んだのだろうか。否、きっと生きているのだろう。何故なら、魔女は聖女を簡単には殺さないのだから。

 

「が……っ、ぐ」

 

 立ち上がることは諦め、這って魔女を追う。ただそれだけで手足が悲鳴をあげ、動くことを拒否していた。それでも動かずには、進まずにはいられない。

 魔女に捕らえられた聖女は、拷問じみた残虐な方法で嬲り殺されるという。レーベンもそれを直に見たことは無い。ただ何度か、その死体を見たことがあるだけだ。どれも、もう二度と思い出したくはない有様だった。

 

「――!」

 

 視界の端に光る、白銀の輝き。聖銀の長銃。見失っていたそれが今になってレーベンのすぐ傍に落ちていた。這いずり、体を転がして手に取る。レバーを引いて俳莢、次弾が装填された。まだ弾はある。

 だがこの弾は散弾、撃つ()()は既に射程外だ。長銃を手にレーベンは再び這いだす。

 

『どうして、どうしてなんで』

 

 当然、魔女の方が先にシスネの元に辿りついた。しばし動かない聖女を見下ろした後で、その左腕を無造作に掴み上げる。そうまでされてもシスネは動かなかった。レーベンは全力で地面を這いずる。

 死体のように動かないシスネ。彼女が生きていると分かったのは、魔女がその背を踏みつけ、左腕を引き千切ろうとし始めてからだった。

 

「……ぅあっ!? ぁ、い゛っあああぁぁ――――っ!」

 

 痛みに覚醒させられたシスネの絶叫が響き渡る。その悲鳴が己を責めているようで、だが立ち上がることは出来ず、ただただ這いずる。

 彼女の自決指輪はたしか左手にはめられていた。あの状態では使えないだろう。短銃は弾切れ、短剣は持っているのだろうか、他の自決道具は、毒薬は。

 魔女を止められないのなら、自決できないのなら、せめてレーベンが介錯しなければならないのだ。

 撃ちたいはずもない。だがこのまま手足を一本ずつ千切られていくシスネを見ているというのか。それこそレーベンには耐えられない。

 魔女はただシスネの腕を捩じりあげ続け、シスネは叫び続け、レーベンは這い続ける。

 シスネに近付く。まだ遠い。

 シスネに近付く。まだもう少し。

 シスネに近付く。そろそろか、否まだ遠いか。

 シスネに近付く。もうすぐそこ。

 シスネに近付く。撃てよ卑怯者。

 撃て!

 

「――シス、ネ」

 

 苦悶に歪むシスネの顔に銃口を向ける。この距離ならば確実に彼女の頭を吹き飛ばせる。一瞬で、楽にしてやれるだろう。

 

「……」

 

 一瞬だけ絶叫が止み、その黒い瞳と目が合った気がして。

 レーベンは引き金を、

 

 

 

「お姉ちゃん!」

 

 甲高い声に、その場の全員が動きを止めた。レーベンも、シスネも、魔女ですら。動きを止め、声の方に首を向け、そこに立つ小さな少女の影を見る。

 

「なんで……!」

『なんで』

 

 シスネの悲痛な声と、魔女の歪んだ声は同時。

 

「お姉ちゃん……、お姉ちゃんだ!」

 

 だが少女――ミラは笑っていた。今まで見せた虚ろな無表情ではない。満面の、花が咲くような、喜色に満ち溢れた笑顔。

 無理もないだろう。今の魔女は異形などではない。ただ黒い泥に塗れた衣を纏い、白い骨の具足を着けた少女にしか見えないのだ。ましてミラにとっては二年ぶりの姉との再会。歪んだ育ち方をしてきた幼い少女に冷静な判断などできるはずもない。

 

「だめっ! 来ないで!」

「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」

 

 踏みつけられたままシスネが叫び、だがもうその声はミラには届かない。ミラの目には、ただ姉の姿しか映っていなかった。

 

「会いたかったよう……!」

 

 足元に倒れるシスネに気付いた様子もなく、ミラは魔女の腰に抱きつく。顔に泥が付いても構わず、猫のように頭を擦りつけていた。

 

『どうして』

「どうしてって、なにかすごい声が聞こえて、見に来たらお姉ちゃんがいて」

『なぜ』

「だって、お姉ちゃんだよ? もしかしてお姉ちゃんかもって、そしたら本当に……っ」

 

 成立するはずのない会話が続く。その間もシスネは叫び続け、だがミラはもう一瞥もくれない。

 

「そうだ、お姉ちゃん、これ」

 

 魔女から体を離したミラが懐を探る、取り出したのはくしゃくしゃの紙袋。シスネからミラに渡された、焼き菓子の袋だった。その中から、崩れて粉屑になった菓子を手にする。

 

「これすごくおいしいよ! お姉ちゃんにもとっておいたから!」

『なんで』

「一緒に食べたかったんだもん! だから、」

『なんで』

「……お姉ちゃん?」

『なんで、なんで、なんで』

 

 魔女の両手がミラの顔を包む。顔を上げ、そこでようやくミラは姉の額に穴が開いていることに気付いた。血のような泥がボタボタと少女の顔を汚す。

 

「ひ――っ!」

『なんで、――ばっかり』

 

 みしりと、骨の両手が少女の頭を潰そうと、

 

「おいっ!」

 

 呼びかけにこちらを向いた魔女の胸に、レーベンの長銃が火を吹いた。

 轟音と共に、魔女の胸から血と泥と肉と骨とその中身が飛び散り、間近にいた三者に降りかかる。顔にかかった血をレーベンは拭い、頭を伏せていたシスネの白い髪を泥が汚していく。

 

「おね、ちゃ」

 

 最も近くにいたミラは、その全てを全身に浴びていた。地面にへたり込み、その手に持っていた焼き菓子の残骸が、姉の残骸に塗れている様を見つめ、頭を抱えて絶叫した。

 それでも。

 

『ど、じで』

 

 それでもまだ魔女は倒れない。胸に大穴を開けられ、圧し折れた肋骨が胸の外に飛び出しても尚、未だ無事な口から歪んだ声を発し続けていた。自身の血肉に塗れて叫ぶ妹の姿に何の表情も浮かべず、再びその手をミラに伸ばす。

 その手を、震える白い手が掴んだ。

 

「ミラ! 逃げ――」

 

 全て言い終えることもなく、再びシスネが蹴り飛ばされる。水切りのように地面を跳ね転がり、だが今度は受け身を取れたらしい。木に縋りついて立ち上がり、ズタズタになった装束と左腕を垂らしながら、それでも這うように戻ってこようとする。

 魔女はそんな聖女と、足元に蹲る少女と這いつくばる騎士の姿を見比べ、ぷいと聖女に向き直った。まずは彼女を嬲り殺すつもりか。

 その足を、レーベンの手が掴んだ。

 

「……いい加減にしろよ、お前」

 

 その姿にレーベンの中で珍しく、怒りに似た感情が湧き上がった。

 あまりにしぶと過ぎる事にか、シスネを嬲ろうとした事にか、ミラを弄ぶような真似をした事にか。どれでも良い。もう何でも構わなかった。

 そうだとも、構うものか。こいつのどこが人間だ!

 

『な、げ』

 

 怒りに任せ、言うことを聞かなかった体をねじ伏せるように動かす。魔女の足を掴んで引き倒し、性懲りもなく喋り続ける口に手を突っ込んで黙らせる。

 

 ――黙れ! 死ね! 死ねよっ!

 

 その胴体に長銃を押し当て、胸に、腹に散弾をぶち込んでいく。いったい何処をどれだけ撃てば死ぬというのか。だったら死ぬまで撃ってやる!

 振るわれた魔女の腕が長銃を弾き飛ばし、ならば穿った傷口に手を突っ込む。魔女の足がレーベンを蹴り上げ、ならば口と傷口に捻じ込んだ手を離さない。

 魔女がレーベンを打ち据え、レーベンが魔女の傷を抉る。お互いに守りを考えず、ただ相手を殺すことだけを考える。己が死ぬより一秒でも先に相手が死ねばそれで良いと言わんばかりの泥沼の消耗戦は、だがやはり魔女に軍配が上がった。

 もう何度目かの蹴りにレーベンの体が遂に倒れる。意思に反して力の抜けた指先が、魔女の口と傷口から引き抜かれた。その手はもう、己の血と魔女の血と泥に塗れきっていた。

 

『どう、じ、で』

 

 何本か歯の折れた口から血と泥と歪んだ声を垂れ流す魔女が、レーベンに止めを刺すべく迫ってくる。その顔と行動に、レーベンは倒れ伏したまま口を歪めた。

 結局は狩れなかったが、注意はこちらに向けられた。後はすぐそこまで這ってきているシスネがミラを連れて逃げてくれれば良い。彼女はそうしないかもしれないが、それならそれで上手くやってほしい。どちらにせよレーベンはもう本当に指の一本も動かせない。

 もう何も出来ない。もう何も、しなくて良いのだ。

 

 ――悪いな

 

 正直なところ、シスネをこの手で殺めずに済み安堵している自分がいた。魔女を狩れず、聖女の介錯も満足に出来ないレーベンは、本当に最後まで半端者の騎士擬きだったということだ。

 眼前まで迫る魔女から目を逸らし、近くまで這ってきていたシスネと目を合わせる。黒い瞳を目に焼き付けるようにしてから、レーベンは目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 タン、と響く銃声にレーベンは目を開けた。高く澄んだ、よく通るその銃声には聞き覚えがあった。

 遅れて、魔女が倒れる。レーベン達が何をしても倒せなかった魔女が、いとも簡単に。

 森の奥に青白い炎が見えた。鬼火にも似たそれは、だが俊敏な獣のように近付いてくる。

 聖性の光は、いつだってそんな色をしていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

本物の聖女と騎士

 本来、聖女が魔女と直接に戦うことはあり得ない。そもそも聖女である前に彼女らは女性であり、どう足掻いても戦いには不向きなのだ。更に、聖性による身体強化と傷の治療は聖女自身には使えないという致命的な欠点があり、ただの生身の女が常識外の力を持つ魔女と渡り合えるはずがない。だからこそ、一人で魔女を狩ってきたというシスネは異端も良いところであり、英雄譚の中にすらそのような聖女はいなかった。

 故に、聖女たちが持つ武器は戦う為の物ではない。最低限に身を守る為の物であり、あるいは重傷を負った騎士や犠牲者を介錯する為の物であり、そして、魔女に嬲り殺される前に自決する為の物だ。

 だが稀に、それらを利用して魔女と戦う者もいる。手練れの聖女と騎士はまさに一心同体であり、その連携はいっそ狼の狩りのようで。

 そして、そんな手練れの一組をレーベンはよく知っていた。

 

『なが、あげ、ど』

 

 高い銃声が連続して鳴り響く。その度に魔女の右足から左足から血と泥が噴き出し、魔女をその場に釘付けにする。恐るべき精度、そして何より恐るべきは、その銃弾が全方位から飛んでくるということだ。

 夜の森の木々の間を、青白い光が跳び回っていた。俊足の獣に、俊敏な猛禽の翼を生やしたらあのような動きをするだろうか。距離感が狂いそうな動きと速さで、その射手は魔女の周りを旋回し続ける。

 

『なんで――!』

 

 魔女も撃たれっ放しではない。元より痛覚も無いのか、穴だらけになった両足を撓め、一気に駆けだした。爆発的な踏み込みにより、文字通り地面が爆ぜる。

 迫る魔女に対し、射手は一度大きな木の上に乗ってから地面に降り立つ。そして意趣返しのように一直線に駆けだした。

 骨の拳と、聖銀の刃が激突する。鐘でも打ち鳴らしたような金属音が響き、すぐに続けて振るわれる魔女の手足とも連続して打ち合わせる。その度に弾ける火花が、魔女の対手の姿を照らし出した。

 それは、まさに騎士であった。レーベンの軽装などとは比べものにならない重装鎧。ほとんど隙間も見えないほどに全身を覆うそれに装飾の類は無く、だが流麗であった。頭部すべてを覆い隠す兜から足甲の爪先までが白銀の輝きを放ち、青白い炎のような光を帯びている。

 

『なぜ、なぜ! なぜ、なぜ、なぜ――!』

 

 魔女の乱撃が勢いを増す。だがその全てが騎士の鎧に触れることもなく弾き返されていた。騎士の右手に握られた片手剣。騎士の大柄な体躯に比べれば短剣のようにすら見えるそれが、鉄壁の盾となって魔女の拳を寄せ付けない。

 重厚な鎧と、防御に特化した剣技。その組み合わせは何よりも「生き残ること」を重視した結果なのだと、彼からレーベンは聞いていた。

 

『な――』

 

 タン、と。魔女の額に四つ目の穴が開く。とうに知性も理性も失っているだろう魔女には理解できただろうか。眼前の騎士は銃を手にしてはいない、つまり射手は別にいるのだ。

 魔女がぐるりと顔を回し、先ほど騎士が乗っていた大木に顔を向ける。その枝からは青白い光がぼんやりと帯を成し、「線」となったそれが騎士へと繋がっていた。聖性の光。その先にいるのは聖女であり、魔女の本能がそれを嬲らんと駆け出そうとする。

 

『どう――!』

 

 当然、それをさせる騎士ではない。魔女の躰を打ったのは片手剣の刃ではなく、騎士の脚そのもの。その長さを存分に活かして振りぬかれた回し蹴りが、魔女の矮躯を豪快に蹴り飛ばす。暗い森の奥まで消えていった魔女を騎士は追わず、まず大木の枝まで一足で跳びあがった後で、すぐにレーベン達の元まで戻ってきた。

 その左腕に抱えられた、金髪の聖女。

 

「待たせたわねレイ、まだ生きているかしら?」

 

 その金髪の聖女――カーリヤは、頼もしく笑ってみせたのだ。

 

 

 ◆

 

 

「……ちょっと、あんた本当に生きてるんでしょうね!? ライアー薬だして薬!」

「分かった分かった」

 

 気取った台詞と共に登場したカーリヤは、だがレーベンが傷だらけの血塗れであることに気付くと色を失くして駆け寄ってきた。手にしていた大型の長銃――狙撃銃を置くとランタンでレーベンの傷を検め始める。その顔は泣きだしそうな程に真剣であった。

 もう一人の騎士――ライアーはガチャガチャと鎧を鳴らしながら腰の雑嚢を探り、中から再生剤を取り出してカーリヤに手渡す。だがレーベンは、それを手で制した。

 

「シスネに使ってくれ……あっちの方が重傷だ」

「似たようなものでしょ馬鹿!」

 

 手際よくシスネも近くまで運んできたカーリヤがまた叫ぶ。キンキンと響く声がひどく懐かしく、レーベンはかすかに笑った。そんなレーベンに、兜の面頬(バイザー)を上げたライアーが鳶色(とびいろ)の目を細めて笑いかけてくる。

 

「遠慮すんな。五本ある」

「さすがだな」

 

 レーベンとシスネが二本ずつ使っても釣りが出るというわけだ。用心深い彼の性格に助けられた。

 

「自分で打てます、だから、魔女を」

「はいはい大人しくする!」

「な、あ、ちょ――んぁっ」

 

 こんな状況でも遠慮深いシスネの額をカーリヤは軽く叩き、その装束の胸元を無遠慮にはだける。心臓に近い位置に再生剤を打ち込まれ、シスネが喘ぐような声を漏らした。その光景にレーベンは目を逸らし、ライアーが慌てて面頬を下ろす。

 

「あー、ところで、その子は?」

 

 話を逸らすように、ライアーがミラを後ろ手に指さす。ミラは未だに呆然と、呆けたように座り込んだままだった。

 

「……今は、気にしなくて良い」

「……分かった」

 

 それだけで、ライアーは事情をある程度は察したようだった。だが彼もレーベンと同等以上に場数は踏んでいる。今更、迷いもしないだろう。

 背後ではシスネが「二本同時はだめです!」「せめて時間を」「用法と用量が」とかなんとか喚いている。元気になって何よりだと、再生剤を一本だけ首に打ちながらレーベンはそう思った。

 

 

 

「来たぞ」

 

 軽口の間も周囲を警戒していたライアーが剣を構える。カーリヤが狙撃銃を担いでそれに並び、何も握られていないライアーの左手を取った。

 

「――」

 

 カーリヤの碧眼が閉ざされ、その手から青白い聖性の光がライアーに流れ込む。聖性は彼の体だけでなく鎧と剣も覆い、どこか重苦しかった動きが目に見えて軽やかになった。そのまま手を引かれたカーリヤが跳びあがり、ライアーの左腕の中に納まる。

 

「シスネ!」

 

 そのままの状態で、カーリヤが何かを放る。適当な放物線にシスネが姿勢を崩し、それでも何とか受け取ったのは短銃だった。形状こそシスネの物と同一だが、その銃身には繊細な彫刻(エングレーブ)が施されている。

 

「その子とレイを頼んだわよ」

 

 力強いカーリヤの言葉に、シスネもまた力強く頷いて返す。レーベンとしては幼い少女と同列に扱われることに思うことが無いわけでもないが、未だまともに立てもしないのだから仕方ないだろうか。

 

「じゃ、行ってくる」

「そこで待っていなさい。すぐに済むわ」

 

 返事も待たず、二人は恐ろしい速さで遠ざかっていく。レーベンはそれを、シスネとただ無言で見送っていた。きっと彼女の言う通り、本当にすぐ済むのだろうから。

 

 

 ※

 

 

 森の奥から獣のように駆けてくる魔女の姿を認め、ライアーは走る速度を落とした。合図も無しに左腕に抱いていたカーリヤを放し、走り去る背後で彼女が受け身を取った音と狙撃銃を構える音を聞く。

 

『なん、で――!』

「ふんっ!」

 

 疾走の勢いもそのままに真正面から繰り出された拳を、片手剣で打ち払う。骨と聖銀が火花を散らし、刀身ごしでも魔女の馬鹿げた腕力がビリビリと伝わってきた。

 こんな相手と、あの二人は生身で戦っていたのだ。

 そんな雑念も魔女の連撃の前には続かない。体格差を物ともせずに放たれる拳と蹴りを、無心に弾き続ける。小柄な少女の姿からは想像もできない重さ。脆い聖銀の剣など容易く砕きそうな打撃。だが剣に流され続ける聖性が、その刀身を常に最上の状態に保っていた。

 ライアーの剣は、弾きと受けに特化させた特注品だ。刃は肉厚で特別頑丈。刀身を短くすることで取り回しを良くし、重量も軽く抑えてある。反面、攻撃に向かないのは如何(いかん)ともしがたい。

 その為に彼女がいるのだ。

 

「おらっ!」

 

 渾身の振り下ろしを、魔女は両手で受け止める。背の低い魔女を頭から押し潰すつもりで力を込め、だがそれでも膝を折らない。とんでもない馬鹿力。ライアーでも抑えるのがやっとだ。

 だがそれでいい。

 

『な――』

 

 タン。魔女の膝が撃ち抜かれて、一気に姿勢を崩した。その機を逃さず更に剣を押し込み、魔女の動きを止める。

 タン。魔女のこめかみから泥が噴き出す。既に穴だらけの頭に銃弾を撃ち込まれても、魔女は倒れない。

 

「どうなってんだよ、おい」

 

 この魔女について、レーベン達からある程度の情報は聞いていた。常軌を逸した筋力による単純な力と速さが武器。だが最も脅威なのは、その異常な打たれ強さだ。

 足を撃ち抜いても止まらない。胸に大穴を開けても倒れない。頭に何発も銃弾を撃ちこんでも死なない。今まで狩ってきた中でも、ここまでしぶとい魔女はいなかった。他に可能性があるとすれば、首を落とすか、あるいは炎、もしくは――。

 

『な、ぜ!』

「ぬお!?」

 

 魔女が掴んでいた剣を放り捨てるように地面に落とす。剣に体重をかけていたライアーはたたらを踏み、その間に魔女は姿を消していた。

 

「カーリヤ!」

 

 案の定、魔女はカーリヤの元に駆け出していた。だがライアーの声は悲鳴ではない。

 タン。魔女が転んで、勢いのままに地面を転がる。正面から一直線に走ってくる敵など、彼女にとってはさぞ良い的だっただろう。蹲る魔女を飛び越え、まずはカーリヤを回収する。

 

「こっちに寄越すんじゃないわよ!」

「悪かったって!」

 

 お怒りな聖女を左腕だけで抱えながら、魔女から距離をとる。ライアーが頑なに片手剣しか用いないのは、こうしてカーリヤを運ぶ為だ。自分一人が生き残ったところで、彼女が死んでは意味が無いのだから。

 そうこうしている内に、魔女の足音が間近まで迫ってきていた。足の速さは向こうが上らしい。

 

「追いつかれるわ!」

「頼めるか?」

「誰に聞いてるの!」

 

 カーリヤが大胆に身を乗り出して狙撃銃を真後ろに向ける。彼女が落ちないよう、その身をしっかりと支えた。

 タン。見なくとも、魔女が転倒したことが分かる。腕の中に戻ったカーリヤが狙撃銃の遊底(ボルト)を引きながら大声で愚痴った。

 

「全然効いていないわね、どうしろっていうのよ!」

「やっぱり正面からやるしかないか。あぁ、やだやだ」

「少しはやる気出しなさいよ! 騎士(おとこ)でしょう!」

 

 耳元でキンキン響く声に苦笑しつつ、開けた場所で足を止める。腕から降りたカーリヤはすぐに離れ、木陰で体を伏せた。

 

「負けたら蹴るわよ!」

「勘弁してくれ」

 

 激励とも罵倒ともつかない言葉と共に、「線」を伝って彼女から流れる聖性が一気に勢いを増す。長年にわたって親しんだそれは、ライアーにとってもう一つの血流に等しい。四肢末端の指先に到るまで、体がカーリヤの聖性に満たされていく。

 

「負けねぇよ」

 

 死ぬのは真っ平御免だが、逃げるわけにもいかない。静かに肚をくくると、迫る魔女を睨みつけた。

 

 

 

 ライアーと魔女がみたび激突した。聖銀の剣と骨の拳がぶつかり合い、また繰り返される打ち合い。だが一つ異なるのは、ライアーが攻勢に出たということだ。

 

「らあぁっ!」

『なが――』

 

 ライアーの()()が、魔女の顔面に炸裂する。少女の顔そのもののそれを殴り飛ばすことに抵抗を覚えなくもないが、それで手加減するほどライアーも甘くはない。

 

『なんで!』

 

 人間ならば昏倒どころか頭が破裂する一撃を受けてなお、魔女はまるで怯まない。倒れそうな体勢から繰り出される蹴りは、明らかに人体の構造を無視している。こんな姿をしていようと、やはり人ではないのだ。

 骨の足甲で包まれた蹴りを剣で打ち払い、間髪入れずにその細い足首を掴み取った。ライアーの剣は攻撃には不向き、カーリヤの銃も通じない。だがライアーの真の武器は剣ではない。

 

「おおぉ、らあぁぁぁ――――っ!」

 

 裂帛の怒声と共に、体を包む聖性の光が増す。ライアーの精神に呼応したそれが体を駆け巡り、自身の聖性を激しく駆り立てる。鍛え抜いた筋肉が鎧の内側で膨張し、今にも弾け飛ばんばかりだ。

 そして、破壊が始まった。

 剣を鞘に納め、両手で魔女の足首を掴んで振り回す。風を切りながら体ごと回転し、遠心力を上乗せされた魔女の体を木に叩きつけた。ばきゃりと、魔女の頭蓋か木の幹が砕けた音が響く。だがまだ離さない。一度、二度、三度と叩きつけ、幹を叩き折られた木が倒れる音が響く前に次の木に叩きつける。

 ライアーの回転は止まらない。過酷な鍛錬と数多の戦いで培われた持久力(スタミナ)に聖性が上乗せされ、その勢いは増すばかりであった。極小の竜巻と化した騎士と魔女が、次々と木を叩き折り、岩を砕いていく。

 

「しゃあぁっ!」

 

 故に、その最後の投擲は空気の壁を突き破らんばかりの速度であった。その手が遂に離され、蓄積された力の全てを以て魔女を放り投げる。その先には、岩を剥き出しにした山肌。

 落雷の如き轟音。地震の如き揺れ。岩肌に人ひとり分の穴が開き、信じがたい亀裂が走る。

 がくりとライアーが膝をついた。然しもの頑強なライアーであってもこれ以上は動けず、だがまだ安心はできない。だがライアーは一人ではないのだ。

 

「カーリヤ――ッ!」

 

 朗々と響く声に応えるように、二つの何かが宙を舞う。その炸裂弾と焼夷弾は吸い込まれるように岩穴へと投げ入れられ、それを、夜に輝く碧眼が見据えていた。

 

「女神の導きのあらんことをっ!」

 

 カーリヤの狙撃銃が澄んだ音を響かせ、一瞬遅れて響いた爆音にかき消される。岩肌の内側で炸裂した炎と衝撃は小規模な土砂崩れを引き起こし、それにカーリヤが巻き込まれる前にライアーがその身をかっ攫った。

 

 

 

 夜明けを目前とした森の中で、朦々と土煙が立ち込める。

 聖女と騎士が油断なく見据えるその中に、もう動くものは何ひとつとして無かった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

悲劇の鎖

「あー、ひどい目にあった」

「あんなのとやり合って本当によく生きてたわね、あんた達」

 

 戻ってきたライアーとカーリヤはげんなりとした顔をしつつも、傷らしい傷も負っていない。先ほどまで鳴り響いていた破壊音からも、レーベンには逆立ちしても真似できないような激闘を繰り広げていたことが容易に想像できる。あの魔女に、無傷で勝利したのだ。

 やはり彼らは格が違う。本物の騎士と聖女に比べれば、己など紛い物でしかないのだと改めて痛感した。

 

「……、それは良かった。だが貴公もシスネを見習いたまえよ、たまには服の一つでも破いたらどうだ」

「あんたやっぱり死になさいよ」

「……最低」

 

 わりと手加減の薄い力で頭を蹴られ、そこにシスネの投げた小石が命中する。所々が破けた装束を手で押さえているシスネから目を逸らし、眼前に伸びるカーリヤの脚線を眺めながら、寝転んだままで情報を交換した。

 昨日の夕方、レーベン達が伝言を託した御者は真面目に仕事をこなしてくれたようだ。深夜に町で伝言を受け取ったライアー達は、なんとそのまま走ってきたのだという。馬車では間に合わないかもしれないというカーリヤの判断だったそうだが、ほぼ夜通し聖女を担いで走る破目になったライアーの苦労と体力は想像を絶する。もっとも、伝言通りに馬車で向かっていれば、彼らが発見したのはレーベン達の無残な死体だっただろう。彼女の判断によって命拾いしたのだ。

 

「レイはどうでも良かったけど、せっかくの後輩が傷物にされちゃあ堪らないもの」

「は、はあ……」

 

 言いながら、甲斐甲斐しくシスネの傷に薬を塗って包帯を巻いていくカーリヤは、まるで世話焼きの年増女のようであった。そんな彼女にシスネはどこか困ったような顔をしながらも抵抗する気力は無いようだ。……そういえば、彼女らはどちらが年上なのだろうか。恐ろしくて聞く気にはならないが。

 捨て置かれているレーベンを介抱してくれたのはやはりライアーであった。彼の篤い友情には涙が出そうである。

 

「ああ言ってるけどな、大騒ぎしたんだぜ? レイの馬鹿が死んでたらどうするの! ってよ」

「ほほう」

「そこ! 聞こえてるわよっ!」

 

 顔を赤くしたカーリヤが包帯を投げつけ、それを難なく掴み取ったライアーが朗らかに笑いながらレーベンの腕に巻いていく。なお喚くカーリヤの傍にいるシスネも、口許を手で覆いながら笑いを堪えているようだった。

「シーニュみたい」と、そう呟く声はレーベンにだけ確かに届いた。

 

 

 

「で、あの子はどうする?」

 

 弛緩していた空気を変えるように咳払いしてから、ライアーが切り出す。彼の固い声に、カーリヤも含む全員が表情を引き締め、今なお動かない少女――ミラを見た。

 

「あの子は――」

 

 努めて平坦な声で、レーベンが語る

 あの魔女はミラの姉であったこと。彼女の父親は妻と娘を魔女禍によって失くし、狂ってしまったこと。その父親と二人、魔女となった姉を匿いながらこの森でずっと暮らしていたこと。姉を守る為に、レーベン達を害そうとしたこと。

 語れば語るほど哀れな家族であった。黙って話を聞きながらカーリヤは唇を噛み、ライアーは固く目を閉じていた。それでも、レーベンを含めここにいる皆は教会の使い。魔女は狩らなければならなかったのだ。

 

「教会に引き渡すしか、ないわね」

 

 感情を押し殺したような声でカーリヤが告げる。

 魔女を匿う罪は決して軽くはない。一体の魔女が生み出す被害が甚大なものであることは、あの魔女を見れば明らかだ。あれほど強力な魔女が町で暴れでもすれば、いったい何人の命が失われたというのか。想像するだけでうすら寒いものを感じる。

 加えて、ミラとその父親は腐っても教会の騎士と聖女であるレーベンとシスネに銃を向けたのだ。魔女の隠匿、魔女狩りの妨害、聖女と騎士の殺害未遂、教会の銃の不正な使用……。その罪の重さと、それに対する罰の厳しさを考えるだけで気が重くなっていく。

 

「聖都に行くか。ここからならポエニスより近い」

 

 ほんの僅かに明るい声でライアーが提案する。

 彼の言う通り、この森は旧聖都であるポエニスよりも聖都――グリフォネアの近くに位置している。あそこには教会の本部である大聖堂があり、そしてそこにはこの国の主である教皇と、そして聖女長がいるのだ。聖女たちの長であれば多少は寛大な裁きを期待できるかもしれない、言外にそうライアーは言っているのだろう。

 

「駄目です」

 

 だが冷厳とシスネが切り捨てた。件の聖都の出身である彼女の顔は、どこか青褪めて見える。

 

「ポエニスに戻りましょう。騎士長の判断を仰ぐべきです」

「おいおい……」

「ちょっと、シスネ」

 

 ヴュルガ騎士長の冷酷さはポエニスの者なら骨身に沁みて知っている。シスネとて、あの男に本意ではない仕事を強要されたからこそ今ここにいるのだから、知らないはずも無いだろうに。……それによって、レーベンはシスネと組んで仕事をできているわけだが、それはそれだ。

 なんにせよ、よりにもよってその騎士長にミラ達を引き渡すと言い放ったシスネに、ライアーとカーリヤが非難の目を向けた。だがシスネの黒い瞳は、まるで怯まない。

 

「あなた達は、聖女長に会ったことがあるのですか」

 

 シスネ以外の皆が口を噤んだ。

 そもそも聖都には当然、多くの聖女と騎士がいる。ポエニスにまでわざわざ応援の依頼を出す必要など無いのだから、レーベンも聖都に行った経験は無く、故に聖女長に会ったこともない。他の二人も同様なのだろう。シスネが続ける。

 

「聖女長は、あなた達が思っているような方ではありません」

 

 シスネの右手が自らの装束を握り、皺を作った。そこに込められている感情が何なのかまではレーベンには分からない。

 

「それに騎士長は、その……冷静な方ですが、なんというか……独特な判断をする事は無いでしょう?」

 

 シスネの口調はどこか歯切れが悪かった。人を悪く言うことに抵抗があるのかもしれない。……ならば彼女に悪く言われてばかりのレーベンは何なのだろうか。謎であった。

 つまり、裁きに私情を交える可能性のあるらしい聖女長よりも、良くも悪くも無感情な騎士長に任せる方が公正な判断を期待できると、シスネはそう言いたいのだろうか。無意識なのか、身振り手振りも交えて語る様は必死さを感じさせ、彼女がミラ達への裁きをどうにか軽くしたいと願っていることが分かる。

 レーベンでさえ分かるのだから、ライアーとカーリヤには言わずもがなであったか。

 

「あぁ分かった分かった、ポエニスに帰ろうぜ」

「素直じゃないわねぇ」

 

「あなたには言われたくないです……」というシスネの呟きは、だがカーリヤにも聞こえていたらしく彼女の指に白い頬を抓られてシスネがくぐもった悲鳴をあげた。いっそのこと、脇腹が弱点だと教えてやろうかという細やかな悪意がレーベンの中で湧き上がったが、報復が恐いので黙っておく。

 

 

 

 今後の方針も固まったところで、一行は重い腰を上げた。未だ足元の覚束ないレーベンはライアーに肩を貸してもらい、カーリヤもそうしようとしたがシスネはそれを固辞した。かわりに、まだ俯いたままのミラの傍にしゃがみ込む。

 

「ミラ、聞こえる?」

 

 ミラは何も答えず、身じろぎもしない。ただ虚ろな目で、姉の血に汚れた手を見下ろしていた。

 

「お父さんの所に行こう? そこで、その、大事な話があるから、だから、」

「――お姉ちゃん?」

 

 徐にミラが顔を上げる。その顔は元の無表情に戻っており、ただでさえ翳のあった瞳はもはや夜のように暗い。

 

「……っ、ミラ、お姉さんはね、」

「お姉ちゃん?」

 

 シスネの声など聞こえていないように、ミラが辺りを見回す。その際にレーベン達にも視線が向くが、ミラの目には映っていないようだった。そのまま、安物の自動人形(オートマトン)のように首を巡らせ続ける。

 レーベンは、遂にミラの心が壊れたのだと思った。ライアーとカーリヤも同様だったのだろう、やるせない溜息がすぐ近くで聞こえ、カーリヤが奥歯を噛みしめる音も聞いた。悲痛な顔で、それでもシスネがミラの肩に触れる。

 その、瞬間だった。

 

 

『どう、して』

 

 

 歪んだ声が響く。

 

「嘘だろ!?」

「どこ!?」

 

 レーベンを降ろしたライアーが剣を抜き、狙撃銃を構えたカーリヤが忙しなく周囲を見回す。シスネはミラを抱き寄せようとして、だがその手は空を切っていた。

 

「ミラ!?」

 

 ミラは思っていたよりも遠くにいた。ふらふらと、風に吹かれる枯れ葉のように暗い森の奥へと歩いていく。それを追おうとしたシスネが、だが足がもつれたのかその場に転倒した。

 身構えるライアー。警戒するカーリヤ。叫ぶシスネ。止まらないミラ。

 ただ横たわったレーベンは、ミラの視線を辿る。その先の、木の上、枝葉の間。そこに、それを見た。

 

「いたぞ!」

 

 常にない大声。レーベンが指差した先に皆が視線を向け、ライアーが駆け出し、カーリヤが銃を構える。

 だが誰よりも先に、それがミラに飛び掛かった。

 

『どうして――!』

 

 それはもう、ただの頭蓋骨。

 愛らしかった少女の顔は焼け落ち、ただ炭化した皮膚の残滓だけが貼りついている。長く伸びていた亜麻色の髪はもう無く、割れた頭の中には泥しか詰まっていない。剥き出しの眼球が一つだけ、右の眼窩からはみ出しながらミラを見ていた。

 残骸になり尽くした魔女の残骸が、蜘蛛の足のように伸びた骨で枝を蹴る。その口を大きく開け、何本か欠けた歯で文字通り、ミラに牙を剥いた。

 

「だめ――っ!」

 

 シスネの絶叫。

 

「おね――」

 

 ミラの声。

 

 

 

 銃声。

 

 

 

『ど、う……して』

 

 放たれた散弾は、魔女の頭蓋を今度こそ粉々にした。

 最後の最後に残った口が、かちかちと歯を鳴らしながらも、歪んだ声を響かせる。

 

『お、とうさん……ばか、り――』

 

 それが最後。

 それを最後の言葉として、魔女は――ミルスは、ようやくその歪んだ命を終えた。

 

 

 

「ミルス」

 

 皆が呆然と沈黙する中、ただ一人の声が虚ろに響く。

 

「ミルス……」

 

 がちゃりと、彼の手から長銃が滑り落ちた。彼が何処からか手に入れ、レーベンが取り返し、そして今また彼の手に戻った長銃。

 

「ミルスぅ……っ」

 

 彼は――ユアンは、泣いていた。

 狂気の抜け落ちた彼の顔は、どこにでもいる平凡な男そのもので。涙と鼻水を垂らしながら、ミルスの残骸を手にかき集める。

 自らの手で止めを刺した、娘を。

 

「お――お、おおおぉぉぉ…………っ」

 

 娘の残骸に顔を埋めながら、ユアンは、ただ泣いた。

 運命に弄ばれ、狂気に囚われていた男は、その狂気を自ら断ち切ったのだろうか。

 それとも、(ミルス)に殺されようとする(ミラ)を助けようとしたが故の、咄嗟の行動だったのだろうか。

 あるいはただ、その心の弱さ故の凶行だったのだろうか。

 答えなど誰にも分からないまま、哀れで、平凡な男の慟哭だけが、夜明け前の森に響いていた。

 

 

 

 

 

 

「もう――、やだ』

 

 ミラの歪んだ声。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

黒い涙

 ミラは覚えている。

 

 ミラは母の顔を朧気にしか覚えていない。ミラが言葉を覚え、自分の名前を言えるようになった頃にはもう、母はいなくなっていた。

 顔はよく覚えていないけど、その温かさはよく覚えている。

 そして、何かすごく怖いモノに襲われたことも、鮮明に覚えていた。

 それが母だったと知ったのは、姉が魔女になってから。

 

 ミラは覚えている。

 

 母がいなくなって、父が部屋から出てこなくなってからは、姉が母の代わりになった。

 ミラよりもだいぶ早く生まれていた姉は朝早くから働いて、ミラの世話をして、父にもいつも声をかけて、そしてミラと遊んでもくれた。

 ミラの記憶の中の姉は、いつも笑っていた。

 それがどれだけ無理をしていたのか知ったのは、姉が魔女になってから。

 

 ミラは覚えている。

 

 久しぶりに見た父の顔は、元の優しい顔に少しは似ていた。

 父はまた働きだして、姉がそれを手伝って、背の伸びてきたミラもたまに手伝った。

 その頃が、ミラの短い生の中で、いちばん輝いていた時。

 その頃だけ、父も、姉も、ミラも笑っていた。

 でも、そこに母はいなかった。

 何をどう頑張っても、母は戻ってこないんだと、もう元には戻れないんだと気付いてしまった。

 姉もそう思っていたことを知ったのは、姉が魔女になってから。

 

 ミラは覚えている。

 ミラは知っている。

 人は魔女になる時、目から黒い涙を流す。

 透明じゃない、赤でもない、真っ黒な涙を。

 それは悪い魔女の証なんだと、大人たちは言っていた。

 

『どうして』と、姉は言った。

 両目から、真っ黒な涙を流しながら。

 優しかった姉は、悪い魔女になってしまった。

 

 ミラは覚えている。

 ミラが覚えているこの世界は、いつもいつもミラをいじめてきた。

 ミラをいじめて、いじめて、たまに優しくして、またいじめてきた。

 今までもずっと。これからもずっと。

 この世界はきっと、ミラのことをいじめ続けるのだ。

 母みたいに、姉みたいに、ミラも魔女になってしまうまで、ずっと。

 だから、だから。

 そんな世界は、こんな世界は。

 

「もうやだ』と、ミラは言った。

 右目から、真っ黒な涙を流しながら。

 心が黒く染まっていく。何もかもが真っ黒に塗りつぶされていく。

 心が痛くて、冷たくて、すごく、すごく苦しくて。

 それを「絶望」と呼ぶのだと、ミラは知った。

 

 だからミラも、悪い魔女になるのだ。

 

 

 ◆

 

 

「おい、まずいぞ……っ」

 

 異変に最初に気付いたのはライアーだった。彼の震えた声に、皆が目を向け、そしてそこに最悪の光景を見た。

 

「あ、あぁ、あ、あ』

 

 地面に座り込んだミラが歪んだ声を漏らす。小さな手で小さな頭を抱え、伸びっ放しの亜麻色の髪を振り乱しながら。姉の血に塗れた顔を、姉の血に塗れた手で拭い、そこに現れた瞳には、黒い涙。

 それが魔女化の兆しであることは、この場にいる誰もが知っていた。

 

「……ミラ? ミラ、だめだミラ! だめだいかないでくれぇっ!」

 

 もっとも近くにいたユアンが、半狂乱でその体を揺さぶる。だがミラはかくかくと頭を揺らすばかりで、もう父親の声も聞こえてはいないようだった。

 いったい彼が何をしたというのか。一度ならず二度までも、二度ならず三度までも、魔女禍の呪いは彼から全てを奪おうとしていた。それに誰が耐えられると言うのか。

 誰もが動けなかった。一度魔女になってしまえば、もう二度と人には戻れない。出来ることなど何も無いのだから。

 否、出来ることはあるのだ。一つだけ。一つしか。それがユアンに出来るわけもない。他の皆にも任せたくはない。

 だからレーベンがやるのだ。

 近くにいたカーリヤの脚を見る。そこに括られていた短銃を、無言で掴んだ。

 

「……」

 

 だがその手を、他ならぬカーリヤの手が掴んでいた。悲痛そうに顔を歪めて、少女のように唇を噛んだままで。

 

「放したまえよ」

「……」

「放してくれカーリヤ、手遅れになる」

「……」

「あの子を撃つのは貴公じゃない、俺だ。俺が撃つんだ」

「……、……っ」

 

 レーベンは早く撃ちたかった。決心が鈍らない内に撃ってしまいたかったのに。だがカーリヤは手を放してくれず、だが何も言わず、ただ泣きだしそうな顔でレーベンの手を掴んで放さない。

 それを見ていたライアーが兜の面頬を下ろした。そうしてしまえばもう彼の表情は見えず、それは彼なりの自己暗示なのかもしれない。何も言わずに剣を抜いて、ミラの元へと歩いていく。

 

「放せ、カーリヤ!」

「いやよっ! 待って! ライアー待ってったら!」

 

 ライアーとカーリヤは同郷の出身で、そして共に家族を魔女禍で失くしている。二人は家族を失くす苦しみを知っているのだ。

 だからこそ、ミラを殺すのはレーベンでなければならない。家族を知らず、きっとこれからも家族を得ることなどない己でなければならないのだ。きっとそれが、己の役目に違いないというのに。

 カーリヤは手を放さず、ライアーは止まらず、そして、もう時間切れだった。

 

「――――もう、やだあぁぁっ!』

 

 ミラが絶叫し、右目から黒い涙を噴き出す。それを顔に浴びたユアンが仰向けに倒れ、その彼に、ミラは腰帯から短銃を抜いた。

 それは狂乱した少女の凶行だったのか。それとも鬱屈しきった感情の発露だったのか。あるいは哀れな父親に対する娘の慈悲だったのか。なんであろうとミラは己の父親に銃を向け、そしてその引き金を止められる者は誰もいない。

 夜明け前の、もっとも昏い空の下で、一発の銃声が木霊した。

 

 

 

 赤い血と黒い涙で汚れたミラの顔を、更に鮮やかな赤が彩る。

 その鮮血は、彼女自身の白い顔と、何よりも白い髪をも彩っていた。

 

「もう、や……』

 

 呆然と、ミラが歪みかけた声で呟く。黒い涙を流し続ける右目とは逆の、大きな左目はまだ動揺の色を宿していた。

 ユアンを突き飛ばしたシスネの灰色の装束が赤く染まっていく。撃ち抜かれた右腕をだらりと下げ、未だ動かせないのであろう左腕も垂らしたまま、ミラの前に膝をついた。

 

「シ――」

「来ないでっ!」

 

 誰かが漏らした声を遮り、シスネの鋭い声が響く。その声にライアーが剣を下げ、レーベンとカーリヤも互いに手を放した。ユアンですら動かない。

 それらを流し見たシスネは、改めてミラと対峙する。

 

「ミラ、聞こえる?」

「……』

 

 ミラは答えず、ただ銃をシスネに向けた。何もかもを拒絶するかのように。

 シスネはただ、笑ってみせた。

 

「いいよ、撃っても」

「……っ』

 

 今度は、銃口がわずかに震えた。それはミラに彼女の声が届いている証左であり、まだ人と魔女の危うい境目に立っていることを示していた。

 

「あと五回撃てるよ、手でも足でも、お腹でも頭でもいいよ。私だけじゃ足りないなら、そこの騎士さんも撃っていいから」

「おい」

 

 騎士とはライアーのことだろうか。いやきっとレーベンのことだろう。こんな状況にも関わらず、思わず小声で抗議してしまった。

 

「ミラは、すごく辛いんだよね。今日だけじゃない、もうずっと前から、ずっと辛かったんだよね」

「辛くて、辛くて、ずっと我慢して。でももう、無理なんだよね」

「だからミラは……魔女に、なるんだよね」

 

 もうミラは動かなかった。もう声も届いていないのか。だが引き金は弾かれなかった。

 

「魔女になっても、いいんだよ?」

 

 ミラは動かず、だが他の皆は弾かれるようにシスネを見た。今、彼女はなんと言ったのか。

 

「いいんだよ、ミラの好きにすれば」

「今までずっと我慢してきたんだから、もう何も我慢しなくていいんだよ」

「私を撃ちたいなら、魔女になりたいなら、死んじゃいたいなら……それでもいいんだよ」

 

 シスネは何も否定しなかった。

 

「私を撃ちたいなら、どこでも撃っていいよ」

「魔女になりたいなら、私がミラを止めるから」

「死んじゃいたいなら……私は哀しいけど、ミラがそうしたいなら、止めないよ」

 

 何も否定せず、ただ受け止めると、そうミラに伝えていた。

 

「でもその前に、私の話も聞いて?」

「……、……ん』

 

 ミラが答えた。魔女ならば会話など決して成立しないというのに。

 その反応にシスネの瞳が輝き、だがすぐ苦痛に呻いた。彼女の右腕はもう真っ赤に染まっている。それでも、痛みを噛み殺すようにシスネは続けた。

 

 

「魔女はね、……心が綺麗な人しか、なれないんだよ?」

 

 

 そんな話は、レーベンも初めて聞いた。ライアーもカーリヤも、騎士長もアルバットも、最初の騎士たちと聖女たちですら、そんなことは誰一人として言わなかった。

 子供だましの口から出まかせ。そう思われても仕方のない暴論。だがシスネの声からそのような軽さは微塵も感じられず、むしろ血を吐くような重苦しさすら感じ取れた。

 

「ミラのお姉さんも、お母さんも、すごく辛くて、哀しいことがあったから、魔女になったんだよ」

「でもね、哀しいことを哀しいって、そう心から思えるのは、とてもすごいことだと思わない?」

「……どんなに哀しいことがあっても、平気な人だって、いるんだよ」

 

 そう言って、シスネはその目をレーベンに向けてきた。黒い瞳が真正面からレーベンを貫く。

 

「お……」

 

 その瞳のあまりの強さに、レーベンは一歩後退る。見つめるというには剣呑すぎる。睨みつけるというには悲痛すぎる。そんな、様々な感情が綯い交ぜになったかのような視線であった。

 シスネの言う、哀しみを感じない人間とはレーベンのことを指しているのだろうか。確かに己は色々なものが欠落しているのかもしれないが、どうもシスネの言葉はそれだけではないように思えた。レーベンを通して別の誰かも見ているのか、あるいは。

 シスネは視線を戻した。

 

「そんな、心が穢い人は魔女にはならない……なれないんだよ」

「ミラのお姉さんは、ものすごく強かったよ。私なんかじゃ手も足も出なかった」

「彼女の哀しみはそれだけ強くて、そして純粋だった」

 

「だからね」そう続けて。

 

「ミラのお姉さんとお母さんは、悪い魔女なんかじゃない」

「――――っ!』

 

 今度こそミラがはっきりと反応を示した。まだ少女のままの左目を見開き、まっすぐシスネを見つめる。

 その目をまっすぐ見返しながら、シスネが声を張りあげた。

 

「二人は、とても綺麗な心の持ち主だった。だから魔女になった!」

「本当だよ! これだけは、絶対に!」

「それに、それは、ミラだって分かってるでしょう!」

 

「――ぅ、あ』

 

 カチャカチャと、ミラの手の中で短銃が震える。そのまま、両手を祈るように胸に当てた。

 だが銃を握ったままのそれは、ちょうどミラの顎を撃ち抜く角度で。

 だがシスネは言葉を翻さない。止めようとは、しなかった。

 

「もう一回、聞くよ」

「ミラはどうしたい?」

()()()()()()()()?」

 

 

 

 

 

 

 その沈黙は、レーベンにはひどく長く感じた。もう誰一人として言葉を発さず、身じろぎもしない。ただ白み始めた空だけが、何も変わらない時の流れを示していた。

 沈黙は続き、太陽だけが動き続ける。朝日が顔を出し、鬱蒼とした森の中までをも照らし出すまで。

 朝日を背にしたシスネの影は、正面に立つミラの姿を覆い隠している。沈黙は更に続き、太陽が上り始め、影が短くなってきた頃。

 

「ぅぐ、あ、あ」

 

 朝日に照らされたミラの顔は。

 

「あ、あ、あぁ、あああ……っ」

 

 鼻水と、()()()()でぐしゃぐしゃになった少女の顔は。

 

「あ……あ、あああぁぁぁ――――っ!」

 

 かしゃりと、ミラの手から短銃が落ちる。少女の両手はその涙を拭うことに必死で、もうそんな物を握っていることはできなかった。

 

「お、どうざん、おどうざん!」

「ミラ……、ミラ!」

 

 やがて、ふらふらと父を探し始めた娘を、ユアンはひしとその腕に抱いた。それでもミラの涙は止まらない。

 

「おとうさん、おねえちゃん、しんじゃった……」

「うん……ミルスは、死んでしまった」

「おがあざんも、しんじゃった……」

「うん……、うん……っ」

 

 ミラの涙も慟哭も、ユアンのそれらも、止まることはない。

 何故なら、二人はとっくの昔に大切なものを失い、それが戻ってくることは二度と無い。

 何ひとつとしてその手には返らないまま、ただ現実を直視しただけに過ぎないのだから。

 

「おねえぢゃん――――っ!」

 

 夜が明ける。

 朝日に照らされた森の中で、無力で、平凡な父娘の慟哭が響き渡っていた。

 

 

 

 朝日の中で、慟哭の中で、レーベンはシスネを見ていた。

 久しぶりに日の光の中で見る彼女は傷だらけで、その髪も装束も血と泥に塗れている。

 それでもなお、レーベンにはそれが美しく見えていたのだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

狩りの終わり、始まりの幽霊

 か細い体が、ふらりと傾いだ。

 

「シスネ!」

「シスネっ!」

 

 最も近くにいたライアーが素早く体を支え、次に駆け寄ってきたカーリヤがその身をそっと横たえる。最後に、足を引きずりながらレーベンが傍らに座った。

 朝日に照らされたシスネの顔は蒼白で、だというのに汗が止まらず呼吸も浅い。血を流しすぎたのだ。

 

「再生剤を使おう、失血にも効いたはずだ」

「分かった!」

「その前に血を止めないと! 何か紐は!?」

 

 シスネを囲んだ三者が騒ぎながらも、手だけは止めない。ボロボロの装束を引き裂いて右腕を露わにし、肩口をきつく縛る。水筒の水を振りかけて銃創まわりの血を洗い流した。

 

「良かった、弾は抜けてる」

「――、ぅ……っ」

 

 騒がしい声に目覚めたのか、シスネが呻きながら薄く目を開けた。黒い瞳が、三者の顔を虚ろに映している。

 

「シスネ!」

「起きた! ねえ、私が分かる!?」

「……大袈裟です、これ、ぐら……うっ」

「大人しくしたまえよ」

 

 起きて早々に強情なことを宣う彼女の右腕に再生剤を打ってやる。恨めしそうな目を向けてくるその顔に、ひらひらと手を振った。多少は元気になって何よりである。

 

「……ミラは?」

 

 意識もしっかりしてきたらしいシスネが不安げに尋ねる。その言葉にライアーが無言で腰を上げ、彼の体躯で隠れていた視界を開いた。

 首を傾け、その先で抱き合う父娘の姿を目に映して、シスネは。

 

「――――良かったぁ……」

 

 胸の底から吐き出すような安堵の声を漏らして、その身から力を抜く。落ち葉の積もった柔らかい地面に、華奢な体が沈みこむようであった。その飾らない笑みにレーベンは目を奪われる。

 肩の荷が下りたシスネは再び意識を手放そうとし、だが包帯を巻き終わったカーリヤの細い指が彼女の額を弾いた。

 

「いたっ!?」

「シースーネーさぁーん?」

 

 悍ましい猫撫で声をあげながらカーリヤが彼女の顔を覗き込む。鼻が触れるような距離にあるカーリヤの笑顔と地面に挟まれ、シスネが引きつった笑みを浮かべた。

 

「な、んでしょう」

「ほんっとに、ひどい無茶をしてくれたものよね」

 

「寿命が縮んだわ」と続けるカーリヤは満面の笑みを崩さず、だがその額にはくっきりと青筋が立っている。

 

「あんな馬鹿をやらかすのはこの馬鹿一人で充分なのよ、私の心労をこれ以上増やさないでもらえるかしら?」

「で、でも、ほら、上手くいったんだから――」

「言い訳までそこの馬鹿と同じこと言うんじゃないわよ!」

「は、はい!」

 

 笑顔のまま怒鳴るというカーリヤの器用な技にシスネが上擦った声をあげる。ところでレーベンはいったい何回馬鹿と呼ばれるのだろうか。

 

「……っ、も、ほんとうに馬鹿……」

 

 声をつまらせたカーリヤが立ち上がり、木陰に歩いていく。そちらには何もないが、今の彼女には必要だったのだろう。普段から明け透けな態度の目立つカーリヤだが、あそこまで感情的な姿を見せるのは久しぶりだった。

 かすかに聞こえてくる嗚咽のような声を隠すように、ライアーが妙に大きな声で話し始める。

 

「まあ、でもお手柄だったな! 正直もうダメかと思ったぜ!」

「……私も彼も、殆ど役には立てませんでしたが」

 

 謙遜のついでにレーベンも貶すのはやめてくれないだろうか。これでも死ぬほど頑張ったつもりなのだが。

 

「そう言うなって、こういう時は自慢げな顔してりゃあいいんだよ」

「はぁ……」

「ふふん」

「やっぱりお前の表情(かお)は全然わかんねえな……」

 

 自慢げに笑ってみせたつもりのレーベンに対し傷つくようなことを言った後、ライアーはカーリヤの元へと歩いていった。次はあちらの聖女の介抱をしなければならないのだろう。相変わらずの世話焼きである。

 

 

 

 その場には横たわったままのシスネと、まだ碌に立てないレーベンだけが取り残される。会話も無いまま、ただレーベンはシスネの顔をぼんやりと眺めていた。

 そうしていると、ふいと視線を逸らされる。彼女の黒い瞳は不機嫌そうな光を放ちながら。

 

「……そうやって見ないでほしいと言いましたよね」

 

 忘れてはいない。カクトの共同墓地で、あまり凝視するなとそんな旨のことを言われたのだ。あれから丸一日と経ってはいないというのに、もう随分と前のことのように思える。確かに、()()()()()姿()はあまりじろじろ見るべきではないかと、レーベンは目を逸らした。

 

「これでも結構、見ないように苦労しているんだが」

「何か言いましたか?」

「誠に申し訳ない」

 

 口答えすれば低い声が返ってくる。再生剤が効いてきたのか顔色も多少は良くなり、声もしっかりとしてきた。その分、レーベンに対する険も元通りである。

「ところで」と、視界の端のシスネがレーベンからまた顔を背けた。

 

「服を着てくれませんかっ」

「着替えの持ち合わせが無くてな」

 

 魔女にこっぴどくやられたレーベンの防具はとっくに砕け散り、下に着こんでいた騎士装束も襤褸同然の有様だった。それも応急処置の際に取り払われ、今は上半身が裸の状態である。ズボンが無事だったのは奇跡だ。

 

「そういえば、貴公と初めてあった時も森の中だったな。あの時も半裸だった」

「忘れました」

「そういえば、先日の謝罪がまだだったな。服が破れていることを伝えなくて誠に申し訳なかった」

「忘れてください」

 

 話していると徐々にシスネの顔が赤くなってきており、もしやまた怒らせたのかと内心で冷や汗を流す。彼女と話すといつもこうであった。

 

「そういえば、」

 

 もう黙っていようかと考え始めた矢先、珍しくシスネから話を振ってきた。目線は合わさないまま、沈黙で先を促す。

 

「腕の調子はどうですか」

 

 まるで医療者そのものの口調だった。言われてからまた傷のことを思い出し、右手を動かしてみる。もう殆ど痛みも無かった。先ほど打った再生剤も効いたのだろうが、その前の処置が良かったのだろう。薬だけではこうはいかない。

 

「問題ない。やはり良い腕をしているな」

「それはどう致しまして」

 

 レーベンは素直に賞賛したつもりだったが、シスネはまた皮肉と受け取ったらしい。吐き捨てるような返事にレーベンとしても不満を禁じ得ない。この聖女、照れ隠しなのかどうか知らないが、少し捻くれすぎではなかろうか?

 

「貴公こそ腕はどうなんだ。切らなくて良かったのか」

 

 だから、続く言葉にも若干の険が混じってしまったのだろう。当然、それに黙っているシスネでもない。

 

「問題ありませんよ、弾は抜けましたから。仕返しできなくて残念でしたね?」

 

 この聖女(おんな)……。

 そうこうしている内に、ライアー達が戻ってくる。それと入れ替わるように立ち上がりながら、レーベンは細やかな報復を行うことにした。

 

「カーリヤ、そろそろ何か着せてやってくれ。彼女が風邪をひいてしまう」

「え……っ」

 

 レーベンの言葉にようやく、シスネは己の装束がほぼ破かれていることに気付いたようだった。元々、戦いの中で既にボロボロになっていたのだ。それを治療の際に取り去っただけであって、疚しいことなど何ひとつとして無い。

 

「な、あ、」

「あぁ、それとな、彼女は脇腹を触られるのが苦手らしいぞ」

「へぇ……?」

「あ、ばか!」

 

 とっておきの切り札を暴露してやると、カーリヤは赤い唇を吊り上げた。彼女もまだシスネの無茶を許しきれてはいないのだろう。レーベンに制裁を加える際の笑みそのものであった。シスネも少しはあの恐怖を味わえば良いのだ。

 

「あ、あなたと言う人は! ……ちょっと、何ですかその手は!」

「別にぃ? 騎士レーベンの情報の精度を確認するだけでしてよ」

「違いますから! 平気ですから!」

「じゃあ触っても良いわよね?」

「平気ですけど駄目ですっ!」

 

 ぎゃあぎゃあと姦しい声を背後に聞きながら、レーベンは肩を揺らす。薬も無しに声を出して笑うのは久しぶりな気がした。

「笑ってやがる……」と、すれ違ったライアーが初めて見たかのような言葉を漏らし、向こうではユアンとミラが何事かとこちらを窺っている。

 すっかり明るくなった森の中に、シスネの甲高い悲鳴が木霊した。

 

 

 ◆

 

 

 黄昏の街道を、ゴトゴトと馬車は進んでいく。

 森の入り口で待っていた馬車に乗り込んでからおよそ半日、ほぼ休憩もない強行軍の甲斐あって、日が沈む前にはポエニスに着きそうであった。

 

「貴公、そろそろ機嫌を直してくれないか」

「……」

 

 馬車の中は燦々(さんさん)たる有様である。まず四人でも狭かった車内に今は六人だ。小柄なミラはユアンの膝に座っているとはいえ、それでもやはり狭い。

 ユアンとミラの二人は名目上、ポエニスまで連行していることになっている。腰縄を打っただけの軽い拘束だが、逃げ出す気力もないのだろう。今もまた、二人とも死んだように眠っている。

 揃って大柄なライアー達は正面の席を二人で占拠しているが、遠慮も無く体を伸ばして眠るカーリヤに圧し掛かられ、悪夢でも見ているのかライアーは(うな)されっぱなしであった。

 そしてユアンの隣に座ったレーベンは、反対側のシスネから延々と脇腹を小突かれていた。半日の間ずっとである。レーベンは特に弱いわけでもないが、普通に痛い。しかも眠れない。

 

「痛いんだが」

「……だから何ですか」

「誠に申し訳なかった」

 

 もう何度目かのやり取りと謝罪だが、未だシスネは憎々しげにレーベンを睨んでくる。

 装束を失った彼女にカーリヤは自身の着替えを気前よく貸していたが、カーリヤの着替えとはつまり例の改造装束であった。胸元と脚を無意味に露出させるそれをシスネが大人しく着るわけもなく、だからといって半裸でも過ごせず、結局はカーリヤの装束の上から元の装束を重ね着するという、よく分からない恰好になっていた。一見すれば襤褸を纏っているようで、汚れた白髪といい、怨念じみた眼差しといい、まるで幽霊のようである。

 ちなみに、レーベンはライアーの着替えを借りた。彼の服では大きすぎるが贅沢は言うまい。

 

「幽霊、か」

 

 幌ごしにも分かる橙色の光を見ながら思い出す。元はと言えば、昨日の夕方にミルスと似た姿をした何かと遭遇したことが始まりだったのだ。結局、アレは――。

 

「アレは、何だったのでしょうか」

 

 同じことを考えていたらしいシスネがぽつりと漏らす。レーベンを小突く手は止めてくれなかったが。

 アレの姿はミルスとほぼ同じだったように思うが、よくよく考えれば違った気もする。アレの顔は泥に覆われており、顔の作りまでは見ていないのだ。髪の長い娘などいくらでもいる。ミルスに似た別の何かであったと考えた方が自然だろう。

 仮にアレがミルスだったとして、どうやって洞窟から抜け出したのか。そもそも何故そのようなことをしたのか。まるで幻のように虚ろな存在であったことも説明はつかない。

 あるいは……。

 

「幽霊、だったんじゃないか」

 

 シスネがやっと手を止め、レーベンはぽつぽつと語った。

 アレは魔女となったミルスの幽霊であり、肉体から抜け出して彷徨(さまよ)っていた。そして自らを狩ってくれる者を求めてレーベン達の前に現れ、父と妹の元まで案内したのだ。全ては、魔女となった哀れな少女の最期の願い故。まこと、美しい家族愛である。

 

「――という英雄譚なら、売れるかもしれないな」

「真面目に聞いた私が馬鹿でした」

 

 シスネがまた脇腹を小突き、それを最後に壁に凭れた。物憂げな溜息を一つついてから、

 

「そうだと、いいのです……けど」

 

 言い切る前に目を閉じていた。よほど疲れていたのだろう。……ならさっさと寝てほしかった。

 

「そうだと、いいな」

 

 レーベンもまた目を閉じる。

 アレが何だったのかなど、もう分かりようもない。ただそういった正体不明の何かがいたと、報告書の片隅にでも書かれるだけだ。わざわざ聖女と騎士を派遣することもないだろう。レーベンとシスネも、その内に忘れてしまうに違いない。

 永遠の謎をひとつだけ残して、長い一夜の魔女狩りは遂に終わったのだった。

 

 

 ※

 

 

 森の奥の山小屋。ある父娘が暮らしていたそこは静寂に包まれていた。

 昨夜の、嵐の如き喧噪の残滓もなく、まるで何事も無かったかのように。

 

 小屋の傍らには、簡素な墓が立っている。

 一つは古び、だが手入れは行き届いた墓。

 一つは新しく、つい先刻にでも立てられたような墓。

 

 そのどちらにも、細やかな花が供えられている。白く小さな花を、墓前に植え直して。

 その花は夜風に吹かれて可憐に揺れ、だがその様を見る者は誰もいない。

 誰一人として、いない。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四人の宴

「そういうわけで、乾杯っ!」

「はい乾杯」

「どういうわけなんだ」

「同感です」

 

 人、人、人。酒、酒、酒。その間を埋め尽くす様々な料理と喧噪。要するに酒場である。

 ポエニスは旧聖都であり、その名の通り百五十年ほど前までは聖都だったのだ。この国の中でも現聖都であるグリフォネアに次いで大きく、人口も多い。人が多ければ商売も盛んであり、それは酒場も例外ではない。否むしろ酒場こそ商売の華、人流の要であると言わんばかりに、その店の数も尋常ではなかった。

 大きな店から小さな店まで、騒がしい店から静かな店まで、上品な店から下品な店まで。様々な客の様々な需要に応えるべく、その店の特色も千差万別。今回カーリヤが選んだこの店は非常に大きく、非常に騒がしく、下品ではないが上品でもない、そのような酒場であった。

 

「ちょっとシスネ! 乾杯だって言っているでしょう!」

「いえ、私お酒はあまり、」

「えぇ? なんですってぇ!?」

 

 ガヤガヤガヤガヤ。所狭しと並べられた机と椅子は満席であり、どこを見回しても人、人、人である。その喧噪の中にあってはシスネの声は虫の羽音に等しかったか。……否おそらくはカーリヤの恫喝だろう。

 

「諦めたまえよ。こうなっては何を言っても無駄だ」

「悪いなぁ、シスネ。付き合わせちまって」

「はぁ……」

 

 カーリヤとライアーはともかくとして、こういった場の似合わないシスネと、そもそも下戸のレーベンが酒場に来ていることには理由がある。それは当然、無理矢理カーリヤに連れてこられたからだ。

 

 あの森での一夜から既に七日が過ぎていた。

 ポエニスに戻ってから報告と事後処理を這う這うの体で済ませた後は、シスネと二人揃って医療棟へと放り込まれた。なにせ、ライアー達の処置と再生剤によって致命的な傷こそ残らなかったが、本来であれば五体満足であることが不思議な状態だったのだ。よく生きていたものである。

 しかも名目上は正式な聖女と騎士ということになっている為か、宛がわれた病室は二人部屋だったのだ。レーベンとしては嬉しい誤算だったかもしれないが、当然シスネは不満だったのだろう。その鬱憤の矛先が誰であったのかは言うまでもない。幸せだが辛い日々であった。

 そしてようやく居住棟に戻る許可がでた矢先、それを待ち構えていたカーリヤが現れたのだ。

 

「仕事の後はお酒! やっぱりこれに限るわ!」

「もう七日前なんだが」

「そうだよ、七日前にも飲んだんだよこいつは……」

「えぇ……」

 

 ぐびぐびぐびぐび。既にカーリヤの前には空になった木のグラスがいくつも並んでいる。旧知の仲のレーベンは彼女の酒豪ぶりを知っていたが、シスネは戦慄したかのような顔をしていた。そのシスネに、酔いどれ聖女の目がギラリと光る。

 

「シスネ何度も言わせないでちょうだいね! 何飲むのよホラ!」

「だから私は、……あぁもう、なんでも良いです」

「あらそう? ちょっとー! この店で、いっちばん強いお酒を頂戴な!」

「やめてくださいやっぱり自分で選びますから!」

 

 ぎゃあぎゃあと姦しい二人を眺めつつ、随分と仲良くなったものだと、そんなことをレーベンは考えていた。考えている内に、各々が注文した酒や料理が机に運ばれてくる。

 

「じゃあ改めて、乾杯!」

「はいはい乾杯乾杯」

「乾杯」

「乾杯……」

 

 もう何杯目かの麦酒を流し込むカーリヤを後目に、ライアーは薄い安酒をちびちびと舐める。レーベンは何の味気もない水を傾けていると、葡萄酒に口をつけるシスネの黒い瞳と目が合った。

 

「……本当に飲めなかったのですか」

 

 レーベンが下戸なのは元からだが、それ以上に薬との相性が悪いのだ。今回のようにカーリヤから誘われるのは初めてではないが、魔女狩りの後のレーベンは常に薬漬けであった。そのような状態で酒を飲めば、吐くだけでは済まない。

 更にレーベンはもう五年もの間、薬の過剰服用を続けてきたのだ。薬は体に沁みついてしまっており、そう簡単に抜けることはない。今後、己が酒を飲むことは生涯ないと思っている。

 そう話すと、シスネは呆れと憐みと怒りが混じったような目を向けてくる。なんとなく居心地が悪くなり、彼女に問い返した。

 

「そういう貴公は飲めるんだな」

 

 カクトの町長にもカーリヤにも酒は苦手と言いつつ、随分と進みは早い。ライアーなど一杯の安酒を延々と舐め続ける勢いだが、シスネは既に次の杯を注文していた。

 

「人を酒飲みのように言わないでください。得意ではないというだけです。嫌いではありません」

「お、おう」

 

 どうも彼女は既に酔い始めているようだった。酒に弱いが酒は好きとは、それはある意味カーリヤよりも質が悪いのではないだろうか。レーベンは不穏な気配を感じた。

 

「私だって人間ですから、お酒ぐらい飲みますよ。寝る時とか、寝られない時とか……」

 

 明らかに口数の増えたシスネが喋り続ける。だが酒精が悪い方向へと働いたのか、徐々に憂鬱そうな表情にもなってきていた。馬車の中で睡眠薬代わりだと言っていたことを思い出す。彼女にとって酒とはそのような時に飲む物なのかもしれない。

 

「今回だって……」

 

 酔っているのかいないのか、今の彼女は危うい境目の上に立っているようだった。

 それこそ、あの時のミラのように。

 

「本当に、あれで良かったのでしょうか……」

 

 気が付けばライアーは勿論、カーリヤでさえ神妙な顔でシスネを見ていた。周囲の喧噪も聞こえなくなるほどの、重苦しい沈黙がその場に漂う。

 

 

 

 ユアンとミラ。あの父娘への裁きは昨日に下された。罪状は、魔女の隠匿と魔女狩りの妨害、その他いくつかの罪。

 まず、ミラはあまりに幼いということから、その責は父親であるユアンにあるとされた。彼自身もそれを受け入れ、結果としてミラの罪は不問となった。

 ユアンに下された裁きは監獄での労役。期間は最長で十二年とされ、あとは監獄内での働きによるのだという。また教会の銃の入手方法については全て自白したことで、多少は減刑される可能性もあるらしい。

 教会の上位職員たちとヴュルガ騎士長、彼らが教国の法と過去の判例とを照らし合わせた上で下した判決であった。レーベンも含め、ここにいる皆が法に明るいわけでもない。故に、その裁きが厳しいものだったのか寛大なものだったのかは分からなかった。

 ただ確かなのは、あの父娘はこれから十年近くも引き裂かれるということだ。不運に次ぐ不運。運命に翻弄された、どこまでも哀れな家族であった。

 

「もっと、上手くできなかったのかなぁ……っ」

 

 シスネの握る木のグラスが軋んだ音を立てる。その音に我に返ったらしいシスネが、皆の顔を見回した。

 

「すみません、こんな話を」

「シスネはよくやったわよっ!」

 

 ドンッ! とカーリヤがグラスを机に叩きつける。その音と大声に周囲の客から注目されるが、元より喧噪の絶えない店でのこと、皆すぐに興味を失った。

 

「犠牲者が一人でも出ていたら、もっと重い罪になっていたわ。きっと十年どころじゃ済まない」

「あそこまで強力な魔女になっていたのは、魔女化から二年も時間が経っていたからよ」

「発見が遅れていれば、もっと力を増していたかもしれない」

 

 ひどく真剣な顔でカーリヤが語る。既に十杯ほど飲んでいるとは思えないほど芯のある声であった。手にしていたグラスを飲み干し、近くの店員に次の酒を注文してから再びシスネに向き直る。向き直った時にはもう、元の真っ赤な顔に戻っていた。

 

「だからぁ! あんた達がミラちゃん達を見つけたおかげよ! えらいっ!」

「彼女、酔っているのか酔っていないのかどちらなのですか」

「こいつ波があるんだよ、気にしないでやってくれ」

 

 カーリヤの豹変ぶりにレーベンも思わず溜息が漏れる。これがポエニスでも十指に数えられる聖女とは、彼女に憧れる他の聖女たちには見せられない。彼女の赤ら顔を眺めていると、焦点の怪しい碧眼と目が合った。

 

「レイもよく頑張ったわねえらいっ! ご褒美に揉ませてあげる!」

「恐悦至極」

 

 彼女がその豊満な胸を両手で持ち上げ、遠慮なく手を伸ばすがシスネに襟首を掴まれて引き離されてしまった。机の向こうでは同じくライアーに襟首を掴まれたカーリヤが椅子に座らされている。

 

「あまり穢い真似をしていると刺しますよ」

「誠に申し訳ない」

 

 短剣など持っていないはずなのに本気の声であった。心なしか冷たく感じる水を飲みながら、内心で冷や汗を流す。

 黒い視線から逃れるように前を向けば、酒精と人いきれで暑くなったらしいカーリヤが服を寛げようとし、それを止めるべくライアーが奮闘していた。カーリヤの姿はいつもの改造装束ではなく、ライアーもまたそれなりに洒落た私服を纏っている。だがカーリヤの私服はいつにも増して過激であり、胸元やら肩やら腋やら太腿やらが大胆に曝け出されていてレーベンとしても目が離せない。それは周囲の酔っ払い共も同様らしいが、不埒な輩が近付く度にライアーが睨みを効かせているので問題はないようだ。……彼の心労はともかくとして。

 なお、隣に座るシスネはいつもの地味な灰色の服、つまりは聖女の装束姿であった。場に相応しくないと言えば相応しくない服装にカーリヤは憤慨していたが、当のシスネからは「私服を持っていない」という恐るべき答えが返ってきたため流石の彼女も天を仰いでいたのが酒宴の前の話である。

 閑話休題。

 

「それにね、」

 

 また素面(しらふ)に戻ったらしいカーリヤが語りだした。忙しい聖女である。

 

「ミラちゃんを助けられたのは、シスネのおかげじゃない」

 

 その言葉に、水が一層冷えた気がした。ライアーもまた何かに耐えるように目を伏せている。

 

「私達じゃ、あの子を助けられなかった」

「ライアーとレイなら()()()かもしれないけど……私なんて気が動転しちゃって、何も出来なかった」

「ほんと、情けないわ……っ」

 

 震える声でそう言って、両手で顔を覆ってしまった。今にも嗚咽が聞こえてきそうな彼女の姿に、シスネが慌てた様子で腰を上げる。

 

「そんな、私は……私なんか、ただ」

「謙遜禁止ぃぃ――っ!」

「ぎゃああぁぁ――っ!?」

 

 再び豹変したカーリヤの両手が机ごしにシスネの脇腹を鷲掴み、飛びあがったシスネの口から色気の欠片もない悲鳴があがる。あまりにあられもない声にライアーが激しく噎せかえり、レーベンはといえば彼女が放り投げた葡萄酒を頭から浴びていた。大惨事である。

 

「この私が誉めてやってんのにいちいちいちいち(へりくだ)るんじゃないのっ! 揉むわよ!」

「揉んだじゃないですか! もう揉みましたよね!? ねえっ!」

「貴公、とりあえず座りたまえよ。頼むから落ち着いてくれ」

「……元はと言えば、あなたのせいですよね?」

 

 カーリヤにも負けないほど豹変したシスネが静かに怒りの顔を向けてくる。彼女にとってレーベンは諸悪の根源か何かなのだろうか?

 

「おね……姉といいカーリヤといいあなたといい、なぜ触るなと言った所を触るのですか。あなた達には人の心が無いのですか。騎士長なのですか。ジャック・ドゥなのですか」

「ライアー、帰っても良いだろうか」

「ふざけんな」

「どうせ私は臆病者よぉ……! 笑いたきゃ笑いなさい! もう一杯!」

 

 静かな声で絡み酒を始めるシスネに、レーベンは段々と逃げたくなってきた。顔が近いがまるで嬉しくない。そもそもレーベンはシスネに自分から触れたことは無く、あの騎士長よりは人間性を保っている自信はあり、かの悪騎士より悪評を頂いてはいない……はずだ。それにしても彼女には家族が何人いるのだろうか。

 何故か今度は泣きだしたカーリヤを宥めるライアーに同情しつつ、レーベンの頭を手巾(ハンカチ)で拭きながらも据わった目で距離を詰めてくるシスネから距離をとる。

 長い夜になりそうだと、レーベンはひそかに溜息をついた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二人でかたる

「じゃあな、先に帰るわ……」

「気を付けたまえよ」

「お互いにな……」

 

 酒宴が始まって何時間経ったのか。夜も更け、周囲の客もまばらになり、遂にカーリヤが動かなくなってから、疲れ切った顔のライアーが席を立った。二人分の支払いを済ませ、カーリヤを横抱きにふらふら歩いていく大きな背中を見送る。もっとも、結局は安酒をごく少量飲んだだけの彼が酔っているはずもなく、ただ単に飲み過ぎた聖女が重いだけだろう。無事に帰れると良いのだが。

 

「貴公は大丈夫か、まだ飲むのか」

 

 もう一人の聖女は未だグラスを片手に芋の揚げ物を齧っている。ちらと黒い瞳がレーベンを一瞥し、グラスの残りを呷った。

 

「ご心配なく。自分の限界ぐらい分かっていますから」

「そ、そうか」

 

 咀嚼しながら口を開くような真似こそしなかったが、指先に付いた塩を行儀悪く舐めているあたり完全な素面とも言い難い。だが酒の進みは目に見えて落ちており、酒に弱いなりに自身の許容量は弁えているのだろう。……いっそ酔い潰れてくれた方が楽だったかもしれないが。

 

「……結局、水だけですか」

 

 水差しとグラスしか置かれていないレーベンの手元をシスネが見やる。この数時間、レーベンはただ延々と水を飲み続けていたのだ。

 

「飲めないからな」

「何か食べれば良いのに」

「金が無いからな」

「あげませんよ?」

「いらないが?」

 

 シスネが残りの芋揚げを遠ざけるが、レーベンも物乞いのような真似までするつもりはない。自分で飲み食いした分は自分で支払う、そういう取り決めの元でこの酒宴は開かれたのだ。カーリヤなどいったい何枚の銀貨、いや金貨が飛んでいったというのか。結局はカーリヤの懐から抜き出した財布の中身だけでは足りず、ライアーが青い顔をしながら残りを支払っていた。相変わらず不憫な男である。

 そして元より素寒貧(すかんぴん)のレーベンは事前に教会の食堂で食事は済ませていたのだ。カーリヤとの酒宴が長引くことは嫌というほど知っていたのだから、当然の策である。

 

「お金が無いって……あなた報酬はどうしたのですか」

 

 カクトでの魔女狩りの報酬は既にレーベンも受け取っている。加えて、あの森で魔女を討伐したことも認められ、追加の収入まで得られたのだ。それこそ一晩飲み明かしても釣りが出るような額であり、そんな大金をもう使い切ったのかと、シスネの瞳に険が増す。

 

「医療棟からこそこそ抜け出していたのは、そういうことですか……本当に穢い人」

「誤解があるようだが、(やま)しいことには使っていないぞ」

「ふーん……」

 

 トントンと白い指が苛立たしげに机を叩く。黒い瞳が白状しろとレーベンを睨んでいた。おおかた賭場か娼館にでも行っていたと疑われているのだろうが、女神に誓ってそうではない。レーベンが行っていたのは技術棟である。

 今回初の実戦となった機械剣の修理と整備の為だ。あれほど複雑怪奇な武器を手入れできるのは製作者であるアルバット以外におらず、当然それは無償ではない。金銭に加えて、使用感や問題点などの情報も提供し、それを元に更なる改良を加えた上でレーベンの手に戻る予定だ。

 それを説明するも、シスネの瞳は未だレーベンを睨んで放さない。

 

「あんな非常識な武器を作る技術者です、あまり良い付き合いとは思えませんね」

「まあ、変わり者ではあるな。だが腕だけは確かだぞ」

「そういう問題ではありません」

 

 彼女は機械剣だけでなく、過剰に強力な薬物をレーベンに持たせていたことも気に入らないようだった。たしかに強化剤も再生剤も元から劇薬に近い代物であり、それを更に濃縮させたあれはもう毒薬と変わらない。あれもまたレーベンの所感を元に改良するそうだが、アルバットはいったい何を目指しているのだろうか? どうせ碌なものではなさそうだが。

 今も薬には用法と用量が云々と語っているシスネは、やたらと薬に厳しい。レーベンの腕を治療した技術といい、本格的な医療道具といい、彼女には医療の心得でもあるのかもしれない。

 

「――ですから、医療者の方が出歩くなと言ったのなら……ちょっと、聞いているのですか!」

「いや、抜け出していたのは貴公も同じだろうに」

 

 ぐう、とシスネが口を噤んだ。

 

「見ていたのですか……」

「見ていたとも」

「誠に申し訳ありませんでした」

 

 誰に謝罪しているのだろうか。特に聞いてもいないのにシスネが語ることには、ユアンたち父娘に会いに行っていたのだという。

 判決が出てすぐに開放されたミラと共に、聖都の近くにある監獄まで護送されるユアンを見送ったらしい。散々に泣きはらした二人の目にもう涙は無く、ただ憑き物が落ちたかのように晴れやかで、寂しい顔だったとシスネは語った。

 

「“今度会う時はミルスと同じぐらいだな”と、そう言っていました」

「そう、か」

 

 最長で十二年。短く見積もっても十年弱。今まで共に生きてきた月日よりも長い年月を、これからあの父娘は別々に生きることを強いられるのだ。

 ユアンは監獄へ。そこが過ごしやすい場所であろうはずもなく、彼には厳しい労役が待っている。あの哀れな男が、いったい何をしたというのか。

 ミラは孤児院へ。レーベンも過ごしたあの場所は教会の管轄であり、聖女と騎士の素質を持つ者を養成する場も兼ねている。彼女には職員による厳しい教育が待っており、教会を恨んでいるであろうミラが馴染めるとは思えない。あの哀れな少女が、いったい何をしたというのか。

「これで良かったのか」と、「もっと上手くできなかったのか」と、シスネは悔やんだ。ならば、レーベンは?

 結局、レーベンはあの家族に何が出来たのだろうか。

 偶然あの幽霊のような何かに遭遇し、森の中でひっそり生きていた父娘を暴いた。洞窟に閉じ込められていたミルスが暴れ出したのもレーベンが原因だったのかもしれない。ユアンを見捨てようとし、ミルスを守ろうとする二人に刃と殺意を向け、それでも魔女は狩れず、最後はミラをも殺そうとしたのだ、この自分は。

 何が出来た?

 ミルスを救ったのはライアーとカーリヤと、そしてユアンだ。ミラを助けたのはシスネだ。

 レーベンにはいったい、何が出来た?

 

「何も、出来なかったな」

 

 英雄になりたいなどとは思っていない。思ったこともない。己は他者よりも劣った存在であるという実感はずっと昔からレーベンについて回り、そしてそれはいつも事実だった。

 聖女なき騎士。それはシスネという仮初めの聖女を得た後も変わらず、本物の騎士であるライアーの足元にも及ばない。

 対して、シスネの活躍のなんと素晴らしいことか。聖性は自身には使えず、つまりは何の力にも頼らずに女の身で魔女に立ち向かう。的を外さない銃の腕も、戦い以外の様々な技術もレーベンには無い。そして、今まさに魔女と化そうとしていた少女(ミラ)を助け出したあの光景は、きっと生涯忘れることはないだろう。

 不相応なのだ、結局は。

 シスネは異端でありながら、聖女以上に聖女らしい。騎士もいないというのに、いや元から騎士など必要ないのかもしれない。

 最初から彼女はそう言っていたではないか。レーベンと契りを交わす気はないと。

 そう、レーベンなど、誰からも必要とは――。

 

 

 ドン、と。グラスが机に叩きつけられた。

 

 

「……貴公?」

 

 憂鬱な考えに耽っていたレーベンは、突然響いた音に顔を隣に向ける。

 そこには当然シスネがおり、彼女は店員に何か注文をしてから再びこちらを見た。黒い瞳はいつも以上に厳しい光でレーベンを見据え、酔いなど微塵も感じさせない声でシスネが口を開く。

 

「何度も言いますが、私はあなたが嫌いです」

「そうだろうな」

 

 心でも読まれていたのだろうか。ついさっきまで自嘲に沈んでいたレーベンに、その言葉はよく響いた。

 慈悲深く、優秀で、高潔な彼女には、レーベンなどさぞ穢らしい存在に見えることだろう。よく言われているではないか。「穢い人」だと。

 

「契りだって、あなたとは絶対に交わしません」

「当然だな」

 

 彼女にはレーベンなど必要ない。何の役にも立たないのだから当然だ。むしろ傍にいない方が良いのだろう。きっと。

 

「あなたのやり方だとか、考え方だとか、言い方だとか、いちいち癇に障ります」

「そろそろ勘弁してくれないか」

 

 時折、彼女はレーベンに感情(こころ)が無いとでも思っているのではないかと考えることがある。こんな己でも、罵られれば人並に傷つくのだ。おそらくは。

 いっそこの場で酒をかっくらい、薬の副作用で昏倒してやろうか。慈悲深い聖女様が介抱してくれるかもしれないし、捨て置かれて死ぬかもしれない。レーベンとしてはもう、どちらでも構わない。

 そんな、自棄と嫉妬が入り混じった、荒んだ考えが頭を過った時だった。

 

 

「それでも、私はあなたにお礼が言いたいのです」

 

 

「……は?」と、無意識に声が漏れる。ほぼ同時に、店員がレーベンの前に何かを置いた。

 

「何だこれ」

「焼き菓子ですが」

 

 聞きたいのはそれではない。

 皿に目を落とすと、特に高級そうでもない焼き菓子が鎮座している。このような店でもこのような甘味が置いてあるのだなと、素朴な発見ではあった。

 

「持ち合わせが無いんだが」

「ツケておきましょう」

 

 奢りではなく、礼とやらの品でもなかった。ならば尚のこと、彼女の行動の意味が分からない。

 

「覚えていますか、私がミラに何を聞いたのか」

 

 焼き菓子から目を上げて隣を見る。思いのほか近い位置に黒い瞳があったが、視線の強さに仰け反ることもできなかった。

 あの時の、彼女の問い。当然覚えている。あの光景そのものが、レーベンには決して忘れられない物なのだから。

 

「……“ミラは何がしたい”」

「その答えが、これです」

 

 シスネが語る。二人でユアンを見送り、職員に連れられて孤児院に向かうミラを見送る際、そう言ったのだと。

 

 

 

『あんなにおいしいお菓子、はじめて食べた』

『また食べたい。もっと食べたい』

『あの時そう思ったら、心がすこしだけ、あたたかくなった』

『お母さんとお姉ちゃんとは、もう食べられないけど』

『またお父さんと会えたら、いっしょに食べたい』

『だから、わたし、がんばるよ』

 

 

 

 言われて思い出した。

 あの夜、たしかミラ達の小屋に着いた時、シスネが彼女に焼き菓子を持たせたのだ。二年もの間を森の奥で質素な生活を続けていた少女には、何の変哲もない焼き菓子であってもこの上ない御馳走だったのだろうか。それこそ、魔女化に抗うほどの鮮烈な記憶として刻まれるような。

 

「そうか……すごいな、貴公は」

 

 これもまたシスネの功績だ。勿論、シスネとて予想した上での行動ではなく単なる偶然だったのだろう。単なる、子供に対する彼女の優しさ故の行動。だが結果として、それが魔女になり果てようとしていた一人の少女を人に繋ぎ留める(くさび)となったのだ。

 まるで英雄譚そのものだ。運命に愛されているとでも言うのだろうか、この聖女は。

 だがその聖女は、「何を言っているのだ」とでも言わんばかりに胡乱な視線を向けてくる。

 

「何を言っているのですか、あなたは」

 

 本当に言われた。言われて、彼女の白い指がレーベンの胸を強く突く。

 

「あなたの、おかげでしょう」

「……?」

 

 ?

 どういう、ことなのだろうか。本当に意味が分からない。

 もしや、彼女もこう見えて実は酔っているのではないか。そんな疑念まで感じ始めた頃、シスネの口から盛大な溜息が漏れる。

「ぜんぶ言わないと分からないの……?」と心底呆れたような独り言まで聞こえた。馬鹿で誠に申し訳ない。

 

「あの焼き菓子を私にくれたのは、あなたでしょう?」

「あなたがあれを買ってきてくれたから、ミラは魔女にならなかったのです」

「だから、あなたのおかげなのですよ! ミラが助かったのは!」

 

「――――」

 

 言われて思い出した。

 そう、あれはカクトでの魔女狩り、その一日目のこと。酒場に食料を調達しに行った際、ついでに果実酒と、そしてあの焼き菓子を買ったのだ。

 何も考えてはいなかった。ただ、仕事をやりやすいように店主からの心証を良くしておこうと、ただそれだけの理由で買った。教会に戻り、袋ごとシスネに渡した時にはもう焼き菓子のことなど忘れていた。

 偶然。単なる偶然だ。だが結果として、それが魔女になり果てようとしていた一人の少女を――。

 

 否、そうではない。

 

 シスネの理屈はおかしい。そもそも焼き菓子などただの切っ掛けに過ぎず、ミラが魔女化に抗ったのは(ひとえ)にあの少女の生への執着だ。食べたいと、生きたいという意思こそが、ミラを人へと繋ぎ留めたのだ。

 そしてその意思を呼び覚ましたのはシスネの言葉だ。我が身も顧みない決死の呼びかけこそが、ミラを目覚めさせたのだ。

 それらを無視してレーベンに華を持たせるのはおかしい。その理屈が通るなら、レーベンに菓子を売ったカクトの店主も、レーベン達を派遣した騎士長も、ポエニスに依頼を出した町長も、町長に指示していたマンダルとアナも……と、その功績は無限に広がってしまう。延々と続く因果の鎖、その一つにレーベンの名前が偶然にも刻まれていたに過ぎないのだ。

 故に、これは。

 じっと、シスネの瞳を見返す。彼女の黒い瞳には、黒髪の、灰色の目をした、見飽きた男の顔が映っていた。そう分かる程じっと凝視しているというのに「見るな」とも言われない。

 

 要するに、彼女はレーベンを元気づけようとしているのだ。

 

 何も出来なかったと、そういじけている情けない騎士擬きに。お前でも欠片ほどは役に立ったのだから元気を出せと、そう言っているのだ。その為だけにこんな回りくどい真似をしたのだ、この聖女は。

 なんという――。

 

「……何を笑っているのですか」

「笑っているのか、俺は?」

「ええ、ニヤニヤと。本当に穢らしい笑い方ですね」

 

 彼女にはそう見えるらしい。誰にも、己ですら読み取れないレーベンの表情を、彼女は何故こうも容易く見抜いてしまうのか。彼女に言わせれば、「どう見ても笑っている」そうだが。

 シスネが顔を逸らし、不機嫌そうに頬杖をつきながら不機嫌そうに口を開いた。

 

「そろそろ出ましょう。さっさと食べてください」

「食べるのが勿体ないな。このまま箱にでも仕舞うか」

 

 半ば本気で言っていると、溜息をついたシスネにフォークを奪い取られる。それを焼き菓子に突き刺し、そして……。

 

「ふんっ!」

「あがぁ――っ!?」

 

 あろうことか、そのままレーベンの口に丸ごと突っ込んできた。魔女に短剣を突き刺す時とまるで同じ勢いである。フォークが喉に刺さらなかったのは奇跡だ。

 聖女の見せた突然の暴挙と、口内を埋め尽くす甘そうな食感に目を白黒させていると、当のシスネは腹を抱えて笑っていた。

 彼女はいつも笑う時に口許を隠す。今回も例外ではなく、細い指から垣間見える唇は悪戯小僧のようにひん曲げられていた。隠されていない目は細く閉じられ、眦からは涙すら光っている。

 

「――ふ、っくく、さっさと食べないからですよっ、いい気味です」

「あ~ん、なんてしてもらえるとでも思いましたか?」

「残念でしたね、私はあなたが思っているような女ではないのですよ」

 

 この聖女(おんな)……。

 いっそ報復覚悟で脇腹を揉んでやろうか。冗談抜きで刺されるかもしれないが、それで死ぬならまあ、それも悪くない。そんな気分だった。

 そんな気分で、口の中の焼き菓子をようやく全て飲み込んだ時だった。

 

「……? ……なあ、おい貴公……?」

「あっは、ふ、ふっ……はい?」

「これ、まさか……酒、はいって」

「…………え゛」

 

 口内の柔らかな食感、それに混じるわずかな酒精。水しか飲んでいなかったはずの体が、じわじわと何かに侵されていくのを感じる。体内に残った薬と反応したのだ。

 はっとした顔のシスネが品書きを手に取り、更に顔を青くした。そこには「蒸留酒入り」と、確かにそう書かれている。

 

「お、う……え、」

「ご、ご、ごめんなさい! ごめんなさいっ! 私そんなつもりじゃ……! み、水を、そうじゃなくてっ、は、吐いてください! 吐いて!」

「ぐ……ふ、へ……」

「なに笑ってるんですか!? あぁもう……! 誰か、誰かぁ!」

 

 頭がぐらぐらと回り、暑苦しさと寒さを同時に感じる。だというのに彼女の取り乱した様子がひどく面白くて。してやったりだと、いい気味だと、そんな気分だった。

 

「寝ないで! ちゃんと吐かないと! ちょっと聞いてるんですか! レ――――」

 

 狭い視界を埋め尽くすシスネの慌て顔を見ながら、悪くない気分でレーベンは意識を手放した。

 

 

 ※

 

 

 珍しく、レーベンは夢を見ていた。

 ある一人の男の夢だ。平凡な村に生まれた、平凡な男の物語(ゆめ)

 平凡に生まれ、平凡に成長し、平凡に働き、平凡に恋をし、同じく平凡な女と結ばれる。

 だがその平凡な女は、男にとって誰よりも美しい妻であり、彼女の間に授かった娘たちは――。

 

 聞き覚えのある話だった。あの平凡で哀れな父親(ユアン)と、まるで同じ物語。

 ひとつだけ異なるのは、この男には何ひとつとして残らなかったということ。

 妻は魔女となって殺され、二人の幼い娘たちも連れ攫われ――「予防」されてしまった。

 

 男は変わった。

 あれほど己を苦しめた「予防」を、今度は男が別の女たちに施した。

 女が魔女となれば、それに立ち向かった。碌な武器も持たず、我が身も顧みず魔女を狩った。

 右目と左腕を失くそうと、止まることはなかった。

 

 男は騎士となった。

 だが男にとって聖女とは、ただ魔女狩りの道具でしかなかった。

 どの聖女の聖性とも相性は悪く、力もほとんど増さなかった。

 そんな男だから、聖女も皆去っていった。

 それでも構わなかった。男は聖女など愛さなかった。

 男が本当に愛した者たちは、もうどこにもいないのだから。

 

 男は魔女を狩った。

 相手を選ばず、手段も選ばず、ただひたすらに魔女を狩り続けた。

 誰にも称えられず、誰にも理解はされなかった。

 最弱の騎士であると罵られ、最悪の騎士であると蔑まれ、それでも男は止まらなかった。

 

 男は死んだ。

 無残で哀れな最期だった。

 聖女と騎士の物語は、いつだって悲劇で終わるのだから。

 

 男は何を成せたのだろう。何を遺せたのだろう。何が出来たのだろう。

 ひとつだけある。ひとつだけしか。

 それは、魔女を狩ったこと。

 最弱で最悪の騎士は、だが誰よりも多くの魔女を狩ったのだ。

 あの大騎士(コルネイユ)よりも、あの女騎士(ヴァローナ)よりも、誰よりも。

 聖女の助けも碌に無かった。時には聖女すらいなかった。

 それでも男は魔女に立ち向かい、己の体と知恵と、その意思のみを以て魔女を狩り続けたのだ。

 それだけが、男が成せたこと。

 

 

 レーベンは思い出した。

 その男の名は、ジャック。

 悪騎士ジャック・ドゥ。

 それは、レーベンという名の少年が、唯ひとり憧れを抱いた騎士の名だ。

 

 

 ◆

 

 

 目が覚めて最初に見たのは、自室よりも見慣れた医療棟の天井だった。

 隣の寝台には青い顔のカーリヤ。その傍らに、やつれた顔のライアー。

 己の寝台の傍らでは、何故かシスネが床に正座していた。

 

「なんだこれ」

 

 あまりにひどい状況に、今見た夢の中身は忘れてしまった。

 とても長くて短い、哀しい夢だった気がした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三章 ある騎士の黄昏
嵐の先触れ


 聖女と騎士の物語は、いつだって悲劇で終わる。

 

 それは最初の聖女と騎士たちも例外ではなく、多くの英雄譚で語られる彼らと彼女らも、悉くが悲劇に散っていった。

「もっとも悲劇的な最期を遂げたのは誰か」

 そんな罰当たりな話を大っぴらにする者はそういないが、全くいない訳でもない。誰だって、他者の不幸は甘いものなのだから。

 九人の恋人が魔女となり、その全てを狩り尽くした果てに自刃したコルネイユだろうか?

 病に侵され、戦いの中で散ることができず失意の中で死んでいったヴァローナだろうか?

 誰からも称えられず、理解されず、後世にまでその悪名を刻まれたジャック・ドゥだろうか?

 魔女に捕らえられ、その美しい顔も体も、見る影もなく八つ裂きにされたシーニュだろうか?

 あるいは、聖女キノノスだろうか?

 

「はじまりの聖女」キノノス。

 その名の通り、この世で初めて聖性を操る術を発見した、最初の聖女である。

 カエルム教国を救ったのが敬虔な教徒である彼女であったことは、正しく名の無い女神の思し召し。魔女によって苦しめられていた民に差し伸べられた救いの手であると、誰もが疑わなかったという。

 

 だが彼女は、別の名でも知られている。

 「殉教者」キノノス。

 彼女こそが、もっとも悲劇的な最期を遂げた聖女であると語る者は数多い。

 何故ならば、彼女は最初の――

 

 

 ◆

 

 

 やる事は単純だ。

 (はり)に渡された鉄の棒にぶら下がり、体を持ち上げる。持ち上げたら、今度はゆっくりと下ろす。その繰り返し。回数は決めず、数えることもない。腕の筋肉が悲鳴をあげ、もう体が持ち上がらなくなった時が終わりだ。終わりのはずなのだが。

 

「もう一回! もう一回いけるわよレイ!」

「ぐ、ぞ、がぁ……っ!」

 

 ぶるぶると震える腕が鉄棒を手放そうとした矢先、無慈悲な声援が響いた。たかが一回、されど一回。その一回が果てしなく重いのだ。簡単に言ってくれる。

 

「ぐ、ぬお、が、がぁ……っ!」

「うわ、本当にもう一回やったわよこの馬鹿」

「せめて誉めてやれよ」

 

 気が遠くなりそうな思いで体を持ち上げ、次の瞬間には限界を超えた両腕がレーベンの意思に関係なく鉄棒を手放す。着地と同時に虚脱した体が崩れ落ち、鍛錬棟の床に仰向けで倒れた。

 季節は雨季。数日前から降り続ける長雨も相まって、鍛錬棟の中はひどく蒸し暑い。その中で騎士たちは皆、一心不乱に己の鍛錬をこなしていた。匂い立つ熱気、飛び散る汗、はち切れんばかりの筋肉。旧聖都ポエニスの騎士たちは今日も元気である。

 

「……女騎士ヴァローナは言った、“今日も元気だ、肉が美味い”」

「言ってねえよ」

 

 鍛錬棟の広間の中央には、そのヴァローナの石像がこれ見よがしに鎮座している。鎧どころか衣服すらほぼ纏っておらず、女性とは思えない程に筋骨隆々の肉体を見せつけていた。特にその見事な角度で天を指している両胸を眺めていたレーベンの耳元で、踵の高い靴音が響く。

 

「女騎士ヴァローナは言ったわ、“我が身は卵で出来ている”」

「だから言ってねえよ」

 

 洒落た靴から伸びるしなやかな脚線を辿り、だがその付け根に視線が達する直前で頭を踏まれる。顔の向きを無理矢理に変えられたレーベンの視界は、屈強な騎士たちの筋肉でいっぱいになってしまった。見られたくないのなら晒さなければ良いのではないか。レーベンの長年の疑問である。あと尖った踵が頬にめり込んでいるので非常に痛い。

 なんとか彼女の足から脱し、体を起こしたレーベンの傍にはそれぞれ趣の異なる肉体美を持った男女がいた。

 

「いいかお前ら、ヴァローナ卿に格言は無い。彼女は喋る間も惜しんで己を鍛えて魔女を狩ったんだ。見ろあの姿を。この鍛錬棟に彼女の御像が建てられているのはつまり――」

 

 珍しく饒舌に語る騎士――ライアーもまた鍛錬に汗を流した後らしい。上半身には何も身に着けず、その鍛え上げられた肉体を露わにしている。

 大柄な者が多い騎士の中でも更に抜きんでた長身。その体躯に纏った筋肉は固く引き絞られ、それでもなお圧倒的な威容を誇っている。ありふれた茶色の髪と鳶色の目を持った、だが精悍な顔付きの偉丈夫だ。

 

「えぇ……いきなりどうしたのよ、ライアー」

 

 彼の隣で彼を見上げる聖女――カーリヤは化粧が崩れるのが嫌なのか、しきりに手巾(ハンカチ)で汗を拭きとっている。それでもなお、その美貌は健在であった。

 女としては高い背丈は、その靴の高い踵によって更に嵩上げされている。長くしなやかな脚線、見事な曲線を描く腰、目を見張る程に豊かな両胸、それらを強調する過激な改造装束。輝くように波打つ金髪と鮮やかな碧眼を持った、非の打ちどころのない美女だ。

 

「そうだった。貴公はヴァローナの信奉者、つまりは鍛錬と筋肉が好きだったな」

「これさえ無ければまあ、悪くない男なんだけどねぇ」

「うるせえ! ヴァローナ卿を馬鹿にすんな、この不敬者どもが!」

 

 体躯に見合わず控えめな態度の多い彼にしては珍しい強硬姿勢。その剣幕には然しものカーリヤも若干引いたようであった。「怒らなくてもいいじゃない……」と唇を尖らせると、彼もすぐに冷静さを取り戻してはいたが。

 こう見えてもこの二人、ポエニスの聖女と騎士の中でも優秀とされる一組である。高い実力は勿論のこと、人柄も充分に良いとなれば当然だろう。カーリヤに至ってはその美貌と豊麗な肢体から更に人気を集めており、聖女シーニュの再来であるとまで言われている。今もまた、腕立て伏せの真っ最中であった少年のような騎士が眼前を歩くカーリヤの脚線に目が釘付けになり、その傍らにいた少女のような聖女が顔を真っ赤にして彼の背中を踏みつけていた。頑張りたまえよ、これも鍛錬だ。

 

「悪かった。何を隠そう、俺も筋肉は嫌いではない」

「ライアーに比べれば鶏ガラね。……傷はすごいけど」

「お前は少食すぎるんだよ、肉食え肉。……あと薬を控えろ」

 

 レーベンとて腐っても騎士。充分に鍛えられているはずの体を見せつけてみるも一瞬で斬り捨てられた。相手が悪すぎる。体だけでなくあらゆる面でレーベンより遥かに格上の二人であるが、何故こんな己などと友人を続けているのか。それもまた長年の疑問であった。

 現に、鍛錬に戻った二人は他の聖女や騎士から頻繁に声をかけられており、彼と彼女が相当に慕われていることが分かる。特にカーリヤが若い聖女たちに囲まれた様など、ここが殺風景な鍛錬棟だということを忘れてしまいそうな程に華やかだ。ライアーもまた屈強な騎士たちに囲まれているが……。レーベンは見なかったことにした。

 

 なお、この鍛錬棟に用は無いはずの聖女たちまで大勢集まっているのはカーリヤの影響である。彼女が言うには、騎士が一人でただ鍛錬するよりも聖女が傍で見ている方がより鍛えられるらしい。更に効果を上げたいのであれば声援を送れば良いのだと。

 今もそこかしこから、「頑張って!」「もう一回!」「輝いてる!」など聖女たちの高い声と、苦痛と快感を綯い交ぜにしたような騎士たちの低い唸り声が響いている。皆、仲が良くて羨ましい限りである。

 

 一方、名目上はレーベンの聖女ということになっている「彼女」は、鍛錬棟の隅で黙々と銃を撃っていた。延々と銃声が響く中に立つ、その細い背中に近付いていく。

 まず何よりも目を引く、真っ白な髪。色も癖もないそれは腰まで伸ばされ、今日は普段と異なり後頭部に結いあげられている。おそらくは暑さの為だろう。馬の尾のように揺れる白髪から覗く細い首筋は汗に濡れていた。ほっそりとした痩身を包む灰色の装束も着崩されており、肩掛けを外したせいで露わになった肩は輝くように白い。

 カーリヤの改造装束などに比べれば慎ましやか極まりないというのに、僅かに覗いた彼女の素肌を正視できず、レーベンは目を逸らした。

 

「なあ貴公、貴公、あれは良いものだと思わないか」

「……何か言いましたか?」

「誠に申し訳ない」

 

 短銃を下ろし、耳栓を抜いた白髪の聖女――シスネが黒い瞳でレーベンを横目に見る。彼女は本当にただ聞こえていなかっただけなのかもしれないが、思わず謝ってしまった。いつだってレーベンに対しては険のある口調なのだ、この聖女は。

 

「ああして鍛錬の質を高めているらしい。俺の聖女もそうしてくれて良いとは思わないだろうか」

「あなたにも聖女がいたのですか。それは初耳ですね」

 

 平坦な口調で非常に傷つくことを宣った聖女は再び耳栓をして射撃の訓練を始めた。もうレーベンには一瞥もくれようとはしない。慈悲は無かった。

 この射撃訓練の場は以前から鍛錬棟にあったが、シスネが来るまではほとんど誰も使用していなかった。騎士が銃を扱うことは少なく、聖女もまた銃で本格的に魔女と戦うことは無いのだから当然と言うべきか。そういうわけで、今現在もシスネの貸し切り状態である。

 撃ち終わった短銃を折り曲げ、開放された弾倉から薬莢が飛び散る。細い指先に挟まれた弾薬が次々と装填され、落とされた薬莢が床を転がる頃には振り上げた銃身が元の位置に戻っていた。その間、シスネの黒い瞳は的から一瞬も外されていない。

 その後もシスネは黙々と的を撃ち続けた。両手で、右手で、時には左手だけで。立って撃ち、屈んで撃ち、寝そべって撃ち、時には歩きながら撃つ。様々な姿勢から放たれた銃弾はだが悉く的の中心近くを撃ち抜いており、その腕前は見ていて飽きないものだ。

 

「……何度も言わせないでもらえませんか」

 

 見ていて飽きないのだが、当のシスネは心底嫌そうに呆れた声を向けてくる。視線に敏感らしい彼女はレーベンが凝視することを良しとせず、じろじろ見るなと再三言われている。レーベンとて気を付けてはいるのだが、己の視線はどうにも彼女を追おうとするらしい。

 

「それは誠に申し訳ないのだがな」

「だが、何ですか」

「見ているのは俺だけではないぞ」

「え?」

 

 さっとシスネが振り返り、そして黒い瞳を見開いた。

 レーベンの周りには既に人だかりが出来ていた。当然、彼らはレーベンを慕って集まってきたのではなく、シスネの銃の腕前を見物していたのだ。その最前列の特等席で見ていたカーリヤが手を叩きだすと、他の聖女と騎士たちも続いて手を叩きはじめる。鍛錬棟には場違いな拍手の音に、鍛錬に集中していた他の者たちまで集まってきた。

 

「~~っ!」

 

 突然に注目の的となったシスネの変化は劇的だった。白い顔がカッと赤く染まり、机に放られていた肩掛けを慌てて身に着ける。この場から立ち去ろうとするような素振りも見られたが、人垣が壁となってそれもできなったらしい。視線から逃れるよう的に向き直るが、その手付きは先程までとは比べものにならないほど危なっかしいものだ。

 

 ――まずいか

 

 レーベンは内心で歯噛みした。チラと見たカーリヤもばつが悪そうな顔をしており、彼女はシスネが皆と馴染めるようにこの場を用意したのであろうが、逆効果となってしまった。否、効果がありすぎたと言うべきか。

 今も聖女と騎士たちからは「見事だな!」「すごい!」「やるな!」と賞賛の声があがっているが、それを向けられるシスネの細い肩はふるふると震えていた。髪を結われて露わになった耳など遠目に分かる程に赤い。

 どうしたものかと、無い頭を働かせていたレーベンが答えを出す前に、カーリヤが前へと出た。

 

「ちょっと御免なさいね」

「え、」

 

 体を縮こまらせていたシスネの横にカーリヤが並び、そのスカートの切れ込みを開ける。露わになった太腿に括りつけられたホルスターには、繊細な彫刻を刻まれた短銃。いつ見ても派手なその銃にレーベンは呆れと感心を同時に抱き、銃よりむしろ脚を凝視していた少年騎士が傍らの聖少女に足を踏まれて悲鳴をあげ、次の瞬間に轟音が響く。

 レーベンを含めた皆が目を見張り、その時にはもう、カーリヤの手の中で銀の短銃がクルクルと踊っていた。ストン、とホルスターに銃が戻され、同時に大穴を開けられた的がガラガラと崩れ落ちる。

 一瞬の静寂、そして喝采が響き渡った。

 恐るべき早撃ちであった。カーリヤはあの一瞬で短銃を抜き放ち、碌に狙いもせず三連射したのだ。だがそれでも全弾が的を撃ち抜き、結果としてあの大穴ができあがった。精密で丁寧なシスネの射撃とはまるで異なる、豪快で大胆な射撃だ。

 一瞬にして注目を集めたカーリヤはいつものように自信に満ちた笑みを浮かべ、その陰でシスネは安堵したような顔をしていた。そのまま、そそくさと人垣に紛れて逃げようとしている。だがそれをカーリヤは許さなかった。

 

「……」

「……」

 

 言葉は無かった。二人の視線がただ交差しただけ。

 ふふん、と。カーリヤの碧眼が勝ち誇ったように歪む。細められた青い眼光がシスネを見下ろしていた。

 むっ、と。シスネの黒い瞳が眦を吊り上げる。挑むように、黒い眼光がカーリヤを睨み上げた。

 無言で踵を返したシスネがつかつかとカーリヤの横に戻り、再び肩掛けを脱ぎ捨てた。カーリヤもまた無言で銃に弾を込め、コキリと首を鳴らす。

 そして、二人が同時に銃を振り上げた。

 シスネが見惚れるほど無駄のない構えで銃を連射する。等間隔に六の銃声が響き、的の中心に小さな穴が一個だけ開いた。

 カーリヤが踊るような動きで銃を連射する。反動のまま薙ぎ払うように六の銃弾が放たれ、的を斬り裂くように六個の穴が開いた。

 鍛錬棟に響く銃声の残響。それが止むと同時に、場が再び拍手と喝采に満たされた。

 ふん、と。シスネが鼻息を漏らす。

 

「まぁ、動かない的ですからね。こんなものです」

「え? でも一発しか当たってないぞ」

 

 思わずといった様子でライアーが呟く。言ってから過ちに気付いたらしいが、もう遅かった。シスネの黒い瞳がライアーを捉える。

 

「全部同じところに当てたのです。あなたの目は節穴ですかっ」

「わ、悪い……」

「えー、本当にぃ?」

 

 静かに怒るシスネ。狼狽えるライアー。あからさまに挑発するカーリヤ。そしてレーベンは知っている。彼女は存外に短気なのだ。

 ひくり、とシスネの唇が引きつった。

 

「……だったら的を確認しますか。それとももう一度、いえ何度でもやってみせましょうか。あなたには一度も出来ないでしょうけど」

「でも同じ所に当てたからって何なのかしら? 実戦では役に立たないでしょう、そんな小技」

「当たらない銃こそ何の役にも立たないではないですか。だいたい何ですか、その撃ち方は」

「大事なのは速さよ、は・や・さ。トロトロと狙ってたら魔女に食べられちゃうわよ?」

「はっ! 銃に無駄な飾りなんてしておいてよく言いますね。銃も胸も重そうで見ていられません」

「ちょっと、胸は関係ないでしょう!」

「だったらなんでそんなに見せているのですか!」

 

 ぎゃあぎゃあと脱線し始めた口論を重ねながらも、二人の手は淀みなく銃に弾薬を込め、引き金を弾き、的を穿っていた。シスネはもはや周囲からの視線など見えてはいないらしく、カーリヤも最初は演技だったのだろうが今は明らかに本気だ。

 ライアーはいつものように額に手をやり、聖女たちは各々がどちらを応援するのか話し合っている。騎士たちに至ってはどちらが勝つのか賭けまで始めていた。

 レーベンは、すこし離れた位置からその喧噪をただ眺めていた。

 

 

 

 きっと皆、不安なのだ。

 魔女狩りの依頼は減り続けており、ここ数日はついに一件も無くなった。魔女が出ないことは喜ばしいことだ。だがそれで安心するほど、ここにいる者たちは能天気ではない。何か恐ろしいことが起きようとしているのか、()()()()()()()()()()()()()

 皆が不安で、だが不安だからこそ、ここでこうして集まり、鍛錬に没頭しようとしているのだ。レーベンもそうだ。ライアーも、カーリヤも、他の皆も。きっとシスネも。

 鍛錬棟の外では今も雨が降り続けている。まるで、嵐の先触れのように。

 

 

 

 鍛錬棟の中では、いつの間にかシスネとカーリヤが取っ組み合いの喧嘩を始めていた。すこし目を離している間にいったい何があったというのか。

 ライアーも頭と腹が痛そうな顔をしているが、周囲の聖女と騎士たちは楽しそうに囃し立てているのだから問題はないのだろう。

 ……たぶん。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

騎士殺し

 魔女の出没数の異様な減少。

 これはカエルム教国に魔女禍が蔓延して以来の異常事態であり、本来は歓迎すべき事象であるにも関わらず、教国の民は皆が不安を感じていただろう。いてもいなくても厄介なものなのだ、魔女というものは。

 もちろん教会も手をこまねいていた訳ではない。聖都では教皇と聖女長も交えた大がかりな会議が開かれたらしく、ポエニスからもヴュルガ騎士長と数名の上位職員が参加していた。そしてその数日後、帰還した騎士長から下された命令が――。

 

「魔女の捜索、か」

 

 慣れない仕事の内容にレーベンは独りごちた。今までも魔女を捜したことがないわけではない。カクトでも、なかなか姿を見せない魔女を捜して廃坑を歩き回ったのだ。だがそれも魔女が複数人から目撃された上でのこと。近くにいるという確信があった上での索敵だった。

 だが今回は違う。目撃されたという情報も何の手がかりも無いままで魔女を捜しに行くのだ。当然、捜索を行うのはレーベンだけではない。ポエニスの聖女と騎士の半数以上が参加する大がかりな作戦となり、現に他の聖女と騎士たちも慌ただしく動き回っていた。

 

「片手剣を二本と、あと両手剣。短剣も二本。――捜索と言われてもな、どうしろと言うんだ」

「短銃を二丁、それと長銃を……長銃も二丁で。――捜すしかないでしょう。地道に」

 

 普段は人気のない教会の地下倉庫も今はそれなりににぎやかだ。大仕事に備えて武器を新調している騎士や、普段は使わないのであろう炸裂弾をおっかなびっくり手に取っている聖女の姿がちらほらと見受けられる。それらに対応する為の職員たちも増員され、彼らも慣れない作業に苦戦しているようだった。もっとも、レーベン達に対応しているのは例の倉庫番であり、相変わらずのうんざり顔で大量の武器を机に並べている。

 

「手斧も。あと盾はあるか。――ひたすらの人海戦術とは。手詰まりということか」

「短剣を三本。それと弾薬を。――他に案がお有りなら、騎士長に進言しては如何ですか」

 

 必要最低限の人数のみを残し、あとの聖女と騎士たちを各地に分散して派遣。あとは各々が周囲を捜索するという、人数に任せた単純な作戦だ。それが好手なのか悪手なのかは賢いわけでもないレーベンには分からず、より良い手段も浮かびはしない。結局は教会の上層部に従うほかなく、それに不満もないのだが。

 

「あと、薬――」

「用量に従ってお願いしますね」

 

 ずいとシスネが机に手を乗せながら身を乗り出し、顔を近付けられた職員が慌てふためいて奥へと駆け出す。哀れな男だ。羨ましいが。

 やがて戻ってきた彼から心許ない量の薬を受け取り、鞄に詰めようとする前にその鞄をシスネにひったくられる。何の変哲もない鞄の中を覗き込み、逆さまにして振るも何も出てきはしない。

 

「隠し持っていませんよね?」

「確かめるか?」

 

 冗談のつもりで両手を広げて見せると、シスネは僅かな逡巡の後で本当にレーベンの懐に手を突っ込んできた。突然の奇行に固まりながら、レーベンと同じく固まっている職員を横目に見る。

 

「……他意はありませんから」

「お、おう」

 

 肌に近い部分を(まさぐ)られる感触と鼻先に迫る白い髪に狼狽えていると、シスネはすぐに体を離した。そのまま澄ました顔で残りの荷物を鞄に詰め込んでいく。

 

「技術棟にも行く気ですか」

「あ、あぁ」

 

 機械剣はアルバットに預けたままであり、当然それも取りに行かなければならない。薬もこれだけでは足りないが、またあの強力すぎる薬を使うかどうかは悩むところだ。使ってしまえばまたこの聖女の逆鱗に触れることは明白であり、だがレーベンの魔女狩りには必要な物なのだから。

 

「では行きましょう」

 

 だがシスネはついてくる気らしい。更には「先に行け」と視線で促してくる。どうあっても「用法と用量」を守らせるつもりであり、そしてレーベンのことも信用してはいないのだろう。実際、己には彼女の目を盗んで薬を持ち出したという前科があるのだから仕方のないことだが。

 目が合った倉庫番はいつものうんざり顔で、だが同情したような視線を向けてくる。そんな彼と聖女の視線に刺されながら、レーベンはそそくさと出口の階段へと向かった。

 

 

 ◆

 

 

「改良点としては、炎の噴出孔の角度を調整したよ。あと護拳も追加しておいたから、手の火傷も多少は軽減されるんじゃないかね」

 

 技術棟の地下室、その工房は相も変わらず物に溢れていた。来る度に散乱した物とその配置まで変わっており、さながら御伽噺の中に出てくる生きた地下迷宮(ダンジョン)である。ならば、その最奥で怪しげな実験を繰り返すこの怪しげな男は、まさに悪の魔法使いといったところだろうか。

 

「火傷をしないように調整してくれないか。火力を加減するとか」

「イヤだねぇ、使い手に(おもね)った弱化調整(デチューン)なぞ愚行だよ。だいたい何も面白くないじゃあないか」

「使い手のことを考えない道具がありますか」

 

 ある意味では予想通りの、怪しげな男――アルバットの言葉に苦笑していると、予想に反してシスネが口を挟んできた。レーベンが部屋の隅に目を向け、アルバットもその機械仕掛けの眼を向ける。チュイィと奇怪な音が鳴った。

 

「……おや、誰かね君は」

 

 シスネが部屋にいたことに、さも今気が付いたかのようにアルバットが髭に覆われた口を開く。この男のことだから本当に気付かなかったのかもしれないが、どこかその口調は不機嫌そうに聞こえた。

 対して、シスネもまた不機嫌そうに腕を組んでアルバットを見据えている。どうもこの二人、相性はあまり良くなさそうだ。さっさと用事を済ませて退散するべきかと考えるレーベンをよそに、シスネが棘のある口調で続ける。

 

「その剣は強力すぎます。しかも試し使いもしないまま渡すとは、非常識ではないですか」

「過保護だねぇ。そんなに騎士が心配なら、ご自慢の聖性で癒してあげればいいじゃあないか」

 

 ぎり、とシスネが歯噛みした音が聞こえた気がした。それ程に彼女は表情を歪めており、アルバットの言葉が癇に障ったらしい。アルバットもまた、彼女がレーベンに聖性を使うことを拒んでいることを知っているのかもしれない。その上で挑発したのだ。

 

「……使い手に負傷を強いるとは。彼を実験動物か何かだとでも思っているのですか」

 

 チュイィとアルバットの眼がレーベンを見る。レーベンも灰色の目でそれを見返した。

 シスネの言葉は当たりなのだ。レーベンは実験動物の代わりとなり、アルバットは格安で武器を提供する。双方の利害が一致したこの関係を、レーベンはライアーとカーリヤにさえ話してはいない。シスネも当然、知るわけがない。

 口止めしようとまでは思わないが、もし彼女に知られればひどく面倒なことになりそうな予感はあった。だが気を使ったのかそうでないのか、アルバットは話を逸らす。

 

「人を外道技術者のように言わないでくれたまえ。だいたい、君の(それ)だってワタシの作品だよ」

「……えっ」

 

 シスネが黒い瞳を丸くして、その左脇に納められた大型の短銃に触れる。

 レーベンもまた意外なその事実に、シスネの大短銃に目をやった。魔女の躰も容易に貫通する過剰な威力からも特注品だろうと思ってはいたが、まさかアルバットが製作者だったとは。

 自分の作品について語れるのが嬉しいのか、途端に饒舌になったアルバットが口を開く。

 

「何年前だったかなぁ、聖都の騎士に頼まれたのさ。名前はたしか、レ……レーベン?」

「それは俺だが」

「――()()()()

 

 薄暗い部屋に響いたシスネの声にレーベンは既視感を覚えた。あの、暗い森の中のような。

 ゆっくりと振り返れば、俯いたシスネの顔は前髪に隠れ、その唇しか見えない。その唇がわらっているようにすら見えて、レーベンは目を逸らす。アルバットは何も感じない様子で、早口で語り続けた。

 

「ああ、そうそう。そのレグルス様に頼まれて作ったのさ。その――自決銃をね」

「……、……じけ、つ……?」

 

 今度は呆然としたシスネの声が響く。上げられた彼女の顔はひどく無表情で、半開きになった口がその驚きの大きさを物語っていた。

 どこか危ういその表情にレーベンは危機感を覚え、だがアルバットの語りは止まらない。

 

「銃で自決するというのは案外難しくてね。死に損なって余計に苦しむ聖女が多発したんだよ」

「だが刃物は痛いし、毒も苦しそう、結局は銃がいちばん楽に死ねる。みんなそう思うのさ」

「だから作ってあげたんだよ。大事な聖女サマが簡単確実に死ねる、その銃をねぇ」

 

 故に装填できる弾は一発だけ。限界まで威力を高め、急所を外そうとも致命傷を受けられる。正しく使えば確実に即死……そんなことを語り続けるアルバットの言葉は、シスネにはもう聞こえてはいないのだろう。ただ縋るように、両手をその銃に当てていた。

 もう見てはいられなかった。

 

「用は済んだ。行こう、シスネ」

 

 細い背中に手を触れても反応は無く、そのまま押して出口へと促す。彼女は弱々しく歩き始め、ただでさえ華奢な体が更にか細くなったようにすら見えた。

 

「――シスネ?」

 

 だがアルバットがまた口を開く。

 

「もしかして、聖女シスネレインかね?」

 

 久しぶりに聞く彼女の本名にレーベンは足を止めた。止めてしまった。

 シスネの肩が、びくりと震える。

 

「……あぁ、成程ねぇ。合点がいったよ」

 

 アルバットの口が、汚れた髭の中でニタリと(わら)った。

 言わせてはならないと、根拠も無い警鐘がレーベンの中で響く。響いただけで、何も出来はしなかった。

 

 

「君があの――――“騎士殺し”か」

 

 

 レーベンの目の前で白い髪が舞い広がる。伸ばした手はその髪先にも触れられず、ただ駆け出す背中を見送ることしか出来ない。だが彼女が向かった先は出口ではなかった。

 薄暗い地下室に耳障りな騒音が鳴り響き、舞い散った埃がランプの光をちらちらと遮る。

 

「すぐ暴力とは。躾けのなっていない聖女サマだ」

 

 机に積み上げられていた雑多な品々がなだれ落ち、それらの代わりのように白髪が汚れた机に広がっていた。

 うつ伏せの状態で机に押さえつけられたシスネの黒い瞳が、ギッとアルバットを睨みつける。荒い息を漏らしながら拘束から抜け出そうとし、だが捻り上げられていた腕を動かされると苦悶の声をあげた。

 

「……っ、触らないで、この、狂人……っ!」

「先に手を上げたのは君じゃあないか。正当防衛を主張するよワタシは」

 

 苦痛に喘ぎながらもシスネがもがき、アルバットはヘラヘラと笑いながら彼女を押さえつける。

 あの瞬間、振り上げられたシスネの手はアルバットに掠りもしなかった。普段の緩慢な動作とはまるで異なる、バネ仕掛けじみた動き。それはいっそ非人間的なまでの速さであり、次の瞬間にはあの状態だったのだ。

 

「あぁ痛い痛い。まったく、野良犬かね君は」

 

 ああもされてもシスネの怒りは収まらないらしい。動かせる足でアルバットの脛を蹴り、だが口先だけで動じた様子もないアルバットが彼女の股間に膝を入れれば、その両足もスカートごと押さえつけられる。

 遂に動けなくなったシスネは尚も怒りに染まった顔をアルバットに向け、それを向けられたアルバットの眼が、さも愉快そうに奇怪な音を鳴らした。そのまま強姦でもするかのようにシスネに圧し掛かり、その耳元で再びニタリと口を歪ませた。

 

「まったく、聖女らしくもない。――レグルス様も草葉の陰で泣いていらっしゃるよ」

「――――」

 

 今度こそシスネの顔から一切の表情が抜け落ち、彼女の理性が完全に吹き飛んだことをレーベンは悟った。つまりは、もう限界だ。

 カラン、と。聞きなれた音が地下室に響く。

 

「な――」

「む――」

 

 気の抜けたようなシスネの声と、別人のようなアルバットの声。

 シスネの黒い瞳と、アルバットの機械仕掛けの眼がそれを――床に転がされた炸裂弾を見た。

 炸裂。

 先程とは比較にならない騒音と破壊音が鳴り響き、埃と煙が朦々と地下室に立ち込めた。開放されたシスネが激しく咳こみ、机の下に伏せていたアルバットがゆらりと身を起こした。

 

「ひどいじゃないか君ぃ、部屋が滅茶苦茶だよまったく」

「こうでもしないと止まらんだろう、貴公らは」

 

 レーベンが転がした炸裂弾はアルバットに蹴り飛ばされ、部屋の隅で炸裂した。もしこの男がそうしなければ三人ともただでは済まず、今更ながら己がやったことに震えあがる思いだが、他に方法も思い浮かばなかったのだ。

 

「壊した分は弁償してくれよ、いいね?」

「ツケで頼む。……シスネ、先に行っていてくれ」

 

 頼むから。

 精一杯に平坦な口調でシスネに言えば、彼女は気が抜けたようにフラフラと無言で出口へと向かった。爆風が大火も消し飛ばすように、レーベンの一手は彼女の意識を空白にすることに成功したらしい。これから賠償することになる額を考えると頭が痛いが、仕方のないことと諦めた。

 

「あまり虐めないでやってくれ。ああ見えて短気なんだ」

「見たままに短気じゃあないか。本当に見ているだけで苛つくよワタシも。……ほら」

「?」

 

 機械剣を手に出口へと向かうレーベンに何かが放られ、反射的に受け取る。それは箱に詰められた弾薬のようだが、ひどく大きくて重い。

 

「あの自決銃の弾さ。もう要らないから持っていきなよ。……まったく忌々しい」

 

 シスネがいなくなった今になってひどく不機嫌になったアルバットが、吐き捨てるように独りごちる。八つ当たりでもされては堪らないと出入口を潜り、後目にその意外なまでに大きな背中を見やる。

 

「これだから嫌いなんだよ、聖女なんてものは」

 

 かつては騎士であったというこの男のことを、レーベンは何も知らない。

 

 

 ◆

 

 

 外は未だに小雨が降っていた。どんよりとした曇天の下にシスネの姿は無く、幾人かの職員や聖女と騎士から話を聞きつつ彼女の足跡を辿る。そしてレーベンが行きついたのは、ポエニスをぐるりと囲む周壁だった。

 このポエニスがかつて聖都であった頃、更に魔女禍が蔓延する前の古い時代には、どの街も戦や外敵に備えてこのような壁を築いていたのだという。だが今やこの国は戦と無縁であり、そして何よりも魔女という敵は壁の()()から生まれるのだ。故にこの周壁はもはや無用の長物であり、最低限の手入れしかされていない石壁は崩れてこそいないものの、人の気配はまるで無い。

 だからこそ彼女はここに来たのだろうか。かび臭い階段を登った末、ポエニスの北側に広がるナダ平原を一望できる周壁の上、そこにシスネはいた。両手で膝を抱きながら、小雨に打たれるにまかせて座り込んでいる。

 

「……貴」

「何も言わないでください」

 

 シスネの声は平坦で、レーベンへの険を感じるものだった。つまりは普段通りの声だが、抱えた膝に顔を埋められたそれはくぐもっている。

 

「なにも、きかないで」

 

 シスネの白髪と灰色の装束は小雨に濡れ、きつく埋められた顔は何も見えない。

 レーベンは言われた通りに黙り、近いとも遠いとも言えない位置に腰を下ろす。

 沈黙が漂い、しとしとと降り続ける小雨の音だけが聞こえてきた。

 もしかしたら彼女は泣いているのかもしれないが、仮にそうだとしてレーベンに何が出来るというのか。

 この聖女のことを、レーベンは何も知らないのだから。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

聖女を元気づける方法

「どうすれば良いと思う」

「あっしが知るわけないでしょうが」

 

 雨こそ止んでいるが、それも一時のこと。つい先刻まで雨が降り続き、そしてまたいつ降ってもおかしくはない。そんな曇り空の下を、教会の馬車は走り続ける。

 魔女の捜索作戦。レーベン達に割り振られた場所は、この国でも最北端といえる場所であった。国の中心となるのは当然ながら聖都であり、その聖都はほぼ最南端の海沿いに位置している。聖都から離れる程に田舎という認識で概ね合っており、つまりレーベン達が向かっているのはこの国でもっとも田舎ということになる。

 なお、旧聖都であるポエニスは国土のほぼ中心に位置しており、だからこそ聖都に次いで多くの聖女と騎士が配置されている。どの町や村から魔女狩りの依頼が来ても、迅速に討伐に向かえるという訳だ。それ故、ポエニスの聖女と騎士たちは自ずと場数を踏むこととなり、その質もまた聖都に見劣りはしない……らしい。騎士擬きでしかないレーベンには関係のない話である。

 

「貴公は女の扱いに慣れているんじゃないのか。何でも良いから教えたまえよ」

「女の扱いを? あっしが? この顔で女に言い寄られるとでもお思いですかい。けっ!」

 

 お世辞にも整っているとは言えない顔を更に歪ませながら、御者の男が道端に唾を吐く。教会の使いとして誉められた所作ではないが、既にポエニスからも遠く離れた街道でのこと。周囲には人っ子一人いない。狭苦しい御者台にレーベンも座りながら、憂鬱な曇り空を見上げた。

 

「というか騎士サマの聖女じゃないんですか、あの御方は。じゃあヤっちまえばいいじゃないですか」

「俺が? 彼女を? 今ここで? 貴公が見ているのにか」

「あっしは一向に構いませんぜ?」

 

 グヘヘ! と嫌らしく笑う御者と共に、荷台の中をそっと覗き込む。薄暗い荷台に置かれた荷物の中で、自分も荷物の一つだと言わんばかりにシスネがじっと座り込んでいた。特に反応は無い。

 二人して視線を前に戻し、同時に溜息をつく。

 

「……いい加減にしてくれやせんかね。陰気な殉教者の巡礼じゃあるまいし」

「……そういえば、前回はカーリヤ達も一緒だったな。ほら、あの写銀が高く売れた」

「ああ! あのとんでもない別嬪(べっぴん)で! とんでもなくイイ体した! いや堪りませんでしたねありゃあ!」

「そうだな。あの聖女も黙っていれば聖女シーニュにも引けを取らんというのに。胸は豊満だしな」

「後ろの聖女サマのお胸は貧相ですがね!」

 

 ギャハハ! と下品に笑う御者と共に、再び荷台の中を覗く。シスネはただあの銃――自決銃をじっと見つめていた。特に反応は無い。

 二人して視線を前に戻し、冷や汗を流す。

 

「……銃持ってやしたぜ。後ろからズドンとか勘弁してくださいよ」

「心配するな。あれなら楽に死ねる」

「笑えもしねぇや」

 

 深い溜息の音が二つ重なり、レーベンと御者が黙ってしまえばまた陰鬱な沈黙が漂い始める。

 今回の目的地――ノール村までは馬車でおよそ十五時間。訓練された馬と御者であれば休みなしで進めなくもないが、特に急いでいるわけでもない。途中で野営を挟めば丸一日はかかる計算だ。ポエニスを出たのがちょうど昼前であり、分厚い雲の向こうでは日が沈もうとしている。

 その間およそ六時間、シスネはああしてずっと黙り込んでいるのだ。前回は同席したカーリヤとライアーが喧しいほどに賑やかであったことを考えれば、御者とレーベンが辟易することも無理はないだろう。

 なお、そのカーリヤとライアーは今回の作戦には参加していない。非常時に備えてポエニスで待機というのが、彼らのような腕利きに下された命令である。きっと今頃、暇だ退屈だと喚くカーリヤをあの苦労人が宥めていることだろう。

 

「ところで、あの聖女サマのどこが良いんです? あっしにはそこまでイイ女には見えませんがね」

「まあ正直、性格には難があるな。気難しく気も短い。俺など何度痛い目に遭わされたことか」

「……騎士サマも随分と良いご趣味をされていらっしゃるようで」

「だが胸は貧相でも可愛らしいところもあるのだよ。性格に難がある上に胸まで貧相だが」

「二回も言うことないでしょうが!」

 

 ハハハ、と渇いた笑いを漏らしながら、御者と共に荷台の中を覗く。特に反応は無い。

 

「……はやく着きやせんかね」

「同感だ」

 

 また溜息が二つ重なり、また雨が振り出した。

 

 

 ◆

 

 

 木陰に停めた馬車の傍で、じっと篝火を見つめる。

 幸い、野営の前に雨は止み、簡単に食事を済ませて休むことができた。その間、やはりシスネは黙り込んだままであり、レーベンと御者もまた諦めて黙っていた。馬が喋るわけもなく、ただ沈黙の中で味気無い食事をとる破目となってしまったのである。

 適当に折った木の枝を火の中に投げ入れ、橙色の光を見つめる。人というものは本能的に火に癒されるという話をレーベンは思い出したが、レーベンにとって火とは魔女狩りの象徴だ。魔女は火に弱く、レーベンも狩りには多用している。更に、かつての暗黒時代では多くの女が「予防」と称して火刑に処されたらしい。

 ならばこの国の民は皆、火に癒されなどしないのではないか? そんな疑問を抱き、北側に目を向ける。夜空に浮かび上がるように、巨大な山の影がそこにあった。

 アスピダ山脈。この国の北から東にかけてに広がる、前人未踏の霊峰である。南から西にかけて広がるシルト海と対を成す、カエルム教国を外敵から守ってきた天然の防壁であり、同時に文字通りの壁でもある。元より教国は他国との交流に乏しかったらしいが、魔女禍の蔓延によりそれすら完全に途絶したのだという。故に、あの山を越えていく者もいなければ、越えてくる者もいない。シルト海にしても同じだ。

 

 ――曰く、この国の外に魔女はおらず、教国は魔女を閉じ込める檻である。

 ――曰く、この国の外には魔女しかおらず、教国は最後の楽園なのである。

 

 どちらにせよ、ひどい話だとレーベンは思う。

 アスピダ山脈もシルト海も越えることはできず、ならば結局は魔女に怯え、魔女を狩りながら生きていくしかないのだ、この国の民は。魔女禍を根絶するには女を根絶やしにする他なく、だが本当にそうしてしまえば、あとは緩やかに滅んでいくだけのこと。国の外にも出られない。魔女禍も根絶できない。八方塞がりだ。

 

「だいたい男ばかりの世界なぞ、つまらんだろうしなぁ」

「何の話ですか」

 

 思いのほか近くから響いた声に、思わず手にしていた薪を圧し折る。振り返れば案の定、分厚い外套を羽織ったシスネが不機嫌そうに立っていた。

 

「……交代にはまだ早いが」

「あなたの独り言がうるさかったものですから」

「誠に申し訳ない」

 

 どうやら夜番が暇すぎて無意識に独り言を漏らしていたらしい。レーベンは二番目であり、三番目の彼女とも交代する気は無かったのだが。

 篝火の近くまで歩いてきたシスネが、じっと黒い瞳で見下ろしてくる。座る場所が無いのかと倒木から腰を上げる前に、彼女はレーベンの隣に腰掛けてきた。なんとなく気まずくなって篝火に目をやり、彼女もまた篝火を見つめる。

 

「私の過去が気になりますか」

 

 唐突な言葉に顔を横に向ければ、シスネはじっと火だけを見ている。

 

「……いや、特には」

「どうしても聞きたいなら、話しても構いません」

「お、おう?」

 

 レーベンの答えは無視された。いきなり起きてきて、いきなり何だというのか、この聖女は。

 

「ただし、条件があります」

 

 シスネが一人で話を進めていく。レーベンはただ黙って先を促した。

 

「あなたの話も聞かせること。あなたが話した分だけ、私も話してあげます」

 

 こちらを見たシスネの黒い瞳は、いつも通りに強くレーベンを見据えている。だが今日はどこか縋るように瞳が震えても見えた。

 要するに、彼女は吐き出したいのだろう。

 誰かに聞いてほしく、だがここには御者とレーベンしかいない。あの御者は論外として、レーベンに話すのも癪だ。だから、レーベンから頼みこまれた末に仕方なく話してやったと、そういう事にしたいのだろう。

 まったく、本当に。

 

「面倒な……」

「聞こえていますよ」

 

 いつもの不機嫌な声。だが今日はどこか子供っぽくも聞こえ、レーベンは苦笑したつもりで口を開いた。

 

「俺は――」

 

 

 ※

 

 

 俺は孤児だった。

 あぁ、そうだ。魔女にやられたらしい、村ごとな。別に珍しくもない。

 それで赤ん坊だった俺を、聖女と騎士が教会に持ち帰って、そのまま孤児院に入れられた。

 あぁ。あぁ、教会の方のだな。だから子どもの頃にはもう訓練を受けていた。騎士になる為のな。

 ライアー達と会ったのもその頃だ。あぁ、そういえばな、彼は今こそあんな姿(なり)だが、あの頃は俺の方が背も高かったんだ。本当だぞ。ちなみにカーリヤはあの頃から胸が大きかった。

 ……悪かった。悪かったからやめたまえよ、痛いから。

 あぁ、それで、……まあ、あとは見ての通りだな。

 俺は騎士になったが、適合する聖女はいなかった。だから一人で魔女を狩っていた。

 そんな折、貴公と会ったというわけだ。

 

 

 ◆

 

 

「……それで?」

「なに?」

「それだけですか?」

「それだけだが?」

 

 シスネの瞳がじっとりと胡乱になっていく。その視線に耐えられず、レーベンは特に必要もない薪を篝火に投じた。

 改めて語ってみれば、己の歩んできた道のなんと薄っぺらいことか。故郷が滅んだ。孤児院に入れられた。騎士になった。言葉にしてみれば、本当にただそれだけだ。波乱万丈な人生を送りたかったなどとは思っていないが、もう少しこう、何か無かったのだろうか。何もありはしない。

 無性に気まずくなって木の枝で篝火を突っついていると、隣から深い溜息が聞こえた。

 

「私は――」

 

 

 ※

 

 

 私は聖都の生まれです。両親は教会とは関係のない仕事に就いていましたが、私は自分から教会の門を叩きました。

 ……えぇ。

 えぇ、そうですよ。悪いですか。誰だってそうじゃないですか。私にだってシーニュやキノノスに憧れていた時期もあったんですよっ。

 ……話を戻しますね。

 私は聖女になれました。それで、私の、最初の騎士が。

 えぇ、そうです。レグルス。それが、あの人の名前です。あの人は模範的な騎士でした。あなたとは比べものにならないぐらい強く、高潔な。

 ……。

 すみません。言い過ぎましたね。

 あなたは馬鹿でどうしようもない上に穢い人ですが、悪い人ではないと思っていますよ。本当ですよ。

 ……今でも嫌いですが?

 何ですか、その顔は……。話を戻しますね。

 私はあの人と一緒に魔女を狩りました。自慢ではありませんが、聖都の中でも優秀な部類と評されていたのですよ。

 ……。

 ……えぇ、そうです。

 あの人は、亡くなりました。

 魔女の手にかかった彼を……私が、介錯しました。

 

 

 ◆

 

 

「そして私は、“騎士殺し”と呼ばれるようになりました」

 

 シスネの話はそれほど長くもなく、おそらくは相当に端折られているのだろう。「レーベンが話した分だけ話す」とは、そういう意味だったらしい。……レーベンとしては特に端折ったつもりもないのだが。

 

「だから私は一人で魔女を狩っていたのです。“騎士殺し”なんかと組む騎士はいませんでしたから」

 

 だがその短い話だけでも、幾分かは気が晴れたらしい。シスネの声には自嘲が多分に含まれているが、口調自体は軽かった。倒木から立ち上がって背伸びする姿も、どこか晴れやかだ。

 

「さあ、もう交代しますから、あなたはさっさと寝て下さい」

「俺は、」

 

 篝火から目を離さないままレーベンは口を開いた。見なくとも、シスネの瞳がこちらを向いていることが分かる。

 

「俺は構わんぞ。貴公が、その……“騎士殺し”でも」

 

 言うつもりは無かったが、半ば無意識での言葉だった。だがそれは間違いなくレーベンの本心である。火を見つめたままレーベンは答えを待つ。パチパチと、火が弾ける音だけが夜に響いていた。

 どれぐらい待ったか、シスネの答えは聞こえず、ただ彼女の靴が砂利を踏む音を近くに聞く。顔を上げた先で、黒い瞳と目が合った。彼女の顔に普段の険は無く、だが笑顔も無い。その表情の裏にどのような感情があるのかレーベンには分からず、己の顔も他の皆からはこのように見えているのかもしれないと、そんなことを考えた。

 やがて、ふとシスネの顔に笑みの影が掠める。

 

「私が嫌なのです」

「あぁ、そう……」

 

 皆から疎まれたという聖女からも疎まれるとは、レーベンはいったい何だというのだろうか。流石に落ち込みそうな気分で篝火を突っつきまわしていると、その木の枝を手から奪われる。「さっさと寝ろ」と黒い瞳が言っている気がして、レーベンはとぼとぼと馬車に向かった。

 

「気遣いなんて、しなくても良かったのに」

 

 馬車の幌に手をかけたあたりで背後から声が響く。振り返ると、篝火を背景にしたシスネの細い背中だけが見えた。

 

「……でも、ありがとうございました」

 

 シスネの言葉は独り言のようで、きっと答えなど期待していないのだろう。ぱきり、ぱきりと、小枝を折る音だけが鳴っている。答えるべきではなかったかもしれないが。

 

「何か出来たとは思えんがな」

「そうでもないですよ」

 

 ばきり、と一際大きな音が響く。

 

「あなたが私をどんな目で見ていたのか、よーく分かりましたから」

 

 怒りの裏返った、笑いを含んだ声。もう何度か聞いた、彼女がだいぶ、否かなり怒った時の声である。それを耳にしたレーベンの本能が警鐘を鳴らす。

 やはり答えるべきではなかった。あのまま黙って馬車の中で寝てしまえば良かったのだ。悪手も良いところであった。レーベンはもはや進むことも退くこともできず、ただ中途半端な姿勢で固まっていた。

 

「ヤるだのヤらないだのと、本当に穢い人たち……。我慢できた自分を誉めてあげたい気分です」

「貴公、貴公、まずは話を聞いてはくれないだろうか」

「えぇ聞いてあげますとも。何せこの私は、性格が悪くて気難しくて気も短くて暴力的で、おまけに美人でもない上に、む……体まで貧相な、どうしようもない女なのですから」

 

 そこまでは言っていない。

 ……だがやはりこの聖女、客観的に見て良い性格をしているとはお世辞にも言えないのでなかろうか。今こうして愚痴愚痴とレーベンに当て擦りしていることが何よりの証拠である。レーベンはそう考えた。

 レーベンとしても内心穏やかでなくなった頃、「それで? 弁明(はなし)とは?」と腹の立つ声が聞こえてくる。

 だから言ってやったのだ。

 

「まったく……、胸だけでなく器まで小さいな貴公は」

 

 飛来した薪がレーベンの後頭部に突き刺さった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

死んだ騎士の目

 黄昏の空を(カラス)が飛んでいく。

 鴉とは存外に賢い鳥であり、カァカァと鳴くあの声にも意味があるのだと、そんな話をレーベンは思い出していた。もっとも、魔女狩りにも魔女の捜索にも何ら関係のない知識ではあるが。朝から降り続いていた雨はついさっき止み、遥か遠くの地平に沈んでいく夕日がよく見えた。

 

「……今日も一日が終わったな。夕日が赤い」

「黄昏ているなら置いていきますよ」

 

 鬱陶しげに外套を脱いだシスネが先に立って山を下りはじめる。特に意味も無く周囲を見回してからレーベンもそれに続いた。全身に括りつけた武器たちの出番は今日も無く、それらの重みが抗議でもしているかのようだった。

 

 

 

「おぉ、帰ったんか。お疲れさん」

「今日も見つからんかったんか? そら良かったわ!」

「聖女さん、おかえり!」

 

 山を下り、村の中に入るとそこかしこから(なま)った声で歓待される。最初こそ好奇と警戒が入り混じった視線を遠巻きに送られていたが、今となっては皆慣れたものであった。

 シスネはニコニコと外向けの笑顔で受け答えしながら村を歩き、レーベンも精一杯の愛想を振りまくつもりで後に続く。目が合った幼い子供が泣きだした。

 

「ただいま戻りました」

「おーう、お帰り」

 

 もはや慣れた手付きでシスネが扉を開き、中にいた老人も慣れた様子で適当な返事を返した。

 ノール村。教国の中でも最北に位置するこの村で魔女を探しはじめてから六日が経過していた。国中でもっとも田舎と言える小さな村のこと、教会どころか宿屋すら無い。その為、村長の厚意によって自宅に泊まらせてもらうことになったのだ。

 

「今日は山の方まで探してみましたが、魔女はいませんでした」

「ほうか、ほうか、良かったわ」

 

 煙管(きせる)(くゆ)らせながら老人――村長が気の無さそうな、だが安堵も含ませた声で返してきた。

 村長も含め、村民の皆が同じ答えを返してくる。「魔女が見つからなくて良かった」と。当然ではあるのだが、その見つからない魔女を捜してこいと命令された身としては内心複雑であった。いるかどうかも分からないモノを捜し続けるということは、思いのほか厳しい。

 宛がわれた部屋で、今日も使うことはなかった装備を外しながら今後のことを考える。滞在予定期間は十日。その間、この村の周辺をくまなく捜索しなければならない。今日で全体のおよそ七割は捜し終わっており、経過としては順調と言えるだろう。だが少なくともあと四日はこの不毛とも言える作業を続ける必要があることを考えると、気も重くなるというものだ。

 何もしていないのに疲れた体でのろのろと装備を外していると、対して手早く装備を片付けたシスネが部屋を出ていく。その足取りはどこか軽かった。

 

「遅れました」

「あらら、いつもごめんねぇ」

 

 レーベンが居間に顔を出した時にはもう、シスネは台所に立っていた。村長の妻である老女と肩を並べながら野菜を刻み、竈に鍋をかけ、玉杓子(おたま)でゆっくりとかき混ぜる。要するに料理をしていた。

 教国の民は聖女と騎士に協力する義務があるとされ、特に魔女狩りの際はその宿や食事を無償で提供しなければならない。今回の捜索においてもそれは同様とのことだったが、依頼も出していない村に押しかけて寝床と食料を寄越せなど、やっていることは野盗と変わらない……とはシスネの弁だ。

 そういう訳で、彼女はああして村長宅の家事をいくつか引き受けている。そうなればレーベンも何かしなければならないが、己に出来ることなど薪割りか草むしりぐらいしかなく、それも昨日終わってしまった。苦し紛れに村長の肩など揉んでいるが意外と好評である。おそらくは色々と察した村長が気を遣ってくれているのだろうが。

 骨ばった村長の肩を揉みながら、台所を動き回るシスネの姿をぼんやりと眺める。白い髪を結いあげ、借りたらしい前掛け(エプロン)を着けた姿はそこらの村娘となんら変わらない。銃だの短剣だのを全身に括りつけているより、よほど似合っているように見えた。

 

「いーい嫁さんやねえ」

 

 レーベンのすぐ傍から聞こえた声に、思わず手を止める。等間隔に鳴っていたシスネの包丁も一時だけ乱れて聞こえた。視線を下に向ければ、村長が朗らかに笑っている。

 

「……嫁ではなくて、聖女ですがね」

「似たようなもんやろ?」

 

「違うんけ?」と村長。

 確かにそういった関係となる聖女と騎士は少なくない。カクトの町のマンダルとアナなどその典型で、事実上の夫婦として生活していたらしいのだ。故に聖女と騎士は皆そういう仲だという誤解は未だ多く、特にこの村のような田舎ともなれば尚更だろうか。

 どう説明したものかと頭を悩ませていると、ゆらりとシスネが近付いてきた。

 

「私と彼は、そういう関係ではありませんよ」

 

 よそった煮込み(シチュー)の皿を並べながら、シスネが柔らかく苦笑する。だがレーベンと視線が交差した瞬間だけはひどく険のある眼光へと変化した。頼むから勘弁してほしい。

 内心で冷や汗を流すレーベンには誰も気付かず、「あらまぁ」と村長の妻もおっとりと驚きながらパンを切り分けていく。

 

「じゃあどういう関係なん?」

「聖女と騎――」

「ただの同僚です」

 

 そこはもう嘘でも聖女と言っておけば済むのではないかと思うが、シスネには譲れない一線なのだろうか。

 

「それに、他の聖女と騎士にしても、皆が男女の関係という訳ではありませんから」

 

 語りながらも、シスネの手は淀みなく食器を並べていく。四人分の食事の準備ができるまで然程の時間はかからなかった。

 

「聖女と騎士はあくまで魔女狩りの為の関係であり、それ以外ではない。それが教会の方針です」

 

「もっとも、」そう続けるシスネの黒い瞳に、どこか危うい光が走った気がした。そして、その光にレーベンは見覚えがある。

 

「そういう、模範的な騎士は、なかなかいませんが」

 

 

 ◆

 

 

 村長夫妻と四人で食卓を囲むというレーベンにはどうも慣れない時間の後、玄関の扉が賑やかに叩かれる。村長が返事をする間もなく扉が開かれるあたりは、田舎特有の距離感というものだろうか。

 

「こんばんわー!」

「聖女さん、お話して!」

「いいやろ村長!」

 

 なだれ込んできたのは幼い子供たちだった。他人の家だというのに我が物顔で踏み入ってくる図太さも田舎特有なのだろうか。旧聖都とはいえ、充分に都会の町で育ったレーベンには理解しがたい。その田舎の子供たちはあっという間にシスネを取り囲み、既に彼女の手をとって外に連れ出そうとしている。

 

「ほらほらあんたら、聖女さんはお疲れなんやで」

「えー!」

「大丈夫ですよ、行ってきますね」

 

 無遠慮な子供たちに対して夫人もまた無遠慮に追い返そうとし、だがシスネは苦笑しながら玄関へと向かった。昨日にも同様のことがあり、シスネが開放されるまではそれなりの時間を要していたのだ。

 レーベンも同行した方が良いかと一歩踏み出した瞬間、子供たちの何人かがびくりと肩を震わせる。中には目を涙ぐませる少女までいた。その反応に思わず足を止め、固まったレーベンの姿を隠すようにシスネが屈んで子供たちに視線を合わせる。

 

「じゃあ、外でお話しようか。でも昨日の約束は覚えてる?」

「「「聖女さんのことは、ぜったいに、くすぐりません!」」」

「うん、本当にお願いね。本当に」

 

 心なしか遠い目になったシスネが両手を引かれて玄関から姿を消し、静寂の戻った室内にはレーベンと夫妻だけが残された。

 

「行ってもたなぁ」

 

 ぷかぷかと煙管を吹かしながら村長が苦笑いし、手持無沙汰になったレーベンは村長の肩を揉む作業を再開した。

 

「この村の子供たちには、どうも嫌われたようです」

 

 元より子供の相手が得意というわけではないが、少なくとも目が合っただけで泣かれる程ではなかったはずだ。以前、仕事で向かったワートの町では幼い少年と少女にそれなりに懐かれた記憶もある。だがこの村に来てからというもの、まるで己が怪物か何かにでも見えているかのような反応ばかりだ。

 

「そらあなぁ」

 

 頭を捻るレーベンに対して、村長はさも当然のように呟く。

 

「気ぃ悪くせんと聞いてほしいんやけどな。騎士さんってのは、みんなそんな死んだような目ぇしとるんか?」

「目、ですか」

 

 意外な言葉に、己の目元を指先で触れる。レーベンの灰色の目は珍しい部類ではあるが、特別視される程ではない。瞳の色でいうならば、シスネやヴュルガ騎士長の方がよほど珍しい色をしている。

 レーベンの様子を見て、察したように村長が続けた。

 

「町の人には分からんかもしれんけど、こういう所やと、“死”ってもんが身近なんや」

「魔女だけやなくて、獣でも、病でも、ちょっとした怪我でも、すぐ死んでまう」

「あの子らかて、家族や友達の一人や二人は亡くしとる子がほとんどや」

 

 腐っても教会の一員であるレーベンにも耳の痛い話であった。当然だが、人々の生活を脅かすのは魔女だけではない。天災、獣害、疫病、野盗……そういった物から人々を守ることが国の務めではあるのだが、教国はいささか魔女狩りに傾倒しているきらいがある。故に魔女禍以外の問題に対しては後手に回ることが多く、この村のような辺境ともなれば尚更だろうか。

 

「だからまあ、“死のにおい”っていうかな、そういうモノに敏感なんや。特に子供らはな」

 

 そしてレーベンの目からは死臭がする。故に子供たちから恐れられると、そういうことらしい。そのようなことを言われるのは初めてであった。

 

「若い(もん)がそんな目ぇするもんやない。死に神さまっちゅうのは、そういう目に引っ張られて来るんや」

 

 カン、と。村長が灰皿を煙管で叩く音が響いた。

 

 

 ◆

 

 

 寝台の上で、じっと手鏡を見る。曇った鏡の中では、見飽きた灰色の目が己を見返していた。死臭どころか違和感すら覚えることはない。当然といえば当然だろう、これは己の目なのだから。自身の体臭を自分では感じ取られないように、仮にレーベンの目から「死のにおい」とやらがするとして、レーベン自身にそれを感じられる訳も無いのだ。

 ならば、己でなければ感じられるだろうか。例えば、いま扉を開けて入ってきた聖女など。

 

「……珍しい、あなたでもそんな事をするのですね」

 

 鏡を見ながら身繕いでもしていると思われたらしい。当のシスネは白髪もボサボサで、装束もどこか着崩れている。体力のあり余った子供たちを相手に奮闘したのだろう。そんな彼女の姿に苦笑したつもりで、先ほど村長から言われたことを掻い摘んで話した。

 

「俺の目は死んでいるらしい。貴公にもそう見えるのか?」

「そうですが?」

 

 即答である。そして「やっと気付いたのか」とでも言いたげな口調であった。あまりに確信的な言い方に思わずシスネを見ると、黒い瞳が呆れた視線を返してくる。

 

「あなたが嫌いな理由は主に四つありますが、」

 

 それは多いのか少ないのか。いやに具体的な数字に傷つく思いでいると、白い手がレーベンの頭に触れた。そのまま、掴むとも撫でるともつかない手付きで上を向かされる。

 黒い瞳が、睨むようにその光を増した。

 

「その目が、私は特に嫌いです」

 

 嫌いだと言われたその目で、シスネの瞳を見返す。いつ見ても吸い込まれそうな黒だと思った。

 

「……俺は貴公の目は好きだがな」

「口説いているつもりですか? 痛々しい」

 

 この程度で取り乱すような聖女でないことは分かっていたが、この反応である。いくらレーベンであっても落ち込みそうな心地でいると、かすかにシスネが表情を歪めた。

 

「……もう寝ましょう。疲れました」

 

 そう言って、レーベンの頭から手を離すと自分の寝台へと向かう。

 この部屋は村長夫妻の厚意で貸してもらっているが、当然のように寝台が二つ並んでいた。シスネとしては不本意もいいところだろうが、まさかもう一部屋よこせなどと言えるわけもない。せめてもの抵抗として、掛布を吊るして部屋を二分しているのみだ。

 

「消しますよ」

「あぁ、おやすみ」

「……おやすみなさい」

 

 ランプの灯りも消え、部屋の中は暗闇と静寂で満たされる。布一枚を隔てた向こう側から聞こえる、衣擦れとかすかな吐息を聞きながらレーベンも目を閉じた。

 

 

 ◆

 

 

「……っ、ぅぅ…………」

 

 布一枚を隔てた向こう側から聞こえる、苦しげな声でレーベンは目を開けた。目を開けたが、それ以上何かをするわけでもなく、ただ暗い天井を見上げる。

 こうしてシスネと寝室を共にして知ったことだが、彼女はずいぶんと夢見が悪いらしい。毎夜というわけではないが半分以上の夜はそうだ。ただレーベンが起きなかっただけで、本当はずっとこうして魘されているのかもしれない。

 どちらにせよレーベンに出来ることは何もなく、彼女とて何も望まないだろう。出来るのは、ただ掛布を頭にかぶって聞かなかったことにすることだけだ。

 

「いかないで」と、悲痛な声から逃げるようにレーベンは目を閉じた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

望まぬ平穏

 シスネが赤子を抱いて帰ってきた。

 

「貴公……」

「そんな目で見ないでください……」

 

 魔女の捜索、その七日目の朝。

 もはや自室のような村長宅の客間で目を覚まし、シスネは魘されていたことが夢だったかのようにいつも通りだった。いつも通りに村長の妻と朝食を用意し、四人で食卓を囲んだ。捜索に向かう為に装備を身に着けている最中にシスネが呼び出され、そして戻ってきた時はその手に赤子を抱いていたのだ。

 

「……」

「お隣の若いご夫婦のお子さんなのですが、今日はお二人とも村の外に行く用事があるらしくて」

「……」

「本当は村長の奥様が面倒を見る予定だったのですけれど、今日はすこし腰の調子が悪いようで」

「……」

「……断れませんでした。本当にごめんなさい」

 

 シスネが深々と頭を下げ、レーベンはただ黙って天井を見上げた。

 

 

 

「それじゃあ、行ってくる」

「お気をつけて。あと、これを」

「あぁ、うん」

 

 村長宅の玄関で赤子を抱いたシスネに見送られる。彼女は白髪を結い、前掛け(エプロン)も着けたあの姿だ。昼に食べる軽食の包みも同時に手渡された。

 ……だが、これではまるで。

 シスネの後ろでは村長夫妻が並んで朗らかに笑い、周囲の村人たちも微笑ましいものを見るような視線を注いでくる。「聖女と騎士とは夫婦同然の関係である」という誤った認識が深まってはいないだろうか。否、確実にそうなってしまっている。

 

「貴公という奴は……」

「だからもう何度も謝っているではないですか……っ」

 

 視線に敏感な彼女はもう顔から火が出そうな勢いだ。それがまた初々しい若妻か何かのようで更に誤解を深めている気がする。「はやく行ってくれ」と黒い瞳に訴えかけられるまま、レーベンは足早に村を脱した。

 

 

 ◆

 

 

 何の成果も無いまま、気が付けば太陽が真南に上がっていた。木陰で林檎を齧りながらレーベンは内心で焦りを募らせる。

 

 ――このままで良いのだろうか

 

 良いわけが無い。魔女を捜す為に村の周辺を歩き回っているはずが、もはや惰性でただ歩いているような有様だ。老人の散歩でもあるまいし。

 魔女が見つからないのは、まあ良い。元より魔女の異常減少に端を発した作戦なのだから、むしろ見つからない方が自然とも言える。だがもし万が一、魔女を見つけたら? 鈍りきったこの状態で魔女を狩ることが出来るのか?

 己だけでなく、シスネもそうだ。あの聖女はもう捜索のことなど忘れてしまっているのではなかろうか。生真面目にすぎる彼女に限ってそれは無いと思いたいが、今朝のあの様子を見るにあながち杞憂とも言い切れない。

 

「――ぬんっ」

 

 林檎の芯を放り上げ、落ちてきたそれに片手剣を一閃する。ボトリと、無傷の芯が地面に転がった。

 

「……これは、まずいな」

 

 最後に魔女を狩ったのはもう何日前だろうか。握った片手剣はやけに重く感じた。

 

 

 ◆

 

 

 実りの無い捜索を早々に切りあげて村に戻ると、笑顔の村人たちに出迎えられた。太陽が沈むには幾分はやく、各々の仕事を片付け始めた頃合いだ。

 

「なんや、今日は早いな」

聖女(よめ)さんがえんで寂しかったんか?」

「羨ましいわぁ、俺も若いころは――」

 

 悪意は無いのだろう。嘲りではなく親しさからの揶揄いというものだ。だがつまりそれは、誤った認識が深刻に広まっているということでもある。だからといって言葉で否定することもできず、曖昧な答えで躱しながら村へと入る。

 

 ――そういえば

 

 今になって気付いたが、今回の仕事では常にシスネと行動を共にしていた。以前のように二手に分かれることはなく、彼女もそうは言いださなかった。魔女狩りならばともかく、捜索ならば二手に分かれた方が得策だろうに。完全に気が緩んでいることを改めて認識し、村長宅を足早に目指した。

 

 

 

 預かった赤子は既に母親が迎えにきた後らしい。シスネはただ、客間の寝台で寝息をたてていた。

 

「寝かしといてあげねぇの。大変やったんやで」

 

 客間の外から村長の夫人が声をかけてくる。曲がった腰をさすりながら杖をついており、そのような状態をおしてまで言いに来られた手前、シスネを叩き起こすわけにもいかなくなった。これでは何のために早く帰ってきたのか分からないが、もうどうしようもない。なるべく音を立てないよう注意しながら装備を片付け、客間を後にする。

 扉に手をかけながら寝台を見やる。白い掛布と同化するようにうつ伏せになった彼女の寝顔は穏やかで、悪夢に魘されてはいないようだ。

 

「……」

 

 溜息をひとつ零し、シスネに掛布をもう一枚かけてやってから、そっと扉を閉める。どちらにせよ、もう起こす気は無くなってしまった。

 

 

 

 腰の悪い夫人を台所に立たせるのは気が引け、だからといってレーベンが代わる訳にもいかない。料理が不慣れ以前に、薬の影響で少なからず味覚も鈍っている己が味付けなどすれば何が出来上がるか分かったものではないのだ。

 それでもやるしかないと無謀な覚悟を決めたあたりで、隣家の若い女が当然のように夕食の支度を済ませていった。「子供の世話をしてくれた礼」とのことだが、恐るべきは田舎の村人たちの連帯感か。もっとも、その連帯感のおかげでレーベンとシスネの関係を誤解した認識が急速に広まりつつあるのだが……。

 どことなく気まずさを感じながら三人で食卓を囲んでいる最中、客間の扉が騒々しく開かれる音が響く。バタバタと廊下を走る音と何かに蹴躓いたような音も近付いてきた後、予想通りに焦った顔のシスネが居間に飛び込んできた。

 

「ご、ごめっ、いえその、も申し訳ありませんっ!」

 

 勢いよく頭を下げ、ボサボサの白髪が床に垂れる。午睡というには長い時間を寝て過ごし、夕食の支度も何も出来なかったことを詫び続けるシスネに、夫妻は「ええって、ええって」と笑うのみだ。なかなか席に着こうとしない彼女を促す為にも、夫妻に代わってレーベンが皿に食事を取り分けた。

 だが釘を刺すことは忘れない。

 

「貴公、後で話がある」

「…………、はぃ……」

 

 叱られた子供そのもののように小さくなるシスネの姿は、どこか新鮮に見えた。

 

 

 ◆

 

 

 客間の寝台に腰掛け、隣の寝台の上で正座したシスネと対峙する。判決を待つ罪人じみた暗い顔で俯いているが、よく寝たせいか顔色は良かった。

 

「魔女の話をしよう」

「はい?」

 

 レーベンの言葉が意外だったのか、素っ頓狂な声が返ってくる。説教でも始まると思っていたのだろうが、レーベンとて一方的に叱責するつもりなどない。気が緩んでいるのは己も同じなのだから。

 

「最近の俺達はたるみ過ぎだ。そうは思わないか」

 

 ぐ、とシスネがばつの悪そうな顔で俯く。当然ながら反論は無かった。

 一日目はレーベンもシスネも武器を構えながら捜索を行った。いつどこから魔女が現れても戦えるよう気を張り詰めながら歩いた。二日目もまだ緊張は保っていた。だが武器はもう鞘に納め、背に担いでいた。三日目には既に気が緩み始めていた。四日目には二丁持っていたはずのシスネの長銃が一丁に減っていた。レーベンもいくつかの武器は置いていこうか真剣に迷った。

 そして七日目の今日、もはやレーベンもシスネも何をしに来たのか分からない体たらくだ。緊張を取り戻す必要がある。

 

「だから、魔女の話をしよう」

「そう、ですね」

 

 その為には魔女の話をするのが最も手っ取り早い。この国の民にとって魔女は恐怖と嫌悪の対象であり、それは聖女と騎士も例外ではないのだから。

 パチン、と。シスネが両手で自分の頬を張った。それで意識も幾分かは切り替わったらしい聖女がキリと黒い瞳を向けてくる。……白い頬に赤い手形が残る間抜けな姿であったが、黙っておいた。

 

「それで、魔女の何を?」

「そうだな、」

 

 聖女はどうか知らないが、騎士同士ではよく語られる話題がある。荒事を生業とする男ならば騎士でなくとも同じだろう。

 

「今までで、()()()()()()()()()の話を」

「……っ」

 

 シスネの瞳が不意に揺れる。だがそれは緊張というより、動揺に近いものに見えた。何かを言おうとする唇が、何度か開け閉めを繰り返す。

 

「……、……わ、たしは、やっぱり、前回の、あの魔女ですね」

 

 ひどく歯切れの悪い口調だった。だが前回の魔女――ミルスという名だった、あの哀れな魔女は確かに手強く、そしてレーベンにとっても忘れられない魔女狩りとなった。

 

「永命魔女か、あれはひどい目に遭ったな」

「え、ええっ。生きていたのが不思議なぐらいです」

 

 永命魔女(ながらえまじょ)とは、魔女化から特に長い時間が経った魔女のことを指す。魔女は時を経るほどに異形化が進み、その力も増していく。あの魔女の場合は家族に匿われることで二年もの時間が経ってしまったからこそ、あそこまで強力な魔女へとなり果てたのだ。

 今思い出しても怖気を禁じ得ない。レーベン達が謎の何かによって発見できたことも、ライアー達が駆けつけてくれたことも、本当に運が良かった。

 

「それで、あなたは」

「あぁ、俺は、」

 

 シスネが話を逸らすように水を向けてくる。何か隠しているのだろうが、今は彼女の過去を掘り返す為に話しているのではない。少しでも気を引き締められたのであればそれで良い。

 そして、レーベンが話すことはもう決まっている。騎士となって五年、最も手強かった魔女は不動の存在としてレーベンに刻まれているのだ。聖女と騎士が恐れと共に語る、特別な魔女。共喰魔女と永命魔女に並ぶ、もっとも恐ろしい魔女のことを――。

 バンッ、と。壁の向こうで荒々しく扉が開けられる音が響いた。

 

「爺ちゃん! 聖女さんらはいるけ!?」

 

 壁越しでもはっきりと聞こえた声に、レーベン達は客間を飛び出した。

 

 

 

 玄関にいたのは見覚えのある青年だった。たしか、去年から村の猟師として働き始めたという、村長夫妻の孫だ。今はもうこの家を出ているという話だった筈だが。

 

「ああ聖女さん! 大変なんや!」

「待てや、落ち着きね」

 

 泡を食った様子でシスネに詰め寄ろうとする青年を村長が諫め、夫人が水の入ったコップを手渡す。なんやなんやと覗き込んでくる村人たちを刺激しないよう、レーベンがそっと扉を閉めた。……今度は窓という窓から顔が出てきて意味は無かったが。

 水を飲み干して一息ついた青年に、シスネが穏やかに声をかける。

 

「何かありましたか?」

「……魔女や」

 

 幾分かは落ち着いたらしい青年が、声を潜めて言った。だがその小声に夫妻が動きを止め、レーベン達も一瞬で意識を塗り替えられる。

 

「魔女が出たのですか? いつ見ました? 場所は?」

「あ、あぁ、いやごめん! 魔女はもうえん! もう大丈夫や!」

 

 矢継ぎ早に質問を繰り返すシスネに怯んだように青年が慌てて付け足すが、話の内容はまるで要領を得ない。魔女がいたのかいないのか、どちらだと言うのか。

 

「……どういうことですか? あなたは魔女を見たのですか? 見ていないのですか?」

「俺は見てえんて! 見てえんけど、聖女さんが……」

「貴公、待て貴公、二人とも落ち着け」

「なんやってか? はっきり言えや!」

 

 表情を険しくしたシスネが詰め寄り、そんな聖女に狼狽えた青年が更に意味不明なことを言い出し、思わず口を挟んだレーベンの言葉は何ら意味を成さず、余裕の無くなった村長が苛立った声をあげ、

 ズガァン! と食卓をかち割らんばかりに杖が叩きつけられた音に皆が言葉を失くす。

 

「とりあえず、みんな座りね」

「「「「はい」」」」

 

 夫人の一喝により、皆が椅子に腰掛けた。

 

 

 

 夫人に促されるまま、青年が順を追って話しだす。

 獲った獣肉を野菜と交換する為に朝から隣村へと向かい、昼頃には用を済ませて帰ろうとしたところ、その村の住人たちが一体の亡骸を運んできた。何事かと聞いてみると、その亡骸はレーベン達と同じように村の周辺を捜索していた騎士のもので、畑仕事の為に村の外に出ていた住人が偶然見つけたのだという。

 そして、その亡骸のすぐ近くには、魔女の死骸があったのだと。

 

「相討ち、ということですか……」

「じゃあ、魔女はその騎士さんが狩ってくれたんやな? もうえんのやな?」

 

 青年ははっきりと頷き、村長はほっと息をついた。騎士の死を悼むより魔女の死を喜ぶことを身勝手というのは簡単だが、誰だって魔女は恐ろしい。まして、村長としてこの村を守る義務があるのだから当然の反応だろう。その騎士とて、刺し違えてでも役目を果たしたのだ。立派な最期であったとレーベンは思う。

 

「その騎士の聖女は無事だったのですか?」

 

 シスネが問いを続ける。だが青年は沈痛な顔で首を振った。

 

「死体の一部が、一緒に見つかったらしいわ」

「ほうか……」

 

 夫人が手巾で目元を押さえながら鼻を啜る。「ありがとのう」と両手を握り、顔も名前も知らない聖女と騎士に祈りを捧げていた。

 青年の話はそれで終わりだった。隣村の住人に被害は無く、聖女と騎士は死に、魔女も既に狩られたが、それでも一大事であったことは変わりない。早く報せなければと馬を走らせて大急ぎで戻ってきたのだという。

 

「騒がせてごめんの、聖女さん」

「いえ、報せてくださってありがとうございます」

 

 報告を終えて肩の荷も下りた青年は村長宅を後にし、村長は広場に住人たちを集めていた。誤った噂が広まらないよう、先に情報を共有するらしい。夫人は先ほどの威圧感ある姿が嘘のようにヨボヨボと椅子に座り、シスネが淹れた茶を啜っている。レーベンはただ一人、考えを巡らせていた。

 

「あなたも、気になりますか?」

 

 否、シスネも考えていることは同じだったらしい。ならば仕事を始めなければならない。

 ぬるま湯のような平穏は、今日で終わりのようだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

安寧を脱す

「状況の確認のため隣村へと向かう」

 夫妻にそう伝えると、どこか寂しげな顔で見送られた。たかが七日、されど七日。レーベンでさえわずかに情が移りそうな温かい村だったのだ。その温かい村の住人やシスネにとっては、名残を惜しむには充分なのだろう。

 

「それでは、もう行きますね」

「体に気を付けるんやで。雨も降るし、もう寒うなるんやで」

「聖女さん、なんで行ってまうん?」

「はよ帰ってきてや!」

 

 とはいえ、行くのはあくまで隣村。この村での捜索も終わっていないのだから、早ければ明日中にはまた戻ってくることになる。それを分かっているのかいないのか、もう夜更けだというのに村の入り口には村民のほぼ全員が集まってしまっていた。

 見送りに来た者たちが代わるがわるシスネの手を取り、中には泣き出す子供までいる。シスネもそれを無視せずに一人ずつ対応するものだから、未だに出発できる気配は無かった。

 

「行くぞ貴公、夜が明けてしまう」

「聖女さんを頼むで!」

「嫁さんをちゃんと守れや!」

「子供かて早よ作らんと!」

 

 レーベンは相変わらず子供たちには避けられているが、村の男たちには何故か気に入られてしまっていた。一部どころかほぼ全員が深刻な勘違いをしているが、もうレーベンにはどうすることも出来ない。もうどうにでもなれば良いと思う。

 強引にシスネの手を引いて村を後にすると、背後から声援やら泣き声やら黄色い声やら口笛やらが聞こえ、レーベンはげんなりと息をついた。

 

 

 

 隣村――サハト村までは徒歩でおよそ四時間ほどの距離だ。馬を借りるという手もあったが、レーベンもシスネも乗馬には慣れていない。貴重な馬に怪我などさせては一大事である為、歩いて向かうことにした。夜道であることを考えても、夜明けまでには着くだろう。

 朝を待たなかったのはいち早くサハト村に向かう為であり、せっかく取り戻した緊張感が再び緩まない内に向かいたかった為でもある。それ程までに、あの村は温かすぎたのだ。

 

「良い人たちでしたね」

 

 暗い道を歩きながら、隣のシスネを見やる。手にしたランタンの灯りに照らされた彼女の顔は、以前よりも柔らかく見えた。少なくとも、馬車の中で暗く冷たい顔をしていた時よりは。

 

「どうも誤解されていたようだがな」

「あ、あれは、あなたがちゃんと否定しないからでしょう」

「いや今日はどう考えても貴公が悪い」

 

 ぐぅ、と再びシスネが呻く。横目で見れば、ひどく悔しそうな瞳と目が合う。何か反論しようと口を開きかけ、だが万策尽きたのか苦し紛れのようにレーベンの脇腹を小突いてきた。彼女と違って効きはしないが。

 ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向くシスネを更に揶揄っても良かったが報復が怖い。それに何より、もう気を緩ませるわけにはいかないのだ。

 シスネもそう考えているのか、夜が明けるまで沈黙の中を歩き続けた。

 

 

 ◆

 

 

 サハト村はノール村のほぼ真西に位置し、アスピダ山脈からも多少は離れた平地にある村だ。進むにつれて木々は少なくなり、やがて開けた丘に出る。その頃には背後に聳え立つ山脈から太陽が顔を出し、広がる草原を明るく照らし出した。

「わぁ……」と、隣から美しい景色に感嘆したような声が聞こえる。だがレーベンの目には、もっと別の物が見えていた。

 炎だ。遠くに見える村からも、その周りの畑からも離れた場所で燃える炎。だが橙色というより、どこか赤黒いその色はレーベンに馴染み深い。魔女の死骸を焼いた時、炎はあのような光を放つ。

 異質な篝火を囲む人影の群れに近付きながら、レーベンは更に気を引き締めた。

 

 

 

「……誰や、あんたら」

 

 今もごうごうと燃え続ける赤黒い炎の傍にいた男たちは皆口許に布を巻き、くぐもった声で警戒心を露わにした。中には手に鍬や鉈を構えている者までおり、目からは剣呑な光を放っている。

 レーベンは騎士証を見せながら努めて平坦な口調で事情を説明し、村への立入りを求めた。対して男たちは徐々にその包囲を狭め、十を超える視線が背後のシスネにも注がれているのが分かる。

「なんで聖女らが来るんや」「鎧着とらんぞ」「本当に騎士なんか」「野盗や」などと、男たちが相談している声が徐々に物騒になってきた。どうも雲行きが怪しいか。内心で焦り始めたレーベンの横に、シスネが歩み出た。

 

「私たちは敵ではありません、武器を下ろしてはいただけませんか」

 

 ゆるりと両手を上げながらシスネが更に前に出る。だが男たちは武器を下ろさず、じりじりと視線を送り続けている。

 一触即発。レーベンは指一本動かさず、だがすぐにでも動きだせるよう足に力を込めた。

 

「……騎士ロビンと聖女マリナに、祈らせてほしいのです」

 

 シスネの語った名前に、場の空気が変わる。男たちは皆その顔に驚愕の色を浮かべ、そのうちに何人かが体を震わせ、遂には武器を取り落として泣きだした。

「ちくしょう」「なんでや」「坊主よう」と顔を覆い、地面を殴る者たちの中から、最初に声をかけてきた男が口の覆いを下げながら歩み出てきた。

 

「ごめんな、魔女が出てみんな気ぃ立ってるんや……」

「いえ、私たちも大変な時に押しかけて申し訳ありません」

 

 詫びる男に対してシスネも腰を折り、そのまま二三の言葉を交わすと村まで案内してくれることになった。相変わらず冴えた話術で、レーベンには真似できない。しかも、この村に派遣されていた聖女と騎士の名前まで知っていたのだ。そのことを小声で尋ねると、

 

「マリナとは、よく話をしていましたから……」

「そう、か」

 

 シスネがポエニスに来てからまだそれ程の月日は経っていないが、カーリヤの尽力もあってか彼女も聖女たちにとけ込むことが出来ていたらしい。だがそれが良いことなのかどうかは、今のシスネの表情を見ると分からなくなってくる。

 互いが聖女である限り、別れは必ずやってくるのだから。

 

 

 

 男はサハト村の村長だと名乗った。村長というにはずいぶんと若いが、最近代替わりしたのだという。代替わりして早々にこれなのだから、殺気立つのも無理は無いだろうか。

 改めて話を聞くも、ノール村で聞いた内容と大きな差異は無い。先ほどの場所で騎士の亡骸と魔女の死骸を見つけ、魔女はその場で焼いてしまうことにした。つまりはほぼ丸一日ああして焼き続けているということだ。そこまで念入りに焼却しなくとも動き出すことはないだろうが、それで不安が和らぐのならそれも良いのかもしれない。

 そして騎士の亡骸は、村から少し離れた墓地に安置されていた。途中まで埋葬の準備も済まされた場所で、厚い布を被せられている。その傍らに跪いたシスネが短く聖句を唱えてから、そっと布を剥いだ。

 あどけない死に顔。十五年ほどしか生きなかったであろう、まだ幼さを残した顔にレーベンは見覚えがある。カーリヤによく揶揄われていた少年騎士だった。

 

「ロビン……」

 

 シスネがその名前を呟く。彼女よりも遥かに付き合いが長かったはずのレーベンは、彼の名前もいま初めて知った。我ながら薄情なものだとレーベンは思う。

 布を被せ直したシスネが両手を組んで祈り始める。紡がれる彼女の声に耳を傾けながら、レーベンは内心で簡単に祈りを済ませた。祈りこそ短いが敬意はある。幼くとも騎士としての最期を遂げたのだ、この少年は。

 村長もまた目頭を押さえ、声を殺しながら泣いていた。ロビン達もこの村で過ごして数日しか経っていないはずだが、その短い間だけでもここまで村人たちとの親交を深めていたのだろうか。

 シスネの祈りと村長の嗚咽を聞きながら、レーベンは次の布に手をかけた。ロビンの傍らに置かれ、だがどう見ても一人分の死体には足りない膨らみ。

 

「そっちは、見ん方が良いで」

「いえ、必要なことなので」

 

 村長の警告を流し、布を剥ぐ。祈りを終わったシスネが微かに顔を顰めた。

 布に隠されていたのは、二本の腕だった。細く(たお)やかな女の腕。見つかった聖女の死体の一部とはこれのことなのだろう。右腕の方は肩口から、左腕は肘のあたりで断ち切られている。その断面は乱雑で、切り落とされたというよりは、引きちぎられた痕のように見えた。

 

「間違いなさそうだな」

「えぇ、マリナの腕でしょう」

 

 マリナとは、ロビンと同年代に見えた聖少女とでもいうべき聖女だったか。ポエニスの聖女たちの中でも特に若く、よくカーリヤに見惚れるロビンに憤慨していた姿を覚えている。だがカーリヤにもよく懐いており、彼女が知ったらどのような顔をしてしまうだろうか。

 いっそ別人の腕なら良かったかもしれないが、その両手の指には自決指輪がはめられていた。こんな物を好きこのんで着けるのは聖女しかいない。

 

「……使っていないな」

 

 だがその指輪に仕込まれた毒針は納められたままで、マリナが自決には使用しなかったことを示している。右手も左手も、どちらもだ。

 

「これもですね」

 

 マリナの物であろう短銃をシスネが検め、弾薬がすべて込められていることを確認する。そうなるとマリナは自決しなかった可能性が高いが、両腕を失くした状態で生きているとも思えない。

 ならば、そのマリナの遺体はどこにあるのだろうか?

 

「…………」

 

 ざわりと、レーベンの中で最悪の可能性が首を擡げた。それをかき消すように頭を振り、遺体の近くに集められた二人の遺品を探る。

 外された鎧、雑嚢とその中に詰められた薬物、炸裂弾と焼夷弾、弾が減っていない短銃、血の痕のない短剣……。

 ()()()()

 

「……どうしました? 顔色が、」

「武器はどこだ?」

「え?」

 

 騎士は必ず一振りの武器を持つ。大量の武器を持ち歩くレーベンとは異なり、一振りだけの武器を。聖銀武器は聖性を流されることで常に万全の状態に保たれる為、予備など必要ないのだ。だからこそおかしい。その武器が何故ここに無いというのか。

 

「……魔女に壊されたのではないですか? 最後、刺し違えた時に」

「だがそれは……いや、そうかもな」

 

 考えすぎだと思い直す。シスネの言う通り、武器が見つからない原因などいくらでもある。魔女に壊されたのかもしれない、魔女の死骸に埋もれたまま焼かれたのかもしれない、ただ単に拾い忘れたのかもしれない、あるいは村人の誰かが盗んだのかもしれない。考えすぎだ。「アレ」が持ち去ったのだなどと――。

 そう、考え直した時だった。

 

「ん……?」

 

 まずシスネが異変に気付いた。立ち上がって、村とは反対方向に顔を向ける。

 

「なんや……?」

 

 村長が同じ方向に目を向ける。手で(ひさし)を作り、じっと目を凝らす。

 レーベンも立ち上がり遠眼鏡を鞄から取り出す。遠くの丘に何人かの人影が見えてきていた。だが遠眼鏡を使うまでもなく、その人影たちが何かに追われていることが分かる。

 

「ま――」

 

 何か。あんな、どう見ても人でも獣でもない存在、一つしかない。

 

「魔女!」

「魔女だっ!」

 

 走り出し、後ろからすぐにシスネもついてくる。

 その瞬間には、レーベンの頭からすべての雑念が消し飛んでいた。久しぶりの魔女狩りに、心の奥底で高揚している己を自覚する。騎士としては恥ずべきなのか誇るべきなのか。

 答えなど出す前にひたすら走り、遠くの空にまた暗雲が立ち込めていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蛇は這い寄る

「魔女や! 魔女が出た!」

「た、助けてくれや!」

「こっちです! 急いで!」

 

 大量の武器を担いだレーベンよりは身軽なシスネが前に走り出て、逃げてきた男たちに大声で叫ぶ。表情を恐怖一色に染めた彼らは、村長と共に魔女の死骸を焼いていた男たちだった。

 そして、その後ろから。

 

『嬉しい、私も』

 

 花に人の手足を生やすか、あるいは人の頭に花が咲けばあのような姿になるだろうか。頭の部分から伸びた黒い泥が触手のようにうねる様は、どちらかといえば菟葵(イソギンチャク)に近いかもしれない。触手は次から次へと頭から湧き出るように生え、ちぎれ落ちたそれらは足跡のように魔女の後方に残されている。

 異形の頭部に比べ、首から下は人の形を保っている。裸身に泥を纏っただけの艶めかしい肢体。だがそれも最早、悍ましい頭部を引き立たせる材料にしかなっていない。

 だが何よりも異様なのは。

 

「燃えている……?」

 

 背の長銃を抜きながらシスネが呟く。彼女の視線の先の魔女は、その躰の所々が燻る炭のように赤熱していたのだ。今も全身から湯気と煙を立ち上らせ、周囲の空気をも揺らめかせる様がその躰に纏った熱を否応なしに感じさせる。

 魔女は火に弱く、また火を恐れる。それは火を用い、火に癒される人の性質と反するものであり、魔女が人の敵である証と言われている。その真偽はともかく、火が魔女の弱点であることはレーベンもよく知るところであり、だからこそ火を纏うような魔女の姿に違和感を覚えた。

 魔女は視覚を失っているのか、ふらふらと両手を差し出しながら助けを求めるように歩いている。その足元に点々と残される泥の触手。それは、あの魔女の焼け跡から続いていた。

 

 ――こいつ、まさか

 

「いったい何処から……」

「生き返ったんや!」

 

 レーベンの頭にある仮説がよぎり、シスネの疑問に答えるように男たちの一人が叫ぶ。

 

「あんだけ焼いたのに生き返りおった! 化け物や!」

 

 男は今にも腰を抜かしそうな様子だが、その言葉は全ての答え合わせをしてくれた。あの魔女はロビンと相討ちになった魔女そのものであり、一昼夜を焼かれ続けてもまだ死んではいなかったのだ。

 否、死ななかったのではない。つまりアレは――。

 

「また共喰魔女か。運が無いな、貴公も」

「あなたのせいでしょう、この疫病神」

 

 レーベンの軽口に対し、軽口なのか本気なのか判断に苦しむ罵倒をシスネが返してくる。カクトの共喰魔女、森の永命魔女、そしてまた共喰魔女。本来であれば滅多に遭遇しないはずの特別な魔女がこうも頻繁に現れるとなると、レーベンかシスネのどちらかがよほど悪い運命に愛されているらしい。

 あるいはこれも、魔女の異常減少に関わるものなのだろうか?

 

『私も、私も』

 

 なんにせよ、これで情報は出揃ったように思える。アレは共喰魔女――複数の魔女の融合体であり、その片方とロビンは刺し違えた。そしてもう片方が今ああして目覚めたのだ。赤熱する躰はただの残り火であり、魔女の力ではない。つまるところ、アレはもうただの魔女だ。

 

「やるぞ貴公。油断するなよ」

「しませんよ。――あなた達は下がっていてください!」

 

 シスネの言葉に男たちが村まで走り去り、彼らが遠くに行ったことを確認した彼女の長銃が火を吹いた。最適な距離で放たれた散弾は魔女の頭を中心にして広がる触手をも捉え、その躰を大きく仰け反らせながら触手の幾本かがちぎれ飛ぶ。

 

『わだっ! ぶれっ』

 

 シスネが撃ち、魔女が一歩退く。魔女が一歩進み、またシスネが撃つ。互いの距離は縮まらないまま魔女の触手だけがちぎれ飛んでいく。

 魔女の足元にレーベンが焼夷弾を転がす。やはり見えていないのか、火を吹き出すそれに魔女は自ら踏み込んだ。

 

『わだじいい――――っ!』

 

 足元から再び火に焼かれ、魔女が身悶える。その間にもシスネの長銃は触手を撃ち飛ばし続け、蛇のようなそれが魔女の周囲にいくつも転がっていく。

 戦いは早くも一方的な様相を呈してきた。魔女の動きは鈍く、シスネの射撃を躱すこともしない。だが効いていないようには見えず、それは火に対しても同様だ。レーベンは更に焼夷弾を転がし、魔女を火炙りにする。わざわざ危険を冒して近付く必要すらない、このまま続ければ容易に狩れそうであった。

 だが当然、魔女にそんな期待をしてはならない。

 

『わ、だじもおぉぉ――!』

「っ!」

 

 レーベンが三個目の焼夷弾を取り出そうとし、シスネの長銃の残弾が無くなった瞬間。それを見計らったのかどうか、魔女が急に駆け出した。

 躰を火に包まれながら、抱擁を求めるかのように両手を広げ、シスネに向かって疾走する魔女。ほぼ無くなっていたはずの触手は瞬く間に頭部から生い茂り、それらもシスネを捕らえんと大きく広がる。もし捕らえられれば、火炙りになるのはシスネの方だろう。

 だが当然、それをさせるレーベンではない。

 

「ぬんっ」

 

 機械剣の柄に炸裂弾を装填、間髪入れずに引き金を弾く。強化剤を使う間は無かった。鈍った体では不安だが、気合いで何とかするしかない。

 加速する刃、開放される衝撃。剣を振るう必要は無い、ただ暴れる剣を御すことだけに全力を傾ける。半ば剣に引っ張られるようにして魔女と交差し、そして唸りをあげる刀身が魔女の細い腰を捉えた。

 

『あいじっ』

「あがっ」

 

 手応えは無い。元より柄から伝わる衝撃が強すぎてそんな物は感じないのだ。慣性のままに何度か回転したレーベンはなんとか転倒せずに済んだが、ひどく目が回った。思わず膝を着き、それとほぼ同時に何かが目の前に落ちてくる。

 

『う、れじ、い』

 

 魔女の上半身だった。機械剣の一撃は魔女の腰を容易に両断してしまったようだ。相変わらず非常識な威力とそれを外さずに済んだ幸運を噛みしめながら、止めを刺すために剣を振り上げ、だがその前に彼女がレーベンの横に並ぶ。

 

『わたしも、あいして――』

 

 意味のない言葉は銃声にかき消された。ほぼ零距離で放たれた散弾が魔女の頭を粉砕し、飛散した血と泥がレーベンにも降りかかる。

 

「女神の導きのあらんことを」

 

 遅れてシスネが聖句を口にし、動かない魔女の頭に更にもう一発の散弾を見舞う。再び飛散した血と泥がレーベンの黒髪を汚した。

 

「ひどいな」

「どう致しまして」

 

 顔やら髪やらに付いた泥を拭っていると、目の前に白い手が差し出された。そこまで疲弊はしていないがシスネに手を引かれて立ち上がり、頭を潰された魔女に剣を向けたまま十数える。

 

「……それ、前にもしていましたよね」

 

 魔女の死骸を前に十数えるのはレーベンの習慣だが、それは(まじな)いでもなんでもない。ただ単に、死んだとばかり思っていた魔女に不意を討たれて痛い目を見た経験があるというだけだ。

 

「今まで、十秒以上経って動き出した魔女はいなかったんだがな」

「これからは一日数えていて下さい」

「勘弁してくれ」

 

 共喰魔女とはいえ、ほぼ一昼夜に渡って焼き続けられても復活するとは記録更新もいいところである。さすがにレーベンもそこまで付き合ってはいられない。そうこうしている内に十秒以上が経過したが、魔女はもう動かなかった。

 終わってみれば圧勝だ。レーベンもシスネも負傷は無く、武器の損耗すら無い。薬も使わなかった。久しぶりの魔女狩りとしては、大成功と言えるだろうか。あとは魔女の死骸をどうするかだが、焼いても駄目ならばいっそのこと土に埋めて――。

 

「あっ……痛っ!?」

 

 突然シスネが叫び、スカートの上から足を押さえる。そのまま堪えられないといった様子で尻もちをつき、スカートをまくり上げた。

 突然の奇行にレーベンは固まり、一瞬見えた白い脚線から目を逸らす。

 

「んぁっ! ……見て!」

「無茶を言うな」

「そうじゃなくて馬鹿!」

 

 只ならぬ様子と声にレーベンは視線を戻し、灰色の目を見開く。

 シスネの白い脚には、黒い蛇のような何かが巻きついていた。更にその先端からは小さな牙のような物が生えており、それに食らいつかれた彼女の脚からは鮮血が垂れている。

 機械剣を投げ捨て、シスネの脚と黒蛇を両手で掴む。だがそれはまさに蛇のように食らいついて離れず、シスネの口から苦悶の声が漏れた。

 

「悪く思うな」

「いいから……っ、はやくっ!」

 

 シスネのように器用な真似はできない。変に焦らすことはせず一思いに黒蛇を引き剥がした。押し殺した悲鳴を耳にしながら、びちびちと蠢くそれに短剣を突き刺す。

 あっさり動かなくなった黒蛇はぐずぐずと黒い泥に戻っていく。魔女の触手がちぎれ落ちた物だと今になって気付き、そしてまたシスネの悲鳴が響く。

 

「あぁっ! また、もう……っ!」

 

 今度はシスネの右腕に別の黒蛇が絡みついていた。自ら掴み取って放り投げ、だがその左腕にまた別の黒蛇が食らいつく。足にも武骨な長靴ごと黒蛇が巻きつこうとしていた。

 レーベンは周囲を見回し、ぞっと総毛立つ。あの魔女からちぎれ飛んだ触手はそこら中に散らばっており、百を超えるであろうそれらが黒蛇の群れと化してシスネの元に集まろうとしていたのだ。

 

「逃げるぞ!」

「あ、ひゃあ――っ!?」

 

 とても付き合ってはいられない。ライアーがしていたようにシスネを横抱きにしようとし……だが想像以上の重さに断念して肩に担ぐ。そうして黒蛇の群れに背を向けて逃げ出した。

 

「あいだっ!」

「動かないで!」

 

 シスネに絡みついてた黒蛇が抗議するかのようにレーベンの首に噛みつく。痛みを堪えながら走り続けていると、肩の上のシスネが無遠慮にそれを引き抜いて放った。

 

「もう走れるか!? 重い!」

「あぁもうっ、服の中に……痛っ! この!」

 

 レーベンは止まる訳にもいかず、ひたすら黒蛇たちから逃げ続ける。シスネは肩の上でひとり奮闘しているが、装束の中にまで入りこんできた不届き者たちに苦戦しているようだ。

 

「脱いだ方がいい!」

「刺しますよ! あと重いって言わないで!」

 

 至極真面目なレーベンの忠告に対し、何を勘違いしたのかシスネに頭を叩かれる。こんな時に、もう少し緊張感を持ってはくれないだろうか。ついでに言えば、彼女が重いのは全身にいくつも括りつけた武器のせいだろう。

 なんとか全ての黒蛇を振り払ったシスネを下ろし、二人で黒蛇の群れから逃げ続ける。だがこのまま何処へ逃げれば良いというのか、まさかサハト村に逃げ込むわけにもいかない。

 

「……私が囮になります! その間に何とかして!」

 

 レーベンの返事も聞かず、シスネが別方向へと走り出す。黒蛇はレーベンには目もくれず、濁流のように彼女を追い始めた。魔女は優先的に聖女を狙う傾向があるが、この黒蛇はそれが特に顕著だ。理由などこの際どうでもよく、その性質を利用するしかない。

 投げ捨てていた機械剣を回収し、柄に焼夷弾を装填。ちょうどこちらに向かって走ってきていたシスネとすれ違うように走りながら引き金を弾いた。

 

「あづっ!」

 

 刀身から炎が噴き出し、草地ごと黒蛇の群れを焼き払っていく。強烈な炎に雑草は一瞬で燃え尽き、それらの間に火達磨となった黒蛇が魚のように跳ねていた。

 燃料が尽き、炎の消えた機械剣から焼夷弾を排出、すぐに次の焼夷弾を込める。剣を握る右手にじんじんと火傷の痛みが走っていた。あの変人は火傷を抑える為に改良したと言っていたが、炎自体の強さも以前より増している。結局は火傷に耐えながら使うしかないということだ。

 それはまあ良い。問題なのは今の攻撃で群れの一割も削れていないということだ。焼夷弾はあと三個しか無い。片手剣やらで地道に狩るにしても、草地の中を這いまわる黒蛇を一匹ずつ仕留めるなど時間がかかりすぎる。その前にシスネの体力が尽きるだろう。

 

「痛っ! あぐっ、……はやくして!」

 

 既に足の遅くなってきたシスネに何匹かの黒蛇が食いついていた。それを振り払うこともできずに走り、だが痛みが更に彼女の足を引く。

 レーベンは、黒蛇の群れに飲みこまれる聖女の姿を幻視した。

 もうなりふり構ってはいられない。強化剤と再生剤を立て続けに打ち、焼夷弾を込められた機械剣に炸裂弾を更に装填。シスネに群がろうとする群れの前に立ちはだかり、大上段に振り上げる。

 

「おあぁっ!」

 

 久しぶりに投与した強化剤は痛いほどに腕の筋肉を収縮させ、全力で振り下ろすと同時に引き金を弾く。炎と大力で加速した刃が地面に突き刺さり、刀身から開放された衝撃と炎が巨大な爆炎となって草原の一帯を吹き飛ばした。

 

「ぬおあぁ――っ!?」

「きゃあぁ――っ!?」

 

 レーベンに見えたのは、眼前で弾ける炎と、その間の曇り空。吹き飛ぶ土砂と、それらに混じる黒蛇。あと見慣れた白髪。

 衝撃で宙を舞いながらレーベンは考える。今度あの変人に会ったら言ってやろう。機械剣は最高の殺人武器だと。なにせ敵も味方も、使い手すらも殺そうとするのだからと。貴公も一度使ってみろ。

 

「ぐへあっ!」

 

 受け身もとれず顔面から着地。柔らかい草地でなければ気を失っていたかもしれない。否、気を失った方が幸せだったか。

 

「ぬ、熱っつぁ、くそが!」

「動かないでっ!

 

 右腕が燃えていた。熱さと激痛に転げまわり、それをシスネに足で踏まれて止められる。羽織っていた火除けの外套を剥ぎ取られ、それで右腕ごと体を包みながら抱きつかれた。痛みも熱も引かず、暴れ出しそうになる体を必死に堪え、シスネの細い腕もレーベンの体を掴んで放さない。

 やがて火が消え、事前に打っていた再生剤が功を奏したのか痛みが引き始める。シスネもそっと体を離した。

 

「……また馬鹿な真似をっ!」

 

 体を離すと同時に叱責と外套が飛んでくる。焦げ臭い外套を顔にぶつけられて、起き上がろうとしていた体が再び仰向けになる。なんとかそれを剥ぎ取り、軋む体を起こしてからレーベンは絶句した。

 

「なんだこれ」

「あなたがやったのでしょう」

 

 何歩か離れた先に巨大な穴が空いていた。墓穴にすれば三人は入りそうな大きさ。その中心には刀身の赤熱した機械剣がどこか誇らしげに突き刺さっており、製作者のにんまり顔と重なって見えた。

 

「滅茶苦茶だな」

「もう二度としないでください」

 

「いいですね」と一方的に言いながら、シスネが長銃のレバーを引く。彼女の前に、再び黒蛇が集まり始めていた。

 機械剣の一撃は極めて強力だったが、群れの全てを狩ることはできなかったのだ。未だに半数近くは残っている黒蛇をシスネ一人で狩り尽くせるとは思えない。

 

「待て、俺も」

「いいから、もう寝ていてください。……ほら」

 

 心なしか柔らかく苦笑したシスネが横に視線を向ける。レーベンもその視線を辿り、その先に。

 

 

 オオオオォォ――――――ッ!!!

 

 

 かつて英雄譚で見た、魔女の群れを迎え撃つ聖女と騎士たちの大合戦。それが今まさにレーベンの前で再現されようとしていた。

 ……もっとも、魔女の群れは脆弱な黒蛇で、それに対するのは聖女でも騎士でもない、農具と松明を手にした村人たちだったが。

 

「俺たちの村やぞ!」

「逝ねや! 逝ねやっ!」

「坊主と嬢ちゃんの仇や!」

「今度こそ焼き殺しちゃる!」

「蛇っころが! 食うぞてめえ!」

「舐めんなこら! 舐めんなやっ!」

 

 おそらく総出であろう男たちに混じり、中には女子供や老人までいる。各々が携えた鍬や鎌が黒蛇を突き刺し、松明で焼き払い、石で叩き潰す。数は互角な上、ここは彼らの庭だ。ただ数が多いだけの黒蛇が狩り尽くされるまで時間はかからなかった。

 

()ったぞぉ――――っ!」

 

 最後に、既に死骸になっていた魔女の首級(みしるし)を掲げた村長が高らかに叫ぶ。魔女狩りの狂熱に浮かされた男たちが雄叫びをあげ、それ以上に興奮した子供たちが歓声を響かせる。幾人かの女たちは膝を折り、名の無い女神への祈りを捧げていた。

 

「逞しいな」

「同感です」

 

 地面に座り込んだまま呟くレーベンの隣で、シスネは油断なく周囲を見回していた。聖女に守られる騎士というのは恰好がつかないが。

 

「――やったよロビン……、マリナ」

 

 村人たちの歓声に紛れたその声はレーベンの耳にも届いた。

 あの幼い聖女と騎士がこの光景を見たら、何を思うだろうか。魔女を狩り尽くせなかったことを悔いるだろうか。それとも、自分たちの仇討ちを果たした村人たちに感謝するだろうか。あるいは……。

 

「……」

 

 結局、マリナの遺体は何処にいったのだろうか。

 アレが共喰魔女だったのならば、ロビンが刺し違えたのは片方の魔女に過ぎず、ならばその後は……。

 強化剤の影響で振れ幅の大きな感情を自覚しながら、レーベンは蛇のように絡みついてくる悪寒を抑え込む。

 遠くの空で、雷鳴が光って見えた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

悪夢を覗きこむ時

 ある命題がある。

 この国の民であれば、特に聖女と騎士であれば一度は疑念を抱く命題。

 聖女は女から生まれ、魔女もまた女からしか生まれない。

 ならば、ならば――――。

 

 

 ◆

 

 

「疲れたな……」

「えぇ……」

 

 昨夜に歩いた道を逆に辿りながら、レーベンはげんなりと溜息をつく。シスネも力なくそれに同意した。

 あの後、宴や宴やと朝から騒ぐ男たちを何とか宥めつつロビンとマリナの腕の埋葬を済ませ、魔女の死骸を改めて焼いてから土に埋め、ポエニスへの報告を記した書の使いを村人に頼み、また宴や弔いやと泣いたり騒いだりする男たちを何とか躱してからようやく、レーベン達はノール村への帰路についた。……あの村に「帰る」というのも妙な話ではあるが。

 

「一泊させてもらうべきだったでしょうか……」

「やめたまえよ、寝かせてもらえんぞ」

「……ですね」

 

 穏やかでのんびりとしたノール村とは違い、逞しく血の気の多いサハト村だったのだ。泊まりなどすれば、明日の朝まで宴に付き合わされることは想像に難くない。ロビン達もきっと苦労したのだろう。

 そういう訳で、一連の事後処理を終えた後ですぐに村を発ったのだが、太陽は既に南から降り始めている。急げば日没までにはノール村に着くかもしれない。だがそれは、急ぐことが出来ればの話だ。

 

「っ、……っと」

 

 また何も無い場所でレーベンは足をもつれさせた。転びこそしなかったが、歩き出すとまた眩暈がする。いつも通りに歩いているつもりだというのに、前を歩くシスネに何故か追いつけない。

 そのシスネがまた振り返り、黒い瞳には珍しく心配の色が見て取れる。

 

「あの、大丈夫なのですか?」

 

 正直なところ大丈夫ではなかった。思えば、レーベンは昨日の朝から不眠不休で動いていたのだ。騎士たるもの一日や二日の不休は耐えなければならないが、今は魔女狩りの最中でもない。加えて、朝に使った薬の副作用が今まさにレーベンを苛んでもいた。体調は最悪と言える。

 

「すこし休みましょう、このままでは、」

「……大袈裟な、歩くだけだぞ」

 

 体調は悪いが、何も戦えというわけではない。歩くだけならどうとでもなり、多少は到着が遅れても問題など無い。休息なら村に着いてからいくらでもとれば良い。そう考えて踏み出したレーベンの腕を、白い手が掴む。

 

「駄目です。休みなさい」

 

 強く厳しい光を放つ黒い瞳。短い付き合いではあるが、この()になったシスネが一歩も退かないであろうことはレーベンにも分かっていた。

 黒い瞳をぼんやりと眺めていると、徐に足を払われる。ただそれだけで体勢を崩してしまい、倒れ伏す直前でシスネに手を引かれる。そのまま、大きな木の陰で緩やかな傾斜に背を預ける形で横にされてしまった。ちょうどレーベンの頭の横に腰を下ろしたシスネが長銃を抱くのが見える。

 

「見張っていますから、好きなだけどうぞ」

 

 休んでいないのは彼女も同じだろうに。否、彼女は昨日にぐっすりと午睡していたのだったか。

 

「貴公は、よく寝ていたから、な」

「その節は、誠に申し訳ありませんでしたっ」

 

 悔しそうな顔でそっぽを向く所作がひどく子供っぽく見え、それを見て笑っていると手で両目を覆われる。「さっさと寝ろ」ということらしいが、目許を包む手の冷たさが心地よく、すぐにでも寝てしまいそうだった。

 

「悪いなぁ、シスネ」

「……どう致しまして」

 

 

 ※

 

 

 レーベンは夢を見ていた。

 魔女狩りの夢だ。いつも通りに大量の武器を身に着けて歩いている。だがその中に機械剣は無い。当然だろう、()()はまだアルバットとも知り合っていなかったのだから。

 隣にシスネはいない。だが一人ではなく、鎧を纏ったライアーと、不安げに長銃を抱くカーリヤがいた。彼の手にある剣は特注品の片手剣ではなく、彼女の手にある銃もまた通常の長銃だ。ついでに言えば、装束もまだ改造されてはいなかった。

 つまり、これは過去の記憶なのだ。

 視点は己のままでありながら体は勝手に動き、その中でレーベンはぼんやりと確信する。これは確か四年前、レーベンら三人が聖女と騎士になってから一年ほど経った頃の記憶だ。

 

 当時、ライアー達は若くして頭角を現しつつあり、教会の上層部からも注目されていた。そしてその時は指名での依頼という、特別な魔女狩りへと赴いていたのだ。他とは一線を画す強力な魔女の討伐。それが二人の実力を見定めるための試金石であることは明らかであった。

 だがそのような試験じみた行為で貴重な人材を潰すわけにもいかないと、審査役を兼ねた護衛として当時すでに騎士長の座にあったヴュルガが同行し、更に一組の聖女と騎士を伴うことが許された。予想外だったのは、ライアーとカーリヤが揃って指名したのが、よりにもよってレーベンだったということだ。

 

 当時のレーベンの評判と扱いはひどい物であったが、それも自業自得ではあった。

「聖女なき騎士」というだけで異例の存在だというのに、毎日のように依頼を受けようとする。成功率はごく低く、だからといって死体になって帰ってくるわけでもない。つまりは逃げ帰ってばかりであり、教会にも苦情が殺到していたという。

 その内に依頼を受けることを禁止されるようになり、そうなると今度は無断で魔女狩りを行った。ならば武器の貸出しも禁止となると、倉庫から武器を盗み出した。更にその依頼のほとんどを失敗し、武器のほぼ全てを残骸にして帰ってくるのだから幾度も懲罰を受け、それでも行いを改めることはなかった。

 最悪の問題児、教会はじまって以来の汚点、悪騎士ジャック・ドゥの再来……。レーベンの悪評は日に日に増え、近いうちに処刑でもされるのではないかという噂まで広まっていた。

 はやく死ねば良いのにと、きっと皆が思っていたことだろう。

 

 あの時、二人が何故レーベンなどを指名したのか。確かに同じポエニスの孤児院で育ち、共に訓練を受けた仲ではあったが、それだけだ。特に互いが聖女と騎士になってからは疎遠になり、話をすることすら稀になっていたというのに。

 その理由はライアーもカーリヤも遂に教えてはくれなかったが、いま思えば彼らはレーベンを救おうとしてくれていたのかもしれない。困難な魔女狩りを共に成し遂げれば、レーベンの悪評も多少は雪げるであろうと。本当に、己などには勿体ない友人なのだ。あの二人は。

 

 

 

 夢の中で意識が飛び、場面も変わる。

 一行が辿りついたのは、既に滅びた小さな村。魔女によって住人が鏖殺された、この国ではありふれた悲劇の跡。

 既にヴュルガ騎士長は到着していた。その巨躯を更に重厚な鎧で覆い、背には彼の得物と並ぶようにして金属製の(はこ)が背負われていた。稀にしか見られない完全武装だが、聖女の姿は見えない。廃村を感情の無い目で眺めていた騎士長が、事も無げに言い放つ。

 

 ――この村を滅ぼした魔女を狩れ

 ――(おれ)は審査役として同行するが、手助けは一切しない

 ――例え、貴様(おまえ)たち全員が死のうともだ

 

 話が違った。

 ライアーは抗議し、だが当然それは認められず、カーリヤは今にも泣き出しそうな顔をしていた。レーベンだけは全てが腑に落ちたような気分でいたのを覚えている。

 これ以上の押し問答は無駄であり、そうすればこの騎士長は何の躊躇いもなく三人を処分するだろう。そう確信したレーベンが二人の背を押し、暗い廃村の中へと踏み入った。

 

 

 

 屍、屍、屍。

 騎士となってからの一年で無残な死体など見慣れてしまっていたはずが、その村の惨状に比べればなんと生易しいものだったのか。男も女も、子供も老人も、老若男女の頭が、手足が、(はらわた)がそこら中に散乱し、降り注ぐ雨によってできた赤い川が村の中を流れている。

 ライアーの大きな体が震えて鎧が音を鳴らし、カーリヤは何度も嘔吐した。レーベンだけは、もう何も感じなかったことを覚えている。騎士長もまた何も感じていないように見えた。

 

 死屍累々、屍山血河の中を進み、進み、進んで。その最奥に、アレがいた。

 何体もの騎士の死体と、何体もの聖女の残骸が散乱した中に、あの魔女がいた。

 降りしきる雨と、鳴り響く雷鳴の中で。

 魔女はその躰に、青白い炎を纏っていた。

 

 

 ◆

 

 

 地を揺るがすような雷鳴にレーベンは飛び起きた。

 

「んあっ!?」

「ぐあっ!?」

 

 飛び起きたが、その際に頭の真上に位置していたシスネの顎を額で強打してしまった。お互いに痛みで悶絶した後、憎々しげなシスネから脇腹を小突かれる。

 

「……おはよう。誠に申し訳ない」

「おひゃようごじゃいます……っ」

 

 舌を噛んでしまったらしい涙目のシスネが、それでも律儀に挨拶を返してくる。更に変な座り方でもしていたのか、足が痺れて立てないようだった。彼女が回復するまでは待とうとも思ったが、同時に雨が降ってくる。

 

「どれぐらい寝ていたんだ?」

「いちじぇかん、ぐりゃい」

「充分だ。行こう」

 

 体調は万全とは言い難いが、だいぶマシにはなった。雨足も強くなってきており、これ以上ここに留まる訳にもいかない。火除けの外套を頭から被り、シスネも鞄から外套を取り出して羽織る。既に本降りとなってきた雨の中を足早に歩き出した。

 夢の中でも、このような雨が降っていた。

 

 

 

 雨の中を無言で歩く。互いに一言も発さず、ただ雨音と水溜まりを踏む音だけが響いていた。二時間ほど歩いただろうか。道程は既に七割を越えており、夜道であった昨夜よりは早く到着しそうだった。

 

「……あの、」

 

 後方から聞こえた声に、足は止めないまま振り返る。シスネは思ったよりも離れた位置にいた。

 

「もうすこし、ゆっくり歩きませんか」

「……あぁ」

 

 いつの間にか速足になっていたらしい歩みを緩める。すぐに追いついてきたシスネと並び、努めて足並みを揃えた。

 

「……」

 

 だがすぐに彼女の歩みがやけに遅く感じ、焦燥と苛立ちが募っていく。

 焦燥? 苛立ち? 何に対してだ?

 強化剤の副作用も抜けているはずだというのに、どうにも感情が波立っている。内心穏やかでないことを自覚しながらも、その原因がはっきりとしない。否、本当は分かっているのだ。分かりたくないだけで。

 マリナの遺体はどこに消えた?

 ロビンの武器は誰が持ち去った?

 そして、そして。

 あの廃村の奥で己は何と対峙した?

 レーベンが対峙した中で最も手強かったあの魔女は、何者であった?

 またシスネの声が後ろから聞こえた。

 

「――っと! ちょっと、待ってください!」

 

 駆け寄り、レーベンの腕を掴もうとしていたのであろう手を逆に掴み取る。そのまま、彼女の手を強引に引いて歩き出した。

 

「痛……っ、あなた、何の真似っ」

「黙れよ。さっさと歩け」

 

 焦燥も苛立ちも限界で、口調を取り繕う余裕すら無い。ともすれば彼女を放りだして一人走るか、彼女を担ぎ上げて走り出すかしそうな心地であった。

 故に、レーベンは忘れていたのだ。己が手を引く聖女が、存外に短気であったことを。

 

「黙れとはなんですかっ!」

「おぶえっ!?」

 

 平手ではない。紛うことなき拳である。シスネが振り抜いた左拳は見事にレーベンの鼻っ柱に直撃し、目の前がチカチカと赤く明滅する。思わず蹲り、足元の水溜まりに鼻血が何滴も落ちていった。

 シスネはシスネで、慣れない暴力に左手を押さえながら呻いている。だが当然レーベンより復活は早く、涙で輝く黒い瞳でキッと睨み据えてきた。

 

「なんですかさっきから勝手に苛々鬱々と! 言いたいことがあるならはっきり言いなさい!」

「ま、まひょとひもふしわへなひ」

「はっきり言えと言っているでしょう!」

 

 苛立たしげに踏み鳴らされた足が水溜まりを踏み、飛沫がレーベンの顔の鼻血を洗う。彼女も相当に鬱憤が溜まっていたのか、ここぞとばかりに怒鳴り始めた。

 

「いつもいつも余計なことばかり言うくせに、肝心なことは何も言わないのですね! もう本当にあなたという人は!」

「まことにもうしわけない」

「またそれですか! そう言っておけば許されるとでも!?」

「……」

「そこで黙らない!」

 

 レーベンは鉄拳制裁と雨の冷たさで既に頭は冷えていた。シスネは未だに怒り心頭だが、これだけ叫んでいればその内に落ち着くだろう。

 雷鳴と、雨音と、彼女の怒声を聞きながら。不思議とレーベンは穏やかな心地となった己に気付いた。

 

 

 

 未だ止まない雨の中をゆっくりと歩く。レーベンの左手首は白い手にがっちりと掴まれており、手を繋ぐというよりは手枷でも嵌められている気分だ。

 

「殴ったことは謝りませんよ。今回ばかりは本当に全部あなたが悪い」

「誠に……」

「何ですって?」

 

 いつも通りの謝罪で流そうとしたが黒い瞳が睨みあげてくる。頭に被った外套の陰から覗く瞳には、普段よりも迫力があった。「さっさと吐け」と迫る瞳に促されるまま、レーベンは口を開いた。

 

「……貴公は、聖女キノノスの最期を知っているか」

「はい?」

 

 いきなり何の話だと、怪訝な視線が横顔に突き刺さる。レーベンとてこんな回りくどい言い方をしたい訳ではないが、いざこうして口を開こうとするとなかなか本題に入ることができない。

 アレの名は口にすることすら憚れるのだ。

 

「……もちろん、知っていますが。彼女は――」

 

 はたと、シスネの表情が固まる。おそらくはレーベンと同じ考えに至ったのだろう。

 

「あなた、まさか」

「杞憂だと、そう思いたいんだが、な」

「不安だと?」

 

 不安。

 そう不安なのだ、己は。先程までレーベンの中で荒れ狂っていた感情は、焦燥でも苛立ちでもなかった。不安と、そして恐怖だったのだ。

 もし仮に己の予想が杞憂でなかったのなら、アレは何処に行った? サハト村にいなかったのなら、何処に向かった? サハト村から、もっとも近い村は、何処だった?

 

「……なら、急ぎましょうか」

「いや、良い」

「どうしてっ?」

 

 シスネが非難の目を向けてきているのが分かるが、レーベンはそれを直視できない。

 己の中で渦巻いていた恐怖。それはあの村を――ノール村を案じてのものではない。何故なら、もしもそうなっていたのであれば、レーベンなどが駆けつけたところでどうにもならない。己などにどうにか出来る存在ではないのだ、アレは。

 四年前のあの廃村でも、己にはどうにも出来なかったのだから。

 

 

 ◆

 

 

「どうして……!」

 

 ひどい雨の中だというのに、シスネが頭の外套を下ろしながら呟く。信じたくないと、見間違いであってほしいと願うように。

 

「……くそが」

 

 レーベンはただ諦めていた。最悪の予想をそのままの形で実現してくれた女神に恨み事を吐きたい気分であった。唯一の違いはノール村がまだ幾分離れた場所にあったということだろうか。だがそれは救いではないということを、レーベンは知っている。

 

 

『見て、見てよ』

 

 

 雷鳴が魔女を、彼女の姿を曇天の元に暴きだす。

 幼さを残した相貌、蠢く黒い泥、清貧を現す灰色の装束、歪な骨、聖銀の刃。

 その躰に纏う、青白い炎――聖性の光。

 

「――マリナ!」

 

 シスネの悲鳴。

 

「――破戒魔女」

 

 レーベンの諦観。

 

 

 

 聖女は女から生まれ、魔女もまた女からしか生まれない。

 ならば、聖女が魔女となることも当然あり得る。

 そして皆が恐れと共に知っている。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだと。

 その悍ましい皮肉によって生まれた魔女のことを、

 

『わたしを、見て』

 

破戒魔女(はかいまじょ)」と、呼ぶ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

破戒魔女

「殉教者」キノノス。その名は畏敬と慈悲を以て付けられた。

 名の無い女神の存在と加護を誰よりも信じた、敬虔なる信徒。

 そして誰よりも早く聖性の存在を証明し、それを操る術を見出した「はじまりの聖女」

 その誉れ高い名を、彼女自身が誰よりも誇っていたという。自他に厳しく、欲という欲を、我という我を制しながら生きていた彼女が、自身に許した唯一の褒美だったのだと。

 

 だが彼女は、最悪の形でその命を散らすこととなる。

 

 いったい誰が思っただろう、誰よりも女神を信じた彼女が、女神の敵になるなどと。

 いったい誰が思っただろう、多くの騎士を救い罰してきた彼女が、騎士に討たれるなどと。

 いったい誰が思っただろう、彼女が、はじまりの聖女が――魔女に、なるなどと。

 

 ()()()()()()

 

 それは比類なき強力な魔女を生み出す、語ることすら禁忌とされた災いそのものであった。

 事実、魔女キノノスの力は凄まじく、幾人もの聖女と騎士の屍を積み上げた末、大騎士コルネイユとの激闘の末に討たれたのだという。

 いったい何が彼女を魔女へと堕としたのだろうか。彼女を討ったコルネイユが語るように、絶望が魔女を生み出すというのならば、彼女はいったい何に絶望したのだろうか。多くの人々がその謎を想い、だが答えは永遠に分からないまま。

 誰かは言った。

「彼女は最期まで教えを捨てなかった。故に教えに殉じ、魔女となった」

 別の誰かは言った。

「彼女は最期に戒律を破ってしまった。故に己に絶望し、魔女となった」

 全ては謎のまま、ただその忌み名だけが遺された。

 

「殉教者」キノノス。それは最初の聖女にして、最初の破戒魔女の名だ。

 

 

 ◆

 

 

『ねえ、見てよ、見て』

 

 雨に濡れた双眸から黒い涙が流れ続ける。時と共に濃度を増していくそれは泥のような粘質を帯び、やがては全身を覆ってしまうのだ。

 ズルズルと、まだ形を成していない泥の躰が地面を這ってくる。それらに混ぜこまれるようにして、しなやかな両脚と、装束を纏ったままの矮躯と、そして幼さを残した相貌が顔を覗かせていた。

 

「マリナ……」

 

 シスネが震える声でその名を呼ぶ。

 聖女マリナ。ポエニスでもっとも若い聖女であり、同時にもっとも新参者でもあった。聖都から新たにやって来たシスネにとっては先輩であり後輩でもある。それ故に通ずるところもあったのだろうか。だが彼女はもう魔女となってしまった。それも、もっとも恐ろしい魔女――破戒魔女に。

 シスネは迷わなかった。背から長銃を抜き、レバーを引いて装填。その銃口を魔女に向ける。アレはもうマリナではない。ミラのような「なりかけ」でもなく、完全な魔女と化している。聖女マリナは、彼女の友人はもう死んだのだ。ならば、シスネにしてやれることは一つしかない。

 シスネは正しかっただろう。アレが、ただの魔女であったならば。

 

「よせ!」

 

 レーベンの警告は銃声にかき消された。近くも遠くもない最適な距離から放たれた散弾は魔女の躰に対しても一定の効果を発揮する。そのはずだった。

 

「な……っ」

 

 金属音。

 

『見て』

 

 無傷の魔女。

 今目にした光景を否定するかのようにシスネが長銃を連射する。銃声が立て続けに響き、ほぼ同時に金属音が重なる。だが魔女の躰には傷ひとつ付かないまま、ただその周囲の木々や草花に無残な弾痕が刻まれていく。

 カチリと、弾の切れた長銃から虚しい音が鳴る。諦めず腰のベルトから弾薬を掴み取る手を、レーベンが掴んだ。

 

「なにを、」

「無駄だ、逃げるぞ」

「……は!?」

 

 魔女の動きは、その歩みだけならばごく鈍い。あの不定形の躰からも見て取れるように、まだ魔女化からそれほど時間が経ってはいない。だがこれからどうなるのかは分からない。ならば、早く逃げなければならないのだ。

 

「何を言っているのですか! 今ここで狩らないと……!」

 

 警告を無視し、シスネが腰の短銃を抜く。両手で構え、二発ずつ連射する基本的な射撃。その攻撃はやはり魔女に届かず、だが弾丸の密度が減っただけにその種がよく見て取れた。

 シスネの指が引き金を弾き、同時に魔女の腕――断ち切られたマリナの脚に握られた聖銀の剣が振るわれる。金属音が響き、弾丸は明後日の方向へと飛んで行った。種は単純、魔女は剣で銃弾を弾いたのだ。ただ、散弾すらも弾き落とすその精度と速度が常軌を逸しているというだけで。

 

「……っ! この!」

 

 なおも諦めないシスネが切り札を抜く。脇のホルスターから引き抜かれた大短銃を構え、腰を落としながら引き金に指をかける。

 魔女の全身が青白く燃え上がった。

 

『わたしを、見て』

 

 雷鳴のような轟音と、耳を(つんざ)く金属音。雨に混じって輝く、銀色の飛沫。

 反動でシスネが水を撥ねながら倒れ込み、すぐに体を起こす。雨水に濡れた白髪を振り払いながら、魔女に視線を向けた。

 

「やった……!」

 

 魔女の躰に傷は無く、だがその剣は刀身の半ばで砕けていた。流石はアルバットの作った銃、機械剣と同じく馬鹿げた威力である。あの魔女であっても、あの剣ならばこれまでのように銃弾を防ぎ切ることは難しいだろう。

 シスネの表情に希望が浮かんだ。

 だが彼女は忘れている。あれは聖銀の剣であり、そしてアレは破戒魔女なのだ。

 

『ねえ、見てったら』

 

 青白い炎――聖性の光が魔女の躰から溢れ出し、握った剣に流し込まれる。呼応した剣が輝き、メキメキと音を立てながらその刀身が伸びていった。あれこそ聖銀――聖性形状記憶銀の力。魔女に対する為に生み出された不朽不滅の刃。なんという皮肉だろうか、それが今や聖女であるシスネに向けられているのだから。

 

「そん、な」

 

 放心したような声を漏らすシスネ。重みを支えきれないかのように、大短銃を手にした右手が水溜まりに落ちた。

 魔女が元の形に戻った剣を掲げる。その脚からは、まだ鮮やかな赤い血が流れ出ていた。

 

「伏せろ!」

 

 背負っていた盾を魔女に投げつけ、同時にシスネの体を押し倒す。そしてレーベンの目が、刃の輝きに焼かれた。

 消えない火花。止まない刃音。細切れになっていく聖銀の盾。目で見て捉えるなど限りなく不可能に近い。不可視の速度で縦横無尽に振るわれるそれは、まさしく刃の竜巻だった。あんなものに巻き込まれれば、人など一瞬で赤い霞になってしまう。立ち向かうことなど出来ないのだ。

 降り注ぐ雨と聖銀の破片の中を転がり、シスネを引きずるように立ち上がる。そうして魔女に背を向け、レーベン達は走り去った。

 

 

 ◆

 

 

 止まない雨の中をただ走る。ノール村へと続く道を逆方向に、村から離れていく。

 

「待って、待ってください!」

 

 引いていた手を振り払われ、シスネが立ち止まった。荒い息も抑えないまま、黒い瞳がレーベンを睨む。

 

「本当に逃げる気ですか! このままじゃ……」

 

 遠くに目をやれば、木々の向こうに青白い光が見え隠れする。魔女はレーベン達を追ってきているようだが、今のところはこちらの逃げ足の方が速い。逃げるだけならば簡単だ。だがレーベン達を見失えば、あの魔女は別の獲物に向かうだろう。つまりは、ノール村に。

 

「……貴公は、破戒魔女と戦ったことが無いだろう」

 

 シスネは答えず、それは肯定の沈黙だった。レーベンにも答えは分かっていた。もし戦ったことがあるのなら、アレに戦いなど挑むはずがないのだから。

 

「俺はある。なあ、よく聞け」

 

 シスネの細い両肩を掴み、反射的に振り払おうと動いた体を強く押さえる。灰色の目と黒い瞳が交差した。

 

「破戒魔女とは、戦うべきではないんだ」

「ば……」

 

 思っていた通り、青白かった顔がカッと赤く染まる。見慣れた怒りの表情。

 

「馬鹿なことを言わないでっ! そんな――」

「聞けと言っているだろうがっ!」

 

 シスネに負けじと大声で返し、一瞬怯んだ隙を逃さずに語って聞かせる。

 

「アレは破戒魔女だ。つまり元は聖女だ。だから聖性を使える」

「だがな、知っているだろう? ()()()()()()()使()()()()()()

「それを無理に使えばどうなると思う?」

 

 聖性とは誰の中にもあり、だがそれを体外に放出できるのは聖女の素質を持つ女だけ。その聖性を受け取ることは誰にでもできるが、聖女だけは別だ。

 言い換えれば、聖性を「与える素質」か「与えられる素質」か、そのどちらかしか人は持てないのだ。故に聖女は常に生身で魔女と対峙し、それを守る騎士が必要となる。

 だが破戒魔女は自身に聖性を使っている。あの桁外れの強さは聖性による身体強化によるものだが、それには大きな代償が必要だ。

 

「俺には分からんが、相当な苦痛だと聞いた。それこそ体中から血が噴き出るような」

「そしてそれはあの魔女だって同じだ。例外じゃないんだ」

「アレが聖性を使えば使うほど、アレは自分の首を絞めていくんだ」

 

 シスネの銃はあの魔女に一切の傷を付けてはいない。だというのに、剣を握る脚からは血を流していた。あれこそが「自壊現象」、破戒魔女の唯一にして最大の弱点だ。

 

「だから、戦うべきじゃない。戦う必要なんて無いんだ」

 

 魔女化した女は正気を失い、正常な判断などできなくなる。故にあの魔女は自身の苦痛も理解せずに聖性を使い、自分から死に近付いていく。放っておけば数日ともたずに自滅するだろう。

 

 

 

「……あの人たちは、どうなるのですか」

 

 黙ってレーベンの話を聞いていたシスネが顔を上げる。雨で貼りついた前髪から覗く瞳は睨むような、縋るような視線を向けてくる。

 

「あなたの話は、分かりました」

「たしかに、あの魔女は強すぎる。私では勝てない」

「放っておけば勝手に死ぬ。だから戦う必要は無い」

 

「でも」そう言って、レーベンの胸倉を掴んでくる。あるいは、縋りついてきた。

 

「でも、ノール村はどうなるのですか!?」

「あの魔女が死ぬのはいつ!? 明日ですか! 明後日ですかっ!」

「それまでにみんな殺されてしまう!」

 

 シスネの叫びにレーベンは返す言葉を持たない。

 破戒魔女はたしかに自滅する。だがそれがいつになるのかは分からず、そして今すぐではないことは確かだろう。彼女の言う通り、あの魔女がノール村に向かい村民を鏖殺するには充分な時間がある。

 村に先回りして村民を避難させる方法もあるだろうか。だが村から続く唯一の道にはあの魔女がいるのだ。小さな村とはいえ百人以上を、それも女子供や年寄りまで含めた全員を魔女から守りながら避難させるなど、言葉にするほど容易ではない。その最中にレーベンもシスネも死ぬかもしれない。

 

「あなたは、みんなを見捨てる気ですか!」

「……」

 

 温かい人たちだった。レーベンは家族というものを知らないが、もし家族を失くしていなかったら、もし再び家族を得たならば、あのような生活を送ることになっていたのかもしれないと、そう思えた。あの平穏から早く抜け出したいとも思っていたのは、それを失くすことが怖かったからかもしれない。

 レーベンとて、見捨てたくはないのだ。

 もしも、あの魔女を狩る為に屍の山が必要だというのならば、己の身を差し出すことに迷いは無い。己は騎士で、いつか魔女狩りの中で死ぬ運命なのだから。

 だがここに騎士はレーベンしかいない。レーベンの命一個では足りない。それだけでは、あの魔女は狩れないのだ。

 戦えば確実に負ける。レーベン達は死に、村人たちもみんな死ぬ。その後に魔女も死ぬ。

 今なら確実に逃げられる。レーベン達は生き残り、村人たちと魔女は、やはり死ぬ。

 天秤の傾きは明白だ。あの魔女が現れた時点で、マリナが魔女となった時点で、ノール村の運命は決まっていた。戦う理由など何ひとつ無い。

 それが分からないシスネではないはずだ。レーベンとて、分かっているはずなのだ。

 そう、なのに。

 

「…………勝算は、あるのか」

 

 気が付けば口走っていた。薬も使っていないはずなのに感情の揺れを自覚する。やめろと、お前に何が出来ると、まだ冷静な己が警告してくる。だが口は己の物でないかのように言葉を吐いた。

 

「俺にはなにも見えない、俺にはなにも」

「ひとつだけ」

 

 いつの間にか座り込んでいたレーベンは顔を上げる。見上げたシスネの顔には自信に溢れた、だが明らかに引きつった作り笑いが浮かんでいた。

 

「ひとつだけ……でもすこし、いえだいぶ危険な、その……」

「おい」

 

 この期に及んで腰の引けた答えしか返してこない聖女に思わず抗議してしまった。それでもシスネは黒い瞳を泳がせながらごにょごにょと何かを呟いている。

 そんな不確かな勝算しか無いまま、あの恐ろしい魔女と戦う気でいたのだ、この聖女は。

 だが勝算が無い訳ではないというのであれば――。

 溜息をひとつつき、苦笑したつもりでレーベンは立ち上がった。

 

「聞かせてくれたまえよ」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

生と死の一線

 四年前のあの時も、己ではどうにも出来なかった。

 

 あの廃村の奥にいた魔女もまた、破戒魔女だった。だが当時のレーベン達にとって破戒魔女とは英雄譚の中だけでの存在であり、それが駆け出しである自分たちの前に現れることなど無いと、何の根拠もなく信じていた。故にアレも多少は強力なだけの魔女であると、そう考えていたのだ。

 

 恐れを振り払うようにカーリヤが聖性を発し、それを受け取ったライアーが両手剣を構えて駆け出す。二人が魔女と戦う様をレーベンは遠巻きに眺め、それを更に遠くからヴュルガ騎士長が見ていた。

 怖気づいたわけではない。聖女がおらず、まともに戦うこともできない己が手を出したところで却って二人の邪魔になってしまうと考えていたからだ。レーベンは己の評価など知ったことではなかったし、己の生死に関しても同じだった。騎士となって一年、魔女狩りを悉く失敗しながら逃げ帰っていたのも己の命を惜しんでのことではない。もっと別の理由だ。

 

 ライアーが両手剣を振り下ろす。大柄な体躯を活かした一撃はカーリヤの聖性によって強化され、尋常な魔女であれば一撃で狩ることすらできただろう。だがアレは尋常な魔女ではなかった。

 レーベンはただ見ていた。だからこそ気付くことができた。魔女の周囲に散らばる聖女と騎士の死体。()()()()()()()()()()()()()()()

 気が付けば魔女に向かって駆け出していた。同時に、両手剣を砕かれたライアーが呆然と立ち尽くしていた。走る勢いのまま全力で蹴りを放つ。魔女ではなく、ライアーに。

 代わりに魔女と対峙しながら、倒れ伏した彼に叫んだ。

 

『無理だ! 逃げろ!』

 

 当時のライアーは今とは別人のように血気に逸っており、レーベンから見ても明らかに生き急いでいた。そんな彼だからレーベンの言葉には従わず、だがカーリヤがそれを止めた。

 彼女もまた今とは別人のような聖女だった。(おし)のように喋らず、常にライアーの陰に隠れ、その背中を哀しそうに見つめているような女だった。そんな彼女がライアーに叫び、その頬を引っ叩き、大きな体を引きずって離れていった。

 

 ――さて、どうする

 

 何も考えてはいなかった。ライアー達でも歯が立たない相手に、レーベンができることなど何も思い浮かばなかった。ただ迫ってくる魔女から逃げ回りながら、何か方法が無いか考えていた。

 そのまま逃げることも考えたが、逃げ道には騎士長がいた。レーベンはまだ戦っており、まだ死んでいないから。まだ審査は終わっていないから。あるいは、レーベンが逃げ出そうとすればその場で処分しようとしていたのかもしれない。騎士長の目はレーベンをただ見ていた。いつものように、誰に対してもそうするように、石ころか雑草でも見るような目で。

 その感情の無い目を見て、レーベンはひとり笑った。

 

 

 ◆

 

 

 空は分厚い雨雲に覆われており太陽の位置は分からないが、じきに日が沈む頃合いだ。月も見えない闇夜の中であの破戒魔女と戦うわけにはいかず、それまでに決着をつけなければならない。だがその前に確かめなければならないこともある。

 

「こっち!」

 

 レーベン達を見失い、ノール村に向かっていたらしい魔女の前にシスネが踊り出る。魔女が泥に覆われた双眸をシスネに向け、同時にシスネの短銃が連続して火を吹いた。

 連射、連射、連射。二丁の短銃をそれぞれ両手に握り、ろくに狙いもせずに引き金を弾く。彼女らしくもない雑な射撃は何発かが魔女の躰を逸れていくが、その全てを魔女の剣は弾き落とした。()()()()()()()

 それを木の陰から見ていたレーベンが、そっと身を乗り出す。シスネとは反対側、魔女の背後から短剣を音もなく投げ放った。だがそれも魔女の剣に斬り払われ、近くの木の幹に突き刺さる。

 

「便利なものだっ」

 

 魔女の躰は未だに半ば不定形、元は脚であったしなやかな腕は前も後ろもなく自在に動いている。それを認めながら愚痴と共に次の投擲を繰り出した。

 

『見て』

 

 魔女が剣を振るい、先ほどまでとは違い軽い音が響く。レーベンが投げたのは短剣ではなく、ただの石ころだったのだ。

 

『見てよ』

 

 投擲を続ける。次に投げ放ったのは、魔女狩りの中では完全に場違いな品。木々の間で適当に摘んできて束ねた、花束だ。

 

『見てったら』

 

 欠片ほどの殺傷力も備えていないそれを、やはり魔女の剣は斬り払った。一度ではなく何度も、花の全てを斬り裂くまで。名も知らない雑多な花々が雨の中で散っていく。

 

「退け!」

 

 充分だった。

 シスネに合図し、別々の方向に逃げる。走りながら振り返れば、魔女はレーベンを追ってきてはいなかった。シスネの方かノール村に向かったのだろう。暗くなり始めた木々に紛れるように走り、合流地点へと向かった。

 

 

 ◆

 

 

「思った通りでしたね」

「厄介なことに変わりはないがな」

 

 魔女の進む道を大きく迂回し、ノール村まで半里ほどの場所でシスネと合流した。シスネを追うにしろ村に向かうにしろ、じきに魔女はここに来るだろう。それをここで迎え撃つのだ。

 

「これぐらいですか?」

「まあ、そんなものだろう」

「適当ですね」

 

 その為の仕掛けを二人で準備する。仕掛けと呼ぶには、あまりにも簡単な代物ではあったが。

 

「……できました」

「上出来だな」

「馬鹿にしているでしょう?」

 

 ガリガリと石で地面の土に線を引く。雨で消えないよう深く、しっかりと。そうたいして時間もかけずにその仕掛け――ただ地面に引かれた二本の線ができあがった。

 あとは待つだけだ。レーベンは機械剣に炸裂弾を装填、シスネは大短銃に弾薬を込め、二人で武器を手に木陰へと座り込んだ。

 無言で魔女を待つ。雨は徐々に勢いを緩め、だが止むことはなくしとしと降り続けている。魔女狩りの最中とは、それも破戒魔女を狩ろうとしている最中とは思えない、穏やかな時間だった。

 

「ごめんなさい」

 

 脱いだ外套を機械剣に被せていたレーベンは、すぐ隣から聞こえた声に顔を向けた。シスネは手にした大短銃を撫でながら、視線は銃に落としたまま言葉を続ける。

 

「あなたとの魔女狩りはいつも滅茶苦茶ですが。今回は格が違う」

「きっと、あなたの言う通りに逃げるのが正しかった」

「でも、私の私情に付き合わせてしまって……だから、ごめんなさい」

 

 レーベンも視線を機械剣に戻し、答えは返さないまま今までのことに思いを馳せる。

 思えば、シスネと最初に会ったのも魔女狩りの中であった。聖女と騎士らしい出会いと言えるだろうか。それから彼女と共に狩った魔女の数は片手で数えられる程のはずが、今まで一人で行ってきた魔女狩りよりよほど深くレーベンの記憶に刻まれている。最初は拒絶されていたシスネとの距離も徐々に――。

 

「いや、縮まってはいないか」

「何がですか」

「俺と貴公との仲が」

「……当たり前でしょう」

 

 シスネの声に聞き慣れた険が戻り、わざわざ体を離して座り直す。行き過ぎると雨に濡れるだろうに。

 

「魔女狩りの一度や二度で女が落とせるとでも思っているのですか。英雄譚の読みすぎですよ」

「聖女シーニュはいつもそんな感じだがな」

「あぁ……、あれはひどいですね」

 

 かの美聖女を題材とした英雄譚……というよりは恋物語は数多く、多感な少年から夢見がちな乙女まで虜にしてやまない。だが数が多ければその内容も玉石混交というもの、中には恋物語(ロマンス)など名ばかりの官能小説(エロス)まで作られている。

 

「嫌だ嫌いだと言うわりには、次の(ページ)ではもう落ちているではないですか。早すぎるでしょう」

「それは流石に早すぎ……いや待て貴公、それは恋物語じゃなくて官能――」

「っ、とにかく、あんな物を現実と混同しないことです。いいですね?」

「お、おう」

 

 彼女のひどく意外な一面を垣間見てしまった気がするが、聞かなかったことにした。あまり揶揄いすぎても報復が怖い。……報復される「次」があればの話だが。

 一度は止みかけていた雨が、再び強くなり始めた。

 

「……もし、俺が」

 

 喉から零れ落ちた声はひどく小さく、雨音にかき消されそうだ。だがシスネがこちらを向いた気配をたしかに感じた。

 

「もし、あの魔女を狩れたら、その時は……貴公は、」

 

 

『こっちを、見て』

 

 

 雨音に混じり聞こえた歪な声に、シスネが素早く立ち上がる。レーベンもまた言葉を飲みこんでそれに続いた。それぞれの手に剣と銃を構え、魔女の前に立ちはだかる。

 

「“この戦いに勝てたら”なんて、こんな時に不吉な台詞を言わないでもらえますか」

「違いない」

 

 彼女らしくもない、どこか冗談めかした声は震えていた。それに答えた己の声は震えていただろうか。ただレーベンは渇いた笑いを漏らし、シスネも珍しくそれに笑って応えた。

 

 

 ※

 

 

 ヴュルガ騎士長が跳ぶ。その巨躯からは想像もできないほど軽やかに跳躍し、崩れかけの家屋の屋根に飛び乗った。そして、ほんの一瞬前に騎士長が立っていた場所を魔女の一撃が襲う。

 魔女の虚ろな視線が彷徨う。離れた場所から窺うレーベンと、屋根の上に佇む騎士長。弱い相手から屠ろうと考えたか、あるいはただ近い方の獲物を選んだのか、また己を追い始めた魔女に対し、レーベンはまた背を向けた。

 雨の中を、血と屍が散乱した廃村の中を駆けずり回る。背後から迫ってくる魔女の一撃を無様に転がって躱し、泥と血に塗れながらひたすら逃げる。家屋の角を曲がり、曲がり、曲がって魔女との距離を稼ぎ、足場になりそうな木箱を見つけると必死で屋根によじ登った。

 

 感情の無い視線がレーベンを見下ろす。

 

 奇しくも、そこは騎士長が立っていた屋根だった。屋根にしがみつくレーベンに手を貸すこともなければ、蹴落とすこともない。ただ見ている騎士長にレーベンもまた何も言わず、ただ屋根の上に立って剣を構える。そしてすぐに屋根の上まで追ってきた魔女に対し、大きく距離をとった。振るわれる魔女の一撃。だがそれはレーベンではなく、すぐ近くにいた騎士長に向けて振るわれた。

 この魔女狩りはライアーとカーリヤ、そしてレーベンを試す為の場だ。あの二人がどれだけの力と才を秘めているかを見定める為の場であり、そしておそらくはレーベンが処分されるか否かの最後の一線だったのだ。故に審査役の騎士長は一切手を出さず、だがそんな都合は魔女の知ったことではない。正気を失った魔女はただ本能に従い、獲物へと襲い掛かる。

 

 その相手が、どれほど恐ろしい男なのかも理解しないまま。

 

 魔女の一撃は空を切った。レーベンにはそうとしか見えなかった。魔女が振り下ろした爪は騎士長の体をすり抜け、壊れかけの屋根を打ち砕く。そのすぐ近くに佇む獲物に再び振るわれる一撃。またしても爪はすり抜け、半歩も離れていない場所に立つ騎士長は常と変わらない無表情で、その背に吊るした得物に手をかけることすらしない。紙一重で避けた、などというものではない。まるで理解不能の体捌きで魔女の攻撃を躱し続ける様に、レーベンは寒気すら覚える。

 アレはただの魔女ではない、聖性によって桁外れの力を得た破戒魔女だ。逆に、騎士長の巨躯は聖性の光を帯びていない。彼の聖女の姿は何処にも見えないのだから当然だ。つまり、あの恐ろしい魔女に生身で対峙しているのだ、あの男は。

 何度目かの攻撃に騎士長は再び跳躍、ぬかるんだ地面に音もなく着地した。魔女は相手が遠くへ逃げ去るとあっさり標的を変え、再びレーベンへと迫る。レーベンは魔女に背を向け、屋根から飛び降りた。

 

 レーベンの狙いは明白だ。

 あの魔女に立ち向かったところで勝ち目は無い。逃げることはあの騎士長が許さない。ならば両者を潰し合わせる。つまり、騎士長に魔女を狩らせる。それしか手は無かった。

 無論、言葉で助けを求めても無駄だろう。それどころか言葉を吐いた瞬間に斬り捨てられる未来が容易に想像できる。この死地から逃げ出しても同様だ。故にレーベンは魔女から逃げ回り、だが村から出ることはせず、ひたすら魔女を騎士長の元まで誘導する。

 要するに根比べだ。レーベンが魔女に殺されるのが先か、痺れを切らした騎士長が魔女を狩るのが先か。分の悪い勝負であり、更にレーベンは形だけでも戦う振りを続けなければならない。騎士長に敵前逃亡と判断されるか否か、そのギリギリの一線を保ちながら逃げる。魔女から大きく距離を開けてもならない。逃げられるか逃げられないか、その一線も保ちながら逃げる。

 

 生と死の一線。

 

 それは騎士となってからの一年、レーベンが魔女狩りの中で見極めようとしてきた物だ。

 騎士となった以上、命を惜しむ気は無い。いつか魔女狩りの中で死ぬのだ。魔女と刺し違えられるなら本望。魔女を狩る為に命を使うことに迷いは無い。

 

 だが無駄使いは御免だ。

 魔女を狩れないまま自分だけが死ぬ。それだけは嫌だったのだ。

 

 故にレーベンは見極めようとした。どこまで傷つくと戦えなくなるのか。どれだけ血を流すと動けなくなるのか。どこまで身を捨てれば、己が死ぬ前に魔女を狩れるのか。

 どれだけ止められようと魔女狩りに向かい、どれだけ詰られようと魔女から逃げてきたのは全てその為だ。英雄の器ではない己が、「聖女なき騎士」である己が、どうすれば魔女を狩ることが出来るのか。それを知る為に、痛みも罵りも耐えてきたのだ。

 

 レーベンは笑っていた。

 

 あの魔女は今まで見てきたどの魔女よりも恐ろしい。だがまだ殺されていない。

 あの騎士長は下手な魔女などよりもよほど恐ろしい。だがまだ殺されていない。

 一年の雌伏がようやく実を結んだと思った。泥に塗れながら見極めてきた一線、その上を踊るような心地に口の端が歪む。いつからか聞こえていた笑い声は、己のものだったのだと気付いた。

 この日、己はようやく騎士に一歩近づくことが出来たのだ。

 

 

 

 ――面白い子

 

 どれだけそうしていたのか。夢幻のような心地で生死の境を駆け回っていたレーベンは、どこからか聞こえた声に現実へと戻された。同時に、麻痺していた痛みと疲れが一気に襲い掛かってくる。とっくに限界を越えていた体が膝をつき、足元の水溜まりが赤く染まっていった。

 魔女もまた何故か死にかけだった。レーベンの剣はついに一度も魔女に触れなかったというのに、その躰は血に塗れている。それが自壊現象と呼ばれる破戒魔女の弱点だと知ったのは後のことだ。

 

 ――まだ死なせる時ではない。(わたくし)は、そう考えます

 

 怖気がするほど涼やかな声だった。雨と泥と血と屍に満ちたこの場には似つかわしくない、歌うような女の声。周囲を見回し、そして異様な光景に目を見開いた。

 騎士長が背負っていた函。小さな棺にも見えたそれから、白い腕が伸びていたのだ。曇天の元で輝くように白い腕が、白蛇のように騎士長の首に巻きつく。そんな中でも騎士長の顔は巌のように動かず、ただその巨躯から青白い聖性の光が溢れ出した。

 

 ヴュルガ騎士長の聖女。

 

 つれて来ていないとばかり思っていたその聖女が、ずっとあの函の中にいたという事実にレーベンは総毛立つ。何故わざわざそんな真似をしているのか、そもそも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 もう動けないレーベンには目をくれず、魔女が騎士長へと――あるいは函の中の聖女へと襲い掛かる。それ程にその聖性の光は強く、魔女の本能をかき立てるには充分に過ぎたのだろう。そして、その瞬間に魔女の運命は決したのだ。炎に惹かれた羽虫のように。

 

 騎士長が背の得物に手をかける。

 

 一際大きな雷鳴が響き、灰色に染まっていた廃村が白く照らし出される。光に眩んだ目を開いたその時にはもう、魔女は無残な死骸へと変わっていた。

 騎士長が無言でレーベンに顔を向ける。相変わらずその顔からは何の感情も読み取れない。その手には未だ得物が握られており、レーベンの生死もまた彼の手に握られている。その時、レーベンは初めて間近から騎士長の目を見た。

 

 燃える死体のような目だ。

 

 そう思って、レーベンは灰色の目を閉じた。

 

 

 ◆

 

 

 レーベンは灰色の目を開いた。

 

『見てよ、見て』

「……ああ、視えているとも」

 

 すぐ隣のシスネにも聞こえないような声で呟く。生と死の一線。それはレーベンにはっきりと視えている。

 今がまさに、その一線。逃げることができる最後の一線だ。

 だがシスネは逃げない。故にレーベンもここにいる。

 

 ――もしも、あの魔女を狩ることが出来たなら

 ――その時、貴公(あなた)は俺を認めてくれるだろうか

 ――今度こそ、俺は貴公(あなた)の騎士になれるだろうか

 

 声には出さないまま機械剣を構える。両手で握り、右肩に担いで、脚に力を込める。

 シスネもまた、大短銃をそっと構えた。

 

「行くぞ」

「えぇ」

 

 この日レーベンは初めて、己が定めた一線を越える。

 英雄でも、なかったというのに。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

死に神さまの足音

 降りしきる雨の中、ただじっと魔女の足元を注視する。ズルズルと這ってくる泥の躰は、あと四歩ほどで地面に引いた線を踏みそうだ。

 

「まだ撃つな」

「合図してください、あなたに任せます」

 

 作戦はごく単純、あとは機の問題だ。いつシスネが撃ち、いつレーベンが斬るか。その機。

 

「まだだぞ、まだ」

 

 武器を構える二人にも気付いていないのか、変わらず魔女は這ってくる。あと三歩。

 

「まだだ」

 

 魔女が這ってくる。あと二歩。

 

「まだ――」

 

 あと一歩。

 魔女が、線を踏む。

 

「撃て!」

 

 雷鳴もかき消すような轟音。間近で発射された大短銃の銃声にレーベンの聴覚が麻痺し、極度の集中によって色彩も消える。加速した時間の中でレーベンの目は魔女の剣筋を追い、その切っ先が巨大な銃弾を弾き、そして砕けた様を確かに捉えた。

 レーベンは機械剣の引き金を、

 

「――――っ!」

 

 魔女の剣が再生した。

 失敗だ。

 魔女に向かって一直線に駆け出していた体を無理やり横に転がす。その爪先を魔女の剣が掠め、不可視の剣戟が草木を斬り散らしながら迫ってくる。雨水を振り飛ばしながら起き上がり、全力で距離をとった。

 

 

 

 シスネが立てた仮説はこうだ。

 

『あの魔女は銃弾をすべて弾きました』

『でも、あの魔女――マリナにそんな技術は無いはず』

『それよりも、ただ本能で剣を振っていると考えた方が自然です』

 

 魔女は人であった頃の癖や行動をそのまま続けることがあり、時にはその「技術」も残される。シスネと出会ったあの夜に狩った魔女が、石弓や山刀を扱っていたこともそうだ。

 だがシスネが知る限り、聖女マリナに剣を扱う技術は無く、まして銃弾を斬り払うなどという人間離れした芸当は出来なかった。

 故に、あの魔女はただ近付いてきた物を無差別に斬り払っている。そのような獣や虫じみた反射行動であると考えた方が自然であると、シスネはそう考えたらしい。

 

 それを確かめる為にレーベン達は簡単な実験を行った。

 まずシスネが正面から銃を乱射。魔女は的を逸れた銃弾も残さず、十二発すべてを弾ききった。

 次にレーベンが死角から短剣を投擲。見えているとは考えにくいそれも弾かれた。

 続いて小石の投擲。それすらも弾かれた。

 最後の花束。どう見ても武器ではないそれを、あの魔女は執拗なまでに斬り刻んだ。

 

 結果として、シスネの仮説は正しかったのだろう。あの魔女に死角は無く、ただ間合いに入ってきた物を無差別に斬り刻む。それが銃弾でも武器でも人でも花でも関係ない。ただただ細切れになるまで剣を振るい続けるのだ。

 そして、それこそが脅威でもある。レーベンが見て取った魔女の間合いは、こちらより倍は広い。魔女の躰に人体の構造や剣技の理屈など関係あるはずもなく、間合いに入った瞬間にバラバラにされてしまう。魔女が剣を握っている限り、近付くことすらできないのだ。

 

『だから、あの剣をなんとかしないといけません』

『この銃なら剣を壊せましたが、聖性を使われれば台無しです』

『なら、方法は一つしか無い』

 

 作戦はごく単純だ。シスネが大短銃を放ち、魔女がそれを弾く。剣は砕けるが、聖性で再生される。その間、二秒とないであろう時間に、レーベンが機械剣で仕留める。

 やることは単純だが、その機が非常に厳しい。早すぎても遅すぎても機械剣は弾かれ、レーベンは細切れにされるだろう。その目安として地面に二本の線を引き、一方にレーベンが、もう一方に魔女が立った瞬間に撃たせたのだが……。

 

 

 

「大丈夫ですか!?」

「構うな、次だ!」

「はい!」

 

 魔女から間合いを離し、仕切り直す。今は撃つのが早すぎた。間合いが遠すぎて、レーベンが機械剣を振る前に剣を再生されてしまったのだ。この期に及んで怖気づいているのか、臆病者め。

 機械剣を構え直し、シスネも大短銃に銃弾を装填する。その手はぶるぶると震えていた。

 

「大丈夫か」

「構わないで、集中を!」

 

 馬鹿げた威力の代償に反動も相当なものなのだろう。そもそも自決用の銃なのだから当然かもしれないが、製作者が製作者だ。元より使い手のことなど欠片も考慮されていない。

 もっとも、あと何発も撃つことは無いだろう。きっと彼女の腕が壊れる前にレーベンが細切れになる。

 

『わたしを見て、見てよ』

 

 脚から血を垂れ流しながら這う魔女。自壊現象による出血などまるで意に介しておらず、その剣には些かの鈍りも無い。

 あと三歩、二歩、一歩、……。

 

「撃て!」

 

 轟音。消える音と色。機械剣の引き金を――。

 

「っ!」

 

 今度は遅すぎた。銃弾の前に機械剣を弾かれ、だがもう引き金は弾いてしまった。弾ける炸裂弾。加速する刃は的を逸れて地面に。刹那に遅れた銃弾が魔女の剣を砕き、再生する。

 

「――ぬああぁぁっ!」

 

 暴れる機械剣を捻り、あえて体を刃に任せる。レーベンは錐もみするように吹き飛び、その背中に魔女の刃が殺到した。

 連続する破砕音。衝撃と痛み。シスネの悲鳴。途絶えそうになっていた意識は、水溜まりに頭から着水することで覚醒した。

 

「げへあっは……っ!」

「立って! はやく!」

 

 ぐるぐると回る視界に吐き気を覚える間もなくシスネに手を引かれて立ち上がる。後ろから刃音が鳴り、隣のシスネが呻いた。再び大きく間合いをとる。

 

「大丈夫ですか……っ?」

「なんとか、な」

 

 背を襲った衝撃のわりに痛みは少ない。見れば背負っていた両手剣が鞘ごと輪切りにされていた。これが無ければ輪切りになっていたのはレーベンの方だ。ついに一度も振るわれることなく残骸となった哀れな剣を外しているとシスネも手伝ってくるが、その白かったはずの手は赤く濡れている。

 

「血が、」

「かすり傷です」

 

 彼女の左肩から血が滲み、雨に濡れた灰色の装束を更にどす黒く染めていく。その白髪も一房が短くなっていた。もったいないと、場違いなことを考える。

 シスネが呻きながら銃身を折り、水溜まりに落ちた巨大な薬莢がじゅうと蒸気をあげた。震える右手と負傷した左手では上手く装填できないらしく、レーベンもそれを手伝う。

 

「次で、次で決めましょう」

 

 恐れを振り切るようにシスネが立ち、外套と肩掛けを脱ぎ捨てる。剥き出しになった右肩は青黒く腫れており、左腕にも切り傷が何本も走っていた。かすり傷などとんでもない、レーベンと同じく彼女もまた満身創痍だ。銃も支えきれないのか、木に寄りかかるようにして構える。

 

「あぁ、次で決める」

 

 残骸になりかけの胸当てを外して放る。どの道、次でしくじれば後は無いのだ。機械剣に炸裂弾を装填。更にもう一個を装填してから肩に担ぐ。

 

「――」

 

 その時、レーベンの中で湧き上がったものは何だったのか。二度の失敗で怖気づいたのか、あるいは自棄になったのか。半ば正気を失くした奇行だったのか、それとも最後になるかもしれない悪戯心か。

 

「貴公」

「はい」

「貴公が合図してくれ」

「は、……はい!?」

 

 シスネの素っ頓狂な返事に、レーベンは肩を震わせる。喉から引きつった笑い声が漏れた。

 

「あ、あなたという人は! こんな時ぐらいまじめに……っ!」

「大真面目だぞ、俺は」

 

 レーベンは英雄の器ではない。一か八かの賭けなど、ここぞと言う時に成功するとは思えなかった。それはシスネも同じなのかもしれない。だがどちらがより英雄に近いかと問われれば、それはきっとシスネの方だろう。

 

「だいたい、合図って何を基に」

「勘でいい」

「かん……」

 

 気でも遠くなっていそうな声をあげながらシスネが銃を下ろす。呆れ果てたかのように項垂れ、大きく嘆息し、再び顔を上げた。

 

「……化けて出ないでくださいね」

「貴公は幽霊が苦手だからな」

「刺しますよ」

 

 シスネが銃を構える。その姿は先ほどよりも力なく、だが余計な力も抜けたように自然な構えだった。それを見たレーベンも、だらりと機械剣を手に提げて構える。

 

『見て、見て、見て』

 

 這ってくる魔女。だがレーベンはもうその距離を計らない。すべてシスネに委ねた。

 

「……走って!」

 

 シスネの指示が飛ぶ。魔女までの距離はおよそ十歩。随分と遠い間合いだったが、レーベンは従った。駆け出しながら機械剣を担ぐ。

 十歩、九歩、八歩……。レーベンは走り、魔女は動かず、シスネの声も聞こえない。

 七歩、六歩、五歩……。レーベンは走り、魔女の脚が動いた気がした。シスネの声は聞こえない。

 四歩、三歩、二歩……。レーベンは走り、魔女の脚が掻き消える。シスネの声は、

 

「斬って!」

 

 シスネの声。機械剣の引き金。大短銃の轟音。

 加速する刃。鼻先を掠める刃。砕け散る刃。

 間近に迫る躰。黒い泥の躰。破戒魔女の躰。

 斬り裂く、黒鉄の刃。

 

『みでえええぇぇ――――っ!』

 

 魔女の悲鳴。

 

 

 ※

 

 

 聖女マリナについて知っていることは殆ど無い。

 聖女も騎士も入れ替わりは多く、いつの間にかポエニスにいたかと思えば、いつの間にかいなくなっている。そんな者たちをレーベンは何人も見ており、故にすすんで同僚たちと関わろうとはしなかった。ロビンとマリナも同様で、ただ随分と若いなと、ほとんど子供だなと、そんな風に思ったことは覚えている。

 

『貴公、忘れ物だ』

 

 あれは半年前だったか、一年前だったか。魔女狩りの後だったレーベンは薬の副作用に苛まれながら、食堂で水を飲んでいた。その時、近くの席を立った小柄な聖女が机に手巾(ハンカチ)を忘れていった。だから、ただなんとなく、それを持って声をかけたのだ。

 

『ぁ……、』

 

 失敗だったと思ったのは、聖女の怯えたような表情と、傍らの少年騎士が彼女を庇うように前に出る姿を見たから。だがもう引き返すわけにもいかず、ただ手巾を差し出したまま黙っていた。

 

『ありがとう、ございます』

 

 やがて、聖女が恐る恐る手巾を受け取る。用も済み、関わるべきではないかと踵を返したレーベンの袖を小さな手が掴んだ。

 振り返ると聖女はまた怯えを顔に滲ませたが、すぐに微かな笑みを浮かべ、

 

『噂は、当てになりませんね』

 

 その噂とやらが気にならなかったと言えば嘘になるが、どうせ悪評だろうと、黙って食堂を後にする。背後から「こわかった」と泣き声まじりの声と彼女を慰めるような声が聞こえ、レーベンはげんなりと溜息をついた。

 その後、出くわしたライアーとカーリヤからは「野盗か幽霊みたいな顔になっている」と怒られ、副作用がひどい時は食堂に行かないようにしようとレーベンは考えたのだった。

 

 

 

 それから、それなりの月日が流れて。

 もうずっと前のことにも思える写銀騒動。今思えば、大袈裟に泣き真似をしてレーベンへの制裁に手を貸していたのは彼女だったか。シスネに頭を叩かれる己の姿を見てけらけらと笑う顔はずいぶんと逞しくなっており、そして楽しそうであった。

 

 

 ◆

 

 

『見で……、見でよう……っ』

 

 過度の集中と機械剣の衝撃で意識が飛んでいたレーベンは、すぐ傍から聞こえる歪んだ声に覚醒した。同時に、聖銀の剣を握った脚が眼前で蠢く。

 機械剣は魔女の躰を深々と斬り裂いていた。だがまだ魔女は死んでいない。

 

「――おぉっ!」

 

 片手剣を抜き放ち一閃。脚を斬り落とすことはできなかったが、剣を手放させることには成功した。泥の中に落ちた剣を掴み取って遠くに放ろうとするが、しかし。

 

『わだじをぉ……っ!』

 

 もう片方の脚が、泥が、変形した骨が剣を掴んで放さない。それだけは決して渡さないとばかりに。

 剣を奪い合っている内に聖性の光が走り、折れた刀身が再生されていく。それと同時に自らの聖性に侵された魔女の躰が血を噴き出すが、まるで意に介していない。命など要らないかのように、剣に聖性を注ぎ続ける。

 

「くそがっ!」

 

 剣を奪うのは諦め、魔女の首に片手剣を突き刺す。半ば泥に飲みこまれつつある小さな頭を掴み上げ、もう一本の片手剣を、更に短剣も捻じ込んだ。

 

『みげっ、ぎでぇぇ――っ!』

 

 それでも魔女はまだ死なない。聖性はまだ止まらない。剣は既に半分以上は刀身を取り戻していた。暴れる魔女の半身を抱きかかえ、倒れ込むようにして押し倒す。首に刺した剣の柄を押し上げ、泥の中から頭を引きずり出した。

 

「シスネ――ッ!」

 

 彼女に向けて叫び、シスネは既に傍まで来ていた。遂に右腕が使えなくなったのか、左手だけで構えた大短銃を魔女の頭に向ける。

 重みと痛みで震える銃身をレーベンも支え、強く魔女の額へと押し当てた。

 狩った。

 あとは、シスネが引き金を弾けば――。

 

 

「――――マリナ……っ」

 

 

 震えるシスネの声。固まる指。

 

 

『わたしを、見て』

 

 

 聖女(マリナ)の幼い相貌。

 

 

「シ――」

 

 

 聖銀の刃。

 

 

 

 

 

 

 ――騎士さんってのは、みんなそんな死んだような目ぇしとるんか?

 ――若い者がそんな目ぇするもんやない

 ――死に神さまっちゅうのは、そういう目に引っ張られて来るんや

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 いつだって、死ぬ時のことを考えていた。

 

 騎士である限り、魔女を狩り続けなければならない。

 魔女がいなくなることはなく、己が騎士を降りることもきっとない。

 だから、己はいつか魔女狩りの中で死ぬのだ。

 いつか、必ず。

 

 そればかりを考えて、生きてきた。

 

 

 ◆

 

 

 激痛で目覚めた。

 

「――!? ぐ、あぐぉ……っ!」

「動かないで!」

 

 全身、とりわけ右半身から殺到する痛みにレーベンは悶絶し、それをシスネが覆いかぶさるようにして押さえてくる。雨と泥と血の臭いと、それらに混じる澄んだ芳香に痛みが和らいだ気がした。

 努めて冷静さを取り戻し、状況を確認しようとする。視界に映るのは暗さを増した曇り空と、悲痛そうな顔で見下ろしてくるシスネ。雨粒に顔を打たれていることからも、レーベンは地面で仰向けに倒れているようであった。

 それにしても視界が暗い。否、狭い。右目を何かに覆われている感覚がし、それに触れようと右腕を動かす。その瞬間だった。

 

「ぐ……! が、」

「駄目だったら!」

 

 激痛。痺れ。そして熱。右腕の端から走る痛みの奔流に再び悶絶し、再びシスネに押さえ込まれる。目覚めてからというもの、痛みばかりで何ひとつ状況を理解できない。

 

「なんだ、なにが、どうなった」

「……、あとで、後で話しますから、今は動かないで……」

 

 何故か悠長なことを言い出すシスネは、短剣で自分の装束を裂いては端切れをレーベンの右腕に巻いているようだった。たしか彼女は医療道具と共に包帯も多く持ち歩いているはずだったが、それはどうしたのだろうか。既に何かに使ってしまったのか、あるいは魔女に――。

 

「魔女……、魔女はどうしたっ」

 

 ようやく思い出した。あの魔女に、破戒魔女に止めを刺そうとした瞬間。あれがレーベンが覚えている最後だ。魔女は狩れたのか、それとも、まだ。

 また押さえてこようとするシスネを押しのけようとし、そして見た。

 

「だめ……っ」

 

 己の右腕の先を、見た。

 

「――」

 

 手首から先は、まだあった。だがその手はもう、半分になっていた。

 親指と、人差し指と、中指が。残った三本の指だけが、非現実的な姿で己を見返していた。

 

「――――、っ!」

「落ち着いて! 動いてはだめ!」

 

 痛みと、痛みと、それ以上の衝撃がレーベンの脳髄を貫く。己の意思に関係なく暴れ出す体をシスネに押さえられ、叫び出したい衝動に駆られるが声はまるで出なかった。

 

「っ! ……静かにっ」

 

 声は出なかったが、突然シスネに口を塞がれる。そのまま、全身を使ってレーベンを隠すように覆いかぶさってきた。「動かないで、おねがいだから」と何度も耳元で囁かれ、半分になった視界は彼女の白髪に覆われる。

 その、シスネの髪と声で塞がれかけた視覚と聴覚が、悍ましい光景と声を捉えた。

 

『見て、見なさい』

 

 歪みきった女の声。何本かの木を隔てた先を闊歩する、魔女。だがその姿はレーベンの記憶の中とは大きく異なる。

 不定形だった泥の躰はたしかな形を持ち、それは元の聖女の矮躯を椅子のように飲みこみ、胴体となって支えている。

 胴体からは白い脚がしなやかに伸びて地面を踏みしめているが、その数は一本のみ。もう一本の脚は胴体の上から伸び、泥で補強されて完全な腕と化している。

 そして腕に握られる聖銀の剣。絶えず聖性を流されているのか、その刃は青白い炎を灯しているかのように輝いていた。

 

『見て、見て、見ろ』

 

 隻腕隻脚の異形剣士。そんな姿と化した破戒魔女が、一本足で飛び跳ねながら木々の間を進んでいる。その動きは何かを探しているようで、それはきっとレーベン達に他ならない。

 あれから何がどうなったのかは分からないが、(おおよ)その見当はついた。結局、レーベン達はあの魔女を狩れなかったのだ。最後の最後で詰めを誤り、返り討ちにあった。なんとかシスネに連れられて逃げたが、完全に変異した魔女に追い回されている。そんなところだろうか。

 レーベンに覆いかぶさるシスネの体は震えていた。冷たい雨に打たれ続けたせいか、魔女に怯えているのか、あるいは別の理由か。何にせよ、己以上に動揺しているシスネの姿を見ているとレーベン自身は却って落ち着くことができた。

 

『見ろ、見ろ、私を』

 

 歪んだ声が近付いてくる。それと共にシスネの体も震えを増し、痛いほどにレーベンの口と頭を押さえてくる。まるで、見つかればお終いだとでもいうように。

 

『見ろ、見ろ、見――』

 

 泥に覆われた魔女の虚ろな双眸。それと、目が合った。

 全身を貫く悪寒に体が突き動かされる。

 上に乗ったままのシスネを抱きかかえ、体を横に転がした。

 

『見ぃろぉ――――っ!』

 

 魔女の絶叫と共に雷鳴が轟き、雷光にも劣らない聖銀の輝きがレーベンの左目を焼く。地面を奔るそれは土を斬り裂き、小石を弾くことなく二分し、最後に太い木を縦に両断した。

 

「なん……っ」

 

 出来上がったのは、地に刻まれた一本の直線。長々と続くそれは、降り注ぐ雨が絶えず流れ込もうとも水が溢れ出す気配も無い。それほどに長く、深く斬り裂かれた痕。

 あまりに非現実的な光景に呆然とするレーベンを、幾分かは早く持ち直したシスネが抱き起こした。彼女はあの異常な斬撃を既に見ていたのかもしれない。

 

「立って! はやく……っ」

『私を――』

 

 痛みと衝撃で未だに立ち上がれないレーベンを捨て置くこともせず、シスネはレーベンの腕を取って逃げようとする。だが背後からは、歪んだ声と刃鳴りが聞こえてくる。

『見ろ』と、歪んだ絶叫にレーベンはシスネを引き倒し、次の瞬間には頭上すべてが両断された。雷光が走ったと錯覚するほどの刃の輝き。雨音すら消えるかのような静寂の後、周囲の木々が一斉に()()()

 

「はしれ……走れっ!」

 

 悪寒を感じる間もなく立ち上がり、気付けばシスネの手を引いて走り出していた。レーベンが通り過ぎるのを待つこともなく両断された木々が次々と倒れはじめ、無我夢中で倒木を避け、乗り越え、潜りながら走り抜ける。

 

『見ろ! 私を見ろぉっ!』

 

 癇癪を起こしたような歪んだ叫び。足を止めないまま振り返れば、自らが作り出した倒木の壁に魔女が剣を振り回していた。一本足のあの歩き方も速いとは言えない。追いつかれるまでには多少の猶予はありそうだった。僅かに生まれた余裕に気を緩ませることもなく、雨の中をひたすらに走る。

 その間、「ごめんなさい」「ごめんなさい」と、レーベンに手を引かれるシスネはただずっと繰り返していた。

 

 

 

 あても無く逃げ回る内に、見慣れた街道へと出た。更に進めば、もっと見慣れた機械剣が地面に突き刺さっている。そして、その周囲に広がる夥しい血の痕。あの戦いの跡は、雨に流されることもなく残っていた。

 この血はきっと、己のものだ。

 おそらくあの後、追い詰められた魔女は更に変異し、完全に魔女化した。そして、あの剣戟の範疇を逸脱した斬撃によって、レーベンは右手を半分失ったのだろう。

 否、右手だけではない。レーベンは頭の右半分を覆う包帯に触れながら口を開いた。

 

「……右目は、どうだった?」

 

 努めて穏やかな口調で尋ねたつもりだったが、シスネはびくりと細い肩を震わせる。

 

「本当のことを言ってくれ」

 

 その反応だけで察してしまったが、レーベンは彼女の答えを待った。やがて、体と同じく震えた声でシスネが言う。

 

「……、……み」

「右目は、だめでした」

「あ、あと、右耳も……」

 

「――――」

 

 指を失ったことを知った時ほどではなかった。だがそれでも、衝撃と喪失感に足元がふらつく。この包帯の下がどうなってしまっているのか、考えただけで気が遠くなる心地だった。

 口を開いたことで歯止めが効かなくなったのか、シスネの口からは血のような言葉が溢れてくる。

 

「再生剤を、使いましたけど、傷が塞がっただけで……」

「こんな、こんなこと……、本当に、私のせいで」

「ごめんなさい、ごめんなさい……っ」

 

 レーベンの前にいたのは、もうレーベンの知っている聖女ではなかった。

 こんな、弱々しく謝罪を垂れ流すだけの弱い女ではなかったはずだ。

 彼女はいつだって、もっと……。

 

 パン、と。乾いた音が響く。

 

 力など入れていなかった。その余裕も必要も無かったから。レーベンに頬を叩かれたシスネはよろめくこともせず、ただじっと黒い瞳で見上げてきた。殴られることなど当然だと、むしろ「次」を求めるかのように。

 だがそうではない。レーベンが望んでいたのはそうではないのだ。

 細い肩を両手で掴む。端切れを巻かれただけの右手から血と痛みが滲み出るが、もう気にしてなどいられない。

 

「しっかりしてくれ! まだ終わっていないだろうが!」

 

 シスネの肩を揺らしながら大声で怒鳴る。だがレーベンを見返す黒い瞳は暗く濁っており、あの強い光は欠片も見られない。

 

「俺達はまだ死んでいない、魔女も死んでいない! なら、まだやらなければいけないんだ!」

 

 それでもレーベンは叫びを止められない。それはきっと、己にも言い聞かせていたからだった。

 己は騎士で、魔女を狩り続けなければならない。いつか魔女狩りの中で死ぬ時まで、ずっと。

 死ぬまで、死ぬ時まで。

 

「だから、俺に聖性をくれ」

「……っ」

 

 レーベンの言葉に、シスネの瞳が微かに光を取り戻す。だがそれは拒絶の光ではなく、だが受け入れてもいない。拒絶よりももっと、暗い光だ。

 シスネと契りを交わすこと。それはもう何度も拒絶されたことだった。レーベンとて上手くいくとは思っていない。もう何人もの聖女と試し、そして悉く拒絶反応を起こしているのだから。シスネともきっと適合はしないのだろう。だがまだ試してはいない。ならばもう、その可能性に縋るしかないのだ。

 

「今だけだ、今だけでいい」

「俺を騎士にしてくれなんて言わない」

「あの魔女を狩れるなら、それだけでいいんだ」

 

 すべて本心だった。

 あの魔女を狩る為なら死んでも構わなかった。あの魔女を狩って、ノール村の人々を守られるならそれで良かった。あの魔女を狩って、彼女を――。

 だって、己は騎士で。そして彼女は、

 

貴公(あなた)は、聖女だろうがっ!」

 

 

 

 

 

 

「ちがい、ます」

 

 

 

 

 

 

 雨が、止んだ気がした。

 だが雨は止んでいない。絶えず降り続けている。そう錯覚したのは、レーベンの頭が現実を拒否したからだろうか。

 今、なんと聞こえた?

 彼女は今、なんと言ったのだ?

 

「……、……なにを」

 

 結局は、そんな言葉しか出てこない。何の意味も無い、ただ現実を拒む言葉しか。

 そんなレーベンに、シスネは現実を突きつけるように、自身に刃を突き立てるように、言葉を続けた。

 

 

「わたしは、聖女じゃ、ない」

 

 

 雨が止まない。

 止まない雨に、何もかもを洗い流されたように。

 目の前の聖女は――女は、シスネレインは。

 どこまでも虚ろに、わらってみせたのだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最後の引き金をあなたに

「私は、聖女じゃありません」

「だから、あなたに聖性は使いません」

「使わない……使えないのです」

 

 何も言葉が出ず、体も動かせない。身も心も固まってしまったレーベンに、シスネはただ言葉を続ける。外套も何も身に着けていない彼女は頭から雨に濡れ、その顔の雨を、あるいは別の何かを手で拭うと細い腰を深々と折り曲げた。

 

「ごめんなさい」

「ずっと嘘をついていました。あなたを騙していました」

「あなたを私の私情に巻き込んだのも……その傷も、ぜんぶ私のせいです」

「どんなに謝っても意味なんてありませんが」

「本当に……ごめんなさい」

 

 並べられる謝罪の言葉は、片方だけになったレーベンの耳にもよく聞こえていた。聞こえていたが、何も頭には入ってこない。もう、何の反応も返せなかった。

 出来の悪い石像のようになったレーベンに対し、シスネは装束の襟元を広げて聖女証を取り出す。細い鎖を几帳面に外し、それをレーベンの左手に握らせた。

 

「私は、あの魔女をできるだけ遠くにつれていきます」

「あなたは、村の人たちを避難させてください」

「最後まで、面倒を押し付けてしまいますね……」

 

 彼女の胸元に入っていた聖女証はまだ温かく、だがすぐ冷たい雨に冷やされてしまった。聖女証には騎士証と同じく、表には教会の紋章が、裏には持ち主の名前だけが刻まれている。誰かも分からなくなった死体の身元を判別する為の、死体の回収が叶わない際に持ち帰る為の認識証。

 それを渡すということは、彼女にもう生きて帰るつもりが無いということを示している。

 

「……では、後はお願いします」

 

 そう言って、彼女はレーベンに背を向けた。

 聖性を使えないと明かし、聖女証を手放し、聖女の装束すら自ら襤褸布にしてしまった彼女はもう、本当に聖女でなくなってしまったように見えた。いま目の前にいるのは、ただの、シスネレインという名の一人の女なのだ。

 ならば、彼女はもう共に戦う仲間ではない。

 

「――――え」

 

 何もかもを置いて死に向かおうとしていたであろう彼女は隙だらけで、無防備に向けられた背に近付くことは笑えるほど簡単だった。その首筋に、手にした物を突き刺すことも。

 

「まっ……て、レ――」

 

 糸が切れたようにシスネが倒れこみ、それを抱きとめたレーベンも支えきれず木に凭れかかる。ずるずると、彼女のか細い体を抱いたまま座り込んだ。地面に落ちた左手から、中和剤の容器が転がって水溜まりに浮かぶ。

 中和剤にこんな使い方があるということも、彼女に教えてもらったのだ。片手で数える程しかない彼女との魔女狩りは、細部に到るまでレーベンの記憶に刻まれている。一人で魔女を狩っていた時などよりも、よっぽど。

 

 一度だけ、彼女の体を抱きしめる。

 すぐに手を放し、名残を覚える前に木陰に寝かせた。

 

 立ち上がり、散乱した荷物の中から必要な物だけを拾い上げて機械剣に手をかける。すべてを振り切るように、黒鉄の刀身を引き抜いた。

 シスネはもう聖女ではなく、共に戦う仲間ではない。ただの教国の民であり、ならばレーベンには彼女を魔女から守る義務があるのだ。だから、その為ならば……。

 

 すべて言い訳だ。

 

 ただ、レーベンが死なせたくないだけだ。ただ、シスネを死なせたくない、死ぬのを見たくない。

 ただ、それだけだった。

 

 

 

 止まない雨の中を、振り返らずにレーベンは歩く。

 木陰で眠る女の手には、聖女証と騎士証が、ひとつずつ握られていた。

 

 

 ◆

 

 

『見ろ、私を』

 

 魔女はすぐに見つかった。相手もレーベン達を探していたのだ。すこし目立つ場所を歩いてやるだけで、向こうから近付いてきた。一本足で飛び跳ねながら、街道の上を一直線に迫ってくる。

 レーベンも機械剣を構える。柄に縛り付けた右手を左手で支え、切っ先を魔女に向けた突きの構え。そのまま、魔女に向けて一直線に駆け出した。

 それは完全な自殺行為に等しい。完全な破戒魔女と化した相手の腕は長く伸び、目で捉えることなど不可能な速さで剣を振るう。その剣は絶えず聖性を漲らせ、常に完璧な斬れ味を保ち続ける。変異前の魔女の剣が刃の竜巻であったならば、今の魔女の剣は刃の雷光。間合いに入った瞬間に首を刎ねられる、絶対必殺の一撃だ。

 その約束された死に向かって、レーベンは走る。もう間合いを計ることもしない。ただただ一直線に、全力で走り続ける。魔女の胸に剣を突き立てる、ただそれだけを考えて。

 

『見ろ!』

 

 放たれる魔女の一撃。

 音すら置き去りにした必殺の刃が、レーベンの首を両断した。

 

 

 ※

 

 

 それは、初めてこの剣を手にした日のことだ。

 

『良い仕事だ、アルバット』

『そうだろう、そうだろう、分かってくれるのは君だけだよ、友よぅ』

 

「馬鹿じゃないの……」と再び呟くカーリヤの目はレーベンにも向けられていたが、冷たい視線などもう慣れたものである。だが改めて機械剣の出来を検めていると、あることに気付いた。

 

『アルバット、この穴なんだが』

 

 柄の穴に炸裂弾か焼夷弾を装填し、引き金を弾くことで強力無比な一撃を放つ、それは既に説明されていた。

 

『一つでも充分だが、二つ装填できると言ったな』

『そうだとも。ここ一番で決めたいという時におススメさ』

 

 一つでも充分な威力があるが、二つ装填することで威力は倍化する。更に炸裂弾と焼夷弾を組み合わせることで攻撃の性質を変えることも可能だと。それも既に聞いていた。ならば。

 

『じゃあ、この()()()()()は何だ?』

 

 チュイイィィと、アルバットの眼が縮む。そのまま、腹が立つほど達者な口笛を吹きながら散乱した図面を片付け始めた。

 

『おい、説明はどうした。こっちを向きたまえよ貴公』

『うるさいなあ、腕の二本や三本が吹き飛ぶぐらいでガタガタ言いなさんなよ』

『くたばってしまえ』

 

 

 ◆

 

 

『み、ぼおぉっ!』

 

 魔女の躰に機械剣の刃が深々と突き刺さる。黒い泥で支えられた、元は聖女マリナの心臓があったであろう場所に黒鉄の刀身を深く、深く突き刺す。柄まで通さんと。

 その柄には焼夷弾が二個と、三つ目の穴に炸裂弾が装填されていた。

 

『わ、だじ……』

 

 もし魔女が正気を失っていなければ、自我を持ったままであれば疑問に思っただろうか。確かに首を刎ねたはずの騎士が、何故止まらなかったのか。何故いま、灰色の目でこちらを見ているのか。

 カチリ、と。機械剣の引き金に指をかける。それが出来るだけの指が残っていたのは、名の無い女神の慈悲だっただろうか。だがレーベンが今まだ生きていることは、決して女神の加護などではない。

 じゅうじゅうと肉の焼ける臭いが立ち込める。その異臭はレーベンの首から発せられており、首を一周する赤い直線は、魔女の刃が確かに通り抜けた跡に他ならない。

 

 答え合わせをするように、レーベンが立っていた地面には再生剤の容器が二本転がっていた。

 

 魔女の刃は恐るべき鋭さだった。剣の達人は対手に斬られたことすら気付かせないというが、魔女の刃はそれの遥か上を行く。人体の限界を無視し、聖性で強化され、聖銀の完璧な刃を以て放たれた一撃は、痛みすら感じさせないままに相手を斬殺してしまう。

 魔女の刃は鋭すぎた。それこそ、予め打っていた再生剤が、()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――」

 

 魔女の眼前で、レーベンの口が戦慄(わなな)くように震える。一度は確かに刎ねられた首と喉は、声を発することが出来ない。

 もし魔女に唇を読むことが出来たならば、その言葉が見えた(きこえた)だろうか。

 

 

 く  た  ば  れ

 

 

 レーベンは、最後の引き金を弾いた。

 

 

 ※

 

 

 ノール村の住民たちにとって、その日は何でもない一日であった。

 ただ、昼頃から本降りとなった雨に男たちは仕事を中断し、子供たちは昨晩から帰ってこない聖女を待ち遠しく思い、怖い目をしている騎士のことも少しだけ心配していた。

 雨は止まないまま日は沈み始め、何でもない一日はいつも通りに終わろうとしていた。そう、誰もが思っていた時だった。

 雷鳴とは異なる音が遠くから響き、幾分か遅れてかすかに地面が揺れた。男たちは家を飛び出し、雨に混じった煙の匂いを敏感に感じ取る。

 

「山火事やぁ!」

「雷が落ちたぞ!」

「斧や! 斧を持ってこい!」

 

 斧を、水桶を持った男たちが街道を走り、すぐにその出所を見つける。だがそこにあったのは、落雷の跡などではなかった。

 そこにあったのは、燃え上がる異形の死骸と、砕け散った剣のような何かと、

 

「しっかりせえ! 聞こえるか!」

「無理や、無理やろこれ……」

「おい! こっちに聖女さんが!」

 

 傷だらけの女と、焼死体にしか見えないような、右腕のない男だけだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四章 騎士なき聖女
シスネレイン


【報告】

 

・ノール村周辺の捜索は約七割で中断。魔女およびその痕跡は発見されず。

・サハト村に出没した魔女を討伐。状況から共喰魔女と推測。サハト村への被害は無し。

・街道沿いで魔女化した聖女マリナと遭遇。同日に討伐。ノール村への被害は無し。

・騎士ロビン…死亡。

・聖女マリナ…魔女化の後、死亡。

・騎士レーベン…重傷。意識不明。複数箇所の身体欠損あり。

・聖女シスネレイン…軽傷。規律違反の疑い。聴き取りのため身柄を拘束中。

 

 

 

 旧聖都ポエニス。その教会の本棟。自らの執務室にて、騎士長であるヴュルガは報告書に目を通していた。一字一句を逃さずに流し読み、判を押す。

 つい、と。確認済みの書類が入れられた箱に書類を流す。数十枚が重なったそこに新たな一枚が追加され、反対の手で新たな書類を手に取った。そのまま八枚ほどの書類を処理した頃、入り口の扉を叩く音が室内に響く。

 

「入れ」

 

 書類から目を上げないまま、ヴュルガは答えた。

 

 

 ◆

 

 

「悪名高きジャック・ドゥは、騎士となった時すでに右目と左腕を失っていたそうだ」

「彼はその行いから悪騎士の名で語られることが多いが、最初は別の名も持っていた」

「隻眼のジャック、または隻腕のジャック・ドゥと、そう呼ばれた時期もあったのだよ」

 

 ノール村での魔女捜索と、サハト村での魔女狩りと、そして破戒魔女の討伐から二日後。レーベンが目覚めたのはノール村ではなく、馴染み深いポエニスの医療棟だった。

 目覚めはしたが全身を襲う痛みやら何やらに悶絶し、もしレーベンが聖女の自決道具を所持していたら三度は使っていたかもしれない。そんな生き地獄を味わうこと更に二日、半分は痛みが引き、もう半分は痛みに心が麻痺した頃、ようやく面会が許されるようになったのだった。

 

「そういうわけで、俺はこれから隻眼隻腕の騎士レーベンを名乗ろうと思う」

「……」

「……」

 

 特に重篤な者のみ入れられる病室。他の患者は誰一人いないその個室の寝台に横たわったまま、レーベンは二人の友人に語って聞かせていた。

 レーベンの体は包帯が巻かれていない箇所の方が明らかに少なく、特に右半身のほぼ全てに負った火傷の痕ははっきりと残っている。灰色だった右目を潰した裂傷は右側頭部まで続き、途中にあった右耳も焼き潰されたように無くなっていた。治療の際に黒髪をいくらか剃り落とされたが、それはその内に生えてくるそうだ。不幸中の幸いである。

 そして何よりも目立つのは――あるいは目立たないのは、二の腕の半ばから無くなった右腕だった。

 

「……、やはりどちらかにした方が良いだろうか。貴公たちはどう思う?」

「……」

「……」

 

 面会が許されるや否や駆け込んできた二人の友人――ライアーとカーリヤだったが、レーベンの姿を見てからというもの黙りきりである。ライアーは椅子で項垂れたまま両拳を握っており、カーリヤに至っては両手で顔を覆ってしまっている。沈黙に耐えかねたレーベンが一人で喋り続けているが、一向に返事は無かった。

 

「あー、あれだ。義手を着けてみようとも思う。アルバットあたりに言えば何とかなるだろう」

「……レーベン」

「あの男のことだからな、頼むまでもなく面妖な仕掛けを仕込むに違いない」

「なあ、レーベン」

「こう、剣が出てくるのはどうだろうか。こう、この辺から」

「レーベン!」

 

 滅多に聞かないライアーの大声が静かな病室に響く。レーベンは口を閉じ、カーリヤは元より震えているばかりだ。

 

「笑えねえって……っ」

「……誠に申し訳ない」

 

 沈痛な面持ちのライアーが再び頭を抱え、レーベンは「彼女」に咎められたはずの定型句を思わず使ってしまっていた。

「彼女」がどうなったのか。それは目覚めてからというものレーベンが気にしている第一のことではあったが、こうしてライアー達を前にすると何故か言葉にすることが出来ない。そうこうしている内にカーリヤが病室を飛び出し、「また来る」とだけ言い残したライアーも走り去っていった。

 

「……っ」

 

 病室に静寂が戻り、そのせいかぶり返してきた痛みにレーベンは顔を歪める。無くなったはずの右腕が何故こうも痛むのか、死にたくなるほどの謎に悶えながら、レーベンは寝台にひとり身を沈ませた。

 

 

 ◇

 

 

「入れ」

 

 部屋の主の声と共に、前を歩いていた若い警備職員が扉を開ける。ただそれだけの仕事だというのに彼の顔は緊張に強張っており、だがシスネの内心は自分でも意外なほどに凪いでいた。それとも、もう麻痺してしまっているのかもしれない。

 後ろに立つ年配の警備職員の視線に促されて中に入る。一歩進むたびに、両手首に嵌められた手枷の鎖が音を立てた。その鎖は長く、拘束と呼ぶには緩いがシスネが自分の立場を再認識するには充分ではあった。

 久しぶりに入る騎士長の執務室は以前、「彼」と組んで仕事をするよう命令された時と何も変わっていない。整然とした室内。ただ置くべき場所に置かれた調度品。何の感情も感じられない、部屋の主と似た冷たい部屋だ。その最奥で、部屋の広さを感じさせないほど巨大な影が書類にペンを走らせている。

 二人の警備職員は執務机の前にシスネを立たせると、そそくさと部屋の隅に退避した。代わりに、既に室内で待機していた数名の上位職員たちがシスネを取り囲む。彼らは皆が温度の無い目でシスネを凝視し、その一挙手一投足を余さず監視するのだ。シスネが偽りを述べれば、すぐさま看破する為に。

 元より視線に弱いシスネはその場に座り込みたい衝動に駆られたが、奥歯を噛みしめてそれに耐える。

 準備が整ったと同時にヴュルガ騎士長がペンを置き、尋問が始まった。

 

 

 

 尋問とは言っても、それはごく紳士的なものだった。暴力どころか体に触れることすらしてこない。シスネもわざわざ嘘を吐く理由も無く、ただただ問われたことに答えていくだけ。

 いっそ拷問にでもかけてくれた方が清々するのに。そんなことすら考えていた。

 

「それで、撤退を提案した騎士レーベンに対し、貴女は魔女狩りの続行を進言したのですね?」

「はい。私は彼の忠告を無視し、私情によって合理的な判断を行いませんでした」

「しかし結果として、貴女は聖女マリナ……破戒魔女を狩った。素晴らしい成果です」

「はい。ですがそれは彼の成果であり、私は魔女を狩ることを躊躇いました」

「……どういうことですか? 手短に述べなさい」

 

 シスネを取り囲む上位職員たちは、そういう決まりでもあるのか一人ずつが順に問いかけてくる。細かなところまで根掘り葉掘り尋ねてくる彼らに内心で辟易しながらも、シスネは淡々と答え続けた。

 騎士長だけは、巌のように動かない表情のままシスネを眺めていた。

 

「聖女マリナは私の友人でした。彼女に止めを刺す機会を、私情によって私が逃がしました」

「そして魔女の反撃によって彼は重傷を負い、魔女狩りの続行は困難になりました」

「その為、私が魔女を陽動し、彼がノール村の村民を避難させる作戦に変更したのです」

 

 ひそひそと上位職員たちが言葉を交わす。度し難い、よく生きていた、妥当な判断である、そんな言葉が聞こえてくる辺り、彼らの意見も二分されているようだった。シスネにとってはどうでも良いことだったが。

 

「しかし、結局は騎士レーベンが魔女を狩ったのでしょう? 彼がまた作戦を変えたのですか?」

 

 その問いに、凪いでいたシスネの心に初めて波が立った。それを見抜かれるのが癪で、努めて体の力を抜きながら口を開く。

 

「……詳細は分かりかねます。その時、私は気を失っていましたから」

「つまり、騎士レーベンが貴女を気絶させたと?」

「……はい、そうです」

 

 またあの男か、やはり問題が、だが結果として。ひそひそと交わされる言葉にシスネも徐々に内心穏やかでなくなってくる。さっきから「彼」の名前が無遠慮に連呼されることも無性に腹立たしい。自分に堪え性が無いことを自覚しているシスネは、怒りの矛先を自分に向けることで平静を保とうとした。

 

「おそらくは、私が足手まといになると彼は判断したのでしょう」

「私が寝ている間に、彼は破戒魔女を単身で狩りました」

「だから、彼の判断は、正しかったのだと思います」

 

 自分で言っておきながら傷ついている自分が滑稽で仕方がない。そんなだからお前という女は、あんな渾名を付けられるのだ。今だけじゃない。あの日だけでもない。ずっと前から、お前という女は――。

 そうやって、内心で自傷か自慰じみた自虐を繰り返すシスネの脳裏に、あの日の光景が蘇った。

 

 

 ※

 

 

 気が付いた時、私は見慣れたノール村の村長宅に寝かされていた。

 寝台の周りには村長の奥様をはじめとした村の女性たちが並んでいて、今まさに私の傷の治療と清拭を行ってくれていたようだった。

 

『気が付いたんか?』

『聖女さんが起きたよ!』

『動いたらあかんで!』

 

 騒がしくて温かい声に囲まれて、私は顔が綻ぶのを止められなかった。もう何年も帰っていない生家を思い出して、久しく感じなかった郷愁のような想いに浸る。

 ……あろうことか、この時の私は薬の副作用で記憶を混濁させていた。死んでしまったロビンのことも、魔女になってしまったマリナのことも、そして「彼」のことも忘れて、呑気にヘラヘラと笑っていたのだ。

 そんな様だったから、すぐに女性たちとも話が噛み合わなくなった。きっとこの女は頭がおかしくなったのか、ひどく薄情な女なんだろうと思われていたに違いない。怪訝な顔になった女性たちを疑問にも思わないまま、何故か痛む体も無視して自分の荷物の整理を始めて。

 その中に、そこにあるはずのない騎士証を見つけて、ようやく私は全てを思い出した。

 

 

 

『あかんって! 動いたら!』

『やめとき! 見ん方がいいって!』

『はよ止め! 見せたらあかん!』

 

 なだれ込んできた記憶。今しがた飲んだばかりの薬湯を嘔吐した私は、口も拭わないまま、衣服も碌に身に着けないままで村長の家を飛び出した。

「彼」はすぐに見つかった。村の外れの共同墓地。夜中だというのに松明の灯りが集まっているそこに駆け出して、私を止めようとする男性たちを押しのけて、そして、私は自分がまた罪を重ねたことを知った。

「彼」はもう焼死体も同然の状態で、村の誰もが何も出来ずにただ看取ろうとしていた。あんな辺境の村に医療者なんていない。死が日常だったあの人たちにとって、それはもう死者と同じだったから。

 死んでも死にきれないようなその姿を見て、私は絶叫した。絞め殺される豚みたいな声だった。

 

 

 

 また気が付けば朝日の中、血と膿に塗れた手で「彼」に包帯を巻いていた。

 血に汚れた村長の家、辺りに散乱する私の医療道具、力尽きたように眠る村人たち。たぶん、きっと、私は村の人たちに強要して治療を手伝わせた。焼け焦げた皮を剥がして、包んで、張り合わせて。千切れ飛んだ右腕を切り刻んで、縫い合わせて……。子供の頃に齧っただけの、医療とも呼べないような処置を施して、奪い取るように借りた馬にその体を括りつけた。

 

『気をつけてな!』

『なんも出来ずにごめんの!』

『着いたら手紙くれや!』

 

 でもそんな、こんなどうしようもない女を、村の人たちは温かく送り出してくれた。石でも汚物でも罵声でもなく、食べ物と着る物と声援で送り出してくれた。あの人たちは本当に温かくて、心が綺麗で。

 そして、私なんかとは正反対だった。

 

()()()()!』

 

 だから、その言葉を聞いた時に私は。

 

『今までありがとうな、()()()()!』

 

 呪いのように温かい言葉に、きっと私は引きつった笑みで村を発ったのだ。

 

 

 

 慣れない乗馬に四苦八苦しながらひたすらポエニスを目指した。訓練された教会の馬でも丸一日かかる距離を無事に走り切れるかは心配だったけれど、珍しく運が私に味方してくれた。

 どこかに向かう途中だったらしい教会の馬車を見つけたのだ。でも御者はひどく頭の固い男で、何度頼んでも乗せてはくれなかった。これならまだあの嫌らしい顔をしていた御者の方が良かったかもしれない。規則がどうのとうるさい御者に銃を突きつけて引き返させると、揺れる荷台の中で「彼」の治療を続けた。

 

 

 

 ポエニスに着いてすぐに「彼」を医療棟に担ぎ込む。私なんかとは違う、本物の医療者たちに連れていかれる姿を見送って、ようやく私は一息ついた。

 そして、私は警備職員たちに捕縛されたのだ。

 

 

 ◇

 

 

「ひとつ聞こう」

 

 ずっと黙っていた騎士長の言葉に、段々と騒がしくなっていた上位職員たちはしんと押し黙った。追憶に浸っていたシスネも、表情は変えないままで意識を切り替える。

 

貴様(おまえ)は、あの男に聖性を使ったか」

 

 声には出さないまま上位職員たちが困惑している気配を感じる。聖女が騎士に聖性を使うことは当たり前のことで、何故わざわざそのようなことを聞くのだと。

 だがシスネにとってその問いは核心に近く、動揺に瞳を揺らせるには充分だった。

 

「……いいえ」

 

 また無言で彼らが動揺する気配を感じる。本当にただひとつの質問で雰囲気を一変させた当の騎士長は再び沈黙し、代わりのように上位職員たちが騒がしくなる。

 どういう意味だ、知らないのかあの男は、拒絶反応が、だがそれにしても。勝手に推論を並べ、そして結局は当人であるシスネに対し、遂にその問いが投げかけられた。

 

「貴女は何故、騎士レーベンに聖性を使わなかったのですか?」

「……」

 

 それは、シスネがもう聖性を使えないから。聖女ではないから。

 言い訳なら何個でも思いつく。全て「彼」のせいにしてしまえば良い。適合する可能性が低かったから、拒絶反応を起こせば更に痛めつけてしまうから、もし使っても勝てる見込みは無かったから、と。

 だがシスネが嘘を吐けば、上位職員たちはすぐにそれを見破るだろう。視線の揺らぎや呼吸の乱れに到るまで、嘘つきの反応という物を彼らは知悉(ちしつ)しているのだから。

 

「どうしました、聖女シスネレイン」

 

 特に隠そうとは思っていない。もう三年も隠し通してきたのだ。今ここで全てを吐露して楽になるのも悪くはない。聖女を騙るなど重罪もいいところだが、こんな女にはどんな罰であろうとお似合いだと、そんな気分だった。

 そんな気分、だったのだが。

 

「なぜ答えないのですか。何か疚しいことでも?」

 ――うるさい

 

「やはりあの男に何か問題があったのですね?」

 ――うるさい

 

「正直に申しなさい。悪いようには致しません」

 ――うるさい

 

 うるさい。なんださっきから私のことばかり擁護しようとして。「彼」のことばかり悪者にしようとして。「彼」がそんなに疎ましいのか、嫌いなのか。

 あなた達よりよっぽど、私のほうが「彼」のことを――。

 

 

「――()()()()()

 

 

 騒々しい上位職員たちの声が止んだ。機械式の置時計すら止まったように錯覚した。それ程の静寂。

 

「…………は?」

 

 シスネを取り囲む彼らの内の一人が気の抜けた声を漏らす。だが皆が似たような顔でシスネを凝視していた。騎士長だけが表情を変えなかった。

 そんな彼らを見回して、シスネは現実を突きつけてやった。聞き間違いではない、と。

 

「彼のことが、嫌いだったから」

「嫌いだから、聖性を使いたくなかった」

「だから、使いませんでした」

 

 何を言っているのだ、正気か、そんな理由で。予想通りに彼らは取り乱し、だが嘘であるとは誰も言わない。当たり前だ。シスネは嘘なんて吐いていない。全てシスネの本心だったのだから。

 

「聖女シスネレイン、撤回しなさい!」

「そのような理由が許されるとお思いですか!」

「聖女シスネレイン!」

 

 聖女? どこに聖女がいる? あなた達の目は節穴だ。

 くっ、と。シスネの喉が引きつった笑い声を漏らした。口の端をひん曲げて、シスネは笑ってみせた。どこまでも聖女らしからぬ笑みで。当たり前だ。だってシスネはもう。

 

「そんなこと、私の勝手でしょう?」

 

 もう、聖女ではないのだから。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

彼女の罪と罰

 ――どうして、あんなこと言っちゃったんだろう

 

 寝台ぐらいしか置かれていない狭い独房。その寝台の上でシスネはさっそく後悔していた。上位職員たちの前で、よりにもよってヴュルガ騎士長の目の前で、本音をぶちまけてしまったのだ。

「魔女狩りで重傷を負った騎士に対して、聖性の使用を私情で拒んだ」

 どう考えても弁明の余地なんてない、完全な規律違反だ。それなり以上の懲罰は覚悟しなければならない。

 言い訳ならある。あの時のシスネは半ば正気ではなかった。あの悪夢のような魔女狩りからポエニスに戻ってすぐに捕縛され、この狭くて暗い独房の中で自責と後悔ばかりを繰り返すこと三日。シスネの精神が最高に最悪の状態へと仕上がった末での尋問だった。要するに自棄になっていたのだ。

 

 ――でも、これで隠せた

 

 だがあの場を切り抜けるにはもう聖性を使えないことを白状するか、ああするしか無かった。シスネも無意識にそれを考えたのか、嘘を見破られないよう「別の本音」を口にすることを選んだのだ。

 

「……嫌い」

 

 シスネはあの男が、レーベンが嫌いだ。親愛の裏返しなどではなく、きっと本当の意味で。シスネはそう思っている。

 あの目が嫌いだ。あの何もかもを諦めたようで諦め切れていないような灰色の目が。見るなと何度も言っているのにシスネを追ってくるあの視線が。あの目を見ていると、あの目に見られていると、シスネはどうしようもなく苛ついてくる。

 でも、その目はもう片方しかない。彼の右目は、シスネのせいで永遠に失われてしまった。

 

「……くっ、ふふ」

 

 ()()()()()

 あれだけ見るなと言ったのに。あれだけ嫌いだと言ってやったのに、シスネに近付いたりするから。他の騎士たちみたいにさっさと離れていけば良いものを、この“騎士殺し”なんかに執着するから、あんな目に遭うのだ。

 いい気味だ。肚の底から這いあがってきた情念にシスネは口許を歪ませた。そのどす黒い情念はドロリとして、温かくて、まるで魔女の泥のような――。

 

 我に返ったシスネは唇を噛みしめた。痛みと血の味で自分を戒めるように。

 

 レーベンが嫌いだ。悪くは思っている。彼をあんな目に遭わせたのはシスネの責任で、自分はそれを償わなければならない。そう思っているはずなのに、その裏で、その奥で、まるで別の情念を抱いているシスネがいるのだ。

 レーベンが嫌いだ。彼が近くにいると、シスネはいつもこの泥のような情念を自覚する。近くにいなくても考えるだけで自覚してしまう。近くにいてもいなくても、あの男はシスネを苛立たせる。自分をこんなに苛むあの男が、シスネは誰よりも嫌いだ。

 

「穢い……っ」

 

 そして、そんな穢い情念を抱くこの女が、彼と同じぐらい嫌いだった。

 

 

 ◆

 

 

 半分になった視界の中で、カーリヤがニコニコと笑っている。

 

「利き腕が無いんだから、やっぱり力仕事は危ないわよね」

「そうなると頭を使う仕事ってことになるけど、ほらレイって馬鹿じゃない?」

「だからほんと苦労したわよ」

 

「感謝しなさいよね!」とカーリヤが何枚かの紙を広げてくる。その隣でライアーは何ともいえない表情でこちらを見ていた。

 

「まずはこれね。私がよく行く酒場の下働き」

店主(マスター)に聞いたんだけど最近すごく忙しくて、もう会計だけでも誰かやってくれないかって」

「あんたでも銀貨の枚数ぐらいは数えられるし、腐っても元騎士なんだから、片腕でもそこらの酔っ払いに舐められたりはしないでしょう?」

 

 元騎士という言葉でようやくレーベンは彼女の目的を察したが、口を挟む前にカーリヤは次の紙を手に取った。その顔は相変わらずニコニコと笑っている。

 

「次はこれね。聖都の大書庫の司書」

「蔵書の管理が主な仕事なんだけど、本を棚に出し入れするぐらいなら片腕でも出来るんじゃない?」

「それにほら、司書って女の仕事だから。あんたも誰か良い相手(ひと)を見つけられるかもしれないわよ?」

 

 ニコニコと笑うカーリヤが威圧するように顔を近付けてくる。漂ってくる化粧と香水の匂いは普段以上に強く、近くで見れば化粧でも隠しきれない隈が目許に浮かんでいた。レーベンがこの姿を初めて見せたのはつい昨日のことであり、これらの仕事を彼女は徹夜で探してきてくれたのかもしれない。

 レーベンが口を開く前に、カーリヤは三枚目を手に取った。

 

「あと、代筆屋って仕事もあるらしいのよ。田舎になると読み書きができない人もいるから、そういう人たち相手の商売なんだけど」

「貴公」

「あんた字は書けるでしょう? 左手で書くのも練習すれば何とかなりそうだし」

「貴公、なあカーリヤ」

「あんまり儲けは無いみたいだけど、この際もう贅沢は――」

「カーリヤ!」

 

 レーベンの声も無視して話を進めるカーリヤの手から紙を抜き取る。思いのほか大きな声を出してしまい、カーリヤはびくりと肩を震わせる。どこか怯えたような顔に居たたまれなさを感じつつ、レーベンは努めて静かな声で言った。

 

「カーリヤ、俺は騎士をやめるつもりは無いぞ」

 

 それは強がりでもなんでもない、レーベンの本心であり意思だ。

 右目は潰れた、右腕も失った。だが己はまだ死んでいない。まだ左目がある、左腕で武器も握られる、耳だって聞こえている、両足に至っては怪我もほぼ完治している。まだ生きている、まだ戦える。ならば魔女を狩らなければならないのだ、()()()()()()()()()()()()()()()

 レーベンの言葉にライアーは目を閉じ、カーリヤは一度俯いた後、また貼りつけたような笑みで顔を上げる。

 

「無理に決まってるでしょ、強がってないでどれか選びなさいよ」

「貴公の気持ちは嬉しいのだがな、こればかりは譲れない」

「だから無理だって、今度こそ死んじゃうわよ?」

「騎士だからな。それも仕方な――」

 

 パンッ! と。衝撃と共に、狭い視界の中で白い紙が舞い散った。

 暗闇に塗りつぶされた右の視界は、振りぬかれたカーリヤの手にまるで反応できなかった。成程これは思っていた以上に深刻だ、訓練が必要だなと、ぐらつく頭で呑気なことを考える。カーリヤの平手にはまるで加減された気配が無く、それは彼女の怒りの程を充分に示していた。

 

「馬鹿なこと言わないでよ! この馬鹿っ!」

 

 怒りか、興奮か、あるいは別の何かか。カーリヤの碧眼からボロボロと流される涙を見ても、レーベンは何も返すことができない。決壊したように溢れる涙を手で拭い、拭って。再び上げられたカーリヤの顔からは化粧が落ちており、泣き顔と相まってひどく幼く見えた。

 

「弱いくせに! 聖女もいないくせに! 英雄にでもなったつもり!?」

「運が良かっただけよ! ただの偶然よ! 今度は本当に死んじゃうじゃない!」

「あんた最初から向いてないのよ! 騎士なんてっ!」

 

 叫び散らす彼女は本当に少女のようで、だがそれだけに純粋な言葉であった。彼女は本当に心の底からレーベンの身を案じ、だからこそこれだけ怒りを露わにしているのだろう。本当に己などには勿体ない友人なのだ、彼女は。

 涙に濡れた青い目を見返していると、カーリヤはまた手を振り上げる。だがそれをライアーが止めた。

 

「放してよっ」

「もうやめろよ、怪我人なんだぞ」

 

 ごく冷静な彼の言葉にカーリヤは歯噛みし、黙ったままのレーベンを見、また大粒の涙を流した。

 

「……っもう、勝手にしなさい馬鹿っ!」

 

 昨日と同じように病室を飛び出していくカーリヤを、ライアーも今度は追わなかった。ただ、大きな体を折り曲げながら床に散乱した紙を拾い集める。

 

「……行ってやりたまえよ」

「後でな」

 

「すぐ行くと俺が殴られるんだよ」とひどく理不尽な愚痴を苦笑いしながら零す。相変わらず苦労しているようだ。一枚残らず集めた紙を几帳面に束ねながら、ライアーは言葉を続ける。

 

「でもな、俺も気持ちは同じなんだぜ」

「貴公に殴られれば本当に死ぬが」

「まあ、あいつがやらなきゃ俺が殴ってたかもな?」

 

 そう言って朗らかに笑うが、聖性が無くとも彼の剛腕にかかれば冗談抜きで顎が無くなりかねない。思わぬところで命拾いした。魔女狩り以外で死ぬのは御免である。

 内心で冷や汗を流していると、哀しげに笑ったライアーが紙束を差し出してきた。

 

「ちゃんと見てやってくれよ。決めるのは、それからでも遅くねえだろ」

 

 左手だけで受け取ったそれはただの紙だというのに、ひどく重く感じた。今度カーリヤに会った時は謝らなければなるまい。……まずまた殴られるだろうが。

 会話も途切れたところでライアーが立ち去ろうとし、そこでようやくレーベンはあの問いを口にすることができた。

 

「……彼女は。シスネは、どうしている?」

 

 カーリヤが開けたままだった扉に手をかけていたライアーが、動きを止める。そのままこちらに背を向けたまま沈黙し、振り返った彼はひどく暗い顔をしていた。

 

「それなんだけど、よ」

 

 

 ※

 

 

 その日の朝、ポエニスは珍しく晴天であった。ここ最近は雨が降ったり止んだりと憂鬱な天気が続いていたのだ。久しぶりに見られた晴れやかな空に人々は外へと足を運び、それらの客を逃すまいと店々が声を張りあげる。長い雨季が終わり、恵みのような青空に旧聖都は活気づいていた。ある一か所を除いて。

 

 教会の本棟の裏手。中庭とは逆の、ひどく日当たりの悪い場所にその広場はある。最低限の手入れしかされていない殺風景な地面に生えるのは雑草ばかりで、花の一つも咲いてはいない。

 その広場に、数十人の聖女と騎士が整列していた。ポエニスの教会に属する者たちの内、魔女の捜索に参加しなかった、あるいは捜索を終えて戻ってきていた不運な者たちが、皆ここに並ばされている。彼らの前には上位職員たちが幽鬼のような無表情で並び、更にその後ろに、その「台」があった。

 ただ頑丈なだけの骨組み。装飾も何も無いその台からは二本の鎖と枷が垂れ下がっており、それが人を拘束し、晒すための物であることは明らかであった。

 職員も、聖女も、騎士も、誰一人が言葉を発さず、直立不動でその台を見ていた。彼らも彼女らも暗い顔と暗い目で台を眺め続け、それはひどく異様な光景だっただろう。

 

 青空から切り離されたような暗がり。陰鬱とした沈黙に支配されていたその場所に、やがて「主役」が現れる。それと同時に、沈黙は更に重苦しいものとなった。

 最初に現れたのは、人の身を超えたような巨躯の男。それでいて足音のひとつも立てないまま歩く様は亡霊か何かを思わせるが、一度でもその姿を近くから見ればそんな優しげな存在ではないと分からされるだろう。髪を剃り落とされた禿頭、巌のような強面、そして一切の感情を感じさせない眼光。ヴュルガ騎士長。ポエニスの教会に属する者すべての恐怖の象徴だ。

 次に現れたのは、二人の警備職員に脇を固められた一人の女。清貧を現す灰色の装束に包まれた体はひどく華奢で、その細腕に嵌められた枷が尚のこと重々しく見える。何よりも目を惹く真っ白な髪は腰まで伸ばされ、暗がりの中でも浮かびあがるようだった。俯き加減の顔の中でも更に伏目がちな瞳は黒く、暗がりの中でもなお暗い光を放っている。

 

「懲罰を始める」

 

 何の前置きもなく、何の感情もない声で騎士長が告げる。主役の女――シスネは台の上へと登らされ、皆が見ている前で徐に装束の上衣を脱ぎ落した。一瞬、並ぶ者たちの間でどよめきが走る。だがそれは衆目に晒された柔肌に対する色めいた声などではない。

 その白い肌には、無残な傷痕が刻まれていたのだ。嫋やかな双丘の間を斜めに走る、切り裂かれたような傷。それは長々と伸び、くびれた曲線を描く右脇腹にまで続いていた。

 肌と傷を晒しながらも表情を変えないシスネの両手を警備職員が枷に繋いでいく。ガラガラと鎖が巻き上げられ、両腕を吊り上げられる形でシスネの拘束が完了した。

 

「罪状――」

 

 上位職員が罪人の罪を読み上げる。曰く、彼女は聖女でありながら私情により己の騎士を危険にさらし、更に聖性の使用をも拒んだ。結果として騎士は重傷を負い、それに対する反省の色すら無い。教国の要である聖女にあるまじき醜態、誠に度し難し。よって――。

 

「鞭打ち、十回」

 

 淡々と述べられた罰の内容に、並んでいた騎士の一人が前に出る。職員から革の鞭を受け取り、まるで己が罰を受けるかのような足取りで台へと登った。

 この公開懲罰では、騎士の一人が執行人として選ばれる習わしだ。ただ見ているだけでは生温い、己の手で罰してこそ恐怖はその心に沁みわたる。そうして、罪人のみならず他の者にまで規律を刻み込むのだ。故に、騎士たちは皆が揃いの覆面で顔を隠している。執行人を特定させない為の、ささやかな慈悲として。

 不運にも外れ(くじ)を引いてしまったその大柄な騎士は、躊躇いがちにシスネの白髪に触れるとそれを体の前へと流した。今から背を鞭打つための準備であり、おそらくは彼女の体と傷を少しでも隠そうとしたのだろう。更に、木の棒に布を巻いた何かをシスネの口許へと宛がう。

 本来の懲罰には含まれていないその道具を怪訝な目で見る者はいたが、誰も声はあげなかった。騎士長ですら黙認している。あるいは、懲罰の重さに変わりはないと判断したのか。当のシスネだけが、困惑したように騎士を見上げた。

 

「噛んどけ」

 

 覆面ごしの声は低く、シスネにしか聞こえなかっただろう。だがその声を聞いたシスネは黒い瞳をわずかに見開いてから、その棒を噛み咥える。

 そして騎士は何歩か離れた後、シスネの背に向かって鞭を振り下ろした。

 

 シスネは二回目までは声をあげなかった。騎士から与えられた猿轡を噛みしめて耐えていた。三回目からは耐えかねたようにくぐもった悲鳴をあげ、六回目で遂に気絶し、項垂れた顔から猿轡が地に落ちた。だが懲罰はまだ終わっていない。気絶したまま振るわれた七回目で覚醒させられ、遮るものの無くなった悲鳴が広場に響く。

 聖女たちも騎士たちも徐々に顔を俯かせ、中には震えだす者もいた。その中で、最前列に立っていた金髪の聖女だけが目を逸らさずにシスネを見ている。その碧眼は様々な感情が混ぜこまれたような光を放ち、強く握りしめた拳からは一筋の血が流れ落ちていた。

 懲罰は続く。八回目でまた気絶し、九回目で悲鳴をあげる。そして十回目で気絶したシスネを拘束から解き、職員たちが医療棟へと運んだ後で、騎士長が公開懲罰の終了を告げた。

 そうして長い悪夢のような時間はようやく終わり、開放された聖女と騎士たちが亡者のような足取りで散っていく。

 場違いな青空だけが、最後までポエニスを照らしていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

穢れ

 その晒し台の上から、私は彼の姿を探していた。

 あれだけ多くの視線に晒されながら羞恥に叫び出さずに済んだのはきっと、見てほしいと考えていたからだろう。

 本当は、彼に見てほしかった。だけど、私を見る騎士たちの中に右腕の無い騎士はいなかった。

 本当は、彼に罰してほしかった。だけど、私を鞭打った騎士はきっと彼ではなかった。

 彼の目で、罰せられる私を見てくれたなら。彼の手で、私を罰してくれたなら。

 彼は、私を許してくれただろうか。

 許して、また私の傍にいてくれただろうか。

 傍にいて、また私のことを求めてくれただろうか。

 

 

 そして、そんな彼を、私はまた――拒絶することができただろうか。

 

 

 ◇

 

 

 焼けるような背中の痛みで目覚めたと、シスネは思う。断じて悍ましい悪夢のせいなどではないと、そう言い聞かせた。夢の中で自分は何を考えていた。見られたいだの打たれたいだの、いくらシスネでもそんな異常な性癖までは無いはずだ。

 いや、そうではない。問題なのは、本当に悍ましいのは、穢いのは――。

 

「穢い……っ」

 

 両腕で自分を抱くようにして、背中に爪を立てる。包帯と寝間着ごしても走る鋭い痛みに頭を焼かれて一瞬、気が遠くなった。いっそまた気絶すれば楽になれるというのに、どれだけ傷を引っ掻いても痛みばかりで気を失うことはできない。

 やがてそれにも疲れたシスネは、寝台に仰向けで倒れた。窓幕(カーテン)も引いていない窓からは赤い光が差し込んでいて、殺風景な自室を照らしている。今朝まで過ごしていた独房とさして変わらないような部屋がやけにおかしくて、シスネはひとり笑った。

 

「何がおかしいのよ」

「っ!」

 

 自分しかいないはずの部屋で響いた声に、反射的にシスネは飛び起きた。寝台の上に座ったままで視線を声に向ける。その先に、入り口の扉を背にしたカーリヤがいた。扉によりかかりながら腕を組んでいる彼女の姿は女性的な魅力に溢れていて、本当に綺麗な人だと場違いな考えが頭に過る。

 

「……おはようございます」

「夕方だけど」

 

 他人の部屋に無断で、それも部屋の主が寝ている間に入ってくるなど不躾という範囲を越えているが、それを咎める気はシスネには無い。むしろ、それを期待して扉の鍵も閉めていなかったのだ。その鍵は今、後ろ手でカーリヤが閉めてしまった。

 コツリ、コツリと、彼女の洒落た靴が床を鳴らしながら近付いてくる。首や腕に着けられた装飾品が澄んだ音を鳴らす。赤い夕陽に照らされた金色の髪は燃えるように輝いていて、切れ長の目がじっとシスネを見下ろしていた。

 レーベンと特に親しかったであろう彼女は、きっとシスネを憎んでいるのだろう。憎んでいるから、今こうして報復に来たのだ。それも当然だとシスネは思う。あんな、ただ十回ばかり鞭打たれる様を見るだけで許せる訳もない。どんな私刑であれ受け入れなければならないとシスネは考えていた。

 やがて、カーリヤが寝台のすぐ傍に立つ。寝台で体を起こしただけのシスネはじっと彼女を見上げ、青い目を見返した。

 

「逃げないの?」

「逃げません。……言い訳もしません」

 

 恐怖を煽るような言葉にシスネは震える手を掛布の下に隠した。声は、震えていなかったと思う。彼女のスカートから覗く脚にはあの派手な短銃が括りつけられていて、それで殴られるにせよ撃たれるにせよ、一切の抵抗をしてはならない。シスネはそれだけの事をしたのだ。

 

「あなたの、好きなように」

「へえ?」

 

 カーリヤの碧眼が一層に剣呑な光を放つ。目を逸らさないよう必死にその目を見返しながら、シスネは掛布の下で両手を握り合わせた。だが「じゃあ両手を上げなさい」と命じられ、それも叶わなくなる。ゆっくりと両手を上げ、懲罰の時と同じ姿勢で次の言葉を待った。

 

「……っ」

 

 寝台に片膝を置いたカーリヤは、無言でシスネの脇腹に手を伸ばしてきた。病的に過敏な部位に指を這わされ、神経を直接撫でられたような悪寒が頭まで突き抜ける。必死に耐えるシスネを嘲笑うように、カーリヤの指は徐々に肌へめり込んできた。

 

「く……、っうぅ……!」

 

 逃げたい。暴れたい。彼女の手を振り払いたい。本能の底から湧き上がってくるような衝動を堪え、上げたままの手をぎゅうと握りしめた。いっそ拘束されていればどんなに楽だったか。シスネはこの責め苦に対し、自分の意思で体を晒し続けなければならないのだ。

 カーリヤの指が更にめり込む。奥歯を割らんばかりに噛みしめて叫びを封じ、目を開けて見返した彼女の顔は――。

 

「……ぷっ」

 

 カーリヤはもう辛抱堪らんとばかりに破顔し、あっさりとシスネの脇腹を開放してから寝台へと寝転んだ。そのまま、腹を抱えながら高らかに笑いだす。

 

「あっははっは……っ! ふふっ、あ、あんた何そんな本気(マジ)になってるのよ……っ! くっふふっ」

「え、あ、……え?」

 

 まるで自分の方が擽られているように笑い転げるカーリヤに、両手を上げたままのシスネがぽかんと口を開ける。よほど面白かったのかひいひいと涙まで流している彼女の姿に、揶揄われたのだとようやく理解したシスネの顔が怒りと羞恥で赤く染まった。

 

「な、何がおかしいのですかっ! 私は本気で……っ」

「え? 本気でやれって?」

 

 急に笑いをおさめたカーリヤが真顔で起き上がる。対してシスネは赤かった顔を一瞬で青褪めさせた。墓穴を掘った。悪手を打った。このまま笑って許してもらえば良かったというのにこの馬鹿!

 もう限界だった。だが逃げ出したシスネの腰をカーリヤの腕が蛇のように捕らえ、寝台へと引きずり戻される。三日月のように歪んだカーリヤの目に見下ろされながら、シスネは絶望的な声をあげた。

 

 

 

「あんた、使()()()()んですってね」

 

 自分にとっては懲罰と同等の苦痛と屈辱を味わうこと数分。ようやく開放されたシスネは、カーリヤの断定的な言葉に弛緩していた顔と意識に冷や水を浴びせられた。ゆっくりと身を起こして、警戒するように彼女と距離をとる。

 

「何を、」

「ライアーから……いえ、あの馬鹿から聞いたわ」

 

 曰く、レーベンの面会に行っていたライアーが「二人だけに」と内密にシスネの秘密を打ち明けられたのだという。そして、公開懲罰の直前にカーリヤもそれを知らされたと。

 もう(とぼ)けるだけ無駄なようだ。カーリヤと並んで寝台に腰掛けながら、シスネは自嘲に顔を歪ませた。

 

「……報告しますか」

「しないわよ。ていうか、そうじゃないでしょう?」

 

 呆れたような彼女の声に疑問を感じていると、指先で額を弾かれた。どことなくむず痒い痛みに額を押さえていると、更に呆れた溜息をつかれる。

 

「もし私がそれを知らなかったら、こんなものじゃ済まさなかったってことよ」

「……はい」

 

 レーベンがあれ程の重傷を負った一因はシスネが聖性を使えなかったことだが、残りは単にシスネの過失だ。彼の忠告に従って撤退していれば、ノール村を見捨てる決断を下せていれば二人とも無傷で生還できた。そうでなくとも、あの時にシスネが引き金を弾くことを躊躇わなければ、このようなことにはならなかったはずだ。

 聖性の有無はあくまで要因の一つに過ぎない。だがされど一つ、それがカーリヤが怒りを抑えられる一線となったらしい。彼がそこまで考えていたのかはともかく、結局はまたレーベンに助けられたのだ。

 

「馬鹿のくせに……」

「本当にね」

 

 思わず口をついて出た言葉は恩人に対する物としてはあんまりだったが、カーリヤは同意してくれた。

 

「まあ、でも。お互い様じゃない?」

 

 彼女の言葉にまた疑問を感じていると、また額を弾かれて、また呆れた声で続けられる。

 

「あの馬鹿が生きていたのは、あんたのおかげだってことよ」

「え……」

 

 彼女とライアーが医療者たちに聞かされたことによると、瀕死だったレーベンが生還できたことは幸運がいくつも重なった結果だそうだ。

 まず、重傷を負う直前に再生剤を過剰に服用していたこと。シスネが打った物も含めて三本も打たれた再生剤は、後の悪影響はともかくとして右腕からの出血を最低限に抑えてくれた。

 更に、降り続いていた雨。自爆に等しい攻撃を敢行した彼の体はおそらく炎上していたが、土砂降りの雨がそれを消し止め、大火傷を負った皮膚も冷やしてくれていた。

 加えて、レーベン達を素早く見つけてくれたノール村の人々。もし彼らが僅かな違和感を敏感に感じ取っていなければ、シスネが目覚めるまで彼は放置されていただろう。

 そして。

 

「ありがとう、レイを助けてくれて」

 

 そっと、カーリヤに手を握られた。あの時、彼の血に塗れながら治療を続けた手を。

 最後にレーベンの生死を分けたのは、シスネの行動だったのだと。あの時、村人たちにも手伝わせて行った応急処置が無ければ、迎えを待たずに村を発った判断が無ければ、御者を脅してでも先を急いだ無茶が無ければ、彼は助からなかったのだと。

 

「レイがあんなことになったのは、シスネのせいかもしれないけど」

「あんなことになっても帰ってきたのは、シスネのおかげよ」

「だから、ありがとう」

 

 顔を上げて見たカーリヤの顔は優しく微笑んでいて、夕焼けに照らされた微笑は暖かな篝火のようで、きっと聖女の名は彼女のような女性にこそ相応しいのだと、シスネは思った。

 

 

 

 だが、だからこそ。

 

「やめて」

 

 シスネに、きっとその手を取る資格は無い。そんな温かい言葉を、優しい笑みを向けられるべきではないのだ。この、シスネレインという女は。

 

「やめてよ……私は、そんな……」

 

 だって、そうでしょう?

 私は思っていたじゃないか、いい気味だって。あんな目にあったのは、彼の自業自得だって。

 いい気分だったでしょう?

 彼がひどい目に遭って。嫌いな相手が死にかけて。もう二度と、戦えない体になってしまって。

 あぁ、そうだ。

 本当に私は彼を思って治療したのか? 彼の為に彼の体を切り刻んだのか?

 本当は、本当は。

 もっと彼に傍にいてほしかったから。

 もっと彼に求めてほしかったから。

 もっと彼を、拒絶したかったから!

 だから私という女は! シスネレインという、このどうしようもなく――。

 

「穢い……っ!」

 

 心の穢い女は!

 

 

 

「自虐禁止ぃ――っ!」

「ぎゃああぁぁ――っ!?」

 

 嫌というほど触られていた脇腹をまた鷲掴みされて、シスネは再び絶叫した。飛び上がった体を寝台に押し倒されて、見上げたカーリヤの顔にはもう聖女らしさは欠片も残っていない。

 

「あーもうグチグチグチグチとっ! 人が誉めてんのに何よその態度は!」

「あなたとりあえず揉めば良いと思ってませんか!? 思ってるんでしょう! ねえ!?」

「実際なんとかなってるじゃないの! これで足りないなら、今度は直接……」

「服は! 服の下からはやめて!」

 

 寝間着をまくり上げられそうになり流石に身の危険を感じたシスネがカーリヤの顔を押しのけ、見るに堪えない顔となったカーリヤも意地になったのか寝間着を掴んで放さない。組み打ちのような様相で寝台の上を転げまわり、ついには床に転げ落ち、それでもカーリヤはやめてくれない。

 元より短気なシスネの堪忍袋はあっさりと弾け飛び、野良猫の喧嘩じみた戦いは夕日が沈むまで続いた。

 

 

 

 ぜえぜえはあはあ。

 暗くなり始めた部屋の中、精魂尽き果てたシスネとカーリヤはようやく互いに手を放した。

 

「……気は済んだ?」

「……そっちこそ」

 

 もう色々とどうでも良くなってしまった。共に行儀悪く床に座り込み、並んで壁に背を預ける。

 カーリヤの整えられていた金髪は乱れ、化粧も落ちたり滲んだりでひどい顔になっている。シスネは長い白髪と質素な寝間着が乱れに乱れて、まるで幽霊のような有様だ。

 

「本当に、あんたってさ……、なんでそんな面倒な女なの?」

「……さあ? きっと性根が腐っているのでしょうね」

 

 手鏡を見ながらうんざりした顔でカーリヤが言い、半ば自棄になったシスネが吐き捨てた。

 

「何よそれ、開き直っちゃって腹が立つわ」

「それは誠に申し訳御座いません。開き直らないとやっていられないものでして」

 

 はん、と鼻で笑いながら嫌味ったらしく答えてやると、カーリヤはじとりと睨んでくる。暗い室内でもその碧眼は青く輝いていた。

 

「……その傷のせい?」

 

 彼女の言葉に、胸の傷を撫でる。懲罰の際に晒され、そして今また間近で見られた傷。いやよく考えれば、あの森で彼女とライアーに助けられた夜、あの時カーリヤ達には既に見られていたのだった。

 

「触れられたくない物かと思ってたけど……もうこの際、吐いちゃったら?」

「……そうですね」

 

 もう既に秘密は知られてしまった。なら、()()()()()()()だって吐き出しても良いかもしれない。

 そんな、気分だった。

 

「教えてあげますよ。私が、どれだけ穢い女なのか」

 

 誰にも話さなかったその秘密を、今日シスネは初めて他者に打ち明ける。

 それはここ数日で疲弊しきったシスネの精神が限界を迎えた証であり、そしてカーリヤへの友誼(ゆうぎ)の証でもあった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

聖女と聖女擬き

 ――これは、本当にまだ誰にも話したことがない私の過去

 ――決して人に知られたくなかった、私だけの秘密

 

 

 端的に言ってしまえば、それは魔女につけられた傷だ。

 かつて、まだシスネが真っ当な聖女であった時、自分の騎士と最後に戦った魔女に。

 騎士レグルス。シスネと契りを交わした、最初で最後の騎士。彼が魔女の手にかかろうとした時、シスネは彼を介錯した。彼から贈られた、あの大短銃で。

 

 それは聖女と騎士の、真っ当な在り方だ。

 聖女と騎士は一対の存在。契りを交わした時から常に生死を共にする。だから、シスネもまたその場で自決するはずだった。

 

 だがシスネはそうしなかった。

 もう騎士はいないというのに、騎士がいなければ聖女はただの女でしかないというのに。彼の形見である銃を手に、魔女に立ち向かったのだ。

 

 あとは見ての通り。

 シスネは魔女をひとりで狩り、だが体にも心にも大きな傷を負った。その傷は自身の聖性をも狂わせたのか、もう聖性を扱うことはできなくなった。

 

 シスネは彼の仇を討った。

 そのかわり、聖女ではなくなってしまった。

 

 それでも、シスネは魔女を狩り続けた。

 どんなに止められても一人で魔女狩りに向かった。聖性が無くても、騎士がいなくても魔女は狩れるのだ。シスネ自身がそれを証明したから。

“騎士殺し”と呼ばれ、詰られても言い訳はしなかった。シスネがレグルスを介錯(ころ)したことは事実で、そして周囲から孤立することはむしろ好都合だったから。

 

 瞬く間に三年が経った。

 

 その間、当然シスネは誰とも組まなかった。契りを求めてくる騎士は何人かいたが、すこし拒絶してやるだけですぐに離れていった。それで良かったのだ。もうシスネは聖性を使えず、それを隠すにも丁度よかったから。

 シスネの騎士は、後にも先にもレグルスだけなのだから。

 

 

 

 ――そんな物語だったなら、どれだけ綺麗だったでしょう

 

 

 

 ここまでなら、レーベンにも似たような話をした。傷と聖性のことは伏せた上に所々を端折ってはいたが、大筋では同じ話をしてやった。

 彼はどう思ったのだろう? シスネのことを悲劇の聖女(ヒロイン)か何かだとでも思ったのだろか? もしそうなら、彼は本物の馬鹿だ。

 おかしいとは思わなかったのだろうか? 聖女が騎士を介錯することは当たり前のことだというのに、何故シスネだけが“騎士殺し”などと不名誉な渾名を付けられたのか?

 その矛盾に彼は気付いたのか気付かなかったのか、どちらにせよそれをシスネに問いただすようなことはしなかった。あの時に問われたところで、シスネは決して話さなかっただろうけど。

 

 

 ――でも、あなたには聞かせてあげます

 ――女どうしの秘密ですよ?

 ――ねえ、カーリヤ

 

 

 ◇

 

 

 シスネが全てを語り終えた時、窓からは月明りが差し込んでいた。ランプも灯していない部屋の中は青白い光に照らされている。

 隣に座るカーリヤの顔を横目で見る。乱れた化粧を落とした彼女の顔は普段と印象が異なり、月明りに照らされた横顔は神秘的な美しさを醸しだしていた。本当に綺麗な女性なのだ、この聖女は。

 あぁ、ずるい。と、シスネは思う。

 

「ずるい……」

「何が?」

 

 声に出ていた。だがもう取り繕う必要も無い。

 

「美人はずるいと言ったのですよ。あぁ妬ましい」

「いきなりどうしたのよ」

「顔も体も心も綺麗だなんて、本当にずるい人……。ひとつぐらい分けてくださいよ」

「……まあ、意外ではあったわね。あんたはもっと潔癖なのかと思ってたわ」

「はっ! 私なんかが潔癖だったらとっくに死んでいますよ。自分の穢さで狂い死にです」

 

 二人きりの部屋で、明け透け極まりない会話を交わす。それはひどく背徳的で、痛快だった。

 

「……で、あなたは?」

「え?」

「あなたの恥ずかしい話も聞かせろと言っているのです。不公平ではないですか」

「……仕方ないわね」

 

 家族にすら、ここまで話したことは無かった。マリナにも、……レーベンにも。

 

「へえ……。良いことを聞きました」

「ちょっと、何よその顔。まさか人に言う気じゃないでしょうね!」

「言いませんよ、知っているのは私だけで良いのです」

「……あんたって、本当に良い性格してるわ」

「どうせ穢い女ですから。元々、聖女なんて向いていなかったのでしょう」

 

 ずっと聖女に憧れていた。

 だから教会の門を叩いて、自分に聖女の素質があったと知った時は泣いて喜んだ。喜んで努力を重ねて、そして聖女となった。

 立派な聖女になりたかった。シーニュのように、キノノスのように、皆が憧れ敬う聖女のように。

 でも、そんなものは夢物語だった。

 現実には、シスネは一介の聖女でしかなかった。優秀な部類と評される、ただその程度の。そして今はもうそれですらない。

「騎士なき聖女」で「騎士殺し」の聖女擬き。それがシスネだった。

 

 ――あれ?

 

 そんな自分に、シスネは既視感を覚えた。誰か、そんな存在が他にもいなかったか。

 

『貴公、騎士はどうしたんだ?』

『……あなたこそ、聖女はどうしたのですか』

 

 はじめて会った夜、自分と同じだと思った。

 ……その異質さを見て、自分の異質さを知った。

 

『その口調は何なのですか』

『騎士らしいだろう?』

 

 いっそ滑稽なほどに、騎士らしく振舞っていた。

 ……その滑稽さを見て、自分の滑稽さを知った。

 

 ――あぁ、そうか

 

 彼とシスネはひどく、

 

「あんたって、レイと似てるわ」

 

 カーリヤが代弁した。

 

「……そうでしょうか」

「私も、最初はなんて正反対なんだろうって思ってたけどね。意外とあんたが馬鹿だったから」

「馬鹿で悪かったですね」

 

 お互いに小突きあいながら無遠慮に話す。小突きすぎるとまたひどい目に遭わされそうだから、程ほどにしておいた。

 

「いつも澄ました顔でかっこつけてるところとか」

「澄ました顔で悪かったですね」

「そのくせ、いつも必死なところとか」

「必死で悪かったですね」

「……フラっと、簡単に死んじゃいそうなところとか」

 

 足元に落としていた視線を横に向ける。彼女は何もない天井を見上げながら、ひどく哀しげな顔で続けた。

 

「レイの奴、騎士はやめないんだって」

「……え、」

 

 シスネの口から漏れた呟きは、レーベンが騎士をやめなかったことを驚く声ではなかった。むしろその逆。彼はきっと騎士をやめないだろうと、そう疑っていなかった自分に驚いていた。

 あの重傷で騎士を続けるなど正気の沙汰ではない。英雄譚のジャック・ドゥではあるまいし、右目と右腕を失った人間が戦える相手ではないのだ、魔女というものは。それを知らない彼ではないだろうに。

 だがそれでも、彼は騎士を決してやめないのだろうとシスネは確信していたのだ。何故なら、

 

『俺達はまだ死んでいない、魔女も死んでいない! なら、まだやらなければいけないんだ!』

 

 あの雨の中で聞いた叫びは、いっそ狂気的なものすら孕んでいたから。きっと彼は本当に死ぬまで魔女を狩り続ける気なのだろう。いったい何が彼を駆り立てるのか。魔女への憎しみ? 使命感? どれも違う気がする。

 そもそも、シスネはレーベンのことをほとんど知らない。あの野営の夜にだって、端折りに端折ったような短い話しかしてくれなかった。しかもその半分はライアーの背が低かっただのカーリヤの胸が大きかっただのと、彼自身の話ですらなかったのだ。……確かにライアーのことは意外で、カーリヤは不公平だと思ってはいたけれども。

 シスネが追憶に耽っていると、隣から押し殺した嗚咽が漏れ聞こえてくる。

 

「馬鹿よ、ほんとに馬鹿……っ」

 

 体を震わせながら抱えた膝に顔を埋めているカーリヤは、普段の自信に満ちた聖女とは別人のようだった。健気な少女のように可憐で、弱々しくて……。見ているだけで優越感に浸れそうな――。

 バチン、と。頬を張る音が暗い部屋に響く。

 

「……え?」

 

 カーリヤが肩を震わせながら顔を上げる。化粧の代わりに涙で彩られた顔は呆けたようにシスネを見ていた。

 対して、自分で自分の頬を張ったシスネは加減を誤り、舌を噛んでしまっていた。いくらなんでも、いくら相手がカーリヤであっても、この暗い情念のことまでは話したくない。

 

「わらひが、ひなせません」

「は?」

 

 立ち上がり、カーリヤの両手を取りながら言う。それは彼女の為であり、そしてシスネ自身の為でもあった。元より、他人の為だけに何か出来るほど綺麗な心は持ち合わせていないのだから。

 

「かへは、へったいに、しなへません」

「あの、シスネ? なに言ってるのかちょっと分からない……」

「ひゃから! かひぇ……ヘーヘンは、わらひが!」

「……っぷ!」

 

 そこで限界が来たのかカーリヤが吹き出した。強く両手を握っているせいか、顔も覆えずに笑いだす。

 

「ほんと……、そっくりだわ、あんた達!」

 

 泣いているのか笑っているのか分からない顔で、カーリヤはけらけら笑う。シスネは笑われたことが面白くなく、彼とそこまで似ていると言われることは心外であった為そっぽを向いてやった。

 それがおかしかったのか、カーリヤはまた笑った。

 

 

 

「長居しちゃったわね、もう行くわ」

「えぇ、おやすみなさい」

 

 延々と取り留めの無い話を駄弁っていたら、すっかり夜も更けていた。酒の一本や菓子の一つもなく、よくこれだけ話が尽きなかったとシスネは内心で愕然としていた。

 カーリヤは欠伸と背伸びをしながら、入り口の扉に手をかける。

 

「あーあ、明日は早いってのに。またライアーがうるさいわね」

「魔女狩りですか?」

 

 ここ数日を独房で過ごしていたシスネに詳しい情報は知りようが無いが、そろそろ魔女の捜索も完了する頃合いだろう。教会の上層部が次の一手を打っていても不思議ではない。

 

「そうね、ちょっと大きな仕事だから、しばらく戻らないと思うわ」

「そうですか……」

 

 思わず口に出た言葉はひどく弱々しかった。まるで、彼女にしばらく会えないことが寂しいとでも言うような……。

 ハッと顔を上げれば案の定、カーリヤがニヤニヤと笑っている。

 

「えー何それ、今日はなんだか可愛いじゃないの、あんた」

「いつもは可愛くなくて悪かったですねっ」

 

 結局は灯りを点けなかった薄暗い室内でのこと、赤くなった顔も多少は隠せていただろうか。しっしと手を振ってやればカーリヤは扉を潜り、悪戯っぽい笑顔だけを覗かせていた。

 

「寂しいなら見送りに来てくれても良いのよ?」

「お生憎様。これからしばらく謹慎ですので」

「あら残念。……あ、そうそう」

 

 どこかわざとらしく呟いたカーリヤが手招いてくる。特に何も考えずに近付くと、ぐいと手を引かれた。

 月明りの下でも輝く金髪が舞い、鼻腔が香水と彼女自身の香りで満たされる。

 

「レイをお願いね」

 

 彼女の豊かな胸が、自分の薄い胸元で形を変える。それ程の強さで抱きしめられ、真剣な声が耳朶を打つ。

 お願いとは、どういう意味なのか。彼に騎士を諦めさせろということなのか、それとも別の意味なのか。だがどちらにせよシスネの答えは決まっていた。

 

「――はい」

 

 

 ◇

 

 

 開け放った窓辺に頬杖をついて、月を見上げる。

 明るい夜空に雲は見えず、きっと明日は良い天気になるだろう。長かった雨季もようやく終わったというのに自分だけは謹慎だ。まったく惨めなものである。

 

「今日で六日……七日?」

 

 一人で呟きながら日数を指折る。ポエニスに戻ってきてから今日でたしか七日が経っている。カーリヤは彼と話をしているのだから、もう意識は戻っているのだろう。経過が良ければそろそろ歩く訓練を始める頃だろうか。さっきカーリヤに渡した物が役立つと良いのだが。

 

「……会いたいな」

 

 四日後が待ち遠しい。謹慎が解けたらすぐ医療棟へ行こう。彼に会って、まずは謝って、許してくれなかったなら、どんな罰でも受け入れよう。彼が許してくれるまで。

 そして許してくれたら、また傍にいよう。近くも遠くもない、そんな距離で。それを彼が望まなくても。

 

「……く、ふふ」

 

 彼はシスネを拒絶するだろうか? でも拒絶したところで、シスネ以外の誰が彼の傍にいるというのか? シスネが聖性を使えないと分かったところで、誰の聖性も受け入れられないという彼自身の欠陥が無くなるわけではないのだから。

 おそらく、いやきっと、彼はまたシスネを求めるのだろう。それが分かっているから、あるいは単に馬鹿だから。そしてその時が来たら、また拒絶してやるのだ。決して受け入れてなどやらない。

 

「嫌い……ですから」

 

 シスネとレーベンは似ているのだろう。だからこそ嫌悪する。シスネが鏡に映る自分の姿を嫌うように、彼に自分の姿を見てしまうから。

 嫌悪するからこそ傍にいたい。自分と似ている、いや少しだけ自分より劣っている彼の姿を見ていたいから。その時だけ、ほんのわずかに自分を好きだと錯覚できるから。

 あぁ、本当にシスネという女は――。

 

「穢い……」

 

 結局なにも変わりはしない。当たり前だ。カーリヤに秘密を打ち明けたところで、シスネの穢い心が綺麗になるわけもないのだから。

 

「穢いなぁ……わたし」

 

 でも何故だろう。

 その穢い心は、妙に晴れやかだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

騎士と騎士擬き

「ライアー、俺の右手を掻いてくれないだろうか」

「無茶いうな」

 

 無茶なのは分かっているのだ。なにせレーベンの右腕はもう無いのだから、存在しない部位を掻けるわけがない。だがそれならば何故、その右手がこうも痛んだり痒くなったりするのだろうか? もう馴染みとなってしまったその謎にまた悶絶している時、ちょうどライアーが面会に来た。

 時刻は昼。朝から行われていた公開懲罰が終わり、一息ついてから来たのであろう。やはりというべきかカーリヤの姿は無く、ライアーもまたどこか元気が無い。

 

「どうした貴公、懲罰でカーリヤが何か面白いことでも――」

「悪い、その話は無しだ」

「お、おう」

 

 いつになく固い口調で話を遮られてレーベンも口を噤む。公開懲罰にはポエニスの聖女と騎士すべてに参加する義務があるが、レーベンは怪我人ということで免除されていた。不幸中の幸いと言えるだろうか。流石のレーベンも、シスネが鞭打たれる姿を見たいとは思わない。

 ライアーのこの様子を見る限り、シスネには相当に厳しい懲罰だったのかもしれない。彼の言う通り、あまり触れるべきではないのだろう。ドロドロの病人食を左手だけでノロノロと口に運びつつレーベンは考えた。

 

「あー、そのなんだ。最近どうだ、仕事の方は」

「おう、それなんだがよ」

 

 あからさまに話を逸らしたが、ライアーは乗ってきた。部屋の隅から椅子を引いてくると、寝台の横で腰掛ける。

 

「明日から、結構デカい仕事に行くことになった」

「ほう」

 

 彼が言うには、魔女の捜索はほぼ完了し、教会の上層部によって次の指針が決められたそうだ。

 結果として、レーベン達が遭遇した分も含めて教国の北側で複数の魔女が確認された。よって今度はより範囲を絞り、北側に広がるアスピダ山脈周辺を集中して捜索することになった。参加者は腕利きの聖女と騎士たちが選りすぐられ、ライアーとカーリヤも選ばれたのだと。彼と彼女であれば当然であろうとレーベンは思う。

 

「それでよ……その、聞くのは悪いとは思うんだがな」

「気にするな。何でも聞きたまえよ」

 

 レーベン達が遭遇した魔女についての情報を聞きたいのだろう。レーベンも医療棟で目覚めてから聴き取りは受けているし、シスネもそうだろう。それらを取りまとめた情報は他の者たちにも開示されているはずだが、彼はより詳細な内容を知りたいようだ。だがそれがレーベンの傷を抉るような真似になると遠慮しているあたり、実にライアーらしい。

 もちろんレーベンとしては己が目と腕を失くした話であろうと、それが友人たちの役に立つのであれば一向に気にするつもりはない。ノール村での捜索からサハト村での魔女狩り、そして破戒魔女のことまで、なるべく詳しく話して聞かせた。

 

「――それで、その破戒魔女を相手にしてこの様というわけだ」

 

 一通り語った後で彼の様子を見ると、椅子に座ったまま固い顔で考え込んでいた。やはり破戒魔女というものは特別に恐ろしいのだ。無理もないだろう。

 

「何か気になることでも?」

「あぁ……、サハト村にいたのは、共喰魔女で間違いないんだよな?」

 

 だが意外にも、ライアーが気にしていたのは共喰魔女――サハト村で遭遇した魔女の方だった。あの半日に渡って焼かれ続けた上で目覚めた、頭から無数の蛇を生やしたような魔女。その後に遭遇した破戒魔女の印象が強すぎたせいでレーベンも忘れかけていたが、あれもまた充分に異質な魔女なのだ。

 

「おそらくはな。ただの魔女なら、あれだけ焼かれて生きているはずがない」

「実はな、他に見つかった魔女も共喰魔女なんだよ」

 

 危うく匙を落としそうになった。

 

「……冗談だろう?」

 

 共喰魔女、つまりは複数の魔女の融合体。それはもう存在自体が悪い奇跡のような物であり、つまるところ非常に珍しいのだ。それが何体も見つかったなど、異常としか言いようがない。

 

「しかも今回だけじゃない、前からちょくちょく見つかってはいたらしい」

「あぁ、そういえば俺もカクトで見た」

「つーか、お前らの狩った奴が最初みたいだぜ」

「なんと」

 

 忘れもしない。シスネと組んで初めての魔女狩り、カクトの町の廃坑で討伐したのが共喰魔女だったのだ。当時のシスネは今以上にレーベンを拒絶しており、すったもんだの挙句になんとか魔女を狩った。だがまさかあの魔女狩りが、一連の異常現象の始まりだったとは。

 

「ま、そういうわけで。今度の仕事も厄介な魔女が出る可能性が高いってわけだ」

「貴公らなら問題ないとは思うが……気を付けたまえよ」

 

 当然だが共喰魔女は危険で強力な魔女だ。なるほど、ライアー達のような精鋭が参加者として選ばれたのも頷ける。

 

「おう、死ぬのは御免だからな。……これが最後だしよ」

 

 ようやく食べ終えた昼食を簡単に片付けていると、ライアーの言葉に思わず手を止める。

 

「……最後とは」

「あぁ、その、実はな」

 

 ライアーがどこかそわそわした様子で身を乗り出してくる。大きな手を忙しなく合わせたり離したりしており、何か言いにくいことのようだった。その割に表情はどこか緩んでおり、いったい彼が何を言おうとしているのかレーベンにはまるで予想できない。

 

 

「結婚しようと思う」

 

 

 故に、彼のその言葉はレーベンの頭を一瞬止めるには充分に衝撃的であった。意味も無く食器を重ね直してから、ようやく口を開く。

 

「誰とだ。パボーネ殿か」

「なんでだよっ! なんで俺があの鬼ババアと!」

 

 パボーネとはポエニス教会の食堂に長年勤めている女傑のことだ。あの食堂は彼女の国であり、あの食堂の法とは彼女である。大原則として食べ残しは許されない。レーベンも一度、薬の副作用がひどくて食欲など欠片も無かった日に「食えば治る」という謎の暴論によって大量の食事を押し付けられたことがあり、結局は食べ終わるまでに半日を要した。

 閑話休題。

 

「ではシスネか。貴公はひどい男だ、この間男め」

「お前あんまり呆け(ボケ)たことばかり言ってると殴るぞ?」

「誠に申し訳ない」

 

 気が動転するとつい軽口が出てくるのは己の悪い癖だとレーベンは思っている。それで何度カーリヤにひどい目に遭わされたことか。最近ではシスネにも。ライアーにまで殴られれば寝台から降りられる日が更に遠のいてしまう為、咳払いをひとつして真面目な顔を作った。

 

「カーリヤとか。おめでとう」

「おう。……あいつにはまだ言ってないけどな」

 

 そう言って精悍な顔を不安げに俯かせるが、断られることなどまず無いだろう。彼ら二人が想い合っていることなどレーベンですら容易に分かるのだ。むしろポエニスの者たちの間では「いつ結婚するんだ」と話題になっていたのをよく聞いていた。

 

「そうか……寂しくなるな」

 

 教会も建前の上では「聖女と騎士は魔女狩りのみの関係であるべき」という方針をとっている。その為、聖女と騎士の婚姻は認められていないのだ。ならば共に役目を降りるしかなく、レーベンの数少ない友人たちは近い内に教会を去るのだろう。

 

「お前は、やっぱりやめねえのか」

 

 今も寝台横の小机に置かれたままの、カーリヤが探してきた仕事が記された紙束。それを見つめながらライアーが苦しそうな声で言う。カーリヤといい、この世話焼きでお人よしな苦労人といい、本当に己などには勿体ない友人だったとレーベンは思う。

 だが答えはもう決まっているのだ。

 

「あぁ。俺は騎士をやめない」

「……今度こそ死んじまうぞ」

「そうだな」

 

 静かな心地で言えたと思う。

 騎士となって五年。死にそうな目になど何度も遭ってきたが、今回ばかりは本当に死んだと思っていたのだ。だが偶然がいくつも重なり、そしてシスネの治療と行動によって九死に一生を得た。それを無駄にするとは思わない。むしろ、そうやって拾った命だからこそ、騎士を降りるという生に使う気は無かった。

 レーベンに心変わりする気配が無いことを察したのか、椅子に座ったまま項垂れたライアーの両手が握り合わされる。ぎち、と骨肉が鳴る音が聞こえるほど強く。

 

「――覚えてるか、四年前のこと」

 

 ゆっくりと顔を上げたライアーが口を開く。

 忘れてはいない。ライアーとカーリヤの試金石。あの雨の廃村で対峙した破戒魔女。あの日は、己がはじめて騎士に近付けた日でもあったのだから。

 

「あの頃の俺は馬鹿でよ、魔女が憎くて憎くて仕方なかった」

 

 自嘲するように、恥じるように笑いながらライアーが語る。確かに当時の彼は今とは別人のようで、常に殺気だっている近寄りがたい男だった。そして、そんな彼にカーリヤが黙って付き従っていたのだ。

 だが魔女を憎んで騎士になった者は大抵そうだ。彼だけが特別というわけでもない。むしろレーベンのような者こそ少数派だろう。

 

「だからいつ死んでもいい。魔女をぶっ殺せれば後はどうでもいい。……そんな風に思ってた」

 

 レーベンも直に見たわけではないが、当時の彼の魔女狩りは凄惨だったという。大きな両手剣を振り回し、命など要らないとばかりに捨て身で魔女を狩る。その鎧は常に魔女の泥と彼自身の血で赤黒く染まっていたと。狂戦士。彼がまさにそうだったのだろう。

 

「でもな……あの日、はじめて怖くなった」

 

 魔女化した聖女――破戒魔女。極めて強力なあの魔女に対しては、ライアーでさえも歯が立たなかったのだ。そしてレーベンが割って入り、カーリヤが彼を連れて逃げた。

 

「あの後ひどかったんだぜ? カーリヤの奴が泣くわ叫ぶわ、殴ってくるわ蹴ってくるわでよ」

「そ、そうか」

 

 レーベンはその時、破戒魔女と死に物狂いで対峙していた。当然、逃げた二人がどうしていたのかなど知るわけもなかったのだが、彼もまた結構な修羅場に瀕していたらしい。だが語るライアーの顔は晴れやかだった。

 

「馬鹿な俺に鬱憤が溜まってたんだろうな、それが一気に爆発したんだ」

「全然しゃべらなかったあいつが、まるでガキの頃に戻ったみたいでよ」

「それを見てたら俺も……急に死ぬのが怖くなったんだ」

 

 結局、あの魔女狩りは失敗ということになった。ライアーもカーリヤも、応援のレーベンも魔女を狩ることはできず、審査役のヴュルガ騎士長が狩ったのだから当然だろうか。上層部にとっては期待を裏切られたという形になり、それからライアー達を特別視するようなことも無くなった。

 だがそれによって、二人が徒に危険な仕事を押し付けられるようなことも無くなった。同時にライアーも自らの戦い方を改め、生き残ることを最優先するようになった。カーリヤが銃の腕を磨きだしたのもその時からだ。並以上の実力は持つが、特別ではない。そんな位置に彼らは収まったのだ。

 そして四年。ライアーもカーリヤも五体満足のまま役目を降りようとしている。

 

「俺はもう魔女が憎いとは思わねえ」

「いや、思ってはいるかもしれねえけど、命まで懸けようとは思えねえ」

「……まあ要するに、焼きが回ったんだよ」

 

 苦笑しながらライアーが言う。まだ二十三かそこらの彼が言うことではないだろうが、レーベンも同じように苦笑したつもりで笑った。つまり彼にもう悔いは無いのだ。

 

「で、その、つまり何が言いたいかっていうとだな」

 

 過去語りにひと段落ついたところで咳払いをひとつ。顔を上げたライアーの鳶色の目が、レーベンの左目と交差する。

 

「死ぬんじゃねえぞ」

「俺みたいに、お前だって、気が変わる時が来るかもしれねえ」

「だからそれまで……死ぬなよ」

 

 ライアーはもう止めなかった。レーベンが不自由な体で騎士を続けようとすることは止めず、だが死ぬなと、そう激励してくれていた。たとえ、それが無理だと分かっていても。

 

「……あぁ、そうだな」

 

 だがレーベンも笑ったつもりで答えた。たとえ、それが無理だと分かっていても。

 ライアーが握った右拳をレーベンに向け、レーベンもそれに左拳を合わせる。

 そうして二人は、きっと守られることのない約束を交わした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

この戦いが終わったら

「……それで、いつ言うんだカーリヤには。もう今すぐ言いたまえよ」

「あぁ、うん、そうなんだけどよ」

 

 急に歯切れの悪くなったライアーが、大きな体をモジモジさせながら目を泳がせる。……彼のことは生涯の友人だと思ってはいるが、大変に気色悪い。

 内心で辟易していると、やがて懐から小さな木箱を取り出した。

 

「これはもう買ってある」

「見事な物だが……地味すぎないか」

「言うなよ……」

 

 中には予想通り、二つの指輪が並んで納まっていた。銀色に輝く、だが簡素な意匠の指輪だ。こういった物に疎いレーベンでも上質な物であるとは分かるが、派手な美貌の持ち主であるカーリヤに似合うかと問われれば首を傾げざるを得ない。

 

「つーか、あいつ、いつまであんな恰好してんだ……」

「皆には大好評だろう。俺も含めて」

「俺が嫌なんだよっ!」

「そ、そうか」

 

 カーリヤの派手で際どい改造装束はもはや彼女の代名詞ですらあるが、最初からそうであったわけではない。四年前のあの日以前はシスネのようにきっちりと装束を着こんでおり、化粧気も無い地味な聖女だったのだ。それがあの日を境にああなったものだから、ポエニスの誰もが目を疑わずにはいられなかった。動じなかったのは騎士長ぐらいなものだろう。

 彼女にはもっと慎みのある恰好をしてほしいだの、本当はこういう質素な物のほうが似合うだの、いつ襲われるか気が気でないだのと、頭を抱えるライアーが我に返るまでそれなりの時間を要した。

 

「指輪を買ったことは分かった。……それで貴公、いつ言うんだ」

「実はな、家も買うつもりだ」

「お、おう」

 

 どこに持っていたのか、間取りだの外観図だのを描かれた紙を何枚か取り出し始めるライアーに、流石のレーベンも口を挟めない。彼にはそれなり以上の恩もあるのだから。

 

「聖都の一等地! ……はさすがに無理でな。二等地だけど二階建てだぜ?」

「ほう、高かっただろうに。……あぁ、貴公が倹約してたのはこの為か」

「おうよ。やっぱり新築で決めねえとな」

「部屋数もずいぶんと多い。これがすべて子供部屋か?」

「やめろよ、気が早えな!」

 

 下世話な話にはっはっは、と二人で笑い。だがそろそろ本題に入らなければならないだろう。

 

「――貴公」

「……おう」

 

 左目だけで真剣な視線を向けてやると、ついに観念したらしいライアーが指輪と図面を片付けながら椅子に座り直した。ふう、と息をひとつ吐いてから口を開く。

 

「明日からの仕事が終わったら、言おうと思う」

「そうだな、その方が良いか」

 

 レーベンもライアーも想像するしかないが、聖性の扱いとは精神状態にも大きく影響されるらしい。著しく集中を欠いていたり、動揺しているような状態では聖性を上手く扱えない。それは危険な魔女狩りにおいては命取りだ。

 故に、カーリヤにも今は魔女狩りに集中してもらわなければ困る。ライアーと、何よりも彼女自身の為にも。ライアーの判断は妥当と言えるだろう。

 

「あとな、これもお前に預けておく」

 

 そう言って、なんと指輪の入った木箱をレーベンに手渡してきた。流石にこれは彼自身が持っているべきだと思うのだが。

 

「失くしたり壊したりしたら大変だからよ。部屋に置いておくのも心配だしな」

「不用心だな。金に困った俺が売るとは思わないのか」

「あ゛?」

「全身全霊を以て御預かり仕る」

 

 冗談なのか本気なのか判断に困る殺気にあてられ、思わず掲げ持ちながら承諾してしまった。……だがこれで、少なくとも二人が戻ってくるまでは死ねなくなってしまったか。

 

「……んん?」

 

 そこで、はたとレーベンは気付いた。今までのライアーの話を頭の中で取りまとめる。

 彼は明日からの仕事を最後の魔女狩りと定め、それを期に役目を降りるつもりだ。更にカーリヤにも結婚を申し込むつもりであり、その為の指輪も家を買う為の資金も調達済み。だがその指輪はレーベンに預けていくという。そしてこの戦いが終わったら、全てをカーリヤに打ち明けるのだ。

 そう、()()()()()()()()()()……。

 

「き、貴公……」

「いや、うん……言わなくても分かるぜ? 不吉だって言いたいんだろ?」

 

「俺もそう思ったわ」と冷や汗を流しているライアーを見ながら、レーベンも内心で冷や汗を滝のように流していた。

 曰く、「このような危険な場にはいられぬ」と単独行動を始めた騎士は生き残らない。

 曰く、「ここは我に任せて先に行け」と魔女の群れを足止めした騎士は生き残らない。

 曰く、「この魔女狩りが終わったら己の聖女と結婚する」と言った騎士は生き残らない。 

 そういった展開は英雄譚では何度も見かけ、一種の約束事と化している。所詮は物語の中だけだと、戯言だと断じるのは簡単だが、レーベン自身もシスネに似たようなことを言ってしまった結果がこの様である。不吉な迷信(ジンクス)というモノも案外馬鹿にはできないのだと、己で証明してしまったのだ。

 

「貴公、悪いことは言わんから今すぐカーリヤに言いたまえよ。もしくは仕事を辞退だ」

「そういう訳にもいかねえんだよ……」

 

 そう言って、ライアーは項垂れながら右手の人差し指と親指で円を象って見せる。つまりは金だ。

 

「家を買うのに、あとちょっとが足りねえんだ……」

「カーリヤに出してもらえばどうだ」

「あいつが金持ってると思うか?」

「そうだった」

 

 聖女と騎士は生活の全てを教会に保障されており、魔女狩りの報酬で得た金はすべて自分の為に使うことができる。だが所詮は明日も知れぬ身と、それぞれの趣味や嗜好に散財してしまう者も少なくはない。カーリヤなどその典型で、高価な化粧や香水そして酒にすべて使ってしまっているのだという。ライアーのように貯め込んでいる者の方が稀なのだ。

 レーベンとて、アルバットをはじめとした技術棟の面々から最新の武器や薬を購入しているのだから、ある意味では趣味に使っているとも言える。……そういえば、シスネは何に使っているのだろうか。

 

「それに俺だって教会に恩が無いわけじゃねえしよ。どうせなら最後にひと働きして、さっぱり辞めたい」

「……そうか。まあとにかく気を付けたまえよ、これで死んだら笑えるぞ」

「おう、どうせならシスネと二人で思いっきり笑ってくれや」

 

 不安を吹き飛ばすように笑い話をしていると、もうずいぶんと長く会っていない気がする聖女の名前が出てきた。……否、もう聖女ではないのだったか。

 

「彼女は、まず笑わんだろう」

「いやどうだかな。シスネって結構アレだぞ? お前のこと罵倒してる時とか、結構楽しそうだからな?」

「なんと」

 

 あの潔癖そうなシスネでも、そういう面があるのだろうか。決して長い付き合いではないレーベンには思い当たる節など……案外あったかもしれない。もしかしたら加虐趣味(サディスト)の気でもあるのだろうか。

 

「厄介な。確かに彼女からはよく殴られたり踏まれたりしているが」

「お前いったい何やったんだよ……」

「あぁ、だがな、ノール村では新妻の真似事もしてくれたのだよ」

「お前ら本当に何やってんだ!?」

 

 

 

 そうして、くだらない話を駄弁っている間に日も落ちてきた。窓から差し込んでくる赤い夕陽を眺めていると、また右手が痛みだす。彼女も今頃、鞭打たれた背が痛んでいるのだろうか。

 

「悪い、長居しちまったな」

「いや、構わんよ」

 

 話題も尽きた頃合いでライアーが腰を上げる。大柄な彼には椅子が合わなかったのか、痛そうに腰を撫でていた。二人だけでこれだけ話をしたのは久しぶりのことに思える。今までは大抵、カーリヤがいたのだから。

 

「……カーリヤには謝れずじまいだったな」

「……まあな。でももう殴られてんだから良いんじゃねえか?」

 

 明日は早朝から出発すると言うのだから、カーリヤにもおそらくは会えないだろう。あの少女のような泣き顔が最後に見た彼女の姿だ。心残りではあるが仕方がない。二人が無事に帰ってくることを祈るしかないのだ。

 

「じゃあな。……約束、忘れんなよ」

「あぁ。……約束だ」

 

 もしかしたら、ライアーともこれが最後の別れになるかもしれない。否、今までもいつだってそうだったのだ。そして彼らが帰って来ようと帰って来まいと、近い内にレーベンは死ぬのだろう。

 扉が完全に閉ざされるまで、ライアーの目はじっとレーベンを捉えていた。

 

 

 ◆

 

 

「それで結局は来るのか」

「文句はあいつに言ってくれよ……」

 

 翌朝の早朝、右手の痛みに眠れない夜を過ごしていたレーベンは突然に訪ねてきたライアーに叩き起こされていた。あんな今生の別れのようなやり取りをした手前、半日と経たない内に果たされた再会にはお互いに気まずいものを感じる。

 既に旅支度も整えた恰好のライアーは、ひどく場違いな物を手に抱えていた。「ほらよ」と渡されたそれは、左手だけでもなんとか持つことができる程度の大きさだ。その表面では、右目を失くした男がこちらを見返している。

 

「なんだこれ」

「鏡」

 

 見れば分かる。木製の枠を持つ、それなりに大きな置き鏡だ。花を象った意匠から見ても、おそらくは女性に向けて作られた品。これで身繕いでもしろと言うのだろうか? 生憎、左手だけで出来ることは知れているのだが。

 

「カーリヤから……つーかシスネからの贈り物と伝言だ。“左手を右手だと思え”……だってよ」

 

 意味が分からない。左手だけで戦えるように訓練しろということか? それは言われるまでもないことだが、それとこの鏡に何の関係があるのだろうか。

 

「悪い、もう行くわ!」

「お、おう」

 

 出発時間が近いのだろう。慌てて部屋を出ていくライアーの大きな背中を見送りながら、なんとも締まらない別れだとひとり苦笑する。ある意味では己らしいだろうか。そう考え、鏡に目を落として。

 

「あぁ、それとな!」

「今度は何だ」

 

 出て行って五秒と経たない内にまた戻ってきたライアーが扉から顔を出す。忙しいことだ。

 

「カーリヤが、“帰ったら蹴る”ってよ!」

 

 それだけを言い残して、今度こそライアーは去っていった。バタバタと響く足音が遠ざかっていくのを聞きながら、レーベンは彼と彼女の言葉を反芻する。

 帰ったら蹴る。空恐ろしいことだが、つまりは「帰るまで死ぬな」ということだろうか。本当にあの二人は、どこまでも己には勿体ない友人だった。苦笑したつもりでそう考えながら、また鏡に目を落とす。

 

「左手を、右手。……?」

 

 それなりの大きさがある鏡にはレーベンの半身もなんとか映すことができる。鏡に映った己の左手を見ていると、奇妙な感覚を覚えた。

 当然だが、鏡の中に映る姿は左右が反転している。鏡の中のレーベンが失くしているのは左目と左腕であり、右目と右腕はしっかりと残っている。その右腕を見ていると、

 

「――う、お?」

 

 右手の痛みが止んだ。この病室で目覚めてからというもの、レーベンを苛み続けていた謎の痛みが嘘のように消えたのだ。元より存在しないはずの痛み、錯覚が解けたと言った方が正しいのかもしれない。

 

「左手を右手だと思え、か」

 

 鏡の中のレーベンと手を合わせる。もう二度と触れられなくなった己の右手にも、こうして鏡の中でなら触れることができた。こんなこと、レーベンだけではきっと気付かなかっただろう。シスネの技術や知識には助けられてばかりだ。

 ひとしきり鏡を眺めて腕の痛みを引かせると、レーベンは寝台から体を起こした。床に両足をしっかりと着け、ゆっくりと立ち上がる。

 

「ぬお……っ」

 

 ただそれだけで体勢を崩しそうになり、たたらを踏みながら窓際まで歩く。壁にしがみつくようにして立ち、なんとか転ばずには済んだ。

 二階にあるレーベンの病室からは、教会から出発する馬車もよく見えた。およそ十台ほどの馬車が次々とポエニスの外へと向かっている。あれのどれかにライアーとカーリヤは乗っているのだ。

 

「……」

 

 それを左目に焼き付けるようにしてから、レーベンは訓練を始めることにした。

 

 

 

 訓練とは言っても、ただ歩くだけだ。だがその歩くということが、今のレーベンにはひどく難しい。

 まずは萎えた両脚。もう七日ほど寝てばかりの生活を送っていたせいですっかり肉も落ちてしまっている。だが怪我をしたわけでもなく、これはすぐに何とかなるだろう。

 問題は失くした右目だった。視野が半分になるだけで済むかと思えばそうではなく、遠近感が掴めずひどく歩きにくい。壁に手をつこうとして届かず、何度も転ぶ破目になった。

 そして何よりも、失くした右腕。腕一本分の重みが片方だけ無くなった結果、平衡感覚の変化も著しい。腕を使って体勢を整えることもできないのだから、やはり何度も転ぶ破目になった。

 そうこうしている内にまた右腕が痛みだし、休憩も兼ねて鏡を眺める。そしてまた歩き出す。

 

「たしか、四日だったか」

 

 シスネは今日から四日間の謹慎と、ライアーからはそう聞いていた。病室でひとり過ごすには長いが、こうして訓練する時間があると思えばそう悪くはない。四日もあればなんとか歩けるようになり、そしてシスネに会いに行けるだろうか。

 

「また殴られそうだがな」

 

 彼女はどんな顔をするだろうか? 怒るだろうか、それとも泣くだろうか。またレーベンを詰るだろうか、あるいは許しを乞うのだろうか。それとも、何事もなかったようにレーベンを拒絶するだろうか。

 なんでも良かった。ただ彼女に会いたくて、その為にレーベンは歩き続けた。

 

 

 ◆

 

 

「失礼」

 

 朝から訓練を続け、ようやく転ぶことも少なくなってきた夕方。見覚えのない男がレーベンを訪ねてきた。見覚えはないが、着ているのは教会の上位職員の装束だ。立ち上がって対応しようとするが、「そのままで」と手で制される。

 寝台に腰掛けながら男の話を聞くが、言い方が冗長でどうにも頭に入ってこない。今回の貴方の働きはどうのこうの、身を挺して魔女を狩ってどうのこうの、だが聖女との相性はあまり良くなかったようでどうのこうの。シスネの名前が出てきたあたりの話だけは聞いていたが、レーベンを誉めているのか貶しているのかよく分からない話はほとんど右から左だ。彼女が尋問を受けた際にレーベンを庇うようなことを言ったということは、ひどく意外ではあったが。だんだんと眠くなってきたあたりで、男がようやく本題を口にする。

 

「騎士レーベン、これまでよく教国に尽くしてくれました」

 

 男の声音がわずかに変わり、レーベンも落ちそうになっていた瞼を持ち上げる。

 

「聖女にも恵まれなかった貴方が身を削ってまで守った平穏を、我々は決して忘れないでしょう」

 

 残った左目で、男の目を見る。その目にあったのは、安堵であっただろうか。

 

 

「もう充分です。これ以上、貴方が身を捧ぐ必要はありません」

「よって――」

「今ここに、貴方を騎士の任から解くことを宣言します」

 

 

 淡々と男は語った。レーベンもまた、それを淡々と聞いた。

 

「これよりは教国の民として、どうか己の道を歩んでください」

 

 安堵の目。厄介な虫を、恐ろしい獣を駆除した時、人はこのような目をするのだろう。

 

「女神の導きのあらんことを」

 

 この日、レーベンの戦いはあっけなく終わりを迎えた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

望まれなかったもの

 騎士になりたくて騎士になったわけではない。

 

 物心がついた頃には教会の孤児院にいた。幼い頃からきっと賢くはなかったレーベンは、それが普通ではないのだと理解するまでに長い時間を要した。

 レーベンにとって、孤児院が帰る家であった。だが職員たちはそれを否定した。

「ここは君たちの家ではない。本当の家は魔女が壊してしまった」と、そう何度も語って聞かされた。

 レーベンにとって、孤児院の職員たちが親であり家族であった。だが職員たちはそれを否定した。

「我々は君の家族ではない。本当の家族は魔女が殺してしまった」と、そう何度も語って聞かされた。

 そうやって、幼少から騎士としての資質を育てようとしたのだろう。教会の傘下なのだから当然だ。

 

 だがそれをレーベンは理解できなかった。

 欠片も記憶に残っていない家を家と思うことなどできなかった。もう地図にも残っていない村を故郷と思うことなどできなかった。孤児院も家でないと言うのなら、レーベンの家は何処にも無かった。

 顔も名前も知らない両親を家族と思うことなどできなかった。面倒を見てくれる職員も、同じ釜の飯を食べる孤児たちも家族でないと言うのなら、レーベンの家族は誰もいなかった。

 騎士となる為の教育は、ひたすらにレーベンを孤独にしていった。

 すべて魔女が悪いのだと職員たちは言った。君の哀しみも寂しさも、すべては魔女に奪われたからなのだと、そう何度も語って聞かされた。

 

 だがそれもレーベンは理解できなかった。

 レーベンは魔女を知らない。見たこともない。親と思えない親が見たこともない魔女に殺されたと聞かされたところで、賢くもなかったレーベンにはまるで意味が分からなかった。レーベンにとって魔女は憎む相手ではなく、ただ絵本の中に出てくる悪役でしかなかった。だから哀しみも寂しさも、ひたすらレーベンの中へと降り積もるだけであった。

 

 レーベンには何も無かった。家も故郷も、親も家族も、憎む相手すら。

 あったのは道だけだ。目の前に敷かれた、騎士になる為の道。

 他には何もありはしなかった。

 

 

 ◆

 

 

 自室の整理はすぐに終わってしまった。元より寝る場所でしかなく、レーベンの私物はひどく少ない。その少ない私物を寝台の上に並べる。

 カーリヤから渡された紙束、ライアーから渡されたシスネの鏡、医療棟の職員から餞別のように渡された杖と鎮痛剤、ボロボロの鞄、焼け焦げた黒い外套。碌な物が無い上に、半分はつい最近に人から貰った物だ。あまりの少なさに自嘲してひとり笑った。

 笑ってから、それらを鞄の中に詰めていく。大量の武器を詰め込んでいた大きな鞄だったが、いま入っているのは紙束と鏡と鎮痛剤の瓶、ただそれだけだ。滅多に着ることのなかった平服に袖を通し、焦げと血の跡もそのままの外套を羽織る。右腕を隠すにはちょうど良いだろう。

 

「おっと」

 

 寝台脇の小机に置いていた、ライアーとカーリヤの結婚指輪を収められた木箱を手に取る。これを忘れるわけにはいかない。すこし考えてから、首に提げていた騎士証を取り外し、代わりに二つの指輪を鎖に通してから再び首に提げた。これだけの作業でそれなりの時間を要し、やはり隻腕とは不便なものだと思い知る。

 

「……」

 

 そこでふと、小机の引き出しを開ける。

 中にあったのは武骨で奇怪なひとつの機械。技術棟の面々に大枚を積んで手に入れた、写銀器だ。魔女の姿や痕跡を絵として残せれば何かの役に立つかと思ったが、結局は魔女狩りにはさして使えなかった。……これで撮った聖女たちの写銀を売った金で機械剣を手に入れたのだから、そういう意味では役に立ったと言えるだろうか。

 粉々に砕けた機械剣と例の写銀騒動のことに思いを馳せながら、引き出しから写銀器のみを取り出して鞄に詰める。鞄を肩にかけ、左手で杖をつきながら、最後にもう一度だけ部屋の中を見渡した。

 

「……」

 

 この部屋にいるのはレーベンだけだ。故に何を言うこともなく、空っぽの部屋を後にした。

 

 

 

 杖をつきながら、なんとか居住棟を出る。上位職員からは怪我が完治するまでなら住んでも構わないと言われてはいたが、レーベンは固辞した。そして昨日の夕方に除名を宣告されてから一日と経たない内に、こうして出てきたのだ。

 視線をつい隣の建物へと移す。聖女たちが住まう居住棟。彼女の部屋はたしか二階だったか。

 視線を戻して、再び杖をついて歩き出す。今も謹慎中の彼女が出てくるはずもないというのに、なるべく足早に居住棟から立ち去った。

 

 

 

 本棟にはほとんど人影が無かった。今も魔女狩りの依頼は無いのだから当然だろうか。何も貼られていない掲示板の前を通り過ぎ、暇そうに頬杖をついていた職員の座る受付へと向かう。

 

「……こちらが報酬となります」

 

 レーベンの顔を見ただけで硬貨の入った袋が出てきた。その膨らみを見るに、前回――最後の魔女狩りの報酬は相当に高額だったようだ。破戒魔女を狩ったという点が評価されたのだろう。更に、見舞い金か手切れ金か何かも追加されているのかもしれない。今となっては、もうどうでも良いことだ。

 袋を鞄に放り込むと、かわりに騎士証を無言で差し出す。職員もまた無言でそれを受け取り、机の下から(のみ)と金槌を取り出す。そしてそれを使い、レーベンの目の前でレーベンの騎士証を真っ二つに割って見せた。レーベンはその作業を、ただじっと眺めていた。

 結局、一度も目を合わせないまま最後の手続きは終わってしまい、これで本当にレーベンは教会の騎士ではなくなった。

 騎士でなくなった以上はみだりに教会の中をうろついてはいけないが、レーベンにはまだ行かなければならない場所がある。既に疲労を覚え始めた足を動かし、次の場所へと向かった。

 

 

 

「聞いたよ君ぃ、除名(クビ)になったんだって?」

 

 相も変わらず油臭い技術棟の、相も変わらず足の踏み場もない地下室。そこでアルバットは相も変わらず何かの機械を弄り回しながら無遠慮な言葉を吐いてくる。下手に慰めの言葉をかけられるより良いかと、レーベンはかすかに笑った。

 

「弁償の金だ。受け取ってくれ」

「いま手が放せなくてねぇ、そこらへんに置いておいてくれよ」

 

 こちらを見もせずに言うアルバットの言葉に従い、先ほど本棟で受け取った金をそのまま近くの机に置く。これで、この男とシスネの争いを止める為に炸裂弾を使った際の弁償も済ませた。用も済んだレーベンは無言で出口へと向かい、その背中にアルバットが声をかけてくる。

 

「義手ができるとしたら、あと七年ぐらい後かね」

「その時まだ君が生きていて、まだその気があったなら来ると良いさ」

「その様子じゃあ、無さそうだけど」

 

 妙に具体的な数字は、この変人の頭の中では既に義手を造る道筋が立っているが故だろう。頭のおかしい男ではあるが間違いなく天才でもあるのだ。

 だがアルバットの言う通り、レーベンがここに来ることはきっと無い。元より利害で成り立っていた関係、己が騎士でなくなった以上はそれも終わりだ。お互いに用済みとなった二人は、無言で最後の別れを済ませた。

 

 

 

 技術棟が敷地の奥に位置していた以上、出口へと向かえば必然的に教会の中を巡ることになる。それらの建物を、場所を眺めながらレーベンはゆっくりと歩みを進めた。

 

 

 技術棟。

「聖女なき騎士」であったレーベンにまず必要だったのは強力な武器だった。その為に他の騎士たちは滅多に寄り付かないここに出入りし、最新の装備や試作品、時には失敗作も同然の珍品までをも買い漁った。そんな折に、変人ぞろいの技術者の中でも特に変人扱いされていたアルバットと出会ったのだ。

 

『いやはや噂以上の変人じゃあないか君ぃ、是非ともワタシの実験動物になってくれたまえよ』

 

 あの男にだけは変人とは言われたくなかったが、その頭脳と技術には舌を巻かざるを得なかった。もし世界を変える狂人というものがいるとしたら、それはきっとアルバットのような男なのだろう。

 彼が目指しているものが何だったのか、結局レーベンには分からずじまいだった。

 

 

 医療棟。

 魔女狩りの後は怪我だらけだったレーベンは世話になりっぱなしで、ある意味では自室よりも馴染み深い場所であった。そういえば、あそこでシスネと数日にわたって同室になったこともあったか。それすらもう随分と前のことのように思える。

 右手を見下ろす。当然そこには何も無く、カクトの廃坑で彼女に施された荒療治の痕も右腕ごと消えてしまった。こうなると案外寂しいものだと、レーベンは再び歩みだす。

 

 

 鍛錬棟。

 今日も騎士たちの唸り声と聖女たちの声援が外まで響いている。ポエニスの騎士たちは皆が筋骨隆々で、決して小柄ではないはずのレーベンでさえ華奢に見えたものだ。噂では、聖都の騎士たちは筋力よりも技量を重視しており細身の者が多く、故に女の騎士もいるらしい。実際に聖都の騎士と会ったことのないレーベンに真偽は分からなかったが、魔女を狩ってきた実感としては最後は筋力が物を言う気もした。

 物思いに耽っていると、背後から慌ただしい足音と荒い息遣いが近付いてくる。振り返る間もなく、見習い騎士の少年たちが汗を飛び散らせながらレーベンの脇を走り抜けていった。かつてはレーベンもああして、鍛錬棟の周囲をひたすら走り回ったものだ。やはり体力は全ての基本なのだから、是非とも頑張ってほしい。

 止まっていた足を踏み出そうとすると、入り口に建てられた石像に目が留まる。女騎士ヴァローナの像は今日もその鍛え上げられた肉体を誇らしげに見せつけていた。

 だがその肉体も最後は病によって見る影も無くなってしまったという。日に日に痩せ衰え、骨と皮だけになっていく己の姿にヴァローナは絶望し、そして絶望しきる前に「予防」されてしまったのだ。薬湯に混ぜられた毒に彼女が気付いていたのかどうかは、永遠の謎のまま。だがきっと彼女は気付いていたのではないかと、今のレーベンはそう思った。

 

 

 本棟。

 その地下にある武器倉庫もレーベンにとっては通い慣れた場所だ。あの倉庫番の彼は今もうんざり顔で武器を管理しているのか、あるいはレーベンがいなくなって清々しているのか。だがシスネも大量の弾薬を必要とする以上、彼に安息は無いのかもしれない。

 

『……すみません、別の銃に交換を』

『レバーの部品が劣化しています。弾詰まりしても知りませんよ』

 

 今思えば、あの時からおかしかったのだ。シスネに聖性が扱えていたのならわざわざ銃を交換する必要など無い、聖性を流して修復してしまえば良かったのだから。

 それに、シスネは一度も聖女とは名乗らず、その聖女証も装束の中に隠して見せようとはしなかった。それが彼女が自身に強いた最後の一線だったのだろうか。故にレーベンのことも騎士と認めなかったのか、単にレーベンのことが嫌いだったのかは今になっても分からない。

 

 

 聖堂。

 教会のもっとも入り口に近く、だがレーベンがもっとも寄り付かなかった場所。そこは今も多くの人々が訪れ、名の無い女神に祈りを捧げている。

 レーベンは女神の存在を信じてはいないが、否定する気も無い。多くの人々が共通の何かを信じるということは、それだけで意味のあることだ。なら女神の有無はさほど問題ではない――と、そんな風に思っていた。ライアーなどは魔女狩りの前に祈って験を担いでいたが、レーベンはそうしなかった。祈る理由も祈らない理由も無く、なら時間を他のことに使おうと、ただその程度の考えで。

 あるいは、今のこの様も女神に祈らなかった罰が当たったのだろうか。少しぐらいは祈っておけば良かったかと今になって後悔も覚えるが、全ては遅すぎた。

 

 

 ついに教会の入り口に辿り着き、レーベンは振り返る。

 他者からどう言われようと、ここはレーベンの故郷だった。故郷だと思える場所はここしか無かったから。たとえ、望んでここに来たわけではなくても。

 だがそれももう終わりだ。かつて家と故郷を失くした己が、また家と故郷を失くした。ただそれだけのことだった。

 教会の景色を左目に焼き付けるようにしてからレーベンは立ち去る。

 見送る者は、誰もいなかった。

 

 

 ※

 

 

 騎士になりたかったわけではない。だが強制されたわけでもなく、騎士になる為の道を進んだのは間違いなくレーベンの意思だ。理由は単純で何よりも下らない。ただ他にやりたい事も無かった、ただそれだけの、本当に下らない理由だった。

 レーベンはきっと空虚な少年だったのだ。何も無かったから、己の内にも何も生まれなかった。だからやりたい事も、行きたい所も、欲しい物も、会いたい人も、何も無かったのだ。

 だがそんな理由で選んだ道であっても、進む内に己の道になった。ただ放り込まれただけの教会がいつしか第二の故郷になったように。体を動かすことは苦ではなかったし、木剣を振るうことも嫌いではなかった。暇つぶしに読み漁った英雄譚に出てくる騎士たちは皆が遠い存在としか思えなかったが、あの悪騎士(ジャック・ドゥ)だけは何故か親近感と憧れに似た感情を覚えた。己は何かしら欠けた人間なのだと、その頃には自覚していたのかもしれない。

 

 見習い騎士になった頃、孤児院に新しい子供が入ってきた。ひどく荒んだ目をした少年と、ひどく暗い目をした少女の二人組。とはいえ、ある程度の年齢で孤児となった子供は大抵そういうものだ。皆と同じようにすぐ馴染むだろうと、レーベンも含めて誰もが気に留めなかった。

 切っ掛けは、孤児院の裏手で二人が喧嘩している姿を見たことだった。喧嘩とはいえそれは一方的で、少年が少女を突き飛ばし、だが起き上がった少女は少年に近寄り、また突き飛ばされる。そんなことを繰り返していた。少年は顔を真っ赤にして怒鳴り散らし、少女は青い目を涙で潤ませながらも傍にいようとする。

 そんな奇妙なやり取りを理解できる程レーベンは賢くなく、特に正義感らしいものも持ち合わせていなかったが、ただ何となく二人に声を掛けた。そして一言二言のやり取りがあった後で、当然のように殴り合いの喧嘩に発展した。三人まとめて放り込まれた物置の中でも取っ組み合いになりながら夜を明かし、気が付けば二人ともが少女に介抱されていた。ライアーとカーリヤ、ようやく二人の名前を聞いた頃にはもう朝になっていた。そしてレーベンに初めて友人ができた日の朝でもある。

 

 騎士としての修練を終え、レーベンがおよそ十六歳になった年、ついにその日がやってきた。

 俗に「見合い」などとも称されるそれは、見習いたちが聖女と騎士になるための儀式であり、最後の試練でもある。広場に適当に並ばされた後で、目についた相手と契りを交わす。ただそれだけの簡単な試練。失敗する者など、まずいない。

 始まってすぐにライアーとカーリヤが互いに駆け寄り、その手を取る。カーリヤの手から溢れ出した青白い聖性の光は、出会った頃より各段に大きくなったライアーの全身を包み込んだ。その成功を認めた職員たちが拍手と共に新たな聖女と騎士の誕生を祝い、レーベンも己のことも忘れて二人を祝った。

 そうしている内にも周りは次々と契りを交わし、レーベンも偶然目が合った少女に契りを求めた。その少女の顔は覚えていない。覚えているのは、その手を取った瞬間に全身を駆け巡った悪寒と激痛。そして真っ赤に染まる視界と、レーベンを嘲笑うように雲一つない空だけだった。

 

 レーベンは騎士になれなかった。

 

 聖性の流れには個人差があり、その流れの形が似ている程に聖女と騎士の適合率は上がるのだと、そう聞かされていた。そして誰の流れもそう大した違いは無く、大抵の者は誰とでも適合するのだとも。ましてレーベンのように拒絶反応まで起こす者は非常に稀で、聖女と騎士が生まれた古い時代には不吉な異端者として処刑されることもあったらしい。

 ならいっそ処刑してくれれば話は早かったのだが、慈悲深い上層部はレーベンを殺すことはしなかった。医療棟に担ぎ込まれた後、何人かの見習い聖女と「見合い」を重ねる。その全てで拒絶反応を起こし、その度にレーベンは目と鼻と耳と口から血を噴き出してのた打ち回った。その数が十人を越した辺りで病室には誰も訪ねてこなくなり、彼らもついに諦めたのだとレーベンは悟った。同時に、レーベンが聖女を得ることを諦めた日でもある。

 

 ライアーとカーリヤが見舞いに来た。二人はそれぞれが騎士と聖女の装束を纏っており、首からも証を提げている。レーベンはもう二人の姿を見ても何の感情も湧いてはこず、カーリヤは相変わらず泣きそうな顔で何も喋らず、ライアーは相変わらず不機嫌そうな顔をしていたがいつもの憎まれ口は聞けなかった。三者が沈黙のままで奇妙な見舞いは終わり、ただ明日から初めての魔女狩りに行くのだとライアーが町の名前を言い残していった。

 

 その夜、レーベンは医療棟を抜け出した。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

少女の笑顔、少年の笑い

 ポエニスの中央広場。そこの長椅子に腰掛けてどれぐらい経っただろうか。雨季も終わり、快晴の続く日々に人々は通りを行き交い、旧聖都の全体が活気づいているのが分かる。陰気な雰囲気を出している者など、こうして何をするでもなく座っているレーベンぐらいなものだろう。

 

「……どうしたものかな」

 

 呟いた言葉に答える者は誰もいない。

 教会から除名され、後始末もすべて終えてこうして出てきたが、その後のことなど何も考えてはいなかった。行く場所も無ければ帰る場所も無い。やる事も無ければ出来ることも多くはない。ついでに金も無い。八方塞がりで笑う他なく、結局は長椅子から立ち上がることもできない。無為な時間を過ごしている内に日も傾いてきた。

 日が沈む前に、せめて夜を明かす場所だけでも見つけておこうと重い腰を上げた時だった。

 

「……騎士さん?」

 

 その声は雑踏に紛れるような呟きで、だが聞き覚えのある声でもあった。声変わり前の独特な高さで響く少女の声。

 上げかけた腰を再び下ろしたレーベンからそう離れていない場所に、幼い少女が立っていた。年相応に小柄な体を包む質素な平服。長い亜麻色の髪を雑に束ねた髪型に、どこか既視感を覚える。何が入っているのか、大きな袋を小さな両手で抱えていた。

 

「……、……」

「……ミラだよ」

「あぁ、ミラだな」

「忘れてたでしょ」

 

 忘れていたわけではない、ただ思いがけない再会に驚いていただけだ。少女――ミラは大きな瞳を不機嫌そうに歪めてから、長椅子に飛び乗るようにしてレーベンの右隣に腰掛けてきた。

 カクトの町での、シスネと初めて共にした魔女狩り。その帰り道で遭遇した謎の亡霊と、森の奥に隠れ住んでいた父娘。ミルスという名の哀れな娘がなり果てた永命魔女。颯爽と現れたライアーとカーリヤ。度重なる不運と不幸に絶望し、魔女となりかけたミラ。それを救ったシスネの姿。

 どれもレーベンには忘れがたい記憶だ。

 

「忘れていないとも」

「そ」

 

 それだけは自信を持って言えたが、当のミラは実にどうでも良さそうだった。……そもそもこの少女の方こそレーベンの名前を覚えているのだろうか。もっとも、自分と父親を殺そうとした男のことなど忘れてくれていた方が良いのだが。

 

「聖女さんは?」

 

 ミラの言う聖女とはきっとシスネのことだろう。キョロキョロと熱心に見回しているあたり、最初から彼女が目当てで声を掛けてきたのかもしれないと、レーベンは考えた。

 

「悪いが、シスネはいない」

「なーんだ」

 

 ミラは案の定、つまらなさそうに頬を膨らませる。そのまま立ち去るかと思ったが、長椅子に座ったままで浮いた両脚をブラブラ揺らしていた。立ち去るでもなく、話しかけてくるでもなく、奇妙な沈黙が二人の間に流れる。

 

「聖女さんは元気?」

 

 口火を切ったのはやはりミラで、話題もやはりシスネのことだった。彼女は事が済んだ後もミラとその父親であるユアンを気にかけており、医療棟を抜け出してまで会いに行っていたのだ。命の恩人でもある彼女を慕うのも当然だろう。

 

「……今は元気ではないかもしれないが、まあ、すぐに元気になるだろう」

「ケガしたの? 病気?」

「怪我だな。だが大したものじゃない」

「よかった。騎士さんは?」

 

 シスネの無事を知って安心したのか、ついでのようにレーベンの怪我も聞いてきた。レーベンの右目には今も包帯が巻かれており、どう見ても重傷だが詳細まで伝える必要も無いだろう。右腕も外套に隠れて見えてはいないはずだ。

 

「すこし怪我をしてしまったが、今はそれほど痛くはない」

「ふーん……」

 

 疑わしげに鼻を鳴らしながら、大きな瞳が細められる。やはり子供というものは鋭いようで、右腕のことを気付かれる前にレーベンは話を逸らすことにした。

 

「貴……ミラの方こそどうだ。孤児院では上手くやっているのか」

「おいだされちゃった」

「そうか。…………なんだって?」

 

 あまりにもあんまりな答えに、思わず聞き直してしまった。隣に顔を向けるも、ミラは澄まし顔だ。

 詳しく話を聞くと、正確には追い出されたのではなく別の孤児院に移ったらしい。ミラが教会の孤児院に入れられてすぐに聖女の素質があるかを調べられ、結果としてミラにそれは無かった。更にミラ自身が教会に対してひどく反抗的であった為、早々に市井の孤児院に身元を移されたのだと。

 

「わたし教会なんて嫌いだもん。清々(せーせー)したよ」

「そ、そうか」

 

 教会も、聖女の素質もなく反抗的な孤児を受け入れるほど寛容ではなかったということだ。だが幼い少女を放り出すほど冷酷でもなく、それが双方にとっての落とし所だったのだろう。

 この少女の過去を思えば、教会というもの自体に良い感情を持っていないことは頷けるが、この旧聖都のど真ん中で嫌いだと言い放つことは感心しない。レーベンは辺りを警戒するが、幸い誰にも聞かれてはいないようだ。……ただ、警備職員の二人組がじっとこちらの様子を窺っていた。レーベンは無実である。

 

「それで、新しい孤児院では上手くやっているのか」

「まあまあ」

 

 見た限り、ミラの身なりは整っており飢えた様子も無い。孤児院などどこも火の車だろうが、それなりに上手くやれているのだろう。何より、ミラの瞳は強く輝いていた。あの夜に見た、夜のような暗さはもう微塵も見られない。……今は己の方が、よほど暗い目をしているのだろう。

 

「騎士さんは? 調子はどうなの?」

 

 それを見透かしたようにミラが顔を覗き込んでくる。大きな瞳に、片目の無い男が映っていた。適当に誤魔化すこともできたが、気が付けば口走ってしまった。

 

「実はな、もう騎士じゃないんだ」

「クビになったの?」

「その通りだ」

「だから昼間からボーッとしてたの?」

「お、おう……」

 

 ぐうの音も出ないとはまさにこの事で。ミラの抱えていた袋には食料がぎっしり詰まっており、おそらくはお使いに出ていたのだろう。こんな幼い少女でさえ働いているというのに己ときたら……。レーベンは更に落ち込んだ。

 

「ミラは偉いな。俺なんかとは大違いだ」

「子ども扱いしないでったら。……?」

 

 体を捩じり、左手で右隣に座るミラの頭を撫でてやるとペシリと払いのけられた。だがレーベンの不自然な動きに気付いたのか、ミラが怪訝そうな顔を向けてくる。

 

(そっち)の手、ケガしたの?」

「……」

 

 あっさりと気付かれてしまった。何も答えられずにいると、ミラは無遠慮に外套をめくり上げてくる。ひっと、すぐに息を飲んだ声が聞こえてきた。

 

「……手、なくなっちゃったの? 目も?」

「あぁ」

「だからクビになったの?」

「……あぁ」

「ひどいっ!」

 

 突然の甲高い怒声にレーベンは肩を跳ねさせる。見ればミラは顔を真っ赤にして体を震わせている。大きな瞳には涙すら滲んでおり、傍目から見ればレーベンが泣かせているように見えただろうか。周囲を見回すが、何人かに白い目で見られていただけで大事にはならなさそうだ。兄妹喧嘩だとでも思われたのかもしれない。……二人の警備職員が徐々に近付いてきているが、もう失う物も無いかとレーベンは開き直った。

 

「役たたずになったら追いだすなんて……やっぱり教会なんて嫌いっ」

「……そう言ってやるなよ。追い出されてはいない、俺が自分で出てきたんだ」

 

 役立たずと呼ばれて非常に傷つく思いだが、ミラに他意は無いのだろう。そしてレーベンがもはや騎士として役立たずなのは事実であり、教会もすぐに追い出そうとまではしなかった。ミラに対してそうだったように寛容ではないが冷酷でもなかったのだ。ただレーベンが、もうあそこに居ることに耐えられなかっただけで。

 怒りで肩を震わせるミラの頭を左手でまた撫で、ミラも手を跳ねのけることはしなかった。他人の為に怒りを露わにできる優しい少女を敬いながら、レーベンはあやすようにその頭を撫で続けていた。

 

 

 

 ミラが落ち着いた頃には、夕日がポエニスを照らし始めていた。通りを行き交っていた人々も疎らになり、帰路につく労働者たちの姿も目立つ。

 

「もう帰る。おそくなると怒られちゃう」

「あぁ、気をつけてな」

 

 赤くなった目許を擦りながらミラが長椅子を降り、重そうな袋を抱える。代わりに運んでやりたいところだが、もうレーベンの手は杖だけで塞がってしまうのだ。他に何も持てはしない。

 

(うち)にくる? 先生にも言ってあげるから」

「……大丈夫だ。宿はとってある」

 

 もちろん嘘だ。宿代すら持っていないのだから、何処か夜を越せそうな場所を見つけなければならない。その嘘を見抜いたのかそうでないのか、ミラの大きな瞳はじっとレーベンを見据えている。

 

「聖女さんがね、わたしに聞いたの。“何がしたい?”って」

 

 それは、あの宴の夜にシスネから聞いた話だった。「焼き菓子をまた食べたい」と、つまりは生きたいと、少女はそう答えたのだと。だが今は違うらしい。

 

「聖女さんに言って。――わたし、お医者さんになりたい」

「お医者さんになって、家のみんなのケガも病気もタダで治したい」

「そうすれば、みんな、もっとお腹いっぱい食べられるから」

 

 それは少女の、実に子供じみた夢だった。最低限の教育すら受けられていないミラが医療者になることはひどく困難で、その為の具体的な道筋とて何も考えてはいないのだろう。

 だがその瞳は、強く輝いていた。

 

「それと、魔女になった人も治したい」

「治れば、元に戻れば、ころされないから」

「お母さんと、お姉ちゃんみたいには、ならないから」

「お父さんだって、ぜったい分かってくれる」

 

 それはもはや完全な夢物語だ。魔女化した女を元に戻す方法は無く、故に殺してしまうか、魔女となる前に「予防」するしか無いのだ。

 だがその声は、強く響いていた。

 

「お医者さんになるよ、絶対に。だって、わたしがそうしたいから」

 

 その夢はきっと叶わないのだろう。だがそれが何だと言うのか。

 医療者になるかどうかが重要なのではない。重要なのはこの少女が、ミラが何をやりたいのか。

 孤児院の子供たちにもっと良い暮らしをさせたいと、魔女禍で女たちが死ぬことを無くしたいと、そう願う意思こそが。

 あの夜、魔女に到る程の絶望をも跳ねのけた、この少女の強い意思が。

 

()()()()()()()()()()()?」

 

 レーベンにはひどく眩しく見えた。

 

「俺は――」

 

 

 ※

 

 

 レーベンは騎士になりたかったわけではない。

 魔女を狩りたかったわけでもなく、魔女に復讐したかったわけでもない。まして、教国を守りたかったわけでもない。

 ずっと見つけられなかった、己のやりたかったこと。それは皮肉にも、騎士となる道が途絶えてはじめてはっきりと形を得た。

 医療棟を抜け出し、本棟の地下倉庫へ忍び入る。初めて握った聖銀の剣は修練用の鉄剣よりも軽いはずが、ひどく重く感じた。馬車の待合所から馬を引き、闇夜に紛れてポエニスを発つ。

 盗んだ剣を手に、盗んだ馬で目指すのはライアーから聞いた町。そこに魔女がいる。

 

 聖女と騎士の物語は、いつだって悲劇で終わる。

 騎士は騎士である限り魔女を狩り続け、故にいつか必ず魔女狩りの中で死ぬ。

 ならば騎士として生きることと、騎士として死ぬことに何の違いがあるというのか。

 レーベンはきっと、騎士として死にたかったのだ。

 

 魔女はすぐに見つかった。まるでレーベンを待っていたかのように襲ってきた。

 その日はじめてレーベンは魔女と対峙し、はじめて魔女を狩り、そして死ぬつもりだった。

 騎士として生きられなくても、聖女がいなくても、魔女と刺し違えれば騎士として死ねる。

 誰に認められなくても、レーベンがレーベンを認められる。そう信じていた。

 もう、そう信じるしかなかった。

 

 

 

 レーベンは魔女を狩った。だがレーベンは死ななかった。

 剣はとうに砕け散り、血が涸れるほどに傷ついても、レーベンは生き残ったのだ。

 

『――は』

 

 こんなものかと思った。

 なんてことはない。どんなに悍ましくても、どんなに恐ろしくても、魔女も元は人間だったのだ。

 同じ人間に狩れない道理はない。

 

『は……っは』

 

 魔女を狩ろう。

 誰に認められなくても良い。理解されなくても良い。

 魔女を狩って、狩って。いつか刺し違えられるその日まで狩り続けよう。

 このどこまでも下らない命に、最高に笑える結末をくれてやろう。

「聖女なき騎士」には、きっとそれがお似合いなのだから。

 

『は、っははは…………っ!』

 

 町に到着したライアーとカーリヤが見たのは、無残な魔女の死骸と。

 答えを得て笑い続ける少年(レーベン)の姿だった。

 

 

 ◆

 

 

「邪魔するぞ」

「ううぇあぁっと!? ……って、アンタですかい。驚かせないでくだせえや」

 

 ポエニスの教会、その馬車の待合所に戻ったレーベンは停まっていた馬車に乗り込んだ。顔見知りだった御者は異様な驚きを見せながら何かを懐に仕舞い、レーベンの顔を見るなり安堵の息をつく。何かしら違法なことをしていたのだろうだが、今となっては好都合だ。

 

「で、何か御用ですかい。クビになったアンタを乗せるわけにはいかねえんですけど」

「そう言うな。これをやろう」

 

 教会の馬車にもう騎士ではないレーベンが乗れるわけもなく、故にこの御者を選んだのだ。何よりも先にレーベンは「運賃」を差し出す。

 

「! こいつは……っ」

 

 それはレーベンの数少ない私物である、小型の写銀器だ。滅多に見られない珍品に御者は目の色を変え、レーベンはしてやったりとほくそ笑む。

 

「聖銀板と薬液は技術棟の連中から買える。これでどう稼ぐかは――」

「あっし次第ってわけですな」

 

 ニタリと御者が嫌らしく笑い、あっという間に商談は成立した。嫌味なほどに恭しい動作で席に案内され、それに乗ったレーベンもどかりと腰掛ける。

 

「して、何処に向かいやしょうか?」

 

 御者の言葉に、レーベンは残った左目を閉じる。つい先刻に再会した少女の姿が脳裏に過った。

 

 

 

『じゃあね騎士さん。聖女さんにもよろしく』

『俺はもう騎士じゃないんだがな。あと彼女はシスネという』

 

 更にはシスネも聖女ではない。それをレーベンの口から言うわけにはいかないが、ミラは首を振った。

 

『聖女さんは聖女さんだもん。わたし教会は嫌いだけど、聖女さんは……すきだし』

『俺は?』

普通(ふつー)

『あぁ、そう……』

 

 つまり好きでも嫌いでもないと、それは喜ぶべきなのだろうか。本来であれば恨まれているはずなのだから、喜ばしいことであると思うことにした。通りを歩き出す小さな背中を見送ってから、レーベンも踵を返し、

 

『騎士さん!』

 

 振り返ったレーベンの左目には、黄昏に沈もうとしている旧聖都と、

 

『またね!』

 

 夕日の中で見た、少女(ミラ)の笑顔が焼き付くようだった。

 

 

 

「どうしやした?」

「……」

 

 ライアーとカーリヤは「死ぬな」と言った。ミラは「またね」と言った。

 

 ――あぁ、本当に

 

 己などには勿体ない言葉なのだ。

 レーベンは左目を開け、すべてを振り切るように目的地を告げた。

 

「聖都へ」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

聖都の住人たち

 聖都グリフォネア。

 カエルム教国の中心であり、だが地理的には国土の最南端に位置している。教国を外界と隔てる二つの壁、北東に広がるアスピダ山脈からは最も離れ、南西に広がるシルト海には最も近い。

 その名が示す通り、今は旧聖都と呼ばれるポエニスこそが元は聖都であった。遷都が行われたのはおよそ百五十年前。魔女禍の発生による未曾有の混乱が生んだ暗黒時代、それが聖女と騎士の誕生により一応の終息を見せた頃のことだ。激闘と惨劇の跡が色濃く残るポエニスは聖都に相応しくないとされ、教国の南岸にあったごく小さな港町を元に新たな聖都が作られた。

 故にグリフォネアは教国の中心であり、そして最も新しい街でもある。魔女禍の後に作られた、教会を主軸とした教会による街。言い換えればそこは、聖女と騎士の街だった。

 

 

 ◆

 

 

 すれ違った女の長い白髪に、レーベンはまた目を奪われた。当然ながらそれはシスネではなく、視線を戻せば道行く人々の中にちらほらと白い髪が行き交っているのが見えてレーベンは溜息をつく。

 ポエニスを一昨日の夕方に発ってから丸一日と一晩。初めて足を踏み入れた聖都でレーベンがまず驚いたのは、人の多さでも街並みの美しさでも大聖堂の大きさでもなく、白い髪を持つ人々だった。シスネの真っ白な髪はポエニスでは非常に珍しく、レーベンも彼女以外に見たことはない。故に己の中で白髪とは彼女の代名詞のようになっていたのだが、聖都ではそこまで珍しくはないらしい。むしろレーベンの黒髪の方が珍しいのか、やけに視線を集めている気もする。あるいはボロボロの外套を纏った姿や、右目に巻かれた包帯のせいなのかもしれないが。

 

「君、聖都は初めてかい?」

 

 親しげな声に左目を向ければ、雑踏の中で小洒落た恰好をした老人が人の良さそうな笑みを浮かべていた。おそらくは妻であろう老女も傍に立っている。キョロキョロと田舎者のように街中を見回している姿を見られていたのだろうか。大きな街の年長者らしい親身なお節介というやつだ。

 

「……えぇ、ノール村から来たんですわ」

「ほう! それは長旅だったろうに!」

 

 お節介ではあるが、初めて聖都に来たことは事実なのだ。この際だから聞けることは聞いておこうと、教国の中で最も田舎である村の名前を出す。あの村で過ごした数日で耳に馴染んだ訛りを適当に真似すれば、老人は驚きと笑みを彫りの深い顔に浮かべた。

 村民を騙ることになったが、「ノール村から来た」のは間違いではないのだから嘘は言っていない。誰に言い訳するともなくレーベンは開き直った。

 

「山で目をやっちまいましてね、聖都に来れば良い薬も手に入るって聞きまして」

「お気の毒になぁ。なら大聖堂に行くと良い、あそこの医療者たちは騎士でなくても診てくれるぞ」

 

 相手が田舎者を名乗って気をよくしたのか、老人は嬉々とした様子で話してくれた。大聖堂の場所と行き方、よく効く薬屋、安い宿屋、美味い飯屋、その他諸々。三人で長椅子に腰掛けながらレーベンはひたすら相槌を打ち続ける。ありがたい話ではあるが、生憎そのほとんどはレーベンには関係のない話だった。そもそも金も持っていないのだから。

 右目も傷ついた程度ならともかく、完全に抉られているのだから治療の施しようもない。アルバットなら彼と同じ機械仕掛けの眼に置き換えることができるかもしれないが、一生あの姿になることはレーベンでも些か抵抗を覚える。

 故に、別の手段に縋ってレーベンはここに来たのだ。

 

「それにしても聖都はきれいな白髪の人が多いですね、俺は初めて見ましたわ」

「そうだろう、そうだろう。“白い髪は聖都美人の証”ってな」

 

「まあ私の髪も今に白くなるがね!」と白髪の混じった赤毛を掻きながら老人が笑う。その隣に座る老女の髪も真っ白で、口許に手を当てながら上品に笑っていた。

 老人が饒舌に続ける。かの「はじまりの聖女」キノノスもまた白い髪の持ち主であり、故に「白髪の聖女は良い聖女となる」などという根拠のない迷信まであるらしい。

 

「実は私の身内にも聖女がいてね、その子も白髪なのだよ。あぁそうそう、今の聖女長もだ!」

「……なるほど」

 

 聖女長。その名にレーベンの意識が尖る。

 

「聖女長は、とんでもなく腕の良い聖女さまと聞いてますね。たしかお名前は……」

「イグリット様だね。まあ私もお会いしたことはないんだが」

 

 イグリット聖女長。レーベンとて初めて聞いた名ではないが、ポエニスで騎士として働く分にはほぼ無縁だったのだ。うろ覚えだった名前を頭に刻み直してから、会話が途切れた間を窺ってレーベンは長椅子から立ち上がった。

 

「そろそろ行きますわ。色々とありがとうございます」

「君も気をつけてな。……あぁそれと、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 立ち去ろうとしていた足が固まった。外套はボロボロだが、今も右腕があった場所を覆っているはずだ。振り返ったレーベンの左目に映る老人は変わらず人の良さそうな笑みを浮かべている。

 

「……見えていましたか」

「いや、歩き方だね。これでも医療者の端くれなんだ、それぐらいはすぐ分かるさ」

 

「だが北方訛りはなかなか上手かったよ」と朗らかに笑う老人とその妻。どうやら何もかもお見通しだったらしい。これも年の功というものなのだろうか。

 

「ではな。女神の導きのあらんことを」

 

 そう言って老人は矍鑠(かくしゃく)とした足取りで雑踏に消えていき、老女もそれに続く。姿勢の良い歩き方とその長い白髪に懐かしさを覚え、レーベンは左目を細めた。

 

 

 ◆

 

 

 海沿いに建てられた聖都は水の街でもある。高度な治水技術による水路が縦横に走り、街道を行き交う馬車と同じぐらい多くの小舟が行き来している光景はポエニスでは見られない。

 わずかに潮の香りも混じる水面に映る己の左腕を眺めながら、途方に暮れたレーベンは水路の傍に腰を下ろしていた。右腕の痛みはとうに引いたが、まだ立ち上がる気にはなれない。

 

「……どうしたものかな」

 

 つい先日、ポエニスの広場で零した独り言をまた呟き、レーベンは溜息をついた。

 

 

 

 つい先刻、やっとの思いでレーベンは大聖堂に辿りついていた。

 ポエニスよりも幅の拾い街道はポエニスよりも多い人出によって埋め尽くされ、未だふらつく体を杖で支えながら大聖堂を目指した。慣れない道に迷い、住人に道を聞き、門前の大階段も必死に這いあがってきたのだ。

 だというのに。

 

【入堂者は銀貨一枚を喜捨すること】

 

 大聖堂の入り口には無慈悲な看板が立てられていた。銀貨一枚とは、飯屋に行けばそれなりに上等な料理で腹を満たせるかといった程度の額だ。決して法外ではなく、充分に良心的と言えるだろう。だが今のレーベンにはそれが果てしなく高い。

 そもそも中に入るだけでなぜ金を取られるのか。むしろ己の方が施しを受ける側なのではないかと恨めしげに看板を睨みつけていると、門番らしい男がじろりとレーベンを警戒していた。

 男はポエニスと同じ黒い騎士装束を纏っており、傍に控えるように灰色の装束を纏った女も立っている。聖都では聖女と騎士が門番も務めるらしい。騎士というには細身な体つきを眺めながら、聖都の騎士は筋力よりも技量を重視するという噂は本当だったのかなどと、半ば現実逃避じみた考えにレーベンは耽る。

 世の理不尽を一通り嘆いた後、レーベンは出来るだけ愛想を良くしたつもりで門番に話しかけた。

 

「入るだけでも金が要るとは、聖都とポエニスは随分と違うらしい」

「……これも教皇猊下と聖女長の御体を守る為。どうかご理解いただきたい」

 

 更に詳しく話を聞くと、かつては入堂料など払わずとも誰でも教皇と聖女長に謁見できたらしい。だが明らかに謁見を求める程ではないであろう相談事をしに来る者や、ただ一目お会いしたかっただけなどという教徒が後を断たず、休む間も無くなってしまったのだという。それを防ぐ為に、安価ではあるが入堂料を必要とするように定められた。結果としてそれは上手く機能し、現在では本当に謁見を必要とする者だけが訪れるようになったのだと。

 

「だが俺のように銅貨の一枚も持っていない貧者はどうなるのか、貴方はどう思われる」

「……心中お察しするが、これも規則であれば」

 

 銀貨一枚など、それこそ一日でも働けばその倍は稼げるだろう。如何な貧者であってもその気になれば謁見できる、これはそういう制度なのだ。それはレーベンにも理解できるのだが。

 

「ならば、こんな体の俺にも出来る仕事はあるだろうか? 是非とも教えていただきたい」

「! ……ぬ、ぐ」

 

 外套を払い、空っぽの右袖を見せてやると門番は目に見えて狼狽えた。傍の聖女も痛ましいものを見るような目を向けてくる。

 もう一押しか、とレーベンがほくそ笑んだ時だった。

 

「その傷は、魔女による物か」

 

 固く怜悧な声に左目を向けると、反対側に立つもう一人の門番――騎士装束を纏った()がレーベンを見返していた。小柄ながらも、その鋭い視線にレーベンはどこか懐かしさすら覚える。

 

「あぁ、その通り」

「もしや、貴殿は騎士だったのではないか」

 

「立ち姿が違う」と続ける女騎士。まともに歩くことすら出来ない今のレーベンに立ち姿も何も無い気がしたが、騎士であったことは確かだ。沈黙で返すと、女騎士は整えられた金髪を揺らしながらレーベンに体を向けた。

 

「左様な深手を負うまで騎士として務められた貴殿には敬意を表する」

「ならば尚のこと、物乞いじみた真似はやめていただきたい」

「先達として、どうか我らを失望させてくれるな」

 

 時代錯誤な口調に反し、よく見れば彼女はレーベンよりもいくつか年下に見えた。聖都は聖女も騎士もポエニスより層が厚く、見習いを脱しただけでは魔女狩りに就けないという話を思い出す。彼女もまだ魔女と対峙したことは無いのかもしれない。

 女騎士の青い目はまっすぐレーベンを見据えている。その眼光は充分に鋭いが冷たくはなかった。

 

「……」

 

 青い眼差しに、結局は謝ることもできなかった友人を思い出す。左手で胸元を掴めば、服越しに二つの指輪の感触を確かめられた。これを売れば銀貨どころか金貨が何枚も手に入るだろうが、勿論そんなことをする気は無い。これ以上あの二人を裏切る気にはなれないのだから。

 深く溜息をついてからレーベンは無言で踵を返した。なんとかして入堂料を調達しなければならない。その前にまずこの大階段を無事に降りられるのかと、断崖でも前にした心地で足を踏み出した時。

 

「悪い、すぐ戻る」

「あ、おい! エイビス!」

 

 背後から男女の声が響くとほぼ同時に、細い腕の感触が腰に巻きついてきた。塞がった右側の視界に金色の髪が見え隠れする。

 

「下まで付き合おう。ゆっくりで構わない」

「……ありがたい」

 

 レーベンを支えてくれる女騎士――エイビスの体は思いのほか小さく、それこそシスネと同じぐらいに華奢だった。これで本当に騎士が務まるのかと心配になってきたが、聖性で筋力を底上げすれば問題ないのだろうか。

 

「あなたを女と見くびる気は無いが、聖都の騎士は皆が細身だな」

「そういう貴殿こそ、ポエニスの騎士にしては細身と見えるが」

「たしかに」

 

 華奢ではあるが鍛えてはいるのだろう。エイビスの小さな体は危なげなくレーベンを最後まで支えて見せた。大階段を降りきって一息ついていると、レーベンから体を離した彼女はじっと青い目で見上げてくる。

 

「悪く思わないでくれ。我らも門番の務めは果たさねばならないのだ」

「あぁ、なんとか稼いでくるとも」

「……また来ると良い」

 

 かすかな笑みをレーベンに向けた後、軽やかに大階段を駆けあがっていく背中を見送る。己はもうあんな真似を二度と出来ないかもしれないと考えると、肚の底の憂鬱がまた首を擡げてきた。首を振ってそれを考えないようにし、杖をつきながら街へと戻る。

 

「女の騎士とは、本当にいたのか」

 

 いるという話だけは聞いていたが、ポエニスの騎士は全員が男だったのだ。俄かには信じがたく、いたとしてもヴァローナやパボーネのような女傑を想像していたが、まさかあんな華奢な娘だったとは。

 だがきっと苦労も多いのだろうとレーベンは考える。あの若さにそぐわない古風な口調も「騎士らしく」見せる為のものなのかもしれない。かつては己もそうしていたように。

 

「だが、やっぱり最後は筋力だよなぁ」

 

 かつてはポエニス騎士の末席を汚していた身としても、やはりそこは譲れない。そう、レーベンは考えたのであった。

 

 

 ◆

 

 

 水路の脇で短い追憶に浸っていたレーベンはようやく重い腰を上げた。

 とにもかくにも金である。大聖堂に入れなければ遠路遥々ここに来た意味が無く、己の目的も果たせない。今こそカーリヤから貰った紙束が役立つのかもしれないが、必要なのは銀貨一枚。宿なしの身である以上は時間もかけられず、故に出来ることも自然と限られてくる。

 視線を巡らせれば、薄汚れた路地裏が見える。表通りにはゴミ一つ落ちていなかったが、その裏側ともなれば何処もこんなものだ。聖都とて例外ではない。否、聖都であればこそ汚濁もまた色濃いのかと、そんな小難しいことを考えながらゴミ置き場を漁る。金目の物などそう都合よく見つからなかったが、目当ての物なら見つかった。

 

「……、……」

 

 出来ることはごく限られ、故にそれはすぐレーベンの頭にも浮かんできた。

 ならばやるしかないのだ。例え、まったく気は進まなくとも。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

消えたレーベン

 ゴロゴロと、シスネの足元に林檎が転がった。

 四日間の謹慎が解けた日の朝、シスネはさっそく医療棟に向かった。カーリヤから聞いていた病室へと足早に向かい、だがそこで見たのはすっかりと片付けられた無人の寝台だったのだ。

 

「うそ……」

 

 予想もしていなかった最悪の光景に、彼に剥いてやるか頭に投げつけてやるかしようと持参した林檎が手から滑り落ちる。

 だって、だってカーリヤは話をしたって。あれから四日しか経っていないのに、まさか死――。

 

「あの、お見舞いですか?」

「っ!」

 

 恐る恐る声を掛けてきた医療棟の職員を、シスネが掴みかからんばかりに質問責めにしたのはこの直後のこと。

 そしてレーベンの生存と、その除名処分を知ったのもその直後であった。

 

 

 ◇

 

 

 バンッと。蹴り破るように大きな扉を開け放つ。やってしまってから自分の愚行に後悔したがもう遅い。もう遅いからと開き直り、つかつかと部屋の主――ヴュルガ騎士長の前まで詰め寄った。

 

「騎士長……」

「なんだ」

 

 不躾なシスネの行動に対しても騎士長は動じた様子もなく書類に目を落としている。寛容なのではなく関心が無いのだろう。この男は、そういう人間なのだ。

 

「彼が、除名されたと聞きました」

「そうだ」

 

「だからどうした」と、そんな言葉すら吐かない。無感情、無関心。きっとこの男にとっては、シスネの言葉も感情も、何の価値も無い。だから怒ることすらない。

 

「なんで、何故です……何故、彼を」

「あの男はもう使えんからだ」

「――っ!」

 

 どこまでも淡々とした声は、だがシスネの臓腑を抉った。

 シスネにも分かっているのだ。ただでさえ聖性を受け入れられないという致命的な欠陥を持つレーベンが、あんな重傷まで負えば騎士としては再起不能だということぐらい。

 つまり、レーベンの除名はシスネのせいだと。騎士長は言外にそう言っていると、シスネはそう思った。

 

「そうではない」

 

 容易に血が上っていた頭も、その上から降ってきた声に一瞬で血の気が引く。いつの間に立ち上がったのか、騎士長の巨大な体はシスネのすぐ近くに立っていた。

 騎士長がシスネを見下ろす。シスネは、その時はじめて騎士長の目を間近から見た。

 

貴様(おまえ)たちが何を考えようと、(おれ)にはどうでも良いことだ」

「貴様たちが魔女を狩れるのか、狩れないのか」

「あの男は狩れん。それだけだ」

 

 その火色の眼光は色彩に反して死体のように冷たく、シスネの姿を反射しているだけでシスネを見てはいない。ただの景色、ただの影、ただの石ころ。そんなものでしかないから。

 

「……」

 

 ふらりと、シスネは踵を返した。きっともう、この男には何を言っても無駄なのだと分かってしまったから。無言で執務室を後にし、背後からは書類にペンを走らせる音だけがかすかに響いていた。

 

 

 ◇

 

 

 すれ違った騎士がギョッと振り返ったことが、背に感じる視線で分かった。それもそうだろう、騎士たちの居住棟の中を女が歩いているのだから。シスネ自身でさえ何故こんな所に来てしまったのかと自分を問い詰めたい気分だったが、来てしまったのだから仕方がない。シスネはまた開き直った

 当然だが初めて入った騎士棟の中は、聖女の居住棟とはだいぶ趣が違った。花や置物の多いあちらとは違い、こちらはひどく殺風景だ。本当にただ住む為の場所といったようで、建物自体の作りはほぼ同じなことを考えれば聖女棟の方が派手なのだろうか。

 

『あんたの部屋は地味すぎるわ。戻ってきたら覚悟しておきなさいよ』

 

 花の一輪も飾っていないシスネの部屋を見ながらカーリヤはそう言っていた。もしかしたら聖女棟の花や飾りは彼女の仕業なのかもしれない。今頃はアスピダ山脈で魔女を探しているだろう友人の無事を祈りつつ、彼女が戻ってきたら町に引きずり出される自分を想像してシスネはかすかに苦笑した。

 

 

 

 部屋の扉に書かれた名札を目で追いつつ目当ての部屋を探し、それはすぐに見つかった。一階の奥の部屋、名札を剥がされた跡のある扉をそっと開ける。

 片付けられた無人の部屋がシスネを迎えた。彼のことだからひどく散らかった部屋を想像していたシスネは拍子抜けし、追放同然の仕打ちであっても部屋を片付けていく律儀さを意外にも思った。いや、なんだかんだといって体面を気にしている節もあったかもしれない。

 部屋の隅に置かれた寝台、その掛布にそっと手で触れる。何の温かみも残ってはいなかった。

 

 ――なにしてるんだろう、私

 

 白い掛布を涸れた眼差しで眺めながら自嘲する。もうここにいるはずもないと分かっているのに部屋にまで押しかけて。自分への置手紙か何かでもあると思ったのか? 彼はもうシスネが聖女ではないということを知っていて、しかもシスネのせいで騎士としての生命を断たれたも同然だ。そんな相手に何を言い残すというのか。あったとしても恨み言だろう。

 

 ――でも、一言ぐらい

 

 ふつふつと腹の底に湧いてきた身勝手な怒りを飲みこむ。

 いったい誰のせいでこうなったと思っているのか、でも一言ぐらいあっても良いのではないか、彼に何を期待しているのか、恨み言でも良いから話をしたかった、謝りたかった、怒りたかった、許してほしかった、傍にいたかった、傍にいてほしかった、求められて、それを拒絶したかった――。

 だが彼は一人でいなくなってしまった。シスネに一言もなく、シスネを求めることもなく。

 

 拒絶されたのは、シスネの方。

 

 ガン、と。寝台横の小机に拳を叩きつける音が響く。固い木を殴った衝撃が骨に伝わり、その痛みと自分の穢さ、そして筋違いの怒りにふるふると肩を震わせた。

 

 ――おちついて、落ち着きなさい

 

 寝台に腰を下ろし、胸に手を当てながら深く呼吸する。この数日というもの、どうにもシスネは精神の均衡を欠いている。堪え性が無いのは昔からだが、最近は特に自分や他者への怒りを制御できない。自分の中で何人ものシスネが暴れているようでひどく苦しい。

 こうして一人でいる時は尚更だ。カーリヤやマリナ、ライアーや……レーベンといる時はもうすこしはっきりとした自分(シスネ)を自覚できていた気がする。だが今はもう誰もいない。

 カーリヤとライアーはしばらく帰らない。マリナはもう帰ってこない。レーベンも……きっと帰らない。他の聖女たちともだいぶ親しくなれてはいたが、それもカーリヤが間に入ってくれていたからだ。特にあんな懲罰を受ける姿を見られた後のこと、どの顔を提げて会いに行けというのか。

 

「……?」

 

 八方塞りの袋小路に頭と腹が痛みだした頃、シスネの視界に見慣れた輝きが掠めた。先ほど殴った時に開いたのであろう、小机の引き出し。その中から銀色の光――聖銀の輝きがちらついている。考える間もなく手が動き、引き出しの中からそれを取り出した。

 それは。

 

「ぁ……」

 

 それは、景色を焼き付けた聖銀の板――写銀だ。それが二枚。

 一枚には二人の男女。茶髪の騎士と金髪の聖女。ライアーとカーリヤが、ただ連れだって歩いている。そんな日常を切り取ったような写銀。

 もう一枚には一人の女。シスネには見飽きた白髪の女が映っている。いったいいつ撮られたのか、物憂げな自分の横顔が映った写銀。

 もうずいぶんと前のことのように思える写銀騒動。あの時は聖女たちの姿絵を売り物にしたレーベンに対して、シスネは真っ直ぐに怒ることができた。……同時に、自分よりも穢い存在を見つけて仄暗い悦びを覚えたことを覚えている。

 カーリヤの写銀は男性(ライアー)も映っているから売り物にならなかったのだろう。ならシスネの写銀は? こんな地味で貧相な女の写銀など売れないと思ったのだろうか? なら何故捨てなかった? そして何故それをここに置いていった?

 二枚の写銀を懐に捻じ込むと、シスネは本当に空っぽになった部屋を飛び出した。

 

 

 ◇

 

 

「……久しぶりだねぇ、聖女サマ。何か用かね」

 

 技術棟の地下室。ゴミ溜めのような部屋の主である、機械仕掛けの眼を持つ変人――アルバットは開口一番に不機嫌さを露わにした。以前に会った時のことを考えれば当然だろう。

 シスネとて、この男と仲良くしたいなどとは思っていない。むしろ二度と会いたくはなかったし、できれば視界にだって入れたくない。そんな相手。

 だがそんな相手であろうと、彼の足取りを追う為には話を聞かなければならない。

 

「……、……まずは謝罪を。先日は、誠に申し訳ありませんでした」

「別にどうだって良いがね。用がそれだけならもう帰ってくれたまえ」

 

 こちらを見もせずに言い放たれる言葉に、シスネの頭に容易に血が上った。だが勿論ここで怒り散らしたりすれば全て水の泡だ。唇を噛み、手を握りこんで怒りを抑える。

 

「……っ、あなたに、お聞きしたい、ことがあります」

「あぁ、どこぞの“騎士殺し”にまた殺されかけた元騎士のことかい?」

「――――」

 

 気が遠くなりそうな怒りだった。頭が真っ白に、目の前が真っ赤になる程の怒り。誰にも触れられたくない傷痕を無遠慮に抉られたような激情に、足元すらふらついてくる。

 だがそれでもシスネは耐えなければならない。

 

「――そう、です。彼が、ど、どこに行ったのか、おしえては、くださいませんか」

 

 シスネは膝を折った。

 一度だけだ。こんな男に頭を下げるのは、この一度だけ。二度だなんてとても耐えられない。

 だからシスネは膝を折り、汚れた床に跪いた。一度だけだから、この上なく頭を下げる。もう二度と下げなくて済むように。

 

「おね、がい……します……っ!」

 

 両膝も、両手も、額まで床で汚しながらシスネはアルバットに懇願した。なけなしの自尊心がボロボロと剥がれ落ちていくような屈辱に叫び出してしまいそう。噛みしめた唇から血の味が鮮烈に広がった。

 

 

 

 シスネにとっては耐え難いほど長い時間が過ぎ、頭の近くで靴音と「これだから聖女は」という呟きが聞こえ、シスネの首に縄でもかけられたかのような感触が食い込んだ。

 

「ぐえっ!?」

 

 喉に装束の襟刳(えりぐ)りが食い込む感触と浮遊感。一瞬で直立の体勢にされたシスネの両足が床に着くと同時にその手は離れ、目の前には意外な程に大きなアルバットの影があった。襟を掴まれて持ち上げられたのだと遅れて気付く。

 髭に埋もれた口を不機嫌そうに歪めながら、アルバットは呆れた口調で口を開いた。

 

「知らないね、奴がどこに行ったかなんて」

「っ!」

「でもまあ考えそうなことは分かるよ。おおかた聖都にでも行ったんだろうさ」

 

 跪いて懇願までしたというのに手がかりが掴めなければ、それこそシスネは自分が何をするか分からなかった。だが幸いにもそうはならなかったらしい。

 

「諦めが早そうで諦めの悪い男だからね」

「聖都に行って、聖女たちに片っ端から“見合い”を申し込むつもりなのか」

「それとも……」

 

 何を考えたのか、チュイイと長さを変えるアルバットの眼。だがシスネはもうその言葉をほとんど聞き流していた。

 聖都グリフォネア。レーベンはおそらくそこに向かったのだ。

 

「ありがとう、ございます」

 

 一応は謝意を伝え、もう用は済んだと出口へ向かおうとしたシスネの顔めがけて何かが飛んできた。

 

「痛った!?」

「掃除していたらまた出てきたよ。もうゴミだから持っていくと良いさ。……あと、これも」

 

 結構な重さと固さを持つ何かが額にあたって悲鳴をあげたシスネの手に、ずしりとした紙箱が落ちてくる。それは銃の弾薬で、それにしては異様な重さから大短銃の弾だとすぐに気付き、更に袋もひとつ。ジャラリとした重い感触。硬貨だ。

 

「弁償代だって置いていったけどね。随分と多かったからその釣りだよ。もし会ったら渡しておいてくれ」

 

 それで今度こそ用は済んだのか、アルバットはシスネに興味を失くしたように作業を再開した。台座に置かれた銀色の剣のような物を弄り回しているアルバットに背を向け、シスネもまた出口へ向かう。

 お互い、それ以上の言葉は何も無かった。

 

 

 ◇

 

 

「失礼します」

「ううぇあぁっと!? って、アンタは……」

 

 教会内の馬車の待合所。そこであの小汚い顔をした御者を見つけたシスネは有無を言わせず馬車に乗り込んだ。

 御者の手には奇妙な機械――写銀器が握られており、更に何枚かの写銀を慌てた様子で懐に仕舞った。どうやら突然乗ってきたシスネに驚いただけではないらしい。何かしら後ろ暗いことでもしていたのだろうが、それも今はどうだって良いこと。

 

「聖都まで」

 

 ただそれだけを言い放って、アルバットから渡された硬貨の袋をそのまま投げ渡す。元はレーベンの物らしいが、使わせてもらうことにした。言うことを言ったシスネは座席に腰を下ろす。だが御者は向かいの座席から動こうとしなかった。

 

「……生憎ですけどね、これじゃあ足りねえんですわ」

 

 聞いてもいないのに喋ることには、この御者はつい先日にも聖都に行き、そして昨晩に帰ってきたばかりなのだという。ポエニスから聖都グリフォネアには、不休で馬車を走らせても丸一日かかる。そう何日も教会の馬車を私物化していては誤魔化しきれない――などと個性的な顔を更に歪めながら愚痴る御者に対して徐々にシスネは苛立ち始めていたが、その言葉のある一点にはたと気付く。

 

「あなたが聖都に乗せていったのは、誰ですか」

 

 それはきっとレーベンのことなのだろう。彼が除名されてすぐに聖都に向かったのだとすれば日数も一致する。確信を深めたシスネはもうすぐにでも出発したかったが、やはり御者は動いてくれない。

 

「だから足りねえって言ってるでしょうが。それとも何ですかい? 残りは体で払ってくれるとでも――」

 

 もう限界だった。舌打ちをひとつ叩き、御者の手を取って胸元へと押し当ててやる。脇腹の次ぐらいには敏感な部位に触れられる感触に悪寒が全身を駆け巡るが、無視してシスネは間近から御者を睨みつけた。

 

「っ、これで満足ですか。さっさと出してください」

 

 声の震えはなんとか抑えられた。御者はポカンと口を開けていたが、やがてあのニヤついた笑みではなく、ひどく獰猛な笑みを顔に浮かべた。鼠が蛇に変わったような、そんな変化。

 ギリ、と。胸に爪を立てられる。悲鳴はなんとか堪えた。

 

「後悔するぜ」

「あの騎士擬きはいつも死んだ目をしていたがね、あの日は格別だった」

「そんなにアレが死に腐る様を見てえってんなら連れていってやるよ」

「なあ? “騎士殺し”さんよ」

 

 毒蛇を彷彿とさせる嘲笑を睨み返し、胸を掴んだままの手を叩き払う。くつくつと喉を鳴らしながら御者台へと向かう背中を見送ってから、シスネは座席へ深く腰を下ろした。

 ジンジンと痛む胸を押さえると、早鐘を打つような鼓動を感じる。だというのに、その胸は底冷えするような寒気を感じていた。

 

「なにを、しているの」

 

 レーベンはなぜ聖都へ向かったのか。聖都で何をするつもりなのか。そしてシスネは、聖都で彼に何を言うつもりなのか。

 何を考える間もなくレーベンを探し、そして今から後を追おうとしている。何の答えも出せないままで、馬車はシスネを乗せて動き出してしまった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最低の再会

『はじめまして』

 

 初めて会ったその人は、英雄譚から飛び出してきたような騎士だった。

 朝焼けを封じたような金の髪も、シルト海を切り取ったような青い目も、彫刻のように端正な顔立ちも、ずっと聞いていたいほど心地よい声も、何もかもが一瞬でシスネの心を奪い去っていった。

 

『僕はレグルスと言います。貴女は?』

 

 目も合わせられないほど恥ずかしいのに、目も離せないほど魅了されて。燃えだしそうな顔の熱さを感じながら、なんとか名前を言えたと思う。その後も、その人――レグルスといくつかの話をして、でもその内容はまるで覚えていない。このまま胸が破裂するんじゃないかと不安になるほどの鼓動で何も聞こえてはいなかったから。

 ただ。

 

『僕を、貴女の騎士にしてはくれないだろうか』

 

 ただ、レグルスのその言葉だけが、ふわふわとしていた頭に響いて。

 

『僕の、聖女となってはくれないだろうか』

 

 もう何も考えられないまま、わたしはその手をとった。

 

 

 ◇

 

 

「着いたぜ、聖女さんよ」

 

 忌々しい悪夢から目覚めると、忌々しい御者がニタニタとシスネを見下ろしていた。形だけの謝意を伝えながら荷台を降りると、「毎度あり」と嘲笑まじりの声と共に馬車は元の道を帰っていく。

 ポエニスから二人だけで馬車に揺られること丸一日。体を要求されるぐらいの覚悟はしていたが、予想に反して御者は触れてもこなかった。こんな痩せた体には食指も動かなかったのか、あるいは――。

 

『そんなにアレが死に腐る様を見てえってんなら連れていってやるよ』

 

 あるいは、シスネをここに連れてくること自体に愉しみでも覚えていたのか。あの卑屈な顔に隠されていた毒蛇のような笑みに、シスネはたしかな「同類」のにおいを感じ取っていた。

 

「穢い……」

 

 もうお決まりになった言葉を呟けば、吐いたはずの汚物が肚の底へ戻っていくような錯覚を覚える。そうやって鬱々と、三年間、シスネの穢れはシスネへと降り積もっていったのだ。

 あの夜、カーリヤと話していた時は自分の穢さも忘れられた。その後も、ほんの少しだけ自分の穢さを受け入れられた気がしていた。謹慎が解けるのが待ち遠しく、彼に会うことを楽しみにすら思っていた。

 でも結局はこの様だ。カーリヤにもライアーにもレーベンにも会えず、騎士長に、アルバットに、御者に、まるで自分の穢さを突きつけられたようで。

 

「どこに、いるの」

 

 だから、はやくレーベンに会いたかった。いやレーベンではなくても、誰でも良かったのかもしれない。自分の穢さを少しでも忘れさせてくれるのなら、誰でも。

 そんな自分が、シスネは好きになれそうもなかった。

 

 

 ◇

 

 

 久しぶりに足を踏み入れた聖都は、記憶の中と何も変わってはいなかった。そもそもシスネがポエニスへと異動になってから小半年と経ってはいないのだから、これほど大きな街がそうそう変わるはずもない。

 どこまでも広がるシルト海も、潮の匂いを孕んだ空気も、遠くに霞んで見える大聖堂も、整然とした街並みも、その間を走る水路も、そこを行き交う人々も……その人たちから浴びせられる視線も。

 

 ――大丈夫。気のせい、気のせいだから

 

 必死に、そう言い聞かせながら街道を歩く。

 シスネは視線が苦手だ。子供の頃からそうだったが、三年前からは特にそうだ。今すれ違った男性が振り向いた気がする、あそこで笑っている女性はシスネを見ている気がする、今にも、そこら中の人たちが一斉にシスネを指さして「騎士殺しだ」と、そう罵声と嘲笑を浴びせてくる気がして。

 だから、聖都にいた頃もほとんど街は出歩かなかった。大聖堂の中の自室と、魔女が出た場所を往復するだけの日々。生家にだって一度も帰らなかった。ポエニスへと移ってから多少はマシになったが、今度はシスネの白髪がひどく目立ったものだからやはり街に出向く気にはならなかった。

 

「……っ、ぅ」

 

 四方八方から浴びせられる視線の錯覚に吐き気を覚え、街道を外れて路地裏へと入る。水路の脇に屈んで嘔吐(えず)くも、喉からは何も出てこなかった。そういえば、ここ数日はろくに何も口にしていない。

 さらさらと水路を流れる透明な水を眺めて心を落ち着ける。水面の底から見返すように、見飽きた白髪の女が映っていた。

 子供の頃はこの白髪が嫌いだった。老婆みたいだと他の子供から馬鹿にされたから。少女になった頃は好きになっていた。「白髪の聖女は良い聖女だ」と聞いて、聖女へ憧れていたから。聖女になってからも誇らしかった。そして今は大嫌いだ。シスネにはきっと相応しくないから。

 小橋の手摺に凭れながら路地裏のゴミ置き場を眺める。二羽の(カラス)が、生ゴミか光物を啄んでいた。いっそあんな色だったら良かったのに。白とは正反対の、真っ黒な。そう、彼みたいな。

 

「……?」

 

 反対側の道から、人の声が聞こえた。どこも人の多い聖都は静寂なんていう物とは無縁だというのに、何故かシスネの耳へと引っかかる声。その声に、ひどく懐かしさを覚えた。

 ふらふらと薄暗い路地裏を歩き、建物の隙間から差し込む光に導かれるように進み、そして。

 

 

「「あ」」

 

 

 目が合う。

 街道へ出たシスネのちょうど足元に、小汚い男が座り込んでいた。

 泥か何かに汚れた靴と平服。ボロ布のような黒い外套。細く引き絞られた身体つき。特徴に欠けた顔立ち。灰色の左目と漆黒の髪。そして包帯に覆われた右目と、存在しない右腕。

 

「――――レ」

 

 ちゃりん。

 胸の内から湧き上がってきた感情の名前をシスネが自覚する前に、ひどく場違いな音を聞いた。

 

「誠に感謝する」

 

 足元の男――レーベンが、歩き去る誰かに頭を下げていた。彼の足元にはひび割れたスープ皿。その中には赤銅色の貨幣、つまりは銅貨が数枚。更に視線をずらせば、廃材らしい木板に炭で書かれたのであろう文字。

 

【私は五年間 騎士として教会に勤めました】

 

 シスネは、彼とその荷物の全てを路地裏に放り込んだ。

 

 

 ◆

 

 

 ドォンッ! ……と、そんな音がレーベンの耳元から響く。音の原因は建物の壁を突き破らんばかりに叩きつけられた白い両手であり、その持ち主はレーベンの眼前で項垂れ、ぶるぶると震えていた。

 つまるところレーベンは、突然に現れた白髪の女――シスネに路地裏へと連れ込まれ、建物と彼女との間に挟まれていた。頭の左右には彼女の両腕、目の前には彼女自身が壁となって立ち塞がり、逃げ場は無い。

 

「……あ、あ、あなたという人は……あなたという人は……っ!」

 

 項垂れたままのシスネから、おどろおどろしい程に低い声が聞こえてくる。はっきり言って逃げ出したい。

 

「い……い、いっ、いったい何をして、何をしているのですかぁっ!?」

 

 未だ顔は見えないが、白髪から覗く耳と首筋は真っ赤に染まっており、その体も声も震え続けている。もはや爆発するのは時間の問題、否もはや手遅れか。

 

「あ、あんな! まるで、物乞いみたいな……っ」

 

 みたい、ではなく物乞いそのものである。レーベンとて気は進まなかったが、もはや形振り構う余裕も選ぶ手段もありはしなかったのだ。ちょうどそこのゴミ置き場で、器にする皿と看板の材料を拾えたことは運が良かったとレーベンは思う。

 

「何とか言ったらどうですかっ! 何とか言いなさい!」

「……なんとか」

「言うと思いましたよ! えぇ言うと思いましたともっ!」

 

 キンキンと間近で響く金切り声は路地裏で反響し、色々な意味で耳が痛くなってくる。やっと見られた彼女の顔はやはり真っ赤に染まっていて、黒い瞳は涙で潤んですらいた。叫び疲れたのかぜえぜえと息を吐いているシスネの姿がやけに可笑しくて、レーベンはかすかに笑う。

 

「何がおかしいのですかっ!」

 

 そんなレーベンの態度に業を煮やしたのか、シスネが足元のゴミを蹴飛ばす。それでも平手のひとつも飛んでこなかったのは、無意識にレーベンの怪我を慮っていたのだろうか。なんだかんだといって性根は優しいのであろう彼女の慈悲深さに――。

 

「そこに座りなさい」

 

 怒りが裏返った末に笑いを含んだ、本気で怒った彼女特有の声。無慈悲な声と無慈悲な視線で、無慈悲なシスネは汚れた地面を指さした。……やはり気のせいだったらしい。

 

 

 

 どれぐらい経ったのか。散乱したゴミの中で正座させられたレーベンへの説教はこんこんと続き、木箱の上で腕と脚を組んで座るシスネの黒い瞳は未だギラギラと輝いている。怪我人に対する仕打ちではないと思うが、彼女の怒りはまだ収まらないらしい。レーベンは遠い目で諦めた。

 

「もう本当に恥ずかしくて死ぬかと思いましたよ、えぇ」

「誠に、」

「は?」

「……()()()にも恥をかかせたようで申し訳ない」

「……え?」

 

 過去に散々咎められた定型句を言い直すと、組み替えようとしていたらしい彼女の足がぴたりと止まり、何故か虚をつかれたような顔をレーベンへと向けてくる。なんだかよく分からないが好機であった。

 

「すまないが荷物を返してくれないか。右手が痛むんだ」

「あ……っ」

 

 そう言うと、シスネは目に見えて狼狽えた。慌てた様子で鞄を開けると、鏡を持ってレーベンの前に屈む。そこまでしなくとも渡してくれるだけで良かったのだが。

 鏡に映った左腕を眺め、右腕の痛みが引くのを待つ。相変わらず安あがりで良い方法だった。

 

「たいしたものだ。こんな方法どうやって知ったんだ?」

「あ、これは、祖父から……」

()()()とご祖父にも感謝しきれないな、これを教えてくれなければ歩けもしなかった」

「え、あ、……あのっ」

 

 何故か急に歯切れの悪くなったシスネがまた上擦った声をあげる。左目を向けると、怯んだように目を逸らされた。そして、躊躇いがちに口を開く。

 

「その、さっきから、“あなた”って……」

「……あぁ」

 

 何を言い出すのかと思えば、ひどく些細なことだった。レーベンの口調が気になっていたらしい。

 

「もう、騎士じゃないからな」

「…………」

 

 鏡に映るレーベンを見ながら答えると、シスネは何も言わなかった。言わなかったが、鏡を持つ白い手がぎりと音を鳴らす。視線を上げると、彼女はひどく――なんとも言えない表情をしていた。怒っているような、泣き出しそうな、失望したような、そんな表情。

 その顔を直視できなくて、レーベンは適当に話題を振った。

 

「そういえば久しぶりだな。聖都(ここ)には何をしに来たんだ?」

 

 先程から気になってはいたのだ。シスネはおそらく謹慎が解けてすぐに聖都に来たのだろうが、いったい何の用事があるのだろうか。仕事であればポエニスからわざわざ聖都へ人が派遣される訳もなく、そうでなければ私用か。よく考えれば彼女は聖都の生まれなのだから、魔女がいない内に里帰りでも――。

 みしり、と。鏡が軋む音が響いた。

 

「……本気で言っています?」

「お、おう?」

 

 シスネの顔にあの複雑な表情は無かった。代わりにあったのは分かりやすい怒りの顔だ。どうもまた逆鱗に触れてしまったらしいが、いったい何が駄目だったのかまるで分からない。心の機微に疎い自覚はあるが、彼女の気難しさも大概だとレーベンは思う。

 

「あなたを! 探しに来たに決まっているでしょう!」

 

 ついさっきのしおらしい様子はどこにいったのか、手にした鏡をバンバンと叩きながらシスネが喚く。今や大事な鏡なのだから割らないでほしい。元は彼女の物ではあるのだが。

 なんにせよ、ひどく気になる発言ではあった。自然と首を傾げながら、レーベンは尋ねる。

 

「何故だ?」

「……え?」

「何故、あなたが俺を?」

 

 シスネがまた一気に落ち着いた。忙しい女である。

 それは確かなレーベンの疑問だ。そもそもシスネは最初からレーベンを拒絶しており、更に己はもう騎士ですらない。嫌いな相手、それも既に縁も切れたと言って良い相手をなぜ追ってきたというのか?

 

「なんでって……」

 

 シスネは答えない。右へ左へと泳ぐ黒い瞳を左目で追っていると、不意に目が合う。目が合って、何故か白い顔を真っ赤に染め上げた。

 

「――言えるわけないでしょう! そんなことっ!」

「えぇ……」

 

 また逆上したように喚くシスネにさすがのレーベンも閉口する。本人にも言えないような理由でレーベンは追ってこられたというのか。過去に何か彼女にしでかしてしまったのか、心当たりはまるで――あるような無いような。

 

「というか、あなたこそ私に何か言うことがあるでしょう!?」

 

 胸に手を当てながら、身を乗り出すようにシスネが言う。そんな彼女の剣幕にレーベンは怯みながらも言葉に詰まる。言うことが無いわけではない。むしろ有りすぎるのだ。

 レーベンが最後に彼女と会ったのはもう十四日も前、ノール村へと続く街道で破戒魔女と対峙していた時まで遡る。あの雨の中での魔女狩りはレーベンの中で消えようもない記憶の一つだ。

 恐るべき破戒魔女を前にしてレーベンはシスネを連れて逃げ出し、他ならぬ彼女がそれを止めた。彼女の言葉に賭け、生死の一線を超えるように二人で戦いを挑んだ。その死闘の果てに結局は敗れ、聖女ではないことを明かしたシスネ。ひとり死に向かおうとした彼女を止め、代わりのようにひとり死に向かったレーベン。

 あれで己は死んだと思っていた。ようやく終わったと思っていた。今思えばそこまで悪くはない死に方だったかもしれない。

 だがレーベンは生きていた。誰であろうシスネがレーベンを生かした。生きてはいたが、結局はこの様だ。死ぬよりはマシだったのか、死んだ方がマシだったのか。レーベンにはもう分からない。

 だが確かなのは、もう会うことはないはずだったシスネが、今こうして目の前にいるということ。

 

「あぁ、その、なんだ」

 

 渇いた喉から掠れた声で絞り出すと、シスネの黒い瞳が痛いほどに見つめてくる。何かを恐れるような、期待するような、そんな目で。吸い込まれそうなほど黒く、強く輝く瞳。

 

『シスネって結構アレだぞ? お前のこと罵倒してる時とか、結構楽しそうだからな?』

 

 不意に思い出した友人の言葉。そういえば突然に現れたからというものシスネはほとんど叫びっぱなしで、その表情も目まぐるしく変わっている。それは随分と――。

 

「元気そうで何よりだ」

 

 思うままに口にしたその言葉はひどく無難で。だがそれを聞いたシスネがまたひどく複雑な顔をしたものだから、レーベンはまた笑った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

なにも知らない彼女

「あぁもう、どうしてこんなに汚れているのですか」

「世話をかける」

「まったくですよっ」

 

 ようやく路地裏での説教から開放されたレーベンは、だがまだ路地裏でシスネに顔を拭かれていた。清拭と呼ぶには彼女の手付きは乱暴で、そこらの農具の方がまだ丁寧に磨かれているだろう。

 なお、やたらと汚れた顔と服はレーベンが故意に汚したものだ。こうしておけばより金を恵んでもらえるだろうという涙ぐましい努力の証である。もっとも、そう言ってしまえば水路に叩き落とされることは明白であった為、レーベンは黙って拭かれることにした。

 やがて、多少はマシになったレーベンを前にしてシスネは額の汗を拭った。その顔はやはり不機嫌そうだが、再会した時よりも顔色は良く見える。

 

「……それで、何故あのような真似をしていたのですか」

「それはあれだ、聞くも涙語るも涙の」

「水路で泳ぎたいようですね?」

「大聖堂に入る為にやった。他に手は無かったと思っている」

 

 適当に誤魔化そうとした途端、割と強い力で左手を掴まれた。以前ならともかく、今のレーベンは彼女の細腕でどうとでも出来てしまう。逆らうべきではないと瞬時に白状した。

「大聖堂?」と不思議そうな顔を向けてくるシスネから左手を抜き出し、そそくさと集まった銅貨を並べて見せる。

 

「入るだけで金がいるとは、聖都は世知辛い街だな」

「そういえばそんな規則もありましたね。……銅貨が九枚、ということは」

「足りないな」

 

 必要な入堂料は銀貨一枚、または銅貨十枚だ。この期に及んで一枚だけ足りないとは、もう笑うしかない。まったく笑えないが。

 

「そういうことだ。あと一枚だけ稼がせては――」

「は?」

「……では金を貸してくれ」

 

 物乞いを再開しようとすると案の定シスネが低い声で脅してくる。ならばと恥を忍んで金を無心してはみたが、何故かシスネはハッとした顔で懐を探りだした。その内に白い顔が青褪めていく様を見て、レーベンもまた軽く絶望する。

 

「なあ、まさか」

「……ごめんなさい」

「ひどい話だ」

 

 彼女はいつもの灰色の装束を纏っており、脇には護身用というには大きすぎる大短銃を提げている。だがそれ以外に荷物らしいものは見えず、要するに銅貨の一枚も持ってはいないようだった。……いったいどうやって聖都に来たのだろうか?

 シスネは恥じるように黒い瞳を地面に落とし、レーベンは左目を建物に切り取られた空に向ける。二羽の(カラス)が二人を嘲るように見下ろしていた。

 

 

 

 現実逃避も兼ねて路地裏を簡単に掃除した後、とりあえず街道に出ようと二人で歩き出す。壁に左手をつきながら歩いていると、溜息をついたシスネに手を取られた。

 

「ほら、掴まってください。杖とか持っていないのですか」

「そこの質屋で売れた。銅貨三枚」

「聞いた私が馬鹿でした」

 

 レーベンが聖都に来たのが三日前。大聖堂で門前払いされてからすぐに物乞いを始めてはみたものの、何が駄目だったのかまるで稼げなかった。故に最後の手段として杖も売ってしまったが、結局は銅貨が三枚。その後の二日で顔を汚してみたりとなんとか試行錯誤を重ねた末に、ようやくあと一歩のところまでこぎ着けたのだ。物乞いも楽ではない。

 シスネに手を引かれながら広場まで歩き、ちょうど三日前に老夫婦と腰掛けていた長椅子に再び腰を下ろす。だがシスネは立ったままで向かいにある質屋をじっと見つめていた。

 

「すぐ戻ります」

 

 レーベンの返事も聞かないまま、シスネは足早に質屋へと歩いていく。無意識に伸ばした左手は何も掴めず、彼女の白い髪が雑踏の中へと紛れていく様を見ることしかできなかった。

 

 

 

「お待たせしました」

 

 シスネは本当にすぐ戻ってきた。まさか銃でも売るつもりかと不安だったのだが、彼女の大短銃は未だ定位置に納まっている。その代わり彼女の姿にどこか違和感を覚えたが、どこが変わったのか分かる前に隣に座られ、同時に何かを手渡された。掌の上には銅貨が一枚。

 

「髪を売ってきました」

「な……っ」

「ちょうど切り揃えたかったので。無料(タダ)みたいなものですよ」

 

 愕然と見返すと、シスネの長い白髪は襟足のあたりで両端が一房ずつ短くなっていた。

 今になって思い出す。あの破戒魔女との戦いの最中、魔女の剣戟によって彼女の髪は一房切り落とされていたのだった。もう片方も切ることで髪型を整えたということらしいが、それで喜べるほどレーベンも能天気ではない。髪とはいえ体の一部、それを売らせてしまったのだ。

 ぎゅう、と。左手で銅貨を握りしめる。

 

「……すまないな」

「大袈裟な。なんだったら全部売っても良いぐらいですよ、こんな(もの)

 

 事もなげに言い放ち、肩についたゴミでも払うかのように髪を流すシスネ。それを見て、思わず口走る。

 

「やめてくれ。俺は好きなんだ」

 

 シスネの動きが止まり、レーベンも口を噤む。言ったことは後悔したが、撤回する気にはならなかった。それもまたレーベンの本心だったからだ。

 

「気が合いませんね。私は嫌いです」

 

 ――なら何故、そんなに伸ばしているんだ

 

 腰まで伸ばされたシスネの白髪を見ながら抱いた疑問。それを今度は口走ることなく心に留めることができた。「白髪の聖女は良い聖女となる」という、三日前に老夫婦から聞いた迷信が頭を過る。

 

「そもそも、杖まで売ってしまうぐらいなら持ち物を全て売れば良かったのでは?」

 

 どこか気まずい沈黙が流れると、シスネがあからさまに話を逸らす。「……あんな真似をしなくても」と続けるあたり、半分は本気なのかもしれないが。そうしなかった理由は幾つかあり、言葉を選んでいる間に彼女は無遠慮にレーベンの鞄を漁っていた。

 

「この鏡とか」

「右手が痛むからな。それに、それはあなたの物だろう」

「鏡じゃなくても水面でも何でも代用できますよ。それにもう譲った物なので好きにして構いま――」

 

 突如として言葉を切ったシスネに左目を向けると、その手には鎮痛剤の瓶が握られていた。中身は既に半分ほどまで減っている。

 ……まずい。

 

「そんなに痛むのですかっ?」

 

 薬に厳しい彼女にしては珍しく、先にレーベンの容体を案じてきた。長椅子の上で身を詰めてくると、そっとレーベンの右目や右腕を触診し始める。そこまで痛みは無い。無いのだが……。

 

「その、腹が」

「腹? 腹部が痛むのですか?」

「いや、そうではなくて」

 

 今にも街中でレーベンの服を脱がしてきそうな勢いのシスネであったが、その時だった。

 ぐう、と。腹の虫が鳴る。それも二人分。シスネは顔を赤くし、対してレーベンは顔を青くした。そうこうしている内にシスネの手がぴたりと止まる。そしてゆっくりと、黒い瞳が見上げてきた。

 

「……ところで、あなた今まで何を食べていたのですか?」

「……」

「正直に言いなさい。怒りませんから」

 

 正直なところ、もう既に彼女の瞳を直視できない程に恐ろしい。それ程に彼女の声は低く、そして笑いを含んでいた。白い左手は意味深に中身の減った鎮痛剤を揺らし、白い右手はレーベンの左手首をがっちりと拘束している。つまり詰みである。レーベンは諦めた。

 

「まあ、なんだ。豆だと思えば案外うまかっ――」

 

 言い切る前に、シスネの手が蛇のようにレーベンの首根っこを捉える。そのまま周囲の視線を物とせずに街道を横断し、再びズルズルと路地裏へ引きずり込まれた。そして、シスネは当然のように先の言葉を反故にしたのであった。

 

 

 ◆

 

 

 路地裏で一通りの説教と制裁を受けた後、レーベンはシスネと共に大聖堂を目指していた。手を引いてくれるのはありがたいが、相変わらず手を繋ぐというよりは連行されているといった有様である。もしくは躾けのなっていない犬とその飼い主か。

 げんなりと見上げた太陽は既に西へと傾き始めている。彼女と再会したのが昼前だったことを考えれば、己はいったいどれだけ説教を受けていたのだろうか。唯一の()()も取り上げられ、ひどく空腹である。

 

「腹が減ったな」

「そこらの石でも詰めてさしあげましょうか」

「分かった、分かったからやめてくれ痛い」

 

 握られた左手を万力のように締め上げられて思わず顔を顰める。銃を扱う以上は当然なのだろうが、彼女の握力は見た目以上に強い。否、それよりむしろレーベンに対する怒りと無遠慮さ故か。なんにせよ石を抱いて水路に沈められては敵わず、文字通り生死を握られているようなものである。だがシスネはなかなか手を緩めてくれず、表情を歪めながら歩くレーベンの姿に周囲から視線が集まってきたあたりでようやく責めが止んだ。

 左側を歩く彼女を恨めしげに見るも、いつもの澄まし顔である。仕方なく視線を前に戻すと、名も知らぬ騎士と目が合い、そして逸らされた。その隣を歩く聖女からの視線もあまり好意的には見えない。

 

「……」

 

 大聖堂に近付くにつれ、周囲の通行人の中に聖女と騎士の装束を纏った男女が目立つようになる。三日前に会った門番の騎士と同じく皆が細身だったが、それ以上に向けられる視線の多さが気になった。正確に言えば、レーベンではなくシスネに向けられる視線が。

 かつてシスネから聞いた話を思い出す。彼女はかつて聖都でも優秀な部類の聖女であったが、三年前の魔女狩りの際に自身の騎士――レグルスを介錯した。それが切っ掛けで彼女は“騎士殺し”というひどく不名誉な名前で呼ばれることになり、以降はずっと一人で魔女を狩っていたのだと。

 思えばおかしな話である。聖女と騎士が互いを介錯することなど珍しくはなく、むしろ真っ当な在り方であるとまで言われているのだ。ならば何故、彼女だけが“騎士殺し”などと呼ばれたのか?

 だが今はそれよりも、冷たい視線を向けられるシスネを何とかするべきか。

 

「……大聖堂はもうすぐそこだ。あとは俺ひとりでも、」

「気にしないでください。慣れていますから」

 

 レーベンの思惑はあっさりと見抜かれ、固く冷たい声で返された。視線に敏感らしい彼女のこと、本当に大丈夫なのかは疑わしいところだったが、シスネ自身がそう言うのであれば己に言えることなど何も無い。だが左手に感じる彼女の手は冷たく汗ばんでいた。

 

「……すまないな」

 

 シスネは何故かレーベンを探しに、おそらくは戻りたくなかったのであろう聖都まで来た。レーベンの為に髪を売り、そして今もまた白い目に晒されている。

 彼女には迷惑をかけっぱなしであり、そして今からレーベンがしようとしていることを考えれば、罪悪感は膨れあがる一方であった。

 

 

 

 シスネに助けられながらなんとか大階段を登りきり、レーベンは再び大聖堂の入り口へと辿り着いた。そして偶然にも、門番を務めていたのは三日前と同じ顔ぶれだったのだ。名も知らぬ細身の騎士とその聖女、そして。

 

「……エイビス」

「……お前」

 

 大聖堂に近付くにつれ口数の減っていたシスネの唇が戦慄くように呟いた。対して名を呼ばれた金髪の小柄な女騎士――エイビスもまた青い目を見開く。知り合いだったのかと疑問を抱き、だがそれは最悪の形でレーベンに答え合わせをした。

 

「お前……っ、よくもわたしの前に顔を出せたな!」

 

 つかつかと歩み寄ってきたエイビスがシスネの胸倉を掴みあげる。印象的だった怜悧な顔立ちは崩れ、今やエイビスの顔には剥き出しの怒りと敵意だけがあった。突然の暴挙にレーベンは呆然と固まり、遅れて駆け寄ってきた門番と聖女たちに引き離されるまでエイビスは手を放さなかった。

 その間、シスネは何の抵抗もせずにエイビスの目を見つめていた。

 

「放せ! 放さないか、くそっ!」

「落ち着け! やめんか馬鹿者!」

 

 それでもエイビスの怒りは収まらないのか、もう一人の騎士に羽交い絞めされながらシスネに食ってかかろうとする。どう見ても彼女は我を忘れており、その青い目には確かな憎悪の光があった。

 なんとか動き出した体でシスネを遠ざけようとするレーベンに、ゆらりと細長い影が近付く。

 

「入堂料を頂戴します」

 

 おそらくはエイビスの聖女なのであろう長身の女が、場違いなほど冷静な態度でレーベンに促した。早くここから去ってくれと、言外にそう言っているのだとレーベンは察する。無言で銅貨十枚を手渡し、逆にシスネの手を引くようにして入り口に向かった。頭を下げる聖女の細い両目もまた、シスネを冷たく見据えている。

 

「――貴殿よ、」

 

 入り口を潜ろうとしたその時、背後からやけに平坦な声が響く。思わず足を止め、左目を向けた先には押さえつけられたままのエイビス。項垂れた頭がレーベンを向き、乱れた金髪の隙間から覗く青い目は未だ憎悪に輝いている。もはや別人のような女騎士が、呪いのような言葉を吐いた。

 

「悪いことは言わん、その女には関わらないことだ」

「そいつは聖女など名ばかりの、穢らしい女」

「貴殿のその傷とて……きっとその女のせいなのだろう?」

 

「――――」

 

 その時、己の内に湧き上がった衝動が何であったのかレーベンは分からなかった。

 知ったような口を。……だがレーベンこそシスネの何を知っているのか。

 彼女のどこが穢い。……だが彼女は本当に聖女ではなかった。

 そしてこの傷は全て。……誰のせいなのだろうか。

 いくつも感情が相反しあい、混ざりあい、弾け飛ぶような衝動が怒りであったのだと自覚し、その全てを当たり散らすようにエイビスへと向け、かつてない怒りを、敵意を、殺意を叩きつけようと――。

 

 

「やめて」

 

 

 その声と左手を捕らえる体温に、己が駆け出そうとしていたことをレーベンは知った。振り向けばシスネは両手でレーベンの左手を握りしめている。レーベンを繋ぎ留めるように、あるいは縋りつくように。俯いた彼女の瞳は見えない。

 

「やめてください」

「もういいんです」

「おねがいだから」

 

 その小さな声はきっとレーベンにしか聞こえなかっただろう。その声は震えず、何の感情も込められていないように聞こえた。何もかも諦め尽くしたような声にレーベンの衝動は掻き消え、ゆっくりと引かれた手に従って足を進める。シスネの足取りはしっかりとしており、速くも遅くもなかった。

 

「騎士殺しめ……っ」

 

 遠くから聞こえた女の声は、涙に震えているように聞こえた。

 

 

 ◆

 

 

「彼女は、レグルスの妹です」

 

 虚ろな心地で薄暗い通路を歩くレーベンの耳に、独り言のようなシスネの声が響く。向けた左目には、ただ前を見て歩くシスネの横顔が映っていた。

 

「だから彼女にとって私は、兄の仇なのですよ」

 

 ひどく平坦なシスネの声に、レーベンは返す言葉を持たない。何故なら、レーベンは彼女らのことを何も知らないのだから。

 シスネがレグルスと契りを交わしていたのならば、彼女らもまた近しい間柄だったのではないか。

 聖都でも珍しい女の騎士であるエイビスは、何を目指して騎士となったのか。

 三年前、彼女たちの間で何が起こってしまったのか。

 シスネは何も語ってはくれず、レーベンにそれを聞く権利はきっと無い。聞いたところでもう意味は無いのだから。

 

 

 

 無言のままで通路を歩き、遂に二人は大聖堂へと辿りつく。

 その広大な空間も、荘厳な作りも、もう何もレーベンの心には響かなかった。

 ただ、彼女のことを何も知らずじまいであったことへの後悔だけが、最後の未練となっていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

末期をかたる

 カエルム教国の女神信仰は清貧を旨としている。その為、信仰の中心となる教会にも華美な装飾などは無く、それは大聖堂であっても例外ではない。どこまでも灰色の、石の色が続いた広大な空間。名の無い女神には偶像もまた無く、建ち並ぶ柱の所々に刻まれた精緻な彫刻だけがこの聖堂に許された唯一の装飾だ。

 壁際の椅子に座りながらその彫刻を眺めていたシスネは友人の派手な装飾銃を思い出し、かすかに頬を緩める。緩めてすぐ、また感じた視線に表情を正した。

 

 ――落ち着いて、落ち着いて

 ――大丈夫、大丈夫

 

 ともすれば痛みだしそうな腹に両手を当てて少しでも温める。目を伏せて何も見ないようにする。心の中で落ち着け大丈夫だと何度も唱え、浴びせられる視線に耐える。街の中では錯覚だと思うことができた。あるいは本当に錯覚だったかもしれないが、この大聖堂の中は違う。今もそこかしこから、聖女たちが、騎士たちが、職員たちがシスネに視線を向けている。その半分は好奇の視線で、そしてもう半分はとても嫌な視線だ。

 

 ――大丈夫、だいじょうぶ

 

 自分がこんな視線に晒されることに不満は無い。シスネはそれだけの事をしてしまったのだから。

 

『騎士殺しめ……っ』

 

 ついさっき会ったエイビスの言葉が耳から離れない。三年前から今に至るまで、彼女から詰られたことも殴られたことももう何度もあるが、未だに慣れることはない。慣れることなどあってはならないし、許されるべきでもないのだとシスネは思っている。すべては因果応報。何もかも身から出た錆。シスネレインという、この穢い女には相応な扱いなのだ。

 でも、それでも。

 

「……っ」

 

 何処からか、クスクスと笑う声が聞こえた。それがシスネを嗤っているように聞こえて、水ぐらいしか入っていないはずの胃が中身を逆流させようとする。腹と口を押さえて吐き気を堪えながら、固く目を閉じる。でも耳だけは働くことを止めてくれない。

 騎士殺しだ、騎士殺しが帰ってきたぞと、聞こえてきたその声が幻聴だったのかどうかシスネにはもう分からない。そんなことを言われるのも、そんな目で見られるのも当然のこと。そう納得してはいても、それに耐えられのかはまったく別の話で。シスネにはもう耐えられそうも――。

 

 

「待たせた」

 

 

 幻聴でないその声は、思いのほか近い位置から聞こえた。さっと身を起こして視線を上げると、霞んでいた視界に見慣れた黒髪が映る。

 

「大丈夫か?」

 

 彼の――レーベンの右目は包帯に覆われているが、それでもその顔がシスネを心配していることがはっきりと分かる。他の人たち、カーリヤやライアーでさえも彼の表情は分からないと言うが、シスネには手に取るように分かる。こんなに分かりやすい人なのだから。

 

「……何がですか」

「いや、腹を押さえていたから」

 

 反射的に険のある口調で返してやる。彼は気にした様子もなく「腹が減ったのか?」と冗談なのか本気なのか分からないことまで言ってきた。顔を見れば本気のよう。確かにシスネはもう二日ほど碌に食べていないが、元より少食な上に今は食欲など欠片も無い。

 ……と、そこで目の前の馬鹿が鎮痛剤を食料にしていたことを思い出す。薬には用量と用法があるのだとあれほど言って聞かせたというのに、まったく本当にこの馬鹿は!

 

「ご心配なく。誰かさんのように薬を食べる程ではありませんから」

「怒らないと言ったじゃないか……」

「何か言いましたか?」

 

 小声で愚痴りながら隣に腰掛けてきたレーベンの脇腹を小突いてやるが、固い筋肉の感触だけでまるで動じない。もしシスネが同じことをされればきっと飛び上がってしまうだろうに、不公平だと思う。

 

「薬を食べ物にするだなんて馬鹿な真似をする馬鹿は初めて見ましたよ、この馬鹿」

「そろそろ勘弁してくれないか」

「本当に馬鹿。このばーか」

「子供か……」

 

 本当に子供じみたシスネの罵声に対しても、レーベンは本気で落ち込んだような顔をしてくる。それがやけに可笑しくて、シスネはかすかに頬を緩めた。

 

「あぁ、そうだ」

 

 子供で思い出したのか、レーベンがあの少女――ミラと偶然に出会った話を始めた。

 ミラが市井の孤児院に移っていたということはシスネも初耳だったが、そこでも逞しく過ごしているようで安心する。そしていつか医療者になり、魔女禍も根絶したいという少女の夢。おそらく叶わないであろうその夢は、シスネにはひどく眩しい。

 

「……なれると良いですね」

「あの子の夢が本当に叶えば、聖女も騎士もいらなくなるが」

「結構なことではないですか」

「違いない」

 

 皮肉げにそう言って、二人で乾いた笑いを漏らす。シスネもレーベンも、もう聖女と騎士ではないのだから言いたい放題であった。こんなことが上位職員の耳にでも入れば懲罰ものだろう。

 

「それで、あなたは何と答えたのですか」

 

「何がしたい」という、かつてシスネがミラに投げかけた問い。それを今度はミラがレーベンに問うた。その答えをシスネは知りたい。無遠慮だと思う。踏み込みすぎだと、自分のことは碌に話さないまま何様のつもりだと思う。それでもどうしても知りたかった。それはきっと、彼が今こうして聖都に来た理由に違いないのだから。

 レーベンはなかなか答えてくれなかった。それなりに長い沈黙の後に彼は、

 

「秘密だ」

「……はぁ?」

 

 勿体ぶっておいてそれかと、シスネは呆れと怒りを同時に抱く。だが彼の横顔は今まで見たことがないほど真剣でもあった。

 

「秘密だが、このままじゃ叶わないことは確かだ」

「このままじゃあ、絶対に」

「だから俺はここに来た」

 

 それは答えにはなっていないように聞こえたが、同時に答えだったのだろう。それ程にレーベンの声は固く、何か得体の知れない覚悟を抱いているような声だったから。

 

「ここに、聖女長に会いに来たんだ」

「聖女長……」

 

 呆然とした言葉がシスネの唇から零れる。

 イグリット聖女長。最近まで聖都にいたシスネは当然その名前も知っており、会ったことだってある。教皇にも並ぶ権限を持つ聖女長に対して何を願う気なのだろうか。だが彼女は……。

 

「謁見を申し込んでいたのはその為ですか。……でもその、あの方は、あなたが思っているような人では」

「聖性の扱いについては凄腕だと聞いている」

「それは、そうですが」

「ならいい」

 

 そう言ってレーベンは会話を打ち切ってしまう。隣に座る彼を見るも、左目はもうシスネを見てはいなかった。そのどこか拒絶的な態度に胸騒ぎを覚える。

 

「……レ」

「そういえばな」

 

 再び声をかけようとした矢先、レーベンに言葉を遮られた。あからさまなそれに苛立ちを感じ、思わず口を挟もうとするも彼は更に言葉を続ける。

 

「ライアー達が結婚するらしい」

「そうですか。それよりも話はまだ…………へ?」

 

 自分でも間抜けな声だったと思う。だがそれだけ衝撃的な内容だったのだ。

 

「ラ、え、だ……っ、誰とですかっ」

「カーリヤに決まっているだろう」

「え、あ、はあ、いやそれは分かっていますけれどもっ」

 

 付き合いの短いシスネであっても、カーリヤ達がそういう仲であることはとっくに分かっていた。分かってはいたが……。

 その後もレーベンは、ライアーが聖都に家を建てる為にずっと倹約していたことや、今まさに行われている魔女の捜索が二人の最後の仕事となること、それが終わって初めて結婚を申し込む予定になっていることなど、ずいぶんと詳しく語ってくれた。そんな大事なことを何故カーリヤは教えてくれなかったのかと内心で憤慨していたシスネは、ホッと密かに胸をなでおろす。彼女も知らなかったのであれば仕方ない。……同時に、嫉妬と寂しさを覚えている自分の穢さを自覚した。

 

「喜ばしいことですけど……寂しくなりますね」

 

 口をついて出てきた言葉は、自分でも意外なほど弱々しかった。

 思えば、シスネがポエニスに行ってからの短い間にずいぶんと親しい人たちが増えた。カーリヤにマリナ、彼女らが仲を取り持ってくれた他の聖女たち、ライアーもロビンも、他の騎士たちも、そして……。

 

「そう、だな」

 

 だがその人たちは、皆いなくなるのだ。カーリヤとライアーはポエニスを去る。マリナとロビンは死んでしまった。他の聖女と騎士たちとだって、シスネ一人でこれまでのように良い関係でいられる自信は無い。

 そして、レーベンは。

 

「これは、俺の口から言うべき事じゃないかもしれないが」

 

 左目を石床に落としながらレーベンが語る。

 

「ライアーの家族を殺した魔女は……カーリヤの母親だったそうだ」

「え……っ」

 

 それは、よくある話だった。魔女禍と共に生きていくしかない教国では、本当によくある悲劇。魔女が生まれる原因が解明されない以上は、いつどこで誰が魔女になっても不思議ではない。同郷の出身だというあの二人が幼い頃からの近しい仲だったのなら、それも充分にありえる話なのだ。

 

「だから、俺が子供の頃に会った二人はいつも喧嘩していた」

「喧嘩といっても、ライアーが彼女を拒絶しているだけだったが」

「きっとそれも無理のないことなんだろう」

 

「俺には分からないが」とレーベンが続ける。彼が孤児で、家族というものを知らないという話はシスネも忘れてはいない。シスネだって家族は知っていても、その家族を魔女に奪われる悲しさまでは知らない。そういう、自分はこの国ではひどく幸運な人間なのだから。

 だが想像することはできる。昨日まで、ついさっきまで家族だった女が魔女に変わってしまう。そして友人を、その家族を襲う。あるいは襲われる。そんなこと、きっとシスネは耐えられない。

 

 ――カーリヤ……

 

 カーリヤも、ライアーも、いったいどれだけ悲しかっただろう。苦しかっただろう。まだ幼かった彼の悲しみと憎しみは、きっと遺されたカーリヤに向いてしまったのだ。それを誰が責められるというのか。そしてカーリヤもまた、その全てを自分のせいだと思い込んでしまった。

 友人とその親友の境遇を思い、悲痛な思いでいたシスネの耳に、どこか笑いを含んだような声が響く。

 

「だがまあ、今はもうあの調子だろう?」

「え? ……あぁ、はい」

 

 シスネは意味も無く高い天井を見上げた。きっと遠い目になっていただろう。

 あの日、ポエニスの食堂でシスネが最初に抱いた印象は「変な人たち」だった。カーリヤはその輝くような美貌に目を奪われ、そしてあられもない改造装束に本当は聖女ではなく娼婦か何かなのではないかと本気で疑ったことを覚えている。……あと、あの豊麗な肢体は不公平だとも。

 ライアーは聖都の騎士たちとは比べものにならないぐらい逞しい体型をしていて、騎士長ほどでなくともその大きな身体に恐怖を覚えていた。でも彼はとても紳士的で控えめで、むしろ破天荒なカーリヤに振り回されていることの方が多くて意外に思ったことを覚えている。

 レーベンは……。

 なんにせよ彼ら三人の仲は良く、暗く悲痛な過去など微塵も感じさせない。

 

「つまり、何が言いたいかというとだな」

 

 そのレーベンは、言葉を選ぶようにして左手で黒髪を掻いている。どこか必死なその姿を見ていると胸のあたりに擽ったさを覚え、気が付けばシスネはその手をそっと掴んでいた。

 

「つまり、何ですか」

「……つまり、」

 

 手を掴んで催促してやると、すっと息を吸った音の後で彼が顔をあげた。灰色の左目が、いつになくまっすぐシスネの瞳を捉える。

 

「あなたも、あのエイビスという騎士と和解できる日が来るかもしれないと……そう言いたかった」

「――」

 

 シスネの頭に、在りし日の光景が過った。

 

 

 

『紹介するよ。この子は、』

『え、エ、エイビスといいますっ! あ、兄がいつもお、お世話に!』

『うん、まずは落ち着こうか』

 

『シスネレインさん、その……ひとつ、相談したいことが』

『……え? い、いいんですか?』

『では、よろしくお願いします、シスネ……さん』

 

『はい……わたし、決めたんです』

『聖女にはなれなくても、皆を魔女から守ることはできますから』

『わたしは、騎士になります!』

 

 

 

『なんで……なんで……』

『なんで、兄さんを殺したの……?』

『答えろっ!』

 

『お前のどこが聖女だ……!』

『穢い……! 穢らわしい女め!』

『この――騎士殺しがっ!』

 

 

 

 みしりと、レーベンの左手が軋んだ気がした。いつの間にか握りしめていたレーベンの左手から手を放すも、彼は何も言わない。呼吸を忘れていた肺腑に荒く空気を送り込むシスネをただじっと眺めていた。

 

「できると、思いますか」

 

 やがて整えられた息で、静かに呟く。こんな言い方は卑怯だと分かっていても言わずにはいられない。だがレーベンの返事も大概だった。

 

「……できると良いな」

「なんですかそれ」

 

 無責任な言葉にまた脇腹を小突いてやる。でもやっぱり身じろぎ一つしてくれなくてつまらない。だが結局これはシスネとエイビスの問題なのだ。レーベンにどうこう期待することではない。

 もう一度レーベンの左手をとる。赤い手形の跡を指先でなぞった。

 

「できると、良いなぁ……」

 

 許されるべきではないと思っていても、やっぱり許されたいと思う。ならシスネがどうにかしなければならないのに、そうする勇気もない。

 そんな自分は本当に、弱くてどうしようもなくて、そして穢い女だった。

 

 

 ◇

 

 

「お待たせしました。ご案内します」

 

 一時間ほどは待っただろうか。大聖堂の職員がレーベンの前に現れ、謁見室まで案内される。シスネも彼の手を引きながらそれに続いた。

 大聖堂の中は広く、シスネも行ったことのない場所は多い。謁見室もその一つだ。石造りの通路は長く、飾り気もないため風景の変化に乏しい。無限に続く回廊にでも迷い込んだ気分だったが、時折すれ違う市民や職員、または聖女と騎士が、ここが現実の建物であることを教えてくれた。彼等の多くはシスネに視線を向けてくるが、そのシスネに手を引かれるレーベンの方も気になるようだった。

 聖都では珍しい黒髪に、ボロボロの黒い外套。右目に巻かれた包帯といい、どこか不吉な印象を与えているのかもしれない。せめて外套を脱げばマシになるかもしれないが、そうすると今度は存在しない右腕が注目されるだろう。彼は視線を気にしているのかしていないのか、その左目はただ前だけを見ていた。

 

「こちらです」

 

 やがて辿りついたのは、何の変哲もない扉の前だった。今までいくつも並んでいた他の部屋の扉とまったく同じ。ただ「謁見室」と、簡素な札が貼られているだけ。

 レーベンが左手を扉にかけ、だが開くことなく止まった。そのまま何故かシスネの前に戻ってくる。

 

「持っていてくれ」

 

 レーベンが首にかけられていた細い鎖を引っ張り出す。その先には銀色の指輪が二つ通されていた。誰の何の指輪かなど聞くまでもない。言われるままにシスネは鎖を外し、二つの指輪を手に握る。

 

「……」

 

 その時、レーベンの左目に安堵の影が掠めたことをシスネは見逃さなかった。

 自分でも分からない焦燥と衝動が湧き上がり、気が付けばまた彼の左手を掴んでいる。

 灰色の左目がシスネと交差した。

 

「私も、一緒に行きます」

 

 

 

 背後で扉が閉められる。

 薄く小さな扉であるはずなのに、まるで鉄の城門が閉ざされたような幻聴をシスネは聞いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

聖女たちの長

 そこは謁見の間と呼ぶには簡素に過ぎた。決して広くはない部屋だというのに、あまりにも物が少ないせいで寒々しい程に広く感じる。ただ、正面の壁織物(タペストリー)に描かれた教会の紋章だけがこの部屋に彩りを沿えていた。

 交差した二本の赤い剣。それを限界まで簡略化した、長短二対の直線だけで構成された紋章こそが教会の象徴だ。二本の剣が示す物は勿論、聖女と騎士である。その紋章の下で数名の人影がシスネ達を迎えていた。

 

「あら、懐かしい顔が」

 

 久しぶりに聞いた、記憶の中のままに涼やかな声。護衛らしき二組の聖女と騎士が無言で控える中に、その声の主がいた。

 この部屋には玉座どころか椅子の一つも無いが、その人物だけが椅子――簡素な車椅子に悠然と腰掛けている。

 清貧を現す灰色の装束。その意匠はシスネや周りの聖女が着ている物とは異なるが、それは特別という意味ではなく、ただ古い為に異なるのだ。だがその古装束を纏うのは、長い白髪と氷色の瞳を持った、ひどく若々しい女。

 いや、若々しいという言葉は正しくないかもしれない。人が魚や虫の姿を見ても、それがどれだけの月日を生きた個体なのか判別できないように、年齢というもの自体を感じさせない。そんな異様な風貌の、非人間的な美しさを持つ女だった。

 だがそれすらも彼女の姿を見れば些末事でしかない。

 

「久しいですね、シスネレイン」

 

 キイ、と軋んだ音と共に車椅子が一歩分近付いてくる。彼女自身が車輪を回したのではなく、傍に控えていた聖女が押したのだ。何故なら彼女にはそれができないのだから。

 彼女には左腕が無く、その長いスカートからも左足の靴は覗いていない。なだらかな曲線を描く胸の膨らみですら左右で異なる。左頬を中心として白い顔は無残に爛れており、左端が引きつった唇は歪な笑みを常に浮かべ、白髪から覗く耳も氷色の瞳も左側は欠損していた。まるで、左半身をまるごと削ぎ落されたかのような姿。

 それはシスネも聞いたことのある話だ。

 彼女はかつて聖女として戦い、魔女に捕らえられ、そして生還した。身体の左半分を失うほどの凄惨な拷問に晒されながらも自決せず、助けが来るまでひたすら耐え続けたという。

 それも全ては魔女を狩る為。自決してしまえばもう魔女を狩ることはできない。だから彼女は自決しなかったのだと。その傷をあえて晒すのも魔女の恐ろしさと悍ましさを知らしめる為。彼女のこの姿を一度でも見てしまえば、魔女は狩るべき敵であるとしか思えなくなるのだから。

 

「はい、お久しぶりです。聖女長……」

 

 イグリット聖女長。

 おそらく聖都に住む聖女と騎士たちの、少なくともシスネにとっての恐怖の象徴がそこにいた。

 

「こうして顔を合わせるのはいつぶりでしょう? たしか貴女が騎士レグルスを介錯した時でしたか」

「……っ」

 

 歪な顔に柔らかな微笑を浮かべながら、シスネの心を抉るような言葉を並べる聖女長。だが彼女に一切の悪意が無いことはシスネにも分かっている。レグルスの死もシスネの苦しみも、彼女にとって大した意味は無いのだろうから。

 彼女はそういう人だ。ヴュルガ騎士長が人の心を無慈悲に切り捨てる冷血漢ならば、イグリット聖女長は人の心を無意識に踏みにじる破綻者。騎士長が魔女狩りの為に他の一切を無視することに対し、聖女長は最初から魔女狩りしか見ていない。

 

「活躍は聞いていますよ。旧聖都(ポエニス)へ行かせたことは正解だったようですね」

「貴女の魔女狩りへの執念は素晴らしい」

「魔女の少ない聖都で遊ばせておくには惜しいというものですから」

 

「……ありがとう、ございます」

 

 称賛に対して形だけ頭を下げて応えるが、当然シスネの心に喜びなど無い。それどころか間接的に貶められたような護衛の聖女と騎士たちから刺すような視線を感じる。彼らとて聖女長が恐ろしいだろうに、だからこそシスネが矛先となってしまったか。

 また痛み始めてきた腹を押さえていると、隣のレーベンが一歩前に出た。

 

「お話のところ申し訳ありませんが、聖女長」

「えぇ、えぇ、忘れてはいませんよ騎士レーベン。いえ、もう騎士ではありませんか」

 

 横目で見たレーベンの左目はただ前を向いており、聖女長の言葉にも動じた様子は見られなかった。沈黙で返すレーベンに対し、聖女長の唇が右端も吊り上がる。充分に美しいと言える右側の微笑と歪み爛れた左側の笑い顔が混在した怪相に、思わずシスネは目を背けそうになった。

 

「貴方のこともよく知っていますよレーベン」

「聖女のいない身でありながら、狩った魔女の数は他の騎士たちと遜色ない」

「あの日、貴方を殺めなくて本当に良かった」

 

「ぇ――」

 

 無意識に口から零れた声を手で押さえ、顔を向けた先のレーベンはやはり動じた様子もなく頭を下げている。聖女長と会ったことがあるのか、あの日とは何なのか、殺めるとはどういうことか。今すぐ問いただしたくなる衝動を堪えながら表情と姿勢を正した。

 シスネもレーベンも傍らの聖女と騎士たちも沈黙を守る中で、何がおかしいのか聖女長だけがころころと笑う。だが声帯にも何らかの異常があるのか、涼やかな声と裏腹にどこか歪な笑い声で。ひとしきり笑った後で聖女長が車椅子に座り直した。

 

「前置きが長くなりましたね。それで、この(わたくし)に何用ですか?」

「率直に申し上げる」

 

 レーベンが更に一歩、前に出る。何故かシスネはそれに手を伸ばしそうになった。

 

 

「今ここで、貴女の聖性を頂きたい」

 

 

 無言のまま、護衛の聖女と騎士たちが驚愕の表情を浮かべた。

「ほう……」と、聖女長がまた歪な微笑を浮かべた。

「ば……!」と、シスネは時と場所も忘れて彼の左手を掴んでいた。

 

 聖女と騎士が共闘の関係を結ぶことを「契り」などと呼ぶが、特にそうした法や契約があるわけでもない。特に市井の人々からは誤解されがちで、聖女と騎士は互いに他の相手とは共闘できないと思われることが多くある。だが実際は聖性の流れが適合さえすれば誰とでも共闘は可能であり、それこそ一人の聖女が複数の騎士に聖性を流すことも理論上は可能なのだ。

 かつて、最初の聖女と騎士たちが魔女と戦った暗黒時代。当時は今と比べものにならない程に聖女も騎士も死者は多く、故に一定の相手と組むことなど非常に稀だったと言われている。何人もの聖女を愛したコルネイユや、聖女を使い捨ての道具としたジャック・ドゥなどその典型だろう。

 だがそれも昔のこと。現在では聖女も騎士も一人の相手と生死を共にすることが是とされており、添い遂げるようなその在り方が「聖女と騎士は夫婦のようなもの」などという誤解にも繋がるほどだ。

 

 故にレーベンの願いは暴挙そのもの。それこそ間男のそれにも似た恥ずべき行為だ。それをあろうことか、このイグリット聖女長に願うなど。まして彼女が契りを交わした相手は誰であろう、あのヴュルガ騎士長だというのに!

 

「馬鹿っ! いったい何を――」

「下がりなさい、シスネレイン」

「っ!」

 

 聖女長の声に威圧の色など欠片も無い。だというのにシスネの足は一歩後ずさり、だが手だけは放さなかった。心の奥底に刻まれた聖女長への恐怖に抗うシスネの手を、他でもないレーベンがそっと引き離す。そうして彼はもう、シスネの手の届かない所まで行ってしまった。

 レーベンが更に聖女長に近付き、護衛の騎士二人がそれを阻むように前に出るが、それも聖女長が手を上げて制した。

 

「私としては一向に構いませんが、よろしいのですか?」

「はい」

「結果は目に見えていますが、それでも?」

「はい」

「何の為に?」

「騎士として、いきる為に」

「素晴らしい」

 

 レーベンも聖女長も淡々と話を進めてしまう。シスネだけを置いて。そして気が付けばもう、二人の騎士に押さえつけられたレーベンが跪き、その眼前まで車椅子が近付いていた。

 

嗚呼(ああ)、なんということでしょう」

「シスネレインといい貴方といい、素晴らしい執念です」

「その覚悟、私も全霊を以て応えようではありませんか」

 

 聖女長の氷色の右目は、その色彩とは真逆のような熱を孕んでいた。どろどろに熔けた鉄のように粘ついたそれを一身に浴びながら、レーベンが左手を伸ばす。掲げられた聖女長の右手に向けて。

 

「――――」

 

 その光景を目にした瞬間。肚の底に湧き上がった感情をシスネはよく知っていた。

 何故、彼はその手を別の聖女に向けているのか。……シスネが聖女じゃないから。

 何故、彼はその手をシスネに向けてくれないのか。……シスネが拒絶したから。

 何故、彼はその左目でシスネを見てくれないのか。……シスネを拒絶したから。

 穢くて、穢くて、穢い感情がいくつも湧き上がり、混ざりあって、溢れ出しそうなそれを必死に抑え込んで。そしてそれも、次の瞬間には青白い火花とレーベンの絶叫に塗りつぶされてしまった。

 

「……っ、ぐ、がっ……あ゛あ゛あぁ――――っ!」

 

 言動と行動はともかくとして、物静かな人だと思っていた。常に淡々とした口調で、よほどでない限り声を荒げることも大声を出すことも無かった。そのレーベンが、シスネの目の前で絶叫していた。

 聖女長の全身から溢れ出す凄まじい聖性の光。それが二人の手を伝ってレーベンの体に流されている様がはっきりと見える程の。だがそれは全て彼の体に流れ込まずに弾かれていた。そして行き場を失った聖性が火花となって、レーベンの体を焼いているのだ。

 

「聖性とは、もうひとつの血流のようなものです」

 

 部屋の中はレーベンの絶叫が反響しているというのに聖女長の声はいつも通りに涼やかで、そしてよく響いた。今も目の前では騎士に二人がかりで押さえつけられたレーベンの体がガクガクと痙攣しているというのに、それもまるで意に介していないような。

 

「しかしその流れは一定ではなく、誰もが少なからず歪んでいます」

「その歪みの形、それが近いほどに聖女と騎士の適合率は高いものとなる」

「しかし、これ程までに歪んだ聖性は私でも視たことがありません」

 

 絶叫が続く。痙攣が止まない。レーベンの目から鼻から耳から口から噴き出した血が撒き散らされ、その灰色の古装束と白い顔を赤く汚されても、聖女長は歪な微笑を浮かべたまま。

 

「もはや歪みというより、()()

「いっそ美しいほどに正反対の流れの持ち主なのですね、彼は」

「そして、この私の聖性は限りなく正道に近い流れであると自負しております」

 

「だから、これ程までに彼は苦しんでいるのですよ」と、聖女長は締めくくった。その間も、ずっとレーベンは叫び続けている。

 いったい、なにを

 いったい何をしているのか、この二人は。

 

「……聖女長」

「なにか?」

「もう、もう無理です。やめてください、これ以上は、」

「何故です?」

「…………は?」

 

 不敬も良いところの声と表情を、シスネは聖女長に向けてしまった。でももう、そんなことは気にならない。気にしていられない。

 

「何を言って……! これ以上は死んでしまいます!」

「その通り。それこそが彼の望みなのですから」

「あ、……え――――?」

 

 湧き上がった怒りも衝動も、ほんの一瞬で消えてしまう。

 なに? いま、何と言った?

 

「こうなることは分かっていたはずです」

「結果は火を見るよりも明らかだったはずです」

「それでも彼はこれを望んだ」

 

 

「今度こそ、騎士として死ぬ(いきる)為に」

 

 

 ――――あ、

 

 シスネの耳からも、レーベンの絶叫が消えて無くなった。

 その言葉は鋭利な刃のようにシスネの胸を貫き、だが精巧な鍵のように噛み合ってしまったから。

 

 

 

 命知らずな人だと思っていた。正気ではないとも思っていた。

 初めて会った夜、彼は碌な装備も無いままでひとり魔女に向かっていった。

 廃鉱山では、狂気の産物みたいな武器と薬を躊躇いなく使っていた。

 夜の森では、力の差も歴然な相手に何度も食らいついていった。

 破戒魔女には退こうとした。でも結局は、その身を挺して魔女を狩った。

 

 ――あぁ、そうか

 

 聖女と騎士の物語は、いつだって悲劇で終わる。

 なら騎士として生きることと、騎士として死ぬことに何の違いがあるのか。

 彼はきっと。彼はずっと。

 魔女と戦って、死のうとしていたんだ。

 

 

 

 そして、それを、シスネは。

 

 

 

「何の真似ですか? シスネレイン」

 

 掴んだ彼の左腕は血に塗れて、死体のように冷たく強張っていた。でも、シスネの方がよほど死体のような顔をしていたのだろう。それほどに、自分の唇から零れる声は低く震えていた。

 

「もうやめて……手を、はなして」

 

 どちらに対して言っていたのか。聖女長か、レーベンか。どちらにせよ、そのどちらもシスネの懇願を聞いてはくれなかった。聖女長は尚も聖性を発し続け、レーベンは尚もその手を掴んで放さない。悍ましいほど輝く聖性に焼かれながら、血と絶叫を撒き散らしながらも、聖女長の手を掴み続けている。

 

「はなして、放してよっ!」

「落ち着きなさい、シスネレイン。私は誰の手も掴んではいませんよ」

 

 聞き分けの無い子供でも窘めるように聖女長が言う。たしかに彼女の手はただ掲げられているだけで、それに指を搦めながら掴みこんでいるのはレーベンの方だ。細い指が今にも圧し折れそうなほど力を込められているというのに、聖女長は今も歪な微笑を浮かべている。わらいながら、彼を殺そうとしている。

 

「聖女長っ! もうやめてください! やめて!」

「断ります。彼にその意思がある限り、絶対に」

 

 言外に「止めたければ彼に手を放させろ」と、そう言っているのだと分かった。

 でも分かったところで、レーベンは苦痛に叫ぶばかりで何も聞こえていないように見える。ただただ聖女長の手を掴んで死に向かおうとしている。シスネがどんなに手を引っ張ってもびくともしない。シスネが無様にもがいている内に彼の叫びが小さくなってきた。苦痛が止んでいるのではない、死に近づいているのだ。

 もう時間が無い!

 

「あぁ……っ!」

 

 正気じゃない。レーベンも聖女長も正気じゃない。でもそれはきっと、今のシスネも同じことだった。

 カチリ。遂にシスネの左手から小さな音が鳴る。

 

 

 

「……手を、放しなさい」

 

 後ろから抱きつくように、彼の首に右腕を回す。そして彼の左目に見せつけるように、「それ」に左の親指を押し付けた。近くに立っていた二人の聖女がそろって小さな悲鳴をあげる。

 それはどの聖女にも配られる指輪だ。人差し指にはめて、小さな突起を指で弾けば針が飛び出す暗器じみた仕掛け。だがそれは他者を害する為の物ではない。

 

「本気ですよ……!」

 

 自決指輪。その毒針に親指を押し付け、シスネはレーベンに迫った。

 つまりは、このまま死ぬのならば自分も死んでやる、と。

 

 

 

 絶叫が止んだ。室内の皆が沈黙する中、シスネの荒い息遣いだけが響いている。

 レーベンは未だ手を放さず、シスネは親指を更に毒針へと押し付ける。指先の薄い皮が破れ、血に毒が届こうという刹那に。

 

「…………、……――――」

 

 シスネの震える声を聞いていたのか、聞こえていなかったのか。震える指を見ていたのか、見ていなかったのか。あるいはただ限界だったのか。

 レーベンの左目が白目を剥き、ずるりと左手も抜け落ちる。そのまま死体のような体をぐったりとシスネに預けて、気を失った。

 

 

 ◇

 

 

「それで良いのですか?」

 

 指輪の毒針を慎重に納め、動かなくなったレーベンを背負う。無言で部屋を後にしようとしたシスネの背に、涼やかな声が投げかけられた。振り返らないまま、足だけを止める。

 

「一度ならず二度までも、貴女は彼から死に場所を奪うのですか?」

 ――うるさい

 

「これから彼に、どのような生を歩めというのですか?」

 ――うるさい

 

「今度こそ、貴女は本当に、」

 ――うるさい

 

「彼を、“殺して”しまうのですか?」

 ――うるさい!

 

 内心で叫びながら振り返る。聖女長を精一杯にらみ返してやるつもりで目を上げ、そして目が合った。

 

「――――ぁ、」

 

 氷色の瞳。片方だけの瞳。変わらない歪な微笑を浮かべるだけの瞳を見て、根拠もなく確信した。

 

 ()()()()()()()

 

 聖女長には、きっとすべて見抜かれている。

 シスネが、レーベンに抱いている情念も。

 シスネが、もう聖性を使えないことも。

 シスネが、レグルスを介錯した本当の理由も。

 シスネが、どれだけ穢い女なのかも……。

 ぜんぶ、とっくの昔から見抜かれていて、その上でシスネに何もしなかった。

 だって、魔女狩りには関係ないから。どうだっていいことだから。

 シスネの嘘も偽りも、ぜんぶ分かった上で……。

 

「――――っ!」

 

 気が狂うような羞恥だった。

 焼け落ちるかのように顔が発火しながらも、凍りつくかのように頭からは血の気が引いていく。踵を返し、彼の体を引きずりながら扉を開ける。もう無理だった、もう一秒だってここにはいられない。

 

「女神の導きのあらんことを」

 

 どこまでも無様なシスネの姿を、イグリット聖女長は変わらない聖句で送り出す。

 消えられるものなら、今すぐにでも消えて無くなりたかった。

 この街からも、この国からも、この世界からも。

 もう、消えてしまいたかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

こたえ

 シスネは、彼をどうしたいのだろう。

 

 

 

 気が付けば路地裏に座り込んでいた。どこをどう歩いてきたのかまるで覚えていない。血塗れになった彼を背負っていたらしいシスネの装束も血塗れで、ここに来るまでさぞ注目を集めていただろう。

「あの騎士殺しが、また騎士を殺した」と、今頃そんな噂が広まっているかもしれない。

 

『なんで……、なんで兄さんを殺したの……?』

 

 でも、その噂はすべて事実なのだ。違いと言えば、今シスネの膝に頭を乗せているレーベンがまだ死んでいないというぐらいで。

 無意識に彼の黒髪を撫でていた手を首筋へと滑らせれば、弱々しくもたしかに脈打っている。夕日に照らされていても青白い顔はまだ血に汚れたままで、残った左目も開く気配は無い。元から弱っていただろう身体にあの仕打ちだ。このまま目を覚まさない可能性すらある。

 イグリット聖女長の聖性に痛めつけられた、身体。

 

「……」

 

 すっと息を吸い、精神を集中する。目を閉じて自分の鼓動に耳を傾ける。脈打つ心臓が送り出す血に乗せて流すような感覚で、それを――聖性を発しようとする。

 

 遠くからかすかな雑踏と、水路の水音と、ゴミ箱の上に降り立つ(カラス)の羽音だけが聞こえた。

 

 レーベンの首に添えられたシスネの手に聖性の光は無い。指先ほども輝きはしなかった。当然だ。三年前のあの時から幾度となく試しても成功しなかったのだから。シスネはもう、聖女じゃないのだから。

 そもそも何故、今そんなことをしたのか。仮に、万が一、今ここで聖性を使えたとしてどうするつもりだったのか。彼を癒したかったのか、それとも。

 

『騎士として、いきる為に』

 

 彼は生きたかったのか、それとも死にたかったのか。シスネにはもう分からない。彼は何も話してはくれなかったし、今だって何も聞けはしない。でも、ひとつだけ確かなのは。

 

『ありがとう、レイを助けてくれて』

 

 カーリヤはシスネにそう言った。レーベンを治療し、生還させたことを感謝してくれた。

 でも。

 

「……ごめん、なさい」

 

 レーベンは一言も、シスネに「ありがとう」とは言わなかった。

 

『一度ならず二度までも、貴女は彼から死に場所を奪うのですか?』

『これから彼に、どのような生を歩めというのですか?』

 

「ごめんなさい……っ」

 

『今度こそ貴女は本当に、彼を“殺して”しまうのですか?』

 

 シスネは、彼をどうしたいのだろう。

 傍にいてほしい、でも傍にいると苛立つ。求めてほしい、でも受け入れたくない。苦しんでいるところを見たくない、でも生きていてほしい。

 シスネはいつだって矛盾だらけだ。三年前のあの時から、レグルスを殺した時から、……レーベンと会った時から。

 

「嫌い……」

 

 シスネはレーベンが嫌いだ。シスネはシスネが嫌いで、でもレーベンを見ていると少しだけシスネが好きになれて、そんなシスネとレーベンが何よりも嫌いだ。

 全部シスネのせいだ。レーベンがこんなに傷だらけで、今ももっと傷だらけなのはシスネのせいだ。

 全部レーベンのせいだ。シスネがこんなに苦しくて、もうずっと苦しいのはレーベンのせいだ。

 シスネがいなければ、レーベンがいなければ、シスネもレーベンもこんなに苦しまなかったのだ。

 

 なら、もういっそのこと――!

 

 シスネの中で狂気が首を擡げる前から、シスネの手はレーベンの首を絞めていた。

 騎士としては細くて、何より弱りきった彼の首はシスネの手でも圧し折れそうだった。両手を回して、汚れた地面に押し倒して、体重をかけて、レーベンをこの手で――

 

 

「ころして、くれるのか」

 

 

 灰色の左目がシスネを見上げていた。

 いつ起きたのか。いま起きたのか。でももう、そんなことはどうでも良くて。

 

「殺して、ほしいのですか」

 

 口走った言葉は自分でも滑稽なほど震えていた。対してレーベンは虚ろな目を何度か瞬く。シスネの問いをじっと吟味するように。待ちきれないほどの時間を置いてようやくレーベンが答えた。

 

「いいや」

「なら何故っ」

 

 何故、あんな回りくどい自殺じみた真似をしたのか。聖女長の言う通り、結果など目に見えていたはずだ。今まで誰の聖性も受け入れられなかったレーベンが、今回に限って都合よく適合なんてするはずが無いと分かり切っていたはずなのに。奇跡でも起きない限り。そして奇跡なんて起きないと、この彼はよく知っていたはずだ。

 レーベンの左目は茫洋として、まだ完全に覚醒してはいないようだった。夢と(うつつ)の境を、あるいは生と死の境を行き来しているようで非常に危うく見える。それでも、いやだからこそ今の彼はシスネの問いにただ答えを返しているのだろうか。

 

「けがを、なおしてほしかった」

「また騎士に」

「だめなら、そのまま」

 

「馬鹿……っ」

 

 おそらく彼は賭けに出たのだ。分が悪いなんてものではない、それこそ自棄に等しい賭けを。

 もしも、万に一つ、聖女長の桁外れの聖性に適合することができたならば、失った右目と右手を治すことができたかもしれない。確かに過去にもそういった事例はあったという。だがそれは聖性の扱いが特に優れた聖女と、その聖女と高い適合率を持つ騎士がいたらの話だ。前者はともかく、後者はレーベンには荷が重すぎる。

 そして彼はそれも分かっていた。だからこそ、あの時に聖女長の手を放さなかった。失敗して、また生き永らえるぐらいならいっそ、と。

 

「なら、何故、手を放したのですか」

 

 舌を噛むような心地でシスネは問うた。分かりきった問いを。いったいどの口でそれを問うのか。

 レーベンは未だ夢現と生死を彷徨っているようで、半開きの左目でシスネを眺めながら、半開きの口で答えをただ口にする。

 

「あなたが、死ぬと」

「――――」

 

 乾いた血で汚れたレーベンの顔が、新たな鮮血で濡れる。噛み切ったシスネの唇から落ちた血が点々と、レーベンの顔を汚した。

 まただ。

 またシスネは彼から奪った。右目と右腕を奪い、騎士としての生を奪い、死に場所までをも奪った。そして今また、彼の決死の覚悟を無駄にしてしまった。何もかも聖女長の言葉通り、彼はシスネに本当の意味で“殺された”ようなものだ。

 

「なん、で」

 

 掠れた声が絞り出される。シスネの中に渦巻いていたのはお決まりの自責と後悔、そして筋違いも良いところな怒りだった。

 レーベンの首にかかったままだった両手を肩にずらし、弱々しい体を汚れた地面に押し付ける。

 

「なんで私の言うことなんて聞いたんですか!?」

「聞かなければ良かった! 私なんて見捨てれば……っ」

「あの時だって……!」

 

 あの雨の日、シスネは死ぬつもりだった。破戒魔女を遠くまでおびき寄せて、そこで魔女と刺し違えるか自決するかしようと思っていた。それが、自分の愚かな考えで彼に癒えない傷を刻んでしまった報いで、せめてもの贖罪だと思っていたから。

 でも魔女と刺し違えたのはレーベンの方だった。いったい彼はどういう思いでシスネを守るような真似をしたのか。むしろ殺されても文句は言えないようなことをシスネはしたというのに。

 思えば、いつだって彼はシスネを守ろうとしていた。初めて出会った夜も、廃鉱山でも、森の奥でも。こんなシスネを、彼は何故。

 

「私を、聖女だと思っていたからですか……?」

 

 それならまだ理解できた。シスネのことを聖女だと、それも「騎士なき聖女」だと思っていたならば。シスネを守り助けて、恩を売って、自分の聖女とするつもりだったのなら。

 でも彼は、シスネが聖女ではないと知ってからもシスネを守った。もう守っても何の見返りもないと分かっているのに。ついさっきも、自分を人質にとるような真似をしたシスネの要求を飲んでしまった。

 なら何故。堂々巡りに陥ったシスネの思考をせき止めたのは、平坦なレーベンの声。

 

 

「あなたに、惚れているから」

 

 

「…………はい?」

 

 

 耳に滑り込んできた、あまりに突拍子もない答え。口から零れたのはあまりに素っ頓狂な声。見下ろしたレーベンの目は、相変わらずぼんやりとシスネを見上げている。嘘を言っているようには、見えない。

 

「……あなたが?」

「あぁ」

「……私に?」

「あぁ」

「……惚れている?」

「あぁ」

 

 彼を押し倒したまま、左手で眉間を揉む。もう一度じっと目を凝らすも、彼はやはり虚ろな目のままだった。……よく考えれば、幻聴を疑ったのなら気にするべきは耳だったのだけれど。それ程までにシスネは混乱していた。

 シスネが黙ったことで再び眠りに落ちようとしていたレーベンを揺り起こし、彼の左目に映った自分と目が合うほど顔を近付けて問う。

 

「本当に?」

「あぁ」

「からかっています?」

「いいや」

「趣味が悪くありませんか?」

「……?」

 

 矢継ぎ早に質問を繰り返し、その全てにレーベンは平坦な口調で即答する。最後に思わず自虐的な皮肉を並べてしまったが、それは理解できなかったのか首を傾げていた。

 シスネの中で沸々と、得体の知れない感情が湧いてくるのを感じる。でも確かなのは、それが恋慕なんて綺麗なものではないということ。

 

「……そんな理由で、私を助けたのですか」

 

 様々な感情がぐちゃぐちゃに混ざり合った、どどめ色のなにか。怒りか哀しみか、呆れか喜びか、もっとも近しいものを挙げれば、それは「安堵」か「失望」だったかもしれない。

 

「そんな理由で、あなたは……」

 

 騎士だとか、聖女だとか、そんなものは関係なく。ただシスネに惚れたから、好きだったから、と。たったそれだけの、そんな理由でシスネを守り、助けて、その末に全てを失くしてしまったのだ、この男は。

 こんな、どうしようもない女のために。

 

「……馬鹿ですよ、ほんとうに馬鹿」

「趣味が悪いにもほどがあります」

「いったい、どんな人生を送ってきたら、こんな私を……」

 

 自嘲とも嘲笑とも愚痴ともつかないシスネの独り言。だがそれすらも、未だ虚ろなままのレーベンは問われたのかと思ったのか。

 

「俺は――」

 

 そして彼は語りだした。

 あの夜に篝火の前で聞いた、彼の人生を端折った薄っぺらな話。あの時と同じ内容で、でも決定的に違う、「レーベン」の話を。

 最初から失くしていた家族と故郷。どこまでも続いた孤独。他に何も無いから選んだ騎士の道。それでも自分で選んだ道。二人の友人との出会い。

 何も無かった彼が進んだ道は、でも彼を拒絶した。騎士としては生きられず、ならせめて騎士として死のうとした。それすらも拒絶され、彼は生き残った。

 聖女なき騎士。多くの罵倒と少しだけの温かさの中で、それでも彼は戦った。いつか魔女を狩って死ぬ為に。騎士として死ぬ為に。死んで騎士になる為に。

 そして、あの月夜の森で――。

 

 

 ◇

 

 

「そんな折り、あなたと会ったというわけだ」

 

 そうレーベンが締めくくった時には日も沈みかけ、路地裏は赤い夕陽に照らされていた。ゴミ箱の上で二人の話を聞くようにとまっていた鴉も、飽きたのか建物の上へと飛び立っていく。羽音と共に抜け落ちた黒羽が一枚、ひらひらと舞っていた。

 シスネが視線を落とせば、いつからか膝の上に頭を乗せていた彼と目が合う。その灰色の左目はもうしっかりとシスネの瞳の芯を捉えており、いつの間にかレーベンの意識も覚醒していたようだった。

 

「ひどい事をする」

 

 なんとなしに拾い上げた黒羽を弄っていたシスネの耳に、苦笑を孕んだような非難の声が届く。

 

「……何の話でしょうか」

(とぼ)けないでくれ」

 

 目を泳がせるシスネの頬に、下から伸びてきた彼の左手が添えられる。撫ぜるように下を向かされても、何故かその手を拒む気にはならなかった。

 何の話か、そんなもの決まっている。レーベンの意識が混濁しているのを良いことに、踏み込みすぎたことを根掘り葉掘り聞き出したことだ。彼の様子を見るに、自分が話してしまったことも覚えているのだろう。もしシスネが同じことをされたらと思うと、想像だけで憤死してしまいそう。

 

「誠に申し訳――」

「なんだって?」

「魔が差しました、反省しています、本当にごめんなさい……」

「言うつもりは無かったんだぞ、俺は」

「はぃ……」

 

 いつになく辛辣なレーベンの声。でもその口調は穏やかで、シスネを糾弾するような色はまるで感じない。灰色の眼差しは空虚なまでに優しくて、どこまでも静かに凪いでいた。もう全てが終わった末の静謐、彼は今その中にいるのかもしれない。

 

「それで、返事は?」

「はい?」

「言わせないでくれ恥ずかしい」

 

 恥ずかしいなどと言いつつ、レーベンの顔は青白いままだ。シスネの顔などすぐに赤くなってしまうというのに不公平だと思う。

 シスネに惚れているのだという彼の言葉。それの答えを返せということだろう。そんなもの決まっている。

 

「もちろん、お断りです」

「だろうなぁ」

 

 聖女だの騎士だのは関係なくレーベンが惚れているのだというのなら、シスネもそれらのしがらみは捨てて答えるべきだと思った。そして答えは否だ。シスネは彼に惚れてなどいない、だから彼の気持ちには応えられない。

 シスネの端的な拒絶に対しても、レーベンはただ穏やかに苦笑してみせた。まるで断られることが分かっていたように。

 ……シスネなら、きっとそんなに冷静ではいられない。()()()()()()()()()

 

「……なんで」

「うん?」

「なんで、そんなに落ち着いていられるんですかっ?」

 

 穢い人だと思っていた。

 口調ばかり取り繕って、言う事もやる事も品が無くて。何もかも見限ったような、諦めたような目をしていて、穏やかに見えて酷薄で。あの人とは、レグルスとは全然違って。模範的な騎士であった彼とは似ても似つかなくて。

 

「怒ればいいじゃないですか! 殴ればいいじゃないですか! 私を恨んでいるのでしょう!?」

 

 穢い人だと思っていた。

 外面は穏やかに取り繕っていても、内心ではシスネのことを恨んでいるに違いないのだ。シスネは彼に対してどうしようもない負い目がある。だからそれを盾にして、シスネに迫れば良いのだ。

 受け入れろって、殴らせろって、好きにさせろって、そう言えばきっとシスネは拒めない。何をどうされようと一切抵抗しない。他言だってしない。

 そうすれば、そうしてくれれば、きっとシスネだって。

 

「何故、か……」

 

 穏やかな目で、穏やかな声で、穏やかな手付きでシスネの白髪を弄るレーベン。

 そんな姿、見たくなかったのに。

 

「それはまあ、あれだ」

 

 きっとシスネだって、今までみたいに、彼を見下せたのに。

 

「惚れた弱みというやつだ」

 

 穢い人で、あってほしかったのに。

 

 

 ◆

 

 

「何故、か……」

 

 レーベンとて何も思わないわけでもない。まるで動かない顔のせいで誤解されがちだが、レーベンも人間なのだ。人並の感情はある。

 レーベンが右目と右腕を失くしたのは誰のせいか。シスネに全ての責があるとは思わないが、一因ではあっただろう。あの時、彼女が退くことを選択してくれれば、少なくとも引き金を躊躇わなければ結末は変わっていたかもしれない。

 レーベンの命を助けたのはシスネだが、それを心から喜べなかったことも事実だ。もう満足に戦えない身体で生き永らえるぐらいならば、と。そう思わなかったと言えば嘘になる。

 今回、聖女長に聖性を流してもらうという自殺行為を敢行したことも半分は自棄だが、もう半分は藁にも縋る思いだった。万に一つ、あの強烈な聖性と適合することができたならば、この身体も元に戻ったかもしれないのだ。失敗しても、それはそれで己の命を始末することができた。だがシスネはそれを良しとはしなかったのだろう。おぼろげに、彼女が聖女長を止めようとしていた様を覚えている。

 

「それはまあ、あれだ」

 

 そう考えれば確かにレーベンがシスネを恨むには充分な材料が揃っているように思える。もし医療棟で目覚めてすぐにシスネと会っていたならば、何か手酷いことでも言ってしまったかもしれない。彼女の言うように殴ってしまったかもしれない。レーベンも人だ。聖人ではないのだから。

 ある意味では幸いだったのだ。レーベンが目覚めた時にはシスネは独房へと入れられており、その後もすれ違いが続いて今日に到るまで実に八日。頭を冷やすには充分に長い時間だった。故にシスネを前にしても冷静でいられたのだろう。

 だが何よりも。

 

「惚れた弱みというやつだ」

 

 我ながら馬鹿みたいな理由だとは思うが、それが本心なのだから仕方がない。レーベンは聖人ではなく、故にその天秤も平等ではない。他の者なら許せなくても、シスネなら許せてしまう。本当に、ただそれだけの話だった。

 

「なにせ、馬鹿なので、な――」

 

 治まりかけていた眠気が再び襲ってきて、レーベンは欠伸まじりに答える。

 馬鹿だ馬鹿だと、いつも言われてきた。カーリヤから、ライアーから、そしてシスネから。これだけ言われるのなら、それはきっと事実なのだろう。

 だがまあ、それで彼女を恨まずに済むなら悪くない。そんな気分で、レーベンは再び目を閉じた。

 

 

 ◇

 

 

 路地裏が黄昏に沈もうとしている。

 再び意識を手放したレーベンの首筋に手を当てて脈を確かめ、その頭をそっと膝に置き直した。夕焼けに照らされた顔は血色も良く、午睡でもしているように安らか。そんなはずもないというのに。

 

「……穢い」

 

 穢い人だと思っていた。

 口調ばかり取り繕って、言う事もやる事も品が無くて、常識だって無くて。……だというのに、おかしな所でひどく真面目で。

 何もかも見限ったような、諦めたような目をしていて、穏やかに見えて酷薄で。……だというのに、捨てきれないような甘さも見せて。

 あの人とは、レグルスとは全然違って。模範的な騎士であった彼とは似ても似つかなくて。……だというのに、どこまでも騎士であろうとして。

 

「穢い……」

 

 穢い人だと思っていた。シスネと同じ、いやもっと穢い人だって。そうであってほしかったのに、シスネにはまるで見る目が無い。

 穢いだなんてとんでもない。彼はむしろ……。

 

「ひどい、人」

 

 レーベンはひどい男だ。今まで散々シスネに期待させて、失望させて。今になってこんな一面を見せるだなんて。最初から見せていたなら、きっとシスネは彼から逃げていた。もっと本気になって拒絶していた。

 穢い人だと思ったから傍にいたのに。シスネと一緒に、穢くあってほしかったのに。

 

「嫌いです……あなたなんか……っ」

 

 穢かったのはシスネの方。穢いのは、いつだってシスネだけだ。

 

「……っ、ぅぅ……!」

 

 堪えきれなくなった嗚咽を両手で塞ぐ。声は殺せても、目から溢れ出す物だけは止められなかった。

 音もなく流れた涙がレーベンの右目に落ちる。それは分厚い包帯に染み込んだだけで、眠る彼には届かない。

 見上げた空は建物に切り取られ、燃えるような黄昏に沈もうとしている。

 彼の髪のように黒い鴉だけが、シスネを見下ろしていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

あなたに捧げる辱め

 夜の聖都、海沿いに建つ診療所の中でレーベンは途方に暮れていた。

 

「じゃあ、順に紹介するわね」

 

 シスネに似た女が、大きな腹を抱えながらさも楽しそうに言う。

 

「祖父のロシノル」

「また会ったね、君」

「祖母のグースィ」

「ご遠慮なさらず」

「父のパロット」

「会えて嬉しいよ」

「母のメーヴェ」

「堅苦しいのは無しだよ!」

「長男のサラベイ」

「……よろしく」

「次男のエンテ」

「うっす!」

「三女のコトラ」

「……、……っ」

「そして、あたしが長女のウルラよ」

 

「……」

 

 レーベンは頭痛を堪え、隣のシスネがげんなりと溜息をつく。

 

「……良いのですよ、無理に覚えなくても」

「で、そこの乳なしが次女のシスネ。もう知ってるだろうけど! あっはっは!」

「姉さんは黙っててよもうっ!」

 

 シスネとシスネに似た女――ウルラがぎゃあぎゃあと喧嘩のようなことを始める様を眺めつつ、レーベンはまた左手を額に当てた。

 このような事態となった原因は夕方まで遡る。

 

 

 ◆

 

 

「あなたの望むことなら、何でもします」

 

 聖都の路地裏、いつの間にか意識を失くしていたレーベンが再び目覚めた時、開口一番にシスネはそう言った。朦朧としていた意識も一瞬で覚醒するというものである。もしくはまた気絶しそうだった。

 

「私はそれだけのことをしてしまいました。何でもしますし、何をされても抵抗しません」

「待て、落ち着け、落ち着いて待とう」

「あなたこそ落ち着いては?」

 

 彼女の膝から頭を上げ、軋む体を動かして身を起こす。ぐらぐらと揺れる頭は立ち眩みのせいだけではないだろう。対してシスネはといえば、いつもの澄まし顔で正座している。

 

「……あまり、そういう事を言うものではないだろう」

「どういう意味ですか?」

 

 座りこんだまま後退ると、彼女は正座したまま器用に距離を詰めてくる。狭い路地裏でのこと、レーベンの退路はすぐ建物の壁に塞がれてしまった。

 

「誤解されると言っている」

「誤解とは?」

 

 シスネは更に迫ってくる。間近になった黒い瞳は危うい光を放ちながらもどこか虚ろで、つまりは自棄になっているように見えた。白い手が、いっそ蠱惑的な動きでレーベンを壁に押し付けてくる。

 

「償いたいのです」

「あなたのことは嫌いですが、それとこれとは話が別」

「拷問でも強姦でも、好きなだけどうぞ」

 

「…………」

 

 シスネは特別に美人というわけではない。顔立ちこそ整っているが、華というものが決定的に欠けている。加えて、元より華奢だった身体も今は更に痩せており、やつれていると言った方が正しいほど。カーリヤのように万人を魅了する美しさは持っていない。

 だが忘れてはならない、レーベンは彼女に惚れている。

 初めて会った月夜、そしてその夜明けの中で見た彼女の姿。白い髪、黒い瞳、灰色の装束。まるで白黒画から這い出してきたかのような女。陰鬱な雰囲気がそれに負の華を添えた、病んだ美しさ。退廃的で、背徳的で、厭世的な。つまるところ、レーベンにとって彼女は誰よりも美しい。

 だからこそ。

 

 ――勘弁してくれ

 

 正直なところ自制することで精一杯だった。惚れた女が、誰よりも美しいと思う女が、好きにしろと迫ってくるのだ。飢え切った末に、目の前に毒入りの料理でも並べられたかのような悪夢。手を付ければ終わりだと分かってはいても、それを堪えられるかどうかはまったく別の話だ。

 レーベンの葛藤などどこ吹く風とばかり、シスネに左手を取られる。

 

「さあ」

 

 手を導かれた先は、白い首筋。上まで締められていた襟は既に胸元まで寛げられていた。己よりも格段に細いそれは容易に縊ることができそうで、澄ました表情とは裏腹に高く脈打っている。

 

「――」

 

 ぐらりと視界が揺れた気がした。

 レーベンがシスネに触れたことなど数える程しかない。それも大抵は魔女狩りの最中でのことで、互いに気にする余裕など無かった。今日はやけに甲斐甲斐しく世話を焼いてくるせいでその手に触れることは多かったが、それすらも意識しない為に相応の苦労を強いられていたのだ。そこにいきなりこれである。

 耐えられるはずも、なかった。

 

「――っ」

「――ぁ」

 

 小さな二つの呻きが重なる。

 レーベンは己の内で破裂した衝動が何であるのかも理解できないまま、彼女の首に爪立て。

 シスネは色を変えた彼の目を見返しながら、黒い瞳をすと歪め。

 

 

 カア、と(カラス)が鳴いた。

 

 

 シスネの首を絞める寸前とも体を押し倒す直前ともつかない体勢のままレーベンは固まっていた。己を見つめる黒い瞳は、恐怖とも喜悦とも侮蔑ともつかない光を放っている。

 見上げた鴉は二人を嘲笑するかのようにもう一度鳴いたあと、今度こそ夕焼けの空へと飛び去って行った。

 

「……、……何でもすると言ったな」

「……はい」

 

 シスネの首に手をかけたまま、だが力は込めずに言う。彼女はレーベンの左手首を掴んだまま、だがそれ以上なにかをするでもなく答える。

 

「二言はありません」

「あなたは聖都の生まれだったな」

「? はい」

「家族との仲は良いのか」

「……悪くはない、と思います、けど」

 

 受け答えする内にシスネの顔が青褪めてきた。それが何故なのかはレーベンに理解できない。己は家族というものを知らないのだから。

 彼女の表情も己の疑問も差し置いて、レーベンは「要求」を告げる。

 

「あなたの家族に、会ってみたい」

 

 シスネの顔に、かつて見たことのない表情が浮かんだ。

 

 

 ◆

 

 

「……でかいな」

「はい、そうですね……」

 

 日が沈み切る前になんとか目的地に着くことができた。聖都の西方、漁船らしき船が何隻も停泊している港からもほど近い海沿いにその建物――シスネの生家はあった。

 聖都の建物はどれも大きかったが、その中にあっても更に大きな一軒家。窓の数も異様に多く、その列は三段。つまりはなんと三階建てであった。ポエニスでも三階建ての建物など教会の本棟ぐらいしか無かったというのに。

 だがそれはただ豪勢なだけの屋敷ではない。その大きさも部屋数の多さも必要あってのものだということを、正面玄関に掲げられた看板が高らかに示している。

【ロシノル診療所】

 それがこの建物の名前だった。

 

「あなたは医療者の家系だったのか」

「はい、そうですね……」

 

 心ここにあらずといったシスネに対して、レーベンはいくつも腑に落ちていた。彼女の持つ本格的な医療道具も知識も技術も、すべてこの家を見れば納得というものだった。あとついでに薬への厳しさも。

 

「ロシノルとは創設者の名前か?」

「はい、そうですね……」

「大丈夫か?」

 

 路地裏からここに来るまでの間、シスネはどうにも様子がおかしい。……そもそも今朝がたに再会してからというものずっと様子はおかしかったのだが、今は特におかしかった。おかしさの方向性は違ったかもしれないが。

 

「あなたやっぱり本当は私のことを恨んでいるのでしょう? だからこんな惨い仕打ちをするのですよね? たしかに拷問でもなんでもしろとは言いましたがこれはあんまりではないですか。そこまで私を辱めたいのですか。本当に最低です。やっぱりあなたは穢い人です。すこしだけ安心しましたとも、えぇ」

「お、おう……?」

 

 何処ぞから飛んできた珍鳥のように同じ台詞を繰り返しているかと思えば、俯きながらぶつぶつと呪詛じみた愚痴をレーベンに聞かせてくる。暗がりの中、垂れた白髪から覗く瞳は黒々と輝いており非常に怖い。だが美しいとレーベンは思った。

「シスネの家族に会ってみたい」

 あの土壇場で咄嗟に思いついた適当な要求だったが、だからこそ己の胸の内にあった欲求だったのかもしれない。レーベンにも二人の友人にも、もう家族はいなかったのだから。

 

「今からでも考え直しませんか。この際もう爪を剥がしても脇腹を触っても構いませんから」

「なんだか分からんが申し訳ない」

 

 それにしても、他人を家族に会わせるということはそこまで苦痛を伴うものなのだろうか? 家族のいないレーベンには分からない。彼女を徒に傷つけることも辱めることも本意ではなかったのだが。

 シスネは更に何かぶつぶつと自分を奮い立たせるようなことを呟いた後、意を決したようにレーベンの手を引いて歩き出す。立派な玄関の前に辿りつき、震えてすら見える手で真鍮製のドアノッカーをゆっくり三度、打ち鳴らした。

 程なくして、ゆったりとした足音が近付いてきた後、(かんぬき)を外す音と共に内側から扉が開かれる。開かれながら、中から出てきた人影は落ち着きのある女声でレーベン達に告げた。

 

「ごめんなさい、今日はもう休診なの。もし朝まで待てないなら裏口の方か、ら……」

 

 休診を詫びる声は尻切れに消え、声の主は目と口を大きく開いたまま固まってしまった。その原因は右目と右腕を失くしたレーベンの姿ではなく、扉の前に立つシスネの姿であるようだった。

 

「…………シスネ?」

「た、ただいま……」

 

 絞り出すような口調で女性がその名を呼び、シスネも引きつった顔で帰宅を告げた。二人が共に固まってしまい、ひとり残されたレーベンは女性の姿を観察する。

 ゆるく編まれた赤毛の三つ編みと、見開かれた茶色の瞳。三十路に到るかどうかの年延(としば)え。温かみのある色彩の女であったが、誰かに似た面影もある。

 ゆったりとした衣服に包まれた体は腹部が膨らみあがっており、だがそれは肥満によるものではない。その身に新たな生命(いのち)を宿している証だ。

 母親という歳には見えない。ならば彼女はきっと、シスネの姉なのだろう。その姉の目がようやくレーベンの姿を捉え、数泊の間を置いた後で高らかに声をあげた。

 

「ちょっとみんなぁ! シスネが男を連れ帰ってきたわよ――っ!」

「なぁ!? ちょ――!」

 

 どよっ、と。扉の向こう側からいくつもの声が聞こえる。レーベンはそれらの声の主たちが続々と近付いてくる気配を感じながら、隣に立つシスネが真っ赤な顔でばたばたと両手を振る姿を眺めていた。

 

 

 ◆

 

 

 レーベン達が通されたのは、居間というにはいささか広すぎる部屋だった。ポエニスの教会の広間ぐらいはあるのではないだろうか。三人は腰かけられそうな長椅子がいくつも並んでおり、ここは診療所の待合室なのかもしれない。

 

「じゃあ、順に紹介するわね」

 

 シスネに似た女――シスネの姉が、大きな腹を抱えながらさも楽しそうに言う。そして順に紹介される、彼女の家族たち。シスネの祖父、祖母、父、母、姉、兄、弟、妹……。

 

「……多いな」

「ほっといてください……」

 

 断じて貶してはいないのだが、当のシスネは唇を尖らせていた。彼女に家族が多いらしいことは知っていたが、まさか三世代の五人兄弟姉妹とは。いきなり八人分もの名前を突きつけられて、賢くもないレーベンの頭は既に限界である。

 そんなレーベンに、長女ウルラが悪戯っぽい笑みを浮かべながら近付いてくる。その手には小さな幼子が掴まっていた。……三世代でもないらしい。

 

「あとこの子がシュカ。それで今お腹にいる子なんだけど、もし男の子だったら――」

「…………」

「姉さん、姉さん。そんなに一気に覚えられないから」

 

 長女ウルラと、その息子シュカ。つまりはシスネの甥。ぶつぶつと名前を呟いているとシスネが助け船を出してくれるが、それもあえなく沈没することとなる。

 

「“姉さん”? なんでいつもみたいに“お姉ちゃん”って呼んでくれないの?」

「~~~~!」

 

 シスネは表情を変えないまま顔だけを真っ赤に染める。そのままふるふると震えながら姉を睨みつけていた。対してウルラは楽しくて仕方がないと言った顔だ。家族仲は悪くないとシスネは言っていたが、成程たしかに仲は悪くないように見える。ウルラから悪意は感じられず、親愛が故の揶揄いというものだろう。……シスネがどう思っているのかは別として。

 

「俺は誰か覚えてます?」

「ちょっと! エ……んん――っ!?」

 

 長女の悪戯に便乗したように、赤毛の青年がひょこりと顔を出してくる。たしかシスネの弟だったが彼女とはあまり似ていない。むしろウルラとよく似ていた。

 彼の悪戯を咎めようとしたらしいシスネは、だがウルラに羽交い絞めにされた挙句に口を塞がれる。ついでのように脇腹を弄られている様から目を逸らし、レーベンは青年を目を合わせた。

 

「たしか、エンテさん……だったか」

「正解! あと呼び捨てで良いっスよ。あんたの方が年上っしょ」

 

 親しげに笑う次男エンテ。差し出された左手を握り返すと、白い歯を見せながら更に笑みを深めた。ずいぶんと陽気な青年だが、レーベンの傷を見ても動じない。さすがは医療者の家系ということだろうか。

 

「つーかさ、つーかさ! あんたこそシス姉とどういう関係なんスか?」

「……あぁ、失礼をした」

 

 見たこともないような大家族に呆気にとられていたが、最初に名乗るべきは己だったのだ。至極もっともな疑問に頭を下げると、こちらを見つめる二十もの瞳と目を合わせる。

 

「俺はレーベンと言います。ポエニスの元騎士で、シスネ……レインさんの同僚でした」

 

 一瞬、場の空気が変わった気がした。

 ウルラに羽交い絞めされたままのシスネが、居たたまれなさそうに瞳を床に向けている。いつの間にか肩を組んできていたエンテからも「あぁー……っスか」と曖昧な声が漏れた。

 

「騎士か。……道理で」

 

 ぼそりと響いた、固く冷たい声。左目を向ければ、レーベンを取り囲む輪から外れた壁際に佇む男性がこちらを見据えている。

 男性は、この場でもっともシスネと似ていた。中性的な顔立ちと特徴的な白髪もそうだが、レーベンを拒絶するような雰囲気が何よりも彼女を彷彿とさせるのだ。ポエニスでは珍しい装身具――眼鏡を通した眼光は、腐っても客人のレーベンに向けるには鋭すぎる。

 

「ちょっと、サラベイ」

 

 シスネを抱えたままのウルラが咎めるように彼の名を呼ぶ。眼鏡の男――長男サラベイは両目を伏せた後、だが何も言わずに廊下の奥へと消えていった。

 広間に沈黙が漂う。去っていった長男(サラベイ)の後ろ姿に長女(ウルラ)次女(シスネ)が沈痛そうな眼差しを向け、その二人の陰に隠れるようにして三女(コトラ)だけがレーベンを見ていた。

 

「――はい、やめやめ!」

 

 よく通る声と、打ち鳴らされる掌の音が広間に響き渡る。ドスドスと力強く歩み出てきた女性はシスネと同じ白髪で、だがその横幅はシスネの倍以上はありそうな恰幅。

 

「若いもんが辛気臭い顔してんじゃないよ! えぇコラ!」

「痛えよ! なんで俺!?」

 

 ズパーン! と何故か尻を叩かれて飛び上がる次男(エンテ)。その悲鳴と抗議を呵々(かか)と笑い飛ばすと、恰幅の良い女性はずずいとレーベンと距離を詰めてきた。暗がりの中でも輝く茶色の双眸がレーベンを見下ろす。なんとこの女性、レーベンよりも長身であった。

 

「メーヴェだよ! このガキ共の母親さ! あとこれが旦那のパロットさね!」

「やあ、よろしく」

 

 縦にも横にも大きく、ついでに声まで大きな母親メーヴェ。そのメーヴェから人形でも扱うように引っ張り出されたのは、ひょろりとした赤毛の男性。長男(サラベイ)と同じ眼鏡の奥からは、黒い瞳が柔らかな視線を向けてきていた。シスネの瞳の色は父親譲りらしい。

 色々な意味で対照的な夫婦に圧倒されていると、更に二つの影がゆったり近付いてきていた。

 

「また会ったね、君」

「……お、」

 

 若かりし頃はさぞ女から持て囃されたであろう、彫りの深く整った顔立ち。老いを感じさせない引き締まった体型の老紳士と、その隣で上品に微笑む白髪の老女。見間違えようもない。三日前に出会った老夫婦がそこにいた。

 

「改めて名乗ろうか。私はロシノル、そして妻のグースィだ」

「どうも、孫がお世話になっております」

 

 祖父ロシノルと、祖母グースィ。近くで見れば、双方ともに理想的な老い方をしたような男女だった。そして「ロシノル」とはつまり、この診療所の創設者なのだろう。

 

「こちらこそ、聖都に来て右も左も分からない有様でしたので」

「そうかそうか。それで、大聖堂には行けたのかね?」

「……えぇ、まあ」

 

 大聖堂で何をしてきたのかまで言うわけにもいかず、適当に言葉を濁す。だがレーベンの顔にも服にも血の跡がついたままなのだから、碌でもないことをしてきたことは見抜かれていそうだ。

 話を逸らすべきかと周囲を見回し、相変わらず揉み合っているシスネとウルラの陰に隠れた双眸と目が合う。だがその持ち主はサッと二人の陰に引っ込んでしまった。

 

「彼女は?」

「ん? 珍しいな、どうしたのだねコトラ」

 

 祖父に声をかけられた小柄な影――三女コトラ。極度な人見知りなのかと思えば、どうもそうではないらしい。

 

「ほーら、何してんの」

「! ……っ」

 

 羽交い絞めしていたシスネを放りだしたウルラが、今度は自分の陰に隠れている三女(コトラ)を引っ張り出す。更に面白そうな顔をしたエンテもそれに加わり、コトラがレーベンの前まで連行されてきた。

 白髪の華奢な少女だった。シスネの瞳を茶色にして幼くすればこのような姿になるかもしれないが、雰囲気はまるで違う。レーベンを見上げる瞳はキラキラとどこか異様な光を放っており、その目を見返していると朱の差していた顔が更に真っ赤に染まった。

 

「……?」

「え? あんた……本気(マジ)?」

「ちょ、おまえ、本気(マジ)で?」

 

 コトラの異様な反応に首を傾げていると、ウルラとエンテは何かを察したようだった。どちらも半笑いのような表情に冷や汗を流しながら、レーベンとコトラの顔を見比べている。

 いったい何事かと佇むレーベンを押しのけるようにして、解放されたシスネがつかつかとコトラへと歩み寄る。その細い肩をがっしりと掴んで、

 

「駄目よコトラ考え直しなさいねえ本当にお願いだからこの人だけは本当にやめた方が良いのよ絶対に後悔するわ何か悩みがあるならお姉ちゃんが聞いてあげるから」

「おい」

 

 ひどく必死な様子で三女(コトラ)を説得し始める次女(シスネ)。ここまでされてコトラの反応の意味を察せられないほどレーベンも鈍感ではなく、だがそんな経験とも無縁だったのは確かだ。

 正直なところ、こんな男に惚れるのはやめた方が良いとレーベン自身も思う。シスネにがくがくと揺らされながらも己を捉えて離さない眼差しから目を逸らしていると、両脇をウルラとエンテに固められた。

 

「すげえ、コルネイユみてえ」

「で、どっちにする?」

 

 兄弟姉妹の中でも、この赤毛の二人は特に気が合うのだろうか。レーベンに対しても出会って半時間と経っていないというのに、まるで昔ながらの友人であるかのように親しげであった。

 だがレーベンはかの大騎士のように九人もの相手を平等に想えるほど器用ではなく、ウルラからの問いにも答えを迷う必要はない。

 

「では、シスネで」

 

 ダッ! とコトラが廊下の奥へと駆けていく。その軌跡に(きらめ)いて見えたのは涙の粒であっただろうか。その際に突き飛ばされたらしいシスネがそのまま床に突っ伏し、ぶるぶると震えたまま起き上がろうとはしなかった。白い髪から覗く耳は赤い。

 

「若いとは良いなぁ」

「僕はちょっとコトラを見てくるよ」

「ようし! 晩飯を作り直すよ! 手伝いな!」

「へいへい」

 

 順にロシノル、パロット、メーヴェ、エンテ。グースィはにこにこと上品に微笑むばかりで、ウルラはひいひいと大きな腹を抱えて笑っていた。シスネはまだ起き上がらない。

 そうこうしている内に皆が食卓があるらしき部屋へと消えていき、広間にはレーベンとシスネのみが残された。

 

「これで、満足ですか……」

 

 突っ伏したままのシスネがくぐもった声をあげた。その傍らにしゃがみ込み、床に垂れた白髪を背中へと乗せながら答えを考える。

 レーベンは元よりシスネを恨んではいない。傷つける気も辱める気も無い。だが彼女は何故かそうされることを望んでいるようで、だが今こうして恥辱に打ち震えてもいる。己は馬鹿なのだと思うが、彼女の面倒な性分も大概だとレーベンは思う。

 ならばもう、何も考えずに答えるしかないのだろう。

 

「あぁ、満足だな」

「……それは良かったです」

 

 やっと身を起こしたシスネの顔は赤く、今朝に再会した時からもっとも顔色は良く見える。黒い瞳は涙に潤み、強い光でレーベンを睨んでいた。その瞳も、レーベンの心を掴んで放さないのだ。

 

「あなたがそうやって、恥じらいながら怒っている姿が特に」

「変態」

 

 吐き捨ててから脇腹を小突かれ、立ち上がったシスネは靴音を響かせながら大股で去っていく。

 レーベンは穏やかな心地でそれを見送ってから、壁に手をつきながら後を追いはじめ、すぐに戻ってきたシスネに左手を引かれて歩き出した。

 

「やっぱり、あなたは穢い人でしたっ」

「それは誠に申し訳ない」

 

 ふん、と。鼻息を漏らしたシスネは空いた左手で髪をかき上げる。

 白く、長く、真っ直ぐな、美しい白髪。

 

「“白髪の聖女は、良い聖女”」

「何か言いましたか?」

「……いや」

 

 それが本当であろうと、なかろうと。

 彼女が聖女であろうと、なかろうと。

 この先、己の生きる道があろうと、なかろうと。

 そこに彼女の姿はきっと無いのだとしても。

 

 

 ――あなたに会えて、良かったな

 

 

「元気になって、何よりだ」

「……馬鹿」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五章 嵐の前に
カーリヤの退屈と祈り


 

「退屈だわ」

 

 そう愚痴を零すと、目の前を歩く大きな背中が少しだけ角度を変えた。変えただけで何も言ってはくれない。その態度にカーリヤはむ、と細い眉を吊り上げる。

 

「ねえ、退屈だわ」

 

 歩けども歩けども見えるのは木、木、木。豊かな森林が生み出す澄んだ空気に癒されたのは最初だけだ。まるで変化の無い風景にカーリヤはすっかり参ってしまっていた。

 魔女がいないのは良い。できれば見つからない方が良いとさえ思っているが、それとこれとはまた別の話というもの。いるかどうかも分からない相手を探すというのは、殊の外つらい。

 

 ――レイとシスネは、よくやれたわね

 

 報告書によれば、あの馬鹿と友人はこんな苦行みたいな仕事を七日も続けていたのだ。二日目で既に音をあげているカーリヤに比べればなんと根気強いことか。まあ、レーベンはああ見えて案外マメなところもあるのだが。ちなみにシスネは几帳面に見えて意外と抜けている。

 はーあ、と。疲れた溜息をつきながら足を動かす。お気に入りの踵の高い靴はさすがに履いていない。魔女狩りの際はいつも履き替えている武骨な長靴(ブーツ)に湿った土が貼りついて、なおさら足取りを重くしていた。右肩に食い込む狙撃銃を左肩に担ぎ直して、カーリヤはまた溜息をつく。

 

「おい頼むぞ。ちゃんと警戒してくれ」

「分かってるわよぅ……」

 

 前を歩くライアーに固い声で叱咤され、下ばかりを向いていた視線を上げる。視界に入ってきた相方は今日も全身鎧をきっちり着こみ、右手には抜き身の片手剣。兜の面頬(バイザー)だけを上げた頭を右へ左へと動かし、油断なく周囲を見回しながら歩いていた。まるで、すぐ近くに魔女がいるとでもいうような慎重さ。

 

 ――そこまでしなくても良いじゃない

 

 喉元まで上がってきた言葉を飲みこむ。昨日、似たような愚痴を漏らしたところ普段は温厚なライアーが烈火のごとく怒り出したのは記憶に新しい。……まるで()()()に戻ってしまったようで、心臓をぎゅうと掴まれる錯覚を覚えたカーリヤは涙を堪えるだけで精一杯だった。

 そんな彼も、すぐに正気に戻ったような顔で平謝りしてきたのだけれど。とりあえず尻を一発蹴るだけで許してやった。カーリヤは心が広いのだ。

 この辺境で魔女を探し始めてからというもの、ライアーはずっとこうだ。元から慎重ではあったけれど、今回の仕事では万に一つの失敗もしたくないとばかりにピリピリしている。もうすこし肩の力を抜いた方が良いと思った。

 

「……ね、ねえ?」

「なんだよ」

 

 恐る恐る声をかければ固い声が返ってくる。振り向いてもくれない。見慣れたはずの大きな背中がなぜか怖く見えて、カーリヤは怖気づいてしまう。

 

 ――休憩、しない?

 

「ごめん、なんでもない……」

 

 言葉尻は足音にも紛れそうなほど小さかった。右肩に担ぎ直した狙撃銃を抱くように握って、視線をぬかるんだ地面に下ろす。

 らしくない。ライアーもカーリヤも。いつもはもっと、緊張を飼いならしながら戦えていた。気を緩めず、でも張り詰めすぎず、そんな匙加減を二人ともが心得ていたはずなのに。

 ……こんな状態で、魔女に襲われでもしたら。

 

「……っ」

 

 カチャカチャと銃の部品が音を立てる。歩いているからじゃない、銃を握るカーリヤの手が――。

 

「あ痛っ!?」

 

 ゴチン、と。額に固く冷たい金属の衝撃。二歩ほど後退れば大きな背中が間近に見える。急に立ち止まったライアーにぶつかったのだとすぐに分かった。

 

「っ、ご、ごめんなさ……」

 

 やってしまった。失敗してしまった。何をしていると、気を抜きすぎだと、また怒られてしまう。昔のように、あの頃のように、彼の鳶色の目が自分を冷たく貫きそうで――。

 

「――悪い。休憩だ」

「……へ?」

 

 意外な言葉に顔を上げれば、いつの間にか振り返ったライアーが頭を掻こうとしているような素振りをして、兜に覆われた頭をゴンゴンと叩く。固く閉じられた両目の間を揉みほぐして、眉間の皺を伸ばしていた。開かれた鳶色の目は、ばつの悪そうないつもの眼差し。

 

「飯にしようぜ。新入りじゃあるまいし、これじゃ肩が凝っちまう」

「……ま、まだ早いんじゃない? でも仕方ないわねっ」

 

 いつも通りのライアーに心底ほっとした。手近な木の下に向かい、カーリヤはいそいそと背負っていた鞄を開いて昼食の準備を始める。

 まだ痛む額も、胸の奥に残る恐怖も水に流してあげることにした。カーリヤは心が広いのだから。

 

 

 ※

 

 

 武器は手元に置いたまま、用意していた軽食を口に運ぶ。朝までは降っていた雨も今は過ぎ去り、からりとした青空と濃い緑の匂いがカーリヤの五感を柔らかく刺激する。木漏れ日がぽかぽかと暖かい。

 

「良いところね」

「ん? あぁ」

 

 カーリヤの倍はあった食事をライアーは既に平らげていた。カーリヤなどまだ半分ほどしか食べていないというのに、ずいぶんな早食いだ。もう少しゆっくり味わえば良いのに。

 

「とんでもない田舎だし、歩いてばっかりは疲れるけど、こうやってのんびりする分には良いかも」

「……そうなのか?」

 

 どこか上擦ったライアーの声。顔を隣に向ければ、兜を外した彼が目を丸くしていた。

 

「なに、どうしたの?」

「い、いや。お前はその、てっきり聖都やポエニスみたいな街の方が好きなんだと……」

「? そうねえ、ポエニスも悪くないけど」

 

 残りのパンを口に放り込んで、口を動かしながら考える。

 元々、カーリヤとライアーはポエニスの西方にある町の出身だ。田舎と呼ぶには旧聖都に近く、都会と呼ぶには辺境、そんな小さな町。田舎とも都会ともつかないあの故郷が、カーリヤは嫌いではなかった。……母が魔女になってしまうまでは。

 頭を振って、パンを飲みこむ。

 

「――まあ、どっちも嫌いじゃないわよ。でもどうせなら賑やかな方が好みかも」

「そ、そうだよなっ。お前ならそう言うと思ってたぜ!」

「?」

 

「よかったよかった」と何故か胸を撫でおろしているライアーに怪訝な目を向けていると、カーリヤの脳裏にふと白髪の友人の姿が過った。そういえば。

 

「聖都といえば、シスネはグリフォネアの出なんだっけ」

 

 聖都グリフォネア。旧聖都に住むカーリヤたちでも、いやポエニスに住んでいるからこそ縁遠い街だ。多くの聖女と騎士を抱えるあの聖都に仕事で出向く機会など無いのだから。

 

「あぁ、そういやそうだっけか」

「なんかもう懐かしいわね、あの子が初めて来た時なんてレイの奴が……」

 

 シスネと出会った、あの朝の食堂。あれから小半年と経っていないというのに、もうずっと前のことに思えた。そしてあのレーベンに劇的な変化が訪れた日でもある。

 以前のレーベンは今よりもっと死んだような目をしていた。何事にも無関心で、そのくせ目を離すとすぐ魔女狩りに向かってはボロボロになって帰ってきて。どんなにカーリヤが叱っても、のらりくらりと躱すだけで。あの灰色の目はいつだって何もかもを遠くに見ていた。そんなレーベンも、シスネを見る目だけは明らかに違っていたのだ。

 

「ありゃ完全にほの字だったな。シスネがその……使()()()()ってのも関係ないんじゃないか」

「かもね」

 

 レーベンが新入り聖女や騎士を失くした聖女を見つけては「見合い」を申し込んでいたのは最初だけだ。その度に拒絶反応を起こしては医療棟に担ぎ込まれるものだから、本人も諦めてしまったらしい。だから、そのレーベンがあれだけ一人の聖女に執着したのは異常なことですらあった。もっとも、そのシスネも聖女ではなかったのだけれど……。

 

「ま、お似合いだよな。あの二人」

 

 からりとした口調でライアーが言う。二人の事情を鑑みれば皮肉とも聞こえるが、彼にそのつもりはないのだろう。確かに傍から見れば、冷たくあしらわれながらも熱心に言い寄る愚かな男と、そんな面白おかしい姿に見えなくもない。シスネだって、どこか満更でもなく見えるのだから尚更だ。

 でも、シスネの事情を知ってしまったカーリヤは違った。

 

「どう、かしらね」

 

 カーリヤだけは知っている。カーリヤにだけ、シスネは教えてくれたのだ。

 三年前、まだ普通の聖女だったシスネが自分の騎士を介錯した時。その時に何があって、シスネが何を思って、何をしたのか。その全てを、カーリヤに打ち明けてくれた。

 

『教えてあげますよ。私が、どれだけ穢い女なのか』

 

 あの夜、シスネは何度も何度も繰り返し自分を「穢い女」だと言った。確かにカーリヤが聞いた話の内容はそれなりに衝撃的で、何よりも意外ではあった。だから、そんなことはないと、そう簡単に言ってやることもできなかったのだ。それが心残りで、そして聞けなかったこともある。

 

 ――じゃあ、あんたにとってレイは……

 

 シスネにとってレーベンは何なのか。なぜ一緒にいるのか。シスネの言葉と行動には矛盾が多くて、見ているだけでひどく危うい。きっと、まだ何か隠していることがある。あんな、さも全てを打ち明けましたみたいな顔をして、なんとまあ食えない女だ。

 

「……っとに面倒な女っ!」

「いきなりなんだよ、おい!?」

 

 シスネのことを思い出している内に湧き上がってきた怒りのまま、食べ終えた林檎の芯を放り投げる。隣のライアーが大きな体を驚いた猫みたいに飛び上がらせた。

 

「あー腹たってきたわ。あの性悪女、今度は脇腹だけじゃ済まさないんだから」

「お前ら何やってんだよ……」

「腹たったら思い出したわ。レイの馬鹿にも説教しないと」

「……怪我人なんだから程ほどにな」

 

 二日前、教国でも最北端に位置する最も田舎の村――ノール村に到着した際、まず何よりも先に村民はカーリヤ達を質問攻めにした。

 

『騎士さんは!? 騎士さんは無事やったんか!』

『ほらあの黒髪の! 痩せっぽの!』

『聖女さんは来とらんのか! あの人の旦那やって!』

 

 ひどく訛った言葉とその剣幕にカーリヤは涙目になってしまったが、よくよく聞けば彼らはただレーベン達の身を案じていただけだった。レーベンの傷とシスネの懲罰のことは伏せ、とにかく二人は生きていることを伝えると皆が一斉に安堵の息と歓声をあげた。中には泣き出す者までいたのだ。あの二人はずいぶんと気に入られていたらしい。

 しかし「旦那」とはどういうことだろうかというカーリヤの疑問は、その後すぐ解決することになる。

 

『はー、別嬪な聖女(よめ)さんやなぁ!』

『騎士さんが羨ましいわ、俺ももうちょっと若ければ……』

『二人ともええ体しとるのぉ! 子供も沢山できるわ!』

 

 うはははは! ……と、下世話だが悪意のない言葉の数々に顔を真っ赤にしたカーリヤが助けを求めるも、ライアーは何故かひどく曖昧な表情(かお)をしていた。「聖女と騎士は夫婦みたいなもの」という誤解は田舎ほど根強いというが、まさかこれ程とは。

 そしてカーリヤの受難はまだ終わらなかった。

 

『すげえ! 本物や!』

『はあ!? なんやあれ、絵じゃなかったんか!』

『同じやって! ほら!』

 

 若者たちがしきりにカーリヤの姿と、手に持つ何かを見比べている。その聖銀の輝きにカーリヤはひどく見覚えがあった。

 

「まさか、こんな所まで流通してたとはなぁ……」

「流通とか言わないでよ蹴るわよ!」

「痛えよ! もう蹴ってんじゃねえか!」

 

 あの馬鹿が巻き起こした写銀騒動。あの時に売られていたカーリヤの写銀はこんな辺境にまで流れついていたのだ。さすがにレーベン自身がここまで売りに来たとは考えにくく、馬鹿に便乗した別の馬鹿がいたのだろう。まったく忌々しい。

 

「返してって言ったのに駄目だって……」

「まあ高かったらしいしな。銀貨五枚だっけか?」

「ちっとも嬉しくないわよ!」

 

 曰く、あまりに美しいから実在の聖女ではないと思っていた。曰く、理想の美女を描いた精巧な絵だと思っていた。曰く、聖女シーニュの想像図だと思っていた。

 そこまで誉められて悪い気がまったくしなかったと言ってしまえばそれは嘘にならないこともなかったが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。やっぱりレーベンが全て悪いのだ。

 

「仕事が終わったら二人まとめてお仕置きしなきゃ……」

「じゃあ、無事に終わらせねえとな」

 

 先に立ち上がったライアーに向かって手を差し出すと、何も言わなくても引っ張り起こしてくれる。スカートに付いた草を払おうとしたが、ライアーは何故か手――左手を放してくれなかった。そのまま、鳶色の目がじっとカーリヤの左手を見下ろしている。

 

「……なに?」

「あぁ、いや」

 

 声をかけるとパッと手を放された。どこか焦った様子で兜を被る彼の姿を眺めながら左手をさする。左手の指にはいつも通りの自決指輪。

 

「さ、あと半分だ。気を抜かずにな」

「はいはい」

 

 そうしてまた、剣と銃を手に歩き出す。前を歩く大きな背中を追って。

 

 ――どうか、魔女が見つかりませんように

 

 どうかこのまま退屈に終われば良い。そう、名の無い女神に祈りながら。

 

 

 

 でも、祈りは通じなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ミラの勉強と夢

 

 ミラの朝は早い。

 カーテンにいくつも開いた穴から差しこんでくる朝日を顔に浴びたミラは、すぐに大きな目をぱちりと開く。隣で寝ている小さい子を起こさないようにそっと掛布から抜けだして、三段寝台(ベッド)のいちばん上からゆっくりと床に降りる。いつもキイキイ音をたてる扉をこれまたそっと開いて、ミラは部屋を後にした。

 

 

 

 孤児院の庭にある井戸から水を汲んで、顔と髪の毛を洗う。ぷるぷると頭を振って水を飛ばす頃になってようやく、教会の朝の鐘がポエニスに響きわたった。

 今日もミラの勝ちだ。教会のある方にベッと舌を出してから、朝の日課に取りかかる。

 

 ガリガリ、ガリガリ、と。木の枝で地面の土に文字を書く。何度も何度も、いくつもいくつも、同じ文字を書いていく。もうボロボロになった古い教本に書かれたお手本とにらめっこして、おかしな形になっていないか気をつけながら。

 ミラは字が読めないし、書くこともできない。まだ姉が生きていた時にすこしだけ教えてもらったことがあったけど、それももう何年も前の話だ。結局まともに字を覚える前に姉は魔女になって、父といっしょに森の中へと引っ越した。あそこでの暮らしで字を勉強する余裕なんてあるわけも無かったし、ミラもそれが必要だとは思わなかった。……ずっと、あそこで生きていくものだと思っていたから。

 

「……おっと」

 

 考え事をしていたら文字が変な形になっていた。ぐりぐりと手で土を戻してから書きなおす。

 今はあの頃とは違う。ミラは街で暮らしているし、父とはまだ会えないし、姉はもういない。そして何より、ミラにはやりたい事があって、その為にやらないといけない事も山ほどあるのだ。

 字の勉強もその一つ。まず字を読めないと本が読めないし、字を書けないと勉強もできない。本をたくさん読んで勉強しないと、お医者さんにはなれない。お医者さんにならないと同じ孤児院の子たちを診てあげられないし、魔女になった人を治すこともできない。

 ミラはまだ子どもだけど、きっとすぐに大きくなる。無駄にする時間なんて無い。ミラは忙しいのだ。

 百個ぐらい字を書いた頃、裏口の扉が開く音が聞こえた。

 

「おはよう、ミラ。今日も早起きね」

「おはよ、先輩」

 

 出てきたのは年上のお姉さん。ミラより何年か前に孤児院に来た人で、だからミラの「先輩」だ。他の子供たちは「お姉ちゃん」って呼んでいるけど、ミラはそう呼ばない。

 ミラの「お姉ちゃん」は、一人だけ。

 

「髪はちゃんと乾かした? 編んであげようか」

「いい」

 

 髪の毛なんてほっとけば乾くし、もう自分で束ねている。首の後ろで適当に結んだだけだけど、ミラはこれが良いのだ。簡単で楽だし、そして「聖女さん」と同じ髪型だから。

 

「ダメよ」

 

 でも、ぴしゃりと先輩から厳しい声が飛んでくる。思わず字を書く手も止まってしまった。

 

「お医者さんになるんでしょう? じゃあ、ちゃんと身なりも綺麗にしないと」

「……ん」

 

 そう言われればそうだ。ミラだって、髪の毛がボサボサなお医者さんになんて診てもらいたくない。

 渡された布切れと櫛を使って、髪の毛を整える。先輩もそれを手伝ってくれた。でも髪型はそのままにする。先輩の言うことは聞くけど、ミラにも譲れないものはあるのだ。

 

 

 ※

 

 

「「「いただきまーす」」」

 

 日課の勉強が終わったら、みんなで朝ご飯。もちろん、みんなで用意したものだ。ミラにまだ料理はできないけど、食器を並べたりはできる。

 今日も昨日と同じ、薄くて固いパンと具の少ない野菜スープ。正直ものたりないけど、仕方ないことだ。よく噛んでゆっくり食べる。

 父と森で暮らしていた頃は、こんなご飯ですら食べられなかった。小さなイモだとか、ミラが採ってきた食べられる草だとか、父がたまに獲ってきた鳥の肉だとかを適当に焼いて食べていた。それだって無い日もあったけど、父は必ずミラにだけは何か食べさせてくれた。

「つらいか?」ってよく聞かれた。ミラはだいたいのことは我慢できたけど、たまに我慢できないこともあったから、首を縦にふる時もあった。

「街に行くか?」って、そういう時は聞かれた。でもそれはつまりミラ一人だけがどこかの街の孤児院に行くってことだったから、首を横に振った。

 おかしくなっていても父はミラのお父さんだったし、魔女になっていても姉はミラのお姉ちゃんだったし、どんなに狭くて汚くて寒くても、あそこはミラの家だったから。

 

「「「ごちそうさまー」」」

 

 食べ終わった食器をみんなで片付けていると、玄関の扉が叩かれる音が聞こえた。呼び鈴なんて上等な物は無いから、つまりはお客さんだ。大人の先生が玄関で何かを受け取って、まっすぐミラの所までやってくる。

 

「はい、これはミラに」

「!、んっ」

 

 手紙だった。ミラに手紙を出す人なんて一人しかいない。すぐにでも開けて読みたいけれど、ミラにはそれができないのだ。

 

「……先輩」

 

 ミラが覚えた字は十個もない。手紙を読むにも、誰かに読んでもらわないといけない。でも、それだって簡単にはいかない。

 

「ごめんね、もう行かないと」

「……ん」

 

 先輩はお仕事へ行く時間だ。先輩だってまだ大人と呼べる歳じゃないけど、働けるようになったら働かないといけない。ミラだって、他の子たちだって孤児院の中の仕事を手伝っている。ただ食べて遊ぶだけの子どもを置いておく余裕なんて、ここには無い。

 それが分からないミラじゃない。それも分かった上で、教会の孤児院から出てきたのだ。

 

「いってらっしゃい」

「夜になったら一緒に読もうね」

「ん……」

 

 だから、はやく字を覚えよう。そうすれば自分で手紙を読める。返事だって自分で書ける。先輩の時間をもらうことも無いし、先輩の代わりにミラが他の子たちの読み書きをしてあげられる。

 その為には字の勉強をする時間が必要で、自分の時間が欲しかったら仕事をはやく終わらせないといけない。手紙をポケットにしまったミラは、足早に自分の仕事場へ向かった。

 

 

 

 掃除と洗濯は終わった。今日の最後の仕事はお使いだ。最近、ミラがよくお使いを任されるようになったのには理由がある。

 

「本当に大丈夫? 忘れない?」

「ん!」

 

 食べ物や薬の買い物が何件かに、嫌だけど教会に手紙も持って行かないといけない。何を何個どこの店で買うのか、他の子みたいに紙きれに書く必要はない、ミラはぜんぶ覚えられる。それは最近になって気付いたミラの得意技だった。

 

「いってきます!」

 

 お金と手紙を大きなカバンに入れて、ミラは街の中へと出た。

 

 

 ※

 

 

 買い物はちゃんと間違わずに買えた。残るは教会だ。でもミラはなかなか教会の入り口を通ることができないでいた。

 

 ――なんだろ、あの人

 

 理由は、変な人がいたから。

 入り口からすぐの所で、一人の大人が寝そべっていたのだ。今日も天気は晴れ。ポカポカと暖かそうな芝生の上で大の字になっている。

 

 ――寝てる?

 

 その大人――たぶん男の人は死んでいるのかと思ったけど、胸が少しだけ上下に動いている。ただ寝ているだけだった。仕事もしないでお昼寝なんてイイゴミブンだなと思いながら、ミラは忍び足で男の人の傍を通る。元々、教会の人とあまり関わりたいとは思わない。変な人なら尚更だ。

 でもその時、風がミラに意地悪をした。

 

「あ!?」

 

 急に吹いた強い風。ミラの長い髪が暴れて前が見えなくなって、元から重い荷物を担いでいた体がよろめく。そして、ポケットから顔を出していた手紙が飛ばされてしまった。

 

「――んぁ?」

 

 でも幸か不幸か、手紙が遠くへ飛んでいってしまうことはなかった。手紙は狙いすましたみたいに、昼寝中の男の人の顔に貼りついたのだ。

 いろいろな意味で顔を青くしたミラの目の前で、男の人がむくりと起き上がる。貼りついたままの手紙を大きな手がゆっくりと引っぺがして、その顔が明るい陽射しにさらされた。

 

「……っ!」

 

 悲鳴はなんとか堪えた。

 その男の人には、目が無かった。もっと正確に言えば、目を汚れた包帯でぐるぐる巻きにしていた。何日か前に会った「騎士さん」と同じだったけど、あの人は右目だけ。でもこの人は両目だ。

 髪の毛は黒と白がごちゃまぜになっていて、遠くからなら灰色に見えたかもしれない。同じ色の髭がモジャモジャ生えていて、口はほとんど見えなかった。

 着ている服は変な柄なのかと思ったけど違う。元がどんな色なのか分からないぐらいに汚れているのだ。はっきり言って、すごく汚い。あとすこし臭い。

 

「……?」

 

 男の人は、手に持った手紙を見ながら首を傾げている。目を両方とも包帯で塞いでいるのに、本当に見えているのかミラには分からない。もし、紙クズか何かだと思われたりしたら……。

 

「あ! ……の」

「うん?」

 

 ぐるりと、包帯で塞がれた目がミラの方を向く。目の無い視線を向けられて勇気が萎みそうになった。

 ミラは覚えることは得意だけど、喋ることは苦手。「聖女さん」や「騎士さん」となら何でかスラスラ喋られるのに、他の人が相手だとてんで駄目だった。お医者さんになるなら、それも直さないと駄目だって先輩から言われているけど、それもまだ練習が足りていない。

 

「それ、あの、返し……」

「んん? あぁ、これかい」

 

 男の人は怒ったりすることもなく、ただ手紙をミラに返してくれた。そのまま何を言うでもなく昼寝を再開するみたいに寝転んで、ミラも小声で「ありがと」とだけ言って立ち去ろうとした。

 立ち止まったのは、男の人の周りにたくさんの本が散らばっていたから。表紙に書かれている題名は読めなくても、それが絵本や英雄譚みたいな本じゃないことは分かる。思わず、ミラは声をかけてしまった。

 

「おじさん、お医者さんなの……ですか?」

「……すこし違うね。ワタシは技術者さ」

 

 だらしなく寝転んだまま、その変なおじさんは答える。「まあ医療も齧ってはいるがね」と言いながら、本の一冊を手渡してきた。ズシリと重くて分厚い本。パラパラと(ページ)をめくってみると、文字がびっしり並んだ中に人の身体の絵も描かれている。お医者さんの本なのかもしれない。

 

「読んでいても構わないよ。ワタシはもう少し寝ているからね」

「……よめない」

 

 ミラの小声に、おじさんが顔を向けてくる。本当に見えているみたいな動きだった。

 

「わたし、字よめない」

「……でも医療に興味があると?」

「……ん」

「それは大変だ」

 

 馬鹿にしている口調じゃなかった。「無理だよ」と否定することも、「がんばってね」と無関心に肯定することもなく、ただ「それは大変だ」と、どこまでも真剣な答え。

 

「まず何よりも字を覚えないと、お話にもならないね」

「そして金だ。医学書を買うにせよ、医療学校に通うにせよ、金がいる」

「金が欲しければ働くしかないけれども、働くほど勉強する時間は減る」

「ただ生きているだけでも金はいる。何をしなくても歳はとる」

「そうこうしている内に、君はあっという間に大人になるだろうさ」

「君のその夢は、それだけ厳しい道なのだよ」

 

「…………」

 

 ぎゅう、と。唇を噛みながら医学書を抱きしめる。

 簡単な道じゃないことは分かっていた。叶えるのはとても難しい夢だって分かっていた。でも、こうして突きつけられると自分がどれだけ苦しい道を歩こうとしているのか思い知らされる。

 やっぱり、ミラなんかには――。

 

 

 

『ミラは、何がしたい?』

 

 

 

 分厚い医学書をおじさんに返して、ミラは鞄を背負い直した。はやく先生に頼まれた手紙を教会の受付に持っていかないといけないのだ。はやくお使いを終わらせて、はやく家に帰らないといけない。

 ミラは忙しいのだ。遊んでいる暇なんて無い。悩んでいる暇も、泣いている暇も。

 

「待ちなよ」

 

 でも、おじさんはミラを呼び止める。無視して行ってしまうのは簡単だったけれど、ミラは目を拭ってから振り返った。お医者さんになるなら礼儀もちゃんとしなければいけない。

 

「……なに、ですか」

「そう怖い顔をしないでくれよ。確かに時間という物は貴重だが、それでも息抜きは必要なのさ」

 

「だからワタシもこうして昼寝なぞしている」と続けながら、体を起こしたおじさんが隣の芝生をポンポン叩いてくる。座ってお喋りをしようということだろうか。でも。

 

「変な人とは、喋っちゃダメって、先生が」

「……言うじゃあないか、君ぃ」

 

 モジャモジャの髭から引きつった口が見える。ちょっと言い過ぎたかもしれない。ミラは少しだけ反省した。

「では交換条件といこう」と、おじさんがよく分からないことを言い出す。

 

「ワタシの話を聞いてくれたら、君のその手紙を読んであげようじゃないか」

「……」

 

 少しだけ考える。いつも忙しいのに、いつも優しい先輩の顔がミラの頭に浮かんだ。

 

「……ん」

 

 ミラはおじさんの隣に腰を下ろした。コウショウセイリツだ。おじさんも髭の中からニタリと口を覗かせる。

 

「――ワタシもね、最初から技術者になろうとした訳ではないのだよ」

「元は全然違う仕事をしていてね、頭より体を使う仕事さ」

「それで……まあ、(なん)()やあってね」

「どうしても、やらなければいけない事ができたんだ」

「でもそれは長くて厳しい道だ。死ぬほどね」

「ワタシがよぼよぼの爺になってくたばってもまだ、届かないかもしれない」

 

「……」

 

 塞がれた目を青空に向けながら、おじさんは締めくくった。話は終わりみたいだけど、ミラに何か言ってあげられるとは思えなかったし、おじさんもそんなもの最初から期待していないのかもしれない。

 おじさんはそれ以上何も言わず、ただミラに手を差し出す。

 

「おじさん、目みえるの?」

「まあ、なんとかね。いつもはちゃんとした()を着けているんだが」

 

 よく分からないことを言うおじさんに首を傾げながら、ミラは手紙を手渡した。

 

 それはやっぱり、父からの手紙だった。

 そのほとんどはミラのことを心配する内容で、前に出した返事で教会の孤児院を出たことは書いていたから、お腹はすいていないか、風邪はひいていないかと不安で仕方ないみたいだった。

 父のことは少しだけ書かれていた。最近は木を削って食器を作ったり、たまに机や椅子なんかを作ったりもしているらしい。そういう物は教会で安く売られているから、もしかしたらミラも使うことになるかもしれないと。

 また手紙を出す。また会えた日、大きくなったミラの姿を見ることを何よりも楽しみにしていると、前の手紙にも前の前の手紙にも書かれていた言葉がまた綴られていた。

 

 

 ※

 

 

 変わったおじさんと別れたミラは、足早に教会の本棟に向かった。ミラは教会が嫌いだけど、お使いはしっかりとやらないといけない。時々、灰色の服の女の人と黒い服の男の人が二人で歩いているけど、それは「聖女さん」でも「騎士さん」でもなかった。

 歩きながら、ミラはあの二人の姿を探していた。

 

 

 

『ごめんなさい』

 

 あの日、馬車に乗せられた父が遠くへ行くのを見送った後、聖女さんはミラに言った。見上げた姿は包帯だらけで、そんな傷だらけなのに聖女さんは見送りに来てくれた。お医者さんに怒られるから内緒にしてとも言われたけど。

 いったい、何が「ごめん」なのかミラには分からなかった。それをそのまま伝えると、本当はミラたちが離れ離れにならないようにしたかったんだって、聖女さんは言った。

 たしかにミラは哀しかった。寂しかった。なんで自分やお父さんばかりこんな目にって。でもミラは知っていた。この世界はいつもミラに厳しくて、たまにしか優しくしてくれないんだって。その「たまに」が聖女さん。だからミラはそう伝えて、こう言った。

 

『ありがとう。()()()()

 

 でもそれを聞いた聖女さんは、なんでかすごく哀しそうな顔をした。ミラはもう泣かなかったのに、聖女さんの方が泣きそうな顔になって、ぎゅっと抱きしめられた。

「ごめんなさい」って、また謝られて。あの時きっと、聖女さんは泣いていた。

 

 

 

「お使い? 偉いわね。気を付けて帰るのよ」

「……ありがと」

 

 本棟の受付の人に手紙を渡すと、かわりにアメ玉をくれた。教会からのホドコシなんていらないと思ったけど、貰えるものは貰っておこうとミラは考え直す。アメは先輩にあげよう。いつものお礼だ。

 背が低くて受付に頭が届かないミラに踏み台を置いてくれたりとか、教会の人は優しい。教会のことは嫌いだけど、良い人もいる。世の中はフクザツだ。

 

「――い、聞いたか」

「本当に――。そんなの――」

「至急、――と騎士たちを――」

 

「……?」

 

 教会には何度か来たことがあるけど、今日はやけに人が多い。それになんだか忙しそう……いや、慌てていると言った方が良いのかもしれない。いつもと違う雰囲気になんだか不安になってきたミラは、また足早に出口へと向かった。

 

 

 

 夕日の中、ポエニスの街中を歩く。

 ミラは夕日が嫌いじゃない。もうずっと前、ミラがまだ故郷の村で暮らしていた頃、夕日の中でよく姉と遊んでいたから。いなくなった母と部屋から出てこなくなった父の代わりに働いていた姉は、仕事が終わってから暗くなるまでのほんの短い時間をミラの為に使ってくれた。それがどれだけ大変なことだったのか、今なら痛いほど分かる。

 その姉にミラは何も返せなかった。何も返せないまま姉は魔女になって死んでしまった。「騎士さん」たちに、殺されてしまった。

 姉を殺したのは聖女さんと騎士さんとその友達と、そして父だった。聖女さんに、そう聞いた。

「恨んでもいい」って聖女さんは言った。聖女さんも騎士さんもその友達も父も、みんな恨んでいいって。でも覚えていてほしいって。みんな、誰も、ミラを哀しませたくてそうしたんじゃないって。もう、そうするしか無かったんだって。

 それで納得できるほどミラは大人じゃなかったけど、聖女さんの話をまったく聞けないほど子どもでもなかった。あの時の姉はもう「お姉ちゃん」じゃなくなっていたんだって、もうどうしようも無かったんだって、ミラは少しずつ自分に言い聞かせてきた。

 

 中央広場の真ん中、みんなが座ってお喋りしている中で、長椅子が一つだけがぽつんと空いていた。何日か前、ミラはここで「騎士さん」とばったり再会したのだ。

 

『俺はアレを殺す。邪魔するなら貴公(あんた)達も殺す。文句があるなら止めてみろ』

 

 怖い人だと思っていた。

 はじめて会った夜、あの人はすごく怖い目をしながら父とミラにそう言った。あの言葉はきっと脅しなんかじゃなくて、もしあの後すぐ聖女さんが父を止めていなかったら、ミラ達は……。

 だからあの人はミラにとっての教会の騎士そのもの。魔女とその家族を殺しにくる、怖い「騎士」そのものだった。

 

 でもその人は、変わり果てた姿でここに座っていた。

 

 鎧も騎士の服も着ていなくて、剣のかわりに杖を持っていて、右目と右手が無くなっていて。そしてその隣にはもう、誰もいなかった。

「いい気味だ」なんて、とても思えなかった。片っぽだけになった灰色の目には怖い光なんて欠片もなくて、それどころかもう、何の光も残っていなかった。

 ミラ達を教会が見捨てたみたいに、この人も教会に見捨てられたんだと思った。それが無性に悔しくて、哀しくて。だからミラの夢を、何がしたいのかを話して、そして騎士さんにもそれを聞いた。

 

『俺は――……』

 

 騎士さんはなかなか答えなかった。左目を地面に向けて、夕焼け空に向けて、目を閉じてまた開けてから、やっと答えてくれた。

 

『また、シスネと一緒にいたいな』

 

 

 ※

 

 

「ただいまー!」

 

 色々とあって遅くなってしまったミラは、急いで家に帰った。あまり運動は得意じゃない、すこし走っただけで汗が噴き出てくる。井戸で顔を洗いたいけど、その前に買ってきた物を先生に渡さなければいけない。

 でも先生たちの姿はどこにもなくて、他の子供たちもいなかった。

 

「……みんな?」

 

 嫌な静けさに不安になってきた時、奥の扉が静かに開く。そこから現れた先輩の姿にミラはほっと胸を撫でおろした。脅かさないでよ。

 

「あ、ごめん先輩。ちょっと遅く――」

「ミラ、こっちに来て」

 

 夕日が差し込んでいる家の中は橙色に染まっていて、でも先輩の顔は真っ青だった。見たことのない表情に言葉をなくすミラの手を先輩が黙って握って、鞄も下ろせないまま奥の部屋へと連れていかれる。

 

「な、なに、ねえ、いたいよ」

 

 たまに厳しいけどいつも優しい先輩が、今日はまるでミラのお願いを聞いてくれない。何も言ってくれないし、手も放してくれない。ほとんど引きずられるみたいにしてミラは家でいちばん広い部屋、つまりは食堂へと入った。その間、先輩の手はずっと震えていた。

 食堂の机には、いつもみたいに子どもたちがみんな座っていた。でも机の上には何も乗っていなくて、みんな不安そうな顔をしている。ミラもそれを不安そうに見回しながら、自分の席に座った。

 全員が揃ったことを見た先生が、いつも「大事なこと」を言う時みたいにみんなを見回す。でも先生の顔だって、先輩と同じぐらいに青白い。

 

「みんな、よく聞いて」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

エイビスの怒りと追憶

 

 エイビスに母はいなかった。自分を産んですぐに亡くなったとだけ聞いていたが、その理由までは知らない。そもそも教国で母のいない者など珍しくもなく、それはこの聖都であっても例外ではない。病か魔女禍か、女には早死にする理由が一つ多いというだけの話だから。

 エイビスの父は騎士だったという。だが騎士である内に妻子を持てる訳もなく、兄のレグルスが生まれる前には既に役目を降りていたらしい。

 エイビスは母の顔も死因も知らないが、聖女でなかったということだけは知っている。何故なら、父は模範的な騎士だったのだから。

 そして兄もまた、模範的な騎士であった。

 

 

 ※

 

 

 突きを放つ。動きを小さく、呼吸も乱さず、槍に必要以上に力も込めないよう意識する。そうして放たれた突きは威力よりも精度を、力よりも技に重きを置いた一撃。

 

「しっ!」

 

 ごぉん、と。だがその軽いはずの一撃は対手の盾にまっすぐと突き刺さり、更にはその体躯ごと後ずらせる。鐘でも打ち鳴らしたかのような金属音が双方の間に響いた。

 女としても小柄なはずのエイビスが放つには、あまりにも重い一撃。それはエイビス自身の力ではなく、だがある意味でエイビスの持つ「力」でもあった。

 

 大騎士コルネイユは言った。

 ――聖女たちの聖性で、我らは大きな力を得る

 ――だがそれ故に、技を磨くことを忘れてはならない

 ――どれほど力を得たとして、それでも魔女には届かない

 ――何より、ただ力のままに力を振るう騎士など、魔女と何が違うものか

 

 聖性を流された騎士の身体能力は劇的に向上する。それこそエイビスのような小娘の細腕でも、大男の剛腕を圧し折られる程度には。

 故に極論を述べれば、必要以上に筋力を鍛える必要など無い。同じ時間を鍛錬に費やすならば、聖性でも補えない技量をこそ練り上げるべきである――それが聖都の騎士たちの共通認識だ。

 エイビスとてそれを疑ってはいなかった。あの日までは。

 

「っ!」

 

 対手の隙を突いた渾身の一撃が空を切る。視線を読まれていたか、呼吸を聞かれていたか、あるいは足捌きを――? そんな思考の間隙を容赦なく突かれ、得物の槍は手元から弾き飛ばされてしまった。眼前に突きつけられる片手剣の切っ先。詰み。敗北。死……。

 

「っ、……ああぁぁっ!」

「ぬお!?」

 

 常ならば、以前ならば潔く負けを認めていた。だがそれをエイビスはできない。できなくなってしまった。獣のように叫びながら剣の切っ先を手で打ち払い、勢いのまま対手の胴に組み付いて押し倒す。すぐ近くであがる呻き声も無視して、両手で握った拳をその顔面に――!

 

「ハイ、そこまで」

 

 コチン、と。エイビスの手甲と対手の兜がぶつかって気の抜けた音を鳴らす。手加減した訳ではない、それが自分の本来の力なのだ。流されていた聖性を切られれば、エイビスはただの小娘に過ぎない。

 

「どいてくれ」

「……すまない」

 

 対手を務めていた騎士の体から立ち上がり、のろのろとエイビスは修練所の隅に歩く。ひどく重々しい動きは疲れのせいだけではない。身に着けた鎧が重すぎるのだ。なんとか椅子に腰掛けると、やたらと背の高い女に鎧を脱がされ始め、エイビスはそれに甘んじた。

 

「また荒れてますねーお嬢。あの日なんですかー?」

「……そういう冗談は好かないと言ったぞ、シグエナ」

 

 ニヤニヤと狐のような目を更に細めた女――シグエナはエイビスの聖女であるが、正直なところ苦手だった。そこらの男よりも長身な彼女と並べば、小柄なエイビスなどそれこそ子供にしか見えない。事実あちらの方が一回り以上も年上であり、事ある毎にエイビスを子供扱いしてくる。そのくせ慇懃無礼に接してくるものだから話すだけで疲れてしまうのだ。

 そして今もまた、嫌がるエイビスの反応を楽しむかのように揶揄いまじりに声をかけてくる。

 

「武器ほっぽり出して掴みかかってどうするんです、聖都の騎士の名が泣きますよー?」

「……」

「まーたそうやって黙るー」

 

 鎧を脱がし終えたシグエナから木のコップを受け取り、中身の水を呷る。修練の後で火照った身体に沁みわたるようだが、気分だけは滅入ったままだ。その原因はもう分かっている。

 

「シグエナ」

「はい?」

「わたし達の技は魔女に通用するのか?」

 

 シグエナの顔から水が引くように表情が消える。ニヤニヤとした笑い顔が無くなって現れたのは、歴戦の聖女の顔。未だ魔女と対峙したことのないエイビスと違い、彼女はもう何度も魔女狩りを行っている。それがまたエイビスの胸に不安と劣等感を植えつけるのだ。

 

「もちろん通用しますとも。偉大な先人たちが積み上げてきた魔女狩りの技ですよ?」

「そうか……そうだな」

「たーだーしー」

 

 不意に差した影に顔を上げると、すぐ近くにシグエナの見慣れたニヤニヤ顔があった。だがその声だけは、無視できない真剣味を帯びている。

 

「お嬢が、魔女を前にしてチビらずに済めばの話ですけどねー?」

 

 エイビスの頭に、五日前の光景が過る。

 いつも通り、大聖堂の門番を務めていたあの日。エイビスの前に現れた隻眼隻腕の男。彼が騎士だったということはすぐに分かった。平凡な人生を歩んでいればまず負わないであろう深手と、鍛えこまれた肉体が成しえる立ち姿。そして同時に、あれだけの深手では騎士には戻れないということも。

 入堂料も払わず中へ立ち入ろうとしたことは感心しなかったが、話は分かる男であった。尊敬とまでは言わずとも、騎士の先達として充分に好感を持てる相手だと思っていたのだ。

 

 だが彼を見送った後でエイビスの胸に湧き上がった感情は、恐怖だった。

 

 あの右目を潰したのは、魔女の爪なのだろうか。牙なのだろうか。目を潰される瞬間の、最後に見る光景とはいかなる物か。

 あの右腕はどうやって失くしたのだろうか。斬り落とされたのか、引きちぎられたのか。その時の痛みとはいかなる物か。

 魔女は聖女を簡単には殺さないという。だがそれは自分には関係のないことなのだろうか? 魔女のような怪物に、聖女と女騎士の区別などつくのだろうか?

 

「……っ」

 

 もし。もしも。

 初めての魔女狩りで恐怖にのまれてしまったら? 頭が真っ白になって、覚えた技などまるで使えなかったら? 負けて、捕らえられて、ゆっくりゆっくりと、死ぬまで嬲られ続けるのだとしたら?

 怖い。

 

「怖いんですかー?」

 

 コップの底に残った水を凝視していた目を上げれば、ギョッとするような近さでシグエナの細い双眸と目が合った。長身痩躯を折り曲げながら顔を覗き込んでくる様は、まるで蛇のよう。

 

「怖くない」

「怖いんでしょうが」

 

 反射的に否定すれば、間髪いれずに否定される。断定的な口調に思わずエイビスは口を噤んだ。怖かったのも事実なのだから。

 

「怖いに決まってるでしょう」

「魔女なんて本物の化け物ですから。常識なんてまるで通用しません」

「しかも負ければ死ぬまで嬲り殺しだなんて、ほんと割りに合わない役目(しごと)ですよねー」

 

 ケタケタと歴戦の聖女が笑う。いったい何がおかしいのかエイビスにはまるで分からない。そんな聖女の姿こそが、得体の知れない怪物に見えてくる。

 

「そんなお嬢に、ハイこれ」

 

 呆としていたエイビスの手に乗せられた、小さく冷たい感触。それは銀色の簡素な指輪。エイビスも存在は知っていたが、これは……。

 

「自決指輪ですよ。使い方は知ってますー?」

「……わたしに死ねと言うのか?」

「怖い顔しないでくださいよ、ちょっとした御守りですってー」

 

 ヒラヒラと振られたシグエナの手にも同じ指輪が光っていた。人差し指と中指に一つずつ、それが両手に。ずっと近くにいた聖女が四つもの自決道具を身に着けていたという事実に、エイビスは薄ら寒いものすら感じる。その指輪の光る手が、そっとエイビスの手をとった。

 

「死んじゃえばいいんですよ」

「どうせ死ぬなら、楽な方が良いに決まっているじゃないですか」

「痛いのも苦しいのも、魔女になるのも嫌でしょう?」

 

 魔女禍というものは未だに謎だらけだ。何故それが女にしか現れないのか、魔女に到る原因は何なのか、魔女は何のために、聖女を嬲り殺そうとするのか。

 だが公然と語られる噂なら存在する。

 大騎士コルネイユが語ったように、「絶望」こそが女を魔女へと堕とす。そして魔女は己の仲間を増やす為に聖女を執拗に嬲り、絶望させ、より強い魔女――つまりは破戒魔女を生み出そうとするのだと。

 その説が正しいなら、聖女の素質を持たないエイビスは嬲られることはないだろうか。……などと安心できる訳もないのだが。

 

「まだ怖いんですか? もー、お嬢は怖がりなんですからー」

「……仕方ないだろう。わたしは、まだ経験が無いんだからっ」

「うわ、なんか官能的(エロい)

「ぶつぞ」

 

 駄弁っている内に身体も冷えてきた。騎士の黒い装束を着直しながら出口に向かうと、シグエナも傍に並び歩く。……彼女の肩にすら頭が届かないことは非常に腹立たしい。

 

「指輪、着けてくれないんですか?」

「……すこし考えさせてくれ」

「まあ、もう着けちゃったんですけどね」

「は? ……なぁ!?」

 

 長い通路を歩きながら手を見れば、エイビスの右手には自決指輪が光っている。いったい、いつの間に着けられたというのか。

 

「相変わらず隙だらけなんですからー。今に乳とか揉んじゃいますよー?」

「ち……!? き、貴殿という奴は……!」

「それとも、――こっちの方が良いですか」

 

 カチャリと、首筋に感じる冷たい感触。起こされる撃鉄の音に、エイビスの体は何の反応もできなかった。ただ、凍ったように足を止めるだけ。

 

「隙あり。本番を致すにはまだ早いですかね」

「……っ」

 

 ケタケタ笑いながら前を歩いていく背中を、ひとりエイビスは見送る。無限回廊のような通路に人気は無く、立ち尽くす未熟な女騎士の姿も、その涙も見る者は誰もいなかった。

 

 

 ※

 

 

 レグルスは優秀な騎士だった。

 騎士であった父の期待を一身に背負い、それに応え、当然のように騎士を目指した。才に恵まれ、だが慢心することもなく修練に励み、そして騎士となった。

 エイビスにとっても自慢の兄だった。父はエイビスに冷たく当たることこそ無かったが、それでもやはり兄と比べて扱いは軽かったと幼心に思っていた。そんな自分が甘える対象は、既に死んでいた母でも厳格な父でもなく、いつも優しい兄だったのだ。

 今思えば本当に兄には苦労をかけてしまった。こんなに辛い修練の合間に妹の面倒を見ていたのだ。そんな自分に嫌な顔も辛い顔も見せることなく騎士となった兄は、本当にすごいとエイビスは思う。

 そして、立派な騎士となった兄に看取られながら寝台の上で安らかに死んでいった父の死は、最高に幸運なものだったのだとも。

 兄の、あの無残な最期を見ることなく女神と母の元へ逝けたのだから。

 

 

 

『はじめまして』

 

 その女性を初めて見た時、まずはその綺麗な髪に目を奪われた。化粧っけの少ない顔立ちは地味でも整っていて、容姿にまで優れていた癖に着飾ることは好まなかった兄とよく似合っていた。

 何より、彼女を見る兄の眼差しはとても綺麗で、優しくて。こんな素敵な女性が自分の義姉になるのだと思えば、エイビスも自然と笑顔になれたのだ。

 そうは、ならなかったのだけれど。

 

 

 ※

 

 

 青い空に蒼い海。遠くから聞こえる雑踏と、かすかな潮騒。大聖堂の入り口で門番を務めるエイビスの見る世界はいつもと変わらず、そして美しい。

 だがここに立って思い出すのは、二日前の思わぬ再会のことばかりだ。

 

『……エイビス』

『……お前』

 

 シスネレイン。兄の聖女だった女であり、そして兄を介錯した女。兄の仇。そして、かつてエイビスが憧れた女でもある。

 聖女に憧れ、だがその素質を持たなかったエイビスにとってシスネレインは聖女の象徴だった。キノノスのように綺麗な白髪も、清貧を体現したように質素な身なりも、真面目で直向(ひたむ)きな姿も。あの聖女に憧れたからこそ、聖女になれないなら騎士になろうと、そう思えたのだ。

 そう、思えたのに。

 

『お前……っ、よくもわたしの前に顔を出せたな!』

 

 シスネレインは聖女の名に相応しくない女だった。エイビスはそう思った。

 兄を介錯し、魔女を狩り、あまつさえ、その後も一人で魔女狩りを始めた。まるでレグルスに(みさお)でも立てているかのように。

 ふざけるな。

 ならばなぜ兄を介錯した。なぜ後を追って自決しなかった。エイビスにはもう誰もいなくなってしまったというのに、なぜお前だけがのうのうと生きている――!

 何度も問いただした。何度も詰った。何度も殴った。何度も。何度も。

 シスネレインは何も答えなかった。答えることも逃げることも抵抗することもなく、ただ黙ってエイビスに詰られ、殴られていた。

 そこまで後ろめたいこと。そこまで言いたくないこと。

 エイビスの脳裏に最悪の答えが過り、そしてそれはきっと事実だったのだ。

 

 

 

「――てますー? ねえ、お嬢ったらー。……ふー!」

「ぬひぇあっ!?」

「お、イイ反応」

 

 追憶に耽っていたエイビスの耳に生暖かい吐息が吹きかけられ、思わず飛び上がる。すぐ隣に立つ細長い影を睨み上げれば、案の定に見下ろしてくるニヤニヤした細目。視界の端では、門番を務める相方の騎士と聖女が我関せずとそっぽを向いていた。

 

「いくら退屈だからって寝ちゃダメですよー。門番も立派なお仕事ですよー」

「分かっている。皆まで言うなっ」

「本当にぃ?」

 

 揶揄いまじりのシグエナの声に嘲笑の色が濃くなる。その変化に再び顔を上げれば、細く開かれた相貌から覗く、喜悦と侮蔑を混ぜ合わせたような眼光。

 

「またあの“騎士殺し”が来た時みたいに取り乱しちゃイヤですよぉ?」

「――――」

 

 

 

『シスネレインさん、その……ひとつ、相談したいことが』

『シスネで良いよ。長くて呼びにくいってよく言われているし、レグルスもそう呼ぶから』

 

 

 

()()

 

 自分でも別人かと思う程、低い声が出た。

 相方の騎士と聖女がこちらを見たのが振り返らずとも分かる。シグエナは変わらずニヤニヤと笑いながらエイビスの言葉を待っていた。

 

「黙れ。あの女を馬鹿にするな」

「あの女をそう呼んで良いのも、わたしだけだ」

「何も知らない奴が口出しするんじゃない」

 

 この三年、エイビスがシスネレインと直に顔を合わせることは殆ど無かった。

 かたや修練中の見習い騎士。かたや魔女狩りに出ていることの方が多い聖女。この広い聖都と大聖堂で出くわすことなど少なく、更にお互いが会わないようにしていたのだから当然だ。

 

 だからあの時、久しぶりに再会したシスネレインが他の男の手を引いていた時、エイビスの中で抑えきれない何かが破裂した。

 

 気が付けば掴みかかっていた。気が付けば相方に押さえつけられ、五日前にも会ったあの男に対しても八つ当たりのような言葉を吐いてしまった。

 それをすぐ後悔したのは、彼もまた感情が破裂したかのような目をエイビスに向けてきた時。怒りと呼ぶには剣呑に過ぎた眼光に貫かれ、足が竦んだ。シスネレインが止めなければ、どうなっていたのか。

 そしてすぐ、二人はまた変わり果てた姿で中から出てきた。

 血塗れになった男と、それを背負う女。自分もまた血に塗れたシスネレインの黒い瞳は闇夜のように暗く、立ち尽くすエイビスのことも見えていないようだった。そこにはもう、かつてエイビスが憧れた聖女はいなかった。

 まるで、聖女ですらなくなってしまったかのように。

 

 

 

 睨み上げたシグエナの顔は、相変わらず涼しい表情をしている。それをどうにか歪ませたいという情動がエイビスの中で湧き上がり、唇の片側がつりあがっていくのを感じた。

 

「だいたい……“騎士殺し”は貴殿の方ではないのか?」

 

 シグエナの表情は変わらないまま、だが空気が変質した。

 歴戦の聖女である彼女は当然、エイビスの前にも他の騎士と契りを交わしている。その数、三人。その全員が魔女狩りの中で倒れ、そしてその全員をシグエナが介錯したのだという。

 それが悪しきことだとはエイビスも思わない。だがシスネレインの話は別だ。どんなにレグルスがエイビスにとって大切な人間であったとしても、一人は一人。あの女が介錯したのは兄一人だけだ。

 だから、シスネレインが他の者たちから“騎士殺し”と呼ばれる謂れは無い。そう詰って良いのは自分だけだと、エイビスは思っている。

 

「言いますねぇ、お嬢。それでこそ私の騎士さまですよ」

 

 パチパチと乾いた拍手を鳴らしながらシグエナが言う。見開かれた細目からは、剣呑さを帯びた喜悦の視線がエイビスを突き刺す。それから目を逸らしてはならない。逸らしては負けだと、自分にそう言い聞かせ――。

 

 

「そこまでです」

 

 

 間近で響いた、怖気がするほど涼やかな声音。誰の声かなど考えるまでもなく、ただ聞いただけで背筋に氷柱を差し込まれたような悪寒を感じた。弾かれたように向き直って姿勢を正す。シグエナも、相方の騎士と聖女も。

 そして声の主はいつの間にか、大聖堂の入り口に佇んでいた。

 

「おやめなさい、聖女と騎士で争うなど」

 

 簡素な車椅子。左半分を削ぎ落された身体。氷色の瞳。

 

「その様子では魔女狩りに向かうにはまだ早いようですね? 騎士エイビス」

 

 イグリット聖女長。この聖都の聖女と騎士にとって恐怖の象徴が、何故こんな入り口にまで足を運んでいるのか。聖女長の意図をはかりかねるエイビスの耳に再び響く声。

 

「皆に大事な話があります。中までおいでなさい」

 

 

 ※

 

 

 堂内の大広間。そこには聖都の聖女と騎士がほぼ全員集まっているのではないかという程の人だかりができていた。

 

「うへぇ……。何だってんでしょうねいったい」

「わたしが知るか」

 

 収容できる人数を明らかに超えた密集具合。しかもまだまだ増えているのだ。人いきれでエイビスは頭がクラクラしてきた。

 

「お嬢、お嬢ー? はぐれてません? 手つないであげましょうか?」

「いらん、子供扱いするんじゃないっ」

 

 ニヤニヤと、いつも通りの揶揄いの視線を向けてくるシグエナ。いつも通りのその様子に、エイビスもまた安堵を自覚していた。

 そして暫しの時が経ち、大広間に人数が増えなくなってようやく、演壇の上に車椅子が押されてきた。同時に痛いほどの静寂が大広間を支配する。

 

「皆さん、」

 

 いつも通りの聖女長の声。だがそれにどこか震えのような響きをエイビスは感じていた。そして、それはきっと恐怖などではなく。

 

「魔女狩りの時間です」

 

 高揚、だったのだろう。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レーベンとシスネとその家族

 

「私は、痛みならそれなりに耐えられる自信があります」

 

 遠い目でシスネは言い、レーベンは彼女との魔女狩りを思い出す。主にレーベンが前に出ることが多かったが、彼女もまた魔女の攻撃に晒されることは少なくなかった。

 カクトの廃鉱山で魔女に引きずり回された時も、森の奥で左腕を引きちぎられそうになった時も、サハト村で黒蛇に群がられた時も、破戒魔女を前にレーベンを連れて逃げ回った時も、彼女は悲鳴こそあげても音はあげなかった。

 それは当然のことでもあった。彼女と同じく、かつて一人で魔女を狩っていたレーベンもよく知っている。苦痛に悶えて悲鳴をあげても助けなど来ない。助けてくれる仲間はいなかった。ならば耐えて、立ち上がるしかないのだから。

 

「ですが、」

 

 黒い瞳で、黒い夜空を見上げていたシスネが視線を下ろす。揃えられた膝の上に乗せた手は白く、その膝も腿も同じく白い。

 そこまで見てから、レーベンは目を逸らした。

 

「恥ずかしいのは無理なのです……っ」

「何と言うかその、すまん」

「こっちを見ない!」

「はい」

 

 わずかに視線を戻しただけで叱責が飛んでくる。シスネは叫んですぐに俯き、両手で顔を覆ってしまった。視界の端に映る彼女の首と耳、そして肩は月明りの下でも分かるほど赤い。それが分かるほど、彼女の装いは普段と異なる。

 何故こんなことになったのか。意味もなく暗い海面を眺めながらレーベンは追憶に耽った。

 

 

 ◆

 

 

「とりあえず脱ぎなさい。今すぐここで」

「なんで!?」

 

 シスネに手を引かれながら食堂らしき部屋に向かう途中、廊下に立ちはだかる長女ウルラはだしぬけにそう言った。当然シスネは御冠である。

 

「なんでって、あんた血だらけじゃない。旦那さんもさ」

「旦那じゃない。旦那じゃないってば」

「そんな格好で入られたら血腥くて食べられたもんじゃないでしょ?」

 

 ウルラの言葉は正論ではあったが、今すぐここで脱げというのは如何なものか。……もしかして己も脱がなければならないのだろうか。レーベンは不安になってきた。そんなレーベンの肩を親しげに叩く青年が一人。

 

「俺の服を貸すっス、こっちこっち」

「助かる」

 

 親指で近くの部屋を差す次男エンテ。背格好の似ている彼の服ならばレーベンも問題なく着られるだろう。至れり尽くせりである。

 レーベンが陽気な青年の後に続くと、一人残されたシスネを大小二つの影が取り囲んだ。

 

「じゃ、あんたにはこれ」

「……これコトラの服じゃない! 入らないでしょ!」

「平気平気。あんた乳ないしガリガリだし、ちょっと無理すれば入るって。乳もないし」

「そういう問題じゃ……て、何これ下着!?」

「今時の服はそんなもんよー」

「や、ちょ! コトラ、あなた勝手に……っ、スカート返しなさい!」

 

 きゃあきゃあ、ぎゃあぎゃあと背後から響く喧噪は扉を閉めるだけで聞こえなくなった。何らかの加工が施された扉なのだろうか。エンテは我関せずと爽やかに笑うのみだ。

 

「大丈夫なのか、彼女らは」

「平気平気、いつもあんな感じだったし」

「そ、そうか」

 

 慈悲は無いらしい。

 さりげなく手伝ってくれるエンテに助けられながら、レーベンは血で汚れた服を着替え始めた。……なるべく時間をかけて。

 

 

 ◆

 

 

「ちょっとエンテ、そこの皿とって」

「おかー、あー!」

「自分で取ってくれよ、食うのに忙しい」

「取ってやれ、一応は身重なんだ」

「こら中途半端に残すんじゃないよ! 全部食いな!」

「いやぁ、今日はもり沢山だな」

「どうぞ、あなた」

「ありがとう。うん、今日も酒が美味い」

「……、……」

 

 がやがやがやがや。

 幼い息子(シュカ)の世話をしながら器用に食事する長女(ウルラ)。見ていて小気味よい程に食べる次男(エンテ)。静かに手を動かしながら弟を諫める長男(サラベイ)。料理を豪快に取り分ける母親(メーヴェ)。大量に盛られた皿を前に苦笑する父親(パロット)。上品に酌をする祖母(グースィ)。それを優雅に呑む祖父(ロシノル)。レーベンから目を離さない三女(コトラ)

 まるでポエニスの食堂のような。否、カーリヤに連れ出された酒場のような喧噪。これが一つの家族によって生み出されているという事実に、レーベンは呆気に取られていた。

 

「……賑やかだな」

「こっちを見たら刺しますよ」

「お、おう」

 

 何故か大きな食卓の中央に座らされたレーベンと、その隣の次女(シスネ)

 着替えが終わってからというもの、彼女は常にレーベンの死角、つまりは右隣から離れようとしない。言われなくとも己の狭い視界では彼女の姿も捉えられないのだが、何か固く尖った物で脇腹を突かれては生きた心地もしなかった。

 

「……」

 

 もっとも、実は正面の窓硝子に映る彼女の姿は丸見えなのだが。

 いつかのように高く結われた白髪。簡素な白い上衣には袖が無く、白い肩が大きくさらけ出されている。そしてやはり小さかったのか、ほとんど肌に張りつくような有様であり、前の(ボタン)もいくつか閉められていない。開いた胸元をなんとか閉じようとしたのか、青の襟締め(ネクタイ)だけがきつく巻かれていた。

 有体に言って、目のやり場に困る。むき出しになった細い首筋も白い肩も、華奢な身体の線と嫋やかな胸元の曲線も。彼女の方から見るなと言われてむしろ助かっていた。

 

「良い出来だと思わない?」

 

 煮込み(シチュー)をもそもそ口に運んでいると、ウルラが楽しそうに目を細めながら聞いてくる。いったいどちらのことを聞いているのか。おそらく料理のことではないのだろうが。

 

「……()()()ですね」

「でしょー?」

 

 どっちつかずの答えを返せば、ウルラが更に目を細める。彼女自身はなんとも思っていないようだが、あまり不躾な視線をシスネに送るべきではないのかもしれない。レーベンは努めて目の前の料理に集中することにした。

 

 ――それにしても

 

 医療者の家系である故か、あるいは単に人柄なのか。この家族は皆がレーベンへの気遣いに満ちていた。食卓に並ぶ料理にしても、左手しか使えないレーベンでも不自由しないような物ばかりが揃っているのだ。先ほども「晩飯を作り直す」と、そうメーヴェは言っていなかったか。本当に、己などには勿体ない。

 

「んん? なんだい、アンタ少食だねぇ」

「……申し訳ない。食べるのが遅いもので」

 

 メーヴェの言葉に適当な誤魔化しを並べる。レーベンの為にわざわざ準備してくれた彼女にだけは気付かれるわけにはいかない。口に運んだ煮込みを咀嚼すれば、魚肉の感触と、芋や豆の感触。熱くも冷めてもいない何かのスープ。それだけだ。

 レーベンの味覚はもう随分と前からひどく鈍っている。特に誰にも相談したことは無いが、原因はどう考えても薬物の過剰服用だろう。今はもう何を食べても食感しか感じることは無く、酒も飲めない。だがそれは一人で魔女を狩る為には必要な代償だったのだとレーベンは考えている。

 元より、魔女狩りだけの人生に食事を楽しむ余裕も必要も――。

 

「君」

 

 レーベンの思考は落ち着いた男声に遮られた。顔を上げれば、彫りの深い顔と目が合う。

 

「なにか?」

「この煮込みは良い香りだぞ。もっと鼻を使って、ゆっくり食べると良い」

 

 ロシノルはそれだけを言うと、洒落た形のグラスに入った葡萄酒を呷る。伊達男というものは何歳(いくつ)になっても何をしても絵になるな、などと考えながら煮込みを口に運んだ。相変わらず何の味もしないそれを咀嚼しながら、彼の言うように鼻から息を吸ってみる。その、瞬間だった。

 

「――? ……、味が」

 

 

 ◇

 

 

「味がする」

「はい?」

 

 さっきから膝にも届かないスカートの裾が気になって仕方が無かったシスネは、隣から聞こえた声に思わず顔を向けてしまった。向けてから慌てて釦も閉められない胸元をかき合わせるが、レーベンの右目は包帯に覆われおり、こちらを向いてもいない。ただ、視線を手元の皿に落としているようだった。

 

「どうしました? 何か変な物でも……」

「味がする」

「当たり前でしょう」

 

 客がいるからか、あるいは三年の間に趣味が変わったのか、久しぶりに食べた母の料理は随分と香辛料が効いている。どちらかと言えば濃い味付けが好みなシスネとしてはありがたかったが、彼はまさかこれでも物足りないのだろうか? そもそも鎮痛剤を豆のように食べていた男であり、よくあんな苦い物を――。

 

「! あなた、まさか味覚が……」

 

 思わぬ気付きに声をあげる。あれだけの過剰服薬、それこそ味覚が滅茶苦茶になっていても不思議ではない。匙を置いて、彼の右肩を掴もうとした手を寸でで止めた。そこは最も重傷な場所だ。

 仕方なく背中に手を回すようにしてこちらを向かせ、まるで抵抗しない彼の顔を見た時。

 

「え……」

 

 灰色の左目。そこから流れ落ちる透明な一筋。

 彼はただ呆然と、涙を流していた。

 

「なに、どうして泣いて……」

「……?」

 

 シスネの言葉で初めて気付いたかのように、レーベンは左手で目許に触れた。そして濡れた指先をまた呆然と眺める。

 

「?」

「???」

 

 なぜ泣いているのか自分でも分からない。

 そんな風にしか見えない彼の姿が、シスネにはひどく幼い少年のように見えた。

 

「……っ」

 

 胸の奥が締め付けられるような痛みを覚えてシスネは顔を歪ませる。ひどくきつい上衣が苦しくて、自分で結んだ襟締めをほどいて抜き取った。そんな時に横から伸ばされたウルラの手。そこから白い手巾(ハンカチ)を受け取る。

 

「拭いてあげな」

「……うん」

「優しくね」

「分かってる」

「そんで胸に埋めてあげれば一丁上がりよ」

「しないけど!?」

 

 平然と炸裂弾じみた言葉を投げてくる姉に叫び返す。いったい何を埋めろというのか、手か。まさか頭などと言うのではないか。そんなことをすればシスネは気絶する自信がある。そんなことを考えながら大きな声を出したことがいけなかったのか。

 パツンッ、と。

 

「あ」

「いっ」

 

 自分の胸元から飛び出した小さな影。それは勢いよくレーベンの額に当たった後、くるくると回りながら天井近くまで跳ねあがった。落ちてきたそれを、兄が平然と片手で受け止める。そしてそれは。

 

「……釦だ」

「……~~~~っ!」

 

 サラベイが代弁し、もはやシスネは声も出せない、ただただ、更に開いた胸元をかき合わせながら椅子に座り直し、母の手料理を自棄食いする。腹が立つほど美味しかった。

 まずエンテが噴き出し、ウルラが大きなお腹を撫でながら大声で笑う。サラベイは眼鏡ごしにどこか呆れたような視線を向けてきながら苦笑し、コトラはぷるぷると笑いを堪えていた。父は豪快に笑う母に肩を組まれながら少しだけ笑い、祖父と祖母は優雅な笑みを浮かべている。

 三年ぶりに会ったとは思えない、こんなシスネなんかを迎え入れた、記憶の中のままの家族。

 

「あたたかい、な」

「……作ったばかりですからっ」

 

 ゆっくりと味わうように食べ始めたレーベンの脇腹を一回だけ小突いてから、シスネは真っ赤な顔で食事を再開した。

 

 

 ◆

 

 

 賑やかな食事が終わった後、レーベンはある一室に招かれていた。小さな丸椅子に座らされ、目の前には白髪の優男。

 

「包帯は毎日変えていたのか?」

「いえ」

「だろうな、傷口が化膿している」

 

 舌打ちする優男――サラベイは不機嫌さを隠そうともしない。だがその手付きは淀みなく、レーベンの右腕に何かの薬を塗り、あっという間に真新しい包帯を巻いてしまった。その雰囲気から予想はしていたが、サラベイは本物の医療者のようだった。今のこの診療所の主も彼なのかもしれない。

 食事の後でシスネが彼と何やら話していたのはその為なのだろう。おそらくは医療棟を出てからというもの碌な治療も受けていないレーベンの診察を頼んでいたのだ。……当のサラベイはひどく嫌そうな顔をしていたのが印象的だったが。

 

「外すよ」

 

 次に右目の包帯を解くのはひょろりとした壮年の男性――パロットだった。馴染みとなってしまった圧迫感が徐々に無くなると同時に、頭の軽さが却って不安になってもくる。

 

「……ひどいな」

「……そうだね」

 

 遂に全ての包帯が外されるとサラベイが眼鏡の奥の目を顰め、パロットも同じく眼鏡ごしに悲痛そうな視線を向けてくる。

 レーベンは机に置かれた鏡を覗き、そこに右目から右耳にかけて大きな裂傷を負った己の顔を見た。良くも悪くも特徴に欠ける顔だと自負していたが、この上なく目立つ徴がついてしまった。

 

「傷痕はだいたい塞がっているけど……どうする?」

「このままで結構です」

 

 目立つから包帯を巻くかと、言外に聞いてくるパロットの気遣いはありがたいが断った。包帯も無料(ただ)ではないのだ。これ以上世話になるのも気が引ける。

 

「なら診察は終わりだ。お大事に」

 

 そう言って、サラベイはさっさと退室してしまう。礼を言う間もありはしなかった。どうも彼からは好意的に思われてはいないようだが、そもそもいきなり押しかけてきたのはレーベンの方なのだ。むしろ他の面々がここまで良くしてくれていることの方が不思議であり、彼の態度こそが自然なのだろう。

 一晩だけ宿を借りて、朝には出ていくべきか。元からそうするつもりではあったのだが。

 

「ごめんね。気を悪くしないでくれ」

「いえ……」

 

 申し訳なそうに苦笑しながら、包帯と薬品を片付けるパロット。どこか気弱そうな男性だが、その手付きは慣れたものだ。彼もまた医療者なのだろう。

 

「息子も、いつもはもう少し愛想があるんだけど……聖女や騎士を相手にすると、どうもね」

「……シスネ、レインさんのことですか」

 

「シスネで良いよ」と朗らかに笑うパロット。否定はしないということはやはり、三年前の事件が原因なのだろうか。片付けを終えたパロットは先ほどまでサラベイが座っていた椅子にゆっくりと腰掛けた。

 

「娘のことは、どこまで?」

「三年前に騎士を介錯したと」

 

 その他、シスネについて知った少ない事柄を並べる。“騎士殺し”と呼ばれるようになったこと、一人で魔女狩りを続けていたこと、そして聖都の教会ではあまり良い目では見られていないこと。聖性を扱えなくなっていることは伏せておいた。きっと家族にも教えていないのだろうから。

 黙って話を聞いていたパロットは右手で眼鏡の位置を直してから口を開く。その時、彼の右手にどこか違和感を覚えたがすぐに話が始まってしまった。

 

「実はね、あの子が家に帰ってきたのも三年ぶりなんだ」

 

 家族を知らないレーベンでも、それが異常なことだとは分かる。遠い町にでも行ったのならばともかく、ずっと同じ聖都にいたのだ。彼女が意図的に会わないようにしていたことは明らかで、その理由も容易に想像できた。

 

「だからね、今日は本当にびっくりしたんだよ?」

「……誠に申し訳ありませんでした」

 

 三年も帰ってこなかった娘が突然、襤褸雑巾のような男を連れて帰ってきたのだ。それは確かに混乱も避けられない。あの時、咄嗟に思いついた苦し紛れの要求が彼らにも迷惑をかけてしまったことをレーベンは自省した。

 パロットは相変わらず温和な笑みを浮かべながら眼鏡を拭いている。髪色も雰囲気もシスネとはまるで異なるが、その瞳の色だけは同じだった。

 

「でもね、」

 

「そっち逃げたわよエンテ!」

「おいシス姉! 手間かけさせんなっての! コトラそっち押さえろ!」

「放してよっ! そんなの着れるわけないでしょ!?」

「夜中に騒いでんじゃないよガキ共!」

 

 ドタバタドタバタと。数人が走り回る音と争うような物音と拳骨でも落とされたような音が過ぎ去り、すぐに静かになった。

 その中にひどく聞き覚えのある声も混じっていたという事実にレーベンは呆気にとられ、パロットは溜息をつきながらまた眼鏡を拭き始める。癖なのだろうか。

 

「まあ……その、あの子が元気そうで良かったよ」

 

 そうして、レーベンが抱いたのと似たような感想を口にする。

 確かに、家に帰ってからのシスネは色々な意味で別人のようだった。レーベンは話でしか知らないが、大抵の人間は家族とそれ以外の者に見せる顔が違うのだという。ならばあれもまた、シスネの別の顔なのかもしれない。

 ……もしや、それをレーベンに見られたくなかったのだろうか。だからあれほど嫌がっていたと?

 

「でも君は、あまり元気そうじゃないね」

 

 一通り苦笑した後、パロットが声と表情を引き締める。彼の黒い目は眼鏡ごしにレーベンを見透かすように、医療者の目を向けてきていた。

 

「……この怪我ですから」

「確かに重傷だ。でもそれ以上に、心が重傷なんじゃないかな」

「……」

 

 言い返す気にはならなかった。ただ、医療者である彼が「心」などという不確かな物に言及したことが意外だっただけで。

 

「息子のあの態度は謝りたいけど、僕も気持ちは同じなんだよ」

「君はきっと、もう生きることを諦めている。もう死んでも構わないって、そう思っている」

「違うかい」

 

「……」

 

 言い返す気にはならなかった。あなたに何が分かると、そう言い返すことは簡単だったが、それは何の否定にもなってはいないのだから。

 

「僕は医療者だ。父も息子も。あの子だって、教会に行く前はそれを目指していたんだ」

「僕たちの仕事は、患者の“助かりたい”を手助けすることだ。怪我と病気を治すことだけじゃない」

「今の君にはそれが無い。だから僕たちには、どうしようもできないんだよ」

 

「……俺は、」

 

 助かりたかったはずだ。助けてほしくて、怪我を治してほしくて聖都に来た。聖女長に頼んで、聖性を流してもらって、もし、もしそれで成功したら。また騎士になって、そして。

 また魔女を狩る。今度こそ死ぬまで。()()()()

 

「俺は……」

 

 要するに「助け甲斐が無い」と、彼はそう言っているのだろう。確かに、死にたがりの命を助けるほど無為な行いも無いように思える。

 だがこんな身体になってしまったレーベンに今更、他の道など……。

 

「見てくれ」

 

 いつの間にか下げていた視界にパロットの右手が差し出される。その手はいつかのレーベンのように、人差し指と中指が無くなっていた。

 

「……魔女に?」

「まさか。ただの事故だよ」

 

 治療の際、誤って傷を負ったことから何らかの病に罹ったらしい。そして結局は切断するしかなかった。息子のサラベイに診療所を任せ、自身は補佐に回っているのもその為なのだと。

 

「もちろん君の方が遥かに重傷だ。比べるのも馬鹿らしいぐらいにね」

「でも医療者になることは僕の夢でもあった。これからって時だったんだ」

「まだ若い息子に重荷を背負わせることにもなって、後悔してもしきれないよ……っ」

 

 興奮気味に語るパロットは何かに怒っているように見えた。それは過去の自分に対してなのか、あるいは運命と呼べるような物に対してなのか。医療者にとって指がどれほど重要かなどレーベンでも想像できる。彼もまた己の道を閉ざされてしまったのだ。

 左手を見下ろす。もう一本しか残っていない己の手を。

 

「どうやって、立ち直りましたか」

「立ち直ってなんかいないよ」

 

 顔を上げれば、複雑な表情で笑うパロット。その様々な感情が綯い交ぜになったような顔はシスネによく似ていた。

 

「解決してくれるのは時間だけさ。そして時間は生きていないと進まないんだ」

「だからちゃんと食べて、ちゃんと寝て、身体に気を付けて」

「君もどうか、()()()()ね」

 

 どこの診療所でも、医療棟でも、ついさっきサラベイからもかけられた定型句をパロットも口にする。だがそれを聞いたレーベンの心は、変わっていただろうか。

 

「……はい」

 

 少なくとも、頷ける程度には。

 

 

 

「あぁ、それとね、息子が君を嫌っている理由は別にあると思うよ」

 

 丸椅子から腰を上げようとしていたレーベンは、パロットの唐突な言葉に再び腰を下ろした。

 

「君が元騎士だからっていうのもあるんだろうけど、要はかわいい妹に変な虫がついたと思っているのさ」

「虫」

「そう、虫」

 

 確かにあの冷たい目は虫でも見ているかのようなものではあったが。

 当のパロットは相好を崩しながらまた眼鏡を拭き始める。そのいかにも面白そうな表情はウルラにもよく似ていた。

 

「あの子は昔っからシスネを可愛がっていてね。シスネが教会に行く時なんて――」

「聞こえてるぞ親父!」

「ぬぉ!?」

 

 今まで何処にいたのか。何故かレーベンの近くの扉が勢いよく開け放たれ、それに押し出されたレーベンは丸椅子から転げ落ちる。床に転がったまま見上げたサラベイの顔は相変わらず不機嫌な表情で、髪も肌も白い。だがその耳だけはひどく赤く見えた。

 そして舌打ちをひとつしてから手を差し伸べてくるその様が、あまりにもシスネにそっくりで。

 

「やはり、兄なんですね」

「誰が義兄(あに)だ。刺すぞ」

「えぇ……」

 

 ……なんとも物騒な兄妹であると、レーベンはそう思った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

シスネとレーベンとその行く末

 

 寝室として宛がわれた部屋は病室であるようだった。簡素な調度品と掛布に沁みついた薬品の匂いが医療棟を思い出させる。いくつか並んだ寝台に先客はおらず、レーベンの貸し切りである。寝台に体を投げ出せばふかふかとした綿の感触が優しく受け止めてくれる。いち患者用とは思えない程に質が良い。それだけこの診療所が潤っているということなのか、あるいはあの家族の医療者としての意向なのか。

 四日ぶりとなる寝台の感触に、疲労がどっと押し寄せてくる。ポエニスの教会を出てからというものまさに浮浪者そのものの生活で、特に今日は朝から本当に色々とありすぎた。シスネとの思わぬ再会に始まり、大聖堂での一悶着、聖女長との邂逅、そして路地裏での問答に、彼女の大家族……。加えて、あの煮込みは本当に美味かった。空腹だったこともあるが、数年ぶりに「味」というものを感じることもできたのだ。ロシノルには感謝しきれない

 腹も満たされて抗い難い眠気に負けそうになった頃、レーベンの耳が小さな声を捉える。

 

 ――シスネか?

 

 静まり返った病室の中、耳を澄ませば床下、つまりは階下から聞きなれた声が聞こえる。寝る前に挨拶ぐらいはしておくかと、レーベンは寝台から起き上がった。

 

 

 ◇

 

 

 大きな姿見の中から、見飽きた女がシスネを見返している。鏡を見る度に憂鬱な気分になるのはいつものことだったが、今日は違った。

 何が? 自分と似た顔がもう二つ映っていたから。

 

「ハイハイ動かないのよー。動いたらお姉ちゃんが大変よー?」

「卑怯者ぉ……」

「なんですって?」

「っあ! ごめんなさい! ごめんなさいっ!」

 

 一人で座るには大きいが二人では狭い。そんな椅子に姉と二人で押し込められたシスネは碌な抵抗もできず、されるがままになっていた。何せ姉は身重なのだから、手荒な真似をするわけにはいかない。そしてシスネが大人しくなったのを良いことに、いちいち脇腹を撫でてくるのだからたまったものではなかった。

 もう一人の妹はといえば、黙々とシスネの長い白髪を弄っている。毎日のように髪型が変わるこの末妹の髪に対するこだわりは並々ならぬもので、それは三年ぶりに会っても変わらないようだった。

 

「……、」

「え? 相変わらず綺麗な白髪って? だってさ、何か秘訣とかあんの?」

「別に、何もしてない」

「……! ……っ」

「いたっ! 痛いってばコトラ! 引っ張らないで!」

 

 ぐいぐいと強く編みこまれ始めてシスネは悲鳴をあげる。妹の髪は同じ白髪で、自分なんかよりよっぽど綺麗な髪に見えたが、きっとそれには相応な手間と努力を必要とするのだろう。とはいえ、シスネは命がけで魔女と戦う立場だ。髪の手入れなどする暇があったら、銃の手入れか訓練でもしなければ生き残れない。……なら短く切れば良いと言われれば、それまでなのだけれど。

 鏡の中のシスネは黒い瞳に不安げな色を浮かばせながら、白髪をやたらと難しく編まれている。いったい自分はどうなってしまうのか。

 

「ま、観念することね。三年も帰ってこなかった罰よ」

 

 眠そうに欠伸をするウルラはさもどうでも良さそうに言うが、その口調には確かな棘があった。だがそれは悪意によるものではなく、あくまで妹の身を案じた上での怒りだということはシスネにも分かる。この姉は昔からそうなのだから。

 

「顔は見せない癖に、生存報告みたいな手紙とお金ばっかり送ってきて。おかげで診療所(うち)の備品も無駄に良くなっちゃったわ」

「ど、どういたしまして……?」

 

 聖都にいた頃から、シスネは魔女狩りで得た報酬の殆どを生家へと仕送りしていた。どうやらそれは診療所の改修などに役立てられたようで、一応は安心する。ウルラは不満そうだったが。

 五年前に聖女となってからは大聖堂で暮らしていたが、それでも頻繁に生家へも顔を出していた。兄などその度に泊まっていけと強硬に勧めてくるものだから断るのに苦労したものだ。それが無くなったのは、生家へ寄り付かなくなった三年前から。

 

「どうせあれでしょ、私なんかが家に帰ったら迷惑になっちゃうわ! ……とか思ったんでしょ」

「私そんな喋り方しない……」

「そういや、あんた何なのあの喋り方。旦那の前だと猫かぶってんの?」

「旦那じゃないってば」

 

 シスネの畏まった口調は素のものではなく、聖女の名に相応しいようにと自分で矯正したものだ。もっと丁寧に、もっと綺麗に話そうと。「聖女らしく」話そうと。

 

 ――彼のこと笑えないじゃない

 

「騎士らしく」話そうとしていたかつてのレーベンを内心で馬鹿にしていたというのに、結局はシスネも同類だったのだ。カーリヤの言う通り、シスネと彼はひどく似ている。そして姉の言う通り、シスネが生家に帰らなかったのは迷惑になると思ったからだ。

 

「まあね、()()()()()になっちゃったから、その、嫌がらせとか無かったわけじゃないわよ」

「……っ」

「でもね、そんなの最初だけ。もう三年よ三年。それだけあれば、あたしだって嫁に行くしサラベイだって嫁を貰うっての」

「そ、そう」

 

 昔から自由奔放だった姉が小さな男の子をつれていて、しかももうお腹には二人目までいたのだ。三年ぶりの帰宅で最も驚いた点でもある。普段は嫁ぎ先で生活しているが、出産も近いからと偶然にも帰ってきていたそうだ。そしてあの兄までもが近々結婚するのだという。

 

「お兄ちゃん、結婚とかできたんだ」

「ちなみに嫁さんも白髪よ。顔もなーんか、あんたと似て」

「ごめん聞かなかったことにする」

 

 あの優秀な上に顔まで良い兄の欠点を挙げるなら毒舌であることと、シスネとコトラの二人を溺愛してくることだ。なお、(エンテ)に対しては良くも悪くも普通である。

 以前、カクトの町の門番が妹とやたら仲の良い様子を見せつけてきた時、シスネの頭にはサラベイの顔が浮かんでいたものだ。そんな兄もようやく妹離れすることができた……と思いたい。思うことにした。

 そうこうしている内にコトラは髪を編み終えたようだった。だがその手は休まず、櫛のかわりに化粧筆を取り出す。目許やら唇やらを撫でられる擽ったさに悶えるシスネを押さえつけながら、ウルラはどうでも良さそうな口調で語った。

 

「あんた気にしすぎなのよ。もう誰もあんたのことなんて覚えてないからさ」

「この街もこの国も、教会と聖女と騎士だけで出来てるわけじゃないの」

「別にあんたが騎士を死なせようと死なせまいと、殆どの人にはどうだって良いことよ」

 

「だから帰ってきても良いのよ」そうウルラは締めくくる。姉の言葉は乱暴で蓮っ葉で、何より無責任で、そして優しかった。

 

「……無理だよ」

 

「今はね。ま、気が変わったら帰ってきなさいな」

「お母さんもよく言ってたでしょ。嫌なことがあったら、泣いて怒って食って寝ろってさ」

「一人で勝手にウジウジダラダラ悩んでるあんたみたいなのが一番ダメ。だからこんな乳なしになるのよ」

 

「どこ触ってるのいいかげん怒るよ」

 

 無遠慮に触れてくる手をぴしゃりと叩くと同時に、コトラの作業も完了したようだった。額の汗を拭いながら満足げに鼻息を漏らしている。

 ようやく椅子と姉からも解放されたシスネは立ち上がって、ひどく心許ないスカートの裾をまず気にした。姿見からは見飽きた顔の女が、見慣れない姿と嫌そうな顔でこちらを見返している。

 

「……これ本当に聖都で流行ってる服なの?」

「うん本当本当。ねーコトラ―?」

 

 こくこくと頷く無口な妹の頭を撫でている姉の目をじっと見つめる。茶色の瞳は逸らされることもなく、嘘をついているようには見えない。少なくともシスネには。

 

「本当に?」

「本当よー、お姉ちゃん嘘つかないのよー」

「ねえやっぱり何か怪し……、……?」

 

 嘘をついているようには見えないがどうも信用しづらい姉を更に問い詰めようとした時、シスネの耳が何か物音を捉えた。扉を開けて外を見るも、暗い廊下だけが静かに沈黙している。

 それでも妙な予感を覚えたシスネは、姉の言葉も振り切って廊下を外へと向かって歩き始めた。

 

 

 ◆

 

 

 どこまでも暗い夜空と、どこまでも深い夜の海が眼前に広がっている。頭上にも足元にも吸い込まれそうな闇がある中で、レーベンはただ潮騒に耳を傾けていた。

 海を見ることは初めてではないが、ここまで近付いた上で更にここまで凝視したことはない。ましてや、夜の海など。深淵を覗く者は心せよ――と、そんな言葉を遺したのはどの騎士だったか。

 なるほど確かにこれは、見れば見るほどその水面に……。

 

「あまり見ていると、引っ張られますよ」

 

 澄んだ声に、前のめりになりかけていた体を後ろに戻す。

 石作りの護岸に腰掛け、両足も投げ出していたレーベンは転落しそうになっていたことはおくびにも出さず、振り返らないまま彼女に返事をした。

 

「着替えは終わったのか?」

「……覗いていたのですか」

「まさか。立ち聞きしただけだ」

「似たようなものでしょう」

 

 コツリと軽く高い靴音が近くで鳴ると同時に、腰のあたりを打たれる。おそらくは蹴られたのであろうが、その強さはあまりにも加減されていた。蹴りと声の主はその場から離れないまま、溜息まじりに愚痴を零し始める。

 

「本当に散々でした。帰らなかった罰だからといって、こんな恰好……」

「ほう」

 

 それはただの反射だった。ただ彼女が近くにいたから、だから振り返った。ただそれだけの。

 

「――……」

 

 目の前に、見たことのない恰好のシスネがいた。

 服飾に疎いレーベンには、その白い服を平服と呼ぶべきか礼服(ドレス)と呼ぶべきか分からない。複雑に交差する肩紐と、丈が均一でないスカート。いずれにせよそこから覗く肌は服と同じほどに白かった。だがその手と足を覆うのは黒い長手袋と長靴下。それらはどちらもひどく薄く細身で、彼女の手足が黒く染まったかのよう。

 化粧で陰影の濃くなった目鼻と艶やかな唇。常と変わらない黒い瞳。象徴的な長い白髪は精緻に編みこまれ、月明りを反射したそれは銀細工のように見える。

 鮮烈なまでの白と黒。

 その時、レーベンは初めて右目を失ったことを後悔した。

 

「――見ないでっ!」

 

 シスネの悲鳴。

 

 

 ◇

 

 

 思わず叫んでいた。そしてそれをすぐに後悔した。

 ハッとした顔で、レーベンが左手で右目を隠したのだ。振り返った彼の顔に包帯は無く、無残な裂傷が露わになっていて。それを彼は隠した。ひどく、傷ついた顔に見えた。

 誤解だ。

 

「……違うっ!」

 

 気が付けばまた叫んで、彼の手を取っていた。隠された傷を曝け出すように。

 

「違うの!」

「今のはそうじゃない!」

「そうじゃなくて……っ、ただ、」

 

 ただ、見られて恥ずかしかった。

 シスネは痛みには強いと自負している。一人で魔女を狩る中で負った傷は数知れない。斬られても、殴られても、折られても、焼かれても、シスネはそれに耐えて立ち上がった。感覚が鈍るからと、再生剤も鎮痛剤も最低限しか使わなかった。シスネに騎士はいなくて、聖性も自分には使えない。只の女でしかない自分が魔女を狩るには、無傷ではいられなかったから。

 魔女を狩る為なら、どんな痛みにも耐えられた。はじめて一人で狩ったあの魔女に刻まれた、この胸の傷に比べればどんな傷だって。

 

「ただ、その……」

 

 そんなシスネでも耐え難い物が、「恥」だった。

 視線が苦手だ。注目なんてされたらそれだけで拷問だ。公開懲罰の時も、打たれる鞭の痛みよりも無様な姿を皆に晒されることの方がよほど辛かった。

 この三年、“騎士殺し”の汚名を背負ったまま過ごすことは何よりもの恥辱だった。それが何よりも苦痛だったからこそ、シスネはそれから逃げることを自分に許さなかった。

 アルバットに跪いて懇願した時はいっそ舌を噛み切りたいぐらいだった。御者に身体を触らせた時は気が遠くなるほど屈辱だった。レーベンが物乞いする姿を見た時は、シスネの方が死にそうだった。

 そのレーベンは、シスネに手を取られたまま明後日の方向を向いている。

 

「……?」

 

 レーベンは護岸に座り込み、シスネは立ったまま彼の手を取っている。つまり彼の頭は、ちょうどシスネの腿のあたりにあって……。姉と妹に着せられた白服。そのスカートの丈は、ちょうど左腿のあたりでもっとも短くなっていて……。

 夜風が、その事実をシスネに知らせた。悲鳴を抑えられたことは僥倖だったとシスネは思う。

 

 

 ◆

 

 

 護岸の繋船柱(ボラード)に腰掛けたまま顔を覆っているシスネが復活するまで、まだ時間がかかりそうだった。彼女といいカーリヤといい、見られたくないのなら何故わざわざ肌を晒すのか。レーベンの生涯の謎の一つである。

 もっとも、シスネはどうも姉妹に謀られたらしい。本当に聖都で流行りの服ならば、レーベンもこの三日で一度ぐらいは見かけているはずである。ならこの白服は誰が準備したのか。いかにも悪戯好きなウルラか、服飾にこだわりがあるらしいコトラか。……もしやサラベイではあるまいか。レーベンは夜風のせいだけではない寒気を覚えた。

 

「まあその、なんだ。似合っているなら良いと思わないか」

「それ以上喋ったら刺しますよ」

 

 返事だけならいつもの彼女であった。ならばそろそろ立ち直るだろうと、長くもない彼女との付き合いから推測する。

 現にシスネは何かしらぶつぶつと恨み事らしきことを呟いた後で、繋船柱から立ち上がった。

 

 

 

「誤解はしないでください」

「服の趣味がか?」

「……あなたの傷を見たくないと言ったわけではないという意味です。馬鹿」

 

 謝るか罵るかどちらかにしてくれないだろうか。

 だが見苦しいことは確かだろう。レーベンは人からどう見られようと大して気にしないが、見る側のことまでは考えていなかった。パロットの気遣いにはそういう意味もあったのかもしれない。

 

「俺こそすまないな。いきなり見て驚いただろう」

「その程度の傷、みんな見慣れていますよ。コトラなんて、“カッコいい”と言っていました」

「そ、そうか」

 

 あの少女から向けられる視線は恋慕より、そちらの方が強いのかもしれない。少年であれ少女であれ、大騎士(コルネイユ)よりも悪騎士(ジャック・ドゥ)に惹かれる者はレーベンでなくとも一定数はいる。つまりは「そういう年頃」なのだ。

 閑話休題。

 

 

 

 シスネが黙ってしまえば潮騒しか聞こえるものは無い。見るなと言われたレーベンはまた視線を暗い空と黒い海に向ける。そもそも彼女は何をしに来たのだろうか。

 視界の端でシスネは所在なさげに小石を海へと蹴り入れる。チラチラとこちらを見ている視線を感じる。そして言いにくそうに、口を開いた。

 

「これから、どうするのですか」

 

 潮騒が大きくなった気がした。

 遠くへやっていた視線を海面に下ろしても、底の無いような黒がただ広がっている。左手で弄んでいた小石を落とせば、ただ小さな水音だけを残して消えて無くなった。

 そのまま、何も浮かんではこなかった。

 

「そう、だなぁ」

 

 レーベンの心は凪いでいた。だが何故だろうか。足元に広がる黒い海は、すこしだけ荒れてきたように見える。

 

「どうすれば良いと思う?」

 

 卑怯な答えだと、自分でも思った。

 

 

 ◇

 

 

 卑怯な問いだと、自分でも思った。

 いったいどの口でそれを問うのか。彼の覚悟を、死に場所を、行く末を奪ったのはシスネだというのに。それでも問わずにはいられなかった。

 レーベンは沈黙して、ただ手に持つ小石を海に落とした。灰色の左目はじっと夜の海を眺めている。二度三度と、波が護岸に当たって飛び散る音が響いた後で彼は答えた。

 

「どうすれば良いと思う?」

「――――」

 

 彼は自覚しているのだろうか。

 その口許が皮肉げに歪められていることも、その左目が哀しげに細められていることも、その声が泣き出しそうなほど震えていることも。

 故郷と家族を失くしても、騎士の道を閉ざされても、死に場所を奪われても、それでも止まらなかった彼が。

 選んだ道すべてに拒絶され続けた彼は、ここで遂に膝を折ったのだ。

 そんな彼の姿に、シスネは。

 

「もし、も」

「もしも、私が、」

「私が――」

 

 

 ◆

 

 

「私が、あなたに死なないでほしいと言ったら」

 

 夜空と夜海ばかり眺めていた目に、彼女の姿は焼かれそうなほど輝いて見えた。

 白い髪と、白い服と、白い肌と、どこまでも黒い瞳。

 だが彼女は自覚しているのだろうか。

 

「あなたに、生きていてほしいと言ったら」

「生きて、苦しくても生きている姿を、見ていたいと言ったら」

 

 何がおかしいのか、浮かべた虚ろな笑みは。

 何が恐ろしいのか、病んだように青褪めた顔は。

 

「あなたは、どうしますか」

 

 

 

 ライアー達は「死ぬな」と言った。

 ミラは「またね」と言った。

 パロットは「お大事に」と言った。

 シスネは。

 

「…………そうか」

 

 それは気付きだっただろうか。今まで気付きもしなかった、あるいは目を逸らしていた事実。

 

「そう、か」

 

 誰もレーベンの死は望んでいない。

 親しい者たちは皆が死ぬなと言う。親しくない者たちはレーベンの生死に関心など無い。

 レーベンの死を望む者はいない。レーベン自身を除いて。だがそれですら。

 

『俺みたいに、お前だって、気が変わる時が来るかもしれねえ』

 

 結局はライアーの言う通りなのだろう。彼の、魔女に対する憎悪が燃え尽きたように、レーベンのかつての意思はもう潰えてしまった。

 焼きが回った。心が折れた。言葉にしてしまえば、それだけのこと。

 そんな心が折れたレーベンに、彼女は耳元で囁く。いつの間にか、その華奢な体が寄り添っていた。

 

「もう良いではないですか」

「死ぬことは、いつでもできます」

「なら、とりあえず今は、生きていれば良いではないですか」

 

 諭すように、誘惑するように彼女は言う。示されたその道はひどく楽そうで、どうしようもなく甘美で、だからこそ決して選んではならないのだと思った。

 だが。

 

「……あなたは気にしすぎなのです。誰もあなたのことなんて知りません」

「この街もこの国も、教会と聖女と騎士だけで出来ている訳じゃない」

「あなたが生きていても死んでいても、殆どの人にはどうだって良いことです」

「なら、生きていても良いではないですか」

 

 ついさっき姉に言われていた言葉を、彼女はレーベンに向けた。それだけ彼女は必死で、何故そこまで必死になるのかレーベンには分からない。

 分かるのは、もうその言葉を撥ねのけるだけの意思がレーベンには無いこと。

 

「…………そうだな」

 

 

 

 その日、レーベンは騎士として死ぬことを諦めた。

 それが良いことであったのか悪いことであったのか、レーベンにはもう分からなかった。

 ただもう、ひどく疲れてしまっていた。

 

 

 ◆

 

 

 並んで暗い海を眺める。シスネはもうレーベンの死角には入らず、近くも遠くもない場所で座り込んでいた。月明かりを反射する、白い女。

 

「思ったのですが」

 

 夜風が吹き、彼女は長い髪を手で押さえるような仕草をする。だが今その髪は編みこまれており、ただの条件反射のようだった。シスネはそれに気付きもしない。

 

「あなた、教会の職員になってはどうですか」

 

 考えもしなかったことをシスネが言う。

 

「職員に? ……俺がか?」

「他に誰がいるのですか」

 

 それは分かっているが、それでも思わず聞いてしまった。それほど意外な提案だったのだ。

 教会はこの国の要を成す巨大な組織であり、当然だが聖女と騎士だけで動いている訳ではない。依頼を募集し割り振る本棟職員や、現場までの移送を行う御者達、治安維持を担う警備職員、医療棟の医療者、技術棟の技術者または変人、はては食堂の料理人など、その職務は多岐にわたる。

 だがそれらの中に、今のレーベンに出来る仕事などあるのだろうか。

 

「例えば、ファイサンの下で働くとか。知らない仲でもないでしょう」

「ファイサン?」

「……武器庫の職員ですよ。あなた、あれだけお世話になっておいて名前も知らなかったのですか?」

 

「あぁ……」と、レーベンは夜空を仰いだ。あの武器庫でいつもうんざりとした顔でレーベンの対応をしていた彼のことか。名前どころかまともに会話したことすら無く、彼もレーベンの名前など知らないかもしれない。それでも印象は良くないであろうが。

 

「武器の在庫の管理だとか、それなら片腕でもできるのではないですか。それに、」

「それに?」

「……私も、よくお世話になるでしょうから」

 

 顔を彼女に向けると、それと連動したようにシスネはそっぽを向く。普段は白髪に隠れている首筋も露わで、月明りの下でも赤くなっているのが見えていた。

 想像する。

 実の所、倉庫番など閑職の一つでしかなく、レーベンがいなければそうそう利用されることもない。故にこれから頻繁に訪ねてくる相手もシスネぐらいしかいないだろう。そのシスネが無愛想に訪ねてきては、無遠慮に大量の銃と弾薬を要求してくる。そして己とファイサンは共にうんざりとした顔でそれに振り回されるのだ。

 ふ、とレーベンの口から笑いが漏れた。

 

「それも、悪くないな」

 

 シスネだけでなく、後進の騎士も訪ねてくるかもしれない。まともな騎士ではなかったレーベンの助言など必要ないかもしれないが、時には役立つこともあるかもしれない。こんな己でも、欠片ほどは誰かの助けになるかもしれない。

 そして、もしも。もしも、彼女もまた生きたまま役目を降りる時が来たならば――。

 そんな、甘い微温湯(ぬるまゆ)のような未来を口にしてしまう前にシスネは立ち上がった。

 

「ならもう休むことです。明日すぐポエニスに戻りましょう」

 

 欠伸まじりに背伸びしながらシスネが言う。つい今朝、聖都に帰ったばかりで気の早いことだが、やはり長居はしたくないのかもしれない。レーベンとしても、もうそれに反対する理由は無かった。

 

「そうしよう。あなたは寝させてもらえなさそうだが」

「はい……?」

 

 怪訝そうなシスネの声を聞きながら、レーベンも左目だけを動かして診療所の玄関を見やる。その視線を追った彼女も振り返り、そして固まった。

 

「な……っ」

 

 立派な玄関扉、その隙間から覗く顔、顔、顔。

 上からメーヴェ、ロシノル、エンテ、ウルラ、パロット、グースィ、コトラ、サラベイ、シュカ。計十八もの目が爛々と二人を凝視していた。……幼いシュカはともかく、長身のサラベイの頭が何故そのような低い位置にあるのか。いったいどういう姿勢で二人もといレーベンを睨みつけているというのか。色々な意味で寒気を禁じ得ない。

 飛び出してくるエンテとコトラ。逃げようとして捕まるシスネ。あっという間に家の奥まで連行されていく彼女の悲鳴を聞きながら、レーベンは笑う。くつくつと身体を震わせて、そのせいで痛む傷に顔を顰めて、また笑った。

 

「俺の方が、笑われるだろうな」

 

 あの二人の友人が帰ってきた時、もし己が教会の職員になっていたら彼と彼女はどのような反応をするだろうか? 揃って口を大きく開けて、そして次は腹を抱えて笑いだすであろう姿を想像して。

 レーベンはまた笑った。

 

 

 

 そうなると、思っていたのだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

カーリヤとライアー

 

 繋いだ手のあたたかさと、大きな夕日。それがカーリヤの最も古い記憶。

 田舎でもなければ都会でもない、裕福ではないが貧しくもない、そんな普通の町の普通の家に生まれたカーリヤには、一人の幼馴染がいた。

 いつどうやって知り合ったかなんて分からない。きっと物心がつく頃には一緒にいて、いつも一緒に遊んでいた、そんな少年。なにせ家は隣同士で、皆がもう一つの家族みたいなものだったから。お互いに兄弟姉妹はいなくて、だから二人は兄妹であり姉弟であって何よりも親友だった。

 毎日毎日、飽きもせずに二人で出かけて、走り回って、そして夕方に手を繋ぎながら家に帰る。幼く無知なカーリヤにはそれが世界の全てで、その小柄で弱虫な少年は何としても守らなければいけない存在で、両親と同じぐらい大好きな家族。そんな少年と、そんな日々がずっと続いていくものだと信じて疑わなかった。

 そんなはずも、なかったというのに。

 

 

 ※

 

 

 遠くから響いた銃声でカーリヤは微睡みから目覚めた。すぐに状況を思い出して、抱いたままの狙撃銃を掴みながら飛び起きる。頭の中に、ついさっき見ていた夢の内容はもう跡形もない。

 そんなカーリヤの頭をそっと押し返す、大きな掌の感触。

 

「ラ……」

「まだ寝てろよ、ただの銃声だ」

 

 ただの銃声。それはそうだが、それはつまり誰か――辺りを哨戒中の聖女か騎士が銃弾を放ったということで、つまりは魔女がいたということだ。魔女を撃ったのならまだ良い。でもそれが傷ついた騎士や、あるいは自分自身を撃ったものだったなら……。

 更に続けて何度か銃声が木霊する。ならあれは自決によるものではなく、魔女に向けた銃声だろうか。安堵の息をついてカーリヤは再び寝台に身を沈めた。……もう、そんな不確かな理由で安堵してしまうほど疲弊していた。

 

「……眠くないわ」

「でも寝てろ。体を横にして、目を閉じてるだけでも違う」

 

 そう言って、彼――ライアーもまた大きな体で毛布にくるまって、すぐ隣で横になる。鎧を着たままで、だ。カーリヤも狙撃銃の安全装置を確かめた後、それを抱いて目を閉じる。同じ寝台で眠ることすら、もう気にしていられない。……もう、そんな状況ではなかった。

 

 

 

 退屈なまま終わると思い、そしてそう祈っていた魔女の捜索。その二日目の夕方にそれは起こった。

 

『あかんわ、何処にもおらん』

『猟師のもんらで山の方を――』

『女子供は家の中に――』

 

 何の成果も無いままノール村に戻った時、村は既に小さな騒ぎとなっていた。聞けば、この村に滞在している四組の聖女と騎士の内の一組がまだ戻ってこないのだという。その二人の受け持った捜索範囲は既に残り少なく、昼過ぎには戻るはずだったのだ。それが魔女のせいであれ、単なる遭難であれ放置はできない。すぐにカーリヤ達は行動を開始した。

 もう二組を村の護衛に残し、男たちにも篝火を絶やさないよう伝える。そして周囲の地理に詳しい猟師数人を案内役に加えて、カーリヤとライアーは夜の街道付近を捜索した。だが結局は朝まで何も見つからず、諦めて一旦戻ろうとした時、遠くから声を聞いたのだ。

 悲鳴。

 

『ライアー!』

『つかまれ!』

 

 猟師たちには村に戻ってこのことを伝えるよう早口で伝え、ライアーの体に聖性を流す。風のように疾走する彼にしがみつきながら、狙撃銃を構える。街道を走り、続けて聞こえた銃声と悲鳴に街道も外れて最短距離を走り、木に飛び移って岩肌を駆けあがり、そして遂にそれを見た。

 

『な……』

 

 どちらが漏らした声だったのか。小高い丘で足を止めた二人の眼下には、絶望的な光景が広がっていた。

 まず最も数が多かったのは、二百人はいそうな老若男女。母親の胸に抱かれて大泣きする赤子から、歩くのもやっとな老人まで。大きな荷物を背負っている者や、着の身着のままのような者。彼らは皆が怯えた様子で一塊になり、中には農具や松明といった武器を構える者までいた。

 その一団の周囲を守るように展開する八人。それぞれ二人一組となった四組は間違いなく聖女と騎士だ。その身に鎧と青白い炎を纏い、聖銀の輝きを放つ武器を振るい……そして今、三組となった。

 その騎士は果敢に戦い、故にそれが命取りとなったのだ。この捜索に参加したのはポエニスでも十指に数えられる優秀な聖女と騎士たち。彼もまたその一人であり、才に恵まれ鍛錬と経験も充分に積んだ、そんな手練れであったはずだ。

 だがしかし、かつての暗黒時代ならばともかく、魔女の数も減った現在では騎士に求められる経験も異なってくる。多くの場合は二対一で、あるいは二組や三組がかりで確実に狩ることも可能な現代では、まず経験することのない戦い。

 そう、()()()()()()()()()()()()()()()()と戦うことなど。

 

『――!』

 

 見捨てるなんて発想は無かった。獣のような姿の魔女に首を咬み裂かれた騎士の亡骸、それをなんとか治療しようと聖性を流している聖女の背後に迫る、虫のような姿の魔女。それを狙撃銃で撃ち抜き、地に落ちた敵に気付いた聖女が必死の形相で短剣を突き立てる。だが。

 

『だめ……っ!』

 

 カーリヤには見えていた。次弾を装填し、銃身に備えつけた遠眼鏡ごしの視線を向けた時はもう、聖女は倒れ伏していた。また別の、人のような姿をした魔女に胸を貫かれて。

 様々な姿をした異形の怪物たち。どう見ても二十体以上はいる魔女が、彼らを飲みこもうとしていた。

 

『ここにいろ! 絶対に降りるんじゃねえ!』

 

 返事も待たず、片手剣を抜いたライアーが丘から飛び降りた。その背中に慌てて掌を向けて聖性を放ち、なんとか「線」を繋げる。着地と同時に地面を蹴った彼は青白い炎を滾らせ、咆哮と共に魔女の群れへと突貫していった。

 

 

 ※

 

 

 教国の最北端に位置するノール村と、その西に位置するサハト村。その二つが今回の捜索の活動拠点とされ、ノール村にはカーリヤ達を含め四組が、サハト村には六組もの聖女と騎士たちが滞在していた。数の偏りは捜索範囲の差であり、広大な農耕地帯も有するサハト村には人手が必要だったが故だ。

 だがそれも今や半数が命を落としてしまった。生き残りの聖女と騎士、そして村人たちは語る。

 

 曰く、捜索を始めてすぐに魔女は見つかった。その魔女はすぐに狩られ、血気盛んな村人たちは大いに盛り上がった。

 曰く、宴の準備をする間もなくまた魔女が見つかった。それを狩りに向かう前にまた別の魔女が、そしてまた……。

 曰く、異様な数の魔女、それもただの魔女ばかりではなく、手強い共喰魔女まで何体も現れた。

 曰く、魔女の多くは北から現れた。北に聳える、アスピダ山脈の方角から。

 曰く、もう駄目だ。村を捨てるしかない……。

 

 そして彼らは村を脱し、皆でノール村を目指していたのだ。大半の魔女は北から現れたが全てがそうではなく、どこに逃げるのが最善かは分からない。ならばまずは他の聖女と騎士たちと合流するべきだと。

 そして複数の犠牲を出しながらもなんとかノール村へと辿りつき、村人たちも彼らを受け入れた。生き残りの聖女と騎士で辺りの魔女を狩り、男たちが不休で村の周りに杭を打って柵を築く。村そのものを砦とし、籠城を始めてから二日が経過しようとしていた。

 

 

 

「このままじゃジリ貧だ。とにかくポエニスに応援を頼まなきゃならん」

 

 生き残った聖女と騎士はカーリヤ達を含めて五組。その中で最も年長の騎士が重々しく口を開いた。会合の場となった村長宅には、他に村の代表者も数名訪れている。

 休息と村の護衛を兼ねて一組が村に残り、他の者たちが二組ずつで周囲を哨戒する。それを交代で続けていたが、皆もう既に疲弊が激しい。聖性によって身体の傷も武器の損耗も回復できるが、それにも限界はある。失った体力までは取り戻せず、そもそも聖女は聖性の恩恵は受けられないのだ。

 そして何より、難民と化した村人たちが問題だ。元の住人の倍以上の人数が滞在しており、寝床も食料も足りていない。今でこそ皆で助け合えてはいるが、これで食料まで無くなってしまえば事態は急速に悪化するだろう。

 ……誰も口にはしないが、それによって村の中から新たな魔女が現れることをこそ、皆が最も恐れていた。

 

「だが伝令はもう出したんだろう?」

「三日前に若いのを二人出したわ。もうそろそろ助けも来ると思うんやけど……」

 

 別の騎士が言い、サハト村の若い村長が答える。ノール村やサハト村からポエニスまでは馬でちょうど一日ほど。伝令が順調に成されているならば、応援がそろそろ到着しても良いはずだ。だがその気配は無かった。

 

「もしかしたら、伝令の方も途中で……」

「そうと決まったわけじゃないぞ」

「ですが、このままじゃ」

「とにかく今は……」

 

 ゴン、と木のグラスが机に置かれる音に皆が口を閉じる。視線の先で、成り行きで頭目となった年長の騎士が再び口を開いた。

 

「それだよ。まずもう一回、伝令を出す」

「今度は絶対に、確実にポエニスまで届けられるようにな」

「だから、護衛に一組つける」

 

 その言葉に、ほんの一瞬だけ皆の顔が強張った。

 この二日で既に一組が犠牲となった。元より魔女狩りとは命がけの危険極まりない仕事だ。それをこの短期間で何十体と狩ってきたのだから、むしろそれだけの犠牲で済んでいるという事がこの場の者たちの実力を物語っている。

 だがそれも長くは続かないだろう。犠牲が増えるほどに他の者たちの負担は増え、それが更なる犠牲に繋がることは目に見えていた。まだ余力のある内に、貴重な戦力を割いてでもポエニスまで情報を伝えることが必要だ。それも皆が分かっている。

 

「……それで、誰が行きますか」

 

 聖女がひどく言いにくそうに口火を切った。いつどこで魔女に襲われるか分からない伝令は危険だが、それは村で籠城を続ける者も同じだろう。ノール村もはや死地となり果てた。ここから離れられるというだけで、生き残る可能性は高いように思える。

 故に皆が黙るのだ。誰もが死にたくはなく、そしてまた逃げたくもないのだから。

 

「ライアー、お前らで行け」

「……は?」

「……え?」

 

 永遠に続くかと思えた沈黙は、頭目の一言で打ち破られた。ごく適当に決められたかのような軽い口調に、指名されたライアーとその聖女であるカーリヤは揃ってぽかんと口を開く。

 

「そうだな、それが良い」

「お願いねカーリヤ」

「え? ……え?」

「出発はいつにする?」

「早い方が良いだろう。これが終わったらすぐだ」

「伝令書は私が書きます。村の方からも誰かお願いできますか」

「おう、分かった」

「それで、食い物の件なんだが――」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」

 

 とんとんと話は進み、もう既に次の議題へと移ろうとした時ようやくライアーが声をあげた。

「あん?」と頭目が面倒そうに、もう何日も洗えていないだろう髪を掻く。

 

「んだよ、文句あんのか?」

「い、いや。でも、なんで俺なんですか?」

 

 頭目の強面に腰が引けながらも、ライアーが食い下がった。

 確かに妙な人選ではある。カーリヤもライアーもこの中では若い部類だが、最も若いわけではない。実力としても中堅で、最も強いわけでも弱いわけでもない。ならば何故、二人が選ばれたのか?

 

「別に誰でもいいだろ。適当だよ適当」

「いやいや、それは流石に……」

「――それによ」

 

 鼻でもほじりだしそうな素振りを見せた頭目の手を、彼の聖女がぴしりと叩く。そしてずいと身を乗り出すと、ひどく含みのある口調で続けた。どこか悪戯っぽい表情で。

 

()()()()()()? 俺たちよ」

「……!」

「……?」

 

 頭目のよく分からない一言に、でも何故かライアーは息を飲んでいた。首を傾げるカーリヤに対しても、他の聖女と騎士たちはニコニコと、あるいはニヤニヤとした視線を向けてくる。いったい何なのか。

 その後もライアーと頭目はこそこそと「レーベンの奴が……」「……を買っているのを見られて」「偶然通りがかったら……」とかなんとか話を始め、そして結局はライアーは黙り込んでしまう。つまり、カーリヤ達はこの村を脱すことになったのだ。

 ……それに安堵している自分はやはり臆病者だと、カーリヤは胸の痛みに瞳を閉じた。

 

 

 ※

 

 

 沈む夕日を右目に見ながら馬を走らせる。伝令として選ばれた青年――村長の孫の駆る駿馬と並びながら、カーリヤはライアーの大きな背中にしがみついていた。乗馬なんて久しぶりだ、自分で手綱を握っているわけでもないのに、怖くて目を開けられない。

 

「どこにいるか分かったもんじゃねえ! 頼むぞ!」

「わ、分かってるわよっ!」

 

 ライアーも不慣れな乗馬に緊張しているのか、どこか上擦った声で言う。彼には手綱を握ることに専念してもらわなければ、死角から現れた魔女に襲われるなんていうことになり兼ねない。カーリヤが周囲に目を配らなければならないのだ。だが怖いものは怖い。

 

 ――いつもは平気なのに

 

 魔女狩りの際はいつもライアーの腕や背に掴まって、跳び回り走り回る彼と同じ景色を見ている。大きな木に飛び乗る時も崖を駆け下りる時も一緒だったというのに、それらよりも各段に平坦な道を走っている今の方が冷や冷やしていた。それは多分、ライアー自身が緊張しているせいだ。

 いや、そもそも最近の彼はずっと変だった。こんな状況になってしまう前から、ポエニスを出た時からずっと。まるで、何かを隠しているような。

 

「……、……ねえ」

「カーリヤ」

 

 こんな時に聞くべきことじゃないかもしれない。でもそのしこりはずっと胸に痞えていて、あまりに集中を欠けば聖性だって上手く扱えない。意を決して聞こうとして、その前にライアーが口を開いた。

 

「な、なによ」

「いや……そのな? こんな時に言うことじゃねえかもしれねえけどな?」

 

 目の前にあるライアーの頭はキョロキョロと周囲を見回している。それは魔女を警戒しているというより、何か内緒の話をしようとしているように見えた。近くを走る村の青年はただ前を見ている。

 

「あのな、」

「この仕事が終わったらな、その……」

「俺と、」

 

 

 

 

 

 

 ■■■■■■■■━━━━━━

 

 

 

 

 

 

 それは、声だったのか。

 雷鳴のような、地鳴りのような、嵐が鳴いたかのような。

 何であれ、それは遥か遠くから響いた大音。何かが空気を震わせ、カーリヤ達の鼓膜を震わせた確かな音だった。

 

「なんや、あれ」

 

 馬を停めた青年が呆然と呟く。同じく馬を宥めたライアーがそれに並び、そしてそれを見た。

 カーリヤの目にも、それは映っていた。

 

 

 

 霞んで見えるアスピダ山脈。そこに異形の存在がいた。

 黒い泥。光も飲みこんでしまうようなその黒は見慣れた色で、何よりも恐ろしかった。

 その姿に似たモノを挙げるならば、八割がたの者は蜥蜴(トカゲ)と答えるだろう。

 そして残りの者はこう答えるだろう。

 (ドラゴン)と。

 

「……きゃあっ!?」

「ぬあ、くそ! つかまれ!」

 

 悲痛な嘶きと共に馬が立ち上がり、振り落とされそうになったカーリヤの腰を力強い腕が抱き寄せる。暴れる馬から飛び降りたライアーに抱かれたまま地面を転がり、カーリヤ自身は何の痛みもないまま二人で身を起こした。

 

「…………冗談だろ」

 

 どこかに走り去ってしまった馬を気にする余裕もない。カーリヤは言葉すら出せない。

 山脈に現れたそれは、間違いなく魔女だった。黒い泥で成された、あらゆる生物と似ていながら同一ではない異形の姿。だが一つだけ、絶望的に異なる点がある。

 おかしい。

 霞んで見えるような山脈に座する魔女の姿形を、何故こうもはっきりと捉えられる?

 それではまるで、あの魔女が途轍もなく巨大だとでも言っているようではないか――。

 

 ■■■■━━━━━━

 

 再び響き渡る怪音。それは咆哮だったのだ。あの竜にも似た、巨大な魔女が吼え猛る声。

 魔女がその(あぎと)を開く。頭に似た部位が大きく歪み、そこから生え出でるかのように棒状の何かが伸びていく。震える手で狙撃銃を構えて遠眼鏡を覗けば、それが何であるのか分かった。あれは「筒」だ。長く巨大な筒。

 カーリヤにはそれが、砲身に見えた。

 

「――やめて」

 

 戦慄く声は何者にも届かない。

 魔女の砲身が発火する。青白い炎のような輝きは聖性の光。それが砲身を奔り、光が溢れ、そして。

 

「――――!」

 

 雷光のような輝きが赤い空を白く染め上げ、放たれた何かが放射線を描いて遥か遠くに「着弾」する。遅れて地を揺るがす轟音と、大きな、大きな茸みたいな雲が……。

 

「……あ、あぁ……っ」

 

 絶望を孕んだ声はカーリヤのものではなく、ライアーでもない。あんな物を見せられてもなお馬を御している青年の物で、そして彼にはきっとよく分かっていたのだ。あの雲が何処から上がっているのか。

 

「――畜生っ!」

「あ、待って!」

 

 カーリヤの止める声が聞こえなかったように馬を走らせる青年。聞こえていたとしてもきっと止まらなかっただろう。蹄の音はあっという間に遠ざかってしまった。ノール村に向けて。

 

「そんな……っ、行くわよライアー!」

 

 圧し折れそうな心をなんとか奮い立たせて傍らのライアーの手を取る。なんとか聖性も流すことができた。馬を失った以上は彼の足に頼るしかない。早くノール村に戻らなければ!

 

「……ライアー?」

 

 だが、彼は動かない。

 ちゃんと聖性も流しているのに、その腕でカーリヤを抱き寄せもせずただ立っている。顔を上げれば目が合った。ごくありふれた、それでもカーリヤが信頼してやまない鳶色の目と。

 彼はただじっと、カーリヤの目を見つめている。

 

「――だめよ、ライアー」

 

 その目には見覚えがあった。

 あの森で、魔女になりかけた少女(ミラ)をレーベンが介錯しようとした夜。あの時のレーベンは今の彼と同じ目をしていた。何かを切り捨てようとしている、悲壮な目。

 

「まだよ、きっとまだ間に合う。今行けば、誰か、誰か……っ」

 

 誰かなんていない。誰も生き残っていない。ライアーはきっと分かっている。カーリヤも分かっている。だから分からないふりをしていた。そうしないと心が折れてしまうから。

 そうしないと、本当のカーリヤが顔を出してしまうから。

 そうなってしまう前にライアーの手を引いて、逆に手を掴まれる。もうビクともしない。カーリヤをこの場に繋ぎ留めるみたいに。

 

「……怖気づいたの? それでも騎士?」

「このまま逃げる気なの? ……みんな見捨てて!」

「見損なったわ! この、弱虫っ!」

 

 鎧に包まれたライアーの胸を叩く。それはただカーリヤの拳を痛めただけで、彼の体も心も動かしてはくれなかった。拳だけじゃなく、カーリヤの安い挑発にも。

 ライアーは弱虫なんかじゃない。昔はそうだったかもしれないが、今はもう違う。カーリヤよりも小さく細かった体はもう別人のようで、その心もきっと逞しく成長していた。カーリヤとは違って。

 

 ■■■■━━━━━━

 

「ひ、」

 

 魔女の咆哮。びくりと身を竦ませて振り返れば、山脈に座する魔女はその姿勢を変えていた。あの砲身のように伸びた咢はもう無く――。

 

 いや、違う。

 

 砲身は無くなった訳ではない。見えなかっただけだ。

 何故か?

 ()()()()()()()()()()()

 

「うそ…………」

 

 唇から力なく、意味もない言葉がこぼれ落ちる。力の抜けた手からも、狙撃銃がこぼれて落ちた。

 無意識に思い込んでいた。あんな巨大で、強大な破壊力を持った魔女が狙うのは村のような集落だけだと。たった二人のちっぽけな人間を、カーリヤ達を狙ってくるはずがないと。

 思い込んでしまっていた。忘れてしまっていた。

 魔女は、何をしてくるのか分からない。

 

「――あ」

 

 いま、光った。

 聖性の光と同色の閃光。

 赤い空を斬り裂くように飛来する何か。

 それは放物線を描きながら、カーリヤ達の元へまっすぐ……。

 

 

「カーリヤ――――ッ!」

 

 

 轟音の中で、ライアーの声を聞いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

魔女と騎士

 

 カーリヤにとってその日は、少しだけ憂鬱な日だった。

 母と喧嘩してしまった。理由はほんの些細なことで、癇癪を起こしたカーリヤは苛立ちのままに言葉を吐いて、家を飛び出した。扉の向こうの、怒ったようで哀しそうな母の顔を今でも覚えている。

 いつもは教会で勉強をする時間だったけど、行く気にはならなくて。だからブラブラと、町の隅っこの川辺を一人で歩いていた。

 やがて太陽が南に上って、教会の鐘も昼を報せてしばらく経ってから、幼馴染の少年が来た。カーリヤを探していたと。

 カーリヤはすぐに母への不満を少年に話して、すぐに悪いのは自分だと気付いた。なのにひどい事を言ってしまったと後悔するカーリヤの手を少年は握って、一緒に謝りに行こうと言ってくれた。

 小さくて弱虫でも、やっぱり少年はカーリヤの一番の友達だった。

 

 

 ※

 

 

 目を開ければ、燃えるように赤い空がカーリヤを見下ろしていた。

 

「……っ、あ、けほっ……ぐ、」

 

 息を吸おうとして、口の中に入っていた土と砂のせいで咳き込む。吐き出す為に体を起こして、たったそれだけの動きで体中が軋んだ。

 異様なほどに静かだった。死んだような静謐の中で、カーリヤが噎せる音だけが響く。

 周囲には何も無い。元々、開けた場所の街道を進んでいたのだ。あったのはぽつぽつと生えた木々ぐらいなもので、今はもうそれすら無い。何もかも、薙ぎ倒されてしまったから――。

 

「……ライアー?」

 

 ようやくカーリヤは思い出してきた。気を失っていたばかりな上、どこか現実味の無い光景のせいか頭がひどく鈍い。魔女を捜していて、魔女が大量に現れて、伝令の為に村を出て、その途中で……。

 

「……っ、ライアー!?」

 

 全て思い出した。

 軋む体も無視して立ち上がろうとして、左足にひどい痛みを感じて蹲る。スカートの切れ目から覗く腿には、白い骨。

 一瞬、自分の骨が飛び出ているのかと血の気が引いたけど、そうではなかった。自分以外の何かの骨が突き刺さっていたのだ。……それも充分にゾッとしない光景ではあったけれど。

 

「ぁぐっ!

 

 息を吸って、一思いに引き抜く。幸い骨は短く、引っかかることもなく簡単に抜けた。出血も多くはない、傷口を手で押さえながら今度こそ立ち上がる。

 カーリヤの眼前に広がる異様な光景。真っ赤な空に照らされた赤い地面。そこら中に散らばっていたのは小石ではなく、骨の破片だった。もう元が何のどこの骨なのかも分からない、骨、骨、骨……。自分の脚に刺さっていたのもその一つなのだろう。むしろ一つしか刺さっていなかったことが奇跡のよう。

 だがカーリヤが探しているのはそんな物ではない。あの巨大な魔女ですらない。探しているのは、彼。誰よりも信頼する自分の騎士で、昔から一緒にいて、そして何よりカーリヤが守らなければいけない……。

 

「――ライアー!」

 

 すこしだけ離れた場所に、彼を見つけた。もう昔とは違う、大きな体を聖銀の鎧で包み込んだ姿。赤い地面に横たわる彼の傍に、目印のようにカーリヤの狙撃銃が突き刺さっていた。

 

「ライアー! 良かった、見つかって……」

 

 足を引きずりながら歩いて、彼の傍らに膝をつく。気を失っているらしい体に掌を当てて、聖性を流し込む。これで大丈夫。聖性さえ流せばどんな傷でも治る。どこか遠くへ飛ばされたり、土砂に埋まったりしていなくて本当に良かった。

 

「……ほんと、心配させないでよね! 昔から世話が焼けるんだからっ」

 

 安心のあまりに息をついて、そして次は憎まれ口が出てきた。そろそろ彼も目を覚ますだろう。目を覚まして、起き上がって、いつもみたいに鳶色の目で苦笑して、憎まれ口を返して、そして。

 

「…………ライアー?」

 

 返事が無かった。もう充分な量の聖性を流しているのに、彼の体は横たわったまま。

 ぴくりとも、動かない。

 

 

 

「――――――ぇ」

 

 

 

 顔を上げて、視線を動かして、彼の顔を見ようとして、誰かの口から小さな声が聞こえた。

 

「――、え? ……ぁあ、え?」

 

 誰かの声、カーリヤの声。

 彼の顔、ライアーの顔、それを見ようとしても、どこにも見えない。

 

「……あ、あぁ……?」

 

 無い。

 彼の顔が無い。

 ライアーの頭が、無い……?

 

「……――? ……??」

 

 無い。そんなはずがない。頭が現実を拒絶していた。

 ……現実? そんなはずがない。これが現実なはずがない。カーリヤは何も拒絶なんてしていない。現実から目を逸らしたりなんてしていない。

 だからこれは現実じゃない。嘘だ。何かがカーリヤを騙そうとして吐いた嘘。

 嘘だ。

 嘘だ、嘘だ、これは嘘。

 だってあり得ない。

 ライアーが、あのライアーが、こんな簡単に死――――。

 

 

『いや』

『死んじゃいや』

『いかないで、いかないで』

『だきしめて、ずっとここにいて』

 

 カーリヤを囲む、無数の歪んだ声。

 

 

 ※

 

 

 カーリヤが家に帰った時、すべては終わっていた。

 家が真っ赤だった。自分の家も、隣の家も、その隣の家も。夕日に照らされていたからじゃない、赤い塗料を塗りたくられたみたいに、家が真っ赤に染まっていた。

 赤い塗料の中に聖女と騎士がいた。二人はカーリヤに気付くと何かを言ったけど、カーリヤには何も聞こえていなかった。ただ見ていた。

 赤い塗料の真ん中に横たわる、黒いドロドロの何か。それに埋まった女の人の顔は、カーリヤと同じ空色の瞳を、虚ろにカーリヤに向けていた。

 怒ったようで哀しそうな、最後に見た顔のままで。

 

『お、かあ、さん』

 

 消えそうな声はカーリヤの物ではなかった。手を繋いだままの、少年の声。

 その視線を辿れば見慣れた顔がカーリヤを見返していた。赤い塗料の中で、顔が、顔だけで。一人だけじゃない。見慣れた顔が、見知った人の顔が、顔が、顔……。

 響き渡った絶叫が誰の物だったのかは、今でも分からない。

 

 

 ※

 

 

 カーリヤは夢を見ていた。

 夢に決まっている。

 だって、こんなのおかしい。

 あんな、山みたいに大きな魔女がいるなんて悪い冗談としか思えない。

 こんな、こんなにたくさんの魔女がいきなり現れるなんて。あれだけ捜しても見つからなかったのに。

 そんな、そんなことあるわけない。

 ライアーが、死んでしまうだなんて。

 

『いかないで、いかないで』

『おいていかないで』

『ずっと、ずっと、ずっと』

 

 カーリヤは悪夢(ゆめ)を見ていた。

 悪夢よりもずっと悪夢みたいな光景だった。

 赤い空の下の、赤い大地の上で。

 カーリヤを取り囲む、異形の影、影、影……。

 それらが口々に、次々と発する歪んだ声、声、声……。

 無数の……魔女。

 

「――――ライアー」

 

 彼の体を、揺する。

 

「起きて、ねえ、魔女よ、戦わないと」

 

 彼の体を、揺する。

 

「仕事よ。寝坊なんて駄目よ。お母さんに怒られちゃうじゃない」

 

 彼の体を……。

 

「こんな時ぐらいしっかりしないと。レイにだって笑われちゃうわ」

「あの馬鹿、魔女狩りの日だけは早起きなんだから」

「そんなの悔しいから、二人で起こしにいきましょうよ」

 

 彼は……。

 

「ライアぁぁ……」

 

 

 ひたり、と。

 

 

「――――ぁ」

 

 

 カーリヤの脚に触れる、冷たい泥の感触。

 

 

『いっしょに』

『みんな、いっしょ』

『あなたも』

 

 

 夢ではない。

 それを、断ち切られた脚の痛みでカーリヤは知った。

 

 

 ※

 

 

 それは、ありふれた悲劇だった。

 カーリヤとその幼馴染を襲った、この国ではごくありふれた悲劇。

 魔女化したカーリヤの母親はその目に映るすべてに牙を剥き、近隣の人々を無差別に襲った。町に常駐していた聖女と騎士はすぐに駆けつけ、それを討伐。負傷者は十二名、死者は母を含めて五名。町中で発生した魔女禍による被害としては少ない部類だったらしい。

 

『たいしたことはなかった』

 

 母を狩った聖女と騎士が教会の職員とそんな話をしていたのが、地面に座り込んだままのカーリヤにも聞こえた。

 たいしたことはなかった? 被害の数が? それとも魔女になった母の強さが? どちらにせよ、そんな言葉でカーリヤの悲劇は片付けられてしまった。だってこれは、ありふれた悲劇だったのだから。

 

 残ったのは二人だけだ。カーリヤと、幼馴染の少年だけ。

 

 彼もまた、カーリヤと同じように地面に座り込んでいた。虚ろな目で、真っ赤な塗料の中の、真っ赤な誰かの残骸から目を離さずに。元から痩せっぽちの体はもっと弱々しく見えて、瞬きしている間に消えて無くなりそうだった。

 ……カーリヤを置いて。

 

『――ごめんなさい』

 

 口から零れた謝罪は、誰に向けたものだったのか。少なくとも、母でも彼でも他の犠牲者でもなかったと、カーリヤは思う。

 彼が顔を上げて、色だけはいつもと変わらない鳶色の目をカーリヤに向ける。その目には何か、何かを見つけたような光を放っていた。

 

『そうだよ』

『わたしが悪いの』

『ぜんぶ、わたしのせいなんだよ』

 

 こわかった。

 こんなに簡単に全てを壊してしまう魔女禍が。自分もそれに巻き込まれていたかもしれないという事実が。容赦なく母を狩った聖女と騎士が。魔女とその娘に向けられる、見知った人たちの変わり果てた視線が。魔女が。聖女が。騎士が。もうぜんぶが怖かった。

 でも何よりも怖かったのは、ひとりになること。

 もうカーリヤには彼しかいない。自分の傍にいてくれるのは、もう彼一人しか。

 

 ――わたしのせいだよ

 ――だから怒っていいよ。殴っていいよ

 ――それであなたが楽になれるなら、それで良いよ

 ――あなたの心は、わたしが守るから

 ――だから、だからそのかわり……

 

 

 

『いっしょにいて』

 

 ばきり。

 まずは足首だった。目の前に転がされたそれが誰の足首なのか一瞬カーリヤは分からなくて、そして一瞬後には嫌でも分からされた。

 

「い……っ、あ、あああぁぁぁ――――っ!?」

 

 激痛。恐怖。絶叫。

 爪なのか牙なのか、切り落とされたのか引き千切られたのか、そんなことはもう分からない。分からないほどカーリヤの心は乱れ切っていて、そしてカーリヤに群がる魔女の数は多かったから。

 

『いかないで』

 

 絶叫が止まない内から、もう片方の足首がどこかへ行ってしまった。これでもう、自分は二度と立って歩けないのだとカーリヤは理解してしまった。

 

『やめて』

 

 宙をさまよっていた両手が地面に縫い止められる。何か鋭いモノに何か所も突き刺されて、カーリヤはもう何の抵抗もできない。何もできないまま、ずっと嬲られる。殺されることもないまま、ずっと。

 

『死んじゃいや』

 

 一つだけあるのだ。カーリヤにできる唯一の抵抗。

 一つだけじゃない、いくつも嵌められた自決指輪。二個でも三個でも安心できなくて、ついには全部の指に着けてしまった御守り。指輪だけじゃない。もっと強力な自決腕輪だって、毒薬の入った首飾りだって。耳飾りだって。

 でも。

 

『ひとりにしないで』

 

 つるりとした棒状のそれが自分の脛だということに気付くまで時間を要した。その間、ずっとカーリヤは叫び続けていた。痛くて、怖くて。

 可愛いと、綺麗だと、美人だと、たくさんの人に言われても、彼だけは言ってくれなかった。そんな彼が一度だけ、綺麗な脚だと言ってくれた。あれはいつのことだったか、そう確か、あの廃村から逃げて、彼と殴り合いの喧嘩をして……。

 

「ラ゛、イア゛ァ……」

 

 彼が綺麗だと言ってくれた脚はもう無い。目の前で二本ともぐちゃぐちゃにされてしまった。

 綺麗な脚だと言ってくれた彼はもういない。目の前の、すぐそこで、動かないまま……。

 

「ご、めん……ざい」

 

 ついさっきまで動いていたのに。ついさっきまで喋っていたのに。ついさっきまで……喧嘩をしていたのに。

 ひどいことを言ってしまった。

 見損なったって、弱虫だって。今まで彼がどれだけ苦しみながら努力してきたのか、誰よりもカーリヤが知っていたはずなのに。そんな彼に、最後にかけた言葉があれだなんて、あんまりだ。あんまりだ!

 

「ごめ……ごめ゛ぇぇ――――っ!」

『ひどい』

『ひどい』

『あんまりよ』

 

 カーリヤに罰を当てるみたいに魔女たちが群がる。我先にと半ばから失くした両脚をその手でその爪でその牙で掴んで噛みついて切り裂こうと引き千切ろうと咬み砕こうと。

 それでも、誰もカーリヤの胸を貫こうとはしない。首を落とそうとはしない。頭を砕こうとはしない。

 魔女は、聖女を簡単には殺さないのだから。

 

「ごめん……ごめん……さい……」

 

 恐怖と苦痛に塗りつぶされたカーリヤの心には、ただ後悔と絶望だけがあった。こんな時の為にいくつも身に着けていた自決道具のことも忘れて。

 

「ごめん……」

 

 カーリヤはいつもそうだ。

 あんなに優しかった母にひどいことを言って、それが最後のお別れになってしまった。もしかしたら、それこそが母を魔女にしてしまったのかもしれない。

 あんなに傷だらけのレーベンを殴って、ひどいことを言ってしまった。一番つらかったのはレーベンのはずだったのに。

 あんなに、こんなに自分を守ってくれたライアーに……。

 

「ごめ……」

 

 カーリヤはいつもそうだ。

 臆病で、虚勢ばかり張って、本当に言いたいことは一言だって口にできない。

 だからこんなことになった。

 ずっと伝えたかったことも、ライアーに伝えられないまま。

 

 

「ごめんなさい…………ライアー……』

 

 

 ぽたりと。

 一滴。

 真っ赤な地面に、

 真っ黒な涙が落ちた。

 

 

 

 

 

 

 聖女と騎士の物語は、いつだって悲劇で終わる。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レーベンと最後の安寧

 

 晴天の街道を馬車が進む。

 速さ以外を度外視した教会の馬車に乗り慣れたレーベンにとって、聖都で運営される乗り合い馬車はそのまま宿にしたいほど快適であった。ゆっくりとした速度故か、それとも何らかの仕掛けがあるのか座席に殆ど揺れは伝わらず、十人は腰掛けられそうな客席に座るのも今はレーベンと連れ合いだけだ。

 ふあ、と。その連れ合いも口許に手を添えながら小さく欠伸をした。

 

「眠いですね……」

「寝たらどうだ」

「……なにか変なことを考えていませんか」

 

 特に何の他意もないレーベンの言葉に対して連れ合い――シスネはじっとりと黒い瞳を向けてきた。聖都を発つ前にわざわざ直された化粧の為か、その眼光は以前にも増して迫力がある。

 

「考えてはいないが、横になる前に何か羽織ってくれると助かる」

「考えているではないですか。やっぱり男性とは皆そういうものなのですね嫌らしい。いえ、ただ単にあなたが穢い人なだけですか」

 

 眠気が苛立ちに変わったのか、あるいはいつも通りなのか、彼女は相変わらずレーベンを罵倒する時だけは饒舌であった。以前と変わったのは、その装いぐらいか。

 

『着替え? 別にいいじゃない、そのまま行けば』

『いつまで時代遅れなこと言ってんの? それぐらいの服、今は普通よ普通』

『あんたの服? 血が落ちないから雑巾にしたけど』

 

 彼女の姉が至極どうでもよさそうに宣う前でぶるぶる震えるシスネの顔ときたら、今思い出しても震えあがる思いである。笑いを堪えるのも楽ではない。

 そういうわけで、今もシスネの恰好は昨夜に着せられた白服のままだ。髪だけは解かれているものの、それはそれでまた印象が異なる。ただ白髪を束ねているのは簡素な髪紐ではなく、黒いリボンだった。どこまでも彼女に合わせた采配、あの末妹殿には拍手を送りたい。ついぞ声を聞くことは無かったが、気は合いそうである。……レーベンを見る目は多少あれだが。

 

「だいたい、あなたに手を出したりすれば兄上殿に刺されるだろう」

「やめてください。おに……兄の話はしないで」

「お、おう?」

 

 怨敵でも見るかのような目を向けてくるサラベイの姿を思い出して遠い目になっていたレーベンの言葉を、更に遠い目になったシスネが遮る。硝子をはめられた窓で外を眺めながら、丈の均一でないスカートの裾をしきりに手で伸ばしていた。

 ……まさかこの服は本当に彼が用意したのではなかろうか。黙っていても女の方からいくらでも寄ってきそうな色男だったというのに、人は見かけによらないものである。

 

「……ん?」

 

 家族というものの奥深さを噛みしめていると、窓の外に目を向けていたシスネが何かを見つけたようだった。そしてすぐ、外から御者の大声と馬数頭分の嘶きが響く。

 

「つかまってくれ!」

「な、きゃ――っ」

「うお……っ」

 

 同時に、揺れとは無縁だった客席が激しく揺れる。「どう! どう!」という御者が必死に馬を宥めている声と共に、レーベンの耳は遠ざかっていく蹄の音を聞いた。

 

「いた……っ、何だったんでしょうか」

「教会だ」

「え?」

 

 座席から転げ落ちていたシスネが尻を撫でながら席に戻り、窓に顔を張り付かせたままでレーベンは答える。

 レーベンが見た影は馬が三頭分。衝突寸前の勢いで駆け抜けていったそれには、確かに教会の上位職員の服を纏った者が乗っていた。あとの二頭はおそらく護衛、つまりは聖女と騎士だったのだろう。もう既に見えなくなった彼等は馬車とは逆方向、つまりは聖都へと向かっていた。

 

「随分と急いでいたな、よほど急用だったらしい」

「だからといって、これは無いでしょう……」

 

 呆れたようなシスネの言う通り、一歩間違えば大惨事であった。現に今も外では御者が教会に対する暴言を一人で吐き捨てている。シスネが聖女の装束を着ていないのだから、まさか乗客が教会の関係者だとは思うまい。あの怒り様ではこちらにまで飛び火した可能性すらあり、そういう意味では彼女の白服に助けられた。

 

「やはりそれは良い服だな」

「もう一度言ったら、あなたと服を交換しますから」

 

 ひどい脅しもあったものである。

 

 

 ◆

 

 

 最短距離を進む教会の馬車とは違い、乗り合い馬車はいくつかの町を経由しながらポエニスへと向かう。行程はおよそ二日。その半分を終えたレーベン達は小さな宿町で夜を明かすことになった。

 

「感じますか?」

「……いや、どうだろうな。よく分からん」

「これでは足りない……? でもこれ以上は」

 

 いくつか並んだ中で選んだ、中の下ほどの宿の小さな食堂で二人――主にシスネが奮闘していた。

 

「もっと入れれば感じるかもしれん」

「駄目です。塩気も摂りすぎは身体に毒ですから。そもそも貴方自身がそんなだから、こんなことになっているのですよ? 分かっているのですか?」

「……」

「返事は」

「はい」

 

 彼女の祖父から渡された薬箋(レシピ)を睨みながらスープに香辛料を足していたシスネが、また厳しい瞳を向けてくる。確かにこんなことになったのは過剰服用を続けていた己が原因であり、一から十まで正論を並べられればレーベンはぐうの音も出ない。腹は鳴ったが。

 ロシノル曰く、味覚が麻痺していても嗅覚で代用することは可能だとか云々。故に、昨夜の煮込みに彼が手を加えたことでレーベンも味を感じることができたのだと。それにしても、ごく僅かな時間でレーベンの身体の異常を見抜いた彼は只者ではない。鏡を使って欠損した右腕の痛みを鎮める方法といい、極めて優秀な医療者だと言わざるを得ないだろう。

 

「そろそろ良いだろうか。よく噛んでゆっくり食べるとも」

「仕方ないですね、次は種類を変えてみましょう」

 

 ようやくお許しが出た食事に本格的に手をつけ、食前の祈りを終えたシスネも匙を手に取る。さりげなく自分の皿にも香辛料を足しているが、それは摂りすぎにはならないのだろうか? 指摘する勇気は無く、その前にシスネの方が口を開いた。

 

「祖父が言うには、薬を断ちさえすれば数年で元に戻るかもしれないそうです」

「そうなのか。なら、わざわざ苦労する必要も、」

「あと何年も味のない食事を続ける気ですか? すこしは努力をしなさい。だいたい――」

 

 ようやく始められた食事は説教を聞きながらとなってしまった。げんなりと左目だけで周囲を見回すと、何ともつかない視線のいくつかと目が合う。悪意のある視線こそ無いが、己と彼女はどういう組み合わせに見えているのだろうか。

 片や、右目と右腕を失くした黒髪の男。顔の包帯も取り払われ、醜い裂傷も露わとなっている。どう贔屓目に見ても、まともな人間とは思われないだろう。

 片や、平服と呼ぶには目を引く白服を纏った白髪の女。白と黒だけで彩られた姿は白黒画のようで、レーベンの目にはともかく他者からは異様な姿の女に見えているのかもしれない。今もまた、商人らしい幾人かの男たちがチラチラと彼女に不躾な視線を――。

 

「……?」

 

 いま何か、己の感情に波が立った。

 最近はまるで使用していない強化剤を打った時にも似た、意味もなく感情が振れ動いたような違和感。ある意味では懐かしさすら感じるそれを、何故いま感じるのか疑問に思ったところで、目の前に座るシスネの説教が止んでいることに気付いた。

 黒い瞳はレーベンではなく、壁際の一点に固定されている。レーベンもその視線を追い、

 

「お……」

 

 薄暗い照明の中でも特徴的な、聖銀の輝き。掌に収まるほどの四角形に切り取られたその中で、幾人かの若い女たちが様々な表情を見せている。唯一つ共通しているのは、その全員が灰色の装束を纏っているということ。

 もはや見間違えようもなく、言い逃れもできない。あれはかつてレーベンが売り捌いた、聖女たちの写銀だ。レーベンはポエニスでしか店を広げなかったというのに、それらが流れに流れてこのような宿町にまで飾られているとは流石に想像を超えていた。

 かたり、と。無言でシスネが席を立つ。ある程度の凄惨な制裁を覚悟したが、彼女は左手で頭を押さえるレーベンの横を通り過ぎて壁際――写銀の元へと歩いていった。

 

 

 

「――キャナリー」

 

 遅れて彼女の近くへと向かったレーベンの耳にも、その静かな声はよく響いた。シスネは写銀の一枚を指先で撫でながら、誰かの名前を口にする。

 

「オーカ、ピベール、チコニア、クトレトラ、」

 

 誰か。それはきっと写銀に映った聖女たちの名前に他ならない。レーベンは碌に知ろうともしなかった彼女らの名前を、シスネは淡々と口にしていく。やがて黒い長手袋に覆われた指先が、ひときわ目立つ位置に飾られた写銀に触れる。

 

「カーリヤ」

 

 波打つ金の髪と、鮮やかな碧眼を持つ美貌の聖女。レーベンはもう随分と長い間、その姿を目にしていないように感じた。まだほんの十日ほどしか経っていないというのに。

 

『……っもう、勝手にしなさい馬鹿っ!』

 

 医療棟の病室で見た、少女のような泣き顔。それが最後に会った彼女の姿だ。和解は、まだ出来ていない。

 そして。

 

「…………マリナ」

 

 絞り出すようなシスネの声。カーリヤと同じ写銀に映った、小柄な聖少女。

 恐るべき破戒魔女と化し、最後はレーベンが右腕と引き換えに狩り殺した幼い聖女が、かつての姿のまま笑顔を見せていた。

 左目で盗み見たシスネの横顔は、ただ沈痛そうな憂い顔だった。レーベンは知る由も無かったが、彼女とマリナは随分と親しかったらしい。だからこそ、あの時に引き金を弾けなかったのだ。

 

「……」

 

 ここに来てレーベンは気付いた。

 マリナはレーベンの道を狂わせた元凶でもあり、そして己はシスネから友人を奪った仇でもあるのだ。例えそれがどのような形であれ、マリナを殺めたのはレーベンなのだから。

 ……聞くべきではないのだろう。きっと聞くべきではないのだが。

 

「――恨んでいるか?」

「――恨んでいますか?」

 

 重なる声。そして沈黙。

 沈黙の後、顔を見合わせてから、彼女は弱々しく笑った。己も同じ顔をしているのだろうか。

 

「……忘れてください。私も忘れますから」

 

 そう言って、一度だけ鼻を啜った後で、懐から何かを取り出した。

 

「それは、」

「あなたの忘れ物ですよ」

 

 シスネが誰の許しもなく壁に飾ったのは、それもまた写銀だった。カーリヤとその騎士であるライアーが映った、ただ二人が連れ立っているだけの写銀。レーベンであってもこれを売ることは憚られ、そして自室の引き出しに仕舞ったまま遂に持ち出すことはなかった、二枚の内の一枚。

 

「苦情が来ないか」

「構わないでしょう? もう二人は夫婦なのですから」

 

 どこか不敵な顔で、さも決まったことのようにシスネは言う。だが確かに、カーリヤが彼の求婚を拒む姿はまるで想像できなかった。ならば問題は無いのだろうか? それ以前の問題なのかもしれないが。

 二枚並ぶカーリヤ達の写銀を眺めた後、シスネは徐に何かをレーベンの左手に握らせる。それきり写銀には目を向けず席へと戻っていった。

 

「シ――」

「お返しします。それは聖女の写銀でもありませんし」

 

 それだけを言って、彼女は食事を再開してしまう。

「冷めますよ」と急かされる声のまま、レーベンは手の中の物を懐に仕舞いながら席へと向かった。

 

 

 ◆

 

 

 夜風に乗って、鳥と虫の声が聞こえてくる。街道の途中に築かれたこの宿町は森に近く、空気も澄んでいる。こうして横になりながら窓から青白い月を見上げていると、レーベンはノール村で過ごした日々のことを思い出してきた。

 あの退屈な捜索と、不安になるほどの平穏。今と同じようにシスネと寝室を共にし、そしてまた同じように彼女の魘される声を聞いていた。

 あの時はそれなりに広い客間だったが、今は簡素な一人部屋だ。レーベンは銅貨の一枚も持ってはおらず、今回の路銀は全てシスネに出してもらっている。もっとも、彼女の財布とて家族から借りたもののようだったが。その為に部屋を二つ借りるような贅沢は憚られ、シスネもまた同室であることを拒みはしなかった。なんだかんだと言って、出会った頃に比べれば態度もずいぶんと軟化したものだ。

 床に敷いた毛布の上で寝返りをうてば、すぐそこの寝台の上でシスネが寝顔に苦悶の表情を浮かべている。寄せられた眉と、噛みしめられた口許がひどく目に残る。

 

「……」

 

 シスネと出会ってから、良くも悪くも己は変わった。レーベンはそう思っている。

 魔女狩りの中で死ぬことばかり考えていた己が、聖女を得ることなどとっくに諦めていた己が、はじめて明確に彼女を聖女としたいと考えるようになった。その為に随分と馬鹿な真似もしたように思う。

 成り行きで彼女と魔女狩りを共にすることになり、いくつかの死線を共にくぐり抜け、最後はもう戦えない身体となってしまった。

 騎士でなくなり、帰る場所もなくなり、半ば自暴自棄になっていたところに彼女がまた現れた。死に向かうことを止められ、騎士として死ぬことも諦め、そして今から安穏とした生に向かおうとしている。

 レーベンは変わった。シスネはどうなのだろうか。

 彼女は何も変わっていないように見える。三年前に騎士を介錯し、一人で魔女を狩り続け、ポエニスに来てレーベンと組まされ、そしてミラを、レーベンを救ってくれた。

 だが彼女は何か救われたのだろうか。今こうして、眠ることすらできず苦しんでいることが答えなのではないか。明日ポエニスに戻り、仮にレーベンが教会の職員になれたとして、彼女はどうするのか。

 決まっている。また一人で魔女を狩るのだ。一人で。傷だらけになりながら。

 レーベンに出来ることは、何も無い。

 

「……」

 

 仮に、もしも、己が彼女に好かれていたのなら、何か救いになれたのだろうか。何か出来たのだろうか。だが彼女はレーベンを嫌いだと言い、それは照れ隠しなどではなく本心なのだということはレーベンにも分かる。その嫌いで穢い相手を何故こうも放っておかないのかは、ついぞ分からないままだが……。

 シスネはまだ魘されている。苦しげな吐息に混じり、「レグルス」と、そう何度も呼んでいる声が聞こえる。

 

「…………」

 

 ざわりと、また己の中で意味も無く感情が揺れ。

 その波を努めて無視し、彼女の声を聞きながら、レーベンはただ月を見上げていた。

 

 

 ◆

 

 

 既に出発準備を整えた馬車の前で、不機嫌そうなシスネがレーベンを出迎えた。

 

「悪い」

「まったくですよ。だいたい、忘れ物をするほどの荷物があるのですか」

 

 呆れを多分に含んだ溜息をこぼして馬車に向かう彼女を、杖をつきながら追う。この杖もまた彼女の家族から貰った物だが、正直なところシスネに手を引かれなくなったことに寂しさを覚えなくもない。だが。

 

「ほら、早く乗ってください」

 

 こうして、客席に上がる時だけは手を貸してくれた。それに安堵と満足を覚えている己を客観視し、随分とまあ絆されたものだと自嘲する。何もかも今更だ。

 

「……顔色が悪いですね。眠れなかったのですか」

 

 そういう彼女も相当にひどい顔をしている。化粧は落とされ、代わりのように濃い隈が浮かぶ目許。それはそれでまた、退廃的な魅力をレーベンは感じてもいた。

 二人だけの乗客を乗せた馬車は動き出し、そしてすぐ彼女は小さな欠伸をもらす。

 

「眠いですね……」

「寝たらどうだ」

「……またなにか変なことを考えていませんか」

 

 

 ※

 

 

 街道沿いの小さな宿町の、小さな宿。その中の小さな食堂には、幾枚かの写銀が飾られている。その全てには教国の民が敬愛する聖女たちが映され、その中で各々が様々な表情を見せていた。

 太陽が登ると同時に人々は動き出し、宿町であるここに留まる者はおらず、次々と人は入れ替わっていく。故に未だ気付く者はいない。小さな宿の小さな食堂の壁際に飾られた写銀が、ほんの二枚増えていたことなど。

 飾られた写銀の片隅、もっとも目立たないであろう場所。

 白い髪と黒い瞳を持つ女がひとり、憂いた横顔を映しだしていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

六章 炎の中で
炎の嵐


 

 ■■■■■■━━━━

 

 それは吼えた。無数の口が混ざりあった、ただ一つの口で。

 それは吼えた。無数の声が混ざりあった、ただ一つの声で。

 歩みを進める。無数の足がただ一つの足となって、その巨大(おお)きな躰をゆっくりと、だが確かな前へと。

 それの足元に纏わりつく、小さなモノ達。

 それと同じ黒い泥で出来た小さなモノ達がそれに纏わりつき、歩みを共にし、時には踏みつぶされる。

 だがそれに何の問題もありはしない。

 それらは皆が違い、そして同じモノ。すぐに同じモノになって、同じ足となる。

 

 ■■━━

 

 ちかりと、それの無数の目に炎が留まる。

 ちかちかと、青白い炎が。

 

 ■■■■■■■■━━━━━━

 

 それは足を止め、足で地を掴む。無数の足で確と大地を掴み、咢を開いた。

 現れるは筒。巨大きな、あまりにも巨大きな筒。

 それの躰が発火し、青白い炎を帯びる。ちかちかちかと、目に留まった炎と同じ色で。

 ちかり。

 閃光が無数の目を焼き、遠くの炎が消えて失せる。

 ただただ遠くに、ただただ天高く聳える大雲を残して。

 それは進む。

 ただただ、進み続ける。

 

 

 ◆

 

 

 レーベン達が帰り着いた時にはもう、旧聖都ポエニスは喧噪と混乱に満ちていた。街の入り口から中央広場、大通りから路地裏に到るまでを埋め尽くす人、人、人……。老若男女を問わず皆が憔悴しきった顔で歩き、座り込んでいる。

 おそらくは元の住人であろう者たちは不安げな顔でひそひそと囁き合い、子供や赤子の泣き声も響き渡る。時には小競り合いでもあったのか何処からか怒号が届き、疲れ切った顔の警備職員がそれの鎮圧に向かった。そして他の者たちはただじっと、沈痛な沈黙を守っている。

 

「いったい、何が」

 

 レーベンの隣を歩く白髪の女――シスネも不安げに呟く。街全体が陰鬱な灰色に染まったかのような中で、凝った意匠の白服を纏う彼女ははっきりと浮いていた。だがそれを気にする者は誰もいないようだ。もう、そんな余裕も無いのだろう。

 

「まさか、街中で魔女が現れたのでしょうか」

「いや、どうだろうな」

 

 おそらくは違うとレーベンは考えていた。もし彼女の言う通りだったなら、むしろ住人たちは家に籠るはずだ。教会の者たちもそう指示を出すだろう。だが街中は人でごった返しており、明らかに元の住人よりも数が増えている。ならば、魔女が現れたのは街中ではなく……。

 考えながら歩くも答えは確かめられず、その前に街の北端にある教会へと辿りついた。レーベンにとってはもう二度と帰ることはないと思っていた第二の故郷、そこへの帰還に思うところが無いわけではない。だがそれも平時であればの話だ。

 教会の中庭もまた多くの人々が座り込んでいた。入ることを許可されたのか、ただ無断で入りこんだのか。どちらにせよそれを確認できるほど事態は安定しておらず、仮に不法だったとして誰がそれを咎めるというのか。

 

「すこし見てきます、そこにいて下さい」

 

 教会の本棟、その入り口前にレーベンを残してシスネは迷わず中へと入っていった。情報が集まるであろうここならば、今なにが起こっているのか多少は把握できるかもしれない。今のシスネは聖女の装束も纏ってはいないが、元より何かと目立っていた彼女のこと、おそらくは問題ないだろう。

 彼女の帰りを待つことにしたレーベンは適当な段差に腰掛ける。見上げた空は曇天、まるでこの街の雰囲気を模したかのように陰鬱な灰色が広がっている。雨が降らないだけまだマシだろうか。

 視線を下ろせば、座り込む人々の間を警備職員や他の職員が慌ただしく、だが疲れた様子で歩き回っている。その中に幾人かは聖女と騎士もいた。

 

 ――見ない顔だ

 

 いくらレーベンであっても、ポエニスに所属していた聖女と騎士の顔ぐらいは覚えている。だというのに、目の前を行き交う者たちは見知らぬ顔ばかりで、彼ら彼女らもまたレーベンには目もくれない。他の町にいた聖女と騎士、あるいは聖都からも来ているのか。そうだとすれば、事態は思った以上に深刻なのかもしれない。

 そして何よりも。多くの聖女と騎士が集められている中で、あの二人の姿が見えないことにレーベンは徐々に胸騒ぎを覚えていた。

 無意識に左手で胸元を探る。指先に求めていた固く小さな感触は無く、それはシスネに預けたままであったことを今更になって気付き、そのシスネはいつの間にかレーベンの前にいた。

 

「シ……」

 

 本棟から戻ったらしい彼女に声をかけようとして、だが思わず口を噤む。それ程に彼女の雰囲気は一変していたから。

 瞳は光を失くしたかのように黒々とした影だけを映しており、冷水でも浴びたかのように青白い唇が戦慄いている。引きつりきったその顔は、どこか歪な笑みを浮かべているようにすら見えた。半開きになった口が幾度か開け閉めを繰り返し、異様な沈黙にレーベンが耐えかねた頃にようやく出た言葉は。

 

「お、おちつ、落ち着いて、き聞いて、ください……」

 

 ――まず、あなたが落ち着いてくれ

 

 そんな彼女の姿を見てレーベンが抱いたのは、そんな呑気な感想で。

 そして彼女の話を聞いた後はきっと、己も引きつった顔をしていたのだろう。あるいは、もう何の感情も表せなかったのかもしれない。

 

 

 ※

 

 

 事の始まりは四日前。ちょうど、シスネがひとりポエニスを発った日まで遡る。

 騎士も乗せず密かに発車した教会の馬車と入れ違うようにして、傷だらけの男が馬に乗って現れたのだ。男はその体から血を滴らせながらも教会に入り、駆けつけた警備職員の前で倒れ伏した。握りしめていた血塗れの手紙だけを遺し、そのまま目を覚ますこともなく。

 手紙――伝令書の内容は驚くべきものだった。いっそ質の悪い悪戯なのではないかと疑われ、だがそんなことの為に命を捨てる者がいる訳もない。伝令書は警備職員から本棟へと届けられ、それはすぐに上位職員たちとヴュルガ騎士長の元へと届くこととなる。

 

【サハト村に大量の魔女が出没。至急、応援を求む】

 

 騎士長たちの対応は迅速だった。ポエニスに残っていた聖女と騎士たちの出立を準備させると同時に、数名の警備職員による先遣隊を編成。更に護衛として一組の聖女と騎士を伴い、その日の内にサハト村へと早馬で向かった。

 

 到着した先遣隊が見たのは村の残骸だった。元々、魔女を含む外敵へと備えていたのか村を囲っていた柵は所々が破られ、乾いた血や泥がこびり付いている。元はどこが入り口であったのかも分からない中、破られた箇所から村の中へと入った。

 サハト村の中は死で満ちていた。人の死体……家畜の死骸……そして聖女と騎士と、大量の魔女の死骸。家の外に、家の中に、農舎に、(うまや)に、井戸に、そこら中に死体と死骸が散乱していた。

 誰もが村の壊滅を確信し、だが希望を見出してもいた。予定ではサハト村に滞在していた聖女と騎士は六組。見つかった死体は一組のみだ。資料によれば村の人口は二百名を超えており、それも死体の数が足りない。

 おそらくは村を捨て、生存者のみで脱したのだ。それを裏付けるように、多くの足跡が東へと続いていた。東にあるのはノール村、そこでもまた聖女と騎士が魔女の捜索を行っているはず。一行は足跡を辿って街道を進んだ。

 そして見たのだ。

 地を揺るがす轟音と共に立ち上った、巨大な茸じみた大雲。

 それを成したのであろう、アスピダ山脈に座する黒い竜のような――巨大魔女を。

 

 先遣隊はその役目を果たした。すぐさま撤退を決めた彼等は不休で馬を走らせ、最後は聖女と騎士が自らの足でポエニスへと帰還した。遠征の準備を終えた本隊が出発する直前のことだった。

 二人の口から語られた信じがたい情報も、すぐに裏付けを得ることとなる。ポエニスの北側の町や村から続々と人々が押し寄せてきたのだ。彼らは皆が口々に「大量の魔女が現れた」「巨大な竜のような何かが町を破壊してしまった」と訴え、追われるようにしてポエニスへと逃げのびてきた。

 そして再び放たれた偵察隊により、その情報の全てが間違いではないことが分かったのだ。

 

 今もまた巨大魔女は南進を続けている。まるで軍勢のような魔女の群れを付き従えて。

 それはあたかも、暗黒時代を終わらせた最初の聖女と騎士たち、彼らの戦いを再現するかの如く。

 

 

 ◆

 

 

 赤い空の下、暗い顔の人々が列を成して進んでいく。彼らの影は長く伸び、まるで切り離された影が亡霊となって歩いているかのような姿を想像する。

 座り込むばかりだった人々に動きが見え始めたのは昨日から、つまりはレーベンがポエニスに帰った次の日からだ。

 

「荷物は諦めろ! 荷台には乗せられないぞ!」

「詰めてくれ! まだ乗れる!」

「歩ける奴は歩け! ……おい、あんたもだ! 降りろ!」

「指示を待つな! さっさと行け!」

「時間が無いぞ! 急げ急げ!」

 

 北から逃れるように押し寄せた難民たちも元の住人たちも区別は無い。教会の関係者以外は全員が南へ、つまりは聖都へと送られる。馬も馬車も、手押し車までかき集めてもまるで足りない。大荷物は容赦なく捨てられ、馬車の荷台には女が特に優先して詰め込まれる。……これは人道云々が故ではなく、新たな魔女を生み出さない為だろう。

 歩ける者は皆がその足で歩くことを余儀なくされ、歩けない老人や傷病者は「後回し」とされた。何もかもすべて仕方のないことだ。

 そして右目と右腕を失くしたレーベンもまた後回しとされ、だからといって歩いて列に加わることもなくただ座っていた。中央広場の長椅子、騎士でなくなって途方に暮れていた時とまったく同じように。

 

 ――こんな事になるとはな

 

 あの時は雨季も明けたばかりの晴天で、ポエニスそのものが活気づいていた。誰もが活き活きとした顔で道を行き交う様を妬ましくさえ思っていたのだ。だが今はもう、赤い空の下で陰惨な光景ばかりが広がっている。

 行き交う暗い顔の人々、疲れた顔の職員たち、張り詰めた顔の聖女と騎士。その中に、あの二人の姿は無い。きっともう、見ることはない。

 

『カーリヤと、ライアーは……死んだ、そうです』

 

 二日前、教会の本棟から出てきたシスネはそう言った。震える唇から、震える声で。それを聞く己は震えていただろうか。

 

『二人、だけじゃなくて。ノール村も、サハト村も、みんな』

『死体は、見つかっていませんが、でももう、()()()()()()()()()()()、と』

『全滅、だと』

 

『――――』

 

 そのまま、二人で顔を見合わせながら石のように沈黙していたと思う。

 嘘だとは、何かの間違いだとは思わなかった。そんな風に思えるほどレーベンもシスネも死を遠くに感じてはいなかった。魔女狩りはいつも命がけで、誰もが簡単に死んでいくのだから。

 それでも二人の沈黙は日が沈むまで続いた。その現実を受け入れるにはそれだけの時間が必要だったのだ。

 現実を。ライアーの死を。カーリヤの死を。

 

「……だから、やめておけと言ったんだ」

 

 長椅子に深く腰かけ、項垂れながらレーベンはひとり零した。

「この戦いが終わったらカーリヤと結婚する」などと、不吉極まりないことを言い残してライアーは戦いに向かった。そして結局は死んだ。「死んだらシスネと二人で笑ってくれ」などと、そんなことまで言っていたか。

 まったく、笑えもしなかった。

 

「……くそが」

 

 何に対してかの罵声を絞り出し、残った左手を強く握りしめる。掌の中にはもう何も無いというのに。

 赤い空に照らされた赤い石畳。そこに赤い雫が二滴だけ滴り落ちた。

 

「くそが……っ」

 

 空を赤く染める太陽が傾き始め、震えるレーベンの影は長く伸びていく。

 いつどこで誰がどうなろうと、太陽は寸分違わず沈んでいく。ただただ(ことわり)のままに。

 日は沈みかけ、空は燃えあがるように赤く染まっていく。

 

「――ぐ、ぅ……っ」

 

 ポエニスは、カエルム教国は赤く染まっていく。

 夕焼けがすべてを飲みこんでいく。

 何もかもを焼き尽くす、炎の嵐のような夕焼けが。

 

 

 

 

 

 

「――ここにいましたか」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

別れをかたる

 

 目の前に立つシスネはあの白服ではなく、見慣れた灰色の装束姿だった。

 細い体を締め上げるように何本ものベルトが巻かれ、それらにいくつもの武器が括りつけられている。三本の短剣と二丁の短銃。背には二丁の長銃と、脇に提げられた大短銃。

 長いスカートの裾から覗くのは簡素な短靴ではなく武骨な長靴(ブーツ)。左手の人差し指に光る自決指輪。白い髪は雑に束ねられ、尾のように揺れていた。レーベンを見つめる瞳の色は、黒。

 まるで聖女らしくない、レーベンが初めて見た時そのままの姿だった。

 気が付けばもう中央広場には誰もいない。粗方の難民は避難を始め、それに加われなかった者たちもまた別の場所に移ったのだろう。残っているのは二人だけだ。レーベンと、シスネだけ。

 

「隣、空いていますか」

 

 故にその問いに何の意味があるのかは分からず、ただレーベンは無言で肯定する。シスネもまた無言で長椅子へと腰掛けた。レーベンの死角ではなく左隣へと。視界の端に横顔が映り、すこし左手を伸ばせば触れられる、そんな位置に。

 

「置いていかれますよ」

 

 まっすぐ前を向いたままシスネが言う。レーベンも同じ前を向いたまま、それを聞いた。

 

「まさか、ここに残る気ですか」

「いや……」

 

 残る気は無かった。ここはいずれ戦場になる。己が残っていても邪魔にしかならない。だがレーベンはなかなか腰を上げられずにいた。女でもなければ健康体でもないため後回しにされていたのも理由の一つだが、それ以上に逃げる気が無かった。否、逃げる理由が無いのか。

 

「早ければ明日の朝にもドーラはやって来るそうです。その前にさっさと逃げて下さい」

「ドーラ?」

「例の巨大魔女のことです。そう呼ぶことになりました」

 

 ドーラという名はレーベンにも聞き覚えがある。

 曰く、この国で生まれた最初の魔女の名であるとされているが、根拠は無いのだという。どの史料にも英雄譚にもドーラという名は存在せず、ただ口伝えのみの噂話に等しい存在だ。わざわざそんな名前を付けるとは、いったい誰の意向だったのだろうか。少なくともヴュルガ騎士長ではないだろう。

 

「山のように巨大で、竜に似た魔女、だったか」

「そのようですね。誇張だと良いのですけれど」

 

 この二日間、難民に混じって過ごしていたレーベンでも断片的な情報は得ていた。

 アスピダ山脈から現れた巨大な魔女――ドーラは、常識外の存在である魔女の中にあって、更に常識を覆すような巨体を持つ。それは大木も遥かに通り越してもはや山に等しいなどと言われていたが、それは確かに誇張であることを祈りたくもなる。

 更には強力無比な遠距離攻撃まで行うことが可能で、いくつもの村と町が灰燼と帰したらしい。そして何よりも恐ろしいのは、敵はドーラだけではないということだ。

 

「魔女の数は百とも二百とも言われています。あれだけ捜してもいなかったのに、いったい何処に隠れていたのでしょうね?」

 

 皮肉まじりで嘆息しながらシスネは言う。そのどこか彼女らしくない態度は、隠しきれない動揺の表れなのかもしれない。

 それもそのはずだ。魔女の数も減った現在では、複数の魔女を同時に相手どる機会など殆ど無かった。そこに幾百もの魔女の群れである。例え国中の聖女と騎士を集めようと数の利を覆すことはできないだろう。

 そして大量の魔女が今まで何処に潜んでいたのか。レーベンは一つの仮説を立てていた。

 

「今思えば、あの頃にはもう始まっていたのかもしれないな」

 

 レーベンとシスネが強制的に組まされ、共に行うことになった初めての魔女狩り。あの頃には既に魔女狩りの依頼はひどく少なくなっていた。だというのに、カクトの廃鉱山で対峙したのは共喰魔女だ。しかもレーベン達をすぐには襲わずに隠れ潜むなど、魔女の性質に反するような奇行も目立った。

 森の奥の洞窟に閉じ込められていた魔女(ミルス)が突然に暴れ出したのも、無関係ではないのかもしれない。サハト村や他の場所で確認された多数の共喰魔女の存在も気になる。

 

「あの頃から、魔女は皆ドーラに引かれていたんじゃないか」

「アスピダ山脈にいたドーラの所に向かおうと、魔女が集まっていった」

「その途中で共喰いを始めて、数も減って」

「そして最後は皆、ドーラに喰われた」

 

 仮説が正しければ、ドーラは比類なき永命魔女であり、共喰魔女であり、そしておそらくは破戒魔女でもある。それだけの魔女を喰らっておいて、その中に破戒魔女が混ざっていないとは考えにくいのだから。

 黙って話を聞いていたシスネも「なるほど」と納得した様子だったが、補足するかのように口を開いた。

 

「案外、始まりはもっと早かったのかもしれませんよ」

「……あぁ、確かに」

 

 言われて思い出したが、シスネと初めて会った夜にも同じ場所に二体の魔女がいた。いつも通り一人で魔女を狩った後、岩陰で休んでいたところに彼女が転がり込んできたのだった。もしあれこそが始まりだったのだとすれば、運命か何かのような物すら感じてしまう。碌でもない運命ではあるが。

 シスネもそう考えたのか、吐息だけで笑うような声が聞こえる。レーベンもまた、かすかに笑ったと思う。

 

 

 

「村は……残念でしたね」

 

 ほんの少しだけ笑った後、ぽつりとシスネが呟く。元よりかすかでしかなかったレーベンの笑いは、残滓もなく消えて失せた。

 教国の中でもっとも辺境に位置したノール村。恵まれたとは言えない環境の、死が日常となっていた中でも逞しく生き、それでも温かい人々だった。家族を知らないレーベンでさえ不安になってしまう程の。

 そんな彼らだったから、一度は見捨てようとしたレーベンも足を止められたのだ。シスネの言葉に動かされたのだ。己で定めた生と死の一線を踏み越えて、破戒魔女を狩ったのだ。

 だが、それも結局は――。

 

「無駄ではありません」

 

 左目を向けても、シスネはただ前を向いていた。何かを睨みつけるように黒い瞳は光を放っている。

 

「無駄ではなかった」

「絶対に、ぜったい」

「無駄なんかじゃありませんから……っ」

 

 レーベンは一言も発してはいない。シスネもこちらを見てはいない。ならばそれは彼女の独り言で、それは自分に言い聞かせている言葉なのだろう。故にレーベンは何も言わず、ただ視線を前に戻した。

 およそ十五日。レーベンが破戒魔女を狩った日からノール村が滅んだ日までの日数だ。あの魔女を狩ろうと狩るまいと、きっとドーラは現れただろう。ならばその十五日間が、レーベンが身を捨てて得られた命の時間ということになる。

 その時間で、あの村の人々は何かを成せただろうか。それはもうレーベンには分からないことだ。ノール村だけでなくサハト村の人々も、その死後の安寧を祈るぐらいしか出来ることはなかった。

 

 

 

 会話は途切れ、ただ夕日だけが沈んでいく。正面から赤い光を浴びながら、レーベンは彼女が何をしに来たのか考えていた。

 既に装備を整えたシスネは今すぐにでも魔女狩りに向かえそうな様子だ。実際、ドーラと魔女の群れはすぐにでもやって来るかもしれない。こんな所で油を売っている暇は無いはずだ。

 

「……そろそろ行きますね」

 

 レーベンの内心を察したかのように立ち上がり、だが立ち去ることはせずレーベンの前に立つ。顔を上げれば黒い瞳がまっすぐと見据えてきた。

 

「これを」

 

 差し出されたのは白い封筒。促されるまま左手で受け取り、その意外な重さに思わず目を落とす。

 

「聖都では私の家を頼ってください。そうしてもらえるよう手紙に書いてあります」

「こんな状況なので、もう人でいっぱいかもしれませんけど……」

「まあ、追い出されはしないでしょう」

 

 ただそれだけの要件の手紙がここまで分厚くなるわけもない。ならば他の要件も多分に含まれているということだ。例えば、家族全員に対して手紙を書けばこんな厚さになるだろうか。

 

「それと……これも」

 

 徐に装束の襟元を開き、細い鎖を引っ張り出す。しゃらりと音を立てて現れたのは、二つの指輪。

 

「……」

「……」

 

 無言でシスネがそれを見つめ、レーベンも無言でそれを見つめる。その指輪の持ち主となるはずだった二人。彼と彼女のことを今語れるほど己はまだ現実を受け入れ切れていなかったらしい。おそらくはシスネもまた。

 受け取ろうと左手を出し、だがその前にシスネが体を傾ける。ふわりと、彼女らしい澄んだ香りが鼻先を掠め、首に回されていた華奢な両腕はすぐに離れていった。固まるレーベンの首に提げられた細い鎖。そこには二つの指輪と、

 

「これは、」

「今度こそ受け取ってくれますね?」

 

 小さな聖銀片。表に刻まれた教会の紋章と、裏に刻まれた彼女の名前。聖女証。それを渡すということはつまり――。

 だが言葉を発しようとしたレーベンの口は既に塞がれていた。シスネの白い手で。

 

「だめですよ。黙って受け取ってください……お願いだから」

 

 彼女と初めて会った夜、あの時もこんな風に口を塞がれた。彼女は忘れているのだろうが、レーベンは覚えている。シスネと共にした魔女狩りは、共に過ごした日々はすべて。

 

 

 

 離れていく手を掴む。レーベンが己の意思で彼女に触れるのは何度目で、いつ以来だっただろうか。細い手首を確と掴み留めても、シスネは何も言わなかった。

 

「最後に、ひとつだけ聞きたい」

 

 立ち上がり、己より少しだけ低い視線と目を合わせる。黒い瞳を左目だけで見つめても、シスネはもう何も言わなかった。ただ、苦笑に似た表情を浮かべただけだ。

 

「良いですよ、何でも答えます」

「言ったでしょう?」

「あなたの望むことなら、何でもすると」

 

 シスネの言う償いとはレーベンの中ではもう終わったものだったが、彼女はそうでもなかったらしい。どちらにせよ、これが最後なのだとレーベンは思っていた。

 

 

「あなたは、なぜ魔女を狩っているんだ」

 

 

 はじまりは聖女への憧れだと言っていた。医療者の家系に生まれ、また医療者を目指していた彼女は聖女に憧れを抱き、自ら教会の門を叩いたのだと。騎士レグルスと契りを交わし、聖都の中でも優秀な一組と評され、そして三年前にレグルスを介錯した。

 そこまでは良い。聖女に憧れを抱くことも、聖女が自らの騎士を介錯することも決して珍しいことではない。問題はその後だ。

“騎士殺し”の汚名を背負いながら魔女を狩っていたのは何故だ。もう聖性を扱えず、どの騎士とも契りを交わせず、一人で魔女を狩っていたのは何故だ。

 

 やめてしまえば良かったのだ。魔女狩りなど。

 

 生きたまま役目を降りる聖女などいくらでもいる。当然だ。誰だって死は恐ろしく、聖女に至っては死より恐ろしい結末すら待っている。賞賛こそされなくとも、誰も責めはしない。

 そして何もかも忘れて、パロットが言ったように時間に解決させて、また医療者の道を進めば良かったはずだ。あるいはウルラのように誰かに嫁ぎ、人並の幸せを掴めば良かったはずだ。

 何故なら彼女はもう聖性を使えない。もう聖女ではなかったのだから。

 

「簡単ですよ」

 

 シスネは、本当に簡単そうに答えてくれた。

 

「あなたと同じです」

「他に歩める道が無かったから、今さら医療者になれるとも思わなかったから」

「もう聖女でいる道しか無かったから」

 

 淡々と答える彼女の顔にはただ笑みだけがあった。それは自嘲であり、そしてレーベンを嘲笑うような笑みにも見えた。

 

「要するに、そう……ただの惰性です」

 

「本当ですよ?」と、首を傾げながらシスネは付け足した。

 レーベンはただ聞いていた。口を挟むことはなく、表情も変えずにただ聞いていた。だが忘れていたのは、シスネがレーベンの表情を何故か尽く見抜いてしまうということだ。

 

「失望しましたか?」

「もっと崇高で、健気で、綺麗な理由だとでも思いましたか?」

「残念でしたね、私はあなたが思っているような女ではなかったのですよ」

 

 失望。

 失望だったのだろうか。レーベンの内に湧いていた感情は。確かにそれもあったとは思う。だがそれだけだったのだろうか。

 シスネはわらっていた。まるでレーベンに失望されたことが面白くて仕方ないとでも言うように。白い手に隠された口許は喜悦に歪んでいるようにすら見える。

 彼女がそんなわらい方をすることは確かに、そう……意外だった。

 

「……あぁ、でもそうですね」

 

 ひとしきりわらった後で、シスネは自分の白髪を撫でた。腰まで伸ばされた真っ白な髪を。

 

「未練、もあったかもしれません」

「魔女を狩っていれば、いつかまた聖性が扱えるようになるかもしれない」

「今度こそ、良い聖女になれるかもしれない、なんて……」

 

“白髪の聖女は良い聖女となる”

 レーベンにとってシスネの象徴だったその長い白髪は、彼女にとっては未練の象徴だったのだ。

 

「でも……それも終わりのようですね」

 

 ふと力が抜けたようにシスネが呟く。その顔から笑みは消え、どこか憂いを帯びた無表情――シスネらしい表情へと戻った。

 

「もう全部、お終いなのかもしれません」

「……そうだな」

 

 現実を直視すれば、それはまさに絶望的だ。

 災厄そのものと言って良い巨大魔女ドーラと、幾百の魔女の群れ。勝ち目があるのか無いのかも分からないような、まさに前代未聞の戦い。その嵐の中でシスネが生き残る保証など何ひとつ無く、それどころかポエニスが、聖都が、カエルム教国そのものが滅ぶことも充分にあり得るだろう。

 レーベンもシスネも教国を出たことは無い。この小さな国が世界の全てだ。その世界はもう明日にでも滅ぶのかもしれない。

 世界の終末。それはあっけなく眼前へと迫っていた。

 

 

 

「もう、いいですか?」

 

 平坦な口調でシスネは言い、レーベンは無言でその手を放した。思いのほか強く掴んでしまっていたのか、彼女は胸元で自分の手首を撫でる。それは祈りの姿勢にも見えた。

 

「大嫌いでしたよ。あなたのこと」

 

 嫌いだと、そう言われたのは何度目だっただろうか。いつも通りの表情で、いつも通りの口調で、いつも通りのシスネは最後にそう言って、踵を返した。

 レーベンはただ黙っていた。無言で、表情も変えず、シスネに表情を見抜かれたのかも分からないまま。夕日の中を歩いていくシスネの背中を、ただ見ていた。

 彼女は、一度も振り返らなかった。

 

 

 ◆

 

 

 日が沈み、夜が訪れる。本来、旧聖都であるポエニスは夜であろうと完全に眠ることはなく、少なくない店や家々には灯りが絶えることはなかった。

 だが今やレーベンの周りは闇に閉ざされている。大通りに人影は無く、どの建物も窓は暗いままだ。まるでポエニスが一足先に滅んでしまったかのような静寂。

 

 

 

 静寂のまま夜は更け、月が大きくその位置を変えた頃。

 レーベンは立ち上がった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

終わりの前夜

 

 ドーラの南進と、それに伴う被害は続いていた。偵察隊から送られてくる情報によれば、ドーラと魔女の群れは既にポエニスの眼前まで迫っている。このままであれば夜が明けるか明けないか、そんな時分には目視で確認できる距離まで近付いてくるだろう。

 もっとも、ドーラ自体が常軌を逸した巨体を有している上に、その「砲撃」は遥か遠くまで届くというのだから、目視できるか否かはそれほど重要ではないのかもしれないが。

 

「レヒト、ドロワ、デクシアの町の被害は甚大。生存者は五割もいないかと」

「例の砲撃か。悪夢のようだな」

「幸い、砲撃後に群れは素通りしたようです。聖都に避難するよりは、そのまま待機させるべきでしょう」

「近隣のリンク村と、ゴーシュの町は無事です。難民はそちらに誘導するよう指示を出しました」

「砲撃を受けた町と受けなかった町の違いは何だ? 進路に近いというわけでもなさそうだが」

「気になるのは分かりますが、もう時間が無い。ここで迎え撃つほかありませんよ」

 

 教会の本棟、その一階の会議室には昼夜を問わず情報が集まり、それらが矢継ぎ早に捌かれ続けていた。大きな机の上には教国の地図が広げられ、ドーラの位置を示す黒い石がポエニスからそう遠くない位置に置かれている。教国内の町や村の情報を示した資料が積み上げられ、様々な事柄が走り書きされた紙が針で留められているが、一部は床にまで散乱していた。

 机を囲む上位職員たちの顔には疲労の色が濃い。皆が決して若い年齢とは言えず、もう既に三日ほどはこの部屋から碌に出られていないのだ。倒れた者もいるが、いつまでも医療棟に寝かせているわけにもいかない。何せ命がかかっているのだから必死にもなる。

 唯一、表情を変えていないのは机の一角に腰掛ける男ぐらいなものだ。

 人間離れした巨躯は重厚な鎧を纏い、兜だけは傍らに置かれている。髪を剃り落とされた禿頭には巌のような強面が刻まれ、そこからは何の感情も読み取ることができない。火色の眼光はどこまでも冷たく、広げられた地図を見据えていた。

 

「ヴュルガ騎士長」

 

 会議室に入ってきた職員がまっすぐ男――ヴュルガの元に歩み寄り、何かを言った。それが漏れ聞こえていた幾人かの上位職員たちは眉を顰め、ある者は口を引きつらせる。程なくして部屋の扉が再び開かれ、室内の空気が変質した。

 

「こんばんわ、皆さん」

 

 夜の冷気にも似た、涼やかな声だった。

 キリキリと車輪が鳴る音と共に現れたのは、長い白髪を持つ異形の女。左半身を削ぎ落とされた体を車椅子に乗せ、年齢不詳の美貌も左半分は醜く爛れている。

 イグリット聖女長。聖都から招かれた聖女たちの長が、遂にポエニスへと到着した。

 

「状況は概ね存じております。明日の朝、皆でドーラを狩るのでしょう?」

 

 歌うような声で、遊興を楽しみにした少女のような口調で女は言った。自らが名付けた魔女を狩ると。

 遠目には美しい乙女のようにも見える右側の微笑と、遠目でも醜い左側の凶笑。それらが織りなした怪相に、幾人かの上位職員は目を逸らした。吐き気を催したのか、口元を押さえている者すらいる。

 氷色の瞳でそれを見たのか見ていないのか、どちらにせよ何が可笑しいのか、ころころと歪な声で笑いながら机の一角に着く。そこに座っていた職員は自ら椅子を持って場所を空けた。畏敬ではなく、忌避に近い動きであった。

 

巨大(おお)きな魔女に、魔女の群れ。そしてこちらも聖女と騎士の軍勢ですか。――ふ、ふふ」

 

 気が触れたような笑いに周囲がざわめく前に、薄暗かった室内が光に満たされた。

 青白い炎にも似た輝き。それは聖性の光に他ならず、それを発することが出来るのは聖女のみ。そして今この場にいる聖女は唯一人しかいない。

 

嗚呼(ああ)……まるで、はじまりの彼らの戦いそのものです」

「女神よ。名無き女神よ、今こそ感謝を捧げます」

(わたくし)もひとつの聖女として、この戦に全霊を注ぐとしましょう」

 

 氷色の瞳を爛々と輝かせながら聖女たちの長は冷たく涼やかな声で、だが高らかに歌いあげた。彼女の歪な痩身は燃えあがるように聖性の光を放ち続ける。

 この気狂いのような女が長年に渡って聖女長の座にあり続け、そして今この場に招かれたことには理由がある。それがこの室内を満たすような聖性の光。その桁外れの強さだ。

 聖女としての技量、つまりは聖性の扱いの巧さには個人差があるが、それは先天的な感覚によるところが大きい。それこそが聖女の資質であり、その点においてイグリットは正真正銘の天才(かいぶつ)であった。

 つまるところ、彼女は最高の戦力として招かれたのだ。この教国の存亡をかけた戦いに確実に勝利する為の切り札――「英雄」の一人として。

 

「無論、貴方もですよヴュルガ。久方ぶりに(くつわ)を並べようではありませんか」

「……」

 

 熱を孕んだ言葉と視線を向けられても、ヴュルガは表情を変えない。

 もう一人の「英雄」はただ黙したまま、常と変わらない無感情な視線を虚空に向けていた。

 

 

 ◇

 

 

「――っ」

「シスネ? どうしたの?」

「ぇ、あぁ、ごめんなさい」

 

 突然に背を駆けあがった悪寒に体を震わせたシスネは、傍らの聖女の言葉に頭を振った。根を詰め過ぎたのかもしれない。

 

「そう、そこの穴から弾を込めて。十発入るから」

「こう?」

「弾の向きに気を付けてね。入れたらこのレバーを――」

 

 シスネは他の聖女たちに長銃の扱いを教えていた。本来、聖女が銃を用いて積極的に魔女と戦うことは少ない。その為、せいぜい短銃の扱い方しか知らない者も多かったのだが、今はもうそのような事は言っていられなかった。

 

「練習する時は弾を抜いて。本当は試し撃ちもしたいけど……」

「弾を無駄にする訳にはいかないからね。ありがとう、あとは自分でやるから」

「ええ、しっかりねキャナリー。オーカ、弾込めはできた? クトレトラは大丈夫?」

 

 危なっかしい手付きで長銃を持つ聖女に助言しながら、必要最低限のことだけ教えていく。あともう数時間ほどで戦いは始まるかもしれないのだ。あれこれと教えても混乱の元でしかない。

 そんなシスネの姿を見て、聖女の一人がくすりと笑いを零した。

 

「すごいよねシスネは。先生みたい」

「分かる。銃の扱いも上手いしね」

「そうそう、あの鍛錬棟の時とか本当にかっこよかったんだから!」

「え、ちょっと、あの……」

 

 きゃあきゃあと場違いなほど姦しい声をあげ始める聖女たちに困惑していると、彼女らは更に高揚したのか、思い出したくない話まで持ち出してくる。

 

「“フッ……まあこんなものです。あんな的、止まって見えますよ”」

「私そんなこと言ってない……」

「“何度でもやってみせますよ。まあ、あなたには出来ないでしょうけど”」

「言ってないから! もう!」

 

 やたらと気取った声と仕草で自分の真似らしいことをやり始める聖女たちにシスネは憤慨した。昔からすぐに赤くなってしまう顔は今も熱を持っていて、それが余計に恥ずかしい。だいたい、そんな気障(きざ)な台詞を自分なんかが言ったはずも無いのだ。……いや、似たようなことは言ってしまっただろうか?

 

「あーもーほんとシスネ可愛い」

「わぶっ」

 

 その内に頭をかき抱かれて胸元に埋められる。その間にも何本かの手が、犬でも撫でるようにシスネの白髪をもみくちゃにしていた。こんな時にもう少し緊張感を持てないのだろうか。本当にこの人たちは!

 

「――カーリヤなら、きっとこうしたかな」

「……っ」

 

 シスネを抱く聖女の囁きは、この場の全員に届いていた。そして皆に慕われていた彼女の死も、皆が既に知っていたことだ。カーリヤだけではない。ドーラによって奪われた他の聖女たちも。

 

「……、あー言ってた言ってた。とりあえず、ぎゅーってすればそれで安心するって」

「……、私もされたことあるわよ。なんかもう、すごかった!」

 

 ようやく解放されたシスネが見た彼女らの表情は笑顔だった。笑顔で、カーリヤの思い出を語っている。

 

「あれは反則だと思うのよ私。うちの騎士(やつ)もよく鼻の下伸ばしてたわ」

「わかるー」

「どうせなら一回揉んでおけばよかった」

 

 それが空元気による強がりだということが分からないシスネではない。それだけカーリヤは慕われた良き聖女で、そして今の状況は絶望に等しいのだから。

 

「まあとりあえずアレね。明日の仕事が終わったら皆で集合ね」

「お店どこにしようか。いつもの所でいい?」

賛成(さんせー)

騎士(おとこ)は抜きでよろしく」

「もちろん、シスネもね」

「え……っ」

 

 突然に向けられた視線に、シスネは胸元を探った。そこにあった聖女証の感触はもう無い。今日の夕方、「彼」に渡してしまったから。あの二人の指輪と、家族全員へ宛てた遺書と共に。

 この戦いから生きて帰られるとは、思っていなかったから。

 

「生き残ろう。みんなで」

 

 円になった聖女たちが手を重ねる。そして皆が最後の一人を待っていた。シスネを。

 

「――……」

 

 三年前、レグルスを介錯した日から殆ど他人と関わることは無かった。常に一人で過ごして、一人で魔女を狩っていた。それが“騎士殺し”と蔑まれる自分には当然だと思っていたから。

 でもそれは本当に、シスネが蔑まれていたからだったのだろうか。

 そんなこともあったと姉は言っていた。でもそれは最初だけだとも言っていた。もう三年も経ったのだと。気にしすぎなのだと。

 カーリヤとライアーはあんな事があったというのに、長い時間をかけて和解した。そして遂には将来を共にするところまで仲を深められた。

 もう二度と帰れないと思っていた家族は何の変わりもなく受け入れてくれた。もう合わせる顔が無いと思っていた聖女たちもこうして受け入れてくれている。

 本当は、聖都の人たちもシスネを拒絶なんてしていなかったのではないか。いたとしても、それは全員だったのか。それは今もそうだったのか。

 エイビスにはまだ許してもらえていない。だけどシスネは一度でもあの子に謝っただろうか。ちゃんと話をしただろうか。

 三年間、ずっと。

 

『あなたも、あのエイビスという騎士と和解できる日が来るかもしれないと……そう言いたかった』

 

 拒絶していたのは、シスネの方ではなかったのか。

 でももう、今更そんなこと……。

 

 

 

「ちょっとシスネー、空気読もうよー」

「せっかくカッコよく決めてたのに」

「罰として脇腹揉むから」

「――待って! ごめん、ごめんなさいっ!」

 

 思考と追憶に耽っていたシスネの意識は、脅迫そのものの言葉で現実に叩き戻された。シスネの弱点もこの場の皆が知ってしまっている。……主にカーリヤのせいで。

 慌てて皆の手に手を重ねる。こうしていると、聖女たちの顔がよく見えた。みんな、青褪めた顔に貼りつけたような笑みを浮かべている。不格好な、強がりの笑顔を。

 

「「「女神の導きのあらんことを」」」

 

 シスネの周りは綺麗な人たちばかりだ。強くて、弱くても強くて、心の綺麗な人たちばかり。

 穢いのはシスネだけ。いつだってシスネだけだ。

 

「……女神の導きの、あらんことを」

 

 こんな穢いシスネには、もったいない人たちばかりだった。

 

 

 ※

 

 

 男はうんざりしていた。

 もう真夜中だというのに仕事は一向に片付く気配が見えない。本棟の地下倉庫からあらゆる武器と弾薬を持ち出し、それを担いで周壁まで運ぶ。もちろん自分の足でだ。男はまだ若者と言って良い年頃ではあったが騎士でも警備職員でもなく、肉体を鍛える趣味があったわけでもない。その為、運動にも肉体労働にも不慣れな体は既に悲鳴をあげていた。

 

「弾薬はこっちだ! 炸裂弾も! ……おい危ねえぞっ!」

「くそ、誰だこんなもの置いたやつは!」

「何なんだこのガラクタは……、技術棟の変態共め」

「据え付けしっかりやれよ! 反動で吹っ飛ぶぞ!」

「おい誰か聖女を見なかったか、部品が欠けちまった!」

 

 もう休んで寝てしまいたいが、それを周囲と状況は許してくれそうもない。飛び交う怒号と喧噪、あれだけ忌々しかった地下倉庫の静寂が懐かしくすら感じてしまう。もう二日前……いや三日前だったか? それからずっとこんな状態だ。碌な物も食べていないし、寝台でも寝られていない。

 重く深いため息をつきながら、男はもう何度目になるかも分からない階段を下りはじめた。少しでも気を抜けば転げ落ちてしまいそうだ。

 

「ねーお嬢、そろそろ行きません? いつになったら震えが止まるんですー?」

「ふ震えていないと、いい言っているだろうがっ!」

「じゃー早く立ってくださいよー」

 

 途中、通路の奥まった場所で変な二人組を見かけた。やたらと背の高い女は装束からして聖女のようだが、そうなると傍らで蹲っているのは騎士なのだろうか? それにしては随分と小柄な上に、しかも女の声だった。男が知る限り、ポエニスに女の騎士はいない。

 今回の作戦では、国中の聖女と騎士はその全てが動員されることになっている。ポエニス所属の者はもちろん、未だ無事な町に常駐していた者も、聖都の者達もだ。中には既に役目を降りていた聖女や騎士すら志願しているという話もある。ならばあの二人は、他の町か聖都から来たのだろう。適当に予想して男は再び歩き出した。どの道、自分などにはあまり関係のないことだ。

 

「こんな日も鍛錬するの? 今日ぐらい休んだ方が」

「やらせてくれよ。その方が落ち着く」

「長銃なんて初めて持ちました……。たしか、このレバーを引けば、」

「おい銃口をこっちに向けるな!」

「聖女長が来ているって本当なのか? 最後に一度お会いしてみるか」

「やめておけ。その……想像とは違うと思うぞ」

 

 作戦の要となるのは当然、聖女と騎士たちだ。男も知っているポエニス騎士に、知らない騎士も大勢いた。だがさっきの小柄な女騎士といい、おそらく聖都から来た騎士といい、やたらと細身な者が多い。充分に鍛えられてはいるのだろうが、過剰な程に筋骨隆々な者の多いポエニス騎士に比べればどうしても体格だけは見劣りするのだ。

 いや、一人だけいたか。中肉中背の、騎士としては小柄で、やたらと大量の武器と薬物を要求してきては男の仕事ばかり増やす、あの忌々しい……、

 

「ファイサン」

 

 いきなり呼ばれた自分の名前に男――ファイサンは驚いた猫のように飛び上がった。今は手ぶらだったから良いものの、もし炸裂弾でも抱えている時だったらと思うとゾッとしない。

 通路の暗がりに声の主はいた。黒い髪の、特徴に欠ける顔立ちの若い男。これまた特徴のない平服に黒いボロ布のような外套を羽織り、そのせいで暗闇にとけ込むように佇んでいる。

 彼を、ファイサンはよく知っていた。

 

「武器をくれ。あと炸裂弾と焼夷弾、薬もありったけ」

 

 よく知っていたが、今の彼はファイサンの知る騎士とはまるで違っていた。

 暗がりから出てきた彼の顔には、酷い裂傷が刻まれていたのだ。右目を完全に抉っているそれは右耳まで続いている。よく見れば、右袖にも中身が無いではないか。

 

「固いことを言うな」

 

 死にぞこないの亡者か、動き出した屍か。そんな姿になって戻ってきた元騎士は、再びファイサンの平穏を奪おうとしていた。

 

「俺とあんたの仲だろう。なあ?」

 

 ファイサンは気が遠くなる思いで溜息をつく。もう、うんざりだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ポエニスの烽火

 

 ポエニスは朝を迎えようとしていた。

 夜更けまで慌ただしく動いていた者たちも夜明け前にはようやく準備を終え、その後は皆がじっとその時を待っていた。

 ある者は周壁の上でまんじりともせず北を睨み続け、ある者は武器も抱えたまま死んだように眠る。またある者は自室で何かを綴り、またある者は一人静かに酒を傾けていた。

 聖女も騎士も、教会に属する者もそうでない者も皆、その時を待っていた。月は何事もないかのように寸分の狂いもなく沈み、夜明け前のもっとも空が昏くなる時、ついにそれは現れる。

 

「――来た」

 

 聖女か、騎士か、そのどちらでもなかったか。誰かが呟いた一言は音もなく教会中へと伝播し、もはや声もなく皆がただ持ち場へと急ぐ。皆が皆、顔に死相を浮かべながら。

 

 

 

 最初にはただ暗闇だけがあった。ポエニスの北に広がるナダ平原。昏い空の下、そこには何の影も見えはしなかった。周壁の上に陣取る者たちにも、周壁の外に陣取る者たちにも見えてはいなかった。

 見えてはいなかったのだ。だが聞こえてはいた。

 

 ■■■■■■━━━━

 

 まるで「ここにいる」と。そう報せているかのような声と共に太陽が顔を出し始める。

 

「来たぞ」

「あぁ、来た」

 

 誰かの呟きに誰かが返し、ポエニスが朝日に照らされ始める。

 

「来る、来るよ」

「もう来ている」

 

 ポエニスの北に聳える黒の小山。だが旧聖都の北側に山など存在しない。

 

「来る……来たぞ」

「来た! 見えたぞ!」

「あれが……ドーラ!」

 

 山としか言い様のない絶望的な巨体。いったいどれほどの年月を経れば、あれだけの永命魔女が生まれるのか。いったいどれほどの魔女を喰らえば、あれだけの共喰魔女が生まれるのか。

 竜に似ているとされた姿。なるほど確かに、割れたような咢を持つ頭部と長い首、巨体を地響かせる二本の前脚は御伽噺に登場する竜にも見えるだろうか。だが見る程にその異形は竜という恐ろしくも美しい空想種とは似ても似つかなかった。作りかけの粘土細工か、あるいは竜の粘土細工を無遠慮に捏ねまわしたような出来損ない。竜のような、竜ではないモノ。

 あれは、そう。魔女なのだから。

 

 ■■■■■■■■━━━━━━

 

 (そうだ)とでも応えたようにドーラが吼える。無数の獣と鳥と虫の鳴き声を混ぜ合わせ、雷鳴と地鳴りと嵐の風音を足し、最後に幾百人もの断末魔を加えればこのような声になるかもしれない。そしてその声に応えるように、ドーラの足元で蠢く異形たちも口々に叫び始めた。

 

『嬉しい! あぁ、ありがとう!』

『許さない、許さない、助けないから』

『やめて、どうしてそんなことを』

『あは、あはは! あは!』

 

 ある者は喜び、ある者は怒り、ある者は哀しみ、ある者は楽しそうに笑いながら。獣のような、虫のような、鳥のような、人のような姿の異形たちが。幾百の魔女たちが押し寄せてくる。

 

「あぁ……っ」

 

 誰かが漏らした小さな声。この上なく戦意を削ぐその声を咎める者はいない。誰もが内心では同じ心境だったのだから。

 どちらかなら良かったのだ。巨大魔女か、魔女の群れか、そのどちらかなら。ドーラだけだったならば皆で一気呵成に攻めかかれば狩れたかもしれない。魔女の群れだけだったならば、こちらも数を揃えれば押し返せたかもしれない。だが目の前にいるのは両方だ。

 ドーラに注力すれば周囲の魔女たちに押し潰されるだろう。だがドーラを無視すれば何をしてくるのか分かったものではない。両方を相手にしなければならないのだ。あの未知の巨大魔女と、平原を埋め尽くすような魔女の群れを。

 自分たちにそれが出来るというのか。だが出来なければ死ぬ。自分たちも他の者たちも皆死ぬ。退路は無い。逃げることもそのまま死を意味する。だが戦おうとそれは同じではないのか。

 往くも死。退くも死。どちらにせよ、今日ここで死ぬというのなら――!

 

「総員、配置につけ」

 

 皆が一通り絶望し、それが自棄に似た覚悟へと変質した時、感情の無い声が響き渡る。大声を張り上げている訳でもないというのにはっきりと聞こえたその声の主は、周壁の外に佇んでいた。

 規格化された鎧の中でも最大級の重甲冑。纏う者の巨躯に合わせて作られたそれは大きく分厚く、まるで御伽噺の動く石像(ゴーレム)彷徨う鎧(リビングアーマー)のよう。兜に揺れる真紅の飾り房と同色の外套は象徴性故ではなく、ただ指揮者を判別させる為の物。だがそのような物など無くとも、その騎士の姿は戦場でも目を離せない程の威容を誇っていた。

 巨躯の騎士――ヴュルガ騎士長の静かな号令に従い、震え固まっていた者たちも動き始める。事前に決められていた配置、つまり騎士長は平原の中へ、騎士たちは騎士長の後ろに、聖女たちは自らの騎士の傍へと並んだ。

 ドーラは未だ遠くにいる。その巨大さから遠近感が狂いそうになるが、ポエニスの周壁からおよそ千歩は離れている。そのちょうど中間の位置に聖女と騎士たちは陣取っていた。

 彼らの作戦を知らぬ者には、それが自殺行為にしか見えなかっただろう。あの場にいるのは約百五十組。この戦いに参加した全ての聖女と騎士たちだ。ただ一人あの場にいない例外がいたが、それに気付いた者はいない。

 どちらにせよ、何の障害物も無い平原に並ぶ彼らはいずれ魔女たちに飲みこまれるのみ。魔女の群れの方が数は多く、そしてドーラを相手にすれば言うまでも無い。

 だが当然、彼らも騎士長もただそこで散ろうとしたわけではなかった。

 

「聖性を放て」

 

 騎士長の号令。同時に立ち上る青白い炎に似た輝き。聖女を伴っていないように見える騎士長の体からもそれは発せられた。それを疑問に思う間もなく、聖女たちが掌を自らの騎士へと向け聖性を放つ。並ぶ騎士たちの体と鎧が青白く輝き、朝焼けに照らされた平原の中で幻想的なまでの光景が浮かび上がる。

 周壁の上に並ぶ者たち――警備職員や技術者、指揮を執る上位職員たちも一時は状況を忘れ、その光に見入っていた。黒い魔女の群れに立ち向かう、輝く銀の騎士たち。それは一枚の絵のようですらあったのだから。

 だがそれを見ていたのは人だけではなかった。

 

 ━━■■━━■■■■■■━━━━━━

 

 ドーラの咆哮。そして変異。融け落ちたように開かれる咢から伸びる、どこまでも長大な筒。砲身。わずか五日間でカエルム教国の約三割の町と村を灰にした「砲撃」が今まさに放たれようとしていた。

 

「動くな」

 

 騎士長の号令。あの天災の如き攻撃を前にして待機を命じる声に逆らう者はいない。心身の髄まで刻み込まれた騎士長への恐怖と、一つでもしくじれば皆が死ぬのだという恐怖によって。

 ドーラの砲身が発火する。青白い光は間違いなく聖性の輝きであり、それはドーラが破戒魔女でもあるという証左であった。いかなる原理によるものか、あの砲身に滾る聖性によって砲撃は放たれるのだ。

 

「動くな」

 

 騎士長の声は揺るがない。自らが最前列へと立ち、今この国でもっとも死に近い場所にいるとは思えない無感情な声で。

 ドーラの砲身が傾く。水平ではなく仰角を上げるように。放物線を描く砲弾が、ちょうど騎士たちの中心を捉えるように。

 

「動くな」

 

 騎士長の声。

 ドーラの砲撃。

 朝焼けの空を青白く染めるほどの閃光と、数秒遅れて響く轟音。飛来する影。

 

「――散開!」

 

 初めて騎士長が叫ぶ。轟音の中でも響く大音声と同時、騎士たちは皆が自身の聖女を抱えて駆け出した。四方へと散り散りに。

 走る騎士の一人には、その飛来する何かが見えていた。銃弾をそのまま巨大化させたような骨の塊。周りにこびり付いた黒い泥は青白く輝き、最後の聖性を滾らせている。極限状態の集中が見せる停滞した視界は解け、骨の砲弾が遂に着弾した。

 

「――――!」

 

 閃光。振動。轟音。衝撃。一緒くたになって襲い掛かってきたそれらは騎士と抱きかかえていた聖女をも飲みこみ、嵐に吹かれた枯れ葉のように吹き飛ばす。冗談のような浮遊感はすぐに悪い冗談のような衝撃へと変わり、平原の地面をゴロゴロと転がり、一瞬遅れて吹き付けてきた土煙が追い打ちをかけてから、ようやく二人は止まった。

 

 

 ※

 

 

「……お嬢、生きてます……?」

「…………たぶん」

「はいはい、ちゃんと生きてますよっと……あいたた」

 

 半ば土砂に埋もれていた長身の聖女――シグエナが同じく埋もれた女騎士――エイビスを引っ張り起こす。だが鎧が重いせいで上手く立てないらしい未熟な騎士に対し、頭を撫でるようにして聖性を流してやった。

 

「あーひどい目に遭った。ちびりました? 絶対ちびったでしょ、お嬢」

「うるさい、貴殿もさっさと立て!」

「あ、否定はしないんですね」

 

 無言で足を蹴ってくる騎士に落ちていた槍を手渡してから、ようやく周囲を見回す。朦々と立ち込める土煙が風に流され、否応なしにその光景を見せつけてきた。

 

「うわぁ……」

 

 元より何も無い平原ではあったが、それでもここまでではなかった筈だ。ズルリと皮を剥がれたような剥きだしの地面だけが広がっている。これがドーラの砲撃。それもただ一発でだ。

 

「すんごいですね、ねーお嬢」

「……」

「お嬢ー?」

「……」

「戻ってこないとお尻なでちゃいますよー。もう撫でてますけど」

「……」

 

 重症だ。

 無理もないだろう。この娘はやっと見習いを脱したばかりの未熟者。魔女と直に対峙したこともなかったというのに、初めての魔女狩りがこれだ。段階も何もあったものではない。だからこうして呆然と立ち尽くすしかないのだ。

 

 ――まあ、だいぶ無茶な作戦ではあったけど

 

 ドーラが現れてからの数日で集められた情報。そこから導き出されたのは、「ドーラは聖性に反応して砲撃を行っている」という仮説だった。

 ドーラがここに到るまでに砲撃した町や村の唯一の共通点、それが聖女と騎士の有無。元より魔女には聖女を優先して狙うという習性があり、その点からも信憑性の高い説であった。

 そしてもう一点、「砲撃は二射目から威力が大幅に落ちる」ということ。これもまた灰燼と帰した町や村の被害状況を調べた末に立てられた仮説だ。魔女は常識外の存在ではあるが、それでも血肉を持った歪な生命体であることは変わらない。いかに巨大な魔女であれ、あれ程に強力な攻撃を短時間にそう何度も放つことは出来ないということだろう。

 故にこの作戦は立てられ、そして今まさに実行された。つまりは全ての聖女と騎士を囮にし、ナダ平原の真ん中に砲撃を放たせた。本格的な戦闘を前に無駄撃ちを誘い、ポエニスへの被害を最小限に留める為に。

 

「……おい、どこを触っている!」

「あ、起きた起きた」

 

 兜の奥から睨み上げてくる青い目に笑い返しながら、シグエナはさりげなく自身の体でエイビスの視界を塞ぐ。

 理に適った作戦ではあっただろう。ごく短時間に立てられた作戦であることを考えれば成果は上々だっただろう。だが当然すべてが上手くいく筈も無かった。

 視界の端に映っているだけで、動かない聖女か騎士の人影がいくつも見える。気を失っているだけかもしれないが、そもそも影すら見えなくなってしまった者もいるだろう。自分たちは運が良かった。偶々(たまたま)、砲撃の着弾点から離れた位置に立っていただけ。本当にただそれだけの偶然だ。

 

 ――文句を言っている場合じゃないか

 

 何にせよ生き残った。どのみち他に方法など無かった。無傷で勝てる相手などではない。ここで犠牲を出さなければ、砲撃されていたのはポエニスの方だ。そうなればそれだけで終わっていた。それだけは避けなければならなかった。

 そう、戦いはまだ始まったばかりなのだから。

 

「はいはいお嬢、お仕事の時間ですよー。早くおぶってくださいよー」

「くそ、わたしは馬じゃないんだぞっ」

 

 他の生き残りたちも同じように騎士が聖女を抱えながらポエニスへと戻っていく。体格差がまるで真逆のシグエナたちもなんとかそれに合流できた。

 

「あぁ重い! すこしは痩せないかまったく!」

「……言いますねえ、後ろから撃たれても知りませんよ」

「ほざけ!」

 

 この娘も思っていたよりは図太かったらしい。エイビスには見えないように微笑みながら、シグエナは改めて聖性を流す。

 目指す周壁の上では既に次の作戦が動きだそうとしていた。

 

 

 ※

 

 

「聖性の気配が九、いえ十人消えました。思っていたよりも少なかったですね」

 

 誰よりも砲撃の着弾点の近くにいたにも関わらず無傷な上、誰よりも早くポエニスに戻っていたヴュルガは耳元に涼やかな声を聞いた。

 声の主は自身の聖女――イグリットであり、その聖女は今ヴュルガの背中に括りつけられている。背負ったままの得物と並ぶ(はこ)、棺と呼ぶには小さなそれの中に納められているのだ。二人で共に魔女狩りにある際は常にこの姿。もう随分と昔からそうだった。

 

「――騎士ポジト、聖女プルス、騎士ネオ、聖女――」

「貴方たちに女神の導きのあらんことを」

 

 今の砲撃で逃げ遅れた聖女と騎士たちの名を口遊み、イグリットは最後に聖句で締めくくった。視界を完全に塞がれ、聖性の気配だけで個人を判別するなどもはや人外の所業と呼んでも良い。それが聖性という半ば超常の域にある(わざ)であってもだ。

 だがそれも今はどうでも良いこと。損耗は十組。ただそれだけの情報を脳に刻みながらヴュルガは次の号令を発した。

 

「銃撃準備」

 

 

 

「出番だぞ! 並べ並べ!」

「おいまだ上がってない奴がいるぞ! ロープあるか!?」

「駄目だ! 門を開けてやれ!」

「来るぞ! はやく構えろ!」

 

 最初の役目を終えた騎士たちが聖女を抱えながら周壁の上まで飛び上がり、駆け上がってくる。それと入れ違うようにして警備職員たちを主とした銃隊が周壁に並んだ。中には負傷したのか周壁の下に取り残された者たちもいるが、その全てを助け出すことは難しい。魔女の群れはもう、すぐそこまで迫ってきていたのだから。

 

「くそ……っ、駄目か」

「せめて撃ってやろう。俺がやる」

「いや……。たぶん自決した」

 

 瀕死なのかあるいは既に死んでいたのか、騎士の体を引きずっていた聖女が突然に倒れ伏す。おそらくは自決道具を使ったのだ。そしてすぐに黒波のような魔女の群れに騎士もろとも飲みこまれていった。あの聖女の判断は正しかったのだろう。

 

「引きつけろ。まだ撃つな」

 

 そんな光景を見ていたにも関わらず騎士長の声は揺るがない。何の感情も無いようなその声は銃隊の士気を上げはしなかったが、代わりに音もなく水に沈んでいくかのような集中を齎してくれた。自分たちは只の歯車であり、ただ命令に従っていれば良い。手に持つ多種多様な銃器と同じものなのだと思い込むことができたのだ。

 

「まだ撃つな」

 

 平原が魔女に埋め尽くされていく。ぬらぬらとした黒い泥が沼のように広がってくる。カチカチと、引き金が震える音か歯の鳴る音が何人分も響いた。それでもまだ騎士長は号令を出してくれない。

 

「まだ撃つな」

 

 それは奇しくもつい先刻に騎士たちへと命じた号令に似ていたが、それに気付く者はいない。ただ彼らもまた皆が恐れる騎士長の声を待っていた。

 

『来て、こっちに来て』

『行くよ、いま行くよ』

『来ないで、来ないで』

『駄目よ、絶対に許さない』

 

 歪な声の、意味不明な言葉の羅列。教国の民なら皆が心の奥底に刻まれている魔女への嫌悪と恐怖をかき立てる声の波が聞こえてくる。それほど魔女はすぐそこまで迫っている。もうすぐそこに、今にもこの周壁を這いあがって、自分の目の前に躍り出てきそうな程に!

 

「撃て」

 

 銃隊の恐怖が理性を超えるのと、魔女の群れが有効射程に入るのとはほぼ同時だった。騎士長の号令に従った者もそうでない者も皆が引き金を弾き、周壁に並んだ彼らの武器が遂に堰を切った。

 銃声。銃声。銃声。絶え間なく響く雨音のように銃声が連なり、そして放たれた銃弾が文字通り雨のように魔女たちへと降り注いだ。ポエニスの武器庫に保管されていた物から聖都より取り寄せた物まで、実用化前の最新型から骨董品のような旧型まで。この国に現存するほぼ全ての銃がかき集められ、それらが一斉に火を噴いたのだ。

 

「撃て! 撃ちまくれ!」

「狙うんじゃない! とにかく撃てぇ!」

「弾だ! 弾を持ってこい! もっと!」

「やった! 当たったぞ!」

「ははっ! ま、魔女め! ぶぶぶっ殺してやるぇ!」

 

 魔女に対する恐怖が裏返り、更に銃声と硝煙の臭いが彼らを獣へと変えていた。皆が皆、恐怖と歓喜に顔を引きつらせながら血走った目を魔女たちへと向け、手にした銃を眼下へと向ける。撃たなければ死ぬ。殺さなければ殺される。誰もが死にたくはなく、誰もが魔女を恐れそして憎んでいる。ならば今ここで引き金を弾き続けることに何の躊躇いが要るというのか。死ね。死んでしまえ。殺される前に殺してやるとばかりに。

 銃声は鳴り続け、瞬きする間に幾十幾百もの銃弾が魔女に殺到する。歪な躰を無数の銃弾に貫かれた魔女が絶命し、その屍を踏みしだきながら別の魔女が周壁へと迫る。銃弾に紛れるようにして投下された焼夷弾が壁をよじ登ろうとしていた魔女を焼き払い、そこに撃ち抜かれた別の魔女が転がり落ちていく。銃声と、魔女の歪な悲鳴と、銃隊の怒号そして歓声。ポエニスは即席の煉獄と化していた。

 これが人間相手の戦であったのなら、とっくに決着はついていただろう。後先考えないポエニスの猛攻を前にして撤退を余儀なくされていただろう。だが相手は人間ではなかった。

 

 ■■■■■■■■━━━━━━

 

 最初の砲撃から沈黙を守っていたドーラが再び動き出した。足元の魔女を踏みつぶし喰らいながら前進し、巨大な砲身を傾ける。今度は空ではなく、周壁へと向かってまっすぐに。

 ドーラは聖性に反応して砲撃する。だがそれはあくまで仮説であり、あの巨大魔女が何を考え何を基準に動いているかなど誰にも分かりはしない。元より魔女とは常識外の存在であり、何をしてくるのか分からないのだから。

 

「逃げろ――!」

 

 誰かの叫びは轟音に消し飛ばされた。先の砲撃よりも威力は各段に劣るが、それでも古びた周壁の一角を吹き飛ばすには充分に過ぎる。放たれた巨大な骨の砲弾は聖性の炎こそ纏ってはいなかったが、その重さと速度だけを以て周壁を貫いた。

 そしてそれは戦いの潮目が変わったということでもある。

 

『ああ! ありがとう! ありがとう!』

『許さない、あなただけは許さない』

『ひどいわ、裏切ったのね』

『あははは! あっははははは!』

 

 降り注ぐ石片と土煙の中から歪な声がいくつも聞こえる。それらに混じり、幾人かの悲鳴と血肉の弾ける音が悍ましく響いた。

 

「くそ! 魔女が入って来たぞ!」

「だめだ、逃げろ!」

「助け……ぐあっ」

 

 ひび割れた壺から水が漏れ出すように、ドーラの開けた風穴は瞬く間に銃隊の防衛に綻びを生じさせた。人同士の荒事には慣れ、この数日で銃の扱いも学んではいても彼らは警備職員、魔女と対する力など有してはいないのだ。魔女狩りの狂熱は一瞬で消え去り、殺す者と殺される者は元の立場へと戻ろうとしていた。

 だがそれで全滅するようであれば、カエルム教国は二百年前に滅びていた。

 

『ありがとう、ありが――――』

『絶対に許さな――――』

『ひどい――――』

『あは――――』

 

 幾つもの声が一瞬で同時に消え去る。わずかに遅れてドチャドチャと泥が地面を叩く音が響き、今まさに魔女に群がられようとしていた職員はその姿を見た。

 

「……ヴュルガ、騎士長」

 

 人間離れした巨躯を更に膨れ上がらせたような過重装鎧。真紅の飾り房と外套。全身から立ち上る青白い聖性。そして何よりも、その威容も霞んで見えるような得物。剣と呼ぶのも烏滸(おこ)がましい聖銀の塊。大剣、否もはやそれは「巨剣」だった。

 ごう、と。騎士たちの長は何を言うでもなく叫ぶでもなくただ巨剣を振るう。巨大すぎる刃の通り道にあった物は魔女であろうと周壁の残骸であろうと何もかも一切合切が残骸と化した。刃に流され続ける聖性は切れ味を完璧に保ち続け、無尽蔵の体力はその剣腕に一切の翳りを見せない。更には見る者が見れば気付いたであろう、目を見張るような剣筋の精緻さ。断じて力任せなどではない、どこまでも洗練された剣理が群がる魔女に一切の反撃も回避も許さなかった。

 

「銃隊は退け。騎士隊は前に出ろ」

 

 端的な号令は作戦が次の段階へと進んだことを示していた。

 聖女と騎士を囮としてドーラを消耗させる第一段階。非聖性武器である銃を主として、騎士を温存しながら敵を間引く第二段階。そして周壁が破られることは想定済み、ここから先は小細工抜きの第三段階であった。

 

「さあ、始めましょうか」

 

 騎士長の背負った函から涼やかな声が響き、白い手が這い出てきた。函に押し込められた聖女長が口以外に唯一動かせる右腕、そこから閃光のような聖性が放たれる。その光は戦列を組んだ騎士たちの体を包みこみ、彼らの聖女からも送られた聖性を更に嵩ましていった。

 如何なる業か。人外の域にまで達したイグリットの聖性は自身の騎士だけでなく、その周囲の騎士たちまでをも十全に強化したのだ。聖都の中でも上位に位置する精鋭騎士たちがその身を二重に強化されれば、それは一騎当千と呼んで何の差し支えもない。

 

「攻撃開始」

 

 静かに響く英雄の声を皮切りに、騎士たちの雄叫びと魔女の声、そしてドーラの鳴声が響き渡る。

 太陽は登り始め、場違いなまでに青い空が戦場を照らし出す。晴天の元で、旧聖都はかつての大戦を再現しようとしていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

戦場の片隅で

 

 ポエニスの戦いは乱戦の様相を呈していた。

 ドーラが吼え、その砲撃が周壁を貫く度に開いた穴に魔女が殺到する。だがそれを易々と通すわけもなく、銃列を揃えた銃隊が魔女を蜂の巣へと変えていった。だがそれで全てを抑えられるわけもなく、魔女の死骸を乗り越えた別の魔女が銃隊に飛び掛かり、そうなれば彼らに抵抗の手段は残されていない。だがそれを黙って見ているわけもなく、騎士たちの剣が、槍が、斧が、魔女を次々と狩り殺していった。だがそれもいつまでも続けられるわけもなく、死角から襲われた聖女が倒れ、時には魔女に群がられながら自決する。

 ヴュルガ騎士長とその周囲で戦う精鋭騎士たちはまさに獅子奮迅の戦いを見せていたが、それでも魔女の群れ全てを相手にはできない。取りこぼした魔女を銃隊と騎士たちが狩り、それすらもくぐり抜けた魔女はポエニス中へ散らばっていく。

 一進一退の攻防は際限なく広がり、周壁の北側から水がしみ出すように戦線は拡大していった。

 

 

 ※

 

 

「くそ! くそったれが!」

「来いよ! 撃ち殺してやる!」

「弾だ! 弾をくれ!」

 

 最前線である周壁から離れた、教会の敷地内。積み上げた土嚢で作られた防壁の内側で、数人の警備職員たちが迫る魔女を相手に防戦していた。

 彼らが背後に守る建物は医療棟。聖都へ避難する難民の列に加わることができなかった老人、病人や怪我人、そしてそんな人々を支える為に残った医療者たちが立てこもっている場所だ。

 

『どこ? どこに行ったの? ここはどこ?』

 

 そんな場所にも、いやそんな場所だからこそだろうか。そこにも魔女は現れ、やたらと多い手足を出鱈目に生やした魔女の躰に銃弾を撃ちこんでいく。もはやどこをどう撃てば良いのか分からない。とにかく動かなくなるまで引き金を弾き続けた。

 

「はぁ、はぁ……っ、やったぞ!」

「くそ、もう弾が」

「また来た! 構えろ!」

 

『あははは行かないで、行かないで! あははははは!』

 

 逆立ちでもしているかのような魔女が喚きながら走ってくる。逆さまになった頭は胎のあたりから生え、黒い泥に埋もれていない口はケタケタと笑い声をあげていた。その悍ましい声と姿に若い職員が顔を引きつらせた。

 

「班長、やばいですって!」

「うるせえ! 逃げやがったらお前を撃つぞ!」

「そんなぁ!」

 

 情けない声をあげながら引き金を弾き続ける。もうそれしか無い、逃げ場などもうこのポエニスの何処にも無いのだろうから。第一、戦う力も持たない人々を見捨てて逃げ出すのも寝覚めが悪い。彼らの心は折れなかったが、それだけで狩れるほど魔女は容易い存在ではない。

 

「うわわわわ来た来たまた来た来たって班長おおおおおっ!」

「くそったれがあああ――っ!」

 

 逆立ちした魔女の次は……もう何が何だか分からない姿の魔女だった。もう何でも良いからとにかく銃弾を撃ち込む為に引き金を弾いてカチカチ弾切れ嘘だろおいくそったれ!

 

 

 ふわりと、白い髪が彼らの視界を遮った。

 

 

『だれ、だげ! だがげっ!』

 

 パン、パン、パンと等間隔に銃声が響く度、魔女の脚らしき部分から泥が噴き出す。どんな異形であれ、魔女の多くは地を這い歩くことでその身を進ませる。故にまず最初に脚を潰すことは魔女狩りの定石の一つだ。現に、あれだけ撃ち込んでも動きを止められなかった魔女があっさりと地に伏せていた。まだ死んではおらず、腕のような部位を蠢かせて躰を起こそうするが、それよりも早く長銃のレバーを引く音が響く。

 

『だぱっ!』

 

 短銃とは比べものにならない轟音。遠くも近くもない、最大威力を発揮する距離から正確に放たれた散弾が魔女の頭に浴びせられた。一発ではない。レバーの作動音と銃声が交互に響き、魔女が歪んだ悲鳴をあげなくなるまで発砲は続く。最後に、動かなくなった魔女の死骸に焼夷弾が投げつけられた。

 

「あ、あんた」

「気を抜かないでください。周囲の警戒を」

 

 躊躇いがちにかけた声は平坦で澄んだ声に遮られた。声の主は燃え上がる魔女の死骸から目を離さず、職員たちは慌てて周囲を見回して魔女の姿を探す。「……六、七、八」と何故か時間を数える声が聞こえ、それが十に達した後で声の主はやっと長銃を下ろした。

 

「……魔女はいないようですね。怪我人はいますか」

「あ、あぁ、頼めるか」

 

 声の主――灰色の装束を纏った女は誰が見ても聖女だが、見れば見るほど聖女には見えなかった。

 背には二丁の長銃、細い腰の両端には短銃、脇に提げられた異様に大型の短銃。脇と腰と足首には短剣が鞘ごと括りつけられ、肩に回されたベルトには銃弾と焼夷弾と炸裂弾が並んでいる。

 全身に武器を括りつけた異様な聖女。唯一、長い白髪だけがその女を聖女らしく見せていた。

 

「指先の感覚はありますか? 痛むでしょうが、ここを強く押さえて」

「頭を下にして、何か足を乗せる物はありませんか?」

「……意識がありません。なるべく動かさないように、そっと運んで」

 

 聖女らしく負傷者の治療を始めたかと思えば、その処置はやはり聖女らしくない。教会の薬物や自身の聖性はまるで使わず、一般的な包帯や薬だけで手早く応急処置を済ませてしまった。

 どこまでも聖女らしくない聖女。第一、騎士はどこにいるのか?

 

「これを」

 

 いくつも浮かび上がる疑問を口にする間もなく、白髪の女は鞄を押し付けてきた。華奢な女がどうやって背負っていたのか分からないほど重い。中にはいくつかの銃と大量の弾薬。

 

「私はもう行きます。あなた達はどうか、ここを守ってください」

「いや、でも、あんたは」

「……お願いします」

 

 細い腰を深く折り曲げた女の白髪を見ながら、なんとか「お、おう」と答えを返す。ゆっくりと顔を上げた女の瞳は、夜空のように黒かった。

 

「任せとけ。あんたも無事でな、()()()()

「……、えぇ」

 

 女は、何故か顔を一瞬だけ歪めて見えた。もう一度だけ頭を下げ、今度こそ何処かへと走り去っていく。別の魔女を狩りに行ったのだろう。

 

「聖女って一人でも魔女を狩れるもんなんですね。俺、知らなかったです」

「馬鹿野郎、んなわけあるかよ」

 

 聖女が単身で魔女に挑むなど本来はあり得ないことだ。

 そもそも魔女という常識外の存在がいるからこそ聖性技術が編みだされ、聖女と騎士が生まれたのだ。暗黒時代よりも銃などの武器が各段に進歩したとはいえ、それでも聖性の助けも無い只人では魔女を相手どるには危険に過ぎる。

 それを彼女はやって見せたのだ。まるで英雄譚のように。

 

「英雄、か」

 

 今も北側の最前線からは鬨の声と共に怒号と悲鳴、何がどうなったのか考えたくもないような音が響いてきている。ヴュルガ騎士長をはじめとした精鋭たちが奮闘している証であり、もしこの戦いに勝利することが出来たならば、間違いなく彼らは英雄として称えられるだろう。

 こんな辺鄙な場所を守っている自分たちや、あの白髪の女とは違って。

 

「それでも……」

「班長! また来た!」

「もうかよ!? 考え事ぐらいさせやがれってんだ! くそったれっ!」

 

 

 ◇

 

 

「八、九、十……」

 

 十数えても死骸が動き出さないことを確かめてから、息を吐きながらシスネは長銃を下ろした。これで四体目。押し寄せてくる疲労で身体はひどく怠いのに、心臓と頭だけはひどく熱を持っていた。座り込んでしまいたい衝動を抑え、中庭の隅に立てられた物置小屋へと急ぐ。

 

「っ、痛……」

 

 固く重い扉をなんとか開け閉めしていると、左腕に痛みが走る。見れば装束の左袖が切り裂かれており、灰色の布地から覗く白い肌からは赤い鮮血。無我夢中で気付かなかったが、先の魔女の爪が掠っていたらしい。そこまで深くはない、まずは扉に閂を下ろして安全を確保した。

 土臭い屋内には農具に混じって、明らかに場違いな銃や弾薬、薬品に包帯に水といった品々が乱雑に置かれていた。この戦いの前にシスネが密かに準備していた物だ。ここだけではなく、教会の各所に分散して装備を隠してある。ポエニス全体が半ば混乱していた時のこと、素知らぬ顔で物資を持ち出すシスネのことを咎める者は誰もいなかった。

 

 ――バレたら、また懲罰かな

 

 ほんの十日ほど前の公開懲罰。あの日もこんな雲ひとつ無い青空だった。人間や人間が成り果てた魔女が何をどうしようと、天気という自然の理には何ら関係が無いということだろう。廃墟になったポエニスの中でまた晒しものにされる自分の姿を想像して、シスネはひとり笑った。

 意味のない笑いが収まってから、怪我の確認と治療を始める。自分の左腕に自分で包帯を巻くことも慣れたものだ、包帯の端を噛みながらきつく締め付けた。銃に弾薬を込め、ベルトにも減った装備を補充していく。銃身が熱を持ち始めた長銃は交換し、魔女に刺したまま捨てた短剣も新しく鞘に納めた。

 

「んっ、く、は……っ」

 

 最後に水を呷って、唇から垂れた雫を手で拭う。まだやれる。そう自分に言い聞かせた。

 作戦が第三段階に入ってからシスネが狩った魔女は四体。それが多いのか少ないのかは問題ではなく、どちらにせよそれが自分に出来る最善だとシスネは考えている。

 銃を主な武器とするシスネでは乱戦には向かない。流れ弾が誰に当たってしまうか分かったものではなく、故にこうして一人で戦うことを選んだのだ。主戦場である周壁からあぶれたように彷徨う魔女を探し出し、狩る。それは奇しくも、シスネがこの三年の間ひとり繰り返してきたこととまるで同じだった。

 こんな、かつての大戦に勝るとも劣らない戦いの中であっても。

 

『任せとけ。あんたも無事でな、聖女さん』

 

 だがそれで良い。シスネは英雄の器などではなく、それどころか聖女ですらないのだから。最前線に赴いたところですぐに殺されるか、他の聖女や騎士たちの足を引っ張ってしまうだけ。

 魔女は他にもいる、ポエニスに残ったのも戦う力を持つ人々だけではない。ついさっき医療棟を襲う魔女を狩って警備職員たちに助太刀したように、シスネに出来ることをやるだけだ。

 

「……」

 

 小さな窓から医療棟の影を見る。

「彼」は無事に避難者の列に加われただろうか。歩くことはできるのだからその可能性は低くないが、もしかしたら医療棟にいるのかもしれない。だったら尚の事、いつまでもここで休んではいられない。

 パチン、と両手で顔を叩いてから入り口に向かう。閂を外し、建て付けの悪い扉をゆっくりと開くにつれ隙間から光が差し込んでくる。眩しさに片目を閉じていると、その光がふと弱くなった。

 

「――――っ!」

 

 全身に走った悪寒よりも速く扉から飛び退り、着地するよりも早く扉が吹き飛んだ。

 

『あぁ、いや、何も見えない』

 

 歪んだ声をかき消しそうな程の破壊音。バキバキ、メキメキと木材がひしゃげていく音を聞いたシスネは咄嗟に机の下に潜り、その直後に轟音と土煙に襲われる。

 

「かはっ! げほ!」

 

 天井が落ちたのだ。背中に圧迫感があるが動けない程ではなく、動かなければ死ぬ。小屋の残骸をはね飛ばしながら身を起こし、転がるようにして黒い影から距離をとった。

 

『見えない、見えないの』

 

 土煙が晴れ、晴天の中に姿を現したのは大きな魔女だった。遠目に見たドーラや、森で対峙した魔女とは比べるべくもないが、それでも充分に大きい。

 どんな生物にも似ていない姿。丸みを帯びた、どころではないほぼ完全な球体。蠢く黒い蛇か蚯蚓を大量に丸めたとでもいうような悍ましい躰の直径はシスネの倍近くある。

 泥団子に丸めこまれた小石のように、三つの顔が虚ろにシスネを見据えていた。

 

 ――共喰魔女!?

 

 当然のことではあった。幾百もの魔女の群れがいる中で共喰いを始める者がいない訳もなく、シスネが今まで狩った魔女がそうでなかったのは単なる偶然に過ぎない。その幸運と帳尻を合わせるかのように、とびきりの不運がいま目の前に降りかかってきたのだ。

 

『どこ!』

 

 三つの口が同時に叫び、ただでさえ視界を占有する巨体が更に迫ってくる。歩くのでもなく走るのでもなく、その丸い躰を活かした移動法によって。つまりは、凄まじい勢いで転がってきた。

 

「っ!」

 

 冗談ではない。矢も楯もたまらずシスネは背を向けて逃げ出した。自分では凡百の魔女を狩ることで精一杯。複数の魔女が融合した共喰魔女を、ましてや三体以上も共喰いした魔女など勝てる見込みは無いのだ。

 晴天に照らされた中庭の中を全力で走る。美しく整えられた緑の地面を駆けながらも、背後からは歪んだ声と地面を抉る音が近付いてきていた。相手の方が速い。このままでは追いつかれる。魔女に撥ね飛ばされる自分の姿を幻視したシスネは咄嗟に横に跳んだ。

 

『どうして見えないの!』

 

 歪んだ絶叫と破壊音。転がり去る魔女は、道に沿って並んでいた木々を数本なぎ倒してからようやく止まった。ゴロリと動く魔女の下から、ひしゃげた木の残骸が顔を出す。

 

「冗談はやめて……!」

 

 撥ね飛ばされるどころでは済まない。あの突進に巻き込まれれば、あの木と同じように轢き潰されてしまう。震えだしそうな足を叱咤し、シスネは再び駆け出した。

 当然、後ろから魔女は追ってくる。相手の方が速さで勝る以上はいつか追いつかれ、振り切るには何か障害物を使うしかない。だがここは広い中庭だった。所々に木や岩が置かれているものの障害物としては心許なく、故にシスネはひたすら走るしかない。

 

「は……っ、はあ……っ!」

『どこ、何も見えない』

 

 だが当然シスネはいつまでも走り続けられる訳ではない。体力が尽きる前に何か策を考える必要があり、それも浮かばない訳ではなかった。

 このまま走り、あの魔女を周壁まで誘導する。多くの聖女と騎士が今も戦っているあそこに行けば、自分などより格段に腕の立つ騎士たちが魔女を狩ってくれるだろう。面倒を押し付ける形になるが仕方がない。どの道、自分ひとりでは狩れないのだから。

 だが。

 

「くぅ……っ、は……!」

 

 汗が入って滲む視界の中で医療棟の影が見える。その更に向こうから騎士たちの鬨の声が響いていた。そう、周壁まで行くには医療棟の傍を通らなければならない。ついさっき助けた勇敢な警備職員たちの顔が脳裏を過る。彼らだけではない、医療棟には数多くの人達が残っている。自分が誘導したあの魔女が無力な人々を襲わないとどうして言い切れるというのか。

 他の策を考えなければならない。だがもう酸欠寸前のシスネの頭では何も――。

 

「――――」

 

 眼前に池があった。その池には何故か見覚えがある。いつも人の多い中庭には、数えるほどしか訪れなかったというのに。

 そう確か、ポエニスに来て間もない頃、あの池に落ちそうになった誰かを、自分はたしか――。

 

「――――っ!」

 

 背に触れそうなほど近い歪んだ声。もうすぐ足元に迫る池。それをシスネは。

 

『見えな――』

 

 跳んだ。

 

 

 

「ぶえっ!?」

 

 ほぼ無意識に池を跳び越えたシスネは顔面から着地した。柔らかい芝生とはいえ相当に痛い。とはいえ蹲ってもいられず鼻血を手で拭いながら起き上がった。

 

『どこ? ここはどこ? 何も見えない!』

 

 魔女は池の中で浮かびながらぐるぐると回っていた。いっそ沈んでくれれば楽だったが、そこまで重くもなかったらしい。文字通りに手も足も出ない魔女は、ただ水面で無意味にもがいていた。

 このまま放置して逃げても良いが、いつまでもこのままでいてくれる保障も無い。魔女は何をしてくるのか分からないのだから、今ここで狩っておくべきだろう。シスネは背から長銃を抜いた。

 

「女神の導きのあらんことを」

 

 聖句と同時に放たれた散弾は魔女の表面を爆ぜさせ、透明だった池の水が黒く濁っていく。レバーを引きながら池の周りを歩き、衝撃で水面を動く魔女が岸に着かないよう慎重に散弾を撃ちこんでいく。弾切れした長銃は地面に置き、二丁目の長銃を構える。それも弾切れになった頃には池の水は黒く染まっていた。

 

『みえ、な』

 

 だが魔女はまだ死んでいない。普段なら焼夷弾を使うが、相手は水の中。シスネは脇のホルスターから大短銃を抜いた。

 息を吸い、腰を落としてしっかりと地面を踏みしめる。球体状の躰の中心に狙いを定めて、ゆっくりと引き金を、

 

『みえ……、――言わないで!』

「あっ!?」

 

 魔女の「声」が変わった。そう気付いた時にはもう、水中から伸びた黒い手がシスネの足首を掴んでいた。仰向けに倒される反動のまま大短銃を放りだしてしまい、シスネの手は何を掴むこともできず、あっさりと池の中へと引きずり込まれた。

 

『言わないで、なんでそんなことを言うの』

「やめっ、放し……」

 

 苦し気な声は水音に遮られる。毛糸玉が解れるように魔女の躰は形を変え、何本もの黒い手がシスネの体に掴みかかっていた。その力は強くとも、シスネを直接に害してくる程ではない。全身を弄られるような不快感は筆舌に尽くし難いが、常ならばそこまで切迫した状況ではなかっただろう。それがこんな水の中でなければ。

 

「……っ! ……、……ぶはっ! げほ、が……!」

 

 なんとか水面に顔を出すも、すぐに魔女は躰を回してシスネを水中に沈めてしまう。息を止めて耐えようとしても、首を掴む手が、腕を捻り上げてくる手が、脚を引っ張ってくる手が、体中を弄ってくる手がそれを邪魔してくる。肺の中の空気は簡単に吐かされ、代わりに黒く濁った水が口内になだれ込んでくる。そうしてシスネの意識が遠のく頃、それを見計らったかのように魔女が躰を回してシスネを水面に出す。息継ぎをさせる。

 まるで水責めだ。人を水車に括りつけて水の中で回転させる拷問。今のシスネに対する仕打ちはまさにそれだった。つまり、今この魔女はシスネを捕らえて嬲っている。聖女を簡単に殺さない為に。

 まずい、まずい、まずい! このままでは嬲り殺し、いやもっとひどい。もしこの魔女がシスネを絶望させる為にこんな事をしているのなら、殺されることすらない。悪意もなく、ただ魔女の本能だけでシスネを苦しめ続ける。殺さないように、ずっと、ずっと。

 そんなのは御免で、絶対に嫌で、なら何とかしなければいけないのに、手足には無数の手が掴みかかっている。武器を手にすることもできなくて、できたとしても水の中。銃も弾薬もきっと使い物にならない。

 

「……、…………っ、……」

 

 もう何度目かも分からない息継ぎをさせられて、溺れた口からはひゅうひゅうと壊れた笛みたいな音しか漏れない。それを他人事みたいに聞きながらシスネは頭を回して、でももう何も浮かばない。ただ息がしたい、空気が吸いたい、もうそれしか考えられない。

 ほんの三秒かそこらの息継ぎを終えて、魔女がまたシスネを水に沈める。シスネを溺れさせて、苦しめて、絶望させようとする。同じ仲間にしようとする。

 魔女に、しようとする。

 

 ――――――。

 

 カチリと。シスネは左の親指を弾いた。

 

 

 

『言わないで、言わな、』

『い゛、いわな、いわなげ……っ』

『いいが、いがば、いがばいでげ――――ッ!』

 

 魔女が狂ったような声をあげながら震えはじめる。無数の腕を滅茶苦茶に振り回す度に池の水が撥ね、それこそ溺れているかのようにもがき始める。躰を構成する黒い泥はボロボロと崩れはじめ、それは無数にある内の手の一本から始まったようだった。

 

「――かはっ、げほ! うえっ、はぁ、はあっ!」

 

 放りだす形で解放されたシスネは水面に顔を出し、肺の中の淀みきった空気を必死に交換する。酸欠でぐらぐら揺れる頭と視界に吐き気を堪えながら水面を泳ぎ、岸へと這いあがった。芝生を掴むその左手の指輪から伸びる、小さな銀の針。

 無意識の行動だったと思う。針が飛び出た自決指輪を見てはじめて、シスネは自分が何をしたのか悟った。

 なんということはない。暗器のような仕掛けを、本当に暗器として使ったというだけのこと。左手首を拘束する手に突き刺した自決指輪の猛毒は、魔女にも有効だったらしい。分の悪い賭けに勝った幸運を噛みしめながらシスネは、幸運にも近くに落ちていたそれを掴む。

 

『い、ばない、で――』

「黙って」

 

 ゾッとするような声。それをまた他人事のように聞きながら、シスネは大短銃の引き金を弾いた。

 

 

 

『聞こえない、聞こえないよう』

 

 朦朧とする中でなんとか大短銃に弾薬を込め直したと同時、また違う「声」を魔女があげる。

 

「は……っ、そうでしょうね……っ」

 

 この共喰魔女には顔が三つあった。なら最低でも三度は狩らなければならない。満身創痍のシスネが一人でだ。あまりの無理難題に唇を歪める。

 ざぶざぶと音を立てながら魔女が這いあがってくる。躰のほとんどを構成する黒い泥は最初の半分以下に減っており、今もまたズルズルベタベタと池の周囲に黒い泥が落とされている。それはアレがもうただ一体の魔女であるということを示してもいた。

 故にシスネはただ大短銃を手に握った。泣き言を漏らしても何も変わらない。あの魔女を狩るまで何も終わらないのだから。芝生に座り込んだまま、顔に張り付く前髪もそのままに、シスネは引き金を、

 

 ガチン

 

「…………ぁ、」

 

 撃鉄が落ちる音が響き、気の抜けたシスネの声が零れる。

 弾薬は込められていた。大短銃にも損傷は無かった。だが弾薬自体はシスネが身につけていた物。何度も水の中に沈められたそれはもう、使い物にならなかったのだ。

 

『なに? 聞こえない!』

 

 魔女の躰が膨張し、無数の手は無数の針へと形を変える。その何本かがシスネの眼前に迫ろうとしても、シスネはもう動けない。もう何の反応もできなかった。

 

 

 

 ふわりと、黒い外套がシスネの視界を遮った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最悪の再会

 

 魔女狩りの際、「彼」はいつもその黒い外套を羽織っていた。

 騎士は鎧の上から外套を羽織ったりはしない。魔女禍が蔓延する以前の大昔ならともかく、走り回り跳び回りながら魔女と戦うことが常の今では邪魔でしかないのだから。

 

『それ、何の為に着ているのですか』

 

 あれは確か、ノール村で魔女の捜索を始めて間もない日だったか。間借りした村長宅の部屋で装備を身に着けている「彼」に、そう聞いたことがある。特に何の意味もない、何も考えず口にした問い。

「彼」が答えるには、その外套もまた技術棟の面々から購入した怪しげな試作品だったらしい。特に耐火性に優れ、魔女狩りに火を用いることが多かったから買ったのだと。

 存外にまともな答えに拍子抜けした。シスネは「格好いいから」とか、そんな馬鹿な答えを期待していたから。そうしたら、いつもみたいに呆れた顔で罵ってやれたというのに。

 八つ当たりのように弾薬を込めている間に「彼」は準備を終えてしまった。黒い騎士装束の上から申し訳程度に聖銀の鎧を一部だけ身に着け、その上から黒い外套を羽織ったいつもの姿。黒髪とも相まって、その姿は黒一色だ。

 

『あぁ、それと』

 

 唐突に聞こえてきた声にシスネも逸らしかけていた視線を戻す。灰色の双眸と目が合い、その目は少年のように楽しげな表情で。

 

『騎士らしいだろう?』

『聞いた私が馬鹿でした』

 

 シスネはそう、望み通りの顔で望み通りの答えを返すことができたのだった。

 

 

 

 なんにせよ、その黒い外套はシスネにとって「彼」の象徴だった。

 擦り切れ、ボロボロに酷使されたそれは騎士の外套というよりはむしろ鴉の羽を思わせたが、それもまた騎士らしくない「彼」には似合っているとシスネは思っていた。もちろん、そんな事は口が裂けても言わなかったが。

 そして今、その黒い外套がまた目の前で揺れていた。

 

「――――……、……っ、レ」

「ぬぉあっ!?」

「ェベあっ!?」

 

 黒い外套の主――レーベンの名を呼ぼうとしてすぐ、シスネは倒れ込んできた彼の体に押しつぶされた。目の前に外套と黒髪が迫り視界が黒い一色になる中で、彼の呻き声と金属音、そして魔女の歪んだ声を聞く。

 

『聞こえない! 聞こえないの!』

「くそっ重い! おいシスネ手伝ってくれ!」

『聞こえないよぉ!』

「頼むぞ聞こえてるのかおい!」

「……うるさいんですよっ!」

 

 酸欠のせいで痛む頭に響く二つの声、その両方に向けて罵声を返しながら起き上がり、すぐ目の前に突き出された泥の針に息を飲む。だが寸でのところで翳された金属板が金属音を響かせ、シスネは事なきを得た。

 

「持ってくれ重いんだ!」

「重い重いうるさいんですってば!」

 

 レーベンが左手だけで持っていた金属板――聖銀の大盾をシスネも支える。特に筋力に優れた騎士だけが用いるそれは見た目の通りに重く、二人が身を寄せ合えば隠れられる程には大きい。即席の防壁となったそれに隠れ、つまりは身を寄せ合いながら魔女の攻撃に耐え忍んだ。そうしなければ串刺しか、体を穴だらけにされる。それ程に魔女の攻撃は苛烈だったのだ。

 

『何なの! 聞こえないの!』

「くそが! 針鼠(ハリネズミ)かアレは!」

「針鼠というより海栗(ウニ)でしょう! ぁ痛っ!?」

「足を出すな! 下がるぞ! 下がれ!」

 

 大盾の上部に開けられた覗き穴から垣間見た魔女の姿は、確かに針鼠とも海栗ともつかなかった。強いて言えば半球状の海栗に手足を生やしたような形だが、それよりも今は彼の言う通り距離をとらなければならない。重い大盾を引きずりながら中腰でじりじりと下がる。そんな風に動かなければ魔女の針に貫かれてしまう。

 

『聞こえてよぉ!』

 

 魔女の全身から伸びていた無数の手は、無数の針へと変質していた。その姿に相応しく全方位へと伸び、長く、鋭く、そして速い。その速さと間合いも加味すれば針というより矢だろうか? どれにせよ接近戦は危険極まりない。

 

「大丈夫か?」

「……足は動きますが、止血しておきたいですね」

 

 大盾を構えながら下がり続け、盾を叩く音も聞こえなくなってきた辺りでレーベンが心配そうな目を向けてくる。視線を下ろせばスカートの右腿のあたりがぱっくり裂けており、覗く腿からは流血。布地を手繰り寄せてきつく押さえても、傷口はドクドクと脈打っていた。意外と深いのかもしれない。

 

「……そんなことより! あなたこんな所でいったい何を」

「そんなことより逃げるぞ。隠れられる場所がある」

「むぅ……っ!」

 

 ようやく聞けたシスネの疑問はレーベンの正論に一蹴された。危険に次ぐ危険で頭に血が上っていたことを自覚し、負け惜しみで恥の上塗りだけは何とか避ける。代わりに変な声が出たが。

 

『聞こえない、どこ、どこなの』

 

 魔女は彷徨うように中庭の中をゆっくりと歩いている。知覚範囲は狭いらしく、足も遅いことは救いだっただろうか。これ以上あの魔女を刺激しないよう、大盾を抱えながら二人でその場を後にした。

 

 

 ◇

 

 

 レーベンに連れられて辿りついたのは、シスネにも見覚えのある場所だった。忘れようにも忘れられない場所とも言える。教会の本棟の裏手。ひどく日当たりが悪く、小石と雑草しかない広場の中央には人を拘束する為の晒し台。

 

「……嫌味ですか?」

「何の話だ」

 

 もう完治している筈の背中に痛みを錯覚し、公開懲罰の恥辱を思い出す。顔を引きつらせるシスネをよそにレーベンは広場の中央へと足を進めていた。簡素で丈夫なだけの作りの晒し台。よりにもよってその下に空いた狭い空間が、彼の言う「隠れられる場所」らしい。

 

「適当に座ってくれ。薬を出す」

 

 垂れ幕を捲って入った中には、いくつかの木箱が置かれていた。座れと言われても椅子は無く、仕方なくシスネは木箱の一つに腰掛ける。ガチャガチャと左手だけで箱を探る彼の後ろ姿を見ながら、シスネは呆れた声を出した。

 

「用意の良いことですね」

「こんな状況だ。大目に見てくれると助かる」

「いや、まあ、そうですけれど……」

 

 どう考えても無断で持ち出したのであろう物資や武器の数々を見てシスネは言葉を濁らせた。自分もまるで同じことをしていたなど絶対に知られたくない。目を泳がせていると、包帯と再生剤を手にしたレーベンが傍らに屈みこむ。

 

「あったぞ、手をどけてくれ」

「自分で出来ますから触らないで。あと、あっちを向いていて下さい」

「そ、そうか」

 

 こんな事を気にしている場合ではないのだろうが、見られたくないものは見られたくない。戦いの余韻も引いて余裕が出てきたということでもあるかもしれない。困ったような顔のレーベンが空間の隅を向いて座り込んだのを確認してから、シスネはスカートを捲り上げて治療を始めた。

 

 

 

「それで、こんな所で何をしているのですか? あなたは」

 

 水筒の水で傷を洗い、沁みる痛みを堪えながら再生剤を打つ。手で傷口を押さえながらシスネは再びその疑問を口にした。大方、答えには予想がついていたが。

 

「魔女を狩っていた」

「そう、でしょう、ね……っ」

 

 傷が熱を持ち、急速に塞がっていく感覚は未だに慣れない。傷口を掻きむしりたい衝動に耐え、予想通りの答えに苦虫を噛み潰す。……シスネの苦労をいったい何だと思っているのだろうか、この馬鹿は。

 

「あなたはもう騎士でもない上に怪我人なのですよ? 分かっているのですか?」

「だが職員も戦っているだろう」

「……は?」

 

 出血しない程度には傷が塞がったことを確認し、化膿止めの軟膏を塗ってからきつく包帯を巻きつける。ついでにずぶ濡れの小鞄から縫合用の針と糸を取り出して、スカートも適当に縫い合わせておいた。

 そこまで処置しながら、意味不明な答えを返してきた彼の後ろ姿にシスネは怪訝な目を向ける。

 

「教会の職員たちは避難していない。戦う義務があると、そういう命令だったらしい」

「でも、あなたは職員でもないですよね?」

「……職員になるつもりだった」

「つまり職員ではないですよね?」

「……」

 

 あっさりと論破されたレーベンが落ち込んだ顔をしているのが、後ろ姿からでも分かる。それに対して達成感や優越感など湧いてはこず、シスネはただ呆れた溜息を漏らした。詭弁を並べるにしても、もう少しマシな理由を用意してほしい。

 二人共が沈黙し、今ここが戦場であるということも忘れてしまいそうなほど静かな空気が流れる。耳を澄ませば、今も戦っている人々の声が聞こえてくるというのに。

 いつまでもこうしてはいられない。スカートと肩掛けを絞って水を落とし、木箱に入っていた小汚い布で濡れた髪を簡単に拭いてから装備を整えようと更に中身を漁る。銃はともかく水浸しになった弾薬は使い物にならない。だがレーベンが準備していた物は聖銀武器か炸裂弾に焼夷弾、または薬物が殆どのようで……。

 

「……あなた、まさかまた――!」

 

 ドォン、と。雷鳴にも似た音が聞こえた。

 

「っ!? 逃げ――――」

 

 シスネの警告よりも悲鳴よりも速くレーベンが動き、怪我人とは思えない速さと力で体を抱えられて外へと飛び出す。

 そして直後、飛来してきた何かが晒し台を吹き飛ばした。

 

「あぁ……っ!?」

「ぐぉ……っ!」

 

 二人でもんどりうって固い地面を転がり、ほんの一瞬遅れて今度は晒し台の残骸が襲ってくる。それその物が断頭台のようにシスネの頭を掠めて悲鳴すら出ない。

 だが何よりも最悪だったのは、突如として降ってきた何か――砲弾の着弾点にはレーベンが準備したいくつもの武器、そして炸裂弾と焼夷弾が積まれていたということだ。

 チカリと、土煙の奥で小さな火花が散った様をシスネは見た。

 

「伏せて!」

「伏せろ!」

 

 悲鳴と警告、そして爆音はまったくの同時。咄嗟にレーベンの外套を引き上げて爆風に耐えるも、それでも手に火傷を自覚する程の熱が貫通してくる。いや、それで済むだけ技術棟の面々は確かな仕事をしてくれたということだろうか。もっとも、あの炸裂弾と焼夷弾も技術棟の作品なのだが。なんにせよ、赤々とした炎の波はシスネ達を飲みこむことなく空へと消えていった。

 

「……大丈夫ですか?」

「……まだ死んでいない」

「怪我は無いか聞いているのですよ、馬鹿」

 

 爆風と爆炎が過ぎ去ってからようやくシスネは身を起こす。片手でもたもた起き上がるレーベンを手伝いながら、こんな怪我人に馬鹿な質問をしてしまったと場違いに呑気な考えも頭を過る。

 二人の視線の先では、晒し台だった場所に大きな篝火が出来上がっていた。

 

「これがドーラの砲撃か、恐ろしいな」

「半分はあなたのせいですけどねっ」

 

 傍らで座り込むレーベンの脇腹を小突いてやりながらそう愚痴る。見れば広場のあちこちには燃える木材や木箱の残骸に混じり、聖銀の剣やら斧やらが突き刺さり散乱している。あれらの内の一つでもこちらに飛んできていれば、もう死んでいたかもしれない。珍しい幸運を噛みしめる一方で、そもそも本当に幸運であったならば砲撃の流れ弾になど襲われなかったと思い直した。

 

「本当にあなたといると碌な目に遭いませんね、この疫病神」

「お互い様だと思ってくれ」

 

 ああ言えばこう言う。珍しく憎まれ口で反論してくる彼にムッとした顔を向けると、その横顔は緊張に張り詰めていた。その理由をシスネもすぐに知ることになる。

 

『熱い、熱いの』

 

 今の爆発を聞きつけてやって来たとでも言うのか、広場に一体の魔女が入りこんできていた。隠れようとも思ったが唯一の遮蔽物であった晒し台は既に篝火と化しており、何よりも魔女の目は既にシスネの姿を捉えているようだった。

 何よりも目を引く、頭部の大半を占めるように大きな目。それが四つ。ぐずぐずに融けた人体のような躰を不定形の脚で這うように進んでおり、そしてその手には。

 

「! 避け――」

 

 シスネの悲鳴と銃声、そして金属音。レーベンが引っ張り起こした聖銀の大盾を、四つ目の魔女が手にした武器――教会の長銃から放たれた散弾が叩いた。

 

「魔女狩りの武器を魔女が使うか、まさに世も末だな」

「やめてください縁起でもない」

「確かに」

 

 軽口こそ叩いているがレーベンの表情は固く、大盾を肩で支えながら足元の片手剣を拾い上げる。嫌な予感がした。

 

「……あなた、何を」

「決まっている、魔女狩りだ」

「っ! また馬鹿なことを! そんな身体で何をする気ですか!」

 

 当然だがレーベンの怪我は何ひとつ治ってなどいない。右目は抉られ右耳も無い。利き腕を失い、歩くことすら困難なのだ。魔女と戦うなどもっての外で、だからシスネは彼の腕を掴んで放さない。

 だがレーベンは剣を手放さず、そして運までもがシスネを嘲笑った。

 

『寒い……冷たいの……』

 

 四つ目の魔女とは反対側、つまりは後方から聞こえる歪んだ声。

 まだ人としての姿形を残した魔女だった。泥に塗れてはいても衣服の残骸らしき物を躰に纏っており、二本の脚でしっかりと立っている。顔も目許を泥に覆われているのみで、元の面影も見て取れる。だがその左腕だけは根本から消失していた。

 

『寒いよお……』

 

 じょきり、じょきりと、魔女の右腕の双刃が雑草を断ち切る。魔女の左腕は無くなったわけではない、その両腕ともが右肩から生え、絡み合った二本の腕がそれぞれ聖銀の曲剣を握っている。曲線を描く二振りの刃が鋏のように擦り合わされた。

 

「あの蟹みたいな方は俺がやろう。異論は無いな」

「異論しかありませんよ……っ」

 

 味方はおらず二体の魔女に囲まれた状況。逃げることは不可能。シスネ一人で両方を相手どることも不可能。ならばもうレーベンに戦わせるしかないのだ。どこかほくそ笑んでいるように見えるレーベンを一度睨みつけてから、掴んでいた手を離す。代わりに脇と腰の鞘から短剣を抜いた。

 

「あぁもう最悪です。あなたといるといつもこう!」

「そうか、良かったな」

 

 珍しく肩を揺らして笑うレーベンは明らかに普段と様子が異なる。それに嫌な予感を感じ始め、問いただす前に前後の魔女が武器を向けてきた。

 

『熱い!』

『寒い!』

 

 四つ目の魔女が散弾を放ち、隻腕の魔女が鋏を振り上げる。

 シスネとレーベンは、同時に大盾の陰から飛び出した。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

魔騎士

 

『熱い! 燃えてるよ!』

 

 短剣を手にシスネは広場を駆け回っていた。走るシスネの姿を魔女はその四つの目で追い続け、融けた手に構えた長銃の引き金を弾く。

 

「っくあっ!」

 

 銃声と共に散弾が放たれる前に体を投げ出す。受け身を取りながら体を回転させ、勢いを利用してすぐに起き上がった。スカートの裾を散弾が掠めた感覚。ゾッとしない気分を抑え込みながら走り続ける。

 これで九発目。拾ったのか魔女化する以前から持っていたのかなど分からないが、とにかくあの魔女が手にしているのは教会の長銃。シスネが用いている物と同型だ。ならばその弱点も自ずと知れる。

 

『どうして熱いの!』

「!」

 

 魔女の声と、引き金が軋む音……を聞いた気がした。半ば勘でシスネは足を止め、ほんの一歩先の空間を散弾が通り過ぎていく。魔女の癖にシスネの動きを読んでいたのだろうか。だがそれこそが付け入る隙となってくれた。

 

「これで……っ!」

 

 これで十発目。教会の長銃の装弾数は十発。つまりは弾切れだ。シスネはずっとそれを待っていた。両手に握った短剣を握り直し、魔女に向かって一直線に駆け出す。彼我の距離は十歩も無い。一気に距離を詰めて一気に仕留める。小細工をさせる前に狩り殺す!

 

『熱いぃ――っ!』

 

 レバーを引く音。聞きなれた排莢と装填音。銃口と目が合う。

 銃声。

 

「――――ぁぐあっ!?」

 

 勢いに乗っていた体は簡単には止まらず、左腕を掠めた「散弾」はシスネの体を独楽(こま)のように回転させる。視界の中では白髪が暴れ、青い空と黒い泥の位置が目まぐるしく入れ替わったが、最後は土色の地面だけが見えた。

 ()()()()。でもいったい何に?

 

「痛……っ、ぐ、うん……っ」

 

 何に撃たれたにせよ、いつまでも寝てはいられない。足を止めた獲物など、銃を持つ者にとっては格好の的でしかない。シスネだったらその機を絶対に逃さない。

 故にシスネは立ち上がり、そしてそれこそが答え合わせをしてくれた。左腕からポロポロと転げ落ちる何か。小石ではない。それは白く小さな、

 

 ――骨!?

 

 骨だった。それで全てに合点がいく。歪んだ声と黒い泥、そしてもう一つ魔女の代名詞とも言える物。肥大化し、変形した骨。それは時に魔女が失った手足を補填し、あるいはまったく別の器官を成し、そして何よりも魔女の武器となる。

 つまりあの魔女は自身の骨を弾丸としているのだ。何をどうすればそんな事が可能なのかなどシスネには知りようもなく、今この時においては瑣末事。重要なのは、あの魔女に弾切れは無いか、あったとしても随分と先であるということだ。

 

『燃えてる! 燃えちゃうよ! あぁ!』

「卑怯ですよそんなのっ!」

 

 弾切れしない銃。そんな物シスネの方が欲しいぐらいだ。この三年、弾薬の管理にどれだけ苦労してきたか。銃の残弾を感覚で数えることも、装填を体に覚えさせることも、数えきれない程の訓練と実戦を積み重ねた末にやっと身に着けたというのに!

 気前よく銃を乱射してくる魔女に場違いな怒りを覚えつつ、再びシスネは駆け出した。

 

 

 

 駆け出しながら、もう一つの戦いを横目に見る。

 四つ目の魔女とは異なり、多少は人としての形を残した隻腕の魔女。両腕が絡み合って成した右腕に二振りの剣を握り、巨大な鋏と化したそれを振り回している。

 それと対するのもまた隻腕の男だった。右腕と、更に右目までも失くした元騎士――レーベンが聖銀の両手剣を片手に対峙している。

 

『寒い!』

「おぉあっ!」

 

 ぶつかり合った聖銀武器が火花を散らす。すぐさま魔女は鋏を引き、その双刃を開く。人の首など容易に切断できそうな凶器が陽光に閃き、だが刃が閉じられる前にレーベンは跳び退っていた。笑いながら。

 

『冷たい!』

「ふへはっ!」

 

 二本の足で立ち、泥と衣服の残骸しか纏っていない魔女は俊敏だった。右腕の鋏を引きずりながら肉薄し、それに対してレーベンもまた左腕の剣を引きずりながら突進する。笑いながら。

 

 ――あの馬鹿!

 

 間違いなくレーベンは強化剤を服用している。両手剣を片手で振り回していることも、目を血走らせながら笑っていることもその証拠だ。あの薬は一時的に筋力を底上げするが、感情の振れ幅が大きくなるという副作用がある。戦闘の高揚が更なる興奮を呼び、最後は冷静な判断もできなくなってしまう。

 そんな劇薬をもう何年も過剰に服用していた馬鹿をシスネは知っている。そしてその馬鹿が今この状況で薬の用法と用量など守るはずがないのだ。

 再度ぶつかり合う剣。互いの武器が弾かれ、次に振り下ろすのはレーベンの方が早かった。頭をかち割らんばかりの上段斬りはだが狙いが外れ、魔女の胸部を浅く斬り裂くに留まる。レーベンの攻勢は止まらない。次々と放たれる斬撃は致命傷こそ与えられなくとも、徐々に魔女を本棟の壁へと追い詰め始めていた。

 例え強化剤を使っていたとして、利き腕を失くして間もない人間にあんな動きが出来るだろうか? その仕掛けは今も駆け回っているシスネにも見て取れた。全身を躍らせ、助走し、跳躍し、その勢いを余すことなく得物へ乗せる。それは一朝一夕で身に付くものなどではなく、それはきっと彼が魔女狩りの中で編み出してきた「技」なのだろう。聖女がいなくても、魔女を狩る為に。

 

『冷たいよぉ!』

 

 バキン、と。銀の切っ先が宙を舞う。魔女の右腕には双刃を備えた鋏。レーベンの左腕には半ばから刃を失くした両手剣。単純な耐久力の差だ。二振りの剣を重ねている魔女の鋏に軍配が上がったというだけのこと。

 

「しぃっ!」

 

 だがレーベンは怯まない。むしろ得物が軽くなって好都合とばかりに片手剣擬きを振り下ろす。

 

『寒いぃ!』

 

 だがその一撃はまた狙いを外した。いや「避けられた」のだ。シスネにはそう見えた。

 よくよく観察すれば、泥と襤褸の隙間から見える魔女の躰はしなやかに引き締まっている。何らかの肉体労働をこなしていたか、あるいは武術の心得がある女性だったのかもしれない。身につけた技術や癖といった物は魔女化した後もある程度は残る。それが凡そ最悪の形でレーベンの前に現れていた。

 

「く――っ!」

 

 悪態とも笑いともつかない声をあげたレーベンが剣を投げ捨て、懐から薬――おそらく強化剤を取り出す。何本目か分からないが、彼の様子を見るに一本や二本で済まないことは確かだ。

 あれ以上は命に関わる!

 

「やめ――――」

『熱いぃ!』

 

 シスネの警告は魔女の声と銃声にかき消され、レーベンは空になった容器を乱雑に投げ捨てる。そして地面に突き刺さった斧を拾い上げ、また魔女へと突き進んでいった。

 

 

 

「あぁもう、この……っ!」

 

 駆け回りながら骨弾を避けるにも体力が続かず、途中から大盾の陰に隠れていたシスネは苛立った声をあげた。延々と銃を撃ち続ける魔女の反則技も、何ひとつ顧みないレーベンの無茶も、まるで埒のあかないこの状況も何もかもが腹立たしい!

 

 ――だめ、落ち着いて

 

 目を閉じ、努めて体の力を抜きながら深く呼吸する。レーベンが冷静になれないというなら、シスネが冷静にならなければ。

 まずは状況を整理する。シスネに残された武器は短銃が二丁と大短銃、そして短剣が三本。だが手持ちの弾薬は全て水浸しで使い物にならない。つまりシスネの手札は短剣だけだ。少しでも身軽になる為に、使えない装備は全て外しておく。

 銃撃の間を見計らい、大盾の陰から周囲を見回す。辺りにはいくつかの聖銀武器が散乱しているが、それは剣や斧などシスネに扱えるかは分からない物が殆どだ。炸裂弾や焼夷弾もあっただろうが、それはもう晒し台だった篝火の中で燃料となってしまっている。

 結局は何も変わらない。とにかく近付かなければ話にならない。肉薄し、短剣で仕留める。それしかない。だが周囲に遮蔽物は無く、この大盾も持ち運ぶには重すぎる。骨の散弾を撒き散らす魔女へ無防備に近付くのは危険すぎる。その為に弾切れを待っていたが、それも通じないのなら別の策が必要だ。

 

「……」

 

 考える。目を閉じて必死に頭を回す。喚き散らす魔女の声も大盾を叩き続ける骨弾の耳障りな音も全て無視して考える。暗闇の中で騒音だけがシスネの頭に響く。

 魔女の声。銃声。金属音。魔女の声。レーベンの声。篝火が弾ける音。金属音。銃声。

 ピチョン、と。水が滴る音。

 

「…………」

 

 決心が揺るがない内に、シスネは大盾の陰から立ち上がった。

 

 

 ※

 

 

 この場の誰も知る由の無いことだが、四つ目の魔女と隻腕の魔女、この二体は元は女騎士であった。

 

 その女騎士は聖都に属し、この戦いよりも前――異常な魔女の減少が起きる以前に魔女狩りへと赴き、そしてその先で魔女となった。

 騎士としては珍しく銃を主な武器としていた女は、魔女狩りの最中で自身の聖女を誤射してしまった。すばしっこい魔女だった、夜間での戦いだった、聖女と(はぐ)れて強化剤を服用していた……。不運が幾つも重なった末での事故だったが、自身の放った散弾に腹を抉られ、更に所持していた焼夷弾に引火して火達磨となった聖女の姿は、女を絶望させるには充分に過ぎて。

『熱い』と、『どうして』と、そう叫びながら自決した聖女の焼死体。焼け落ちた彼女の双眸は自分を睨んでいるようで……。

 聖女の頭を抱いた女は、黒い涙だけを流しながら何処かへと去っていった。

 

 

 

『熱いの、どうして』

 

 魔女はその四つの目を蠢かせながら獲物を待っていた。何を考えるでもなく、ただ魔女の本能と人であった頃の癖に従って長銃のレバーを引く。

 魔女には分かっていた。この得物の扱い方も効果的な使い方も。思考によって理解するのではなく、本能によって分かっていた。獲物である聖女に飛び道具は無く、有効な遮蔽物もこの場には無い。ならば待てば良いのだ。痺れを切らして飛び込んできたところを、この得物で穿つ。

 

『熱い、熱い……』

 

 四つの視線の先では大きな篝火がごうごうと燃えている。何故かその炎から目が離せないが、魔女はそれを不思議に思うこともない。ただ篝火の向こうで動かない聖女を待ち続けた。

 どれだけ経ったのか。時間感覚など失くして久しい魔女にとっては数秒も数分も変わらず、長銃を向けたまま佇み続け、そして篝火の横から何かが飛び出した。

 

『熱い』

 

 引き金を弾いて発砲。放たれた無数の骨が散弾となってそれを穿つ。弾け飛ぶ木材。燃え損なった晒し台の残骸。囮。

 

『熱いの』

 

 魔女は何も動じない。ただ本能で聖女の動きを予測する。

 道は二つのみ。篝火の右か左か。囮は右。聖女がどちらから来るかは不明。ならば両方とも見れば良い。四つの目が蠢き、左右それぞれを二つずつの目が睨みを効かせる。素早くレバーを引いて骨弾を装填。銃口は右のまま。勘。

 また長くも短くもない時間が流れ、そして。

 

「あああぁぁ――――っ!」

『あづ――!』

 

 聖女は予測の外から現れた。

 

 

 ◇

 

 

 放たれた骨弾がまたシスネの左腕を掠める。本来の弾丸よりも威力は劣るが、それでも当たり所によっては致命傷だ。何より痛いが、全て無視する。シスネは元より痛みには強い。

 今はとにかく前へ。次の骨弾を装填される前に!

 

「あああぁぁ――――っ!」

『あづ――!』

 

 間近に迫った黒い泥と色の異なる二対の双眸。向けられる長銃を右手で払い除けながら魔女の躰へとがっぷり組み付いた。

 

「つ、かまえた……っ!」

 

 荒く息を吐くシスネの顔は赤く、それは羞恥でも興奮によるものでもない。それは炎の中を走り抜けてきた故の軽い火傷であり、全身から立ち上る湯気もその為だ。

 シスネは、魔女が銃の扱いに慣れていることに気付いていた。だから生半可な陽動では誤魔化しきれないと踏み、篝火の中を駆け抜けるという捨て身に打って出たのだ。何度も水に沈められてズブ濡れた髪と装束がここに来て役立った。もし乾いた体のままだったら今頃シスネは火達磨になっていただろう。

 

『熱い!』

「こっちの台詞ですよっ!」

 

 なんにせよシスネは賭けに勝ち、だが後が無いことに変わりはない。だから何よりも先に、悪態と共に短剣を魔女の顔面へと突き刺した。

 

『あああ゛あ゛あ゛づいえぇ――――っ!』

 

 泥に覆われ尽くした魔女の顔に口は見当たらないが、それでも悲痛な叫びを間近から聞いて耳が痛くなる。だがそれで容赦するほどシスネは甘くはなく、そして余裕も無い。四つの目の一つを潰した短剣を捻り、更に押し込んでいく。

 

『熱い! 熱いどうじでええぇぇ――!』

「ぐふぇっ!?」

 

 悲鳴と共に鳩尾へと走る衝撃にシスネもくぐもった悲鳴をあげる。長銃を持つ魔女の右手とは逆の左手。ぐずぐずに融けたような丸い拳がシスネの腹を打ったのだ。

 

「……っ、この、さっさと……!」

 

 怯みそうな体に叱咤してその場に踏みとどまる。もう後は無い。ここで間合いを放してしまえば今度こそ勝ち目は無くなってしまう。短剣を更に押し込み、柄まで埋まったそれを手放して二本目の短剣を手に取る。

 そこから先はどこまでも泥臭い消耗戦だった。躰に組み付かれた魔女は鈍器となった長銃でシスネの頭を殴り、肉の薄い腹を何度も殴る。シスネは乱打に晒されながらも組み付いて離れず、二本目の短剣を、そして三本目の短剣を魔女の目に突き刺す。血反吐と泥を互いにかけ合いながら、魔女と聖女擬きの戦いは遂に膠着状態へと至った。

 

『あづい……どうじて……』

「はぁ……っ、ああ゛……っ、この、くっそ……!」

 

 頭から血を流し、唇から涎と胃液が流れた跡もそのままのシスネは魔女に組み付いたまま荒く息を吐く。武器はもう無く、体力も底を尽きそう。やせ我慢も限界だ。

 対する魔女も虫の息といった状態だった。三本の短剣を楔のように目に突き立てられ、最後の一つからも泥が涙のように流れている。ただでさえ融けていた躰は更に形を失おうとしていた。

 

『あ、づい――っ!』

 

 最後の力を振り絞ったかのように、魔女が長銃を振り上げる。今までは片手で振るっていたそれを両手で握り、渾身の振り下ろしでシスネの頭を叩き割らんと――。

 シスネの両手がバネ仕掛けのように動いた。

 

『どう……』

「うるさい」

 

 ズブリと、シスネは長銃を最後の目に突き刺した。

 

『あ゛――――』

 

 魔女に理解できただろうか。振り下ろされた長銃に手を這わせ、回転させて奪い取ったシスネの早業。役に立った機会など殆ど無く、あまりにも割に合わない危険な「技」を。

 

『熱い……どうして……』

 

 遂に全ての目を失った魔女は、何かを探すように両手を彷徨わせる。そのまま融けた脚部を蠢かせて這いまわり、そしてその先には。

 

『あ、づい――…………』

 

 大きな篝火へと自ら身を投げたかのように、魔女は炎の中で融けていった。

 

 

 

「……女神の導きのあらんことを」

 

 赤黒い炎をあげる魔女の死骸を睨みながら十数えたシスネは、少しだけ体の力を抜いた。

 まだ休めない。まだ終わっていない。はやくレーベンの加勢に向かわなくては。近くに落ちていた両手剣を拾い上げ、思っていた以上に重いそれを引きずりながら本棟の壁際に向かい。

 

「――――ぇ」

 

 魔女に槍を突き立てながら、腕を斬り落とされたレーベンの姿を見た。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

裏切り者に呪いの声を

 

 その女騎士が魔女となったのは、ごく最近のことであった。

 魔女の異常減少を発端とした、大規模な魔女の捜索作戦。それに参加したのはポエニスの聖女と騎士だけではない。聖都に属しながら騎士としてそれなりの経験を積んだ女もまた、自身の聖女を伴って辺境の町へと向かったのだ。

 

 魔女を探しはじめて間もなく、何人かの男たちから「魔女を見た」という話を聞いた。幸か不幸かさっそく見つかった魔女を狩るべく男たちの案内に従って町を出て、そして気が付けば何処かも分からない小屋の中で拘束されていた。

 何が起こったのか。何故こんなことになっているのか。不意討ちで聖女を気絶させられてしまえば、女騎士はただ武術を修めただけの女でしかなかった。一人か二人は倒せたが、あとは人数差に押しつぶされてあっけなく捕らえられてしまった。

 女を取り囲む男たちの半数は憎悪に目を輝かせ、そして残りは下卑た視線で女を舐めまわしていた。男たちが口々に言う。殺してやると。犯してやると。楽には殺さないと。死んだ後も犯してやると。

 理不尽な恐怖に飲まれかけた女の脳裏に、ある英雄譚の一節が過っていた。悪騎士ジャック・ドゥの無残な最期。彼が狩った魔女、その家族の復讐。そういえば男たちの何人かの顔には見覚えがある気もした。それを今になって思い出した。

 

 ふざけるなと思った。そう叫んだ。だが得物である双剣を取り上げられ、鎧も剥がれた上に拘束された女は簡単に袋叩きにされた。聖女のいない女は無力だった。そしてその聖女もまたすぐ隣で拘束されている。

 必死に叫んだ。聖性を。聖性をくれと。聖性さえ流されれば、こんな拘束は簡単に振りほどける。こんな暴漢共も素手で皆殺しにできる。それで助かる。生きて帰れるのだ、二人で。

 だが頼みの聖女は震えて涙を流すばかりで一向に聖性を流してはくれなかった。女が目覚める前、既に凄惨な暴力に晒されていた彼女の心は折れており、聖性を使えば生きたままバラバラにしてやると脅されていたから。女の懇願と男たちの脅迫に板挟みされた聖女は泣き叫び、そして突如として息絶えた。

 

 聖女は自決した。男たちは聖女の死体をも執拗に切り刻み、その最中で汚す者までいた。それを女はただ呆然と見ていた。

 彼女は自決した。なら自分は? ひとり残された自分は、これからどうなるのか?

 女は叫んだ。押さえつけられ、衣服を引き裂かれ、左腕に斧を当てられ、騎士としての矜持も女としての尊厳も何もかも奪われようとする中、視界がじわりと黒く染まった。

 

 寒かった。冷たかった。

 失くした左腕から流れ出る血も、守るべき民だと思っていた者たちからの仕打ちも、そして何よりも強い絆で結ばれていると信じていた聖女からの裏切りも。躰も心も、何もかもが寒くて冷たかった。

 

 

 

『寒い……』

 

 振り下ろされる斧を、魔女は半歩下がるだけの動きで回避した。武器の重さを活かした振り下ろしは高い威力を持つ反面、避けられれば大きな隙となる。それを本能で分かっている魔女はすぐさま右腕の鋏を獲物である黒髪の男へと向けるが、男は斧を手放して退いていた。

 

『冷たい……』

 

 右腕に握った双剣に挟まれた聖銀の斧。それを掲げて刃を閉じれば、小枝を手折るように斧の柄が両断された。その行為に威嚇の意図は無い。魔女はただ本能と衝動に従って斧を壊し、そうこうしている内に男は別の得物を手に戻ってきていた。

 

「ぬんっ!」

 

 槍だった。魔女はもちろん、男の身の丈も超える長槍。だが左腕だけで振るわれるその槍捌きは精彩を欠き、躰を揺らすだけで突きを避け、大きく振るわれた横薙ぎは胸を反らせてくぐり抜ける。三度は振らせず、鋏で捉えた柄をまた両断する。

 

「――しっ!」

 

 だが男は今度は退かず、半分ほどの長さとなった槍を手にまた突いてきた。先ほどよりも鋭さを増した槍捌き。魔女に理性と知性が残っていれば察しただろうか。男がわざと槍を切らせ、扱いやすくしたということに。

 戦いは膠着状態へと陥りつつあった。卓越した技量を下地とした本能を持つ魔女は攻撃を尽く躱し、双剣を元にした歪な得物しか持たない魔女は決め手に欠ける。互いの攻撃が対手に届くことはなく、双方はやがてじりじりと間合いを読むように円を描き始めていた。

 

『寒い……寒い……』

「……」

 

 男の顔に表情らしいものは無く、例え魔女に人としての理性が残っていたとしても答えは変わらなかっただろう。だがそれでも魔女には、その顔に得体のしれない笑みが掠めたように見えた。そしてその顔のまま、正面から突撃してくる。

 

『冷たい……』

 

 

 その無謀を魔女は嗤いはしない。元よりそのような感情は魔女に残っていない。ただ本能と衝動に任せて鋏を振るう。

 狙いは左腕。なぜ首ではないのか、それは魔女自身にも分からない。ただ本能と衝動のままに。

 

『冷……たい!』

 

 男が槍を突きだし、魔女が鋏を振るう。

 男が持つ槍は短く、間合いの差は既に逆転している。魔女の鋏が先に届く。それを魔女は本能によって分かっている。

 鋏の切っ先が肉を挟む感触。腕を確と捉えた感触。あとはこのまま絡み合った両手に力を込めれば、男の左腕は肩口から切断される。魔女の本能は何よりもその光景を欲していた。

 

『冷た――――』

 

 どん、と。男の体が魔女の躰とぶつかる。その感触には本能との差異があった。つまりは違和感に似た物を感じた。

 泥に覆われた目を向ける。目の前にあるはずの顔が見えない。見えるのは黒い髪。男の背中。

 

「つかまえた」

 

 全て同時だった。

 男の声も。魔女の腹が槍に貫かれるのも。鋏が、男の右腕を切断するのも。

 

 

 

 間合いが交差する瞬間、男はぐるりと身を翻していた。魔女に背中を向けて、ちょうど体の左右を入れ替えるように。結果として魔女の鋏は相手の「右腕」を捉えたのだ。二の腕の半ばから失われた、残骸のようなその腕を。

 じょきり。

 ずぶり。

 もう人体のどの部位なのかも分からない骨肉の塊が地に落ち、それよりも早く槍の穂先が魔女の腹を貫いた。

 

『ずあ、むいええ゛あ゛ああぁ――っ!』

 

 双剣を投げ捨て、絡み合った両手で槍の柄を掴む。ずぶずぶと腹に埋まっていくそれを引き抜こうとし、男は当然それを許さず力を込めてくる。後ろ向きという不安定な姿勢で、魔女の躰に圧し掛かるようにして。

 

『――――』

 

 ()()()()()()()()()()()()()()

 魔女の本能がそれを分かった瞬間、目許を覆っていた黒い泥が噴水のように沸きあがった。

 

「っ! くそが!」

 

 立ち上がった男は槍を持ち直して更に力を込めてくるが、槍がそれ以上に埋まることは無い。魔女の両目から噴き出した泥は絡み合う両手を覆い、それを一本の剛腕へと変質させていく。

 槍も、それを握る腕も、男そのものも何もかも握りつぶそうと。

 

 

「――どいてっ!」

 

 

 澄んだ叫びと、振り乱される白い髪。灰色の装束と、聖銀の剣。それを突き立てられた、魔女の胸。

 

『――――つ、めた』

 

 胸を貫く冷たい刃の感触。それを握る聖女。両手剣を懸命に両手で握り、必死の形相で力を込めている。そして、その白い両手に添えられるもう一本の手。

 

「くたばれ」

 

 三本の手が、聖女と男が共に剣を突き立てる。魔女の背中までをも貫き、切っ先が墓標のように地に埋まるまで。深く、深く。

 

『さ……む……ぃ』

 

 並び立つ聖女と、騎士。それを魔女はその目で見ていた。泥が剥がれ落ち、露わとなったその目で。恨むように、羨むように目を細めながら。

 それが、魔女の見た最期の光景となった。

 

 

 ◇

 

 

 十数える間もなく、シスネは傍らのレーベンを地面に蹴り倒した。

 

「いだ――」

「馬鹿ですかっ! 馬鹿なんですよね! えぇ知っていましたとも!」

 

 もはや何を言っても無駄なのだと諦めてはいても、それでも腹の底から怒りは湧き上がってくる。黒い外套を引っぺがして何か言おうとしていた顔に投げつけ、腕ごと切り落とされた平服の袖を裂いて肩口に巻きつける。痛みで呻く声も全て無視して、足で体を踏み押さえながらとにかくきつく結んだ。

 二の腕の半ばから失われた右腕。逆に言えばそれだけは残されていた右腕すら完全に失われていた。これではもう、義手も着けられないだろう。

 

「なんで……どうしてこんな……」

 

 レーベンの行為に意味など無い。もう騎士ではない、教会の職員ですらない彼に魔女と戦う義務など一切なく、その力も残されてはいなかった。それでも狩った魔女が何体だったのか知らないが、それすら彼が狩る必要は無い。レーベンは何の意味もなく戦い、何の意味もなく傷ついた。ほんの僅かに残された、第二の人生を平穏に生きる可能性まで捨ててしまった。何の意味もなく。

 いや、意味はあったのだ。この男が何を望み、何の為に戦ったのか。それをシスネはもう知ってしまっていたから。

 

「……馬鹿、さっさと立ってください馬鹿」

 

 だからこそ腹が立つ。だからこそ許せない。だからシスネは無理矢理にレーベンを立たせ、担ぎ上げるようにして肩を貸した。

 とにかく医療棟へ連れていく。そこで右腕の治療と、薬の中和と、そしてもう二度と抜け出せないよう、どこかに縛り付けて――

 ずぶり。

 

 

「…………え?」

 

 

 どん、と。何故か一言も喋らなかったレーベンに突き飛ばされ、倒れ伏す直前にシスネは。

 

 ――え?

 

 真っ黒な槍に、腹を貫かれるレーベンを、見た。

 

 

 

『聞こえないの』

 

 歪んだ声がほんの僅かにしか聞こえない。それほど遠くに魔女はいた。

 海栗のような、針鼠のような姿だった魔女。三体が融合した共喰魔女、その最後の一体。半球状の躰から生えていた無数の針は無く、その代わりのように伸びた長大な泥の槍がレーベンを正面から貫いていた。

 

「あ、あぁ……っ」

 

 呻くような戦慄きはシスネのもの。魔女の槍は腹から背中までを完全に貫通している。それはどう見ても、明らかな致命傷で……。

 

『聞こえない、聞こえないよぉ!』

「っ、ぐ」

 

 更に、泥で成された槍はぐねぐねと形を変化させていた。レーベンの背中から生えた穂先は花が咲いたように広がり、獲物を決して逃がさない「返し」となる。その意図は明白で、現に短く縮み始めた槍に貫かれたまま、レーベンは魔女へと引き寄せられていく。

 

「やめ――――っ」

 

 シスネは手を伸ばした。倒れたままだった体を起こし、レーベンに向かってまた倒れ込むようにして。

 レーベンもまた手を伸ばした。右腕を完全に失い、腹を貫かれているとは思えないほど凪いだ表情で。

 シスネの手は。

 レーベンの手が。

 

 地に突き刺さった斧の柄を掴んだ。

 

 何も掴めなかったシスネの目の前からレーベンが消える。急速に縮んでいく槍に引きずられ、殺風景な地面に赤い血の(わだち)を引きながら。

 

『聞こえてぇ――!』

 

 叫ぶ魔女の躰からは再び無数の針が伸びていた。全方位にではなく、一方向に向けて。手繰り寄せられ、為す術も無く引きずられてくる憐れな獲物に向けて。

 レーベンに抵抗の手段は残されず、そして抵抗もしなかった。むしろ地面を蹴って引き寄せられる速さが増すように、勢いを増すように。その左手で掲げた、聖銀の斧に勢いを乗せるように。

 

「――おおあぁっ!」

 

 レーベンが吼え、聖銀の斧が閃き。

 

『――ぎごえっ!』

 

 魔女の槍が縮み、魔女の針が伸び、魔女の叫びが潰れ。

 

「――――」

 

 無意味に手を伸ばしたシスネの前で二者の影が交差し、止まった。

 

 

 

 

 

 

 槍が硬さを失くし、元の泥へと還ると同時にレーベンは倒れた。その腹と全身、そして塞がりかけの右目を抉っていた槍と針による支えを失くしたから。

 

「……」

 

 彼は何も言わず、仰向けに倒れたままで顔を傾けていた。すぐ近く、半ば両断されたように斧をめり込ませた魔女の死骸を眺めている。おそらくは、十数えているのだろう。

 

「……、……」

 

 シスネは、這うようにして彼の元へと向かっていた。歩くことも忘れたみたいに足が動かず、言葉も忘れたみたいに唇は動かない。

 ようやくレーベンの元に辿りついた時はもう、彼は青空を見上げていた。十数えても魔女は動きださず、そして彼もまた動けなかっただろうから。

 じわじわと、彼の体を中心にして地面が赤黒く変色していく。それはへたり込むシスネにも届き、灰色のスカートも同色へと染め上げられた。

 

「……」

「……」

 

 遠くから響く戦音も、未だ燃え続ける篝火の音も耳には入ってこない。痛い程の静寂と、二人の沈黙だけが二人の間に漂っていた。

 

「しぬのですか」

 

 それが誰の声なのか、シスネはすぐには分からなかった。自分以外に誰もいないのだけれど。それ程に平坦で、芯も無く、意識の外から零れ落ちた声。

 

「あなたは、しぬのですか」

 

 死ぬのだろう。

 腹に開いた大穴からは血が流れ続け、レーベンの左手はそれを抑えもしない。ただただ、血と命が流れ出すに任せているのだから。

 

「……」

 

 空を見上げていた顔が僅かに傾き、灰色の左目と目が合う。もう片方の目は再び抉られ、無残な裂傷をより惨く見せていた。

 右目と右腕。二十日前に失い、二十日間で僅かに癒え始めていた傷痕を再び開かせた姿で、彼は今度こそ死に向かおうとしていた。

 じゃり、と。レーベンの左手が地面を掻く。ゆっくりと持ち上げられた血塗れの手がシスネの手に触れ、されるがままに手首を握られた。そして更にゆっくりと、無言のまま手を導かれる。

 レーベンの、首に。それが意味することなど、ひとつしか無い。

 

「――……」

 

 シスネは瞳を見開き、レーベンはそれで全ての仕事を終えたとばかりに左手も投げ出した。あとはただ、灰色の左目でシスネの瞳を見上げている。

 その左目はたしかに、わらっていた。

 

 

 

 

 

 

 聖女と騎士の物語は、いつだって悲劇で終わる。

 騎士は騎士である限り魔女を狩り続け、故にいつか必ず魔女狩りの中で死ぬ。

 ならば騎士として生きることと、騎士として死ぬことに何の違いがあるというのか。

 レーベンはきっと、騎士として死にたかったのだ。

 

 故にこれは最高の結末だった。

 魔女と刺し違え、魔女狩りの中で死ぬ。

 己が惚れた、生涯で唯一人の女を守り、その女に看取られ、その女に介錯される。

 どこまでも下らなかった、己の命にくれてやれる最高に笑える結末。

 

 悔いなど、何ひとつとしてありはしない。

 

 

 

 

 

 

 ――なんて、思っているのでしょう?

 

 

 

 

 

 

 

「……ふざ、けないでっ!」

「っ!? ぐぇあ――」

 

 怒声と共にぐちゃりと、腹の大穴を握り塞いでやった。

 安らかですらあったレーベンの顔は苦痛に歪み、苦悶の声と同時にのたうつ体を地面に押し付ける。それがまた痛みを呼んだのか蒼白な顔で痙攣しはじめるが知ったことではない。

 そうだとも、知ったことか!

 

「殺さない……死なせてなんて、やらない!」

「が……っ! ご……」

 

 転がっていた再生剤を引っ掴み、所かまわず突き刺してやる。一本、二本、三本と、短剣で滅多刺しにでもするかのように。じゅうじゅうと肉の焼ける異臭が立ち込め、白目を剥こうとしていたレーベンの顔を思い切り引っ叩く。気絶だなんて、楽な真似も絶対にさせない。

 

 この時、シスネを突き動かしていたのは何の感情だったのか。

 

 近しいものを挙げれば怒りだっただろう。どこまでも身勝手な自己満足で死に向かおうとしていた馬鹿に対する怒り。だがこれはきっと、そんな綺麗な感情でもなかった。

 それはとても穢く、穢くて、穢い感情だった。この三年の間シスネの奥底に溜まり続け、降り積もった穢れ。それが沸き立ち、煮え滾り、ついには地獄の釜が壊れたかのようにシスネの外にまで溢れ出したのだ。シスネにはそうとしか思えなかった。

 

「さあ立って! 立ちなさい! ……立てっ!」

 

 端的に言ってしまえば、シスネは狂気の淵にいた。もしこの場に生きて正気も保った人間がいたならば、一人の狂女が半死人の体を引きずり起こそうとしている、そんな狂気の沙汰にしか見えなかったはずだ。そしてそれは事実に限りなく近かった。

 

「――、……――っ」

 

 だがこの時、レーベンは確かに死の淵にいた。それもまた動かしようのない事実で、シスネはそれを後押ししてしまっていた。断崖へ転がり落ちそうになっていた体を蹴り飛ばし、その首を掴んでぶら下げるかの如き愚行。凶行。このまま続ければ、レーベンは間違いなく死ぬ。

 穢れた衝動に突き動かされていたシスネにもそれは理解できた。理解できてはいたが、正気に戻ることはできなかった。むしろ火に油を注ぐかのように、シスネの唇は歪みに歪んで。

 

「……あぁ、そうですか」

「そんなに死にたいのですか」

「だったら、死なせてあげても構いませんよ」

 

「ただし――」そう続けて、両手で挟んだレーベンの顔を持ち上げ、吐息もかかる近さから睨みつけてやる。その左目に怯えに似た色を見つけ、シスネは声をあげて笑った。どこまでも残酷な気分だった。

 シスネを置いて、ひとり安らかに死ぬなんて許せなかった。

 シスネを置いて、死んでしまうと言うならば。

 なら、その死を最後に穢してやる! 穢してやる!

 

 

「最期に教えてあげますよ、私が、どんなに穢い女なのか――――っ!」

 

 

 肚の奥底から吐き出した穢れを口移すかのように、シスネは全てをかたり始めた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

聖女が死んだ日

 

 シスネレインという女は聖女には相応しくなかった。

 三年前のあの時からではない。その前から、聖女になった時から、聖女に憧れを抱いてしまった時から何もかも間違いだったのだ。あるいはもう、生まれた時から相応しくなかったのかもしれない。シスネの性根はそれほど歪んでいて、誰よりも穢かった。

 シスネは、そう思っている。

 

 

 

 レグルスという青年は模範的な騎士だった。

 騎士を父に持ち、幼くして母を失くし、まだ赤子だった妹の親代わりになりながら修練を積み、周囲の期待を一身に背負い、見事それに応えてみせた。恵まれた才を慢心なく磨き上げた実力は折り紙つき。勇敢でありながら油断も無い。更には人柄だけでなく容姿にまで優れていた彼が、大騎士コルネイユの再来と呼ばれるまで時間はかからなかった。

 そんな彼が聖都でただ「優秀な部類」などという評価に甘んじていたのは、偏にシスネが足を引っ張っていたからだ。シスネの聖女としての実力は低くはなかったが、決して高くもなかった。聖性の適合率も同様で、その相性は良くも悪くもない。何者でもない凡百の聖女。それがシスネだったのだ。

 彼がなぜ自分などを選んだのか。それを聞いたことは無く、そのまま永遠の謎となってしまった。あるいは理由など無かったのかもしれない。ただ「見合い」の際に目の前にいたから、ただ近くにいたから、ただの偶然。そんな程度の理由だったのかもしれない。

 何故なら彼はシスネなどとは比べものにならない優秀な騎士で、何よりも模範的な騎士で、それ故に聖女は誰でも良かったのだろうから。

 

 

 

 シスネはどこまでも愚かだった。

 憧れていた聖女になることができて舞い上がり、現実など何も見えてはいなかった。英雄譚から飛び出してきたかのようなレグルスの聖女となり、自分まで英雄譚の聖女になったかのように錯覚してしまった。

 見習いを終えたばかりで門番か雑用程度しかしていないにも関わらず一端の聖女を気取って。初めての魔女狩りの際は恐怖にただ泣くばかりで、レグルスの初陣を汚してしまったというのに彼は怒ることもなくて、そしてまたそれを自分に向けられた特別な想いなどと勘違いしてしまった。

 

 シスネは、レグルスに恋をしていた。

 

 そもそも医療者の家系に生まれたというのに、ただ憧れだけでその道を捨てる浅慮な娘だったのだ。更に聖女の素質だけは並程度に持っていたものだから質が悪い。

 自分は特別……そんな愚かしい考えはどんどんシスネから正気を奪っていき、そして遂には彼に愛を囁くなどという愚行に至る。契りを交わして一年と経ってはいなかったというのに。

 

 

 

 シスネは愚かだった。だがレグルスはそうではなかった。

 盛った雌猫のようであっただろうシスネを笑うことも蔑むこともなく、彼は最後まで話を聞いてくれた。そしてその上で、シスネの気持ちには応えられないとはっきり拒絶した。

 

 シスネの初恋は、あっさりと終わった。

 

 なぜどうしてと泣き喚く愚かな小娘にも、彼は最後まで付き合ってくれた。シスネの涙と声がかれるまで傍にいてくれて、でも決してシスネには触れなかった。それが彼の優しさで、誠意で、そして壁だったのだ。

 レグルスは語った。聖女と騎士は魔女狩りを共にする戦友であって、決して恋人ではない。どちらが大事などという話ではなく、どちらも大事だ。だが混同してしまえば互いを不幸にするだけなのだと。

 彼の父親は騎士だったが、母親は聖女ではない。父は騎士として聖女と共に戦いながらも恋人と想いを通わせ、そして婚姻と同時に役目を降りた。二人を祝福する人達の中にはその聖女もいて、最後まで良き友人であったのだと。

 それこそが教会が語り、そしてレグルスが目指す「模範的な騎士」の在り方。彼は理想的な騎士を体現したようでありながら、極めて現実的な感性も併せ持っていたのだ。

 彼には騎士として一生を終える気は無く、亡き父の想いを成就し、妹のエイビスを育てあげ、騎士としての義務を充分に果たした後で、今度こそ己の人生を歩むのだと語った。彼の愛する人と共に。

 

 レグルスには恋人がいた。

 

 シスネと会う前から、騎士となる前から、彼がまだ幼かった頃からの長い付き合いなのだと。シスネはまるで気が付かなかった。一年間、仮にも誰よりも傍にいたというのに。まったく、気が付かなかった。

 全てを語り終えたレグルスは改めてシスネに応えられないことを詫び、頭まで下げた。彼には非なんて何ひとつ無かったというのに。

 全てを聞いたシスネはまた泣いた。泣いて、泣き止んだ後、シスネはようやくほんの僅かに現実を見ることができて……でも、愚かなままだった。

 

 それでもいいと、シスネは言った。

 

 想いに応えられなくてもいい、恋人になれなくてもいい、ただ聖女として近くにいられればそれでいい。そんなことを言った。

 それが、最後の別れ道だったと言うのに。

 

 

 

 本当の意味で、シスネは彼の聖女となった。

 それからの一年間は穏やかに過ぎていった。多少は謙虚さも取り戻したシスネは聖女としての務めを果たしながら、常に一歩下がった場所からレグルスを見ていた。彼は相変わらず理想的で模範的な騎士として働き、家に帰ればエイビスには優しい兄として接し、そしてシスネの見えないところで恋人と逢瀬を重ね続けた。

 

 これで良いのだと、シスネは思った。

 

 だって全ては順調だ。自分は憧れた聖女となって、不相応なまでに優秀なレグルスと共に戦うことができている。あんな事は無かったかのように彼との関係も良好で、唯一の家族であるエイビスとも気軽に話をできる仲だ。「姉ができたようで嬉しい」だなんて、そんな勿体ない言葉まで貰っている。

 全ては順調。だからこれで良い。これで……。

 

 

 

『はじめまして』

 

 その女性を初めて見た時、まずはその綺麗な髪に目を奪われた。化粧っけの少ない顔立ちは地味でも整っていて、容姿にまで優れていた癖に着飾ることは好まなかった彼とよく似合っていた。

 何より、彼女を見るレグルスの眼差しはとても綺麗で、優しくて。こんな素敵な女性が彼の伴侶になるのだと思えば、シスネも……。

 

『――はじめ、まして』

 

 彼女はシスネよりも綺麗な髪をしていて、シスネよりも女性的な身体つきをしていて、シスネよりも美人で、シスネよりも、シスネよりも……。

 

 それで良かったと、シスネは思った。

 

 全てにおいて、何もかもシスネより優れた女性だった。きっと彼女のような女性こそレグルスに相応しい。何ひとつとして勝てなかったからこそ、シスネは悔いなく諦められる。

 彼女になら、負けても納得できる。

 もし何かひとつでも、自分より劣った点を見つけてしまえば。

 シスネはもう、自分が何をしてしまうか分からなかった。

 

 

 

 

 

 

 そして、その時が来た。

 

 

 

 

 

 

『来て、こっちに来て』

 

 あの日、聖都の中で魔女が現れたという報せを受けて、レグルスと共に街中を走った。すれ違い、逃げ惑う人々の顔はみんな恐怖に歪んでいて、そして隣を走るレグルスの顔からもだんだんと血の気が引いていくのが見えた。

 魔女の現れた場所。そこは彼の生家の近くで。でもエイビスは見習い騎士として大聖堂にいる筈で。ならば、ならば。

 

『来てよ』

 

 綺麗な髪の魔女だった。まだ泥に覆われていない顔立ちは地味でも整っていて。その髪も顔も身体もすべてシスネよりも……。

 

『――……』

 

 レグルスが、呆然と「彼女」の名を呼んだ。

 

 

 あの瞬間。

 自分の中から湧き上がった悍ましい感情を、シスネは忘れることができない。

 

 

 立ったまま死んだように動かないレグルスの傍で、シスネは手で顔を覆っていた。顔を覆って、小刻みに体を震わせていた。

 逃げ遅れた人々や駆けつけた警備職員たちの幾人かには見られていたが、それは涙を堪えているように見えただろう。自身の騎士が、魔女と化した恋人と対峙するという悲劇に心を痛めていると、そう見えたのだろう。

 だが違う。断じて違う。

 あの時、シスネは泣いてなどいなかった。心も痛めてはいなかった。堪えていたのも涙ではなかった。あの時シスネは、シスネは……。

 

『来て』

『こっちに来て』

『一緒に来て、』

 

 レグルス。

 魔女が、歪んだ声で彼の名を呼んだ。

 それを聞いたレグルスは無言で歩き出し、シスネもそれに続いた。彼に並び立つように歩き、必要もないのに彼の手をとって聖性を流した。彼の聖女であることを誇るかのように、見せつけるかのように。

 今、彼の体に流れているのはシスネの聖性だ。他の何者でもなく、彼女の物でもない。シスネの聖性をその身に流して、シスネが彼に力を与えて、その力で彼は、彼は!

 

 

 レグルスが、武器を捨てた。

 

 

 ――――え?

 

 意味が分からなかった。訳が分からなかった。シスネの意識に生じた空白はその聖性も乱し、レグルスと繋がっていた「線」もあっさりと切れてしまった。それでも彼は歩みを止めない。止めてくれない。

 

『――』

 

 レグルスが名前を呼んだ。シスネではなく、「彼女」の名前を。

 レグルスは笑っていた。涙を流しながら、それでも笑顔を向けていた。シスネにではなく……。

 

 待って

 待って

 待って!

 なぜ!? どうして!? こんなのおかしい! おかしい! おかしい!

 だって彼は騎士で! 私は彼の聖女で! 彼女は……あの女は! もう魔女じゃないか!

 

 シスネの混乱は収まらなくて、頭の中はぐちゃぐちゃのままで、そして時間も待ってはくれない。

 魔女の眼前まで歩いたレグルスが両手を広げた。

 

 ――やめて

 

 魔女を抱きしめるみたいに、魔女のすべてを受け入れるみたいに。

 

 ――やめて

 

 魔女はそれに応えるみたいに両手を広げた。その手の爪はギラギラと刃の光を放っている。

 

 ――やめ……

 

 レグルスは、

 魔女は、

 

 ――やめろ!

 

 銃声。

 

 

 

 

 

 

 気が付けば、シスネは血塗れで座り込んでいた。

 目の前には、騎士だったモノの残骸と、魔女だったモノの残骸が綯い交ぜになって散乱している。

 握ったままの大短銃――彼から送られた自決銃は何発の弾丸を放ったのか白煙を吐き出していた。周りに散らばる、短銃と薬莢、血と泥に塗れて折れた短剣、レグルスの武器、尖った魔女の骨……。

 胸元がやけに熱くて冷たくて、見れば装束と肌がざっくり斬り裂かれている。シスネはそれを他人事のように眺めて、もう一度だけ周りを見回して、全てを思い出して……。

 

『――ふ』

 

 口の奥から、肚の底から湧き上がったのは、引きつった笑いだった。

 

『ふ……ぁは』

 

 いい気味だった。

 だってそうでしょう?

 自業自得だ、当然の報いだ、女神の(ばち)が当たったんだ!

 裏切ったから!

 私を捨てたから! 私を選ばなかったから! 私を愛してくれなかったから! 抱いてくれなかったから!

 だからこんなことになった!

 死んで当然だ! あの男も! あの女も!

 だから!

 だから!

 みんな! わたしが! ころしてやった!

 いい気味だ! いい気味だ!

 

『は、あっははは…………っ!』

 

 シスネは、わらっていた。

 気の触れた女そのものの声で、どこまでも聖女らしからぬ笑みで。

 声も血も涙も、何もかも流し尽くすまで、シスネはわらい続けていた。

 

 

 

 

 

 

 全ては、ありふれた悲劇として処理された。

 騎士レグルスは魔女化した恋人に戦意を喪失し、無抵抗のまま魔女の手に身を貫かれた。

 聖女シスネレインは彼を介錯し、だが撤退することも自決することもなく魔女狩りを続行した。その狩りはあまりに凄惨で、応援として駆けつけた聖女と騎士たちは一人として近付けなかった。

 討伐後もシスネは魔女の死骸を解体し、蹂躙し、その後はあろうことか騎士の遺体をも傷つけ始めた。それ以上は危険と判断した騎士たちに押さえつけられ、武器を取り上げられてからは意味不明なことを泣き叫んでいたという。

 客観的に見れば、それは本当にありふれた事例でしかなかった。魔女化した身内に騎士が戦意を喪失することも、騎士が介錯されることも、騎士を失くした聖女が恐慌状態に陥ることも、全てはありふれた魔女禍の被害でしかなかったのだ。

 

 違いがあったとすれば、聖女が単身で魔女を狩ってしまったということだろう。

 

 まさに前代未聞のこの事件は、聖都をそれなりに騒がせることとなった。将来有望な騎士と目されていたレグルスの死もまた一因で、関心の目は必然的に生き残ったシスネへと向けられた。

 シスネが彼に女としての感情を向けていたことは周囲の目にも明らかで、そして彼に将来を誓いあった恋人がいたことも、その恋人が魔女となったことも皆が知っていた。それらを繋ぎ合わせてしまえば、三者の間に何があったかなど容易に想像できる。

 

 嫉妬に狂った“騎士殺し”

 シスネがそう呼ばれたのは必然だった。

 

 低俗な邪推だと、そう言う人たちもいた。レグルスは不運な巡り合わせによって命を落とし、その聖女であったシスネはあくまで自身の務めを果たしただけなのだと。

 確かにレグルスの直接の死因は魔女の手によるものだ。シスネが彼を撃ったのはその直後のことで、それを目撃していた幾人かは証言までしてくれた。その後のシスネの醜態は決して誉められたものではないが、初めて騎士を失った未熟な聖女では致し方なし。大聖堂の上位職員たちはそう判断し、シスネは不問に付されることになった。

 

 だが違う。それをシスネだけが知っている。

 

 低俗な邪推。それは全て事実だったのだ。

 シスネは嫉妬に狂い、ただ衝動のままにレグルスを撃った。結果として彼を殺めたのは魔女が先だったが、殺意を抱いたのはどちらが先だったのか。同時だったのか、それとも……。

 逃げることも自決することもなく魔女に立ち向かったのも、決して聖女の務めを果たそうとしたからではなかった。ましてレグルスの仇を取ろうとしたわけでもなかった。全ては私怨。ただの私怨だ。そうでなければ、彼の遺体まで滅茶苦茶にしようとした理由がつかない。

 大怪我を負ったシスネには簡単な聴き取りしか行われず、過程と結果以外のことまでは聞かれなかった。寝台から起き上がれるようになった頃には事件そのものも風化し、聖都は何事も無かったかのように平穏を取り戻していた。

 

 だが当然、シスネに刻まれた傷は何ひとつ癒えはしなかった。

 

 胸元から腰まで斬り裂かれた痕は消えなかった。こんなに醜い傷が残ってしまえば、もう誰にも肌は見せられない。服を脱ぐ度、鏡を見る度に、傷痕がシスネを責めるようで……。

 シスネは眠りの安息を失った。眠ってしまえば確実に悪夢を見た。レグルスが背を向け、魔女に向かって両手を広げ、そして最後はシスネがその背中に向けて――。その最後の瞬間、シスネの罪そのものの光景を何度も繰り返し、繰り返し……。

 姉のように慕ってくれていたエイビスの態度も急変した。殴られ、詰られ、憎悪と侮蔑の視線を向けられる度に死んでしまいたくなった。何もかも全て当然の報いだった。

 日を追うごとに自責と後悔と羞恥だけが大きくなっていった。父からの手紙には「時間が解決してくれる」と書かれていたが、とてもそうは思えなかった。昨日よりも今日は苦しかった。明日はきっと今日よりも苦しい。その次の日も、その次の日も……。

 

 そして何よりも、シスネは聖性を扱えなくなっていた。

 

 どれだけ繰り返しても、どれだけ集中しても、シスネの聖性は指先にすら灯らなかった。大聖堂の書庫で何冊の本を掘り返そうと、そんな症例は見つからなかった。誰にも相談はできない。聖性が扱えないということまで知られてしまえば、今度こそ本当にシスネは聖女ではなくなってしまう。

 聖女でなくなることが怖かった。

 こんな、聖女に相応しくない女だというのに。

 だって、聖女ですらないのならシスネは、シスネは……?

 

 

 

 シスネには二つの道があった。

 一つは贖罪。全ての罪を告白して、教会の裁きを受ける。きっと聖女ではなくなる上に厳しい罰を下されるだろうが、それも当然のことだ。

 一つは忘却。全てを忘れて、聖女の役目を降りる。あとは生家に帰って、教国の民としてのうのうと生きれば良い。傷のある体では嫁の貰い手など無いだろうが、医療者として働けば家族も追い出しはしないだろう。

 贖罪か忘却か。だがシスネが選んだのはどちらの道でもなかった。

 

 

 

 シスネは一人で魔女狩りを始めた。

 聖性が無くても、騎士がいなくても魔女は狩れる。シスネ自身がそれを証明した。してしまった。

 銃なんて聖女であった頃には碌に触らなかったというのに、訓練を始めてみれば驚くほど手に馴染んだ。聖女としての才能より、銃を扱う才能の方がよほど恵まれていたらしい。あまりの皮肉に吐き気がする思いだった。

 瞬く間に三年が経ち、その間シスネは一人でひたすら魔女を狩り続けた。どれだけ止められても、どれだけ傷ついても、どれだけ詰られてもやめようとはしなかった。やめてしまえば、止まってしまえばシスネはきっともう正気ではいられなかったから。

 それは惰性であり、そして逃避だった。贖罪でも忘却でもない、シスネが選んだどうしようもなく愚かな道。自分の罪を自覚しながらも直視はできない。聖女には相応しくないと自覚しながらも、聖女の名前は捨てられない。本当にどうしようもない、虚飾にまみれた現状維持。

 でもそれで良かった。もうそれしか残っていなかった。

「騎士なき聖女」にはそれがお似合いで、そしてレグルスから送られたあの銃は本物の自決銃だった。

 あの銃の引き金を弾いた時に、聖女シスネレインは死んだのだから。

 

 

 

 ある日、シスネは旧聖都への異動を命じられた。

 その道中で魔女出没の報せを聞いて、もう一組の聖女と騎士と共に森に入って。

 そして、そこで――。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

「聞いていますか? それとも死にましたか」

 

 握り塞いでいた腹の傷を指先で撫でてやると、シスネに組み敷かれていたレーベンが呻く。まだ死んではいないらしい。それがやけに可笑しくて、シスネはまた笑った。

 

「聞かせてください」

「今、どんな気分ですか?」

「あなたが何もかも捨ててまで守ったのは、こんな女だったのですよ?」

「聞かせてくださいよ、ねえ」

 

 くつくつとした笑い混じりに問いかけても返事はない。胸倉を掴み上げて、血の痕も新しい頬を二度張った。

 

「あなた言いましたよね? “俺の聖女になってくれないか”って」

「大変でしたよ。笑いを堪えるのに精一杯で」

「見る目が無いにも程がありますよ、あなた」

 

 虚ろな左目を間近で睨めつければ、灰色の光彩に映る白髪の女。どこまでも穢らしく嗤う、穢らしい女。シスネレイン。

 

「あぁ駄目ですよ、まだ死なないで」

「死ぬ前に聞かせてください、見せてください」

「まだ答えてもらっていませんから」

 

 死体じみた体を引きずり上げて、本棟の壁に押し付ける。俯こうとする頭を両手で包みこみ、口付けるようにその目を覗き込んだ。シスネは視線に敏感で、だからレーベンのその目に現れた感情も読み取れる。表情ではなく目に出るのだ、この男は。

 灰色の左目。そこから読み取れたのは、怒りと……そして大きな、失望。

 それを見て、シスネは。

 

「――――っふ」

「は、はは、あっはは……っ!」

 

 シスネは、わらった。晴天の青空を見上げながら、薄暗がりの中でわらった。あの時みたいに。

 だって、その表情は、その表情をシスネは、ずっと、ずっと。

 

 

「あなたのその顔が見たかったんですよ――!」

 

 

「聖女だとでも思いましたか! この服を着て! 白い髪なら聖女だとでも!」

「残念でしたね! 私はあなたが思っているような女じゃなかったんですよ!」

「いい気味です! いい気味です――っ!」

 

 晴天の下で、シスネの笑い声と叫びだけが響く。狂った女そのものの顔と声で。

 だってそうでしょう?

 シスネの性根は歪んでいて、その心はどこまでも穢い。

 きっと元からそうだったのだ。生まれた時からずっと。

 ()()()()()()()()()()()

 そうでなければ、あんなことをしておいて正気でいられた筈がないのだから!

 

「なんとか言ったらどうですか! ねえ、ほら!」

「私に言うことがあるでしょう? 言いたいことがあるでしょう?」

「さあ、はやく――――」

 

「穢い」って、

「騙された」って、

「恨んでやる」って!

「殺してやりたい」って!

「死ねば良かったんだ」って!

 

 言ってみろ――――!

 

 

 

 

 

 

「それだけか?」

 

 

 

 

 

 

「…………ぇ?」

 

 心臓が止まりそうな声だった。それ程にレーベンの声は冷たくて、鋭くて、何よりも確信に満ちていて。

 

「違うだろう」

「まだ終わりじゃない」

「続きがあるはずだ」

 

 ひゅっとシスネの喉から音が漏れて、同時にレーベンが死体のように立ち上がった。暗がりの中、黒い髪と黒い外套の、影のような男の影がシスネに覆いかぶさってくる。

 

()()()()()()()()()()()()()()()

 

 灰色の視線に貫かれて、シスネは今度こそ顔を青褪めさせた。

 もう何も、わらえはしなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

聖女と騎士が生まれた日

 

 レーベンは激情とは縁遠い人間だった。

 それはきっと家族も故郷も知らない生まれのせいであり、他者より劣り欠落しているという事実と自覚のせいでもあるのだろう。レーベンの奥底には常に諦観があり、故に何を失おうと何を奪われようと激しく怒ることも哀しむことも無かった。

 だがごく最近になって、一つの例外が生まれた。そしてその例外が今だったのだ。

 

 

 ◆

 

 

 目の前でシスネがわらっている。

 口を引き裂くように歪めながら、シスネレインという女が如何に穢い女であるかを説き叫んでいる。時々、思い出したかのようにレーベンを殴り、嘲るのは挑発のつもりなのだろうか? そうだとすれば、まったくの取越し苦労だ。

 そんなことをせずとも、レーベンは既に怒り狂っているのだから。

 

「それだけか?」

 

 それだけでシスネは面白い程に狼狽した。狂女か悪女でも気取っていたような仮面はあっけなく剥がれ落ち、彼女本来の顔を再び曝け出す。その表情は、恐怖の一色に染まっていた。

 レーベンの口調は平坦で冷たさすら感じさせる物ではあったが、その内心は決して穏やかなどではない。死の淵に瀕し、更には何本も突き刺された再生剤の中に強化剤も混じっていたのかもしれない。苦痛が裏返った末の高揚が、レーベンをひどく残虐な気分にさせてもいた。

 

「違うだろう」

「まだ終わりじゃない」

「続きがあるはずだ」

 

 レーベンの内にあったのは激しい怒りと、そして大きな失望。

 己が生涯で最も美しいと思っていたモノを穢し貶め嗤うシスネの言葉と、この期に及んですべてを語ろうとしないシスネ自身に。

 レーベンは確信していた。シスネがもっとも許せないのは、彼女が嫉妬に狂ったというそれではない。そして彼女自身がそれに気付いていない筈がないのだ。

 

「どうした、言えないのか」

「…………ぁ、ぃゃ……!」

 

 か細い両手首をまとめて掴んで、押し倒した彼女の頭上に押し付けてやる。細い腰を両脚で挟んでやれば、それでシスネはもう磔も同然の格好となった。怯えた黒い瞳は、ただレーベンだけを見ている。

 

「……ふ、へ」

 

 惚れた女を押し倒すという状況。冷静でいられる筈もなく、レーベンの内の激情も薬もそれに拍車をかけるばかりで。同時にまた異なる激情が首を擡げたことを確かに自覚する。

 

 ――あぁ、そうか

 

 つい四日前の、小さな宿場町で自覚した得体の知れない感情の波。それは己にもっとも縁遠く、それでいていつだって肚の奥底で燻っていた感情。

 シスネの体にも心にも癒えない傷を刻んでいった、己とは何もかもが違う騎士(おとこ)への。レグルスへの。

 

「これが、嫉妬か」

 

 傷を癒せないのなら、いっそもう一度傷つけてやろう。癒えない裂傷を炎で焼き塞ぐように、それを己がつけた傷に変えてやろう。

 シスネの黒い瞳の中で、レーベンが獰猛にわらっていた。

 

 

 ◇

 

 

「言えないなら、言ってやろうか」

 

 シスネを見下ろすレーベンの左目は獰猛な光を放ち、抉れた右目からボタボタ流れた血がシスネの顔を汚していく。でもそんな事はまるで気にならない、そんな事より、そんな事より――!

 

「や、やめて……っ」

 

 嫌。聞きたくない。言わないで。言わないで!

 シスネが見るレーベンの視線に嘘は無い。シスネを見るレーベンの目にはもう一切の慈悲が無い。彼にはもう全てお見通しで、全て確信しているのだと確信してしまった。

 シスネが肚の奥底の底に隠して、隠して。誰にも、自分自身にすら明かそうとしなかった本当の秘密。何よりも「シスネ」を打ち砕いてしまうその事実を、彼はもうその手に握っている。そしてそれを今……。

 

 

「絶望した振りはやめろ」

 

 

 シスネは叫んだ。体は完全に押さえつけられて、動くことも逃げることもできなくて、目を閉じたって声は聞こえてきて。だから叫んだ。嫌だと、許してと、なんでもすると、命乞いそのものの声で。

 

 

「本当は、絶望なんてしていないんだろう」

 

 

 聞こうとしないことは、耳を澄ますことと同じ。刃に等しいレーベンの声も言葉も、余すことなくシスネへと突き刺さっていく。

 

「何故なら」

 

 ――やめて

 

「あなたは」

 

 ――やめて!

 

 

 

 

 

 

「魔女に、なっていないじゃないか」

 

 

 

 

 

 

「――――――」

 

 ぽろりと、シスネの瞳から涙が零れ落ちた。

 その色は透明で、まったく、黒くはなかった。

 

 良い聖女でいられないのなら、いっそ悪い魔女になってしまいたかった。

 レグルスの死に、自分自身の罪に絶望して、魔女になりたかったのに。

 そうすればせめて、シスネの想いの深さを証明できたのに。

 だけどシスネは人のままで。魔女にはなれなくて。黒い涙なんて、流せなくて。

 

 それはつまり、シスネの想いは、その程度のものだったということ。

 レグルスへの想いも、この罪への想いも、シスネを魔女に変える程ではなかった。

 ()()()()()()()()()()()()

 

 聖女じゃない。魔女でもない。ただ心が穢いだけの女。

 それが、シスネレイン。

 

 その事実が、何よりも恥ずかしかった。

 

 

 ◆

 

 

 薄暗がりの中で、シスネが啜り泣く声だけが聞こえる。

 半狂乱で叫んでいたシスネも、今は大人しいものだ。まとめて押さえつけている両腕も、力を入れるまでもなく暴れる気配は無かった。ただただ、透明な涙を拭うこともできず泣き続けている。

 

「…………ころして」

 

 嗚咽に紛れるような小声だった。左目を向けてやれば、涙に濡れた黒い瞳はすぐに逸らされる。視線と羞恥に弱いという、シスネらしい所作。

 

「もう、恥ずかしくて生きていられない……」

 

 嘘も、偽りも、仮面も、虚飾も、何もかも剥ぎ取られた女がそこにいた。

 他の誰でもない、レーベンがそうした。彼女を救う為ではなく傷つける為に。彼女の傷を、己の物とする為に。

 

 ――穢いのは、お互い様か

 

 嫉妬に狂い、想う相手を害した。レーベンがしたことはシスネと同じだ。違うのは、その相手が生きているか死んでいるかだけで。故に、それでシスネがどうなってしまうのかなど、レーベンは何ひとつ考えなかった。何も考えないまま、彼女の傷を根こそぎに抉り尽くした。それで狂い死ぬならば、いっそ狂ってしまえば良いとさえ思っていた。

 だが彼女はただ静かに泣いていた。泣き叫ぶわけでもなく、狂うわけでもなく、……魔女になるわけでもなく。

 結果としては、良い方向に働いたのだろうか。傷口に溜まった膿をかき出したように、肚の底に溜まった病巣を瀉血したように。彼女の奥底に降り積もっていた何かが、透明な涙となって流れ出ている。レーベンには、そう見えていた。

 

「どうして…………?」

 

 どうして分かったのか。涙に濡れた黒い瞳が、そう問いかけてくる。

 簡単な話だった。

 レーベンはシスネを信じ、だからシスネの言葉を信じなかった。

 どれだけ彼女が自身を貶めようと、彼女自身すらそれが真実だと思い込んでいようと。

 

 レーベンは見たのだ。

 この目で、全て見てきたのだ。

 

 レーベンの愚行に本気で怒り、こんな馬鹿のことも本気で案じる優しさを。

 ノール村の人々の為に、恐ろしい破戒魔女に立ち向かおうとした優しさを。

 もう戦えないレーベンを見捨てず、幾度もこの命を助けようとした優しさを。

 そして何よりも。

 

『魔女はね、……心が綺麗な人しか、なれないんだよ?』

『哀しいことを哀しいって、そう心から思えるのは、とてもすごいことだと思わない?』

『……どんなに哀しいことがあっても、平気な人だって、いるんだよ』

 

 あの夜、少女(ミラ)を魔女禍の呪いから救い出した「聖女」の姿を。

 自身を嗤い、レーベンを嘲笑っていた彼女の言葉には何の重みも無かった。あの夜のあの言葉の方が、よほど血を吐くような叫びだった。

 

 故に確信した。

 この潔癖で繊細に過ぎる(ひと)は、自分を許すことができないだけなのだ。

 

 人を妬む心。人の不幸を悦ぶ心。優越心。嗜虐心。人なら誰もが持っているような心の穢れ。そんなものですら彼女は許容できず、自身を穢れた異常者だと断じてしまう。その優しさも認められず、それは善意ではなく悪意だと自ら曲解してしまう。

 あるいは、それもまた彼女の心の自己防衛だったのかもしれない。

 あんな事をしてしまった自分はきっと生まれながらの異常者で、だから魔女にもならず正気を保っているのだと。そんな自罰的な自己暗示で、却って自身を傷つけていたのかもしれない。

 穢いなどとんでもない。彼女はむしろ……。

 まったく、本当に、

 

「め、んどうな……っ」

「――んなっ!? ひ、きゃ……っ!」

 

 吐き捨てると同時に、レーベンは遂に限界を迎えた。崩れ落ちた体がシスネに圧し掛かり、だが彼女はそれを何かと勘違いしたのか、悲鳴まじりに押しのけられる。……拷問でも強姦でも好きにしろと言っておいて、結局はこれである。

 

 ――まあ、元気そうで何よりか

 

 霞み始めた目で青空を見上げながら、苦笑する。

 結局は、全てレーベンの憶測に過ぎない。本当のところはシスネ自身しか知らず、この様子ではシスネ自身すら分かっていないのかもしれない。それほど彼女の精神は不安定で、彼女にとって三年前の事件は衝撃的だったのだ。

 彼女が嫉妬でレグルスに殺意を抱いたという事実は変わらず、何よりレーベンとシスネの付き合いはひどく短い。出会ってから小半年と経っていない己が何を説いたところで、三年物の彼女の苦悩を払うことなど出来ないのだろう。

 レーベンは英雄ではなく、心の機微にも疎く、なにより馬鹿で、そしてもう時間は無いのだから。

 

「あ、ま……待って……っ」

 

 涙の痕もそのままに、シスネが揺さぶってくる。それにもう苦痛すら感じない。

 レーベンはそもそも死の淵にいたのだ。狂乱したシスネに再生剤を何本も打たれたからといって、それで腹の大穴が塞がったわけでもない。今ここでレーベンは死ぬ。それはもう変わらないのだ。

 

 元より、レーベンは死ぬ為にここに来た。

 

 ライアーは死んだ。カーリヤも死んだ。シスネも死ぬかもしれない。この国はもう滅ぶのかもしれない。ならばレーベンがひとり逃げ延びて何になるというのか。

 ある意味では、渡りに舟だったのだ。魔女と刺し違えて死ぬという望みが潰え、紆余曲折を経てようやくそれを諦められたかと思えば、この戦が嵐のように降りかかってきた。あまりに出来過ぎた皮肉に、女神に拍手の一つでも送ってやりたくなる。

 思いがけず用意された死に場所。そして今、レーベンは遂に終わろうとしている。魔女を狩り、シスネを助け、そして死ぬ。その後に一悶着あったものの、概ね満足できる死に方の筈だった。

 だったのだが。

 

「――ぃゃ」

 

 震える白い手がレーベンの顔に触れる。霞んだ視界の中でも、彼女の顔だけは鮮明に映し出されていた。聞きなれた、澄んだ声が震える言葉を続ける。

 

「いや、です」

「しなないで」

「しんでは、いやです」

 

「――――……」

 

 何の感情も感じられない声だった。彼女の抱える闇も懊悩も、あらゆるしがらみが抜け落ちたような声。どこまでも純粋な、彼女の本心。

 

 ――あぁ、ひどい話だ

 

 本当にひどい話で、シスネはひどい女だ。

 レーベンの、唯一つの望みがようやく叶おうとしていた、この時になって。

 こんな、何もかもが手遅れになってしまってから。

 シスネは。レーベンは。

 

 

 レーベンは、左手を差し出した。

 

 

 ◇

 

 

 レーベンが、左手を差し出した。

 

「ぇ……」

 

 その手の形をシスネは知っている。

 握手ではない。掌を上に向けた、相手から手を取ることを待つ姿勢だ。聖女と騎士の間では通例の、契りを求める仕草。

 

「……っ、うぅ……!」

 

 その手をとることはせず、シスネはただ歯噛みした。

 分かっているのだ。もうそれ以外に方法なんて無い。今ここで死に飲みこまれようとしているレーベンを生かすには聖性を流すしかない。でも今ここに聖女はいない。いるのはシスネだけだ。もう聖性を扱えなくなった、聖女擬きしか。

 

 ――おちついて、おちつきなさい

 

 やるしかない。やるしかないのだ。

 震える両手を組んで、祈るように胸に抱く。目を閉じ、深く息を吸って心を落ち着けようとする。やり方は覚えている。この三年、折に触れては人知れず聖性を使おうとしていた。もしかしたら、今日こそはと試しては裏切られ、自身への失望を深くしてきた。だから今更、成功なんてするわけ……。

 

「おち、ついて……っ!」

 

 組んだ手を額に押し付け、弱気な心を噛み潰す心地で歯を食いしばる。落ち着け落ち着けと呪文のように繰り返しても、暴れ狂う心臓は一向に鎮まってくれない。だというのに指先は凍えて震えが止まらなかった。

 こんな有様の、こんな聖女擬きが、こんな土壇場で聖性を流す。そんな英雄譚に出すにも憚られるような奇跡を自分が起こせるだなんて、シスネには想像もできない。ましてや相手はこのレーベン。どんな聖女とも適合しなかったという、歪みきった聖性の持ち主。

 こんなシスネが、そんなレーベンに聖性を流せるだなんて、とても……。

 

 

 

『聖性とは、もうひとつの血流のようなものです』

『もはや歪みというより、真逆』

『いっそ美しいほどに正反対の流れの持ち主なのですね、彼は』

 

「……――――」

 

『あんたって、レイと似てるわ』

 

 

 

 目を開ければ、レーベンは未だ左手を差し出していた。その手の向こうでは灰色の左目が虚ろに、でもしっかりとシスネを見つめている。その視線はどこか挑戦的に見えた。

 

 やれるものなら、やってみろ――と。

 

 その生意気な目を、シスネは精一杯に睨み返した。沸々と、肚の底から馴染み深い怒りの感情が湧いてくる。

 だって、レーベンはひどい男だ。今まで散々にシスネを翻弄して苦しめた挙句、最後は放りだして一人安らかに死のうとしている。

 たしかにシスネは拷問でも強姦でも好きにしろとは言ったが、それよりもひどい事をした。自分自身でも直視しないようにしていたシスネの秘密を容赦なく暴き立てた。それはシスネにとって、何物にも勝る苦痛と屈辱だった。

 レーベンはシスネを傷つけ、穢したのだ。シスネは傷物にされたのだ。

 絶対に許さない。

 元より、シスネはこの男のことが最初から、ずっと、今でも、これからも――。

 

 

 ◆

 

 

 レーベンの手は誰にも取られなかった。シスネの手は、レーベンの胸倉に伸ばされていたから。

 

「――――、づっ……!」

 

 感覚の失せていた身体を無理矢理に起こされたことが分かる。せっかく消えていた痛覚がまた全身を苛みだし、だが次の瞬間、レーベンの五感すべてが彼女に支配された。

 眼前では黒い瞳が己を射殺すような光を放ち、彼女の血と汗と肌の香りが鼻腔を侵す。唇には鋭利な痛みが走り、口内には鮮烈な血の味が広がった。

 

 咬みつくような口付け。

 否、口付けるように咬みつかれた。

 

 そして最後に彼女の声を聞き、レーベンが初めて感じる「なにか」が全身を駆け巡り始める。

 

 

「だいっ嫌いです……あなたなんか――――っ!」

 

 

 急速に鮮明さを増していく視界の中で、シスネが己をまっすぐ睨みつけていた。

 あらゆる感情が渦巻いたような複雑な表情で、彼女らしい、聖女らしからぬ顔で。

 視界の端から燃えあがる青白い炎が、聖性のそれだとレーベンは静かに確信した。

 

「――……シスネ、」

 

 何度か呼んだことのある彼女の名前は、まるで初めて口にしたかのようだった。

 否、いつだって彼女の名前を呼ぶ時、レーベンは。

 

「…………」

 

 シスネはただレーベンを睨んでいる。涙に濡れた黒い瞳は、暗い夜空か、夜の海を連想させた。

 初めて出会ったあの夜から、レーベンが惹かれてやまなかった黒だ。

 レーベンが想い、レーベンを嫌いだと言い続ける、このどうしようもなく歪な聖女の。

 

 

 

 

 

 

「体は正直だな」

 

 間髪いれず飛んできたシスネの拳が、レーベンの顔を打ち抜いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七章 吼え猛る者たち
一歩を踏み出す


 

 ポエニスの戦いは続いていた。

 幾度となく砲撃を受けた周壁は半分以上が瓦礫と化し、それらと同じ程の屍が散乱している。それは聖女の、騎士の、銃隊の死体であり、そして魔女の死骸でもあった。噎せ返るほどの死臭の中で、それでも戦いの終わりは見えてこない。

 

「くそっ! もう駄目だ!」

「逃げるったってどこ逃げるんだよ!」

「下がって! 治療しないと……!」

「まだだ、まだ……っ」

「おい! 誰か俺と組んでくれ! 仇討ちだ!」

「私が!」

 

 魔女の群れは一向に数を減らさなかった。雨のような銃弾を浴びせられ、百組以上の聖女と騎士たちが狩り続けているというのに、まるで湧いてくるかのように魔女が現れる。

 対してポエニス側は確実に数を減らしていた。警備職員を主とした銃隊は不慣れな魔女狩りにも死力を尽くしていたが、乱戦となってからの被害は甚大だった。潰走する者がいないのは、偏に退路が無いからというだけに過ぎない。

 聖女と騎士たちは果敢に戦ったが、そのどちらかが欠けてしまえばもう一人も戦線を離れざるを得ない。相手を失くした者同士で組み、即席の連携でなんとか戦えても限界はある。

 そして何より、ドーラは未だ健在だった。

 

 ■■■■■■━━━━

 

「散れ! 散れ――っ!」

 

 何度聞いても悍ましい吼え声と、誰かの警告。そしてまた周壁の一部が豪快に弾け飛んだ。巨大な瓦礫が降り注ぐ轟音、立ち込める粉塵、誰かの悲鳴、何かが潰れる音……。崩れた陣形を整える間もありはしない、粉塵の中からまた魔女が侵入を果たし、それを迎え撃たなければならない。

 更には。

 

『黙って! 黙りなさい!』

『わからない!』

『どうすればいいの!』

 

 ドーラの巨体。その足元にあたる部分から泥の塊が剥がれ落ち、蠢くそれは次第に形を変えて魔女となった。脚のような物を生やし、やがて立ち上がった何体もの異形が周壁へと殺到する。

 魔女を生む魔女。ドーラがいる限り魔女の群れは減らず、群れを薙ぎ払わない限りドーラに近付くことはできない。

 戦線はもう伸びきっていた、あるいはもうとっくに崩壊していたのかもしれない。分断された者たちはそれぞれが必死に、ただ生き残る為に戦い続けていた。

 

 

 ※

 

 

 振るわれた魔女の爪を屈んで躱し、相手の動きを利用する形でその顔面に槍を突き立てる。半分は狙い通り、もう半分は偶然の一撃。だが会心にして致命の一撃であったことは変わらず、動きを止めた魔女の躰はぐずぐずと崩れていった。

 その様を見ていた小柄な女騎士――エイビスは、数秒後に自分の戦果をようやく自覚した。

 

「……や、やったぞ、……やった! ま、また狩れた!」

「はいはい、じゃあちょっと休憩しましょうねー」

「な!? おい待て、やめろまだ――」

 

 見習いを脱して初めての魔女狩り。それがよりにもよってこの戦となった未熟な騎士は、今日はじめて魔女と直に対峙することとなった。

 一体目は、銃隊に蜂の巣にされた魔女に止めを刺した。二体目は、瓦礫に押しつぶされて身動きのとれない魔女を滅多刺しにした。そして三体目で遂に、ほぼ無傷の魔女を、それも単身で狩ることに成功したのだ。

 

「何を考えている貴殿! お、おい早く聖性を!」

「慌てない慌てない、ゆっくり歩きましょうねー」

「ま、待て、置いていかないでくれ!」

 

 だが喜びと興奮も束の間。自身の聖女であるシグエナが、魔女を狩る度に聖性の「線」を切ってしまうものだからエイビスは戦線を離れる破目になってしまった。聖性が無ければ鎧が重くてまともに動けないエイビスは、一人でスタスタと歩いていくシグエナの後を必死で追う。

 

「あーあ、いつになったら終わるんでしょうねーこれ」

「おい貴殿! シグエナ! 何してるんだこんな時に!」

「こんな時だからですよー」

 

「はーどっこいしょ」と、大して疲れた様子もないというのに疲れた声を漏らし、瓦礫の一つに腰掛けて水筒を傾け始めるシグエナ。なんとかそれに追いついたエイビスが咎めてもまるで効いた気がしない。それどころか、エイビスの分の水筒まで渡してくる始末であった。

 戦線は半ば崩壊し、エイビスはシグエナに誘導されるがまま徐々に周壁から離れてきていた。そのせいか見える範囲には味方も魔女もおらず、確かに休憩するには良い場所なのかもしれないが、エイビスは気が気でない。

 

「まだまだ先は長そうですし、近くに魔女はいませんし、休み休みやりましょうよー」

「ば……っ! な何を呑気な! 今もみんな戦って」

「あんな風には、なりたくないでしょう?」

 

 ゆらりとシグエナの指が向いた先へと顔を向ける。向けて、すぐ後悔した。

 

「う……っ!?」

「最期まで二人で仲良く、ですか。……女神の導きのあらんことを」

 

 崩れた周壁の側、何体も転がる魔女の死骸の中、折り重なって倒れた聖女と騎士の死体。騎士の体は損壊が激しく、それを聖性で治療しようとしたのか、聖女もまた血に塗れていた。そのままの姿勢で事切れた彼女は背後から魔女に刺されたのか、あるいは自決したのか。魔女の死骸の姿形は様々だが、中には人間だった時とそう変わらないような状態のものも混じっている。それはさながら、凄惨な虐殺の跡のよう。

 すこし前のエイビスが憧れすら抱いていた、聖女と騎士の美しい死に様。だがそれはもう、今となってはただ無残なだけの屍にしか見えなかった。

 こみ上げてきた物をなんとか押し留め、横目で自身の聖女を見やる。シグエナの細い目は、憐憫とも侮蔑とも言えない視線を二人へと向けていた。

 

「こんなものなんですよ、お嬢」

「聖女だとか、騎士だとか、なんだとか言ったって」

「結局は、こんな……こんな、糞みたいな役目(しごと)なんですよ」

 

「……」

 

 吐き捨てるような口調と裏腹に、シグエナの両手は祈るように組まれていた。四つの自決指輪がはめられた両手を。

 エイビスに何が言えるだろうか。今日はじめて魔女狩りを体験したばかりの未熟な騎士が、既に十数年を魔女と戦ってきた歴戦の聖女に対して。……三人の騎士を介錯したという、この聖女に。

 

「……ま、もうどうでもいいことですけどね」

「今日でぜーんぶ終わりなのかもしれませんし」

「この際、パーッと戦ってサクッと死んじゃうのも良いかもしれませんね?」

 

 そう言って、いつも通りの顔でケタケタ笑うシグエナ。そんな聖女に掛ける言葉など、どんな言葉も掛ける資格などエイビスには無くて。それでも放っておけなくて。

 

「シ――」

「お嬢!」

 

 口を開いた瞬間、今までの力ない様子が嘘のようにシグエナが立ち上がる。呆けたままのエイビスに聖性が流され、全身を駆け巡る熱にエイビスの意識も一瞬で研ぎ澄まされた。シグエナは既に一方の空だけを見上げている。

 

「なんだ!?」

「何か飛んできます。魔女、いや……、――は?」

 

 あれだけ重かった鎧の重みも感じなくなったエイビスも隣に並び、青い空に目を凝らす。

 空を飛ぶ鳥……いや(カラス)? だがその影はどんどんと大きくなって……?

 

 

「ぬぉあおぁ――――っ!?」

「きゃああぁ――――っ!?」

 

 

 二人分の悲鳴がエイビスの目の前に墜落した。

 

「な、な……、な……!?」

 

 衝撃で舞い上がった土埃が朦々と立ち込め、後ろから肩を引く手に導かれるまま距離をとる。短銃を抜いたシグエナの姿を見て、思い出したように長槍を構えた。

 鳥のような姿にでもなった魔女が落ちてきたのかと思ったが、土煙の中から聞こえてくる声は歪んでなどいない。

 

「……あぁ、その、なんだ……死ぬかと思ったな」

「まったく……えぇ、まったくですよ! 馬鹿なんですか! 馬鹿なんですよね!」

 

 加えて片方は明らかに男の声であり、更にもう片方はエイビスもよく知っている声だった。かつては憧れたこともあり、聞いているだけで安心したこともあった、澄んだ声。

 

「だいたい……っ、何故わざわざ屋根を跳び越えたんですか!? 走れば良かったでしょう!」

「それは、まあ、あれだ」

「あれとは!?」

「一度やってみたかった」

 

 スパーン! と、何かを叩いたような音まで聞こえてくる。平手で人の頭を全力で叩けばこんな音が鳴るかもしれない。どこか緊張感に欠ける声と音が行き交い、ようやく晴れてきた土煙から二人の姿が露わとなる。

 エイビスは兜の奥から青い目を見開き、それを黒い瞳が正面から見返した。

 

「……っ! お前……」

「……、エイビス……」

 

 土煙の中から現れた、白髪の聖女――シスネレイン。

 エイビスが憎んでやまないこの女が、この場にいることは何ら不思議なことではない。例え聖女に相応しくない女でも、教会に属した聖女であることに違いはないのだから。その姿も、つい六日ほど前に大聖堂で遭遇した際とそう変わらないものであったが、何故かひどく懐かしさを覚える。

 どこか、そう、まるで。雰囲気が、変わったような――?

 

「うん? あぁ、()()はたしか……」

「貴殿、は……、……――――は?」

 

 更にもう一人。

 黒い髪と灰色の目を持った、鴉羽のような黒い外套が目を引く男。それもまたエイビスに見覚えのある姿であったが、エイビスはまず見間違いを疑い、次に人違いを疑った。

 

「貴殿は……貴殿、か?」

「俺はレーベンというが?」

 

 何故なら、エイビスが覚えているこの男――レーベンの姿は、ひどく痛々しいものであった。右目を包帯で覆い、右腕も失い杖をついていた、再起不能な深手を負った元騎士。

 だというのに、今は。

 

「あぁ剣が折れた。頼めるか」

「ちょっと待ってください、人体と武器では感覚が違うのですから」

 

 レーベンが()()()掲げた剣の残骸に、シスネレインが白い手を這わせる。見慣れた聖性の光が聖銀の刃を伝い、物理法則も無視して長大な刀身が再生された。出来損ないの片手剣のようになっていたそれが元の両手剣に戻り、それを軽々と片手で扱うレーベンの右腕も聖性の光を帯びている。

 破れた袖から覗く肌は不自然に白く、その白さにエイビスは既視感を覚える。

 

「しかし軽いな。軽すぎて心配になってきた」

「本当に軽くなった訳ではありませんよ? 扱いには充分に気をつけてください」

「なるほど、だから聖都の騎士たちは技量を重視していると。そういうことか?」

「え? あ、あぁ、そうだな?」

 

 急に話を振られたエイビスは曖昧な声を出しながら彼を見上げ、二色の双眸と目が合った。

 

「! そうか貴殿、それは……」

 

 レーベンの双眸は左右で色が異なっていた。

 左目は以前と変わらない灰色。そして包帯で覆われていた右目、その目を抉っていたのだろう傷はもうどこにも見られず、代わりに白い肌が傷痕のように広がっている。入れ墨じみたそれの中心で光る右目は、シスネレインの黒い瞳とまったく同じ色をしていた。

 

「欠損部位の再生ですか、よっぽど相性が良いんですね」

 

「私もはじめて見ましたよ」とシグエナが続ける。それはエイビスも聞いたことのある話だ。特に聖性の扱いに長けた聖女と、更に高い適合率を持つ騎士がいた場合、ちぎれ飛んだ四肢すらも再生することが可能なのだと。そして、そのような事は滅多に無いのだとも。

 だがこの二人はそれを成したのだろう。そうでなければ、わずか数日であの深手が治るはずが無い。ましてや、完全に失った右腕が元に戻るなど。

 シスネレインはレーベンと契りを交わしたのだ。……兄のことも忘れて。

 

「っ、やっぱり……お前という女は……!」

「――エイビス」

 

 エイビスの内で燻り続けている憎悪がまた燃えあがろうとし、澄んだ声がそれに応える。

 そして、シスネレインが短銃をエイビスに向けた。

 

「ぇ――」

 

 暗い銃口と、黒い瞳がエイビスを捉える。完全に不意をつかれたエイビスの体は硬直し、頭も真っ白になって何も考えられない。ただゆっくりと流れる時間の中で、シスネレインの指が引き金を弾く様をじっと見ていた。

 

 

 

『ずごえっ!』

 

 銃声と、背後から聞こえる、歪んだ悲鳴。

 

「っ! お嬢!」

 

 張り詰めた声のシグエナに肩を引かれながら、振り返りもせず距離をとる。十歩ほど走ってからようやく振り返り、そしてエイビスは自身が四体目の魔女と対峙したことを知った。

 

『すごい、すごいね』

 

 人型に近い魔女だった。だがそれは魔女化が進行していないという意味ではない。むしろその逆、溢れ出した泥が全身を飲みこみ、人であった頃の面影は完全に消失してしまっている。縦にも横にも大きな、人並外れた巨漢のような姿だが、その腕は四本だ。

 泥だけで成された躰。通常の魔女の倍はある泥の量。エイビスも知識だけで知っている。つまり、この魔女は……。

 

「シグエナ……あいつは、まさか」

「永命魔女です。面倒なんですよーこれ」

「あぁ分かるぞ。無駄に頑丈で敵わんな」

 

 この場で最も場数を踏んでいるシグエナが心底面倒くさそうに零し、両手剣を肩に担いだレーベンもそれに並ぶ。自分の場所を取られたようでエイビスは面白くなかったが、それに不満まで抱く前に澄んだ声が耳朶を打った。

 

「エイビス、その……」

 

 シスネレインは意外なまでに近くにいた。この三年、エイビスが詰め寄りでもしない限り近付いて来ようともしなかった、この女が。その一瞬、エイビスは自身が魔女と対峙しているという現実を忘れた。

 

「気安く呼ぶな……っ!」

 

 兄の仇であるこの女を、エイビスは未だ許していない。許す気は無く、許せる気もしなかった。当然だ。だってこの女は、一度も……。

 

「っ! ……エイビス!」

 

 一瞬たじろいだような黒い瞳は、だが次の瞬間にはまっすぐエイビスの目を向いていた。瞳の芯を捉えるような視線の強さに、エイビスは怒りを忘れる。

 

「その、私……あなたと、話したいことがあるの!」

「……ぇ」

 

 だってこの女は、何も教えてくれなかった。何も謝らなかった。一度だって、エイビスと話を……。

 

「でもほら! 今は、それどころじゃないでしょう?」

「これが終わってから、もっとちゃんと、ゆっくり話したいの」

「だからその、だから……」

 

 舌がもつれているような言葉は要領を得なかったが、その瞳だけは逸らさなかった。やがて、一度だけ深く呼吸したシスネレインが、ゆっくりと口を開く。昔と変わらない、澄んだ声で。

 

「生き残ろう、ぜったい」

 

 見るからに恐る恐る、シスネレインは手を差し出してきた。見上げた黒い瞳はかすかに震えていて、だがやはり目だけは逸らしてこない。視線を下ろし、同じように震えている白い手を、エイビスは。

 

 

 パン、と。

 

 

 手を払い除けたエイビスはシスネレインの横を通り過ぎ、永命魔女と対峙しているシグエナ達の元へ足を進める。背後からは誰の声も聞こえない。まるで心臓も止まったかのように。

 

「……にげるなよ」

 

 今度は、じゃりと振り返った音がすぐに聞こえた。エイビスは視線を戻さないまま淡々と続ける。

 

「何を勘違いしているのか知らないが、わたしはお前の事を何も許していない」

「だから死ぬ(にげる)な。今度こそ洗いざらい吐かせてやる」

「覚悟しておくんだな」

 

 腹の内から湧いた衝動だけを言葉にして投げつける。答えなんて聞く気も無かったエイビスは今度こそシグエナの元に向かい、背後からは一度だけ鼻を啜る音がかすかに聞こえた。

 

 

 

「素直じゃないんですからー」

「うるさい、放っておけ!」

 

 いつも通りニヤニヤと見下ろしてくるシグエナを睨み返し、長槍を構える。大きな魔女を前にして、エイビスは一度だけ深く呼吸した。

 元より、死ぬ気など無い。死にたくない理由が一つだけ増えた。ただそれだけの話だった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

逆巻く聖性

 

 レーベンが周壁まで吹き飛んでいった。

 

「な、え、……ちょっと!」

「は、お、おい!?」

「うわぁ……」

 

 シスネとエイビスとシグエナがそれぞれ驚き呆れた声を漏らし、それを聞く余裕もなくレーベンの眼前に石壁が迫る。

 

「ぬあっ、がっ!」

 

 なんとか足を前に出し、壁に着地するようにして制止する。足に嫌な痛みが走ったが、すぐさま「線」を通じて流れてきたシスネの聖性が傷を治療していった。幻のように消える痛みと、冗談のような亀裂の入った石壁。

 

 ――これが、聖性か

 

 青白い光を帯びる己の体を見下ろしながら、レーベンは改めて驚嘆する。

 右腕を断たれ、右目を抉られ、腹に大穴を開けられ、あとは死に飲みこまれるだけだった己を更に襲ったシスネの狂乱と絶叫、そしてレーベンの怒りと暴露。

 そんな、刃の応酬じみた契りを交わした末にシスネは再び聖女となり、そしてレーベンは遂に騎士となった。まったく、己にお似合いな、どうしようもない第一歩だったと本心から思う。

 だが何にせよ、レーベンは聖性を得た。全身の傷も腹の大穴も嘘のように塞がり、そして何よりも、失った右目と右腕までもが蘇った。抉られた眼孔から眼球が、断たれた肩の断面から腕が「生える」という感触はできれば忘れてしまいたいものであったが、再び五体満足となれたのであれば安すぎる代償だ。

 だがそれでレーベンが十全な騎士となれたのかと問われれば、答えは否である。

 

「力みすぎだ貴殿! もっと力を抜け!」

 

 聖性による身体強化。それはレーベンの想像を超えていた。

 レーベンはただ走っただけだ。現れた魔女との間合いを詰める為に、いつものように地面を蹴った。ただそれだけでレーベンの体は吹き飛んでしまったのだ。

 

「これ程、とはな……!」

 

 己の体が暴れ馬にでもなったかのような感覚にレーベンは口を歪めた。だが御することが出来れば大きな武器となるだろう。否、御さなければならないのだ、魔女を狩る為に。騎士である為に。そして、彼女の隣に立つ為に。

 

「丁寧に体を動かすんだ! 力は最低げ……うわぁっと!?」

『すごい! すごいわあなた!』

「お嬢! 人の心配してる場合ですか!」

「エイビス下がって!」

 

 レーベンがもたついている間に魔女はエイビスへと襲い掛かっていた。その四本の腕にそれぞれ握っているのは周壁の残骸。武器とも呼べないが充分な凶器であるそれを振り回しながらエイビスを追い回し、その魔女に二人の聖女が短銃を連射する。

 未熟な女騎士と聖女二人、彼女らばかりに戦わせていては騎士の名が廃るというもの。いっそ足音を殺して歩くつもりでレーベンは慎重に足を踏み出し、今度こそ適度な速さで魔女と間合いを詰めることに成功した。

 

「ぬんっ」

 

 渾身の振り下ろし。聖銀の両手剣が唸りをあげ、長大な刀身が魔女が握る石塊に直撃する。それはちょうど頭を守るような位置で掲げられていたが、あろうことかレーベンの一撃は石塊を両断してしまった。

 だが。

 

『あぁ! すごい!』

「……くそが!」

 

 視界を埋めつくすような黒い泥と、陽光に煌く聖銀の欠片。武器が砕けたのはこちらも同じだった。反射的に剣を手放しそうになったが、その前に右手を伝って流れる聖性が折れた刀身を修復し始める。今まで武器を使い捨てながら戦ってきたレーベンにとっては、感涙も禁じ得ないような聖性の恩恵。

 だが。

 

「急いでくれ!」

「やってますよ!」

 

 身の丈ほどもある両手剣の刀身は修復にも相応の時間を要する。それとて五秒とかからない僅かな時間ではあるが、魔女と肉薄して戦う騎士にとっては長すぎる時間でもあった。

 

『すごい!』

 

 結局は、両断された石塊をそのまま振るってきた魔女に先手を取られる。苦し紛れに修復途中の剣を叩きつけて軌道を逸らせるが、それでまた刀身は砕けてしまった。魔女の石塊は健在。せっかく詰めた間合いをレーベンは再び離さざるを得なかった。

 

「少しは加減して!」

「その加減が分からんと言っているんだ!」

 

 シスネの叱責に大声で返す。その間にも魔女は石塊を振り回し続け、それを躱しながら武器の修復を待つが、一方的に攻撃され続ける現状にレーベンは歯噛みした。

 聖性は身体能力を劇的に強化するが、それは己の身体が丸ごと別の何かに変わることと同じだ。普段は無意識に行っている力加減が役に立たず、まるで力を制御できていない。どんなに強力な力も、当てられなければ何の意味も無い。

 聖銀武器も修復されるだけであって、不壊というわけではない。完全に砕けてしまえば修復に余計な時間を要してしまう。

 聖性も聖銀も万能ではない。それを今になってレーベンは痛感した。

 

「話が違うぞ!」

「何の話だ!?」

 

 八つ当たりのような愚痴に、近くにいたエイビスが叫ぶ。叫びながら、細かな動作で魔女の攻撃を慎重に回避している。その動きはレーベンなどより、よほど洗練されて見えた。聖都では聖女と騎士の修練にかなりの期間を費やすというが、彼女の動きもその賜物なのだろう。

 聖性さえあれば、聖女さえいればレーベンも他の騎士たちと肩を並べられる。そんな幻想は容易に砕け散ってしまった。それも当然だろう、元よりレーベンは英雄の器などではなく、それどころか何においても他者より劣っている点の方が多い。何の訓練もなしに聖性を使いこなすなど出来るわけもなかったのだ。

 

「しっ!」

 

 だいぶ力を抜いて振るった剣は狙いを外さなかった。だがその刃は魔女の腕の一本を浅く斬りつけただけで終わり、有効打を与えられたようには見えない。ならばと力を込めて振るえば、見た目よりも硬い魔女の躰に深く食い込む刃。だがその勢いのまま、また刀身が折れた。

 

「面倒な……っ」

『すごい、あぁ!』

 

 レーベンが四苦八苦しながら試行錯誤する間にも魔女は暴れ続けている。縦横に振るわれる石塊が周囲に破壊をもたらし、最後はレーベン達を目掛けて石塊を放る。そしてまた別の石塊を手に取るのだ。周壁の残骸はそこらじゅうに転がっている。魔女にとってはまさに選り取り見取りであった。

 

『すごいわ!』

「ぅひぃ!」

 

 横薙ぎされた石塊をエイビスは屈んで避ける。小柄な体格を活かした回避。どこか情けない声とは裏腹に流れるような動きで、更に間髪入れず反撃に移る。鎧に包まれた矮躯が青白く輝き、身の丈を超える長槍が、体格差を物ともせず魔女の胸に深々と突き刺さった。

 

『あず、ご』

「よ、よしっ!」

「お嬢! 退避!」

 

 魔女の呻きとエイビスの歓声。それとほぼ同時に後方からエイビスの聖女が警告し、更に短銃で魔女を牽制する。エイビスは聖女の声に従い、跳び退った後の地面に魔女の拳が振り下ろされた。

 見事な連携、というよりはあの聖女の支援が的確なのだろうか。どちらにせよ、今のレーベンとシスネよりは確実に良い動きをしている。おそらくは今日はじめて魔女と対峙したのであろうエイビスにすら劣るという事実には、さすがのレーベンも矜持に傷が付いた。

 

「ひどい話だ、なっ!」

「だから何の話だ!?」

 

 八つ当たりそのものの愚痴と共に両手剣を振り下ろし、魔女の肩を抉る。またしても亀裂が入ってしまった剣を手に一旦退き、それと入れ替わるようにしてエイビスが槍を突き出す。彼女の体が一瞬だけ輝き、弾丸のように加速した穂先が魔女の肩――レーベンが付けた傷痕を更に抉った。

 

『すごえ! すごいぇあ!』

 

 癇癪を起こしたように魔女が石塊を連続して振り下ろす。狙いはレーベンであり、反射的に全力で回避しようとしたレーベンの体がまた明後日の方向へと吹き飛んだ。

 

 

 ◇

 

 

「まーた飛んでっちゃいましたよ。すこしは加減してあげたらどうですかー?」

 

 隣に立つ、やたら背の高い女――シグエナと言うらしい聖女が呆れたような声でシスネを見下ろす。変に間延びした口調がひどく癇に障り、むっとしながら見ればシスネと同じように右手を自分の騎士へと向けていた。そこから伸びる、ぼんやりとした青白い光の「線」、それはシスネの物よりも幾分か細く見えたが、時折輝くように勢いを増している。

 

「……あまり話しかけないでください、気が散るので」

「話ぐらいできるでしょー?」

「だから、話しかけないで……っ」

 

 シスネの言葉も無視してまた話しかけてくるシグエナに苛立ちが湧き、そのせいでまた聖性の「線」が乱れる。不必要に多く流れた聖性によって、力の増大し過ぎたレーベンの剣がまた折れていた。

 シスネは聖性の制御に難儀していた。なにせ聖性を放つこと自体が三年ぶりで、しかも聖性の扱いというものはひどく感覚的だ。ついさっき再び聖性を使えるようになったばかりのシスネは、見習い聖女となんら変わらない。

 加えて、シスネは聖性を「逆に」流していた。血流に乗せるように流すのではなく、血流とすれ違うようにして流す。その感覚は聖女にしか、そしてその難しさはシスネにしか理解できないだろう。

 

「……そんな変なやり方してるからでしょう」

 

 シグエナには見抜かれたようだが、シスネも当然やりたくてこんなやり方をしている訳ではない。その理由はレーベンに、そしてシスネにあった。

 イグリット聖女長は言った。「レーベンの聖性は真逆に流れている」と。歪みきった、いっそ美しい程に正反対の流れ。そんなレーベンだからこそ、今までどんな聖女とも適合しなかったのだ。

 シスネの聖性もまた歪んでいる。三年前の事件はシスネの精神に深い傷を刻み、精神と強い結びつきがあるという聖性の流れにもまた致命的な歪みが生まれた。そんなシスネだからこそ、今まで何度試しても聖性が扱えなかったのだ。

 

 そして今、その二つが奇跡か冗談のような合致を見せた。

 

 あの土壇場でシスネの脳裏に走った閃き。思い付いてみれば、なぜ今まで気付かなかったのか不思議に思ってしまうほど簡単な解法。

「聖性が歪んでしまったというのなら、歪んだ流し方をすれば良い」

 ただそれだけであっさりと聖性は放たれ、更にレーベンの歪んだ聖性にもこの上なく適合した。それこそ、完全に失った右目と右腕までもが再生するほどに。

 だが。

 

「くそがっ!」

 

 レーベンの剣が折れ、魔女の攻勢から逃れる為に退く。それだけの動きでレーベンは遠くまで跳び退ってしまう。

 

「あぁ、もう……っ!」

 

 シスネの集中が乱れ、流される聖性もまた乱れる。

 レーベンの動きが悪い原因は彼だけではない。シスネが適切に聖性を流せていないからだ。同じ強さを、同じ勢いで、常に一定の流れを維持することが基本。あるいは隣に立つシグエナのように騎士の動きに合わせ、あえて緩急をつけることで効率よく騎士を支援するという技術もある。

 だが今のシスネにそんな真似はできない。聖性を逆に流すということは、文字を左右逆に書き続けるようなものだ。一朝一夕で身に付くものではなく、そもそもシスネの聖女としての技量も並でしかない。ただただ、聖性を切らさずに流すだけで精一杯だった。

 パン、と聞きなれた銃声がすぐ近くから響く。それに続く、シグエナの冷淡な声も。

 

「あの魔女は私らで狩りますから、もうどこか行っててください。あのままじゃ死にますよ、彼」

 

 死。その言葉にまた聖性が乱れ、八つ当たりするように隣の長身な影を睨みつける。シグエナはそんなシスネには目もくれず、右手で聖性を流しながら左手で短銃に弾薬を装填するという器用な真似をしていた。カチリ、カチリと、ホルスターに差した短銃に次々と込められていく弾薬。

 

「……」

 

 シスネも左手で、ホルスターに差したままの短銃に触れた。

 

 

 ◆

 

 

「せいっ!」

 

 エイビスの鋭い一撃が魔女の肩を抉り、遂にその腕の一本を斬り落とした。黒い泥だけで構成された太腕が地に落ちる前に、短銃による牽制が魔女の意識を逸らす。それを合図にしたかのように、エイビスが間合いを取り直した。

 長槍による徹底した一撃離脱。それがエイビス達の選んだ戦法のようだった。洗練こそされてはいてもまだ動きに躊躇いの残る彼女だが、それも聖女の的確な支援によって補われていた。エイビスには騎士としての確かな才が見て取れ、それを充分に磨いていることも分かる。彼女より随分と年上に見える聖女もまた間違いなく手練れだ。

 チグハグに見えて、極めて相性の良い一組。少なくとも、レーベンとシスネよりはよほど――。

 

『あぁすごい!』

 

 魔女の声と、何かが風を切る音。

 飛来する、石塊。

 

「が……、……っ!」

 

 修復途中の剣で斬り払って軌道を逸らせることには成功したが、代わりに折れた刀身がレーベンの側頭部を浅く抉った。一瞬遅れで頭がぐらりと揺れ、意思に関係なく体が膝をつく。

 地面に点々と落ちていく、レーベンの血。

 

「――――……、ふ、へ」

 

 その血の赤さがやけに可笑しくて、こんな様の己が滑稽で、そして吹っ切れた。開き直ったとも言う。

 膝に手を置いて立ち上がる。ようやく修復された両手剣を杖がわりにして体を起こした。右目のあたりを手で撫でるも、血の感触だけで傷は既に無い。聖性による治癒でも失った血までは取り返せず、故に血が上っていた頭もすっかりと明瞭になっていた。

 

「あぁ、分かっていたとも」

 

 いったい、何をのぼせ上がっていたのか。

 聖性を得た? 騎士になった? だが己は誰だ? 騎士である前にレーベンはレーベンで、特別な才も無ければ賢くもない。そんなレーベンが、他の騎士と同じ戦い方をできるとでも思っていたのか?

 違うだろう。レーベン(おまえ)が積み重ねてきた物は、そうではないだろう。

 

『すごい! すごいのね、あなた!』

 

 徒手となっていた魔女の腕が別の石塊を手にとった。

 レーベンには理解できる。魔女のその戦術はこの上なく合理的な方法だ。故にこそ、己も今までそうしてきたのだから。

 両手剣を引き抜き、右手だけで構える。あとは「彼女」に聖性を――。

 銃声。

 

『すごい! すごべ……っ』

 

 魔女の左肩――腕の一本を落とされた方が爆ぜ、黒い泥が周囲に飛び散る。短銃の威力ではない。あれは長銃、それも散弾を最適な距離から撃ち込まれたのだ。

 魔女がぐるりと頭を巡らせ、レーベンもそちらを見やる。そこに誰がいるのかなど、分かりきったことではあった。

 清貧を現す灰色の装束。ほっそりとした体に巻かれた幾本ものベルト。それらに括りつけられた様々な武器。長い白髪と、黒い瞳。

 

「……」

 

 がチャリン、と。無言でシスネは右手の長銃を回転させた。起点となったレバーが無理矢理に引かれ、右手だけで次弾を装填する。左手は、ずっとレーベンに向けられていたから。

 再び長銃が火を吹き、エイビスに何度も突かれていた魔女の左肩を大きく抉る。シスネは曲芸のように長銃を回しながら連射し、そして遂に魔女の二本目の腕が地に落とされた。

 

『す……ごぇあっ』

 

 魔女にはまだ二本の腕が残っているが、膝を折って倒れ伏す。立て続けに左側の腕二本を失うことで、平衡感覚を狂わせたのだろう。残った右腕二本で躰を起こそうとしているが、上半身が肥大化したような躰は重心の位置が高く、なかなか起き上がれないようだった。

 その隙を逃さずエイビスが突きかかり、それを横目に見ながらシスネはレーベンの近くまでゆっくり歩み寄ってきた。

 

「無様なものですね」

「まったくだ」

 

 罵倒とも自嘲ともつかない言葉に苦笑したつもりで返す。おそらく、否きっと、彼女はレーベンと同じ結論に至ったのだろう。彼女もまた英雄の器ではなく、聖女としての才も並でしかないのだから。

 だがそれでも彼女は、一人で魔女を狩ってきたのだ。彼女自身のやり方で。レーベンと同じように。

 

「やれるな、貴公」

「あなたこそ」

 

 レーベンは両手剣を担ぎ上げ、長銃を背に戻したシスネが短銃を抜く。一挙動で振り上げ、間髪入れず放たれた銃弾にも負けない勢いで、レーベンは魔女へと飛び掛かった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

黒騎士

 

 エイビスには、彼のその姿が鴉に見えた。

 

「おあぁっ!」

 

 黒い外套を鴉羽のように靡かせながら、魔女の頭上から渾身の振り下ろし。エイビスが見ても分かる程の、力加減も何もあったものではない一撃。それは魔女の右肩を深く抉ったが、当然の結果として両手剣の刃は砕けてしまった。

 

「ぬんっ!」

『ずごぇっ!』

 

 だが彼はもう退かなかった。折れた剣を手にしたまま体を回転、魔女の躰に突き刺さった刀身を蹴りつけ、更に深くめり込ませる。更にそのまま、刀身を足がかりにして魔女の躰を駆けあがった。

 

『ず――』

 

 巨大な胴体に半ば埋もれていた魔女の頭、その根本つまりは首に聖銀の刃が突き立てられる。レーベンの右手に握られる両手剣は未だ修復途中、故にそれは別の武器だった。

 左手で逆手に握られた、聖銀の曲剣。筋力より技量を重視する聖都の騎士たちも多く用いるそれが、いつの間にかレーベンの手に。

 ハッと、エイビスは崩れた周壁に視線を飛ばす。折り重なって倒れた聖女と騎士の死体、そこに突き立っていたはずの曲剣が無くなっていた。

 

『ずごいぃ!』

 

 首を落とされようとしていた魔女は、苦し紛れのように二本の右腕を自身の頭に振り下ろす。だが諸共に叩き潰されようとしていたレーベンは、あっさりと曲剣を手放して跳び退っていた。遅れて、粉々に砕かれた聖銀が陽光にキラキラと反射しながら舞い散っていく。

 エイビスには考えもつかないことだった。武器の破損を前提とした一撃も、死者の武器を使い捨てるという罰当たりも、そして何よりも。

 

『すごい! ずご――』

 

 短銃とは比べものにならない重い銃声。弾け飛ぶ黒い泥。光を反射する聖銀の長銃。灰色の装束と白い長髪。照星ごしに魔女を見据える黒い瞳。

 その聖女――シスネレインは長銃を手に魔女と対峙していた。肉薄というには遠い間合いだが、それでも安全圏とは言えない。魔女が全力で飛び掛かれば瞬きする間に捕らえられ、四肢を引き千切られるであろう距離。

 そんな死の間合いで、シスネレインは冷然と魔女を見据えながら右手の長銃を回転させる。無理矢理に引かれるレバーと、次弾が装填された金属音。銃には疎いエイビスでも分かる、明らかに本来の使い方ではない乱雑な動作。細かな部品が破損しかねず、だがその銃身には青白い光が走っていた。教会の銃もまた聖銀製、聖性を流せばその状態は万全な形状へと復元される。されるが、破損する程に銃を酷使する聖女などエイビスは知らないし、まして騎士よりも前に出る聖女など――。

 

『あな、だぁ――っ!』

 

 全力で飛び掛かる、魔女。

 

「シ――――!」

 

 憎悪よりも嫌悪よりも思考よりも何よりも先にエイビスの体は動いていた。魔女が飛び掛かる先、そこにいる白髪の聖女、兄の仇、かつて憧れた……。

 翻る黒い鴉羽。

 

「お嬢さがって!」

「ぐふぇ!?」

 

 魔女の剛腕が地面を殴る轟音と地響き、巻き上がる砂塵、シグエナの声と突如として切られた聖性の「線」に、飛び出そうとしていたエイビスはつんのめって地面に倒れた。鎧の重みに押しつぶされそうになりながら顔を起こし、視線の先で黒い騎士――レーベンに身を掻っ攫われたシスネレインの姿を見とめる。

 

「あーもー何を突っ走ろうとしてるんですか、世話の焼ける」

 

 ほっと息をつくも束の間、いつも通りの呆れ声と共に再び聖性を流され、体を起こして自身の聖女を精いっぱい睨み上げる。聖性を流したり流さなかったりと、まるで手綱だ。エイビスはもうずっと、この聖女にいいように扱われていた。不本意極まりない。

 

「貴殿……私は馬じゃないと言っただろうがっ」

「馬っていうか子犬ですかねー? ちっこいし、よく吠えるし」

 

 この聖女(おんな)……!

 怒りが裏返り、いっそ顔が笑みの形に引きつっていることをエイビスは自覚した。遥か頭上からニヤニヤと見下ろしてくる顔を見返しながら必死に自制する。今はそんな事をしている場合ではないのだ、だから落ち着け。内心だけでシグエナの頭を引っ叩いていると、実際に頭を引っ叩かれたような音が響いた。

 

 

 ◆

 

 

「どこを触っているのですかっ、手の位置を下げなさい!」

 

 魔女に捕らえられようとしていたシスネの細い体を掻っ攫ったは良いものの、腕に抱いた聖女は御立腹だった。脇腹の辺りを触られるのが気に入らないようだが、手の位置を上げても下げても妙な場所に触れてしまいそうで動かせない。仕方なく、レーベンはただ頭を叩かれる仕打ちに甘んじた。騎士も楽ではない。

 

『あなた!』

「ぅおっと!」

 

 追いすがってきた魔女が腕を振るい、両脚に力を入れて加速することで躱す。脚の筋肉が千切れたような痛みが走るが、過剰に流される聖性がすぐに傷を治した。

 

「ぶつかる!」

「つかまれ!」

 

 大して広くもない場所を馬以上の速度で駆け抜けた結果、周壁がすぐ眼前に迫ってくる。今さら止まることなど出来るはずもない。故にレーベンは速度を上げ、壁へと飛び上がった。

 

『あなた、ずご――』

 

 魔女の歪んだ大声は、周壁の一部が倒壊する轟音にかき消される。走る勢いのまま壁に衝突した魔女の躰に、崩れた石塊が雨のように降り注ぐ。その様を、レーベンは壁を駆け上がりながら見ていた。体が軽い、場違いに青い空と、風を切る音が鳥になったようで――。

 

「降りなさい! 下ろして馬鹿ぁ!」

 

 腕の中から響く悲鳴で我に返った。当然だがレーベンは空を飛べるようになったわけではない。否、鳥であっても空に留まり続けることはできないのだ。つまりは、上手く着地できなければ死ぬ。

 足が離れてしまう前に壁を蹴り飛ばす。三階建てに近い高さから一気に横方向へと加速し、ものの数瞬で迫る地面に向けて両脚と両手剣を突き立てた。三本の轍が長々と引かれ、剣の刀身がまた折れてからようやくレーベンは地面で制止。きつく腕に抱いていたシスネを開放してやると、彼女はふらふらと地面へと座り込んだ。

 

「し、死ぬかと思いました……」

「同感だ」

「本当に刺しますよ! 聖性で治せるのですから、刺しても良いですよね!?」

 

 黒い瞳には涙が滲んでいたが、その言葉が冗談なのか本気なのかは判断に苦しむ。刺しては治されるという無限地獄を想像したレーベンは、話をすり替えることにした。

 

「なら貴公も少し加減したまえよ。そうでないとまた空を飛ぶ破目になるぞ」

「……なぜ私があなたに合わせなければいけないのですか、あなたが勝手に合わせなさい」

 

 やっと立ち上がったシスネはレーベンの脇腹を小突いてから鼻で笑う。向けられた左手からは、今も過剰な量の聖性が「線」を伝って流れ込んできていた。否、過剰であるだけならばまだ良い。問題なのはその強さにひどく(むら)があり、また波も激しいということだ。今日はじめて聖性を流されたレーベンでも分かるほどの、「雑な」聖性だと言える。

 

「得意なのでしょう? そういうの」

 

 そう言って、シスネは挑発的な笑みを向けてきた。それを見たレーベンもまた、くっと喉を引きつらせて笑う。

 確かに、レーベンの魔女狩りはいつだってそうだった。作戦など大雑把なぐらいで良い。何事も上手くは行かない。見極めるのは生と死の一線だけで充分。あとは全て出たとこ勝負。加えて、過剰に聖性を流されて己の体が暴れる様は、強化剤を過剰に使用した時とひどく似ていた。そんな状態でずっと戦ってきたのだ、レーベンは。

 そう、今までと何も変わらない。ただひとつ、この身に流れるのが薬ではなく彼女の聖性だというだけで。

 

「分かった、貴公の好きにやりたまえよ」

「分かれば良いのです」

 

 元より、彼女には加減なしで聖性を流してもらおうと思っていたのだ。それで武器が壊れようと、彼女に直してもらえる。体が傷つこうと、それも彼女に治してもらえる。こんなに便利なことが他にあろうか。

 どこまでも泥臭く食らいつき、泥沼の中で殴り合う。野良犬の縄張り争いにも劣るような戦いこそが己には相応しいのだろう。もしかすれば、彼女にも。

 

 ――ライアー達のようには、いかんな

 

 もういない友人たちに想いを馳せ、それが感傷へと変わる前にレーベンは走り出した。

 

 

 ◇

 

 

 魔女へと一直線に駆け出したレーベンを見送りながら、シスネは縫い合わせていたスカートの切れ目を再び大きく裂いた。そのまま、右膝に長銃を挟んで右手だけで弾薬を装填する。左手はずっとレーベンへと向けたまま。

 

 ――カーリヤのようには、いかない

 

 彼女のように両手で銃を扱いながら聖性を流すという真似はシスネには出来ない。彼女にはそれだけの聖女としての才があり、そして何より彼女自身がそれを磨き上げていたからこそ、あの二人には高度な連携が可能となっていたのだ。才も練度も、今のシスネには足りていない。

 まして、シスネには聖性を逆に流さなければならないという枷まである。さりとて、シスネが聖性を流すことに集中すればレーベンへの負担が大きくなる。彼もまた本来の騎士としての戦いに慣れておらず、そしてそれに向いてもいないのだから。

 

 だから、シスネは考え方を変えた。

 

 元よりシスネは聖女としては凡才で、今この時に至っては聖性をまともに流すことすら出来ない。ならばもう、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そう開き直って、右手ではなく左手で聖性を流し始めたのだ。

 聖性の扱いは非常に感覚的で、故に殆どの聖女は利き手から聖性を流している。それで聖性が上手く扱えるなどという根拠はまるで無いが、ただ「なんとなく上手くできそうな気がする」という理由だけでそうしているのだ。ふざけた理由にも思えるが、聖性は精神とも強い結びつきがある。「なんとなく」も馬鹿にはできない。

 左手で、雑に、適当に、大雑把に流される聖性。それが質の良い聖性(もの)であるわけもないが、あの男にはそれぐらいで丁度良いのだ。それに。

 

「さて、と」

 

 装填し終わった長銃を回転させてレバーを引く。負傷して片腕が使えなくなった時のことも考え、片手だけで銃を扱う訓練ならしてきた。実際にその経験だって何度もある。シスネは聖女としては凡才でも、銃を扱う才ならそれなりに自信があるのだ。聖性よりよほど手に馴染む長銃を提げ、シスネは不敵に笑った。

 聖性だけでなく、聖女が手ずから共に戦ってやろうというのだ。あの男には、あんな馬鹿には勿体ない大盤振る舞いだろうに!

 

「ありがたく思いなさい、馬鹿」

 

 それはきっと、聖女らしくない笑みだったのだろう。

 

 

 ※

 

 

 滅茶苦茶だと、エイビスは思った。

 

「滅茶苦茶だ……」

「そうですねー」

 

 声に出ていた上に、珍しくシグエナも同意してくれる。並んで視線を送る先で、黒と白が乱舞していた。

 

「ぬんっ」

 

 レーベンが片手で振るった両手剣が魔女の右脚を薙ぐ。当然のように折れた刀身に頓着した様子もなく、即席の片手剣と化したそれで更に右脚を抉り、ただでさえ短くなっていた刀身がまた折れる。

 

『あなっ』

 

 魔女もやられっ放しである訳もなく、左足で彼を踏みつけようとするような動きをしたが、それを阻むように何かが魔女の脚に突き刺さる。

 聖銀の短剣。聖女が持つ自決武器。それを投げたのが誰であったかなど考えるまでもなく、レーベンも迷いを感じさせない動きでそれを掴み取った。

 

『あな、だぁ――!』

 

 今度こそ降ってきた魔女の大きな足を、加速したレーベンの体がすり抜ける。弾丸のような速さは明らかに力加減を誤っており、何よりも流される聖性が過剰である証。このままでは、先ほどの魔女と同じく周壁に衝突して壁の染みとなることは明白。だがエイビスにはどうすることもできず、だがレーベンはそうはならなかった。

 

『ず――』

 

 半ばまで抉られていた魔女の右脚が、今度こそ断ち切られた。それを為したのは修復された両手剣の長大な刃であり、そして常識外の速度。黒い外套を靡かせるレーベン。

 エイビスには辛うじて見えていた。周壁へと激突する寸前、彼は左手の短剣を地面へと突き刺したのだ。地に突き立ったそれを楔として彼の体は急激に反転、勢いをそのままに再び魔女へと肉薄。そして全ての力と勢いを乗せられた両手剣は、魔女の脚を遂に両断してしまった。

 型も何もあったものではない。それどころか正気すら疑うような、剣技とも呼べない何か。あんな曲芸じみた博打を実戦で試そうなどと考えつく者がいるとは思えず、仮に成功したとしても無事で済むとも思えない。……現に彼は盛大に転倒し、ゴロゴロと転がりながら遥か遠くへと消えていったのだから。

 

『――ごえっ』

 

 右脚を断たれた魔女が遂に倒れ伏す。二本の右腕で躰を支えようとし、だがその右腕が地面に着こうとした瞬間、何かが掌の下へと転がり込んだ。

 炸裂。そして炎。地面と魔女の手に挟まれた炸裂弾と焼夷弾は、その威力を余すことなく発揮した。

 

『ああぁなあ――!』

 

 右腕の一本が激しく燃え上がり、もう一本の右腕は掌の半分が弾け飛ぶ。痛みに悶えているのか炎を消そうとしているのか魔女の巨躯が転げまわり、地面と近くなった頭部を容赦のない散弾が襲った。

 連続して響く銃声と魔女の悲鳴。回転する長銃とレバーの動作音。装填された十発全てを命中させたシスネレインの白い顔と灰色の装束は赤黒い泥に塗れ、それでも黒い瞳は魔女の姿を捉えて揺るがない。

 

『なあっだ!』

 

 だがそれでも魔女は倒れない。永命魔女。エイビスが初めて対峙したその特別な魔女のしぶとさは想像を超えていた。右脚を断たれ、二本の左腕を斬り落とされ、二本の右腕を半ば失った上に頭部を潰されてもまだ止まらない。悲鳴とも怒号ともつかない歪んだ叫びと共に躰を起こし、

 

「うるさい」

 

 事もなげにシスネレインの大短銃が火を吹いた。

 魔女の絶叫もかき消すような轟音。魔女の躰もあっさりと貫通した銃撃は背後の周壁にまで亀裂を走らせ、魔女が再び倒れ伏す。常識外の威力にエイビスは言葉を失くし、次の瞬間には我に返る。あんな銃を片手で撃ったシスネレインは無事なのか?

 

「……っ」

 

 無事ではなかった。なかったが、シスネレインはただ顔を顰めただけで、口に咥えた再生剤を右腕に突き刺す。捲り上げた肩掛けから覗く、青黒く染まった白い肩。

 あれではもう、銃は撃てない!

 

「――シス」

 

 駆けだそうとしたエイビスの肩をシグエナが掴み、それも振り払おうとしたエイビスの視線の先で。

 

「遅いですよ」

 

 ぼそりと呟いたシスネレインを掠めるようにして、聖銀の大斧が魔女の躰へと叩きこまれた。

 

『ずご、』

『いえあ』

『なだっ』

 

 大斧だけではない。片手剣が、斧槍が、槌が、どこから拾い集めてきたのか様々な聖銀武器。大量の武器を手に戻ってきたレーベンが、それを次々と魔女の躰へと叩きこんでいく。

 もう滅茶苦茶だった。

 先の無茶で折れたのだろう左腕、どう見てもまだ治癒されきっていないそれまで使って武器を振り下ろし続けるレーベンも。武器を使い捨てては修復し、また使い捨てる杜撰な戦い方も。騎士と聖性を雑に扱いながら自ら前に出るシスネレインも。何もかも滅茶苦茶だ。

 だからエイビスは見ていることしかできない。だからシグエナが手を放してくれない。あんな連携とも呼べない連携に首を突っ込んでしまえば、エイビスもあの二人もきっと無事では済まないのだから。

 だが何故だろうか。エイビスには、あの二人が。

 

『ずごい!』

 

 破れかぶれのように振り下ろされた魔女の腕。

 くるり、と。

 レーベンの手が当然のように、叩き潰されようとしていたシスネレインの体を横に退かせた。

 いっそ優しいまでの手付きは聖性の光を帯びておらず、だからこそ出来たのであろう丁寧な動作。それはシスネレインが意図的にそうしたのか、それとも雑な聖性が弱まった瞬間をレーベンが狙ったのか。

 いずれにせよ、シスネレインもまた当然のようにその身を委ね、そのままの姿勢で炸裂弾を放る。

 軽く投げられたそれは、様々な武器を突き立てられた魔女の胸へと向かって――。

 エイビスの視線と交差する黒い瞳。勝手に動くエイビスの体。

 

 ――壊すなよ!

 

 内心で叫びながら、手にしていた長槍を投げつけ。

 

『あ、なだ――』

 

 空を切る長槍。掴み取られる長槍。深々と突き立てられる長槍。それを握るレーベン。穂先ごと、魔女の躰へと深く突きこまれた炸裂弾。

 

『すごいわ、あなた』

 

 爆発四散する、永命魔女の躰。

 

 

 ◆

 

 

「壊すなって言ったのに……!」

「誠に申し訳ない」

 

 いや本当に。

 壊すなと言われた覚えはないが、涙目で睨み上げてくるエイビスの青い目を直視できずにレーベンは頭を下げた。彼女から借り受けた件の長槍はといえば、聖女たちが二人がかりで修復中である。柄の半ばまでしか残っていないそれを元の形まで戻すのはなかなか骨が折れるらしい。

 

「あー面倒くさ。使い捨てるならせめて死んだ人のにしてくれませんかねー?」

「本当にごめんなさいエイビス。全部そこの馬鹿が悪いから」

「見損なったぞ、本当に貴殿という男は……!」

「お、おう……」

 

 よくよく考えれば、この場に男は己一人しかいないという状況にレーベンは今さら気付いた。気付いたが、それを両手に華以上だとか何だとか喜べる状況ではない。まったくもって。

 

「いつもあんな馬鹿な戦い方してるんですか? よく今まで生きてましたねー」

「私に言われても知りませんよ。馬鹿には何を言っても無駄ですから」

「あぁ、もう良いとも……貴殿なんかに槍を託した私が馬鹿だったんだ」

「そろそろ勘弁してくれないか」

 

 なぜ己は三人の女たちから寄ってたかって罵倒されているのだろうか。先ほど狩った永命魔女の方がよほどレーベンのことを誉めていたような気すらしてくる。もっとも、魔女の言葉に意味など無いのだが。

 腹が立つほど青い空を見上げながら、レーベンは内心で不貞腐れた。

 

 

 

 その時だった。

 

「……?」

 

 げんなりと空を見上げた時、場違いな晴天の中で奇妙な光がレーベンの視界にちらついたのだ。

 それは(トンビ)の真似をする(カラス)のように、ゆったりと高度を下げながら空を横切っている。

 青い空と太陽の光の中でもはっきりと見て取れる、青白い光。

 聖性の――。

 

「伏せろっ!」

 

 何の根拠もなくレーベンは叫び、足元に転がっていた聖銀の大斧を盾のように掲げる。

 総毛だつ悪寒。この瞬間、レーベンはあの光から確かな「視線」を感じていた。

 

 パキン、と。

 

 ともすれば聞き逃してしまいそうに細やかな金属音と共に、大斧に指先ほどの穴があく。分厚い刃に一切の亀裂も刻まないそれは、異常なまでに凝縮された破壊力を無言のままに示していた。

 故に、それは銃撃だったのだ。恐るべき弾速と、恐るべき射程と、恐るべき精度と、恐るべき威力を兼ね備えた、恐るべき狙撃。それは聖銀の大斧も容易に貫通し、そして――。

 

「…………シグエナ?」

 

 倒れ伏した聖女の名を、エイビスが呆然と呼んだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

狂人はかく語りき

 

「隠れろ! また来る! また撃ってくるぞ!」

「シグエナ! しっかりしろ、シグエナぁ!」

「落ち着いて! 落ち着きなさい!」

 

 レーベンは大して役に立つとも思えない大斧を盾として掲げながら空の光を注視し、肩から血を流したまま動かないシグエナの身体をエイビスが半狂乱で揺さぶる。そんな彼女の頬を、シスネの手が引っ叩いた。

 

「シ……」

「落ち着いて、エイビス。まずは彼女を安全な場所まで運ぶから、手伝って」

「ぅ、うん」

 

 静かな、だが有無を言わせぬ口調でシスネが言い、頬を張られたエイビスは気が抜けたような表情でそれに従った。歳不相応に怜悧だった印象は消え去り、少女そのものの顔で。

 そこらの男より大柄なシグエナの上半身をシスネが抱え、投げ出された両脚をエイビスが持つ。だが聖性を切られた彼女は鎧の重みに上手く動くことができないようだった。己が手伝うべきかとレーベンが考え始めた時にはもう、エイビスは何の躊躇いもなく鎧を脱ぎ捨ててしまっていた。随分と思い切りが良い。

 

「よし、急ぐぞ」

「あそこに行きましょう、壁の内側なら……」

 

 シスネが視線で指した先には、高い石壁で囲まれた武骨な棟。そこはレーベンに馴染み深い場所で、知らぬ間にこんな近くまで来ていたらしい。なんにせよ、あの無駄に分厚い石壁なら多少は――。

 

『まって、追い出さないで』

 

 向かう石壁の中から這い出てきた、魔女。

 

「くそが!」

「エイビス戻って!」

「わ、分か……」

 

 大斧をそのまま振りかぶりながらレーベンは魔女に駆け出し、シスネが左手から聖性を発しながら短銃を抜き、エイビスが一人で何とかシグエナの身体を運ぼうとして。

 レーベンは再び、空から焼けつくような「視線」を感じ。

 

「シスネ――」

 

 その視線が、次は彼女に向けられているということを根拠なく確信し。

 

『まだ、ここに――』

 

 ドンッっと、飛来した何かが魔女の躰に突き刺さった。

 

「伏せ――」

 

 視線から彼女を逃そうと、そして魔女に突き刺さった「それ」からも逃そうと、彼女の体を地面に押し倒して。

 爆風と、常軌を逸した速度の銃撃がレーベンの体を掠め、そして吹き飛ばした。

 

 

 

「あぁ、煙たい。威力は悪くないけれど、もう少し射程を伸ばさないと駄目だねぇ、これは」

 

 激しくむせ返るエイビスの声に紛れ、粘ついたような男声とチュイイィィン……と奇怪な音が黒煙の中から響く。人の頭の高さで揺れる光は眼光を思わせるが、その位置も数も人間とは明らかに異なる。やがて煙が晴れ、燃え上がる魔女の赤黒い炎を背景にして、レーベンもよく知るその怪人物は現れた。

 

「久しぶり……でもないかい? まぁ、どうだって良いことかね」

 

 言葉通り、至極どうでも良さそうに言いながらその男――アルバットは、手にしていた棒状の何かを地面に放った。先端から煙を吹き、引き金のような物も見えるそれは何らかの武器だったのだろう。先の魔女を狩った様を思い出せばそれは、さながら「飛ぶ炸裂弾」とでも呼べる代物か。

 上げられた顔の上半分を覆う機械仕掛けの眼が再び奇怪な音を鳴らし、この場にいるレーベン達を流し見る。最後に、エイビスが抱える動かないシグエナにその眼が伸びた。

 

「……貸しなよ」

「な、貴殿は……あ、おい!?」

 

 初めて見るアルバットの異様な姿に唖然としていたエイビスの手から、ぐったりとしたシグエナを奪い取る。気絶した聖女の大柄な体を軽々と担ぎ上げ、普段は曲げられている背筋を伸ばしたアルバットの体は意外な程に大きかった。

 

「まどろっこしい話は抜きさ。ワタシの部屋で治療しよう」

 

 誰の返事も待たずにその建物――技術棟へと足早に戻っていくアルバット。まずエイビスが小走りで彼に続き、短銃をホルスターへ戻しながらシスネも歩きはじめる。

 

「……どうしました?」

「……あぁ、いや」

 

 レーベンはじっと青空を見上げていた。あの恐ろしい狙撃を放ってきた聖性の光はもう見えず、その視線も感じない。

 踵を返せば、黒い瞳と目が合った。シスネもまた、どこか思いつめた表情をしている。元より視線に敏感な彼女のこと、レーベンと同じく何かを感じたのかもしれない。

 あの光からも視線からも、レーベンは懐かしさに似たものを感じていた。

 

 

 ◆

 

 

 およそ十日ぶりに入ったアルバットの工房は相変わらず物で溢れかえっていた。ポエニス全体が様変わりしてしまった今となっては、この薄暗い地下室は時間が止まっているかのようだ。外では絶えず聞こえていた鬨の声や悲鳴も、ここには届かない。

 中央の大きな机の上を埋め尽くしていた奇怪な品々を、アルバットは何の躊躇いもなく片手で全て薙ぎ落としてしまった。耳も劈くような金属音や破砕音が薄暗い室内に反響し、驚いた猫のように飛び上がるエイビス。だが即席の寝台となったそこにシグエナが寝かされると、すぐに青い目を不安に揺らめかせた。

 

「だ大丈夫なのか? シグエナは助かるのか? なあっ」

「大袈裟だねぇ、肩を撃たれたぐらいで死んだりしないよ、ホラ」

 

 面倒そうに言いながら、アルバットは無遠慮にシグエナの頬を何度か叩いた。聖女が嫌いだと言って憚らないこの変人ではあるが、女の顔を、まして怪我人の頬を張るという暴挙にはさすがのレーベンも閉口する。

 だがそれが功を奏したのか、シグエナはかすかな呻きと共にその細い両目を開いた。

 

「……、……お嬢、なんですかこの人。犯されるんですか、私」

「し、シグエナ! わたしが分かるか!?」

「気色の悪いことを言わないでくれ。年増の聖女だなんて頼まれてもイヤだよ、まったく」

 

 まだ青白い顔を皮肉げに歪めながら軽口を叩くシグエナと、心底イヤそうに返事するアルバット。この二人、相性が良いのか悪いのか。

 

「弾は抜けているけど、周りの骨が何本かイってるね。ここで治療してやっても良いけど、医療棟に行くことをおすすめするよ」

 

 あの異常な威力を持った狙撃はシグエナの肩を貫通し、その衝撃だけで骨を砕いたらしい。あの時、レーベンが咄嗟に大斧を盾にしていなければ腕ごと吹き飛んでいたかもしれない。アルバットも口には出さないが、たとえ医療棟に行ったとしても完治するかどうかは怪しいところだろう。隣に立つシスネも、沈痛そうな顔をしている。

 だがシグエナは、脂汗をかきながらも口の端を歪めた。

 

「丁度良いじゃないですか、お嬢。もうこのままここで休んで(サボって)ましょうよー」

「そうだな、分かった!」

「うぇ、素直……」

 

「気持ち悪……」という呟きはエイビスには聞こえなかったらしく、アルバットの処置を手伝いながら甲斐甲斐しく世話をしている。

 確かにこの技術棟は最前線からも離れている上に頑丈で、特にこの地下室まで魔女が入りこんでくる可能性は低い。わざわざ危険を冒して医療棟に向かうよりは、ここで戦いの終わりを待った方が安全だろう。ドーラが本格的な砲撃を始めれば分からないが、そうなってしまえばもう何処にいようとお終いだ。

 一息ついたレーベンは室内を見回し、部屋の入り口近くの机に置いてある物が目に留まった。

 

「アルバット、これを借り……貰うぞ」

「構わないよ、どうせ返ってこないかもしれないしね」

 

 それは鎧だった。他の騎士たちが身につけている規格化された装備一式ではなく、いくつかの防具だけしかない歯抜けの装備。作りかけの失敗作か何かなのかもしれないが、平服に外套を羽織っただけの状態よりはマシだろうと、レーベンはそれらを手に取った。

 最低限の灯りしかない地下室でそれの色を明確に判別することは難しいが、その鎧の色は聖銀とは異なるように見える。じっと目をこらせば、銀とも黒ともつかない不思議な輝きを放っていた。

 胸当てを着け、一つしか無い手甲は左手に。あとは膝当てを着ければ、それだけで終わりだ。それは奇しくも、かつてレーベンが選んだ装備と同じ組み合わせで――。

 

「……なあ、これは」

「聖銀と東のシデロス鋼を混ぜてみたのさ。聖銀の脆さを補えないかと思ったけど、どうにも中途半端になってしまってね。だがまあ、聖性を流せば修復はするはずだよ」

 

 聞きたかったのはそれではないが、アルバットは勝手に語ってしまった。ならば、ただの偶然だと思うことにしてレーベンは黒い外套を羽織り直した。更に、鎧の傍に置かれていた革手袋や雑嚢も続けて身につけていく。何故か置かれていた聖銀の片手剣や手斧もいくつか拝借した。

 シスネもまた、雑多な金属塊に紛れていた弾薬や炸裂弾をベルトに補充し、背負っていた長銃も交換していた。だがその中に混じっていた明らかに大きさが異常な弾薬を手に取ると、黒い瞳がアルバットの方を向く。

 

「ありがたく貰っておきたまえよ。“偶然見つかったゴミ”だそうだ」

「……、……そうですね」

 

 レーベンの言葉に頷くと、巨大な弾薬――大短銃の弾もベルトに納めるシスネ。その薄い唇がポツリと何かを呟いたが、レーベンには聞き取れなかった。

 

 

 

 使えそうな物を一通り拝借し、レーベンとシスネがそれぞれの装備を整えられた頃、雷鳴のような音がこの地下室にまで重く響いてきた。続けて軽い地震のような揺れも感じ、薄暗い天井からパラパラと埃が落ちてくる。

 

「なんだ……?」

「またドーラが暴れてるのかもしれませんねー」

 

 エイビスが不安そうな顔で天井を見上げ、作業台に横たわったシグエナは緊張感の無さそうな声でそれに答える。だがその細い両目は天井か、あるいはその向こうをじっと見つめていた。

 

「元々、勝ち目は薄い戦いでしたけど……」

 

 シグエナの呟きには少なからず諦観が込められていた。レーベンもシスネも、あのドーラと名付けられた巨大魔女の姿は遠くからしか見ていない。ドーラの力を目の当たりにしたのはエイビスとシグエナであり、そして今この場で最も戦況を現実的に捉えられているのはシグエナだ。

 その彼女の呟きに地下室の中に重苦しい沈黙が漂い、チュイイィと奇怪な音がそれを打ち消すかのように響く。

 

「バカを言うんじゃないよ、まだ何も終わっていないさ」

 

 皆の視線の先にいるのは当然アルバットであったが、その言葉はこの変人には似つかわしくない熱を孕んでいるように聞こえた。

 

「……希望があるのは結構ですけどね。でももう、聖女と騎士の数はだいぶ減って」

「聖女なんかどうだって良いんだよ、大事なのはこっちさ」

 

 聖女の目の前で、聖女をどうでも良いと断ずるアルバット。聖女嫌いのこの男らしい態度ではあったが、その声音に挑発の色は無く。その手に握られた武骨な鉄の塊――銃を掲げる。

 

「今回、お上や騎士長殿は上手くやったと思うよ。だからここまで互角にやり合えている」

「だがそれでも、彼らはきっと誤解しているんだろうさ。どれもこれも“聖女と騎士の力があってこそ”だとね」

「それは違う、断じて違う」

 

 アルバットは静かに語っていた。だがその手に握られた銃はギチギチと軋み、その内心が決して穏やかでないことを示している。

 

「今この戦いを支えているのは聖女と騎士じゃあない」

(これ)だけを手に戦っている銃隊――タダの人間たちだ」

 

 今回の作戦についてはレーベンも盗み聞いていた。聖女と騎士たちを囮としてドーラを攪乱し、銃隊で魔女の群れを間引き、そして最後はやはり聖女と騎士たちで魔女を狩る。レーベンにはやはり聖女と騎士が主軸の作戦としか思えず、銃隊はその穴埋めや補助。そのような役目にしか見えない。

 シスネはどう思うのかと視線を向ければ、彼女は何かに思い当たったかのような表情をしていた。すると徐に短銃を抜き、それをアルバットへと向ける。

 

「銃が……強力な武器さえあれば、聖女と騎士でなくても魔女を狩れる、と?」

「その通りさ」

 

 アルバットもまた、手にした銃をシスネに向けた。お互い引き金に指をかけていないとはいえ、一触即発の空気が流れる。だというのに、この変人は更に空気をひび割れさせるような言葉を続けた。

 

 

「ワタシはね、聖女も騎士も皆いなくなるべきだと考えている」

 

 

 カチリと、シスネが引き金に指をかける音を聞いた。レーベンもそれを止める気はせず、アルバットに剣を向けなかったのも、彼の指が引き金に触れていなかったからに過ぎなかった。指一本でも動かせば、その時はもう分からない。

 努めて冷静であろうとするレーベンと銃を向けたままのシスネを前にして、アルバットの口上は続く。

 

「おかしいとは思わないかね?」

「何の前触れもなく魔女禍が発生し、そうしたら女神サマが手を差し伸べて聖女が生まれた?」

「御伽噺じゃあるまいし、そんな都合の良いことが本当に起こったと思うかね?」

 

 この変人は――狂人は、全てを否定した。聖女と騎士を、教会を、この国を、カエルム教国すべてを。

 

()()()()

「聖性が発見され、聖性技術が生まれ、そのせいで魔女禍が発生した」

「そう考えた方が、よほど自然だとは思わないかね」

 

 聖性技術こそが、聖性こそが――聖女こそが魔女禍の元凶なのだと、狂人は語った。

 

「世迷言を言うなっ! そんな……何を根拠にそんな!」

「根拠? 無いよそんな物」

 

 レーベン達とは反対側で話を聞いていたエイビスが食って掛かろうとし、シグエナが黙ってそれを止めた。振り向かずに答えたアルバットは語り続ける。

 

「だいたい、ワタシの仮説が正しかろうと間違っていようとそれも重要じゃない」

「確かなのは、非聖性技術でも魔女を狩れる。聖性など無くとも魔女は狩れるということ」

「それを、君たちは誰よりも知っている筈だがね?」

 

「……」

「……」

 

 狂人の、機械仕掛けの眼のすべてがレーベンとシスネを捉えていた。あの眼を通してアルバットは何を見ているのか。レーベンとシスネに、聖女なき騎士と、騎士なき聖女だった二人に何を期待していたのか。

 

「……それで、非聖性技術だけで魔女を狩って、それでどうするつもりですか」

「愚問だよ。決まっている」

 

 シスネの問いは形だけのものなのだろう。その答えはレーベンでさえ察しがついてしまっていたから。

 

 

「ワタシの望みは、魔女禍の根絶」

「故に、この国からすべての聖性技術を排し、その上ですべての魔女を狩り尽くす」

()()()()()()()()()()

「その為にこそ、今のワタシは生きているのだよ」

 

 

 かつて騎士であったというこの男のことを、レーベンは何も知らない。

 かつて何を思って魔女を狩り、その果てに何を知り、そして狂ったのか。

 レーベンも、他の者たちも、きっと誰も知らない。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

機械仕掛けの聖剣

 

 また一人、聖女が崩れ落ちた。自決したのではない。魔女の手にかかったわけでもない。突然、その膝から下が千切れ飛んで倒れたのだ。片脚を失った聖女の悲鳴が木霊する。

 聖女が倒れれば必然的にその聖性は途切れ、今まさに魔女と剣を交えていた騎士の体からも聖性の恩恵が失われる。突如として只人に戻ってしまった彼らは動揺する者、冷静に退避する者、地力だけで戦い続ける者、強化剤を使用する者など様々だったが、どれにせよ長続きはせず大半の者は倒れていった。

 戦場の狂熱に支配されたこの場で冷静さを保てる者はごく少なく、故にその現象の原因が何であるのかなど誰にも分からなかった。想像もできないだろう、それが銃撃――それも聖性を用いた、上空から放たれる常識外の狙撃だったなどと。

 

「これで五人目。やはり聖女だけを狙っているようですね」

 

 眼前に迫った魔女を一刀で狩り殺した巨躯の騎士――ヴュルガは、自身の背負った函から響く涼やかな声に聴覚を割いた。

 

「三時の方向、随分と高い位置から弾けるような聖性を感じました。聖性による射撃、おそらくはドーラの砲撃と同じでしょう」

 

 ドーラはあの長大な砲身と化した躰に聖性を漲らせ、それを利用して砲撃を行っていた。それと同じ要領で狙撃を繰り返す魔女――つまりは破戒魔女がいるのだ。ただ聖性の気配だけでそこまで判断した自身の聖女であるイグリットは、ヴュルガの背負った函の中から淡々と語り続ける。この惨禍の中にいながら、何事も無いかのように涼やかな声で。

 

「あぁ、それとヴュルガ……今、こちらを視ていますよ?」

 

 その言葉に、手にしていた得物――巨大な剣を掲げ、遥か遠方から放たれた狙撃を阻む。劈くような金属音と共に弾け飛んだ銃弾は背後にいた魔女の躰を貫いたが、既に無力化された敵に意識を割くほどヴュルガは酔狂では無い。

 

「そろそろ(えん)(たけなわ)でしょう。(わたくし)はいつでも構いませんので、なるべく早く来ると良いですね?」

 

 イグリットの声に焦りなど微塵も無いが、笑いを含んでもいなかった。常とは僅かに異なるその声音がその聖女の内心を現しているのかどうかは不明だが、それもヴュルガにはどうでも良いことだ。既に半数を下回って久しい自軍の戦況を脳内で再計算しながら、周壁の間近まで迫ってきたドーラの影に視線を向ける。

 前方に大きく割いた視覚の隅で、青白い炎が舞い散っていた。

 

 

 ◆

 

 

「っ、また光った! 急ぎましょう!」

 

 抜けるような青空の中でも見逃さないような、青白い閃光。空をゆったりと漂うようなそれを追って、レーベンとシスネは教会の敷地内を駆けていた。

 手練れの聖女であるシグエナを一撃で無力化した、あの恐るべき狙撃。当然だ、あんな遥か遠くから狙い撃たれれば、誰もが成すすべなく倒れるだろう。先にレーベン達を襲った狙撃とて、躱すことができたのはただの運でしかない。あのまま放置すれば被害は増え続け、ただでさえ劣勢な戦線は完全に崩壊してしまう。

 とはいえ。

 

「追ったところで、どうしたものかな」

「知りませんよ! あなたも考えてください!」

 

 並走しながら器用に脇腹を小突いてくる聖女に苦笑を返すこともできず、彼女の言う通りに何か手立ては無いか無い頭を捻る。

 空をゆったりと漂うような動きから、あの魔女――それも破戒魔女は何らかの飛行能力を有しているのだろう。だがレーベンが知る限り鳥のように空を飛べる魔女が現れた事例は無く、あり得るとすればカクトの共喰魔女のように、凧の要領で風に乗っている可能性が高いか。付け入るならば、そこしかない。

 僅かに見えた攻略の糸口をシスネに伝えようと口を開きかけ、だが足を止めた彼女に倣ってレーベンも身構える。

 

『駄目よ、もう駄目なの』

 

 歪んだ声。現れる魔女。だが両目を泥で覆われただけの姿から見て、魔女化からさほど時間は経っていない。故にその魔女が元は何者であったのかも容易に分かった。人の形をそのまま保った躰、それは教会職員の装束を着ていたのだ。

 

「そんな……っ」

 

 シスネが悲痛な声をあげる。

 この戦いの前にはほぼ全ての住人と、教会の女性職員たちも聖都まで避難していた。だが全員がそうであった訳ではなく、中には残った者もいる。それは絶対的に足りていない人手の為であり、本人の強い希望の為であったりもしたが、結局はこうなってしまった。

 教会の中からも新たな魔女が現れた。それ程までに戦況は悪化していたのだ。

 

『助けて、もう助からない』

『あなたのせいよ』

『あぁ、血が! 血が止まらないの!』

『帰りたい、家に帰らせて』

『ひどいよ、まるで呪いよ』

 

 時間も状況もレーベン達を待ってはくれない。瓦礫の陰から似たような姿の魔女たちが更に現れた。皆が一様に両目から黒い涙を流し、ゴキリゴキリとその躰の中で骨が変形する音を響かせながら。いつの間にか、レーベン達はそんな魔女の群れに取り囲まれていた。

 まるで、この世の終わりのような光景。

 

『元々、勝ち目は薄い戦いでしたけど……』

 

 技術棟の地下室に置いてきたエイビスの聖女、諦観を湛えたあの言葉がレーベンの脳裏を過る。

 

 ……最早すべて手遅れなのではないか。

 ……己ひとりが駆けつけたところで、戦況が大きく変わる訳もない。

 ……仮に勝てたとして、ポエニスは、この国は、もう。

 

『だぶぇっ』

 

 銃声と共に魔女の頭が弾け飛ぶ。同時に、緩く繋がったままだった「線」を通じて彼女の聖性が己の身を駆け巡った。

 

「何を呆けているのですか!」

 

 シスネの黒い瞳は、常のように強い光でレーベンを射貫いていた。その澄んだ声は、今までのようにレーベンを叱り飛ばしていた。

 

「……、敵は雑魚ばかりです! まとめて片付けてしまいましょう!」

 

 そう言って、また右手で長銃を回転させるシスネ。彼女らしくもない好戦的な口調はひどく上擦って聞こえた。流される聖性はひどく乱れ、それは何よりも雄弁に彼女の内心を示している。

 

「……、そうだな、試し斬りには丁度良いか」

 

 故にレーベンもそれに応えた。できるだけ酷薄に笑ったつもりで、背負っていた剣を手に構える。

 その異形の剣は、黒とも銀ともつかない異様な輝きを放っていた。

 

 

 ※

 

 

「期待には応えられそうもないな」

 

 この国を、ひいてはこの世界を変えるつもりだと語ったアルバット。その狂気の言葉に対し、気付けばレーベンも口走っていた。

 この狂人が目指していたのは、魔女禍の根絶。誰もが一度は夢見、そして二度と語ることはない真の夢物語。その為にこの男は全てを投げ打つかのように非聖性技術の開発に没頭し、その為にレーベンとも契約を交わしたのだ。

 成程たしかに、アルバットの語る仮説には信憑性があるのかもしれない。もし仮に聖女こそが魔女禍の原因なのだとすれば、全ての聖性技術を排することで新たな魔女が生まれることを無くせるのかもしれない。銃をはじめとした非聖性技術を押し上げれば、聖女がいなくても誰もが魔女を狩れるようになるのかもしれない。この稀代の天才なのであろう狂人ならば、それが為せるのかもしれない。

 

 だがそれに付き合えるかと問われれば、答えは否だった。

 

 レーベンにとってアルバットの言葉は、名の無い女神と同じだ。その存在と真偽を信じてはいないが、否定する気も無い。どちらにせよ、特別な存在でもない己には到底及びもつかない領域での話だとしか思えない。

 レーベンは英雄の器ではなく、そして世界を変えるような狂人でもなければ、それらに準じる何かでもないのだから。

 

「あぁ、まったく君には失望(がっかり)させられたよ。君ならワタシの優秀な礎になってくれると思っていたのだがね」

「それは誠に申し訳ないな」

 

 皮肉を半分、もう半分に本心からの謝罪を乗せて軽口を返す。この狂人がレーベンのことをどう捉えていたのかはもう分からない。分からないが、今この時を以て二人の契約関係は本当の意味で終わりを迎えたのだ。それだけは分かった。

 

「本当に残念だ。君はなんともつまらない、“普通の”騎士になってしまった」

 

 どの聖女とも適合できない、ごく稀にいるらしい落ちこぼれ。古い時代には処刑すらされていた異端者。

「聖女なき騎士」レーベン。彼が野望(ゆめ)の礎として利用しようとしていた男はもういない。

 だがそれで良い。それが良いのだ。

 何者でもない、凡百の騎士。それこそが、レーベンがずっと諦めていたものだったのだから。

 

「だから、これはかつての悪友(とも)へと送る、決別(わかれ)の品だよ」

 

 アルバットが差し出してきたそれを手に取る。

 黒と銀の不思議な輝き。武骨な片刃の刀身。片手剣でも両手剣でもない中途半端な大きさ。柄に設えられた、複雑怪奇な仕掛け。柄へと伸びる、二本の引き金。

 

「さようなら、騎士レーベン」

「いつか何処かの悲劇の中で」

「騎士らしく死んでしまうが良いさ」

 

 

 ◆

 

 

 明るい空の下で見たその剣は、かつてレーベンが片手で数えられる程の魔女狩りの中で、両手で数えられる程度の数だけ振るい、それでいて忘れがたい記憶をいくつも残していった機械仕掛けの剣――機械剣そのものだった。だがその形状はより洗練され、何よりも刀身の色が異なる。

 黒銀――東のシデロス鋼と聖銀を混ぜ合わせたというその未知の金属は、やはり得体の知れない輝きを放っていた。

 聖性技術を否定する天才にして狂人。そんな男が作った、最初で最後の聖銀武器だ。

 

「ぬんっ」

『ぢがっ』

 

 その機械剣を、そのまま振るう。片手剣と呼ぶには大きく、両手剣と呼ぶには小さい。中途半端な大きさのそれは、言い換えれば片手だろうと両手だろうと充分に振るうことができる。黒銀の刃で魔女の胸を斬り裂き、返す刀で首を刎ねた。

 

「しっ」

『いえ゛』

 

 奇怪な仕掛けを仕込まれているにも関わらず、その柄は振るうに何ら邪魔をしない。重心の位置は計算され尽くしたかのように、常にレーベンの手に適度な重さを預けていた。背後から飛び掛かってきた魔女を背中ごしに貫き、振り向きざまにその胸を蹴り飛ばす。

 

『もう間に合わない!』

 

 一呼吸の間に二体の魔女を狩り、軋み始めていた刀身が青白い光を帯びる。シスネの左手から繋がる「線」を通じた聖性がレーベンの体を巡り、それが新たな右腕から機械剣へと流される。聖銀と同じ性質を持つという黒銀は、瞬きする間に武骨で鋭利な刀身を再生させた。

 

『助けてよ!』

『あなたのせいよ!』

『呪ってやる!』

 

 歪んだ呪詛の声と共に集まってくる魔女たち。二体かそこら狩ったところでその数は一割にも満たず、今もまた瓦礫の陰から新たな魔女が這い出てきた。まるでキリがない。

 

「……あぁ、いま楽にしてやるとも」

 

 試し斬りは充分。元よりこの剣の真価は刃の鋭さでも堅牢さでもない。ベルトから掴み取った焼夷弾を柄の穴に装填カチン。

 

「……ぅん?」

 

 体が覚えていた動作を繰り返すも、手にした焼夷弾が柄に装填された感触がしない。魔女たちから目を離さないまま手を動かすも、カチンカチンと、噛み合わない金属音が虚しく響いていた。そうこうしている内に飛び掛かってきた魔女の胸をシスネの短銃が貫き、そこでようやくレーベンは己の手元を見た。

 そして愕然とする。

 

「どうしました! 何か」

「穴が無い」

「……はぁ!?」

 

 ふざけるなとでも言いたげなシスネの声が聞こえるが、レーベンも内心で同じ叫びをあげていた。燃料となる焼夷弾や炸裂弾を装填する為の、柄に設えられていた穴。それがどこにも無かったのだ。

 

「ど、どういうことですか!? それじゃ何の意味も無いじゃないですか!」

「俺に聞かないでくれ!」

 

 背中合わせになって叫びながらそれぞれの武器を振るう。シスネの短銃が連続して火を吹き、魔女の脚を次々と撃ち抜いていく。装填し損なった焼夷弾を投げ、倒れた魔女を纏めて火炙りにした。

 

「いつもいつも怪しげな物ばかり受け取るからでしょう! 説明ぐらいちゃんと聞きなさい馬鹿っ!」

「そんな雰囲気でもなかっただろうが!」

 

 雰囲気が云々ではなく、聞く時間が無かったというのが正解だ。背後で弾薬を装填しているシスネの肘がレーベンの脇腹に突き刺さったが、それが偶然なのか故意なのかはもう分からない。ただの珍品と成り果てた機械剣を右手にしたまま、左手で抜いた片手剣で飛び掛かってきた魔女の腹を裂く。歪んだ悲鳴と共に吐き出された赤黒い血がレーベンの顔を汚した。

 

「あっ!?」

 

 背後から響く不吉な声。すぐさま振り返れば、シスネが魔女に組み付かれていた。既に短剣を魔女の首に突き立ててはいたものの、二体目の魔女はもうすぐそこに迫っている。その後ろには三体目が。

 

「くそが!」

 

 シスネに覆いかぶさっていた魔女を全力で蹴りつけ、聖性で強化されたその蹴りは小石遊びのように何体もの魔女を弾き飛ばしていった。だがそれでも魔女はまだ減らない。右からも左からも魔女が飛び掛かり、前からも後ろからも魔女が走り寄ってくる。シスネは倒れたままで、彼女を引き起こしてから抱えてこの場を離脱するのが先か、魔女に群がられるのが先か――。

 間に合わない。

 そう確信し、破れかぶれに振り回した機械剣の引き金を、レーベンの指は無意識に弾いて。

 

 

 ごう、と。

 青白い炎が周囲の魔女を焼き払った。

 

 

「なん……っ」

 

 身を起こしたシスネが呆然と声を漏らす。内心ではレーベンも同様で、青炎に焼かれた魔女たちは歪んだ声も漏らさないまま燃え落ちていく。機械剣の刀身から噴き出た青白い炎。その輝きは、聖性の光そのものだった。

 

『血が! 血がでたの!』

 

 驚いている暇も止まっている間も無い。正気を失くしている魔女たちは焼き尽くされた同類のことなど何ら気にしないまま襲い掛かってくる。レーベンもシスネも立ち上がり武器を構えた。この剣の真価が何なのか、それはきっとシスネも気付いたのだろう。

 

「頼む!」

「どうなっても知りませんよ!」

 

 自棄のような声と共に流れこむ過剰で雑な聖性。その光が右腕を通じて機械剣に流れこみ、その刀身を覆った頃合いに再び引き金を弾く。黒銀の刀身から解き放たれる青炎。

 

「熱っづ!」

 

 その尋常ならざる炎は魔女だけを焼く――などと都合の良いことはなく、平等にレーベンの右手も焼き始めたが、聖性が火傷をすぐさま治療していく。熱と痛みだけはそのままだが、気合いで耐えた。元の刀身の倍ほどに伸びた炎の刃が、次々と魔女を焼き斬っていく。

 いかなる仕掛けか。新たに生まれ変わった機械剣は聖性そのものを燃料としているようだ。いわば聖性技術と非聖性技術の間の子。歪に完成された混種獣(キマイラ)のような剣だったのだ。

 ならば、この二本の引き金の意味も自ずと知れる。

 

「伏せろ!」

 

 再び包囲を狭めてきた魔女の群れ。それに対して水平に機械剣を構え、中指を引き金にかける。全てを察したらしいシスネが無言で素早く身を低くし、レーベンは二本目の引き金を弾いた。

 

『だずけ――』

『あな――』

『まにば――』

 

 峰から噴出する青白い爆炎。振動し、甲高い残響音を響かせる刃。加速した機械剣の刃を、聖性で強化されたレーベンの右腕は最後までその軌道を御してみせた。一瞬で一回転したレーベンと機械剣は周囲の魔女の胴を狙い過たず斬り裂き、続く二回目の旋回と斬撃が両断された魔女の躰を抉り飛ばす。レーベン達を中心として、赤黒い泥が華のように飛び散った。

 円状の轍から砂埃を吹き上げつつレーベンが止まり、一拍遅れて降り注ぐ赤黒い泥と血の雨。更に遅れて、残された魔女たちの下半身がばたばたと倒れ始めた。最後に、レーベンの足元から歪んだ怨嗟が這いあがる。

 

『誰も助からない』

『全部あなたのせい』

『もう遅い、もう間に合わない』

 

 レーベンの傍らに落ちてきた魔女たち。半身を失ったそれらはその両の手で、赤黒い血と泥に塗れた、人間の女そのものに嫋やかな手で、レーベンの脚を掴んでいた。

 

「――」

 

 泥が流れ落ち、黒い涙だけを流す虚ろな双眸。

 そこには、黒い髪と二色の双眸を持ち、赤黒い泥に塗れた、悍ましい姿の騎士がいた。

 もしも、もしも。

 この国を、魔女禍を、何も知らない誰かがいたとして。

 その誰かのその目には、いったいどちらが怪物に見えるのだろうか。

 その目に、魔女狩りはどう映るのだろうか。

 その目に、この国の惨状は――。

 

 

 

 銃声が、次々と魔女の頭を撃ち抜いていった。

 咲き落ちた花のように、爆ぜた魔女の頭が地面に染みを作っていく。

 

「シ……」

 

 力ない声は一言も発せられないままかき消される。

 ぱぁん、と。銃声にも劣らない音が己の頬で弾けた。

 

「しっかりしなさい馬鹿っ!」

 

 シスネの白い左手で胸倉を掴み上げられる。そうまでされて初めて、レーベンは己が蹲っていたことに気付いた。

 

「まだ何も終わっていないでしょう!」

「私もあなたも――私達はまだ生きているのですから!」

「だったら……だったら……っ」

 

 それは、いつか己が吐いた言葉に似ていた。忘れもしない、あの日あの雨の中で。

 黒い瞳は震えて、だがレーベンの目を捉えて離さず。白い手も震えて、だがレーベンの胸倉を掴んで放さず。その澄んだ声も……。

 

「最後まで……やるのでしょう?」

 

 返事の代わりに、彼女の左手を取る。そっと手を放させ、だが逆に手を掴まれた。つい先刻に生え出でた、己の物とは思えないほどに白い右腕。既に大小の傷痕が刻まれたその中に残った、僅かに血を流すのみの小さな傷。

 それに、彼女はその唇を近付け――。

 

「――づっ!?」

 

 ばちり、と。全身の血流が弾けたような感触に身体が跳ねる。冷水か熱湯でも浴びせかけられたかのように、意識が痛いほど鮮明になった。

 聖性を流されたのだとだいぶ遅れて気付く。だがその感覚は今までと比べものにならない程……。

 

「目は覚めましたか?」

 

 そんなレーベンの姿を見下ろしながら、シスネは唇の端に付いた血を舐めとった。医療者の血筋とは思えない不衛生で、そして聖女とは思えない蠱惑的な所作。

 

「汚いぞ」

「穢い女ですから」

 

 軽口というには自虐的な言葉と共に差し出された手を取り、やっと体を起こす。シスネはそれ以上なにも言わず、視線で前を示してみせた。

 

「……行きましょう」

「……あぁ」

 

 散乱する魔女の死骸。かつての同胞たちも置き去りにレーベン達は走り去る。向かう先は北、この戦の最前線となる場所へ。

 レーベンは世界を守る英雄ではなく、世界を変える狂人でもない。何者でもない、凡百の騎士。ならば戦わなければならないのだ。この戦に飛び込んだ、ひとつの騎士として。

 この戦いに、勝ち目があろうと無かろうと。

 この世界に、未来があろうと無かろうと。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

英雄は竜を討つ

 

 北に走り続けるにつれ、向かう先から様々な声が聞こえてきた。それは鬨の声であり怒号であり、そして悲鳴であり歪んだ魔女の声でもあった。聞こえる音は銃声が大半で、何かが爆発するような音すらも聞こえてくる。

 まだ戦いは続いている。終わってはいないのだ、良い意味でも、悪い意味でも。

 

「なんとか間に合ったか」

「でも、あれじゃ通れません!」

 

 遂に辿りついた最前線である周壁。そこはもうレーベン達の記憶の中の場所とはかけ離れていた。壁は半分以上が崩れ落ち、もはや防壁の体を成していない。元々あった通路は瓦礫で塞がれ、元々あった壁には大穴が開いて通路のようになっていた。どちらにせよ、瓦礫をかき分けて進むしかないのだろう。それが只人であったならば。

 

「つかまれ」

「またですか!?」

 

 隣を走っていたシスネの細い腰を捕まえ、有無を言わせず抱え上げた。左腕に無理な荷重がかかるが、ひしと掴まってきたシスネの左手から聖性が流れ、その体も羽のように軽く感じる。跳ぶように三歩助走し、四歩目で大きく跳びあがった。

 

「…………っ!」

 

 顔のすぐ横から漏れる、息を飲んだ声。それは瓦礫の山を高く跳び越えたことによる高さへの恐怖によるものだけではない。眼下に広がった、凄惨を極める光景のせいだ。

 赤と黒。ただそれだけに尽きる。

 騎士の屍、聖女の屍、銃隊の屍。原型を留めたものから留めていないものまで、魔女に群がられるものから既に捨て置かれているものまで。数えることも祈ることも忘れてしまいそうな程の、屍。そこから流れ出でた血が瓦礫の隙間へと染み込んでいる。

 魔女の死骸、死骸、死骸。大きさも姿形も様々な、ひとつとして同じものはいない魔女の死骸。刃で斬り裂かれ、銃で穿たれ炎で焼かれ、ぐずぐずに溶けた黒い泥が瓦礫の隙間へと染み込んでいる。

 赤と黒。血と泥。人と魔女の屍と死骸が、それ自体が地面だとでも言うように地を覆い尽くしていた。

 

「……あそこ!」

 

 跳躍の高さが最高度になった瞬間の、一瞬の浮遊感。その中でシスネが鋭い声をあげ、右手の長銃で一点を指してみせる。そこには、倒れた騎士を引きずる聖女と、それに迫る数体の魔女が。

 

「つかまれ」

「ま――」

 

 シスネの返事の前に、機械剣の引き金を弾いた。峰から噴き出る爆炎と加速する刃。手にしたそれに引っ張られるようにして、レーベン達は赤黒い瓦礫の山へと急降下する。迫る瓦礫の山が急速に視界を占有し、風音に叩かれる耳元で甲高い悲鳴を聞きながらレーベンは次の一手を打った。人差し指で更に引き金を弾く。

 レーベン達が地面に着地するのと、青白い炎の刃が魔女たちを焼き斬り払うのはほぼ同時だった。墜落寸前に噴き出た青炎は落下の勢いを殺し、それらを転嫁したかのように炎を薙ぎ払う。

 泥へと崩れ落ちていく魔女たち。今まさに魔女に捕らえられようとしていた聖女は姿勢を低くしていたことが幸いだったか、機械剣の一撃に巻き込まれはしなかったようだ。それが最も不安だったのだ。レーベンは内心で胸をなでおろした。

 

「キャナリー! 大丈夫!?」

「ぐへっ!」

 

 腕から抜け出したシスネは、長銃の銃床をレーベンの脇腹に突き刺してから聖女の元へと向かう。さすがに無視できる痛みではなかったが、流れる聖性が傷だけは治してくれた。それでも痛いものは痛い。

 そんなレーベンには目もくれず、シスネは知り合いらしい聖女と引きずられていた騎士の怪我を素早く検める。その際に騎士が痛みに呻き、彼がまだ死んではいないことがレーベンにも分かった。

 

「……、遅いよ、もうっ!」

 

 こちらに顔を向け、くしゃりと表情を歪めた聖女がシスネの脇腹を小突く。シスネは聞くに堪えない悲鳴をあげたが、聖女はそれを見て泣き笑いのような表情を浮かべた。希望を見出したかのような、あるいは絶望が裏返ったような笑みだった。

 

「みんな、死んじゃったのかと思った……」

 

 そう言って、彼女自身の血と涙に濡れた目許を左手だけで拭う。聖女の右肩からは装束も貫いて骨が突き出ており、それが魔女の骨なのか彼女の骨なのかレーベンには分からない。ただ、その右腕は力なく垂れ下がっていた。

 周囲を警戒しつつ戦場を見回す。どこに視線を向けても屍と死骸。視線を上げれば酷薄なまでに青い空が広がっており、夜明けからもうずっと彼女らは戦い続けていたのだ。レーベンとシスネが前線から離れた場所ではぐれ魔女を狩っていた時も、お互いに傷を抉り合っていた時も。

 シスネが、ぎゅうと唇を噛んでいる姿が見えた。

 

「ごめんなさい……っ、遅くなって……」

「シスネの奢りだからね! 逃がさないから!」

「うん、絶対に」

「あたしだけじゃないよ! オーカは……死んじゃったけど、でもクトレはさっき見て――」

 

 

 ■■■■■■━━━━

 

 

 幾百幾千の「声」を繋ぎ合わせたかのような咆哮。びりびりと肌に響くほどの大音声と共に、青空からの光が巨大な影に遮られていく。

 

「……っ、ドーラ……!」

 

 聖女の唇から漏れ聞こえる、絶望を孕んだ声。周壁の上から覗き込んでいるような動きをしているそれに、シスネは呆然と黒い瞳を見開いていた。きっと己も、似たような顔をしていたのだろう。

 巨大魔女ドーラ。レーベンは盗み聞いた話の中でしか知らず、夜明けの中で襲来した姿を遠眼鏡で見ただけの存在だ。カエルム教国の北半分を尽く蹂躙してきた、生ける災厄そのものの魔女が、ついに周壁まで辿り付いたのだ。

 だがいつまでも呆けているわけにはいかない。

 

「下がれ!」

 

 ドーラの巨体が崩れかけの周壁を押しつぶし始めた様が見え、レーベンはシスネの手を引く。その次の瞬間には砂の城のように周壁は崩され、瓦礫が頭上から降り注いできた。

 

「キャナリー!」

 

 レーベンに手を引かれたシスネは聖女の右手を取り、だが咄嗟に掴んだらしいその手は傷を負っていたのか聖女が悲鳴をあげる。だが放すわけにもいかず、レーベンは流れる聖性に任せて二人の聖女を瓦礫の雨の中から引っ張り出した。石塊がぶつかり合う鈍い音が雨音のように響き、水飛沫のように砂塵が朦々と立ち込め、日の光すら遮られていく。

 

「っ!」

 

 その最中で、シスネは弾かれるように空を見上げた。ほんの数瞬遅れて、レーベンも焼けつく視線を感じる。砂塵をも貫いて目に届く、青白い輝き。空を舞う恐るべき射手――破戒魔女。まったく休む間もありはしない。

 

「ここはまずい!」

「待って! まずは彼女を――」

 

 遮蔽物の近くへ移動しようとするも、シスネがそれを止めた。振り返り、だがシスネの視線の先にも手の先にも聖女はいない。

 聖女は右腕を垂らしながら、瓦礫の前に座り込んでいた。

 

「キャナリー……?」

 

 新たに出来た瓦礫の山。その隙間からは、湧き水のように赤い鮮血が流れ出していた。聖女が必死に引きずっていた騎士の姿は、もうどこにも見えない。

 空からは、青白い光が照準を定めている。

 聖女が、ふらりと振り返る。

 振り返り、くしゃりと、またシスネに笑みを向けた。

 綺麗な弧を描いた眦に光る涙は、何色だっただろうか。

 空の上で青い光が閃く。

 ぱん、と。そんな音を立てて聖女の右腕が吹き飛ぶ。

 同時に、聖女の左手は自決指輪に親指を押し付けていた。

 それだけで、聖女は死んだ。

 

「キャナ――……」

 

 ぐ、と。シスネが唇を噤む。名と共に吐きだそうとした何かを飲みこんだ彼女は、聖女が手にしていた長銃を掴み取り、乱暴に目許を拭って踵を返した。瓦礫の上に倒れ伏した聖女の亡骸もそのままに。

 

「行きましょう」

 

 

 ◆

 

 

 深く突き刺した機械剣の引き金を弾く。躰の内側から噴き出た青炎に焼かれ、歪んだ断末魔も無いままに魔女が崩れ落ちた。間近で燃え上がる炎はレーベンにも襲い掛かるが、火除けの黒い外套が、黒銀の胸当てが、そしてシスネの聖性が致命的な火傷だけは防いでくれる。刀身にこびりついた泥を振り払い、シスネの元へ急ぐ。死骸を前に十数える間もありはしない。

 彼女もまた倒れた魔女に長銃を向けているところだった。既に原型を失くしていた頭部に更なる散弾を放ち、焼夷弾まで使って丹念に狩り殺している。振り返った黒い瞳と目が合い、無言のまま並んで走り出した。

 これで何体の魔女を狩ったのか。

 レーベンは機械剣を縦横に振るって魔女を焼き斬り、斬り潰し、時には片手剣や手斧も使って魔女を狩った。黒銀と聖銀の武器は聖性で修復され、それも待てない時は足元に転がっていた誰かの遺品と交換する。レーベン自身も無傷でいられた訳もないが、シスネから流され続ける聖性が鎧も肉体も同様になおしていった。

 シスネは右手だけでひたすらに銃弾を放ち続け、焼夷弾と炸裂弾を何個も投げ放って魔女を狩っていた。弾薬が無くなればそこら中に倒れている銃隊の懐を漁り、時には銃ごと交換する。左手だけは常にレーベンへと向けられ、流される聖性は乱れに乱れていた。

 

 ――まだか

 

 もう数えることすら馬鹿らしくなってきた魔女の死骸を押しのけ、レーベンは空の光を見上げた。ゆったりと漂うそれは徐々に高度を落としてきてはいるものの、それでも未だ点のようにしか見えない。

 

「まだですか……っ」

 

 シスネもまた瓦礫の上に膝をつきながら空を見上げていた。白髪は血と泥に塗れ、顔は汗だくだが顔色はひどく悪い。再生剤を使い過ぎたのだろう。だが使わなければ血を失いすぎて戦えなくなる。レーベンと違い、彼女の傷は増える一方なのだから。

 上空に陣取るあの破戒魔女が完全な飛行能力を有してはいないのだとすれば、いずれは地上へと降りてくるはずだ。ならばその時を逃さず狩るしか方法はなく、だが相手の滞空時間は予想以上に長かった。加えて、頻度こそ低いものの狙撃も続いているのだ。視線に人一倍敏感なシスネだからこそ避けられているようなもので、それもいつまで持つかは分からない。分の悪い根比べ。だが他に方法など……。

 

 ━━■■━━■■■■■■━━━━━━

 

 更には、遂に周壁をも破ってドーラが侵入を果たした。こうして間近で見れば、それはもはや竜でもなんでもなくただの黒い泥の山にしか見えない。元からそうだったのか、あるいはあの巨大魔女であっても消耗はしているということなのか。後者であったほしいと切に願う。

 今もドーラの足元では十数組ほどの聖女と騎士たちが取り巻きの魔女を相手に奮闘している。聖都でも選りすぐりの精鋭であるらしい彼らはその巧みな技量を以て魔女を狩り、互いに連携しながら細い糸のような戦線をかろうじて維持していた。

 

 ――任せるしかないか

 

 元よりレーベンの実力など彼らには及びもつかない。あの連携の中に割り込んだところで邪魔になることは目に見えており、ドーラ本体の相手など言わずもがなだ。そんなものは己ではなく「英雄」の役目だ。

 ちょうど今、複数の魔女を一刀で薙ぎ払ったあの巨躯の騎士のような。

 

 

 ※

 

 

 吼えるドーラの咢が融けるように開き、長大な砲身が聖性の光を帯び始める。四体の魔女を一刀で斬り伏せたヴュルガは視界の中でそれを認め、状況を再計算した。

 作戦の第一段階でドーラの致命的な砲撃を空撃ちさせ、第二段階で取り巻きの魔女を間引き、第三段階で更に魔女の数を削ってきた。それでも魔女の数は減らず、だがそれは決して無駄ではない。

 今もドーラの足元から新たな魔女が生え出で、切り離されていた。まるで魔女を無限に産み落としているかのような光景だが、いかに魔女が常識外の存在であっても全能ではない。あれはただ単にかつて喰らい融合していた別の魔女を吐き出しているだけであり、文字通りに身を削っているのだ。現にドーラの巨体は徐々に縮んできており、今では周壁と同程度の大きさしかない。それでも充分な脅威ではあるものの、アレも決して無敵の存在ではないという証左であった。

 そして今、その傷つき消耗した一つの生物が、唯一最大の武器を向けてきた。手負いの獣のように、追い詰められた窮鼠のように。巨大な砲身を、ヴュルガ唯一人に向けて。

 ()()()()。この時を待っていた。

 

聖女長(イグリット)、血に流せ」

 

 この戦が始まってから初めて、ヴュルガは自身の聖女へと声をかけた。背負った函の中から笑ったような吐息が漏れ、イグリットの白い右腕から周囲の騎士へも向けられていた聖性が途切れる。それを合図とし、騎士たちは魔女に応戦しながら後退を始めた。

 イグリットの右腕が首筋を撫で、そしてその爪を突き刺す。同時に割れた爪から流れる血がヴュルガの傷口へと流れこみ、イグリットと()()()()()()

 ヴュルガの巨躯が青白く燃え上がる。

 イグリットが操る桁外れの聖性。それと極めて高い適合率を有するヴュルガ自身の聖性。十数人もの騎士を同時強化していた流れをただ一人に集中し、更に「線」を介することなく血流に直接流し込まれる聖性。それが人の身における限界まで鍛え上げられた肉体に流し込まれた。

 それはもはや「強化」ではなく「昇華」、あるいは「変質」だった。今この瞬間に限り、ヴュルガはヒトという生物種の軛から解き放たれたのだ。

 ドーラの砲身が燃えあがる。その長大さからすれば、ほぼ零距離といって良い距離から、ヴュルガに向けて砲撃を放たんとする。

 ヴュルガの体と剣が燃えあがる。諸手に握った巨大な聖銀剣。その巨躯を大きく捻りあげ、聖性を滾らせた巨剣を振るわんとする。

 それは反発なのか共鳴なのか。両者の間で荒れ狂う聖性が小規模な嵐となって吹き荒れる。聖女も騎士も魔女も、誰ひとり何ひとつとしてこの場に割って入ることは出来ない。その領域に至れる存在など他にはいなかった。

 

 ■■■■━━━━━━

 

 ドーラが吼える。どこか無機質であった咆哮とは異なる、明確な殺意を感じさせる歪んだ叫び。砲身に走る聖性が炸裂し、青白い炎を纏った骨の砲弾が遂に射出された。

 

「――」

 

 ヴュルガは声を発しなかった。重厚極まる兜の内側で、常と何ら変わらない巌の顔で、ただ一歩分だけ前に踏み込む。その僅かな距離で己の全てを爆発させ、聖銀の巨剣が遂に振るわれた。

 

 砲弾と巨剣が激突する。

 互いに聖性を滾らせたそれは互いを殺し尽くさんと一瞬の間に削り合いを始め、そしてまた刹那に決着はついた。

 相殺。相討ち。聖性の輝きは失せ、骨と剣だけがそこにある。

 ならばその後は、地に足を踏みしめていた方が勝つことは摂理そのものだった。

 

 音がすべて掻き消えるほどの轟音。空気の壁を突き破った白い輪を宙に描きながら、弾き返された砲弾は元来た道を真逆に辿っていく。

 つまりは、ドーラの砲身の中へと。

 

 ■■■■■■━━━━━━

 

 ドーラが叫ぶ。

 吼えて、竜に似た巨大な頭が内側から弾け飛んだ。

 故に、それは断末魔の叫びだったのだ。

 

 

 ◆

 

 

「やった……っ!」

 

 背中合わせになっていたシスネが、絞り出すような歓声をあげる。彼女の視線を辿れば、ドーラの頭が弾け飛んだところだった。遅れて、沈黙していた精鋭騎士たちも得物を突き上げながら歓声をあげる。

 

「滅茶苦茶だな……」

 

 いったいどんな魔法を使ったのか。なんにせよ竜にも似た魔女を人が討ち倒すという、御伽噺そのものの奇跡を成してみせた彼らはまさに英雄の名に相応しい。生き残りの聖女や騎士、銃隊も目に見えて士気を取り戻しており、残党に等しい魔女を狩り始めている。絶望的な戦いにも見えてきた光明。

 だが。

 チカリ、と。

 ドーラの死骸に亀裂が入り、そこから青白い光が――。

 

「――!」

 

 つかまれと、そう言う間もなくシスネの体を捕まえ。

 巨大な爆風がすべてを、そして跳びあがったレーベン達を空へと吹き飛ばした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最果ての再会

 

「あぁ……っ!」

 

 左腕に抱えたシスネが悲痛な声をあげる。それは遥か眼下で広がる青白い爆炎のせいであり、そして致命的な高さまで吹き飛ばされた自分たちの運命を悟ったせいなのだろう。

 巨大魔女ドーラは見事に討伐された。だがその最期に起こった、まるで全てを道連れにしようとでもするかのような大爆発。何を考える間もなくシスネをつれて離脱したレーベンは爆風に吹き飛ばされ、今やポエニス教会の全景が見渡せそうな高度にまで跳びあがってしまった。

 爆発にこそ巻き込まれなかったが、このままでは地面に叩きつけられ二人まとめて大地の染み。なんとかしなければならないが、事態はそんな思考すらさせてはくれない。

 

 焼けつく視線。青白い輝き。

 

 幸か不幸か、運命の悪戯か。上空に吹き飛ばされたことで、二人は「それ」のすぐ近くまで肉薄することに成功した。目を開けることすら困難な風圧の中、今まで点にしか見えていなかった射手の姿が遂に明らかになる。

 蝙蝠の羽を思わせる、白い骨と黒い泥で成された皮膜の翼。その根本で宙を舞う大きな人型と、それが手に構える長大な銃。その銃口からは目を焼かんばかりの聖性が溢れている。そして、輝くような金色の――。

 

「「――――」」

 

 その姿を間近にして、レーベンは全ての感情を忘れた。きっとシスネも同じだった筈だ。恐怖も何もかも。唯一つ抱いたのは懐かしさ。あるいは強烈な意思。

 故にレーベンは機械剣の引き金に指をかけ、シスネは長銃を構えた。

 射手――破戒魔女が長大な銃を向けてくる。聖性を以て放たれる恐るべき銃撃。その威力と弾速を前には防御も回避も不可能に等しく、故に決して撃たせてはならない。

 ならば仕掛けるしかないのだ。

 

 ――外さないでくれ

 ――絶対に当てます

 

 それはただの幻聴だったのか、あるいは繋がった聖性による何かだったのか。言葉も根拠もなく、レーベンはシスネと会話をした気がした。

 ならばもう迷わない。二本目の引き金を弾き、加速した機械剣ごと錐もみするように破戒魔女へと肉薄する。

 高速で回転する視界。過ぎ去っていく青空と大地。眼前に迫った聖性の光、黒い翼、灰色の装束、銀色の鎧、金色の髪。

 シスネの叫びと銃声。

 放たれた散弾。穿たれる黒い翼。ほんのかすり傷。だがそれで良い。骨と泥だけで成された歪な翼。無理をしていない訳もない。

 

『――――!』

 

 墜ちていく破戒魔女。歪んだ叫び。どこかで聞いたことのある声。懐かしい声。

「彼女たち」を追い、レーベンとシスネも真っ逆さまに地面へと――。

 

「つかまれ――っ!」

 

 機械剣を使って無理矢理に軌道修正。再び眼前に迫った魔女の躰をシスネが掴み取り、抱き寄せ、それをシスネごと左腕に抱える。

 暴れる魔女の躰。当然だ、魔女と助け合える訳もない。だがその翼を利用することは出来る。

 機械剣の引き金を弾き、峰からの爆炎を下方へ。片方だけになった魔女の翼がかろうじて風を受け、申し訳程度にレーベン達は減速し、死の速度で迫る地面がもうすぐそこへと。

 

「……う、あああ゛あ゛あぁぁ――――っ!!」

 

 シスネの咆哮。裂帛の怒声。荒れ狂う聖性。機械剣の複雑怪奇な機構はその全てを炎に変え、レーベンとシスネと魔女たちを横方向へと吹き飛ばし、視界の全てが高速で過ぎ去る緑、緑、緑に……。

 

 ――ぐ、ぁ

 

 呻きと悲鳴をあげられたかどうかすら定かではない。

 ナダ平原。旧聖都ポエニスの北側に広がる緑の平原にいくつかの人影が墜落する。柔らかな草地の上を跳ねまわり、転がり、長々と雑草を散らし尽くし、粉塵と砂塵を巻き上げてからようやく、彼らは地面へと不時着した。

 ポエニスの戦場から遠く離れた、彼らだけの戦場へと。

 

 

 ◆

 

 

「……大丈夫ですか?」

「……生きているとも」

 

 たぶん。おそらく。

 見上げた空は非現実的なまでに快晴で、痛みしかない体を包み込むような草花の香り。人が死後に至るという女神の川であると言われた方が納得できそうではあった。

 

「怪我は、無いかと、聞いているのですよ……っ」

 

 痛そうな声をあげながらすぐ近くでシスネが体を起こし、「馬鹿」と脇腹を小突かれる。軋む体に鞭打ち、差し出された白い手を掴んでようやく、レーベンも体を起こす。

 遠くに見えるポエニスの周壁。見慣れていたはずのそれは大きく崩れ、いくつもの黒煙があがっている。微かに聞こえる鬨の声が、未だ全てが終わってはいないのだということをレーベンに教えてくていた。そしてここが女神の川などではなく、まごう事なき現実であるということも。

 故にレーベンは立ち上がり、最後まで手放さなかった機械剣を構える。弱々しくも流される聖性が、おそらくは折れていただろう何ヵ所かの骨も治してくれた。

 隣のシスネもふらつきながら立ち上がる。奇跡的にも、彼女に致命的な負傷はないようだった。あの墜落の最中でも、己はなんとか彼女を守ることが出来たらしい。

 

 レーベンもシスネもまだ生きている。まだ戦える。今この瞬間、あの魔女を相手にできるのだ。

 名の無い女神に畏敬を。今ならもう、その存在を心から信じても良い。良い意味でも。悪い意味でも。

 

「やれるな、貴公」

「あなたこそ」

 

 頼もしい返事にレーベンは笑った。笑って、顔を上げた。上げて、今まで見ないようにしていた魔女の姿を、二色の双眸で確と捉えた。

 

 

 

 

 

 

『ごめん……ごめんなさい……』

 

 美しい魔女だった。

 何よりも目を惹く、背中から大きく広がった四本の白い骨。所々に黒い泥の皮膜も纏ったそれはまるで翼のようで、現にアレで空を漂ってもいたのだ。既に役目を終えたその翼はそれでも、主を守るかのように形を保っている。

 赤い血に汚れた灰色の装束。聖女の証であり、聖女らしくもない改造装束。誰をも魅了したそれは、彼女の代名詞だった。

 豊麗で、それでいて均整のとれた肢体。両腕の手首には腕輪が、細い指には十の指輪が光り、だが手に構えるのは長大な狙撃銃。それも今は銃身が泥に塗れ、恐るべき魔銃と化している。

 人の姿こそ保っているが、その両脚だけは何処にも見当たらない。深く切り込まれた長いスカート、その裾に染みついた夥しい血痕が、彼女の至った苦痛と絶望を物語っていた。

 

『――――』

 

 失くした両脚の代わのように、別の存在が魔女を抱きかかえている。地を踏みしめる長い両脚、魔女の躰を支える逞しい両腕。その全てを包み込む重厚な鎧。完全な人型を保ちながらも、一つだけ致命的な欠損があった。

 その存在――騎士には首が無く、だがそれでも、その騎士の正体をレーベン達は確信している。

 

『ごめんなさい……』

 

 魔女が顔を上げた。両目を黒い泥で塞がれ、それでもなお損なわれることのない美貌。波打つ金の髪は、陽光を反射して太陽の如く輝いていた。

 

『ごめん……ライアー……』

 

 聖女カーリヤと騎士ライアー。

 破戒魔女と成り果てたかつての友人たちが、そこにいた。

 

 

 

 

 

 

「……あぁ、そんな気がしていたとも」

 

 レーベンは驚かなかった。今その姿を目の当たりにする前から、空からの視線を感じる前から、もしかすれば二人の死を聞いた時から、こうなることを確信していたのかもしれない。

 彼なら、きっとカーリヤを守っただろう。どんな事があろうと、例え自身を盾にしようと、彼はきっと最期までカーリヤを守り抜いただろう。

 彼女なら、きっとそれに絶望しただろう。例え自身だけが生き残ろうと、彼女はきっとライアーの死に絶望し、その絶望は魔女に至るほどに強かっただろう。

 彼はそれだけカーリヤを想い、そして彼女もまたライアーを想っていたのだろうから。彼がもう少しだけ弱ければ、彼女がもう少しだけ薄情だったならば、きっとこんな事にはならなかった。彼が彼だったから、彼女が彼女だったからこそ、こうなってしまったのだと。

 レーベンは驚かなかった。だが、それでも。

 

「…………くそが」

 

 その悪態は笑えるほどに声が笑っていた。

 

 

 言ったじゃないか

「帰ったら蹴る」と、貴公はそう言ったじゃないか

 だから死なずに待っていろと、そう言ったじゃあないか

 なのに何なんだ、その様は

 貴公のあの綺麗だった脚はどうしたんだ

 その様じゃあ、もう蹴ってはくれないじゃないか

 なあ

 

 

 ぎゅう、と。白い手がレーベンの腕を掴んだ。

 

「……大丈夫ですか?」

 

 ほとんど耳元で囁かれた声はいつも通りに澄んでいて、そしてかつてない程に優しかった。掴まれた手からじわじわと流される聖性が、冷え切ったレーベンの心身に染みわたっていく。

 

「……あぁ、やれる。やれるとも」

 

 あの時、シスネは聖女マリナに迷わず銃を向けた。最後に引き金を躊躇ってしまってはいても、それでも狩ることを決意してみせたのだ。

 ならばレーベンもやらなければならないのだ。彼女の隣に立つならば。

 シスネが手を離し、だが「線」は繋がったまま。

 レーベンは機械剣を構える。構えて、その黒銀の切っ先を二人に向けた。

 かつての友。唯一無比の友人たち。それでも。だからこそ。

 

 

「貴公を、狩るぞ」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

友よ、死にたまえ

 

 青空の中で、弾き飛ばされた剣がくるくると宙を舞う。

 剣を失くしたレーベンは両手をあげて降参――する振りをして、眼前のライアーに掴みかかった。まるで騎士らしくもない不意討ち。それこそ縄張り争いに猛る野良犬じみた動きで。

 

『ぐべっ!』

 

 だがそんな浅ましい手はお見通しだったらしい。レーベンの手が彼の脚を取ろうとした瞬間、その脚が膝蹴りの形でレーベンの顔面へと突き刺さったのだ。無慈悲な反撃に悶絶したレーベンは芝生の上を転げまわったが、ライアーはもう油断しない。更に続く容赦のない蹴りで中庭の池に落とされてようやく、レーベンは己の負けを認めた。

 

 

 

『ひどいな』

『てめぇが汚い手ばっかり使うからだろうが』

 

 並んで教会の中庭に座り込み、脱いだ上着を絞りながらレーベンは愚痴を零す。対してライアーはいつも通り、不機嫌そうな顔で吐き捨てた。

 

『心外だな。“魔女は――”』

『“魔女は何をしてくるのか分からない”、だろ』

 

「聞き飽きた」と、嫌そうな顔でライアーがまた吐き捨てる。共に見習い騎士となって既に五年、毎日のように聞かされてきた言葉だ。だからこそレーベンはあの手この手を使ってライアーの修練にも付き合ってやっているというのに、もう少し感謝してほしいものである。……正攻法ではもう全く勝てなくなって久しいということもあるが。

 

『……何をしてこようが知ったことかよ。どいつもこいつもぶっ殺してやる』

 

 ぎちりと、握りしめた鉄剣の柄が軋む音を聞く。横目で見たライアーの鳶色の目はいつも通り、怒りと憎悪に燃え盛っていた。特に珍しいことでもない。家族や故郷を魔女に奪われて騎士を目指すような少年は皆が似たようなものだ。家族も故郷も知らないレーベンには分からない話である。

 分からない話ではあったが、ライアーをこの目のままにしておくと色々と面倒だったからレーベンは話を逸らすことにした。もう一人の友人の為でもある。

 

『早いな。遂に今年か』

『遅えよ。待ちくたびれたぜ』

 

 あと半年も経たずにレーベン達は騎士としての修練を終え、遂に「見合い」の時を迎える。同じく聖女としての修練を終えた見習い達と聖性を通わせ、それを終えてはじめて騎士となれるのだ。

 魔女に復讐する為に騎士を目指すライアーにとってはまさに悲願であり、この五年はまさに雌伏の時だったのだろう。それもまた、ただ流されるがまま騎士の道を選んだレーベンには分からないことだった。

 

『……』

 

 ふと視線を感じ、目だけを動かして中庭の端に向ける。聖女棟の壁、そこから半身を出すようにして佇む金髪の女がいた。やたらと伸ばされた前髪で顔を隠すようにしており、そこから覗く碧眼は相変わらず何かに怯えているように揺らいでいた。その風貌と行動のせいで気味悪がられることも多いが、素顔は意外なまでに端麗であることをレーベンは知っている。あと胸がひどく大きいことも。

 あの見習い聖女――カーリヤの存在に気付いていないのか無視しているのか、ライアーは不機嫌そうに空を見上げている。この二人の関係はひどく複雑なようで、長い付き合いではあるものの賢くはないレーベンには未だによく分からない。これでもまだマシになった方なのだ。彼が彼女に暴力じみた拒絶をしなくなった程度には。

 

『……おい、何やってんだ』

 

 自分を咎められたと思ったのか、カーリヤがびくりと身を竦ませたのが見える。だがライアーの言葉は、いきなり中庭の木を登り始めたレーベンに対するものだ。

 

『いやなに、どの聖女と組もうか今の内に考えておこうかと』

『覗きかよ。落ちて死ね』

『固いことを言うな。カーリヤも中にはいないようだしな』

『あいつは関係ねぇだろうがっ』

 

 心なしか赤い顔で表情を歪めたライアーは、ちらと聖女棟の陰に目を向けた後で、何故かレーベンの後に続いてきた。

 

『なんだ、結局は見るのか。この浮気者(コルネイユ)め』

『ただの鍛錬だよっ』

 

 吐き捨てたライアーが木に登りながら枝を揺らし始め、負けじとレーベンも彼を蹴落とそうとする。わたわたと木に駆け寄ってきたカーリヤが木の下で右往左往する様を見て、レーベンは灰色の目を細めた。

 

『俺も少しは楽しみになってきた』

『はっ! てめぇみたいな馬鹿の聖女になる女なんざ、とんでもない不細工か、頭のおかしいイカれ女のどっちかだろうよ!』

『勘弁してくれ』

 

 

 

 あと半年も経たず、レーベンは「見合い」の時を迎える。こんな何も無かった、今も大して何も持っていない自分でも、騎士となるのだ。

 その先までは分からない。考えたこともない。初めての魔女狩りで死ぬのかもしれないし、案外それなりの歳になるまで騎士を続けるのかもしれない。もしそうだとすれば、自分などよりよほど強いライアーも生き残っているのだろうし、彼の聖女はきっとカーリヤだろう。

 ライアーと、カーリヤと、レーベンと、そして誰か――レーベンの聖女。四人で魔女を狩って、たまに酒でも飲んで、今みたいに下らない話をして。

 そんな未来が、レーベンは少しだけ楽しみに思えたのだ。

 その日、その時、非現実的なまでの青空の下で。

 たしかに、そう思えていたのだ。

 

 

 ◆

 

 

 はじまりはシスネの銃撃だった。今なおレーベンの奥底にこびりついた迷いを断ち切るかのように響いた銃声と共に、一直線にレーベンは駆ける。

 

「ぬんっ!」

 

 様子見などしない。手加減も、躊躇も、慈悲も一切を捨てなければならない。故にレーベンは機械剣を振り上げ、引き金を弾きながら渾身の力で振り下ろした。

 吹きあがる青い炎。弾ける火花。交わる黒銀と聖銀の刃。

 

「……貴公っ!」

 

 だが当然、あの魔女を害そうとする相手を見逃す「彼」ではない。

 見上げるような長身。重厚な鎧。聖銀の片手剣。立ちはだかる首なし騎士(デュラハーン)

 血を噴き出すこともないその首からは黒い泥が「線」となって伸び、魔女の右手と繋がっていた。その泥線が、青白い光を奔らせる。

 

「ぬ……、が……っ!」

 

 ぎちぎちと、眼前の騎士の鎧が軋む。全身が青白い聖性を帯び、鎧の内側で死肉となった筋肉が膨張している。刃の上下を入れ替えられ、レーベンを機械剣ごと押し潰さんと迫ってくる。

 

『ごめん――』

 

 騎士の背後で座り込む、脚のない魔女。背中から生え出でた骨の翼を脚のように地面に突き立て、両手に構えた長大な魔銃をレーベンに向けていた。銃身に滾る聖性。遥か上空から幾人もの聖女を狩った魔の銃撃を、この近い間合いで放とうと――!

 

「動かないで!」

 

 シスネの叫び。

 

『――ライアー!』

 

 魔女の叫び。

 重なる銃声。

 レーベンの二色の双眸は青白い閃光に塗りつぶされた。彼女の声に従い動かさなかった頭を、何かが恐るべき速さで掠めていったのが分かる。シスネの放った散弾が魔女の銃口を逸らさなければ、今の一撃で決まっていた。そう確信してしまうほどの銃撃。

 

「すこしは、加減したまえよ!」

 

 あんな物を至近距離でくらえば、レーベンの体など一瞬でバラバラになる。聖性の治癒にも限界はあり、そしてあの銃撃はその限界を遥かに超えている。一撃でも受けてはならない。

 八つ当たり交じりに騎士へと斬りかかるも、それも全て弾かれた。騎士の握る片手剣。その体躯からは短剣のようにすら見えてしまうほど小振りな、だが分厚い刃を持つ特注品。受けと弾き、防御に特化された片手剣が鉄壁の盾となってレーベンの剣戟を寄せ付けない。

 ならば――!

 

「シスネ!」

 

 返事の代わりに短銃が連続して火を吹いた。それすらも当然のように騎士の剣は弾き落とし、だがそれでも限界はある。剣は一振りしかなく、故に一度で防ぐ攻撃もまた一度だけ。半ば銃撃に飛び込むような形で機械剣を振るい、騎士が銃弾を弾いたと同時に斬りかかる。

 

「ぐ――っ」

 

 だがそんなレーベンの浅知恵などお見通しだったのか。騎士の長い脚がレーベンの腹へと突き刺さった。不安定な姿勢で放たれたその蹴りは間合いを外させる為のものであり、故にそこまでの威力は無い――それでも臓腑を抉られる思いだったが。

 だがレーベンもそれで終わる気は無い。

 

 ――くらえ

 

 弾かれる引き金。刀身から青炎が伸び、間合いを倍近くまで延長する。後ろに倒れ込みながら振るった炎の斬撃は騎士へと届き、そして炎の刃は弾くこともまた出来ない。

 

『――――』

 

 炎刃に胸を焼き斬られても、騎士は何ら声をあげない。口どころか頭すら無いのだから当然だが、そもそもアレは魔女に操られたライアーの死体でしかない。例え二本の脚で立ち、その手で彼の剣を振るおうとも、所詮は人形遊びのようなもの。

 そう、思っていた。

 

「おあぁっ!」

 

 魔女狩りの定石に漏れず、眼前の騎士にも炎が有効であることに気付いたレーベンは更に機械剣を振るった。間合いを詰める必要はない。こちらの炎刃は届き、相手の剣は届かない、そんな距離で引き金を弾く。防御は出来ず、回避するならその隙を狙う。そしてその瞬間こそが仕留める絶好の機。

 だが。

 

「……な、」

 

 鈍い金属音。動かない黒銀の刀身。空に向かって無意味に伸びる炎。

 機械剣の刃は、騎士の左手にがっちりと掴み取られていた。噴き出す炎に焼かれながらもまるで動じず、手を包む聖銀の手甲もまた熔けることはない。騎士の躰に奔り続ける青白い光。泥の「線」の先にいる魔女は聖性を発しながら、魔銃の銃口をレーベンに、

 

「伏せて!」

 

 シスネの声と共に雷鳴のような銃声が二つ重なり、皆が同時に動いた。

 レーベンは動かない機械剣を手放し、両脚に全力を込めて後方へ跳び退る。過剰な聖性によって弾け飛んだ体でなんとか草地を掴み、十歩ほどの距離で動きを止めた。

 シスネは片手で撃った大短銃を持ち替え、震える右手で短銃を構えて魔女たちを牽制する。

 騎士は飛来した銃弾を片手剣で打ち払う。代償として分厚い刀身が砕けたが、あの強力無比な銃撃を無傷で切り抜けた。

 魔女は必殺の銃撃を再び躱され、だが何を感じた様子もなく銃身に聖性を注ぎ始める。

 四者がそれぞれの攻撃を躱し躱され、場にごく短い静寂が訪れた。

 

 

 

「厄介な……」

 

 シスネの傍まで駆け戻ってきたレーベンは、片手剣を抜きながら小さく悪態をついた。二色の双眸を向けた先では、騎士が魔女を守るような位置に陣取っている。その手に握る片手剣は既に修復を終えていた。

 あの騎士が見せた動きを振り返る。剣を防御にこそ用いるという異質な剣技。前衛の騎士が相手を押さえつけ、後衛の魔女が撃ち抜くという連携。それは紛れもなく、ライアーとカーリヤが用いていた戦術そのものだ。

 そして機械剣の炎にもすぐさま対応してみせた機転。あの瞬間、騎士は自ら間合いを詰めて機械剣の刀身を掴み取った。後ろに退いても横に躱しても炎の刃は避けきれないと見切り、最適解を実行してみせたのだ。

 とても人形遊びなどとは呼べない。これではまるで……。

 

「すべて生前のまま、というわけですか」

 

 大短銃の装填を終えたシスネが代弁した。

 理屈など分からない、この場で考える時間も必要も無い。知識や技術が肉体そのものに染みつく、そんな事もあり得るのかもしれない。相手は元より常識外の存在。何をしてくるのか分からない、それが魔女の恐ろしさなのだから。

 だがそれならそれで、やりようはある。

 

「ひとつ考えがある。だからカ……魔女を押さえてくれ」

「必ず」

 

 決然とした声と共に銃を構える聖女の肩をひとつ叩き、レーベンは駆けだした。

 

 

 

 あの騎士を相手に正攻法で勝てるとは思わない。故にレーベンは正面からではなく、騎士の側面へと回り込む。

 それに対して騎士はゆらりと、首が無いにも関わらず首を巡らせるような動きをした。何を以てこちらの姿を捉えているかは分からないが、それもまた騎士が生前の動きを再現しているという証左でもあった。

 レーベンは尚も横に走り続け、ちょうど騎士と魔女が並んで視界に並ぶ、そんな位置に達した時。

 

『ごめんなさい……』

 

 向けられる魔銃。だがその銃口が光る前に、シスネの短銃が火を吹く。弾倉をすべて撃ち尽くすまで続いた銃撃は六発。その全ては魔女の躰に届くことは無かった。

 魔女の背中から生えた骨の翼。今となっては脚の無い躰を支えるぐらいしか出来ないと思われたそれが銃弾を尽く弾いてしまったのだ。雨の中で戦った破戒魔女(マリナ)の剣を思い出し、その雑念も追い払ってレーベンは鋭く踏み込んだ。シスネは自分の役目を果たしてくれている。己もそれに応えなければならない。

 

「もらったぞ!」

 

 レーベンの視線の先にあるのは魔女ではなく、騎士でもない。狙いは二体を繋ぐ泥の「線」だった。魔女の躰はともかくとして、騎士の躰はただの死体でしかない。どうやって動いているのかなど考えるだけ無駄だが、あの「線」を通じて何かをしている可能性は高いだろう。賭ける価値はある。

 それを裏付けるかのように、騎士は鋭い動きでレーベンの前へと立ちはだかってきた。弱点だと分かったところで、そう容易くはない。何事もそう上手くはいかない。特にレーベンは。

 だからこそ、それは本命であると同時に囮だった。

 

「ふんっ!」

 

 走る勢いのまま握った片手剣で突く――振りをして、左手で抜き放った手斧を投げつける。魔女狩りの中でレーベンが幾度も用いた小手先の奇襲。ライアーも見たことはあるはずだった。

 故に騎士は手斧を剣で弾くことはせず、ただ躰を横に傾けるだけで躱してみせる。必要最低限の小さな動き。あとは正面から突っ込んでくる無謀な相手を迎え撃てば良いだけ。破れかぶれで突きこまれた剣をあっさりと弾き、そして隙だらけの身をその拳で――。

 レーベンは、機械剣の引き金を弾いた。

 

 

 

 すべて本命であり囮だった。「線」を切れたならそれで良かった、手斧が当たるならそれで良かった、剣で貫けるならそれで良かった。その全てが失敗に終わり、そしてこれが最後で最大の一手。

 手放し、草地に埋もれたままだった機械剣。それを足で蹴り上げ、掴み取ると同時に二本目の引き金に指をかける。

 騎士は――()()()()()()()()()()()()()。故に一度は炎にその躰を焼かれ、そして二度目には対応してみせた。だが炎の刃はこの剣の持つ力の半分でしかない。

 二本目の引き金。刃を加速させ、振動させることで全てを斬り裂く、破壊の刃を彼は知らない!

 

 ――くたばれ、ライアー

 

 加速した刃が、騎士の躰を深々と斬り裂いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

騎士狩り騎士

 

 非現実的なまでの青空の下で、機械剣の刃が騎士の躰を深々と斬り裂いた。

 

「――貴公、」

 

 呆然と、レーベンは呟く。

 新たに生まれ変わった機械剣。聖性そのものを燃料とし、峰から噴き出す爆炎で加速し、その衝撃で刃を振動させる必殺の一撃。騎士にとっては初見の、それも絶好の機と距離から放った一撃は、その躰に深々と食い込んでいた。

 

 ――この距離、この機で、

 

 騎士の左腕。その掌から手首を、前腕から肘までを、更に二の腕の半ばまで。

 

 ――止めただと!

 

 その左腕の全てを()()斬り裂いた刃は二の腕の筋肉、その最も鍛えこまれた部分で止められていた。

 ぎちり、と。もはや使い物にならないであろう騎士の左腕が軋む。死肉となってなお収縮した筋肉が機械剣の刃を咥えこみ、掴んで放さない。

 

「――っ!」

 

 呆けている間もない。ごく近い間合いから突きこまれる騎士の片手剣。腹に捻じ込まれようとしていたそれを左手の手甲で叩き上げ、胸当てを使って逸らす。間髪いれず放たれた蹴りは膝当てで受け、上段から打ち下ろされた片手剣を腰から抜き放った片手剣で受け流した。

 

「――――く、」

 

 その攻防の最中で、レーベンの喉から引きつった笑いが漏れる。自棄になったわけではない。気が触れたわけでもない。だが正気とも言い難かったか。

 それはきっと、歓喜だったのだから。

 

「ふ……へはっ!」

 

 機械剣の引き金を弾く。騎士の左腕に捕らえられていた刀身から青白い炎が噴き出し、無残な姿となっていた左腕を今度こそ根本から焼却した。自由になった機械剣を振りかぶり、その隙を狙って飛来した刃を左手の片手剣で打ち払う。だが力負けした左手は剣を落としてしまい、だがそれで空いた左手を使ってレーベンは、その首筋に強化剤を打ち込んだ。

 

「ぐぁ……が……っ!」

 

 レーベンの体には既に過剰な量の聖性が流されている。そこに更に強化剤を使った。未だかつて経験したことのない熱が全身を駆け巡り、まるで体が燃え上がるかのよう。更に振れ幅の広がった感情が、その歓喜を狂喜へと変える。

 

 そして騎士と騎士の間で、刃が乱舞した。

 

 レーベンはもはや全ての思考を置き去りにした。考える前に剣を振るう。何も考えずに引き金を弾く。黒銀の刃を、炎の刃を、破壊の刃を絶え間なく放ち続け、その全てが眼前の騎士には届かない。その絶望的な現実が、レーベンに更なる狂喜を与える。

 

 凄い、と。

 さすが、と。

 見たか、と。

 彼は、この騎士は、ライアーは!

 俺の友達は、こんなに凄い騎士(やつ)なんだぞと――!

 

「――――!」

『――――!』

 

 レーベンは叫んだ。あるいは笑った。己ではもう分からない。その時、レーベンの耳には何も聞こえてはいなかったから。

 眼前の騎士も何かを叫んでいたのかもしれない。口どころか頭すら無くても、何か叫んでいたのかもしれない。だが聞こえない。レーベンに聞こえていたのは剣戟の音と、己の心音。

 そして、パキリパキリと、己の内で何かが砕けていく音だけだった。

 

 

 ◇

 

 

 ――あの馬鹿っ!

 

 短銃を連射して魔女を足止めしていたシスネは、目の前でまた馬鹿な真似を始めた馬鹿を内心で罵倒した。

 聖性を流されたまま強化剤を使用。そんなもの、どう考えても自殺行為だ。興奮した暴れ馬の尻尾に、更に火を放つようなもの。現にレーベンは今、雄叫びとも哄笑ともつかない声をあげながら機械剣を振り回している。竜巻のような刃の応酬。刀身から噴き出た青い炎は剣風に煽られ、その勢いは増すばかりだった。

 一度、聖性を切るべきだろうか?

 でも。

 

 ――それじゃあ、勝てない

 

 今レーベンが対しているのは、騎士ライアーの成れの果て。死体を魔女に操られ、だがその力も技も生前の彼そのもの。多くの魔女狩りを経験する実戦派の騎士が多いポエニスの中でも、十指に数えられていた実力者だ。世辞でも優秀とは言い難いレーベンとは役者が違う。

 尋常な手段では勝ち目なんて無い。でも、あんな戦い方を続けていたらレーベンの体は……。

 バキン、と不吉な金属音が響く。

 

「っ!」

 

 余計な考え事をしていたシスネを咎めるように、砕かれた機械剣の破片がシスネの頬を掠める。雑念を振り払って聖性を注ぎ込み、折れた剣だけを振るい続けるレーベンが斬り殺される前になんとか刀身を修復できた。

 もう魔女を足止めする余裕もない。右手の短銃を投げ捨て、押され始めた彼の背中を支えるように両手で聖性を流し続ける。見れば、魔女もまたその両手を騎士へと向けていた。それはまるで、シスネも魔女も真っ当な聖女のような姿で。

 

 ――あぁ、

 

 思い出した。ずっと忘れていた。これは聖女になって一年後、そして聖女でなくなる一年前、シスネが本当の意味でレグルスの聖女でいられた頃の気持ちに似ていた。その手に銃なんて持たず、ただ一人戦う騎士の背中を見つめながら。騎士を信じて、全てを委ねて、それはなんて……。

 

 ――()()()

 

 シスネの胸には痛苦だけがあった。あんな傷だらけになって戦っている騎士に聖性を流すだけ、ただ見ているだけだなんて。それだけでレグルスを助けられているなんて思っていた過去の自分は、なんて穢い女だったのか。そしてそれは今も変わっていない。今もシスネはただ見ているだけではないか!

 

「……ふ、ざけ……っ!」

 

 胸の中の痛苦は場違いな怒りへと。その怒りを前に進む力へと変え、シスネは足を踏み出した。

 

 

 ◆

 

 

 一際大きな金属音と火花が散り渡り、レーベンの機械剣と騎士の片手剣がガッチリと噛み合った。

 

「ぐ……が……っ!」

『――――』

 

 そのままギリギリと鍔迫り合うが、両者の剣は宙に制止したかのように動かなかった。地力では圧倒的に騎士の方が上、だが相手には左腕を失くしているという枷があり、それ故に生まれた拮抗。ならば後は、剣の攻撃性で勝るレーベンの方が有利――。

 

 ごぼ、と吐いた血で溺れそうになった。

 

 動きを止めたことで、体を酷使した代償が一気に襲い掛かってきたのだ。腕も脚も痛まない箇所はまるで無い。全身に塗れた血は騎士の剣によるものなのか、それとも限界を超えた動きによる自傷なのか。聖性による治癒は続いているというのに、それが追いつかない程にレーベンの体はボロボロだった。今もまた、力を込めた腕からパキリと何かが折れた音が響く。

 

 ――それが、どうした

 

 引き金を弾く。刀身から噴き出た炎が騎士を、そしてレーベンの身を焼き始めた。

 相手はライアー。己などより遥か高みにある本物の騎士。正攻法で勝てないことなど百も承知。尋常な手などいくら並べても彼には届かない。ならばもう、何もかもを積み上げるしかないのだ。今までずっと、そうしてきたように。

 地力が足りないなら鍛え抜け。武器が足りないなら数を持て。それでも足りないなら薬を使え。使える物は何でも使え。それが己の血と命に等しい何かでも。

 青白い炎は消えない。騎士を焼き、同じく焼かれていくレーベンの体は聖性によって治され、また焼かれていく。姿形こそ保ってはいても、内側の何かが致命的に削られていく。それでも退くことはできない。退路は常に無く、活路はいつだって前にしか無いのだから。

 

 だがそれでも、限界はある。

 

 拮抗していた剣が動く。当然のように、レーベンの方へと。

 あれだけ全身を苛んでいた痛みが消えた。内側から響いていた破砕音も聞こえない。もう体のどこからも血が流れない。真っ白な灰のようにレーベンの全てが燃え尽きようとしていた。

 どれだけ骨を削ろうと、血を絞り尽くそうと、何もかもを積み上げようと、届かないものは届かない。ただそれだけのこと。隔絶した実力差。変わらない現実。無慈悲な摂理。

 限界を迎えた機械剣の刀身に亀裂が入る。それと同時に、レーベンそのものにも亀裂が入ろうと、

 

 

「――――レーベン!」

 

 

 澄んだ叫びと共に、首筋を熱が貫いた。

 

 

 ◇

 

 

 一度だけ、イグリット聖女長から聖性の手ほどきを受けたことがある。

 まずは基本となる「線」を繋ぐ方法。その性質は蜘蛛の糸に似ていて、一度繋いでしまえば聖性はある程度なら騎士の動きに追随してくれる。だからあとは騎士に対して大まかに掌を向けているだけで良く、才に優れた聖女ならそれすら意識のみで行える。

 それよりも強く聖性を流したいのであれば、その手で騎士に触れれば良い。「線」を使うよりよほど簡単ではあるけれど、戦いの最中では難しい。身体強化よりも、傷の治癒に向いた方法。

 そして、もっとも強く流す方法は……。

 

「づぅ……あぁ……っ!」

 

 熱い。四つ目の魔女を狩った際、篝火に飛び込んだ時の比ではない熱がシスネを襲っていた。目も開けていられず、両手で顔を庇ってもその掌がじんじんと焼けつくような熱さ。

 なんとか開いた片目の先では、レーベンが騎士と鍔迫り合っている。その剣から噴き出る炎が、強烈な熱を撒き散らしているのだ。なんとか進もうと脚に力を込めても、本能が拒むかのように一歩も前に踏み出せなかった。

 でもそれでも、シスネは行かなければならない。

 

「ぐぅ……、ううぅぅ――――っ!」

 

 下がろうとする脚を叱咤して無理矢理に前へと踏み出す。立ち止まるから余計に苦しむのだと自分を無理矢理に納得させてまた一歩踏み出す。そうやって這いずるように進み続ける内、急に襲い掛かる熱が和らいだ。

 目の前で熱風にはためく黒い外套。耐火性に優れるという彼の象徴のようなそれが、持ち主ではなくシスネを守るかのように熱を遮っていた。それがまるで労いか何かのように思えて、考える前に外套の内側へと身を滑り込ませる。

 それは奇しくも、レーベンが燃え尽きたように倒れようとしていた瞬間で。

 

「――――レーベン!」

 

 彼の名を叫びながら、両手でその背中を支える。直接に触れた掌から、全力で聖性を流し込む。でも足りない。それでは足りないのだ。もっと、もっと強く聖性を流さなければ。

 そして、その方法をシスネは知っている。

 

「立ちなさい!」

 

 叫んで、シスネはそのままに口を開く。

 口を開き、彼の首筋へと噛みついた。

 

 

 ◆

 

 

「が……っ!?」

 

 痛覚という痛覚が麻痺していた中で、何故かその痛みだけはレーベンの中心を貫いた。灰のように崩れ落ちていた意識が一瞬で覚醒するほどの、強烈極まる気付け。そして熱。

 まるで血に極上の火酒でも流し込まれたような、否、これはまさに――。

 

「立ちなさい! レーベン!」

 

 耳元で澄んだ声が響く。振り返るまでもなく、考えるまでもなく、そこに誰がいるのかレーベンは知っている。きっと今、己の血で唇を汚した、聖女らしからぬ聖女が叫んでいる。

 

 血に直接、聖性を流し込まれた。

 どんな劇薬よりも強烈な、彼女自身の聖性が。

 

 ぎしりと、機械剣の柄が軋む。感覚の失せていた指先――特に新たな右腕に力が籠る。それは灰の山に血の雫が染み込むかのように、レーベンに最後の力を与えようとしていた。

 そして、何よりも。

 

 

「それでも私の騎士ですか――――!」

 

 

 何の力も持たないはずの、彼女の言葉こそが。

 

 

 

 

 

 

「――――ぉ、」

 

 相手はライアー。己などより遥か高みにある本物の騎士。

 

「ぉ、お、あ、あぁ」

 

 鍛えた力、磨いた技、機械剣、強化剤、小細工、いくら積み上げても届かない。

 

「あ、ああぁぁぁ……っ」

 

 血を絞り出し、骨を削りだし、体の全てを燃やし尽くしてもまだ届かない。

 

「が、あ゛あ゛あぁアァ――――っ!」

 

 シスネの聖性、シスネの血、シスネの言葉、それでもまだ届かないというのなら。

 

「――――――――――――!」

 

 あとはもう、己の意思しか残っていないではないか。

 

 

 

 

 

 

 レーベンが青白く燃え上がっていた。

 それが機械剣の炎が引火したのか、己の内側を駆け巡る聖性が齎した炎なのかはもう分からない。熱も何も感じない、いっそ静謐なまでの時間の中でレーベンはライアーと剣を交えている。

 首の無い騎士。頭部を失ったライアーの死体。それが何故ここまで強力な騎士であり続けられるのか。その答えを今、レーベンは確信した。

 

 聖性とは、意思を支える力。

 それが正であれ負であれ、聖性はその意思をどこまでも駆り立てる。

 

 故にライアーは止まらない。肉体にまで染みついた強靭な意思、それを魔女――カーリヤの聖性がいつまでもどこまでも駆り立てている。

 彼はその命が尽き果てるまで彼女を守り、そして命が尽き果ててもなお守り続けているのだ。

 

 ――あぁ、貴公は、本当に

 

 故に、だからこそ。

 最上の敬意と殺意を以て、レーベンはその意思で最後の引き金を弾いた。

 

 

 

 

 

 

 青白い爆炎が全てを吹き飛ばした。

 同時に弾かれた二本の引き金。機械剣の力を最大まで引き出した炎と破壊の刃は、ライアーの剣を遂に粉砕した。刃も柄も、修復不能なまでに砕けた聖銀の欠片が散らばり、それらが地に落ちるより速く機械剣がライアーの体を斬り裂き、聖銀の鎧も焼き熔かしていく。

 そして地面まで達した一撃が、機械剣の刀身ごと皆を足元から吹き飛ばしたのだ。

 

「ああぁっ!?」

 

 眼前で炸裂した炎をレーベンは一身に浴び、背に組み付いていたシスネの悲鳴が遠ざかっていく。同時に剥がれ飛んでいった外套は彼女を炎から守ったようだった。その事実に安堵する。

 だがそれと共に、レーベンの体から熱が失われた。

 衝撃で聖性の「線」が切れたのだ。不相応な超人と化していた体が只人へと、それも傷だらけの半死人へと戻ってしまった。更に。

 

 ――腕、が

 

 右腕が動かなかった。それだけではない。右側の視界が暗くなり、遂には何も見えなくなる。何が起こったのか。この土壇場で、レーベンは剣と右腕と右目を失くしてしまった。更に。

 

『――――』

 

 ライアーはまだ倒れていなかった。

 頭も、左腕も、剣も鎧も失くして、それでもなお残った右拳を振り上げている。

 カーリヤと繋がった泥の「線」まで千切れ飛んでいるというのに、それでもこの騎士(おとこ)は――!

 

 故にレーベンはそれに応えた。

 

 退くことなど考えなかった。今この場から、この騎士を前に逃げ出すなど、そんなことはあり得なかった。いつだって負け続け、泥に塗れていた己であっても、今この瞬間だけは負けられなかった。

 聖性が無い? 剣が無い? 右腕が動かない?

 それがどうした。

 聖性が無くても魔女は狩れる。武器が無くても戦える。

 それを、レーベン(おまえ)は誰よりも知っていたはずだ――!

 

 

「ライアァァ――――――――ッ!!」

 

 

 レーベンは残った左拳を振り上げ、

 唸りをあげる、何の力も持たない、ふたつの拳がぶつかり合った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――死ぬんじゃねえぞ

 ――あぁ、そうだな

 

 ライアーが握った右拳をレーベンに向け、レーベンもそれに左拳を合わせる。

 そうして二人は、きっと守られることのない約束を交わした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 静寂だけが二人の間にあった。

 レーベンは突き出していた左腕をゆっくりと下ろし、ただそれだけの動きで崩れ落ちそうな両脚をなんとか踏みとどまらせる。

 眼前で、遂に動かなくなったライアーのように。

 

「……」

 

 ライアーはもう動かず、だが倒れもしなかった。頭を、両腕を、剣を、鎧もすべて失くしてなお、その二本の脚で立ち続けていた。

 彼の聖女を、カーリヤを守り続けていた。

 

「……」

 

 言葉も無く、レーベンは拳で彼の胸板を叩く。労うように放った最後の一撃が、遂にライアーを地に倒した。

 

「…………――」

 

 非現実的な晴天の下、草花に包まれるように倒れた騎士の体。それを前に十数えるまでもなく、レーベンもまた草花の中へと崩れ落ち。

 それを、誰かの白い両手が抱きとめてくれた。

 

 ――悪いな

 

 結局、最後は彼女まかせだ。

 己の名を呼ぶ、優しく澄んだ声を聞きながら、レーベンはようやく灰色の目を閉じた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

魔女狩り聖女

 

「……おつかれさま」

 

 燃え尽きたかのように意識を手放したレーベンの体を抱きとめながら、シスネは彼の耳元で囁いた。ぐったりと凭れてくる体には何の力も入ってはいなくて、それでも軽くなったようにすら感じる。近くの木陰に寝かせ、弱々しい呼吸と脈を確かめた後でその場を離れた。

 

 

 

 一度だけ目を閉じ、顔を上げてから空を見上げる。憎たらしいほど青い空に目を細め、そうしてやっと、シスネは彼女の方を向く。

 

「お待たせしました」

『ごめん、ごめんなさい……』

 

 成立しない会話。当然だ、彼女はもう魔女となったのだから。

 赤い血と黒い泥に塗れた、灰色の改造装束。濡れて豊麗な肢体に張り付くそれはひどく煽情的で、だがその両脚だけは何処にも無い。代わりのように背中から長く突き出た四本の骨翼で躰を支える姿は、まるで蜘蛛のようだった。

 しゃらりと音を立てるいくつかの腕輪。全ての指に銀輪をはめた両手が何かを探すように草花の中を彷徨い、掴み上げたそれは長大な狙撃銃。今は所々が泥に塗れ、得体の知れない何かと化した魔銃。

 ずるりと銃を構えた魔女が顔を上げる。陽光に煌く黄金の髪、両目を泥に塞がれ、それでもなお美しい顔。悲嘆に暮れる唇は、今また斃れた自身の騎士の死を嘆いているかのようだった。

 

『ごめんなさい、ライアー……』

 

 聖女カーリヤ。その成れの果ての破戒魔女と、シスネはひとり対峙した。

 

 

 

 それは客観的に、冷静に判断すれば、まるで意味のない戦いだ。

 レーベンが全力を以て狩った騎士も、所詮は魔女の一部のようなものでしかない。本体である魔女はまったくの無傷であり、それを前に彼は力尽きてしまった。残されたのは聖女が一人だけ。本来の在り方であれば騎士を連れて撤退、もしくは騎士を介錯した後に自決、そんな状況。つまり、シスネ達はもう負けたのだ。

 しかも、相手はただの魔女ではない。魔女化した聖女――破戒魔女。最も恐ろしく、最も強力だとされる魔女。それを聖女ひとりで狩ろうとするなど、無謀を通り越して沙汰の外。

 そして何よりも、戦う必要が無い。

 魔女の躰は既に血に塗れ、弱々しく地面を這いずっている。脚代わりとなっていた騎士は既に狩られ、空を舞う為の翼も折れてしまった。魔女化から既に数日が経過し、聖性による自壊現象はその力も命も大幅に削り取っているだろう。あと一日、いや半日と持ちはすまい。

 遠いポエニスからは今も鬨の声が響いている。逃げ帰って、助けを呼べばどうとでもなる。皆で取り囲んで、袋叩きにしてしまえばそれで終わり。

 故にこの戦いに意味は無く、シスネが今ひとり戦う必要もまるで無いのだ。

 

 

 

「ふざけないで」

 

 そんな自分への言い訳を、シスネは自ら切って捨てる。震える声で、震える脚を叱咤しながら、震える手で長銃を構えた。

 そうだ、ふざけるな。あの魔女はシスネが狩らなければいけないのだ。他の誰でもない、このシスネレインが。だって、きっと、それが今この場に自分が立っている意味に違いないのだから。

 

「あなたに、これ以上、聖女(なかま)は殺させない」

 

“聖女殺し”なんて汚名を、あなたには刻ませない。魔女に敗れて、絶望して、魔女になって、そして同じ聖女を何人も殺した聖女だなんて、そんな恥辱をあなたには背負わせない。

 あの日、あなたはシスネにだけ教えてくれた。あなたが誰にも明かさなかった、恥ずかしい秘密。

 自分は、本当は臆病者なんだと。

 本当は魔女が怖くて仕方がない、魔女狩りなんて本当はやりたくないのだと。だから、こんな派手な格好をして虚勢を張って、強い聖女(おんな)を演じて。こんなに沢山の自決道具を身につけて、魔女狩りの後は浴びるようにお酒を飲まないと眠ることもできなくて。

 

「あなたは聖女だった。ずっと、これからも」

 

 それでも、あなたは逃げなかった。ずっと聖女であり続けた。

 それが何の為かまでは教えてくれなかったけれど、そんな事も察せられないほどシスネも鈍くはない。

 あなたはどこまでも、本当に、こんな穢いシスネが嫉妬してやまない程に、綺麗なひとだった。

 だからこそ、あなたの墓標に傷なんて付けさせない。

 あなたもライアーも、ここには来なかった。あなた達はノール村で命を落とし、二度とシスネ達の前には現れなかった。破戒魔女になんて、ならなかった。

 その為には、そうする為には。

 

「あなたを、狩ります」

 

 今ここで、シスネひとりで、彼女を狩るしかない。

 他の誰の手も借りたりしない。誰にも手は出させない。レーベンにだって喋らせはしない。叩きのめしてでも、この秘密は墓まで持って行かせる。

 そうつまり、彼女はシスネの獲物だ。誰にも邪魔はさせない。

 ねえ、そうでしょう?

 

「カーリヤ!」

『ごめんなさい――!』

 

 二つの銃声が重なり、聖女と魔女の戦いが幕を開けた。

 

 

 ◇

 

 

 左手で引き金を弾き、短銃から吐き出された銃弾が魔女へと飛来する。一発、二発と鈍い音が響き、泥の代わりに骨の破片が草地へ落ちた。三発目は魔女へと迫るが、狙いを逸れていたそれは魔女の躰を掠めるだけに留まる。

 

「面倒なっ!」

 

 短銃から薬莢を散らせながらシスネは悪態をついた。弾倉が空になるまで撃っても結果は同じだったのだ。

 魔女は一切その場から動いていない。両脚を失くした躰で座り込みながら、撃ち込まれた銃弾をその背中の骨翼で打ち払ってしまう。雨の中で戦った破戒魔女の剣を彷彿とさせる動きだったが、一つだけ異なる点があった。マリナが飛来する物すべてを無差別に斬り払っていたことに対し、あの魔女は自身に当たる銃弾だけを見切って打ち払っているのだ。その動きには無駄も隙もありはしない。

 ならばと長銃から散弾を放つが、それも防がれてしまった。四本の骨翼が重なり合って盾となり、その隙間を通り抜けた散弾も構えられた銃身と魔女自身の両腕に阻まれ、致命傷には至らない。手傷こそ与えてはいるものの、削りきる前に弾薬が尽きるだろう。ここは何もない平原、銃弾など何処にも落ちてはいないのだから。

 

『ごめんなさい……!』

「っ!」

 

 歪んだ声と共に、甲高い音が響く。音叉にも似た共鳴音は魔女の構える銃から発せられており、それは銃身を構成する聖銀と、そこにこびり付いた黒い泥が織りなす不吉極まる音だ。銃口から溢れる青白い光が、正確にシスネを照準して放さない。

 しかも、その光は先の戦いより遥かに強い。ライアーという聖性の捌け口を失い、半ば暴走しているかのような激しさで聖性が魔銃に流し込まれている。

 

『ごめん――!』

 

 雷鳴のような銃声。祈るような気持ちで体を投げ出したシスネのすぐ近くを何かが通り過ぎた感覚。すぐに体を起こして視線を巡らせ、その結果に背筋が凍りついた。

 平原の草地が、一直線に消えて無くなっていたのだ。ポエニスとは反対方向に伸びたそれは長々と、終点が見えないほどに続いている。人ひとりを撃ち殺すには過剰威力も良いところだ。掠っただけで手足が吹き飛び、直撃なんてすれば――とても楽に死ねそう。

 

「いやらしい……!」

 

 そう、あんな銃撃を受ければ人間なんて木端微塵になる。だからこそ、あの魔女はそれを直撃させない。わざと外してくる。虫を甚振るように手足だけを狙う。魔女は聖女を簡単には殺さないのだから。

 そうやって、近くに来るよう誘っている。こちらの銃撃は無効化され、間合いを離せば離すほど魔銃を躱すことも難しくなる。近付けばもっと恐ろしい何かが待ち受けていると分かっていても、シスネは近付くしかないのだ。

 

「上等ですよっ!」

 

 あえて好戦的な言葉を吐いて恐怖を振り払う。ベルトから引き抜いた焼夷弾を着火し、魔女の胴体めがけて放り投げる。

 

『ごめん』

 

 だがそれは本能によって見切られていたのか。見惚れるほど綺麗な動きで、骨翼の一本がそれを弾き返してきた。それもご丁寧に、シスネに向かって。放物線を描く焼夷弾から、炎が噴き出ようと。

 

「ふんっ!」

 

 だが見切っていたのはシスネも同じこと。こんな単純な手が通じるとは最初から思っていない。右手に握った物を翻しながら、左手に握った物を更に投擲する。

 シスネの眼前で炎が咲く。一瞬で燃え広がった炎が草地を広く焼き始めるが、その中でシスネは不敵に微笑んでいた。右手には黒い外套。技術棟の変人たちが作った、耐火性に優れる一品。その持ち主は今も木陰で動かないが、そこまで炎は届かないだろう。たぶん。

 そして左手で投げた「本命」は、今まさに魔女の眼前へと迫っていた。

 

『ごめ――』

 

 炸裂弾。同じ手を繰り返してきたシスネを嗤うこともせず、別の骨翼がそれも弾き返そうと動き、

 

 ――無駄です

 

 シスネは外套の陰でほくそ笑み。

 炸裂。

 

『あぁあごぇあぁ――――!』

 

 至近距離で弾けた炸裂弾の破片を浴び、魔女が歪んだ叫びをあげていた。咄嗟に銃身を盾にはしたようだったが、それだけで防げるほど炸裂弾の威力は低くない。焼け爛れた両腕からこぼれ落ちた魔銃も、銃身が大きく破損していた。

 種は単純。シスネは最初の焼夷弾を投げた際、相手に見えないよう背中側で炸裂弾も着火していたのだ。あとは時間差で飛来した炸裂弾が、骨翼に弾かれる間もなく魔女の眼前で弾けたというだけのこと。一歩間違えば炸裂弾の餌食になっていたのはシスネの方だったが、これで隙をこじ開けられた!

 

 ――いま、ここで!

 

 外套を投げ捨て、背負った長銃も放りだして身軽になったシスネは一直線に駆け出した。手に握るのは大短銃、これを至近距離――骨翼の内側から叩きこむ!

 駆けながら集中し、加速した時間と思考の中でシスネは魔女の姿を注視する。

 魔銃は無効化した。聖性で修復するにしても、刀剣類に比べて複雑な銃器は修復にも時間を要する筈。それでも油断はできない。魔女は何をしてくるのか分からない。必ず何かをしてくる。そしてそれはあの骨翼である可能性が高い。なんであろうと、小細工をしてくる前にこの銃で――。

 

 パン、と聞きなれた音がシスネを穿つ。

 

「あっ……」

 

 私の、馬鹿。

 そんな呑気な言葉が頭に過りながら、右脚を撃ち抜かれたシスネは草地の上を転がった。

 

『ごめん……』

 

 歪んだ声で謝罪の言葉を垂れ流す魔女。その右手には繊細な彫刻を施された短銃。人だった頃の早撃ちそのものの射撃。シスネはまんまと罠に嵌められた。

 

「い゛……、うぅ……!」

 

 いつまでも転がってはいられない。既に間合いは充分に詰めた。立てないならこのまま撃てば良い。その為の訓練だってしてきた。そう思って草に埋もれた大短銃に右手を伸ばすも、その手首に骨が巻きついてきた。

 

「あ、痛……っ、放っ……!」

 

 銃は取れないまま右腕で宙づりにされる。更に別の骨翼が手枷のように変形して左手首を捕らえ、ばたばたと宙を掻いていた両足首にも次々と枷が嵌められた。

 

『ごめん、なさい……』

「……っ」

 

 そうしてシスネは四肢をすべて拘束され、何ひとつ抵抗できない状態で魔女の前に晒される。対して魔女は自由なままの両手で、悠々と短銃を構えて見せた。ならばもう、これから何をされるのかなんて明らかで。

 

『ごめん……』

 

 銃声。

 

「ぁぐ……っ!」

 

 衝撃と痛みに視界が明滅する。短銃から放たれた骨の弾丸、それは破いたスカートから覗くシスネの右脚を正確に穿っていた。転げまわりたくなるような痛みに襲われても、シスネはもう身を捩るぐらいしかできない。

 

『ごめん……』

「い、ぎ……っ!」

 

 更に続く銃声。最初に撃たれた分も含め、右脚に三つの銃痕が並ぶ。

 

「悪趣味なぁ……!」

 

 冗談ではない。このまま射撃の的にされれば全身を穴だらけにされてしまう。魔銃に弾切れはなく、そして魔女はシスネを殺さない。十発でも百発でも延々と撃ち続けるのだ。

 首を捩じり、視界の端で眠る彼の姿を見る。ぴくりとも動かない。四発目がまた右脚を穿つ。

 

「ああ゛ぁ……っ!……レーベ……っ」

 

 痛みと自分の情けなさに涙すら滲んでくる。

 息まいて、一人で破戒魔女に挑んで、結局はすぐにこの様だ。碌に手傷も負わせられないまま捕まって、良いように嬲られて、挙句の果てには力尽きた騎士に助けを求めるだなんて。

 五発目。

 

「うあぁ……っ!」

 

 本当に情けない。彼はどうしようもない馬鹿だけれども、いつだって怯まず戦っていたのに。どれだけ傷だらけになっても、どれほどボロボロになっても、それでも彼は死中に活を求めて、もがいて、どんな手でも躊躇わず――。

 

「……、…………」

「――く、っふふ……」

 

 現実逃避じみた自虐に耽っていると、喉から引きつった笑いが漏れた。そのまま拘束された体を揺らしながら笑っていると、魔女が顔を見上げてくる。

「何がおかしいのよ」と、そんな声が聞こえてきそうな動きで。それが可笑しくてシスネはまた笑った。

 何が可笑しかったのか。それは「名案」を思いついてしまったからだった。あの馬鹿を見ていたら思いついてしまった、本当に碌でもない名案が!

 

「ふっうふ……っ、…………ねえ?」

 

 魔女がまた顔を上げる。泥に塞がれてもまだ綺麗なその顔が青白い光で照らされ、すぐ後にパッと赤い鮮血が降りかかり、そして、ギシギシと骨翼が軋み始めた。

 

「あまり、私を、舐めないで……っ!」

 

 目と鼻と口と耳から鮮血を垂れ流し、その身から青白い光を立ち上らせながら、シスネは凄惨に笑ってみせた。

 

 

 

 聖性は人を超人に変える。身体能力は劇的に向上し、どんな負傷もたちどころに治してしまう。だが聖性を放つことができる聖女自身は、聖性の恩恵を受けることができない。故に聖女たちは只人のまま魔女と対峙し、それを守る騎士が必要となる。

 聖女と騎士なら誰もが知っている、聖性の常識。だがそれには一点だけ語弊がある。

 

「聖女自身は聖性の恩恵を受けられない」

 それは必ずしも、「自身に聖性を流すことはできない」という意味ではない。

 

 要は破戒魔女と同じ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だが体外に放出してから再び取り込んだ聖性は体を逆流し、傷を治すどころか内側から破壊してしまう。

 自壊現象。聖性の流れが一致しない際に起こる、拒絶反応そのものだ。

 

 

 

 手首を拘束している骨翼を逆に掴み取る。そのまま力を込めれば、人体で最も固い部位とされる骨に亀裂が入った。自ら流した聖性によって、シスネの肉体は確かに強化されている。だが。

 

「ぐ、あぅ……っ! ぇあぐぅぃいい゛あ゛あぁぁ――――っ!」

 

 絶叫。

 覚悟の上で敢行したというのに、それでも耐え難いほどの激痛。シスネは雷に打たれた経験なんて無いが、もし雷に体を焼かれたらこんな痛みを感じるのではないだろうか。

 自身に聖性を流すという禁忌。それが何故あれほど厳しく禁じられていたのか、シスネはその身を以て理解した。体はもちろん、心にまで深い傷を刻みそうな痛み。聖女によっては発狂どころか死ぬことすらあり得そうな。

 

 それでもシスネは手を離さない。聖性も止めない。

 

 シスネは痛みには強い。どんな激痛であっても、それが穢い自分への罰だと思えば耐えることができる。ほんの僅かでも償えていると思えば我慢できる。そして、この痛みと同等以上であろう拒絶反応に、死の一歩手前まで耐えきった馬鹿をシスネは知っていた。彼に対する妙な対抗意識も糧にして、発狂寸前の意識を辛うじて正気側に引っ張り続ける。

 シスネは叫び続け、その間も体中から血を噴き出し、撒き散らす。それでも骨翼から手だけは離さず、聖性も止めない。骨翼が砕けるのが先か、シスネの心が砕けるのが先か。凄惨な我慢比べが続き、その軍配は……。

 バキリ、と骨が砕けた音が響く。

 

『ごめんなさい!』

 

 激痛と引き換えに両腕の拘束を解いたシスネは、支えを失って草地の上に崩れ落ちた。両脚の枷はそのままで、その場から動けないシスネに向けて魔女が短銃を向けてくる。細い指先が引き金にかかり、今度は左脚を狙った骨弾が放たれようと――。

 バネ仕掛けのように弾けるシスネの両手。次の瞬間には、魔女の短銃はシスネの手に握られていた。

 

『ごめ――』

 

 銃声。

 

『ああぁおえぇんん――っ! ごべんさい、ごべんなざえ――っ!』

「うるさい大袈裟な!」

 

 ひとの脚を穴だらけにしておいて何だ一発ぐらい!

 奪い取った魔銃で何も考えず引き金を弾いたが、骨弾はちゃんと発射された。魔女の額を至近距離から狙った射撃に魔女が激しくみもだえる。殺傷力の低い骨弾では頭を撃ち抜くことはできなかったが隙は作れた。短銃を遠くに投げ捨て、全力で魔女の躰を押し倒す。

 

『ああぁっ! ラァイアー! ライアァー!』

「このっ! おとなしく……っ!」

 

 さすがにこれ以上の聖性を流せば正気を保てる自信は無い。聖性に焼かれた体に鞭打って馬乗りになり、短剣を振り下ろす。魔女の両腕が手首を掴み、それを打ち払い、また魔女の手に顔を押しのけられる。

 野良猫の喧嘩じみた揉み合い。それはいつかの、彼女と友誼を交わす前の喧嘩みたいで――。

 迷いを振り切って振り下ろした短剣が砕けた。

 

「な……!?」

『ごめんん……ライアァァ……ッ!』

 

 短剣を突き立てた筈だった魔女の胸。今も変わらず豊麗なそこを中心に白い骨が広がっていた。装束を内側から突き破りながら広がるそれは魔女の躰を覆い始め、それこそ騎士の鎧のように変形し始める。

 この期に及んで魔女化が深化したとでも言うのか。もう短剣や短銃などでは歯が立たない!

 

「っ!」

『ライアー! ライアアァー!』

 

 どうすれば良い。決まっている、大短銃しかない。素早く周囲を見回して草地に埋もれたそれを見つけ、飛び込むようにして手を伸ばすも届かない。ズルズルと後ろへ引っ張られる体。シスネの両脚を捕らえる足枷は今もそのままだ。

 届かない。必死に草地を掴んで這い進み、腕が千切れそうなほど伸ばしても指先が銃把を掠めるだけ。もうあれしか無いのに。もうこの窮地からシスネを救ってくれるのは、いつも切り札となったあの銃しか。レグルスから送られたあれしか……。

 

 

 

 ガサリ、とシスネと魔女以外の何かが草を踏む音がした。

 

「レーベ……ッ!?」

 

 何者か。決まっている、レーベンしかいない。

 だが木陰で死体のように立ち上がった彼は完全に白目を剥いており、どう見ても意識は無かった。それでも今すぐ倒れそうな体を揺らめかせ、手にした物をシスネに向かって放り投げる。そのまま崩れ落ちて、今度こそ動かなくなった。

 シスネの頭に突き刺さりそうだったそれを何とか受け取る。半壊し、それでも重い黒銀の塊。刃が根本から砕けた、機械剣の柄。役に立ちそうもない残骸(ゴミ)

 それでも、シスネはそれを手に握った。

 

「う、ああああああぁぁぁ――――――っ!!」

 

 シスネはもう何も考えなかった。何も考えず、刃の無い剣を魔女の胸に突き立てる。何の意味もない自殺行為。自棄になった末の愚行。

 それがただの剣で、そしてシスネが聖女でなかったのなら。

 

 ――届いて!

 

 だがそれはただの剣ではなく、そしてシスネは聖女だった。

 輝く聖性。聖銀の性質も併せ持つ黒銀の刃が青白く輝き、物理法則も無視して元の形状へと戻っていく。

 変質が不完全だった魔女の鎧。白い骨の隙間に捻じ込まれた機械剣はシスネの両手ごと取り込まれている。

 そして、その中で黒銀の刃が再生する。

 

『ああぁ……っ!』

 

 鎧の内側から伸びた刃。それは埋められた双丘を貫き、しなやかに反らされた魔女の背を突き破り、銀とも黒ともつかない輝きを晴天の元に露わとした。同時に噴き出た赤黒い泥が、緑の草地を汚していく。

 

「――――」

 

 シスネはもう叫ばなかった。祈りの言葉も別れの言葉も、何も言わず引き金に指をかけた。あの時は弾けなかった引き金。もう迷わない。

 シスネは、最後の引き金を弾いた。

 

『あ――――』

 

 魔女はもう叫ばなかった。躰を貫く機械剣、その刀身から開放された青白い聖性の炎。静かに燃え上がるそれは骨の鎧を焼き熔かし、黒い泥を蒸発させ、灰色の装束も灰に変えていく。

 すべてが灰になっていく中で、そっと、魔女の両手がシスネの頬を包んだ。

 

 

『ごめんね――――……』

 

 

 鎧も、泥も、装束も無い。生まれたままの姿に戻った魔女が、聖女が、彼女が。

 カーリヤが、どこまでも優しくて綺麗な顔で、シスネを見て……。

 

「ぁ……っ」

 

 シスネが何かを言おうとした時にはもう、彼女の碧眼は閉じられて。

 青空を仰いで、ちょうどそれを受け止めるように倒れていたライアーの亡骸の上へと。

 青白い炎が少しだけ燃え上がり、そしてすぐに消える。

 そうしてもう、そこには白い灰の山だけが遺されていた。

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 ひとり残されたシスネは呆然と立ち尽くしていた。機械剣だけをだらりと手に提げ、ただ灰の山だけを見つめる。

 

「……」

「……っ」

「だまされませんよっ!」

 

 シスネは剣を構えた。

 

「だまされませんよ! そうやって、いつも魔女はそうやって!」

 

 魔女は常識外の存在。何をしてくるのか分からず、首を落としても死ぬとは限らない。ならば、灰になっても死んではいないかもしれないではないか。

 

「来なさい! 私はまだ戦えますよ! まだ終わりじゃないのでしょう!?」

 

 まだ安心はできない。死骸となって、十を数えるまで魔女狩りは終わらない。

 

「次は何ですか! 何をしてこようと構いませんよ! 受けて立ちますから、さあ!」

 

 一、二、三。灰の山は動かない。

 

「怖いのですか!? 情けないですね! 私なんかに負けて悔しくないの!?」

 

 四、五、六。灰の山は風に吹かれ、さらさらと崩れていくだけ。

 

「いつまで死んだふりなんて! 来ないならこっちから……っ」

 

 七、八、九……。灰は…………。

 

「……、……ねえ、……ねえってばぁ……」

 

 十。灰は消えていくだけで。

 

「ぅ……、」

「ぐ、あぁ……っ!」

「あ、あ……あああぁぁ――――っ!」

 

 シスネは叫んだ。叫んで、空に突き立てるように掲げた機械剣の引き金を弾いた。

 青い炎が、何かの道のように青い空へと伸びていく。でもそれは、空まで届くには短すぎて。

 

「――――――――っ!」

 

 シスネは叫び続けた。精神(こころ)が疲れ果てて、もう聖性も吐き出せなくなるまでずっと、ずっと。

 炎が消えて、剣も持っていられなくなって、穴だらけの脚が思い出したみたいに痛んで、シスネはうつ伏せに倒れ伏した。小さくなった灰の山に顔を埋めるようにして。

 

「カーリヤぁ……っ!」

 

 こんもりとした灰はまだ温かくて、シスネの涙で黒く固まっていく。でもそれもすぐに乾いて、風に吹かれて消えていく。

 なにひとつとして残りはしない。

 

「カーリヤ――――!」

 

 遠くの何処かから歓声が聞こえてくる。戦は終わったのだ。シスネ達の与り知らない所で。

 白い灰が消えていく。風に吹かれて、青い大空と緑の大地に散っていく。吐き気がするほど綺麗な世界へと、還っていく。

 残ったのは、ふたりだけ。シスネとレーベンだけしか。

 他に何も残りはしない。

 ただ何者にも止められない(ことわり)のままに、高く上った太陽だけが無慈悲に世界を照らし出していた。

 当然のように。何も変わらずに。

 

「あ、ああぁ……っ」

 

 カーリヤは死んだ。

 シスネとカーリヤの戦いは終わってしまった。何ひとつ取り戻すこともできないままで。

 

 

 

 聖女と騎士の物語は、いつだって悲劇で終わるのだから。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

この結末だけを命に抱いて

 

『ファイサン、これはどこに置けば良いんだ?』

 

 旧聖都ポエニス。その本棟の地下倉庫。新たな仕事場であるそこで、レーベンは一応の上司へと声をかけた。憂鬱そうに帳簿を見ていた職員――ファイサンは、いつも通りのうんざり顔で、無言のまま倉庫の奥を指さす。

 世辞でも面倒見が良いとは言えない彼の態度にも特に思うところはなく、レーベンは新しく入荷した弾薬を片手に奥へと向かった。最近になってようやく杖が無くとも歩けるようになったのだ。

 

『ぬんっ』

 

 弾薬が詰まった箱はそれなりに重いが、そこは昔とった杵柄。左手だけで箱ごと持ち上げ、体幹を上手く使って棚の上に乗せる。先日は同じことをやろうとして荷物を盛大にぶち撒けてしまった。散乱した炸裂弾が無事だったことは奇跡に等しく、さすがのレーベンも肝を冷やしたものだ。ファイサンの悲鳴など初めて聞いた。

 棚に積まれた在庫を確認しながら持ち場へと戻る。片手剣、両手剣、槍、斧……様々な聖銀武器が立ち並び、中には埃を薄くかぶった物まで見受けられた。元々、騎士はそこまで頻繁に武器を交換したりはしない。かつてのレーベンが異常だったのだと、こうして倉庫を管理する側になって改めて実感した。刃先に注意しながら埃も軽く払っておく。

 反面、銃器や弾薬が並ぶ棚は相変わらず閑散としていた。こちらはレーベンが騎士でなくなってからも変わらないらしく、今しがたレーベンが置いた弾薬もすぐに消えてしまうことだろう。その原因はもちろん「彼女」であり、そして彼女に影響されて銃を扱うことが増えたというポエニス聖女たちのせいだ。

 その彼女もまたそろそろ訪ねてくる頃合いだろうと、何とはなしに壁にかけられた鏡で身だしなみを確認する。それなりに着古してきた教会の職員服。中身のない右袖。右目に巻いた黒い眼帯。見飽きた男の顔とは少し変わった、もう見慣れた己の姿が灰色の左目で見返してきた。服にも乱れは無い。片腕で着替えるのも慣れたものだ。

 

『おっと』

 

 入り口の机に戻ろうとして、踵を返す。彼女が来るのであれば準備しておかなければ。

 

 

 

 ドガシャン! と、苦労して運んできたそれを机に置くと、椅子で舟を漕いでいたファイサンが飛びあがる。安眠を妨害したのは悪いと思うが、今は仕事中である。正義はレーベンにある筈だ。そう開き直ってから、額の汗も拭ってその荷物――大短銃の弾薬を開封する。

 特注品である彼女の銃は弾薬も同様であり、そしてそれを作ることが出来るのは技術棟の変人たちしかいない。特に質を追及するなら製作者本人に頼むしかなく、故にこれはレーベンが自腹を切って準備したものである。もっとも、馬鹿正直にそう言ってしまえば彼女は決して受け取らないだろうから、こうしてさりげなく並べておくのだ。

 我ながら涙ぐましい作業を続けていると、椅子から転げ落ちていたファイサンがいつものうんざり顔を向けてくる。怪しげな品を勝手に置くなということだろう。

 

『そんな顔をしないでくれ先輩殿。これでも見て落ち着くが良い』

 

 レーベンは懐の物を机に並べ、彼の機嫌をとることにした。世渡りも上手くなったものである。

 机に並ぶのは幾枚かの写銀。茶髪の偉丈夫と金髪の美女、元騎士と元聖女である二人の友人が映っている。二人が役目を終え、このポエニスを去った後も頻繁に手紙は送られてきており、必ず写銀も添えられていたのだ。最初は聖都の新居やシルト海、大聖堂を背景とした二人の写銀が多かったが、その内に彼女の腹も大きくなっていく過程まで。そしてつい最近に送られてきた写銀の中では、二人の間に小さな幼子が映っていた。

 レーベンにとっては幸せの象徴のような写銀だが、ファイサンは至極どうでも良さそうだった。それでも、いつものうんざり顔よりは多少やわらかく見えなくもない。己が言うのも何だが、この彼の表情が僅かでも変わるということは結構な大事だ。

 

『聖都か。俺から行けると良いんだが』

 

 手紙には「落ち着いたらポエニスにも顔を出す」と毎回のように書かれていたが、新しい街の新しい家で新しい生命と共に新しい人生を歩んでいる二人にはなかなか難しいだろう。レーベンとて聖都まで向かうには体の面でも金銭の面でも簡単ではないが、時間だけはあるのだ。元より閑職な倉庫番など一日や二日休んだところでファイサンに迷惑がかかる訳もなく、試しに相談してみた際は嬉しそうな顔すらされてしまった。喜んでもらえて何よりである。

 

『お……』

 

 そうこうしている内に、出入口の上から扉を開ける音が聞こえた。階段を下ってくる軽い足音に来訪者が誰であるのかをレーベンは察し、そしてファイサンはまたうんざりとした表情を浮かべた。

 

 

 

 やがてレーベン達の前に一人の女が現れる。

 清貧を表す灰色の装束。その上から巻かれた何本ものベルトが更に体を締め上げ、装束ごしにも細い身体の線が見て取れる。そこに括りつけられた鞘やホルスターは、そこに収まるべき武器を今か今かと待ちわびているようだった。聖女証こそ装束の中に隠してしまっているが、その理由をレーベンは知っている。

 何よりも目を惹く真っ白な髪は雑に束ねられ、同じぐらいに白い顔の中では、黒い瞳がレーベンを真っ直ぐ射貫いていた。

 その秘密をレーベンだけが知る聖女擬き。その彼女が、脇のホルスターから引き抜いた大型の短銃をレーベンに向ける。

 そして。

 

「夢に決まっているでしょう」

「そうだな」

 

 轟音と共に、レーベンの幸せな悪夢(ゆめ)は砕け散った。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 悪夢から覚めても、そこはまだ現実に見えなかった。

 見渡す限りの灰色の大地。そんな場所でレーベンは座り込んでいる。視線を落とせば灰色の砂、あるいは灰。削った骨の粉にも見えるかもしれない。そんな得体のしれない何かを両手で掬ってみて、そうして初めてレーベンは己に両腕があることに気付いた。それも、新たに生え出でた白い腕ではなく、失う前の腕が。

 視線を上げればどこまでも水が続いている。海辺にも似た光景だが、その無色透明の水は静かに凪いでおり、だが停まってもいない。緩やかに流れる様は川に見えた。世界の果てまで続く、巨大な川。

 視線を更に上げれば漆黒の空が。月も星も無く、まるで果ての見えないそれは、空でありながら夜の海を連想させる。ただ水平線の彼方に、登りも沈みもしない太陽が白く輝いていた。

 

「女神の川」

 そんな言葉をレーベンは思い出した。

 曰く、すべての死者が最後に辿りつく場所。その水は名の無い女神の涙であり羊水。肉体は現世で土に還り、魂はその川へと還っていく。

 その川はどこまでも広く、そして深い。故に何者をも受け入れ、また何者も逃れることはできない。死が誰しもの最後に待ち受けているように。

 

 不公平な話だとレーベンは思っていた。善人も悪人も、信心深い者もそうでない者も、誰もが最後に同じ所に至ってしまうなど、不公平ではないかと。

 そして今も思っている。何故なら、彼と彼女がレーベンなどと同じ場所にいるのだから。

 

「……久しぶりだな」

 

 砂の上に座り、水の中に両脚を投げ出す、そんな姿勢で、レーベンは眼前の人影に声をかけた。

 水の中に立つ、ふたつの人影――大きく逞しい影と、細く艶めかしい影。二人の姿は、どんなに目を凝らしてもはっきりとは捉えられない。手を伸ばしても触れられないのだろう、きっと。

 

「あぁ、誠に申し訳ない」

「だがな、約束を守らなかったのは貴公も同じだろう」

「お互い様なんだ。説教は勘弁してくれ」

 

 静寂の中にレーベンの声だけが響く。己の聞いている声が二人のものなのか幻なのかは、もう分からない。ここが現実であろうと夢であろうと、どちらにせよ生者の理屈など通じない。

 ここには、死者しかいないのだから。

 

「貴公にはずっと謝りたいと思っていたんだ」

「本当に申し訳なかった、蹴ってくれて構わない」

「そうしてくれると言ったじゃあないか、なぁ」

 

 どれだけ謝ろうと、どれだけ彼女に蹴られようと、もう全ては遅い。二人ともが死んだ。

 聖女と騎士の物語の、約束された結末そのままに。

 

「らしくないな」

「貴公が謝ってどうするんだ、貴公らしくもない」

「もうずっと、謝ってばかりじゃあないか」

 

 そう、レーベンに謝るなど、まるで彼女らしくは……。

 

 

「どうして、こうなるんだ」

 

 

 砂と水だけを見下ろしながら、レーベンは口走った。

 

「何故、貴公たちが死ぬんだ」

「俺は生きているのに、なんで」

「俺が、俺が死ねば良かったじゃあないか」

 

 両目を覆った掌からは砂の感触だけがした。

 

「おかしいだろう」

「なぜ、なんで俺だけ」

「なんで」

 

 俺はいつもそうだ。

 何ひとつ上手くできない。なんにも思い通りにならないんだ。

 俺はただ、騎士になりたかっただけなのに。

 

「なんで、いないんだ」

 

 俺はただ、言ってもらいたかっただけなんだ。

 俺の墓の前で、こいつはどうしようもない馬鹿で、でも立派な騎士だったんだって。

 魔女と戦って、立派に死んだんだって。

 貴公たちに、そう。

 

「あ、」

「ああぁ」

 

 でも、もういないじゃあないか。

 俺は貴公たちの他に友達なんていないのに。

 貴公たちだけが友達だったのに。

 もう、誰も言ってくれないじゃないか。

 もう誰も、俺のことを褒めてくれないじゃないか。

 

 

 

 川のほとりには何の音も無い。レーベンが立てる音しか。

 二人の人影はもう何も言ってはくれず、ただそこに在るだけ。

 何の音もないまま、それでも時間だけは過ぎていく。

 

「いくのか」

 

 ようやく平坦な声を出せたレーベンが顔を上げれば、色のない川の中をいくつもの人影が歩いていた。

 それらの影は皆が二人一組となって、寄り添うように遥かな水平線へと向かっていく。

 二人も、また。

 

「俺は、いけないんだな」

 

 なにも言わないまま背を向ける二人の影。その背をレーベンは追おうとはしなかった。きっと無駄なのだろうから。

 だから、レーベンもまた無言で立ち上がる。立ち上がって、水平線へ、白い太陽へと歩いていく影たちを見送る。

 ゆっくりゆっくりと、二人と無数の影たちが歩いていく。そのすべてを見届けることもなく、レーベンは背を向けた。

 

「くらい、な」

 

 川へと背を向ければ、そこには灰色の大地と黒い空だけがある。

 何の光もない。なにも。

 灰の砂を踏みしめて歩き出す。足首まで埋まるそこはひどく歩きにくく、まるでレーベンが進むことを拒絶しているようだった。

 今までずっと、なにもかもから拒絶されてきた己の命(レーベン)そのままに。

 

 

 

 十歩と進まない内にレーベンは力尽きた。立ち止まり、膝をつき、砂の中に倒れ伏す。

 灰色の目が、入った砂を排除しようとする。砂は冷たく、レーベンを受け入れようとはしない。進むことも下がることも立ち止まることも許さない。この川は生者を歓迎しないのだから。

 生も死も、レーベンを歓迎してはくれない。

 

「……?」

 

 滲む視界の端を、小さな光が掠めた。砂の中でもがき、手に取ったそれは。

 

 銀の光。簡素な意匠。ふたつの指輪。

 聖銀の光。表に刻まれた赤い双剣。裏に刻まれた、彼女の――。

 

 首に提げた鎖から外れ落ちたそれを握る。握って、目許を拭いながら砂の中に立つ。見上げた空は黒く、灰色の大地になんの光明も恵んではくれない。

 それでも。

 

「――貴公!」

 

 最後にもう一度だけレーベンは振り返る。白い太陽へと向かっていた二人の影に、ふたつの指輪を投げ放った。

 投げた拍子に、不格好に倒れる。砂まみれの顔を上げれば、こちらを向いた二人の手にはそれぞれ、銀の光が小さく輝いていた。

 それだけを確かめてから、レーベンは川に背を向けて歩き出す。もう二度と、振り返らずに。

 

 

 

 踏みしめた砂はレーベンの脚に絡みついて歩みを阻み、凍てつくような冷たさが立ち止まることも許さない。無明の空は何の(しるべ)も無いままレーベンを突き放していた。

 向かう先には何も無く、無為な大地がどこまでも続いている。それでも。

 レーベンの手には聖女証だけがあった。何の力も持たない、ただの聖銀片。それでも、それでも。

 レーベンはただ歩いた。冷たい空と大地の中を。どこまでも。どこに向かうでもなく。

 握りしめた聖女証が、掌を刺す。

「痛いですよ」と、そんな声をレーベンは聞いた気がして。ひとり、笑う。

 

 

 

 見上げた空は、彼女の瞳のように黒かった。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 見上げた空は、彼女の瞳のように黒い。

 

「……、……夢」

 

 夢から覚めた先もまた夢。どこからが現実なのか、茫洋としたままのレーベンにはよく分からなくなってきた。左手で胸元を探ってみれば、服の下に固い指輪の感触は確かにある。つまり今こそが現実で、随分と都合の良い夢を見たものだと、ひとり自嘲に口元を歪ませた。

 ひどく静かだった。だが耳を澄ませば夜風に草が鳴り、虫の鳴き声もたしかに聞こえてくる。つい今まで歩いていたつもりの灰色の世界とは違う、命のある静寂。

 レーベンは生きているのだ。そして今、己に膝を貸してくれている彼女も。

 

「……シスネ」

 

 暗い夜空と輝く月を背景にして、白い聖女の顔が逆さまになってレーベンの眼前に頭を垂れていた。座ったまま眠る彼女は頭から黒い外套を被っており、見慣れたそれは二人の体を雑に包み込んでいる。

 頬をくすぐる、垂れた白髪。それを指先で弄ると、それだけで彼女の瞳は開かれた。

 

「……ようやくお目覚めですか」

「貴公もな」

 

「私はさっきまで起きていましたよ」と、何故か張り合うような事を言って彼女は不機嫌そうに顔を逸らした。それが可笑しくてかすかに笑うと、シスネが更に表情を歪める。

 

「っ、あまり動かないでください。脚が痛いのです」

「そ、そうか」

 

 怪我をしたのだろうか。彼女のことだから既に応急処置は済ませているのだろうが、わざわざ怪我をおしてまで膝を貸してくれなくても良かったのではないかと、レーベンは思う。

 言われるままに体を固め、ただ月と彼女の顔を見上げる。シスネは視線から顔を逸らすでもなく、だがレーベンを見つめ返すでもなく虚空を眺めていた。黒い瞳の周りには確かに、涙の跡が見て取れる。

 

「……終わりましたね」

 

 吐息のようにシスネが囁く。

 

「……終わったのか」

 

 何も考えずにレーベンは答えた。

 視線だけで遠くのポエニスを見やれば、崩れた影のそこかしこから火の光が見える。だがそれは戦火によるそれではなく、まだそこに生きる命が残っていることを示す灯火に見えた。

 鬨の声はもう聞こえない。戦いは終わったのだ。

 そして。

 

「……カーリヤは」

「死にました」

 

 口走った問いにシスネは即答した。レーベンを撃ち殺すような速さで。

 

「私が、狩りました」

 

 シスネの声は震えていない。あるいはもう、震え尽くした後のように。レーベンも、それに返す言葉など無い。

 

 カーリヤとライアーは死んだ。それだけが事実だった。

 ライアーは死に、それに絶望したカーリヤは魔女となってレーベン達の前に現れた。そして動く死体となったライアーをレーベンが狩り、カーリヤをシスネが狩った。

 それだけが事実。それだけが。

 レーベンの妄想(ゆめ)のように、女神の川になど還っていない。二人は死に、その死体は焼却されて灰になり、その辺りに散らばった。

 それだけが事実。現に、二人の指輪だって今ここに――。

 

 シスネの手がレーベンの首を撫で、細い鎖を無遠慮に引き抜く。そこに通された彼女の聖女証と、二つの……。

 

「……貴公?」

「……いえ」

 

「ただ、」と指輪を撫でながらシスネは苦笑した。自嘲に満ちた笑みだった。

 

 

「ずいぶんと、都合の良い夢を見てしまって」

 

 

 二人の魂は、女神の川になど……。

 

 

「…………そうか」

 

 

 

 

 ◆ ◇

 

 

 

 

「ところで」

 

 月の位置も変わるまで続いた沈黙を破ったのはシスネだった。その間ずっと遠慮もなく人の膝を枕にしている馬鹿を揺すって起こす。見上げてくる二色の双眸は、未だ慣れない。

 

「そろそろ返してくれませんか、それ」

「……あぁ」

 

 彼女の膝に頭を預けたまま、レーベンは左手で聖女証を手に取る。そもそも、これを無理矢理に押し付けてきたのはシスネの方なのだが。それを口に出せるほど、もうレーベンも彼女のことを無理解という訳ではなかった。

 

「っ、あぁ、ひどいな。全身が痛い」

「私もですよ。脚が痺れて立てそうもありません」

 

 あれだけ無茶をすれば全身が動くことを拒否して当然だろうとシスネは思う。そしてそれは同等の無茶をした自分も同じだ。何時間も膝を貸してやっていたこともありがたく思ってほしい。なにせ五発も撃たれているのだ、シスネは。

 やはり起き上がれなさそうなレーベンに溜息を一つついてから、適当に聖性を流してやる。それで多少はマシになったのか、顔を顰めながらようやく起き上がった。

 

「癖になりそうだな、これは」

「高いですよ」

「勘弁してくれ」

 

 冗談なのか本気なのか、どうも判断しかねる軽口にレーベンは内心で冷や汗を流す。聖性を流される度に金貨でもよこせと言うのか、この聖女は。銀貨でも良いだろうか。

 ようやく動き出した両手で鎖を外し、シスネに差し出すも彼女は手を出そうとしない。ただ不機嫌そうに唇を尖らせるだけ。

 

「腕も痛いのです」

「そうか」

「気が利きませんね」

「そ、そうか」

「あなたが着けろと言っているのですよ、馬鹿」

 

 この聖女(おんな)……。

 押し付けてきた物を今度は返せと言う。しかも罵声つきである。内心穏やかでなくなってきたレーベンであったが、そのおかげで特に遠慮も覚えず彼女の首に手を回すことができた。

 月明りに浮かぶような白髪。眠っている間に手袋も手甲も外されていた素手を、髪の中に差し入れる。ふわりと揺れた髪から漂ってきた血と汗と彼女の香りを感じ、呼吸を止めた。

 努めて指先に集中しようとするも、間近に迫った黒い瞳はじっとレーベンを見つめてくる。視線に耐えながらも慣れない作業をなんとか終え、体を離そうとした瞬間――。

 

「シ……」

「動かないで」

 

 無警戒に近付いてきたレーベンの体を、思い切り抱き寄せる。そうやって、いつか姉に言われたように彼の頭を胸に埋めてやった。こんな事をすればシスネの羞恥心なんて容易に弾けそうだと思っていたけれど、思っていたよりは平気。それとも、そんな余裕も無かったのかもしれない。

 

「力を抜いて、喋っても駄目です」

 

 もう見ていられなかった。

 この馬鹿はきっと自覚していないのだろうけれど、目覚めてからもうずっと、哀しそうな目をしていた。もうずっと、泣きだしそうな。

 だから。

 

「だから、あなたはこのまま泣けば良い」

 

 そんな風に言われれば、レーベンとて平静ではいられない。まるで動かない顔のせいで誤解されがちだが、レーベンも人だ。人並の感情はある。

 まして、生涯の友人を二人ともに亡くしてしまえば、耐えることなど。

 

「……貴公、らしくも、ないな」

「良いでしょう? たまには聖女らしいことをしたって」

「ちがい、ない」

 

 穢い人だと思っていた。シスネと同じ、どんなに哀しいことがあっても心の底からは哀しめない、そんな人だと。でもそうではなかった。

 なら、もう彼は限界なのだろう。こんな穢いシスネでさえ、あれだけ泣いたのだ。ましてレーベンなら。

 現に彼の両腕はもう、シスネの背中にしがみついていて。

 

「だから、ほら」

 

 そんな風に、彼女の方が泣きだしそうな声で。

 どこまでも、やさしい声で。

 耳元で囁やかれてしまえば、もう。

 

「泣いて」

 

 

 

 

 

 

 戦いは終わり、戦場跡となったポエニスも静かに眠ろうとしていた。

 屍と瓦礫の山もそのままに。今はただ、生き残った者たちが、その命だけを噛みしめて。

 故に、遠く離れた平原の中で響く慟哭を聞く者はいなかった。

 ただ一人の聖女を除いて。

 

 この戦いで、二人は何を得て、何を失ったのだろうか。

 その問いを投げる者はなく、答えを返す者もない。

 あるいは誰も。永遠に。

 

 聖女と騎士の物語は、いつだって悲劇で終わる。

 もしも、望んだものを永遠に失うことを悲劇と呼ぶならば。

 この日、レーベンはようやく騎士になれたのだろうか。

 

 己を抱く聖女の胸の中で、レーベンはそう思った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

終章 聖女と騎士の物語
いつか悲劇で終わるその日まで


 

 白灰色の空を、(カラス)がくるくると飛んでいる。

 頭上を行ったり来たりする黒い影が遠くへ飛び去り、それと入れ違うようにして白い雪がちらついてきたところでようやく、レーベンは己が呆と空を見上げていたことに気付いた。

 はあ、と。すぐ近くで聞こえた溜息が白く漂い、レーベンの視界も掠める。

 

「置いていきますよ。風邪をひいても知りませんから」

「誠に申し訳ない」

 

 寒さのせいかレーベンのせいか、いつも通り不機嫌そうな彼女は溜息をもう一度つくと、先に歩いて行ってしまう。華奢な背中を左半分だけの視界で追い、レーベンもその後に続いた。

 

 

 

 旧聖都ポエニス。度重なる惨禍と戦により聖都の座を追われた街は、遷都から百五十年あまりが経過しても未だ健在であった。そして、先の戦が過ぎた今も。

 

 カエルム教国を襲った未曾有の災禍――巨大魔女ドーラと魔女の大群。その討伐から、既に半年あまりが経とうとしていた。

 

 修復途中の周壁を抜けて北に。街道を歩き出して幾ばくもしない内に道を外れて坂を上った先。広大なナダ平原を望む高台に、その墓地はあった。

 整然と建ち並ぶ墓標。墓地なのだから当然ではあるが、ポエニスの共同墓地とは異なる点が二つある。一つは墓標が剣の形を模しているという点。そしてもう一つは、ほぼ全ての墓標が二つずつ並んでいるという点だ。

 広い土地に任せて面積も年々広がっている都合上、入り口から奥へと歩いていくほどに墓標は新しい物となっていく。もはや刻まれている名前が消えてしまったような古い墓標から、レーベン達が生まれる遥か前に殉じた者の墓標。その内に、聞いたことのある名が刻まれた墓標や、実際に会ったこともある者の墓標。

 そうして、ほぼ最奥にまで歩いたレーベンとシスネの前に、その真新しい二つの墓標が並んでいた。

 

「……遅くなったな」

「あなたが寄り道ばかりするものですから」

「お、おう」

 

 レーベンはただ、復興に忙しい教会から後回しにされていた墓標が最近になってようやく建てられたということを感傷まじりに言ったつもりだったのだが。

 この白髪の聖女――シスネは今も変わらず、自身の騎士にひどく厳しい。

 持参した清水を二つの墓標に振りかけ、シスネは小さな花束を、レーベンは左手で酒瓶を墓標の前に置く。跪いて祈りの言葉を紡ぐ彼女の声を聞きながら、レーベンは首から提げた真新しい騎士証に触れた。

 レーベンは再び騎士として認められた。拍子抜けするほど簡単に。

 あの戦いから幾日か後、医療棟の軒下にまで設けられた簡易寝台からレーベンが起き上がれるようになった時分のこと。その頃は既に事後処理の陣頭指揮を執っていたヴュルガ騎士長に直談判したのだ。

 

『構わん』

 

 ただ、それだけ。右目と右腕を取り戻したレーベンと、その隣に立つシスネの姿を流し見ると騎士長はあっさりとレーベンを騎士と認めた。そしてすぐに仕事へと戻り、それから二人には一瞥もくれなかった。

 あんまりと言えばあんまりな反応ではあるが、レーベンも騎士長のことを恐れてはいても嫌ってはいない。万事に対して一切の情を挟まず、ただ騎士長という重責を全うするその在り方もまた「英雄」に相応しいのだろうと、レーベンは思う。

 とはいえ、あの巨大魔女ドーラをほぼ単身で仕留め、最後の大爆発にも巻き込まれたというのに五体満足を保っているあの男を、同じ人間と認められるかと問われれば首を傾げざるを得ないのだが……。それもまた英雄の証だと言えるだろうか。

 なお、もう一人の英雄であるイグリット聖女長も生存していた。さすがに無傷とはいかず、あの歪な体が更に「小さくなった」という噂だが、レーベンもシスネもそれを直に確かめたいとは思わない。狂気にも似た不屈の意思は間違いなく英雄の証ではあっても、可能ならば二度と会いたくはない相手なのだから。

 あの激戦の後であっても英雄たちは元気なものだ。未だ不自由な身体のレーベンとは違って。

 

「頼めるか」

「えぇ」

 

 祈りを終えたシスネに声をかけると、彼女の掌から青白い輝きが漏れる。繋げられた「線」を通じてレーベンに聖性が流され、同時に狭かった視界が広がる。そして、今まで動かなかった右腕も目覚めるように感覚を取り戻した。

 破戒魔女との戦いで失い、そしてシスネの聖性によって取り戻した右目と右腕。だがそれはとんでもない欠陥品でもあった。

 常に聖性を流されていたあの時は気が付かなかったが、目も腕も、その機能を取り戻すのは聖性を流された時だけだったのだ。その事実を知った時はレーベンもシスネも言葉を失い、現実を受け入れるまでにそれなりの時を要した。なにせ、紆余曲折の末にようやく取り戻した物だったのだから。

 レーベンは諦めることで己を納得させた。一度は失った物、不完全な形であろうとも一応は取り戻せたのだから贅沢は言うまいと。何事もそう上手くはいかないのだから。特にレーベンは。

 そして、シスネは……。

 

「もう少し深く掘れないのですか。掘り返す人がいるとは思えませんが、念は入れないと」

「人使いが荒いな」

「何か言いましたか?」

 

 円匙(スコップ)で穴を掘るレーベンを手伝うわけでもなく労うわけでもなく、シスネはどこか不敵な顔で笑ってみせる。白い手が、意味深にレーベンの右腕に触れた。

 

「そもそも私の聖性で動かせているのだから、私が掘っているようなものですよね?」

「いやその理屈は、」

「私のおかげですよね?」

「お、おう……」

 

 レーベンの右目も右腕も聖性なしには動かせず、そしてレーベンの歪んだ聖性に適合できる聖女は一人しかいない。つまるところ、シスネがいなければレーベンは満足に動くことも出来ないのだ。

 その事実を知った時、彼女が確かに笑っていたことをレーベンは忘れられない。

 

騎士(あなた)たちは聖性が湯水のように湧いて出る物だとでも思っているのでしょうけれど、それなり以上に疲れるのですよ? 聖女(わたし)たちが皆それに耐えられるよう研鑽を欠かしていないという事実をもっと知るべきだとは思いませんか?」

「あぁ感謝している、貴公ら聖女たちのおかげで俺達は戦えているのだと日々感謝しているとも」

「分かれば良いのです」

 

 この聖女(おんな)……。

 ひたすら穴を掘りながら、レーベンは内心で憤慨した。

 

 曰く、「あなたの目と腕を奪ったのは私ですが、治したのも私ですよね?」

 曰く、「なら、その目も腕も私の物みたいなものですよね?」

 曰く、「何か言いたい事でも? 誰のおかげで五体満足でいられると思っているのですか?」

 曰く、「軽蔑してくださって結構、私は元からこういう穢い女なのですから」

 

 あの頃の、危ういほどに健気で献身的な聖女はどこに行ってしまったのか。この半年というもの、レーベンは完全にこの聖女の尻に敷かれていた。全くもって不本意である。

 だが事実、己はもう彼女から離れられないのだ。完全に首輪をはめられたようなものであり、シスネはどう見てもその事実を悦んでいる。だからこうして、事ある毎にレーベンを嘲笑うような真似をしては、ニヤニヤと楽しそうな顔をする聖女のことをレーベンは……。

 

 ――元気になって何よりか

 

 こんなどうしようもない聖女のことを嫌いになれない己も大概なものだとレーベンは思う。少なくとも、自責と自虐ばかりに満ちていたあの頃に比べれば彼女も多少は明るくなったのだから、今の彼女もそれはそれで――。

 

「ほら手が止まっていますよ。考え事とは余裕ですね?」

「……」

「返事は?」

「はい」

 

 もう少しこう、中庸というものは無いのだろうか。何事にも限度はあり、そして程々が良いのだとレーベンは悟る。いつかこの右腕で脇腹を揉んで報復してやろうと心に誓いながら、穴を掘る作業を再開した。

 何もかもすべて、惚れた弱みだということにして。

 

 

 

 仕事を終えた円匙を地面に突き刺して一息つく。心地よい疲れと共に吐き出された白い息が空にとけていく様を見ていると、シスネが懐から小さな木箱を取り出した。

 

「……やっと、返すことができますね」

「……あぁ」

 

 緩く繋がった「線」から流れる聖性が微かに乱れる。そんな心の波は表情に出さないままで、シスネはそっと木箱の蓋を開けた。

 二つ並んだ銀の指輪。半年前、親友であった騎士から託され、そして遂に返すことは叶わなかった彼ら二人の想いの証。その後はレーベンとシスネの間を幾度か巡り、そして今までシスネが預かっていた物だ。

 黒い瞳でじっと指輪を見つめているシスネに倣い、レーベンもその輝きを見納める。やがて棺を閉めるように蓋を閉じた木箱を、シスネは穴の底に置いた。

 その穴を挟んで並ぶライアーとカーリヤの墓標。だがこの下に二人の遺体は埋まっていない。二人の体は聖性の炎に焼かれて灰となり、このナダ平原へと散っていったのだから。

 

 カーリヤが破戒魔女となり、死体となったライアーと共にレーベン達に狩られたという事実は葬られた。シスネが、そうしたいと言ったのだ。

 説得から始まり、遂には脅迫と誘惑と懇願も交えて必死に説き伏せられてしまえばレーベンは応と言わざるを得ない。そもそも己とて二人の墓標に泥を塗りたいなどとは思わなかったのだから、あそこまでしなくても良かったとレーベンは思う。「何でもするから」などと、あまり簡単に言わないでほしい。心臓に悪いのだ。

 故に、それは二人だけの秘密となった。あの騒乱の最中、誰がどこで何をして、そしてどうなったのかなど正確には分かりはしない。レーベンとシスネが口を噤んでしまえば、それで終わりだ。

 

『あなたには、申し訳ないことだと思っていますが……』

 

 秘密を墓まで持っていくことを誓った後、シスネはそう言って頭を下げた。曰く、破戒魔女を狩ったという功績があれば、相応の評価と共に騎士として返り咲くことも出来ただろうと。だがレーベンは元より英雄になりたかったわけではない。それに、欲しかった物はもう手にしてしまったのだ。

 

 シスネは無言で、ついさっきレーベンが掘った穴を埋め始める。何も使わず、素手で土を掬っては木箱へ被せていった。一回ずつ、丁寧に。白い手が土で汚れてもまるで構わないまま、ゆっくりと。レーベンはただじっと、そんな彼女の姿を眺めていた。いつもとは装いの異なるシスネの姿を。

 

「似合っているな」

「カーリヤが選んだ服ですから」

 

 何も考えず口に出した称賛を、彼女もまた素直に受け取ってくれた。

 シスネが纏っているのは見慣れた灰色の装束ではなく、そしてあの白服でもない。青と白を基調とした、飾り気がなく清楚な、彼女らしい服。どこか少女の面影を感じさせる装いのせいか、それを纏うシスネ自身もいくつか幼く見える。

 これはカーリヤが生前、ポエニスの服屋に注文していた品らしい。あの戦の後の混乱もようやく収まり、律儀にも注文を忘れていなかった服屋の主が届けに来たのだと。

 

「これを着て、他の聖女(みんな)も一緒に、ポエニスを歩いて回ろうって……っ」

 

 シスネの言葉が途切れ、土を被せる手も止まる。かすかに震える華奢な肩に、レーベンも無言で手を置いた。

 あの世話焼きな聖女は、シスネがポエニスに来てからずっと聖女たちにとけ込めるよう尽力していたという。その甲斐あって、他者と距離を置こうとばかりしていたシスネは半ば無理矢理に聖女たちと交流を重ね、そして親しい仲となっていった。

 だがそのカーリヤは死に、そしてポエニスの聖女たちも半数以上が命を落としてしまった。半年前の写銀騒動、あの時にレーベンが写銀に収めた聖女たちは、もう数人しか残っていないのだ。その内の一人でもある彼女が今こうして肩を震わせている姿を見ていると、それが良いことであったのかどうかレーベンは分からなくなる。

 だが。

 

「後悔はしていませんよ」

 

 土で汚れた手のまま目許を拭い、震えも残る声でシスネは言う。

 

「本当は、私も、みんなでポエニスを歩いてみたかった」

「そうは、なりませんでしたけど……でも、それでも」

「後悔だけは、ぜったいに」

 

 そう言って、鼻を啜りながら最後の土を被せる。土を手で均し、強く叩いてから彼女は立ち上がった。

 

「――カーリヤ、」

 

 目の前の墓標に刻まれた名前を、澄んだ声で読み上げる。否、墓標など無くとも彼女は彼女たちの名前を(そら)んじてみせる。

 

「マリナ、キャナリー、オーカ、ピベール、チコニア、ペルシュ、ククロ、……」

 

 ひとりひとり、建ち並ぶ墓標を黒い瞳で見つめながら。そして、延々と続くように感じた名前の羅列の最後に彼女は。

 

「みんなに女神の導きが――あぁ、えっと……」

 

 お決まりの聖句ではなく、彼女は。

 

「……」

 

 ふっ、と。自然で微かな、シスネらしい微笑。

 それで、彼女たちの別れは終わったようだった。

 

 

 

(ヒゲ)が付いているぞ」

「余計なお世話ですよっ」

 

 その微笑に付いた髭のような汚れを指摘すると、白い顔が赤く染まる。すれ違い様にレーベンの脇腹を小突いてから、華奢な肩を怒らせながらシスネは出口へとひとり向かっていった。

 それを見て苦笑したつもりでレーベンも円匙を引き抜いた。剣のように肩に担ぐと、特に墓標を振り返ることもなく彼女の後を追う。

 

 レーベンの別れはとっくに済んでいる。

 あの日あの時、ライアーとは剣で語り尽くした。

 それ以上の言葉は、不要だったのだから。

 

 

 ◇

 

 

 雪がちらつき始めた旧聖都は、それでも多くの人々が街中を行き来していた。雪と寒さのせいか皆が足早に、でもシスネの顔を見ると目礼する男性や、中には手まで振ってくる子供もいる。今は聖女の装束も着ていないというのに。

 もうずっと前、シスネがこの街に異動してきたばかりの頃は、教会の外を出歩くことも碌に無かった。当時のシスネはそれだけ人の視線を恐れていて、それは今も完全には慣れていない。それでも、多少は自然な笑みを浮かべられる程度にはなれたとシスネは思う。

 そんなシスネでも変化に気付くほど、ポエニスの住人は増えていた。それは良くも悪くも街の雰囲気を変えて、そしてそれは今でも続いている。

 

 あの凄惨な戦いで負った教国の傷は深く、およそ三割の町や村が灰となってしまった。このポエニスも例外ではなく、周壁は半壊、教会の棟もいくつかが被害を受けていた。特に本棟に至っては、ドーラが最期に見せた大爆発によって完全な瓦礫の山と化してしまったのだ。

 だがその甲斐もあってか教会以外の場所に被害はほぼ無く、元の住人と難民たちをすぐに受け入れることができた。難民は未だ多くても、無事だった町や村へと向かう者、そのままポエニスに根を下ろそうとする者、あるいは灰となった故郷を建て直しに戻る者、皆が少しずつ歩き始められたところだった。

 

 シスネが足を止めると、すこし前を歩いていたレーベンもすぐに立ち止まる。振り返った二色の双眸は焦点が合っていないが、灰色の左目はしっかりとシスネを見ていた。聖性を四六時中流さなくても、日常生活ぐらいは彼も一人でこなせている。

 

「どうした?」

 

 急に立ち止まったシスネを心配するような色を浮かべる左目を見返してから、視線だけで通りの向こうを指してやる。レーベンが顔を向けたと同時に、軽く聖性も流してやった。

 

「……あんな名前だったか?」

「そんなわけ無いでしょう」

 

 見間違いか聖性が流されていないとでも思ったのか、右目をこすっているレーベンの脇腹を小突く。今でも反応はしてくれないが、シスネが見せた物はなかなかに衝撃的だったらしい。

 

【聖カーリヤ孤児院】

 

 相変わらず古びた、だが手入れだけはされている外観の建物だった。その玄関に掲げられた、おそらく手作りだと思われる看板には確かにそう書かれている。どこか歪な形の文字を目で追いながら、シスネは追憶にひとり頬を緩めた。

 

 

 

 あの戦いからしばらく経ったある日、レーベンが神妙な顔をしながらシスネを訪ねてきた。珍しいこともあると話を聞くと、彼は徐に大きな袋を見せてきて、その中にはなんと。

 

『……懺悔しに来たのですか?』

『俺を何だと思っているんだ』

 

 また何か馬鹿な事でもやらかしたのかと疑ってしまう程の大金。輝く金貨が大量に詰められていたのだ。それこそ、()()()()()()()()()()()()()()()

 

『……ライアーの、』

 

 レーベンが無言で頷く。

 詳しく話を聞けば、それはやはりライアーの遺産だった。彼が生前、カーリヤと新たな人生を送る為に貯めていた資金。危険な魔女狩りを続けながら倹約も重ねるという、それこそ血と汗を積み重ねたかのような彼の努力の結晶だ。

 遂に使われることのなかったそれは、なんとレーベンの物になったらしい。財産を預かっていた教会職員によれば、ライアーに何かあった際の受け取り先はカーリヤに、その次はレーベンに、更にその次は……と、用心深い彼はそんな手続きまで行っていたのだと。

 ここまで話を聞けば、レーベンが何を相談しに来たのかなど容易に分かる。見たことも無いような大金を手に入れて途方に暮れていたのだろう。現に彼は左手で頭を抱えていた。

 

『……技術棟に行くか』

『やめてください縁起でもない!』

 

 出してやった紅茶が冷めるほど黙考した結果は、この馬鹿らしい馬鹿な答えだった。

 レーベンと技術棟の変人達との繋がりは無くなったわけではないが、以前のように報酬の全てをつぎ込むようなことは無くなっていた。シスネという聖女を得てその必要が無くなったということと、多少は貯えというものを覚えたことが理由のようだ。せっかく常識的な考えを身につけたというのに、ここでまた変人たちから怪しげな物を買い漁られては堪らない。

 だいたい、技術棟はあの一件からその影響力を増してきている。ここでこんな大金まで流してしまえば更に危険で怪しい実験開発を始めてしまいかねず、しょっちゅう起こしている爆発騒ぎが連日の日常茶飯事に変わりかねない。同じ教会の住人としても、そのような悪夢はシスネも御免だった。悪夢なら今でもたまに見ているのだから、これ以上は勘弁してほしい。

 そうして紆余曲折、喧々諤々な相談を重ねた結果が――。

 

 

 

「増築したことは知っていましたけど、まさか名前まで変えただなんて……」

「ライアーが憐れだ」

「え、えぇ……」

 

 結局、あの大金は全て寄付することにした。そして送り先として選んだのが、ポエニスで唯一の市井で運営しているあの孤児院だ。半年前の騒乱によって孤児も増えてしまい、元より運営が苦しかったらしい孤児院に更なる負担を強いるのは忍びないと、ライアーとカーリヤの名前で寄付したのだが……。やはり市井の孤児院であったとしても聖女の方が人気があるということだろうか。

 とはいえ、ライアーならばきっとカーリヤの顔を立てることを選ぶだろう。たぶん、おそらく。あの体躯に似合わず控えめな性格だった騎士に思いを馳せつつ、シスネはそう願った。

 

「ま、まあ、二人分も名前をつけると呼びにくいでしょうし……」

「よし、俺が書き足してやろう」

「やめなさい馬鹿!」

 

 冗談なのか本気なのか孤児院に足を向けようとするレーベンの動かない右手を掴んで止めていると、当の孤児院から子ども達が出てきた。相変わらず質素な身なりだがどの子も顔色は良く、極端に痩せてもいない。シスネ達の寄付、いやライアーとカーリヤの遺産はまっとうに使われているようだ。

 

「あ……」

 

 健康そうな子ども達の姿に安心していると、最後に見知った少女が玄関から出てきた。年相応に小柄な背丈の半分はありそうな長い亜麻色の髪。それを雑に束ねた少女――ミラもシスネ達に気付いたのか、その大きな瞳を見開く。

 だがミラは何を言うでもなく、自分よりも幼い少女の手をしっかりと握って通りに向かって歩き出した。ただ大きく振られる手と、花のような笑顔だけをシスネに見せながら。

 

「元気そうですね」

 

 手を掴んだままのレーベンが視界の端で頷く。だが彼の視線の先でミラが大きく舌を出して見せると、二色の双眸に浮かぶのは何とも言えない表情。それを見て取ったシスネは、思わず口元を手で隠した。

 

『――お化け!』

 

 二人で寄付をしに行った際、レーベンの姿を見たミラの第一声がそれだった。きっと、元に戻った右目と右腕に驚いたのだろう。洗濯中だったミラは、桶に入った水を思い切りレーベンに向かってぶちまけたのだった。あの時の、水びたしの泡だらけなったレーベンの顔といったら今思い出しても笑いが止まらない。

 

「っ、すみません、笑っても良いですか」

「もう笑っているじゃないか……」

 

 そう言って、ひどく不本意そうな顔をするレーベンが可笑しくて。彼の背中を叩きながら、シスネはまた笑った。

 

 

 ◆

 

 

 シスネはよく笑うようになった。レーベンはそう思う。

 己とは違って、彼女は以前から表情が無かったわけではない。むしろ顔に出やすく、レーベンに向ける表情などはいつも不機嫌そうな顰め面であったし、市井の人々には「聖女らしい」笑顔も作ることができていた。だがそれはあくまで作り笑顔であり、彼女のおそらく本心からであろう笑みなど殆ど見た覚えは無かったのだ。

 ……もっとも、その数少ない笑みにしても大抵はレーベンのことを嗤うような時だった気もするのだが。今更ながら己はとんでもない聖女に惚れてしまったのではないかとも、レーベンは思う。

 ちらと、左隣を歩くシスネの横顔を覗き見れば、その白い顔に表情は無い。細い頬にも、あの青痣は残っていなかった。

 

 

 

『実は私も、“騎士殺し”って呼ばれてたんですよねー』

 

 戦の事後処理が一段落し、生き残った聖都の者たちも帰還し始めた頃合い。瓦礫に腰掛けた長身の聖女――シグエナはそう言った。急に、何の前置きもなく。

 

『一人目は銃で介錯(ころ)しました。でもなかなか上手くいかなくて、途中で弾が切れちゃったんですよ』

 

「死ぬ時は簡単に死ぬのに、肝心な時に死んでくれないんですから」と、料理の失敗でも愚痴るかのように、シグエナはケタケタ笑った。

 

『で、結局は短剣で何度も刺す破目になっちゃいましてね』

『彼も私も叫ぶやら暴れるやらで、そこら中が血だらけですよ』

『もういったい、彼を殺したのは魔女なのか私なのかどっちだって話ですよねー』

 

 ケタケタケタケタ!

 いったい何が可笑しいのか、糸のような目を更に細めて笑うシグエナ。そもそも何故、今まで殆ど会話も無かった己とそのような話を始めるのか。レーベンは理解に苦しんだ。

 

『で、まあそういうわけでー、二人目と三人目はちゃあんと一発で楽にしてあげましたとも』

 

 そう言って、自身の額をトントン指で叩いて見せる。その両手には、自決指輪が四つ通されていた。

 レーベンに何が言えるだろうか。己がまだ幼い少年だった頃から、彼女の騎士――エイビスに至っては生まれる以前から魔女狩りに従じてきたという、この歴戦の聖女に対して。

 

『だから介錯なんて、させないでやって下さいよ』

 

 常に嘲笑まじりに聞こえていた声音が変わった、気がした。

 

『聖女なんて、本当にただでさえ糞みたいな役目(しごと)だってのに』

『その上に介錯……“騎士殺し”だなんて』

『心臓がいくつあっても足りやしないんですからね』

 

 シグエナの、祈るように組まれた両手は震えていた。それが肩の骨を砕かれたことによる後遺症なのか、そうでないのかはレーベンには分からない。どちらにせよ、彼女は未だ灰色の装束を纏い、首からも聖女証を提げている。片腕が満足に動かせなくなっても、聖女の役目を降りる気は無いのだろう。

 

『……まあ、例の彼女の? 介錯処女(はじめて)は別の騎士(おとこ)にとられちゃったみたいですけどね?』

 

「どう思うんですかその辺?」と、猥談なのか挑発なのか分からないシグエナの話を聞いていることにレーベンは辟易してくる。「シグエナの相手は疲れる」と、あの女騎士がぼやいていたことを思い出した頃、瓦礫の向こう側からようやく待ち人たちが帰ってきた。

 

『シス――』

『おじょ――』

 

 帰ってはきたが、その二人の姿を目にしたレーベンとシグエナは揃って言葉を失ってしまう。

 シスネとエイビス。三年前から続き、そして放置されていた二人の因縁は、今日はじめて対話の場を設けられることになった。「二人きりで話したい」というシスネの意向によって、こうしてわざわざ瓦礫の山と化した周壁跡地へと赴いたのだったが……。

 

『……お待たへひまひた』

 

 シスネの白かった頬は赤く腫れあがっており、目許にも青痣が見られる。拭われた鼻血の痕も痛々しい姿で、長い白髪もボサボサに乱れていた。

 一度や二度は殴られても仕方ない、と彼女はそう語ってはいたが、どう見ても一度や二度で済んでいない。さすがにやり過ぎなのではないかとエイビスに目をやれば、当の小柄な女騎士は……。

 

『……』

 

 小さな顔の頬、そこにくっきりと残る赤い手形が複数。青い目には涙まで滲んでおり、不貞腐れたように地面を見つめるその姿は幼い少女のようだった。

 

『……拳で語ったのか?』

『上手いことを言ったつもりなんですかー、それ』

 

 彼女らの初めての対話は成功したのか失敗したのか。一つだけ確かなのは、涙目のエイビスが去り際に「覚えていろよっ!」とシスネに向かって吐き捨てていったことだ。その目には怒りこそ見て取れたが、憎悪と侮蔑の光はもう無かった。

「次は絶対に仲直りします」と息まくシスネ。だが力強く拳まで握る必要はあったのだろうか。次こそは仲良く「話し合って」ほしいものである。

 とはいえ、二人の亀裂の原因となった騎士――レグルスは死に、シスネが嫉妬で彼に殺意を抱いたという事実は消えない。シスネが何を話したところでエイビスの怒りが収まるとは思えず、ならば後はもう、エイビスがその怒りを全て吐き出すしかないのかもしれない。それこそあの時、狂乱したシスネが自身の内に降り積もっていた穢れをレーベンに向かって吐き出したように。

 

『まあ、程々にな』

 

 殴られた顔の痛みに呻いているシスネの背中を撫でてやりながら、去っていく大小の人影をレーベンは見送る。そもそも部外者である己にしてやれることはそれぐらいで、彼女らが生きている内に和解できることを祈るばかりであった。

 

 

 

「……何ですか、人の顔をじろじろと」

 

 追憶から戻れば、痣の無い顔のシスネが不機嫌そうに睨んでくる。あれから幾度かエイビスと対話を重ね、未だ和解はできていないようだが、傷を作って帰ってくることは少なくなっていた。

 

「……相変わらず、肌が白いなと思っただけだ」

「口説いているつもりですか?」

「そうだと言ったら?」

 

 シスネが足を止めた。レーベンもそれに倣い、振り返った先で彼女は。

 

「……」

 

 じっと、黒い瞳を向けてくる不機嫌な顔。……人にはじろじろ見るなと言いつつ、レーベンの顔はいつも凝視してくるのだ、この聖女は。

 シスネが幾度か瞬きする程度の沈黙が続き、そして。

 

「もちろん、お断りです」

 

 そう言って、そう言ったのに、何故か自然な笑みをレーベンに向けて。

 

「ほら、さっさと帰りますよ。これから仕事なのですから」

 

 固まるレーベンを追い抜いて先に行くシスネ。後ろ手に向けられた掌から聖性が放たれ、右目と右腕が動き出す。多分に歩きやすくなった体で踵を返し、レーベンは足早に彼女の背中を追いだした。

 

 

 

 今でも、レグルスのことを想っているのかと。

 未だにそうは、聞けていない。

 

 

 ◇

 

 

 シスネは未だ、レーベンに聞けていないことがある。

 そして、彼の口から聞けていない言葉も。

 

 

 

 足早に戻ってきたポエニス教会の正門を潜る。弾んだ息を整えながらレーベンを待っていると、中庭の方角からいくつもの銃声が響いていた。体をそちらに向け、自分の白い息が溶けていく先でその光景を見た。

 

「遂に実弾も使うようになったのか」

「そのようですね」

 

 追いついてきたレーベンがぼそりと呟き、振り返らないままシスネもそれに答える。

 教会の中庭、半年前の戦いでいくらかの被害を受けたそこは未だ元の姿には戻っていない。それは復興の優先度が低いということもあるが、あとは今シスネ達の前で行われている訓練が理由だ。

 

「構えっ!」

 

 教導役の職員がかけた号令と共に、揃いの装束を身につけた者たちが長銃を構える。そして再びかけられた号令と共に、いくつもの銃声が響いた。立ち上る白い硝煙が、灰色の空へと消えていく。

 銃隊。あの戦の前に急遽編成された、警備職員を基とした部隊。それは規模こそ縮小されたものの解体されることはなく、今もああして銃の訓練を続けているのだ。そして彼らがあの銃で穿とうとしているのは当然、同じ人間ではない。

 そっと、隣に立つレーベンの横顔を盗み見る。訓練を続ける銃隊の姿を眺める灰色の左目からは、特に何の感情も読み取れなかった。

 その内に訓練は終わったのか、隊員たちが散り始める。二人の横を通り過ぎていく彼らの中に、シスネは見知った顔を見つけた。

 

「お疲れ様、ラオヤ」

「ん……あぁ、聖女さん、お疲れさんす」

 

 長銃を担いだ青年――ラオヤが足を止める。

 浅黒い肌と引き締まった身体を持つ、野性味すら感じさせる逞しい男性だが、その表情はどこか虚ろだ。もっとも、これでもマシになった方なのだが。

 

「随分と本格的になってきたな。本番も近いのか」

「っす、大変やけど、頑張らんとあかんから」

 

 この北方訛りが抜けない青年は、シスネ達とは知己と言って良い間柄だ。半年前の、あの戦いより更に前から。

 

「はよ、魔女を狩らんと」

 

 ぎしりと、ラオヤの握る長銃が軋む。やつれたようにも見える顔の中で光る目は虚ろでありながら、シスネはそこに熔けた鉄のような激情を感じ取っていた。

 ノール村。この国でも最北端に位置していた、今はもう地図にも残っていない廃村。彼はノール村の村長の孫であり、そして唯一人の生き残りでもあった。

 半年前、アスピダ山脈から現れたドーラによる最初の砲撃。その際、偶然にも伝令のため村を離れていた為に難を逃れたのだと。……そして、カーリヤとライアーが人であった頃の最後の目撃者でもあると。

 

「……そう、でも無理はしないでくださいね」

「っす……」

 

 シスネの忠告を聞いているのかいないのか、浅く頭を下げたラオヤはすぐに去っていく。灰色の空の下でひとり歩く彼の姿は、ひどく寂しげに感じた。

 

「変わりましたね……」

 

 ラオヤの背中が見えなくなってから呟いた言葉に、レーベンは何も答えなかった。

 あの戦いの前、魔女の捜索の為に滞在していた村長の家。あそこで何度か顔を合わせた際のラオヤは、猟師として働き始めたばかりの純朴そうな若者だった。その彼もいまや、故郷から遠く離れたこの旧聖都で独り生きている。弓矢を長銃に持ち替え、その標的も鳥獣から魔女へと変えて。

 あの穏やかな気性の村長夫妻が、今の彼を見たらどう思うのだろうか。生き残ってくれたことを喜ぶのか、それとも……。

 

「まあ、その、なんだ」

 

 陰鬱な考えに耽っていたシスネの思考は、何も考えていなさそうな声に遮られる。

 

「生きていれば、また変わる時もあるだろう」

「――……」

 

 

 

 シスネは未だ、レーベンに聞けていないことがある。

 かつて、魔女と刺し違えて死ぬ為に生きていたというこの騎士に。

 あなたは、今も――。

 

 

 

「“生きていないと時間は進まない”……だったか」

 

 それはシスネも聞いたことのある言葉だった。かつて、父から。

 

「ライアーも、似たようなことを言っていた」

 

 彼の二色の双眸は、どこか遠くを見つめていて。

 

「――あぁ、そういえば」

 

 そう言って。本当に、いま思い出したとでも言うような口調で。

 

「礼が、まだだった」

「あの時、貴公は何度も命を助けてくれた」

「勝手に死のうとする、俺みたいな馬鹿の命を」

 

 未だ、彼の口から聞けていないことが……。

 

「今でもそれほど変わってはいないのかもしれないが」

「変わったとして、それが良いことなのか悪いことなのかも俺には分からないが」

「それでも俺は、確かに貴公に……シスネに助けられたんだと思う」

 

 

「――ありがとう」

 

 

 シスネは、彼の体を池に蹴り落とした。

 

 

 ◆

 

 

 レーベンは時々、彼女が人一倍の恥ずかしがり屋なのか、それとも真正の性格破綻者なのか分からなくなる時がある。

 

「なあ貴公、貴公。照れ隠しにも限度というものがあると思うんだ、俺は」

「誰も照れてなんていませんが?」

「今日も相変わらず肌が白いな。今は赤いが」

「そういうあなたは態度が大きいのではないですか? 今あなたが溺れないで済んでいるのは誰のおかげだと? この寒空の下で、あなた一人でどれだけ泳げるのか試してみましょうか?」

「分かった、分かったから聖性をくれ。このままじゃ沈むんだ」

 

 確かに溺れず済んでいるのはレーベンの左腕を掴んでいるシスネのおかげだが、そもそも彼女がレーベンを蹴り落とさなければこんな事にはなっていないのではないだろうか。赤い顔で鼻を啜るシスネに懇願しながら、レーベンは内心で世の理不尽を嘆いた。

 

「ひどい話だ。よほど俺のことが嫌いだと見える」

「何度もそう言っていますよね?」

「そうだった」

 

 彼女と出会った時から、成り行きで魔女狩りを共にするまで。彼女の秘密を知ってから、彼女の真の秘密を知った時まで。そしてあの戦いから今に至るまで、シスネはもうずっと変わらず、レーベンを「嫌い」だという。

 そう言う癖に、今も昔もあの時から、その嫌いなレーベンをシスネは放っておかない。心の機微にも疎い上に賢くもないレーベンには、彼女の本心がよく分からない。

 故に不安になる時もあるのだ。こんな己でも。

 

「……レグルス殿のようにはいかないか?」

 

 こうして、口走ってしまう程度には。

 

 

 

「…………私は、」

 

 そんな情けないレーベンの言葉を嗤うでもなく、シスネはただ左脇の銃に触れた。騎士レグルスから彼女に送られ、そして今まで何度も二人の窮地を救ってきた大短銃を。

 

「私は、今でも彼が、……いえ」

 

 シスネは右手で銃に触れながら、左手でレーベンの腕を掴み。黒い瞳で灰色の空を見上げ。一度だけ俯いてから。

 

「――好きですよ、みんなが」

 

「あんな事をした私にそんな資格は無くても、今でもレグルスのことは好きです」

「エイビスも、あとまあ……シグエナさんも」

「祖父も祖母も、父も母も、おね……姉も兄も、エンテもコトラもシュカも」

「ミラはとても良い子だし、お父様とも幸せになってほしい」

「ラオヤは、あなたが言うようにいつかまた変われると良い」

「聖女長と騎士長は怖いですけれど、この上なく頼もしい人たちです」

「あの技術者は、何度も私を助けてくれました」

「ポエニスの聖女たちも、騎士たちも」

「もちろん、カーリヤとライアーも、みんな好きです」

 

 微かで、だが綺麗な微笑でシスネは語る。

 レーベンの見てきた彼女は外面が良く、常に「聖女らしく」振舞っていたように見える。レーベンの見えないところで、彼女は様々な者たちと交流していた。それが仮面であれ本心であれ、元よりシスネはそういう、誰とでも良好な関係を築ける女性なのだろう。

 そしてそれはひどく単純な、彼女の優しさ故なのだ。

 

「でも、あなたのことだけは嫌いです」

 

 その優しいはずの彼女は、相変わらずレーベンを嫌いだと言う。嫌いなはずの相手に、こうして笑いかけてくる。

 

「……自分のことも、今でも好きにはなれませんが」

 

 嫉妬に狂った“騎士殺し”

 その罪と汚名はずっと彼女について回るのだろう。何故ならそれは全て過去で、過去は誰にも消せないのだから。変えられるとすれば、それは彼女が自分を許せる日が来た時だ。

 未だ自分を「穢い」と言う、このひどく不器用な聖女が。

 

「だから、つまり」

 

 ぐいと腕を引かれ、未だ冷水に浸かったままのレーベンを引き寄せる。そうしながら、レーベンの黒髪を掴むとも撫でるとも言えない動きで上を向かされる。

 間近に迫った黒い瞳は、もう逸らされない。

 

 

「みんなのことは“好き”で、私とあなたは“嫌い”です」

「それでは、いけませんか」

「ねえ、レーベン?」

 

 

 好意の反対は無関心。それはいつ誰から聞いた言葉だったか。

 彼女の言葉はいつだって複雑で、面倒で、ややこしくて。賢くもないレーベンにはよく分からない。

 それでも彼女の黒い瞳はレーベンを捉えて離さず、レーベンもまた目を逸らせない程にその光は強い。そうして己を見てくれているというならば、全て杞憂ということで良いのだろうか。

 

「……まあ、駄目だと言うならこの手を放すだけなのですが」

「それで良い。それで良いからそろそろ聖性をくれないか本当に沈みそうなんだ頼む」

 

 慌ててそう答えたというのに、シスネは無慈悲にも手を放してしまう。悴み始めた左手で必死に白い手を掴むと、そんなレーベンの必死さが面白いのか手で口元を覆っている。以前から変わらない、彼女が笑う時の癖。

 ……もう何度も考えたことだが、本当に己はとんでもない聖女に捕まってしまったのではないだろうか。

 

「本当に仕方のない人ですね。ほら早く上がってください、もう時間も無いのですから」

 

 そもそもの原因はシスネだが、もうそれを口にする気力も無い。掴んだ手から聖性が流され、ようやく動き出した右腕で岸に這いあがる。冷え切っていた体も聖性によって内側から暖められるかのようだった。それでも寒いものは寒い。

 

「あぁ寒い。いっそ貴公も落としてやろうか」

「やめてください。今は新しい服を着ているのですから」

 

「やるなら、いつもの服の日で」と、よく分からない冗談まで言い始める。

 そのまま、びしゃりびしゃりと水音を鳴らしながら歩くレーベンの左手を引くシスネ。それはレーベンが右腕を失くした頃に似た姿で、彼女は今でも時々こうしてレーベンの手を引くことがある。だがいつもはともかく、今は聖性も流されているのだから手まで引く必要は無いはずなのだが。

 

「……こちらの台詞なのですけどね」

「なんだって?」

「なんでもありません」

 

 ぼそりとシスネが何かを呟き、聞き直すも答えてはくれない。結局はそれ以上の会話もなく、聖女と騎士の居住棟まで二人で歩く。

 厚みを増してきた灰色の雲を見上げながら、レーベンは大きなくしゃみをした。

 

 

 ◇

 

 

「片手剣を二本。あと手斧と短剣」

「短銃を一丁お願いします。長銃は二丁で、短剣を三本」

 

 居住棟で着替えだけを済ませ、すぐに合流してから向かったのは建て直された教会本棟の地下倉庫。地下である故に本棟の倒壊に巻き込まれず済んだそこでは、薄暗い表情をした倉庫番――ファイサンがシスネ達の対応をしていた。いつもと変わらないうんざり顔で。

 

「炸裂弾と焼夷弾。――そんな顔をするなファイサン。俺も最近は壊さずに返しているだろう」

「私にも同じ物を。――直しているのは私なのですが」

 

 レーベンの軽口に何を答えるでもなく武器を並べ続けるファイサン。また痩せたように見える彼の健康状態を気にしながら、武器は必ず直してから返させようと決める。聖女も楽ではない。

 

「薬も欲しい。……用法と用量を守った数で」

「それと弾薬を。――はい良くできました」

 

 忘れた頃に馬鹿をやらかすこの馬鹿に睨みを効かせるのもシスネの役目だ。可動部を検めた短銃を脇腹に押し付けてやると、それだけで薬を減らすことが出来ていた。まあまあ殊勝な心がけだとシスネは内心で評価を下す。

 

「……あと、これも貰いますね」

 

 机の隅に置かれた巨大な銃弾を掴み取ってベルトに収める。シスネ以外に使う者などいないのだから構わないだろう。隣のレーベンも、二色の双眸でそれを何処か懐かしそうに眺めている。

 

「あの変人も素直じゃないな」

「まったくです。……感謝はしていますけど」

「貴公も人のことは言え――」

「なにか言いましたか?」

 

 長銃のレバーを何度か引きながら睨めつけてやると、レーベンはそそくさと部屋の隅に向かう。そのまま、床に広げた装備を身につけ始める姿を見て溜息をつきながら、シスネも鞄から黒革のベルトを何本か取り出した。

 

 レーベンが鞄から取り出したのは、黒とも銀ともつかない不思議な輝きの鎧。ひどく軽装な上に部位まで省略されたそれを手早く装着していく。胸当てと左手だけの手甲、そして膝当て。それで終わりだ。あとは厚手の革手袋を白い右手にはめ、鎖帷子(チェーンメイル)を仕込まれた首巻に頭を通す。最後に、鴉羽のような黒い火除けの外套を肩に羽織った。

 灰色の装束の上からベルトを巻き付ける。このやり方は身体の線が浮き出てあまり好きではないが、背に腹は代えられない。カーリヤならともかく、シスネのような痩せた体など誰も興味は示さないだろうと、いつものように自嘲する。自室を出る時に履き替えてきた武骨な長靴(ブーツ)の紐を締め直し、その下に履いた黒い長靴下も引き上げた。長いスカートの右側に入れられた切り込みは、片手で長銃に弾薬を装填する為にシスネが自分で改造したものだ。さすがに脚を晒すのは寒い上に恥ずかしいから、スカートの下に長靴下を履いている。断じてカーリヤの真似をしている訳ではない。

 

 腰の両側に片手剣を佩く。強化剤と再生剤を収めた雑嚢を後ろ腰に下げ、手斧もベルトに差す。短剣は鞘ごと右腿に括りつけ、焼夷弾と炸裂弾を並べたベルトは肩に巻く。出会った頃よりは軽装になったとはいえ、相変わらずの過剰装備だ。「直すより換えた方が早い」とは彼の弁だが、結局はシスネが直すのだから頭痛の種ではあった。

 ゆるく頭を振りながら、三本の短剣をそれぞれ右脇と腰と足首に括る。短銃を左腰のホルスターに差し込み、二丁の長銃を背に担ぐ。三種の弾薬と焼夷弾と炸裂弾をまとめて収めたベルトも腰に巻いた。過剰装備はシスネも同じで、以前と変わったのは倉庫から持ちだす短銃が一丁減っただけだ。

 

 レーベンが専用の鞄を開け、中から取り出したのは黒銀の刀身を持つ一振りの剣。刀剣に疎いシスネでも分かるほど異様な形をしているそれの大きさはひどく中途半端で、片手剣とも両手剣とも呼べない。柄には奇怪な仕掛けが施され、そこから二本の引き金が柄へと伸びる機械仕掛けの剣。レーベンしか扱えず、そしてシスネがいなければその真価も発揮できない、そんなどうしようもなく異質な剣だ。

 唯一、常に身につけたままの銃を右脇から抜く。銃身がずるりと長い、単発式の異様に大きな短銃。かつてレグルスがある狂人に依頼し、そしてシスネに贈られた自決用の短銃。それは未だシスネ自身を穿つことはなく、代わりに何体もの魔女を穿ってきた大短銃だ。どこまでも武骨な銃身を指先で撫でてからホルスターへ戻し、そしてもう一丁の私物も取り出した。

 

「相変わらず派手だな」

「本当に」

 

 その短銃は教会から貸し出される物とまったくの同型で、その性能も何ら変わらない。むしろ、無駄に増やされた重量のせいで性能自体は劣化しているとすら言えるだろうか。銃身に施された繊細な彫刻(エングレーブ)を目でなぞり、それも左腰のホルスターへと収める。あの日、ナダ平原で拾ったカーリヤの短銃。こびり付いていた黒い泥を焼き、シスネの聖性で再び修復した物だった。

 全ての準備を終えたシスネとレーベンは出入口へと向かい、それをファイサンが心底うんざりした顔で見送っている。

 

「ではなファイサン、いつも世話になる」

「いつもごめんなさい、必ず直して返しますから」

 

「そういう問題じゃない」と、そんな言葉すら聞こえてきそうな顔で溜息をつくファイサン。今度なにか土産でも渡そうと心に決めながら、シスネはレーベンの黒い背中を追って階段を登った。

 その背に、聖性と共にそっと触れながら。

 

 

 ※

 

 

 この半年で旧聖都ポエニスは、いやカエルム教国は変わった。

 まず何よりも、あの激戦で多くの人々――聖女と騎士以外の者達が魔女と戦ったことが大きな要因だろう。

 

「銃があれば魔女を狩れる」

「聖女と騎士でなくとも魔女と戦える」

「もっと非聖性技術の開発を進めるべきなのではないか」

 

 只人でも魔女と戦えた、そして狩ることすら出来たという事実と実感。それらが魔女に対する恐怖と結びつき、護身の為にも銃を市井の人々にも配るべきだと意見が出始めた。それらを半ば発散させるような目的の下で銃隊が再編され、そして非聖性技術を開発する技術棟の勢力は増してきている。

 

「聖女も騎士も数は半分以下まで減ってしまった。銃隊にも魔女を狩らせるべきだ」

「もはや銃隊こそ魔女狩りの要だ。数を揃え、運用を工夫すれば騎士よりも優れた戦力となり得る」

「そもそも聖女を、女を戦わせる必要はあるのか」

 

 もはや聖女と騎士は不要なのではないか。そんな言葉すら聞かれるようになって久しい。

 

「愚かな。聖女とは魔女狩りの為だけの役目ではない」

「暗黒時代を忘れたか。あの凄惨な女狩りを」

「女を再び、魔女を生み出すだけの害悪へと戻す気か」

 

 だが聖女がいなくなれば、全ての女たちはただ潜在的な魔女というだけの存在になる。同じく女からしか生まれない聖女という象徴があったからこそ、この国は魔女禍という災厄をかろうじて乗り越えてこられたのだ。その薄氷の如き均衡を維持するのか、それとも。

 

「ドーラは何者だったのだ。何故あそこまで巨大な魔女が生まれたというのか」

「アスピダ山脈の向こうには何がある。その調査を進めるべきだ」

「シルト海もだ。海の向こうから、また第二のドーラが現れないと誰が言い切れる」

 

 教国を外界と隔てていた二つの壁。その向こうから現れたドーラの存在は、数多の人々に消せない恐怖と好奇心を植えつけた。

 

「魔女禍とは何だ。魔女とは、聖性とは」

「もはや神話など御伽噺に過ぎない」

「我々は変わらなければならない。停滞の時代は終わらせなければ」

 

 カエルム教国は変革の時を迎えていた。

 だが変革に痛みは付き物であり、時にそれは流血すら伴う。

 それでも進まなければならないのだ。さもなければ、皆がこの狭い世界の中で終わることとなる。

 

 魔女によって始まり、聖女によって終わらせられた暗黒時代。

 それから長きに続いた、平穏と停滞の時代。

 ならば、今これからは――変革と混迷の時代と呼ぶべきだろうか。

 

 そして。

 そんな時代の始まりと同時に、契りを交わした聖女と騎士がいた。

 

 

 

 

 ◆ ◇

 

 

 

 

「碌な死に方をしないだろうな、俺は」

 

 ナダ平原の中を、二人だけで歩く。

 レーベン達がいま行っているのは魔女狩りではなく、ポエニス周辺の哨戒だ。魔女を引き集めていたドーラがいなくなり、再び魔女は国中で現れ始めた。被害と犠牲が出てから討伐に向かうのではなく、より積極的に魔女を探し討つべきだと、そういう声によって新たに出来た仕事として。

 故にこうして何もない平原を二人で歩いている。この時間が、レーベンは嫌いではない。

 

「なんですか、いきなり」

 

 そんな哨戒の最中、不吉な独り言を始めたレーベンをシスネは見やる。彼はまた、雪がちらつく暗雲をじっと見上げていた。

 

「今でも時々考えるんだ。アルバットの言葉は正しかったのか」

 

 今この国は、あの狂人の望んだ通りに動き出しているようにレーベンは思う。非聖性技術が台頭し、聖女と騎士が過去の遺物になろうとしている。魔女禍の根が何なのかを探り、それを根絶しようと皆が動き出している。

 聖女と騎士の時代が、終わろうとしている。

 

「……後悔していると?」

 

 自分はどこまでも、レーベンに惨いことをしてしまっているのではないか。シスネはそんな風に思うことがある。あの時、何度も彼から死に場所を奪ったように。彼を、よりにもよって最悪の時代に騎士にしてしまったのではないかと。

 その不安と罪悪感は、今でもシスネの胸に巣くっている。

 

「まさか」

 

 レーベンは決して後悔などしていない。己はきっとどうしようもない馬鹿なのだろうが、あの時アルバットと(たもと)を別ったことを悔いたことなど無い。

 レーベンは世界を守る英雄ではなく、そして世界を変える狂人でもない。

 何者でもない凡百の騎士。それこそが己が目指し、諦め、そして遂に至れたものだったのだから。

 例え、それがこれから時代の混迷に飲みこまれ、すり潰されていくだけの存在だとしても。

 騎士となったことを、後悔などしていない。

 

「最後が、悲劇だったとしても?」

 

 聖女と騎士の物語は、いつだって悲劇で終わる。

 それは聖女と騎士が生まれた時から今に至るまで、きっと一つの例外も許さなかった、この世界の無慈悲な摂理。英雄譚に謳われた聖女と騎士たちも、シスネ達が知る聖女と騎士たちも、無二の親友だったあの二人でさえも、誰も逃れられなかった。

 ならばきっと、シスネとレーベンもそうなるのだろう。いつか、必ず。

 それでも。

 

「その時は、まあ、あれだ――」

 

 悔いていることがあるとすれば、こんなどうしようもない騎士の聖女となってしまった彼女のことだろうか。きっと碌な死に方をしないであろう己に、こんなレーベンの(おわり)にシスネを付き合わせることなど……。

 そう、思って。振り返り。

 

 黒い瞳が、まっすぐレーベンを射貫いている。

 出会ったあの月夜から己を捉えて離さない、誰よりも何よりも美しい黒。

 

「――いっしょに、死んでくれると嬉しい」

 

 

 

 

 

 

「忘れてくれ」

「忘れませんよ、馬鹿」

 

 逃げるように足を速める馬鹿を追って、シスネも小走りに草原を進む。面倒になって聖性を切ってやると、体勢を崩したレーベンが草地の中に転んで止まった。なんとも間抜けな騎士の姿に、シスネは声をあげて笑う。

 

「く、ふふ――、口説くにしても、もう少しマシなことが言えないのですか? この馬鹿」

「……馬鹿で誠に申し訳ない」

「本当に馬鹿ですよ。このばーか」

 

 きっと奇跡など起きないのだろう。きっと悲劇で終わるのだろう。

 何故ならこれは物語ではなくて現実で、例え物語であったとして、きっと二人に奇跡の出番は無いのだろうから。

 

「それで、返事はどうなんだ?」

「は? もちろんお断りです」

「ひどいな」

 

 英雄でも狂人でもない二人の物語は、言うなれば前日譚だったのだ。

 変革と混迷の時代に生まれるであろう、英雄であり狂人。

 そんな誰かの、輝かしい物語の前日譚(Prequel)

 

「あぁ、本当にひどい話だ。見たまえよ、雲行きまで怪しくなってきた」

「良いではないですか、私達にはお似合いでしょう」

「違いない」

 

 遠くの空は黒く濁り、雷鳴すら響いてくる。それはこの国の――レーベンの、シスネの未来を暗示しているようで。

 それでも、レーベンは差し出された彼女の手を取る。

 己を見下ろす、真っ白な髪と黒い瞳を持つ、全身に武器を括りつけた、まったく聖女らしくない女。

 そんなシスネだからこそ、レーベンは。

 

 

「最後までよろしく頼む、聖女さま」

 

 

 いつか悲劇で終わるその日まで、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

魔女狩り聖女

Witchhunt Saint -Prequel-

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 閃光の如き速さで、眼前に銃口が突きつけられた。

 目を見開けば、己を射殺すような黒い瞳で、聖女が笑っている。

 どこまでも、どこまでも聖女らしからぬ笑みで。

 

「そんなこと――私がさせませんけどね?」

 

 

 

 

 

 

End

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。