いつかは本物の龍に (大空の天音)
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稲葉山城の戦い
稲葉山城の戦い① 【竹中半兵衛、調略】


 プロローグらしいプロローグもないままに投稿させていただきます。
 処女作ですので、まずは書き上げることを目標にしつつ、この場を借りさせていただきます。
 私、大空の天音(おおぞらのあまね)と申します。
 今後とも宜しくお願いいたします。




「近江の浅井長政……尾張の相良良晴……半兵衛の屋敷を訪ねているのはこの二人なのですね?」

「はい、姫様。半兵衛は前鬼をもって対応しているようですが……如何なさいましょうか?」

 

 稲葉山城の一室では、桃色の着物に身を包んだ少女に対して忍び衣装に身を包んだ少女が片膝を立てて応対していた。姫衣装の少女は、忍びの少女に目を向けることもなく、言葉を紡ぎながらも鉢で何らかの白い粉を磨り潰しているだけだ。

 父から与えられた桜柄の着物によく似合っている桃色の髪をサイドテールにした少女は、一度お茶へと手を伸ばし、再びすり鉢へと向かい直る。

 

「姫様? 竹中半兵衛は斎藤家の要です。仮に半兵衛が調略でもされるようなことがあれば……」

 

 姫と呼ばれている少女は軽くため息を吐くと、磨り潰した白色の粉を薄手の紙の上に乗せ、丁寧に茶巾のようにして縛り上げた。まるで忍び姿の少女の言葉の先を拒絶しているかのような反応に、忍びの少女は言葉を噤んでしまう。その先は言わないでも分かっている、そう少女は態度で示していたのだ。

 

「半兵衛には、斎藤家と命運を共にして欲しくはないの。十兵衛やお祖父様の様に……大海へと飛び出して欲しい。……それが仮に、お父様や私に背くことになろうとも」

 

 斎藤道三をお祖父様と呼ぶこの少女こそ、現在斎藤家の家督を持っている斎藤義龍の第一子。斎藤龍興、齢まだ十五にも達していないにも関わらず、本来であれば家督を継いでしまっているはずの少女である。家臣団を纏め上げることが出来ず、斎藤家滅亡の決定打を作ってしまった人物だが、斎藤義龍健在の今、政務や軍事とは切り離されて生活していた。

 その龍興の大親友にして、斎藤家きっての名軍師とも言われている少女が竹中半兵衛。今現在、浅井家と織田家から調略の対象になっている人物であったりもする。しかし、半兵衛調略を知る斎藤家の数少ない家臣の一人が半兵衛の調略を防ごうと考えているのに対し、龍興は策を講じることもしなかった。それどころか、いつかばれるとは思っているものの、父である義龍にはその事実を伝えていなかったりもする。

 竹中半兵衛が少女である、ということは伝えてしまっているが、それが故に義龍は、今まで無理に半兵衛の出仕を強いることはなかった。

 

「光治、私はあなたにも斎藤家の外の世界を知ってもらいたいの。……相良良晴について行ってもいいのですよ?」

「お言葉なれど、私にとっての主君は斎藤道三様でも、義龍様でも、相良良晴でもありません。……例え半兵衛が斎藤を出ていったとしても、私だけは常に姫様のお傍に」

 

 龍興に対している忍びの少女の名前は不破光治。稲葉良通、安藤守就、氏家直元の三人に加え、西美濃四人衆とも呼ばれている人物で、忍びにしては珍しく政務一般にも通じている万能な人材である。それに加え、龍興のお付きとして常に隣に侍っているため、隠れて剣の特訓をしている龍興の師でもあったりする。

 忠義の人であり、決して龍興を裏切らないという誓いをこっそりと立てていたりする。

 

「……半兵衛の屋敷に参りますよ。そろそろ、お薬の時間ですので」

「はっ! お供致します!」

 

 優雅な振る舞いのまま龍興が稲葉山城の自室を後にすると、光治はその姿を闇と同化させた。忍者だからこそ使えるとでも言おうか、まるで瞬間移動のようにも見えるものの、これが彼女の現れ方であり消え方である。

 さて、どこかどたばたとしている城内を通って城外へと出ようとしていた龍興であったが、異様なほどに忙しそうに走り回る家臣を見て、何か嫌な予感を感じた。

 

「……お父様の信頼も篤い光治にのみこれは頼めることですね。……お父様の本日の薬に、此方を混ぜてきて下さい。遅効性の睡眠薬ですので……」

「し、しかし……! そのようなことをすれば……」

「睡眠薬は病気を悪化させるようなものではありません。光治、私は先に屋敷へと向かっていますから、必ず混入してくるように」

 

 咎めるように小声で忠告してくる光治の声も聞かず、龍興は先に城の外へと出てしまった。聞く耳を持たなくなった主の後ろ姿を見つつ、こうなった龍興は頑固なものだったと思い直すと、再びどろりと闇に溶けて城主の部屋へと入っていく。

 睡眠薬の混じった薬を、彼女は躊躇をすることもなく斎藤義龍に手渡したのだ。

 

「光治か……。龍興も誰に似たのか……薬に商業と政だけ上手くなりおって……」

 

 どこか妬みの混じった口調で、薬を受け取った義龍は一気にそれを飲み干した。娘の作った薬と、それを持ってきた光治を信じきっているかのような動作の中に、疑いの入る隙間はなかった。

 

「……龍興に罪はない、な。儂は龍興から武を学ぶ機会を奪ってしまった。親父殿……道三との対談だけが、龍興にとっての楽しみになってしまっておったのだから」

「ですが、義龍様は龍興様の為を思って……」

「よいのだ、光治。道三を怨嗟と嫉妬で見ているのは確かだが……、龍興には儂と同じような思いはさせたくはない……。龍興が道三に懐いてしまったのは、儂の責任なのだろうよ」

 

 どこか遠い目をしながら、義龍は悲しそうに目を伏せた。長良川で斎藤道三を襲ってしまった以上、昔のような生活を龍興に送らせることが出来ないということだけが、義龍にとっての後悔であった。

 それとともに龍興にだけは、下克上をさせたくはないという気持ちがあった。親を放逐し、必要とあらばその生命を奪うようなことだけは、させたくはないと思っていた。

 それでも、既に義龍は来る所まで来てしまっていた。織田と浅井が竹中半兵衛を調略しようとしていることは既に美濃三人衆からの報告で掴んでいる。

 竹中半兵衛の叔父、安藤守就を餌にして竹中半兵衛を釣り、その竹中半兵衛を餌にして浅井と織田の将を釣り上げる。その策を講じてしまった以上、半兵衛の親友でもある娘との不和は避けることの出来ないものだ。

 だがそれでも義龍は後戻りができなかった。道三を追放してまで奪った美濃を、愛娘に継がせたいという一心だったのだ。病でこの先長くはない自分であれば、娘にいくら恨まれてもいいと、覚悟の上だった。

 

「……あまり思いつめないでくださいね、義龍様」

 

 その気持ちもわからなくもない光治は、娘を思っての行動を起こそうとする義龍と、諸将の未来と美濃の未来のために動こうとする龍興の気持ちの間に板挟みになっていた。

 だが、最終的には自分は龍興の味方をすると決めた。歩み寄りの道は考えてはみるものの、結論が出ない問いに、結局光治はその問いを後回しにしてしまうのであった。

 

 

 いつにも増して騒がしい。竹中半兵衛の屋敷を訪れた龍興は、素直にそう称すしかなかった。織田のサルこと相良良晴と近江浅井家の当主の浅井長政が屋敷を訪れているという現状を考えると、初対面の二人を見た半兵衛が混乱して色々しでかしているのだろうと結論はすぐに導き出すことが出来る。家主、竹中半兵衛は人見知りなのだ。

 

「入りますよ、半兵衛。そろそろ薬を飲む時間になりますから」

 

 念のため屋敷の入口で扉をたたき、声を上げる龍興。返事はなかったが、半兵衛の叔父である安藤守就は現在稲葉山城へと呼び出されていると光治に聞かされていた龍興は、遠慮なく屋敷の中へと入っていった。

 さて応接間へと上がってきた龍興が扉を開けると、その瞬間に一本の日本刀が龍興の直ぐ真横をかすめていった。危うく腰を抜かしそうになったものの、直ぐに半兵衛を落ち着かせなくてはまずいと部屋の中へと入っていく。

 突然現れた少女に、相良良晴も浅井長政も言葉を出すことが出来ず、場は龍興によって支配されたも同然だった。

 

「落ち着きなさい、半兵衛。お薬の時間でしょう……ね?」

 

 周りの見えていない半兵衛にすたすたと近づいていく龍興。こうしたことは日常茶飯事だとでも言うように、物怖じすらせずに平然と近づき、半兵衛を抱きしめた。

 

「前鬼さんも前鬼さんですよ。あなた、このお二人で遊んでいたでしょう?」

 

 それと同時に、ふわりと背後に現れた白色の巨大な狐に咎めるような視線を向ける龍興。半兵衛の式神でもある前鬼は、妙なところで人をおちょくることがある。今回もどうせその類だろうと、半兵衛を落ち着かせながら前鬼にも注意を促したのである。

 

「織田家の家臣相良良晴様に、近江は浅井家の当主浅井長政様。もしも彼らの身に何かがあれば、半兵衛だけでなく、斎藤の家にも傷がついてしまうのですから……ね?」

 

 半兵衛の頭を撫でながら、龍興は棒立ちになっている二人へと目を向けた。半兵衛の屋敷に突然乱入してきた女性に行動と思考を止めていた二人だったが、やがて再起動を果たすと現状がとても危ういということに気がついてしまったのだ。

 良晴も長政も、半兵衛の調略へとやって来た身。仮に斎藤家の人間に見つかってしまったとあれば、失敗もいいところなのだ。

 

「お、俺は尾張の浪人の一人に過ぎない身でして……!」

「わ、私は近江の商人の子でして、名を猿夜叉丸と……」

「用件は後で伺いますわ。薬を服用させる時間になりましたので、少々半兵衛と私は席を外させて頂きます。前鬼さん、お二方は客人ですからね?」

 

 調略が斎藤家にバレたくらいで逃げ帰るような肝の小さい男に、親友の身は預けられないとばかりに、龍興はしっかりと前鬼に言伝を残していった。その実、逃げ帰るようなら追うこともしなくて良いとしっかりと小声で伝えた上で、である。

 未だに落ち着かない半兵衛を連れて奥の部屋へと消えていった龍興の後ろ姿を、全身に脂汗を流し続ける二人の人間が見つめ続けているだけだった。

 どちらともなく目線を合わせ、これはまずいことになったと目で互いに訴えかけていた。

 

「……半兵衛は外には出たくないの?」

「外はみんながいぢめるので嫌です。くすん」

 

 一方で、件の半兵衛はこの調子だった。かつての稲葉山城城主、斎藤道三は怖いから嫌だといった。現在の稲葉山城城主、斎藤義龍にも怖いといって会わなかった。尾張の姫大名である織田信奈も怖い人だから絶対に会いたくないといい、道三の側近であった明智光秀に会うのも怖いといって聞かなかった。

 極度の人見知りである竹中半兵衛には、外に出ることは何よりも怖いことだったのだ。

 

「……斎藤はもうもたない。半兵衛は斎藤と運命を共にする必要なんて……」

「でも、龍興様は……! 皆によってたかっていぢめられちゃいます……」

 

 龍興の言葉を途中でさえぎって、龍興へとすがる半兵衛。一家臣にすぎない半兵衛はともかく、義龍の子供である龍興は、仮に斎藤家が滅びる運命にあったとしても、その呪縛から逃げることは出来ない。

 やがては織田、浅井、六角、姉小路という諸大名に攻められ、袋叩きに合うことだろう。

 その未来を容易に描くことが出来た半兵衛は、だからこそ自分が斎藤を裏切ることを認めたくなかったのだ。

 

「……大丈夫。半兵衛はどこに行っても、私の親友だから……ね? お願い、自分の好きに生きて欲しいの。私には出来ない生き方だから……せめて半兵衛には……」

 

 龍興の言葉を全て聞き終える前に、半兵衛は薬を一気に口の中に入れて飲み干していった。それ以上聞いてしまったら、自分の決心が鈍ってしまうから。龍興とともに斎藤が滅びるそのときまで、影で支え続けると思っていたその決心が。

 泣きそうな顔で伝えてくる龍興本人を前にして、その言葉は伝えることも出来ず中を彷徨った。私は織田にも浅井にも行きません、という言葉は。

 

「……戻りましょうか。いつまでもお客様をお待たせする訳にはいかないわ」

 

 龍興は龍興で、最初から半兵衛の答えが得られるとは思っていなかった。ここで何を言っても堂々巡りになると分かっていたからだ。外に行って欲しい龍興と、外に出て行きたくない半兵衛。互いが互いのことを思っているからこそ譲れない一線がそこにあった。

 半兵衛が素直に力を貸したいと思えるような相手が調略の相手なら、これほどうれしいことはないと龍興は考えた。嫌々ながらに力を貸す半兵衛の姿など、見たくはなかった。

 

「くすんくすん……。斎藤家の当主が、道三様でも義龍様でもなくて、龍興様だったらよかったのに……」

 

 どこかくすぐったいような評価を背中に受けながら、それだけは絶対にごめんだと一人龍興は首をふった。自由に生きたいからというわけではないが、父と祖父がいない世界を思い描きたくはなかった。

 無言で部屋の扉を開けて応接間へと戻ってみると、客人の姿が一人消えていた。近江は浅井長政。流石に大名でも、彼が調略に来ているなどと知られれば、斎藤家の手の者に討たれてしまうと考えたのだろう。その状況判断能力は確かなものだと龍興は舌を巻いたが、これで逃げ帰る程度の男に半兵衛を預けるわけにはいかなかった。

 逃げずに部屋へと留まっていた良晴へと向き直った龍興は、自分の背後に半兵衛を控えさせ、優雅に一礼してから名乗りを上げることとした。良晴の後ろに槍を携帯している少女がいることは気になるものの、調略相手を手に掛けようとすることは考えられない。

 織田の将ということだが、もしかすれば、相良良晴が別途陪臣として雇っているのかもしれないと龍興は考えを巡らせる。だが、全身を駆け巡る嫌な予感に急かされるように、彼女は思考を脳の片隅へと移していった。

 

「斎藤義龍の第一子、斎藤龍興と申します。尾張の……相良良晴様、でお間違えありませんか?」

 

 良晴はといえば、自分の正体がすっかりと見破られていることに動揺するのとともに、自分と相対する少女が大名の娘だということにも、またペースを乱されていた。

 そして、何よりも、自分の相手をしているこのしっかりしている少女が、無能とまで称されていたうつけ当主、斎藤龍興であることがその混乱に拍車をかけている。良晴の知っている知識では、到底ありえてはいけない状況だった。

 何よりも、龍興と半兵衛が懇意であるとなれば、その調略は絶望的でもあった。半兵衛が龍興に対して恨みを持っているはずがないからだ。

 混乱して次の言葉を発することの出来ない良晴に、龍興は微笑みながら次の質問を投げかけてみせた。

 

「良晴様……。尾張へと行かれた、お祖父様と十兵衛は元気でしょうか? ……お祖父様は持病まであるので、私は心配なのですが……」

 

 かこん、と庭のししおどしが音を立てる。良晴の迷いが取り払われたことを意味するかのように、明朗と響き渡る音だ。織田と斎藤は一触即発であり、自分が半兵衛を調略しに来たことは確かだが、身内や家臣を心配するこの少女の問いかけくらいは、答えてもいいのではないかと。良晴はそう結論づけたのである。

 

「二人とも元気も元気だぜ! 蝮のおっさんも、信奈が本当の娘になったみたいで、好々爺としてるさ」

「そう、ですか……。ふふ、お祖父様は信奈様を選んで正解でした」

 

 道三が元気そうに笑う姿を幻視して、龍興は自分のことのように嬉しそうに笑ってみせた。自分のことを梟雄と蔑んでいたあの祖父が、憑き物の落ちたような笑顔で笑っている。その世界をつくりだしたのは、他でもない。

織田信奈。尾張を治める、かの姫大名なのだ。

 

「……良晴様。もう一つばかり私の質問に、答えてはくださりませんか?」

「おう、なんでも聞いてくれ!」

 

 そんな織田信奈に信頼されているのだろう。竹中半兵衛の調略という大仕事を任されたばかりでなく、彼女のことを呼び捨てにできるということは、それなりの地位にいるということだ。彼にはどこか特別なものを感じると、龍興は良晴を試したくなった。

 

「大名の家に産まれた人間は、望む望まないに拘わらず天下を争う戦に巻き込まれます。誰も彼もが、天下を狙うと言わねばなりません。……もし、戦が何よりも嫌いな大名にあなたが仕えていたとしたら。……その人があなたにとって一番大事な人だとしたら……あなたはどうしますか?」

 

 かこん、と庭のししおどしが再び音を立てた。良晴は勿論、半兵衛も言葉を発することが出来なかった。思いつめているわけでは無さそうだった。だが、龍興の両の瞳からは、小さな雫が滴り落ちていた。それがいっぱいになるとともに、三度かこん、とししおどしが鳴り響いた。

 良晴が何かを言う前に言葉を発したのは半兵衛だった。普段はあまり自己主張をしなかったが、この質問には思うところがあったようだ。龍興の境遇を知れば、当然のことであったのかもしれない。

 

「龍興様……そのときには私が矢面に立ってでも……」

「それは違うぜ、半兵衛ちゃん」

 

 そんな半兵衛の答えを遮るように、良晴は言葉を挟んだ。半兵衛が考えている人間と良晴が考えている人間は違うものではあったが、答えに変わりはない。

 興味深そうに良晴を覗きこむ龍興に視線をあわせて、その横で困惑している半兵衛へと視線を移してから、良晴は続きを言葉にする。

 

「俺なら隠すようなことはしない。俺の答えは、『一生をかけて支え続ける』だ」

「ですが、戦を嫌がる人に無理をさせてまで……」

「そこが思い違いなんだよ、半兵衛ちゃん。だって、戦が嫌でも天下を狙うことを決心したんだぜ? 誰よりも平和な世の中を作りたいと思っているからだろ? だから俺は、決してその手を離さないで支え続ける。誰よりもいい方法で、平和な世を作ってくれると……って、どうしたんだ龍興ちゃん!?」

 

 半兵衛へと講釈を垂れるように得意気になっていた良晴は、再び視線を龍興へと移したところで異変を感じた。すすり泣くような声が聞こえたと思えば、龍興は確かに泣いていた。声を押し殺して、うつむきながら涙と戦っていた。

 

「良晴様が……」

「……ん?」

 

 織田家ではなく、斎藤家に仕えてくれればよかったのに、とは言えなかった。自分の我儘で彼を困らせるわけにはいかなかった。

 誰よりも織田信奈という人物を信じている目の前の人物を、自分の甘言で惑わすなど、あってはいけないことだ。誰よりも素晴らしい天下泰平を成し遂げてくれることだろう。

 涙は引っ込むことはなかったが、龍興は視線を上へと向けた。雲ひとつない青空が、ひたすら広がっているだけだ。その青空に元気を分けてもらったかのように、龍興は再び良晴へと視線を向けた。

 

「……良晴様。半兵衛を、お願いいたします」

「龍興様! そんなことをすれば、龍興様がいぢめられて……」

「私の夢とともに、半兵衛をあなたに託すのです。あなたなら、信じられます」

 

 こうなった龍興は頑固だった。良晴が何と言おうと、半兵衛が何と言おうと食い下がることはないだろう。

 

「私の夢は天下泰平を成し遂げること! ですが……凡庸な私には出来ないことです。天下泰平は、半兵衛と良晴様……織田信奈様にお預けいたします」

 

 遂に言った。言ってしまった。今まで誰にも言ったことのない、本当の夢を。

 愛する祖父にも、父にも言ったことのない一言を、見ず知らずの、それも織田の間諜に。

 軍師を調略しに来た、敵方の人間に。

 だが、龍興の目に迷いはなかった。自分の夢を託すことが出来る相手がいた。きっと祖父である道三も、同じような気持ちになったからこそ素直に笑えるようになったのだろう。龍興は、この日、初めて大きな決定を下したのだ。それは、凡庸であり凡愚であると自分を蔑み続けてきた彼女が、真の凡愚から離れた瞬間だった。

 

「美濃を、織田に渡すために私は動きます。美濃は、お父様は……私にお任せを」

 

 自分の夢を託すために、いつまでも権力と地位と、父親の幻影に囚われてしまっている父を解放してあげなければならない。それが父のためでもあり、天下のためでもあり、そして……彼女自身の為でもあったのだから。

 

「龍興様、待って、待って下さい! くすんくすん……」

「は、半兵衛ちゃん……! 追うぞ、犬千代、五右衛門!」

 

 だからといって、彼女を誰が責められようか。判断を誤るということは誰にでもあるということ。何よりも精神が高揚していた彼女には、冷静な判断は下せなかった。

 彼女は聡明であり、祖父譲りの軍略の知識と政の知識を持ってはいるものの、冷静でいられないところがあった。昂った感情を抑えることが出来ず、思い込んだら直情的なのだ。

 雲ひとつない晴天だったはずの青空は、いまや黒い雷雲に覆われてしまっていた。

 




 如何だったでしょうか?
 一応、プロローグに位置する『稲葉山城の戦い』は、何部かに分けて投稿させていただく予定です。
 展開が早いな……とか、龍興ちゃんちょろい!とか、色々あるかとは思いますが、その点はご了承を。頑張って話に深みを持たせて参りますので。

 尚、拙作の主人公である斎藤龍興ですが、史実の側面をもたせつつも、史実のように凡愚であるだけの存在にはしないように心がけています。
 個人的には、斎藤龍興という人物は、父である斎藤義龍が早くに没し、なおかつ祖父である斎藤道三も長良川で戦死していることから、若くして当主につかなくてはならなかった、ある意味では悲劇の人なのではないかと考えています。
 その反面、織田信奈の野望においてはその境遇が一変しています。斎藤道三は長良川で戦死せず、斎藤義龍は健在のまま。祖父と父からは愛情をもって育てられたがために、多くのことを学んでいるということに。
 政を習っているのは将来的に斎藤の家を背負って立つ人間として育てられているからですが、医学を学んでいる理由は……。これに関しては、プロローグ『稲葉山城の戦い』の最後辺りで明かす予定ですので、ご了承下さい。

 ……それと、犬千代、台詞がなくてごめんよ。
 どうしてか、影が薄くなってしまうのです。最後の良晴の台詞を書くまで、犬千代がいることをすっかり忘れていただなんて、口が裂けても……。


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稲葉山城の戦い② 【下克上】

皆様、おはようからこんにちはを経てこんばんは。

早速第二話を投稿させていただきます。
相変わらず犬千代が喋りませんが、その点はご容赦を…。
大丈夫、戦場にもなれば犬千代にも出番が来るはずです。

では、どうぞ。


「ご乱心なされたのですか、お父様! 仁を持たずして、人の道理を外れた行いでは民はついては……」

 

 一足先に稲葉山城に到着した斎藤龍興を待っていたのは、不破光治のもたらした不穏な情報であった。美濃三人衆、安藤守就が自身の父である斎藤義龍によって囚えられ、竹中半兵衛の出仕を求めているというのだ。

 これが自身の感じた嫌な予感だったのかと、龍興は稲葉山城の階段をかけあがり、勢い良く父の部屋の扉を開くと座して待っていた義龍へと詰め寄った。

 

「半兵衛の屋敷へと行っていたようだな」

「そんなことより……私の質問に答えていただけませんか、お父様!」

「そんなこと……だと?」

 

 お前は何を言っているんだと言わんばかりに、義龍は龍興を睨みつけた。今までにこれほどの怒りの感情を父から浴びたことのない龍興は、思わず父の態度に言葉を噤んでしまった。

 

「竹中半兵衛は、織田と浅井の調略の対象らしいな」

 

 ついで義龍の放った言葉に、龍興の動きは止まってしまった。半兵衛を織田家に出奔させるために来たというのに、最悪なタイミングで調略がバレてしまったものだ。

 今更ごまかすことも出来ないだろうと、龍興は覚悟を決めてそのことを切り出そうとしたのだが、義龍はその言葉を遮って更に言葉をつないだ。

 

「だから儂は、竹中半兵衛を妻として迎え入れることとしたのだ」

「……な、何を言っておられるのですか?」

 

 その言葉は、瞬く間に龍興の思考能力を奪ってしまった。龍興の周囲の温度が一気に冷えきるのが、安藤守就の投獄に抗議しに来た他の美濃三人衆にも感じられるほどだった。

 言葉の数は少ない家族ではあったが、お互いがお互いのことを想い合っている関係だったために、ここまで敵意を剥き出しにしあった龍興を誰もが見たことがなかった。

 

「半兵衛は私の親友です! それを、無理やり娶って……斎藤に縛り付けるおつもりなのですか!」

「……斎藤家の存続のためには仕方のない犠牲であろう」

 

 戦国の習わしだとでも言いたげに、堂々とその敵意を受け止める義龍。そんな態度を崩さない義龍に、龍興は冷静ではいられなかった。

 美濃のために起こした行動ではない。斎藤家存続のために行われようとしているのは、親友の身を犠牲にすること。父は祖父の幻影に取り憑かれて冷静な判断ができていないだけだと、龍興は信じてやまなかった。

 

「織田と親父殿を倒すために、半兵衛は必要な人材だ。それが分からぬお前ではないだろう?」

「織田を打ち倒したその先に……何が待っているというのですか。今のお父様は、お祖父様への敵意で周りが全く見えていないのです!」

 

 そんな父だから、きっと今の美濃は上手く回っていないのだ。道三との一番の違いはそこにある。義龍は、道三を意識しすぎていたのだ。

 美濃の民のことは二の次。まずは道三の首をとることこそが肝要だと考える義龍では。

 

「そんなお父様だからこそ、美濃は乱れたのです! 周りの見えていないお父様では……民心が離れていくことも納得できますから」

 

 売り言葉に買い言葉。義龍が龍興を蔑ろにするような発言をすれば、龍興も自身の暴言を止めることなど出来なかった。今まで隠してきた思いが爆発していく。

 言ってはいけないと思っていながら、言葉はとめどなく吐き出されていくのだ。

 

「お父様はお祖父様の幻影に惑わされているだけです。美濃のことも、斎藤家のこともどうでもいい。お祖父様さえ討ち倒せれば、それで」

 

 互いが互いのことを想い合っていたとしても蓄積していく不満。それが解放された途端に、我慢は意味をなさなくなる。立板に水の如く、すらすらと淀みなく、言いたいことだけを言葉にしてしまう。今まで我慢してきた言葉も、何もかもすべて。

 

「お祖父様という逃げ道に、いつまでも逃げているだけじゃないですか!」

「お前に……何がわかるというのだ! 親父殿に無能だと称され続けたこの儂の、何が!」

「何も分かりませんし、分かりたくもありません! お祖父様が行なってきた、美濃を豊かにするための数々の政策を反故にし、既得権益にこだわる土着の国人ばかりを優先するお父様のことなど……!」

「儂は斎藤道三の息子ではなく、土岐の嫡男じゃ! 古の美濃の姿を取り戻そうとして何が悪い!」

 

 激昂した義龍が、覇気をむき出しにして龍興に迫れば、龍興もそれに応えて向き直る。正に一触即発と言える状況だ。睨み合ったまま一言も発しない二人の背後では、大きな雷鳴が鳴り響く。

 再び空が大きく光った。雷の到来を予期させるほどの光であったが、その光が終息する前には、義龍は既に刀を手にしていた。

 

「お前は儂の娘などではなかったわ! 本当は斎藤道三の娘なのであろう! ここで叩き斬ってやるわ!」

「義龍様、それだけはやってはいけません!」

 

 義父にも娘にもその心情を理解してもらえないことは、義龍にとっては何よりも堪えるものだった。よくよく考えてみれば、斎藤道三は自分ではなく、娘の龍興ばかり気にかけていた気がする。だが何よりも、娘になじられることだけは我慢ができなかった。

 もとより、娘に危害を加えるつもりはなかった。だが、頭に血が上ってしまった義龍には、こみ上げてくるその衝動を抑えこむことが出来なかった。

 だから義龍は止まれなかった。乱心してしまっては歯止めがきかない。自分の娘とも懇意にしている忠義の将、不破光治が静止の言葉を投げかけたところで、はっと思い直したものの、振り下ろした刀というのは止まるわけがなかった。

 まさか突然父に斬りかかられると思ってもいなかった龍興は、思わず目を瞑った。武勇に優れる義龍とは異なり、龍興は即座に動くことなどできない。自分の死期を悟ってか、いつ振り下ろされるともわからない刀が首に達するのを静かに待ち続けることしかできなかった。

 だが、一方で龍興はこうも思っていた。仮に義龍が娘を斬ったとすれば、半兵衛はにべもなく織田家へと出奔することになるだろうと。死ぬ前に親友が信じた相手を助けるために。半兵衛が斎藤家に固執している大きな理由は、親友が斎藤家の姫であることだ。その親友が死んだとなれば、斎藤を恨みはすれど固執する理由は消えてなくなると。

 予想が大きく外れたことは否めないが、結果的に問題はなかったのではないだろうか。龍興は自分の中でそう結論づけると、刀がいつ振り下ろされるものかと考えていた。

 直後、ガキンと金属同士が勢い良くぶつかり合うような音がなった。いくら忍びのものである光治であっても、あの一瞬の間に義龍と龍興の間に入り込むことはできない。何の音だろうか、と龍興が目を開けてみると驚きたくなるようなものが目に入ってきた。

 

「ご無事でござったか、斎藤氏」

 

 いたのはまさしく忍者だった。光治ではないものの、確かに忍者だった。

 光治よりも小柄ながらにして、忍者刀一本で義龍の刀を受け止め、反らしてみせたのだ。

 

「相良氏に言われて先行していて良かったでござる。後少しでも遅れていれば、しょの首が身体からはなれちぇいるちょころでごじゃった」

「……舌っ足らずなのですね。長文が苦手なようで」

 

 義龍の刃を受け止めるほどの武勇を誇りながらも、その噛み噛みな口調が龍興のツボにはまったのだろう。ついつい目の前の忍者にそう言ってしまっていた。

 蜂須賀五右衛門。相良良晴に仕える乱破にして、川賊の川並衆の頭領をしている人物だ。見た目からは到底考えられない武勇と、自らに仕える光治よりも優れた忍術を使うことの出来る少女忍者の登場で、義龍の動きも止まっていた。

 

「相良氏が心配していたのでござる。斎藤家の姫君は、どこか無鉄砲だりょうちょ」

 

 五右衛門が主君である良晴の命で先行しているとすれば、ついで現れるのは相良良晴にほかならない。織田に行くにしろ行かないにしろ、このまま龍興を置いていくわけにはないかないと言う半兵衛の頼みであった。

 

「龍興様……けほけほ……ご無事、ですか?」

「半兵衛、あなたがここに来たらお父様の思う壺……!」

 

 しかし、半兵衛が思いがけずとってしまった行動は、斎藤義龍にとって好機だった。安藤守就が投獄されたことは未だ知らされてはいなかったが、龍興が危険を冒していると知れば、半兵衛は自分自身の意志で助けに来てしまうということを龍興は失念していた。

 人見知りの激しい半兵衛は、それが故に人に依存しやすい。斎藤家においても、半兵衛が積極的に関わろうとしていたのは姫である斎藤龍興だけであった。依存というものは恐ろしいもので、どんなに優秀な人間であっても、その思考力を奪ってしまうものなのだ。

 

「半兵衛ちゃん! 一人で先に行ったら危ないからダメだ!」

「半兵衛、お父様に捕まる前に逃げて!」

 

 のこのこと龍興に近づいてしまった半兵衛を挟みこむように、良晴と龍興から声がかけられる。半兵衛に迫る危険を事前に知らせ、その危険を遠ざけようとしたのだ。

 忍者である五右衛門は龍興を守る形で忍者刀を構えているため、半兵衛を助けにまわることは不可能であったし、光治も名目上は義龍に忠誠を誓っているために簡単には半兵衛を擁護できなかった。

 階下から上がってこようとしている良晴では間に合わなく、その後ろを走っている犬千代も同様だ。義龍に斬られそうになった龍興は、まだ足腰がガクガクといっていた。唯一動くことができたのは、他でもない斎藤義龍ただひとりだった。

 

「くく……飛んで火にいる夏の虫とはこのことよな。竹中半兵衛よ、斎藤家のために、この儂と結婚してもらおうぞ」

「あぅ……!? 離して……ください……!」

「くっ……半兵衛に手を出さないで下さい! 半兵衛に手を出すのならば、もう二度とお父様の薬は調合しませんよ!」

 

 軽々と抱え込まれてしまう半兵衛。身体をよじらせて必死に逃げようとしているものの、非力な半兵衛では義龍の拘束から逃げることなど叶わない。追いついてきた犬千代や、体勢を戻した五右衛門であっても、半兵衛の身体を抱え込まれている現状では、下手に打って出ることも出来なかった。

 龍興は龍興で抗議の声をあげてはいたが、もとより自分の体よりも織田を打ち倒すことを考えている義龍の心を動かすことは出来なかった。義龍は無情にも、嫌がる半兵衛を連れ去ろうとしたのだ。

 しかし、たった一歩を踏み出したところで、その目論見は失敗に終わった。

 ようやくこのとき、龍興が調合した薬に混ぜていた睡眠薬の効果が現れたのである。正に天の助けと言っていいほどのタイミングで、義龍はふらりと身体をよろけさせた。その隙に五右衛門が半兵衛を救出すると、犬千代が良晴と半兵衛をかばうようにして槍の先端を義龍へと向けた。

 それに加えて、半兵衛の信者である美濃三人衆も、その心中は穏やかなものではなかった。先代当主、斎藤道三に惹かれて仕え始めた彼らは、斎藤義龍に対しての心からの忠誠は持っていなかったのだ。そこに今回の騒動が加わったことで、彼らの心は反義龍へと球速に変わっていった。これを機に、龍興の派閥に乗り換えることも考えようかと思っていたところであった。

 龍興はといえば、これはしめたと思っていた。自分で調合した睡眠薬であるからこそ、その効き目はよく知っている。如何に大柄の義龍であるとはいえ、一度効果が出てしまえば睡眠に至るまでの時間は極めて短いことだろう。

 

「身体の自由が効かぬ……これはどうしたことだ」

「お父様……どこかお身体に障ったのでしょう? 今回は半兵衛のことは諦めて、身体を休めることに集中していただければと思うのですが……」

 

 不自然にならないように、龍興は義龍へとそう進言した。普段から義龍の病状を見続けてきた龍興の言葉であれば、こと体調に関していえば疑う余地はないというのが義龍を含めての斎藤家の総意であった。それだけ、かつての美濃の領主であった斎藤道三の治療にあたってきた功績は大きかったのだ。

 ふらりと身体を倒した義龍を見て、光治へと視線を向ける龍興。眠ってしまった義龍を部屋へと運ばせることを目的としていることを、光治は即座に理解すれば義龍を抱えあげるために近づいていった。龍興は龍興で、念の為に義龍の脈を確認し、かつしっかりと眠っていることを確かめるために、義龍へと寄り添ってはその身体へと手を伸ばした。

 首筋、腕、腹に胸。幾度と無く確かめた龍興はやがて、その場で立ち上がった。立ち上がってから一呼吸。周りの家臣や相良御一行が何事かと戸惑っている間、龍興は自分の心を落ち着かせ続けていたのだ。

 下克上は世の常だ。父である義龍が、祖父・斎藤道三から美濃を奪い取ったのと同じように。この機会に、自らの父から、愛する美濃を奪い取ることは悪いことではない、と。

 

「良晴様。こちらの手紙を、私の祖父に届けていただきたい。父の病状と、私の個人的なことが書かれていますので……封を開けるだなんて野暮なことはしないでくださいね?」

 

 下克上を成功させるだけでなく、美濃を織田家に譲ろうと考えている龍興の目論見を成功させるためには、もう一つの布石を打っておかなくてはならなかった。

 そのためには、半兵衛を送り届けることを証明する手紙を祖父に出しておきたかったのだ。自分の祖父であれば、筆跡で自筆のものだとわかってもらえるだろうとの考えであった。そんなこととはつゆ知らず、良晴はと言えば、ただの孫が祖父にあてる近況報告のようなものだと思ってそれを受け取ってしまった。

 これで策はなったとばかりに、手紙を良晴が受け取ったのと同時に、龍興は声を張り上げて宣言した。大きな声をあげるのは苦手だが、激しく打ち付ける大雨にかき消されないためには、ひときわ大きな声を出す必要があったのである。

 

「皆も承知の通り、私の父である斎藤義龍は病床の身。……ここは、不肖この龍興が斎藤家を継ぐこととする。相良良晴様、私達斎藤家は織田家に臣従を誓うこととします」

 

 突然の龍興の宣言に、美濃三人衆だけでなく、光治や五右衛門、半兵衛ですらも唖然としていた。突然の下克上宣言に、突然の臣従宣言とあれば無理もないことであった。

 良晴はといえば、「鼻の下が伸びすぎ」と犬千代のきつい一撃を脇腹に受けるまで、口をあんぐりと開ている始末だった。

 龍興はと言えば、皆の反応が芳しくないことを疑問に感じていた。おかしい、完全に決まったはずだったのに、と。

 

「臣従宣言を……あの……良晴様?」

 

 斎藤龍興は、一度信じこんだら考えを改めにくい人間だった。そのような理論が通るはずはないのだが、彼女はこれで下克上が上手くいくと思い込んでいたのだ。父である義龍がどのようにして斎藤道三から美濃を奪い取ったのかを知らないがために。

 彼女は世間知らずであった。医学や政に関しての知識は、確かに師や道三から再三叩きこまれていたものの、第一に彼女は戦場をほとんど見たことがなかったのだ。

 それが故に常識に疎い。下克上はいつでも起こすことが出来、すれば皆がついてきてくれると思い込んでいたのだ。

 

「龍興様、それは少し無理があります……。あぁ、怒らないで下さい……くすんくすん」

 

 半兵衛がその発言を諌めようとすると、逆に困惑したのは龍興の方だった。いつでも自分の味方だと思っていた半兵衛ですらこう言ってくる始末では、何かを間違えてしまったのだろうと理解したからだ。だが、何を間違えたのかまでは理解は出来なかった。

 そんなやりとりを横目でみながら、良晴はどこか安心していた。しっかりしているような気はしたものの、やっぱり人はそう変わらないものだと。どこか抜けている感じからして、確かに斎藤龍興は斎藤龍興なのだろう、と。「何か苛々する」と、犬千代に突かれるまで、良晴はじっと龍興を見つめていた。

 

「何を言われても、私はもう決めたのです。お祖父様の決めたように、この美濃は織田家に……」

「ならぬわ! このおおうつけ者が……!」

 

 それでもなお主張を繰り返そうとする龍興を、半兵衛は必死に押しとどめようとしていた。だが、その説得も無駄に終わった。突如、龍興へと雷が落ちたのだ。

 その事態に、再び五右衛門と犬千代が半兵衛の前へと歩み出た。しかし、その怒りは最も義龍の近くにいる龍興へと向いていた。半兵衛への悪意は既に霧消していたのだ。

 

「あぅ……。半兵衛……にげ、て……」

 

 義龍の拳が龍興の腹を抉ると、未だ斎藤家の主導権は自分が握っていると証明するべく、野太い声で義龍は大きく宣言した。

 龍興は急激な腹への打撃に身体を痙攣させると、そのままその場に倒れてしまっていた。

 

「斎藤義龍は健在よ! 織田家は不倶戴天の敵……これより我らは、織田を討ち滅ぼす!」

「やばい……逃げるぞ、半兵衛ちゃん! 五右衛門、犬千代、行くぞ!」

 

 大きな声で宣言をした義龍はそのまま睡眠薬の効能でバタリと倒れてしまったため、美濃三人衆は相良良晴一行の追撃を行わなかった。義龍に心服しているわけでもなく、かつての領主道三の派閥にあり、半兵衛の信者でもある彼らにしてみれば当然の配慮であったといえるだろう。

 かくして、斎藤龍興による稲葉山城でのクーデターは失敗に終わった。しかし、当初の彼女の目的を達成することができただけでも儲けものであっただろう。

 稲葉山城を脱した半兵衛と、良晴一行は長良川ヘと急行。良晴の中では特別な場所、墨俣の地へとたどり着いていた。天然の要害、稲葉山城を見上げながら、半兵衛は良晴の心に触れていた。

必ず斎藤龍興を救い出してみせるという決意と、優しさに竹中半兵衛は惹かれてしまった。この人を支えてみたいと、そう思える相手に半兵衛が出会ったことは、龍興にとってこれ以上ないほどの収穫だった。

 ただ、無性に半兵衛は良晴へと小生意気なことを言ってやりたくなってしまった。別に良晴のことが気に入らないと言うわけではない。自分の心の中で芽生えてしまった思いを、認めたくなかっただけのことである。

 

「……良晴さんは本物のお馬鹿さんです。いくら龍興様が私の親友であるとはいえ、敵方の姫を助けるだなんて」

「俺は欲張りだからね、半兵衛ちゃん。いくら今は敵であるとは言っても、俺を信じて半兵衛ちゃんを預けてくれたんだし……何より俺は、あの子も外に連れ出してあげたいんだよ」

 

 自信満々に言ってのける良晴の姿が眩しかった。きっとこの人なら、自分の親友を救い出してくれると、根拠のない自信が半兵衛の心のなかに巻き起こっていた。

 それと同時に、半兵衛自身感じたことのない気持ちを胸の中に起こし始めていた。

 

「良晴さんが、龍興様を救い出そうとしてくれることに感謝します。それと同時に……」

 

その先を言ってしまえば、半兵衛の人生は変わってしまう。そもそも彼女はもう斎藤家には戻ることが出来ない。ここで彼女が続く言葉を発しないだけの理由はなかった。

彼女が斎藤龍興を主として仰ぐことは、もう出来ない。だが、心のなかに芽生えてしまったその気持に嘘も偽りもしたくはなかった。目の前の人なら、きっと救いたい人をも救ってくれるであろうから。

 

「わたし、竹中半兵衛は……良晴さんを我が殿として仰ぎ、この知略と陰陽の術をお預けいたします。だから……」

 

 夢の形は少し変わってはしまったものの、まだ半兵衛の夢は破れてはいない。彼女の新しい夢は、織田家に行っても薄れることはないだろう。

 彼女の新しい主は、可愛い女の子には滅法弱い仁君なのだから。

 

「私にも、龍興様にも……これ以上ないほどの夢を、見せてくださいね?」

 





ということで、第二話でした。
如何だったでしょうか?

私もこれが処女作な上に、戦国時代に関する知識もやや曖昧なところがあります。
それが故に、文章内に所謂矛盾に相当するもの、あるいは間違った知識が書かれていること、急展開な他無理な展開が行われていること、あるいは描写不足などがあるかもしれません。
そのような場合には、どうか広い心でご容赦いただければと思います。

では、また次回第三話でお会いしましょう。
ようやく織田の姫様登場になります。


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稲葉山城の戦い③【斎藤義龍の思惑】

数日振りになるかと思いますが、気候がコロコロと変化して体調を崩しそうです…。

さて、拙作ですが、一部はアニメを元に再構成している部分があります。
光秀の加入時期などがこれにあたりますね。

また、今川残党などの新要素を含んで、稲葉山城の一戦が終わってからは全くの新ストーリー展開になりますのでどうぞよろしくお願いします。
官兵衛が出てくるまでまだまだ時間は掛かりそうではありますが…。


 相良良晴、竹中半兵衛の調略に成功して尾張に凱旋。この功績は瞬く間に尾張中に広がった。織田の家臣の中には、この働きを持ってして相良良晴を一角の武将として認める動きすらもあるほどだった。

 相良良晴の陪臣という形で織田家に仕えることになった竹中半兵衛は、織田家の一角を担っていた明智光秀と斎藤道三を交えて、斎藤龍興を取り巻いている現状を相談していた。相良良晴が託された書状を斎藤道三に渡すと、道三は孫からの手紙とあって嬉しそうにそれを開いたものの、最初の一文を読み始めたところで道三の顔色が変わっていく。

 

「信奈ちゃんを……呼んでくれい。これは、ワシの一存じゃ決められん」

「……何言ってるんだよ。龍興ちゃんは近況報告と個人的なことだけを書いたって言ってたんだぞ?」

「これのどこが個人的なことなのですか! こんなこと、あの父親っ娘の龍興様が、本気で書いただなんて思えないですぅ!」

 

 再び相良良晴に返されたその書状には、ただ一言だけが書いてあった。

 『私は、お父様を裏切る準備が出来ております』。筆跡こそいつもと変わらないものであったものの、文字の周りに水が垂れた跡が見受けられるあたり、この一文を書くことが、どれだけ龍興にとって覚悟のいるものだったかが理解できた。

 良晴にはわからないことだったが、龍興と親交のあった光秀からすれば、本当にこの書状が龍興によって書かれているものだと信じられないことだったが、彼女の実際の行動を見ていた半兵衛や、孫の勉強を見てきたため、その筆跡に見覚えのある道三からすれば、正しく龍興の覚悟を示す一文だと理解しなくてはならなかった。

 

「孫にここまで悲壮な覚悟を背負わせることになるとは……。このワシ、生涯で一番の失敗は……」

 

 自らと実の父との間で苦悩してきた龍興のことを考えると、道三は天を仰ぐしかできなかった。旧来の既得権益ばかりを考えてきた義龍のことを、道三は再三無能と称してみせた。これからの時代を切り開くのは、新しい価値観であると信じてやまなかったからだ。

 だが、それが原因で道三と義龍の親子関係にはひびが入った。一致しているのは、斎藤家の姫であった龍興を可愛がっていたことぐらいだろうか。

 教育方針に関しても特にすれちがいもなく、学びたいことであれば何でも学んでいいというこの時代にしては親ばかな義龍の一声が響いたのである。これを機に義龍も変わらないものかと道三は期待したのだが、結局土岐氏の嫡流ということばかりに意識が行ってしまっていた義龍と、次代を新しい思想の人間に継がせたいと考えていた道三とでは、残念ながら溝が埋まることはなかった。

 だが、今となっては……。道三は義龍の行動の意味が察せるようになって来てしまったのだ。織田信奈という義理とはいえ娘を迎え入れた今、本当に愛することのできる子に対して、他の何をも犠牲にしてでも何かを残したくなってしまうということに気づいてしまったからだ。

 道三の実子なのか、それとも土岐氏の嫡流かということで諍いのあった斎藤親子の間では、長らく忘れ去っていた感情であった。

 

 

「やれやれ、斎藤家もお家騒動か~。ぼくと姉上のように仲良くすればいいじゃないか~」

 

 斎藤道三のもたらした情報に対する、津田信澄の反応がこれだった。どこの誰と誰が仲が良いというのか、つい先日までお家騒動を演じていた信奈の弟の癖して、随分とのんきな発言である。その発言に、やれやれと肩をすくめて見せた良晴であったが、評議の手前妙なことは言えなかった。

 

「……寝返りの保証がない上に、稲葉の姫様は謀反に失敗。……この手紙に賛同するというのは、少し危ない賭けにございまする……三十点です」

 

 辛辣に点数をつけたのは筆頭家老の一人、丹羽長秀。常に冷静沈着でいることを重んじる、織田家に欠かせない人材である。斎藤龍興の謀反失敗について、実際にその場にいた四人から聞いているため、当然龍興が捕らえられていると考えるのは間違いのないことであった。

 

「……何はともあれ、勝機なのは確かだろう。その謀反によって、美濃の豪族の中には反義龍を掲げる陣営も出ているのだから」

 

 いずれ美濃は抑えなくてはならない土地である。斎藤龍興の謀反によって、その盤石な領地運営にほころびが出ている今こそが責めどきだ。そう主張しているのは、筆頭武官とでも言うべき存在、柴田勝家。その武は敵方に恐れられ、鬼柴田とさえも呼ばれている。

 全国を探し歩いたとしても、勝家と同程度の武を探すほうが難しいといえるだろう。

 

「……やっぱりおかしいですぅ! あの龍興様が、義龍様にご謀反だなんて、信じられないです!」

 

 何かを思案していた明智光秀が、唐突に立ち上がった。長良川の戦いでは斎藤道三側に立って戦い、それ以来織田家に迎え入れられている智勇兼備の良将である。

 その一方で、若干思い込みが激しいところがあり、妙なところで空気が読めず、頑固な一面も垣間見ることが出来る。

 

「……ワシとしては、龍興を助けだして欲しいところじゃが……。一度破ったとはいえ、今川を駿河に残している状態で、博打というのも……のう」

 

 かつての美濃の国主、斎藤道三は抜け目の無い男だ。書状に記されている龍興の決意とは別に、稲葉山攻めを敢行した際に懸念される隣国からの侵攻へと目を向けていた。

 桶狭間の戦いで今川義元を破ったとはいえ、その妹に当たる今川氏真が織田家への侵攻を企てているという情報は、常に乱波によって入ってきていたのだ。今川義元こそ捕虜として捕らえられたものの、肝心の今川本隊のほとんどは無事というありさまなのだ。

 桶狭間での一番の戦果が、今川義元を捕らえたことだとすれば、二番目の戦果は松平元康を今川家から独立させたことにある。一応は松平家が、今川家との間で防波堤になってくれているからだ。今川家に取られていた松平の一族は、桶狭間の敗戦以降、服部党によって解放されているのだ。

 とは言え、今川家には優秀な軍師、太原雪斎が未だに残っている。松平家も楽観視はしておらず、侵攻があれば直ぐに同盟相手の織田に援軍を要請してくることだろう。

 そうなったときに対応ができなくなったのでは、美濃を取りに行く意味はあまりない、というのが道三の主張であった。祖父としての気持ちを優先すれば、誰よりも美濃へと駆け出したいというのが本心であるが、人の上に立つものとして誤った選択をとるわけにはいかなかった。

 

「……デアルカ。そうねぇ……このことに関して、半兵衛はどう考える?」

 

 そう問いかけるは、織田家の現当主である織田信奈。先進的な思考を多く持っている大名であるが故に、多くの諸将からは尾張のうつけ姫扱いをされているのだ。しかしその大望であったり、考えであったり、あるいは政策であったりというものは分かるものには分かるほど優秀なものであったりする。

 明智光秀、斎藤道三という二人の人間が彼女に従うようになったのも、その先見の明を見込んでのことである。

 そんな信奈が気にかけている相良良晴である。その良晴が気にかけている竹中半兵衛に意見が求められるというのは道理といえば道理である。

 

「……長井隼人正、岸勘解由、多治見修理。道三様が美濃を離れられた後、斎藤家で幅を利かせている武将です」

「それがどうしたと言うのよ? 私が聞いているのは斎藤龍興の謀反のことなんだけど」

 

 信奈の問いかけに、半兵衛は是とも否ともとれないような答えを返した。信奈は短気なところがあるため、半兵衛の答えに思わず怒鳴ろうとしてしまったものの、それを口の中に抑えこんで続く発言を促そうとした。

 そんな信奈の言葉を遮るような形で、あっ、と光秀が声をあげる。

 

「そいつら……道三様の新しい政策に反対していた連中ですぅ! 元々土岐氏に従っていただの文句つけて、色々邪魔してきやがったやつらです!」

「光秀さんの仰る通り、自らの既得権益に拘っていた方々です。その一方で、私の叔父を含めての美濃三人衆などとは反目しています」

 

 半兵衛がもたらした情報は、渡りに船であった。美濃三人衆は道三時代から美濃を支えてきた人材である。義龍一派と彼らが反目しあっているということは、美濃三人衆を調略することで寝返りを促すことが出来るということだからだ。

 更に言ってしまえば、美濃三人衆の一人、安藤守就は竹中半兵衛の叔父に当たる人物だ。その守就の影響を受けたからかは分からないものの、残る稲葉一鉄と氏家卜全は半兵衛シンパであったりする。竹中半兵衛が織田家に正式に仕えるようになったこと。斎藤龍興が反義龍を表明したことの二つの条件が満たされたために、この三人の忠誠心は揺れ動いている。半兵衛から声がかけられようものなら、織田家へと簡単に寝返ってくれることだろう。

 

「半兵衛だけじゃなくて、他に三人も寝返ってくれるというなら、美濃攻略も簡単そうじゃないか~。流石は姉上の天下取り、障害らしい障害がないものだね~」

「ああ、美濃三人衆に斎藤の姫君が離反してくれるというなら、これ以上ないほどの好機です! さぁ、姫様! 出陣の下知を!」

 

 半兵衛の情報によって、一点勝利ムードになってしまった織田家は、信澄と勝家を筆頭に既に斎藤家に対する勝利を確信してしまっている。丹羽長秀は、『勝手に勝利した気になっている状態ほど恐ろしいものはありません。十五点です』などと酷評しているほどである。

 一方で、一言も言葉を発しない道三を良晴は気にかけていた。三国三大梟雄とも称されるあの道三が一言も言葉を発しないというのが気にかかったらしい。

 

「おい爺さん。斎藤家と言えば元はアンタが作り上げた家だろ? 何か意見はないのかよ?」

 

 確かに、と信奈を筆頭に織田家の面々が道三へと視線を移す。斎藤家の内情をよく知る光秀にしてみても、道三が一言も発しないということに違和感を覚えたのか、やはり興味深そうに道三を見つめていた。

 ただ一人、すべてを理解してしまった天才軍師は、道三に対して気の毒そうな視線を注いでいた。かつて美濃を切り取った戦国の魔物は、大事なところで人を見誤ってしまったのだから。

 

「義龍は……」

「義龍様がどうしたというのです?」

 

 一言一言を区切るようにして、しばし逡巡する道三。その先を促そうとする光秀の合の手をも気にせず、一呼吸をおいてからお茶を流し込んだ。

 意を決したかのように口を開いた道三の言葉に、織田家の面々は黙りこんでしまうことになる。

 斎藤義龍は、自分が思った以上に優秀な倅であった。ワシもあの男も、境遇は同じなのじゃよ。お互いに、病で先がそれほど長くはない。

 その言葉に秘められた真意を、唯一完全に理解しきったのは半兵衛だけであったが、信奈や光秀にとっては、おおよその予想をするのに十分な情報だった。

 斎藤義龍という人間は、何よりも自分の娘が可愛い、親ばかに値する人間なのである、と。

 

 

 稲葉山城の三階には、斎藤義龍の執務室や他家の使者を招くための部屋がある他、座敷牢が存在していた。この座敷牢というのは、斎藤家を支えてきた家老であったり、あるいは斎藤家の一族であったりが何かを犯してしまった場合のみ入れられる場所であったりする。

 別に座敷牢などという場所だとはいっても、扱いが悪いなどということはない。特に今回入れられている人物であれば特に、である。座敷牢に入れられているのは斎藤家の姫、斎藤龍興。牢へと押し込んだ斎藤義龍から、くれぐれも不自由の無いようにと仰せつかっている看守は、牢屋の中にいるはずの相手に敬語を使うほどであったりする。

 

「お嬢様、本日の昼食をお届けに参りました」

「尚光ですか……。あなたはお父様のもとに行かなくてもいいのですか?」

「構わないのです。この竹腰尚光、他の誰もが裏切ったとしても、私は決して裏切りませんから」

 

 龍興に食事を持ってきた、モノクルをかけた少女の名前は竹腰尚光。長良川の戦いで戦死してしまった父を持つ彼女は、間接的にではあるものの斎藤義龍を親の仇としている。

 とは言っても、彼女は斎藤家に仕える優秀な忠臣である。尚光は、父親を合戦で失ったとしても、その忠誠心を変えることがなかったのだ。

 

「……光治はいますでしょうか?」

「不破殿であれば、先ほど義龍様の部屋へと向かわれました。何でも、織田家へと攻め入るから、城の留守を任せる、とのことで……」

 

 義龍へと謀反を起こしたことによって座敷牢へと入れられてしまってから、龍興は父親の真意についてずっと考えていた。どうして父親は、自分の祖父に反乱を起こしたのであろうか、と。義龍が道三の政策を反故にして、既得権益にこだわる国人衆ばかりを重視するような政策を行おうとしていたのだろうか。

 斎藤義龍という人物は、愚かな人物ではない。斎藤道三譲りの智謀と、道三を上回る武力を所持している人物だ。それにもかかわらず義龍が国力を衰退させてしまうような政策ばかりを行なっているのか、というのが龍興にはかねてより疑問であった。

 何よりも、誰しもが分かるほどの奸臣である斎藤飛騨守を重臣として重用していることが龍興の理解に苦しむことであった。この斎藤飛騨守なる人物は、主君を思い上がらせるような言葉ばかりを選んで吐き出すだけでなく、自分に特になるような政策ばかりを上申していたりする。

 こうしたことから、斎藤道三は彼を奸臣として遠ざけていたのである。そのことは義龍も知ってのところであったからこそ、龍興にはそれが疑問であったのだ。

 

「斎藤飛騨守はどうしたましたか? あの男は、いやしくも私の半兵衛をいつも虐めていましたが……今回はお父様に重用されていると聞きましたが……」

 

 気にかかっていたのは、その真偽。斎藤飛騨守が如何な扱いを受けているのかということであった。あまり個人的な思いを口にしたくはないと思ってはいたものの、半兵衛を虐めていたことに関しては少しばかり思うところがあるものだった。可能であれば、自分の手で討つか、望むのであれば半兵衛に討たせてあげたいとも思うものだ。

 だが、彼女は斎藤家を背負って立つ必要のある姫武将。そのような個人的な思いは後回しにしてでもお家のことを考えなくてはならなかった。

 彼女は父親と対立しているため、彼女を信じてついてきてくれる仲間へと精一杯報いる必要がある。今回の斎藤義龍による尾張出兵、それに賛同を示さない人間にだ。

 

「飛騨守様は、稲葉山城の守りを言い渡されておりました。何でも、少し後に義龍様率いる美濃軍が、長良川手前の森林に布陣するとのことでして」

「……稲葉、安藤、氏家のお三方は?」

「お三方とも出兵なされることになるようです。最後まで織田との戦には反対しておられましたが、義龍様のご命令でしたので……」

 

 尚光がもたらした情報を、龍興は頭の中で整理していく。今回、義龍が織田との戦に動員した兵は稲葉山城に少ない守護兵を残す以外全員だ。自然の要害となっているこの稲葉山城、しかも織田以外に周囲に敵国がない状態であれば、少数の守護兵でも落とされる心配がないというものである。

 引き連れる将兵はと言えば、長井隼人正、岸勘解由、多治見修理らの美濃の有力国人衆。更には美濃三人衆と、斎藤家の持ちうるほぼ全力を費やしている。

 一方で稲葉山城に残っているのは、幽閉中の龍興を除けば、目の前にいる尚光、龍興個人の配下にあたる光治。そして、城主を仰せつかった斎藤飛騨守。ほとんどが親織田となる人物である。

 

「……まさか、お父様は」

「姫様、どうかされたのですか?」

「いえ、なんでもないのです。斎藤飛騨守にはくれぐれも注意を払って下さい。今城内にいる人間で、最も信頼できず、唯一信じられないのは彼だけですから」

 

 御意、と言ってお盆を持って退室していく尚光。道三、義龍という二人の才能を引き継いでいる龍興には、そのおおまかな見通しが立ってしまった。

 斎藤義龍という人物が、どうして道三に対抗したのか。斎藤義龍という人物が、どうして半織田家を主張するのか。斎藤義龍という人物が、どうして地元の有力国人衆ばかりを重視する政策を講じていくのか。

 彼女が義龍を疑う心を捨て去れば、その解答は明白に示されるというものだ。思えば、彼の行動には不自然なところが多く見受けられたのだから。

 ともすれば、自分が取らなくてはならない行動は直ぐに理解できた。斎藤義龍と有力な家老が抜けたこの稲葉山城。守るは奸臣、斎藤飛騨守ただ一人。

 食事に毒や睡眠薬が入っていないことを念入りに確認した龍興は、胸に一物を抱えたまま、黙々と食事へと箸を進めた。

 

 

「斎藤飛騨守、これからの日ノ本を征するは織田でも斎藤でもないのです。我ら浅井に与されよ」

「その際には、私にはどれくらいの報酬を与えてくれるのかね?」

 

 斎藤義龍が出立する少し前のこと。斎藤飛騨守は、自身のお屋敷に近江の戦国大名、浅井長政を招き入れていた。長政が持ちかけてきたのは、簡単に言ってしまえば戦中の寝返りである。

 元々、斎藤道三時代から特に信頼されることもなく、寧ろ干し続けられていた飛騨守は、義龍の時代になっても変わらずの待遇しか受けてはいなかった。ことここにいたっては、滅び行く斎藤や、戦で大打撃を受ける織田に与するよりは、第三勢力で再び権力の基盤を築きあげたいと考えていたのである。

 

「我ら浅井が美濃をとったあかつきには、貴殿に大垣城を授けることを約束しよう」

「ふふ、やはり戦国大名はこうでないとな。あいわかった、浅井家が稲葉山攻めに加わった際に、城門を開けるという密約、確かに承ったぞ」

 

 なんとも扱いやすい御仁ですなと、空手形を手に揚々と踊り狂っている斎藤飛騨守の屋敷から出てきた浅井長政はニヤリと口元を歪めて笑うしかなかった。

 近江から天下を取ってやる、浅井長政を動かしていたのはただ一つだけの思いである。竹中半兵衛の調略には失敗したものの、まだ美濃と尾張を支配することが出来ないわけではない。幸い今川が再び動き出したことで、織田に残された時間が少なくなっていることは否定が出来ない。美濃を浅井が取ることで織田よりも上位に立ち、政略結婚で織田家をも併呑すること。浅井長政が描く未来を手に入れるためには、織田よりも早く美濃を取る必要があるのだ。

 愚かにもほとんどの将兵を引き連れて稲葉山城を空にするかのような采配を、義龍が行うということは乱波によって仕入れていた。仕掛けるのならばここしかないほどの好機であった。

 

「見ていることだ、信奈殿。私達浅井家によって、稲葉山城が陥落するところを、な」

 

 新興の大名家である浅井家ではあるが、その浅井家をここまで大きくしてきたのは他でもない浅井長政であった。優れた策謀の能力と、見目麗しいその容姿を使っての世渡り術は、正に神業と言っても差支えがなかった。

 斎藤飛騨守を寝返らせ、稲葉山城を落城させ、織田信奈と政略結婚をする。浅井長政の中では既に成功するに違いない内容として考えられていた。自身が感知していないところで、様々な人間の思惑が巡りあっているこの稲葉山城を落城させることは容易なことではないというのに。

 近江と美濃の国境に駐屯させている自軍の兵力を持ってして、すぐに稲葉山を攻略してやろう。そうすれば、あの風流馬鹿の朝倉義景との関係も切ることができる。朝倉よりも浅井のほうが格上の大名になればいいのだから。

 浅井長政の天下取りは、まだ始まったばかりなのである。

 




如何だったでしょうか。
次回では、合戦シーンにまで入ってこれるかと思います。

では、次回で再びお会いいたしましょう。


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稲葉山城の戦い④【美濃の三蝮】

ご無沙汰な投稿になってしまいましたが、お久しぶりでございます。
矛盾を生じさせないように頑張ってはおりますが、所々で矛盾が生じてしまったらどうしよう、と考えつつの投稿でおります。

ところで、ブラウザゲームが止まらないのですが、どうすればいいのでしょうか。(中毒的な意味で)


斎藤義龍が稲葉山城を出立した日の前日、相良良晴一行と川賊川並衆一行、それに加えて明智光秀が墨俣の地を訪れていた。斎藤家のあらゆる隠密を出しぬいて、出立日時の情報を手に入れてきた蜂須賀五右衛門によって、墨俣城建築の日時を割り出すことができたのだ。

 筏という形で木材を墨俣へと運び込んできた良晴は、持ちうる労働力のすべてを持ってして築城を始めていた。

 後の世で言うところの墨俣一夜城。天下人、豊臣秀吉が成し遂げたという功績に相良良晴は挑戦しているのだ。

 

「どうしてこの私まで築城に携わらなければならないのですか!」

「口じゃなくて手を動かす!」

 

 高貴な身分を自負する光秀はと言えば、自分自身が築城に携わりつつも、木材を肩に担いでいる現状を嘆いていた。いくら織田家勝利するためとはいえ、光秀自身は肉体労働には反対であった。『サル人間先輩に代わって、私が指揮をとってやれば問題ないのですぅ!』と言ってやりたいところであったが、件の良晴自身も肉体労働に従事していたために文句はそれしか言うことが出来なかった。

 文句を言うために口を動かしている光秀に、前田犬千代が苦言を呈した。川並衆の他の男衆よりも重そうな木材を軽々と持ち上げると、率先して木材を積み上げていった。

 

「良晴さん、稲葉山城はまだ気づいていないみたいです!」

「そしたら半兵衛ちゃん! 半兵衛ちゃんは休憩中の川並衆を使って周囲の警戒を怠らないでくれ!」

 

 索敵から戻ってきた竹中半兵衛の情報を耳に入れた良晴は、少しの間休憩を言い渡すと良晴は再び肉体労働へと戻っていく。半兵衛には呪符を使って式神を使用するだけの能力があるため、半兵衛自身が休憩していたとしても、前鬼が索敵出来るという強みがある。

 それに加え、川並衆はごつい男性陣である。少しばかり肉体を休憩させただけで、彼らは簡単に体力を回復できるのだ。

 

「それにしても相良氏。事前に木材に印をつけておいて、それで筏を作り上げ、急流であるながりゃ川を下ることで、一夜城をきじゅこうなどちょ、流石はしゃがら氏でごじゃるな」

「よっしゃあああああ! 親分が噛んだああああ!」

「う、うるちゃいでごじゃるよ!」

 

 この川並衆、頭領である五右衛門に海よりも深い忠誠を誓っている……、いや忠誠を超えた何かを胸にしまっているのであるが、こうして五右衛門が噛むたびに男泣きを見せるほどの感動を覚える人間たちの集まりであった。

 五右衛門が噛み噛みで何かを言うたびに、川並衆の男衆は体力と気力を回復できるのである。当然、五右衛門がうるちゃいでごじゃる、とたしなめようとも決して止まらないのがいつもの彼らなのである。

 

「おいおい、こんなところで大声出さないでくれよ! 稲葉山城に気づかれたら、こんな夜半に築城している意味がなくなっちゃうだろ!」

「そうでござる! 今回の墨俣築城、速度と隠密性が鍵なのでごじゃるぞ!」

 

 良晴の言葉に追随するように、再び五右衛門が川並衆をたしなめる。川並衆も、現状を省みてみると、たしかに騒いでいる場面じゃないと、誰からともなく仕事へととりかかり始める。

 

「全く騒がしい連中ですぅ」

「それでも、この連中をまとめあげられるのは良晴だけ」

「この騒がしさは別に嫌いではないです……けど、やっぱり怖いです、くすんくすん」

 

 わいわいと騒ぎ立てながらも手を止めない川並衆と良晴達を見下ろしながら、三人は三人で和んでいたりする。なんだかんだと文句を言いつつも、光秀ですらも自分の手を止めることはなかった。

 夜が明けるまで、もうそれほど時間はない。それでも相良良晴には焦りがなかった。皆が協力しあって築城している。失敗する未来など既に見えてはいなかった。

 良晴の頬をつーっと流れる汗を手ぬぐいで拭き取ると、半兵衛は呪符を携えて瞑想に向かう。はにかみながら良晴へと笑顔を向けた半兵衛には、別に他意があったわけではない。しかしその真意は誰にもわからない。それを見た犬千代が『半兵衛ずるい』とまた騒ぎ立てるのを見て、『やっぱり騒がしい連中ですぅ』と笑顔の光秀。

 無理難題であるものの墨俣築城を共にする仲間の間に、これ以上ないほどの絆が形成されていることを、良晴はうっすらと感じていた。

 

 

「よ、義龍様! す、す、墨俣の地に一晩で城が!」

「な、なんじゃと!? 親父殿でもそのような芸当……何をしたというのじゃ、織田軍は!」

 

 尾張の織田家を打ち破るべく出陣した斎藤義龍の軍勢は、本陣に長井隼人正、岸勘解由、多治見修理を筆頭とした有力な国人衆。先遣隊には美濃三人衆が派遣されており、この情報も稲葉一鉄によってもたらされたものであった。

 墨俣一夜城計画は、正に斎藤勢の度肝を抜いたのである。まさか一晩で城が建つなどということが、この世にあるものかと思ったのだ。

 斎藤義龍は武人ではあるものの、斎藤道三譲りの知略と機略を併せ持つ人物であった。その彼ですら、一晩で城を建てる技術など知りもしなかった。織田家にはそれが出来るほど優秀な人材がいるということが、一番義龍を驚かせていた。

 よもや半兵衛がとも思ったものの、竹中半兵衛は軍師であり陰陽師である。建築関係について言えば、素人同然のはずだった。

 

「い、如何なさいましょう? 城自体は小さいものですので、落とすのは簡単かとも思いますが……」

「いや、待て。織田には、竹中半兵衛が下っておるはずじゃ。……なれば、力押しは愚策……伊賀守に調査を命じさせよ」

 

 情報を伝えに来た伝令は、短く返答を返すと、踵を返した。伊賀守とは、美濃三人衆の一人、安藤守就のことである。竹中半兵衛を育て上げた育ての父にして、叔父に当たる人物だ。内通の可能性がないわけではないものの、少なくとも半兵衛が襲うとは考えられなかった。安全に近辺を調査するのであればうってつけの人材だということだろう。

 墨俣に城が一日で建ったということは確かに想定外ではあったものの、元々の思惑からはそれほど離れてはいなかった。作戦はそのまま実行できる、と義龍は内心ほくそ笑んでいた。

 

「義龍様……。伊賀守殿は竹中半兵衛殿の叔父、残る稲葉殿と氏家殿も確か親半兵衛派だったはず。ここは、内通の疑いを持って、織田家もろとも葬り去るべきでは?」

 

 長井隼人正は、それを持ってして義龍にこう讒言した。義龍はそれを聞いて、深く頷いたのだ。稲葉と氏家というのは美濃三人衆の残り、稲葉一鉄と氏家卜全のことである。

 竹中半兵衛に深く執着していたこの三人は、今後の美濃においては老害に等しい。織田家を討ち滅ぼした後の斎藤家は、古き良き時代に戻るのである。土岐源流の義龍の手によって、昔ながらの美濃を取り戻すのだ。

 少なくとも、義龍の周囲に侍っている国人たちはそのように考えていた。斎藤義龍という人間であれば、それをやってくれると。

 その期待に答えないわけにはいかない。義龍は、軍配を手にして墨俣城へと向けて振り下ろした。

 

「敵の城は張りぼてに等しい! 美濃三人衆もろとも、踏み潰すのじゃ!」

「義龍様のお下知じゃ! ものども、進め!」

「全軍出撃じゃ! 斎藤家の先勝祝いを掲げるのじゃ!」

 

 そう、これで良い。若い連中というのは非常に扱いやすいものだ。

 長井隼人正、岸勘解由、多治見修理の三人は、確かに国人衆をまとめている存在ではあった。だが、まだ若い。斎藤義龍という人物相手に腹芸で勝つのは無理があった。

 新美濃三人衆とでも言うべきだろうか、その三人が出陣した後の本陣で、義龍はゆっくりと馬に跨った。感じる視線はたった一つ、本陣裏手の木の上からだ。

 だが、義龍は敢えてそれを見逃した。今更乱波一人を取り逃がしたところで、作戦に変更はない。寧ろ織田の乱波を取り逃がしたのであれば、好都合であった。

 

「儂も親父殿の息子じゃ。そうそう利用されたりはせんよ……美濃の人害共には、儂もろとも道連れになってもらわなければのう」

 

 義龍はちらりと、裏にそびえ立つ稲葉山城を視界に入れた。

娘は上手くやっていることだろうか。義龍に残された懸念はそれだけだった。自分よりも龍興に近しい家臣は稲葉山城に残してきていた。念のため、ということで城に残した城主、斎藤飛騨守は、この美濃でも最も与し易いほどの人物だ。

親父殿の、そしてこの儂にも流れている、美濃が誇る知略の血は脈々と受け継がれているはずなのだ。龍興であればやってくれるであろう。

義龍はそう信じて、墨俣城へと兵を進めた。

国人衆は彼を操っているように思いながらも、実質的には義龍によって踊らされていたのだ。蝮よりも与し易い、そう考えた彼らは、その時点で敗北していたのだ。

美濃の蝮は一人にあらず。斎藤義龍もまた、美濃に生まれた蝮なのである。

だが、そんな蝮でも読み取れないことというのがある。織田信奈という人物は、彼にも読み取れなかったのだ。

 

「織田本隊着陣……! 安藤殿、稲葉殿、氏家殿ともにご謀反! 墨俣城を本陣に、我が軍を駆逐しております!」

 

 その知らせに義龍は戦慄した。斎藤道三が、どうして織田の姫を選んだのかが分かった気がした。

 まさか読まれているなどとは思わなかったのだ。

 

「墨俣城を守るように織田軍が布陣! 先陣は柴田隊と明智隊! 墨俣城には、その他相良・丹羽の旗と織田本隊がいる模様です!」

 

 義龍にも子飼いにしている忍衆がいる。その忍びが持ち込んできたそれは、あまりにも衝撃的だった。墨俣築城は囮というのが、普通の考えである。勿論、墨俣を前線の砦として設置しようという意図はあるだろうが、それを全軍で守るなどという大博打、当然とるはずがないと思っていた。

 稲葉山城をほぼ空同然にして、墨俣を落とそうとしに来ることを読まれていなければありえない布陣だった。

 明らかな野戦陣。墨俣の一夜城のそれも、野戦に備えられての砦であった。斎藤家は打って出て来る、それを誰かに読まれたということなのだろう。

 斎藤義龍はこのとき初めて戦慄した。まるで、自分が織田に大敗するように動いていることを、誰かに見透かされているようで。

 

「儂をも手玉におくというのか。今孔明竹中半兵衛か、それとも蝮……親父殿なのか。あるいは相良良晴か。織田信奈本人であったとしても、その配下であったとしても……恐ろしいことにほかならぬわ」

 

 これが、自分の人生ではおそらく最後の戦となる。最後の最後の戦の相手が、これだけの知恵者であったことは大変喜ばしいことだ。

 出来れば織田の誇る勇将、柴田勝家と一騎打ちをしてみたいところではあったものの、自分の一時の感情の所為でこの舞台を台無しにするわけにはいかないのだ。

 

「全軍に通達せい! 無理に野戦で対応する必要はない……稲葉山は天然の要塞じゃ、籠城しておれば直ぐに織田も引き返そうぞ」

 

 ここまで舞台が整っていれば、残りは彼の筋書き通りになるのも時間の問題だった。不自然にならないように、彼は稲葉山へと舞台を引かせていく。

 龍興が牢屋に入れられている間に稲葉山城が落ちれば、自分の娘は戦争の責任を取られなくて済む。少なくとも、野戦で自分が戦死をするか虜囚になったとすれば、斎藤龍興という少女は、自分の思いとは裏腹にも織田に敵対することになるだろう。

 義龍は、自分の娘に美濃を継がせたかったのだ。織田の保護下に入ってしまえば、斎藤家という戦国大名としての名は消えてしまうものの、娘はそこにこだわりはしないだろう。

 ただ自分の愛していた美濃の民の幸せのみ確立出来るのであればそれで満足行くような子だ。仮に織田に下ったとしても、それで腐るような娘ではないと自負していた。

 だからこそ義龍は、親の言葉に従おうとしたのだ。斎藤道三のしたためた「美濃譲り状」に従おうと。

 

「今川が動けば織田は引くはずじゃ! それまでの辛抱ぞ!」

 

 心にもないことを言っていると、自分自身を義龍は嘲笑した。

そして、確信してしまった。この腹芸は、正しく親から受け継いだものなのではないか、と。

蛙の子が蛙であるように、蝮の親は蝮なのである。

 

 

「浅井殿は、まだ稲葉山城を訪れないのか。このままでは、織田と義龍めの戦も、決着がついてしまうではないか」

 

 稲葉山城の一角では、斎藤飛騨守が愚痴をこぼしていた。斎藤龍興の入っている座敷牢の鍵を持っている彼は、戦場にいても邪魔になるだけだという理由で稲葉山の留守を任されていた。

 そもそも稲葉山城には、斎藤飛騨守以外にも二人の武将がいる。

 一人は不破光治、もう一人が竹腰尚光であり、どちらも龍興おつきの将であった。この二人、有事の際には何にもまして斎藤龍興を守るという指名を持っている。そのため、斎藤飛騨守が何かをしようものならば、すぐに葬ることができるように準備をしていたりする。

 そして、実際に今がその有事のときなのである。斎藤飛騨守は、浅井長政と内通している。光治が隠れている間に見つけ出した、重要な情報であった。

 

「これで儂も一国一城の主……楽しみよのう」

 

 しかしてこの斎藤飛騨守、この乱世で生き残るには余りにも自分に素直であった。元々斎藤家に仕えていた彼ではあるものの、魂胆がすぐに滲みでてくるためか奸臣として扱われていたのだ。それ故、一国一城の主はおろか、まともな仕事にすらありつけない始末であった。

 道三の時代には当然のことながら政務の中心から離されていた彼であったが、義龍の代になると境遇が一変した。義龍は彼をも起用したのである。

 当然義龍には別の思惑があるものの、彼はこういった化かし合いがあまり得意ではなかった。美濃に巣食いし害悪どもを、自分の代で一気に駆逐しようという思惑など、見通すことすらも出来なかったのだ。

 更には、彼には戦の才能もなければ武の才能もない。あるのは、言ってしまえば人に取り入る才能くらいである。そんな彼は、自分が鍵をすられていることにもまた、気づいてはいなかった。誰かが自分の部屋を監視しているなどと、到底思っていなかったのだ。

 それも当然のことであった。不破光治は忍びであり、その気配をただの人間が察知するなど無理な話だからである。稲葉山の留守をあずかっている自分の部屋に、許しもなく誰かが近寄るはずもない、などと、お気楽な彼の頭は弾きだしてしまったのである。

 

「……飛騨守、半兵衛を虐めていたことも許しがたいところでしたが……よもや浅井とつながっているとは」

「な、誰じゃ! 儂はこの稲葉山を義龍様より預かったのじゃぞ! 伺いもなく人の部屋に来るなどと……」

 

 突然扉の先から響いた声に、斎藤飛騨守は戦慄した。自分が浅井長政とつながっていることを、知られるわけにはいかなかったのだ。扉の先にいる人間が誰かは分からなかったものの、相手はどうやら小娘のようだと強気に出ていた。

 だが、次の言葉を聞くとみるみる飛騨守の顔色が変化していく。飛騨守が相手にしようとしている相手はそこいらの侍女であったり、自分より下の立場の将官であると思っていたのだが、予想を大きく裏切られることになったからである。

 

「自分の仕えている主君でしょう? その娘の声くらい覚えておいていただきたかったのですけれど」

 

 開かれた扉の先にいたのは、本来であれば座敷牢の中に囚われているはずの存在だったのだ。自身が現在仕えている斎藤義龍の娘、斎藤龍興がそこにいた。

 その後ろには自身の配下である光治と尚光を伴っての登場である。その手には刀が持たれており、自分を討とうとしていることなど、いかなる凡愚であっても即座に理解できる場面だ。

 

「こ、この儂を討とうと言うのか……! 儂は義龍様より稲葉山城の留守を……」

 

 飛騨守がそのように弁明をするものの、龍興は当然聞く耳を持たなかった。何よりも、以前から自身の親友を事あるごとに虐めていた相手に対して、今更情けをかける必要も無いというのが龍興の正直な心情である。

 そして何より、私欲にまみれた理由だけで主君を裏切ろうなどという魂胆が龍興には気に入らなかった。飛騨守が美濃を有する領主になったところで、彼女が愛する美濃の民はより困窮するだけに過ぎないのだ。

 美濃は浅井に、そして飛騨守に食いつぶされるべき領土などでは決して無い。思いの方向性の違いは多々あれど、美濃を守り発展させてきた斎藤一族が背負っていくべきものなのだ。

 

「この地は、美濃は私達の土地です! ご自分の欲望に忠実なのは結構ですけれども、この美濃は……あなたのような人に食いつぶされるためにあるわけではない!」

「おのれ、貴様自身も義龍めを裏切った立場で何を言うか! ええい、もう主君の娘だのなんだのというのは知らん! 儂は浅井につくぞ!」

 

 龍興を言い負かしたり、あるいは自分の利益になるように引き込めないかと考えていた飛騨守であったが、斎藤龍興の意思は固かった。思えば、憎き斎藤道三も同じように意思の固い人物であった。

 どのような甘言にも惑わされず、商業を発展させる政策ばかりをやってきたものだと。思うように動かせる斎藤義龍ならともかく、動かせない斎藤龍興などここで斬ってしまえばいいのだと考えたのだ。斎藤道三をやることは出来なかったものの、小娘ひとりごとき殺めることくらい容易いことであると。

 

「この儂を敵に回したことを後悔するが……」

「この私を本気で怒らせたことを後悔するのですね。斎藤……飛騨守っ!」

 

 刀を手にしようとした瞬間、龍興の振るった一閃が飛騨守の首をはね上げた。綺麗な放物線を描いて地面にごとり、と首が落ちる。

 その一部始終を無表情で龍興は見届けると、背後に控える光治と尚光に声をかけた。

 

「奸臣、斎藤飛騨守は討ちました。これより美濃は、前国主斎藤道三に返すと……宣言を」

「しかし、義龍様はどうされる予定なのですか?」

 

 以前とは見違えるように凛々しく佇んでいた龍興には、どこか王としての風貌が見え始めていた。斎藤飛騨守という奸臣を打ち倒し、美濃を守りぬいたという自信が、彼女の中で渦巻いていたのだ。

 斎藤龍興はもう、何も知らない小鳥にあらず。彼女もまた、蝮として戦国の世に歩みだそうとしていたのだ。

 

「お父様の意向は既に読めました。あの人は……素直ではありませんから」

「では……」

「稲葉山城はこれより、織田家に下ります。斎藤家としての誇りを持つものは、一兵たりとも城に入れないように」

 

 彼女が起こした二度目のクーデターは、しかして失敗はしなかった。稲葉山城に残された守兵は、斎藤龍興の言葉を聞くや否や即座に行動を起こした。

 稲葉山城の城門を閉ざし、返ってくるであろう斎藤義龍の兵を迎え入れないように。

 自分が斎藤義龍から家督を奪い取り、その家督を斎藤道三に返す。素直ではない父親の代わりに自分ができることといえばそれだけだというのが彼女の考えであったのだ。

 

「……お父様も守ろうとしていたこの美濃。美濃のためであれば……我ら斎藤一族は修羅にもなれるのですね」

 

 それは彼女が身をもってして分かったことだった。誰しもが美濃のために身を犠牲にしているのだ。長良川の戦いで斎藤道三が。そして、今回の稲葉山騒動で斎藤義龍が。

 もしもこれが原因で自分の夢をあきらめなければならなくなったとしても、美濃が無事であればそれでいい。美濃というのは、斎藤一族をつなぐ最も大事な要素だったのだ。

 美濃の女蝮が、今ここに誕生したのである。

 




それでは、次回で美濃の動乱については終了になります。

美濃の一件が収まると、龍興も戦国に生きるものの一員としてあれこれ活躍してくれるはずです。
それでは、次回の新生織田家をお楽しみに…待っていただけると幸いです。


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