【完結】神人創造 ~無限螺旋のセカンドスタート~ (鉄鎖亡者)
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第一章
プロローグ


小説家になろうとのマルチ投稿です。

今度はオリジナルでやっていきます。
よろしくお願いします!
 
 
 
No.va様、grashis様、誤字報告ありがとうございます!



 

 始まりは、唐突だった。

 発端の外側にいた自分に、その事を解明しようとするのは不可能に近い。

 だが俺は――私は、ただ一つのものを目指して生きてきた。

 放り出された状況に、混乱し、激怒し、恐怖し……。

 それでも必死に駆けていた。

 いつか故郷に帰る、その日を掴み取る瞬間を想いながら。

 

 

   ◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 世界の中心とも呼ばれるデイアート大陸。その果てにある山脈の奥深く、とあるドワーフ遺跡の最奥に一つのパーティが辿り着いた。

 女性ばかりの四人パーティにあって、その中心に立つ者の名はミレイユ。

 彼女は小さいのか大きいのかも分からない、自分でも持て余す感慨を持って立っていた。

 

 目の前にあるのは見上げる程の巨大な機構、ドワーフの遺産がある。

 この機構に名前はない。かつてはあったのだろうが、長い年月の間に失われてしまった。今ではただ遺物とのみ呼ばれる、ドワーフの遺産だった。

 

 見かけからは用途の想像もつかない機械仕掛けの巨大建造物。大小の歯車が複雑に噛み合い、ガコンガコンと音を鳴らしては回転し、時折蒸気がその天辺から吹き出していた。

 

 この遺物が何なのか、何のために存在するのか、それを知る者は非常に少ない。

 この世界にあって、それを正確に知っているのは神々のみ。

 十二の大神と六の小神がそれに当たる。

 ミレイユとて、その神々によって教え導かれ、そうしてここまでやって来た。

 とはいえ、この世を他の誰より理解しているミレイユである。誰に教えられるでもなく、どうすればよいのか、それをよく知っていた。

 

 どのような機能を持ち、どのような事ができるのか、それも分かっている。

 神々が造った神器を動力源に、あらゆる願いを実現する。それがこの『遺物』の機能だった。

 

 今となってはドワーフも、かつてこの世に栄えていた痕跡を残すのみで、その生き残りは確認されていない。神々を怒らせた故に滅亡したとも言われるが、その実ドワーフは『遺物』を使ってこの世を去り、別世界に旅立ったとされる。

 旅立った理由自体は依然謎のままだが、それこそ神々を怒らせた事が理由であるのかもしれない。

 

 何にせよ、重要なのはミレイユの目の前にある『遺物』で、そしてようやく願いが叶うという事だ。

 ミレイユは懐から――正確には空間拡張魔法によって――取り出された神器を手に持つ。

 その神器に反応して、『遺物』に大きな動きが始まった。

 

 大きく一度蒸気を噴き出したかと思うと、目の前の機構がパズルのように上下へスライドし、トレイのような受け皿が迫り出す。

 受け皿の数は全部で五つ。

 叶えられる願いは神器の数によって変わってくるから、最も大きな願いを叶えたければ相応の苦労を要求されるという事になる。

 

 ミレイユは自分の持つ願いが、どれほどの対価を要求するものなのかまでは分からなかった。

 そもそも叶えられる願いなのかも不明で、だから必要となる最大数、五つの神器を用意してきた。

 ミレイユにとっても、これは賭けだ。

 叶う筈だという想いと、無理かもしれないという想いが綯い交ぜになる。

 

 ――それでも。

 諦めるには早すぎた。どうせ無理だと分かるまで、その挑戦を捨て去らない程度には諦めが悪かった。

 そうして遂には、神の試練を乗り越える事で手に入る神器を、五つも手にするに至った。

 

 ミレイユは意を決して前に出る。

 受け皿に一つ一つに対し、丁寧に神器を置いていく。置いた順に、受け皿は元あった位置へと戻り、順次蒸気を噴き出しながら機構の中へと神器を受け入れていく。

 全ての神器をその中に取り込んだ『遺物』は、殊更大きな蒸気を噴き出し、甲高い音を立てながらその機構を左右に割る。

 

 中から出てきたのは不思議な球体だった。

 ほのかに青い光を発しながら、支えもなく空中に浮かんでいる。

 その球体はゆっくりと横回転しながら、こちらを伺うように明滅していた。

 まるで、その内に取り込んだ力を開放する瞬間を、今か今かと待ち望んでいるかのように。

 

 ミレイユは、それが己の勘違いではないと悟る。

 この『遺物』は今まさに、その機能を発揮しようとしている。

 ミレイユは背後で静かに控えていた、ここまで苦楽を共にしてきた三人へと振り返った。

 

 

 

 最初に視界に入ったのは、最も付き合いの長い戦士で、その名をアヴェリンという。

 金色の長髪も、ここへ辿り着くまでの奮戦で乱れに乱れた。無造作に撫で付けただけの髪型は武人気質の彼女にしては手入れをしている方だ。

 鋭く意思を感じる目つきは、今は幾らかの緊張が見て取れる。

 左目の泣き黒子は、ミレイユにとっても好ましい彼女の特徴だ。

 

 その左隣に三歩の間を置いて立っているのが、二番目に出会ったエルフの魔術師ルチア。

 十代半ばという幼い見た目をした少女だが、実年齢は百を超える。

 白に近い銀髪はエルフの中でも特に氷術に長けた一族の証で、一様にフロストエルフと呼ばれる。

 

 最も後ろで控えていたのがユミル。

 黒髪を片側でサイドテールにしているのが特徴で、白い肌に赤い瞳をしている。

 魔法も剣も両方使える軽戦士であり、ミレイユの錬金術の師匠でもある。

 

 三人の顔を順繰りに見つめてから、ミレイユはようやく口を開いた。

 

「……今まで、ご苦労だった」

「何なの、その台詞。まるで別れの挨拶みたいじゃない」

 

 咄嗟に言葉を返したのはユミルだった。呆れたような口調だが、どこか責める調子もある。

 ミレイユは気まずげに頷いた。

 

「まさしく、そのとおり。今まで話せず済まなかったが……、私は今日この瞬間の為に戦ってきた」

 

「ミレイ様、ですが、あまりに突然のことで……。それに、何故?」

 

 重ねて問うて来たのはアヴェリンで、その表情は困惑に染まっている。

 最も長く共に戦い、最も親密と言っていい相手だから、一層気まずい思いがミレイユの胸を締め付ける。

 理由の説明も、事前の周知も、ここまで共に潜り抜けてきた仲なら当然だろう。それをしなかったのは単に言う勇気が持てなかったからだ。

 言えば引き止められるのは当然で、そしてそうなった時、言い含められるだけの言葉を出せる気がしなかった。

 

「薄情なことは百も承知だ。だが私は元来、口下手だ。上手いことを言えそうになかったからな……」

「それとこれとは全く別の問題だと思いますけど……」

 

 困ったような顔で返したのはルチアだった。

 これには全くの同意で、説明の放棄は彼女たちの信頼への裏切りとも言える。それに言ったところで反発があるという予測が、ミレイユの口を重くさせたのは事実だ。

 それでも言う機会が幾らでもあった以上、彼女はそれを言うべきだったのだ。

 

「うん……、だから邸に残した財産は三人に残す。後のことも、好きにしろ」

「あ、ちょっと……!」

 

 言うだけ言って、ミレイユは踵を返す。

 明滅を激しくさせていく球体へ手を伸ばし、手短に願いを言う。

 

「私を元いた世界へ、私の故郷に帰してくれ!」

 

 言い終えた瞬間、球体は眩い光を放つ。

 収縮されたエネルギーが音を立てて弾け、ミレイユを飲み込んでいく。

 

 アヴェリンは咄嗟に手を伸ばす。

 連れて行かせはしないと、別れがあるにしてもこのような別れは認めないと。

 その姿が光に飲み込まれ掻き消える直前、背を向けていたミレイユが振り返った。

 

「ありがとう。勝手で悪かった……」

 

 感謝と謝罪、二つの言葉が別れの言葉だった。

 アヴェリンは顔を歪め、歯を食いしばって更に手を伸ばす。しかし、その手はミレイユを掴むことはなく空振って、そして掴みたい手の感触がないまま姿を消す。

 

 後には蒸気を吹き出す機構と、役目を終えて光を消す球体が残る。

 アヴェリンは絶望にも似た表情で動きを止め、後の二人も前に踏み出そうとしていた動きのまま止まっている。

 一息の間の後、誰かから食いしばった歯の間から息を吐き出す音が聞こえた。

 

 誰一人動きを見せないまま、球体が再び明滅を始めるのを、ただ黙って見つめていた。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 ミレイユと名乗っていた女性、その人物の本名は、御影豊といった。

 他人に自慢できるものを持たない、特別な取り柄もない凡人だった。

 特に目立った成績を残した訳でもなく、特にスポーツや武道に触れることもなく、流されるままに受験を経て大学を卒業し、身の丈にあった職場に就職し、そして未婚のまま三十歳も半ばを過ぎた。

 

 趣味と言えるものは、ゲームをプレイする事ぐらい。

 未来に希望を持たず、だから現状を変えようとするほど不満もなく、日々を惰性で生きていた。

 その日も時間潰し程度の認識で、休日にゲームを遊んでいた。

 

 切っ掛けは単によく広告で目にしたから、というありきたりなものだった。気まぐれにプレイしてみて、そして見事にハマった。

 そのタイトルを神人創造(ゴッドバース)という。

 アクションRPGとして高い自由度を誇るそのゲームは、遊ぶ度に新しい発見がある作り込みと、細部に渡って練り込まれた設定も相まって、夢中になれる要素に満ちていた。

 

 自身のキャラクターは勿論、仲間キャラにも痒い所に手が届くカスタマイズ性があり、不満点が逆にその豊富さだと言えるほど多岐に渡る。

 自身に覚えさせるスキルに制限はなく、戦士系であろうと魔術師系であろうと好きに習得させていくことができる。ただし、そうして作っていけば自然と器用貧乏となって強いキャラクターにはならないので工夫が必要だった。

 

 その工夫の一つが神器というアイテムを使ったパワーアップで、スキル上限の突破など、最終的にはどのスキルも最大値まで上昇させることができた。やりようによっては、あらゆるスキルを高レベルで習得することも可能。

 そうして満足いくまでキャラクターを作り込み、幾つものシナリオ、サブクエをクリアしていった。そしてとうとう、やることもなくなったと思ってエンディングを迎えた後、スタッフロールを見ていた時、御影豊は意識を失ったのだ。

 

 そして気づけば見知らぬ土地。

 見知らぬ――しかし確実に見覚えのある、あのゲームの世界に降り立った。

 

 ――まるでゲームの世界みたいだ。

 

 それが最初に思った感想だった。

 実際、自分に見えているのは夢の産物だと思っていたし、それだけハマっていたんだな、と楽観的に考えていた。

 

 それでも次第に気付くことになる。

 草の匂いや土を踏む感触、肌を撫で髪を乱す風、どこか遠くから聞こえる鳥の鳴き声や虫の声に。

 非現実的な現象を、現実的に目の当たりにしている。

 

 混乱の極みにあって、座り込み、土を掻いて草を引き千切り、そして頭を掻き毟ってハタと気づいた。

 

 ――これは自分の腕じゃない。

 

 よく見ればその手も、爪先も、手の平までも、自分のよく知るものと違っていた。

 明らかに女性的な手をしていたし、大きさも一回り小さくなっているように見えた。慌てて腹の方へ視線を下げれば、明らかに自分にはない筈の双丘に視界が遮られていた。

 視線を左右へ巡らせて小川を見つけ、自分の顔を確認してみれば――。

 そこには自分がゲームで造ったキャラクターの顔が写っていた。

 

 小川に顔を浸せば冷たい感触、次第に苦しくなる呼吸。顔を上げて滴る水を茫然と見据えながら息を整え、そこでようやく理解した。

 ここに至って、もはや夢が覚めれば全て元通りなどと思っていられない。

 あるいは死ねば帰れるのかもしれないが、そのまま死んでしまうリスクを考えれば、とりあえず自殺してみようなどと考えられる訳もない。

 何よりゲームではないのだ。

 とりあえず試そう、で死んでみるほど向こう見ずでもなかった。

 

 

 

 最初は助けを待ってみる事も考えた。

 いや、単に動く事が怖かったのか。何が起こるか分からない、何かが起こったとして、それにどう対処すればいい。

 そういう思いが二の足を踏ませ、現状から動き出そうとする意思を挫いていた。

 

 誰でもいいから何とかしてくれ。

 そういう思いが頭の内を占め、無意味にその場へと体を縫い付けていた。

 日が傾き、遠くに雲が流れていくのを見ながら、不意に思いついた事がある。

 

 もしも、ここがゲームの世界ならば。本当にゲームの世界に入ったのならば、そこにはきっと数々のアイテムがある。武器があり、防具があり、ポーションがあり――。

 そして村があり、町があり、国があるだろう。

 洞窟もあれば要塞もあり、そして遺跡もあるに違いない。

 

 エンディングに至るまでのストーリーラインがあるかはともかく、物語として最後に辿り着く場所には『遺物』がある。あらゆる願いを叶える、ドワーフの遺産が。

 

 気持ちが少し上向くのを感じた。

 

 ゲームをやり込んだ自分ならば、そこに辿り着く最短ルートを知っている。

 簡単な事ではないのは確かだが、雲を掴むような話でもない筈だ。もしも、の前提からして違っていればどうしようもないが、しかし希望と呼べるものはそれしかない。

 

 御影豊にとって、ゲームの世界で遊びたい、その世界の住人になりたい、というのは空想するだけで十分だった。育った文化と大きく違う生活は、多大なストレスをかけることを知っていた。

 

 いずれにしても――。

 

 覚悟を決めねばならないだろう。

 多くの時間を無駄にした。日の傾き具合からして、後三時間もせずに日が落ちる。

 それまでに野営の準備をするか、せめて風雨を凌げる屋根のある場所を探さねばならない。町がある場所については、現在地が何となく分かるお陰で当たりもつく。

 急いだほうがいいな、と気持ちを新たに、御影豊は立ち上がった。

 

 

 

 結果として、その決断は功を奏した。

 目的の町を見つける事はできたし、町の構造も宿の場所も、町の為政者が誰なのかも、御影豊がプレイしたゲームの内容と変わりない。

 ただし全てが同じという訳でもなかった。商品の品揃えが違う、いるべきNPCがいない、誰もが排他的で会話ができない、など。

 そもNPCではなく生きた人間なのだ。出会ったばかりの人間に、友好的な者ばかりではない。

 

 細かな部分を上げればキリがないが、それでも行動指針の助けになったのは確かだ。

 予想されうる危険や、自分が出来る、出来うる行動は明らかにゲームで身に付けた知識が通用する。それが分かってから、行動は少しずつ大胆になっていった。

 

 どういうNPCが頼りになるか知っていたし、パーティに加える人選も迷いはなかった。

 本来なら信用できるか、力量は十分か、自分達と噛み合う戦力であるか、考えるべき事柄は多くある。しかし、それらを全て飛ばして最適解を選べる。

 

 冒険者としてこの世界を旅するなら、どうしたらいいかなど少し考えれば、すぐにでも分かることだった。他の面々からすれば、頼りに感じると共に不気味にすら思えたかもしれない。

 決断が異常に早く、考えなしに見えて、しかし結果は上々。

 パーティとしての齟齬が生まれても、気にする程のことでもなかった。

 そもそも長居する世界でもない、今だけ上手く回ればいい、楽観とも諦観とも取れる考えで行動していた。

 

 それが良くなかったのか、本来は最短ルートで『遺物』へと辿り着く筈だったものが大幅に逸れ、世界を三度も救うことになった。

 世界を焼き尽くそうとする竜、全ての生物を闇の中に閉じ込めようとする魔族、人類支配を利己目的で目論む堕ちた小神。

 また、世界を救うというほど大規模なものでなくとも、迫害されて数を減らすばかりだった人種を救い一地方を平和に導いた。

 

 いずれも必要ないのに、出来るから、という理由で駆り出され、そして本当にやり遂げてしまうのだから質が悪かったのかもしれない。

 誰もが頼みにするし、誰もがそれを望む。

 

 尚も追い縋ろうとする者たちを無視し、神の試練を超えて神器を手に入れ、そうしてようやくドワーフの遺産へと辿り着いたのだ。

 

 ゲームにおいて、『遺物』とは最後のお楽しみ要素として存在する。

 前提条件を満たしていれば選択肢が提示され、そこから神器の数に応じて種類が変動する。

 

 選択肢の内容は様々で、大量の金貨を手に入れる、最強の武器を手に入れる、などがある。大抵の場合、クリア出来る前提の状態にあるので、蛇足に近いオマケで多くは魅力を感じない。

 

 では一番の要素として何があるのかというと、それはここでエンディングを迎えられるという点にある。ゲームの内容自体においても、シナリオクリアがゲームクリアではない。

 この『遺物』を使って最大数の神器を捧げた上で『神となる』を選ぶことで、初めてエンディングを迎えられ、スタッフロールが流れる事になる。

 

 御影豊の目的はまさにこの、願いが叶える『遺物』だったのだが、旅の間に考えていたことがあった。

 それは、願いを叶えるシステムの様式が、選択肢形式なのか言葉にした内容を実現する物なのか、という問題だった。

 今までゲーム世界で過ごして来た中で、選択肢など登場したことはない。会話は生きた人間と行うものなので、そんなものが出る筈もない。

 ならば、『遺物』もまた、選択肢ではなく言葉を発して願いを言うのではないか。

 しかし、ゲームシステムの外に降り立っている今、それが真実帰れる手段になるか保障はない。願いなど叶わず、あるいは叶えられる願いには限りがあるのかもしれない。

 

 ならば、ここでゲームのとおりに『神になる』を選んだとしたら、どうなるというのだろう。それでエンディングになったのなら、こちらでは自分の世界に帰れる、というのは無理筋な気がする。

 

 あらゆる願いを叶える、というのがどの程度までのことを実現させるのか、それは定かではない。しかし、もはやそれに賭けてみるしかなかった。

 

 そして結果的に、ゲームにあった選択肢を口にするのではなく、新たに自らの望みを口にしたのは正解だった。

 御影豊は無事、望みを望みのまま叶える事ができたし、元の世界にも帰る事ができた。

 

 だが、それを歓迎しない者たちがいるなぞ知る由もなかった。

 それを天高くから見守っていた存在が臍を噛む思いをしていたことも、残された者たちが何を思っていたのかも。

 

 

 

 望みのものが目の前で、唐突に失われたとなれば、それは一体どう思うだろう。

 諦めと共に捨て去るのか、それとも執念と共に、今再び取り戻そうと手を伸ばすのか。

 御影豊が諦念と共に流されるのを由としなかったように、最後まで帰る事を諦めなかったように、目の前で零れ落ちたものを取り戻そうと足掻くものは、確かに他にもいた。

 

 



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帰郷 その1

 腹の底から力づくで引っ張られるような不快感が消えた時、そこは既にドワーフ遺跡ではなかった。目を開けば安物の白い壁紙と狭い部屋、窓から差し込む日差しが見える。

 帰ってきたのだ、と思うのと同時、予想に反した光景が目の前に広がっていた。

 

 想像していたのは、かつて自分が住んでいた部屋だった。

 家具もロクに備えていない、2DKの安アパートが自分の部屋の実情だったが、今そこにあるものは随分違う。

 

 膝の丈より小さかった冷蔵庫はツードアの立派な冷蔵庫になっていたし、そこから視線を横に移せばお洒落な棚。そこには用途は分からないが見栄えのするインテリアが置いてある。

 板張りのフローリングにはラグマットが敷かれ、二人がけの白いソファが窓辺を背にし、その前にはガラステーブルが適度な距離を離して設置されていた。

 更に視線を移せば細々と生活の後を感じさせ、ダイニングから見える他の二部屋にも若い活気が溢れていた。

 

 自分の記憶にある間取りと一致する部屋と、全く記憶にない家具。

 ここは確かに現代日本だと理解できるのと同時に、全く記憶に合致しない部屋が目の前にあった。

 それらを認識して、ようやく思い至る。

 

 ――ここは自分が知るより三年後の世界なのでは?

 

 恐らく、帰ってきたこの場所は、かつて自分が過ごした部屋に違いない。

 しかし、あちらの世界で三年過ごしたのなら、こちらの世界でも三年経過していると考えるのが道理。

 あの時、願いを叶える際に、その事を加味して言わなかったのであれば、都合よく解釈して自分が消えた直後の時間に帰してくれる筈もない。

 

「あぁ、くそっ……」

 

 思わず口汚く呻きが漏れる。

 今すぐ願いが叶うという餌をぶら下げられて、気が急いたのも確かにある。

 仲間たちに何一つ相談せず、逃げるように行った最後の別れが気まずかったのは確かだ。

 だからこそだろう、簡潔に必要最低限の言葉で願いを言ってしまったのは。

 

 あれは一種の契約だ。

 自分と機構との間で取り交わす、絶対行使の契約。

 

 あちらの世界では紙面契約など稀なことで、文言を口にしなければ騙されて当然という摂理の中で生きてきた。それは長い旅の間に、よく学んだ筈だった。

 大事な部分はハッキリと、契約は細かい部分こそが肝心――。

 

 強い頭痛を感じて、額に手を当て重い溜め息を吐いた時だった。

 その視界に飛び込んで来たものに、吐き出していた息が急遽止まる。

 

 ――鈍色に染まる銀のガントレット。

 

 使い古され、かつての色が薄汚れて失われてしまったそれは、あちらの世界にいた頃なら違和感はなかっただろう。しかし、この現代日本においては齟齬しか感じない。

 全身を確認しようと慌てて視線を下に向け、そうして腕を中途半端な高さで広げて固まる。

 そこにあったのは、あのドワーフ遺跡を最後にした時のまま、変わっていない姿だった。

 

「う、ぐぅぅ……!」

 

 今度は重い呻き声が口から溢れた。

 ――ミレイユだ。

 ミレイユの姿のまま、変わらぬ装備姿のままで、この場に立っている。

 

「なんでだよ!」

 

 荒々しく声を出したのは、あくまで身に付けた装備だけで肉体はミレイユではないと期待したからだ。

 だが口から出てきた声は女性のもの、聞き慣れた――この三年間で聞き慣れてしまった声が確かに発せられていた。

 

 それでも一縷の希望を持って、部屋の中から鏡を探す。

 幸い、それは畳の一室から姿見として発見でき、そしてだからこそ勘違いや見間違いをさせない現実を突きつけてきた。

 

 全体的な色合いは藍色で、頭には先端の折れた魔女帽子。

 両手には肘までを覆う銀のガントレットに、足には同色のグリーブ。胸にもブレストプレートがあるが腹まで覆わない局所的なもので、それ以外の部分に金属部分は存在せず、帽子から分かるように魔女的な服飾を身に着けていた。

 ガントレットの上から覆う、肩を露出させた姫袖。膝下まで伸びるスカートは両サイドにスリットが深く入れられて、太腿が露出している。

 

 大枠では魔術師らしい格好だが、その上から無理に戦士の防具を身に着けたようなチグハグな差を感じる装備だった。あまりにも合理性から掛け離れた装備だが、このような格好をしているのには勿論理由がはあった。

 

 だが今は、それより――。

 今の今まで違和感すらなかった帽子に手を向ける。

 姿見に写るミレイユもまた同じ動きで帽子のつばに指先を当て、そしていつもの癖でそうしているようにつばの側面を撫でた。

 

「そんな事になるか……?」

 

 口から出たのは理解したくない現実を疑問視する言葉だったが、同時に諦観でもあった。

 そう、何一つ細かい要望は口にしなかった。

 そこに過失はあったかもしれない。ただこの世界に帰還する事、それしか口にしなかったが、だからといってゲームのキャラクターのまま帰還するなど想像できない筈だ。

 

 あくまで認識として、ゲーム世界に入るまで御影豊として生きてきた。

 ゲーム世界に入った時、自分の作成したキャラクターになってしまった事は譲ることも出来る。だが帰ってきたのなら元に戻ると、戻って然るべきだと思う筈だ。

 

「魂が乗り移ったようなもので、だから帰ってくるなら体に――」

 

 そこまで考えて思う。

 もしも魂が抜け出てキャラクターに乗り移ったとでもいうのなら、帰ってくるべき御影豊の肉体はどこにあるのだろうか。

 

 まだ確たる事は分からないし、確認もしなければならない事ではある。

 だがもし、自室でゲームをクリアした瞬間から――魂が抜けてから三年の月日が経っているとしたら、その肉体はどうなった。

 

 肉体は放置されていた筈だ。一人暮らし、密接にやりとりする友人もいない。

 無断欠勤が続く社員に会社は連絡を取るだろうが、電話に出ない同僚に対し、果たして積極的に自宅までやってきて安否を確認するだろうか。

 振り返ってみれば、努めていた会社は多くの部分が適当で、当日突然の欠勤に対し理由も確認を取らないような体制だった。

 

 だったら、魂の抜けた肉体は、一体どうなったろうか。

 そのまま植物状態になっていれば御の字で、魂が抜けたというなら、その場で死んでいたとしても可笑しくない。そして仮に息がある状態であったとしても、放置され続けたのだとすれば、三日と保たず死亡していただろう。

 

 帰るべき肉体を持たない魂がどうなるか、そんな事は理解の範疇の外だ。分かる筈もない。

 だが魂の宿るべき肉体がないのだから、このミレイユの肉体を持って帰還したというのなら、むしろ温情を与えられたと考えるべきかもしれない。

 

 帰還を望んだが故に、魂のまま現世を彷徨うなど笑い話にもならない。

 

「ハァ……」

 

 そこまで思考を捏ねくり回して、ミレイユはまたも溜め息を吐いた。

 何を考えても結局は妄想、空想の類。確証も、確認も取れない事に時間を割いて考えていても仕方がない。それより考えねばならないのは、今後のことだろう。

 

 何しろ、帰還を望めば、すぐに元の生活を再スタート出来ると考えていたのだ。

 浅はかにも、とミレイユは自嘲の笑みを浮かべ、もう一度溜息を吐いた。

 

 

 

「ああ、そうだ……」

 

 顔を上げて、一段と重くなった気がする身体の背に力を入れる。

 こんな事をしている場合ではなかった。

 この部屋は幸いにして無人だったが、いつ誰が帰ってきても不思議ではない。むしろ、この場に降り立った時点で住人と出くわしていた可能性の方が大きかったろう。

 それを思えば幸運だった。

 

「そうとも、何一つ恵まれない不運まみれというわけじゃない……」

 

 無理にでも何か一つ励まさなければ、やっていけない気がした。

 だが身一つであの世界に放り出された時の事を思えば、まだマシだ。襲ってくる獣や魔物、野盗の類に対して怯える心配はない。

 

 いや、と思い直す。

 今となってはむしろ襲ってくる相手はいた方が、都合がいいのかもしれない。

 やり方さえ知っていれば、金を稼ぐ手段に困らなかった。獣からは毛皮や肉が取れたし、魔物からは錬金素材、野盗ならば身包み剥いで金に換えられた。場合によって報奨金も得られる可能性がある。

 

 そう思って我知らず、癖になっていた全身に魔力を巡らす制御行為をして、何の問題もなく行使できる事に気がついた。

 

「なに……?」

 

 この世には魔法もなければ魔力もない。

 それが常識で、あくまで在るとされる、という類のもので目に出来るものでもなかった。

 黒魔術や儀式など、実際に体系立てて本になっている物もあるが、本気で信じれば狂人の誹りは免れない。魔法とはマジックショーで見られる娯楽として受け取るぐらいで丁度よい。

 世間の認識としては、そんなところだ。

 

 ミレイユは制御を続けて右手に炎を灯す。

 左手も続けて、別の制御に切り替えて手近にあったテーブルを浮かせた。

 

 何の束縛も重しもなく、あちらの世界で使っていた力を問題なく行使できる。

 それを確認して、ミレイユは制御を解いた。

 テーブルは静かに元の位置へ戻り、炎は小さく音を立てて掻き消える。

 

 これが良いことなのかどうか、今のミレイユに判断は出来ない。知られることで異端として排斥されるだろうか。かつての魔女狩りのように、石を持って遠ざけて火を持って浄化を願う。

 

「……ハッ」

 

 ミレイユは鼻で笑って悪い想像を頭から追い出す。

 幾ら何でも気持ちが後ろ向きに成りすぎている。

 魔法が使えるというのなら、便利に活用すればよいだけだ。姿形が同じだけの人間ではなく、ミレイユとして多くの武技と魔術を収めた能力は、何をするにも役立つ何かに変換して使える筈だ。

 

 そこまで考え、いよいよ部屋から退散しようとした足を踏み出す。

 だが唐突に横合いから掛けられた声に、思わず身を竦ませた。

 

「ミレイ様……!」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 顔を向ければ、そこに居たのは別れたばかりの――そして、ここにいる筈のないアヴェリンだった。その更に後ろには狭い部屋の中、興味深そうに辺りを見渡すルチアとユミルもいる。

 

「ど、どうして……お前たちが? 何故ここに?」

「好きにしろと言われたので、後を追いました」

 

 事も無げにアヴェリンは告げてきたが、理解不能の事態に、顔を顰めずにはいられなかった。

 

「そういう事じゃなく。いや、それもアレだが、何がどうすればそうなるんだ?」

「あらまぁ……。アレだの、どうだの、そうだのと。混乱の度合いが凄まじいわね。ひっくり返ったバスデスだって、もうちょっとマシでしょうに」

 

 その言い回しは逆に分かり辛い、そう言いたかったが、混乱の極致にあったミレイユに、そんな気の利いた言葉は出なかった。

 呆れるようでもあり、そのくせ喜ぶような調子でユミルは言ったが、そんな事はどうでも良かった。

 

 このアヴェリンたち三人は間違いなくゲーム世界の住人だ。ミレイユがゲーム世界に入ったり出てきたりするのも大概おかしいが、ともあれ元々が人間であるという前提があっての現象だろう。

 だというのに、アヴェリン達すらもこちら側へ来る事に違和感がある。

 だが、そうは言っても、目の前の事実が消える訳でもない。

 

「その褒め言葉のチョイス、わたし嫌いじゃないですよ」

「どう聞いても貶してるんでしょうが」

 

 満面の笑みを浮かべて言ったルチアに、半眼でユミルが返す。

 いつもの聞き慣れた漫才めいた会話に、もしかしたら幻覚でも見ているかもしれない、という期待は消え去った。

 だが、何故――。

 

「ああ、いや……。聞いたことに答えていないだろう。何故ここにいる? それともやはり、私が見ている夢という事でいいのか?」

「現実ですよ。私達は貴女同様、『遺物』を使って追ってきました」

 

 アヴェリンが答えて、身体の動きが止まる。

 あらゆる願いを叶える『遺物』、確かにそういう謳い文句ではあった。あらゆる過程を飛ばして結果だけを与える、あれはそういう機構だが、それにだって限度がある。

 

 ――限度。

 そう、願いを叶えるエネルギーには神器を用いなければならない。

 ミレイユの欲する世界を超える程の願いには、最大数の神器の用意が必須のように思われた。実際に必要になる個数など提示されないから、叶えられないという返答がない限りは、それでどうにかなる算段だった。

 

 ならばやはり、この三人が後を追える筈がない。

 一度の願いで一度の結果、ミレイユは間違いなく『私を』と指定した。ならばアヴェリン達が都合よく巻き込まれる事はない筈だし、仮にミレイユの身体を掴んでいたとしても同時に飛ぶ事はなかった筈だ。

 

「それはおかしい。神機のエネルギーは全て使われただろう? それでどうして、お前たちが来れる事になるんだ?」

「いえ、ミレイ様の願いで消費された神器は一つでした。残りが受け皿から返ってきましたので、同様の手順で貴女の後を追う旨を願いました」

「一つ……? たった一つで叶う程度の願いだったのか?」

「そのようです」

 

 こっくりと頷いたアヴェリンに、ミレイユは乾いた笑みがこぼれた。

 あの苦労は一体なんだったのか、と天を仰がずにはいられない。何しろ只一つ所持しているだけでも偉業と言われる神器である。手に入れるには神の承認が必要で、そして承認を得るには神の試練を乗り越えなければならない。

 神が与える試練だから、当然生半な覚悟でも実力でも突破できるものではなかった。

 

 そんな嘆きを他所に、ユミルが軽い調子で言葉を放てば、それに追従してルチアも笑う。

 

「ま、良かったじゃない。こうしてアタシ達も着いて来られたんだし」

「ですよね。ミレイさんが寂しさで枕を涙で濡らす必要もないですし」

「相変わらずの軽口に感謝するよ……」

「どういたしまして」

 

 ルチアの額をぺちりと叩けば、大袈裟に痛がる様子を無視してアヴェリンに向き直る。

 

「まぁ、理由は分かった。手段についてはな。だが、どうして追ってきた? 未知の世界だ、恐ろしくはなかったのか?」

「それを本気で訊いているのだとしたら、ミレイ様の見識を疑いますね」

 

 アヴェリンはつまらなそうに眉根を寄せてから、ユミル達に指を向ける。

 

「未知の世界など、恐れる我々だと思いますか。恐れるというなら、私は貴女のいない世界の方が余程恐ろしい。……それに、私には貴女を追うべき理由が他にもある」

 

 アヴェリンは一度言葉を切って、改めてミレイユに向き直る。

 次いで膝を折って片膝で立ち、右手を武器の柄に、左手を胸に当てて頭を垂れた。

 

「私は貴方様に忠誠を捧げた。何があろうと、誰が敵であろうと、共に側に立ち戦うと。貴女様の立つ場所が敵地へと変わろうと、――世界すら変わろうと、私が立つのは貴女の傍のみ」

 

 ミレイユは苦虫を噛んだように顔を顰めた。

 忠誠を捧げられる程、立派な人物ではないと自覚しているからの事だった。そして、その忠誠を不実な理由で利用し続けて来たという自覚があったからだった。

 

「本当の私は忠誠を捧げて貰えるような人間じゃないんだ。それを知りながら、私はお前を利用していた。必要だったから……。お前という戦力がいれば、必ず『遺物』に辿り着けると分かっていたから」

「ならばそれは、私は誇りを持って受け入れましょう。我が武威を頼みにして下さったなら、これに勝る喜びはありません」

「そうじゃない、そうじゃないんだ。私はお前を一振りの武器として見ていた。人格は二の次、人としての扱いも三の次。ただ目的を達せられるまでの関係、使い終われば捨てる。そのつもりで接していた。大した礼もなく、さっさとこちらの世界に帰ってきたのが、その証拠だ」

 

 アヴェリンは困ったような笑みを浮かべて顔を上げた。

 

「私がその武器として捧げようと思った事こそが重要なのです。貴女には確かに思惑があった。ですがそれは、私にとって大した事ではありません。何より貴女を近くで見続けた私が、貴女に付き従いたいと思った。一振りの武器として見ていたのだとしても、それで良いのです」

「だが……」

「見返りを求めて捧げるものは、真の忠誠とは呼べません。無論、下地となるものは必要でしょう。ですが、それすら乗り越えるような誇りを貴方様は与えて下さった」

 

 それでも尚、頭を振って否定しようとするミレイユを、ユミルが横から口を挟む。

 

「信用や信頼と同じよ。この子は忠誠とか大袈裟なこと言ってるけど、積み重ねてきたモノが常人とは違うってコト。そしてアンタは、その信頼を一度として裏切っては来なかった。それが全て」

「しかし……」

 

 それでも納得を見せないミレイユに、焦れたルチアから指摘が飛んだ。

 

「ここに私達がいる事こそ、証明になると思うんですよ。どうでもいいと思ってる人に、どこに行ったかも分からないけど、とりあえず着いて行こうとは思いませんよ。単なる旅の仲間程度の認識だったら、じゃあ次のパーティ探しますか、ってなります」

「それだけの下地をアンタは作ってきたってコト。何で分からないのかしらね?」

 

 ユミルは本当に疑問を感じているように、小首を傾げた。

 

「竜殺しを成しただの、神殺しをやってのけただの、そういう偉業を共に成したこともそうだけど。でも、そこはどうでもいいのよ。アンタはアタシ達を信頼しているでしょう?」

「それは、勿論……」

「へぇ、何故?」

「……上手く言えないが、まず……有能であったからだ。背中を任せるに足る人材だと思ったし、余計な気苦労もなかった。隣に置いて苦痛じゃなく、やるべき事が分かれば説明がなくとも動いてくれた」

「それだけ?」

 

 ユミルは不満げに鼻を鳴らした。

 内心の吐露は気恥ずかしい。今まで多くの会話を交えて来たが、こうした内面に踏み込むような話題はなかった。いや、避けて来ただけだったのだろう。

 それらしい会話があれば沈黙してしまうから、会話が続かなかっただけだ。そしてそれを察して話題をずらしてくれていた。

 

「道具のように扱っていた気持ちはあったが、同時に愛着も執着もあった。離れがたいとも思っていた。……好いていたのだと思う。重ねた時間の分だけ、大事に思えていた」

 

 それを聞いてルチアが満足気に頷く。

 

「じゃあ、なんでそれが私達からも向けられているって思わないんですか? 信頼っていうのは一方通行のものじゃないでしょう? 向けられれば、向けるのも簡単。だから、一方的に離れて行っても、こうして着いてきたんじゃないですか」

「うん……」

「二度と顔を見たくないとか、何か嫌になった理由があるならともかく、別にそういう訳でもないんですよね?」

「そうだ」

「一人でしか帰れないと思ったし、帰らないという選択肢がなかったから、だからそうしたって事なんですか?」

「……そうだな」

 

 ルチアがどんどん詰問口調になっていくに従って、ミレイユも言葉少なげに返答していく。

 その口振りは呆れも混ざって、次第に訊いていくのが馬鹿らしくなっていったようだった。

 

「……ですか。じゃあ別にもう、このままで良いですよね? 帰れと言われて帰る手段も思いつきませんし」

「そうだな、帰る手段はない、だろうな……」

 

 ユミルは腕を組んでニヤリと笑う。

 

「これで帰れと言ったら外道の類でしょ。言われて帰るつもりはないけどね。アンタという娯楽がなければ、これからの人生つまらない」

「なんだ貴様、そんな理由で一緒に来たのか?」

 

 アヴェリンが下げていた頭を持ち上げ、その場に立った。

 

「貴様の父親の件があったのに、感謝の気持ちもないわけか?」

「いやぁ、感謝の気持で着いて来てるのはルチアでしょ。アタシはまた別の感情ってだけで」

「私は感謝っていうより、恩義って感じですけど」

「別にどっちでもいいわよ、そこは」

「じゃあ何か、貴様には娯楽と感謝以外で向ける感情が他にあったのか?」

「ああ……。まぁ、強いて言うなら好奇心?」

「ふざけるなよ、馬鹿者」

 

 会話の内容がどんどん険悪になっていくのを見て、ミレイユは微かに笑った。

 ああいう掛け合いもいつものこと、険悪のように見えて仲の良い者同士のじゃれ合いに過ぎない。無理に止めずとも、そのうち勝手に収まるのもいつもの事。

 

「大体、お前は……」

「アンタは固すぎ……」

 

 アヴェリンがいよいよ武器を腰から抜き放ったのを見て、これはじゃれ合いで終わらないかも、と思い直す。ルチアがさっと離れて行くのを見て、ミレイユは代わりに二人の間に割って入った。

 

 



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帰郷 その2

No.va様、あんころ(餅)様、青黄 紅様、えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 今にも掴みかかりそうになっている二人を引き離し、ミレイユは一同に向かって帽子を取って頭を下げた。

 

「ありがとう、皆。勝手な振る舞いをしたというのに、それでも変わらぬ誠意と信頼、嬉しく思う」

 

 数秒姿勢を維持した後に頭を上げてみれば、そこにはそれぞれ違う笑顔を見せる三人がいる。

 

「アンタのそういう態度、初めて見るわね。……ちょっと、感動したわ」

「お礼を言われるような事ではありません。変わらず傍に置いて下されば、それで良いのです」

「まだちゃんと、お返しも出来ずにいたんですから。せめてそれが終わるまで、離れるなんて出来ません。これは誇りの問題でもあるんですからね」

 

 それらの笑顔に引っ張られて、ミレイユもまた笑った後、噛み締めるように頷いた。

 

「……うん」

 

 雰囲気が、ふわりと柔らかくなったような気がした。

 今まで張りつめていたものが霧散し、辺りに気を配る余裕も生まれる。

 ルチアといえば、元より興味があったらしい見知らぬ物体へと歩み寄った。

 

「それより、これ何なんでしょうね? 私の知る、如何なる物とも違う気がします」

「……それは冷蔵庫だ。物を冷やすのに使う」

 

 へぇ、と呟き、取っ手らしき物がないことに不思議がり、表面をぺたぺたと触れて回る。

 

「確かに冷たいですね」

「表面が冷たい事とは関係ない。その箱の中身を冷やす為の道具だから」

「どうやって中身を見るんです?」

「勝手に開けるな。マナー違反だ」

 

 ルチアはそれを無視して、好奇心の赴くまま扉に手を掛け、繋ぎ目がある部分に指先を差し入れた。引き出しの様に手前に開くと予想していたらしく、片開きで扉が動いたことに戸惑いを見せる。

 

「おっと……わっ、ホントに冷たい。中には氷もないのに、一体どうやって冷やしているんでしょう?」

「よく探してご覧なさいな。それでも氷が無いなら、きっとそういう魔道具なんでしょうよ。一体どれほど金を注ぎ込めば、こんな物が作れるのか不思議だけど。……これ、採算合ってる?」

 

 肩を竦めて見当違いな事を言うユミルに、ミレイユは呆れながら息を吐く。

 

「いいから閉めろ。長居したくないんだ」

「でもですよ。ちょっと……、これ食材が入ってるんですか? それだけじゃなくて、見たこともないような物が沢山ありますよ」

 

 ちらりと見た限りでは、確かに現代人ではないルチアには興味深い物が多数あったようだ。

 パックに入ったままの卵や納豆、マーガリンや冷蔵餃子、豚肉と思わしいフリーザーバッグ に入った肉、スーパーで売ってそうな惣菜が数点。そして扉側には、牛乳を初めとした紙パック飲料などなど。

 一見した限りでは一人暮らしの、凝った料理はしないタイプの冷蔵庫という感じだった。

 

「興味深いのはよく分かる。だが、ここは誰とも知らぬ、他人の家なんだ。勝手をするのは控えろ」

「ああ、やっぱりそうなんですね。物置小屋としてなら及第点なんだけど。自宅にしては、余りに見すぼらしいし狭すぎます」

 

 ルチアとしては、だからこそ勝手にするんだ、とでも言いたいような口調だった。

 むしろ言質を取ったから勝手をしようと言う顔をしている。

 

 確かに、あちらの世界でミレイユは自身の邸を持っていた。旅暮らしの多い生活だったから帰ることは稀だったし、便利な家なら()()()()()()()()。基本的な暮らしはそこであったから、ルチアの基準としては、ここは家ですらないのだろう。

 

 さてどうしたものかと顔を巡らせると、ユミルが台所横のガスコンロへ無造作に手を伸ばしているのが見えた。

 

「おい、ちょっと……」

「これもまた不思議な形してるわねぇ。何に使うのかしら。儀式の道具……? 台座っぽいのもあるし。コレ、何かしら……」

 

 コンロの摘みを弄り出したルチアの腕を掴み、強制的に入れ替わる。

 元栓が閉まっていないコンロからは、半端に摘みを回したせいでガスが漏れ出している。摘みを停止位置まで戻して、異臭のする吹き出し口にパタパタと手を振った。

 

「あン、ちょっと……!」

「下手をすれば爆発するんだ。勝手をするなと言うのは、別に嫌がらせで言っているんじゃないんだよ」

 

 えぇ、と顔を引くつかせて、ユミルは身を離した。

 

「何でそんな危険な物が無造作に置いてあるのよ。この異臭ってそういうコト? 爆発の合図なワケ?」

「そういう事じゃないが。ただ危険なだけじゃなくて便利な物でもあるんだ。……あぁ、説明してやりたいのは山々だが、そんな事してたら日が暮れる」

 

 大体、と口にして、ミレイユは部屋を見渡した。

 

「ここにあるもの全て、お前たちにとっては未知だろうが、他人の所有物でもあるんだ。中には壊れやすい物だってあるし、実際壊せば面倒だ。責任なんて取れないしな」

 

 言い終わった辺りで、冷蔵庫の横にあったレンジからピッと電子音が鳴る。無造作に弄っていたアヴェリンは、その音に身を竦ませて、縋るような視線を向けてきた。

 

「大丈夫、それは壊れてない。――いいから、行くぞ。ここは他人の家だと言ったろうが」

 

 窓から外を見れば夕刻も近い。

 この部屋の住人は学生の一人暮らしのように見える。もしそうだとしたら、そろそろ帰宅時間の頃合いだ。部活やバイトなど、幾らでも遅くなる要因はあるが、だとしても鉢合わせのリスクは出来るだけ負いたくない。

 

 なるべく他人がいた痕跡は残したくない。

 物を倒したり、大きく動かしたりした物もないから特別な処置は必要ないだろう。

 いい加減、冷蔵庫の扉を閉めさせ、外に繋がるドアを顎で示して動くように促す。

 

 自分自身も動きながら、その時、天井の角にある神棚が目についた。

 今時の家には備え付けてないことも珍しくないというのに、まして一人暮らしの学生と思しき部屋には随分と珍しい。珍しいというだけで、その信仰心を馬鹿にするつもりは更々ないが、何となく奇妙なものを目にした気がした。

 

「ほら、さっさと外に出るんだ。そこの扉から出られる筈だから」

 

 真っ先に動いたアヴェリンが扉を開けば、正面に別の扉――おそらくトイレ――があった。

そこは人が一人立てば他には誰も入れないような狭いスペースしかなく、左手には金属製の扉がある。

 ドアチェーンが垂れ下がった扉なので、それが外へ繋がる扉だと分かった。

 

 アヴェリンが扉中央に手を置き力を入れる。ガツっと何かに引っ掛かる音がするだけで、扉が開かない事を怪訝に思いつつ、そのまま力任せに開けようとした。

 入口で詰まっていた二人を押しやり、ミレイユはアヴェリンの肩に手を置いて止める。

 

 アヴェリン達が生きていた世界にドアノブなど無い。とりわけ民家に使われる扉は押すか引くかのどちらかで、指を入れる為の引手が見当たらなければ、アヴェリンが押戸だと考えるのは妥当だった。

 錠にしても貧しい家は付いていない事の方が多い。例え付いていたいたとしても、横に金属棒をスライドさせる簡易的な閂のようなものが主流だった。

 そのどちらもが無いのだから、アヴェリンの行動はむしろ当然というものだった。

 

 ミレイユはドアノブに付いているツマミを捻り、鍵を外して扉を開ける。

 一応、顔を出して外の様子を確認する。アパートは二階建て、他には二部屋という小さな建物だった。左の角部屋であり、正面には階段、右側の住人がこちらを意識している様子もない。

 階下と道路も素早く視線を向け、安全を確認してから後ろを振り返った。

 

「さぁ、全員外に出ろ。なるべく声を出すな」

「警戒が必要ですか? 危険はあるのでしょうか」

「危険はない。面倒が起こるのを避けたいだけだ。なるべく痕跡を隠して出るから、とりあえず全員、階段を下りて待っていろ」

 

 沈黙のまま頷いて、背中腰から武器を抜こうとするアヴェリンの腕を抑える。

 

「武器も無しだ。“中に”仕舞っておけ」

「しかし……」

 

 重ねて無しだ、と伝えれば渋々ながら武器を収める。

 そのまま懐に仕舞うような仕草で腕を内側に締めれば、武器は先端から溶けるように消えていく。

 ミレイユは扉を開けたまま体をずらし、外へ動けるスペースを確保する。しようとして、すれ違うスペースすらないと悟ると一旦外に出た。

 

 全員が隙なく警戒しながら出てくるのを見終えると、入れ替わりに室内へと身を滑り込ませる。

 一度外から確認して見れば一目瞭然、土足であちこち歩いたので土で汚れた靴跡がびっしりと付いている。どうしたものかと悩ませて、右手に風の魔力を収束させる。

 掌の上で渦巻く小さな竜巻を生成し、部屋の中を走らせてやれば、砂や埃を巻き上げていく。

 力加減を誤ればラグマットなどに傷をつける。予想以上に面倒な手段を選んだことに、早くも後悔しつつ手早く砂を巻き取っていく。

 

 パッと見た限りでは足跡らしき汚れも見えなくなったので、小さな竜巻を部屋から出して適当なところで制御を解く。竜巻は空中で霧散して、階下に砂を巻き散らした。

 

「ちょっと……! もう少し場所考えて捨てなさいよ!」

「あぁ、ごめん。いたんだよな……。でも当たらなかったろう?」

「当たってたら、もっと文句言ってるわ」

「翌日になっても文句言ってますよ、きっと」

 

 悪かった、と一言呟くように謝罪してから扉を閉める。

 鍵を掛けられればいいのだが、こればかりは仕方がない。あちらの世界には数多くの魔法があったし鍵開けの魔術は存在したが、閉める魔術は知らなかった。とはいえ、現存しても身に付けていたかは疑問が残る。

 

 事件性があるような事はしていないので、指紋まで拭う必要はないだろう。

 ミレイユはそのまま音を立てないよう気をつけながら階段を降りると、待っていた三人に合流する。腕を軽く上げて手前に振ると、道路に向かって歩き出した。

 

「さぁ、まずはここから離れよう」

 

 

 

 外に足を踏み出してみると、実に懐かしい気持ちになってくる。

 日は既に傾き始め、夕陽に照らされた住宅街には活気というより寂しさが感じられる。住宅の隙間から窺える遠くには、標高が千メートル程の山も見えた。

 実に三年ぶりとなる、懐かしの町ではあるのだが、記憶にあるものと少し違う気がした。

 全く違うという訳でもないので、単に建て替えた家などがあるのかとも思ったが、それにしては違うと感じる家が多い。それが何とも奇妙に感じた。

 

「それにしても、これはまた凄まじいな……。家々の形や色に、これ程の多様性が。道も平らで歩き易く、汚物も落ちてない」

「アンタと同じ感想なのは気に食わないけど……。これは凄いわ。ここまで何もかも違うと、面食らっちゃうわねぇ」

「何であんなに柱が乱立してるんでしょう。儀式に使う為なんでしょうか」

 

 思い思いの感想を言いながら、三人は辺りを見渡す。

 左右を交互に見ながら動く為、その歩みは遅々として進まない。焦れるような思いになるが、同時にそうなる気持ちもミレイユには良く分かった。

 

「まぁ、そういう感想になるだろう。違うのは見た目だけじゃないからな、あちらの常識は通じないと思っておくといい」

「強大な敵を想定しておいた方が良いですか?」

「いや、そっちの想定は必要ない。魔物は存在しないからな」

「全く?」

 

 アヴェリンの質問に首肯して答える。

 

「そうだ、いない」

「これっぽっちも?」

「ああ」

「……何故?」

 

 疑念を隠そうともしない表情で問われたが、そう聞かれても答えようがなかった。

 

「いないものはいないんだ。害獣と呼ばれる動物もいるが……、それも人里近くに現れるのは稀だしな。人を襲う類の害獣は更に少ない」 

「ろくに柵も壁も見当たらないのは、そのせいですか……」

 

 更に興味深く住宅を見回すアヴェリンは何度か細かく頷き、それとは別の興味を示したルチアが電柱を指差した。

 

「じゃあ、あれは何の儀式に使う物なんです?」

「電柱は儀式に使うものじゃない」

「あれほど執拗に、等間隔に配置しておいて? じゃあ何の為に?」

「電気を使う為……。いや、そうすると電気の説明も必要で……あぁ、面倒だな」

 

 ルチアは電柱に触れてぺしぺしと数度叩き、感触を確かめている。

 

「これ……、材質は石ですか? こんな綺麗に切り出して、歪みのない円柱形を作り出し、それをあの高さまで積み上げる……。ちょっとした狂気を感じますよ」

「さぞ名のある神を祀る為にあるんでしょうねぇ」

「ユミルさんもそう思いますか? ――そう、畏れと敬い、何より信仰なくして、これ程のことは出来ませんよ」 

「出来るが。あれに畏れも信仰も存在しないが」

 

 もしあるとすれば、電柱を立てた技術者たちに対する敬意だろう。

 仮にそうだとしても、感謝の割合の方が多い気がする。電柱は町の背景だ。あって当たり前という気持ちが強い昨今、特別な感慨を持たない人が多数に違いない。

 

 ルチアはミレイユの返答に顔を青くする。

 軽蔑するような、あるいは食べ物に群がる虫を見た時のような視線を向けてくる。

 

「おかしいですよ。それとも、おかしくなっちゃったんですか?」

「何でそんなこと言われなくてはならんのだ。あちらの常識は通用しないと言ったばかりだぞ」

「えぇ……、これもそうなんですか? 特に垂直に建てた柱に、より掛かるように倒した柱。あれは神に対する尊崇と思慕を現しているのでは?」

「全く、違う」

 

 首を横に振って答えたミレイユに、ルチアは理解できない表情で同じく首を振る。

 

「どういうことですか……。頭がおかしくなりそうですよ。――じゃあ、あれは、あの柱と柱を繋ぐ幾つもの線。あれは一体何なんですか」

「あれは電線と言って、電気を送る為に引いてある」

「また電気ですか。それは魔力とどういった関係が?」

 

 怪訝な表情で問うたルチアに、むしろミレイユが怪訝に首を傾げた。

 

「どこから魔力が出てきた? 電線と電気に魔力は関係ない。それぞれの家で、――そう、物を冷やしたりする事が、簡単に出来る為にある」

「えぇ、でも……?」

 

 ルチアは見上げて電線を視線でなぞる。次いで空へ視線を移し、体ごと大きく辺りを見渡す。

 納得してない風のルチアに指を突きつけた。

 

「いいか、この世界に神もいなければ魔力もない。魔術もないから、みだりに使うな」

「いえ、それはおかしいですよ。だって――」

「だってじゃないんだ。ないものはないんだから。命令なくして、あるいは自分の命の危険なくして、魔術の使用を禁ずるからな」

 

 唸りを上げて腕を組み、考え込んでしまったルチアを他所に、今度はユミルが疑問を投げかけてきた。

 

「神もいなければ魔術もないって? そんな事あり得る?」

「まぁ、確かにこれを否定すると煩い人種がいるのは確かだ。しかし、この国においては、否定する人間が多数だし、魔術を使えると言うと馬鹿にされる。神々とて、いるとしても実際に目にすることもなければ、声をかけられることもない」

「実際に降臨することもなく、触れられることもない?」

「そうだな」

 

 あらまぁ、と呆れたような声を出して、ルチアは嫋やかな手で口元を覆った。

 

「全く想像できないわ」

「気紛れで発狂させたり、他人の人生を狂わせたり、一夜で村が滅んだりしないと思えば、神の居ない世界というのも捨てたものじゃない」

「それだけ聞くと、確かにね」

 

 恩寵や加護を授けるような善神は確かにいた。だが、そういう神ほど自己主張は控えめで、あらゆる人種は神々の奴隷と思う悪神の方が、よほど接触しようと試みてきたものだ。

 酒の飲み合いで勝負を挑んでくるという程度なら可愛いもので、中には山々を噴火させては逃げ惑う者たちを見て楽しむような神もいた。

 

 見て聞いて触れる神も悪意を持って接してくるなら、むしろいない方がマシだと思うのだが、そういう神々であっても必ず信仰する者たちがいた。カルト的、というと問題があるが、しかし畏れ敬われる存在であるのは確かだった。

 

「でもまぁ、分かったわ。常識が通じないっていう部分は、まだ分からない事も多いけど。目の前に広がる異様な光景を見れば、宜なるかなって感じよね」

 

 ミレイユからすれば、その目の前にある光景こそ当たり前で常識的な光景なのだが、ユミル達からすれば、確かに異様な光景だろう。

 かつてミレイユがあちらの世界に降り立った時、途方に暮れた状態と似ている部分がある。

 ゲームの世界だと知っていたから、ある程度ゲームを通じて知っていた常識もあり、ミレイユはそれほど困ることはなかった。しかし、彼女たちはそうもいくまい。

 

「ここまで世界が違えば、帰りたいとも思うのでしょうね。……全く違う常識の世界ですか。神も魔力もない世界とは、いやはや……」

「ちょっと待ちなさいな。この世界に魔術がないなら、どうしてこの世界出身のアンタが魔術が使えるのよ」

 

 また返答に困る質問をしてきたな、とミレイユは思った。

 素直に答える事は出来ないし、したとしても信じて貰えるとは思えない。どう答えたものか考えあぐねていると、それより早くアヴェリンが口を挟んだ。

 

「ミレイ様は特別なのだ。どこぞにいる有象無象と一括に考えてよい御方ではない」

「まぁね、それについては同意してもいいけど。魔術を除外して考えても、あまりに多才だったし。……だとしてもよ。ここに一人いるなら、それ以外全くなしともならないでしょうよ。遥かに格下であったとしても、少しぐらい使える者もいそうじゃない?」

 

 ユミルの言い分に、一理あると思ったらしい。思案げに足元に視線を落とした後、アヴェリンはミレイユに顔を向けた。

 

「フム……。どうなのです、ミレイ様?」

「……うん、まぁ。使えると主張する者はいたな、確かに」

「ごく少数?」

「そうだな、確かに少なかったと思う。だが魔術を使えるという者が、いるにはいた」

 

 例えばマジックショーに登場する魔術師などがそれに当たる。

 だがそれを馬鹿正直に教えるつもりもない。第一、これ以上詳しく聞かれても答えに窮するだけで何の意味もない。有耶無耶にしてしまうのが一番いい。

 そこに考え込んで沈黙していたルチアが、横から口を挟んだ。

 

「つまり、全くなしというよりは、ごく僅かな魔力を上手く運用する術があった、という事ですか? 大規模魔術は行使できず、でもだからこそ小手技を身につけることで生存してきたとか」

「ああ、そう。……そうなのかもしれないな」

「なるほど、なるほど……」

 

 都合よく解釈してくれたルチアへ、そのような表情をおくびにも出さずに食いつく。

 妙に納得した風で何度となく頷いて、ルチアは再び視線を空に向けた。

 

「それなら納得です。何事も工夫が大事と、そういうことでしょうか」

「ああ、多分な。多分そうだ」

 

 幾度か頷きを見せてから、ミレイユはこれを機に伝えるべき事を伝えておこうと思った。

 かねてより思っていたこと、こっちの世界に帰りたいと願った主な理由を。

 皆に羞恥し、申し訳ないと思う資格すらないと理解している。それでも、ミレイユは懺悔し告白するような心持ちで口を開く。

 

「私は……本来、戦うことが好きじゃないんだ。帰りたいと思っていたことは、何も哀愁によるものばかりではない。戦いから逃げ出したかったからだ。命を奪い、奪われる危険から逃げたかった」

「そうだったの?」

「その割には、多岐に渡り過ぎる才能を持ち合わせていましたけど……」

 

 ミレイユは眉を顰めて溜め息を吐く。

 

「出来るからといって、やりたいということは違う。やれるからやらされていた、という方が正しいように思う。私は……いつも、いつだって争わなくて良い世界に逃げ出したかった。武器を振るわなくても良い世界に帰りたかった。……軽蔑したか?」

「いいえ、特には」

 

 アヴェリンは決然と首を横に振った。

 いつの間にか皆の歩みは止まっている。アヴェリンに見つめられるまま、ミレイユはその視線を受け止めた。その熱を帯びた視線には軽蔑も侮蔑もない。

 ただあるがままを受け入れる、その意が酌み取れた。

 

「それで貴女の成してきた偉業が霞むことも、消えることもありません。ただ、今は貴女の弱音を聞けるようになって嬉しく思います」

「アヴェリン……」

「先程の弱音も、貴女の知らない一面をまた一つ知ることが出来た、ただそれだけのこと。それしきの事で、貴女に失望したり致しません」

 

 アヴェリンが柔らかく笑むと、近くに寄って来たユミルがつまらなそうに鼻を鳴らした。

 

「まぁ、多少の我儘は許されるでしょう。アンタはそれだけの事をしてきたわ」

「あらァ……、意外です」

「ミレイが?」

「いえ、ユミルさんが。てっきり、もっと詰るか焚き付けるかと思いました」

 

 飄々と言うルチアに、ユミルは呆れたように見つめ返し、それから肩を竦めて息を吐いた。

 

「ま、あらゆる騒動が、あの子を逃してくれなかった。そういう部分もあったしね」

「……そうだな。今までずっとそうだった……。懇願が、挑戦が、脅威が、あらゆる騒動が、平穏に過ごすことを許さない。だから、そうでない人生に、戻りたかった……」

 

 ミレイユは我知らず俯く。

 まるで誰かが誘導するかのように、行く先全てで何かが起きた。規模は違っても、解決を余儀なくされるような事態が。まるで物語の主人公のように、騒動が付き纏うのだ。

 そして事実、ミレイユは主人公だった。

 一般人より多少優れているだけで世界を三度も救えるものではないし、救うように動かされるものではない。

 神々は決して万能でも全知でもないが、そうと狙って行動していたのではないかと、ミレイユは疑っている。

 

「ま、何にしても休養期間、そう考えて怠惰に過ごせばいいんじゃないの? アタシ達もそれに付き合うし」

「ええ、どこへなりとお供します」

「……そうだな、感謝するよ」

 

 ユミルがそう提案すれば、追従して頷くアヴェリン。ミレイユが簡単な礼を見せる中で、ルチアだけ眉間に皺を寄せユミルに視線を飛ばしていた。

 視線に気がついたユミルは面白そうに笑みを浮かべ、歩みを再会した二人を後に、ルチアへ身を寄せていく。

 

「何か言いたげね?」

「いや、だって娯楽ついでに付いていたんでしょう? 怠惰に過ごすミレイさんの横で、同じく怠惰に過ごすって、そんな事あります……?」

「馬鹿ねぇ……、さっき言ったじゃない。騒動があの子を放っておかないって」

「つまり、ああ言ったところで、どうせ何かに巻き込まれると?」

 

 ユミルは隠そうともしない笑みで頷く。

 

「当たり前じゃない。どうせなら賭ける? アタシは三日以内で騒動が起きると予想するけど」

「それじゃあ賭けになりませんよ。騒動なんて、あの人にとって日常と同義なんですから。その事には余程自信があります」

「アンタも言うわね」

 

 呆れたように笑うユミルに、ルチアもまた笑った。

 



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帰郷 その3

あんころ(餅)様、誤字報告ありがとうございます。
 


 ――石花市。

 それが今ミレイユたちが歩いていた町の名前だ。近隣都市のベッドタウンとして栄えたこの町は、それ故時間帯によって人通りが極端に少なくなる。

 例えば、出勤登校時間が終わった後、そして帰宅時間を迎える夕方付近がそれに当たる。

 買い物に出かける主婦や散歩に出かける老人などを見かける事はある。しかし、それもやはり疎らで、見渡せば常に誰かが視界に入るというほど、この石花町の人口密度は高くない。

 

 この夜の帳が落ち始めた時間は、その帰宅する学生と社会人が丁度重ならない隙間時間だった。

 アパートを出てからこちら、今まで誰ともであっていないのは、そういう理由があるからだろう。無論、それは単なる偶然で、今すぐにでも誰かと出会う機会など幾らでもある。

 

 だから、民家の前に停まる自動車へ、亡者のごとく群がる不審者三人組が見咎められなかったのは、幸運でしかなかった。

 

「車輪がある。不思議な車輪ですが……、でもそれがあるという事は、これは荷車のように扱える道具だと、予想できるわけですよ」

「だが、それならあまりに物を置くスペースがなさすぎる。上に置くにしても僅かに湾曲している形だぞ、ずり落ちて運ぶどころではないだろう」

「そこは工夫次第でしょ。ロープで縛れば置ける筈だわ。それより、この透明な一枚ガラスの向こうを見てご覧なさいな。椅子があるということは、座る為に用意されたのよ。つまり、これは物ではなく人を運ぶ為の道具だと分かるでしょう? 乗合馬車みたいなものよ」

「確かに、座り心地が良さそうなのは認める。しかし、これだと精々五人が限界だろう。大体、これを牽引する為の馬はどこにいる?」

 

 所構わずベタベタと車を触り、中を覗き込み、つぶさに観察しては意見を交わし合う三人に、ミレイユは今日何度目かになる溜め息を吐いた。

 これほど頻繁な溜め息はここ最近なかったな、と嫌な気付きを発見しながら三人へと声をかける。

 

「なぁ、皆……。私はなるべく目立ちたくないと考えてるんだ。日も落ちる前に移動を終わらせたいし、そして公園辺りを今日の寝床と考えてもいる。一々興味のある物に目移りして立ち止まっていていたら、一向に進まないんだよ」

「分かっていますよ。これだけです、これだけ」

「ご理解いただけて幸いだが、それはさっきも聞いた」

 

 しかしですよ、と自動車に目を奪われていたルチアが、あくまで自動車を触り続けたまま顔を向ける。

 

「この滑らかな金属素材、それを見事な流線型に加工する技術、車輪外周に使われた弾力性のある強固物質……。どれを取っても興味の尽きない新発見です」

「ああ、お前たちの知的好奇心を存分に刺激できたようで何よりだ。だがな、目立つんだよ、お前ら。何もせず立ち止まってるだけでも目立つ格好なのに、そんな事してたら通報されても可笑しくない」

 

 はいはい、と頷きながら観察に戻るルチアの説得は後に回すと決めて、ユミルの方に顔を向ける。あれはまだしも話が通じるが、それより厄介な方を先に陥落させれば他も後に続く筈だ。

 タイヤに向けて身を屈め、熱心に撫で付けているユミルの肩を叩く。

 しかし、ぞんざいに手を振り払われ、こちらには視線すら向けない。

 

「車輪に使われている黒い方なら、錬金術で再現できるかも。トロールの脂肪を根幹素材にドリアードの樹脂を使えば、もしかしたら上手くいくかもね」

「地面を見てくださいよ。雨が降っても泥濘化しなさそうですし、石畳なんか目じゃない一枚岩の地面なんですから、砂地よりもずっと摩擦抵抗が強そうです。熱の発生を無視する訳にはいかないでしょう? 長時間の使用で溶けて形が崩れませんか?」

「いい着眼点だわ。それを考慮すると……」

 

 再度ユミルの肩を叩けど、やはり振り払われ無視される。

 どうしたものかとアヴェリンを見ると、やはりこちらも気もそぞろで、自動車その物より動力について気になっているようだった。

 

「それよりも馬だ。近くに馬房など見当たらないが、これをどうやって牽引するんだ? 他の民家にも同じような車輪付きがあるが、どこにも牽引動物がいない」

 

 空に向かって鼻を向け、臭いを確認するように鼻を鳴らしては首を傾げた。

 

「糞の匂いもしてこない。風上にいないだけとも思えん。――これは一体、どうやって使うんです?」

 

 ようやくミレイユに顔を向ける人物が出てきてホッとしたが、やはり興味は寝床よりも目の前にある、不思議物体にあるようだった。

 基本的に全てにおいてミレイユを優先する傾向にあるアヴェリンにあって、この行動は異常とも言える。いや、むしろ彼女の場合、移動手段の確保として馬の有無、あるいは馬房の所在地を確認したいが為の行動なのかもしれない。

 

「一旦、それは置いておけ。……興味の尽きないお前たちに、私の力量というものを思い知らせてやりたい気持ちになってきた」

 

 声に含まれる剣呑な雰囲気から、アヴェリンは即座に姿勢を正し自動車から離れる。定位置であるミレイユの右斜め後ろに立つと、腕を後ろで組み足を広げ待ちの態勢に入る。

 ルチアとユミルも、流石にこの雰囲気を敏感に察知した。

 そろりと身を起こすと、冷や汗を額に流しながら愛想笑いを向けてくる。

 

「まぁ、ちょっと調子に乗った部分はありましたね。でもまぁ、ルチアちゃんの可愛いところを見られて何よりだったという事で……」

「ならないでしょ」

「ならないですかね、やっぱり」

 

 ルチアとユミルのやり取りを見ながら、腕を組んで重い息を吐く。身体中から蒼いオーラのようなものが立ち昇る。魔力の制御が表に出ている証拠だった。

 そのまま首を横にゆっくりと倒していくと、ボキボキと音が鳴る。ミレイユから不機嫌そうな視線をぶつけられ、二人は顔の表情を強張らせていく。

 ミレイユは首をゆっくりと元に戻した。

 

「行くって事でいいんだな?」

「勿論です」

「アタシはむしろ、早く行くよう進言してたぐらいだけど」

 

 どの口が言うんだ、という背後の声を聞きながら、ミレイユは頷く。

 腕組を解き、次いで魔力制御も解くと、前方を示した。

 

「さっさと行け」

 

 

 

 

 はたから見れば田舎には珍しいコスプレ集団なのかもしれないが、これが毎日公園で寝泊まりしている集団となれば、物珍しいだけでは済まない。

 常に可笑しな格好は薄気味悪いと思われるし、何かしら通報されたりする可能性すらある。

 

 ミレイユには他三人を養う義務がある。

 自分を慕って着いてきたというのなら、その衣食住について保障しなくてはならない。三者の主人として、その義務について怠るつもりはなかった。どちらにしろ、あちらの世界でも同様にしていたのだから、その延長戦上の行動に過ぎない。

 

 住む場所については問題視していなかった。懐の中の住居が、その懸念全てを解決してくれる。

 食料の備蓄についても暫くは大丈夫だが、目減りしていくだけで増えない物を指折り数えて待つ訳にもいかない。これの補充については考えなくてはならないだろう。

 

 一番の問題は衣服だ。

 あまり目立ちすぎる格好は好ましくないし、町の名物コスプレ娘としてデビューする気もない。衣服を手に入れようと思えば金銭を得る必要があり、それは同時に食料問題への解決にも繋がる。

 

 自分一人で全員を養う金額を稼ぐ必要もないだろうし、むしろそうすれば他の三人が黙らず働きに出る事は予想できる。しかし問題は、この国で金銭を得ようと思えば戸籍が必要になるという事だった。

 日本国籍がないなら、外国籍であることを確認できるパスポートに就労ビザも必要になるだろう。勿論どちらも用意できないとなれば、偽造するしかないのだが、簡単に出来るものでもない。作ったとしても、偽造と判明した時とても面倒な事になる。

 

 魔術による洗脳は一時的な効果しか保たないし、洗脳されてる間の記憶も失わない。

 安易に魔術を使った解決は悪手だ。

 正攻法で解決する必要があるのだが、それについて今のところ目処が立っていなかった。

 

 目的地に辿り着いた四人は、砂場以外、他には端にベンチしかない公園にとりあえず足を踏み入れた。

 

「予想以上に清潔な場所で驚きましたよ」

「何もない無駄な空き地に思えますが、土地の余裕があるんですかね?」

「家と家の間が全然ないし、隙間なく家を建てている癖に、土地に余裕があるとは思えないわね」

 

 辺りを見渡しながら口々に言う三人に、ミレイユは肩を竦めた。

 

「公園っていうのは、この国の法令で必ず設置しなくちゃいけないんだよ。どれほどの面積に家が建っているかとか、そういう細かな条件はあったと思うが、土地の余裕がなくても作らなくてはならないものだ」

「ふぅん……、おかしなものね。利便性より景観ってコト?」

「という訳でもない。利便というなら、いざという時の避難場所にするという側面もあるからな……」

 

 納得したように頷いたものの、おや、とアヴェリンは首を傾げた。

 

「魔物は襲ってこないのでは?」

「避難するのは襲われた場合だけじゃない。地震や大規模火災など、何かしら避難が必要な場合はあるものだ」

「それだけ聞いても、合理的なのかどうか、イマイチよく分かりませんね」

 

 公園と民家、上空とを見渡しながらルチアが言った。

 

「むしろどうやったら、こんな矛盾だらけの環境になるんですか? 見てると支離滅裂でイライラします」

「何がそんなに気に入らない? いや、別に無理して好きになって欲しいわけでもないが」

「……気付きませんか?」

 

 ミレイユは片眉を上げて、ルチアを見返す。

 何も不躾に不満をぶつけているだけでないことは、彼女の様子を見れば分かる。文化の違い、文明の違い、法律の違い、その何れから来るものでもない気がする。

 となれば――。

 

 ルチアはその種族的な特質から、魔力に関する探知が上手い。

 魔力の制御や、単純な力量、その応用力など、ルチアに負けない要素は幾つもある。しかし、その感知力、探知力については、ミレイユは足元にも及ばない。敢えて負けず嫌いを発揮すれば、足元くらいには及べる、という程度か。

 

 ミレイユが見返す視線の向こう、太陽が稜線の向こう側に消え行こうとするのが目に入った。空を覆う藍色が濃くなり、地平線に残った僅かな橙色も沈むように呑まれていく。

 夜の帳が落ちる、逢魔が刻。

 

 ――それが唐突に現れた。

 

 遊具もろくにない、唯一砂場が遊び場の公園。

 その中央で空間が捻じれ、綻ぶように孔が開く。

 ミレイユは有り得ない光景に瞠目し、警戒するよう呼びかける。

 

「――注意しろ」

 

 その一言で、慣れた三人は武装を呼び起こし戦闘に備える。

 アヴェリンはミレイユの前へ入れ替わるように立ち、ルチアは最後尾で身の丈半分ほどの杖を取り出す。ユミルはその間、ルチアの射線上に重ならないよう位置取りし、長剣を構えた。

 

 初めは小さな、握り拳ほどしかなかった孔は徐々に拡大し、ついには子供が通れる程まで成長する。

 そこからは自分たちには見慣れた、しかしこの世にあってはならない存在が姿を表した。

 見た限り低級の敵ではある。長く旅をしてきたミレイユたちにとって、今更手こずるような相手ではない。

 しかし紛れもなく、あちらの世界の魔物が姿を現したのだ。

 ユミルが呆れたように呟く。

 

「……嘘でしょ、一日と保たないワケ?」

「ようこそ日常(トラブル)って感じですかね」

 

 ルチアもまた、同じように呆れた声で呟いた。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 由喜門(ゆきかど)(あきら)は今にも夜の帳が降りる空を見ながら、小走りに道を歩いていた。

 家々の向こう側、遠くに見える山の頂点は既に暗い紺色に染まり、星々の明かりが見えている。

 一人暮らしの暁には帰りを待つ誰かもいない為、急いで帰る必要もない。とはいえ、コンビニで立ち読みした時間が無駄に思えて、幾らかの悔恨を打ち消す手助けにならないかと足を早めた。

 

 暁は現在、近所にある石花高校へ通う二年生。性別は男なのに女顔で、中学生の時代はどちらか分からないと言われる事が多かった。ここ最近は流石にそう言われる事も減ってきたが、未だにその事をネタにからかってくる友人もいる。

 

 二年前、まだ中学生だった時に、通り魔的な暴行犯に襲われ両親が死亡。既存のデータに一致しない獣の咬み傷らしきものもあった事に加え、未だに犯人は捕まっていない。

 ただ国から思いもよらぬ程の助成金が得られたのは、不幸中の幸いだったと言える。そのお陰で、頼りにできる親戚もいない中、養護施設に入る事もなく一人暮らしが出来ている。

 

 いつもはもう少し早い時間に帰宅するのだが、それには理由があって、今日は週に三回通っている剣術道場の稽古日だった。

 道場の師範も良くしてくれていて、ご厚意に甘える形で世話になっていた。

 

 稽古は厳しいが性に合っていて、剣を振るのは楽しい。

 剣とはいっても振る機会があるのは木刀で、いつか真剣に触れてみたいと思いつつ、まだその時は訪れそうもない。

 しかし、好きこそものの上手なれ、とはいかなかったようだ。こちらの才能は、あまり良ろしいものではないという自覚がある。

 

 全国に道場があり、戦もない世の中で未だに強い意欲を維持されているのは、世界的に見ても類を見ないのだと聞いている。

 暁のような年頃の日本国民ならば、むしろ意欲的なのは当然で、高校球児以上の熱意を持って剣を振るっている。

 夏の選抜試合を突破し、秋の大会で実力を示せば御前試合に招待される。

 

 御前試合、である。

 日本に住まう上で、誰もがその威光と加護に感謝しない日はない、あの御方の前で己が技術を披露できるのだ。暁自身、憧れ心酔する御方の目に留まるかもしれない、と期待する気持ちは止められない。

 年頃の男子として、多くの人がそれに同意するだろう。

 

 日も暮れれば未だに肌寒い四月末、今日の夕飯について漠然と考えていると、自宅近所の公園に差し掛かった。横切って近道しようと足を踏み込んで数歩、そこから現実とは思えない光景が目に飛び込んできた。

 

「――な、なん!?」

 

 それはまさに空想の世界、到底信じられないものが目の前にある。

 ――何かとんでもないことが起きているのかもしれない。

 世の不条理とか不思議な出来事は、案外身近にあるものだ。それは暁自身よく知っていたが、しかしそれと今、目の前にあるものは全く別種に思える。

 もし、それに自分も加わる事ができたなら、今までと――あるいは他の誰とも全く違う人生を送れるかもしれない。

 これから繰り広げられる何かに対する期待と、本能が警笛を鳴らす危険を天秤にかけながら、暁は公園へと更に足を踏み入れた、その時だった。

 

 背後から硬質な音が聞こえ、背後へ振り返る。キンッという甲高い音、鉄製の何かが地面に落ちたのかと見回すも、周辺には何もない。

 何か背後から襲われるのではないかと危機感を募らせ、一応の構えをしながら音がした辺りを注視する。何事もないまま地面に目を移し、そして公園と道路の境い目を見て、違和感があった。

 

 まるで線を引かれたかのように、真っすぐ草の生え際が消えている。公園周辺の雑草など生えるに任せているものだから、余計におかしく感じた。

 一か所変な生え方をしているのならともかく、まるで鏡面でも置かれたかのように不自然に途切れているのだ。

 

 不思議に思って手を伸ばしてみて、不意に手が止まる。壁にでもぶつかったかのように、それ以上前に進まないのだ。更に押しても何事もなく、ガラスのように指紋が付くわけでもない。

 

 ――何かが起こっている。

 暁は恐ろしくなって、そこから二歩下がる。閉じ込められたと、その時気づいた。

 慌てて見えない壁に近づいて、叩いて蹴ったりしたものの、硬質な音を返すばかりでビクともしない。

 どこかに隙間はないのかと手で伝いながら、壁沿いに歩いていくが、公園の隅まで行ったところで直角に曲がっていると分かった。

 このまま全て伝っていっても、四隅全てが覆われている可能性が高い。それでも確認せずにはいられず、暁は壁伝いに歩き始めた。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 綻びの孔から身を捩るように出てきたのは、緑色の体躯を持った子鬼だった。

 背も低ければ筋肉も少ない。手頃な樹の幹から切り出したと思われる棍棒を持ち、乱杭歯が見える口からは涎が垂れていた。

 ミレイユ達の目の前に現れたのは、一般的にゴブリンとも呼ばれる種族だった。多くの場合、洞窟の奥深くに隠れ住み、鼠やキノコなどを食べて生きている。大抵は弱個体で、訓練を受けた戦士なら負ける相手ではないのだが、同時に油断してはいけない相手であることもよく知られていた。

 

 アヴェリンは一歩踏み出し、武器を取り出す。

 懐から滲むように現れた武器は、洗練された形の、紫黒色をした黒壇のメイスだった。特徴的なのはその頭部で、根本から先端まで波打つように幾条も剃刀のような突起が付いている。

 殴り、抉り、その部分で肉を小削ぎ落とす為に付いている。

 魔術付与によって不壊の特性を持つだけではなく、その重量も変えられている。振るえば軽いが当たると重い。それだけならば多少便利な武器というだけだが、このメイスの最大の特徴は別にある。

 

「ここは私に任せていただいても?」

「うん。ただし、あれらは見た目だけでは判断が難しい相手だ。それを――」

「存じております。安心してご覧あれ」

 

 ニコリと笑みを浮かべ頷くと、アヴェリンは武器を一度手首で回して感触を確かめる。

 ブォンと音を鳴らして常と変わらぬ感覚に満足し、もう一度回して相対した敵に構える。必要ないと思ったが、事前の注意を考慮して盾も出す。

 同じ黒壇素材の盾で、衝撃吸収の魔術付与もされてある一品。

 

 敵は全部で五体。

 固まってはいるが陣形を組む訳でもない。武器を振るうに他の邪魔にならない範囲にいるだけ、という案配だった。

 

 アヴェリンは一足飛びに近付き武器を振り上げる。

 後ろからユミルの呆れたような野次が聞こえた。

 

「考えて動けっての」

「殴って確かめれば、すぐに済む!」

 

 果たしてその一撃は容易くゴブリンの頭を砕いた。

 

「ブゲッ!?」

 

 びちゃりと血飛沫が辺りに落ち、他の四匹が明らかに動揺を見せる。

 対してアヴェリンの心情は穏やかだった。

 ――取るに足りない弱い相手。

 その確認が取れれば、やる事はいつもと変わらない。

 

 手近な一匹に視線を向けて、メイスを振り下ろす。砕けた頭を見せつけられて、逃げ出そうとする敵に一歩で近づくと更に潰す。威嚇し奇声を上げようとした相手に、声を出すより前に叩き潰す。向かってこようと踏み出した敵は蹴り倒して昏倒させ、同時に攻めようと飛び掛かって来た敵に、メイスで迎え撃って胴を殴打する。

 

 無様な姿で地面に転がり、痛みで悶えている二匹の頭を順番に潰す。

 完全に沈黙したのを確認し、アヴェリンは踵を返した。戦闘前と同様、メイスを一振りして血肉を飛ばすとミレイユのもとへと帰って行く。

 

 そうして気付く。

 公園の入口より程近く、一つの人影があった。

 ミレイユと他三名は、その人影に相対して立っているようだった。敵対しているような雰囲気はない。困惑の方が強いようで、対処に困っているような感じがする。

 ――大した問題ではない。

 そして小さな問題の解決ならば、実に簡単な方法が一つある。

 アヴェリンはミレイユの傍らに立つと、何の気負いもなく提案を口に出した。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 暁は自らの思い付きに、たった一秒で後悔することになった。

 恐らくそれは、映画を見るような気楽さが根底にあったのだろう。見たこともない化け物と人間の戦い。肉を裂き血が飛び出し、骨を砕くような光景を本当の意味で理解していなかった。

 理解できよう筈もない。

 平和の世界しか知らぬ者に、一方的な蹂躙は恐怖を呼び起こす。

 それが例え人外の者だとしても、背を見せ逃げ惑う姿を一顧だにせず頭を砕く光景となれば、尚の事だった。

 そして何より、この臭気。

 鼻をつく血と贓物の臭いは、顔を顰めるほど酷いものだ。

 

 衝撃的な光景に慣れぬまま、ふと視線を感じると三名の女性が暁に向かって視線を向けていた。

 その三者を見て、またも種類の違う衝撃を受けることになる。

 

 そこにいたのは信じられない程の美貌を持つ女性たちだった。

 東洋人とも西洋人とも違う印象を受け、例えば彫りが深いなどの分かりやすい民族の特徴はない。それでも問答無用で心を射抜かれかねない、美の輝きを放っていた。

 とはいえ、その姿格好は異様の一言に尽きる。

 コスプレ会場が近くにあれば違和感もなかったであろう、現代日本ではまずお目にかかれない奇抜な格好をしていた。

 

 中央に立つ女性は大きな魔女帽子のせいで口元しか見えないものの、それだけでも相当な美人であることが、そのパーツから窺える。口元だけなのが、むしろ色気を感じさせる程だ。

 だが、その姿は実にチグハグで、魔術師的な何かなのかと思えばそうでもない。スカートの両サイドは深くスリットが入って動きやすいようにしてあるし、そこから覗く足には銀製らしきグリーブを履いている。

 胸には局所的なブレストプレートがあるのに、肩は思い切り露出している。その肩から下には外に広がる長い姫袖があるのだが、その下からはガントレットが覗いていた。

 矛盾だらけで意味不明、魔女と戦士、どちらもやりたいから合わせた格好という具合に見えた。

 しかし、ここからでも見える肩周りの筋肉の付き具合からして、その実情は魔女というより戦士なのかもしれない。

 

 二歩ほど離れた左側には、猫を思わせる挑発的な顔をした、二十代とも十代とも見える黒髪の美人がいる。

 艷やかな黒髪をサイドに纏め、黒と赤色をメインに使った冒険者のような格好をしている。

 ズボンもブーツも革製で、顎の付け根まで首を覆う動きやすそうなジャケット。グローブも付けていて肌の露出が極端にない。

 先程の魔女モドキと比べれば常識的で、フード付きのマントは旅慣れた旅装のように感じられた。

 

 その右隣には日本ではまずお目にかかれない、シルバーブロンドの美少女がいた。恐らくは十代半ばで、妖精を思わせる可憐さがある。

 身に付けている物もごく軽装、髪に合わせて白地に銀の刺繍が入ったワンピースのような服を身に着けていた。体のラインが出るほどピッチリとしているものの、下品さはない。スカートの丈は短いものの、太腿まで伸びる白いタイツが肌の露出を最低限に抑えていた。

 

 そして今まさに化け物を撲殺して帰ってきた美女は、他の誰より頭一つ分は大きい。二十代前半を思わせ、切れ長の瞳と金色の長髪を靡かせる様は女騎士を連想させる。

 軽戦士と思し革製の防具を身に着けていて、唯一金属を使っているのが左肩部分のみ。身軽さ重視でいるからこそなのだろう。

 

 その三対の瞳からは感情を伺うことが出来ない。

 品評するかのように彼女たちをマジマジと見てしまい、顰蹙を買ってしまったかと身を竦ませる。金髪の美女が暁を射抜くような視線を外さぬまま、魔女モドキの横に立って伺いを立てる。

 

「……殺しますか?」

 

 その衝撃的な一言で、美貌に現を抜かしていた暁は、強制的に我に返された。

 



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帰郷 その4

No.va様、あんころ(餅)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 暁は本能の警告を無視した事を、今更激しく後悔していた。

 

 金髪美女はメイスを掲げるように持ち直し、先程の化け物同様、いつでも頭を砕けるよう準備している。彼女が何を思ってそうしているのか分からないが、しかし殺されるような罪は犯していないはずだ。

 

 なまじ剣を齧っているから分かる。あれは相手取って、どうにか出来るような存在じゃない。

 あれを目撃したことが悪いと言うなら、忘れて誰も言わないと約束する。

 そのように説得すれば、この場を切り抜ける事は可能だろうか。

 

 空想は本当の意味で自分に牙を向いたりしない。

 身に起こった不運を嘆く前に、どうにか逃げる手段を講じなければならない。一切の抵抗なく頭を砕かれるのは誰であっても御免だ。

 暁が逃げる機会を伺っていると、無機質にも感じられる声で制止が掛かった。

 

「殺しはナシだ。武器を仕舞え、こいつは無事に帰す」

 

 とりあえずの安全は保障されて、暁はホッと息を吐いた。

 魔女モドキの命令に金髪の戦士は異議を唱える事なく、素直に武器を腰に収める。しかし、収めた武器の柄から手を離さない辺り、完全に警戒を解いたわけでもないらしい。

 

「だが、帰す前に訊きたいことがある」

 

 そして素直に返してくれる訳でもないと分かった。

 とりあえず従っておく方が賢明だろうが、即座に逃げ出したいという葛藤もあった。幾らかの逡巡の間に、魔女モドキは後ろに控えている誰かに声をかけた。

 

「――ユミル、あのまま死体の放置は出来ない。処理してきてくれ」

「はいはい」

 

 ひらひらと手を振って黒髪の女性が離れていくのを見守っていると、魔女モドキが向き直った。

 暁は思わず身体を強張らせるたが、次いで彼女の口から出て来た言葉は謝罪だった。

 

「こいつらは、こちらの常識について少々疎いところがある。気分を悪くさせたな、謝罪しよう」

「い、いえ……。それで、……その、こちらというのは? 外国からいらしたんですか?」

「そうだ――いや、私だけ日本出身だ」

「そうなんですね。でも皆さん、日本語が堪能なんですね?」

 

 魔女モドキは少し首を傾げた。

 

「何故そう思う」

「だって……日本語で指示してましたし」

 

 言われて動きがピタリと止まった。相変わらず帽子のツバで表情は隠れて見えないが、他の女性たちに目配せのような事をしているようだった。

 

「……うん、そうだな、堪能だ。ところで訊きたい。あの――」

 

 彼女は後ろで処理とやらを始めようとしている一帯を、親指で指し示した。

 

「変な奴らはこっちでよく見るのか?」

「まさか!」

 

 暁は慌てて首を横に振る。

 

「いるわけないじゃないですか! あんなの初めてみましたよ!」

「そうだよな……」

「でも、いましたよね?」

 

 沈み込むような魔女モドキの声を遮るようにして、銀髪の妖精が口を挟んだ。

 

「実は貴男の、ご同族だったりします?」

「そんな訳ないだろ」

「ミレイさん、貴女の言う常識は、ちょっと疑わしい感じなので黙ってて下さいね?」

 

 言われてムッツリと押し黙ったのを皮切りに、暁は首をブンブンと横に振った。

 

「まさか! そんな筈ないでしょ! 違いますよ!」

「そうだろ? そうだよな? ――そうなんだよ」

 

 意気揚々と頷きながら、魔女モドキは妖精にこれでもかと顎を上に向けた。

 しかし納得のいかない様子の妖精は、負けじと言い返す。

 

「ですよね。あんなミドリ、いなかったに決まってます。撲殺された死体を見なかったことにすればですけど」

 

 またも押し黙ってしまった魔女モドキが視線を後ろへ向けると、丁度そちらでは処理が始まったようだった。

 黒髪の彼女の手から紫色の光が浮かび上がると、円を描きながら空へ向ける。倒れていた死体が浮かび上がり、その場に立とうと体を震わせ、しかしそのまま灰になって崩れてしまった。

 

「なんですか、あれ……」

「死霊術を応用して、死体を灰にするとか見たことないんですか?」

「知りませんよ! 何をさも当然みたいな言い方してるんですか! あんなのが普通なら、とんでもないことになりますよ!」

 

 魔女モドキがピシャリと言った。

 

「じゃあ、見なかった事にしろ」

「えぇ……」

「――とりあえず、頷いておきなさいな。撲殺されたくなければ」

 

 処理を終えたらしい黒髪の女性が、先程の位置まで戻ってきながら物騒な事を言ってきた。黙っていろと言われれば、勿論そうする。約束するだけで生きて帰れるというなら否はない。

 しかし一々言う事が物騒で、これ以上関わり合いになるのは危険な気がした。

 害する気はないというのなら、もうこれは本能に従って逃げてしまうべきだ。

 

「さよなら!」

 

 暁は脱兎のごとく逃げ出した。

 壁があって逃げられないという事実は、頭の中から消えていた。走り出し、三歩進んだ時点で思い出し、どこに逃げるか、その前に壁にぶつかるかと思ったところで地面を蹴る感触がなくなり、足が二度、三度と空を切る。

 

 振り返ってみると魔女モドキの手が薄っすらと光っている。そのままチョイチョイと指先を雑に動かす手招きで、音もなく滑るように元の位置に戻された。

 居たたまれない気持ちのまま、暁は素直に謝罪した。

 

「はい、すみません……」

「逃げたくなる気持ちも分かる」

「じゃあ、逃して下さいよ……」

「訊きたい事が終われば帰す。それは約束する」

「ホントですか……? ホントに帰してくれるなら、もう何でもいいです」

 

 そのように言えば、身体を拘束する力は消え、身体が地面に降りる。

 一瞬、再び逃げ出しそうになる身体を意思の力で捩じ込んだ。ちらりと魔女モドキを見れば、暁の意図を察しているかのように、帽子の下の口元が弧を描いている。

 逃げだしていたら、即座に同じやり取りをする事になっていたのかもしれない。

 

「えぇと、聞きたいっていうなら勿論、答えられる事なら何でも話します。でも、あの……」

 

 暁は四者四様の姿を見ながら言い淀んだ。

 

「先に見えない壁を消して欲しいと言いますか。閉じ込められた状態じゃ、安心できないといいますか……」

「何だそれは。――壁? 何のことだ」

 

 魔女モドキが首を傾げた時だった。

 空には罅が入ったかと思うと、ガラスのひび割れが広がるように亀裂を増していって、遂には割れる。それで外の喧騒が耳に入り、音まで遮断されていたと知った。

 

「これのことか?」

「はい、ありがとうございます……」

「何の礼だ。これは私達がやったことじゃない」

 

 魔女モドキが肩越しに他の面々を見ると、誰もが表情を険しくしている。まるで何も知らなかったというような態度だった。

 難しく押し黙ってしまったのを見て、アキラはとりあえずの提案を試みてみた。

 

「あの、ちょっとお願いと言いますか、そういう感じのがあるんですけど! えーと、その格好って結構、目立つと思うんですよ」

「……そうだな、自覚はある」

「ですよね!」暁はしきりに頷く。「だから何ていうか、奇抜なのがマズイ訳じゃないんですけど! ここ、結構友人なんかも通りかかるんで、一緒のところを見られると、かなり……」

「……何が言いたい?」

 

 魔女モドキの言葉に険が含まれ始めたのを感じて、暁は慌てて手を横に振る。

 格好がまともなら、ファミレスでも行って話を続けたかった。しかしそれでは結局知人に知られるリスクは発生するし、この厄介事に巻き込んでしまう事にもなり得る。

 最小限のリスクに留めるには、暁が用意できる提案は一つしかなかった。

 

「つまりですね、場所を変えて貰えないかと。変な噂が立つと面倒ですし、家はすぐ近所ですから……!」

「ふぅん……?」

 

 ちらりとアキラに視線を向け、そらから後ろを振り返る。女性たち三人を順に見て行き、それぞれから頷きが返ってくると顔を元に戻した。

 

「いいだろう、案内しろ」

「ええ、はい。……あの、一人暮らしですし、狭いですけど」

「……苦労してるのか?」

 

 先導しながら歩き始めた暁に、そのような声をかけてくる。

 それに曖昧な返事を返しながら、今まさに苦労してるんです、などと返せず、眉を垂れ下げてガックリと首を落とした。

 

 

 

 

 暁が自宅のアパートの前に辿り着いたのは、それから五分後のことだった。

 ここです、と後ろを振り返ると全員が微妙な顔をしていた。もっとも、うち一人は正確に表情が読める訳ではなかったが。

 外国人には狭すぎるように感じてしまうのかもしれない。

 

「えぇと、ここの二階で、右端です」

「……そうか。不思議な縁、というべきなのかな」

「……はい?」

 

 首を傾げて意味を考えていると、何でもないと手を振ってくる。

 それにしても、こんな時でも思ってしまうが、女性を家に上げるなんて初めてのことかもしれない。それも誰もが眼を見張る美女揃い。それが何だか落ち着かない気持ちにさせてくる。

 勿論、何か下心があるわけでもなく、むしろ何かあれば砕かれる部分が色々と出てくるだろう。下手な真似など出来るはずもない。

 

 だが一応、断りだけは入れておくべきだと思った。

 暁としても不本意ながら、多くの人に勘違いされる外見をしている。だとしても今も尚、勘違いさせているなら、周知させるのがマナーだと理解していた。

 

「あの、大丈夫ですかね? 一応、男の一人暮らしの部屋に入ることになるんですけど」

 

 後ろの誰かが声を上げた。

 

「……男なんていたか? 誰が男だ?」

「アンタでしょ」

「ほう……。小さな侮辱であろうが、簡単には済まさんぞ」

「あらそう? ゴメンなさいね。アタシの口ったら、いつも正直で苦労するのよ。今度大人しくするよう言っておくわ」

「なるほど、よく理解した」

 

 今にも暴れ出しそうな二人に、暁は慌てふためき他の二人に縋るように視線を向ける。

 

「ご近所さんの迷惑になりますので、どうか……! あの、ちょっと止めて下さいよ!」

「あれの事は放っておいて大丈夫ですよ、いつものことです。……それより、あなたが男性だとして何か問題が?」

「特にないだろう。……つまり、礼節の問題だな」

 

 ああ、と納得を見せた妖精に、魔女モドキは頷く。暁の方に興味深げな雰囲気の視線を送る。

 

「女々しい男か、凛々しい女か、一体どちらだろうかと考えていたが……。賛成多数で女と認定していた。これは予想が外れたな」

「どこから出てきた多数派なんですか。勝手に認定しないで下さいよ……。いいですけどね、慣れてますから」

 

 鼻を鳴らして肩を竦めた魔女モドキに、力なく言葉を返して階段を昇る。例の二人は何かまだ言い合っているが、この際無視してまず部屋に入った方がいいと判断した。

 このままでは移動を提案した意味がない。

 

 暁は階段を昇って部屋の前に立つと、ポケットから鍵を取り出し鍵穴に入れる。いつもの調子で鍵を開けようとして、手応えが返ってこない事に違和感を覚えた。

 ドアノブを捻ってみれば、抵抗なく開いて眉をひそめる。

 

 今朝は鍵を掛け忘れただろうか。思い返してみても、そこにはイマイチ自信がない。

 盗まれるような貴重品は置いてないが、荒らされるのも嫌だ。

 もしもまだ犯人が中にいたとしても、頼りたくはない頼りになる四人組が傍にいる。

 

「ちょっと待ってて下さい」

 

 だから万が一はないだろうと思って部屋に足を踏み入れ、電気をつけて気配を探る。

 後ろの存在を無視して部屋の中一つ一つに顔を出し、誰も居ない事を確認する。簡単にチェックした限りでは盗まれたものもなく、不審者もいない。元より隠れられるようなスペースがあるほど広い部屋でもない。

 鍵の掛け忘れか、とイマイチ釈然としないまま玄関へと戻った。

 

 そこでは未だに睨み合いを続ける二人と、それを無視する二人がいる。

 げんなりとしながら、扉を大きく開いて中を示した。

 

「どうぞ。――あ、靴は脱いで下さいね。狭いですけど、四足分ならギリギリ靴を置くスペースもあると思うので……」

 

 そのまま踏み入ろうとしていた妖精に、やんわりと断りを入れれば、首を傾げながら魔女モドキを見る。頷き、言うとおりにしろと返ってくれば、狭いなか苦労しながら靴を脱ぎ始める。

 暁はとりあえず部屋の中に戻って簡単にチェックした。

 

 普段から気をつけているから、男の一人暮らしである事を考慮すれば、中は清潔の部類だ。

 乱雑に洗濯物が落ちていたりしないし、掃除機も週に一度かけている。だから、気にするほど汚れてもいない。

 一応寝室になっている和室の扉を閉めて、他の全員が来るのを待った。

 幾らも待たずに先頭になって入って来た金髪の女騎士は、天井を見て手で目を覆うように庇を作る。

 

「随分明るい蝋燭だな……。いや、違う何かが使われてるのか」

 

 しばらくして光に目が慣れると手を下す。後ろの入り口が詰まっているのを見て取って、体をずらして他の人が入ってくるのを促す。

 部屋の中に全員が揃うと、密度があっという間に埋まってしまい、座る場所に困ってしまう。客を立たせたままにするのも問題だが、そもそも客かという問題もある。

 暁が何かを言う前に、金髪の女騎士が首を巡らせ、部屋の中を確認した上でソファを示した。

 

「では、ミレイ様、どうぞ座って下さい」

 

 それをあなたが言うのか、という言葉は喉元まで出かかったが、何とか飲み込む。

 部屋の中にはソファが一つ切り。二人がけのソファーだが、基本的に一人で使うような家具だ。誰を座らせるかとなれば、おそらく自明の理としてリーダーの彼女となるのだろう。

 見た感じ、他の三人に序列はないように感じられたが、では彼女たち三人をどこに座らせようかと思い悩む。

 

「えー、他に椅子はないので、床に座って貰うしかないんですが……。慣れないでしょうけど、すみません、他に方法も……」

「結構だ、我々は立っている」

 

 言うや否や、金髪はソファーの横に立ち、後ろ手に手を組んだ。

 

「じゃ、アタシたちは適当に……。ああ、アンタはあの子の前にね、そのテーブル越し正面に座りなさい」

 

 黒髪がそう言うと、台所側に移動し、妖精は閉めた和室の扉に寄り掛かる。それぞれが四隅を埋めるような状態で位置を取られた。

 警戒に値するような相手でもないだろうに、それでも油断を見せない行動は、彼女たちの私生活が気楽なものじゃないことを予想させた。

 

「ええ、はい。それじゃ失礼して……」

 

 ミレイ様と呼ばれた彼女が座るのを確認してから、暁もまた床に腰を下ろす。

 自分の部屋なのに正座する程かしこまるのも違う気がして、ラグマットの上で胡座をかく。落ち着かず、妙にソワソワさせながら、相手からの言葉を待った。

 

「……そうだな。まずは自己紹介からか。順に名乗れ」

 

 小さく顎を動かし指示すると、隣の金髪が頷き、険しい視線をそのままに口を開いた。

 

「アヴェリンだ」

「は、はい、どうも……」

「愛想がないわねぇ、その子も困ってるじゃないの……。アタシはユミル。家名は捨てたから、ただのユミルと覚えておいて。よろしく、可愛子ちゃん」

 

 アヴェリンと名乗った彼女は取っ付きにくいが、次に挨拶した黒髪のユミルは対応が柔らかい。暁は身体を向けて小さく頭を下げた。

 

「はい、よろしくお願いします」

「私はルチア・メディウム。短い付き合いでしょうけど、よろしく」

「――本当はもっと長い名前じゃない? そっちで名乗らないの?」

「あれは親しい人にだけ名乗るものなので。あなたにもそうだったでしょう?」

「……ああ、あれってそういう意味だったの。突然呪文のように名乗られて、面食らった覚えあるわねぇ」

 

 唐突に話が脱線し始めて、暁は挨拶をする機会を失ってしまった。口を挟んでよいものか、幾らか逡巡している間に、ミレイ様と呼ばれた人が帽子を取って膝の上に置いた。

 

「そして、私はミレイユだ。名字はない――おい、どうした?」

 

 暁はその素顔を見て驚愕し、動きが全て止まってしまっていた。

 ルチアに向けていた身体を、ミレイユが帽子を取った事でそちらに意識を向け、今まで見れなかった顔に興味が湧いて視界に入れ、そして硬直した。

 

 日本国民なら知らぬ者はいない。

 全ての尊崇と感謝を抱き頭を垂れる存在、――オミカゲ様がそこにいた。

 暁は即座に姿勢を正し、足を揃えて正座になる。握り拳で床に手を付き、三歩分の距離を後ろに下がって頭を下げた。

 

「オミカゲ様! し、知らぬ――いえ、ご存知……、いや、知らぬ事とはいえ、数々のご無礼、真に失礼しました……!」

 

 つっかえ、吃り、まともに言葉も選べない状態で、暁は必死に頭を下げて懇願する。顔を知らぬ、見せない相手だったとはいえ、敬意を払うべき相手には違いない。

 もしも叱責を受ければ、その場に崩れ落ちる自信すらあった。

 

 アヴェリンは暁の姿勢に満足したような笑みを見せるも、ミレイユからすればその豹変ぶりは異様の一言だ。明らかに誰かと勘違いしていると察して、戸惑いを見せつつ声をかけた。

 

「ああ……、なんだ。私が誰かに似ているのか? この顔に見覚えがあるとしても、私はきっとその人とは関係ない。だから顔を上げてくれ」

 

 心配そうな声音でそう言われてしまえば、暁も顔を上げざるを得ない。

 恐る恐る顔を上げ、あるいは見間違えだったのかと確認してみれば、そこにはやはり、知った顔――ご尊顔がある。

 恐れ多い気持ちで見つめてみれば、ミレイユの言うとおり、別人の可能性が見えてくる。

 そもそも、オミカゲは白髪なのだ。

 

「……ああ、はい。すみません……。でも、あまりに似すぎていて……本当に別人なんですか?」

「その態度を見れば、明らかに身分の高い誰かを想定してるんだろうが……。この国で生まれてから、身分が高かった事は一度もない」

 

 その言葉に嘘がないのか、それは暁には分からない。

 ただオミカゲ様には幾つもの伝説がある。鬼や妖怪の退治の伝説もその一つで、影から日向から、この国を守って来たという逸話である。

 もしも、姿格好を変えて、今も変わらずそのような戦いに従事していたら――。

 

 先ほど見た化け物の存在が、その発想に拍車を掛けていた。

 暁は到底、目の前の御方を直視できず、頭を下げて平伏する。

 

「しかし、しかしですよ……!」

「そんな格好では話も出来ないし、何より私が気に食わん。――いいから顔を上げろ」

 

 その堂に入った言葉で、暁は引き起こされるように顔を上げる。

 そこには困ったような呆れたような顔をしたオミカゲ様――ミレイユがいた。

 

「そんなに似てるか」

「髪型と髪色を抜かせば……」

「それは……どうなんだ? 随分と大きな違いじゃないか?」

「でも、この世に二つと同じ顔はいないというのが通説で……」

 

 ミレイユは眉を顰めて嘆息した。

 

「よく分からんが……。とにかく別人だから、お前もそのように接しろ。……そういえば、まだ名を聞いていなかったな」

「は、はい。由喜門、暁と申します」

「そうか、アキラか。良い名……だろうな、きっと」

「お、お、恐れ入ります。あの、でも、由喜門といっても、傍流でして! 両親も既に他界し、だから本家の方に会った機会もなく……!」

 

 突然始まったアキラの弁明に、ミレイユは目を白黒させた。

 

「待て待て、いきなり何の話だ。お前の名字に何かあるのか?」

「え、いや、はい……。ですから、由喜門家です。お貴族様の……」

「知らないな、特別有名な名前だという記憶もない。大体、貴族ってのは何だ」

「ご存知ない筈ないでしょう? 天下五家、オミカゲ様に仕える御由緒家のことですけど……」

 

 恐る恐ると言う具合に述べたアキラだったが、ミレイユは大仰に肩を竦めた。

 

「やはり知らない。第一、貴族家なんてないだろう? 華族のことか? それだってGHQに解体されただろうに」

「……えぇっと、GHQってなんですか? 貴族も華族も両方ありますし、解体なんてされてないですけど……」

「なに……?」

「――おおっ、ととと……」

 

 横から面白そうに笑うユミルが、口を挟んできた。

 

「食い違いが凄まじいわね。話を聞いてると、お互いに勘違いし過ぎじゃない? アキラはミレイのこと別人だと思ってるし、ミレイは国を勘違いしてるし」

「いや、こいつはともかく、私はしていない。ここは日本だろう?」

「ええ、はい、それは勿論……」

 

 ミレイがほら見ろ、と言いたげにユミルへ顔を向けるが、それだと色々可笑しな食い違いの説明がつかない。

 

「アンタには前科があるからねぇ。割とアンタが口にする常識って、当てになるのか疑問に思えてきたところよ」

「そんな事ないだろ……」

「だって、アキラがウソ言う必要ないじゃない」

「私にだってない」

「じゃあ、どちらかが思い違いをしているって……そういうことに、なるのかしらね?」

 

 はぁ、とミレイユが不快げに息を吐いて腕を組んだ。

 チラリとアキラに視線を向ける。

 

「お互いに嘘を言っていない、という認識でいいよな?」

「も、勿論です!」

「じゃあ聞かせてくれ。GHQを知らないって? 日本史が苦手ってことはないよな?」

「人並だと思いますけど……」

「第二次大戦で敗戦した後に――」

「ちょっとお待ちを」

 

 アキラが手の平を向けて顔の横まで持ち上げた。

 

「敗戦って何ですか? 日本がってことですか?」

「……ああ」

「いや、日本は戦争に負けてません。外国との戦争で負けたことありませんから」

「……何だって?」

 

 その返答は、ミレイユを大いに頭を悩ませることになった。

 この程度の知識は思い違いや勉強不足で出てくるような間違いじゃない。いきなり、お互いの認識による齟齬が現れた形だ。

 

「敗戦の経験がない……、意味不明だな」

「それはこちらの台詞でもあるんですけど……」

「分かった……。いや分からないが、とりあえず置いておく」

 

 ミレイユの提案に、アキラも不承不承という体で、とりあえず頷く。

 痛いものを堪えるように眉根を寄せて、質問が続いた。

 

「それで……、何だったか。貴族家があって、それと別に華族があると言ったか?」

「ええ……、はい。貴族というのは御由緒家の五家の事を指しますが、爵位はありません。逆に華族は爵位を持っていて、こちらは世界的に見た場合の貴族に該当します」

 

 ミレイユは大いに眉を顰めた。

 

「おい、ややこしいな……」

「つまり文字通り、貴い一族というのが御由緒家という事なんだと思います。何しろオミカゲ様の血筋に連なる訳ですから」

 

 それだ、とミレイユは指を突きつけた。

 

「そのオミカゲ様ってのは、何だ?」

 

 その問には、流石にアキラも表情が歪むのを抑えることはできなかった。思わず変質者を見たかのような視線を向ける。

 

「その、本気で言ってますか? 外国から来たって言ってましたけど、相当遠い国から来たんですか? つまり、途上国とかから?」

「途上国というのは、あながち間違いではないかもな。……だが、私の知る日本に、そのような名前の有名人はいない」

 

 アキラは困った顔で眉根を寄せ、思わず唸った。

 

「外国の人でも、そうそう知らないって事はないと思ってたんですけど……。洗脳教育とかじゃなく単なる事実として、日本に神様がいると知られていると」

「いや、そりゃあどの国にも敬う神を持っているものだろう。人種と宗教は切っても切れない、そういうものだろう?」

「ですから、そういう意味の神様ではなくてですね。……あの、本当に分かりませんか?」

「分からないというか……いや、そう思うのは勿論、個人の自由とは思うが。熱心な信仰を持つ人は、その実在を信じているものだしな……」

 

 アキラは大きな身振りでそれを否定した。

 

「それとこれとは全くの別物です。多くの宗教が神聖視している存在と、事実として存在する神様がいて、そしてオミカゲ様は実在する神様なんです」

「うぅん……」

 

 ミレイユは困った顔をして組んでいた腕を解き、額を指先で掻く。

 お互いに譲れない、というか、受け入れ難い部分で大きく食い違っている。

 ルチアが小さく手を挙げて、会話が止まった隙に横から質問を飛ばした。

 

「ミレイさん、ちょっと聞きたいんですけど、私達の常識としての神はいないんですよね? つまり、あちらの世界の神という意味ですけど」

「――いない。前にも言ったが、神はいると信じられていても、見て触れられる存在として地上に降りて来たりはしない」

「ですから、唯一の例外がオミカゲ様となります。日本の民を遍く見守り守護してくださっている神様なんですから」

 

 アキラが力強く言い放ちながら、部屋の天井角に指を向けた。

 

「その大いなる御神徳をもって守護してくださり、お救いしてくださる地上に顕現した神様なんです。外の国の人は、それが自分達に及ばないからと、非難ばかり多いですが」

「つまり、偶像ではなく、真実そこにいる存在という訳ですか。私の知る神は、信者が祈れば疾病退散とかしてくれるんですけど」

「まさしく、それもオミカゲ様の御神徳の一つです。だから日本人は病気と無縁だと言われるんですよ」

 

 アキラが我が意を得たりと、朗らかに笑った。

 対してミレイユの顔が曇る。考え込むように眉根を寄せ、アキラの指差した神棚を見た。

 

「つまり、本当にいるのか。信じているのではなく、本来なら奇跡と崇めるような事が、自らに起こると……」

「そうです。その奇跡自体、そしてオミカゲ様自身を、外国側の宗教として認められないのは知っています。でも現実として起こる事実なんです」

「そして、そのオミカゲ様の顔は周知されていて、私の顔が同じだと?」

 

 アキラはきっぱりと頷く。

 ただ、眉を八の字に情けなく垂れ下げた。

 

「不敬で済みません。でも、オミカゲ様と同じ顔を持つ者はいないとされるのは、僕もよく分かるんです。人種にある特徴を持たず、しかし誰もが頷く美麗な顔つき。ご本神としか思えないのに、その貴女から否定されてしまっては、つい熱くなってしまって……」

「ああ、それについては、私も済まなかった。悪気があった訳じゃないんだ。ただ、私の知る常識と違ったから……」

 

 ミレイユは大きな溜め息をついて、再び腕を組む。俯いて、何かに苛立つように足を組んで揺らした。

 そこに再びルチアが口を挟む。

 

「でも、私達からすれば、そこは全く重要じゃないんですよね。信仰する神から加護を得られるなんて、常識であり事実ですから。問題は、それをミレイさんが認めてないっていう方で」

「……ここ、本当にアンタの故郷? 似てるけど、別の場所じゃなく?」

 

 ミレイユは苛つきを隠そうともせず、突き放すように言う。

 

「だったら言葉が通じる方が可笑しだろ」

「なぜ?」

「当たり前のことを聞くな。言語が違う――」

 

 言い掛けて、言葉と共に足の動きも止まった。

 

「どうして国が違うと言葉が通じないの? それっておかしくない?」

「こっちの世界じゃな、国が違えば言葉も違うものなんだ。あちらとは違う」

「でもじゃあ、なんで通じてるのよ?」

「――そこだ。さっき公園でも指摘されて不思議に思った。お前たち、何語で話してるんだ? それ、日本語じゃないだろ」

 

 指摘されて、それぞれが口元に手を当てる。当たり前に話していたからこそ、気づかなかった事実だった。

 

「私はこちらに来てから、ずっと日本語で話していた。お前たちは勿論、違ったはずだな?」

「そうね、ニホンゴとやらもアタシは知らないし」

「――今の。それだ、もう一度言ってみろ」

 

 人差し指を向けた真剣な眼差しの要望に、ユミルは奇妙に思いながらも言うとおりにする。

 

「そうね、ニホンゴとやらも……」

「――見たか?」

 

 言葉を遮り、ミレイユはルチアに、そしてアヴェリンへ指を向けた。

 

「ええ、口の動きと実際に聞こえてきた言葉が違いましたね」

「はい、今のルチアの言葉も、口の動きと合致していませんでした」

「では、どうしてこれを日本語として認識できているんだ?」

 

 悍ましい何かに絡め取られているような錯覚を、ミレイユは感じたようだった。

 奇妙に思うばかりではなく、アキラもまた恐ろしい何かの一端に触れてしまった気がする。

 そんな二人を尻目に、ルチアが人差し指を顎に当てながら、首を傾げる。

 

「私が何もかもチグハグでイライラするって言った時のこと、覚えてますか?」

「ああ、公園に向かう途中だったな」

「そして、その前にも少ない魔力でどうこう、って話もしていたと思うんですよ」

「ああ、覚えている」

 

 ミレイユは頷いて続きを促す。

 

「あれですけど、柱と柱を繋ぐ線、あれに魔力が流れていて――そこから分散、散布? とにかく広がって空中を覆っていたんですね」

「何だと……?」

「今この場でも、何かしらの魔術の影響下にあるってことですよ」

「ということはつまり……」

「言葉が通じているのは、その影響を受けているから。そう考えることができます」

 

 馬鹿な、とミレイユは吐き捨てるように呟いた。

 

「この世界に魔法も神も、奇跡も悪魔も存在しない……!」

「でもいましたよ、ミドリの奴。魔法だってありますよ。ほら……」

 

 ルチアの広げた手が青い光に包まれる。その手の平を包む淡い光から、不自然な動きで氷を生まれた。それを天井近くへ放り投げると、砕けて雪になって降ってくる。

 

「魔法もあって魔物もいるのなら、神がいたって不思議じゃないでしょう」

 

 アキラはここに至って俄に理解し始めた。

 思えば、それに思い至る切掛は幾つもあった。ただ常識が理解を拒んでいただけで、彼女たちの口から出てくる言葉だけでも、予想できる単語が幾つも出てきていた。

 

「この世とか、あっちの世界だとか……。貴方たち一体、何者なんです……まさか」

 

 ミレイユは一つ息を吐くと、観念するかのように顔を俯いて言葉を落とした。

 

「……そうだな、話しておくとしよう。私達は別世界の住人だ。こことは全く別の世界からやって来た」

 



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別世界の住人 その1

あんころ(餅)様、誤字報告ありがとうございます!
 


「別世界の……住人。異世界人、という事ですか?」

「そうと頷くには少々複雑だが……、説明が難しい。まぁ、それでいい」

 

 暁は眉を顰めて口をポカンと開けた。

 随分と間抜けな顔を晒している自覚はあったが、そんな事を気にする余裕もなかった。

 公園からこちら、不思議な事が起きていて、もしかしたらと思い続けて来た事ではあった。非現実的な光景が、理解を拒んでいた事もあった。常識が理解に蓋をした部分もあった。

 

「だって……、でも……、本当に?」

「思うに……」ミレイは困ったように眉を寄せた。「私達はこの世界の人間ではない。だから、この世界とは違うルールで動いてる。あまりによく似た見た目だから勘違いしてしまうんだろうが、そもそもの存在として別物だ」

 

 言ってることが曖昧で、あるいは複雑で、アキラはそれを上手く理解できない。

 

「別物というのは分かる気がしますが……。でも、やっぱりよく分かりません」

「分かる必要はない。ただ違うと理解していればいい。何故を考え出すと切りがない。今はそれでいい」

「自分に言い聞かせるような台詞ねぇ……」

 

 ユミルが肩を竦めて軽口を叩くと、ミレイユは困った表情のまま頷いた。

 

「まぁ、事実そうだろう。言葉が通じるのは電線を通る魔力のせいか? では誰が何の理由で流している? 魔力の使い道はそれだけか? あまりに限定的すぎないか? 単なる副産物としての利用なら、他の使い道は何になる? 魔物出現と関係はあるのか?」

 

 つらつらと言葉を重ねてから、不意に口を閉じる。

 ミレイユはルチアを見つめるが、返ってきたのは苦い笑みだった。

 

「私にも何一つ分かりません。この世界では、それが常識なのかも分からないのですから」

「そこだ。私の持つ常識と食い違う大きな部分。多少の食い違いではないぞ、それこそ別世界に迷い込んだ気分だ」

「実際に別世界である可能性は?」

 

 ミレイユは目を固く閉じて、数秒の沈黙のあと溜め息を吐いた。

 

「ないとは言えない。こちらの世界に渡った直後は、帰ってきたという確信があった。……だが、今は揺らいでいる。詳しい指定をせずに『遺物』を使った弊害か、それとも別に理由があるのか……」

「ミレイユさんは――」

「ミレイユ様、だ。不敬だぞ」

 

 それまで黙って控えていたアヴェリンから叱責が飛ぶ。不機嫌さを隠そうともしない物言いに、ミレイユが苦笑する。

 

「まぁ、こいつはいつもこんな調子だ。気にするなと言いたいが、従わないと色々口喧しい。今のところは言われたようにしていろ。不満はあるだろうが、今は飲み込め」

「ええ、はい、了解です」

 

 最初からミレイユは偉そうな態度ではあった。偉そうというより、人へ命じるのに慣れた振る舞いだった。命令口調ではあるのに、それが嫌味に感じられず、素直に従ってしまう。それがアキラには不思議だった。

 

 ミレイユを呼ぶ際、他の二人は普通に呼びかけるのに、このアヴェリンだけは敬称を付け、粗雑な振る舞いを許さない。思えば、真っ先に椅子を勧めたのもアヴェリンだし、丁寧な言葉づかいを崩さないのもアヴェリンだけだ。

 そうする理由があるのだろうが、今のアキラに知りようもない。

 尋ねれば答えてくれそうではあるものの、今は他にも気になる事があった。

 

「えぇと、ミレイユ……様、だけは日本出身なんですか?」

 

 そうだ、と顎を引くように小さく頷く。

 

「でも名前が、随分日本人っぽくないというか……。いや、そういう人がいるのが可笑しいと言うんじゃなくて、その場合漢字の当て字的なものがあったり、親が外国人だったりするじゃないですか。どちらも違うような感じで、それが不思議で……」

「うん……」

 

 ミレイユはソファに体重を預け、天井を見上げた。組んだ足がブラブラと揺れ、アキラの視線の高さからどうにも太腿が目に入り、目のやり場に困ってしまう。

 しばらくしてから、ミレイユが口を開いた。

 

「……考えてみたが、説明するには長すぎる。それに教える意味もない。――悪く思うな、お前はそれを知れるほどに親しくない」

 

 最もと言えば最もな言葉だった。

 少々キツい言い方だったものの、今日知り合っただけの人間に、明け透けに物事を打ち明けられる人間は多くない。親しい友人にしか話せないというのは納得できる気がした。

 

「私はこの国で生まれ、育った。それだけ知っておけば良い」

「……えぇ。でも、この国の歴史、随分勘違いして覚えてますよね。勉強不足というより間違って教わったかのような、根本的に履き違えているっていうか」

「そうだな……。そこは私もよく分からない。……ボタンのかけ間違いが起こっている。そんな感じがするな」

「それは、僕との?」

「いや、私と世界との」

 

 いきなり壮大な話になってしまい、アキラには何も言えず閉口した。

 

「魔力が実在する事自体がな……。電線に通う魔力、か。因みに、これは常識か?」

「いえ、まさか! 魔力は空想上の、漫画とかテレビとか、そういう世界の産物っていうのが常識で……!」

「……そこは共通してるのか。じゃあ、あるいは電線に電力以外が通っているという事実は?」

「それもないですよ! ……いや、まぁ、ないと思ってました……」

 

 先程の雪を降らせてみせた手法が、単なるマジックではなかったと、アキラはもう理解している。緊張を強いられる状態だったから、本当に騙す気でいたならその限りではないが、そうする理由もないだろう。

 

 自分の知らない世界があって、文字通り別世界の住人がやってきた。

 ならば見えてないだけで、これまでも空想と切り捨ててきた事実が身近にあったのかもしれない。そして実際、それがどういう事実に繋がるかは不明だが、魔力は電線を流れているそうだ。

 

「僕が知らないというだけで、常識を疑うべき物は他にもあるかもしれませんけど……」

「それじゃあ、ちょっと愉快なミドリの化け物も見たことがない?」

「さっきも言いましたけど、見た事も聞いた事もありません! 魔力はあったら嬉しいフィクションですけど、あっちはいて欲しくない方のフィクションでしょう!」

 

 そうだな、とチラリと笑ってミレイユは頷いた。

 そうやって見せる笑顔は胸に突き刺すような破壊力を秘めている。オミカゲ様によく似た顔となれば、誰だってそうなるという確信が、アキラにはあった。

 

「実は秘密裏に誰かが倒して処理してるとか、或いはそういう組織があるのかもしれませんけど……」

「あれが今日初めて遭遇した魔物か、それとも昔から住み着く魔物なのか、それで考え方が随分変わってきそうだな……」

「オミカゲ様には昔から妖怪退治、鬼退治の伝説が数多くあるんですよ。だから、もしかしたら、あるのかもしれません……」

「オミカゲ様、ね……」

 

 ミレイユは不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 

「否定してやりたいが、話を聞く限り、実在を疑っていないんだな。……神がこの地上にいるのか」

「――おられます。古来より雲海から人々を見守り、千年前から地上に降臨し、日本史にも幾度となくその名が出て来る存在、それがオミカゲ様です。数多の悪を挫き、弱き者に手を差し伸べて来た神でもいらっしゃいます」

 

 へぇ、とユミルが感心したような声を上げた。

 

「それにしても、千年? 随分と若い神なのねぇ」

「その辺は諸説ありまして。日本創世の時からいたけれど、あくまで降臨されたのが一千年前だとする説もあって。未だに答えが出てないみたいです」

「本神に尋ねればいいじゃない。過去に尋ねた人はいなかったの?」

「多くを語らない御方ですから。名声も誹謗も我関せず、清濁併せ呑むといいますか……。歴史学や考古学の学者たちは、一度でいいから話をしたいと考えてるみたいですけど……」

「何言ってるの。尋ねればなんて言ったけど、神が学者と対話なんて、笑い話の類でしょ」

「――えっと、私からも聞きたいんですけど」

 

 いいですか、と言いながら小さく手を挙げたのはルチアだった。

 アキラに伺いを立てたというよりミレイユに許可を得たいようだった。頷きが返ってくると、手を下げてアキラを見る。

 

「他にはどんな神々が?」

「他の宗教の、という意味ですか?」

「そこはどちらでも。常に顕現している神は珍しいですから。全体でどのくらいか、おおまかにでも知れたらなと」

「地上に留まっておられる神様は、唯一オミカゲ様だけです。――ああ、自分を神と名乗る者は幾らでもいますし、その中に本物がいると主張する者はいますが」

 

 アキラは誇りを持って胸を張った。

 

「でも不老長寿を体現し、ご利益もあり、全国の神社で病気は快癒せしめ、怪我も骨折くらいなら三日で治る。それを誰の目にも明らかな形で実現させるのは、オミカゲ様のみです!」

「疾病治癒の権能……、どこかで聞いた話じゃないですか」

 

 アキラが一人盛り上がるのを他所に、ルチアが得心したように頷く。それと同じく、ミレイユもまた苦いものを呑み下すように頷いた。

 

「あちらの世界の神の基本権能だ……。怪我はともかく、病気はどの神でも下す事のできる奇跡だった」

「関係あると思います?」

「ないと思いたいが……」

「確信は持てない訳ですね」

「私達がここにいる。そして魔物さえもが現れた。ならば神はどうなる……?」

「いないと断じる方が不自然と。……でも、さっきの言葉を信じるなら、一千年も前から来ていたという事になります」

 

 そこだな、とミレイユは苛立たし気に、組んでいた腕を強く握る。

 

「そこが最も不可解だ。過去、あちら側で世界を渡った神の伝承など聞いたこともない。ユミルは何か知っているか」

「アタシの知る限りにおいて、世界渡りをした神も、忽然と消えた神もいないわねぇ」

「やはりそうか……。無関係だと思うか?」

「関係があったとして、今は推測の域を出ないでしょう。――それとも、深く関わるつもり?」

 

 ユミルは念を押すというよりも、明らかにそれを望んでいるような口振りだった。

 ミレイユは指摘されててハッとする。眉根を寄せて、ぞんざいに腕を振った。

 

「そんなつもりはない。……そうとも、そもそも関係のない話だ。民の病気を癒やしていたいというなら好きにさせるさ」

「あら残念。またいつものように首を突っ込んで行くかと思ったのに」

「したくてやってた訳じゃないんだよ。……ああ、全く。馬鹿らしい。いつもそうだったから、何故か当たり前のように探ってたが、そもそも必要ないじゃないか」

 

 ミレイユは吐き捨てるように言い、左右の足を逆に組み直す。

 

「アキラ、……まぁ色々振り回して悪かったが、用は済んだ。もう出ていく」

「え、あ、そうなんですか……?」

 

 唐突に放り出されたような感覚で、アキラは思わず呆けてしまった。

 多くはアキラに分からなかったが、何やら白熱した議論が繰り広げていたようだった。それが突然水を掛けられたように静まったのだから、面を喰らうのも当然というものだ。

 

「でも何か、世界の裏側を覗き込んでしまったというか、教えられてしまったというか……。とにかく困惑が強くて」

「私も似たようなものだが。まぁいいさ、世界が何か違っているように見えても日本である事に変わりはない。元より戦いから身を引いて、悠々自適に暮らす目的で来たのだから」

「バカンス目的で世界を超えたんですか!?」

「うるさいな、そんな俗なもんじゃない。帰るべき故郷に帰りたかったというだけだ。こっちは飯も美味しいし、娯楽に困らないしな」

「やっぱりバカンスじゃ……」

 

 ミレイユはフンと鼻を鳴らして、アヴェリンに顔を向けた。

 

「そういう訳だ。無駄な遠回りをしたが、最初に言っていたとおり、何も変わらない」

「構いません。しばらく、お好きなように過ごすがよろしいかと」

 

 うん、と満足そうに頷いて、ミレイユは組んでいた足を直した。

 

「それじゃあ、邪魔したな――」

「ちょちょちょ、ちょっと待って下さい!」

「なんだ……」

 

 アキラの慌ただしい声に、ミレイユは不満げに目を細めた。

 ミレイユから受ける視線に身が竦むが、今は――今だけは屈してはならないと本能が叫んでいる。だから、アキラは腹に力を入れて、その瞳を見つめ返した。

 

「いえ、その、あのミドリの魔物……。あれって、今後どうなるんでしょう?」

「どうって?」

「すぐ近所に出てきたんですよ! 僕の家の目と鼻の先に! また出てきたら、一体どうすれば……!」

 

 ミレイユは不思議そうに首を傾げる。

 

「逃げればいいじゃないか。無論、戦うでもいいが。あまりお勧めしないな。あれはあれで、結構厄介な……」

「え、あの……何もしてくれないんですか?」

「何をする必要がある。さっきそう言ったろう?」

 

 確かに言っていた。バカンスじゃないとも言ってもいたが、娯楽目的で来たというような言葉も聞いている。とはいえ、アキラからすれば、あんな魔物が出現すると知って尚、何もしないつもりなのが不思議でならなかった。

 

「何があろうと耳を塞いで、目を覆うって事ですか? いるかも分からない秘密組織が、勝手に魔物を討伐してくれるのを期待して待てと?」

「まぁ……、そうだな。こうして知り合った以上、明日死んでいるかもしれないというのは、確かに寝覚めが悪い」

「じゃあ……!」

「うん。だから、お前が戦え」

 

 その一言に、アキラの身体が固まった。

 ミレイユはアキラの身体を上から下まで、矯めつ眇めつした。

 

「見たところ、剣の扱いには多少心得があるんだろう?」

「よく分かりますね……」

「まぁな。分かるんだよ、そのくらい、私は。……とはいえ、何も知らずに武器だけ手に取り立ち向かうのは、あまりに無謀だ。あれは弱い相手だったが、同時に警戒が必要な相手でもある。それに遭遇する敵の全てが弱いわけでもないだろう」

 

 ミレイユは嘆息し、面倒そうに首の後ろを掻く。

 

「これからも出てくるかどうか分からんし、常にこの周囲に出るものかも分からない。だが備えたいというのなら、それに力を貸してやるぐらいはしてやってもいい」

 

 それは実際、悪くない提案のように思われた。

 単に寄りかかり助けを求めるだけというのも情けない話で、自ら立ち向かう方が道理に叶う。剣術を習い始めた動機もまた、理不尽な暴力に対抗するためであったのだから。

 アキラは頷き、両手を拳で床につけて頭を下げた。

 

「どうか、よろしくお願いします……!」

「うん。――という訳だ、お前たち、面倒見てやれ」

 

 ミレイユの言葉で即座に頷いたのは、アヴェリンだけだった。

 

「畏まりました、任せるに足る結果をお見せしましょう」

「あー……、アタシも?」

「ユミルは好きにしていいが、ルチアは魔物に対する基礎知識や対応方法など教えてやればいい。つまり、座学全般だな」

「うーん……。ま、いいですけどね。アヴェリンの空いた時間にでも教えれば?」

「そうしてくれ。それほど教える事は多くないだろう。あちらの何が出現するかも分からないしな」

「あの、引き受けるような事言っておいて、いきなり他人に丸投げですか……!?」

 

 アキラの慌てるような非難の言葉に、アヴェリンは大いに顔を顰めた。不機嫌な視線を向けたまま、指を突きつけ言い放つ。

 

「いいか、貴様。ミレイ様に直に教えを賜わろうなど、過ぎた願いだ。例え一国の王だろうと簡単な事ではない。師として預かったからには、そこから徹底的に教えてやる」

「いや、その、そういうのは別に望んでいないというか……!」

「師匠には常に、はいと答えろ。師弟関係は、既に始まっていると知れ」

 

 アヴェリンが一歩踏み出した時だった、部屋にインターフォンの音が鳴り響く。突然の事にアヴェリンは一瞬だけ動きを止めたが、それが何であるか理解するにつれ硬直を解く。

 

「呼び鈴か? 独特な音だな」

「あ、はい、出ます」

「――いい。ミレイ様の安全に関わる事だ、私が出る」

 

 アヴェリンにそう強く言われては、アキラも押しのけて出るような真似は出来ない。浮かしかけていた腰を降ろし、落ち着かない様子で来訪者を待った。

 扉の外で何かを言い合う音を拾い十秒、幾らと待たずにアヴェリンが帰って来るとミレイユに向かって腰を折る。

 

「隣の部屋の者だと言う輩が来ています。何でも、騒がしいのだと。……殺しますか?」

「ちょっと、何でそう一々物騒なんですか! 僕が出ます! 自分で対応しますから!」

 

 これは間違いなく押し退けて出なくてはいけない問題だ。

 アキラは傷害事件発生を阻止すべく、勇気をもって飛び出した。

 

 

 

 隣室の住人には平謝りする事で、とりあえず許しを得た。隣に住むのは社会人で一人暮らしの男性で、もしかしたら騒動に巻き込まれたんじゃないかと心配になって声を掛けたと知らされた。

 騒動に巻き込まれたのは事実かもしれないが、かといって知ってしまった事実をなかったことにも出来ない。何事もないとお礼を言って別れ、戻ってきた拍子に視界に入った時計は夜九時を示そうとしていた。

 

 ミレイユ達を連れ帰ってきたのは七時前後だった筈なので、結構な時間を過ごしていた事になる。時間に気付いてしまえば、すぐに空腹を自覚しだした。

 

「戻りました。……えぇと、もう晩飯の時間も随分過ぎていますけど、皆さん食事はどうする予定ですか?」

「ああ、それか……」

 

 ミレイユは組んだ足の上に肘を乗せ、手の平に顎を乗せてアキラを見る。

 

「どうしたものかと考えていたところだ。備蓄はあるが、そう多くもない。今日のところは仕方がないとして……」

「え、あるんですか、食料? 備蓄って、どこかに拠点でも?」

「イエスであり、ノーだ。――ほら」

 

 ミレイユが空いた方の手の平を見せるように突き出すと、そこには剥き出しのパンが乗っていた。直前まで何の前触れもなく出て来たパンに、アキラは目を白黒とさせる。

 

「え、今の……! どこから出したんですか? どこに隠してたんです?」

「別に隠してた訳じゃなくて、個人空間から取り出しただけだ。因みにこれは備蓄していた物とは、また別の物だ」

「うわ……、すごい。マジック見せられた気分」

「純然たる魔術だよ。魔力を持つ者ならば、大体これが扱える。あちらの世界の常識だな」

 

 へぇ、とアキラは感嘆してミレイユを見つめた。

 魔法の行使は幾度か見たが、これほど『らしい』ものを見たのは初めてだ。常識が違うというのもまざまざと見せつけられた格好だが、それを当たり前に使うのも危険な気がした。

 

「凄いですし、見れて嬉しいですけど、そういうの余り気軽に見せない方がいいんじゃないかと……」

「分かってる。お前は身内に限りなく近い他人だから見せた。そう軽々しく外では使わない。他の者にも周知させておく」

「ですか……」

 

 素直に頷き、出されたままのパンを見る。

 どうぞ、という風に差し出されたので、そのまま受け取ってみれば、予想に反した固いパンだった。膨らみも小さく、香りも殆どしない。保存状態の悪さというより、元からこういうパンなのかもしれない。

 

「これが異世界産のパンですか」

「そうだ。因みに、そのまま食べると痛い目を見るぞ」

「えっ!?」

 

 思わずマジマジとパンを見つめてしまう。

 腐っているようにも見えないが、どこか傷んで食べられないのだろうか。

 

「これ、そんなに保存状態悪いんですか?」

「そういう意味じゃなく」ミレイユは小さく笑う。「食パンを食べるように食いつくと、歯が立てられなくて、文字通り痛い思いをするという意味だ」

「……本当だ、けっこう固い……」

 

 言われて試しに指で圧力をかけてみても、指が沈み込む気配がない。

 

「保存食だからな。水気が可能な限り抜かれている。表面を削ぐように切るか、スープに浸してふやけさせてから食べる。パン酵母がないから、自然とそういうパンになる」

「な、なるほど……」

「して、モノは相談だが……」

 

 ミレイユは言って、テーブルの上に次々と食材を取り出した。

 パンも更に数食、ホール毎のチーズ、塩漬けされた燻製肉など次々に置いていく。

 

「こちらからも食料を出すから、日本の食事を貰えないか? 久方ぶりに米も食べたい」

「あ、はい。それは別に全然、構いませんけど……。あまり自炊しないもので、買いに行かないと、この人数の食料はウチにないです」

「そう、か……。それもそうか」

 

 顔を曇らせたミレイユに、アキラは鞄から財布を取り出す。

 

「でも、すぐ買ってきますよ。この時間ならコンビニ飯になっちゃいますけど、歩いて五分の場所にありますし。食ってくに困らないだけの貯金も残されてますので」

「ま、師の食事を用意するのは弟子の役目だ」

 

 アヴェリンが尊大な言い草を披露して、アキラは思わず出かかった言葉を飲む。

 そもそもミレイユは自分で何一つ教えてようとはしていない、という事実は彼女の中では関係ないようだ。他人任せにする者を、師匠と呼ぶに相応しいとは思えない。だがきっと、それは指摘してはいけないのだろう。

 アヴェリンも立ち上がり、ミレイユに一礼する。

 

「では、私も調達の手助けに行ってまいります。この人数の食料なら、一人で持ち運ぶのは難しいでしょう」

「そうだな、そうしてくれるか。個人空間に仕舞うのは無しだと言ったばかりだし、そこは気を付けろ」

「ええ、存じております。――アキラ、馬房はどこにある」

 

 バボーとは何だ、とアキラは首を傾げた。

 話の前後から考えても、何を指す単語なのか全く見当がつかず、言葉を返す事すら出来なかった。

 

「おい、近くにないのは理解している。しかし量を運ぶなら馬がいる」

「えっ、あ!? ……馬房!? いや近所どころか、どれほど遠くまで行けば見つかるのか分かりませんよ!」

「では、どうやって荷車を引くんだ?」

「荷車が必要なほど買い込む気はないですし……! ちょっとミレイユ様、説明してやってくださいよ!」

 

 面白そうに見物していたミレイユに、アキラは恨みがましい目で見つめた。

 勘違いしている様を見て、明らかに楽しんでいる。他人事のように振る舞っているが、当事者の自覚がないのはどうしたことか。

 

「アヴェリン、こちらでは馬匹輸送をしていない。この国は山が多く、河も多く、更に雨も多くて土は泥濘し、車輪その物が土地に適していなかった。その辺の説明はおいおいしていくから、今日のところは徒歩でいけ。どうせ手に持てる分しか買わないから、それ程の量にはならない筈だしな……」

「承知しました」

 

 身を翻しかけたアヴェリンを、ミレイユが声をかけて止める。

 

「防具の類は外して行け。マントもだ。それだけで……、まぁ随分印象も変わるだろう」

「……左様ですか」

 

 アヴェリンは不安げな表情で自身を見下ろし、言われるがままに肩部分についた金属とマントの留め金を外した。邪魔にならない程度の片隅にそれらを置いて、ミレイユに一礼する。

 

「――では、行ってまいります。暫しお待ちを」

 

 言うや否や、アヴェリンは身を翻して外へと向かう。

 財布を握っているアキラも、一度ぺこりと頭を下げてからその後に続く。その背を見送ったミレイユは、ドアの締まる音を聞きながら今更ながらに呟いた。

 

「……あれは抑え役がいないと不安じゃないか?」

「買い物くらいできるでしょう?」

「なぁ、ユミル。アヴェリンがアキラの指示に素直に従うと思うか? 非常識な振る舞いで迷惑をかけやしないか?」

「ああ……、そうね。目に浮かぶようだわ」

 

 ミレイユはルチアとユミルに、それぞれ視線を向けた。左へ右へと二度行き来し、片方に動きを止める。

 

「……うん。それじゃあ、ここはユミルに任せよう」

「ちょっと、自分でお行きなさいな」

「私が行くと角が立つだろう。任せると言った以上、あれの誠意に泥を塗る行為になってしまう」

 

 ユミルは小さく顔を歪めて、壁から背を離した。

 

「まったく、世話のかかること……!」

「頼むぞ。目立つ真似はさせないように。――ああ、お前もマントは外して行け。夜なら必要ないだろう?」

「はいはい」

 

 ひらひらと手を振って、フード付きマントを乱雑に外しながら出ていくユミルを見送ると、ルチアがぼそりと呟いた。

 

「いやぁ、結局心配事が増しただけじゃないですか……? 私も行きます?」

「そうしたら私の護衛がいないだ何だと騒ぐに決まっている。ここは任せよう」

「絶対、いがみ合いと言い合いが始まりますよ。……抑えつけ役のつもりだったんですよね?」

「うん……、だが苦労は増えても買い物は完了できるだろう。つまり差し引きゼロで問題ないという事だ」

「ミレイさんがそれでいいなら、私は構いませんけどね」

 

 きっと上手くはいかないだろう、というニュアンスを残してルチアは部屋の中を物色し始めた。座る椅子がないなら、せめて床に敷く何かがないかと期待しながら。

 



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別世界の住人 その2

 外は満天の夜空だったが、夜風は冷たく人気(ひとけ)もなかった。

 アキラは階段を降り、待っていたアヴェリンと合流する。握りしめていた財布をポケットに捩じ込むと、途端に不安がよぎってきた。

 

 嫌味ではなく、常識がない人と一緒に買い物というのは、些かハードルが高すぎるのではないだろうか。

 せめて食い違いは多々あっても、ミレイユに付いてきて貰った方がいいと思うが、あの貴族のように丁寧な接しぶりを見る限り、望み薄だろう。

 買い出しなど使用人のすること、と非難を浴びせてくる可能性すらある。

 

 確かにオミカゲ様と瓜二つの人物に――別人と分かっていても――同行してもらうというのは恐縮してしまう。だとしたら、やはりそうする以外に方法もなかったのかもしれない。

 アキラが頭の中でそう結論を下して、先導するようにコンビニ向けて歩き出す。アヴェリンはそのすぐ横に位置取り、アキラが手ぶらで出てきた事に怪訝な視線を向けた。

 

「武器は持って来てないのか? お前は“中に”仕舞っておけないんだろう?」

「はい……? 武器、ですか?」

「日が完全に暮れてから家を出るとなれば、護身用の武器くらい持つものだ。実際に振るわなくとも、威嚇程度にはなる」

「いえ、そんな危険はないですから」

 

 アヴェリンの至極真面目な顔つきから、純粋な善意で言った事が分かる。だから小さく苦笑して手を横に振って否定したのだが、それではやはり納得しないようだった。

 

「野盗、物取り、強姦、考えられる危険は幾らでもあると思うが。特にお前なんて女と変わらん、隙を見せれば襲われる」

「いえ、大丈夫です。この国、治安は世界で最も良いと言われてるぐらいなので」

 

 それもまたオミカゲ様による御威徳の賜物だ、とアキラは思う。常に見守られているという思いがあるからこそ、人は正しい行いができるのだ。

 女だと言われた事は頭から除外して、思いを新たにしているアキラに、アヴェリンは感心したように言う。

 

「そんなに治世がよい国か……。ふむ、ミレイ様が静養先と決めた理由も、そこにあるのかもしれんな。――これだけ明かりを灯せば、確かに夜の影で隠れて悪事を働く者はやり辛かろう」

 

 電柱を下から上へと眺めてから、怪訝とも感嘆とも取れるような声音で続ける。

 

「明るい光だ。揺らぎもなく、煙も出さない。火の灯りとは別の物なのだろうな」

「ああ、はい。あれは電気で灯している灯りですよ」

「また電気か……。こちらでは、それを主流に使っているのか?」

「ですね。他にも色々ありますけど、一般的な恩恵が一番大きいのは電力じゃないかと思います」

 

 アキラの返答を聞いて、アヴェリンは幾度も頷く。

 そして、あれ、とアヴェリンが指差す先にアキラも目を向けると、そこには家庭の前に停まっている自動車がある。

 

「馬を使わないというなら、あれも電気で動かすから必要がなくなったのか?」

「あれはまた別で……。いえ、最近はハイブリッド車とか出てきて、完全な電気自動車もあるんですけど……。とにかく、あれは違います。また別のガソリンというもので動きます」

 

 アヴェリンは明らかに胡乱げな視線をアキラに向けた。

 

「言ってる事がさっぱり分からん。――が、馬を必要とせずに動く物、ということだけは分かった」

「ええ、はい。そうです」

「あれだけ大きい物が、馬の牽引も必要なしで動くのか」

 

 感心したように言うと、アヴェリンはやおら自動車の下に手を突っ込み、片手でそれを持ち上げてしまう。まるで道端に落ちてる置物を持ち上げるような、無造作な動きだった。

 前輪部分は完全に持ち上がり、その車体は軽く四十五度は傾いている。

 アキラはその非常識な行動、というより現象に目も口も開いて動きを止めた。

 

「な、なん……!?」

「なかなか重い。馬車より何倍も重いだろうに、それでも必要ないというのか。……一体、どうやって動かすんだ?」

 

 全く重さを感じさせない動作で、ひょいひょいと上下に動かしながらアキラの方へと顔を向けて、それでようやくアキラも動作を再開させた。

 

「ちょちょちょ……! 駄目ですって、それは駄目です!」

「なんだ、この程度で壊れるほど脆いのか?」

「違います、そうじゃなくて! そんな簡単に持ち上がるものじゃないですし、――いや何で持ち上がってるんですか!」

 

 何を言ってるんだ、とアキラは自分で自分を叱責する。

 ここは非常識な部分を指摘する場面で、驚いている場合ではない。アヴェリンはそもそも常識をしらないのだから、こういう状況を予め想定して、事前に言い含めておくべきだった。

 

「普通、こっちの人は車を持ち上げるような真似しないんです。持ち主に怒られますし、知られたらきっとミレイユ様も怒るかもですよ!」

「……そうか」

 

 アヴェリンは素直に腕を降ろす。乱暴に車を手放すかと思って身構えていたが、意外に繊細な手付きで前輪が地面に着いた。

 

「なんか、すみません……。こっちの事も知らない人にアレコレと……。ただ、なんて言うか口にするのは難しいんですけど……」

「まぁ、悪いのは私だろう。あっちでも普通、馬車を持ち上げるような奴はいないしな」

「嘘でしょ。じゃあ、何でするんですか……」

 

 ドン引きする様を隠そうともしないアキラに、アヴェリンは悪ビレもせず胸を張った。

 

「ミレイ様はこちらで長く静養するつもりであるようだったからな。私もこちらの色々な物に精通しておく必要がある。見て聞いただけでなく、実際に触れて知った方が理解が深い。お役に立つと思えば、自ら率先して知見を得ようとせねばならない」

「言ってる事は凄くご立派です。ですけど、今だけはどうか、ただ買い物を済ませるだけで勘弁して貰えやしませんか……!」

 

 アキラが懇願すると、アヴェリンは数秒考える仕草を見せる。

 それからしばらくして頷きを返した。

 

「ま、そうだな。着いたばかりで気が急いていたのかもしれん。今はそちらの言い分に従おう」

「ええ、どうも。助かります……」

 

 我儘という訳ではないので、そこは簡単に納得を見せた。

 家を出てすぐこれかと嘆こうと思ったアキラだったが、これなら何とか家に帰るまで手綱を握れそうだと想い直す。後はただ、何事もなく買い物を済ませられるよう願うばかりだった。

 

 

 

 

 名前以外の自己紹介も必要かと、歩きながら話している時だった。

 沈黙が気まずくてとりあえず振ってみた話題だったが、アヴェリンはこれに意外にも相槌を逐一返してきた。時には簡単な質問もしてくる。

 その内容は年齢と学校に通っている事ぐらいなものだったが、アヴェリンからすると、その学校制度自体が物珍しく感じられたのかもしれない。

 

「では、最低でも九年間は教育を受けるのか」

「ですね。でも普通はそこから更に三年間高等教育を受ける学校に進学しますし、それから就職というのも珍しい部類です」

「だが、それではいつまでも半人前以下ということになる。十五を過ぎて尚、徒弟ですらないと言うのか?」

「うーん……、その徒弟というのも、こっちではもうあまり見られない制度で……。勿論そうした慣習が活きている職業はあるんですけど、多くは――」

「――待て」

 

 アヴェリンが立ち止まり、腕を横に伸ばしてアキラの進路を止めた。

 顔を向ければ険しい視線で前方を睨んでいる。また例の化け物かと身を固くしたが、あるのは無人の道路と、それを照らす街頭。それ以外には何もない。

 ただ五十メートルほど先には例の公園があるくらいだ。この場所から公園の内部まで詳しく見えないが、誰かがいる様子も何かが動いている様子もない。

 

「……どうしました?」

「声を出すな」

 

 アヴェリンからは緊張した様子は窺えなかったが、警戒の度合いを一つ上げたように感じられた。言われるままに口を閉じ、何があるか分からないので一歩後ろに下がっておく。

 アヴェリンが懐から何かを取り出すような動作を見せると、そこには既にメイスが握られていた。明らかに仕舞っておけるような大きさではないので、例の個人空間から取り出したものなのだろう。

 便利でいいな、と思っていると、道の端に寄るよう手を動かして来た。

 指示のとおりに移動して、何か見えるかと首を動かしていると、アヴェリンもまた移動してきて身を屈める。それを真似てアキラもすぐ近くに屈んだ。

 

 数秒の沈黙の後、公園で動きがあった。

 和装の兵員、そう表現するのが正しいような、現代では余り見ない格好の人間が数名でてきた。甲冑姿ではなく、袴姿でもない。陣傘と甲冑を外した足軽のような見た目をしていた。

 辺りを警戒しながら公園から遠ざかり、近くに停めてあったバンに乗り込んでいく。息を潜めながらそれを見守り、やがて車が発進していくと、ようやく息を吐いて力を抜く。

 

 予想以上に強張っていた肩を解しながらアヴェリンの顔を窺うと、武器を持ったままそろりと立ち上がる。遠ざかっていくバンを見ることなく、相変わらず前方に注視していた。

 一体なにを、と思ったところで肩を抱かれ、何者かの体重が掛かってくる。

 

「バァ……!」

「うわぁ!!」

 

 耳元で起きた突然の声に、アキラは声を上げて飛び上がった。

 アヴェリンは即座に身を翻し、その頭に武器を振るう。

 ヒュンと風切り音が耳のすぐ横を通り過ぎ、そして何の手応えも出さず、アキラの身体からも感じていた重さも消えていく。

 

 アキラは蛙のように無様な動きで前に動くと、振り返りながら立ち上がる。

 自分の居た場所には誰もおらず、視線を左右に動かしても尚、誰の姿も見当たらない。全身から冷や汗が浮かび上がるのと同時、闇の中から幕を降ろすように、何者かが姿を現す。

 

「やはりか……」

「分かっていたなら、物騒なもの振るわないで頂戴な」

「悪巫山戯をした、お前が悪い」

 

 くすくすと笑いながら、楽しそうに赤い目を細めて顔を見せたのは、部屋で待機していた筈のユミルだった。

 背中にかいた嫌な汗を自覚しながら、今更ながら襲ってきた緊張で足を震わせた。

 

「な、なん、何するんですか……!?」

「だって一緒に、楽しそうに道端でくっついているものだから。妬けちゃうじゃないの」

「それでわざわざ、姿を隠して後ろに回ったのか」

「そうそう」

 

 呆れた口調に対し、楽しそうに返すユミルの言葉に、アキラは怪訝に思って眉根に皺を寄せた。

 後ろに回るも何も、後から着いてきたのなら、後ろから追い着く以外ない筈だ。複雑に道を曲がったわけでもなく、ここまで道を一直線にやってきたのだから。

 

 アキラの思案を余所に、アヴェリンは武器を収めながら、話の先を促すように顎を動かす。

 

「それで? その様子なら公園の動きも見てきたんだろう。どうだった?」

「詳しいことは帰ってから話そうと思うけど、何か調査していたみたい。血痕の発見で何やら騒いでいたわね」

「ふん……、他には?」

「詳しい事は別にないわよ。先回りして待とうと思ったら奴らがいて、聞き取れたのもそれぐらい。いつからいたのか知らないけれど、アタシが着いた頃には撤収準備をしていたし」

「……そうか。では、詳しい報告はミレイ様に」

「そのつもりよ」

 

 お互いに頷き返すのを見て、アキラもようやく動き出す。

 何とも傍迷惑な振る舞いはされたものの、既に危険は去っていた。いや、危険であったかどうかも分からないが、とにかく今はもう、すぐにでも帰りたい気分になった。

 コンビニまでの距離は既に半分を切っている。

 アキラは急かすように二人を手招くと、返事を待たずに歩き出した。

 

 

 

 

 目的のコンビニは、目の前を横切るバス通りの反対側にあった。

 アヴェリン達が自動車が走る姿を見たのは、先程走り去ったバンが初めてだった。しかし、実際に間近で見るのは今が初めてだったし、それも大量に走る車とれば余程の衝撃だった。

 

「これほどの速度で走るものが、これほど大量に溢れているのか……!」

「数だけの問題じゃないわよ。多種多量で、似たデザインはあっても色が違うし、生産性の上でも相当幅が大きいのよ」

「そこは重要か?」

「考えてもご覧なさいな。一人で一台の馬車保有なんて、庶民じゃ無理だったでしょう? でも、こっちにはこれだけある。この国が、国民が豊かであることの証明よ」

 

 なるほど、と神妙に頷くアヴェリンに、笑みを浮かべるユミル。

 しかし二人の表情から窺えるのは、好意的なものばかりではなかった。

 

「だが、あの速度だ。暴れ馬車より余程速いぞ。ミレイ様のお側に近づけさせるのは、あまりに危険だろうな」

「そこまで過保護にしなくても、あの子なら避けられるでしょ」

「それとこれとは話が別だ。自衛の手段をお持ちだからとて、安易に危険の傍へお連れするべきじゃない。一台なら幾らでも対処できようが、複数で襲われたらどうするつもりだ」

「それでも、どうにかするでしょ。むしろ、あの子で対処できない状況ってのが想像できないわ」

「無論、いかなる状況でも対応なさる実力をお持ちである事は疑いようがない。だが言っているだろう、それとは話が全く別だ」

「それこそ同じよ。壊れ物のように、丁寧に扱うことだけが、あの子に対する敬意の現し方じゃないってこと。――そう思うでしょ、アキラ?」

 

 言い合いの雰囲気が剣呑になりつつあったところで、不意に意見を向けられ、アキラはたじろぎ戸惑った。これはどちらに味方しても駄目なやつだ。

 

「い、いやぁ、どうですかね? 車は確かに命の危険がありますが……」

「ほら見ろ。あの速度だ、危険があって当然というものだ」

「よくご覧なさいな。どの車もお行儀よく一列になって走っているでしょう? あれはそういうルールがあって動いていると見るのが妥当。赤とか青とか光るランプ、あれで行き来を制御してるのね。それに従う限り、余程の危険はないのでしょう」

「馬とて癇癪を起こせば制御を失うし、道の往来で突然立ち止まりもする。車とて同じじゃないのか?」

「それは……、どうなの?」

 

 再び水を向けられ、アキラは何とか答えを絞り出す。

 アキラとて免許を持っていない身、一般常識としての知識しか持っていない。だが確かにブレーキとアクセルを踏み間違えたり、エンストを起こして止まる事態は起こり得るのだ。

 毎年、自動車事故で少なくない命が失われてもいる。しかし、それをここで馬鹿正直に話すのも憚られた。

 大体、車の利便性や危険性は、心配されるミレイユの方が余程詳しいに違いない。

 

「いや、大丈夫ですよ。ユミルさんが言ったみたいに、ルールを守れば危険はないんです。皆ちゃんと守ってるんですから、そんな心配することないんですよ! ミレイユ様だって、ちゃあんとそのルールを熟知してる筈なんですから!」

「ふむ……」

「それもそうね」

 

 お互いに納得した姿勢を見せたところで、アキラは信号機を指差した。

 

「ユミルさんが言ったとおり、あの青く光っている時が横断するチャンスです。今のうちに早く行きましょう。ここで話し合うより食事を持ち帰る方が、絶対大事ですよ」

「――そのとおりだな。お待たせする訳にはいかない」

 

 ミレイユの名前を出せば素直に従う、その事実にアキラは気づき始めた。

 何かあればその名を出して誤魔化そうと、密かに心の中で誓い、ユミルにも信号機の奥に見えるコンビニへ手を向ける。

 

「早く済ませて、早く帰りましょう」

 

 

 

 

 コンビニの前に辿り着いた三人は入口の前で歩みを止めた。

 アヴェリンなどは近づくに連れ、その外観に興味を示していたが、到着するや否や呆れを含んだ声音で言った。

 

「何故こんなに明かりが強いのだ。あまりに眩く、あまりに不自然。ここまでやる必要があるのか?」

「目立つのは確かよねぇ。襲撃のいい的になりそうなものだけど」

「いやいや、襲撃とかありませんから。安全ですから。早く入りましょう」

 

 そうだな、とアヴェリンが頷いて、同時にユミルも動き出す。

 コンビニの入り口は引き戸になっていて、そこに手を伸ばしかけていた二人の動きが同時に止まる。

 

「……私が先に入る。お前は後からついてこい」

「……あら、そう? 譲るべきはアンタじゃなくて?」

 

 二人の視線が交差する。

 

「お前は光が苦手だろう? 暗い外の方が余程のお気に入りだと知っていればこそ、先に行こうと言っているんだ」

「別に明かりを嫌がってはいないわよ。蝋燭の明かりを、一度でも遠ざけた事があったかしら?」

「あれとは光の強度が違う。蝋燭の炎は弱々しい、これとは違う」

「暖炉の炎からだって遠退いた事はないわよ。いいからお退きなさいな」

 

 二人は視線だけでなく、顔を近づけ威嚇を始めた。

 

「なぜ先にこだわる? 先陣を切るのは私の役目だ。いつだってそうしてきた。今回もそうする」

「別にそこは譲るわよ。危険な場所は一番にアンタに譲るわ。でも、ここに危険はないもの」

「危険がないかどうかが何故わかる? 例えなくても、それはこの際問題じゃない。私が先で、お前が後だ」

「中は大変興味深い物で溢れているようなの。アンタにはどうせ何を見ても同じに見えるでしょうから、まずアタシが確認する方が合理的というものだわ」

 

 挑発的だった最初の言い合いから一転、言葉を交わす度に表情から感情が消えていく。今では小さな笑みさえ消えて、瞳の奥には剣呑な色が見える気がした。

 流石にこれを放置するのはマズイ。殴り合いの喧嘩になるかどうか、アキラには分からない。二人が何かと言い合うのはいつものことだと、ルチアも言っていたが、ここまで白熱するのもいつもの事とは思えなかった。

 

 アキラは二人の脇を通って扉の前に滑り込み、両開きに対応しているドアを開け放った。

 

「すみません、お二方。どうせなら同時に入ったらいかがですか」

「……そうしよう、時間の無駄だ」

「……そうね、無駄にしていい時間はなかったわね」

 

 睨み合う二人は顔をお互いに背けて、店の方へと身体を向ける。

 アキラが身体を脇にどけて、お互いの入店を促せば、我先にと足を踏み入れる。それを見届けて入り口近辺にあった買い物カゴを手に取った。

 

「お二人とも、こちらのカゴを持って下さい。買いたい物があれば中に入れてくれればいいので。ただ、今日は食料品だけにしてくださいね」

 

 言って渡せば素直に二人は受け取った。しげしげとかごを上下から眺める二人を置いといて、アキラはとりあえず弁当コーナーへと足を向ける。

 あの二人に付き合っていると、いつまで経っても買い物が終わらない。

 今だけは店内の商品に目が移って、いがみ合いも止まってくれる事に期待し、そのチャンスを活かして買い物を終わらせてしまおうという算段だった。

 

 幸い、店内に他の客はいなかった。

 田舎町の晩飯時間も大きく過ぎたこの時間帯なら、そう珍しいことでもない。

 

 アキラはお米が食べたいと言っていたリクエストに応えるべく、おにぎりを適当にカゴに入れていく。

 

「これはまぁ、いるやつだろ」

 

 好みが分からないので鮭と梅、シーチキンにおかかと、定番の物を選んでいく。

 

「まさかこれだけって訳にもいかないし、そうなると……」

 

 焼肉弁当やカレー弁当も喜ばれるかもしれないと思い、それに加えて肉と野菜を中心に惣菜を選んでいく。パスタ関連も喜ばれるかもしれない。

 女性と言えばパスタ好きという偏見があったアキラは、嫌いなら自分が食べようとカゴに入れた。人数分となれば結構な量になるもので、一つのカゴではまるで足りない。

 

 明日の朝ごはんの分まで必要なことを考えれば、これの倍は購入せねばならない。

 

「それにサンドイッチ系とか、バーガー系のパンもあれば食べるかも……」

 

 ミレイユの用意したパンやらチーズもあったけど、あのパンは固いし、こちらでは容易に手に入る柔らかいパンは、案外喜ばれるかもしれない。

 二つ目のカゴにパン類を入れていると、他の二人がどうしているのか顔を向けた。

 先程からやけに静かなのも気になる。

 

 ユミルは生活雑貨コーナーと雑誌コーナーで目移りしていて、アヴェリンはスイーツ関連に興味を引かれているようだった。

 ユミルはそこに並ぶ商品を、しげしげと眺めている。

 

「何これ、色付きの紙がこんな雑に扱われていいわけ? このロール状になってる柔らかい紙も、極薄にした上で何層にも重ねて……? 狂ってるわね」

 

 アヴェリンはシュークリームとロールケーキを手に取って、屈み込んで手に取っている。それぞれを上から見たり匂いを嗅ごうと鼻を近づけたりと、真剣な表情で商品を見ていた。

 

「ほのかに香る甘い匂い、見たこともない甘味。それもこれほど無造作に、かつ大量に……。狂ってるな」

 

 違うものを選んでも似たような評価になるのは、流石に別世界から来た故だろうか。

 アキラはそこに近付き、同じく屈み込んで同じ商品を手に取る。

 

「スイーツお好きなんですか?」

「む……。いや、まぁ、そこそこだ。……つまり普通だ」

 

 明らかにスイーツに向ける視線は尋常なものではなかったが、本人は興味がない素振りをしているつもりらしい。その視線がスイーツに向いて固定してしまっている辺り、成功していると思えなかったが。

 アキラは苦笑しつつ商品をカゴに入れる。

 

「僕は結構、こういうものに目がないものでして。ミレイユ様も好きかもしれませんし、幾つか買っておきましょう」

「う、うむ。そうだな! ミレイユ様は甘味を殊の外お気に召した筈……!」

 

 明らかに目の色に喜色を浮かべるアヴェリンに、気付かないふりで人数分のスイーツを目についた物から入れていく。

 今からどのような味なのか期待して、想像している姿が何とも微笑ましい。

 凛々しいばかりの、あるいは苛烈なばかりの姿しか見ていないので、あまりに意外な表情が見られて得した気分だった。

 

「それじゃあ、そろそろ精算しに行きましょうか」

 

 アキラが腰を上げようとした時だった。

 店内に別の客が入ってきた音が鳴ると同時に、ずかずかと音を立ててレジへ近づいていく。

 レジからは影になって見えない位置だったのが幸いした。

 グラサンとマスクを着けた一人の男が、包丁を突きつけて女性店員を脅している。

 店員が小さく悲鳴を上げ、両手を上げて身を引いている。顔は青ざめ涙を目に溜め、その全身は震えてもいるようだった。

 

「声を出すな、大人しく金を出せ……!」

 

 何でこうトラブルが続けてやってくるんだ、とアキラは額に手を当て、痛いものを堪えるように顔をしかめた。

 



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別世界の住人 その3

 アキラがアヴェリンに目配せして、そのままで、と両手を下に降ろす動作を見せたが、残念ながらその意図は全く通じていなかった。

 アヴェリンは顔を上げ、包丁を突き出す男を見て怪訝に顔を傾けた。

 静止する間もなく立ち上がり、レジへと近づいていく。

 

「なんだ、こいつ……! どこにいた!?」

「なんだはこっちの台詞だ。それはどういうつもりだ? お遊びか?」

「ガイジンかよ、頭悪いんじゃねぇのか!」

 

 包丁を店員からアヴェリンに向けた、その時だった。

 店の奥にいたユミルが何事かと軽い調子で近づいていく。ユミルも店の奥で屈んでいて、強盗からも姿が見えていなかったのかもしれない。

 ユミルは店員と強盗とアヴェリンを見比べて、やはり首を傾げて状況に戸惑っている。

 

「なにこれ、やっぱり襲撃されてるじゃない。一人で襲撃? 他に仲間は?」

「分からん。いるならとっくに来てるだろう。ならば遊びにしか見えないが、――アキラ、どうなんだ?」

「こっちに振らないで下さいよ……」

 

 アキラもまた観念して立ち上がると、強盗は包丁をあちらこちらと向けて威嚇してくる。

 

「な、なんだ、まだ居たのか! くそっ!」

「治安がいい国と言ってなかったか? あれはもしかして、強盗のつもりなのか?」

「治安がいいのは間違いないですし、あれはまぁ、きっと強盗ですけど……」

 

 日本は確かに治安がいいが、それでも犯罪が皆無ではない。

 年に発生するコンビニ強盗の件数は四百前後と、世界を見渡しても異例の少なさだが、やはり全くの皆無にする事はできない。だとしても、成功しても実りがないと言われるコンビニ強盗をする辺り、この男も相当追い詰められているのかもしれない。

 

 アヴェリンが鼻で笑った。

 

「あれで強盗は無理がある。ガオリ族の子供だって、もう少しマシに武器を構えるぞ」

 

 言っている意味は分からなかったが、虚仮にされたのは理解したようだった。

 激昂した男が包丁を振り上げる。

 

「てめぇ、ガイジンが馬鹿にしやがってよ! ちょっとキレ―だからって調子に乗ってんのか!」

 

 アキラは男の頭が無惨に砕かれる様を想像し、なだめるように声をかけた。

 もう人数的に不利なんだから逃げればいいのに、と思うが、引くに引けなくなってしまったのかもしれない。

 

「いや、やめた方がいいですって。絶対ろくな事になりませんから」

「うるせぇ、馬鹿にすんじゃねぇ!」

 

 包丁を突き出したいのか振り回したいのか、よく分からない動きで威嚇する男に、アヴェリンが無造作に近づいていく。

 

「てめっ……!」

 

 それは一瞬の出来事だった。

 包丁を振り上げた腕が、いつの間にかアヴェリンに掴まれている。そのまま捻り上げると呻きを上げて腕が天井に向けて吊り上げられる。思わず痛みに身体が反応し、不格好な形で背筋が伸びた。

 そこを狙われ、足を引っ掛け転がされる。その拍子に手から包丁が落ちたが、アヴェリンはそれに視線も向けず、腕を握ったまま背中から落とした。

 

「グッ! ――ぐげっ!」

 

 背中から落とされた男は、間髪逃がさずアヴェリンに喉元を踏みつけられ、蛙のような声を出した。サングラスもマスクも外れた顔からは、憤怒と驚愕、両方の表情が見えた気がした。

 素顔を晒された男は予想よりもずっと若い。おそらくは二十代前半、もしくは十代でさえあるかもしれない。

 

 顔が真っ赤に膨れ上がり、目も充血して口から泡らしいものも吹いている。

 アヴェリンはそれに頓着せず、更に腕を捻り上げて外へ伸ばす。

 ゴキン、と音がして男が絶叫した。肩を外されたのだ。

 

「ぐぎぃぃっ、ぷ! うぶぶぶ……!!」

「この程度で声を出すな、みっともない」

 

 喉が足で抑えられているせいで、声も正常に出せないようだった。赤かった顔は更に朱に染まり、暴れようと足をバタつかせるも、タイルを蹴るばかりで何が出来るでもない。

 暴れて振り上げた足が商品棚を蹴りつける。商品は倒れたりしなかったものの、それがアヴェリンの怒りを買った。

 

「なんて無様な醜態だ。その程度の腕で刃を振るったのか? お遊び以下の子供以下か」

 

 足で器用に喉を抑えたまま、鳩尾にもう片方の足で踵を落とす。それで身体がくの字に折れた。また声も出せないせいで、顔が紫に変色して来ている。

 

「それ死んじゃいますって!」

「殺すのは駄目だってば。目立つ真似はさせるな、って言われてるのよ、アタシ」

 

 気づけばすぐ近づいて来ていたユミルが、男の首に手を当てる。

 アヴェリンが足をどけたが、口から吹いた泡と酸欠で顔面は酷いことになっている。

 ユミルが傍に屈んで首を捻り気道を確保すると、胸のあたりを強く叩いて息を吐き出させる。

 

「ゴホッ! ゲホッ!」

 

 男は圧迫から解放されて激しく咳き込んだ。片手が動かない事に加え、激しい痛みで体を丸めて萎縮してしまっている。

 

「まだ痛い目みたい? 嫌なら二度、頷きなさいな」

 

 声音は優しいが、底冷えする恐ろしさも感じる。男が咳き込むばかりで反応しないのを見ると、髪を掴んで床に叩きつけた。

 

「ブゲッ!」

「聞こえてるでしょ? 優しくしてあげてるんだから、素直に頷けばいいの」

 

 言いながら更にもう一度頭を打ち付けて、髪を掴んだまま無理やり顔を向かせる。

 目を見ながら薄く笑みを見せれば、男は涙と汚れで顔を汚しながら何度も頭を振った。

 

「ずみまぜん! 許じで、……じでくだ、い……!」

「馬鹿ね。最初からそう言いなさい」

 

 一部始終を見ていたアキラは、心の底からドン引きしていた。

 この二人にとって、暴力とは身近なものなのだろう。それだけ動きに躊躇がない。

 化け物とはいえ、その頭を砕くことに抵抗がない程度には、暴力を振るうことに慣れている。手加減の方法も熟知していると見え、だからユミルでさえ平気で人の頭を叩きつけるような真似が出来る。

 

「こっわぁ……!」

「何を言ってる、優しいだろう。何よりあいつは生きている」

「アンタ、もっと上手く無力化できないの?」

 

 ユミルが顔を向けておどけてみせれば、アヴェリンはつまらなそうに手を振った。

 

「こんな相手に手心なんて必要あったか? 両腕を捥いでやっても良かったぐらいだ。しかし目立つ行為といっても、これはまだ目立たない部類だろう。違うのか?」

「いやぁ、平手で一発殴るぐらいが安全ラインですかねぇ……。どうするんです、これから警察来るし、事情聴取だってありますよ」

「なんだ、それは?」

「すごい目立つことになるって意味です」

 

 アヴェリンは元より、ユミルも顔を顰める。

 

「それは不味いな」

「マズイわね」

「……どうにか出来るか?」

 

 アヴェリンに言われて、ユミルは考え込むような仕草を見せた。

 掴んでいたままの男を再び自分へ向かせると、その目を覗き込んで数秒、手を離す。

 男は身じろぎもせぬまま虚空を見つめ、浅い呼吸のまま動かない。しばらく放心したように手足を放り出していたが、のろのろと立ち上がって包丁を再び握りしめた。

 

 アキラがぎょっとして身構えると、男は包丁を懐にしまって、危ない足取りのまま店外へ出ていく。アキラはそれを呆然として見送ってしまった。

 

「いや、あれ、どうなったんです! いいんですか!?」

 

 ユミルの方に振り返ってみれば、女性店員の顎を掴んで無理矢理その目を覗き込んでいる。

 手を離せば先程の男と同様、放心したように手元だか床だかを見つめたまま動かなくなった。

 

「な、なにしたんですか……?」

「一種の催眠、言うこと聞かせただけよ。何事もなかった、何も見なかった、そういう類の」

「そんな事できるんですね……」

 

 ユミルは肩を竦めて戻ってくる。そして、アキラのカゴを指差した。

 

「――それ、買うんでしょ? すぐに動き出すから、そうしたら普通に済ませればいいわ。何も覚えていないから」

「うぅん……、ある意味それが幸せでしょうけど……」

 

 しかし、何事もなかったことにされた事は釈然としない。もやもやした気持ちでいると、その間に店員も再起動を果たしたようだった。

 自分が目に涙を溜めてるのを不思議がって拭いながら、申し訳無さそうにバックヤードへ小走りに入っていく。

 

「まぁ、うん。ちょっと待ちましょう」

 

 エチケットの問題として、それぐらいの配慮はあっていい筈だ。

 気負った姿勢も露とも見せず、ユミルが何事もなかったかのように商品の品定めに戻るのを見て、住んでいる世界が違うという思いを新たにしたのだった。

 

 

 

 コンビニから逃げるように退店し、信号を渡っていよいよ店から遠ざかった頃、アキラはようやく重い息を吐いた。

 強盗が発生してから買い物が済むまで、誰一人客が入って来なかったのは、本当に幸運でしかなかった。

 包丁を持った男に立ち向かう美女となれば、同情と味方を得られるのは間違いないだろうが、その後の無力化光景を見れば考えも変わるだろう。

 そして何より、警察の事情聴取が始まれば、日本どころか外国籍すら確認できないことば判明してしまう。

 

 いや、とアキラは思い直す。

 それも催眠で何とかなったのだろうか。それとも結局、自然に解除されて事実との齟齬が生まれ、また別の厄介ごとを生んでいたのだろうか。

 

「あの催眠って、ずっと効果があるんですか? それとも時間制限付きで?」

「なぁに? アンタも使いたいの?」

「違いますよ! ……さっきの催眠かけられた人たち、大丈夫なのかなぁと」

 

 そう弁明を返せば、あぁ、と気のない返事をして、ユミルはつまらなそうに頷いた。

 

「そうね、あの時起こった事は完全に忘れたままね。だけど、記憶の中に空白の時間があると気づくかも。あの分だと、一時間もすれば我に返るんじゃない?」

「それじゃあ、あの強盗は自宅でいきなり腕の関節が外れてる事に気づくわけですか」

「そうねぇ、一時間前に居た場所が自宅なら、そうなるのかも。強盗に行こうと家を出たつもりで、気づけば一時間経っていて何故か腕が動かないことに気づくとか?」

「それはまた、何とも……」

 

 奇怪な現象に驚くだろうが、そもそも強盗などしようとするような輩だ。捕まらなかっただけ温情があったと思って貰うしかない。肩についても自業自得、病院での説明には苦労するだろうが、そこまで知った事ではない。

 

 昨日まで平凡な学生生活だった。

 早くに両親を亡くしたことは平凡とは言えないが、それでも一般的と言っていい標準の生活を送れていた。それが今日、たった六時間の間にとんでもない騒動が巻き起こっている。

 

 単なる暴力事件に遭遇したというだけではない。

 魔法も魔物も実在すると知ってしまい、しかもその空想としか思っていなかったものが、現実の脅威として、身近に迫っているかもしれない。

 その非現実的な脅威の中心とも言える二人が、コンビニ弁当の詰まったビニール袋を持っている。その光景こそがまさに非現実だった。

 

 

 

 

 非常に疲れた気分で部屋まで帰ると、簡易的な食卓が用意されていた。

 元々一人暮らしの生活で、時々友人が尋ねてくることはあるものの、これだけの人数を一度に入れたこともなければ来る予定もなかった。

 だから四人がけのテーブルなどないし、座布団があるくらいで椅子さえ部屋には用意されていない。

 

 それが今や六人がけのテーブルと椅子が部屋の真ん中に鎮座し、上品な色のテーブルクロスの上には幾つかの食事とワインが準備されていた。

 出発前に見せてくれた食材を簡単にスライスして盛り付けただけのものだったが、温めを待つ間に摘むのには丁度良さそうだった。

 

「どうしたんです、これ……」

「こちらで用意した」

「え、あの、元々あったソファーとかは……」

「それは邪魔だったから隣の部屋に移した。食事するには不便だったからな、終われば元に戻す」

 

 事も無げに言って、上座に座っているミレイユが食前酒らしきワインに口を付けた。

 実際に見たことがないから何とも言えないが、優雅な仕草は上流階級で通用するマナーに見えたし、それに気負いしない雰囲気が、ここだけ切り取られた別世界のように見えてくる。

 見惚れていると、ミレイユが怪訝に声を掛けてきた。

 

「どうした、荷物も重いだろう。早く入れ」

「ああ、はい。……それと、遅れてすみません、ちょっとトラブルが……」

「あったのか?」

「――いいえ、特別報告するような事はなかったわ」

 

 ユミルが途中で割って入って、何でもないように振る舞う。

 その顔には、貼り付けたような笑顔が咲いていた。

 

「言われたとおり、目立つような真似はさせなかったし、実際目立ちもしなかったわね。――そうよね、アヴェリン?」

「無論だ。目新しいものに面食らったような部分はあるものの、別段トラブルと言う程の事はなかった。そうだな、ユミル?」

 

 二人はお互いに頷き合いながら室内に入ってくる。

 

 テーブル一式が用意されたお陰で、人が通るスペースしか室内には残されていないが、とりあえず自分が持ったビニール袋をテーブルに置いて中身を取り出す。

 入っていたのは弁当系とおにぎりで、ミレイユはおにぎりの具を確認しながらチラリとアヴェリンを見た。

 

「……で、本当は?」

「はい、不遜な輩を一人……。ええ、ですが上手く処理できたかと」

「したのはアタシね」

「だが、一番怖かったのはお前だったと、アキラが言っていた」

「それは単に胆力の問題でしょ。アタシが割って入らなければ、あれ死んでたわよ」

「だが、あれは男が悪い。ろくに武器も扱えん上に、武人に対する敬意もなかった。殺してもよかったくらいだ」

 

 途端に口喧嘩と責任の擦り付け合いが始まり、ミレイユは小さく笑う。

 これもまたいつもの光景のようで、ルチアもまた同様に気にした素振りを見せなかった。

 

「つまり、予想通りやらかした、ってことでいいんですか?」

「――やってない! 私はちゃんと手加減した!」

「もちろんそうでしょう、手加減上手のアヴェリンさん。殺す直前まで持っていくのが大変お上手ですものね?」

「そうだな。アヴェリンの『手加減』には、私もよく助けられた」

 

 ミレイユが笑みを深くすれば、アヴェリンも顔を赤くして黙ってしまう。

 そのまま今度はアキラの方に視線を向けた。

 

「一番客観的に見ていたのはお前だろう。……実際のところ、何があったんだ?」

「えぇと……。コンビニ強盗に出くわしたので、それを撃退したのがアヴェリンさんです。でもちょっとやりすぎて、死にかけてしまったと言いますか……」

 

 ミレイユはテーブルに肘を付き、頬をその上に置いて二人へ順に視線を向けた。

 

「……うん、それで?」

「そのあと、ユミルさんが暗示……じゃない、催眠をかけて記憶を飛ばして、帰ってきました」

「……そうか。相手に怪我は?」

「肩の脱臼と、それ以外は多分、打撲程度かと……」

 

 視線が二人を行き来する、その僅かな時間の沈黙が、空気を重さを持ったように押し付けてくる。

 しかし、それも数秒のこと。またすぐにチラリと笑みを浮かべた。

 

「じゃあ、問題ないな」

「……いいんだ」

 

 その笑みに誘われて、アヴェリンとユミルもホッと息をつく。

 アキラのぼやきなど誰も意に返さず、二人も手に持ったビニール袋をテーブルに置いていく。

 

「なかなか種類も数も多いな……」

「どれだけ必要か分かりませんでしたし、余る前提で買ってきました。明日の朝に食べてもいいですし」

「そうか。――お前たちも好きな物を選べ。どういう食べ物か分からないなら、遠慮なく聞け」

 

 それぞれが了承を返して、テーブルに広げられた弁当やパンを見繕っていく。

 

「これなに、白いツブツブ。やけに柔らかいけど、何かおっかない感触ね」

「それはオニギリです。国民食みたいな物で、パンと同じで主食として食べます」

「変な入れ物ですね。固くもあるのに柔軟性があって、何より薄い。実に不思議です」

「今は外側より中身に興味を持ってくれ」

「この茶色いペースト状の物は一体……? スープと似たようなものか?」

「それは温めた方が美味しいやつですね。カレーっていうんですけど、それは辛味も薄いので食べやすいと思いますよ」

 

 思い思いに感想を言いつつ、未知の食事に関心を向けながら自分の席へと食べ物を確保していく。温めが必要なものがあれば、アキラが受け取ってレンジに詰めてスイッチを押す。

 ブォンと低音を鳴らしながら中に入った食べ物が回転する様を、ルチアは興味深そうに見つめている。

 

「それらを食べられるようになるには、少々時間がかかる。パンやチーズはスライスしておいたから、それを食べてもいいし、おにぎりだって冷たいままでも美味しいものだ。好きに食せ」

「いただきます」

 

 アキラが小さく口にしながらパンとチーズを手に取ると、アヴェリンが意外そうな顔を向けていた。

 

「お前もそれを言うんだな」

「それ……?」

「いただきます、という、それだ。ミレイ様も必ず言う」

「ああ、日本人が食事に使う挨拶ですから。じゃあ、そちらでは基本的には言わないんですか?」

 

 そうね、とユミルが頷く。

 

「挨拶じゃなく祈りを捧げるのよ、自らが信仰する神にね。それも神によっては不敬となる場合もあるから、食事の挨拶する方が珍しいことなのよ」

「へぇ……」

 

 そうこう言っている内に、ミレイユも食事の挨拶を終わらせ、おにぎりにかぶり付いた。

 何度か噛みしめると、その表情が見るからに緩んでいく。

 

「久しぶりの米というよりも、初めての米という食感がする。……不思議だな」

「それ美味しいの?」

 

 米を食べているのは、この中ではミレイユだけだった。

 アキラがパンなのは、せっかく食べられる機会だからと手に取っただけだが、他の面々はやはり食べ慣れたものから口にしたいという思いがあったようだ。

 どうせ後で温めた弁当を食べるのだから、それまで待てばいい、という考えもあったのかもしれない。

 しかしミレイユの表情を見てみれば、興味を持つのは必然だった。

 

「一つ、オニギリとやらを食べてみようか」

 

 アヴェリンが手に取り、しかしビニールが妨げになって、どう食べたものか困惑している。

 アキラはそれを断りを入れて受け取って、手早くビニールを取り去った。

 不思議なようなものを見たような顔つきで解体されたビニールとオニギリを見比べ、そしていよいよ手に取って口に運ぶ。

 パリッと海苔が割れる音と共に咀嚼を繰り返し、困惑した表情で嚥下する。

 

「味が実に濃いし、とても柔らかで……。だが何というか、美味いかと言われると素直に頷けない気がする」

「ああ、パン食に慣れているとそうかもしれませんね」

 

 特にあれほど固いパンを常食しているというなら、唾液が一種の調味となっていた部分もあるはずだ。具にも出汁が利いていたりと、外国では感じられない味付けもされている。

 困惑が勝っても不思議な話ではなかった。

 

「食は好みが分かれるものだ。今日食べる分には気に食わなくとも、これから慣れるかもしれないし、それに米が嫌でも他に食べる物は沢山ある。別に無理して食べずとも、慣れた食事がいいなら用意するぞ」

「何事もチャレンジだもの。特に世界が違う食べ物は興味深いわ。まず食べてみるだけ食べてみたいの」

 

 ユミルの返答にミレイユが柔らかく笑んで頷きを見せると、レンジから甲高い音が鳴る。

 温めが完了した合図に、アキラは席を立って取り出しに行く。

 取り出した弁当をアヴェリンとユミルの前に置き、一応誰が食べてもいいよう唐揚げの惣菜もテーブルに載せると席に戻る。

 

 二人して蓋を開けると、温かな空気がふわりと立ち昇り感嘆した表情で、プラスチックの器に触れた。

 

「この短時間でここまで温かな食事に変わるとは……! 香りも芳醇、嗅いだことのない匂いだ」

「こっちは何かしら……。肉のようにも別の何かのようにも見えるし、変な感じだわ」

「それハンバーグです。柔らかく砕いた肉、と思ってもらえればいいと思います」

「へぇ? フォークはあるけど……ナイフはどこかしら?」

 

 弁当と一緒に入っていたプラスチックのフォークを取って他を探すも、勿論そんな物は用意されていない。アヴェリンには先割れスプーンを渡したが、二人とも困惑した表情で手元を見ている。

 

「ユミルさん、それナイフなしで食べてください。こっちじゃそれが普通です。アヴェリンさん、それ茶色のスープを掬ってお米と一緒に食べるんです」

 

 それぞれ説明に何となくの理解を示しつつ口に運ぶ。

 そして返ってきた反応は、真逆のものだった。

 

「これは美味いな……! 複雑な味で香りが鼻を突くようで、味付けも実に好みだ」

「ちょっとこれ、本当に肉なの? 柔らかすぎるし雑味があって味付けがくどいわ。アタシ、これ嫌いよ」

 

 ツンと外方を向いて容器を押し出すユミルに、アヴェリンは勝ち誇るような笑みを浮かべる。

 

「お嬢様には庶民の味付けが好みに合わんか」

「別に美味しいものは美味しいって素直に言うわよ。でも、これは駄目。好みじゃないわ」

 

 実際、同じハンバーグでもレストランで提供されるような物なら、きっと美味しく感じられるのだろう。コンビニ弁当のハンバーグは、アキラも美味しい食べ物とは認識していない。

 ミレイユが苦笑しながら、ワインを差し出す。

 

「口直しに、ほら……。コンビニの弁当じゃ、むしろハズレを引くほうが多いかも知れないな、お前の場合」

「何故です? 美食家とか?」

「……かどうかはともかく、味覚や嗅覚が私達とはちょっと違う」

 

 へぇ、とユミルの方を窺うと、まるで舌に残った味を濯ぐように、ワインを口の中で転がしている。

 それを横目に先程から静かなルチアに顔を向けると、サンドイッチを解体して中身を見たり上下に裏返したりして、やはり食べることより知的好奇心を満足させる事を優先させたようだ。

 時折、パンだけ、具材だけ、と口に入れているので、何も食べていない訳でもない。

 

 コンビニ飯だけしか提供しないとあっては、きっと日本の食事を誤解させてしまう。とはいえ、アキラも学生の身。美味しい食事を自炊して提供できる技術もない。

 だからといって、気に入りそうな食事としてレストランを紹介したら、毎食それ所望されても困ってしまう。

 結局はコンビニ飯に慣れてもらうしかないだろうか、などと考えていると、ミレイユが思考を読んだかのような言葉を放ってきた。

 

「そう深刻に考える必要はないぞ。こちらの食材、こちらの調味料、それらを調達できれば、自分達で勝手に作る。調味料が全然違うから、好みの味付けを探すのに時間はかかるかもしれないが……。まぁ、何とかなるだろう」

「そこはアタシが自分で何とかするわ。そういうのは得意だしね」

「期待しておこう」

 

 ユミルが笑顔で請け負ったところで、カレーを食べ終わったアヴェリンが袋の中から別の何かを取り出す。幾つもあるそれを、食べ終わった器を脇にどけながら広げていく。

 

「ミレイ様、甘味の方もご用意しました。どれでもお好きなものをお選び下さい」

「うん……?」

 

 シュークリームやロールケーキ、エクレアなどが並べられていくのを見て、ミレイユは眉根を寄せて首を傾げる。

 

「ワインと一緒に甘味はな……。それに、私はそれほど甘味が好かんが……」

 

 言いさすと共に、みるみる内に表情が陰るアヴェリンに、流石のミレイユも言葉を止めた。

 

「――だが、そう、こちらの甘味はいいものだ。まずアヴェリン、お前が食べて好みのものがあったら教えてくれ。私もそれを一口もらおう」

「お任せ下さい、ミレイ様! 必ずや御口に合う物を選ばせていただきます」

 

 うん、と頷いて、ミレイユは笑みを隠そうとワインを煽る。

 アヴェリンはそれに気付かぬまま、慎重な手付きでシュークリームを手に取った。

 

 そっと二つに割って中に入っているクリームに顔を輝かせると、零れ落ちないよう慎重に手を動かす。それから鼻の前で小さく横に揺らし、その香りを楽しんだ。

 ふわりと笑みを浮かべると、ゆっくりと口の中に運び、一つ、二つと顎を上下させる。

 一つ噛む度、アヴェリンの頬が緩み、眉が垂れ下がる。

 見ている方が嬉しくなってくる表情だった。

 全員の視線が自分に向いている事に気づいて、アヴェリンは今更ながらに口元に手を当て咀嚼を隠す。飲み終わると、努めて無表情で評価を下した。

 

「……ん、んんっ! ええ、なかなかよろしいお味でした。ですがまぁ、普通と言いますか、ミレイ様には、もしかしたら好まない味かもしれません」

「そうか? では、残りはそのまま食べてしまってくれ」

「よろしいのですか?」

「ああ、それを食べ終わったら、他のも試してもらいたいが……。もちろん、まだ食べられるようなら」

「ええ! まだまだ大丈夫です。――では、早速失礼して……!」

 

 アヴェリンは残ったシュークリームにかぶり付く。やはり幸せそうな顔で食べ尽くすと、次いでエクレアに手を伸ばす。上にかかったチョコレートに興味深い視線を飛ばし、壊さないよう慎重な手付きでビニールの上から撫でる。

 やはり同様の手付きで柔らかく手に取ると――。

 

 結局、全スイーツの味見が終わっても、アヴェリンはミレイユのお気に召すだろう味は見つけられなかった。

 



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別世界の住人 その4

宵闇堂様、誤字報告ありがとうございます!
 


 

 アヴェリンが全ての甘味を食べ尽くし顔面蒼白となっているのを、ミレイユは笑って見つめていた。最後には言い訳すらなく食べたいが為に食べていたが、元よりミレイユからすれば規定路線、全く気にしていない。

 

 気づけば献上する甘味がないことに気付いたアヴェリンは、大いに気に病み平身低頭謝罪した。だが、ミレイユは笑って手を横に振る。

 

「まぁ、お前のああいう表情を見られただけで良しとしよう」

「は……、全くお恥ずかしい限りで……」

「そんなに気に入ったなら、専門店の物を食べれば気絶するかもしれないな」

 

 アヴェリンは明らかに動揺して眼を見張る。これ以上のものが存在するなど、想像の外だったようだ。

 ミレイユの知る限りにおいて、コンビニスイーツは昔に比べ質が上昇したが、とはいえ洋菓子店で作られる物とは雲泥の差がある。あのレベルで、そこまで気に入ったアヴェリンなら、間違いなく虜になるだろう。

 

 二人のやり取りを聞いて興味を持ったアキラが、アヴェリンに向かって気軽に問う。

 

「そちらには、あまり上質な菓子はなかったんですか?」

「……そう、そうだな。菓子の多くはベリーを煮沸かして作るジャムが基本となる場合が多い。甘くはあるが苦味もあって、同時に雑味も強い。作る者によって味の調整が激しく、つまりこれは当たり外れが大きいということなのだが。季節によっても気候によってもベリーの味は変化するから、これを見極めて作る最高のジャムというのは本当に難しく、かつ希少で庶民にとって手に届く代物ではない。かといって砂糖は高級で王侯貴族の食べ物であるし、これは甘みが強すぎるきらいがあって、また甘みが強いほど高級品という考えが根底にあるせいで、時にこれが苦味に転じるほどの――」

 

 饒舌に語りだしたアヴェリンに、今度はアキラが目を見張る番になった。

 時に苦く、時に甘い表情に変わるアヴェリンは、それほど甘味に対して強い思いがあるらしく、とにかく舌が止まらない。

 やはり全員の視線が集中していることに気付いて、アヴェリンは俯いて解説を止めた。

 

「……まぁ、つまり普通だ。そこそこ菓子はあったのだ」

「……そうですか」

 

 話す話題には気をつけないといけないな、とアキラは注意点を認識させていると、そうだ、とユミルがミレイユに顔を向けた。

 

「そういえば、買い物に行く途中に変な連中がいたのよ」

「――そうだ、それだ。その報告をするよう、言っておいたろう!」

 

 都合よく話題の転換が降って湧いて、アヴェリンはそれに飛びついた。唾を飛ばす勢いで指摘すると、そうね、と生暖かい視線で同意してから、ユミルはミレイユに向き直る。

 

「アヴェリンたちを追って出ていった時、ちょっとした悪戯心で先回りしようと思ってね。隠密しながら道を迂回して、そうしたら例の公園辺りに出たワケ」

「……うん」

「そうしたら何かの痕跡を探していた連中がいて、何かと窺ってみれば、地面に這いつくばって血を採取していたわ」

「血を……?」

 

 ミレイユが怪訝に眉をひそめれば、ユミルも似たような表情で頷く。

 

「血そのものが欲しかった訳じゃないみたい。魔物がいた痕跡、その証拠として欲しかったのね、きっと。失踪、逃走、露見、只では済まない、そういう内容が漏れ聞こえてたわ」

「……うん。どう思う?」

「それだけでは何とも」

 

 ミレイユが顔を向ければ、ルチアは唐揚げの衣を剥がす作業を止めて肩を竦めた。

 

「話だけ聞けば、魔物を放り出したら逃げられた無能者みたいに聞こえますし、あるいは討伐に来たけど肩透かしで戸惑っているようにも聞こえます……。材料が足りなくて判断に困りますね」

「……そうだな」

「でも、もしもですよ」

 

 アキラはそこに驚きと興奮を持って口を挟んだ。

 

「もしも討伐に来た人たちなら、やっぱり魔物討伐組織みたいなものがあるってことじゃないですか?」

「もしもそうなら、当然そういうことになる」

 

 ミレイユは頷いて同意したものの、その表情自体は否定を見せていた。

 

「魔物自体が普遍的に存在しているとするなら、もっとその危険性を周知させるべきだ。あの時のように前触れ無く現れるというなら、討伐隊がいたとしても被害は免れない」

「逃げる間もなく襲われるのがオチでしょうねぇ」

「――そうだ。予め発生場所を特定できていないのは、私達が倒した後にさえ現れていないことから予想できる。ならば討伐組織はどうやって被害を阻止しつつ、その存在の露呈を防ごうというのか?」

 

 そこまで聞いて、アキラも不可能と判断しようとし――頭の片隅で引っ掛かるものを感じた。しかし即座に形にならず、とりあえず思いついた別のことを口に出した。

 

「じゃあやっぱり、そういう組織はなくて、あそこにいたのは魔物を放逐した奴らだったと言うんですか?」

「状況だけ見ればな」

「――でも、そうとも限らないでしょ?」

「もちろん、そうだ。閉じ込め逃さない為の場所、予め出現場所が固定している、急行しなくても隠蔽できる方法がある、そういった何かがあるのかもしれない」

 

 あ、とアキラが声に出し、次いでルチアが、ああ、と何かに気付いて声を上げた。

 

「あの時、公園を覆っていた見えない壁!」

「ひび割れて壊れるまで、気づかないレベルでの即時展開。そして恐らく外側から内部は見えない構成と予想出来て……。もしかして、電線に流れていた魔力、あれってそういう意味があったんでしょうか?」

「どういう意味だ?」

「何の為に魔力を流してたんだって話してたじゃないですか。これって、つまり魔物の隠蔽対策に使ってたんじゃないでしょうか」

「……そうかもしれない。私達は発動した瞬間たまたま内部にいたが、そうでないなら弾かれたり、内部の様子が見えなくなったりしていたのかもしれない」

「それは十分考えられます。……けど問題はそちらではなく、電線の方に考えを移して欲しいんですよ」

 

 ルチアは一拍置いてミレイユを見返し、無言の肯定が返って来て話を続ける。

 

「常に微量の魔力が流れていたんです。あれだけの量をただ流すだけではなく、条件に合えば自動的に作動させる魔術があると仮定すれば、それも納得できるものがあります」

 

 ミレイユは考え込むような仕草をしつつ、手元のグラスを手の平で弄ぶ。

 

「……そうだな。無駄に垂れ流す魔力が言語の為というより、他の為に使用していて、言語変換に用いられているのはあくまでおまけ、という推論には同意できる。だが主流として何の為にという部分については、今ここで議論するには情報が足りなさ過ぎるだろう」

「そうね。壁の為というのはその一つとして考えてもいいけど、他にないとは言い切れないし、それだけの為と判断するのも早計だわ」

「水際対策が効を成していると考えるよりは、何者かが放逐した場所に我々がいたと考える事も必要そうだがな。あの壁が割れた理由、あるいは条件もまだ分からない。人々に周知されていないのも、さほど回数が発生していないから露呈していないだけ、とか……」

「私達が現れると同時期に、あちらの魔物も現れたと考えた方が、自然と言えば自然ですよね」

「そうは言うけど、自然、不自然だけで決めつけると痛い目見るわよ。アタシたちが今まで、どれだけ不自然な状況に遭遇して来たと思う?」

 

 そうだな、とミレイユは何かを思い出して苦い顔を見せた。

 

「ともあれ、何者かが暗躍してようと我々の知ったことではないのは確かだ。オミカゲ様とやらのご加護が綺麗サッパリ解決してくれる事を祈ろう」

「その言い方には悪意が満ちているような……」

「別にそういう訳じゃないが。仮に水際対策が成功しているのなら、それは不思議な何かが成しているんだろうさ。そして私が考える限り、そんなことが出来るのは決して日本の政治家や有力者じゃない」

 

 言い方自体は問題だったが、ミレイユのその言い分には納得できるものがあった。

 確かに魔物がかつてより存在していて、それを民衆に知られる事なく処理して来たというのなら、それはオミカゲ様以外に成し得ない事だろう。

 そして、古来よりある鬼退治、妖怪退治の伝説が、それを裏付ける証拠のように思えてくる。そうだといいな、という願望も多分に含まれているが。

 

「……ですね。そう考える方が心情的に安心できますし」

「我々だって身の安全を脅かされない限り、何かをするでもないしな。でも、お前は正に脅かされていると感じているんだろう?」

「はい、公園を探っていた人たちの事を聞いた今、尚の事そう思えました」

「だったら自衛の力を身に着ければいいさ。……これも何かの縁、それぐらいは気にかけてやる。飯の礼もあるしな」

 

 言ってミレイユは、ほのかに笑う。

 まだまだ浅い付き合いだが、何となく饒舌な気がするのは、飲み干したワインの数にあるのかもしれない。

 既にミレイユとユミルは二人合わせてボトルで三本空けている。二人でとはいえ、短時間でそれだけ飲んだというなら、多少酔いが回るものだろう。

 

「それじゃあ、今日のところはこれで解散だな」

「え……はい。じゃあこれ、すぐ片付けちゃいますんで」

 

 時計を見れば、既に十一時を回っていた。

 アキラは手早く、空になった弁当の箱をゴミ袋に投げ込んでいく。

 食べかけの物は殆ど出なかったので、片付け事態は簡単に終わった。幾つかの余った惣菜を皿に移して、ラップで蓋をする。これらは明日にでも、また温め直して食べるつもりだった。

 

 後は空になったワインの瓶やグラスなどがテーブルの上に残るばかりだが、それらをどうしようかと思っている間にミレイユが手をかざして消してしまう。

 それぞれが椅子から立ち上がると、次に右腕を持ち上げて掌を広げる。掌から中心に紫の光が広がり、それを握り締めると椅子やテーブルが幻のように消えていった。

 

 未だ慣れない不思議現象に瞠目していると、今度は薄っすら緑色に光る左手を、円を描くように動かす。それで隣室に移されていたソファとテーブルが所定の位置に戻って来た。

 

「うわ、便利……」

 

 返事は肩を竦めることで返ってきて、今度は懐から――というより例の個人空間から、一抱え程の箱を取り出す。

 見事な装飾を施された価値のありそうな木彫りの小物入れだが、年代は感じさせない。四隅が金属片で補強されていて、側面にはそれぞれの角度から家の形が彫られている。

 蓋の上には宝石ではない色付きの石が嵌っていた。

 ミレイユはそれをテーブルの上へ無造作に置く。

 

「えっと、聞いてませんでしたけど、宿の方はどうします? 流石にこの人数は、ここで寝るのは無理だと思いますし……。ホテルなんて気の利いたもの、この辺にはないですよ」

「そこは大丈夫だ、これがある」

 

 言って蓋の上を指先で二度叩いた。

 蓋を開けると中は暗く、底は見えない。覗き込めば底が見えて当然の小さな装飾箱なのに、それだけが明らかに異質だった。

 

 ミレイユが目線で示せば、アヴェリンが真っ先に箱へ手を伸ばす。

 指先から箱の中に手を入れ、それが手首まで飲み込まれる。箱の体積から見て、握り拳であればともかく、明らかにそれ以上が箱の中へ入ってしまっている。

 どういう仕掛けだと思っていると、アヴェリンの姿が手先から螺旋を描くように掻き消えて行った。

 

「な、なぁ……!?」

「ほら、どんどん行け」

「それじゃ、失礼しますね。興味深い食事をどうも。良い夜を」

「楽しい夜だったわ。おやすみ、可愛い子ちゃん」

 

 ミレイユが促せば、ルチアも続き、ユミルも同じように入っていく。最後に残ったミレイユは、置いてあった帽子を拾い上げて頭に被った。

 

「拠点も備蓄もあると言ったが、これがそうだ。私が許可した者だけが中の空間に入る事が出来る。……ああ、箱はこのまま置いておけ。また、明日」

 

 ミレイユが箱に手を入れて姿が消えると、自然と箱の蓋も閉まる。恐る恐る蓋を持ち上げてみると、そこには底が見えるばかり。試しに手を入れてみても、箱の底に指が当たるだけで、ミレイユの言う通り入り込む事はできない。

 

「これもきっと、魔法なんだろうな……」

 

 理解できない事は魔法で片付けた方がいい。それにきっと、これに関しては間違っていない。アキラは言われた通り、箱には手を触れず放置して眠る準備を始めた。

 いつもの就寝時間も、とうに過ぎている。

 明日も普通通り学校がある。早く寝ないと差し支えるだろう。

 

 アキラは歯を磨こうと台所へ向かう。この部屋に洗面所などという、気の利いたものはないのだ。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 荘厳な庭が一望できる広い和室に、沈む込むかのような厚い座布団に座った老女が居た。

 風はなく、雲もない。欠けた月明かりが畳を照らし、畳の敷かれた部屋の半分を顕にしていた。月明かりの届かぬ部屋の隅には蝋燭が灯され、緩やかに暗闇を照らしている。

 

 老女の座る場所は他より一段高く畳が積まれており、その四隅には背の高い蝋燭台がある。そしてそれらを細い注連縄で繋いで正四角形を作っていた。

 その中心にいる老女は紫袴を履いた巫女服を着用している。ただの巫女服ではない。要所に使われた金糸銀糸は、綺羅びやかでありつつも上品、高額を思わせても下品に見せない品質を見せていた。

 袴に使われた紫の色はこの国に於いて一人しか着用を認められておらず、そしてそれはこの老女が組織の最も上の立場であることを示している。

 

 老女の顔に刻まれた皺は深く、長い年月を生きてきた事を物語る。目は閉じられ、動きを見せない。ともすれば人形かと見間違える様子だったが、閉じられた襖から掛けられた声に顔を上げた。

 

「夜分遅くに失礼致します。例の件について、由衛(ゆえ)様がご報告に上がりました」

「……入りなさい」

 

 声もまた、姿に違わぬ嗄れた声だった。

 ゆるりと背筋を伸ばして襖の外へ視線を向ける。

 膝を畳んで襖の外に待機していた者は、まずほんの少し、指が入るほど小さく開けた。それから一泊の間を置き、音を立てないようにゆっくりと間を広げていく。

 

 襖を広げたのは、巫女服姿の若い女性だった。

 その後ろには、やはり正座をしたまま待機していた男――由衛と呼ばれた男が手を付き頭を下げている。

 土下座というほど深くはない。背筋が綺麗に伸ばし、礼節として正しい角度で礼をした。そして静かに立ち上がると襖の根を超え二歩進み、改めてその場で正座する。

 由衛の姿もまた時代がかったもので、それはもしかしたら陣傘と鎧を外した足軽のような姿に見えたかもしれない。

 由衛は再び一礼してから口を開いた。

 

「遅参いたしまして申し訳ありません」

「構いません。……して、どうでしたか」

「ハッ。鬼妖(おにあやかし)の姿は確認できず、しかし辺りからは血痕が見つかっております。現場に急行した者たちからの報告どおり、姿を眩ませたのではなく討伐されたと判断するのが妥当と思われます」

「……そう」

 

 老女は外を見上げ、月を見つめる。

 一拍の間を置いて身体から青い光が立ち昇った。その光は薄く揺らめいては次第に消えていく。月から男へと視線を戻し、掌から氷の札らしき物体を作り出す。

 それを宙に放れば、ゆっくりとした重力を無視した動きで由衛の手元に落ちていく。

 由衛はそれを一礼してから手に取り、眼前に持ち上げ、また一礼した。

 氷で出来た札は触れば冷たいのに、手に貼り付く感覚も溶け出す気配もない。

 

「手間でしょうが、やって貰わねばなりません。それを持って御影神宮まで。祭祀部境内警備の由井園(ゆいぞの)、本日の責任者に直接それを見せなさい」

「――ハッ!」

「オミカゲ様に直接お渡しするよう、申し伝えるのです。私からの厳命であると」

「ハッ、宮司様より直接の命! 確かに、承りました!」

 

 由衛は氷の札を懐に仕舞うと一礼し、入って来た時とは逆の手順で退室していく。襖が再び閉じられ、再び静寂が部屋を支配すると、月に視線を移した。

 

「ようやく来たのですね。……オミカゲ様の心中は如何許か。忙しいことになりそうです」

 

 誰にも聞こえないと分かりつつ、声に出したくなったのは、その心情を推し量れずにはいられなかったからだ。待ちに待った瞬間がようやく訪れた歓喜か、とうとう訪れてしまった緊張か、いずれにしても穏やかなままではいられまい。

 

 鬼妖が出現した事は警戒網ですぐに知れた。『線』に触れれば結界が発動し、対象を閉じ込める。しかし直後、瞬く間に消滅した。現場に急行した隊員からの報告によれば、血痕以外に痕跡なし。

 討伐対象がいなかったことで後の調査を別働隊に引き継ぎ、そしてやはり同じ結論に至った。

 

 本来なら、どれだけ近場に担任がいようとも、結界発動直後に処理が終わるなどある事ではない。

 そもそもの前提として、発動の前から部隊が展開している事などない。偶然近くを通りかかっていたとしても、ある程度準備に時間がかかるものだ。だから、そもそも一瞬で討伐という成果を上げる事はない。

 

 しかし、それが可能な存在を、この宮司は知っていた。

 ――知らない筈もなかった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 それは『箱庭の邸宅』と呼ばれる魔術秘具だった。

 最初はただ草原が広がるばかりの空間で、雲がまばらに広がる空、どこまでも続くように見える平原があった。

 だが実際は、見える範囲と行動できる範囲は違う。

 ある地点まで進むと空間が断絶されて、まるで見えない壁を前にしたように拒まれる。見た目はまだ奥行きがあるのに、押し返す壁で進めなくなるのだ。

 

 ミレイユはそこに資材を持ち込み家を建てた。

 本宅と離れ、鍛冶場に錬金部屋、露天風呂など、生活に便利だけでなく拠点として活用できる設備を増やしていった。それだけでは解放感が強すぎるので、離れた四方にそれらを囲む形で林が植えられている。

 今でも四人で暮らすには広すぎるくらいだが、持ち運びできる快適な拠点として重宝していた。

 

 四人の部屋は、それぞれ本宅に用意されている。

 二階建てだが外観からは一階建てにしか見えず、地下一階と地上一階、それに屋根裏部屋の三階構成になっていた。

 家に入ればリビングになっていて、ダイニングとキッチンが併設されている。そこを過ぎれば左右にプライベートルームへ繋がるそれぞれの部屋があり、奥へ進めば談話室と地下へと続く入口があった。

 

 部屋の間取りは三人とも同じだが、長い間生活を続けるに連れ個性が現れている。

 ミレイユの部屋が一番大きく、とりわけ執務室を思わせる机やそれを取り囲む書棚、さらに奥には別室として寝室が用意され天蓋付きのベッドがある。

 その寝室の脇には簡易的なシャワールームまであり、ミレイユはその日、とりあえず汗だけ流して眠りについた。

 

 目が冷めたのは、約六時間後。

 この箱庭の中は昼も夜もない、常に同じ空を写しているが、ミレイユが持つ体内時間の正確さだけは自信がある。それ故の判断だったが、頭が幾らか重い気がする。寝すぎてしまったかもしれない。だとすると、常より多く寝てしまったのかもしれない。

 

 昨日は気疲れが多く酔いもあったから早めに就寝したので、ろくに身体を洗っていない。

 だからきちんと洗おうと室内で済ませても良かったが、どうせならと外の露天で行うことにした。

 部屋を出れば寝ているのはユミルのみ。ここから姿が見えるわけではなかったが、気配だけで他の二人は外にいることが分かる。

 

 ミレイユは替えの下着と羽織るものだけ持って、裏口から外に出る。

 軽く視界を回せばアヴェリンは離れた場所で武器を振るって汗を流し、ルチアはそことは逆の定位置で瞑想していた。この空間で過ごせば良く見る、いつもの光景だった。

 

「おはよう」

「おはようございます」

 

 気軽に挨拶をしながら前を横切る。ミレイユが朝風呂として露天に浸かるのも珍しい事ではないので、ルチアは瞑想を解くことも目を開くこともないまま応えた。

 それもまた、いつものことだ。

 

 ミレイユは近くに設置してあるカゴへ、乱雑に下着を放って露天風呂に浸かる。

 女性らしく行儀よく、など全く気にしない動作で、親父のような声を出しながら湯に沈んだ。

 

「ああぁぁ……!」

 

 顔をお湯で洗ってから、露天の縁に背中を預ける。両手を広げて腕も乗せて空を仰いだ。

 鳥の囀りや風が木の枝を叩く音が聞こえてくれば風情もあるのだろうが、ここには流れる雲の動きしか見るものはない。

 このお湯は無限に湧き出て、汚れることもない。それどころか、本来ならどこかへ逃さなければならないお湯も、地面に触れた時点で消えている。

 この露天風呂は、あらゆる理不尽を捻じ曲げて最適な環境を維持し続けている。

 

 これも神が造った箱庭だから出来る事で、神の試練の報酬として得たものだ。

 多くの神は戦闘に役立つものしかくれなかったものだが、これを下賜してくれた神には本当に感謝している。

 

「はぁぁ……!」

 

 再び大きく満足げな息を吐いた時、修練を終えたらしいアヴェリンが湯を浴びにやってきた。

 

「おはようございます、ミレイ様」

「うん、おはよう、アヴェリン」

 

 流石に足を大の字に広げたままなのはどうかと思い、足首同士を上下に重ねるようにして足を閉じる。羞恥心ではなく礼節の問題だった。

 露天風呂は五人まで座って入れる程度の大きさがあるとはいえ、流石に足を広げたままの状態は邪魔になる。

 

 アヴェリンは直接湯に入るような事はせず、長い髪を頭の上で簡単に結い、備え付けてある手持ち用の桶で湯を掬う。しっかりと汗と汚れを流し終えてから入ってきた。

 対面ではなく、足を伸ばせば互いにくの字になるような場所に位置取り、アヴェリンは丁寧に足を畳んで胸元まで湯に浸かる。

 

「昨日は大変な一日だった……」

「体力的な事はともかく、他に類を見ない一日だったのは間違いありませんでしたね」

 

 気怠げに言えば、アヴェリンも苦笑して返してきた。

 

「本当に何もかもが違っていて、常識を学び終えるのには時間が掛かりそうです」

「ゆっくりやればいい。多少の不便は覚悟せねばならんが」

「現状も武器を自由に持ち歩けないというのには、不便を感じます」

「そこは慣れろ。この国に、武器が必要な場面は殆どない」

 

 言ってミレイユはチラリと笑った。

 

「強盗と出くわすなんて状況、一生に一度あるかどうかだぞ」

「それはまた、大変貴重な経験をしましたね」

 

 アヴェリンもまた笑って、手で杓を作って肩に湯を流す。

 

「……ところで、本日のご予定は決まっているのですか?」

「それなんだが……。この国で流通している通貨を得る手段を、模索しようと考えている」

「そういえば、コンビニとやらで使用していた通貨は見たこともないものでした。紙が通貨として使えていることに驚いたものです」

 

 うん、とミレイユは曖昧に頷いた。

 あちらにはない信用取引という概念だが、それはミレイユとて詳しく説明できない。文明の利器たるパソコンでも使って調べればいいのだが、そもそもの基礎知識が不足している為、アヴェリンたちにもやはり理解は難しいだろう。

 

「どんな紙でもいいという訳ではなくてな。……そこもいずれ、おいおいな」

「……ええ。しかし、とはいえ金は金。リネール金貨が使えないとも思えませんが。両替屋に持っていけば金銭を得られるのではありませんか?」

「記録にも存在しない国の硬貨というのは扱って貰えない。詐欺防止の為とか色々理由はあるのだろうが、何しろ扱いに困るものは引き受けたがらない」

 

 ミレイユが溜息を吐く。手の平で掬ったお湯を顔にぶつけるように浴びた。ぐしぐしと両手で顔を揉むように洗い、顔をあげる。

 

「では、金塊を使うのは? これも装飾品の作成や触媒の利用に、結構な数を保有なされていた筈……」

「刻印が刻まれていない金塊は、扱って貰えないと聞いた覚えがある。刻印が品質の保証をしているんだな。だから仮に取引に応じても、相当な値下げを食らう事になる」

「金の扱いに、そこまでしているものですか……」

「あちらと違って、それ程の希少金属という事だ。私達の財産をこちらで転用しようとすれば、相当な値下げを覚悟しなければならないぞ……?」

 

 いっそヤケになって、アヴェリンに向けて皮肉げな笑みを見せる。

 アヴェリンも渋面になって、額に浮いた汗を湯で拭った。

 

「では、真っ当に働きますか? 山賊の拠点を襲撃できれば楽なのですが。それも無理なのですよね?」

「それが出来れば確かに楽だったな」ミレイユは白い歯を見せて笑う。「だが、山賊はもちろん、真っ当な仕事も無理だ」

「真っ当な仕事まで? 何故です?」

「私達に、この国の戸籍も、出自の国の戸籍もないからだ」

「戸籍……」

 

 聞き慣れない単語に、アヴェリンは眉根を寄せた。

 

「自分の出自を保証する書類だよ。この国では、それがなければ職にすら就けない」

「何て面倒な……では、やはり奪いますか?」

 

 剣呑な雰囲気を出したアヴェリンを、手を振るって止める。

 

「それじゃあ、いつか捕まるし、穏やかな静養とは無縁の生活になるだろう。却下だな」

「それでは八方塞がりのように思えますが……」

「まぁ、金貨の類が駄目なら装飾品かな……。これなら刻印などなくても取り引きに応じるだろうし。メーカーマークがないから安く買い叩かれるだろうが、それは仕方ない」

 

 アヴェリンが眉を八の字に下げて不遇を嘆く。

 

「何とお労しい。何たる侮辱、何たる侮蔑でしょう。ミレイ様の偉大さを周知させれば、誰もが財貨を献上するでしょうに……!」

「――しなくていいし、させなくていい。まぁ、質屋探しかな。なるべく小さな個人経営のような……。この近辺にあればいいが……、調べさせるか」

 

 ミレイユが苦労をせねばならい事実に憤りを感じつつも、アヴェリンはとにかく頷いた。

 方針が決定されたなら粛々と従う。それがアヴェリンの意義であり誇りだった。

 

 



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常識 その1

うぇん様、あーるす様、誤字報告ありがとうございます!
 


 風呂を上がったミレイユは、アヴェリンを伴って邸宅に戻った。

 水が貯蔵されている樽から簡易栓を抜いて木製のマグに注ぎ、一気に煽る。その場で交代してアヴェリンに場を譲ると、そのまま自室に戻って着替えを済ませた。

 

 昨日までと違って着る物は部屋着として使っている物で、農民衣装とも呼ばれるぺサンドドレスに似た衣装だった。元となったデザインがそうというだけで、使われている材質や意匠、袖に縫われた刺繍など、その豪華さは貴族が纏う衣服と遜色ない。

 それにワンポイントとしてのチョーカー型のアミュレット、腕には品位を損なわない程度に抑えた月長石のブレスレットに、人差し指に同素材の指輪を着けていた。

 

 これは何もオシャレを楽しみたいという理由から、身に着けているのではない。

 これら装飾品はそれぞれが一級品の魔術秘具で、それぞれ身を守る術が付与されている。衣服自体は単なるオーダーメイド品で、身を守るには適さない。それを補う為のアクセサリーだった。

 

 別にこれらを装備しなくても、何が起きようと対処できるだろう。傍には常に誰かしら付いているし、危機があったとしても、ここは日本だ。大した事は起きない。

 そう理解していても、アヴェリンから許しは決して得られないだろう。

 うるさい事を言われるぐらいなら、最初からある程度支度をしておけば面倒も少ない。

 

 ミレイユは自身の姿を客観的に見て、やはり日本で見るには奇異に映るだろうと判断した。

 これがもしもスイスや北欧地方であったなら、まだしも問題なく調和していたかもしれない。

 

 ミレイユは自室を出てリビング兼ダイニングに向かう。

 先程水を飲んでいた場所では、アヴェリンが立って食事の準備をしていた。ミレイユの姿をチラリと見て、着ている衣服と装飾品を素早く確認してくる。そして満足そうな笑みを浮かべて作業に戻った。

 台所一角には様々な収納スペースがあって、多くの食材が保管されている。ここに保管できるのは食材だけで、料理として作られたものは保管できないという不思議な法則がある。

 食材も長く入れていたら、やはり腐る。ただ収納されている間は時間の流れが遅くなる効果があるようだった。

 

 だから肉や野菜は勿論、ベリーを初めとした果実は用意されていても、そう多くはない。調味料と香辛料は多く持ち込めても高価な為、やはり数は用意できていなかった。

 その中にあって、一番種類も量もあるのはワインを初めとする酒類だった。ビールやエール、年の若いワインやビンテージ、変わり種として蜂蜜酒も数種類ある。

 

 そこに朝の瞑想を終えたルチアが帰って来た。

 手早く服を着替えて朝食の準備に合流する。

 

 今日の朝食は、精製度の低い小麦を使った黒いパンと果実を絞って作ったジュース。オレンジとは違うが酸味と甘みが程よく、栄養が豊富。オレンジに似た風味だが色は紫色をしていた。

 そこに生野菜のサラダとハム、ソーセージを茹でて香辛料を少々振りかけた物が加わる。

 

 朝の食事は質素な内容である事が殆どで、量を取るのは昼か夕になる。旅暮らしの時は状況次第でそれが変わった。今はそういう暮らしではないので、これからは肉料理を食べる時間は夕食の時になりそうだ。

 

 食卓の上座に座って待っていると、アヴェリンとルチアがやって来て手早く配膳を済ませた。その終えたタイミングでユミルがやって来る。

 

「おはよ……」

「ああ、おはよう」

 

 髪は解いて乱れたまま、目も据わってショボショボとさせていた。彼女の生活は夜型なので、未だに慣れない朝の起床はいつもこんなものだ。昨日は深酒という程ではなかったので、酔いが残っている訳ではない筈だ。

 

「おはようございます、ユミルさん」

「遅いぞ。たまには手伝ったらどうなんだ」

「……うん、おはよ」

「それはもう聞いた」

 

 アヴェリンが呆れた目をして返事を返すのを見ながら、未だに頭がハッキリしていないユミルを席につかせてやる。

 ジュースを注いで目の前に置いてやれば、のろのろとした動作で口に運ぶ。

 顎を上げて大きく喉を嚥下させるのを見せながら、ジュースを一息に飲み干す。

 

「ああぁぁ……。生き返るわ」

「軽い命で結構なことだ」

 

 アヴェリンの冷たい視線を受け流し、パンを手に取ろうとしたところで手を叩かれた。

 

「まだミレイ様が手を付けてない。食べ始めるまで待て」

 

 アヴェリンが育った部族では家長が食べ始めるまで、家族は誰も食事を始められない決まりだった。家長が食べ終わるまで手を付ける事すら許さない、という決まりの部族もある。だが大抵の場合、家長の許可なく食事を採るのはマナー違反とされ、勝手な食事は家長の権威を蔑ろにする行為と取られる。

 食事を抜かれ折檻される程の罰は珍しいが、程度の差こそあれ、種族が変わっても家長を立てるのはどこも変わりない。

 

「いただきます」

 

 ミレイユは苦笑して自らパンを手に取り、一口分に千切って食べる。

 アヴェリンは厳しすぎ、ユミルは緩すぎる。生まれた時代の差でもあるから、注意してもなかなか直るものではない。

 結局のところ、自分が早く何か一品、口に入れれば済む話なのだ。

 

 ミレイユに続いて、それぞれが信仰する神に祈りを捧げて食事を始める。

 口にしないのはユミルだけで、一番熱心なのはアヴェリンだ。たっぷり五分は祈りを捧げた後、ミレイユに向けても簡略化した祈りと一礼してから食事に手を付ける。

 

 アヴェリンにとって、ミレイユとはそれ程までに畏敬を向ける存在だった。神に次ぎ偉大な存在で、どのような人種、どのような王族より尊崇されるべき存在と考えている。

 無論、ミレイユはそれを行き過ぎた感情だと思っているし、諭してもみたが、これまで全く効果を上げていない。

 

 食事中は声を出さないのがマナーであるルチアは、祈りの最中も食べ始めてからも無言を通す。これについてはそれぞれの慣習の問題なので、誰も気にしない。

 

 朝食の品目は少なく、それ故に早く済む。

 食後にコーヒーを飲むという習慣もないので、食後は何も持たずに雑談の場だ。時にこれは作戦会議や旅程の確認の場ともなるが、多くの場合雑談のみで親睦を深める。

 うまく日本の通貨を手に入れれば、食後のコーヒータイムを習慣化できるかもしれない。

 ミレイユが今後の展望に意識を傾けていると、適当に片付けていた皿を重ねながらアヴェリンが伺うように口を開いた。

 

「本日は通貨を得る為に動くとの事でしたが、他の者達も同行させますか?」

「……好きにしろ、と言いたいところだが。その前に着る物をどうにかした方がいいかもしれない」

「着るもの、ね……」

「それほど気にすることですか?」

「昨日は何ともありませんでしたが」

 

 それぞれに疑問符を浮かべるような表情をしてミレイユを見てくるが、これについて異論を認めるつもりはなかった。

 

「昨日は単に暗かったから誤魔化しが利いただけだろうし、アキラにしても単に口にしなかっただけで、絶対に違和感を持っていた筈だ。外で活動するつもりなら、この国で一般的な衣服を身につける必要がある」

「その為に、この国の通貨が必要と」

「でも、それって奇異に見られず通貨を得られる前提があってのものじゃないですか?」

「そうだな……」

 

 通貨を得るまで奇異に映ることは、覚悟せねばならないだろう。服を買いに行く服がないとはこの事か、そこは我慢するしかない。大体、奇異に映るだけで犯罪ではないのだから。

 問題は職務質問を受けた場合だ。見慣れない格好でうろつくだけで、警官はとりあえず声をかけようとする。そこから予想できる問題を考えるだけで、芋づる式に膨らんでいくのが想像できるようだ。

 

 頭の痛い思いで溜め息をついて、ざっと全員を見渡す。

 

「だから、全員で動くのは目立ちすぎると思う。私一人で――」

「それは賛成できかねます」

 

 咄嗟にアヴェリンが遮って、ミレイユは苦い笑みで頷いた。

 

「うん。だから、あるいは二人で行こうと考えている。三人は……、どうかな。ギリギリか?」

「日中動くつもりっていうなら、アタシはパス。こちらの太陽は眩しすぎるのよね」

「私は興味ありますね。昨日は待機組でしたし、今日は別にいいでしょう?」

 

 ミレイユは頷きかけて動きが止まる。困ったように眉を寄せ、すまん、と一言詫びを入れた。

 

「お前は見た目でアウトだ。平日……今日は平日だろうと思うが、日中から十代半ばに見える少女が出歩いてると補導される」

「……はい? 補導? ……補導ってなんです?」

「何というか……、お前のような年齢の少女は学校に行っているものなんだよ」

 

 学校、とルチアは口の中で言葉を転がす。

 

「つまり、学問を教えているんだ、子供に。大人になるまでな」

「それは昨日、アキラに聞きましたね。何でも最低九年間は学ぶのだと。そして大抵は更に三年、追加で学ぶそうだ」

「それはまた随分と偏執的なのねぇ。この国は学者の国? それとも全員、狂信的なのかしら」

「学者の国ではないが、それだけ教育に力を注いでいる国だと言うことだ。そういう訳で、夕方までルチアは自由に外を歩けない。というより、その補導が一番面倒くさい」

 

 先程の学校についての困惑も取れぬまま、ルチアは怪訝に眉を顰めた。

 

「その補導って何なんです? 悪いことのように聞こえますけど。憲兵にでも捕まるんですか?」

「――非常に近い」

 

 ミレイユは思わず、ルチアを指差した。

 

「非行の防止する為の活動で、憲兵――こちらでは警察と呼ばれる組織員が、それを行っている。つまり犯罪をする前に、あるいは巻き込まれる前に手を打とうと目を張ってる訳だ」

「はぁ……、そんなに犯罪に目を光らせているんですか」

「犯罪が少ないって、そういうこと? 怪しい奴はまず罰せよって?」

「そういう事じゃない。別にあらゆる場所に目がある訳でもいない。実際は見つけられない、見逃してる方が多いぐらいだろう」

「……なによ、つまり建て前?」

 

 そうだ、とミレイユは頷く。

 

「毎日同じ時間、同じ場所にいるような事がなければ、あるいは注意を払っている場所に行かなければ、まず補導されるものじゃない」

「でも、どこに目があるか分からないのも事実という訳ですか」

 

 ミレイユは再び頷く。

 

「今は些細なトラブルさえ避けたい。敢えてリスクを背負って、ルチアを連れて行くメリットがない」

「そういう事なら了解です。今回も留守番に徹しましょう」

「悪いな」ミレイユは頷くように小さく頭を下げる。「埋め合わせは考えておく」

「構いませんよ。これから何度もチャンスはあるでしょうから」

 

 となれば、と期待に満ちた目でアヴェリンが見つめ返して来た。

 ミレイユはそれを、やんわりと否定する。

 

「だが、アヴェリンも駄目だ」

「――何故です!?」

「アンタと一緒だと、いらぬトラブル招きそうだからでしょ」

「そんな訳があるか! 大体それだと他に供を出来る者がいません!」

「いるだろう、一人」

 

 アヴェリンは一瞬、虚を突かれたように動きを止め、そして何を言いたいのか察知するにつれ、顔をみるみる間に赤くしていく。

 ついにテーブルを叩き付けて立ち上がった。

 

「あり得ません! あれは信用や信頼とは最も遠い輩です。誰か一緒にとなればともかく、たった二人切りで行動を許すほど、私は耄碌しておりません!」

「……あー、つまりアレですか? あいつを召喚してみよう、と?」

「いやぁ、いいんじゃない? お金勘定や交渉だけで見れば信用できるでしょ」

「――それ以外の一切が信用できんだろうが!」

 

 アヴェリンはユミルに向き直り唾を飛ばす。

 

「でもまぁ、妥当な人選……人選? ――まぁ、人選かと言われたら、アタシも疑問かしらねぇ。そんなに難しい交渉するつもりなの?」

「相当買い叩かれるだろう、と予想されているようだ」

「ああ、何かを売って、こっちの貨幣を手に入れようと思ってるのね。それでマシな交渉役を連れて行きたいと……」

 

 何かに納得したように頷いてみせたユミルだったが、対するアヴェリンは激しく頭を振った。

 

「種族として、アイツらは絶対にタダでは動かない。対価を要求してくる。今度は何を要求してくると思う!?」

「何かしらねぇ……?」

「前回は魔力だけだったが……。高純度で他に類を見ないと、気に入った様子だった」

 

 記憶を探りながら言ったミレイユに、アヴェリンは顔を向け両手をついた姿勢のまま顔を近づける。不敬と思える行動、アヴェリンらしからぬ行動だったが、それだけ何とか説得しようと必死なのだろう。

 

「考え直して下さい、ミレイ様! 奴らは同じ要求をしてくる事はまずありません。必ず何か、一つ釣り上げて要求してきます。金銭、物品、そういった形あるものは絶対要求しません。次はミレイ様の魔力以上に価値あるものを要求してくるのです!」

「私からすれば、魔力を少し分け与えるなど、最も安い取り引きだった。それより少し値上がりしても、大した痛手ではないと思うが」

「――それが奴らの手口なのです! 最初は少額、あるいは取るに足りないと自覚しているものを要求し、割の良い取引だと思わせる。そして気づけば、払えない、払いたくないものを要求されてしまうのですよ!」

 

 アヴェリンにそう熱弁されれば、ミレイユも再考せざるを得ない。

 割の良い取引が何度続くか分からないとなれば、そして本当に困った時にしか使わないとするなら、確かにここで切るカードではない。

 

「因みに、アンタは何を要求されると思ってるのよ。ねぇ、アヴェリン?」

「それは……分からんが。まだ二回目である事だし、要求する魔力を多めにするだけで済むかもしれん」

 

 途端に口ごもったアヴェリンに、ユミルは嫌らしい笑みを浮かべた。追求をやめるつもりはないらしい。

 

「いやいや、それだけ頑強に否定するってことは、それで破滅した人を見たとか聞いたとかしたんでしょ? アンタ、何を知ってるのよ?」

「いや……、別に。そういう話を知ってるだけだ。大体、有名な話だろう……!?」

「ちょっと分からないわねぇ、どういう事よ? 詳しく知りたいわ」

「えぇい、うるさい! お前が知らぬ筈ないだろう! 白々しいぞ!」

 

 顔を赤く染めて着席すると、そっぽを向いて腕を組む。これ以上話すことはないという意思表示だった。

 ユミルは嫌らしい笑みをニヤニヤと浮かべたまま、ミレイユに顔を向ける。楽しそうな表情を隠そうと顔の前に手をやっているが、まるで成功したようには見えなかった。

 

「ま、そうね。やっぱりアンタの考えには、賛同しない方がいいみたい。別の手を考えなさいな」

「……その方がいいようだな」

 

 アヴェリンが重い動作で頷きを見せた時、そこに軽快な声が横から飛んできた。

 

「当座の資金が欲しいなら、借金すればよくないですか?」

「なに……?」

「難しい交渉を考慮して、少しでも多い金額を入手しようとするより、そっちの方が手っ取り早いですよ」

「手っ取り早いのは確かだろうが、返す当てもないのに借金はできないだろう。それにやはり、担保も必要になるだろうし、首が回らなくなった場合を考えると……」

 

 ミレイユが渋面になって否定すると、ルチアはやはり軽い調子で応える。

 

「何も難しい事なんてないですよ。借りる相手はアキラさんですから」

「アキラから?」

「食べていくのに苦労しないって話してたじゃないですか。じゃあ、そこそこの金額は所持していて、そしてそれは多少の出費では崩れるような物じゃないと思うんですよ」

「いや、しかし……」

 

 ルチアは簡単に言うが、いい大人が子供から借金するというのは、心理的に抵抗がある。それも両親を失い、一人で生きている学生からだ。こちらも頼りになる知人がいないのは確かだし、無一文の身の上だが、それでも超えてはいけない一線というものがある。

 

「奪い取ろうというんじゃないんですから。借りるってだけじゃないですか」

「しかし、それなら多少買い叩かれたとしても、装飾品を売りに出した方がマシではないか?」

 

 いいえ、とルチアは決然と首を振った。

 

「負い目なく私達に貸しを作らせる、そういう関係を持たせようと言いたいんです」

「貸しを? ……どういうことだ?」

「正直、こちらの方が一方的に渡し過ぎですよ。敵の情報、対処方法。確かにこれから遭遇するであろう敵が、こちらにとって全て既知であるかどうか分かりません。でも、その情報と対処は値千金に相当するものじゃないですか?」

「それは……、確かにそうだ」

 

 アヴェリンが理解を示せば、ミレイユにも言いたい事が分かってくる。

 

「たかだか出会っただけの縁、一食の恩で渡すには、あまりに過度だと。そう言いたいのか?」

「そうですね。今はまだ実感がないだろうから当然ですけど、いざ自分で戦おうと思った時、彼は思う筈です。どれほど大きなものを与えられたのか」

「……気付くか? 結構マヌケに見えたが」

「気付かないなら、別にそれでもいいですけどね」

 

 ルチアは肩を竦めて、小馬鹿にしたような息を吐いた。

 

「そうでない事を祈りますよ。でも、私の見立てじゃ、ただ教えるだけでは終わりません。武器を貸し与える事になると思います」

「……何故そこまでしてやる必要がある」

 

 アヴェリンが不快げに言うと、ミレイユがルチアに同意する。

 

「そうだな、ルチアの言うとおりかもしれない。学生のアキラが持てる武器なんて、せいぜい木刀か家庭用の包丁ぐらいだ。当然だが、誰もこんなので戦うなんて想定していない。これで対処方法は教えた、とは言えないだろう」

「木刀……。剣を模した木製の棒、ということですか?」

「そうだ。ゴブリンならばいいだろう、それでも殺せる。だがそれ以上となると――」

「ちょっと待って」

 

 ユミルが割り込み、剣呑な表情を見せる。いつの間にか笑顔は消えていた。

 

「この世界ってマナがないじゃない。この邸宅に帰ってきてから気付いたんだけど、あっちは木にも石にも水にさえマナがないのよね」

「――はい、私がチグハグと言ったのはそれもあるんです。電線に魔力は通ってて、一応それが拡散してるから気付きにくかったんですけど。でも、ユミルさんが言うとおり、一切見受けられません」

「でしょ? アタシたちにとっては、あって当然だから気にもならないし、まず有り得ない事態だから知らない方が当然だけど……。マナの含有してない物質で、魔力を持った生物の皮膚は貫けないのよ」

 

 ああ、とミレイユは呻いて顔を歪めた。

 ミレイユはかつての自分を思い返す。

 この世界に、一人の男として暮らしていた時の事を。そして、その暮らしの慰めとして遊んでいたゲームの事を。

 ゲームプレイ中、その設定で見たものの中に、次のような記述があった。

 

 昔はマナは世界に溢れていなかった。ごく一部の物質にのみ確認されるだけだったが、それが時と共に広がっていった。

 マナは次に一部の生命にまで含まれ、それが時と共に魔力と成し、遂には魔術を使える種族を生んだ。魔術を使える者と使えない者との格差が生まれ、支配者と奴隷という関係を作っていく。

 だが支配者の時代は永遠には続かず、あらゆる生命が魔力を持つようになると、奴隷たちは支配者を打ち倒した。

 そして奴隷は魔力の有無ではなく、今度はその強弱で特権階級を作り、また別の格差を生み出していく。この時代の強さとなる基準は個人的魔力の大小より、むしろ種族人口の多少へと変移した。更に時代が進むと、魔力もマナもあって当然の認識になっていくのだが、この支配者時代は、そうではなかった。

 マナが含まれていない鉄剣は、支配者には通じず、一方的に攻撃されていた。これは防いだのではなく、文字通りの意味で刃が立たなかったのだ。

 このマナを含んだ物質が世界に溢れるまで、支配者はマナ物質を独占したからこそ奴隷を支配できていた。マナは世界に溢れ続け、止まる事はなかった故に、ついには石さえ武器に変わった。

 支配が盤石で覆る事はないと高を括っていた者たちは、その傲慢さ故に木の枝で眼球を貫かれたという。

 

 そこまで思い出して、この世界に当てはめてみれば一目瞭然だ。

 包丁を持ち出したところで、最弱の魔物に対し皮一枚傷つける事は出来ない。

 

「戦えと言うのなら、武器の供給は絶対条件になる。それも、この世で恐らく、私達だけが持つ武器を」

 

 ルチアは神妙な顔つきで頷いた。

 

「これでご飯を少々頂いただけじゃ、割に合わないと馬鹿でも気付きますよ。だから、こちらに貸しを作ることでバランスを作らせないと……」

「武器を受け取らないだろうし、こちらとしても貸せるものではない、と……」

「ですね。まぁ正直、それでもこちらが貸す方が大きいと思うんですけど。でも他に、アキラさんが他に貸せるものありますか?」

 

 ――あるかもしれない。

 パソコン、スマホ、何かしらの情報媒体。この世界、この日本で、それらを持っているかどうかは大きなメリットになる。

 アキラ達がコンビニに買い出しに行った時、部屋の中を見て回った。その時パソコンとタブレットは確認できたから、いずれかの貸与でもいい。

 これ以外で学生の身で提供できる物など高が知れている。

 大体あまりに危険だと判断するなら、そもそも武器を与えず逃げることを選択させる。

 武器がなければ戦えないというなら、そうするしかないのだから。

 

「この説明は絶対に必要だな……。全くの盲点だった……。そうか、そもそも最初から逃げる選択肢しかなかったのか」

「焚き付けちゃった、アンタの責任でしょうねぇ」

「だが別に、まだ引き返せる問題だ。宣誓書や契約書で縛った約束でもないのだ、事情を説明すれば諦めるのではないか?」

「どうでしょう? 説得は可能かもしれませんが、でもただ逃げ続けるより対処を学びたいという姿勢は賞賛されるべきものでは?」

 

 ルチアがそう言えば、アヴェリンも考え込むように押し黙った。

 そして縋るようにミレイユに顔を向ける。

 

「こうなってはやはり、他人任せというのも問題があるのでは。我々のみが対処できるというのなら、我々もまた対処の義務があるかと」

「義理はあっても、義務はないだろう……」

「ですが、ここはミレイ様の故郷です。故郷の町を奴らに好き勝手させてやるおつもりですか? それはできません。故郷を守り戦うのは義務です。これは確かに法による義務ではありませんが、魂による義務なのです」

 

 アヴェリンは熱い視線を向け拳を握って熱弁する。

 しかし、その気持ちはアヴェリンだけのもので、他の者はむしろ冷ややかだった。

 ユミルは手を振って、それに口を挟む。

 

「アンタの言い分は理解できるけどね。それはアンタの部族にとっての見解でしょ? それに付き合ってやる必要あるかしら?」

「魂の故郷を持たぬからそう言えるのだ。生まれ死ぬ故郷を守る。そんな当然のことが分からないのか?」

「それ自体を否定したいんじゃないわよ。アンタは提言のつもりで、自分の気持ちを押し付けてるだけ。義理はあっても義務はないって言ったでしょ? それがこの子の気持ちなのよ」

「だが、なくなってから嘆くのでは遅い!」

「だから嘆くかどうか決めるのはアンタじゃないの。アンタとアンタの部族がそうだからって、この子も同じ気持ちだと決めつけるのはお止しなさいな」

「私はいつだってミレイ様の御心に寄り添っている! ミレイ様の御心の内は理解している! だからこそ言っているのだ!」

「分からない子ね。じゃあ義務はないなんて言葉出てこないでしょ? それこそが、その気はないって証拠じゃないの」

 

 言葉を交わすたび白熱する議論に、それを冷ややかに見ていたルチアが手を叩いて口を挟んだ。

 

「仲のお宜しい事で、たいへん結構ですね。でも、そろそろ御本人の意思を確認しませんか。――というか、何で本人はダンマリなんですか。何か言ってくださいよ」

「……もう少し、今のじゃれ合いを聞いていたがったが」

「貴女、いい性格してるって言われません?」

「たまにな」

 

 ミレイユは笑って見せて、アヴェリンたちへと向き直る。

 何を言おうかと言葉を探していると、先にユミルが口を開いた。

 

「アタシは祖先たちが痛みに耐えて手に入れたものを、何の躊躇もなく軽々と棄て去る連中を何度も見てきた。そんなの好きにしろと思う反面、愚かしい行いとも思う。でも一番大事なのはアンタ自身が決めるコト。後から悔いることのなく、納得できる選択をするといいわ」

「ユミル……」

「その上でアタシの退屈を吹き飛ばしてくれたら、言うことないんだけど」

「……台無しだろ」

 

 ミレイユは呆れ、半眼で呻くように言う。聞いていたルチアも同じような表情をしていた。

 その空気を断ち切るようにアヴェリンが姿勢を正し、ミレイユに向き直る。

 

「私は何も、ミレイ様に戦えと申し付けたい訳ではないのです。貴女は今まで、ずっとそうだった。自ら重荷を背負い、潰れず済むからと無理に歩いて来られた。ですが、もっと背を向けることを学ぶべきなのです。進んで重荷を背負う必要はありません」

「さっきと言ってるコトが違うじゃない」

「何も違わない」射抜くようにユミルを見てから、すぐに戻す。「――ですからミレイ様、私にお命じ下さい。自らの傍に現れる有象無象を悉く滅せよと。自らの物を損なおうとする者を許すなと。必ずや、私がご満足の行く結果を献上いたします」

 

 そこまで言って、アヴェリンは丁寧に頭を下げた。

 ミレイユは腕を組んで考え込む。目を瞑り、小さく息を吐いた。

 

 アヴェリンの言いたい事は分かる。彼女と同様故郷に思い入れはあれども、戦うまではしたくない。重荷を積極的に背負ってきたのは、この世界に帰ってくる為であって、帰ってきてからも同じように生きていくつもりは毛頭なかった。

 何なれば、再就職して適度に以前と同じ生活をしようと考えていたくらいだ。

 

 アヴェリンの言葉は魅力的ではある。

 自分は知らない、お前に任せると言って好きに過ごせばいい。彼女もそれを望んでいる。今まで背負った重荷の分だけ、今少し休息する期間があってもいいのだと、そう言いたいのだろう。

 休息の間は、自分が何とかすると。

 

 ミレイユは組んでいた腕を、ゆっくりと解いて目を開く。

 アヴェリンは礼の姿勢のまま黙して動かず、他の二人は緊張とは違う固い表情で待っていた。

 

「……まず、私のことを思ってくれた事に礼を言おう」

 

 ミレイユが話し始めたのを聞いて、アヴェリンが顔を上げた。

 

「私自身、そこまで自分が価値ある存在だと思っていないが……。それを口にすると、お前たちの敬意を蔑ろにしてしまうから止めておこう」

「それがいいわね。あまり自分を卑下してみせるものじゃないわ。それもまたアタシたちを侮辱する行為よ」

「……肝に銘じておく」

 

 頷きを返せば、ユミルは満足気に笑みを浮かべる。

 ミレイユはアヴェリンに向き直り、話を続けた。

 

「私は未だに迷う。自分の我儘に付き合わせて良いのか、お前たちの善意に甘えて良いのか」

「それでよろしいのです。私達は何もただ甘やかしたくて接している訳ではありません。闇雲に肯定したい訳でもない。ただ貴女の労苦と成し遂げて来た偉業を知ればこそ、敬意を払って報いを返したいと考えているのです」

「私たち、貴女に何度助けられてきたと思います? 何度死の淵を歩いて、その度に掬い上げられてきたと思います?」

「そりゃあ勿論、アタシたちだって相応に苦労してきたわよ。上に立つ者は、その労に報いのが義務だわ。でも、下にいる者にだって返したい恩というものがあるものよ。そして、そう思って貰える人間ってのはね、ドンと構えてるぐらいが丁度いいのよ」

 

 ユミルは一瞬、悲しそうな笑みを落とす。自嘲にも似た表情だった。もしかしたら、父親のことを思い出しているのかも知れない。

 それには気付かず、アヴェリンは続ける。

 

「私達が貴女を慕うのは、単に貴女が偉大だからでも、偉大な功績を残してきたからでもありません。それを成すまでに貴女が何をして来たか、それをこの目で見て知っているからです。なればこそ、貴女は私たちに――少なくとも私に、好きに命じる権利がある」

 

 アヴェリン、ルチア、ユミル、それぞれが思いを吐露して視線を向け合う。

 ミレイユはこれまで、ただ必死だっただけだった。必要だったから、言うなれば、その一言に尽きる。利用してきたという自覚もある。

 だが、これ程の思いを打ち明けられれば、受け取らないのも不義理になる。

 

 ミレイユは一つ息を吐いて、観念するかのように頷いた。

 

「お前たちの想いを受ける。よろしくやってくれ」

「――お任せ下さい、ミレイ様。ごゆるりと休息を楽しまれ、吉報をお待ち下さい」

 

 アヴェリンが代表し、背筋を正して礼をする。

 二人はそれに続くような真似こそしなかったが、晴れやかな笑顔を見せている。ユミルに至っては、世話の焼ける妹でも見るような目つきだった。

 

 一つ大きな問題が片付いた思いで肩の力を抜いたのだが、よくよく考えると、別に何一つ問題は解決していない。

 既に何かが終わった雰囲気の中で、これを切り出すのは勇気が必要だった。

 

 それにしても、とユミルはルチアに顔を向ける。

 

「マナのこと、よく知ってたわね」

「エルフ族には伝わっている話ですから。まだ若芽のわたしでも、それぐらいは知ってるわけでして」

 

 ユミルは現状、当時を知る唯一の存在だから当然として、エルフもかつて支配者層の一角だった。かつての興廃を知ればこそ、教訓として伝わっていてもおかしくなかった。

 

「雑談に興じてる場合か。話が壮大に脱線しただけで、当初の問題は何一つ終わってないのだぞ」

 

 アヴェリンが言った事は、まさしくミレイユが戻そうとしていた話題だった。どう切り出したものか迷っていたので、正直有り難かった。

 

「そうはいうけど、でも実際ちょっと良かったでしょ? 改めて気持ちを伝えられて了承を得られて。アンタも忠義の尽くし甲斐があるってもんでしょうが」

「そうだな。それを思えば胸が熱くなる。――が、それとこれとは別の話だ」

「お堅いわねぇ。……アタシなんてもう、何もかも終わった気分よ。今日はもう寝たっていいぐらいだわ」

 

 疲れたような顔色を見せつつ、その表情には笑顔を見せるユミルだが、それに対する三人の反応は実に冷ややかだった。

 

「起きたばかりだろう、馬鹿者」

「それは早すぎるのでは。馬鹿なんですか?」

「流石にそれは許可できん。起きてろ、馬鹿」

「――ちょっと、何でいきなり謎の連携見せるのよ。やめなさいよ、そういうの!」

 

 肩を震わせ、ついには吹き出したミレイユを皮切りに、全員が口を開けて笑う。

 

「あっはっは、良かったな、今の!」

「ふふふ、何であんなこと言ったんですかね?」

「分からんが、何故か息が合ったな。……ふふっ、こういうのもたまにはいいな」

「……あっそ。ほぉんと、楽しそうで何よりよ」

 

 笑い合う三人と明らかに空気の違うユミルは、半眼になって頬杖を突く。

 一人だけ除け者にされたユミルとしては当然面白くない。口の形は笑みを浮かべているが、その発達した犬歯の隙間から息を吐き出し、不満を(あら)わにしている。

 

「それでぇ……? 可愛子ちゃんにぃ、説明するのぉ……?」

 

 ユミルの不満は留まることを知らず、頬杖に段々とより掛かって身体が斜めに倒れていく。流石に哀れに――気まずくなったミレイユが、その肩に手を置き上体を起こしてやる。

 

「ほら、悪かったから機嫌を直せ。これからアキラの機嫌も取らんといけないのに、これ以上面倒な事やってられるか」

 

 態勢の戻ったユミルが再び傾く。

 

「機嫌? 何であの子の機嫌を取る必要あるワケ?」

「最初の話に戻すと――、アイツに金を出させなきゃならない。気持ちよく出せるようにしたいだろ」

「……する必要あるかしらね?」

 

 ある、とミレイユは頷く。

 元日本人の小市民としては、金を借りるという行為に後ろめたさがある。これは出す方も借りる方も感じる忌避感だ。貸す方が慣れていると言うならまだしも、今回のような特殊なケースだと、それはもう一入(ひとしお)だろう。

 

 理解を示さないのは誰もが同じようなものだったが、特に顕著なのがアヴェリンだった。

 というより、弱肉強食が染み付いている彼女だからこそ、理解できないと言った方が正しい。ミレイユとの旅で弱者に寄り添う気持ちを育んで来たが、それでもまだ理解の不足は大きかった。

 

「……ですが、何の為に?」

「何の為、というほど明確な理由がある訳ではない。私が、そうしたいからだ」

「――では、そうしましょう」

 

 アヴェリンは即座に頷いた。

 理解を放棄した返事だったが、ミレイユもまた言った通り明確な答えは持ってないし、また明解な言葉で説明も出来ない。

 案外簡単に、気にせず貸してくれる可能性を考えたが、頼るものもない一人暮らしでその金銭感覚は致命的だろう。少しでもまともな性格をしていれば、安易に金の貸し借りには応じまい。

 

「男の機嫌をくすぐる方法など心得ています。お任せください」

 

 アヴェリンが自信満々に言うのを見て、ユミルは明らかな興味を示した。傾いていた身体を戻して、いつもの人を食った笑みを浮かべる。

 

「なに、アンタ。男を転がすやり方、知ってるの?」

「転がす……? 転ばす方法など、幾らでもあるではないか」

 

 ユミルは発言に不安を感じて眉根を寄せた。

 

「だからつまり、男を機嫌よく気持ちよくさせてやる方法よ」

「勿論だ、そう言ったろう? 男なんて単純なもの、どんな奴でも大体同じだ。いつも満足させてきた」

「へぇ……! そう! ちょっと意外じゃない! そうなの、アンタ。自信あるのね!」

「あるとも。あの年頃の男など、考えてる事は大して変わらん。いつだって欲するものは同じだろう」

「そうねぇ、同じよねぇ」

 

 ユミルの笑みは粘りつくような嫌らしい笑みに変わり、アヴェリンを上から下まで見つめる。

 アヴェリンも同意を得られ、得意顔になって頷いた。

 

「まぁ、任せておけ。昨日アイツと外を歩いた時にな……」

「――時に?」

 

 ユミルは明らかに期待した顔つきで、椅子の背から身を起こした。

 

「遠くに林があるのを見つけた」

「はやし……?」

「上手くいけば見つけられるだろう。――そうと決まれば急がなくては。ミレイ様、失礼します」

 

 アヴェリンは椅子から立ち上がり自室へと下がっていく。

 それを三人が呆然とした目つきで見送る。

 

「え、なんですか、あの自信。任せて大丈夫なんですかね?」

「いやぁ、話を聞いている間は面白く感じたけど……。でも確かに、手慣れてる感じは出てたわよね?」

「いや待て。雲行きを怪しく感じるのは私だけか……?」

 

 ルチアとユミルが顔を見合わせ、ミレイユもまた頷いてアヴェリンが消えた方向を窺う。

 しばらく息を呑むように互いに目配せしていると、先程より物々しい装備に整えたアヴェリンが帰ってきた。

 

 それは鉄具を使われていない軽装の装備だった。

 上下は皮革を用いたもので、ベルトにさえ鉄は使われていない。本来ならベルトを通す穴にローブらしきもので結んで止めている。肩から腰にかけては獣の毛皮があって山師を連想させる作りだ。

 

「では、行ってまいります。遅くなりはしないと思いますが、夕方前には帰ってきます」

 

 言うだけ言って踵を返して邸宅から出ていくアヴェリンを、やはりユミルは呆然と見ていた。

 呆然というより理解できない行動に、ただ面食らって動きが止まっていただけかもしれない。

 そんなユミルに、アヴェリンが扉の取手に触れて、思い出したように振り返った。

 

「……ああ、そうだ。火を用意しておいてくれ」

 

 簡潔にそれだけ言うと、今度こそ出ていってしまう。

 ユミルは取り残されている二人に目配せしてから、身を乗り出して顔を近づけた。

 

「どういうコト? 火ってなに?」

「分かりません。……蝋燭の火、でいいんですか?」

「……ムチも用意した方がいいのかしら?」

「いきなりハードなプレイを要求してきますね」

 

 いよいよもって顔を顰めたミレイユが、敢えて誰も口にしなかった事を言う。

 

「誰もが何か勘違いしていないか? ユミルは元より、アヴェリンもまた大きな思い違いをしているような気がしてならない」

「いや、してますよ。絶対してますって」

「……追いかけるべきかしら?」

「よし、行くぞ」

 

 ミレイユが号令をかけて、全員が椅子から立ち上がる。

 ろくに準備もしていなかったユミルは、とりあえず着る物を取りに自室に戻り、ルチアはその後について髪の手入れなど手伝ってやる。

 慌ただしく準備を終えて、ミレイユは二人を伴い外に出た。

 



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常識 その2

うぇん様、誤字報告ありがとうございます!
 


 アキラがその日、目を覚ましたのは常と変わらない朝七時の事だった。

 習慣となっていたものが、身体が覚えていたのだろう。目覚ましが鳴るより前に目が冷めるのもいつものこと、それでも頭が重く寝ぼけ眼のまま、身体を無理矢理起こす。

 口を濯いで顔を洗い、トイレに行くまでがいつものルーティン。軽く身体の柔軟体操を終わらせたところで、頭も冴えてきた。

 

 果たして昨日この身に起きた事は現実だったのだろうか。夢を見ていたと思う方が自然で、だからテーブルの上に置かれた小箱を見て動きが止まった。

 恐る恐る近づいて、触れてみれば確かに小箱はここにある。

 夢でも幻でもない事に不思議な感動を覚えていると、昨日の出来事が怒涛のごとく蘇る。

 

「ああ、夢じゃないんだ……。でも、何だろ。期待半分、不安半分。それだけでもないような……」

 

 口に出して、自分でも分からない感情に疑問を覚える。

 まだしっかり頭が回っていないのかもしれないと、とりあえずいつもの通り朝食の準備を始めた。

 フライパンに油を引き、温めている間に食材を取り出そうとして、アキラは視界に入った小箱を見る。

 

 朝食の準備は必要だろうか。

 昨日、対魔物の師匠になってくれると言った、それぞれ系統の違う美女達。その容姿もさる事ながら、多くのインパクトを残した彼女達と共にするのは緊張する。

 何しろ、今まで恋人の一人も出来た事のないアキラである。女子には可愛がられても異性として意識されてこなかった事実は、女性への過度な期待と憧憬に繋がった。

 同級生の女子より、遠くの自分を肯定してくれる誰かを求め、それが今まで付き合う異性を作れなかった原因になっていた。

 

 彼女たちと面と合わせるのは緊張する。しかし、これから接触する回数が増える事を思えば、そうも言ってられない。師匠の飯を用意するのは当然という言葉が本気ならば、何の用意もせず自分の飯だけ用意していたら、起きてきた師匠達を失望させる事になってしまう。

 

「でも、用意するだけして必要なかったら、それはそれで大変だよな……」

 

 朝は時間が限られ、余裕がないのは当然だった。今日が休日ならば、そこまで考えずとも良かったのだが、残念ながら平日。

 昨日の残りを朝食に充てるつもりだったから、とりあえず人数分のパンがあるかどうかだけ確認しておこうと、昨日置いていった黒パンで何人分の朝食になるかを調べる。

 

「……それにしても」

 

 昔の人間というのは早起きというのが相場だと思っていたのだが、違うのだろうか。あちらの世界では電気もなく、蝋燭の火が主流っぽい事は話の流れで想像がついた。

 だからこれは偏見ではなく、当然の流れとして早寝早起きになる筈なのだ。蝋燭は現代日本の電気より高価な筈なので、基本的に節約する為に日が落ちたら活動しなくなるし、その分日が昇る直前辺りから活動を始める。

 

「旅暮らしをしてたっぽいし、多分そんな感じで生活サイクル作ってたんじゃないかな」

 

 日が落ちれば視界が悪くなり、危険も増す。日が落ちたら、その日はテントを張ったり宿を取ったりするのではないか。早寝早起きの習慣は自分達だけではなく、あちらの世界の常識だとしたら彼女達だけ遅く活動するのも難しいような気がする。

 

 自分に関係ある人の事だと思えば、気にしても仕方ないような事まで考え込んでしまう。

 ――何にしても朝食だ。

 必要なのかどうなのか、昨日聞いておけばよかったと後悔する。この時間ならばもう、本人達は起床していて、朝食を済ませても不思議ではないように思う。

 思いつかなかったのも仕方がない。何しろ、あの小箱のインパクトだ。

 

「あんな事が起きた後で、そんな気の利いた質問ができてたまるか」

 

 ヤケクソ気味に悪態をつき、冷蔵していた惣菜類を取り出す。

 朝からしっかり食べる派だったら、あの人数にこの量は足りないだろう。とりあえず卵とベーコンがあれば、それらしい朝食にはなる。

 まず自分の分だけ作って、必要なら後から追加すればいい。

 

 そう決めて朝食の準備を進める。

 そして自分が朝食を食べ始めるまで、誰一人箱から飛び出してくる事はなかった。

 

 

 

 食べ終わった後の食器を流しに入れて、とりあえず準備だけしておいた惣菜類も仕舞った後に、それは起こった。

 

「――ああ、いたのか」

 

 不意に掛けられた声に驚き、そこにいたアヴェリンの格好に二度驚いた。

 美人は何を着ても似合うとは言うが、流石に山師のような格好をした女性を見た事はない。似合うのかどうかと言われたら、元々女騎士のようなイメージがあっただけに全く正反対の格好は面食らってしまった。

 しかし、不思議と似合うと言えば似合う気がした。

 

「ど、どうしたんです、一体……!?」

「……うん。いやなに、楽しみにしていろ」

 

 言葉を濁して頷く彼女に、何か嫌な気配を覚える。

 何に対してかは分からないが、放置してはいけない、という気持ちだけは湧き上がってくる。

 

「そう、朝食! 朝食を用意して待ってたんですよ! 師匠の飯を用意するのは当然だと……!」

「ああ……」

 

 聞いた途端、申し訳ない表情で眉を下げた。

 

「既に済ませてしまった。……そうか、昨日言ったことを覚えていたか」

「え、はい。いりませんでしか……」

「うん……、いや、どうだろうか。それはミレイ様に判断していただく。……だが、そうだ。その負担を和らげてやる事は出来るぞ」

 

 自信あり気な笑顔を見せてきたが、アキラは更に不安が増した。

 

「……どういう意味です?」

「昨日、遠くに林が見えた。暗くて見えなかったが、結構長い範囲にあったように思う」

 

 言われてアキラも頭の中に地図を思い起こす。

 この町は碁盤の目のように十字に刻まれた町設計だが、そこへ斜めに線を入れるように林が通っている。

 

「……ああ、はい。ありますね」

「うむ。だから、そこで鹿を狩ってきてやろう」

「……なんて?」

 

 アキラは言っている意味が分からず、思わず敬語も外れて聞き返してしまった。

 

「だから鹿だ。狩って肉を渡してやると言っているのだ。そうすれば負担が減るだろう?」

「いやいや、無理です!」

「何故だ。肉が嫌いなどと言わんだろうな? その年頃の男が、肉が嫌いなど有り得ん事だ」

「肉は好きですけど、そうじゃないんですって……!」

 

 アヴェリンは不思議なものを見るように首を傾げる。

 

「では何だ――ああ、鹿の分布は少数か? むしろトナカイの方が多いのか?」

「違います、そういう問題じゃないです。いないんです、鹿なんて。トナカイもいません。何もいません」

「……馬鹿な、あり得んだろう。あれだけの林があって動物がいない?」

「あれ防風林ですから。風除けに作られた人工の林であって、奥行きのある林じゃないですし。動物なんてせいぜい鳥くらいしかいませんよ」

 

 ふむ、と考え込むように腕を組んだ。ちらりと斜め上に視線を向け、それからアキラに視線を返してくる。

 

「鳥肉は好きか?」

「いえいえいえ……!」

 

 アキラは思わず両手を突き出して左右に振れば、アヴェリンは納得を見せる表情で返してきた。

 

「確かに私も鳥肉は好かん。食いでもないし、脂身も足りない。しかし、逆にそのあっさりとした食感が好きだという者も……」

「そうじゃないですって! パックの肉ならともかく、狩ってきた剥き出しの鳥は受け取れませんって!」

「……捌けないのか?」

 

 アヴェリンの表情は明らかに、侮る視線に変わる。

 肉を捌けない男に存在価値はないとでも言いたげな視線だった。その視線はアキラのなけなしの自尊心を抉るものだったが、しかし出来ないというのも事実だった。

 

「そりゃ……、その、捌けないですけど、そういう問題じゃなくてですね。ああ、どう言ったらいいんだ……!」

 

 その時だった。

 小箱から続いてミレイユ達がやって来る。アヴェリンが出てきた時も、その瞬間は見えなかったが、こうして目の当たりにしても、やっぱり意味不明だった。

 映画のコマの途中を切り取ったように、箱が開いて何かが動いたと思ったら、すぐそこにミレイユが現れている。彼女が横にずれると、一気に他の二人も出てくる。

 

 彼女たちの格好は昨日とは違う普段着のようだったが、やはり現代日本では見ることのできない、北欧の伝統衣装のような物を身に着けていた。

 

「――ああ、ミレイ様。聞いてください。この男、肉を捌けないなどと申しまして」

「うん……。何があってそういう話題になったかは知らないが、この国の男は全員に近い割合で無理だ」

「そんな馬鹿な……」

 

 アヴェリンは顔面に驚愕を貼り付けて後退りする。退いた背中が冷蔵庫にぶつかって音を立てた。

 彼女にとって、狩りが苦手な男がいても、獣を捌くのが苦手な男など存在しなかったのかもしれない。

 それ程の衝撃がアヴェリンに起きたのだと、その表情が物語っている。

 その様子を尻目に、ミレイユが気を取り直して話しかけた。

 

「……それで、どこから出てきた。その……肉を捌くなんて話は」

「いや、何でかは僕も全然分からなくて……。負担を減らすとか何とか……」

 

 アキラが困惑した顔で返事をして、ミレイユは一瞬、眉を顰めた。すぐにアヴェリンへと顔を向けて一声発せば、彼女はその簡潔な言葉へ即座に反応し背筋を伸ばした。

 

「アヴェリン、説明しろ」

「――はっ。自分なりにお役に立とうと思い至ったところ、やはり肉の提供がよかろうと思いまして」

「提供……、肉の。……それで、狩りに行こうと思ったのか?」

「左様です。この年頃の男ならば、肉を食うことを好むだろうと思いまして」

「なるほど」

「……なぁんだ」

 

 納得したミレイユの後には、ユミルの呆れを含んだ声音が続いた。

 何かしらにつけ、ミレイユの役に立とうとする心遣いは嬉しいが、ここでは非常識に当たる行為だ。ミレイユは宥めるような声音でアヴェリンに言う。

 

「何にしろ、それは中止にした方がいいだろうな。近辺に獲物になるような獣はいないだろうし、いたとしても野外で捌けば事件になる。ここはそういう国だ」

「そこまで、ですか……」

「捌かず肩に担いで獲物を持ってきたとしても、やはり事件沙汰にされるだろう。逮捕される訳ではないだろうが、厄介事になるのは間違いない」

 

 アヴェリンは眉を垂れ下げて、小さく肩を落とした。

 

「それでは別の手段で機嫌を取るしかなさそうですね」

「うん……、まぁ、それを本人の前で言うのはどうかと思うが」

「機嫌……? 本人……?」

 

 やはり嫌な予感がして、アキラは二人へ瞠目の視線を向ければ、返ってきたのは気のない返事とと誤魔化しの笑みだった。

 

「いや、気にするな。関係のないことだ」

「そうだな。ただ、お前に関係する、しかし関与も否定もせず、ただ受容すべき問題というだけの話で……」

「それのどこに、気にしないで済む要素があるんですか?」

 

 朝からした嫌な予感とは、これの事かもしれない、とアキラは直感する。

 朝起きてからここまでの僅かな時間。それだけの間でこれを放置してはいけない、という予感は幾つもあった。しかし、それでもこれは別格だ。

 この問題だけは、という強い思いが胸に去来する。

 

「あのですね、本当に関係ないなら、むしろ心底知りたくないんですけど、多分そうじゃないですよね? 何かあるなら知っておきたいんですけど」

「まぁ、妥当な提案ではある……」

「むしろ当然?」

 

 横からユミルの、茶化した含み笑いが入ってくる。

 

「アタシ達の中じゃ、もう決定事項なんだけど、アンタに説明するにはまだ考えが纏まってない感じなのよ。つまりまぁ、分かるでしょ?」

「いや、分かりません。結局、説明はしてくれるんですか?」

「する。それは間違いない。今ではないが」

 

 ミレイユが頷けば、他の面々も追随して頷く。

 

「今じゃ駄目なんですか?」

「駄目じゃないが、お前が困るだろう」

 

 アキラは首を傾げる。されて困る説明、というよりは説明されると困るというニュアンスだった。そんな事はないと思う、と考えていると、ミレイユは時計を指差す。

 

「登校時間は大丈夫なのか? お前がどこに通っているかは知らないが、普通ならもう登校しているものだろう」

「――え!?」

 

 指摘されるままに時計を確認してみれば、示している時間は八時十分。遅すぎる時間ではないが、走らなければ朝のHRに間に合わない。

 

「あ、そういう!? ちょっ、もっと早く言ってくださいよ!」

「愚痴言う暇があるなら大丈夫そうだな。さっさと着替えて、準備しろ」

 

 言われるまま寝室へ戻り、制服に着替える。

 男の着替えは簡単なものだが、焦っているとワイシャツのボタンを止めるのももどかしく感じてしまう。それに苛つきを感じながらも止め終わり、ズボンを履いて寝室から出る。すぐ隣の部屋から鞄とスマホを引っ掴むと、挨拶もそぞろに家を出る。

 

「すみません、行ってきます!」

「大丈夫か? 負ぶって走ろうか?」

「この子、馬より早く走るわよ」

「――いりませんよ!」

 

 アヴェリンの提案に、それを補足するユミル。

 二人に唾を飛ばして拒否すると、アキラはそのまま慌ただしく家を出た。

 

 いつもの習慣で鍵を閉めようと思い、一瞬躊躇する。閉じ込めてしまうようで心苦しいが、そもそも出ようと思えば幾らでも出られる。

 

 問題は外出されたら鍵が掛かっておらず不用心という事だが、それは今考えても仕方がない。やはり一応鍵だけは掛けて階段を駆け下りる。

 スマホの時間を確認すれば、本当にギリギリの時間だった。

 

 アキラは久々に全力で走りながら学校を目指した。

 

 

 

「――あれはきっと、冗談だと思われたな」

「そうですね。大体私は馬より早くではなく、馬など敵ではない速度で走れる。そこを強調すれば、また違っていたのではないか?」

 

 ミレイユの感想に対し、アヴェリンがユミルを睨みつければ、肩を竦めて溜め息を吐いた。

 

「咄嗟に出たフォローとしては、及第点だったでしょうに」

「早く目的地に到着すれば、アレも感謝もしたろう。ご機嫌伺いも、一つ上手く行っていたのではないか?」

「それについては同意できませんよ。……もう何もかも空廻ってませんか?」

 

 ルチアの疑問には、ミレイユも大いに同意できるものだった。

 尚も否定を重ねようとするアヴェリンに、ミレイユが手を振って諌めた。

 

「まぁ、ルチアの言うとおりだな。誰かに負ぶさって登校なんて、アキラからすれば罰ゲームみたいなものだろう。肉の提供も発想自体は良かったが、狩猟した物では受け取れないだろう……」

「むぅ……それじゃあ、どうしたらいいのでしょうか」

「どうしたものかな。何か考えねばならないだろうが……急いで見つける必要もないだろう」

 

 ルチアはそれに頷き、そしてふと思いついたように首を傾げた。

 

「でもとにかくも、外に出ない方がいいんですよね?」

「それは……」

 

 ミレイユは難しそうに眉に皺を寄せ、顎先を摘んで考える仕草を見せる。

 

「そうだな、出来れば。しかし論外という話でもない。この近辺であれば、着る服自体を考えればどうにかなりそうだが……、やはり外に出たいのか?」

「ですね。見るもの全てが新鮮ですから、色々見て回りたいんです」

「うん……そうか、いいだろう。しかし、一人での外出は許可できない。必ず最低でも二人で行動しろ」

 

 ルチアは大輪を咲かせたような笑顔を見せる。

 

「ありがとうございます。それじゃ、どちらが一緒に行ってくれますか?」

「アタシはパスって言ったわよね」

「私に、一人残るミレイ様の傍を離れろというのか?」

 

 にべもない二人からの返事に、ルチアの笑顔が引きつり、次いで怒りに変わる。

 

「ちょっと、いいじゃないですか。付き合ってくれても!」

「別に付き合うのはいいけど、今日じゃなくてもいいでしょ。明日も明後日も、別に予定なんてないんだから」

「それはそうですけど、肝心なことを忘れてますよ」

「何よ」

「明日も明後日も、何事もなく過ごせると思いますか? 絶対トラブル起きますよ!」

 

 昨日がいい証拠だ、とルチアが主張すれば、ユミルとしても頷ける部分があったらしい。苦虫を噛み潰すような顔をして、次いで窓の外を見てからミレイユに視線を移す。

 ユミルはしげしげと眺めた後、諦めたような息を吐き、苦い苦い笑みを浮かべた。

 

「そうねぇ、そう言われるとねぇ……」

「やめろ、そういうのは。何事も起きない筈だ。私は家の中で引き籠もる予定なんだから」

「なるほど、引き籠もった上で何か起きるのね」

「そんな筈は――! いや、やめよう。こんな不毛な言い合いは」

 

 そうね、とユミルは同意して、とりあえずソファに向かう。

 疲れたようにどかりと腰を下ろせば、身体の向きを変えて横になる。完全にソファを独占した形になり、アヴェリンが顔を顰めた。

 

「おい、勝手に占領するな。ミレイ様が座れん」

「ここに長居するつもりはないから、別にいいがな」

「いや、完全に休憩モード入ってるじゃないですか。早く準備して外に行きましょうよ」

「そうは言ってもねぇ……」

 

 ユミルは疲れた声を出しながら、窓から外を見る。

 

「見てご覧なさいな。外はいい天気よ。雲も多いし日差しは弱いけど、でもいい天気なワケ」

「……そうですね」

「行く気なくすわ……」

 

 ついにはだらんとソファに寝そべり、少しでも日差しから隠れようと顔も引っ込める。

 ルチアは近くに膝をついて、それに追い縋った。

 

「ちょっと、お願いしますよ。他に頼める人いないんですから……!」

「もっと天気の悪い日にして頂戴。こんな陽気じゃ、アタシの身が保たないの。これは嫌がらせとか怠慢とかじゃないのよ。もうこれは、摂理の問題なのよ」

「旅の間は関係なく歩いてたじゃないですか!」

「そりゃそうよ。天気がいいから今日休み、なんて言ってご覧なさいな。容赦なく置いていかれるだけじゃないの」

「よく分かっていて何よりだ」

 

 アヴェリンが皮肉な笑みで同意すると、ユミルは鼻を鳴らして身を捩った。少しでも陽光の当たらない場所を模索しているらしい。

 

「それに、こっちで着ても目立たない、頭から被れる何かがないとねぇ。直射日光はお肌の大敵なのよ、分かってるでしょ? まず服がないと、どうにも……」

「あるぞ」

「……はぁン?」

 

 ユミルが胡乱げな視線を向けると、アヴェリンが寝室からフード付きのパーカーを引っ張り出して来た。色は灰色、何か英字がプリントされたもので、特に悪目立ちしない服だった。

 サイズ的にも問題ないだろう。見たところ、アキラとユミルの身長はそう変わらない。体格はもちろん違うが、大きい分には着られる筈だ。

 

「何それ、どっから出てきたのよ、そんなモン……」

「ベッド付近に落ちていた。これなら問題なかろう。何かしらズボンも、探せばあるんじゃないのか」

「よくやってくれました、アヴェリンさん!」

 

 ルチアの歓喜の声とは裏腹に、ユミルの顔は苦いものへと変わっていく。このまま言い包めてやり過ごそうとしていたのは一目瞭然だっった。

 

「ルチア、お前もこっちに来て自分の着れそうな服を探してみろ。ドレッサーは見当たらないが、どこかに服はある筈だ」

「ですね!」

「……何でアンタ、そう余計な事をするワケ?」

「きっとお前が嫌がるだろうと思ったからだ」

 

 勝ち誇ったような笑みを見せたアヴェリンに、ユミルは吐き捨てるように顔を歪めた。顔を背けた後に、身体を沈めてだらしなく足を伸ばす。完全に不貞腐れた様子に、ミレイユも失笑した。

 

「まぁ、そこはしっかり相談して決めろ。何事も起こらないし、何事も起こらせないから、明日も好きに行動すればいいしな」

「大体、服って言ってもね……。ちゃんと洗濯してるんでしょうね? イヤよ、アタシ。汗臭い男の服を着るなんて」

「――そうですね……。というか、勝手に着てもいいんですか?」

 

 寝室の方からひょっこりと顔を出したルチアが、スウェット片手に聞いてきた。ミレイユは手にしたスウェットを指差してから、手を横に振る。

 

「事後承諾でいいだろうが、それはやめておけ。寝間着みたいなものだ」

「そうなんですね。……いやはや、こっちの服はよく分かりませんね」

 

 しげしげとスウェットを見つめながら寝室へ戻り、何事かをアヴェリンと相談し始めた姿を見て、ユミルもようやく覚悟を決めたようだった。

 

「まったくもう、アンタ達に任せていたら、何を着せられるか分かったものじゃないわ。見せてご覧なさい、どんなものがあるのよ」

「男の人ってあんまり種類持たないんですよね。それにしても、この数は少ないと思いますけど。……それとも、こっちの人からすると、これが普通なんでしょうか」

 

 辟易とした声音が漏れ聞こえる中、どうやら寝室では簡易的なファッションショーが始まったようだ。男物を着こなす必要はなかろうが、見栄えを気にするのはどの時代、どの世界の女性も共通している。

 長い時間が掛かりそうな予感がして、ミレイユはとりあえずソファに腰を降ろした。

 

 



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常識 その3

け~か様、誤字報告ありがとうございます!
 


 寝室から姿を現したルチアとユミルは、対象的な表情をしていた。

 

 ユミルは先程とは違う厚手のパーカーにパンツルックという、こちらの男性からしてみれば有り触れたもの。それを不機嫌そうな顔を隠そうともせず着込んでいる。

 ルチアはダボダボのジーンズに、同じくダボダボのシャツという格好だった。身長が低いせいも相まって、まるで父親か兄の服を背伸びして着てみたかのように見える。明らかに浮いた服装だが、その表情は晴れやかだった。

 

 ミレイユはその格好を見て二度頷く。

 そして全く似合っていない、と声に出さず判断を下す。そもそも男物の服を着ること自体、この二人に合っていない。これが高身長かつ凛々しい顔つきをしたアヴェリンなら、着せる格好によっては見栄えもするのだろうが、この二人は全く逆の方向性の容姿をしている。

 

 だが今日のところは、少なくとも似合う格好を選ぶ場ではない。

 目立たない格好を選んでいるが、しかし目立つ二人だと言えるだろう。

 

「……まぁ、及第点だな。今はそれ以上を望むのは酷だろう」

「そうですかね? 結構いい感じだと思うんですけど」

「客観的には分からんだろうさ。特にこちらの人間からの視点では」

 

 人間と聞いて不服そうに鼻を鳴らすルチアに、ユミルが背を軽く叩いて促す。

 その表情は、手早く済ませて開放されたいと如実に語っていた。

 

「いいから、さっさと行くわよ」

「ああ、昼までには戻ってこい」

「陽が高くなってまで外をうろつくもんですか。嫌でも昼前には帰ってくるわよ」

 

 ルチアは少し残念そうな顔をしていたが、同時に引き際も弁えていた。そこら辺が落としどころだろう。確かに、これから先、機会は幾らでもあるだろうから。

 

「了解です。それじゃ、時間が惜しいので行ってきますね」

「さっさと行ってこい」

「あまり熱中しすぎて車にぶつからないように」

「あら、心配してくれてるの?」

 

 ユミルがおどけて言うと、ミレイユは皮肉げな笑みで返した。

 

「車と、中にいる人間の方をな」

「あらまぁ……」

 

 ユミルは絶句し、アヴェリンは吹き出した。

 

「さっきの話を聞いて思った。車にぶつかって、むしろ心配になるのは、果たしてどちらなのかと」

 

 マナの含有していない物質で、魔力に覆われた人物を損なうことは出来ない。物理法則を完全に無視する訳ではない筈なので、恐らく吹き飛ぶのはぶつけられたユミル達なのだろう。しかし、下手をすると車の方が鉄の杭に突っ込んだように凹むような事態も起き得る。

 

「まぁ、何事もないのが一番だ」

「そこはアタシが注意しておくわよ。……よくよくね」

「ほら、行きますよ!」

 

 完全に子供扱いされているルチアは、頬を膨らませて家を出ていった。

 そういうところが子供らしく見えてしまうのだが、本人は気付いていないらしい。ユミルはミレイユと顔を見合わせ苦笑すると、目線で促されて後について行く。

 

 慌ただしく玄関の戸が締まる音を聞いてから、ミレイユはアヴェリンに向き直った。

 

「お前も好きにしていいぞ。私はこの部屋の中にいる」

「では私も部屋の中で待機しておりましょう。ですが、まずは着替えてきます」

 

 そう言ってアヴェリンは箱の中に入っていく。

 ミレイユはソファの背中越しに窓の外を見つめた。空は高く、陽の光を遮るように、疎らに雲が流れていく。それを何する事もなく見つめた。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 家を出た二人がまず目指した場所は、遠くに見える大きな建物だった。

 目算で十五分程で辿り着けると踏んで、最初はそこに行ってみる事にしたのだ。まだ十分に車を見た事のなかったルチアは、道を何本か逸れて車道に出る。

 

 通勤時間というには少し遅い時間ではあったものの、走る車の数はそこそこ多い。

 目の前を馬車とは比べ物にならない速さで駆けていく車を見て、ルチアは感嘆とした溜め息をついた。

 

「馬車より余程小さいのに、あんなに安定して早く駆けるなんて、一体どういう理屈で動いているんでしょうね……!」

「さて、どうでしょうねぇ」

「あの中に馬より強い生物でも入れて走らせているんでしょうか」

「いやいや、そんなの……」

 

 言い掛けて、ユミルは眉根を寄せて注視する。何事かを頭の中で計算し、導き出した答えは是だった。

 

「――あり得るわね。荷馬車だって時に二頭立て、四頭立てで馬車を走らせるワケじゃない? じゃあアレにも四頭どころか、十頭入れて動かしていても不思議ではないわ」

「それだけ強力な生物で、しかも小型となると、魔物ぐらいしか候補は出てきませんけど」

「魔物だって、小型なら力だって小さいものよ。大きくなるほど力が強くなるのは、他の動物と共通してる。違うのは、その比率だけ。だから、小さくても強力になるパターンは多くない」

「じゃあ、中で生物を走らせていると考えるのは妥当ではない?」

「決めつけるのは早計だわ。車が駆ける時、必ず唸り声が上がっているのが分かるでしょう?」

 

 正に今、唸りを上げて目の前を駆けていく車を見て、ルチアは得心したように何度も頷く。

 

「よく聞いていみると、車ごとに上げる唸り声も違うようです。これは入っている数も違えば、入れている生物も違うと見る事は出来ませんか?」

「……なるほど、そんな生物、種類が豊富にいる筈ないという考えが盲点だったのかもしれない」

 

 ルチアとユミルは互いに、我が意を得たりと頷いて見せる。

 

「あるいは養殖、あるいは繁殖、何かしらの方法を確立していると見るべきですね?」

「そうよ。でなければ、あれだけの数の車を動かすなんて出来る筈がない」

 

 互いに何度も頷いて、目の前をまた一台通り過ぎて行く車を熱心に見つめる。

 その時、一台の市営バスが近づいて来た。今まで見たこともない大型の車に、二人は思わず身を固めてまんじりともせず視線を向ける。

 

「まさか、そんな……!」

「あんな巨大な物まで……!?」

 

 視線が物理的にくっついたかのうように、互いに離れていく馬車を首を巡らせて見送り、いつの間にか止めていた息をゆっくりと吐いた。

 

「恐ろしいわね……!」

「何を考えて、あそこまで大きな車を造ったんですかね……!?」

「でもアレで分かったわ。やはり、あの中には何かがいる。唸り声が明らかに大きく煩かったのは、あれだけの図体を動かす数が必要だったからよ」

「それに、あの臭い……!」

 

 二人は互いに顔を見合わせたまま、泣きそうな表情で顔を歪めた。

 

「目に染みるようだったわ」

「息をするのも辛いほどでした……!」

「そりゃ走ってる間は糞の片付けは出来ないでしょうし、馬みたいに道に落とさないだけマシなんでしょうけど……」

「むしろ、だからこそでしょうよ。あれだけの車があって、馬のようにフンを落として行ってご覧なさいな。今頃道がフンで踏み硬められてることでしょうよ……!」

 

 うんざりするような顔を走りゆく車たちに向け、二人は歩みを再開した。

 目的はそもそも車を見る事ばかりではない。陽が高くなるにつけ、ユミルの機嫌も行動も悪くなって行く可能性を思えば、ゆっくりしている暇もない。

 

「あの中にいる生き物、あちらに持って帰ることは出来ないでしょうか」

「どうかしらねぇ……。というか、何アンタ。あっちに帰るつもりだったの?」

「私自身が、というより、最初から帰るつもりでこっちに来ていたものだと思ってました……。違うんですか?」

 

 虚を突かれたように見たルチアに、ユミルもまた同じ表情で視線を外に向ける。

 

「……言われてみればね。本人に確認してないし、する必要もないと思ってたけど、一体どうするつもりかしらねぇ……」

「静養に来たっていう文言を、言葉通りに解釈すればですよ? 満足するまで休んだら帰るつもり、という事になりませんか?」

「そうだけど。こちらに帰るつもりでいた、みたいな事も言っていたじゃない。……ま、アタシはどっちでもいいけど。こっちの世界も面白そうだし、それに付き合うつもりだから」

 

 ですね、とルチアもそれ以上追求することなく同意する。

 それが一体何年、何十年になろうとも、時間の浪費とは考えない。そもそも二人からして、十年単位は浪費の範囲に含まれない。

 

「大体、持ち帰るって言ってもねぇ……。アンタ、あの中の生物を持ち帰って、繁殖させるつもりなの?」

「飼育方法が分かって、それがあちらでも通用するのなら、是非。病気や寿命、繁殖が上手くいかなかった事を考えて、最低でも番で十組は欲しいところですし、それが可能であるなら。――ええ、持ち帰りたいですね」

「本気……?」

 

 ユミルが怪訝な表情を見せても、ルチアの決意は変わらない。動物が環境の変化に慣れず身を崩し、時に絶滅してしまう事はルチアもよく知っている。

 肉食なのか草食なのか、あるいは雑食なのかでも育成難度は違ってくるだろう。だが、これにはその苦労に見合う価値がある。

 

「これは食料事情を一変させますよ。森の奥深くにいても、平原の生産物が手に入る。肉も塩漬けにすることなく運ぶことだって出来るかも。乏しい食材も広い範囲から集めることで、食卓に並ぶ料理も多くなるでしょう。きっと誰もが歓迎してくれる筈です」

「……まだ若いアンタは知らないでしょうけど、きっとそれは成功しないわ」

 

 達観というより諦観の表情で、ユミルが言った。子供と侮られるのは仕方ない。お互いの年齢は見た目以上に大きな差がある。だが長く生きる者は、得てして新しい挑戦から目を背けがちだ。

 ルチアの住んでいた里もそうで、古くからの慣習に固執する老人たちが頑健に新しい事を否定していた。そしてだからこそルチアは迫害され、ついには里から追い出される事態と繋がったのだ。

 ユミルからはそれと同じ雰囲気を感じ取り、追わず語気も強くなる。

 

「何でそんな事が分かるんですか? やってから初めて分かる事だってありますよ」

「……ああ、気を悪くさせたわね。……違うのよ」

 

 ユミルがフードの中から儚く笑う表情で、それが単なる嘲りではないと分かった。

 ユミルは何かを知っていて、それが抗えない事と知っているからそんな顔で謝罪を口にしたのだろう。それを理解した途端、膨らみかけていたルチアの熱も萎む。

 

 だが代わりに疑問に思った。

 ユミルは永くを生き、それに裏付けされた経験と強さがある。大抵の事なら対処の方法を知っているし、それに付随して起きる面倒事にも対応できる。その彼女が最初から諦めるような事が、この養殖にあるとでも言うのだろうか。

 

「あなたを侮ったワケじゃないの。ただ、新しい事を歓迎しない輩というのも、間違いなくいる。それも一等厄介な輩が」

 

 唾棄するような強いものの言い方だった。

 それで尚のこと疑問に思う。これまでの長い旅の間、ミレイユ達は多くの事を成してきた。その中には新しいと思える数々の出来事だってあった筈だ。

 歴史に一つページを加えるような偉業とて起こした。楽ばかりではなく、苦難もまた多かったが、それでもここまでやって来たのだ。

 

 だからこそ、ルチアは疑問に思う。

 ユミルの言い草は、あまりに弱腰に思えた。

 



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常識 その4

Lunenyx様、誤字報告ありがとうございます!
 


 

「ユミルさん、貴女……一体なにを知ってるんです? これが失敗するって確信するような物言いでしたけど……」

「別に大層な事を知ってるワケじゃないわよ。ただ新しい事を望まず、ただ今の時間が流れる事を望む連中がいて、それは誰にも邪魔できない。そういう摂理があの世界にはあるってだけ」

「そんな大層な事が出来るような存在、いたんですか? そんな大それた事が出来たのなら、人間支配の終焉なんて、許さなかったと思いますけど」

 

 ルチア達がいた世界で起こった、大陸を揺るがす阿鼻叫喚と歓喜と喝采を呼んだ歴史的事実。まさしく生き証人の一人であるルチアから見れば、それは新しい事を望まない連中からすると許し難い事のように思われた。

 だが、ユミルはそれをあっさりと否定する。

 

「別に大陸の支配者層の変遷なんて、珍しい事じゃないからね」

「じゃあ、その『連中』は、支配者層の中にはいなかった……? あの世界で趨勢を得て、どこより発言力も影響力もあったのに、支配者層より更に外にいる何者か……まさか!」

 

 ルチアは下唇を噛んで、身を震わせた。思わず拳も握って、手の平に爪が食い込む。

 かつての支配者層より外にいて、更に摂理を握っているとまで言わせる存在など一つしかない。

 

「神々が、それを拒んでいると言うんですか……?」

「……まったく。こっちの世界で良かったわ。こんな会話、あの世界にいたらどこで聞かれていたか分からないもの」

 

 肩を竦めて、鼻息荒く吐き捨てる。

 支配者層すら支配するからこそ、神は神と呼ばれ、だからこそ神でいられる。神は基本的に人間に干渉しないし、貧困を解決しようともしないし、暴力や支配も制限しない。

 

 ただ悪戯に降臨し、悪戯に掻き乱し、責任を取る事なく去っていく。

 それは単に厄災のように振りまく事もあれば、祝福を授ける事もある。気紛れに起こる現象なので、良きにしろ悪きにしろ神の行動に過度の期待はしないものだ。

 

「神は世界に興味がないと思っていました。砂場のような遊び場でしかなく、気紛れに砂の城を蹴飛ばしたり、あるいは形を整えてみたり。飽きれば捨てるだけ、そういう類のものだと」

「その認識は別に間違ってないわよ。でも、何で神々が複数いるか考えた事はある? 増えたり減ったりする事は?」

 

 神々は人の出生のように増えることはない。また寿命によって死ぬこともない。神同士の戦争で敗者が滅する事もあるが、ある時不意に消えていなくなる事もある。そしてそれは、神が去ったとも殺されたともされ、そして暫くすれば新しい神が立つ。その新しい神がどこから来たかは知らないが、信者は嘆きはしても別の神を新たに信仰していく事になる。

 

「疑問に持った事はありませんでした。……そういうものなのだと」

「そうよね、それが常識だから。人間は気づけないでしょう、生きても精々百年だから。エルフもいいかもね、千年生きるのは稀だから。不都合な真実は闇の中……」

 

 ユミルは自身を指差し、皮肉げに笑った。

 

「そう、闇のね。だから何故、我が一族がこれほど苛烈に迫害されたか、そう聞くと分かりそうなものじゃない?」

「貴女の一族は、しばしば伝染病に例えられますよね。貴方がたは子を成さない。でも伝播するように一族を増やしていく。そして一族に寿命はない……」

「そう、一族には触れれば変化、という単純なものじゃないけど、でも伝染病というのも強ち間違いじゃないのよ。変貌するよりも前に治癒してしまえば、一族にはならないんだし」

 

 ルチアがハッとして目を見開き、口に手を当てる。恐ろしい真実を目の当たりにした緊張を持って、ユミルの目を射抜いた。

 

「全ての神々の権能に、疾病治癒の加護があるのは……」

「ええ、多くの神々が毎日の祈祷を義務付けるのもそう。他の神々でも三日に一度の祈祷は義務付ける。それは五日以内なら確実に治療が出来るからよ」

「貴女の一族を増やさない為……?」

「勿論、それだけじゃないわよ。祈祷は間違いなく神への供物になるんだから。一石二鳥というだけ、都合が良かったというだけね。不死の種族で世界が染まるのは防ぎたかった、その気持ちだけは理解出来るの」

 

 だが、そうと言うことは別の理由が隠れてる。

 ユミルはそう言いたいのだ。

 

「むしろ種族はこれ以上増えない、お前たちに未来はないと知らせたかったのね。不死の一族は摂理に取って歪んでいるのは確かでしょうけど、それ以上の不都合があったから封じ込めたの」

「それが、新しいことを望まない、っていう話に繋がるんですか? わたしにはどうにもピンと来ませんけど……」

「新しい事を望まないっていうのはね、つまり停滞を望んでいるって事だから。大陸の歴史がどうとかは関係ないの。世界が均衡を保って維持し続ける事の方が大事なんだわ」

 

 言われてルチアは首を傾げた。

 それは言うほど間違った事とは思えなかった。支配者層が入れ替わるくらいは、大陸の崩壊、世界の破滅より、余程些末な事だ。天秤に置けばどちらに重きを置くかは、火を見るより明らかだ。

 

「それって問題なんですか?」

「いいえ、それ自体は問題じゃないの。世界の維持は人の生死より大事、当然よね。じゃあ、それをどうやって維持してると思う?」

 

 そう言われてしまえば、ルチアに答えなど出る筈もない。植物が育つにはどうすればいい、森が育つにはどうすればいい、という事は理解できても、それに世界を当て嵌めて考える事は無理がある。

 

「維持に労力が必要なんですか? つまり神々の仕事は、人が畑を耕すように、労力を持って世界を維持する事だと」

 

 仮にそうであるならば、神への尊崇の念を強めるばかりだ。公然の秘密という訳でもなく、完全に秘匿する意味が分からない。

 

「十二の大神と六の小神、いつだって数の変動が起きるのは小神で、大神を上回る事はない。そして大神は、いつだって戦争で勝つ側なのよ」

「でも、神の力量は大神と小神で違いはないでしょう? 個人差、というか個神差があって、強い小神だっています。一対一が原則の神争で、常に大神が勝てる程の力量差はない筈です」

「神の戦争の行方は、歴史書に記載を禁じているからね。力量に差が殆どなく、また小神が上回る事があるのなら、きっと大神を打ち倒した小神もいたに違いない。――そうよね?」

「理屈の上ではそうなります。権能一つとっても、必ず戦闘向きなわけじゃないですし」

 

 ユミルは大いに頷く。優秀な生徒に講義をする、教師のような眼差しだった。

 

「でも小神は勝ったことがないし、大神は常に勝ち続けてきた。これはアタシが保証する」

「……あり得るんですか、そんなの」

「ないわよ」ユミルは鼻で笑う。「だから、そんな不都合、知られたくないでしょ? 技術の発展、印刷技術、保管技術、あらゆる技術の発展は、不都合の露呈をいつか白日のもとに晒す原因――あるいは遠因になる。そんなこと大神が許す筈がない」

 

 まさか、とルチアは青い顔で呟いた。否定したいが、否定の言葉が見つからなかった。

 

「じゃあ、一対一で争う威厳のある闘争ではないんですね?」

「むしろ二人目三人目が、後ろから刺す暗殺闘争よ」

 

 ルチアは青い顔で戦慄いた。今まで信じてきたものが足元から崩れ去るような思いがした。

 しかし、何故。何故そうまでして神は神を殺すのか。

 

「何故、神は闘争を繰り返すのですか? それが神というものだと思ってましたけど、常に片方が勝ち続ける闘争なんて、それはもう闘争じゃない。私刑のようなもので……、まるで贄の……」

 

 口からついて出た言葉が、あまりにも真実を内包している気がして、ルチアは思わず口を押さえた。

 ユミルは得心顔で頷く。

 

「正解者に拍手」ぺちぺちと気のない拍手をして、続ける。「贄として神の魂だか肉体だか、両方だかを使って世界を維持してる。知られて歓迎する者がいるかしら? いるかもしれないわね。上手いことをすれば、神とは贄の別名で、信者はそれを歓迎すべし、という常識を植え付けられるかも?」

 

 ユミルは大いに皮肉を込めた笑みを浮かべて鼻を鳴らした。

 

「それをやって失敗したから、いまは何も教えず暗殺闘争する事に切り替えたのよ」

「失敗……? そんな時代があったんですか?」

「ええ、神は世界の礎である。自ら礎となるべく生きている。信者は尊く誉れ高い神に祈りを捧げよ、感謝を捧げよ、とね」

「それだけ聞くと、信者は涙して祈りを捧げて感謝しそうなものですけど?」

 

 ユミルは小馬鹿にしたように笑った。当時を思い出しての笑いだった。

 

「そりゃ信者はそうでしょう。我が身に降りかかる不幸じゃないんだもの。でも神は別よ。意志ある存在として、やはり死は忌避するものみたい。死にたくない神だっていたのよ」

 

 それ自体は頷ける話だった。

 神は偉大だが、人間味溢れる存在でもある。どこか子供っぽく己の行動全てが自由になると思っている。それもいずれ自らの死と引き換えというのなら許されてもいい気がするが、いざ死ねとなった時、潔く死を迎えられるものだろうか。

 ルチアには疑問に思える。

 

「それで逃げ出す神が出た、と。過去、忽然と消えた神、というのは、つまり……」

「逃げ出した神、そのとおり。でも、逃げ切れた神はいなかった。大神に取り囲まれて、やはり贄と成り礎となった。逃げ惑い泣き喚いて命乞いする神と、それを容赦なく捕まえ打ち据える神、そんなの見せられたら信者はどうなると思う?」

「分かりませんけど、心中穏やかではなかったでしょうね……」

「どういう基準と順番で、それを決めているかは知らないけれど、自分の信仰する神より他の神を贄にしろという信者は一定数いた。そしてその流れが主流になり、戦争が起こった」

 

 ああ、とルチアもそれには納得できる話だった。

 だれしも順番があるなら後がいいし、生きていられるなら生きていて欲しいのだ。

 

「ま、神も人も滅茶苦茶よ。人の争いに引かれて神も嫌だと争いが起きて収拾がつかず、だから一度リセットすることにした。アンタが言ったさっきの言葉、砂場はいい表現よ。全てをひっくり返して、小神も人も滅ぼした上で作り直したのが今の世界」

「リセット……? じゃあ何故、貴女がそれを知ってるんです?」

「前時代文明の生き残りが、我が一族だからよ。前時代の僅かな生き残り、だから三十人しかいなかったでしょ? 生き残ったのはわずかそれだけ。そして神も、信じるかどうかは別として、我が一族がこれ以上、この情報を伝えぬよう忌避する一族と定め、増やさないよう処置をした」

「そんな事が……」

「いざとなれば十二の大神は砂場を底からひっくり返す。だからねルチア、下手な真似して文化と文明を飛躍的に上昇させる技術なんて、持ち込んだらまず消されることになるわよ」

 

 ほんの些細な思い付きが、ここまで壮大な話になるなど、ルチアは思ってもみなかった。あるいはユミルもそんなつもりはなかったかもしれない。話せる事を全て語った訳でもなく、濁して伝え省いて伝えた部分はあっただろう。

 だが、どうしてここまで語ったのか。それもまたルチアには疑問だった。

 

「あの、どうして話してくれたんですか? 知られちゃいけない伝説でしょう?」

「そうね……。ここじゃ誰の耳もないということが一つ。あと一つは……誰か一人くらい、知っていてもいいと思ったからよ」

 

 悲しげな瞳でフードの中から地面を見つめるユミルには、言葉に出来ないほどの想いが詰まっているように見えた。

 

「でも、私に……? ミレイさんに話した方が良かったんじゃ?」

「あの子には重すぎる話だわ。それに、アンタなら誰にも話したりしないでしょ?」

「それは、はい、勿論……」

「だから、それでいいのよ……」

 

 ユミルの見せた小さな笑みは、見たこともないほど儚い笑みだった。

 あるいはそれは、故郷を偲び、一族を偲び、そして亡き父親に対して偲ぶ想いだったのかもしれない。

 



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常識 その5

 どことなく重苦しい空気が二人を纏い、もはや楽しい散策という雰囲気ではなくなってしまった。とりあえず最初の目的であった大きな建物だけでも見ておこうと、ルチアは先導して歩を進める。

 

 

 そこでふと思い立つ事があって、ユミルに顔を向けた。

 

 一度終わらせた話題を持ち出すのは気が引けたが、ルチアは気になった事を放置していられない性分だった。

 

 

「あの……、それじゃあ、こっちの世界にいる神ってどう思います? 疾病退散の権能を持つ神……これって、あちら側の神が来ているって話になりませんか?」

 

「さて、どうでしょうね?」

 

 

 ユミルは首を傾げたものの、思案する素振りは見せなかった。考える事を放棄するというより、考えても仕方がないと思っているように見える。

 

 それはルチアも同意するところで、とにかく情報が足りない上に、客観性のある事実として知っている訳でもない。だからという事は理解できるが、それでもユミルに聞いてみたかった。

 

 

「権能の類似性、他国には存在しない、千年前からいる、っていう情報が確かなら、ただその一柱のみがこちらに逃げてきた神という考え方は出来ませんか? 私達がこの世界にいる以上、その可能性があるのでは……」

 

「そうね、可能性だけならあると思うわ。アタシは逃げた神が、そのまま逃げおおせた事実も知らないけど、あちらの世界から渡ってきた神の可能性が、皆無だとは思わない」

 

「……でも、それじゃあ十二の大神が自らの意志で来たということですか? あれ、十二の大神は数が減った事ないんですよね? おかしくありません?」

 

 

 ユミルは鼻で笑って同意した。

 

 

「おかしいわよ、数の計算が合わないわね。だからあるとすれば、神となる前に逃げた可能性かしら」

 

「神に……なる前?」

 

 

 ユミルが怪訝に眉を顰めた。

 

 神とは自然に発生する災害と同様、何か超自然的な現象の結果として生まれてくると思っていた。ならば、もしかして、小神とは、元は別の種族から昇位するものなのだろうか。

 

 

「神の元の存在って、もしかして……!」

 

「――ああ、遮って悪いけど、そこは私も詳しくないの。明確に知っているわけじゃないし、見たことがあるワケでもないから答えられないわよ」

 

 

 視線を合わせずそれだけ言って、ユミルは肩を竦めた。

 

 

「それに、あくまで可能性の話で、実際には無いと思っているからね。だから、さっき言った神の話は、あくまでこっちで自然的に発生したモノであって、あちらとは関係ないって思ってるけど」

 

「ですか……」

 

 

 ルチアは納得いってなかったが、これ以上追求しても何か出てくるとも思えない。だからとりあえず、ユミルの話に同意した。

 

 

「まぁ、ですね。言ってしまえば、疾病退散が共通事項っていうのも、別に強い根拠じゃないですもんね……」

 

「信仰を得ようと思えば、実際有効な手段でしょ。こちらの神が、まず自分の権能として定義しても不思議じゃないわ」

 

「それも、そうですね……」

 

 

 それきり、その話題が再び持ち出される事はなかった。

 

 ユミルからは明らかにそれ以上口にするな、と雰囲気が語っていたし、ルチアとしても何が何でも聞き出したい内容という訳でもなかった。

 

 

 新たな話題が見つからないまま、途中、幾つもの円柱形の何かを並べた箱を見つけた。それぞれ色も違えば長さも違う。ただ円柱形という型だけは決まっているが、その表面に描かれた絵や文字は千差万別だった。

 

 必ず数字と一緒に並んでいるところを見れば、もしかしたら売り物なのかもしれないが、それにしては商人がいない。見本として並べているのだろう事は想像できるが、ならば売り手がいなければ商売にはなるまい。

 

 

 人通りの少ない時間帯だからとて、商人はその商機をいつでも見逃さないものだ。これほど巨大な見せ物を用意してまで商売をしようというのだら、その意欲は伝わってくる。

 

 裏に回って商品でも用意している最中なのだろうか、と予想しながら目の前を通り過ぎた。

 

 出発時の高揚感がまだ残っていたら、こんな事を気にせず好奇心の赴くまま弄り倒していただろうが、今はとてもそういう雰囲気ではない。

 

 

 惜しむ気持ちで通り過ぎ、ルチア達は目的地へと到着した。

 

 遠くから見えていた時点で思ったが、予想以上に大きな建物だった。城より大きいわけではないが、ちょっとした要塞程度はある。前衛に置かれた要塞というよりは、各地見張りに適した要衝へ配置されるような規模に見えた。

 

 

 敷地をぐるりと塀と鉄柵で覆っているのも、また要塞めいた雰囲気を見せているが、もしかしたらこれは訓練所であるのかもしれない。

 

 建物の傍には広大な敷地が用意されており、何かしらに使う器具がぽつりと置かれている以外は何もない。そこに同じ格好をした男共が列をなして走っている。

 

 

「まさしく訓練所と言った感じですね。建物に対して訓練生の数が少なすぎますけど」

 

「座学でもやってるのかしらねぇ。……あの窓の数をご覧なさいな。あれだけの数の部屋があるのなら、外に出て体を動かす人間が少なすぎるわ」

 

「だとしたら、相当な人衆がこれの中にいることになりますよ」

 

「……よく見れば、中にいるのは子供ばかりよ。アキラと同じ年頃のね。大人は一人、監督役か教導役か……それだけ」

 

 

 確かに、と頷いてルチアは改めて辺りを見回す。

 

 周辺の建物は民家が多く、商店すら殆どない。この目につく建物の実に九割が民家なのだ。ここまで歩いて来て、その事実には気づいている。

 

 ならば、この家の数に対し子供の数も相当数がいるはず。

 

 この訓練所は、その子供に教育する――練兵を施す施設なのかもしれない。

 

 

「これだけの数の訓練兵がいるのなら、この国はさぞ侵略に熱心なんでしょうねぇ」

 

「ああ、豊かさの裏にはそういう事情があるという訳ですか。やけに腑に落ちましたよ、……これだから人間は」

 

 

 蔑みを隠そうともせず訓練兵と、その教導役を見据えて鼻を鳴らす。

 

 その見るともなく見ていた訓練兵の中に、見知った顔を見つけてしまった。

 

 

「……あれ、アキラさんですよ」

 

「ホント? どこよ?」

 

 

 それまで特別な興味を見せなかったユミルが、好奇心も顕に集団の中へ目を凝らす。

 

 幾らもせずして目的の人物を見つけると、声音が僅かに上擦った。

 

 

「あら、ホントじゃない。あの子、あんな可愛い顔して練兵に参加するほど熱心だったなんてねぇ……!」

 

「そういえば、剣の心得があるんでしたか」

 

「ああ、あれってそういう?」

 

「多分、そういう事になるんですかね」

 

「ふぅん……。正直言って意外だったわ。あの子、兵って感じがしないもの」

 

 

 言いながら、広い敷地を走って回る人たちを、柵の外側から興味深げに見つめる。声音は明らかに面白がっている風であり、機嫌の悪くなったルチアとは対照的だった。

 

 

「――あら、こっちに気付いたわよ」

 

「明らかに、しかめっ面してますけど」

 

「あら、いいじゃない。手を振ってあげなさいよ」

 

「イヤですよ、そんなの」

 

「そう。じゃあアタシが振ってあげるわ」

 

 

 言うや否や、ユミルはその手を取って勝手に顔の横で左右に動かす。抵抗しようとも、どうせ力で勝てはしない。されるがままにブラブラと、満足がいくまで左右に振らさせた。

 

 何の反応も示さない――敢えて無視を続けるアキラに業を煮やして、ユミルは手を離して柵を握る。檻に閉じ込められた獣のように、その隙間から睨みつけるが――やはり反応は返ってこなかった。

 

 むしろ必死で顔を逸して目を合わせないようにしている。

 

 ルチアは鼻で笑って扱き下ろした。

 

 

「ここまで無視される事ってあります? きっとフード被ってる女は嫌いなんですよ」

 

「うるさいわね。関係ないでしょ、それは。……まったく、あの子には教育ってものが必要みたいね」

 

「訓練ならここだけで間に合ってるでしょう? 往生際が悪いですよ。素直に嫌われてる自覚持ったらどうですか」

 

「アンタだって手を振ったくせに無視されてたじゃない」

 

「アレは別に、私が自分でやったことじゃないですし」

 

 

 ああ言えばこう言う二人が言い合いを始めると、教導役の男が二人に近づいてきた。いがみ合いを続けている間でも、近付いて来る男には気付いていたが、まるで気にした様子がない。

 

 

「でも無視された事は事実なワケでしょ?」

 

「だから何だって言うんですか。たかだか昨日あったばかりの人間の男に、気にかけて貰いたい欲なんてないんですよ」

 

「欲はなくてもプライドの問題ってのがあるワケ。アレに無視されるって、傲慢な態度だと思わない?」

 

「うぅん……。ああ、そう言われてみると」

 

「――ああ、君たち」

 

 

 男は柵のすぐ傍まで来ており、二人を見下ろすように立っている。咎めるような目つきだが、ユミル達は頓着せず無視して続ける。

 

 

「ねぇ? だから、一言くらい何か言ってやらないと気が済まないのよ」

 

「いやぁ、それいま言う必要あります? 明らかに訓練中ですよ」

 

「そんな事、アタシに関係ないわよ」

 

「まるでチンピラの発想じゃないですか。やめて下さいね、そういう身内の恥を晒すような真似は」

 

「――君たち!」

 

 

 大きな声を上げた男に、ここでようやく二人は顔を向けた。

 

 男は二人の美貌に一瞬、目を奪われたものの、常識に則った職務を実行するように決めた。

 

 

「……ここで何をしているんだ。この時間は授業があるんじゃないのか? この学校の生徒じゃないが、何の用でここにいるんだ?」

 

「――うるさい」

 

 

 ユミルは柵の外側から男の襟首を掴むと、そのまま引き寄せて頭を柵にぶつけた。小気味よい音が額から聞こえ、そのまま白目を剥いて力なく後ろへ倒れる。

 

 ユミルが手を離していないお陰で辛うじて立っているように見えるが、両手はだらしなく垂れ落ちているし、頭も後ろに仰け反って首を真上に向けている。何より両足まで膝が曲がっているせいで、まるで等身大の人形が宙に浮いているように見える。

 

 

「ちょっと、どうするんですか、それ……」

 

「脆すぎるのよ、アタシは悪くないわよ。大体、踏ん張りもせずに頭ぶつける、普通?」

 

「酷すぎる言い分ですよ、それは。これはもうアヴェリンのこと悪く言えませんね? いつも怪力馬鹿力とか言って煽ってますけど、今度からユミルさんもその分類に追加されますから」

 

「いや、ないでしょ。これは男が軟弱すぎた事が問題なのであって、アタシが怪力であるかどうかは関係ない」

 

「つまり上手に手加減出来てないって事じゃないですか。そのいい訳は苦しすぎますね」

 

「――はい、この話はやめやめ。あまりに不毛すぎるわ」

 

「いいですけど……、それをどうするのかっていう問題は解決してませんよ」

 

 

 ユミルはフードの中からあっさりと笑って、その手を離した。両手でフードの縁を摘まんで、より深く被り直す。

 

 

「幸い、アタシは顔を見られてないと思うのよね」

 

「はぁ……。え、ちょっ、は……?」

 

「じゃ、サヨナラ~」

 

 

 言うや否や、地面の上に力なく倒れ伏した男を投げ出して、ユミルは駆け出してしまった。

 

 ルチアは男とユミルとを見比べて、数秒の遅れを取って後を追いかける。訓練生たちのざわめく声が背後から聞こえたが、努めて無視して足を動かした。

 

 ルチアは必死の形相で、前を走って逃げるユミルを追いかける。とにかく一人負けの後片付けなど冗談ではないという思いが足を動かしていた。

 

 

 

 

 

 必死に走って追い掛けたというのに、ルチアがようやくその背に追いついたのはアパートに着いた時だった。

 

 涼しい顔で待ち受けていたユミルの頬を、走る勢いそのままに平手で打ち、ついでに自身もまた転がる。ユミルを巻き込んで倒れて、二人重なるように地面へ強かに打ち付けた。

 

 

「ちょっと! 痛いわね!」

 

「うるさいってんですよ! はぁはぁ! なんですか、何なんですか! はぁはぁ……、馬鹿じゃないですか!」

 

「耳元ではぁはぁ言うんじゃないわよ! それにアレは仕方ないの、不可抗力というものよ!」

 

「何がもう……、はぁはぁ。ホントもう……! はぁはぁ」

 

 

 言葉にならず嗚咽すら混じり始めたルチアに、ユミルは背中をポンポンと叩いて持ち上げる。ユミルの力は確かに強いが、ルチアが軽すぎるのも原因だ。

 

 ユミルは腰だけの力で起き上がって、ルチアをその場に立たせる。お互いの服についた砂や埃を叩き落とし、見た目ではそれと分からない程度になった頃には、ルチアの様子も大分落ち着いてきた。

 

 

「……なんであんな事したんですか」

 

 

 恨み言の声は地を這うかのようだった。

 

 ユミルはそれに大した反応も見せず、カラッとした笑顔で返した。

 

 

「そっちの方が、何だか面白そうだったからかしらねぇ」

 

「……もう一発殴っていいですか?」

 

「いい訳ないでしょ。ほら、帰るわよ」

 

「なんでそこで、そう言い切れるのか不思議でなりません。絶対、ここはもう一発殴っていいところですよ。アヴェリンさんなら片腕千切ってますよ」

 

「アンタのアヴェリン像って、どうなってるのよ。完全にヤバい奴でしょ」

 

 

 飛び掛かろうとするルチアをあしらいながら、ユミルは部屋への階段を昇る。それに恨み言を言い募りながらルチアが続き、部屋の中へと入っていった。

 



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常識 その6

 いがみ合いを続けながら帰ってきた二人を、ミレイユはソファに寝転がりながら迎えた。

 目立つ訳ではないものの、服に汚れがある辺り、何かトラブルがあったのかもしれない。ただ深刻な様子ではないので、ミレイユは気にせず再び視線を手元に落とした。

 そこに呆れを含んだ笑い声で、ユミルが声をかけてくる。

 

「あらまぁ、淑女にあるまじき格好してるわねぇ」

「今は休暇中だ。淑女だって休暇中に決まってる」

「そう? アヴェリンが渋い顔してるけど」

「だが、まだ何も言ってない。それが大事だ」

「――言ってもいいなら、言わせていただきますが」

「いいや、黙っていろ」

 

 ソファの傍に新たに追加された椅子に座るアヴェリンは、渋い顔を更に渋くした表情で口を噤む。手元にはホツレがあったグローブの補修しようと、涙ぐましい努力の跡があった。

 

 ミレイユが手元にある板状の何かを操作するにつけ、それに気が付いたルチアが傍までやって来て覗き込む。

 

「それ、なんですか?」

「タブレットだ。寝室で見つけた」

「へぇ……たぶれっと。不思議ですね……、どうなってるんですコレ?」

 

 ミレイユが検索エンジンを使って単語を入力しているところを、しげしげと眺めては画面に触れる。関係ないところを触れられ、ページが切り替わってしまったのを戻しながらミレイユは困ったように答えた。

 

「どうなっている、という質問は難しくて答えられないな。よく分からず使っている便利な物で、どういう原理で動いているかも知らない」

「よく分からずに使ってるんですか……。相変わらず危険な事が大好きですね」

 

 ページが切り替わり、様々なパーティの写真が映し出されると、ルチアの表情が驚きに変わる。

 

「わっ、絵がこんなに沢山。まるで現実をそのまま写し取ったかのような鮮明さ……、誰が描いたんでしょう?」

「これは画家が描いたものじゃない。後で貸してやるから、今はこっちに集中させてくれ」

「きっとですよ。――そろそろいいですか?」

「幾らも経ってないだろ。いいから待て。……待て、待てって」

 

 横から強奪しようとするルチアの手を遮り頭を押し返しながら、ミレイユはユミルに目配せする。そうと察したユミルが、強奪未遂の犯人の脇に手を入れ持ち上げた。

 

「はぁい、ちょっとこっち来ましょうねぇ」

「ちょっと、離して下さいよ。アレ絶対すごい奴ですって」

「それは分かるけど、少しは落ち着きなさいな。邪魔するとアヴェリンが実力行使に移行するからね」

 

 チラリと視線を向ければ、アヴェリンから剣呑な視線が返ってくる。ユミルがソロリとその場に降ろすと、流石に暴れ出すことなく腰を下ろす。

 行儀よく足を揃えて床に座る姿は気品が見え隠れする見事なものだったが、その視線はタブレットに釘付けで、虎視眈々と襲いかかろうとする獣のようだった。

 

 ミレイユはそんなルチアへ見向きもせずに、上下に動かしていた指を二人に向ける。

 

「今の内に着替えてきたらどうだ? 服も汚れているし、着た物は洗濯して返すのが礼儀だろう」

「……そうね。ほら、汚したのはアンタなんだから、責任持って洗って頂戴」

「いや、あれは明らかにユミルさんに非がありますよ。誰に聞いたってそう言いますよ」

「はいはい、分かったから。さっさと行くわよ」

「ちょっと、何で一々持ち上げるんですか! 自分で歩けますよ!」

 

 ルチアの抗議は無視して、やはり両手を脇の下に入れて持ち上げ、箱の中に連れ去っていく。再び静かな環境を手にしたミレイユは、息を一つ吐いて、改めて検索作業に戻った。

 

 

 

 暫くして、洗濯も終え着替えも済ませた二人が帰ってくると、唐突な質問で動きが止まった。ゆっくりと質問の主に視線を向ければ、恐縮しきった様子で手を振っている。

 

「……いま何て言ったんだ?」

「いえ、安心して下さい。別に連れ帰ろうとか思ってるんじゃないんです。ただ単純な好奇心で、一体どんな見た目をしているのか気になっただけで! ホントにそれだけです」

 

 ミレイユは痛みを堪えるような顔をして、とりあえず頷く。

 

「ああ、そこは別にどうでもいいんだが。車の中の生物っていうのは、どういう意味だ?」

「ですから、あれを動かすには、馬以上に力がある生き物が必要じゃないですか? 馬以下の大きさの動物なり魔物が、あの中に入って動かしていると考えないと、説明がつかないじゃないですか」

「ああ、そういう……」

「なので、どういう形状をした生物が入っているのか、是非教えて欲しいと思いまして」

 

 瞳を輝かせて答えを待ち望むルチアの後ろには、同じような表情をしたユミルがいる。気づけばアヴェリンでさえ、気になる素振りを見せている。

 何か大いな勘違いと大いな期待をしているようで心苦しいが、望む答えは返してやれそうもなかった。

 

「乗り物と言えば動物に引かせるのが当然という考えから、その答えに行き着いたのは理解できる。だが、車の中に動物はいない。動力はエンジンであり、ガソリンだ」

「動物で動かしてはいない?」

「じゃあ、そのガソリンという魔道具を使うの?」

 

 二人の表情を見れば、まるでピンと来ていないのは良く分かる。もしもミレイユ自身が同じ立場なら、同じような反応になるだろう。

 具体的な原理まで行くと専門的知識が必要になるし、子供が理解できるような内容に噛み砕いた説明をしようにも、その知識がミレイユにはない。車弄りを趣味にしている訳でもなければ、工場勤務をしていた訳でもないのだ。

 

「……技術的進歩に差がありすぎて、とても説明できない。ただ、そうだな……。これを見てくれ」

 

 ミレイユは手早く検索エンジンに単語を打ち込み、自動車が造られる工程の動画を再生した。くるりとタブレットを反対に向けてルチア達に画面を見せてやれば、それに釘付けになった二人がタブレットに躙り寄って来る。

 

 機械のアームが左右それぞれ二つ、別個でありながら複雑かつ滑らかに動いて組み立てて行く様は、実際その視線を縫い留めるに十分なインパクトがあった。

 車の外枠を溶接し、塗装をし、各種パーツを人の手で埋めていく様子を音楽と共に見せていく。動画の時間は三分。実際の工程より多くの部分を省いて紹介されているのだろうが、それでも自動車という構造が如何なる物かを知るには十分な内容だった。

 動画の再生が終わり音楽も止まると、ルチアは大きく息を吐く。息を止めて見入っていたせいで肩は強張り、吐いた息と共に下がった肩は僅かに震えていた。

 

「……これが車だ」

「いや、これではい出来上がり、とか見せられても、何が何やら……」

「何やら、というより、まず何から聞くべきか迷いますね。まず、何で音が出て、どこに楽士がいたんですか?」

「……そこからか」

 

 困惑した表情は誰もが同じだったが、感じる困惑の種類は誰もが違った。

 

「そもそもタブレットが意味不明だわ。文字を読んでいたから本の一種かと思ってたけど、それですらないの? 遠方を覗く魔道具でもないワケでしょ?」

「何かが動いて何かが出来上がっていく様を、誰かの視界を通して見せられた感じです。でも人の視線でもなかったような……。不思議ですね、実に不思議です」

 

 説明を求める視線がミレイユを射抜く。そこから続く説明に対する説明、そして新たに生まれた疑問に対する説明と、ミレイユは果のない探究心にほとほと参った。

 答えられる質問には答えたが、ついには匙を投げ、言われるままに検索エンジンに単語を入力する機械と化した。そうして数時間が経過した頃、ミレイユはタブレットその物を投げた。

 放り投げられたタブレットを、脅威の瞬発力でユミルが掴み取る。

 

「――ちょっと、何するのよ! まだ知りたい事が沢山あるのに!」

「気をつけて下さいよ! 叡智の宝庫を投げ出すなんて、貴女正気ですか!?」

「私はお前たちの育児ママじゃないんだよ。知りたいのなら、自分で調べろ」

「分かったわ。……そうね、自分で調べるわよ、ママ」

「自分達で調べるので、ちょっと退いて下さいよ、ママ」

 

 遂にはミレイユを押しやって二人でソファを占領し、見様見真似でタブレットを操作していく。日本語の入力など出来ないと高を括っていたが、高い学習能力を持つ二人の手に掛かれば、既に必要十分以上の学習をしたらしい。

 興味のある単語を打ち込んでは、やいのやいのと盛り上がる二人を余所に、ミレイユは小箱へと手をかざす。こうなっては梃子でも動かないだろうし、動かそうとすれば暴れるだろう。

 ミレイユは小箱の中へ退避する前に、二人向かって一つの命令を残す事にした。

 

「好きにすればいいが、元々私が何を調べたかったか教えておく。お前たちはそれを引き続き探し出し、調べ上げろ」

「あら、いいわよ。楽しそうね?」

「そそる内容じゃないですか」

 

 不敵に笑うユミル達へ言葉少なに言い渡した。

 

「必要なのはアキラに対し機嫌を取るような方法だ。あくまで、この世界の基準に則った方法のな。お前たちが思うような方法ではなく、あくまでこちらの」

 

 強く念を押して言うミレイユに、二人は何事もないように頷いて見せる。

 

「楽勝ね。まぁでも男なんて、抱きついて甘い言葉の一つでも囁いてやれば、それでご機嫌になると思うけど」

「事実だったとして、それ誰がやるんですか」

「別にいいわよ、アタシがやっても」

「フード嫌われ事件を前にして、よくそんなことが言えますね」

「……はァン?」

 

 ぐるりと首をひねり回して睨み付けるユミルに、敢えて無視してタブレットを操作し続けていたルチアは殊更上機嫌を装って画面を差し出す。

 

「ほら見てください。自分で自分の機嫌を取る方法、大人の女性の処世術らしいですよ」

「なに馬鹿な事調べるのよ。アタシの機嫌が急直下したのは、間違いなくアンタのせいだからね」

 

 タブレットを奪い取って新たに語句を入力していくユミルは、視線は画面に向けたままミレイユにひらひらと手を振った。

 

「ま、とにかく調べておくわよ。気楽にお待ちなさいな」

「今の一連の流れを見て不安が増しただけだが……。まぁいい、よろしくやってくれ」

「お任せあれ」

 

 ミレイユはアヴェリンに一度顔を向けると、頷いて箱の中へ身を投じた。

 後には直ぐにアヴェリンも続いて来る。

 

 そうして自室で過ごす事しばし。

 自らが旅の中で集めた書籍を眺めていると、ユミル達二人が駆け込んできた。

 何事かと顔を上げてみると、パソコン初心者がよく言う台詞を投げつけてくる。

 

「何もしていないのに壊れたわ!」



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不安と不穏 その1

 結果として、それは故障ではなくバッテリー切れだという事が分かった。

 手早くスイッチを入れて再起動して見れば、電池マークが空。起動画面の途中で再度電源が落ちたので間違いないと判断した。

 

「大丈夫だ、どこも壊れていない。つまりこれは、チャージせずには使えないんだ」

「魔術秘具みたいに?」

「そう、ただし必要になるのは電力だ。……ともかく、充電すれば――多分、寝室のコンセント辺りが充電場所だろうから、そこでしばらく放置していればいい」

「あら、それだけでいいの?」

 

 ミレイユは首肯して椅子から立ち上がる。

 

「口で言っても上手く伝わらないだろう。一緒に行って、やり方を教えてやる」

「いつになく親切ねぇ……」

「言うだけで理解できるなら、こっちも余計な手間はかけないが。それに私の所有物という訳でもなし、壊すと面倒だ」

 

 ユミルを引き連れ部屋を出て、アヴェリンが何処にいるか確認すると、自室で防具の手入れを続けているようだった。そこに一声かけて邸宅を出る。

 何も断りを入れずに離れてはいけない理由もないのだが、こうしないと後で何故一声かけなかったのかと口喧しい。彼女としては護衛の任を全う出来ない状況と、そこに自分が介在できない事が我慢ならないのだ。

 

 手早く片付け準備を終えれば、アヴェリンも直ぐに追いついてくるだろう。そもそもが箱庭を出た先の事、追いつくも何もない。

 

 ミレイユ達はアキラの部屋に出ると、そのまま寝室へ向かう。

 そこには果たしてコンセントに繋がれたままの充電ケーブルがあり、手順を説明しながら差し込んでベッドの上に放る。

 

「これで終わりだ」

「……随分、単純ね」

「差込口が上下逆だと入らないとか説明しようと思ったら、これはそういうタイプじゃなかったんだよ」

「コレも車みたいに種類が豊富にある訳ですか?」

 

 ユミルの後ろから覗き込んでいたルチアが、訝しげに言う。ミレイユは左右を横に振る。

 

「種類があるのは確かだが、あれほど見た目や用途に違いがあるわけじゃない。そういう基礎的な知識は勝手に覚えていってくれ。それか、今後はアキラに聞け」

「……ついには面倒になって匙投げ出し始めましたよ」

「……正直、いつかこうなるとは思ってたわ。予想以上に早かったけど」

 

 あからさまに人の後ろでコソコソと話をし始めた二人だが、そもそもこの距離、口を覆って話して遮られる訳もない。聞かせているのは明らかで、だから尚のこと腹立たしかった。

 

「うるさいんだよ。お前たちのナゼナニ攻勢をいつまでも受けてられるか!」

「はいはい、分かったわよ」

「確かにちょっとしつこかった部分はありましたね。ちょっとだけですけどね」

「分かったから、さっさと引っ込め。狭いんだよ」

 

 六畳間しかない間取りにベッドが置かれているのだから、それだけで部屋の三分の一程は使っていることになる。小さなベッドではあるが、そこに小柄とはいえ三人も入れば手狭になるのも当然だった。

 

 押し退けるようにミレイユが部屋を出てソファに座る。既にソファ脇に座っていたアヴェリンが、呆れたような目をしてルチア達を見ているが、結局何を言うでもない。

 

「……それで、言っておいた件はどうなった?」

「勿論、抜かりないわよ」

「大人の女性の処世術なら、お任せです」

「……何の話だ」

 

 バカ、とユミルが肘で突付いて黙らせる。途端に身を正すルチアと、わざとらしくリラックスしたように見せるユミル。

 ミレイユは二人の貼り付けたような笑みを交互に見比べて、この数時間何をしていたのか明確に悟った。

 

「何も調べていないのか?」

「――まさか! そんなワケないでしょ? 調べたわよ……調べはしたわよ」

 

 ユミルの口調は尻すぼみに小さくなる。口を噤んでしまった彼女に代わって、ルチアが弁明を始めた。

 

「まぁ、ただ他の誘惑も多かったと言いますか……。調べる内に別の単語が気になって見るにつけ、それが段々とエスカレートしたと言いますか……」

「……つまり、調べてないんだろ?」

 

 アヴェリンが咎める口調で言えば、ルチアはハッキリと首を横に振った。手の平を前に突き出し、待てのポーズで否定する。

 

「それは見解の相違というべき事柄です。私達は調べました。言われたとおり、真っ先に調べたのです」

「そうか。じゃあ、聞かせてくれ」

「えぇ、はい、勿論。ですが、ここからが少し複雑でして……」

 

 ミレイユはソファの上で足を組み直し、次いで腕も組む。その指先でトントンと苛立たし気に腕を叩いた。しかし何を言うでもなく、首を小さく傾けて続きを促す。

 

「つまりですね、機嫌を取る、という単語では、なかなか望む内容を得られなかったんです。じゃあ別の単語で検索すればいい、となりまして」

「そのとおり。難しいことはない」

「しかしここで、じゃあ何の単語ならいいのか、という言い合いになりまして」

「――より相応しい単語は何なのか、お互いの知見をぶつけ合う事になったワケ」

 

 ユミルもまた、言い訳に対する言い訳に参加するつもりになったらしい。あるいは、ルチア一人に任せるよりも、二人係りの方が傷が浅く済むと思っただけかもしれない。

 

「喧々諤々たる議論の末、一つの結論に達しました」

「機嫌を取るとは言うけれど、媚びる事とは違う。アタシ達があれに媚びる必要があると思う?」

「それは違うだろう、と。媚び諂うのは弱者のする事。それは間違っています」

「だから! 媚びる訳でなく機嫌を取るとはつまり、相手を喜ばせる事に他ならないと」

「……なるほど、分かる話だ」

 

 ミレイユの指の動きも止まり、同意は頷きと共に返った。

 それに安堵の表情を薄っすらと見せながら、二人は続ける。

 

「こちらの世界では、相手を喜ばせる際にパーティを開くとか」

「祝の席みたいなものです。特別な日以外でも、何事かあれば、それを理由に騒いで許されるのがパーティだと!」

「……うん。まぁ、間違いではない」

 

 ミレイユの返答に気を良くした二人は、上擦りそうになる声を抑えて身振りを加えだした。お互いに片手を取り、外側の手を大きく広げて片足を引く。演者にでもなったつもりでいるらしい。

 

「だから私達はパーティについて調べました!」

「年頃の男子が好む、喜びそうなパーティを!」

 

 外に広げた手を頭上まで円を描くように運び、お互いの両手を繋ぎ合わせる。二人が顔を見合わせた後、再びミレイユ達に体ごと向けた。

 

「やる事なす事、一々鬱陶しいな。……それで?」

「出てきたのは乱交パーティとかいう、男女入り乱れた――」

「却下だ、そんなもの」

「では、私達からは以上となります」

「もう何も出てこない」

 

 ミレイユは足の先に当たるテーブルを蹴り上げたい欲望を、意志の力で押し留めた。二人の貼り付けた笑顔が消え、真顔となって直立しているのもまた癪に障る。

 組んだ腕部分の袖を握り締め、怒りを辛うじて抑え込んだ。震えそうになる声すら意志の力で抑え、努めて冷静に二人に向かって視線を向ける。

 

「それで、何故その一つしか出てこないんだ? 他に候補を探そうとは思わなかったのか?」

「勿論、思ったわ。でも、これは流石にないわよね、と次を探そうとした時……」

「思ってもない悲劇が……!」

「一体誰が予想できようか……!」

 

 再び手を取り合おうとする二人を、視線の力だけで断ち切り黙らせる。

 

「――電池が切れたのか」

「はい」

「そうです」

 

 再び直立不動の真顔に戻った二人に、ミレイユは大仰に溜め息を吐く。重い重い溜息だった。

 

「……まぁ、分かった。パーテイを開くという案だけ見れば、悪くなかったように思う」

「そうでしょう?」

「そうでしょうとも」

 

 二人でコクコクと頷く様を見せられて、ミレイユは片手を上げて左右に振る。いかにも煩わしいと思わせる振り方だった。

 

「それはもう止めろ。見ていて鬱陶しい」

「……ほら、やっぱり駄目だったじゃないですか。絶対機嫌悪くなるって言いましたよね」

「……最終的に同意したんだから、アンタも同罪よ」

 

 内緒話になってない内緒話で、相手を肘で突き合う二人に、いよいよ黙っていたアヴェリンも腰を上げた。ミレイユの沙汰が出るまでは最後まで黙っているつもりで、とうとう我慢できなくなったらしい。

 

「いい加減にしろよ、貴様ら……! 命じられたことも満足に果たせなかったとなれば、相応の罰を喰らってもらう。異論ないな?」

「いえ、どうかしら。それには一概に賛成できないわね」

「こなそうとはしました。実際あと少しのところまで漕ぎ着けました。時間制限のある道具だと知っていれば、こんな事にはなってません」

「見苦しいぞ。自分達に正当性があるというなら、あんな下らない見世物までして言い訳を開陳する理由などなかった筈だ」

 

 ルチアとユミルは互いに顔を見合わせる。

 

「やっぱり素直に漫談風にすれば良かったんですよ」

「そこじゃないでしょ。笑いを取らない方向で行った方が、逆に印象良くなったんじゃないの?」

「逆にって何ですか。それはそうですよ、実直なまま――」

「分かった、もういい」

 

 ミレイユが再び手を振り、アヴェリンに目を向ける。戻って来いと手招きして、元々座っていた椅子を指し示す。それで渋々頷いて、元の席へと戻った。

 

「……あんなオモチャを手に入れて、それで満足に結果を出すとは最初から思っていなかった」

「酷い言われようですよ」

「そう? アタシ達のこと、良く分かっていらっしゃってよ」

「だから、これは私の落ち度でもある。本気で調べさせようと思えば、こっちに残って監督しておくべきだった」

「……本当ですよ。ミレイさん、よく分かってます」

 

 ミレイユには頭痛を堪えるように額に手を当て、重苦しい息を吐こうとして、やはり止めた。

 

「……ま、いいさ。確実に遂行して貰いたいと思っていた訳でもないしな」

「そうよねぇ。ちょっとしたお遊びみたいなものよねぇ」

「ご機嫌取りが何だって話ですよ」

「……貴様ら、調子に乗るなよ」

 

 地を這うような低いアヴェリンの恫喝に、さしもの二人もとりあえず黙った。

 

「いつまでもこのままでは問題だが、急ぐことでもないしな」

「……まぁ、今日中に達成すべき目標じゃない事は確かよね」

「台無しにした奴が言う台詞でもないけどな」

 

 アヴェリンが言い放った言葉だったが、これにはユミルも黙っていられなかった。

 

「お言葉ではございますけどね。何一つ見つけられずに、失敗した訳でもありませんからね?」

「その一つが、何の役にも立っておらんだろうが」

「本来は二つ目の案もありましたけどね」

 

 アヴェリンは半眼になって呻いた。

 

「何故それも言わない?」

「だって、使えないと分かってる二つ目の案まで口にできる? 結局却下されるのに、二つ目さえ却下されたら面目立たないじゃない」

「そこまで使えない案だったのか?」

「ええ、サプライズとか言うパーティ。驚かせると喜ぶとか意味不明でしょ?」

 

 愚痴の言い合いになっていたものへ、ミレイユから待ったが掛かる。手の平をユミル達に向け、肘から上を上げていた。

 



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不安と不穏 その2

こちら、二話連続更新の二話目になります。
お読みになる際、ご注意下さい。
 


「何でそっちを言わなかった?」

「喜ばないでしょ、だって。それに、もう少し子供向けみたいだったし」

「それでも、どう考えても採用するなら、そっちだろう」

 

 本気で頭が痛くなって来た気がして、ミレイユは眉間を揉む。

 そこにあっけらかんとした声が、ルチアから飛んだ。

 

「何かもう、機嫌を取るとかどうでも良くないですか?」

「……ああ、そんな気がしてきた。準備すらする前から、この気苦労だ。割りに合わん」

「喜ばせて気分上げてやって、おら金よこせ、ってやるワケでしょ? だったら最初から武器チラつかせるわよねぇ」

「ミレイ様は手っ取り早い方法ではなく、心に寄り添う方法を選ばれたのだ。……選ばれた筈だが、お前たちをこっちの流儀に合わせて饗させるのは、難しいという判断もされたようだな」

 

 アヴェリンがじとりと二人へ睨みを利かす。いつでもミレイユの望む物を与えてやりたい彼女としては、いつでも足を引っ張るこの二人を煩わしく思っていた。

 

「まぁ、でも武器をチラつかせるのは、悪い考えでもないかもしれん」

「……ミレイ様?」

「言葉どおりの意味じゃない」ミレイユは苦笑する。「あれに戦う意思があって、説明もした上で武器を見せる。借用したければ金払え、とな。つまりレンタルサービスだな」

「持ちつ持たれつ、という訳ですか」

「ああ。現実問題として、武器がなければ戦えない。欲しいとなれば、まず無料は有り得ない、という話はしただろう。こっちも日本円が欲しいと言えば、悪くない取り引きだと考えるんじゃないか」

 

 ユミルは肩を竦めて同意した。

 

「そうねぇ。戦う意志はあるとして、戦う義務はないのだとか、その辺絡めるとまた面倒な話になりそうだけどねぇ」

「そこはもう、ミレイ様が決めた事だ。我らが戦う、ミレイ様は静養を続ける。これはそういう話だ。そこにアキラが加わりたいというなら許すつもりでいる、という話だろう。教えを受けるというなら金を払う。師事するにあたり、無料ということもまた有り得ないのだから」

「そう……、それもそうね。当初と話が少しズレたのよね、そういえば。じゃあ、借金するというのは建前ってこと?」

 

 ユミルが頬に手を当て、ミレイユに顔を向ければ首肯と共に返事があった。

 

「あれは孤児だ。この国の制度が身分を保証し、生活を保証しているから学校にも通えているが、本来なら親の元で過不足なく暮らしているべき年齢だ。だから援助してやりたい、という気持ちがあった」

「はぁ……ん。そうならそうと先に言ってよ。負い目がどうとか、機嫌がどうとか、そんなの本音の前じゃ些事でしょ? 何よ、単にいつもとおりのお節介が発病しただけじゃないの」

 

 ユミルが呆れて言えば、アヴェリンもまた呆れと感激が綯い交ぜになった表情でミレイユに募る。

 

「最初からそう言って下されば、私も何一つ憂いなく協力しておりましたものを! そのように御心を閉ざされたら、私も真にミレイ様のお望みを叶える事は難しくなります!」

「……こっちに来てまで、そんな厄介事に首を突っ込むのは嫌だというのは本音だ。人情家を気取るつもりもない。ただ、アイツの思いには応えてやりたかった」

「であれば、万事このアヴェリンにお任せ下さい。必ずや一人前の戦士に育て上げ、どのような魔物も脅威たり得ない男にしてやります」

 

 ミレイユは微かな笑みを浮かべ、アヴェリンの手を差し出すように握る。

 

「そこまでしてやる必要はない。私はお前にも適度に休んでいて欲しいんだ。憂うことなく、ただ当たり前の平穏をな」

「ミレイ様……」

 

 アヴェリンは握られていた手を解き、両手で握り直して、頭上に頂くかのように額に当てる。それは、彼女の部族に伝わる最大限の感謝の表し方、敬意の表し方だった。

 

「ご温情、有り難く。ミレイ様の想い、どちらも果たしてご覧にいれます。どうか、心穏やかにお過ごし下さい」

「……うん」

 

 返事と共に再び、手の甲を面にした指先を額に当て、その手を離す。

 立ち上がったアヴェリンはユミル達二人に目を向けた。

 

「なんだ、見世物じゃないぞ」

「うぅん……、いい話っぽくなってるけど、これ絶対分かってないわよね?」

 

 ユミルはアヴェリンを無視してルチアに話し掛ける。

 突然、水を向けられた形となったルチアは慌てたような顔を見せたものの、苦笑してから頷いた。

 

「ですね。今ので絶対、やる気も気力も満たされたって感じでしたし」

「それの何が悪い」

「悪い事ではないですよ。ただ、そのやる気を少しは自分の身体を労る事に向けて欲しいって、ミレイさんは言ってるんですけどね」

「む……」

「趣味でも見つけて、適度に遊んで欲しいんですよ。……自己の鍛錬、他人の鍛錬、魔物の討伐。きっとこの三つの事しかしないでしょう?」

 

 ルチアが優しい眼差しで言えば、アヴェリンも押し黙ってしまう。自己の鍛錬が趣味や休憩の内に入らない事は、流石に理解できているようだ。

 そこにミレイユの声が降ってくる。

 

「今すぐでなくていい。何かが見つかり、それが鍛錬よりも心休まると思ってくれたなら、私も心安らかでいられる」

「努力いたします」

「……うん」

 

 やはり困ったような顔をして、ミレイユは頷いた。

 今のところはこれでいい、という気持ちだった。ルチアにも感謝の視線を向けて目礼する。それには笑顔の礼が返ってきた。

 

「さて……、いい時間だが」

 

 ミレイユが窓の外に顔を向ければ、既に夕暮れが迫る時刻だった。

 日頃の帰宅時間は分からないが、何事もなければアキラが授業を終えて帰ってくる頃合いだろう。

 

「それじゃ、特に何もせず迎えて、頃合いを見計らって事情を説明するって事でいいんですか?」

「そうだな……。その方が――」

「当然、やるわよ」

 

 ミレイユの声を遮って、ユミルが言った。

 

「やるって、何を……?」

「サプライズなるパーティを、よ」

「え、やるんですか? 話の流れ聞いてました?」

 

 自信あり気に腕を組んで言い放ったユミルに、明らかに不服そうなルチアが眉を顰めて言った。アヴェリンなどは口をへの字に曲げて不満を顕にしているし、ミレイユも困ったような笑みを浮かべている。

 

「当然やるわよ。何の為に調べたと思ってるのよ。このまま何もせずにいたら、アタシの沽券と労力が損なわれるじゃないの」

「はぁ……、ところで本音は?」

「そんなの、アキラの反応を想像してみたら、案外面白そうだったからに決まってるじゃない」

 

 不敵な笑みを浮かべたユミルに、即座の平手がその頬を襲う。間一髪でそれを避けると、アヴェリンの舌打ちが聞こえた。

 

「あら、ご不満?」

「不満という訳ではないが、それをミレイ様が望まないというなら阻止するまでだ」

「じゃあ、大丈夫よ。嫌なら既に止めてるわ。それがないんだから賛成よ」

「そうとは言い切れん」

 

 ルチアがやるせない溜め息をついて、ミレイユに言う。

 

「もう貴女から言ってやって下さいよ。なるように任せていたら二人は止まりませんって」

「そうだな。――ユミル」

「はいはい」

「もうすぐアキラが帰ってくるだろう。準備も満足に出来ないと思うが、それでも可能な方法があるのか?」

「お任せあれ」

 

 やはり不敵に笑って頷いて見せても、ミレイユの懸念は消えてくれない。むしろその不敵さこそが不安を煽った。

 

「何をするつもりで、どうやって実現するのか教えてくれ」

「いえ別に。特別な事も、特別な準備も必要ないわよ」

「ほぅ?」

「ちゃんと『動いて喋る絵』を見て分かっているの。パンパンと音を鳴らしながら、色とりどりの何かをヒラヒラ舞わせればいいのよ」

 

 その解釈は間違っていないので、ミレイユは首肯する。

 

「実に真っ当だな。その方向性でやるつもりでいるというなら許可しよう。問題もなさそうだ」

「そうでしょう?」

 

 ユミルはアヴェリンに勝ち誇った笑みを送り、話を続ける。

 

「そこで一発、攻勢魔術を数発ぶちかました後に――」

「却下だ」

「まだ全部言ってないけど」

「言わなくても、魔術を――しかも攻勢? 正気か? 威力を抑えたところで吹っ飛んで階下に落ちるぞ」

 

 ユミルは視線を外に向けて、愛想笑いを浮かべた。

 

「やっぱり飛ぶ? 落ちても無事ならセーフじゃない?」

「何を持って無事と定義するかによる。そして今回に限り、私の言う無事とは無傷であることだ」

「あら、そう……。じゃあ幻惑魔術を使うしかなくなるけど」

「何故先にそれを提案しないんだ。それで一切、問題ないだろうが。最初からそれでいけ」

 

 でも、と未だに反論らしきものを言おうとするユミルに、ミレイユは手を挙げてそれを止めた。

 

「こっちの世界じゃ、それでも十分驚くだろうから問題ない。……喜ぶかどうかは、半々だな」

「じゃあやっぱり――!」

「違う、そうじゃない。明らかに身の危険を感じる驚きは怒りを買う。幻惑魔術だけ使用しろ。そうでなければ、この話はナシだ」

 

 そのような言い合いをしていると、階段を上がる軽快な足音が聞こえてくる。まだ話し合いが決着していないというのに、ここで下手をすると本気でアキラが宙を舞う。

 ユミルに手で制して止めようとするのと、アヴェリンがユミルを抑えようと手を伸ばしたのは同時だった。ドアノブに鍵を差し込む音がして、次いでガチャリと開く音が聞こえた。

 アヴェリンがユミルの肩を掴み、引き寄せようとしたが、ユミルはその手を掻い潜って身をかわした。更に追い縋るアヴェリンが、ようやくその身を捕まえたのと同時、玄関の戸が開かれる。

 

 ――そして、部屋の中に、音と光が吹き荒れた。

 

 



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不安と不穏 その3

うぇん様、誤字報告ありがとうございます!
 


 アキラは学校からの帰り道、肩を怒らせて歩いていた。足取りは強く、地を踏む音も重い。

 原因は明らかで、今日学校にまで来た二人にある。自分の服を勝手に持ち出した事はどうでもいい。それで学校に来た事もまた、どうでも良かった。

 どうせ観光がてら町中を歩いていたら、偶然見かけたとか、そういう理由からだろう。

 

「別にいいんだ、それは。全然……!」

 

 手を振られた時は、他の男子が色めきだっていた。それもまた、どうでも良い事だった。

 同じクラスの悪友が、珍しい銀髪の美少女に見惚れ、自分に向かって手を振っていると騒いで煩かった事など、正に些事だ。特別な女好きという奴でもなかった筈だが、アイドルでもお目に掛かれないレベルの美貌となれば、話題を独占するのも頷ける。あるいは、単に本性を隠していただけなのかもしれないが。

 

 隣のパーカーを着た奴は誰だ、彼氏なのか、とそっちの方が煩いくらいだった。男物を着ているけど、あれの中身は女性だと体付きから分かっているのも何人かいたようだ。

 

「むしろパーカーで良かったくらいだ。二人とも顔を晒していたら、絶対うるさい事になってた」

 

 それよりも問題なのは、教師を一人気絶させて逃げた事だ。

 他の人達は突然倒れたのは教師がその美貌に充てられたからだとか、急病で倒れたとか憶測を言ってたが、アキラだけは分かる。

 

 昨日のコンビニでの出来事を思えば、突然倒れたと考えるよりも、殴って気絶させたと考える方が自然だった。

 殴った事もそうだが、アキラが何より怒りを感じたのは、その場から逃げ出した事だ。昨日のように強盗と出会したという様な事情があるでもなく、突発的な暴力を振るって怪我をさせたのだ。

 それに逃げ出したというなら、自分がやらかしたという自責の念があるのだろう。

 

「面倒事はゴメンだっていうのは分かる、分かるけどさ……!」

 

 気絶させられた教師の荒滝は、実直さが取り柄の良い教師だった。まだ若く情熱に溢れ、だからこそ生徒には煙たがられる教師だが、アキラは彼のことを信頼できる教師だと認識していた。

 事なかれで日々の授業を流して終わらせる教師も多いなか、それを続けられているのは本当に凄いことなのだ。

 

 だから何か、彼女らに制裁とまで言わないまでも、因果応報と思える罰があって然るべきと思っていた。

 とはいえ、アキラがそれを自分の口から直接物申してやる勇気はない。しかし、彼女らのボスであるミレイユならば、事情を話せば然るべき対応をしてくれる筈だ。

 それを怒りのまま勢いに任せて、ぶちかましてやろう、とアキラは決意していた。

 

 だから、アキラは忘れていた。

 朝から妙な優しさを見せて来たアヴェリンの事を。何かを自分に対して行う算段があるのではないかと、そういった警戒心は遥か彼方まで飛んでいってしまっていた。

 

「……言ってやる。絶対ミレイユ様に言いつけてやる!」

 

 アキラは目の前に見えたアパートへ駆け込むようにして帰宅すると、音を立てて階段を上がる。鍵をポケットから取り出して、差し込み、ドアノブを開けた。

 もはや靴の置き場もない玄関で乱雑に靴を脱ぎ捨てながら、部屋の中で誰かが暴れるような音が聞こえる。何かバカな事をやってやしないかと、勢いに任せてドアを開け――。

 

 そして、アキラの視界は音と光で埋め尽くされた。

 

 

 

「たばぁあああ!?」

 

 ただいま、と口にしようとした矢先の事だった。この言葉を口にするのはいつぶりだろう、と平和な思考を頭が埋め尽くしていたのも悪かった。

 完全な不意打ちで、まさか目の前が爆音と共に破裂するなど夢にも思わず、アキラは引っくり返って変な声まで上げてしまった。

 

 七色の光がそれぞれに一瞬で広がり、音と共に切り替わる。後にはヒラヒラと紙吹雪らしき物が舞い散って床に積もり、そしてそれが身体にも積もった。

 

「な、なん、な……!?」

 

 玄関に背中から突っ込むようにして倒れ、トイレのドアに頭をぶつけた。光で潰れた視界で目の前を凝視していると、馬鹿笑いと表現して差し支えない声が耳朶を打った。

 

「あーっはははは! バカみたい! たばぁ!? たばってアンタ! あっはははは!」

「ひぃぃ、ひぃぃ、アハハハ! ハハハ、ハハハハハ!! ひぃ……!」

 

 視界が回復するのには数秒必要だった。

 次第に映し出されてくる光景の中には、指を差して涙目で笑い上げるユミルと、床に蹲って爆笑しているルチアがいた。

 ユミルの肩を掴むアヴェリンは、目を丸くして固まるばかりだ。

 ミレイユは先の二人程ではないにしろ、喉の奥で笑っていた。

 

 それを見て徐々に理解が広がっていく。

 ――おもちゃにされている。

 びっくり箱を開けて驚く子供を見て笑う大人の図、それを幻視して、アキラはとりあえず立ち上がる。痛む後頭部を摩りながら、涙を溜めた目で抗議した。

 

「何するんですか!」

「あーっははははは!」

「ひぃ、ひぃ……! ハハッ、ハハハ!」

「駄目だ、話にならない!」

 

 文字通り話が出来ない状況に見切りをつけ、アキラはミレイユに向き直る。

 

「何がどうして、一体こんな悪戯するんですか! 子供ですか!」

「……うん、まぁ、良かれと思って」

「どこがですか!!」

 

 その返答を聞いて、ユミルが更に爆笑する。

 向けていた指を下ろし、お腹を抱えて白い喉を見せて笑い転げる。

 

「あっははは、バカみたい! バカ、ばぁぁか! あはっあはっ、あははははは!」

「やめて、もうやめて下さいよ……! ひぃぃ、ひぃ……!」

「何がそんなに面白いんですか。馬鹿だな、ホント……!」

 

 流石にアキラも、その馬鹿笑いの態度には冷静ではいられず、吐き捨てるように言い放つ。

 二人はそんな発言も聞こえないようで、相変わらず腹を抱えて笑っている。何度か笑いを止めようと息を整えるが、即座に笑いの虫が悪さをしだして再び笑い始める。

 

「まぁ、しばらくこんなだろうから、お前も先に着替えを済ませてしまえ。何故こんな事をしたのか、事情も説明させるから」

「……分かりました、着替えてきます」

 

 笑い転げる二人を避けて自室に入り、扉を閉めてから制服を脱ぐ。そうしていても、未だに笑い声は途絶える事がない。その声に感じた苛立ちを、溜め息で飛ばせないかと試しながら、ふと思う。

 

「あの紙吹雪、片付けるの誰がやるんだ……」

 

 絶対に自分ではやらない、あの二人にやらせようとアキラは心に誓った。

 

 

 

 アキラが私服に着替えて寝室の扉を開けると、そこには相変わらずソファに足を組んで座るミレイユと、いつの間にかその隣に用意された椅子へと座るアヴェリンがいた。

 テーブルの前にはルチアとユミルがいて、そのユミルが両手を円を描くように広げて言った。

 憎々しい程に輝く笑顔のおまけ付きで。

 

「サプラーイズ!」

「うるせぇってんですよ! 言うの遅いし!」

「……ぶふっ!」

 

 ルチアが吹き出して、またも笑い出そうとするのを必死に堪えている。本来なら、ぷるぷると震える様は見ていて可愛らしく思うのだろうが、先程の爆笑具合を知っていると冷めた目でしか見られない。

 

 アキラは冷静になれと自分に言い聞かせ、ユミルを無視してミレイユに問うた。

 

「それで、一体何がどうして、こんなしょうもない事したんですか」

「それを話すと長くなるんだが……」

「――ちょっと、無視するんじゃないわよ」

 

 ユミルが面倒な絡み方をしてきて、アキラはそれを受け流そうと、とりあえず床に座る。今後もこういう形が増えるなら、座布団の用意が必要だろう、と場違いな事も考えた。

 我が物顔でソファーを占領するミレイユを見ながら、アキラはそう思った。

 

「最初の段階と少々考えが変わってな……。当初は機嫌を取ろうというか、まぁそういう気持ちで出迎えるつもりでいたんだが……」

「機嫌……? え、学校の事ですか? そんなに気にしてたんですか?」

「学校とは何だ」

 

 ミレイユが、じろりととユミルを睨む。

 ユミルが咄嗟にルチアを指差し、そして差された事に気付いたルチアが必死に顔を横に振った。

 

「聞いてください、ミレイユ様。ユミルさん達が学校に来て、教師一人を気絶させて逃げたんです!」

「何やってるんだ、お前ら……」

 

 頭痛を堪えるように膝の上で肘を立て、指先を数本額に当てた。眉間に皺を寄せ、片目を閉じてアキラを見る。

 

「迷惑をかけたようだな。――ユミル、後始末はしてきたのか?」

「まぁ、したような、してないような……」

「何もせずに逃げ出しましたよ」

 

 ルチアからの告げ口に、ユミルは身体を固くして外を向く。わざとらしく髪の先を掴んで頬に当てながら、知らぬふりを決め込んだ。

 ミレイユはそれを鋭い視線で射抜いてから、アキラに目を向ける。

 

「……それについては、後でキツく言っておこう」

「お願いします」

「……それで、当初の方針についての話だったな。だが、この事は知る必要がない。方針が切り替わったからな。だから何もせずにいようとしたところ――」

「まぁ、思い付いた案は腐らせずに実行する方がいいと、そういう話になったワケ」

「なってないです、やめようって話になりかけてました」

 

 ルチアがまたも告げ口に近い形で報告し、続いてアヴェリンも同意を持って頷いていた。

 

「私も止めようとした。肩を掴まえて、次いで羽交い締めにしようとした所だった。時間が足りず、お前が帰ってきて、そしてユミルが仕掛けた」

「うわぁ……」

 

 アキラが簡単な事情を聞いて渋い顔をした時だった。

 辺りに積み重なっていた、色とりどりの紙吹雪。片付けようと思っていたのに、今は跡形もなく消えている。着替えている間に片付けられるような量ではなかった筈だが、しかし物の見事に綺麗になっている。

 

「あの紙吹雪って、ミレイユ様が消してくれたんですか? 魔法でチョチョイっと?」

「いや、あれは全て幻惑魔術の一種だ。この部屋で起きた音も光も紙吹雪も、お前が見ていた全ては幻だった」

「あれが、全部……」

 

 にわかには信じられないが、あれほど派手な音が出ていれば、隣室の誰かが見に来ても良さそうなものだ。下手をすれば、アパートに限らず近隣の誰かが騒ぐ可能性すらある。

 そのいずれも起きておらず、しかもゴミまで消えているとなれば、信ずる他ありそうになかった。

 

「だとしても、何て無駄な事に魔法を使うんですか……」

「まぁ、私達からすると魔術ってものは単なる技能の一つだからな……。こちらでは珍しい事でも、使うに際して躊躇いがない。だが無駄な、という部分には同意しよう」

「はいはい、悪かった、悪うございました」

 

 降参するように両手を挙げて、ユミルが謝罪らしきものを口にした。悪びれもしない仕草だが、アキラとしてもゴネたい訳ではないので受け入れた。

 

「もう勘弁してくださいね」

「――勿論よ」

 

 綺麗な笑顔で頷いて見せてから、ちらりとルチアに顔を向ける。

 

「楽しかったから、またやりましょうね」

「……ぶふっ!」

 

 あの一発で、すっかり笑いが身体に染み付いたルチアは吹き出した。

 それを冷めた目で見るアキラが嘆願する。

 

「あんなのもうやめて下さい。ほんとコリゴリですよ……」

「……そう。じゃあ、違う趣向を練っておくわね」

「そういう意味じゃないですから。違いますから」

 

 嫌な笑顔を見せるユミルに言い縋ろうとしたところで、ミレイユが身動ぎした。足を組み替えるだけのゆっくりとした動作だったにも関わらず、それで空気が張り詰めたように感じる。

 ユミル達も姿勢を正して――正すというには少し気楽過ぎるが――ミレイユに顔を向ければ、大儀そうに頷いて、再び腕を組んでアキラを見た。

 



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不安と不穏 その4

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「さて、脱線するのも、そろそろ止めにしよう」

「了解よ」

「アキラ、夕食はいつ採る?」

「……え、はい? 夕食ですか?」

 

 緊迫した空気から出される質問としては、あまりに平凡で思わず聞き返す事になってしまった。

 

「ああ、方針の転換があったと言ったろう。すぐ済む話でもなさそうだ、食事でもしながら話さないか」

「……はい、分かりました」

「では普段、アキラがとる時間に合わせよう」

「……それなら、今から準備すれば近い時間になると思います」

 

 実際には後一時間以上は後になるのだが、この人数分の準備となれば簡単には済まない。本日の献立次第にはなるだろうが、一時間より短く済むとも考えなかった。

 

「……そうか。じゃあ、食事の準備はこちらで行おう。アヴェリン、ルチア、基本はお前たちで」

「分かりました」

「お任せを」

 

 指示を出された二人は小箱の中へと入っていく。もしかしたら、あの中へ入ることが出来るのだろううか、と心踊らせた。

 しかし直後、それをミレイユの口から否定される。

 

「こちらに完成品を持ってこさせる。アキラは自分の使う食器と飲み物、他に何か頼まれる物があれば用意してやれ」

「あ、はい、了解です」

「……アタシは?」

「お前はいつも何もしないだろ。料理に合うワインでも選んでくれ」

「あら、楽でいいわね」

 

 肩を竦めて小箱の中へ消えていくユミルの姿を追って、それも済むとミレイユと自然、二人きりになる。

 ――そういえば二人きりって始めてだな。

 そんなどうでもいい事を考えていたら、ミレイユの方から声が掛かった。

 

「……ユミルの奴が済まなかったな」

「いえ! ミレイユ様に謝ってもらう事じゃないですから!」

「だが、私の家人だ。……その様なものだ」

「……かじん? 家族ってことですか?」

 

 ミレイユはゆっくりと頷く。

 

「無論、血は繋がっていない。ほら、よく海外の映画であるだろう? 仲のいい連中が、兄弟だ、家族だと呼ぶシーンが」

「ああ、はい。ですね」

「つまり、そういう関係だ」

「いいですね、羨ましいです」

 

 アキラの言葉に、ほんの少しの笑顔でもって返答があった。

 

「お前もいつか得られる、なんて気休めは言わないが。……人生、何が起こるか分からないものだ」

「今まさにそれを実感しているところです」

「……そうだな」

 

 今度こそ、口の端を小さく曲げて笑顔を見せた。儚く、美しい笑みだと思った。

 その表情はずるい、とアキラは思う。恐らく日本人の誰もが、そう思うだろう。誰もがよく知るオミカゲ様の顔だが、誰もが知るその玉顔は表情を変えない。笑顔を見ることもない。

 だが、もし笑顔を見せるとしたら、きっとこのような表情になるのだろう。

 アキラは得したような、畏れ多いような気がして、顔を逸した。

 

 その時、ユミルがワインのボトルと木製のジョッキを持って帰ってきた。

 

「……あら、お邪魔?」

 

 ミレイユが苦笑して手を横に振る。アキラも同意するように激しく首を縦に振った。

 

「どうせ、アヴェリンに言われて来たんだろう?」

「そりゃアンタを一人残した状態で、いつまでも放っておくなって言われればね。あっちで一杯飲んでからと思ったのに」

「食べる前から……いや、好きにしろ」

 

 何かを言いかけ止めたミレイユに、ユミルは上機嫌でジョッキにワインを注いだ。

 

「アンタも最近分かってきたわよね。酒を飲むのを止める者、恋路の邪魔ほど無粋なりってね。――で、なに話してたの?」

「お前の不躾を謝罪していた」

「あらあら、藪蛇……!」

 

 からからと笑って、ユミルはワインに口をつける。

 アキラはそれを、ジト目で見つめて呟くように言った。

 

「ユミルさんは人生楽しそうでいいですね」

「そうでしょう? 人生楽しんでこそ、だものね? 楽しまずに生きて、何が楽しいのよ」

 

 皮肉に馬鹿正直に答えられて、アキラは一瞬声に詰まる。だが、言っている事の一端は、真理をついているような気がした。

 

「でも、誰もが楽しく生きられるものじゃないですよ」

「それはそうでしょう。勝ち取らねば、生きていけないの。――当たり前のことじゃない」

 

 ユミルは流し目でアキラを見据え、不意に視線を逸してミレイユに顔を向ける。そちらからは困ったような笑みで頷きが返ってきた。

 

「アキラ、勘違いするな。勝ち取れない奴を見下した発言じゃない。むしろ、弱者を励ます台詞だよ」

「……そうなんですか?」

「ユミル自身、どちらかと言えば弱者側の立場だったからだ。独力ではないが、勝ち取ったから今がある。楽しいと思える今がな」

「自分の力だけじゃないなら――」

 

 反論しようとしたアキラに、ミレイユは首を振って遮り答える。

 

「何も一人で全てを解決する必要はないんだ。お前が今、一人で生きているのは一つの矜持になっているかもしれないが。だからといって、今後も一人で全てを解決できるものじゃない」

「それは……」

「頼りになる誰かがいたら、それに寄り掛かってもいいんだ。相手がそれを拒絶しないならな。助けて欲しいなら、助けてと言っていい。――今のユミルがあるのは、そういう事をしたからだ」

 

 アキラは顔はミレイユに向けたまま、ユミルを盗み見るようにして視線だけを向けた。

 楽しそうに、美味しそうにワインを飲む姿は暗い過去があったようには見えない。これまでもそういう仕草を見せた事はなかった。むしろ生まれてからこちら、一切の苦労なく生きてきたような気がする。

 

 果たして本当に、ミレイユが言ったような助けてと頼んだような事情があったのだろうか。

 アキラの視線に気付いたユミルは、ジョッキから口を離して意味深な笑みを浮かべる。そしてジョッキにワインを注ぐと口をつける。どうやら話してくれる気はないらしい。

 

 だが、頼っていいというのなら、ミレイユ達を頼りにしてもいいのだろうか。

 これは遠回しに頼れと言われているようにも、今は日本に何の伝手も持たないミレイユが誰かに頼る口実を言っているようにも聞こえ、アキラはどう返答していいものか迷った。

 

 そうこうしている内に、小箱から二人が帰ってくる。やけに速いが、事前に準備していたのか、それとも魔法的な何かで取り出したかしたのだろうか。

 

 両手に料理の皿を載せているのを見て、アキラはテーブルをどかして場所を作る。察したミレイユが昨日と同様、魔術でテーブルをどかしたり、新たにテーブルと椅子を用意してくれた。

 

「ご苦労だった。さぁ、ユミルも料理を運ぶ手伝いをしてくれ。――アキラも、自分に必要な物を用意しろ」

 

 言われてアキラも、後ろで木製の食器が机に音を立てて並べられていくのを聞きながら、自分のコップと皿を戸棚から取り出した。

 

 

 

 

「いただきます!」

 

 食卓に用意された数々の手作り料理を前にして、アキラは両手を合わせて感謝を示した。

 まず目についたのは昨日もあった黒いパンとチーズだった。やはり乳製品も製造過程に違いがあるのか、アキラが知るまろやかさはなく、臭みもあって食べにくい。

 

 しかし他に用意されたミートボールは絶品だった。肉の臭みを抑えるような処理がしてあるのか、ホワイトソースと一緒に食べると全く気にならない。

 他に用意されたソースは赤とも紫とも取れる色合いで、酸味の中に甘みも感じる匂いがした。

 

「これ何ですか?」

「それはバルベルデ・ベリーのジャムだ。こっちに同じベリーがあるかは知らないが、あちらでは定番のベリーだ」

「……え、ジャム? 肉料理に?」

 

 アキラにとって肉料理に甘いジャムというのは余り経験がない。精々朝のパンに塗って食べるくらいのもので、日本的にもやはり一般的ではないだろう。

 それをアヴェリンは美味しそうに食べている。

 

「……なんだ」

「いえ、何も」

 

 アキラはそっと視線を逸らした。

 アヴェリンが無類の甘党だと言うことは、既に判明している事実だ。彼女が美味しく食べているからといって、これが本当にジャムと合う料理と考えてはいけない。

 だが物は試しと思って食べてみれば、意外と悪いものではなかった。ただ単純な好みの問題として、やはりホワイトソースの方が美味しく感じる。

 

 さっさと咀嚼して飲み込んでしまうと、次の料理に移る。

 黄色の表面に焼き焦げがついた、食欲を唆るグラタンだ。

 パリっという音と共にスプーンを差し込めば、何かの野菜だけを使ったグラタンのようだった。店で出すというよりは、定番の家庭料理という雰囲気だった。使われているのはホワイトソースではなく生クリームのようで、味が被らないよう工夫もされている。

 そこにパン粉をのせて焼き上げられた表面は、パリっとして美味しいのだ。

 

 ミレイユは表面を食べた後、グラタンのスープをパンで掬うように食べている。アキラもそれを真似て食べると実に美味しかった。今日のところはお茶しかなかったが、コーラがあればきっとより美味しく感じられただろう。

 

「ごちそう様でした!」

「気に入ってくれたようだな」

「それはもう……!」

 

 食事に満足して、それぞれが食後のお茶なりお酒なりを楽しんでいると、ミレイユの方から話題を切り出してきた。

 それまで穏やかな団欒めいた空気が、少しだけ張り詰めたような気がする。

 

「では、腹も満たされたところで……。話をしようか、アキラ」



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不安と不穏 その5

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


「話をする前に――いや、違うな。これはそもそもの本題なのだが」

 

 ミレイユはアキラの目を、しかと見据える。

 

「一日経って、冷静に考える時間はあったろう。……それとも、一日では足りないか? 急ぐ話ではないからな、もっとじっくり考えるのも良いと思う」

「それって、つまり……」

「うん。戦う意志があるのか、それを聞いている」

 

 アキラは迷う素振りを一切見せずに頷いた。昨日、ミレイユへ伝えた言葉に嘘はなかったし、今更その言葉を翻すのも格好が悪い。

 確かに戦う事について、今日言われるまで深く考える事はなかった。しかしそれは、自分の中で既に決定していた事で、今更深く考える必要を感じなかったからだ。

 

 しかし、ミレイユはそのアキラの考えを見透かすかのように言葉を放った。

 

「言っておくが、前言を撤回する事は恥ではない。むしろ、冷静に物事を判断できたと褒めてやるところだ。――それで、お前はどうする」

「やります。昨日言った言葉を嘘にしたくありません。僕は自分と、自分の手の届く範囲でやれる事をやります」

 

 ミレイユは小さく息を吐いた。予想できていた答えだったらしく、表情にさしたる変化はない。ただ諦観にも似た雰囲気は感じられた。

 

「……そうか。ではアキラ、まずは聞け。質問は後だ」

「分かりました」

 

 アキラは素直に頷いて、次の言葉を待つ。

 しかしミレイユは幾つか考え倦ねているようで、黙考したまま口を開かない。だが聞けと言われたからには、どれだけ時間が掛かろうと待つべきだと思った。

 きっと――、彼女にしか分からない葛藤などがあるのだろう。

 

 カチコチと時計が秒針を刻む音が、痛いほど静かな室内に響く。遠くからバイクの走る音が聞こえ、そして遠退いていく。

 ――再びの静寂。

 痛いほどの沈黙とはどいう意味か、アキラは初めて実感した。

 たっぷりと十秒以上の時間を使い、ようやくミレイユが口を開いた。

 

「……まず一つ、先に伝えねばならない。お前では、最弱の魔物一匹にすら打ち勝つことはできない」

「う……っ」

 

 アキラは思わず息が詰まった。

 最弱と呼ばれる魔物がどれほどのものか、アキラには分からない。しかし一瞥して剣を扱う身体だと見抜く彼女からすれば、アキラの力量のほども推察できるのだろう。

 そしてその結果、取るに足らないと判断された。

 

 しかし剣術とは、膂力だけで振るうものではない。

 体捌き、足捌き、互いの間合い、牽制と駆け引き、幾つもの要素が絡み合って振るわれるものだ。自分自身、才能に溢れた人材とは思っていないが、かといって最弱以下の力量しかないと判断されるのは臍を噛む思いがした。

 

 ミレイユは、その表情を見て全てを察したのか、小さく笑む。

 

「悔しがれるのは向上心の現れと見ていいのか? まぁ、いい。打ち勝てないと言ったのは文字通りだが、お前の実力不足を(なじ)るものでもない」

「それは一体、どういう……」

「仮にだが、お前はこれから戦えと言われたら、どうやって戦うつもりだった?」

「それはもちろん、自分が師事している剣術で……」

「つまり、真剣を使うという意味か?」

 

 アキラは慌てて手を振った。

 たかが一門下生に真剣を与える道場などない。もちろん武門の長兄でもないので、真剣の所持などしている筈もない。

 アキラが用意できる武器といえば、せいぜい木刀くらいの物だった。

 

「僕が持てる武器といったら、木刀ぐらいで……。あ、いや、でも良いものなんです。頑丈な樫の木を使った――」

「うん。つまり欲しいと思えば誰もが購入できる木の棒、という認識でいいんだな?」

「ええ、はい……。身も蓋もない言い方をすれば、そうなります」

「今、それを見せてもらう事は出来るか?」

 

 アキラは頷いて立ち上がる。しばしお待ちを、と断りを入れて寝室に戻り、ベッドの裏側――カーテンで隠すように立て掛けられた布袋を取り出す。木刀を入れておける長さのある、頑丈な布製だった。柄の辺りで紐結び出来るようになっている作りで、いざとなれば片手で紐解けるようになっている。

 

 それをミレイユの元まで持って戻ると、そのまま両手で差し出し渡す。

 受け取ったミレイユは紐を解くと、その柄部分だけを一瞥し、そのまま近くに座るルチアに渡す。渡されたルチアも一瞥だけして頷けば、木刀は盥回しするようにアキラに帰ってきた。

 

「確認したのは念の為だ。使えない武器だと再確認できたから、言わせてもらう」

「この武器じゃ、駄目だって事ですか」

「木刀を使おうという時点で話にならんが。だが敢えて使おうというなら、何かあるのかとも思った」

 

 だが、アキラの持っている物は何も特別な物などではない。代々伝わる由緒ある品でもなければ、山陰に埋もれていた物でもない。

 道場への入門と同時に購入した、自分にとって思い入れのある、豆が潰れるほど振るった木刀だ。

 それだけと言われれば、それだけの品だった。

 

「そう悲しそうな顔をするな。お前が仮に真剣を持ってきたとしても、使えない武器だったと確認しただけだろうから」

「そうなんですか……?」

「では、何故使えないかを説明しよう」

 

 お願いします、とアキラは小さく頭を下げ、姿勢を正す。

 

「万物にはマナが宿り、それが魔力となって覆っている。水にも草にも岩にも、……勿論、人にも。そして、この世界にマナはない。これがどういう意味か分かるか?」

「何かこっちの世界では不利に働く、ということですか?」

「うん。マナの含まれない物質で攻撃しても、マナを持つ相手を傷つける事はできない」

 

 アキラは一瞬、何を言っているのか理解できなかった。

 それはつまり、魔物は無敵モードを使っているという意味にならないか。

 

「え、それ……。本当ですか? 銃で撃っても、剣で刺しても、相手は無傷だって事ですか?」

「そうだな。だが全くの無傷かと言われると疑問が残るが。例えばトラックで跳ね飛ばしても、その衝撃で死にはしない。落下の衝撃すら、地面にマナがない以上は伝わらないだろう。だが、トラックの重量で押し潰すという方法でなら、殺せるかもしれん」

 

 確実とは言えないが、と締め括って、ミレイユは言葉を止めた。

 方策を提示されても、アキラには何の慰めにもならなかった。余りに現実離れした話だし、目の当たりにしなければ信じられないという思いもある。

 

 何しろ、自分では何一つ力になれないと言われたようなものだからだ。

 都合よく未知の力に目覚めて魔物を倒す、などと思っていた訳ではなかったが、しかしそもそも戦う土台にすら立てないとは思ってもいない。

 

「そんな……、そんな事、本当に……?」

「口だけで言っても実感できないだろう。――アヴェリン」

「ハッ……!」

 

 顔を向けて名を呼ばれたアヴェリンは、椅子を引いて立ち上がる。ミレイユはアキラにも立つように指示し、台所に指を向ける。

 

「包丁はあるだろう?」

「ええ、それは勿論……」

「それでアヴェリンを刺してみろ」

「は!?」

 

 アキラは思わずミレイユに懐疑的な視線を向けた。

 何と言っても刃物である。人に向けて使う物ではないという刷り込まれた常識と、もし怪我をさせてしまったらという想像が、それを躊躇わせる。

 

 重ねて包丁を出せと言われれば、アキラも逆らう事が出来ず、とりあえず取り出すだけ取り出した。手に持ってはいるものの、どうしたらいいのか落ち着かなく視線が彷徨う。

 

「そう緊張する事はない。どうせ傷つけられはしない」

「いや、そう言われても……」

 

 難色を示すアキラを前にして、ユミルが前を横切る。アキラに用があったのではなく、アヴェリンの方で何かしたいようだった。

 手を壁にしてアキラに聞こえないよう、耳元に何かを囁いている。その一方の手では、何やら紫色の光が淡く輝き、アヴェリンの身体に当てられていた。

 

 改めてミレイユの方から説明を告げられる。

 

「簡単なデモンストレーションだ。傷つける心配があるからと、忌避する気持ちは分かるから、本当に嫌なら止めていい」

「それなら――」

 

 言い掛けた言葉をユミルが遮る。

 

「ま、別に好きにすればいいけど、そんな事で戦うとか言ってられるのかしらね。これから幾らでも血を見ることになるのに」

「血を見る事と、自分が誰かを血まみれにするのとは、また話が違うのでは……」

「あら、小賢しいこと」

 

 ユミルが笑ってアキラから包丁を奪い取り、そのままアヴェリンへと手渡す。

 

「話が進まないから、とりあえずどんな物か見てみなさいな。どうせ血なんか出ないんだから」

 

 言うだけ言って、アキラをアヴェリンの方へと押し出す。本人は自分の席に座って、ワインを注ぎ足していた。何かを期待する目つきで二人を見つめ、隠しきれない笑みが口の端で持ち上がっている。

 

「切れない事を見せる為のものだ。お前も近くで見ろ、傷が付かないと証明してやる」

 

 アヴェリンが手首に包丁を充てがい、アキラに見えやすいように角度を調整してやる。少し身を乗り出すように見守っていると、明らかに力を込めたと分かる握り方で包丁を引いた。

 



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不安と不穏 その6

こちら、二話連続更新の二話目になります。
お読みになる際、ご注意下さい。
 


 勢いよく引き振るわれた包丁には、血の一滴もついてない。

 そう思った瞬間、アヴェリンの手首から大量の血が吹き出した。

 

「あ、おぁああ!? 何で! 血! 出てる!! 血、出てますって!!!」

 

 吹き上がる血に顔面を濡らして、アキラは逃れるようにして身を引く。平静を装うアヴェリンの顔は蒼白で、身動ぎ一つしない。

 助けを求めてミレイユに顔を向けても、呆れたような表情が返って来るばかり。何の対応もしてくれない。

 

 アキラの混乱と驚きが頂点に達した時、その横からは押し殺したような笑い声が聞こえてきた。

 咄嗟にそちらへ顔を向ければ、ユミルがぷるぷると震えて笑いを堪えている。そして視線に気付いた彼女は、満面の笑みでその両手を、自分の胸の前で弧を描いて外へ広げた。

 

「サプラァ〜イズ!」

「――はぁ!?」

 

 見れば自分の顔や両手を濡らしていた血は綺麗に消え去り、生暖かく胸の下まで伝っていた血もなくなっている。

 勿論アヴェリンの手首には傷もなく、血の一滴たりとも付いていない。刃を引いた痕すら見受けられなかった。

 

 では、あの冷めた目は――。

 血など吹き出していないのに、臆病にも幻視してしまった男のように見られたのか。

 恥ずかしい思いで身を固くしていると、咎める口調でミレイユが言った。

 

「……何だ、ユミル。また何かしたのか」

「んふふ、そうそう。思いっきり刃を引いてみせた方が分かり易いわよ、って助言する振りしてねぇ。あーっはっは! アンタの顔ったら!」

 

 全く気にする様子もなく、指差して爆笑するユミルに、アキラも耐え兼ねない気持ちが腹の底から沸き上がってきた。

 何事かを口にする前に、ユミルが先に口を開く。

 

「まぁ、ちょっと緊張しすぎね。何を言われるかとビクビクする気持ちも分かるけど、少しはリラックスしなさいな」

「えぇ……」

 

 助言を口にするユミルからは、しかし実直な雰囲気はまるで伝わって来ない。未だに口元をニヤけさせているし、ルチアは笑いを堪らえようと俯いて顔を赤くしている。

 痙攣するように身体を震わせているせいで、明らかにツボに入っているのは明白なのだが、敢えてアキラは触れずユミルに向き直る。

 

「その為に、あんな事を……?」

「そうよ。ピリピリした空気の中で言われちゃ、正しい判断なんて出来ないでしょ?」

「……それは、まぁ。でも、本当は?」

「サプライズは二発目が重要って書いてあったから」

 

 ウィンクしながら指を差せば、ついにルチアの笑い袋が決壊した。テーブルに突っ伏して笑い声を上げる彼女に、席に戻ったアヴェリンがその頭を軽く叩く。

 アキラは涙を目に溜めながら抗議した。

 

「酷いですよ! あんなの見せられたらトラウマになりますよ!」

「あれぐらいで涙を見せるなら、そもそも向いてないわよ」

 

 涼しい顔で言われてしまえば、アキラも返す言葉をなくす。

 戦いに身を投じる者が、怪我と無縁でいられないのは分かる。しかし、だからと言って――。

 

「コイツは言葉どおりの人でなしだ。あまり真剣に話を聞く必要はないぞ」

「まぁ、酷い言われようだコト!」

 

 アヴェリンは蔑むように鼻を鳴らして言っても、ユミルには堪えた様子はない。

 失望されたかとミレイユを見れば、呆れた視線をユミルに向けているものの、アキラに対しては労るような素振りを見せた。

 

「……無駄に心労を重ねるような事になってしまったが、包丁で傷付かない事は理解できたか? もう一度確認するか?」

「いえ、大丈夫です」

 

 そうか、と頷いて、ミレイユは続ける。

 

「とにかくも、お前では魔物を倒す事はできない。木刀を持って力いっぱい振り下ろしても、痛痒を感じさせる事は不可能だろう」

「はい……」

 

 だから諦めろ、そういう話だろうと察しがついた。

 魔力を持たないこちら側の人間が、魔物相手に立ち向かうなど、土台無理があったのだと。

 アキラが項垂れて自分の気持ちに決着をつけようとしたところに、その声が降ってきた。

 

「――だから、戦う意志があるのなら、こちらから武器を提供しよう」

 

 アキラは顔を勢い良く持ち上げ、ミレイユを見る。

 その顔には偽りを言っている雰囲気はなく、ただ真摯に見つめる一対の瞳があった。

 そして同時に、これが最後のボーダーラインだと思った。ここを踏み超えると、もう二度と後戻りは出来ない。平穏を今までどおり、知らぬままに享受したいというなら、これが最後。

 

 アキラはその眼を見つめ返して頷く。

 自分の心に従えば、そうと返すしかなかった。知った以上、見ない聞かないという事はしたくない。そして自分に出来ると判断してくれたなら、その思いに応えたい。

 その気持を込めて、更に頷き、頭を下げた。

 

「よろしく、お願いします……!」

「そうか……。結局こちらを選ぶか」

「はい、許していただけるなら」

「許すも何もない。お前がそうしたい、と言うのなら、そうすればいい」

 

 アキラはもう一度頭を下げる。

 目の前にいるミレイユはオミカゲ様ではない。それは分かっている。しかし、心の底で、認められた事を歓喜する自分もまた感じられた。

 

「じゃあ、次は現実的な話といこう」

 

 努めて明るい声を出したミレイユに、アキラも頷いて応える。

 これから新しい何かが始まる。自分の知らなかった世界へ、そして脅威から守り戦う世界へ。心に熱いものを燃やしていると、そこに予想だにしない言葉が放たれた。

 

「武器のレンタル料金についてだが……」

「レンタル! 料金!?」

 

 突然現実世界に押し戻されて、アキラはその単語に過剰過ぎる反応を返してしまった。

 ミレイユからは幾らかの申し訳無さを感じるが、さりとて放つ言葉は変わらない。

 

「そう、レンタル料金だ。現実的に、こちらでしか対応できない武器を無料で渡すなど有り得ない」

「いや、それは……、そうかもしれませんけど」

「それだけじゃないぞ。お前はこれらに師事するのだから――」

 

 言ってミレイユはアヴェリンとルチアに顔を向ける。

 いつの間にか平静に戻っていたルチアが澄ました顔で頷き、アヴェリンも意を受けた騎士のように決然と頷く。

 

「それすらも無料で教えを請う、というのは虫の良すぎる話だ」

「それも、……そうです」

「私達にも生活がある。あちらで使える財産も、こちらで交換できるとは限らない。我々は日本円を欲している。……だから、取り引きだ」

 

 ミレイユはテーブルに両手を組み合わせて肘を付き、口元を隠すような態勢でアキラを見る。

 

「……お話は、分かりました。でもですね、僕もそんなに余裕があるわけでは……」

「分かっている。何も毟り取ろうという話じゃない。苦学生に(たか)ろうとも思ってないしな」

「それは、助かります……」

 

 そうとは言われても、アキラの心中は穏やかではない。

 ミレイユの事は信頼できる一角の人物だと思っているが、月謝を払うものだと考えてみても、適正料金が見当もつかない。

 通っている道場からは温情を向けられているお陰で相当安くしてもらっているが、そこの適性価格を払えば良いのだろうか。

 

「それで、具体的な値段というのは……」

「それなんだがな……。適正な値を付けようにも、こちらとそちらでは価値観が違うだろう? 為替相場がある訳でもなし」

「ですね……」

「私は別に儲けを出したい訳でもなければ、技術を広めたい訳でもない。ただ不自由しない生活費を得たいだけだ」

 

 アキラは思う。

 道場の月謝など高くても一万円程度。女性ばかりとは言え四人が暮らして行くとなれば、食費を一万円に抑える事は難しいだろう。そもそも生活必需品なども買い揃えては、逐一補充せねばならず、それも踏まえれば到底足りない。

 かといって、アキラの懐事情から言っても、あまり高い値段は難しい。

 

「何もお前からの金で、全てを賄おうと考えている訳じゃないんだ。こちらはこちらで、別に稼ぐ手段を考えなくてはならないだろう」

「ああ、そうなんですね……」

「ええ? ちょっと本気なの?」

 

 安堵の息を吐いた後に、ユミルから不満の声が上がったが、ミレイユは視線一つで黙らせた。

 

「当然、そうなる。収入を得る手段は追って考えるが……。あくせく働くのも気乗りしない」

「やっぱりね。そうよね?」

「……うん。暮らすだけなら、暮らしていけるだろう。家賃が発生するわけでもなし、最低限の生活は保障されているようなものだが。……しかし食料は、いずれ尽きる」

「狩ればいいじゃない?」

 

 アキラは顔の前で手を横に振る。

 

「いえ、狩れるような生き物いませんって。いたとしても、大抵の場合保護されてたり許可が必要だったりで……。つまり、自由になりません」

 

 ユミルはげんなりとした顔でミレイユを見つめた。

 

「木の実だけの生活なんてイヤよ、アタシ」

「それは誰もが嫌だろうから、他に手段を考える」

「お願いよ」

 

 ユミルは懇願するような表情でミレイユに言った。今の生活水準を崩したくないという気持ちは分かるが、果たしてそう上手くいくのだろうか。

 アキラは他人事ながら心配になる。ユミルはワインをよく飲むが、決して安物ではないだろう。こちらの安ワインが舌に合えば良いが、きっとそうならないような気もしてくる。

 

 かといって、アキラとしても無い袖は振れない。

 アキラとて生活があるのだ。成人するまでは問題ないだろうが、私立の大学などとても望めない。場合によっては就職も視野に入れている。

 将来の展望が開けている訳でもないアキラもまた、気をかけられる程の余裕はないのだ。

 

「そこで相談なのだが、初回費用として少しばかり多めに貰いたい。――そんな顔をするな」

 

 ミレイユが苦笑したのを見て、アキラは自分の顔に手を当てる。そんな酷い顔を見せてしまったのだろうか。

 

「服を買う金が欲しいだけだ。こちら基準で安く済む金額で揃えようと思っている。古着だとか季節の変わり目の処分品だとか、そういう物で」

「ああ……。それなら近くに『しもむら』がありますよ。お洒落な人が利用する店じゃないですけど、シャツ三枚入りとか安く売ってますし」

「うん、そういうのだな。とりあえず、目立たぬ服装を手に入れるのが先決だ。……収入先を考えるのは、それからだな」

 

 気苦労を感じさせる溜め息が、ミレイユから漏れた。

 アキラとしても、その考えには賛成だ。恐らくは、いま着ている服装が彼女たちの私服に当たるのだろうが、やはり現代日本では浮いてしまう。

 ただ彼女たちの美貌を持ってすれば、そのような服とて奇抜には見えても奇妙には映るまい。コスプレと思われる可能性もあるが。

 

 目立たぬ格好をしたいというなら、やはり着る服は選ばねばならないだろう。

 

「分かりました。その金額については、こちらで持ちますよ」

「……助かる。なるべく安い物を選ぶからな……。お前たちも、暫くは我慢してくれ」

 

 ミレイユの疲れを感じる言葉に、誰もが頷いて応える。

 家人に貧乏生活を強いる事は、もしかしたら恥と感じるのかもしれないが、アヴェリンには気にした様子はない。ただ粛々と礼をし、己が意を伝えるだけだった。

 ユミルにしても我儘をこの場で言うつもりはないようだ。ちらりと眉の動きで不満を見せただけで、やはり素直に頷いた。

 ルチアについては、そもそも服装や貧乏について大した思いはないようだった。感情を感じさせない頷きを返しただけで、泰然とした雰囲気すら発していた。

 



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不安と不穏 その7

「それじゃあ、服については近々買いに行くとしよう。――次はアキラの方だな」

「……僕の?」

 

 思わず自らを指差したアキラに、ミレイユは頷く。

 

「お前に色々教えてやるにしろ、いつでも良いという訳にもいかないだろう。そもそも、大抵の場合夕方まで学校だしな」

「夕方も、曜日によっては道場行ってますから……」

「道場だと? そちらの方が優先なのか?」

 

 アヴェリンが不満を混ぜた口調で言うと、アキラは恐縮して頷いた。どちらも大事とは思うが、やはり長く続けている道場を蔑ろに出来ない。これを機に辞めるという手段もあるが、今までの努力を泡にするようで気が引ける。

 

「許されるなら続けたいと思っているんですが……」

「それは好きにしろ」ミレイユが言った。「初めから強制するものではないんだからな。やめたいと思ったら言え。命を懸けて戦うなんてことは、口にするより遥かに厳しく、遥かに重圧を感じるものだ。投げ出したいと思うのは、その年頃ならむしろ当然だ」

 

 ミレイユが声を滲ませて言う。含蓄が見て取れるというか、苦労も感じられる台詞だった。

 アキラは素直に頷く。PTSDなど戦場では珍しくないと聞く。戦場帰りの兵士の何割かは確実に掛かるという話だし、戦うという事は特に華々しく綺麗なものでもない。

 

「武器の扱い、戦い方はアヴェリンから。これは前にも言ったな、魔物の知識はルチアから。……アヴェリンも知っている事は教えれば良いが、これは視点の違いの問題だ。知っておく知識は多い方がいい」

「はい、了解です」

 

 アキラが返事を返せば、アヴェリンとルチアから順に了承の意が返ってくる。

 ミレイユはそれを聞いて、次いで考え込むような仕草を見せる。

 

「使う武器は刀がいいんだろうが……。刀はあまり種類も数もないのだが……」

「え、そっちにも刀ってあるんですか?」

「そうだな、刀という名前ではないが。どう見ても刀にしか見えないから、私はそう呼んでいる」

「へぇ……!」

「今ある武器では価値も威力も高すぎて、お前には向かない。武器の威力が自分の実力だと勘違いされても困るからな」

 

 ミレイユの視線にアキラは押し黙る。

 確かに身に余る武器とは往々にして、そういう逸話があるものだ。剣を使うのではなく、剣に使われ振り回された上に、自分の実力を過信して命を落とす。どこにでもある、ありふれた話だ。

 

「因みに、その武器の価値ってどれ程のものなんですか? いえ、勿論こちらの相場と照らし合わせて完全に合致するものでもないんでしょうけど」

 

 興味本位で訊いてみれば、ミレイユからも困ったような表情で返ってきた。

 

「同じ武器でも造り手によって、威力も切れ味も変わってくるから一概には言えないが……、大体金貨三百枚か?」

「妥当かと」

 

 ミレイユが視線を向けて問うと、アヴェリンが首肯して同意した。

 とはいえ、それだけ聞いてもアキラには価値が正確に伝わらない。身近な何かで例えてもらえると助かるのだが。

 そのような表情を見て取られたのか、ミレイユが困った顔に笑みを張り付かせて言う。

 

「……分かり辛いか。そうだな、家を一件購入する時に掛かる費用は五千枚だった」

「といっても、建てる場所によって――地価によっても随分変わりますけど」

「地方都市の一等地で、そのくらいだ」

 

 地方都市と一つとっても様々だろうが、その一等地ともなれば決して安い値段にはならないだろう。アキラにとって土地の値段も家の値段も、馴染み深いものではないから深くは知らないが、普通にン千万はするものだと予想できる。

 そうすると単純に考えて金貨一枚一万円に相当と考えてもいい気がする。

 じゃあ刀一本三百枚なら――。

 

「え、二百から三百万ぐらい!? そんな武器ポンポン持ってるんですか!?」

「平均的な質の武器で、それになる。他にとなれば、家を複数買える値段の武具は多くある」

「滅茶苦茶お金持ちじゃないですか……」

 

 それ程の財産があるなら、ユミルもワインを水のように飲む筈だ。ヴィンテージ物でもなければ、それこそダース単位で飲んでも痛手にならないに違いない。

 

「そんな物ですら、ミレイ様のコレクションの前には塵芥の類だ。多くはあちらに残して来たのが悔やまれる」

 

 アヴェリンの慚愧に堪えない、という表情からは、さぞ価値のある武具があったのだろうと窺える。しかし、それより驚く言葉がミレイユより放たれた。

 

「何なれば作った方が早いかな。お前向きに、初心者用という様な感じの」

「え、作れるんですか、刀を!?」

「大抵の武具なら、その制作の技術を修めている。何しろ、鍛冶の師匠はアヴェリンだしな」

「とうに追い抜かれて、立つ瀬もありませんが」

 

 アヴェリンが苦笑するに、ミレイユもまた苦笑を返した。

 そこにユミルが呆れた顔と声を隠そうともせずに言う。

 

「鍛冶だけなら可愛いものよ。そっちの才能があったというだけの話でしょう? この子ったら装飾品なり、その細工なり、あまつさえ魔術だって師匠超えしてるっていうんだから堪らないわ」

「……錬金術も」

「そっちはまだ超えられてないわよ!」

 

 ルチアの指摘には声を荒らげて否定したが、それが真実だったとして既に射程範囲に修められているような気配はする。

 何にしても、余りに多くの技術を修めているらしい。多すぎる、というべきかもしれない。

 

「凄い多芸なんですね……!」

「多芸の一言で済ませられる内容じゃないけどね……」

 

 更に呆れた顔でユミルが見れば、ミレイユは鬱陶しそうに手を振った。

 

「今はそんな事はどうでもいいんだ。適した武器がないなら作る――ああ、そうだな。新たに作って質に入れるか」

「武器を!?」

「いや、リングとかの装飾品だ」

 

 思わず声を荒らげてしまったアキラは、ミレイユの現実的な返答に納得した。それはそうだ。武器を丸裸で持ち歩く訳ではないにしろ、そんなものを持って売りに来れば通報沙汰も考えられる。

 わざわざ目立たない方策をあれこれ考えている彼女が、そんな危険を犯す筈もなかった。

 

「宝石類もあるから、そちらを使って加工すれば値がつくかな。それとも単品の方が金に換えやすいか……。どう思う?」

「いや、そんな。こっち見られても分かりませんよ、貴金属なんて持ってないし、売り買いした事もないんですから……!」

「それもそうか……」

「ていうか、装飾品があるなら、それ売ってしまえば早いんじゃないですか? 僕から安い金額を受け取るよりも、そっちの方がいいような」

 

 ミレイユは複雑な表情で頷く。考えるような躊躇するような、何とも言えない表情だった。

 

「即金で直ぐに欲したのは、服を買う金が欲しかったからだ。それさえあれば、好きに外へ出れるし質屋にも行ける」

「あー……、でも、そちらお得意の幻で覆い隠すとか……」

 

 アキラが非難を浴びせる視線をユミルに向けるが、当の本人はどこ吹く風でワインに口をつける。そして、チラリと視線を向けながら言った。

 

「幻を違和感なく維持するのは、そう簡単な事じゃないのよ。違和感っていうのは、気づけばあっという間に認識されて意味がなくなるの。一度外に出れば、どれ程時間の掛かる事か分からないのに……。とても現実的じゃないわね」

「……そういう事だ。無理してやらせる事も出来るが、少々の金で解決できるなら、それが一番手っ取り早い」

 

 ですか、と力なく頷くと、ミレイユは続けて言う。

 

「それに、所持している装飾品は例外なく魔術秘具だ。こっちで売れば貴金属としては妥当でも、本来の価値からすれば二束三文にしかならないと予想できた」

「……つまり、家が建つような値段の物が、数万とかで買い取られる訳ですか……」

 

 ミレイユが頷いて見せれば、それは確かに躊躇うだろう、とアキラは思った。いざとなれば、それを売るしかなかったのだろうが、アキラとて物の価値が分からない相手に、自分の手持ちを切り崩して売りたいとは思わない。

 

「今から考えれば、何故自分で作って売ろうと考えつかなかったのか疑問なくらいだ。……いや、本当に買い取って貰えるのか、そこも考えないといけないかもしれないが」

「ですね。ブランド品とは全く違うんでしょうし。日本はブランド至上主義みたいなところありますからね……」

 

 やはりそうか、とミレイユは暗い顔をして溜め息を吐いた。

 

「そこは細工技術でカバーするしかないな。良い品なら、良い値で売れる事を期待しよう。――ルチア、任せていいか」

「んー、それなら講義の方をユミルさんにやらせて下さいよ。少なくとも、こっちの作業が終わるまでは」

「そうだな、いいだろう。――そういう訳だ、ユミル。頼むぞ」

 

 ユミルは明らかに嫌そうに顔を歪ませて、不承不承に頷いた。

 

「まぁ、仕方ないわね。そこでアタシだけ遊んでると肩身も狭いし」

「まるで今まで、肩身が狭かった事がなかったとでも言いたげな台詞だな」

 

 アヴェリンがねめつけると、ユミルは肩をヒョイと竦める。

 

「実際なかったでしょう?」

「少しは感じろと言いたかったんだが?」

「あら、そう? でも、ごめんなさいね。根が正直なものだから」

 

 二人の間に剣呑な雰囲気が立ち込め始めた時、ルチアが小さく挙手してミレイユに伺う。

 

「それって、すぐ始めた方がいいですか?」

「そうだな。早ければ早いほど嬉しい」

「じゃあ、今から始めます。お先に失礼しても?」

「ああ、よろしくな」

「お任せあれ」

 

 ミレイユに頷き返して、ルチアは席を立つ。アキラにも一応の礼だけして、小箱の中へと入って行った。

 言い合いを横から中断された二人は不完全燃焼のような感じだったが、再び燃え上がらせようというつもりはないらしい。アヴェリンは相変わらず鋭い視線を向けているが、ユミルはどこ吹く風でワインを注いでいる。

 

 ミレイユはアキラに顔を向けて、視線を一度合わせ後、次いでアヴェリンに向きを変える。

 

「鍛錬を始めるのは明日からでいいのか? ――アヴェリン、お前の朝の鍛錬にコイツを混ぜてやるのはどうだ」

「それは構いませんが、箱庭に招待すると?」

 

 アヴェリンが微かな苛立ちを表に出すと、ミレイユは手を横に振る。

 

「いいや、中には入れない。まず筋力や体力など基礎を鍛えるのが先決だろうし、それなら外で十分だ。そこそこ鍛えているようだが、お前も実力の程を知らねば鍛えようがないだろう」

「そうですね。ハッキリ言って何もかも足りないと予想しておりますが、かといって鍛え上がるまで、何年も付きっきりで教えるつもりもありませんので」

「当然だな」

 

 アキラは今日何度目かの、息が詰まる感じで喉の奥を鳴した。

 何の疑問もなく、何となく長く付き合いが続くのだろうと思っていた。それこそ道場の門下に入る時のように。だが、違うのだ。彼女たちからすれば、アキラは門下に入った訳でも、一家に入った訳でもない。

 

 形としては依頼主と受注者の関係に近い。

 だから教える期日は明確にあるのだろう。出来ないのなら、出来るまで教えるなどという事はしない。鍛える意欲が薄いというなら、料金分――あるいは義理分は教える。

 

 そう言う事だろうか、とアキラは思った。

 ならば明日から始めるというのなら、ちょっと待ってと言った瞬間切り捨てられるだろう。とはいえ、元よりアキラは言われた全てをこなすつもりだったし、拒否するつもりもなかった。

 

「分かりました。明日からお願いします。時間は何時頃がいいでしょう?」

「学校もあるだろう? 早すぎれば体調を崩す。朝飯より二時間前からが妥当かな」

「じゃあ、五時ですね。分かりました。――よろしくお願いします、アヴェリン師匠」

 

 ああ、とアヴェリンは頷いて、ミレイユに視線を戻す。

 

「武器はどうします」

「勿論、コイツ用に作る。手間だが、貸し出せる物もないのはさっき言ったとおりだ。……うん、それも明日から始めよう」

「承知しました」

 

 ミレイユがアキラに向き直る。少しばかり憐憫を感じさせる表情だった。

 

「それじゃあ、明日から大変だろうが、頑張れよ」

「わざわざ自分から、危険に首を突っ込もうっていうんです。頑張るくらい当然です」

「……そうか。こちらも作業を進めておく。ルチアが物を用意したら、さっそく売りに出るつもりだが、数日は掛かるだろう。だからその前に服を買いに行く。そのつもりで金を用意しておいてくれ」

「分かりました」

 

 頷き返すとミレイユが立ち上がり、それに続くようにアヴェリンも立ち上がる。ミレイユが手を振ってテーブルや椅子を片付け、元々あったソファやテーブルを元に戻す。

 ミレイユは、そのまま目礼をするような小さな動きでアキラに後を告げると、小箱の中へ消えていく。アヴェリンもそれに続こうとしたが、その前に一度立ち止まった。

 

「明日は別に急激な運動をさせるつもりはないが、今日はよく休んでおけ」

「はい、ありがとうございます。お休みなさい」

 

 アヴェリンはそれには反応を返さず、小さく手を挙げるだけで箱の中へ消えていった。

 残ったユミルも、空いたワインのボトルとジョッキを手に去ろうとした。

 

「それじゃあね、可愛子ちゃん。今日一日で大分仲良くなれた気がするわねぇ」

「僕は今日一日でアナタへの好感度が、地の底まで落ちましたけでどね」

「あらまぁ、それはそれは。じゃあきっと、大好きって言わせてあげる」

 

 にたにたと嫌らしい笑みを見せ、楽しそうな声音と共に箱の中へと帰っていく。それを見送ってから大きく溜め息を吐いた。

 あの人のせいで、無駄に疲れさせられた気がする。

 アキラは溜め息をつこうとしたが、大きく息を止め背筋を伸ばす。腹に力を入れて、静かに息を吐き出した。

 

「明日から頑張るんだから……!」

 

 余計な事に囚われている訳にはいかない。

 気分を切り替えて、アキラは寝る準備を始める。明日の時間割を確認して教科書を選び、鞄に詰めていく。大変だろうと分かっているが、アキラは自分が高揚感に包まれていくのを感じていた。

 



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不安と不穏 その8

 翌日、ミレイユは鍛冶場に火を入れ鍛造の準備をしながら、アヴェリンの報告を聞いていた。

 火の精霊の核を用いて炉の種火として使う事で、普段は消えない程度にしか灯っていない炉に、急激な活性化をもたらしながらその声を聞いていた。

 

「……で、どうだった?」

「どうもこうもありません。子供だから大目に見ろとは言われましたが、あれほど使えないとは思いませんでした。言わせていただければ、何もかも足りません。実戦に出すなら、冗談抜きで数年の訓練が必要です」

「そこまでか……」

 

 ミレイユとしては、少々予想外な展開だった。身体についた筋肉が褒められた物でなかったのは確かだ。それでもやりようによっては、と考えていたのだ。

 それにアヴェリンならば、上手く対処法を見つけて指導出来るだろうとも思っていた。しかし、これは少し当てが外れたかもしれない。

 

「そこまで酷いなら、何か対策を考えねばならないかな……」

「いえ、それはミレイ様がお手を患う程の事ではありません。こちらで上手くやってみせます。――しかし不甲斐ない。たかがあの程度で倒れるとは……!」

 

 話している内にアヴェリンの熱が再び入ってしまったらしい。手に持つフイゴを何度も押し込み、吹き出し口からは大量の空気が排出されている。

 ミレイユは苦笑しながらアヴェリンを宥めた。

 

「長い目で見て訓練してやれ。あれも今が伸び盛りだろう」

「……かもしれませんが、もしや本気で数年の世話を考えてる訳ではありませんよね?」

「そこは大丈夫だ。基礎を教え、鍛錬法を教え、敵を倒す方法を教えれば、それで十分だろう。その教えられた物を自分の中で昇華させるのは、アレの領分だ」

 

 そうですね、とアヴェリンが頷いて、ふと思い出したようにフイゴを置いて懐を弄る。そうして直ぐに数枚の紙幣を取り出して、ミレイユに渡した。

 

「アキラから預かって来ました。何でもいつも多めに現金を用意してあるのだとか。自分の分は『アトデオロス』とか何とか言ってましたが……、ともかく服を用立てる為に使って欲しいとの事でした」

「アトデ……? ああ、『後で』『下ろす』か? ……まぁ、分かった。アキラには礼を言っておこう。火が完全に入るまで、まだ時間が掛かるだろうから午前中に服選びは済ませてしまうか」

 

 アヴェリンが了解を伝えた時だった。ルチアが細工品の試作を幾つか持ってきて、鼻息荒く近くの机に広げる。

 

「ミレイさん、少し見て貰いたいんですよ。どういう方向で幾つ用意すべきかも分かりませんでしたので」

「ああ、分かった」

 

 ミレイユは炉をいじっていた手を止めアヴェリンに後を任すと、広げられた装飾品の試作をしげしげと眺める。

 

「とりあえず、ネックレス、ブローチ、イヤリングを用意しました。細かい線入れまで考えてるんですけど、それをすると時間も掛かりますし、石は何を使って良いのか、その辺りも――」

「分かった分かった」

 

 説明に熱が入り始めたルチアを宥めすかして、ミレイユは一つ一つ手に取って確かめる。それぞれ金を基本素材として使っているのは、銀を好むルチアとしては珍しい。しかし、それは実利を考え、とにかく現金との交換を目指した結果だろう。加工がし易い点も同時に考慮されているに違いない。

 

 現実と違い、エルフの加工は道具だけでなく魔術も使うので、実際の作業工程は大分異なる。現代では機械を用いねばできない宝石のカットや、リングに刻む溝など、手作業では膨大な時間と技術が必要だが、ルチアにかかれば違ったアプローチで同じ結果を生み出す。

 細工品と言ったらエルフ製に限るという言葉は、そういう部分が大きい。後はセンスの問題だ。ミレイユ自身はアクセサリーに詳しいつもりはなかったが、現代人の視点で見ると色々と常識の違いから指摘できる部分があった。

 

 リングに宝石をあしらう事は共通しているが、台座を用意して宝石を嵌めるという発想は、あちらにはなかった。大抵は宝石が嵌まる大きさの窪みを作り、そこに嵌め込む方式で、だから自然とリングは太くなる。

 しかし台座があればリング自体は細く出来るし、その構造さえしっかりしていれば、大きな石を使っても見栄えが良い。それを指摘してからというもの、ルチアは細工品を作れば必ずミレイユに助言を貰うようになった。

 

 ミレイユ自身、既に引き出しは空っぽで助言できる事はもうない。またルチアも向上心があるものだから既に独自の形に昇華し、ルチアブランドとも言うべき物を作り出している。

 だから試作品を見せられても、見事な品であるという事以外、ミレイユには分からなかった。

 

「相変わらず見事な一品だ。どれも指摘できるような物はないし、色合いが合えば好きな石を使ってくれていい。敢えて言うなら、高値で売れそうなら、そうしてくれ」

「……それだけですか?」

 

 不満そうに口の先を尖らせるが、さりとて助言らしい助言も難しい。

 ミレイユはアクセサリーの一つ、ブローチを手に取った。エルフといえば木の葉を模したブローチが一般的で、代表作とも言える作品だ。数多くの品が生み出されてきたから、この木の葉も金属とは思えない見栄えをしている。

 この世に金の樹木があるのなら、そこから一枚取ってきたと言われても通用する出来栄えだった。しかし見慣れているからこそ、もう一捻りが欲しいと思ってしまうのだろう。

 

「ならばいっそ、こういうのはどうだ」

 

 ミレイユは魔力を込めて、手の中の金属を変性させる。

 木の葉から蛹のような形へ潰れ、そこから蝶が出来上がる。ルチアのような造形美に拘った物ではなく、デフォルメされた妖精のような形だった。その胴体部分が円形に空いており、石を嵌め込めるようになっている。

 何色を使うか、どの石を使うかによって、この羽根開く妖精の種類や気品も違って見えるだろう。

 

「まぁ……!」

 

 ルチアはそれを奪うように手に取ると、表と裏を引っくり返して確認する。そして、そのまま更に変性させて、羽の形を微調整し、あたかも今羽ばたこうとする瞬間を形作って見せた。

 

「素敵です。この中心にはどういった石が似合うでしょう? どれも違って、違えばまた違う瞬間を切り取って造りたくなってしまいます……! ミレイさん、貴女って本当に……!」

 

 ミレイユとしては蝶を模したブローチなど、別段珍しく感じるものではない。しかし、ブローチといえば木の葉という先入観が、ルチアの発想の邪魔をしていたらしい。

 この世界のアクセサリーを見物すれば、彼女なら幾らでも新たな着想を得るだろう。単にそれを先に知っているだけのミレイユは、何とも気恥ずかしい思いがした。

 

 感激で涙さえ浮かべ始めたルチアに、ミレイユは苦笑しながら他の品を返す。

 

「他の一切は何も心配いらない出来栄えだ。さっきも言ったが、好きに石を使って良い」

「分かりました――!」

 

 踵を返して出ていこうとするルチアだったが、ミレイユはその背に呼びかけた。

 

「今日は午前中、服を選びに行くからそのつもりでいろ。あまり石選びに時間を使わないように」

 

 その声に軽く声を返してルチアは部屋を出ていった。既に頭の中では数々の発想が出ては、その選別に思考を使っているのだろう。

 アヴェリンも呆れに近い表情でその背を見送り、ミレイユに向かって口を開いた。

 

「家を出る前は声をかけるのではなく、引っ張り出すようにしておきます」

「……そうしてくれ」

 



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希求 その1

 案の定、声をかけても動ことしなかったルチアを引っ張って、アヴェリンは箱庭から出てきた。アキラの部屋の中は、家主が学校に出かけているので人気(ひとけ)はない。

 そういえば、またも言い忘れていたな、と思いながら、ミレイユは寝室への扉を開けた。

 

「とりあえず、服を買う為の服を、アキラから借り受けよう。全員、昨日のような格好になるだろうが、今だけは文句なしだ」

「分かりました」

 

 それぞれから了解の意が返ってきて、ミレイユは服の物色をユミルに任せる。昨日もやったのだから今日やらせてもいいだろう、という軽い気持ちだったのだが、アヴェリンに渡されたタンクトップを見て考えを改める。

 やはり自分で見繕った方がいいのかもしれない。

 

「……それをアヴェリンに着せる気か?」

「そうよ。絶対似合うし」

 

 自信満々に言い切るユミルに、そこの部分だけはミレイユも声には出さずに同意する。

 背も高く筋肉質で勝ち気な切れ長の目は、ああいう格好をすれば目を引く美しさだろう。別に男性に見えるという訳ではないのだが、それでも似合う格好だと着る前から分かる。

 

 だが昨日、外に出てみて思ったのは、意外と冷えるという事だった。例え半袖であろうとも、肌寒く感じるだろう。パーカーか何かが絶対必要だと思うのだが、他にジーンズを渡しただけで、次にルチアの準備へと移ってしまった。

 

 流石に気が咎めて、ミレイユはそのやり方に口を出した。

 

「アヴェリンに上に羽織る物を何か渡してやれ。寒々しい格好になるぞ」

「大丈夫でしょ、あれくらい寒い内に入らないし。……そうよねぇ、あの程度で寒いなんて泣き言、言わないわよねぇ?」

「……む」

 

 ユミルからそのように煽られては、アヴェリンとしても素直に上着が欲しいと言えなくなる。言葉に窮したアヴェリンに、いいから、とミレイユは手を振る。

 

「私が見ていて寒々しいんだ。無いならまだしも、あるなら渡せ」

「じゃあ、ないわ」

「……じゃあ?」

 

 アヴェリンが苛立ちを匂わせる口調で問い返せば、ユミルは黒いキャップを取り出す。

 

「あるのはコレくらいね」

「ふざけるなよ、貴様」

「……もう、それぐらいで一々じゃれ合うの止めて下さいね。早く行って、早く帰りましょうよ。私だって、細工の続きやりたいんですから」

 

 そう言って、ルチアが適当なシャツを取り出してアヴェリンに渡す。ダボダボとした白いシャツに見えるが、アヴェリンが着れば丁度いい案配になりそうな気がする。

 ルチアとユミルの分は昨日着た服そのままを選び、続いてミレイユの分の服装になったのだが、これがまた一悶着起こす事になった。

 

「こんな格好をミレイ様にさせる気か!?」

「そうは言ってもね、アンタと違って、こっちはちゃんと選んでるわよ。でも、アキラの用意してる服はどれも似たようなものばっかりなの。どうしてもこんな風になるの」

「だからといって、ズボンだと!? こんな貧相なもの、ミレイ様の足の丈にも合わんだろうが。相当みっともないことになるぞ!」

「そんなのね、大体誰も一緒でしょ。せいぜい背の低いルチアくらいじゃないの、足の丈が合うのは。それにね、これから買う服の方をまともに選べばいいだけで、ここじゃ何選んでも大して変わらないし!」

 

 ミレイユは溜め息をついて二人の間に割って入る。

 

「今はユミルの言い分が正しい。選ぶのは店頭で、ここでは適当でいい。大体ズボンの何が悪いんだ。気楽でいいだろう? むしろ、こっちの方が有り難いくらいだ」

「……そのような格好、ミレイ様に似つかわしくも相応しくもないと言いたいのです。……ですが、はい。今は我慢しましょう。あちらで買うものとなれば、断固として意見を譲りませんけど」

「何で私の服の事で、お前に決定権があるような言い方をするんだ……」

 

 早くも雲行きが怪しくなってきた。

 ミレイユなどは、むしろ現代衣服の常識としてパンツルックが推奨されているとでも言って、今後はスカートを履かないつもりでいた。

 実際それは嘘でもなく、最近では社会進出著しい女性たちは、スーツでもスカートを選ばない人も多い。その事を説明すればアヴェリンも理解を示すだろうと思っていたのだが、今のやり取りを見ていると難しいかもしれない。

 

 思えば、アヴェリンは何かと女性的立ち振舞いを強要してくるように思う。自分の理想のままにいて欲しい願望というか、理想を理想のまま閉じ込めておきたい、という欲がある。

 そうは言ってもミレイユ至上主義でもあるので、嫌だと言えば引き下がる。しかし主張できる機会では絶対に譲らない。

 

 ミレイユは溜息を吐きたい気持ちで全員を促した。

 

「早く着替えて出発するぞ。ここで幾らも時間を浪費したくない」

 

 

 

 

 店舗入口前に辿り着いた三人は、その外観を見上げてポカンと口を開けた。

 身の丈を優に超える巨大な一枚ガラスが店舗の外側を覆い、その中に展示品としての商品が立ち並ぶ。マネキンに着せられた服は女性物ばかりではなかったが、それだけに幾つもの種類を取り揃えている事が分かる。

 

 それに何より、入り口からもガラス張り故に店内の様子が伺える。数多くの天井照明によって照らされた店内は、屋内なのに昼のように明るい。広いという事は暗いという常識を、ここでまた一つ崩された形だった。

 

 誰一人入ろうとしないので、ミレイユがそれらの背中を押して促してやる。人通りが豊富ではない時間帯とはいえ、やはり男物の服を着る女性四人組というのは奇異に映るのだ。

 

「ほら、立ち止まってないで動け。田舎者みたいに辺りを見回すなよ。自然でいろ、自然で」

「それはちょっと無理でしょ。絶対見渡さないと、何があるかも分からないし」

 

 ユミルの反論は最ものような気がした。

 遮るものも大してなく、広く店内に商品が展開されているのだ。欲しい物を探そうと思えば、常連でもないと自然そうなる。

 

「いらっしゃいませー」

 

 店内に入れば少し離れたレジ付近から声をかけられる。やましい事はないのだが、アヴェリンが部屋で渡されたキャップをミレイユが使い、目深に被り直す。何故だか女性物の下着を選ぶ時など、顔を見られたくない気がした。

 

 やはりお上りさんよろしく店内を物珍しく見ていた三人だが、今度はその衣服の豊富さと安さに驚いている。

 金貨一枚が一万円相当だと説明したら、この品質と種類で、そこまで安く出来るのかと驚嘆された。

 

 それもその筈、布を作るという工程は非常に手間が掛かるものだ。

 一つ一つが手作業で、素材としての布、布を形作る糸、着色する工程、それら全てに人の手に入る。そして針子が服を縫う。この針子もまた専門の技術職で、人気のある針子は数年先まで予約が埋まっているものだ。

 そうして作られる服だから、目の前いっぱいに広がる衣服というのは、王族でしか見ること叶わない光景だった。

 

 見惚れるのも束の間、自分達の服は早々に選び終えた三人は、早速試着室で着替え、そのまま購入する事に決めた。

 

 ルチアは薄いクリーム色をした、フリルの付いたカットソーとロングスカート。ロングスカートは青を基色とした細かな花柄になっていて、彼女によく似合っていた。

 

 ユミルは鳩尾まで隠れる黒のロングスカートに、ベージュのチュニックを合わせて、頭にはツバのある黒の帽子を選んだ。

 

 アヴェリンは白で合わせたデニムパンツとシャツ。その上にベージュのベストを羽織る。金の長髪と相まって、それが良く似合っていた。

 

 三人誰もが自分に似合う服を選んだと見て、ミレイユも思わず頬が緩む。誰もが見惚れる美貌の持ち主たちだから、それ相応の格好をすれば衆人の視線を掻っ攫う。

 特に有名でもセンスあるブランドを選ばなくても、素材だけで似合う格好に仕立ててしまうのが彼女たちだった。

 予算の都合で一揃いずつしか用意できないのが残念でならない。

 

 そして最後に残されたミレイユの服選びは、案の定熾烈を極めた。

 

「お前は何も分かっていない。ミレイ様にはもっと清楚な格好こそお似合いなのだ……!」

「馬鹿ね、本人はパンツルックが良いって言ってんのよ。それを尊重してこその服選びでしょうが……!」

「いいや、ここでスカートを選ばねば、今後もきっと選ぶまい……! それに慣れさせると、もう二度と戻って来ない危険性すらある……!」

「そこはちょっと同意できるけど、でも最初の一着くらい、好きに着させなさいな」

「それが坂道を転げ落ちる原因になりかねんと言いたいのだ……! ご自身の似合う物と自分が好きな格好は全くの別だ……!」

 

 お互いがお互いの服を突きつけ合いながら、至近距離で言い合う二人を、ミレイユは冷めた目で見つめていた。ここでこうして見ているより、自分で早々に選んでしまおうと思うのだが、それをすると目敏く見つけて阻止してくる。

 そうこうして見守っている内に一時間が経ち、もう選ばずに帰ろうかと思い始めた時、ルチアが二人の間に仁王立った。

 

「いい加減にして下さいよ。私だって早く帰りたいって言ってるじゃないですか」

「……そうは言うがな」

「なので、――はい、こちらが私の選んだものなので、これにしましょう」

 

 ルチアが見せた服は黒いワンピースだった。歩きやすいようにスリットも入っている。それに薄いベージュのシャツを合わせ、上に重ねるように薄いグリーンのブラウスを持ってくる。

 二人がそれを一瞥し、同時に頷く。そしてミレイユの方へ顔を向けた。

 

「……ようやく決まったか」

「及第点と言ったところで……」

「まぁ、これ以上言い争うとアンタも辟易するでしょうし」

「既にしてるが。辟易してるが」

 

 ミレイユはルチアから一式を受け取り試着室に向かう。その向かう途中で目についたツバの広い帽子を手に取る。中に入って着替えてしばし、カーテンを開けると待ち構えていた三人から感嘆とした溜め息が漏れた。

 

「あら、いいじゃない」

「実際に着てみると印象も違うものだ」

「うゎ、そう着るんですか……! これが着こなしってやつですか?」

 

 ミレイユはブラウスを着るのではなく、袖の部分で結んで羽織る事にしたのだが、それが帽子と相まって清楚さと気軽さを両立させる雰囲気を生み出していた。

 

「それは知らないが、気分でこういう事をしてもいいだろう」

「大変よろしいかと思います。やはり、ミレイ様にはそういう格好がよくお似合いだ」

「別にさっきのパンツルックだって似合ってたじゃない。そっち方向だって着こなすでしょ、この子なら」

「ファッションショーがしたいんじゃないんだから、今はとりあえずコレでいいんだよ。……会計、間に合うよな、これ」

 

 剥き出しで持つことになっていたお札を、取り出しながらレジへと向かう。だが、そこは庶民の味方のファッションセンター、きっちりと予算内に収めて購入することが出来たのだった。

 



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希求 その2

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 やっとの思いで帰って来れた、と思いながら、ミレイユはアキラの部屋の扉を開けた。そして思う。そういえば、鍵を掛けずに家を出たな、と。

 無用心だったとアキラに心の中で謝罪しながら靴を脱ぎ、ソファに座る。肩に掛けていたブラウスを脱いでソファの背に投げ出し、ついでに横になって足も投げ出す。

 やはり何か言いたげなアヴェリンを無視して、箱庭に手を翳したルチアに声をかけた。

 

「……早速か?」

「ええ、随分と服選びを楽しませてくれたので」

 

 じとりとアヴェリンを見ながら言って、そのまま箱庭の中へと入っていく。ミレイユは苦笑しながらそれを見送り、最後に入ってきたユミルに声を掛けた。

 

「ユミル、お前も直ぐ箱庭に帰るのか?」

「そのつもりだけど、何かあった?」

「別に用という程ではないが、アキラに何を教えるか位は考えておけよ」

「あぁ……。それってどこまで教えたらいいの?」

 

 立ち止まって振り返り、座る物がないと分かると、あからさまに不機嫌な顔になる。ミレイユは魔力を制御して掌を近くの床に向け、次いで淡く光ったそれを解き放つ。

 乾いた音を立てて現れた上等な椅子を、ユミルは手元に引き寄せ腰を下ろした。

 

「この部屋、色々不足していて不便よね。何でここで話をするの?」

「元より男の一人暮らしだからな。一人ないし二人が過ごせるなら、それでいいんだろうさ。そして私が箱庭に帰らないのは、こっちに用があるからだ」

「……ふぅん? それはいいけど。それで、どこまで教えたらいいって?」

 

 ミレイユはソファに寝転がりながら天井を見つめる。実際のところ、敵の正体や敵の規模、既知の敵ばかりなのか、そこから調査しなければ教える事は難しい。

 写真を使った資料を用意できる訳でもなし、口伝のみで注意を促したところで、それと分からなければ意味がない。勘違いしたまま敵に突っ込むのは、眠った竜の巣穴に飛び込む無謀さに似ている。

 

「よくよく考えれば、実物を前にしなければ教えられるものでもないな。そもそも、我々にとっても未知の敵が現れる可能性は、常にある」

「……つまり、それが不明確な状態じゃ、実地訓練するしかないってコト?」

 

 ミレイユは面倒くさそうに鼻から息を吐いた。

 

「そうだな。あれを戦場に連れ出すのは厄介だろうが、頭ヨシヨシしながら教えてやれ」

「……予想以上に面倒なコト引き受けちゃったわねえ」

「敵の方をヨシヨシでもいいぞ」

「それを面倒って言ってるんじゃないのよ」

 

 ユミルは椅子の上で足を組んで腕も組む。そして、アヴェリンに顔を向けた。

 

「実際のところ、あの子を連れて行って大丈夫なの?」

「全く大丈夫じゃない」

「そう。じゃあ、連れて行きましょう」

「……話を聞いていたか?」

「だってアタシ達のするコトって、後生大事に守り育てて後進の育成に精を出そうって言うんじゃないでしょ? 大体、アンタが納得する程の実力を得られるって、いつになるのよ?」

 

 アヴェリンは眼をきつく閉じて考え込んだが、結局確たる答えは返せなかった。

 

「……分からん。少々絞ってやった感じだと、才能らしきものは感じなかった。駄目だと思えば、いつまでも駄目な気もする」

「そんな悠長にしてられないでしょ。……してられるの?」

 

 今度はミレイユに向けて問いを飛ばす。ミレイユは当然、手を横に振る。

 

「そこまで見てやる義理はない。ないが、基礎ぐらいは叩き込んでやりたい。それで将来の目がないというのであったら逃げ道を用意してやって、選ばせるくらいだな」

「ふぅん……。見捨てる選択肢だけはないワケね。それはいいけど、じゃあ私は敵の存在を察知するまでお役御免ね?」

 

 ミレイユは一瞬考え込むような仕草を見せ、やがて頷いた。

 

「そうだな。今更、自分の知ってる魔物の情報を整理しなくてはならないほど、物を知らない訳でもなし。教える事もお手の物だろう?」

「どうだか。不出来な相手に教えたコトはないものね?」

 

 悪戯っぽく笑ってユミルは席を立つ。

 箱庭に手を翳してから、ミレイユを見た。

 

「こっちで過ごすタイミングが多くなるなら、家財の方はどうにかなさいな」

「難しい問題だな。……アキラの許可もいるし」

 

 肩を竦めて箱庭の中に消えていくユミルを見送って、ミレイユはソファ隣の椅子に座るアヴェリンを見る。

 

「必要かな?」

「必要とは思いますが、何しろこの部屋が狭すぎます。用意しようにも制限が多すぎますし、いつ離れるかも分からない部屋に、勝手に物を増やすのも問題でしょう」

「……そうだな。結局、一々用意した方が面倒がないという話になる」

 

 言いながらミレイユは先程出した椅子に手を向ける。

 向けた掌が紫色の淡い光に包まれ、それを握りしめると椅子に向ける。放たれた光が椅子に命中すると、背景に溶けるように消えていく。

 

「しかし、それもミレイ様のお手を煩わせる事を考えれば、得策とは言えません」

「気遣いは有り難いがな。……今は次善の策として甘んじよう。良い案が見つかれば教えてくれ」

「……そのように」

 

 アヴェリンが椅子の上で小さく一礼して、次いで問うた。

 

「やることがあると仰いましたが、炉の方は宜しいので? もうすっかり準備出来ている筈ですが」

「――おっと、そうだった」

 

 慌ててミレイユはソファから立ち上がる。

 家を出る前に火の精霊を用いて、炉の準備を済ませるよう命じていたのだ。最初にある程度フイゴを用いて空気を送ってやれば、後は勝手に火勢を強くし、鍛冶に適した温度を維持してくれる。

 後は魔力を適宜与えてやれば、追加の調整も必要なく、非常に便利に鍛冶仕事が出来る。

 

「だいぶ待たせたよな?」

「左様ですね。待ちくたびれているかと」

「うん、……多めの魔力を渡して許してもらおう」

「それが宜しいでしょう。へそを曲げられると仕事になりません」

 

 ミレイユは顔を顰めて箱庭に手を伸ばす。

 炉のことを忘れてタブレットを使ったネットサーフィンなどと、考えている場合ではなかった。アヴェリンの言う通り、怒らせると妨害すらしてくるのが精霊だ。

 宥める方法を考えながら、ミレイユは箱庭へと吸い込まれる流れに身を任せた。

 

 

 

 鍛冶場に入って感じたのは、まずその熱気だった。

 鍛冶場に火が入れば熱を発するのは当然だが、これはそういう次元を超えている。予想していたとおり、精霊の不機嫌による弊害が生まれていた。

 

 炉から火が燃え上がり、とぐろを巻いて天を衝く。鎌首をもたげるように向きを変え、再び炉の中に戻っていく。それが短い間に何度も起きていた。

 

「……ああ、フラットロ。待たせたみたいだな」

「遅いぞ、何してたんだ!」

 

 炉の中から獣の形をした炎が立ち上がる。精霊に性別はないが、口調が男性的なのは怒りの度合いを伺わせた。

 姿形は自由に変わり、人型である時もあれば動物の時もあるが、しかしこの精霊は獣型を好む傾向をしている。

 どうせ姿を取るなら、犬や狼のような姿がいいと言った事があるのだが、そのせいか怒る時は決まって獣の姿を取る。

 立派な鬣を生やした狼が、口からも目からも火を吹き出して、ミレイユに口先を突きつける。

 

「こっちはいつでも準備できてるんだ! 炉が可愛そうだとは思わねぇのか!」

「そう思うのなら、火力を少し落としてやれ」

 

 ミレイユは近づきながら魔力を制御し、両腕に力を溜める。掌が淡い赤色に輝き、握りしめると体全体に光が広がる。魔力で作った炎のカーテンを身に纏ったミレイユは、炎に臆する事なく近付いていく。

 ミレイユの状態を見て取ったからだろう、火の精霊フラットロが炉から飛び出してミレイユに飛び掛かった。

 

「おっと……!」

 

 溶岩の塊を受け止めたに等しい熱量がミレイユにぶつかり、火の粉を上げる。しかしその熱は魔力で制御しているミレイユには届かない。熱い事には違いないが、火傷が出る程でもない。

 ミレイユの身体に触れたフラットロは、その身体の形状を変形させて丸い形で暴れ始めた。それを腕の中に受け止めて、宥めるように球を撫でる。

 腕の中で暴れる球は次第に大人しくなり、ついには小型犬の形になって腕の中で落ち着いた。

 

 ミレイユはその頭を指の腹で撫で、ついで背中を擽るように撫でながら魔力を流す。

 すると途端に機嫌の良さそうな音で喉を鳴らし、ミレイユにじゃれつくように首元や胸元に頭を擦り付けた。ミレイユは小さく笑い声を上げて、されるがままにしてやり、落ち着くのを待ってから、改めて腕に抱く。

 

「機嫌は直してくれたか?」

「少しだけ」

 

 発する声は柔らかく、少年のように聞こえた。口の先からと舌を伸ばすと、それにつられて炎も出てくる。機嫌が良くなっている証拠だった。

 フラットロが、そこまで怒っていない事は理解している。じゃれつく理由が欲しくてそうしただけだ。実際に人に触れることが出来ない身だったフラットロは、こうして嫌がる事もなく抱きしめてくれるミレイユの事を、好ましく思っているのだと知っている。

 

「それで、始めるのか?」

「ああ、お前が許してくれるなら、すぐにでも」

「ちょっとだけ許す。だから早く始めよう!」

 

 言うや否や、フラットロは腕から飛び出し炉の中へ帰っていく。

 入った瞬間、まるで水の中へ飛び込んだ時のように火柱が上がる。

 ミレイユは離れて立って待っていたアヴェリンに振り返り、手招きした。

 

「もう大丈夫だ。またヘソを曲げる前に始めよう」

「相変わらず見事な……」

「言ってる場合じゃないぞ」

「――でしたら、先に着替えを準備すべきでしたね。買ってきたばかりの服を、汚したくも損ないたくもありませんでしょう?」

 

 機嫌を宥める事に気が急いて、そこまで考えが至らなかった。

 ミレイユは詫びを入れてアヴェリンに鍛冶装備一式を取ってくるように頼むと、再び炉に近付き、準備をするよう見せかけて時間を稼ぐ事にした。

 

 それに箱庭の時間調整も必要だ。

 これからの鍛冶仕事、一日二日では終わらない。普通の鍛冶なら二週間はかかる作業が待っているが、それだけの時間を外で生きるアキラに待たせるつもりもなかった。

 ミレイユは手を外に翳して魔力を調節する。手の周りに薄い緑色の光が集中し、ダイヤルを回すように捻ってやると、ギリギリと音を立ててゆっくり動く。

 これで調整は終了した。後はアヴェリンを待つのみだった。

 



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希求 その3

grashis様、誤字報告ありがとうございます!



 ミレイユは鍛冶場の素材倉庫から目的の物を見つけようと、壁一面、床から天井まで届く棚の前に立った。鍛冶に使う素材は多岐に渡るし、作るものによって素材の内から選別が必要なものもある。

 今回の刀はその選別が必要になる部類で、インゴットから溶かして整えた玉鋼が最適になる。そのまま溶かしては時間が掛かり過ぎるから、予め薄く伸ばし十センチ四方に切り取った物を使う。

 

 それを棚の中から見つけて出し、引き出しを引く。

 大きい引き出しとも思えないのに、手を差し入れれば幾つでも目的の素材が取り出せた。これは空間拡張を施した棚だからこそ出来る芸当だ。実際の数を外に出せば、この素材部屋が各素材で天井まで積み上がり、歩く場所がない程になる。

 

 ミレイユは鍛冶場に戻り、その薄く引き伸ばされた玉鋼を、幾つも重ねて梃子皿に乗せた。

 雑な乗せ方だが問題はない。本来なら重なる過程で出来る隙間や、塊が崩れないよう調節が必要なのだが、そこは全て精霊が上手くやってくれる。

 

 本来、鍛冶師はわざわざ精霊を使った鍛造などしない。そもそも召喚術の会得は敷居が高いせいもあるが、精霊は気難しく常に言うことを聞くとは限らない。

 それでもミレイユが敢えて使うのは、こうした様々な雑事を代わりに(こな)してくれるからだ。とはいえ、例え会得が簡単だったとしても、使おうとする鍛冶師は他にいないだろう。

 

 単純な命令ならまだしも、作業工程も多く注意も多い鍛冶仕事に、精霊の単純明快な考え方は向かない。それでもミレイユが実現出来ているのは、契約している精霊が種としての精霊ではなく、フラットロという個の精霊であるからだ。

 

 これもまた、ミレイユの召喚技術の非凡さが顕になる一例だ。

 本来の召喚術とは精霊と契約を結び喚び出す技術のみを指すのではなく、他にも多くの『召喚』を内包するのだが、多くの場合この精霊召喚しか表に出ない。

 精霊を喚び出す際には種族を、物体には個を指定して召喚するなら、精霊もまた個を指定して問題ない筈だ、とやってみた。

 

 ミレイユが、やれないのではなく、やらないだけなのだと知ったのは召喚契約を結んだ後のことだった。何しろ人と人の間にも相性がある。付き合う内に深まる情もあれば、最初から合わない場合もある。情を結べても数年の後に決裂する事など珍しくもない。

 

 それを精霊に当て嵌めれば、何故やらないのかは明白だ。

 せっかく結んだ契約なのに相手にその気がなければ働かない術など、使い勝手が悪すぎるからだ。しかし、その場限りの一度だけなら、相手が誰だろうと魔力さえ供給されれば文句はない。

 大抵の場合、何か一働きすれば開放されると精霊も理解している。

 

 だからミレイユは、精霊の機嫌を宥める必要があれば苦労する羽目に陥っていた。しかし、もしそれで上手く情を交わし合える事が出来たなら、これ以上なく頼もしい相棒を得られる。

 

「頼むぞ、フラットロ。いつもどおりだ。玉鋼自体が燃えないように、熱を内部まで均等に加えるよう、素早く熱してくれ」

「分かってるって! 任せて!」

 

 炉から頭だけを出していたフラットロは、梃子皿ごと突っ込まれた玉鋼を見ながら親指を上げる。精霊らしからぬジェスチャーだが、フラットロはよくミレイユの動きを真似して遊ぶ。

 ミレイユはそれに親指を上げて返答し、次の工程へ移った。

 

 

 

 

 程よく熱したところでフラットロが顔を出す。何度も頷いて見せれば、ミレイユは玉鋼を取りだして叩いて馴染ませる。そうしてまたすぐ炉に戻し、フラットロに頷いてやる。

 そうすると、今度は高温で加熱してくれる。

 これを5mmほどの厚さまで叩いて引き延ばした後、水に入れて急速に冷やす。

 

 急冷した平たい玉鋼を、小槌で2cmくらいになるよう叩き割り、断面がきれいな硬い玉鋼と、そうでない柔らかい玉鋼に分けていく。この選別作業を疎かにする事は出来ない。

 刀身は重層構造になっている。

 刀身の外側を覆い刃の部分を形作る硬い玉鋼、刀身の芯となるやわらかい玉鋼を使わなくてはならないからだ。

 その選別を間違えれば、その重層構造のバランスが崩壊し、脆い刀になってしまう。基礎の部分だからこそ、手を抜けない作業だった。

 

 そこまでして準備が整ったら、玉鋼を叩いて、延ばして、折り曲げる。折り返し鍛錬と呼ばれる技法を行う。これは玉鋼の不純物を取り除き、かつ均一化して強度を高める為に行う。

 先ほど準備した玉鋼を火床の中へ入れて、フラットロに再び合図をする。本来なら馬鹿にならない時間を待つ事になるのだが、精霊の助力があればそれも直ぐに済んだ。

 

 幾らも待たずに合図が返ってきて、熱した玉鋼を大槌で叩いて長方形に延ばし、たがねで切り込みを付け、半分に折ってまた叩くことを繰り返す。

 これがまた重労働なので、アヴェリンと挟み込むようにして交互に鎚を動かし延ばしていく。

 

「いいぞ、アヴェリン。流石だ、これは楽ができる」

「流石と言いたいのはこちらの方です。……が、まだ序盤、飛ばしすぎないように気をつけませんと」

「そうだな。言われずとも、だろうが、水だけは良く飲んでおけ」

「はい、そのように」

 

 頷きながら、用意していた水桶から木製ジョッキで水を汲む。

 叩く内に温度は下がっていくので、また火床へ入れるタイミングだったのだ。お互いに水分補給している間、フラットロに頼む。

 

 固い玉鋼と柔い玉鋼、これは別々に鍛えなければならず、また回数が多ければ固くなるものの、固くなり過ぎれば柔軟性を失う。

 叩く回数を見極める必要があるとはいえ、その回数は相当なものになる。

 必然的に、体力、筋力の持久力が求められ、叩きつける時は握力の瞬発力が必要になるし、腕を振り下ろすには肩の瞬発力がなくては話にならない。

 

 女性に向いている作業ではないが、これを可能にするのが魔力の存在だ。

 身体を巡らす魔力、とりわけ内向は、この筋力と持久力を劇的に増加させ、また回復させる効果がある。

 アヴェリンの部族でも鍛冶は女の仕事だが、これは魔力量が生物的に女性の方が多い理由に起因する。内向に優れた力を持つアヴェリンの部族は、力や武勇は女が示すもの、男は家を守るもの、と決まっている。

 名誉とされる鍛冶仕事も女が独占して、男はその補助として働くのが常だった。

 

 アヴェリンはそこで鍛冶師としての腕、戦士としての腕を見込まれていただけあって、助力の仕方も弁えている。実に仕事がやりやすかった。

 

 次にやるのは、別々に鍛えた柔と堅の玉鋼を組み合わせること。

 その方法が幾つかあるのは知っているが、ミレイユが行う技法はU字形に曲げるものだ。延ばした柔鋼へ堅鋼を挟み込んで接着。そのあと二つの玉鋼が一体化するまで、ひたすら鋼を打っては熱を加えるを繰り返す。

 

 この硬く曲がりにくい性質と、柔軟性があり折れにくい性質のある玉鋼を一体化させることで、『折れず、曲がらず、よく切れる』という類を見ない優れた特性を実現できるのだ。

 

「……折返し地点だ、もう一踏ん張り行くぞ」

「お任せ下さい」

 

 これだけの重労働、魔力の補助があるとはいえ、相当に堪える。

 それでも二人が未だに余力があるのは、用意した装備一式に秘密がある。これらは全て魔術秘具としてミレイユが鍛冶仕事の為に用意したもので、よりよい品質へと底上げするだけでなく、作業における疲労を緩和してくれる。

 

 ミレイユとアヴェリンはお互いに頷き合い、一度止めた手を再開させる。

 一体化させた玉鋼を棒状に打ち延ばす作業が始まった。このとき、一部分だけを延ばしたり、内側の柔鋼が外へはみ出したりしないよう留意しなければならない。

 これが一部だけでも外へ出てしまえば、最初からやり直しになる。

 

 日本刀の長さまで打ち延ばしたら、先端に切先を成形。切先は、先端を斜めに切り、小槌で叩いて作る。この繊細さを必要とする部分はアヴェリンに任せる。

 

 続いて、持ち手部分である(なかご)と、刀身との境目となる(まち)を作るために引き延ばしを続け、それが形になるまで加減を考慮しながら叩き続ける。

 

 刀身の峰側を通る筋(しのぎ)を打ち出し、さらに小槌で日本刀の姿へと叩き慣らしていく。その後、荒仕上げとして粗い砥石やヤスリを使って表面を削り、形を整えれば、ようやく一息つける。

 

「少し、ここで休憩しよう」

「ですね……」

「なんだよ、まだ燃えたりないぞ!」

 

 精霊はいつまでも元気だが、こちらはそうもいかない。

 ここまでの工程で、既に何十時間も時間を使っている。さしもの二人も音を上げるのは当然と言えた。

 お互い額に浮かぶ汗を拭って水を飲む。炉の中から両手を振り上げるフラットロには申し訳ないが、疲れるものは疲れるのだ。

 ここからが本番になるのだし、途中疲れたと言って腕を休める訳にもいかない。取れるタイミングで休憩を挟むのも作業の内なのだ。

 

「すぐにお前の役目が来る。それまで燃え盛る準備をしておけ」

「う〜……! すぐだぞ! すぐ始めるんだぞ!」

「ああ、分かった」

 

 苦笑しながら返事して、首筋や胸元の汗を拭うアヴェリンに頷いて見せる。アヴェリンも心得たもので、お互いの為に水を用意し、多量になり過ぎない水を飲み干し、簡単な食事もそこで済ませた。

 最後に一度、自分の頭に水を被せて熱を冷まし、水滴を大雑把に布で拭き取る。

 

 ミレイユはフラットロに合図を送った。

 次に行うのは、刀身を強くする為の全体加熱。

 その際、均一に熱することができるように、刀身の色合いを良く見定めなくてはならない。

 だがそれは、全てフラットロが自ら感じたままにやってくれる。どこか過分に熱せられていたら、それを即座に察知して、全体に馴染むように調節するような方法は、流石精霊ならではと言える。人間がやれば、こうはならない。

 そして温度が約八百度に達した時に取り出すのだが、これも心得ているフラットロが教えてくれる。

 

「もういいよ!」

 

 その声を合図に取り出し、水に入れて一気に冷却する。

 この工程で急激に冷やすことによって玉鋼は伸縮を起こし、刃文が造られ刀身は峰側に強く反り返る。それだけでなく、反りという日本刀ならではの造形美が誕生する瞬間でもあった。

 



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希求 その4

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「いよいよ仕上げだな」

「やはり精霊が協力してくれると早いですね。……もう、一人で鍛冶仕事は出来ないかもしれません」

「――へん、そうだろ! もっと褒めろ!」

「ああ、お前は凄い。とっても凄い」

 

 ミレイユのおざなりな褒め方でも、フラットロは上機嫌で炉の中で跳ねた。子犬の姿で炉の端から端へ走り回り、跳ね上がって縁に体を預ける。

 

「抱きついていい?」

「ちょっと待て」

 

 機嫌がいい時、フラットロはよくミレイユに抱きつきたがる。一声かけるのは、昔なにも言わずに火傷させてしまった事があったからだ。

 ミレイユ自身、高い魔力耐性を持っているが、流石に火精霊の抱擁には耐えられない。幸い治癒術にも秀でているお陰で事なきを得たが、それ以降、フラットロは怒っている時以外はきちんと聞いてから抱きつくようになった。

 

 ミレイユは炎のカーテンを使用して、その身に炎耐性を纏い終わると、フラットロに向けて両手を広げる。縁の上で(はしゃ)いで二度ほど跳ねると、ミレイユの胸に飛び込んできた。

 

「キューン……」

 

 頭を撫でて背を撫でてやれば、素直に喜びの鳴き声を出す。

 幼児退行ならぬ動物退行のようで精霊としては威厳が損なわれるが、その辺は指摘せず愛でてやれば素直に喜び、力も貸してくれる。

 胸元にすり寄せて来る頭を更に撫でてやれば、満足したのか離れていく。

 一度ぶわりと炎に包まれると、火球になって炉の中へ入っていった。

 

「さぁ、最後の微調整を始めよう」

「……ええ、始めましょう」

「やるよ! 最後にやるよ!」

 

 アヴェリンは恨めしそうにフラットロを見つめていたが、肩を叩いて促し作業を再開させる。

 

 焼き入れによって反りが出来たが、これで完成にはならない。刀身の峰を焼いて修正と微調整を行ない、次に荒砥(あらと)で研ぎながら、刃文が綺麗に出来ているか確認する。

 

「ムゥ……!」

 

 満足いく出来ではなかったが、売り物でもなく傑作を作るつもりでもない。それらしい形が出来ていれば、それで良かった。

 

 そして、(なかご)にヤスリをかけて、綺麗に仕上げを行う。

 ここからが刀の真価を決める研ぎの工程なのだが、適度な()()()()がある方が、滑りが少なくなり、殺傷力が上がる。つまり、切れ味を求めるだけなら、打ち立ての刀に粗い砥石をかけるだけでも十分なのだ。

 

 そして、今回アキラに渡す刀は、その殺傷力こそ求められる類なので、これ以上の研磨は必要ない。武器として扱う以上、荒っぽい使い方になるのは避けようがなく、刃こぼれなども出てくるだろう。それを抑える為や劣化を防ぐ為に、日常的な研磨も必要になるのだろうが、そんなものアパートの片隅でやらせる事ではない。

 素直に魔術秘具として不壞の術を付与する方がいいだろう。

 

 後は鍔や柄、鞘を実物と合わせて作れば完成だから、精霊の出番は終わりである。

 ミレイユは鎚を離して立て掛け、炉の方へと向き直る。縁に顔を載せて工程を見守っていたフラットロは、自分の役目を終えたと認識して立ち上がった。

 

「もういい? もう終わる?」

「……ああ、火を使う作業はもうない。ありがとう、フラットロ」

「また呼んで! すぐだよ!」

 

 ミレイユは苦笑して手を振った。

 

「それは約束出来ない。でも、必要になったら必ず喚ぶ。――またな」

「うん、またね! すぐだよ!」

 

 言うだけ言って、フラットロは大きく息を吸うと、次第に体が膨張してく。炉の中の火を吸い込んで消そうとしているのだ。

 火を全て飲み込み、満足そうに息を吐くと、その吐息が火炎放射器のように外へ出る。手を団扇がわりにパタパタ振って火を消すと、ミレイユにも大きく手を振ってポフンと小さな煙を残して消えていった。

 それを見送って、ミレイユはアヴェリンへ向き直る。

 

「さて、後の仕上げだが……」

「手分けした方がよろしいでしょう。極力簡素に済ませるなら、鍔も用意しない手もありますが……」

「そうだな……」

 

 ミレイユは汗を拭いながら考える。

 鍔は相手の武器から、自分の手を保護するのが主な役割。だが、相手を突いた際に、間違って自分の手を刃に滑らせて負傷することがないように、防護する役目もある。

 普段は木刀を使うから、鍔は無いのが自然だろうと思う。しかし、未だ武器の扱いを知らないアキラからすれば、その防御機能は便利に感じる事は多いだろう。

 

「……仕方ない、鍔も作ろう」

「でしたら、そちらは細工品の扱いとして、ルチアに任せてはいかがでしょう?」

「……うん、いいだろう。じゃあ、後は柄と鞘だが……、どちらがいい?」

「どちらも造り慣れていない所作なせいで、得意とも好みとも言えないですね。敢えて言うなら鞘でしょう。刀身に合わせるだけで、余計な装飾も必要ないでしょうし」

「そうだな、それについてはシンプルでいい。それじゃ、こっちは柄をやろう。柄巻は……うん、面倒の少ない糸巻きにしよう」

 

 柄巻とは、刀剣の柄を糸や革などで巻いた物で、柄の補強と手との一体感を高めるために施される。

 糸巻は水にぬれても固くならない、血がついてもすべりにくいなど多くの利点がある。その代わり破損しやすいため、度々巻き直さねばならないのが難点だった。しかし、それも魔術秘具にするなら問題は解決する。

 時として、糸の色を変えて楽しむという装飾品としての役目もあるのだが、巻き直しは見目よく形作るのは練習が必要になる。興味があるならやればいいと思うが、そこまで気を遣うのも面倒だった。

 

「どれほど時間が経った? 今は何日だ……? ここにいると時間が分からないのが難点だな……」

 

 箱庭世界に太陽があっても擬似的な光を見せる演出で、基本的に一日中その景色は変わらない。昼も夜もなく、持ち主であるミレイユが自分で変えてやらねばならないのだ。

 今日のように外から入ってきたタイミングが昼で、物事に没頭してしまったら、この世界にいつまで経っても夜はやってこない。

 

「まぁ、いいか……。仕上げは飯の後にしよう」

「その前に湯浴みをされては?」

 

 億劫そうに立ち上がったミレイユの背に向け、アヴェリンが言った。

 たっぷりと汗をかいたお陰で腹も減っているのだが、確かに言われたとおり、まずは汗を流す方が先決だった。

 

「そうだな……。面倒だが、先に済ませる」

「ええ、上がる頃には晩飯の準備も済ませておきますので」

「何から何まで済まないな」

「いえ、これしきのこと」

 

 アヴェリンが固辞して小さく笑む。

 ミレイユが頷き返して露天風呂へ足を向けた。

 そうして向かいながら、ミレイユは思う。鉄を叩くのは好きだ。火の光と熱を見つめて、一心不乱に鎚を振るうと、心が研ぎ澄まされていく気がする。

 

 アキラに対して気前よく武器を用意してやる、と言ったのも、これが理由だ。

 胸の内に抱えた何かモヤモヤしたものを、とにかく吐き出してしまいたかった。一打ちする毎に消えていくという程に単純なものではなかったが、それでも幾分、気持ちがすっきりしたのも事実だ。

 

 ミレイユは風呂に辿り着くと、カゴに衣服を放り込み、桶にお湯を汲んで身体に流した。

 幾度か繰り返し、簡単に汗を流して身体を洗う。二十四時間お湯が流れているお陰で、湯その物は汚れないが、これから来るアヴェリンなどが嫌な思いをしないよう、幾らか気にかける必要はある。

 

 そうして、とうとうお湯に声を出しながら身体を沈めて、深い息を吐く。相変わらずオッサン臭い仕草だった。ミレイユはお湯が身体を包む心地よさに目を細めながら、この後の柄巻作業へ構想を練り始めた。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 アキラがその日、家に帰ったのは日もとっぷりと暮れてからだった。

 週に二度ある道場に通う日が本日だったからだが、朝の鍛錬が響いて教室でも打ち身の痛みと疲れからくる睡魔で大変な思いをさせられた。

 

 重い体で引き摺るように帰宅し、一段一段が重い階段を登り切る。

 未だかつて無いほど大変な登段作業を終え、ドアノブを撚る。そして違和感に気付いた。

 

「――静かすぎる」

 

 アキラが感じたのは、それだった。

 ここ数日の事に過ぎないが、いつも騒がしかった室内に沈黙があるのは何かの前触れかと警戒を厳にする。昨日など余りの醜態を晒してしまい、思い出しても顔から火が出そうな思いだった。

 

 他の誰に見られても良いが、あのミレイユに小馬鹿にされるのも蔑まされるのも我慢ならない。これは単に男の意地に過ぎなかったが、恐らく彼女は何一つ気にしないだろう。

 気にしないというより、興味を示さないという方が正しいかもしれない。

 

 アキラはそろりとドアの内側に身を忍ばせ、ゆっくりと靴を脱ぐ。

 一応、顔を手の平でガードするように突き出し、リビングに繋がるドアを開く。室内は暗く、また人気(ひとけ)はない。何が来るかと身構えながら室内に踏み込み、そして左右へ素早く視線を動かす。

 片手は相変わらず顔面を、もう片方で付近に手を伸ばし、誰かいないか警戒する。

 

「……あれ?」

 

 しかし、いつまで経っても何も起こらないし、誰かが声を掛けてくる訳でもない。

 拍子抜けしたところで、これが罠なら今仕掛けてくる、と閃いた。

 咄嗟に抜けかけていた気を張り直し、再度、今度は大袈裟にも思える動きで左右を警戒してみたが――。

 やはり何も起こらず、室内は沈黙を返すのみ。

 

 アキラは部屋の電気を付けて、やはり何者もいない事を確認する。

 カーテンを閉めて、テーブルの上に鎮座する例の小箱に触れてみた。意味はないだろうと思いつつ、ミレイユがやっていたように上から二度叩いて上蓋を開けてみる。

 しかし、そこには予想とおり、何もない底が見えるだけ。

 

「まぁ、そういう事もあるか……」

 

 そもそも、この二日が異常だったとも言える。

 家に帰れば誰かが迎えてくれるという――それが傍迷惑に過ぎないのだとしても――期待が、どこかにあったのかもしれない。

 

 食事の準備をしている内にやってくるのだろうか、と思いながら鞄を置いて制服を着替える。準備がいるなら人数分の食材も、とりあえずすぐ使えるようにしておかなければならない。

 

「……そういえば、ミレイユ様にその辺聞くの、まだだったな」

 

 独り言が室内に響く。

 たった数日の事なのに、それまでずっと独りで暮らしていたのに、独りきりの室内が余りに寂しく感じた。

 

「こんな、おセンチな性格してたかな……」

 

 ――自分としては、そこまで寂しがり屋だとは思っていなかったのだが。

 とにかくアキラは夜ご飯の準備を始めた。時折小箱に視線をやっても誰かが来る気配はなく、ついに食べ始めても、食べ終わっても誰一人来る事もなかった。

 

 食後に皿洗いをして、ネットを見て適当に時間を潰しても、やはり誰か来る気配はない。

 ついぞ寝る時間になっても、誰も来なかった。

 ベッドの中に入り込み、布団を頭から被って眠る。

 

「朝のトレーニングがあるんだ。早く寝ないと……」

 

 そう、明日になれば分かるだろう。

 そもそも毎晩帰りを待っていて、夜も一緒に食事をとる約束なんてしていない。ここのところ連続してあった事だから、今日もあるのだろうと思い込んでいただけだ。

 そう自分に言い聞かせ、布団を掴んで顎まで引き上げ横向きになる。

 

「別に大した事じゃない。昨日が最後の機会だった訳でもなし……」

 

 しかし、そうは思っても、残念な気持ちがあったのもまた確かだった。

 



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希求 その5

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 

 翌日、アキラが目覚め、運動服に着替えを済ませて顔を洗っている時だった。

 先に準備運動だけでも済ませておこうと部屋を出ようとして、アヴェリンが現れた事に気づく。その表情から疲れが見え隠れしていたが、とりあえずアキラは挨拶をした。

 

「おはようございます」

「ああ、おはよう。今からか?」

「はい。とりあえず、走って身体を温めて来ようかと」

「……ふん。ならば、そうしろ。こちらも準備を進めておく」

 

 アヴェリンも肌着のような袖の短い麻布と、同じような材質に見えるズボンを履いていた。首を大きく巡らせてから、コキコキと骨を鳴らす。

 一緒に走るという意味かと思ったが、アヴェリンはまたすぐに箱の中へと戻ってしまった。待っていろという意味じゃないだろうと思い、アキラは靴を履いて部屋を出た。

 

 朝日がこれから顔を出すという時間帯、山の稜線が僅かに光が覗かせていた。

 アキラは大きく深呼吸をして、その場で足の靭帯を延ばし、股関節を広げて膝に手を付き、身体の柔軟を始める。

 柔軟の重要性は言うに及ばず、怪我を防ごうと思えば疎かにする事はできない。とはいえ、ここで時間を使いすぎても、恐らくアヴェリンは怒るだろう。

 疲れ切った後の寝起きの身体は凝り固まって、なかなかすぐには起きてくれない。

 昨日の訓練を考えれば、念入りぐらいが丁度いいと思うのだが、あまり悠長にしてれば怒りの投げ飛ばしを喰らう。

 

 手早く済ませて、アキラはアスファルトを蹴った。

 軽めのランニングと、瞬発力のダッシュ、緩急をつけた走り方をしながら周囲の道路を一周する。アパートの前を通っても、まだアヴェリンは出てこない。

 三周目が終わった時、アヴェリンが階段を降りてくるのが見えた。丁度軽めのランニングのパターンだったので、そのままの勢いでアパート前で止まり、肩で息をしながら整える。

 

 降りてくるのを待っていると、何か手荷物を持っていると分かった。

 アヴェリンの手には、一本の棒と袋に包まれた棒状の何かがある。

 

「……ほら」

「はい?」

 

 無言でそれを突き出されて、思わず受け取る。ずっしりと重く、鉄製の何かだとは当たりがついた。アヴェリンが手に持っている棒も鉄製なので、もしかしたら同じものなのかもしれない。

 

「あの、これは……?」

「とりあえず、もっと広い場所に行く。音を立てても迷惑にならない場所がいい。……どこか当てはあるか?」

 

 言われてアキラは考え込む。

 空は既に白ずみ始めていて、朝の早い人なら起き始める頃だ。犬の散歩をする人もやはりそろそろ活動を始める時間帯、音を立てれば迷惑になること間違いない。

 

 近所の公園のような場所は駄目だろう。周りは住宅地になってるし、程々の広さはあるものの、やはり音を立てると絶対に迷惑になる。

 アキラはちらりとアヴェリンの手元に目をやる。

 昨日と違い、棒を持っての訓練というなら、あれを打ち付け合うような事をするのだろう。だったら尚の事、この近辺で行う事はできない。

 

 そこまで考えて、いつもと違う行動範囲に牧場跡地がある事を思い出した。

 近くには中学校もあるが、そこは住宅地から離れていて迷惑をかける人もいない。ベッドタウンとして開発が進めば、その周辺も住宅が建てられていたのだろうが、残念ながら移住者も伸び悩み、結果として過疎地になってしまっている。

 

「ちょっと離れているんですけど、いい場所があります」

「では、案内しろ」

 

 簡潔に命じて、アヴェリンは顎でしゃくる。

 アキラは走るには重い棒をどう持ったものか考えて、とりあえず片手でバトンのように掴んで振ってみる。持ち重りがして、このまま走るには片方に重心が寄り過ぎてしまいそうな気がした。

 アヴェリンを見ると、特に気にした風もなく、アキラと同様に棒を持っている。

 

 とにかく走ってみなければ始まらないと、どうにも持て余し気味の棒袋を握り締めて地を蹴った。

 

 

 

 

 ――体力の差というのを馬鹿にしていた。

 アキラは目の前を走る背を見ながら、そう思った。

 簡単に行き先を告げて、次の信号を先に進むと言った途端、アキラを越して先に言ってしまった。チラリと背後を振り返り、アキラと視線が合わされば、それは着いてこいと告げている気がした。

 だから必死に背を追うのだが、いつまで経っても追いつけない。

 足の回転を早め、追いつけないと分かるや更に早めて、それでも尚追いつけなかった。

 まるで、出来の悪い悪夢の中に迷い込んでしまったかのようだった。

 

 一般に、世界選手権に出場するような女性選手のフィジカルと、日本の全国大会決勝の高校生男子のフィジカルが同等とされている。

 アキラは決勝進出できるような実力を持っていない。しかし、だからこそ、体力勝負なら勝てはせずとも、大きな負けはないと思っていた。

 

 必死に足を動かし、息切れをしながら腕を振り上げても追いつけない。

 アヴェリンがアキラの足音を聞いて速度を調節しているのだ。明らかに速度はアキラ以上を維持しているのに、時折ちらりと向ける顔からは涼しい表情が返ってくるばかり。

 息切れ一つしていない。

 

 更に、ここに来て鉄の棒が入っていると思しき袋も邪魔になっている。

 持ち慣れない重さの荷物は、余裕のない走りにはとにかく邪魔だ。それを理由に追いつけないのだ、と自分に言い訳して、とにかく走る。

 

 信号を越えて、更に走り続けると草原が見えてきた。

 草原というほど立派なものではなく、ただ誰も刈り入れをしないせいで伸び放題になった雑草ばかりの原っぱだった。

 遠くには一件だけ民家があり、そちらは今も人が住んでいるようだった。家も大きく車も何台か見える。家の後ろに見える農地が、その人の土地なのかもしれなかった。

 

 アヴェリンが足を止めたのを見て、アキラもまた止まる。

 額に汗して息を切らし、両膝に手を着こうにも棒袋が邪魔で、仕方なしにそれを杖代わりにしようとして、頭を叩かれた。

 あまりに小気味よい音がして、驚きと痛みで仰け反る。

 

「――ぁ痛っ!」

「何をするつもりだ、馬鹿者」

 

 痛む頭頂部を撫でながら顔を上げると、怒り心頭のアヴェリンから睨まれた。

 その美貌は不機嫌顔であるのにも関わらず、些かも霞まない。怒り顔が似合う人だな、と不謹慎にも思ってしまった。

 その内心を悟った訳でもないだろうが、アヴェリンはもう一度平手で側頭部を殴って棒袋を指差した。

 

「いいか、それを自分の妻とも女とも思って丁重に扱え。疲れたからと寄り掛かる者がいるか」

「え、あの……はい。すみません」

 

 アキラは訳が分からず、とりあえず頭を下げた。

 そんなに貴重な物を持たせるなら、一言いってくれても良かっただろうに、と不満を滲ませるも、本人を前にそんなこと言えよう筈もない。

 どうせまた一つ叩かれるだけだし、そもそも師匠として鍛錬を授けてくれる相手に反論も弁論も必要ない。

 少なくとも、まだ歩き出してもいないヒヨッコの自分に、何かを意見する権利などないと理解している。

 

「でも、これ一体なんなんです? そろそろ教えてくれてもいいのでは……」

「じゃあ、袋の紐を解いてみろ」

 

 言われるままに口紐を解き、蓋のように閉じられた頭部分を開くと、目に入ったのは柄の頭だった。時代劇で見た事がある、刀の柄にある頭のように見える。

 すこし視線をずらせば、柄より下、網目のような柄巻きも見えてきた。

 実際にテレビで見るような派手さはない。鍔にもガラはなくシンプルなもので、芸術性を削った実用性重視というコンセプトが見えるような一品だった。

 

「これは……!」

 

 更に袋の中に手を入れ、中から全て取り出して全貌を確認する。

 鞘の方もやはり遊び心も華美な装飾もなく、実用性重視である事が伺える。だがそれが返って気品を感じさせた。

 

 なるほど、これは言われて当然だ。昨日、二人が言っていた自作する刀というのがコレの事を指しているなら、無礼な真似が出来る筈もない。

 

 アヴェリンは両手に捧げ持って視線の高さまで上げるアキラに、簡単な解説をする。

 

「刀身はミレイ様と私が共同で作った、玉鋼の柔堅合い金造りだ。切れ味を増やす為、刀身はわざと荒い研磨に留めた。鍔は鉄製、錆止めが塗ってあるくらいで特別な事はない。柄巻はミレイ様が直接巻いた。糸は防腐効果の高いメジロ糸。鞘は私が、特殊な蝋を浸かって塗り込み、炭を使って研磨した。滑り止めにもなり、持ち手の負担を軽減する」

「手間が掛かってるんですね……」

「そうでもない。むしろ手抜きの部類だ」

 

 これ程の一品を見て、アキラは身震いするような気持ちがした。受け取ってしまっていのか、という思いと、誰にも渡したくない、という二つの気持ちがせめぎ合う。

 到底、昨日渡した端金では釣り合わない一品が、そういう気持ちにさせるのだろう。

 

「でも、いいんですか? 僕には分不相応というか……」

「勿論、そうだ」

 

 アヴェリンはきっぱりと頷いた。

 

「それには最低限の品質しかないが、それでもミレイ様が手ずから作られた品。お前には勿体ない。それに、その刀には二つの魔術が付与されている。それ一つで他の装備一式が揃えられる程になる」

「一式……?」

「頭を守る兜から、足元を守る脛当てまで。加えて旅道具だとか食料品とか、おおよそ冒険初心者の装備一式分の値段以上の価値が、間違いなくある」

「それでも手抜きの品なんですか……」

 

 アヴェリンはまたも頷いて、鞘をなぞるように指を動かす。

 

「この武器には不壊の魔術が掛けられている。つまり、同じ金属で幾度となく打ち付けようと刃こぼれしない。血や油で錆もしないし、柄糸が腐る事もない。あくまで身嗜み程度の手入れをするだけで、一生使える代物だ」

「す、凄いじゃないですか……」

「まぁ実際には、己の実力が上昇するにつれ、その切れ味などに不満も出てくるだろう」

「出ますかね……?」

 

 アキラが胡乱げに言えば、アヴェリンは小馬鹿にするような笑みを浮かべる。

 

「切るものが常に変わらなければ、勿論そうだろう。だがより強い魔物というものは、より強い外皮を持っているものだ。鱗、甲殻、骨格、筋肉、刃の通らない相手など幾らでも出てくる。――より強い敵と戦うつもりならば」

 

 言われてアキラはハッとした。

 小さな小競り合い、小さな相手、そればかり相手にするのなら、確かに武器に不満など生まれないだろう。

 だがもし、より強力な相手と戦わなければならないなら。

 そして倒した敵より、更に強い敵が襲って来たなら。

 戦う意志があり、臆するつもりもなくても、刃が通らないのなら、別の武器を望むしかない。

 そういう事なのだろう。

 

「でもまずは、武器に慣れないと、ですね……」

「そうだな。だから不壊の特性を付けたとも言える。どうせ慣れた武器で訓練しないと、実戦では役に立たん。そして訓練で武器を潰しているようなら意味もない」

「……はい。でも、だからって、わざわざそんな手間を掛けてくれたんですか?」

 

 アヴェリンは明らかに、不愉快そうな顔で眉を顰めた。

 

「そんな訳ないだろう。どうせ、お前に手入れをしておけと言っても出来ないだろうからだ」

「ああ、はい……」

 

 それは確かにその通りだが、教えてくれればやるし、やれるようになる。

 とはいえ、彼女からすれば、単にその手間を煩わしいと思ったのかもしれないが。

 そこでふと、先程アヴェリンが言った事で、気になる単語があった。

 

「えぇと、二つ? 魔術を二つ付与したと言ってましたけど、もう一つはどういう効果なんですか?」

「お前はそれを知らなくていい」

「えぇ……?」

 

 吐き捨てるように言わられて、アキラは思わず肩を落とす。

 嫌悪感すら剥き出しにして、アヴェリンは睨みつけながら人差し指を突きつけてきた。

 

「いいか、ミレイ様が決めた事だから、二つの付与に文句は言うまい。しかしだ、二つ目を知れば、お前は必ずそれに頼る。頼る事が前提になり、必要な努力を疎かにする。だから教える時期は私が決める」

 

 言葉の端々に嫉妬が見え隠れしたが、アキラは言葉を飲み込んだ。

 それがどれだけ魅力的な効果なのか、今は知りようもないが、故に知ったら頼る葛藤が生まれるのだろう。知りようもないなら、確かに使用も出来ないのだから。

 アキラは、善意のような悪意を受け止めながら、しっかりと頷く。

 

「分かりました。その時期についてはお任せしますので、よろしくお願いします」

「……ああ。その時が来ることのないよう、祈っておこう」

 



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希求 その6

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 物騒な雰囲気も感じながら、刀をベルトに差して、その上できつく締める。だが、どうも収まりが悪い気がして、何度か位置を調節するが、それでも納得できる部分が見当たらない。

 まごついていると、アヴェリンが手で制して声を上げた。

 

「さっさと始めてしまおう。鞘はずり落ちなければそれでいい。今は最悪落としてもいいしな」

「はい、分かりました」

「時間も随分かかってしまったし。……どれくらい待たせていた?」

「はい?」

 

 アキラは思わず首を傾げたが、昨日の夜に来なかった位は誤差の内だろう。

 むしろ昨日の今日で武器を拵えて来た事を考えれば、早すぎるくらいだ。

 

「昨日の夜の話じゃないですよね? 朝もいいタイミングでしたし……」

「……うん?」

 

 一瞬考え込む仕草を見せたが、すぐに納得したように顔を上げた。

 

「ミレイ様が時間を操作してくれていたのか」

「は? 時間を……時の流れを変えられるんですか!?」

「ミレイ様自身にあるという訳でなく、あの箱庭で過ごす時間が可変可能なのだ。外に出ると時間が一気に進んでいることもあれば、全く逆な事もある。箱庭に、そういう機能があって、それをミレイ様が操作している」

 

 アキラは空いた口が塞がらない思いだった。

 それはつまり、箱庭で過ごす限り、人より随分長く生きる事が出来るという意味になりはしないか。いや、相対的にウラシマ効果みたいな事に、なるだけなのかもしれない。ある日いきなり老いたミレイユが出てきたら、相当なショックだ。

 

「凄いんですね……」

「……ああ。これは余り外で言う事ではなかったな。大体、お喋りしている時間も勿体ない。お前の朝飯が何時かは知らんが、それまでに戻ろうと思ったら、後どのくらい時間がある?」

「……え、はい。多分、一時間かそれよりもう少しか、それぐらいだと思います」

「幾らもないではないか。――早速、始めよう」

 

 アヴェリンが片手に持った鉄の棒を無造作に構え、アキラに相対する。

 アキラも慌てて武器を――刀の柄に手を置き、慣れない手付きで鞘から抜く。金属の擦れる僅かな余韻を残して刀身が顕になる。

 陽の光を受けて反射した刀身は、見事な美しさと力強さを体現をしていた。

 玄人の目からすれば、色々とケチを付けたくなるような出来だったとしても、これが自分の物として作られたと知れば、どんな物より美しく思える。

 

「あぁ……!」

 

 思わず感嘆の声が口から漏れた。

 いつまでも見つめていたい誘惑を跳ね除け、刀を両手で正眼に構える。

 昨日は武器もなく、ただの体力・筋力テストを兼ねた組手だったが、そこでは一方的にボコボコにされた。

 

 そもそも格闘技を習った事がないのに加え、とにかくあらゆる力に対抗できず地に転がされた。組み合っては腕力に勝てず組み敷かれ、殴れと言われて殴ればあしらわれ、好きなように接近を許してこれでもかと投げられた。

 

 しかし、今日は武器がある。

 普段は木刀で、手に持つ武器の重さは比較にならないが、それでも素手より上手くやれる自信があった。得意分野の勝負となれば、昨日のような無様は見せつけずに済むだろう。

 

 そう思って、アキラは柄を両手で握りしめる。

 まだ糸の反発が硬く、重く、まったく握り慣れないが、それでも武器を振るう事には多くの努力を割いてきた。道場の中でも実力は上位に食い込むものではない。

 ――それでも少しは、良いところを見せてやる。

 

 アキラは気合を込めて腹に力を込め、アヴェリンを見据えて斬りかかる。

 怪我をさせるかもしれない、とは全く考えていなかった。真剣を振り下ろす事に対する危機意識、相手を殺しうる武器を振るっているという事実。それらの考慮をするには、アヴェリンの構えが胴に入りすぎていた。

 

 アヴェリンは自分が怪我を負うとは全く思っていない。

 何なら、抜身の刀を武器とすら認識していないのかもしれない。それほどまでの自然体を前にすれば、アキラが気にする必要などないと思った。

 

「ハッ!」

 

 振り下ろす動作と共に息を吐く。

 アヴェリンはそれを半身になって避けて、代わりに武器を振るってくる。

 咄嗟に刀身で受け止め、そして凄まじい衝撃で身体が浮いた。甲高い音が耳に響き、次いで握った手が、指が、腕に衝撃がやってくる。

 下から掬い上げるような動作だった為、正眼の構えのまま受け止めたのだが、それで吹き飛ばされるとは思ってもみなかった。

 

 宙にどれほど浮いていたのかは分からない。

 しかし高さはそれ程でもなかったらしい。足をつけた衝撃は大きくなかったものの、三メートルは距離が離れていた。

 

「ひと一人を三メートル吹き飛ばす膂力、まるで漫画の世界だ……!」

「何の世界かしらないが、この程度、出来て当然の世界の住人ではある。喋っている余裕があるのか? こちらから攻めた方がやりやすいか?」

 

 未だ痺れが残る腕で武器を振るえばスッポ抜ける。

 攻めに転じずにいられないでいると、アヴェリンの方から動き出した。

 アヴェリンは片手で上段から棒を振り下ろし、アキラはそれを後ろに避ける。更に一歩踏み込んで来たところで横に避ければ、全く同じ速度で距離を詰めてくる。

 更に横に後ろにと逃げても、常に一定の距離を保って動いていて、攻めて来るのを待っているかのようだった。

 

「――それなら!」

 

 アキラは手首を狙って刀を振り下ろす。小さな予備動作から放たれる突きとも打ちとも言えない、その中間ほどの攻撃は、アキラが打てる最速の攻撃だ。

 アヴェリンはそれを手首を返して、いとも簡単に弾くと、隙だらけになった胴に棒を打ち付けた。

 

「ごっ!」

 

 脇腹を殴られ悶絶する。

 三メートル吹き飛ばすような威力ではないので、手加減はされたらしい。身を捩りたくなる痛みに我慢して、震える息を整えながら正眼に構え直す。

 

 アヴェリンは持ち直すまで待ってくれていた。

 距離は一定を保ったまま、自然体で構えてアキラの攻撃を待っている。

 腕の痺れはもう取れた。だが脇腹の痛みが腕を上げれば引きつって、やはり本領は発揮出来そうにない。同じように狙えば、やはり同様に弾かれて同じ場所を攻撃されてしまうだろう。

 

 されど、どこを攻撃しようにも受けられてしまうような気がする。

 剣の迷いが切っ先を揺らし、動揺を見て取られて動きを許した。切っ先を跳ね上げられ、咄嗟に引き戻す動作で相手を迎え撃とうとし、その時にはもう懐に潜り込まれていた。

 刀の柄、両手で握ったその部分で押し返そうとして、逆にその部分を掴まれた。

 

 捻って曲げられ、身体も一緒に態勢を崩す。

 その晒した隙に、棒を強かに打ち付けられた。

 

「グホッ!」

 

 痛みのあまり顔が歪んで膝をついた。

 刀を杖代わりにしないよう横に向け、そして目の前に足がある事でチャンスかと思った。横薙ぎに刀を戻し、肘を内側に入れるようにして振るう。

 しかし刀を踏みつける事で防御し、動きが固まったところで肩に一撃を受けた。

 

「あがッ!」

 

 痛みに耐えきれず、また踏みつけ動けなくなってしまった刀から手がスっぽ抜け、地面に転がるように倒れる。そこに腹へ蹴りが飛んで来て、為す術もなくふっ飛ばされた。

 

「うぐ、ぐぐっ……!」

「痛がってる暇があったら立て」

 

 立ち上がる気配がないアキラに、容赦ない激が飛ぶ。

 言われるままに立ち上がり、脇腹を押さえながらアヴェリンを睨みつけるようにして見る。

 

「武器を手放してどうするつもりだ。踏まれてるから、なんて下らない理由を口にするなよ。蹴飛ばされる前に対応しなければ、お前にこれから何が出来る?」

「……はい、すみません」

 

 道場の練習では、そもそも木刀は使っても、あの態勢から攻撃をするのはルール違反だ。本来なら咎められる方法だろう。当然、更に踏みつけて防御してくる相手に対処する方法など教えてくれない。

 

 アヴェリンが何でもありの戦闘方法を指示していたのは、昨日からだ。

 そもそも、敵からしてルールを遵守するような戦い方をしない。訓練で培うのは基礎能力であって、戦う力は実戦でしか身につかない、とアヴェリンは言った。

 

「敵は人型ばかりではないが、だからこそヒトより優れた身体能力を持つものだ。足ではなく、尻尾やあるいは他の何かで武器を無力化してくる事は珍しいことではない。手放すのではなく、対処が必要だ」

「でも、留まっても危険ではないでしょうか」

「……そうだな。ただ、やりようは幾らでもある」

 

 アヴェリンは手招きすると、立ち位置を入れ替えてアキラに刀を踏ませた。

 逆にアヴェリンが棒を渡す代わりに柄を握って、同じように蹲るような態勢を取る。

 そこで顔を上げて挑発的に言い放った。

 

「さっきと同じ状態だ」

「……はい」

「そこから蹴るなり武器を振るうなり、好きにやってみろ。自分が躱せないと思う一撃を、私に加えるんだ」

「分かりました」

 

 言われた通り、アキラはこの状態から躱せない攻撃を繰り出そうと考えてみた。

 あの時の咄嗟だと、ここから武器を振るって刀を握る力を奪う、というのは理に適っているように思う。同じ方法で行えば、それを見越して躱されるのだろうか。

 違う方法を考えてみろ、と言われたような気もするが、やはりこの状態からどう躱すのか、それを知りたいと思った。

 

 刀を踏みつけた左足に重心をかけ、右足を蹴り出そうとフェイントを掛け、棒を肩に振り下ろす。

 アヴェリンは刀を握った手を離さず横転するようにそれを躱すと、勢いそのままに刀を捻り上げて振り上げる。その勢いに押されて足が浮き上がり、咄嗟に踏み直そうとした時には遅かった。

 下から振り上げられた刀が、太腿に触れた所で止まっている。

 

「なかなか小賢しい真似をするな?」

「はひ、すみません……」

 

 アヴェリンは太腿に触れた刀を離して、小さく笑う。

 

「まぁ、対応力というのは一朝一夕では身に着かないものだ。だから常に考えておく必要がある。これからは武器を持って戦うのだから、武器を手放す状況の切り返し方は覚えろ」

「でも、あの方法は僕には無理ですよ。力押しじゃないですか」

 

 思わず、口を尖らせて不満を言ってしまった。我ながら情けない言い分だと思う。しかし、あのような手本にならない方法を見せられては参考にも出来ないというものだ。

 

「同じ方法が今のお前に難しいのは確かかもな。だが、あれは力だけでやったものじゃない。腕の回転、肩の回転、腰の回転、そしてそれを地に伝える蹴りの瞬発力。腕の力というより、あれは足の力だ」

 

 そうと言われたらアキラも納得せざるを得ない。

 強い力だったし、アヴェリンの膂力の高さを知っていたからゴリ押しかと思った。しかし、あの足を持ち上げられた力は、上に押し出されたというより、斜めから突き上げられるような感じがした。

 どちらにしても、練習なしにアキラには出来ないという事だけは理解できた。

 

 アヴェリンは刀を手渡し、代わりに棒を受け取りながら肩を叩く。

 痛みに顔を顰めて抗議しようとした矢先、つまらなそうな表情と共に台詞が返ってきた。

 

「さ、続きだ。構えろ」

「や、やるんですか……。痛くて刀、握れないんですけど」

「お前は同じセリフを、襲ってくる相手に言うつもりか?」

「……はい、すみません」

 

 ぐうの音も出ない反論にアキラは素直に謝罪して、痛む肩を意思の力で捻じ伏せながら刀を構える。思わず眉間に皺が寄って睨む形になってしまったが、アヴェリンはどこまでも自然体だ。

 どう攻めようかと迷う間に接近され、あっという間に武器を飛ばされる。

 何の反応も出来ないでいた自分を恥じていると、顎をしゃくって武器を取るよう促される。

 

 アキラは促されるまま武器を取り、構え、そして武器を弾かれ腹を殴られた。

 それは時間が来るまでひたすら続き、アキラは悶絶して地に伏せる。長く苦しい時間の始まりだった。

 



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希求 その7

「いつまで寝てるつもりだ。早く帰るぞ」

「ちょ……、ちょっと待って下さいよ……。無理です、絶対無理……!」

 

 仰向けに転がり、息も絶え絶えに返事が返すのがやっとで、とても立ち上がる体力は残っていない。アキラは起き上がろうと努力したが、頭が持ち上がるばかりで、腹筋はとうに音を上げていた。

 

 あれから一時間、打っては打ち返され、躱せば追い詰められた。そして時に投げ飛ばされ、時に蹴り飛ばされる行為が繰り返し行われた。

 寝転がっていると容赦ない追撃が来るので、起き上がらなければ痛い思いをするだけだ。それが分かっているので、とりあえず痛みを抑え込んで立ち上がるだけはした。

 

 しかし、相手はまるで厚い壁か要塞を相手にしているかのようで、何をしても押し返される。防御と回避に専念しようとしても、相手の方が数段上手(うわて)で、どうやっても即座に突破されて転がされた。

 

「もう少し、手心を……っ! 加えてくれても、いいんじゃ……! ないですかっ!」

 

 息を整えつつ嘆願しても、返ってくるのは梨の礫のような返事だった。

 

「甘ったれるな。お前の弱さには、ほとほと呆れさせられる。お上品なお貴族道楽とは違うんだ、身体に叩き込まなくては覚えられん。泣き言の前に自分の弱さを嘆いていろ」

 

 吐き捨てるように言って、アヴェリンはアキラを抱え起こす。

 抱え起こすというよりは、腕を持ち上げて無様な姿で起こされた、という方が正解な気がする。とにもかくにも、立ち上がらされて何とか両足で大地を踏む。

 足は震えて酸欠で頭も痛いが、それでもこれから家に帰り、学校の準備をしなくてはならない。

 

「へぇ……、はひぃ……!」

 

 口から情けない声が漏れて、眉も情けなく垂れ下がった。

 これから朝食を食べる元気は取り戻せそうになく、ご飯抜きで登校する事になるだろう。そして、この疲労困憊の身体で放課後まで生き抜かなくてはならない。

 想像するだけで気が滅入る思いだった。

 

 しかし、そればかりではない。

 恐らく、この生活が長らく続くのだ。朝に足腰立たなくなるまで扱かれて、朝食を摂る元気のないまま登校するような生活が。

 アヴェリンの合格が貰えるまで。

 

 アキラは心の奥底から涙が漏れ出るような感じがした。

 しかし、これは自分が望んだ事なのだ。

 ――自分の守れる範囲で守れる人達を守りたい。

 それを可能とする手段を、いま与えられている。全く足りないという指摘は当然で、躊躇も遠慮もない暴力で襲ってくる相手に、アキラが十全に立ち向かえる筈もない。

 

 当初は楽観的に考えていた、最低限をこなせる実力が、今や遥か遠くに感じられる。しかし、やると決めたからにはやる。心が折れる音が聞こえようと、接着してでも続ける。それだけの気概はあった。

 

「ふぐ、ふぐぐぅ……!」

 

 しかし、気概だけで身体は動いてくれない。

 生まれたばかりの子鹿のように足を震わせ、支えがなければ崩れ落ちてしまいそうになる。

 その様子を見て、アヴェリンが呆れを存分に含んだ溜め息と共に問いかけてきた。

 

「ハァ……。それで、歩いて帰るか? それとも背負ってやろうか?」

「……歩きます。歩いて帰ります……!」

 

 アキラは抱えられていた腕を振りほどき、刀を袋に収めながら歩き始めた。

 しかし、その歩みは遅々として進まず、時折ふらついては震える足を叱咤して、それでも歩き続ける。それは老人の歩みと変わらない程に遅いものだ。

 

 しばらくはその歩みに付き合っていたアヴェリンだが、とうとう痺れを切らしてアキラを抱え上げる。米を肩に載せるかのようにして、刀袋も奪い取り、己の棒と一緒に一握りにして歩き始めた。

 

「ちょっ……! 大丈夫です、自分で歩きますから!」

「お前のヨチヨチ歩きを見守っていろとでも言うつもりか? 私が帰るのは何時になる? 置いて帰れとでも?」

「そうです、置いて帰って下さい」

「それでお前が倒れ、一日中日干しにされでもしたら、私がミレイ様にお叱りを受ける。いいから黙って運ばれろ」

 

 思わず身を捻ったアキラだったが、強引に掴まれ降りるに降りれず、結局は成すがままに背負われる事になった。

 アヴェリンの歩みは軽快で、男一人の重みを感じさせないほど安定したものだった。

 しばらくそうして運ばれていると、縦揺れも殆どしていない事に気が付いた。

 

 重心の位置からの体幹のブレが殆どないのだ。

 アキラも剣術をやっているから分かる。剣を持って摺り足で近づくのは、一撃を加える一瞬を重心の安定させた位置から行う為だ。上下左右、どちらに動きが傾いても、理想の一撃は放てない。

 

 だが普通に歩けば、その歩行の性質上、上下に動きが発生しやすい。

 それを補う歩法が摺り足なのに、アヴェリンはそんな事をせずとも重心の位置を固定し動く事が出来るのだ。

 恐らくは、走りながらこれだけ安定した重心を維持できるなら、動いていながらでもも同じ事ができるだろう。

 アヴェリンの強さをまた一つ垣間見た気がして、尊敬の意を強くする。

 

 しかし、とアキラは思う。

 思わずボヤいただけのつもりが、口に出ていた。

 

「田舎で良かったな……」

「なに? 何か言ったか」

「あ、いえ……。こんなところ、他人に見られたくないですから」

「ああ……。だが、これから住宅地に入るだろう。無駄な願望だったな」

 

 言われてアキラは、言葉に詰まる。

 そう、見られず済むのは今だけだろう。このペースだと、二分も掛からず住宅地に入る。早起きの人には目撃されてしまうに違いない。

 今日はなるべく遅起きの人が多くいますように、と願いながら、アキラは背負われるがままに足を揺らした。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 部屋の中にあるソファとテーブルを移動させて、いつものように代わりの家具を召喚した辺りで、階段を昇ってくる音が聞こえてきた。

 ミレイユは手早くテーブルクロスも用意して、ルチアに合図してパンやミルクを用意させる。朝食のメニューはいつも変わり映えないものだが、今日ぐらいはアキラに合わせて内容を変更させれば良かったかもしれない。

 

 朝食のメニューがテーブルに並ぶと同時、アキラが玄関に頭から飛び込んで来るのが見えた。

 

「まるでアヴェリンの肩に載せられていたものの、家に着いたから投げ飛ばされたかのようだな」

「かのよう、じゃないです。正にその通りですけどね……!」

 

 アキラが痛みを堪えた涙声で、非難するかのような目でアヴェリンを見るが、本人はどこ吹く風。靴を脱ぎ捨て、アキラを足蹴にして部屋に入ってくる。

 

「見ていらしたのですか?」

「いいや」ミレイユは小さく笑う。「どうせ帰りの事を考えずに叩きのめして、案の定抱えて帰る破目になったのだろう、と思っただけだ」

「慧眼、恐れ入ります」

 

 アヴェリンが苦い笑みを浮かべ、やはりか、とミレイユが笑みを深くする。

 アヴェリンは鍛練用に用意した鉄棒と、刀袋を入り口脇の壁に立て掛け、自分の席に座る。

 アキラが這々の体で部屋の中に入り込むと、最近よく見かける家具が部屋を占領していて、まさかと期待に胸を膨らませる。

 ミレイユがアキラにちら、と視線を向けて、小さく頷く。

 

「ルチアに朝食を用意させた。食べる時間にも余裕はないだろうが、何か腹に入れておけ」

「あ、ありがとうございますぅぅ……!」

 

 アキラは嬉しくて涙が出そうな勢いだった。

 相変わらず這うようにして席に近付いて、椅子の縁を握って立ち上がる。震える足を叱咤して立ち上がり、全体重を乗せるように椅子へ座り大きく息を吐いた。

 その一部始終を見ていたミレイユは、その滑稽な姿に笑みを隠せなかった。

 

「おはよう。……しかしまた、随分と痛めつけられたようだな」

「おはようございます……はい、本当に酷いです。ボコボコにされました。多分、私怨も入ってました!」

「……私怨?」

 

 ミレイユが怪訝になって訊けば、アキラはこくこくと頷いて続きを話す。

 

「そうなんです、ミレイユ様。鍛練を始める前から機嫌が悪くて、というか刀の説明をした辺りから、明らかに機嫌が悪くなってました」

「……そうなのか?」

 

 ミレイユがアヴェリンに顔を向けて訊けば、返ってきたのは朗らかな笑顔だった。

 

「まさか。そのようなこと、あろう筈がございません。不機嫌なのは、これの脆弱さに対してですよ」

「ふぅん?」

 

 ミレイユが再びアキラに視線を戻せば、浮かべているのは苦い苦い表情。脆弱と言われた事にも、私怨についても、両方について快く思っていないようだった。

 

「そのような事、どうでも良いではありませんか。それよりも、アキラ。お前、何よりも先にミレイ様へ礼を述べんか。無礼だぞ!」

「……そ、そうでした!」

 

 アキラがハッと表情を崩し、両手を足の付根に置いて、ツムジが見えるほど頭を下げた。

 

「あの、刀! 本当にありがとうございます! 僕なんかの為に、あんな立派なもの用意してくれて、本当に感謝しています!」

「うん、お前の志に敬意を表して、とでも思っておけ。実際のところ、私は今でも逃げ出せばいいとすら思っているが……。でも、やる気なんだろう?」

「はい、やります」

 

 アキラは顔を上げて言い切った。その視線は、どこまでも真っ直ぐで揺るぎない。

 

「今日も沢山、痛い目を見たろう。自力で帰れないくらい、痛めつけられた。今日が休みなら、もっと長時間、鍛練を続けられていただろうな。もっとずっと苦しい思いをする筈だ。……それでも続けたいと思うのか?」

「はい、返事は変わりません」

 

 そうか、とミレイユは視線を切り、テーブルに肘をついて頬を乗せ、横を向いた。

 

「まだ死ぬ目にもあっていないから、そう強気の発言が言えるのかもしれんが。だがまぁ、まだ始まってすらいない、というのなら同じ事か」

「はい、怖い目にも死ぬ目にも遭ってないから言える台詞だと言われたら、確かにそうかもしれません。でも、だったら尚の事、死ぬ目に遭ってから己の進退を決めたいと思います」

「死ぬ目どころか、考える間もなく死ぬ事になるとは思わないのか。瀕死だからと、見逃してくれる相手はいないぞ」

 

 これにアキラは迷いなく頷いたものの、すぐに首を捻るようにして困った顔を見せた。

 

「分かっています。死ぬのは嫌だし怖いです。でも、自分がどうにか出来たかも、と迷いながら思い詰めるような事だって、やっぱり嫌だし怖いです。……上手く言えないですけど、僕はもう嫌な事から目を逸しているんです。その、より嫌な方から目を逸した結果が、いま僕の立ってる位置なんです」

 

 ミレイユは目だけ動かしアキラの表情を見て、小さく笑う。

 

「面白いことを言うやつだ。……ま、武器を渡した時点で、私はお前を認めている。好きにすればいいが……」

「はい、ありがとうございます」

 

 アキラはもう一度頭を深く下げ、数秒姿勢を維持した後で顔を上げた。

 ミレイユはそれをつまらなそうに見ていたが、ルチアが自分の横に立ったのを感じて、身を起こして椅子に背を預ける。ルチアがパンや食器を置いて行くのを見ながら、アキラを指差す。

 

「こいつの傷を癒やしてやれ。このままじゃ学校にも行けないだろう」

「あら、大盤振る舞いですね」

 

 ルチアが次に、アキラの前へパンとスープを用意しながら魔術を使う。

 白い光がルチアの手から広がり、アキラの肩に触れると、そこから流れるように光が移っていく。

 アキラは自分自身の身に起きている事が信じられず、ルチアと己の腹とを交互に見ていた。光が数秒で収まると、服を捲って傷を確かめる。

 おそらくは青痣、擦り傷、その他諸々、大小様々な傷があったのだろうが、綺麗さっぱり消えている。

 アキラは喜色満面の笑みでルチアに頭を下げた。

 

「ありがとうございます、ルチアさん! これで体育の着替えでは、変な事言われずに済みそうです」

「そうですか。よく分からないですけど、良かったですね」

 

 小馬鹿にするような笑みを浮かべて、ルチアは次にアヴェリンの前へ朝食を用意し始める。その時、箱庭からユミルが出てきた。欠伸混じりで自分の席につくと、アキラの前に緑色の液体が入ったガラス製の筒を置いた。



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希求 その8

こちら、二話連続更新の二話目になります。
お読みになる際、ご注意下さい。


 そのガラス管の先端はコルクで蓋がしてあり、一見すれば化学室に置いてある試験管のようにも見える。

 

 アキラは怪訝にユミルと試験管を交互に見つめる。

 

「何ですか、これ?」

「元気の出るクスリ」

「……緑色してますけど」

「普通よ。それが普通」

「どこかに塗ればいいんですか?」

「馬鹿ね。飲むに決まってるでしょ」

 

 アキラは明らかに怯んで、顔を顰めつつも丁重な手付きで試験管をユミルに返した。

 

「お気持ちは嬉しいんですけど、ちょっとよく分からないものを口に入れるのは……」

「あら、そうなのねぇ。でも関係ないわ、飲みなさい」

 

 手に持った試験管をアキラの頬にぐりぐりと押し付ける。その手を払い除けようとアキラも奮戦するが、どうにも力が出ず良いようにあしらわれていた。

 見かねてミレイユが口を挟んだ。

 

「それはスタミナを回復させる水薬だ。飲めば学校の授業も随分と楽になるだろう」

「え、これが噂に聞く、伝説のポーションなんですか?」

「どういう噂かは知らないし、伝説でもないけど、それよ。ミレイに頼まれて作ったんだから、感謝して飲みなさい」

「ミレイユ様から……!?」

 

 そうと言われて、更に押し返す気力はなかったらしい。

 ユミルからおずおずと試験管を受け取ると、蓋を取って匂いを嗅ぐ。途端に顔を顰め、縋るような目をして見てくるアキラに、ミレイユは頷き返して飲むように促す。

 

 意を決したアキラが試験管に口をつけ、一気に呷って嚥下する。

 試験管から口を離したアキラは、えずくように顔を歪ませて、空になった試験管をユミルに返した。

 

「うげぇぇえ……!」

「ホントに飲んだ」

 

 思わずと言った感じで、ポツリと呟いたユミルに、アキラは素早い動きで首を巡らす。

 

「ちょっと、本当に飲んだってどういう意味ですか!」

「ああ、いえ。ミレイの言う事なら、ちゃんと聞くのよねぇ、と思って」

「そうは聞こえませんでしたが!?」

「そんなワケないでしょ。被害妄想も大概にしなさいな。……ところで話は変わるけど、気分が悪くなったりとかしてない? 吐き気とか動悸の異常とか」

「それ本当に話変わってます!?」

 

 椅子から立ち上がり、掴みかかろうと手を伸ばして、アキラは不意に動きを止めた。

 自分の腕を見下ろし、次いで足を見下ろし、太腿を揉む。膝を小さく曲げては伸ばすを繰り返し、ユミルを驚嘆の眼差しで見つめた。

 

「これ、これ……どうなってるんです!?」

「ちゃんと効いてるみたいで安心したわ。最悪、爆発四散すると予想してたけど」

「は!? 何てモノ飲ませてるんですか!?」

 

 ユミルはカラカラと笑って、手を振った。

 

「お馬鹿ね、そんなワケないでしょ? 効果が薄かったり、最悪ただ苦いだけの液体ってだけで、後は肌が緑色になるくらいよ」

「ちょっと、最後! 最後の最悪ですけど!」

 

 指を突きつけて唾を飛ばすアキラを軽くあしらい、ユミルは自分の席に座る。そうしてミレイユに伺い立てるように問いかけた。

 

「作るのは別にいいんだけど、材料が磨り減っていくだけなのも怖いのよね。こっちの世界で代わりになる素材はないかしら」

「即座には思いつかないが、探してみよう。こっちじゃ自生している植物は雑草ばかりだからな……」

 

 思案顔になったミレイユに、アヴェリンも頷いて今日見てきた事を知らせて来た。

 

「朝に見た限りでは、確かに雑草ばかりで薬の素材になりそうな植物は見当たらなかった。花らしきものも一部あったが、民家の庭になってるものだしな」

「あら、そうなのねぇ」

「行く場所に行けばあるんだろうが……。この近辺じゃ難しいかもしれん」

「あっちじゃ、歩けば踏む程あったというのにねぇ」

 

 ミレイユは嘆くユミルの表情を横に見つつ、アキラへ座るように促した。

 

「どれも冗談だから安心しろ。それより、早く座って食べたらどうだ? 時間に余裕があるわけでもないだろう」

「はい、……いただきます」

 

 釈然としない表情を崩さぬまま、アキラは食事を始める。

 ミレイユもまたパンを手に取り、千切ってはスープに浸して口に入れた。他の面々も食事を始め、今日もまた、騒がしくも楽しい一日が始まろうとしていた。

 

 

 

 

 食事も終わり、それぞれが食後の一服を楽しんでいる時だった。

 アキラが自分で淹れたインスタントコーヒーを、ミレイユも所望して一緒に飲んでいた時、ふと思い付いた顔でアキラが言ってくる。

 

「それにしても、便利ですね。魔法で傷を治したり、薬でスタミナが回復したり」

「そうねぇ……。だから気兼ねなく、アンタもボコボコにされたんでしょうけど」

 

 ああ、と納得しつつも、恐る恐るという表現が正しい仕草で、アキラはアヴェリンに顔を向けた。

 

「やっぱり、だから無頓着に殴ってたんですか?」

「だから気兼ねなく殴っていたんだろう」

 

 ミレイユが頷けば、アヴェリンもアキラに顔を向けて頷いた。

 

「これがあるなら気兼ねなく殴れるな」

「……ちょっと待って下さい」

 

 不穏なものを感じて、アキラは手を挙げて待ったを掛ける。青い顔をしたアキラは否定して欲しい一心でアヴェリンに問う。

 

「まさか知らずに殴ってたんですか? そしてこれからは、より気兼ねなく殴るつもりなんですか!?」

「いや……」

 

 アヴェリンは視線を逸し、頬をかいては鼻をムズムズと動かし、腕を組んで外へ顔を向けた。

 あまりに分かりやすい意思表示だった。誤魔化せると思っているなら、それは流石にアキラを甘く見過ぎだろう。

 

「まぁ、薬を煮詰める匂いはしていたから……、作ってはいるのだろうと思っていたが」

「でも僕に使うとは思っていなかったんですね」

「まぁ、そうだが」

 

 ついに誤魔化す事を諦めたアヴェリンは、素知らぬ顔で頷いた。

 誤魔化す労力より、認めた方が面倒が少ないと判断したようだ。

 

「だが、ギリギリのところを見極めて指導してやったろう」

「そうですよ。五体満足で生きて返って来てるんですから、手加減している方ですよ」

「いいですけどね、キツい訓練になるのは分かってましたし……」

 

 ルチアから慰めにもならないフォローが飛んできて、アキラはぐったりと肩を落とした。

 そこにユミルが首を傾げてアキラを見る。

 

「ちょっと疑問に思ったけど、魔術も水薬もないなら、どうやって傷を治すのよ?」

「普通に時間をかけて、自然治癒力に任せる感じですね。勿論、薬や湿布とか促進させる方法は幾つもあるんですけど。でも、大きな傷ならオミカゲ様が治してくれるんですよ」

「出たわね、オミカゲ様。病気だけじゃなくて、怪我まで治せるの?」

 

 アキラはちょっと考え込むような仕草を見せる。

 

「治すっていうのもちょっと違う気がするんですけど、とにかく自然治癒力が凄い大きくなるんですよ。だから骨折とかしても、ちゃんと添え木とかしないと変な形でくっついちゃいますし。さっきの魔術とかポーションみたいな即効性はないですね」

「へぇ……、因みに骨折だとどれくらいで治るの?」

「三日ぐらいですかね? 綺麗に折れたかどうかでも変わってくるんでしょうけど。でも、だから医者がいらないという話にもならないんですよ。診断を受けてから、オミカゲ様の御威徳で治して頂ければ安心ですから」

 

 話を聞いて、何ともおかしな話だ、とミレイユは思った。

 それが当たり前にあるのなら、日本の医学会は相当肩身が狭いだろう。医者の存在は無価値ではないが、あくまで添え物のような扱いになる。

 海外との扱いの違いに驚く筈だ。蔑ろにされているとしたら、現状に不満はないのだろうか。それとも、不満が出るほど悪い扱いではないのだろうか。

 

 考えるより聞いてみようかと思ったら、アキラが時計を確認して立ち上がり、軽く頭を下げた。

 

「すみません! このままじゃ、また遅刻しちゃいますので!」

「ああ、そうか。こっちも朝から長話になりそうな話題を吹っ掛けるんじゃなかったな。その辺は、また機会があれば聞くとしよう」

「はい、すみません」

 

 アキラは食器をどうしようかと持ち上げ、それをルチアがやんわりと止める。

 

「置いておいて下さい。こちらでやりますから」

「重ね重ね、すみません」

 

 恐縮して頭を下げるアキラに、何でもないように手を振って動くように促す。

 アキラは慌てて歯磨きを始めて、頭も簡単に撫で付け、乱れた髪をマシにしようとしている。汗まみれの身体で学校に行くのは辛かろうが、今日は我慢してもらうしかない。

 明日からの鍛練は、その辺りも気をつけて時間配分するよう、アヴェリンに言い聞かせる必要がある。

 

 歯磨きも終わり、制服に着替えて鞄を持って出かけようとするアキラに、一応念を押しておく。

 

「刀は好きにしていいが、外に持ち出して歩く事は推奨しない。制限もしないが、捕まっても私は責任を取らない」

「う……あ、はい、分かりました!」

 

 立て掛けられた刀袋とミレイユを交互に見て、アキラはとりあえず頷く。

 まだ実戦も未経験、敵の数も種類も未知数。まだまだ実感が沸かない今は、そもそも刀を持って歩こうとは考えていなかったろう。

 余計な事を言って戸惑わせたか、とミレイユは自省し、早く出るよう手の甲を外へ向けて動かした。

 

「ほら、急ぐんだろう? 行ってこい」

「は、はい。行ってきます!」

 

 慌ただしく靴を履き替え、部屋から飛び出して行くアキラを見ながら、ミレイユは苦笑する。口から我知らず、独白が漏れた。

 

「何だか……、妙なことにならなければいいが」

「妙? 妙じゃなかった事なんて、今まであった?」

 

 苦い顔でミレイユは顔を背ける。

 現在、その最たる状況に身を置いている今、ミレイユの行った事は確かに戯言に過ぎなかった。



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外から来たモノ その1

 ミレイユは、今日を休息日にすると心に決めていた。

 今まで特に働くという気持ちを持たずに暮らしていたが、ここ数日の――箱庭世界の時間における――鍛冶仕事で、すっかり労働した気持ちになっていた。

 対価を得た訳でも給料が発生した訳でもないから、本当に気持ちだけの問題だ。

 

 ミレイユは談話室にある数々のクッションに身を預け、本を読みながら優雅に時間を過ごす。

 アヴェリンも近くにいて装備の手入れを行っており、他の二人はそれぞれ違う場所にいる。恐らくユミルは錬金術の素材在庫を確認しているのだろうし、ルチアは完成直前の細工品に手を入れている最中だろう。

 

 それぞれの仕事部屋は地下にあるので、ここまで作業の音は聞こえない。

 ただ静かにページを捲る音、そして時折アヴェリンの起こす金属を擦り上げる音のみが、部屋の中に音を生んでいた。

 

 時折、アヴェリンが気を使って飲み物を用意してくれたり、時に軽食など差し入れてくれながら本を読む。あちらの世界で蒐集したものだが、今読んでいるのは歴史に登場する英雄が活躍する物語だった。

 嘘を書いている訳ではなかろうが、多くの誇張が見受けられる小説だった。しかしそれと分かって読んでいれば、これはこれで楽しいものだ。

 

 長閑に流れる時間は緩やかでも、過ぎる時間は平等だった。

 正確な時間は分からないが、半日に満たない程度の時間はここで過ごしていたようだ。

 腹の空き具合からそう判断していると、不意に地下へ続く扉が開いて何者かが出てくる。姿が見えずとも、軽快な足音と聞き慣れたリズムで誰かが分かる。談話室のすぐ脇が地下への階段になっているので、上がってくれば直ぐに顔が見えた。

 上がって来た人物は、ミレイユが予想した通りルチアだった。

 

「今日一日かかるかと思っていたが……、もう済んだのか?」

「ええ、納得のいく物が出来ました。確認してもらいたいんですけど……」

「必要ないだろう」

 

 ミレイユは本から顔を上げ、手を横に振った。

 

「既に細工品の大まかな確認は済んでいるし、ケチを付けるような物が出来上がるとも思っていない。むしろ素晴らしい物を作ってくれたという確信がある」

「そう言ってくれるのは嬉しいんですけど、こっちの世界の美的基準がよく分からなくて……」

「どちらにしても大丈夫だ。私が保証する」

 

 複雑そうに笑って、ルチアはとりあえず頷いた。

 そのまま談話室に入ったルチアは、ミレイユの傍に腰を下ろす。多くのクッションに背を預け、座るというより寝転ぶような態勢になった。

 

「それで……、完成したら売りに行くって話でしたよね?」

「ああ、そうだ。明日か、あるいは明後日か。それぐらいには行くつもりだ」

「……誰が一緒に行くんです?」

「私が行くに決まってる」

 

 アヴェリンが横から口を挟み、断固とした声音で言った。

 

「ミレイ様のお側にいるのは、私と決まっているからだ」

「でもですよ、ちょっと待って下さいよ。私の品を売りに行くんですから、私から商品の説明をした方が、きっと値を高くつけられると思うんですよね」

「……一理ある」

 

 ミレイユが頷いて考え込む仕草を見て、アヴェリンは動揺して身を揺らし、慌てたようにルチアに指差し異論を唱えた。

 

「あの、ミレイ様? ……だが、それならミレイ様が説明すれば良い事だろう。細かく説明しても、結局は目利き側の問題になるだろうし……!」

「でも、やっぱり正しい解説っていうのは、目利き側に新たな視点を与える事にもなると思うんですよ。そこに価値を見い出せば、より高い値段になる筈です」

「だがな……」

 

 言い合いが激化しようとした、その時だった。

 階下から上がって談話室に入って来たユミルが、呆れた顔をしながら口を開く。

 

「もう皆で行けばいいじゃない。詰まらない言い合いしてるぐらいなら、そっちの方が早いでしょ」

「しかしな……!」

「あの時は服がないとか目立つとか、何か理由があったけど、今なら大丈夫でしょう?」

 

 ユミルの言い分に、アヴェリンの動きが止まった。

 一考の価値ありと見て、隣に座って傍観していたミレイユを伺い見る。

 視線を向けられたミレイユは、そちらにちらりと目を合わせ、それからユミルに頷いて見せた。

 

「まぁ、そうだな。しかし集団で街中に出るのが、不安過ぎるという気持ちがあるんだが。お前たち、黙って後を着いて来れないだろうし」

「そりゃあ、アレやコレや見れば、アレやコレや物を言うでしょうよ」

「言うだけで済むか? 勝手にフラフラと見に行ったりするんじゃないのか?」

「そんなに不安なら手を繋いでてよ、ママ」

 

 ユミルがニヤニヤとした笑みでそう言えば、ミレイユは大いに顔を顰めて、頭をクッションに預ける。

 

「それ、まだ言うのか?」

「案外、気に入ったわね」

「お前の方が年上の癖に……」

「でもアンタ、自分の年齢、正確に言えないんでしょ? じゃあ、アタシが年上なのか分からないじゃない」

「下手な理屈を……」

 

 ミレイユが正確に年齢を言えないのは事実だ。

 それは日本人として生きた年齢と、ゲームのアバターとして生きた年齢を足していいのか分からなかったからだ。しかもアバターは既に成人した女性であるにも関わらず、恐らくは生まれた直後の筈で、それまでの人生というものがない。

 それを加味して年齢を告げるのは無理がある。

 

 だから、以前年齢を聞かれた時は分からない、と答えたのだが、だとしてもユミルより年上というのは設定上有り得ない。

 だが、それを口に出して言うのも面倒だった。そもそもの説明をするにも、どう説明していいのか分からないし、余計な混乱を招くだけで理解も得られまい。

 

 大体、ユミルの年齢は外見上から判断できないとはいえ、長命種よりも長く生きているのは知っている。お互いそれを知っての冗談なので、ミレイユが顔を顰めるのも当然だった。

 

「年上かどうか別にして、疑っているところはあるのよねぇ」

「何だ、それは?」

「いや、アンタ色々出来るじゃない? でも、出来すぎよ。多才どころの話じゃない、って言ったけど、これ本当にそのとおりなのよね」

 

 これにはアヴェリンも頷ける部分があったらしい。同意して続ける。

 

「ひと一人が体得出来る技術には限りがある。剣の才能、魔術の才能、二つに高い適性を持つ者を見た事はあるが、三つ持つ者は見た事がない」

「そうよね? そして三つじゃ足りないわけよ。片手ですら足りない。これって結構、異常よ?」

「単に才能の一言で片付けられない事もしますよね? 私に大規模魔術を使えるようにしてくれたのも、そうです」

 

 今まで胸の内に仕舞っていた疑問が、ユミルの一言から表に出てきてしまったようだった。

 ミレイユからすれば、それはゲームのアバターとして、キャラ成長に制限がないからだとしか言えない。魔術を使えるように出来るのも、ゲームのシステムとして自分の覚えている魔術を覚えさせたり忘れさせたり出来るというだけで、ミレイユ自身の能力という訳ではない。

 

 ゲームの中だから出来ていただけの事であって、何一つミレイユの才能から来るものではなかった。しかし、共にあの世界で生きてきた人間として見た場合、あまりに異質に見えるのは確かだった。

 

「まるで神に造られた肉体みたい……」

 

 思わず漏れたユミルの独白だったが、それは妙に的を射ていた。

 何がどうなってゲームの世界で、自分が作ったアバターで生きた人間として存在する事になったのか、それは分からない。

 だが、この珍妙な出来事が神の意志だというなら、まさしく神に造られた肉体を与えられたと言って過言ではなかった。

 

 ミレイユは嘆息し、髪を掻き上げる。

 

「私にも、私の事がよく分からん。多才の一言で片付けるには不穏だと感じるのは、自然な事だろうな。だが、その辺は理解する事を、とうに放棄しているし……」

「まぁ、考えて分かる事ではないわよねぇ。それに今更過ぎるし」

「既にあちらの世界を離れてますし、親を探すも出来ないですしね」

「何者であるかが重要なのではありません。貴女がミレイ様であることが重要なのです。私にはそれで十分です」

 

 アヴェリンの結論が全てだった。他の二人も喉に骨が刺さったような違和感を覚えつつも、結局はミレイユの傍にいられれば良いと思っている。

 そしてミレイユもまた、この四人で過ごせて生きて行ければいいと思っているので、この平和な日本でそれが実現出来れれば、それで良かった。

 

 しかし、その平和に陰りがある。

 それが最近、目下感じている事だった。

 あの日、公園に現れた、あちらの世界でよく見慣れた魔物たち――。

 

 そこに思考を巡らせていたせいだろうか。微かな違和感が周囲へ頭を巡らせる。

 確かな事とは言えないが、揺らぎのような物を感じる。まるで窓を閉めているのに、部屋の中に風が吹いたかのような感覚だった。

 あるいは、地上にいるのに波に揺られるような、ここで起こる筈のない現象を身に受けたような感覚。

 

 ミレイユはルチアに目配せする。

 彼女にも同様の感覚が身に起きたようだった。真剣な目をしてミレイユを見返していた。

 

「……感じたか?」

「はい、でもハッキリとは分かりませんね。単なる勘違いの可能性も……」

「何の話ですか?」

 

 会話の間に入って来たのはアヴェリンだった。

 二人だけは分かっているという雰囲気の会話に、我慢できなかったようだ。アヴェリンは近接戦闘タイプだから、魔力に関して感知が弱いのは当然。ユミルを見ても、やはりピンと来ていないようだった。

 

「あの日、公園に魔物が出てきた時と似たような感覚があった」

「……あまりに微細な反応だったので、被害妄想に近いシロモノでしたけど」

「それを二人して感知したっていうなら、疑って見るには十分じゃない?」

「そうだな。箱庭から出てみれば何か分かるかもしれない。見るだけ見てみよう」

 

 ルチア、と声を掛ければ、既に立ち上がって歩き始めようとしていた。

 ミレイユも立ち上がって、その背に続く。

 アヴェリンも当然ミレイユに着いて来ていて、とりあえず箱庭の外に出てみる。

 

 箱庭の外は既に日が暮れようとしていた。窓の外に見える空は茜色に染まり、遠くにかかる雲には藍色が降りている。

 そして、ハッキリと理解した。

 あの日と同じ現象が起きている。

 

「……どうやら、箱庭の中にいると感じ方が違うようだな」

「違うというより、希薄に感じてしまうようです。私は出る直前にはもう感じ取れていたので、箱その物の蓋を開けておけば、内部にいても問題なかったかもしれません」

「いずれにしても、準備が必要だな」

「急行しますか?」

 

 アヴェリンが聞いてきて、ミレイユは頷きを返す。

 

「前回と同じ、御し易い相手とは限らない。装備は万全にしておけ」

「了解です」

 

 即座に踵を返し、アヴェリンが箱庭へ戻っていく。勝手に閉じてしまう小箱の蓋を見て、支え棒など用意した方がいいな、と思う。

 ルチアが後に続いて入っていくのを見ながら、ミレイユは明日にでも用意させようと考えていた。

 



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外から来たモノ その2

こちら、二話連続更新の二話目になります。
お読みになる際、ご注意下さい。


 アキラが部屋に帰ってくると、そこには物々しい雰囲気のミレイユ達が立っていた。今にも扉を開けようとしていたタイミングだったので、思わず動きを止めて凝視してしまう。

 何か声を掛けようとしたところで、逆にミレイユから話しかけてきた。

 

「丁度いいところに帰ってきた。――おい、ちょっと戻れ。道を開けろ」

 

 ミレイユはアキラの返事を待たずに後ろを振り返り、アヴェリンよりも更に奥、誰かに向かって声をかけた。

 掴み掛かるようにして肩を取られ、部屋の中に引きずり込まれる。

 何だと思う暇もなかった。思わずつんのめって部屋に入り、そして中にいる全員が完全武装している事に気がつく。最初に出会った、あの姿で。

 

「ど、どうしたんですか、一体……!」

「魔物が出た」

 

 その一言に身が竦む。

 いつか戦うつもりではいた。

 しかしそれは、もう少し準備が整ってからのつもりだった。アヴェリンから、とりあえずの合格点を貰った後だったり、あるいは自分がやれると自信が着いた時に。

 

 今はその、どちらもがない。

 着いて行っていいのか、着いて行ってしまっていいものか、そういう目をミレイユに向けてしまった。

 

「……不安か? ここで待っているか?」

「……い、いえ! 行きます!」

 

 ミレイユは片眉を上げるだけで何も言わず、傍らのアヴェリンに向けて簡潔に命じた。

 

「皮の胸当てがあったろう、持って来い。それと腕と脛当ても。他のどれもサイズが合わないだろうが、それぐらいなら簡単な調節で着れる筈だ」

「……はい、すぐに」

 

 一瞬躊躇うような仕草を見せたが、それでも頷いて箱の中へと身を投じる。

 その間に着替えようと、アキラは寝室に小走りで入った。汚したり破れたりしていい服はあったが、少しでも頑丈な服をと思っても登山服を持っている訳でもない。かといってジャージやジーパンを着る訳にもいかず、こういった場面で必要な物を用意していなかったことを今更ながらに気がついた。

 

「ええい、仕方ない!」

 

 生地が厚ければそれだけ動きづらい。今は防御は無視して動きやすい格好をした方がいいかもしれない、と素人考えで着替えを済ます。

 部屋から出るとアヴェリンが待っていて、そのまま後ろを向くよう指示される。

 

 手荒い仕草で服の上から皮の胸当てを付けられ、ベルトをきつく閉められる。息が詰まる思いもしたが、外れるような事がないようにという処置なのだろう。

 皮の、と言っても実際に左胸部分だけは鉄の補強がしてあった。それを見ていると次に左手にも皮製の籠手がつけられた。表面だけを防護するベルト留めの物で、どうやら脛当ても同じようなものらしかった。

 

「それと、これも着けろ」

「これは……?」

 

 手渡されたのは指輪が一つとネックレスが一つ。

 女性にも男性にも似合わない無骨で粗野な造りで、アクセサリーとして身につけるというよりは、戦場の願掛けに使うような物に見えた。

 

「お前の身を守ってくれる」

「ええと、お守りって事ですか?」

「違う、魔術秘具だ。物理的に身を守ってくれるが、シールドを張るほど強固でもない。過信せずに使え」

「え、使うって、どうやって?」

 

 さも当然のように言われても、見たことも触れたこともないアキラに、使い方など分かる筈もない。スイッチのような物があるとは思えないし、指輪を人差し指に通しながら聞いて見れば、胡乱げな視線を返された。

 

「念じろ。危険を感じれば、身体が勝手に動くものだろう? それと同じだ。使い所が分からなくても、身体が勝手に使ってくれる」

「そうなんですね……」

 

 ネックレスも首から掛けて、胸当ての中に仕舞い込む。

 家を出る前に立て掛けていた場所から刀袋を手に取り、大事に抱え込んだ。

 

「馬鹿、袋は置いていけ」

「え……、でも、こんなの見られたら……」

「奇襲されても、袋が閉じてて戦えませんと言うつもりか?」

「はい、すみません……」

 

 頭を下げながら刀を袋から出していると、その遣り取りを見ていたミレイユが小さく笑っていた。

 

「もう既に、随分といい師匠っぷりじゃないか」

「よして下さい、ミレイ様。察しが悪いから、とにかく口を出さなければならないだけです」

「……うん、そういう事にしておこう」

 

 アヴェリンが睨まれ、アキラは身を守るように刀を捧げ持つ。何の意味もないが、何もせずにもいられなかった。

 そこにユミルが横から入ってくる。

 

「はいはーい。今から幻術かけるから、大人しくしててね」

「また爆発させるんですか?」

「馬鹿ね。何で今、そんな無意味な事しないといけないのよ。いいから大人しくしてなさいな」

 

 誰も口を挟まないので、アキラもまた黙ってユミルのする事を見ようとした。

 右手と左手に淡い紫色の光を灯し、小さく外回りに動かし、手の平を握り込む。次いでそれを開いて腕を大きく広げると、ミレイユ達の姿が霞んで見えなくなっていく。

 

「うわぁお……」

 

 徐々に見えなくなっていき、ついには透明になって、自分の姿を見てみれば、やはり透明になって見えなくなっている。これなら武器を携帯したまま動いても問題ないだろうが、お互いの位置まで分からなくなるだろう。

 後をついて行こうにも、これでは到底不可能だ。

 

「あ、あの、これでどうやって皆に着いて行けばいいんですか……!?」

「ああ……、これは幻術だから。偽物の光景だって認識してしまえば大丈夫。ちゃんとそう意識して見てごらんなさい」

「は、はい……。これは幻術、これは幻術。目の前には師匠がいる……」

 

 言われた通りに目を凝らし、言葉にしながら顔を左右に動かしてみれば、確かにその姿が墨をぼかすようにして現れてくる。

 

「音を立てたり、声を出しながら動けば見られる可能性が高くなる。そこにいるかも、と目を向けられてしまえば、やっぱり同じ事。だからなるべく静かに動きなさいね」

「や、やったことないですけど、頑張ります」

 

 曖昧な表情で頷い時、ミレイユから声がかかった。

 

「気配を察知してから既に五分以上経過している。急ぐ必要があるのか、それすらも分からない状況だが、今は最善と思える行動を取る。今から強化と保護の魔術で支援するから、ルチアはアヴェリンの後ろにピッタリ着け。アヴェリンは先導し、状況によっては盾になれ」

「お任せを」

「了解です」

 

 アヴェリンとルチアの頷きに対し、ミレイユからの魔術が当たる。

 二人にそれぞれミレイユの両手から放たれた緑と白の光が命中、その体の輪郭を淡く照らす。

 

「次に続くのは私とアキラだ、何かあれば援護する。最後はユミル。ちゃんと着いて来い、寄り道はなしだ」

「はいはい」

 

 ユミルは手をひらひら振り、アキラは生唾を飲み込む。心臓は早鐘のように鳴り響き、緊張で吐きそうになってくる。

 ミレイユとそれに頷き返す三人からは、それだけの緊迫した雰囲気が伝わってきた。

 実際には、その表情や態度からは緊迫も緊張も見て取れないが、歴戦の猛者が発する雰囲気がアキラをいつにない緊張に包んでくる。

 

「さぁ、出ろ。ルチア、場所は遠いか?」

「これなら走って二分弱です」

 

 よし、とミレイユが短く返事をすれば、二人は揃って部屋を出ていく。

 既に靴は履いていたようで、殴り飛ばすように扉を開けて階段を使わず下に降りる。

 

「えぇ……?」

 

 パルクールをするような人種は、二階程度の高さは物ともせず降りたり飛んだりするから、それをアヴェリンがする事に違和感はないが、ルチアまでそれをするのは予想外だった。

 呆然とするような気持ちでいると、その背を押されて靴を履く。

 まさか飛び降りる事はできないので、アキラは音を立てないよう、刀が手摺りに触れないように注意しながら階段を降りる。

 

 そうしていると、既に音もなく着地した二人が目の前に立っていた。

 ユミルはともかく、ミレイユは鈍色に光るグリーブを履いているのに、何故音が出ないのだろう。これも魔術を使っていたりするのだろうか。

 思っている内に、ミレイユが顎をしゃくる。

 

 アヴェリン達が走り去った方向を見ると、既に背中が豆粒ほどに小さくなっている。

 

「は……?」

 

 走って二分弱と言っていたから、すぐ近くに魔物が出たのだと思った。

 しかし、あの速度で二分なら、相当遠い場所にあっても不思議ではない。

 

「え、というか、あれに? あれに追いつくように走るんですか?」

「喋る暇があるなら走れ」

 

 ミレイユに押されて、アキラはとりあえず地を蹴った。

 全速力で遮二無二走るが、既にその背は見えなくなり、追いつく事は絶望的だ。そもそも刀を手に持った状態じゃ禄に走れないのは、今日の朝体験している。

 到着している頃には既に終わっているのではないか、そもそも到着できるのか、そんな事を思っていたら、腰に何か固いものが回ってきた。

 

「なん!?」

「遅い、急ぐぞ」

 

 ぎょっとして見てみれば、ミレイユがアキラの腰に手を回し持ち上げようとしている。

 待ったと声をかける前に身体が浮き、そして恐ろしい速度で身体が前に押し出される。速度と共に、空気の圧に絶えきれず腰を中心に身体がU字型に折れ曲がった。

 

「お、おお、おごごごごお!?」

「うるさい、喋るな」

 

 簡潔な命令に口を噤もうと努力するが、恐ろしい勢いで過ぎ去る風景と、顔や身体に当たる強すぎる風が恐ろしく、口の端から声が漏れるのを防げない。

 とにかく刀を手放す事だけは防ごうと、両手で刀を押し抱く。

 

 そうこうする内に車道に出たのか、すぐ隣を乗用車が通り過ぎていく。

 逆走しているのではない。進行方向に対して順路であるにも関わらず、そのあまりの速度で車を追い越してしまっているのだ。

 おおよそ、人が出していい速度ではない。幻術を使っていなければ、事件になっていたか怪奇現象としてSNSにアップされていたに違いない。

 

「うぎ、ぎぎ、ぎぎぎぃ……!」

 

 そして時折、赤信号を無視する為に飛び跳ねもする。

 横から突っ込んでくる車を幅跳びするように越して行く光景は現実の物とは思えなかった。急速な上下移動は、アキラの胃を引っ返すかのような衝撃を伝えてくる。

 

 ――ここで吐いたら、絶対に駄目だ。

 

 それだけを心の中で繰り返し叫びながら、恐怖の一分弱が終わる瞬間をひたすら待ち続けた。



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外から来たモノ その3

 吐気を堪えている内に、急制動でミレイユの動きが止まった。腰に回されていた腕がぞんざいに振り払われ、アキラはされるがままに落とされる。

 ヨロヨロとその場に座り込んで、その横へ追いついたユミルが立った。

 目の前にあるのは住宅地に作られた市営マンションで、同じ形をした棟が幾つも並んでいる。側面にはBというアルファベットが大きく印字されてあった。

 

 マンションの周りは柵で囲まれ、入り口近辺には駐車場が用意されている。

 その駐車場に入る直前で、アヴェリンとルチアが待機していた。辺りを注意深く観察しているのはアヴェリンで、ルチアは空中に手を翳して何か調べ物をしている。

 まるで壁に手を置くパントマイムのようだが、手に光を発して淀みなく動かしているあたり、遊びでやっていないのは明白だった。

 

「どうなってる」

 

 ミレイユが簡潔に聞くと、ルチアは目の前に集中しながら言葉を返した。

 

「ここに結界が張ってあります。外側から入る者を拒むのではなく、内側に入った者を出さないタイプの結界ですね。中をざっと調べましたが、既に魔物がいることは間違いありません」

「そいつらが作った結界だと言うのか?」

「違います。この結界は未知のものですが、感知できた敵に未知のものはいませんでした。中にいる魔物ではなく、何か別の存在が作った結界。それが私の結論です」

「……なるほど」

 

 ミレイユは頷いて腕を組む。

 アキラがそれを下から見上げた範囲では、ミレイユは特別脅威と思っていないと感じられた。泰然として、ただ目の前にあるものを見つめている。

 

「では、いま見ている光景はまやかしか」

「はい。しかし、ただ見えなくなっている訳ではないですね。『入れる』者もまた限られているので、何も知らない人がうっかり入ってしまうような事故も起き辛い設計です」

「入る条件は?」

「特にないです。――ああ、私達にとっては、という意味で。魔力総量で判別しているようなので、持っている者ほど容易く入れ、また出られなくなるようです」

 

 解説を聞き終えたユミルが、困った顔をして首を傾げた。

 

「それじゃ、中にいる者どもはどうでもいいとして、アタシ達まで出られなくなるってコト?」

「そこがちょっと分からない点でして。どうも、中にいるのは魔物だけで、術者がいないんですよ」

「そんなワケないでしょ。これだけの結界を張って、術者は敵前逃亡したとでも言うの?」

 

 小馬鹿にしたような口調だった。

 ルチアに対する、というよりは、その術者に対する嘲笑のように感じられた。

 

「でもですよ、この結界、術者の意志が感じられないんですよね。結界に対する設計意思は見られます、癖もある。でも作成時に移ってしまう、封じる思念がありません……。術者がこの場にいて作ったなら、そんな事は起き得ません」

「……確かに」ミレイユが遠くに視線を飛ばし睥睨する。「この結界にはムラがない。あまりに均一で定規で測ったような厚さの結界だが、そんなもの人には無理だ。機械的……そう、自動的とでも言うべきなのかもしれない」

 

 ユミルは小さく鼻から息を飛ばし、視線を巡らす。

 

「その自動的にも機械的にもピンと来ないけど、人間味がないという部分については理解したわ。術者がいないというなら、討伐部隊か何か……これからここに来るというコトで良いの?」

「可能性は高い」

 

 ミレイユは頷き、魔女帽子のツバを人差し指で持ち上げた。

 

「これが魔物を感知して自動的に張られた結界だとすれば、この均一な結界にも納得がいく。魔物の魔力を感じたと同時に張られるような、そういうシステム化した結界があるのだろう」

「感知と同時に結界ですか……」

 

 ルチアが頭上を見渡し、そして幾つかの点で動きを止める。そして指差し確認するように、全員の視線を向けさせながら、次々と横へ奥へと指摘を移していく。

 

「あの線、そしてあの線、そして点と点が結びつく。つまり、そういう事ですかね?」

「うん? 電柱に電線か?」

「ええ、そのデンセンに魔力が微弱に伝わっているのは、以前話したとおりです。では何故流す必要があるのかと言えば、この感知に必要だったのではないかと。そしていざとなれば結界を張る為ではないのかと、そう思う訳です」

 

 ミレイユはその指摘を真面目に吟味し始めた。

 ――あり得なくはない。

 いつ、どこで、何が出てくるか分からないモノを、現代で秘匿しようとするのは至難の業だ。しかし、この現代でどこにでもある送電線を使った警戒網を作り、そしてそれを活用した結界を組めるというなら、魔力を流す理由として十分ある。

 

 そして消防署が火事の通報と同時に出動するが如く、発生した結界に向けて討伐部隊が駆けつけるという訳だ。

 理屈の上では良いように思う。

 だが、それなら既に――。

 

「ならば何故まだ討伐部隊が来ていない? 我々が察知し駆けつけて、既に十分が経過しようとしている。まさかサイレン鳴らして急行して来る訳でもないだろうが、だとしても、そろそろ姿を見せてもいい頃合いだ」

「私は部隊の人じゃないので分かりません。そもそも戦う意志があるのかも疑問ですし」

「どういう事だ?」

「閉じ込める事に成功したんですから、そのまま放置してしまっていいんじゃないかという話です」

 

 アヴェリンは武器の柄に手を載せながら、怪訝に眉を寄せた。

 

「それは……、どうなんだ? 臭いものには蓋をすれば解決か? 橋の下の水面は見えないからどうでもいいと?」

「いやいや、私に凄んでどうするんですか。可能性の話ですよ、あくまで。危険を冒して討伐するより餓死して待つ方が賢明だと、そう考える人がいるのかも、と思っただけです」

「別に餓死するまで待つつもりがなくても、急いで結界に向かう必要はない、と考える事はあるかもねぇ」

 

 ユミルが訳知り顔で頷いた。頬に手を当て、アヴェリンへ煽るように笑いかける。

 

「誰だって怪我なんかしたくないし、誰だって敵の頭を砕いて回りたくはないでしょ? 誰かさんはどっちも大好きだけど」

「戦うのは戦士の義務だ。己が武勇を示すのに、その場があっても赴かんと言うのか? それこそあり得ん話だ」

「その戦士っていうのがね……。誰もが戦士じゃないのよね」

「だが戦士はいる筈だ。必ず、どこかに。このアキラとて、無力ながら己の勇気と気概を示した。それ以外には誰もいないと? よくもまぁ、これだけ人がいて、たった一人を見つけられたものだ」

 

 アヴェリンは腕を広げて、周辺の住宅を仰ぎ見る。

 ユミルは思わず苦笑した。

 

「ま、そうね。戦士がいるかどうか、それはこの際いいわよ。いるってコトにしときましょ。……で、それが今、ここに来ようとしているのなら、アタシたちはどうするべき? 帰る?」

「――あり得ん。敵を前にして逃げるなど、戦士の恥だ」

「ンンン……、そういうコトじゃなくて。その戦士殿と鉢合わせするコトに対するリスクを考えないといけないでしょ? 結界があった、対処の意志はある、じゃあ戦士もいずれ来るだろう。こう考えた場合、今にも横から現れるかもしれないんだから」

 

 アヴェリンは大きく息を吸って、体の熱を冷ますかのように息を吐いた。そうしてミレイユの視線を感じると、素早く向き直り、頭を下げる。

 

「ミレイ様のご下命も待てず、下らぬ事で問答しました。申し訳ございません。全ては指示の通り動きます」

「うん。では方針を伝える。――戦え」

「ご下命のままに」

 

 アヴェリンが頭を下げたまま、力強く返答した。頭を上げて、肉食獣のような獰猛な笑みを浮かべた。

 ミレイユは続ける。

 

「とはいえ、警戒は続ける。急行してくる部隊のようなものが接近してくれば、即時の撤退も視野に入れる。ルチア、頼むぞ」

「はい、じゃあ私は外で待機してますね」

 

 ルチアが手に持った杖を小さく掲げて、了承の意を示した。

 ミレイユは次にユミルへ顔を向ける。

 

「ユミルは前衛のフォローだ。適切に距離を取り、何かあれば応戦しろ。危機的状況にならない限りは手を出さなくて良い」

「了解よ」

「――そして、アキラ」

「は、はい!?」

 

 ミレイユは未だに地べたに座り込んでいるアキラに視線を向けた。

 

「お前もアヴェリンと同様、前衛として戦え」

「あ、う……は、はい!」

 

 アキラは慌てて立ち上がる。膝に力を入れようと、太腿あたりをガンガンと叩き、屈伸を始める。アヴェリンはそれを不安げな視線で見ていたが、結局何も言わなかった。

 

「初の実戦だ。不安があって当然だろうが……アヴェリン、よく見てやれ」

「いっそ、メインで戦わせますか? 敵の数次第では、それも宜しいかと」

「そうだな……」

 

 ミレイユは考え込むように視線を動かしたが、幾らもせず直ぐに頷いた。

 

「敵の数が多ければ、間引け。そうでなければ、誘導してけしかけろ」

「お任せを」

「け、けしかけられるんですか!」

「敵の数は調整させる。いい加減、覚悟を決めろ」

「き、決めてきたつもりでしたけど……!」

「じゃあ、頑張れ」

 

 ミレイユは視線を切って、アヴェリンに向き直る。肩を抱いて口元を、その耳に近づけた。

 

「見ての通りだから、あまり可愛がるのはやめてやれ。だが、甘い真似もしなくていい」

「……そのように」

 

 耳元から口を離して、ミレイユはアキラの元へ戻り肩を抱く。

 殆ど無理矢理に近い形で、結界の入り口までアキラを誘導し、自らその空間に手を伸ばした。

 腕を差し入れた場所が水面になったかのように波紋が広がり、そして手首から肘まで飲み込まれていく。肘から肩へ、更に身体へ進むに連れ、アキラもまた一緒に水面へ身体を潜り込ませて行く。

 

 アキラは思わず息を止めた。それが意味のない事だと理解しつつも、本能のようなものが働き身を固くしてしまう。

 進む一歩が重く感じ、何か遮るものが全身を包んだ瞬間、ぷつりと突き抜けるような感触と共に中へ入った。

 



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外から来たモノ その4

こちら、二話連続更新の二話目になります。
お読みになる際、ご注意下さい。


 結界の中に音はなかった。

 ないというより、外からの音が入ってこないのだと理解した。遠くに聞こえていた車の音、風が揺らす木々の葉音、そして様々な生活音、それがこの世界にはない。

 奥には不思議な孔とでも呼べばいいようものが、空中にぽっかりと空いている。

 まるで現実味のない騙し絵でも置いているのではないかと錯覚するような孔が、奥行きも内部も伺わせない黒い孔が浮いている。

 

 そして目の前、数十メートル先には、醜悪な顔をした小男が複数人いた。

 土気色をして、髪はなく耳が長い。口からは牙が覗き、唾液を流すままに垂らしている。頭部には親指程の小さな角を持ち、短い小さな棘付きの尻尾を持つ。目は赤く爛々と輝き、獲物を探してせわしなく動かしていた。

 

 その数五人、あるいは五匹というべきか。

 それが一斉にミレイユ達を見つけ、歓喜か威嚇かの声を上げる。

 

「ギャッギャ!」

「ギャギャギャ!」

 

 アキラは身の毛もよだつ、という言葉の意味を初めて知った。

 背筋から冷たいものが這い上がり、頭頂部まで達して身を震わせる。悪寒のようなものが首筋を這い回り、思わず恐怖で体が固まる。

 

 ミレイユは容赦なくアキラを前に押し出し、自らは一歩横にずれる。

 背後からアヴェリンが出てきてミレイユの前に立ち、続いて現れたユミルがアキラの後ろに立つ。

 

「あら、インプじゃない」

「しかも小物だ。相手にする程の敵じゃない」

 

 ユミルの軽快な声とは反対に、アヴェリンの声は憮然として低かった。

 やんわりと背中を押され、二歩、三歩と前に進む。

 明らかに戦闘態勢を崩し、腕を組んでしまったアヴェリンが、顎をしゃくって敵を指す。

 

「ほら、さっさと行け」

「え、あの、注意点とか、そういう助言はないんですか……!?」

「あるか、そんなもの」

 

 アヴェリンは目に見えてやる気を失くし、ユミルもまた苦笑している。

 ミレイユはどう言うだろうと背後を振り返ってみれば、どこからか出した座り心地の良さそうな椅子に腰を下ろし、その肘掛けに腕を立てて頬を乗せている。

 

「え、あ……!? そんな無防備でいいんですか! 戦場なんですよね!?」

「……うん、形の上では、そういう事になるんだろうな」

 

 歯切れの悪い言い分に、アキラが少し不安になったところで、アヴェリンが襟首を掴んで前に突き出す。

 

「いいから行け。行かねば、あちらから襲ってくるだろうが。臭いんだよ、早く片付けろ」

「あの、フォローがあるとかないとか……!」

 

 ついにはアヴェリンに蹴り飛ばされ、アキラは情けない悲鳴を上げながら敵前に投げ出される事になった。

 既に臨戦態勢になっていたインプは、獲物を前に連携も考えずに突っ込んでくる。

 アキラは咄嗟に刀を抜き、鞘をその場に捨てて両手で構えた。

 

 

 

 実際のところ、敵の動きはお粗末、その一言に尽きた。

 一直線に向かってくる敵は数の利を活かそうともしていない。肩をぶつけ合って近付いて来る様は、下手な野生動物よりも知性を感じさせないものだった。

 

「師匠がやる気を失くすのも理解できるけどさ……!」

 

 理性なき獣以下とはいえ、アキラにとっては十分脅威だ。

 殺す気で近付いてくる人型をした獣など、その眼で見たことすらない。

 それに、やはり人型である事が躊躇を生むのだ。殺されたくなければ殺すしかない。それが分かっていても忌避感が生まれる。

 

 幾度となく繰り返してきた素振りは、確かにアキラの身に染み付いて、意図せずともいつもどおりの動きを見せてくれるだろう。

 しかし、それで命を奪う想定などしていない。

 

 身が竦む。

 生と死の葛藤がある。

 自分の死より敵の生を優先するつもりはない。

 しかし、それでも。

 

「ギャッギャギャ!」

 

 一匹が突出して、アキラに飛び掛かってきた。大きなものではない、飛んだというより跳ねたという方が正しい。だが、人のものより優れた瞬発力は、アキラの予想を上回る速度で襲ってきた。

 

「うわっ!」

 

 咄嗟に刀を振るって迎撃する。

 殺す度胸までは据わっておらず、そのため少し驚かす程度、肌を傷つける程度に小突いたつもりだった。

 しかし、その刃の切っ先はあっさりと身体を貫通し、思わず振り払った動作で身体を斬り落とす事になった。

 

「な……!?」

 

 まるでゼリーにスプーンを突き刺したような感覚だった。

 あまりにも抵抗なく切っ先は沈んだし、ろくな抵抗もなく刃が身体の外に出た。抜いたのではない、払う動作で身体を抜けたのだ。

 

「ギ、ギ、ぎぃぃぃ!」

 

 インプは腹を抑えたが、そこから内蔵が零れ落ちて膝をつく。口からも血を吐いて、遂には頭から倒れて痙攣した。地面に血溜まりが広がっていく。

 

「ギギ、ギャアアア!」

 

 それを見たインプは、仲間の死に逆上したようだった。

 より直線的、直情的にアキラに爪を振るおうと走り寄ってくる。

 

 アキラは未だに手に残った奇妙な感触に戸惑い、とにかく近付いてくる敵が怖くて刀を振るった。初めから殺すつもりもなく、ただ肩を打っただけのつもりだったが、刀はあっさりと肌を斬り裂き肩を落とした。

 

「ギイィィ!!」

 

 肩から吹き出す血を抑えようと、残った手を傷口に当て出血を止めようとしているが、そもそも痛みに悶絶して、止血もままならないようだった。

 他のインプは傷の手当や救助など頭の隅にも浮かばないらしく、一瞬動きを止めたものの、即座にまた襲いかかってくる。

 仲間が二人やられたというのに、その戦意が衰えないのは、逆に恐ろしさを感じた。

 

「う、うわ、わっ!」

 

 とにかく大振りに腕をふるい、爪で抉ろうとしてくる。

 しかし、大振りの攻撃は幾らアキラが実戦慣れしていないとはいえ、避けるに易い。

 跳ねるように横に避け、別のインプが更に攻撃をけしかけるも、更に後ろへと避けて逃げる。

 

 インプの一体と目が合う。

 赤い目は怒気と殺気で、どす黒く染まっているような気がした。

 振り上げて来た腕を、咄嗟に払う。

 何の抵抗もなく刃が通り、肘から先が宙を飛び、血が吹き出す。

 

「ギィ、ギイィィ!!」

 

 アキラの顔面に血が数滴、付着する。

 だが、このインプは腕が落ちた程度で怯まなかった。更に追いすがり、飛び掛かって口を開く。乱杭歯のようになった牙で食いちぎろうとしているのだ。

 

 アキラは両手で握った柄の頭で、その顔面を殴打して地面に落とす。

 尚も顔を上げ腕を伸ばそうとするインプを、恐怖と共に蹴り飛ばす。単なる忌避感から来る行動だったが、それが思いの外よく当たり、インプの身体は二度、三度と転がっていった。

 

 更に二匹が左から襲ってきた。

 両手を振り上げ、頭から振り下ろそうと飛び上がってくる。

 それを突きで迎撃しようと切っ先を向けたが、すぐ貫通してしまうと思って切っ先をずらす。それが敵の接近を許す事になった。

 

「――しまっ!」

 

 振り下ろされた爪が、アキラの頭に命中する。

 両腕で庇いながらも、咄嗟に目を瞑って背けてしまい、敵の攻撃が分からない。来ると思ったタイミングで頭に衝撃が走り、咄嗟に後ろへ逃げた。

 

 ――頭で受けたのは失敗だった……!

 独白も反省も、今は意味がない。

 怪我の具合は分からないが、血が出る感触はない。思考は鋭く目もしっかり見えている。

 ――問題ない!

 

 戦える事を認識しつつ、目の前にいるインプに集中する。

 殺さなければ、殺されるのだ。

 アキラは武者震いか、あるいは恐怖かで腕を振るわせながら、インプの頭目掛けて刀を振るう。

 上から下へ、一直線に振り下ろす唐竹割り。

 一切の抵抗のないまま顔面を両断し、血を吹き出しながら白目を向いて倒れた。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……!」

 

 動いた時間も、振るった時間も僅かなもの、しかし動悸は全力失踪した後よりも激しく、呼気は時間が経つごとに荒くなっていく。

 無傷のインプは残り一匹、尚も戦意を失わないインプに対し、今度はアキラから仕掛けた。

 

 特別に早い一足ではなかった。

 それでも三歩地を踏んで、四歩目で踏み込むと、一気に接近して頭を割る。

 抵抗らしきものはあった。腕をふるい、威嚇しながら牙を見せていたが、それがアキラの一刀には何の意味も成さず、口から血の泡を吹き出して倒れる結果になった。

 

 アキラは他のインプを倒そうと、背後を振り返ろうとした時だった。

 強い衝撃と共に突き飛ばされる。

 攻撃されたのだ、と直後に気付いた。

 

 追撃を避けようと、横へ逃げるように地を蹴り、身を捻って相手を確認する。

 そこには最初に腕を切り飛ばされ、悶絶していたインプがいた。

 

 死ぬまで襲う事を止めない、そんな事は予想できて当然だった。

 アキラは歯を噛み締め、その間から息を吐き出す。震える身体は恐怖からばかりではない、戦意の漲りからも来るものだ。

 

「……シィッ!」

 

 アキラは地を蹴り、刀を振るう。

 血を大量に失い、動きが鈍くなっているのは確かなようで、アキラの上段からの振り下ろしは躱せても、続く切り払いには対応できなかった。

 喉を切り裂かれ、血に溺れて地面に沈む。

 

「まだ、あと……一匹!」

 

 視線を巡らせれば、それはすぐに見つかった。肘から先がない、目ばかりが爛々と輝くインプが。インプは明らかに怯み、恐怖していた。

 仲間が全て殺されたなら、それも自然な事に思えたが、しかし逃げたり退くという思考はないようだった。

 大きく一言叫ぶと、不利を承知で突っ込んでくる。

 アキラはそれを冷静に対処し、腕の振り下ろしを一歩後ろに下がって避け、隙だらけになった頭部へ刀を落とす。

 スコン、と綺麗に振り抜かれ、目から鼻から血を流しながら、最後の一匹が倒れた。

 

 脱力したように腕を下げ、それでも刀は手放さずに、切っ先から血がポタポタと滴る。

 一応の警戒に辺りへ視界を巡らせても、立っている者も、そして動いている者もいない。

 

「ハァ、ハァ、ハァ……!」

 

 そこには、ただアキラの荒い息遣いだけが響いていた。

 



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外から来たモノ その5

け~か様、えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「ま、よくやったんじゃない?」

 

 遠くに立っているユミルの声が、やけに鮮明に聞こえた。

 荒い自分の息遣いの間を、縫うようにして聞こえた声に、アキラは声の主へと顔を向ける。

 そこでは出来の悪い弟を褒める姉のような、優しい笑顔が浮かんでいた。普段はニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべているだけに、この表情のギャップに、アキラは思わずドキリとした。

 

「初陣だしな。もっと泣いたり叫んだりするものかと思ったが……、まぁ傷もなく何よりだったな」

 

 アヴェリンのつまらなそうな表情で言われ、アキラは咄嗟に傷を受けた頭へ手を当てる。

 攻撃を受けた場所に痛みはなく、最初に受けた衝撃以上の怪我は作られなかったようだ。擦り傷どころか瘤さえも、指の感触から伝わってこない。

 爪が鋭いようには見えなかったが、それでも獣によく似た爪なのだ。無傷であるう事は逆に不自然に感じた。

 

「あ……!」

 

 だが一つ思い当たる節があって、アキラは咄嗟に指輪を見る。

 人差し指に嵌めた指輪は何の反応も返しはしなかったが、それでもこれが効果を発揮した結果だと理解した。そしておそらく、胸当ての奥にあるネックレスも、同様に仕事をしてくれたに違いない。

 

「この道具のお陰ですか……!」

「そうだな。あれは特別弱い敵だから無力化できていた。それが当たり前とは思わないことだ。本来なら、それを頼りにしない立ち回りをするものだ」

「う……、はい」

「少しは褒めてやりなさいな。見ている最中だって、まぁ不機嫌そうにしていたんだから……」

「そんな駄目でしたかね……」

 

 アキラが肩を落として言えば、アヴェリンは容赦なく頷く。

 

「あれに褒める要素があったか? 駄目だったに決まってる」

「不機嫌っていうのはね、単に腹を立てたのとは、ちょっと違うのよ。ハラハラして助けに入りたいのに入れない、そういうジレンマで不機嫌だったの」

「そうなんですか!」

 

 アキラが笑みを浮かべてアヴェリンを見れば、返ってきたのは平手打ちだった。

 

「そんな訳ないだろう。真に受けるな」

「はい、すみません……」

 

 頬を擦りながら、ふと視線をずらすと、奥に見えていた孔が鳴動しているのが見えた。

 まるで孔そのものが鼓動するように動くと、一際大きく広がり、中から何者かが出てくる。穴の縁に手をかけ、両手で押し広げるようにして顔を出し、肩を出し、そして足を出した。

 身体が全て孔から出ると、孔は役目を果たしたように縮んでいき、ついには完全に閉じて消えてしまう。

 

 残ったのは、灰色をした醜悪な人の形をした何かだった。

 目は小さく、反して口は大きく下顎から牙が見えていた。肩は大きく盛り上がり、腕も筋肉質で太い。しかし腹も大きく盛り出て脂肪の塊のような有様だった。

 腕や腹に反して足は短い。筋肉質ではあるものの、その短足ではバランスが取れないのではないかと心配してしまう程だった。

 それが全長二メートル半という巨体で、こちらを睥睨している。

 

 アキラは荒い息も忘れて呼吸が止まる。

 先程のインプなどとは比べ物にならない脅威が目の前にあった。アキラは相手の戦力を正確に測るような技量を持たないが、まず間違いなく自分は相手にならないと、それだけは確信が持てる。

 

 インプを見て身を竦ませていたアキラとしては、今にも外聞を捨てて逃げ出してしまいたい衝動に駆られた。

 

 アヴェリンの顔色を窺ってみると、そこには先程と変わらない表情があった。相変わらず気負いもなく淡々としている。ユミルの方を見てみても、やはり動揺はない。

 

「そうだ、ミレイユ様は……!」

 

 何故か椅子に座って観戦モードだったあの人はどうしてるのかと思えば、変わらず椅子に座ってつまらなそうに欠伸をしていた。

 

 ここまで全員が全員この態度だと、実は見掛け倒しで脅威でも何でもないのでは、と思えてしまう。戦闘後の高揚感が変に作用してしまっただけなのかも。

 アキラは物は試しと聞いてみることにした。

 

「あの……、あれってさっきのインプと比べて強いんですか? 仮にインプが一なら、あれを十段階で教えて欲しいんですけど」

「――百だ」

 

 簡潔な返答にアキラは目を剥く。

 では、感じた脅威は何も間違いではなかったという事だ。アキラは自分がどう動けば良いのか、咄嗟に判断できなかった。

 新たな敵とアヴェリン、ユミルとミレイユへと視線が行き来して、右往左往するだけで何をするでもない。

 そうこうしている内に、敵が動いた。咆哮と共に、こちらへ突進してくる。

 

「ゴオオオオオオ!!」

 

 咄嗟にアキラは逃げ出した。恥も外聞もなく、振り返って全速力でミレイユの方へ駆け出す。置いて逃げた罪悪感に振り向くと、アヴェリンとユミルは何やら言い合いをし始めた。

 

「私がやる。当然だろう」

「いや、でもアンタ、この前デカブツ相手はつまらないって言ってたじゃない」

「あれは単なるデカブツだ。殴ったところでつまらん奴だった。だが、こいつは殴り甲斐のあるデカブツだ。当然、私が殴るに決まっている」

「その変な理屈を振り回すのやめてよね。アンタがやると何もかも吹っ飛ばすコトになるでしょ? アイツの胆嚢が欲しいのよ、アタシは。内蔵とか無事にしながら殺せないでしょ?」

「普段は気にせず殴るから、そうなるだけだ。気にすれば大丈夫に決まっている。じゃあ頭を殴ればいいんだろう?」

「やめてよ、あれの牙も欲しいんだから。とにかく何もしなくていいの。単に見ているだけでいいから。難しいコトじゃないでしょ?」

 

 突進してくる大男など気にも留めず、二人は言い合いを続けている。

 そんな事してる場合か、と口に出して叫ぶ、その直前だった。

 既に大男は二人の眼前に迫っており、その大きな腕を振り上げている。二人は已然、言い合いを続けていて、敵に注意を払っていない。

 ミレイユに助けを求めようと振り返れば、足を組み替えながら身をよじり、背後の方を窺っている。アヴェリン達より結界の外の方が気になるようだった。

 

「何の助けにもならない……!」

 

 アキラが再び振り返ろうとするのと同時、大きな衝撃音が耳を貫いた。

 見れば、振り下ろされた敵の腕を、アヴェリンが左手の盾で受け止めている。見える横顔は苦渋に歪むでもなく、さっきと変わらぬ淡々とした表情に見えた。

 

「とりあえず倒すぞ」

「いいわ、頭はアタシが」

 

 短い会話の後、右手に持ったメイスで片足を払い、腹を叩く。

 先程とは比べ物にならない衝撃と共に、敵は横倒しになり、地面に叩きつけられる。口から血やら胃液やらを撒き散らし、悶絶したところで、ユミルが手から雷を飛ばし意識を焼き切る。

 

 一撃だけで終わらず、更に近付いてもう一撃を加え、完全に絶命したのを確認した。

 何の造作もなく、あまりにも呆気なく敵が倒された。

 アキラが呆然としている間に、二人はまた口論を始める。

 

「だから、何で腹を殴るのよ! 胆嚢が駄目になっちゃうかもしれないでしょ!」

「殴りたかったからだ! それに殴る場所はしっかり考えてる! 胆嚢がある場所はしっかり避けた!」

「出来てないから言ってんの! 絶対、あれ潰れてるから!」

「だったら、すぐに腹を捌いて確認してみろ! 無事なら文句ないだろう!」

「その結果良ければの考え方やめなさいよ!」

 

 いつまでも続けそうな二人を置いて、アキラはミレイユの元に帰る。途中、刀の鞘を回収して刀を納め、何故だか遣る瀬無い気持ちのままミレイユの元に辿り着いた。

 それと同時にミレイユは椅子から立ち上がり、手に光を灯して消し去りつつ、アキラの方へ振り返る。

 

「おつかれ。どうだった、初陣は」

「いや、なんかもう。なんていうか、もう……。何ですか、最後の。全っ然、緊張感ないし……」

 

 ミレイユは苦笑して、帽子のつばを摘んで深く被る。

 

「まぁ、そうだな……。アレぐらいだと緊張感を出しようもなかったというのが本音だが。しかし、お前にはいい経験になったろう」

「なったかと言われれば、間違いなくなりましたけど……。僕なりに結構頑張ったんですけどね……」

「勿論、そうだろう。本当はもっと死ぬ目に遭って欲しかったんだが……」

「え、いま何て言いました? 死ぬ目?」

「いいや、無事で良かったな、と言ったんだ」

「嘘ですよね? 死ぬ目って言いました。絶対言いました!」

 

 ミレイユは言い募ろうとするアキラをぞんざいに横へやり、帽子を取って上空を見渡す。

 空には罅が入り、遂には割れて、それで一気に外の喧騒が戻ってきた。

 異変を察知した二人も、言い合いをやめて戻ってくる。ルチアも傍に寄ってきて、それでこれが異常ではなく、自然な状態に戻ったのだと説明が入った。

 

「つまり、中にあった孔、あれの消滅と魔物の生命活動停止、それがトリガーになって結界が消えるという事か?」

「そうなります。ところで、死体はどうなりました?」

 

 ルチアの疑問にユミルが答えた。

 

「目の前で消えたわ。結界の消滅が、死体の消滅も兼ねているみたいね」

「結界の中の異空間ごとの消滅が、そういう死体の露呈を防ぐ機能も成しているわけか」

「なかなかよく出来てますね。後片付けが必要ないっていう点は、称賛に値しますよ」

 

 ミレイユが興味深そうに、今は消えてしまった結界、そのあった場所に視線を巡らす。

 

「なるほど、自動化されているとは、こういう事か。……抜け目ない」

 

 そうして視線を巡らせた先で、動きを止める。

 注視したまま微動だにせず、右手に光を集めようとして、不意に掻き消す。

 

「……ミレイ様、どうされました?」

 

 アヴェリンもまたミレイユの見ていた方向に目を凝らすが、何かを見つけた訳ではないようだった。首を振って再びミレイユの方に視線を戻せば、再び帽子を被り直したところだった。

 

「いいや、勘違いだ。――さ、撤収だ」

「そうね、討伐部隊は終ぞ現れなかったし、これから出てこられても面倒だし」

「実際、どうなんでしょうね? 結界があるなら、これから私達は来なくてもいいんでしょうか?」

「それは鉢合わせしてから考える。これを悪事だと糾弾されるとは思えないしな」

 

 ですね、とルチアが頷いたが、それと同時に神妙な顔をして一つの仮説を開陳した。

 

「これって、結界があるから討伐もある、と考えるのは逆かもしれません。最初の仮説を思い出してくださいよ」

「何者かが呼び出しているっていう?」

 

 ユミルの指摘に、大いに頷く。

 

「その仮説、まだ捨てるべきじゃないと思います。中に魔物がいましたし、出られないような結界でしたが、自動消滅する結界でもあったじゃないですか」

「そうね、魔力反応だか、魔物反応だか、そういうのを感知できなくなったから消えたんでしょ? 後処理もしっかりしてね」

「ですよね。でも、それってもしかしたら失敗を悟ったからじゃないかと」

「誰かが監視してたって事?」

 

 ユミルが首を傾げれば、ルチアは手を振って否定する。

 

「いえ、自動化されてるんです、そういう場合だけじゃないと思うんです。中に魔物がいて、そこへ追加で現れて、そうして魔物が複数いたら、その後どうなると思います?」

「……んー、異なる種族の場合、捕食者がいるかどうかで変わってくるわよね?」

「そこですよ」

 

 ルチアはぴんと人差し指を立てた。

 

「あれ、もしかしたら蠱毒かもしれません」

「まさか……」

「有り得ないですかね?」

 

 壺の中に毒を持つ虫を複数入れて食い合わせる。そして生き残った虫が持つ毒は、どの毒よりも優れたものである、と考える。それを繰り返し、強力な毒を作り出す邪法こそ、蠱毒と呼ばれる方法だった。

 

 ミレイユは神妙な顔をして腕を組む。

 

「あれはより強い魔物を呼び出す装置か、あるいは作り出す事を目的としたものだというのが、ルチアの主張か?」

「そうとも言えますが、つまり最悪を想定したいんです。単に喚び出すだけに自動化された、と考えるより、より効率よく蠱毒を形成する為に作られた、と。蠱毒の虫が全滅することは、決して珍しい事ではないのですから」

「なるほど……自動化とは、そういうことか」

 

 アヴェリンは難しい顔で二人を見比べる。

 

「つまり、見つけ次第壊しに行く、という結論は変わりないと思っても?」

「そうだな。仮に討伐部隊がいるのなら、接触があっても問題ない。注意ぐらいは受けるだろうが、ならば今後はお任せします、とでも言えばいい」

「むしろ逆の場合、事態は相当面倒な事になるワケね……」

 

 神妙な雰囲気になったところに、アキラが奮起して刀を捧げる。

 

「だったら、僕も頑張りますから! 出来る限りのこと、やってみせます!」

「それはいいけどねぇ、トロールに逃げ出すようじゃ、とても言わせておくコトは出来ないわねぇ」

「え、あの……、そういう名前だったんですか、あのデカいの」

「そうだ。お前、よくも師匠を置いて逃げ出せたものだな」

「い、いや、でも、あれは仕方なく……」

「仕方ないかどうか決めるのは、師匠である私の役目だ。――明日から覚悟しておけ。お前の出来る限りとやら、私が出来るだけ高めてやる」

 

 アヴェリンの視線は剣呑そのもので、修行というより制裁に近いイメージが、アキラの脳裏をよぎった。助けを求めて左右を見渡しても、苦笑が返ってくるばかりで見捨てられているのは明白だった。

 逃げ出そうと身を屈めたら、アヴェリンの視線が獰猛な色を宿している。

 もはや逃走は不可能なのだと悟らざるを得なかった。

 ションボリと肩を落としたところで、ミレイユが声を上げる。

 

「――帰るぞ。帰るまでが遠足だ」

「いいけど、遠足って何よ?」

 

 ユミルが素朴な疑問を口をしながら、二人が魔術を行使する。それぞれの両手に光が灯り、ミレイユの魔術が身体能力を底上げし、ユミルの魔術が姿を隠蔽させる。

 無人となったマンションの駐車場から、アキラの叫び声がドップラー効果を持って過ぎ去っていった。

 



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幕間 その1

こちら、二話連続更新の二話目になります。
お読みになる際、ご注意下さい。
 
うぇん様、誤字報告ありがとうございます!
 


 その日は特別な事など無い筈だった。

 いつものように結界発動の感知を通達され、現場に急行し、そして然るべき対処をする。幾度となく繰り返して来たルーティン。

 そして先祖より脈々と受け継がれる、オミカゲ様より任された責務でもあるのだ。

 

 阿由葉(あゆは)七生(ななお)は、その責務を誇りを持って受け継いでいる。

 その一端を御由緒家へと任せている事実は、一般人に知られてはならないからこそ、その重要性もよく分かろうというものだ。

 

 今いる場所は、とあるマンションの屋上、結界が発動した市営マンションから二百メートル離れた場所に立っていた。

 それ以上は近寄ってはならない、と厳命されたからだが、それに対し如実に不満を表す者もいる。

 

 七生は傍らに立つ三人へ目配せした。

 この部隊のリーダーは七生だが、他の面子も同じ御由緒家。部隊は基本、四人一組で行動するものの、その四人全てに御由緒家を当てるような事態は、七生が知る限り今までなかった。

 

 御由緒家はその血筋ゆえ、他の力持つ者よりも更に強い力を持つ事が多い。驕るわけではない、ただ事実として御由緒家は別格なのだ。

 かくあるべしと育てられもして来た。

 強い力を持つ者は、だからこそ驕り高ぶる事なく、その力を使わねばならない。オミカゲ様より授けられた力であればこそ、それを歪んだ心で使う事は、オミカゲ様の顔に泥を塗る行為となる。

 

 何より御由緒家が誇りとしているオミカゲ様の忠臣という立場が、驕る事も慢心する事も許さない。家中の者であれば勿論、他家であっても同様に考える。

 もしも私利私欲でこの力を使う者が出れば、自身の一族だけではなく、御由緒家全てから命を狙われる程の大罪となる。

 

 だから御由緒家の誰もが、常に自分を戒め、そして己の力を高める事に余念がない。

 力を振るうべき場所を誤る事はしないが、力を振るえる場所があれば気分が高揚する場合はある。丁度、隣にいる同い年の男性――比家由(ひかゆ)(れん)がその類だった。

 

「ねぇ、漣。その顔やめてよ、待てって指示なんだから。……飛び出そうとか考えてたりしてないわよね?」

「……してねぇって。それに変な顔もしてねぇ」

「じゃあ、その不満顔やめて。見てて不安になってくる」

 

 言われた漣は、顔を歪めて横に顔を向けた。

 そこには一際大きな巨体を縮こませ、屋上の床に片膝をついた男がいる。その目は油断なく結界のある方向を見つめていた。これだけ離れていれば、見えるものも見えないと思うが、実直なこの男からすれば、警戒しろと命令があればその通り熟すのだろう。

 

 名前を由衛(ゆえ)凱斗(かいと)。同じ御由緒家の一人で、七生との付き合いも深い。

 御由緒家は基本的に同列で上下の序列もないが、お互いの気性や実力、家の挙げた功績などで暗黙の了解のようなものは生まれる。これは当主交代などで幾らでも変わるので、不変の位という訳でもない。

 それでも、その中に置いて、最も下に見られる凱斗が、最も上に見られる七生と上手くやれているのは不思議だった。

 

 漣は凱斗に向けて同情めいた視線を向ける。

 

「お前、なんでこいつと仲いいの? 弱み握られてないか?」

「いや、そんな事はないが」

「でも、やたらアタリ強ぇじゃん」

「責任感がそうさせるんだ。七生も緊張してるんだよ」

 

 凱斗は顔の向きを変える事なく、素っ気なく答えた。

 ここからマンションの入り口近辺はよく見えるが、急行した自分達よりこちら、何の人影もない。時間が時間だからだろうが、既に日も完全に隠れようとしている時間帯、監視するのも難しくなりそうだった。

 

「俺たちは斥候だ。あるいは偵察。真面目に責務を果たそうとは思えないのか?」

「真面目だろうがよ。別に文句垂れてる訳でもねぇ。だがよ、もし結界からアイツらが出てきたら、どうなると思うよ? こんなに長時間、あそこで放置するようなこと今まであったか?」

「俺の知る限りは、ない」

「だろうがよ? 奴らにゃあ、結界の中で収まって貰わにゃならん。あん中で暴れられたりしたら、結界はどうなる? 勝手に出てきて暴れられたら? 俺はそこを心配してんだ」

 

 漣の言い分には一理あるように思われた。

 結界は強固であり堅固だが、万能ではない。使う力の性質によっては、結界そのものを貫通してしまうものもある。あの中にいる鬼妖(おにあやかし)が何か分からないが、もし強力な鬼が出てくれば、結界の保護に回る必要が出てくるだろう。

 

 七生もまた、そう考えたようだった。

 漣とは逆隣にいる小柄な少女へ顔を向け、労るように肩を叩く。

 ここにいる四人の内、三人は同学年の同い年だが、この少女だけは一つ下の妹分で、その能力の高さから目をかけている人物だった。

 

 由喜門(ゆきかど)紫都(しづ)、それが彼女の名前で、理力を使った能力が高く、また多才である事で有名だった。

 誰にでも身に付けられる力ではないが、御由緒家であれば誰もが何かしら力を持っている。家によって得意分野の傾向はあるものの、基本的に持てる能力に垣根はない。

 

 例えば七生の阿由葉家は近接戦闘に優れた理力を発揮するし、由衛家は逆に護りの力を発揮する。

 発揮するというより、その傾向の強さから継承される技術もそちらに秀で、結局大成するのは家が得意とする理力になる、という案配だった。

 由喜門家もまた多くの場合、支援に秀でた理力を発揮する。大抵は自分ないし他人の能力を増幅させる力を得るが、紫都の場合それだけに留まらず、遠見の力も得ていた。

 範囲も広く鮮明に見える。それが偵察にどれだけ有利に働くか、言うまでもない。

 

「どうだ、紫都。何か分かるか?」

「……ん。ちょっと待って」

 

 その紫都が屋上の床に座って両手を前に突き出す。

 両掌に緑色の光がじわりと広がり、それが徐々に強さを増す。十秒を過ぎた辺りで光が最も強くなる。焦れったく感じる時間だが、これは全世代を含めた理者の中でも相当早い方だ。

 そしてようやく、力を込めた理力を握り締めて解き放つ。

 

 すると、目の前には長方形のディスプレイのような物が映し出された。

 横五十センチ縦三十センチ程の大きさで、そこからは結界内の様子が分かる。土気色をした小男のような風体の鬼、知性も見受けられない子鬼がいた。

 数は五匹と一度に目にするには多い方だが、相手が相手だ。これならば幾ら暴れようと結界が破壊される心配はなさそうだった。

 それを覗き込んでいた漣が、つまらなそうに呟いた。

 

「んだよ、土鬼かよ。心配する必要なかったな」

「だが、これだけの数を一度に見るのは初めてだ。群れたから何が出来るとも思えんが、警戒を解くべきではない」

 

 凱斗が同じく覗き込みつつ言えば、七生も頷く。

 

「なぜ私達が呼ばれたのか考えるべきね。楽観できる状況ではないから、こうして御由緒家が集ったんでしょう?」

「待機させて、警戒させる為だけにかよ?」

「いいえ、まだ孔は閉じてない。これから出てくる者が何かによって、話は変わってくるわ。それに、このまま十五分待って何も起きなければ、我々も動く」

 

 結界の奥に鎮座するように広がる孔、それを厳しく見つめた七生が言う。

 決意を秘めた、断固とした口調だった。

 そこに、紫都が緊迫した声で制止をかける。

 

「――待って。誰か結界の前に来た。一般人じゃない、干渉しようとしてる」

「なんですって!?」

 

 即座に映し出された幻像が結界の外を映し出す。

 そこには銀髪の少女と金髪の女性がいた。片方は杖を持ち、もう片方は防具を身に着け、メイスを持っている。それが結界の外に立ち、明らかにそれと理解しながら触れている。

 

「……一般人には見る事はおろか、ある事すら分からない筈だが」

「一般人じゃないのは、武器を所持してる時点で分かるだろうがよ」

「警戒していたのは、これなのかしら」

 

 七生が顎を摘んで呟くと、漣は茶々を入れるように笑う。

 

「それにしても、えらいベッピンじゃねぇかよ。おい、凱斗。お前、どっちが好みだ?」

「言ってる場合か? 武器を手にして結界に干渉しようなど、何をするつもりなのか分からんぞ」

「漣、少し口を慎め。それに皆、ちょっと待ってて、いま確認するから」

 

 七生は耳に手を当てヘッドセットのマイクを口に向ける。

 コールと同時に相手に繋がり、状況を簡潔に説明したのだが、返ってきたのは待機の命令だった。異議を唱えたかったが、命令は命令だ。

 了解の意を伝えてマイクを切る。

 

「確認した。現状のまま待機」

「おい、嘘だろ!?」

 

 漣が食って掛かろうとするが、その前に凱斗が拒む。

 

「命令は命令だ。それに、今回は誰の命で動いているか、お前だって知らない訳じゃないだろう」

「ああ、でもよ……宮司様だって――いや、悪い。すまんかった」

 

 言い掛け、しかし鋭い視線を返され、漣は素直に謝った。

 待機の命令に不満があろうと、それに反発していい相手とは限られてくる。そして今回の相手は絶対に反発して良い相手ではない。続けるなら制裁さえあり得る。だから漣も素直に謝罪した。

 

「ただ見ているのは歯痒いけど、でも動きがあったからこそ待機という感じだったわ。むしろ、これを待っていたみたい」

「……そうなのか? その為の斥候だって?」

「斥候は無能じゃ出来ないのよ。むしろ無能な斥候は害でしかない。私達は情報を持ち帰る為に来たし、そしてそれが出来るのは私達だけと判断されたんでしょ」

「……過剰じゃね? 大体、この距離だ。調べるだけ、見ているだけなら、紫都だけいりゃいい」

「――待って。また増えた」

 

 漣が子供のように口を尖らせた時だった。

 紫都の鋭い声が、他の面々を幻像に視線を集中させる。

 見てみれば、そこには確かに更に三人増えた女性グループがいる。どれも外国的というべきか、日本では見受けられない格好をしていた。

 

 その中で殊更浮いているのが一人。男物で現代的な服装に胸当てなど、アンバランスに組み合わせた少女がいる。そのクセ武器は日本刀という組み合わせだ。

 

「……なんだ、ありゃ」

 



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幕間 その2

あーるす様、えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「随分と珍妙な格好をしているが……」

「格好に惑わされるな。特に帽子を被った女性……、あれは危険だ」

 

 七生が険しい顔で指摘して、他の面々も同時に注視する。

 強い力を持つと分かるが、それがどれ程なのか迄は分からない。薄ら寒いものを感じていると、紫都が緊迫した声を上げた。

 

「結界を解析された。もうあれは、牢としての役割を果たせない。あの銀髪がその気になれば、いつでも自由に解除できる」

「……それ、不味くねぇか?」

「とても不味い。それに――」

 

 言っている間に、集まった女性達が結界内に入っていく。

 銀髪の女性はそれを見守り、最後の一人になっても結界内に入ろうとしない。それどころか、その場で待機して油断なく周囲を見張っている。

 

「侵入された。中には土鬼しかいないし、あちらの戦力は未知数だけど……何するつもりで来たのか不明」

「武器を持っている以上は、戦闘するつもりで来たのだと思うが……。七生、未だに待機でいいんだな?」

「ええ、命令に変更なし、待機のまま」

 

 七生はヘッドセットのマイクに口を当てながら答えた。

 その拳は固く握られ、幻像の奥を睨み付けるように窺っている。

 

 そうして動向を伺っていると、入った四人のグループは入り口で待機して何やら物言いを始めた。魔女帽子を被った女性など、どこからか出した椅子に座って寛ぎだす始末で、七生はどう反応していいのか迷ってしまう。

 握っていた拳もすぐに解けた。

 

「え、なに? 何なの……? 何してるの、この人たち」

「鬼を前にして、椅子に座る奴なんているのか?」

「大体、あれどうやって出したものだ? 生成か? 変性か? 召喚か?」

「早すぎて分からなかった。制御力が桁違いで、どうやったかすら不明。でも、理力を持ってるのはこれで確認できた」

 

 紫都の意見に七生が反応する。顔を向けて、その肩を掴む。

 

「確かか?」

「間違いない。見た目はああだけど、間違いなく理力を使った制御だった。あの人はオミカゲ様より力を授かった人」

「マジか……。じゃあ、敵じゃないんだな?」

 

 漣が呟けば、紫都は首を横に振る。

 

「そうとは限らない。あれだけの制御力を持つ人が、私達御由緒家の誰も知らないというのは、まず異常。正体不明、理解不能という相手には変わりない」

「……そうね。宮司様はきっと、この情報が欲しかったのよ」

「そういうことかよ……」

 

 漣の納得とは逆に、凱斗は疑問を呈した。

 

「この正体不明のグループの、尻尾を掴みたかったという事か?」

「そこまでは分からないわ。今はただ、これを最後まで見届けましょう」

 

 七生の言葉に、全員が頷きを持って返す。

 そして見守る幻像の中では、たった一人だけ刀を振り回して戦っている。土鬼相手に苦戦という程ではないにしろ、善戦してはいるようだ。

 

「……なんだ、戦闘は素人か? つまり戦いにでも来たってか? 武者修行的な」

「見ている限りは、そのように見えるわね。入り口辺りで待機してる三人なんて、明らかにやる気が見えないけど」

「戦っているあの一人だけが、素人なのかもしれん。他のメンバーは高みの見物で、早く終わらせろとでも思ってる感じだが……」

「……変な集団ね。目的が見えないわ。まさか、本当に武者修行させるのが目的な訳ないでしょうし」

「……不可解」

 

 それぞれが観戦を見守りながら好き勝手口にする。

 二度ほど攻撃を許すような状況もあったものの、戦い自体はあっさりと決着が付き、肩で息をしながら呆然と立つのが見えた。

 戦闘中の動きと、この光景を見るに、どうやら本当に戦闘は初めてだったらしい。

 

「おい、マジで素人だったのかよ。何しに来たんだ、コイツら。結局あの三人は最後まで動かねぇし……」

「まさか、ないわよね。本当に武者修行的な扱いで、ここに来たなんて……」

「いや、だが状況だけ見ると――待て!」

 

 凱斗が困惑した声で七生に応えていた時だった。

 刀を持った女性に、他二人が労いに来ていたような状況で、孔が一際大きく鳴動した。そして幾らもせず中から孔を引き裂くようにして、大きな鬼が姿を表す。

 

「あれって……!」

「おい、あれ不味い、シャレにならねぇぞ!」

 

 孔から出てきた鬼は、元戻鬼と呼ばれる大鬼だった。

 大抵の傷は見る見る内に塞がってしまうし、その巨躯から繰り出される攻撃はコンクリートぐらい簡単に砕く。一撃でコンクリートの壁を粉砕し、車すら圧壊させた光景は何度も見てきた。

 知能は低く、暴れる事しかしないが、その暴れる動きを止める手段が難しい。

 傷を与えるには切り裂いて傷口を燃やすのが有効なのだが、それすら時間を与えれば塞がってしまう。動きを止めようにも巨体ゆえ難しく、足を狙おうにも巨体を支える足だからこそ堅固で傷すら付けられない。

 ダンプカーに使うタイヤのようだ、といつか漣が言っていたのを、七生は思い出していた。

 

「流石にあれは、傍観していちゃ不味い気がするわ」

「許可は取らなくていいのかよ?」

「今から取るわ――あ!」

 

 七生が思わず声を上げたのは、言い合いを始めた二人に元戻鬼が飛び掛かったからだ。

 大きく振り上げた拳は重機のハンマーのような一撃になる筈。未だに警戒すらせず、呑気に言い合いをする二人がトマトのように潰れる光景を幻視して、思わず顔を顰めた。

 しかし――。

 

「……は?」

「な、なんだ、何が起きている?」

「潰れるだろ、普通? 何で平気な顔して立ってんだ?」

「……理解不能」

 

 幻像の向こうにある光景が理解できなかった。

 片腕一本、盾一つで、あの大鬼の巨腕の一撃を受け止めている。コンクリートを砕き、車さえ圧壊させ時に両断さえする一撃を、まるでボールを受け止めるかのような気軽さで受け止めたのだ。

 頭が理解を拒むかのような光景だった。

 

 防御に特化した理力を扱う凱斗であっても、同じ事をするのは不可能だ。しかもあれは、理力を用いない純然たる身体能力から来るものだ。

 凱斗が憧れる、内向理力の理想系がそこにあった。

 

「まさか、そんな……!」

 

 その呟きは盾で受けた防御だけではなく、続く反攻にも掛かる事になった。

 打ち崩すことが出来ない下半身をたった一撃で態勢を崩し、あまつさえ横倒しにした相手へ腹部への一撃で昏倒、更にもう一方が頭部へ理力による雷の一撃。念を入れたもう一撃で、完全に沈黙させた。

 

 まるで子供をあしらうかのような、あまりにも他愛ない決着だった。

 ここにいる御由緒家は同年代の誰より優秀だ。だからこそ御由緒家でいられる。しかし、その四人をして、この二人の足元にも及ばないことは、この光景を見れば理解する。

 いや、理解せざるを得ないのだ。

 自分達の実力をよく知るからこそ、あの者らが隔絶した能力を持っていて、そして全力の一割も見せていないのだと。彼我の実力差を認めないではいられない。

 

 凱斗は口の中が乾いているのに、今更ながらに気付いた。

 

「これか……。これこそ知りたかった光景なのか? この情報を持ち帰れと……」

「なるほど、そりゃ俺たちがいる訳だ。いざとなった時の足止めじゃ、他の誰だって力不足だろうよ」

「私達でも同じこと。あの人達が全力で向かってきたら、果たして足止めが叶うかしら」

「命をかけて、それで三分の賭け、そんなところだろう」

 

 絶望的な数字は、それでも甘く見据えてのものだろう。実際にはそれより低くなるだろうと、この場の誰もが理解している。

 後は相手が敵対的でないことを祈るしかないのだが、果たして……。

 

 元戻鬼が倒され、結界が消えた後の事だった。

 どうやってこの場から見つからずに去るかを検討していた時、あのメンバーの一人がこちらに顔を向けた。誰もが幻像を見ているなか、咄嗟に凱斗が気付いたのは偶然でしかなかった。

 

「皆、伏せろ!」

 

 掛け声に不満はなく、誰もが同じように屋上の床に身を伏せる。

 紫都の作った幻像も消され、じっと息を潜めて時がすぎるのを待つ。視界に相手を入れつつも、視線を合わせるような愚は犯さない。

 高い実力を持つ者ならば、二百メートルの距離差など何の慰めにもならない。

 

 暗闇の中、そして距離も高低差もあればこそ、見つかりはすまい、と思っていた。

 そしてそれはどうやら事実でもあったようで、暫くしてから細心の注意をしながら窺っても、既に気配はなくなっている。

 気配だけでなく姿も見えなくなっているが、この距離なら住宅地の中に入り込まれてしまえば、もう所在は分からない。

 

 凱斗は声を出さずに手だけで立つように示し、自らもより中心部分へと中腰のまま移動する。

 そして安全圏だと分かる所まで移ると、そこでようやく息を吐いた。

 

「ここもいつまで安全か分からん。あちらはこっちを注視してたが、見つかってはいないと思う」

「今は姿はもう……?」

「ああ、見えないが、これは単に移動して帰投したのか、それともこちらに接近しているのかも分からん状態だ」

「じゃあ、急いでこの場を離れる必要があるわね」

 

 緊迫した雰囲気で七生は全員を見渡す。

 

「この場から離脱します。最悪の場合、今の幻像を再生できる紫都だけは生きて帰す事を優先させる。そのため、先頭は紫都に。後続は足止めとして、都度切り離して置いていく」

「そんな!」

「必要な事よ。何の為の御由緒家か、さっきそういう話をしたでしょう?」

 

 悲壮な顔をした俯いた紫都に、七生は優しく肩を撫でる。

 そこに漣も凱斗もまた、明るい声で胸を叩いた。

 

「なに、別に殺されるって決まった話じゃないぜ? 知らぬ存ぜぬで切り抜けられるかもしれねぇし、そもそも戦闘にだってならないかもしれねぇんだろ?」

「ああ、だから最後尾には俺が着く。仮に戦闘になっても、それが最も成功の公算が高い。七生、どうだ?」

「――ええ、任せるわ。次に私、そして漣よ」

「おい、待てよ」漣は不満を顕にする。「俺が二番手だ。切り離されるなら、先に俺だろうが」

 

 漣は己を親指で指す。

 明らかに自己犠牲を多分に含んだ台詞だったが、七生はそれを切って捨てた。

 

「勘違いしないでね。私はこの任を全うさせる為にいるの。見栄でも自己顕示欲の強さでもなく、能力を勘案した結果が、この順番なのよ」

「……ああ、分かった」

「皆……!」

 

 紫都の目に涙が溜まる。身体が震え、声が震える。

 紫都は鬼を畏れない。戦う事も、傷つくこともまた同様に。しかし、ここで身を挺して己を逃がす為に捨て石になろうとしている仲間を、薄情にも見捨てていくのは恐ろしかった。

 七生は殊更明るく笑って、紫都の肩を叩いた。

 

「大丈夫、これは最悪を想定した場合だから。実は全然、後を追う人なんていないかもしれないんだから」

「そうとも。あくまで最悪だろ? まぁ、でもこっちを見てたっていうなら……」

「馬鹿、やめろ。いいから、即座に動くんだ。追いつかれる危険があるなら、さっさと動くに限るだろう」

 

 凱斗が促し、七生がフォーメーションを確認しながら指示を出す。まず最初に紫都へ顔を向けた。

 

「いいわね、誰が犠牲になっても貴女は最後まで、振り返らずに走りなさい。何があっても、誰であっても」

「分かった……!」

「凱斗も、辛い役目を背負わせたわね。でも、頼むわよ」

「任せておけ」

「漣、私達二人が脱落したら、頼みの綱はあんたになる。最後に残すのが、何故あんたなのか、分かるわね?」

「――おう、大丈夫だ。ちゃんと分かってる」

 

 七生は全員を改めて見つめ、そして頷く。それぞれから頷きが返って来て、逃げ去る方向へ指を差した。

 

「――さぁ、行って!」

 

 

 

 決死の覚悟を決めた逃走だったが、結局後を追う者は現れず、そして遠くから監視するような気配も見つからなかった。

 全員の生還に七生は肩を下ろし、漣と凱斗は笑って何事もなかったことを笑った。

 紫都は全員を労って、涙ながらに抱きついた。



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第二章
街への遠征 その1


こちら、二話連続更新の二話目になります。
お読みになる際、ご注意下さい。


 

 ミレイユは今、自らの思考に頭を悩ませていた。

 

 昨晩のこと、日が暮れるよりも少し前、まだ明るさが幾らか残る時間帯、不思議な感覚がよぎり不思議に思った。

 ルチアにも同様の感覚があり、確認しようと箱庭を出て、それが確信に変わった。

 何かしらの異変があるのは確かであり、それを実際にどういうものか目にしようと、アキラを伴い行った先で結界を見つけた。

 

 結界の出現との存在、そして、そこから現れ出る魔物。

 仮説はあるものの、情報が足りず、だから推測の域も出ない。それでも思考は悪戯に空回りにする。

 あの“(あな)”が出口ならば、入り口もまたあるのが道理。

 見た覚えどころか良く知る魔物の存在、それは一体なにを意味している。あちらとこちらが繋がっているなら、それはいつから起きている事だ。

 

 それよりも問題は、一体誰が、何の目的で、それを行っているのかという事だった。

 偶然の産物とは考え難い。

 ならば誰かが目的を持って行っていると推測するのが妥当で、そしてそれがミレイユ達のいる場所近くで発生しているのは、果たして偶然なのだろうか。

 

 ――何者かが狙い撃ちするように、ミレイユ達を害そうとしている。

 そのように考えてみた事もある。だが、それだと決定的に矛盾するのが、敵の強さだ。

 殺したいと思う相手に水鉄砲を向ける奴はいない。これの中身が硫酸などの劇物ならばまだしも、せいぜい泥水と言えるものがせいぜいだ。

 嫌がらせにはなっても、傷つけることは出来ない。

 

 ならば嫌がらせが目的なのか、と思っても、その為に行うというには手段が馬鹿げているように思う。嫌がらせがしたいだけなら、他に効果的な方法など幾らでもある。

 それに個人的に狙うというなら、前回の位置はミレイユ達から離れすぎていたと思う。

 狙いが外れただけと考えることも出来るが――。

 

 つい考え込みそうになるのを、ミレイユは意志の強さで外に追いやる。

 考えすぎては沼に嵌る。いま考えて答えが出るものでもない。

 だが同時に、思考が横滑りして、何か考え事に没頭しようとするのを妨害するような動きもある。

 それと言うのも、原因は周囲の環境にあった。

 

 いま、ミレイユは屋外でバスの到着を待っていた。

 先日ファッションセンターで買った洋服を着こなし、大きなツバ広帽子を被って顔を隠している。外に出るなら必要だと、アキラに強く押されての事だった。

 

 ミレイユの隣には定位置となっているアヴェリンがいて、その横にルチアが興味深げに時刻表を見つめている。その更に横にはアキラが迷惑そうに顔を引く付かせ、最後尾のユミルがアキラにちょっかいをかけていた。

 今ミレイユたちは、その全員が余所行きの服装に身を包み、街の方へと繰り出そうとしていた。

 

 

 

 

 ――あの結界と魔物に遭遇した翌日。

 アキラの疲れと緊張が解けたのを見て、作った細工品を質に持っていこうという話が出たのだが、誰がミレイユに着いて行くのか、そこでまた一悶着が起きた。

 

「――私だ。当然、このアヴェリンが着いて行く。お側を離れず、御身を守り、永遠の忠誠を誓うと誓言した。ここにそれを他にした奴がいるか? なら話は終わりだ」

「暴論ですよ! それに誓言の解釈を身勝手に使いすぎです。それは何も、本当に一度として傍を離れないって意味じゃないですからね!  物理的な距離の話じゃなく、気持ちの問題でしょう?」

「そうよ。臣下としての忠節と意識の距離の話であって、寝る時だって傍にいるという話じゃないワケ。アンタがそれを知らない筈ないじゃない」

「えぇい、うるさいうるさい!」

 

 アヴェリンは手を団扇のように振って、二人の言い分を否定した。

 まるで物理的に遠ざけようとするかのようだが、場所は邸宅の談話室。誰もがクッションに身を沈める中、それが成功する筈もなかった。

 呆れた顔をしてユミルが言う。

 

「大体アンタ、何か都合の良いように言い訳して、あの子と二人きりで出かけたいだけでしょ?」

「――は? 意味が分からん。お前を永遠に遠ざけたいとは思っているが、二人きりでなんてむしろ不敬だ。思う筈もない。変な言い掛かりはやめてもらおう」

「あら、そうなんですね。じゃあ、私が一緒なのは問題ないと」

「――は? 意味が分からん。それで何でお前を容認する事になるんだ? 世迷い言は寝てから言え」

 

 その一言には、流石のルチアも耐え兼ねた。

 ミレイユに顔を向け、白魚のような指をアヴェリンに突きつけて声を荒らげる。

 

「ちょっと、ミレイさん! あんなこと言ってますよ! ひどい暴論です!」

「何だ、その子供が親に言いつけるような有様は。何年生きてるんだ、お前は」

 

 アヴェリンの言い分に少しの間動きを止めて、改めてルチアが言った。

 

「ちょっと、ママ! あんなこと言ってますよ! ひどい暴論です!」

「何でそっちの方向で言い直すんだ。大体、そのママ呼びは止めろ……」

 

 ルチアの見た目は十代半ば、その容姿だけで見れば、あるいはママ呼びは自然かもしれない。だがこの四人の中で二番目に長く生きてる事実を知っていれば、許容できる筈もない。

 とはいえ、仮に何歳であったとしても、やはり許容しなかったろうが。

 ミレイユは面倒臭げに腕を振って、より深くクッションに身を沈める。

 

「誰が行くかで揉めるなら、最初から私一人で行く。むしろ、当初はそのつもりだったんだから、それでいいだろう」

「ですから、御身一人で出歩くなど、あってはならないと話した筈です!」

「それ言うなら、別に護衛が必要な身分でもなければ、か弱い乙女でもないでしょ」

「そもそもですよ、実利の面で考えて欲しいんですよ。護衛はいらなくても商人に解説し、それを元に交渉する役は必要ですって!」

 

 ルチアは片手を広げ、もう片方の手を自分の胸に当てて力説する。

 それを見たアヴェリンは眉を上げ、小馬鹿にしたように鼻で笑った。

 

「……交渉役?」

「そうですよ。まさしく、それ以外には見えないでしょう?」

「ああ、確かにどこから見ても交渉役って感じだな。――却下だ」

「なんでアヴェリンが却下するんですか、納得できないですよ!」

 

 ユミルがやれやれと首を振って、ソファに身を沈めた。長い時間が掛かりそうだと、傍観する構えに入ったようだ。

 ルチアはめげずに食って掛かろうとしたが、ふと冷静になって半眼になる。

 

「いやいや、ちょっと待ってくださいよ。これ、前にも同じようなこと話してませんでした? 何度繰り返すんです、この会話」

 

 ルチアが呆れたような声を出せば、ミレイユも疲れたような顔で頷く。

 

「そうだな。じゃあ、私が一人で行く」

「駄目です、そんなの。認められません」

「あらら。まるで、イヤイヤ期の子供じゃないの。ちょっとママ、躾はちゃんとしなさいな」

「だから、やめろって……」

 

 ミレイユは額に手を当てて溜め息を吐く。

 疲れた顔で眉間を揉んで、それから顔を上げて一同を見渡した。

 

「全員で行く。……それでいいな?」

「そうですね。まぁ、お一人で行くというよりマシですし……」

 

 アヴェリンが渋々と認めれば、他の面々も頷いて見せる。

 最初からこうすれば面倒がなかったな、とミレイユは思ったが、ちらりとユミルへ視線を向ければ満足そうな顔をしている。

 最初からこういう展開になるのを望んでいたようだ。

 一人で行かせてもいいと言いつつ、本当に一人で行くと分かれば徹底的に抗戦するつもりだったのかもしれない。

 

「面倒くさい事になった……」

「あら、そう? アタシは楽しみよ。こっちの娯楽にも興味あるのよねぇ」

「……変なところには行かないぞ」

「その『変』がアタシ達には分からないのよ。面白そうな場所なら、とりあえず行くわよ」

「まったく……。どこか知らないところで下手な事をされるくらいなら、まだ目の届く範囲でやられた方がマシか……」

 

 ルチアとユミルの未知への探究心は日に日に増していくばかりで、知らない物にはとりあえず飛びつく癖が身に付きつつある。

 その探究心とも好奇心ともつかないものが満たされれば、途端に興味を亡くすので、ある程度付き合ってやれば満足してくれるのだが、それまでが長いのだ。

 

 こちらの世界に慣れれば、そのような事も減っていくのだろうが、その兆しがまだ見えない今、好奇心を刺激するであろう街中へは連れ出したくない、というのが本音だった。

 あるいはひと月ぐらい、こちらの生活に慣れた後なら。あるいは一般的な知識を身に着けた後なら、そうした場所に連れ出すのにも不安は随分と薄れると思う。

 だが、今の反応を見る限り、まずミレイユが一人でそういった場所に行くと分かれば、着いて行こうと必死に抵抗してくる。

 無理を通せば、後で何を要求されるか分からない。

 

 ミレイユは諦観にも似た思いで天井を見上げた。

 幸い、明日は日曜日。アキラも日中から自由に連れ回せる。仮に予定があっても、こちらを優先させようと心に決めた。

 あれがいれば、少しは負担が軽減されるだろう、と目論みながら。

 



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街への遠征 その2

 

 それから、アヴェリンの方から一方的にアキラへ明日同行するように申し伝え、その日は眠りについた。翌日は朝から風呂に入って身嗜みを整え、朝食を済ませた後、箱庭から出る。

 そこには手持ち無沙汰でソワソワと待っていたアキラが、既に疲れを滲ませた顔で迎えてくれた。

 

「おはようございます、ミレイユ様、それに皆さん……。これから、同行しろとしか聞いてないんですけど、一体どういう?」

「おはよう、アキラ。……うん? 何も聞いてないのか?」

「ええ、幸いなのか何なのかどうかは知りませんけど、とにかく聞いてません」

 

 疲れた様子なのは、朝稽古のせいという訳ではないようだ。

 渡された水薬は服用しているようで、身体的な問題はないように見える。となれば、内容を薄々感付いているのかもしれない。

 期待に満ちた様子がないのはよく分かる。おそらく懸念材料の多さ故に、内容を聞かずとも碌でもないと察しがつくのだろう。

 その察しの良さには報いねばならない。

 

「これから街に出かける。質に入れて現金を手にする為で……つまり、遠征のようなものだ。お前にはその世話を任せる」

「あ、お腹……、お腹痛くなってきた……」

 

 急に顔を青ざめさせたアキラは、急に死んだ目を浮かべて腹を抑えた。

 仮病のようには見えないが、しかし本気で調子を崩しているのだとしても、ミレイユとしては逃がす気など更々なかった。

 

 その細くとも鍛えられた腹に魔術を当てながら、にっこりと笑む。

 

「今から腹をふっ飛ばされるのと、癒やされて一緒に着いて行くの、どっちがいい?」

「……それ、選択肢になってるんですか?」

「選ばせてやってるんだ、選択肢になっているに決まってる」

 

 青い顔を更に青くさせて、ぶるぶると震えながら、悲壮感を湛えた顔でアキラは頷く。

 

「いっそ楽に……」

「――ああ、癒やされて一緒に着いて行きたいんだな? 物分りのいい奴だ」

 

 言葉を遮り、ミレイユは魔術を行使する。

 手の平から溢れる白い光が一気に膨れ上がり、アキラの腹を中心に広がる。光は三秒と待たずに消えたが、光の奔流から開放されると、アキラの顔色は目に見えて良くなっている。

 

「さぁ、これで万全だな。憂いなく着いて来るといい」

「いや、なんか凄い体調だけは良いですけど、気分は滅茶苦茶良くないです」

 

 顔色が良くなったのも束の間、また顔色を悪くさせて肩を落とした。

 そこにアヴェリンから声が掛かる。

 

「往生際が悪いぞ。単なる案内だ、理不尽な要求という訳でもない。何よりミレイ様が望まれたこと、快く引き受けろ」

「うう……、はい」

 

 やはり悲壮感を滲ませて頷くアキラに、ミレイユも内心で同意する。

 絶対に面倒事を引き起こすと分かっているのに、案内役を引き受けたくはない気持ち、よく分かる。何も当人に暴れたり騒ぎを起こすつもりがないと分かっていても、騒ぎのような事態に発展するだろう。

 

 特にアヴェリンとユミルは何かと反目しがちだ。

 右に行くか左に行くかというだけでも、逆のことを言い出して収拾がつかなくなる。それを宥めてどちらか選べば、今度は別の事で反目し合う。さっきはどちらが優先されたのだから、今度はこっちが選ばれるべき、と言う理屈が、お互いに納得いく形で収まる事はまず起きない。

 

 これを御する事は、ミレイユもとうに諦めている。

 とはいえ、どこかで止めないといつまで経っても進めない。

 想像するだけで頭が痛くなるが、起きる問題はそればかりではない。

 

 ルチアもまた面倒事を起こすという意味では同様で、とにかく色々な事を見ては質問を繰り出してくる。説明すればいいだけではあるのだが、その実、説明役というのは難しいものだ。

 生活の中では、意味が分かって使っているものと、構造まで理解して使っているのとでは話が違う。蛇口から水が出る理屈を、一から十まで問題なく説明できる人間は少ない。

 だが、ルチアが求めるのはそういう問題であることが多い。

 聞かれてみると、いかに自分が無知であるかを知らされるのだ。

 

 ミレイユは意外と答えられることが多いが、それでも濁して伝える事も数多くある。

 街中に入れば質問攻めに遭うだろうことは想像に難くない。ミレイユにしても今から憂鬱だが、それを半分でもアキラが受け持ってくれれば随分と楽になる。

 許せよ、とアキラに静かな眼差しを向けてから、玄関口へと顔を向けた。

 

「バスで行く予定だが、時刻までは調べてない。……だが、それほど待たずに済むだろう?」

「日曜のこの時間ですから、街に行くバスならそこそこあると思います。最悪でも三十分は待たされないかと……」

「うん。それぐらいなら、まぁいいだろう」

「しかし、わざわざミレイ様を歩かせる上に待たせるとは……。あちらなら、馬車は呼べば自宅まで迎えに来たものだが。こちらにそういう御者はいないのか」

 

 アヴェリンが不満を滲ませながら言うと、ユミルが呆れたように言った。

 

「馬鹿ねぇ。昨日だって見たでしょ、馬車なんて一台も走ってないんだから。車に対して馬車は大きすぎるし、誰だって車持ってるんだから。馬車なんていらないし、御者もいないんでしょ」

「いえ、そちらが言う似たようなものに、タクシーなんてサービスもあるんですけど」

「たくしぃ?」

 

 ユミルが不思議そうに首を傾げれば、訂正を口にしたアキラが説明を続けた。

 

「はい、自宅まで迎えに来てくれて、目的地まで運んでくれる車のサービスです」

「あら、いいじゃない」

「でも問題が……」

「へぇ、問題?」

 

 アキラが難しい顔をした事で、ユミルは逆に好奇心が刺激された。

 

「……ええ、つまり、お金が掛かります」

「はぁ? それだけ?」

 

 問題はお金だけ、と聞かされたユミルは、途端に興味を失ってつまらない顔をする。

 アキラは苦い笑みを浮かべたが、同時に問題の根幹を理解してないことも察した。

 

「バスと比べて何倍も値段が変わって来るんですよ。目的地が遠ければ、その分値段が上がっていきますし……」

「遠い場所を指定すれば、その分値段が上がるのは普通じゃない?」

「いや、はい、それはその通りなんですけど……」

 

 見兼ねたミレイユが、しどろもどろになったアキラに代わり口を挟んだ。

 

「タクシーの値段というのは、学生からすると尻込みしてしまうような値段という事だ。特に裕福でもないなら、バスより自転車を使う方が多いぐらいだ」

「ですね。一人で街まで出る場合は、やっぱり自転車使いますし」

「そのジテンシャって何です?」

 

 更に横から疑問を飛ばして来たのはルチアだった。

 そら来た、とミレイユは密かに口許をヒクつかせる。一つ疑問が浮かべば、芋づる式に疑問を浮かべ質問攻勢へと移る。自転車の形が分かれば、そのシンプル故の構造に興味を抱くだろう。

 出掛けようというのに、これからその説明をしていては、いつまで経っても外に出られない。

 ミレイユはルチアの質問を、身体を玄関口に向ける事で遮った。

 

「その質問はまた今度にしてくれ。今日はどれだけ時間が掛かるか分からない。ここでずっとこうしているつもりか?」

「……そうですね。今日は外でしか見られないものが沢山ある訳ですし、そっちを優先した方がいいですよね」

「そうだな……」

 

 お手柔らかに、と心中で願いながら、ミレイユは玄関で靴を履こうと向かう。

 そこでアキラから待ったが掛かった。

 

「ミレイユ様、ちょっと待って下さい。……そのまま行くんですか?」

「……ああ。何か可笑しいか?」

 

 ミレイユは言いながら、自分の体を腕を広げて見下ろした。

 以前買ったものそのまま、別に改造もしてなければ魔術を付与もしていない、こちらの世界現製品だ。やはり防御系の魔術秘具を用いているが、これはアクセサリーとしてそこまで可笑しくない筈だ。少々無骨過ぎるきらいがあるから、そこが浮いて見えてしまうのかもしれない。

 

 アキラはそれをマジマジと見つめてしまい、よく似合う格好に顔を赤くする。咄嗟に手を顔の前で横に振って否定した。

 

「いえ、格好自体はとっても良く似合っています。そうじゃなくて、頭に被るような物があった方がいいかと……!」

「必要か……?」

 

 ミレイユは外を見ながら頭頂部を擦った。

 天気はいいが春の日差し、日射病になるような気候とは思えない。強くはないが、風もあるようだ。風向き次第では、邪魔になりそうですらあった。

 

 しかし、アキラは自らの言を曲げず、断固として言い放った。

 

「――絶対に必要です。頭に被る物というより、顔を隠せるようにするものが絶対いります」

「うん? そっちの意味でか? 日差しじゃなく」

「はい。ミレイユ様の顔を他の人が見たら、絶対に騒ぎになります。街中に出たら、もう動くどころじゃないです。下手すると、交通整理が必要になるレベルで騒ぎになります」

「……そこまでか?」

 

 ミレイユが頭に当てていた手を頬に当て、不思議そうな顔をしながら擦る。

 吸い付くような肌、という表現が的確な程のハリを見せる頬をぺちぺちと叩きながら唸る。

 

「まぁ……必要だというなら、そうするか」

「ご理解いただいて何よりです……」

 

 アキラは明らかに安堵した表情で息をついた。

 ミレイユにとって、オミカゲ様に似ている顔というのがどの程度なのか知らない。しかし有名人とのそっくりさんだと思えば、変に声を掛けられて面倒な思いをする事は想像できる。

 

 ミレイユは素直にアキラの助言を聞き入れ、ユミルに悪戯っぽく笑って言った。

 

「そういう訳だから、お前の帽子を貸してくれ」

「恐ろしいこと言うわね。素直に自分の使いなさい。――アヴェリ~ン、取ってきて」

「何故お前に命令されなければならんのだ」

 

 キッとユミルを睨んで言って腕を組む。

 だが、次いでミレイユと視線が合わさり、頷きを返されては素直に従う以外に選択肢はない。

 アヴェリンは一礼してから箱庭へ向かう。

 

「では、とって参りますので、少々お待ちください」

 

 箱庭の中に消えたアヴェリンを目で追い、その箱の蓋が閉まっていない事を確認して安堵する。

 先日、急を要するとしてルチアに作らせた支え棒は、正しく機能しているようだった。誰かが入れば自動的に閉まるようになっているが、これは別に侵入者対策ではなく、遊びに近い機能だった。

 ミレイユが認証してやらなければ入り込む瞬間に手を差し込んだとしても、中に入る事は出来ない。では何故勝手に閉まるのかといったら、機能美としてあれば嬉しいと、作った神が思ったからなのかもしれない。

 

 そんな事を考えながら待っていれば、幾らもせずにアヴェリンが帰ってきた。

 恭しい手付きで帽子を捧げ持ち、ミレイユに手渡す。

 

「お待たせしました。どうぞ、ミレイ様」

「あー……、うん。では行こう」

 

 ありがとう、と感謝を口にしようとして、ミレイユは咄嗟に誤魔化した。

 アヴェリンは簡単に礼を言われる事を嫌がる。主従の関係において、礼を言うような事は限られていると考えている為だ。だが、それでも言える場面は多くなく、例えば身を挺して守った時などが、それに当たる。

 しかし、その場合であったとしても、感謝というより大義であるなどと言う方が好まれる。

 臣下といて主の命と安全を守るのは当然の責務であって、褒められこそすれ感謝されることではないからだ。

 

 とにかく、アヴェリンから特別その事に関して指摘がなかったことに胸を撫で下ろした。

 アヴェリンは、これらの事に余程強い思い入れがあるらしく、説明されると実に長いのだ。

 

 帽子を脇に抱えて外に出て、階段を下りてから帽子を被り位置を調整する。

 後から続いて出てくるのを、帽子に手を当てて見やって、それから遠く青い空に目を移した。

 今日は午後から暑くなりそうだった。

 



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街への遠征 その3

こちら、二話連続更新の二話目になります。
お読みになる際、ご注意下さい。
 
うぇん様、誤字報告ありがとうございます!
 


 

 待っていたバスは、幾らもせずにやって来た。

 前回出発してから二十分経っていたのが幸いし、走行経路とは逆向き――信号機の向こう側にその姿が見える。

 

 随分早かったな、という気持ちでいると、バスが赤信号に捕まって止まる。

 こうした事にヤキモキするのも、バス待ちでは良くある事だ。

 懐かしい気持ちで隣を見ると、アヴェリンが不機嫌そうな顔をしていた。頭一つ分大きいアヴェリンを近くで見れば、自然と見上げる形になるので、帽子のつばを上げながら笑いかける。

 

「そんな顔をするな。幾らも待たずにやって来る」

「――いえっ、そんな子供じめた気持ちでいた訳ではありません。あれだけの巨体なので、突っ込んで来たら危険ではないかと思っただけです」

「……別にそんな危険は来ないと思うが」

「その危険を常に考えるのが、私の役目です」

 

 異論はあったが、ミレイユはとりあえず頷いておく。

 アヴェリンにはまだ、この世界における安全の基準を持っていない。これがあちらの世界なら、大型馬車一つで騒ぎにする事もないし、目線で警戒はしても声に出す事もない。

 その基準を自身の中で構築されるまで、こういった事態は限りなくあるだろうが、あまり口煩く言うつもりもなかった。

 結局、自分が納得しない限り、何を言っても無駄なのだ。

 

 バスが目前まで近付き、速度を落として停車しようとした。

 アヴェリンが自身の体をミレイユの前に滑り込ませ、背に庇う。空気の排出音に警戒し、それと共に扉が開くのを油断なく見つめ、開き切ってから聞こえるアナウンスに顔を向ける。

 声の出どころを探し、それが人ではない事を不審に思いながらも確認し、そこでようやく背後を窺った。

 

「……当座の危険はないようです」

「ああ、そうだな。では乗車していいか? 運転手も待っている」

 

 アヴェリンの背中を避けて乗口に向かおうとすれば、腕で制され止められた。

 

「いえ、私が先に。――ユミル、お前も警戒を怠るな」

「はいはい」

 

 アヴェリンが鋭く視線を向けた先では、ユミルが気楽に手を振っていた。

 危険性の有無について、ユミルは早々に見切りを付けたようだ。一応窺ってはいるようだが、それは危険というよりも好奇心で、乗口やその周辺にある電光案内などを気にしているようだった。

 

 アヴェリンが足を掛け、手摺りに手を伸ばすも掴まず中に乗り込み、左右を素早く確認する。

 ここのバスは中央が乗り口で運転手のいる前方に降り口がある。ミレイユとしては、運転手が困惑しているのが容易に想像できるが故に、迷惑になる前に動かねばならないだろう。

 

 頭上からICカードを確認をするメッセージが聞こえてくるが、持っていないので整理券の方を取り出す。一枚抜けば、すぐ二枚目が出るので、それも取ってまだ中央で警戒しているアヴェリンの背を押す。

 

「ほら、整理券を受け取れ。そして前後どちらかに動いてくれ」

 

 ミレイユは言いながら、運転手側と後部座席側を指差す。後ろにはミレイユの真似をして整理券を取るルチアが、乗口を上がれなくて困っている。

 

 アヴェリンはミレイユの肩を抱いてルチアを中に招き入れると、後部座席の方を指差した。

 乗客の数は疎らで座る場所に困る事はなさそうだった。そもそも五人全員座るようなスペースは最後尾しかないが、初めから二人が座れれば良い方だろうと思っていたミレイユとしては、近くに纏まって座れそうなだけ御の字だと判断した。

 

 ルチアは素直に後部座席へと移動し、興味深そうに椅子と、その椅子の背部分に付けられた手摺りを見る。そしてようやくどこに座ればいいか振り返ってきて、更にアヴェリンが指示を飛ばした。

 

「一番後ろの端にしろ。ミレイ様はその隣に」

 

 そして後ろを振り返って、乗車してくるアキラとユミルにも指示を出す。

 

「お前たちはルチアの前の座席にしろ。ミレイ様を囲むように座れ。何かあったら都度、対処する」

「そこまでする必要ありますか……?」

「あるかどうか分からん内は、私の判断に従え」

「――アキラ、いいから。今は言うこと聞いておきなさい」

 

 アキラは二人に頷いて、アヴェリンの横を通って座席に座る。その隣にユミルが座ると、アヴェリンもようやく座席に座り、ルチアと合わせてミレイユを挟み込むような形になった。

 

「……若干、窮屈だが」

「狭い座席です。足を十分伸ばせるような作りになっていないようです」

「……うん、そっちの意味ではないな」

 

 アヴェリンの意図は良く分かる。ルチアを壁際にしたのも、もし横から車が突っ込んで来るような事があっても、ルチア自身を盾にするつもりだからだろう。

 アヴェリンがミレイユを挟み込むように座ったのもその延長で、ミレイユを守れる場所でありつつバス全体を見渡せる席だからだ。

 前の座席に二人を置いたのも、いざという時の為の盾であり矛とする為だ。

 

 過剰な反応だとは思うが、同時に理解もできる。

 始めての乗り物、それに中途半端に広い空間、何事か騒ぎを起こしたければ起こせる密閉された空間というのは、アヴェリンに警戒させるには十分な要素だった。

 

 とにかく、普通にバスに乗る分には問題など起こらない。

 好きなようにさせて、満足させるのが一番だ。

 

 ミレイユは小さく息を吐いて、帽子を深く被り直す。ツバの広い帽子ならば脱いで膝の上に置くのがマナーだろうが、左右は見知った二人だ。

 気にせずバスの出発を感じ、風景が横に流れて行くのを見るともなく見る。

 

「わぁ……!」

 

 隣のルチアが感嘆めいた声を上げた。

 窓の外に視線が固定され、両手をガラスに当てている。まるで小さな子供がするような仕草だが、しかし彼女にはそれが妙に合っていた。

 

「結構、早いんですね。外から見る分には、もう少し遅く感じるかと思ってたんですけど」

「バスより早く走る人がよく言うよ……」

 

 前方からアキラの呟きが聞こえて、ミレイユは小さく笑った。ルチアは気にも留めず外を見続けている。実際、アキラの戯言など気にならないのだろう。

 外を歩く事はこれまで数回あったものの、気軽に楽しめる状況というのは余りなかった。

 ここ数日は細工作りで缶詰状態だったし、家を出たと思えば昨日の出来事だ。

 

 これぐらいの気晴らしが日常的に出来るようになれば、皆にこの世界を楽しんでもらう事も出来るのだろうが――。

 今は何しろ金がない。

 

「世知辛いな……」

「何か仰いましたか?」

「いや、何でもない」

 

 そうして、ルチアから目にするものを質問され、それを無難に回避したり解説したりとしながら時間を過ごした。

 ユミルも同様にアキラへ質問をよくしていたが、むしろアキラを困らせる為にしていたようであり、終ぞアキラに安寧の時間は訪れなかった。

 アヴェリンの視線は常に前方へ固定され、入ってくる乗客に一々睨みを利かせていたが、トラブルに発展することもなかった。人によっては、その美貌に見つめられて非常に気まずい思いをしていたようだ。

 

 バスが曲がり、大きな通りに出たかと思えば、今度は見渡す限りの草原が見えてきた。

 

「突然、何もなくなりましたね……」

「そうだな、見渡す限り草ばかりで、花や木もないしな……」

 

 ルチアの呟きにミレイユも同意する。

 建物が一切ない訳でもないのだが、町と街の境い目、開発に取り残された区画がここだった。長い道路の間に中古車ショップや土建の会社などチラホラと見えるくらいで、自然が残るというより寂れた風景を感じさせる。

 道も一本、草原を縦に大きく貫くばかりで他に見るべきものもない。

 精々、遠くに見える山や、そこにかかる雲に思いを馳せるしかなかった。

 

 しかしそれも、五分も走れば過ぎ去るもので、すぐに都会の雰囲気を見せる繁華街が見えて来る。街の入り口にはパチンコ店などを含む複合センターなどもあって、牛丼のチェーン店や正規カーディーラーなど有名店が軒を連ねる。

 

 ルチアの視線は再び窓の外へ釘付けになった。

 そこで、ミレイユはふと思い立って、アキラに声を掛けた。

 

「そういえば、アキラ。質屋は駅前にあるのか?」

「え、何です、突然?」

 

 前の座席から身を捻って顔を向け、驚くような呆れるような顔を見せた。

 

「いや、私の知る限り駅前にあった筈なのだが、よくよく考えてみると、私の知る日本と随分違うと思い出した。ここまでの風景も、似ている事には違いないが、やはり違うところもある。行ったところで違う店になってる可能性も……」

「調べます」

 

 アキラは真顔になって正面を向いた。

 ポケットからスマホらしきものを取り出して、操作を始める。それを後ろからルチアが羨ましそうに見つめ、隣からユミルが自分にも使わせろと手を伸ばしている。

 

「ちょっと、やめて下さいよ。調べれないじゃないですか」

「そういう楽しそうなコトは、アタシにやらせなさいよ。大丈夫、やさしく扱うのは得意よ。色々とね」

「……いや、駄目です。困ります……!」

 

 手をあちらこちらと伸ばしてユミルの追撃をかわそうとするが、地力の違いか、すぐに奪い取られてしまった。情けない声をだしてスマホを目で追い、手を伸ばそうとするが、パントマイムのように手が空中で止まる。

 

 見えない壁をぺたぺたと触る様子は熟練の技術を感じさせるが、これは本当に見えない壁が張ってあるだけだった。本気で殴ればアキラであっても破壊できるような厚みしかないが、今の状況ならそれでも十分効果がある。

 壁をどかそうと引っ張るような押し込むような動作を見せるアキラに、ミレイユは声を殺して笑う。

 

「……あの、ミレイユ様? 笑ってないで助けてくださいよ」

「面白いから、もうしばらくやっていろ」

「嫌ですよ……! ひどい、ひどすぎる……」

 

 ついには諦め、泣き真似までして椅子に座り直した。

 ミレイユはその様子を目で追い、やはり喉の奥で笑い声を上げながらユミルに釘をさす。

 

「遊ぶのも結構だが、調べてなければ後で怖いぞ」

「えぇ、大丈夫。そこはほら……アタシだから」

「納得できる答えをありがとう。――アヴェリン、後で殴る準備しておけ」

「お任せください」

「やるってば。ちゃんとやるわよ!」

「そうである事を願うよ」

 

 スマホから目を離さないユミルの後頭部に言葉を投げながら、窓の外に目を向ける。

 流れる風景はよく知るものではあるものの、やはりどこか違っている。区画であったり道の形や本数は同じなのに、そこに並ぶ店の名前や形は知らないものばかり。

 例えば数十年ぶりに故郷へ帰ってきた心境、という感じが、最もしっくり来る気がした。

 

 不思議な気持ちなまま街中を見つめ、そして都合三十分に満たない時間で、とうとう終点に到着した。

 



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街への遠征 その4

モンハンの民様、えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 

 バスから降りる前より感じていた事ではあるものの、実際に降り立って見てみれば、その印象も随分違った。

 住宅街と比較するものではないが、人の往来は激しく、車は引っ切り無しに行き交い、背の高いビルが乱立する。ともすれば、目眩を引き起こすかのような光景だった。

 

 目を輝かせて周囲を見渡すルチアに、目につくものなら物でも人でも興味深く視線を向けるユミル、傍を通る人々を油断なく見据えるアヴェリンと、三者三様の様子を見せる。

 その中にあって、ミレイユはやはり懐かしさと新鮮さを感じながら周囲を見ていたが、すぐにユミルへ顔を向けた。

 

「それで……、質屋は探し当てたか?」

「そんな顔しないでよ、ちゃんと調べてあるから。地下鉄入り口から徒歩二分、とか書いてあったけど……アキラ、これどこ?」

 

 ユミルがスマホを差し出しながら聞くと、引ったくるように奪い返して確認する。ミレイユの記憶のとおりなら、この道を真っ直ぐ歩けば地下鉄入り口はある筈だった。

 やはりそこは間違いないようで、アキラは道の先を指差しながら教えてくれた。

 

「ええ、この道進んで左折して、そこからすぐですね。写真を見る限り、店舗の庇の上にも看板が大きく出ているみたいなので、すぐ分かると思います」

「そうか。では、行ってみよう」

 

 アキラが先導して歩き始め、ミレイユがその後に続くと、アヴェリンもまた付き従いそのすぐ傍に着く。何かあれば手を出しやすい位置を心掛けていて、周囲への注意を向ける目は厳しい。

 ルチアもユミルも興味が尽きない様子であったものの、問題なく着いてきているようだった。

 

 歩き始めてすぐ、アヴェリンが不快げに眉を顰めた。

 

「なぜ誰も彼もこっちを見つめて来るんだ。この髪色がそんなに珍しいのか?」

 

 アキラもそうだが、待ち行く人々に最も多いのが黒髪だった。次に多いのが茶髪で、金髪も多くはないが見かける事が出来る。周囲の髪色と比べて、浮いているのは否めない。

 アキラは少しの間だけ振り向き、苦笑する。

 

「違いますよ。皆、師匠の華やかな容姿に目を奪われているんです。背も高くて目立ちますから。そしてルチアさんとかユミルさんにも目を移して行って、レベルの高い集団に驚くと……そんな感じなんだと思います」

 

 アヴェリンの美貌は言うまでもなく、更に女性的に起伏に富んだ身体やすらりと長い脚なども合わされば、一流モデルが歩いていると勘違いしても無理はない。

 テレビやネットで美人を見慣れているとしても、視線を止めずにはいられなかったろう。

 

「……実に不愉快だ。何より不快なのは、時折ミレイ様の顔を伺おうとする輩がいる事だ。何たる不敬だ……!」

「この集団の中にあって、唯一見えない顔の美醜がどうなのか、気になるんだろう。醜ければ、それはそれで溜飲が下がる奴もいるんだろうさ」

「実に下らない……!」

「それはそうだが。言ったところで始まらん、お前も気にするな。まだ街に着いたばかりで、そのようにイライラしていたら身体が保たないぞ」

 

 アヴェリンもミレイユからそう言われてしまっては黙るしかない。ただし、その視線は更に険しくなっており、警戒する姿勢は前にも増して強くなった。

 

 そんなアヴェリンを引き連れ、アキラの先導にしたがって歩けば、目的の質屋が見えてきた。

 表通りから一本内側に入っただけで、繁華街というより市街地に近い様相を見せたが、しかし赤い大きな看板は眩しいぐらい目についた。

 

 入り口の戸は霞ガラスになっていて、店内の様子は伺うことが出来ない。ただ上下のごく一部が透明ガラスになっているお陰で、店内の明るさ程度は知れる。

 入り口脇に立って、アキラがどうしたものかと振り返った。

 先頭に立って入る事には臆したようだ。確かにコンビニ感覚で入れるような場所ではない。ミレイユにしても、こういった店に入った経験は一度もなかった。

 

 だが幸い、こうした店をあちらの世界で多く利用していた。

 質屋という訳ではないが、物の売り買いは全て個人商店のような商人相手に行うもので、バイト店員相手に規定価格で買うものではない。

 

 値段は常に変動するし、仮に相場が安定しているものとて、突然値崩れを起こす事もある。旅の後期ともなると、自ら値段交渉するような事は減っていったものの、果たしてこちらではどうだろうか。

 

 脇に避けたアキラへ小さく手を上げ、前を通る。扉を開けようとしたところで、アヴェリンが前に出て小さく一礼する。

 ミレイユに直接戸を開けさせるのは非礼だという思いと、まず自分が入って危険の有無を確認するという意思表示だった。

 ミレイユは鷹揚に頷いて、アヴェリンに任せる。

 

 アヴェリンが再び一礼して戸を開ける。

 続いて中に入れば、白い壁に様々な商品――ブランド物と思わしきバッグなどが目に入る。ただし、夥しい数があるというよりは、見栄えを重視して陳列されており、清潔感すら感じられる。

 

 アヴェリンも思わず感嘆めいた息を吐いたのが聞こえた。

 ガラスのショーケースには様々な貴金属が置いてあり、ネックレスもあれば指輪も、イヤリングもある。金製品だけでなくプラチナ製もあったり、宝石類も充実しているように見える。

 

 アヴェリンが中に進むへ連れて、待機していた店員らしき男性が恭しく礼をした。高級そうなスーツをパリッと着込んだ中背中肉の男性で、白い物が混じり始めた髪を全て後ろに撫でつけている。

 

「いらっしゃいませ。私どもの店にお出でいただきまして、誠にありがとうございます」

「……うむ。――ミレイ様」

 

 店員の更に後ろ、ショーケースの後ろ側、レジ横にはメガネを掛けた茶髪の女性店員の姿も見える。こちらも上品な佇まいで男性店員――おそらく店長――の一礼と同時に頭を下げていた。

 アヴェリンは二人の態度と店内の様子に満足し、一歩横にどけて道を譲る。

 

 帽子を取った方が礼儀に叶うのだろうが、アキラの言が正しければ、やはり面倒な事になるのだろうか。見たところ、よく弁えた店主だと思うから問題ないと思うのだが、念には念を入れそのままにしておく事にした。

 高圧的に見えてしまうだろうが、ここはむしろ、そちらの方が都合がいいのかもしれない。

 ミレイユはアヴェリンの位置に代わり、店主の前に立つ。

 

「突然の訪問を許して欲しい、店主。今日は質に入れたい物を、見て貰いたくてやって来た」

「承知しました。是非ご確認させて下さい。あちらのお席へどうぞ」

 

 再び恭しく礼をして、店内の一角に用意されたテーブルとソファーを、指先までぴしりと揃えた手で指し示す。ソファーの背後には摺りガラスが置かれていて、他の客がいても誰がその場に座っているか分からないようになっている。

 

 ミレイユが一秒だけ女性店員に目を留め、ユミルへ向かって頷いて見せる。

 それから指示された方に足を向けたが、アヴェリンがさっと前に出て、先に中へ入って確認する。そこには応接室に使うようなインテリア一式が揃っていた。

 

 重厚な色をしたテーブルには二対のソファがそれぞれ二つ、向かい合うように備え付けられている。その内一方、手前側にミレイユが座り、その隣にルチアが着く。

 アヴェリンはミレイユの後ろで直立不動で立ち、ユミルはそれらに追従せず、店内の商品を順に見て回っていた。

 どうにも身の置き場がないアキラは、アヴェリンの隣に立つ事にしたようだ。

 

 ミレイユ達の後に付き従っていた店主も、全員が位置についたところで一礼し、ミレイユの向かい側に足を揃えて座った。

 

「では、質に入れたい品を、ご確認いたします」

「うん、よろしく頼もう。……ルチア」

 

 ミレイユが背もたれに背をつけぬまま、隣に座ったルチアに目だけ向ける。

 ルチアも心得た物で、背中の辺りに隠していたかのような身振りで一つの箱を取り出す。これは勿論個人空間に入れていたものを誤魔化す為の動作で、予想よりも大きな物が出てきた事に店主は驚いたようだった。

 

 箱の大きさは縦十五センチ横二十センチ程の大きさのオーク製。綺羅びやかではないものの、刻まれた文様は上品で、艷やかで丁寧なニス塗りは、まるで蜂蜜を溶かして垂らしたかのようだった。

 四隅の底には色を変えた猫脚が着いていて、この箱が高級なジュエリーボックスである事を表していた。

 

 店主は白い手袋を取り出して身につけると、ユミルから丁寧な手付きで受け取る。

 両手でテーブルの上に音も立てずに置くと、やはり丁寧な手付きで蓋を開けた。

 中には青いコルベットが敷き詰められ、その上に鎮座していたのは三種の装飾品。ダイヤの指輪、ペンダントのネックレス、蝶形のブローチ、それら全てが純金製で作られている。

 

 ダイヤは形も大きさも素晴らしく、リングには細かで精密な文様が描かれている。

 ネックレスはチェーン製で、ペンダントには見慣れぬ形であるものの、ステンドグラスを思わせるデザインを透かし模様で作られていた。

 そして蝶形のブローチ。

 今にも羽ばたこうとする蝶をその場に留めたかのような躍動感で、その身体部分をプラチナで表現されている。

 

 装飾品というより芸術品と呼ぶべきそれらを、驚愕と驚嘆が入り交じる表情でまじまじと見つめる。ルーペを取り出し、細微に至って時間をかけて確認した。

 しばしの後、目を離した時には不躾にならない程度に息を吐く。それぞれを丁寧に箱に戻すと、破顔して白い歯を見せた。

 

「いやはや、良い物を見せて頂きました……!」

「うん、それで……どうだろうか」

 

 ミレイユは帽子のつばで隠れて、見えない店主の顔を伺う。

 今にも作品の解説を始めようとするルチアを手で制して、続く店主の声を待った。

 

「まず、私ども宝天屋では『常に高く』をモットーにしております。『高くお貸しする』、『高く買取る』。これら『高い』の意味は、業界基準、中古市場の相場に、出来るだけ近い値段で査定するという事です」

 

 ミレイユは黙って頷き、続く言葉を待つ。

 

「査定基準、中古市場の相場とは何かといいますと、専門業者が参加するプロフェッショナル対象のオークションがあり、そこで流通する価格が基本的な基準となります」

「なるほど」

「通常の質屋であれば数ヵ所しか参加しないオークションですが、私どもは全国各地のオークション市場の七箇所に参加しております」

「それほど多くに参加して、意味があるのかな」

「勿論でございます。全国各地のオークションに参加する理由は、それぞれのオークションに個性があり、同じ商品を処分するのでもオークションによって落札値が異なるためです。高価査定を実現するために、より高い落札価格がつくオークションを求めていけば、各オークション市場に七カ所参加というところで落ち着いたのでございます」

「なるほど。勉強熱心なのは、実に感心だな」

 

 店主はまたも、恭しく頭を下げた。

 

「恐れ入ります。そこの部分を踏まえまして、こちらの品を査定させて頂きましたところ……」

 

 店主はテーブルに備え付けられていたメモ用紙と万年筆を手に取る。万年筆は元より、そのメモ用紙までも一目で高級品と分かる見栄えをしていた。

 その用紙にサラサラと数字を記入し、それを逆向きにしてテーブルに置く。ミレイユに見やすいよう、両手で手前に押し込んで内容を見せてきた。

 

「ゴールドリング五十七万、ゴールドネックレス四十二万、ゴールドブローチ五十五万、そしてジュエリーボックスに一万、しめて百五十五万にて買い取らせて頂きます」

 

 予想以上の高値がついて、ミレイユは驚く。表情に出さないよう努めていたが、アキラは思わず声を出してしまい、慌てて口を塞いでいる。

 ミレイユは努めて冷静に、抑揚を出さないよう気を付けて聞いてみた。

 

「その値付けに一切不満はないのだが。――しかし聞かせて欲しい、なぜ一つだけ値段が低いのかな」

「単純な金の使用量によるものでございます。どれも芸術的価値のある物でございますが、しかし歴史的価値のあるものでもございません。そうなりますと、どうしても金の含有量にて値段が変わってしまうのでございます」

 

 ミレイユはネックレスを見て納得する。ネックレスはその透かし模様というデザインを採用したが為に、使用された金も少なかった。

 店主の値付け理由を考えれば、妥当な事に思われた。

 

 ミレイユは頷いて、ルチアを制していた腕を膝の上に戻した。

 

「納得の行く理由をありがとう。では、それで進めてくれ」

「畏まりました。……そう致しますと、お客様の身分を証明するものが必要になるのでございますが……」

「なに? そうなのか?」

「はい、運転免許証、パスポート、顔写真の入ったものなら、何でも結構でございます」

 

 ミレイユは唸って腕を組む。

 質屋はそういう面倒な手続きなく金を手に入れられると思っていたのだが、詐欺や盗品対策などで、そういう制度も取り入れたのかもしれない。

 そうとなれば、どこか別の、もっと寂れた個人経営の店でも探して――。

 

「いえ、この宝天屋、よく理解しております」

 

 既に別の店に質を入れようと考えていた時だった。

 にこやかな声と共に、掌を見せて小さく腕を上げている。

 

「お嬢様がやんごとなき身分である事、分からぬ筈もございません。ここは一つ、お嬢様へ信用と信頼をいたしまして、身分証不要でお取引させていただきます」

「それは……助かるが。いいのか?」

 

 店主は大きく首肯し、それから頭を下げた。

 

「勿論でございます。そしてこれからも、もし質に入れたい品がございましたら、その時はこの宝天屋をご贔屓にして下されば、これに勝る喜びはありません」

「……では、今回ばかりは感謝して、お言葉に甘えよう」

「ありがとうございます。ただいま現金を用意して参りますので、少々お待ち下さい」

 

 立ち上がって深々と一礼し、その場を去って裏手の扉の奥へ入っていく。

 ミレイユは小さく息を吐いて、隣のルチアを見つめた。値段の大きさ自体はよく分かっていない顔だが、ミレイユが満足している事は感じ取ったようだ。

 

 ミレイユはルチアの頭を撫でて労う。

 子供をあやすような態度にくすぐったいように身を捩るが、結局なすがままに受け入れていた。

 

 しばらくすると店主が帰ってくる。

 高級そうなトレイを手に持ち、その上に現金を置いて運んでくる。改めて一礼し、ミレイユの前にトレイを置く。

 その上には百万円束が一つと、十枚束が五つ、そして端数の五枚が整然と並んでいた。

 

「どうぞ、ご確認下さい」

 

 と言われても、札の数え方など分からない。レジの店員が見せるようなやり方は、この場に相応しいものとは思えないし、かといってトランプマジックのようにパラパラ捲って見せるのも違う気がした。

 

 対処が分からず、ミレイユは目で確認しただけで、店主に向かって頷いて見せる。

 目線は相変わらず合わないが、その心情を知ってか知らずか心得たように、トレイと一緒に持ってきたと思われる袋に現金を仕舞う。

 

 トレイを隅にどけて、改めて現金だけをミレイユの前へ、両手で差し出した。

 

「どうぞ、お受け取り下さい」

「ありがとう。……では、世話になった」

 

 ミレイユは立ち上がって握手をする。

 少しばかり驚くような反応を見せたが、それでもにこやかに対応してくれる。

 

「勿体ない事でございます。どうぞ、お気をつけてお帰り下さいませ」

 

 現金の入った袋を持ち上げて、ルチアに手渡す。

 大事そうに受け取って、懐に仕舞うように見せかけ、個人空間にしまったようだ。

 

 店主と店員に見送られ、アヴェリンの先導で店を出る。ユミルが最後尾で着いてきて、最後にチラリと振り返って意味深に笑った。

 戸を閉めるのも店員の役目になるのだろうが、ユミルはそれを無視して自分で行う。

 

 ミレイユは歩きだして繁華街方面へ向かい、そして喧騒が耳に入るようになって、そこでようやく息を吐いた。大きな大きな溜め息だった。

 



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街への遠征 その5

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 

「これで、よろしかったので?」

「ええ、上出来です。苦労を掛けました」

「……苦労という程のことでは」

 

 宝天屋の店主は、そう言って顔を歪めた。

 今まさに労いの声を掛けてきたのは店の中に置いた女性店員で、カツラを外して髪をかき上げ、メガネを取って顔を振った。

 改めて髪を手櫛で直しながら、その女性は釘を差してきた。

 

「言っておきますが、他言無用です。いまの取り引きで受け取った物品は、倍の値段でこちらが買い取ります」

「……適正価格で買い取ったと自負しておりますが」

「分かっていますとも。ですが我々は、それに倍の価値があると判断しました。そう思っていただけませんか?」

 

 そう言って女はにこやかに笑ったが、ではつまり実際は別に理由があるという訳だ。

 この女は、突然店にやって来て、そしてあらゆる不満を押し殺して言うことを聞けと言ってきた。内容は今から来る客が売る物を必ず買い取る事、身分が証明できなくとも取り引きを完了させること、この二つだった。

 

 何を理不尽な、と思ったが、次いで見せられた手帳に身が竦んだ。

 御影本庁と印字された手帳を開いて顔写真を見せられ、出した本人と比べれば当人としか思えない。仮に偽造であれば、命知らずの馬鹿としか言いようがないから、これは本物なのだろう。

 

 御影本庁といえば、神のお膝元、オミカゲ様直轄下の組織。

 神の意志を現世で実現させる為に動く、警察とも公安とも違う治安組織だった。特別犯罪捜査をする組織でもあり、警察とも違う特権を有している。

 下手なことをして睨まれたくなかったし、何よりこれがオミカゲ様の意志だと言われれば、言うことを聞くしかなかった。

 何も宝天屋に詐欺を働けという訳でもない、客との適正な取り引きをすればいいだけとなれば、断る理由もなかった。

 

 そうしてやって来た客に、宝天屋は仰天するような思いがした。

 最初に入ってきたのは背の高い金髪の女性、モデルであれば一流以上だろうし、あるいは女優として活躍しているのだろうかと思ったが、物腰自体が物騒で、ガードマンのような印象を受けた。

 

 それは実際正解で、次いでやって来た客こそが本命だったのだと、そこで理解できた。

 上品な佇まいだった。嫌味も横柄さもなく、不遜でも高圧的でもない。不思議な威厳が彼女にはあり、安物の衣服を身に着けているのも擬態のような理由からだと察しがついた。

 顔を隠しているのも疚しい事があるからではない。顔を見せない事がむしろ礼になると思っている佇まいだった。

 

 査定されている間も、帽子の向こう側から見られているのを感じていた。

 ――見定められている。

 何故か分からないが、不逞を働きたくない、と強く思った。

 この方に失望されるのは、心を燃やす程に恋した相手に振られるよりも辛いだろうと思った。

 とにかく必死に、真摯に取り組み、しかしそれをおくびにも出さず、見事やり遂げたと思った。

 

 感謝の言葉と握手を求められた時は、全ての労苦が報われたと思った。この一時間に満たない時間のことではなく、この人生全ての労苦に。

 

 是非また来店して頂きたいと思った。

 適正以上でも以下でもなく、正しい商取引を行い、彼女に認められたい。その気持ちを胸の奥にぐっと仕舞いながら、退店して行く様子を頭を下げて見送った。

 

 肩の荷が降りるような思いがすると共に、この話を持って来た女性を不審に思った。

 御影本庁の名前を犯罪目的に使うとは思っていない。この名には、それだけの権威がある。しかし、なればこそ逆に分からなくなる。

 

 だからつい、強い口調で問い質すような事を聞いてしまった。

 

 これで、よろしかったので、と。

 彼女は問題ないと言った。だが同時に信用できるものか、とも思った。目の前の女性と、顔を隠した彼女、どちらが怪しい、どちらを信じると言われたら、宝天屋の心は既に決まっていた。

 

 再び店の扉を開ける音が聞こえて複数の男性がやって来た。恭しく例の木箱を持ち上げ、別に用意されたクッション付きの容器の中へ仕舞っていく。

 惜しい、と思った。

 あれ自体は単なる精巧な細工品でしかないが、あれは彼女の持ち物だったのだ。手元に置き、神棚に置いて拝み、と考えたところで思考が止まる。

 

 それが出来たら、どれだけ素晴らしいだろう。

 何故だかそれがとても腑に落ち、あるべき姿のように感じた。

 あの方は神の御使いだったのではないか。神使とよばれる、オミカゲ様より直接ご下命頂き動く人間がいるという話は、あまりに有名だ。

 

 その神使の方が現金欲しさに物品を売るというのは、イマイチ繋がらない部分があるものの、御影本庁が背後で動いている事とは、何か繋がるものもある気がした。

 

 下手に勘ぐれば、何があるか分からない。

 だから宝天屋は運ばれていく木箱を羨ましい気持ちで見送る。もしもまた、この店をご利用いただくことがあったなら、その機会は絶対に逃さないと近いながら。

 

「では、我々はこれで。さきほど言った現金は、本日中に用意します。夕方五時までに届かなかった場合、こちらに連絡して下さい」

 

 そう言って、女は名刺らしきものをテーブルに置いて去っていった。

 正直にいって、夢でも見ているような心地だった。今も足元がふわふわしている。

 ――今日は早めに店を閉めようと思った。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 緊張から解き放たれたのも束の間、ミレイユは一応店の方に振り返り、辺りを窺う。店から誰かが出てくる様子も、その周囲から誰かが出てくる様子もない。

 別に詐欺を働いた訳ではないが、最後の身分証明不要、という部分については胡散臭く思えた。単なる親切心でやった事とは思えない。

 今後も取り引きを継続したいという言い分も、単なるお為ごかしに過ぎないだろう。

 警戒しすぎるに越した事はない。

 

 ――何しろ、あの店員は尋常ではない。

 ミレイユの思考が顔に出ていた訳ではないし、出ていたとしても帽子で見えなかったろうが、それを察したように最後尾にいたユミルが近付いてくる。

 そして面白そうに口元を歪めて聞いてきた。

 

「放っておいて良かったの? 面倒事にならない?」

「……今はいい。追手があるかどうかだけ警戒しろ」

「来るかしら?」

「――近くには来ないだろう。だが、着いては来るはずだ」

 

 アヴェリンにも顔を向ければ、納得した表情で首肯する。ルチアは既に感知を周囲に向けて発していた。とはいえ、街にこれだけ人がいれば、明確な敵意でもなければ特定するのは難しいだろう。

 その様子に慌てた様子を見せたのはアキラだった。

 

「え、あの、見張られてたりするんですか、僕たち!?」

「そうだろうな。店員は尋常な者ではなかった。一般人とは思えない」

「確かに、すごいやり手そうな店主さんでしたけど……」

「――そっちじゃない。あれは確かに強かな商人だろうが、問題は後ろで控えていた方だ」

 

 思い出すかのように頭を捻るアキラだったが、結局顔は思い浮かばなかったようだ。実際彼女は気配を消す技術に長けていたようだし、メガネをしていたのも本当の自分を見せたくなかったからだろう。地味な印象を付ける工夫の一つだ。アキラが思い出せないのも仕方がない。

 

 何しろ目の前の店主の方がインパクトが強く、そして途中の遣り取りには緊張感に満ちていた。その空気に()てられただろうし、そして最後に提示された金額に、アキラは心底驚いていた。

 店の奥で待機しているだけの店員は記憶に残らないのも当然だった。

 

「茶の一つも出なかったろう?」

「……言われてみれば」

「マナーとして、商談の――あれを商談と言えるかはともかく、その間に茶と茶菓子くらいは出すものだ。そして用意するなら、それをあの女性店員がするのが妥当だ」

「確かに……、そんな気がします」

「では、何故しなかったか? それはあれが店の人間ではないからだ。出したほうが自然でも、それを用意している場所を知らなかった。そして打ち合わせして、お互いの役割を決める事は出来ても、不自然にならないだけの準備をするのが精一杯だった」

 

 つらつらと推論を述べるミレイユに、アキラは逐一頷いて相槌を打つ。

 

「私達が今日、質屋に行くことを知っていた人間はいない。後を着けられていたにしても、目的地まで知られていた筈はない」

「ですね、僕すら知りませんでしたし」

「ならば、それと知れたのはバスの中か、バスを降りた後だったろう。だから先回りは出来ても、それ以上の事はできなかったんじゃないか。女性店員は店主の近くには寄らなかったし、レジ近くから動く事もしなかった」

「……まるで、店内全体を見渡せる位置にいる事を、望んでいたかのようだったわねぇ」

 

 最後にユミルが口を挟んで、ニコリと笑った。

 しかし、アキラにはその説明だけで納得できるものではなかったようだ。

 難しい顔で腕を組み、首を傾げた。

 

「幾つか気になる点があるのは理解できます。でも、疑うにしても弱いような気も……。質屋の常識なんて知らないですけど、お茶が出ないとか近付いて来ないとかで、追手がいると決めつけるのは――」

「なんでアタシがソファ周りに行かなかったと思ってるのよ、お馬鹿さん」

 



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街への遠征 その6

「へ?」

 

 言われてアキラは、そこで初めて気が付いた。

 そう、ユミルだけは応接室のような一角にいなかった。店の中のショーケースや、壁際に陳列された商品などを歩き見ていた。

 

「あれが外から全体を見渡していたように、アタシも見渡せる位置にいたかったからに決まってるじゃない。アヴェリンがあの子の内側に着くのは当然、だからアタシが外側から警戒してたワケ」

「最初から……分かっていたんですか? でも、どうやって知れたんです?」

「見れば分かるのよ。それが一般人であるか、戦闘経験があるか、そして魔力制御を修めている者であるか、そういう具合をね」

 

 アキラは目を見開き、そして尋ねた。

 

「魔力を持った人間が、この日本にいるんですか!?」

「別に不思議じゃないでしょ。魔力がデンセンを通ってて、そして結界なんて作る技法が存在しているんだもの。魔力を扱える人間がいるのも、不自然とは思わないけど」

 

 至極当然の論理だとでも口にするユミルに、アキラは茫然と頷いた。そして、その言葉を噛みしめるように再度頷いてから口を開いた。

 

「それは……確かに。じゃあ、もしかしてその女性店員は、魔力を使って何かしてたんですか?」

「いいえ、何も。上手く自分を隠そうとはしてたみたいね。でも隠そうとすれば、それは同時に制御する事にも繋がる。よほど上手くやらなければ、分かる者には分かってしまうの」

「――それで、自分達が尾行()けられていたのだと察した」

 

 ミレイユが言葉を引き継ぎ、アキラに顔を向ける。

 店からは誰も出てこないし、店に近付いて行く者もいない。それでとりあえずの警戒は解いた。

 

「いつからか、と言われれば、あの結界に乗り込んだ時からだろうな。あれに関わる人間がいれば、そこに押し入り魔物を倒した誰かがいる事はすぐに分かったろう。姿を消して帰ったが、万全に備えて警戒していた訳でもなし」

「まぁ、いつから漏れたと言われたら、あそこだと想定するのが自然でしょうねぇ」

「――炙り出すのも可能と思いますが」

「いや、今はまだいい」

 

 控えめに口を挟んだアヴェリンに、ミレイユは首を横に振った。

 アキラはミレイユが見ていた方向、宝天屋とその周辺に視線を彷徨わせながら聞いてくる。

 

「じゃあ、すぐに逃げた方が?」

「いいや、あちらに事を荒立てる気がないのは分かった」

「……えぇと、何故です?」

「私と円満に商談を終わらせたからだ」

 

 そもそも、身分証明のできない相手に売買成立させたのは、その女性が手を回したからだろう、というのがミレイユの考えだった。

 何も知らない店側が、敢えてミレイユに譲ってやる必要がない。いま証明できる物を持っていないと言われたら、では後日またお越し下さい、と言えば済む話だ。

 持ち込んだ品は提示した金額からも悪い物ではなかったろうが、法を破ってまで無理に商談を成立させる程ではなかった筈だ。

 

 ならば、それを成立させる事を望んだ第三者がいたという事になる。

 問題は、何故敵に塩を送るような真似をしたかと言う事だが――。

 

「まぁ、事を荒立てる意志はない、そう伝えたかったのかしらね?」

「……うん。そう考えていいと思う。塩を送る意図は何かと思ったが、むしろ塩を送る事が目的なのかもしれない」

「敵対する意図がない、と?」

 

 アヴェリンが窺えば、ミレイユは眉根を顰めて頷く。

 

「状況だけ見れば、そうだという気がするんだが。こちらの位置も人数も顔も知りながら、しかし表立った接触はせず、希望する結果を橋渡ししてやる。そして、直接カネや物を送る程、お近付きになりたいわけでもないらしい」

「そうねぇ、アタシも同意見かしら。結界について報復など考えておらず、さりとて面識を得たい訳でもない。友好的である事だけは仄めかして、着かず離れずの関係を望んでます、と。そういう事かしらねぇ」

 

 ユミルの見解に、アキラは元よりアヴェリンも首を傾げた。

 

「しかし、それではやはり目的も意図も分からんが……」

「そうよ、分からないわよ。だから今は泳がせておきましょうって、最初に話してたじゃない」

「あれってそういう意味だったんですか……」

 

 アキラが呻くように頷いて、ユミルはニヤニヤとして嫌らしい笑みを浮かべる。

 

「感謝しなさいよ。一々細かく説明なんて、普通しないんだから」

「確かに、ミレイ様は基本そういう方針だ」

「ですねぇ。本当に着いて行っていいのか、疑問に思う事は多かったものでした」

 

 アヴェリンの同意に、ルチアも懐古するように表情を綻ばせた。

 

「え、そうなんですか? ろくな説明もないのに、よく着いて行く気になりましたね?」

「お前なら着いて行かないとでも言うつもりか?」

「いえ、滅相もない!」アキラは慌てて両手を振る。「ただ、皆さんなら色々言うのではないかと思っただけで……」

「言ったわよ。でも、大抵は無視されたわねぇ」

「聞いても面倒そうな顔をされるだけだったが……」

「なぜ分からないんだって態度されて、ちょっとイラっとしましたよ」

 

 アキラは迂闊な事を聞いたと即座に後悔した。

 しかし、散々な言われようをされたミレイユは、苦笑するばかりで何も言わない。反論する要素が何一つなかったからだが、続くアヴェリンの一言から様子が変わった。

 

「しかし、着いて行く事に不安はなかった。そう思っていたのは最初だけ、旅の後期ではその背の後を追う事に躊躇いはなく、共に歩く事が出来たのは誇りだった」

「まぁ、そこまでは言わないですけど。とりあえず着いて行けば大丈夫っていう、ある種の信頼感はありましたね」

「え、何故です……?」

 

 アキラが向ける当然の疑問には、得意顔になったユミルが答えた。

 

「その時には意味が分からなくても、後になれば、そういう事だったのかと納得する。この子の行動っていうのは、そういうものだから」

 

 アヴェリンもまた、顔面に誇りを貼り付けたような笑顔で頷いている。

 ミレイユは面映ゆいというよりは気まずい思いがして、会話を断ち切った。何もかも誤解であると説明したところで、無意味だろうと分かっている。

 何しろ実績があり過ぎるので、ただの謙遜と受け取られるのがオチだった。

 

「その話はいいから、移動するぞ。本日の目的は完了したし、予想外の実入りもあったが……」

「そう、何にしても百五十万ですよ! 一気にお金持ちじゃないですか!」

「そこは、ルチアが良くやってくれたお陰だな」

 

 アキラの弾んだ声に誘われるように、ミレイユがルチアへ顔を向ければ、そのルチアは上機嫌になって胸を張った。

 

「終わってみれば、随分簡単でしたね」

「そうだな、途中ヒヤリとする場面もあったが……まずまず上々と言ったところだろう」

「上々どころか、それ以上じゃないですか。百五十万なんて、そう簡単に手にできる金額じゃないですよ」

「そうなの? 一万って金貨一枚と同じ位なんでしょ?」

「魔術秘具でも何でもない、ただの装飾品として見た場合なら、その金額はあちらの世界であっても妥当なものだ」

 

 ユミルの疑問にミレイユが歩きながら応える。

 ルチアの肩を柔らかく押し、人通りの多い方へと誘導しながら背後を窺う。同じように着いて来る面々の内、アキラを手招きして傍に置いた。

 

「とりあえず、借りてた五万は後で返す」

「いえ、あの、五万はどうか取っておいて下さい。あの刀を頂いただけでお釣りが来ますし……!」

「あれはお前にやったものだ。お前の意志に敬意を払ってな。敬意に対し、値段なんてつけるものじゃない」

 

 ミレイユの放つ真摯な言葉に、アキラは息を詰まらせた。

 だが、その困った顔を見ると、あまり押し付けるのも気が引けてくる。どうしたものかと考えて、とりあえずの妥協案を提示してみた。

 

「早めに取引が済んだ事だし、予定を繰り上げてこれからどこか行こうと思う。だから今日一日の払いは、こちらで持とう。それでどうだ?」

「あー、それは……」

「余程の暴飲暴食、下手な使い方をしなければ五万など行くものじゃないだろうが……。それでも無償にならないだけマシだと、そう思う事はできないか?」

 

 アキラは迷う素振りを見せたが、やがて頷いた。

 

「そう……ですね。分かりました、それでお願いします」

「うん。それじゃあ、昼飯を摂れる場所を探しがてら、少し歩こう。デパート辺りでも近くにあればいいんだが……。色々足りないものが欲しいし、だがまずは財布が必要かな……」

 

 ミレイユは自分の姿を見下ろし、次いでルチアに視線を移す。

 ミレイユの見る先はルチアだが、正確にはその先――個人空間にある現金へ向けられていた。

 

 仕舞う場所に不自由はしてないが、人の多い場所でお金を取り出すのに財布を持ってないのは不自然だし、小銭を取り出すのも不便だろう。

 普段暮らす箱庭の中では、別に衣服に困る事はないが、これから外に出る機会が増える一方、服はこれ一着しかないのも不便だ。服があれば、それに似合う靴やバッグも必要になるだろうし、そうなると小物だって必要になる。

 それが四人分となると、手に入った大金も途端に頼りなく感じた。

 

 そしてこの金額は、今後の食費や生活費にも使われる事になるのだ。

 こちらの世界のシャンプーや石鹸を知れば、もう元の物には戻れないだろうし、色々と買い替えて行くことになるだろう。順次の切り替えでいいとはいえ、女四人が現代で生活する際必要になる出費というのは、ミレイユの想像を絶する筈だ。

 

 財布の紐を緩めすぎないように――財布はまだないが――気を付けようと心に誓う。

 そしてミレイユがルチアに向けていた視線を前方に向けようとした、その時だった。視界の端に映った物が奇妙に思えて、ミレイユは思わず立ち止まった。

 



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楽しい遊び場 その1

こちら、二話連続更新の二話目になります。
お読みになる際、ご注意下さい。
 
 
天の川(・・?)様
誤字報告ありがとうございます!


 ミレイユの目についたのは銀行だった。

 それは外見上、単なる銀行に過ぎなかったが、しかしおかしいと思ったのは、その銀行名についてだった。

 足を止め、見ている先に気付いたアキラが、ああ、と明るい声で解説を始めた。

 

「不思議に見えますか? 神社銀行です。オミカゲ様の」

「ああ、不思議に思ってたが、むしろ不審さが増したぞ。神社で銀行で、それがオミカゲ様? ここにもオミカゲ様の名前が出るのか?」

 

 通行人の邪魔になると、ミレイユが道の端に寄って、改めて銀行を見上げる。神社を表すような印は見えないが、銀行のトレードマークらしき物は行名の横についていた。犬――あるいは狼――の横顔に雷を模したマークが、シンプルな形で表現されている。

 しかし、何故ここでまたオミカゲの名前が出てくるのか。

 

「銀行を日本で初めて作ったのはオミカゲ様ですから。歴史の授業にも出てきますけど、かなり古い年代からあったみたいです」

「そうなのか?」

「ええ、個人的に誰かへ預けるような事はあったでしょうけど、安全と信用を両立できるような預金場所はなかったとされています。その点、オミカゲ様のお膝元に預ける事には信用もあります。不正もなければ、盗み出そうとする者もいなくて安全だったんです」

 

 ミレイユにとって、オミカゲ様信仰がどれほど日本の信心に根付いているのか分からない。

 しかし傷を治したり病を治したりする以外に、人の生活を支援するような取り組みを考えつく神がいれば、それはきっと信仰を後押しする結果になったに違いない。

 

「実際に神が守護する金庫なら、そこ以上に安全な預け先などなかったろうな……」

「当時の人も、きっとそう思ったでしょうね。実際、この金融業として神社が関わる事は歓迎されていたみたいです。暴利で金貸ししていた人達は、職を失ったらしいですけど」

「なんとまぁ、手が広いことだな」

 

 ミレイユは呆れて息を吐いたが、アキラは得意顔だ。

 

「神の手ですよ、広いに決まっています。それに日本に資本主義を根付かせたのもオミカゲ様ですし、経済の神とも言われてます」

「……あちらこちらに信仰の根を伸ばしすぎじゃないのか。節操ないと言われるぞ」

「それだけ御威徳が高いということですよ。でもきっと、こういうところが、海外で神様否定説が出る原因なのかな、とも思いますけど」

 

 ミレイユは少し面白くなって口の端に笑みを浮かべた。

 

「へぇ、海外ではオミカゲ様は否定的なのか」

「全部が全部じゃないですけどね。オミカゲ様には、病気平癒、怪我治療という、絶対的な見返りがありますから。信仰とは見返りを求めてするものではない、と言われていて、薬を買う事と同様に見られます」

「まぁ、間違っていないと思うが。仮にオミカゲが実際に見て触れられる神だったとして、何もしない神だったとしても今と同じだけ信仰するのかどうか……」

 

 アキラは苦笑して頬を掻いた。

 

「そこを指摘される人は多いですね。オミカゲ様が無力な存在なんて想像もできないですけど、もしもの仮定で考えてみたら、確かにここまで強い信仰心は持ってなかったかもしれないです」

「おや、そこは素直に認めるんだな」

「ただ身近には感じるんじゃないですかね。今も傍に寄り添って下さる御方ですけど、同時に恐ろしい御方でもありますから」

「そうなのか?」

 

 多くを知らないミレイユには、それが意外な事に思えた。

 今のところオミカゲについて知るところは、病と傷を癒やし、財産を守護する善神だ。慕いこそすれ恐れる要素はない。無論、神としての威厳に対し敬う気持ちはあるだろうが、それだけではないとしたら、そこから恐怖に結びつく何かがあるのだろうか。

 

「オミカゲ様には多くの側面があって、その内一つが雷神としての一面で、猛り怒る雷雨を自在に操るとされます。時には罪人の頭に落とすとも言われ、雷を見たら手を合わせて謝れば免れるとも」

「途端に嘘くさくなったな……」

「そんな事ないですよ。世界大戦で敵国の兵士は、戦後雷を見ると恐慌をきたしていた、というのは有名な話ですし」

「何でまた?」

「制空権も制海権も取れなかったのは、オミカゲ様が雷雨を完全に制御していたからです。雨の代わりに雨のように振る雷、なんて表現されていたとか」

 

 アキラの横顔からは、ほんの少しの自慢と大きな誇りが見えるような気がした。

 もしもその話が戦場伝説じゃなければ、相手にする兵士からすれば悪夢だったろう。似たような話を知っているだけに、ミレイユは何とも言えない顔をした。

 それまで黙って話を聞いていたユミルが、ヒョイと顔を出して悪戯好きな笑みを見せる。

 

「――あら、じゃあアンタも代わりにオミカゲサマできるじゃない」

「するか、そんなもの」

「……え、どういう事ですか?」

「この子も、ちょっと前に戦場で、視界いっぱいに映る敵兵相手に、雷降らせて一掃したから」

「そんな事できるんですか!?」

 

 ミレイユは胡乱な視線でユミルを見返そうとし、帽子のつばが邪魔で結局できず、それで仕方なくツバの側面をなぞった。

 沈黙しか返さないミレイユに代わって、ユミルがニヤニヤと笑いながらアキラに言った。

 

「あれは確かに雨のように、という表現が正しかったわねぇ。あの数相手にどうするの、って誰もが思ってたし、敵数は十万、こちらは掻き集めた総力で僅か二万。そのまま圧殺されて終わりだと思ったものだけど……」

「結果は別だったと」

「そう。右翼から順に雷の餌食になっていってねぇ」ユミルはくつくつと笑う。「舐めるように雷が順に襲うものだから、半狂乱になって逃げ出して、戦意も陣形もバラバラ。こちらに重傷者は出ても死者はなし。敵は八万の犠牲が出て大勝利」

「マジですか……」

「秘策があるとも聞いてなかったから、相当絶望的な状況だったのよ。それなのに、土壇場になってこの子が、仕方ないと言って使ったのが、雷霆召喚」

 

 それは膨大な魔力消費と魔力制御を必要とする、雷光系魔術の最秘奥だった。天才が魔術書を読み込んだ程度では到底扱えない、秘術と称して何ら遜色ない魔術だが、使えるとも聞いてなかった仲間達は驚愕したものだった。

 その制御の起こす魔力振動が、地を震わせ空気を震わせ、そして制御の余波だけで、術者の身体を宙に浮かせる程だった。

 

 そして起こした結果は、先程ユミルが言ったとおり。

 あの時からだろう、信奉者の数が目に見えて増えたのは……。

 遠い目をしたユミルが過去に思いを馳せるのも束の間、肩を小突かれて我に返った。

 

「余計なことまで話すな」

「あら、ごめんなさいね。でも、少しぐらい知ってもいいでしょう? アンタのコト、軽んじられたら我慢できない人とかいるし」

 

 そう言ってチラリとアヴェリンに視線を向ければ、聞こえぬ振りをして周囲の警戒に勤しんでいた。じろりと睨まれるように見つめられて赤面する者もいれば、気まずい雰囲気で顔を逸して行く者もいる。

 

「僕は別に軽んじた事なんてないですけど、でもやっぱり凄い人だったんですね。皆が敬意を払っているのは感じてましたけど、でも実際どれだけ凄いのかはよく知らなかったので……」

「まぁ、ただ凄い、ただ強いってだけじゃ、アタシだって一緒になってなかったしねぇ。けど話すと長くなるのよね、何を例に挙げたとしても」

「今はそんなツマラン話はどうでもいいんだ。かといって、別にオミカゲ様の話を再開したい訳でもないが」

 

 ミレイユが殊更大きな溜め息をついて見せると、ユミルは肩を竦めて笑った。

 元より銀行名に神社とあって不思議に思っただけで、オミカゲサマとやらの偉神伝が聞きたかった訳じゃない。つい足を止めて話し込んでしまったが、そろそろ出発しようと思ったところで、自動ドアが開いて誰かが出てきた。

 開いたドアの向こう側、壁には大きな絵が飾ってあって、そこに白髪の女性が写されていた。

 

 バストアップの写真には、金糸銀糸で飾られた白い神衣を着ていて、表情を出さず斜めから見下ろすように写った姿が収められていた。

 髪は長く姫カットとも呼ばれるもので、その髪色も神衣と同じ純白、化粧は薄くアイランに赤い色が乗っていて、その瞳までもが赤。それがまた神秘性が増しているように思えた。

 

 ミレイユは思わず身体が固まる思いがした。

 ミレイユの視線を追ってユミルもルチアもその先を見つめ、そしてやはり息を詰めたり固まったりしている。

 自動ドアが閉まり、額縁も見えなくなると、固めていた身体を解すように息を吐いた。

 

「……確かに、似てたわね」

「アキラから似ているとは聞いてたが……」

「印象も随分違ってましたけど、ミレイさんがあの姿で目の前に現れたら、見破れないかもしれません」

 

 ルチアが言う事に、ミレイユも我知らず頷いていた。

 アキラがミレイユの顔を見るなり態度を豹変させたのは、熱心なオミカゲ信者だったからだろうが、例えそうじゃなくとも、似姿に驚く者が出ても当然に思えた。

 

「ていうか、こんなに似てるなら初めに言ってよ」

「いや、言いましたけどね!?」

「似顔絵があるなら、用意するとかすれば良かったじゃない」

「だってミレイユ様、あの時から明らかに不満そうだったし、仮に見せても絶対不機嫌になってましたよ」

「……それはそうね」

 

 数秒思案してから同意するユミルに、アキラもこくこくと頷く。

 憮然としたミレイユは帽子のツバを摘んで深く被り直す。

 

 そこで、先程からやけに静かなアヴェリンがどうしたのかと思い立った。先程のオミカゲサマを見れば、何か一言くらいあっても良い筈なのに、それもない。

 らしくないと思いつつ視線を向ければ、何やら男達に絡まれているようだった。

 ユミルもそれに気付くとニヤニヤと笑って、アキラの腹を肘で突付いた。

 

「ちょっと、あれどうなの? 男に声かけられてるわよ」

「かけられているというか、絡まれているというか……」

「日本は世界一犯罪が少ないとか言ってなかったか?」

「いや、ナンパは犯罪じゃないですし……」

「だがあれは、ナンパとは言えんだろう」

 

 ミレイユが指摘したとおり、アヴェリンは複数の男に囲まれていた。単に声を掛けている訳でも、話してみたいだけのようにも見えない。どこか高圧的で、遠慮がない。自分達の誘いを断られないと信じているような様子だった。

 アヴェリンは素気なく断っているし、まるで興味を示した様子はなかったが、男達は諦めず、尚も言い募ろうとしている。

 

 ユミルは猫のような人を食った笑顔から、獰猛な獣のような笑顔に変えた。

 

「面白そうね、行くわよ」

「あ、やば。ヤバいです、絶対ヤバいやつですよ、これ……!」

 

 アキラが振り返ってミレイユに助けを求めるように情けない声を挙げた。

 ミレイユは深く息を吐いては首を横に振るばかりで、その場から動こうとしない。組んだ腕の一方を上げて、握った拳を顎に当てる。

 考えるポーズでアヴェリンの様子を見守る態勢に入り、アキラは顔を青くした。

 

「ちょちょ、ちょと待ってください、ユミルさん!」

「いやよ、待たないわ。待たされるのは嫌いだし」

 

 アキラが裾を掴んで引き留めようとしたが、逆に腕を捕まれ引きずられる。

 情けない声を出しながら足を踏ん張ったものの、まるで功を奏せず、つんのめるように後を着いていく破目になっている。

 ルチアも後を追って行ったところで、取り残されるのも詰まらないと、最後尾で追いかける事になった。

 



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楽しい遊び場 その2

 男達の背後に立ったユミルは、上機嫌で声を掛けた。

 

「僕ちゃんたち、うちの連れに何か用でもあるの?」

「はぁん? ――おお、すげぇ美人じゃん! なに、俺たちと遊ぶ?」

「邪魔だ、ユミル。すぐに追い払う」

「あらぁ、話が通じない子たちねぇ。……それ、うちの連れなのよ、何かやった?」

 

 アヴェリンの不機嫌な声は無視して、ユミルが目を細める。しかし二人の様子に気付かない男達は鼻の下を伸ばし、その中のリーダー分の男が機嫌よく答えた。

 

「いやぁ、やけに俺たちに熱い視線を送るもんだからさ、遊んで欲しいと思ってよ」

「そうなのねぇ。でも、理由はちょっと違うと思うわ」

「姉ちゃんたち、日本語上手くね? どこの国の人?」

「おい、マジでヤバいじゃん! どうすんのよ、これ?」

 

 男達は全部で五人、ユミルに引き摺られて来たアキラ、その後に着いてきたルチアとミレイユを見て、男達は群がるように囲もうとする。

 それを素早く察知したアヴェリンが、ミレイユの前に立って男を近づけさせないよう壁になった。しかし、その意図が掴めなかった男達は、単に女が増えた程度にしか思えなかったようだ。

 

「いいじゃん、こっちも五人だしさ。みんなでどっか行こうぜ」

「一人顔見えないけど、これぜってぇカワイイって!」

「おい、お前。近づくな」

「めちゃ気が強いじゃん、俺の好きなタイプだわ」

 

 不躾な男達に、アヴェリンは今にも爆発してしまいそうに思えた。ミレイユに近付いて下から覗き込もうとする男には、牽制しながら身体を入れ替え、ミレイユを背後に庇っている。

 その中にあって、アキラがどんよりとした表情で呻いた。

 

「その五人の中に僕も含まれているんですかね……」

 

 しかし、その声は無視され、ユミルが目の前の男に尋ねる。

 

「へぇ、そうなの、遊んで欲しいの?」

「お、なに、乗り気じゃん? どこ行く?」

 

 上機嫌で返ってきた男の声に、ユミルが笑顔のまま答えた。

 

「そんなのシンプルに無理でしょ」

「……は?」

 

 男の声が一段低くなる。

 目つきも険しくなって口角も下がったが、ユミルの態度は変わらない。小馬鹿にしたように鼻で笑い、首を傾げて人差し指を顎に当てる。

 

「アタシ達を相手にしたいと言うには、色々足りてないのを自覚なさいな」男の姿を上から下まで見つめる。「そんな見た目じゃあねぇ」

「おい、お前、マジ調子乗ってんな?」

 

 男の態度が目に見えて変わったところで、アキラがユミルを押し退けて前に出る。

 不機嫌な態度と今にも暴力沙汰にでもなりそうな雰囲気に、アキラ自身も怖気付いていたが、このまま放置するのも恐ろしかった。

 何しろ、あの日の強盗事件の光景が目に焼き付いている。

 

「ちょっと待って下さいね。落ち着いて、落ち着いて。……絶対マズイことになりますから、このまま引き下がった方がいいです」

「なに言ってんだ、お前?」

「あなたの為に言ってるんですよ、下手なことせず、このまま帰った方がいいです。ほんとに、あなた方の為に言ってるんですから……!」

「馬鹿じゃね。なんで俺らが馬鹿にされて、引っ込んでないといけんのよ?」

 

 アキラの嘆願が通じず、男がそう返せば、周りの男達も同じように囃し立てる。

 周りは人通りの多い道、誰か止めてくれないかと見渡しても、素通りするばかりで見てみぬ振りで去っていく。

 男達の見た目はお世辞にも上品と言えず、大学生ぐらいの見た目に思えるが、いわゆるヤンキー系で怖いもの知らずと言った感じだった。

 怖いものを知らないのは結構だが、本当に怖いものに手を出していけないとは知らないらしい。

 

「もう面倒だし、黙らせてしまっていいんじゃないですか?」

 

 呟くようにして言ったのはルチアだった。

 小さな声だったというのに、その発言は男達全員に伝わって剣呑な雰囲気が満たしていく。

 

「可愛い顔して言うじゃねぇの。状況分かってんのか? 泣いても許してやらねぇぞ?」

「それは楽しみですね。泣いて許されるのは子供までですから。下着の替えは、自分で用意しておいて下さいね」

「は? なに言ってんの、マジで? やっちまうか?」

 

 ルチアの煽りに顔を青くしたアキラが、両手を前に出して落ち着かせようと試みる。

 アキラはそのすぐ傍によって、声を潜めながら嗜めた。

 

「なんでそういうこと言うんですか。纏まるものも纏まらないじゃないですか……!」

「だって、このパターンは無理ですって。大人しく引き下がる男なんて見た事ないですから」

「例えそうだとしても……!」

 

 アキラの説得は呆気なく無に帰した。

 やりとりを聞いていた男が我慢できなくなって、ユミルの腕を掴む。ユミルは鼻を鳴らしただけで抵抗はせず、掴まれた手を見つめている。

 

「ちょっとこっち来いや。詫びの仕方が気に入ったら、少しは手加減してやるよ」

「あら、楽しそう。どんなお詫びが聞けるのやら」

 

 再びニヤニヤと笑い、引っ張られるままに着いて行く。

 囲んだ男達が歩くように威嚇してきて、言われるままにアキラ達も動き出した。

 アキラは頭を抱えて呻き声を出したが、それを見ていたルチアは花開くような綺麗な笑みを浮かべた。

 

「そんな深刻な事にはならないから大丈夫ですよ」

「……本当ですか?」

「さっきからミレイさんが、何も言わないじゃないですか」

「ええ、それは……確かに。でも、それが何か?」

「ミレイさんが不快に思って排除を考えてたら、即座にアヴェリンさんが動いて再起不能にしてますよ」

「ああ……」

 

 それは容易に想像できる展開のような気がした。

 一声上げるどころか、指を鳴らした時点で即座に動き、全員を昏倒させただろう。それこそ瞬きの間で終わるという確信すらある。

 いつも鍛錬で転がされているアキラだから、それが容易に想像できる。

 

「つまり、穏便に済ませる気持ちがある、という事ですか?」

「そうですね、そう考えていいと思います」

 

 その穏便について、アキラと他の者では大きな乖離があると、薄々は気付いていたが、ともかく安堵の気持ちで息を吐く。

 

「ミレイユ様がいるんだし、いざという時は止めますよね?」

「死ぬことだけはないんじゃないですかね」

「……穏便に済ませるんですよね?」

 

 アキラが背後を振り返ってミレイユに尋ねれば、首肯だけで返事があった。

 どうにも疑わしい気持ちで前に向き直ると、狭い路地裏で男とユミルが立ち止まっていた。

 建物の影になって周囲からは見辛く、奥まった場所故に逃げ場もない。男達が通路を塞げば、奥に誰がいるのかなど、外からは分からないだろう。

 

 男達は不機嫌な雰囲気を出しつつも、その中に下卑た気持ちを押し殺せずにはいられないようだった。それぞれ顔や身体へ舐めるような視線を向けている。

 

 ユミルも同様に男達を見渡し、明るい声音で口を開いた。

 

「新しいお友達が沢山ね」

「おもちゃの間違いでは?」

 

 アキラの呟きは、ユミルの獰猛な笑顔で頷きが返った。

 

「あら、アンタもなかなか良く分かって来たじゃないの」

「なに呑気に話してんだ? 状況分かってんのか? 後ろのお前も座ってんじゃねぇ……って、そんなのどこにあった?」

 

 振り返ってみれば、ミレイユがいつものように椅子を出して座っている。重厚感のある立派な椅子の肘掛けに、肘を立てて顎を手の平に乗せている。膝を汲んで、ツバの下から見える唇が、蠱惑的な曲線を描いていた。

 

 その斜め前方には、ミレイユの視線を遮らない程度の距離でアヴェリンが立っている。何があっても近寄らせまいという威風が漂っており、実際この中の男がどれだけ必死になろうとも、それは不可能だろう。

 

 妙な雰囲気が辺りに漂った。

 女性陣の底抜けな緊張感がそれに拍車を掛けたのだろう。辺りには不思議と甘い匂いが充満し、何かが妙だ、と考えた時には、もう遅かった。

 男の一人が視線を彷徨わせる。どうする、と隣の男に声をかけようと顔を向けた時、目の前の男が後ろに向かって吹っ飛んでいた。

 

「な、なぁあ!?」

 

 吹っ飛ばされた男は気絶して、痙攣を起こしていた。

 そして、それをやったのが誰か見て、驚愕している。

 まだ十代半ばに過ぎない、華奢で可愛らしい、妖精のような少女。それがいつの間にか取り出した大振りな杖を突き出して微笑んでいる。

 

「ほら、早くしないと他の人も私一人で終わらせますよ」

「それは嫌ねぇ」

「いや、僕は最初から参加するつもりないので……」

「軟弱な事を言うな。対人戦のつもりでやれ」

「いやいや、対人戦ならいつも師匠とやってるじゃないですか」

 

 緊張感のない遣り取りは相変わらず。男が仲間を見捨てて逃げようと、振り返った時だった。

 すぐ目の前に壁があって尻もちをついた。そして即座におかしいと気付く。男の後ろには路地裏が伸びるばかりで、壁になるような物はない。せいぜい潰れたダンボールが転がっている程度で、それ以外に妨害になりそうな物などなかった。

 しかし今は、そびえ立つ氷の壁が存在している。

 

 アキラが顔を横に向けると、ルチアの手にあった光が掻き消える。何かをやったのはこのルチアだと分かったが、もしかして目にも留まらぬ速さで魔術を行使したのだろうか。

 ルチアの事を殆ど知らないアキラからすれば、また一つ、彼女の知らない一面を知れた事になる。

 

「な、なんだ!? なんだよ、これ! どうなってるんだよ!?」

 

 男達が壁に手を付き、握った拳でドアを叩くように殴りつける。しかしそれは幻でも立板でもなく、現実の氷壁として逃げ道を塞いでいる。

 

「それじゃ、ちょっと遊びましょうか」

 

 アキラは背筋を凍らせた。

 ルチアの明るい声音は、同時に男達を青褪めさせるに十分だった。戦慄の表情で振り返り、身を震わせたのは冷気を発する氷の壁ばかりが原因ではない。

 

 男達が上げた悲鳴は、誰に届くでもなく氷の壁に吸い込まれていった。

 



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楽しい遊び場 その3

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 そこには倒れ伏した男達が地面に転がっていた。

 日もろくに差さぬ路地裏、そこで氷の壁に阻まれている。逃げぬことも儘ならぬ中、立ち向かうしかないと判断しても、歯向かうというには相手の力量は甚大だった。

 

 男の一人は腕を捻り上げられ、苦悶に顔を歪めている。

 うつ伏せに倒れ、背中を踏まれて身動きが出来ない状態で、腕だけ捻り上げられているのだ。

 

「あ、ぐ、がぁぁぁ!!」

 

 それ以上腕が上がらないにも関わらず、万力のような力で徐々に上へ上へと押し上げられていく。

 悲鳴も嘆願も意味はなかった。それをすれば相手を喜ばすだけなのだと、とうに知れていた。

 

 その元凶となる女は楽しそうに声を上げながら、また少し力を込めていく。

 

「ほらほら、頑張って抵抗なさいな。楽しませてくれる約束でしょ?」

「あぁ、うぐっ! あぁぁぁああ!!」

「痛みのせいで返事も出来ない? でも、それって怠慢じゃない? 楽しませるつもりがあるなら、返事ぐらい出来るでしょ」

 

 女が更に力を込める。みちみち、と筋が切れるような音が聞こえた。

 

「あ、あぁぁッ!! はい、はい、はいィィィ!!」

「折れる心配してる? 大丈夫よ、上手くやれば、外れるだけで済むから。入れる時は痛いけど、安静にしておけば三日で元通りよ。優しいでしょ?」

 

 男が何事かの返事をしようと声を出す。意味のある言葉ではなかったが、とにかく必死で、ただ痛みから逃れようと、その思いだけで声を出していた。

 その口から笑い声が漏れる。女性らしく可愛らしい声だった。

 腕からは相変わらず続く異音、相変わらず増し続ける痛み、視界が白味始めた時――。

 

 腕が壊された。

 外れたのではない、折れたと分かったのは、思わず目を向けた肩先から鋭く尖った骨が肉を裂いて突き出ていたからだ。

 

「あ、あがぁぁ! ほね! お、おれッ!!」

「ゴメンね、僕ちゃん。力加減、間違っちゃったわ。もうママのスカートの裾、握れないわねぇ?」

 

 楽しそうな声と共に腕が開放される。

 痛みで悶絶し、とにかくこの痛みから逃れたくて身をもがく。目から鼻から液体を垂れ流し、口の端からも血の混じった涎が垂れた。

 

 そうしている内に、無事なもう片方の腕を握られた。

 ハッとしたのも束の間、背中を踏まれた足の圧が強まる。そしてまた、腕が捻り上げられた。その腕をどうするつもりか、想像したくなくとも分かってしまう。

 

「や、やめ! やめで! やめでぐだざいッ!!」

「イヤよ。だって他の子、気絶しちゃってるでしょ? 腕を捻り上げても呻き声しか出ないじゃない」

「う、あう、うぁあああ!」

「あぁ、それとも……」

 

 女は腕を離して身を屈める。

 背中への圧は強まり息も苦しかったが、痛みはマシになった。

 女は屈んだままに男へ顔を寄せ、真横から楽しそうな笑みを覗き見せる。

 

「アンタ、他の誰か起こしてみる? 目を覚まさせたら許してあげるわよ。自分か、他の誰か、選びなさいな」

 

 言うだけ言って、身を離す。背中の圧力も消えて、息も楽になった。そろりと肩越しに窺うと、腕を組んでニヤニヤと笑う黒髪の美女がいた。

 顎をしゃくって見せる方向には、倒れ伏した仲間達がいる。それぞれ昏倒し、白目を剥いたりしているが、命に別状はなさそうだった。

 

 泣きながら懇願しても、許してくれないのは分かっている。それでも懇願せずにはいられなかった。

 ――どうして、こんなことに。

 

「ゆじで、ゆるじで、くだざい……ッ! どうか……ッ、どうか……!!」

「あー、それはつまり……他の誰も選ばないって意味でいいの?」

「う、うぅ、あぐぅ……!」

 

 涙で顔をグチャグチャにしながら首を振る。

 薄情と言われても、もう一度あの痛みを味わうのは嫌だった。もう一本の腕も散々いたぶった上で折られるかもしれない。それで満足しなければ、今度は足かもしれない。

 この女は狂っている。他の女も、誰も彼も止めやしない。全員狂っている。

 

 這いずるように手近な誰かに近寄り、肩を揺すり、腹を押し込み、頭を乱暴に掴む。

 しかし、白目を剥いた男は反応を示さない。くぐもった声を上げるだけで、それ以上の反応は返さなかった。

 

「なぁ! なぁって!!」

 

 尚も揺するが、反応は返ってこない。

 別の男に狙いを変えても、やはり反応はなく、力なく身体が跳ねるばかり。

 そこにあの女が心底可笑しそうに声を上げた。

 

「アッハハハハ!」

「おい! だのむ! だのむよ……ッ!」

 

 男達全員の肩を揺すり、乱暴に顔を殴り、髪が千切れるほどに頭を振り回しても、誰一人目を覚まさない。

 そこに上から声が掛かった。

 

「誰も起きないわねぇ。……じゃあ、続き、しましょうか」

 

 片腕が動かせず、体力も残らない中、簡単に転ばされて地面に顔を擦った。口の中に土が入るが、構わず片手で起き上がろうともがく。しかし、逃げる間もなく背中を押し潰され、すぐに身動きできなくなった。

 そして、いとも簡単に無事な片腕を捻り上げられる。

 

「い、いやっ、やべで! やべでぇぇえ!!」

「あら、可愛い声だすじゃない。まるで女の子みたいよ」

「は、はい、ハイッ! ハイィィィッ!!」

 

 とにかく必死に首を動かす。返事をしなければ痛みが来ると知っているからだ。涙を流した部分に土汚れがつき、口の中に土の味が広がっても、返事と首の動きは止められない。

 

「いい返事ねぇ。お礼に痛くないよう、腕の関節外してあげましょうねぇ」

「い、いや、やめでぇぇぇえ!」

「んー……。やっぱり、ちょっと痛いかも」

「ぁぁぁああああ!!」

 

 身体が上下に激しく動く。痛みに耐え兼ね、痙攣のように細かく、だが激しい動きだった。

 背中の圧は一切変わらず、だから逃げ出すことも出来ず、足は悪戯に空を切るばかり。

 

「アッハハハハ、ハッハハハハ!」

 

 頭上から聞こえる女の笑い声が余りに恐ろしい。悪魔がいるとすれば、間違いなくこの女だ。

 悪魔が、鬼が、この世の悪がいる。

 オミカゲ様、お救いください! どうか鬼を退治して下さい!

 精一杯の信心を込めて、痛みの合間に祈りを捧げる。必死の願いも虚しく痛みは増し、女の声は強まっていくばかり。

 

 そして――。

 

 

 

 

「……わぉ」

 

 ルチアの間抜けな声が辺りに響いた。

 男のズボン、その股間部分から湯気が立って濡れそばっていく。

 アキラは路地裏に倒れて、壁際に一直線に並んだ男達を哀れな眼をして見つめていた。時折、びくんと跳ねては呻き声を上げる男達を、心底同情しながら見据えている。

 

 ルチアが男の一人を小突いた後は一瞬だった。

 氷の壁に阻まれて逃げ場を失くした男達をルチア達が一掃した――そう思っていたのだが、気づけばアキラの前には壁一面に昏倒した男達が並んでいた。

 

「これ、どうなってるんですか」

「強めの催眠よ。今頃、夢の中でいっぱい酷い目に遭ってるか、いっぱい良い思いをしているか、どちらかね」

「催眠? いつから? 僕も掛けられていたんですか?」

 

 催眠と言えば、コンビニの時のユミルを思い出す。わざわざ自分の目を合わせて催眠にかけていた。女性店員には首根っこ捕まえてまで自分の目を合わせていたと思う。

 しかしアキラはユミルの後ろにいたし、ユミルは後ろを振り返ったりもしなかった。

 

「ちょっと錬金術で作った薬剤をね、空気に散布して使ったの。甘い匂いを感じてたら、それもう催眠状態に入ってるわよ」

 

 言われて気付く。

 路地裏に入って男達に囲まれた後、辺りには甘い匂いがしていた。特に気にしていなかったが、その時にはもう術中に掛かっていたのか。

 

「ほらね、穏便に済ませる事だって出来るのよ、アタシは」

「うん。なかなか見事だった。時折お前は有能さを見せるな」

「いつも有能でしょ? おふざけが過ぎるだけで」

「自覚があるのが、尚タチが悪いな」

 

 ミレイユが喉の奥で笑っていると、ルチアが何とも言えない顔で男の頭を乱暴に小突く。

 

「下着の替え、ちゃんと用意してるといいんですけど」

「してる筈ないと思います」

 

 アキラが同情を禁じえない声音で顔を背けた。

 そして気づけばミレイユの椅子がない。あれも催眠だったのか、それとも既に消しただけなのか……。そこまで考えて別にどちらでもいいか、と思い直す。

 

 ここで寝ている男達は何が起こったか分からないまま目を覚ますだろうし、催眠中の出来事を覚えているのなら――いっぱい酷い目に遭うという言を信じるなら――もうきっと、寄って来ないだろう。

 

 ミレイユが気を取り直した声を出して、全員を促した。

 

「さ、余計な小石を蹴り飛ばしたところで、飯でも行くか。……まだ少し早いかな」

「小石……、いや、そうなんでしょうし、そうとしか思えない扱いでしたけど……。なんて憐れな……」

 

 路地裏の狭い空を見上げながら、さっさと歩き出してしまったミレイユの背を、他の面々が後に続く。

 アキラも最後に男達を一瞥し、小走りになってそれらの背に続いた。

 

 

 

 

 路地裏から表通りに出て喧騒の中を歩いていると、右隣にアヴェリンが着く。その反対、左隣にユミルが着いたのを確認すると、どちらへも顔を向けずに平坦な声で問う。

 

「関係あると思うか?」

「ないでしょうねぇ」

「やはりか。接触するには、あまりにタイミングが早すぎると思ったが……」

「何かを施術された痕跡もなし。つまり、単に偶然近くを通った男が、女を引っ掛けようとしただけなんでしょ」

 

 ユミルの判断に、声には出さず同意して首肯する。

 ミレイユは表情も声音も変えず、ただ視線のみを外に向けて、重ねて問うた。

 

「だが、そうだとしても見ていた者は居た筈だ。その者たちの目には警告として映っただろう。今はそれでいい」

「そう。……ま、アタシは退屈しなければ何でもいいけど」

 

 そう言って笑い、肩を竦めるのを視界の端に映した時、正面に大きな交差点が見えてきた。スクランブル交差点という程に大きなものでもなかったが、十字路しか知らないアヴェリン達からすれば、余程複雑に見えただろう。

 驚愕というより困惑の度合いが強い表情で、横断歩道を歩く者を見つめている。

 

「これ、どうなってるんです。何で皆、平然と歩いていられるんですか」

「あれとか何で途中で信号があるワケ? つまり途中立ち止まる必要があるってコト?」

「道路が長いせいですかねぇ。立ち往生する人が出た場合の避難先、とか?」

「ははぁ……」

 

 感心したように道路の設計に見入る三人に、ミレイユは前方に見えるビルを指差す。

 他にも大きなビルが並ぶ一角だけに影になって見えにくいが、それとなしに伝わればいいと思うので、気にせず声を掛けた。

 

「あそこに見えるデパートに行ってみよう。興味深いものが一つのビルで纏まっているし、腹が減れば飯を食える場所もあるだろう」

「いいわね、見てみたいわ」

 

 他にも賛同する声を聞きながら、ミレイユは帽子のツバを少しばかり上げて空を仰ぎ見る。

 日は高くなり始め、中天に差し掛かろうとしていた。雲の姿は見えなくなり、ギラつくような暑さを肌に伝えてくる。

 

「それに、中に入れば涼む事も出来るだろう。手早く移動して、落ち着くとしよう」

「大いに賛成です」

 

 暑さに弱い訳ではないアヴェリンも、これには声を出して同意した。

 あちらに比べると、日本の湿度は随分高い。少し日差しがあると、日差しの熱以上に気温の高さを感じるのだ。始めてそれを味わうアヴェリン達は、その洗礼を受けつつあった。

 

 後ろに続くアキラやルチアからも同様の声を聞いて、ミレイユ達は急ぎデパートまで足を進めた。

 



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楽しい遊び場 その4

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 そしていざ、そのデパートに辿り着くと、入り口付近だというのに、アヴェリン達は固まってしまった。

 無理もないと言えるだろう。彼女たちが目にした事のある、最も大きな商業施設は田舎のファッションセンターだった。今はそれと比較にならない大きさのフロアが、多くの商品と共に眼前を支配している。

 

 天からは隙間なく敷き詰めてあるかのような照明が店内をあまねく照らし、地には多くの服が所狭しと並んでいる。一階入り口は婦人服売り場のようで、正面から見える範囲以外にも、壁際に目を移せば化粧品売り場や靴売り場などが目に入る。

 

 そして極めつけは、ともすれば寒いとすら感じる冷房だった。

 入った瞬間にひやりと肌を撫で付け、そして快適に感じる清潔感に満ちている。魔術で同じことをしようと思えば、同じ結果を出すのに何十人の魔術師が必要となるか分からない。

 

 呆然とし、あるいは愕然とすらしている者たちを、ミレイユは腕を取って入り口付近から移動させる。

 端によったアヴェリンたちを迷惑そうな目をして横を通り過ぎていく傍ら、その美貌に嫉妬するような羨望するような顔をして去っていく。

 

 アキラの方に目を向ければ、困ったような苦笑が返ってきた。

 警戒するように、あるいは索敵でもしているかのように厳しい目を向けるアヴェリンに、ミレイユはその腕を叩いて意識を向かせる。

 アヴェリンは一瞬ミレイユに目を向けた後、警戒を怠らないまま睥睨した。

 

「ミレイ様……、これがデパートですか。恐ろしい物の数です。これだけの数を揃えるのに、一体何年の月日を使うものか……」

 

 更に視線を動かし、エスカレーターで目を留める。

 

「それにあの階段……。常に蠢いて人を運ぶとは……、恐ろしいものの片鱗を見た気分です」

「蠢くとは随分な言い草だが。そうだな、驚く気持ちもよく分かるが、これは一階部分だ。まだ他にもフロアはある」

「これで全てではない? あの蠢く階段は何かと思っておりましたが……、あの先に何かがあると?」

「興味惹かれるけど、その前に、あっちの奥がどうなってるか見ていたいわね」

 

 茫然自失から帰って来たユミルが、フロアの奥を指差しながら言った。

 何があるか分からないが、フロア構成を見る限り、女性のファッションに関係する何かだろう。ユミルは特別女性的な見た目に感心がある方ではなかったと記憶しているが、見たいというなら止める気もない。

 

 アキラの顔が引き攣っているのは、男性として女性に混じりながらこのフロアを歩くのは遠慮したいからだろうが、解説役が必要になった時の為に、開放するつもりもなかった。

 ミレイユはユミルに頷き、アキラに向かって顎をしゃくった。

 

「では、行ってみようか。……ルチア、いつまで固まってるんだ。着いてこい」

「は、はいっ。ちょっと待って下さい……!」

 

 そうして全員を連れてフロアをぐるりと回ってみたのだが、結局は代わり映えのない光景を目にすることになった。化粧品と一口に言ってもメーカーも多種多様にあるもので、入り口から見えた範囲から足を伸ばしても、他のメーカーの化粧品コーナーが並んでいるようなものだった。

 

 ユミルも興味深くはあるようだが、店の中に入って物色しようとはしていない。

 アヴェリンは何一つ興味が惹かれないようで、変わらずミレイユの横を維持して周囲の警戒に勤しんでいる。

 

 そんな中、ミレイユがつい足を止めてしまったのは、化粧品入り口に掲げられたポスターを思わず見入ったからだった。

 ピンク色のルージュを引いて、淑やかに微笑む姿をアヴェリンに重ねて、こういう化粧をしたら似合うのではないかと思った。

 同時に、そういう女っ気をまるで出さないアヴェリンは、絶対につけないだろうな、と独白した。

 

 そうして足を止めたのが、僅か数秒であったとしても、ミレイユが止まればアヴェリンも止まる。そうして二人が止まれば全員が止まるのは必然だった。

 店員が接客中でこちらに意識が向いていなかったのは僥倖だった。顔面指数の高い一団がいれば、声を掛けずにはいられなかったろう。

 アヴェリンが怪訝な声で尋ねてきた。

 

「ミレイ様、どうされました」

「……いや、ああいう風に口紅を着けたら、お前はどうなるかと思っただけだ」

「ベニ、ですか……」

 

 アヴェリンもミレイユが見ていたポスターを見つめ、それから困ったように笑った。

 

「そういったものには、全く疎くて……」

「疎いっていうか、したコトないんじゃない?」

「馬鹿を言うな、化粧くらいしたことはある」

「戦化粧はナシよ」

「う、むぅ……」

 

 ユミルの容赦ない追撃に言葉に窮すると、アキラが首を傾げてミレイユに聞いてくる。

 

「戦化粧って何ですか? 普通の化粧と何が違うんです?」

「現代で使うような、潤いを保つとか、より綺麗に見せるとか、そういうものとは全く別物だ。肌を青く塗ったり緑に塗ったり、そして掌の形そのままを顔面や身体の見えやすい場所に白や赤など目立つ色で貼り付ける」

「え、何ですか、それ……」

 

 アキラが思わず身を引いたのを見て、ミレイユは苦笑した。

 

「つまり威嚇だとか戦意高揚に使う為の化粧だ。戦場に出る前に、戦士を彩る。だから戦化粧と呼ぶ」

「ああ、なるほど……。師匠は生粋の戦士ですもんね。でも勿体ないな、化粧したら絶対綺麗ですよ。モデルにだってなれるかも」

「あら、アタシ達にはそういう言葉かけてくれないの?」

 

 ユミルがシナを作ってアキラに歩み寄ろうとするのを見て、アキラは咄嗟にミレイユの後ろに隠れた。

 

「いえ、別に。そういうつもりで言った訳じゃないので……」

「そういう時は、嘘でも言葉を掛けるものよ。……まったく、駄目な子ねぇ」

 

 呆れを存分に含んだ溜め息を吐いて、ユミルは両手を腰に当てた。そして周囲をぐるりと見渡す。

 

「ま、なかなか面白いけど、今は別にいいかしらね。色を使って楽しむのは、もっと余裕が出てからでいいもの」

「よく理解してくれているようで何よりだ。レストランのあるフロアは、上の方の階だろう。一階ずつ上がりながら、少し各フロアを覗いてみよう」

 

 ミレイユが促してエスカレーターのある方へと進む。

 そちらへまたゾロゾロと引き連れて、目的の前で止まり背後に振り返る。他の客もエスカレーターに順次乗っていくのを目で追っているのを確認すると、先に行くよう促す。

 ルチアがエスカレーターが迫り出して来る部分を、まるで悍ましいものでも見るように覗き込みながら言った。

 

「これ、本当に乗るんですか……」

「怖いものじゃないぞ」

「それは分かってますよ。他の人も乗ってますし……、でも慣れもいると思うんですよね」

「あら、じゃあまず慣れてるっぽいアキラに行って貰えばいいじゃない。それならアンタも安心でしょ」

 

 ルチアは眉に皺を寄せてユミルとアキラを見比べ、そしてもう一度エスカレーターに顔を向ける。再び振り返って見せた顔には、眉の皺が更に深く刻まれていた。

 ミレイユはその眉を揉んで伸ばしてやりながら、その細い肩を掴む。

 

「言い合ってる場合か。いいから行くぞ」

「えっ、あ!? ちょっとミレイさん、まだ心の準備が――!?」

「いらないから。ほら、飛び乗れ」

 

 促しながら足を伸ばし、エスカレーターの一段に乗って見せて、ルチアにも同じようにさせようとした。しかしルチアは足は乗せたものの、もう片方の足を残したままになっている。

 当然、エスカレーターは乗せた足を容赦なく上へ持ち上げて行くので、ルチアの足はどんどん開かれていく事になる。

 

「あ、ああぁ!? 足が持ってかれます!」

「当たり前だろ、ほら」

 

 ミレイユが強めに手を引っ張り、エスカレーターに無理矢理乗せると、心底安堵したような顔でミレイユに抱きつく。

 一定の速度で昇っていく中で、下からユミルの爆笑する声が聞こえた。

 それを恨めしそうにルチアは見つめる。

 

「ひどいです……。まるで悪魔のアギトですよ。そうです、これは悪魔のアギトと名付けましょう」

「エスカレーターだ、エスカレーター。もう名前は決まってる」

 

 言いながら二階へ辿り着こうとしたところで、そうだ、とミレイユは声を上げた。

 昇りが終わって平行に動くのが見えてくると、それを指差して注意を促す。

 

「上手いこと飛び移らないと、そのまま足を飲み込まれるからな」

「ちょっと、やっぱり悪魔のアギトじゃないですか! なんでそんな危険物に乗せるんです!?」

「……楽だから、かな」

「楽の為なら命も惜しくないとでも!? この世界やっぱり可笑しいですよ!」

 

 やっぱりとは聞き捨てならないが、ルチアなりにこの世界は思う所があったらしい。喚きながらも迫ってくる終わりに、ルチアは身を固くした。ミレイユの腕を掴んで離れず、その掴む力が増していく。

 

 次々と階段が飲み込まれていく様を、顔を青くしながら見つめている。ミレイユが一歩先じて飛び移って見せると、同じようにひょうと飛び移って安堵した息を漏らした。

 

 ルチアは降りたエスカレーターを気まずい調子で見つめる。

 下から迫り上がってくるユミルの顔が見えてきた。そこには嫌らしいニヤニヤとした笑みが浮かんでいた。

 



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楽しい遊び場 その5

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「面白い光景だったわねぇ」

「うるさいですよ。いいじゃないですか、別に」

 

 ルチアが拗ねたように口先を尖らせ外を向く。その表情と態度に気を良くしたユミルは、最初から散漫だった足元への注意を怠った。そして、それ故に悲劇が生まれた。

 ユミルはエスカレーターの下り口に爪先を引っ掛け、盛大に前のめりにすっ転ぶ。

 

「よっし、さすが悪魔のアギト!」

 

 ルチアが喜色を満面に浮かべて、両手を上に突き上げる。

 しかしユミルも然したるもので、頭から落ちそうになるところを片手で受け止めた。一瞬の均衡の後、そのまま上手に慣性を移動させ、くるりと回転して足から着地する。

 

 そのまま平然とした顔でミレイユの傍までやってくると、腕を組んで続いてやってくるアキラ達を待つ構えを見せた。

 

「いや、なに平然とした顔してるんですか。コケましたよね? いまコケてましたよね?」

「……は? 何が? 言ってる意味が全然分かんない」

「下手な誤魔化しは通じませんよ! しっかり見てましたからね!」

「いやぁ、分からないわねぇ。全っ然、言ってる意味分かんないわぁ」

「それが下手だって言ってるんですよ!」

 

 ミレイユの横でぎゃあぎゃあと言い合いを始めた二人を放って置いて、やけに来るのが遅い二人を待つ。てっきりユミルのすぐ後ろに二人が着いてくると思っていたのだが、何かあったのだろうか。

 

 そう思ったのも束の間、すぐにアヴェリンの頭が見えてくる。両手をサイドにあるゴムの手摺り部分に乗せて、余裕の表情を覗かせている。

 何事もなかったか、と思ったのもその一瞬で、昇り部分が終わるや否や、その足元が妙な事に気がついた。

 

「え、あれ……」

「足、着いてなくない?」

 

 そう、アヴェリンは両手で体重を支え、足をエスカレーターに乗せていなかったのだ。短い時間とはいえ、平行棒のように手摺りを使って微動だにして見せないのは感心するが、エスカレーターとはそういう乗り物ではない。

 

 そしてゴムベルトの終わり際はその階段と同様、ずっと掴んでもいられない。

 どうするつもりかと伺っている間に、肩を沈めて身体が少し屈めると、体重を感じさせないふわりとした動きで下り口より少し離れた場所に着地した。

 

 肩と腕の力だけで、足を使わずエスカレーターを乗り切ったのだ。力の掛け方も絶妙で、エスカレーターに余計な圧力が掛かっていない。

 力任せに同じことを行えば、アヴェリンの膂力からして破壊してしまっていただろう。

 

 ある意味で感心していると、その更に下から気まずい顔をしたアキラがやって来る。こちらは当然慣れたもので、何の造作もなく、何の捻りもなく、ごく普通に降りてくる。

 

「ていうか、今の何ですか。絶対ズルいですよ」

「何がだ。不正とでも言うつもりか? 動く階段の乗り方など不調法だったものでな」

「いや、不調法とかそういうレベルじゃないでしょ。明らかに足着けるの怖がってたじゃないの!」

 

 ユミルが唾を飛ばして指摘すると、アヴェリンは不快に眉を顰めて見下すように鼻を鳴らした。

 

「私が怖がる? 馬鹿を言うな、私はなにものも恐れない」

「はぁぁあ? じゃあ悪魔のアギトに足を着けて立ち向かって下さいよ!」

 

 次いでルチアが、次々と階段を飲み込んでいくエスカレーターの下り口を、何度も指差しながら言う。だが、そのルチアが使った呼び名に、敏感に反応したのはユミルだった。

 

「え、ちょっと、何その物騒な名前。これ、そんな名前だったの?」

「降り方を間違えると、足持ってかれるらしいですよ……」

「嘘でしょ!?」

 

 ユミルは慌てた様子でミレイユに向き直る。

 どう答えたものか迷ったが、何か面白い勘違いをしているようなので、敢えて訂正せずに頷いてやる。

 途端にユミルは青い顔してエスカレーターを見つめ、アヴェリンは得意顔になって髪を掻き上げた。

 

「ならば、私の乗り方が最も正しい事にならないか。こんな事で足を失うなど、馬鹿のする事だ」

「楽をする為に足を失うとか、意味分からないですしねぇ……」

「こっちの世界の住人は、ホント馬鹿ね」

 

 それぞれが可笑しな結論に達しつつあるところで、最後にユミルが吐き捨てるように言った。

 そこに恐る恐るという風に、アキラが横から声を掛けてきた。

 

「あの、いいんですか、あのまま誤解させたままで……。ひどい思い違いをしていますけど」

「もうしばらく、ああいう馬鹿やってる姿を見ていたい」

 

 表情を一切変えずに言うその無慈悲な返答に、アキラは口元をヒクつかせる。

 彼の考えは何となく理解できる。何かあったら、それを自分のせいにされると思っている顔だ。彼女たちはミレイユに強いことを言えなくとも、アキラになら幾らでも理不尽になれる。

 そして、その考えは正解だった。

 

「二階は紳士服売り場がメインのようだな。他にも時計など身を着飾る物あるようだが、ここのフロアは通り過ぎてもいいだろう。このまま上の階に行く」

 

 すぐ傍にある案内板を指差し説明する。それぞれから同意する首肯が返ってきて、更にエスカレーターに乗ることになった。

 ミレイユが先頭になって乗り、続く者たちを階上で待つことにした。

 

「さて……」

 

 そそくさと一人で降りて、皆を待つ。通行の邪魔にならないようにしつつ、正面付近で待ち構えた。

 すると、アヴェリンを先頭にして、ルチア、ユミルの順にエスカレーターを昇ってくる。

 

 総じて全員、真顔なのが可笑しかった。

 手摺りのゴムベルトへ突っ張るように両腕を張り、足を階段に着けずに昇ってくる。

 まるで微動だにしないが、動くことが不調法だとでも思っているかのような有様で、ミレイユは吹き出すのを堪えるのに大変な労力を使う事になった。

 

 帽子のツバを下げ、体ごと顔を背けて大きく息を吐く。

 吐いた息が震えて、口元がだらし無く歪みそうになる。油断すると、このまま大声を上げて笑ってしまいそうだった。

 これからは見ないようにしようと心に誓いながら、あくまで顔を下に向けて帽子で隠したまま、皆を迎える。

 

「三階は何だったかな……」

「アンタ、何で声、震えてるの?」

 

 案内板に目をやったミレイユに、いつの間にか降りていたユミルが横から覗き込んでくる。

 それを無視して案内板を無心で見つめた。内容は頭に入ってこない。ただひたすら笑いに繋がらないよう、視線を一つに固定して見つめる事に集中した。

 

「まぁ、いいけど。……ほら、あれ」

 

 ユミルの淡白な台詞と共に指を向けられるままに顔を動かすと、そこには両腕を突っ張る姿勢のまま、真顔で足をクロスさせて、こちらを見つめるルチアが居た。

 

「――ぶふぉッ!」

 

 ミレイユはついに吹き出して、声を出して笑い出した。

 そんなミレイユを横から小突きながら、ユミルが恨みがましい声で言う。

 

「アキラが全部吐いたわよ。安全装置とやらが働いて、足を飲み込んだりしないそうじゃない。よくもオモチャにしてくれたわね」

「何が悪魔のアギトですか、馬鹿らしい」

 

 それを言い出したのはルチアの筈だが、笑い声を抑えようと必死なミレイユに弁解できる余裕はない。ルチアまで小突くのに参加しだして、恨み声を横から囁く。

 

「これはもう、ちょっとやそっとじゃ許されませんからね」

「事あるごとに、エスカレーターに乗るポーズ見せるわよ」

「分かった……! 分かったから……っ!」

 

 笑いを堪らえようと必死なミレイユに、その両脇から小突く二人。

 アヴェリンは複雑そうにその様子を見ていたが、結局止めるような事はしなかった。むしろ、楽しそうに笑いを堪えるミレイユに安堵するような顔を見せる。

 助けを求めようと手を伸ばして、しかしそれをユミルに妨害された。何が何でも、という程ではなかったので成すがままにされてしまう。

 

 そこから数歩離れたところでは、アキラが他人の振りして商品を見ている振りをしていた。ミレイユ達の様子を遠巻きに見ている客たちに、同じ仲間だと思われたくなかったから、というのは明白だった。

 



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楽しい遊び場 その6

 たっぷりと一生分は笑った気分で、ミレイユは大きく溜め息をついた。

 腹筋を擦りながら帽子のツバを下げ、改めて三階の案内板に向き直る。

 他の二人も流石に溜飲を下げたようで、大人しくミレイユの後ろに付き従っていた。

 三階は家電製品をメインに取り扱っているようで、既にフロアの奥から眩い光が放たれているのが見て取れる。ここから見える範囲では、冷蔵庫やエアコンなどが壁際に並んでいるのが確認でき、箱庭に持ち込んでも意味のない商品ばかりだ。

 

 ここも見送っていいかと思って背後を振り返ってみると、そこにルチアとユミルの姿がない。

 簡単に左右へ視線を巡らせても見つからなかったので、手近にいたアヴェリンに聞いてみると、困ったような表情で返答があった。

 

「……二人はどこに行った?」

「あそこに」

 

 アヴェリンの指し示した方向には、柱の陰になって見え辛かったものの、二人の後ろ姿が確認できる。店先にズラリと並んだ商品を熱心に見つめては、互いに意見を出し合っている。

 その商品が何か目に入って、ミレイユは頭が痛くなるような思いがした。

 二人がしている表情の具合からして、あの場から引き離すのは簡単に行きそうもない。

 

 かといってそのまま放置していく訳にもいかず、ミレイユは渋々二人の元へ向かう。

 二人の後ろに立つと、その会話が僅かに聞こえてくる。既に二人の中では購入する事が決定していて、後はどのデザインにするかというところまで来ているようだ。

 

「やっぱり色は暗色系がいいと思うんですよ」

「分かるけどねぇ。でも目立つ色の方が、外で使うとき見栄えが良くない?」

「……何をしてるんだ?」

 

 後ろから声を掛けると、振り向いたルチアが満面の笑みを浮かべる。商品の一つを手に取って、掲げるようにミレイユに見せてきた。

 

「これですよ、私達にも必要ですよね!」

 

 ルチアが見せて来たのはスマホだった。

 デザインに多少の違いはあっても見分けの付かないミレイユには、それが何の機種なのかまで分からないが、しかしそれが必要ない事は分かる。

 ミレイユはルチアからスマホを取り上げると、元の場所に戻した。

 

「これは必要ない。別のフロアに移動するぞ」

「何でですか! 絶対必要ですって! だって欲しいですもん!」

「欲しいは理由にならん。子供かお前は」

「でも便利でしょ、これ。アキラの部屋にあったタブ……なんちゃらよりも、ずっと小型なのに同じこと出来るんだから」

「便利なのは分かってる。別に意地悪で言ってる訳じゃないんだよ」

 

 ミレイユは難しい顔をして顔を背けた。

 購入するだけなら出来るだろうが、外でも使えるようにするとなると携帯会社との契約が必要になってくる。それはつまり身分証明証が必要になるということで、ミレイユ達に用意するのは不可能だ。

 

 アキラの部屋の中だけなら問題なく使えるだろうが、普段の憩いの場が箱庭の中である事を考えると、やはり無用の長物と化す。かといって、アキラの部屋を溜まり場にするのは気が引ける。

 

 学校に行って部屋にいない間なら好きにしていい、と本人が言ったにしても、スマホには時間を溶かす魔力がある。

 一度ソシャゲの存在を知り――知らずに済むことは不可能だろうが――それで遊ぶ事に慣れると、アキラがいる時間帯であろうと部屋の中に居座る光景が容易に想像できる。

 

 アキラとて年頃の男性なのだ。

 彼女らのような、ミレイユさえ時として見惚れてしまうような女性が傍に居て、心休まる時間が過ごせるとは思えない。ここは心を鬼にして反対しなければならない。

 

「それは部屋の外では使えないからだ。使えるようにする手続きが行えない。部屋の中で使うだけに留めても、別に無料(タダ)で使える訳でもないしな」

「でもですよ、部屋の中だけでも使えるなら有用ではないですか。これは調べたいと思えば何でも出てくる、叡智の箱ですよ」

「知恵は時に扱いに気を使わねば牙を剥く。知恵とは自らを高みへ押し上げるが、高みにあればこそ足を踏み外し落ちるものだ。低く平坦な場所にいれば、そんな目に遭わずに済むというのに」

「でも馬鹿なままではいられないでしょう? それは性分が許さないわ。見ること知ること感じることから逃げることは出来ないの。アンタだって、それは良く知っているでしょ?」

 

 ユミルもスマホを手に持って弄りながら、ルチアの助力に入った。

 こうなると話が長くなる。説き伏せるのは容易ではなく、そして二人はまず諦める姿勢を見せていない。これが菓子や玩具程度なら、多少渋る程度で許容したろうが、何しろ要求はエスカレートするだろうと予測が立つ。

 かといって、頭ごなしに拒否すれば禍根を残すだろう。

 更に難しい顔で押し黙ったミレイユに、畳み掛けるようにユミルが口を出した。

 

「エスカレーターの件、挽回するならココしかないと思うけど」

「む……」

「私の方が絶対欲しいですし。このままだと、アキラの部屋にある方を奪うことになりますよ」

 

 急に自分へ飛び火したと見て、遠くから見守ることをやめたアキラが、慌てた様子で三人の中に入ってきた。

 

「いや、ちょっと、何で急にそういう事になるんですか。やめて下さいよ……!」

「困るのなら、アキラ……お前が説得しろ」

「えぇ!? ミレイユ様がどうにかして下さいよ、なんで僕が!」

「スマホを手に入れたら、どうせお前の部屋のどれかを占領される事になるからだ」

「なぜ!?」

「電気も電波も箱庭には無いもの、届かないものだからだ。使う事に慣れれば、早晩居着かれることになる」

 

 それだけ言って、ミレイユは踵を返してアヴェリンの隣に立つ。どうせ言う事を聞かないと匙を投げた形だが、その結果一番の被害を被るのはアキラだ。それを防ぎたいなら、アキラが自分で説得する他ない。

 

「……よろしいので?」

「よろしくはない。よろしくはないが、どうせさっきの件で私に二人の説得は無理だし、アキラに期待しよう。貧乏くじを引くのはアキラとて嫌な筈だ。必死になってどうにか言い包めるだろう」

「出来るとは思えませんが……」

「それは私にも分かってる。だが結果としてアイツの部屋を占領されるなら、その過程から関わっている方がいい」

「敢えて言わせていただきますが……ひどい詭弁です」

「自覚してる」

 

 ミレイユは壁際によって背を預け、腕を組んで三人の様子を見守ることにした。見守るというよりは完全に傍観なのだが、アヴェリンも気の毒そうな顔をして追従してくる。

 

 店員すら遠巻きにする三人の言い合いを、白熱するまま放置した事は申し訳なく思う。

 だが、こういう時の為に用意したのがアキラなのだ。

 今こそ役立つ時だと念じながら、ミレイユは最終的な結論がどうなるか、半ば予想しながら見つめていた。

 

 

 

 遠くに置いてある家電を見るともなく見て、まだ話し合いは終わらないのかと、他人事のように思っていたら、どうやら漸く話はついたようだ。

 二人が和気藹々とした口調で近付いてくるのを感じて、ミレイユは顔を向ける。それぞれが手に何かが入った袋を持ち、満足げな表情をしている二人がいた。

 

 アキラは当然というかやはりというか、げんなりとした表情で後を着いてきていた。

 ミレイユは二人が下げている、メーカーのロゴがついた紙袋を指差して尋ねる。

 

「それ、どうしたんだ」

「買いました!」

「買った……、何を?」

「これよ、これ!」

 

 ユミルが自慢げに袋から取り出した箱には、表面に綺羅びやかな色彩で、未来感の詰まったスマホが印刷されていた。

 ミレイユは愕然とした気持ちでそれを見つめる。

 

「……もう、スマホを買ったのか?」

「いやこれ、結構いいものらしいんですよ。なんと景色を写し取れる機能まである上に、しかも動きまで鮮明に……」

「それは標準装備で、どれにでも付いているものなんだよ」

 

 得意顔で解説しようとしたルチアに、ミレイユが訂正を入れる。尚も箱を掲げて満面の笑みを浮かべる様が憎らしい。

 それにそもそも、アキラは説得が無理にしても、一足飛びに購入させるとはどういう事か。

 

 ミレイユは恨みがましい目でアキラを見つめ、指先をちょいちょいと動かして近くへ呼んだ。アキラも何を言われるのか予想がつくのだろう、嫌そうな顔を隠そうともせず、しかし素直に近付いてくる。

 

「なぁ、アキラ。どうして、ああなった?」

「いえ、それがどうにも説得は難しく……」

「それは分かってる。どうせ押し切られるとは思っていたしな。……だが、それでどうして一足飛びに購入なんてところまで行ってるのかと聞いているんだ」

 

 現金をルチアから取り上げていれば良かったか。今更ながら考えたが、それも後の祭り。それよりもアキラの私生活が、彼女らに侵蝕されてしまう方が憐れに思う。

 

「そんな簡単に諦めていいのか。――いや、もう時既に遅しだが、部屋を奪われて我が物顔で過ごされるんだぞ?」

「いえ、そこのところは大丈夫らしいです」

「……何故そう言える?」

「何でも、ミレイユ様の協力があれば解決する問題らしくて」

 

 そんな話は一切聞いていないし、何を想定しているかも不明だった。

 ミレイユは嫌な予感がしながら、しかし聞かない訳にもいかず、とりあえずアキラを下がらせた。そして二人に目を合わせ、近づくように手招きする。

 二人は互いに箱を見せあいながら、笑みを浮かべて近付いてくる。こちらが口を開く前に、ルチアが口を開いた。

 

「ほら、見て下さい、これ。一世代前の品だって言ってたんですけど、去年の秋のモデルなんですって。去年の秋に作られたものが、もう古いもの扱いするなんて、ちょっと可笑しいですよね」

「時間の進み方が違うのかしらねぇ。もうちょっと悠長でいいと思うのよ。でもお陰で、なんと二人合わせて五万程度よ」

「……ほぅ」

「ね? 金貨五枚でしょ? 叡智の箱を使えるなら、その倍でも足りないくらいだわ。百倍でも良かったかも。これぞ賢い買い物ってものよねぇ。即決で買って、まさに正解って感じ」

「それは何よりだったな」

「でしょ?」

 

 ミレイユからの冷静な返答に、二人は気を良くして饒舌に語りだす。

 実際、ミレイユは怒ってはいなかった。値段を聞いた時も高いとは思わなかった。今後の生活における娯楽を持つのは推奨していた事だし、のめり込む事は懸念材料だが、そこは良く言い含めれば聞かない二人ではない。

 

 ただ、生活費を大きく削られた事にこそ怒りを覚えていた。今後の収入を、まだ考えて行かねばならない時だからこそ、支出についてはよく考えねばならない。

 その事はユミルもよく理解していると思っていた。化粧品売り場での発言がそれを裏付けている。だから、買わされる事になるにしても、今この場で買うとは言わないという思いが根底にあった。

 

「しかし五万か。決して安い買い物じゃないが」

「そこはご安心を。私がまた細工品を作りますよ。そしたらまた同額近い稼ぎを出せる訳ですから……そうだ、その時はまたミレイさんにも助言を貰って――」

「同じ手段は使えないから、それは駄目だ」

 

 ミレイユがきっぱりと否定すると、ルチアは固まって隣のユミルを見た。ユミルはそれを想定していたようで、納得した顔つきで頷きつつも、口元には苦い笑みを浮かべている。

 

「え、やっぱり、あれですか……。顔を知られたからですか」

「それも理由の一つに挙げてもいいが、一番の理由はあの場所はもう見張られているからだ。敵の縄張りに、罠があるかも知れないと窺いながら出入りするのは得策じゃない」

「まぁ、そうなるわよねぇ。前回は便宜を図ったのだから、今度はこちらの願いを、と言われないとも限らないし」

「違法取り引きをしたのはあちらも同じだから、何かあれば道連れだろうが……。敵の――今は暫定的に敵としておくが、敵の出方が分かるまで、あそこからは遠ざかった方がいい」

 

 ミレイユが神妙に持論を展開すると、ユミルは同意を持って頷く。

 二人が納得ずくであると見るや、ルチアは明らかに狼狽した様子で手元を見つめた。

 

「えっ、じゃあ、これからまた収入の目処を立てるところから考えないといけないんですか!? これ買っちゃいましたけど!?」

「それ単品で見ると、別に高い買い物じゃないのは事実なんだろう。安いものを探せば、それの半額以下で見つかるとも思うが」

「そ、そうなんですか!? ユミルさん、貴女ちょっと! 今すぐ買うなんて言うから!」

「だって欲しかったし……。ルチアも欲しがってたし」

 

 目を逸らして紙袋にスマホの入った箱を袋にしまう。奪われないよう、それを後ろ手に隠した。

 

「貴女がまた細工品を作ればいいって言うから買ったんですよ! それが出来ないって知ってたんですね……!?」

「まぁ、予想では……でも、あくまで予想だしね、あくまで」

「それ、何割の予想だったんですか」

「……九割かしらね。あ、いや、六割。だいたい六割で」

「遅いってんですよ。――九割!? 私は八割の負けに賭けさせられたんですか!?」

 

 ルチアが胸ぐらを掴む勢いで言い募るが、ユミルはあくまで顔を逸して知らぬふりを決め込む。

 ミレイユはそれを制して二人の間に割って入った。

 

「それはいい。今後のやりくりでどうにか出来るし、どうにかする。それより、私の協力でどうこうとアキラに言ったらしいな。どういう意味だ」

「ああ、いや、あっちは完全な詭弁。この場をどうにか乗り切れば、その後はどうにでもなるし」

「……アイツも不憫だな」

 

 つまり完全に口から出任せで言った事だったのか、と納得する。

 まぁ、そうだろう。ミレイユに任せようというのに一つも相談がないとなると、それはミレイユのみならずアヴェリンの怒りも買う。下手をすれば戦闘に発展するような事に、この二人が結託してやるとは思えなかった。

 

「単に利用するんじゃなくて、受け取るならお前たちからも何か与えろ。それは金銭でもいいし、戦闘に役立つ何かでもいい。物品でも知識でも、過剰にならない相応の値を付けた何かをな」

「んー……、まぁ、そうね。それって最近与えてる水薬を数に入れてもいいの?」

「そうだな。それも含んでいいだろう。これから長く付き合う間柄になるかは不明だが、貸しが多くなることだけ避ければそれでいい」

「分かりました、そういうことなら。魔物の知識について伝授っていう話は最初からありましたけど、でもその辺って値に変換するの難しいですよね」

 

 斜め上に視線を向けて首を傾げるルチアに、ミレイユは同意する。

 

「それは確かにな。さじ加減は任せる。お前自身の誇りに反しない形で上手くやれ」

「なかなか難しいこと言いますね……」

 

 悩ましい顔で考え込んでしまったルチアを連れて、アキラとアヴェリンの待つ元へ戻る。この場で使った時間も、なかなか大きいものになってしまった。

 既に昼は過ぎ、腹の空き具合も大きくなってきた。

 ミレイユは案内板を受けから順に眺め、レストランのフロアが六階にあることを確認すると、皆を引き連れエスカレーターに向かい、その直前で振り向いた。

 

「これから食事にする。上の方にあるようだから行ってみよう。食事処といっても、店の数がそこそこあるようだ」

「それは楽しみです」

 

 アヴェリンがにこやかに頷いて、次いでエスカレーターに顔を向けて一筋の汗を流す。ミレイユの隣に立って先頭付近にいたものだから、まずアヴェリンを乗せようと考えたのだが、その足が僅かに震えている。

 表情自体は冷静そのものに見える事には感心させられるが、足先をそろりと向けたところで、ミレイユは冷徹な声で指摘した。

 

「普通に乗れよ」

「分かっております」

 

 気丈に振る舞いながら足を乗せ、不自然なまでに流麗な動きで乗り込み、ほっと息を吐くと自慢げな表情で振り返って来た。ミレイユは帽子のツバを少し上げてアヴェリンと視線を合わせ、少しの笑みを見せて被り直す。

 それから順次エスカレーターへと乗り込み、目的の階へと向かった。

 



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新たな騒動 その1

こちら、二話連続更新の二話目になります。
お読みになる際、ご注意下さい。


 フロアに降り立って感じたのは、様々な調味料が合わさった不思議な香りだった。香辛料をふんだんに含んだ香ばしさの中に、油を大量に使った匂いが混じり、更にそこへ甘い香りも追加される。

 良い匂いと感じた瞬間、次々と違う香りが鼻孔を突き抜け、結果どういう反応をしていいか迷うという有様だった。

 

 エスカレーターの降り口からすぐ目につく場所には、お洒落な喫茶店があった。清潔感の中にモダンを感じさせる外観で、外から伺う範囲では暗めの照明が居心地の良さを演出している。

 

 まず最初に目につく店舗だけあって、客の入りも良さそうだった。

 他に目を移して見ると、ファミレスらしき店の他に、ラーメン店や蕎麦屋、アイスクリームの専門店まである。統一感のない店舗がひしめき合う様は、ここがレストラン・フロアである事を如実に告げていた。

 

「色んな店があるのねぇ」

「うん、デパートのフロア一つ全てが食事処となると、このようになるのだろうな。……それに、なかなか盛況のようだ」

 

 休日の昼間、デパート内で買い物を済ませ、ここで食事も取ろうと考える客は多い。ミレイユ達もその一人なのだから、人混みの多さに文句は言えない。

 ルチアも周囲の店を興味深そうに見つめていて、アヴェリンは人混みの多さに警戒心を強めていた。ミレイユの傍にピタリと寄り添い、決して不用意に誰かを近付けさせまいと目を光らせている。

 

 その中で、ルチアが一際強く興味を示す物があった。

 店の入口横、ガラスで隔てられた棚の上に、様々な種類の料理が置かれている。出来上がったばかりの物をそのままに、時を固めて展示しているかに見えて、ルチアはそれに思案顔で近付いていく。

 

「何ですか、これ。一体どうなってるんでしょう? 美味しそうに見えるのが、逆に不気味です」

「ん? ああ……、食品ディスプレイか」

 

 ルチアが指さしているのは、食品ディスプレイの中でも特に目を引くスパゲティだった。他の商品は単純に皿の上に出来上がりが盛られているだけだが、スパゲティだけは少し違う。

 フォークに麺を絡めて持ち上げ、それを空中で固定している――しているように見える。またスパゲティのソースが絡まり、油分が麺の表面を覆っている様は、湯気が立っていないのが不思議に見える程だった。

 

「このガラスの向こうだけ、時が止まっているんですか? 無駄に凄い技術を持った術者がいるんですね」

 

 感心して唸るルチアに、ミレイユだけでなく周囲にいた客までも頬を緩めた。

 おそらく外国から来た若い観光客が、そのディプレイの出来栄えに素直に感心していると見えたのだろう。また、ルチアは実年齢と違い若く見える。それが拍車をかけていた。

 

 振り返って周囲から生暖かい視線を向けられていたルチアはたじろぎ、そそくそさとミレイユの元に帰ってくる。

 そこにミレイユがつい優しくなってしまう声音で、帽子のツバを下ろしながら尋ねた。

 

「じゃあ、今日はあそこで食事にしようか」

「いえ、別に。あれが気になったのは食べたいからではなく、純粋に疑問を解消するための観察なのであって、特別食欲に身を任せた行動という訳ではなくてですね――」

「分かってる。お前があれに興味を持ったのは、単にガラスの向こうの技術についてということは」

「悩んでいると決められないですし、ぱぱっと決めて入るのがいいですよ」

 

 唐突に饒舌に語り始めたルチアと、それを宥めようとするミレイユ。長引いてしまうと席が埋まって更に食事が遅くなる。

 だからアキラが割って入って指摘したのだが、ユミルもアヴェリンもそれには否定的だった。

 

「でも、他にも色々お店があるじゃない。次にいつ来れるか分からないんだから、一番興味のある物を食べたいわ」

「それは別にどうでもいいが、席があるかも問題だろう。この人数が座れる場所が確保できるか、ミレイ様の身を守るに適した場所であるか、そこを確認するまで決める訳にはいかない」

 

 アヴェリンの発言にユミルは呆れた視線を向けて、大仰に溜め息を吐いてみせた。

 対してアヴェリンも眉をぴくりと動かし、ユミルに身体を向けて睨み付ける。二人が向かい合って対峙する事になり、それをはじまりの合図と見て、ユミルは指を突きつけた。

 

「だから、それはいらないってば。ここで身の危険まで発展するような敵なんて出ないから」

「そうとは限らんと、先ほど証明されたばかりだろうが」

「へぇ、チンピラごときにどうにかされてしまう危険があるって?」

「馬鹿を言うな。あれでこちらをどうにか出来ると思う奴がいるなら、それは単なる馬鹿よりたちが悪い」

「ああ、そう、じゃあ問題ないわね」

「ない訳があるか。チンピラはどうでもいいが、監視されているというのは事実じゃないのか。それなのに隙をわざと見せてやる必要があるのか? 奴らは絶対に手を出して来ないか?」

「来ないでしょうよ。するつもりがあるなら、もうとっくにやってる」

「決めつけられるものか。増援を待っているだけかもしれん。急なことで数がいないから戦闘を見送っただけの可能性もある。油断は許されない」

 

 一理あると思ったのか、ユミルはほんの少し虚を突かれたような顔をした。

 

「そうだとしてもね、アンタのは過剰だって言ってるの。アンタ一人しかいない状況ならまだしも、アタシ達全員揃ってる状態なら、どんな問題にも対処できるでしょ」

「それが油断だと言うんだ。対処できるからと、楽に問題を起こさせる訳にはいかない。機会があると判断すれば、敵はそれに向けて作戦を立てるだろう」

 

 白熱してくる口論を前に、ルチアは大いに眉を顰めた。

 ミレイユも内心は同様で、同じ議論を戦わせるにしても時と場所を考えて欲しいというのが本音だった。その証拠に、道行く人が唐突に強い口調で言い合いを始めた美女二人に注目を向けている。

 ルチアは顰めた眉をそのままに、横に立っていたアキラへ呟くように言った。

 

「あれ早いところどうにかしないと、終わる頃には私、新しい趣味でも見つけてますよ」

「……そうなんですか?」

「皮肉に決まってるでしょう。あれを待ってたら、時間が幾らあっても足りないって言ってるんです」

「う、いや……まぁ、そうかもしれませんけど。僕にあそこ割って入れなんて言いませんよね?」

「言って欲しいんですか?」

「どうせ僕があの二人に割って入っても、転ばされて終わりですよ。そんな無駄をさせるなら、素直にミレイユ様に頼んで下さいよ」

 

 ルチアはその当人を見て肩を竦める。

 

「ミレイユさんは、二人のああいう言い合いを見てるの好きなんですよ。何が楽しいのか私には分かりませんけど、急用がある時以外、止める事はまずないです」

「昼食の席が埋まるっていうのは、十分急用な気がするんですけどね……」

 

 アキラに視線を向けられたところで、ミレイユは自ら動こうとはしない。それどころか、組んだ腕から指先だけ上げて、指示するように二人へ動かす。

 アキラは明らかに怯んだ様子で見つめると、渋々首を縦に振って二人に近づく。

 

 すみません、と声を掛けたところで、アキラは動きを止める。二人の視線や気配に恐怖したという訳でもない。何しろ二人はアキラなど眼中にはなく、未だに言い合いを続けている。

 では何かと思っていると、不安げに顔を左右に向けて辺りを見渡し始めた。ミレイユの帽子に目を留めて、次いでユミルへと振り返ってその帽子を奪った。

 

「だからアンタは難しく――は? あ、ちょっと何するのよ!」

 

 口論を続ける二人を止めるのは不可能と思ったのか、ユミルから帽子を取る事で注意を別に向けようという作戦なのかと思えば、アキラはおもむろに帽子を深く被り、顎を引いて顔を隠す。

 何をしたいのか見守っていると、奪われた物を取り返そうと、ユミルはアキラの頭を上から押さえつけた。

 

「いや、あ、ちょっと待って下さい。ちょっとだけでいいんで……!」

 

 アキラの弁明はあまりに必死で、それが悪戯ではないとすぐに分かる。顔を隠して俯き、肩を窄めてミレイユの元に帰って来たかと思うと、肩を押してレストラン方面へと追いやろうとする。

 

 敢えて抵抗せずされるがままにレストランへと踏み入り、続く者たちは大丈夫かと後ろを見れば、呆気に取られながらもしっかり着いて来ている。

 

 中に入っても順番待ちではなかったようで、すぐに席の方に案内された。入ったのが大きな席面積を持つ、ファミレスだったから良かったのかもしれない。これが洒落た喫茶店だったりすると、こうは行かなかっただろう。

 

 席に案内され、どこに座るかをアヴェリンが仕切り出したところで、ユミルが後ろからアキラを小突いて帽子を奪い返した。

 そのまま指先で帽子を一回転させてから被ると、アキラに顔を近づけ凄みを利かせる。

 

「アンタね、これが屋内だから許したけど、もし外だったら容赦しなかったわよ」

「すみません……っ! こちらも緊急事態だったもので!」

「何があったんだ。別に戦意を持つ者は、あの場に居なかったが」

 

 アヴェリンがミレイユを奥の席へと恭しく誘導しながら、アキラに視線だけ向けて聞いた。

 

「それとも見られたらまずい相手でも居たのか」

「ええ、まぁ、はい……。そのとおりで」

 

 ルチアがミレイユの対面になる奥側に座り、行儀よく手を膝の上に乗せて周囲を見回すのを見ながら、アキラが続ける声を待つ。

 

「知り合いがいたようで……、いえ、確実ではなくて、似たのがいたというだけの話なのかもしれませんが、とにかく見られたくなかったので……」

「なんでよ?」

 

 ユミルがわざとらしく首を傾げながら、ルチアの横にアキラを座らせる。席位置に恣意的なものを感じつつ、結局力に押し負けるような形で従った。

 アヴェリンはそれについて本気で理解が及ばないらしく、不思議に思いながらミレイユの隣に一人分のスペースを開けて座り込む。

 その対面にユミルが座り、結果としてアキラを包囲するような形で席順が決まった。

 

「いや、もう、この状況で分かりませんか。こんなに華やかな女性たちに囲まれる自分の、身の置き場のなさと言いますか、知り合いに見られたら嫉妬で殺されると言いますか……」

「なんだ、それしきの事か……」

 

 アヴェリンは明らかに興味を失って、水を運んで来たウェイトレスに警戒を向けた。一つ一つ丁寧に水を置いていく、その一挙手一投足にすら注視している。

 

 誰しも興味を持たなかったアキラの言い分だったが、しかしミレイユにはアキラの言い分がよく理解できる。

 アキラもこの中に紛れていられるほど容姿に優れているという訳ではないが、可愛い見た目である事は変わりない。しかし男と知っている者からすれば、それを利用して近づいているようにも見えるだろう。

 

「そんな事で店を勝手に決めたというのか。最終的な決定権はミレイ様にあるのだぞ」

「でもまぁ、あそこで勝手に言い合いしてた貴女にも、そんなこと言って貰いたくないですけどね。食事処の前にいるのに、いつまでも場所を決めないって、ちょっとした悪夢ですよ」

 

 ルチアの言葉に窮したアヴェリンに、助け船を出すような形でミレイユが言う。

 

「だが結果として見れば、そう悪くない選択だろう。メニュー自体は豊富だから、何かしら好ましい物が見つかるだろう。……それに、甘味も用意されているしな」

「ほぅ……あ、いえ、勿論ミレイユに異存なければ、何の問題もないのですが」

 

 甘味と聞いて思わず声を出したアヴェリンが、慌てた調子で首肯する。それを横目で見つつ、口の端に笑みを浮かべながら端に設置してあったメニューを取った。

 合計で三つある大き目のメニューを、それぞれ広げて見せながら、自身もまたそれらを覗き込む。

 

「まぁ、とにかく今は、何を食べるか決めてしまおうじゃないか」

 



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新たな騒動 その2

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 広げたメニューを見た一同は、それぞれまずその写真に感動した表情を見せた。商品が最も美しく、かつ美味しそうに見えるよう、計算された角度で写された写真は、それに慣れていない面々からすると、まるでその場にあるような臨場感すらある。

 ルチアはそれを指でなぞって絵である事を確認する程で、ユミルはメニューを持ち上げて下に料理がないか見た程だ。

 

 これが見本であると分かると、次々とページを捲って好みに合うようなものを探していく。

 

「色んな物があるのねぇ。こんなに多種多様な料理、本当に用意出来るの?」

「一日の終り際ともなると、品薄になる料理も出てくると思うが、基本的に載ってるメニューは全て用意できる」

「凄いんですね……」

 

 ルチアもまたしみじみとした表情を隠さずメニューを見る。ページを捲ってパスタが見えて、その動きが止まる。

 幾つか種類があるのは見て分かるが、色合いの違いがどういう味の違いを生むかまでは写真からは分からない。難しい顔をして眉根を寄せてしまった。

 そもそも、パスタなる料理はあちら側にはなかった料理なので、その味も食感も想像できないのは仕方のない事だった。

 

「食品ディスプレイを見て気になっていたやつだな。それにするのか?」

「そうしてみようと思ったんですけど、以外にも種類が多くて困惑してしまって……」

 

 そこにアキラが興味本位で口を挟んだ。

 

「これってそんなに多いんですか?」

「味のバリエーションって奴は、そう簡単に増やせないものなんだよ」

「……そうなんですかね?」

「多くの調味料や香辛料をふんだんに使えるなら、そうだろう」

 

 それでアキラは納得する顔つきになると同時に、申し訳無さそうに肩を竦めた。

 

「そうですよね。調味料って現代では簡単に手に入っても、それって実は結構凄いことなんですよね」

「理解が早くて何よりだ。私達が活動していた大陸は、夏になっても雪が残る地方があるほど北国だった。香辛料の自国栽培はされておらず、王侯貴族が口にする貴重品だ。ケチャップのような調味料すら貴重だった」

「それは……なんとも、僕には想像も出来ません」

「それでいいと思う。豊な国にいるんだ、それを楽しめば良い」

 

 ミレイユの表情の見えない発言に、アキラは何とも言えず頷いて、自身も料理を何にするかメニューに視線を向ける。

 ミレイユは未だにメニューに向かって難しい顔をしているルチアに、助け舟を出した。

 

「一番大きな写真で載ってる、タラコスパにしてみたらどうだ。おそらく人気があるからそうしているのだろうし、私も個人的に好きな部類だ」

「では、そうしてみますか」

 

 ルチアは笑顔で頷いて、ついでにサラダも選んでいた。葉野菜とトマトがメインに、小エビが少々乗った値段も手頃なものだ。

 アヴェリンに視線を向けてみれば、やはりこちらも難しい顔をしてメニューを睨んでいる。

 何を選んだものか迷っているのはすぐ分かる。

 ミレイユはこちらにも助け舟を出そうとメニューをパラパラとめくり、一つの所で目を留めた。

 

 パンは彼女たちの主食として外せないものだ。ミレイユ自身もすっかりその食生活に慣れてしまって、口にしなければ気になる程だから、アヴェリンにしても同様だろう。

 そこでこれだと思ったのは、フレンチトーストだった。イタリアンジェラートをオプションで頼むことが出来、甘党の彼女としては満足のいく品だろう。

 これだけでは足りないので、肉も好む彼女の為にソーセージのグリルなどを選ぶ。それにコーンクリームのスープをつければ、まずまず満足してもらえるだろうと思った。

 それぞれを指し示しながらアヴェリンに問えば、満足した表情で頷きが返ってくる。

 

「大変、食欲をそそりますね。それでお願いします」

「うん。他にもプチフォッカを皆が摘めるよう、少し多めに頼もう。私はドリアとサラダにしようか。……ユミルは決まったか?」

 

 最初に数ページだけメニューを捲って、そうそうに目を離していたユミルに訊いてみれば、首肯と共に返事が返ってきた。

 

「ええ。私はステーキとワインね。銘柄だけ見ても分からないし、とりあえずグラスで頼んで少しずつ試してみようかしら」

「……昼からお酒ですか」

 

 アキラが虚を突かれたような顔をしたが、ユミルは表情は楽しげだった。

 

「ワインに昼も夜もないでしょ。飲める時に飲みたいだけ、飲めるだけ飲むものよ」

「え……そうなんですか? これも文化の違いってやつなんですか、ミレイユ様?」

「いいや、それはユミルの勝手な持論だ。……が、好きにさせるさ」

「……いいんですか」

 

 アキラの声が一段低くなる。酔っ払いを連れて歩く困難さを予期したのだろうが、ミレイユの返答はあっさりとしたものだ。

 

「構わんよ。コイツはどうせ酔わない、そういう体質だ」

「へぇ……」

 

 思わず呆けてユミルの顔を見返したら、悩みを全て吹き飛ばすかのようなウィンクを送った。ユミルはこういう表情が実によく似合う。

 

 それはともかくアキラのメニューは決まったのか窺えば、既に何にするか決まっていたようだ。メニューを閉じてまとめて、元あった場所に戻しては、手慣れた様子で呼び出しボタンを押していた。

 ここは流石に高校生、こういう場所に来るのも利用するのも慣れたものだ。どういったメニューがあるかも既に把握済みだったかもしれない。

 

 注文を取りに来た店員が、ツバの広い帽子を未だに被り続けるミレイユに怪訝な表情を見せたのも束の間。座る一同の美貌に充てられて怯むような一面はあったものの、恙無く注文も終わり、ドリンクバーを頼んだアキラにつられて、全員分も頼む。

 席を立って飲み物を取りに行くアキラに、設備に興味を惹かれ続けているルチア達が放って置く筈もない。

 

 ジューサーの前に立って、備え付けのコップにコーラを注ぐアキラを見て、ルチアも真似してジュースを注ぐ。選んだのはオレンジジュースで、ミレイユからは烏龍茶を申し付けられている。アヴェリンも同様で、コップを押し当てると出てくる飲料水に、二人は興味津々だった。

 特にルチアは中を分解できないかと言い出した程で、流石にアキラも黙っていられず力づくで引き離す羽目になった。

 

 席に戻ったルチア達は、それぞれの前にたっぷりと注いだ飲料を置き、自慢げな顔をして宣言する。

 

「これから飲み物が欲しければ私に言って下さいね。持ってきますから」

「そんなに気に入ったのか?」

「外から見ても分かる事はあると思うんですよ」

「……中を見ない限り、分かることには限りがあると思うが」

 

 器物を破損させない限り好きにさせよう、とミレイユはルチアの表情を見て決めた。

 他愛のない話をしながら待っていると、次々と料理が運ばれてくる。

 

「案外、時間かかったわね」

「あちらの食堂とは違う。既に出来ているスープを出して終わり、という訳じゃないからな」

「そんなに違うものなんですか? 味付けのバリエーションが無くても、他の料理が豊富とか、そういうのはあまりなかった感じですか?」

 

 何かとあちらの世界に興味を持つアキラは、こういう事に関する質問に遠慮がない。特別隠す事でもないので、配膳が終わるのを待ちながら簡潔に話した。

 

「食堂で提供される料理は、多くても三種類程度だ。それも昼ともなれば、どこも大抵一つと決まってる。だから食堂の数は多くあったし、客も好みの店を見つける遊び心もあった。そして、そこに通いつめるようになれば、それを指して『(つう)』と呼ぶ」

「へぇ……! それで店に詳しい客を、あなた通だね、とか言う訳ですか」

「そうだな。基本的に家庭料理を出すようなものだから、味も様々で値段も手頃だ。独り身なら、自分で作るより食堂で食べた方が安上がりになる。家が五軒並べば一つは食堂、なんて言われる程だった」

 

 アキラが目を輝かせて話を聞き、更に質問を重ねようとしたところで、全ての配膳が終了した。それを見て、備え付けてあったフォークなどを配っていく。

 

「さぁ、少し遅くなったが、食事にしよう」

 

 自身の前に並ぶ料理を見て、一同が目を輝かせる。

 ルチアはいざ食べようとしたものの、次々とフォークの隙間から麺が落ちていって憤慨した気配を見せた。ミレイユが苦笑しながらパスタを器用に巻いてやって、食べ方の説明をしてやる。

 よくよく考えてみれば、初見で上手く食べられる筈もない。そこに気が付かなかったミレイユが悪かった。

 上手くパスタを巻けるようになったルチアは、口に運んで驚きの表情と満面の笑みを浮かべる。

 

 満足した様を説明される事なく理解して、ミレイユも自分の料理に取り掛かった。

 



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新たな騒動 その3

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 それぞれの食欲は満たされ、ユミルが店のワインを一通り試し終わった時だった。

 テーブルの上に並ぶ料理もすっかり空となり、食後のコーヒーを頼もうとして、ふとメニューが目に入る。

 そういえば、まだ甘味を頼んでいなかった。

 

 ミレイユ自身は既に腹も膨れてコーヒーぐらいしか入れる気はないが、他の者もそうだとは限らない。

 不躾に強要とも取られないよう、ごくやんわりとした口調で他の面々に訊いてみた。

 

「食後にコーヒーを頼もうと思ったが、甘味を頼むのも良いと思う。誰か、何か頼みたいものはあるか?」

「んー、アタシはいいわ。気に入ったワインもなかったし、……この店は食事は美味しいけど、ワインだけは褒められないわね」

「まぁ、ファミレスとはそういう物だ。手頃な値段で提供できるワインはあっても、お前が認めるワインは望めない」

 

 ミレイユは苦笑して、僅かながらのフォローをした。

 ユミルは鼻を鳴らして肩を竦め、最後の一口を飲み干す。

 

「……ま、いいわ。アタシはその中でも、少しでもマシに感じたやつを頼むから」

「うん。他の者はどうする?」

「僕はドリンクバーから適当に……。甘いものは別にいいです」

 

 ミレイユは首肯して、話を振ってから挙動不審になったアヴェリンへ目を移した。

 フレンチトーストは実にお気に召したようで、一口食べた瞬間から虜になったようだ。食べ終わった時には実に名残惜しい顔をしていたので、機会があればまた食べさせてやりたいと思う。

 今は甘味と聞いてから視線だけを左右に動かし、言い出したいのに言い出せない、という表情すら表に出すのを必死に抑えようとしている。

 

 とはいえ、ミレイユにこうして見抜かれている以上、あまり成功しているとは言えなかった。

 ミレイユはルチアにメニューを勧めながら、アヴェリンにも声をかける。

 

「このパフェはどうだ? こういう店では、最後に頼むのが鉄板だ。他にはティラミスなんかもあるようだが……、サイズは小さそうだ」

「あんまり興味ないんですけど、折角ですからね……。では、このイチゴとかいうのが乗った方にしてみます」

「うん、アヴェリンはどうする?」

「……いえ、私は――」

「無理にとはいわないが……お前には是非、このチョコレートの方を試して貰いたい。少しビターな味わいだそうだが、パフェの甘さと中和されて程よく感じるのかもしれない。腹が満たされていなければ、自分で試してみたのだが……」

 

 ミレイユが流し目を送ると、そう言う事なら、とアヴェリンは姿勢を正して頷く。

 

「ええ。では、ミレイに代わり、見事代任を果たし、そのチョコレイトというのを確かめてみます」

「うん。では、頼もう」

 

 ミレイユが呼び出しボタンを押そうとして、ルチアが手で制する。目を合わせれば頷きが返ってきて、どうやら自分が押すと言いたいらしい。

 そのまま顎をしゃくって任せると、妙に姿勢を正して澄ました顔でボタンを押す。

 

 何をしているんだと思わないでもなかったが、ルチアからすれば声も出さずに押すだけで人が来るというのは、十分魔術めいた機能なのだ。

 舐められる訳にも無礼を働く訳にもいかない、という気持ちで生まれた態度なのかもしれない。

 

 運ばれてきたパフェは彩りも華やか、というほど豪華ではなかった。ファミレスで千円程度となれば、ミレイユ自身そんなものだという認識だったのだが、しかし二人にとっては違った。

 グラスを真上から覗いては横から見て、その断面から分かる多重構造に感心し、見て楽しい料理というのを十分に堪能していた。

 

「凄いですね、とても綺麗です。これを食べるのが勿体ない、という気持ちになったのは初めてのことかもしれません」

「うむ、この白と茶色の重なりが均一で美しいこと。一つ食べては別の味、という次々と新しい味と食感を楽しめるという配慮であるようだ。実に悩ましい」

 

 考えてみれば、ガラスに盛る料理などあちらにはないし、あったとしてもパフェのような形状の入れ物は存在しない。断面を見て、底までどのように詰まった料理なのか、それが分かるというのは実に興味深い代物となるようだ。

 

 そこまで二人が絶賛するとなると、ユミルもただ黙っている事は出来ない。正面に座るアヴェリンに、手の平を向けてスプーンをねだる。

 

「アタシもちょっと気になるわ。一口寄越しなさいな」

「馬鹿を言うな。欲しいなら自分も頼め」

「それ全部だと多いのよ。そこまで食い意地、張ってないわ」 

「人のものを取ろうとしている時点で、十分張ってるだろうが」

 

 アヴェリンはパフェを内側に引き込み、腕で庇って奪われまいと防御する。それを見たユミルはこめかみに青筋を立てたが、しかしそれで騒ぎを起こすほど短慮でもなかった。

 アヴェリンは警戒しながら一口、また一口とパフェを食べていくと、その内ユミルのことは思考の端に追いやられていったようだ。今はパフェを見つめグラスの中で形を変えていく様を楽しみながら、少量ずつ口の中へクリームを運んでいっている。

 

 それとは反対に、一口を大きく取って口に運んでいるのはルチアだ。

 イチゴとクリームを一緒に口の中へ運ぼうとして、自然とそうなった部分もあるのだろう。しかしイチゴを食べ終えた後、シリアルが顔を出して来た。

 それも単品ではなくクリームと一緒に食べると美味しい事に気づき、それも一緒にと思ったら、自然とそういう風になってしまった。

 

「甘いものは別に好きじゃないと思ってたんですけど、これを知ると考えが変わりますね」

 

 満面の笑顔を浮かべるルチアの口周りには、ふんだんにクリームが付いてしまっている。ミレイユは苦笑しながらペーパーナプキンを取って、そのクリームを拭ってやる。

 パフェに夢中でクリームに気付かなかったルチアは、されるがままになった後、すみませんと恥ずかしがって微笑する。ミレイユも帽子の下から柔らかく笑みを返した。

 

 それを目の端で見ていたアヴェリンは、ぴたりと動きを止める。

 自分のパフェの残りを確認して、それまで少量ずつ惜しむように口に入れていたクリームを、大口で口の中にかき込みだした。口の周りをべたべたに汚したアヴェリンは、ごく真剣な表情でミレイユに視線を向け続ける。

 

「もう、何してるのよ、仕方ないわねぇ」

 

 ユミルが素早く動いて、ペーパーナプキンでアヴェリンの口元を拭う。相当乱暴な手付きで動かされ、アヴェリンはその腕を掴んで止める。

 しかしユミルはニヤニヤとした笑みを止めぬまま、口元の汚れを拭いきってしまった。

 

「みっともなくてよ。気を付けなさいな」

「……ああ、すまないな……!」

「どういたしまして」

 

 アヴェリンが握っている部分からミシミシという音が聞こえてくるが、ユミルは笑みを崩さない。アヴェリンは腕を投げ捨てるように開放すると、不貞腐れるように残りのパフェを片付け始めた。

 

 ユミルは痛みを飛ばすように腕をぷらぷらと振ってから、テーブルの下に仕舞う。ユミルが浮かべるいやらしい笑みは、そのパフェが完食されるまで続いていた。

 

 コーヒーも飲み終わり、パフェもそれぞれ完食して、食休めとして時間を潰して暫し。そろそろ店を出ようという空気が出来上がった。

 会計をルチアに任せようとし、ジャラジャラと小銭を出し始めたのを見て、はたと気付く。なんだかんだのゴタゴタで、財布を買おうとして忘れていた。

 とりあえず小銭を使った支払いはアキラに指導させ、店の外で会計を待つ。

 

 その間に案内板で、どこへ行けば財布が売っているか確認しておく事にした。デパートから退店する傍らに適当に見繕って済ませてしまうつもりだった。

 特に時間もかからず、会計を終えたルチア達がミレイユを見つけて合流してくる。

 その中から、アキラが一歩前に出て、小さく頭を下げた。

 

「ミレイユ様、昼食ごちそうさまでした」

「うん。……それにしても礼儀正しいな、本当に高校生か?」

 

 もちろん文句があって言っている訳ではない。

 昨今の高校生といえば、もっとくだけた印象を持っていたのだが、よくよく思い返して見ると、アキラはいつも大体礼儀正しい行動を取っている気がする。

 きっと、親の教育が良かったのだろう。

 

 アヴェリンもちらりと満足げな表情をしていたので、ミレイユからはそれ以上何も言わない。

 そのまま、さきほど案内板で見つけた小物売場まで行き、そこで目についた物を特に感慨もなく購入する。

 こちらの財布の良し悪しなど分からないルチアは、言われるままに購入し、とりあえず使う分だけを財布に移して服のポケットにしまった。

 



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新たな騒動 その4

 デパートから出て暫し、宛もなくプラプラと歩いては店先を覗き、興味のある物がないか見て楽しむ。休日によくあるウィンドウ・ショッピングのつもりで、次々と店を梯子していく。

 

 とはいえ、大抵のものには興味を示すルチアである。全てに足を止めていては進まないし、また一店舗で留まる時間も長い。

 ユミルも同様、興味を引くものは多くあったが、一度ミレイユに叱られてから懲りている。見るべきものをチェックしては、後でスマホで確認するつもりでいるようだ。

 

 手当たり次第に興味を引く現状なら、それが賢いやり方なのかもしれない。

 とはいえ、実際に目で見て触れないと分からない物も多くある。特に目新しい物しかない今は、その手触りなどは想像しづらいものもあり、そういった物にはとりあえず見て触れて行くスタイルなのは変わらない。

 

 そうして何本もの道路、何店もの店舗を通り過ぎた時、横合いから殴りつけるかのような騒音が響いてきた。自動扉が開く前から音漏れはしていて、ルチアはそれを早くから感じていたが、その大本がこれほどの大音量だとは思わなかったようだ。

 耳を両手で蓋をするように塞ぐルチアを横目に、ユミルは元よりアヴェリンもまた、その大音量と光の奔流に目を奪われている。

 

「なん、なんですか、これは……!?」

「ああ、ゲーセンだな。娯楽施設だ」

「娯楽!? こんな目に眩しく耳に煩い場所で、娯楽も何もないでしょう!」

 

 アヴェリンも思わず店内を凝視して、ミレイユの言葉を否定した。

 ミレイユは苦笑して、同じく店内の様子を見ながら解説する。

 

「あそこにあるのは多くが遊戯に使われるものだが、一つ一つの音が大きいのも、光を多様するのも他より目立たせる為にしている戦略だ。……恐らくは、最初は暗い店内で分かりやすいようにと光度の高い筐体が設置され、それの数が増えるに従って、ああいう状態になったのだと思う」

「他より目立つような競争が生まれた結果ってコト?」

「確実にそうだと言わないが、そういう面も、間違いなくあるだろうな」

 

 顔を顰めて内部を伺うユミルは、正解かどうかはともかく十分同意できる内容であるようだ。呆れたように筐体を見ては頷いている。

 ルチアは未だに耳を抑えて店内を睨みつけており、いっそ入って遊んでみようかと思っていたミレイユは躊躇してしまう。

 

「私も久々に中がどうなっているか見てみたかったが、ルチアのその様子じゃ、今回は回避した方が良さそうかな」

「えぇ? 折角なんだし、入ってみましょうよ。煩いし眩しいけど、他じゃこんなの見た事ないじゃない」

「しかし、この様子じゃな……」

 

 ルチアに再び視線を向けてみれば、そこには挑戦する目つきをして、耳から両手を外す彼女がいた。

 

「やってやろうじゃないですか。たかだか音が煩いだけで、怯む私じゃありませんよ」

「実に力強い言葉だが、たかが遊戯施設に入ろうとしているだけだからな。魔王城に殴り込もうっていうんじゃない」

 

 その単語に敏感に反応したのはアキラだった。

 目を輝かせ、握った両拳を胸の前で構えてミレイユに詰め寄ってくる。

 

「やっぱり魔王とかいたんですかっ!」

「いるわけないだろう、馬鹿らしい」

 

 しかしミレイユは、それをあっさり切って捨てた。

 

「えぇ……、だって……」

「物の例えだ。自称魔王はいたし、過去には実際魔王がいて何者かに倒されたというような伝説はあったが」

「じゃあ、やっぱり居たんじゃないんですか、魔王。その自称っていう人……人? だって」

 

 ミレイユは困った顔で笑い、腕を組んだ。

 

「軍団も持たず、部下も持たず、武器も持たない。そんな自称魔王を、それと認めろと言うのか?」

「ああ……それだけ聞くと、すごい残念なだけの人ですね」

 

 ユミルは可笑しそうに――事実可笑しいのだろうが――笑みを浮かべて、それに注釈を加えた。

 

「だから、あれは本当に魔王だったんだってば。かつて倒され、でも蘇って、そして再び覇道を築き上げようとしていたのよ。そう説明したでしょ?」

「だから何だ。今更どうでもいいだろう、そんなこと」

 

 やはりバッサリ切ったミレイユだったが、ユミルはそれがお気に召したらしい。笑みを深くして、ついには堪えきれずに声を出して笑いだした。

 

「あっはっは! まぁ、そうよねぇ! 今更どうでもいいわよねぇ……!」

「え、その人、どうなったんですか……?」

「殺した」

「ころ――!? え、殺したんですか、魔王!?」

 

 事も無げに頷いて、ミレイユはつまらなそうに鼻を鳴らした。あまりにアッサリと言い放つものだから、いまいち信用し切れない、という様子だ。

 アキラがアヴェリンに視線を向ければ、そこには不服そうな顔をしているものの、しかし同意の意味で頷きだけは返す。

 

「え、じゃあ、ミレイユ様は勇者って事ですか?」

「まったく違う。……この話、まだ続けなくちゃ駄目か?」

「駄目っていうか……もちろん、そんな事ないですけど、でも聞きたいですよ!」

 

 ミレイユは実に面倒臭そうにアキラを見て、視線をしばらく誰にも合わせず横に向け、そして腕を組んで溜め息を吐く。

 

「つまらん話だぞ。私もそいつは頭のおかしい変な奴としか思っていなかったし、最後まで魔王とは思っていなかった。過程も結末も、あまりにひどくて面白い話でもない」

「それでも……教えてください!」

「じゃあ鍛錬の休憩中にでも、アヴェリンに聞け」

 

 アキラはお預けを食らった犬のような顔で見つめてくるが、しかしミレイユにそれ以上自分から語る気は毛頭なかった。アヴェリンに話すつもりがあるなら、それを止める気はなかったが、聞いてみればやはり楽しい気持ちにはならないだろう。

 

 そんな事より、ミレイユにとっては目の前のゲームセンターに興味がある。今なお店内から煩い音が響いてくるが、どこか童心を掻き立てられるような気持ちも湧いてくる。

 ミレイユは店内入口で誘うように輝く筐体に、釣られるようにして足を踏み入れた。

 

 

 

 店内に入って、更に三段階は騒音が酷くなったのを自覚しながら足を進める。

 アキラを除いた誰もが不快を隠さない表情で店内を見つめ、眩しさで目を細めている。

 

 店内には埋め尽くす程の筐体が置かれているが、その中でもミレイユの目に入ったのは、パンチングマシーンだった。

 筐体の奥にはディスプレイが設置されていて、挑戦者を挑発するような台詞、人物が映っている。その手前には赤いサンドバッグを模した、クッションを巻いた棒が奥向に倒れている。コインを入れれば起き上がり、パンチ力を測ってくれる部分だ。

 今は誰も利用しておらず、空虚に挑戦者を待っていた。

 

「実に懐かしい。男子高校生としては、ああいう遊びはよくやるんじゃないか?」

 

 ミレイユが目を細めて筐体を見つめ、アキラに話を振ってみたが、返ってきた返事は曖昧なものだった。

 

「確かにああいうので馬鹿騒ぎするのを見たことありますけど、僕はあまり……そういうのに縁がなくて」

「……そういうものか。どうだアヴェリン、試してみるか?」

「お望みとあらば」

 

 これがどういう物か理解していないが、ミレイユに試してみろと言われれば、彼女に否という返事はない。何をすれば良いものか、筐体をじろじろと見ながら前に出る。

 だが、それに待ったをかけたのはアキラだった。

 

「いやいや、お待ちを! あの、師匠がやったら壊れませんか?」

 

 言われて始めて自覚した、という風に動きを止めて、ミレイユは顎の先を指先で摘むようにして考え込む。

 何しろ、アヴェリンはあの巨体のトロールの一撃を受け止めるような膂力を持つ。大上段から力任せに振り下ろされた一撃を、何の苦労もなく受け止められるのだから、それをパンチ力に変えた時にどうなるか、確かに想像もつかなかった。

 

 そこまで考えて、ちらりとルチアに顔を向ける。ゆっくりと指をルチアと筐体を行き来させれば、首を傾げながらも前に出て、ルチアはアヴェリンと位置を変えた。

 

 いかにも非力そうなルチアがやるなら問題ないと、アキラも納得したようだ。

 実際ルチアはこのメンバーの中では最も腕力がない。彼女が出す数値と、筐体への影響を見てからアヴェリンに遊ばせるか決める、というのは悪くない案に思えた。

 

 何も分からないルチアに、アキラが筐体の傍まで寄って、備え付けのグローブを装着してやる。グローブの端から紐で筐体に繋がっているもので、持ち出し禁止である事を意味すると共に走り込みながら殴りつけるのを阻止する目的もある。

 

 右手につけられたグローブを掲げて興味深そうに見つめた後、そのくたびれたグローブを見せて力こぶを見せるようにポーズをつけた。

 微笑ましい光景に、ミレイユも口の端に笑みを浮かべ、アキラもまた笑みを浮かべた。

 

 指示されるままに筐体へお金を入れ、そこからゲームが始まる。

 画面にゲームの流れと説明が表示され、それを見ながらルチアは起き上がったパンチングパッドと距離を測りつつ、立ち位置を慎重に見定めている。

 腕を振り上げて、何度か肩を回し、身体を横向きに変えて構えを取る。殴ることは滅多にないとはいえ、殴り方を知らない初心(うぶ)な女でもない。

 やけに胴の入った姿勢に、アキラはここに来てようやく違和感を持ったようだった。

 

 画面から殴る指示が出て、アキラの制止が入る前に、ルチアは体重を載せた大振りなパンチで殴り抜けた。

 すると、まるで爆発が置きたような爆音と、筐体を揺らす衝撃で、アキラはその場で飛び跳ねた。

 ミレイユは案外こうなるだろうな、と冷静に事実を見つめ、他の二人も似たような表情で画面に表示される結果を見届けようとしている。

 そして、ルチアもまた殴り抜けた姿勢のまま、筐体正面を見つめていた。

 

 表示された数字は999,476。最高得点を塗り替える、おそらくゲームシステム上の最高得点をギリギリで越えない数字を叩き出した。

 

「これ、高いんですか?」

 

 その撃ち抜いた姿勢から身を起こしながら、ルチアは隣で唖然とした表情で画面を見つめるアキラに問う。女性の平均というなら、筐体に寄って基準が違うので正確ではないが百は越えない。それを考慮にいれずとも、そもそも規格外な数値だろう。

 

「高いな。多分、この店にいる男の誰より高い数値だろう」

 

 ミレイユが言うと、ルチアは嬉しそうに顔を綻ばせた。実に可憐で妖精の笑顔と言って差し支えないものだが、この世の男性の誰より高い数値を出したのが、彼女だという事実は忘れてはならない。

 

 これに気を良くしたルチアは、ディスプレイに表示される二回目の指示が出て、再び構えを取った。しかし、これに待ったをかけたのは、またしてもアキラだった。

 

「ちょちょ、ちょっと待って下さい! 駄目です、駄目、無理、やっちゃいけません!」

「何故です? これ、殴りつける遊びなんでしょう?」

「そうなんですけど、いや、常識で考えて下さいよ! おかしな数字出てるでしょう!?」

「おかしいんですか?」

 

 ルチアが振り返って首を傾げる。

 ミレイユが何と返事をしたものか考えていると、アキラがそれより早く返答してしまう。

 

「この店の誰よりって時点で分かって下さい。男の人を押し退けて、ここまで大きな数字出す人なんていません!」

「それ別に、おかしくないですよね?」

「単純な筋力はともかく、男より女の方が力は強い。常識でしょ?」

 

 ルチアが口を挟むと、アキラは困った顔でミレイユに助けを求めた。

 何と答えようか考えていたミレイユは、とりあえずお互いの常識のすれ違いから説明を始めた。

 

「あちらの世界の常識から言えば、ルチア達の言い分が正しい。だが、こちらの世界では異常に映るのは確かだろう。……さっき出した数字も、アキラが慌てる程度にはぶっ飛んだ数字だ」

「へぇ……」

「普通なら、蹴りつけたりしない限り出ない数字だろうな」

 

 音や衝撃は、この騒音の中でも伝わったかもしれない。店員が来る前に、この場から退散する方がいいだろう。

 ルチアの手からグローブを外してやって、店内の奥方向へ背中をごく軽く押す。

 

「ま、今は面白いものが見れたという事で、よしとしよう」

 

 ルチアは小さく笑みを浮かべながら肩を竦め、それで良いというのなら、と素直に応じた。

 



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新たな騒動 その5

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 その場から離れたは良いものの、アヴェリンの機嫌は急降下だった。

 ミレイユから見てもそれが分かる辺り、次に殴るのは自分だと、心の中で決まっていた事のようだ。それを横から奪われたような形なので、どこかで埋め合わせが必要だろうが……彼女の場合、器物破損に繋がりかねないのが恐ろしい。

 

 だからこそ、アキラとしてはルチアの継続は止めなければならなかったし、仮にアヴェリンが前に出ても全力で説得にかかっただろう。

 

「しかし、ああやって数値が測れるなら、私も自分の数値も見てみたかった」

「その気持ちはよく分かりますけど、師匠がやったら壊れますよ……。そもそもルチアさんですら、もう上限ギリギリなのに」

「あれ以上の数値は出ないものなの?」

 

 横からユミルから疑問を投げられて、アキラはとりあえず頷く。

 僕もそう詳しい訳じゃないんですけど、と断りを入れてから、その見解を語った。

 

「ああいう種類のゲームで、プロの格闘家が殴って三百から四百って感じだった筈ですから、その倍以上って時点で、もう人類に出せる数字じゃないと思います」

「三百から四百か……」

「大体、それは最高得点の話で、もっと広く見て男性平均となれば二百未満って感じだと思います」

 

 ふん、とアヴェリンはつまらなそうに鼻を鳴らす。その表情には落胆がありありと見て取れる。

 そこにミレイユも、横合いから楽しそうに笑って口を挟んだ。

 

「ま、確かにアヴェリンにやらせていれば、筐体を破壊していたか……。先にルチアにやらせたのは正解だったな」

「それは……そうかもしれません。意図せず壊すのは、私も望む所ではありません」

「因みに……ルチアさんと師匠なら、どのくらい差があるんですか?」

 

 それにはルチアが少し考え込んで、具体的な数字を口に出した。

 

「仮にアヴェリンを百とするなら、私は二十五ですかね?」

「二十五!? え、四倍も違う力で殴りつけようとしてたんですか!?」

「実際にはそう単純じゃないし、あくまで単純な近接戦闘能力を表した数字だろう。力任せに何も考えず殴るなんて、普通は戦闘中にやる事じゃない」

「それは……そうですね」

 

 敵は棒立ちで待っていてくれないし、大きく振りかぶった攻撃なんて、避けて下さいと言っているようなものだ。だが、だからこそあのパンチングマシーンは娯楽装置として置かれ、それで遊んでみようと思う人がいるのだろう。

 

「だったらアタシがやれば良かったわねぇ」

 

 壁際に幾つも並べて置かれているUFOキャッチャーを流して見つつ、ユミルが言った。

 アキラは意外に思って顔を向ける。この中で一番近接戦闘能力が低いのはルチアかと思っていたが、その実ユミルがそうだと言うのだろうか。

 

「え、ユミルさん、さっきの数字で言うと、二十五以下だったんですか?」

「んー、七十ってところじゃないかしら」

「全然だめじゃないですか。なんでそれで行けると思うんですか」

「だってほら、アタシ手加減上手だし」

「ホントですか……?」

 

 アキラが胡乱げな視線を向ければ、ユミルはいやらしい笑みを向けて近付いてくる。これはマズイやつだと思ったが、すでに遅かった。

 ユミルはアキラの肩を抱き、べったりとくっついて顔を寄せる。

 

「手加減が上手かどうか、教えてあげようか?」

「いえ、大丈夫です。間に合ってますんで」

「いつもアヴェリンにボコボコにされてるでしょ? アタシなら、もっと上手く転がしてあげられるわ。試してみたいと思わない?」

「思わないです。今の師匠で十分です」

 

 アキラは腕を振り解いて早々に逃げ出す。

 つれないわね、という声を後ろに聞き、ミレイユの隣に立つ。壁際に並ぶ筐体を楽しそうに眺めながらも、それに挑戦しようとは思わないようだった。

 

 しかし、その気持ちがよく分かるのも確かだった。

 アキラもこの手のものは苦手で、目的の景品を手に入れた試しがない。結局少額で手に入るようにはなっていない。場合によっては数千円出しても逃してしまうので、それなら最初から欲しいものを買った方が安上がりになる。

 だがそれでも手を出してしまうのは、得する可能性を追い求めてしまうが故だろう。

 あるいは単に富豪の遊びというものなのかもしれなかった。

 

 アキラもプレイはせずに、ミレイユの後をついて筐体を眺める。

 人形やキーホルダー、果ては福袋を景品にしている筐体まであり、何が置いてあるか見ているだけでも楽しいものだ。

 

 次にミレイユが目につけたのは、ダンスで革命を引き起こすタイプの筐体だった。何か懐かしい思い出でもあるのだろうか、画面上で矢印に合わせてステップを踏む客を切なげに見つめていたものの、すぐに視線を切って歩き出す。

 アキラもそのすぐ後を追って行くと、次に足を止めたのは格闘ゲームの筐体だった。

 

「やった事あるんですか?」

「ある。中級者以下の実力しかなかったが」

 

 へぇ、とアキラは意外に思いながら呆けた声を出す。

 ゲーセンに足を踏み入れたとはいえ、実際に遊んだ事があるのはメダルゲームやプリクラとか、女性らしいものに限ると思っていた。

 しかし、元より格闘能力が抜群に高いアヴェリンを率いるような女性なので、むしろ意外でも何でもないのかもしれない。

 

 ミレイユはこれを遊んでみる気になったらしい。

 ルチアから硬貨を受け取って投入し、慣れているように見える手付きでキャラクターを選択する。

 アキラはこの手のゲームをプレイした経験は殆どないが、アーケードの格闘ゲームはそのスティックからして独特で、これでコマンドを入力する事がまず最初の難関だと聞いている。

 

 まともに必殺技を出せない、コンボを出せない、というレベルでは、そもそも遊ぶ権利すらないとすらされるゲームだ。

 それを見ると、ミレイユのスティックの持ち方やボタンの入力方法は、実に熟れているように見えた。

 

 対戦OKの筐体だから、いつ誰が挑戦してくるか分からない。

 今はCPU相手に危なげなく勝っているし、明らかにコマンドを失敗しているようにも見えない。しかし一つ一つ確かめるようにキャラを動かしているようで、時折小首を傾げながら操作していた。

 

 隣のアヴェリンが不思議そうに、それを見つめている。

 

「これは……、どういう遊びなんだ。手元のボタンを押すと、何か起きているのだとは分かるが」

「なかなか操作も説明も複雑なんですが……、左にいるキャラクターがミレイユ様が操作していて、それがパンチとかキックとかします」

「ふむ……、ミレイ様の分身か」

「そのような認識でいいです。で、上にあるゲージを自分より相手の方を先に減らしてゼロになれば勝ちです」

 

 そう解説している間に、挑戦者が入ってきたようだ。

 お互いにキャラクターを素早く決定して、試合が始まる。この素早く決定させるところに玄人っぽさを感じるが、ミレイユは本当に中級者以下なのだろうか。

 

 戦闘が始まると、先程と違って、ミレイユはそう簡単に攻めていかない。距離を保つように、あるいはじりじりと詰めるように、キャラクターを前後に素早く動かしている。

 

「……色々と、駆け引きのある勝負なのか?」

 

 画面を見つめるアヴェリンが、動くキャラクターを見ながらゲーム性を敏感に察知したらしい。

 確かにこのゲーム、派手なコンボはそうそうないが、だから読み合いが大事で、その一撃と好機をいかに逃さないかが肝となる。

 アキラが見る限り、ミレイユはガードが抜群に上手くて、簡単には体力ゲージを減らせない。しかし攻めが下手という訳でもないようだ。

 

 決めるチャンスがあればそれを逃さず、素人目で見ても実に上手くキャラクターを操っている。相手の力量が分からないので、単に弱すぎただけなのかもしれないが、何しろ危なげなく勝利してアキラは思わず歓声を上げた。

 

「凄い! ミレイユ様、強いですね!」

「そうでもないが、……その言葉は有り難く受け取っておこう」

「おめでとうございます、ミレイ様!」

 

 例え遊びであっても、主君が勝てば例外なく嬉しいらしい。アヴェリンも笑顔で画面を見つめ、そしてまた挑戦者がやって来る。タイミングが早かったので同じ人が連続で挑戦してきたのかもしれない。

 

 一戦して勝てたのなら、ミレイユも満足するだろうと、アキラは気楽に構えていた。中級の実力者でも、ゲームセンターで勝ち続けるのは簡単な事ではない筈だ。

 早々に負けて、次のゲームへ遊びに行くだろう。

 次の挑戦者にワンラウンド取るミレイユを見ながら、アキラはそう思った。

 



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新たな騒動 その6

ASFGSC様、えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 そして勝ち続けて、すでに三十連勝となっている。

 筐体上部には連勝記録数が出て、現在どれほど勝ち続けているのか、周囲の人間にも分かりやすく表示している。そして筐体の周りには、その連勝数がどれだけ重ねられるのか期待する人達で溢れていた。

 どこから聞きつけたものだか、スマホ片手に衆目に加わろうとする人までいる。

 

 ここまで強いなら中級者以下じゃないだろう、とアキラは呆れた気分でミレイユを見ていた。

 今もまた勝利して連勝記録を更新している。周りの観客もヒートアップして笑顔で拍手を送っている。

 連勝中のゲーマーが顔までは窺えないとしても女性であり、そして服装の上からでも理解できる抜群のプロポーションとくれば、即興のファンが生まれても仕方なかった。

 ただ座っている姿までもが美しいと、遠巻きにして見ている観客から、そういう感想さえ飛ぶ始末だ。

 

 そして、その周りには顔を隠さない、これまた美貌の女性たちが囲んでいる。

 アヴェリンやルミアに愛想はないが、それでも見ているだけで眼福と言える女性たちだ。

 

 そしてユミルは近づこうとする人をやんわりと抑えながら、ファンサービスをするアイドルのように一緒に写真を撮られていたりする。

 アヴェリンが威嚇して遠ざけるのに対して、ユミルの対応が実に柔らかいお陰で、この人数も更に増えていく傾向にあったようだ。

 

 アキラは未だに勝ち続けているミレイユに、そっと耳打ちするように声を掛ける。

 今は次の対戦相手を誰にするかと筐体の向こうで争っているので、少しの話をする時間はあったのだ。

 

「ミレイユ様、これのどこが中級者ですか? こんな騒ぎになっちゃって、どうするんです」

「騒ぎになったのは、私のせいではないぞ」

「それは……ユミルさんのせいもあるかもしれませんけど、でもミレイユ様にだって幾らか責任はあるっていうか……」

 

 言っている間に対戦相手が決まったようだ。

 筐体の向こう側から気合を入れる声と、鼓舞する声が聞こえてくる。

 

「ミレイ様の邪魔だ、下がれ」

 

 アヴェリンに肩を掴まれて、アキラは素直に後ろへ下がる。アヴェリンと共に、ミレイユの顔を伺おうとする者の壁になる為、立ち位置を変える。

 これだけの連勝記録を打ち立てる謎の美女となれば、誰しもその顔を見てみたいと思うらしい。

 

 帽子の下から見える顔だけでも、そこに美そのものが隠れていると確信できる程なのだ。カメラ機能を使って、それを覗けないかとスマホを掲げる者が絶えないのも仕方ない事なのだろう。

 

 だが、本当に顔を見られるわけにはいかない。

 それがフレームに収まるような事になれば、大騒ぎになることは間違いないのだ。もはや遊ぶどころか、街から逃げ出す破目になってしまう。

 アキラには必ずそうなるだろうという、確信があった。

 

 そうして壁を続ける内に、更に連勝を重ねていく。

 その記録が五十に迫った時、筐体の向こうに座る誰かが実力者だと周りの観客が教えてくれる。ゲーセンの中で時々いる有名なプレイヤーなのだろう。

 

 アキラはこれを、好機と感じた。

 目立てば目立つほど、その素顔が露見する可能性は高くなる。実力者だと言うなら、ここで負けても誰も不満に思うまい。

 健闘を称えてくれて終われば御の字。あるいは、連勝記録を止めたヒーローとして、注目が相手に向かう可能性すらある。

 

「ミレイユ様、ここはもう負けてしまって終わりにしましょう。そっちの方が角が立たず、すっきり店を出られます」

「ミレイ様にわざと負けろというのか、不敬だぞ!」

 

 この喧騒の中、ミレイユに関する事なら聞き漏らさないアヴェリンが食って掛かる。柳眉を逆立てているものの、諭すように言ってくる。

 

「相手とて譲られた勝ちなど望まんだろう。どのような形であれ、勝負は勝負。正面から挑む者に、敬意を持って戦うのは当然だ」

「はい、分かります。師匠の言い分はごもっともです。……でも、騒ぎが大きくなり過ぎているんですよ!」

「ミレイ様が多くの者から称賛され、賛美されている。実に耳に心地よい。やはりミレイ様はこうでなくては……!」

「いやいや、言ってる場合じゃなくてですね……」

 

 アキラの言葉はその耳に届いていないようだ。

 アヴェリンは周囲を睥睨し満足そうに鼻を鳴らした。

 彼女の説得は難しいと判断したアキラは、やはり直接ミレイユを説き伏せなければならないと判断した。

 何しろ、このミレイユは自分の顔が外に晒される事に関して無頓着で、大きく考えていない節がある。

 

「お願いします、ミレイユ様。いつまで勝ち続けるつもりですか。読み合いが抜群に上手いせいで、全然負けないじゃないですか。もはやロボットだって、向こう側から悲鳴が聞こえましたよ」

「……そうだな、あれは正確には読み合いじゃない」

「あ、もっと専門的な?」

「いや、単純に動体視力と、それに反応できる身体能力のゴリ押しだ」

「うわ、ずっる……!」

 

 アヴェリンや、さっきのルチアの驚異的な身体能力を見れば、それに加えて動体視力も尋常じゃないと言われても頷ける。

 先程から投げ抜けがやたら上手すぎるのも、そこに理由があったのか。

 もしかしたらフレーム単位で動きが見えていたりするのだろうか。ミレイユの身体能力は想像するしかないが、その可能性も十分にあった。

 

「小足見てから昇竜余裕でした、ってネタ……僕でも知ってるんですけど、もしかして……」

「ああ、本当に出来る奴がここにいる」

「絶対ずるいですよ、それ!」

「実際には最小フレームに割り込むのに、いつでもコマンド入力を受け付けてくれる訳でもないからカンも必要になるのだが」

「いやいや、そういう事じゃないでしょう!」

 

 アキラが思わず抗議の声を上げた時だった。

 次の対戦相手が決まり、アキラは再び肩を捕まれ後ろに引き戻される。改めて壁役に徹し始めたところで、アキラはスマホを取り出して時間を確認した。

 帰る時間など特別教えられていなかったが、夕方頃には帰宅するつもりであっただろう。日が暮れても遊び続ける予定であったならどうしようもないが、そうでないなら時間を報せる事で終了を促せるはずだ。

 

 長い間ゲーセンにいた気がしたのは、やはり気の所為ではなかった。もしこれが外で遊んでいたなら、日の傾きから帰ることを相談するような時間帯だ。

 アキラは妨害するつもりがなくとも、とりあえず時間を伝える為にミレイユの傍に寄る。

 帽子のツバが邪魔で余り顔を寄せることは出来ないが、なるべく耳元に近付いて現在時刻を伝えた。

 

「ミレイユ様、もうすぐ四時になります」

「なに……?」

 

 バスの待ち時間、乗車時間を考慮すれば、夕方の帰宅を考えていれば、そろそろ停留所に向かわねばならない時間だ。アキラの予想は当たっていたようで、ミレイユから動揺が伝わっていた。

 このゲーム一つで随分時間を使ってしまっている。

 本来なら、他にも皆でゲームを見て回って遊ぶ予定だったのではないか。複雑なルールがないメダルゲームなどで遊ぶつもりだったのだとしたら、一人だけで時間を消費してしまったのは痛手だったに違いない。

 だからこそだろう、これまでと違って僅かなミスが目立ち始めた。

 

 今までの、こじ開けられないガードや堅実すぎる立ち回りに精彩が欠いている。

 ついには今までなかった二連敗のストレート負けをして、周囲から歓声と落胆の声が漏れた。ミレイユは立ち上がって帽子のツバを下げる。

 アヴェリンは慰めるかのように、その肩に手を置いた。

 

「ミレイ様、度重なる勝利、大変ご立派でした」

「ああ、ありがとう。――が、私ばかりが楽しんでしまった。申し訳なく思う」

「何を仰りますか。私はミレイ様の武勇が、どのような形であれ見ることが出来、そしてそれを称賛する声が聞けて満足です」

「お前ならそう言うのかもしれないが……」

 

 気まずそうに声を出して、ミレイユは近くでファンサービスのように肩を抱いて写真を撮られるユミルを見る。こちらには呆れた声だけ出して、ルチアに顔を向けた。

 

「お前にも、すまなかったな。騒音のなか、我慢しているのは大変だったろう」

「いえ、私は私で楽しく見ていましたよ。お詫びというなら、また機会を作って連れてきて下さいね」

「……うん、そうしよう」

 

 ミレイユはルチアの頭を雑に撫でて、筐体の向こうに身体を向ける。

 今も肩を叩かれ喜びを分かち合ってる男の集団に、労いと礼を言った。

 

「時間を忘れ、楽しく遊ばせてもらった。最後はお粗末なプレイで申し訳なかったが……機会があれば、またやろう」

「う、ウッス! あざまさした!」

 

 ミレイユが手を差し出せば、男は慌てて服に掌を擦り付ける。

 恐る恐るという具合に出して来た手を無遠慮に握り、二度上下させて手を離した。

 

「それじゃあ、失礼するよ」

 

 相手の返事を待たずに踵を返す。

 アキラにユミルを呼んでくるように頼んで、他二人を伴って店の外へを歩き出す。

 

 後ろからは羨ましいと妬む声や、声が綺麗だった、良い匂いがした、などという下世話な話が聞こえて来る。

 ミレイユはフェアプレイ精神を称え合うつもりでやったのかもしれないが、プロのゲーム試合でもなければ普通やらないのではないだろうか。

 

 そうは思っても、礼儀正しいのは良い事だと思い直し、ミレイユの背を追ってその場を後にした。

 



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新たな騒動 その7

ASFGSC様、青黄 紅様、えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 ゲームセンターから離れ、ミレイユは改めて他の面々に謝罪をした。

 頭を下げるような真似もなく、ただ口から出る言葉のみの謝罪だったが、それが彼女に許された精一杯の謝罪なのだ、とアキラにも理解できる。

 

「本当は、皆にもこちらの娯楽の一端を知って遊んで欲しかったんだが……。つい時間を忘れて遊んでしまった。すまないな」

「いいえ、興味深いものが多くありましたけど、同時に理解しきれないもの、理解を拒絶するようなものも多かったですし。こういうの、今日が最後という訳でもないんですよね?」

「もちろんだ」

「だったら、いいです」

 

 ルチアは笑って機嫌よく足を上げた。そこに石があったら蹴って遊んでいたかのような動きだった。

 アヴェリンは言うに及ばず、ミレイユの謝罪は先程受け取ったし、そもそも受け取る必要はないという表情だ。ミレイユはそれだけ確認して頷き、最後にユミルへ顔を向けたが、改めて確認する必要はないと考える節が見えた。

 あの状況を一番楽しんでいたのは、間違いなくユミルだった。しかし、一番不満を顕にしたのもまたユミルだった。

 

「アンタは楽しくて良かったでしょうけどね、アタシはもっと何か遊びたかったわよ」

「言いたい放題だな、貴様。随分楽しそうにしてたじゃないか」

「楽しそうっていうか、そう振る舞ってたのよ。アンタが周りに敵意ばかり振りまくものだから、雰囲気だって最悪よ。だから、ああいう風に盛り上げる必要があったんじゃない」

 

 アヴェリンの不満にもユミルはどこ吹く風で、逆に不満を言い返す。

 

「アタシだって遊びたかったわよ? でも、あの状況で傍を離れる訳にはいかないし、仮に勝手に動いたら、アンタ絶対あとで煩かったでしょ?」

「――当然だな」

「だったらやっぱり、その辺の奴ら掴まえてるしかなかったじゃない。まさか一緒に遊ぶ訳にもいかなかったし、そうしたら虫除けに徹するしかなかったワケ。……次は絶対アタシも何かで遊ぶわ。絶対よ」

 

 ユミルは鼻息荒く宣言する。

 ミレイユもこれには返す言葉がなく、分かったと短く了承の意を伝えた。

 ――その時だった。

 足音をこれでもかと鳴らして、後を着いてくる者たちがいる。バスの停留所に向かう傍ら、ミレイユが腕を上げると全員が道の途中で立ち止まった。

 

 振り返ってみれば、午前中に眠らせた奴らが更に数を増やして立っている。

 アヴェリンもユミルも、呆れたように息を吐いた。アキラも同じ気持ちだったが、そもそもどうして居場所がバレたのか考えて、次にゲーセンでのことを思い出して顔を顰めた。

 

 これだけSNSの発達した時代、異例の美女集団など後を追おうと思えば難しくない。それも、あのように姿を隠すどころか、晒すような真似さえすれば、本気で追ってこようとする人間からすればカモでしかない。

 見つかって当然というものだろう。

 

 しかし、彼らの中には標的を見つけた歓喜というより、見つけてしまって後悔しているような表情をしている者もいる。もしかしたら彼らは一枚岩ではなく、仕方なく探しているだけの連中もいたのかもしれない。

 集団の中心にいる金髪の男は、ミレイユ達を右から左に見渡して、満足そうに頷く。

 

「マジでいい女達じゃねぇか。こういうの、もっと早く教えろって、いつも言ってんだろ?」

「でも、セージくん、こいつらマジやべぇんだって!」

「あぁ? 一瞬で眠らせたって、こいつらがやったわけねぇじゃん」

 

 金髪のセージと呼ばれた男は、小馬鹿にして傍らの男を足で小突く。痛そうに身を撚る男を鼻で笑って、別の男の肩を掴んだ。

 

「な? ウチに入りたけりゃよ、ああいう女みつけて、一人でもケンジョーしろよ。コンビニ一つ満足に襲えねぇくせしてよ」

「セージくん、ちょっと待って……」

 

 男の一人がユミルを見るや、顔を青くして震えだす。

 明らかに挙動が可笑しいその男を、セージは頬を叩いて乱暴に顔を掴んだ。

 

「おめぇがウチに入りてぇって、言ったんだろ? ウチに入りてぇなら根性見せなきゃいけねぇんだよ。それがなんだ? 家を出ようとしたら肩ぁ外れただ? 嘘つくならもっとマシな嘘つけよ!」

「本当なんだって、セージくん! マジで気付いたら肩外れてたんだ!」

「ああ、そうかよ。だからってメンジョって訳にゃいかねぇの。……おら、早くあいつらに一発かまして連れてこいよ」

 

 そうやって金髪のセージに言われた男は、目に見えて震えが強くなる。

 ユミルは獲物を見つけた獣のように、にんまりとした笑みを浮かべたら、それを見た男は更に震えが強くなった。

 

「んだ、お前、あの女のコト知ってんのか? あいつそんなヤベーの?」

 

 セージがユミルの方に顔を向け、言われた男はぶんぶんと顔を横に振った。

 ユミルの笑みは深くなる。

 

「知らない! 見たことない! でもヤベーんだ、ヤベーってことだけはわかる!」

「お前なんでもかんでも駄目だ出来ないで、ウチ入れると思ってんじゃねぇよな? 根性見せろってゆってんだよ!」

 

 セージは振るえる男を蹴り飛ばして、ユミルがいる方へ押し出す。

 男はつんのめって、踏ん張ったものの結局転んで地面に両手を着く。振るえるままに顔を上げれば、そこにはユミルが極上の笑顔で迎えていた。

 

「ひ、ひ、ひぃぃぃ!!」

 

 男は振るえる足で立ち上がろうとして失敗し、更に自分の足に自分で引っ掛け転び、慌てて立ち上がろうとして更に転ぶ。

 それを見ている連中は、滑稽を通り越して狂気の顔をする男に青い顔を向けた。

 ようやく立ち上がって、それで壁に手をつき、後ろも振り返らずに逃げていく。

 

「なんだ、ありゃ……。可笑しくなったのか、あいつ」

 

 吐き捨てて、セージはミレイユ達に向き直る。

 弱気で逃げ腰の男など、最初から頭数に入れたいとは思っていなかったのかもしれない。あの男の様子を見ても、態度を変えず、どの女を自分のものにするか舌舐めずりをしている。

 

 アキラは隠れて大仰な溜め息をついた。

 あれを見て何の想像も働かないというのなら、よほど甘やかされた環境に身を置いているのだろう。自分の思い通りにならない事など、何もないと思っているのかもしれない。

 

 何と幸せな頭をしていることか。

 ユミルは浮かべた笑みをそのままに、誘うような仕草で男達を手招きする。

 

「遊んで欲しいの? それじゃ、場所を変えましょうか」

 

 

 

 

 ユミルが選び、ミレイユ達が素直に着いて来た場所は、路地裏の一角だった。

 午前中に行ったビルとビルの間のような場所ではなく、再開発として周辺の建物を潰し、一度慣らして出来た空き地で、今も工事の看板が出ていて周囲には立ち入らせない為の壁で囲われている。

 丁度いい所を見つけたと、その中へ躊躇なく踏み入る。幾らか建築資材が周囲に並べられている中、囲まれている事実に臆することもなく振り返って腕を広げる。

 

「さ、誰から遊んでほしいの? 欲求不満でイライラしていたところよ。アンタたちで解消するコトにするわ」

 

 ユミルはそう言って男達を睥睨した。

 言われた男達は困惑して隣の男と顔を見合わせる。だが侮辱されたと憤る者、意味を履き違えて鼻の下を伸ばす者と、反応は様々だった。

 ここまで来て、逃げる機会は幾らでもあったくせして着いてきた男共に、同情する余地はない。

 アキラは合掌する気持ちでアヴェリンの横に立ち、どうするのか伺いを立てた。

 

「師匠はどうします? やっぱりミレイユ様の護衛に?」

「そうだな。……まったく、見ているだけで身の毛がよだつとはこの事か。あれほど軟弱で、その反面尊大な男どもは初めて見た。可能ならこの手で殺してやりたいが……」

「いやいや、駄目です。絶対駄目です」

 

 アヴェリンは分かっている、と素直に頷き、傍らのミレイユに視線を向ける。

 

「許可があれば躊躇いもなく拳を打ち下ろしてやるが、残念ながらそうではない。今の心情じゃ手加減すらできず、相手を殺してしまうだろう。ここは素直に護衛に徹する」

「それなら良かったです」

 

 先程からやけに静かなミレイユに顔を向けると、この僅かな時間で既に椅子を生み出している。

 相変わらずどうやっているのか検討も付かず、無から作り出しているのか、それとも別の手段でやっているのか、アキラの興味は男達の行く末よりもそちらの方が余程気になった。

 

 ミレイユは既に観戦モードで足を組んで、肘掛けに頬杖をついて男達を見ている――いや、あれはそれより遠く、ビルの上に薄っすらと浮かぶ月を見ているようだ。

 日が落ちるより少し前、夕方の終わりが近付き、夕闇が迫ってくる頃、日が落ちきる前より早く、月がその顔を見せていた。

 ルチアも同様、男達には興味がないようで、ミレイユと同じように月を眺める事にしたようだ。

 

 ミレイユの仕草や、何処からともなく取り出した椅子に座る格好から、既視感を覚える者たちはじりじりと後退して集団から離れようとしている。

 男の集団を前にして、怯えるどころか楽観している様は、単なる阿呆ではなく強者の振る舞いだ。それに気付いた男から、音を立てないように注意して我先にと逃げ出していく。

 

 アキラはそれでいいと頷きながらそれを見送り、ユミルは見送りつつも苛立たしげに鼻を鳴らす。

 セージがそれに気付いたのは、男達の数が十を割った時の事だった。

 やけに静かだと思って振り向いたら、居たはずの男たちがごっそり消えている。その顔色は赤く染まり、額には血管が浮いていた。



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新たな騒動 その8

grashis様、えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「ざっけやがって、アイツら! 俺を残して逃げてタダで済むと思ってんのか! ――おい、オメーら何してんだ! さっさとこいつらマワして泡にでも沈めてやれや!」

「……泡?」

 

 海じゃなくて、とユミルがアキラに顔を向けた時、一際大柄な男が突っ込んできた。

 緊張感もなくこちらを見つめるユミルに、アキラはその後ろを何度も指差す。

 

「後ろ後ろ! 前見て!」

 

 短く警告を発するも束の間、男は既にユミルの肩を掴み、押し倒そうとしている。

 ユミルはそれに掴まれるまま、男を面白そうに見つめ返した。男の顔は怒りとは違う形で赤く染まっており、鼻息荒く力を込めて前のめりに顔を近付けていく。

 

 だがユミルの身体は一歩分の距離すら、その場から動かない。まるで電柱に向けて押し相撲でもしているかのように、滑稽な程びくともしなかった。

 男がユミルを押し倒そうと、息を大きく吸い更に体重をかける。

 しかし、ふと気付いてユミルはその手をぞんざいに払った。

 

「ぎゃあああああ!!」

 

 男は盛大にすっ転び、そして自身の腕を見て驚愕する。

 腕が折れて、そこから骨が突き出してしまっている。痛みと起こった現象に理解が追いつかず、男は動きを止めて変な角度で曲がっている己の腕を見つめている。

 そこへ一歩二歩と近付いて行くユミルが、呑気な声で言った。

 

「イヤぁね、服が汚れるでしょ? 今は替えがないんだから、あまり粗雑に扱いたくないのよね」

 

 そして男の足――膝の皿へ蹴りを落とす。

 それでまた男は叫び声を上げて、地面の上で身体を大きく揺らした。

 もう既に、残りの男達は異常事態に恐慌状態へ陥っている。更に逃げ出そうとした男たちは、身を翻したと同時盛大に転ぶ。

 何が、と思って見てみれば、自分達が立っている場所から工事現場の入り口まで、地面がすっかり凍ってしまっていた。

 既に夏が近いこの時期、剥き出しの地面が氷に覆われるなんて有り得ない。

 

 夏靴で滑り止めもついていない履物では、完全に凍りついた床板を歩くのは容易な事ではない。今すぐこの場を離れたいと必死になっていればこそ、尚の事だった。

 

 アキラは誰があれをやったのかと、ミレイユの方に顔を向けて、それがルチアによって引き起こされたのだと知った。

 その手に青い光を纏わせ、一振りして掻き消す瞬間だけ見ることが出来た。

 

 ユミルは無造作に痛がる男を通り過ぎ、恐怖しながら身構えるように腕を上げたセージを殴り飛ばした。視線すら向けずに腕を振るい、うめき声を上げて顔を覆うセージを放って、氷の床で未だに立ち上がれない男達に近寄る。

 いい加減、這って進む事に気付いた男達が、手の平を冷気で痛め、悪態とも懇願とも取れない声を上げながら出口へ進む。

 

 そこへ変わらず無造作に歩を進め、氷の床へ踏み入り、やはり何の抵抗もなく歩いて男達を蹴り飛ばす。男達は一様に出口から遠退く形で吹き飛ばされ、痛みに喘ぎながらユミルを見返した。

 そこにはもう、下卑た欲望の顔は見られない。

 ただただ恐怖だけに塗れており、引き攣った表情で見つめている。同時に、声も発せず、興味も見せない他の女達にも恐怖の視線を向けていた。

 

「な、なんだ……。何なんだ、何が起きてんだよ!?」

「……ここまでされて理解できないの? 残念な子ね」

 

 ユミルは蔑み、見下しながら頬を殴る。拳を固めず、軽く握った程度のパンチだったが、鍛えてもいない男を昏倒させるには十分だった。

 気絶させた男の腕を取り、木の枝でも折るように気軽な調子で圧し折ってしまう。昏倒した男は呻いて目覚め、そして痛みで絶叫した。

 

「ぎゃあああああ!!」

「んー……、アンタの声は好みじゃないわ。黙りなさいな」

 

 そう言ってもう一度男を殴り、再び昏倒させると別の男に標的を移す。

 目が合った男は首を左右に振り、逃げ出そうとして立ち上がる。しかし出口は氷の床に覆われていて、まともに進むことも出来ないのは先程証明済み。かといって周りは高い壁になっていて、しかも取っ掛かりもないからよじ登る事も出来ない。

 

 青い顔をして絶望する男は、それでも一縷の望みをかけて出口に向かって走り出す。しかし氷の床に辿り着くより先に、ユミルの方が追いついて、その足を蹴り上げた。

 その衝撃で足が折れ、頭から地面に落ちる。咄嗟に腕で受け止め、顔を上げようとしたところで更に下から蹴り上げられた。

 歯が折れ、口から血を飛ばしながら気絶する。

 それでもユミルは蹴るのを止めない。適当に身体中を蹴りつけ、遊び終わったボールを片付けるかのように、男を遠くに蹴り飛ばす。

 

 頭から落ちなかったのは、果たして幸いだったのか。

 衝撃で息を吹き返し、全身の痛みで叫び声すら上げられず、ただうめき声を上げながら悶えている。

 

 ユミルはつまらなそうに他の男へ目を向けた。

 次の標的を見定めるように、一人の男から別の男へ、そしてまた別の男へ移っていく。

 

 逃げ出そうとする者はいなかった。動けば自分が標的にされると分かっているからだ。あるいは示し合わせて全員で別々に動けば、誰かが逃げ出す事は出来たのかもしれない。

 しかしそうする為に声を出すにも、恐怖と自己保身が前に出て動かない。

 

 ユミルは一人に近付いて胸ぐらを掴むと、顔をとにかく殴りつける。

 懇願して助けを求める声を無視して更に殴り、声も出なくなると投げ捨てた。そしてまた、違う男を――逃げようと身を捩る男を無理矢理立たせ、殴りつける。

 

 逃げ出そうとする男が出れば、それに合わせて標的を変えて痛みつける。

 工事現場には泣き声と嗚咽と、殴られる音、そして痛みに合わせて出る悲鳴が溢れた。

 

「何だよお前、何なんだよ! 何でこんな事になってんだよ!」

「やだやだ、なんで自分達が被害者って顔してるのかしらね。アンタ達、今まで好き勝手やって来たんでしょ? 倍以上の人数連れて、アタシ達囲んで、それで何かしたかったんでしょ? 圧倒的有利な状況作っておいて、反撃されたら被害者面って、そんなの通らないでしょ」

 

 ユミルが更に呆れた声を出して、手近な男を殴り飛ばした。

 その悲惨な状況に、思わずアキラの声が漏れる。

 

「……いや、どっちかって言うと、たった一人に蹂躙されている事実に嘆いているんじゃないかと」

「そうなの?」

 

 多分、と言ってアキラは頷く。

 実際問題、現実として十人以上の男をたった一人で倒せるとは思わない。仮に格闘経験者であっても、三人の男に女性が囲まれれば敵わないものだ。

 だというのに、華奢な腕で掴んで骨を折ったり、片腕で男を掴んで殴り飛ばすなど、常人には想像もつかない現象だ。

 

「まぁ、どうでもいいわねぇ。ここらでちょっと、そのオイタを後悔しておきなさい」

 

 散々殴られ、口や鼻から血を流し、庇うように両腕で顔を覆っていた男を持ち上げる。

 それはセージと呼ばれていたリーダー格の男で、やおら胸ぐらを掴み、立たせた所で腹を殴る。腹を抑えて屈んだところで頬を殴り、地面に投げ捨てた。

 

「アンタは特に念入りにね、ちょっと怖い思いしてもらうわ」

 

 セージの顔が恐怖で歪む。

 悲鳴を上げての懇願は意味を成さず、それは気絶してもなお続けられた。周囲の男も結局誰も逃げられず、例外なく痛めつけられた。酷い怪我を負わされたのは事実だが、死者は一人も出ていない。

 これを果たして手加減が上手いと表現していいものか、アキラは悩んだ。

 

 ユミルが殴るのにも飽きて、帰ることを宣言した時、一貫して無視を決め込んでいたミレイユもその一言で腰を上げた。ビルより遠くを見つめて動かなかった彼女は、一度として顔も向けず声を出さなかったが、そこに何か違和感があった。

 

 とはいえ、その正体は分からず、心の奥底でムズムズさせ、その場から立ち去る面々の後に続く。

 ルチアが先頭に立って氷の床を綺麗に消せば、その場に残るのは傷だらけ血だらけの男達ばかり。

 うめき声とすすり泣きが残る場を後にして、アキラは暫くしてから救急車だけは呼んでおこうと思った。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 市内の総合病院に複数人の男が担ぎ込まれ、そして例外なく重傷を負わされていた、というのは大きな事件性があるように思われた。

 しかし、それが表に出る事はなかった。

 

 何故かといえば、被害者たちが一貫して事件の内容を語らなかったという部分にある。

 事件発覚直前には、男達が女数人を囲んでいたという目撃情報もある。何を話していたかは不明だが、女達を逃さないよう囲んで町の暗がりに消えていったという。

 

 そもそも評判の悪い連中でもある。

 女性の強姦事件でも容疑に上がるような奴らだから、その女性たちも新たな被害者として標的にされたのだろうというのが周囲の見解だった。

 

 しかし蓋を開ければ、怪我をして半死半生の目にさえ遭っているのは彼らの方だ。

 何があったのだろうと思うのは当然で、聞き出そうともしたのだが、彼らは頑として口を割らなかった。

 

 腕が折られ、足を折られ、肋を折られ、頬骨を折られ、そして心も折られた。

 

 彼らが語らないのは物理的に口を利けないという理由だけではなく、何より恐怖によって事件のあらましを語ることを拒否したからだ。事件性は明らかだが、怪我をした本人たちにも後ろ暗いことがある。

 

 だから詳しい内情は語られず、そして被害届すら出さないと分かった事で、なおさら事件性は希薄になった。

 しかし事件を知って、それを詳しく内容を聞こうとした男がいる。

 

 その男は鼻息荒く、顔には怒りの表情を貼り付け、額からは青筋が切れてしまいそうな程浮き上がらせて歩いていた。

 足音を乱暴に立てながら、今にも男達が入れられた病室に踏み込もうと入口に手を掛ける。

 

 男の名は霧島竜一郎、セージと呼ばれ連中のリーダーをしていた男の親だった。

 病室の名札を確認し、部屋の中に入ると、そこには複数人の男が同じ様な状態でベッドに寝ていた。誰もが目を覚ましていて、折れた足を宙に吊った姿で、入ってきた竜一郎に瞠目している。

 

 男の誰からも声は掛からない。

 誰もが竜一郎の顔を――引いては職業を知っていて、かける言葉を持てないのだ。

 

 竜一郎は六人部屋の奥にその顔を見つけると、入り口近くに立て掛けてあったパイプ椅子を持ち上げ、セージの身体に投げつけた。

 

「ばっ、何すんだ、オヤジ!」

 

 パイプ椅子は畳まれたまま、ベッドの手摺りにぶつかり、派手な音を立てて床に転がる。

 竜一郎はそれを拾い上げて、セージの頭に振り下ろそうとして、後ろから着いてきていた部下に取り押さえられた。

 

「それはマズイです! 死んじまいます、落ち着いてください!」

「死んじまえばいいんだ、こんな奴ぁ! お前なにやった、え!? 今度はどんな馬鹿やらかしたんだ!」

「オヤジ……!」

 

 セージは目を伏せ顔を顰めようとし、痛みで顔が引き攣る。

 竜一郎はパイプ椅子を取り上げられる否や、背後から腕を取っていた部下たちを引き離した。興奮は冷めやらず、勢いそのままセージへと詰め寄る。

 

「なぁ誠二、お前が馬鹿やる度に、うちがどれだけ苦労してるか十分話したよな? サツにも目をつけられてる、シノギは減る。大取引は控えてる、そのクセ病院送りにされて泣き寝入りだ!? お前どれだけ俺の顔にドロ塗りゃ気が済むんだ!」

 

 話している内に怒りがぶり返してしまったようだ。

 誠二を蹴りつけようとして、ベッドの手摺りに阻まれる。苛立たし気に近付いて、胸ぐらを掴もうとして、やはり部下に止められた。

 

 竜一郎はヤクザの組長だった。

 いつだって楽な日などなかった。組の長とはいえ、派閥の長と言う訳ではない。常に上納金は収めねばならないし、部下を食わせてやらねばならず、世間が思うほど楽な生活をしている訳ではない。

 

 そして、その為には海外との危ない取り引きにも、手を出さざるを得なくなった。

 取り引きするのに信用に足る相手、相手にも少なくとも馬鹿ではないと思われなくてはならない。

 だというのに、ここに来て息子の不始末だ。

 怒らない訳がなかった。

 

 竜一郎は部下に命じて、椅子を開いて置くよう命じた。

 その上に腰を下ろし、誠二に顔を近付け、唸るような声を出す。

 

「――で、誰にやられた?」

「オヤジ、仇とってくれんのか……?」

「取りたくねぇよ、馬鹿野郎!!」

 

 竜一郎は怒鳴り散らして唾を飛ばす。

 先程から騒がしい病室に看護師が様子を見に来て、別の部下に宥められている。

 

「テメェの事なんざどうでもいし、テメェの為に仇なんざ取りたくねぇ。だが、分かるか?」

「なんだよ……」

「面子が大事って、いつも言ってるよな? じゃあ取らなきゃならねぇだろ、ここで黙っちゃ周りから舐められる。しっかりケジメ取らせなきゃいけねぇ」

「お、おう……」

「だから早く話せ。俺が暇に見えるか? こんな辛気臭ぇ場所でくだらねぇ話、していたいように見えるかよ? ――早くしろ、スマホにデータあるなら、それでもいい」

 

 竜一郎の凄みに気圧され、誠二はとにかく起こったことを話す。

 スマホに収められた写真データは幾つかある。主犯となる殴りつけて来た女、一緒にいただけで直接手を出さなかった女たち、それを幾つかのアングルから。

 

 そして最後に、この怪我は全ては一人にやられた事を話した。

 

 竜一郎は最初、それを信じなかった。

 一人、それも女がやってのける事件じゃない。何か薬でもやって記憶に間違いがあるのだと思ったくらいだった。しかし同じ病室にいる、同じく怪我させられた者たちも同じ意見だと分かると漸く理解を示した。

 

「はっきり言って未だに信じられねぇが、そこまで言うなら話半分程度には信じてやる。お前らが女五人にやられた、相手は凄腕、そしてお前らはラリってた。そういう事だろ?」

 

 竜一郎は吐き捨てて病室を出る。

 部下に命じて写真データを部下内で共有し、すぐに身元を調べるように命じた。

 日本人でないなら、その身元を調べるのに時間は掛からない。見ただけで分かる絶世の美女、これが目立たぬ訳がない。

 

 上手くやれば、これだけの上物、売るなり飛ばすなり好きにやって良い思いも出来る。皮算用を頭の中で弾きながら、竜一郎は病院を後にした。

 



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試練 その1

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 厄介ごと――あるいは面倒ごとを片付けて、ミレイユ達は自宅まで帰って来ていた。男たちを殴り倒した気負いなど微塵も感じさせず、思い思い好きに過ごしている。

 ルチアとユミルは早速買ったスマホを使えるよう、アキラに設定してもらっているようだ。ミレイユとアヴェリンは既に箱庭の中に入って湯浴みも済ませ、後は夕食を待つばかりとなっている。

 

 ルチア達が帰ってくる気配がないのでアヴェリンが準備し、呼びに行くまでもないという提案にミレイユも了承した。何しろスマホが使えるようになるまで、その場を梃子でも動きそうにないし、使えるようになったなら、やはり使うのに夢中で動かないだろう。

 

 付き合わされるアキラが不憫だが……バスから降りて帰宅途中、コンビニで弁当など買い与えていたので、腹が減れば勝手に食うだろう。

 慌ただしくも楽しい一日だった。

 最後の最後にケチがついたが、それでも全く収穫がないという訳でもない。

 

 まだ日が落ちきる前、夕陽が落ち闇の色が濃くなり始める時間帯。

 遠くに見えるビルの上には月が見え、そして――その下には人影があった。ビルの屋上からこちらを見下ろし、監視が目的かと思った。

 ある種の確信を持ってルチアに伺ったのだが、しかし彼女は、違うと言った。

 その時の会話が思い起こされる。

 

「更に向こう側、ここからも見える右側の建物……分かりますか? あの近辺に結界が生まれました」

「じゃあ、むしろ目的はそちらと言うことか? 近くにいた我々を、そのついでに見に来たと」

「主目的がどちらかは、私には分かりません。でも……ああ、移動を開始したということは、そうなんでしょう」

「警告は正しく伝わった、と考えていいのかな」

「何とも言えませんね。まだ一日と経っていないのですから、もう少し様子見でいいと思います。あちらが組織的な動きを見せている以上、それが一枚岩とも限りませんし」

「そうだな、急ぎすぎたか。……今は姿を消したとはいえ、警戒は続けるとしよう」

 

 ユミルがたった一人であったとしても、街のチンピラにどうこう出来る相手ではない。それが分かっていたから、ミレイユは自分達の外を注視する事ができた。

 

 そして、あの場から動き家に帰るまで、監視が再び現れる事も、その気配もない事は確認できた。

 だが確実に監視はされているだろう。あのビルの上に現れ姿を見せた事も、こちらに対する牽制とも取れる。

 こちらが警告した事と同様、あちらからも警告が来たのだ。

 いつでも見ている、と。

 

 思考の渦から立ち返って、ミレイユはハッと前を見た。

 テーブルの上には食事が並び終えてあり、ミレイユとその右斜め前、アヴェリンの定位置にそれぞれ用意されている。備蓄してあった食材をアヴェリン自身が調理したものと、アキラに合わせてコンビニで買った惣菜などを混ぜ合わせた晩餐だった。

 それらが皿の上で上手に盛りつけされており、コンビニ惣菜だと一目では分からないよう、野菜との付け合せで豪華に見せている。

 

 アヴェリンがミレイユの杯にワインを注ぎ、全ての準備を済ませて着席する。

 目線で合図が向けられると、ミレイユも頷いて手を合わせた。

 

「では、食事にしよう。いただきます」

 

 

 

 食事を終えても二人は帰ってこなかった。

 とはいえ、帰りが遅いからと心配する親のような心情になる事はない。いる場所がアキラの部屋だと判明している事もあるし、仮にそうでなくとも心配する程ヤワな相手でもない。

 心配するだけ時間の無駄だ。

 それよりも、こうしてアヴェリンと酒を飲み交わす時間の方が貴重に思えた。

 

「こうして二人だけで酒を飲み雑談する時間というのも、随分久しぶりだ」

「そうですね、旅が始まった頃は別段珍しいことではなかったですが。今となっては全員で食事するのが習慣化しましたし」

 

 うん、とミレイユは笑む。

 振り返れば、それが当然と思える程にアヴェリン達とは親しくなった。いつか切り離さなければならないからと、心だけは遠ざけていたつもりだったが、しかし今となっては居ない事など考えられない存在だ。

 

 仲間たちへの思いは既に、いて当然という存在にまで膨れ上がっている。いや、本当はもうとっくにそこまで大きな存在だったのだろう。ただ認められず、認めたくない為に気持ちへ封をしていただけで。

 

 ミレイユはその大きな思いを胸に抱いたまま、ただ二人で会話を続ける。

 部屋に帰るのもどうかと思う半端な時間、今日の感想やこの世界の感想などをアヴェリンに聞いて会話に花を咲かせていたところで、例の二人が帰ってきた。

 和気藹々とスマホを弄ってはあれこれと言い合い、視線はスマホに固定されたまま会話を続けて、ダイニングを通り過ぎようとしている。

 簡単におざなりな挨拶のまま、ミレイユをぞんざいに扱う二人に、それを由としないアヴェリンが声を上げた。

 

「おい、なんだ、その態度は……!」

「ちょっと何よ、いきなり」

「こっちは飯の準備もしてあったんだ。遅くなるなら一言くらい声をかけろ。遠い距離でもなし、難しい事ではなかった筈だ」

「あー……、すみません。夢中だったもので……」

 

 ルチアは素直に謝罪を口にしたが、ユミルはむしろ反抗的な態度を強めた。

 

「ちょっと遅くなるくらい、別にいいでしょ。ここは安全で、常に襲撃を警戒しなきゃいけない場所でもないんだから。ちょっと気ままに生活するくらい許されるでしょ」

「ミレイユ様がお許しになったことだ、気ままに暮せばいい。だが、食事は別だ。無駄にしていい食材など、今の私達にはない。……仮に裕福であっても許されん行為だが。これ、お前たち食べるのか?」

 

 そう言われて二人は視線を逸した。

 大方、アキラの料理を強奪するか足りない分は買い足したとかして、あちらで食事は済ませたのであろう。食べないというのなら、用意された食事は全くの無駄になってしまう。

 

 それを理解したアヴェリンの怒気は更に強まった。

 席を立って糾弾しようとする彼女を、ミレイユが手を掴んで止めた。そのまま優しく引っ張り、そっと座らせる。

 

「落ち着け、アヴェリン。――お前たちも、新しい玩具が手に入れば、はしゃぐ気持ちはよく分かる。活用して、こちらの生活に馴染んでくれれば喜ばしく思う」

 

 そこまで優しい声音で言って、次にだが、と言った言葉は重たかった。

 

「食材の無駄は話が別だ。子供じゃないんだから、それぐらい分かれ。……このまま無駄にするのも偲びない、アキラの部屋の冷蔵庫を使わせて貰え。いや、迷惑をかけた詫びに、残った料理をアキラに渡せ」

 

 それから伺うというより、事後承諾の確認としてアヴェリンに顔を向けた。

 

「それでもいいか、アヴェリン」

「ミレイ様の思うがままに」

「うん。……そういう訳だから、二人で料理をアキラの部屋まで運んでいけ。それから、好きに暮らせという気持ちに嘘はない。――楽しめ、ただし迷惑をかけない前提で」

 

 ユミルも素直に頷いて料理を手に取る。

 ルチアは恐縮したような面持ちで、謝罪の言葉と共に料理を手に取った。

 

「はい、申し訳ありません……」

「ま、気をつけるわよ。気を付けられる前提で」

 

 ユミルがちらりと笑って背を翻したところに、ミレイユはその背に声を掛けた。

 

「ああ、そうだ。食材の件だが」

「まだ何かあるの?」

「いいや。明日の昼頃、買い物に行こうと思ってる。昼頃というより、昼飯の後だな」

「また街に出るんですか?」

 

 ルチアの疑問――喜色の混じった疑問に、ミレイユは苦笑して否定した。

 

「いいや、食材の買い物だからな。わざわざバスを使ってまで買いに行くのは不便だし面倒だ。近くに大型食品スーパーがある。徒歩でも十分と掛からない距離にあるから、そこへ行く」

「そんなのあったかしら?」

「ああ、既に確認している」

「……いつの間に?」

 

 ミレイユはむしろその質問に首を傾げたが、すぐに思い直して頷いた。

 

「そうか、外から見た程度じゃ気付かなくて当然か。服を買いに行った時、そのすぐ傍にあったのが、その行く予定のスーパーだ」

「ふぅん? 大きいと思える建物は他にもあったから、どれの事か分からないけど……。でも、分かったわ」

「着いて行った方がいいんですか?」

「自由参加だ。買い溜めするつもりもないからな。市場調査の側面もあるし、料理するにしても見たことのない新しい食材じゃ苦労するだろう。そういう意味じゃ、勉強会も兼ねているか」

 

 ルチアは半眼になってミレイユを見つめる。

 

「それ実質、強制参加じゃないですか。これからは備蓄を使わず、新しい食材を中心に料理をするんですよね?」

「そのつもりだ」

「じゃあ、参加します。その辺知らないと料理どころじゃないと思いますし」

「別に買い終わった物を見るでもいいと思うが」

「それじゃあ値段が分からないじゃないですか。買わなかった食材にどんなものがあったのかも分かりませんし、とにかく見てみなくちゃ……!」

 

 言っている間に、ルチアの探究心に火が着いたらしい。

 料理を持った手に力が入り、あわや傾きそうになっている。それをユミルが横から支えて、呆れたように笑った。

 

「ま、分かったわ。全員参加ってことにしておいて。色々見ながら調べたいこともあったけど、こうなると外でスマホが使えないっていうのは不便よねぇ」

「理解した上で買ったんだから、そこのところは納得しろ」

 

 そうよね、と頷いて、ユミルはルチアを促して背を押す。

 明日の事について話しながら、アキラの部屋に向かっていく。

 その背を見送っていると、横からアヴェリンが心配そうな声でぼやいた。

 

「あの量の料理、冷蔵庫とやらに入るのですか? 以前見た時は、何やら色々入って埋まっていましたが」

「……ああ、そこのところは考慮してなかったな」

 

 男の一人暮らし、そもそも大きな冷蔵庫ではない。

 初日に見た限りでは、しかし一杯に使っているという様子はなかった。それでもあの量は難しかろう。丁度空に近い状態まで減っていればよいのだが……。

 返って迷惑をかけることになってしまったかもしれない、と思いながらミレイユは二人の背を見送った。



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試練 その2

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 そして翌日、四人は大型食品スーパーへと足を向けていた。

 信号待ちをしている現在、その正面にはミレイユが説明したスーパーが見えている。他三人は、あぁこれが、と納得の表情を見せる。

 それと同時に、アヴェリンはあれが食品を扱う場所であることに違和感を持った。

 

 何しろ、アヴェリン達の知る食品を扱う店とは『市』のことを指す。

 多くの場合は朝市で、日が昇ると同時に収穫された野菜や果物、卵などを新鮮な内に店頭へ並べる。午前中に売り切る前提で数を揃えるので、一つの店にあまり多くの種類はない。

 だから多くの店が別種の食材を用意して軒を連ね、呼び込みに声を張り上げているのが常なのだ。

 

 しかしここには何もない。ただ空虚に駐車場が広がるだけで、店の入口にも呼び子が立っている訳でもない。

 駐車場にしても空きスペースばかりが目立ち、スペースを無駄にしているように感じる。

 

 大きな駐車場が用意されているとはいえ、今日は平日のしかも昼。停まっている車が疎らなのは当然なのだが、アヴェリン達にはそこまで考えが及ばない。

 ただ、無駄なスペースがあるなら市を立てればいいのに、と違う方向に考えを向けていた。

 

 そしてミレイユの先導でスーパーへと入る。

 店という物が、中に入れば明るい事にはもう慣れた。きっと店内も広いのだろうという予想も、そのとおり。

 しかし、そこに溢れる食材は、予想に反して膨大だった。

 

 店内に足を踏み入れて、すぐに商品が並んでいる訳ではなかった。

 人の行き来がスムーズに出来るよう、大きめなスペースを取ってある。また買い物かごが入口横に幾つもタワーを作って用意されていて、来店した客はまずこれを手に取れるように流れが作られている。

 ミレイユも例に漏れず手に取ったのを見て、アヴェリンもまた他の客と同じように手に取った。

 

 そして目の前に広がる膨大な食料品を前にする。

 右を見ても左を見ても、溢れんばかりに野菜が敷き詰められていた。野菜コーナーの隣には青果コーナーもあり、色とりどりの果実がもぎたての新鮮さのまま陳列されている。

 

 それらを愕然とした表情で見つめたまま、アヴェリンは喘ぐように言葉を吐き出す。

 

「これ……これほど、これほどの食材が……!? 私は死後の楽園にでもやってきたのか?」

「気持ちは分かるけど、ここ現実よ……」

 

 ユミルもまた、アヴェリン程ではないにせよ、衝撃を受けていたようだ。隣ではルチアも、うんうんと頷いている。

 

「でも、こんなに野菜や果物、一体どこから……? 近くにこれだけの量を確保できる畑なんて、なかったと思いますけど……」

「それは……この近辺で採れた物じゃないからな。下手をすると海を渡り、遠くの別大陸からやって来ているものもある」

 

 ラベルを見ればそれが分かる、とミレイユは商品の一つを指差した。

 見てみれば確かに原産国と書かれた項目がある。

 ここは日本と呼ばれる国の筈だから、それ以外は全て他国からやってきている事になるのだろう。

 それを踏まえて考えると、どうやら野菜は国産が多いが、果物は外国産の物も多くあるようだ。その内の一つ、オレンジとラベルに書かれた商品を手に取ってみる。

 見たことのない果実だが、新鮮さを保持していることは驚きだった。

 

「これが……海一つ渡って辿り着いた果実だと言うのですか……。とても信じられません……いえ、ミレイ様の言葉を疑う訳ではないのですが」

「気持ちは分かる」

 

 ミレイユは苦笑して、未だにオレンジの表面を撫で付けているアヴェリンに値段を伝えて来た。

 今度はその値段にも驚愕し、手を止めてマジマジとオレンジを見つめ、匂いを嗅ぐ。

 

「これが、そんなにも安いのですか……! 粗悪品ということでしょうか!?」

「そういう事じゃない。それだけ早く目的地に届けるシステムがあるという事だ。馬車など比較にならない速さで、一度で大量に運ぶことができる。だから一つあたりの単価も落ちるんだ」

「へぇ……!」

 

 感嘆の声を上げたのはルチアだ。色とりどりの果実を見つめて、手に取っては香りを確かめ破顔する。

 

「どれも美味しそうです」

「うん、気に入ったものを幾つか買うといい。お前たちなら文字も数字も読めるだろう」

 

 許可を得るや否や、ルチアは思い思いに手を取って香りを確かめ、値段を確認してはカゴに詰めていく。無作為に手を出しているように見えて、五百円以上するような物には手を出していない辺り、しっかりと値段を確認しているようだ。

 

 アヴェリンは果物をルチアに任せて、野菜を見る事にした。

 こちらは匂いだけで判断することは難しい。単にサラダとして出す事ができるものもありそうだが、煮たり焼いたりと加工した方が味の出る物もあるだろう。

 

 ミレイユから今日どういう料理を食べたいかを聞いて、それに沿ったアドバイスを受けながら野菜をカゴに移していく。

 大概見た目も大きさも違う野菜だが、似通った味や食感の物はあるようだ。

 判断が難しいものは料理に使うのは保留とし、それらしい物だけ選択して、今日のところは味を確認することを目的とし、後で使うかどうか決める。

 

 幾つか野菜をカゴに入れた辺りで、ルチアの方も終わったようだ。

 厳選して選んだ果物らしく、実に晴れやかな笑顔を見せていた。

 

「納得のいく物が買えたようだな。それじゃあ、もう少し奥まで見に行こう」

 

 そうして次に見えてきたのは加工食品で、練り物や漬物、餃子や焼売、焼きそば等が置いてある。商品前の四角い紙に名前が書いてあるものの、どれも初見の食品では、まるで味の想像がつかない。

 難しい顔をして一つ一つ商品を見ていくが、そのうち一つに目が留まった。

 

「これは……、アキラの冷蔵庫に入っていたやつだな」

「あら、ホント。ギョーザ……これって美味しいの?」

 

 ミレイユは肩を竦めて答えを返した。

 

「焼くだけで完成するタイプの商品だから、味はそこまでじゃない。ただ手軽だという点と安いという点で、人気のある商品ではあるんじゃないか」

「ふぅん……。要冷蔵、って書いてあるけど」

「つまり冷蔵庫を持ってないなら、その日の内に使い切れ、という意味だ」

「……便利なのか不便なのか分からないわね」

「普通、冷蔵庫を持ってない家庭というのは想定してないからな。二日程度冷蔵庫の中で眠っていても、味や品質を落とさず食べられる。そう言う意味では貴重かもな」

 

 なるほどねぇ、と頷いては他の商品も手に取って見つめる。

 どれも味自体には期待していいものじゃないと受け取ったのか、見つめるだけでカゴに入れるまではしない。ただ一つ、色と形が面白いという理由でカマボコを買う事にしたようだ。

 

 次いで向かったのは海鮮・海産物コーナーだった。

 魚の切り身が最も多く、小さな中型以下の魚であれば、そのままの形でラップ詰めにされている。腹を切って贓物を抜かれたままの姿が見れるのは、本来海に面した港町だけだ。

 この市から海は見えなかったし、そもそも昨日、街に向かう最中にもそれらしきものが確認できなかったのは全員が知るところ。

 一度で早く大量に、という理屈は何も果物に限った話ではないと、ここで再び理解した。

 

「魚が……、このような形で売られていようとは……」

 

 アヴェリンが愕然としたのは、むしろ切り身で販売されていた商品だった。

 切り身にすれば、その分早く腐ってしまうし、そもそも魚は腐りやすい。市で見かけるものではないし、あったとしても多くは塩漬けにされたものだ。食べるにしても水で戻してから調理するので味も落ちる。

 

 大抵の陸育ちは魚は不味いものと認識しているし、陸で食べる新鮮な魚というのは夢物語に近いものだ。

 しかしここでは、それが無造作とも思える状態で置かれている。

 

「どれも美味しそうね。新鮮で身が油で光ってる。良い状態よ」

「これも遠くから……いえ、聞くまでもなかったですね」

「うん。ただ、あちらと形は違っても味が似ているものは多かったように思う。このサーモンなんて見た目までもそっくりだ。あちらの物が好みなら、まず外れのない品だろう」

「なるほど。では、こちらを一つ……」

 

 アヴェリンはそう言って、切り身を一つカゴに入れた。

 そうしてミレイユからの解説を挟みつつ陳列された商品を眺めながら移動し、角まで来た所で横へ顔を向ける。

 

 鮮魚コーナーはここから十歩程度で終りを迎えるが、そのすぐ隣には弁当コーナー、そして精肉コーナー、加工品コーナーと、次々と別の商品が陳列されている。

 その暴力的なまでの量と豊富さ。

 なまじ遮るものもなく店の奥まで見通せるからこそ、強く思った。

 

 ――饗宴の楽園。

 遥か遠くまで続く距離、ただただ食料品で埋め尽くされている。

 昨日のデパートと敷地面積は同等程度の広さなのだろうが、ここまで奥行きを感じるような構造をしていなかった。

 

 そして何しろ、アヴェリン達にとって意識せざるを得ない食料品が、ここまで溢れているということに恐怖さえ抱く。

 目を移せば魚肉だけでなく、獣肉すら扱っているようだ。それもやはり、肉と同様切り身として陳列されているのだ。

 色々な事を新鮮に感じ、驚きもしたが、恐怖を感じたのはこれが初めてだったかもしれなかった。

 

「ここは……ここは一体、どうなっているんです。私達は一体、どこに来てしまったんですか」

「……どうした、突然」

 

 思わず唖然とし、驚愕する声を出したアヴェリンに、ミレイユが帽子のツバを少し上げて顔を覗かせる。

 アヴェリンはその目をみつめながら、まるで何もない荒野に、突然放り出されたような気分になった。地平線まで何も無く、身一つで遠くに日が沈みそうになる瞬間。

 まるで迷子になった幼子のような気分にさえなってしまう。

 ミレイユは驚いたように、その身を寄せて聞いてきた。

 

「アヴェリン、どうした。何があった」

「いえ……ミレイ様。何も、何もないのです」

 

 返す言葉が見つからず、アヴェリンはただ首を横に振る。

 しかしミレイユはそれで離れず、気遣う素振りを見せるなか、それより先にユミルがアヴェリンの心を代弁するかのように口を開いた。

 

「この子の気持ち、ちょっと分かるわよ」

 

 小さくため息をついて、周囲を見渡す。

 

「物量の違いってやつをね、まざまざと知らされたって感じ。こんな光景、絶対あっちじゃお目に掛かれないじゃない。果物、野菜だけって言うんなら分かるわよ。でもこうして、切り身にした肉すら見せられちゃあね……」

「日持ちがしないものを敢えて出すっていうことは、これ今日中に全部売れることを見越しているんですよね? つまり、それだけ買われても尚、またすぐに定量用意出来るってことじゃないですか。生産量の違いに愕然としますね」

 

 ルチアの感想がここにいる三人の総意だった。

 先程までの青果コーナーなら、まだ理解できたのだ。実際数多く、溢れるほどの野菜を市で見かけたことは多々ある。

 しかしそれは収穫から一週間過ぎてもなお売りに出している物も数に含めている為で、中には腐りかけの商品が混ざっているのも決して珍しいことではない。

 

 上の方に見栄えのいい商品を置いて、そのすぐ下に粗悪品を置く。

 ぱっと見では分からないが、間違って買えば、選んで買った自分が悪いという理屈だ。その理屈が通ってしまうのが市というものだ。

 だから買う前に必ず匂いを確認し、腐っているものがないか見て買う。

 

 しかし、ここではそんな事は起こらない、とミレイユは笑った。

 

「買った後でも腐っている箇所が裏から出てくれば、交換に応じてくれる。代わりの商品が売り切れならば、代金が返ってくる。ここはそういう国だ」

 

 何もかもが違う。

 アヴェリンにとって、その事を実感したのは、もしかしたらこれが初めてだったかもしれない。

 

 しかもこのスーパー、これだけでは終わらない。

 日用雑貨、生活用品、飲料、菓子など、挙げれば切がないほど、他にも多く商品が取り扱われているらしい。

 今いるこの場からでも、この建物の全貌はまだ見えない。ここまで歩いてきた部分ですら、まだ文字通り一角に過ぎないのだ。

 

 その事実に気付いてから、アヴェリンの記憶は曖昧だった。

 食料一つ手に入れる事は決して簡単な事ではない。戦士の誇りをかけて手に入れるもので、保存が効くといっても限度はあるし、それにここまでの量を用意できるものでもない。

 戦士の誇りなど歯牙にもかけない量を、このスーパーは用意出来るのだ。

 

 アヴェリンは気づけば、既に買い物を終えて箱庭の中だった。

 どうやって帰ってきたのか記憶にない。ただ目の前に広がる大量の食料が、あれは夢ではないと物語っていた。

 

 そこに明るく声を出したミレイユが、アヴェリンの肩を叩いてきた。

 それで半覚醒状態だった意識が即座に戻る。

 

「今あるそれはすぐに片付けて、少しお茶にでも行かないか。ユミルが近くに喫茶店を見つけたらしい。美味いスイーツもあるそうだ」

「……ええ、はい。お供いたします」

 

 あれからどれほど時間が経ったものか、アヴェリンには分からない。

 しかし、あえてお茶に誘うというのなら、夕食の食事をするには早い時間なのだろう。

 アヴェリンは言われた通り、買ってきた食材を今日使う分はキッチンに、残りを備蓄倉庫へ移すことにした。



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試練 その3

こちら、二話連続更新の二話目になります。
お読みになる際、ご注意下さい。

orangeflare様、誤字報告ありがとうございます!


 アキラはいつもの時間に登校し、目の前に校門が見えてきたところで、そっと息を吐いた。

 疲れから出た溜息ではない。

 今朝もいつものように存分に痛めつけられ、不甲斐なさを叱咤され、怒声と共に転がされた。まだ幾らも訓練を重ねていないのだから、それも仕方ないとはいえ、自分の力量のなさに歯噛みするような悔しさがある。

 

 師匠の怒声も叱咤も、激励の一つだと理解している。

 しかし、傷が治るからと容赦なく痛めつけられていると、それが心の奥底に傷が刻まれてしまいそうで、それが怖い。

 例えば、一切の命令を脊髄反射で肯定してしまうような……。

 

 身震いを起こした考えを、頭を振って追い払う。

 でも、優しさがない訳でもないのだ。昨日の夜は、二人が迷惑をかけた詫びだと、師匠の手料理を分けてくれた。指示したのが師匠であったのか、ミレイユであったかまでは分からないが、それでも手料理に飢えているアキラにとっては嬉しいものだった。

 

 既に夕食は済ませていたので、冷蔵庫の中も寂しくなっていたのも助かった。量が結構多かったので、今朝食べただけでは消化しきれず、今晩のおかずとしても活用されるだろうが、それはむしろ嬉しい事だった。

 

 少し気分が上がってきたところで、アキラの膝がガクンと落ちた。笑いそうになる膝を必死に鼓舞して一歩踏み出す。

 周囲に同じく登校している生徒から不審に思われない程度に身を持ち直すと、アキラは前を歩いて何でもない風を装う。

 

 最近の師匠は傷を癒やす手段は用意しても、スタミナを戻す手段は講じてくれなくなった。

 それでは体力がつかないと、最初の数日だけ使用して、あとは自力で回復するように指導を変えてきたのだ。

 

 体力が平均以上である自負はあったが、平均以上ではまるでおメガネに叶わなかった。おそらく、年代で上位に入るような体力を持って、初めてスタートラインに立てるのだろう。

 

 アキラは逸る気持ちを抑えて、学校の玄関上部に設置されている時計を見つめる。

 いつまた、あの魔物が出るか分からない状況と、そしてそれが自分のすぐ傍で現れるか分からない危機感が、アキラの気持ちを落ち着かなくさせる。

 今日にだって出会(でくわ)す可能性はある。

 

 それなのに、アキラにはそれに対処できる力が備わっていない。

 その事実がアキラの気持ちを逸らせ、そして不甲斐ない気持ちにさせた。

 

 焦ったところでどうにもならん、とは師匠の言葉だ。

 がむしゃらに剣を振るっていたところで、そのように諭され、そしてボコボコにされた。

 お前が己の力量も弁えず、前回のトロールに立ち向かえば、今よりもっと酷い目に遭っていた、と蔑むかのような目で言われたのだ。

 

 焦ったところで、一足飛びに強くはならない。

 それは分かっている。

 今まで道場であったような、防具を着けて、一本取られれば剣を引いてくれるような戦いは、これからは起こらない。

 一本取られ、身を崩せば容赦なくとどめを刺してくる相手が、これから相手にする敵なのだ。

 

 それを理解するからこそ焦ってしまう。

 もっと早く、もっと強くなりたいと願う。

 昨日見せたユミルのような、他者を毛虫のようにあしらう力があれば、そのような事を考えずに済む。

 そう思ってしまい、それに追いつこうとがむしゃらになった。

 

 そして、それでは駄目だと、思い知らされるように転がされたのだ。

 アキラの気持ちが重くなるのも当然といえた。

 そして、今は一歩ずつ進めているという実感も沸かないのが、その原因ともなっているのかもしれない。

 

「こんな気持ちじゃダメだ……!」

 

 アキラは奥歯を噛みしめる。

 実感が沸かないから不貞腐れるような真似、稽古をつけてくれる師匠に失礼だ。

 

 アキラは気持ちを鼓舞させ校門をくぐり、玄関で靴を履き替える。今は気持ちを切り替え、学校の授業に集中しなくてはならない。学校にいる間は、あの破天荒な集団の事は頭から追い出さなくては。

 そのように決意し、アキラは自分の教室に入り、席に着いた。

 

 

 

 ――しかし。

 決意したアキラは頭から切り離そうというのに、あちらはそれを許してはくれないようだった。

 

 席に着いたアキラに、早速話しかけて来たのはクラスメイトの友人だった。

 名前は下木原(しもきはら)秀馬(しゅうま)。喜色を浮かべつつも、だらしない顔を見せながらアキラの机を椅子代わりに座る。

 

「おはよう、アキ。なぁ昨日、お前どこいた?」

「別にどこも。おはよう、シュウ」

 

 早速来たか、とアキラは身構える事を感じさせないよう力を抜いた。

 アキラは気力を総動員させて表情を変えないよう努め、一切の感情を封じ込め、一切の表情が現れないようにしながら、鞄の中の教科書を机に移していく。

 アキラが一切の反応を示さないのを意外に思いながら、秀馬は更に質問を続けた。

 

「昨日、街にいなかった?」

「いないよ。家にいた」

「Rainに連絡入れたのに、お前でなかったじゃん」

「だから寝てたんだよ。それがなに?」

 

 アキラが若干の苛立ちを感じたのだろう、秀馬はさほど気にせず本題を語った。

 

「昨日午前中、街のゲーセン行っててさ、そんで近くに昼頃飯食いにいったら、そこでメチャすげー美人集団がいてさあ!」

「へ、へぇ……」

「多分同じ事務所のモデルとか、そういうんだと思うんだけどさ、でも今まで見たことなくって! でもマジすげーの! 全員タイプが違って全員イイんだよ!」

「そう、ふぅん……」

 

 彼女たちがどれだけ注目を浴びるほどの美貌を誇っているか、説明されなくても良く知っている。その内一人には今朝もボコボコに殴られたと言ったら、この男はどういう反応を示すだろう。

 

「でも、中でも中心にいた人だけ帽子で顔が隠れててさぁ……! 全貌は見えなかったけど、あの人も多分すげー美人だったと思うぜ!? また街行ったら会えるかなぁ」

「……どうだろね」

「なんだよ、反応悪ぃな。……あ、分かった。嘘だと思ってんだろ? どうせ言うほど大したこと無いとか思ってんだろ!」

「いや、違うって」

 

 アキラがどう弁明しようか迷っているところで、後ろからクラスメートから声がかかった。

 

「やめなよ、下木原。アキちゃん、そういうの興味ないんだって。下世話な話は別の奴としたら?」

「うるせぇよ、男同士の話に入ってくんな」

 

 秀馬は大いに顔を顰めて舌打ちしたが、その女子も負けてはいなかった。

 

「アキちゃんは他の男共とは違うの。話す話題ぐらい相手に合わせて考えなさいよね、言っとくけどそれ、セクハラだからね」

「あー、うっせうっせぇ。……まったく窮屈なこって」

 

 捨て台詞を吐いて、秀馬は机から飛び降りて別の男子グループに混じっていく。大声でさっきと同じような話を始めるあたり、その話を誰かにしたくてたまらなかったらしい。

 アキラは後ろを振り返り、苦い顔で礼を言う。

 

「ごめんね、嫌なこと言わせちゃって」

「いいよ、別に。アキちゃん、そういうのあまり強く言えないって知ってるし」

「……うん、ありがとう。でも、そのちゃん付けもやめてくれると、とても助かるっていうか」

「それはできない」

 

 きっぱりと笑顔で言われて、アキラは苦い笑顔が更に引き攣るのを感じた。

 アキラはどうも女子グループでは身内と思われている節があって、度々こうして男子よりも女子に庇われる事態が起きている。

 

 自分の見た目に起因すると分かっているが、強く言って止める事も難しく、クラスではどっちにも着けずに孤立気味だ。

 他の男子も遠巻きにしがちな中、秀馬だけは関係なく接してくれる稀有な友人だった。

 とはいえ、空気を読む事に関して全くできない秀馬だからこそ、ああして話しかけて来てくれるだけかもしれないが。

 

 何にしても、とりあえず助かった、と言う気持ちだけは正確に伝わったらしい。

 アキラの礼に素直な笑顔と共に礼が返ってきて、それでアキラも前に向き直る。そうして最初の授業の時間割を確認しながら、一つの危惧を感じていた。

 

 この近辺に済んでいる限り、彼らとミレイユ達とが偶然鉢合わせる可能性は常にある。学生の生活サイクルと重なる事は稀だろうが、狭い町だ。目立つ彼女らをどこぞで見かけたという話は、条件さえ合えばすぐに広まってしまうだろう。

 その時、その直ぐ傍にアキラがいることを知られたら――。

 

 アキラは恐ろしい想像に身震いした。

 複数の男達からのリンチは免れない。その時が来たら一体どうしたらいいものか。アキラは頭を悩ませた。

 



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試練 その4

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 ミレイユ達が案内された喫茶店は、小綺麗で感じの良い雰囲気が外観からも伝わってきた。

 自宅と結合しているタイプのお店で、家と店とはその建築資材からして違う。喫茶店側は木製のシックな雰囲気で、色を濃い緑色でペンキ塗りされている。色が少々剥げているところもあるが、それがまた古式ゆかしい雰囲気を見せていた。

 

 テラス席も用意されていて、その家具も外観とよく調和している木製のもの。日差しが強い日は中央のパラソルを開いて影を作れるようになっているようで、そういう心配りも嬉しいサービスだ。

 

 店内も明るすぎないランプで雰囲気を出しており、静かなジャズミュージックが流れている。こういう場所で本を読めば、実にくつろいだ時間が過ごせそうだと思った。

 

 ミレイユはテラス席を希望し、そこに四人で座る。今日の日差しは強くないので帽子はいらないと思い一度外したのだが――思い直し再度被り直す。

 一つ横のテラス席では、子供連れの母親とその友人でお茶を飲んでいた。子供は母とその友人が会話ばかりしていて、つまらなそうに椅子の上で足を揺らしている。

 視線を向けてみれば、子供がこちらの顔を見ていたように思ったが、どうやら杞憂だったらしい。

 

 店員にメニューからコーヒーを頼み、他の三人にも好きに頼むよう命じる。

 とはいえ、メニューを見てすぐ内容を理解できる程に、こちらの常識を習熟してる訳じゃない。店員にあれこれと質問を飛ばしながら、頼むものを決めていく。

 

 注文を取りに来た女性店員も、あきらかに日本人ではないと分かる外見に最初は戸惑いを見せた。しかし日本語が堪能で、文字も読むことだけは出来ると理解するにつれ、営業スマイルではない屈託ない笑顔で気持ちよく受け答えしていく。

 母国を尊重して会話してくれる外国人というのは、それだけで好感度が上がるものだ。

 

 一通り注文が終わったところで、アヴェリンがミレイユに顔を向ける。

 それまで俯きがちだった顔を上げ、しっかりと目線を合わせた面構えは、どこか決意した表情を見せていた。

 ミレイユは柔らかく声をかける。

 

「何か言いたい事があるようだな」

「……は、いえ。何故ここに連れて来ていただけたのかと、考えていました」

「お前が浮かない顔をしていたからだ。それ以上の意味はない」

「そう、なのですか?」

「気分転換になればと思った。今日は風も僅かで、頬を撫でる風が気持ちいい。天気もいいし、こういう空の下で茶を飲めば、気分も和らぐものだろう」

 

 ミレイユの気遣いに、アヴェリンは苦い笑みを見せた。

 

「そのように思っていただける程、酷い顔をしていましたか」

「酷いという程ではなかった。ただ、心ここに在らずといった風でな。生鮮コーナーで肉類を見てからだろう、ああなったのは」

「えぇ、はい。……左様です」

 

 再び沈んだ顔を見せたアヴェリンに、ミレイユは困ったような笑みをした。

 ミレイユもアヴェリンの部族の事を知っているし、大抵の者より深く知っている。そして、戦士の矜持を強く意識した部族という事もよく知っていた。

 

 近辺に生息する動物はどれもが力強く、並大抵の力量では狩るどころか自らが獲物になる。だから狩猟を成功させる事は、己が力量を示す事に直結するし、その肉を得て家人に供するのは誉れとされる。

 

 アヴェリンもまた優秀な戦士で、狩猟で肉を得る事は自分の仕事だと思っていたろう。

 世界が違っていても肉は畑から取れたりしないと思っていたろうし、だから肉を得て主人に供するのは自分の役目だと思っていた。

 しかし、ここでは肉は既に加工され、薄く切られたものが並べられている。それこそ、畑で採ってきたと言われても信じられる程度には、大量に商品が並んでいる。

 

「……お前は思っただろう。ここで自分の役目はないのだと。肉は狩らずとも手に入る、その理解に絶望に近い思いをしたんじゃないか」

「はい……。遠くまで足を運ばねば獲物はおらず、しかも狩猟は許されぬと、以前アキラに聞きました。そんな馬鹿なと、実際は肉が欲しくなれば狩りに動く筈だと思いました。……その時になれば必要とされると」

「だが、実際は違った訳だ。許可されないのは当然、あれだけの肉があるなら、何故狩る必要がある、と……」

 

 アヴェリンは無言で頷く。

 

 狩りは戦士の誇りだ。己が力量と武勇を示し、肉を供する行いは何者にも犯し難い聖務と考える。だがそれは何も無差別に命を狩るという事ではない。命に感謝し奪い、その糧とする事に敬意を表す。

 それを主人に献上出来ることは、己が職務に誠実であることの証明でもある。

 

 力ない戦士は獲物に変わって狩られるだけ。

 しかし狩る機会すら与えられないと来ては、アヴェリンの矜持はどこへ持っていけばいいのか困惑したに違いない。

 

 アヴェリンの膝の上で握る拳が震える。関節は白くなり、骨がきしむ音がした。それほど強く握り込んでいる。

 

 ミレイユはその握り拳の上に手を載せた。

 ゆっくりとさすり、握った拳を解いてやる。

 アヴェリンの表情が驚きで見返していた。

 ユミルが教えてくれた事だが、と前置きしてから、ミレイユは言葉を紡いだ。

 

「お前がそれほど強い気持ちで狩りに臨んでいたこと、私はよく知らなかった。お前が獲物を仕留め、肉を渡してきた時も、自慢気にするだけはあるという程度の認識だった。……だが、違うんだな」

「は……、狩りは戦士の生き様でもございますれば」

「だが、こちらで狩りを許す訳にはいかない」

 

 アヴェリンは苦い顔で再び拳を握りしめる。

 

「こちらでわざわざ肉を狩る必要がないのは確かだ。そもそも畜産――家畜は檻の中にいて逃げる事も出来なければ、反撃してくるような種でもない。狩りを許されても、お前には侮辱と感じる程の獲物しかいないだろう」

「しかし……」

「なぁ、今は――今だけは狩りを忘れても良くないか。誰もお前を肉を用意できないからと蔑んだりはしない」

 

 しかし、と再びアヴェリンの顔が俯く。

 心ばかりが空回り、気持ちを言葉に出来ず、口から出るものも形にならないような有様だった。

 

「それでは、私は、私の……!」

「――考えすぎるな。静養、休暇、言い方は色々あるだろうが、お前もまた私と同じように休めば良い。誰も咎めないし、求めない」

 

 ミレイユの言葉に、アヴェリンの顔が歪む。

 

「だがたった一つ、お前に求める。たった一つ、お前に望む」

「それは……一体」

「お前は私の傍にいろ。それだけでいい」

「は……。ハッ……!」

 

 アヴェリンは拳の上に重ねられているミレイユの手を、更に上から重ねた。涙で滲む瞳を、必死に零すまいとしながら、正面から見つめる。

 ミレイユもそれを見つめ返しながら、眉根を寄せて小さく笑った。

 

 思えば、こうしてアヴェリンに直接言葉に出したのは初めてだった気がする。

 いるのが当たり前になりすぎていたし、何かと忠誠を示そうとするアヴェリンを疎ましく思っていた。次第にその態度を表すのにも慣れてきて、ついには言いたいなら勝手に言え、示したいなら勝手に示せ、という有様だった。

 

 そういう態度になったのは、ミレイユ自身そういう態度を示して貰うに相応しい人物ではないと考えていたからだが、それは同時にアヴェリンの気持ちを蔑ろにする事でもあった。

 ただの村娘がちょっと良い事をしたぐらいで、戦士が忠誠を示す訳もない。

 示すからには相応の理由があって、だからこそ誇りを持って忠節を示すのだ。我があるじ、と頭を垂れるのは容易な事ではない。

 

 ミレイユは最近、そのあまりに実直な忠義に、少しでも向き合おうという気持ちになってきた。

 ゲームの登場人物ではなく、一つの生命として誠意を向けようと思えば、彼女の気持ちに応えるのも吝かではなかった。

 しかし彼女の瞳を見つめ返すに至り、それは少し早まったかなという気持ちになってもいた。

 

 アヴェリンは椅子から降りて片膝をつき、ミレイユの手を仰いで額を付ける。

 感激に打ち震えて出た行動だと分かるが、隣のテラスに座る御婦人方の眼差し、そして子供が見てくる純粋な瞳が怖い。

 

「……アヴェリン、分かった。分かったから。お前の忠義をありがたく受け取るから、席に戻れ」

 

 ミレイユは慌てた声を抑えることもできず、隣に向かって弁明する。

 

「ああ、これは……ええ。こちらの風習によるもので、大袈裟に見えてしまうでしょうが、あまり気にしないでいただけると……」

 

 ミレイユは帽子がある事これ幸いと、ツバを摘んで頷くような仕草で頭を下げる。

 アヴェリンは手を額に戴いたまま動こうとしないし、二人の様子を静観していたユミルは笑い出すしで、遂に収拾がつかなくなった。

 

 店員が注文した物を運んできたことで、ようやく空気が正常に戻り、アヴェリンを座らせて大人しくさせる。ユミルは元より、ルチアにも恨みがましい視線を向けたが、両方ともに無視された。

 アヴェリンは未だに手を離さないし、子供も未だに視線を外さない。

 

 ミレイユは大きく息を吐いて、とりあえず届いたコーヒーに口を付けた。

 

 

 

 

 アヴェリンが満面の笑顔でミルフィーユにフォークを刺すのを、ミレイユは呆れた気持ちで見つめていた。

 あの笑顔はスイーツが美味いという気持ち三割、先程の感激七割といったところだろう。

 ユミルからの助言に従ってやった結果がこれだ。

 お陰でアヴェリンの調子は戻るどころか絶好調だが、何か物申したい気持ちにもなってくる。恨みがましい視線はそのままに、更にユミルを見つめ続けると、流石に根負けしたらしいユミルがカップから口を離して言ってきた。

 

「……なによ、良かったじゃない。麗しい主従愛で」

「何が麗しいだ、白々しい。……お前、こうなること分かって言ったんじゃないだろうな」

「そんなワケ……ぶふっ、そんなワケないでしょ」

「お前いま笑ったか? 笑ったか、今?」

 

 カップを口に当てて飲むふりして顔を隠すが、それは既に空であることをミレイユは知っている。ミレイユが魔術でカップを引っ張って奪うと、悪戯がバレた子供のような笑みを浮かべた。

 

「まぁまぁ、あのまま放っておいたら、それこそアヴェリンだってずるずると調子崩していた可能性あるじゃない。精神的に病んでいたりしたかもね。それ考えたら、ずっとマシな選択じゃない」

「言ってる事は理解できるが、気に食わない」

「わがままな子ね」

 

 笑って言い肩を竦めるユミルに、カップを投げて返す。

 ユミルはそれを手を使わず魔術で受け止め、ソーサーに戻した。

 アヴェリンは相変わらずの笑顔で、ユミルに普段向ける事のない実に晴れやかな表情で賛辞した。

 

「お前にしては良い行いをしたな。今までも私とミレイ様の絆は揺るぎないものだと理解していたが、ここで改めて証明されたということだ。黙って話を聞いて介入しなかったのも、褒めてやりたいところだ」

「私も黙って聞いていたんですけどね」

 

 ルチアが不貞腐れるように言ったが、それをアヴェリンは笑い飛ばした。

 

「お前はいつも、ああいう場面では前に出ない性分ではないか。……なんだ、褒めて欲しいのか? ならば褒めてやろう」

 

 言うや否や、ルチアの頭を撫で回す。撫で回すというよりは頭を掴んで揺らすような有様で、異様に高いテンションに、ルチアは関わる事を早々にやめたようだ。

 腕を振り払い、少しでも離れようとユミルの方へ椅子をずらす。それまではテーブルを囲んで十字のような形だったが、それで歪な席位置となってしまった。

 

「今日はもう口を開かない事にします」

「それがいいかもね……」

「なんだ、ここの甘味はやけに美味いな。気持ちまで嬉しくなるようだ、ハッハッハ」

 

 そりゃ因果が逆だからでしょ、とユミルは口に出したが、それがアヴェリンの耳に届く事はない。食べ終わった皿をどけ、上機嫌にメニューを見ながらミレイユに伺う。

 

「もう一品、頼んでもよろしいでしょうか?」

「ああ、好きにしろ」

「ありがとうございます。……うむ、次は何にしたものか。まったく困るな、ユミル?」

「ええ、ホント困ってるわ」

 

 ユミルの皮肉も意に介さず、メニューに没頭するうアヴェリンに、ユミルは腕を組んだまま、空になったカップを魔術で浮かせて投げつける。

 それを同じく魔術を使った念動力でミレイユが受け止め、カップをソーサーに戻した。

 

「カップで遊ぶな。手持ち無沙汰なら、お前も何かお代わりを頼むなり、何か甘いものを頼むなりしてろ」

「初めて飲んだけど、ココアってあんまり好みじゃないのよね」

「紅茶もあるぞ、そっちはどうだ」

「そうねぇ……」

 

 ユミルが難色を示していると、ミレイユの裾を何者かが引っ張った。

 そちらに目をやると、隣の席に座っていた子供がミレイユの裾を握っている。

 何だと思っていると、目をキラキラと輝かせ期待に胸を躍らせながら、拙い言葉を放ってきた。

 

「おねえちゃんたち、まほうつかいなの?」

「……ん?」

 

 当たり前のように使っていたが、そういえば外で魔術を使わないとアキラにも言っていた気がする。

 言うまでもなく、こちらには魔術を使う者などいない。

 あちらでは息を吸うように使っていたものだから、意識していないとこういう事が起きる。

 

 難しい顔で唸って、ユミルに向かって顔を顰めてやると、わざとらしくメニューで顔を隠してしまった。

 ルチアも今日は口を開かないという宣言どおり、我関せずを貫くつもりらしい。

 

 ミレイユは困り果てて子供を見返し、何と返答したものか迷う。

 隣の席に目を移しても、母親はおしゃべりに夢中で子供の事は目に入っていない。

 どうしたものかと唸ったが、そもそも幼稚園生ごろと思われる子供なら、魔術が本物か偽物かなど気にしない。というより、偽物を本物だと認識する年頃だろう。

 ここで見せたものを親に話したところで、ありふれたマジックショーのネタだと思わせる事が出来る。

 

 ミレイユは一つ頷いて、帽子のツバに手をかける。

 演技がかった仕草で縁をなぞるように動かし、口の端に笑みを浮かべた。

 



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試練 その5

こちら、二話連続更新の二話目になります。
お読みになる際、ご注意下さい。


「お嬢ちゃん、魔法を見てみたいか?」

「みたいみたい!」

 

 ミレイユが優しく問いかけると、小さな子供は小さな顔に満面の笑みを浮かべて手を振り回した。その様子を見ていたユミルが、焦ったような声で制止する。

 

「ちょっと……! それ大丈夫なの? 外じゃ使わないってアンタ自身言ってたじゃないの」

「ああ、そうだな。だがこっちでは、やり方次第で魔術を魔術と知らせずに、魔術だと認識しつつも勘違いさせる見せ方があるんだ」

「……意味不明なこと言って、煙に巻こうとしてない?」

 

 ユミルが胡乱げな表情でミレイユを見返せば、それを聞いていたアヴェリンも同様に不思議そうな顔はしていた。

 ユミルが懐疑的に対して、こちらは何をするつもりなのか、その方に興味があるようだ。ミレイユが自分からやろうと言うのなら、大きな問題にはならないと判断したらしい。

 

 ルチアもユミル同様怪訝な表情で見ていたものの、静観の姿勢は崩していない。止めるというより、ミレイユの言った方法を理解できずにいるようだ。

 

 それもその筈、魔術が現実としてある世界の人間には理解できない発想だろう。

 手品とも呼ばれるマジックの多くの事は、あちらでは出来て当然のことで芸に値しない。右手を上げて左手を下げられる人を見たからといって、賞賛するに値しないという話と同様だ。

 

 しかし、こちらの世界ではそれこそが喜ばれる。

 そして見せ方一つで歓声を上げる世界でもあるのだ。

 

 ミレイユは子供に元の席に戻るよう手で示す。子供は素直に従って席によじ登り、期待した目を隠さず見つめてくる。

 ミレイユはそれに小さく手を振って、傍らのコーヒーカップに指を向けた。

 直接触れるような距離まで指は近付けない。そこにまるで呪文をかけるように、流麗な動きを見せた後、ピタリとカップに向けて指を向ける。

 そうすると、カップが勝手に宙へ浮いた。

 

 子供はきゃあきゃあと喜んで手を叩き、子供の近くに左へ右へと蛇行させながらカップを近付けて行く。子供はすぐ近くまで来たカップを、そのまま受け取ろうとした。しかしその瞬間、ひょいと上に逃げてその手を躱してしまった。

 ムキになって取ろうとするも、その度にカップは左へ下へ、そして右へと逃げていく。

 その瞳に涙が滲むようになると、ミレイユも観念してカップを取らせてやった。

 

「きゃああ!」

 

 喜んで声を上げ、隣の母親に見せびらかすようにカップを掲げる。

 それまでこちらに目を向けていなかった母親は、どこから持ってきたカップなのかと不思議がっては、こちらに顔を向けてきた。

 ソーサーの上にカップがない事に気付いた母親は、子供に優しく叱りつける。

 

「だめでしょ、莉子ちゃん。それは隣のお姉さんのものだから、ちゃんとごめんなさいして返しなさい」

「でもね、りこね……」

「でもじゃないでしょう? ちゃんと返さなきゃだめ。めっ、だからね」

 

 悲しそうに目を伏せて、カップに目を落とす子供に、ミレイユは笑って手を振った。

 人差し指をカップに向けて指を回すと、その小さな手からカップが跳ねる。驚いた子供――莉子が落とさないように手を伸ばし、そしてカップが宙で制止する。

 

 驚いた母親も、その友人も目を剥き、その間にカップは宙を滑るように動く。

 そして、まるで別れを惜しむかのように莉子の頬にカップを当て、離れてはまたもう片方へ頬ずりする。そして今度こそお別れだと言うように、カップの取手を揺らすと、そのままミレイユの席に置かれたソーサーに戻った。

 

 それまで、まるで生きているかのような動きを見せていたカップは、カチンとソーサーの皿に音を立てて座ると、無機質に戻ったかのように動きを止めた。

 

「あぁん……!」

 

 莉子は別れを惜しむような声を出したが、母親とその友人は呆けた顔のまま、まばらな拍手を返す。それにミレイユが帽子のツバを摘んで、小さな会釈を返すと、それがマジックショーだと理解したらしい。

 今度こそ拍手を強めて顔に笑みを浮かべた。

 

「まぁ、すごい! なんて見事なんでしょう!」

「ほんと、まるで生きているみたいで!」

「りこ、あのカップほしい!」

 

 莉子はミレイユのカップを指差してねだるが、母親は困ったような笑みを浮かべる。どう説明したものか困っているようだ。

 そこにミレイユが優しく声をかける。

 

「このカップは魔法で一時的に動けるようになっただけ。例えこれを渡しても、家に帰るまでに魔法が切れてしまうよ。だから、今は見ているだけで満足しような」

「んー……!」

 

 莉子は不満そうだったが、ミレイユの言葉に助けられて母親も説得の切掛を得られたようだ。

 

「そうよ、莉子ちゃん。家に返っても動かないカップなんていらないでしょ? 今日動いているところを見れただけで良かったと思わないと。ほら、動いてるところ見れて良かったねぇ?」

 

 そう言って莉子の頭を撫でて、頬を撫でる。

 むずむずと口を動かしていた莉子も、撫でられている内に機嫌が良くなっていくようだ。

 

 ミレイユはそれを見ながら、さて次はどうしようかと考えていた。

 以前はマジックショーブームなんてものがあって、テレビでもそれなりの数が放映されていた。しかしそれも昔の話で、どういったものがあったのか咄嗟には思いつかない。

 

 スプーン曲げが脳裏に閃いたが、それこそ念動力を使った力技で曲げるだけで、スプーン一本を駄目にしてしまう。もとに戻しても一度曲げた金属は、完全に元の形にはならない。幾らか歪んだスプーンになるし、そうなれば客前に出すには不健全となるだろう。

 

 店側の許可を得られるか分からないものを、事後承諾を貰える前提でやるものではない。

 では何をやろうか、と考えて、次に思い出したのはコインを消すマジックだった。

 手の平や手の甲へ、上手い具合に挟み込み消したように見せるマジックで、実は手の甲に筋力を付けて行う力技だと知った時は驚いたものだった。

 

 ミレイユならもちろん、これを個人空間に収納するだけで消したように見せる事が出来る。もしアキラがこれを知れば詐欺だと言われるような所業だが、そもそもマジックはタネを割ってみれば詐欺みたいなものだ。

 

 箱にカードを隠して蓋をして、開けてみれば別のカードなんていうマジックも、そもそも箱自体に工夫していて本人は底のスイッチを押しただけ、なんていうものもある。

 それを思えば、タネはあっても仕掛けはないだけ、ミレイユのマジックは上等だろう。

 

 そしてミレイユは先程思い付いた二つのネタを、組み合わせて使ってみせる事にした。

 カップのソーサーについていたティースプーンを、摘んで見せつけるように顔の前に翳す。

 これを消したように見せるマジックを披露するのだ。

 

 スプーンを消すマジックも割とメジャーだったと思うが、コインよりも大型のスプーンは消したように見せるにも限界があって、そのパターンも少ない。

 しかしミレイユにかかれば、そのような定石などあってないようなものだ。例え指先一つ、爪先一つでも接触していれば、対象が物体であれば収納できる。

 それに収納した物を出すなら手の中ならどこでも出せる。手の平、指先、手の甲でも。大きいものを手の甲に出せば落とすだけなので普通はやらないが、こういう場合なら実に見事なマジックに見えるだろう。

 

 ミレイユが次のマジックを見せるつもりだと分かって、莉子もその親たちも興味津々だ。

 持ち上げたスプーンを左右にプラプラと振って、それを二度、三度と続ける内に、ふっとスプーンが消えてしまう。

 眼を見張る間に、もう片方の手を翳すと、そこにスプーンが現れる。

 

 ほぅ、と息を吐くように感嘆する親たちと、手を叩いて喜ぶ莉子。

 だが、どうして消えるのか、マジックというものを知らない莉子は、マナー違反とも取れる行動を取った。

 椅子から降りた莉子がミレイユの手を取って、手の表と裏を引っくり返して見る。

 

「ママ、スプーンどっかいっちゃった」

「こら、莉子ちゃん。めっ、めっだよ! そういうことしちゃダメなの」

 

 母親は慌てて引き離して、頭を下げながら席に連れ戻す。悲しげな顔をして消沈する莉子に、ミレイユは帽子のツバを下げながら立ち上がる。

 ミレイユはゆっくりと莉子に近づくと、その場にしゃがんで莉子の耳元に手を向ける。

 

「スプーンはここにあったんだ」

 

 そうして眼の前に持ってきて、スプーンを手渡してやる。

 莉子は目を輝かせて受け取り、母親にスプーンを見せびらかす。母親はミレイユに感謝するようお辞儀をして、莉子を撫でてあやした。

 

「ママ、あった! これ! りこのところにあった!」

「良かったわねぇ」

 

 親子の団欒を後ろにミレイユは自席へ戻り、足を組んで背に凭れた。

 ユミルは笑い声を抑えるのに必死で、口に手を当てて肩を震わせている。ルチアは呆れた顔を隠そうともせず、何をやってるんだこいつ、と言外に語っていた。

 アヴェリンも似たようなもので、顔にも口にも出さないが、ただ子供に優しくしているところだけ評価しているように見えた。

 

 コーヒーのお代わりでも頼もうと思ったが、先程アヴェリンが注文していたのを思い出した。後で持ってきた時にでもしようと、店員が来るのを待っていると、先程の莉子がスプーンを手に持ってやってきた。

 両手で持ったスプーンを差し出して来たのを見て、返しに来てくれたのだろうと思っていたら、屈託のない笑顔で言ってくる。

 

「もっと見たい! もっと見せて!」

 

 ミレイユは思わず帽子のツバを摘んで下げる。

 このぐらいの年頃の要求は際限なく、また大きくなっていくものだ。いつまで続けたものかと思って、視線を遠くに向ければ見知った顔が歩いている。

 

 まだ近くまで来るには時間が掛かりそうだが、それまでならいいだろうという気持ちになってきた。

 母親も子供をあやしてくれる存在をありがたく思っているフシがあり、特に咎めることなく見つめている。いやあれは、本人も見られるものなら他のマジックを見たいと思っている顔だ。

 

 ミレイユはスプーンを受け取って莉子の席を手で示す。帽子のツバを摘んで下げると、それが合図だと思ったらしい子供は、喜んで席に戻った。

 

「あまり見せれるバリエーションは多くないんだが……」

「よく言うわよ」

「ですね、よくあんな発想が出てくるもんです。子供騙しにすらなってないのに」

 

 外野には手を振って黙らせて、ミレイユはスプーンをぞんざいに上下に振った。

 莉子は目を輝かせてそれを見つめ、その小さな両手を胸の高さで握っている。

 指先まで綺麗に伸ばした左手を、縦にしたまま胸の前で構える。見ようによっては、ゴメンのポーズに見えるだろう。

 その手の平に横向きにしたスプーンを近付けて、その頭が接触したかと思うと、するりとした動きで手の平の中へ消えていく。

 パンと手を打ち鳴らし、両手の平を莉子に見せて、何もないと証明するように手の甲へも順に見せた。

 

「ほぁぁ……」

 

 莉子は口を開けて左手と右手を見比べ、消えた事実に喜び、そしてミレイユは手首を翻して右手で摘む動作を見せると、そこにスプーンが現れる。

 

「きゃぁあ!」

 

 そして現れたスプーンに手を叩いて喜んだ。

 しかし喜ぶ声を上げたのは莉子だけでも親たちだけでもなく、後ろからもかかってきた。

 

「すごいですね。後ろから見てたのに、まるで分かりませんでした!」

 

 声を掛けてきたのはこの店の店員で、アヴェリンに給仕をしながらにこやかな笑顔を向けながら言ってくる。

 アヴェリンは見た目にも美しいスイーツに喜色の声を上げ、ミレイユはコーヒーのお代わりを頼みつつ肩を竦めて見せた。

 

「おや、不躾な観客もいたものだ。見たいのなら、どうぞお好きな席へ」

「まぁ、嬉しい! ……あ、でも、いいのかしら。お客様を放っておいて」

「その辺はまぁ……、あなた方店員のさじ加減一つじゃないのか」

 

 そうしてミレイユは、莉子にスプーンを手渡すように差し出す。不思議そうに顔を傾け、母親にいいのかと伺うように顔を向けた後、頷きが返ってくると喜んでスプーンを受け取った。

 それからスプーンをどうしようかと思っているところへ、ミレイユがその手を握って持ち方を変えてやる。持ち手を下に、そして頭を上に。

 持ち手部分を両手で握らせ、スプーンの頭をよく見るように指示した。



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試練 その6

秋野よなか様、誤字報告ありがとうございます!
 


「いいかい、莉子。いま君に、一回だけ魔法を使えるように力を分け与えた」

「ほんと!?」

「そうとも。スプーンをよーく見て……そして消えるように念じる」

「ねんじる……」

 

 ミレイユがスプーンの頭を指差し、その部分を二度ほど叩く。

 

「そう、ここを良く見て、消えろって頭の中で思うんだ。そうすると、3、2、1で消えるだろう」

「うん! やってみる!」

 

 そうして真剣な目をしてスプーンを見つめ始める。ミレイユは指揮者がタクトを振るように指を揺らし、カウントを始める。

 

「そら、行くぞ。3、2、1……!」

 

 ミレイユが一言ずつ数字を言う度、莉子の手に力が籠もるのが分かった。ミレイユは人差し指をスプーンの頭に当て、そして最後の一言を放つ。

 

「――ゼロ!」

 

 ミレイユの宣言どおり、スプーンは莉子の手の中から消えた。

 確かに握っていた筈のスプーンが手の中から消え、莉子は歓喜の声を上げながら両手を広げて自分が持ってないことをアピールする。

 

「やった! きえた! ママ、みてみて! ないよ、スプーンない!」

「あら本当。莉子ちゃん凄いわ、可愛い魔法使いさん」

「うん! でも……」

 

 喜色満面の笑みだったのも束の間、莉子の顔はすぐ曇る。手を二度、試しに上下へ振ってみもスプーンは出てこない。悲しげな顔をして手を握ってしまった。

 

「スプーン、もうでてこない」

「あらぁ……」

 

 母親も悲しげに眉を寄せたが、彼女に出来ることはない。これはショーでパフォーマンスと理解しているから、どう声をかけたものか迷っているのだ。

 

 ミレイユは再び莉子の手を取りながら、自分の席に戻る。

 そして大事な事を言い含めるように、ゆっくりと言葉を発しながら、その小さな手を広げてやった。

 

「いいかい、莉子。私が君に与えた魔法は一回きりなんだ。消してしまえば、勝手に出て来てくれない。どうして一回だけか分かるかい?」

「……わかんない」

「好きに使えてしまうと、色んなものが消えていくからだ。勝手に使うと、とても怖いことになる」

「うん……なる」

 

 ミレイユはその頭を撫でながら、諭すように言った。

 

「だから一回だけなんだ。でも、莉子が望むなら、もう一度だけ……スプーンを呼び戻すのに魔法を使わせてあげよう。どうする?」

「つかう! もういっかいやって、スプーンもとにもどす!」

「よし、いいだろう」

 

 ミレイユは頭をもう一度撫でて、莉子の広げた手に人差し指を当てる。もう片方の手も広げさせ、両手で水を掬うような形にさせた。

 

「いいかい、莉子。もう一度念じるんだ。スプーンが戻って来るように、今度はもっと強く。消した時より、ずっと強くね。……出来るか?」

「うん! りこ、やる!」

「いい返事だ。それじゃあ、もう一度。3、2、1……!」

 

 ミレイユが莉子の指先に自分の指を当てる。莉子の目は真剣そのもので、口の中で唱えるように出てこいと念じていた。

 

「――ゼロ!」

 

 ミレイユの一声と同時に、莉子の両手の中にスプーンが現れる。

 莉子は悲鳴のような歓声を上げて、母親の元に駆け出す。戦利品のようにスプーンを掲げて、顔を真赤にさせて興奮していた。

 母親もまた喜んで頭を撫でくり回し、莉子の誇らしげな顔を優しい顔で見つめていた。

 その光景とミレイユ達両方を見ていた店員も、感嘆の息を吐く。

 

「いやぁ、凄いですね……! 全然分かりませんでした。貴女は何かを握り込んでいるように見えなかったのに、本当に突然消えては突然出てきて! 自分の手の中ならどうにでも出来そうですけど、他人の手の中だなんて! どうやったんですか?」

「それを教える魔術士(マジシャン)はいないだろうな」

 

 ミレイユは帽子のツバを摘んで顎を下げた。

 店員も口に手を当てて、困った顔をして笑った。

 

「そうですよね! すみません、私ったら。生のマジックなんて私、初めてで。テレビなんかであっても冷めた目で見てたりして。本当のマジックって、こんなに分からないものなんですね」

「楽しんでもらったようで何よりだ。……でも、今日はあと一つで最後だな」

「あらぁ……、残念です。また見れますか?」

「どうかな」

 

 心底残念そうにする店員に、ミレイユは傾げるように首を動かし、言葉を濁す。そうしたところに、ふと気付いて帽子のツバで見えない店員に向けて注文した。

 

「――知人を見つけた。こちらに招きたい。席をもう一つ用意してもらえるか?」

「えっ、はい、勿論です。席はすぐにご用意できます」

 

 ミレイユは言いながら、道の向こうへ手招きしているユミルを見る。

 ユミルが見ている方向にはアキラと、もう一人誰かいて、恐らく学友と下校途中なのだろう。必死に目を合わせないよう他人の振りをしていたが、それを無視してアキラを指差す。

 

 アキラが硬直したのを確認すると、腕の向きを反転させて指先で手招きした。

 それで渋々と、あるいは嫌々と歩き出した姿を見て、ミレイユは新たなマジックの披露を始めた。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 アキラは下校しながら秀馬に捕まった事を、早々に後悔し始めていた。

 朝の会話が不完全燃焼だったのか、しつこく同じ話題を振ってくる。女子生徒に追い払われた後、その話題を他の男子グループにも話していただろうに、そこまで同じ話題を繰り返す意味はあるのだろうか。

 

 もしかしたら、あちらでも似たような扱いを受けたのかもしれない。それに顔写真を持っている訳でもないから、説得力にかけるだけなのか。

 それとも単に、己の興奮を分かち合いたいだけなのかもしれない。

 しかし何れにしても、どんなに美人がいたと力説して、口の説明だけではあまり意味のない話題なのは確かだ。

 

「だから、ホントなんだって! メチャ凄い美人だったんだ! それも一人だけじゃない、四人もいたんだぞ!?」

「分かったって、別に疑ってないから!」

「じゃあ何だって、そんな興味ないんだよ」

 

 いやぁ、とアキラは言葉を濁す。

 非常に身近にいるせいで興味を示しようがない、など正直に言えないし、下手な事を言ってボロを出したくもない。こういう()()()()は、本人は気づけないくせに、秀馬のような男は敏感に察知するのだ。

 

 どう誤魔化したものかと悩んでいると、道の先に喫茶店が見えてきた。

 テラス席はそれほど埋まっていないようだが、子供のはしゃぐ声だけは聞こえてくる。元気な子だなぁ、と思っていると、その席の一角では非常に見覚えのある一団が陣取っていた。

 

 気付かなかった振りをしようと顔を逸し、雲の動きなどを見ていると、秀馬がアキラの肩を激しく揺する。

 

「なぁ、おい! いたよ、いたって! 昨日見た美女軍団だ! この近所に住んでんのかな!?」

「あー、そう。どうだろね」

「おい、ちゃんと見ろって! マジすげーんだから!」

 

 秀馬に無理矢理顔を掴まれ、視線が前方のテラスへ向かい、ユミルの目とかち合う。

 ユミルはにんまりと笑みを浮かべると、手を振って手招きまでして来た。

 

「おい、こっち見たよ! こっち見てるよな!? これ誘われてる? 逆ナンってやつ!?」

「……いや、どうだろね。俺たちの後ろに誰かいるんじゃない?」

 

 アキラの必死の弁明も、秀馬には意味を為さないようだった。アキラの肩を引っ掴み、あの集団に突撃しようと鼻息荒く捲し立てる。

 

「だったとしても関係ねぇ! 一緒にお茶するぐらい許される筈だ! ごめん勘違いしちゃった、でも折角だからご一緒に……そんな感じでいくぞ!」

「いやいやいや、迷惑になるからやめろって!」

 

 アキラは抵抗を続けたが、ミレイユからも直接指差しされて呼ばれては、もはや無視し続けることも出来ない。ここで無視して帰ろうものなら、アヴェリンから師匠の扱きという名目で痛めつけられるだろう。

 アキラは肩を落として連行される囚人の気持ちで、その一団へ近付いていく。

 

 見てみれば、ミレイユはどうやら小さな子供に何か芸を見せて楽しませてやっていたようだ。

 意外な気持ちのまま帽子で隠れて見えない顔に目を向けていると、足に抱きつく子供をあやしながら、空いている一席を示した。

 

「せっかくだ、好きな物を頼め」

「あー、と……」

「ええっ、いいンスかぁ!?」

 

 秀馬が鼻の下を伸ばしながら食いついたが、それはアヴェリンにあっさりと拒否された。

 

「誰だ貴様は。あっちに行っていろ。――アキラは座れ」

「……はい、すんません。なぁ、アキラ。お前、あの人たちと知り合いなの?」

「いや、うん、まぁ……」

「何で言ってくれなかったんだよ!?」

 

 秀馬の顔は涙目だ。肩を掴んで揺すってくるが、アキラは苦い顔で秀馬を引き剥がす。

 

「いや、言う暇なかったっていうか……何て言えばいいか分からないっていうか……」

「お前そんなん黙ってるなんて親友失格だぞ!」

「いや、いつの間に親友になったんだよ」

「こんな麗しいお姉さま方と、お前だけ知り合いなんて酷いじゃないか。親友なら紹介ぐらいしてくれるもんだろが!」

「下心見えすぎてキモいんだよ、マジそういうの、あの人達に向けるのやめとけって」

「なんだ、早速一人で独占か。誰にも渡しませんってか!」

 

 引き剥がされても尚、食い下げるつもりがない秀馬はアキラから離れない。

 同じ席に着くチャンスを、ここで決して逃さぬつもりらしい。

 

 そこに二人のやりとりを楽しむユミルが、肘をついた上に顎を乗せた姿勢で笑う。

 

「ふぅん。アンタにもそういう、あけすけに物を言える相手がいるのねぇ」

「いや、そりゃいますけど……。でも、コイツはちょっと女性に対してグイグイ行き過ぎるところがありまして……」

「そうね、アンタ品がないわ。隣の席に行きなさいな」

 

 ユミルの容赦ない一言で秀馬の動きが固まる。そのまま、しょんぼりと背中を丸めて席についた。流石に見過ごせず、アキラはミレイユに謝罪して断りを入れ、秀馬の前の席に座った。

 

「あの人は割と言葉をハッキリと言うから、あんま気にしなくていい。でも勝手に近づくと、隣の金髪の人が怒るから、そこは本当に注意した方がいい」

「……なんだよ、それでも紹介してくんねぇのかよ」

「いやいや、俺にそういう決定権はないから。そういうの許しがないのに勝手やると、絶対怒られるから」

「……仲いいんだろ? 好きなモン頼めとか言われてんじゃんか」

 

 恨めしそうに見つめる秀馬に、アキラは苦い顔で首を傾げる。

 

「あれは別に仲がいいから言ってくれてるんじゃないんだよ、ちょっと訳ありなだけ。それに上下関係が出来上がってて、俺は完全に下の下だから。あの人達の望まない事を勝手にやったら、即座に切り捨てられると思う」

 

 アキラが暗い顔で告げると、秀馬も気楽な付き合いの間柄ではないと察したらしい。

 実際、これは単なる関係性の切り捨てという意味ではなく、文字通り切って捨てられる可能性すら意味する。身寄りがないと知ってからは優しくしてくれているが、その気になればアキラの頭から記憶を消して姿を消す事だって有り得るだろう。

 

 単に美人だからという理由で近付いてくるような男なら、そもそも昨日のチンピラを筆頭に、どういう方法で排除するかよく理解している。

 だからアキラは忠告するのだ。そもそも気軽な気持ちで彼女たちに近づくなと。

 

「マジか……。結構おっかないんだな」

「そうだよ、皆おっかないんだ。だから今日のところは奢るから、それで機嫌直せ。で、あの人達には近寄らず、素直に帰れ」

「――アキラ、聞こえてるわよぉ」

 

 ユミルの地を這うような声に背筋を凍らせ、そちらへ顔を向けないよう、必死に遠くの風景を見る。アキラの表情を見て何かを察した秀馬は、生唾を飲み込んで顔を青くさせた。

 

 ミレイユと子供、そしてその親らしき人達が談笑しているのを横で聞きながら、とりあえずこの状況が早く終わるよう祈った。

 



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試練 その7

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「絶対また来てください! サービスしますから!」

 

 営業スマイルとは違う満面の笑みで店員に見送られ、すっかり懐かれた莉子にも親たちと一緒に手を振られる。

 ミレイユは最後まで素顔を見せなかったが、それを不審とは思わなかったようだ。ミステリアスな魔術師(マジシャン)として、そういう芸風だと思ったのかもしれない。あるいは事務所の契約か何かで、外で芸を見せてはいけないという取り決めがあった、と深読みをしたせいなのかも。

 

 莉子については、身長の関係でバッチリ顔を見られてしまっている。

 ミレイユの顔を見て驚いていたのは、どういう意味なのか分からない。子供なら美醜について、それほど興味もないだろう。何か他に意味があるのかと思ったが、特に気に留める事はなかった。

 

 だが見た事は秘密にして、と人差し指を唇に立てて見せれば、コクコクと頷いていたので口外する事はないと祈ろう。

 ……おそらく、一時間ぐらいは我慢してくれる筈だ。

 

 これからは別の喫茶店を使うべきか、それともサービスするという約束につられて通うべきか、と迷っていると、友人と別れ後ろに着いてきていたアキラが聞いてくる。

 

「随分と小さな子に懐かれてましたね。子供、お好きなんですか?」

「そうだな……、子供は好きな方だ。特にああやって素直に喜んでいる顔は、見ていて愛くるしい。そうじゃないか?」

「ですね。ただ、ちょっと意外で。もっとドライな方だと思っていたので」

 

 ミレイユが肩を竦めると、横からユミルが口を挟んだ。

 

「あら、この子は昔から子供には弱いのよ。特に幼い子供の頼み事にはね。断っているの見たことないもの」

「……確かにそうだな」

 

 アヴェリンも同意すると、遠い目をして頷いた。かつての記憶に思いを馳せているのだろう。

 ルチアも何かを思い出したようで、皮肉げな顔を上げて言う。

 

「考えてみれば、あの大騒動の切掛になったのも子供のお願いだったんじゃないですか。それが最終的には戦争にも発展して……」

「――それ以上は言わなくて良い」

 

 ミレイユが手を挙げて口止めして、それでルチアが微妙な表情で口を噤んだ。隣にいたアキラも聞きたそうにしていたが、許可するつもりはなかった。

 それで一度会話が途切れ、アスファルトを蹴る複数の足音だけが耳に届く。

 それから数秒の後、アヴェリンが思い出したかのようにアキラへ顔を向けた。

 

「そういえば、今日は随分早かったみたいだが、何かあるのか。これから、例の道場か?」

「いえ、別に。本当にたまたまです」

 

 それからアキラは改めて頭を下げた。歩きながらなので不格好な姿だったが、それなりの誠意は伝わってくる。

 

「申し訳ありません。僕の友人が不躾な真似を……」

「お前が謝る必要はない。遠ざける努力もしていた、よく言い含めておけばそれでいい」

 

 そう言ったアヴェリンは、ミレイユに伺い立てるように顔を向ける。ミレイユも頷きを返せば、アキラは安堵して頭を上げた。

 そこにアヴェリンが更に声をかける。

 

「これから予定はないんだな?」

「ええ……特には。あえて言うなら食事の準備とか宿題とかですけど」

「なら、このあと少し付き合え。腹ごなしに体を動かしたい」

「う……!」

 

 アヴェリンの提案に、アキラは物の見事に固まった。

 その顔は朝だけでは物足りず、この時間でも殴られるのかと語っていた。

 アヴェリンは不愉快に眉を寄せ、アキラを睨みつけた。

 

「何だ、その顔は。そもそもお前は力量が全く足りてないんだから、少し無茶するぐらいで丁度いいんだぞ。むしろ、こうして空いた時間に鍛錬をつけてくれる事に感謝してもいいぐらいだ」

「う、う……はい」

 

 アヴェリンの睨み顔に根負けするようアキラは頷き、肩を落とす。

 とはいえ、アキラ自身も己の力量に思う所はあるのだろう。即座に背筋を伸ばし、顔を引き締めたようだ。引き締めすぎて、引き攣っているように見えるのは、ご愛敬といったところか。

 

 アキラとアヴェリンの間には、決して狭まる事のない天地の差ほどの開きがある。

 アヴェリンが上手くやっているのは死んでいない事から確かだろうが、力量差に押し潰されて目標を見失っても意味がない。

 鍛錬がただ耐え忍ぶだけ、今日の鍛錬を乗り越えるだけ、という意識では逃げの努力だけが磨かれていく事になる。

 

 鍛錬を続けてまだ多くの日数は経っていないが、既にその兆候が見え始めている。

 何か対策が必要だった。

 

 

 

 

 アキラの部屋に帰り着き、共に中へ入ってそれぞれが思い思いに過ごし始めた。

 アヴェリンは着替えに箱庭の中へ入ったし、アキラも同様稽古着に着替えようと自室に入った。ユミルたち二人は早速スマホを取り出して、何やら弄って遊んでいる。

 

 ソファはユミルが寝そべって使っているし、勉強部屋はその椅子をルチアに使われている。座れる場所が占領された形で、ミレイユにとっては予想通りの展開だ。

 

 恐らく――。

 これは始まりでしかないのだろう。きっとこの占領具合は日に日に度が増していって、そのうち彼女達の私物が溢れるようになるに違いない。

 もしかしたら彼女たちの占領計画は、既に始まっているのかもしれない。

 

 何か一言、釘を刺しておいた方がいいだろうと思ったミレイユは、ユミルに上から声をかけた。

 しかしユミルはスマホから視線を逸しただけで、すぐに操作に戻ってしまう。

 

「ユミル、あまりアキラに迷惑かけるなよ」

「……えぇ、かけないわよ。今だってかけてないでしょ」

 

 かけてないのは事実だが、それは今からアキラが外に出るからだ。それを計算して行えているというのなら文句もないが、果たしてこれが恒常化したとき、アキラも同様に思うだろうか。

 

 ユミルは相変わらずスマホから目を離さず、それ以上何を言うでもない。

 ミレイユもまた眉を顰めて視線を切り、ルチアの方へ身体を向ける。勉強部屋になっているフローリング部屋に顔だけ出し、行儀よく椅子に座るルチアに声をかけた。

 

「なぁ、ルチア。部屋の中にいる時間とか、ちゃんと決めてあるのか?」

「どうしたんです、突然」

 

 ルチアはスマホを机に置き、身体の向きも変えて視線を合わせてきた。ユミルのだらけた姿勢を直前に見た身としては、相当行儀よく見えるが、しかしそれも節度ある使用をしていればこそだ。

 ミレイユは何と言えば理解してもらえるか、頭の中で言葉を組み立てようとしたが、あまり上手くいかなかった。とりあえず、思いつくまま言葉を並べる。

 

「いや、アキラの私生活をあまり脅かしてやるな、と言いたくてな。年頃の男は若い女が傍にいると落ち着かないものだ。そこのところを考慮して部屋を使ってやれ」

「わかりました。彼が部屋にいる時は、余程じゃない限り尊重しますよ」

「物分りが良くて助かる」

 

 それに引き換え、とユミルを背中越しに見れば、指を左右に動かしながら熱心にスマホを弄る姿があった。何を言っても上の空で、大した返事もしてこない。

 年頃の娘にスマホを買い与えたら、ああいう態度になるんだろうか、と益体もない事を考えながら部屋を後にする。

 

 ミレイユが何とも言えない顔をしながら、ユミルの横を横切って箱庭に入ると、邸宅の入り口からアヴェリンが出てきたところだった。手には相変わらずの鉄棒を持って、肩を伸ばしたり柔軟しながら歩いてくる。

 アヴェリンはミレイユの前で立ち止まり、道を譲って丁寧に礼をした。

 

「それでは行ってまいります。日が暮れるまでには帰ってきます」

「うん、結構な事だが……少し意外にも感じている」

「何がでしょうか?」

 

 アヴェリンが顔を上げて、視線を上に向ける。ミレイユの言った事に思い当たるものがないようで、困惑した表情が浮かんでいた。

 

「いや、ああいう事があったから、てっきり傍を一秒でも離れないとでも言うのかと思った」

「ああ……。いえ、そうしているより、自らを鍛える方が重要だと考えたまでです。貴女の隣に立てるのは私一人、それを他ならぬ貴女が口に出して言ってくださった。ならば私がやるべきことは、その位置にただ立つ事ではありません。その位置で何人たりともミレイ様に害を為せぬ力を保持する事です」

 

 なるほど、とムズ痒くなる気持ちで首肯する。それ程の気持ちを向けてくれるなら、ミレイユは主人としてそれを受け取るだけだ。

 だからミレイユは一言、簡潔に激励することにした。

 

「励めよ」

「ハッ! ミレイ様におかれましても、安んじてお過ごし下さい」

 

 アヴェリンは再び一礼し、箱庭を出ていく。

 空いたままになっている蓋の入り口からは、魔力を感じられるだけではなく、その音声すら拾うようになっている。

 そこからアヴェリンがユミルに向けて叱りつけている声が聞こえてきた。

 

「そんなだらけた格好でどうするつもりだ! 誰ぞの襲撃があったら、真っ先に箱庭をお守り出来るよう姿勢を整えておけ!」

「ちょっとやめてよ……。張り切るのは自分だけにしておいて。何かあるとは思えないけど、あったらどうにかするってば」

「本当だろうな!?」

「ルチアもいるんだから。――彼女の感知を通り抜けて接近する奴なんて、今までいなかったでしょ?」

 

 アヴェリンの唸る声まで聞こえてくる。

 実際、ルチアの感知は大したもので、ミレイユが絶対に勝てない部類だと判断している。彼女が見ていてくれればこそ、アヴェリンも外に出て鍛錬する選択肢を持てるのだ。

 

 アヴェリンが最後に念押しする声を背後に聞きながら、ミレイユは邸宅の中へ入って行った。食事の準備はルチアがするのだろうか。まさか帰ってきてからアヴェリンがするとは言わないだろう。

 後でルチアに確認してみようと思いながら、ミレイユは自室で服を着替え始めた。

 



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試練 その8

うぇん様、誤字報告ありがとうございます!
 


 夕暮れが迫る中、アキラは草原の上で今日何度目かになる転倒で背中を打っていた。

 アヴェリンのやる気は十分で、漲る力を持て余しているようにも見えた。

 追撃が来る前に起き上がり、素早く上段に構え、刀を打ち付けるように振り下ろす。アヴェリンは多くの場合、斬撃を避けない。避ける努力を怠るというよりは、打ち付ける感触、打ち付け防がれた後の反撃とその対処法を教える為に、敢えてそうしていると思われる。

 それ以外に考えられる要素として、アキラが躱せない程の一撃を繰り出せていない、という部分もあるかもしれない。

 

 今度の一撃に対しては、反撃してくる事なく、続いて攻撃する事を許可してくれたようだ。視線でそれが分かる。

 アキラもそれに視線で返して、更に連撃を繰り出す。時に実直に、時に虚実を交え、持てる力の限りに振るうも、それがアヴェリンの身体に触れる事はない。

 

 大振りな一撃を防がれた事で動きが止まり、拙いと思った時には遅かった。

 吹き飛ばされ、またも地面に転がされる。

 寝たままでいると躾の為に容赦のない追撃――大抵は腹に一撃――が来るので、とにかく横に転がって起き上がる。

 

 肩で息をしながら重たく感じ始めた刀を構え、アヴェリンを見つめる。

 アヴェリンは相変わらず息を乱していない。その身に詰まった力は、今にも膨れ上がって破裂しそうにさえ見えた。

 アヴェリンは大きく息を吸い、歯の間から絞り出すように吐いた。

 そうして鉄の棒を肩に担ぐと、その表情を緩める。

 

「三分、休憩だ。息を整えろ」

 

 言われると同時、アキラは肩を落として身体中を弛緩させ、息を整える。短時間で復調させ、万全の状態に戻すのも一つの鍛錬だと、最初の頃に教わっている。

 その為の方法も伝授されたが、まったく上手くいかず、アヴェリンの反感を買う始末だ。最近は息を整えるだけで三分かかる事を見越して、その時間を告げてくれている。

 

 最初は十秒と言われて目を剥いたものだ。

 アキラは息を整えながら、少しでも身体を休めようと横になる。本来なら立ったまま、戦闘状態を維持したまま休憩を取るのが合格ラインらしいが、アキラではまだその領域には達していない。

 少しでも休憩時間を伸ばせないかと、アキラは予てより気になっていた事を聞いてみようと思った。

 

「師匠、ミレイユ様が魔王を殺したっていう話、聞いてもいいですか?」

「……なんだ、突然」

 

 アヴェリンは不快げに眉を顰めたが、話題を止めるようとは言わない。だからアキラは重ねて問うた。

 

「あの時から気になっていたんです。どういう事なのか……魔王討伐っていうのは、こっちではちょっとした英雄譚として有名というか……とにかく気になるものでして」

「ミレイ様が話すのを渋るような内容だぞ。私が勝手に……」

「――でもミレイユ様は、聞きたければ師匠にって言ってましたよ。これって話す許可は与えてるって事じゃないですか?」

 

 そう言われてしまえば、アヴェリンも返す言葉がないらしい。

 渋い顔をしたまま、顔を外に向ける。腕を組んで地面の草を蹴りつけ、不貞腐れたように振る舞う。このようなアヴェリンの様子を見た事がないアキラは、聞く内容を間違えたかと思った。

 しかし、アヴェリンが再び顔を向けてきた時、そこには渋い顔が残っていたが、それでも話す意志がないとは伺えなかった。

 

「ミレイ様も言っていただろう、つまらん話だ。それでも聞きたいと言うんだな?」

「……はい。というか、そこまで言われてしまうと、逆に気になります」

「嫌な性分をしているな、貴様」

 

 アヴェリンの呆れた声にアキラが苦い笑みを返していると、ようやく話す気になったようだ。腕を組んだまま、顔も向けずに話し始めたのを見て、アキラはとりあえず身を起こして座り直した。

 

「旅の途中、一人の男が道を塞いでいてな……。そいつが言ってくる訳だ、自分は魔王だ、我が配下に加えてやろう、とな」

「うゎ、道端で魔王とエンカウントしちゃったんですか」

「なんだ、その、エン……?」

「いえ、すみません。話の腰を折りました、どうぞ続きを」

 

 アヴェリンは胡乱げな視線で見つめるまま、言われた通りに続きを話した。

 

「ミレイ様は元より、私も同様、その話を信じなかった。春先には馬鹿が出てくるなと思いながら素通りしようとし、そして襲い掛かってきたから返り討ちにした。話はそれで終わりだ」

「――え!? 終わり? それだけですか!?」

「だから言ったろう、別に面白い話じゃないんだよ」

「でもそれじゃあ、魔王を殺したなんて言っても、インチキみたいな話にしかならないじゃないですか。単に不審者を殺したっていう話であって……!」

 

 アキラは必死で言い募るが、アヴェリンの返答はにべもなかった。

 

「最初に言った筈だぞ。面白い話にでもなると思ったか?」

「それは……確かに言ってましたけど」

 

 それにしても、あまりに簡潔に話し過ぎると思う。大体、それで魔王を殺したなんて法螺もいいところだ。そんな大言壮語をミレイユが言うとも思えない。

 これには語っていない部分が多いように思え、それでアキラは一つの事を思い出した。

 

「でもほら! ユミルさんが魔王だって、本物だって忠告したって言ってたじゃないですか。その辺り、どうなんですか?」

「変なところ覚えてるな……」

 

 アヴェリンが嫌そうに顔を顰め、それで渋々ながら語ってくれた。

 

「それについては、確かにアイツは言っていた。男が魔王だと語り、それを私達は騙りだと思った。……当然の反応だ、しかしユミルだけはそれを否定し、男が本物だと言い出した。そして殺した。話はそれで終わりだ」

「いやいやいや! 明らかにばっさりカットしてる部分ありますよね!? 殺すところまで行った過程を教えて下さいよ!」

 

 アヴェリンは面倒くさそうな顔して溜め息をついた。

 正直、つきたいのはこちらの方だと言いたかったが、話をせびる相手が相手である以上、下手に出るしか選択肢はない。

 なんとか話してくれないものかと思っていたら、渋い顔はそのままに語り始める。

 

「ユミルの発言に気を良くした男は名を名乗ったが――、これについては本当に覚えていない」

「え、あ、そうなんですか?」

「覚える価値もない男というのも本音だが、長ったらしい名前でな……。一度聞いただけでは耳が滑って内容が入ってこない有様だった」

「なるほど。それで、どうしたんです?」

 

 真面目に語る気になったらしいからこそ、これからの内容に期待が持てる。アキラとて年頃の男として、こういう話は大好物なのだ。それも本物のファンタジー世界の住人の話なら、機会があれば絶対聞きたいと思うのが自然というものだ。

 

「男は自慢げに語りだしたよ。なぜ自分がここにいるのか、なぜ現代に蘇ったのかをな」

「以前に討伐されてるんでしたっけ?」

「伝聞の上では、二百年前だと言われてる。正確な日数ではないかもしれんが、ユミルもそのぐらいだと言っていた。そして、自分は自分に不死の呪いを掛けたと言い、それこそ自分がここにいる理由だと語った」

「不死……呪い……、アンデッドと言うことですか? つまり、ゾンビとかそういう?」

 

 アキラが思いつく一般的な思い付きを口にしてみると、アヴェリンは難しい顔で否定した。言葉にしようと何度か口を開け、そして閉じる。あまり単純な内容ではないらしい。

 

「肌の色は青かったが、ゾンビというような腐り落ちた死体という訳でも、骨が見えるような欠損の身体という訳でもなかった。……見た目だけなら健康な成人男性という事になるのか」再び考え込む仕草を見せ、そして顔を上げた。「ユミルが言うには、馬鹿な手法だと。死なないという意味の不死ではなく、死ねない類いの不死であると。肉体は滅んでも魂は残り、そして百年以上の時間を経て再び肉体を得るらしい」

「それは……どうなんです? 蘇るのは確かに自然な事じゃないですけど、馬鹿な手法だと言われるような事なんですか?」

 

 アキラは別に、不死に憧れを抱いていない。

 両親の蘇生が叶うなら願ったのかもしれないが、それが百年以上の時間を使って蘇るというなら、あまりに意味がない。願った本人は当に死に、そして蘇った本人は長い時の果て、知り合いもなく独りで世界に放り出される事になる。

 

 そういう意味なら、確かに馬鹿な方法と思えるが、この場合本人が自分の為にかけた呪いだ。このままで終われないと思ったからこそ、再起を図れる手段として使ったのだろう。

 それがそこまで悪い手段だったのだろうか。

 

「そうだな……、この呪いの恐ろしいところは、死ぬ度に魂が矮小化すること……らしい」

「はぁ……つまり、どういうことです?」

「私もよく知らんが、簡単に言うと弱体化、のようなものだと。最初の一回はいいが、二回目となると顕著で、三回目からは再起不可能となるまで弱くなる。肉体的、精神的、そして魂の器も同様に。人としての肉体を維持できなくなり、それよりもより単純で弱い生物に形を変えて生まれてくることになる」

「つまり、犬とか鳥とか、そういう動物に……?」

「そのようだ」

 

 それはとても恐ろしいことに思われた。自我を維持できているかも分からないが、自分が且つて人であった事すら忘れ、動物として行きていくのは幸せな事なのだろうか。

 

「最初に話したとおり、魔王は私達にも破れた。これは肉体的不死を意味していないのは分かるだろう? だからまた次に生まれ直しても来るわけだが、そうするとこれが更に弱くなる。仮に善人として過ごしても余命は短い。動物に生まれても寿命は十年程度と短く、魂が小さくなれば次は虫だ。虫の寿命は更に短い。そして、その時には後悔する知能すらないだろう。だが魂がすり切れなくなるまで、それが延々と続く」

 

 アキラは顔を青くして引きつらせた。

 確かにこれは馬鹿な手法だ。たった一度やり直すつもりで取った行動でも、やり直す機会を得られなければ意味がない。そしてもし、それを成したとしても、寿命が尽きれば、生まれ直しを強制され、後悔しながら魂が擦り切れていくのを見ていくのだ。

 

 呪いと言われるのも頷ける。

 更に救えないのが、それを自分にかけたということだ。それ程の無念、それ程の後悔があったからこそやり直しへ臨んだのだろうが、既に一度ミレイユ達に破れてしまった以上、次の再起は相当苦労する事になるだろう。

 

 そして短い余命が更なる障害となって立ち塞がる。

 これは、あまりにも憐れだ……。

 そう思って、アキラは顔を上げてアヴェリンの苦々しい横顔を見つめた。

 



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試練 その9

こちら、二話連続更新の二話目になります。
お読みになる際、ご注意下さい。


 もしや、過程も結果もつまらない話というのは、あっさり倒して山場がない、という意味ではなく――。

 アキラが自分で言った言葉を思い出す。

 

『殺したんですか、魔王!? じゃあ、ミレイユ様は勇者って事ですか?』

『まったく違う』

 

 ミレイユはあまりにすげなく否定していた理由が、少し分かった気がした。

 魔王は覚悟を持って、己に呪いをかけてまで再起を図ろうとしたのだ。成した後も地獄の苦しみを味わうと知りつつ、それでも諦めきれず抗う道を選んだのだろう。

 それを、そうと知らず鎧袖一触に振り払い、しかも殺してしまった。

 

「ミレイユ様は、後悔しているんでしょうか……?」

「しておられるだろうな。知らずに殺し、殺した後で知った事とはいえ、あの方はそういう人だ。……しかし、これは私達が一方的に悪いという話でもない。名乗りを上げれば相手を襲ってもいい、などという法はない」

「それはそうです」

「名乗りを上げ、名乗りを返さねば、決闘が成ったと言わん。襲う方が無作法だ」

「え、あ……そう、そういう意味なんですか……?」

 

 アキラは面食らったが、アヴェリン達の世界の作法を知らない身としては、どこに同意していいか分からない。だが、通り魔的に襲う方が悪いのは確かだろう。

 

「実際、魔王を名乗るぐらいだから弱くはなかった。幾らか弱体化していた事を差し引いても、出来る方ではあったのだろう。だが、相手は独り、こちらは四人、負ける要素がなかった」

「……で、殺しちゃったんですか」

「相手は無法者だぞ、容赦する理由がない。……挑んだからには、勝算があったのだろうな。実際、奴の催眠にかかっていたら危なかったかもしれん」

 

 催眠、とアキラは口の中で声を出して、ユミルがやった事を思い出す。

 あれで味方を襲え、自分の配下になれ、とでも命じられたら、そうとう厄介な事態になることは想像できる。

 では、たった独りで勝算ありと襲ったのは、そもそも仲違いさせて勝ちを拾い、そして更に配下として増やす狙いがあったのだろうか。

 これもこれで相当な悪辣さが見え、単純に魔王を擁護する事は難しい。手っ取り早く仲間を増やす方法なのかもしれないが、危機感を持って相手を殺しに行くミレイユ達の行動も分かるというものだ。

 

「実際、魔王も意外だったようだ。転生してから間もなく、仲間もいないとはいえ、簡単に負けると微塵も思っていなかった。催眠は確かに厄介な能力だが、それ故に対抗策も多い。それは奴も知っていた」

「催眠頼りじゃなかった、という事ですか?」

「ああ。ユミルが戦闘中、投げかけてきた助言には、相手の学習能力に注意しろと言うものがあった」

「学習能力……」

 

 アキラは頭の中に計算ドリルを持ち出す魔王を想像したが、勿論そんな筈がない。攻撃に対する対抗手段を素早く生み出したり、後の先を取るとか、そういう話しだろうか。

 

「魔王はこちらの攻撃手段を模倣し使ってくる、そういう事らしかった。魔術を一つ使えば、次の瞬間、同じ魔術を使ってくる、というような」

「ああ、そういう……。コピー能力みたいなものか」

「実際、その学習能力故に魔王と呼ばれる程、実力をつけていったんだろうが、それが今回は通用しなかったのでな」

「あ、何か対抗策が既に編み出されていたんですか!」

 

 魔王の攻撃手段を知られる程、それが猛威を振るったというのなら、そういったものが一つや二つあっても良さそうなものだ。

 

「いいや、もっと単純だ。時代と共に魔術の使用過程が変わっただけ。昔と方法が違うから、見ただけ聞いただけで模倣する手段が取れなかった」

「それは……なんとも。古い人間ゆえ、なんでしょうかね。新しい方法があるなんて知らなかったと……」

 

 まるでパソコンの扱いを知らない中年サラリーマンのようだ。筆記で図案を引こうとして、相手はマウスを取り出した、というような。

 面食らって、何をしているか、という学ぶ所から始めなければならなかったろう。

 確かにそれでは模倣どころの話ではない。

 

「昔は朗々と呪文を唱えて魔術を行使するのが一般的だったと聞く。しかし、今の世で――というのもおかしな話だが、今の世で詠唱して魔術を使ったりしない」

「そういえばそうですね、ミレイユ様とか魔術を使うところは見たことあっても、詠唱しているところは見たことなかったです」

 

 何か手が光っていたのは見たことがあるが、あれが詠唱の代わりのようなものなのだろうか。

 

「昔の名残で、素早く行使される魔術を無詠唱と言う呼び方をする場合もあるようだが、そこのところは詳しく知らん。今は魔術制御という呼び方の方が一般的だろう」

「へぇ……、制御」

「魔王対策とは別の所で、魔術師同士が己の手札を隠すため、相手に隙を見せぬ為に生まれた手段が、今の魔術制御の始まりと言われている」

 

 自らの手札を隠す為に生まれたという事だろうか。

 確かに魔術の名前を叫んでしまえばバレるのも当然、それをどうにかしたいという気持ちは分かる気がする。これからこの魔術を使います、と宣言して攻撃するのは馬鹿らしい。

 

「やっぱり魔術の名前を知らせたら、対抗されちゃうからなんですか?」

「いや、もっと前の段階で、どの魔術を使うか相手に特定されていたらしい」

「ああ、朗々と詠唱って言ってましたもんね。やっぱり、その詠唱を唱え終わる前に防御魔術とか使われちゃうとか、そんな感じだったんでしょうか」

「腕のいい魔術師は二音節で特定し、四音節聞かせれば完封されたそうだ」

「二音節!?」

 

 それはつまり、文字を口に出して二つ目の音で相手がどの魔術か当たりをつけられたという事か。そして四つ目で確定し、それに対抗する呪文を後出しで使ってくる、と。

 そんな事が可能なのかと思う反面、出来るかもしれないと思う自分がいる。

 日本の競技かるたでも、二音節聞いて札を取りに行く人は上級者ならば当然だという。ならば、魔術のある世界でも似たことが出来ても、決して不思議ではない。

 

 ならばそれは確かに脅威だが、そうすると呪文の種類はあまり多くないのだろうか。似た呪文があった時点で、相当難易度も増すと思うのだが。

 それを素直に聞いてみれば、アヴェリンも不可思議な顔つきで首を傾けた。

 

「正確な数は知らんが、相当多い。数百ではきかんだろう。とはいえ魔術師といっても、その力量は天から地まで大きな隔たりがある。出来る者が一人いたからと、他の数千名も同じ事が出来たとは思えんが……だからこそ、その特権を享受させる気はなかったのかもしれん」

「それは……有り得る話です」

 

 たった一人が強いルールなら、ルールの方を変えてしまえばいいと言う訳だ。

 しかしそれとて思いつけば出来るという程、容易な話ではないだろう。長い年月の果て、今のような形に――詠唱のない魔術に代わっていったに違いない。

 そこのところはミレイユか、あるいはユミルが詳しそうだった。今度時間がある時に聞いてみようと思いながら、魔王との戦いについて続きを促した。

 

「まぁ、それで何一つ模倣する事なく追い詰められ、接近戦で私とミレイ様を相手取り、敢え無く破れたという訳だ」

「接近戦で……?」

「何かおかしいところがあるか?」

 

 アヴェリンが鉄の棒を横に振るって風圧を生み出し、アキラの前髪を吹き上げる。まるで本気の振り方ではなかったが、それが逆に戦士としての力量を示していた。

 というより、最初からアヴェリンの近接能力を疑ってなどない。

 

 意外だったのは、そこにミレイユの名前が出たからだった。魔術を使うところは見たことあっても、剣を振るうところも――あるいは武器を持っているところも見たことがない。

 最初に見た時は魔女帽子を被っていたし、格好も魔術師に近かった。だからてっきり後方で魔術を使って戦うのだと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。

 

「いえいえ! ただ、ミレイユ様が接近戦というのが意外で……。武器を持って戦う人なんだな、と思いまして……」

「あの方は何でも出来る。武器を持って戦うのも、魔術を行使するのも、どちらも非常に高水準で(こな)される。私と共に二人で接近すれば、それはもう敵などいないという有様で、まさに戦場の支配者といっても過言ではないぐらい――」

 

 遠くを見ながら饒舌に語り始めたアヴェリンを置いといて、アキラもまたミレイユに対して思いを馳せていた。

 考えてみれば、魔術師らしき格好以外にも、グリーブや籠手など、近接職らしき防具は装備していた。あの肩周りが露出している部分から見えた筋肉が、鍛えられたものだと感じた事も同時に思い出す。

 

 そう……確か最初は、魔術師の格好をしている戦士という風に見ていた。

 奇をてらった格好に思えて不思議に感じたのを覚えている。

 

「……それで、二人で圧倒して――とどめを?」

「私が前に立ち、そしてミレイ様が――ああ? まぁ、そうだ。最後に首を切ったのはミレイ様だ。まったく見事な太刀筋で、自分の首が飛んだ事もアイツには分からなかったんじゃないか」

 

 嬉々として語るその姿には、魔王に対して感慨という物を見出す事は出来なかった。

 彼女にとっては、魔王を語る事よりミレイユの武勇を語る方が、余程大事な事らしい。

 

 アキラは大きく息を吸って立ち上がる。

 休憩というには、大きく時間を取り過ぎてしまった。

 

 魔王については、単なる好奇心で聞いてはいけない事だったかもしれない。ミレイユ達にしても、もう二度と会う事はないと分かっているからこそ割り切っているのだろうが、それでも最初に聞いた時のミレイユの顔は必死に感情を押し殺しているように見えた。

 

 アキラも魔王の末路に関して思う所はある。

 何が出来るというわけでもないが、悼む気持ちは湧いてくる。会った事も見た事もない相手に思うことではないのだろうが、自分の気持ちに整理をつける為、アキラは顎を下げて黙祷した。

 

 立ち上がったアキラの突然の奇行に、アヴェリンは面食らったようだった。

 しかし再び鍛錬を行う準備が済んでいると見て、手に持った棒を構え直す。

 アキラが顔を上げた時には、アヴェリンの鉄棒が眼前にまで迫っていた。

 



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試練 その10

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 相変わらずボコボコに身体を殴られ、身体中を腫らせてアキラはアパートに帰ってきた。痛む身体に鞭打って帰宅の道を走らせ、アヴェリンの激で泣きながら足を動かすのもいつもの事だ。

 震える足を必死に持ち上げ、手摺りに体重を預けながら何とか昇り切る。

 這々の体で靴を脱ぎ部屋に上がると即座に光が飛んできた。

 

「――うわっ!」

 

 端から躱す余裕などなかったが、またユミルの悪戯かと思った瞬間、傷だらけの身体が癒やされていく。光が収まるのと同時に視線を向けると、そこにはルチアが視線を向けずスマホを弄っていた。

 しかし片方の掌がこちらを向いている。それで自分に向けて治癒術を使ったのだと悟る。

 

「あ、あぁ……。ありがとうございます」

「いいえ、どういたしまして」

 

 変わらず視線は向けて来ないが、アキラとしては文句はない。

 体力だけは変わらないが、それでも随分楽になった。黙っていると崩れそうになる身体を寝室に向け、シャワーに入ろうと着替えの用意を始めた。

 

 部屋の中にはルチアしかいないようで、他の面々は箱庭で過ごしているらしい。

 そのルチアもアキラが着替えを取って戻ってきたのを見ると、スマホを仕舞って箱庭に帰っていく。どうやら、アキラの傷を癒すように指示を受けて待っていたようだ。

 改めて感謝の言葉を背中にかけて、アキラは給湯器の電源を入れる。

 

 シャワーを浴びながら身体の動かし方、刀の振り方などについて思い返していると、部屋の中が騒がしくなった。騒がしいというよりは何かを動かすような音がして、更にそこへ指示を出すような声もしてくる。

 どうやらミレイユがいつものようにソファーなど邪魔な家具を移動して、代わりの家具を用意しているようだ。

 

 それに感謝しつつ手早くシャワーを浴び、何か手伝える事があれば手伝おうと外に出る。着替えも済ませてダイニングへの戸を開けると、既に準備万端、全員が着席している状態だった。

 

「随分早かったな。もっとゆっくり浴びていればいいだろうに」

「あんなに狭い風呂じゃ、そんな気分にもなれないんでしょ」

 

 若干、呆けるように言うミレイユに、ユミルが諭すように言いながらワインのボトルを手に取った。まだ少し塗れている髪のまま一礼して椅子を引き、席につく。

 今日も美味しそうな豪勢な料理が並び、アキラは生唾を飲み込んだ。

 

「その様子じゃ、焦らすのも可愛そうだな。では、食事にしよう。いただきます」

 

 ミレイユがパンを手に取って口をつけるのを待って、アキラもまたパンを手に取った。今日のスープはシチューに似たとろみのあるもので、色は赤より茶色に近い。小さく切られた肉と野菜もあって、スープばかりパンに浸していると、具だけが残ってしまいそうだ。

 

 木製の皿に乗った厚みの太い肉も用意されていて、肉の表面から滴る油が食欲を唆る。用意されているナイフで切ってみれば、驚くほど簡単に肉が切れた。

 ソースはなく、おそらく香辛料か塩のみの味付けなのだろうが、それがアキラの好みに合う。

 口いっぱいに頬張ると、予想に反せず濃すぎない味付けが油と混ざり合い、極上の味へと昇華させていく。

 

 その味に舌鼓を打っていると、ユミルが木製のマグを差し出してくる。感謝しながら受け取れば、中には並々と液体が注がれていた。

 口をつけ、その液体の香りが鼻をくすぐって――それがアルコールだと分かった。

 咄嗟に身を引いてマグを遠ざけ、ユミルに非難めいた視線を向けた。考えてみれば、単なる親切でユミルが飲み物を渡してくる筈がないのだ。

 

「ちょっとこれ、お酒じゃないですか! 僕、未成年なんですよ、飲めないんです!」

「この肉にワインが良く合うのよ。随分美味しそうに食べるもんだから、是非これは味わってもらわなきゃと思って」

「そういう悪質なトラップやめて下さいよ!」

「別にいいでしょ、誰も止めてないし。飲んでみれば?」

「ダメです。そういうの、この国じゃ認められてないんです。お酒は二十歳になってから、そういうものです」

 

 ふぅん、とつまらなそうに呟いて、アキラのマグを自分の物と取り替える。ユミルがワインを飲むのを見て、アキラもそれを口に運び――そしてアルコールだと気付いた。

 

「ちょっと、これもワインじゃないですか!」

「ちぃぃ! 引っ掛からなかったわ!」

 

 ユミルは笑顔で指を鳴らす。その小洒落た仕草がヤケに様になっていて、それがまたアキラの癪に障った。

 

「何がちぃ、ですか! 大体、何でそんなに酒を飲ませたがるんですか!」

「いやぁ、別に深い理由はないわよ。酔い潰れたアンタを見てみたいとか、起きた時アタシが裸で隣に寝てたらどういう反応するのか、とかそういう理由ぐらいね」

「めちゃくちゃ悪質じゃないですか! 絶対ユミルさんから勧められた杯は飲みませんからね!」

 

 アキラとユミルの遣り取りを見ていたミレイユが、チーズを手に取りながら含み笑いを漏らした。アキラはそれを恨みがましい顔で見つめる。

 

「……ミレイユ様、笑ってないで止めて下さいよ」

「それぐらい可愛いものだろう。自分で対処しろ」

「飲酒が二十歳からって、ミレイユ様も知っている筈じゃないですか。マグを受け取った時点で止めてくれてもいいじゃないですか」

「その程度を気付けないでいたとしたら、私はユミルと共に指差して笑っていただろうな」

 

 そう言って、チーズを一齧りして、ミレイユはニヤリと笑った。

 ユミルに視線を移せば得意げな顔でワインを飲んでいる。飲んでいるというよりは、干しているとでもいうべきで、水の代わりだと言わんばかりに次々と杯を空にしては新たなワインを注いでいる。

 

 呆れた気分で食事を再開し、腹も膨れて満足した頃合いで、ミレイユがアキラに向けて口を開いた。

 

「食事に満足したなら、この後、少し話さないか」

「え……はい、勿論。……でも、何の話を?」

「それも後で話す。まずは片付けを済ませてしまおう」

 

 ミレイユが言うや否や、アヴェリンとルチアが率先して動き出した。アキラも片付けを手伝おうと立ち上がり、アヴェリンの指示あるままに動く。

 ミレイユはともかく、ユミルは何もせずワインを空けるばかりで、それが少し疎ましく思えた。しかしこの場の誰もそれに文句を言わないのなら、きっとアキラには分からない不文律があるのだろう。

 何も知らないアキラが口を出す事ではない。

 

 手早く片付けを済ませ、テーブルの上に残るのはユミルのワインボトルとマグのみ。

 ミレイユがコーヒーを注文し、それを用意しにアヴェリンが箱庭に戻っていった。アキラからも何か提供した方がいいだろうかと思い聞いてみたが、自分の分だけ用意しろと言われた。

 

 しばし考えて、何も口に入れないのも寂しい気がして、インスタントのコーヒーを作ることにした。電気ケトルで湯を沸かし、適当に断熱タンブラーに粉を入れて砂糖とミルクも入れる。

 そうして準備が終わったのと同時、アヴェリンも箱庭から帰ってきた。

 

 いつの間に用意したのか、立派で上品な品質が漂うコーヒーセットに黒い液体が僅かに揺れる。

 アヴェリンが恭しくミレイユの前にソーサーを置いて、それで準備が整ったようだ。

 空気が張り詰めたような気がする。

 

 アヴェリンも席につくと、ミレイユは少しだけコーヒーに口をつける。

 動きもまた上品で、思わず見惚れてしまう程だった。ユミルが軽く爪先で蹴ってきて、それで我に帰る。

 アヴェリンが非難するような視線を向けていて、それで慌てて姿勢を正した。

 

 ミレイユが視線を向けて来て、それで目が合う。

 この人と視線が合うといつも緊張する。それはその美貌とは関係のない事柄で、確かな理由はアキラにも分からない。何故か親に叱られる直前のような、身が竦むような感覚を覚えるのだ。

 

 そんなアキラの様子を見て取ってか、ミレイユがちらりと笑みを浮かべる。

 

「そう緊張する必要はない。単なる好奇心とでも思ってくれればいい。――だが、正直に答えろ」

 

 そう言われて緊張を解く馬鹿はいない。

 アキラはタンブラーに注がれた液体の事を忘れ、乾いた喉に唾を飲み込む。

 

「アヴェリンとの鍛錬は(つら)いか?」

「は……」

 

 アキラは一瞬、何と答えていいか分からず、視線を横に逃した。

 そして考え、答えを返す。

 

「いえ、別に、そんな事は――!」

 

 アヴェリンから視線を向けられているのを感じる。

 アキラはそれに合わせられない。

 

 肉体的に辛いのは事実だ。だがそれは鍛錬ならば当然、身体に負担をかけず楽して鍛えようなんて話はない。だからこれは、アヴェリンの鍛錬法だとか、精神的にどうなのかを聞いているのだろう。

 

 正直に言えば、――辛い。

 だが鍛錬が始まって、まだ幾らも経っていない。それなのに辛いなどという弱音を吐けないし、吐いて失望されるのも怖かった。

 

 だらしない、意気地のないやつと思われる方が辛い。

 それを思えばこの程度、何て事もなかった。このままでは耐えられないと思いつつ、いずれ慣れて順応するとも思う。順応するまでどれくらい掛かるか、それまで身体が保つかという不安はあるが、その程度習い始めなら誰でも思う事だろう。

 

 今は我慢の時なのだ。

 だからアキラは、改めて首を横に振り、ミレイユに視線を合わせて否定した。

 

「いえ、大丈夫です。何も辛いなんて事はありません……!」

 

 その返答が果たして正解だったのかどうか……。

 ミレイユは意外そうに、あるいは落胆を感じさせる表情で、僅かの間を置いて頷いた。

 

「……そうか。本人がそう言うなら、大丈夫なんだろう。ならば話は終わりだ、せめてコーヒーを飲み終わるまで、お喋りに付き合ってくれ」

 

 言うや否や、ユミルは正面のルチアに話し掛ける。

 何か益体もない事を話しているようだが、アキラの耳に入らなかった。ミレイユは変わらずアキラを見つめ、視線が合うとちらりと笑う。

 

 弛緩した空気。緊張感も遠くへ行った。

 それでも何か、大きな物を取り逃してしまったような気がしてならなかった。

 



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努力と魔力 その1

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 それから一週間が過ぎた。

 

 アキラにとっては相変わらずの毎日だったが、変わってきた事もある。

 一つは剣術道場にて、気の入り方が違うと褒められた事。どこかスポーツチャンバラのような浮ついた気持ちがなくなったと、そう師範に指摘されたのは間違いなくアヴェリンの指導のお陰だと思う。

 このまま精進すれば、御前試合の本戦出場も夢ではないと太鼓判を押された程だった。

 

 アキラは一気に自信が増して、アヴェリンとの鍛錬にも力が入った。

 それはアヴェリン自身にも伝わったらしく、気を良くして更に熱心な指導が飛ぶ。一つ階段を登れたと思ったら、容赦なく次の階段を用意して、それがまたとんでもなく辛い。

 今まで本当に手加減してくれていたんだと、実感できてしまうのが更に辛かった。

 

 食いついてこれるなら、まだこれくらい出来るだろうと、要求されるレベルが上がり、それについていけなければ転がされる。出来ないという泣き言は聞き入れて貰えない。

 アヴェリンが出来ると判断したなら、アキラはそこへ到達できなくてはならないのだ。

 そして実際、着いてきているのだから、アヴェリンの慧眼は大したものなのだろう。

 

 後は、だいたい三日に一度の割合で発生する結界に、参加するのを正式に許可されたこと。

 発生に前後のぶれ幅はあるものの、今のところは大きな誤差もなく、ルチアの探知範囲に入ったもので同行を願えば着いて行ける。

 

 発生時期は不明でも、発生時間はほぼ固定で、夕方の終わり頃だと経験から判断された。

 それからというもの、アキラは帰る時間を早め、決して夕暮れより後にならないよう気を付けている。

 参加するから毎回死ぬ目に遭うかと言えば、そうでもない。

 

 最初のインプにも善戦できたとはいえ、大きな顔は出来ない結果だった。それでも怪我もなく勝てたのだ。怪我がなかったのは装備のお陰でもあったが、ともかくも勝利を握った。

 トロールのような敵が出てくれば、それはアキラの出番ではないが、雑魚敵の露払い程度なら、いつでもアキラが担当として動く。

 

 そうして実戦での勘を磨きながら過ごしてきたお陰で、アキラにも少ないながら自信というものが身に付いてきた。

 これで傲慢になるというのならともかく、確実に己の糧とし吸収するため精進してきた。

 だから間違った事は、決してしていないと思うのだが――。

 

 アキラはあくまで視線を眼前のアヴェリンに集中しつつも、横から向けられる視線を努めて意識しないよう注意していた。

 常と変わらず、今日も朝日が昇る頃からアヴェリンと鍛錬を始めていた。

 しかし今日に限って違うのは、その鍛錬にミレイユも着いてきた事だ。暇だからという理由で着いてくると言い、断ることも出来ずいつもの原っぱで鍛錬を開始した。

 

 ミレイユは少し離れた場所に、いつもの椅子を用意して、追加でテーブルやパラソルなんぞも設置してしまった。完全にそこだけ異質な空間が出来上がっていたが、意見できる者がいる筈もない。仮にいてもアヴェリンが封殺していただろう。

 

 だから鍛錬が始まってからこちら、横から刺すような視線を受けてやり辛さを感じていた。

 だが、そこで思い直す。

 

 実戦でやり辛さを感じるなど、むしろ当然の事。敵はいつだって、自分へ不利になるよう動いてくるし策を講じてくる。今までの敵はせいぜい大声を出すとか、奇声を出して威嚇するといった程度だった。時には位置取りを有利に取ろうと動く敵もいた。

 

 それを思えば、単に視線を受けただけで集中を乱すなど、あってはならないことだった。

 アキラは集中している自分を自覚しながらも、更に気合を込めてアヴェリンを見つめる。

 構えた刀で、どこに打ち込もめば良いか迷い――、そして一歩踏み出した途端、動きを封じられた。

 

「――ッ!!」

 

 首元へ、既に鉄棒が触れている。

 考える時間が長すぎる、というアヴェリンからの指摘だった。

 思考時間が長ければ、それは敵にも考える時間を与える事を意味する。戦場で眼前に敵がいる状態で、それは悪手だといつも言われていた。

 

 動きを止めた状態で、アヴェリンが身を引くのを待つ。

 アキラの視線に理解の色があることが分かると、鉄棒を引いて、改めて構えた。

 今度は相手が構え直すよりも早く仕掛け、そして足を払われ宙に浮き、地面に背中から落ちる前に鉄棒で打ち落とされた。

 

「ゴホッ! おごぉぉぉ……!!」

 

 アキラは思わず獲物を手放し腹を抑える。

 身を捩り、くの字に折りながら、痛みに必死に耐える。顔は歪んで涙を流し、口から涎が垂れるまま、痛みが引くのを祈ったが、一向にその気配がない。

 

「……内蔵をやったか?」

 

 他人事のように言うアヴェリンへ、アキラは恨み言を言おうとしたが、それも痛みでままならない。アヴェリンが近くに屈んで服を捲り、腹がどうなっているか見分する。

 抑えていないと我慢ができないと思っていた腕を振りほどかれ、腫れている部分に触れると、アキラは痛みで絶叫した。

 

「ぁ、イヤ痛ああぁぁぁあ……!!」

「……これはやったな」

 

 どこまでも他人事のような台詞だが、実際この程度は怪我の内に入らないと考えているのだろう。アヴェリンはアキラの肩を掴むと、強制的に起き上がらせる。

 落ちていた刀を拾い、痛みで顔を歪ませているアキラの手に、その刀を握らせた。

 そして頬を張って顎を掴む。

 

「痛がっている暇があるなら、痛みに耐えつつ武器を振るえ。そういう鍛錬には、実に丁度いい案配だ。続行するぞ」

「や、やるんですか、この……この状態で……?」

 

 アキラの声に先程までの気力はなかった。痛みですっかり萎縮してしまって、涙目のまま懇願するようにアヴェリンの意思を確認している。

 アヴェリンはそれに一片の同情も見せずに頷いた。

 

「痛みは慣れで耐えられる。逆に言えば、慣れねば耐えられん。今その怪我をしたのを幸運と思え。実戦で痛みに悶えて、そのまま殺されてやるつもりか? 死にたくなければ武器を振るえ!」

「はいぃぃ……!」

 

 アヴェリンが檄を飛ばして、アキラが泣き顔のままとりあえず刀を構える。

 痛みに耐えながらなんとか持ち上げている状態で、とてもそこから動けるようには思えない。足を踏み出さないアキラに業を煮やして、アヴェリンの方から仕掛ける。

 握力の伴わない構えが、あっさりと武器をその手から飛ばす。

 

 あっと声を出す暇もなかった。

 アヴェリンはそのまま腕を打ち据え、足を打ち据え、屈んだところに肩を打ち据えた。

 痛みに悶えて悲鳴を上げるしかないアキラの髪を掴み、強制的に顔を上げさせる。

 

「馬鹿にしているのか貴様! 痛みに耐えろ! 耐えて武器を振るえ! 武器を簡単に手放すな! 何度言わせる気だッ!!」

 

 アヴェリンは髪から手を放し、頭を握って放り投げる。

 アキラは抵抗らしい抵抗も出来ず、そのまま地面へ強かに身を打ち付けた。

 腹だけでなく、今は腕も肩も足までもに痛みが走っている。いつまでも寝転がって痛みが引くのを待っていたいと思うのと同時、そうすればアヴェリンから追撃が来るか見放されるか、どちらかだと理解もしていた。

 

 それでもアキラは立ち上がる事が出来ない。

 だから這いずるように動き、刀の元まで戻って手に取り、それに縋るようにして立ち上がった。感覚がなく、言うことをきかない腕を柄に添え、生きている腕で握り込む。

 荒い息を食いしばった歯の間から吐きながら、気力だけで目の前のアヴェリンを睨み付ける。

 

 足を踏み出そうとしたが、打たれた足が言う事をきかない。無理して動かしても痛みで歯を食いしばる力が増すばかりだ。

 あるいはそれが良かったのかもしれない。

 アヴェリンが振るった鉄棒は刀を弾いたが、腕が大きく外に向かっただけで、今度は手放す事はなかった。

 

 アヴェリンの口に笑みが浮かぶ。

 その顔は見事だ、と言外に語っているように見え――、そして再び肩を打ち据えられた。

 先程とは別の肩だっただけ温情があったのかもしれないが、アキラは痛みに悶絶して膝をつく。

 

「な、なんでぇぇ……ッ!!」

「……何故だか癪だった」

 

 あまりに酷い言い草に、アキラは堪らず涙を流す。痛みばかりの涙ではない、尊厳から流れる涙でもあった。

 蹲って耐えているアキラに、アヴェリンからの蹴りが飛ぶ。

 

「いつまでそうしているつもりだ。さっさと起きろ、まだ時間が残っている」

「うぐぅ……ぐぐぐうぅ……!」

 

 もはやアキラからは、ぐぅの音しか出てこない。

 必死の気力を振り絞り、出来る限界まで己を鼓舞し、痛みに耐えて立ち上がったのだ。それをああもあっさりと打倒され、しかも癪だという理由で転がされては、アキラとて立ち上がる気力を失う。

 

 再び蹴りが打ち込まれそうになった直前、遠くから――しかしよく通った声で制止が掛かった。

 

「あまり、そうやって虐めてやるな」

 

 ミレイユの声にアヴェリンの動きが止まる。持ち上げていた足を降ろし、身体の向きを変えて一礼する。

 アキラにとっては天上の声に聞こえた。この窮地、この地獄から救い出してくれる救済の声。

 アキラは涙で目の前が塗れてよく見えない視界の中、ミレイユに向けて感謝の視線を送る。

 

 そこに白い光がアキラを包み、一瞬で傷が癒えていく。

 ミレイユがやってくれたのだ、とはすぐに知れた。この場で他にそれが出来る者などいないし、使った瞬間は見えなかったとはいえ、その手から光が消える瞬間は目撃できた。

 

 アキラは立ち上がって刀を胸に当て、一礼する。

 ミレイユは咎めるような視線でアヴェリンを見、それから声を掛けた。

 

「痛みに慣れる訓練は分かるが、最初から飛ばしすぎだ。痛ければ気力も萎えるものだ、痛む状態で更に痛めても逆効果にしかならないだろう」

「ハッ……! 考えが至らず申し訳ありません」

「だから、傷の癒えた今なら、また同じ訓練が出来るだろう」

「え゛……!?」

 

 アキラの絶句など目に入っていないようだった。

 アヴェリンは得心と感銘の表情をミレイユに向け、ミレイユは幾度か首を上下させる。

 

 ――悪魔だ、人の皮を被った悪魔がいる……。

 天上の声とか救済とか、そんな感情を抱いた自分の馬鹿さ加減を笑う。元より怪我をさせても別にいい、と考えているような人達なのだ。傷が瘉えれば更に傷が増やせるなどと考えていても、全く不思議ではない。

 

「いや、おかしいでしょ! 今のはもう完全に傷が治ってありがとう、今日はもうおしまいってなる流れでした! 絶対そうでした!」

「うるさい。――吠える元気があるなら、まだまだ痛めつけても大丈夫そうだな」

「やだ、嫌です! 人殺し!!」

「アヴェリン、殺しだけはダメだぞ」

 

 アキラの悲鳴も、ミレイユからの能天気な発言に肩透かしを食らう。

 アヴェリンも心得たように頷き、アキラに向かって壮絶な笑みを浮かべた。

 

「安心しろ。絶対に殺すような真似はしない。殺してくれと懇願するまで痛めつけてやった事もあるが、そいつはそこから更に三日生きた。お前もそれぐらい上手くやる」

「何ですか、それ! 絶対やばいやつでしょ! どういう例えでどういう状況でそんな、……いや待って、待ってくださいよまだ喋ってるさいちゅ――いっっだぁぁぁ!!!」

 

 バシィィン、と甲高い音が辺りに響いた。

 何とか逃れようとするアキラに、アヴェリンは言うこと無視して容赦なく近付き、その太腿に鉄棒を打ち付けた。再び転がるアキラを足蹴にして、上から声を放った。

 

「早く起き上がらないと、更に痛くしていくぞ」

「う、うぅ、くそっ……!」

 

 口汚く罵って、アキラは立ち上がる。アヴェリンに向かって刀を構えようとして、咄嗟に身を翻して逃げ出した。

 

「ああ……、なるほど。この私から逃げられると思ってるのか。まさか、といった感じだな」

 

 言い終わると同時、アキラは頭から地面に激突していた。

 一足飛びに追いつき、そのままの勢いで頭を掴み、地面に押し当てたのだ。草原の上、土は柔らかいとはいえ、アヴェリンの走力と腕力で押し当てられては痛いでは済まない。

 顔の片方を土まみれ草の液まみれにしながら、その顔を持ち上げられる。

 

「はい……ずびまぜん……」

「無駄に終わると分かっていただろうに。つまらない振る舞いをするな」

「あるいは、今日はここまでと。思ってもらえたらと……」

 

 アヴェリンは嘆息してアキラを投げ捨てた。

 言葉短く、今日はもう終わりだ、と告げてミレイユの元に帰っていく。

 アキラは背中から地面に大の字に転がり、青い空を眺めて荒い息をついた。

 

「呆れ、られた、かなぁ……ッ」

 

 アヴェリンの鍛錬は実戦的だ。それは間違いない。しかし実戦的すぎて着いていけない時がある。今日はまさにそれで、しかもミレイユまで加わって扱こうというのだから、この身が幾つあっても足りない思いだった。

 流れていく雲を眺めながら、あの二人が合わさる日は要注意、と心に刻んだ。



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努力と魔力 その2

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 アキラを連れ帰り、傷を癒やして学校に送り出すと、アヴェリンは元よりミレイユも暇になる。現在は資産を食い潰して生活している訳なので、新たに収入源を作る必要があった。

 質屋の件では、上手くいったとも失敗したとも言えない。

 相手の出方がよく分からず不透明、目的もまた不透明、それが判明するまでは迂闊な手段を取る訳にはいかなかった。

 

 今はまだ残り金額に余裕があるとはいえ、残金がギリギリまですり減ってから、新たな収入の当てを探し始めるという事態は避けたい。

 しかしここで壁になるのが、ミレイユたちには戸籍がないという点だ。

 

 銀行口座も持てないので、基本的に振込の給料形態には就職できない。そも戸籍がない時点で履歴書も書けないし、職歴もないからまともな職にもつけないだろう。

 

「はぁ……」

 

 ミレイユは溜め息をついて、箱庭の中にある自室をぐるりと眺めた。

 多くの価値ある書籍が壁際に整然と並んでいるが、ここでは大きな価値などつかない。あるいは古書としての価値を認められるかもしれないが、それとて二束三文。

 

 しかもまた謎の集団に先回りされる心配もあり、これが相手方に渡るのは避けたいところだ。かといって、他に有用な手段があるかといえば……、なかなか難しい話だった。

 

 結界内の魔物素材を売却できれば、結界潰しにも意欲が湧くというものなのだが、あれらの素材に買取業者なぞ存在しない。

 魔物が絶命し、結界が崩れる前に素材を採取し個人空間に仕舞えば、素材は消えないことが分かった。幾つかの錬金素材として用いることもできるし、中には傷薬として活用できるものもある。

 そういう意味では有用ではあるのだが、これを日本円に替えられないのなら、やはり大きな意味はなかった。

 

 ミレイユは自室の椅子に座りながら、腕を組んで唸り声を上げる。天井を見つめながら思案していると、部屋の外から気遣う声色でアヴェリンが名を呼んできた。

 

「……ミレイ様、何かお困り事ですか?」

「うん、金策を考えていた」

「ああ……」

 

 ミレイユの答えを聞いて、アヴェリンも納得した顔で頷く。

 入ってもいいかと丁寧な言葉遣いで聞いてきたので、頷いて一脚椅子を用意する。ミレイユも椅子を反転させて座り、それで正面から向かい合う形になった。

 

「我々が好むやり方では、この国の法が邪魔をするという話でしたね」

「この国の法というより、私達が既に法を犯しているせいで働けないんだがな。現状、いわば不法入国に該当するだろうから」

 

 ふむ、と難しい顔で眉を寄せ、しばし考えてから口に出した。

 

「真っ当で駄目なら不当な手段で手に入れるしかない、という話になりますが」

「まぁ、そうだが。しかし、いずれ自分の首を絞めるような方法じゃ、稼げたとしても意味はないだろう。因みに、何を思いつく?」

「そうですね……。恐喝、強盗、詐欺、スリ……あとはギャンブルといったところですか。ですがそのような事、選択肢に入れるのは如何なものかと」

 

 指折り数えて言うアヴェリンだったが、渋い顔をして首を振る。唯一ギャンブルは違法性がないが、ギャンブルは基本的に負けるように仕組まれているものだ。

 だからこそ成り立っているとも言えるのだが、生活費を稼ぐためというのは、ギャンブルをする上で最もやってはいけない事だ。

 それは必ずいつか身を持ち崩す。そういう話は、こちらでもあちらでも枚挙に暇がないものだ。

 

「しかし……、しかしだ。魔術を使ってバレない方法なら、これは勝てるギャンブルとしてやっていけるんじゃないか?」

「……それは詐欺なのではないでしょうか?」

「勿論詐欺だ。しかし詐欺というよりイカサマだ。そしてバレなければイカサマじゃないとも言うし……」

「ミレイ様、お気を確かに……!」

 

 思考が徐々に悪へ傾きかけていたのを、アヴェリンの呼び掛けで押し戻された。

 余裕のない逼迫した心理状態が、ミレイユの気持ちを後ろ向きにさせていた。

 まだ貯金に余裕はある。

 まだ、――まだなのだ。だがしかしそれは、あくまで『まだ』でしかない。

 

 今はまだ足りている。

 しかしそれが、いつか必ず、いずれ足りない、に変わるだろう。それを考えると、ミレイユは言いようもない焦燥感にかられるのだ。

 

 皆の前だから余裕ぶって見せているが、食料を買って残り金額が減っていくにつれ、口がへの字になっていくのを止められなかった。

 余裕ある暮らしぶりを見せているのも、他のものに心配をかけたくないからだった。一家の家長として、以前と同じ水準で、全員の余裕ある生活を維持する義務がある。

 

 一週間ほど前に行った喫茶店も、正直手痛い出費だった。

 自分がコーヒーだけで済ませていたのも、甘いものが苦手だからという理由からではない。少しでも出費を抑えようという、涙ぐましい努力だったのだ。

 実際はまた行きたいと思いつつ、それが未だ叶わないでいる。

 

 正直な事を言うと、ミレイユは今にもアヴェリンに抱きつき、その胸に額をぐりぐりと押し付けたかった。不安だと嘆いて慰めて欲しいという欲求が膨れ上がるのを感じていた。

 しかしそれをぐっと腹の奥底に押し込み、余裕ある態度で肘掛けに腕を置いた。背もたれに身を預け、小さく息を吐いて笑みを作る。

 

「ああ、すまない。我ながら取り乱した。しかし、公式賭博――競馬、競輪、競艇、宝くじなどは、運の要素が強く、また付け入る隙もない。損する公算が高い……却下だな」

「あの、本当に賭博で身を立てるおつもりですか……?」

「ああ……、そのつもりだが。なに、上手くやれるものを探して選ぶ。何度も勝てば怪しまれるから、一度で大きく儲けられるような……」

 

 アヴェリンは一度顔を伏せ、それから一生一度の決心を思わせる表情で顔を上げた。

 

「ミレイ様、不遜ながら申し上げます。そのような……賭博で身を立てるなど、貴方様に相応しくありません! 今この瞬間、収入を得る手段がないのは確かです。ですが、一時の感情でご自身の誇りを投げ捨てるなど、そのような事あってはなりません!」

「アヴェリン……」

「どうかお急ぎにならないで下さい。ミレイ様に相応しい手段は必ず得られます。ミレイ様は特別な御方、それに相応しい地位と収入が、必ず得られましょう。それまでどうか、心静めてお待ち下さい」

 

 言い終わると、アヴェリンは背筋を伸ばして一礼した。深い深い一礼は、無礼と判断すれば首を落として良いという表れだった。

 ミレイユは椅子から立ち上がり、アヴェリンの前に立ってその肩をそっと押し上げる。

 その瞳をまっすぐに見つめ、ミレイユはごく柔らかい笑みを浮かべた。

 

「お前の忠義に感謝する。よく私を諌めてくれた。……お前の言葉を励みにして、今は耐えよう。そして己に恥じない行動をすると、お前の主人として誇れる行動をすると誓う」

「誓うなどと……! ミレイ様におかれましては、恥じない行動を取られるだけで、それが正道となるのです。それを見せつけてやれば、衆愚も悟ることでございましょう」

 

 ミレイユが手の甲を上にして差し出せば、アヴェリンはそれを両手で捧げ持ち、その指先に額づける。そうする事が出来る喜びに、アヴェリンは打ち震えているようだった。

 

 その光景をたまたま通りかかったユミルが、一部始終を見ていた。

 呆れた表情で最後まで見てから、やはり呆れた口調で一言零した。

 

「……何やってんだか」



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努力と魔力 その3

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 それから更に一週間が過ぎた。

 新たに金策も思いつかぬまま、磨り減っていく資産を見ては、眉間に皺を寄せる日々も変わらない。そしてアキラがアヴェリンに転がされている光景もまた、変わりなかった。

 

 今日もミレイユは二人の鍛錬を椅子に座って眺めていた。

 アキラは間違いなく努力しているし、非才な身でよくやっているとも言える。ろくに防具も身に着けない中、いつも身体を傷だらけにして、痛みに耐えて武器を振るっている。

 それは傷がその日の内に癒えるという期待があればこそなのかもしれないが、拷問めいた鍛錬に、よく着いてきているというのが本音だった。

 

 言われた事を即座に実行できないし、何度注意されても同じ間違いを起こす事もある。それでも投げ出さず、続けられているのは一種の才能だ。

 ミレイユも、そこだけは素直に感心していた。

 

 しかし、実力差は如何ともし難い部分がある。

 元より最初から追いつけるとも、追い縋る事も出来ないとは思っていた。まだひと月も経過していないのに、見切りを付けるのは早いという気がしないでもない。

 

 存在としての在り方が違うのだから、そもそも同じ尺度で見るべきでもないのだろうが、それでもアキラの実力は既に頭打ちが見えていた。

 このまま剣術道場で大会入賞を狙うのなら、問題ないだろう。

 

 生死の分かれ目を経験するような事はなく、運悪く骨折するような事故はあっても、それ以上はない。あくまで同じ人間と切磋琢磨し、優勝を狙うという意味なら望みはある。

 そういう意味での伸びしろなら、これからもあるように思えた。

 

 しかし、アキラが身を置こうとしている世界は、ルールが存在しない殺伐とした世界だ。相手をするのも人間ではなく、人型ですらない場合もある。

 人間以上の俊敏性、人間以上の腕力、人間以上の体力を持った相手に、常に不利な状態から勝利をもぎ取らねばならない。

 

 インプのような弱い相手ならばよかった。

 防具や魔術秘具を用いた防御壁を破れないような相手ならば、武器さえ相手に通じれば勝つことはできる。しかし、最近は(とみ)に強力な敵の出現率が増えているように思う。

 

 いかにも大儀そうに出てきたから、あれがオオトリのように見えたものだが、トロールは別に強力な存在という訳ではない。むしろ雑魚に分類される敵で、だからあれを相手に出来ない以上、アキラはあの世界でやっていけない、と判断するしかない。

 

 アヴェリンが痛みに耐えて、武器だけは手放すな、と激を飛ばすのも、そもそも生き残る最低限の条件だからという理由ばかりではない。

 武器を持った相手が厄介だと感じるのは、知性ある動物ならどれもが共通している。

 

 あくまで逃げる機会を損なわない為にそうさせているのであって、勝つ為にしているのではなかった。武器すら持たない人間は、敵にとって格好の餌だ。

 痛みに負けず、武器を手放さねければ、最後の起死回生――決死の逃亡も有り得ない話ではないのだ。

 

 アヴェリンは初日に少し打ち合って、早々に戦うのではなく逃げ切る手段を与える方向に舵を切った。どうせ勝てないのなら、というアヴェリンなりの優しさだった。

 

 それはまだアキラ本人には言ってない。

 実際アヴェリンの鍛練は、常人なら最初から逃げ出していてもおかしくないようなものだ。鍛練というより拷問の類いで、傷が癒えるからと続けられるものではない。

 

 だからミレイユも聞いたのだが、アキラは続けると決意ある表情で言った。

 逃げ出したくなる時はあるのだろう、実際先週は逃げ出す素振りを見せた。しかし、それでもまだ続けているのだから、大したものだと言える。

 

 それとも、アキラはこの鍛練が順当なものだと思っているのだろうか。

 弱い自分が悪いのだ、という自責の念と共に受けているのなら、それもあり得るのかもしれなかった。

 

 ミレイユは改めてアキラを見る。

 打ち込み、しかし逸らされ、反撃を受け、吹き飛ばされて着地も出来ず転がっていく。それでもし立ち上がり、即座に刀を構えた。

 そして再び斬りかかって行く。二度、三度と切り結び、やはり隙きを見出され、打ち込まれて悶絶したところを蹴り飛ばされる。

 

 立派だと思うのと同時、不憫にも感じる。

 ミレイユは勿論、アヴェリンだっていつまでも師匠として面倒見る訳ではない。どこかで見切りを付けねばならないし、そして見切りというなら既に付いているのだ。

 あとは不都合な真実を突きつけるだけ。

 

 ミレイユはむっつりと口をへの字に曲げ、足を組み直して肘掛けに頬杖をつく。

 不機嫌な表情を隠そうとしないまま、二人の鍛練する光景を見つめ続けた。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 アキラはアヴェリンからの打撃を躱し、反撃として上段からの一撃を振り下ろした。あっさりと受け止められ、鍔迫り合いのような格好になる。

 顔が近づいたのを好機と見て、ひっそりとアヴェリンに話し掛ける。

 

「あの、師匠……? ミレイユ様、すごい見てくるんですけど……」

「だから何だ、不都合でもあるのか」

「いえ、それはないんですけど。……やり辛くありません?」

「直々にお前の実力を見定めて頂けているのだ。感謝して集中しろ」

 

 そうと言われては、アキラも集中するしかない。

 しかし明らかな不満顔、不機嫌顔とあっては、アキラも冷静なままでいられなかった。

 切っ先が鈍り、集中力も落ちる。

 

 それに活を入れるようなアヴェリンの攻撃に、アキラは何とか躱して転がって逃げる。

 再び立ち上がった時には既に眼前にいる。鉄棒が振り下ろされると分かって、更に前転して避けた。足に纏わりつくように腕を振るい、どこでもいいから斬りつけようとしたところで、まるでボールを蹴るようにしてアキラが蹴飛ばされた。

 

 長い滞空時間の末に地面に落ちて、一度跳ねて止まる。

 衝撃で息が止まって視界も定かではないが、それでも動かねば更なる痛みを受けるだけだと知っている。転がりながら、腕の力と反動で起き上がり、アヴェリンがいるだろう方に刀を構えた。

 

 不機嫌な視線はジリジリと、熱を持つようにアキラの顔を貫いて来る。

 何なのだ、と文句も言えず、集中しようと試みるも、いると思ったアヴェリンが見当たらない。姿を完全に見失い、心が乱れたところ、横合いから殴られ吹き飛ばされる。

 

 起き上がろうとしたが、既に体力も限界、到底起き上がるなど不可能に思えた。そういう時は素直に言えと言われている。だからアキラは絞り出すように声を出した。

 

「む、無理です! もう無理!」

「そうか……」

 

 すぐ傍までやって来ていたらしいアヴェリンが、上から平坦な声を落とす。そうして分かりやすく鉄棒を構え、大きく振りかぶり――。

 アキラが身を躱すのと、その場に鉄棒が振り下ろされたのは同時だった。大して力を入れていたようには見えなかったのに、まるで大砲が着弾したかのような振動が走る。

 

 叩きつけるような砂と衝撃波が身体を打ち、顔を守っていた腕にもビシビシと音を立てて石が当たった。

 地面の惨状を見て血の気が引いた。小さいクレーターが出来ていて、生えていた雑草も根こそぎ抉られている。もしあれを避けられなかったら、肉が抉れるどころの騒ぎではなかっただろう。

 

「なに考えて――!」

 

 非難しようと声を上げたところで、アヴェリンが冷淡な視線で指を向けているのに気付いた。

 指された場所、アキラの足元に目を向けても、特に何があるわけでもない。その不自然さと理不尽な暴力に怒りを燃え上がらせようとしたところで、アヴェリンの方から声がかかる。

 

「立てているじゃないか」

「……え?」

 

 言われた事が理解できず、アキラが目を白黒させていると、アヴェリンから再び冷淡な視線と共に指摘される。

 

「自分の状態をよく見てみろ。両足で立って、身構えてすらいた。……どこが無理だ」

「あ……」

 

 そこまで言われて漸く気づく。

 アヴェリンの一撃に身の危険を感じて躱し、そして衝撃から身を守りつつ、次の備えとして立ち上がっていた。それは今まで教訓から得た癖のような動きだったが、確かに精根尽き果てた人間に出来る動きではなかった。

 

 それを指摘されて、アキラは息が詰まる。

 本当は動けるのに、楽がしたくて、単に楽になりたくて音を上げたのだ。それを見抜いたからこそ、アヴェリンは過剰に思える攻撃をしてきた。

 今まで教訓から、危機察知能力を発揮して、躱せるところまで計算して、そのような攻撃をしたのだろう。

 

 アヴェリンは不甲斐なさに呆れているだろうか。怒っているだろうか。

 その両方な気がしてきた。

 

 先程から感じるミレイユからの不機嫌な視線も、もしかしたらそれに気付いてのことだったのかもしれない。

 アキラは自らを恥じて俯いた。

 

 もう無理だと思ったのは嘘ではない。実際感じた身体の重さは、これ以上動けないと言っていたように感じた。しかし疲れと痛みが、アキラに楽な方へと逃げさせたのだ。

 そこにアヴェリンからの声がかかる。

 

「恥じる必要はないぞ。動けないと思ってから、それでも咄嗟に動けるのは命の危機を感じた時だけ。最後の最後まで余力を失くすまで動き続けられる人間は、そうはいない」

「そうかもしれません。……でも、僕は楽な方に逃げたんです。ミレイユ様も呆れています……」

 

 ふむ、と呟いて、アヴェリンは鉄棒を肩に担いで腕を組んだ。

 

「お前は自分の事を、全く駄目だと思っているようだな」

「違うんですか……?」

「いいや、正しい評価だと感心している」

 

 一瞬縋るような目で顔を上げたが、アヴェリンからのにべもない評価に、再び頭を下げた。

 

「じゃあ何故、駄目なのかを考えた事はあるか?」

「経験が浅いから、覚悟がないから、努力が足りないから……、多分そんなところだと思います」

「そうか……。だがその三つは、別に大した問題ではないがな。むしろ考慮に値しないというべきだろう」

 

 アキラはアヴェリンが言うことが理解できない。

 大概色んな事に檄を飛ばされて来たから、何が良くて悪いのか、今でもよく分かっていない。ただがむしゃらに食らいついていけばいいと、そういう浅い考えであった事は否めない。

 だがアヴェリンが言う事は、そういう部分ではないように思う。

 あるいはもっと、根本的な部分なのだろうか。

 

「……才能がないとか、そういう話ですか」

「非常に近い。……そうだな、立ち話をするのも辛かろう」

 

 震えつつも、それでも立ったままでいるアキラを見て労るように言った。

 実際、アキラが今も立っているのは単なる意地だ。小突けば容易く倒れ、そして今度こそ起き上がれないだろう。

 アヴェリンの珍しい気遣いに感謝しつつ、アキラは尻から落ちるように腰を下ろす。

 足が楽になったと同時に、身体が弛緩し、気力まで弛緩したかのようだった。ものを考える事まで放棄して、視線の先にある雑草を意味もなく見つめる。

 今はただ動きたくなかった。

 

 アヴェリンは小さく息を吐いて、短く告げた。

 

「……いいだろう。話の前に、しばらく休憩だ」

 



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努力と魔力 その4

 結局、アキラはそれから再起動する事ができず、朝の鍛練は終了となった。傷を癒やされても体力までは戻らず、まして気力の回復は尚のこと無理だった。

 話の内容も短いものではないらしく、残りの時間では無理だと判断して、その日の鍛練は終了となった。

 

 学校に行ってからも、アヴェリンが話してくれようとしていた内容が気になって授業に集中できず、昼休みの時間も上の空でクラスメートに心配されてしまった。

 自分の何が駄目か、と聞かれて才能は非常に近いと言っていた。

 近いということは、才能そのものを指すのではないのだろう。だが、才能と一口に言っても色々ある。単に技術の習得の速さを指すこともあれば、その理解力の高さを指すこともある。

 少し代わって努力できる事そのものが才能だと、表現される事もあった。

 

 アヴェリンが言う事だから、単純にそういう才能を示す事ではないのだろう。

 そもそも、近い、と言ったのだ。非常に近い、と。

 ならば、また少し別の話になるのだろうか。考えても考えつかない事に思考を費やし、そして気づけば放課後になっていた。

 

 急ぎ足になるのを止められず、アキラはアパートへの帰路を急ぐ。

 今日は前回の結界の出現から三日経っている。もし出現するなら、今日かもしれないと考えるのは妥当だった。まだ日が暮れるには早い時間だが、朝、残りの鍛練時間では済まないというなら、結構な長話になる可能性がある。

 

 そう思ってアキラがアパートの自室に入ったが、そこには誰の姿も見当たらなかった。

 ここ最近は、ずっとユミル辺りが居座っていて、帰ってくれば挨拶の一つぐらい必ずあったのだが……。

 

 肩透かしを食らった気分で、アキラはとりあえず制服を着替える。

 その間に誰かやって来ないかと思ったのだが、結局それもない。手持ち無沙汰で室内を意味もなくウロウロし、箱庭に繋がっているという小箱も覗いて呼んでみたが、何の反応もなかった。

 

 どうしたものかと考えて、暇つぶしにスマホを取り出したところで、玄関先が騒がしくなる。

 女性同士の話し声が聞こえ、それでミレイユ達が帰ってきたのだと分かった。

 

「外出していたのか……」

 

 考えてみれば当然、彼女たちは日本円を手に入れてから食料を自費で賄っている。あちらには立派な邸宅があり十分な食料もあるらしいが、備蓄にあまり手を出したくないという理由から、ああして近所のスーパーへよく買い出しに行っているらしい。

 今日もアキラの帰宅時間に合わせて買ってきたところだったのだろう。

 

 アキラはとりあえず部屋の端によって、彼女たちを出迎える。

 

「おかえりなさい、皆さん」

「あら、出迎えなんて感心じゃない」

 

 ユミルが両手に持った買い物袋を見せつけるように持ち上げて笑った。

 彼女はいつもアキラに気安いが、その反面、妙に馴れ馴れしくてやり辛い。苦い笑顔で迎えると、次にアヴェリン、ミレイユ、そしてルチアの順で帰ってくる。

 

 見れば全員、また服装が変わっていた。

 それも当然だろう、女性なら服が一着しかないなんて有り得ない。現金収入が現在はないからと、購入数はそれ程でもないようだが、それでも色々着飾りたいのが女性というものだと理解している。

 

 そこのところを思えば、彼女たちは自重している方なのかもしれない。

 ミレイユも帽子の見た目は変わっても、ツバの広いものを着用していて、顔を見せない方がいいという助言を律儀に守ってくれているようだ。

 

 あるいは、別世界から来た者の感性として、こちらのファッションはあまりお気に召していないのかもしれないが。

 それに、いざとなればまた細工品を自作して売りに行けばいいという考えなのかもしれない。

 

 何しろ一つ約五十万で売れる細工品である。

 丸一日で作れるようなものじゃないとしても、毎日あくせく働かなくても、それだけで暮らしていける。悠々自適な隠居生活が望めるという訳だ。

 こちらの世界には静養で来たとか言っていたし、そういう目的なら問題なくやっていけるのだろう。

 

 羨ましい気分を隠さぬまま箱庭に入っていく人達を見送り、途中アヴェリンに声をかける。

 

「あの、今日の朝、話そうとしてくれていた内容なんですけど……」

「ああ、あれか。このあと話すつもりでいた。ミレイ様もご一緒なさる。部屋を片付けておけ」

 

 言うだけ言って、アヴェリンも箱庭に帰って行った。

 片付けるもなにも、最近女性が入り浸るお陰で、私物の類やゴミはマメに片付けるようにしている。敢えて言うならユミル達が部屋を使った際に、お菓子の包み紙などを落としていく事があるくらいだが、それも今日は見当たらない。

 

 だが、一応言われたとおりに埃取りをソファやテーブルなどにかけ、窓を開けて空気の入れ替えをする。どうせなら掃除機をかけた方がいいのかと思っていたところで、アヴェリンが帰ってきた。

 

 この室内に出入りするのも相当な回数になるというのに、アヴェリンは常に警戒の姿勢を崩さない。ミレイユが一緒の場合は必ず先に出てくるし、帰るときは必ず後だ。

 油断なく窓の外にも視線を向けると、箱から退いてミレイユに向かって呼びかける。

 

 それでミレイユが出てくると、ソファへ丁寧に誘導して、本人はその隣に用意された椅子に座った。この一連の流れも、既に見飽きる程見てきた。

 自室に自分のものではない椅子がある事にも、違和感を持たなくなっている。この感覚は危ない兆候かな、と思っていると、最後にユミルが箱庭から出てきた。

 

 スマホを使いたくて来たのかと思ったら、別室に移動する事なくアキラの傍で留まる。ユミルが椅子をねだると、アヴェリンは威嚇するような表情をしたが、ミレイユは構わず手を持ち上げて光を灯す。

 

「んー、悪いわね」

「そう思うなら自分でやれ」

 

 アヴェリンが眉を逆立てて言ったが、ユミルはどこ吹く風だ。

 

「自分じゃ出来ないもの。ついでにアキラのも用意してあげたら?」

「いえ、僕は別に……!」

 

 慌てて固辞しようとしたが、ミレイユは嫌な顔ひとつ見せずに椅子を用意してしまう。いつも思うが、これは一体どうなっているのだろう。触ってみても作りがしっかりした高級品だと分かるぐらいで、どのように生み出されたのか全く分からない。

 魔術でやっているからには、何かを変質させていたりするのかと思ったが、それなら代わりにテーブルが消えていたりしないとおかしい。

 

 考えていても仕方ないので、素直に感謝し、椅子の場所を調整して腰を下ろす。予想に違わぬ柔らかさに感動しながら、眼前に座るミレイユを見て――そして隣のユミルに視線を移した。

 

 彼女は何故、我が物顔でここにいるのだろう。

 アヴェリンから今日話す内容を聞いていても不思議はないが、何か有力な助言をくれるとも思えない。場を引っ掻き回すだけじゃないのかと思っていると、その不安な表情が顔に出ていたのか、ミレイユが苦笑しながら手を振った。

 

「ユミルの事なら気にするな。頼りになる助言役として呼んだんだ」

「頼りに……なる?」

 

 疑問を口に出しながら横を向くと、ユミルからはにこやかな笑顔でウィンクが返って来た。一抹の不安が大きな不安に膨れ上がったのを感じて前を向くが、ミレイユからは首を横に振る返事が来るばかり。

 

 受け入れろ、ということらしい。

 ユミルはうんうんと頷いて、アキラの肩に手を置いた。

 

「話は聞かせて貰ったわ。……で、何の話だっけ?」

「つまみ出せよ! 絶対この人、ろくな助言しないし、場を引っ掻き回して終わらせますよ!」

 

 思わず肩に置いた手を振り払って立ち上がった。

 ユミルに指を差して、今すぐ退場を願い出たが、やはりミレイユの態度は変わらなかった。

 

「まぁ、今の発言はユミルなりの気遣いだ。緊張を解してやろうという、そういうアレだ」

「じゃあ何で、そのフォローが若干しどろもどろなんですか」

「う、ん……」

「押し黙んないで下さいよ! 不安が増すだけじゃないですか!」

 

 アキラはユミルの肩を掴み、立ち上がらせようとした。

 

「やっぱりユミルさんはダメです! ――チェンジ! 助言役ならルチアさんとの交代を希望します!」

「あらぁ……。でもルチアは、アンタの問題に興味ないって」

 

 アキラの手を払い、強引に座らせながらユミルは言った。

 その言葉に若干傷つくものを感じながら、確かに彼女には何の関係もなく、協力する見返りも何一つない事に気がついた。

 それを思えば、善意でこうして駆けつけてくれたユミルには感謝すべきなのかもしれない。しかし突然サプライズとか言って、アキラを脅かす危険すらある彼女を隣に置いておくのは怖いのだ。

 

 だがそれを、一刀両断する言葉をアヴェリンが放った。

 

「いい加減にしろ。ミレイ様が決めたことだ、大人しく従え」

「う、……は、はい」

 

 アヴェリンにそう言われてしまえば、アキラは黙るしかない事はよく理解している。そもそもアキラに発言権などないし、メンバー交代を願う権利もない。

 今はとりあえずそれを受け入れて、ミレイユからの言葉を黙って聞くしかないのだ。

 アキラが頷き、話ができる状態になったと見て、ミレイユが口を開いた。

 

「まずお前が、何が駄目なのかという話をした事が始まりだったな?」

「そうです。才能が足りないのか、と聞いて、非常に近いという返答を貰いました」

 

 その話をするのに、アヴェリン以外に話を聞いてもらうのは羞恥に近い思いがある。しかしそれに真剣に話し合いをしてくれようとする、ミレイユの心遣いは有り難かった。

 

「……うん。では、結論から伝えよう。お前に足りないのは、魔力だ」

 



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努力と魔力 その5

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「マナを保有する武器を持たなければ戦えないのと同様、お前にマナがないせいで、根本的に戦いに向いていない。才能がなくても剣は振れるが、マナがなければ魔力は扱えない」

 

 ミレイユの口から出たのは、予想以上に衝撃的な言葉だった。

 マナがない、魔力がない、というのは人間ならば当然の事。それはミレイユ達も理解していた筈だ。それを今更持ち出して、戦うことに向かないというのは道理に合わない気がした。

 

「でも、ミレイユ様は言ってくれました。戦う事を選んだ意思に敬意を示す、と。だから師匠も付けて戦い方を教えてくれていたのに、なのに今更そんな……」

 

 一度は認めてくれたのだ。だから戦えと言われたし、放って置いて勝手に死ぬのも目覚めが悪いと師匠をつけてくれたのだ。

 唐突に手のひら返しをされた気分で、アキラの心中は穏やかでいられなかった。

 

 武器を振るえるなら戦える筈だ。

 才能がなくても努力で到れる極致だってあると聞く。努力すれば誰もが辿り着けるものでもないだろうが、始める前に諦めるのも嫌だった。

 そう、まだひと月も経っていないのだ。諦観するには早すぎる。

 その思いを伝えようとする前に、ミレイユが取り成すように手を振って口を開いた。

 

「焚き付けたのは、この私だ。お前の意思に敬意を示した。だから二つの意味で戦う武器を与え、それで由とする事にした」

 

 二つの意味とは、単純にそのままの意味で振るう武器という意味と、敵を倒せるマナの武器という意味だろう。家一軒分の価値ある武器を貸与ではなく贈与されたのだから、十分支援してもらったという認識ではある。

 

「はい、そのことは本当に感謝しています。でも……」

「――話には続きがある」

 

 アキラが感謝する言葉を言い終わる前にミレイユが遮り、そして続ける。

 

「私達は思い違いをしていた。マナを持たない者が戦う事の意味を、理解していなかった。……今までのように、単に鍛えてやれば多少は使えるようになるだろうという認識だった」

「では、そうでなかったと……?」

 

 ミレイユが頷き、アヴェリンが頷いた。

 

「アヴェリンは初日で駄目だと気付いたそうだ。当初は単に体力がない、筋力がないと嘆いただけだったが、よくよく考えてみるとおかしいと」

 

 アキラにアヴェリンが望むような身体能力が、備わっていなかったのは事実だろう。実戦に投入できるような兵士の訓練を受けていた訳ではない。もしかすればスポーツ少年として見た場合なら、合格点を貰えたかもしれなかった。

 

「アヴェリンが言うには、お前ぐらいの年頃なら出来上がっていて当然の身体能力が備わっていないと言う事だった。何故できないと激高し、多少暴力的になってしまう事もあったようだな」

「多少……?」

 

 その言い分には異論あったが、今はそれを追求しないでおく。

 それより話の続きが気になった。

 

「先入観が仇になったとも言える。弁護する訳じゃないが、マナを持たない者など見た事がなかったのだ。最初から持たざる者への適した対処など知る筈がない」

「それは……分かる気がします」

 

 アキラにしても、アヴェリンを見る限り――その容姿は置いておいて――普通の人間にしか見えない。一見しただけ、一度話してみただけでは、その本質を理解する事は到底不可能だったろう。

 しかし彼女は片手で車を持ち上げるし、車よりも早く走る。見上げる程の巨大なモンスターでさえ、彼女には一撃すら加えられず打倒される姿を、この目で見てきた。

 

「だが、途中で絶望的なまでのマナの欠乏に気付いた。これは私も同意する。ルチアはそれより早く気付いていたようだ。――これは蛇足だな。とにかく、お前が戦う者にはなれないと判断を下した」

「でも、それじゃあ何故、今まで鍛練を……? それとも、その判断を今朝に下した、という事ですか?」

 

 アキラは自らの頭の奥に痛みが走るのを感じていた。

 息が荒くなりそうなのを、必死に堪える。努めて冷静に、表情を崩さないよう努力しながら、目の前を見つめる。

 組んだ足の上で、両手の指を絡めるように合わせたミレイユの瞳に、揺らぐものは見えない。

 

「いや、判断事態はもっと早い。鍛練を続けて来たのは、一つにお前を生き延びさせる手段を与えてやりたいと思ったからだ。勝てないまでも、逃げる程度の力を持たせてやりたいと。……武器を手放すな、と何度も言われていたな? 手放して激昂されてもいた。何故だと思う?」

「それ、は……戦士として武器を手放すのは、恥だと……。刀は武士の魂とも言って……」

 

 ミレイユは首を横に振り、アヴェリンへ顔を向ける。本人の口から言えという指示に、それまで無言で静観していたアヴェリンが口を開いた。

 

「威嚇する手段すら失えば、逃げる事も出来んからだ。倒れたらすぐに起き上がれというのも、そうだ。戦意を持ち続ける気概などより、立たねば逃げ出す機会すら失うから、そうさせていたに過ぎない」

「威嚇……? それじゃあ……あの鍛練は……、初めから戦う為のものじゃなかったんですか……?」

 

 アキラは鼻の奥がツンとするのを感じた。喉の奥にも同じようなものが込み上げてくる。

 侮辱しているつもりはないのだろう。しかしアキラが武器を振るう事は、敵に対して威嚇する程度の力しかない、と言っているのだ。

 元より自尊心が強いタイプではない。剣術に才能があると言われた事もない。しかし、この一言はアキラにしても、心を抉られた。

 

「初めは戦わせるつもりだった。実際、インプとは戦わせたし、それからも戦わせたろう。だが実力的に、それ以上の敵は難しいという判断だったから、方針を転換することになったのだ」

「お前はトロールに怖気づいていたろう。――いや、それが自然だ、おかしい事はない。じゃあ、鍛えれば倒せると思うか? 自動車すら叩き潰す一撃を、自分ならいつか受け止められると?」

「それ、は……」

 

 アヴェリンの言葉を引き継いだミレイユが出した一例に、アキラは自信を持って応える事が出来なかった。それも当然だろう。仮に総合格闘技の世界チャンピオンだって、そんな一撃は受け止めきれない。

 刀一本、あるいは盾一つで、どうにかなるものではない。

 

「それがまさにマナを持つ者、魔力を扱えるかどうかの差だ。お前を軽んじているのではない。無理なものは無理という、これは世の理の話だ。……どうあがいても、お前はアヴェリンに勝てないだろう?」

 

 労るような声が胸に辛かった。

 ミレイユは言っているのだ。

 アキラとアヴェリンの間にある圧倒的力量差が、経験の差でも、年齢差でも、人種の差でも、筋力差でもないと。

 

 アヴェリンに一太刀すら入れた事のない身からすれば、ミレイユの言葉を否定する事は出来なかった。

 全体重をかけた一撃をいなす事は、技術のある者なら難しい事ではないのだろう。アキラの通う剣術道場の師範は齢五十を超える筈だが、若さで振り回す刀にしっかりと対応してくる。

 お情けで一本取った事はあるものの、実践形式では一度もない。しかし、これに届かないと思った事もなかった。

 

 しかしアヴェリンは、その次元とは全く違う。

 彼女は息一つ乱した事もなければ、汗をかいた事もない。運動量がまるで届いていないのだ。アキラが汗だくで呼吸が辛くなるほど打ち込んでも、それに付き合う彼女にとって、汗をかくような運動になっていない。

 

 それ程の隔絶した実力差があると、もはやこれにいつか届くなどという妄想はできない。

 超えるべき壁ではなく、越えられない山として、アキラは認識してしまっている。

 

「だからもう諦めろと、手を引けと、そういう話ですか……」

「そうだな。……分かりやすく数字で言おうか。あのインプで、実力は一から三といったところだ。そしてお前も、三程度だ」

「僕が、三程度……」

 

 あれらと実力が拮抗しているというには、アキラは勝ち過ぎているように思った。同時に五体を相手にしたこともある。傷こそ負わなかったが、攻撃を受けたのも一度切り、それで同じ実力と言われて納得できない。

 その表情が顔に出ていたのだろう、ミレイユが補足してくる。

 

「お前が難なく勝てていたのは、実力に比例しない武具があったからだ。それで苦戦するというなら、むしろ問題だ」

「僕は……何一つ、自分の力で勝てていなかったという事ですか……」

「それは違う。立ち回り一つ、武器の振り方一つで、その武具を良くも悪くもしてしまうものだ。勝てて当然の戦いだったが、勝つ為に勝てる戦いをした。それは誇って良い」

 

 はい、とアキラは返答したが、その声に力はなかった。

 励ましは受けたものの、しかし結局、実力を認められた訳ではない。最も弱い部類の敵に対して勝ちを拾えるだけ、それ以上となれば逃げるしかないという指摘。

 

 ――だが。

 何一つ希望はないのだろうか、と考えてしまう。今現在、実力が足りず、力量に伴わない武具を使っているとしても。

 ――それでも。

 この先、何一つ実力が伸びないという事にはならない筈だ。今は三の実力しかないからといって、これからもその数字から動かないという事も、またない筈だ。

 

 縋るような気持ちで、アキラはミレイユに問い質すように聞いた。

 

「僕は……僕の実力は、もうこれ以上伸びないのでしょうか。もう伸びしろは、全く無いんでしょうか……!?」

「……あるだろうな」

 

 その言葉はアキラに光明を与えたが、同時に次へ続く言葉で失意する事になった。

 

「今の三が、五を越す程度だ。そして、どんなに甘く見積もっても八を超える事はない」

「それは……それじゃあ、結局……。でも、それだって憶測の域を出ない筈で……」

「勿論だ。私の見る目が信用できないという――したくないという気持ち、よく分かる。だが私も、単にお前を絶望させ諦めさせる為、この場を用意したという訳ではない」

 

 その言葉に、今度こそ目の前に光明が差したようだった。

 ソファの背に身を預けていたミレイユは、身体を起こしてユミルに視線を向ける。

 それでアキラも隣を見て、そして今まで一度も口を開かなかった事実に疑問を感じた。その顔には愉快そうに見返す表情がついていた。

 

「アキラ、お前……ユミルの眷属になる気はないか?」

 



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努力と魔力 その6

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 言われた事を理解できず、アキラは首を傾げた。

 今日は既に多くの事を指摘されたせいで、脳がオーバーヒートしているのかもしれない。

 ユミルは相変わらず愉快そうな表情を崩さないし、見返すばかりで何を言うでもない。それで判断を下せと言われても、無理というものだった。

 だからとりあえず、アキラはミレイユに向き直り聞いてみる。

 

「その眷属っていうの、何なんです? なると、どうなるんですか?」

「まず、身体にマナが宿り、魔力が使えるようになる。身体が作り変えられるから、厳密には人間ではなくなる。だが見た目の変化はないぞ。端から見れば以前と変わっていないように感じるだろう。ただ、瞳の色は変わる。ユミルと同じ色にな」

 

 言われて再びユミルを見返すと、そこにはルビーのような赤い瞳が輝いていた。意識して見た事はなかったが、こうしていると引き込まれそうなくらいに綺麗な瞳をしている。

 思わずその顔に手を伸ばしそうになって、アキラは慌てて正面に向き直った。

 

「な……なるほど。でも身体にマナが宿るって、どういう理屈で?」

「理屈の事は知らん。そういうものだ」

「えぇ……?」

 

 きっぱりと言われて、アキラは思わず呆れたような声を出してしまった。三度隣を見ても、やはり何も教えてくれず、ただ愉快そうに見返してくるばかり。

 アキラはまたミレイユに顔を戻して、もう少し詳しく聞いてみようと思った。

 

「えぇと……その眷属っていうのになれば、僕も魔力を扱えるようになるんですね?」

「そうだ、それは間違いない」

「それって、実力的にはどの程度の力になるんですか?」

「先程の数字に当て嵌めると、少なく見て……百」

「ひゃく!?」

 

 アキラは飛び上がるような驚きを覚えた。

 眷属になるという意味が、まだよく理解できていないが、もし承諾すれば、それだけの力を保証されるというのは悪くない話に思えた。

 

「少なく見積もって、それだ。というのも、これには個人差が大きいらしくてな。実際に変化してみるまで、最終的な判断は下せないらしい。だから、とりあえず最低値を教えた」

「最低値でそれですか……。因みに……最大だと?」

「あくまで私の知る範囲という話になるし、そこまで上手い話でもないと思うが……五百かな」

「ご……ひゃく……!!」

 

 たったの三と評価されたアキラが、五百まで跳ね上がる可能性というのは実に魅力的な話に思えた。前のめりに快諾しそうになって、はたと動きを止める。

 うまい話には裏がある、とよく言うではないか。

 ここまでお膳立てされて、すぐに飛びつくようでは詐欺話に引っかかるカモ呼ばわりされても仕方がない。

 

 思えば、それまでアキラの実力を低く評価するような話も、これを承諾させる為の仕込みだったのではないか。そういう思いが胸に去来する。

 大体、自分の眷属にするという話なのに、その説明をミレイユがするというのもおかしい。

 ユミルが何一つ喋らず、ただ愉快そうに見返すだけ、という状況が更なる不安に拍車をかけた。

 

 アキラは警戒心を一つと言わず三つ上げて、ミレイユへ緊張した面持ちで問うた。

 

「それで、その眷属っていうのは一体何なんですか?」

「説明が難しいな……。ただ、命令には絶対服従だ」

「絶対服従……」

 

 ちらり、と胡乱げに視線だけユミルに向ける。

 先程までと表情が変わらないが、そこにはどこか不快げな、あるいは不本意さのような雰囲気が発せられていた。許されるなら貧乏ゆすりでも始めたい、と思っているような感じだった。

 

「部下のようなものなんですか?」

「そうだな……そのようなものだ」

 

 アキラは気持ちがみるみるうちに萎んでいくのを感じていた。

 言うことに歯切れがなく、説明も曖昧で、実力の爆発的な飛躍を説明した時のような熱意がない。そこにまた、一つこの件に乗ってはいけないという警戒心を生ませた。

 

「因みに、この話を断ったらどうします?」

「別にどうもしない。お前は気付いているか? ここのところ、結界が生まれるペースが早まっているだろう」

「ええ、はい。ミレイユ様も言ってましたよね」

「……聞いていたか。ペースも早まっているが、敵もまた強い種族が見えるようになってきた。これが一時的なものなのか、波のようなものがあって何れ静まるのか、それとも徐々に強まっていくのかは分からない。が、この波が続くようなら早晩、お前の身は危険に晒されるだろう」

 

 ミレイユの宣告は、実際ただの妄言でも脅迫でもないと思われた。

 最初は任されていたインプも、最近では姿を見せる事は少なくなった。雑魚の露払い、そして自分を鍛える場として機能していたものが、ついに前回では最初からお役御免の状態になったのだ。

 これが前回限りのものなのか、それは回数をこなしてみなければ分からないが、インプの出現が限られてくるようなら、アキラは役に立つどころか逃げに徹するしかなくなる。

 

 それが分かっても素直に頷けない。

 いま正に目の前にぶら下がっている餌に食いつくのは、情けないやら不甲斐ないやらという気持ちにさせるというのはある。

 自分の持つ全力をまだ発揮していない、発揮したいという矜持もある。

 しかし同時に、命には替えられないという思いがあるのも確かだった。

 

 考えに考え、アキラは一つの結論を下した。

 

「その話、大変ありがたい申し出だと思うんですが、お断りさせて頂きます」

 

 そう言って、アキラは深く頭を下げた。

 そこに隣から、愉快な表情のまま愉快そうな声音で聞いてくる。

 

「へぇ? 死んでもいいの? 大した実力もないクセに、でかい口だけ吹いていても、誰も助けてはくれないわよ?」

「分かってます。それでもです」

「絶対服従が気に入らない? 何を言われるのか分からないから?」

「それもない訳じゃないですけど、でもそれが本命の理由ではありません」

「あら、そう。じゃあ聞かせてちょうだい。どんな御大層な理由があるのか」

 

 アキラは頷き、決意ある表情でそれを告げた。

 

「それは、僕が人間だからです。無力な人間で、大した実力もなく、魔物に簡単に踏み潰されるのだとしても、それを理由に逃げる事をしたくないからです」

「別に逃げではないでしょう。単に強い力を身に着けて対抗するだけ。一つ魔物を倒す度、助けられる命が増えるかもよ?」

「だとしても、縋るというには早すぎます。血反吐を出して、身体中を擦り切らせて、武器を振る腕すら奪われてから望むもので、まだ努力の途中の自分が手を出すものじゃないと思います」

 

 ユミルは愉快げな表情を崩し、平坦となった顔で問う。

 

「血反吐、擦り切れ、腕を失う? そんな余裕すらあるワケないでしょ。一瞬で、一発で、後悔する暇もなく死ぬ。それがアンタの現実」

「かもしれません。でも一瞬で、一発で死ぬのは、別に魔物が特別だからじゃありません。この世の中にある戦争やルールのない闘争だって、銃弾の一発で呆気なく人が死にます。でも、一発で死ぬからと戦う事を放棄する人はいない」

 

 アキラは自分で自分の言葉を噛み締め、凛然として言葉を放った。

 

「本当に誇りをもって、誰かを守りたいと思う戦いなら、呆気なく死ぬことすら覚悟の上で武器を握る筈です。敵の攻撃に恐怖し、自らの死に恐怖し、それでも自分の後ろに人がいると思うから、自分を鼓舞して戦えるんです」

「……ふぅん?」

「僕の一太刀なんて全く意味がないのかもしれない。ミレイユ様や師匠がいれば、僕なんている必要、本当はないんでしょう。でも、やります。この身このままで、やれるだけ、やれる場所までやってみたいんです!」

 

 ユミルは密かに眉を顰める。声には若干の苛立ちが混じっていた。

 

「……話、聞いてた? 魔力なければ全くの無力だって理解してる?」

「はい、今の僕では最低限の戦働きしか出来ないというのも理解してます。でも、努力を怠りたくないんです。駄目だと突き付けられても、無理だと指弾されても、だからって僕が努力を諦める理由にはなりません。自分で自分を諦めるまで、僕はこのまま続けます!」

「……そう!」

 

 ユミルは笑う。

 貼り付けたような人を食った笑みではなく、心から安堵したような笑みだった。

 その笑みのまま、ミレイユとアヴェリンの双方を見比べる。

 

「これはもう、決まりかしらね?」

「そのようだ。……少々こいつを、見くびっていたかな」

「よくぞ言った、アキラ。その気概だけは見事なものだ。私はお前の師として誇らしいぞ!」

 

 ユミルの表情の変わりよう、そして次々と送られてくる称賛に、アキラは思わず呆然とする。その言葉は嬉しい。特に今まで罵倒しかされてこなかったアヴェリンの飾ることのない褒め言葉は心の内を熱くさせた。

 しかし、それと同時に思うこともあった。

 

「……もしかして、試したんですか?」

「ゴメンねぇ、そうするしかなかったのよ」

「じゃあ、眷属になるっていうのは?」

「それは本当。望めばしたわよ。絶対服従っていうのは口だけの約束じゃなくて、魔術的な契約だから逃げられないワケ。だから二度とアタシの前に顔を見せるな、っていう命令と共に、男娼でもさせて金だけ貢がせていたわね」

 

 あまりの悪辣さ、非道さに、アキラは顔を青くして身を引いた。

 

「え、何ですか、それ……。ひどすぎません!?」

「楽して強くなりたいなんていう甘ったれなら丁度いいでしょ。……まったくねぇ、これで現金収入の目処も立って、めでたしめでたしっていう話になるところだったのにねぇ」

「そんなこと考えてたんですか!?」

 

 ぐわっとミレイユに顔を向けると、珍しく慌てた様子で両手を横に振っている。

 

「言っているのはユミルだけだ。私はそれをさせるつもりは毛頭なかった。ただ、二度と顔を見る事はなかったろう。その部分だけは共通している」

「……危なかったぁ。正直、心がグラついてました」

「それでも、お前は誘惑を跳ね除けた。これで、正式に私の弟子となる事を認める。喜べ、今以上に鍛え上げ、必ず後悔しない結末を用意してやる」

 

 アヴェリンの獰猛な笑みに、アキラは早くも後悔し始めていた。

 今だって十分厳しく辛いというのに、アレ以上をこなせというのか。アキラはいっそ泣きそうになった。

 

「なんだ、そんなに嬉しいのか。……うむ、私も果報者の弟子を持てて嬉しく思う!」

「あ……、ホントだ。僕、泣いてる……」

 

 頬を拭えば掌が塗れている。

 視線を感じてそちらへ顔を向ければ、見つめているミレイユと交わる。その表情は、同情を禁じえないと語っていた。

 



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努力と魔力 その7

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「――話は終わりましたか?」

 

 アキラが涙を拭っている間に、箱庭からルチアが出てきた。

 晴れやかな笑顔をしているユミル、誇らしげなアヴェリン、泣き顔のアキラと、それぞれ順に見渡して、得心したように頷く。

 泣き顔に関しては大いなる誤解が含まれていそうだったが、敢えて訂正するような余裕もない。

 

「どうやら、準備したものは無駄にならずに済んだようですね」

「準備、ですか?」

 

 見てみれば、ルチアの手には小さな麻袋が握られていた。手の平よりも更に小さな袋で、重量のある物が入っているようには見えない。指先で摘むように持ち替えると、それをテーブルの上に置いた。

 ユミルがそれに注釈を加えるように言った。

 

「ルチアがここにいなかったのはね、これを準備していたからよ」

「その……袋の中身を、ですか?」

 

 ユミルは頷いて肯定する。

 それには多少の意外性があった。ルチアはこのメンバーの中で最もアキラに興味がない人、という認識だったからだ。あからさまに遠ざけるような真似はしてこなかったが、さりとて積極的に関わらない。

 そもそも関心がない、という表現が、ルチアから見たアキラへの印象のように思われた。

 それを、袋の中身が何であれ、時間を掛けて用意するような――面倒な作業をアキラの為に行っていたというのは、意外であると共に感謝の気持が湧いてくる。

 

「あ、ありがとうございます。僕のために……!」

「ミレイさんに頼むと言われれば、断る選択肢はないので」

 

 ルチアの言葉には多少の棘があった。本人としては、不本意な事だったのかもしれない。それでもアキラは感謝の気持ちは変わらなかったし、それを指示してくれたミレイユには、更なる感謝の気持ちが湧いてくる。

 

「ありがとうございます、ミレイユ様!」

 

 アキラが頭を下げると、ミレイユは気にするな、という風に手を振る。

 そうして改めて袋に目をやった。ルチアの小さな手の平よりも、更に小さな袋である。入っているとしたら、ルチアが得意とする細工品だろうか。

 ピアスとか指輪とか、そういう小物が入っているなら適切な大きさに思えた。

 

「それで……、これは何なんです?」

「エルフの飲み薬です」

 

 突然飛び出してきたファンタジーな単語に、アキラは目を輝かせると共に疑問にも思う。この粗末な麻袋に入っているのが薬だとして、何故薬を用意されたのか理解できなかった。

 

「飲み薬……ですか?」

「エルフの……というか、より正確に言うと、エルフの為の飲み薬なので、あなたに使って大丈夫なのかまでは知りませんけどね」

 

 アキラはぎょっとして、麻袋に伸ばしかけていた手を止めた。

 そしてルチアの澄ました横顔を見つめる。そこには何の感情も読み取れなかったが、同時にその耳へ視線を向けて形を確認する。

 しかし耳は髪に隠れてよく分からない。思えば、今までも耳の形を気にした事がなかったのは、そもそも髪に隠れて見えなかったからだ。

 

 用意したのがエルフの飲み薬だというなら、彼女はエルフという認識でよいのだろうか。

 眉目秀麗、容姿端麗というのがアキラの知るエルフの特徴だが、あちらの世界でも同じだとすると彼女がエルフと名乗っても何ら違和感がない。初めて見た時は、まるで妖精のようだと思ったものだ。

 

 その思いが顔に出ていたのだろう、ルチアは不快そうに顔を歪めて、その視線を振り払うように手を振った。

 

「あまり見ないで貰えます? そういうの、嫌われますよ」

「す、すみません……!」

 

 アキラは慌てて視線を逸して頭を下げた。

 言われてしまうのも当然で、例え彼女がどういう種族でも、不躾に顔を見つめられて愉快に思う筈がない。

 

 アキラは改めて麻袋に目を移し、それからミレイユへ伺うように顔を向ける。

 ミレイユは頷き、組んでいた手を解いて麻袋に手を向けた。

 

「その話は置いといて、まず麻袋を持って中身を確認しろ」

「は、はい。すみません……」

 

 アキラは言われたとおり、麻袋を手に取った。

 チャラ、と小さく固いものがぶつかるような音がして、中身に入っているものが予想していたものとそう違いがないと思った。

 しかし袋の口を開けて見ると、実際に出てきたのは色の違う三つの石だった。

 

 ミレイユにまた視線を向けて指示を乞うと、中身を取り出せという身振りをされて、言われるままに手の平の中に中身を落とした。

 

 出てきたのは三つの宝石――ではなく、原石のようだった。

 まだ磨かれず、カットもされていない、表面に白いものが浮かんだ色とりどりの原石。緑、青、赤の小さな原石が手の平の上で転がっている。

 

 そして疑問は更に大きくなった。

 これは石であって薬ではない。

 

「これ……飲み薬なんですか?」

 

 アキラが想像する薬とは錠剤であるか、あるいはカプセル状になっているものだ。せめて粉状であるものが、アキラが薬と認識する最低限の形だ。

 しかし目の前にあるのは加工前の宝石であって、薬の形状としては全く想像の埒外だった。

 

 アキラがルチアに顔を向ければ、彼女は顔を向けぬまま頷く。

 それ以上の説明はなく、待っていても応えてくれない。

 世界の常識の違いか、とアキラは自分を納得させた。錠剤やカプセルで薬を用意できないのは別段気にしてないが、ここまで形が違うと面食らったというだけの話だ。

 

 だがもう一つ、確認しなくてはならない事がある。

 何故ここで薬を飲まされなくてはならないのか、という事だった。

 

「えぇと……、なぜ薬を用意してくれたんでしょうか?」

「必要だと言われたからです」

 

 ルチアの返答は簡潔で、しかもそれ以上の説明がない。

 アキラは困ってミレイユの方を見てみれば、困った顔で笑いながら彼女に代わって解説してくれた。

 

「お前に、さっき話をしたとき、魔力のことについて言及したな?」

 

 魔力の、というより、その事を主題として話していたような気がするが、アキラはとりあえず頷く。

 

「そして、お前には魔力がないと言う話になった。より正確に言うのなら、絶望的なまでの魔力の欠乏だ」

「ええ、はい……。そうでしたっけ」

 

 何しろ色んな事が立て続けに置きたもので、アキラとしても細かい部分について記憶が曖昧だった。だが、ミレイユがそう言うからには、きっとそうなのだろう。

 ――しかし、欠乏とは。

 その言い方だと、まるで最初はあったかのようではないか。

 

「いいか、欠乏だ。不足し、乏しく、満たされていない……魔力の欠乏が起こる原因は何か? お前には――お前たちにはマナの供給が圧倒的に足りていない」

「それは……えぇ? どういう意味ですか? マナが足りないって、そんなのこの世界にはないのでは? それに……お前たち?」

 

 突然の情報の氾濫に、アキラは目を白黒とさせる。

 言っている事は分かっても、言っている意味は分からない。アキラはまさに混乱した。

 

「順に話そう。まず、お前たち――日本人だけか、あるいは世界人類全体の話かは分からないが、とにかくその身には魔力がある」

「そんな……本当なんですか!?」

 

 その発言は衝撃の事実だった。

 時に海外では人体発火現象だとか、サイコキネシスだとかいうオカルトが顔を出すが、もしかしたらそれは本当の話だったのだろうか。

 

「ただし、それがつまり魔術を使えるという話にはならない。どれほど陳腐に見える魔術でも、自然に目覚め使えるものじゃないからだ。数学を学んでない身で、地頭の良さから数式を使えるような者は実際いるが、魔術はそれとは全くの別物だ」

 

 ミレイユは一時言葉を止めて、考えるような仕草を見せる。

 

「魔術の行使は一種の契約だ。魔術書を読み解き、その行程で儀式を経て行使に至る。……説明としては適切ではないかもしれないが、電話回線のようなものだ。電話だけ用意しても、契約しなければ繋がらない」

「なるほど、その電話がつまり、魔力だと?」

「魔力であり、術者であり、媒介でもある。細かい説明は面倒臭い、そこは置いておけ。言いたいのは、単なる偶然で魔術は使えないし、使うには魔力も必要だと言うことだ」

 

 ぞんざいに手を振ったあと、ミレイユは難しそうに眉を寄せる。

 

「そして、その魔力が私の知る限り、どの日本人も持っている。……持っているというのは適切ではないな。欠乏しているのだから。ああ、つまり、なんと言えばいいのか……」

「つまり、枯れ井戸の底に残った一掬いの水溜り、それが貴方たちが持つ魔力です」

 

 どう表現したものか迷うミレイユに、ルチアが引き継いで言葉を放った。

 歯に衣着せぬ表現というべきか、ルチアの言葉に遠慮も気遣いもない。淡々とした声に批判めいた色は感じられないが、どこか同情している風でもある。

 ルチアはミレイユへ労るような表情を見せた。

 

「私に遠慮しての事なら構いませんよ。気にしないでください」

「しかし、そうは言ってもな……」

「では、私の方から説明しましょうか?」

「……そうだな、頼む」

 

 そう言って、ミレイユは思い出したかのように、もう一脚椅子を作り出す。作り出すというより、突然目の前に現れたという風にしか見えなかったが、ともかくルチアは礼を言ってその椅子に座った。

 アキラの横に座ったルチアは、軽く視線だけ向けて語りだした。

 

「本来なら、自然界の何処にでもマナが溢れているから魔力が欠乏するなんて事はありません。もちろん短時間で一気に使い過ぎて、一時的に足りなくなる事はあります。でも、これはまた別の問題です。理由は二つ。そもそもマナがない、そして一度も扱った事がない為に、蓋をしてしまっている事にあります」

「それってつまり身体構造上、魔力を扱える素養が最初から備わっているという事ですか?」

「ですね、別にあなたが特別という事ではないです。ただ不思議と……、他の人よりは多い気がしますけど」

 

 ルチアが本当に不思議そうに首を傾げた。

 それは単に運が良いと言うような、個人差で片付く問題ではないというニュアンスに感じられた。魔力の過多は身長の遺伝のように、多い人からは多い子供が生まれやすい等と言うことはないのだろうか。

 不意に湧いた疑問だったが、何か言う前にルチアが更に言葉を続けた。

 

「でもマナがないから魔力を作る事が出来ず、その結果、自己防衛の本能めいた機能が働いて、現在のような形になってしまっているんじゃないのかと」

「井戸の底にある、ほんの一掬いを守る為、井戸の口に蓋をした状態、って事ですか?」

「そうですね。魔力の欠乏は不調を来す筈ですが、生まれてからずっとその状態なら、むしろそれに慣れてしまった状態、だと予想しています」

「不調の形が、むしろ自然体になってしまっていると……」

 

 ですね、とルチアは頷いた。

 改めて自分の身体を見下ろしてみても、特別な不調を感じる事はない。心が浮足立って、むしろ身体まで軽いくらいだった。自分の腕を見てみても、肌の色ツヤ、張りも問題ない。

 この状態が不調だというなら、本来の状態を呼び起こしたら、一体どうなってしまうのだろうか。

 

「今のまま、単にマナを与えたところで、蓋があるので意味がありません。蓋をどけるのと同時に、底にも穴を空ける必要がある。そして、その風通しよい井戸穴にマナを通して慣らします」

「な、なるほど……。脱水症状の人に急に水分取らせてもいけない、というような事ですかね?」

「そうですね、近いかもしれません」

 

 ルチアが頷き返したのを見て、アキラはふと疑問に思った。

 マナの欠乏が不調を来すのなら、ルチア達は大丈夫なのだろうか。この世界にマナはないと言ったのはルチアであり、ミレイユだった。ならば、体内の魔力はいずれ尽き、マナの補充も出来ず欠乏してしまうのではないか。

 

 そう思ってミレイユを見つめたが、その表情には突然視線を向けられた事に困惑するものしか浮かんでいなかった。



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努力と魔力 その8

 ミレイユが片眉を上げて聞いてくる。

 

「どうした、突然……?」

「いえ、マナがない世界でどうやってマナを補充しているのか、それが気になって……。このままじゃ不調で倒れてしまう事になるのでは、と……」

「ああ、なるほど……」

 

 ミレイユは薄く笑って、部屋の片隅に置かれた小箱へ指を差す。

 

「箱庭の中は言葉通りの別世界だ。あそこはマナが溢れているから、そこで生活している限り欠乏とは縁がない」

「ああ、そうだったんですね」

 

 アキラはホッと胸を撫で下ろした。

 ミレイユの言うことが真実なら、アキラは余計な心配をしただけという事になる。いや、真実なら、という事はない。アキラにここで嘘をいう必要はないのだから。

 そして、またも思い立つ事があった。

 そこでなら、そこでしかマナの補充が出来ないというのなら――。

 

「もしかして、今後、僕もその箱庭に入る機会があるんですか?」

「そうだな。……当然、そういう事になる」

 

 ミレイユの返答にアキラは喜色を浮かべたが、代わりにルチアは渋面だ。どうやら彼女は反対らしい。自分の住む家へ定期的に人が出入りする事を思えば、素直に賛成できない部分があるのかもしれない。

 しかし彼女は声高にそれを否定することも、反対する声を上げることもしない。唯々諾々とは言わないまでも、認めることは認めているのかもしれなかった。

 

 以前からあの中が気になっていた身としては、機会があるなら是非入ってみたい。

 アキラは敢えて藪蛇になるような事は言わないよう気を付けながら、手の中に収まり続けている原石へ視線を落とした。

 

「それで……、これを飲めばいいんですか?」

「そうだが、順番があるから注意しろ」

 

 アキラは指で摘んだ青い原石を、その一言で手放した。

 ミレイユがルチアに視線を移すと、一つ頷いて口を開く。

 

「最初に赤を。歯で砕かず、丸ごと呑み込んで下さい」

「分かりました。……えっと、水と一緒でいいですか?」

「ええ、そこはお好きに」

 

 アキラは頭を下げて席を立つ。原石は小さく、小指の爪ほどの大きさしかなかったが、カプセル錠剤だって水なしに飲み下すのは簡単ではない。一つと思えば無理もするが、これから三つ飲まなければならないのだ。

 水と一緒でいいなら、これは別に無理するところではない。

 

 そう自分に言い訳をして、シンクの棚からコップを取り出して蛇口を捻る。

 この市の水道水は不味いと言われるが、アキラは気にした事がなかった。特に気兼ねなくコップに水を注ぎ、元の席に戻ってくる。

 

 そして改めて、赤の原石を口に含み、水とともに嚥下した。

 

「……ン、グ。……はぁ」

「どうだ?」

「何か……喉に引っかかってるような感じがします」

「ずっと続くようなら言え」

 

 ミレイユの労るような声を聞くのと同時、引っかかっている感じが薄れ、下の方へ流れていく気がした。なんとなく胃の辺りを撫で回し、無事に済む事を祈る。

 

 それから一分が経過したが、特に何が起こるという訳でもなく、飴でも丸呑みした時のような感覚が喉の奥に残るだけだった。

 このまま次を飲めばいいのか、と思った時、腹の奥から熱いものが湧き出てくる。

 

「あ、なんか、お腹が……熱いような……」

「それで正常だ……、多分な。そうだよな?」

「今更ですけど、これ本当に使って大丈夫だったんですか?」

 

 ミレイユが不安げにルチアに目配せしたのを見て、アキラは嫌な予感が脳裏を駆け巡っていた。

 ルチアは言っていた、これはエルフの飲み薬だと。人間に使ってどうなるか分からないと。その後の説明に意識を割かれて、それを確認するのをすっかり忘れていた。

 

 不安そうな目を向けられたルチアは、軽く肩を竦めるだけだった。

 

「だから言ったじゃないですか。人に使って大丈夫なものか、保障できませんって」

「そ、それ――! そんなの飲ませたんですか!」

 

 言ってる間に腹の熱がどんどん強まっている気がした。

 いや、気のせいではない。実際に熱くなっている。腹の中で燃焼を始めたと言われても、信じてしまいそうな熱さだった。

 アキラは腹を抑えて、必死な顔でミレイユとルチアを交互に見つめる。

 

「これ、大丈夫なんですか! 凄い熱いんですけど!」

「……アキラ〜?」

 

 必死な形相で詰問する状態だったアキラに、横から愉快げな声が掛けられた。

 振り向いてみると、笑顔のユミルが顎の下を人差し指一本で掻いている。何かのジェスチャーかと思いながらそれを見つめていると、やおら指を立ててアキラを指差してきた。

 

「アンタのその顔、笑えるわ」

「黙っててくださいよ、役に立たないなら!」

 

 アキラの反応に満足して、ユミルはゲラゲラと笑った。

 

「大丈夫よ、本当に危なかったらちゃんと助けてあげるから」

「本当でしょうね!? いや、待って。――誰が? 誰が誰を助けるの?」

「アタシが。他ならぬアタシが、アンタとかを助けるって言ってんの」

「とか!? とかって何!? ユミルさんが!? いや、ちょっとタンマ。チェンジ、チェンジで!」

「たんまとか、ちょっと意味分からないから駄目ねぇ。というわけで、アタシが続行」

「いやぁぁぁ! あ、お腹! やば! ヤバいこれ! これなんかヤバい……!」

「アンタ、どんどん語彙が面白くなってるわよ」

 

 ユミルの指摘は問題ではなかった。

 腹の熱は燃えるようというより、内側から溶かされるかのように感じる程だった。額から脂汗を垂らしながらアヴェリンに助けを求めるが、不安げな視線をルチアに向けるだけだった。

 

 そのルチアも興味深げに、モルモットを見るような目で見つめ返すばかりで、動いてくれそうもない。

 最後の砦のミレイユに顔を向けると、いつの間にやら床に落ちた原石を魔術で浮かしているところだった。

 

 拾ってくれた事には若干の感謝の気持ちがあったものの、そんな事をしている暇があったら助けてくれという気持ちもある。

 腹の熱が収まらない事に不安と絶望を感じているところに、ミレイユからの冷静な声が響く。

 

「ルチア……これ、次は何色だ?」

「緑ですよ」

 

 そんなこと気にしている場合か、と口に出そうとした瞬間だった。

 開いた口に何かが入り込み、喉に当たって反射的に飲み込んでしまう。

 しかし無理な入り方をしたせいか、飲み込もうとしたところから吐き出そうとする動きに代わり、えづくような咳き込むような、変な苦しみを味わう事になった。

 

「うっ! ゲホッ! お、おぇ……っ! げほっ!」

「何とか飲み込め。――ほら、水だ」

 

 目の前までコップが動いてきて、アキラは藁にもすがる思いでそれを掴む。未だえづく喉へ押し込むように水を飲む。

 

「……げほっ! えほっ!」

 

 水が気管に入ったのか、喉が痛くて咳もひどい。

 さっきより状況が悪化して、赤い顔に涙を浮かべながら咳を続ける。荒い息で呼吸を整えながら、アキラはよろよろと自分の椅子に座る。

 咳を続けて、それも一分も過ぎると、ようやく呼吸も落ちついてきた。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……! なに、もう……なんですか……、ひど、めに……酷い目にあった……!」

「いやぁ、苦しそうねぇ。ほら、背中さすりさすりしてあげる」

 

 言いながら、本当に背中をさすってくるユミルに、されるがままにしていると、呼吸も正常に近いところにまで戻ってきた。

 

「……これ、本当に危ないところじゃなかったんですか? ユミルさん、助けてくれるって言いましたよね?」

「だから、いま助けてあげてるでしょ? いやぁ、危ないところだったわねぇ」

「つまり助ける気ないってことじゃないですか!」

 

 手を振り払って涙目で吠えたが、ユミルはどこ吹く風でカラカラと笑う。

 アキラは恨みがましい目で見つめたが、それがまたユミルを喜ばすと思い、視線を切ってミレイユに顔を戻した。

 ミレイユには直接恨み言は言い辛い。それで非難めいた視線を向けるに留めたのだが、しかし直後、彼女の口から放たれた言葉にハッとした。

 

「それで、腹の具合はどうなった?」

「――あっ! ……そういえば、もう今は全然」

 

 腹を擦ってみても――それに意味はないと知りつつ――あの時に感じた熱は引いている。まるで水をかけられたかのように、すっかり消えてしまっていた。

 

「良かったわねぇ。アタシのさすりさすりが良かったのね、きっと」

「いや、絶対それは関係ないです」

 

 ピシャリと言い放って、アキラは最後の一つ、テーブルの上に置かれた青の原石を見つめた。

 これも飲まなければならないのだろうが、飲めば次はどうなるかと思うと、口に入れるのも憚られる。しかし飲まなければ、きっと魔力を扱えるようにはならないのだろう。

 これが最後の試練だ、と自分に言い聞かせながら、アキラは最後の原石を口に入れた。

 

 その変化は今までにないものだった。

 熱いとも冷たいとも感じる不思議な感覚が、身の内の上から下まで通るような、それでいて脳を突き抜けてどこまでも広がるような、表現できない何かが走る。

 

 アキラは椅子の上で震えて、その肩を抱いた。

 寒くもないのに震えが止まらない。震えは身体だけでなく足まで届いて、意味もなく震えてしまう。

 何がと思う暇もなかった。

 先の二つと違い、あまりに早く、あまりに短く、唐突にそれは終りを迎えた。

 

 ピタリと震えが止まって、思わず呆然として周りを見る。

 特に何かが変わったという気はしなかった。自分の手の平を見ても、やはり何か変わったようには思えない。ただ、体の中が空っぽになってしまったかのような、不思議な空虚感だけがあった。

 

「これ……一体、どうなったんです?」

「うん……、どうやら成功のようだ。良かったな、今この瞬間から、お前は魔力を扱えるようになった」

 

 そう言われても、その感慨は全く沸かない。

 だが嘘を言っているとも思えないので、アキラはとりあえず気のない返事で感謝を伝えた。

 

「ありがとう……ございます?」

 



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招待 その1

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「それで……何か特別な訓練を、これからやっていくんですか?」

「魔術を使うなら座学、魔力を扱うなら鍛練だな」

「どう違うんです?」

 

 アキラの問いにミレイユは応えず、ただ淡く笑んだ。

 それから箱庭が仕舞われている小箱を示す。

 

「詳しい話をする前に、場所を移そう。お前を箱庭に招待する」

「――本当ですか!」

 

 アキラは満面の笑みを浮かべて拳を握った。

 ユミルにも微笑ましいものを見るような表情をされて、アキラは気恥ずかしくなり、努めて眉に眉間を寄せて表情を隠そうとする。

 しかしそうしても、顔がニヤけるのを止める事が出来ず、結果なんとも言えない表情を晒すことになった。

 

 アヴェリンは以前、アキラが箱庭に入ることに対し難色を示していたが、今は特に何も言わない。手放しで歓迎している訳でもないようだが、その地に踏み入る事なら承諾しているという感じだった。

 

 対してルチアは難色を示している側だった。

 アキラがというより、他の誰であっても納得しないという雰囲気を発している。

 敢えて声高に否定こそしないが、しかしミレイユが招待するというのなら、それに異議を唱えない、と言っている気がした。

 

 アキラはミレイユが手を動かして示すとおりに立ち上がり、箱庭の近くに寄る。

 ミレイユもその直ぐ傍に立って、支え棒で開いたままだった蓋を閉じ、それから小箱に触れるように言った。

 

「その蓋の上に付いている石に触れるんだ。それから、いいと言うまで離すな」

「分かりました」

 

 アキラが宝石の中心にピンと伸ばした指で触れる。主に中指が触れるような感じだが、特に指示もなく訂正もないので、これで問題はないらしい。

 

 ミレイユがアキラの肩に手を当てて来て、それで胸がどきりと跳ねる。

 もう片方の手を小箱の側面に当て、目を閉じて黙ってしまう。その手から白い光が淡く発せられ、そのまま小箱に当て続けてから数秒経った。

 

 光も消えて、肩から手を離すと目を開く。

 名残惜しい気持ちでミレイユを見返すと、ゆっくり頷いて手を離すような身振りをされた。

 

「もう離していいぞ」

 

 言われるままに指を離し、ミレイユの顔を見る。

 思えば、ここまで接近して見つめた事なんてなかったかもしれない。

 

 整った顔立ちと、凛々しい瞳、何の化粧品も使っていない筈なのに瑞々しい肌と、塗れたように輝く唇。造形美というものについて詳しくないアキラでも、芸術品とも思える美貌に目が眩みそうになる。

 日本中の女性が目指す完成された美貌という認識は、間違いではないと再認識したところで、その肩を乱暴に引かれた。

 思わず転びそうになって、たたらを踏んだ。

 

「いつまでそうしているつもりだ。近過ぎる、不敬だぞ」

「す、すみません……!」

 

 今日は何だか謝ってばかりな気がした。

 だが、ミレイユの容姿についてはさて置いても、不敬というのは分かる。オミカゲ様とは別人だと分かっていても、同じ顔をしている人だからと不躾に見るのは失礼な話だ。

 

 ミレイユはちらりと笑って蓋の石を二回指先で叩いた。それから再び小箱の蓋を開けて、支え棒をかませる。

 それから場所を譲って手で示した。

 

「後は中に入りたいと思いながら、手を入れればいい。急激に引っ張られるような感覚があるだろうが、そこは慣れろ」

「分かりました……!」

 

 アキラは意気込んで小箱の前に立ち、指をそろりと小箱の中へ差し込む。それから中に入れて下さい、と念じた。それと同時、するりという感触と共に指先から頭へ、頭から爪先へ、身体が伸びるような感覚がして、次いでジェットコースターに乗ったかのような急激なGを感じた。

 声に出して叫びたかったが声は出ず、目の前が真っ暗になった。何があったと感じる前に目の前が明るくなり、そして自分がどこかに立っている事に気がついた。

 

 地面は芝生で、少し離れた場所には木製の邸宅がある。その邸宅を囲むように見たことのない樹木が辺りを囲み、空には眩しいばかりの青い空が広がる。遠くには雲が流れているのも見え、長閑な世界が広がっている。

 

 ミレイユが別の世界と言っていたのは嘘ではなかった。

 まさしく別世界と言ってよく、樹木に遮られた外側には、ひたすら何もない、地平線まで草原が広がっている。どこまでも果てしなく何もない世界の中心に、この邸宅がポツンと建っているのだ。

 

 アキラが呆然としてそれを見つめていると、アキラの後ろに誰かが立つ気配がした。

 後続の誰かがやって来たのだと察し、慌ててその場から距離を取る。

 それは間違いではなかったらしく、ユミルが入ってきた後にルチアが来て、その次にミレイユ、最後にアヴェリンが姿を現した。

 

 アキラはこの箱庭の世界に対する興奮を、どう説明したらよいか悩んだが、それより先にミレイユが歩き出してしまった。他の面々もその後に着いて行くので、アキラも最後尾でそれらに続く。

 

 邸宅の正面玄関を前に左へ横切って行くので、おや、と思いながらも着いて行く。どうやら中庭でもあって、そこへ行くつもりのようだった。

 果たして予想は正解で、そこには二組の椅子とテーブルがあり、風景でも見ながらお茶を楽しめるスペースが広がっている。

 

 色とりどりの花や植物が咲いていて、小さな植物園のような様子だった。

 入り口には蔓上の植物で作られたアーチがあり、花壇に植えられた花や、植木鉢に生えた見たこともない植物が整然と並んでいる。

 蜂によく似た虫が花の間を飛んでいて、花と虫の共生関係もあるようだった。

 

 太陽は高い位置にあるのに、不思議と日差しを感じない空間で、大変過ごしやすい。

 用意された椅子とテーブルも白で統一されていて、また作りも上品で高級感がある。鉄製でも木製でもなさそうだったが、とんでもない値打ち物だと言うことだけは分かった。

 

 そして、そこに座れば植物達を一望できる。

 ここで育つ花を愛でながら談笑できるスペース、それがこの場所のようだった。

 

 一つのテーブルに椅子は四脚あるので、普段は一つのテーブルに全員が座っているのかもしれない。しかし今日はアキラがいるので、二つに分かれなければならない筈だ。

 どういう組み合わせで、と思ったところで、アヴェリンはさっさとミレイユの為に椅子を引く。ミレイユはそれに目線だけで礼を示して、椅子に浅く腰掛けた。

 

 アヴェリンも同じテーブルに着くと、ルチアとユミルは別のテーブルに着いてしまう。

 アキラは自分がどっちに座るべきか迷い、それで二つのテーブルを行き来していると、ミレイユの方から声が掛かった。

 

「こっちに座れ。空いてる席、どっちでもいい」

「はい……!」

 

 アキラは素直に頷いたが、同時にこれはどちらと対面して座りたいかという問題でもあった。

 これからの話を聞くなら、主人であるミレイユの対面である方が望ましい。しかし、ここまで近い距離で対面に座るというのは気が引ける思いがある。

 

 そしてアヴェリンの対面となれば、物理的によりミレイユと近い格好になるのだ。普段から師匠として何かと接触の多いアヴェリンであるから、その対面に座る事に躊躇いはない。

 

 どうしたものかと迷っていると、ミレイユはさっさと自分の対面を手で示してしまった。

 

「早く座れ。話が進められない」

「はい……」

 

 言われる前に決断できなかった自分を不甲斐なく思いながら、ミレイユの対面に腰を下ろす。

 それを見て、ミレイユはさて、とテーブルの上に絡めるよう握った両手を置いた。

 

「まず最初に言っておく。お前は自由に箱庭へ出入り出来るようになったが、許可なく入る事は認めない。……説明は必要か?」

「いえ、大丈夫です」

 

 ミレイユ達は自由にアキラの部屋へ出入りするのに、と思うが、これとそれは全く別の話だろう。この世界は確かに広いが、同時に女性たちだけが住む世界でもある。

 広いし家もあるが、同時に彼女達のパーソナルスペースだ。鍵が開いているからといって、女性の家に自由に出入りするようなもので、それに忌避感を覚えるのは当然だろう。

 アキラはそのように説明したのだが、返ってきた答えは少し違っていた。

 

「そうやって意識してくれるのは有り難いが、それとはまた違う話だ。ここにある全てのものには価値がある。日本では無価値に近いが、我々にとっては有用なものがな。お前が盗み出しても意味がないものだから、そこは気にしていないが、意図せず破損させる危険はある。私はそれを憂いている」

「な、なるほど……。それじゃ、ここから見える花畑も、もしかして……?」

 

 アキラが示す植物園内部の植物は、アキラからすれば見たこともないものばかりだ。

 これが希少植物で、例えば触れただけで枯れるような繊細な花だったりしたら、ミレイユの危惧は最もだった。

 

「そうだ。ここに見える植物はユミルが責任を持って管理している、錬金素材に使われるものだ。葉の触れ方、蕾への触れ方で、その内包するマナが変異するものもある。もしもお前がマナを持たないままであったら、それを無視しても良かった。しかし、今のお前なら意図せず花を枯らす危険がある。だから禁じた」

「はい、よく分かりました」

 

 その植生も現実世界と違う部分があるのは当然で、それに無知な自分が近づくなというのは納得する理由だった。飲むだけで体力が回復する水薬が、あの植物たちから採取する素材から出来ているなら、確かに興味本位で近付いて欲しくないというのも当然だ。

 

 あれは良し、これは駄目、と多く注意された上で、忘れて駄目にするようなら、最初から近づかない方が懸命だ。それに、そうした注意すべきものは、何も植物だけではないのだろう。

 

 アキラにとっては全てが未知であり無知だ。

 ミレイユ達が安心できるまで、自分たちの目が届く範囲に置いておきたいというのも分かる話だった。

 

 何よりも、女性だけが住む家に、無断で入る勇気はアキラにもなかった。

 



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招待 その2

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「さて、ここに連れてきたのは、何も花を愛でて欲しいからという理由ではない。……そろそろ感じないか?」

「感じる……?」

 

 ミレイユが花々を目で追いながら言うので、アキラも同じく花から花へ目を移していく。

 花の種類にも色にも、別に共通点があるようには見えない。実は花ではなく、動物であったりするのだろうか。あるいは虫の擬態であるのかもしれない。

 そう思って目を凝らしてみても、動き出すような花は出てこない。

 首を傾げてミレイユを見ても、苦笑が返ってくるばかり。どうやら思い違いをしていたらしい。

 

「ここの花は含有しているマナが多い。だからこそ強力な水薬の元にもなるのだが、ここで座っているだけでも、他と比べて吸収できるマナが多いんだ」

「じゃあ、今も僕は吸収している筈なんですか? ……別に何も感じないですけど。実はやり方があるとか? 丹田に力を入れるとか、そういう……」

 

 言われてミレイユは、少し考えこむような仕草をした。

 

「意識した事はなかったが、そうかもしれん」

「えぇ……、かもしれんって?」

 

 アキラが呆れたような声を出すと、隣のテーブルから含み笑いで返ってくる声があった。

 

「そりゃ、アンタには分からないでしょ。そんな事で苦労した経験なんてないでしょうから」

「ですね、持ってる視点が違うんです。でも、だからこそ気付けることもあるんでしょうけど」

 

 ユミルとルチア、二人からの言葉にミレイユは苦い顔をして横を向いた。

 アキラにしてみると意味がよく分からないが、彼女たちにとっては大いに共感できるものがあったらしい。

 ミレイユの言葉をルチアが引き継ぐ。

 

「魔力の本質は循環です。マナから自分、そして自分から魔力、そしてマナへと動かす事を意識するんです。それに慣れれば、言葉どおり呼吸するようにマナを得られますよ」

「う、う、なるほど……?」

 

 とりあえず頷いてみたが、アキラには素直に理解する事が出来なかった。

 とりあえず深呼吸して腹に力を込め、そしてゆっくり吐いてみる。そうしてルチアの顔を伺ったが、返ってきたのは苦い顔だった。

 それだけでやり方がまるで違うと理解できた。

 ならば正しい方法を教えてくれと思ったら、流石に見兼ねたらしいルチアが身振り手振りで教えてくれた。

 

「いいですか。呼吸は必ず、吸う時は口から。吐く時は鼻からを心掛けて下さい。お腹に力を入れず、常に脱力するイメージで」

 

 言われながら、アキラは普段よりかは幾分深い呼吸を繰り返す。腹に手を当て、力を入れすぎないよう意識して行う。

 

「そして頭から腰まで一本の棒が通っているかのように姿勢を正します。顎は引いて、自分の臍がぎりぎり見えないぐらいまで」

 

 口頭で微調整を受けながら言われるままに、アキラは呼吸を繰り返す。

 

「足は肩幅よりも広く、両手は膝の上。手の甲を下に。……そう、後は六を数えて息を吸い、六を数えて息を吐く。これを繰り返して下さい」

 

 言われるままに足の位置と手の位置を変えて、心の中で六秒を数えながら息を吸い、そして六秒数えながら息を吐く。

 

「重要なのはイメージです。霞状の何かを吸い、身の内に入れ、順に身体を巡らせる。腹から頭へ、頭から腕、腕から胴、胴から足。そして胴に戻り、身の外に出す」

 

 言われてイメージしたのは血液の循環だった。吸った酸素を身体中の血管を巡って一周するイメージ。それを数度繰り返すと、単に呼吸をしているだけなのに身体が熱くなっていく。汗を掻く暑さとは違う、身体中を血液以外の何かが巡っているような気がした。

 

「あらまぁ、随分と飲み込みの早いこと」

「その分なら、あとは自分だけで何とかしそうですね。それじゃあ、要自己鍛錬ということで」

 

 ふはっ、とアキラは口から息を吐き、何故か荒くなってしまった呼吸を正す。マナがどういうものか、その一端を掴めた気がした。

 

「あ、ありがとうございました……!」

 

 アキラは頭を下げて礼を言う。その動きだけで、身体の熱が増した気がした。今も巡るマナが、身体を突き動かそうと暴れているような錯覚に陥る。

 そこにミレイユから声が降ってきた。

 

「マナが身体を巡る感覚は、最初は慣れないかもしれない。だがいずれ、その巡り具合で自分の魔力がどれだけ残っているか確認できるようになる。自分の中に目安が出来るんだ。最初の課題は、まず自分の中にマナを満たすこと、魔力を最大まで蓄積すること、この二つだな」

「その二つは同時に持てるものなんですか? なんというかイメージとして、無色透明の水が体内に入ったら色付きに変わるという感じで……同時に存在する感じがしないんですが」

「それは今だけ。お前も自分の口から言った筈だ。お前は現在、枯井戸なんだ。まず底に水を溜めてやる必要がある」

 

 なるほど、と呟きながら、教わった呼吸法を繰り返す。意識しすぎても上手くいかないと分かり、調子が良かったのは最初だけだった。ビギナーズラックとでも言えば良いのか、勝手が分かってくると逆に変なところで躓いてやり辛くなる。

 

 眉間にシワを寄せながら続けていたが、そこにミレイユから声がかかる。目の前のミレイユを無視する形になってしまっていたので、アキラは慌てて姿勢を直した。

 

「その辺はおいおいやってもらうとして、お前には自分の方向性を決めてもらわねばならない。魔力を扱うに当たっての方向性だ」

「方向性、ですか? それはつまり、どういう魔術を使いたいか、という事ですか?」

 

 ミレイユは一瞬動きを止めて、すぐに自らの失念に気付いたようだ。誤魔化すように小さく笑って、組んでいた両手を解いた。

 

「うん、それより前の段階だ。つまり、魔術を使うか、あるいは使わないか、そのタイプを決めてくれ」

「……え、そんな事あるんですか?」

 

 魔力とは魔術を使うためのエネルギーだと思っていた。今もマナを吸収して魔力に変換する方法を教わったばかりで、それで魔術を使わないか選択を迫られるとは思わなかった。

 

「魔術は便利だ、それは間違いない。だが向き不向きというものもある。自動車が便利だからとて、免許を取らない方がいい人種がいるのは知っているだろう?」

「それは……分かりますけど、僕は向かないタイプって事ですか?」

 

 そこにまたもユミルが横から口を挟んでくる。今度は面白がっても呆れてもいなかった。ただ憐憫の眼差しがある。

 

「アンタって意外と説明下手よね。今までろくに説明もなしに前へ進むタイプだったせいかしら」

「――ミレイ様の侮辱は許さんぞ」

「いや、だってあれ聞いて、分かる人いる?」

「ミレイ様はこちらの世界での例え話をしたのだろう。私達に分からなくても、本人同士が分かっていれば問題ない」

 

 アヴェリンは苛烈に反論したが、ユミルの返答にも容赦がなかった。

 

「そこが問題なんじゃないわよ。もっと根本的に、魔術と魔力の関係、魔力の系統別から教えないと、アキラにそれを決められる筈ないじゃない」

「……そういえば、何一つ、それらを知らないんだったか」

 

 ユミルの指摘には、アヴェリンにも何か思うところがあるらしかった。一理あると思ったらしく、ミレイユに対して申し訳無さを滲ませた表情を向けている。

 

「申し訳ありません、ミレイ様……。それ以上の弁護は難しく……」

「そんな顔をしてくれるな……」

 

 ミレイユは顔の前で手を振った。そしてアキラに目を合わせる。

 

「詳しく説明すると長くなり過ぎる。講義をするつもりもないから、簡単に説明する。お前も分かれ」

「は、はいぃ……!」

 

 ミレイユの不機嫌な眼力に気圧されて、アキラは身を震わせて頷いた。しかし、説明するよりも前に、分かれと命令してくるのは横暴ではなかろうか。反復して質問とかしたら怒られるかもしれない。

 もし分からない事があったら、ユミルあたりに聞こうと心に決めた。

 

「まず、大まかに魔力を扱うとした時、二つの系統に別けられる。それを、それぞれ内向と外向と呼ぶ。文字通り、外に向けるか内に向けるか、という事だ」

「外に……っていうのは、つまり炎の球を飛ばしたり、とかですか?」

「それも間違いではないが、もっと大きな枠組みで、魔力を肉体という内側から外に出す事を外向という。内向以外のこと全てを指すとも言えるが」

「じゃあ、内向というのは……」

 

 ミレイユは眉間に眉を寄せた。腕を組み直して言葉を探す。

 

「これも言葉どおりだが、自分の内側に向けて使う魔力ということで、つまり肉体強化に特化した魔力の運用法だ」

「つまり、内向というのは自身の強化魔術しか使えない?」

「いいや、魔術そのものが使えない。使えないというよりは、使う必要すらないというべきだが。そのリソースを自分に全て向けられる訳だから。――いいか、肉体強化、活性化、持続力強化、そういった魔術は適切に使わなくては意味がないし、時間的制約もある。強化が切れれば、相対的に見て弱体化する。そういう面倒さから開放されるものでもある」

 

 言葉を悪くすれば脳筋タイプ、という事だろうか。他人にも自分にも使えない代わりに、そのリソースを自分の強化一点に絞る。強力なのかもしれないが、せっかくの魔術が使えないデメリットは大きすぎるように感じた。

 到底、それを押して内向へと傾くようには思えない。

 

 強化が切れたら、というが、切れる前にもう一度魔術をかければ済む話だ。

 それもまた、強敵相手なら簡単には出来ないという状況もあるだろうが、自分にも相手にも好きなタイミングでかけられる状況もあるだろう。

 内向を選ぶメリットは、あまりにないように感じられた。

 

 ミレイユはアキラの表情を見て、笑顔を作って眉を上げる。

 

「内向を選ぶつもりはなさそうだな……?」

「それは……やっぱり、魔法使いっていうのは、一種の憧れみたいなトコロありますし。使えるようなら使いたいし、そっちの方が便利で強そうで……」

 

 アキラの屈託ない感想を聞いたユミルは鼻で笑った。アヴェリンもまた笑う訳ではないものの、複雑な表情で顔を顰めている。

 アキラはムッとしてユミルを睨んだ。もう既に、アキラにとってユミルは敬意を払う相手ではなくなっている。いい意味かどうかは置いといて、友人付き合いに近い気安さが生まれていた。

 

「なんですか、魔術に憧れちゃ悪いですか」

「いいえ、憧れるものでしょ。誰だって便利なものは使いたい、そういうものだし」

「じゃあ何で鼻で笑うんですか」

「そうね、アンタは知らないんだから。当然、憧れだけで語るしかないのよね」

 

 ユミルの皮肉げな笑いは、単に見下している笑みではなかった。無知を笑う表情でもない。ただ知らぬことを幸いと、それを思う笑いだった。

 そこに、それまで沈黙が続いていたルチアが、唐突な話題をぶつけてきた。

 

「あなたって、エルフがどういう種族だと思います?」

 



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招待 その3

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 唐突な質問に、アキラは面食らい言葉に詰まった。

 エルフというのはそもそも創作で生まれた種族である事だし、実在する種族として見た場合、そこに違いはあるのかもしれない。

 だが一般的に容姿に優れ、高い知識と誇りを持ち、長い寿命を持ち、そして森の中で暮らしている。ごく簡単に思いつく限りを言ってみれば、ルチアは素直に頷いた。

 

「そちらでも同じ認識で良かったです。その余りある長い時間を使って、高い知識で魔術書を読み解き、その習得に十年かける。……魔術を身につけるって、そういう事なんですよ」

「そん……なに!?」

「魔術の行使はエルフの誇りです。長い寿命を持つが故に、多くの術を覚えられる。炎の矢一本飛ばすだけで満足するなら、別にそれでいいですけど」

「それは……、でも……」

 

 気分の上下が余りに激しい。

 魔力がないからと絶望し、魔力を与えられて歓喜し、そして魔術を使うには長い時間が必要だと落胆した。アキラはもう、自分がどうしたらいいか分からない。

 そこに常と変わらない声音のユミルが言った。

 

「魔術と一言で言っても色々だけどね。さっき言った炎の矢一本、それなら別にすぐ覚えられるでしょ。アンタが便利と思う魔術は、また話が別でしょうけど」

「それって、役に立つんですか……?」

「それこそ使い方次第じゃない? 便利にするのも腐らせるのも、使い手次第。そこのところ行くと、ミレイの使い方はエグいわよぉ? あれは曲芸ってレベルだから。同じコトしろと言われたらアタシだって発狂するわ」

 

 ユミルが揶揄するように視線を向ければ、当の本人は困ったような笑みを浮かべていた。つまらなそうに手を振るが、アキラはその使い方が自分にも出来ないか、と一抹の望みを抱いた。

 

「それって、僕にも出来ますか? 簡単な魔術を覚えて、それで……!」

「無理に決まってるじゃない」

 

 ユミルは笑って言った。小馬鹿にした笑いでも、微笑ましいものに向ける笑みでもない。あえて無理な事を口にした芸人へ向けるような笑みだった。

 

「言ったでしょ、同じことやろうとしたら発狂するわよ。魔術に対する深い理解は必須、それを単純に使うのと応用に使うのとでは、どっちが難しいか分かるでしょ? それも一口に応用って言っても、魔術制御は繊細なの。努力以上にセンスが求められるのよ。便利だからやる、それで可能にしているあの子がおかしいのよ」

「そんなに難しいんですか……」

「説明は難しいけど、口笛吹きながら歌うようなもの、かしらね。あるいは、右手と左手でペンを持って、別々の絵を同時に描いていくような……。とにかくやれと言われて、普通はできないことをやってるのよ」

 

 それは確かに異常だ。

 今も目の前で涼しい顔をして座っているミレイユは、ユミルに異常だと渋い顔をされる程の実力を持っているのだ。

 ルチアやアヴェリンの表情も似たようなものだった。

 ミレイユの見た目は二十代前半、その若さならば習得に十年かかるような魔術は覚えていないだろう。故に、初級魔術だけ修め、それをセンスで使いこなしている、そういう事だろうか。

 確かに、ミレイユが他に使っている魔術など、物を遠隔的に持ち上げる、サイコキネシスめいたものしか見たことがない。

 

「じゃあ、ミレイユ様も覚えるのが簡単な魔術ばかり使ってるって事ですか?」

「……は?」「――ん?」

 

 不機嫌そうな声と呆れた声、二つが聞こえた。

 その二つはルチアとユミルからだったが、アキラは不味い失言をしてしまったのかと目を泳がせる。声を出さなかったアヴェリンは、難しい顔で押し黙っている。

 

「いや、だって……。まだ若いミレイユ様ですし、そんなに術は覚えられないんじゃないかな、と……」

「そうか、そういう感想になるよな……」

 

 アキラがしどろもどろに弁明すると、ミレイユ自身、納得するように頷いた。

 ユミルはそんなミレイユを見て、どこからも上から目線で感想を放つ。

 

「まぁ、アンタくらい若いと大規模魔術は一つも覚えてないのが普通で、見習いから脱したかどうかってところよねぇ」

「……なんか、ユミルさんって何かと大人ぶるというか、年上を意識するような発言多いですよね」

 

 暗にオバサンだと湾曲に表現したつもりだった。

 アキラの発言にユミルが目を丸くする様子を見て、ちょっと言い過ぎたかと後悔する。

 しかしユミルは、それからミレイユを見て、アヴェリンを見て、アキラに視線を戻して指を差して笑った。

 

「そりゃアンタ、年上だもの! 言うでしょうよ、そりゃ! アーッハッハッハ! そっか、言ってなかったものねぇ!」

「……何がそんなにおかしいんですかね」

 

 年上を指摘したら、普通は怒るものかと思ったのだが、返ってきたのは予想に反して爆笑だった。面白い発言なんて一つもなかったと思うのに、一体なにが彼女の琴線に触れたのか。

 だがとにかく、今の彼女は笑い通しで、それ以上会話にならない事は確かだ。

 それで目の前にいるミレイユに、気になった事をそのまま口にした。

 

「全然そういう風に見えないんですけど、ユミルさんがそう言うって事は、見た目通りの年齢じゃないんですか?」

「まぁ……、そうだ」

 

 ミレイユが眉根を寄せて返答したので、これは少し好奇心に任せすぎたかと自責する。そもそも、これは本題と全く関係ない質問だった。

 こちらの世界の常識としても、女性に年齢を聞くのは歓迎されない。それを思って会話を元に戻そうとしたのだが、意外にもミレイユがその会話を続けた。

 

「何歳かまでは言わないが、最も若いのが私で、次にアヴェリン、そしてルチア、最後にユミルとなる」

「ミレイユ様が一番年下なんですか!?」

 

 意外な事実に、アキラは思わず高い声を上げた。

 一家の主として振る舞い、事実チームのリーダーとして君臨し、その威厳を体現している彼女が実は一番年下だと知って、心底驚いた。

 

 誰もそれに異議を唱えないから事実なのだろう。

 ミレイユとアヴェリンは似た年齢に見えるから、離れているとしても五歳と違わないだろうが、でも次に年長だというルチアが中学生くらいの見た目をしていることから、その外見から想像するのは危険だろう。

 

 実際、見た目だけ見ればルチア以外、全員横並びに思える。

 しかしルチアがエルフだという予想が正しければ、その見た目に反して百歳を越えていても不思議ではない。そして、百歳を超える者より更に年上なのがユミルなのだ。

 

 一体何歳なのか分からないが、ミレイユがユミルに妙に甘い対応をするのも、そういうところに理由があるのかもしれない。

 だが、だとすると、ユミルの言動はあまりに幼い気がする。とても百歳を超えた人生経験を持っていると思えず、アキラは思わずユミルを疑いの眼で見つめた。

 

 ユミルの笑いは収まっていたが、目尻を拭って涙を拭いている。まだ口元には笑みを張り付かせていて、まともな返答は期待できそうになかった。

 

 だが実際、重要な事は年齢ではなかった。

 誰もが彼女を思慕し、彼女を主と認めている。彼女の言葉には敬意を持って応える。そういう上下関係が出来上がっていて、誰もがそれを正しいと思っているのだ。

 アキラ自身も、いつでも威儀を正し堂々と振る舞うミレイユの姿を見るに、その評価は正しいと感じていた。

 

「話が逸れたな……、お前が魔術士として魔術を身に着けたいというなら、勿論その意思を尊重しよう。しかし、これは不可逆な問題で、一度選ぶと取り返しが付かない」

 

 話の方向を戻したミレイユに、アキラは素直に乗っかって追従するように頷き、そして首を傾げた。

 内向と外向、どちらを選ぶかというのは分かるが、選んだ後で変えられないというのは不思議に思えた。聞く限り、内向は別段魔術を覚えるような訓練を必要としないように思える。

 それとも、他に何かあるのだろうか。

 

「一度選ぶと、取り返しがつかないものなんですか?」

「そうだな。単に術を使わない人を、内向と呼ぶわけではないからな」

「魔術を覚えるのにもリソースが必要で、それを消費してしまう以上、覚えた後になかった事には出来ないから、とか?」

 

 アキラが自分なりの考えを首を傾げたまま口に出すと、ミレイユは小さく笑んで手を横に振った。

 

「考え方としては良い線をいっている。だが、そういう事じゃないんだ。……そうだな、魔術士を一個のボールに例えてみよう。ボールの大きさも種類も違う、小さくて弾まないもの、大きくて弾むもの、それが魔術士の個性だと想像してみろ」

 

 アキラは言われるまま、頭に浮かんだボールを想像してみる。

 小さく弾まないといえば野球の硬式ボール、大きくて弾むといえばバレーボールを思い付いた。他にも多種多様のボールが思い浮かんでは消えていく。

 人の性格や容姿に違いがあるように、魔力の質にも、そういう種類があると言いたいのだろう。

 一通り、思いつくものを数種類口に出してみて、ミレイユから頷きが返ってくる。

 

「うん、そこのところで言うと、アヴェリンはバスケットボールだな。表面は固く、よく弾む。中の空気をほぼ完璧に閉じ込め、外に漏らさない」

「ほぅほぅ……」

 

 頷きながら、アキラはアヴェリンの方を見つめる。いつも力強く、その瞬発力で攻撃をいなし、反撃してくる様を想像すると、彼女を実によく体現しているように思えた。

 アキラがミレイユに顔を戻したところを見計らって、自らを示すように両手を開き、次いで片手をルチアたちのテーブルを示す。

 

「では、我々のような外向魔術士は、どういうボールだと思う?」

 

 言われてアキラは頭を捻る。

 そもそも魔術士に対して深い理解があるとは言えないアキラでは想像もつかないが、しかしバスケットボールよりもよく弾むもの、という予想をつけた。

 沢山の魔術を使うのだから、より大きく、より弾むもの……と、そこまで考えて該当するものが思いつかなかった。

 答えに窮するアキラに、ミレイユが苦笑を漏らした。

 

「……まぁ、今のは意地悪な質問だったな。実は当て嵌まるボールがない」

「ない? ない……って、どういう意味です?」

「今の例えで言うと、小さな穴が複数空いたバレーボール。……そういう事になる」

 

 だが、それではボールは弾まず、それどころか空気が抜けて萎んでしまうだろう。

 ボールの内側、つまり空気を魔力に例えているとするなら、それでは魔力が際限なく外に漏れ出すという意味になりはしないか。

 アキラが怪訝な表情をするのと同時、その感情と感想に理解を示すミレイユと視線が合った。

 



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招待 その4

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「魔術を外に向けるという事は、体内で生成した魔力を外に出すという事を意味する。そしてこれは物理的な穴ではなく、魔力の生成によって同時に生まれる防御膜に穴を空けるという事だ」

「よく分かりませんけど……、生まれながらにバリアーが張られているとか、そういう感じですか?」

「その理解でいい。穴といっても、その空ける数にも個人差は出る。どういった種類の、どういった系統の魔術を使うか、それを絞ってそれに対応した数を決めて空ける。物理的な穴ではないから、開けた場所による有利不利はないが、しかし開けたものを塞ぐことは出来ない」

 

 何故という疑問は置いておいて、そういうものだと理解するしかないのだろう。

 穴を開けねば魔力は膜より外にはでない。だがそれは、本来魔力とは自身の内側にしまっておくべきもので、外に出すべきものではない事を意味しないか。

 単純な危険行為を技術に落とし込んで利用している、そういう感想になってしまう。

 

「それって危険じゃないんですか? 防御膜っていうのが自然に生まれるもので、後から穴を空けるなら、それって自然的な事じゃないって意味ですよね?」

「その認識は正しい。魔力を外に出すのは危険行為だが、危険と便利を秤にかけて、どちらに傾くかという話になる」

「それは……でも、酸素ボンベに穴を開けてから、海に潜る人なんていませんよ」

 

 アキラの感想を聞いたミレイユは、手を叩いて喜び破顔した。

 

「その例えは大変正しい。だから、魔術士は穴を塞ぐ技術を最初に体得する。それ事態は難しくない。さっきの酸素ボンベに例えれば、穴に指で蓋をするような気軽さだ」

「それで、酸素の流出を防げるんですか?」

「一つか二つならな。ほとんど本能的に、無理なく難なく成功するだろう」

「それなら……」

 

 アキラは安堵して息を吐いた。そしてミレイユの言った事が引っ掛かる。

 ミレイユは一つか二つと言ったのだ。では、それが通常の穴の数なのだろうか。どうもニュアンス的に違うように思えた。

 

「じゃあ、普通は幾つなんですか?」

「種族によって違ってくるが、一般的な人間の魔術士なら三つか五つ。多くても十は越えない。国に一人しかいない宮廷魔術師レベルでも、十より二つか三つ多いくらいだ」

「ああ、そうなんですね……。片手で塞げるような数にしていると」

「そうだ。無理なく便利に使うことを念頭に置けば、自然とそういう数になる。大魔術の行使となると、体外に出す魔力が足りなくて無理だが、人の魔術士はそもそもそういう使い方をしない」

 

 アキラは首を傾げた。

 杖を持って長い髭を生やした老魔術士は、何か壮大な魔術を使うようなイメージがあるのだが、実際のところは違うのだろうか。

 

「ヒトは数を頼みに挑むからな。一人で大規模な炎の雨を降らすより、百人なり千人で炎の矢を一発ずつ放つ」

「あー……」

 

 ミレイユの言わんとしてる事はよく分かる。

 ファンタジー世界において多種族が暮らす世界なら、人間のポテンシャルはそれ程高くないというのはよくある話だ。

 しかし人口数は大抵トップクラスで、知識的文明的優位に立ち、大量生産した武器と兵数によって、それを最大限に活かした作戦などを用いて勝利する。

 一人で見ると弱いのに、世界に覇を唱えるのは人間だという話は多いのだ。

 

「だから、そもそも多くの穴を開けないし、開ける必要もない。冒険者パーティのような少数チームでも、強敵ならチーム数を増やして挑むのが普通だった筈だしな」

「冒険者パーティ!」

 

 出てきたファンタジー要素にアキラは声を上げたが、それよりも今は重要な事がある。

 ちらりと視線を向けてきたアヴェリンにも、その不機嫌さは見て取れて、今は目の前の事に集中しようと思い直した。

 

「えっと、じゃあ、穴を多く開けるメリットは、実はそんなにないんですか?」

「大いにあるが、扱える者が少ないという話だ。多くの魔術、大規模魔術を扱いたいと思えば、穴の数が少ないと、却ってそれが枷になる。だから、穴の数は魔術士の格を示す指針ともなる」

「でも、同時に危険なんですね?」

「そう、己の分を超えて魔術を覚えても、使えなくては意味がない。そして穴を増やしても手が足りなくては、塞げなくて自滅する。何事も程々がいいと言う事だろう」

 

 そこに揶揄するようなユミルの声が割って入る。

 

「己の分を知れ、って事よ。行き過ぎた力は己が身を滅ぼす、とも言うわね」

「確かにそうです。どんな事でも言えますよね。そういう意味じゃ、自業自得ってことになるんでしょうか」

「魔術士っていうのは、確かに強いし、覚えた魔術によって利便性も増す。努力して身に着けたという自負から自己肯定感も強いのよ。そして次々に他の魔術に手を出して、更なる万能感を得る」

 

 そこまで緩やかな笑みすら見せていたユミルが、そこで一度言葉を切った。

 表情に笑みがなくなり、平坦で感情を感じさせない声で続ける。

 

「――だから、己を過信する。まだ自分は行ける筈。自分の力はこんなものじゃない筈。まだまだ高みへ、更に高みへ」

 

 言いながらユミルは手を挙げて、階段を一段一段上がるように手振りを加えて、頭の上に持っていく。

 

「そして己の限界に気付かず、足を踏み外し、真っ逆さまに落ちる」

 

 挙げた手を真っ逆さまに落とし、テーブルの上に手の平を叩きつけた。予想以上に大きな音が立ち、思わずアキラは身を竦めた。

 

「……魔術っていうのは、ただ便利っていう訳じゃないの。必ずリスクがその身に伴う。己の身を飾る道具でもないし、他者を圧倒する為に会得するものでもない。世界に向き合う学問なのよ。戦争の間はそうも言ってられない事情もあるでしょうけど、欲しいからという理由で手を出すものじゃないの」

「……耳が痛いな」

 

 ミレイユは苦笑して目を逸らしたが、ユミルは肘を立てた手でぷらぷらと横に振った。

 

「アンタはねぇ、ちょっと他の奴らと一緒くたに出来ないところあるからね。今のは凡人に対する忠言よ。特にアキラ、アンタ自分の限界まで追い込むのが義務とでも思ってるところあるから」

「う……!」

「まだ行けると思ってる内は止まれないでしょ? そう言う奴こそ身を滅ぼすの。勤勉である事は美徳だけれど、引き際を間違えずに進むっていうのは、存外難しいのよ」

 

 アキラはその言葉を金言として受け取った。

 素直に頭を下げて礼を言う。

 武道において途中で投げ出すことは恥だと刷り込まれている部分はある。限界を知らねば己を越えられないとか、底が見えてからが始まりだとも言う。今は届かなくても、明日の挑戦で一ミリ、更に翌日の挑戦で一ミリ、その積み重ねでいつか届く、とも教えられた。

 

 武道であれば、それで良いのだろうが、この思考は魔術の会得にはむしろマイナスに働くのかもしれない。もう駄目だと気付いた時には、既に開いた穴の数に手が回らず、遠からず窒息してしまう事になる。

 

 そこでふと思い立つ。

 穴を空けるとか塞ぐと言うが、指で抑えるという表現もあくまで例えで、実際には別の何かで行うのだろう。だが、その方法をまだ聞いていないことに気がついた。

 

「あの、魔術が単に便利でもなく危険がある事はよく分かりました。魔術に溺れると死んでしまう事も。でも、さっきから出てる穴の塞ぎ方については、まだ聞いてなかったと思いますが……」

「その魔術に溺れるっていう表現、誰かに聞いた?」

 

 ユミルの愉悦を含んだ指摘に、アキラはただ首を横に振る。

 単に口から出た言葉だったが、どうもユミルはそれが気になるらしい。

 

「何か不味いこと言いましたかね?」

「いいえ、こっちでは昔に流行った言い回しだったから。主に馬鹿にする表現としてね」

 

 そりゃあ馬鹿にされるだろう、とアキラは苦笑した。

 魔術に傾倒し没頭した結果、魔術に殺されてしまうというなら、何の為の努力だったのかという話だ。

 

「魔術を含んで水を含まず、とも言いますね」

 

 次に魔術士を馬鹿にする表現に参加してきたのはルチアだった。

 同じ水を使った表現なのに、使い方が真逆なのが面白い。これも文化や種族の違いだろうか。二人が盛り上がって更に時代を経た表現を披露し始めたところで、ミレイユが異を唱えた。

 

「……話が脱線しているぞ。それで、穴の話だったか」

「はい、文字通り指で塞ぐ訳じゃないのは分かるんですが」

「そうだな。それは当然、魔力で塞ぐことになる。穴を作るのも自分なら、塞ぐのもまた自分だ。これはつまり、常に十割の力を発揮できない事を意味する」

 

 言われてアキラはハッとした。

 最初にボールの例えを出した時、外向の魔術士は穴が空いたボールと言った。複数の穴が空いたボールを空気が漏れないよう、常に魔力で蓋をするという意味なら、常に魔力のロスが発生する事になる。

 では、穴の数が多ければ、それだけ多くの魔力を蓋をする事に割かなければならない筈。そして、そのリソースが不足した時、漏れる魔力を止められず自滅する。

 そういう事だろうか。

 

 アキラはそのまま伝えると、出来の良い生徒を褒めるようにミレイユは頷いた。

 

「なかなか理解が早いじゃないか。穴を増やさねば、より多くの魔力を消費する魔術は使えない。しかし増やした分だけ、使わない時は塞いでおく事に注力しなければならない。穴の数を無闇に増やすと、それだけで魔力総量の半分を維持に使う、などと馬鹿馬鹿しい話になる。とはいえそれもまた、やり方次第だが」

「半分……! 常に実力の半分しか使えないという事ですか……」

「戦闘中なら抑えに回す魔力を使えるから、むしろ瞬間的には全力を出せるんだが……」

「ああ、それなら。いやでも……」

 

 まだマシかと思ったが、むしろ危険だと思い直した。

 

「気づいたか。戦闘中もずっと磨り減っていく事になるわけだ。継戦能力は相当低くなるし、己の命を維持するため、下手なやつは半分以下まで魔力を減らせない。習得した数が多くても、習得難度の高い魔術を持っていても、それでは意味がない」

「それこそ、学者として生きていくしかないような……」

「それも生き方だとは思うがな。しかし何事もやり方一つで、どうとでもなるものだ。基礎は大事だが、それを詰め込むだけなら、己の首をただ締める事になる」

 

 アキラは神妙な顔をして頷く。

 憧れだけで魔術に手を出して良いものではない、という事はよく分かった。自分に向いていないかもしれない、という事もまた同じく。

 

「結局は魔力総量の問題でもあるんだがな。仮に総量百の者が半分を費やして五十の力しか使えなくても、総量千の者が半分使っても五百だ」

「そもそもの総量差が十倍なら、減っていても減ったように見えないと……」

「それだけの総量があるなら、そもそも魔術制御も下手なはずがない。もう少し上手くやって、六百か七百まで使えるんじゃないか」

「なるほど、それなら……!」

 

 アキラはまたも目を輝かせたが、そこに醒めた目をしたユミルから辛辣な言葉が投げつけられた。

 

「いやいや、その千っていう数字が、そもそも現実味ないじゃないの」

「あ、やっぱり……。最初に持ち出した百っていう数字が、そもそも現実味のある数字って事ですか?」

「それは知らない。どの時代、どの種族、どの国かによって変わるものだし。ただ、千はない。それは間違いないわよ」

 

 ねめつけるようにミレイユに視線を向け、ミレイユも困ったように目を逸らした。

 

 今までの話を聞いて、アキラは非常に迷っていた。最初は使えるものなら使えるようになりたい、という羨望があった。しかし覚えるまでの苦労、覚えてからの苦労を思えば、憧れのまま仕舞っておいた方がいい、という気もする。

 アキラは難しい顔で腕を組み、じっと考えを巡らせる。

 そして、最後の判断として、一つミレイユに聞いてみることにした。

 



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招待 その5

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「そもそも、僕の魔力総量っていうの、どれくらいあるんですか?」

「そうだな……」

 

 ミレイユはアキラの頭から胴まで舐めるように見つめ、それからユミルに顔を向けた。

 

「お前はどう思う」

「まぁ、普通でしょ」

 

 ユミルはちらりともアキラに視線を向けずに言った。その投げ遣りな態度は特別アキラに対して不誠実という訳ではないが、もう少し真面目に見てくれてもいいのに、とは思う。

 

「その普通が、僕には分からないんですけど」

「大体、四十と少しってところです」

 

 アキラの不満顔での発言に、平坦な声で返答したのはルチアだった。

 

「四十……、それが普通って事ですか?」

「平均だと少し下がって三十です。とはいえミレイさんの同郷なら、もう少しあるのかと思ってたんですけど。やっぱりミレイさんが特別なだけでしたね」

「そりゃそうでしょ。こんなのが複数いたら、とっくに世界は崩壊してるわよ」

 

 酷い言われようだが、ミレイユはそれに何の反応も示さなかった。ただ、その雰囲気はどこか不満げではある。

 しかし、四十という数字は少なく感じてしまう。

 平均よりかは多いとはいえ、先程まで百や千という数字が引き合いに出されていたせいもあり、やはり自分も百程度はあるのかもと期待していた。

 少ない数字に鼻白む気持ちでいると、そこにルチアが詳しい解説を加えてくれた。

 

「ユミルさんが言ったように、あなたは普通――つまりヒトとしては平均的な部類です。余程の才能があるヒトで百に届くと言ったところで、別にあなたが凡愚という訳でもありません」

「なる、ほど……」

 

 そのように援護してくれるのは嬉しいが、やはり自分があくまで並程度だと言われるのは辛いものがある。とはいえ、己の底を知らず、自分に才があると思い込み、あるいは縋って足掻くよりはマシといえる。

 

 アキラは即座に思い直して顔を引き締めた。

 並より上と胸を張れる数字ではなかったが、下でもなかったのだ。自分には分不相応ともいえる。ならば自分に出来ることは、それをより高めるよう努力するだけだ。

 

 その表情と機微を察知したミレイユが、小さく笑む。

 

「そういう、すぐに立ち直って前を向けるのはお前の美点だな。――腐るなよ、お前はそれを伸ばしていけ」

「はい、ありがとうございます!」

 

 アキラは頭を下げて礼を言う。

 その頭の上へ、更に言葉が落ちてきた。

 

「少なくとも今のところは、というところだが」

「今のところ……?」

 

 アキラは頭を上げて、声の主であるミレイユを見つめた。

 

「そう、筋力と同じように、鍛えれば増える。個人差はあるが、お前ならまだ増やせるだろう」

「本当ですか……!」

「可能性の話だ。筋力を例えにしたが、やはり付きやすい者とそうでない者がいるだろう。お前がどちらの側なのか、鍛えてみなければ分からないしな」

「はい、努力します!」

 

 アキラはあくまで凡夫なのかもしれない。それでも、まだ望みが残されていると知れて、展望が開けた気がする。

 だから、という訳でもないのだが、自分の方はさておいて、他の皆はどうのか気になった。

 

「正直、僕は自分が才能溢れる身ではないと思っていたので、それほど落胆はなかったんですけど、皆さんはどうなんですか?」

「……どう?」

「その、魔力総量が、どうなのかと……」

 

 どこか苛立たしげに聞き返されて、アキラの声は尻すぼみに消えていく。単なる好奇心で聞いてはいけない事だったか……。またやらかしてしまったか、と思って恐縮していると、そこにルチアから返答があった。

 

「まず最初に、相手の魔力総量を聞くのは不躾です」

「す、すみません……!」

「それに相手に問い質すのは、自分の無力を晒す事にもなるので聞きません。それはつまり相手の力量を見抜けないほど実力差がある、と言っているようなものだからです」

「なるほど……」

 

 しかし見抜けないと言っても、アキラが四人を見比べても、そこに色があるとか靄のようなものが見えるとか、そういう分かりやすい目印はない。

 何をどう見れば見抜くことになるのかを考えて、見抜く以前に実力差がありすぎて見えないだけだと思い至った。

 

「それに、総量が多ければ強いという話でも、有能という話でもありませんからね」

「そうなんですか? 多ければ多いだけ有利な様な気がしますけど」

「多い方が有利、という主張はそのとおり。少ないより多い方がいいに決まってます。でも総量が多いという利点が、必ずしも有利になるとも限らないんです」

 

 困ったように言うルチアの言葉を、ユミルが引き継ぐ。相変わらず、愉快なものを見るような目でアキラを見ていた。

 

「桶に水を満たすのは簡単でしょう? じゃあ、家ほど広い空間に満たせと言われたら、アンタどう思う?」

「ああ……」

 

 さっきミレイユがボールの例えで言ったような事だ。

 ボールに空気を入れるとして、どちらが早く膨らむか、という問題と同じだろう。萎んだボールに価値がないのと同様、魔力が満たされていない魔術士は使い物にならない、そういう事だろうか。

 いや、それだと戦闘中、その開始時点でしか魔術士に価値がない事になってしまう。

 それとはまた別の理由がありそうだった。

 

「つまり、自己の魔力生成能力にも関係するワケ。仮に底をついた状態から、どれほどで全快まで持っていけるか。単に総量が多いと、それを満たすのも時間がかかるのは分かるでしょう? 回復までに時間が掛かるというのは、立派な欠点なのよ」

「難しいんですね……」

 

 アキラがしみじみと言うと、おかしなものを見るようにユミルが言った。

 

「当たり前じゃない。少なくてはお話にならない、かといって増やしすぎても不利になる場合がある。使える魔術によって穴の数も変える必要があるし、自己生成力を伸ばす事によっても変化が必要。魔力総量を増やすか、敢えて抑えるか。自己生成力を伸ばし、抑えた分だけ最大限の時間を増やすか。それを的確に判断しないといけないの」

「頭を抱える思いです……」

「自分が欲しい術に適正があるかという問題もあるしね。炎を使った術が欲しいと思っても、治癒術に適正があったら、そっち覚えた方がいいし」

 

 その辺りはゲームでもよくある話なので、アキラもまた理解の早い話だった。

 最終的に少ない魔力で使えたり、最大効果がアップしたりするのだ。ユミルの言う適正がそれと同じかは分からないが、単に好みというだけで選ぶと後悔するのは間違いないだろう。

 

「成長の見極めっていうのは難しいから。自分一人ではなく己の限界をここまで、と決められる人が傍にいないと。だから魔術士は師弟関係を築くの」

「ああ、それは分かる気がします。独学でひたすら部屋に籠もっているイメージもありますけど、そっちの姿の方がメジャーですよね」

「そのメジャーが何か知らないけど、一般的って意味ならそう」

 

 アキラがうんうんと頷くのを見て、ユミルはちらりとミレイユに顔を向けて続ける。

 

「まぁ、よっほど言う事を聞かない弟子っていうのも、世の中にはいるみたいで……。予想外というより無茶苦茶で、そのうえ支離滅裂の癖して、無謀なまでに鍛えて成長して、そのクセ生き残った冗談みたいな存在もいるけど」

「……おかしな奴もいたものだ」

 

 ミレイユが目を合わせず外方を向いているのが、その答えのような気がした。

 では、その師匠になったのがユミルなのか。師匠に対する敬意は全く見えないが、ミレイユがユミルに甘い理由は、むしろこれだったのかと理解した。

 

「アンタのせいでアヴェリンも真似しちゃって、せっかくの内向魔術を無駄にしちゃうし」

「仕方ないだろう。ミレイ様のお側に立ち続けるには、己を鍛えねば無理だった」

「それで破綻しちゃ世話ないでしょ」

 

 アヴェリンが思わず我慢ならじと口を挟んだが、ユミルは呆れた声を返すばかりだった。ユミルの言が正しければ、アヴェリンは完全な内向を放棄せざるを得なくなったのか。

 それが果たして本人にとって不本意だったのかは分からないが、やはり単に鍛えると一言で言っても難しいものらしい。

 

「因みにそれは、どういったような……?」

 

 どうせ答えてくれないと思いつつも聞いてみたのだが、意外にも素直に返答が返ってきた。

 

「自己生成力を鍛えすぎて、バランスを崩した。生成される魔力に耐えられず、放っておけば破裂するところまでいった」

「破裂……!?」

「内向魔術は一切の魔術が使えないが、それ故に身一つで完成しているものだ。自己生成される魔力と、それを消費して自らを強化する量が一定になっている必要がある。どちらか一方が多くなれば破綻し、結果弱体化する」

「それじゃあ、師匠は……」

「生成力を強めすぎた。ならば弱めればいいかというと、そう単純な話でもない。傷口からの出血みたいなものだ。流れ出るものを塞き止めるにも限界がある」

 

 間違ったら即座に引き返せるなら、破綻などと言わないだろう。

 だから死ぬよりマシだと、弱体化するにも関わらず内向魔術を捨て、きっと穴を開ける事にしたのだろう。

 

「幸いだったのは、点穴の数が一つで済んだことだ。完全ではないが、最善ではあった」

「それでバランスが保てるようになったという訳ですか……。外向魔術も迂闊に手を出せないと思いましたけど、内向もまた命がけなんですね……」

「普通はないけどね……」

 

 ユミルの呆れ顔は見慣れたものだが、そこには異常者を見るようなニュアンスも含まれている。よほど無謀な訓練を己に課したのかもしれない。

 思わずアキラは聞き返した。

 

「……ないんですか?」

「アタシの知る限り、そんな無茶する奴いないわよ。外向と違って内向はよっぽど分かりやすいし。息が切れて、足も上がらなくても走り続けるような事をしたワケ」

「ああ、それは……」

「普通は休むでしょ。息が切れるぐらいは普通でも、足すら上がらないってなれば、それが危険だって判断できるでしょ。でも走ろう、とはならないでしょ」

「ですねぇ……」

 

 アキラもまた、思わず呆れた顔してアヴェリンを見てしまった。直後、その頬に張り手が飛んできて、強制的に顔の向きを変えられることになった。

 

「いだっ! ちょ、何するんですか!」

「うるさい」

「別に何も言ってないでしょう!?」

「顔がうるさい」

「なんですか、その言い草! そんな悪口ないでしょうよ!」

 

 そう言って食って掛かろうと顔を向けたら、更に頬を叩かれ腫れさせる事になった。熱を持った頬を撫でながら、アキラは閉口して目を逸らした。

 



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招待 その6

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 とりあえず、自分に才能がない事は分かった。

 そう、アキラは頭の中で呟いた。

 もとより期待していた訳でもない。多少はあったが、結局人生とはそんなものだ、と割り切っている。そうすると、後は決断するだけなのだが、どうしても最後の一歩が踏み出せない。

 

 魔術に対する憧れは、捨てがたいというのが本音だった。

 話を聞く限り、単に使うだけでも大変で、しかも十全に発揮するには己の才覚を見極める嗅覚が必要だ。鍛えれば鍛えるだけ良い、という問題でもないのは大きい。

 

 格闘技でも、単に筋肉をつけるだけでなく脂肪もつけ、スタミナもつけなければならない。何か一つに特化して勝てるものではないのだから、それを魔術に当て嵌めても同じ事が言えるのだろう。

 

 しかし問題なのは、それが単に足枷となるのではなく、己の命すら危険に晒す問題だと言うことだ。アキラは自分が死ぬ寸前まで鍛え続けられるタイプだとは思わないが、万が一という事もある。

 

 基本的に武術も基礎を学びながら、魔術も同様に学び、座学をして魔術を会得し、己の状況に合わせて点穴を増やすかどうか判断するなど不可能なのではないか。

 学校もあって、進路が決まれば受験勉強にも手を付けねばならない。早い人はもうその勉強を始めているというのに、二足どころか四足の草鞋を履くのは現実的に不可能だ。

 

 金銭的に奨学金を得られないなら大学進学は諦めようと思っているが、返済免除となる上位成績を取る努力はしなければならない。

 そこまで考えて、魔術を会得する為に学ぶにしても、今すぐである必要はないと判断した。

 それをミレイユに伝えてみると、どこか感動した面持ちで同意が返ってきた。

 

「うん、いいと思う。そうか、受験か……。確かに、そういった部分も考慮にいれねばならないか」

「やっぱり将来、少なくとも食べていけるくらいには稼がなくてはならないので……」

「そうだな。……因みに、お前は理系か?」

「いえ、文系です」

 

 そう言うと、ミレイユは難しい顔で腕を組んだ。

 

「これは最初に聞いておけば良かったかもしれないな。……そうか、そうすれば外向魔術の説明など飛ばして、内向を勧めていただろうに」

「そうなんですか……?」

「魔術の素養は数学的理解に通ずるところがあるからな……。ここでもやっぱり、向き不向きが出る」

 

 そこで視界の隅でルチアが身じろぎした。何かと思って見れば、表情には苦いものが浮かんでいる。彼女も苦労した覚えがあるのかもしれない。

 

「確かに、僕は数理系問題、全然駄目です……」

「しかも、覚えてからは楽器演奏のような器用さも必要になるしな」

 

 アキラは予想以上の前途多難に、げんなりして息を吐いた。

 

「なんですか、それ。そんな苦労があるなんて聞いてませんよ……」

「昔のように呪文を唱えるタイプなら、そんな苦労はいらなかったんだろうが……。今は魔術制御の時代だから、より早く正確に、破綻なく、イメージが表面に出るような感じで……。そういう、ピアノの鍵盤を弾くような器用さが必要になる」

 

 アキラの顔はげんなりを通り越して蒼白だ。魔術を使うという事は、数学学者であり、演奏者であり、そして格闘家を意味する訳か。

 そんな器用な真似が出来るとは思わないし、出来る人種がいる事に驚きを覚える。

 

 アキラは改めてミレイユを、ルチアを、そしてユミルを見た。

 この人達は、それが出来る魔術士なのだ。

 命を脅かす敵を前に、決して怯まず、武器を振るい、攻撃を躱し、その上で演奏を間違える事なくこなす器用さを持たねばならない。

 アキラに同じことが出来るとは思えなかった。

 

 勿論、最初から出来た訳ではないだろう。

 その修得に何年もかかり、魔術の行使に慣れるまで何度でも使い、そうして会得する数を増やすにつけ、魔力を鍛える事すらしてきた。

 その、想像するだけで目眩を覚える膨大な距離を、この人達は歩いている。

 

 外向魔術士は自己肯定感が強いとユミルは言ったが、これはそうなっても仕方がない。自らが認めず誰が認めるというのか。魔術士は傲慢で使えない者を見下すようなイメージがあるが、これなら納得してしまうだけの根拠がある。

 

 頭が下がる思いでミレイユを見つめていると、そこにアヴェリンからの平手が頭に落ちる。バチンという軽快な音と共に、脳天を貫く衝撃が走った。

 涙目になって頭を抑え、抗議の目を向けたが、飛んできたのは叱責の視線だった。

 

「不躾にミレイ様を見つめるな。不敬だぞ」

 

 幾度となく、この不敬という言葉をアヴェリンから聞いたが、アキラもまたその感情を理解しつつある。アヴェリンは卑屈になるのではなく、ただ純粋にミレイユに敬意を向けているのだ。

 その一端が、ミレイユが扱うという魔術にあるのだとしたら、アキラとしても理解できる気がした。

 

 アキラは視線をアヴェリンに固定したままミレイユに謝罪して、また頭を叩かれた。

 

「謝罪する時は本人を見んか。それもまた不敬だ」

「うう……、すみません」

 

 謝罪についてはそのとおりだと思うので、改めて頭を下げ、そして思う。

 どこの世界でも礼儀作法は難しい。そして礼儀を知らぬと痛い目を見る、と。

 ミレイユは困ったものを見るような表情でアヴェリンに顔を向け、それからアキラにも聞かせるように言う。

 

「まず一つの決定事項として、アキラには内向を覚えさせる。引き続きアヴェリンに鍛えてもらう」

「お任せ下さい」

「アキラも――そう、青い顔をするな」ミレイユは苦笑して続ける。「これからは武器を振るうより、瞑想するような時間が増えるだろう。その辺りは余程アヴェリンが心得ているから、よく従え」

「分かりました!」

 

 瞑想時間が加わると聞いて、アキラの顔には笑みが浮かぶ。

 剣を振る時間が嫌いという訳ではないが、最近とみに苛烈さが増してきた鍛練は逃げ出したいほど辛いと感じる時があった。それが瞑想に置き換わるというなら、苛烈さも鳴りを潜めるだろう、というのがアキラの予想だった。

 

 ミレイユはルチアとユミルにも目配せして、簡単に命じる。

 

「お前たち二人は、魔術鍛練についてそれほど多くは関わらないかもしれないが、気づいた事があったらアドバイスしてやってくれ」

「いいわよ」

「了解しました」

 

 うん、と二人に頷いて、ミレイユは再びアキラに向き直る。

 

「さて、他に何か聞きたい事はあるか?」

「そうですね……」

 

 アキラは自分の顎に手をやり、摘むようにしてから首を傾げる。

 あるといえばあるような、とアキラは心の中でも首をひねった。何しろここまで本当に様々な話を聞かされたから、その整理もついていない。

 だからとりあえず、また怒られるかと思いつつも、気になっていた事を聞いてみようと思った。

 

「前に筋力は男性の方が強くても、力が強いのは女性だっていう話、あったじゃないですか」

「……あったかな」

「ええ、ゲームセンターでパンチングマシーンの時です」

 

 アキラがそう言えば、ミレイユはようやく理解の色を示した。

 

「そういえばあったな、そんな事も」

「それってどういう意味なんですか? 魔力を持つ女性の方が、持たない男性より強いというのは理解できるんですけど、でもミレイユ様がいた世界って男性も魔力あるんですよね?」

「……そうだな。そもそもの話として、魔力が多い程、それを身体能力の強化に使える。これは外向魔術師としても同様で、要は余剰魔力があれば転用できるという意味だ」

 

 それを聞いても今一アキラには納得が難しかったが、しかし魔力総量が多い程に、その余剰分を活用できるのだと想像した。

 

「そして男性の方が筋肉が付きやすいように、女性の方が魔力総量が多いものなんだ。つまり性差から生まれる問題だな」

「なるほど……。だから女性の方が余剰分を持ちやすいって事ですか?」

「そう、そして余剰分を使うだけで、筋力よりも余程強い力を出す。あのパンチングマシーンが良い証拠だ」

 

 確かにルチアは細腕で、とてもカンスト近くまで数字を出せるようには見えない。しかし事実としてルチアはあの数字を出したし、アヴェリンなどは筋肉があるだけでは決して出来ない力を発揮する。

 

「だから、基本としてあちらの世界じゃ女性の方が強いものだった。多くの場合は女尊男卑の風潮があったし、魔術が根底にある世界で男の肩身は狭いものだった」

「それはつまり、リーダーとか王は基本的に女性という事ですか?」

「魔力なしには語れない世界だからな。弱い者は低く見られる、そういうものだろう?」

「……かもしれません」

 

 納得できなくても、するしかないのだろう。

 この世界だとて平等を謡っていても、実際には男性が強い社会だ。女性の社会進出だってごく近代になるまで実現しなかった。

 それを思えば魔物などの実害多い世界にあって、弱者が一段低く見られるのも仕方ない事かもしれない。

 

「それに女性は子を孕む。子には自分の魔力の半分を受け渡すものだから、必然的に男性の倍ほども魔力総量があるものだ」

「じゃあ、出産と共に弱体化してしまうんですか……」

「時間と共に戻るがな。毎年のように産んでいると、子供に受け渡す魔力が減るから、大抵は二年の間を置くのが普通だ」

 

 へぇ、と思わず呆けた声が出た。

 性差で魔力の違いが出る訳だ。仮に女性も同程度だと、ひたすら魔力の低い子が生まれて最終的には魔力を持たない子が生まれてしまう。

 それを回避する為の必然なのだろう。

 

 何やら感心する思いでミレイユを見つめていると、他にはもうないか、と聞かれた。

 今日はもう色々聞いたし、その整理も覚束ない。これ以上聞いても混乱するだけかもしれない、と思って、最後に一つ思い当たった事を聞いてみようと思った。

 

「魔力をある程度鍛えて、将来的に穴……点穴? それを開けて外向魔術に転向するのは可能ですか?」

「……可能だろうな。あまり例はないが、そうする者もいる」

「あれ、案外転向する人いないんですか?」

「理由は分からないが……、もしかしたら勉強が嫌いな事に原因があるのかもしれない」

 

 そう言って、ミレイユは笑みを浮かべてアヴェリンを見つめた。当の本人は、そのからかうような視線を合わせようとせず、脂汗のようなものを浮かばせながら、自分の手をじっと見つめている。

 

「一つ点穴が開いた程度では、ろくな魔術が使えないというのもあるが、じゃあ増やそうともならないのは、そういう部分もあるのだろう」

「僕も別に勉強が好きという訳ではないですけど……」

「だが、小学生の頃から何かと勉学に向き合う機会は多かったろう? そういった事は習慣付けねばやらないし、自分の生活の中にないなら、あえて近づこうとも思えないのかもしれないな」

 

 ミレイユが寂しげな笑みを最後に浮かべて、視線をアキラに戻す。アヴェリンがホッと息を吐いたところで、アキラはもう一つ質問をした。

 

「点穴が一つ……弱体化とも言ってましたけど、そんなに変わってしまったんですか?」

「いいや、実際のところ、弱体化そのものをどう見るか、という問題にもなる」

 

 言われた意味が分からず、アキラは首を傾げた。

 

「アヴェリンが失ったのは瞬発力だが、同時に継戦能力は増した。瞬発力自体が大きすぎて、手加減したくても相手を殺す事があった。捕獲が目的の場合、それが枷になる場合もあったから、今のほうが便利じゃないかと思ってるくらいだ」

「あぁ……それは……、一概に弱体化とも言えないような」

 

 アキラはいつかトロールの一撃を受け止めたアヴェリンを思い出す。

 あれで弱体化しているというなら、そもそもそれが弱体化と言えるかどうか。そもそもの出力が桁違いのせいで、逆に恩恵が増したというのなら、それは正解だったと言えるだろう。

 しかし、それに否を唱えたのはユミルだった。

 

「そうはいっても、強敵相手ならやっぱり、それは弱体化よ。ドラゴン相手に一撃で頭を潰していたアヴェリンが懐かしいわ」

「ドラゴン!? 一撃!?」

「別に一撃で倒せないでも、二発殴ればいいだけだろうが」

 

 アキラの驚きを他所に、アヴェリンが不機嫌そうに返答した。

 しかしユミルの口撃は収まらない。

 

「そうは言っても、その分苦労することになるの、大体アタシじゃない。ちょっと割に合わないわよ」

「何が苦労だ。皮膜を貫くことが、どれほどの苦労になる」

「ちょちょちょ……!」

 

 尚も続けそうな二人に、アキラは一旦、待ったをかけた。

 とりあえず口を閉じてくれた二人に、改めて問う。

 

「え、ドラゴン倒したんですか? なんか言い方が、別に一匹倒したとかじゃないような……」

 

 ドラゴンスレイヤーは冒険ファンタジーの中では鉄板だ。

 誰でも出来ることではなく、大抵の場合、その強力なブレスや空を飛ぶ能力、鋼よりも硬い鱗などに苦戦させられる。だからこそ、それを討ち倒した者には、その功勲を憧れと畏怖を持って謳われるのだ。

 それを気軽に口にされると、大した相手じゃないように思えてしまう。

 

「そりゃアンタ、野生の熊だって狩るんだから、野生のドラゴンだって狩るでしょうよ」

「おかしいでしょ、その理屈。え、それともドラゴンってあれですか? 熊ぐらいの脅威しかないんですか?」

 

 アキラが一抹の不安を伴いながら聞くと、小馬鹿にするようにルチアが笑った。

 

「ドラゴン一匹で町や村なら簡単に滅びますよ。国どころか大陸を火の海にするドラゴンだっていたんですから」

「ですよね! やっぱりドラゴン……、いたってなんですか? もういないって意味ですか?」

 

 それ以上聞いちゃいけない気がする、と思いながら、アキラは自分の好奇心に抗えなかった。そして次の一言が、あまりにも呆気なく口にされる。

 

「倒したわよ、この四人で」

「は? え、それ……、倒せるものなんですか?」

 

 あまりにもユミルが簡単に言うものだから、アキラも思わず呆けた顔で聞いてしまった。

 大陸を火の海にできるというなら、それはとてつもなく巨大な竜なのではないか。あるいは人類存亡の危機というやつではないのか、と思ったが、たった四人で倒せるなら案外ドラゴンの大きさに個体差はないのかもしれない。

 

「案外小さなドラゴンだったとか?」

「山すら飲み込むとまで言われた巨大さでした」

「あ、それじゃもしかして、他に冒険者が沢山いたんですか? 千人単位の大討伐隊とか組織して戦ったとか」

「あら、よく分かったわねぇ」

「ああ、やっぱり! それなら……!」

 

 ユミルの笑顔へ、そこにあまりにも冷静なアヴェリンの声が横から刺さった。

 

「その千人は最初の一撃で半壊し、更に空から降った火の雨で全員死んだ」

「えぇ……?」

 

 じゃあ何であんたら生きてるんだよ、と思わず喉から出かかって、意志の力で飲み込んだ。

 さらに詳しく話を聞こうとしたところで、ミレイユがつまらなそうに手首を揺らした。

 

「そういう話は余所でやれ。ここは武勇伝を語る場じゃないぞ」

「あら、ここからがイイところなのに。アンタがどうやってトドメを刺したか、この子に教えてあげましょうよ」

「いいんだよ、そういうのは」

「ですが、ミレイ様の輝かしい武勲です! 私達もいつ死んでもおかしくない戦いでした! 実際、腕の一つも炭化していました。しかし、それでも確かに勝ったのです!」

 

 ミレイユは熱い眼差しを向けるアヴェリンが、更に身を詰めようとするのを押し返す。

 

「分かったから。あれはお前たち無しに勝てない戦いだった。お前たちが勝利者だ、私は勝ちを拾っただけ。話は終わりだ」

「しかし――!」

「お前があの戦いにどれほど誇りを抱いているか、私はよく知っている。私もお前が誇らしい。だから今は、話を元に戻そう」

 

 ミレイユにその両肩に手を置いて言われれば、アヴェリンもそれ以上何も言えないようだった。ミレイユに誇りだと言われ、その言葉を胸の内で反芻しているようにも見える。

 押し黙って顔を伏せ、テーブルを一点に見つめるアヴェリンの口角が僅かに持ち上がっていた。

 

 やれやれと息を吐いたミレイユが、脱線したことを詫び、また脱線したユミルを叱る。

 それでとりあえず、どこまで話したか、と首を捻る事になった。

 



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招待 その7

orangeflare様、えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「えぇと……確か、師匠に点穴を入れたけど弱体化したという話でした」

「ああ、そうだった」

 

 ミレイユは納得するように何度か頷き、それからアキラに補足の説明をしてくれる。

 

「まぁ、内向魔術を修めた者が点穴を忌避する傾向にあるのは、多くは弱体化するのが原因だ。アヴェリンの場合は本当に例外で、他の者が同じようにやっても、ああはいかなかったろう」

「そうなんですね……」

 

 アキラは考え込むように下を向き、それから一つ思い立って尋ねてみた。

 

「点穴を増やすと魔術が使えるといっても、やっぱり一つじゃどうにもなりませんか?」

「蝋燭に火を付ける程度なら使えるだろうが……、それなら素直にマッチを使った方が楽だ」

「ですか……。それはそれで便利そうですけど、雨の時とか湿気っちゃうし」

「単純に労力に見合わない。便利とはいえ、コンロを持って旅をしないのと同じ理屈だ」

 

 アキラは大いに納得して頷く。

 リターンに見合わない使い方なら、そもそも使わないのが当然だ。

 それを思うと、ミレイユが気軽に物を浮かせたり、物を出現させたりしているのはどうなのだろう。リターンに見合わなくても、使いたいからという理由で使ったりするのだろうか。

 何故だかミレイユなら、それも有り得るような気がしてくる。

 

「やっぱり三つぐらい開けるところからがスタートラインって感じですか?」

「スタートライン自体は、それこそ一つからだろう。己の力量を知っていても、まずはそこから始めるものだ。……始めるのが六歳とか、それぐらいからだという理由もあるが」

 

 言って、ミレイユは気の毒なものを見るように目を細めた。

 これからアキラが魔術を学ぶというなら、確かに十年の差の開きは大きなハンデだ。六歳頃から始めるのも、早くから学べばそれだけ有利という理由があるからだろうし、難しい呪文はそれだけ多くの時間が必要となるなら、基礎を固めるのは早い方がいいに決まっている。

 

 そういう理由もあって、アキラへ内向を使うように勧めたのかもしれない。

 

 そこまで考えて、もう随分時間が経った気がして空を見上げた。

 この箱庭の中は未だに明るいから気にならなかったが、そろそろ日が暮れていてもおかしくない。話を聞くのも、もうそろそろ終わりかもしれないと思って、最後に一つ気になっていた事を聞いてみようと思った。

 

 これもまた魔力総量と同じで聞いてはいけない内容かもしれないが、無知を盾にして質問するだけなら許してくれるだろう。

 アキラは改めてミレイユに向き直り、口を開く。

 

「皆さんの点穴の数って、どのくらいあるんですか?」

 

 アキラのその一言で、アヴェリンを除く三人が、一斉に目配せを始めた。

 やはり聞いてはいけないことだったか、と顔を歪めて頭を下げる。

 

「すみません、また余計な事を聞きました」

「いや、別に……。それにこれは、別に不躾な質問という訳でもないしな」

「……そうなんですか?」

 

 頭を上げたアキラに、鷹揚に構えたミレイユが頷く。

 そこにユミルが口を挟んできた。

 

「まぁ、これだけ聞いても魔力総量が分かるものでもないし、逆にその数が判断を狂わせるようなものだから、あまり意味がないっていうのもあるけど……」

「けど……? なんか歯切れ悪い感じです」

「まぁ、普通は多くても五穴ってとこで、そこが上下したところで、別に個人差の範疇だからね。そりゃ十穴だったら凄いって話だけど、別に人間種は魔術に秀でた種族でもないから、まぁそんなもんでしょ、って感じで……」

 

 どんぐりの背くらべで、そこを自慢気に話していたら、逆に痛い奴でしかない、とそういう事を言いたいのか。じゃあ別に聞いても仕方ないか、と思ったところで、ユミルが何気ない調子で続けた。

 

「だからアタシの数を教えると、……五十六よ」

「は? え? おかしくないですか? なんでそんな数になってるんです?」

「アタシは人間じゃないからねぇ」

 

 愉快そうに笑って、ユミルは両手を胸の前で揺らして幽霊のような動きを見せる。

 アキラは眉根に皺を寄せて、その姿を凝視した。人間の最高峰でも十を超える程度というのに、優に五倍を超えるというのは異常だった。

 それだけ魔力総量も多いという事なのだろうが、ここまで来ると想像の埒外だ。

 

 しかしエルフ種のルチアより年上というなら、その点穴も納得いくような気がしてくる。それが果たして常識的に有り得るのかどうかは置いておいて。

 ユミルが愉快そうな笑顔のままルチアへ視線を移すと、ルチアは澄ました顔のまま数を告げた。

 

「私は百二十になります」

「ひゃっ……!」

 

 予想よりも遥かに大きな数字が出てきて、アキラは言葉を失った。

 エルフが魔術を誇りにする訳だ。これだけ点穴があれば、人間では比較にならない数の魔術を修得できるだろうし、大規模魔術も扱えるのだろう。そしてその背景には人間では越えられない、長命という種族特性がある気がした。

 

「一般的に、エルフでも六十から七十の点穴を作るとされていますから、私はちょっと多い方です」

「多い方っていうか、平均の倍はあるじゃないですか……」

 

 人間でも平均は三から五だとして、才能ある人は十を越える程度と聞いた。その比率から言うと、エルフの平均は六十くらいで、ルチアがその倍であるなら、エルフの中でも才能ある一握りの存在という事になりはしないか。

 そういう思いを敏感に察知されて、ユミルがにやにやとした嫌らしい笑みを浮かべて言った。

 

「驚く気持ちも分かるわよ。ルチアはエルフの中でも才能ある方だから……。でも同時に、どうしようもない問題もあったのよねぇ」

「――ユミルさん」

 

 ルチアから鋭い視線が飛んで、ユミルは肩を竦めた。

 

「ま、そうね。勝手に言って良い話じゃなかったかもね。これ以上は、アンタが仲良くなって直接聞くといいわ」

「……そんな日が来るとは思えませんけど」

 

 ルチアがユミルに視線を固定したまま、アキラの方を見ずに言う。

 最初から一貫して、アキラに関心を示さないのはエルフ故なのだろうか。アキラ個人に、というより人間に対して関心を向ける事はないのかもしれない。

 

 そうかと思えば現代日本の文明や利器に対して、並々ならぬ興味を示してもいるのは不思議だった。もしかしたら、元より人付き合いを好まないだけ、という性格なのかもしれない。

 あるいは――、とアキラは思い直す。

 

 よくある話として、人間はエルフを捕らえて奴隷にするという展開がある。

 あちらの世界でも奴隷制度が一般的であったなら、同族を意図して狙う人間がいてもおかしくない。それを思っての人間嫌いなのかもしれない。

 

 これも迂闊に聞いてはいけない問題だな、とアキラは心に留める。

 無知を晒して不興を買う事は、今日はいくらでもしたし、今ここで更にそれを重ねるつもりはなかった。アキラにもデリカシーというものは持ち合わせている。

 

 さて、とユミルが最後の一人、ミレイユに顔を向けた。相変わらずのいやらしい笑顔で見られたミレイユは、明らかに顔を顰めた。

 

「アンタ、点穴いくつ開いてたっけ?」

「知らない筈ないだろう……」

「やだわ、ド忘れかしら。ちょっと思い出せなくって」

 

 ミレイユは顔を逸して鼻を鳴らした。

 ユミルの笑顔は変わらずそのまま、どうやら追求をやめるつもりはないらしい。ルチアは呆れた顔でそれを見るだけで、二人を止める様子はない。

 

 ユミルはミレイユの横顔を見つめたまま、それでついに観念して、ミレイユは溜め息と共に口を開いた。

 

「三……くだ」

「……ん?」

 

 ユミルが首を傾げ、アキラもまた首を傾げた。

 多少聞き取り難かったとはいえ、三という数字は聞こえた。あくまで平均的な数字が意外でもあり、そして人間としてなら、やはりそれが普通なのだろうとも思った。

 魔術は使いようとも言っていたミレイユだ。別におかしい事ない、という感想だったのだが、ユミルは納得が言ってないようで、更にしつこく尋ねている。

 

「いや、よく聞こえなかったわ。なんて言ったの?」

「……だから、三百だ」

「は? 何で? おかしくありません?」

 

 点穴は数多く開ければいいという問題ではない、と言ったのはミレイユだ。そして、それは己の死を招くとも言った。

 人間の平均を百倍も越える数は、即座に死に至ると思うのが普通だろう。それでも平然としているのは、明らかに不自然だ。一体どういう理屈なのだろう、とアキラは瞠目した。

 

「そうよねぇ、そういう反応になるわよねぇ……!」

 

 ユミルはアキラの反応に喜んで手を叩いた。

 どうも、アキラのこの顔を見たくてミレイユに言わせたらしい。とはいえ、やはり腑に落ちないのは点穴の数だ。一体、どういう理屈でその数を開け、そして今も平然としているのだろう。

 

「……いや、なんで生きてるんですか?」

「なかなか酷いこと言うよな……」

 

 アキラの一言に、ミレイユが頬杖をついて面白がるように口の端に笑みを浮かべた。

 そして自分自身の失言に気づく。

 そのつもりがなくとも、死んでしまえと言っているようなものだ。顔を青くして頭を下げるのと、その頭を鷲掴みにされたのは同時だった。

 

 頭を上げて確認しなくても分かる。

 その頭を今にも握力だけで潰そうとしているのは、アヴェリンに間違いない。必死に謝罪の言葉を並べても、その力が緩まる事はない。

 

「貴様、自分の立場を忘れてないか……?」

「す、す、す、すみません……! 決してそういうつもりじゃなく! 素朴な疑問が、ついポロリと! 口から出てしまったと言いますか……!」

 

 アキラの必死な声に、喉の奥で笑う声が聞こえてくる。

 おそらくミレイユが指示したのだろう。下げたままの視線ではテーブルしか見えないが、頭を掴む力が緩み、一度平手で叩かれて離れていく。

 

 アキラは後頭部を擦りながら頭を上げ、そして改めてミレイユに頭を下げた。

 ミレイユは気にしないという風に手を振って、それを面白がって見ていたユミルが詳しく教えてくれた。

 



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招待 その8

orangeflare様、えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「――でもま、理屈としてはアヴェリンと同じよ。点穴を開けなければ自己生成力で潰れそうになったのと同様、少々の点穴じゃ、この子の生成力を抑えられなかった」

「でも……、それで三百ですか? あまりに規格外といいますか……」

 

 そうね、とユミルがちらりと笑って、ミレイユに顔を向けた。

 

「最初からエルフ並に点穴を作ってはいたのよ。その時点で規格外だったし、それに応じた魔力も魔術も会得していた。だから、この子は『耳を丸めたエルフ』とも呼ばれた」

「耳を……丸めた」

 

 口から言葉を零しながらミレイユの耳を見つめても、そこには自分同様、特に代わり映えもしない耳があった。こんなところまで形がいいんだな、という感想は出るものの、しかしそれは普通の人間と変わらない。

 エルフが器用に耳を丸めている訳でも、あるいは切り落として人間の耳のように見せている訳でもなさそうだった。

 

 ユミルの説明に、ルチアが補足するように一言加える。

 

「呼ばれた、というのは間違いです。今でも間違いなく呼んでいます」

「あら、そう? 相変わらず意固地なのね」

 

 二人のやり取りは抽象的で、アキラにはよく理解できない。

 

「結局、ミレイユ様は人間なんですか? それともエルフなんですか?」

「エルフではないわね」

「でも、エルフである、という事にしておきたいんです」

「それはまた……何故?」

 

 アキラが首を傾げると、ユミルが溜め息をついてルチアを指さした。

 

「エルフ族っていうのは、魔術に秀でて、そしてそれを誇りに思ってるって言ったでしょ? それに只の人間に負けたと思われたくないからよ」

「それだけ聞くと、単なる狭量な種族としか聞こえないので止めてもらえます?」

 

 不機嫌そうに言って、ルチアは手を振ってユミルを遠ざけるような仕草を見せた。それから取り成すように、アキラに顔を向けた。

 

「我らの一族は、ミレイさんに深く感謝してますし、神のように崇めています。我らの一族だけではなく、多くの氏族が」そして僅かに顔を歪める。「ただ、人間に対し思うところがあるので、人間を祀り上げるような、深い感謝を示すような行動は障りがある。でも感謝を示さない不義理もしたくない。そこで思い付いたのが、ミレイさんをエルフという事にする、という案です」

「ほら、馬鹿げているでしょ?」

 

 ユミルがルチアを指さしたが、その指を叩かれた。

 頓着せずに笑いながら、ユミルは続ける。

 

「結局プライドが邪魔して、素直に感謝できなかったっていうだけの話じゃない。それで耳を丸めたエルフと呼べば良し、っていうのは、やっぱり馬鹿げた話よ」

「素直に頭を下げられない、エルフ族の歴史も考えて下さいよ」

 

 苦笑したルチアに、ユミルは肩を竦めて応え、それからアキラに言う。

 

「まぁ、最初は実際その強い魔力が、エルフだと誤解させた要素だったと思うのよ。人間では有り得ない魔力総量を持つし、その若さで身に付けられない魔術も使うし」

「修得に十年かかる魔術も使ってたら、それは確かに、外見通りの年齢じゃないと思いますよね……」

 

 だからつまり人間じゃない、と思うのは自然な事だったに違いない。

 しかし、交流を深めるにあたって人間だったと気づいたが、今更それを人間だからという理由で排斥できない事情があったのだろう。

 感謝しているというからには、エルフ族を救う何かをしたと予想できる。だが掌返しも出来ずに困ったところで、エルフに認定すれば解決だと思ったのかもしれない。

 

「エルフの気持ちも分かりますし、でもユミルさんの気持ちも分かるような……。だって結局エルフじゃないんでしょう?」

「そうね、それは間違いないわ」

「でも、人間じゃないって言われても納得できそうですけど」

 

 言ってアキラはミレイユを見つめる。

 その美貌は、むしろエルフと言われた方が納得できてしまいそうだった。魔力量だけの問題じゃなく、そういった部分もまた、エルフと思われた原因にあるのかもしれない。

 

 しかしそうなると、彼女は一体どういう種族なのだろうか。

 アキラの疑問はミレイユの苦笑と共に振り払われた。

 

「何かを期待しているようで申し訳ないが、私は人間だ。……だと思うがな、多分」

「いや、何で自分自身で自信ないんですか。余計怪しいじゃないですか」

「そうは言っても、親の顔を知ってるわけでもない。私自身は割と確信を持ってそう思ってるが」

 

 軽い口調の言い方だったが、アキラはまたもしてしまった失言に自己嫌悪を重ねた。アキラ自身も現在親を亡くして独りだし、それと全く同じとも思わないが、それでも親のいない幼少期はきっと辛かったに違いない。

 

 アキラの表情を見て、その気持ちを吹き飛ばすようにミレイユは笑った。

 

「別に同情してもらうような話じゃない」

「そうだ、お前ごときが同情なぞ、百年早い」

 

 アヴェリンが鼻息荒く言って、叱りつけるように睨みつけた。

 ミレイユがちらりと見せた苦笑は、そういう意味ではないように映ったが、ともかくアキラは頷いて謝罪する。

 

「は、はい、失礼しました……」

 

 それでアヴェリンは納得して腕を組む。また話を静観するつもりになったのだろう。

 そして再びユミルが口を開く。

 

「まぁ、とにかく、随分話が逸れちゃったけど……。点穴の多さは、その魔力の生成力が原因の一つね。これのせいで確実な格下殺しになっているのも酷い話だけど」

「格下……殺し? 自分より弱い相手に必ず勝てるって意味ですか?」

 

 弱い相手なら別に勝てて当然だし、苦戦しないというのも意味が通じない気がする。

 アキラの疑問に、ユミルは鼻で笑って否定した。

 

「文字通り、相手にならないのよ。相手にしないって意味じゃない、するまでもなく、勝負の土台にすら立てないって意味よ」

「そんな事あり得るんですか……?」

 

 アキラの胡乱げな疑問には、身を持って知る返答が返ってきた。

 ミレイユが深呼吸するように大きく肩を上げ、そしてゆっくりと下ろすと、蒼い光が立ち昇った。煙のようにも湯気のようにも見えるそれが、次の瞬間膨れ上がり辺り一面を包む。

 

 まるでミレイユを中心に、爆発が起きたかのような錯覚を覚えた。

 視界を一瞬で蒼く染め、目を瞑ってやり過ごし、手を突き出して光から身を守る。瞼の裏からでも見える光が収まった頃、手を下げながら目を開けようとして、身体が横に傾いた。

 

 咄嗟に横からアヴェリンが肩を掴んでくれたお陰で倒れずに済んだが、未だ視線も定まらず、身体に力も入らない。声を出すことすら出来なかった。

 一瞬にして身体中から血を抜かれたかと思った程で、身体は寒く感じるのに震えは出ず、力が出ずに首も据わらない。

 

 助けを求めようにもそれが出来ず、ただ時間が過ぎるのを待つしかないと思われたところで、誰かが背中に触れたお陰で、劇的に体調が良くなる。

 それにつられて身体が震えだし、首も据わって、それでとりあえず背中を椅子に預けた。

 たったそれだけで身体が楽になり、肩を掴んでいたアヴェリンも手を離す。

 

 気遣うような視線だったが、特に何をする訳でもない。

 ユミルが自分の席に座るのが視界の端で見え、それで助けてくれたのが彼女だと分かった。

 感謝の言葉を伝えたくても、今はそれが到底出来そうにもない。喉の奥で唸り声を出すのが精一杯だった。

 

 体調が戻るまでの時間は早く、それから一分もすれば元に戻った。

 別に動悸が激しい訳でもないのに息切れして、そうしながら目の前を恨めしそうに睨む。心は冷静のつもりでも、声まではそうはいかなかったようで、低い声で誰何するように問い質す。

 

「……なんであんな事したんですか」

「口で言っても説得力ないだろう。身を持って味わった方が、よりよく理解できる」

「口で言っても、僕は疑ったりしませんでした! あんなに辛い思いするぐらいなら、素直に説明だけにして欲しかったです……!」

 

 アキラの声には泣くような響きすら混じっていたが、そんな事を気にする人はこの場にいなかった。ミレイユもさもありなんと頷くものの、それに対する謝罪などはない。

 最初からそれは期待していなかったが、しかしこの理不尽には一言いってやらねば気が済まなかった。

 しかしそれより先に、いつもの笑顔でユミルが口を挟む。

 

「――ね? 凄いでしょ」

「なんでユミルさんが自慢気なんですか! 死ぬかと思いましたよ!」

「死ぬ思いをするだけで、死にはしないわよ。そういう手加減していたんだから」

「それ手加減しないと死ぬって意味じゃないですか!」

 

 だから、とユミルは更に笑みを深くした。

 

「格下殺しっていうの。遠くからあの子の防御と回避を抜けるならいいんだけどね。それが無理なら接近しないと倒せないんだけど、じゃあ近付いたらどうなるかっていうと、さっきのアンタみたいになるワケよ」

「えぇ……。ミレイユ様って、そんなに回避が上手なんですか?」

「盾を使わず、盾より上手く攻撃をさばくわよ」

 

 よく出るミレイユ伝説にまた一つ謎が加わって、アキラはげんなりした表情で言った。

 

「なんですか、その盾を使わずっていうのは……」

「ま、そこはいつか見せて貰ったら良いわよ。問題はね、さっきのあれが単にマナが漏れ出しただけっていうトコロにあるのよね」

「ん? マナ……? 魔力ではなく?」

 

 アキラが眉根を寄せて尋ねると、ユミルは頷く。

 

「そう、この子、体内からもマナ作るから。基本は外にあるマナを吸収して、体内で魔力を生成するけど、この子は自分自身からもマナ生成するから」

「えっと、意味が、よく……。それってやっぱり人間ではないのでは?」

 

 アキラの指摘にユミルが笑い、ルチアが苦笑し、ミレイユが憮然とした。

 

「マナは万物に宿るからね。当然、人にも宿っているんだけど……」

「僅かながら、って事ですか?」

「そうね、マナから魔力へ自己完結できるようなら、それはもう神の領域よ。あの子は人だと言い張るつもりみたいだけどね……」

 

 ちろり、とユミルが視線を向けると、ミレイユは外を向いてわざとらしく花々を愛で始めた。

 だが確かに、ここにある花々がマナの含有量が多いという話でも、気分が悪くなるような事にはなっていない。しかしミレイユ一人が生み出したマナは、アキラを行動不能にした。

 

「あれ……? マナって一度に多く吸うと危ないんですか?」

「そうね、水と一緒よ。あるいは塩でもいいけど。生きるのに必要なものだけど、一度に多量を吸収すると危険なの。そんな状況、普通は起きないけどね。でもそれをされて、アンタは溺れたような状態になったのよ」

「それで……」

「別に単にアンタを虐めるつもりでやったワケじゃないと思うわ。現に今、アンタ自分の中が魔力で満ちているのが分かるでしょ?」

 

 言われて改めて自分の身体を見つめてみれば、最初に呼吸をしていた時は僅かにあったと感じられた魔力が増えている。驚くような気持ちでミレイユを見返すと、困ったような苦笑を返された。

 

「まぁ、申し訳ないと思ってるが。こんな事、普通はしないしな。言ったように格下にしか利かないし、しかも回数を重ねれば慣れる。だから基本的に、外へ魔力を逃がす為に点穴の数が多くなければ、私が潰れる」

「それで三百ですか……」

「あとは普段から、無駄に魔術を無駄なく無駄に使って消費したりな……」

「なんですか、それ。どういう意味ですか?」

 

 ミレイユは少し考える仕草をしてから、空いている椅子に手を向ける。

 その掌が光に包まれた後、雑に握る動作をすれば椅子が持ち上がる。そして二歩ほど離れた場所に着地した。

 一部始終を見てからミレイユが顔を戻してくるが、アキラとしては首を傾げるしかない。

 

「どう思った……?」

「えぇと……、浮いて動いたなぁ、と」

 

 アキラの拙い感想に、アヴェリンから叱責が飛んだ。

 

「――馬鹿者。お前はもう今日から魔術士として生きるのだろうが。だったら魔術的に物を見ろ」

「と、言われましても……。何をどう見たものか……」

 

 困惑した表情にミレイユが頷く。

 

「基礎はこれからだし、それでもいいさ。お前に分かり易く言うと、十の労力で済むものを、わざわざ百使って動かした。そういう感じだ」

「少なく済むものを、わざわざMP100使ったんですか……?」

「ああ、そう。正にそれだ。だから無駄に無駄なく魔力を浪費したという事になる」

 

 そこにルチアが呆れた声を滲ませて、ミレイユに向かって言った。

 

「普通は出来ませんけどね。少なく効率的な魔力制御を学ぶと、むしろ多く浪費するような制御はできなくなりますから。応用が上手いといっても、限度がありますよ……」

「そうなんですか……?」

「魔術の制御は繊細で、それ故に最短、最効率を目指すものです。わざわざ自分で破綻しかねない綱渡りをして、それでも同じ結果を生み出すというのは、口で言うより簡単じゃないんですよ」

 

 ルチアにしても分かり易く精一杯の説明をしてくれたのだと思うが、やはりそれだけではアキラには今一ピンと来ない。

 だがとりあえず、とんでもない無茶をした行動なのだとは分かった。

 

「分かりませんけど、分かりました。とりあえず――」

「ちょっと待って……!」

 

 アキラが言い掛けた時だった。

 ルチアが緊張した声を出して、ミレイユに目配せする。頷き返してアヴェリンを見て、それで彼女が立ち上がった。

 

「え、なに……急にどうしたんです!?」

「結界が出現した。これから対応する」

 

 アヴェリンの簡潔な返答に、アキラは緊張で身を固くした。

 ならば、アキラ自身も準備をして向かわなくてはならない。ミレイユから下賜された刀と、初戦から借り受けている防具、それらは自分の寝室に隠している。

 

 そこにユミルから軽快な声をかけられた。

 

「良かったわね、魔力を満たしてくれていて。実践で魔術士としての戦い方が学べるわよ」

 

 実に気軽な申し出だったが、今のアキラは一度も使った事のない武器を手渡された状態に等しい。

 弾丸の装填も引き金の位置も分からない筒を手渡されたような気分で、だからそれを素直に喜べない。むしろ不安の方が大きかった。

 

 ミレイユも立ち上がって準備をするため邸宅へ歩いていく。その背中を見ながら、アキラも覚悟を決めて拳を握った。

 



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実践 その1

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 箱庭から出て、アパートからも飛び出したところで、アキラの動きがはたと止まる。

 アキラも装備を整えていて、その手には既に愛用と言って良い刀を袋に入れたまま握っている。

 

 いつもならここから担ぎ上げられて運ばれていたのだが、今日は違うのではと思い至った。何しろ今のアキラには魔力がある。これの使い方次第で、今とは全く違った世界が見えるのは良く分かっている。

 問題は、その使い方をよく分かっていない事だった。

 

 既に全員が完全装備で揃っていて、今にもルチアが走り出そうとしている。

 ユミルが全員に姿を隠蔽させる魔術をかけると、早速ルチアとアヴェリンが揃って走り出した。他の面々もそれに追従するように走り出し、それでアキラもそれに続いて走ろうとしたのだが、あっという間に置いていかれて見えなくなった。

 

「いや、これ、どうすればいいんですか……!」

 

 もはや聞こえないと思っていたが、その声を敏感に拾ったミレイユが振り返る。呆れた表情というより、呆けた表情が魔女帽子の下から見えた。

 立ち止まって手を顎に当て、どうしたものかと考える仕草を見せる。

 ミレイユの異変に気づいたユミルが戻って来て、そしてアキラの姿を見て納得したように頷いてみせた。

 

「早くいらっしゃいな。魔力が満ちた身体で、どうしてそんなに遅いのよ」

「どうしてと言いたいのは、こちらの方なんですが!」

 

 待たせてはならじと、ミレイユたち二人に追いついたアキラが息も絶え絶えに言った。

 

「使い方まで、聞いてませんよっ! 何も、教えて、貰って……ないんですからっ!」

「……内向魔術に、そんなのいらないでしょ」

「息を吸って吐くのに、説明がいるか?」

 

 アキラの抗議にも、怪訝な表情で返されては、それ以上は何も言えない。

 単純に自分が――自分のやり方が悪かったのかと思っても、別に腹に力を入れれば魔力が開放されるというような感覚もない。

 

 アキラが自分の広げた両手を見て、そして腹や足まで視線を移しても、何かが湧き上がってくるというような感じはしなかった。

 ルチアに教えてもらったマナの吸収法を試してみても同じ。やはり何も湧き上がるものはない。

 

「まぁ、こういうのはアヴェリンに聞くのが一番でしょ」

「そうだな、まずは追いつくことを優先するとしよう」

 

 言うや否や、ミレイユは手早くアキラを肩に担ぐと走り出した。

 身体が後ろ向きなせいで、後ろに続くユミルと顔を合わせるような格好になる。ユミルの嫌らしい笑みを見たくなくて顔を逸らせば、その顔に手を出して嫌がらせをしてくる。

 それを手で振り払うように動けばミレイユから叱責が飛んでくるし、こうして担がれて移動するのは情けないやら申し訳ないやらで、とにかく早く目的地に着いてくれ、と切に願った。

 

 

 

 それからしばらく後の事、着いた場所は病院の敷地内だった。

 駐車場方面ではなく中庭のような場所で、三方を凹型に重なった病院の壁に囲まれている。普段は憩いの場にも使われているらしく、閉塞感はない。

 壁に囲まれていると言っても、うち二つは吹き抜けになった部分もあって、一階と中庭が通り抜け出来るようにもなっていた。

 

 先に待っていたルチアは結界に手を伸ばし、既に解析を始めていて、アヴェリンはその傍で油断なく周囲を警戒していた。

 アキラが担がれている様子に、呆れた表情を隠しもせず溜め息をついて、アキラが降ろされたのを見てツカツカと近付いてくる。

 

 アヴェリンは一礼して己の不備を詫び、そしてアキラの肩を掴んでミレイユから引き離す。そのまま結界付近まで連れてきて、ルチアの周囲を警戒しながらアキラに言った。

 

「それで、どうしてあんな事になっていた?」

「まだ魔力の使い方聞いてなかったからですよ。呼吸をするように扱える筈と言われて、僕自身困惑しています」

「ふむ……?」

 

 力ない声でそういえば、そこからも困惑するような声が聞こえた。

 アヴェリンはアキラに顔は向けない。その視線はルチアを中心に周囲へ向けられており、アヴェリンの背後にいるような形になるアキラには、その表情が見えなかった。

 

 なかなか続く言葉をくれないアヴェリンに、焦れてアキラから問いかける。

 

「内向魔術は専門じゃないから、師匠に聞けと言われました。何か特別な方法ないんですか? スイッチを入れるというような……」

「すいっちとは何だ」

「えぇ……、何て言ったらいいんだろう。じゃあ、何かレバーを引くような感じ、みたいな?」

「ああ、そういう……」

 

 アヴェリンはそれで納得を示したが、しかし返答は芳しいものではなかった。

 

「だが、ないな。身体を魔力で満たされた瞬間から、己の肉体を強化・活性化させるのが内向魔術だ。満たされた後、次に生成される過剰となる魔力を、即座に強化する力に変換する」

「じゃあ、既に僕は強化されていないとおかしい、って事ですか?」

 

 アヴェリンは頷く。

 

「ミレイ様のマナを間近で受けただろう。あれで満たされていないというのは、お前の魔力総量的に有り得ない。バケツを満たすのに、給水塔の水を全てぶつけられたようなものだ。満たぬ道理がない」

「でもそれって……、じゃあ逆に満たされてなかった事になりませんか?」

「何故だ」

 

 アヴェリンの苛立たし気な声に、アキラはアヴェリンが言った例を頭に思い描きながら説明した。

 

「だって、それだけの量を一度にぶつけられたんでしょう? まず満たされる事が条件なら、何というか、その反動で水が溢れてしまうような事、あるんじゃないでしょうか」

 

 断続的にゆっくりと上から注がれたという訳ではない。どちらかと言うと鉄砲水に近い、瞬間的な――突発的なものに感じた。

 アキラもマナの吸収法を習ったばかり。それを余すことなく身に受けて、糧にしようという発想は最初からない。むしろ咄嗟に身の危険を感じて蓋をするよう動くだろう。

 その事を説明すると、アヴェリンは幾つか疑問はあるものの、納得するような仕草を見せた。

 

「あり得る話だ。突然噴出されたマナを、その身に受ける事は危険だと身体は分かっているものだが……。そうだな、そもそも蓋という概念が我々にはない。それが理由かもな」

「じゃあ……」

「うん、お前はまた、開けた蓋を閉めた。そう考えるのが自然かもしれん。ミレイ様に報告しろ、すぐに戦闘が始まる」

「わ、分かりました……!」

 

 アキラは一礼してその場を反転すると、ミレイユに小走りに近づいていく。

 そしてまた一礼してからミレイユの傍に寄ると、ユミルも近付いてきて内容を聞き取ろうとしてきた。特別邪魔する意図はないようなので好きなようにさせ、アキラは口を開く。

 

「師匠から聞いてきました。どうも、まだ僕の魔力は満たされていないらしいです」

「そんな事ある?」

 

 ユミルが怪訝そうに言うのと、ミレイユが指を二本立てて手を挙げたのは同時だった。ユミルの方をちらりと見てから、アキラに視線を合わせる。どうやら、少しの間黙っていろという合図だったらしい。

 ミレイユが頷いて見せるのを待ってから、アキラは続ける。

 

「まず、僕に蓋があったというのが問題らしくて、ミレイユ様のマナを身に受けた時、咄嗟に蓋を閉めて身を守ろうとしたのではないか、と。だから僕はまだ魔力が満ちておらず――」

「内向魔術も発動していない、という訳か」

 

 ミレイユが眉根を寄せて、アキラを上から下まで矯めつ眇めつした。

 眉間のシワは消えぬまま、ミレイユは手を伸ばしてアキラの肩に置く。ミレイユの身体から蒼い光が立ち昇るのが見えて、アキラは思わず身を固くした。

 殆ど条件反射のようなものだったが、もう片方の手で腕を優しく叩かれ、緊張させた身体から力を抜く。

 

 そして自分の体を貫くような、包むような不思議な感触が十秒ぐらい続き、頭がボーッとしてきたところでミレイユが手を放した。

 蒼い光も消えていて、身体の奥底に一つ熱い玉のような存在を感じた。それがフツフツと唸りを上げるように、あるいは動き始めたエンジンのように、アキラの身体を震わせる。

 これがもしかしたら、魔力というものなのかもしれない。

 

 アキラが握りしめる刀までもが、震えたような気がした。

 この動き始めた魔力を、アキラ自身持て余している。どう動けば正解なのか分からず、縋るような思いでミレイユを見つめると、困ったように笑ってアヴェリンを指さした。

 

「ほら、あとはアヴェリンに詳しい事を聞け」

「そ、そうします……!」

 

 気を抜くと声まで震えてしまいそうな気がした。

 ぎくしゃくとした足取りでアヴェリンの傍までやってくると、それを見たアヴェリンが腹を殴りつけて来て、身体をくの字に折り曲げる事になった。

 

「お、おごぉぉ……!?」

 

 咄嗟の事に、何の反応も示せなかった。

 力を込めていなかったせいもあり、防具を無視してアヴェリンの攻撃が内臓まで衝撃を伝え、身悶えしながら蹲る。悶絶する痛みはいつまでも続くと思われたが、それがある瞬間からキッパリとなくなる。

 

 アキラは顔を上げて、アヴェリンと視線を合わせた。

 いきなり何をするつもりだ、と言うべきか、これは一体どうしたのか、と聞くべきか。

 判断に迷っていると、顎をしゃくって立ち上がるよう指示される。拒否したところで意味がないと分かっているので素直に立ち上がると、再び腹を殴りつけられた。

 

 全くの警戒なしという訳ではなかったが、それでもやはりアッサリとアキラは殴られる。

 しかし今度は、殴られて痛みはあっても蹲る事もない。それどころか拍子抜けする攻撃に眉を顰めてしまった程だ。明らかに手加減した攻撃を不審に思う。性格的に言って、アヴェリンはそう言った手加減を全くしない。理不尽に思える攻撃にも、いつも何か理由があるものだ。

 

 アキラの動き一部始終を見て、アヴェリンは幾度か頷いてルチアの方へ向き直った。

 自分だけ納得して何の説明もなしか、と思ったが、次いでアヴェリンが口を開く。どうやら警戒の任務を、疎かにしたくないだけだったようだ。

 

「一度目と二度目、殴る強さは変えなかった。これがどういう事か分かるか?」

「……え、じゃあ、僕はいま魔術を使えているんですか!?」

「内向魔術は使おうと思って使うものじゃないからな。ミレイ様が呼吸を例えに使われただろう。やれとか止めろとか言われたところで、どうにもならん」

「じゃあ、突然殴られたのは……?」

 

 アキラの恐る恐ると伺う姿勢に、アヴェリンはあからさまな嫌悪を滲ませた気配を発する。

 彼女はへりくだる男性という存在が、とにかく嫌いだというのは最近分かりだした事だ。

 アキラは姿勢を正して、腕を背後で組んで顎を引く。

 機嫌を直したアヴェリンが、続きを説明してくれた。

 

「お前は明らかに身体の内で魔力を巡らせていた。しかし形にできず、持て余していた。そこを強制的に動かしてやった。防衛本能を刺激してやるのが、一番手っ取り早い」

「それで……痛みに強くなった、という事ですか?」

「それも間違いではないが、肉体の強度も増している。攻撃する場合でも、その恩恵を理解できるだろう。だが、完全ではない。それは実地で慣れろ」

 

 なるほど、と言ってアキラは拳を握り締める。

 それだけで実感できるものではなかったが、しかし同時に違いが出ている事も理解できた。

 そこにアヴェリンが冷や水をかけるような発言をしてきた。

 

「友人との付き合いには気をつける事だな。気軽に肩を叩いてみろ、腫れ上がるような打撃を与える事になるぞ」

「え、そんなに!?」

「私がどれだけお前を繊細に扱っていたか、それで分かろうと言うものだ。まるで壊れ物を扱うように、綿で包んで罅すらいれずに殴るというのは、相当に神経をすり減らす行為だ」

 

 手加減していた事は知っていた。

 されて当然の実力差だと理解していたが、確かに魔力を持つ者と持たない者の差は、隔絶される程の差を生む。それもアヴェリン程の実力者となれば、アキラなど初撃で爆散していても大袈裟ではない。

 

 考えてみれば、アヴェリンは一度も骨折させるような重い怪我をさせた事がなかった。

 肩を打てば痛みで悶絶することは数えきれない程あるが、力加減を間違えれば、そのまま貫通していても不思議ではなかったのだ。

 外向魔術は繊細だ、などと言っていたが、これだけ手加減できる時点で、アヴェリンもまた相当繊細に内向魔術を操れているとみえる。

 

 思わず唸ってアヴェリンの横顔を見つめていると、結界の入り口が開く。

 アヴェリンがルチアと立ち位置を入れ替わり、結界内部を油断なく警戒した。内部は既にルチアが精査している筈なのだが、だからといってアヴェリンが警戒しない理由にはならないらしい。

 

 アヴェリンが振り返って、ミレイユに向かって無言で頷く。

 ミレイユも同じく無言で首肯を返して、中に侵入するよう指示した。それでアヴェリンが踏み込み、次にルチアが入る。

 この一連の動きは、ここ最近のルーティンだった。

 

 そのすぐ後に、アキラとミレイユが共に入り、最後にユミルが入ってくる。

 入った先で見たものは、結界内の風景としては異色なもの。ある筈の孔は既に閉じており、それはつまり全ての魔物が出現している事を意味する。

 普段は弱い魔物を倒した辺りで追加で出てくるのが基本なのだが、本日は趣向を変えて来たらしい。

 そこには既に、ゴブリンとトロールが二体ずつ徘徊していた。

 



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実践 その2

あーるす様、誤字報告ありがとうございます!
 


 トロールは以前見たものと違いはなかったが、ゴブリンの方は少し違っていた。

 頭に兜らしきもの、武器と盾らしきものを装備している。

 らしきもの、というのは単純にそうとしか見えなかったからだ。人間がつけているのも見て自分たちも真似してみた、という風体で、とても防具としては機能していない。

 

 帽子も盾も木製で、それ自体はいいのだが、防具としての強度は期待できそうにもなかった。兜というより、丁度いい大きさの木をくり抜いて被っているようなもので、今にもずり落ちてしまいそうな不安定感がある。

 

 しかし武器は、おそらく拾ったか奪ったかした物らしい。

 錆びて欠けているものの、斬りつけられれば怪我は免れないように見えた。

 

 アキラは思わず生唾を飲み込んだが、他の面々は気楽なものだ。

 特にユミルは敵を見るなりやる気を無くして、隣にいるルチアへ雑談のつもりか、何事かを話しかけている。

 

「それにしてもまぁ、よくこんな短時間で結界をこじ開けること。何かコツでもあるの?」

「いいえ、単に結界の設計思想が私とよく似ているんです。自分自身ならどうするかを考えてやれば、結構簡単なものでして」

「へぇ……? そういう事ってよくあるの?」

「結界を張る労力が割に合わないのもありますから、遭遇した経験はそれ程ないですけど。それを合わせて考えても、中々ない事だと思いますね」

 

 端から見れば能天気としか思えない会話だったが、ミレイユもそれを咎める訳でもない。

 本人も早々にいつもの椅子を作り出して、座ってしまっている。彼女が参加する事はないし、周りも参加させるつもりがないので言っても仕方ないが、アキラだけが緊張している状況というのは居心地が悪かった。

 

 魔物は既にこちらの侵入に気づいていて、威嚇するように声を上げている。

 ユミルはそれにやはり関心を示さずルチアと会話を続けているし、アヴェリンは相手にしても良いかどうかミレイユに目配せしている。

 そこにミレイユからの指示が飛んだ。

 

「基本はアキラに任せよう」

「僕に!?」

 

 トロールの攻撃は何度も見ている。結界内にある物が幾つも壊されてきたのはこの目で見てきた。中にはコンクリートの壁や自動車も含まれていて、それが一撃で破壊される様は目に焼き付いている。

 絶対に自分では敵わない相手だと認識していたのに、それを任せると言われて動揺しない筈もなかった。

 

 それにミレイユは頓着せず、まずアヴェリンに向かって言った。

 

「アキラの慣らしだ。トロール二体は引き付けて、合流させないようにしろ。まずゴブリンをやる」

「了解しました、お任せを」

 

 既に突進を始めていたトロールを、警戒な動きで近付いて、左手に持った盾で殴りつけた。現実的には有り得ない、ゴムボールのような弾かれ方をしてトロールが逆方向に飛んでいく。

 怯んだトロールにも同様に叩きつけ、ゴブリンと離れた位置で戦闘を開始した。

 とはいえ、トロールはすっかり萎縮してしまってアヴェリンと距離を取るばかりで近付いてはいかない。あの一撃でどちらが格上か理解したらしい。

 

 残されたゴブリンは、アヴェリンとトロールの動きを見て、動きを止めてしまっていた。

 動いたものかどうか、お互いに顔を見合わせ困惑している。ひどく人間臭い動きに見えた。

 

 アキラもまたどうしたものか身動ぎしていると、そこにユミルが振り返って手で示す。

 早く行けという指示だと分かったが、とりあえずミレイユに顔を向けた。

 

「うん、アキラはゴブリンをやれ」

「やっぱり、その……弱い相手って認識でいいんですか?」

 

 見るのは初めてではないが、警戒が必要な相手だと聞いた事がある。その詳しい内容までは聞いていないので、そう尋ねてみたのだが、返ってきたのは無言の肯定だけだった。

 ミレイユはユミルを指さして、次いでアキラとゴブリンを指す。

 それでユミルが嫌悪するように顔を歪め、それから観念したように溜め息を吐いた。

 

 ユミルがアキラに着いてくるよう手を動かして歩き出す。

 アキラはそれに慌てて追い掛け、刀を抜いた。

 それに気づいたゴブリンは、手に持った錆びて刃こぼれした短剣を振り回して威嚇してくる。

 

「ユミルさん、あれって単に弱い敵じゃないんですよね?」

「あれは強くないと思うわよ。トロールに食われてなかったから、何か持ってるとは思うけど」

「食料とかですか? 餌付けできる知能があるとか?」

「お馬鹿。……その程度の強さはあるって事よ。トロールは雑食性、何だって食べるのよ。ゴブリンだって食べるけど、自分と同じかそれ以上に強いと分かれば諦める」

 

 アキラは伺うようにゴブリン二体を見つめる。

 

「じゃあ、あれには少なくともトロールを追い返すだけの力があるってことですか?」

「そうなるわね。でも見たところ、あれはそれほど強い個体ではない。となると、単純に腕力で勝ったとは思えないから、何か隠し玉を持っている筈……」

「それって……?」

「さぁて、ね。魔術を使うタイプに見えないけど……んー、あの武器かしらね」

 

 ユミルが指摘した武器を見ても、粗末な短剣としか目に映らない。あれが脅威になるとも、トロールを追い返す武器になるとも思えないが、ユミルが言うことなら、一応警戒しておくことにした。

 

「ま、最初は様子見に徹するのがいいわね。魔術じゃないなら道具を利用するタイプだろうから」

「分かりました!」

 

 アキラは頷いて一歩を踏み出す。

 ゴブリンも更に警戒を増して武器を振り回して威嚇してくる。威嚇と言うよりは見せびらかすような動きだったが、アキラは警戒を怠る事なく、円を描くように動いて距離を詰めた。

 

 アキラが動けば敵も動く。

 迂闊に近付いては来ない。武器を振るって威嚇を続け、近づくなと警告しているようにも見える。背後ではアヴェリンが盾を振るう音、そして何かが当たる大きな衝撃が耳に届く。

 あちらはあちらで派手にやって、ミレイユのした指示を守っているらしい。

 

 ゴブリンはそれを見て勝ち目がないと思ったのか、とにかく数を減らそうとしたのか、突撃を繰り出してきた。

 動きは早いものではない。身長は百五十センチ程、歩幅も狭く、走り方も酷いものだ。距離を詰めさせない事も出来そうだったが、アキラは振るってくる短剣を脅威と認識した。

 刀で弾いて遠くに飛ばそうと思い、無造作に振るわれた短剣を下から掬い上げるように斬り上げ、その刃と刃が接触した瞬間――。

 

 アキラの方が吹き飛ばされた。

 

「――ンなっ!?」

「ぎゃっぎゃっぎゃ!!」

 

 喜び、蔑むような声が煩わしい。

 吹き飛ばされた先で転がり、受け身を取って即座に立ち上がる。アヴェリンの教えだ、武器も手放してはいない。

 

 しかし凄まじい衝撃だった。

 とても、子供のような細腕で繰り出された一撃とは思えない。魔力次第――内向魔術次第じゃ、筋肉量など簡単に覆すから一概には言えないが、ユミルが言っていた道具を使うタイプという言葉が気になる。

 

 ゴブリンが接近してくるが、今度は迂闊に接触する訳にはいかない。

 接近しようと試みる敵から、アキラは一定の距離を保って逃げる。攻撃手段が刀しかないアキラには、いつか近づくしかないのだが、様子見しろと言われた助言を守るつもりでいた。

 

 観察していれば見えてくるものもある筈、と思っての事だったが、敵は賢く、アキラを挟み込むような形を取ってきた。

 一方から逃げれば一方に近づく。

 横へ逃げても、それに追従するように形を崩さない。

 

「様子見に徹するにはリスクが多すぎるか……」

 

 そう判断したアキラは、思い切って前方のゴブリンに斬りかかった。

 足を踏み出す一瞬、地を蹴って前方に身体を押し出す瞬間、アキラの視界が急速に狭まった。

 周りが見えなくなったというより、前しか見えないという表現が合っているような気がした。聴覚も消え、目の前のゴブリンまでの距離が一瞬で縮まる。

 

 それを自分がやったのだと認識したのは、二歩目でゴブリンの横を通り過ぎた後の事だった。

 あまりの速さに自分自身が驚いている。その動きに対応できた事も、一歩目で転んでいない事にも驚いた。それに対応できるだけの対応が出来ていたという事でもある。

 

 一瞬で通り過ぎただけの敵に、ゴブリンは意外に思いながら馬鹿にもしているようだった。戦いのイロハを知らないという意味では馬鹿にされても仕方なかったが、あの醜悪な顔で馬鹿にされるのも気に障る。

 

 またゴブリンに挟まれるのは避けたかった。

 あれは予想以上に神経を削られる行為だし、前後を同時に警戒する事は出来ない。

 あの速度がもう一度出せれば、目の前のゴブリンをもう一体と合流される前に倒せる筈だ。

 

 アキラは改めて刀を強く握り、正眼に構え、そして力を込めて地を蹴った。

 またあの時のように視界が前方だけに固定され、周りが見えなくなる。迫るゴブリンの顔がゆっくりと驚愕に染まるのが見え、そして腕を横へ振り抜けば、あっさりとその首が宙に舞った。

 

 その首が地に落ちるのと、もう一体のゴブリンが絶叫するのは同時だった。

 隙を作った相手に容赦する余裕はない。

 同じように地を蹴り二歩、それだけで間合いを詰め、同じように腕を振り抜く。

 それで決着がついた。たった、それだけの事だった。

 

 同様に首が地に落ち、首から血が吹き出す。

 血に濡れないように離れながら、刀を一振りして血を落とす。それだけで綺麗に落ちる物でもないが、気分の問題だった。

 

 見てみれば、ユミルが死んだゴブリンの死体から武器を指先で摘み上げている。

 汚いものに触れるようなやり方だが、実際そのとおり、武器は血の海に浮かんでいた。

 それをしげしげと眺めた後、後ろ手に投げて捨てる。彼女にとっては、それほど価値も興味も唆られぬ代物らしい。

 

「……それ、何だったんですか?」

「魔術秘具ね。衝撃の魔術が付与されていたみたい。元は非力な魔術士が護身用で用意したもの、かもしれないわね」

「間合いを離す為……ですかね?」

「多分ね。不意打ちなら、あるいは……ってトコロでしょうけど。もしかしたら、さっきのアンタみたいに、受け止めて弾こうと思う奴もいるかもしれないし?」

 

 痛い所をつかれて、アキラは顔を歪めた。

 しかし、あれは決して悪手という訳でもなかった筈だ。まさか組み敷いて武器を奪うなんてする訳がないし、そんな事する暇があったら喉を貫く。

 武器を警戒しすぎるあまり、それを弾こうとしたのは確かだ。あるいは、そういう弾けるだけの技量を持つ戦士こそ、ああいう武器のカモになるのかもしれなかった。

 

「寝込みを襲われて奪われたか、あるいは間抜けにも盗まれたのか……。あの程度のゴブリンが持ってたなら、大方そんなトコでしょ」

「随分錆びてましたけど、それでも機能するものなんですか」

「それについては、よほど熟達した術士に頼んで付与してもらったんじゃないかしら。よく保った方だけど、あと一回でも使っていたら壊れて灰になっていたと思うわ」

「そうなんですね。でもまぁ、丁寧に扱うような奴らにも見えませんでしたしね……」

 

 では、その一回を凌ぐ事が出来れば、もう少し楽に倒す事も出来たわけか。今更考えても仕方ないし、そういう相手をする機会もあまりなさそうだが、どちらにしても観察して分かる事でもない気がした。

 

「ま、それはともかく、お次はトロールよ。早く行きなさいな」

「え……もう、今すぐ、ですか?」

「別に疲れてないでしょ? 疲れていても行かせるけど」

 

 確かに疲れてはいない。

 武器を振るったのは二度、攻撃だって受けていない。万全に近い状態だが、しかし気持ちはどこか浮ついて落ち着きがない。このようなフワフワした気持ちで、あの強敵に立ち向かえるかどうか……。

 

「ま、敵を倒して浮つく気持ちも分かるけど、そうも言ってられないでしょ。力の使い方にも慣れ始めた今、とにかく使って動かすことを覚えなさい」

「……はい」

 

 そう、これはアキラの実地訓練でもあるのだ。

 普段アヴェリンに転がされている成果を、この場で発揮して自分はやれるんだと証明する場でもある。そしていずれ、他人を守れると胸を張って言えるようになる為の場所でもあるのだ。

 

 アキラは何度か息を吐いて気を落ち着かせようと、うるさく鳴る鼓動を鎮めるよう呼吸する。一向に鎮まる気配がないので、仕方なく意を決して足を踏み出した。

 

 前方にはアヴェリンとトロール二体。

 あれ相手にどこまでやれるものか――。

 アキラは改めて刀を握り直し、力を込めて地を蹴った。

 



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実践 その3

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 アキラが相手に選んだのは、手前の方にいる一体、アヴェリン相手に及び腰になっているトロールだった。相手にならず手出しが出来ていないというのならどちらも同じだったが、明らかに戦意を喪失しているように見えた相手を狙った。

 

 力をどれだけ込めれば、どれだけ前に進むのか、その感触に少しずつ慣れてきている。魔力を得る前と後での落差がひどく、まだ完全とも言えないが、その取っ掛かりは掴めた。

 アキラは敵の二歩手前で跳躍して、その頭を狙って刀を振り下ろす。

 しかし敵も、アキラの存在にはすぐに気づいた。

 腕を持ち上げて防御し、肌に食い込むと同時に腕を振り抜く。

 

 刀は腕を深く斬り裂いたが、骨に達した辺りで止まり、そして腕を振った遠心力で振り飛ばされた。単なる力任せで振り抜かれたので、受け身を取って地面を転がり、勢いを利用して立ち上がる。

 

 突然の乱入者に驚くような素振りは見せたものの、ゴブリンの死体を見るなり鼻を鳴らし、トロールはこちらに向き直った。

 もう一体もアキラに向かおうとしたが、それはアヴェリンが殴りつけて阻止してくれている。動くに動けない一体と、腕を斬り裂かれた一体が別れ、アキラは一方だけ相手にすれば良くなった。

 アキラはアヴェリンに感謝の眼差しを送ったが、残念ながらそれは無視された。

 

 残念な気持ちになったものの、アキラはまず目の前の相手に集中した。

 トロールは斬られた腕を掲げて力を込める。盛り上がった筋肉が、斬り裂かれた肉同士をくっつけ、それだけで傷が塞がってしまう。

 腕から力を抜いて、膨張した筋肉が元に戻った後には、もう傷跡は掠れた後を残して消えていた。

 

 アキラは顔を歪めて、苦い顔を抑える事ができなかった。

 ゲームや漫画にもトロールという存在はよく見かける。治癒能力を持つのが特徴で、大概炎や熱に弱かったりする。

 

 目の前の魔物も、それに違わぬ能力を持っているという事か。

 アキラに炎を操る力なんてないし、着火出来る道具すら持っていない。刀が骨で止まってしまう事を考えれば、両断するのも簡単ではないだろう。

 いや、と思う。

 骨を断てなかったのは刀のせいではない、アキラの技術不足に寄るものだ。角度が浅く骨に対して垂直ではなかった。もしこれが正しい角度と共に振るわれた一閃だったなら、きっと切断できていた。

 

 それに――。

 トロールの身体は大きく、分厚い。

 身長も二メートルを優に超え、三メートルにも迫ろうという大きさだ。その巨体に分厚い筋肉を載せているのだ。仮に防御力が皆無でも、単純に刀の長さが両断できる面積に達しない。

 そして両断できないなら、ものの数秒で再生させてしまうだろう。

 

「ゴォォォオオオオオ!!!」

 

 アキラを見据え、頭を突き出してトロールが吠えた。

 トロールは一足飛びに近づき、その巨大な拳を上から振り下ろしてくる。武道の心得などない力任せの一撃だったが、トロールにはそれで十分なのだろう。

 

 正眼の構えのまま後ろに飛び退いて、更にもう一歩後ろへ逃げる。

 大袈裟とも思うほど距離を取ったが、その判断は間違いではなかった。

 

 巨大な炸裂音と破壊音が辺りに響く。

 叩きつけた拳が地面を巻き上げ、土や砂を撒き散らす。よほど離れたつもりだったが、その衝撃と砂と石がアキラの肌にぶつかった。

 血が出るような痛みではなかったが、もしもう一歩近い距離にいたら、そうも言っていられなかったかもしれない。

 

 更に一歩遠退こうとしたところで、トロールが砂埃の中から飛び出してきた。

 先程よりも更に早い。

 相手も様子見をしていたのだと、この時アキラは初めて理解した。

 

 振り上げ、振り下ろしてくる拳の動きに対応できない。

 アキラは無駄な足掻きだと分かっていても、後ろに一歩でも遠退こうと地を蹴り、そして両腕を組み合わせるようにして防御する。

 

 その直後、トロールの拳がアキラの両腕に突き刺さった。

 凄まじい衝撃と重さを同時に味わい、もしトラックに轢かれたらこういう感じなのだろうか、と思いながら宙を滑った。

 

 殆ど真横に吹き飛んで、後ろで観戦していた筈のユミルの横を通り過ぎ、地面に落ちて何度も跳ねてからようやく止まる。

 不思議な事に意識はハッキリしていいた。腕は痛くて持ち上がる気はしないが、しかしそれでも生きている。

 

「……ハッ!」

 

 何故だか可笑しくて笑えてしまった。

 今は地面にうつ伏せで、口の中に土が入り、血と混じって酷い臭いを発している。だが、死んでいない。生きているなら、そして動けるならば動かねばならない。

 

 アヴェリンの教えだった。

 立ち上がれないと思った時が死ぬ時だと。死にたくなければ立ち上がれ、と何度となく痛みと共に転がされてきた。意識が明瞭なのは、もしかするとそのお陰かもしれなかった。

 その慣れが、アキラに一握りの生存する機会を与えてくれた。

 

 うつ伏せ、頬も土に触れている状態で、目だけ動かせば、既にトロールは腕を振り上げ突進を仕掛けようとしている。

 痛みが収まるまで待つなんて、敵は許してくれそうもなかった。

 

 腕が動かないなら、その頬を地面に押し当て、それから額を支点に腰を持ち上げ、そして身体を腹筋と背筋だけで持ち上げる。

 立って何が出来るかは分からない。どうせ殴られ、今度こそ身体を粉微塵に砕かれるかもしれない。

 しかし、ただ寝たまま諦める事だけはしたくなかった。

 

「ぐっ、――ォォオオオオ!!!」

 

 都合よく助けが来るなど期待していない。

 師匠たちなら、それを難なく熟す事も出来るのだろうが、ここに踏み入った時点で、自分の命は自分で守るのだと理解している。

 自分の危機があれば誰かが助けてくれるだろう、などと甘い考えは持ってなかった。

 

 立ち上がって、今にも目前に迫ったトロールを睨み付ける。

 手に刀は持ったままだったが、握力が足りず、持つというより引っ掛けているというような状態だった。

 躱せるか、躱せたとしてこの距離、その拳が地面に突き刺されば、直下で起こった衝撃に吹き飛ばされるだけだろう。そして、今度こそ立ち上がる前に止めを刺される。

 

「――だっ、たら……!」

 

 アキラに出来ることは一矢報いる事しかなかった。

 ここで死ぬのは受け入れ難い。だが退けば死ぬぞというのなら、前に進むしか道はなかった。

 

 アキラは刀を構え――辛うじて構え、迫るトロールに相対する。

 迫る巨体、振り抜かれる腕、眼前を覆う巨拳。

 それを前に足を一歩、全力で踏み抜いて、歯を食いしばり、口の両端から血とも涎とも思える液体を垂れ流し、呼気と共に刀を振り抜いた。

 

 外に向け、横に倒した斬撃だった。

 それを一歩踏み出す力で、拳が顔の横を過ぎるのを感じながら、それでも拳めがけて振り抜いた。

 風圧で耳が千切れるような感触を味わいながら、刀を押し返す圧力、筋肉を切り裂く感触を味わう。振り抜いた先で上手く着地出来ず転び、二転しながらそれでも立ち上がった。

 

 腕は痛く、持ち上がらない。

 しかし刀を手放す事だけはしなかった。

 両手で柄を握り、肩で息をして、そして敵を睨みつける。

 

 トロールは斬りつけられた部分を怪訝な目をして見るだけだ。すぐにも傷が塞がって、また腕を持ち上げ構えるような動きを見せた。

 どうやらアキラを、ここでようやく敵として認識したらしい。

 

 アキラの持つ武器も、脅威ある存在と思ったのかもしれない。

 これからは大振りな攻撃だけでなく、もう少し緩急混ぜた力押しだけではない攻撃を繰り出して来るのかもしれない。

 

「……ハッ!」

 

 アキラは思わず笑ってしまった。

 敵は全く本気ではなかった。虫を潰すくらいのつもりで手を叩いたら、思わぬ反撃を食らったという気持ちだろう。

 だが、少なくとも敵に脅威だと思わせる事だけは出来た。

 昨日までのアキラなら、まさしく虫と同様潰されて終わりだっただろう。それを思えば大した進歩だ。

 

 アキラは柄を握る拳に力を入れ、歯を食いしばり、必死の思いで刀を構える。

 肩も腕も痛くて、それ以上の事は出来そうもなかった。

 だが、これでも十分威嚇になっている。

 

「……グルゥゥゥ!」

 

 トロールは今度は迂闊に攻撃して来ようとしなかった。

 アキラを見据えながら、前ではなく横へ、円を描くように動いていく。

 敵もまた警戒しているのだ。単に殴りつけるだけでは、また同じような事になるかもしれないと警戒している。

 

 アキラが切っ先を動かせば、それに応じて動きがある。

 ――やはり警戒している。

 

 しかし睨み合うだけでは意味がない。

 いずれ焦れて攻撃してくるだろうし、そしてその時こそアキラの終わりだ。それにこれが単なる威嚇行動だと敵に知られれば、即座に攻撃に移るだろう。

 

 更に横へ円を移動するように動くと、トロールの視界に別のものが映ったようだった。

 そこへ凝視すると、威嚇するように吠える。

 何に対してかと思ったら、その視線の先には豪奢な椅子に足を組んで座り、肘掛けに頬杖をつくミレイユがいた。その後ろ、背もたれの影になるような位置にルチアの姿も見える。

 

 しかし威嚇されても、ミレイユはその余裕を崩さない。

 視線すら合わせていなかった。つまらなそうにアヴェリンとトロールを見ては、時おり上空に視線を移しているだけだ。

 

 反応を示さぬ相手に、そちらの方が相手しやすいと思ったのか、突如向きを変えた。

 唸り声を上げて突進するトロールに、アキラは何の動きも出来なかった。庇うように動けば良かったのだと思うし、そうでなくとも自分が縛り付けておくべき相手だった。

 

 微かな苛立ちと後悔を感じながら、ミレイユに突進するトロールの背を目で追う。

 それでも尚、ミレイユは反応を示さない。目だけは向けたが、それに対応するつもりはないようだった。何かバリアーのようなものを張っているのだろう、と思ったら、その横合いからユミルがトロールを殴りつけた。

 

「ゴギャァア!!」

「はいはい、駄目よ。アンタの相手は、あっちなの」

 

 いつの間に移動していたのか、アキラの目には全く映っていなかった。

 しかし、その頬を垂直に飛んで蹴り飛ばし、強制的にアキラの方へ顔を向かせる。出来の悪い男を叱りつけるようにトロールの尻を蹴りつけ、ミレイユから遠ざけるように押し退けた。

 

 トロールは振り向き、突如乱入したユミルにも威嚇するように吠えたが、直線的に飛んできた雷に顔を打たれ、情けない泣き声を上げた。

 見てみれば、ユミルの掌が青白い光に包まれている。恐らくそこから魔術を放出したのだろう。更に何かをしようとしたトロールに、ユミルから二撃目、三撃目と雷が放たれた。

 

 トロールは悲鳴を上げて顔を逸し、身体を背けてアキラの方へ向き直った。それで雷の連撃が収まると、怯えたような顔を一瞬ユミルに向けて、すぐに顔を正面に戻す。

 

 アキラは自分の予想が当たっていた事に密かな充足感を覚えると共に、トロールの方を哀れに思った。御し易そうな相手がいたから、そちらに目標を切り替えたのだろうが、まさか横からあのような魔術士が出てくるとは思うまい。

 

 しかも、明らかにトロールよりも格上だった。

 つもりがあれば、あれだけで倒してしまう事もできただろうに、あくまでアキラに相手させようと痛みを覚えるようなレベルに抑えた魔術を使ったのも恐怖を覚えるところだろう。

 

 ミレイユも何の反応も示さない筈だ。

 彼女にはユミルの動きが見えていたに違いない。そして、何の問題もなく対処すると理解して――あるいは信頼して任せた。

 

 あれを見ていると、ちょっとでいいから助けて欲しい、という気持ちが湧いてくるが、それをグッと飲み込んだ。

 トロールがアキラを相手する気になったらしい。

 そうするしかない、とも言えるが、ともかく敵は、再びアキラを相手取る事に決めたようだ。

 

 アキラもまた、呼吸を整えて武器を構える。

 少しの間とはいえ、休むこともできた。この時間がアキラにとって有利に働いた事は言うまでもない。

 

 両腕を広げ、首を突き出すように吠えるトロールへ、アキラは腹に力を込めると共に柄を握った。

 



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実践 その4

 アキラが柄を握った時に思ったのは、驚く程に痛みが引いているという事だった。

 身体中がバラバラになってしまうかと思ってしまう程には、アキラのいたる所が悲鳴を上げていた。腕はこれ以上上がると思わなかったし、一振りする余力すら残っていなかった。

 

 しかし今は、少なくとも先程、トロールの腕を横に斬り裂いたあの一撃をもう一度振るえると思えるくらいには回復している。

 これは一体どうしたんだ、と思った直後、内向魔術の可能性に思い至った。

 

 内向魔術は人体の持つ力を最大限に引き出し、そして増強する力を持つという。

 アキラがトロールの一撃を両腕で受けて、それでも骨折する事がなかったのはそういう理由があったからだ。まさか骨がコンクリートより硬くなっているとは想像してなかったが、事実を見るとそうなる。

 

 いま再び行動できるようになったのも、その内向魔術が働いて自己治癒能力が活性化されているせいではないか、アキラはそう考えた。

 ならば、時間稼ぎは間違いなく有効だ。

 

 武器を握る事ができなければ、威嚇すら出来なくなる、とアヴェリンは言った。

 威嚇が出来てどうなる、自分が刀を持っても威嚇にしかならないのか、と嘆いたものだが、今はその威嚇こそが命綱になっている。

 教わった事が一切無駄になっていない事に気づき、アキラは改めてアヴェリンに頭が下がる思いがした。

 

 だが、その恩義も感謝も生き残らなければ意味がない。

 先程のユミルの動きを見る限り、助けるつもりがあれば助けられるだけの力がある事は分かった。しかし視界の端に映る彼女を見る限り、手助けするつもりはないようだ。

 あの顔は、ここで死ぬならそれでもいいと思っている表情に違いない。

 

 トロールが動こうとする度、刀の切っ先を向け、あるいは軽く持ち上げ、敵の警戒を刺激する。

 腕の痛みも大分引き、身体中に罅が入っているかのように感じられた痛みも、今は殆ど感じられない。

 アキラは心の奥底でいける、と思った。万全には程遠いものの、しかし一撃を振るうには問題ない。

 

 だが、とも思う。

 一撃を振るえたからと言って、それが何になるだろう。決死の思いで敵の腕を掻い潜り、腕を裂いても同じ事。仮に腹を斬っても、やはり同じだろう。

 切断面が綺麗である事が、逆に不利になっている。

 

 あるいは削ぐような武器であれば、また違っていたのかもしれないが、それは嘆いても仕方がない。一撃、ないし二撃で倒せるように工夫しなくてはならない。

 

 アキラはここで初めて一歩前に出た。

 切っ先だけの威嚇ではなく、その身体も前に、時に武器も下げて、相手の攻撃を誘う。

 そういったフェイントは知能が低そうな敵には通じそうもないが、それが挑発のようなものと受け取ってもらえたら、それで良かった。

 

 少しでも力を温存し、少しでも大きな一撃を加えたいと思ったら、自分から突っ込むのではなく、突っ込んでもらってそのカウンターを狙う方が可能性はあるという判断だった。

 

 敵の身長は高い。

 一撃で倒す事を考えたら、その首を狙う以外にないと思った。しかしその身長差が、筋力差が、そう簡単にアキラの武器を届かせてはくれない。

 ――ならば。

 

「ホゴォォォォ!!」

 

 威嚇なのか気合なのか、アキラにそれは分からないが、とにかく咆哮と共にトロールが突っ込んでくる。腕を振り上げるのは変わらない。しかしもう片方の腕がしっかりと脇を閉じ、腕を畳んで構えている。

 先に大きな一撃をして、次に畳んだ腕でトドメを刺すつもりか、あるいは逆に畳んで腕を牽制に、大きな一撃で仕留めるつもりか。

 

 トロールからも、ここで決着を着けるという意思を感じた。

 敵の突進は勢いを増し、一歩踏み出す毎に速度が増していく。アキラはそれを一歩前に出る事で位置を調整した。

 振り上げる拳はフェイクなのか、それとも――。

 

「ゴォ!!」

 

 アキラに最も接近した瞬間、振り抜かれたのは畳んだ腕の方だった。振り上げた拳を更に引き、その弓なりに動く反動で畳んだ腕を突き出して来る。

 ――その可能性は予測していた。

 

 アキラは身を低く屈めて、全力で一歩を踏み出す。

 振り抜かれた巨拳は肩を掠めただけだというのに、それだけで全身が砕けるような衝撃が走った。しかしアキラも、それで足を止める事も、刀を落とすような無様な真似はしない。

 

 通り過ぎざま、その膝を狙って一閃、刀を振り抜く。

 相手の速度と自分の力を合わせた一振りは、膝を二つに割る事に成功した。

 足に力が入らず、またバランスも崩して前のめりに地面へ突っ伏す。

 

「これが狙いだった!」

 

 踏み込んだ一歩目をそのまま無理に急制動をかけ、そして真後ろへ跳ねるように振り返る。頭から地面に転んだトロールだったが、即座に起きようとしている。

 あの程度ではダメージにもならないらしい。

 ――しかし、膝はすぐとはいかない筈。

 

 起き上がろうにも膝がいうことを利かず、未だ両手を地面について頭を下げているその頚に、アキラは跳躍から全力で刀を振り下ろした。

 刃はあまりにも呆気なく頚を貫き、骨を切る感触すらなく通り過ぎる。

 

 頚が落ちる音と、血が吹き出す音がアキラの耳に届くのは同時だった。

 急制動で痛めた足首を庇いながら、血に濡れないよう咄嗟に飛び退く。血を嫌うのは汚いからではない、踏んでしまうと滑って踏ん張りが利かなくなるのを避ける為だ。

 着ているものが血を含み、それが垂れて足元を濡らせばそれも危険と成り得ると、アヴェリンから教わっている。

 

「ハァッ、ハァッ、ハァッ……!」

 

 肩で息をしながら、流石に起き出す事はないだろうと、亡骸を見つめる。

 まさか、があるのが魔物なのだと教えられている。ここで起き上がって自分で頚をくっつけるようなら、アキラにも最早打つ手はなく、同じ手が通用しないなら、遅からず拳に潰される事になるだろう。

 

 しかして、トロールは起き上がる事なく、痙攣したまま次第に動かなくなり、そして姿が霞むように消えていった。

 完全に倒した事が分かると、アキラは思わずその場に尻から落ちて座り込んでしまった。

 刀を握ったまま大の字に寝転がって、目を閉じて荒い息をそのままに、呼吸を貪るように続ける。

 

「や、やった……!」

 

 ゆるゆると、勝利に対する感情が湧き上がってくる。

 昨日まで、決して勝てない、目の前に立つ事すら許されない相手に、勝利をもぎ取る事ができたのだ。一つ間違えれば死んでいた、薄氷の上の勝利だったが、それでもアキラは勝ったのだ。

 

「勝った……! 勝てたんだ……ッ!!」

 

 柄を握る力も更に強くなる。

 何度も死ぬと思った。敵の巨大な拳が顔の横を通る度、腹の底から背筋まで氷で貫かれたのかと錯覚するような怖気が走った。

 しかし、それでも、アキラはやり切った。成し遂げたと言って良い。

 ミレイユたちからすれば小さな勝利でも、アキラは胸を張って勝利したと言える。

 涙まで流れてきた目尻を拭い、起き上がろうとしたところで、上から覗き込む誰かがいる事に気がついた。

 

「良かったわね」

 

 笑顔で労うユミルだった。

 手を差し出されて、礼を言いながら手を取り立ち上がる。まだ足首は痛いが、それも既に良くなりつつある。片足を庇うように動いて、改めてユミルに向き直った。

 

「ありがとうございます、ユミルさん。倒しました……、僕、あいつを倒したんです!」

「そうね、おめでとう」

 

 ユミルは笑みを深くして、更に続ける。

 

「それじゃ、もう一体いるから、それも倒していらっしゃい」

「……は?」

 

 アキラは思わず瞠目し、口は半開きで呆けてしまった。

 一瞬、何を言われているのか分からなかった。いや、違う。今もまだ理解が追いついていない。

 

「え? 何て言ったんです? もう一体?」

「そう、まだもう一体いるの、知ってるでしょ? アヴェリンが引き付けていてくれたんだから、もう一体も倒してきなさいな」

「え、何言ってるの? ……え、これって夢かな?」

 

 唐突に現実を直視できなくなって、視線を斜め上にずらせば、容赦ない平手がアキラの頬を打った。

 

「いっだ!!」

「夢じゃないみたいね。これでもう一体、相手にできるわよ」

「いや、無理です、無理ですよ! どんだけ死ぬ目にあったと思うんですか!」

「良かったじゃない、もう一度死ぬ目に遭えるわね」

「嫌です! 無理です! 無理、もう無理! 絶対無理です!」

 

 心の奥底からの叫びと、顔面を濡らす涙が、ユミルの要求を全力で拒否していた。既に性も根も尽き果てている。体力だってもうない。

 同じ事をしろと言われても、また勝ちを拾えるか分からないのに、それでも行こうと思える筈がなかった。

 

 そのアキラの必死過ぎる顔に思うところも出てきたのか、考えるような素振りをする。

 それからミレイユの方を見て、指を差したり頷いたりと、身振り手振りで会話を始める。幾度かのやりとりでその会話が終わると、アキラの肩に手を置いた。

 優しげな表情を見せるユミルに、期待を寄せてその目を覗き込み――。

 

「いいから行け馬鹿野郎、だそうよ」

「いやぁァァァァァ!!!」

 

 乙女のような悲鳴を上げて、アキラは背中から倒れた。

 梃子でも動かないつもりでいたのに、ユミルはアキラの背中に爪先を差し込み、器用に蹴り上げて起き上がらせてしまった。

 膝から崩れ落ちようとすると、その腹を殴りつけて胸ぐらを掴んで強制的に起こしてくる。

 優しい笑顔を貼り付けたまま、顔を近づけて囁くように恫喝してきた。

 

「お前の意見なんて聞いてないのよ。行けと言われたら行くの。死ねと言われれば、笑顔で死になさい」

「酷い……酷すぎる! 人権の尊重って知らないんですか!」

「知らないわよ、そんなもん。喋る元気があるなら、剣振る元気もあるわよね」

 

 無茶苦茶な横暴を言うだけ言って、そのまま胸を突き飛ばされた。残るもう一体の方へ押し出されるような形だが、恨みがましい目を背中越しで向けても、笑顔で手を振り返すばかり。

 

 仕方なくトボトボとアヴェリンの傍まで近づくと、そこでは完全な膠着状態――というより、抵抗が無意味と理解して座り込んだトロールがいた。

 



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実践 その5

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「師匠……」

「ようやく来たか。……何だ、その顔は」

 

 アキラの泣き腫らし、平手で頬を腫れさせた顔を見て、アヴェリンは怪訝な表情を見せた。だが、すぐに気を取り直してトロールに向かって顎をしゃくった。

 

「早く相手をしろ。トロールも戦ってみると、案外大したことなかっただろう?」

「いやいや、全然! 滅茶苦茶苦戦しましたし、何度も死ぬと思いましたよ!」

「そうなのか……? だが五体満足でいるじゃないか」

「いや、単に運が良かっただけで、一つ間違えれば死んでいました! なのにまだ戦えっていうんですよ!」

 

 アキラの必死の抗議も、アヴェリンには全く響かないようだった。

 返答は、鼻を鳴らしただけで終わりだった。

 予想できた事ではある。アヴェリンがアキラに優しかった事は一度もない。しかしそれは愛のある訓練だったが故だと、今では理解している。

 今日一日だけを見ても、アヴェリンが与えてくれた戦訓はアキラを何度も助けてくれた。

 ――しかし、とはいえ。

 

 何一つ心動かされていない様子を見るのは、心に痛かった。

 今にも泣き出しそうな目で見ても、何の反応も示してくれない。何一つアドバイスもなかった。

 アキラが刀を握って構えるのを見るや、アヴェリンは背を向けて離れていってしまう。

 

 目の前にいるトロールも困惑して、どうしていいか分からないでいるようだ。

 その気持ち、今のアキラにもよく分かる。

 どうして今更戦わなくてはならないんだ、とその目が言っていた。いっそこのトロールと同盟を組んで反旗を翻してやろうか、と思ったが、どうせ一撃で倒されて昏倒させられる未来しか見えず諦めた。

 

 アキラの体調だって万全ではないが、トロールも散々打ちのめされて万全ではない筈だ。

 刀の切っ先を数度上げ下げしてやると、相手もこちらの意図を汲み取ったらしい。やる気のない仕草でのそのそと立ち上がり、形ばかりの咆哮をして威嚇してくる。

 

「ゴォ……」

 

 どうせ何も出来ない、と理解しているのかもしれないが、アキラとアヴェリンでは比較にならない戦力差があるとまでは理解していないらしい。

 拳を力なく振り上げるのを見て、アキラも形ばかりに構えを直す。

 

 その緩みきった空気を斬り裂いたのは、一瞬で接近したトロールの一撃だった。

 明らかに油断していたアキラは、その一撃を躱そうと身を捻り、そのまま回転する動きのままトロールの足首を斬りつける。

 

 悲鳴を上げて倒れるトロールを見ながら、アキラは荒い息を吐いていた。

 まるっきり油断していた。お互いにやる気がないのだと思っていた。しかし違うのだ。恐らく、このトロールはアキラの一戦を見ていた。

 そして油断させれば倒せると踏んでいたのだろう。

 だから、あれほど緩慢な動きを見せながら、あと一歩のところまでアキラに迫って見せた。

 

 トロールが単純で馬鹿な魔物ではないと、先程の戦いで理解していた筈なのに、アキラはそれを単にやる気を見せないからと油断していた。

 そして、その油断で今まさに死ぬところでもあったのだ。

 

 躱せたのは偶然だ。ほんのささいな女神の気まぐれ、それでしかない。

 未だ激しい動悸が、それを物語っている。

 

 咄嗟とはいえ、その反撃に足首を狙えたのも幸運だった。

 膝をついたトロールに接近すると、後ろを振り返りながら拳を振るってくる。それに身を低くして回避すると、更に一歩踏み込んで接近し、もう片方の払うような動きで振るわれた腕も躱す。

 

 ここでアキラは自分が驚くほど冷静に、的確に敵の動きを躱して接近できている事実に驚いた。

 敵が得意な距離でないせいか、それとも良く目で見ているせいか、とにかく攻撃を躱す事が難しくない。

 未だ片膝をついているが、トロールの治癒能力があれば、既に治っていても不思議ではなかった。むしろまた意表をつこうと、治っていないフリをしているのかもしれない。

 

 アキラが更に近づき、その屈んだ膝に近付いた時、やはりトロールは立ち上がろうとした。

 しかしその動きが、アキラにはひどく緩慢に見えた。治ったとはいえ万全ではないのかもしれない。

 アキラはその膝頭に爪先を乗せ、そのまま駆け上がるように膝から太腿へ移ると、胸板を蹴って飛び上がり、その勢いのまま頚を切った。

 

「……え?」

 

 何の造作もなく、あまりにも呆気なく、二体目のトロールを仕留めてしまった。

 崩れ落ちる巨体と、ごとりと音を立てて落ちる首。そして吹き出す血流の音を聞きながら、呆然として死体を見つめる。

 痙攣が止まると共に消えていく死体を、それでも動くことなく見つめながら、自分が何をやったのか理解できず硬直していた。

 

 全ての魔物を倒したことで、結界が割れ、外の世界へ放り出される。いつか誰かが言っていた。後片付けをしなくて楽が出来ると。そればかりではなく、周囲を気にせず戦えるのも大きな利点だと思った。結界内で起きた破壊は解除されれば全てなかった事になる。この全てが元に戻る光景を見るのは何度目かになるが、もし知らなければ大きなハンデになっていたのは間違いない。

 

 気づけば、アキラの近くにはユミルとアヴェリンが立っていた。

 とりあえず刀だけは鞘に収め、呆然としたまま二人へ顔を向けると、得心したかのような顔でアヴェリンが頷きを見せてきた。

 

「……ほら、どうだ。案外大したことなかったろう?」

「え、いや……。どうなったんです、これ」

「アンタが倒した、それだけのコト。出来るって、皆分かってたのよ」

「だから、あんな強気で行かせたんですか……?」

 

 アキラの呆然とする顔を見て、ユミルはからからと笑う。

 

「そりゃそうでしょ。じゃなきゃ行けとは言わないわよ」

「いや、あの言い方は絶対誤解しますよ……。でも、そうなんですか? 師匠も?」

「一目見れば、どの程度の力量を持つか分かるものだ。ひとつトロールを仕留めて、ようやく踏み出したな。敵の動きが緩慢に見えなかったか?」

「見えました。でも敵が本調子ではないのかと……」

 

 アヴェリンは真剣な目をして首を横に振る。

 

「確かに大人しくさせる為にアレを痛めつけたが、それはお前が来る三分以上前の事だ。それ以降は暴れることもなく、ただ傷を癒すことに集中していたようだな。三分もあれば、トロールは大抵の傷を全快させる。お前が相手したのは万全の状態のトロールだった」

「そんな……それじゃ……?」

「それが、お前の実力だ。戦う前、お前は扉の前に立っていたに過ぎない。魔術士としての、内向魔術を扱う、その扉の前に」

 

 アキラはとりあえず頷く。

 結界に入る前のことだ。腹に一撃を加えられ、悶絶すると共に魔術の発動を助けてもらった。今その事を思い出していた。

 

「いいか、立っただけだ。扉の鍵は開いていて、扉を開きもしたが、お前はその中に足を踏み入れていなかった」

「じゃあ……、あの時僕が感じていた力は……」

「それがどんなものか、私には分からないが。だが一つ言えるのは扉から漏れ出るものを、それと勘違いして使っていただけだ。内向魔術は口で言われて納得して使うものじゃない。お前も今とその前、その違いを上手く説明する事ができないだろう?」

 

 アキラは己の両手を広げて見つめた。

 特に変わった実感はない。アヴェリンが言うとおり、何が違って何が変わったのか説明できる気がしなかった。

 だが、違う。それだけは分かる。

 

 拳を握ってアヴェリン達とは違う方向へ拳を放つ。

 ろくに殴り方も知らない、素人の拳だった。素早くはあるがそれだけで、プロのボクサーなら鼻で笑うようなものだったろう。

 次に力を込めて――それが何かを説明できない力を込めて、同じように拳を放つと、空気を切る音と共に突き出した拳が現れる。

 素人の構えの、プロですら馬鹿にできない一撃だった。

 

 ゆるゆると、己の奥底から実感が湧いてくる。

 一度目のトロールを倒した時と、どちらが勝るかという程の強い感情だった。

 それをアヴェリンが嗜めるように肩を叩き、ミレイユがいる方を示す。

 

 ミレイユは既に椅子を仕舞い、腕を組んで片方の足に体重を乗せる格好で待っていた。早く帰ろうという意思を、その雰囲気から感じる。

 随分待たせてしまったのかもしれない。

 

 アキラは一度頭を下げてからアヴェリンを見返し、それでアヴェリンが歩き出すと、その背についていく。

 アキラは握った拳を見つめ、ついで鞘に収まった刀を見つめる。

 今にも溢れ出そうな感情を持て余しながら、喝采を叫びたい気持ちで空を見上げる。

 日は既に暮れ、夜空には星が瞬いている。

 

 今日も一つ、自分は何かを守れたのだという充足感が、その胸を満たしていた。

 



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幕間

 ――御由緒家。

 それは約九百年の歴史を今も連綿と受け継ぐ大家であり、そしてこの日本国の神として降臨するオミカゲ様の血を汲む子孫の名だった。

 オミカゲ様の子が更に五つの子を設け、それぞれに家を立たせたのが由来とされている。その際に直接家名を賜り、それぞれがオミカゲ様を助ける忠臣として生きてきた。

 

 その名に必ず『由』が入るのも、それが理由である。

 由緒ある故正しくあれという意味、己を由とせよという意味、二つの意味を重ねてその名に組み込んだと伝えられる。

 

 そして今、その御由緒家の一つ、阿由葉(あゆは)家の長女、結希乃(ゆきの)が密命を受けて動いていた。

 御由緒家は時に全ての権限を飛び越え、オミカゲ様の意思で動く。今回の命は大宮司様より賜ったものだが、そも大宮司という存在はオミカゲ様に最も近しい人物である、とされる。

 また、これは御由緒家のみが知る事実として、大宮司様はヒトではない。オミカゲ様との関係も単なる主従という仲を超越した間柄であるから、大宮司様の命で動く事に問題はなかった。

 

 しかし、そこに問題はなくとも疑問はある。

 御由緒家とは、単に祖先にオミカゲ様を持つ家、というだけではない。その血に神の力を色濃く宿す家でもあるのだ。

 

 理力と呼ばれる力を扱い、その力を持って魑魅魍魎、鬼妖から民を守るのが責務。かつてはオミカゲ様ご自身が先頭に立ち、刀を振るって幾つもの鬼を退治してきた。

 御由緒家にはそれが真実であるという巻絵と共に話が伝わっている。

 

 だから、その鬼退治について命を受けて動くというなら、いつもの事で終わった話だ。結界を張って秘密裏に処理することが基本としてある為、多くの民にその実態は知られていない。

 

 何かしらの事業に携わる資産家という側面を持っているにも関わらず、むしろ軍人の家系という方がよく知られていた。

 古くは将家とも呼ばれ、戦があれば陣頭に立って戦い、その武勇を示した。

 理力を持つ者と持たない者との戦力差は想像を絶する。神の寵愛を受けし一族として、その力は大いに振るわれた。

 しかしそれが大名になる事も、一国を預かる身となる事もなかったのは、一重にそこにはオミカゲ様の命があったからとされる。

 

 政教分離を早くから謳っていた神は、民を分け隔てなく助けたものの、決して政に手を伸ばす事をしなかった。そしてそれは御由緒家にも厳命され、力なき民の為に戦う事は許しても、民の上に立つ事を許さなかった。

 

 世界大戦の折りについても同様で、御由緒家の戦ぶり、まさに鬼神の如しと世に響いたものだった。

 その鬼神の如しという強さもまた、理力を授けられたが故のものだったが、もしも間違った使い方をしようものなら剥奪される。

 理力とは個人の力ではない。

 神より授かり、それを使う事を許された力なのだ。

 だから御由緒家以外にその力を扱える者がいても、厳選な審査を受けなければ授かる所までいかない。そして授からなければ、一般人と変わりない。

 

 それだけの力を授けられたとなれば、それはつまり神の承認を得たと言う証明にもなる。実際それは神が手ずから行う儀式を持って授けられる。

 子供の頃から神の御下に近づける御由緒家は別として、一般人が神に直接対面する機会は稀だ。剣術はそれに最も近い道とされ、だから全国に道場がある。

 理力を持った人間は幾らいてもいいとはいえ、力だけでなく、その理性――人格まで求められるから、単に強い者が選ばれるという訳でもない。

 

 結希乃も乞われて剣術道場に師範として行くことはあるが、理力を授けるに足る人間というのは恐ろしく少ないものだ。

 どうしても量より質になってしまうので、最近ではその質の向上を図ることに余念がない。

 数十年前からの試みとして、才能ある者を一同に集め学校で共同生活させつつ理力の扱いを学ばせる、という事をしている。

 実際これは成果が出ているようだ。

 

 今年は御由緒の五家が揃っている事もあり、それが学校に大いに刺激を与える事になっていると聞く。結希乃が卒業したのは五年も前だが、その頃に同年代の御由緒家の誰かがいたら、また少し違っていたのだろうかと、思った。

 

 その学園に通っている妹が、ある時極秘任務を受けたとして報告があった。勿論報告があったのは全てが終わった後で、報告もまた上層部からの許しがあってからの事だが、とにかくその内容が結希乃の想像を超えていた。

 

 今まで何の予兆もなく現れた理力を持った誰か。

 たった一人ではなく、更に三人と加えて一人。理力は自然発生するものではなく、必ず神から授かるものだ。それ故に、把握してない理者というのは存在しない。

 

 だというのに、そこには確かに存在しない理者がいたというのだ。

 結希乃も阿由葉家の人間として、この件について詳しい報告書の開示要求を上層部に伝え、その了承を持って内容を確認した。

 

 そして、そこに書かれた内容に絶句した。

 結界への解析、侵入、そして目で追うこと事すら不可能な理力制御、元戻鬼の一撃を受け止め、そして行動不能にしてしまう手際。

 その全てが容易く信じる事ができない内容だった。

 しかも、内一人は明らかに監視の目に気づいていたようだと報告書にはある。それも二百メートルの距離を、夜の視界が利かない状態での事だった。

 

 ――あまりに危険な存在。

 結希乃はそのように考えたのだが、上層部――それも大宮司様の見解は否だった。

 敵ではなく、また今は味方でもない。

 危険になるとすれば、それはこちらから攻撃した時。見ているだけなら害はない。

 

 そのように返答があって、結希乃は明らかに訝しんだ。

 大宮司様は何かを知っている。知っていて、それを皆に隠している。

 隠し事があるのはいい。組織上層部があらゆる秘密を露わにするようなら、それは信用する事もまた恐ろしいものとなる。悪事を隠すというのならまだしも、漏れてはいけない秘密というものもまたあるものだ。

 

 結希乃が疑問に思っているのはそこだった。

 これは秘匿するに値する存在なのか。目の前に爆弾があるのに、その導火線に火を付けなければ安全だと、それを放置するのが最善だとは思わない。

 箱に厳重に封印するか、せめて遠くへ離す必要がある。

 だというのに、宮司様の命令は放置せよ、なのである。

 

 そして極めつけは、今回の密命だった。

 その四人と一人の居場所を突き止めたのはいい。何かあれば対処できるよう常に監視しているのも当然、しかしそれ以上の対処を禁ずるなどと言うのは、あまりにも弱腰に思えた。

 

 なにも強襲して捕縛しろなどと言うつもりはないが、見ているだけで何もしないというのは――接触すら禁ずるというのは、また別の問題に感じた。

 最初は隣人として付き合いを始め、そこから動向を探るという方法でもいいだろう。何も敵意を向けて動くというわけではない。単に相手の事を知る為に動くというのも、それはそれで意味あることだ。

 

 理力の事を良く知るからこそ、野放しで理力を使う者がいて良いとは思わない。それこそが結希乃が彼らを恐れる理由だった。

 無思想、無秩序に振るわれる理力などあってはならない。強い力なればこそ、制御された理念の元で振るわれねばならないのだ。

 

 そして、今回の密命である。

 既に彼らの傍には何名か張り付いていて、遠く足を伸ばす計画を盗み聞いている。どこまで行くかは定かではないが、質屋に行く可能性は高いという。

 そして、その換金を密かに成功させろ、というのが命令の内容だった。

 

 結希乃は鬼妖と戦う理者だが、同時に軍籍を持つ特殊捜査員でもある。

 戦争があれば中尉相当官として従事し、時に理力絡みの操作を指揮する事もあれば、世界に誇る神鉄を使った神刀を、密輸しようと目論む輩を取り締まるのに動く事もある。

 だから、今回のように裏方で動く任務も初めてではない。

 

 換金を成功させろというのなら、やってみせるのが結希乃の仕事だ。

 質屋に行くことは判明しているのに、どこを利用するのか分かっていないというのは不審にも思うが、付近に張り付いて聞き耳を立てる部下から逐一情報は送られてくる。

 

 あまり多くの人員を用意できなかったのは、その数が増えてしまえば相手に感づかれてしまうからだ。それを何より警戒しているらしい。

 敵対する事も、また排除する事も目的でないのなら、せめて取り込む努力をするという意向なのかもしれなかった。そうして陰ながら援助するのが目的なら、もう少しやり方もありそうなものだが、どうも目的はそれだけではないらしい。

 

 相手が持ち込む物にも、只ならぬ興味があるようだった。

 何を持ち込むかまでは教えられなかったが、必ずそれも回収しなくてはならない。大宮司様直々の命でなければ、これについて強く抗議していた事だろう。

 

 部下から送られてくる情報から、店名までが割り出され、そこに先行して交渉する。

 店主は明らかによい顔をしなかったが、問答している暇さえなかった。よく言い含め、自らの顔を晒さないよう変装してから待機した。

 

 そして、その猶予は幾らもなかったのだと、来店してきて思わず頬が引き攣りそうになった。

 時間的余裕がないのは部下の情報からも予測できたが、同時に油断ならない相手をしているのだと、その時初めて実感した。

 

 あまりに強い理力。

 その総量は元より、あらゆる全ての底が知れない。明らかに力を抑えているというのに、それでも全力の結希乃を凌ぐ程だった。

 

 上層部が警戒し、また敵対を嫌がる理由が分かった気がした。

 確かにこれを怒らせるような真似をしたくない。もしも本当に戦う事になれば、それこそオミカゲ様や大宮司様のお手を煩わせねば対処不可能だろう。

 

 そして、同時に相手には慢心もない。

 姿を窺い、また何か拾える情報はないかと見ていたが、その中心に位置する帽子を目深に被った女性からは何も得られるものがなかった。

 

 すぐ傍には金髪の女性が護衛として必ずつかず離れずの位置を確保していたし、遠くには黒髪の女性が常に警戒して店内を移動している。

 何かあれば、この二人が上手く対処する手筈なのだろう。

 結希乃は笑顔を崩さぬまま、大宮司様の命が決して大袈裟ではないことを知った。

 

 ――あれは敵に回すべきではない。

 

 そして同時に、相手は味方になる素振りで近づく事すら許さないだろう。

 警戒自体が尋常ではなく、まるで要人の警護と言われても納得できるような有様だった。頼りなく見える少年が一人着いてきていたものの、あれはもしかしたら囮なのかもしれない。

 あれが傍にいるなら容易に近づけるだろう、と勘違いした者を釣る餌として置いている、その可能性を考えた。

 

 結希乃はもはや、この売買が素直に締結する事だけ祈っていた。

 相手が激昂するような値段を提示したら、それこそ取り押さえるのは容易ではない。今は周囲の質屋に散開していた部下が戻ってきている最中だが、それを掻き集めてどうにかなる相手かと言えば……難しいと言わざるを得ないだろう。

 

 祈りながら見守る中、無事にお互い納得できる売買が出来たようだった。

 金銭を渡して退店していけば、あとは結希乃の仕事を終らせるのみ。

 頭を下げて見送って、お互いに頭を上げた後は物品を回収し、店主によく言い含めて終了だ。

 

 結希乃は重く溜め息を吐いたあと、部下を呼び寄せて回収を命じる。

 後のことは別部署の仕事だ。たった数十分でひどく神経を擦り減らされたが、ともかく目的は達せられたのだ。

 

 結希乃は改めて窓の外――もう見えなくなった彼女たちを思った。

 敵ではないなら味方にしたい。可能であるなら是非、引き込むように動くべきだと。

 

 

 

 

 結希乃はその任務が終われば帰ろうと思っていたのだが、彼女たちを見て気が変わった。その為人(ひととなり)は警戒心があっても温厚に見えたし、無碍にしなければ反抗もないだろうと言うのが結希乃の見解だった。

 

 二百メートルの距離でも察知されたと報告書にはあったから、そこから更に距離を取り、部下にも命じて適切な監視候補場所を探させる。

 そして、そうしている内に事件が起きた。

 

 どこからのチンピラ崩れが、彼女たちにちょっかいをかけたらしい。

 勘弁してよ、と思わず額に手を当てたのも、致しかたないと言えるだろう。部下が周りにいなくて助かった、このような姿は上に立つ者が見せるものではない。

 

 男達は彼女たちを連れ去り、そして路地裏へと押し込んでいく。

 果たしてどちらが連れ去られて行く側なのか、彼らは正確に理解していないだろう。まさか殺害する事はないだろうが、例えそうしたところで止めに入る事はできない。

 そうした努力をするには、二百メートルより近くに陣取る必要がある。今の結希乃にそれは難しい問題だった。

 

 結希乃はとあるビルの屋上からその顛末を見ていた。

 どのように解決するか見て、それから対応を考えようと思っていたのだが、彼らは路地裏で逃げ道を塞ぐように立った時点で倒れて崩れ落ちた。

 

 結希乃は冷や汗が背中を流れるのを止める事ができなかった。

 彼女たちが何をしたかすら、結希乃には分からない。ただひと睨みしただけで意思を奪ったようにも見えたし、あるいは早すぎる理力制御で何かしたのかもしれない。

 

 もっと近付いていれば、どういう手段を取ったか分かっただろうか。

 何にしても、この場所は遠すぎる。本来なら望遠鏡が必要な距離で、相手の手口を探ろうなど考える方が無謀なのだ。

 

 ――その時だった。

 結希乃はその場から引くべきか、あるいは屈んで身を隠すべきか、一瞬迷った。

 その迷いが彼女を硬直させ、そしてその硬直が彼女の視線を縫い留める事に繋がった。

 

 明らかに、それと分かって結希乃を見ていた。

 幅の広いツバ故に、その顔の全貌は見えない。波打つように僅かに湾曲しているツバは、その片目しか視線を通さなかったが、しかしそれだけで十分だった。

 

 あれは警告だ。

 これ以上自分たちを付け狙うな、という紛れもない警告。

 気分を害すようなら同じ目に遭わせる、と言っているのだ。成す術もなく意識を刈り取る事ができる、それを相手に知らせるのは優しさだろうか、それとも傲慢だろうか。

 

 とにかく結希乃は何の反応も示すのは不味いと思った。

 さりとて不躾な態度もまた不味い。だから一礼する事でその場を去って、一心不乱に屋上を駆けた。

 

 妹の七生も、彼女らの追跡を想定して必死に駆けたという。

 その気持ち、今の結希乃もよく分かる。例えあれが警告で、今は行動を起こすつもりがないだろうと分かっていても、明らかなメッセージを受け取って動揺しない訳がない。

 

 息を切らしてビルを飛び越え、また別のビルに移っても、なぜだか全く安心できなかった。

 屋上から中に続く扉を抜け、地上に降りる。

 適当な喫茶店に入ってアイスコーヒーを頼み、未だ落ち着かない気分で店外を眺める。何事もない筈だと分かっていても、全く落ち着く気分になれなかった。

 

 一応上役に報告をして、スマホを机の上に投げ出すと同時に店員がコーヒーを持ってきた。

 一気に呷って半分飲むと、それでようやく一息ついた。

 今日はもう、何もやる気が起きなかった。

 

 元より今日は、これ以上勤務する必要がない。この仕事は過密スケジュールとは縁遠い職務だが、それでも今日は午後が丸々オフだった。

 しかしそれも、結界反応がなければの話である。

 

 スマホが震え、結希乃に命令が下った。

 鬼妖の出現があれば、自動的に結界が展開する。

 そしてそれはコンマのズレなく祭祈部が感知し、部隊を招集、現地へ集合という流れになる。今回は結希乃が最も近くにいた為、彼女をリーダーとして部隊を組まれた。

 

 結希乃はスマホを睨みつけながら、指示を受けて立ち上がる。

 時刻は夕暮れ、逢魔が時。あいつらが出現する時間だった。人混みの多い時間帯だと地上は歩き辛い。それで適当なマンションに入って屋上に登り、そこから移動する事にした。

 

 そうして辿り着いた集合場所には、既に三人が集まっている。

 中には同じ御由緒家、比家由漣の姿もあった。御由緒家は何かと子供の頃から顔を突き付け合うから、漣の事も良く知っていた。

 気心の知れた相手がいるのは有り難いが、普通は部隊単位で動く。即席で作ったメンバーでは連携も取りづらい。何故こんな事になっているんだ、と何気なく下を見て理解した。

 

 そこには例の彼女らが、またもチンピラに絡まれて工事現場に連れ込まれている。

 何やってんのよ、と喉まで出掛かり、言葉を必死に飲み込んだ。大した事にはならないだろうが、とはいえ上層部はそちらの心配をして結希乃達を呼んだ訳ではない。

 

 あれらが結界に気づき、それに対処しようとするのを止めたかったのだ。

 だから、恐らく最も近くにいた者たち――実力者たちを呼びつけ、早急に結界に対応するよう望んだ。

 ならば、あちらの方は他の誰かに任せよう。

 どうせ誰かが監視しているのだろうし、問題が起これば対処するつもりでいる筈だ。そうでなかったにしても、それは結希乃の知るところではない。

 

 何しろ今は発生した結界への対処が優先だ。

 グズグズして彼女たちが動くような事があれば、結希乃たちが呼ばれた意味もない。

 

 結希乃は他三人を見渡し、ハンドサインで合図する。

 彼らも心得たもので、余計な質問も異議もなく、リーダーの命令で粛々と動く。

 結希乃は最後尾でそれを追いながら、最後にチラリと背後を伺う。

 

 そこには黒髪の女性が一方的に男達を痛めつける姿があった。流石に逆鱗に触れたんだな、と思いながら、後でそれの対処に動く部隊に同情めいた祈りを送った。

 



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第三章
魔力と鍛練 その1


こちら、二話連続更新の二話目になります。
お読みになる際、ご注意下さい。


 ミレイユは自室のベッドで目を覚ました。

 昨夜、戦闘が終わって帰ったのが夜七時過ぎ。時刻は遅くなったものの、それから夕食の準備をし、アキラと共に食事を取ってから解散となった。

 

 相当疲れたと見えて、食事の最中でさえ船を漕ぐような有様で、完食するや否や眠ってしまった。背もたれに体を預け、首を下に向けた状態で寝ていたので、そのままでは身体も痛めるし疲れも取れない。

 

 叩き起こしてアキラの部屋に帰しても良かった。

 何しろ邸宅から出れば、そこはアキラの部屋の中である。寝室まですら目と鼻の先、帰るに苦労という訳でもない。

 それでもミレイユはアキラを箱庭に残す事に決めた。

 

 理由は二つ。

 一つに、邸宅の中にある部屋に入れずとも休ませる場所があるという事。

 この箱庭には邸宅以外に離れがあって、客人一人なら不自由なく過ごせるスペースがある。いつか使う機会があるかもしれない、と用意したものの、結局今日まで使っていなかったので、折角だから使おうという目論見もあった。

 

 もう一つが、魔力の回復をさせねばならない事。

 本来なら魔力とはマナ溢れる世界で扱う力で、そして呼吸するように供給されるものだ。しかし、この世界ではその供給される場所が非常に限られる。この世の全てを見た訳ではないにしろ、今のところマナを補充しようと思えば箱庭以外に存在しない。

 アキラの魔力総量は少なく、また吸収量も少ない。使うものが内向魔術ということもあって、燃費が非常に良いのだが、吸収するものがなければ磨り減っていくだけだ。

 一晩過ごせば、寝ている間に全快するだろうから、それで離れを使わせて休ませてやろうという気になったのだ。

 

 だが結局、このさき結界に挑む回数が多くなるとすれば、戦闘が終わった夜はこちらで過ごさせる必要が出てくるかもしれない。

 今回の戦闘で分かったが、雑魚処理くらいならアキラ一人で出来る。出現する敵自体が強化傾向にあるから、慢心してしまえば、あっという間に死んでしまう危険はあるものの、何かと使ってやる機会は増えそうだった。

 それを思えば、元より使わず腐らせていた離れである。当分はアキラ専用の客室として与えても良いか、という気分になっていた。

 

 ミレイユはベッドから起き上がり、カーテンを開けて外を見た。

 既に起きたアヴェリンとアキラが朝の鍛練を始めていたようだ。遠くにはお互いに武器を振るっては回避している姿が見える。

 

 朝から精が出るな、と思いながら、ミレイユは部屋に備え付けられたシャワーでお湯を浴びた。

 簡単に汗を流していつもの部屋着に服を着替え、今なお朝の鍛練に打ち込む二人へと近付いていった。

 

 

 

 傍に近寄る程に金属を打ち合う音が大きくなっていく。

 どうやら睡眠の妨げにならないようにと、あえて遠くで鍛練する事になっていたらしい。その気遣いに感謝しつつも、歩いて行くには距離があり過ぎるな、と不満も覚えた。

 

 十分に二人の姿が見え、そして動きの邪魔にならない場所までやって来ると、その場に椅子を用意して座る。

 昨日と今日とでどれほどの違いが出たものか、興味が出て覗いてみたのだが、なるほどやはり動きが段違いに良くなっている。

 

 アヴェリンの攻撃をアキラが受け止め、時に躱して反撃に転じる。

 反撃自体、以前はろくに出来ていなかった。アヴェリンの攻撃を受け止めるのに精一杯で、衝撃を逃すか、あるいは逃げに徹して隙を伺うしか出来なかったのだ。

 そしてそれでも捕まり一撃を受け切れず、転がされるのが常だった。

 

 今では積極的に攻撃をしかけ、そして反撃をいつでも対応できるように余裕ある動きを見せている。額に汗はかいても息切れはしていない。

 俊敏な動きを見せつつ、決して無理な動きをして食らいついているという訳でもないようだ。全力ではあるのだろう、手抜きを許すアヴェリンではない。

 しかし皮一枚分の余裕を残し、それでもアヴェリンの動きに対応出来ているというのは、前日までの動きしか知らない人間には瞠目するような姿に違いない。

 

 地を蹴って一足飛びで接近したアキラに、アヴェリンが下から掬い上げるような一撃を合わせる。咄嗟に刀を横に倒して盾とし、防ぎはしたものの体が浮く。

 浮いただけに留まらず、アヴェリンが腕を振り抜けば、そのまま民家二階に届くほどの距離を打ち上げられた。

 二人の距離を三メートルほど離してアキラは着地した。その機微に動揺はなく、即座に動こうとしたが、しかしその首には既にアヴェリンの鉄棒が届いていた。

 

 硬直は一瞬。

 アキラは首を中心に縦に、時計の長針が回るように回転し、その鉄棒から逃げる。しかしアヴェリンもその対応は読んでいたらしい。アキラの動きの反動を利用して、横殴りに吹き飛ばした。

 

 身体を曲げて吹き飛ぶアキラを見ながら、ミレイユは思わず笑ってしまった。

 嘲笑ではない。

 小馬鹿にするものではなかった。ただ、よくあれほど動けるようになったな、という思いと、あれだけ殴られてもケロリと起き上がる姿を見て、喜劇を見ているような気分になってしまったのだ。

 

 アヴェリンが鉄棒を下げ、臨戦態勢を崩したのが終了の合図になった。

 アキラも肩を落として息を吐き、刀を収めて戻ってくる。距離の問題で一足早く辿り着いたアヴェリンが、いつものように丁寧な物腰で挨拶してきた。

 

「おはようございます、ミレイ様」

「うん、おはよう」一足遅れて辿り着いたアキラに顔を向ける。「アキラも、おはよう」

「おはようございます!」

 

 アキラは腰を曲げて丁寧に挨拶をした。

 ミレイユは椅子に座ったまま、頭を下げるような真似もしない。そしてこの場では、それが自然で当たり前だった。

 ミレイユは僅かに笑んで、頭を上げたアキラへ労うように言った。

 

「体調は万全か?」

「はい、痛みもなく、疲労もありません。ちょっと異常に感じる程でして……」

 

 アキラは己の腕を持ち上げて、それをしげしげと見つめながら言った。

 検分するように見つめる部分は、昨日トロールに殴られたところだ。本来なら粉砕骨折してるのが当然、そうでなくとも大きく腫れ上がって見た目にも酷い事になっていた筈。

 帰る間際にも確かに痛々しい傷跡があったものだが、今はそれも綺麗さっぱり消えている。

 

「内向魔術士は自然治癒力も高い。お前程度でも、マナの供給さえ十分なら一晩で大抵の傷なら治るだろう。……まぁ、役得とでも思っておけ」

「……そうします」

 

 アキラは複雑そうな表情だったが、しかし最後には笑顔で応えた。

 ミレイユはそれに頷いて、それからアヴェリンを見て、次にアキラへ顔を戻す。

 

「朝の鍛練は見せて貰った。随分コツを掴んだようだな」

「はい、師匠の教えが良かったもので」

「当たり前だ、馬鹿者」

 

 アヴェリンは鼻に皺を作って突き放すように言ったが、ミレイユの一言で表情が喜色満面に一変した。

 

「よく教えてやった」

「はっ、恐縮です! 物覚えが悪くて大変でしたが、まぁ最低限使い物になる程度には……」

「そうだな。見ていて思ったが、案外打ち合えていたしな」

 

 ミレイユの感想に、アキラもまた恐縮するように身を縮めた。照れた顔を隠す為に、後頭部を搔く振りをしながら下を向いている。

 

「お言葉ですがミレイ様。打ち合えていたのではなく、打ち合わせてやっていたのです」

「勿論、そうだろう」

 

 ミレイユは大きく見える動作で頷いた。

 

「本気の三割も出せば、アキラでは手も足も出ないのはよく理解している。その上で言うのだ。アキラはよくやっている」

「まだ二割の力も、僕では引き出す事が出来ないんですか……。昨日までの僕とは、まるで雲泥の差だと思うんですけど……」

「殻から顔すら出してなかったヒヨッコが、殻を被って顔を出した程度で何を言う。そういう台詞は、せめて殻を捨ててから言え」

 

 アヴェリンの言葉は辛辣だったが、同時に真理でもあった。

 アキラは確かに魔力を得て、魔術も行使するようになったが、同時にスタート地点に立っただけに過ぎない。殻を破って姿を見せてすらいない身である事もまた確かなのだ。

 

 アキラは肩を落としたが、ミレイユはそれに笑って労ってやる。

 

「正直、アヴェリンの本気には二割にも達していないと思うが、それが当然だと心得た方がいいだろう。だが良くやっていると言った、それもまた本音だ」

「はい……、精進します」

 

 アキラが神妙に頷いて、ミレイユもまた頷く。

 そして鼻孔をくすぐるパンの焼ける香りが届いてきた。アヴェリンもそれに気づいたようで、頬を緩めて邸宅に顔を向ける。煙突から上がる煙から、朝食の気配を感じ取った。

 アキラもそれを見ては涎を垂らし、腹を鳴かせる。

 

 予想以上に大きな音が鳴って、アキラは慌てて腹を抑えた。

 ミレイユが笑って椅子から立ち上がり、それを腕の一振りで消してしまう。

 

「我慢できない大きな子供もいるようだ。朝食にしよう、アキラも着いてこい」

「ありがとうございます……!」

 

 アキラが大きく頭を下げ、次に顔を上げた時に、ミレイユは箱庭の出入り口を指さした。

 怪訝な表情で指先とその先を見つめるアキラだったが、結局その意図を掴めず顔を傾げてしまう。それだけで分かる筈もないか、とミレイユは自らを戒め、改めて口で説明した。

 

「その前に汗だけは流しておけ。昨日もそのまま寝ただろう」

「はい、そうでした。それに寝床まで貸して戴いて……!」

「うん、その辺りも朝食の時でいい。早く何か腹に入れたいだろうし、手早く済ませてしまえ」

「分かりました!」

 

 アキラは二人に一礼した後、箱庭の出口に向かって走っていく。

 その背を見送って、アヴェリンは一人ごちるように呟く。

 

「アキラに対し、少々甘くありませんか」

「まぁ、今日ぐらいはな。実際、アイツは良くやった。殻を被ったままのヒヨッコにしても、そこだけは褒めてやらねば」

 

 アヴェリンはそれに答えなかったが、複雑に表情を歪めては一礼して露天風呂の方へ向かっていった。

 あちらは邸宅の影になっているので、アキラが早めに汗を流し終えたとしても、アヴェリンとかち合う事はないだろうが、一応注意しておくべきか。

 迷ったが、それほど無防備を晒すアヴェリンでもない。

 ミレイユはその背を一瞥しただけで結局何も言わず、自分もまた邸宅のダイニングへ向かっていった。

 



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魔力と鍛練 その2

宵闇堂様、えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 朝食はいつも軽いものだが、未だ育ち盛りのアキラには物足りないかと幾つかボリュームを増やすことで対処し、実際それに満足したアキラが満面の笑みで完食した。

 

「ごちそうさまでした!」

 

 朝食を用意したルチアからは澄ました顔で頷くだけの返事があって、用意した訳ではないが家主のミレイユが頷く事で返事とする。

 そしてアキラが改めて頭を下げた。

 

「昨日は寝床を用意していただいて、ありがとうございました!」

「あぁ……。律儀だな、お前も」

 

 その事は朝食の席にでも、と言ったのはミレイユだが、実際のところ改まった礼を言われるのがこそばゆかったから、ああ言ったに過ぎなかった。

 忘れていればそれでも良いという程度のものだったが、何事かにつけミレイユに対する敬意を尊重するアヴェリンが、それを許す筈もなかった。

 

 別段、食事中にしろアヴェリンから鋭い視線が飛ぶような事はなかったが、帰るまでにその感謝を口にしていなければ、おそらく叱責が飛んでいただろう。

 

 朝食が済めば、後は食後の一服でもしながら過ごすのが慣例である。

 最近はミレイユがコーヒーを飲むのを好むので、それを真似して他の者も飲み始め、今ではすっかりそれが定着してしまった。

 ユミルだけが口に合わず、それで紅茶を飲んでいる。

 

 今日も高級そうなソーサーと一揃いのカップを口元まで持っていき、香りを楽しんで一口啜る。音を立てるような無作法はしない。香りと苦味を舌で感じ、鼻孔もまたその香りでくすぐられるのを感じながら喉の奥へ落とす。

 手に持ったカップの中に揺れる黒い液体を見つめて、満足げな息を吐いてから、感じる視線の方へと顔を向けた。

 

 何故だか、顔を上気させて口を開けては眺めているアキラが、そこにいた。

 すかさずユミルから爪先で突かれたらしく、顔を歪めて今更ながらに自分のカップに手を付ける。

 ミレイユは自分の頬に手を当てながら、傍らのアヴェリンに聞いてみた。

 

「そんなに変な顔をしていたか?」

「滅相もございません」アヴェリンは首を横に振る。「大変満足そうなお顔でしたが、アキラめはそれに只ならぬ共感を得たようです」

「……そうなのか?」

 

 ミレイユにはとてもそうは思えなかったし、アキラもアキラでそうと思っているようには思えなかった。しかし返ってきたのはアヴェリンに同意するもので、必死に首を縦に振っている。

 

「ええ、はい。もちろんです。美味しいコーヒーですし! 僕も美味しいなぁ、と思ってました……!」

「近所のスーパーで買った、レギュラーの安いやつだが……?」

「気分一つで美味しくなったりするんでしょ。カップが高級だと、中身まで美味しく感じたりするものねぇ……?」

 

 ユミルが水を向けると、アキラがそれに食いついて何度も頷く。

 それ以上追求しても面白くなるとは思えなかったので、ミレイユはとりあえず納得し、再びコーヒーに口を付けた。

 それを見ながら、ユミルはうんざりしたように顔を歪める。

 

「しっかし、よく飲めるわね。苦いだけの液体じゃない。何でそれが美味しく感じるワケ?」

「ただ苦いだけじゃないからだ。香りも同時に楽しむものだ」

「色も黒いし」

「別に色はどうでもいいだろう。黒いから美味いと思ってる訳でもない」

 

 ミレイユの返答に、それでもユミルは納得いかないようだった。

 ここにいるのはユミル以外全員がコーヒー党で、唾棄するように嫌うのはユミルだけだ。正直なところ、他の面々についてもそれ一辺倒という訳でもなく、飲みたい気分の時に合わせて変えている。

 ユミルだけがコーヒーを飲めず、それで疎外感を受けているのかもしれないが、しかしそれに忖度してコーヒーを切るつもりもなかった。

 

 アキラもまたコーヒーに口をつけるのを見て、ユミルがうんざりしたような顔をする。

 

「何がアンタをそこまでさせるのよ。そんなに苦いの好きだったら、トロールの胆汁でも持ってくる?」

「いりませんよ! ミレイユ様が言ってたじゃないですか、ただ苦いだけなら誰も飲みませんよ」

「そうは言っても……」

 

 ルチアまでカップに口をつけるのを見て、ユミルはとうとう舌を出して顔を背けた。

 味と臭いがそこまで彼女自身を拒否させるのは、彼女の種族として味覚に問題があるのだろう、とミレイユは思っている。

 特に黒色の物を、口の中に入れる事に忌避感があるようだ。

 特に長く生きてきたユミルだから、食べる物も少ない昔、食うに困って口に入れて酷い目にあった事でもあるのかもしれない。

 

 だったらこちらの事は無視して、自分の好きな物を飲んでいればいい、と思うのだが、そこに口出ししないと済まない何かが彼女の中にはあるのだろう。

 食後のコーヒーを止めるつもりはないので、ユミルには我慢するか慣れてもらうしかないと思っていると、ルチアが席を立った。

 

 そして少し離れた場所から、何かを手に取って戻ってくる。

 自分の席に座る前に、それを丁寧にミレイユの前に置いた。

 

「これ、この前言っていたやつです」

「ああ、ありがとう」

「どういたしまして」

 

 一言礼を言えば、にっこりと笑って自分の席に戻る。

 ミレイユはそれを手に持って一度広げ、見たい面を上にしてから半分に畳み、それをテーブルの上に置く。

 一緒に持ってきてくれた羽ペンとインク壺も、使いやすいよう位置をずらし、いざ羽ペンをインクに浸したところで、アキラから声がかかった。

 

「……それ、何ですか?」

「これか?」

 

 アキラの問いに目線だけ上げて、テーブルの上に広げた物を指さす。

 何度となく頷きが返ってきて、ミレイユの方こそ首を傾げた。

 むしろアキラならば見慣れているものだ。一人暮らしをしているなら、頼りにする機会も多いだろうに、何故今更それを聞くのか疑問だった。

 

「今日のチラシだ」

「え、何です? チラシ?」

 

 そこまで言っても、まだ理解できていないアキラに、チラシを持ち上げて見せてやる。

 そこには近所のスーパーで行われる、今日の特売チラシがあった。

 あった、という表現は適切ではない。威風堂々とあった、と言って良い。

 我が家の家計を助ける、頼れる相棒でもあるのだ。基本的には新聞に折り込んで入っているものだが、店頭にも自由配布として置いてある。

 

 先日の買い物の折り、それを見つけて持ち帰っていた。

 次のセールがあったら逃すまいと、目立つところに置いておいて、当日になったらチェックするとルチアにも言い渡してあった。

 それをきちんと忘れず、ルチアは果たすべき役目を果たしたのだ。

 

 ミレイユは再び、その感謝と労いを向けて頷きを返す。

 ルチアにはよく伝わっていなかったらしく、困ったような笑みを浮かべて頷きが返ってきた。

 

 こちらの意が伝わらなかった事に少々残念に思いながら、チラシを見せても相変わらず怪訝な表情をしているアキラに向き直る。

 ここまで見せて理解できないというなら、もしかして新聞を取った事がない家庭だったのかもしれない。縁遠い物で見たことがないというのなら、その反応にも納得がいく。

 ミレイユは小さく咳を――少々わざとらしくして、チラシの解説に移る。

 見やすいように持ち替えて、商品の乗った写真と数字を指さした。

 

「いいか、これはスーパーで特売をする時に配られる媒体で、通常よりもずっと安い値段を教えてくれる――」

「いえいえいえいえ! チラシの意味は知ってます、そこじゃないです! 何でそんなのがあるのかなぁ、と思って!」

 

 アキラが焦って首と両手を横に振って見せたが、そうでないなら、ミレイユにもアキラの言っている意味が分からない。

 チラシをテーブルの上に戻し、再び羽ペンを手に持つ。余計なインクを落としてから、紙面の獲物に目を凝らした。

 

「いやいや、なんで無視するんですか! 何でそんなものが?」

「うん……? まぁ、確かにこの現代的過ぎる紙は、この邸宅に相応しくないかもしれないが」

「紙がっていうより、その庶民の味方って感じのチラシが場違い過ぎるんだよなぁ……」

 

 ミレイユは眉根を寄せて、チラシとアキラを交互に見る。

 目を瞠るほど見事な装飾品と西欧風を思わせる衣服、広いという程ではないが、清潔で整えられたダイニング。そしてそこを取り囲むように用意された高度な調度品の中にあって、確かにスーパーのチラシは異彩を放っていた。

 

「……何が問題だ」

「いや、問題はないですけど……。持ってるのは羽根ペンだけど、欲しい物に丸つけておくなんて、まんま主婦だし」

 

 その一言に、思わずミレイユの動きが止まる。動きばかりではなく、呼吸まで止まった。

 そこに何かを思い付いたらしいユミルが、にやにやとした笑みを浮かべて言ってきた。

 

「ちょっとママ、アタシ甘いものが欲しいわ」

「あ、それなら私も。最近チョコってやつが美味しいなぁ、と……」

「うるさいんだよ。菓子の特売なんてやってないんだ、そんなの今日はパスだ」

 

 ルチアに厳しい物言いはし辛いから、特別ユミルに向かって険悪な視線を叩きつけた。

 そして再びチラシに目を落とし、溜め買いしたいもの、安いが限りもありそうなものをチェックしていく。

 

「むぅ……、キャベツは買いだな。豚肉のベーコンも……、ウィンナーも安いのか。どちらにすべきか……」

「どっちもは?」

「――どっちかだ!」

 

 ユミルの呟きには一喝で返して、チラシに目を戻した時、アキラからか細い声で問いが来た。

 

「もしかして、家計……苦しいんですか?」

「は? まさか、そんな訳あるか? 我が家の家計が苦しいなどと……?」

「いや、まぁ、そうですよね。一日で百五十万稼げるようなルチアさんがいる訳ですし」

「別にあれは一日で作れるような物じゃないですけどね……」

 

 ルチアが不快なものを口にするように顔を歪めた。

 しかしミレイユが、その発言を掻き消すような声量でアキラの発言を肯定した。

 

「そうだ、金銭的な余裕はまだまだある。節約や倹約をするという程、追い詰められてはいない」

「ですよね」

 

 アキラは笑って頷いた。ミレイユもまた頷き、ついで真剣な面持ちで一歩近づくように顔を前に出す。

 

「ところでアキラ、今日の帰宅は何時頃だ?」

「え、割と早いと思いますけど。今日は道場もないですし……。あ、また何か鍛練のことで?」

「いや、お一人さま一パック限りのたまごを、お前にも買わせようかと」

「……本当に家計、大丈夫なんですよね?」

「なんだ……? 家計に余裕があったら、節約や倹約はしなくてもいいと?」

「いえ、別に! そういう訳では!」

 

 アキラは慌てて否定したが、その心底では疑問や疑惑が渦巻いているのがありありと見えた。

 実際、まだ家計が火の車という訳ではない。そもそも収入がないので回す車すらないというのが現状だ。だが、毎日少しずつ擦り減る貯蓄を、少しでもマシにしたいと考えるのは家長として当然のこと。

 

 未だ大きな収入源も見つからず、また当てもない現状では、大きな出費は避け、また避けられない出費も抑えるよう努めなければならない。

 だから、こういったセール情報は逃さずチェックし、涙ぐましい努力を続けているのだ。

 

 アキラは額に汗を浮かべながら、申し訳なさそうに頭を下げた。

 

「いくら早いとはいえ、その在庫が捌けるより早く帰ってくるのは難しいと思います」

「……やはり、そうか」

 

 ミレイユは羽根ペンをインク壺に戻し、ため息を吐いて腕を組んだ。

 仕方ないから魔術で外見偽装でもして乗り切るしかあるまい、と考えていると、アキラが席を立って頭を下げた。

 

「そろそろ登校しないといけません。申し訳ありませんが、朝の内はこれで……」

「そうか、そうだな……」

 

 ここに時計はないが、スマホを持ってるアキラなら時刻は把握しているだろう。まだちらりとも覗いた形跡は見えなかったが、実際そろそろいい頃合いの筈だ。

 

「では、行って来い」

「はい、いってまいります!」

 

 アキラが頭を上げたところで、横に座っていたアヴェリンから声がかかった。

 

「早いというなら、帰ってきてから続きをやる。今のお前は伸び盛りだ、時間があるなら少しでも伸ばす」

「分かりました、急いで帰ってきます!」

「――ああ、そうだ。間違ってもヒトを殴るような真似をするな」

「分かってます!」

 

 アキラは苦笑いして右手を握っては閉じを繰り返し、再度一礼して邸宅から出ていく。

 最近加わったこの慌ただしい時間は、ルチアは嫌っていそうだが、ミレイユは中々気に入っている。とはいえ、表立って口にしないものの、誰もが余計な人を招きたくないと思っているのは理解していた。

 

 今後は邸宅まで招く回数は減らすべきか、とチラシを睨みながらミレイユは思った。

 



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魔力と鍛練 その3

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 夕方、アキラが帰ってきて箱庭内で鍛練している様子を、ミレイユは不機嫌な様子を隠そうともせず見ていた。

 原因は一つ、昼より前にスーパーへ行ったというのに、卵が予想以上に早く完売してしまったからだ。とりあえず一人一巡して購入する事はできたのだが、ミレイユの予定では姿を変えて更にもう一巡りするつもりだったのだ。

 

 卵は何かと便利に使える食材だけに、今日の特売で大量に仕入れる事を考えていた。賞味期限を気にせず保管できるからこそ、仕入れる機会があれば数を確保したかったというのに、この品切れは予定外だった。

 今も目の前でアキラが吹っ飛んでいく光景を見ながら、今週の食材をどのように調達するか頭を悩ませているところに、横に座ったユミルが声を掛けてきた。

 

「……アンタ、何でそんなに不機嫌なの?」

「そう見えるか?」

「見えるから言ってんの」

 

 ユミルにそう指摘されて、ミレイユは眉間を指で抑えてほぐしてみた。果たして効果があるかは分からないが、やっておきたい気分だった。

 

 今は珍しくユミルも一緒にアキラの鍛練を見ていた。

 パラソルを立てて簡易的な日差しよけを作り、その下にテーブルと椅子を用意して観戦気分だ。水差しには柑橘水が並々と注がれてあり、グラスには自分で氷を作って入れている。

 

 今度は逆方向に殴り飛ばされていくアキラを目で追いながら、グラスに口をつけて少量飲む。ユミルも同様に口をつけて、それからすぐに口を離して渋い顔をした。

 ミレイユは苦笑して、そのグラスの中に氷を精製してやる。グラスを回して氷を溶かし、それで幾分薄れたものを渡してやる。ユミルはそれを口に含んでから吟味するように転がして飲み、ようやく満足したように息を吐いた。

 

「それで、どうしたのよ……アキラのコト? あれが弱いのなんて、今に始まったコトじゃないでしょ」

「いいや、それは別に関係ない。別に弱くても、私が困る事なんてないしな」

 

 ユミルは眉を持ち上げて疑問を向けるように顔を傾ける。

 他に何かあるなら言え、という意思表示だったが、しかし素直に言うのも憚られる。

 ユミルが珍しくこうしてミレイユの傍にいるのも、気を使っての事だろう。実際まだ百万以上の貯金があるが、これを少しずつ切り崩しての生活というのは、中々にストレスが溜まる。

 

 しかしそれをユミルに言ったところで、彼女には理解できまい。侮っていうのではない、単にやり方の問題だ。

 ユミルなら悪事に手を染めて金銭を得る事を厭わない。

 単に楽だから、目の前にあるからという理由で簡単に相手から金を掠め取る。時に催眠を使った暗示であったり、時に力づくで奪うこともある。

 

 ミレイユがもし金が欲しいといえば、彼女なりに気を遣った方法で金を集めてくるだろう。しかしそれは、現代日本において多くは犯罪となる方法で集めてくる事になる。

 一言漏らせば、ミレイユの為だと思って、躊躇なくそれを実行するだろう。止めたとしても、目の前に絶好の機会があれば、やはりやるだろう。

 前回のように既に金銭の入手方法が決まっている状態ならともかく、まずどうやって金銭を入手するかを考えていると知られれば、きっとそうなる。

 

 だから、迂闊にユミルの前で金について口にするのは避けたかった。

 何か上手い言い訳がないかを考え、咄嗟に頭の中に浮かんだ単語を口に出した。

 

「……結界、がな」

「うん? 例の蠱毒?」

 

 ミレイユは咄嗟の事ながら、出した話題が物騒になりそうで後悔した。

 しかし、ここで不自然に断ち切るのもまた難しい。とりあえず流れに任せて続けてみた。

 

「ああ、最悪の想定として、その蠱毒があるというのはいい。しかし何の為に、そういう事を考えていた」

「ふぅん? まぁそれなら難しい顔になってもおかしくないけど……、考えて分かるコトかしらね?」

「分からずとも、幾つか想定を用意しておくのは悪い事でもない。自分の想定に捕らわれてしまわないよう気を付ける必要はあるが」

 

 ユミルは納得したようなしてないような曖昧な顔で頷いて、グラスに口をつける。

 

「それじゃ、一つ想定ゲームでもしてみましょうか。まず最初の想定として、あの結界を作った理由を考えてみましょうよ」

「だがそれは、魔物が先かそれとも後かで、想定が変わりはしないか?」

「アンタ、この世界に魔物はいないって言ってたじゃない。じゃあ先に魔物なんじゃないの?」

 

 ユミルが言ったのは思いつきの何気ない一言だったのだろうが、それこそ真理のような気がした。魔物というより、正確には孔が、という気がするものの、そこに大した違いはないだろう。

 だが魔物が先にあったというなら、結界の存在は封じ込める為、と考える方が自然な気がした。

 

「だが、むしろ私はルチアの案の方を考えたいんだよな……。最悪を想定した、という考えの方を」

「それじゃ魔物の方が後にあって、先に結界が生まれたコトになるけど」

「……こうなると、いつも後手なのが痛いな。結界が生成される瞬間、先に孔があればそれは封印目的となるだろうが、結界が先ならむしろ孔を呼ぶか作るかしているという事になる」

 

 ユミルは興味深そうにミレイユの顔を見て、正面に顔を戻した。

 目の先ではアヴェリンに攻め立てられ、防御から攻撃に転じられないアキラが見えた。

 

「呼ぶ、ね……。つまり召喚儀式ってワケ。私達の知る魔物が出てくるのも、そういう理由なのかしら」

「個人的にはそうだ、という気がしているんだが。蠱毒は行き過ぎた考えだとしても、喚ぶ事が目的……いや違うか」

「私達が処理してきた魔物の数も、まぁ結構な数になってるワケよ。それが困るというなら、とっくに邪魔してきてると思うのよね」

「そうだな。……それこそ可能かどうかは別として、私たちを結界内に封じたままに出来ないか、試すくらいはするだろう」

「――そうよね? じゃあ、別に魔物が倒されるコトは問題ないって考えてると想定できるワケ」

 

 ミレイユは顎先を摘むようにして指を添えた。

 

「ガチャみたいなものかもな。目的とする魔物を召喚したいが、狙って召喚する事はできない。あるいは困難極まる。だからとりあえず数を増やして召喚してみる、と……」

「えぇ……? だとすると、相当お粗末な召喚術士がやってる事になるけど。少なくとも、あんなゴブリンだとかトロールは目的とした魔物じゃないワケでしょ? より強力な魔物が欲しいっていうのは分かるとして、まずそんなのしか喚べないって時点でねぇ……」

 

 ユミルの言わんとしている事が分かって、ミレイユは苦笑した。

 術士の力量と召喚できるモノの力量は同等程度とされる。自分より弱いものを召喚する事もないとは言わないし、実際弱くとも数を揃えて召喚する戦術もある。

 そして対象と契約をして召喚しないタイプの術なら、まず自分の力量に見合わない相手はその召喚に応じてくれない。

 これは相手が善良であろうと邪悪だろうと共通した認識で、己を使役するに値しないと判断されれば、どのような供物を捧げようと応じない。

 

 そして今回の結界の首謀者が、そのランダム召喚に賭けているというなら、現在は精々トロールを喚ぶ力量しかない、という事になる。

 トロールをこの世界に解き放てば、それはそれで脅威となるだろうが、このような小物に召喚主が興味ないというのは、ミレイユ達の妨害を苦にしない辺り容易に想像できる。

 

「トロールしか喚べないというなら下級術士程度の力量しかないという事になるが、それにしてはアンバランスに結界は強固だ。ルチアに解析できたとはいえ、あれは別に容易な術という訳じゃない」

「そうよね、そこもまた分からない部分よ。じゃあ元々は結界術士なのかしらね。そして召喚術を学び、それを強めつつある」

 

 それは一考の価値がある想定に思えた。

 最初の頃はインプがいた。最下級の魔物である。そして、そこにトロールが混ざるという具合だったが、今では最初からトロールがいるのが当たり前で、インプの姿が見えなくなっている。

 前回アキラが相手をした結界でも、やはり最初からトロールが、それも二体いた。

 これは召喚主が力を強めた結果だと見る事もできる。

 

「あり得るな……。一つの術に長けた者が、別の術に手を出すのはよくある事だ。今回もそのパターンかもしれん。そうなると、結界の方が気になってくる」

「そうね、電線を利用して網目のように自在に展開する結界術というのは、よく錬られた方法だと思うわ」

「そこで一つ気になった事がある」

 

 ミレイユは顎を掴んでいた指を離し、人差し指を立てて見せる。それをゆらゆらと揺らして脳裏に描いていたものを口にした。

 

「電気を世界で初めて実用化させたのは、例のオミカゲだそうだ」

「あぁ、知ってるわ。アタシもね、スマホを手に入れて色々調べたものだけど、その一つとしてオミカゲについて調べた事があるのよね」

 

 ウィキペディアは言うに及ばず、個人ブログや書籍など、多岐に渡ってオミカゲの行った偉業を称えていた。それは確かに人間社会を――より正確に言うと日本社会を豊かにし、世界に先取りさせるように技術を提供していた。

 

 その一つが電気であり、電話であり、電線だった。

 雷神としての側面を持つオミカゲだからこそ、と言われれば納得してしまいそうになるが、ミレイユの知る歴史ではそうではない。

 

 電気の発明はエジソンだし、電話の発明はグラハム・ベルだ。しかし、実際に発明家としてその名は歴史にあるし、発明者としての偉業もあるものの、それよりも更に早い段階で日本人に技術を教え広めたのはオミカゲ様となっていた。

 これは日本人の主張ではなく、客観的かつ歴史的事実として記録されている。

 日本における初めての電力会社も、その胴元、御影本庁の直下にあり、送電線の敷設権限すら所有している。日本の何処に電線を敷くか、どのように敷くか、その権利を持っているのだ。

 

 ここまで来ると、結界と電線の関係から、このオミカゲが何の関係もないと言うのは無理がある。むしろ、この結界の主はオミカゲか、あるいはその部下だという事実を現している事になる。

 

「まぁ、オミカゲが怪しいって話になるわよね」

「部下が勝手にやっている、という可能性もあるわけだが」

「……そうね、別にそこはどっちでもいいわ。いかにも疑わしい、とは思うけど、仮にも神を名乗る者が、あれっぽっちの召喚術しか持たないなんて惨めすぎるもの」

「そして今も努力の最中で、最近トロールを順調に召喚できるようになった訳だ。まったく、いかにも神様って感じだな」

 

 ミレイユの言い草に、ユミルはちらりと笑った。

 

「そうね、確かに。そう言われると、むしろ部下がやってる可能性は高まったかしら。まぁ、そうすると外敵をわざわざ召喚する意味が分からないけど」

「民には病を癒し傷を癒す善神として信仰されながら、裏では魔物を召喚させている訳か? ……つまりマッチポンプ?」

「どういうコト?」

 

 ミレイユは自分で口にしながら、そうであったらいかに悪辣かと思い至って顔を歪めた。

 事実と決まった訳ではない。最初に自らの想定に捕らわれるようではいけない、と口にしたばかりだが、むしろこれは外れていて欲しいと思う考えだった。

 

「つまり、どちらも信仰を支える大事な金蔓のようなものだ。より深く感謝させる為、あえて脅威を外から呼び出し討伐させる。傷を負えばそれを癒やし、それを感謝させる。敵の中には病や毒を吐き出すような者もいるだろう」

 

 実際、ゴブリンの爪には病毒を引き起こす効果がある。高い熱に加え、筋肉を弛緩させるような病だが、命に関わる程ではない。しかし戦闘を生業とする者には厄介な病でもあった。

 

「それも快癒できるとなれば、その感謝、願い、信仰の力はどれ程のものになるだろうな……」

「あらあら……、それはまた……」

 

 ユミルは絶句して言葉をなくした。

 

 あの日、街に行った時、ビルの屋上から見下ろす影があった。

 単に監視している訳でもなく、結界の出現と共に姿を消した。向かった方向から結界の対処に移動したのだろうと思っていたが、もしそれを出現させたのも対処させたのもオミカゲだとしたら……。

 

 傷の治療、病の治癒も、その信仰を喰らう為に用意されたのだとしたら……。

 善神などとんでもない、吐き気を催す邪神だという事になる。

 そしてその事を知らず、国民は感謝し頭を下げ、信仰を捧げているとしたら――。

 

 これは単なる想定であり、そして想定ゲームのつもりで口に出したものだ。物的証拠も状況証拠も十分とは言えず、難癖に近い推論だろう。

 本当は全く違い、単にミレイユ達の酷い勘違いという可能性は大いにある。

 むしろ、そうであって欲しいとすら思っていた。

 

 ミレイユはグラスを手に取り、一口呷ってから傍らのユミルを見る。

 

「この話は当分、二人の内だけの話としておこう。推論というより暴論に近い内容でもあるしな」

「……まぁ、そうね。もっと穏やかな話になるかと思ってたけど、ちょっと他人には聞かせられない話だわ」

 

 ユミルも納得して同意した。

 

 視線を遠くに伸ばせば、アキラがアヴェリンのフェイントに翻弄されている姿が見えた。

 目で追えるようになったからと、目に頼りすぎているようだ。また、上下の急激な視点移動にも対処出来ていない。だから簡単に足元を掬われて転がされる破目になっている。

 

 まだまだ独り立ちには程遠いな、と思いながら、ミレイユは二人に休憩を勧めるため声を上げた。

 



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魔力と鍛練 その4

 身体中を擦り傷だらけにしたアキラへ椅子を勧め、己の対面となるよう座らせる。ミレイユの隣は定位置としてアヴェリンが座り、用意していた柑橘水を飲ませてやる。

 糖分も塩分も含んでいる水だから、汗だくになったアキラにはさぞ美味く感じるだろう。

 しかし普段から剣術道場など通っているだけあって、素人のように流し込むような飲み方はしなかった。

 

 アヴェリンはそもそも汗など額にうっすら浮かぶ程度で、軽い運動程度にしかなっていない。

 こちらも素直に口をつけたが、やはり水分補給というような飲み方ではなかった。

 

 先程までしていたユミルとの会話など、おくびにも出さずにミレイユはアキラに問うため口を開く。

 今朝ほどから魔術を身に着けたアキラについては、気になる部分があったのだ。

 単なる会話の取っ掛かりぐらいの気持ちだったのに、しかしアキラは恐縮してしまった。

 

「学校の方はどうだった?」

「いや、はい……それが……」

「どうした」

「失敗しました……!」

 

 アキラは苦渋に顔を歪めて言ったが、ミレイユにはそれだけでは伝わらない。

 他の二人も似たようなもので、アキラが何を言いたいのか理解できないようだった。

 ミレイユはアキラの言葉を待ったが、なかなか続きを口にしない。いつまでも待っていられずミレイユから促す。

 

「……それで? 一体、何に失敗したと?」

「今日……体育の授業があったんです」

 

 その一言で、ミレイユは何があったのか察した。

 恐らく、その身体能力を制御できず、一般人では不可能な出来事をやらかしたのだろう。持久走や短距離走で日本記録を破ったとか、そういう超人じみた何かをしたのではないか。

 だが、それぐらいなら別にタイマーの故障とかで誤魔化せそうなものでもある。そうでないとしたら、あるいは球技で何かしてしまったのか……。

 

「うん、それで?」

「バスケだったんです。別に早く走れたりしたところで、ボールが入らなければ得点にならないし、やってるフリで大丈夫かと思ったんです」

 

 そこだけ聞くなら問題がないように思える。

 強い力でシュートを打っても、入らなければ馬鹿力と笑われて終わる話だろう。ディフェンスだって当たり負けしなかったところで脇に躱されたら同じ事。棒立ちだの何だと言われて避難されても、それが怪我させる事につながる訳でもない。

 

 ミレイユはグラスに口を付けながら、頷くようにして続きを促した。

 

「最初は上手くいってました。上手くいってたというか、下手にやっていたというか、とにかく役立たずでお荷物な感じで……」

「下手に押せば怪我させるかもしれないしな、それで良かったんじゃないか?」

「ええ、でも何というか、下手に見せすぎたといいますか……。普段から身体を動かしていますから、やっぱり体育ではそれなりに動けていたんです。それがいきなり動けなくなった訳ですから……」

「体調不良だと思われたのか?」

 

 ミレイユとしては順当な発想だと思ったのだが、アキラは首を横に振った。

 

「いえ、相当煽られまして……。以前、喫茶店で一緒にいた男です。ミレイユ様たちと一緒にいた事にも嫉妬されたというのもあり、僕を抜き去ってシュート決めたのも相当嬉しかったみたいなんですよね。あいつ帰宅部なので、そういう運動系で僕に勝てたこともなかったので」

「ほぅ……」

「僕も我慢したんですけど、やっぱり運動で負けた事がないっていうのは、知らない内に自分を驕らせる部分もあったみたいで……」

 

 ミレイユは嫌な予感がして眉根を寄せた。

 アキラは実直な男で常識もある。下手なことはしないという、ある種の信頼感もあったのだが、普段下に見ている男から虚仮にされて我慢できなくなってしまったのか。

 プライドの問題だから、そこについて何を言うつもりもなかったのだが、続く言葉で思わず言葉を失った。

 

「スリーポイントのサークル外からダンク決めて、ゴールポストを壊しました……」

「お、ま……!」

 

 アヴェリンもユミルも、アキラが何をしたのか理解していなかった。しかしミレイユが絶句したのを見て、事の重大性をにわかに理解したようだ。

 ユミルが思わず、下手に出るような感じで優しく聞いた。

 

「それ、壊したのがマズかったの? ダンクってのが悪かったの?」

「両方、です……」

「あ、そう。両方……」

 

 重々しく返答するアキラに、ユミルは苦みを加えた半笑いで顔を外に向けた。

 

「ボールを奪って床を蹴る直前、行ける、と思ったら止まらなくて……。ダンクを決めたまではいいんですけど、まさか壊してしまうなんて……」

「それ……弁償とか、そういう問題になったのか?」

 

 今のミレイユにとって、そういう突然発生した巨額の出費は絶対に遭遇したくない恐怖だ。ましてや学校設備、決して安いものにはならない。

 ミレイユからの頬をヒクつかせる質問にも、アキラは首を横に振った。

 

「わざと壊した訳じゃないと分かってくれまして……。それは大丈夫でした。ただ、やっぱり周囲の人から変だと思われてしまって……」

「そうなるだろう……。プロの選手だって誰もが出来る事じゃない筈だ」

「マグレだと言って、その場は誤魔化したんですが、やっぱり後から可笑しいんじゃないかという風に盛り上がってしまって……」

 

 アキラはそれきり黙って、重い息を吐いて黙ってしまった。

 アヴェリンも同情めいた視線を向けたが、その全貌を理解してはいないだろう。学校生活や高校生男子にある、ある種の英雄願望などが合わさって、アキラを祭り上げたくなる奴も出てくるかもしれない。

 それが正当な評価か嫉妬の混じった持ち上げかまでは分からない。しかし、それがアキラにとって煩わしい事は間違いないだろう。

 

 アキラが失敗したというのも頷ける。

 十全に力を制御できたとしても、内向魔術は常人から離れた地力を発揮する。未だ不完全なアキラでは、遅かれ早かれ同じ様な目には遭っていただろう。

 かといって学校を休ませる訳にもいかないだろうし、どうすれば良かったのか難しい問題だった。

 

「体育の授業については、今の力を慣れるように使い方を覚えるしかないだろう。アヴェリンとて、お前より遥かに強い力を持つが、お前を粉微塵に砕いたりしていない。上手くやり方を学べ」

「はい……、ですね。慣れないと始まらないですよね……」

「だから、それまでは道場は休め」

 

 ミレイユの頑とした物言いに、アキラは苦渋の顔になお渋みを乗せて縋るような目を向けた。

 

「やっぱり、そうするしかないですかね?」

「お前が敢えて同門の頭を砕いて回りたいというのなら、止めない」

「いや、そんな事にはならないでしょう! 先に竹刀が折れる筈ですし!」

「同じ事だろう。竹刀が折れる程の衝撃を頭に受けてみろ。砕けないまでも、脳震盪でも起こして失神するぞ。それとも、失神させて回りたいのか?」

「……いえ」

 

 アキラが観念したように俯いて否定した。

 アヴェリンの鍛練を受けながらも道場に通うぐらいだから、その道場には強い思い入れがあるのだろうが、どちらにしても怪我させて回れば謹慎、あるいは破門すらあり得る。

 体調不良を言い訳に、しばらく我慢させるしかないだろう。

 

 何と声を掛けたものか迷っていると、アヴェリンは突き放すように言った。

 

「お前が早く制御を学べば済む話だ。元通りとはいかないまでも、元の生活に近づく事は出来る筈だ」

「はい、精進します……」

 

 その声に力はなかったが、それを聞くなりアヴェリンは立ち上がる。

 ついでにアキラの首根っこを掴んで、こちらもまた強制的に立ち上がらせた。

 

「全くお前というやつは、少々焚き付けたくらいではやる気を起こさせるには不十分らしいな。道場に通いたくば、それだけ努力すればいいだけの話だろうが。今から続きをやる、着いてこい」

「あ、師匠、待ってください! ちょっと、まだ水ぜんぜん飲んでな……!」

 

 着いてこいと言いつつ、首根っこを掴んだまま離さないので強制連行になっているが、今はそれでいいのかもしれない。本人は気にしているが、今は気にしていても仕方がない。

 なるようになるしかないし、ならないのならキッパリと諦めるしかないのだ。

 

 ミレイユは遠退いて行く二人を見送りながら、それより卵の代わりをどうしようかと思考を悩ませた。

 



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魔力と鍛練 その5

こちら、二話連続更新の二話目になります。
お読みになる際、ご注意下さい。


 道場の通いがなくなったので、放課後は基本、箱庭で鍛練する事になった。

 理由は幾つかあって、まず以前使っていた原っぱでは棒を振り回す危険人物がいる、と噂になってしまった事が挙げられる。流石にそれを無理して続けるのは危険かもしれないと、場所を移す必要を求められた。

 

 他には、移動する面倒を失くせるという利点もある。

 後はマナのある環境の方が魔力総量を鍛えられるから、という理由が挙げられる。

 

 だから今も、アキラはアヴェリンに注意されながら呼吸を整えて武器を振るっていた。マナを吸収しながら戦う事は、普通なら生まれながらにしているもので意図して行うものではない。

 しかし当然ながらアキラにそれは出来ないので、呼吸が乱れれば都度指摘して矯正させねばならなかった。

 

 これは続ける内に自然と身に付くからいいとして、問題は魔力総量を増やす事だった。

 アキラがついに倒れたのを見て、休憩がてらいつもの様に用意した椅子へ招待してやる。当然、アヴェリンも一緒に着いてきて、束の間の休憩時間を共に過ごすことになった。

 

 今日はユミルの他にルチアもいて、アキラが吹き飛ばされるのを肴に談笑しているところだった。

 アキラがゆらゆらとした覚束ない足取りで椅子に座るのを見て、ユミルは昨日と同じような柑橘水を勧めてやる。

 喉を鳴らして一口飲み、そして幾度か呼吸を繰り返した後にもう一つ口をつける。

 暫くして落ち着いてきたのを見て、ミレイユは微かに笑んでアキラに声を掛けた。

 

「なかなか苦戦しているようだな」

「それはもう……。呼吸するのとマナの吸収は全く別の感覚で……、本来はこれ一つの動作なんですよね?」

「そうだな。……むしろ、動作という感覚すらなく行っている、というのが正解という気がするんだが。どうだ、ルチア?」

 

 ユミルを挟んで隣に座るルチアへ声をかければ、頷きと共に声が返ってくる。

 

「そうですね。本来、呼吸と吸収は同一のものです。分けて考える事すらしないのが一般的かと」

「やっぱり、そうなんですね。聞いてはいたんですけど、どうも……。上手くいかないのはコツを掴んでないせいかと思ったんですけど、そういうんじゃなさそうですね……」

「まぁ、今はむしろ無理させて余計に吸収させてる状態だから、余計に違う感覚になってるのかもね」

 

 ユミルが口を挟めば、アキラは首を傾げた。

 アヴェリンの一撃を受け止めたり、あるいはその動きに対応する為、魔力を使って動いているという感覚はあるのだろうが、それに消費する魔力は微々たるものだ。

 内向魔術に魔力がいらないと勘違いする無知な者すらいるくらいなので、アキラが疑問に思うのも無理はなかった。

 つまり、それほど意識なく意図なく使うもの、という事なのだが、それすらアキラにはまだ理解できないだろう。

 

 他の誰かが続きを言うつもりがないのを見て、仕方なしにミレイユが口を開く。

 

「お前の魔力総量にはまだ伸び代がある。そちらも同時に行っているから酷く疲れるんだろうし、慣れないことをしているからこそ、息も乱れるんだろう」

「そうなんですか? それ、別々にやる訳にはいかないんですか?」

「その辺はアヴェリンに一任しているから、詳しくはそっちに聞け」

 

 言われるままにアキラはアヴェリンへ顔を向ければ、隣に座るアヴェリンは鬱陶しそうに手を振って腕を組む。

 

「単に効率的な方法を選んだだけだ。いつまでもチンタラ教えていられないしな」

「それで逆に非効率になったら意味ないんじゃ……。誰だって師匠みたく優秀な訳じゃないですし」

「確かにな」アヴェリンは鼻を慣らした。「お前は優秀ではないが、諦めだけはしない男だ。なればこそ、生温い方法は選ぶ必要がないと考えた」

 

 ユミルは嫌らしい笑みを浮かべて、やる気のないぺちぺちとした拍手を送った。

 

「いいわねぇ、その考え。このまま続ければ、その内アキラの発狂する姿も拝めるしね?」

「そんなハードな事されてるんですか!?」

「自分で受けてて、そのくらいも分からなかったの? 才気溢れて未来を渇望される若者でもなければ、要求されないレベルを押し付けられてるわよ、アンタ」

 

 ユミルが呆れた表情で人差し指を向けるのを見て、アキラは今更ながらに顔を青くした。

 アヴェリンは素知らぬ顔だが、何かフォローが必要かと思ったミレイユは、ルチアに声を掛けてやる。

 

「何か有用なアドバイスでもしてやれ。ルチア、お前なら何か知ってるんじゃないか?」

「そうですね……」

 

 突然水を向けられたルチアだったが、考えるような仕草はすぐに解いた。今まで共にアキラの鍛練風景を見ていたので、何か思い当たる節でもあったのかもしれない。

 

「前提として、まだ不完全な魔力総量の上限を伸ばす事と、安定したマナ吸収量を獲得する事、その両立をしようとしているのが間違いではないかと」

「……そうなのか?」

 

 アヴェリンが訊けば、ルチアは頷く。アキラの方には目も向けないが、しかしその力量についての分析は済ませていたようだ。

 

「どちらか一方に絞るべきです。器用な様には見えませんし、魔力総量を上げる効率的な方法というのも、この人には向いてないでしょうしね」

「ふむ……」

 

 アヴェリンはちらりとアキラに目を向ければ、アキラは恐縮するように身を縮めた。

 ルチアは淡々とした表情で続ける。

 

「魔力総量は筋肉というより骨格です。年齢や成長と共に伸びる骨と、全く同一という訳ではありませんが、身近に例えるとそうなります」

「しかし、鍛えて増えるのもまた魔力というものではないか?」

「そうですね、違うのは伸びた後は縮まないという点です。筋肉は一度鍛えた後でも維持する為の運動が必要になりますが、骨格にそういった問題はありません。それに密度という部分が、より魔力に近しい性質を持ってますし」

 

 アキラは納得していないが、話の内容を理解できるミレイユなどは頷いていた。

 確かに筋力は放っておけば、あっという間に脂肪に変わる。一年鍛えた者が半年何もしないだけで、見て分かる程の肥満体になるようなケースもある。

 

 そこのところを考えれば、確かに魔力にそういった変異はないし、骨のように魔力にも密度というものがある。魔力は骨と違って割って確認する事はできないものの、同じ魔力総量を持つ二人でも、遣った魔術の威力が変わるのはこの魔力密度――あるいは濃度の差にこそある。

 

「なので、総量を上げるというなら今のような休憩時間中にして、鍛練している時は吸収量の上昇を鍛える、というのが良いと思います」

「……なるほどな。助力、感謝する」

「どういたしまして」

 

 ルチアはにっこりと笑ってグラスに口をつけた。

 アヴェリンも満足げに頷いて、新しい鍛練プランを考え始めたようだ。しかしそこに待ったをかけたのが一人だけいた。

 

「ちょっとお待ちを! それはつまり、僕に休憩時間がなくなるって事ですか!?」

「何を言う。今もこうして座ったり水を飲んだりしているではないか。これからは、そこにちょっとした鍛練が加わるぐらいのものだ。骨休めには違いない」

「その骨に負担かけようっていうのに、骨休めってのが笑えるわ」

 

 ユミルがにこやかに笑みを浮かべてアキラを見た。アキラの表情は驚愕に染まっている。

 

「え、骨っていうのはあくまで例えであって、実際は違うんですよね? 魔力は骨に宿るとか、そういう話じゃないですよね?」

「勿論、違うわよ。あくまで例えよ、例え。でもほら、成長期に骨が伸びる時も痛みが伴ったりするじゃない? 急激に伸びる子なんて、痛くて眠れないなんて言うじゃないの」

「それは……はい。僕の同級生にも、そういうの言ってた奴いましたが。夏休み明けに十センチ身長伸ばしたような奴が」

 

 ね、とユミルは笑む。綺麗な笑みだが、その瞳の奥は決して笑っていなかった。加虐的な色が濃く映っている。

 

「魔力総量を上げるにも、身長と同じように限界がある。鍛えた分だけ伸びるなんてものじゃない。筋力を鍛える時も苦しいかもしれないけど、魔力を鍛えるなら痛みを伴うのよ」

「う、うぅ……! それは、どうしても……?」

「いいえ、あくまで急激に伸ばそうとした場合よ。自然に任せるよう伸ばせば、痛いとは思っても気にしないレベルじゃない?」

 

 アキラはそれに一瞬の光明を見たようだが、ユミルの視線に気づいて顔が歪んだ。次いでアヴェリンに顔を移して、また歪める。

 

「因みに……拒否権は」

「あると思っているなら言ってみろ」

「いえ、いいです……」

 

 アヴェリンの視線も合わさぬ物言いに、説得は不可能だと早々に悟ったようだ。

 肩を落としたアキラに、相変わらずの笑顔を見せるユミルが告げた。

 

「安心なさいな。身長と同じって言ったでしょ? 剣の鍛錬みたいに終わりのない世界って訳じゃないんだから、さっさと済ませて上限まで鍛えちゃえばいいのよ」

「あ、そうですよね! それなら……!」

 

 ミレイユは静かに目を閉じて、アキラの表情を見ないように努めた。

 どうも明るい未来を見せた後に、暗い未来を提示するのはユミルの好みになりつつある。元よりその傾向はあったものの、困難な壁があってもミレイユ達なら力づくで突破してしまうので、そういった表情を楽しむ事などなかったのだ。

 しかしアキラの表情はよく変わる。絶望に染まる表情がユミルは大変お気に召したようだった。

 

「うんうん、これから続く半年間、その痛みに耐えましょうねぇ……?」

「はん……年?」

「アンタの伸び代次第じゃ、もっとかもね。最低で半年、最大で三年かしら」

「さんねん!!!」

 

 アキラの声は、絶叫のそれと違いがなかった。

 ミレイユは目を閉じていたのでその姿は見えなかったが、その表情は声から察する事は出来る。さぞ青い顔して絶望を表す顔をしている事だろう。

 

「でもまぁ、伴う痛みなんて精々骨折した時くらいよ。それで魔力が伸びるなんて、むしろお得でお釣りが来るってモンよねぇ」

「いや、滅茶苦茶痛いじゃないですか! え、そんなの泣き叫ぶレベルじゃないですか? お得? ……頭おかしいのか?」

 

 思わず言葉が乱暴になってしまったアキラに、すかさずアヴェリンから一撃が飛んだ。頭を平手打ちするような音が耳を拾って、それでミレイユは目を開いた。

 思ったとおり、頭の後ろを抑えてテーブルの上でアキラが蹲っている。隣を見てみれば、満足そうな顔を見せて、口の端を吊り上げるユミルがいた。

 

 顔を上げたアキラが涙目をしながら、縋るような目でミレイユを見る。

 

「これ、本当なんですか? そんな痛み、本当に休憩中ずっと味わい続けなきゃいけないんですか?」

「……どうだろうな。私から言える事は何もない」

「そんな事言わず……、何か一つくらいあるでしょう?」

「厚かましいぞ。ミレイ様に迷惑をかけるな」

 

 アヴェリンがすかさずアキラを注意したが、ミレイユは特別気にしなかった。縋りたくなる気持ちは分かるが、助けてやれる事はない。

 これは別に見放している訳でも興味がない訳でもない。無理解な部分はあるが、決して否定的な感情から生まれるものではなかった。

 

「私はお前が思っているほど魔力を知らないんだ。だから教えられるものはない」

 

 これを告白するのは結構な勇気が必要だったが、隣に座るユミル達は呆れた声で聞こえるように嘲った。

 

「……ねぇ、どう思う?」

「笑ったものか呆れたものか、どうしたらいいか反応に困りますね」

 

 二人の反応を見て、アキラは再びミレイユに顔を向けてきた。

 しかし、そんな事をされても有用な助言など出来るとは思えない。どう言ったものかと頭を悩ませ、遠く晴れる空に視線を転じた。

 



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魔力と鍛練 その6

 何を言うべきか頭を悩ませ、結局飾った言葉では意味もないだろうと、事実の通りを口に出した。

 

「私はそういった魔力で苦労した覚えはないから、お前に役立つ助言は出来ない。それしかないと他が言うなら受け入れろ」

「う、ぐぅ……!」

 

 アキラは胸を撃ち抜かれたように手で抑え、それから悲壮感を滲ませて呻くように言った。

 

「いいですよね、才能ある人って……。きっと、ミレイユ様は何でも出来て、剣も出来て魔術も出来たんですよね? 多分、誰もが頼るような人だったんでしょう? 羨ましいです……」

「……人は、自分にないものを求めるものだからな」

 

 ミレイユの無理解で突き放すような一言は、アキラの自尊心を傷つけたようだった。普段ならそこで終わる会話が、アキラの恨めしそうな一言で続く。

 

「でも、ミレイユ様が他に求めるものなんてないでしょう? 何も羨むものがない人生って、すごく恵まれてますよ」

「貴様が知ったようにミレイ様を語るな」

 

 今度は平手ではなく拳でアキラの頭を殴りつける。

 痛みに顔を歪めてミレイユを見る目は、明らかに嫉妬と羨望が渦巻いていた。無いものが有るものを求める、ごく自然的な目だった。

 ミレイユはそれを不躾だとは思わない。むしろ、アキラはいい子過ぎると思っていたので、その心の内が少しでも見れて安心した程だった。

 

 アキラから即座の謝罪が返ってこない事に、アヴェリンが激昂しようとした時だった。

 ミレイユが手を挙げてアヴェリンを視線と共に黙らせる。

 それからアキラに視線を合わせて、微かに微笑んだ。

 

「私が羨ましいか。私は他に羨むものはないか。……本当にそう思うか?」

「う……、いや、その……」

 

 アキラも今更ながら、自分がどれほど無礼だったのか気づいたのだろう。目を泳がせて、しどろもどろになったアキラに、ミレイユはあくまで優しい声音で接する。

 

「人は自分にないものを羨む、というのは真理だと思う。私も……お前が羨ましいと思う。お前という個人より……凡人という括りかもしれないが」

「そんな……! 貴女のような人が、僕らみたいな人間を羨む事なんてあるんですか?」

 

 アキラは驚愕したが、同時にミレイユがあくまで自分に合わせて慰めを言っているとも思ったようだ。

 アヴェリンとルチアは何の反応も示さないが、これは無関心というよりも、その心の内を察しての事だろう。静かにグラスを傾けている。

 ユミルも同じく察していてもおかしくないが、興味深いものを見る視線を向けていた。

 

「あるとも。才能がなければ、平穏な人生を歩めたと思うからな」

「それは……」

「物語の主人公は、いつだって強いものだろう。あるいは、途中から強くなっていくのかもしれないが、どちらにしても最後にはやはり強者として君臨するものだ」

「ええ、はい……」

「場合によっては、頼りになる仲間の支えあればこそ、という話になるのかもしれないが……」

 

 そう言って、ミレイユはアヴェリンを始めとして、他の面々に優しい笑顔を向けていく。それぞれが違う反応でミレイユに笑顔を返し、それでアキラに向き直る。

 

「あるいは凡人を集めて数で補うかな。……そうだな、そういうパターンもあるかもしれない。だが基本的に、強者へ(おもね)るような、あるいは頼りにするような事はあっても、弱者にはしない」

「それが……苦痛だったんですか?」

 

 その一言に、ミレイユは虚を突かれたような気がした。

 苦痛というのは間違いではない気がする。しかし正解でもなかった。時に弱者を助ける事は、ミレイユにとっても心を温かくしてくれた。それらを助けること全てが苦痛という訳ではなかった。

 蔑ろにしたい訳でもなかったが、何より自分より優先したい事ではなかったのも事実だった。

 

「そうだな……、苦痛ではなかったが苦慮には思っていた」

 

 アキラの顔が不理解に傾くのを見て、言い方を変える。

 

「つまり……上手く解決できれば良いが、その全てに正しく対応できるとは限らないだろう? もし私が失敗したら? 頼りにした者が不利益を被ったら? お前ならどう思う?」

「それは……相手だって失敗も折り込み済みで頼むのではないですか? それとも絶対成功しますという宣伝でもして受けていたんですか?」

 

 ミレイユは苦笑して否定した。

 アキラが想像するのはファンタジー世界の冒険者や、その依頼引き受けなどだろう。

 ミレイユが想定したのも、一概にはそうだ。多くは必ず成功する、解決する前提で依頼などしない。して欲しいという気持ちは誰もが同じだろうが、それでも現代日本の科学捜査のように、信頼ある背景を元に頼むものではない。

 

 むしろギャンブルのような要素が強いものだ。一般的に冒険者はならず者と変わらないし、信頼出来る相手は限られる。だから実力も信頼も両立している者は重宝されるのだが、誰もが同じ場所に留まる訳でもないし、ミレイユのように常に移動を続ける者も多い。

 

「絶対成功を売りにした事はないが、失敗した事もなければ頼りにして当然と思われるものだ。金に糸目をつけず成功率を少しでも上げたいと思ったら、お前ならどうする?」

「それはやっぱり、より高い実力者に頼みます。あるいは複数雇って成功率を高めるとか……」

「そうだな」

 

 ミレイユは我が意を得たりと頷いた。

 アキラも言いたいことが分かったようだ。実力者に任せれば確実、あるいは任せるべきという流れがあるなら、ミレイユのような実力者を放って置くわけがない。理由、内容次第で断られるとしても、まず頼んでみようとする。

 

「頼られるのも、度が過ぎると窮屈だって事ですか? 頼られ過ぎて休む暇もないなら、確かにそうかもしれませんが……」

「依頼主が権力者などの類で、例え普通なら断れないタイプであったとして、そんな事は私に関係なかった。金を払い、違法性がなければ絶対受ける、というものでもないしな。誰に仕えている訳でもないからこそ、己の腕だけで生きるからこそ、そういった自由はある」

「そうなんですね。じゃあ、一体……?」

 

 実際、領主の依頼を断れば、後々不利益が被る事はある。しかし、そこを詳しく掘り返して説明する必要はないだろう。そもそも、それは本題とは程遠い。

 ミレイユはそろそろ勿体ぶるのはやめよう、と口を開いた。

 

「凡人では不可能で、才能ある者でも可能か分からないから私に頼もうと考える訳だ。つまりそれは、高難度で命を落とす危険が高いもの、という意味になる」

「あー……、でも、断れるんですよね? 嫌なら断る自由もあるんでしょう?」

「それが領主や国王程度の輩ならそうする」

「王様ですら、輩扱いですか……」

 

 アキラは半笑いで顔を引くつかせたが、実際ミレイユ達にとって国王の扱いなどそのようなものだった。強者にも権力者にも阿る事をしないからこそ、ミレイユ達は頼りにされていた。

 

「時にその強さや名声は天まで届く。そうすると、次に声を掛けてくるのは神となる」

「神さま……? え、文字通り天まで届いちゃったんですか!?」

 

 ミレイユは頷く。渋々ながら、嫌々ながら、眉根を寄せて頷いた。

 

「私の目的事態に合致するから、神に声を掛けられたのは別に良かった」

「とんでもない事言いますね」

「しかし、私の失敗一つで世界が滅びるような命令を受けるのは不愉快極まりなかった」

「そ、れは……! 神さまが自分でやったりしないんですか、そういうの」

 

 アキラが絶句して内容を深く聞こうとして、思わずユミルが口を挟んだ。

 

「神っていうのは基本的に面倒くさがり屋なの。思いつきで国を混乱に陥れるような事はしても、国の危機に腰を上げるような事は滅多に無い。だから有望な者に任せようとするのよ」

「いや、だって世界が滅びようとする瀬戸際なんでしょう? 神様が動くほうが確実じゃないですか?」

「馬鹿ねぇ、そうしたら本当にあっという間に解決しちゃうじゃない。神はいつだって娯楽に飢えているの。本当に駄目なら動くけど、そうなる前に楽しくなりそうに形を整えようとする」

 

 アキラは明らかに顔を顰めて息を吐いた。ユミルも唾棄するような顔つきで顔を背けた。

 ミレイユもまた苦い笑みを浮かべて続ける。

 

「単に生きるに便利な力量がある程度なら良かった。アキラ、私の言っている意味が分かるだろう。世界と人類の命運を賭けた戦いなど、体験するものじゃないぞ」

「それは……分かります。すごく分かります」

「――だが、ミレイ様は見事成し遂げた! いつだって、どのような強敵だとて、決して背を向け逃げるような真似はしなかった!」

 

 今までミレイユの話に口を挟むまいとしていたアヴェリンだったが、この話題にはついに黙っていられなくなったようだ。拳を握って熱く熱弁しようとする彼女を、ユミルが諌めるようにして止める。

 

「ほら、そういう話は今はいいから」

「だが、ミレイ様の(いさおし)だ! 後世に語り継ぐべき英雄譚だぞ! アキラも知りたいに違いない」

 

 アヴェリンが睨み付けるように高らかに言えば、アキラも頷いて続きを催促している。これは形ばかりのものではなく、本心からそう思っているようだった。

 しかし、本題とはかけ離れている上に、音速でかけ離れていこうとしている様を黙ってみているミレイユではなかった。

 

「アヴェリン、それはまた今度にしろ。いや、いっそ話して欲しくないぐらいだが、とにかく今は駄目だ」

「……分かりました」

 

 アヴェリンにしては珍しく、不承不承といった態度で口を閉じる。最近は鳴りを潜めたとはいえ、機会があればこうしてミレイユを称賛し、また喧伝しようとする。

 ミレイユが変に知名度が高かったのも、彼女の喧伝グセがあったのではないかと疑っている。

 

 それとはともかく、とミレイユは続けた。

 

「私が凡人に持つ羨みとは、そういうものだ。だが同時に、力なくして日本に帰っても来れなかった。痛し痒しといったところで、今になってもどう考えればいいか困るがな……」

「それは一体、どうして、というかどうやって……?」

「それは話すと長い。それに話したくもない」

 

 ミレイユがピシャリと断って、語気の強さにアキラも黙った。

 一度会話が途切れたところでアヴェリンが立ち上がり、アキラもまた立つよう促した。

 

「もう十分休憩は取れた、続きをやるぞ。休憩中の鍛練については、またルチアに詳しく方法を聞いておく」

「ええ、こちらでも出来の悪い子専用のやり方でも考えておきますよ」

「――助かる」

「え、やっぱりやるんですか!? なんか有耶無耶になって無かった事になったんじゃ……!?」

「一体、いつ誰がそんなことを言った」

「いや、でも、ミレイユ様……?」

 

 縋り付くようにテーブルに身を乗り出して懇願しようとしたアキラだったが、その前にアヴェリンが首根っこを掴み連れて行ってしまった。

 泣いて許しを請う姿を見て哀れに思っていると、隣のユミルは実に楽しそうな笑顔を浮かべた。

 アキラの受難は終わりそうにない――というより、今まさに始まったばかりなのかもしれない、と思った。

 



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魔力と鍛練 その7

こちら、二話連続更新の二話目になります。
お読みになる際、ご注意下さい。


 その日の鍛練も終わり、夕食も済ませて食後の一服を楽しんでいた時、アキラが改めて箱庭に入ってきた。

 

 いつものように一緒にと思ったのだが、アキラもあまり連日で誘うと恐縮するし、ルチアを始めとして嫌がるメンバーもいる。だから一度、食事をさせる為に帰していた。

 アキラにしても使わないと腐らせてしまう食材は冷蔵庫にあるだろうから、実際頻繁に誘いすぎても迷惑になるのかもしれない。

 

 ミレイユ達はダイニングから場所を移動し、談話室に入る。

 テーブルや椅子は勿論あるが、部屋の一角には背の低い柵のような手摺りに囲まれていて、その中は基本的にクッションに身を預けて座るような空間になっている。

 

 椅子はなく、上品そうなカーペットのみが敷いてある場所だった。

 その上で壁を背にクッションへ身を預けるもよし、大きなクッションに寝転がるもよし、というより砕けた姿勢で寛ぐ空間として用意されている。

 

 アキラをその中に招きながら、ミレイユはお気に入りのクッションが置いてある場所へ一番に辿り着く。そのクッションに背を預け、下品にならない程度に足を伸ばした。

 アヴェリンはいつもミレイユの隣に座るので、更にその隣にアキラが座り、そのアキラの隣をユミルが選んだ。隣りに座ったのがユミルだと分かると、アキラは明らかに怯んだが、口や態度で拒否を示しても、どうせユミルは従わない。それを分かっているから、嫌そうな顔をしてもそれ以上は何も言わなかった。

 

 ルチアはアヴェリンとは反対側、ミレイユを挟み込むようにして座る。彼女は特別決まった位置というものを持たず、その日の気分で場所を選ぶ。今日のところはミレイユの横にしたようだ。

 アキラからより遠い場所を選んだ、というようにも見えたが、それは流石に穿ち過ぎだろう。

 

 全員が揃ったところで、別に改まって話すような事もなかった。

 ユミルが言っていた魔力総量の鍛錬法も始めるにしては早すぎるし、やるならやるで、こんな場所は選ばない。単にアキラを含めて親睦を深められたらいい、という程度の気持ちだったから、ミレイユとしては適当に始まる雑談に混ざろうというつもりでいた。

 

 そうして実際、ユミルが一番最初に取り留めもない会話を始め、アキラにちょっかいを掛けていく。それをアキラがあしらい、時にアヴェリンに助けを求めつつも袖にされ、そうしてミレイユがそれを見ながら笑うという展開が続く。

 

 そうして時間が過ぎて暫く、ルチアが何か飲み物を用意すると席を立った。それを見送りがてら、アキラが何気ない口調で言った。

 

「今日も魔力……というか剣の鍛練というか、そういう基礎的な訓練をしていて思ったんですけど」

「ふん……?」

 

 別に不満があるような物言いではなかった、しかし敏感に反応したアヴェリンが眉を上げた。

 

「何か気になる事でもあったか」

「気になるというか、なんか惜しいというか、そんな気分になってしまいまして」

「惜しむ? 惜しむ程に失う事なんか、この鍛練の間にあったか?」

「いえ、この鍛練は凄く有意義だと思いますし、魔力に慣れるにつれて実力が伸びている実感も湧いています。でも、その魔力に慣れるにつれて、やっぱり思ってしまうんです」

 

 そこまで言って、ユミルは察したように流し目を向けた。それからアキラの肩に手を置いて、小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。

 

「アンタ、パッと見じゃ分からない内向魔術より、見た目が分かりやすくて派手な魔術が使いたいって思ったんでしょ」

「いやまぁ、身も蓋もない事を言えばそうなるんですけど……。でも、今の内向魔術に不満があるっていう意味じゃありませんよ!」

 

 アキラが力説して、アヴェリンも眉に寄せていた力を抜いた。

 ミレイユとしても、アキラの言いたい事は分かる。これは別に世界が違ったところで変わらない価値観だろう。単に武術の延長として見られがちな内向魔術より、様々な魔術を駆使して戦況を盛り立てる外向魔術の方が見栄えする。

 自分もそうなりたい、と思うのは不思議な事ではない。

 しかし――。

 

「アンタ自身、無理そうだからって自分から諦めたんじゃない」

「それはそうなんですけど……」

 

 ユミルの指摘に、消沈するように頷いた。

 現在に不満がない、というアキラの気持ちに嘘がないのは、ミレイユとしても理解している。しかし魔力の扱いの習熟と共に、もしかしたら、を考えずにはいられないのだろう。

 

 魔法使いというのはフィクションにはありふれた存在で、ファンタジーを扱うコンテンツならば必ずそれか、あるいは近しい存在が登場する。

 時に主人公として、時に主人公を支える名脇役として、映画や漫画、テレビなどで見ては、その活躍を目にしてきたのだ。

 実は自分にも可能だ、と分かってしまえば、それを手にしてみたいと思うのはむしろ自然だった。

 

 だがやはり、そこには習得の難しさ、そして習得してから実際に使用する難しさが壁になる。

 覚えたからとて、誰もが使える訳ではない。

 そして使ってみようと点穴を開き、そして自分には無理だと思っても、そこから内向魔術に再び転向したら、点穴一つ開けただけ弱体化した自分に戻るだけ。

 

 そして内向魔術士として突き詰めていくと、点穴一つ分の負担というのは、決して小さくないのだ。それでむしろ使い勝手が良くなったアヴェリンなど、例外中の例外でしかない。

 

 今はただ夢見ているだけ、夢見がちな状態だ、というのがミレイユの感想だった。

 まだ入り口に立っただけ、これから魔術を深く知るにつけ、自分の無理解、不勉強を知れるだろう。そうした時、改めて挑戦したいというならいいだろうし、自分には向かないと内向魔術を突き詰めて行くなら、そうした方がいい。

 

 決めるのは自分だからミレイユから何を言うつもりもないが、しかし一つの興味としてどのような魔術を使いたいと思っているのか、それだけでも聞いてみようという気になった。

 

「それじゃあ、一つ聞かせてくれ」

「ミレイユ様……?」

 

 何か期待めいた視線を向けてきたので、ミレイユは笑って手を振り、そうではないと否定しながら続けた。

 

「例えば、お前ならどんな魔術を使いたい?」

「あら、それって確かに気になるわねぇ」

「でも、どんなと言われても……ミレイユ様とか、そんなに魔術見せてくれてないじゃないですか」

 

 突然の指摘に焦ったような態度を見せるアキラだったが、その言い分もまた真っ当に思えた。どう言ったものかと考えているところに、各種飲料を持ってルチアが帰ってきた。

 手には一応、落としたら拙いカップなどを持っているが、ワインのボトルやティーポットなど重たいものは魔術で浮かせて連れてきている。

 それらをテーブルに一通り並べて、あとは好きなものを自分でどうぞ、というスタイルだった。

 

 ミレイユにだけはルチアも自分の席に座るついでに持ってきている。

 コーヒーを好んで飲むが、別に他のものには目もくれない、という訳ではない。あるものは基本的に何でも飲む。今回はルチアが最近ハマりだしたミルクティーだった。

 世にはミルクが先か後かで論争が発展するらしいが、そこに拘りを持たないミレイユは、素直に受け取って口をつける。

 

 隣のルチアも一口飲んで顔を綻ばせていて、茶葉も決して安いものではないのだが、この笑顔が見られるなら安いものだと思えた。

 

 それぞれが好きな飲物を持って元の席に戻るのを皮切りに、再び話題が魔術に戻る。

 部屋に戻って来たばかりのルチアにも簡単に経緯を説明し、それで小さく笑ってアキラを見た。

 

「それは興味深いですね。……一体どういう魔術をお望みで? 高望みじゃないといいですけど」

 

 その言葉には若干の棘があったが、事実でもあった。かつて、己の力量を弁えず身を滅ぼした魔術士は幾らでもいる。この質問一つで、その傾向が垣間見えるかもしれない。

 アキラは若干の気後れを見せつつ、頭を捻って腕を組んだ。

 

「さっきも言ったんですけどね、どういう魔術があるか、魔術でどういった事が引き起こせるのか、その辺からしてサッパリで……」

「口にするだけしてみればいいですよ。よほど馬鹿な事じゃない限り、おおよそ人が想像出来るような事は出来ると思っていいですし」

「そうなんですね、それじゃ……」

 

 安心して息を吐いたアキラは、若干恥ずかしい表情をしながら口を開き――、そして部屋の空気を凍りつかせた。

 

「僕、空を飛んでみたいです」

「……ん?」

「……聞き間違い?」

 

 誰もが視線をアキラへ集中させ、訝しむような表情を見せた。

 アキラとしても、このような反応は予想外だったのは、その表情を見ればよく分かる。これは倫理観や価値観の違いというより、完全に常識の違いだろう。

 笑い飛ばされた方がマシだった、とその顔に書いてある。

 そこへユミルが、ワインのグラス片手に胡乱げな視線で問いかけた。

 

「……なんで空なの?」

「いや、何故と言われても……。飛べたらいいなぁ、と思っただけで……」

「まさか、よほどの馬鹿な発言を聞けるとは思いませんでした」

 

 辛辣な言葉はルチアからだった。馬鹿にするというより、恐ろしいものを見るような目をしていた。

 アヴェリンも似たようなもので、そこには無知を責めるような、呆れるような目を向けるだけで、何か言おうとはしない。

 ミレイユはこの中で唯一アキラの気持ちを代弁できる人間で、だから場を取り成すように大袈裟な身振りで手を振った。

 

「アキラは単に知らなかっただけだ。……それに、こっちの世界じゃ魔術士だとか魔法使いは、空を飛ぶと決まっている様なものだしな」

「――そう! そうです、物語によっては魔法使いじゃなくても空を飛びますし、フィクションじゃありふれた設定なんです」

 

 アキラも一瞬で死んだ空気を取り戻そうと必死だった。

 迂闊な事を言ったとはいえ、まさか軽い雑談から、そのような反応が返ってくるとは思いもしなかっただろう。その気持ちはミレイユにもよく分かるから、助け舟を出すのに苦労はなかった。

 

「そう、非常にありふれた設定だ。魔術が出るなら、空を飛ぶモノも同時に出る。そういうものだ」

「え……? 飛ぶの、魔術士が? ――飛ばないでしょ」

「あくまでこっちの常識だ。魔術士がいないから、そういう妄想をこじらせたというだけで、例えば箒に乗って空を飛ぶ姿というのは非常に一般的で……」

「箒? 何で箒に? ……あ、掃除用具とは違う意味のホウキですか?」

「いや、その箒だ」

 

 ユミルから、そしてルチアからと、奇異なものを見る目で質問が飛んだ。最終的には拒絶に近い反応が返ってきて、特に箒の件は決定的だった。

 理解不能の単語を羅列されたかのような塩梅で、視線の中にも拒絶の意志が感じられた。

 その空気はもはや修復不可能で、アキラも相当に参った表情で頭を掻いた。

 



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魔力と鍛練 その8

「……いや、まさかこんな反応されるなんて思わなくて……。精々、悪くても自分には無理だとか馬鹿にされる程度だと……」

「まぁ、そう考えるのが自然だろうな……」

「でも、なんで空は飛ばないものなんですか? 人類だって空を飛ぶ事を夢見て飛行機作ったんですし、そういう考えって自然に生まれて、だから魔術でやろうってなりそうなものですけど」

 

 アキラの疑問は最もだった。ミレイユは首肯し、胸の下で腕を組んではどう説明したものか悩んだ。

 

「……そうだな、まず空――というか天は神の領域だ。飛ぶというなら、そこへ無断で侵入する事になってしまう」

「土足で他人の家に入ってしまうようなものですか?」

「不法侵入よりも、むしろ不法入国の方が近い。何も盗らなければ軽い罪で済むが、国への侵入はそういう訳にはいかない」

「それは……なるほど。じゃあ神様は雲の上に住んでるんですか? あるいは空に浮かぶ島があるとか?」

 

 アキラの疑問にユミルが呆れて声を出した。死んだ空気は幾らか弛緩したが、しかし呆れる色はより濃くなったように思う。ルチアの視線も柔らかくなっているが、それでも珍獣を見るような目つきで、友好的とは言い難い。

 

「アンタって、まるで子供のような事を言うのねぇ。子供だって弁えていれば、そんなコト言わないけど。――いいこと? まず、空を飛ぶっていう行為事態、神以外には許されないの」

 

 ユミルは指を一本立て、ワインのグラスをくゆらせた。

 

「宙に浮き、空を飛ぶのは神の権能。何者にも冒されない、神の権利なのよ。だから、神以外がそれの真似事をすれば、つまり神への冒涜に繋がるワケ」

「冒涜……、空を飛ぶことが?」

「まぁ、許されるのは精々、地面から浮くぐらいのもので、走る速度以上で動いても駄目」

「厳しいんですね……」

 

 アキラもアキラで、空を飛ぶ事に、そのような制約があるとはおもわなかっただろう。どこかの台詞に、空は誰のものでもない、という言葉があった。空は自由だ、とかそういう美辞麗句を飾って感動を誘うようなシーンもあった気がする。

 

 領空というものがあるので、実際のところどこまでも好きに飛べる訳でもないし、そういう意図を持った台詞でないのだとしても、人は確かに空にロマンと自由を求めるものだ。

 

 日本で暮らしていれば、そういった言葉は一度くらい耳にした事があるだろう。

 アキラもまたそういう軽い気持ちで、もし出来たらいいな、と思った程度なのだろうが、実際に神がいる世界において許される行為ではなかった。

 

「神がどこに住んでいるのか、それは誰も詳しい事を知らないが、恐らく空に住んでいる訳ではないだろうな」

「そうなんですか?」

「雲の上で寝転んだり、空に浮かぶ島に住んでいる訳でもないのは確かだ。……いや、どうかな。もしかしたら、島かどうかは分からないが、空の上に住んでいるのかも」

 

 ミレイユが思わせぶりな台詞を言ったが、即座にユミルから否定された。その視線には隠そうともしない呆れが見え、隣のルチアからも同様の視線が向けられていた。

 

「あるワケないでしょ。神が逆撃を喰らうような可能性は残さないわ。万が一にも手出し出来ない場所にいるんだから、空の上なんて手出し可能な場所に住むもんですか」

「でも、地上を見下ろす時にだけ、単に足場として用意してるなら理解できそうな話じゃないですか?」

 

 ルチアの指摘にユミルは首を傾げ、それから何度かワインをグラスの中で転がした後に頷いた。

 

「有り得ない話ではないかもね。神は基本的に別次元に住んでいるとされるけど、地上に降臨する事もあるし、そういう場合、一時的に身を寄せる場として用意するなら地上よりも空を選ぶのかも」

「お前の言う、万が一にも、という話が本当なら、だから空を飛ぶ事も禁忌指定されたんじゃないのか」

「そうね……、そうかも。ま、とはいえ考えても仕方ないわね、こんなコト」

 

 ミレイユの指摘に笑って答えて、ユミルはグラスの中のワインを飲み干す。

 実際、この世にいない神について考えを巡らせても仕方ないというのは同意する。しかし小さな引っ掛かりを覚えて気になるのだ。

 空を飛ぶ事を禁止し、神の権能として周知させてなお、どうして一つの魔術を残したのか。それがミレイユには気になって仕方がない。

 

「神は、鳥以外が空を飛ぶ事を禁じたが、空を飛ぶ魔術を禁忌と呼んだのは人が先だ。何故だと思う?」

「え、神様が直接禁じたんじゃないんですか?」

 

 ミレイユがアキラに顔を向けて言えば、アキラはきょとんと目と口を開いて返してきた。これまでの話を聞けば、そうとしか思えないのだろうが、実際のところ神は魔術の使用を禁じてはいない。

 ユミルが鼻で笑って、グラスにワインを注ぐ。

 

「それは欺瞞でしょ。禁じてはいないけど、使ったら死ぬっていうなら同じコトよ」

「え、なんですか、それ。酷いトラップじゃないですか……」

「トラップと言えるかどうか……。別に使った瞬間、爆発四散する訳でも、身体中から血が流れ出す訳でもない。ただ、飛ぶだけだ」

 

 それだけ聞いても分かる筈がない。飛べるというのに死ぬ、という部分が繋がらないのだ。しかし、使えば死ぬというなら胡乱な結果など与えず、さっき言ったように使用者は爆発する、という効果として造れば良かった。

 神にそうする力がなかったとは思えない、この飛行術を与えたのは神なのだ。

 

「えっと、よく分からないんですけど……。空を飛ぶ魔術は存在するんですか?」

「ですね。でも禁忌として使うことを許されず、また天は神の領域だから使用を許さないというだけで、魔術そのものは存在します。だから誰も会得してないと思いますよ。全くの無駄ですから」

 

 ルチアが詳しく答えてくれて、それでアキラも理解したように頷いた。

 アキラは確かに表面上は理解しただろう。

 必死に覚えても使ったところを見られたら殺されてしまうというなら、確かに会得するだけ無駄だと。人にも神にも見られた瞬間死刑を喰らうというのに、どこの誰が覚えようというのかと。

 

 しかし、それは事実と異なる。

 神は使う事を許したのであって、使った結果生き残る事を許さなかった。しかし、同時に確実に死ぬような魔術として作らなかった。人が人の為に作ったのではなく、神が人に与えた魔術だというのに。

 その矛盾にミレイユは考えずにはいられない。

 

「本当に単なる遊び心で神が与えた魔術だったのか? いつものように神が退屈まぎれに人に与え、死んでいく様を見物したかった、そういう類いの」

「それはそうでしょう。機転を利かせれば生き残る可能性を作ったあたり、正しく遊び心という気がするわね」

 

 ユミルの言い分こそが答えのような気がした。

 神は退屈を嫌い、いつでも娯楽を求めている。そこに空を飛びたがる人間に、飛べる魔術を与えるとどうなるか、それを見て楽しもうと考えた、という正解らしい指摘に飛びつきたくなる。

 だが、だとしたら、自分にもまた娯楽として楽しむ為に用意されたという事になる。

 

「実はだが、私はその魔術を使える」

「は!?」

「……なんて無駄なコトしてんのよ」

「ミレイ様、まさか使ってみたなんて事は……」

 

 流石にアヴェリンからも苦言が飛んだ。

 実際のところ、この魔術については深く知られていない。誰もが興味ないという訳でもなかったが、自由に飛べる訳でもない魔術に魅力を感じなかったという理由が一つ、そしてもう一つが、やはり神の悪戯だと思った者が多数だったせいだろう。

 だから、その内容を深く知らず、使えば死ぬと誤解している者が実に多い。

 

「何故使えるのかと言われたら、この箱庭を授けられた時、この世界の中央に置かれていたのが、その魔術書だったからだ。覚える必要はなかったろうが、あれば覚えるのが私の流儀だ」

「いや、だからって……」

「無謀にも程があると言いますか……」

「今後も使う機会がないなら、それでもよろしいですが」

 

 アキラを除く三人から非難に近い物言いをされて、ミレイユは思わず苦笑した。

 一度使った事実は言わない方がいいかもしれない。

 

「さて、何故ここで私がそんな事をわざわざ暴露したと思う」

「そうねぇ、何故かしら。アンタに限って自慢ってコトもないでしょうし」

 

 ユミルが顎の下に一本指を当てて、天井を見上げるように視点を上げた。

 

「ここに一人、空を飛びたいと夢見心で口にした奴がいたな」

「え? ……は!?」

 

 ミレイユの一言で、ユミルは得心がいったとばかりに笑顔になった。

 即座に立ち上がって逃げようとしたアキラの肩を掴み、クッションの上で固定する。

 

「いや、全然、全然飛びたくないです! むしろ僕は地上が大好きですから。愛していると言ってもいいぐらいですから!」

「あら、そうなの。じゃあ丁度良かったわね」

「何がですか!? 嫌ですって!」

「飛んだ後、いっぱい地面にキスしていいわよ」

「死ぬじゃないですか! それ死ぬやつじゃないですか!」

 

 アキラは必死に藻掻いてユミルの拘束から逃げ出そうとしたが、いくら内向魔術を鍛え始めたとはいえ、それだけでユミルに押し勝てるほど甘くない。

 がむしゃらに動くアキラに、ミレイユがアヴェリンへ目配せすれば、若干眉を下げたものの結局文句を言わずアキラの拘束を手伝い出す。

 

「――え、師匠!? なんですか、僕なにかしました!?」

「何もしてないが、ミレイ様がご所望だ。なに、死にはすまい。ミレイ様は遊び心でお前を殺したりしない」

「そうだぞ、お前を中途半端に鍛えておいて、飽きたから殺すとでも思うか?」

「それは思わないですけど……、でも死ぬやつなんですよね!?」

「馬鹿が使ったら死ぬってだけよ。別にそれは、結構他の魔術にも言えるコトだから、それが特別ってワケじゃないわよ」

「特別、悪戯心に満ちているだけです」

「イヤァァァァァ!!」

 

 ルチアの最後の弁明に、アキラは弓なりに仰け反って拘束を抜け出そうとしたが、この二人相手にアキラでは分が悪すぎた。

 ミレイユは外へ連れ出すように指示を出し、左右から拘束され、足を引きずったまま連行されて行くアキラを見送る。

 隣に残ったルチアを見ると、彼女もアキラの顛末を見届ける気になっているようだ。

 

「考えてみれば、その魔術の効果、私もよく知りませんでした。実際の効果をこの目で見るいい機会かもしれません」

 

 そう言ってルチアは微笑む。

 彼女が見せる笑顔は表情ばかりでなく空気まで輝き、まるで額縁に飾りたくなるような素敵な表情だった。

 



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魔力と鍛練 その9

宵闇堂様、えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 談話室から出てすぐ左手にある裏口から中庭へ出た。

 その中央付近に相変わらず左右から拘束されているアキラが、ぐったりとした表情でミレイユとルチアの登場を待っている。まるで死刑を宣告された囚人のような有様だが、何度も言うように殺すつもりで連れてきた訳ではない。

 

 アキラの前まで辿り着いたミレイユに、ユミルが軽い口調であたりを見回し、そして最後に頭上へ視線を向けた。

 

「飛ばすのはいいとして、ちょっと狭すぎない? すぐぶつかるんじゃないかしら」

「そこは大丈夫、確認済だ」

「ちょっと待って。確認済みってどういう意味? 使ったコトあるとか言わないわよね?」

 

 ミレイユは自分の失言に舌打ちしたくなった。

 事実と認めると後々面倒臭い。特にアヴェリンからは執拗に責められるだろう。ミレイユは平静を装って続ける。

 

「……勿論、違う。単に事実として知っているというだけだ」

「そう、ならいいけど」

 

 その遣り取りが不穏なものに聞こえたらしいアキラが、拘束されて動けないながらも首を廻らして問うてくる。

 

「狭すぎるってどういう意味ですか? まるでそうは見えませんけど」

「ああ、言ってなかったか……」

 

 ミレイユは邸宅とその周辺をぐるりと囲む林を、見える範囲で指差しながら説明した。

 

「この空間は見た目よりもずっと狭い。林で幾らか閉塞感を作っているが、そこより更に外へ進むと見えない壁で阻まれる。地平線まで実際に続いてる訳ではなく……言ってみれば背景はハリボテだ」

「とてもそうは見えませんけど……」

「今度、機会があれば手を伸ばしながら歩いてみるといい。言ってる意味が分かるだろう」

 

 ミレイユがそう言えば、アキラもとりあえず納得した様子を見せた。

 実際、四方については明確に壁があるが、上空方面について果ては確認できなかった。それは初めて訪れ、この何もない空間に邸宅を作る際に確認している。

 四方に制限をつけ、しかし上空には無いというのは違和感を生じさせるが、それは別にどうでも良かった。

 むしろ、今から行うのに丁度良く、外で行うより安全という意味で重宝する。

 

 ミレイユが右手に緑色の光を集約させたのを見て、アキラの顔色が悪くなった。

 拳を握り込むようにして力を込めて、光の明滅が安定すると、それを地面に放出する。着弾と同時に魔法陣が広がり、幾科学模様と魔術文字が複雑に織りなす円形が直径五メートルという大きさで出現した。

 陣の色は橙色に薄っすらと輝き、時折脈動するように光が陣に描かれた模様に沿って流れていく。

 

 アキラはそれを呆然とした仕草で見つめ、流れていく光を目で追っては感嘆していた。

 指をパチンと鳴らして注意を向け、ミレイユは陣の中心を指差す。

 

「念の為、基礎的な事を説明する。今のお前には関係ないが、知っておくというのは大切だ。知識は時に自分とは無関係でも役に立つ。その基礎的な事を……ルチア、説明してやれ」

 

 ミレイユが半円を描くよう、ルチアからアキラへ大きく指を振るってから腕を組んだ。

 端的に基礎だけだ、と注意だけして、アキラと共に説明を聞く構えだった。

 もはや逃げられないと悟ったアキラは、その説明を聞く為姿勢を正す。それに合わせて二人の拘束も解けた。

 

「基礎と言っても……、まぁ分かりました。魔術には実に多様な種類がありますが、それを行使方法に大別すると、たった三つに分ける事ができます」

「たった三つ……」

「即ち――、接触、放出、設置です」

 

 今一ピンと来てないのは仕方ないかもしれない。そもそも数多く魔術の種類を見せた訳でもなく、見たことあるのは手の先から光が飛んだりする部分だろう。

 どれがどれだと、具体的に説明されている訳でもなく、また身近に使われた魔術がその分類全て登場した訳でもない。

 今ここで説明させたのは単なるついで、気分のようなもので、どうせなら知っておけと思っただけに過ぎない。

 

 もう少し具体的な説明が必要か、とルチアから催促するような視線が来たので頷いてやる。

 

「発動方法と言い換えても良いでしょう。接触した時初めて効果が発揮するもの、放出された時点で発動するもの、そして設置も接触した時点で発動するのは同じものの、陣がある間は術者が離れても発動するというメリットがあります」

「放出っていうのは分かりやすいと思います。僕のイメージする魔法っていうのは、大抵の場合手の平とか杖の先から飛ぶものですし」

 

 ルチアは頷く。自らが所有する身の丈に近い大きさの杖を取り出して、その杖先を地面に立てた。

 

「実際には、それほど意識して使う事はありません。ただ相手が使う時、それを意識する必要があるでしょう。光が収束し、杖先に氷刃が作られた時、これは飛ばして相手にぶつける魔術だと思いますか?」

「……だと思います。そこから射出されたとしても不思議じゃないというか……」

「いいえ、これは既に発動した魔術なので接触発動という分類になります。つまり飛びません」

 

 ルチアは言った通りに杖先に氷刃を生み出し、それを振るって近接用に使う魔術だと見せる。しかしそれに疑問を感じたようだ。アキラはそれを見ながら首を傾げる。

 

「その状態から飛ばしたりしないんですか?」

「しないし、出来ないです。魔術の応用というのは簡単ではないので、発想があるからと実行できるものではありません。それをするぐらいなら、今の魔術を解除するかして、改めて放出発動で別の魔術を使います」

「なるほど……」

 

 言ったとおり次に氷を消して、杖先を上に向ける。光が収縮し、消えたと同時に上空へ氷刃が飛んで行った。その様を見送っていたアキラに、ルチアが杖先を地面に叩く事で意識を向けさせる。

 

「……発動する瞬間、あるいはその直前に違いが判ります。分かりました?」

「なんとなく、ですけど……。光が消えて、氷が出た時の状態が大事、という感じですかね……?」

「まぁ、そう思ってもらって結構です。その見えている光というのが、つまり魔術制御している状態、という事になります。光が消えれば制御に成功して魔術を発動した瞬間、だからその後の現象次第でどういう魔術か見極められます」

 

 アキラは数度、うんうんと頷く。アキラなりにルチアの言葉を咀嚼して取り込もうとしているようだ。

 しかし実際、敵はこのように分かり易く魔術を使ってくれはしない。使うとすれば、それと理解している相手を動揺させたり、フェイントをする為に敢えて見せる場合だ。

 高度な魔術士同士の戦いは化かし合いで、どういう魔術を使っているか悟らせない工夫を幾つも講じて来る。相手を不利に、自分を有利に事を運ぼうとするのは当然だ。

 だから、その一つとして魔術制御が生まれた。

 そして今はその制御をどれだけ高度に扱えるかが、良い魔術士かの基準になっている。

 

 ルチアはアキラの様子を伺って、本当に理解しているか訝しんだが、結局それ以上の追求をする気はないようだった。次に足元の陣を杖の頭で指す。

 

「最後に設置です。これの見極めは必要ありません。触れたら発動する、そういう種類のものです。一度陣を発動させれば、それに触れた全員が魔術の影響を受ける事になりますし、どれだけ離れていても、術士が近くにいる必要なく発動します」

「え、じゃあ既に僕も含めて全員、何かの魔術を受けているんですか?」

 

 そう言って、飛び退くように魔法陣から足を離したが、その程度の距離で魔法陣からは出られていないし、そもそも全員が受けている時点で危険はないと判断できそうなものだ。

 ルチアは頷いて続ける。

 

「陣に入る事さえできれば、その収納人数全員が発動の対象です。例えば全員を一度に傷の治療するのに使えますし、罠のように見えづらい場所に設置して発動させる事で一網打尽にできます」

「色々な使い方が出来そうですね」

「そうですよ、だから非常に高度で難関です。これだけの幅を持つ魔法陣を、息を吐くように使うなんて事、普通はしませんので勘違いしないでください」

 

 いっそ非難するような視線を、ミレイユに向けてくる。アキラも実感はないだろうに、呆れに近い表情を向けてきた。

 当のミレイユは肩を竦めて苦笑する。組んでいた腕を解いて、ルチアに礼を述べた。

 

「ああ、詳しい説明痛み入るな。最後に余計な一言がなければ、なお良かったが」

「あら、とても素直な感想だったでしょう? アキラが勘違いしないように釘を差してあげたんですよ」

 

 ミレイユはまたも肩を竦めて複雑な表情で眉根を上げた。

 色々と説明して貰ったが、別にそれが本題ではない。そもそも、これはアキラに飛行術を使う為に用意した場なのだ。

 ミレイユは改めて一歩前に出て、そして足元の魔法陣に指を向けた。

 

「いいか、これは落葉の陣という。どれほど速く落ちて来ようと、まるで葉が地面に落ちるように緩やかな着地をするようになる」

「……あ、じゃあこれ落下防止というか……事故防止の為にあるんですね」

「そうだ。最初から、こうして置いておけば、お前も安心して飛べるだろう」

「それはまぁ、ありがたいと思いますけど……そもそも飛ばないという選択肢は?」

 

 そこで一度、ミレイユは考えるような仕草を見せた。腕を組んで顔を上に向け、地面を爪先で何度か叩く。そして向き直った時に見せた答えは否だった。

 

「お前が魔術に対する一種の憧れを抱く気持ち、よく分かる。今も鍛練しながら魔術を鍛えて、自分はやれるつもりになっているだろう。だから、憧れだけで手を出した者の末路、その一つを身を以て味わえ」

「いや、そんなの! なんかでっち上げ臭いというか、無理矢理すぎやしませんか! 別に言って理解できない奴じゃないですし! 甘く見るなと一喝されたら素直に従いますよ!」

 

 アキラの必死な抗弁には、流石にアヴェリンも同意できる部分があったようだ。済まなそうな表情をミレイユに向けるだけで非難するような事までは口にしないが、しかし止めたいと考えているような表情でもあった。

 

「なるほど、確かにそうだ。お前は言って理解できないほど馬鹿でもないし、理解する努力ができる奴だな」

「はい、言われた事なら頑張って理解できるよう努力します! これからだってそうですし、僕に外向魔術が向かないというなら、それに従います!」

「……うん。まぁ、お前に外向が向かないか結論を下すには、まだ早いと思うが。しかしそうだな、今は内向を鍛える事に努力すべきだな。外向に転用するにも魔力の鍛練は共通する部分だし」

「はい、師匠の言うこと聞いて、鋭意努力します!」

 

 アキラは力強く宣言する。胸の前に片手を上げて、宣誓するようですらあった。

 その表情は決然としていて晴れやかで、そして何より乗り切った、逃げ切ったという感情が見え透いていた。

 何の打算もなくそれを言えていたら、ミレイユも評価していたのだが、逃げ切る口上として述べたのなら、お仕置きが必要という事になる。

 

 アヴェリンに視線を向ければ、アキラに呆れた表情を見せていた。額を掻いて、どうしたものかと考えている。ユミルは早くやれという目をミレイユに向け、顎を動かし催促していた。

 ここまで来ると、最早やらないという選択肢はない。

 

 ミレイユは数歩足を進めて、アキラの肩を叩いた。

 にこりと笑みを浮かべ、アキラの表情も綻んで肩から力が抜ける。それが切っ掛けだった。肩に置かれた手から光が漏れる。それも僅か一秒にも満たない僅かな時間だったが、顔の直ぐ側で起こった光にアキラが気づかぬ筈もなかった。

 



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魔力と鍛練 その10

 しかし気づいた時には遅かった。

 身構えるよりも早く魔術は発動し、アキラは宙に舞った。

 足は地から離れ、身体が浮き、空を飛ぶ。

 

「ああああァァァァァ……!」

 

 発動した魔術は、空を飛んでいるようには見えなかった。アキラはドップラー効果で声を細くさせていきながら、恐ろしい速度で上空に飛び上がっていく。

 

 それを見上げながら、ルチアがのんびりとした口調で言う。

 

「あれは飛ぶというより射出というのでは?」

「まったくねぇ……。これを作った奴の性根が見えようってもんだわ」

「既に砂粒のような大きさにしか見えん。どれほどの速度で飛び上がったのか……。この魔術、そうと知らずに使って、生還できる奴なんているのか?」

 

 ユミルとアヴェリンも同じような呆れた声を出して、この魔術に散々な評価を下す。

 そう、この飛行術という魔術は、飛行とは名ばかりで直上へ恐ろしい速度で飛ばされるというもの。無論、着地について何か案がなければ、地上で潰れて死ぬ事になる。

 

 全く実用性もなく、自殺用と言っても過言ではない。これが神から下賜された魔術と知れれば、何故このような魔術を作ったのかと当時の魔術士は想像した。

 空を望むな、という神からの明確なメッセージとして受け取ったのだ。以降、禁忌として飛行術は扱われるようになり、そして使い手は当然として口に上がる事すらなくなった。

 だから、その飛行術を体験できるのは相当珍しい事でもある。そのような説明をしたところで、アキラは決して喜んだりしないだろうが。

 

 いつまでも落ちてこないアキラを見上げて待つ四人は、ユミルがポツリと言った一言で現実に引き戻された。

 

「そういえば、あの子ちゃんと着地できるの? 幅五メートルとはいえ、ここって上空からすれば点にしか過ぎないワケで、初めての降下で成功するとは思えないんだけど」

「……それは考えてなかったな。しかし上空には風もないし、流される事もないだろう」

「重心の位置とかで幾らでもズレるわよ。そしてあの距離でしょ? 上手く狙えるかしらね……狙う方法さえ知らないんじゃない?」

 

 さしものミレイユも、これには自分の失敗を悟らざるを得なかった。

 落下するアキラに合わせて陣を張り直すか、誰かが上空で誘導してやる必要がある。ミレイユは素早くアヴェリンとユミルに目配せし、そしてどうするかを即座に決めた。

 

 陣を張り直すのは確実性に欠ける。ならば他の誰かに、空中でアキラを陣に誘導して貰った方が確実だ。ミレイユはユミルの肩に手を置いた。

 

「頼むぞ、ユミル。行ってくれ」

「は? いや、何でアタ――ァァァァァァ……!」

 

 有無を言わせずユミルを射出した。

 問答している暇はなかったし、アレ以上時間をかければ追いつけなくなる。アヴェリンは崖程度の高さから自由落下するような経験はあるものの、それ以上の高さ――スカイダイビングするような経験はなかった筈だ。

 

 ルチアも言うまでもなく無い。高所からの落下はアヴェリンと同様経験あるが、そもそも高所から落下するような経験はそうそうないものだ。

 そしてミレイユが自身で行くとなると、もしも陣の再配置が必要になった時どうしようもなくなる。

 

 単純な消去法で決まったようなものだったが、空中での重心の位置で着地点が変わるなど、指摘するだけの知識があるなら実際に飛んだこともあると判断した。

 だがそれを抜きに考えても、ユミルを選んだのは実に正解だったと言える。射出して飛んでいく瞬間、何故だか胸がスッと軽くなる爽快感のようなものがあった。

 

「おおー、すっごい速さで上がっていきますねー。これ、頂点に達した時に追いつく感じになるんですか?」

「いや、その時点で合流するには時間が経ち過ぎている。ユミルが頂点に達する頃に、落下は既に始まっているだろう。途中で上手くやる必要がある」

「……それって下手すると二人とも死にません?」

「逸れるようなら私が陣を張り直す」

 

 ミレイユがそう返答すると、納得するような頷きがルチアから返ってきた。だから自分で行かなかったのか、という理解の色が見えて、再び上空に視線を戻す。

 

「上空でどうなってるのか、見れないのが残念ですね。盛大に愚痴を吐きながら空気が顔を叩きつけていると考えると、相当笑えるんですけど」

「うむ、いい気味だ。普段のニヤケ面も、今は恐怖で引き攣ってると思うと胸がすく」

 

 ルチアの悪口に便乗するアヴェリンも、その顔は実に綺麗な笑みを浮かべていた。完全に部外者故の楽観で、更にミレイユが下手をしないという安心感がそうさせているのだろう。

 別に失敗しない訳でもないのだが、それは言わぬが花だった。

 

 そうこうしていると、上空に見える黒い粒が大きくなって来たようだ。しかし、粒は一つだけ。二人が重なり合っているという様にも見えない。先に見えるのはアキラだろうから、ユミルはまだ追いつけていないのだろうか。

 

「そろそろ首も痛くなって来たから、早いところ帰ってきてくれませんかね」

「なかなか酷い言い草だな。今のアイツらは命がけの気分だろうに」

 

 ミレイユも笑ったが、それは苦い笑みという訳でもなかった。皆がミレイユを信頼しているように、ミレイユもまた皆を信頼している。

 何事か難題が持ち上がっても、任せたとなれば何とかするという信頼がある。そして、今回もユミルはきっと上手い事やってのけるだろう。

 

 黒い粒は、肉眼で確認できる距離になってきた。表情まで見えるものではないが、それがアキラだという事は判別できる。やはり重なり合うユミルの姿はなく、両手両足を広げるような、バタつかせるような動きでアキラは落下に抵抗していた。

 

 そこに頭を下に腕も足もピッタリと閉じて落下してくるユミルが見えてきた。

 空気抵抗を極力少なくして、落下速度を増やすという事をしていたらしい。流石に等速で追いつくのは不可能と分かっているからこそ、そして落下中の重心などに言及できるユミルだから出来た芸当だろう。

 

 ユミルはアキラの隣を追い越して、腕を広げて反転する。アキラと向かい合う格好になって、それでアキラも助けに来てくれた人がいると理解したろう。

 バタつかせる手足を止めて、身振り手振りを見せるユミルを凝視している。多分声も出しているのだろうが、それが果たして緊急事態のアキラに理解出来るかどうか。

 

 ユミルは残りの落下猶予を考えて何をするか説明しようとしたのだろうが、それが上手く伝わっていない。あそこに落ちろ、とかそういう指示をしたのだとしても、どうすればいいかまでは伝えきれてないようだ。

 

 ユミルは近づくように指示するも、アキラはどうすればいいのか手足を無駄に動かすばかりで、それが逆にユミルと距離を作る。

 地面が徐々に近づき、こちらの姿も確認できるようになって来た筈。

 緊張は高まり、そして死へ近づく。引き攣る表情まで見えるようだった。

 

 ユミルはアキラに近づこうと身を撚るが、中々それが上手く行かない。もどかしく見える時間、ルチアたちも手を握って見守っている。

 ミレイユも両掌で魔術を行使し、いつでも陣を敷き直せるよう準備をする。

 

 そしてついにユミルは空中でアキラと合流を果たした。

 アキラはユミルに抱きつき、それで反転してしまったユミルに地上が見えていない。身体の位置を変えようと藻掻くものの、アキラの動きがそれを阻害していた。

 

「ちょっと……。不味くないですか、アレ」

「ユミルは下が見えていない。あそこからどうするか見ものだな」

 

 緊張した声を出すルチアとは逆に、アヴェリンはどこまでも楽観的だった。

 ミレイユもどちらに落下がブレるか分からず、陣を敷き直すべきか迷った。既に落下までの距離は僅か、幾らも余裕がない。このまま姿勢を直せないというなら、陣を引き直した方がいい。

 

 しかし、ここで態勢が戻れば、残りの距離を上手く使って陣に乗る可能性も残っている。いま動くのは逆に危険だった。

 どうしたものか、ミレイユもまた悩まし気に唸った。

 

 そして、ついにユミルがアキラを押し退けるようにして姿勢を直した。

 アキラを拘束するように腕ごと身体を抱え込み、姿勢制御で方向を変える。落下までの距離、僅か五秒前の出来事だった。

 そして陣の端に近いところへ、ギリギリ入り込み、着地より三メートル上の辺りで落下速度が緩慢になる。

 まさしく葉が揺れるように二人は降りてきて、そしてとうとう無事に着地した。

 

「はぁ……!」

 

 ミレイユの口から思わず溜め息が漏れる。

 手の中で制御していた魔術も解除して、二人の元へ近づく。ミレイユより先に動き出していたルチアが、重なり合った二人に労いの言葉をかけていた。

 

「見ごたえ十分、迫力ある光景でした。貴重な体験が出来て良かったですね」

 

 見る者が見れば、花咲き輝くような笑顔と形容しただろう。

 しかしそれを見るユミルには煽りのようにしか見えなかったようだ。鼻で笑ってアキラを雑に手放し、乱れた髪を直している。

 

「まったくね、感涙で泣き出しそうよ。アンタもやってみる? 案外血も見れて病みつきかもよ」

「いえいえ、私はそういう野蛮な遊びに興味ありませんので」

「ああ、私たちは引き攣ったお前の顔だけ見れればいい」

 

 アヴェリンまでもユミルの煽りに参加しだして、収拾が付かなくなる前にミレイユはアキラの元へ近寄る。未だに起き上がらないアキラに気遣って、その場で膝を折って地につける。

 軽く肩に手を触れると震えていた。

 

「おい、無事か」

「……う、うぅ……っ! ひどい、ひどすぎる……! 死ぬ目にっ、死ぬ目に遭ったというのに……!」

「まぁ、だが無事だったんだ。良かったじゃないか」

 

 アキラは顔を上げて、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった泣き顔を見せた。

 その表情、その気迫に押されて、ミレイユは思わず身を引く。

 

「僕がどんな気持ちだったか! 上空に飛ばされ、ワケも分からない内に落下が始まって、そして成すすべもなく地面が近づいてくるんですよ!」

「ああ、それは……大変だったな」

「大変!? 大変なんてレベルじゃないですよ! 必死に動いても、どんどん陣から離れていくし、ユミルさんが来てくれなかったら一体どうなってたか……!」

 

 ミレイユは落ち着くように両手を上下させたが、それが効を成すことはなかった。立ち上がらない――膝が笑って立ち上がれないまま、アキラは這うようにしてミレイユに近づいていく。

 

「地面の上にミレイユ様の姿が見えた時、どう思ったか! もう助からないと思いました! こんな事で死ぬのかと!」

「……なに下らない愚痴言ってんのよ」

 

 アキラがゾンビのようにミレイユの足へ手を伸ばした時、横合いからやけに軽い口調のユミルがアキラの手を蹴飛ばした。

 

「別に落下場所が悪くても、あの子がどうにかしたに決まってるでしょ。ま、相談もなく飛ばされたから、結局陣に入るよう努力はしたけど、最終的にはどうにでもなったわよ」

「よくそんなこと言えますね。ユミルさんも飛ばされたのに……」

「そう? 一歩間違えれば死ぬっていう事実に目を瞑れば、案外楽しかったじゃない?」

「そこは一番目を瞑っちゃいけない部分でしょうが!」

 

 アキラの涙を撒き散らしながらの慟哭は、ユミルには全く響かないようだった。カラカラと笑ってアキラの腕を掴んで引き上げる。

 そして肩に乗せようとしてやっぱり止め、どうしようかと考え始めたところで、ユミルがミレイユに身体を向けた。

 

「そうそう、上空の一番高いところ、頂点に近い部分に穴があったのよ」

「穴……? 空の中にか?」

「そう、ひとが一人入れそうな穴が、絵を書いたようにポッカリとね。アレなんなの?」

 

 そのような事を言われても、ミレイユに覚えはないし、そんなものが有る事もいま初めて知った。難しい顔で眉根を寄せるミレイユに、ユミルは笑って背を向けた。

 

「ま、覚えておいた方がいいかもね。その内、自分で飛んで調べてみたら?」

 

 それだけ言って、未だに子鹿のように震えて立ち上がれないアキラを、ユミルは引き摺って邸宅の中へ連れて行ってしまった。

 そのような事を聞いてしまったからには、いずれ調査しなければならないだろう。神より下賜された箱庭が仕舞われた小箱。最初は何もない、飛行術だけ中心に置かれた空間に過ぎなかった。

 それを改造したのはミレイユ自身だ。もしもそれに、他の機能があるとしたら、それは穴の向こうにこそあるのかもしれない。

 

 とはいえ、今日はもうそのような雰囲気ではなかった。

 アキラの事は気がかりだし、実際、もう用は済んだから帰れとは言い辛い。

 落ち着く飲み物でも用意してやって、自力で帰れるまでは面倒を見てやる必要はあるだろう。明日は日曜、何なら離れの利用を許可してもいい。

 

 最初は軽い気持ちでお灸を据えるくらいの気持ちだった。しかし予測の甘さ、詰めの甘さで、アキラに要らぬ恐怖を与えた。

 これには何か詫びをしないといけないか、と思いながらミレイユは腕を一振りして陣を消す。それから上空を見上げたが、はるか上空にあるという穴、ここから見える筈もない。

 ミレイユはアヴェリン達二人を引き連れて、ユミルの後を追って邸宅に帰っていった。

 



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外へ その1

「そう怒るな」

「怒って当然だと思いますけどね……!」

 

 翌日、ミレイユはアヴェリン達と共に、アキラを伴って喫茶店に来ていた。以前、マジックショーもどきを見せた、あの喫茶店である。

 本日は休日という事もあり、昨日の慰労も兼ねて連れてきた。ご機嫌取りのようにも見えるが、実際言葉だけの謝罪だけでは不誠実かもと思って、消え物を与えるよりもこうして共に外へ出かける事を選んだのだ。

 寝起きから機嫌が急降下に悪かった事を、ユミルが昨日の落下と合わせてからかった為、尚のこと機嫌が悪かった。

 

 今はそのユミルも、隣の席でルチアと共に何か甘い物を食べている。

 ミレイユはコーヒーとショートケーキを、アヴェリンはモンブランを食べてご満悦な笑顔を見せながら、不機嫌顔のアキラへ指差すようにフォークを持ち上げた。

 

「何が不満なんだ。ミレイ様とて謝罪の気持ちを、こうして表明しているではないか。それをいつまでもグチグチと……」

「女子じゃないんだから、甘いもので絆されたりしませんよ……」

「だが、これは美味いぞ。コーヒーは時に苦すぎると感じるものだが、こうして甘いものと一緒に飲むと実に――」

「師匠の好みは、この際どうでもいいです……」

 

 アキラが深い溜め息を吐いて、目の前に置かれたコーヒーを啜った。

 実際に敵と戦って死ぬ目に遭うのと、遊び半分で殺されかけたというのは、心境としては随分違って感じたのだろう。

 

 ミレイユとしては別にアリを持ち上げて落として遊ぶ、というような幼稚な気持ちでやった訳ではないのだが、受け手としてのアキラにそう思えないのは当然かもしれない。

 ミレイユは今日も被ったツバ広帽子の下から、困ったように眉根を寄せた。

 

「別に遊び心でやった訳じゃないんだ」

「分かってますよ。魔術士の行う制御っていうのは、リスクと表裏一体で使ってるんですよね。制御の失敗は、きっとああいう死の危険を実感するものでもあるんでしょう。でも――」

 

 何かを言い切る前に、ミレイユは自分のショートケーキを小さく切って、フォークでアキラの口にねじ込んだ。

 突然の事に口の動きを止め、ミレイユもフォークを引かないものだから、そのまま口を閉じてケーキを食べる。フォークを引き抜き、ひらひらと左右に振りながら口の端に笑みを浮かべた。

 ウブな年頃の男子は、それだけで顔を赤くして俯いてしまった。

 

「だがまぁ、分かっているなら結構だ。今のお前が仮に無理して覚えても、近づく地面に対して何も出来なかったように、制御に失敗した魔術に対して何も出来ないだろう。その恐怖を乗り越えて、尚やっていける自信を先に身に着けろ」

 

 アキラは複雑そうな顔を見せながらも頷いた。

 実際、アキラは初心者で見習いと言えるレベルにも達していない。本来なら物心つく頃には魔力の制御も手足を動かすように出来ていて当然なのに、それが出来ない。

 

 下地が有るなら話は違ったが、アキラは今まずそれを作らなくてはならない時期なのだ。

 それでも空想と信じていた魔術が実際にあり、それを身に着けていると実感したなら、やはり妄想が花開く部分もあったろう。

 

 実際、覚えさせるだけなら可能なのだ。

 まだこちらでは試していない事だが、ミレイユには自身が修得した魔術を他人に覚えさせる能力がある。

 

 しかし、だからそれで手を出したいと思うようでは困るのだ。

 車に憧れる幼児がアクセルを踏むようなものだ。道理を知らない子供が、ハンドルを握れないにも関わらず触れてよいものではない。自分だけではなく多くの者が、その犠牲になる可能性がある。

 

 口で言えば分かるとは言うが、人間は実際その身に起きなければ実感できない生き物だ。アキラもその実感を手に入れた今、後は言葉で理解してくれるだろう。むしろ言葉で理解させる為に必要なプロセスだったとも言える。

 

 そこまで考えて、ミレイユはふと隣のアヴェリンがフォークを凝視しているのに気が付いた。左右に揺れるそれを、まるで揺れる房に凝視する猫のように、一点を見つめて動かない。

 

「どうした、アヴェリン……?」

「う、あ、いえ……」

 

 声を掛ければ、視線を彷徨わせてから自らのモンブランに向き直る。

 再びモンブランにフォークを入れようとして、気づいたように顔を上げた。

 

「その……フォークは変えた方がよろしいかと」

「そうか……、ナプキンで拭くだけでいいじゃないか?」

「それはなりません! アキラもそう思うだろう!」

 

 詰問するように突然水を向けられて、アキラは反射的に顔を上げた。

 話は聞こえていたようで、フォークとケーキの間で視線を迷わせた後、ぎくしゃくとした動きで頷く。

 

「ええ、まぁ、ですね……。気になるなら店員さんに声を掛けて、変えて貰うのがいいと思います」

「別に拭くだけでいいと思うが……」

 

 ミレイユとしてはそこまで潔癖という訳ではなかった。

 というより、潔癖だったらあちらの世界で生きていけない。日本のように清潔である国というのは、世界的に見ても希少なのだ。

 しかし断固としてアヴェリンが許さないという姿勢を崩さないので、ミレイユの方が折れる事にした。別にそこを拘るつもりもない。

 

 それで了承して店員を呼ぼうとしたのだが、今日もテラス席を使っている為、すぐ傍に店員が見当たらない。声を上げればすぐに来るのだろうが、どうせなら何かのついでに頼みたい。

 そう思っていると、未だにフォークを凝視するアヴェリンが気にかかった。

 

「……どうした、アヴェリン」

「あ、いえ……、ショートケーキも良いものだと思っていた次第でして。別に他意は……」

「そうか。……なら食べるか?」

「よろしいのですか!」

 

 アヴェリンが目を輝かせて、ミレイユの食べかけショートケーキとフォークを見比べた。

 勿論だ、と頷いて、店内入口付近に見えた店員へ向けて手を挙げる。すぐに気づいた店員は輝く笑顔でテーブルの傍に立った。

 

「ご注文ですか?」

「ああ、ショートケーキ一つ。……それと、申し訳ないがこれの代わりを」

 

 そう言ってフォークを指差せば、得心した顔で受け取り、注文内容を確認して店内に下がっていく。ふとアヴェリンを見返せば、不貞腐れた顔で唇を突き出しては、モンブランをフォークで(つつ)いていた。

 

「なんだ、どうした?」

「いえ、別に。甘味はいい……非常にいいものです」

「……じゃあ、その顔は何だ。別にという風には見えないが」

 

 深く追求するつもりもなかったが、何だか放って置けなくて声をかけたのだが、それを止めたのはアキラだった。

 ただ無言で顔を横に振って、それ以上触れるなと警告している。

 その諦観したかのような表情に引き摺られて、ミレイユもそれ以上声をかけるのはやめにした。

 

 そうしている内に店員が帰ってきて、換えのフォークとショートケーキを運んで来た。

 それに礼を言うと、底が見え始めていたコーヒーに新しく注いでくれる。おや、と思っていると、店員からにこやかな笑顔と共に告げられた。

 

「サービスです」

「すまないな、ありがとう」

「いえ! でも、お客さん全然来てくれないんですから、ずっと待ってたんですよ」

 

 別にすぐ来るとも、また来るとも言ってなかった気がするが、普段目にする事のないマジシャンが身近にいると知れば、期待してしまうものなのかもしれない。

 

「期待していたのは私だけでもないですけど。今日も来てないって、落胆して帰っていく子もいて……それもまた可愛そうで」

「そんなに噂になってたのか?」

「いえ、そういう事でもなく……!」

 

 店員は持っていたプレートを胸に抱いて、恐縮したように顔を振った。

 

「別に約束してた訳じゃないから、いつ来るか分からないよ、って教えてあげてるんですけど……。どうしても、もう一度会いたいらしくて」

「もう一度? あの時の子供か?」

「ええ、その子です。莉子ちゃんっていうんですよ、もし会ったら名前呼んで上げて下さい。きっと喜びますから」

 

 見せたマジックショーもどきに、とても興奮して喜んでいたのを覚えている。まるで自分が魔法使いになったように思えたせいもあるだろうが、ショーが終わった後も、くっついて傍を離れたがらない程に懐かれたのを思い出す。

 

 その時の事を思い出して、ちらりと笑うと、店員がほぅ、と溜め息を吐いて頬に手を当てた。

 

「帽子の下って、やっぱり見せられないんですか?」

「ん……、そうだな」

 

 今日も日差しはそこそこあるが、元よりテラスには日傘代わりのパラソルがある。その上さらに帽子を被っている姿は、少し異常にも見えるだろう。

 波打つように広がるツバである故に、時折ちらりとその表情も見えるのだが、やはり全貌は伺えない。しかし、その鼻から下しか見えないせいで、余計に想像を働かせてしまうらしい。

 素顔が見たくて気になるようだが、アキラの方へ視線を向ければ、やはり否定の意が伝わってくる。

 

「外では見せるなと言われてる」

「まあ……事務所とか、そういう所から? やっぱり、知られると拙いんですか?」

「そうだな……、騒ぎになるから外では必ず帽子をしろと……」

 

 言って、ミレイユは帽子を深く被り直した。

 元より座っているミレイユと立っている店員では、その視点の高さから見えるものでもないだろうし、仮に目線の高さを調節しても、その波型の流線型が視線を絶妙に遮ってくれる。

 

 四方八方から見られるようなら他の者たちが壁になるし、それもまた完全ではないだろうが、今のところは問題なくやれている。

 もっと人が多いところなら、視線ずらしの幻術でも使えばマシになるかもしれない。

 

「へぇ……! 有名なんですね、やっぱり色んな舞台でやってるんですか?」

「そうだな……」

 

 これ以上詳しく聞かれたら、その内ボロが出るだろう。

 どうやって意識を逸したものかと考えていると、新しい客が来店したようだ。そちらに接客しようと断りと礼をしてから、店員はその対応するべく離れていった。

 

 ミレイユが帽子をのツバをなぞりながら溜め息を吐いて、横から前から視線を感じて意識を向ける。

 アキラとアヴェリンの二人が、それぞれ気まずいものを見る様な表情をしていた。

 

「嘘を吐いてた訳じゃないですけど、その内嘘だとバレそうですね」

「何かカバーストーリーでも考えないといけないかな」

「そこまではせずとも、しかし体の良い言い訳程度は用意しておかなくては、後々の面倒を引き起こしかねないかと」

 

 そうだな、と頷いて、注いで貰ったばかりのアイスコーヒーに口を付けた。

 



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外へ その2

 アヴェリンがモンブランを食べ終わり、新しく届いたショートケーキにフォークを入れた時だった。アキラは何の気なしに呟いた程度の認識だったろうが、それは実に大きな議論を呼び起こす話題だった。

 

「僕から見たら全然分かんないですけど、師匠たち三人って誰が一番強いんですか?」

「お前……、時々そうやって危ない発言を気軽にするよな」

 

 ミレイユが呆れてグラスから口を離し、アヴェリンが鼻に皺を寄せて威嚇するようにアキラを見ている。もし口にフォークを入れたままでなければ、さぞ迫力のある画だったのだろうが、如何せん口の端についたクリームもそれを台無しにしていた。

 

「いや、ほんと単なる雑談と言いますか。最近内向魔術を鍛えたお陰で力量差がハッキリ見えてきたんですけど、三人とも遙か高みにいるのは分かっても、じゃあ三人で一番高いのは、となると全く見えなくて……。スミマセン、ちょっと気になっただけです……」

 

 最終的には尻すぼみになって、アキラは身を縮めて俯いた。

 その様子を見ながら、ミレイユは小さく笑ってグラスを置く。アヴェリンに目を向け、隣の席で談笑している二人に目を向ける。視線が合って、何でもないと手を振って、再びアキラに目を戻した。

 

「まぁ、別に隠すような事でもないが……。そうだな、お前は誰だと思う?」

「そこが難しいところで……」

 

 アキラはあっさりと許されたと見えて、気軽な調子で顔を上げた。腕を組んで首を傾げ、難しい顔をして唸る。

 

「勿論、僕は師匠が一番と言いたいんですけど、やっぱり魔術の優位性は単なる近接戦闘では覆せないかなと……」

「うん、分かる話だ」

「でも、たぶん生粋の外向魔術士であるルチアさんが、師匠を前にしてそのスピードに着いていけるのか、とも思うんですよ」

「なるほど」

「じゃあ、ユミルさんはどうかな、と思っても、彼女の戦闘スタイルがよく分からなくて……。魔術も使うけどトロールを殴り飛ばすような力もありますし。両方使うタイプなら、上手いことやってどちらにも勝てるのかな、と思ったり……」

 

 そして、ちらりとアキラはミレイユを見てきた。

 その考察は合っているか、と確認するような目だった。それに頷いてみせると、くすぐったいような笑顔を見せた。

 

「確かにユミルは両方使えるタイプだな。長く生きてるだけに器用なんだ」

「長く生きてる事を理由にされては、アレも立つ瀬がないと思いますが」

 

 アヴェリンの指摘は確かだったが、ミレイユは笑うだけでそれ以上何も言わなかった。

 アキラは正解を引き当てたと感じて笑みを深くしたが、しかしミレイユは首を横に振る。

 

「勝ちを拾える事が、つまり強いという意味にはならないだろうが、どちらにしても違う。ちょっと卑怯な答えになるが、一番はいない、というのが正解だ」

「そうなんですか……?」

 

 アキラは落胆したような顔を見せたが、己の師匠にも面目が立ったように見えて、喜んでよいのか迷うような仕草だった。

 

「でも、一番はいないということは、皆さん横並びで強いんですか?」

「そういう意味じゃなく、三竦みの格好だ。どちらか一方には勝てても、もう片方には勝てない。これは力量というより相性の差だ」

「三竦み……」

「誰もが高い力量を持つが故に、単純な力のぶつかり合いなどしないが、しかしそれでも勝てる相手、勝てない相手が生まれる」

 

 ミレイユがそう解説しても、アキラは今一納得できていないようだった。

 それもその筈、アキラが見ているアヴェリンや、たまたま目に入ったユミルなど、その戦闘スタイルの全貌が見えている訳でもない。

 

 ルチアなど完全に外向魔術士とした見た目で、接近戦に持ち込まれたら勝てないようにしか見えないだろう。アヴェリンと最も相性の悪い相手で、これに勝つことは出来ないと思っているのかもしれないが――。

 

「因みに、アヴェリンはルチアには勝てない。しかしユミルには勝てる」

「ミレイ様……!」

 

 アヴェリンが焦ったような抗議の声を上げてしまい、それがまた、より説得力を増す原因になった。

 しかし、アキラにはそれが意外に思えたらしい。目を丸くし、口も開いてアヴェリンを見ている。

 ミレイユは笑って手を振った。

 

「相性の差だ、そう言ったろう? 単に外向魔術士に勝てないというのではなく、ルチアが専門とする氷結魔術に弱いんだ」

「氷結使いなら、誰にでも負けるという意味でもないぞ、念のため言っておくが」

「勿論、分かってます!」

 

 アヴェリンのドスが効いた声に、アキラは背筋を伸ばして頷く。

 実際、アキラが予想したとおり、大抵の魔術士ならアヴェリンの速度に追いつけない。魔術の制御をしながら猛攻を躱して反撃をするのは至難の業だ。

 

「だが、何故ルチアが対応できるかというと、無詠唱を取得している部分にもある」

「無詠唱って……別に今の魔術って、詠唱しないんですよね?」

「ああ……、それは昔の名残だ。無詠唱もまた単に詠唱しない、必要としないという意味じゃないが……つまり異常な速度で魔術を行使するから、詠唱していないように見える、無詠唱と呼ばれる所以だ」

「じゃあ魔術制御も、早く使える人を見て無詠唱だと表現するって事ですか?」

 

 ミレイユは首肯する。実際に手の平の上に光を収縮させて、そして一応周りを見渡したあと、周囲から気づきにくい色に直して実演してやる。

 広げた手の上で光が広がり、そして握り締めると共に収縮し、単なる光に力がこもる。まるで線を引いたかのように光の堺が明瞭で、触れれば硬い感触を返して来そうですらある。

 

 魔力制御の一般的なプロセスを見せて、ミレイユは光を消した。

 光の発生から――つまり魔力を外に出して制御を開始してから、その終わりまで数秒。今はわざと標準的な中級者程度に合わせた速度で行ったが、それでも五秒未満という短い時間だった。

 

「今の行程は実に平均的な速度だが、初撃でアヴェリンを止められなければ、同じ時間耐え切って二撃目を与えねばならない。それを出来る奴がどれほどいるか……」

 

 それに、いつでも常にどんな状況でも同じ事が出来る者ばかりじゃない。初撃を受けてもなお、命ある限りアヴェリンは足を止めない。その殺意の風を受けても冷静であり続け、そして接近戦のスペシャリストの猛攻を凌げる者は多くない。

 

「じゃあ、それはルチアさんが凄いってことになるんですね? 五秒どころか、一秒くらいでポンポン魔術を使ってくると」

「まぁ、そういう認識でもいいが。アヴェリンに限らず、接近戦闘を得意とする者に氷結魔術は天敵だ」

「そう……なんですか?」

 

 アキラの間の抜けた顔に、アヴェリンは頬を張って窘めた。

 パチンと小気味良い音が耳に拾い、突然の張り手にアキラが目を白黒させている。

 

「ちょっと師匠、何で今殴られたんですか」

「今の間抜け面が気にくわなかったからだ」

「嘘でしょ……雑に人を殴りすぎですよ」

 

 アキラの嘆きに全く耳を貸さず、アヴェリンは続けた。

 

「お前は受けた事がないからな……、熱を奪うという攻撃は対処方法が分かっていても対応が難しいんだ。動きが鈍るし、何より凍るというのは何も肌ばかりではないしな」

「……武器も凍るから、っていう事ですか?」

「違う。着ているモノも凍るからだ。自分の身体にぴったりと合った牢獄を用意されるようなものだ。関節部分が凍って動かなければ、ろくな身動きも取れなくなる」

「鎧を着込んでも、その下には肌着や何やら身に着けるものだ。冷気は幾らでも鎧の隙間から入り込むから、冷気対策をした防具も意味を為さない。一度肌着を凍らせれば、そこから氷結部分を肥大化させ、鎧との隙間を埋めて動けなくさせる、なんて事もあった」

 

 予想以上に対処困難な攻撃方法と知って、アキラは思わず固唾を呑んだ。

 アキラの頭にあったのは、昨日見せたルチアの氷刃だろう。あれを飛ばしたり、あるいは杖の先に埋めて振るうような攻撃をしてくるのだと勘違いしたに違いない。

 それは遥か格下相手にする攻撃方法で、ルチア本来の戦い方としては、今さっきミレイユが説明したような運用を好む。

 

「熱を奪われれば身体は十全に動いてくれない。それでもどうにか身体を熱し前進しても、地面と接した足底を氷結させられれば身動きができなくなる。その部分を砕きながら進もうと同じ速度では進まないし、地面を凍らせられれば滑って進めなくなる」

「それって……話を聞いただけでも、どうしたらいいか分かりません」

 

 アキラが青い顔で顔を横に振った。自分ならどうするかを考えても、力押ししか出来ない内向魔術士では上手い対抗策を生み出せないのだ。

 

「だから天敵だと言うんだ。だが逆に、外向魔術士だと対抗策は色々ある。口に出すとキリがないから言わないが、単純なシールドを張るだけでも冷気の侵入は防げるしな」

「なるほど……」

 

 唸るようにして頷き、感心したようにルチアを見る。

 そして、その正面に座るユミルを見て、アキラは眉根を寄せた。同じように外向魔術を使えるなら、ユミルもまたアヴェリンの天敵になり得るとでも思ったのだろうか。

 顔の向きを戻した時、やはり同じような質問をしてきた。

 

「でも、じゃあ何でユミルさんには勝てるんですか? 氷結使いじゃないってだけで、外向魔術士は敵じゃなくなるんですか?」

「勿論、そうじゃない」

 

 アヴェリンは頭を振って、ショートケーキを口に入れた。咀嚼する度、眉がだらしなく緩むが、コーヒーを口に含んで口内の甘みを流すと、改めて口を開いた。

 

「アレは広く魔術を習得しているから、だからこそ多くの魔術士に対するカウンターを用意できる。それに対抗する多くの搦め手も有する……、つまり魔術士殺しだな。接近戦も出来るから、搦め手から抜け出せるような奴でも剣で勝てる」

「じゃあ、一流の戦士には勝てないという事ですか?」

「それも違う。搦め手が強いというのは、魔術に精通していない戦士にも通用するものだ。魔術士相手に翻弄するような戦い方が得意とはいえ、だからそれを戦士に応用できないという意味じゃない」

 

 そこまで聞くと、やはりアヴェリンに勝ち目がないように見える。

 アヴェリンもまた一流の戦士だが、その搦め手を複数用意されたら勝てないと想像するのが普通だが、しかし普通でないのはアヴェリンの方だ。

 

 ミレイユは指を立てて、教え子に向かう教師のように説明する。指をゆらりと、タクトを振るように動かした。

 

「まず、前提としてアヴェリンを接近させてはいけない。それは分かるな?」

「はい、近接戦闘では勝ち目がないからですね」

「そう、ならば足止めが必要になるが、氷結以外だと、それも難しい」

「……ですかね? 電撃とかでも動けなくできそうですけど」

 

 ミレイユは満足したように頷く。まさしくそれは、期待していた指摘だった。

 

「そう、普通なら止まる、普通の戦士なら。だが、それじゃアヴェリンは止まらない。例え炎でも同じこと、多少の傷などまるで気にすることなく突っ込んでいく」

「ああ、……分かる気がします」

「実際、アヴェリンの――というより優れた内向魔術士の怖いところはそれだ。大抵の傷は予想より通りが悪いし、息をするように治癒していく。筋力も持久力も常人とは桁外れで、疲れを待つという選択肢が取れない。翻弄させているつもりが、自らの魔力を擦り減らしているだけと気づくんだ」

「うわぁ……」

 

 そしてアヴェリンの能力は、それぞれ一流を超えるものだ。気を許せば目にも留まらぬ速さで接近を試みる。殺意の乗った物理的な暴風のようなもので、これの接近を阻止するように魔術を放っても、弾き飛ばし距離を取ったところで勝利にはならない。

 アヴェリンの体力と気力がなくなるまで、同じ事を繰り返すしかないのだが、先に尽きるのは魔術士の魔力だ。

 

「だからアヴェリンの意識を刈り取るような一撃か、それが無理なら接近させないだけの豊富な魔力がいる。そして最低でも治癒を上回る程度の魔術を、行動不能に出来るまで続けなくてはならない。それも、接近するより早く発動させる事が条件だ」

「でも、師匠は一歩で十メートルは接近して来るじゃないですか」

「そうだ、無詠唱に近い程度の制御能力は必須になる。アヴェリンの防具は魔術耐性を上げる効果を持つから、そもそも威力は低く発動が早い低位魔術は意味がない」

「それ、詰んでません……?」

 

 アキラが引き笑いをしてアヴェリンを見た。

 威力の高い魔術は当然、発動するまでの時間が長くなる。発動する前に接近してくるのだから、中級魔術以下の物を選んで使うしかないのだが、それでは接近を許さなくても倒す事はできない。

 

 いつでも接近する準備をし、そして実際弾き飛ばすような魔術を使わなくてはならず、そして相手はいつまでも元気に動き続けるのだ。

 磨り減っていく魔力を自覚して、相手は絶望するだろう。

 自分と相手の根比べ、という図式になるのだが、しかしアヴェリンは相手を殺すと決めたら絶対に諦めない。通常、魔術士が一対一で相手するには分が悪すぎる相手だった。

 

「だから、アヴェリンを倒すなら最上位レベルの氷結使いを当てるしかない」

「ああ、だからルチアさんになるんですか……」

 

 またも唸ってアキラは頷く。しきりに頷いて、感嘆めいた溜め息を吐いた。

 己の師匠がとんでもない力量を持つのだと、ミレイユから信頼されているのだと知れて満足していて、そしてアヴェリンもまた満更でもない笑顔を浮かべていた。



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外へ その3

 そのアヴェリンが見せた笑顔を誇らしく思いながら、ミレイユは続ける。

 

「そして戦士なら尚の事、力量、技量、両方の問題で無理だ」

「師匠を超える戦士がいないって事ですか?」

「……どちらかで上回る戦士はいるだろうな。しかし、どちらか一方を上回る程度では、次に魔力量という絶対の壁の前で頓挫する事になる」

 

 アキラは遂に出た魔力という言葉に身を引き締めた。

 内向魔術について詳しく説明を聞けると期待したのかもしれない。実際ここからは、そこを詳しく掘り下げるつもりで、内向を鍛えている最中のアキラにも身になる話だ。

 

 アヴェリンが目を細めてアキラを見た。

 背を叩いて背筋を伸ばさせ、よく聞くようにという指示をする。

 アキラもそれに応えて両手を膝の上に乗せ、前のめりになりそうなのを抑えて顎を引いた。

 

「内向魔術とは実に戦士に向いたものだ。だから、その魔力総量の多い方が戦況を支配する。剣を振るう速度、受けた後の押し合い、傷を受けるかどうか。持久力、体力、それら含めた継戦能力すらも、骨格や筋肉から生まれる差異を物ともしない。紙一重の力量差であっても、魔力量の差が大きければ、そんなものは全く意味がない」

「それは……つまり、剣の腕など磨く必要はないと?」

 

 アヴェリンはアキラの頭を平手で叩いた。

 またもパァンと小気味良い音がする。アキラは後頭部を撫でてアヴェリンに謝意を示し、ミレイユに顔を向き直した。

 ミレイユは苦笑しながら続ける。

 

「勿論、剣の腕は必要だ。誰もが最初から、魔力豊富な状態で生まれる訳ではないからな。内向魔術を育てるには武術と合わせるのが一番だ。だから、自然と何かの武器に精通していくし、それを根幹とした魔力の扱いを身に着けていく」

「僕の剣術と同じように?」

「そうだな、どちらか一方のみを鍛えるような事はしない。武器の振るい方一つでも、魔力の運用方法が違ってくるものだしな。アヴェリンはそのところ、よく理解している。お前は剣の腕を磨いているつもりで、魔力もまた磨かれているんだ」

 

 アキラが驚きと感動の面持ちで見つめ、アヴェリンが澄ました顔で鼻を鳴らした。

 

「全く駄目な奴で辟易しておりますが」

「そこはもう少し、粘り強く教えてやれ」

 

 ミレイユが柔らかく言えば、とりあえずアヴェリンは頷いた。

 アキラは何とも言えない顔で、引き攣った笑みを浮かべていた。

 

「そして、武術の道に終わりはないが、魔力の総量と密度に終わりはある。これは前にも言ったな、骨のようなものだと。これ以上は成長しない、というラインが必ず存在する」

「はい、その点について、僕はまだ伸び代があるんですよね」

「そうだな。……そして、最終的に戦士はその魔力量の過多による勝負になる。必ず魔力量が多い方が勝つという訳ではない。僅かな差であれば覆し得る、それはどのような世界であれ同じ事だ」

「あれ、でもさっき……」

 

 アキラが言い掛けた言葉を、ミレイユは指を振って止める。

 恐縮したように口を噤み、頷いて見せて続きを始めた。

 

「つまり、その差が僅かで収まらない程、アヴェリンは多いという話でもある。基本的に内向魔術士は魔力総量が少ない傾向はあるものの、外向魔術士と遜色ないレベルで保有する者もいる。だが、こういう場合、多くの者は大成しない。何故か分かるか?」

「魔術に憧れちゃうとかですかね? 内向一本に絞らないから、とか……」

 

 ミレイユは頷いたが、困ったように笑った。

 

「それも間違いではないし、実際そういう奴はいる。しかしより多いのは、密度を作れないせいだ」

「密度……。それってつまり、マナから変換した魔力を身の内に作れないって事ですか?」

「正確には、作ったものの増やせない、と言った方がいい。ボールの例えを覚えているか?」

「はい、内向魔術は膨らませたボールのようなもので――あっ! つまり空気でパンパンに膨らませられない、って事ですか?」

 

 ミレイユはよく出来た、と笑んで頷く。

 

「萎んだボールは跳ねないだろう? 内向魔術を鍛える際には、この密度を作るのが困難を極める。小さなボールならばいい、しかし大きくなると持て余す。何しろ内向魔術は大規模に消費するような魔力運用をしないからな。身体は自然と生成する量を絞る」

「基本的に消費と生成の量が釣り合うって言ってましたもんね」

「そうだ。だから大きいボールは萎んだまま、小さいが良く膨らんだボールに負けるような事になる。自らの魔力総量を持て余すんだ。それでは勝てない、つまり大成しない」

 

 なるほど、と頷き、アキラは次にアヴェリンを見据えた。

 話の方向が見えてきたらしい。

 

「じゃあ師匠は、その大きいボールでありながら、密度もパンパンに膨らんでいるという事なんですね」

「そうだ。しかも膨らませ過ぎて死の危険すらあったから、点穴を開けたというレベルの密度だった。そんな事をした奴は、多分歴史上類を見ない」

 

 ミレイユが小さく笑いながら見つめれば、アヴェリンは苦い笑みを返した。

 背筋を伸ばして小さく一礼し、一秒静止してから顔を上げた。

 

「その節はご迷惑を……」

「いいさ、結果だけ見れば最良だったんだから」

「そっか、普通はそれで穴からどんどん空気が抜けてしまって、膨らまなくなってしまうから……」

「そう、その点穴塞ぎに、幾らか魔力を割くものだ。そして膨らみは維持されるものの、割いた分だけ弱体化する筈だった」

 

 アキラはかつて聞いた話を思い出し、しきりに頷く。

 

「でも、逆に使い勝手が良くなったんですっけ……。手加減が上手くできるようになったとか」

「そう。そのようなレベルだから、大抵の戦士じゃアヴェリンの相手にならない。力量も技術も、その魔力で捻じ伏せてしまう。だから勝とうと思えば、不意打ちで首を落とす、というような方法しかなくなる」

「それもどうなんですか。戦士の誇りとか……」

 

 アキラは顔を顰めたし、ミレイユとしても同じ意見だ。

 しかし、どのような世界でも、戦士の誇りを持たない戦士はいる。勝てば良いと考える輩もいるし、不意打ちも戦法の一つと開き直る奴もいる。

 ミレイユの気持ちを知ってか知らずか、アヴェリンは鼻を鳴らして笑った。

 

「どこにでもクズはいるものだ」

「それは確かに……そうですね」

「それに敵は常に戦士という訳でもない。暗殺者のような相手と戦わざるを得ない場合もある。そんな奴と正々堂々もない」

 

 アキラは苦い笑みで頷いた。

 

「それはそうです」

「だからだな……。アキラ、アヴェリンの髪をどう思う」

 

 突然の話題転換に、アキラは目を白黒とさせた。

 どうというより、どういう意味だ、とでも言いたげな瞳だった。ミレイユが重ねて問えば、拙い語彙で必死に言葉を紡いで説明しようとした。

 

「それは……勿論、綺麗だなぁ、と。長い金髪で、緩やかなウェーブもかかってて。よく似合っていると思います」

「そうだな。背中まで伝う豊かな毛量、輝く金髪は私も好ましく思っている」

 

 言いながら、隣のアヴェリンに手を伸ばし、その滑らかな髪に指を通す。軽く梳いてその感触を楽しんでから手を放した。

 当のアヴェリンは恥ずかしげな顔をしていたのは最初だけ、ユミルに見られているのに気づいてからは、優越感に浸った勝ち誇るような顔を惜しげもなく晒していた。

 ユミルの額に青筋が浮かんだのは言うまでもない。

 

「だが、聞きたいのはそういう事じゃなくてだな。アキラ、少しでも不自然に思わなかったか? 何故戦士をしているのに長い髪なのか」

「それは……」

 

 アキラは一瞬、声に詰まる。

 実際、ミレイユを含めた全てのメンバーで、一番髪が長いのはアヴェリンだ。次に長いのはユミルだが、サイドで纏めて動きの邪魔にならないようにしているし、ルチアなど肩に掛かるほどもない。

 だというのに、最も髪が短くて良い筈の前衛として動くアヴェリンが、一番髪が長いのだ。

 

「でも、実力があるなら、別に邪魔にも感じないんだろうなぁ、と……」

「邪魔に決まってるだろ」

 

 アヴェリンから鋭い口調で指摘があって、アキラは困った顔で笑った。

 

「じゃあ何でそんな髪型に? ミレイユ様が褒めてくれるからですか?」

「馬鹿か、貴様。そんな理由で髪を伸ばすか」

 

 吐き捨てるように言ったアヴェリンだったが、しかし、アキラにはそれ以上明確な答えなど出せないようだった。あるいはそれ以外ないとでも思っているのかもしれない。

 幾ら待っても答えが返ってこないので、ミレイユは早々に答えを教えてやる事にした。そもそも、アキラが現実的に即した物の見方をしてしまうのは当然で、飛躍した発想で回答するのは期待していないのだ。

 

「内向魔術と魔力密度に関係する話だ。別に趣味やお洒落でしている訳じゃない」

「あ、ちゃんと理由があるんですね」

「――当たり前だろ」

 

 再度アヴェリンから指摘が飛んで、アキラは身を竦めた。

 

「内向魔術を極めれば、大抵の傷に強くなる。しかしそれは、何も肌や筋肉、骨に限った話じゃない。頭髪もまた、魔力が通れば強靭になる」

「髪まで……でも、それでどうして伸ばすんです?」

「言ったろう、アヴェリンを倒そうとすれば不意打ちをするしかない。ならば首を一太刀で落とすしかない、となるんだが、そうすると背後からは髪が邪魔で出来なくなる」

「え、そこまで硬いんですか!?」

 

 ミレイユは笑って手を左右に振った。

 それから再び、アヴェリンの豊かな髪に指を差し込む。

 

「流石にどんな剣の一撃も防げるという程じゃない。しかし間違いなく威力は削がれるし、実際なまくらなら両断すらできない。上質な武器なら可能だが、肌が切れても切断するところまでは持っていくのも難しい。そういう按配だから、それだけでも髪を伸ばす意味はある」

「でも、だからってそこまでするんですか……」

 

 ミレイユは髪を梳いては手を放し、皮肉な笑みで頷いた。

 

「実際、戦士ではそれ以外で勝ち筋がないと言われたのがアヴェリンだ。名を上げたい奴は暗殺、不意打ち以外で挑む事はしなくなった。嫌だろうと対策は必至だった」

「そんな事が……」

「だがアヴェリンほどの魔力密度があると、不意打ち程度しか出来ない奴が持つ武器じゃ、その髪を断つ事すら出来なかった」

「うっわ……!」

 

 アキラの驚愕とも恐怖ともつかない声に、アヴェリンは不快げに眉を顰めて言った。

 

「戦士の武器は持つ者の格を表す。不意打ちしか選べぬ相手では、武器もそれ相応。隠れる事は得意でも、その一撃では私には届かん」

「師匠って凄いんですね……」

「何を今更」

 

 アヴェリンが小馬鹿にするように鼻を鳴らして、侮蔑のような視線をアキラに向けた。

 ミレイユは間を取り成すように笑い、軽く手を叩いて鳴らす。

 

「……興が乗って色々話してしまったが、アヴェリンへの理解が深まったのは良い事だろう。鍛練にも一層身が入りそうじゃないか」

「それは……そうですね。僕は凄い人に教えを受けてるんだと、改めて実感しました……!」

「励めよ」

「はい!」

 

 ミレイユが短く激励して、アキラも素直に返事をして頭を下げる。

 アヴェリンへ向ける敬意も、弥増しに増して羨望にも似た眼差しを向けていた。

 ミレイユはすっかり氷の溶けてしまったコーヒーに口を付け、薄くなった味に顔を顰めた。



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外へ その4

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 話が丁度途切れたタイミングで、ユミルが隣の席から身を乗り出して来た。

 その表情には好奇と嗜虐の色がありありと浮かんで、アキラとアヴェリンを見つめている。

 

「随分と楽しそうな話をしていたじゃない? 途中で話に割り込もうか迷っちゃったわ」

「そうか。それなら最後まで黙っていればいいものを。さっさと元に戻れ」

 

 アヴェリンが手の甲を外に向け、振り払うように手を振った。

 その厳しい顔は、団欒を邪魔された不機嫌さが如実に現われている。

 

「あら、そんな邪険にしなくてもいいじゃない。知らないかもしれないけど、こっちはこっちでその大胆な発言のフォローに回ってたんだから」

「……何の話だ」

「気を利かせたって言ってるのよ。魔力だ魔術だ何だのと、聞き耳立てられてるかもしれないっていうのに、所構わず話すものだから」

 

 ねぇ、とユミルはミレイユを流し見た。

 これにはミレイユも苦笑するしかない。隣の席にいながら、何も口を挟まないのは不思議に思っていた。談笑しているように見せて、その実、音が外に漏れないよう何かしていてくれたらしい。

 状況から考えて、それはルチアも協力して事に当たっていた筈だ。

 

 いま見たところ、とユミルは首を大きく廻らせてから言った。

 

「特に見張られている気配はないけど、でも見られているとは思うのよね。アンタはどう思う?」

「そうだな……」

 

 視線で促され、ミレイユは頷く。

 

「気配がないから無頓着だったが、確かにどこかに見る目は置いてあるだろう。私にも感付かせない位だから、現在地だけは分かるようにしている程度だろうが、しかし無頓着に放置という事もないだろう」

「でしょ? それをいい事に音だけは拾おうとか考えるかもしれないんだから。アタシ達の情報は、知られる範囲は狭ければ狭い程いい」

 

 ミレイユは再び頷く。

 重々しく、そして自らを恥じるように帽子のツバを摘んで降ろした。

 

「そもそも何キロも離れた場所から見る手段もある。現在の望遠技術は、私達の想像以上のところにある筈だ。……確かにこれは、弛んでいたかもしれない」

 

 まさか人工衛星を使った追跡網など構築していないだろうが、この国の神として君臨しているなら命令一つで可能であるかもしれない。

 それに現在の望遠レンズは十キロ先の人間の顔すら鮮明に映し出すと聞く。映像を解析して何を話しているのか、それを分析する事すら可能だろう。

 それを思えば、魔力に関する全てを、箱庭の外で話すのは危険かもしれない。

 

 何しろ、今回は明確にアヴェリンの弱点も話してしまっている。

 知ったからと誰もが対応できる程にアヴェリンは易しい相手ではないが、しかし知ってと知らずでは雲泥の差が生まれるのは当然だ。

 

 ミレイユは改めて感謝の視線をユミルに、そしてルチアにも向けた。

 頷くような小さな礼で頭を下げる。

 

「すまなかったな、どうやら本当に気を利かせてくれたようだ。ありがとう」

「どういたしまして」

 

 二人から笑顔で返礼を受けて、ミレイユは改めて目礼する。

 それで気を良くしてユミルは席に戻ったが、アヴェリンは元よりアキラも恐縮して頭を下げた。

 

「申し訳ありません、ミレイ様。特に考える事なく色々口走ってしまい……」

「僕もすみませんでした。あれこれと訊くような真似をしてしまって……」

「いいんだ」

 

 ミレイユは手を左右に振って、二人に頭を上げるように言った。

 

「私こそが気に掛けなくてはならない事だった。その指摘がなく、止める事もしなければ、お前たちが話に興ずるのは当然だろう。だから、気にしなくていいんだ」

 

 そう言って、ミレイユは改めて周囲を見渡す。

 見える範囲に高いビルがある訳でもないから、遠望するにも場所がない。精々が三階建てに相当する建物しかないから、その屋上からと考えても監視するのは難しいだろう。

 その更に遠くに視線を向ければ、後は送電線の塔ぐらいしかない。そこまで行くと、肉眼では不可能なのは勿論、音を拾う事も無理だろう。

 

 そのような場所だから、ミレイユは自身の感知とルチアからの注意がなかった時点で安心していたという部分があった。

 明確な敵だと認定している相手はいないが、しかし敵でも味方でもない相手というのは、時に敵よりも厄介だ。

 

「今後は気を付けよう。今も見られているとは思えないが、そうと認識して行動する心構えはいるかもしれない」

「……僕も気を付けた方がいいんですか?」

 

 アキラは自身を過小評価しているが、もし情報が欲しいと考えるなら、まずアキラを狙う可能性の方が大きかった。

 ミレイユを含む四人に隙はなくとも、アキラには幾らでも隙はあるし、作れる位置にいる。むしろ気を付けなければならないのはアキラだろう。

 

 ミレイユは首肯し、注意を促す。

 

「僕も、というより一番気をつけるべきはお前だ、アキラ。私達は決して一人で外を歩かないし、外に出る時は互いに注意して動く。対してお前は一人で、誰かが注意してくれる訳でもない」

「実力的にも、お前が一番御し易い。もし強行策を取ろうとしたら、まず一人になった時のお前を狙う」

 

 ミレイユとアヴェリンの双方から言われて、アキラは顔を青くした。

 しかし指摘されて納得もした様だ。

 もしも相手が現在情報収集している段階であるなら、動きがないのも頷ける。そして情報の確度が上がれば、まず狙うべきはアキラだと考えるだろう。

 

 学生であり登下校の間は一人、学内という狭いコミュニティなら漬け込む隙は幾らでもある。

 何も時折姿を見せる四人の誰かを狙うより、毎日外に姿を見せるアキラを狙う方が実力的にも楽に違いないのだ。

 

「あの……僕、どうしたらいいんですかね?」

「だが実際は、そこまで怯える必要もないと思うんだがな」

「そうは思えないんですが……」

 

 ミレイユあくまで澄まして答えたが、当のターゲットになり易いと知ったアキラに、それは楽観としか受け取られなかったようだった。

 

「一つに、相手は敵対を企図していないという事が挙げられる。私達の事が分からないし知らないから、少しでも情報を得られないかと考えているかもしれないが、今の今まで接近して来ていないのが、その証拠になる」

「ですかね……? でも今はやろうと思ってないだけで、やろうとしたら拙いんじゃ……」

「――そうだな。行動を起こすには時期尚早、もっと情報を集めてから、そう考えている可能性はある」

 

 やはりそうか、とアキラの顔が強張った。

 今更ながらの危機感を煽られたせいで、少し気持ちが後ろ向きになっているのかもしれない。

 ミレイユはテーブルの上に頬杖をついて笑った。

 

「だが、相手は短慮でもなければ馬鹿でもないのは、これまでの動きから想定できる。どこまで賢いかまでは分からないが、だが知る程に理解できるだろう」

「それは……?」

「私達を敵に回す愚かさを、だ」

 

 その一言でアキラの不安は一気に解消されたように見えた。

 アヴェリンを見れば、その顔には余裕と自信、そして絶対の自負がある。

 

「お前を拉致するような強行策に出ても尚、私達が傍観するか逃げ出すと思ってる相手だとは思いたくないがな。だが、そうしたなら我々の恐ろしさを骨の髄まで知る事になる」

「ミレイ様は一度懐に入れた者は決して見捨てない。仮に間に合わないような事態に遭っても、必ず相応の報いを与える方だ」

「それは……喜んでいいんですかね?」

 

 アキラは嬉しさ半分、不安半分といった表情だったが、アヴェリンは力強く頷く。

 

「当然だ、喜べ。お前はミレイ様に認められている。今日までの破格の待遇で、お前もそれが良く分かっているだろう」

「ええ、でも……それは、どうなんでしょう? とんでもない高さから自由落下させられたりしたんですが」

「お前の事を思っての事だ。今日とて、その詫びの一貫としてこうして甘味を振る舞われているのではないか」

 

 そこまで言われて、それでも首を横に振る気にはならなかったようだ。

 アキラは少し困ったように笑い、そして頷く。はにかむような笑顔だった。

 そこにアヴェリンが断固とした決意を乗せて言い放つ。

 

「安心しろ。お前が死んだら、仇は必ず討ってやる」

「いや、まず殺されないようにして下さいよ!」

「それはお前の努力で覆せ。お前自身が強いと判断されれば、そも拉致しようなどとは考えん」

「うぅ、……はい」

 

 アキラは力なく頷いた。

 そもそもアキラは庇護される対象ではない。ミレイユ達と関わったから、その対象として選ばれる可能性を生んだが、危険が嫌だというなら戦う事を選ぶ方が間違いだ。

 理性なき獣ならば襲われてもいいが、理知あって打算計略を持って襲う敵は嫌だというのは理屈に合わない。

 

 結界の外にあって、明確に襲われる理由があると知って、落ち着かない気分になるのは理解出来るが、しかしそれが嫌なら抗うしかないのだ。

 自身を鍛え、襲えば手痛い反撃を受けると、相手が知れば襲うことも躊躇する。

 

 ミレイユは頬杖をついたまま、からかうように目を細めた。

 

「だが良かったじゃないか。知った事で、これから更に鍛錬にも力が入る。早く強くなれば、それだけ身の安全が高まるぞ」

「……いや、それはそうでしょうけど。でも少し加減が欲しいというか……」

「それはアヴェリンに頼め」

 

 キッパリと断り、アヴェリンに視線を移したが、そのアヴェリンはむっつりと口をへの字に曲げて首を振る。あれは今のままでも尚、生温いと考えている表情だ。

 

 危機意識が生まれた以上は、これまで以上に厳しい鍛練が科せられるだろう。

 アキラが引き攣った顔をして項垂れるのを見ながら、ミレイユは残りのコーヒーを喉の奥に流し込んだ。

 



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外へ その5

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 喫茶店において、あまり長い時間追加の注文もなく居座る事は推奨されない。

 ミレイユもコーヒーを飲みきったし、他の皆もそれぞれスイーツを食べ終わっている。空席は幾つか見えるものの、これ以上長居するのは失礼かと思い、そろそろ会計しようかと思った。

 

 ユミルにその事を伝えて財布を渡し、伝票を持ってレジに向かって貰う。

 ここから店内の様子は見えないが、レジ前に客が溢れているという事もないだろう。五分も待てばユミルも帰って来る筈だ。

 

 それまでの間、少々の手持ち無沙汰になる。

 隣のテーブルでは一人になったルチアを、とりあえずこちらの余った一席に呼び寄せた。共に待っていようと席に座らせたところで、そのルチアの背後から新たな客が近づいてくるのが目に入った。

 

 小さな女児を連れた女性だった。

 子供に手を引っ張られ、急ごうとするのを困った顔をしながら窘めて、それでも止めるような事もなく手を握っていた。

 

 どこかで見た顔だ、と思ったのと同時、店員に言われてミレイユに会いたがっている子供がいる、と言われた事を思い出した。

 その子供はミレイユの姿に気づいていたらしく、だから母親を急がせようとしていたのだろう。その顔には興奮と輝くような期待に満ちた笑顔がある。

 

 母親共々ミレイユの五歩前で立ち止まると、手を離して子供だけが近づいてくる。

 外出用と思われる子供らしいが綺麗な上下一揃えの洋服、ピンクに近い赤色のスカートに、肩から下がるピンク色のポシェットが一体感もあって可愛らしい。

 

 子供はミレイユの前で立ち止まると、ちょこんと頭を下げて緊張した顔つきで小さな口を開いた。

 

「こ、こんにちわ!」

「ああ、こんにちは。久しぶりだな、莉子」

 

 ミレイユがそう声を掛けてやれば、一気に顔を赤くし興奮した面持ちで小さい手を胸の前で握った。名前を覚えられていた事が、相当嬉しかったようだ。

 そこまで喜んでくれたら、こちらまで喜ばしい気持ちになってくるが、これはあの店員のアドバイスがなければ出来なかった事だ。ミレイユは莉子の名前の事はすっかり忘れてしまっていた。

 

 とはいえ、子供が好きなミレイユだが、あまり子供に好かれるタイプではない。

 大抵は嫌煙されるか遠巻きに見られるかという事が多いので、こうして側に寄ってくれる子供は希少だ。何か声を掛けてやりたいと思っても、こういう場合に適した言葉など思いつかない。

 元より多弁なタイプでもない。どうしたものかと帽子のツバに手をかけて深く下げ、それから当たり障りのない言葉を投げかけてみる。

 

「莉子は……、何歳だ?」

「しきない、りこ、ごさいです!」

 

 名字まで含んだその台詞は、そこだけ切り取って言葉にしたような不自然さがあった。同じ言葉を何度も繰り返し、自己紹介の決まり文句として言ってきた故かもしれない。

 背後を振り返って母親に笑顔を見せれば、同様に笑顔を返して頷いている。よく出来ました、と褒めているようだ。

 

 莉子は振り返ってから、今更気づいたかのようにポシェットに手をかける。丸い形のポシェットの上部にはファスナーで口が閉じられており、それを開きたいが上手くいかず困っているようだ。

 見兼ねた母親が隣に座り込んで開けてやる。

 

 そして中から取り出されたのは、折り紙で作られた梅の枝だった。

 精巧な出来という訳ではない。恐らく、この莉子が自分で作ったものだろう。茶色の枝は二股に別れ、その先で合計三つの花が咲いている。

 この花もまた折り紙で作られたもので、梅を模した小さな蕾が糊付けされているようだった。

 

 莉子はそれを両手で持って、ミレイユに差し出して来る。

 もしかしたら前回のお礼にと、自分で作って持ち歩いていたのかもしれない。店員の言葉を信じるなら、きっとこれを渡す為に何度もこの店を訪れていたのだろう。

 名前も知らぬ相手なればこそ、一度会えたこの場所で再開できる事を願って、あしげく通っていた。

 

 ミレイユは柔らかく笑んで、その梅を受け取るついでに頭を撫で、感謝を伝えた。

 

「ありがとう、莉子」

「うん!」

 

 莉子は嬉しさが爆発してしまったようで、目を潤ませてミレイユを見上げた。

 このぐらい小さな子供だと、帽子のツバを幾ら下げても顔を隠せるものではない。その視線はがっちり交わり、その顔も見られてしまっている。

 

 子供にしては熱のこもった視線に困惑しながら、手元の梅に目を向ける。

 ミレイユとしても子供の頃、折り紙で遊んだ経験はあるが、精々鶴が折れる程度で別の紙を使って組み合わせて何かを作った覚えまではない。

 鶴が作れたのは、難しい折り方としては非常に一般的だったからという理由でしかなく、逆に簡単なものとなったら飛行機ぐらいしか作れない。

 

 それを思えば、上手く梅の蕾も折れているし、片方を短くした枝部分もよく出来ている。もしかしたら何度も失敗した上で成功させたものかもしれないが、とはいえ五歳の作った折り紙として考えれば好ましい出来でしかなかった。

 

 しかし、ここで一つ疑問が残る。

 お礼にお花を送りたいと思って、しかし生花はいつ会えるか分からないから用意できない。感謝も示したいから折り紙にしようと考えつくのは自然に思えても、しかし梅の枝を選ぶのは珍しい事ではないだろうか。

 

 子供らしいチューリップだとか、そうじゃなくてもより花らしい物を選びそうなものだ。

 別にケチを付けたい訳ではないが、どうにも不思議な気がした。

 その表情を見てかどうかは分からないが、莉子はおずおずと身を寄せてくる。莉子の背は低い、座ったミレイユの半分もなく、背を伸ばしても太もも辺りに顎が乗る程度しかない。

 

 顔を寄せてくる莉子は、口の横に手を立てた。

 内緒話をしたいと見えて、ミレイユも屈んで耳を寄せてやる。

 

「……ホントはオミカゲさまなんでしょ?」

 

 そうして出てきた言葉に、ミレイユはぎょっとして顔を上げた。

 無論それは単に顔が似ているというだけでしかないのだが、幼いこの子にはそれが姿を隠して町の一角に降りてきた神に見えたらしい。

 

 以前ミレイユの顔を見て驚いたような様子を見せたのは、もしかしたら美醜を評したのではなく、自身の知るオミカゲと姿を重ね合わせて見たせいなのかもしれない。

 そうすると、梅の枝を作って来た理由も分かってくる。

 

 日本の神は古来より梅や桜の花を好むという。

 ミレイユはオミカゲもまた梅を好むのかは知らないが、敢えて莉子がそれを選んだというのなら、他の神同様、梅の枝や花に何か縁があるのかもしれない。

 

 ミレイユがどう返答したものか迷っているのが、図星をつかれて固まったように見えたらしい。

 莉子は更に身を寄せるように背伸びして、囁くように言ってくる。

 

「だいじょうぶ、だれにもいってないよ」

「……そ、そうか、ありがとう」

 

 ミレイユが困ったような顔で礼を言うと、莉子は嬉しそうに頷く。

 もう用も済んだろうから母親の元に帰るのかと思ったが、莉子はそのまま離れず動かない。どうしたものかと母親の方を見ると、既に隣の席に座って注文も済ませ、子供の様子を見る事に決めたようだ。

 

 こういう時、帽子のツバで顔を隠しているのが実に不便だ。

 アイコンタクトで、どうにかしろ、どうしたらいい、等と聞くことも出来ない。何も言って来ないなら好きにしていい、という風にも取れるのだが、そんな無防備に子供を他人に預けて大丈夫なのかと不安になる。

 

 しかし幾ら待っても、早く戻ってくるように催促する声もない。

 莉子は相変わらず嬉しそうに見上げてくるし、それで仕方なく抱き上げて膝の上に乗せた。

 

「わぁ〜……!」

 

 嬉しそうな顔と声を全面に向けて発し、膝の上へ実に嬉しそうに座る。あまり前に出ては落ちるかもと、自身に引き寄せるよう掻き抱いた。

 ミレイユの腹直筋辺りが背もたれになるよう抱いて座らせれば、屈託なく笑って声を上げた。

 

「ママより、おっぱいおおきい!」

「あらまぁ、莉子ちゃんったら……」

 

 母親からは、にこやかな声で反応があったが、その実底冷えするような雰囲気を纏っている。

 子供ならではの遠慮も思慮もない感想は微笑ましいものだったが、今のミレイユは怖くてとても横を向けない。

 

「……そういう事を言ってはいけない」

 

 小さく窘めてやると素直に頷き、そしてテーブルに座る他の面々に目を向けた。

 

 アヴェリン、ルチアと続き、会計から戻ってきたユミルがアキラを押し退けて座っている。アキラが席の後ろで立たされているのを不思議そうな目で見て、それからミレイユに身を捩って笑う。

 

「みんな、すっごくきれい!」

「うん、みんな綺麗だな」

 

 ミレイユが同意して頬を撫でて正面を向かせてやれば、飽きもせず他の面々を見つめていく。アキラは困ったような苦い笑顔を見せて、まさか自分はその感想に含まれていないよな、と考えるような顔をしている。

 

 ルチアやユミルは澄ましたような微笑ましいような顔をしていたが、アヴェリンだけは膝に乗る莉子を羨むような視線で見つめていた。

 

 一度は会計を済ませたミレイユ達だったから、ユミルが戻ってきたとなれば席を立たねばならない。会計には席料も含まれているから、何も頼まず座る訳にはいかないのだ。

 注文を受けて品を持ってきた店員は、ミレイユ達を――莉子を見て我が事のように喜んだ。

 

「あら、莉子ちゃん。やっと会えて良かったねぇ!」

「うんっ!」

 

 名前を知ってるくらいだから、お互い気安い関係なのだろう。テーブルの上に置かれた折り紙の梅枝を見て、微笑ましいものを見るような目で笑った。

 しかし困ったのはミレイユだ。

 これまでよりも、より一層顔を見せるのが困難になったし、席を空けて店を出ねばならない。軽い気持ちで膝上に乗せた事を後悔しながら、ミレイユは店員に詫びた。

 

「会計を済ませたというのに、いつまでも居座って申し訳ない。すぐに席を立つ」

「あら、いいんですよ! せっかく会えたんですから、もう少し一緒にいて上げてください」

 

 空席があるせいもあるのだろう、気前よく言って店員は笑った。

 席を立つと聞いて、莉子も悲しそうな顔で見上げてくる。

 そのような顔を見せられてはすぐ帰るとも言えず、持ち上げようと胴に回していた手の力を抜いた。

 

「いや、すまないな。……何か頼んだ方がいいか」

「いいんですよ! でも、また何か見れたら、なんて期待しちゃいますけど」

 

 商品を乗せていたプレートで顔の半分を隠して、茶目っ気たっぷりでそう言った。

 下から熱い視線を感じて見れば、そこには期待を隠しきれない顔をした莉子がいる。身を捩り過ぎて怖いことになっているので、宥めて正面を向かせ、その頭を撫でた。

 どうしたものかと思っていると、ユミルがニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべている。

 

 アヴェリンもルチアも澄ました顔でお好きにどうぞ、と言った風だが、敢えてマジックショーをやるというには、ミレイユはそもそもマジックを知らなすぎた。

 少し考える仕草を見せてから、ミレイユは結局見せる事に決めた。

 やはり身を捩って見つめる、不安と期待を寄せる莉子の瞳に負けたからだった。

 



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外へ その6

 ミレイユは莉子を膝の上から降ろすと、正面に見据えて両手を取った。

 

「莉子、もう一度魔法を使ってみるつもりはあるか?」

「ある!」

 

 間髪入れずの発言だった。頬は紅潮して大きな瞳は輝いている。

 ミレイユはそれに頷いて、今度はその小さな両手を自らの両手で包む。そうすると両手がぼんやりと光って色をゆっくりと変えていく。

 

 特に意味のない魔力制御で、何かを発動させようとしている訳ではない。

 しかし周囲からは発光ライトでも、手の中で握っているように見えただろう。少し拍子抜けのように見えただろうが、本番はここからだ。

 

 ミレイユが手を離せば光も消える。そして、三つ離れた空いたテーブルを指差した。

 他のテーブルとは違ってパラソルはなく、白いテーブルクロスの掛かった丸いテーブルの席だった。椅子も二つしかなく、少数でやって来た客が日傘を必要としない時に使う席のようだ。

 

 今日は日差しもあったので誰も席に寄り付かず、ミレイユ達が来てからもずっと空席だった。

 莉子にそこへ行くように言う。

 

「いいか、莉子。今お前に魔法を使える力が備わった。だけど、一度だけだ。一度だけ、物を浮かせる力が身に付いた」

 

 今はもう消えてしまった光と、何も無くなってしまった両手を不思議そうに見つめながら、しかし話が聞こえていた莉子は頷く。

 ミレイユが指差したテーブルを見て、小走りに近づいていく。

 それを見る母親も店員も、何が起こるのかと期待して笑っていた。

 

「莉子、そのテーブルクロスを掴むんだ」

「この、しろいの?」

 

 そう、と頷いてやれば、クロスの端を無造作に掴んだ。

 それを両手で掴むように身振り手振りで教えてやれば、そのとおり四角形のクロスの両端を掴む格好になる。

 

 莉子自身、次はどうしたらいいと目で催促して来たが、既に事は始まっている。

 ミレイユが後手で魔術を素早く発動し、念動力でテーブルを僅かに浮かした。その余りに小さな動きに、莉子はまだ気づけない。

 しかし、その上昇が目につくようになれば、嫌でもテーブルが浮いた事に気がつく。

 

「まぁ……!」

 

 ミレイユの隣から店員が感嘆する声を上げる。

 莉子とミレイユを交互に見返し、何をやっているのか、そのネタを探ろうとしているが、しかし席を立つ事すらせずテーブルを動かすのは不可能だと悟って、驚愕した顔を見せた。

 

 テーブルは更に上昇を見せて、既に莉子の身長よりも高い位置にある。

 当然、テーブルの足から下には何もない。ゆらゆらと動いて見えるテーブルと唯一繋がる部分は、クロスを握る莉子だけだ。

 それはまるで莉子が握る事によって浮いたようにしか見えず、不確かに上下左右へ揺れる様が、より一層初めて使う力を持て余しているように映る。

 

 テーブルの重さ、そして上に掛けられたクロス一枚で持ち上げられる筈がないという常識が、それをまるで魔術のように見せていたのだが、実際それが正解で幾ら探してもタネは見つからない。

 

 莉子は興奮した面持ちと同時に、落としたら拙いという緊張感から顔を赤くしている。

 このまま持ち上げ続けていいのか、降ろすにはどうしたらいいのか分からないのが、それに拍車をかけているのだろう。

 

 あまり長くてもだれてしまう。ミレイユは頃合いと見て、ゆっくりとテーブルを降ろしてやった。しっかりと接地したのを見届けると、莉子も手を離した。テーブルの上で腕を振って、糸か何かないかと探している。

 実際、持ち上げようと思えば、下に何もない以上、上から吊り上げるしか方法はないのだ。

 

 確認が終わって何もないと分かると、自分の両手を見つめて興奮したように声を出す。

 きゃっきゃと笑って母親に抱きつき、ご満悦で持ち上がった瞬間のことを話している。

 

「なんかね、ぶわぁ〜ってなったの! そしたらかってにのぼってね! ぜんぜんおもくないの!」

「そうなの、凄いわね、りこちゃん」

「うん!」

 

 頭を撫でられ、更に機嫌を良くする莉子を見ながら、横から声をかけてきた店員を帽子の裏から見つめる。

 

「いや、ほんと……。どうしたらあんな事が出来るのか、まるで分かりません。ご自身はテーブルに触れてもいないのに……!」

「不思議だな、魔法だな、と思わせたなら、私の勝ちだ」

「それはもう! 感動して震えそうですよ! いつも、ああいうショーをしてるんですか?」

「イヤ……どうかな、いつもはもっと勝手が違う」

 

 何とも答え辛い質問に窮していると、ユミルやアキラから視線を受けた。何とも言えない苦り切った顔だった。タネを知っているからこその表情だろう。

 子供に請われたからと、迂闊にやるべきではなかったかもしれない。

 

 一頻り母親に感想を言い終わったと見えて、莉子は再びミレイユの元に帰ってこようとした。子供は構って欲しいと思えば幾らでも来るものだから、いいところでお暇しなくてはならない。

 ユミルのあの苦い顔を思えば、尚の事続ける気力も失せていた。

 

 ミレイユが立ち上がるとアヴェリンも同時に立ち上がる。

 そうなれば、他の面々も立ち上がるのは当然だった。

 莉子はミレイユが帰るつもりなのだと感じて悲しい顔をしたが、しかし我儘を言うつもりもないようだった。

 

 莉子はミレイユの足に縋って、下から仰いで見つめてくる。

 

「あのね、りこね、もっとまほう、つかえるようになりたい!」

「おやおや……」

 

 子供ながらの純粋な願いだった。

 今日も含めて、ミレイユと関わって本当に魔法使いがいると確信してしまったのだろう。この場合、魔法使いと言うより神様と出会ったと思っているのかもしれないが、ミレイユにとっては同じこと。

 

 どうやって、この純真な願いを壊さず断るべきか悩む。

 そうして、幾らかの逡巡の後、膝を折って目線を莉子に合わせた。

 

「莉子、野菜は好きか?」

「ん……、あんまり……。でも、にんじんはすきだよ!」

「そうか。だが、それだけじゃ駄目だ。野菜は好き嫌いせずに食べないと」

「そしたら、まほうつかえる?」

 

 ミレイユは柔らかく笑んで首を振った。

 

「それは分からない。だが私の知る魔法使いは、みんな野菜が大好きだ」

「そうなの?」

「そうとも。だからきっと、魔法の力は野菜にあるのかもしれないな」

 

 全くのデタラメをそれらしく言いながら、ミレイユは頭を優しく撫でて立ち上がる。

 母親からは感謝するように頭を下げられた。もしかしたら莉子の野菜嫌いは、相当根が深かったのかもしれない。

 

 テーブルの上に置いてあった梅枝を手に取り、指で摘んで莉子に見えるよう左右に揺らす。

 そしてそれを帽子の側面に挿した。莉子からは見え辛いだろうが、ここにある、と示すために二度ほど叩いた。

 

 それで機嫌よく頷いて、莉子は母親の元に帰っていく。

 まだ行かないでとか帰らないでと言わないのは、ミレイユを神様だと信じている故かもしれない。

 それを見守っていた店員は、プレートを胸の下に抱いて一礼した。

 

「胸の奥が優しく締め付けられるような光景でした。貴女がお優しい方で嬉しいです」

「そう言われると複雑だが、何も私は優しいばかりの人間じゃないしな」

「それは誰しも同じでしょう」

 

 そうかもな、と頷いて、ミレイユは今度こそ店を後にした。

 背後からまたお越しください、という心からの言葉を掛けられ、莉子親子の横を通り過ぎる時には手を振っていく。角度的に、莉子ばかりではなくその母にも顔を見られたかもしれないが、帽子のツバに手をかけていたし大丈夫だと思う事にする。

 

 そうして帰路に着く頃には、横に並ぶ一員の一人、ユミルから揶揄(からか)う声音で声を掛けてきた。

 

「随分とお優しいコトで……。あんなサービス必要あった?」

「全くなかったが、私がやりたかった。……どうも、ああいう子供の笑顔には弱い」

「そうでしょうとも。そうじゃなければやらないだろうから」

 

 ユミルが呆れるように言うのには理由もあるのだろう。

 会計するより少し前から見られている、監視されているかも、と用心を口にしたばかりであの行動なのだから、そういう批判的な気持ちになるのは理解できる。

 

 それに済まないと思う気持ちはありつつも、それより一つ、気にかかる点があった。

 ミレイユはアキラを手招きして呼んで、傍に寄らせる。

 

「アキラ、今更だが……オミカゲの事が気になってきた」

「なりましたか!」

「……なんだ、やけに嬉しそうだな」

 

 ミレイユが指摘したとおり、アキラの顔には驚きと喜びが浮かんでいる。気色悪いものを見た気分で眉根を寄せ、重ねて問う。

 

「何でそんなに嬉しそうなんだ」

「そりゃあやっぱり、きちんと知って貰いたいですから。煙たがっている人に説明しようとしたって余計に煙たがられるだけだし、だから自分からそう言って貰えれば嬉しいと言いますか」

「……なるほど、じゃあお前からは聞かないようにしておこう」

「何でですか!」

「変に熱が入って暴走しそうで怖いからだ」

 

 自覚があるのか、ミレイユの指摘にアキラは黙ってしまった。

 アキラが特別熱心な信者であるかと問われても、その常識を知らないミレイユに測れるものではない。これが標準かそれ以下だと思いたくはないが、下手に藪をつつきたい訳でもないのだ。

 

 今まで先送り、あるいは自ら接近する事は避けようと考えていた。

 しかし結界の発生はオミカゲが指揮している可能性がある。あるいは首謀者とも考える事ができた。それに自ら近づく事は、自分から危険に飛び込むのと同義だと思っていた。

 

 しかし違う。

 相手はこちらを監視している事は分かっている。

 そうと分かっている相手に先手ばかり譲ると、後で後悔する破目になる可能性がある。意味があるかどうか分からないが、まずそのオミカゲがどの程度日本で受け入れられているのか、そして本当に結界の主であるのか確認しなければならない。

 

「面倒だし、非常に嫌だが……棚上げしていたオミカゲを、今こそ本格的に調べてみるべきかもしれない」

「あら、いいわね。退屈しないで済みそう」

「だから嫌なんだ」

 

 喜色を声に浮かべるユミルとは反対に、ミレイユはげんなりと吐き捨てた。

 一番端を歩いていたルチアが、顔だけ前に出して問うて来る。

 

「でも、調べるといってもどういった内容を? スマホで調べられる範囲なら、もう私も見てますけど」

「そこなんだよな……」

 

 事実、過去にミレイユも気になって調べた部分でもある。

 この日本に降り立って、一番大きく分かりやすい違いなのだから、アキラのタブレットを使って調べてみたのだ。

 

 しかし当然、そこに載っていた記事など表面しか見えない部分が、ミレイユの知りたい内容に触れている訳もない。より深く知りたいと思えば、例えば図書館なども有効かもしれないが、それにしても結界については眉唾の部類だろう。

 それを思えば、まず行ってみたいと思う場所があった。

 

「御影神宮に行ってみるのはどうだ?」

 

 本尊であると同時に、実際にオミカゲ様が住まうとされる場所だ。

 毎日多くの信者や観光客で賑わう場所でもあるから、相当な混雑が予想されるが、訪れてみれば相手の出方が見えるかもしれない。もしかすると、直接間接問わず、接触もあり得た。

 

 ユミルは頷き、そして他の面々も順次頷いた。

 

「いいんじゃない? そもそも待ちの姿勢っていうのがアタシ達に合ってないのよね」

「ミレイ様の決めた事、なればそれに着いていくだけです」

「私も別にいいんですけどね、場所も遠い訳じゃないですし」

 

 バスを乗り継ぎ電車で行けば到着する距離でもある。

 調べた時、その予想以上に近い距離には驚いたものだった。

 準備はすぐに済ませられるだろうが、問題はアキラだ。連れて行くかどうか、そこから考えなければならないが――。

 

「勿論、僕も行きますよ」

 

 何かを決定する前にアキラが熱弁した。

 

「色々と解説するにも、やっぱり詳しい人が必要でしょうし。何かにつけ、見るたび変に曲解して勘違いするのも嫌でしょう? ……ただ、どうしても邪魔だと言うなら諦めます」

「確かに、私達は外でスマホは使えないしな……」

 

 見るものの多くは宗教的解釈を排する必要もあるだろう。それを日本の常識すら万全ではない者たちが見れば、それを正確に読み取れない事態が発生するのは予想できる。

 

 問題は攻撃があった場合だ。

 よもや門前で襲撃に遭うという事もあるまいが、唯一仮想敵として見ている相手の懐に飛び込むのだ。何かあってからでは遅い、と思ったが、余りアキラを過保護に扱う必要もない。

 

 最初からアキラの身の安全を優先してやる気持ちもないではないが、自分の身は自分で守れ、という教育方針でもある。煩いことを言うより、好きにさせる事を選んだ。

 

「では、お前のしたいようにしろ。着いてくるというなら、出発はお前の休みの日に合わせよう」

「ありがとうございます」アキラは頭を下げる。「今週は祝日があって連休になってますから、時間を気にせず使えます。それに、来週まで待たせる事はないですし」

「うん、じゃあそれで行こう」

 

 それぞれの了承の意が返ってきて、ミレイユ達は帰路を進む。

 山の稜線には陰りが増し始め、日の傾きも大きくなっていた。雲は高く、流れは早い。鳥の鳴き声が遠くに聞こえ、車の走行音が近くを過ぎる。

 そこだけ切り取って見れば、ミレイユの良く知る日本だと思った。

 



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御影神宮 その1

 
申し訳ありません。
前話『外へ その5』と『外へ その6』の順番を間違えてアップしておりました。
現在修正済みです。粗末な不手際いたしました事お詫び申し上げます。


 アキラはその日、休日を利用し午前中から移動していた。

 

 休日だからと多めに鍛練の時間が割かれ、思う存分打ちのめされた身体で動くのは辛かろうと、ミレイユは気を利かせて水薬をユミルに用意させていた。

 お陰で万全に近い状態で動けている。有り難い事には違いないが、それならむしろ鍛練時間を短くして欲しいと思った。

 しかし、思ったところでそんな事はおくびにも出さない。アキラに文句を言う権利は一欠片もないと理解している。

 

 現在はバスを乗り継ぎ、電車を利用するため最寄りの駅構内に立っていた。この乗り場からなら、電車一本で御影神宮前まで行ける。

 

 神宮駅前も大変に賑わっていて、昔ながらの老舗や、ここ数十年の成長を続けるデパートなど、多くの店が軒を連ねている。神宮に寄る前に、あるいは寄った後に多くの参拝客を満足させるだけのサービスが多様に揃っている。

 

 景観を損ねるという理由から、神宮近くの店は老舗が独占している状態なのだが、そこだけ時代を切り取ったように並ぶ店々は一見の価値がある。

 ミレイユ達にも是非見て貰いたいと思っているのだが、それにはまず電車に乗り込んで貰わねばならない。しかし最寄りの駅構内に入ってからというもの、ルチアとユミルの暴走は目に余った。

 

「いいから戻ってこい。ユミル、さっき飲み物を買ったばかりだろう」

「それはそうだけど、でもこれ形状が違うじゃない。何で違うの? 同じじゃ駄目な理由があるなら、それを知りたいと思うのは当然じゃない」

「どうでもいいだろうが、そんな事は。メーカーの都合だろう」

 

 ユミルはその持ち前の探究心から形状の違う自販機に目が釘付けで、見るだけならば良かったのだが、実際に触れる上に、壁にめり込むように設置されたそれをどうにか見られないかと奮闘していた。

 それを嗜めるのにミレイユが動いたものだから、その隙をついてルチアがやはり好奇心を発揮して勝手に動いてしまっている。

 アヴェリンはミレイユの傍にぴったりと寄り添っているせいで止めるよう求めるのは無理だし、そうなるとアキラが動くしかないのだが、アキラの苦言ごときで止まってくれる彼女でもない。

 

「お願いしますよ、ルチアさん! 戻ってくれないと僕が怒られます!」

「でもですよ。これどういう仕組みで切符が出てくるんですか?」

 

 アキラも見ずに券売機をぺたぺたと触れて回る。それから一人で上から下まで舐め回すように見つめて呟くように言った。

 

「この裏に人がいないのは知ってますよ、自販機にもいない事だって知ってます。でも、だったら何故こんな画面に触れただけで切符が出てくるのでしょうか? 不思議ですね、謎ですね」

「謎は謎のままにしておきましょうよ。知りたい事全て知ろうとしてたら、時間が幾らあっても足りませんよ!」

「それは私のプライドが許しません。知ろうと思ったら、まず知らねば」

「だったとしても、今だけはそのプライドは置いといて下さい!」

 

 アキラの必至の懇願も、ルチアには全く届かなかった。

 言葉は無視され、他の利用客の邪魔になろうとしているのに、その場を退こうとしてくれない。切符だけは先に買っておいて良いと思うのだが、ルチアに任せてしまうと関係ない切符を購入しそうで怖い。

 

 ミレイユに助けを求めようとして背後を振り向けば、ユミルをようやく自販機から引き剥がすのに成功したようだ。ユミルの腕を取って構内の一角に立たせている。

 

「いいか、ここにいろよ。いま切符を買ってくる」

「はいはい、行ってらっしゃいな」

「……ここだぞ、いいか? ここだ、この上、この場から動くな。意味は分かるな?」

「分かったってば」

 

 ミレイユは念には念を押して、幾度も足元に指を向けている。そう何度も良い含めている理由は明らかで、ユミルの表情がまるで信用ならない事に起因する。

 今も手の平をプラプラと振って余所見をして、興味のある物に目移りしている。

 

 帽子の下からでも分かる苦々しい顔をしながら、未練がましい態度で一度振り向き、そしてようやくこちらの方へ向かってきた。

 

 それに気づいたルチアが場所を譲って、早く切符を買えと催促するような仕草を見せる。

 他の客が買っていくのは横目で見ていたが、まさか顔を突っ込んで見るほど常識知らずではない。しかしミレイユが買うところなら、それが許されると思っているようだ。

 

 ミレイユは券売機の前まで来ると、背後を親指で差してアキラに顎をしゃくった。

 

「私が買っている間にユミルが何処か行かないよう、見張っていてくれ」

「分かりました……」

 

 ルチアの時がそうであったように、アキラにユミルを止める手段はない。

 アヴェリンがミレイユの傍を離れたがらない以上、他の誰か――アキラに頼むしか道はないのだ。それは分かるが、アキラが顔を向けた時には、そのユミルの表情が歪に笑った。

 

 アキラが傍で立ち止まると同時に、お互いの腕を搦めてぴったりと寄り添う。

 恋人のような距離だが、決してそのようなつもりでくっついた訳ではないとアキラは理解している。そしてその考えは直後、確信に変わった。

 

「あそこに何か小さなお店があるじゃない?」

「キロスクですか? ありますけど……、まさか行きたいとか言わないですよね?」

「腕を折られたくなければ、連れて行きなさいな」

「そんな頼み方ないでしょう!?」

 

 アキラは身を捩って引き離そうとしたが、その程度でユミルを振り解く事は出来ない。

 そのまま更に身を寄せて、耳元に口を寄せる。囁く吐息が耳に掛かってこそばゆいが、みしみしと音を立てる腕が、そんな甘い感覚を吹き飛ばしている。

 

「アタシは動くなって言われてるけど、連れ去られるなとは言われてないから。アンタが無理矢理動かしたっていう(てい)で行きましょうよ」

「嫌ですよ! それ僕が怒られるやつじゃないですか!」

「いいじゃないの、いつも怒られてるんだから。慣れたものでしょ?」

「慣れた扱いならユミルさんの方が上じゃないですか! 勝手に行って、勝手に怒られて下さいよ!」

「あらやだ、すっかり反抗的になっちゃって」

 

 内向魔術を身に着けたとはいえ、そもそもの魔力総量に隔たりが有り過ぎるせいなのか、全力を出しても抜け出せない。異音を立てる腕も万力で締め付けているように動かなかった。

 しかし、そうして抵抗した甲斐はあったらしい。切符の購入を済ませたミレイユ達が、こちらに近づいてくる。

 

 時間切れを悟ったユミルが、舌打ちと共に腕を放った。

 痛みはあるものの、異音を発していたとは思えないほど動きに問題はない。そこは流石に内向魔術士といったところだった。

 

 アキラの傍までやって来たミレイユは、切符を渡しながらジロリとユミルを見つめた。

 

「何か馬鹿なこと言い出していなかったろうな?」

「まさか、別に何も? ただ興味深いものあるわよねぇ、とかそういう世間話していただけよ」

「よく言うよ……」

 

 腕を擦りながらボヤいたアキラに、ミレイユが苦労をにじませた声音で言った。

 

「今日のユミルは何故か非常に面倒臭い。抑えていたものが溢れたのかもしれん。……よろしく頼むぞ」

「よろしくされても、ユミルさんは止められないですけど……分かりました」

 

 その声音に根負けしたように、アキラは頷いた。

 目の届く範囲ではミレイユも気に掛けてくれるのは間違いないのだ。項垂れたい気持ちはアヴェリンからの視線で諌められ、背筋を伸ばして前を向く。

 

 受け取った切符を片手に、改札口へと向かうミレイユの背を追った。

 

 

 

 改札口を過ぎて階段を昇れば、すぐにプラットフォームが見えてきた。

 市街地を貫くように走る線路が遠くまで見える。電車を待つ乗客たちの数は疎らだったから、ミレイユ達の存在はそれほど目立たずに済んだ。

 

 時刻表を事前に調べて来ているとはいえ、電車がやって来たのはプラットフォームに足を着けるのとほぼ同時だった。ユミル達の暴走がなければ、もっと余裕をもって電車を待てただろうに、と思いながら目を向ける。

 それと同時にアヴェリンがミレイユの前に身体を割り込ませ、電車の盾になるよう後ろへ庇った。

 

「ミレイ様、お気をつけて。何か来ます……!」

「ああ、そうだな。電車だな」

 

 それはアキラにとってもよく見慣れたフォルムの電車で、別に急加速でホームに入って来ているという訳でもない。目前を通り過ぎる時には風が髪をなぶったが、標準的な速度だったと思う。

 線路から脱輪でもしない限り突っ込んでくるような危険はないのだが、彼女にとってそんな台詞は慰めにもならないのだろう。

 

 恐ろしく感じるほど真面目な視線で電車を見送り、動きが止まると同時に空気の排出音と共に扉が開く。先に乗客が出ていくのを見送って、次に待っていた人達が乗り込んでいくのを見ながら自らも電車に入って行く。

 

 来る時バスに乗った時同様、アヴェリンに座る位置を指示され、そのとおりに座っていく。

 ルチアはさっそく背もたれに手をかけて窓の外を見つめた。目を輝かせて窓の外を見る美少女というのは、非常に画になるもので、それぐらいのやんちゃなら歓迎したいくらいだった。

 乗客が多い状態ならマナー違反だが、空席も目立つ現状なら、そう問題視される事もない。

 

 これから神宮駅に近づくにつれ乗客も増えていくだろうから、その時見誤らずに注意すればいい。

 アキラはそう思って前に向き直った。横目で伺う限り、ミレイユも問題には感じていないようだ。周囲の乗客を気にして帽子を深く被り直している。

 

 観光客も多いこの地にあっても、やはりこの美貌の集団は良く目につく。座席の一角に集った彼女たちに視線が集まるのは当然で、だからミレイユには今日までの間にサングラスを購入してもらっていた。

 

 流石に人混みの多さが桁違いの場所で、横から見られるリスクを減らすのは難しかった。見られれば騒ぎになるのが間違いない場所に行こうというのだから、せめてサングラス程度の準備がなくては危なくて行けるものでもない。

 本当はマスクもさせたかったぐらいだが、それはアヴェリンに却下された。

 

 サングラスでさえ難色を示したくらいだったが、それはアキラの説得と同時にミレイユが頷いたから通った話で、そのサングラスも選ぶとなれば大変な事だった。

 

 最終的に決まったサングラスは上品さすら感じられる一品で、レンズの大きさ事態はそれ程でもない。その顔を覆う面積の少なさから、最初はそれじゃ意味がないと言ったアキラだったが、結局は折れる形で納得した。

 アヴェリンが主張したように、ミレイユの品位を損なうような物なら身に着けない方がマシだという意見は、分からないでもなかった。

 

 アヴェリンのミレイユに関する審美眼は実際馬鹿にしたものでもないのだが、しかしこうして改めて見ると、まるでマフィアの女幹部のような凄みがあって怖い。

 その視線が表情に出ていたのだろう、ミレイユが怪訝に首を傾げた。

 

「……どうした?」

「いえ、何でもありません。失礼しました」

 

 改めて前に向き直り、電車が発進されるのを待っているところでベルが鳴って動き出す。横向きに身体が揺れ、ミレイユの肩に触れないよう気を付けながら進むに身を任せる。

 御影神宮に行くのは勿論、初めてではない。初詣は必ずそこと決めているし、何かに付けて訪れる機会のある場所だ。

 

 今日行くのは決して観光でも物見遊山でもないが、しかし心の何処かで参拝する喜びを感じ、胸踊らせるのを抑える事が出来なかった。

 



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御影神宮 その2

あーるす様、えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 神宮駅のプラットフォームへ、最初に降り立ったのはアキラだった。

 喜び勇んで飛び出したのではなく、アヴェリンにそう指示されたからだ。

 懸念していたとおり、神宮に近づくにつれて乗客の数は増え、そしてアヴェリンも警戒を強めずにはいられなくなった。他の乗客に続いて降りるというには、周囲を人に囲まれ過ぎると判断したようだ。

 

 最初にアキラを降ろし、その先で警戒をさせた上でアヴェリンが前に立って降りて、他の二人に後ろを警戒させようというつもりらしい。

 アキラも一応、周囲に気配を向けるものの、参拝者と観光客が大勢いるという事くらいしか分からない。敵意や殺意というものは既に実感して知っているものの、まさか神のお膝元で犯罪を起こそうという輩もそういないもので、誰もが穏やかな気配を発している。

 

 それでも任された以上は下手な真似は出来ず、警戒しながら残りのメンバーが順次降りてくるのを待つ。

 流石に神宮駅といったところで、自分たちの最寄り駅とは雲泥の差がある。大きく広いプラットフォームはその利用客の多さを如実に物語っていたし、実際単なる参拝者以外にも病気や怪我をおしてやって来ている人達も多く見る。

 

 それを支える為のバリアフリー設計も随所に見られ、無事に辿り着けるよう配慮がある。そもそも自力歩行できないような重篤者は車で来るなりするだろうし、助け起こす必要のあるような人は早々見ない。

 

 全国各地に分社があるから、無理をしてでも神宮を選ぶ必要はないのだが、神のお膝元の方がより良くより早く治ると考える人は一定数いる。

 そのような事実はないと神宮から公式な声明は出ているものの、縁起がいいと験を担ぎたいと誰もが思うものだ。アキラとしても、動く元気があるなら近い方より神宮を選びたい気持ちがある。

 

 そうして待っていると、降りる乗客の最後尾でアヴェリンを先頭にミレイユ、ルチア、ユミルの順に降りてきた。

 アヴェリンも一度ぐるりと辺りを見回し、それからルチアへ顔を向ける。彼女からも大丈夫というように頷きが返ってくれば、それでようやく形ばかりではあるが警戒を解いた。

 

 アキラは先導して階段のある方向を示す。

 

「さぁ、それじゃあ外に出ましょう」

 

 

 

 駅周辺に限って言えば、現代的な建物が多く並ぶ区画だった。

 商業施設の入った五階建てのビルやマンションなどが立ち並び、アキラ達が質屋などの用向きで立ち寄った街とそう大差はない。

 ただし、高層ビルはなかった。

 それもその筈、あまり近所に高いビルを立てるという事になれば、それは即ち神様を見下ろす形となり、明確な不敬不遜となり得る。

 

 それだけで神の怒りを買うのかと疑問に思うが、神宮勢力が頑なに否定するので建てられなかったという事情がある。

 神宮の鎮座する地は小高い山の上にあり、八百年以上の歴史を持つ建築物でもある。長い歴史を持つ故に何度も修繕はされているが、しかし地震や火事などで焼失した事は一度もない、由緒ある建物でもあるのだ。

 

 小高い山はまるで三方から巨大な掌で、周囲から土を押し盛られたように見える事から、三掌山と呼ばれる。

 駅から暫く道沿いに進めば左手にその姿が確認でき、なだらかな斜面の坂は老人の足でも昇れる程だった。

 

 その道を曲がった先からは、アスファルトではなく石畳に変わる。道幅は車道と同じであるものの、車で通行する事は推奨されない。

 多くの時間帯で歩行者専用道路となっていて、朝の八時から夜十時まで車の通行は禁止される。ただ救急車であったり、あるいは御由緒家の許可が降りた場合などは例外に当たる。

 

「しかし、凄い人の数だな……」

「まるで祭りみたいです」

 

 アヴェリンが言って、ルチアが同意して頷いた。

 その感想も当然、見渡す限りといって良い人達で溢れかえっている。今日は特別祭事が執り行われる日ではないが、休日祝日の参拝者数としては平均的なものだ。

 

 アキラはミレイユ達と揃って歩きながら、その歩行者道路を参拝者たちと共に歩く。道の左右には土産物屋、食事処が建っていて、店の雰囲気がここから違う。

 まるで時代劇映画の中に入り込んでしまったかのように錯覚する程、店構えが現代と違う。多くは木造であったり漆喰を使って塗り固められたような外壁で、瓦屋根を用いていたりする。

 

 道行く人とは対象的に店員は和服を着ていて、熱心な参拝者もまた和服を身に着けている。

 オミカゲ様が和服を好むというのは広く知られた事実で、御神の為の御用達店である呉服屋は常に数年待ちの予約で埋まっているというのは有名な話だ。

 

「しかしこれはまた……面食らうわね」

「この日本に来た時も、まったく違う世界に来たのだと実感したものだったが……」

「ちょっと違う程度だと思ってました。まるで別世界ですよ」

 

 それぞれが口々に感想を言って、アキラはさもありなんと頷く。

 ミレイユはやはりというか、三人の表情を面白そうに見ているばかりで面食らっている様子はない。日光にも江戸村などがある位だし、奈良や京都には似た雰囲気の街もある。彼女からすれば、それぐらいの気持ちなのかもしれない。

 

 多くの人がスマホを翳して、あちらこちらと写真を撮っている姿も見える。

 それらの姿を見るともなく見て視線を戻すと、ルチアとユミルが土産物屋へ吸い込まれそうになっているのを、ミレイユとアヴェリンが止めていた。

 

「何か気になる感じがするんです! ちょっと、ちょっとだけ……!」

「あそこには何かがある。アタシには分かるの!」

「それを許せば時間があっという間に溶けるだろうが。そういう事は用事が済んで、余裕があったらにしろ」

 

 ミレイユに窘められれば、二人とも大人しく動きを止める。

 拘束が緩み、手を離したところで土産物屋に突撃しようとして、やはりあっさりと捕まっていた。

 してやったりと思ったのかもしれないが、ミレイユは先手を読んでいたように動いていたし、アヴェリンは単純に見てから対応で間に合わせていた。

 

 ユミルは苦り切った表情で顔を歪めて店を見つめていたが、ミレイユが首に腕を回した事で動きを止めた。まだ力は入っていないようだが、既にタップを始めている。

 

「いや、ちょっと。悪かったから、悪ふざけが過ぎたわね……!」

「一度くらい、ここで首を折っておくのもいいんじゃないか? 記念にもなるだろう」

「流石に首を折るのはどうかと……」

 

 ミレイユの容赦が見えない言葉に、アキラも流石に苦言を呈した。

 幾ら行動に難があったからといって、この往来の真ん中で殺人事件を起こされるのは拙い。

 

「首を折ったぐらいじゃ死にはしない」

「いやいや、死にますよ。どういう言い草ですか、それは」

 

 アキラは首を振って否定したが、ミレイユは元よりユミルも不思議なものを見るように見返してきた。思わずたじろいだアキラだが、一秒の沈黙の後、素直に頷いて腕を離す。

 

「……そうだな、下手な騒ぎを起こすのは得策じゃない。ユミルもこれから大人しくすると約束したしな」

「いや、別に約束はしてないわよ」

 

 このタイミングで良くそんなこと言えるな、とアキラは思ったが、ミレイユがサングラスの奥から眼を光らせ睨みつけた事で、ユミルは大人しくなった。

 ルチアには何も言わず頭を撫でただけだったが、それだけの事で借りてきた猫のように大人しくなってしまった。

 

 やっぱり怒らせると怖いんだなぁ、とアキラは思った。

 しかしそうでなくては、この曲者だらけの集団でリーダーなど出来ないだろう。チームの中の最年少でも皆を纏められるというなら、やはり相応の理由があるものだ。

 

 アヴェリンもそれでルチアを拘束から開放して、ミレイユの右後ろ――定位置につく。

 そして促すようにアキラへ顔だけを向けた。

 

「この道を進むのでいいのか?」

「はい、ですね。しばらくすれば鳥居が見えてきますので」

 

 周りを見れば、店に立ち寄る客も多く見えるものの、一つの方向に進む客もまた多い。実際この午前中という時間帯ならば、参拝に向かう人の方が断然多いのだ。

 花を供えるという訳でもないので基本的に手ぶらでいいし、だから途中で何か買い足して行く必要もない。

 

 一説に、神が求めるのは感謝と信仰だと言う。

 それと明確に口にした記録はないとされるが、しかし健康である事、健康になる事へ感謝を捧げない人はいない。もしそれを求めているのなら、オミカゲ様ほど捧げられる神もいないだろう。

 

 ミレイユが歩き始めると同時にアヴェリン達も動き出し、アキラもその背へ着いて行く。

 周囲には雑多に動く人々と、熱気を感じる声音があった。

 誰も彼もが笑顔で神宮方面を見ては、隣に立つ人達と笑みを交わしている。神の庇護下にある事を肌に感じて、誰もが嬉しくて仕方ないのだ。

 昨今は、その風潮も下火になっていると聞いていたが、これを見る限り杞憂に思えた。

 

 遠くに大きな鳥居が見えて来て、アキラは改めてその奥におわすオミカゲ様へ、頭を垂れる気持ちで顔を向けた。

 



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御影神宮 その3

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 参拝者の人波に流されながら、境内入り口に辿り着く。ここまで来れば元より緩やかだった傾斜は更に緩くなり、殆ど平地と変わりない。

 正面には歩行する者にとっては邪魔に感じる車止めがあり、石杭のようなものが四つ並んでいる。

 その両端には木造の灯籠が置いてあった。夜ともなれば火が入り、足元を照らすと同時に、石杭を目立たせる役割があるのだろう。

 

 そして、そこを超えればついに石鳥居が目前に見えてくる。

 その神の御名と同じくする御影石を使った大鳥居は、四本の石柱を用いて造られ、高さ十メートル、幅十五メートルという巨大さを誇る。

 

 この大鳥居は二本の円柱の上に、横に倒した円柱の貫のみを角形として乗せ、柱の外に突出させる特徴を持たせている。この形式は御影鳥居と称されていて、多くの神社で似たような形を用いられる雛形となった。

 

 長い年月ここに在り続けただけに、その表面は風雨に曝され古ぼけた印象を受ける。ヒビが入っていてもおかしくなく思えるが、これもご威徳の賜物か、損傷している気配はない。

 

「見事なものだ」

 

 ミレイユが鳥居を見上げて呟くのを、アキラは隣で聞いていた。

 誰もが鳥居の中央を避けて入っていくなか、ミレイユ達は柱の傍で立ち止まった。これは何もミレイユ達だけがマナー違反という訳でもなく、多くの人がその大鳥居の近くで記念撮影などに勤しんでいるので、ミレイユ達だけが流れを無視して迷惑をかけているという訳でもなかった。

 ミレイユがそうしているように、鳥居をひと撫でしていく人も多い。

 アキラも真似してみたくなって、冷たい感触を返す石柱を撫でる。

 

「しかしこれだけ大きな石柱だと、地震で倒れたり割れて落ちてきたりしないか不安になるな」

「そうですね。地震大国にも関わらず、ここまで無事なのは奇跡です。もしかしたら要石も関係しているかもしれません」

 

 アキラが悪戯っぽく笑うと、その単語を聞き咎めたユミルが口を挟んだ。

 

「何よ、それ? 石が何か関係あるの?」

「その昔、オミカゲ様が安置したという石の事で、地震を抑えると言われています」

「石を置いただけで、ねぇ……?」

 

 ユミルが小馬鹿にするよう、アキラへ流し目を送った。

 外国人でも可怪しく聞こえるぐらいなので、別世界からやってきたユミルからすれば胡乱もいいところなのだろう。その反応は別に不思議でもない。

 

「特に昔は、地震はナマズが起こすと考えられていて、地中に住む巨大ナマズが身動ぎするせいで地面が震えると信じられていました。そのナマズを巨大な石で圧し潰して身動きできないようにしたのが、要石だと言われているんですよ」

「ナマズが何で地震と繋がるのよ。起こすんだったらモグラでしょ」

「はい?」

「……ん?」

 

 アキラは思わず眉根を寄せて聞き返したが、ユミルにはその反応こそが不可解なようだった。お互いに首を傾げるような形で顔を突き合わせ、それでミレイユが笑って答えた。

 

「あちらの世界じゃ地震はモグラが起こすと考えられている」

「ああ、そうなんですね」

「いや、考えられているというか、実際に起こすのがモグラだ」

「……は?」

 

 アキラは思わず目を丸くしたが、ミレイユは笑みを深くして続けた。

 

「お前が想像するモグラとは大きさが違う。別に害を成そうとするつもりはなくとも、家ほどの巨体で地面を動かれると、その上で暮らす人々にとっては大きな振動として伝わる。時に成長しすぎたモグラは存在だけで害となるから、小さくとも見つければ殺す事が推奨されている」

「民家ぐらいの巨大モグラですか……」

「実際にそこまで大きくなる事は稀だが、地中の岩盤に当たって、それでも掘り進もうとした結果、地上に住む者達にとってはそれが大きな振動として伝わってしまう。家が倒壊する事もあるから十分な獣害だ。嫌われて当然とも言える」

「ですねぇ……」

 

 地震が身近な災害として認識している日本人としては、そこについては十分理解できた。もし地震の発生を獣害のように討伐と共に減らせるというなら、専門の職業が作られ活躍するに違いない。

 そこにルチアが顔を小さく突き出して、ミレイユの顔を伺ってきた。

 

「いつまでも入り口に居ていいんですか?」

「そうだったな、思わず口を出してしまったが、ここで長居していても仕方ない」

 

 ミレイユが言って、アヴェリンを伴い人波に紛れるように間へ入った。そして鳥居を(くぐ)り、一歩踏み出したところで動きを止める。他の人達が迷惑そうにして避けていくのを見て、アキラは傍に駆け寄った。

 それと同時にミレイユは歩き出し、どうしたのかとその背を追って、そして小さな違和感がその身を走った。

 

 空気が違うと感じ、同時によく知る感覚だと思った。

 まるで箱庭に入った時のような、()()に満ちた世界へ身を入れたような感覚だった。

 

 そう思ってハッとする。

 これだったのか、と理解した。この世にないとされているマナが、こうも誰もが入れる場所に充満しているというのは明らかに異常だ。アキラも毎年ここに来ているが、このような異常に気づいた事はなかった。

 あるいは、これは蓋がしてある身体では、感じ取れない事なのかもしれない。

 

 一度大鳥居を過ぎると、参道の奥まで石畳が続くが、その両端に敷かれた砂利の外は雑木林が立ち並んでいる。時に杉や松などが見えるので、その溢れる緑に空気が美味しいと、一般人の感覚では紛れてしまうのかもしれない。

 実際空気は清涼で、思わず深呼吸したくなるような爽やかさがある。

 

 アキラは戸惑ってどう訊いたものか迷ったが、アヴェリンとは逆隣に並んでミレイユと共に歩く。

 

「ミレイユ様、これって……」

「……予想できて然るべきだったな。電線を介して結界を作っている連中だ、魔力を電力で生み出しているのかと思っていたが……。そもそもマナの生成地があったとはな」

「それってマズい感じですか?」

 

 どうだろうな、とミレイユは首を横に振った。

 

「相手の本拠地がマナに溢れているというのは脅威に思えるが、別にそれで特別私達が不利になる訳でもない」

「そう……ですかね?」

「私達に出来る事が、相手にも出来るというだけだ。あちらの世界じゃそれが普通だったんだから、別に問題にはならない」

 

 ミレイユは余裕の口振りだが、しかしそれは制限なく魔力を使った攻撃や(はかりごと)が出来るという意味ではないのか。

 しかしミレイユは、それに予想がついているだろうに、まるで頓着した様子を見せない。自分なら奇襲があったところでどうにでも出来る、とでも思っている口振りだった。

 

 そして実際、どうにか出来る自信があるのだろう。経験を積み重ねた、強者故の余裕がそこにはあった。

 ちらりとアヴェリンを盗み見る。

 

 もし襲撃があっても、彼女は自身を盾にすることを躊躇わないだろう。いざとなれば捨て身で守ると断言できる者と、それを信頼する者がいる。そしてそれに対処するだけの能力が、二人には間違いなくあるのだ。

 

 それに何も対処に回るのはこの二人だけでなく、ルチアとユミルもいる。

 アキラはこの二人の実力を知らないが――アヴェリンも底を見たとは言えないが――、しかし行動を共にする事を許されているという時点で、その実力も窺えようというものだ。

 その二人もまた、二人にしか出来ない、しかし二人にならば出来る事を成すのだろう。

 

 アキラが気付けたぐらいだから、この二人が神宮内のマナに気づけなかった筈がない。それだというのに二人の表情に気負いはなかった。

 自分達ならば、どのような問題も解決できると欠片も疑っていない。例え他の誰かが無理だと判断しても、自分達だけは例外だと思っているような余裕ぶりだった。

 

 そこまでの姿を見せられたら、アキラも一人で緊張しているのが馬鹿らしい。

 何かあればその対処に動けないのは唯一アキラだけ、という問題はあるものの、周囲に気を配りすぎるのも問題だ。

 仮に襲撃があるにしろ、どうせ気付くのが一番遅いのはアキラだという確信もそれを手伝った。

 

「まぁ、僕が考えても仕方ない事ではありますか……」

「そうだな、成るようにしか成らない」

 

 ミレイユが肩を竦めて、アキラは苦笑した。

 そうは言っても、何とかしてしまうのだろうという安心感がある。

 

 参道入り口すぐには境内見取り図があって、そこからは両端に等間隔で立つ石灯籠が見える。そしてその更に奥には、聳える楼門が視界に入った。既に境内とはいえ、ここからが本番だという気持ちになってくる。

 楼門の両端まで、びっしりと木々が生い茂っているせいもあり、門の奥まで見通す事はできない。

 

 その楼門までの中間辺り右手側に、小さな神社が目に入った。

 赤い漆が塗られた鳥居が四つと多くあるものの、その規模は神社共々小さなものだ。足を止めて参拝する人もいるので、ミレイユも気になって止まったようだ。

 見ればそこが稲荷神社だと分かり、御影神宮に置かれた末社なのだろう。

 

「私は神社に詳しくないが、そういえば神社内に別の社を置くのは良くあるよな?」

「ですね。メインで祀る神様と縁深い神様の社を置くのは、良くある事みたいです」

 

 ミレイユは鳥居の横へずれて、通行する人の邪魔にならない位置へ移動した。鳥居の先まで行ってみるつもりはないらしい。

 鳥居の前に安置された、石像のお稲荷さんの頭を撫でながら更に疑問を投げかけてくる。

 

「ということは、オミカゲ様とやらは稲荷と縁深いという事か?」

「直接的となると、ちょっと違う気もしますけど……僕も詳しい事は知りません」

 

 ただ、と前置きしてからアキラは続ける。

 

「オミカゲ様は雷神様ですから……、雷はイナヅマとも言いまして」

「ああ、稲の妻と書くからか……。雷が鳴ると稲がよく育つなんて言われるしな」

「ですね。だから稲を象徴する稲荷神と縁が深いという事で、こうして関連付けられたのかと思います」

「なるほどな……」

 

 ミレイユは興味深そうに稲荷神社を見渡し、それから稲荷像から手を離した。

 その様子を眺めながら、アキラは嬉しく思うと共に意外にも思う。今までは興味を示さないどころか無視するような有様で、オミカゲ様に対して触れないようにしていた節さえあった。

 しかし大鳥居からこちら、今は積極的に知ろうとしている。

 

「それはな、今日はオミカゲを知る為、深く知る足がかりとする為に来ているんだしな」

「……僕、口に出してました?」

「いや、顔に書いていた」

 

 ミレイユは微笑むように言って歩き出した。アヴェリンがそれに続き、ルチア達もそれに続く。アキラの横を通り過ぎる際、ユミルが含み笑いで頬を撫でていく。

 アキラは自分でも改めて頬を撫でながら、置いていかれないよう慌ててその背を追いかけた。

 



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御影神宮 その4

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 参道を再び歩きだして、今度は左手に手水舎(ちょうずや)が見えてきた。

 楼門の直前に設置されているので、ここで拝礼の前に手を清めて入る事になる。他の神社よりも場所も広く取られ柄杓の数も多くあるが、参拝者の数が数だ。

 長く待たせないようにと手短に簡略化させて次に渡す者もいるが、中には作法に則って両手と口を洗ぐ人もいる。

 

 待たせてしまうと分かりながら、神前に赴くとなれば疎かにしたくない人もいるのだろう。

 アキラもその気持ちはよく分かる。混雑しているからといって、身を清めずに楼門を潜るのは躊躇われた。

 

 しかしミレイユは全く気にしていないらしい。

 手水舎を横目に通り過ぎようとして、思い出したかのようにアキラへ振り向いた。

 

「お前も、ああいうのやりたいのか?」

「それは……はい、出来れば」

「じゃあ、好きにしろ。私達は門を潜った先で待ってる」

 

 言うだけ言って、ミレイユは門の先へ向かってしまった。

 アヴェリン達は言うに及ばず、ミレイユと一緒に着いて行く。誰か一人くらい残るつもりはないのかと思ったが、それより長く待たせて不機嫌にさせる方が拙い。

 最後尾に並んで、アキラは門の先で待たせるミレイユ達をヤキモキしながら順番を待った。

 

 

 

 作法に則って両手と口を清め、アキラは改まった気持ちで楼門の前に立った。

 この楼門は『日本三大楼門』の一つに数えられる名門で、高さも大鳥居と変わらぬ程もある。

 構造は三間一戸、入母屋造の二階建てで、総朱漆塗りが目に眩しい。彩色はわずかに欄間等に飾るぐらいで、控え目な意匠であるものの、それが逆に品位を浮かび上がらせている。

 

 何度見ても――まだ数える程しか見てないが――、その門扉の面構えに背が伸びる思いがする。

 気負いすぎだと周りから笑われようと、アキラは背を伸ばし顎を引いて門を潜る。そうして歩くこと数十歩、左側にミレイユ達が待っていた。

 

 この集団はどこにいても目立つ為、探す苦労がないのは有り難い。

 今も誰か見知らぬ男性のグループに話しかけられ、そして離れていくのを見送っているところだった。

 アキラはその男性たちの背を見ながら、ミレイユ達に合流した。

 

「あの人達、知り合いですか?」

「先に待たせた事を詫びんか、馬鹿者」

 

 アヴェリンに指摘されて、そこで初めて自らが非礼を働いた事に気づいた。

 慌てて腰を折って頭を下げた。

 

「す、すみません! お待たせしました……!」

「別にいいけどな」

 

 ミレイユは帽子の向こう側から笑ったが、アヴェリンの機嫌は変わらない。どのような事態であれ、ミレイユを蔑ろにするような事をアヴェリンは好まない。

 しかし言い訳させて貰えば、ミレイユが許可した事でもあるのだ。信仰する神に対する礼節は大目に見て欲しい、という気持ちが湧いてくる。

 

 そこにユミルが、笑いながらアヴェリンの肩を叩いた。

 

「いいじゃないのよ。少し待つぐらいなんて、あの子が許した時点で折り込み済みでしょ?」

「……そうだが」

「機嫌を悪くしているならともかく、それなら煩く言わないの。……それで、あの男達だっけ?」

「ああ、はい。すぐ離れて行ったみたいですけど……」

 

 あれね、とユミルは笑って男達の遠ざかる背を見た。

 

「いつものやつよ」

「いつも? ……ナンパですか?」

「そう、それ」

 

 ユミルはアキラに人差し指を向けて片目を瞑った。

 ルチアはあからさまに眉を寄せて皺を作り不機嫌顔だったが、他の三人は大して気にもしてない。随分おおらかになったな、とアキラは心の底で安堵した。

 

「ああやって、断わられてすぐ引き下がるなら可愛いものよねぇ」

「でもあれ、もう三組目じゃないですか。いい加減、辟易しますよ」

「あともう一声でも掛けられていたら、私は相手の腕を折っていた」

 

 アヴェリンが物騒な事を言い出して、アキラは即座に前言撤回した。

 やっぱり彼女達は彼女達なんだな、と再確認できたところでミレイユに向き直る。楼門の壁を背にして立っていたミレイユは、その遣り取りを楽しそうに見守っていた。

 話も終わったと判断すると、皆を率いて歩き始めた。

 

 

 

 楼門を抜けた先は社務所など、おみくじや絵馬が売っている斎館などがある。軒下には端から端まで繋ぐ長く白い布が引かれており、その中央を括る事で湾曲する線を作っている。

 白布の左右どちらの中央部分にも、オミカゲ様を象徴する紋所が印字されていた。

 どれも古く年季と歴史を伺える施設で、心が引き締まる思いがする。

 

 アキラはおみくじを売っている社務所にパンフレットが置いてある事に気づき、隣の注意書きから無料で貰える事を確認して手に取った。

 それを見ると、主要社殿は本殿・石の間・幣殿・拝殿からなるようだ。これらは国の重要文化財に指定されていると書かれていたが、正当な評価だと思いながら頷く。

 

 拝殿の後方に建てられているのが幣殿で、本殿と幣殿の間を『石の間』と呼ぶ渡り廊下で繋がっている。この本殿の背後には杉の巨木の神木が立っており、樹齢約千年と言われている。樹高四十メートルを越え、根回り十二メートルもあり、オミカゲ様の降臨と共に植えられたと伝えられていた。

 その杉は今この場に立っていても、頭一つ抜けた大きさのせいもあり、アキラからも良く見えた。

 

 熱心に読むアキラに感化されてか、ミレイユもパンフレットを読みたい気持ちに駆られたようだ。断りを入れて来たので素直に渡せば、最初の数ページ読んだところで眉を顰めた。

 一度顔を上げて辺りの様子を伺うと、人通りの邪魔にならない場所へ行ってしまう。

 

 アキラもそれについて行って、ミレイユが足を止めた傍に立った。

 ミレイユはサングラスの奥からでも分かるほど険しい目つきでパンフレットを読み、それから疲れたような息を吐いてアキラに返してくる。

 

 受け取って、ミレイユが読んでいたであろう場所を探していると、横からユミルも顔を突き出して来た。邪魔だと邪険にすれば、返って面倒になるので好きにさせ、そのページに目を通す。

 

 そこに書かれていたのは、オミカゲ様についての詳細な説明だった。

 その御神名であったり、ご神徳であったり、神社で奉られる神ならば、どれも説明と解説の入る部分だ。ミレイユが気に留めるような事はないように思うが、一体何が気に障ったのだろう。

 

「しっかし、まぁこれ、随分色々持ってるのねぇ。ちょっと節操なくない?」

「何がですか?」

「神格、神徳に決まってるでしょ。普通、一つの神格に一つの神徳ってのが基本じゃない」

「そうなんですか? 複数持ってる神様というのは珍しくないですが……」

 

 二人の発言に興味を引かれたルチアまで覗き込んできて、アキラはパンフレットを目の高さから胸の高さまで下ろした。見やすくなって、ユミルと二人左右から覗き込むような形になる。

 

「神格が……剣神、武神、雷神。へぇ……鍛冶神、刀工神まで? 被っている部分もありますから、詰めれば半分には減るんじゃないですか?」

「まぁ、剣神、武神ってのは、敢えて別けなくても良い気がするわねぇ。鍛冶と刀工は……どうかしらね、鍛冶は何も刀鍛冶だけってワケでもないし」

「それだけ考えても、十分破格ですけどね。これ……神格の基準、壊れてません?」

 

 ルチアが聞くと、アキラも困ったように苦笑した。

 

「どうでしょうね。他の神様はよく別の神様と同一視されたりして、糾合されたり習合するのは良くある事なんですよ。その結果、幾つもの神格を有したりする訳で……」

「糾合? それじゃもう片方の神は死ぬってコト?」

「いえ、そういう意味でもなく……。結局信仰する民族が滅んだりで失われるような事もありますけど、合一して共に生きるという感じです」

「そんなコトある?」

 

 ユミルが驚愕した視線でルチアを見て、ルチアもまた眉に皺を寄せて首を横に振った。

 

「聞いた事もないですね。普通神格を奪われるってなれば、神はもう生きていけないと思うんですけどね。何というか、恨みを買わない為のお為ごかしって感じに見えますけど」

「そうよねぇ。忘れられたところで神は気にしないでしょうけど。代わりを用意すればいいし」

 

 ユミル達には一種のカルチャーショックだったのかもしれないし、理解できない事だったかもしれないが、アキラにも彼女達が言う事は理解できない。

 所詮、干渉せず、干渉されずの神と人間の関係だから、人がしたいよう思うように変換させられてきたという側面もある。

 神の成す事に口出し出来ない人達からすれば、こうして神格を勝手に付けたり合わせたりというのは異常に映るのだろう。

 

 ユミルは不可解なものを見る表情そのままに、ページ下部へと視線を移す。

 そこにはオミカゲ様の神徳が書かれていた。

 

「成功勝利、教育、子育て守護? ……鍛冶・鉱物の守護、武道守護、芸能上達?」

「何でもかんでも守護しますねぇ……。そして病気平癒、延命長寿? ここに来て、ようやく話によく聞く病気治癒が出てきましたね」

「でもまぁ……」

「……ですね」

 

 二人はアキラを挟んで顔を見合わせ、そして同時に頭を振った。

 その声には呆れが混じっている。

 

「ちょっと幾ら何でも盛りすぎというか……。これ本当にオミカゲサマとやらが授けてくれるんですか?」

「延命って……つまり長生きするってコトよね?」

「はい、まぁ……そうです。病気に関しては、もうそれは誰もが恩恵を受け取ってる訳ですから。結果、長生きし易いという感じでして」

「まぁ、確かに病気が治るというなら、長生きし易いと言えるかもねぇ……」

「それにホラ、オミカゲ様自体が千年を日本の歴史と共に歩まれる方ですから、それに(あやか)りたいと言いますか……」

 

 ユミルは首を傾げてアキラを見た。

 

「つまり、別に長生きさせる力はないってコト? 百年以上寿命を伸ばすような、あるいは寿命そのものを失くすような……。そもそも生き返らせたり」

「流石にそういうのは無理です。あくまで人間には寿命がありますし、それを逸脱するような事は起こりません……!」

「ふぅん……。案外、普通なのね」

「いやいや、病気が治るっていうのは凄いじゃないですか!」

 

 アキラの熱弁は二人に届かないようだった。お互いに顔を見合わせ、やはり首を傾げて頭を振る。

 そういえば、この人達は魔術のある世界の住人なんだった。別に怪我も病も、自然に任せて治癒を待つなんて事はしないのだろう。そこに神徳があると言われても、大した事はないと感じてしまうのかもしれない。

 

 世界各地を見渡しても、オミカゲ様の信者になりたいと願い出る人達は多くいる。

 しかしオミカゲ様はあくまで神道の中の一神であり、別に自ら宗派を作ってその上に降臨する神という訳ではない。

 

 オミカゲ教という宗教は存在しないのだ。

 だから入りたいというなら神道になるが、だからといってその威光に触れ奇跡を受け取れるかというと話は別になる。だからこそ、外国人は羨むと同時に糾弾し、そして乞うのだ。

 あまねく苦しむ者を救い給え、と。

 

 日本人として生まれただけで享受できるのは、大変幸運であると共に有り難い事なのだが、この二人にとっては全く心響くものではないようだ。

 



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御影神宮 その5

 特定の一宗教としてオミカゲ様を崇めているという認識はないが、しかし同時に信仰なくして奇跡を享受する事もできない。

 感謝という強い思い、信仰なくして治癒は働かない。

 

 今日(こんにち)でも、日本には西日本を中心に多くの仏教徒がいる。日頃から念仏を唱えるほど熱心な者となれば多くないものの、神社仏閣が多く残る地という背景あればこそ、地域に根差した信仰を持っているものだ。

 だが同時に彼らは羨む。彼らは病気平癒の神徳を受けられない。普段は仏教で病気をしたら神道という、都合のいい切り替え方は許してくれないのだ。

 

 信仰の自由は許されているし、オミカゲ様自体が推奨している事だが、実質神道一択という常識が意識の根底にあった。

 

「ふぅん? まるで健康を人質に取られてるみたいねぇ」

「……そういう声は実際ありますね」

 

 アキラは困った顔で頭を掻いて、本殿とその後ろ――御神木へ顔を向けた。

 

「だからオミカゲ様は本当の神様ではない、という声もあります。特に海外では多いですね。海を挟んだ向こう側で信仰されたところで、その加護は得られないんですから。選んで治し、海の外には意識すら向けない、日本人の壮大なプロパガンダと言う者たちもいます」

「神が自分の信徒にしか加護を与えないのは当然だけど、日本人だけっていうのは本当なの?」

「そうですね。ただオミカゲ様を筆頭として、神道は海外への布教には熱心じゃありませんから。そもそも、そういう宗教じゃないですし。分社を海外に建立させる案も過去にはあったそうですけど、オミカゲ様がわざわざ声を上げて白紙に戻したという話もあります」

「信徒を増やす気がないっていうのは、不思議ね」

 

 ユミルは眉を片方だけ器用に上げ、隣合わせになっているルチアの顔を覗き込む。

 ルチアもやはり不思議そうにしながら頷いた。

 

「ええ、信徒の数――というか信仰から受ける願いの総量は、神の力と不可分ですから。ここまでで十分、これ以上は必要ないって考えはない筈なんですけどね」

「あればあるだけ良いって事なんですか?」

「人間と同じですよ。どれだけお金を稼いでも、これだけで十分、これ以上は必要ないとは考えない。ある時偶然空から落ちてくるように手に入ったお金じゃなく、最初から稼ぐ気でいる人にとって、百万稼げばそれで終わりとはならない。それを元手に、更に増やそうとするものでしょう?」

 

 アキラは少し考えて、それから首を捻った。

 宝くじを当てた人なら、それで仕事を辞めて余生を過ごすという話はよく聞く。しかし企業の社長となれば、そもそも稼ぐことが目的なので一億も利益を上げたから後はもういい、とはならない。

 しかしそうなると、神の信仰とは営利目的という事になりはしないか。

 

「神様って、純粋に信徒の数が増えると喜ぶとかじゃなくて、利益があるから信徒を増やしてるんですか?」

「当たり前でしょう? 単に他の神から信徒を奪いたいから増やしている訳じゃないんですよ。さっき言ったじゃないですか、神の力と信仰は不可分なんですよ」

「……信仰の数だけ力が増す?」

 

 アキラの呟き程の小さな声にも、ルチアは律儀に頷いた。

 

「力を増やし、信徒を増やそうとするのは神の存在にも関わる事です。普通は、そこを疎かにはしません。だから不思議だと言ったんです」

「……つまりオミカゲ様は、そこのところを十分弁えてる神様という事ですか?」

「何でそうなるのよ」

 

 ユミルが重い溜息と共にアキラの背中を叩く。

 彼女にとっては軽い力かもしれないが、それは重い衝撃としてアキラの腹まで伝わり、思わず息が詰まった。

 

「そもそも神として可笑しいって話をしてるんじゃない。ま、単に世界が違えば神の考えも違うって話かもしれないけど……どうも引っ掛かるのよね」

「ホラ、ここ……」

 

 言ってルチアはパンフレットに書かれた神徳の一部を指差した。

 

「教育、子育て守護ってあるじゃないですか。これって、まだ信仰心の芽生えてない子供でも、加護を与えるって意味なんでしょうか」

「芽生えてからの子供って意味じゃない?」

「いえ、違います。七歳までの子供なら、信仰心を持たずとも治癒してくれますから。だから子育て守護の御神徳をお持ちなんですよ」

 

 そしてだからこそ、オミカゲ様は七五三とも関係が深い神様でもあるのだ。

 信仰を持たねば得られぬ治癒の加護だが、物心つく前にそういった強い思いを持つ事は難しい。だから七歳までは神の内、懐の内といい、オミカゲ様から庇護が与えられる。

 

 この年までは無条件で病と怪我の治癒を得られるので、その感謝を示すのに三歳、五歳、七歳と神事に合わせて感謝を示す。

 それ以降は自分の意志、自由信仰を与えられ、親の信じるものに従うもよし、他の神を信じるもよしとされるのだ。

 

 その事を説明すると、ルチアはやはり首をひねった。

 

「それじゃあやっぱり、信仰心を獲得するのに熱心に勧誘してるって事じゃないですか」

「そうよねぇ。七歳まで病気も怪我も治る加護を与えられて、別の神へそこから捨てられるものかしら。一度でも病気を経験しておいて、その加護を捨てるのは無理よ。やっぱり健康を人質にとられてるってアタシの考え、間違ってなくない?」

「単に子供が好きな神様なんですよ。子供はすぐ病に罹りますから、放置してるとすぐ悪化しますし。だからきっと、放っておけなかったんですよ」

 

 アキラが神を思っての抗弁にも、二人は懐疑的な気持ちを崩さなかった。

 パンフレットを読み進めるにあたり、その気持ちを強めていっていくのが表情から分かった。

 

 アキラの手を取りページを捲らせて、それですっかり最後まで読むと――最後は流し読みだったが――アキラの傍を離れてミレイユの元に戻った。

 それでアキラもパンフレットをズボンのポケットに仕舞い、同じくミレイユの元に戻る。

 

 しかし結局、ミレイユが何を思って不機嫌になったのかは分からなかった。

 一読した限りでは、どれも不自然と思える部分も、引っ掛かる部分もない。ユミル達と同様、神格神徳が多すぎるのが不満だったのかと思ったが、それなら彼女たち同様、呆れた声を出すに留まる筈だ。不機嫌になるというのは違う気がする。

 

 それはユミルも同じく気になった事のようだった。

 傍に戻った彼女は、相変わらずむっつりと口を曲げるミレイユに、気を留めたような感じもなく訊いている。

 

「それで、どうしたってあんな態度見せたのよ? ケチは付けたい部分はあったけど……でも、それぐらいでしょ?」

「あぁ……」

 

 頷いて見せたものの、ミレイユはそれ以上何を言うでもない。

 帽子のツバを摘んでは横へ撫で、珍しく言い淀んでいるように見える。しかし、しばらくしてから再び口を開いた。

 

「名前がな……」

「はぁ、名前……?」

 

 ユミルは眉を持ち上げてアキラを見る。

 何のことだと聞きたいのだろうが、それはアキラに取っても同じこと。ただ黙ってミレイユの隣に佇んでいたアヴェリンすらも、同じような反応だった。

 

 もしかしてと思いながら、パンフレットを再び取り出し、最初のページを開く。

 そこには大きく、オミカゲ様の名前が記されている。

 覗き込んで確認したルチアは、そのページの上から下まで貫くように書かれた名前に眉をしかめた。

 常用漢字ぐらいなら既に読み書き出来るルチアだが、流石に当て字のような物まで読むことは出来ない。特に神様の名前というのは、現在とは違う読み方をする場合も多い。

 だから最初、それが名前であるという認識すらないようだった。

 

「これ、どこに名前があるんですか? まさか、その長い奴じゃないですよね……」

「そのまさかです。日本の古い神様は、こういった名前を持つ事が多いんですよ」

「それはいいけど、何て読むのよ?」

 

 今度は顔を突っ込んで来る事こそなかったが、ユミルは横から口だけ挟んで聞いてくる。

 アキラは書かれているままに、その御名を読み上げた。

 

「みかげとよふつおおなむちのかみ様です」

「……何て言ったの、今?」

「ですから、みかげとよふつおおなむちのかみ、様です」

 

 言いながら、パンフレットの名前とご尊顔が乗ったページを見せる。

 そこには『御影豊布都大己貴神』と太い筆文字で書かれた名と、ミレイユによく似た赤眼白髪の女神が描かれていた。

 

「ふぅん? みかげ何とかっていう名前だから、短くしてオミカゲ様って呼んでるワケ?」

「まぁ……そうですね、或いはもっと砕けた言い方で、ミカゲさんって呼んだり、地域によって多少異なりますけど。やっぱり普段からフルネームで呼ぶには、不便な長さですから」

「まぁ、そうよね。舌も噛みそうよ」

 

 わざとらしく舌を出して、ユミルは笑う。

 しかしやはり、それでミレイユが名前に対して思うことがある理由が分からなかった。アヴェリンやルチアに顔を向けても、やはり分からぬようで首を横に振る。

 

 視線がミレイユに集中して、それで彼女は振り払うかのように手首を振った。

 

「気にするな。私に似ているという共通点が、また一つ増えたというだけの話だ。難癖つければ、それ以外の神格も神徳なんかも関連付けられそうだが」

 

 似ている、と言われてまず真っ先に思ったのは、パンフレットにも描かれるご尊顔だ。写真ではなく絵なので、目の前の彼女と全くの同一という訳ではなかったが、しかしそれでもよく似ている。

 それ以外に名前も似ていると言われても、アキラにはまるでピンと来なかった。

 

 ミレイユと共通する部分など、最初が『ミ』から始まるという点しかない。

 他に神格や神徳については、彼女が何をどれだけ出来るのか知らないアキラからすれば何とも評価し辛いし、口を挟める事でもない気がした。

 

 彼女がいつか雷の雨を召喚出来ると言った点は雷神として、アキラに刀を打ってくれた点は鍛冶・刀工神として見られるが、それは彼女の言ったとおり難癖に近い関連付けだ。

 

「でも、そうですね。……日本だけに限定して見ても、他に鍛冶を司る神はいるし、雷神として有名な神は他にもいます。自分と似てる部分が嫌だと思っても、そこはあまり考えない方がいい気がしますね」

「……そうだな」

 

 アキラがそう締めると、ミレイユの表情も幾分緩やかになった。

 口の端に笑みを浮かべて、帽子のツバから指を離す。その雰囲気が周りにも伝播して、どことなく漂っていた緊張感も薄らいだ。

 

 再び移動しようという空気が出来上がって、ミレイユは首を廻らし本殿を横に置いて境内を見渡す。

 拝殿にも多くの参拝客がいて、近づくのは難しそうだ。

 中央ちょうど賽銭箱の真上あたりに、真鍮製の大きな鈴が吊られており、この鈴に添えて紅白に染められた荒縄が垂れ下がっている。

 参拝者たちはそれを振り動かして鈴を鳴らし、笑顔を時折見せつつ真摯な態度でお参りをしていた。

 中には顔を赤くした親子がいて、罹った風邪を治癒してもらおうとしている。

 

 アキラもそこに参加したい気持ちはあったが、何しろ今日は単に参拝しに来た訳じゃない。

 ここはミレイユが警戒を強めて侵入した場所でもある。アキラの信仰心を慮って許してくれたが、両手を清めようと皆から離れたのも失敗だったかもしれない。

 

 ミレイユがぐるりと見渡して、最後に目を留めたのは一つの特徴を持つ建物だった。

 本殿の隣には刀殿があり、オミカゲ様が打った国宝指定の神刀が展示されている。

 鍛冶・鉱物の守護の神徳を持ち、刀工神としての神格を持つとなれば、他の神社には見られない当然の特徴だった。

 

「神刀、ね……」

「気になりますか?」

「そうだな。何を持って神刀とするのか興味はある」

「有名なのは、鉄をも斬れるという特徴ですかね?」

 

 オミカゲ様が打った刀は多くあり、その一つ一つに別の神性を秘めると言われているが、有名なものを一つ上げろと言われれば、やはり斬鉄剣が真っ先に名が挙がる。

 アキラが顎に手を添えて言えば、ミレイユは吐き捨てるように返してきた。

 

「そんなものは神刀とは呼ばない。同じ事なら、お前にやった刀でも出来る」

「え、出来るんですか、あれ……!?」

 

 思わず口から()いて出た言葉に、アヴェリンからの平手が頭に飛んで来て乾いた音を立てた。

 

「出来るかどうかは、お前次第だ。大体、あの刀は不壊の魔術が付与されているんだぞ。打ち負けて刃が折れる事がない以上、そこからはお前の力量が物を言う」

「な、なるほど……」

 

 アキラが頭を下げて納得を示すと、ミレイユは一歩踏み出し、それから一度振り向いてから刀殿に向かって歩き出した。

 



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御影神宮 その6

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 刀殿の中もやはり多くの参拝客で溢れていた。

 お互いの身体が触れ合うような有様で、時に優れた刀は別の神社に奉納される事もあるというから、ひと目見てみたいと思うのも当然だった。

 

 何しろ人の――鍛冶職人の手による一作ではない。神の手による一振りとなれば、どれほど貴重な品なのか分かろうと言うものだ。実際、神の打った刀は例外なく国宝指定されている。

 

 展示される刀は時期ごと、季節ごとに変わるというから常に同じものがある訳でもない。

 そして本日見られる刀は『打刀』と呼ばれる種類で、反りは浅く長さも六十センチを超える程度のものだった。

 

 それが展示品としてガラスケースに入れられて、近くで見られるようになっている。

 刃は上向きで、その両端に木材の支えに乗っているという刀身だけの展示だったが、柄や鞘がなくとも、その刀の素晴らしさは惚れ惚れするような出来栄えだった。

 

 ミレイユはそれをサングラスの奥から険しい瞳で見つめている。

 順路があって最初に神刀が見られるような作りで、それから建物を一周するように動いては、他の刀を見るような流れになっている。

 

 刀はその一振りだけではなく、他にも展示されている。

 それは神に力量を認められた刀鍛冶師の手によるもので、見事な出来栄えの刀が同じようにガラスケースに収められて展示されていた。

 

 アキラの目で見ただけでは、その出来栄えの良し悪しは分からない。

 だからアヴェリンに聞いてみようとして、その表情を見てぎょっとした。あまりにも真に迫った表情で、凝視するように刀を見つめている。

 

「師匠、これ……やっぱり凄いものなんですか?」

「そうだな……、実に見事だ。私は別に刀を専門にする訳ではないが、それを差し引いても、ここまでの出来は私には無理だ」

「それほどなんですか……」

「単純な刀作りだけで言えば、ミレイ様とて及ばんかもしれん。熱心を通り越して、狂人の領域だ。己の一生を刀の作成に捧げればこそ、為せる出来栄えだろう」

 

 唸るように品評して、アヴェリンは息を吐いた。重い溜め息は自らの敗北を悟った故か。

 しかしそもそも、彼女の本質は戦士だった筈なので、そこで負けを認めるのは恥とはならないと思う。むしろ、良いものは良いと認める度量は彼女の美徳かもしれない。

 

 刀の下には製作日と鍛冶師の名前が記されている。

 それを見れば、随分と最近打たれた一作のようだった。順路に従って見ていけば、新しいものばかりという訳でもない。古い年代のものも数多くあるから、むしろここに並べられる事を許された、あの一振りが特別なのかもしれなかった。

 

 後ろを振り返ってルチア達の様子を確認すると、アヴェリンやミレイユほど真剣に刀を見てはいなかった。興味深そうに見ている部分は同じなのだが、アヴェリンが唸るように見ているのに対し、服でも見ているような気楽さだった。

 

 ルチアに関しては戦士ですらないので、興味を惹かれないのも仕方がない。面白そうに見ているだけで十分という気がした。

 

 ひと通り巡って刀も見回り、最後に神刀の前までやってくる。それを横目に退殿するという順路なのだが、その刀を見るミレイユの眼差しは鋭かった。

 アヴェリンも見る目は鋭いと思ったが、それは職人として鍛冶師として感じ入った上での眼差しで、感嘆も含まれるものだった。

 

 しかしミレイユの眼差しは鋭いばかりで敵意のようなものまで伺える。

 それがどうにも不思議だった。

 

 人波に流されるまま外へ出て、参道から逸れた部分で立ち止まる。方々には休憩する為のスペースが用意されているので、こうして人混みから外れていても邪魔にはならない。

 

 少ないながら椅子も用意されていたが、それには座らず林を背にしてミレイユは立ち止まる。

 そしてアヴェリンに顔を向け、ユミルに目を向けた。

 

「……どう思った?」

「見事な出来栄えだと感心しましたが……そういう意味ではないですよね?」

「あれに魔術付与がされていたかどうか、それを聞きたいんでしょ?」

 

 ユミルの返答に、アキラはギョッとする。

 ミレイユは首肯し、その続きを待っているようだ。

 

 しかし付与がされているという事は、相手勢力が持つ武器は魔術秘具という事になり、そしてそれは間違いなくミレイユ達を害せる武器となる。

 マナがあり魔力があるなら、そうした道具や武器もあるのは想定できた事かもしれないが……もし事実としてあるなら、相当な脅威となる。

 アキラは焦る気持ちでミレイユ達が続ける話に耳を傾けた。

 

「直接触れて調べられれば確実だったけど、でもあれ、魔術秘具で間違いないでしょ」

「やはりそうか……」

 

 ミレイユはそう言って重い溜息をついた。

 懸念が現実となって、アキラは居ても立ってもいられず口を挟む。

 

「それって、やっぱり拙いんですよね? 相手に強力な武器があるという意味で……」

「……まぁ、そうなんだけど。ああして飾るって事は、もうお役御免になったか、もしくは型落ちしたから置いてるんでしょ?」

「型落ち、ですか?」

「だって、使える武器を飾ってどうするのよ」

 

 ユミルの言い分には一理あるように思えた。

 寝室の枕元に置いているとは訳が違う。使用すると思えばこそ、ああして大衆の目に晒すように置くような真似はしない。

 だが、あれが実戦に使うに値しない、あるいは折れる前に展示に回したというなら、話は変わってくる。

 

「実際……どうなんですか? 付与された武器って、あれ全部がそうなんですか?」

「触れられれば、それも確実に分かったんだけどねぇ」

 

 言いながらユミルが目線を向けた先にはルチアがいた。そのルチアも肩を竦めて両手を広げた。

 

「私が分かる範囲では神刀と呼ばれたアレだけでしたけど……。うーん、刀の出来はともかく、秘具としてはお粗末だったような」

「実際よく出来てはいたんだ」ミレイユが続けて言った。「刀の出来はな。しかしルチアの言うお粗末というのに同意はするが、意味合いが少々違う」

「それは?」

「粗末な腕しかなかったんじゃない、敢えて粗末な付与をしたんだ」

 

 ミレイユは確固とした自信を持って言ったようだが、アキラを含め、他の面々には理解不能だ。敢えて粗末な武器を作る理由が、果たしてあるだろうか。

 

「付与内容は斬りつけた相手の体力を奪うというもののようだが……」

「有用そうに思えますけど」

「それだけ聞けばな。しかし、実際に奪える量はごく少数、これなら付与する意味がない。この手の付与をするなら、一撃で相手の膝が崩れるような量を奪ってこそ意味がある」

「僅かな切り傷でも、続ければ相手は昏倒するという訳ですか」

 

 そうだ、とミレイユは頷く。

 続くミレイユの説明は、術式の解明に移った。アキラには専門的な用語が多すぎて理解できなかったが、どうやら力量不足の結果そうなったのではなく、最初からそのつもりで付与したというのが、ミレイユの論だ。

 

 ミレイユが言ったような内容を、魔術秘具として刀を作れたのにも関わらず、敢えて産廃とも言えるような武器を作った。しかもそれを、神刀として展示しているというのだ。やっていることが、どうにもチグハグな印象を与えた。

 

 だから、とミレイユは続ける。

 

「これはそもそも、分かる人間に見せる為のものだ。術式を検分されるのも計算の内だろう。それが何を意味するのかまでは分からないが……」

「検分ね……。でもそういうのって、触れずに奥まで見えるものじゃないでしょ?」

「普通ならな。表面から読み取れるものから類推するしかないんだが……、あれは私の術式に酷似している。だから分かった」

 

 ユミルは元より、ルチアの目もまた眼光鋭く細められた。

 それもまた何を意味するのかアキラには分からなかったが、油断できない状況なのだと思う事にした。

 ユミルが参道の奥、林の先に目を向けて、腕を組んで斜に構えた。

 

「……そう、似ているのね。アンタの術式に……ふぅん?」

「そういう偶然って、ある事なんですか?」

 

 アキラが聞いてみれば、即座に否定の身振りでミレイユが返した。

 

「全くないとは言わないが、偶然で片付けるには不自然な確率だ。しかも、ごく最近まで私はこの世界にいなかった。真似ようとして出来るものでもない」

 

 ミレイユが難しい顔で俯き、ルチアも不機嫌そうに周囲を見渡した。

 厳密な意味で、ここは敵地という訳ではない。しかし見るかも分からない展示物に、それとなくヒントのような物を置いていくというのなら、それはこれ一つという訳でもない気がした。

 

 もしかしたら、気づいていないだけで他にも何かあるのかもしれない。

 だがそうすると、相手の思惑は何かという話になる。ミレイユの術式を解析していると言いたいのなら、敵愾心を煽るか、警戒度を増やさせるだけだろう。

 

 現にこうして、ミレイユ達の雰囲気は一変している。

 最初は物見遊山のような雰囲気がどこかあったのに対して、今は周囲に対して油断なく視界を廻らせている。

 

 警戒させるのが目的だとは思えないから、何か別の理由があってやっていると想像も出来るのだが――。

 ミレイユを見ても、その理由まで流石に分からないようだった。

 不機嫌そうに鼻を鳴らして腕を組み、苛立たし気に足を踏み鳴らしている。

 

 しかし、いつまでもそうしているつもりもないようだった。

 つまらなそうに息を一つ吐くと、視界を外に向けて目に留めた物へ近づいていく。

 そこには剣道場への案内看板が立っていた。

 



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御影神宮 その7

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 武道守護の神徳があるのだから、境内に道場があるのは不思議な事でもなかった。

 看板から先に続く道には、その木造造りの道場が見えているが、戸は閉められ音も聞こえない。もし今も鍛練の最中なら、ここからでも罵声とも怒声とも取れない掛け声が響いている筈だ。

 

 オミカゲ様は武神としての側面を持ち、自ら発祥させた流派を持つ。

 御影源流と呼ばれる一太刀を用いた刀法で、それが千年もの間、こうして神の御膝下で受け継がれている。

 

 ミレイユは道場を視線の先に収めたまま、アキラに聞いてきた。

 

「そういえば、お前も道場に通っているんだったか。やはりオミカゲ流なのか?」

「ですね。僕が修めている流派は、あちらの源流から派生した別刀法ですけど。こうしたオミカゲ様を祖とする剣術は多くありまして、同時に廃れたり敗北の責任で道場を畳んだりで消えたものも数多くあります」

 

 ほぅ、とアヴェリンが何かを感じ入ったように頷いた。

 

「破れた責任を取って、流派を捨てるのか」

「今はもう、そういう話は聞きませんけどね。昔は腕試しだと他流派に乗り込んで、道場を潰すような振る舞いは良くあったらしいです」

「そうして生き残ったのが、今ある流派という事か?」

 

 アキラは頷き、道場を熱い視線で見つめた。

 

「中でも最も優れた流派を天下五源流と言います。源流を筆頭とした計五つの流派で、その中でも元祖たる源流は選ばれた人しか学ばせて貰えません。御前試合で認められれば、その道も拓けるんですけどね……」

 

 かつての熱意を想って、アキラは肩を落として溜め息を吐いた。

 今ではもうすっかり、そういう雰囲気ではなくなっている。

 

 ミレイユにとって、今まで敵でも味方でもなかったオミカゲ様は、敵寄りの方に気持ちが傾いているだろう。

 御前試合ともなれば、御簾越しとはいえオミカゲ様ご自身の目で、その剣術を見定めて頂ける。だというのに、今ではそれも叶いそうにない。

 

 だがそれは、何もミレイユの敵に成り得るから、という理由からではなかった。

 例えそうだとしてもアキラは今も強く信仰心を持っているし、オミカゲ様がマナのある地に住み、魔力を持っているのだとしても、だから敵対するというつもりはない。

 

 アキラはオミカゲ様が悪事を働いているとは微塵も思っていない。

 結界を生成をした上で敵を作っている、という考えをミレイユ達は持っているようだが、それならアキラは結界で敵を封じていると主張するのだ。

 

 結局、御前試合に出られないのは、アキラが魔術士になった事による。

 ここ数日で分かった事だが、どれほど気を付けて手加減しても、以前と同じような力量に擬態する事は不可能だった。それどころか、明らかに手加減が下手だと指摘されてしまった。

 

 元々才能がないと散々言われていたので、加減を抑える才能すらない事には驚きもしないが、道場を続けるのは難しくなった。

 幼稚園児に大人が殴りつけるような力量差があって、ふとした瞬間に殺してしまうような危険があるなら、やはり続けない方がいい、という結論に至ってしまう。

 それを考えると、アヴェリンの手加減は非常に上手かったのだと、改めて感じ入った程だ。

 

 だがもしこの先、手加減の仕方を身に着ける事ができたなら。

 もし安全に素人を殴れるようになれば、その時改めて再開すればいい、と指摘され、そのとおりだと思って現在は道場通いを休止している。

 道場の師範も、今は通えないという雑な理由に頷いてくれた。

 

「でもとりあえず、今の僕に魔術士でもない相手と試合なんて無理ですし……」

「まぁ、そうだな」

 

 アヴェリンがあっさりと頷いて、ミレイユも見ている視線の先を見つめた。

 やるせない思いでアキラも見る。

 

 長い年月の間、ここにあったと言われる道場だから、やはり風貌としてはオンボロに映る。しかし別に木の板が剥げていたり、屋根の瓦が飛んでいたりというような貧乏道場という雰囲気ではない。

 木の柱は磨き上げられ艶が見えるし、恐らく修繕なども多くしてきただろう壁にひび割れも見えない。オミカゲ様が擁する道場だから、そのような不始末をする筈もなく、周辺の雑草ですら綺麗に切り揃えられているので清潔感すら感じられた。

 

 単に保存されている文化財という訳ではなく、この時代まで長く続いているのには、やはり相応の理由があるのだ。

 

 ミレイユが道場を見ながら呟くように言った。

 

「それにしても、この神は慕われているようだな。時に信仰は建物にも現れる。この道場には親しみと信仰と両方が感じられる」

「それは……そうかもしれませんね。現在でも武道の世界では篤く信仰されていますし、多くの道場では『御影大明神』って掛軸が掲げられている事も多いんですよ」

「お前の道場でもか?」

「はい、そこはやっぱり、そうですね」

 

 幾らか興味があるのかと、アキラは道場と拝殿にまつわる蘊蓄を少々語ってみる事にした。

 

 この神宮は、『御影豊布都大己貴神』が高天原より現在の地に降臨し、その時に創建を行ったとされている。

 歴史書に曰く、オミカゲ様の神威は武家の世にあって花開き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された、とある。

 古くより神社とは朝廷からの崇敬の深い対象でもあり、その背景が武神としての神威を高め、また信仰の後押しとして働いたという。

 

 源頼朝から多くの社領が寄せられたというのは有名な話で、神宮には武家からの奉幣や所領の寄進が多くあった。現実に接触できる神とあれば、その熱心な優遇ぶりも当然というものだった。

 その反面、武家による神宮神職への進出や神領侵犯も度々行われていた。神宮経営に入り込んだことを発端としてオミカゲ様が怒り、遂にはその影響を完全に排斥したという話も残っている。

 

 これはパンフレットに載っていた話ではないが、歴史のちょっとしたマニアには良く知られた逸話だ。アキラがその話を披露すると、ミレイユはようやく笑みを見せた。

 

「そうか……。自分の神威を政治に利用されるとでも思ったのかね」

「オミカゲ様は早くから政教分離を唱えている方でしたから、ご自身の影響力を良く分かってらしたんだと思います」

「……うん。話を聞いたり、調べる分には、悪い神ではないんだよな……」

 

 ミレイユがしみじみと言って、アキラは力強く頷いた。

 

「古くから日本の民を慈しんで守護して下さる神様ですよ。悪いなんてある筈ありません」

「そうだな、何を考えてそんな事してるのか分からんが……」

 

 含みがある言い方に、アキラは胸の奥がちくりと痛んだ。

 悪気がないのは分かるし、その横顔から伺える悲哀さから何も言えなくなってしまったが、しかし誤解した思いで暴走して欲しくない、という気持ちだけは強く残った。

 

 ミレイユは道場に背を向けて、左を向く。

 既にそこでの用は済んだのだと、誰もが理解して同じ様にミレイユが見る林へ目を向けた。

 

 

 

 楼門に入ってからも参道は真っ直ぐ伸びて続いているが、しばらく進むと林道に変わる。

 その林の入口に、またも総赤漆塗りの鳥居が建っていて、そこで石畳が途切れている。この先も境内である事には変わりないが、また一つ別の神域として区別されるのだ。

 林を構成する樹々は背の高い木が多く、この場所からでは奥まで窺い知れない。

 

 境内の広さは約百ヘクタールもあり、このうち約六十ヘクタールは鬱蒼とした樹叢(じゅそう)が広がる。

 この樹叢は天然記念物に指定されていて、神宮の長い歴史を象徴するように巨木も多い。

 日本でも随一の常緑照葉樹林になっている事もあり、生息している植物は千種類にも及ぶという。

 

 パンフレットに書かれた内容を簡単に説明しながら、アキラたちは林の中を進む。虫や鳥の鳴き声が鼓膜を震わせ、ともすれば煩いくらいだったが、他の面々は気にした様子もない。

 日差しを遮り、空気も湿ったものを感じるから歩くのには適した場所だ。

 

 樹叢の中を進んでいくと、途中、道から逸れた小道が右側に伸びていた。

 小道と言っても大人五人が優に通れる道幅があって、横に二人並んで進めば行き帰りの通行の妨げにはならない。

 この先は何だろうと思って立て札を読んで見れば、そこには『狼園』と書かれていた。

 

 アキラは納得するように息を吐いたが、ミレイユには疑問に感じたようだ。

 

「しかし、狼園……? 狼を飼育しているとでも言うのか?」

「はい、そのとおりです」

「普通、神社で飼育するのは鹿とかじゃないのか」

 

 確かに多くの神社で神の使いとして鹿を飼育する神社は多い。しかしオミカゲ様と縁の深い動物は狼だと誰もが知っている。だから飼育するなら、当然狼という事になる。

 

「狼は肉食だろう。観光客なり参拝客が襲われる心配はないのか?」

「牙でも抜かれてるんじゃない?」

 

 アヴェリンの疑問にはユミルが答えたが、残念ながらどちらも違う。

 

「観光客が肉をくれると理解しているんじゃないのか。襲わずとも肉が食える訳だし、すっかり飼い慣らされているとか」

「なんと無様な。腑抜けた獣に生きる価値などあるものか」

 

 ミレイユの述べた見解は非常に正解に近かったが、しかし正答という訳でもなかった。

 これは別世界から来た住人であれば、答えが見つからない問題だろう。

 アキラは少し得意げになって答えを言った。

 

「飼い慣らされてるっていうのは、あながち間違っていないんですけど、でも違うんです。この狼園を支配しているのは八房様ですから。だからきっと、命令に従って襲うような事はしないんでしょう」

「また随分と古めかしい名前だが……、誰の事だ? ここの宮司か?」

「違います、神使です」

 

 それだけ言っても、やはりミレイユ達には理解できない言葉のようだった。

 ミレイユが記憶を探るように首を巡らせ、それからやはり困惑を隠せない声音で言ってきた。

 

「だから……、この先にいる狼が神使なんだろ? 神の使いだと崇めて神社内で飼育しているんじゃないのか?」

「いや、そういう意味じゃ勿論飼育されている狼も神使となるんですけど、そういう意味ではなく、神の眷属としての神使に八房様っていう神狼がいるんですよ」

「それもこの先にいるのか?」

 

 まさか、とアキラは手を振った。

 

「とても巨大な神狼様ですから。この樹叢一帯が八房様の神域で、基本的に人前には姿を現しません」

「巨大って……人の背丈ほどか?」

「いえいえ、もっとです。人の身の丈より二倍とも三倍とも言われてますよ」

「……そんな狼がこの世にいるか?」

 

 ミレイユの眼差しはサングラスの奥から分かる程に胡乱げだった。

 しかしアキラは断言して頷き、パンフレットのとあるページを開く。

 

「ここにもあるように、広く知られた話なんです。実際に見た事あるっていう人もいるんですから」

「写真があるならまだしも……絵じゃないか」

 

 ミレイユが指差すページには、確かに写真に収めた姿は描かれていない。

 しかし、その巨大な白い毛皮を見た事があると、多くの証言があるのも事実なのだ。

 過去よりオミカゲ様と共に戦い、多くの人々の安全と安眠を守って来た守護聖獣として、大変人気の高い神使でもある。それを題材にした映画も多くあり、そこには人を見下ろせるほど巨大な姿で描かれている。

 

 それを聞いたミレイユは、途端に興味を失って帽子のツバを摘むんで下げた。

 

「つまり映像に姿を引っ張られたって事だろ? 大きくはあるんだろうが、実際には現実的な巨体ってところで落ち着くんだろうさ」

「でも僕は信じています。きっと八房様は見上げるほど巨大な神狼なんだって……!」

「まぁ、信じるのは勝手よね」

 

 ユミルが言って、狼園に向かって歩き出す。

 どうやら彼女は見られるものなら見てみたい、と思ったらしい。

 飼育されているのは普通と変わらないサイズの狼な筈だから、見に行ってガッカリしないといいのだが……。

 

 そう思っていると、ユミルの後を追ってミレイユも動き出す。そうなれば全員が後を追うしかなくなるので、アキラもその背を追って歩き出した。

 



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御影神宮 その8

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 入って直ぐの場所には売店があり、そこで餌を買う事が出来るようだった。

 ここにいるのが参拝者なのか観光客なのかは分からないが、狼に餌をやりたいと思うのは果たして信仰心から来るものなのか。

 ユミルは元よりミレイユも売店には目もくれないので、アキラも通り過ぎるだけで盛況な様子の売店を見るに留める。

 

 ここにも小さな拝殿があって、着色のない御影石で作られた鳥居の両脇には、狛犬ならぬ狛狼が鎮座していた。

 ここはオミカゲ様ではなく、八房様を奉る神社なのだ。表の本殿に比べ小さいのはそのせいで、本来なら一柱の神として奉られてもおかしくないのに、オミカゲ様の眷属としてある為、このような形になっている。

 

 拝殿の隣には木の柵で囲った狼園があった。

 身を乗り出したり手を出したりすると危険だろうに、柵の高さは腰程までしかない。他の神社の鹿園では、安全対策としてまるで牢屋のように高い鉄の囲いを用いているものだが、ここでは開放感があまりに大きい。

 

 狼園の背後は林が広がり、何か遮るものさえない。

 柵も林の外縁から半円を描くように設置されていて、狼たちが過ごす場所は基本的に林の外だ。

 人の出入りを制限するよう枠組みは作られているものの、狼がその気になれば柵を潜るなり飛び越えたり出来るし、奥の林から大外回りでやって来る事も出来る。

 

 人が林に入らないようにしていても、しかし狼を制限をしていないという事は、それだけの危険がない、事故が起きた事がないせいだろう。進んで殴りつけるような参拝者はいないし、道理を知らない観光客でも、そのような蛮行をすれば他の信者が黙っていない。場合によっては、その場で折檻という事もあり得た。

 

 狼園で餌をやる場所は限られていて、通行の邪魔にならない場所に限られる。

 アキラ達のように餌やり目的でないなら、柵の中央付近で狼の姿を自由に見られた。

 ユミルが立ち止まった横に、ミレイユも立って柵の上に肘を乗せる。腰を屈めて、遠くに見える狼たちを興味深げに見つめた。

 

「あれってホントに狼? まるで犬じゃないの。随分とまぁ、無防備な姿を晒すコト……」

「子供が入り込んだらどうするつもりだろうな」

 

 実際、子供が手を滑らせた事例は幾つかある。

 しかしそれが事故に繋がったり、狼に噛みつかれた事は一度もない。まだ幼い子狼がじゃれついた事はあるが、母狼が子供を咥えて外に移動させた事すらあった。

 それは実際映像で証拠として残っていて、アキラも随分前に一度見た経験がある。

 

「危険がないのも、ここが人気の理由かもしれませんね。同じような感覚で、他の森で見つけた狼に寄っていったら、という怖さはありますけど……」

「そんなトコまで面倒見れるものか」

「それはまぁ、そうですね」

 

 アキラが苦い顔を見せて頷いた時、ミレイユの動きが止まる。

 ミレイユは狼をよく見ようと、身を起こして柵から乗り出すように前へ出る。横に立っていたアヴェリンが、一応その肩を抑えたが、すぐに乗り出した身体を元に戻す。

 一体何が気になったのだろうと聞こうとして、それより前にあちらから驚くような声音で問われた。

 

「一応聞くが……あれ、ニホンオオカミじゃないのか?」

「そうですけど……?」

 

 アキラにとっては見慣れた体躯、海外で見られるようなガッシリとした体つきではなく、むしろ犬に近い。体長一メートル程、尾長は約30センチ、肩高約五十センチで、中型犬に近い大きさだ。

 尾は背中側に湾曲し先は丸まっていて、耳が短いのも特徴の一つで、吻は短く日本犬のような段は見られない。

 

 アキラの何気ない一言に、ミレイユは心底驚いたようだった。

 改めてマジマジと狼を見つめ、感心したように息を吐いた。

 

「絶滅危惧種に指定されていたりとかは?」

「それも別に……。日本の多くに分布されてるんじゃないですかね? 野生の狼は凶暴ですけど、昔は犬と間違えられて飼育されるケースもあったらしいです」

「そう、か……」

「どうしたんです?」

 

 いや、と頭を振って、それきりミレイユは押し黙ってしまった。

 ルチアは動物が好きなようで、ユミルの横に立って狼を指差しては笑顔を見せている。互いにスマホを使う仲で、よくアキラの部屋で一緒にいるから共にいる光景はよく見かける。

 論争めいた言い争いも絶えない二人だが、仲が良いのは確かなようだ。

 

 アキラはアヴェリンの隣に立ち、同じく狼たちの様子を見る。

 風が出てきたのか木の葉が擦れる音が聞こえ、まるでさざ波のような音を奏でる。しかしその直後、何かがおかしいと思い直した。

 

 単に風で揺れるだけにしては、やけにその間隔が狭い。

 まるで人が背の高い草原を掻き分けるような音に聞こえ、思わず視線を木々の高い位置にある葉へ向けた。

 

「何だろう……? これ何ですかね?」

 

 ざわざわと木々が騒いでいるようですらあった。

 隣のアヴェリンに顔を向けると、険しい目つきで狼園の向こう――林の奥を睨みつけている。ユミル達も同様で、ミレイユもまた柵から肘を離して背を伸ばして警戒していた。

 

 狼園の中心近くにいた狼たちは走って端に寄り、腕を前に出して伏せをする。

 その姿はまるで頭を垂れて土下座するようにも見え、これから来る何者かへ敬意を向けているようにも感じられた。

 

 そこまで考え、ハッとして視線を木々の葉から樹木の奥へと変える。

 

「まさか――!」

 

 樹木の幹よりも遥かに上、遮られた葉の間から、余りに巨大な鼻面が押し退けて出てきた。

 黒い鼻先に白い顔、開いた口からは大きな舌が覗いていた。

 

 それがまるで、葉そのものが避けていくように全貌を現す。

 アキラが想像していた姿と相違なかった。その巨体は二階建ての民家ほどもあり、白い毛並みは美しく、その神威すら感じて身体が震える。

 

 どこからともなく悲鳴とも歓声とも聞こえる叫びが上がった。

 スマホを掲げて写真か動画を撮るような者もいる中、平伏して頭を下げる者もいる。そして神狼の双眸はぴたりとミレイユに視線を固定して、狼園に足を踏み入れた辺りで動きを止めた。

 

「八房様……!」

 

 誰ともなく声を上げ、その御名を呼んだ。

 アキラは生唾を飲み込み、柵から一歩身を離した。隣にいたアヴェリンが動かないのは、ミレイユがその動きを制したからだというのは、後ろへ下がった事で理解した。

 

 アキラはどうしたらよいものか、身体を震わせる事しか出来ない。

 身体が震えるのは恐怖からではない、出会えた幸運に喜んでいる為だ。

 

 改めて見ると、やはり大きい。樹木の高さは五メートル程だが、肩高は優に三メートルを超える。鼻頭の大きさは人の頭程もありそうだった。

 そして、その凛々しい顔――。

 ニホンオオカミは時に犬と間違われるほど、狼に似ていない。しかし目の前にいる八房様はシンリンオオカミ、あるいはアラスカオオカミのような精悍さがある。

 

 更に一歩、また一歩と近づいて、ミレイユとの距離が後僅かなところで立ち止まり、威嚇するように身を屈める。

 

「あぁ……!」

 

 多くのざわめきが辺りに響いた。

 アキラも声を出してしまった一人で、何しろ八房様がその尾を持ち上げ広げたとあっては、動揺しない方が無理というものだった。

 まるで扇のように広がる八本の白い尾が、なぜ八房という名前なのかを物語っている。尾の先はまるで燃えるように赤く染まり――、いや染まっているのではない。実際に燃えているのだ。

 参拝客の一人が拝みだすと、それにつられて多くの人が頭を垂れて祝詞を唱え始める。

 

 それが引き金となったかは不明だが、八房様は尾を畳み、再び歩みを始めて近づいてくる。

 既にアキラの視界は白い毛皮に覆われ、日差しはその巨体に覆い隠されてしまっている。息は乱れ身体が震え、また一歩と後ろに退がってしまった。

 

 祝詞が朗々と響く中、八房様は更に近づき、その鼻面をミレイユに押し付けた。

 黙っていられないアヴェリンが武器を抜こうと個人空間に腕を差し入れた時、ミレイユが再びやめろと合図する。

 アヴェリンは身構えた格好のまま、その動きを止める事になった。

 

「どうした、お前……」

 

 ミレイユは優しく問いかけて、その鼻面を好きにさせ頬や肩に擦り付けられる。

 スンスンと鼻を動かし、一度離れてから乱暴にも思える仕草で胸元辺りに鼻を押し付けた。

 

 ミレイユは片手で抑えながら、その側面、口の周りを撫でる。

 八房様の鼻息は荒くなり、だらしなく開けた口から舌がだらりと落ちた。尚も心得たように撫でていると、機嫌を良くしたように見えた八房が甘えた声で鳴いた。

 

「ああ、そうか。よく分かった……」

 

 何事かに理解の色を示したミレイユの声は、どこまでも優しかった。

 口元をポンポンと叩けば、それで満足したのか鼻面を離す。それから二歩、三歩と後ろ向きに動いてから踵を返し、林の奥へ堂々とした足取りで消えていく。

 

 祝詞が聞こえるなか、誰もがその後ろ姿をただ見送る事しか出来なかった。

 誰かが顔を上げ、そしてミレイユへと視線を転じた時、林の奥から朗々とした遠吠えが飛び出してきた。

 

「ウオォォォーーン!」

 

 木々を揺らし、葉を揺らし、鼓膜を揺らす大音量だった。

 思わず目を瞑って耳に手で蓋をした時、横合いから身体を引っ張られて態勢を崩す。何がと思う暇もなかった。アヴェリンに引っ張られ、身体を持ち上げられていると分かったのは、人々の間を縫って走り抜けた後だった。

 

 狼園を一足飛びで抜け出し、参道を歩く人々さえも、その大音量の遠吠えに目を向けている。その目を避けるように移動し、十分な距離を離してから、ようやくアキラは開放された。

 



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御影神宮 その9

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「い、一体、何が……!?」

「あの場に留まっていたら、流石に面倒だろう」

「いや、それはそうですけど……。って、そうじゃなくて!」

 

 今は林道の更に奥、鬱蒼と茂る樹々の中にいた。

 林の中に立ち入っている訳ではなく、ちゃんと用意された道の上にいるのだが、とりあえず狼園の中にいた人達からは目に着かない位置へ移動している。

 

 一瞬で姿を消したミレイユ達を見て、彼らは何を思うだろう。

 もしかしたら本物のオミカゲ様があの場にいたのではないか、と想像を掻き立てるのではないだろうか。

 ――何しろ、とアキラは改めてミレイユの顔を見つめる。

 

 あの神狼・八房様が一人の人間に擦り寄り、甘えた声まで出したのだ。

 その人間が実はオミカゲ様で、人々に紛れて八房様に会いに来ていたのだと、そう考えても不思議ではなかった。

 

 実際には、本当に会おうと考えるなら、もっと時間や場所を考えそうなものだ。しかし、あのような瞬間に立ち会っては、誰もが感動的な美談に変えようとする。

 目撃したものを誇張して、有ること無いこと脚色して伝えるだろう。

 

 その場にいたミレイユへ質問攻めも十分に考えられた。

 それを思えば、あの遠吠えで面食らっている瞬間に逃げ出したのは正解だったと思うのだが、同時に一瞬で姿を消した謎の集団に何を思うかは……あまり考えたくない。

 

 そこへアヴェリンが厳しい表情で辺りを見渡したまま、ミレイユに問いかけた。

 

「ミレイ様、何事かを話されていたようですが……」

「そうだな……。自己紹介された」

「自己、紹介……?」

 

 アヴェリンが怪訝に首を傾げたのも無理ない事だった。

 アキラも同じ気持ちで、鼻面を押し付けられているようにしか見えなかったが、どうやらミレイユとは何か通じるものがあったらしい。

 

「……ああ、お陰でな。分かったよ、色々と。……色々とな」

「色々、とは?」

「それはまだ言えない。分かったと言っても予想がついた、という程度で確度の高い話じゃない」

「ふぅん……?」

 

 一人しきりに頷くミレイユに、ユミルが意味ありげな視線を向けた。

 その表情を観察するように見つめ、しかし直ぐに視線を切った。聞きたい事があっても、言う気になるまで待つつもりなのかもしれない。

 彼女は意外とそういう距離感が上手いのだと、最近気づいた。後はアキラに対して距離感を間違ってくれなければ言う事ないのだが、と思いながらルチアに視線を向ける。

 

 彼女は彼女で何か考え事に没頭していた。

 顎を摘んで俯くように足元へ視線を固定させている。時折小さく唇が動いているので、自分の中で何かを整理しているのかもしれない。

 

 ミレイユは顔を上げて、ルチアの肩を叩いてその横を通っていった。

 叩かれたことで顔を上げたルチアは、その背に続く二人へ慌てた様子で着いて行く。アキラもそれに続いて、ルチアの横を並んで歩く事になった。

 

「何を考えていたか、教えて貰っていいですか?」

「……教えられるような事は何も。私にもまだ整理がついてないですし、それにやっぱり情報が少なすぎます」

「八房様とミレイユ様、一体どういう関係なんでしょう? 自分が支配する地に来たから挨拶にやって来たと考えるのも……うーん、何だか違うような」

「さて、どうでしょうね。ただあれは精霊ですから。それと関係があるのかも、と思っていますけど」

 

 ルチアの言葉に、一瞬アキラの動きが止まる。ずれてしまった位置を戻そうとして速歩きになり、そしてルチアの顔を覗き込むようにして問うた。

 

「八房様は精霊なんですか? 神の眷属ではなく?」

「そこは解釈の違いなんじゃないですか? 何を持って眷属とするのか、その定義から始めませんと。ただ、あれが巨大な獣でもなく、神霊の類いでもなく、精霊の一種である事は見て分かりました」

「精霊……」

 

 アキラは思わず唸って前方に視線を向けた。

 八房様が神の類する者ではなく、精霊というのは意外に感じた。しかし、同時にそれを意外と感じて良いものか迷う。

 

 獣でもなく超自然的存在と言われれば、それはそれで納得できてしまう気がする。

 生物ではないのだから、あれほど生態系から逸脱した体躯である事も、狼達が八房様の命令を聞くという話も、だからこそ納得できてしまうのだ。

 

 難しく考えているところで、前の三人は足を止めたようだった。

 見ればその先は禁足地。許可なく立ち入る事は出来ないし、もし入り込んだら命の保証は出来ないとされる場所だ。

 入り口で見た大鳥居と同様、御影石造りの鳥居はあるものの、誰にでも潜る事は出来ない。

 

 その理由は、ここが『奥宮(おくのみや)』である事に起因する。

 参道を進み、林道を進み、その更に先、奥参道を進んだ先にこの奥宮が鎮座している。ここは本殿同様に敬われるべき場所であり、同様に許された者だけが入れるオミカゲ様の寝所なのだ。

 それ故に、奥御殿とも呼ばれる。

 

 鳥居のすぐ奥は門扉が固く閉ざされており、入り口には武装した武者が番をしている。入り口ばかりではなく、その中も同様に警備の兵がいて、侵入者を許さない。

 周辺は塀で囲まれ、道を外れて入ろう者なら狼が猟犬のごとく見つけ出し捕獲する、と言われる。

 

 奥宮という名前ではあるものの、宮というより城に近い造りで、塀によって囲われている中には身の回りを世話する巫女たちや料理人などが住む為の居住宮も用意されているらしい。

 通いで宮勤めをする者もいるから、いつも完璧に締め切られているという訳でもないものの、許可なく鳥居を超える事があれば敵意在りと見なされるから、刺激したくはない。

 

 参拝者も観光客もその辺りは教え込まれている部分だから、例え記念撮影といえども鳥居に近づくようなものはいない。

 子供は立派な武者姿を、憧れの眼差しと共に見つめている。

 他の参拝者と同様、近づきすぎない位置でアキラ達も門扉を見つめ、それからミレイユがぽつりと呟いた。

 

「案外、何も見えないな……」

「それはそうでしょう。見えてしまえば、防犯上問題でしょうから」

 

 見ればアヴェリンもそれには同意見らしく、重苦しく頷いた。

 

「日にどれだけの者がここに近づくのか知りませんが、全てに目を光らせるのは不可能でしょう。ならば、最初から見せずにいる方が、面倒が少なくて良い」

「そうは言ってもねぇ。どうせなら、門扉以外にも何か見たかったわね」

 

 そうだな、とミレイユは帽子の下から笑った。

 

「そうでなくとも、何か接触があるかと思ったが……」

「本気ですか……!?」

 

 アキラが顔を引き攣らせて、盛大に身を引いた。

 門扉が開いて何者かが来るとなれば、それは間違いなくオミカゲ様に近い人物だ。ミレイユの口振りからすると、オミカゲ様そのものから接触を望んでいるように見える。

 

 とてもではないが、そんな事になればアキラは逃げ出すしかなくなるだろう。

 アキラ自身は決してやましい気持ちなど持ってないが、だからといって御前試合のような公式の場でもない場所に、わざわざ行きたいとは思わない。

 

 それに御前試合なら多くの大衆が近くにいるという安心感もあるし、何より誉の場だ。誇り高い気持ちにはなっても、逃げ出したいという気持ちは生まれまい。

 ミレイユは門扉を見つめて目を細くする。まるで当たりのクジを引いたような気楽さで、事も無げに言った。

 

「ここはマナが濃い。恐らく、あの向こうが最もマナの高い生成地だろう」

「……もしかして色々歩き回ってたのは、それを探す為だったんですか?」

「勿論だ。観光しに来た訳じゃないと、お前も理解していた筈だろう。――ここは確か、霊地じゃなかったか?」

「え、あ……勿論、オミカゲ様のおわす場所なんですから、当然――」

「そうじゃない。単純に立地として、霊地なんじゃないのか、ここは」

 

 言われてアキラはパンフレットを見返してみた。

 そうすると、確かにそこには霊地の一つとして数えられる場所だと記されている。

 それを聞いたミレイユは得心がいったように頷いた。

 

「……うん。つまり霊地のエネルギーをマナに変換して、それを利用している訳か」

「霊地に力があるんですか? その……由緒正しい的な意味だけでなく?」

「私もある種、フィクションと捉えていた部分があったが……ここまで来ると逆に説得力あるだろう。何もないところからマナを作り出していると考えるより、元からある何らかの力を変換していると考える方がずっと納得できる」

「龍脈なんて言葉で言ったりしますね」

 

 注釈を入れるように言葉を挟んできたのはルチアだった。

 生徒に向けて話す教授のような口振りで、両手の指先を動かしながら続ける。

 

「力というものは色んなところに流れているものです。空しかり地上しかり地下しかり。でも多くは拡散してしまって、一つの流れを作るような事はまずありません。しかし地下だけは例外です」

「それが、龍脈……?」

「ええ、川の流れのように、あるいは血脈のように流れる力ですが、場所によっては交叉します。そこで膨れ上がった部分を霊地と呼ぶんです」

 

 ユミルが幾度か頷きながら、悪戯好きそうな笑みでアキラを見る。

 

「事はそう単純じゃないけどね。霊脈から変換するにしろ、元々この世界にはない力でしょう?」

「そうですね。マナや魔力っていうのは幻想だと思ってましたし」

「なら変換器のようなものが必要になるんじゃないかと思うのよね。それは魔力やマナと親和性の高い存在が好ましい。……例えば、精霊なんかがそれに当たるわね」

 

 

 ユミルが流し目でルチアを見ると、納得の表情と共に数度頷いた。

 

「なるほど、そういう……」

「そしてマナがあるなら、元より魔力を宿せる身を持つアンタたちだもの。ちょっと上手く使ってやれば、病を治したり傷を治したり出来るかもね?」

「……あっ!」

 

 咄嗟に出た声が出てしまい、アキラは遅いと分かりながらも口を両手で塞いだ。

 

「蓋がされてあるから一時しのぎにしかならないんだけど、むしろそっちの方が都合は良いのかしら? 何度も足を運んで貰えるし、感謝だってして貰えるもの」

「実際、意外に思うほどよく出来たシステムですよ。如何にして信仰を得るか、向けさせるか、維持させるかを効率よく行っています」

「きっと、他の霊地にも(ことごと)く神社があるんでしょ? これだけ効力があるのなら、優先して置かせろといって断る筈がないもの」

「その為に名声を育ててるんですよ。育てた名声を使っていると言ってもいいですが。そもそも断る選択肢を潰してるんです」

「……やるわね」

 

 ユミルは呆れ半分感心半分といった表情をして頷く。

 

「更に面白いのが、どこかの世代で改宗しても、子や孫が再び改宗して戻ってくるようになってるところですよ」

「ああ、親と同じ宗教を選ぶ子は多いものだけど、実利を選ぶ子も多いわよね」

 

 アキラは塞いだ手を離さないで良かったと、心から感謝した。そうでなければ、大声で叫び出していたかもしれない。強く握りしめて自分に痛みを与えないと、自制できずに暴れてしまったかもしれなかった。

 

 ユミルは言っていた。

 まるで健康を人質にしているようだ、と。

 七五三にも言及していた。

 幼い頃から怪我と病を治されて、それで捨てられるものだろうか、と。

 

 日本人の凡そ八割以上、もしかすると九割がオミカゲ様を信仰しているという。一度得られた特権や格差はそう簡単に捨てられるものではない。

 親が他宗教でも、子が当然の権利として受けた万病を跳ね除ける力を、親がそうだからという理由で同宗教を維持が出来る者は少ない筈だ。

 

 そうして獲得した信者はあしげく神社に通って信仰を捧げていく。

 二人が予想したとおり、日本の霊地や霊山に必ず御影神社がある。アキラが知る限り、霊地以外にも多く建立されている筈だが、しかし霊地に御影神社あり、という逸話もまた良く聞くのだ。

 

 マナは自然発生したものではない。

 オミカゲ様によって作られたものだ。そして人は、蓋を外せば自分自身の力で克服できるのに、そのおこぼれを預かるように癒やしてもらっているのだ。

 

 アキラは自身の呼吸が荒くなっていくのを感じた。

 掌で抑えつけられた口から、荒く息が吐き出されていく。自分の信じるものが足元から崩れ去っていく気がした。

 そして実際、アキラは自身の目の前が白い布でも掛けられたように見えなくなり、意識を呆気なく手放した。

 



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御影神宮 その10

orangeflare様、えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 その日、狼園で起きた事態に、場は一時騒然となった。

 本来その御姿を見せるのは稀である神狼・八房がその御威光を放ち、林の奥より降臨したのだ。そして、その尾を広げた雄々しく神々しい御姿を見られたとあっては、頭を垂れずにはいられない程だった。

 

 そして、その御威光を間近で浴びるだけでなく、直接触れた者がいる。その様子を見ていた者が言うには、親しげな友へ接するような気安い態度で、その鼻面を撫でていたという。

 全てが終わった後――。

 八房様が林の中へと帰っていき、遠吠えを震わせた後には、その撫でていた人物の姿はどこにも見当たらなかった。そこに居たはずの人物が、忽然と消えてしまっていたのだ。

 

「まさかオミカゲ様が、足を運んで会いに来ていたのではないかしら!」

「いや、そんなまさか……!」

「だって、そうでなくては、八房様があのようにお近づきにはならないでしょう?」

「それは……そうかもしれないが」

 

 何しろ、神狼・八房が人前に姿を見せたのは、記録で確認出来る限り、五十年は昔の事だ。それも林の奥にその御姿がちらりと見えたという程度のもので、明らかな全身を確認できたという訳でもない。

 

 それを思えば、何の理由もなしに、単なる気まぐれで姿を見せたと考える方が不自然に思えた。

 そして五十年も姿を見せなかった八房が、姿を見せるだけでなく親しげな姿を見せる相手など、一柱しかおられない、という話になる。

 

「まさか……本当に!?」

「そうとしか考えられないわ!」

 

 断言する者もいれば、それとは反対に否定する声もあった。

 

「でもさ、髪の色は違ったし、サングラスも帽子だってしてたじゃん?」

「そうなのか? 何色だった?」

「それは……覚えてない。けど、顔を隠してたんだから、ミカゲさんじゃないじゃん」

「いや、逆だろ。顔を見られたら、絶対騒ぎになるんだしさ」

「でもオレ、あの人達が鳥居潜って来たの見たぜ?」

「だから、奥宮から出てきたら、それこそ一発で騒ぎになるだろ。騒ぎになるのを嫌がったなら、それぐらいの事してもおかしくないし」

「……マジかよ、マジでミカゲさんだったの!?」

 

 否定が賛成へ傾く声に周りの者達も感化され、それに誰もが賛同していく。

 

「いや、アタシも凄いオーラある人だなって思ってて!」

「分かる! マジで近づいたらヤバいオーラあった!」

「なんかお付きの人っぽい人達いなかった?」

「いた! ボディーガードみたいに、いっつも周囲を見てた人とか! めっちゃ美人なの!」

「どこのモデルだよ、って思ってたけど、オミカゲ様のお付きなら納得だよねぇ」

「でも外人っぽかったよ?」

「バカね。能力があるから、お付きになれたんでしょ?」

 

 そうして話題は動画に撮った映像へ移っていく。

 一人が八房の威光に屈せず、野次馬根性で収めた映像だが、それが今では称賛を浴びながら見せてくれとせがむような事態になった。

 

「角度的にはオミカゲ様の顔はやっぱり分からないけど、その手前の黒髪の人も全然動じてねぇのが凄いな」

「隣の子もそうだよ。でも可愛いなぁ、妖精みたい!」

「もしかしたら、この人達も神使なんじゃない? だって、そうじゃなくちゃ平伏したりしそうだし」

「そうかも! そう考えたらしっくり来るし!」

 

 だが大勢の観たい人達からすると、スマホの画面はあまりに狭かった。

 周囲に人が群がり、見たくとも見られない人達からブーイングが上がる。

 

「俺たちも見たいよ! そんなんいいからアップしてくれよ!」

「自分たちだけズルいって!」

 

 盛り上がりを見せつつも、そうした声に後押しされて、遂にその動画はSNSにアップされた。多くの人の目に触れる事となり、それが日本中へ隈なく拡散されていくのは、事態が起きてから僅か一時間にも満たない間の事だった。

 

 そして多くの人の目に触れた事で、ミレイユ達を追っていた人物達の目にも、それが留まる事になる。

 随分と時間が経つというのに、一向にその足取りが掴めないせいで、最初はあった熱意もすっかり陰りを見せていた。事務所でやる気なくスマホを弄っていた男もその一人で、事件のあった地域周辺を隈なく聞き込みまでしたのに見つからない。もはや、すっかり不貞腐れていた。

 

 しかし、偶然目に留まった動画を見て、態度を一変させる。

 ソファーにだらしなく座っていた体を起こし、食い入るように画面を見つめた。遂に見つけたと思ったものの、どうしたものかと苦く顔を歪めた。

 

 しかし見つけたものを隠蔽する訳にもいかず、そしていつまでも成果を上げない下っ端に、上もそろそろ痺れを切らしている頃合いでもあった。

 だから男は腰を上げ、別室に繋がる扉の前まで移動する。丁寧にノックをして、返事があってから一秒の間を置いて扉を開いた。

 

 部屋の中は応接室とよく似た構成になっており、ソファがテーブルを挟んで二脚ずつ。そして窓際に執務机と上等な椅子が用意されていた。

 ソファには既に二人、ガラの悪い格好の男達が座っており、それらに対し机に座る男が何やら指示を下していたようだった。

 机の男は不機嫌そうに顔を歪めて顎をしゃくる。

 

「……どうした」

「はい、兄貴。例の女を見つけた事をご報告に……」

「やっとか!」

 

 その報告に表情を和らげ、机の男は手を叩いた。

 だが報告に来た男の表情は優れない。重い足取りでソファーの後ろを通り、ソファーに座る男達から胡乱な視線を向けられながら、執務机の前に立つ。

 

「ですが、厄介な事になりそうです。これを見てください」

 

 自分のスマホを机の上へ丁寧に置き、画面が見えるよう反転させてから両手で押し出し、動画を再生した。

 画面を食い入るように見つめる男は、苦い顔を通り越して盛大に顔を歪めた。

 下唇に噛みついた後、乱暴にタバコを咥えて火を着ける。重苦しい溜め息と共に煙を吐き出した。

 

「……だったとしても、やらねぇワケにゃいかねぇだろう」

「兄貴、本気ですか!? これは絶対に手を出しちゃいけない相手です!」

「……じゃあお前が、オヤジを説得するか?」

 

 そう言われてしまえば、男としても黙るしかない。

 スマホを返されてポケットにネジ込み、そして青い顔をして頭を下げる。

 

 執務机に座る男――、名を生路市蔵(いくじいちぞう)と言った。四十を過ぎた屈強な体格を持つ男で、その頬には刀傷が走っている。

 五代目生霧会の若頭を任せられている男であり、霧島組長の息子を襲撃した女達の捜索を命じられていた。

 

 襲撃というのはあくまで表向きの話、実際は粉をかけた女達から逆襲に遭ったというのが真相だと市蔵も知っている。しかし、真相はどうあれ組の看板に泥を塗られ、ケチが付いたのも事実だった。

 

 ケチを付けられたままにすれば舐められる。

 そしてそれは、対等以上の関係を持ちたいと思っている取引相手に対して、致命的な傷となる可能性があった。プライドの問題もある。

 決して放置は出来なかったし、何かしら解決したという実績も欲しかった。

 だから、治療費と見舞金でも出させて、それで終わりにする腹積もりだった。

 

 ――だというのに。

 市蔵は再びタバコを吸い、動画の内容を脳裏に思い返しては顔を顰めて煙を吐き出す。

 

 しかし、ここに来て今更無理ですとも言えない。

 せめて詫びを引き出すぐらいはしないと、収まるものも収まらないだろう。

 

「女達の居場所は?」

「まだです。ただ動画の撮られた時間から見ても、近くにいるとは思うんですが」

「じゃあ、すぐ行け。捕まえて連れてこい」

 

 言われた男は顔を引き攣らせた。

 命令に背きたいけど背けない、そのジレンマを感じさせる表情だった。

 市蔵は目の前の男から視線を外し、ソファの男達に顔を向ける。

 

「そこの二人も着いて行け。他の奴らも集合かけて、数を集めて探し出せ。ただ怪我させるような暴力沙汰は無しだ。頭一つ下げさせて手打ちにする。それで丸く収める」

「オヤジがそれで納得しますかね?」

「神宮勢力から頭下げさせたとなりゃ、オヤジだって納得する。俺がそうして見せる。――だから急げ! さっさと女を連れてこい!」

「わ、分かりました!」

 

 突然の大声に身を竦ませ、ソファーに座る男達も飛び上がるように部屋から出ていく。

 市蔵はタバコを灰皿に捩じ込み、すぐに二本目のタバコを取り出して火を付ける。

 やはり苦い顔を崩さぬまま、溜息と共に煙を吐いた。

 



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対立 その1

 ミレイユ達は今、神宮から少し離れた喫茶店で、お茶を楽しんでいる最中だった。

 本当なら神宮の参道へ続く道にあった、古式ゆかしい佇まいの店に入りたかったのだが、狼園での騒ぎが拡大したせいで難しくなってしまった。

 

 それにやはり神宮近くの店は繁盛しているらしく、昼も近い時間帯となると混雑していて、多くの時間を待たされそうでもあった。

 だから少々離れた場所でも、それらしい店があればと思い適当に歩いていたところ、この店を見つけたのだ。

 

 ここの店舗は割と新しい店のようだったが、和風喫茶と銘打ってあるところが気になって、入店する事にした。

 気絶したアキラはアヴェリンの雑な気付けですぐに目覚めたものの、体調が思わしくないのは間違いない。すぐに腰を下ろせる場所を、と思ったのだが、どこも待ち時間があったのでこうして離れた場所まで移動する事になっていた。

 

 そうはいっても、店内の客数は少ない訳でもなかった。

 今の状態で窓際の席しか空いていないとなれば遠慮したい気持ちはあったのだが、アキラを休ませる事を優先させると、そこは我慢しなければならなかった。

 

 席へと案内されて、それぞれが席につく。

 例によってアヴェリンが席順を仕切り、ユミルとルチアが窓際、ユミルの隣にミレイユが座った。その隣にアヴェリンが座ってミレイユを挟む形になり、そしてミレイユの正面にアキラが座った。

 調子を崩したならば、少しでもゆったりしたスペースが必要だろうと、アキラにはルチアと座らせる事にしたようだ。

 

 注文も済ませ、後は待つばかりとなって、そこでようやく雑談する流れになった。

 ユミルが窓際に置かれたメニュー表などを指で弄りながら、不満を滲ませた声でアヴェリンを見やる。

 

「……今更言うのもなんだけど、何でアタシが窓際なのよ」

「いざという時、お前が盾となる為だ」

「は? そういうのはアンタの役目でしょ?」

「当然、私も盾になる。だが危険は外側から同様、内側からも多い。袖の中に忍ばせるナイフなどを使うなら、むしろ内側の方が危険だ。ならば私が、通路側に座るのが筋だろう」

 

 しっかりと自らも盾となる算段を立てていたとなれば、ユミルもそれ以上強く言えなくなった。口をもごもごと動かしてから、未だに意気消沈したように見えるアキラに顔を向ける。

 

「……で、アンタ平気なの? まぁ、歩けるようなら大丈夫でしょうけど」

「えぇ、はい……。すみません、ご迷惑おかけしまして」

「体力的には、もう問題ない筈なんですけどね。私からも治癒術使いましたし」

 

 ルチアが首を傾げながらアキラを見た。

 気遣ってのもの、というより単に不思議なものを目にしたような視線を向けている。

 

「体力的に問題ないと言うのなら、じゃあ精神的な問題という事になるんだろうさ」

「単に、日差しに頭をやられてんじゃなくて?」

「まぁ、そういう雰囲気でないのは、見て分かるだろう」

「……そうかしらね?」

 

 ミレイユの意見に、ユミルもまた小さく首を傾けてアキラに視線を向けた。

 アキラは俯いて視線を下に向けたまま、何かに深く思考を廻らせているように見える。

 

 ミレイユはアキラが何を考えているのか、その凡そは見当がついていた。

 倒れる直前にしていたルチアとユミルの会話を思い起こせば、何を考えていたのか予想がつく。明らかに挙動不審になった上、呼吸も乱れて顔色も目に見えて悪くなった。

 

 だから今、アキラが沈んだ様子を見せるのはオミカゲ関連だと思っているし、逆にそうでなければあそこまで取り乱さないだろう、とも思う。

 信仰する神への不審と不信、そして疑義があそこまで(さいな)ませる原因となっているのだろう。

 

 ミレイユは最初に運ばれてきたお冷を一口含み、グラスを置いた。

 ――さて、何と言ったものか。

 

 ミレイユにも考える時間が必要そうだった。

 別に説得をするような面倒さはないとはいえ、言葉を選ぶ必要はある。アキラに教えて良い――教えて問題ないものを取捨選択しなければ、余計な混乱を生むだろう。

 そもそもミレイユ自身も、まだ確信を持てない部分は多々ある。

 

 しばらく店内に流れる柔らかい音楽へ耳を寄せながら、ミレイユ自身も思考を回す。

 そうしながら、ふと窓の外に目を向けると、法定速度を明らかに越えた速度で走っていく車が見えた。ユミルもそれには気づいていて、ルチアも一緒にその車を見送っている。

 

「なに、あれ……。あんな速度で走る奴なんているの?」

「普通はいないな。車が出しても良いとされる速度は、厳格に決められている。……だから、ああいう速度で走る奴は、昼間は出ないものなんだが」

「昼間? 夜なら出るワケ?」

 

 ミレイユは窓の外を見つめたまま頷く。

 

「常に出るものでもないが、深夜で人気のない時間帯を狙って、速度を出して走るような奴らはいる」

「……あらまぁ、そこまでして走りたいモノなの?」

「私は彼らじゃないから知らないが、単に速く走るだけじゃなく、車を早く走らせる技術を競い合っている部分もあると思う。それが楽しいのだろう」

「ふぅん……? 自分で走った方が疾いのにねぇ」

 

 つまらなそうに呟いたユミルに、ミレイユが苦笑を返す。

 

「それはお前だけ、でもないな……私たちだけだろ」

「走ってみる?」

「私は楽しくないから遠慮する」

「つれないわねぇ」

 

 二人して笑い合って窓から視線を戻す。

 頼んでいた注文も、早く出来上がるものから順次運ばれて来たようだった。先に食べられる人は先に食べるように伝え、とりあえずは昼食を済ませてしまう事にした。

 

 

 

 和風喫茶の昼食となれば、メインはやはり麺類になる。

 そばやうどんを中心とメニューが多く、それにトッピングを変えてバリエーションを増やしているような印象だ。カレー蕎麦などの中心メニューから外れるようなものもあったが、しかしカレーは何処でも鉄板商品でもあるので、主力商品なのかもしれない。

 

 麺類だけでは物足りない人は追加で丼物も頼んでもらい、それぞれを楽しんで昼食は終わった。

 アヴェリンなどは、むしろここからが本番で、メニューを見ていた時から既にこれはと決めていた商品があったらしい。

 追加で抹茶クリームあんみつというものを頼み、今は心待ちにして厨房の方を盗み見ている。

 和風と言ったら抹茶だ、というミレイユの主張に従って、ルチアも宇治金時のカキ氷を頼んでいた。

 

 腹が満たされれば余裕も生まれる、というのがミレイユの知る数少ない真理だ。

 だから今は、食事中も返事が上の空だったアキラに、ようやく話を聞いてみようという気になっていた。

 

「さてアキラ……、お前の悩みの内を私に話してみる気はないか?」

「それは……」

 

 あくまで視線を向けず言い淀むアキラに、ミレイユは平坦な声音で問いかけた。

 

「悩みの根源はオミカゲに関する事だろう」

「……そうです」

 

 アキラは一瞬声に詰まったものの、結局素直に頷く。

 実際、そこを隠し立てする意味はなかった。状況から見て、それ以外に考えられる要素がない事は、アキラにも分かっていただろう。

 

「とはいえ、お前も心の内を探られるのは嬉しくないだろう。だから簡潔に、私の結論から言う」

 

 ミレイユの声は平坦なままだったが、それでアキラの顔が上がり、視線が交わる。

 

「お前はお前の信仰を大事にしていい。迷うな、信じろ。それで解決だ」

「そう……なんでしょうか? 僕は迷っています。信じ続けていたものが、突然薄氷の上に歪な建て方をされていたような気持ちになってしまって……。僕は本当に信じ続けていいんでしょうか」

「いいぞ」

「そんな適当な……」

 

 ミレイユの返事は素っ気なく、また簡潔に過ぎた。

 親身になって相談に乗ってくれると思っただろうアキラには悪いが、ミレイユは別に信仰に迷う者を導く牧師という訳でもない。

 ただ、知っている事、分かっている事を教えてやれるだけだ。

 

「お前の不信は魔力を身に着けたから、そこに起因するものだろう。他人とは違う力を手に入れ、違う理を知り、そして真相を知ったつもりかもしれない。――全部、気の所為だ」

「気の所為、ですって……?」

 

 アキラが不安げに、あるいは不満げに眉を持ち上げるのを見ながら、ミレイユは嘆息する。

 視線を感じて見てみれば、ルチアもユミルも興味津々の笑顔でこちらを見ていた。

 

「全部というのは? どこからを言ってるんですか? 僕の気の所為って、どういう事ですか?」

「お前はつもりになっているだけだ。全部、つもり、だ。力を手に入れたつもり、理を知ったつもり、オミカゲの真相を知ったつもり、本当は何一つ知ってはいない」

 

 アキラの表情が歪に変わる。怒りのようでもあるし、困惑のようでもある。侮られ辱められているとも感じているかもしれない。

 

「でも、僕は勝手に知ったつもりになってはいません。教えられた事を学んで、力を鍛えて、そうして蓄えたものから思い当たったんです」

「うん、それはそうだ。実際お前はよくやっている」

 

 ミレイユは素直に褒めた。相変わらず平坦な声だったが、それで尚更アキラは困惑した。

 

「……じゃあつまり、どういう事なんですか」

「なぁアキラ……。内向魔術を学んでいるが、それが何か理解して使っているか」

「何です、突然……」

「いいから、答えてみろ」

 

 重ねて問いかけて、アキラは口を開こうとして、やはり閉じてしまった。実際、これを口で説明しようとするのは難しい。整理して、理論立てて説明するのはアキラには不可能だろう。

 だから説明しようとして、何と言っていいのか言葉にできず固まってしまっている。

 

「何か? 何かってどういうことです、そんな曖昧なもの……」

「それが答えよ、お嬢ちゃん」

 

 ユミルがいつもの嫌らしい笑顔を貼り付けて、アキラに人差し指を向けていた。

 



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対立 その2

「な、何ですか、突然。それって何の事です。曖昧の事ですか?」

「そう、それ。曖昧。曖昧なものを曖昧なままで使っているのが、魔術なのよ」

「そんな馬鹿な……」

 

 アキラの呆然とした一言を、誰一人否定しなかった。

 アヴェリンさえも、それを当然と受け止めながら頷いている。

 

「いいか、アキラ。魔術なんていうのは、過去の偉人が実践してそのとおりだったから、きっとそうなのだろうと言う理論で使っているようなものだ。深奥を覗き込んで理解してまで使っていない」

「雰囲気で使っているって事ですか?」

「そこまで曖昧でもないがな。だが、曖昧なままでも使えているから使っている、というのは間違いない」

 

 アヴェリンの答えに愕然とした表情を見せるアキラに、ルチアが目を細めながら言った。

 

「魔術は世界と向き合う学問、という言葉は知ってますか?」

「それは……いつだったか、ユミルさんが」

 

 アキラがしどろもどろに答えると、ルチアは満足そうに頷いて続けた。

 

「その言葉のとおりです。まだ何も知らないから――魔術を知らないから、魔術を使って知ろうとしている、未だにそういう段階なんですよ」

「でもそんな……本末転倒のような……」

「馬鹿みたいでしょう? でもその馬鹿みたいな事を、真剣な顔してやっているのが魔術士です。……貴方、薄氷の上と言いましたか? 薄氷どころじゃありません、罅だって入って歪んでますよ」

 

 ルチアは自嘲するように言って、はんなりと笑った。

 アキラは言われた事を理解できないように、あるいは拒絶するように首を振る。

 ミレイユはアキラへ視線を揺らぐことなく見つめて、言葉を引き継ぐように続けた。

 

「なぁアキラ、私達とて魔術や魔力を知っている訳ではない。しかし先達である分、お前より多く知っている部分はある。だから、幾らか知っている私が言ってやる。お前はお前の信仰を信じていて良い」

「分かりません……、僕にはもう何を信じていいのか」

 

 アキラはとうとう頭を抱えて、テーブルの上で蹲ってしまった。

 ユミルはそれを、不愉快極まりないものを見るように見下して、鼻を鳴らした。

 

「面倒な奴ね。この子がオミカゲを信用して良いって言ってんのに、何でアンタが俯くのよ」

「しかしそうなると、敵ではないと考えてよろしいのですか?」

「いいや、それとこれとは話が全く別だ」

 

 希望に縋ろうと顔をあげようとしていたアキラは、ミレイユの言葉を聞いて動きが止まった。

 その眼は虚ろで濁り、どう反応して良いか迷っている。

 

「むしろ、だからこそ敵対するとすら考えている。相容れない可能性は高い」

「あら、そうなのね。でも明確な敵と判断しているワケでもない?」

「ああ、敵と認識されない限り、こちらから攻撃する事もないだろうな」

「それは全く構いませんが、そう考えるに至った根拠を聞いても?」

 

 アヴェリンが低姿勢で問いかけたが、しかしミレイユは首を横に振った。

 

「それはまだ言えない。言いたくないのではない、その根拠を確信に変えるまでは口にしたくないからだ。そして確信を得るには奥宮に殴り込まなくてはならなくなる」

「……では、行きますか?」

 

 事も無げに伺ったアヴェリンに、アキラは即座の再起動を果たし、反射的に否定した。

 

「駄目に決まってるじゃないです……か」

 

 テーブルへ身を乗り出し、しかし言い切る前に言葉を止め、自分自身驚いたように口元に手を当てている。

 

「それがお前の本心なのだろう。ミレイ様が良いと言っているんだ、お前はお前の信仰に殉じろ」

「……いいんですかね? 一度は疑い、信用できないと考えたクセに」

「そんな事、私が知るか。薄氷の上に立っている事すら知らずに、今更ながら薄氷の上だと気づいただけの事だろう。それで知ったつもりになって、自分で勝手に思考を暴走させただけだ」

 

 吐き捨てるようなアヴェリンの物言いに、アキラは困った顔して笑った。その目尻には薄っすらと涙が浮いている。

 

「いっつも容赦ないもんなぁ、師匠は……」

「容赦して欲しいなら、誰か他の者に頼め。私は持ち合わせていない」

 

 ですよね、と言ってアキラは笑った。

 乱暴に腕を擦り付けて、流れる前に涙を拭う。

 

「もう一度、信じてみる事にします。ミレイユ様が言ってくれたからではなく、僕がそうしたいと思うから」

「……好きにしろ」

 

 アヴェリンがぶっきらぼうに言って、顔を背けた。

 素直じゃないな、とミレイユは思ったが、その顔を向けた先がアヴェリンの頼んだスイーツだと分かり、アキラより甘味に気が向いただけと分かって苦笑した。

 

 

 

 

 アヴェリンが抹茶クリームあんみつを美味しそうに口へ運ぶのと同じくして、ルチアも宇治金時のカキ氷を眼前に見つめて感心していた。

 緑色をした食べ物といえば野菜ぐらいの認識しかなかったが、それを甘味として目にするのは予想外だったらしい。

 

 細かく刻まれた氷や山と積まれ、その上からグラデーションを作ってかけられたシロップは目で見て楽しい仕掛けとなっている。

 頂上付近には粒餡がしだれ掛かるように乗せられていて、それがまた味のバリエーションを増やすのと同時に舌休めの役目も果たしているようだ。

 

 ユミルもそれを正面から見つめて、面白そうに微笑んだ。

 

「それにしても、アンタが氷を食べるって考えると、ちょっと面白くない?」

「何でですか。変な想像しないで下さいよ」

 

 スプーンを手に持ち、今にも氷山の一角を崩そうとしていたルチアが白い目で見る。

 それに気を良くして、ユミルは更に笑みを深くした。

 

「因みに、氷を食べた事とかあるの?」

「ある訳ないじゃないですか。食べ物と考えた事すらないですよ」

「まぁ、そうよね。わざわざ氷を削って甘味のソースをかけて食べるっていう発想は、正直ぶっ飛んでると思うし。……美味しいの、それ?」

 

 ユミルが不安げに言うに従って、ルチアにも躊躇する気持ちが生まれてしまったらしい。恐る恐るミレイユの方へ顔を向けるが、笑顔で首肯してやると思い直してスプーンをカキ氷に突き刺した。

 

 予想よりも軽い音がして表面を掬い、予想よりも少ない分量が乗ったスプーンを口へ運ぶ。シロップの大部分は底へ沈んでしまっているので、それだけでは味も薄い。

 掬い取った部分で白く見える部分が多かったのも、それを後押しした。

 

「……うん。……うん?」

「何よ、駄目なの、それ?」

 

 顎を動かしさえせず飲み込んだルチアは首を傾げ、それを見ていたユミルは怪訝に見た。ユミルは自分のコップを口元に運びながら、予想外な反応を見せたルチアが心配になったらしい。

 

「いや、なんか……味が薄くて。甘いは甘いんですけど、削った氷ですから食べ応えもないですし」

「あら、意外ね。こっちの食べ物、特に甘味はまずハズレがないと思ってたのに」

 

 ですよね、と言いながら、ルチアは再びスプーンを氷山に突き刺す。

 その横からアキラが未だ気恥ずかしい思いを顔に見せつつ、アドバイスを横から送った。

 

「カキ氷の山を潰して、まず平らになるようにすると良いですよ。シロップ――その甘いやつは下の方に沈んでいるので、底から掬うように食べると分かります」

「そうなんですね」

 

 素直に礼を言って、ルチアは雑にやって盛り皿から落ちてしまわないよう、慎重な手付きで山を崩していく。金時部分を時々口に運び、こちらには満足したように頷きながら、山となっていたカキ氷を皿の縁の高さまで減らした。

 ザクザクと氷を刻みながら、底の方の氷を掬い上げ、緑色のシロップに並々と浸かった氷を口の中へ運ぶ。

 

 途端に顔を綻ばせて、すぐに二口目を口に運んだ。

 

 ミレイユはその様子を見ながら、そういえばと思い出した。

 食べ続けると身体を冷やすだろうから、熱いお茶を店員に頼んでおく。同じように食べ続けるとクドく感じてくるアヴェリンの為にも、二人分注文した。

 

 そうしてパフェを食べるように上機嫌でカキ氷を掬っては食べていたルチアが、突然苦悶の表情で苦しみだした。指を鈎状に曲げて、目を固く瞑って喉の奥から悲鳴を噛み殺した音を出す。

 ユミルがコップを置いて手を伸ばし、その手に触れる。

 

「ちょっと、どうしたのよ……!」

「いぃぃ……、ひぐぅ……!」

「まさか、毒……!?」

 

 ユミルが信じられないようなものを見る目でミレイユに顔を向け、それが耳に入ったルチアは片手で魔術を行使する。

 ミレイユはそれを冷静――というより、単に無頓着な視線で見つめ続ける。

 アキラが困ったように笑うだけなのは、ミレイユと同じく事情を知っているからだが、しかしアヴェリンも食べるのは止めて、今は心配そうにルチアの動向を見守っている。

 

「ひぃ、ひぃぃぃ……!」

 

 光の漏れる手の平を胸に押し当てているというのに、ルチアの苦しみは紛れるどころか強まったようにすら見えた。

 ユミルはその手を強い力で握り返され、痛みに苦しむルチアをどうにかしようと、自らも懐に手を入れポーションを取り出そうとしている。

 

 ミレイユが手を制して止めると、苛立ちのような視線を向けて来たが、ルチアの気が鎮まってきていると分かって安堵の息を吐いた。

 ユミルを握り返す手からも力を抜き、大きく息を吐いて姿勢を正した。

 

「あ、危ないところでした……。解毒の治癒術がまったく効かなくて……ミレイさんが何かしてくれたんですか?」

「いや、何も」

「そうよ、この子は何もせず見ていただけ。……でも、一体なにがあったのよ。アンタがあんなに苦しむなんて、よっぽどのコトよ?」

「それが良く分からなくて……。突然頭の奥に抉るような痛みが広がって……、今まで感じた事のない痛みでした」

 

 ルチアはその時の痛みを思い出したかのように、苦悶の表情を浮かべた。

 ミレイユは人の悪い笑みを浮かべてルチアを見やる。

 

「その食べ物はな、人を選ぶ。心に疚しいものを持つ者は、拒絶され痛みを味わう事になる」

「まさか、そんな……!」

「嘘に決まってるでしょ、そんなの。バカバカしい」

 

 ルチアが驚愕して見せる横で、ユミルが鼻で笑ってミレイユを見た。

 

「だったら、お前も食べてみろ。……あぁ勿論、疚しい気持ちを持つ自覚があるなら拒否しても良いが」

「いいわよ、その安い挑発、乗ってあげる」

 

 カキ氷を既に遠ざけていたルチアに、ユミルは顎をしゃくって寄越すように言った。

 素直に押し退けて、ユミルの前に未だ多く残っているカキ氷がやってくる。スプーンを手に取って、余裕の表情で口に運んだ。

 

 ゆっくりと口の中で転がすように咀嚼して、嚥下する。

 そして、ほら見たことか、と勝ち誇った笑みを浮かべた。

 だがミレイユは首を横に振って、更に食べるようカキ氷を手で示す。

 

「ルチアを見ていただろう。一口ぐらいじゃ判定されない、もっと食べてからその余裕顔を見せてくれ」

「ま、いいわよ」

 

 ユミルは言われたとおり、二口、三口とかき氷を口へ運ぶ。

 結構美味しい、などと余裕の笑みを浮かべて周囲を睥睨していたが、四口目を口に入れた直後、それは訪れた。

 



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対立 その3

TMAGPT'MD様、こば様、えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 驚愕にも似た表情をさせながら、ユミルの手からスプーンが零れ落ちた。

 乾いた音を立ててテーブルの上を滑るスプーンを傍目に、ユミルの表情は次第に苦悶へ歪んでいく。

 

「う、嘘でしょ……!? ひぐぅぅぅ」

 

 声すら歪んで、ぎこちない。

 手を強く握りしめ、身体を海老のように丸めてテーブルを叩く。壊してしまいそうなほど強い力が込められていたので、ミレイユが拳を受け止め拘束し暴れたがるユミルを抑え込んだ。

 

「なに! なにこれ痛い! イィィィィ……!」

 

 身体を左右に振って痛みから逃れようと必死だったが、ミレイユがその全てを上手く受け流してしまうので、実際に見た分には小刻みに揺れるような有様だった。

 

 だが、その苦痛は長く続かない。

 暴れる内に痛みは減り続け、一度引けば後は早かった。

 肩で息をする程ではないものの、そうしたくなる気持ちも分かる。

 

 ユミルは恐ろしいものを見るようにカキ氷を見つめ、それからミレイユに非難の目を向け、拘束から抜け出す。

 

「何てもの食べさせるのよ! アンタ変よ! 悪魔だわ!」

「悪魔なのはお前だろう。疚しい気持ちを持つ、誰かさんが悪いんじゃないのか」

 

 アヴェリンがミレイユを挟んで、蔑むような視線で笑う。

 その視線に耐え兼ねたユミルは、カキ氷がまだ多く残る盛り皿をアヴェリンに押しやった。

 

「じゃあアンタも食べてみなさいよ! 疚しい心を持たないアンタなら、さぞ平気で完食されるんでしょうね?」

「む……、いや……しかし」

「あらやだ、食べられないの? 疚しい心を持つって自覚してるワケ?」

「……そんな訳があるか! 食べられる……が! まだ自分で頼んだ分も残っているしな!」

 

 あらそう、と笑んで、ユミルはミレイユに(しだ)れかかった。

 

「アヴェリンったら、疚しい気持ちがあるのをアンタに知られたくないんですって。嫌よね、一体どんな疚しい気持ちを心の底に隠しているコトやら……!」

「そんなもの無いと言っているだろうが! ――よこせ、食べてやる!」

 

 ミレイユの眼前で止まっていたカキ氷を、アヴェリンは手繰り寄せて自分のスプーンでカキ氷に突き刺す。

 突き刺すが、しかしそこからスプーンが動かない。強い葛藤が見て取れたが、ちらりと向けた視線の先にユミルの嫌らしい笑みがあって、意を決したように口へ運ぶ。

 

 多くを噛む必要のないカキ氷だから、すぐに一口は終わる。こわごわと自身の変化を待っていたアヴェリンだが、何も起こらないと分かってホッと息を吐く。

 だが、そこに愉悦を隠しきれない声音で、ユミルが声をかける。

 

「駄目よ、たった一口で済まそうだなんて。ちゃんと四口くらいは食べてくれないと」

「よ、四口もか……!」

 

 アヴェリンの心底は分からないが、その言葉は強い恐怖を感じさせたようだ。

 震えるスプーンが皿の底に当たってカチカチと音を立てる。一度大きく息を吸い、意を決して口の中に入れた。

 数度噛んで飲み込み、伺うようにユミルを見れば、早く次を食べろを催促してくる。

 

 アヴェリンの呼吸は荒い、葛藤は強くなっているようだ。

 店内はひんやりと冷たい空気が漂っているが、明らかにそれとは違う顔色を見せている。

 再び意を決し一口、嚥下が終わって更に一口、そしてそれも飲み込んでしまうと、荒い呼吸のまま自身を見下ろした。

 

「ああ、何だ……何とも無い。そうとも、私に疚しさなど……、ンギ!?」

 

 一秒経っても何も起こらない事に安堵した直後、アヴェリンの顔が歪む。

 頭を抱えて身体を丸め、喉の奥から声を絞り出す。

 

「あ、あがぁぁぁぁあ……!」

「あーっはっはっは! ホラ、御覧なさいな! あれが疚しい気持ちを持つ者の苦痛よ!」

 

 ルチアやアキラに首を廻しながら、ユミルはアヴェリンの苦しむ姿を指を差して笑う。

 何も言い返せないまま、苦痛に喘いでいる時に、横合いから声がかかる。

 

「お待たせしました、こちらお茶です」

 

 実に良いタイミングで来た店員に謝意を示すように頷く。店員も心得たもので、かき氷を食べて苦しむアヴェリンの前にお茶を置いた。

 

「ゆっくりとお寛ぎ下さい」

 

 店員は一礼して去っていくが、アヴェリンにそれを気に掛ける余裕はなかった。

 湯呑を掴み取って、苦痛に歪めた顔のままお茶を啜る。それが功を奏したのか、あるいは単にタイミングの問題か、アヴェリンの表情が緩やかになった。

 

 ホッと息を吐いて、もう一口お茶を啜ってから慚愧に堪えないと言った表情でカキ氷を睨みつけた。

 

「よもや、私があのような醜態を晒すとは……! 私は自分が恥ずかしい……!」

「いやぁ……、そろそろネタバレして良いんじゃないですかね……」

 

 アキラが顔色を伺うように、恐る恐るミレイユを見た。

 ミレイユは眉の上辺りを指先で掻き、敢えて窓の外へ視線を向ける。

 

 何やらチンピラ風の男どもが忙しなく動いているのが見えたが、そんな事はどうでも良かった。

 ユミルが詰めるように身を寄せ、顔を近づけてサングラスの下から覗き込むように睨んで来る。

 

「ちょっと、アンタどういうコトよ? まさか、また謀ったんじゃないでしょうね?」

「謀ったとは大袈裟だな。私は何も嘘など……」

「へぇ……? 言ってない? ホントに? じゃあ、こっち見なさいよ。――見ろっての」

 

 あくまで視線を向けないミレイユに、ついにユミルは肩を掴んで揺さぶった。しかしそれでも、頑なにミレイユは窓の外を見つめる。

 それを見ていたルチアは呆れた息を吐いて、隣のアキラに問いかけた。

 

「それで、実は気持ちを判別だとか疚しいだとか、そういうのは全くの嘘って事でいいんですか?」

「ええ、はい、……そうですね。急激な冷たさが痛みに変換されて、脳に伝わって起きる頭痛だって言われてて……つまりタンスの角に、足の指をぶつけた程度に思っていればいいかと」

「冷たいものを食べるだけで、そんな事になるんですね……」

「ごく単純な反応ですから、ゆっくり食べるとか温かい物と一緒に食べれば、まず大丈夫ですよ」

 

 理解が進めば、恐ろしく思えたカキ氷も食べる気になるらしい。

 アヴェリンが遠くに押しやった事でテーブル中央にあったそれを、自分の手元に引き寄せた。テーブルに落としたスプーンをペーパーナプキンで拭ってから、改めて口に運ぶ。

 

「実際、味はいいんですよね。好みの味です」

「それは良かったな」

 

 ミレイユは微笑みを浮かべてルチアを見るが、ユミルはしつこく食い下がってくる。

 事情を知った事で、尚更気に食わない気持ちになったらしい。決して視線を合わせようとしないせいでムキにさせてしまっていると分かるのだが、しかしここで顔を向けても面倒になるのは分かっている。

 

 アヴェリンの方に顔を向けても、流石にこれは自業自得と思っているのか助け舟は出してくれない。手元にあった二つ目のお茶を、アキラ経由でルチアに渡していた。

 

「大体、何であんな下らない嘘吐くのよ。前にも似たような事されたけど」

「面白いからだ。――いや、何でもない」

「は? 面白いから? 面白いって言った? ――お?」

 

 ユミルは下から舐めるように睨みつけてくる。仕草や口調までチンピラめいてきて、これ以上ふざけるのは流石に拙いと思い直すに至った。

 ミレイユはようやくユミルに顔を向けて、頷く仕草で謝罪した。

 

「悪かった。少し悪ふざけが過ぎたな」

「……フン! まったくね。ちょっとこっちの常識に疎いからって、それを使って馬鹿するなんて大概になさいな」

「いや、お前もお前でアヴェリンに指差して笑ってただろう」

「アタシはいいのよ」

 

 ユミルが口の端に笑みを浮かべるのを見て、ミレイユは肩を竦める。

 アヴェリンも残していたあんみつを食べ終わり、湯気の立つお茶を美味しそうに啜っている。

 ルチアも氷部分が殆ど残っておらず、底に残ったシロップをどうしようかと悩み、結局あとはお茶を飲んで、冷えた身体へ幾らか熱を取り込む事にしたようだ。

 

 美味しそうにお茶を飲みながら、ルチアは名残惜しそうにカキ氷が盛られていたガラス製の容器を見つめる。

 それを見たユミルが悪戯をする時のような表情で笑った。

 

「アンタ、気に入ったからって自分でカキ氷作ったりしないでよ」

「おや、その手がありましたか」

 

 ルチアにしては珍しく、ユミルの軽口に乗っかった。

 彼女は魔術に対して真摯な姿勢を見せるから、仮にカキ氷を作れるにしても実行に移す事はしないだろう。それが分かっているから笑っていられるが、しかし言葉を本気にしたアキラは難しい顔でルチアを見つめていた。

 

 本当にやるなら止めた方がいいのか、と常識的にはどちらが正しいのかと迷っている顔だ。

 ミレイユはそれに笑い飛ばして、自分のコップに口をつける。

 

「そう心配そうな顔をするな。どちらも本気で言ってる訳じゃないからな」

「……いや、ですよね。そうだとは思ってましたけど」

 

 ミレイユが常識を使って、言葉巧みに騙したのを気にかけていたせいもあるのだろう。黙ったままだと気が引けるとでも思ったのかもしれない。

 

 全員の食事が終わった事だし、後はお茶も飲み終われば席を空けねばならない。

 狼園で騒ぎを起こした時、その場にいた参拝者も今は近くにいないだろう。動くというなら、良い時間かもしれない。

 

 ただ、それと関係あるかは分からないが、どうも目につく人種が先程から店の外を横切っていく。関係あろうとなかろうと、どうにでもなるものだが、さてどうしたものかと考える。

 そうしながら、ミレイユは会計を済ませるようにルチアへ指示した。

 

「さて、腹の具合に問題なければ、そろそろ移動しよう」

「今日の予定はもう済んだんですよね?」

 

 アキラからの質問に、ミレイユは頷く。

 見たい事、知りたい事の情報は手に入った。予想以上の収穫であったのは有り難いが、しかしそれで、これからの立ち位置に少々修正を加えなければならなくなった。

 

 考え直すというと大袈裟だが、少し思慮深く動く必要はある。

 結界、電線、魔物、質屋、店員、そして屋上から見えた人影。

 思い返す程に、それらを繋いで考える程に、自説の裏付けが取れるような思いがした。

 考えを纏める時間が欲しいのは確かだが、と思いながら窓の外へ意識を向ける。

 

「新しく予定が出来たかもしれない。とりあえず、歩きながら考えよう」

 

 その不思議な言い分にアキラは首を捻ったが、異論を唱える立場にないと理解していて、だから素直に頷いた。

 他の面々も似たようなものだったが、ただ一つ、敵意ある視線には気付いていたから、それ絡みだろうと察しが付いている。

 

 ミレイユが立ち上がる素振りを見せれば、それを皮切りに全員が立ち上がる。ルチアが伝票を手に持って、後へ続くようにレジへ向かった。

 



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対立 その4

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 会計が済むまで店の外で待っている事にしたのだが、しかしこれは少々外聞が悪かったかもしれない。単純に外見だけの話で見れば、まるで中学生に集る大人の構図になってしまう。

 いつだったかルチアに会計を任せてから、すっかりルチアに財布を預ける事が定着してしまったが、これは見直すべきかもしれない。

 

 あちらの世界では、会計の多くはミレイユが行っていたので、それに直せればいいとは思う。

 しかし、とアヴェリンへそうと分からないよう視線を向ける。

 

 現状のようにミレイユが上に君臨して命令を下すような体制を好ましく思っている彼女からすれば、ミレイユが会計を進んで行うのは拒否されるかもしれない。

 そんな事をツラツラと考えていると、ルチアが店から出てきた。

 

「お待たせしました」

「いいや。じゃあ、行こうか」

 

 ミレイユが道の先を示して歩き出す。

 いつもの定位置、右斜め後ろにアヴェリンが着き、その隣にルチアが並ぶ。そしてその後ろにユミルとアキラが続いた。

 

 そうして歩き始めてすぐ、そういえば、とルチアがミレイユに声を掛けた。

 

「相手側から接触があれば、とか言ってたじゃないですか。あれってどこまで本気だったんですか?」

「どこまで? どういう意味だ?」

「つまり、話し合いをして対等な条件を引き出すつもりだったのか、それとも武威にものを言わせた交渉をするつもりだったのか、って事です」

 

 アキラが引き攣った笑い声を出した。冗談を言っただけ、自分は何も知らないという声だ。実際、神の御膝下でするような話ではない。

 

「相手の出方次第だが、対等というのは有り得ない」

「あら、そうなんですね。波風立てたくないっていうのは、お互いの見識だと思ってましたけど」

「それは確かだが、今回オミカゲはカードを一枚切ってきた。……実際には二枚かな。見つかる前提で伏せ札を置いて、見つからなくてもそれでいい、という思惑で用意していた」

「あぁ……、八房さんと刀ですか」

 

 ミレイユは頷く。

 実は他にも用意していたものがあったのだろうと思う。見つかる前提で用意していた伏せ札が、本当に一枚だけと考えるのも愚かだろう。

 しかしそもそも見つからなくてもいいという考えだから、機会があれは――あるいは作って見せる用意もあるかもしれない。

 

「ちゃんと八房様にも様付けして下さいよ……」

「あら、ごめんなさい」

 

 思わず出たアキラの苦言にも、ルチアは殊勝な態度で小さく頭を下げた。

 相手がどういうものであるにしろ、信仰に対して真摯に向き合う人を貶すような振る舞いは正しい行いとは言えない。

 

「まぁ、それはともかく、これで相手の事がだいぶ知れた」

「……知れましたかね?」

 

 この言葉はミレイユを除く全員の総意だろう。

 何を知っているのか、何を知る事が出来たのか、それを知りたいと思っているに違いないが、証拠もなしに言い出せば頭の可笑しい人だと思われるだろう。

 特にアキラからの強い反発は大いに予想できた。

 

 それでという訳でもなかったが、ミレイユはルチアへ声を掛ける。

 

「オミカゲが真実の意味で神であるかどうか、お前はどう思う」

「そうですね……分からないというのが本音ですが、少なくとも私達の知る神とは違うのかな、と」

「うん……」

 

 ミレイユは続きを促すように手を振った。

 

「世界が違えば神も違うと言えばそれまでですし、本来マナのない世界にマナの生成地を作っている辺り、神らしい事をしようとはしてますが……」

「でも、違うとも考えてるワケ?」

 

 ユミルが口を挟んで、ルチアは頷きと共に顔を向けた。

 

「それは、まぁ……。やってる事を見れば熱心に信仰を集めているように見えるんですけど、でもそれなら余りに神威が希薄なんですよね」

「あ、それアタシも思った」

 

 ユミルが人差し指を向け、隣のアキラは慌てたように話に混ざる。

 

「それ、どういう意味ですか。オミカゲ様の体調が悪いとか、そういう……!」

「馬鹿ね。神の不調なんてあったらアンタ……いや、そうよね、有り得るのよね」

 

 鼻で笑い飛ばそうとしたユミルだったが、自分で言った言葉に何か思いついた事があるようだった。腕を組んでは片方を顎下まで持ってきて、返した手の甲に乗せて考え込む。

 

「信仰を自分の神威に変えてないのかしら。本来有り得ないけど、そもそもこの世にマナはないんだから……」

「何が分かったんです?」

「ちょっと黙って。……そうよ、電線を伝う魔力も、変換されるマナがないと不可能じゃないの。それをもし全土に渡って使っているなら……」

 

 ルチアはその推論に同意した。

 

「そうです、使っているのは病気や怪我の治癒も同様でしょうから、決して電線に回すものだけじゃないでしょう。あるいは、マナの循環を擬似的に行っている……?」

「信仰という願いの力は、神を強め、神威を高める。神はその為に信仰を集めるものでしょ? それをせずに、集めた信仰を世に還元している、のかしらね……?」

「でも何のために? どんな利益があるんでしょう? 得もなしにやりませんよね、そんなこと」

 

 ルチアが疑問をそのまま声に出して、ミレイユの方へ伺うように顔を戻した。

 しかしミレイユは、おそらく正解を掴んでいながら返事をしない。ただ肩を竦めるに留めた。

 そこに我慢できなくなったアキラが声を被せる。

 

「じゃあ、オミカゲ様は私利私欲で信仰を集めている訳じゃないんですね?」

「仮に毎日あれ程の信仰を集めているなら、あの程度の神威しかないのは不自然です。千年ぐらい前からいる神なんでしょう? 今の態勢を整えるのに何年掛かったかしらないけど、仮に百年前と仮定しても低すぎます」

「ある程度、使えば減るようなものだから、単純に時間で考えるのも危険だけどね。だけど、それを差し引いても低すぎるのは同意するわ」

 

 じゃあ、とアキラの顔が晴れやかに変わる。

 

「民を思っての行いと思っていいんですか? 捧げられた信仰を世の病気や怪我を治す為に、巡り巡って使われていると」

 

 アキラが顔を輝かせ安堵した仕草、ミレイユの横顔を覗き込む。

 

「ミレイユ様はこれを知っていたんですか? だから信じていろと言ってくれたんですね? だったらそうと言ってくれたら良かったのに……!」

「そのとおりだと、お前を安心させてやれたら良かったんだが。そうとだけも言えない」

 

 え、とアキラの顔が曇った。

 

「巡り巡って信仰の力を使い、癒やしているのは信仰を得る為だ。つまり撒き餌だ。本来の使い道は電線に通す魔力の方だろう。そして、それの利用方法は……」

「結界……」

「うん。ここで最初の問題に返ってくる。果たして結界の使い道は、魔物を封じる為か、それとも蠱毒の為か」

「……どっちなんです」

「そこまで私が知るか」

 

 アキラが情けない顔をして、情けない声を喉の奥から漏らした。

 ミレイユは顔を横に向けて笑う。

 

「結局、色々考えたところで最初に立ち返っただけに過ぎなかった。だからお前も、今のところは最初のままの気持ちでいろ。……仮に後悔するにしろ、そう悪い事にはならないんじゃないのか」

「一体、何を知ってるんです? 何が分かったんですか?」

「何一つ証拠を見せられないから、言ったところで信憑性がない。教えた所で何故と訊かれても答えられない、私が聞きたいくらいだ。だがこれは、私だから、私でなければ分からない類いの問題だ。……気を持たせる事を言ってすまないが、今はこれしか言えない」

 

 アキラの表情は明らかに不満を見せていたが、それをアヴェリンが側頭部を殴る事で正された。

 

「何を不貞腐れた顔をしておるか。お前には何一つ知る権利がないと言われた訳ではないし、本来ならそう言われて当然だと理解しろ。証拠がなくて無理というなら、見つかれば開示してくれるという事だ。感謝して頭を下げるところだぞ、ここは」

 

 アキラは愕然とした表情でミレイユを見つめる。ミレイユは再びちらりと横顔を見せて、小さく頷いた。

 

「すみません、また僕は馬鹿な事を言って……!」

「私の言い方も悪かった。どうも素直に物を言うのが苦手でな」

「ミレイ様が謝る事ではありません。汲み取って話を聞けない、こいつが悪いのです」

 

 アヴェリンが断固として言って、アキラへ威嚇するよう眉間に皺を寄せた。

 アキラは恐縮しきり、それで一歩下がって下を向く。そのやり取りに小さく笑ってミレイユもまた視線を前に戻した。

 

 さて、と明るい声を出してルチアがポンと手を叩く。

 重苦しかった空気を切り替えたかったので、これには正直助かった。

 

 ミレイユはルチアの方に顔を向けて、どうした、と聞いてみる。

 ルチアは明るい表情を崩さぬまま、笑みを浮かべて問いかけてきた。

 

「ところで、後を尾行()いて来てる人達、どうするんですか?」

「予定が出来たって言ってたの、アレのコトなんでしょ?」

 

 ユミルも理解の色を示し頭を向ける仕草をしたのを見て、アキラがギョッとした様子で顔を上げる。

 

「いま僕たち、誰かに追われてるんですか……!?」

「そのぐらいの事、気配で分かれ。お前ももう、素人じゃないだろうが」

 

 アヴェリンから鋭い叱責を向けられ、アキラは眉を八の字に落とす。抗議めいた声を出しながら、肩を小さく窄めた。

 

「でも、そういう技術は教えてもらってないじゃないですか……」

「敵意ぐらい敏感に察知できずにどうする。分からん方が疑問だ」

 

 アヴェリンの理屈は強者の理屈で、それではアキラに伝わるまい。

 とはいえ、今回の相手は明らかに敵意を見せつつも、怯えも滲ませるという不自然さだ。だから、その程度の違和感には気づいて欲しいとも思う。

 

「攻撃が伴うようなら、アキラも少しはマシに察知するだろうさ。……しかも、相手は素人だ。その程度、本来なら相手にしてやる必要すらないが……」

「そうよね」ユミルが首肯して腕を組む。「つまり神宮からの関係者というワケでもないんでしょ?」

「そう思う。神宮関係なら、あの程度の小物を使う必要はないし、逆にそうでないなら敵意を持って尾行される理由が見つからない」

「あの騒動で私達を見た野次馬という線も、それで消える訳ですね」

 

 ルチアが理解を示して頷いて、それでアキラは尚のこと落ち着かない様子で左右を見渡した。

 

「だったら、その……逃げるのが一番なんじゃないかと。一度騒動起こした訳ですし、そのすぐ傍でまた……というのもどうかと思いますし」

「お前は何故そうも弱腰なのだ……」

 

 アヴェリンが呆れを滲ませた声音で言えば、アキラは反発するように声を上げた。

 

「ここが神様のお膝元だからですよ……! そんな場所で暴力沙汰なんて、どうにかしてます」

「なにも暴力行為を働くとは言ってないだろう」

「――あ、そうなんですか?」

 

 明らかにホッとした様子を見せたアキラに、ミレイユが安心させるように声を掛けた。

 

「相手が何もしないなら、こちらから何かする事はない……多分」

「多分? いま多分って言いました?」

「次の路地を曲るぞ。中道に入って、来た奴を締め上げる」

「何でです? 話を聞くだけなんですよね? 締め上げる必要あります?」

 

 アキラの必死の説得は誰の耳にも届かなかった。

 ミレイユの指示で言うとおり路地を曲がり、そして来た者たちを正面から見据えた。

 



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対立 その5

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 路地内は民家の連なる道だった。車が二台、ギリギリで通れるだけの幅しかないが、建物の高さも二階建て、暗い雰囲気はない。視界を遮るようなものもないので、入る者も出る者も良く見える。

 まだ陽も高く、影も路地の半分程しか覆っていない。鳥の鳴き声もなく、車の走行音も遠く、不気味なほどに静かに思えた。

 

 そこへ、男達が足音を忍ばせ――実際はそのつもりで足音を立てながら路地内に入って来て、そして待ち構えるミレイユ達に動揺して動きを止めた。

 そこからもまた素人臭さが伺える。

 

 最も先頭にいるのは柄シャツを着た痩せ型の男で、怯えた様子を見せつつも歩幅を落として近づいてくる。

 男達の数は五人、履いてる物はスラックスのように見えるが、その上に着てるシャツは誰も色が違う。大抵は単色で、より派手な色を使うには地位が必要とでも言っているかのようだった。

 

 お互いの距離が五メートルまで近づいたところで、男達は足を止めた。後ろに控えている男達ほど血気盛んのように見受けられるが、それとは反対に柄シャツの男の顔色は青かった。

 男が口を開く前に、ミレイユが先制して口を開く。

 

「……それで? 私達に何の御用かな。サインが欲しいなら色紙を出せ。だが握手はなしだ」

「いや、そうじゃねぇ……」

 

 汗をコメカミから垂らして、呻くように言った男に、ユミルは呆れた声で見下した。

 

「ユーモアのない男ね」

「こっちに余裕もないんでね……。あんたらに話がある」

「そうでしょうとも。じゃなきゃ、今頃アタシが全員にサインしてるところよ」

 

 小馬鹿にして肩を竦めたユミルに、アヴェリンが顔だけ向けて叱責した。

 

「いいから黙ってろ。手早く済ませたいだろう」

「ま、そうね」

 

 素直に頷いて、ユミルは敢えて一歩下がって見せた。ここからは口出ししない、という意思表示だろう。それを横目で窺いながら、ミレイユは帽子を下げたまま、顎をしゃくって続きを促した。

 

「病院送りにされた男の話だ」

「ああ、また、その手の話か……。お前も、お前らも、その意趣返しに来たという話か? だったら少しばかり人数が足りないんじゃないのか」

 

 十倍揃えたところでミレイユ達を止める事はできないだろうが、やる気だけは伝わる。しかし男の怯えた表情は、最初から挑むことを無謀と捉えているようにも見えた。

 ならば、暴力的手段での報復が狙いではないのか――。

 

「ああ、下手にあんたらに手を出しちゃマズいのは分かってる。神宮相手に喧嘩売る馬鹿はいねぇ。だが、あんたらが病院に送ったのはウチのボスの息子だ。分かるだろ? 泣き寝入り出来ねぇのよ、こっちも」

「神宮云々はよく分からんが、なるほど。あの調子に乗ってた馬鹿は、ヤクザの子か」

「ああ……まぁ、そうだよ。だから、こっちもやる事やらなきゃ面子が立たねぇ」

 

 ユミルが鼻で笑い何かを言おうとして、アヴェリンが鋭く視線を向ける。それで結局何も言わず、咳を一つ零した。

 

「だから着いて来て、詫びの一つもさせようってな。治療費出せだの慰謝料よこせだの、そうやって大金要求するのが普通なんだぜ? ヤクザ怒らせたら、そんなモンじゃ済まねぇって分かるだろ? 素直に着いてきてくんねぇかな」

「なるほど……」

 

 ミレイユは相手に分かりやすいよう、大きく二度頷いた。太もも辺りを指で叩いていた手を、胸の下まで持ち上げて腕を組む。

 考える素振りを見せつつ、大きく息を吐いた。

 

「下らない。素直に泣き寝入りしてれば良いものを……」

「だから、そんなん出来ねぇって――」

「いい加減、煩わしいぞ……!」

 

 男が更に言い募ろうとして、ミレイユが苛立ちを声に乗せた瞬間の事だった。

 アヴェリンが弾かれたように移動して、柄シャツの男を殴り飛ばす。ボールのように横へ飛んで行く様を、他の男達が呆然と見ていた。

 

 そして、それが全ての男達の命運を分けた。

 殆ど一瞬の出来事で、たった腕の一振りとしか見えない動きで男達が薙ぎ倒されてしまう。全員が昏倒して、それをアヴェリンが詰まらなそうに鼻で息を飛ばした。

 

「アヴェリンにリードを買ってやるべきですよね」

 

 最初から静かに見守っていたルチアがボソリと言って、ユミルも笑う。

 

「ホントにね。なんでそこで殴りに行くのよ」

「ミレイ様をお心を煩わせたのだぞ、必要な事だろうが」

「いや、でも何もしないって話だったじゃないですか……!」

 

 アキラが大袈裟に手を広げ、動揺も露わにアヴェリンとミレイユを交互に見る。

 しかしアヴェリンの態度は変わらない。ミレイユの傍に戻りながら、吐き捨てるように言った。

 

「このような俗物どもに従ってやる必要がどこにある。ミレイ様のお怒りも、最もというものだ」

「でも……ヤクザなんですよ!? 手を出しちゃいけない相手ですよ! 絶対面倒な事になります! 一度やったのにまだ懲りないんですか!」

「確かにアイツらは物の道理よりも、己の面子を通す事を優先する。面倒になったのは、確かに馬鹿息子を殴り倒したせいだろうが……」

 

 アキラは何度も首を上下させて頷いている。どうしたらいいのかと、軽いパニック症状を引き起こしているようだ。しかし、ヤクザの意味を知らないユミルは、そんなアキラの様子を不思議に見ながら首を傾げた。

 

「大体、そのヤクザって何なの? こいつら殴り倒したら、一体なにが拙いのよ?」

「そうだな……」ミレイユは考える仕草を見せてから、顔を向ける。「同一じゃないし、例えとして適切でもないが山賊団のようなものだ。暴力をちらつかせて、弱いやつから金品を巻き上げるような……」

「ああ、なんだ……」

「じゃあ、話は簡単ですね」

 

 話を聞いたユミル達は明らかに安堵した仕草を見せた。アヴェリンは安堵以外にも落胆した仕草を見せたが、しかしそれを見たアキラは何に対して安堵しているのか分からず困惑している。

 

「あの、なんで皆さん、そんな……じゃあ問題なし、って顔してるんですか? 山賊みたいな奴らだったとして、何か上手くやる方法とか知ってるんですか?」

「……ん? いや、山賊と同じようなものなら、対処もよく心得ているというだけだ。奴らは確かに面倒だし、自分達より強い相手か分からず襲ってくる馬鹿だ。しかし、全員始末すれば解決する」

「始末……? 始末ってどういう意味です? 僕が知ってる始末とは違う意味だといいんですけど」

 

 アキラは話の端向きが変わってきた事を敏感に察知して、アヴェリンとミレイユを見比べている。アヴェリンはそれに事もなげに答えた。

 

「全て首を落とすという意味だ。奴らは金を溜め込んでいる事も多いからな、時にそれが一財産となる事も――」

「いやいやいや、ちょっと待って下さいよ! それマズいです、絶対マズいやつです、それは!」

「えぇ? だって、そっちの方が手っ取り早いでしょ? 逃したところで別の場所で同じ事するだけだし。心を入れ替えて、なんて期待するだけ無駄な人種よ」

「それはそうかもしれませんけど、でも駄目なんです! そういう事しちゃいけないんですよ! ここは日本で、法治国家なんですから、仮に死刑に値しても、それを僕らが勝手にやっていい理由にはならないんです」

 

 アキラの熱弁に気圧された訳ではないだろうが、ユミルは頷くだけは頷いた。アキラの主張がどうであれ、ミレイユがどう判断するかに掛かっている。それを良く知る面々は、視線をミレイユに集中させた。

 全員の視線を受け取って、戻ってきたアヴェリンと場所を交代する。全員の前に立って視線を合わせ、腕を組んだまま簡潔に告げた。

 

「方針を伝える。これから、こいつらの事務所に向かう」

 

 ミレイユが男達を親指で示せば、アキラが頭を抱え、それ以外が首肯を返した。

 

「だが、殺しも強奪も無しだ。散々に暴れて面子を潰せ。誰に手を出したか、続ければどうなるか、馬鹿どもにしっかりと教育してやれ」

「マジか……」

 

 アキラは頭を抱えたまま、唸るように声を出した。

 アヴェリンは意欲的ではあるものの、強者と出会えぬと悟って不満顔を見せる。

 

「では、これからすぐに?」

「ああ、そのつもりだ。――ユミル、あの先頭にいた柄シャツから情報を聞き出せ。事務所の場所、構成人数、他に拠点はあるのか、詫びをさせるというのが本気だったかどうかまで、全て聞き出せ」

「了解よ」

 

 気安く頷くのを見て、次にルチアへ視線を向けた。

 

「少しわざとらしく、大袈裟に動く。後を追って来る者がいるか、いたとしてどこまで接近するか、接触する意図があるかどうか、警戒を頼む」

「ああ、単なる憂さ晴らしじゃないんですね。というより、次いでだから利用して相手の出方を伺おうって事ですか」

 

 頷いて見せると、ルチアは多いに納得した表情でまず簡単な探査魔術を起動した。

 それを見ながら次にアキラとアヴェリンを交互に見る。

 

「情報を抜き出す間に、あれらを片付けておけ。道の端に寄せる程度でいい、通行する車の邪魔にならないようにな」

「了解です……」

「ハッ! むしろ言われる前にしておくべき事でした、申し訳ありません!」

 

 アヴェリンは腰を曲げて丁寧に謝罪したが、ミレイユは気にするな、と左右に手を振る。

 ユミルが柄シャツの方に向かい、アヴェリン達が残りの男たちへ向かって歩く。

 それを見ながら腕組を問いて、両手を腰に当てる。天を仰いでから暫し、大きく息を吸ってから溜め息を吐いた。

 



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対立 その6

 男達は生霧会、と呼ばれる組員であると分かった。

 ユミルが催眠で聞き出した情報によると、彼らの目的が詫びをさせたいだけ、というのは間違いないようだった。一度面子を潰されれば、もっと容赦ない事を仕掛けてくるのが暴力団だと思っていただけに、これには正直拍子抜けした。

 

 だがこれは、面子の問題があるにしろ、先に手を出して返り討ちにあったという事実があっての、穏当に済ませる方に舵を切ったという一面がある。

 

「けど、どうもそれだけじゃないのよね……」

「どういう事だ」

 

 ミレイユが聞くと、ユミルの顔は奇妙に歪む。まるで非常に受け入れ難いものを見るような表情だった。

 

「SNS上に動画が上がっているらしくて。……ほら、例のヤツフササマとの一件ね」

「有り得るかもとは思っていたが……。もうアップされていて、しかもこんなヤクザが見つける程に広まっていると?」

「広まり具合については何とも……。ただ、アタシたちは神宮関係の、更に言うと神使って奴だと思われてるみたいね」

「面倒な……」

 

 それを聞いて、ミレイユもまたユミルと似たような表情で顔を歪めた。

 今にも舌打ちしたくなる気持ちを抑えて溜め息を吐く。

 

「ひどい勘違いだ。……今すぐネット上から消し去ってやりたいが、まぁ無理だろう」

「そうよねぇ……」

「だが、そういう事なら利用させてもらうか」

 

 ミレイユが疲れを感じさせる声音で言うと、ユミルは面白そうに眉を上げる。

 

「何か騒ぎを起こすとか言ってたけど、それに一役買ってもらうってワケ?」

「うん、元よりヤクザなど眼中にない。私が知りたいのは、私達を今も監視しているであろう奴らの動きだ。だから、相手の反応次第で分かる事もあるだろう」

「ふぅん? ま、いいわ。退屈しなさそうだし」

 

 ユミルは訝しむ様子を見せたものの、すぐさま顔に笑みを貼り付ける。そして、今も焦点の合わない目で、呆然と突き立つ柄シャツに顔を向けた。

 

「……で、コイツどうする?」

「ここまで生霧会に行くには距離もそこそこあるだろう。運転させて案内させよう」

「命じればある程度はやってくれる筈だけど、あんまり精密な動きとか出来ないわよ」

「ま、そこは何かあれば私がフォローする」

 

 ならいいけど、とユミルは早速、柄シャツの顎を掴んでその眼を覗き込む。すると覚束ない足取りで路地から出ていく。

 恐らく自動車のある場所まで移動するつもりだろう。待っていて問題なく戻ってくるか不安なので、その場所まで着いて行く事にした。

 

 そこにアキラが横から声を掛けてくる。

 

「端にどけた男たちはどうします?」

「放っておけ」

「いいんですかね? 日干しになっちゃいますけど」

「別にいいだろう、それぐらい。死にはしない」

「いや、でもやっぱり……!」

 

 言い差して、アキラは直射日光を受けている男達を日陰のある方に移し始めた。

 どこまで人が良いんだと思うが、咎める事も止める事もしなかった。熱中症になるような気温や日差しの強さではないとはいえ、何かとその辺を刷り込まれているアキラからすれば見逃せない事らしい。

 

 実際、手間はそれ程でもなかった。アキラも内向魔術を順調に会得していると見え、明らかに持ち運べないサイズの男も軽々と肩に乗せて移動させている。

 その成果が垣間見えただけでも、やらせる意味はあったかもしれない。

 

 ミレイユはそれを見終える前に、柄シャツと十分な距離を離して着いて行き、その後をアヴェリン達が着いてくる。

 アキラは慌てた様子で男達を移動させ、急いでその背を置いかけていった。

 

 

 

 一路危なっかしい動きもあったものの、車は一つの雑居ビルの前でブレーキを踏んだ。それからうんともすんとも言わなくなったので、恐らくここが生霧会の拠点としているビルなのだろう。

 

 柄シャツを適当に昏倒させ、車から引きずり下ろして雑に持ち運ばせる。

 アヴェリンが片手で首を掴んで持っているが、あれは首が締まったりしていないか少し不安に思う。踵がアスファルトの上を引き摺っていて、階段を昇る度に鈍い音を立てる。

 靴はとうに両方とも脱げて、靴下が剥き出しのままだらし無く足が垂れていた。

 

 一階や二階はヤクザと関わり合いのない会社なのかどうか、ミレイユには分からない。ビルまるごと所有しているという話は聞いていないが、何かしら持ちつ持たれつの関係で経営している可能性はある。

 

 五階まで辿り着くと、そこには金塗りで五代目生霧会の名前が大きく刻まれたプレートが掲げられていた。ここまで堂々と掲げて良いものなのかどうか、ミレイユは鼻息を荒く飛ばしながらユミルを見る。

 

「それで、ここに詰めている人数は、そう多くないと思って良いんだな?」

「そうらしいわね。殆ど全員アタシたちを捜索させるのに駆り出しちゃったみたい。で、今は若頭だっていう生路市蔵が待ってる筈で、他に誰かいるにしても三名は越えないみたいね」

「……なんだ、つまらん」

 

 アヴェリンが明らかに落胆した声を出したが、アキラはむしろホッと息を吐いていた。

 そして苦い顔をアヴェリンに向ける。

 

「数が多くいたとしても、師匠じゃどうせ殺しちゃうでしょ……」

「手足の二、三本折ってもいいのなら、無力化は難しい事ではない。……まったく、せっかくミレイ様のお役に立てる機会だというのに」

 

 理不尽な怒りを、扉の奥の何者かに向けた。

 しかし、向けられた方も堪るまい。全く一切の抵抗虚しく蹂躙できる者が、暴れたいなどと言っているのだ。

 

 ミレイユはアヴェリンへ、顎をしゃくって扉の前に立つように指示する。

 他の者たちも移動しやすいように場所を譲ってやり、そして鍵のかかった扉を力任せに開く。ドアノブがあっさりと壊れてしまったので、扉の隙間に指を差し込もうとして、指先に力を込めた。そのままでは当然、隙間にいれるなど無理なので、鉄製の扉を指の形に変形させながら捩じ込んでいく。

 

 ユミルは隣りにいるアキラの耳に口を寄せ、囁くように聞いた。

 

「アンタももう、あれ出来るの?」

「無理に決まってるじゃないですか……」

 

 そんな事聞いてる間に、アヴェリンは扉そのものを取り外す勢いで扉を開いた。鍵の機構はすっかり歪んで外れてしまっている。

 中には構成員が二人いた。突然壊れた扉に唖然とし、そしてアヴェリンが突き出した柄シャツ男を見て更に唖然とした。

 

 明らかに白目を向いて力なく口を開けた男が、地面にギリギリ立てない高さで吊り上げられているのだ。だが、その事を男達が理解する事はなかった。

 まるで小さなボールを投げるような気軽さで、アヴェリンが男を投げ飛ばしたからだった。

 

 そしてそれは物理的に有り得ない速度で二人を巻き込んで、立ち上がりかけていた男達を薙ぎ倒す。男一人分の重量は、起きだそうとするには相当邪魔だ。

 悪戦苦闘している間にアヴェリンが近づき、二人を雑に蹴って昏倒させてしまった。

 

 その間にミレイユは男達を無視して奥にある扉へ近づき、そして蹴り飛ばしたりする事なく普通に開ける。

 そこでは音と衝撃に驚いた一人の男が、上等なソファーから立ち上がろうとしている所だった。

 がっしりとした体格をした、頬に刀傷を持つ男で、それが驚愕とも憤怒とも思えぬ表情をさせながら、ミレイユ達を見つめている。

 

 ミレイユはそのまま椅子の一つ、もっとも男から離れた場所に座る。

 距離を置きたい訳ではなく、単にそこが男と対面できる場所だったから選んだに過ぎない。ミレイユが座ると、その左後ろにユミルが立ち、その逆側にルチアが立つ。

 アキラは顔を蒼くさせたまま、ミレイユの後ろに小さくなって立った。

 

 ミレイユは足を組んで、両手の指を絡ませたものを膝の上に置いた。帽子は目深に被り、男から顔は伺えない。しかし鼻から下は見えている事だろう。不機嫌に口元を絞った、艷やかに輝く唇を。

 

 男は硬直したまま動かなかったが、アヴェリンが入ってルチアと場所を交替した辺りで観念したようだ。力を抜いて、どっとソファーに倒れ込む。

 ミレイユはヤニ臭い部屋に鼻の皺を寄せ、そして男はタバコに火を着けた。

 

「それで、お前ら――」

「あらあら、駄目じゃない」

 

 ユミルが指先を向けたのと同時、その先端から紫電が奔る。

 目にも留まらぬ速さで男の指先を撃ち抜くと、タバコが消し炭になって高級そうな机の上に落ちた。

 

 男は苦痛に顔を歪めながら、撃ち抜かれた手を片手で覆っている。痛みはそこそこあるだろうが、目標はタバコだった。強めの静電気よりは痛いぐらいで済んでいるだろう。

 男は額から脂汗を垂らしながら、戦慄く口を開く。

 

「お前ら、何の――」

「お馬鹿」

 

 ユミルから鋭い叱責が飛んで、今度は男の手の甲を紫電が撃ち抜く。

 小さく悲鳴を上げて、手の甲を庇うように抑えた。

 

「――ああッ、クソ! 何しやがった!」

 

 痛みを堪えて顔面を赤くさせ、額には血管が浮いている。目は血走って、明らかな殺意を持ってこちらを睨んでいた。

 

「――どちらが格上かも分からんのか。上の立場の者が話すまで、目下の者は黙っているものだ」

 

 そこへアヴェリンが、明らかに見下した声音と態度で男を見る。

 恐らくは多くの修羅場を潜ってきたであろう男が、その一睨みで大人しくなる。多くの鉄火場を越えて来たからこそ、アヴェリンの強大さが分かったのかもしれない。

 

 そしていざミレイユが何事かを話そうとした時に、遠慮がちにルチアが口を挟んできた。

 

「周囲二キロ、取り囲むように複数の者が接近して来ています。このまま包囲するつもりかと」

「ああ、ありがとう、ルチア」

 

 ミレイユは頷いて軽く、手を振ることで労う。

 目前の男はルチアの言葉に一縷の希望を見出したようだが、しかしこれは男の味方ではない。神宮から派遣されてきた者たちだとルチアには分かっているから、こうしてこの場で報告してきたのだ。

 

 まさか組の味方をする訳でもあるまいし、ここまで接近してくるのは予想外だった。いつものように、着かず離れずの距離を維持して様子を見る程度だと思ったのだが――。

 それとも、この組に味方する理由でもあるのだろうか。

 

 ミレイユは改めて男に目を向ける。

 サングラス越しに、その両目を射抜くように睨みつけた。

 



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対立 その7

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「まず最初に、一つ聞いておこうか。お前、名前は?」

生路(いくじ)市蔵だ……」

 

 抵抗らしいものも見せず、男は素直に名を名乗った。この状況で沈黙を貫くつもりはないらしい。とはいえ、それは調べればすぐ分かる事でもあるので、名前ぐらいなら問題ないという考えかもしれなかった。

 

「では生路、私達が何故ここにいるか分かるか?」

「……俺が連れてくるよう命じた」

「そうだな。そして四人を引き連れて、一人の男が恫喝と共に言う訳だ。詫びの一つで許してやるから来い、とな」

 

 言いながらも、ミレイユの声はまた一段と低くなる。不機嫌、不愉快、そう言っているのが伝わって、市蔵は眉に皺を寄せる。

 

「お前たちは本当に道理に合わぬ事を言う。――メンツ」ミレイユは呆れたように息を吐く。「メンツか……。確かに大事だが、女に振られた事を理由にメンツを振りかざすとはな」

「だが、病院送りの怪我はやり過ぎだ」

 

 ああ、とミレイユは面白そうに声を上げた。

 

「なるほど? 袖にされたら十人を超える数で取り囲み、使った後は泡に沈めると脅すような事は、問題にすらならないと?」

「ぐぅ……!?」

 

 生路は呻いて顔を顰めた。この反応は痛い所を突かれたというより、そもそもそんな事を知らなかったという反応だ。いくら情けない理由であろうとも、怪我をさせたなら相応の詫びを、と考えていたのだろうが、今では悔やむような表情をしている。

 

「なぁ、そんな奴には教育が必要だと思わないか? やり過ぎだと思ったか? たかが両手両足、何れか折るだけで済ませてやったんだ。お前は温情を感じないか?」

「だが……、本当にお前たちだけであれをやったのか? 男を十人、数の不利だって……」

「常識的に有り得ない、と言いたいのか? 気になるのはそんな事か。この状況で、まだそんな事言っているのか?」

 

 市蔵はドアの奥を睨みつけた。震える身体は憤りか、あるいは恐怖から来るものか。

 角度からして奥の部屋の様子は見えないだろうに、それでも見つめた視線は外さぬまま、市蔵は唸るように聞いてきた。

 

「他の奴らはどうした……」

「殺してはいない。私達はお前らのような無法者とは違う。幾らか痛い目に――とても痛い目に遭ってもらっただけだ」

「何者なんだ……?」

「おや。ようやく、その質問が来た」

 

 ミレイユは愉快なものを耳にしたように、口の端を吊り上げる。だが、それと同時に横を向き、不愉快に鼻を鳴らした。

 

「……お前たちのメンツを潰したい者だ。いい加減、お前たちの様な者どもに付き合っていられない、というのが本音でな。私の生活に、お前たちのような者をいれたくない」

「何言ってやがる。お前、俺達のこと分かってねぇだろ。手を出したらどうなるか、本当に理解してやってるんだろうな?」

 

 お前、という市蔵の台詞にアヴェリンが動こうとして、その前に手で制す。

 男の言い方は恫喝というより説得のような声音だった。痺れていた筈の右手を何度か開け閉めして、その具合を確かめている。

 

「ああ、その手の台詞は何度も聞いた。私は分かっているし、そして分かっていないのはお前の方だ」

「何だ、お前らまさか、マフィアだとでも言うのか?」

 

 市蔵は左右に並ぶ、明らかに日本人ではない美貌の女性たちを見て、そのような事を言ってきた。ミレイユはその発言を無視して市蔵に目を向ける。

 

「ここが事務所だっていうなら、金品を入れておく金庫くらい用意してあるものじゃないか?」

「何……? 何を言ってる」

「ないのか? 表に出せない金とかコカインとか、何か入れてたりするのが大好きだろう、お前たちは」

「そんな分かりやすいところに置くわけないだろう」

 

 ふぅん、と聞いたわりに興味なさそうな声を出してユミルを見た。

 

「本当かどうか、ちょっと聞き出せ」

「ま、いいけど」

 

 気楽に言って、ユミルは無造作な足取りで机の横を通って、市蔵の前に立つ。目が合うと同時に胸ぐらを掴むと、その顔面を殴りつけた。

 

「ガハッ!」

 

 二発目を殴りつけようと拳を振り上げたところで、ミレイユから待ったを掛けた。

 

「何してるんだ」

「見れば分かるじゃない」

「分かる。……分かるが、意図が読めないと言ってるんだ」

「だってアタシ、顔面殴るの大好きだし」

「初耳の上に、やはり意味が分からないが?」

 

 ユミルは朗らかに笑うものの、ミレイユは痛いものを堪えるように眉間を揉んだ。

 

「だってホラ、自尊心へし折れるし、そうしたら素直に吐くでしょ?」

「それに、腫れ上がっても目立ちませんしね」

 

 ルチアが茶化して言い差すと、まさにそれ、と言いたいように笑顔で人差し指を向けた。

 ミレイユが軽く息を吐いて、改めてユミルを見た。

 

「もっと手早い手段でやれ。今も取り囲もうとしている奴らはいるんだろうが」

 

 ミレイユがルチアに顔を向けると、しっかりと頷きを見せて返事をする。

 

「包囲は少しずつ狭まっています。どこまで近づくつもりかは不明です」

「うん。……そういう訳だから、ユミル」

「はいはい、分かったわよ」

 

 ぞんざいに返事して、ユミルは市蔵の顎を掴んだ。その手を振り解こうと市蔵がユミルの手首を握ったが、まるで万力のように離れない。

 顎を握る圧力が強まって、市蔵は暴れようとしたが、その前にユミルと目が合う。

 抵抗はすぐに収まり、力が抜けて椅子の背もたれに身体を預けた。

 

「……これでいい?」

「ご苦労。それじゃあ金庫か何か、隠し持っているものがないか聞き出せ」

「今日はいつになく働かされるわね」

「もっと働いてもらう予定だが?」

 

 あらまぁ、と呆れた声で笑ってから、ユミルは市蔵に向き直って質問を飛ばした。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 一体いつの間に気を失っていたのか、市蔵は状況が把握できず目を瞬かせた。

 今はいつもの椅子に座って、常なら背にしている窓に身体を向けている。おかしな夢を見た。女の集団だった。連れてこいと指示した筈の女達だった。

 

 それが我が物顔で部屋に入り込み、よく理解できない事を言ってきた。

 男達は前の部屋に詰めていた筈だが、物の倒れる騒音がしてから音沙汰がないというなら、きっと女達が何かしたのだろう。

 

 ……恐ろしい女だった。

 帽子を被り、サングラスをした女、彼女らのボスとして君臨する女からは底知れぬ恐怖を感じた。長い事この稼業をやっていれば、大抵のことには度胸が付く。

 

 だが、それもあの女の前では赤子も同然だった。

 必死に虚勢を張っていたが、それも果たしてどれ程の意味があったのか。

 殴りつけに来た女など、それに比べれば易しいものだった。

 

 そう思って、あまりにその時の感触がリアルだったのを思い出した。

 そっと頬に触れて、腫れ上がっているのが分かる。口の端からは既に乾いた血が張り付いていて、なぞると簡単に剥がれて落ちた。

 

 では、あれは現実だったのだ、と理解して、椅子を反転させる。

 そこには変わらず帽子を被った女がソファに座っていて、足を組んだあの時の体勢のまま、こちらを見据えていた。

 

 身体が跳ね上がり、ガタリと椅子が音を立てた。

 驚いたのは、変わらず女が存在していた事ばかりではなかった。その机の上に、隠し金庫に仕舞われている筈の現金、金の延べ棒、高級時計、各種証券などが置かれている。

 

 金は百万円を一束にしたものが整然と並べて塔を作っている。

 どうやって、いつの間に、焦る気持ちが元より少なかった市蔵の余裕を剥いでいく。

 

 周りにいた他の女達も、市蔵へ目を向けた。

 失敗を悟りつつ、分からないように腕を机の引き出しに手を伸ばす。こういう稼業だから、いつでも反撃する為の用意は出来ている。

 一番下の引き出しには装填済みの拳銃が仕舞ってある。そちらへそろそろと手を動かしながら、市蔵は呻くように問い質した。

 

「お前ら……、それをどっから持ち出した。いや、そもそもどうやって……」

 

 仮に家探しして見つける事が出来たとしても、金庫には鍵がかかっている。暗証番号と鍵の両方がないと開かない仕組みだ。その鍵さえ別の隠し金庫にしまってあり、市蔵の持つ鍵がなければ開けられない。

 そう思っての事だったが、鍵は不自然な軌道を描いて机の上に落ちた。

 

 必要な鍵が二つとも、そこにあった。

 

「ぐぅ……!」

 

 思わず喉の奥で唸りが上げる。

 一体どうやって、どこからこれを――!?

 

 隠し金庫は二つとも、そうと分かる場所には隠していない。そもそも、探して見つけるには苦労する場所に置いてこそ意味がある。探そうと思えば赤外線センサーや金属探知機など、目以外で探し当てる手段が必要だ。

 

 だが同時に疑問に思う。

 探し当てたのなら、持ち出して逃げるのが普通だろう。こちらも血眼になって探す事になるのは間違いないが、だからといって悠長にしている必要もない筈だ。

 

 それもああして並べて置くなんて、意味が分からない。

 まるで見せつけるのが目的のように思えてくる。

 女が言っていた事を思い出す。メンツを潰す、と言っていたのは、まさか――。

 

 そこまで考えて、目の前の女に目を向けた時、盛大な勢いをつけて札束に火が着いた。

 

「バッ! お前ら、何して――!?」

 

 市蔵は椅子から飛び上がって火を消そうと試みる。何か火を消すのに丁度良いものはないかと辺りを見回し、水でもないかと部屋の外に出ようとして、女が立ち塞がった。

 自分を殴りつけた、あの女だった。

 にやにやと締まりのない笑みを浮かべて、体格差が歴然としているというのに物怖じせずに向かってくる。

 

 殴り飛ばそうとして腕を持ち上げ、踏み出そうとした瞬間、自分の方が転ばされていた。重心が乗った足を振り払われたのだ、というのは踝が伝える痛みから察せられた。

 火の勢いを肌で感じながら、周りの女全てに悪態を吐く。

 

「お前ら分かってんのか! こんなところで燃やしたら、俺達まで火達磨にされちまうぞ!」

「分かってないのはアンタよ。ほら、ちゃんと見届けなさいな」

 

 そう言って、女は今も尚燃え盛る札束類を指差す。

 だが言われるまま見ている訳にもいかなかった。市蔵は起き上がって水か何か持ってこようとしたが、それより前に吹き飛ばされて執務机の辺りに転がる。

 

 そうしている間に炎は燃え盛り、不自然なほど飛び火する事なく、全てを燃やし尽くして鎮火した。テーブルや椅子に火の煤痕はあるものの、燃えた痕跡はない。

 そのすぐ傍には先程までいなかった犬のような動物がいる。火を怖がる様子もなく、それどころか机の上に立った部分が燻りを上げていた。

 不思議な現象だと思ったが、そんな事はどうでも良い。

 

 灰になったものを見て、市蔵は呆然とそれを見つめる。

 喘ぐように口を開いた。

 

「お前、何か勘違いしてねぇか。あれは俺の金じゃねぇ……、上に渡す金だ。それが消えたとなりゃ、俺達も終わりだ。だがそれだけじゃねぇ、もっと他に多くの奴らを――!」

 

 そこまで言って、頭に重い衝撃が走った。

 意識を失う直前、視界の端に帽子の女が見えた。その雰囲気からは侮蔑の色が浮かんでいた。



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対立 その8

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「メンツを潰すっていうのは成功したかもしれないけど、でも、どっちにしても更に面倒事が増えそうよ?」

「――殺しますか?」

 

 アヴェリンの提案に、ミレイユは首を横に振った。

 

 やった事を考えれば、まず間違いなく報復は免れないだろう。ヤクザは何も武器を振りかざすだけが、報復の方法だとは思っていない。

 本人に勝てないと分かれば、その周りを攻撃する。怒らせた事を後悔させる事が出来れば、相手は報復が成功したと考える。そして精神的に参った相手に、要求を突きつけるだろう。

 死か、あるいは別の何かか――。

 

 それを止めようと思えば、徹底的に資金を潰すのが有効だ。

 ヤクザも資金がなければ動けず、そして尽く奪われれば何も出来ない。忠誠のみで動ける者は少ない。非常に少ないと言っていい。まず金銭という土台がなければ忠誠は付いてこないものだ。

 

 ミレイユはアヴェリン達を順に見渡し、次の方針を伝えようとしたところ、それより先にルチアが口を開いた。何もない空中に視線を向けているようにしか見えないが、彼女には見えているものがある。

 

「包囲を作っていた者たち、既に一キロ四方まで迫っています。あと、それに先駆けて三名がやって来てますね。……速いです、もうすぐ到着します」

「そうか。ありがとう、ルチア。では、こちらも動かなくては」

 

 それまでジッと成り行きを見守っていたアキラが、ここで初めて口を開いた。手を挙げて、恐る恐る問いかけるように聞いてくる。

 

「……あの、それより、これどうするんですか?」

「男の事か?」

「それもですけど、そうじゃなくて! こんなヤクザに喧嘩売っちゃって! お金だって上納金だって言ってたじゃないですか、じゃあその上のヤクザとか横のヤクザとか敵に回ったという事じゃないですか!」

「どうにかなる」

「そんな適当な……!」

 

 アキラは構わず喚いていたが、それをアヴェリンが横殴りにして黙らせた。重い音がしたものの、すぐさま立ち上がった辺り、そう強くした訳でもないらしい。

 

「ミレイ様が言ったなら、それは万事問題ないという事だ。お前が喚いて何になる」

「でも……、やっぱり不安で……」

「難儀な性格してるのね」

 

 ユミルが肩を竦めて溜め息をついた。

 彼女はゆったりと構えていて、焦りや不安とは全く無縁のように見える。事実、ユミルはそうなのだろう。何かがあっても何とかするし、どうにかなるとミレイユが言ったなら、どうにかなると信じている。

 

 ミレイユは椅子から立ち上がり、男の執務机に近づく。

 その壁面には周辺地図が張ってあり、それぞれの縄張りだとか集金するルートなどが書かれている。それらを指差しながら、ミレイユは机へ腰掛けるように座った。

 そして、地図を見ようと他の面々も近づいてくる。

 

「これから生霧会のボスが取引に動くのは、アレから聞いたとおりだ」

「刀なんて売るにしても、そんなに実入りがいいのかしらね?」

 

 ユミルは小馬鹿にするように息を吐いたが、存外外国には高く売れる物のようだ。

 ただし、わざわざ組織の頭が動くというのは意外な気がした。取引相手との格差のせいかもしれない。

 

 今回たかが息子が病院送りにされただけで、随分大きな騒ぎにしたという実感はあった。だが、その背景には取引を円満に終わらせること、舐められたらタダでは済まさないという覚悟の表明、そういうメンツの問題が絡んで起きた事らしい。

 もしも、その大事な取引がなければ、穏当に済ませ今回のような事態には発展しなかったかもしれない。

 

 これらは全て、催眠中の生路に聞いた事だった。

 

 だからとりあえず、ミレイユはこの取引を滅茶苦茶にしてやろうと決めていた。

 刀と取引して得るものは麻薬だというから、受け渡し現場で刀を奪い、取引自体の成立を防ぐつもりでいる。場合によっては麻薬も燃やしてしまってもいいかもしれない。

 

 ミレイユは地図を指差したまま、上方へと動かし、海が見える地域を見せる。

 現在地から北へ十キロ、遠いとも言えないが、近いとも言えない距離だった。特に移動手段が基本的に徒歩となれば、尚の事だ。

 

「聞いた通り、夜七時、ここの埠頭で取引が行われる。どこかの倉庫でやり取りするらしいな」

「何か、明らかにお約束って感じ……」

 

 アキラが言えば、アヴェリンは首を傾げた。

 

「そうなのか?」

「コソコソと裏で取引するような輩は、大抵埠頭の倉庫を利用するものと決まってます」

「ふぅん?」

 

 ユミルが面白そうにアキラと地図を見比べ、しかし結局何も言わずミレイユの言葉を待った。

 

「ここへ乱入し、取引を不成立にさせる。刀は奪え、メンツを潰せ。麻薬も奪え、海に捨てろ」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 

 アキラが焦った声を上げて、ミレイユの前に立つ。

 

「それってつまり、ヤクザを敵に回した当日に、外国のマフィアか何かも敵に回すって事ですか?」

「そういう事になるだろうな」

「いやいや、絶対マズいですよ!」

 

 アキラは声を張り上げて恐慌状態に陥った。頭を抱えて振り回し、部屋の中を言ったり来たりしている。まるで人生の袋小路に迷ったようだが、安心させる材料も用意してある。

 

「そう難しく考える必要はない。これまでと違い、ここから先は隠蔽させる。姿が見られる心配はない」

「そう……なんですか? でも、この前使った魔術は注意して見れば、見つかってしまうって……」

「では、注意されないように行動しろ」

 

 ミレイユが事も無げに言って、アキラが固まる。言葉そのものというよりは、ミレイユの口から吐いて出た台詞が信じられなかったようだ。

 

「……え? あの、僕も頭数に含まれてるんですか? そのヤクザの取引現場に、突っ込んでいく役に?」

「安心しろ、お前をここに一人残して行くような真似はしない」

「いやいやいやいや!」アキラは必死で頭を横に振る。「置いてって下さい、全っ然、それでいいですから!」

「我儘言うな、いいから着いてこい」

 

 アヴェリンが言って、アキラの頭に拳を落とす。先程とは違う強い衝撃の重音に、アキラは頭を抱えて蹲る。ルチアも痛そうに顔を顰めて、ミレイユに向き直った。

 

「もう来ますよ。ドアの前に立ってます」

「おや、意外と早かったな」

 

 ここまで近付けば、ミレイユにもそれと分かる。気配が希薄に感じるのは本人の技術のみならず、魔術を使った隠蔽も併用されているからのようだ。あちらにもそれなりの手練はいると見て、警戒度を少し上げた。

 

 しばらく待つと、三人の気配が部屋の手前で止まった。アヴェリンはミレイユと敵の視線を切らせない位置に移動し、ユミルは余裕の表情で腕を組んで壁に持たれ、ルチアは杖を取り出して胸に抱いた。

 

 そして机の上で灰になったものにじゃれ付いていた火の精霊フラットロが、気配から逃げるようにミレイユの腕に収まる。

 召喚した時点で防護術で対策はしておいたとはいえ、こうも易々と腕の中に入ってくると少々怖く感じる。本来、その炎の熱は人体など簡単に発火させてしまう。

 

「大人しくしてろ、フラットロ」

「してるよ、いつもしてる」

 

 火の精霊は別に特定の形を持たないが、ミレイユがそうして欲しいという提案で小型の狼のような姿を取っている。白い毛皮で尾の先端が燻るように燃えているが、それ以外は遠目には子犬のように映るだろう。

 最近は鍛冶仕事もせずご無沙汰だったから、どうせならと紙幣を燃やすのに喚び出したのだ。もう少し我儘を言うかと思ったが、何の心境の変化か、今も言ったとおり大人しく腕の中で丸まっている。

 

 それから数秒と待たず、ノックを三回してから、女性が先頭になって入ってくる。

 若い女だった。黒髪を首のあたりの高さで短く切り揃えて、出来る女の雰囲気を見せている。誰もが同じような格好で、胸部に甲冑を付けた足軽のような見た目をしていた。陣傘を被っていたら、間違いなく足軽だと声を上げていただろう。

 

 先頭に立つ女の装備が一際立派で、単に色が違うだけではなく、付与されている魔術も質が良い。

 腰に佩いた刀からもそれが分かり、身に着けているもの全てが魔術秘具だ。

 

 ミレイユは警戒指数を更に一段上げて、彼らを見据える。

 視線を受けた女の口には笑みが浮かんでいるが、それが虚勢であると早々に知れた。

 これが他の者なら分からないだろう僅かな逡巡、それが女からは見て取れた。

 

 ミレイユは何かを口にされる前に、あえて威圧的と聞こえるように誰何した。

 

「――名乗れ」

「き、きさま、結希乃(ゆきの)様になんて口の聞き方だ!」

「いいのよ」

 

 憤ったのは後ろに着いてきていた女性の一人だった。もう一人は男性だが、こちらは声を出す事なく全員の顔を順に見つめている。

 結希乃と呼ばれた女性は、得心したように頷く。

 

「……でも、これで分かった。貴女は間違いなく神宮勢力ではない」

「分かりきった事ではないのか、それは?」

 

 結希乃は頭を振って否定する。髪がサラサラと追従するように流れた。

 

「貴女は八房様に認められた方ですから。万が一を考えざるを得ませんでした。それに、私の顔を見ても名前を知らない」

「ああ、女優の顔には疎くてね」

「お褒めに預かり光栄ですわ」

 

 結希乃はにこりと笑って、胸元から一つの手帳の表面を見せ、それから開いて中の顔写真と名前を見えるように掲げた。

 

「御影本庁の阿由葉(あゆは)結希乃です。今すぐあなた方の身柄を拘束します」

「ほぅ」

「み、みかげ……!?」

 

 軽い驚きと共に笑むのと同時に、アキラは驚愕に目を見開き動揺した。

 その驚きは尋常ではなく、この世の終わりだとでも思っているかのようだった。

 何かと訳知りなアキラの肩を叩き、ミレイユは事情を聞いてみる事にした。

 

「それで、何を知ってるんだ、アキラ。私にそれを教える気はないか?」

「言ってる場合ですか? もうお仕舞です……!」

「だから、何をそんなにお仕舞だと思ってるんだ」

「だって神宮直轄の特殊組織ですよ!」

 

 アキラはやけくそ気味に顔を向け、悲観する表情のまま声をぶつけてくる。

 

「オミカゲ様から直接命を賜って動くこともあるって噂です。つまり、この人達が動くのは神のご意思って事ですよ! オミカゲ様に目を付けられて、そしてやって来たのが御由緒家の阿由葉なんですよ!?」

「ふぅん? でも、アンタの言い分じゃ単なる噂なんでしょ? 神が一々指示を下すものかしらねぇ。……単なる建前じゃない?」

 

 ユミルは胡乱げに三人を見渡し、小馬鹿にしたように言った。

 それが先程も異議を唱えた女性の逆鱗に触れた。

 

「貴様! 一度ならず二度までも! 何たる不敬、何たる侮辱か! 我々がここにいるのは神のご意思、神のご勅命と心得よ!」

 

 アキラは更に顔を青くしたが、ユミルは目を細くするだけで何の痛痒も感じていない。

 

「へぇ? アンタみたいな木っ端が、神から直接言葉を賜ったって?」

「木っ端だと!? 貴様……!」

「いいから答えなさいよ。どうなの、直接対面して言葉を受け取ったの?」

「馬鹿め、そんな事があるものか! 直接対面など恐れ多い! それが出来る者は限られている!」

「……そう、じゃあアンタが受け取ったの? 阿由葉のナンたらさん?」

 

 ユミルは挑発的に目を向けたが、結希乃は固く口を引き絞って答えない。

 

「あら、じゃあアンタも直接言葉を賜ったワケじゃないのね」

「……だが、だったとしたら何が問題だ?」

 

 アヴェリンが聞いてきたので、ユミルは素直に答えた。

 

「よくある話よ。神の御業、神のご意思といって、個人が好き勝手、利己の為に組織を動かすってコトが。直接言葉を聞かないで、何でそれが神のご意思って思ってるのかしらねぇ」

「馬鹿を言うな! 大宮司さまが不正を働き、我々を動かしているとでも言うのか!」

「――千歳(ちとせ)ッ!!」

 

 結希乃から強い叱責が飛んで、千歳と呼ばれた女性は顔を青くし自らの失態を悟った。

 ユミルはにっこりと笑って壁から背を離す。それから慇懃と思える姿勢で礼をした。

 

「そう、大宮司ね……。覚えておくわ、一応ね。それと、あなた方に働いた無礼、謝罪させていただくわね」

 

 そう言ってユミルは顔を上げ、そして今度はいつもの嫌らしい笑みで二人を見つめる。

 ユミルは敢えて怒らせ、挑発し、相手から情報を一つ抜き取って見せたのだ。言葉の端から掴むこともあれば、こうして感情を揺さぶって入手する事もある。

 これが価値ある情報かまだ分からないが、相手から引きずり出した事に意味がある。相手は硬直し今度こそはと口を重くするだろう。

 余計な口出しが多そうな者を一人封殺できた、という意味でもユミルの功績は大きい。

 

 ミレイユが頷いてみせると、ユミルはしてやったりと笑みを作った。

 



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追逃走破 その1

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「申し訳ありません、結希乃様……」

「いや、仕方ない。あのように愚弄されるような台詞を吐かれて、動揺せずにいられない気持ちは分かる」

 

 恥じ入るように俯き下唇を噛む千歳に、結希乃は柔らかく諭すように言った。その間も結希乃は視線をミレイユ達から離さない。

 元よりあった警戒を更に引き上げたように見えた。

 

 それをしかと観察しつつ、視界の端から窓の外を見つめる。

 ビルの屋上、それから建物の影に近づいてくる者たちがいる。どれも同じ服装、似た服装をしているから、目の前の者たちと同一組織である事が分かる。

 それを皮肉げに見つめていると、アキラが食って掛かってきた。

 

「――ミレイユ様、一体なにしたんですか! 御影本庁から御由緒家が派遣されてくるなんて、よっぽどの事ですよ!?」

「さて、とんと心当たりがないが。まさか男を複数殴り倒したぐらいで来る者たちじゃないんだろう? それは警察の管轄だ」

 

 実際ミレイユには本当に心当たりがない。

 あるとすれば、先程言ったように暴行や器物破損などがそれに当たるだろうが、その為に動くのは別の組織だ。

 

 そこまで考えて、はたと思う。

 もしも()()()者を逃亡させることなく拘束しようと思えば、それは確かに警察では不可能だ。魔力を持つ者には、やはり同じく魔力で対向せねばならない。

 そういう意味なら、確かに拘束しようと思えば警察では力不足だった。

 

 ――だが、それだけとも思えない。

 ミレイユが目を細くさせると同時、結希乃達の身体に緊張が奔る。サングラス越しで見えているとは思えないが、気配を察知するのは上手いらしい。

 

「一応聞くが、罪状は?」

「執行妨害ですわ。あなた方の行動は、我々の任務を大きく阻害すると判断されました。よって、事が終わるまで大人しくしていて頂きます」

「大人しくさせるだけなのか、この場で? 逮捕したい訳ではないのか?」

「左様です」

「――そこの男の事は? 部屋の外にも転がっていたろう」

 

 ミレイユが顎をしゃくって市蔵を示すと、結希乃はにっこりと笑って首を振った。

 

「お気になさる必要はありません。こちらの方は逮捕対象です。話が終われば、すぐにでも拘束しますわ」

「なるほど……。だが、こんな男ども逮捕するのに、こんな人数が必要なのか?」

 

 ミレイユが窓の外を見ながら言う。そこに映る人影など既にないが、しかしビルを包囲するよう展開しているのは疑いがなかった。それを指して言ったのだが、結希乃はやんわりと否定した。

 

「あくまで保険として用意したに過ぎません。念には念を、それが(わたくし)のモットーですのよ」

「なるほど、殊勝な心掛けだ」

 

 ミレイユは腕に抱いたフラットロを撫でながら、鼻で笑って頷いた。その言い分を信じていないと態度で示せば、身構えようとする千歳を結希乃が制する。

 そのやりとりを無視して――無視しているように見せてアヴェリンへ顔を向けた時、周囲の音が突然消えた。

 

「……あら」

 

 間の抜けた声はルチアから。

 きょとんと宙空を見つめて、それから小さく笑った。

 

「結界ですね。私達、閉じ込められたみたいですよ」

「ああ、念には念をな。実によく分かる」

「つまりこれで、何をやっても外からは分からないってワケよね?」

 

 ユミルの小馬鹿にした発言に、ミレイユは頷く。

 相手の言い分を信じるならば、こんな結界を用意する必要などない。たかが拳銃を持った程度のヤクザなど、魔力を有する魔術士には敵とならない。

 それを承知で結界を張ったというなら全くの無駄だし、そしてだからこそ先程までの発言が嘘だと分かる。

 

 ミレイユもまた相手に対して警戒度を高め、結希乃に視線を向けたままルチアに言う。

 

「ルチア、解除できるか?」

「無茶言わないで下さいよ。既に試みましたけど、こんな結界の中心地でやれる事は限られます。身体が煙か霞でもないと、突破なんて出来ません」

「――今だけは霞だ。何とかしろ」

 

 無茶苦茶言うよな、とアキラがぼやくのが聞こえた。

 ルチアはむしろミレイユの発言に燃えたようで、身の丈程もある杖を地面について魔力の制御を始める。

 

 それを見ていた結希乃達は顔を青くさせた。

 膨大な奔流とも思える魔力を、膨大な制御力で捻じ伏せ、形を成そうとしている。見ているだけではルチアが何をしているか分からず、何か凄まじい魔術を使おうとしているようにしか思えなかったろう。

 

 二人が武器を引き抜き正眼に構え、残った男性が両手を前に突き出す。そして抑えていた魔力を解放した。

 結希乃が声を張り上げ恫喝してくる。

 

「抵抗しないで頂きたい! この場に留まり、動かないで欲しいだけです! 事が終われば解放します!」

「まぁまぁ、少ない魔力で気勢張っちゃって。それじゃあ全く逆効果でしょうよ」

 

 ユミルは呆れるように睥睨したが、ミレイユは警戒を緩めなかった。

 まさか今ので全力とは思わないが、十の力を持つ相手に一の力を示して威嚇もあるまい。あくまで注意を引き付ける事が目的で、他に狙いがあると思うのが自然だった。

 

 ルチアの制御が完成へ近づくに連れ、結希乃達の焦りも強くなる。切羽詰まった声で男性に向かって誰何した。

 

國貞(くにさだ)! はやく止めろ!」

「無理です! 早すぎます、介入できません!」

 

 國貞と呼ばれた男は額に汗を浮かせて、引き攣った顔で叫び返した。

 無理もない。ルチアの制御力は並大抵の者には付いていけない。発動するより前に制御不能にさせるというのは一種の技能だが、相手との力量差が最低でも倍はないと成立しないとされている。

 それだけの力量差があるなら、そもそも介入するより早く倒せるし、倍以上の差がある相手に挑むくらいなら制御を読んで対抗できる術を発動させた方がマシだ。

 どうにもチグハグな戦略に思えて首を傾げたが、そうしている内にルチアの魔術が完成する。

 

 ルチアはアヴェリンを最初にして、後は順に杖を向けていく。白い光が靄となって全身を包み、一度一際大きく輝いて消えた。

 アキラは自分の身体を上から下まで見回して、何が起こったのかとルチアへ顔を向けていた。

 それに応える為ではないだろうが、ルチアは術の説明を始める。

 

「それの効果がある内は、結界を抜けられる筈です」

「そうなの? 抜けてる途中で身体が半分になったりしない?」

「そうなったら自分でくっつけて下さいよ」

 

 愉快そうに眉を上げて、ユミルは了承の意で肩を竦める。アキラは不安そうにルチアと自分の身体を交互に見つめたが、それよりアヴェリンの向ける視線に怯えて必死に顔を逸した。

 

 結希乃達の表情は焦燥と逡巡が見える。退くべきだ、と思うのと同時、任務の遂行もまた完遂せねばと思っている。

 刀を握り直す音が聞こえたが、踏み込んでくる気配はない。

 

 それを確認しながら、ミレイユはアヴェリンを横目だけで伺う。

 

「お前はアキラと組め。埠頭に向かい、取引を破綻させた上で物品を奪え」

「お任せを。外の者どもはいかが致します」

「殺すな。それ以外は好きにしろ。だが急げよ、七時まであまり余裕がない」

 

 アヴェリンは一礼し、アキラの首根っこを掴んだ。焦った声で身を捩るが、それに全く頓着しない。

 ミレイユは一応、念の為に注意しておく。

 

「地図を見ただけでは迷う事もあるだろう。アキラを上手く使え、コイツなら現在地と目的地を素早く確認できる」

「そんな能力、お前にあったのか」

「いや、多分スマホの地図機能の事を言ってるんだと思います……」

 

 アヴェリンには理解し難い部分だったらしく、僅かに首を傾げたが、ミレイユの言う事と素直に頷いた。

 

「そういう事でしたら。上手く使って見せましょう」

「――ま、待て! 動かないで頂きたい、と言った筈!」

 

 結希乃の声を完全に無視し、今度はユミルに向き直り、市蔵から奪ったスマホを渡す。

 

「お前は単独で動いて問題ない筈だ。スマホの扱いも慣れたものだろう? 二つの組で別に動いて埠頭を目指せ。最終的には合流して、後はさっき言ったとおりだ」

「分かったわ」

 

 ユミルは受け取ったスマホを早速操作しアプリを呼び出す。淀みない手付きを見せながら、困ったような笑みを浮かべた。

 

「やっぱり外で使えると便利なのよねぇ」

「今更言っても仕方ないだろう」

 

 余りにも歯牙に掛けない態度を見せたせいか、結希乃からは喉奥から唸るような声が聞こえた。

 一歩踏み出し、更に二歩目で駆け出そうとして、その足元にナイフを投擲する。出鼻を挫いた形になり、結希乃は思わずつんのめった。

 

 床に刺さったナイフが、その衝撃で振動して乾いた音を立てている。

 その表情には驚愕と畏怖が浮かんでいて、いつの間にナイフを取り出し投げたのか、と如実に物語っていた。

 

 ミレイユは手首のスナップだけで投げた腕を、元に戻して腕を組む。

 アキラも結希乃と似たような表情で見ており、それを鬱陶しく思いながらアヴェリンに頷きを見せる。

 意図を正確に察したアヴェリンは、捕まえていたアキラの首根っこと共に窓際へ向かう。

 

「え、ちょっと師匠? そっち窓ですけど!?」

「だからどうした、ここから行くほうが速い」

「どうしたって、五階なんですよ!?」

「ここよりずっと上の方から高い高いされたくせに、何を今更驚いてるのかしらね」

 

 ユミルも窓際に近寄りながら、アキラを小馬鹿にするように笑った。その頭をぐりぐりと撫でながら、視線をこちらに向けてくる。

 ミレイユはそれに頷き返してから、結希乃達に分かり易く宣言するように伝える。

 

「私は一度やると決めた事はやり抜くタチだ。お前たちがどれほど影響力を持つ組織か知らないが、潰すと決めれば必ず潰す。お前たちの都合は関係ない」

 

 言うだけ言うと、ミレイユは腕を持ち上げ、その拳を握る。

 それを合図にアヴェリンが窓を突き破り外へ身を投げ出す。アキラの悲鳴を背後に聞きつつ、ユミルもその後に続いて降りていく。

 

「ビルから三名逃走した! 対象は結界を抜ける恐れ在り、何としても途中で食い止めろ!」

 

 結希乃は焦った声で耳に手を当て、マイクに向かって叫ぶように伝達を始めた。

 他二名は武器を前に向けながら、じりじりとミレイユとルチアを囲むように近付いてくる。

 

 ミレイユは再び腕を組み直し、ルチアに首を捻って合図する。

 長い付き合い故に、こうした場合どうして欲しいか声に出さずとも理解していて、ルチアは即座に魔術の制御を始めた。

 

 警戒を強めた二人は、思わず結希乃に顔を向けた。

 耳から手を離した結希乃が両手で刀を構え、突進の構えを見せた時、ルチアの制御は終了していた。先程とは別次元の速度による魔術制御、もしかすれば全力の一撃なら発動より前に止められると思っていたのかもしれないが、当てが外れた。

 

 当然の事ながら、魔術の種類や術式によって得意不得意は存在する。

 ルチアにとって氷結魔術を使う事は最も得意とするところ。先程までの味方にかける術も不得意ではないが、それでも氷結魔術と比べれば一段も二段も下がる。

 

 結希乃が発動するのは防げなくとも、完全な形で成功させまいと地を蹴った、その瞬間だった。

 ルチアの握る杖から眩い青の光が吹き荒れ、一瞬の内に部屋の中全てを凍結させた。

 



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追逃走破 その2

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 光の奔流も一瞬のこと、凍結された室内で、二人と三人は対峙していた。

 部屋の入口も、今しがた突き破られた窓も、全て氷で覆われ封をしている。凍りついているのは無機物だけで、生物を避けて行ったとしか思えない程、不自然に凍っていない。

 

 刀には幾らか霜は降っていたものの、振るおうと思えば振るえるように見える。

 何もかも凍らせる事も出来たのに、敢えてそうしなかったのには勿論理由がある。

 ミレイユは凍りつく瞬間身を離していた机に、改めて腰かけた。腕の中にフラットロを抱えたまま戦う素振りも見せず、結希乃たちを高みから見下ろした。

 

 この一瞬で彼我の実力差が分からぬ筈もない。

 結希乃からは奥歯を噛みしめる表情が見えた。苦渋に満ちた悔恨の表情はミレイユ達に向けられるものではない。何を思っているのか想像はつくが、そこに触れようとは思わなかった。

 

「――さて、お前たちは私達を包囲し、追い詰めたつもりだったかもしれないが……逆だ。私は最初から、お前たちを捕捉(とら)える為に、こうして待っていた」

「何ですって……?」

「気づかれていないとは思っていなかったろう? ヤクザを痛めつけメンツを潰すと決めたのは突発的なものだったが、お前たちの反応を確かめる為に利用させてもらった」

 

 ミレイユはサングラスの奥から、ひたりと視線を向ける。

 その威を幾らかでも感じ取ったと見えて、結希乃は刀へ更なる力を込めた。

 

「しかし意外でもあった。挑発のつもりでいたのも事実だが、今まで着かず離れず、監視の粋を超えなかったお前たちなのに、何故ヤクザの事務所の襲撃ごときで動き出したのか」

 

 ミレイユは敢えて視線を切って、今はもう塞がって見えない窓の外へ顔を向けた。敢えて見せた隙で、この機会に襲えるようなら襲ってみろという挑発のつもりでやってみた。

 しかし誰も動かない。

 ミレイユは腕の中で甘えるフラットロの背を撫でた。

 

「正直に言った方が良いと思いますけどね。今更ここで嘘だと分かる発言をしたら、どうなるか想像つくでしょう?」

 

 ルチアの台詞は完全に善意のつもりだったが、しかしそれが千歳の尊厳を刺激してしまった。顔を怒りで真っ赤に染めて、氷に覆われた地を蹴る。

 

「よせ、千歳!!」

 

 ――しかし、それまでだった。

 結希乃の制止の声と同時に、床から壁から天井から、氷の槍が突き出て千歳を貫く。その数は十ではきかず、まるで本人を縫い留めるだけでなく、覆う為に突き出されたと思えるほど。

 

 だが槍衾のような身体中を貫くような形にもなっていない。槍は身体を器用に避けて、血の一滴すら出血させず体の自由を奪っていた。

 見える部分は首から上だけだが、表情は悲壮じみているものの、無事である事は見て取れる。

 

「千歳、無事か!? ――この!」

 

 結希乃が刀を振るい、槍をへし折ろうとするが、硬い音を立てるばかりで一向に斬れない。

 馬鹿な、と刀身を見つめて、それが霜に覆われている事に気づいたようだ。まさか、という視線を向けて来たので、想像のとおりだ、と頷いてみせた。

 武器を奪わず、武器として手に持ちながら抵抗が無意味だと分からせる。刀の表面に霜を覆わせた理由はそこにあった。

 

「ここはルチアの氷で支配された空間だ。床も天井も、あらゆる全てが支配下にある。無論、その刀も例外ではない」

 

 そして、それから脱却するにはルチア以上の魔力を持って炎かそれに類似する魔術の行使が必要だ。炎を使った魔術は氷以上に使い手の多い分類だが、しかしルチアを上回るとなれば容易ではない。

 錬金術と併用した手段なら、単なる地力で上回る必要もないのだが、この者たちにそれが出来るとも思えなかった。

 

 結希乃の表情が苦悶で歪む。敵に情けをかけられるだけではなく、完全に手玉に取られたと悟ったようだ。

 

「それとも、もっと分かりやすい方法がお好みですか?」

 

 ルチアが両手で持っていた杖から片手を上げて、影絵で狐を作るように指先を形作る。それと同時に壁から獣の顔が突き出しアギトを開けた。

 ルチアの片手が口を開け閉めするように動かすのと連動して、氷の獣も千歳に向かって噛みつく真似をする。

 

「ガオガオ、ってね」

 

 果たしてそれに触発されたのか、フラットロがミレイユの腕を飛び出し、同じように噛み付く真似をした。その口からは炎が漏れて、一声吠える度に辺りへ火の粉が飛び散った。

 

「くっ……! わ、分かりました」

 

 抵抗する事は無意味だと悟ったらしい。力なく項垂れ、刀を鞘に収める。國貞もルチアと結希乃を見比べて、摺り足で距離を離して元の位置へ帰っていく。

 

 ミレイユが合図して、フラットロが腕の中に帰ってくる。それと同時に千歳の拘束も解けた。

 千歳が無力感に苛まれているように見えるのは、勘違いではないだろう。またしても勝手に動き、それで相手の利となる行為になってしまったのだ。

 結希乃に抱きとめられながら、小さな声で謝罪しているのが聞こえてくる。

 

 だが、いつまでもそうして待ってやる事も出来ない。

 

「話を続けていいか?」

「……ええ、はい。どうぞ」

 

 千歳を國貞に預け、結希乃はミレイユに向き直る。敢えて表情を作らないように努めているようだが、しかし緊張の気配までは消せていない。

 

「本題とは逸れるが、何故お前はそう丁寧な言葉遣いをするんだ? 普通、拘束しようとする相手にはもっと威圧的になるものじゃないか?」

「それは……、上からの指示で決して不興を買う真似はしないようにと通達がありましたので」

 

 意外な返答に、ミレイユは眉を顰める。

 

「警戒を怠るな、力を見誤るな、でもなく……不興を買うな、と言われたのか?」

「そう……ですわね」

「何故だ」

「分かりません」

 

 結希乃は言ってから、慌てたように首を横に振った。

 

「いえ、本当に分からないのです。私も不可解とは思いましたが、ですがこういった理解の及ばない指示は、珍しい事ではありませんでしたので……。特に最近は」

「そう、か……」

 

 ルチアに目配せしても、彼女が嘘を吐いているとは思っていないようだ。ミレイユは頷き返して、改めて結希乃に質問した。

 

「では、本題だ。まさか暴力団と癒着しているという訳でもないだろう。私達がここを襲撃した事で、何故お前たちが動いたんだ?」

「言えない事もあります」

「では、言える事を言え」

 

 ミレイユが簡潔に命じると、結希乃は躊躇い、躊躇いながらも口を開く。顔は俯き、遠慮がちな仕草は弱々しかった。

 

「以前より、この生霧会は我々にマークされていました。外国へ刀の密売を行っている為です」

「刀……先程も言っていたな。しかし、刀とは正規ルートでは扱えない代物か?」

 

 ミレイユの認識としては武器でありつつ芸術品として、海外でも人気のある代物だった。国宝指定された物はまだしも、そうでないなら個人売買もあったし、名のある物でもオークションにかけられるなど、違法性を抜きにした売買方法は幾らでもある筈だ。

 

「刀と一口に言っても色々あります。今回、闇取引で行われる品は神刀です。これは国外への譲渡、売買を禁止されています」

「刀殿に飾られていたような品か?」

「左様です。生霧会はそれを違法な手段で手に入れました。そして国外のマフィアへ麻薬と引き換えに取引すると分かったので、我々が動いていたのです」

 

 ミレイユは首を傾げる。素朴な疑問を投げかけてみた。

 

「それは警察とか公安の仕事になるのではないか?」

「麻薬取引が現金との交換ならば、そのとおりです。あるいは他の貴金属類でも。対象が神刀であれば、これは御影本庁の管轄です。今夜、取引があるところまで突き止め、それらを逮捕する段取りも全て済ませていました。しかし……」

 

 そこでようやくミレイユも合点がいった。妙に納得した気持ちで、何度も頷く。

 

「そこで我々が事務所に襲撃をかけたから、か……。当然、そのような事があったとなれば、警戒を引き上げて今夜の取引は中止にしよう、という話になる。せっかく用意した準備が全て台無しだ。だから、『拘束』だったんだな?」

「仰るとおりです」

「なるほど……」ミレイユは大きく息を吐く。「それは悪い事をしたな」

「では……!」

 

 結希乃は声を弾ませて顔を上げた。まだ計画の成功は残されていると見て、その瞳にも輝きが戻る。

 だが、ミレイユはきっぱりと拒否の姿勢を見せた。

 

「しかし、それとこれとは話が別だ。大体、襲撃についてはもう相手方に伝わっているのではないか?」

「いえ、まだ正確な情報は伝わっていないかと思います。あなた方に倒された者たちは、全て身柄を拘束し連絡の取れない状態にしてありますから、連絡がないことは不信に感じても襲撃されたとは思っていない筈です」

「うん……が、駄目だな」

 

 結希乃の表情が固まり、青く染まる。

 ミレイユはそれに頓着する事なく続けた。

 

「奴らは私の不興を買った。メンツなどという下らないもののせいでだ。ならば、当然そのメンツを潰してやらねば気が収まらない」

「ミレイさんはこうと決めたら、必ず実行しますからね。そのせいで百の組織を敵に回して、その上で全てを葬って来た人ですからね」

「余計な事は言わなくて良いんだよ」

 

 ミレイユはその頭をちょんと叩いて、ルチアは行儀を見咎められた子供のように肩を窄めた。

 

「お前たちには悪いがな、もう決めた事だ。――安心しろ、刀は奪い返しておく」

 

 それだけ言うと、ミレイユはルチアの肩に手を置いた。もう片方の手には淡い紫の光が渦巻き、魔力の制御を始めている。フラットロは肩口へと両手を乗せて、その邪魔をしない様しがみついていた。

 

 それで状況を理解したルチアは行使していた制御を解く。部屋の中の氷が一瞬で溶けて消えた。

 状況を機敏に察知した結希乃は刀に手を掛けたが、その時既に、ミレイユの制御も終了していた。実際の使い方としては邪道もいいところだが、瞬間移動のように使う事も出来る為、ミレイユが頻繁に使う魔術の一つだ。

 

「向かう先はアヴェリンでいいか。あれならば、既に到着していても可怪しくないしな」

 

 ミレイユは独り言を呟くように言って、それから結希乃に視線を飛ばした。

 

「ただ一つ言っておく、我々の邪魔をするな」

「――待て!」

 

 結希乃が抜刀と同時に踏み出すのと、ミレイユ達の姿が掻き消えるのは同時だった。

 一瞬でその距離を接近できたのは見事だったが、しかし結希乃の刀は空を切る。当てるつもりもなければ、動きを止められれば良いと考えての一閃に見えた。

 

 まさか瞬間移動などという、夢物語が目の前で実行されるとは露ほども思わなかったのも、初動が遅れた原因だろう。

 

 結希乃の喉の奥から、今日何度目かと思える唸り声が響いた。

 



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追逃走破 その3

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 アヴェリンは窓を割って飛び出し、掴んだままでいたアキラの首を手放した。

 割れたガラスと窓枠が宙に舞い、光を反射してキラキラと輝く。後ろからは一拍遅れて、ユミルも飛び降りてくるのを気配で感じた。

 

 滞空時間は数秒、目の前に迫る地面――車道へ軽やかに着地し、四方を囲む結界までの距離を瞬時に把握する。

 敵の数も複数、四人一組の一塊で近付いてきているのを感じる。あまりうかうかとしていられない、と考えて背後へ振り返る。

 

 そこには今しがた覚束ない足取りで着地をし、勢い余って転んでいるアキラがいた。

 早く立て、と腕の動きだけで指示をし、一拍遅れて着地したユミルを見た。

 

「どういうルートで行く?」

「アタシは西廻り、アンタは東廻りで行きなさいな。あるいは素直に北上でもいいけどね」

「……そこは相手の動き次第だな」

 

 そうね、と素直に頷いて、ユミルは両手を翳して魔力の制御を始める。紫色の光が淡い色を発するのと、制御が終わるのは殆ど同時だった。

 その光をアヴェリンとアキラに当てて、東側を指差した。

 

「とりあえず、いま隠蔽の魔術を掛けたから、結界を抜けたらそのまま走り抜ければいいわ」

「隠蔽魔術って注意して見られたら、姿を隠せないんじゃ?」

「そうよ、だから今この結界内にいる連中には無意味かもね。でも、車道を疾走(はし)るなら必要でしょ?」

 

 盲点を突かれたようにアキラは顔を歪め、そしてアヴェリンはそれを苛立たし気に見つめる。

 弟子の察しの悪さはいつもの事だが、急ぎたい今のようなタイミングでは邪魔でしかなかった。

 アヴェリンはアキラの肩を軽く叩いて、走る方へ身体を向けさせる。そしてアヴェリンも同じように身体を向け、首だけ残してユミルを見た。

 

「では、埠頭でな。取り逃がすような真似はするなよ」

「そんなヘマしないわよ」

 

 鼻で笑って手を振ると、ユミルは踵を返して走り出す。

 アヴェリンもそれを見送って首を前に戻し、今にも逃げ出しそうにしているアキラの背を叩く。

 

「いい加減、覚悟を決めろ。ここに残っていても、周囲の奴らに拘束されるだけだぞ」

「いや、いっそそれも一つの手段かなって……」

「本気で言ってるなら大したものだ」

 

 アヴェリンが殺意を乗せて睨み付けると、アキラは全身を硬直させた後、諦めたように項垂れた。

 最初から素直に頷いていれば、こんな茶番めいた遣り取りも必要ないものを、と心の中で愚痴りながら走り出す。

 

 助走を必要としない、一足飛びの前進で一気に距離を駆ける。アキラも慌ててその背に続き、同じように速度を上げて追い縋って来た。

 

 アキラに戦闘の才があると思った事はないが、内向を使っての走破については一定数認めても良いと思える才能がある。

 アヴェリンもまだ全力で走っている訳ではないが、それでも追ってこれる者は多くない。

 アキラは既に全力に近い走り方だが、それでも追従できている。これは中々馬鹿に出来ない才能だった。

 

 そのまま走り、十字路に差し掛かろうとした時、左右から飛び出してくる四人組が二つあった。

 アヴェリンは先に行くよう指示を出し、向かってくる左の集団に狙いをつけた。

 魔力を練り、足に力を込め、そして思い切り踏み出す。

 

 景色が一瞬で過ぎ去り、集団も過ぎ去る。

 ただ横を通り過ぎたのではない、相手が突っ込んできたと認識した瞬間には、既に制圧が完了している。アヴェリン程になると、特別な防御策を講じなければ、単なる突進すら対処不能の攻撃になる。

 走り抜ける瞬間の空気の圧が、そのまま衝撃波となって全身を襲う。

 

 アヴェリンは通り過ぎた一瞬、その後で更に地面を強く踏んで、来たばかりの逆方向へ踏み切る。本来なら止まろうと思っても、地面で滑って急な転換など出来るものではない。

 しかし、これもまた内向魔術の強みの一つだった。

 

 全身を強化するだけでなく、全身を覆う魔力の膜、これを足の接地部分へ応用すれば、本来物理的に有り得ない挙動も可能になる。

 一歩目で急加速するのも、この応用に寄るものだ。

 

 一度通り過ぎた一団に、同時と思える程のタイミングで切り替えして又も突撃した。

 最初の一撃を対処できたとしても、前後に挟まれた衝撃波は逃げ場を失くし、更に威力を増す。その衝撃波に突っ込むというのだから、やる本人もただでは済まない筈だが、しかしアヴェリンは平然と衝撃波を突き抜けた。

 確かに強力な衝撃とはいえ、その程度でアヴェリンは止まらない。

 

 更に足に力を込め、挟み込んだと思っていた右側の一団へ、今度は正面から突っ込む。

 一歩で十字路まで戻り、次の二歩目で同じように吹き飛ばす。切り返すところまで同様で、十字路に戻って着地すると、吹き飛ばされた左右の集団が宙に吹き飛ばされるのが見えた。

 

 最初の一団はともかく、二つ目の一団が何の対処も出来ずに吹き飛ばされたのを、アヴェリンは不甲斐なく思う。せめて盾となる者が前に出て、アヴェリンを受け止めるべく動いて然るべきだった。

 アヴェリンはつまらなそうに鼻を鳴らし、前を向く。

 

 指示の通りアキラは全速力を続けている。アヴェリンもまた、その背を追うべく地面を踏み抜いた。

 

 

 

 アキラの背に追い着くのもまた一瞬だった。

 横に並ぶと、アキラが驚愕というより畏怖に近い顔つきで叫ぶように言ってくる。叫ぶように、というのは正確ではない。実際に叫ばなければ速度の問題で声が聞こえないのだ。

 

「師匠! 何したんですか、凄い音聞こえましたけど!」

「お前にも出来るようになったら教えてやる!」

 

 全くの師心でそう返してやれば、アキラの顔は奇妙に歪んだ。

 どうも有り難いと思っている顔ではない。技をその身に受ける事を思って、また死ぬ目に遭う事を想像したというなら、なるほど納得できる。

 

 アキラの予想は正解だ。

 技を使うとなれば、その衝撃に耐えられるだけの内向魔術を練り込めるかにかかって来る。手加減するつもりだとはいえ、衝撃波をその身に受けて耐えられるか、その確認として幾度もぶつける必要が出てくるだろう。

 

 辛い修行となる事は間違いない。だがアキラならば耐えられると信じている。

 アヴェリンが憐憫と期待の眼差しを向けると、アキラは顔を青くして震えながら背けていった。

 

 不愉快な思いで鼻白みながら、距離を縮めたとはいえ未だ遠い結界の境を見て奇妙に思う。

 いつも魔物討伐を行う結界に、ここまで大規模な広範囲に設置された結界は見たことがなかった。大きさそのものに違いはあっても、多少の違いでしかなく、最も大きいものでも平均の倍程度。

 今回の結界は十倍では利かない大きさだ。

 

 アヴェリン達を食い止めるのに、これだけの大きさ――引いては被害を被る可能性があると踏んでのものであったなら、なるほどこちらの戦力を過小評価していないと見える。

 

 しかし同時に疑問にも思った。

 だとしたら、向けてくる兵士が弱すぎる。最初に出会った阿由葉とその部下達は、なかなか出来る者たちのようだった。

 特に阿由葉は別格で、他の二人より頭三つは抜けていた。

 

 あのレベルの者をリーダーとして小隊を組み、アヴェリン達を拘束するべく動いてくると思ったのだが、どうも当てが外れた。

 

 ミレイユによって『ぶちかまし』と名付けられたあの技も、阿由葉クラスの力量ならば対処できないものではなかった。無傷でもなかろうが、単に避けられず直撃を受けるという失態だけはなかった筈だ。

 

 奇妙な齟齬を発見した思いでいると、今もまた十字路に差し掛かり、前方と左右から襲ってくる者たちがいる。

 アヴェリンが察する限り、力量も先程と大差なく、唯一前方にいる二個小隊がそれらより一つか二つ頭が抜けている。つまり、阿由葉に程近い力量と言う事になる。

 

 ――さて、どうするか。

 アヴェリンは一瞬の間、逡巡する。

 左右を無視して進めば、前方と接敵した時点で前後から挟まれる形になる。左右どちらかを相手にすれば、その間に距離を詰め、厚みを増した防衛戦を築くつもりだろう。

 

 アヴェリン一人ならば、どうとでもなる。

 先程同様、御し易い左右どちらか一方を倒し、その先へ進めば良い。

 そう考えて、いや、と思い直す。

 御し易い部分を突破すると考えるのは、戦局を見る目がある者ならば最初に思いつく事だ。先の一戦で、止められない事も理解した筈。

 

 その上で同程度の力量の者を当てて来るのは、果たして単なる戦力不足か、あるいは罠かと考えてみれば――。

 

「罠があると考えるのが妥当か」

 

 まさかそれほど戦力に厚みがないとは思えない。

 奴らとて凡愚ではない、止めるべくして最善の策を用意してある筈。事前にこれだけの結界と、これだけの魔術士を用意しているのが、その証拠とも言える。

 

 あるいは、前方の二個小隊で受け止めきれると思っているのか。

 

 結界の外で彼らの姿を見た事がない。

 アヴェリン達が結界内で好きに魔物を討伐している間も、結界が解けた後も、やはりその姿を見た事はなかった。

 結界の外で活動する事を厭う、あるいは力を振るう事を忌避するという考えが根底にあるのなら、彼らも結界内で決着を着けようとするだろう。

 

 そういう意味なら、彼らも必死だ。

 この二個小隊を抜けられれば、結界の境まで幾らもない。ここが最後の防衛線だろう。

 

 今も一歩、また一歩と近づく度に彼らの表情が鮮明に見えてくる。

 緊張は勿論、畏怖と諦念のようなものも伺える。だが同時に、死なば諸共という気概も見て取れた。死ぬならその前に必ず一太刀入れてみせる、という情念にも似た覚悟は、アヴェリンをして感じ入ってしまう程のものだった。

 

 それ程までの覚悟を持って挑むというなら、アヴェリンも一個の武人として応えてやらねばならない。

 しかし、だからといってミレイユより下命された任務を、蔑ろにして良いという事にはならない。片方しか完遂できないというのなら、アヴェリンの心は最初から一つに決まっている。

 武人としての矜持より、大事にしなければならない問題があった。

 

 アヴェリンは決死の覚悟をして向かってくる者達を前にして、アキラに一つ指示を出す。

 

「私の後ろにぴったり貼り付け! 巻き込むぞ!」

「わ、分かりました! でも、何する気ですか!?」

 

 アキラの声に返答している暇はない。

 アヴェリンは魔力を漲らせて、より濃くより力強く制御していく。その様を見てアキラは慌ててアヴェリンの真後ろに着いた。

 

 相手までの距離は、アヴェリンから見て残り三歩。

 歯を食いしばり、魔力制御を全身に張り巡らせてから足に力を込めた。両手を持ち上げ、前傾姿勢を取り、まるで闘牛の突進のように見える格好で、膨れ上がった呼気と共に踏み込んだ。



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追逃走破 その4

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 小隊のリーダーは、それぞれ未だ年若い少年少女だった。

 少女の方は先程の阿由葉とよく似た顔をしている。髪型も違うし目元に甘さが伺えるが、姉妹だと言われれば納得してしまう程には良く似ている。

 

 少年の方はがっしりとした体格で、背も高く横にも広い。肥満という訳ではない、筋肉量に寄るものだろう。誰もが似たような姿形をしているが、この者が着ていると途端窮屈に見える。

 

 その彼らをサポートするように、あとに続く三人が一拍の距離を置いて追従していた。小隊の中に一人は支援係がいるらしく、それぞれのリーダーを補助する魔術をかけている。

 掛け終わった者は戦闘の邪魔をしないようにか横へ逸れて離脱していく。他の者はアヴェリンに向かって攻勢魔術を構え、あるいは妨害、能力低下の魔術を仕掛けていた。

 

 ――なるほど、良い連携が取れている。

 

 アヴェリンは口の端に笑みを浮かべ、過小していた評価を上げる。小隊として動く以上、個人の能力よりも群として動く事を念頭に置いた戦闘設計。それが彼らの強みで、そして小隊同士を重ねて強敵へ挑むのが彼らの戦術だと理解した。

 

 しかし、世の中にはどれだけ小手先を並べても無駄にする、圧倒的戦力というものが存在する。

 一つ教育してやるつもりで、アヴェリンはまた一歩足を踏み出した。

 

 少女の手には刀が握られているが、少年の手に武器はない。

 代わりに大振りな籠手が装備されていた。拳から肘までを盾として用いるつもりらしく、その二つを眼前でかち合わせて盾とするつもりのようだ。

 そして防御が叶えば、そこから攻勢に移るという算段なのだろう。

 

 少女の方が一歩分遅れているのは、その連携の為か。

 籠手と全身を防御に回し、その動きを止めたところを一刀で持って斬り落とす、そういう作戦であるのかもしれない。

 

「――面白い、止めてみろ」

 

 アヴェリンは両手に力を込め、次いで足にも力を込める。

 アスファルトは踏みやすいが、同時に脆くもある。込める力の分配を誤れば、簡単に足が突き抜け埋まってしまう。

 アヴェリンは細心の注意を向けながら制御を続け、そして背後に意識を向ける。

 言いつけ通り背中へ貼り付くように追い縋っているアキラを確認し、最後の一歩を踏み出した。

 

 その足が最後にアスファルトを蹴り出す、その一瞬。少年が裂帛の気合と共に叫んだ。

 

「ここで必ず止めてみせる……ッ!」

 

 アヴェリンの口の端に浮かんでいた笑みが、一際深くなる。

 地を蹴る寸前だったその爪先が、蹴り込む衝撃と共に離れた。

 

 ――そして、直後に起こったのは爆発だった。

 

 火薬のような火を伴う爆発ではない。

 純然たる衝撃の爆発だった。踏み込みの瞬間、上げていた両手を広げ、鋏を閉じるかのように動かす。その瞬発的な前進と同時に起こったその動きが、更なる複雑な気流の乱れを生む。

 それが衝撃の正体だった。

 

 二人とその後ろに続いていた者たちは、悉くその衝撃に飲まれ吹き飛ばされていく。最も前方で盾役として動いた少年も、その一歩後ろで攻撃を計っていた少女も、全て丸ごと成すすべなく飛んだ。

 

 そしてアキラもまた、巻き込まれて飛んでしまった。

 少年少女たちの悲鳴に混じり、アキラの声も聞こえてくる。ぴったり貼り付けという指示を、最後の最後で臆して緩めてしまったに違いない。

 

 足の蹴り込みが怖くて貼り付けないのも分からないではないが、そうでなくては後方に流れる衝撃波を、アキラもまた受ける事になってしまう。

 その説明をする暇がなかったとはいえ、巻き込まれてしまったアキラを不甲斐なく思う。

 

 覚悟あってアヴェリンの前に立った少年たちとは違い、アキラにとっては完全なる不意打ちだったろう。

 少々足を緩めると、吹き飛ばされたアキラが丁度よい按配で、アヴェリンに向かって錐揉み回転しながら落ちてくる。

 

 速度を調節して捕まえると、自分の肩にアキラを担いで、同じ様に地面へ墜落していく者達の音を聞きながら、そのまま走り去っていった。

 

 

 

 アキラは気絶していなかったらしく、何歩も進む事なくうめき声を上げた。

 聞くなり身体を持ち上げて、体制を立て直すに十分な時間を確保できるよう、高く放り投げる。放物線を描きつつ、空中で態勢を整えたアキラは不格好に着地して、何とかアヴェリンの後を着いて来た。

 

 しかしただでは済ますまいと、恨み言まで一緒に着いてくる。

 

「何で嘘吐くんですか、思いっきり吹き飛ばされたじゃないですか」

「嘘など吐くものか。お前が私の背後に着いて来ないのが悪い」

「着いて行ってましたよ! でもあんなブーストダッシュされて、その直後まで寸分違わず着いて行ける訳ないじゃないですか!」

 

 そう言われて、ああ、と納得した声を出してしまった。

 横に着いたアキラが恨みがましい視線を向けてくる。言われてみれば、確かにアキラがアヴェリンの最高速度に着いて来れる筈もなかった。

 出したのは一瞬だったとはいえ、その一瞬を取り残されたなら、その衝撃は避けられなかった筈だ。しかしアヴェリンの背後でもあった為に、その被害も最小限、こうして何事もなく走っていられる。

 ならば問題ないという事だ。

 

 アヴェリンは直前まで迫った結界の境を見て、アキラに目配せする。

 アキラも今だけは恨み言を置いて、結界の前で立ち止まる。トットッ、と軽快なステップで足を止めると、念の為手を伸ばして問題なく通過できるか確認した。

 

 ルチアを信用しない訳ではないが、もしも失敗してたら結界に阻まれて顔面を強打するでは済まない事態になる。

 指先が問題なく沈み込み、手首まで差し込んだ辺りでアキラが声を掛けてきた。

 

「師匠、そこ車道ですから、そのまま出ると車と衝突するかもしれませんよ」

「……そうだな」

 

 ここまで車道を走って来たのだから、当然、そのまま出ていけば車と出会(でくわ)す事になる。アヴェリンは怪我するとも思っていないが、事故を起こさせてしまうのも偲びない。

 アキラに先導させる形で歩道まで移動し、そこから改めて結界を越えた。

 

 

 

 結界から出ると、一気に喧騒が帰ってきた。

 静寂の中にあったからこそ、その喧騒は耳に煩く思わず顔を顰めた。

 歩道に突然現れた謎の二人組も周囲の人間は認知しておらず、ぶつかりそうになっているアキラを引き寄せて車道に出た。

 

 こちらも常に安全という訳ではないが、歩道寄りに走っていれば、そうそう車が邪魔になる事もない。

 アヴェリンは顎をしゃくって着いてくるように示した。

 

「すぐにでも追手が来るかもしれない。急ぐぞ、目的の埠頭まではこの道を進めばいいのか?」

「ええ、はい。大丈夫の筈です。ここからはスマホを見ながら道を伝えますので」

「ならば良い」

 

 アキラがスマホを取り出すのを見て、アヴェリンは走り出す。慌ててアキラも着いてくるのだが、顔を歪めて既に息がバテ気味だった。

 

「だらしないぞ、まだそれほど走ってないだろう」

「そうは言ってもですね、僕はずっと全速力に近いペースで走ってて……」

「お前は一歩が小さい、細かく刻んで走りすぎる。もっと大股で……そうだな、筋力で走るんじゃなく、魔力を足に伝えて走るんだ」

 

 言われるままに実践してみるアキラだったが、こちらは慣れない走法の為か、すぐにガタが来た。先程までは精々額に汗が浮く程だったのが、今では滝のように流している。

 慣れない魔術制御はそれだけで重労働だから、鍛練不足によるものだろう。

 

「師匠、これキツいです……!」

「ああ、慣れればそちらの方が長く早く走れるし、運用次第じゃ先程の私のような使い方も出来るから覚えるべきだが……」アキラの顔色を窺い、顔をしかめる。「それは別の機会にした方が良さそうだな」

「そうでしょうね、絶対そっちの方がいいです……!」

 

 しかし一度失ったスタミナを回復させるのは、今のアキラには難しい。アヴェリンを含めた他の面々は全速力で走った後でも、速度を緩めて走ればそれだけで回復出来るのだが、それを今のアキラに求めるのは酷かもしれない。

 

 アヴェリンは万が一の為に常備している水薬を、個人空間から取り出してアキラに渡す。

 

「スタミナ回復の水薬だ。追いつかれる可能性を思えば、足を止めて休む事も出来ん。さっさと飲んでしまえ」

「あ、ありがとうございます」

 

 優しさの裏に何かあると疑う表情で、アキラは水薬に口を付けた。

 完全に疑う癖がついたアキラを疎ましく思うと共に、そのように育ててしまった自分に責があると自戒すべきか迷う。

 そうしている間に、アキラは水薬を飲みきったようだ。

 

 空になった瓶をポケットへ丁寧に仕舞いながら、劇的に回復した肉体に安堵の表情を見せている。それからスマホを確認しては、指を左に向けて交差点を曲がるよう指示してくる。

 

 アヴェリンは車をまた一台追い抜きながら、その指示に素直に従い道路を曲がる。車なら一時停止するような場合でも、アヴェリンは飛び上がって街灯に手を回し、振り子の棒のように利用して制動しながら曲がっていく。

 

 アキラも真似をして同じように速度を落とさず着いて来ているようだ。

 再び二人が並んで走り始めた時、アキラは不安を滲ませた声音で言ってきた。

 

「今更だろうと思われても、何度だって言いたいんですけど、ヤクザなんて相手にして、本当に大丈夫のつもりなんでしょうか……」

「なんだ、相手は山賊や野盗の類いなんだろう?」

「似てますけど、同じじゃないですよ。手口は巧妙化していると思いますし、社会の中で生きる都合上、その都合の悪い事を仕掛けてきたりするって聞きます。斧持って襲ってくる訳じゃないんですよ」

 

 沈んだ声をさせながら、しかしアキラも慣れたもので、横から突っ込んで来る車を飛び越えて走り続ける。

 だが、そんな声を聞いても、アヴェリンの信頼は揺るがない。

 

「巧妙化というなら、こちらでも似たようなものだ。山賊だからといって山にばかりいないし、町中でも恐喝、暴力、拉致、好きな事をやっていた者たちもいる」

「それも勿論ありますけど、そうじゃないんです。反撃されたら、それを絶対許さない執拗さのようなものもあるんです。目を付けられちゃいけないし、付けられたらお仕舞みたいなものなんです」

「それならやはり、同様ではないか? 似たようなものだ、反撃して山賊一つ潰そうものなら、周囲の山賊全て敵に回したしな」

「既に回した経験あるんですか……」

 

 アキラが呻いて眉根を寄せたのと同時、二人は車を飛び越え、信号を無視して前進していく。

 

「ああ、狩った数も増えたせいでな。山賊だけでなく野盗も含めて、私達を殺す為の連合を組んだ。縦へ横へと繋がりを増やして、最終的には百を超える同盟が出来上がっていたな」

「それで……どうしたんです」

「全て潰した」

 

 事もなく、動物一匹狩ったような気楽さで口にした。

 そのせいかどうか、アキラは引き攣った顔を更に歪める。アキラは良くこちらの常識を履き違えて畏怖するが、今日のところもそのようなものらしい。

 

 実際これはアヴェリンにとっても誇らしい出来事で、山賊に身をやつしたとはいえ力量を持つ者どもは数多くいた。あの山賊狩りの毎日は、アヴェリンの人生を輝かしく彩っている。

 

「ユミルがいたからな。一度襲えば、そこから必ず次へ繋がった。山道と言わず、人里近い道の上でも襲われもした。だが必ず住処へ逆襲して、それを連日、繋がりを断ち切るまで続けた」

「連日……」

「眠る暇もないとはこの事かと思ったものだ」

「絶対違うと思います」

 

 アキラの顔は相変わらず引き攣っていたが、アヴェリンにとってはどうでも良かった。

 強敵も弱者も、等しく肉砕き、骨砕く事に邁進していた、あの日々を思い出す。

 

「泣きを入れ、詫びを入れる者も出たが、結果はいつも変わらん。甘い顔を見せれば付け上がる。ミレイ様はそれを良くご存知だ。周辺国も含め、数多くの山賊団がいなくなり、最終的には山賊やるなら先に首を捨てろと言われるまでになった」

「それ……師匠達の影響ですか」

「間違いなくそうだろう。お陰で治安は良くなったそうだぞ、私達の評判は……良くもあり悪くもありだな」

 

 アキラは感嘆めいた溜め息を吐くと同時に、明らかに変人を見るような目でも見てきた。

 アヴェリンは安心させるようにアキラへ頷く。

 

「だから安心しろ。敵に回すヤクザの数がどれだけ膨大だろうと、その首全て叩き潰してやる。もしミレイ様がそのように決めたなら、必ずそうなる」

「とんでもないこと聞いちゃったな……」

 

 アキラが明らかな後悔の念を浮かべている時、前方に埠頭が見えてきた。

 ここから取引現場となる倉庫とやらを探さねばならないのだが、その辺についての考えはまだ聞いていなかった。

 だが先にユミルとの合流を急ごうと、アヴェリンは足を早めた。

 



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追逃走破 その5

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 アヴェリン達に隠蔽魔術を施した後、ユミルもまた目標に向かって駆け出した。

 追ってくるだろう者たちを分散させる為の別行動だが、戦力が分散するという意味ではこちらも同じだ。アヴェリンにはアキラが着いているものの、果たして戦力として数えて良いものかどうか。

 

「……まぁ、あっちはあっちで上手くやるでしょ」

 

 敵戦力次第ではあるものの、アキラ程度のお荷物が一緒でもアヴェリンなら蹴散らして進むという、ある種の信頼はある。

 

 鼻を小さく鳴らし、ユミルは遠く結界の堺へと目を凝らした。

 結界内の構造について、詳しい事を知るわけではない。手動的に発動させた結界というのも今回始めて見てみたが、しかしその基礎設計に変化はないものだと推察できた。

 

 そうでなければ、ルチアがその脆弱性に目を付け、効果的な対策を打つことさえ出来なかったろう。解析されていたという認識を持っていないとは思えないので、どうしてそのような穴を突ける隙を残したのか疑問は残る。

 

 ユミルは改めて周囲に展開されている兵達の気配を探った。

 着かず離れずの距離を維持していて、途中回り込むような動きも見せてくる。それを避けるように移動を続ければ、その総数が三十前後いる事が分かった。

 

 たった一人に当てる数として妥当だと思っているのか分からないが、これだけの数がいて、その中に結界術を取得した者がいないと考えるのも不自然だった。

 得意不得意はあって当然、しかし既に解析されている結界を使うしかない程の偏りがあるのだとしたら、あるいは頼りになる術者は一人しかいないと言う事になる。

 

 ――敵戦力には、それほど厚みがないのかも。

 ユミルは無意識にそう決定付ける。鍵を隠し持つと知る相手に、牢の中へ入れる愚は犯すまい。ならば、それは捕らえる事が目的ではなく、別の意図を持って張られたと考えるべきか。

 

 ユミルは無人の道路を走り抜けながら、自分が誘導されている事も自覚していた。

 元より大きく西廻りで移動するのは決定していたが、北上しようとすると邪魔が入る。無理して通る事も時折しているが、しかし進路の妨害は消えなかった。

 

 あるいは、とユミルは思う。

 この広い結界が演習場の役割をしているのかも。

 

 ふと思いついた推論だったが、あり得るかも知れない、と判断した。

 結界がどういう意図で使われているか、その真相は分からないが、一般人に知られず武器と魔術を振るえる場である事に違いはない。

 

 ユミル達に好き勝手動かれると困る、といった結希乃の言い分は嘘ではないだろう。だが同時に、それが言い分の全てでもなかった筈だ。

 何しろ、結界で閉じ込めるなら、こんな広範囲に張る必要はない。ビル周辺を囲んでしまえば事足りる。張った時点で察知されると知らなかっただけなのか、あるいはそのあと狭めていくつもりだったのか、可能性として考えれば切りがないが――。

 

 ユミルは改めて周囲の兵達の気配を探った。

 数の厚みは増えてきている。四人一組、小隊を組んだ者たちは積極的な攻勢をしかけてこない。それが不思議でもあり、不気味でもある。

 

 その時、遠くで爆発のような衝撃音が聞こえてきた。

 ユミルはそちらの方へは目もくれず鼻で笑う。おそらく、ミレイユが『ぶちかまし』と名付けた、内向魔術を極めた者にしか出来ない力業を使ったのだろう。

 

 単純、だからこそ防ぎ辛い。

 単なる突進だから躱せばいいと思いきや、通り過ぎる際に発生した衝撃波までは躱せない。ならば衝撃波も無効化すれば良いのだが、アヴェリンには二の撃がある。通り過ぎた直後、急角度で方向を変えて再び突っ込んでくる。

 こうなると躱すというのが難しくなるので防ぐしかないのだが、物理的突進と衝撃波の二重攻撃は単純な防御を貫いてしまう。

 

 ならば発生より前に止めねばならないのだが、一歩の距離があれば急加速できるアヴェリンは、その初動を潰す事も難しい。仮に攻撃を当てても、内向魔術士としての強みを十分に活かし、傷を受けながら突進してくる。

 

 最後まで立っていた方が勝ち、という価値観の強い奴なので、並大抵の傷は受けて当然という気概でいる。戦闘中でも傷の治りが速い、内向魔術士が取れる戦術とも言えるが――。

 

 そこまで考えて、ユミルは鼻の頭に皺を寄せた。

 あれを止める手段がユミルにはない。それを知っているから、余計に腹立たしかった。自分の周辺にいるような者たちが、アヴェリンの周りにいる者たちと同レベルであるというなら、あれは止める事は叶うまい。

 

 そこまで考え、思考を切り替える。

 前方には阿由葉とよく似た実力者が待ち構えていた。

 誘われていた事には気づいていたし、そうであるからには罠でもあるのだろうと思っていたが、予想よりもシンプルな対応に、思わず面食らってしまった。

 

 小隊が二つ、その足元に魔法陣が見える。

 ――なるほど、素の実力では勝てないと、始めから理解している訳か。

 

 時間を掛けて魔力を制御し、複数人を使って短時間で仕上げたのが、あの魔法陣なのだろう。効果の程は分からないが、こちらの動きを阻害するタイプではないように思える。

 

 小隊にはそれぞれ少年少女の隊長がいて、どちらもアキラと似たような年齢に見えた。

 少年の方は短気そう、少女の方は更に幼い顔をしていて不安の中に決然とした意思を感じる。準備万端、待ち構えていた、といった様子だが……さて、どうしたものか。

 

 ユミルは彼らの十歩手前で軽やかに足を止め、それから結界の境までの距離を測った。

 アヴェリンならまだしも、一足飛びに抜けるには難しい距離だ。仕留めるか、無視するか、好みのワインを選ぶかのように楽しく頭を悩ませ、そして一つの決断を下す。

 

 蠱惑の笑みを浮かべ、ユミルは両手で魔力の制御を開始した。

 

 

 

「お前ら、気合入れろォ!」

 

 少年が叫び、それに呼応して雄叫びが上がった。隣の少女は迷惑そうに顔を顰めていたが、見る限り、その魔力制御は淀みない。

 この隊長達は多くの者達の上澄みではあるのだろうが、それでも少女の制御は見事と言えた。何を見せてくれるのか、と期待する気持ちはあるものの、ユミルとて遊んでばかりもいられない。

 

 何しろ――。

 

「アヴェリンより遅く到着とか、絶対イヤだものねぇ……!」

 

 ユミルは両手を突き出し、完成した魔術を行使する。

 すると、ユミル自身の身体から白煙が溢れ出す。それは四方八方に吹き広がり、あっという間に辺りを白く染めた。

 

「焦るな! 早く煙を吹きとばせ、視界を確保しろ!」

「姿は捉えてる、まだ動いてない! 陣に理力を集中して!」

 

 少年少女から、それぞれの小隊に激が飛ぶ。

 命令を聞いた、やはり同年代らしい少年少女たちが魔力を制御して、目的の魔術を行使しようとしていた。

 だが、その眠ってしまいそうな長い制御を、悠長に待ってやるほどユミルはお人好しではない。

 

 ユミルは更に魔力を制御し相手よりも早く魔術を完成させる。対象は自分、ユミルが使ったのは攻撃でも補助でもなく、敵を錯乱させる為の魔術だった。

 

 号令のもと相手の魔術が行使されて激しい風が吹く。

 白煙はあっという間に掻き消されて、そして悠然とした立ち姿を披露するユミルが顕になった。更に背後にはユミルを誘導していた他の小隊も配置についている。

 完全に包囲された形だが、ユミルは余裕の表情を崩さない。

 

 そして自分の位置を入れ替えるように、横へ一歩移動すると、その背後にもう一人のユミルがいる。そのユミルも逆方向へ一歩動くと、その背後にはやはりユミルがいた。

 その二人も横に動けば、やはりそこにはユミルがいる。

 

「さぁて……だぁれが本物だ?」

 

 全員が一糸乱れぬ姿で円を描くように両手を開いた。その顔には小馬鹿にした笑顔が張り付いている。

 その光景を見ていた少年たちは目を剥いたが、咄嗟に上げた声で小隊に注意する。

 

「騙されるな、幻術だ! ――紫都!」

「もう見てる! ……見てるけど、分からない! 差がなく均一で絞り込めない!」

「くそっ!」

 

 紫都と呼ばれた少女の前には空中に浮かぶディスプレイのようなものがあった。

 それで分析しているようだが、芳しくない返事に少年が舌打ちした。その少年が、足元の陣の影響を受けて、増強された魔力の制御を始める。

 

 ――なるほど、そういう陣か。

 

 ユミルはそれを()()()見てほくそ笑む。

 誰もが複数のユミルに注意を向けているが、陣の中に入り込んだユミルには誰も気づいていない。隠蔽や幻術、そして隠密はユミルが得意とするところだ。

 気配は勿論、体臭から体温に至るまで、完全に隠蔽を完了させている。

 

 彼らは目の前にいる複数のユミルの中に本物がいると思いこんでいるが、そもそも最初からあの中にはいない。煙が消える前には、この陣の中に姿も魔力も消して入り込んでいた。

 

 視界の中だけでなく、思考の中にも盲点はある。

 隠蔽魔術は弱点が多く、警戒している者には無力である事が多い。しかし、どんな術でも使い方一つで有用な魔術に変わるものだ。

 これはミレイユが教えてくれた事でもある。

 

 その時、少年が練り上げ制御した魔力が解き放たれた。

 本来なら一本から二本しか放出されないであろう炎の矢が、まるで連射弩級のような頻度で放たれていく。いや、それよりも随分速い。

 

 その矢がユミルの幻影を外側から一掃するように放たれていく。

 着弾し、爆発し、もうもうと煙を上げていく。放たれる事、実に十秒、肩で息をする少年は陣から魔力を供給し、次の魔術の制御を始める。

 煙が晴れる頃には、また次の魔術を行使する、という算段だろう。

 

 紫都はサポートに回るタイプのようで、攻撃役の少年へ反撃を想定した防御膜を構築している。制御の癖から見ても、下の陣はこの紫都が作ったものだろう。

 しかし作った後の維持までは手が回らず、その為に小隊メンバーを使っている。陣は込めた魔力によって持続時間も効力も変わってくるから、こうした複数人の運用は珍しい事ではない。

 

 煙が晴れて、そこには咳き込みはすれども無傷の姿を晒すユミルが現れた。

 そのユミルの一人が、別のユミルの襟元を掴む。

 

「ちょっとアンタ、アンタのせいでアタシまで巻き込まれてるじゃないの。アンタ本物なんだから、アンタだけ攻撃喰らいなさいよ!」

「いや、違うわよ! アタシじゃない、アイツよ!」

「――は? アタシじゃないわよ。アイツだってば!」

「違う違う、アイツ……、多分アイツよ!」

 

 それぞれが指差し、仲間割れを始めたユミルに、小隊の誰もがポカンと口を開けた。

 遂には殴り合いの喧嘩に発展し、収拾の着かない様子になっていく。

 紫都が少年にどうする、という視線を向ければ、気を取り直した少年が制御を終えた術を解き放った。

 

 炎の矢が順次命中して爆発を起こす。吹き飛び、吹き飛ばされ、無駄に派手な回転をさせながら、ぼてぼてと地面に落ちていく。

 落ちたユミル達は起き上がらない。

 気まずい、嫌な沈黙が続いた。

 

 それから数秒、ぬるりとした動きでユミル達が起き上がる。それぞれの顔面には表情がなかった。じっとりとした視線が少年に向かう。

 気圧されて、思わず後退りしそうになった時、ユミルの一人が声を上げた。

 

「……まぁ、そうなるわよね」

「そう、それはね。じゃあ全員攻撃すればいい、って話になるわよ」

「なら本物が名乗り出れば解決じゃない?」

「そうよね。じゃあ、本物、手を挙げなさい」

 

 そうは言っても、誰も手を挙げない。複数のユミルが、それぞれを値踏みするかのように視線を向けた。謎の緊張感が辺りを包む。

 その中の一人が手近な一人に掴みかかり、その首を揺すろうとしたところで、別の一人が止めに入る。そうする内に別の一人が二人を引き剥がし、威嚇するように二人を睨みつけた。

 

 少年たちは、何故か邪魔しちゃいけない気がして、その様子を固唾を呑んで見守っている。

 場の膠着状態が続く中、その内一人のユミルが少年に顔を向け指を向けた。

 

「そうそうアンタ、アレはいいの?」

「……な、なにがだよ」

 

 突然、声を掛けられて動揺した少年は、思わず上ずった声を返したが、咄嗟に魔術の制御を始めて反撃を試みる。

 しかし、ユミルはその制御に目もくれない。端から相手をしていない、という具合で興味すらない様子だった。

 そのユミルが指差していたのは少年に対してではない。分かりやすいよう少し位置をずらし、その背後へと指を向ける。

 

「手、挙げてる子がいるけど」

「何……?」

 

 誘導されている、という自覚があるのかないのか、少年が素直に背後を振り向くと、結界の境に到達しているユミルが大きく手を振っている。

 満面の笑顔で、そして小憎たらしく腰まで振っていた。

 

「馬鹿な、いつの間に!?」

「……まさか、ここにいるの、全員幻影!?」

 

 紫都が叫び声を上げるのと、ユミル達が消えるのは同時だった。何の前触れもなく、突然目の前でシャッターを切ったかのように姿が消え、痕跡が何一つ残っていない。

 

 紫都も結界の境にいるユミルを追いかけようと動こうとして、足が動かずその場に転んだ。

 何がと思い、そしていつの間に、とも思った事だろう。

 

 ユミルは陣の効果を見極めたのと同時、その上から粘着の陣を重ね掛けした。まさにユミル達が爆発している最中のことで、そちらに注意を向けていた中、隠蔽を駆使したユミルの術の発動には気づけなかったろう。

 

 そして幻影達が押し問答している内に、悠々と結界の境へ近付いて行った。

 

「くっそ、馬鹿にしやがって!! 端から戦う気なんて無かったってか!」

「これ駄目、力づくじゃ無理! 先にこの陣を無力化させないと追えない……!」

 

 陣の中、どこであろうと接着した部分は決して離さない。外そうとする力に反発する度に魔力を消耗していくから、暴れる程に早く解けるが、その分体力も魔力も消費は大きくなる。

 粘着されている人数、そして後方に控えている者が助けに入る事を考慮しても、一時間程は陣の中に拘束されるだろう。

 

「それじゃあね、お馬鹿さん!」

 

 ユミルは最後に身体に妙なシナを作りつつ手を振って、結界の外へと抜けていった。

 



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追逃走破 その6

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 結界を抜けると一気に喧騒が帰ってきて、自分の目の前を自動車が通り過ぎていった。

 それを目で追いながら、もしや間一髪というやつだったのでは、と思い直す。改めて自分の立つ位置を見てみれば、そこは車道の真ん中だった。隠蔽されたユミルの存在に気づかず、車が次々と通り過ぎていく。

 

 ユミルは車に注意しながら場所を移り、車道の端まで行くとスマホを取り出す。

 今は一先ず巻いたとはいえ、救出する小隊を一つ置いて、残りは追ってくるよう指示を出していても可怪しくはない。

 素早く現在位置を確認し、ユミルは走り出す。

 

 背後を振り返ってみても追ってくる様子はないが、結界の中の様子など分からない。今にも飛び出して来る可能性を考え、足に魔力を多く割いて埠頭を目指した。

 

 

 

 ユミルは埠頭の入り口に立ち、辺りを見渡した。

 日は暮れ初め、取引時間まで残り一時間といったところ。アヴェリン達が先に着いているのかどうか、ここからでは分からない。

 

 何しろ埠頭は広い。

 出入りに使われる道とて一つではなく、細かいルートを決めて走った訳でもなかった。ここにアヴェリンの姿が見えないからと、先に着いたと楽観は出来なかった。

 

 それよりも、何より優先すべきは取引場所を抑える事だ。

 そも取引を成立させない為に動く必要があり、そして単にメンツを潰したいという理由で妨害する。ハッキリ言って馬鹿らしい理由だと思うが、やってる事は楽しいので文句はなかった。

 

 取引場所はどこかの倉庫である事までは吐かせたが、更に詳細な場所は側近中の側近にしか伝えられていなかったらしく、それ以上はどうしようもなかった。

 

 ユミルは改めて辺りを見渡し、倉庫のある方へ目を向ける。同じような建物が並んでいるせいで、やけに分かり辛い。だからこそ、この場所を選んだのだろうが、いざ捜そうと思えば実に骨だった。

 

「まぁ、まさか近くに車を停めているなんて、馬鹿な真似をしているとは思えないしねぇ……」

 

 溜め息一つ吐くと、ユミルはとりあえず端から調べてみる事に決めた。

 

 

 

 探すといっても、まさか手あたり次第に入り口を開けていく訳にもいかない。

 そこでユミルは生命力を探知する魔術を使う事にした。術者の力量にも寄るが、ユミルならば半径五十メートル以内の生命なら、それをシルエットとして視界に映すことが出来る。

 

 これは文字通り、命あるものなら何でも反応してしまうので、虫やネズミなどの小さな生命までも反応してしまう。見たくないものまで見えてしまう可能性があるので、あまり使いたくない魔術なのだが、この際我儘も言ってられない。

 そして何より大きい利点として、これはどれほど分厚い壁だろうと、範囲にある者なら全て見えるという特性がある。

 

 壁の外、あるいは屋根の上からでも探すことが出来るので、非常に便利な反面、ワサワサと動く何かを見つけてしまう事になる。

 ユミルは覚悟を決め、魔術を制御し行使する。

 

「あーあ、ヤダヤダ……」

 

 そうすると、やはり想定していたような光景は見えるものの、予想よりもずっと少ない。倉庫内を清潔に保っているせいなのか、それともこれがこの世界の普通なのか判断に困った。

 

 倉庫内で動く影は幾つもある。

 何か搬入した物を片付けるような動きを見せるのは、倉庫内作業員だろう。これはヤクザとは違う気がする。

 

 ではどういう動きが適切なのか、と言われたら、何もせずに座っていたり立っていたりする影が該当するのかもしれない。しかし、倉庫内の仕事を知らないユミルとしては、それだけで判断して良いものか迷ってしまう。

 

 ユミルは握った拳に親指だけ立て、下唇に押し当てながら難しい顔で唸った。

 

「んー……。まぁ、まだ取引時間には余裕ある筈だし……」

 

 ユミルは跳躍して倉庫の屋根に乗ると、上から全て一通り全て調べていく。それらしい影は見えないが、かといって調べる倉庫の悉くに確認できないと、らしくない影すら怪しく思えてくる。

 

 まだ到着していないだけ、という可能性も勿論考慮していた。倉庫内ではなく、どこか別の場所に停めた車で時間まで時間を潰しているのかも。

 そうなると探すだけ無駄だと思うのだが、最後の一つまで調べたところで、不審な影を発見する事ができた。

 

 二人が壁際で休めの格好で直立し、少し離れて一人が同じ場所を行ったり来たりしている。

 時折苛立たしげに片手を振ったりしているのは、もしかしたら待ち時間まで落ち着けずにいるからなのかもしれない。

 

「これは……アタリかしらね?」

 

 ユミルが倉庫入り口に降り立つのと同時、ユミルの後ろを黒いバンが通り過ぎていく。こちらの馬車は馬を使わない代わり、とにかく種類が多く車種も分かり辛い。

 だが車の背面に両開きのドアが着いていて、そのガラス窓部分が鏡のようになっているのを不思議に思った。

 

 思っただけで、別にどうこう言うつもりもない。しかし、ああいう車種が倉庫で使われる車として妥当なのかは疑問に思った。

 

 ユミルは構わず倉庫の入り口に耳を当てる、中の会話が聞こえないかと期待したが、くぐもった音が聞こえるだけで判別するのは難しい。しかし何か怒鳴り散らしているのは理解できた。

 中にいるのが果たしてヤクザなのか、それとも新人教育でもしている最中なのか、判断する必要があった。

 

 音を拾う魔術があって、聞き耳を立てるには役に立つのだが、弱点もある。集音性が悪く、とにかく周囲の音を拡大させるので、騒がしい場所や大きな音が立つ場所では逆に聴き取れない。

 この場で使うというには、少々そぐわない魔術だった。

 

 とりあえず中に入って事実を確認してみようか、とユミルは黙考した。

 もし間違っていれば記憶を操作してしまえば済む話だ。しかし、それがヤクザであったなら、少し厄介な話になる。

 取引の邪魔をするというなら、双方が揃った時に狙うのが良い。一網打尽という言葉もある。

 

 しかし、ここでヤクザと鉢合わせしてしまうと、制圧は簡単でもその後の取引に齟齬が出るかもしれない。物品さえ確認出来れば、あるいは来たのが取引相手だと確認できれば、後はやはり奪うだけなのだから、そう難しく考える必要も――。

 

 そこまで考え、ユミルは突入する事を決定した。

 一応見える範囲で背後を窺い、アヴェリン達が来ていないか確認する。やはり姿が見えないが、ユミルのように倉庫の屋根を伝って来ているなら見える筈もない。

 

 左右へ素早く視線を巡らせ、やはり誰の姿も見えない事を再度確認すると、一つの準備の為に魔術を準備する。

 

「念には念を入れて、ね……」

 

 制御を終えて自身に向かって解き放つと、ユミルは倉庫の入り口を薄っすらと開いて、その間へ滑るように入り込んだ。

 

 



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追逃走破 その7

天の川(・・?)様、えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 一人の男が埠頭内の隅にバンを停め、その傍らでタバコを吹かしていた。

 今日する取引の為にイタリアからやって来たマフィアで、名をブルーノという。ブルーノが所属するマフィアはイタリアの中でも名が売れている部類で、多くは麻薬取引で財を成した。

 

 今日来ているのも、その取引をする為で、その時間まで暇を潰しているところだった。

 日本人は時間にうるさいというのは良く聞く話で、電車などは一分と遅れずやって来るという狂気の沙汰を毎日しているらしい。

 そのような感想を抱くブルーノだから、普段なら時間をそこまで気にしない。十分、二十分、遅れて来ようと、それは挨拶みたいなものだ。

 

 だが、今回の取引は絶対に成功させろ、とボスから言い渡されている。

 相手の組織は日本でも指折りと言われる訳ではないものの、ボスの欲する物品を用意できると約束した唯一のヤクザだった。

 

 だからこうして、したくもないご機嫌取りの為に時間を気にしながら時間を潰していた。どこか歓楽街で時間を潰し、その為に遅刻するような事があれば、ブルーノはボスから直々に頭を撃ち抜くと脅されている。

 

 タバコから煙を大いに吸って、不味く感じる煙を吐く。

 タバコの灰を落とすとうるさいとの事で、舎弟のカリストロに持たされた携帯灰皿にフィルターまで短くなったタバコを押し付けた。

 

 車内を覗き込み、中で座ったままのカリストロに声を掛ける。

 

「おい、いま何時だ」

「約束の時間までなら、あと一時間切りました」

「まだ、そんなにあるのかよ……。うんざりするぜ」

 

 ブルーノはタバコをもう一本取り出して、口に咥えて火を付けた。

 そのブルーノの様子を見て、カリストロは怯えるような声を出す。

 

「ねぇ、アニキ……。今回のヤマ、本当に大丈夫なんですかね?」

「テメェは見てくれの割に、ホンット臆病だな」

「そうは言ってもですね……」

 

 ブルーノは尚も怯える様子を見せるカリストロへ、不機嫌に睨みつけた。

 ――不機嫌。

 そう、ブルーノの機嫌はすこぶる悪かった。今回のヤマを任された事も勿論、日本に来る事になったのも、日本人相手に取引するのも、何もかも気に食わなかった。

 

 特に気に食わないのは日本人だ。

 神の住まう国だとか言って、日本以外を見下すような馬鹿な国だ。

 何が選ばれた民だ、何が神の守護だ、そんな有りもしない物を、さも有るように振る舞って自分たちを騙して悦に浸っている。

 哀れな民族の癖して、商売相手としては対等に扱ってやらねばならない。

 

 豊かで犯罪も少なく、暮らしやすい国なのかもしれないが、スラムの一つもないような国が真っ当であるものか。そういう危険と隣合わせで生きるから、人は強くなれるのだ。

 スラムの肥溜めから這い上がったブルーノだからこそ、その気持ちは一層強かった。

 

 多くの国は神を持ち、宗教を持つ。多くが神の言葉を胸に刻み生きるが、決してそれのみを頼って生きるのではない。

 信仰は理解できる。しかし神に縋って生きる軟弱な日本人を、ブルーノは理解できないし、決して認めない。

 

 今も呑気な顔してブルーノの前を通り過ぎていく一人の日本人男性を、ブルーノは鼻を鳴らして見送った。

 それをカリストロは心配そうな顔で見つめる。

 

「……アニキ、そういう態度、誰彼構わずしないで下さいよ」

「何で日本人なんかに愛想良くしなきゃいけねぇんだよ、唾吐く位で丁度いいだろが」

「アニキ、日本人の怖さ知らないんですか?」

「あの呑気な馬鹿面晒してるような奴らの、どこを怖がれってんだ」

 

 ブルーノが敢えて小馬鹿にして煙を吐くと、カリストロは慌てたように手を伸ばし、結局すぐ元に戻した。

 そして言い聞かせるように口を開く。

 

「うちの曾祖父ちゃん、戦争行ったんですよ。日本人とも戦ったんです」

「あー? だから何だ、大層な話は俺も聞いたことあったがよ、どれも眉唾……信じられる根拠もねぇ」

「それが、曾祖父ちゃんは本当に見たって言うんですよ。ヨロイムシャっていうサムライらしいんですけど、それがとんでもない強さで。白兵戦は絶対するな、って厳命されてたらしいんです」

「あー、知ってるよ。日本のサムライな、何やっても死なねぇとか、サムライ悪魔だとか叫ばれたんだろ? 一人の人間が強いって言っても限度があるだろ」

 

 ブルーノはやはり鼻で笑った。タバコの煙をカリストロに吹きかけて、鬱陶しそうに手を振って咎めるように、あるいは諭すように言ってきた。

 

「それ本当らしいんです。サムライの中でもヨロイムシャっていうのが相当ヤバくて、それ倒すのに一個師団用意したっていうぐらいなんですから。銃弾は利かないし、銃剣突撃も逆に被害が増すぐらいで。戦車砲の一撃も、一発だけなら耐えたらしいです……!」

「ばっか、おめぇ!」ブルーノは吹き出して笑ってしまった。「そりゃ人間じゃねぇだろ。どうせカカシか何かにくくりつけたもんを、倒せないって勘違いしたってオチじゃねぇのか!」

 

 ブルーノは笑いすぎて目に涙すら浮かべたが、カリストロの表情は暗い。言葉にするほど真実味が増していったようで、自分の言葉に怖がっているかのようだった。

 

「ちょっと考えりゃ分かるだろうが。銃の効かない人間なんているか? たまたまヘルメットの当たり具合が良かったんだろ。運が良けりゃ二発三発食らっても生きてる事だってある」

「そして、そういうサムライこそ普通の人間のカッコしてるらしいです。ニンジャだってそうですよ、いつも影に隠れて悪いやつ見てるんですよ」

 

 ブルーノはようやく身を乗り出して、馬鹿を言う頭を殴りつけた。

 

「くだらねぇ事ばっか言ってんじゃねぇ! あの能天気な顔が、ンな事できるようなタマに見えるか? 神の加護だ? こんな小せぇ島国の神が一体なんだってんだ」

「ちょっと、やめてくださいよ! ヤバいですって!」

「何がヤバいだ、このタコ!」

 

 ブルーノはもう一発カリストロを殴りつけた。収まりがつかなくて、更にもう三発殴りつけたが、その間もなすがまま、顔の周りを腕で庇って痛みに耐えている。

 その身体は震えているように見えた。

 流石に妙だと思って、ブルーノは心持ち優しい声音で聞いてみる。

 

「なぁ、お前。一体どうしたんだ? ここ来る前は、楽しみにしてただろ、うぜぇくらいによ。何だって今は怯えてるんだよ」

 

 カリストロは怯えた目のままブルーノを見返す。言おうか言うまいか迷っている様子で、口を開こうとしては閉じてしまう。それが鬱陶しくて更に一発殴りつけた。

 

「いいから話せや!」

「うっ、はい……。今日、昼間時間あったんでジングー行ったんです」

「あー? どこよ、それ。日本の町の名前か?」

「いえ、教会みたいなものです。日本の神が奉られてて、場所によってジンジャとか名前変わるんですけど」

「あー、ジンジャな。病気治ったりするんだろ? 嘘クセェ」

 

 ブルーノはまたも鼻で笑ったが、カリストロはその腕を強い力で掴んだ。

 振り解こうとしても離さず、目を見れば血走ったものが浮かんでいた。

 

「そこで見たんです、親と一緒で子供の顔が真っ赤で、きっと風邪か何かやったんだろうなって。家で寝てろって思ったんですけど、ハイデンとか言う場所行って祈ったら、本当に顔色がケロっと良くなっちまってるんですよ!」

「お前、単細胞の馬鹿かよ! そういうのな、あたかも本当っぽく見せる為に雇ってる役者だよ。お前みたいな観光客が、わぁ本当にあったんだ! って思わせる為にな。そうやって日本人はインチキやってんだ、ずーっと!」

 

 ブルーノが吐き捨てるように言って手を振り解くと、そこに追いすがって更に腕を掴んでくる。

 

「違うんですよ、そいつら一人だけじゃなくて、もっといたんです。沢山いたんですよ!」

「だからなんだ、役者が沢山いちゃいけねぇのか!」

「まだあるんです。林の中で狼を飼ってて……」

「日本人は馬鹿ばっかりかよ! 狼なんて肉の味覚えさせたら、人間だって襲うだろうよ!」

「違うんです!」

 

 カリストロの力は尚も強くなり、ブルーノはその手を振りほどけない。目の血走り具合は異常で、口の端から唾を飛ばして言い募る。

 

「家みたいにでっけぇ狼が出てきたんですよ。白くて、デカくて、尻尾が八本もある! そこにいた奴ら全員、頭下げて神様に祈り捧げるみたいになって!」

「でかいからって神様かよ! ハリボテのセットとか、考えりゃ別に幾らでも方法あるだろ! お前遊園地ぐらい行ったことねぇのか!」

 

 いよいよテンションがおかしくなったカリストロの手を、遮二無二腕を振るって、その拘束から逃げ出す。ブルーノの息も荒くなって、皺になったスーツを伸ばすために撫で付ける。

 

「神々しいって、俺……初めて思って。神の威光とか全然分からなかったけど、自然に頭下がちまったんです。そうするのが自然だって思えて……。ああいう風に神様に守られてるんなら、そりゃ悪いことしねぇだろうなって……治安がいいのもおかしくねぇって」

 

 ブルーノは鼻で笑う。荒い息のままタバコを咥え、落ち着かない気分のまま煙を肺に送った。

 

「ああ、そうかい。それでブルっちまったか? 悪いことしてると、神様が罰しますって?」

「俺、曾祖父ちゃんの言葉、思い出しちまって……。日本人に関わるな、石を投げるな、雷落ちるぞって……」

 

 今にも泣き出しそうな声を出す舎弟が、今は心底煩わしかった。

 ブルーノも何度も足を踏み変え、左右を意味もなく見渡してタバコを吸う。舎弟の馬鹿が感染ってしまったかのように、心の落ち着きがどこかへ行ってしまった。

 

「お前がどう思おうと勝手だがな、取引は成功させなきゃ俺の頭に風穴が空く。いいか、何も難しいことはねぇ。渡すモン渡して、受け取るモン受け取る。それだけだ、五分で済む」

「ああ、でもアニキ……」

「でもじゃねぇよ。睨みを利かせろ、舐められるな。こっちが格上、あっちが格下だ。何も難しい事はねぇ。万が一に備えてスナイパーも用意してある。俺達が逃げるような破目になったら、追ってくる奴らは認識するより前に頭撃ち抜かれる事になる」

 

 ブルーノはタバコを投げ捨て、そして改めてカリストロの頭を叩く。舎弟を慰める為の痛みが伴わない程度の強さで、何度か叩いた。

 

「大丈夫だ、何の心配もねぇ。何の問題もなく帰って、ボスの機嫌が一つ良くなることしてやろうや」

「はい、アニキ……」

 

 ブルーノはもう一度軽く叩いて、頭を撫でくるつもりで左右に振る。

 カリストロもなすがまま、今はもう落ち着いた様子を見せるが、その心情はまだ荒れ狂っている最中だろう。取引まで時間があって良かった。

 取引が()()()()()()()お陰で、急遽埠頭に待機する事になったが、これで何とかなりそうだ。

 

 ブルーノは改めてバンに背を預けて空を仰ぐ。

 日は傾き始め、夕方も近い。現在夕方五時十五分、少し早く向かっても日本人なら既に待っているかもしれない。

 ブルーノはブツの確認をする為、黒いバンの後部ドアに手をかける。一応周囲を確認した後、窓をマジックミラーで塞いだ両面開きのそれを、乱暴な手付きで開け放った。



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追逃走破 その8

あーるす様、えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 ユミルが倉庫内に身を忍ばせてみれば、中にいたのは年嵩の男が一人、そして腹心らしき男が二人だった。屋根の上から見たとおり、壁際に立っている男たちは屈強な身体を背広の中に詰め込んでいる。

 そして不思議に思うのが、何に使うものか不明なお面らしきものを、誰もが腰にぶら下げていた。

 

 壮年の男がヤクザのボスなのは間違いない。オヤジと特殊な呼ばれ方をするリーダーで、今回の取引へ直々に行くような熱の入り方らしい。

 実際、取引の多くは組織の頭が直接顔を見せて動く事は珍しい。大抵は信頼できる部下など、組織の重要な役職につく者などに任せるものだ。

 

 それでも今回、ヤクザのボスが動いたのは、取引相手が自分たちよりも余程の大物であったという事が一つ。もう一つに、誠意を見せる必要があり、今後も良い取り引き相手で有り続けたい事を印象づける為であったという。

 

 共に連れている部下の数も少ないように見えるが、ゾロゾロと引き連れても、それはそれで相手を信用していないように取られてしまう。

 伏兵はいるにしろ、好印象を持たせるなら表に出す人数は少ない方が良い、という判断だろう。

 

 ボスは何事かをがなり立てて、壁際の男たちへ説教めいた事を言っているようだ。落ち着きなく左右に歩く傍らのテーブルには、麻薬らしきものが敷き詰められたケースがある。

 

「あれが取引に使う物ってコト……?」

 

 それにしては無造作に置きすぎなような気もするし、更に言えば何か違和感がある。その違和感を咄嗟に言語化出来なくて、ユミルは物陰に身を隠したまま様子を探る。

 少しずつ距離を縮めていくにつれ、その話し声も聞こえてきた。

 オヤジと呼ばれるヤクザのボスの、吐き捨てるような怒鳴り声が壁際の男たちにぶつかる。

 

「くそっ! まだ腹の虫が収まらねぇ、約束の半分だと!? 駄目なら話は無しだと!? あの馬鹿息子がメンツ潰すから、こんな足元見られるような真似されなきゃならん!」

「オヤジ、落ち着いて……」

「落ち着けるか! あのマカロニ野郎ども、海外進出の足がかりに使うと分かってるから、あんな強気でいられる! 外でシノギ作ったら、あんな所は即捨てる!」

「分かってますって、今だけです。今だけ辛抱すれば……」

 

 ユミルはその会話を聞きながら首を捻っていた。

 今の遣り取りから推察すると、まるで取引が終了しているように聞こえる。しかし、取引時間は一時間後だと聞いていた。

 ユミルが黙考を始めた時、男たちから聞き捨てならない言葉が聞こえた。

 

「市蔵の兄貴からも、まだ連絡ありません。もしかしたらガサ入れでもあったんじゃ?」

「怪しい動きはあった。だから一時間、取引を早めたんだ。おい、市蔵に連絡してみろ」

 

 それを聞いて、ユミルは自分の持っているスマホが、その市蔵の物だと思い出した。相手がコールするよりも早く、懐から取り出して握り締める。液晶はヒビ割れ、形も歪に圧し折れたが、その音が予想以上に大きく響いてしまい、男たちの注目を集めた。

 

 ユミルは顔を皮肉げに歪める。

 スマホから音を出させない為に、音を出させていては世話はない。

 

「――誰かいるのか!」

 

 音を頼りに男たちが動くのを感じて、ユミルはこれ以上、隠れ続けるのは無意味だと判断した。予め施していた魔術を解放して、ユミルは更に奥へと引っ込む。影に隠れ、その姿を完璧に隠蔽させると、そこから観念したように両手を挙げて一つの影が歩み出てくる。

 

 男たちは突然姿を現したユミルに驚愕したが、即座に脇下辺りへ手を入れて銃を取り出した。片手で扱えるハンドガンタイプで、ユミルはそれについて詳しくはないが、凄まじい速さで鉛玉を打ち出すものだとは知っている。

 ユミルはそれに頓着せず、無防備を晒したまま近付いていく。

 

「えーっと、何だったかしら? 一時間、取引を早めたって?」

「何だコイツ、一人か!?」

「馬鹿野郎、お前! 一人で出てくる女を信用するな、使え!」

 

 ボスが指示を飛ばすのと同時、全員が腰につけている仮面を顔に装着した。やけに目の部分が大きい、口元にノズルのような何かが着いた、奇妙な仮面だった。

 それと同時に、足元に筒状の何かが転がってくる。武器のようにも見えないし、武器のつもりで投げたのなら、そもそも当てなくては意味がないだろう。

 

 何のつもりだ、と首を傾けると、その筒から凄まじい勢いで煙が吹き出してくる。

 視界を奪う為というなら、なるほど効果はあるかもしれない。煙を吸い込むと喉の奥に刺激があって、それでこの煙がどういうものか察しがついた。

 

 ユミルは殊更苦しそうに身を屈め、盛大に咳をして見せる。

 男たちが棒を片手に近付いて来て、そして屈んだ背中に一撃を加えた。それだけでは飽き足らず、更に一撃、止まることなく二人がかりで何度も棒を振り下ろす。

 

「オラ! やれ、やっちまえ!」

「くらえ、おら! オラ、てめぇコラ!」

 

 煙が晴れるまで殴りつけ、すっかり消えた頃には、気絶し打ちのめされ、ボロボロになったユミルが出てきた。男たちはシュコーという、奇妙な呼吸音をさせながら肩で息をしながらお互いを見つめる。

 ボスは自慢気に二人へ目配せしながら尊大に笑う。

 

「な? だから言ったろうが。単身乗り込んでくるような女は、大抵神宮勢力だ。銃弾なんて意味がねぇ、だがガスならよ、アイツらも躱せねぇし効果も抜群よ」

「ええ、確かに……。でも勿体ねぇ、いい女だったのに」

「まぁな、だが良く見りゃ、コイツ……」ボスはユミルの顔を覗き込む。「誠二をやった女じゃねぇか。ま、そういう意味じゃ……やりたくもなかった仇、討ってやった事になるか」

 

 背広の男二人は互いに困惑した様子を見せ、それから伺うように身を屈めた。

 

「でも、どうします。神宮勢力の女、こんなにしちまって……。すぐにでもコンクリに埋めて海に捨てますか?」

「それしかねぇな。何も見てない、知らないって事にするしかねぇ。このタマなら随分稼げただろうに、勿体ねぇ」

「海が近くて幸いでした、楽できますよ」

 

 違いねぇ、と誰もが笑った時、男二人が突然膝から崩れ落ち、肩をぶつけながら床に転がる。顔に装着していたガスマスクも風に飛ばされたように吹き飛び、そして遠くで落下音が聞こえた。

 身構えるのと同時、ボスの顔からもマスクが取れて遠くへ飛んでいく。

 

 何が起こった、と思っていると、男たちの傍に、先程の女が無傷の姿で現れた。

 両手で円を描くように広げていき、最後に天秤を模すような形で動きを止める。満面の笑みを浮かべて、明るい声音で高らかに言った。

 

「サプラ〜イズ!」

 

 ボスはユミルが言っている意味が分からず、困惑した顔つきのまま銃を突きつける。床に倒れている筈のユミルを確認しようと視線を向けても、そこには何もいない。

 先程確かに見たはずの顔、ぼろぼろに打ちのめされた身体、それがまるで魔法のように消えていた。

 

「あら、意味分からない? やっぱりねぇ……大体の人はこれ、喜んでくれないのよねぇ」

 

 不思議ねぇ、と笑うユミルだが、しかし向けられた銃は何も飾りではない。

 無防備に晒す頭と胸、腹めがけて銃弾が飛んでくる。

 しかしそれは、左右へと俊敏に移動する事で難なく躱した。

 一歩、二歩と無造作に近づき、ユミルは構えられた銃口をしげしげと眺める。そして、興味深そうに顎の下に手を当てた。

 

「へぇ、本当に速いのね。連射も効くし、便利なのかもね。当たればだけど」

「お、お前……、どうやって!?」

 

 聞きたいのは銃弾を躱した方か、それともガスで倒れて打ちのめされた方か。

 ガスの方は簡単で、そもそも姿を見せて接近させたのは幻影の方だ。煙の刺激から推察して咳き込んでみせたのも演技で、倒されて見せたのも演技だった。

 

 満足した男どもを後ろから昏倒させて、姿を隠蔽させたまま仮面を剥ぎ取り捨てていった。同じ事をもう一度されたとしても、その程度の毒ではユミルに効果がない。

 それは隠れていた場所にも流れ込んで来たガスから経験済みだった。

 

 あれはユミルに効果がないものの、アヴェリンなどには通用する可能性はある。だから念の為と思い仮面を剥ぎ取って、反撃に移った。

 銃弾の方はもっと簡単だ。

 あれは確かに速かったが、あの程度ならユミル程度でも十分躱せる範疇でしかなかった。

 

「……んー、説明してもいいんだけど、そういうの今求めてないのよね。さっさと教えてほしいのは、こっちの方なのよ」

 

 ユミルは一足飛びで接近し、ボスの首を掴み、力任せに持ち上げる。

 足が地面から離れ、バタつかせるも意味はない。銃口をユミルの額に当てて引き金を引いたが、それすら銃口を額で逸らされ壁に弾痕を刻んだ。

 ユミルは力任せにボスの顔を引き寄せ、その瞳を覗き込む。

 

「――ほら、何だって? 取引時間がどうだのと、詳しいコト話しなさいな」

 

 

 

 ユミルは自身が遊び過ぎた事を自覚し後悔した。

 思えば机の上にあったものが麻薬だった時点で気付くべきだった。ヤクザが用意するのは刀で、その代わりに受け取るのが麻薬という話だったのに。

 それがここにある以上、取引は済んでいたと考えるのが妥当だ。

 

 そして、倉庫に入る前に背後を通り過ぎていった黒いバン。

 あれこそが取引相手であるイタリアンマフィアの車で、受け取った刀をどこかへ移動させる途中だった。車自体は目立たないよう、取引現場からは離して置いてあったらしい。

 

 取引がまだ始まっていないと思っていたから、見逃してしまったのは仕方ないとはいえ、もう随分遠くまで移動した筈だ。

 同じ港から船に乗り込み帰る訳ではなく、どこか別の場所から帰国するらしい、と情報を聞き出したが、それがどこかまでは知らされていなかった。

 

 ユミルは盛大に舌打ちして、腹いせで男たちに軽めの電撃を何発も打ち込む。痛いし火傷もするが、命に別状はない。精々、気絶している時間が伸びるだけだ。

 

 ユミルは倉庫の扉を力任せに開け放ち、外へ飛び出ると上空に向かって幻術を飛ばした。

 いつかアキラに使ったような、派手な光と音が出るだけの見せかけの術だが、こういう場合には役に立つ。

 

 二秒と待たずにアヴェリンがやって来て、そしてその背後にはミレイユも含め全員が揃っている。彼女を前に失敗を報告するのは気が引けるが、しかし言わない訳にもいかない。

 

「どうした、何があった」

「コイツら取引時間、ちょいとばかし早めてたのよ。襲撃したのを不審に思って、中止するより早めに終わらせて逃げようと思ったみたい。もう既に終えていて、相手もここから逃げ出してる」

「何だと?」

「ソイツらは黒いバンに乗ってる。車の後ろが開くようになってて、窓の部分が鏡みたいになってたわ」

 

 ミレイユは難しそうに顔を顰めた。

 

「マジックミラーか。しかし、それだけじゃな……」

「探知しようにも、その黒いバンっていうのが私にも分かりませんし」

 

 ルチアも困ったように眉根を寄せた。

 しかしそこで、ユミルに閃くものがあった。

 

 ――まだ腹の虫が収まらねぇ、約束の半分だと!?

 

 奴らは取引する物品の半分しか渡さなかった。元より約束の半分しか渡すつもりがなかったのか、それとも直前になって半分にしたのか、そこまでは分からない。

 しかし、もし直前で半分だけ渡す事に決めたのなら、それはバンの中に残っているのではないか。

 ユミルは倉庫の中に引き返し、麻薬を乱暴に掴み取って即座に元の場所に戻っていく。

 

「ルチア、取引相手の車には、これと同じ物が載っているかもしれない。これを元に探知するコトって出来ないかしら」

「もし載っているなら可能でしょうね」

 

 言うや否や、ルチアは右手で麻薬に触れ、左に持った杖を空に掲げる。すると、杖の先に光が灯り、一つの方向を指し示した。

 

「当たりです」

「――アヴェリン!」

 

 ルチアがしてやったりと笑みを浮かべるのと、ミレイユが名を呼ぶのは同時だった。

 アヴェリンはルチアの腰に手を回し、持ち上げると同時に駆け出す。アキラはどうしたものかとアヴェリンとミレイユを交互に見返し、ミレイユが指を外に向ける事で後を追う。

 

 ミレイユはユミルから麻薬を受け取り、魔術を使って倉庫の中へ放り込むと、小さく笑って目を合わせてきた。

 

「珍しくやらかしたじゃないか」

「ま、たまにはね。でも咄嗟の機転で乗り切ったでしょ?」

「そうだな、良くやった」

「もっと褒めなさいよ」

 

 ユミルは頭をミレイユの胸に押し付け、グリグリと捻る。

 それではいはい、と雑に頭を撫でると、ミレイユの肩口に乗ったフラットロが威嚇するような唸り声を上げた。

 嫉妬しているのだと分かってその背を撫でながら、アキラにしたのと同じように指を外に向けた。

 

「それじゃ、後を追うという事でいいか?」

「楽な方でお願いね」

「じゃあ、お前は隠蔽を使ってくれ」

 

 そう言ってミレイユは笑い、魔術の制御を始める。紫の光が手の平を纏い、次に拳を握った時、ユミルもまた魔術の制御を始めた。

 



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追逃走破 その9

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 ミレイユがアヴェリンの現在位置へと移動した場所は、見覚えのない車道の真ん中だった。移動が完了した直後には見えていたアヴェリンの背も、今では既に遠くなっている。

 移動中と分かっていたとはいえ、車道に降り立てば当然自分の脇を車が通り過ぎていく事になる。その事実を完全に失念していたミレイユは、今もまた通り過ぎていく車を見送りつつ地を蹴った。

 

「ちょっと、これ下手すれば車に轢かれてたじゃない」

 

 ユミルの抗議も捨て去る勢いでミレイユは走る。

 隠蔽魔術が効いているお陰で、車を追い越していっても不審に思うドライバーはいない。肩口に乗ったままでいるフラットロが、必死にしがみ付いている姿も目に映ってはいないようだ。

 

 内向魔術を極めたアヴェリンの速さに追いつくのは、実際簡単な事ではない。

 ミレイユは走り続けながら魔術を行使し、自らの身体能力を強化する。すぐ後ろを着いてくるユミルにも、同様の魔術を使ってやった。

 

 それで一気に速度が増して、アヴェリン達の背が見えてくる。

 ルチアに先導されて走るその後ろには、意外にもアキラが食い付いていた。必死な形相ではあるものの、あの速度に置いていかれる事なく走るというのは素直に賞賛してもいい。

 

 予想外の収穫を見た気分で、ミレイユはアキラの隣に並ぶ。ギョッと顔を逸らすのと同時に、ホッとして顔を戻した。相変わらず表情の変化が忙しい奴だ、と思いながら、アキラにも魔術で支援してやる。

 

 そうすると目に見えて表情が綻んでいき、安堵の息を吐いて礼を言ってきた。

 

「ありがとうございます、ミレイユ様」

「ああ……。お前、意外に足速いんだな」

「誰にでも、一つくらい取り柄があるものよね」

 

 ミレイユの素直な褒め言葉も、ユミルの軽口にアキラが顔をムッと顰めた。

 前方を見ると、十字路を曲がるアヴェリンが跳躍して電柱に手を回し、速度をそのまま維持して曲がっていくところだった。

 

 ミレイユは感心すると共に呆れもしてしまう。

 これだけの速度で走れば、問題は交通量の激しい現代の道路でどう曲がるかという点だった。下手をすれば玉突き事故になるので注意しなければならない。

 それをああいう力業で曲がってしまうのだから、内向魔術士というものはつくづく侮れない。

 

 アキラもアヴェリンに続いて同じ様に曲がるので、ミレイユも試しとやってみたのだが、童心に帰った気持ちになって若干楽しい。

 ユミルは外向魔術士らしく、空中に長方形型の防御壁を張って、そこへ反射するように蹴りつけて十字路を曲がった。

 

「もっとスマートにやりなさいよ」

「ごもっとも」

 

 それは言うとおりだと思うので、ミレイユは素直に頷いた。

 前方にいたアヴェリンは、目的の黒いバンへ追いついたようだった。ルチアは空中に放り投げられたが、そのルチアは動揺した素振りなく着地した。

 特に遅れるような事もなく、アヴェリンに数歩遅れて並走を続ける。

 そこでアヴェリンは横合いから車を殴りつけ、横転させようとした。

 

「走行中にしなくてもいいでしょ」

「それも、ごもっとも」

 

 ユミルが呆れるように言って、ミレイユが同意した。ちらりと見れば、アキラも引き攣った笑みを浮かべている。

 

 車の車輪は道路から浮き上がり、数秒の方輪走行の後、再びタイヤが路面を噛む。タイヤの擦れる音と共に、バランスを立て直そうと車が蛇行した。

 車内にいる誰かの叫ぶ声が聞こえる。それは突然ハンドルが取られた事に対してというより、何者かに襲われた事に対する悲鳴のように聞こえた。

 男の一人が窓から身を乗り出して、明らかにアヴェリンを視界に収めている。攻撃された事で襲撃者を強く意識した為、隠蔽の魔術が途切れてしまったのかもしれない。

 

 男は一度車内に顔を引っ込めると、今度は体ごと身を乗り出して、アヴェリンに拳銃を突き付けた。一拍の間の後に三度発砲されたが、そのどれもがアヴェリンが手の平で受け止めてしまう。

 

「――う、撃った!?」

「なんだ、映画のように派手な音は出ないんだな」

「言ってる場合ですか!?」

 

 ミレイユの場違いな感想は、アキラの真っ当なツッコミで流された。

 

 その間に車は信号を無視して急カーブし、アヴェリンから逃げ切ろうと暴走を始めた。

 突然の暴走車に周りの車は混乱し、急ブレーキを踏んだり急ハンドルを切ったりで、事故は免れないように思えた。

 

「アヴェリンはそのまま行け! アキラ、お前もだ!」

「りょ、了解です!」

 

 ユミルに目配せすると、心得たとその瞳が語っている。

 ミレイユは一つを念動力で空中に浮かせ、電柱へぶつかる前に車を止めた。もう一つを自力で受け止め、後方に流されながらも慣性を弱めて停車させる。

 ユミルはぶつかる前に防御壁を器用に並べ、衝撃を逃しながら走行させて安全な場所へ誘導させた。

 

 怪我人はなく、大きな事故もない。

 助けられた人々は何が起こったか分からないようだったが、とにかく無事で怪我もなく事故も防げた。それを確認し、ミレイユ達は再度走り出す。

 

「まぁね、そりゃこうなるわよ、って話よね」

「一撃で止められていれば違ったんだろうが……。手加減しすぎて止められなかったな、あれは。やり過ぎると殺してしまうし」

「殺すな、っていうアンタの命令を守った結果って?」

 

 苦い顔で頷くと、前方にアヴェリン達と暴走する黒いバンが見えてきた。

 今のところ、さっきのような事故はまだ起きていないようだが、それも時間の問題だろう。そう思っていると、おもむろにルチアが魔術の制御を始めた。

 

 敏感に察知したアヴェリンが跳ねるように前方に飛び出し、バンを追い抜く。

 アキラが目を白黒させている間に、ルチアは制御を完了し魔術を放出した。飛び出す青白い光はバンの足元――四つの車輪に当たり、急速に凍りついて制御を失う。

 

 それを前方に回り込んだアヴェリンが掴んで止め、後ろに食らいついたアキラも動きを止めようと踏ん張る。

 凍った車輪は地面との摩擦でゴリゴリと削られていったが、アヴェリンが抑えつけているお陰でその勢いが急速に失われていく。

 その動きを完全に止めると、ご丁寧に車道の外側、路側帯へと車を移動させ、そこでようやく車から手放す。

 

 車両の助手席側まで無造作に近づくと、中へ向かって握り拳を振りぬいた。

 中にいる男を気絶させたと見え、ミレイユも速度を落として近付いていく。アヴェリンは続いて運転席側へ回り込み、そこにいた男も殴りつける。その一連の流れを無視するように、ルチアが後部ドアを開けて物色を始めた。

 

 目的のものはすぐに見つかったようで、中央に紐が結ばれた随分と細長い桐箱を取り出す。

 桐箱へと手を当てて暫し、幾度か頷いてにっこりと笑う。どうやら中にあるものが、魔力付与されたものだと探知したようだ。

 戦利品を掲げるように持ち上げて、ミレイユへ振り返ると同時、横を通り過ぎたバイクが、それを掻っ攫って逃げていく。

 

「は……?」

「嘘でしょ?」

 

 思わず呆然と見送ってしまい、走り去るテールランプを見送ってしまった。

 事態を悟ったルチアが走り出そうとしたところ、ミレイユは手を挙げて止める。大声を上げつつ肩を上げ、頭の上でぐるぐると腕を回す。

 

「アヴェリン! ――追え!!」

 

 名前を呼ばれて顔を向け、振り回す腕と号令と共に指差すバイクを見て、アヴェリンは弾かれたように走り出す。既に癖となったのか、アキラもそれに追従して走って行った。

 

 バンの前まで辿り着いたミレイユは、項垂れるルチアの肩に手を置く。

 

「申し訳有りません、ミレイさん……」

「いや、仕方ない。あの状況で他に狙っている奴がいるとは思わないだろう」

「あれって、どこの勢力? 神宮の奴らが持っていった?」

 

 ユミルが思案顔で首を傾げたが、それなら一つ、今もバンの運転席にいる男に聞けば分かる話だ。他に味方がいて、何らかのフォローをする為後方にいたのかどうか。

 いたというならそれでいいし、いないというなら神宮勢力か、あるいは第三者という事になる。

 

 ミレイユは今も錯乱した声が聞こえてくる運転席へと近付いていき、中にいる男を覗き見た。そこには頭を抱え、身を縮めて屈み込む男がいる。

 車のドアは鍵が掛かっていたので、既にアヴェリンが割った窓から手を伸ばしロックを外す。ドアを開いてやれば、男は更に怯えた様子を見せた。

 その様子に頓着せず、運転席から男を無理やり引きずり出して、路上に投げ捨てた。

 

 男は怯える声を出すばかりで反撃らしいものも、抵抗らしい動きも見せない。怪訝に思いながらもルチアに監視を任せ、今も助手席でぐったりと気絶している男を見る。

 唇は切れ、口の端から血を流し、頬には大きな打撲痕がある。完全に気絶しているようで、こちらは放って置いても良さそうに思えた。ただし無防備にさせておく意味もないので、何かしら拘束する必要はあるだろう。

 

「ユミル、こいつを拘束して逃げ出せないようにしておけ」

「見た感じ、必要だとは思えないけど……ま、やれと言うなら」

 

 ミレイユの後ろにぴったりと寄り添うように立っていたユミルは、一つ頷いて処置にかかった。

 それに頷き返して無抵抗の男へ向き直る。

 

 髪は黒いが肌は白く、また顔の彫りが深い。怯えたように見返す目は青く、到底日本人のようには見えなかった。

 尋問したいと思ったが、日本語は通じるだろうか。取引する為に派遣された人材というなら扱えても不思議ではないが、そもそも日本語はマイナー言語だ。

 むしろ日本側のヤクザが英語を使って交渉していた、と考える方が自然かもしれない。

 どうしたものか、と腕を組んで考える仕草を見せると、男の方から声を出してきた。

 

「あんたらサムライか? ニンジャか……!? だから日本人はデタラメだって忠告したのに!」

「あぁ……、言葉が通じ……」

 

 錯乱しているようだが、男の言語は明快で、意思疎通に問題ないように思えた。しかしそこで、はたと動きが止まる。

 ――男の唇の動きと発する音が一致していない。

 

 これはユミル達にも言える、使う言語と発する音の違いが修正されている際に発する現象だった。あるいは単に翻訳されていると見るべきか、それとも意思から言語に変換されていると見るべきか、それは分からない。

 しかし、これは単に異世界言語を翻訳している訳ではなかった、という証拠とも思えた。

 

 奇妙な発見は置いておいて、ミレイユは男に詰め寄る。

 その頬を一発張って、襟首を掴んで持ち上げた。男の体格は良い。筋肉質で背も高く、体重が八十キロを下回っているとは思えない。それでも細腕のミレイユが軽々と持ち上げるものだから、男は驚愕と畏怖で顔が歪んだ。

 

「面倒だから素直に答えろ。あのバイクはお前の仲間か?」

「そ、そう……! そうだ!」

 

 男は苦しげに呻きながらも素直に頷く。

 

「い、色々計画があったみたいだが、俺は知らない。下っ端なんだ、詳しいことは何も聞いてない! ただ、その色々の内容は全て、何としてもカタナだけは持ち帰れるようにする為だったみたいだ……!」

「なるほど。では、事態は厄介な方に動かずに済んだ訳か」

 

 ミレイユは襟首から手を離して投げ捨てる。男はそのまま脱力し、尻から地面に落ちた。その額を軽く小突くと白目を剥いて気絶して、それでアヴェリンが消えた方を見据えた。

 ルチアが顔色を伺いながら聞いてくる。

 

「アヴェリンを追いますか?」

「任せて問題ないと思うが……」ミレイユはちらりと、不安気なルチアの顔を見る。「機会があるなら挽回したいだろうな……」

「こっち終わったわよぉ」

 

 ルチアの心情を敏感に察知したところで、処置を終えたらしいユミルが帰ってきた。そちらへ手招きしながら魔術の制御を始める。

 

「バンの後ろの座席にも、例の麻薬があるのを確認したわ」

「それじゃあ、後の事は御影本庁の奴らに任せよう。これだけの騒ぎ、すぐにでも見つけるだろう」

 

 実際、周囲では暴走車が突然の、そして不自然な動きをして停止した事で野次馬が溢れている。今は魔術の隠蔽のお陰で、ミレイユ達の姿を明確に捉えている人達は少ないが、指差して付近の人へ興奮気味に声を出している人もいる。

 長居するのも危険そうだった。

 

 ミレイユは制御を早めて魔術を完成させる。手の平に紫の淡光が揺らめき、それを握るようにして解放した。

 二人の肩に手を置くと、今は遠いバイクが消えた方向へ顔を向け、二人に向けて簡潔に告げた。

 

「――アヴェリンを追う」



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追逃走破 その10

 アキラは飛び出したアヴェリンを追って、車道外縁部を走っていた。

 前方には黒いライダースーツを着てフルフェイスのヘルメットを被った男が、肩に刀の入った桐箱を掛けて走っている。

 

 バイクは暴走していたバンよりも更に速く、そして車の間を縫うように走っていく。

 前に車があれば減速していたバンと違い、そのような制限のないバイクに追いつくのは容易ではない。また、車が遮蔽物の代わりとなってしまうのも、追いつこうとする者にとっては厄介なものだった。

 特にトラックは背が高く目標を見失いやすい。バイクもそれを狙って車線を変更しているのが分かった。

 

 アキラはミレイユから身体強化の魔術を受けた。我ながらここまで強化されたのなら置いていかれる筈がない、と傲慢になっていた事実を認めない訳にはいかなかった。

 アキラは間違いなく全力で走っている。

 だというのにアヴェリンの背に――引いてはバイクに、追い縋るので精一杯だった。

 

 バイカーの操縦技術は見事なものだった。

 素人の目から見ても曲がれないと思う速度でも上手く体重移動して曲がっていく。途中、膨らみすぎて反対車線へはみ出し、あわや正面衝突という危うい場面はあったものの、今も百キロは優に超えるスピードで爆走している。

 

 しかし、それだけの事をしても振り切れないというのは、バイカーにとっても恐怖だろう。

 アキラ達は単純な脚力でバイクを追っているのだ。振り切れて当然の相手を振り切れないというのは、長く続ければそれだけでプレッシャーになる筈だ。

 相手がミスをし転倒するか、それより前にスタミナが尽きてアキラ達が止まるか、そういう勝負になりそうだった。

 

 いや、とアキラは思い直す。

 アヴェリンの体力に限界があるとは思えない。今も車が邪魔で追い詰めきれないだけで、機会さえあれば止める事は出来るのだろう。

 殺すな、という命令さえなければ、今にも蹴りつけてバイクを横転させていたかもしれない。

 

 そう思っていると、不意にバイクが車線を変更した。

 前方には車がなく妨害に使えそうな物もない。

 

 何のつもりだ、と思っていると、どこか遠くから乾いた破裂音が聞こえた。

 それと空気を切り裂く音を耳が拾うのは同時だった。何かがぶつかる音と共に、アヴェリンの首が後方に跳ねる。

 

 まさか、と思い、同時に馬鹿な、と思った。

 乾いた破裂音が銃声だったとするなら、今アヴェリンは狙撃されたという事になる。音と着弾は同時のように思えたので、何キロも離れた場所から狙撃された訳でもないと思う。

 

 漫画かテレビで聞きかじった話によると、遠ければ遠いほど、着弾よりも音の方が遅く聞こえると言う。不規則に動く物体を数キロ離れた場所から撃ち抜くのは不可能だろうから、実際近くにいるのは自然な気がした。

 

 それよりも、考えなくてはならないのはアヴェリンの方だった。

 思わず現実逃避してしまったが、さしものアヴェリンも無事では済まないだろうと思ったのだが、首を元の位置に戻しながら問題なく走り続けている。

 

「何だ、一体……?」

「嘘でしょ!? ライフル弾くらって何だ、で済むわけ!?」

 

 アヴェリンは直撃した箇所をさらりと撫で付け、不愉快な視線を前方やや上部へ向けた。そこには五階建てのビルがあって、その屋上に腹這いで何者かが銃口を向けているように見える。

 バイクが不自然に車線を変更したのは、このスナイパーの射線を確保する為だったのだと、ようやく理解した。遮る物のない直線、ここで勝負を決めるつもりだったに違いない。

 

 アキラはアヴェリンの背後にいるので傷の具合は分からないが、出血しているようには見えないし、傷口を押えるような素振りも見せていない。

 内向魔術士は怪我に強いというような話を聞いた事があるが、その一端をまざまざと見せつけられたような気がした。

 

 勿論アキラにライフル弾を跳ね返すような真似が出来るとは思えないので、今まで以上にアヴェリンの背後から出ないよう心掛け、足を動かす。

 他にもスナイパーがいるのかどうかは分からないが、またどこか誘い込まれる前に決着をつける必要がある。

 

「師匠! これもう、どんな罠があるか分かりません! すぐにでも止めた方がいいです!」

「軟弱な事を言うな! 罠があれば食い破る! それだけの事ではないか!」

「それが出来るのは師匠だけです、僕は死にます!」

 

 アヴェリンからの舌打ちが聞こえた。

 情けない事を言っている自覚はあるが、同時に事実でもある。

 ここまで用意周到にスナイパーを配置してあるなら、誘い込まれた場所に地雷があってもアキラは驚かない。そしてそれは、アヴェリンが無事である事は容易に想像できても、アキラは為す術もなく吹き飛ぶ未来しか見えない。

 

「だがまぁ、いつまでも追い駆けるだけでは埒が明かんか!」

 

 バイクとの距離を詰めたアヴェリンに、更なるライフル弾が飛んできた。

 直撃したのに止まらないなど、狙撃手からしても理解不能な現象だろう。外したと割り切って二発目を撃つのは当然の判断だったろうが、敵の存在を認識したアヴェリンに二度目は通じない。

 

 アヴェリンはそれを手の平で受け止め、平然と弾を投げ捨てバイクを追う。チャリンと乾いた音を立てた弾丸を、アキラからしても有り得ないものを見るような目で追ってしまった。

 肉眼でライフル弾を見切るような存在がいるとは、想像もしなかった。このような相手を敵に回したというなら、それは山賊団の百個ぐらい滅んで当然という気がしてくる。

 

 ビルとの距離も近づき、射角の問題で狙いも付けられなくなった筈だ。

 バイカーはどうにかして撒けないかと、狭い路地へと後輪を滑らせながら曲がっていく。アヴェリンはそこへ直角に近い角度で曲がって入っていき、アキラは両足で踏ん張り急ブレーキをかけ、それでも止まらず両手を使って減速してから追従する。

 

 路地の中は狭く、車一台しか通れないだけの幅しかない。

 しかしそれはバイクにとっては関係なく、アキラ達にとっては尚更関係なかった。

 

 路地の奥には車が止まっていて、それが道を封鎖している。路地の片隅にはジャンプ台に利用できそうな板があって、箱を使って斜面を作っている事から考えても、予め用意されていた逃走ルートのようだ。

 元より、追ってくるなら車だと予想して、こういう逃走ルートを用意してあったのだろう。スナイパーは殺害用ではなく、パンクさせる為に使うつもりであったかもしれない。

 

 スナイパーがミスをして、それでも追いかけてくるようならこの仕掛で逃げ切るつもりだったのだろう。同じくバイクで追ってくる事は予想できたと見て、バイカーが通った後は板が外れて斜面が消えている。

 

「相手が予想以上に本気です! 用意周到すぎます!」

「だが、逃しはしない!」

 

 アヴェリンが車を飛び越えたその瞬間、直上にミレイユ達が現れた。

 埠頭に到着した時もそうだった。アヴェリンの直ぐ傍にミレイユとルチアが瞬間移動してきたとしか思えない仕方で登場したのだ。

 

 そして、ここに現れたという事は、あちらの方が片付いたという事なのだろう。

 

 ミレイユと視界が交わり、すぐ視線が外されてバイクの方へ向けられる。そしてミレイユの視線がアヴェリンとも交わる。一秒にも満たない、一瞬の意思疎通。

 そして、直後の判断は速かった。

 

「引き剥がせ!」

 

 ミレイユが一声かけてアヴェリンの背中に手を当てると、丸まるように縮めたその身体が弾丸のように飛び出していく。重力を無視した直線移動で、あっという間にバイクへ追いつき、バイカーの首を鷲掴む。

 バイクから引き抜くように腕を振るうと、何の抵抗もないかのように、バイカーがバイクから引き剥がされた。

 

 振るった勢いのまま手を離し、バイカーの身体が宙に浮く。

 弧を描くように地面へ落下しようとしたところを、ミレイユが空中で器用に反転して足を伸ばす。

 

「――ユミル!」

「はいはい」

 

 爪先辺りにユミルが足をかけると同時、回し蹴りの要領でユミルを蹴り飛ばした。

 そのタイミングでユミル自身もミレイユの脚をカタパルト代わりに蹴り出し、バイカーが落下するより前で空中で捕まえる。

 

 運転手を失ったバイクが横倒しで落下しそうになっているところを、制御の終えたルチアが魔術を放つ。霜の塊のようなものがバイクへ迫り、狭い路地の壁面を利用して左右から伸びた霜の柱で縫い留めた。

 地上から一メートル程の高さで宙吊りになった物の上にアヴェリンが降り立ち、バイカーを捕まえたユミルもまた、危なげなく着地する。

 

 そこに少し遅れて更に体勢を整えたミレイユが、ルチアを腕に抱きとめ、通路を塞ぐ車の上に着地する。車の屋根に乗った事で、ボゴンと鈍い音を立てた。

 その、五秒に満たない出来事に、アキラは我も忘れて魅入ってしまった。

 

 視線一つの遣り取りで、あそこまで動く事が出来るのか、という感動。

 そして一声上げるだけで、あそこまで連携が出来るのか、という思い。

 それらの気持ちが綯い交ぜになって、凄いものを見てしまった、と胸に熱いものを込み上げながら車の前で足を止めた。

 

 ミレイユがルチアを腕から降ろし、アキラがいる方とは逆側に下りていく。アキラも車を飛び越えてその近くに立った。

 アヴェリンとユミルもやって来て、暴れようとするバイカーに、ユミルがヘルメットの上から無造作に殴りつけた。激しい音が聞こえて、それでぐったりと動かなくなったバイカーを地面に落とす。

 肩に括り付けるように下げてあった桐箱を、ようやく取り戻してユミルが重く溜め息を吐いた。

 

「全く、やれやれね……」

「随分と手こずらせてくれたが、まぁこんなものだろう」

「そこまでする価値あるのかしらねぇ」

 

 アヴェリンが吐き捨てるように言って桐箱を睨み付け、ユミルはひょいひょいと箱を上げ下げさせて呆れたように言った。

 一応中身を確認し、そこに刀がある事を確認する。付与された魔術も確認できて、間違いなく神宮勢力が神刀と呼ぶものだと分かった。

 弛緩した空気が流れたが、そこに申し訳無さそうにルチアが頭を下げた。

 

「……ご迷惑おかけしました」

「さっきアヴェリンが言ったとおりだ、相手が一枚上手だったし用意周到だった。もしかすると、最初から取引はしないで奪うつもりですらあったかもしれない」

「襲撃者を想定していた、というより、そっちの方がずっと説得力ありますね」

 

 アキラはミレイユの意見に賛成だった。

 襲撃が有ると想定する事はあっても、だからといってスナイパーを取引現場から離れた場所に配置するものだろうか。明らかな逃走ルートを考慮しての配置だったように思うし、そうだとしたら最初から逃げるつもりがあったとしか思えない。

 

 とはいえ、それは別にアキラ達にとってはどうでも良いことだ。

 何にしてもあまりに疲れた。今日はずっと走り通しで、汗もかいたし喉も乾いた。危険な目にも何度となく遭った。

 もう帰って寝てしまいたい気分だった。

 

「それじゃあ、目的も達成できたし、帰るとしよう」

「まぁね、結構楽しめたわよね」

 

 ユミルの口調はどこまでも明るい。アヴェリンはそれにムッとした表情をして見つめ、ルチアは苦笑してそれを見つめる。

 ミレイユからも苦笑する雰囲気が伝わって、それで全員が路地から出ようと足を踏み出した。

 

 ――その時だった。

 一瞬にして辺りの雰囲気が一変した。

 



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追逃走破 その11

grashis様、誤字報告ありがとうございます!
 


 それまであった喧騒や車の走行音が突然消え、地面に下ろした筈のバイカーも消えていた。

 ミレイユは周囲を見回し、眉根を寄せる。

 

「結界か……」

「勘弁して下さいよ……」

 

 アキラが情けない声を上げて、その場にへたり込んだ。今日一日、何かと精神的体力的消耗の激しかったアキラだから、そのような反応はむしろ当然だった。しかし、アヴェリンにとっては違ったらしい。

 

「不甲斐ない真似を見せるな! ここは戦場だぞ!」

 

 その一言でアキラの顔付きが明らかに変わる。立ち上がり、シャンと背筋を伸ばしてアヴェリンの顔を見つめ顎を引く。

 

「申し訳ありません、弛んでいました!」

「それでいい」

 

 アヴェリンも満足気に頷き、腕を組む。

 戦場というのは間違いでないが、今日の所はアキラに出番はないだろう。何しろ未だに個人空間を展開できない上に、武器を携帯していない。このままでは戦えと言われても戦えまい。

 

 しかしそれより前に考えなくてはならないのが、これが自然発生したものか、それとも人為的に発生したものか、という点だった。

 タイミングを考えれば――。

 

「非常に作為的なものを感じるな」

「やっぱり?」

「ヤクザの事務所の時と同じだ。タイミングを計って展開したと考えるのが妥当だ」

 

 ユミルの疑問に返答しながら、ミレイユは路地から離れて通りに出る。

 そこで左右を見渡して見ても誰の姿もない。てっきり神宮勢力の兵隊が待ち構えていると思ったのだが、当てが外れた。

 

 そして同時に、結界の堺がごく近くにある事にも気が付いた。

 大きさとしては普段よく目にする範囲と違いがないように見える。別にそれはどうでも良いのだが、相手も作戦は変えてきたという事だろうか。

 結界の境まで短ければ、それだけ速く脱出できるという事でもあるのだが。

 

 どうにも不意に落ちない気持ちでいると、ふと気配を感じて通りの向こう、十字路部分が目についた。

 

「ちょっと、アレ……」

「ああ……」

 

 そこには良く見慣れた孔がある。脈動するように動き、そして一際大きく開いたかと思うと、一つの魔物を吐き出してくる。

 

 黒い体毛に覆われた、人より遥かに大きな獣人だった。

 正確には頭だけが角の生えた牛であり、それ以外は人に近い体型をしている。筋骨隆々で、首から胸にかけて、そして下半身が体毛に覆われ、両手で抱える斧を持つ。目は血走り、歯ぎしりするように噛み締めた口の端からは、ダラダラと涎が垂れていた。

 

 それが一匹、また一匹と、次々と吐き出していく。

 それが遂に五匹に達した時、孔はやるべき事はやったと言わんばかりに、一度大きく脈動してから消えていった。

 

「これってどう見るべき? アタシ達ハメられた? それとも偶然?」

「さて、どっちだろうな……」

 

 ユミルと緊張感のない会話をしていると、敵がこちらに気が付いた。斧を振り上げ、大口を開けては空を見上げて咆哮する。

 

「ブモォォォオオオ!!」

 

 一匹が咆哮すれば、一匹、また一匹、更に一匹と咆哮を始める。猛り狂った闘牛のように、目を血走らせながら地面を足で搔く。

 

「ほら、アキラ。新しいお友達よ」

「――無理ですよ!」

 

 ユミルが笑顔で手の平を向けた。

 アキラは今にも突進を始めそうな魔物から目を逸して、胸の前で腕を交差しバツ印を作る。

 

「ホント無理ですって! 僕はいま武器なんて持ってないんですから! それに初めて見る相手な上に、とても戦える状態じゃないですし!」

「アヴェリンから何か一言は?」

 

 腕を組んでいたアヴェリンは、そのままの姿勢で首を傾けた。

 

「確かに無手で挑めというには酷かもしれん」

「それじゃあ……!」

 

 アキラは顔を綻ばせたが、続く言葉で表情が固まった。

 

「だが、あちらは五体いるんだ、とりあえず一体倒せればいいんじゃないのか」

「あら、出血大サービスね。……誰がどれだけ出血するかは置いといて」

 

 敵とアキラを見比べながら言ったユミルの言い分に、ミレイユは思わず笑った。

 そこへアキラが縋るように近付いてくる。

 

「いやいや、笑っている場合じゃないですよ! あんなのと戦ったら、あんなの……あれって何て名前の魔物なんですか?」

「見たとおりだ、ミノタウロスだな」

「絶対、強い奴じゃないですか!」

 

 アキラの上げた悲嘆の声に、ミレイユは大いに頷く。

 

「お前がどれ程あれを知っているつもりかは置いといて、実際あれを倒せるかどうかが中級冒険者との境目になるだろう。五体まとめて倒せるようなら、上級者を名乗っていいぞ」

「無理ですって、武器もないのに!」

「……ならば、武器があれば挑むというのだな?」

 

 アヴェリンが実に挑戦的な眼差しをしているのを見て、アキラは顔色を悪くした。己の失言を悟ったようだ。今の言い分では、まるで武器さえあれば敵に挑むかのように聞こえてしまう。

 しかし、ミレイユの見立てではまだ一人で相手にする事は勿論、勝ちを拾う事すら怪しく思える。

 

 それでもアヴェリンは弟子の限界を越えて、更なる挑戦を突き付けたいらしい。

 ミレイユは、それをやんわりと制止した。

 

「他の四体が黙って見ているとは思えない。その懸念が拭えないなら無闇にぶつけるべきではないだろう」

「み、ミレイユ様……!」

 

 胸の前で両手を組み合わせ、祈るように見上げてくるアキラはこのさい無視しておく。だが、そこへ予想外の闖入者が現れた。

 

「できるよ! 四匹くらい相手にできるよ!」

「へ……?」

 

 アキラが間抜けな声を出す傍ら、ミレイユの肩に乗っていたフラットロが顔を突き出して言ってきた。その目にはやる気に満ちた表情と、期待する視線とがある。

 

「あんな奴ら簡単だ! 少しからかってやれば、すぐに追い回してくるもんね!」

「うん……、だが四体だ。一つ残らず注意を引くんだぞ、出来るか?」

「できるよ! 簡単にできるよ!」

「じゃあ、任せてみるか」

 

 ミレイユが言うと、フラットロは飛び上がって空中を走り回った。ミレイユ達の頭上を一回りして、それからまたミレイユの腕の中に帰ってくる。

 フラットロの機嫌は最高潮だが、それとは正反対に顔を青くさせたのはアキラだ。

 

「え、やるんですか、本当に? 武器もないのに!?」

「武器ならある」

 

 ミレイユが手の平を上にして腕を伸ばすと、アキラに突き付けるような形で刀が出てくる。抜き身の刀身が光る一品で、それを器用に回転させて二本の指で刃を掴む。

 柄をアキラへ差し出す形になり、アキラは刀とミレイユを交互に見比べた。

 

「見てないで早く受け取れ。持ち重りがするかもしれないが、そう違いはない。すぐに慣れるだろう」

「本当に? 本当にやらないといけないんですか……!?」

 

 尚も食い下がろうとするアキラに、アヴェリンはその頭を鷲掴んで無理やり向かせる。

 

「私はお前に何を教えた? 疲れて動けない時だからとて、武器を振るわねばならない時もある。己の命を守るため、己の命より大事な物を守るためにな」

「ででで、でも……!」

 

 珍しく抵抗の意志を崩さないアキラに、見兼ねたらしいユミルが笑って助言する。

 

「アンタね、前にも言ったじゃない。出来ない事をやれとは言わないのよ。やれるんだから、やってみなさいな」

「そ、そうですかね……?」

「まぁ、腕一本くらいは覚悟しておく必要あるでしょうけど」

「やっぱり、そういうやつだ……!」

 

 アキラが嫌々と首を左右に振って拒絶を示すが、ミレイユは無理やりにでも刀を握らせる。頬を両側から掴むようにして軽く叩き、その目を正面から見据えた。

 

「――やれ。届かないとしても、明日届かせる為に動くんだ。死にはしない」

「う、う、はい……!」

 

 顔を赤くして意気軒昂に頷くと、ミレイユも頷いてその手を放す。

 フラットロが威嚇するようにアキラの近くを周回して、それからミレイユの方に向き直る。

 

「もういい? やっていい?」

「ああ、いいぞ。上手い事やってくれ」

 

 ミレイユの一言で嬉しそうに飛び上がり、一直線に駆けていく。

 見た目が小さな狼犬のようにしか見えないから微笑ましく思えるが、実際じゃれつかれる方はたまったものではないだろう。

 アキラにも頼りなく見えたのか、恐る恐る聞いて来る。

 

「あの、大丈夫なんですか? その……あんまり強く見えないですし」

「あれは小精霊だから、確かに強くはない。それにミノタウロスは炎に対して強い抵抗を持つから、フラットロとは相性が悪い」

「あ、火の精霊なんだ……。え、でもそれじゃあ、やっぱり拙いんじゃ?」

「私の魔力を基礎にしているから、それだけでも単なる小精霊とは隔絶した強さを持つ。倒せはしないが負けもない。上手く引き付けるという意味では、願ってもない状況だ」

「そうなんですね……」

 

 どこか意気消沈した様子を見せるアキラに、ミレイユは頷いて見せる。

 

「最近、とにかく離れたくなさそうにしてたしな。活躍する場が欲しかったんだろう。そういう意味でも良い塩梅だ」

「ですか……」

「それより早く行け。フラットロが早くも四体引き付けたぞ」

 

 フラットロはその身体を渦巻き状の火柱に変え、四体のミノタウロスを拘束してしまった。しめ縄のようにも見える太い螺旋が、四体を締め上げて弄んでいる。

 残った一体はどちらを相手にするべきか迷っているようだ。

 

 仲間を拘束する精霊か、それとも沈静して見守るミレイユ達か。

 迷った末、ミレイユ達を相手にする事に決めたようだ。突進する体勢を見せたので、アキラの背を叩いて送り出す。

 

「ほら、行け!」



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追逃走破 その12

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「うぅぅ……、はい!」

 

 アキラが刀を握り締めて走り出す。

 抜き身のまま接近するのは少しやり辛そうだが、ある程度近づいてから待ちの体勢に入れば良いだけだし、実際アキラもその選択をした。

 

 刀を正眼に構えて突進を待つ。

 そして衝突する直前、それを躱して一撃を加えるのかと思ったら、そのまま跳ね飛ばされて転がった。

 

「……何してるんだ」

「あらあら。煽てられたところで、駄目なものは駄目よねぇ」

 

 アヴェリンが白けた表情で鼻を鳴らし、ユミルも愉快そうに笑っては頬に手を当てる。実際アキラは、カウンターとして動こうとしていたのは見えていた。

 しかし疲労の蓄積は馬鹿にならなかったのか、動こうとした足が動かなかったのだ。ガクリと震えて膝を落としたと同時に、吹き飛ばされるのが見えた。

 

 しかし即座に起き上がり、武器を改めて構えた。

 あの一撃にも関わらず、武器を手放さず、また追撃より早く起き上がったのは褒めてやるべきだ。しっかりと成長した部分が見えて、アキラの評価をまた一つ上げる。

 

 そうしていると、今度はミノタウロスが斧を振り上げ接近してきた。

 口から涎を巻き散らし、血走った目で雄叫びを上げる。威嚇のつもりだろうが、その程度で委縮するアキラではなかった。

 

 振り下ろされた斧を刀の峰で受け止め、力を外へ流して地面へ落とす。

 アスファルトへと盛大に食い込んだ斧を抜き取ろうとする、その一瞬の隙を突いて、その腕を切り落とした。

 

「ブボォォォォオオオ!!」

「今の頭が下がってたんだから、そのまま首を突くなり落とすなりすれば良かったじゃない」

「慎重すぎて仇になったな。暴れるだろうミノタウロスに、どう攻めるつもりだ」

 

 アヴェリンが眉を顰めて叱責するような台詞を吐いた時、アキラが更に動いた。

 顔を上げて絶叫する敵に対し、その膝頭を切り裂いて跪かせると、その腹を蹴って転ばせる。倒れたところへ跳躍し、刀を首めがけて振り下ろした。

 

 刀は刺さって太い首を切り裂いたが、両断する程ではなかった。峰の大部分は露出していて、刺さっているというより食い込んでいる程度でしかない。

 ミノタウロスは刀を抜こうと腕を振り回すが、そもそもその腕がない。アキラを突き飛ばそうとするも、短い腕ではそれも難しかった。

 

 アキラは刀の峰に両膝を乗せ、全体重をかけて切り落とす。

 それで切断面から血が噴き出し、慌ててその場から離れていく。肩で息をしているが、傷らしい傷も見えず完勝したと言える。

 泥臭い戦い方ではあったが、勝ちは勝ちだ。

 

「なるほどね、どうせ一撃で切り落とせないって判断したワケ。だから、ああして段階を踏んで倒したと」

「切り落とせん方が問題だ。アレの制御力なら、出来ない筈もない」

 

 アヴェリンがつまらなそうに吐き捨てたが、ミレイユの意見は違った。

 

「今日は精一杯働かせたという事実を除外してはいけない。アキラの魔力はもう残り少なかったろう。それで倒す為の算段をその場で組み立て、実際倒して見せた。なかなかうまく育成できてるじゃないか」

「まだまだ、ミレイ様にお褒め頂くには及びません」

「うん、では褒める事が出来るよう、よろしくやってやれ」

「仰せのままに」

 

 アヴェリンが恭しく一礼すると、アキラが足を引きずって帰って来る。

 精も魂も尽き果てたという風体だったが、今だけはそれを許してやらねばならない。あとは残りのミノタウロスを片付ければ終了だ。

 

 アキラがミレイユ達の元へ辿り着き、座り込んだのを見てからルチアへ顔を向けた。

 

「ルチア、頼めるか」

「勿論です、挽回の機会を頂けて感謝しますよ」

 

 ルチアが顔を綻ばせ、杖を両手で握って小さく掲げた。

 ミレイユは小さく笑って肩を竦め、何も分かっていない振りをする。それでルチアが更に笑みを深くして、前に進み出ては皆から離れて行く。

 

 アキラは立ち上がる体力が残っていないのか、座り込んだ体勢のまま刀を返して来た。頭を下げて横持ちで刀を捧げるように持ち上げるので、ミレイユはそれを受け取って一振りする。

 空気を切り裂く音がして、それで幾らも付いてなかった血糊が飛んでいく。

 その様を目を丸くしながらアキラが見つめていた。

 

「本当に武器を扱えるんですね……。僕の切り裂き音とは全く違う、そんな音が出せるんだ……」

「まぁ、少しはな。それより今は、あっちを見ておけ」

 

 ミレイユが指し示す方向にはルチアがいる。その更に奥には捉えられたミノタウロス達がいた。ミレイユの視線を受け取って、フラットロも拘束をやめて元の姿に戻る。

 怒り狂ったミノタウロス達が、その背を追って走り出した。

 それをおちょくるように動いてから、再びミレイユの腕の中に帰ってくる。

 

「ご苦労だったな、フラットロ」

「うん、楽しかった! 呼んでね、またすぐ! すぐだよ!」

 

 言うだけ言うと、ミレイユへ頬ずりして浮かび上がる。そして、まるで空中で壁にぶつかったかのように霧散して消えた。

 

 アキラがそれを茫然として見送った後、ルチアの方へ茫然としたままの顔を向ける。

 

「……そういえば、ルチアさんが戦うところ見るの初めてだ」

「まぁ、問題なく勝つから、そこは心配しなくていいわよ」

 

 ユミルが軽い口調で反応して、思案するかのように首を傾げた。

 それについてはアキラも疑っていないのか、素直に頷いてルチアの背中を見つめている。ユミルも同じく見つめた後、不意に思い付いたように声を上げた。

 

「ルチア〜、そいつの舌と角欲しいから、首から上は無傷で頼むわね〜!」

 

 何の気負いもなく杖を掲げ、そして杖を片手で持ち直し、空いた方の手で魔術の制御を始める。

 身体から立ち昇る魔力の奔流は、ルチアの魔力総量を示すだけでなく、多くの点穴がある事を示していた。その制御を整えている間に、ミノタウロスの突進もいよいよ無視できない距離まで近づいている。

 

「ユミルさん、いいんですか、あんな注文つけて。下手に倒す難易度上げなくても良いんじゃ……」

「別にあの程度の注文じゃ、あの子にとっては何の問題もないからね」

「そう……なんですか?」

「見てれば分かるわよ」

 

 ユミルは何をしても勝ちは揺るがないと見て、欠伸まで始める始末だ。アキラは心配そうに見つめるものの、ミレイユとしてもユミルの心境と大差ない。

 

 突進するミノタウロスとルチアの距離が縮まり、既に最初の半分まで接近している。

 ルチアは片手で握るには大きすぎる杖をタクトのように振るい、まるで指揮者のように杖を左へ、そして右へと緩やかな動きで振っていく。

 

 その一振りを繰り返す度、杖の先端から氷の刃が飛び出していく。刃といっても円錐形で、それが激しく動かす足甲に命中し、ミノタウロスを地面に縫い付けていく。

 一振りする毎に二発、それが正確に命中し、次々と敵を縫い付け転倒させた。

 

 そこへ制御が完了した魔術を解き放ち、光の奔流が呑み込んでいく。

 よく見ればそれは光ではない。光に反射して輝く氷の結晶の集合体だった。それが敵の体に付着するや否や、その部分が急速に凍っていく。

 

 転倒し、足も縫い付けられたミノタウロスに抗う術はなく、逃げる素振りを見せたり、斧を振るって遠ざけようとしたが、全て空を切るばかりだった。

 十秒も経たずに全ての敵、首から下全てが凍りつく。

 身動きしようとしても身を震わせるばかりで、口からは恐怖に振るえる吐息以外漏れない。

 

 ルチアが杖の石突きを地面に立てると、凍らされた胸部から巨大な氷柱が飛び出した。先端は鋭利に尖り、そして血に塗れている。

 四体全員が同時に口から血を吐き、僅かに持ち上がっていた頭も、それで力無く地に落ちた。

 

 何の気負いも自尊もなく、杖を持ち上げ両手で持ち直し、踵を返して帰ってくる。

 その表情にも、やはり何の感情も浮かんでいなかった。

 

「滅茶苦茶アッサリでしたね……」

「何もさせず、何も出来ず、そして倒すのが、あの子の流儀だからね」

 

 ユミルはと言えば、結界の消失が始まると同時に消えてしまう死体から、目的の錬金素材を採取しようと、小刻みにステップを踏みながら走っていく。

 途中、すれ違うルチアの頭を軽く撫でていったのは、注文通りにやってくれた友への労いのつもりか。

 

 ユミルが言ったとおり問題なく勝利したルチアを迎えながら、結界の消失を待つ。

 隣にいたアキラは、そのルチアを憧れと諦めの視線を向けながら零した。

 

「いま使った魔術も、きっと凄く難しい術なんでしょうね……」

「そうだな、足止めに使った方はそうでもないが。凍らせ、とどめを刺したのは上級魔術だ。つまり修得するまで、そして実際に使えるようになるまで、十年はかかるような代物だな……」

「うへぇ……! しかもそれ、自分の倍はデカい敵が四体襲ってくる状況で使ってるんですよね。制御に失敗したら、もちろん大変な目に遭うんでしょう?」

「当然だな。制御を失った魔術は時に自分ばかりでなく周囲をも傷つける。あの魔術が自分に逆噴射するぐらいなら可愛いものだ」

「考えたくもないですね……。それを冷静に使えるってだけでも、ホント凄いです……」

 

 アキラはしみじみと首を振り、大きく息を吐き出しながら言った。

 気付いていなくて当然だが、ルチアが行っていた魔術制御は、単に魔術を使っていた訳ではなく、両手で別の魔術を制御して行使するという二重制御と呼ばれる制御方法だ。

 

 ミレイユもよくやるからアキラは気に留めてなかった可能性もあるが、普通両手で別々に魔術を制御するような真似は危険すぎてやらない。

 それでもルチアがそれをするのは非凡な才能があるから、というだけではなく、同じ系統の術では上手く行きやすい事による。

 

 これが仮に炎と氷というような属性違いであれば難易度は跳ね上がるし、攻勢魔術と治癒魔術というような、そもそも系統別の物を使うとなれば更に制御が複雑化する。

 不発すれば無防備に敵から攻撃を受ける事を考えれば、まず一人で戦う時には選ばない戦法だが、しかしそれでも成功させるからこそルチアなのだ。

 

 その事まで教えるのは止した方が良さそうだ、と思ったところで、採取を終えたユミルが戻って来て、そして結界に罅が入る。

 やれやれと息を吐きたい気持ちで割れるのを待っていると、結界の崩壊と共に、周囲の騒音が戻ってきた。

 

 それと同時の事だった。

 辺り全てが神宮勢力の兵で取り囲まれている事に気付く。

 

 アヴェリンが眉を上げてから獰猛に笑み、ユミルが呆れたように周囲を見回し、ルチアが無表情に無反応を貫いた。

 アキラは愕然として辺りを見回し、身体を震わせて事態が深刻化しているのを感じた。

 

 ここは車道で、そして結界内でもなかろうに、恐らく三百程がミレイユ達を取り囲んでいる。野次馬すら周囲にいないところを見ると、権威を使って住民を遠ざけているのかもしれない。

 

 その取り囲む兵の中から、一人の女が進み出てきた。

 ヤクザの事務所でも会った、阿由葉結希乃だった。

 車の走行音などは遠くから聞こえているというのに、やけに静かに感じられるのは周囲を交通規制でもしているせいだろう。

 取り囲む兵たちから、更に十歩近づいて来た結希乃が一喝した。

 

「神妙に願います! これより貴女方を拘束、連行します! 一切の抵抗をせず、大人しく捕縛されるよう!」

「……ふぅん?」

「どうなさいますか。逃げるも蹴散らすも自在かと思いますが」

 

 ユミルが鼻を鳴らし、アヴェリンが剣呑な目線で伺ってきた。

 結希乃を見れば、気丈に振る舞っていてもその肩が僅かに震えている。ミレイユ達が本気の抵抗をすれば、命がないと理解しているのだ。

 しかし、恐らくは大宮司、あるいはオミカゲの命令だからと、こうして懸命に仕事を果たそうとしている。

 

 ミレイユは考えるように顎の下に手を置いて、首を傾げた。

 返答のない事に、結希乃は焦れているようだ。周りの兵達の緊張感も高まっていく。

 

 そこで一つ、ミレイユは聞いてみる事にした。

 その返答次第では、相手の要求を呑んでも良いと思っている。

 

「聞きたい事がある」

 

 一瞬の間が合って返答があった。

 

「……どうぞ」

「これの命令は誰からだ?」

「オミカゲ様による勅命です」

「大宮司ではなく?」

「はい、間違いなく、オミカゲ様による御神勅に寄るものです」

 

 なるほど、と頷いて、ミレイユはアヴェリン達に構えを解くように命じた。

 意外な表情を見せつつも、しかし異論を唱えず従う。アキラは心底安堵した表情で息を吐いていた。

 ミレイユは腕をおろし、結希乃をサングラス越しに見つめて静かに言った。

 

「お前の顔を立てよう。一先ず、言うことを聞こうじゃないか」

 



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幕間 その1

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 御影本庁とは、警察とも軍隊とも並ぶ国家の実力組織であり、権力行使をもって国家の治安を維持する組織で、社会の安全や秩序を守る責任を課されたオミカゲ様直下の執行機関である。

 

 その職務は多岐に渡るが、多くはオミカゲ様の意思を遂行する為にある。

 要職の多くを御由緒家が席巻しているのもそのせいで、神の血を受け継ぐ御家としてその職務を厳正な姿勢で取り組み、その威光を(よすが)とするからこそ不正もなく、全ての者の模範として立っている。

 

 阿由葉結希乃は、その日も自分の執務室で書類の整理をしていた。

 結希乃は若いが御由緒の一家、阿由葉家の長女であり、次期当主になる事が既に決まっている。今は保安課の課長という年齢に見合わない役職を授かっているが、それも当主となるからには通らねばならない道だった。

 

 現在、結希乃は一人だが、今も扉の向こうでは部下の多くが数々の事件に追われて動いている。喧騒とも怒号ともつかない声が扉越しから聞こえてくるのも、いつもの事だった。

 

 結希乃は一枚の書類を手に取り顔を顰めた。

 そこには五代目生霧会に関する調査結果が記載されている。予てより問題視されて来た暴力組織ではあった。しかしそれは警察組織で取り扱う問題でしかなく、御影本庁にこの案件が移されたのは、ひとえに神刀の売買があったからだ。

 

 神刀とは本来、金を出せば買えるというものではない。

 全ての神刀の所有権はオミカゲ様にあり、それを手にするという事は神の所有物を下賜される事を意味する。だから受け取った者は個人の所有物というより家の所有物とみなし、丁寧に扱う。

 人によっては自らの子よりも大事に扱うという話は、華族の笑い話として良く聞くものだ。

 

 それ故、金に困って売却しようものなら、個人ではなく一家の恥となる。

 爵位を持つ華族であっても、オミカゲ様は決してその地位を顧みたりしない。どれだけ高い爵位であったとしても、その誉に値すると見なさなければ下賜される事は決してない。

 

 権威を振りかざそうとしても、それは人の世にあって意味あるものであって、オミカゲ様は勿論、神職につく神宮勢力には意味がない。

 権威や大金を用いて交渉する事は人の世であっても尊ばれる事はないが、それを神職によって行えば神の怒りを買う。

 これは過去より実際に幾度もあり、そして実際に幾度も神雷によって罰を受けた者のいる事実が、それを物語っている。

 

 とはいえ、恥になると分かっていても、日本人同士が神刀の売買をする事は違法ではない。

 外国に対する譲渡、売買はれっきとした違法であり、持ち出しすら許可なしに行えば違法となる。今回、生霧会が入手した方法も、違法手段であるから問題になった。

 

「それにしても、汚い手を考えるわね……」

 

 結希乃の独白が全てだった。

 書類に目を通していけば、入手手段としては金銭売買、売った相手が反社会的組織である事を考えても、それ自体は違法ではない。

 

 問題はそれを手放した華族が、麻薬漬けにされたせいによる。

 麻薬を買う為欲しさに家財を売払い、そして遂には売る物がなくなり、最後に神刀すら手放した。

 全ては麻薬が欲しい為だったが、その麻薬を流していたのもまた、生霧会であると調査報告書には記載されている。

 

 結希乃はその悪辣さから思わず唇を噛みそうになり、慌てて口元を引き絞って誤魔化した。結希乃の持つ、小さい頃からの悪癖だった。

 

 そして結希乃はページを捲り、別の記載を読み始める。

 そこには麻薬の入手経路の一つとして、マフィアとの繋がりが書かれていた。今回の取引には金銭ではなく、入手した神刀を使うつもりであるという調査結果がある。

 

 これだけの情報を何故入手できたかと言えば、難しい事はない。神宮勢力には常人には扱えない力がある。それを上手に活用すれば、この程度の情報の入手は容易い。

 もしもこれを警察捜査に使えれば、と考えない事もない。

 しかしこの理術は全てオミカゲ様より与えられしものであって、私利私欲で扱う事は勿論、本庁案件以外で扱う事も禁じられている。

 

 例外は、オミカゲ様号令の元に行われた世界大戦における日本軍への助勢だった。

 その時ばかりは御由緒家にも勅命が下り、阿由葉家からも戦争に出た。結希乃の大婆様もその一人で、戦車砲の一撃を受けるまで散々に暴れたと聞く。

 大婆様一人に向けられる戦力が一個師団に登った事で戦場を撹乱し、多いに戦果へ貢献したという。日本軍内でさえ戦場伝説の類いだが、結希乃はそれが事実だと知っている。

 あの大婆様ならやるだろうな、という確信すらあった。

 

 齢九十に迫ろうというのに、未だにシャンと背筋を伸ばし鋭い眼光を持って和装に身を包む姿を思い起こして、結希乃は小さく苦笑した。

 

 思考が横滑りした事を自覚して、結希乃は眉根を寄せて書類を見つめる。

 何れにしろ、海外のマフィアとの取引は本日に行う予定であり、そして神刀が海外の手に渡る。新たに麻薬を手に入れれば、その手口に味をしめた生霧会は、同様の手口で神刀を手に入れようと考えるだろう。

 

 今回の取引が割の良いものなのかどうか、それは結希乃には分からない。

 しかし一度成功した手口は、必ずもう一度やる根拠になる。最低でも麻薬が町へとバラ撒かれる事を考えれば、神刀の海外侵出のみならず、麻薬の方も必ず阻止せねばならない。

 

「マフィアが神刀を手に入れてどうするつもりなんだか……。観賞用だなんて、可愛い目的じゃないでしょうし」

 

 結希乃自身も阿由葉家が下賜された物を所持しているが、実際それは強力な武器である事に違いない。

 斬鉄も可能である事に加え、何かしらの能力を発揮する。単純に神刀そのものに力が宿っている場合もあるが、真価を発揮するのは所持者に理力がある場合だ。

 資格ある者が持てば、神刀ごとに秘められた力を発揮する。

 だから例え一般人が持ったところで、美術品程度の価値しか生まれない。

 

 この神刀に関する事実は機密という訳ではないが、公然の秘密というほど明け透けに知られている訳でもない。

 もしもマフィアの目的が、単なる蒐集で趣味でしかないなら問題ない。

 しかし、これを軍部などに売り渡し、それを科学的に詳らかにさせる為だというなら、これは断固阻止しなければならない問題だ。

 

 海外に流出するという事は、それが目的だと考えて動かなければならず、そしてそれはオミカゲ様の威光に泥を塗る行為でもある。

 この案件が御影本庁に移されたのは、まさにそれが理由だった。

 

 結希乃は溜め息をついて書類を投げ出し、椅子の背もたれに体重を載せた。

 書類には最終報告と朱印がされてあって、そして取引が本日の夕方に行われると書かれて終わっていた。既にそれに向けて作戦は練られ、後は開始時間を待つのみだった。

 

 その時には構成員は全て捕獲し、生霧会の組長、霧島竜一郎も逮捕する。

 取引相手として現れるマフィアも当然逮捕し、一網打尽の予定だ。しかし裁判や身柄の引き渡しなど、外国との交渉は面倒な事になるだろう。

 その部分については結希乃の仕事ではないので、重く考える必要はないが、それでも溜め息だけは吐きたくなる。

 

 大きく息を吸った時、扉が焦った様子で叩かれて、吐くタイミングを逃した。

 一時息を止めてから、入ってくるよう指示を出す。

 

「――失礼します!」

 

 入室してきたのは小柄な女性で髪をボブカットにした、今年入庁した新人だった。

 名前は佐守(さもり)千歳(ちとせ)。生真面目で融通が利かないところはあるものの、どこまでも実直で仕事も早く、そして飲み込みも早く、ここ最近は目をかけている。

 

 一般人ながらその力を見出されたタイプで、これは毎年全国から何かしらの調査の元で発見される。多くの場合は剣術道場だが、彼女は変わり種で囲碁大会に出場した時、見出されてスカウトされた。

 囲碁はオミカゲ様とも縁の深い盤上遊戯ではあるものの、そこから見出されるケースは非常に珍しい。

 

 スカウトされた年はまだ高校生だったので、専用の学校に転校してもらい、そこで学業と訓練を受けた後、三年を過ごして卒業した。

 オミカゲ様への信仰心も高く、また結希乃――あるいは御由緒家に対する思慕も強い。

 結希乃としても可愛い後輩が出来て喜ばしく思っていた。

 

 未だ初々しい緊張感を見せる千歳に、結希乃は背もたれから身体を起こして柔らかく笑む。

 

「どうした、千歳」

「ハッ! 神宮に目標、甲ノ七が現れましたのは、ご報告があったかと思います!」

 

 甲ノ七とは、御影本庁内で使われる符号で、結界のある場所に現れては破壊して去って行くという謎の集団の事を指す。女が四人、男が一人というメンバーで、特に目的も不明であり出自すら不明という、四名の女性は強い警戒を持って監視している。

 

 特に理力を持っているというのが不可解で、自然発現するものではない以上、オミカゲ様による加護があったとしか思えないのだが、その強すぎる理力と所属不明である事から要警戒とされ、常にその動向を見守られている。

 

 特に悪さをしている訳ではないものの、結界への侵入は看過できるものではなく、その事も上部へ進言したのだが、さりとて梨の礫と切り捨てられた。

 ただ一つ、接触禁止命令が出ただけで、それ以上の措置を取られないのが不思議でならない。

 

 そして、その甲ノ七が朝早くに家を出て、御影神宮へと向かうつもりである、という報告は確かに本日朝デスクに着いた時点で聞いていた。

 

「そこからは、神宮内を観光しているようだ、という報告も受けていたけれど……」

「はい、仰るとおりです。ですが、そこから問題――いえ、問題ではなく、何と申しますか……」

「煮えきらないわね。問題にはならないけれど、事件でも起きたとか?」

 

 千歳はぶんぶんと首を縦に振る。

 

「や、八房様が、お姿を……!」

「なんですって?」



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幕間 その2

 神狼・八房、それはオミカゲ様の神使であり、オミカゲ様が急ぎ目的地へと向かいたい場合、その背を貸して地を走ると言われる神の眷属である。

 その八本の尾が示す名を持ち、奥宮を包む森の警護とオミカゲ様の守護を司っている。

 

 奥宮の中では頻繁に姿が見られるというが、最後に一般人の前に姿を見せたのは五十年は昔の事だった筈。

 結希乃とて、その姿は見た事があるものの、二階建ての家程も大きい白毛の巨狼は、神々しく感じると共に恐ろしくも思ったものだ。

 

「それで、まさか八房様が甲ノ七と接触したとでも?」

「その、とおりです……!」

 

 結希乃は難しい顔で押し黙る。

 単なる偶然で五十年も狼園に姿を見せなかった八房様が姿を見せるとは思えない。彼女らが理力を持っている事といい、何の繋がりもないと考える方が不自然だった。

 では何が、と考えても答えは出ない。

 

 オミカゲ様と理力は、切っても切り離せない。

 理力を持つというなら、オミカゲ様と接触があったという事になる。そして接触をしたのなら、御由緒家の誰もが知らないというのは理屈に合わない。

 

 奥宮の警護責任者は由井薗家、招いたというなら彼らがその事実を知らない筈がないし、何かしらの催し――御前試合などで、外での接触があったのなら、その時警護に着いていた家の者が知らない筈がないのだ。

 

 そして、理力を得たならそれで終わりではない。必ずそれを十全に扱う為の訓練を受ける。

 それは数年という長い期間を用いて修得していくので、その際講師として呼ばれる御由緒家が、あれだけの力量を持つ者を見逃す筈がないのだ。

 

 当然、講師として呼ばれる事の多い結希乃は、そういった者から良く知られる存在だ。

 ならば、よりオミカゲ様に近い存在――神宮勢力の奥深くで育てられた存在かと思える。それならば結希乃が知らなくとも不思議はない。

 だがそうなると逆に、あちらは御由緒家の存在、そして当主と次期当主の顔ぐらいは知っている筈だ。

 特に、結界内に侵入するとなれば、何も知らずに荒らし回すなんて事もしないだろう。

 

 そして上層部は、明らかに甲ノ七を知っているという確信が、結希乃の判断を狂わせる。

 特に大宮司様の行動はそれが顕著で、隠す気すらないように思える。あるいは、それが狙いなのかもしれないが――。

 

 そこまで考え、結希乃は頭を横に振った。

 答えの出ない問いを、いつまでも考えても仕方がない。今は問題がないというなら、問題が起きてから対処すれば良いこと。

 

「では、そこで何か問題が起きた訳ではないのね?」

「はい、でも……オミカゲ様が御降臨されたのでは、と騒ぎになっておりまして」

「……そんな筈がないでしょう」

「ええ、それは……私には分かりませんが、……違うんですか?」

 

 結希乃は確信を持って頷く。

 

「オミカゲ様はわざわざ狼園まで足を運んで、八房様へお会いに行かれません。奥宮のある一室は、八房様が入る事が出来るよう、縁側と天井を特別高くした一室も用意されています。会いたいと思えば、そちらに呼ぶでしょう」

「な、なるほど……」

「でも、何故そんなデマが……?」

 

 結希乃の疑問に、やはり緊張を残したままの表情で千歳が答える。

 

「その……八房様が、甲ノ七に甘えるような仕草を見せ、また甲ノ七も気安い態度を見せたから、だと思われます」

「本当なの……?」

「ええ、SNSには既に動画を上がっていますので、確認するのも容易だと思われますが……」

 

 千歳が嘘を吐く理由はないので、結希乃は思わず押し黙る。

 普通、あれほど巨大な神狼が傍に寄れば畏怖の一つもするものだ。身は竦み、逃げ出したいとすら思うだろう。

 

 それでも気安い態度で八房様を迎えたというのなら、それは神宮勢力に属する何者か、と考えたくなる。大宮司様が甲ノ七を庇うような動きをするのにも、それなら納得できる。

 

 だが何事も、自分の想像だけで決めつけるのは危険だ。

 それ程の人物というのなら、いずれ紹介もあるだろう。それまで待って、迂闊な行動は控えたほうがいい。

 

 結希乃は顔を上げて千歳に笑いかける。

 

「そう、教えてくれてありがとう。今後も甲ノ七の動向には目を向け、何かあれば報せること。……報告が以上なら下がってよろしい」

「はいっ、失礼します!」

 

 千歳は一礼して退室していく。

 それを見送りながら、結希乃は小さく息を吐いた。

 甲ノ七が現れてからこちら、何かとあれを種とした騒動が起きている気がする。

 今日は大事な大捕物がある予定だし、それで誰もがピリピリしているのだ。余計な事はしないで欲しい、という切実な思いがあった。

 

「観光するならするで、終われば素直に帰ってくれたらね……。そっち関連の騒動は勘弁よ……」

 

 結希乃が零した嘆きは、しかし無常にも打ち破られる事になる。

 

 

 

 それから幾らもしないで書類の確認も終わり、結希乃が自分のデスクで昼食を取っていた。

 基本的に弁当を用意している結希乃は、外での仕事が予定に入ってなければ自室で過ごす。自分で用意している訳ではなく、家で雇っている家政婦が用意してくれるものだった。

 例の動画を見ながら煮物を口に運び、その様子を唸って見ていた時、部屋のドアがけたたましく叩かれた。

 

 慌てて咀嚼して飲み込み、入室許可の返事をする。

 飛び込むようにして入室してきたのは、先程もやって来た千歳だった。

 

「お食事中のところ、失礼します!」

「構わないわ。どうしたの?」

「ハッ!」千歳は息を整え、背筋を伸ばす。「生霧会の者共が、甲ノ七に手を出しました!」

「――ブフッ! ゴホッ、ゴホゴホッ!」

 

 結希乃はお茶を口に含んだところだったので、危うくそれを吹き出しかけた。

 心配そうに伺ってくる千歳へ、大丈夫だと手を振ってから、涙目になりつつ続きを催促する。

 

「以前、生霧会の組頭の息子が酷い目に合わされたのを根に持っていたようです。それをSNSで姿を発見したことで、報復に動いたのだ、というのが調査班からの報告です」

「でも……、ゴホゴホッ! ……ん、ンンッ! でも、正確な場所など分からない筈でしょう」

「はい、ですので神宮周辺を虱潰しに探した結果、運良く……運悪く見つけてしまったようです」

 

 馬鹿な事を、と結希乃は吐き捨て、千歳に告げた。

 

「今すぐ動ける部隊は幾つある?」

「ありません。今日は全て取引の方へ人員が割かれています」

 

 そうよね、と頷きながら、結希乃は舌打ちしたい衝動を必死に抑え込んだ。

 だが動いて貰わなければならないだろう。彼女らの力がどの程度のものか、その正確なところまでは分からない。

 しかし報告書を読んだ限りでは、その気になればビルなどものの数分で半壊させる事も可能な者たちだ。

 

 もし生霧会に対する報復へ動かれたなら、今日の取引そのものが中止する恐れがある。

 というより、間違いなくするだろう。

 襲撃を受けたと報告を受けて、それでも取引を慣行するより日にちを見合わせ、より安全で問題ない日時を選ぶ。

 

「もう既にヤクザ者と甲ノ七は接触しているのね?」

「はい、その内一人を引き連れて、どこかへ移動を始めたようです」

「……車で?」

「はい、向かっている方向だけで見れば、生霧会のビルがある道を進んでいます」

「……楽観できる状況じゃないわね」

 

 結希乃が難しい顔で口元を引き締めた時、千歳の後ろに立つ人影があった。

 開かれたドアにノックをした上で、部屋の外で返事を待つ。結希乃はそれへ入室許可を与えると、一礼した後で男が一人入ってきた。

 

「恐れ入ります! 御影日昇大社より、阿由葉様へ勅をお持ちしました!」

「勅を……!?」

 

 驚愕も顕に声を出したのは千歳だった。

 御影日昇大社とは神宮に次ぐ権威を持つ神社で、そこにはオミカゲ様より信頼厚い大宮司様が住まっている。

 大宮司は神意を受け取り、その指示を出す事を許された特別な存在で、その言葉の重みは神と同等とまで言われる存在だ。

 

 その者からの命令書――勅を持ってきた、とこの者は言っている。

 結希乃は口を引き絞ったまま頷き、近付いてくるよう促す。キビキビとした動きで机の前までやって来ると、一礼した上で懐から取り出した書簡を両手で差し出す。

 

 結希乃も両手でそれを受け取り、宛名を確認してから封緘を解除して中を改めた。

 そして読み進めて思わず唸る。

 

 書かれている内容は、にわかには信じられない。

 信じたくないというのが本音だった。しかし神のご意思とあらば、そのとおりにせねばならない。

 千歳は芳しくない結希乃の顔色を読み取って、恐る恐る声を掛けてきた。

 

「結希乃様、そこには、何と……?」

「貴女にも全ては話せない。けれど、とっても突拍子のない内容よ」

「つまり……?」

「――これから、生霧会ビルに向かいます」

「しょ、承知しました!」

 

 千歳はその一言だけで、内容を深く聞くことなく敬礼した。

 彼女も調査の結果を知り、生霧会には苦々しく思っていたのは知っている。それへ襲撃をかける命令を受けたと思ったのだろう。それは間違いではない。

 

 結希乃は大社からの遣いへ顔を向け、ゆっくりと頷く。

 

「ご苦労さまでした。退室して宜しい」

「ハッ! 失礼いたします!」

 

 男がやはりキビキビとした態度で振り返り、退室していくのを見送ると、千歳に扉を締めるように身振りをする。すぐに動いて扉を締めると、元の位置に戻って直立した。

 そこへ結希乃が勅の内容を簡潔に伝える。

 

「これから行われるのは実戦です」

「……実戦、ですか?」

 

 先程のビルに向かうという内容と上手く結びつかないのだろう。逮捕に動くのも大変な労力である事には違いないし、戦うような気持ちで挑むものだが、実戦とは違う。困惑するその気持ち、よく分かる。

 首を傾げる千歳に、もう少し踏み込んだ内容を伝えた。

 

「甲ノ七が、その目標となります。そのついでとして、生霧会の組員全て、そして取引相手となるマフィアの逮捕を並行して行う運びとなります」

「それは……! しかし、どういう事ですか? 今まで生霧会の逮捕に向けて、準備して来たじゃないですか!」

 

 突然の目標変更と行動の変化は、千歳からしても不本意なものだったらしい。

 結希乃にしても同感だが、ここ最近はこういった内容はよくある事だった。納得できなくとも、そもそも勅が来ている。従う他なかった。

 

 結希乃は勅以外にも補足として同封されていた封書から、伝えられる部分だけを抜粋する。

 

「甲ノ七は生霧会を撲滅する為に動いたようです。これを止めるのは難しいともあります。けれど、その為に闇取引まで中止されるのは避けるべき事態です。神刀が海外に持ち出されるのも、これが原因で所在が不明になるのも避けなければなりません」

「はい、仰るとおりです」

「なので、甲ノ七を生霧会ビル内での拘束を試みます」

 

 今度は異議を示すような態度もなく、千歳は素直に頷いた。

 

「了解しました!」

「甲ノ七は逃げようと思えば、如何ような手段でも逃げられる、とある。本日用意した人員だけでは足りないとも予想されます」

 

 千歳としては、その事実を受け入れる事は出来ないのか、返事はなく硬い表情で見返すだけだった。

 結希乃は立ち上がり、そこに決然とした表情で宣言した。

 

「御由緒家、招集! 即座に学園へ連絡を! 現段階で使える最高戦力で持って、甲ノ七の封じ込め作戦を決行します!」

 



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幕間 その3

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 御影本庁の第三会議室、そこで本作戦のブリーフィングが行われていた。

 会議室の中には作戦に参加する小隊の隊長が、各々椅子に座って待機しており、招集理由について憶測や推測を語り合っている。

 その多くは二十代から三十代の男女で構成されており、その内女性が七割を占める。こうした若者が多い集団の中にあって、一際若い数人が部屋の中央前列に座っていた。

 

 その事に文句を言う者はいない。

 この場は年功序列ではなく実力主義であり、そして家格も考慮される。

 

 彼らは御由緒家。

 この実力を認められた者だけが招集された場にあって、他の誰より実力を持つのが彼らだった。年若い為、経験不足な部分はあるものの、それを跳ね返すだけのポテンシャルを持っていると誰もが認めている。

 

 そして彼らもまた、その家名を背負う意味を良く心得ている。

 尊敬されるべきと認識していても、それに耽溺するようでは家名を名乗る資格はないと知っていた。だからこそ他の誰もが尊重するし、尊重されるに足る結果を出す努力をしている。

 

 家名を汚す行為はオミカゲ様に泥をかけると同義、それを彼らはよく理解していた。

 中央から左へ阿由葉七生(ななお)、由衛凱人(かいと)と並び、中央から右へ比家由(れん)、由喜門紫都(しづ)と並ぶ。その彼らが背後から受ける好奇の視線を受け流しながら、お互いに目配せをする。

 身体をやや前に倒し、顔を突き出すようにしながら最初に口を開いたのは漣だった。

 

「七生、お前なんか聞いてるか」

「いや、私も何も。ただ、相当嫌な予感はしているわ」

「そりゃ誰だって、本庁召喚されたら嫌な予感するだろ。学園を早退しての強制参加だし。……でも、そうか。結希乃姐さん、何も言ってくれなかったのか」

「責任あるお立場だもの。妹だからと甘くなる人でもないし」

 

 それもそうか、と漣は素直に納得した。

 御由緒家同士は、その間柄反目しがちだと思われる節がある。しかし実際は相当結びつきが強く、基本的に仲が良い。個人的に誰かが嫌い、そりが合わないという個人的な感情を持つ者はいるが、家同士で仲違いする事はない。

 ここにいる四人も子供の頃からお互いの家に出入りしているので、兄弟姉妹がいれば、当然その人たちとも仲が良くなる。

 

 漣もまた七生の生家、阿由葉家には幼少の頃から幾度となく出入りしていて、七生の姉からもよく可愛がられた。単に優しくされるというよりは、道場で幾度も鍛えられたという意味であったが。

 

 話を聞いていた他の二人も似たような表情だった。

 あの人は優しい事には違いないが、同時に厳しい人であり、そして家の誇りも大事にする。親からもそのように躾けられているが、漣に言わせればその教えは結希乃から叩き込まれたような気がしている。

 

 その時だった、後ろの扉が開かれ、誰かが入室してくる。

 誰もがその人物に顔を向け、そして姿を認めて背筋を正した。

 入室してきたのは阿由葉結希乃、彼女もまた背筋を正した状態で部屋の奥まで歩き、壇上に昇る。目の前にいる妹と幼い頃より良く知る三人へ目配せして、小さく笑んだ。

 

 誰もが着席した状態で背筋を伸ばし、結希乃の一挙手一投足を見守っている。

 そこへ結希乃が大きくはないが。よく通る声で話し始めた。

 

「急な招集に辟易してるだろうが、早速始めさせてもらう。まず、本作戦は大宮司様の責任において実行される。――そう、勅令だ。そして、その総指揮を執るのは私となる」

 

 誰もが息を呑んで身体を強張らせた。

 大宮司による勅、それは単に上層部から受ける命令とは一線を画している。神より直接指示を受けたに等しい命令、それ故に本作戦の重要性は嫌にも高まった。

 絶対に失敗は許されない、だからこその御由緒家招集、それを部屋に集まった誰もが実感した。

 

 全員の顔が引き締まったのを確認して、結希乃は続ける。

 

「目標は、甲ノ七」

 

 結希乃がその単語を口から出した時、それを予期していた者すらも、顔を大いに顰める事になった。特に七生たちはその実力を実際に目にしているので、その脅威をよく理解している。玉砕覚悟で望んでも、果たして成果を挙げられるかどうか。

 苦々しい顔も当然といえた。

 

「これを捕縛、ないし拘束する事を目的として行動する。しかし同時行動として、生霧会構成員の捕縛もまた作戦に組み込まれている。望まれるのは神刀の確保、そして組頭の霧島竜一郎と若頭の生路市蔵の捕縛だ」

 

 全員の顔を見渡した結希乃は、その表情が非常に固くなっているのを感じた。

 無茶な作戦を指示していると自覚もある結希乃としては、その気持が良く分かった。しかし勅が発令されたからには、成功を目指して最善を目指さなくてはならない。

 

「組頭は本日夕方に埠頭にて、この神刀を使った取引を行う。この時を狙い、取引相手のマフィア共々捕縛するのが最善と考えている。しかし同時に、現在甲ノ七が生霧会ビルへ向かっている最中であり、これの行動が作戦を阻害するものと考えられる。よって、御由緒家は彼らの拘束ないし捕縛を目的に動いてもらう」

 

 前列に座る四人が身動ぎし、そして覚悟ある表情で頷いた。

 結希乃もまた、それに頷き返して続ける。

 

「他の者は御由緒家のフォローと、ヤクザ捕縛に分けて動いてもらう。詳しいことは後ほど説明する。ここまで、何か質問は?」

 

 結希乃が見回しながら聞くと、その妹である七生が挙手する。それに頷いてみせると、起立して口を開いた。

 

「甲ノ七は生霧会ビルに向かっていると言いましたが、目的は?」

「ヤクザ者が甲ノ七に喧嘩を売った。その報復として動いていると予見している」

「その際の被害はどの程度とお考えでしょう」

「我々も半数が脱落、ビルそのものも半壊、最低限その程度はある前提で動いてもらう」

「分かりました」

 

 苦いものを呑み込んだ表情で頷き、七生は着席した。それと同時に後ろの席からも挙手がある。それに指名すると、一人の男性が立ち上がった。

 

「拘束に移るタイミングは?」

「甲ノ七がビルの中に踏み込んでからになる。屋外で戦うのは極力避けるべき、というのが分析班からの意見だ。だが、最初は交渉から始める。最初から武器を持って頭ごなしに命令する事はない。交渉役は私が努める。……他には?」

「その場合、他の小隊はビルを包囲している事になるので?」

「なるべく気づかれないよう、二キロ離れた地点から隠密状態で近づき四方から包囲する。どの小隊がどの方角から近づくかについては、後ほど説明する」

「分かりました」

 

 男性が着席すれば、即座に別の女性が手を挙げる。それに指名すると起立し抑揚の乏しい声を響かせた。

 

「包囲から逃走された場合はどうなりますか?」

「交渉を始め注意を向けている間に結界を展開する。まずはそこへ封じ込める予定だ。その間に御由緒家が先頭で動く。交渉が難航した時点で距離を置き、ビルから逃走した場合に備えて結界外へ出さないよう作戦を展開する」

「その際には細かく指定されるのでしょうか」

「いいや、私も指示できない状態にされる可能性もある。事前にある程度は決めておくが、そこからは独自裁量の権限内で動いてもらう」

「分かりました」

 

 女性が着席したのと同時、結希乃は改めて全員を見渡した。

 緊張は見られるが萎縮はない。覚悟ある表情を見ながら口を開く。

 

「いいか、我々がすべき最も重要な事は、神刀を奪回する事だ。違法な手段で入手し、そして海外に流出する事は絶対避けねばならない。そして同様の手口を使わせないよう、ここで潰す必要がある。甲ノ七はその障害となるから、この現場から退場願いたいだけだ」

 

 いいか、と改めて全員を見渡す。

 

「目的はあくまでも排除だ。ビル内で拘束し続けられれば、その目的は完了しているとも言える。玉砕覚悟で戦えという命令ではないことに留意しろ。そもそも敵ですらない。そこを履き違えるな」

「了解!」

 

 全員からの返事を聞いて頷き、最後に質問はないかと尋ねてみれば、凱人からの挙手がある。

 それを指名し起立すると、俄に不安を滲ませた表情で口を開いた。

 

「ここ数日の間隔と、これまでの周期から考えると、本日孔が開く公算が高いと報告がありました。自分もそれに同意しています」

「ああ、その懸念は最もだ。作戦時刻を考えると、その場面に遭遇する可能性は非常に高い。だから、そこには予備部隊を当てる予定だ。もしも手の空いた小隊があれば、加勢してもらう」

「なるほど、分かりました」

 

 凱人が着席したのを見て結希乃は次の挙手を待ったが、それ以降誰からも手は挙がらない。

 どちらにしろ、これ以上の質問は却下する予定だった。丁度よい、と結希乃は頷き、手を後ろに組む。

 

「これ以上、この場で説明するには時間が足りない。即座に自分の小隊を率いて動いてもらう。付近までは車で移動するから、その間に細かな説明を行う。――以上だ」

 

 全員が椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がり、先を競うように部屋から出て行く。

 御由緒家の四人も同様に出て行こうとするところを、結希乃は声を出して呼び止めた。

 振り返る四人は時間が惜しいという顔と、呼び止めた内容を気にする顔とが浮かんでいた。

 

「お前たちにしか伝えられないから、ここで話しておく。これは大宮司様から御由緒家への勅だ。もしも甲ノ七のリーダーに対面する事があれば、不興を買わないよう行動しろ」

「姉上、それは一体……?」

「意味は私もよく理解していない。しかし勅で定められた内容だ、留意しろ。漣、お前は言葉遣いが荒い。特に気をつけろ」

 

 特に漣へ注意を呼びかけ、そして言い終わると同時に指を扉へ向ける。

 話は終わりだと理解した四人は、それで踵を返して部屋を出ていく。

 結希乃もまた、点検が既に済んでいる装備を身に着け、現場に急行せねばならない。

 

 甲ノ七の事は結希乃も良く知っている。

 今日にもSNSの動画を見て、どう判断して良いものか迷っていた。直接対面せねばならないという事実が、今になって胸に重く圧し掛かる。

 

 不安はある。しかしその不安は見通しの立たない先行きに寄るものだ。

 大宮司様の勅は絶対とはいえ、その真意が見えてこない。何であれ、甲ノ七は特別だ。それは分かる。

 

 ここ最近は不透明な事が多く、実は壮大な出来事が裏で起きているのではないか、と思わずにはいられない。

 

 とはいえ、それが何であれ、結希乃は御由緒家としてオミカゲ様に尽くすのみだ。

 結希乃は迷いを断ち切るように顔を上げ、皆の後を追うように部屋を出た。

 



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幕間 その4

 生霧会ビルより二キロ地点に下り立ち、それぞれの小隊が分散して行く。

 甲ノ七は既にビル内へ入り込み、中にいる構成員を攻撃したという報告を先行済みの調査班から受けていた。

 悠長にしている暇はない、と改めて感じた結希乃は事前の打ち合わせ通り動く小隊を見て、自らも動く。結希乃もまた小隊を率いてビルへと進む。

 

 結希乃は作戦指揮官だが、同時に小隊を率いる隊長として作戦に参加している。

 メンバーは防御術に秀でる佐守千歳と、理術妨害の専門家である國貞正幸(まさよし)、そして結界術に優れる糸杉花郁(かい)

 御由緒家が率いるに足る実力者揃いで、既に十を超える実戦も経験している。お互いの癖もよく知っているので、何かの際にもフォローがし易い。

 

 甲ノ七がビルに入ってから一時間が経とうとしている。

 未だにビル内から動こうとしない理由は判然としないが、しかし動かないというのなら好都合だった。理術を駆使して急げるだけ急ぎ、狭い路地の間など、人通りの少ない道を選んでビルへ到着した。

 

 花郁は残してビルへ入る。

 彼女には結界の展開、その作業を行ってもらわねばならない。

 結界は基本的に自動展開されるようになっているが、事前の申請で対象範囲を広げ、電線の通う範囲なら好きなように展開する事も出来る。

 だが、それを実行するには術者が近くに必要だ。その為に花郁を残した。

 

 そして遂に、甲ノ七がいると思われる部屋の前まで辿り着いた。

 ドアは破壊され、部屋の中が丸見えだ。重なるように倒れる男たちは気絶しているだけで、命に別状はなさそうだった。

 これはこれで不幸中の幸い、捕縛するのが楽になる。

 

 インカムを通して指示を下す。

 神宮周辺で、道路脇に放置されていた構成員を捕縛するように動いていた部隊だが、こちらの方も終わり次第駆けつけてもらわねばならない。

 予備として持ってきた部隊に、逃げ出したり余計な事をしないよう、先に捕縛してもらっても良いかもしれない。そのような指示をした後、結希乃は改めて部屋の奥にあるドアへ顔を向ける。

 

 そこから漂う気配は尋常のものではなく、間違いなく甲ノ七がいる事を示していた。

 二人を率いて結希乃は部屋の中に入る。

 

 待ち構えている可能性は考えていた。

 しかし結希乃は交渉役だ。最初から武器を持って部屋に入る訳にはいかない。あくまで冷静を装って入室したのだが、甲ノ七リーダーを視界に入れた瞬間、息が詰まった。

 

 顔は帽子のせいで確認する事は出来ない。

 僅かに見える隙間からもサングラスを掛けている事が伺える。多少顔の向きが変わっても、その素顔を見る事は出来ないだろう。

 だというのに、結希乃にはその顔面が分かるような気がした。

 

 ――似ている。

 そうだと確信できる程に、目の前の女性は結希乃が良く知る存在とよく似ていた。

 まずは先手を取らなければ、相手にイニシアチブを譲る訳にはいかない、そう思っていたのだが、しかし先に口を開いたのは相手の方だった。

 

「――名乗れ」

 

 高圧的な言い方だった。

 だが、それを当然と受け止める自分がいるのを、結希乃は確かに自覚していた。

 まるで神威だ。不思議とオミカゲ様と対面した時の事を思い出す。そう考えてしまった自分を心の中で叱りつけ、その思考を外に追い出し彼女を見る。

 

 机に腰掛けた態度から見ても、こちらを敵と認識しているようには見えない。その意思がないだけか、それとも敵にすらならないと思っているのか……その両方である気がした。

 

 千歳に彼我の実力差は理解できていないようだった。

 結希乃に対する、あるいは御由緒家に対する無礼に頭が登り、気炎を上げて足を踏み出そうとする。結希乃はそれをやんわりと止め、そして確信した。

 

 SNSの動画を見ながら、もしかしたら彼女は神宮に縁のある人物かと思ったが、だとすれば御由緒家を知らないというのは不自然だ。それほど御由緒家と神宮との結びつきは強い。

 だが、知らない振りをしている様子もない。

 だから改めて確認の意味を込めて言ったのだが、返ってきたのは当然だという肯定だった。

 

「貴女は間違いなく神宮勢力ではない」

「分かりきった事ではないのか、それは?」

 

 その台詞は予想済みであったのにも関わらず、結希乃の胸を千千に切り裂くような思いがした。当然という気持ちと、何故という気持ちが綯い交ぜになる。

 その感情さえ、結希乃には浮かぶ理由が分からなかった。

 

 だが今は、そんな事は些細な事だった。

 相手は対話に応じた。武器を持ち、構える千歳にすら警戒する素振りだけは見せて、実際に動こうとはしない。

 

 それならそれで良かった。

 本作戦の目標は、取引現場を押えるまでこの場に拘束し続けること。それが叶うなら、多少の挑発行為とて歓迎したいぐらいだった。

 

 注意を向けているという点には成功した、というべきだろうか。

 その時、結界が発動し、全ての騒音が掻き消えた。

 まずは第一段階成功だ、と胸を撫で下ろしたところで、彼女らには逃げる方法も、その手段も持っているのだと分かった。

 結界を内側から抜け出すなど、本来なら考えられない事態だ。彼女たちが常に余裕の態度を崩さないのも、それが可能など端から疑ってないからだろう。

 

「抵抗しないで頂きたい! この場に留まり、動かないで欲しいだけです! 事が終われば解放します!」

 

 誓って嘘を言ってはいなかった。

 ただ取引が終わるまで動かないでいて欲しかっただけだ。だが、刀を持ち出した威嚇も意味はなかった。

 

 銀髪の少女が制御する理術は、その正確なところを掴めるものではなかったが、発動させては拙いという事だけは分かった。

 あれが発動すれば逃げられる、そう直感して國貞へ檄を飛ばすも意味はなかった。

 

 理術の発動を許して、結希乃は歯噛みする。

 このままでは逃がす。取引開始の時間はまだ先だ。ここで逃がせば、おそらく取引は中止する。次はより深く闇に沈み、容易に機会を握らせてはくれないだろう。

 無理矢理にでも攻撃をしかけて止めるべきか、しかし本当に攻撃する訳にもいかない。

 

 逡巡しながら刀を握り直した時、彼女らは早々に都合をつけて逃げ出す算段を話し始めた。

 ここに結希乃がおり、止める為に武器すら向ける相手に対し、まるで意も向けず呑気に語る様は、結希乃にしても頭に血が上る思いがした。

 

「――ま、待て! 動かないで頂きたい、と言った筈!」

 

 結希乃の制止にも意味がなかった。

 彼女らは窓から飛び出し逃げていく。だと言うのに、その中にあってリーダーと銀髪は部屋に残った。それを不審に思ったが、しかし逃げた事を伝えない訳にもいかない。

 

 ビルから逃げ出したとしても、結界内で抑え込んだなら問題なし。まだ失敗と決まった訳でもない。

 結希乃はインカムに指を当て、叫ぶように指示を出す。

 

「ビルから三名逃走した! 対象は結界を抜ける恐れ在り、何としても途中で食い止めろ!」

 

 初めから逃げられる可能性は考慮していた。

 それ故に御由緒家も用意していたのだ。彼らは二個小隊で一人を相手するよう作戦で指示してある。可能であれば、それ以外の小隊が二つに分断するよう指示もしている。

 そこからは、各々の得意な方法で結界内で食い止めてもらう事になる。

 

 しかしそれも、長くは保たないというのが我々の総意で、だから結希乃も即座に追いかけたいと思っているのだが、まさか目の前の女性たちを放って行く訳にはいかない。

 こちらを拘束しておけるなら、その意味は大きい。

 

 だが、そう思っていたのは間違いだった。

 指示をしながら、せめて牽制程度の攻撃を向けておくべきだったと後悔する。

 目の前で行われる、銀髪の少女による理術制御、そして行われる大規模理術。

 本来なら小隊二つを使って発動できるとされる理術を、一人で、しかも有利である筈の妨害すらさせずに発動させてしまった。

 

 結希乃は唇を噛みそうになる。

 元より勝つ為に動いていた訳ではない。結希乃達が拘束されることで相手の時間を拘束できるなら、それはそれで有意義である。

 

 だがそれは思い違いだった。

 展開された術は全方位を氷で囲む牢のようであったが、同時に攻撃できる悪魔の腹の中でもあった。怒りと共に飛び出した千歳は、その氷で出来た槍にあわや串刺しにされるところだった。

 

 それだけではない。

 今や抵抗する事に意味はなく、ただ可能な限り情報を与えず長い時間、彼女たちを拘束できるかを考えなくてはならなかった。

 

 ――不興を買わないこと。

 勅と共に送られた一枚の手紙を思い出す。あるいはこうなる状況を想定してあったとしか思えない文面だった。

 

 馬鹿な、と思いながらも、あるいは、と考えられる事態だった。

 もし今回の勅が実はオミカゲ様より下ったものであったら、先を見通した指示すら必然であるかもしれない。

 

 だから結希乃は聞かれるままに答えを返す。

 話せない事もあると言えば、あっさりと納得したのは、聞きたい事に機密性は低かったからか。

 

 そう思ったのは聞いてくる内容が表面的な事ばかりだったのに加え、結希乃たちが所属する組織について深く聞こうとしなかったからだ。

 そしてそれは、オミカゲ様にすら言及がない事で確信に変わった。

 

 彼女は言葉通り、単に報復する事しか頭にない。

 怒りに狂っているという訳ではなかった。単純に彼女のポリシーがそうさせるのだろう。それこそヤクザやマフィアと変わらない、自分にとって都合の良い、自分の為に法を無視して動いている。

 

 力ある故に、力持つ傲慢さ故に狂ったとでも言うのか。

 オミカゲ様の膝下で、それを許されると思っているのは許し難かった。

 

 刀を握る手に力が籠もる。

 結希乃の倫理が、結希乃の正義が、結希乃の志が、彼女を好きにさせるべきではないと叫んでいた。彼女の行いは子供の稚気と変わらない。

 殴られたのだから殴り返す事が、常に正しい訳ではないと、知っていなければならない。

 だが彼女は、結希乃の思いの丈など棒にもかからぬと、あっさりと振り払ってしまった。

 

「ただ一つ言っておく、我々の邪魔をするな」

「――待て!」

 

 結希乃が抜刀と同時に踏み出すのと、彼女達の姿が掻き消えるのは同時だった。

 渾身の理術制御で一足飛びに接近したものの、しかし結希乃の刀は空を切る。当てるつもりはなかった、しかし当たっても構うまいと考えての一閃だった。

 

 まさか瞬間移動などという幻想が実現するとは思ってもいなかった。せめて受けるか躱すかという動きを見せると思っていただけに、二の撃があると初動が遅れた。

 結希乃は己の不甲斐なさを嘆き、怒りと悲嘆の混ざる唸り声を上げるしかなかった。

 



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幕間 その5

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 氷の牢獄が消えて、結希乃のインカムに次々と報告が上がってくる。

 捉えたつもりが実は逆だ、と言っていたのは間違いなかったらしい。あの牢獄はあらゆる干渉を跳ね除け、電波すら受信できないようになっていたようだ。

 結希乃は叩きつけるようにして、インカムのマイクに向かって叫んだ。

 

「――状況は!?」

「既に突破されました! 結界内にはもういません!」

「どちらもか! それぞれ御由緒二家で当たった筈――それでもか!?」

 

 肯定する返事が返ってきて、結希乃は歯噛みした。思わずインカムの根本を摘んでいた指にも力が入る。

 彼女らの力量の程は理解していた――していたつもりだった。しかし二家をリーダーに据えた二個小隊、そしてそれをサポートする為の三個小隊を持って足止めすら叶わないとは想像もしていない。

 

 氷の牢獄に囚われていた時間は、そう長いものではなかった。

 誰もが万全の状態で迎え撃つ状態になっていたのは疑いようもない。結界の境界までも距離があり、そう簡単に突破できるものでもなかった筈だった。

 

 結希乃は國貞に預けていた千歳の容態を確認する。

 

「千歳、無事? どこか動かせないところは?」

「は、はい……。結希乃様、申し訳ありません」

「そう何度も謝らなくていいわよ。それで、どこにも怪我はないのね?」

「はい、大丈夫だと思います」

 

 本人の自己診断と実際に結希乃から見た状態を鑑みても、怪我らしい怪我はないようだった。実際、串刺しのようには見えていたが、その全ては身体を器用に避けていた。

 手加減されていた事を喜ぶべきか、それとも愚弄されたと怒るべきか……。後者の気持ちが残るのは、武人としての矜持故だ。

 

 とはいえ、いつまでもここで憤ってもいられない。すぐにでも甲ノ七を追わねばならなかった。

 結希乃は全隊員を預かる指揮官として、千歳の顔を覗き込む。

 

「これから追跡に向かう。問題ないか?」

「はい、大丈夫です! 動けます!」

 

 力強い頷きを返してきて、結希乃もまた頷く。隣りにいる國貞にも顔を向ければ、やはり頷きが返ってくる。

 その二つの返事を確認するのと同時、結希乃は彼女らが逃げていった窓から、同じように飛び出す。問題なく着地し、インカムに手を添えて細かい状況を把握しながら、途中で分かれた花郁と合流した。

 

「それで、他の小隊で動けるのは?」

「合わせても三個小隊だけです」

「それだけ、か……。御由緒家は全て動けないのか?」

「いえ、阿由葉様と由衛様は先程意識を取り戻されました。怪我も現在治療中ですが、幾らもかからず復帰できます」

 

 不甲斐ないと嘆く事はできない。結希乃も似たようなものだ。怪我もなく昏倒もしていなかったのは、あくまで相手の慈悲に過ぎない。

 結希乃は悔しい気持ちを押し殺しながら続ける。

 

「比家由と由喜門は?」

「陣の中で拘束されていて身動きが取れない模様です。陣内の理力が失われれば自動的に解除されるとの事ですが、それ故にあと三十分は現状のままかと……」

「……そうか、残念だが仕方ない。早める方法があるのなら、それを試してみるように。解放されたら、即時報告」

「了解しました!」

 

 通信を終え、ならば結界の解除はまだしない方がいいか、と考えを改める。

 本来なら作戦の失敗が決まった時点で解除する予定だった。しかしあの二人が位置取った地点は交差点の真ん中だった筈。彼らの無事が確認できるまで解除は出来ない。

 

 結希乃は花郁をこの場に残して行く事を決め、比家由と由喜門の移動と共に結界解除の指示を出す。

 今は何より追跡を優先しなければならなかった。

 彼女らは既に埠頭へ辿り着いている可能性すらあり、そこで何が起きるかを考えて頭が痛くなる。最悪、取引も生霧会も、マフィアも全て取り逃がす事になれば、御影本庁の名にも傷がつく。

 

 予め決めてあった脱出ポイントに向かい、車に回して貰って埠頭へ急ぐ。

 走って行くことも出来なくはないが、これから戦闘もある事を考慮すると少しでも体力は温存しておきたい。

 

 埠頭に辿り着くと同時、上空に花火のように見える何かが打ち上がった。

 似ているだけで全く違う造形だったが、とにかくあの直下で何かがあったのは確かだ。倉庫が幾つも連なる部分で、取引場所がそこの何処かまでは突き止めていたものの、正確な場所までは分かっていなかった。

 

 ――嫌な予感がする。

 

 停車を待つ事すらもどかしく、未だ走行中にも関わらずドアを開けて飛び出した。

 後ろから呼び止めるような声が聞こえるも、それを無視して花火の直下へ向かう。

 そうして、辿り着いた先で目にしたのは半開きになった倉庫と、中で気絶している生霧会の組頭と護衛だった。

 

「終わった後か……」

「結希乃様……!」

 

 追いついた千歳と國貞へ彼らを拘束するよう命じ、インカムの向こうへ応援を頼む。

 そうしながら地面に落ちた麻薬と、テーブルの上にあるケースに満載されている麻薬を見る。既に取引は終了していた事の証明であり、そして神刀も既にマフィアの手に渡った事を意味した。

 

 甲ノ七の目的を考えれば、目の前で組頭が昏倒している事実からも、既に逃亡していると考えるのが妥当だ。やるだけやって、引っ掻き回して去っていったという訳だ。

 

 麻薬取引の現行犯として逮捕すること、引いては生霧会とそれに連なる暴力団へもガサ入れが出来るだろうが、一番の懸念だった神刀の行方は、これで絶望的になった。

 大いに顔を顰めている最中、インカムから通信が入る。力無い手付きでマイクに手を添えた。

 

「甲ノ七が暴走車両を追跡中! 目的は不明ですが、どうしますか!」

「すぐに追う! 位置知らせ!」

 

 結希乃は弾かれたように顔を上げ、後を任せて走り出す。

 埠頭の入り口で停車していた車を使って、今も暴走を続けているという車両を追う。予備として残していた小隊も動員して、別方向から確保に動くよう指示して、とにかく車を走らせた。

 

「頼むわよ、今度こそ逃さない……!」

 

 小隊と結希乃が、路肩に停車している車に追いついたのは、ほぼ同時だった。

 車体の側面が大きく凹んでいるのは何だろうか。まさか殴りつけた訳でもあるまいし、流石にそこまで非常識な振る舞いをするとは思えない。

 

 周囲には野次馬が集まりつつあり、その整理も必要になりそうだった。

 運転席側の地面には男が一人蹲るように気絶していた。日本人ではない。これが取引相手のマフィアである可能性は高かった。

 車を覗き込めば、そこにも血を流して気絶している男がいる。

 

「阿由葉様! 後部ドアの中に……!」

「どうした!」

 

 呼ばれて車両後部へと向かうと、開いたドアへと差し向ける手がある。それの差す向こうへ目を向けると、倉庫内でも発見できた麻薬のケースが見つかった。

 ならば、この男たちが取引相手となるマフィアで間違いない。

 

「他に見つかったものは?」

「いえ、特にこれといったものは……」

「神刀がある筈よ。ケースにしろ袋にしろ、場所を取るものなら隠すにも限度があるでしょう」

「探します」

「表面的に見るだけじゃ駄目よ。どこかに隠し場所があるかもしれない」

 

 それに頷いて作業に取り掛かる隊員を見ながら、結希乃は臍を噛むような思いをしていた。

 常に逃げられ、常に後手後手になっている状態だった。

 生霧会もマフィアも逮捕できたので、目的は達せられたと言う事は出来る。神刀は取り返してやるという発言を信じるなら、持ち逃げするつもりもないだろう。

 この場から見つかれば作戦成功になり、目的も完遂できた事になる。

 

 それは喜ばしい。それだけを考えれば。

 しかし実際は常に引っ掻き回され、弄ばれただけだ。後処理も面倒な事になるだろう。御由緒家の実力に疑問を抱く者も出てくるかもしれない。権威の失墜というほど大袈裟な話にはならないだろうが、それでもついた傷は浅いものでもない。

 暗澹たる気持ちのまま溜め息を吐くと、インカムに新たな情報が伝えられた。

 

「報告します。飛波大通りに結界発生!」

「誰が展開した!?」

「いえ、自動展開されたものです。目撃情報によると、付近には甲ノ七もいた模様です!」

「全く、次から次へと……!」

 

 本日、孔が生まれる可能性は最初から考慮されていた。その為に別働隊として即応できるように小隊も用意していたのだ。だから、それ自体は良いのだが、問題はそこにもまた甲ノ七が関わる事にあった。

 

 逃げられた訳ではないと喜ぶべきか、それともまだ引っ掻き回すつもりかと嘆くべきか、結希乃にも判断をつけられない。

 とにかく指示を出そうと思ったところで、横合いから掛かる声があった。

 

「阿由葉様、お忙しいところ大変恐縮ですが、失礼いたします」

 

 視線を向ければ、そこには巫女服を着た女性がいる。あまりに場違いな格好だが、時と都合に左右されず、さる御方の遣いとして直接動く場合、彼女らはその所属を誇示する為、常に衣服を巫女服と定める。

 

 それも只の巫女服ではない。全国の神社では共通する様式というものがあるが、同時に御影神宮所属と分かる様式もまた存在する。

 彼女が身に着けているものは、その御影神宮所属巫女であることを示していた。

 

 そして喫緊の状況であると理解した上で話しかけてきたというのなら、それは結希乃が知るところ一つしかなかった。

 

「――神勅をお持ちしました。どうか、お納め下さいますよう」

 

 結希乃は喉の奥が引き攣るような思いがした。

 実際、その表情は引き攣っていただろう。大社から送られてくる大宮司様からの勅も神の御名の下、下される命には違いない。時に神の意を汲み取って行われる命でもあるので、本当の意味で神からの勅であるかどうか、受け取る者には判断できない。

 

 しかし、神勅となれば話が別だ。

 正真正銘、神の意志より下される命令。それを受け取る事が出来ることすら名誉とされるほど威のある命令なのだ。

 結希乃は震えそうになる手を抑えながら、差し出される勅書を受け取った。

 

「確かに、お渡しいたしました。お忙しいところを快く応じてくださり、大変恐縮でございました。用向きだけで御前去る無礼をお許し頂けたらと存じます。それではこれで、失礼致します」

 

 巫女はやんわりと笑って一礼し、そしてその場を離れていく。

 野次馬の幾人もが、その後姿をスマホで撮っては興奮した声を上げているのが聞こえた。徒歩で来たのか、それとも車か、そんな事を気にしても仕方がないのに思考が横滑りするのは、神勅を受け取ったという現実味を感じ取れなかったからだ。

 

 あるいは現実逃避をしたかったからか。

 結希乃は両手で持った勅書を他人の目に触れぬよう、車に戻って丁寧な手つきで封を切る。

 中に書かれた内容へ目を通し、それから引き攣っていた筈の顔を更に引き攣らせる事になった。

 



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幕間 その6

 オミカゲ様の名の下に書かれた内容は、甲ノ七の捕縛命令だった。

 つまり、その命に代えても捕縛または拘留しろという意味だ。本気の抵抗を受けた場合、結希乃の生命すら危うい。オミカゲ様の為なら生命すら惜しくはないが、現実問題として可能かという問題があった。

 

 だが仮に不可能であろうとも、実現に向けて最善を尽くさねばオミカゲ様にも、御由緒家たる阿由葉家にも顔向けできない。

 兎にも角にも、結希乃は全部隊に向けて招集命令をかけた。

 

 即座に全員が集まるだろうと分かったが、何しろこの場では問題がある。

 それでマフィアを処理する部隊だけ残して移動し、そこで新たな作戦を展開する旨を伝えた。

 

 その中心には御由緒の四家が厳しい表情で直立している。

 彼らを侮るような気配はない。あの場にいた誰もが、相手の力量が自分たちの遥か上にいると実感していた。しかし、だから仕方ないと項垂れるようでは御由緒家を名乗る資格はない。

 

 御由緒家はオミカゲ様の矛であり盾だ。その威儀を持ち、またオミカゲ様より力を与えられたが故に、誇りを持って命令を遂行する。

 今までの歴史を振り返っても、それを出来なかった者は存在しない。それを自分の代で汚す訳にはいかない、という強い思いがあった。

 それが彼らの表情に浮かんでいる。

 

 結希乃もまた同様の気持ちで四人の顔を見つめた。

 これ以上の失態は許されない。それが全員の胸に刻まれた総意だった。

 

「これは神勅による作戦行動だ、全員気を引き締めろ」

「はいッ!!」

 

 予め伝えておいた事ではあるが、その一言で尚一層顔が引き締まる。集合した他の小隊員全員も、同じように使命感に燃えた表情を見せた。

 

「既に警察には協力要請を出している。道路封鎖と避難誘導は既に始まった。現在展開されている結界内に甲ノ七がおり、彼らの実力を考えれば、いつ結界が消滅するかも分からん状態だ。――由喜門」

「はいっ!」

 

 呼ばれた紫都が背筋を伸ばし返事をした。

 名を呼ばれただけで何を要求されているか理解している紫都は、その場で理術を制御して空中にディスプレイを出現させる。

 結界の中の状況が鮮明に映し出された。

 

 そして、そこに映し出された光景を見て、誰もが顔を顰める。誰かがポツリと、呻きにも似た声を漏らした。

 

「牛頭鬼か……」

 

 結界内にいたのは黒い体毛に覆われた、角を生やした牛頭を乗せた巨漢だった。一体だけでも厄介な相手で、御由緒家の誰でも倒せない相手ではないが苦戦は免れない。

 しかも今回は、それが四体もいる。

 

 異常と言っていい数だった。多くの場合、少数の弱い鬼が出てきた後に現れるのが大物と呼ばれる鬼だ。この牛頭鬼も間違いなく大物で、最初から現れるものでも複数で現れるものでもない。

 

 最近の孔の状況は異常の一言で、このような想定とは違う出現がよく見られる。

 これも甲ノ七が姿を見せるようになってから見えるようになった現象だが、果たして関係はあるのだろうか。オミカゲ様の勅といい、最近の不可解な命令の数々といい、全くの無関係と考えるのも難しく思えた。

 

 結希乃達が相対したなら絶望にも思える状況だが、しかし彼女らなら問題ないだろうという、ある種の信頼があった。

 むしろ、あの数を処理する時間の間に部隊を展開できると思えば、よい時間稼ぎになるだろう。

 結希乃は即座に指示を飛ばし、結界を中心とした包囲を作ると宣言した。

 

「場合によっては消耗も期待できるかもしれない。とにかく数による圧をかけて、降伏を勧告する。拒否された場合は戦闘に入る。花郁はその際、即座に結界を展開しろ」

「了解しました」

「質問を受け付けている暇はない。小隊ごとに包囲し、武器を構えて待機。――急げ!」

 

 その一言で全員が散開して走り出す。

 結希乃もまた自分の隊を率いて走る。そして現場に到着し、全小隊が所定の位置に着いたところで結界の消滅が始まる。

 罅が入り、そして一瞬の均衡の後、砕けて消えた。

 

 姿を見せる甲ノ七を視界に収めた。相変わらず帽子とサングラスで表情は読めない。

 結希乃は、努めて冷静に、と自分を諌めながら息を吐く。

 しかし相手は辺りの様子が一変している状況に、面白がってすらいるようだった。その余裕は状況を理解しても尚、それを切り抜けられるという自信から来るものなのだろう。

 それが癪ですらあった。

 

 結希乃は腹に力を込めて、包囲した小隊の中から一歩を踏み出す。

 睨み付けるように視線を強くして一喝した。

 

「神妙に願います! これより貴女方を拘束、連行します! 一切の抵抗をせず、大人しく捕縛されるよう!」

 

 正直なところ、これは全くの形式で、甲ノ七は決して大人しく捕まるだろうとは考えていなかった。ヤクザやマフィアにそうしたように、結希乃たちをも蹴散らして我が道を行くだろう。

 

 この取り囲んだ兵を上手く使えば、一国と戦争すらできると言われる程の戦力がある。しかしそれさえ、彼女らにとっては敵にすらならない。

 それを先の結界内の戦いで証明してしまった。

 

 しかし、それをおくびにも出してはならない。

 この戦力なら自分たちすらただでは済まない、と思わせてやらねばならない。

 

 ――どれ程の抵抗があろうとも、必ず捕縛してみせる。

 そう強く思った時だった。

 しかし彼女は、あまりにも呆気なく、あまりにも簡単に投降してみせた。

 

 お前の顔を立てよう、という本心とは思えない台詞を口にしながら。

 結希乃にとって、その台詞は欺瞞にしか聞こえなかったが、しかし抵抗のうえ全滅の憂き目に遭うよりはマシだった。

 

 用意された護送車に入る時も、そして運ばれる最中も抵抗もなく素直なもので、生霧会ビルで話した時のような傲慢さから、好き勝手に動くと思っていた結希乃からすれば、あまりに意外だった。

 所持していた神刀も、すぐ傍で倒れていた男から奪取したと知らされ、宣言どおりに返却に応じた。

 

 御影本庁まで辿り着き、護送車から降ろしても、まだ素直だった。

 どこかで動き出すと確信すらしていたので、その一挙手一投足に注意を向ける。手錠はしていない。最初は着けたが、まるで粘土細工のように指先で引き千切られてしまった。

 

 自由な身にしているのに不安は残るが、無理にして暴れられる方が厄介だ。

 今はまだ素直に言う事を聞く気でいる。その状態を崩したくはなかった。

 本庁の中へ隊員に取り囲まれながら入っていくのを見送っていると、妹の七生が話しかけてきた。

 

「姉上、お疲れさまでした」

「ええ、貴女もお疲れ様」

 

 不満も不安もあるが、それが七生に伝わらないよう、余裕を感じられるように表情を取り繕って笑みを見せる。

 

「不甲斐ないところをお見せしまして、申し訳ありません」

「いいえ、貴女は良くやってくれたわ。御由緒家に限らず、他の皆もね。私自身も多くのミスがあった、文句なんて言えないわ」

 

 冗談めかして言えば、七生も暗い表情の中にちらりと笑顔を見せた。

 

「それで……彼女らはこれからどうなるのでしょうか」

「さて、どうなるのかしらね……」

 

 勅の内容は捕縛する事だった。

 それ以上の事は聞いていない。拘留していれば追加の指示なりが飛んで来るのだとは思うが、確かな事は言えない。だから七生には曖昧にはぐらかすような返事をするしかなかった。

 

 勅による作戦への横槍から始まり、勅によって変動があった今回の事件。

 不可解な事が多すぎるような気がする。まだ終わりではない、あるいは始まりなのかもしれない、と結希乃は思った。

 

 とはいえ、これは結希乃の勘のようなものだ。

 いたずらに口にして妹を不安にさせる必要はない。だからその肩を叩いて、優しく笑んだ。

 

「今日はもう帰りなさい。報告書は五日以内に提出してくれればいいわ。お疲れ様」

「分かりました。……姉上は?」

 

 一緒に帰りたいという甘えのようなものが見えたが、結希乃は苦笑して首を振る。

 

「私にはまだ仕事があるもの。今日は帰れないわ」

「そうですか……」

 

 落胆しそうになった表情をすぐさま引き締め、七生は一礼して去っていく。

 遠くで待っていたと思われる他の御由緒家と合流し、全員が改めて一礼して来て、それに小さく手を振って応える。

 

 結希乃は本庁の中へ入って、手近なところで控えていた國貞を捕まえて甲ノ七の所在地を聞いた。

 

「それで、どうなの?」

「いえ、何も追加の指示もありませんので、それまでは形式通りに事を進めておこうという話になったようです」

「妥当と言えば妥当だけど、勅を持って捕縛しろという命が来た相手なのよ。形式通りにして良い相手じゃないでしょう」

「その辺は……ええ、お役所仕事なところがありますし……」

 

 そうね、と結希乃は力無く頷いた。

 ここで文句を言っても仕方がない。形式通りというのなら、今は取調室にでもいるのだろう。

 

 結希乃は國貞を連れて取調室に向かう途中で、千歳がこちらに向かっているのに気付いた。今は書類をまとめて報告書の草案作りをしている筈だが、一体どうしたのだろうか。

 

「結希乃様、良かった。こちらにいたんですね」

「どうしたの、千歳。急ぎの用?」

「甲ノ七が、結希乃様を呼んでいます」

「私を……?」

 

 御影本庁の人員においても、直接対面し、対話したのは確かに結希乃しかいない。初対面の誰かと比べればマシかもしれないが、呼ばれる程に親しい間柄という訳でもなかった。

 怪訝に思いながらも、先程形式通りにするのもどうなのだ、と物議を醸したばかりだ。正直なところ行きたくはないが、行かないわけにもいかない。

 

「分かったわ。時間が掛かるかもしれない。報告書の方、確認だけで済むところまでお願いできる?」

「了解です。……その、結希乃様、お気をつけて」

「別に、話をしに行くだけよ」

 

 千歳の不安そうな顔でそう言われてしまうと、結希乃まで不安になってくる。

 その気持を押し殺して取調室へ向かい、その隣に用意された、マジックミラーで仕切られた取り調べの様子を見られる小部屋に入る。

 

 入室した結希乃に待機していた職員が一礼し、結希乃もそれに返す。

 マジックミラー越しには、気楽な様子で座っている甲ノ七が見えた。優雅な佇まいで気品すら感じる様は、座っているのがパイプ椅子だと忘れてしまうような有様だった。

 

 姿が見えている筈もないのに、結希乃の方へと顔を向け、指先をすら向けてくる。手の甲の向きを反転させ、手招きするように指先を動かした。

 

「……ご指名ですね」

「何もかもが異例尽くしの状況です。頼みますよ」

 

 何を頼むというのだろう。

 結希乃は曖昧に笑んで小部屋を出て、改めて取調室に入っていく。一人での立会いは規則違反なので、國貞も一緒に入室した。

 結希乃が机越しの椅子に座ると、國貞は入り口近くで待ち構えるように腕を組んで待機に入る。

 

 帽子もサングラスも相変わらずで、本来ならこれらは取り上げられる筈なのだが、今もこうしているところを見ると、抵抗にあって奪えなかったのだろう。

 素顔くらい見せろと言いたくなるのをグッと堪え、少しでも距離を離すようにパイプ椅子の背もたれに背中を付ける。

 

 甲ノ七は何も言わない。

 サングラス越しに見つめられている事は分かるものの、それ以上、何の動きも見せなかった。

 沈黙に耐えかね、結希乃の方から口を開く。

 

「それで……貴女は何者なのです?」

 



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第四章
御影の意志 その1


えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 ミレイユは周囲を取り囲む兵達と、そこから一歩踏み出し宣言した女性――結希乃を見据えた。遠くには車の走行音こそ聞こえるが、住民達の気配はない。

 その走行音すら遠く、兵達の後ろに野次馬すら見えない事から、何かしら大規模な規制が働いているのだろう、と予想が付いた。

 

 今は武器を突き出し威嚇しているだけだが、ミレイユの行動次第では結界の展開も視野に入れているだろう。

 そこまで考え、そして結希乃からの返答に満足したミレイユは大儀そうに頷いた。

 

「お前の顔を立てよう。一先ず、言うことを聞こうじゃないか」

 

 

 

 ユミルが持っていた神刀はミレイユが顎をしゃくる事で、ぞんざいな手付きで返された。投げ捨てるような渡し方に憤慨する様子を見せたものの、ユミルは元よりミレイユも頓着しない。

 

 ミレイユ達の手首には手錠をされ、用意されていた護送車へと入れられた。

 大きめのバンのような形で、車両塗色は市販車のまま、道を走っていてもそうと目立たないように配慮されているらしかった。

 

 窓は外から覗かれるのを防ぐためスモークフィルムが張られていて、逃走防止用の鉄格子まで付いている。運転席と後部座席が金網で物理的に遮断されており、そこへ押し込まれるように全員が乗り込んだ。

 

「まるで犯罪者の扱いだな」

「ミレイユ様……まるで、じゃないです。完全に犯罪者です」

 

 アキラは悲嘆に暮れながら、力なく状況の訂正をしてきた。そのような元気があるのなら、どれだけ悲壮な表情を見せていても、案外精神的には参っていないのかもしれない。

 

「そうか……。だが、たかが執行妨害くらいで、こんなに厚い警備をするものかな」

 

 狭い窓から見える範囲では、護送車の前後のみならず、左右まで白バイまでが包囲している。逃げ出そうと思えば訳もないと、あの結希乃が理解してない筈もないので、あくまでポーズに過ぎないのだろうが、税金の無駄遣いと思えてならない。

 

「執行妨害だけじゃないからですよ。多分、町中での暴走行為もカウントに入ってます」

「なるほど、確かにヘルメットはしてなかったな」

「違います、そこじゃないです」

 

 自分の苦言も理解されないと見て、アキラはウンザリした顔で溜め息を吐いた。

 そこへ鎖に繋がれた自分の両腕を、顎先まで持ち上げたユミルが言う。

 

「でもまぁ、この手錠は邪魔よね」

「そうだな。大体ミレイ様に手錠を掛けるなど、あまりに不敬だ。我慢ならん」

 

 言うや否や、アヴェリンは自らの手錠を両手を外に開くだけであっさりと砕き、ミレイユの手首にある手錠も外してしまった。

 鍵などないので、輪の部分を紙のように引き千切って壊すと、丁寧に取り外して解放した。それを見たユミルやルチアも真似をして、早々に手錠を無力化してしまう。

 

 ただしそこには個性が現れていて、アヴェリンが力づくならユミルはまるで手品のように、するりと手錠から腕を引き抜いた。ルチアは魔術によって解錠して手錠を外す。

 まるで手袋を外すかのようなアッサリとした仕草だったが、それを見たアキラは顔を青くさせた。

 

「ちょちょちょ、何してるんですか! 駄目ですよ、着けたままにしておかないと!」

「何故だ。そもそもこんな紙細工で、拘束しておけると思っているから馬鹿を見るのだ。不壊の付与もせず、何故私たちを拘束し続けられると思っているのかが、むしろ疑問だ」

「そうよねぇ。少なくとも大人しくしてやってるだけ、喜んでおいてもらわないと」

 

 アヴェリンの怒りを含んだ指摘に同調して、ユミルまでも嘲りを含んだ言い方で運転席の方へ顔を向けた。アキラは青い顔で口をへの字させて黙り込んでしまう。何を言っても無意味だと悟ったらしい。

 そこへユミルが顔の向きをミレイユに戻して聞いてきた。

 

「別に文句を言いたいワケじゃないけど、どうして素直に捕まったのよ? 何か意味があるなら知っておきたいわね」

「ミレイ様のお気が済むようにされれば宜しいかと思いますが、何かお考えあって助力できる事があれば教えていただけたらと思います」

「考えがなければ、あの場から姿を消していれば済む話でしたものね。私も気になります」

 

 全員から好奇の視線を向けられて、ミレイユは困ったように笑った。

 アキラもまた縋るように視線を向けて来るが、それは大いに理解できる。彼にとっては前科者になるかどうかの瀬戸際だ。

 そして前科持ちでなくとも逮捕歴があれば、まともな職にはつけなくなる。それを考えれば、他の者はともかくアキラについては配慮しなくてはならないだろう。

 

 他の者にある余裕の表情も、手錠から見て分かるとおり、自分たちを拘束し続けられるとは微塵も考えていない為にあるものだ。付き合うだけ付き合って、無理だと判断すれば実力行使で逃げれば良いと考えている。

 

 それぞれの視線を受けながら、ミレイユは小さく首を傾げ、考えを整理しながら口を開いた。

 

「オミカゲとやらに会えないかと思ってな……」

「オミカゲ様に……?」アキラが怪訝に言った。「捕まっても会えないと思いますけど。いや、捕まってなくても会えないとは思いますが……」

「そうだろうな、奥宮を見に行った時も外の警備は厳重そうに見えた。当然、中の警備はそれ以上で、侵入する事も容易ではない」

「あの時、そんなこと考えてたんですか……」

 

 アキラは呆れと怯え、その両方を表情に乗せて呻くように呟く。

 そこへ被せるように、外した手錠を弄びながらユミルが言った。

 

「試してみないと分からないけど、無理ってコトもないと思うのよねぇ」

「仮に可能だとしても止めて下さい。不敬ってレベルじゃないです」

 

 アキラは必死の形相だった。ユミルに詰め寄り、血走った目を向けている。予想以上の迫力に、ユミルも思わず頷いた。

 

「まぁ、いいけど。別にこの子も、やれとは言わないでしょうし」

「それって、やれと言われたらやるって意味ですか?」

「そりゃそうでしょ、やれと言われたらやるわよ」

「何でですか、おかしいでしょ……。そこは断固として断ってくださいよ」

「……それで?」ルチアが小さく咳払いをした。「どうして捕まる事でオミカゲ様とやらに会えると思ったんですか?」

 

 脱線が酷くなってきたところでルチアが話の水を向けて、それにミレイユも乗っかる事にした。

 

「あの阿由葉結希乃という奴がな、勅を持って動いたと言っていたろう」

「そうね、大宮司という誰かから貰ったらしいわね」

「因みに、その大宮司というのは何者なんだ?」

 

 ミレイユがアキラに顔を向け、それで全員の視線が集中する。

 アキラはその視線の圧に怯えながら、あまり詳しくないんですけど、と前置きした上で続けた。

 

「御影昇日大社っていう大きな神社がありまして、そこの宮司様の筈です」

「神宮とはまた違うのか?」

 

 アヴェリンが聞くと、アキラは難しい顔で頷いた。

 

「ええ、神社の格とか奉る神様によって、その名前が変わるんです。神宮というのは神様が住む場所とか、そういう意味があって、大社は何とといいますか……企業の本社みたいな意味です。つまり、他の数ある御影神社の代表で、他神社から比べて最も格式高い神社、みたいな……」

「どうも歯切れが悪いが……ふむ、数が増えれば代表が必要になるのも当然か」

「ええ、つまり全国にある御影神社にも宮司様がいて、そしてその代表が大宮司様という事です」

 

 なるほど、とミレイユが頷き、腕を組んで目を瞑った。

 

「そして、その大宮司は神の威を借りて勅を出せるという訳か」

「そうだと思います。もちろんオミカゲ様の威を借り受ける訳ですから、簡単に使える訳ないと思います。オミカゲ様は不正や不義を許しませんので、私利私欲で使うなんてないと思いますし……」

「ふぅん……?」

 

 ユミルが疑わしい視線を向けたが、それ以上言う事はなかった。

 ミレイユもまた疑わしく思うが、敢えて口にしない。続けてアキラに聞いてみる。

 

「それで、その大宮司の名前は?」

「……いやぁ、知りません。というか普通、宮司様の名前にまで興味持たないですし……」

「まぁ、それもそうか……」

 

 その返答にはミレイユも納得したが、しかしアキラは、ただ……、と言葉を濁して続けた。

 

「とても長生きしている女性の方だそうです。オミカゲ様の不老長寿の加護を得ているという話も聞きます。ただ、正確な年齢は誰も知らないそうです」

「正確な年齢も知らずに、どうして長生きだと分かるんでしょうね?」

 

 ルチアは疑問の中に冷笑を浮かべて言うと、アキラも困ったように笑った。

 

「そこは……まぁ、多分百年とか生きてるところから、色々尾ヒレがついた話になったんじゃないでしょうか」

「誰も正確なところは知らないのに?」

「ある程度ゴシップ的なところありますから。ただやっぱり、金も地位もある人は不老不死に興味を持つみたいで、日本と言わず世界からも接触を受けるという話もあります」

「結局、それもゴシップの範囲を抜けないんでしょ?」

「それも、えぇ……そうなんですけど」

 

 ユミルが言うと、アキラはそれにも困った笑顔で頷いた。

 長らく病もなく健康で、怪我も早く治ってしまうという権能がオミカゲにあるというのは事実だ。それ故に、そこから更に踏み込んで不老不死になる方法があると考えるのは、むしろ当然の流れのように思える。

 

 神と接触できないなら、それに最も近い人物に会いたいと思うのも、また自然な事なのだろう。

 しかし、仮に長命になる手段があるにしろ、その秘密を漏らすとは思えない。不正や不義を嫌うという神の大宮司というなら、尚の事だろう。

 

 そこでまた、ルチアが話の流れを戻してくれる。

 

「それで結局、その大宮司がどうかしたんですか?」

「いや、大宮司自体は問題じゃない。阿由葉は勅を受け取ったと言っていたろう、それも二回。しかも二度目は神からの勅だと、はっきり断言していた」

「……そういえば、そうでしたね」

「神との対面は、常人には無理だというような話も聞いたわね」

 

 ルチアが頷き、ユミルも同意して補足するように言葉を足した。



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御影の意思 その2

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 生霧会ビルで遭遇した神宮勢力、そこで会った結希乃の傍にいた部下らしき女性、その者が言っていた事だ。直接対面できる者は限られる、と確かに言った。

 

「でも、阿由葉は断言していた訳だ。……ならば、あの者はオミカゲに直接対面できる稀有な人物という事になりはしないか?」

「阿由葉家は御由緒家の内の一つ、オミカゲ様の血に連なる御家です。……有り得ない話ではないと思います」

 

 アキラからの同意も得て、ミレイユは自身の説が間違いないと確信に近い説得力を得た。

 そこにルチアが首を傾けて尋ねてくる。

 

「……でも、それがどうして捕まる事に繋がるんですか? 別に捕まってやる必要まではなくないですか?」

「それは、その方が話が早いと思ったからだな」

「……ですかね?」

 

 ルチアは更に首を傾けてしまった。

 ここでは会話が筒抜けになっていても不思議ではないので余り話したくはないのだが、手錠までして護送する者を、こうまで自由にさせているのなら警戒は薄いのか、と思う事にした。

 

「つまり、阿由葉と直接聞き出そうと思えば拉致してもいいんだが、口を開かせるのに難儀するだろう。魔力を持つ相手なら催眠の耐性も身に着けていそうだ」

「リーダーみたいだったから、それぐらいの対策はしてるでしょうね。情報を抜き取られても困るし」

「そうだな。だが、相手の土俵に立ってやれば緊張も少ない。傍に味方がいる、どこぞの牢屋での拘留、そういう相手優位の状況なら口も軽くならないかと。そこに期待している」

「ああ、つまり話を聞いたら、すぐにでも逃げるつもりなのね?」

「……どうかな。逃げると手配されそうだし、そうすると安心して過ごす事も難しくなりそうだ」

 

 ユミルが明らかに顔を顰めて首を振った。

 

「冗談でしょ。どことも知れない牢獄で、この先何年も過ごせって言うの?」

「いいや、そこは交渉次第だろう。ま、上手くやるさ」

「頼むわよ……。まぁね、交渉決裂なら、それこそ逃げ出せばいいし」

 

 気楽な口調で頷いて、ユミルは朗らかに笑う。

 それに待ったをかけたのはアキラだった。また血走った目を向けて、ユミルの腕を掴んだ。

 

「駄目ですからね、脱獄なんて。御影本庁による捕縛ですよ? オミカゲ様の勅だって言うじゃないですか! それなのに逃げ出すなんて……!」

「何よ怖い顔して。でも、脱獄くらい、みんな経験あるでしょ?」

「ある訳ないでしょ、何を軽い悪戯みたいなノリで言ってるんですか」

 

 アキラが威嚇するような表情で呆れて言った。

 しかしミレイユとしてはアキラに同意できない。さも二人の遣り取りに興味がない、という風で顔を逸したが、それに目敏く気付いたアキラが顔を向ける。

 

「え、まさか……? まさかミレイユ様も、あるとか言いませんよね?」

「……どうかな」

「何がどうかな、よ。言ったでしょ、全員経験済みなのよ」

 

 ユミルがアヴェリンとルチアにも目配せする。即座にルチアは顔を逸したが、アヴェリンはどこ吹く風だ。だからどうした、と鼻で笑うようですらあった。

 

「えぇ……? 何でそんな事したんですか。いや、むしろ何して捕まったんですか」

「言っておくが、疚しい事があって捕まった訳ではないからな。冤罪だ」

「え、あ、そうなんですか……?」

「どうせすぐ釈放されると思って素直に捕まった。しかし、そもそも嵌められたのだと気づき、待っていたところで、このまま牢に閉じ込められたままだと分かった。だから脱獄した」

 

 ミレイユの言い訳に、アキラは納得した表情で頷いた。

 時に法とは完全に潔白の上で行使されるとは限らない。衛兵に金を積ませ逮捕する事もあれば、証拠を隠してしまう事もある。

 潔白を叫んでも、その精査する者たちが腐っていては意味がないのだ。

 

「因みに罪状は何だったんですか?」

「貴族に対する暴行だな」

「ははぁ……、実際は殴っていないのだと」

「いや、殴った」

「じゃあ冤罪じゃないですよ、それ!」

 

 思わずといった感じで、アキラは声を荒らげた。立ち上がりかけた腰を降ろし、助手席にいる筈の警務官か何かを伺うように顔を向ける。

 何の反応もない事にホッと胸を撫で下ろした。

 それからミレイユに胡乱げな視線を向ける。

 

「同情できる話なのかと思ったら、普通に犯罪してるんじゃないですか。しかも逃げるし。普通しませんよ、そんな事」

「いいや、冤罪ではあったんだ。殴ったぐらいなら罰金で済む。投獄まではいかない」

「ああ、言われてみれば……でも貴族様だったんですよね? やっぱり庶民を殴るより罪は重かったんじゃ……」

「それは確かにそうだ。しかし金額が重くなるだけで、別に投獄まではいかないものだ。では何故そのような事になったかと言うと、私がその貴族を袖にしたからだ」

 

 アキラの表情が同情に傾く。眉が八の字に垂れ下がり、痛いものを見るような顔をする。

 

「そもそも貴族でなければ価値がないと思うような輩だったしな。地位に拘らず、容姿も関心を抱かず、金にも傾かない、そういう私が気に食わなかったらしい」

「それで、殴ったんですか」

「そうだな。詳細は省くが……気に食わないと思えば、相手が王だとしても私は敵に回すのを躊躇わない。それで、躾のために殴った」

 

 アキラの表情は完全に同情的なものに変わっていた。

 アヴェリンは当時のことを思い返して、腸が煮えくり返るような思いで顔を顰めている。ルチアもユミルも似たようなもので、苦いものを飲み込むような表情をしていた。

 

「だが結局、単に恨みを買うだけで終わった。罰金だけで終わる筈が投獄され、そして潔白を証明する機会すら奪われた。アヴェリン達は一緒にいたから、という雑な理由で同罪だ。……どうだ、私達は逃げずにいた方が良かったか?」

「それは……ええ、確かに投獄されたままでいるのは馬鹿みたいです」

「お前なら素直に刑期を終えるか?」

「それは……」

 

 口を濁すアキラに、ミレイユは敢えて笑って見せる。つまらぬものを振り払うように腕を左右へ動かし、何でもないように続ける。

 

「意地悪な質問だったな。お前がどうするか、どうしたいかはお前が決めろ。だが、私は……私達なら脱獄を選ぶという話だ。別に自慢気に語るつもりもなかったが……、結局そんな感じになったかな」

「えぇ、いや、何と言いますか……」

「別に無理して何かを言う必要はない。教訓めいた話というには少々難があるしな」

 

 空気が妙な感じになってしまって、ミレイユは窓の外を見つめた。スモークシートのせいで外を明確に見る事は出来ないが、それでも移り変わる景色はそれなりに心を慰めてくれた。

 そこにルチアが思案顔で顎に手を当てて聞いてくる。

 

「でもですよ、相手に優位な状況で話を聞くのはいいとして、それでオミカゲさんに会う約束なんて取り付けられるものですかね? 勅を受け取れるだけ近しい間柄だとしても、それとこれとは話が別じゃありません?」

「ルチアの言う事は最もだ。だが、私にも切り札がある。会う約束を取り付けるのは難しくても、無視だけはされない。それには自信がある」

「ふぅん……?」

 

 ユミルが曖昧に頷いて、とりあえず納得するような素振りを見せる。

 それでルチアも頷き、アヴェリンは元よりミレイユのやる事に異議を唱えない。

 

 とりあえずの方針は固まっているのだと納得し、そして何か策があると分かると、車内の空気は弛緩した。ユミルはアキラにちょっかいを出し始め、ここだけ切り抜いてみると完全に遊びに行くようなノリだ。

 

 囚人相手なら既に激昂されていてもおかしくなく、また監視員の一人もいない事に改めて気が付いた。そもそも自由にさせる筈もなく、その為に誰かしら配置するものだと思うのだが、警察とはやり方が違うのだろうか。

 

 だが、実際に誰か置いていたとしても、ミレイユ達は封殺していただろう。

 ユミル辺りは煩いことを理由に気絶させていた可能性すらある。

 それを見越して誰も配置していないのだとすれば大したものだ。結局、監視員など置いても全くの無意味なのだから、無駄に犠牲者を増やすだけにしかならず、ミレイユ達の不興を買うだろう。

 

 そう思って、結希乃の言葉を思い出す。

 ――不興を買うな、と言われた。

 もしもそれを、今も律儀に守っているとしたら、この緩みきった監視体制も納得できる気がした。

 

 ふとアヴェリンが窓の外に目を留め、並走する白バイを熱心に見つめている事に気が付いた。運転している警官ではなく、バイクそのものに目を向けているようだった。

 

「……どうした、アヴェリン。何か気になるのか?」

「ああ、いえ……。ちょっと見ていただけでして……!」

 

 アヴェリンにしては歯切れの悪い言い方だった。

 首を傾げて何か思うところがあるのか問う。そうすると、おずおずと憚るような調子で言ってきた。

 

「先程までの追跡で、あれと似たような形の物を追っていました」

「ああ、私も車種など全く詳しくないが、随分と速いバイクだったな」

「ええ、その……バイクですか。それがこの世界の馬の代わりをしているのか、と思いまして」

 

 それでアヴェリンが何を思っているのか察することが出来た。

 形状は随分違うものの、跨って走るものという意味ではバイクと馬は良く似ていた。バイクの種類によっては馬では踏破出来ないような場所も走る事ができる。

 

 馬よりも早く走ることも出来るし、ガソリンが続く限り走り続けるものでもある。

 そういう意味では馬は毎日の世話がある分、バイクの方が手軽で速い乗り物だと言えるだろう。最も、バイクの手入れは簡単だなどと言えば、煩い輩もいるだろうが。

 

「実に軽快に、そして場所を選ばず走るものだと感心しました」

「ああ、その気持ち、分かる気がするよ。馬にとって変わったのは車だろうが、しかし形状として見た場合、バイクの方が近い気がする」

「馬は良いものです。あれほど美しい生き物はおりません。世話を通じてお互いの気持が一つになり、人馬一体の走りが出来るようになるのは、何事にも代えられない喜びですから」

 

 あちらの世界において、アヴェリンには自ら世話する馬がいた。

 用意された邸宅には、規模に見合った常識として馬房があり、そこで世話と管理を任せていたものだ。ルチアは身体も小さいのでアヴェリンと同乗し、ユミルは自前の馬を召喚して用意していた。

 

 ミレイユの馬の世話もアヴェリンの仕事で、時が許す時は毎朝毎夕、甲斐甲斐しく働いていたのを覚えている。与えられた仕事というより、したいからしているという感じだった。

 

 アヴェリンの視線の先にはバイクがある。

 当時のことを思い出してしまったのかもしれない。現代に馬を用意する事も、世話をする事も難しい。あの時のように世話する時間が出来れば、アヴェリンも満足する時間を過ごす事が出来るのだろうが……。

 

 いつだったか、アヴェリンにもこの現代を楽しんで欲しいと言った事がある。

 なにか趣味でも見つけて楽しく過ごせ、と。

 もしアヴェリンにバイクを買い与えたら、と考え、即座に否定した。

 

 金がないという切実な理由があるのは勿論だが、そもそも免許を取らせてやる事すら出来ない。馬のように道を走らせる技術があるならそれで良し、とはならないのだ。

 明確な交通ルールを理解した上で走らせなければ事故を起こすし、そしてその時怪我するのはアヴェリンではなく、間違いなく相手の方だ。

 

 ミレイユはままならぬ気持ちを押し込めるように溜め息を吐き、アヴェリンとは逆の窓へ顔を向けた。

 



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御影の意思 その3

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 目的地に到着したらしく、護送車が停止すると共に警務官らしき人物に促されつつ降車した。手錠がない事実に気付いていたようだが、顔を顰めただけで何も言わない。

 ユミルが手錠の輪を指先で回転させて遊ぶのを見て、彼らは更に顔を歪めた。通り過ぎざま手錠を返却されて、警務官同士、渋い顔のまま向き合わせた。

 

 その様子を見ながら、囚人に対する態度ではないと改めて思った。

 車内で自由にさせている時点でおかしいと思ってはいたが、ここまで来ると扱いが良いという問題ではない。明らかに何事かに対する配慮が見える。

 それが果たして何なのか、今のミレイユには想像しか出来ないが、悪意から発せられるものでない事は確実だろう。

 

 顔を上げれば、目の前にあるのは背の高いビルだった。

 

 そして同時に気づく。この地の霊脈を利用し、ビルを建てたという事を。

 神宮のように強力なものではない。しかし敷地の面積を思えば大き過ぎないのが逆に良いのかもしれない。

 マナの生成もされているようだが、同時に抑圧されるような奇妙な感覚もある。どうにも不思議な感覚だった。

 

 ミレイユは近くにいたルチアに目配せして、近くに寄るように言った。

 

「……この奇妙な感覚、覚えはあるか?」

「ないですね。何かあるのは分かりますけど、それが何かまでは……。警戒しておきます」

 

 頼むぞ、と肩を叩いて自らも警戒すべく視線を巡らせる。

 ルチアはそれからビルの屋上付近へ目を向けたり、あるいは塀の隅へと目を向けたが、その表情からは困惑が見え隠れするだけで、判明する部分はないようだった。

 

 塀の背は高く、ビル周辺を四角形に囲み、その内側には庭木などが植えられている。殺風景な雰囲気を見せまいとしているが、あまり成功しているようには見えない。

 ビルへ出入りする為の入り口には横引型の鉄柵があって、近くに警備員が常駐する為の小屋もある。

 

 総じて物々しい雰囲気が漂っているが、建物の中に入れば、予算が潤沢にあるのだと分かる程に内装は整えられていた。

 

 清潔感も感じさせる染み一つない白い壁紙、室内にも関わらず多く見える観葉植物や調度品、それらが調和して嫌味のない高級感すら漂わせていた。

 時折壁にかかって見える絵画も、それに一役買っているようだ。

 

 前後を四人、合計八人の警務官に挟まれて、ミレイユ達は通路を歩く。

 途中すれ違う者たちからはギョッとした視線を向けられた。その視線の意味は分からないが、何一つ拘束なく歩いている事に疑問を感じたからかもしれない。

 

 随分長く歩かされ、着いた先は待合室のような場所だった。

 広い室内には椅子が四つ並んだあと間隔を開け、また四つの椅子が並んでいる。それが後ろに四セット並んでいた。室内の四隅には観葉植物が置かれていたがそれだけで、他には何もない殺風景な部屋だ。

 

 そしてそこから鉤型に曲がる通路が一本見えている。

 その先に何があるかは分からないが、恐らく取調室のようなものがあるのだろう。

 ミレイユを残して全員そこに座らされたが、アヴェリンが強硬に反対する姿勢を見せた。その腕に縋り付くようにアキラが手を取ったが、すぐにその手は振り解かれる。

 

「――ミレイ様!」

「アヴェリン、大丈夫だから落ち着け。ちょっと話してくるだけだ。……恐らく、順番に話を聞こうとするだろう。……が、何も言わなくていい」

「分かりました……」

 

 アヴェリンの顔には不満がありありと浮かんでいたが、ミレイユからの命令とあれば頷くしかない。ミレイユは通路の向こうへ促されるまま歩き、曲がった先でドアの開いた一室に通された。

 

 部屋は他にもあったが、今は扉が閉まっている。

 映画なんかでも見た事がある。取調室の中を監視したり、音声の録音機材や撮影した動画が、その場ですぐ確認できるような部屋になっているのだ。

 

 中の部屋は粗末な机と対面するように置かれた一対の椅子、あとは荷物置きにでも使うつもりなのか、隅に腰掛けられる程度の高さのある小テーブルが置いてあった。

 

 ミレイユは出口が見える方――奥側の方にある椅子に座らされた。

 左側に視線を向けると、予想したとおり大型のマジックミラーが設置してある。こちらからは単なる鏡としか映らないが、待機している誰かは今も監視をしているらしい。

 ミレイユには気配から、その中に一名いる事が分かる。

 

 椅子に腰掛けたものの、尻の座りが非常に悪い。

 パイプ椅子のような粗悪なものには、最近とんと縁がなかったせいで、その固さには辟易する思いだった。

 何度か尻の位置を調整し、椅子の場所も調整して机から少々離した位置で足を組む。

 目の前に立つ、ここまでミレイユを連れてきた男は、それを見て顔を顰めた。

 

「……自分の立場が分かってないのか? 足を組むな、帽子を取れ。サングラスもだ」

「おや、てっきり何か忖度されているのだと思っていた。ならば言わせてもらうが、……今更か?」

 

 男はそれに返事を寄越さず机を回り込み、帽子を掴み取ろうとした。

 しかしその前に、ミレイユは素早く制御して魔力を練る。手の平を振るう動きをする時には魔術は完成していて、男を腕ごと吹き飛ばした。

 

「――な、あがっ!?」

 

 もんどり打って倒れ、男は驚愕に目を見開く。

 その態度を見て、ミレイユはおや、と首を傾げる。魔力も魔術をも知っている身であろうに、まさか何の抵抗もしないと思っていたのだろうか。

 それとも、ここまで従順にしていたから、何か勘違いさせてしまったか。

 

 魔術的制約を受けている訳でも、封じる為の何かをされた訳でもない。一切の武器を取り上げず、放置していたに等しい行為だ。

 あくまで取り上げる手段がないから仕方なくそうしていたのだと思っていたのだが、まさか抵抗が想定外だとでも言うつもりか。

 

 だが、そうであるなら都合がいい。

 ミレイユは更に腕を振るって男を吹き飛ばし、部屋の出入り口まで押し戻した。明らかに恐怖で引き攣った表情を見せながら顔を向けてくる。

 

「阿由葉を呼べ。御由緒家と呼ばれてる、あいつだ。他の者を呼べば、同じ目に遭わせる」

「わ、わか……っ!」

 

 全てを言い切る前に、何度も頷いて男は部屋を出ていった。

 慌ただしく靴が廊下を叩く音が聞こえては遠ざかっていく。

 ミレイユは腕を組んで顎を下げ、小さく溜め息を吐いて結希乃が来るのを待ち続けた。

 

 

 

 長い時間を待たされると思っていたが、目的の結希乃は十分程度でやってきた。

 マジックミラーの向こう側に、知った魔力反応の感知ができる。見えてはいないが反応に向けて指を向け、それから向きを反転させてチョイチョイと指を前後に動かす。

 それで顔を正面に――出入り口へと向けて待っていると、即座にやってきて姿を見せた。

 

 結希乃以外にもう一人、生霧会のビルでも見た男性が入ってきた。

 この者は何をする気も言う気もないらしく、入り口傍の壁際に寄って腕を組んで待機に入ってしまった。刑事ドラマでも取り調べをする際には必ず二人でいるものだし、ここでもそういうものなのかもしれない。

 

 緊張した表情を滲ませ、結希乃は対面に座る。動きの一つ一つを見ても平常通りに動こうとしていると分かるが、ミレイユからすればその緊張度合いがどの程度か判別できる。

 椅子に座った結希乃は、帽子について何も言わない。一度他の者が通った道だ、変に刺激したくなかったのだろう。

 

 しばしの沈黙が続く。

 聞きたい事があるから取調室に入れているのだろうに、結希乃からは一向に聞こうという気配がない。

 何か心理的な作戦でもあるのか、と思ったところで、ようやく結希乃が口を開いた。

 

「それで……貴女は何者なのです?」

「……随分つまらない事を聞くんだな。それがここまで引っ張ってきて、最初にする質問なのか?」

 

 これには結希乃も言葉に窮したようだった。

 一度視線を外に向け、考えあぐねるように眉に皺を寄せる。即座に別の質問が来ないというのも仕方ないのかもしれない。そもそもミレイユがここに呼んだのだ。

 

 取り調べをする専門の人間もいただろうし、そこに畑違いの者を呼んだ訳だ。もしかしたら、マジックミラーの向こう側でその辺りの詳しい遣り取りがあったものを、ミレイユが機会を奪ってしまったのかもしれない。

 

 ――考える時間が必要か。

 そう思って、ミレイユは雑談程度の気持ちで、こちらから話を振ってみる事にした。

 

「先程、お前が来る前の事だが、一人の男をちょっと小突いてやった。やけに怯えていたが、あれはどういう事だ? 私のことを知らない訳でもないんだろう?」

「私はその事を存じませんけれど、もし理力を使ったというなら、怯えられても仕方ありません。この敷地内ではある種の圧があって、行使する事ができませんの」

「理力……、それに圧、ね」

 

 魔力とは違うものか、それとも単に呼び方に違いがあるだけか。

 ミレイユは単に呼び方の違いだと判断した。今も結希乃から感知できる力は、ミレイユ達が魔力と呼ぶものと同質のものだ。似ているだけ、という訳でもなく、全くの同質である。

 単に言語の違いから来るものだろう、とミレイユは思い、それから圧について聞いてみた。

 

「圧とは何だ?」

「そのままの意味です。気圧や水圧、そのようなものと同じで、ここでは理力が強く押さえつけされます。行使する事が叶わない程に」

「ならば、その圧が足りないんだろう。……が、強くしすぎてもお前たちの生活にも影響が出るか?」

「ご慧眼ですわ。これでも私達には十分抑圧されているという感覚です。怯えられるのも、当然かと……」

 

 結希乃は笑顔だが、その額に汗がうっすらと浮かんでいた。

 ミレイユに暴れるつもりはないが、もし力を奮う事に躊躇しなければ、ここにいる全員は大変な危機に陥る事になる。

 

 いや、既に危機を感じているのか。

 不興を買うな、と彼女は警告されたという。この状況をミレイユがどう受け止めるかで、全ては一変する。力を振るえるミレイユと、抑圧されたままでいる者たち。本来なら敷地内でみだりに使用しない為に用意されたのだろう処置が、完全に裏目に出ている形だ。

 或いは、今こうしている間にも、その処置の解除をしているのかもしれない。

 

 ミレイユにその気はないなど安心せる台詞を言っても、だれも本心から安心しないだろう。ここは気づかない振りをしたまま会話を続けた方が良さそうだった。

 

 結希乃は外していた視線をミレイユに戻す。

 

「こちらからも、お聞きしても宜しいでしょうか?」

「元よりここはそういう場だろう」

 

 結希乃は困ったように笑い、そして続けた。

 

「ええ、ではお聞きしますが……何故、私を呼ばれたのでしょう?」

「理由は幾つかある」

「是非、その幾つかを教えて頂ければ……」

「一つは単純、お前が気に入ったからだ。どうせ取り調べを受けるなら、お前のような者からの方が面白い」

 

 ミレイユの返答は完全に予想外だったようで、抑えた感情からも渋いものが現れるのを感じた。

 気に入られたと言われて素直に喜べない、むしろ嫌だと、結希乃は微笑の奥から言っていた。

 



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御影の意思 その4

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 そういう反応が返ってくると分かっていたからこそ、ミレイユは結希乃が気に入っていた。

 明らかな敵意を漲らせる訳ではないが、腹の奥底に隠して燃やしている。それを隠せていると思っているからこそ、尚のこと面白い。

 

 おちょくって遊びたいという嗜虐心からではない。

 単にミレイユの周りにいなかったタイプだから、傍で見たいと思っただけだった。

 結希乃は微笑の奥に本心を隠しながら、次を催促してくる。

 

「……光栄ですわ。それで、他に理由があるならお聞かせ願います」

「あとは、私が唯一接触できた御由緒家だったから、だな」

 

 ミレイユが御由緒家の名前を出した途端、結希乃の瞳が剣呑な眼差しに変わった。

 御由緒家はオミカゲ様に最も近しい家系だとミレイユは聞いた。勿論、その家に対して歴史上様々な輩から接触もあった事だろう。

 少しでも権力欲や名誉欲があれば、オミカゲ様に近づきたいと思うのは必定。そして、その渡りを付けられる人物は、と考えるとその存在は限られてくる。

 

 多くの誘惑や、袖の下を渡そうとして来た者たちがいた事は容易に想像がつく。

 結希乃も当然、家の者から多くの教訓を学んできた筈だ。

 ミレイユの発した一言で気配が変わるのも当然と言えた。

 

「我が阿由葉家にどのような用向きがございましょうとも、一見さんに私から当主に渡りを付ける事はございません。お力にはなれないかと」

「用があるのは当主ではないが……。そうか、話を通して貰おうと思うと、当主から話して貰うしかないのか……?」

 

 言いながら、ミレイユは顎先を摘んで考え込む。

 ミレイユにとって用があるのは当主ではない、オミカゲ様だ。だが、そこに話を通して貰おうとすると、幾ら御由緒家とはいえ当主でもない者が直接渡りをつけようとしても無理なのかも。

 

 だから結希乃を説得した上で当主に話をしてもらい、その当主から奥宮の誰かに話しをして、そこから更に経由してオミカゲ様の耳に入れるかどうかを判断する、そういう流れが必要になる。

 

 一国の王とてその程度、それ以上の経由を果たさねば外からの声など耳に入らぬものだ。

 それが権力はまだしも崇敬として最上位にいるこの国の神に対して、そう易々と部外者――それも犯罪者扱いの者の声など届ける筈がない。

 

 ――だが、こうも思うのだ。

 同時にあちらはミレイユの事を把握している。

 ミレイユという異質な存在という人物に対してではなく、もっと深く個人としてのミレイユを知っていると感じるのだ。

 

 そしてそれは、結希乃に対し不興を買うな、という警告を残した事からも窺える。

 大宮司と呼ばれる何者かは、明らかにミレイユを知っていた。渡りを付けるというなら、まずそちらへ付けてもらった方が話も早いかもしれない。

 

「あの……?」

 

 一人呟くようにして言ってから黙考を始めたミレイユに、結希乃は困惑した表情を隠さず顔を向けてきた。

 ミレイユはそれに応えるように顔を上げた。

 

「……そうだな。阿由葉の当主にというより、むしろ大宮司と呼ばれる人物と話がしたい。そちらに渡りを付けられないか?」

「馬鹿な……!」

 

 結希乃はここで初めて感情を顕にした。椅子を引き、拒絶するように手を前に突き出す。

 部屋の隅で控えている男にさえ動揺が見えた。

 

「大宮司様は単なる神社の宮司様とは違います。御由緒家と言えども、そう簡単に接触できる御方では有りません……! ましてや私が口利きなど……あまりに不敬です」

「それほどの人物なのか……」

 

 ユミルは無言で首肯する。

 あるいは神に次ぐ地位にある人物、そう考えて良いのかもしれない。結希乃の態度は、そう思えるほど畏敬の念が窺えた。

 

 だがそうすると、分からない事が出てくる。

 

「お前は勅を受け取ったと言っていた。そして警告を受けたというような事も言っていた、そうだな?」

「そうですが……」

「その大宮司は――」

「失礼を」

 

 言いかけたミレイユの台詞を、結希乃は断固とした表情で差し止めた。

 

「役職の名であろうとも、必ず敬称をお付け下さい。あまりに無礼な振る舞いは看過できかねます」

「ああ、そうだな……。すまなかった」

 

 ミレイユは素直に謝罪した。

 いつだったかアキラにも似たような事を言われたものだ。自分が敬意を向ける相手をぞんざいに扱われて面白く思う者はいない。

 

 しかも相手は神職だ。ミレイユが先程考えたように、あるいは神に次ぐ地位の役職なのだ。相手を恐ろしいと思っても、看過できない問題というものもある。

 

「それで、その大宮司サマから警告を受けたというなら、その人物は私を知っているという事になるな……?」

「それは……はい、そうかもしれません」

「内容は何だったか……。不興を買うな、だったか」

 

 結希乃の表情が固くなる。口元も引き締められ、先程まで浮かべていた微笑は全く見えなくなっていた。

 ミレイユは敢えて両手を胸の前まで持ち上げ、そこに何もない事をアピールする。そして手首同士を、上下へ打ち付けるように振ってみせた。

 

「手錠を改めて着けようとしないのも、その一環か? 護送車内で好きにさせていたのは? 忠実に守るだけの価値が、私にはあるのか?」

「貴女は……、何者なのです」

「それは私が知りたい」

 

 ミレイユは再び胸の下で腕を組み、帽子のツバを摘んで下げた。

 いま言った事は本心だった。

 ミレイユは明らかに自分が日本人としてこの世界で生きていたという記憶を持つが、同時にこの日本は明らかにミレイユが知っている世界とは違う。

 

 何より気になるのがオミカゲ様の存在で、これが全ての齟齬の核、特異点となっているのではないか、とミレイユは疑っている。

 その事で何か知る事ができないかと動き、そして期待とは違うものの反応はあった。

 

 魔力や魔術を扱っているとしか思えない者たち、その者たちに指示を出せる地位にいる者が、ミレイユを知っていると思わせる動きを見せた。

 ならば、あちらもまた接触を望んでいると考えて良いように思えた。

 だからこそ、こうして大人しく捕まってみたのだが、果たしてこれが吉と出るか凶と出るか……。

 それはまだ分からない。

 

 向こうから足を運んでくるとは思っていない。

 だからミレイユの方から出向く意思あり、と伝えることが出来れば、と思ったのだ。それには近しい立場である筈の御由緒家を利用するのが近道だと思った。

 しかし結希乃の反応を見るに、どうも簡単には行きそうもなかった。

 

 ――さて、どうしたものか。

 数日、ここで拘留でもされていれば、あちらから動きがあるものか。それとも大宮司の所在を突き止め、そこ目掛けて突貫した方が早いのか。

 

 ミレイユが考えあぐねていると、スマホの着信音が鳴った。

 結希乃か、それとも後ろの男のものか。ミレイユがちらりと視線を向けると、結希乃が懐からスマホを抜き取ったところだった。

 

 画面を見て怪訝な顔をし、ミレイユに目線を向けてくる。

 どうぞ、という風に手の平を向ければ、頭を下げて椅子から立ち上がり、ドアの方へ向かった。

 

「……はい、私です。……そうです、第二取調室に。……ええ、完全に形式に則った形ですが」

 

 結希乃はドアを開けるよりも先に話し始め、歯切れ悪く応答している。ドアの前に立って、そのノブに手を掛けようとして動きが止まる。

 

「……いえ、違います。……そのような事、何も聞いておりません。……はい。……いいえ、指示はなかったと思いますが」

 

 何やら電話の向こうと齟齬が発生しているようだった。話の雲行きが怪しくなってきたと見え、大人しく待機していた男も怪訝な表情を見せている。

 

「……こちらに来ている? お待ちを……ここというのは? こことは、本庁という意味ですか?」

 

 結希乃の声は逼迫していた。焦りも顕に男へ目配せして、次いでミレイユにも目を向けてくる。

 そのような目を向けられても、ミレイユには意味が分からないし助けようもない。

 

 スマホのスピーカーからは、微かに怒声のようなものが聞こえてきた。怒声というより悲鳴かもしれない。とにかく、状況に困惑しているのは結希乃だけではない、という事らしかった。

 

 結希乃がドアノブに手を掛け、そしてノブを回そうとしたところで、ドアが向こうから開けられる。ノックもなしに開いたので、結希乃も面食らって後ろに二歩下がった。

 

 扉の奥から姿を現したのは、巫女服を着た清廉そうな女性だった。

 室内に一歩踏み入り、そして結希乃と隅に控えた男へ一瞥する。しかし巫女は二人に声をかける事なく、更に足を踏み出した。

 

 結希乃のスマホからは未だ何かを言う声が聞こえていたが、既に耳から離して巫女を目で追っている。まるで信じられないものを見るかのような目をしていた。

 結希乃も男も、この場で声を掛けて止めるべきと分かっているだろうに、巫女の背中を黙って見送っている。

 

 ミレイユにしても、全く現実味のない光景に困惑していた。

 ここは警察とは違う場所だろうが、そのような組織であるのは想像がつく。そこに巫女というのはあまりにチグハグだったが、ミレイユはそこでようやくもしや、と思った。

 

 先程まで望み、どうすれば大宮司と接触できるかを考えていた。向こうから接触も望んでいた。そして、その遣いが或いはこの巫女なのではないか。

 

 ミレイユは期待を込めて巫女を見る。

 巫女はミレイユの対面の椅子に座ることなく、その二歩手前で立ち止まり、両手を臍の上辺りで重ね、その場で深々と礼をする。四十五度より幾らか深い、完璧な姿勢で腰を折った。

 

 じっくりと五秒の間、最敬礼を見せた後、ゆっくりとした動作で元に戻る。静寂な室内で、その僅かな衣擦れの音がやけに響いた。

 顔を上げた後、もう一度、今度は浅い角度で礼をする。その後、凛とした声音で口を開いた。

 

「お初にお目にかかり、恐悦至極に存じます。連絡の不備、及び勅の内容不備により、このような不自由をおかけしてしまった事、誠に申し訳有りません」

 

 巫女はもう一度、深く腰を折り、そして頭を上げて続ける。

 

「此度、御影豊布都大己貴神(みかげとよふつおおなむちのかみ)様の御神命により、お迎えに参りました」

「神……? 大宮司サマから接触があるかと思っていたが……。それに、何だって……迎え?」

「はい、大宮司様も大層お気になさっておいでと伺っております。お会いになる機会もありましょうが、まず御影神宮は奥御殿までご足労願いたく存じます」

 

 そう言って、巫女はまたも最敬礼をして腰を折る。

 結希乃の手からスマホが滑り落ち、硬質な音が部屋の中に響いた。呆けた口から、喘ぐように声が漏れた。

 

「貴女は……、一体何者なのです」

 



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御影の意思 その5

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 御影神宮のある市内、そこより幾らか離れた一等地に、一つの武家屋敷が建っていた。塀も高く漆喰で縫い固められた壁には一片の染みもない。

 門扉も立派で背は高く、横幅も乗用車が三台は通れるような大きさだった。扉の端には使用人が出入りする為の小さな入口もある。

 

 門を抜ければ屋敷まで長い道が続き、広々とした庭園まである。大きめの池には鯉が泳ぎ、そこに日陰が差すよう松の木が植えられていた。

 この立派な庭を擁しているのが、御由緒家の一つ阿由葉家の屋敷だった。

 

 

 

 その日、夜分遅くの事だった。

 書斎の一室で一人の男がノートパソコンを広げながら書類を読んでいる。

 武家屋敷、和風建築にあたる阿由葉家だが、この書斎だけは洋風に改築してある。大きく広い机と、それを囲む書棚は和室に置くには障りがあった。

 

 机に見劣りしない立派な椅子に座るのは、細身にも鍛えられた体躯を持ち、まだ若々しく見えるも既に齢五十の男。まだまだ働き盛りと言い張るこの男こそ、阿由葉家の当主、阿由葉京之介だった。

 今は執務机の上でブランデーを転がしながら、食後に昨今の業務傾向を精査していた。

 

 鬼退治は御由緒家の生業だが、それだけで食っていける訳でもない。御由緒五家は全てオミカゲ様の興した事業に携わり、それを経営する事で生活している。

 単に生活費を得る為に利益を追求するのではなく、その利益を元にした資金が鬼退治に関わるあらゆる物事に使われている。

 贅沢は敵とする意図はないものの、あくまで余剰分を家に入れるというような方針だった。

 

 今では更に業績を伸ばし、世界に名を知られるようにすらなっている。御由緒家としての名前だけで仕事をしている訳でもないが、やはりその名の力は信用を得るには甚大で、阿由葉家もまたその信用に背かぬ仕事ぶりを見せている。

 それが呼び水となり、更に仕事が舞い込むようになった。

 

 京之介自身、既に年齢を考慮して一線を引いている。当主となれば会社の経営にも携わる必要がある為、長く戦い続ける事はできない。身体にも多くの傷を残したし、五体満足でいられるのはオミカゲ様の御神徳だと感謝している。

 

 理力が少ないと言われる男子にあって、当主にまでなれたのは一重に例外的な強大さを生まれ持つ事ができたからだ。他の御由緒家が例外なく女性当主なのは、単純な実力勝負で多くは女性に及ばないからだが、京之介は例外でそれらを押し退けて当主の座に収まった。

 

 今は寮暮らしの末娘の七生の世代では、京之介のように理力に恵まれた男児が多いという。今後の世代は明るいと思いながら、長女・結希乃の事を思い返した。

 

 既に次期当主として内定している彼女だから、その実力に疑いようはない。京之介がこうして会社の動向に注力できるのも、今日も結希乃が御影本庁で揉まれているからだ。

 

 御由緒家の人間は多くが本庁に入って働く。京之介もそうだった。鬼退治と深く関わる庁だけに、年頃になれば入庁するのは義務ですらあった。

 あと数年もすれば立派に当主と認められるだけの実力を得られると、京之介は確信している。

 

 ――自慢の娘だ。

 末の七生も、もし結希乃がいなければ当主になれるだけの実力を有している。姉妹仲も良好、もし姉がいなければと思わずにはいられないだろうに、七生は結希乃を支えると決めたようだ。

 

 実に惜しい、と京之介が思ったところでどうにもならない。

 父としては七生に日の目を見て貰いたいと思うも、当主としては諦めて貰う他ないと決めている。

 

 ブランデーを一口呷り、熱い息を吐き出した時、扉を叩く音がした。

 叩き方一つでその人の癖が出るものだ。この叩き方は結希乃だ、と思うのと同時に、この時間に珍しい、とも思う。

 

 遅く帰ってくる事はままあるが、遅い時間に書斎までやって来る事は滅多にない。だが、京之介に娘の来訪を拒む気持ちはない。

 軽く返事をして、入室するよう声を掛けた。

 

「入りなさい」

「失礼します、父上」

 

 入室して来たのは、予想とおり結希乃だった。凛とした佇まいに見惚れるような美貌は母譲りだが、今はそこに陰りが見える。

 

 はてどうした事か、と京之介は眉を顰めた。

 殊更明るい性格をした娘ではないが、己の力量や職務に誇りを持ち、自信に満ちた顔をしていたものだ。それが今では憂いを帯びた表情をしていた。

 

 結希乃は執務机の前に立ち、小さく一礼する。

 

「ただいま帰りました」

「ああ、お帰り。……それにしても、どうしたというのだ。仕事の事だと言うのなら、深くは聞かないが」

 

 結希乃は緩やかに首を振った。

 

「いえ、仕事の事ではありますが、父上には聞いてもらわねばなりません。すぐにでも正式な書面、あるいは使者があると思いますが、一足先に父上にはお伝えした方が良いと思いまして」

「やけに深刻だな。……もしや昨今、結界関連で賑わせている甲ノ七と何か関係が?」

 

 完全に当てずっぽうのつもりで言ったつもりだったが、結希乃の表情が一変する。憂いの中に悔いを残すような表情を見せた。もう治したと言っていた、下唇を噛む悪癖まで見せている。

 

「ど、どうしたんだ……!」

 

 京之介は椅子を引いて立ち上がろうとしたが、それを結希乃に止められる。近付いて慰めようとするのを、感じ取ったのかもしれない。

 それよりも報告の方が先で、何より重要だと制するように尽き出した腕が言っていた。

 

「御神勅を持ちまして、御由緒家招集が言い渡されます。全当主、並びに次期当主は明日、奥宮まで足を運ぶ事になるでしょう」

「な、ん……!?」

 

 京之介は絶句し瞠目する。二の句が継げず、ただ結希乃の顔を見つめ続ける。

 その表情には幾らかの悔恨が見て取れる。しかし、それだけで事情が掴める訳もない。

 

 神勅が降りる事など滅多にあるものではない。ましてや、それが御由緒家全当主の招集である。余程の大事があると思うのが当然で、そして結希乃の表情から自身に関わりがあると言っているようですらあった。

 

 まさか、と思ってしまうのを止められない。

 だが同時に、結希乃に限って、とも思う。仕事上の失敗や失態など、若い頃には付きものだ。思わず顔を顰めるようなミスはあっても、勅を持って動かされる程の問題を起こすとは思えない。

 驚きはしたが、自分の娘を信じて、ただ続きの言葉を待った。

 

「そこでは神明裁判が行われるとの事です」

「神明……!?」

 

 神明裁判とは、神意を持って物事の真偽、正邪を判断する裁判方法だった。

 古代、中世において世界の各地で類似の行為が行われていたものの、多くは不確かな根拠で行われる私刑に近い制度であったという。

 

 例えば熱して赤くなった鉄棒を握らせ、手放さなかったら神は罪過なしと判断する、といった内容で、ともすれば合法的に罪を着せる事のできる方式だった。

 だが、この日本国においては全く意味が異なる。

 

 確かに存在する神によって、その罪を判じて貰うのだ。神の前ではいかなる虚偽も許されず、また意志の力で虚偽を言う事もできない。より正確に言うのなら、口に出したものが真かどうか見抜けてしまうのだ。

 

 かつて科学捜査による確実な証拠など望むべくもない時代、その確実な虚偽を見抜く力は絶大で、またどのような不正も行わない神による判断は、何事にも代えられない信用があった。

 多くの民衆に支持され、オミカゲ様の神判であれば誰もが納得する判決として重宝された。

 

 実際、被告から出る全ての言葉に正否を言い渡されると何も口を挟めなくなる。そもそも神威に晒された人間は嘘を付くような余裕がなくなる。

 母に叱られる幼子のように、全てを自白するのが常だったという。

 

 現代において、その神明裁判が行われたという記録はない。

 科学捜査が普及したというのも理由の一つだが、冤罪を掛けられる事を恐れて神判を求める声も多かったのだ。その全てに対応するようでは、神を人の為に働かせる事になってしまう。

 神の恩恵を忘れ、神を人の道具にしてはならぬ、という大宮司からの宣言でもって、神明裁判は執り行われる事はなくなった。

 

 しかしそれが、ここに来て執り行われるというのは意味が深い。

 一体何故、誰が、罪状は、と浮かぶ疑問は枚挙に暇がない。

 

「しかし、あまりに急な事だ……。明日、すぐにでも判決を出すというのか……。被告は一体……?」

 

 そこまで言って、一瞬でもまさか娘が、と思った自分を殴りつけたくなった。

 被告ならば拘留されていて当然、自宅に帰ってこれる筈もない。この場で報告に上がったのが何よりの証拠ではないか。

 

 あまりに突然の事だったから、と混乱を言い訳にしたものの、結希乃に対する後ろめたさは変わらない。

 結希乃は話している内に幾らか冷静さが戻ってきたと見え、困惑だけは残した表情で言った。

 

「被告は甲ノ七になります」

「そこでその名が出てくるか……」

 

 京之介は重く溜め息をついて、椅子に座り直した。

 

「今回の神刀奪還作戦では、奪還を成功させた功労者とはいえ、作戦そのものを大いにかき乱し邪魔してくれましたから……。全くの無罪といかないのは、よく分かります」

「そもそも部外者でもある。功罪相半ばする、とはならないだろう」

「はい、ですが分からないのは神宮の遣いが被告を連れ去った事です。しかも、扱いが貴人に対するそれでした。どう好意的に見ても、犯罪者を相手にした対応ではありません」

 

 結希乃が強く断言して、京之介も頷く。

 以前より騒ぎを起こしていた者を、ここに来て断罪するために神判を下すなどという理由で、神明裁判を執り行うとは到底思えない。

 

 理力を持っていただけでなく、高度に使いこなしていたという報告も受けている。

 目の上のたんこぶだったのは事実にしろ、捕まえただけでなく扱いが異常ともなれば、もはや考えるだけ無駄だろう。

 

「何れにしろ、明日その理由も内容も判明するだろう。お前も今日は早く休みなさい。向こうも今は場を整えるだけでも大変な思いをしているだろうから、午前中から行われる事もない筈だ。とはいえ、我々にも準備がある。早く床につくと良い」

「はい、失礼いたします」

 

 そう言って結希乃は一礼して退室していく。

 京之介も残りのブランデーを喉の奥に流し込むと、ノートパソコンを閉じて席を立った。

 



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御影の意思 その6

 翌日、午前中も早くから屋敷の中では慌ただしく準備が始められていた。

 本日午後三時より神明裁判が執り行われる事になったのだが、それに合わせて屋敷を出れば良いという問題でもない。

 御由緒家が一同揃う場というのは案外少ない。この機会に色々と話したいと思うのが当然で、特に当主ともなれば話す内容にも気をつけねばならない。

 

 そして何より次期当主同伴の上参加、という点である。

 内々に報せている事でもあるし、実際に世襲したなら挨拶もあるものだが、この場を借りて面通し話通しもしておきたいものだ。

 

 それには一時間どころか三時間でも足りるものではなく、また呼ばれた者が御由緒家のみとも限らない。本日は秘密裁判の非公開で行われるものと通達があったから、呼ばれる者はそれだけ重要な人物ばかりだと推測できる。

 

 これが昨日の今日という話でなければ、どのような者たちが来るのか調べようもあったのだが……それは言っても仕方がない。

 

 京之介は既に着替えを終えて、居間にどっかりと腰を下ろす。

 服装は和服の第一礼装。オミカゲ様の御前に侍る時は、必ず第一礼装と定められている。

 

 黒羽二重の染抜き五つ紋――羽織背筋の上に一つ、左右の袖の裏にそれぞれ一つ、胸の左右にそれぞれ一つ――に袴、角帯をつけ、更に黒羽二重の羽織を着ている。袷仕立てとし、薄い色で凝った裏地を付けた一品だ。

 

 着物の下着は鼠色の色羽二重を用い、共色の裾廻しに白絹の胴裏を着用している。袴は仙台平という縞の平織を用い、角帯には西陣織の正絹物を選んだ。

 襦袢の半襟は白、足袋も白で、これに草履は畳表を用いる予定だった。

 

 御由緒家の当主とあらば、いつお呼び立てがあっても馳せ参じれるように、礼装の準備は常にしてある。妻に手伝ってもらい小一時間で全ての準備は整ったが、結希乃も同じようにとはいかない。今も使用人の三人掛かりで礼服を整えている筈だった。

 

 長い時間が掛かるとは予想していたが、既に昼を迎えそうな時間になり、ようやく結希乃が二階から降りて来る。

 色留袖を着用した姿は美しく、薄めの化粧を施した表情には緊張が見られる。

 袖の生地には一越縮緬が用いられ、染抜き日向紋の五つ紋付きだった。裾模様はオミカゲ様の御前では定番の梅枝と花。

 

 帯は袋帯で金銀糸を織り込んだ吉祥文様のものを用い、半襟は二枚重ねにみえる比翼仕立て、帯揚げと帯締めは礼装用の白を用い、祝儀用の黒塗骨で金銀張りの扇子を帯に挟んでいる。

 

 第一礼装を結希乃が着込む機会は今までなく、またオミカゲ様の御前に正式な礼節を持って侍る機会もなかった。表情が固くなるのは仕方ない。

 だが、結希乃は次期当主として面通しをするのだから、これから慣れていってもらわねばならない。

 

 京之介は満足気に頷いて、少し腹の中に何か入れておこうと提案し、十二時を僅かに回った頃、家を出ることなった。

 

 

 

 奥宮へは直接車で乗り付ける事は出来ない。

 御由緒家と言えども大鳥居より前で車を降り、そこから歩かなくてはならないのだ。本日は常になく警備が厳重で、阿由葉家にも専属の護衛が周囲につく。

 

 あからさまに武装した兵が傍で守る、という訳ではなく、参拝客に混じって着かず離れずの距離で護衛している。

 暴漢が出たところで物の数ではないが、そもそも対処してしまえば問題に成り得る。それを避ける為の措置だった。

 

 参拝者も今日の物々しい雰囲気を敏感に感じ取り、何事かと周囲を見渡している。

 そこに第一礼装を着用した者たちが参道を進んで行くのだから、ある程度察せる人が出るのも当然だった。中には御由緒家だと知って頭を下げる者もいる。

 

 奥宮周辺とその入り口の警備は更に厳重で、普段は鳥居近くにいる参拝者は更に遠くへ押しやられていた。

 その中を悠々と進み、決まりきった型通りの確認を済ませて中へと入る。この扉が開く事は滅多に無い。遠くから見ていた者たちは、思わず歓声のような声を上げた。

 

「おぉぉぉ……!」

 

 その声を背後に聞きながら扉が閉まる。

 中は神が住まうに相応しい荘厳な造りで、庭木や池、生え揃った芝生、その全てに十分な手入れがされていた。御殿までは石畳が続いており、その両端には梅の木が植えられている。

 花の盛りに歩ければ、さぞ見応えがあるのだろうと思えた。

 

 御殿もまた大きく、城と神社を組み合わせたような作りで、釘の一本も使わず建てられているというのは有名な話だ。宮大工が修繕を重ね、八百年以上も当時の姿を残している。

 とはいえ、多くの改築を重ねて広がっているので、当時のまま残している建物はそれほど多くない。神の住居となる御殿には、そう簡単に通される事はない。

 

 本日も神明裁判を執り行う為、それより手前にある奥宮へ入る事になる。

 御殿も大きいが、奥宮も迷うほどに広く大きい。案内をしてくれているのは神に仕え、その身の回りの世話をする女官だが、彼女がいなければ到底辿り着けないと思われた。

 

 そうして案内された一室には、既に到着して待っていた者たちがいた。

 全員が全員、第一礼装を着用した、御由緒家の比家由と由井園、そして由衛だった。京之介たち同様、それぞれ次期当主と目される者、あるいは既に内定している者を連れていた。

 

 それぞれ顔なじみではあるものの、奥宮の中にあっては互いに礼を尽くさねばならない。

 京之介はそれらに頭を小さく下げつつ挨拶する。

 

「いや、どうも遅くなりまして恐縮です。皆様ご壮健で何よりです」

「ああ、阿由葉さんもご壮健そうで何よりです。うちも倅がようやく使い物になってきたぐらいなもので、阿由葉さんが羨ましいですわ」

 

 朗らかな笑顔を見せつつ、その瞳は笑っていない。

 京之介に何かとあたりを強く見せる、由衛家の当主、十糸子(としこ)だった。御由緒家の中でも京之介と(とみ)に縁の深い間柄ではあるが、それも昔の事。それが執着だと分かっていても、今更そのようなこと京之介には関係ない。

 

 タヌキとキツネの化かし合いのようだが、ともあれ笑顔で挨拶を終える。

 結希乃の事も当然顔を知っているが、改めて次期当主としての紹介する為、傍らに佇む結希乃へ前に出るよう促した。

 

「阿由葉家次期当主、阿由葉結希乃です。どうぞ皆様、よろしくお願いいたします」

「えぇ、えぇ、よろしくお願いしたいですわ。しかし最近、本庁の方では不甲斐ない者もおるそうで、結希乃さんもさぞご苦労してる事でしょう」

「さて、どうでしょう。誰もが鋭意努力してると思いますけれど」

「そうでしょうとも。オミカゲ様の顔にドロを塗るような真似は出来ませんもの。好きなように結界を荒らすような輩を放置してるなんて、私が担当なら切腹してますわ」

 

 そう言って口元を袖で隠して笑った。

 結希乃の頬が引き攣る。軽い牽制のつもりで放ったジャブだろうが、明らかに結希乃を狙い撃ちにした口撃だった。

 まったく大人気ない、と京之介は嘆息した。

 

「ええ、勿論、好き勝手にさせるなんて許し難い事ですわ。ご存知ないようならお教え致しますけれど、これを放置させる事を決定したのは大宮司様ですの。本庁の人間といえども、この命には逆らえませんわ」

「あら、そうかしら。だからといって、本庁の方々がその誇りを投げ捨てるのは別の話ではなくて?」

「誇りを? 誰も投げ捨てるような者はおりません」

「そうですわね。結界内の鬼退治をまさか外部の者に頼り切り、自分たちは安全な場所で見ているだけなんて、実に誇りを感じさせる働きぶり。大変楽をなさって、よう御座いますわね」

「……知りもしないで」

 

 結希乃が小さく、吐き捨てるように呟いた。

 それを聞きつつ、京之介は結希乃の肩に手を置いて下がらせる。辟易しながら十糸子をねめつけた。

 

 同じ御由緒家でいがみ合うなど全くの無意味だ。

 それが息子に引き継がれていないのは幸いと言ったところだろう。凱人は顔を歪めて母の言動を無視し、視線を外に向けている。

 

「まぁまぁ、その辺で……」

 

 おっとりと笑いながら間に入ったのは由井園家の当主、志満(しま)だった。

 オミカゲ様の御庭番として神宮、奥宮の警護を一手に引き受け、またその御馬係として品種血統管理を受け持つ由衣園家は、基本的に戦いとは無縁だ。

 

 オミカゲ様の剣となり盾となるのが御由緒家の誇り、と考える比家由と相性が悪いように思えるが、実はそうではなく最も親しい間柄だった。

 そもそも一種のナワバリとも言える鬼退治に入り込まないからこそ、内側にいながら外側にいる彼女と反目しないのかもしれない。

 

 十糸子はつまらなそうに鼻から息を吐き、顔を外方に向けてしまう。

 結希乃も頭を小さく下げて礼をし、感情的になってしまった自分を責めるように場を移す。

 

 その志満の後ろにも一人の女性が控えている。

 名前は侑茉(ゆま)、年齢は結希乃より三つ上、既に結婚もしているが、まだ当主にはなっていない。資格がないという訳でも、志満が譲らないという訳でもないのにその座に座っていないのは、己の実力が足りていないと強く律しているからと聞いている。

 

 結希乃をライバル視していた彼女は、その実力に並び立つ事を目標にしていた。結希乃は御由緒家の歴史においても稀有な実力を持つから、それに並び立とうとすれば並大抵の努力では足りない。

 

 それに、そもそも阿由葉は武断の家系だ。

 培ってきた技術が違う。より戦闘向きのイロハを保有する阿由葉へ挑んでどうなるものではない。護身術として、あるいは身を盾にし護る技術で阿由葉が太刀打ちできないように、それぞれの家が得意とする事でオミカゲ様に貢献すれば良いと思うのだが、そうと思えない事情があるのも理解できる。

 

 由衣園家はその昔、御馬係ではなく先陣を切って戦う先鋒隊だった。

 オミカゲ様と共に馬を駆り戦場へ向かっていたという。その馬捌きを褒められ、いつしかオミカゲ様の馬の世話まで任されるようになった。

 

 そしてその信頼は、玉体の警護まで任せられる程になる。それがどれほどの誇りとなったことか。しかし時を経て、ふと見渡すと戦場から弾き出されたような位置にいた。

 

 またあの時のように、誇りを持って一番槍を勤める御家に。

 侑茉の気持ちはそのような思いが強く、しかし実力奮う事なく現在に至る。

 御家の再興と言うほど落ちぶれている訳ではないが、かつての栄光を夢見ている。それが由衣園侑茉だった。

 



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御影の意思 その7

 日本は時に、オミカゲ王国と呼ばれる事がある。

 政治の世界に関わる事を強く拒否し、また関わらせようとする声を拒絶する行動は常に一貫しており、また古くは将軍家に対しても同様に接触を拒んできた。

 

 では、何故そのような呼び方をされるのかと言うと、オミカゲ様の行ってきた宗教の枠組みから飛び越えた活躍が原因だった。

 オミカゲ様は古くから実業界へと関わりが深く、日本初の銀行や全国商法会議所、日本証券取引所といった多種多様な会社や経済団体の設立・経営を行っている。

 

 更に約五百社にも及ぶ会社を立ち上げ、その経営権を信頼できる者に譲った。日本の企業の多くは遡ればオミカゲ様との関わりが見つかると言われ、だから『日本資本主義の母』と称されている。

 

 過去の偉人ではなく今も生きる神様であるから、その影響力も甚大で、誰も逆らうことが出来ないという。表だけのみならず裏から手を伸ばせば、その意向を無視して何事かできる者などいないと言う者もいる。

 

 そういった理由で、真の支配者との意味合いを込めて、オミカゲ様王国と呼ぶものがいるのだ。

 無論、オミカゲ様により近い者たちは、それが口さがない陰口だと理解している。しかし、外から見る事しか出来ない者たちからすれば、それが真実のように思えるのだ。

 

 だがオミカゲ様は拝金主義という訳では、決してなかった。

 

 同時に日本養育院など信者以外への福祉事業、日本慈恵会などの医療事業を開拓し、商法講習所、商業学校、高等商業大学などの実業教育現場を作った。

 予てより女系国家の毛が強い日本国であっても男子優遇の色は濃く、それゆえ日本女学館などの女子教育にも力を入れ、私学教育支援や、理化学研究所設立等の研究事業支援、国際交流、民間外交の実践等にも尽力した。

 その道徳経済合一の思想は広く知られている。

 

 また災害支援、復興資金の提供は神社主体で行われる為、その潤沢な資金から多くの人が助けられた。国の支援がなくとも仮設住宅や炊き出しなど、全て自力で行えてしまう故に国よりも頼りになるという意味合いから、オミカゲ王国と呼ばれる原因にもなっている。

 

 それだけ多くの実績がある上に、神の加護として病気と怪我からも守られているのだから、オミカゲ様に実権を握って欲しいと望む声は強い。

 それと比較され続ける首脳陣も哀れとは思うが、それを超えるようでなくては国体を任せられないと思うのも無理ない事ではあった。

 

 

 

 そのようしてオミカゲ様は常に日本人に対して、その御心を砕いているというのに、最も強い信頼を向けられている御由緒家が仲違いなど冗談にもならない。

 

 睨み合いが終わった結希乃と十糸子は、それぞれが視界に入らないよう移動を開始した。京之介は残って機嫌取りをするつもりらしい。

 しばらくしてから凱人がやって来て、その母に見えないよう小さく頭を下げた。

 

「……母が失礼しました。次期当主として、母に成り代わり謝罪いたします」

「凱人くんが謝る事じゃないけれど。……でも、ありがとう。後継者が貴方のような人で、私も嬉しいわ」

「は……、恐縮です」

 

 結希乃がようやく笑顔を見せた。

 そうしていれば凛とした中にも女性的華やかさが顕になり、大層美しい。幼い頃より知っている仲とはいえ、口元へ扇子を寄せる仕草などを見ては妙にドギマギしていた。

 

「御由緒家同士でいがみ合う危険と無意味さを、母も理解していない筈がないんですが……。このような事を続けるようでは、オミカゲ様からもお叱りを受けるでしょう」

「それを分からぬ身でもないでしょうに……」

 

 御由緒家同士の対立は御法度だ。

 どの時代、どの年代でも、常に御由緒家の関係が良好だった訳ではない。腹に一物抱えるぐらいの事はあって当然なものの、かつて明らかな敵意を向けた家があったと伝えられる。

 

 最も忠誠心の高い家は自分だと吹聴する程度なら可愛いものだが、過度にライバル視した上、暴言も目立った。その自尊心以上に実力が伴わず、そのうえ重責に押し潰されて錯乱した。

 

 自分より優れた者を蹴落とし一番上に立てば良い、と考えたらしい。

 顔を合わせれば口舌で斬り結び、合わせなくとも本人の居らぬ場所で罵詈雑言を撒き散らした。最も優れているのは自分だと主張も行ったらしい。

 

 誰もがそれを聞いて距離を置いていき、そして自分の周りに誰も居着かなくなったのは陰謀だと喚き散らし、逆上して斬りかかる事態にまでなった。

 それがオミカゲ様の耳に入ると、たちまち大きな怒りを買った。

 

 直接その報せを御耳に入れた女官は、怒りに染まった玉顔を見て腰を抜かしたと伝えられる。

 快晴の空は暗雲に覆われ、雨は降らせず雷だけが雲の間から何度も落ちた。日本人が、雷が落ちる度にオミカゲ様の心痛を思うのは、この故事から来ている。

 最終的に当主は自害を命じられ、その腹を斬って果てた。家は取り潰し、名も剥奪され、御由緒家の歴史から一家が消えた。

 

 過去に実際あった出来事だと伝えられる。

 それを思えば、御由緒家は常に友好な関係を築き続けるべきなのだ。多少の悪口減らず口ならば良いだろうと、常習化させるといつタガが外れるか分かったものではない。

 

 そこへ由衣園志満がやって、やはりおっとりと笑って一礼した。

 

「先程は大したご挨拶もできず、失礼いたしました」

「あ……いえ、こちらこそ。丁寧な挨拶、痛み入ります」

 

 結希乃が頭を下げ、それに続いて凱人も頭を下げた。

 一足早く頭を上げた志満が、じっと結希乃の顔を見る。時折、その顔を横から見ようと身体を傾け、それから嬉しそうに笑った。

 結希乃は思わず眉根を寄せた。

 

「あの……?」

「結希乃さん、最近ますますお母様に似ていらしたわね?」

「え、えぇ……」

 

 志満に指摘されるのと同様、結希乃とその母をよく知る人には言われ慣れた事だった。ここ二年程は特にそうで、その美貌で知られた母だったからこそ、それが嬉しくもありこそばゆくもある。

 それをわざわざこの場で言う志満に、僅かながらの困惑を乗せて尋ねた。

 

「それが、何か……?」

「十糸子さんの事、悪く思わないでください、と言うのは難しいからしらね」志満もまた眉根を寄せる。「子供のような嫉妬心から来るものだから」

「嫉妬……?」

 

 結希乃は今度こそ困惑を大いに感じて眉に皺を寄せた。

 凱人も意外そうに目を開けている。

 

「ええ、貴女のお母様とは恋敵だったものだから……。とはいえ当時、既に互いは当主になると決まっていたようなもの。婚姻は不可能、道ならぬ恋だった訳だけど……。それが分かっていても、嫌った女性に気持ちを向けた男を取られて、それに娘がよく似てきた。面白くないと思ったのでしょうね」

「母に、そんな過去が……」

「聞いていない事にしてくださいね」

 

 志満が凱人に茶目っ気を多分に含んだ笑みで言った。

 結希乃も、どう反応して良いか分からず頷くだけに留める。

 過去の恋心から来たものと言われても、結希乃にとっては全く関係ないし迷惑でしかない。既に互いは子を設け、それぞれの道を邁進していた筈だ。

 

 そこを突っかかられても、結希乃としてはどう返したものか。

 困ったように――心底困って、結希乃は重い息を吐いた。

 

 そこに志満が、やはり困ったように首を傾け頬に手を当てた。彼女の温和な雰囲気と相まって、表情と仕草がよく似合う。

 

「こんな話を聞かされても、結希乃さんは困ってしまいますわね。……でも、この話を聞いた後なら、少しは冷静でいられるのではと思いましたのよ」

「それは……どうでしょう」

 

 結希乃は難しい顔をして小さく首を傾けた。

 志満はおかしそうに笑う。

 

「あら、だってそうしたら、今度から憎まれ口を叩かれても余裕が出るでしょう? ああ、そんな事言ってるけど、結局単なる嫉妬心なんだって……」

「まぁ……」

 

 結希乃は思わず絶句してしまう。凱人も同じような感想なようだ。

 おっとりと常に和を望むように立ち回る彼女からすると、随分と過激な表現に思えた。

 

 凱人は慌てて周囲を見渡し、聞き耳を立てている者がいないか確認する。幸い、部屋の中にいる人数も多くなく、こちらに注意を向けているような者もいない。

 唯一懸念していた十糸子も京之介との会話で意識を割いていなかった。

 凱人は今更ながら声量を抑えて、辺りを憚るように言う。

 

「宜しいんですか、そのような事まで言って……。母に知られると面倒な事に……」

「構いやしません、同世代では有名な話です。本人に対してならともかく、その子に当てつけるなんてみっともない……。あんな様子を見せられては、結希乃さんに味方したくなるのも当然というものでしょう?」

 

 結希乃はそれに返答できず、曖昧な笑みを浮かべた。

 腹芸は貴族のたしなみと言えど、ここまで明け透けに言われては結希乃も困ってしまう。志満もそれは十分に理解していると見え、改めて一礼して場の空気を変えた。

 

「詰まらない話をして失礼いたしました。――そうそう、結希乃さんはご存知? 本日執り行われる一件は、少々毛色が違うようですわ」

「それは……勿論。神明裁判など、そも行われる方が異常というものでしょう」

 

 結希乃が厳しい口調で言うと、志満は声を潜めて口元を扇子で覆った。

 

「ええ、勿論。でも、そういう事ではありません。我が由井園はこの奥宮の警護を任されておりますから、昨夜訪れた客人についても他の家より良く知っております。……知っているというなら、結希乃さんも御同様でしょうけれど」

「……ええ、とある事件で妨害行為がありましたので、その件もあって逮捕しました。現場には凱人くんもおりましたが……」

「はい。ただ、こちらとしては全く全貌が見えておらず……。一人の兵としての参加でありましたから、それも当然と言われればそうなのですが。……その相手にも力で押し切られ為す術もなく……、なのに素直に捕まったのが意外でした」

 

 苦渋に耐えるような凱人の言い方に、志満は扇子の向こうで目を丸くした。

 

「御由緒の盾を冠する者を、力押しで? そこまでは知りませんでした、何とも凄まじい……。ですが、或いは必然なのかも……しれません」

「どういう意味でしょう?」

「妨害行為の犯人として捕まった筈が、奥宮に入る頃には客人として遇されておりました。そして、先導されて着いて行く女性の中に、帽子とサングラスを取り去った女性がいたそうです」

 

 結希乃の顔が思わず歪んだ。

 外せと凄んだ職員は、強い拒否と共に吹き飛ばされたと聞いている。結希乃を前にしても同様、室内だというのに、どちらも外す様子を見せなかった。

 思わず結希乃の目に力が籠もった。見せまいとしていた素顔を、見た者がいる。

 

「……えぇ、その素顔は、まるでオミカゲ様だった。そう、聞いております」

「そんな!」

 

 結希乃は声を荒らげそうになって、慌てて口を噤んだ。口の前に手を当てて、周囲を伺えば怪訝な視線が返ってくる。

 結希乃はその全員の視線から目を逸らし、身体の向きも変えた。

 志満は呑気な声をさせながら続ける。

 

「一体どういう事でしょうか。見間違え? ええ、十分あり得る事ですわ。明かりがあったとはいえ、昼のように明るかった訳でもない」

 

 志満は一度言葉を切って、それから自分に言い聞かせるように言った。

 

「でも、急遽行われた神明裁判、御由緒家招集。その理由が彼女――甲ノ七にあるのだとしたら、そしてその容姿が極めてオミカゲ様と類似しているとしたら……。あるいは、そこにこそ理由があるのかもしれません」

 

 志満がそう言い切った時、扉が開いて結希乃は思わず鋭く視線を向ける。

 そこには最後の御由緒家、比家由がやってきたところだった。当主と一緒に息子の漣が同様の第一礼装に身を包み、肩苦しそうに襟元に指を入れては顔を歪めていた。



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御影の意思 その8

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 ミレイユは昨夜に通された和風の一室で身体を休め、朝起きてからこちらの室内で過ごし、今では昼も過ぎて時間を持て余していた。

 板張りの部屋ではあるのだが、その半分に畳を敷いて二分している。全部で三十畳程の広さがある部屋で、休憩する為、寝る為のスペースを区切ったせいでこうなっているのかもしれない。

 ミレイユはベッドの方が慣れていると思われてか、板張りの部屋の端には天蓋付きのベッドまである。

 

 ベッドとは洋風のものである筈だが、部屋の調和を崩さぬよう特注されたと思われる意匠で作られていた。ベッドである事は間違いないのに、純和風の木製で、何かしらの拘りを感じさせる。

 

 調度品の花瓶や生けられた華、流れる川が表現された掛軸などの高級品で室内を彩っている。戸棚一つ取っても高級感溢れ、そこに歓迎の意が込められているのは明らかだった。

 

 部屋の中にはアヴェリンもいる。他の者も同様に一室を与えられていたのだが、敵陣真っ只中だと認識しているアヴェリンにとって、ミレイユを一人にさせるなど考えられない事らしい。

 

 全員が同じ一室で、となると流石にそれは許可されず、何とかごねてアヴェリンだけは頷かせた。しばらく廊下で押し問答が続き、もうどうでも良いと思いかけた時、恐らく上司と思われる老婆がやってきた。

 全て望む通りにいたします、と意外な程アッサリと許可をくれたのだった。

 

 今もルチアとユミル、アキラは別室で待機している筈だ。

 扉は鍵のかからない襖だから、仮に支え棒を当てていたとしても、それで逃亡を防ぐというのも心許ない。まるで逃げるなどと考えていないようですらあった。

 用があるなら近くの鈴を鳴らす事で、即座に誰かしらが対応に動く。

 まるで和風高級ホテルのような有様だった。

 

 特にミレイユの部屋の前には必ず一人常駐しているらしく、鈴の音と同時に襖が開く。逃亡を防ぐための監視員としての役割もあるのかもしれないが、甲斐甲斐しい世話を見ると、実は違うのではないかという気持ちも湧いてくる。

 

 理由を聞いても、答えられませんの一点張り。

 犯罪者として拘留されていた筈が、僅か一時間でこの変わりよう。不審に思わない訳がなかった。一応はこの部屋の中で大人しくしていなければならないらしいが、本気で望めば奥宮の見学くらいさせて貰えそうな歓待ぶりだ。

 

 茶とお茶菓子が欲しいと言えば、即座に持ってきてくれる。

 コーヒーはなく抹茶であったものの、菓子とよく合い、実に美味かった。そしてその手つきの実に恭しい事といったら、まるで自分が偉くなったかのように錯覚してしまう。

 

 何が彼女たちをそうさせるのか、是が非でも知りたいのだが、そこについては箝口令が敷かれているらしい。聞いたところで、やはり答えられないという返事があった。

 

 だが、嘘は言わない。

 このような部屋まで用意していたというなら、体よく耳当たりの良い嘘も用意できただろうに、それを口にする事はない。

 検証のしようもない、その場だけ納得させる事も出来ただろうに、まるで尊敬の対象だと言わんばかりの態度で、実直に接してくるのだ。

 

 ――いや、とミレイユは思う。

 あれは尊敬というより尊崇だ。あるいは崇拝ですらあるだろう。彼女たちの態度を見れば、かつての信仰を向けてくるエルフの事を思い出す。

 そしてそれは、ミレイユが考えていた推測が正解かもしれない事実を指している。

 

 ミレイユは大きく溜め息を吐いて、傍らで未だに警戒を怠らないアヴェリンを見つめた。

 視線を向けられたアヴェリンは、顔をミレイユに向ける。話を聞く態度でありつつも、周囲への警戒は怠っていなかった。

 

 ミレイユとアヴェリンは中庭が一望できる板間で、小さなテーブルを挟んで椅子に座って対面していた。旅館でもよく見られる形式で、畳の間から外れた場所にこうした憩いの場が用意されている。

 そこで茶と茶菓子を片付けたあと、こうして話をしてみる気になった。

 

「アヴェリン、どう思う。この対応について」

「ハ……、ミレイ様に対する態度としては及第点といったところで。中々に礼儀を弁えていて結構な事ですが、しかし理由が分かりません。私達は虜囚のような扱いだったのでは?」

「そう思っていた筈だがな。あるいは、機嫌取りでもしたいのかも」

「機嫌……。戦力として使いたいと考えるのは、むしろ自然かもしれません」

 

 ミレイユはそれに深く頷く。

 

「それは一考に値するな。敵にするより味方に引き込む、と考えるのは有り得る事だ。恩赦でも与えて言うことを聞かせよう、というのは良い手かもしれない」

「そのような横暴、許せますか?」

 

 アヴェリンの声が一段低くなった。その眼にも剣呑な光が灯る。

 

「刑務所行きよりマシだろう、と言われたら確かにそのとおりなんだが。しかし入れられたところで、逃げ出すような奴しかいないしな」

「全く、左様ですね」

 

 ミレイユが笑えば、アヴェリンの表情も柔らかく緩む。

 そして、もう少し踏み込んで考えてみる。

 

「この高待遇は実際、異常だ。そして我々は間違いなく彼らの邪魔をした。結希乃達の作戦内容を聞き出し、理解した上で我を通した。逮捕されるのは妥当としか言いようがなく、そしてそこから解放したのは神宮勢力だ」

「神宮にいる高官ともなれば、逮捕をされた虜囚を解放する事も出来るのでしょうか?」

「出来るのかもしれないが、それより余程話の早い者が神宮にはいる」

 

 アヴェリンが難しい顔をすると共に、実に嫌な想像に行き当たったような顔をした。

 ミレイユはそれが正解であるという風に頷いた。

 

「……オミカゲ様とやらが勅を出した」

「しかし、何故いまさら?」

「別々の意思、あるいは意図があったように思う。勅は二つ出ていた。作戦前、そして作戦中だ。大宮司とオミカゲ、同じように捕縛命令を出したが、結果としてはこうだ」

 

 言ってミレイユは両手を広げた。

 本来なら拘置所にでもいる筈だったミレイユだ。しかし今は客人として、本来は部外者が入り込む事の出来ない奥宮で歓待されている。

 

 結界を用いて、その中に閉じ込めてから展開された作戦だった。

 相手の本気度合いも窺える。逃げ出す事に成功していたし、再度取り囲まれた時も、その意思があれば逃げ出す事ができた。

 

「オミカゲ、ないし大宮司は我々の存在を把握していた筈だ。結界にも何度となく入り込んでは魔物を倒し、結界を解除させていた。作戦の邪魔になるというのは後付の理由だ。その気があるなら、いつでも捕まえる事は出来た」

「……成功するかは別ですが」

 

 ミレイユはちらりと笑う。

 

「そうだな。だが、今回はやる気になった訳だ。何か条件が重なったか……?」

「結界解除にも我慢できなくなったと言えなくもないでしょうが……、これ以上は推測するのも難しいのではないでしょうか」

「そうだな……」

 

 ミレイユが小さく息を吐いた時だった。

 控えめであっても、音はよく通るノックで襖の戸が叩かれる。それに返事をすると、まず指が挟まる程度に開けられた。それから滑らかに半分ほど開き、一度動きを止めるかと思いきや、ゆっくりと最後まで開けられる。

 

 丁寧に足をたたみ、一礼した世話役の女官が静かな声音で言ってくる。

 

「お連れ様がいらっしゃっております。お通ししても宜しいでしょうか」

「連れ……? 誰だ?」

「――アタシよ。あと他にも」

 

 そう言って顔を出したのはユミルだった。その後ろにはルチアの姿も見える。アキラはいないのかと思えば、すっかり恐縮して背を丸めた姿でユミルに隠れて立っていた。

 

「自由に出られるのか? 一応、私達は囚われの身である筈だが」

「頼めば出してくれたわよ。頼むというか聞いてみただけだけど、お好きにどうぞ、って感じだったわね」

「それで他の二人に声をかけて、ここまで来たという訳か?」

「ご明察」

 

 そう言ってミレイユの返事も待たず部屋の中に入ってくる。

 室内は広く、人数が増えたところで閉塞感はない。ただ椅子の類はないので、高級で沈みこむような座布団に座って机を囲む事になる。

 

 ミレイユとアヴェリンは二人でいた板間から出て、広い畳の間へと戻る。

 上座にはミレイユが座り、その右手にアヴェリンとアキラ、左手にはユミルとルチアが座った。アキラは正座したが、ミレイユは崩した座り方でひょいと胡座を組む。

 

 そのアキラが誰に言うでもなく作法に則った座り方を見せた。まず座布団の上に軽く握った両手をつき、身体を支えるようにしながら中央までにじり上がる。

 道場で習ったものなのかまでは知らないが、実に堂に入った座り方に見えた。

 

 どっちの座り方がいいのか見て迷い、結局は楽そうな方にそれぞれの座り方に倣って座った。

 そこで襖を閉めて退室しようとする女官へ、ミレイユが声をかける。

 

「人数分のお茶を頼む。やはりコーヒーはないか?」

「昨晩お求めでしたので、すぐにご用意いたしました。砂糖とミルクもお持ちしましょうか?」

「そうだな、頼む」

 

 ミレイユ自身はストレートを好むが、時にミルクを入れて飲みたくもなる。どのような豆を使ったものか分からないので、一応と思って頼んだ。

 それに確か、アキラやルチアはミルクや砂糖を入れて飲んでいたような気がする。

 用意してあれば、誰かしら使うだろう。

 

「畏まりました、少々お待ち下さい」

 

 女官は一礼し、襖を閉めて去っていく。足音をさせずに歩くのは、あれも一種の礼儀だろうか、と思いながら襖の開け閉めすら作法を見せる姿を見て、そう思った。

 顔を合わせるのだとしても、まだ先の話になるだろうと思っていた者たちが来て嬉しく思うのと同時に、やはり納得のいかない気持ちもある。

 

 それで、とりあえずユミルに向けて口を開いた。

 



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神明裁判 その1

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「それで……どうした、ユミル。何か分かった事でもあったか?」

「いやいや、分かったコトとか言ってる場合じゃないでしょ。……何アレ? アンタ馴染みすぎでしょ」

 

 ユミルに言われてミレイユは困ったように笑った。

 大抵の事は聞いてくれるし、融通も利く。向こうも使用人のように控えているものだから遠慮なく使ってしまったが、言われてみれば確かに図々しかったかもしれない。

 今も胡乱な目を向けてくるユミルから視線を切って話した。

 

「……まぁ確かに、少々調子に乗ってしまった感は否めないが」

「ちょっとじゃないでしょ。あそこにいたのって、別に使用人ってワケじゃないんだから」

「だが、頼めば大抵のものは用意してくれるぞ。……部屋で大人しく過ごせる内容に限ってだが」

「ミレイ様の事を考えれば、その程度の配慮は当然です。奴らが何を考えているにしろ、相応しい態度を取っている事に関しては評価しても良いかと」

 

 アヴェリンの放った強弁は、しかしユミルに鼻で笑われた。

 

「全くおめでたいわね。本気でもてなそうと思っているワケないじゃないの。何か裏があるに決まってるでしょ?」

「そんな事は当然だ。拘置所から助けられたなどと考えてはいない。先程もそれを話していたところだ。恩赦でも与えて、我々に何かさせようとしているのだろう」

 

 へぇ、とユミルは面白そうに眉を上げた。

 

「なるほど、ただ(くつろ)いでいただけじゃなかったのね。安心したわ、既に懐柔済みかと思ったもの」

「馬鹿にするな。少々優遇された程度の事で、安易に媚びを売るものか」

「そうよね」

 

 ユミルはその言葉を全く信用していないのか、小馬鹿にするように笑って、それから唐突に顔を歪めた。

 膝や股関節、太もも周りを撫でて、どうにか楽な体勢はないものかと、足を伸ばしたり腰を持ち上げたりしている。

 

「いだ、イタタタ……! ていうか、何なのこの座り方、股を開いて座るなんて淑女にあるまじき姿だし……!」

「正式な座り方はアキラがしている姿勢だ。足は閉じれるが、あれはあれで痛くなるし痺れもする」

「じゃあ、どうしろってのよ……」

 

 ユミルが先に足を崩した事で、ルチアもまた顔を歪めて体勢を変えた。アキラの座り方を見様見真似でやろうとし、そして膝を畳んだものの、気に食わなかったのかすぐに戻した。

 見かねたミレイユがテーブルの上に手を付き腰を上げる。

 

「適切な形ではないが、こうして……」

 

 ミレイユは実演形式で二種類の座り方を見せた。一度正座し、その状態から両足を横に崩した座り方と、正座に近いが足を外に出す、所謂女の子座りをする。

 

「まぁ大体、座布団の上の座り方といったら、このくらいだな」

「結局、椅子ほど楽にはならないのよねぇ……」

 

 ミレイユのやり方を真似て座るが、どうにも落ち着きなく尻を浮かせる。ルチアも同様、もどかしいような表情を見せ、結局正座する事にしたようだ。

 アヴェリンなどは最初からどっかりと胡座をかいているが、その座り方は彼女の部族としては実にありがちなものだ。何の抵抗もなく股を開いて座っている。

 

「お嬢様には少し難しい座り方だったか」

「はぁ? お嬢様かどうかは関係ないでしょ。そんな下品な座り方、普通だったらしないってだけよ。アキラだってしてないじゃない」

「あれがまだ戦士ではないというだけの話だろう。それを考えれば、ミレイ様は最初から我が部族の慣習へ敬意を表していらっしゃった。実に仲間思いの姿勢をお見せになる」

 

 ミレイユに向けて感謝の目礼を向けると、次いでユミルに顔を向け、目を細める。暗に、お前には無理だろうが、と言っていた。

 ユミルはそれをさらりと流して、ミレイユに顔を戻す。

 ミレイユも小さく肩を竦め、ユミルへ宥めるような視線を向けた。

 

 そもそも、ミレイユにしてもアヴェリンの部族の慣習に対して配慮など全く考えていなかった。女性の身で胡座をかくのは確かに珍しい事だが、ミレイユにとっては馴染み深い座り方で、単に慣れた方を選んだという理由に過ぎない。

 

 それを勝手に深読みされてしまったのだが、訂正するとそれはそれで角が立つ。

 仕方なくユミルには飲み込んでもらう事にした。

 

 空気を変えるようにユミルが一度、窓の外に目を移し、小さく鼻から息を吐く。

 そしてたっぷりと時間を使ってから、再びミレイユへと顔を戻した。

 

「……それで? いつ逃げ出す?」

「逃げるんですか……!?」

 

 悲鳴のような声を上げたのはアキラだった。

 先程から一言も発さず、顔を青くさせて萎縮しきっている様子だったが、今では更に青くさせて、正座した膝の腕で拳を固く握っていた。

 

「そりゃ逃げるでしょうよ。いつまでも、ここで遊んでいるワケにもいかないし?」

「でも……でも、御影本庁を相手に立ち回ったんですよ。敵に回したんです。そして今は神宮の中枢、奥宮にいるんですよ……! この上、そこから逃げるなんてしたら、日本全国を敵に回すだけじゃ足りなくなります!」

「アキラの言い分も理解できるがな……」

 

 蒼白の顔面に、脂汗をたっぷりと掻いた額を見せるアキラへ、ミレイユは努めて優しい声音で言った。

 

「ここにいれば安全を保障される、という話でもない。今この瞬間を切り取って考えれば、そのように見えるだろう。お前たちもこうして自由に部屋を出入り出来ているしな。恐らくこの区画、と決められた範囲なら出歩く事も出来るだろう。……だが、次は?」

「次……」

「私達を飼い殺しにしたいだけだとでも? ――有り得ない。必ず何か要求を突き付けてくる。今はそれの準備期間であると共に、懐柔期間でもあるんだろうさ」

 

 ミレイユが自分の考えを開陳すると、アキラは青い顔のまま押し黙ってしまった。

 元よりオミカゲ様に対する信仰心の強い男だ。弓引く考えなど最初からない。そして、ミレイユ達に付き合わされてここまで来た。

 

 もう何もしないでくれ、と思わずにはいられないだろう。自分では止められないと思っていても、更に神宮勢力と敵対を深めたいとは思っていない。

 

 それはミレイユ達にとっても同様だった。

 我を通す事によって敵対する事になってしまったが、そもそも敵とは認識していない。今のところは、という但し書きは付くが、武器を向けられない限り敵対も邪魔もするつもりはなかった。

 今回の騒動については完全にミレイユが悪いので、その部分だけで言えば、帳消しにするような要求があれば飲むつもりでいた。

 

 ――しかし。

 こうもあからさまな懐柔を仕掛けてくるとなると話は別だ。

 お前は罪を犯した、罰する代わりにアレをやれ、という程度の話なら二つ返事で了承しただろう。だが今は、茶を望めば恭しく差し出す始末だ。

 不気味に思い、警戒しない方がおかしい。

 

 ミレイユは自身の周囲の更に外、奥宮全体へと気配を探りながら言った。

 

「だが安全に逃げられるかと言うと、それもまた難しいように思う」

「……簡単じゃないのは確かでしょうけど」

 

 ユミルが眉根を寄せて腕を組む。

 それを横からルチアが顔を出した。

 

「ここがマナの生成地だって事実を、忘れて貰っちゃ困りますよ。同時に集積地でもあるようですけど」

「それの何が問題だ? それに集積地? 何か関係があるのか?」

 

 アヴェリンの質問に、ルチアは大いに頷いて続けた。

 

「ここまで近付いたからこそ気付けた事実ですけど……。霊地の力をマナに変換して、そしてマナを使って人々の病や傷を癒やしている訳じゃないですか。マナは魔力にも変換して利用し、それを電線を通して全国に流している。人々の感謝や願いは信仰となって、巡り巡って神の元へ返って力になっている。でも同時に、全てを取り込んでいる訳じゃない。再びマナとして放出している」

「それはつまり、電池のように溜め込んでいるという事か?」

「そうですね、放出したものの多くは再び傷や病を癒すのに使っているのだと思います。龍脈を通して全国へ伸ばしているんじゃないですかね。でも、自身に取り込むのとは別に集積しているものがある」

 

 ルチアは難しい顔をして顎を摘んだ。

 深刻そうな表情をしているが、それがどれだけの問題になるのかまで、聞いたアヴェリンも、聞いていたミレイユも理解していない。

 続きを促せば、自身の考えを整理するように口に出した。

 

「その大きさはどれ程の物か分かりませんが、仮に持ち運べないのだとしても、この場で戦う素振りを見せるのは下策です。相手に魔力切れが起きないだけでなく、大いに強化させる手段となる」

「ブーストアイテムみたいなものか……」

「しかも問題は、それが魔力持つ者なら誰でも強化できる代物だろう、って事ですよ。仮に神の意志一つで集積したそれを与えられるなら、さっき姿を見せた巫女程度でも、油断ならない相手になりますよ」

 

 ルチアの推論を聞いて、誰しも難しい顔をして黙りこくった。

 そこにアヴェリンから声がかかる。

 

「誰でもという事は、我々にも使えるという事か?」

「流石にそこは対処してあると思いますよ。敵にも安易に利用できるなんて、そんな馬鹿な真似をするとは思えませんし」

「そうか……。だが、そんなに脅威になるものか? 先程の巫女とて、アキラよりは上程度でしかなかったろう」

 

 言いながらアヴェリンがアキラへ視線を向けると、アキラ自身虚を突かれたような顔をしている。まだ鍛えている最中とはいえ、戦闘職には見えない巫女より格下と言われて動揺が隠せないようだ。

 しかし神の身辺警護も兼ねているのだろうから、むしろそれぐらいの力量がなくては務まるまい。

 

「個の力量は、それほど大事ではないと思いますね。その気になれば、あれらは魔力を取り込むだけ取り込んで自爆しますよ」

「ああ、そういう……」

 

 アヴェリンが納得して頷き、ミレイユもまた腑に落ちるような気持ちでいた。

 神に対する強い信仰心は、時として自己の生命よりも優先する。仮にアヴェリンが力づくで神へ押し迫ろうとしたら、その命を投げ出す事に躊躇しないだろう。

 

 命をかけて護ると誓っていても不思議ではなく、そして自身を引き裂くほどの大きな魔力というのは、アヴェリンをして馬鹿に出来ない威力になる。

 それが十や二十やと投げ出してこられたら、流石のアヴェリンも無事では済まない。

 

「オミカゲ様がどの程度の力量かは分かりませんけど、神がそれを駆使してきただけでも、私達は相当な苦戦を強いられる事になります。それこそ、過去一番の苦戦を……」

 

 ルチアの落とした言葉が、部屋に重い沈黙を落とす。

 そのとき、襖が控えめに叩かれ、すっと僅かな音を立てて開く。顔を覗かせたのは先程用意を申し付けた女官で、そばには湯気の立つカップを乗せたトレイがあった。

 

「御用の品をお持ちしました。入室しても宜しいでしょうか」

 



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神明裁判 その2

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 ミレイユはそれに返事をして、入るように促す。

 女官は静かに入室して、実に教育の行き届いた給仕だった。動作一つ一つが優雅でありつつ、押し付けがましく見せる事もない。

 それぞれの前にソーサーに乗ったコーヒーカップを出し、砂糖とミルクを卓上に置く。

 

 全ての給仕を終えると、女官は一礼した後ミレイユの傍に寄り、不躾にならない距離で膝を折った。

 座った訳ではない。跪座(きざ)――つま先を立て、かかとをお尻に乗せた姿勢――で再び丁寧に頭を下げた。

 

「言伝を預かってまいりました」

「預かるような知人はいない筈だが……。誰からだ?」

「此度の裁判における進行役を任されました、頭師(ずし)庄之助裁判長様からになります」

「……裁判だと?」

 

 ミレイユが眉根を寄せ視線をぶつける。

 言伝を任されただけの女官に怒りをぶつけたところでどうなるものでもないが、突然飛び出した単語に驚きを隠せなかった。

 理不尽、とは思わない。ミレイユは実際、それだけの事をした。しかし何より性急すぎるし、これまで見せてきた対応にも道理が合わない。

 

 囚人として扱われる事に不満はないが、ならばどうしてこのような対応になるのか分からなかった。

 アキラは裁判と聞いて白目を剥いている。自身の暗澹たる未来を想像して、頭が完全にショートしてしまったらしい。

 

 他の面々については大した反応はなかったが、やはり怪訝そうな表情は変わらない。

 女官は更に続ける。

 

「――小一時間程あとに、神明裁判が執り行われます。準備のほど、よろしくお願い申し上げます」

「ちょっと待て。その裁判長が審判を下すのか? その、神明裁判とやらで」

「いいえ、神判を下すのはオミカゲ様でございます。裁判長様はあくまで進行役としてご協力下さるとの事。オミカゲ様が直接、その場で裁きを下すと聞き及んでおります」

 

 それを聞いた瞬間、アキラは後ろに倒れた。

 ドサリと重い物が倒れた音でそちらに目を向ければ、白目に涙を流して不格好な姿勢で倒れている。アキラにとっては悪夢以上の現実に直面して、意識を手放す事にしたらしい。

 

 ミレイユは嘆息を一つ零して、それから女官へ下がるように手を振った。

 

「分かった、小一時間後か。十分前になったら一度声をかけてくれ」

「畏まりました。他に御用はおありですか?」

 

 ミレイユはアヴェリン達に目を向けて、何の反応もない事を確認すると首を横に振る。

 

「いいや、ない。下がって良い」

「……それでは、御前失礼いたします」

 

 再び一礼し、巫女はトレイだけ持って退室していく。

 襖を閉める前にも一礼し、ぴったりと閉めるのを確認すると、それぞれが机に手を着いて頭を突き合わせる。

 一番最初に口を開いたのはユミルだった。

 

「……で、これってどういう事? 裁判ですって?」

「裁判が起こる事そのものは、別におかしい事じゃないが」

「私達は犯罪者で、囚人で、裁きを待つ身ってワケね。別にそれで驚いたんじゃないわよ。じゃあ、この待遇は何なのって話でしょ」

「牢の中で聞かされたんなら、全く疑問は抱かなかったろうに」

 

 アヴェリンも腕組みしながら頷いた。

 ユミルも勢い込んで話を続ける。

 

「――そうよね? なんで囚人にコーヒーなんて飲ませようとするのよ? アタシは最初から何一つ口に入れる気がないからいいけど、毒の一つも警戒しなさいよ」

「している。昨日から口に入れるもの全て、ミレイ様が食す前に毒見をさせて頂いた。結果、なんの毒も見当たらなかった」

「まぁね、そこは別にいいんだけど。どうせないって思ってたし。支離滅裂すぎて頭に来るわ」

 

 ユミルの表情には理解を拒絶する色が浮かんでいた。

 あるいは拒絶に近いのかもしれない。どちらにしろ、理解の及ばない現状に困惑しているのは誰もが同じだ。

 

「それで、神明裁判って何よ? アンタ知ってる?」

 

 ユミルに水を向けられて、ミレイユも困ったように頭を掻いた。

 

「意味だけなら知ってるが、それがこちらでも同じ意味を持つかは分からない」

「ちょっとアキラ起こしなさいよ。こういう時のアキラでしょ」

 

 吐き捨てるようなユミルの言葉にアヴェリンが頷いて、乱暴に頭を小突く。しかし反応はなく、くぐもったうめき声だけが返ってきた。

 次に肩を揺するも効果はなく、仕方なく頬を叩き始めたが、やはり目覚める気配がない。

 

「ホラちょっと、ご覧なさいな。アキラの頬ピシャンピシャンって、いい音出しすぎじゃない? こんな時でも笑えるわ」

「言ってる場合か。――ミレイ様、これだけしても起きないとなると、水でも被せるか、精神的に揺さぶりを掛けるかしかないかと思いますが」

「畳を汚すわけにはいかない。精神的な方だな」

 

 ミレイユがユミルに目配せすると、面倒そうにしながら立ち上がる。そのままアキラの傍で膝をつけると、頭に手を当て魔術の制御を始める。

 結果はすぐに現れた。

 

 突然、飛び跳ねるように起き上がり、辺りを見回してはミレイユたちの顔を確認し、荒い息をつく。額の汗を拭って、目についたコーヒーを口に含んでホッと息を吐いた。

 

 どのような手段を取ったのかはユミルにしか分からないが、悪夢のようなものを見せたような気がした。

 落ち着いて来たのを見計らい、アヴェリンが問う。

 

「アキラ、神明裁判とは何だ」

「――ゴホッ! えほっ、ゲホゲホ!!」

「むせてないで早く言え。それ次第で、今後の動向も変わるだろうが」

 

 未だむせるアキラに苛立ちを見せるが、急かしたところでどうにもならない。とりあえず落ち着くのを待って、それでようやく涙目のアキラが口を開いた。

 

「……くそっ、夢じゃなかったのか!」

「そうとも、夢じゃなかったな。……それで、一体どういうものなんだ?」

「僕も詳しくは知りませんよ……! ただ、オミカゲ様が直接有罪かどうか判断する裁判、ってぐらいで……。えぇ、嘘でしょ……オミカゲ様と対面するの……!?」

 

 自分の口から出た言葉が信じられなかったようで、自分で自分を疑っている。頭を抱えてブツブツと言い始めたアキラを置いて、再び顔を突き合わせる。

 今度はルチアが先んじて口を開いた。

 

「つまり人ではなく、神に結果を委ねる裁判って事ですね。……これは有罪になる事が決定したって思っていいんですか?」

「大体、委ねたところで実直に判断を下すハズないじゃないの。面白い結果になるんだったら、実際に有罪かどうかなんて気にしないんだから。神なんてそんなモンでしょ?」

「ユミルの言い分には一理あるが、しかしあちらの神基準で考えるのもどうだろうな。合法的に処刑命令を出せると言う意味なら、確かに有効だろうが」

「それなのに、この高待遇ですか? 死ぬ前に良い思いをさせてやろうとでも? だったらまず逃がさないよう、対処するのが先でしょう」

 

 ルチアが皮肉げに笑って、ミレイユも頷いた。

 内容はともかく、大いに矛盾する対処である事は間違いない。あるいは、逃げ出さないという確信でも持っているのだろうか。

 

 明確な敵意を向けさえしなければ、敵対する意思を持たないというのは本当だ。しかしそれはミレイユを知らなければ出ない発想だろう。

 結希乃がミレイユ達の力を警戒するあまり、大規模な部隊展開と結界を用いたのと同様、ここでも大規模な警戒があって然るべきなのだ。

 

 ――あえて。

 そこまで考えて、ミレイユの中にあった疑問と胡乱な根拠が、見事に形作ったような気がした。

 オミカゲ様は何者なのか、というのは早くからミレイユの頭を悩ませて来た事柄の一つだ。そして御影神宮にやって来た事で多くのことが知れた。

 

 ――もしもあえて、多くのヒントを与えていたのだとしたら。

 これより早い段階で、その推論にミレイユが辿り着いていたと、オミカゲ様が見抜いていたとしたら、ミレイユは逃げ出す事はないと確信しただろう。

 

 ミレイユは逃げ出さない。

 目の前にオミカゲ様と対面できる機会があれば、それを逃がす事はない。潜入が難しく、千載一遇のチャンスがあるのなら、まず会ってみようと考える。

 何事かあっても、このメンバーならどんな困難も潜り抜けられると信じているからだ。

 

 捕縛命令を出した事には、何か重なった条件があったのかもしれない、とミレイユは思った。

 それはまさに、ミレイユが御影神宮へ行って確信を得た事と関係があるのかもしれない。オミカゲ様の正体がミレイユの思っているとおりなら、それも納得できてしまう。

 

 ミレイユの異変に気付いて、ユミルもアヴェリンも、その顔を覗き込む。

 

「どうかなさいましたか、ミレイ様」

「ああ、そうだな。一つ、方針が決まった」

「逃げるのよね? 昨日の内にざっと下調べはしておいたから……」

「いいや、逃げない。裁判に出席する」

 

 ミレイユの発言には、ユミルも流石に顔を顰めた。

 

「正気……? 絶対有罪になる裁判なんて、出る意味ないじゃない。有罪判決が出ればどうせ逃げ出すんだから、今のうちに逃げた方がまだマシでしょ?」

「ユミルの言うとおりです。今ならばまだしも警戒は緩いでしょう。困難ではありましょうが、判決が出た後では遅すぎます」

「そうはならない。私の考えが正しければ、有罪にだけはならないだろう」

 

 ミレイユの顔色は険しかったが断固とした口調があった。

 ユミルの顔は更に険しくなる。

 

「恩赦が出るって言いたいの? あるいは帳消しにする為の取り引きを持ちかけられるって? 有り得るでしょうけど……」

「分かりました、ミレイさんがそう言うなら」

 

 言い渋るユミルに、軽い口調で了承を伝えたのはルチアだった。

 ユミルはそちらにも険しい顔を向けて、諭すように言う。

 

「いやいや、アンタ……。よく考えなさいよ」

「考えてますよ。……いつだって、後から考えればミレイさんの言う事は正しかった。今回もそうだと言うだけの話です」

「分かるけどね、今回はちょっと異常よ。前と同じように考えると痛い目を見るわ。確証もなく――」

「確証も保障も、何一つ必要ないんです。ああいう顔をした時のミレイさんはね……」

 

 言って指し示したミレイユの表情は険しかった。だが同時に、断固とした決意が浮かんでいる。

 それを見て、アヴェリンもまた安堵するように頷く。

 

「そうだな、必要ない。それが信じるって事だろう」

 

 アヴェリンが晴れやかに言って、ルチアも微笑を浮かべて頷いた。

 いつの間にか顔を上げていたアキラが困惑しながら皆を見ていて、ユミルも耐えかねたように大きく舌打ちして顔を逸した。

 

「アタシだって分かってるわよ。でもね、誰か一人くらいは反対して、冷静さを促す役は必要なの。まぁ、なるようになれ、よ……。いつもどおりだわ、何も変わらない」

「……うん、苦労をかけるな」

「だったらもっと詳しく説明しろっての!」

 

 堪りかねてユミルは叫んだが、ミレイユは笑うだけで答えなかった。

 何もかも理解しているように頷くアヴェリンとルチアに、ただ困惑しか出来ないアキラが見つめていた。

 



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神明裁判 その3

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「お時間になりましたので、議場へ移動をお願い致します」

 

 静かに襖を開けた女官がそう言って、アキラは唾を飲み込んだ。

 とうとう来た、という思いがある。巻き込まれたようなものだが、しかし拒絶せず着いて行ったというなら、確かにアキラも同罪だ。

 本庁の邪魔をしたのも事実なら、それに対して報いる義務がある。

 そして、その罪と罰をオミカゲ様御自ら見定めようというのだ。

 

 これまで何もかもが異例づくしの展開だったが、何よりこの裁定がアキラの度肝を抜いた。

 現代において科学技術は、小さな痕跡すら残さぬ事を不可能にした。どれだけ巧妙であっても、何かしら痕跡はあるものだ。だから神に頼るような裁判形式はなくなったし、頼る事は恥だという風潮も出来上がった。

 

 人の雑事を神に片付けて貰おうという考え自体が浅ましいのだ。だから例え未解決事件が出たとしても、神に頼って犯人捜しをするという事もしない。

 だから今回の神明裁判は、何か大きな事情を明らかにする為にある。そうに違いないのだ。

 それが何かはアキラには予測すら付かないが――。

 

 先程の女官の言葉を聞いて、まさに立ち上がろうとするミレイユを見た。

 その顔に緊張は見られなかった。単に図太い神経をしている訳でも、無神経という訳でもないのだろう。大した事態にはならない、と考えているのかもしれない。

 あるいは何があっても、切り抜けられる自信が現れているだけなのかも。

 

 アキラは、次々とミレイユに続いて立ち上がるアヴェリン達にも顔を向けた。

 そこにはやはり緊張は見られない。アヴェリンなどはふてぶてしいまでの笑みすら浮かべていた。ユミルは飄々と、ルチアは澄まし顔で、いつもと変わらぬ表情を見せている。

 

 それに励まされる形でアキラも立ち上がったが、しかし膝が震えて上手く立ち上がれない。卓上に手をついた腕が無様に震えていた。

 

「ほら、ちゃんとしろ。お前が緊張したところで、どうにもならん。潔く腹をくくれ」

 

 アヴェリンから励ましらしきものを受け、その背を叩かれる。

 それで肺から息が飛び出し、咳き込む羽目になってしまった。

 

「ゲホッ、エホッ! 師匠、叩くにしても、もっと手心を……!」

「お前は私に何を期待しているんだ。いいから早く立て、ミレイ様をお待たせするな」

「待たせて拙いのは、むしろ議場にいる人達なのでは……」

 

 傍聴人がいるとは思えないが、被告人より後に入ってくるものでもあるまい。そして何より、アキラたちが入廷しなければ、オミカゲ様もまた入廷できないだろう。

 裁判の様式など知らないが、神を待たせるなどあってはならない。

 

 アキラは促されるまま立ち上がり、ミレイユ達の後を着いていく。

 広い廊下とそれより遥かに長い廊下を、女官の先導で進む。窓から見える景色は長閑で美しい。世界そのものが輝いているようですらあった。

 

 視線を戻せば幾つかの角を曲がり、時に階段を上って歩いて行く。どこを歩いても衣擦れ以外の物音がしないのは、静謐な空間を犯してはならない、と誰もが心得ているせいなのかもしれない。

 

 優に十分は歩かされて、一つの巨大な扉の前で女官は足を止めた。

 振り返って一礼し、ミレイユに向けて逆側にある小さな扉を示す。

 

「皆様は先に議場へお入り下さい。ミレイユ様におかれましては、少々控室でお待ち頂ければ幸いと存じます」

「私だけ別室で待機なのか?」

「はい、追ってご入廷して頂きますが、それはまた別の者が指示いたします」

 

 アヴェリンもユミルも剣呑な視線を女官へ向けたが、ミレイユは手を挙げて黙らせる。

 

「……なるほど。言うとおりにしろ。お前も、案内ご苦労だった」

「勿体ないお言葉でございます」

 

 女官はまるで、感動に打ち震えている様を隠すように頭を下げる。

 アキラから見ても、今の女官の表情は異常に見えた。オミカゲ様と似た顔だから混同しているという訳でもないだろう。むしろ過去の事例を思えば似た顔には忌避感を覚える筈だし、不敬だとすら思う筈だ。

 彼女は一体ミレイユに何を見たのだろう。

 

 思っている内に、ミレイユは女官の開けた扉をさっさと潜り、控室へと入って行ってしまった。

 アヴェリン達は顔を見合わせ、ユミルが顎を動かして扉を示せば、アヴェリンが扉に手を掛けようとした。そこへ女官が戻ってきて扉を開ける。

 

 重厚な音を響かせながら、議場の様子が見えてくる。

 天井が高く、そして明るい部屋だった。板張りの床と重厚な色をした板壁、全体的に道場のような雰囲気がある。用意された席なども、元よりあるというよりは今回の為に準備したように見える。

 

 入り口脇には二名の武装した兵が立っていて、穂先を上に向けた槍を握っている。見てみれば、傍聴席を囲むように計四人の兵もいる。

 入廷した扉から見て左手に傍聴席があり、そこには既に多くの人が座っていた。

 

 アキラ達の入室と同時に、鋭く向けられた多くの視線が射抜く。

 そこに座る誰もが和服を着用し、そしてそれが非常に高価な礼服だと分かる。この場にいるのは全て貴族や華族だけなのかもしれない。最も手前に座る者の中には、生霧会ビルでも見た阿由葉結希乃の姿もあった。

 艶やかではあるが質素にも見え、押し付けない美麗さがある。

 

 彼女以外にも女性の姿は多く見えた。御由緒家がこの場にいると言う事に疑問はない。神明裁判ともなれば、そういう御大家が傍聴席にいるのは、むしろ当然かもしれなかった。

 

 そして右手側には、テレビで見た物とは違うものの、高い位置に設けられた法壇がある。ここにも兵が二名配置されていた。

 法壇には一席だけ用意されていて、おそらく裁判長が座るのだろう、まだ誰も着席していない椅子がある。その一段下には裁判書記官が既に着席していて、こちらはアキラ達を見ず、ただ正面を一点に見つめていた。

 

 検察官と弁護人の座る当事者席には誰もいない。

 ここは原告と被告という立場で座る場でもないだろうから、単に遅れているだけなのか。だが弁護人がいるなら、事前に面通しや説明などがある筈だ。何一つ準備なく法廷に立てというのは無理がある。

 

 傍聴席の前に仕切りとして用意された柵より手前にも席があった。アキラは物理的な圧を持って刺さるような気がする視線を背に受けながら、そこへ促されるまま着席した。

 

 着席した場所からは証言台が見え、そこでようやく裁判官席より更に上、御簾の降ろされた席がある事に気が付いた。

 

 陰になって見えにくいが、その背後には扉も見える。

 ――おそらく。

 おそらく、あの扉からオミカゲ様が入って来るのだろう。あのような席を見ると、そうであるとしか思えない。アキラは今更ながら背筋が伸びる思いがした。

 

 そうこうしている内に、扉から裁判長らしき男が入廷して来た。立派な顎髭を蓄えた壮年の男性で、着ている服も裁判官らしき黒服なものの、やはり和服を着用している。

 

 その後に続いてミレイユも入廷して来た。その顔にはどのような感情も浮かんでいなかったが、被告人席に座るアキラたちを見てチラリと笑う。

 ミレイユの後に続いて入ってきた、先程とは違う老齢の巫女が入ってきて扉を閉め、その前へ陣取るようにして留る。背筋を伸ばし、両手を前に揃えた見事な起立だった。

 

 傍聴席に座る者たちからは、ザワつくような動揺が感じられた。

 背後を窺ってまで確認する勇気はないが、ミレイユの容姿を見たのが原因で間違いないだろう。ミレイユの容姿は見慣れた人でも間違っても不思議でないほど、オミカゲ様と良く似ている。

 

 ミレイユは被告人席ではなく、そのまま証言台へと向かった。

 裁判長の前には名前の書かれた札が立っていて、そこには頭師(ずし)庄之助と書かれている。初めて見たのに聞き覚えがあるような気がした。

 

 あの時、思わず気絶してしまった前後で聞いたのかもしれない。今でも裁判があると聞かされた前後の記憶は曖昧で、実を言えば今も何もかもが曖昧に思える。

 

 現実を直視したくないだけかもしれないが、座っているというのに足元がふわふわとして落ち着きがない。どういう質問が飛んで来るのかと緊張していたが、どうもミレイユが代表して質疑に応えるようにも見えるし、形式としてどう進行するかも分からない。

 

 そもそも弁護人とか証人とか、そういう人物はいないのだろうか。

 あるいはこれは裁判とは名ばかりの、尋問に終始する気なのかもしれない。

 

 緊張が輪をかけて高まり出した時、一度席についた頭師裁判長が立ち上がる。見た目を裏切らない太く伸びる声で、厳かに告げた。

 

御影豊布都大己貴神(みかげとよふつおおなむちのかみ)様、ご来臨である! 一同、起立!」

 

 背後から整然と立ち上がる音が聞こえて、アキラも同じように立ち上がった。

 アヴェリン達はそれより遅れて立ち、冷ややかな視線を頭師裁判長に向けている。

 

「……礼!」

 

 自身もまた最敬礼の角度で頭を下げるのを見て、慌ててアキラも真似て下げる。背後からも衣擦れの音が聞こえて、同様に頭を下げたのだろうと察した。

 隣にいるアヴェリンが頭を下げていないと横目で察して、音が出ないよう軽くその足を叩いてみたが、まるっきり無視された。

 

 頭上より扉が静かに開く音がして、何者かが足を踏み入れたと察した。一足動かす度、衣擦れと金属同士が接触するシャラシャラとした音が聞こえてくる。

 

 今まさに、オミカゲ様が入廷し、その席につこうとしている。

 アキラは身が振るえて来るのを抑える事が出来なかった。例え裁かれる身であろうとも、このような機会がなければ決して、ここまで近くで存在を感じる事は出来なかったろう。

 その事実だけに目を向ければ、決してこの状況も悪くはない。

 

 衣擦れと金属音が聞こえなくなるまで礼は続いた。

 何か重いもの――恐らく御簾――を動かす音が聞こえ、それも聞こえなくなると、よく通る、そして聞き覚えのある声が耳朶を打った。

 

「一同、(おもて)を上げよ」

 

 ミレイユと良く似た声だった。しかし、決定的に違うのは、その声に温かみがないという点だ。厳かで押さえ付けるような重みを感じさせる声だった。

 あるいはそれが、神から受ける威厳というものなのかもしれない。

 

 アキラは言われるままに顔を上げ、そして御簾の向こうに感じられるオミカゲ様を思って胸の奥が熱くなった。このような場でなければ、涙していた可能性もある。

 アキラはぐっと口元を引き絞り、不躾なところは決して見せまいと心に決めた。

 

 着席、と頭師裁判長が再度声を張り上げ、全員に倣ってアキラも座る。

 

「本裁判は御影豊布都大己貴神(みかげとよふつおおなむちのかみ)様の意向によって行われる神明裁判である。それ故、非公開の秘密裁判として傍聴席にも関係者のみが集められた。口外する事を固く禁じ、この場から立ち去らぬ者はこれに同意したものと見做す」

 

 裁判長はゆっくりと睥睨し、どこからも異論が出ないことを認めて改めて言った。

 

「……結構。では、開廷!」

 



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神明裁判 その4

 裁判長が手元の資料らしき物に目を向け、ガベルを叩いて声を上げた。

 

「……これより確認する内容は、御影本庁主導による事件捜査及び作戦妨害の疑いと、理力機密保持法に関する違反についての審理。被告人はミレイユ、名字は無し。住所は石花市、東五条一丁目十七番地、コーポ石花二〇三号室」

 

 書類に記載されているだろう事柄を読み上げ、法廷書記がそれを必死に書き留めていく。

 ミレイユはそれをつまらなそうに聞いていた。

 

「尋問を務めるのは、頭師庄之助裁判長。……そして被告側に証人は無し」

 

 それを聞いて、アキラは思わず眉を顰めた。

 今の言い方だと、まるで証人を用意する事が出来たかのようだ。その時間も必要も、与えなかったのは向こうの方ではないだろうか。

 それともミレイユには伝えた上で、必要なしと判断したとでもいうのか。

 

「では、罪状を。……被告人の罪状は以下の通り。被告人は事前に警告を受けたにも関わらず、その作戦を撹乱、妨害し、被告人の行動が違法であることを十分に熟知し理解しながらも、本庁任務執行妨害を行った。そして生霧会構成員と海外のマフィアへの暴行、監禁。また、町中で結界外であるにも関わらず、人目を避ける努力を怠り、理力の存在を公にしようとした。これは理力制限法の第三項、及び機密保持法の十三条の違反に当たるものである」

 

 アキラはそれを聞きながら、握り締める拳の強さが増していった。

 この部分については一点の間違いもなく、妥当としか言えない罪状だった。理力というものについてはよく知らないが、その言い分からして魔力と同じような意味だろう。

 

 これを制限する法令があったとは知らなかったが、同時に納得もする。このような力が法治国家で何の制約も受けずに使える筈もない。

 

「それでは……被告人の名前、住所については間違いなかったか」

「異論を出すか悩むところだが……そうだな、形としては一応、居候という事になるから……。ああ、住所については間違いない、と答えよう」

「……質問には簡潔に応えるように」

 

 ミレイユは肩を竦め、それには返事をしなかった。

 そのような態度を見てしまうと、アキラはヒヤヒヤしてしまう。裁判には心象も大事だと聞く。証人も弁護人もいない尋問で、裁判長を敵に回して良いとは思えない。

 

「では、次に前提の確認に移る。被告人は作戦遂行中、本庁職員から警告を受け取った。間違いないか?」

「間違いない」

「その上で、被告人の行動が明らかに作戦遂行の不利益になると理解していたにも関わらず、生霧会構成員へ暴行を加えた。間違いないか?」

「間違いない」

「そして気絶させた上で拘束し、身動きできないようにした。間違いないか?」

「……まぁ、間違いない」

 

 裁判長の言い方は随分恣意的なものに感じたが、結局異論を唱えるのは止めたようだ。

 だが同時に、アキラは異議ありと叫びたかった。生霧会ビルでやったのはアヴェリンだし、埠頭の倉庫で行ったのはユミルだった。ミレイユは彼女たちのリーダーだが、しかしだからといって、その行いに対して罪状を述べられるものでもない筈だ。

 

「結構。では、最も重要な事実確認に移ろう。この日、被告人は大衆の面前で理力を行使したことを認めるか?」

「理力の事など知らない。よって認めない」

 

 今まで肯定を続けてきたミレイユが、明確に否定する発言をして、裁判長は瞠目した。嘘を吐いた事を咎めるように、その声が低くなる。

 

「知らないとはどういう事か。本件では間違いなく、その行使を認められたと報告を受けている」

「私が何かしらの力を使ったのは事実だとして、理力などという名前は初めて聞いた。だから知らないと答えた」

「では、力を使った事実は認めるか? あくまで呼び方の問題として理力を知らないのであって、人知の及ばない力を使ったと被告人は認めるか」

「認めよう」

 

 今度は素直に頷いて、裁判長は面食らったような顔をした。

 

 それを見て、アキラは歯噛みするような思いがした。そこを認めずにいれば、何か譲歩を引き出すような言質が取れたのではないか。

 あまりに呆気なく認めた事が意外だったというなら、何かしら立ち回りを考えればやり過ごせたのではないか。そういう思いがアキラの胸を締めた。

 

 裁判長はすぐに持ち直し、一度呼吸を整えてから続ける。

 

「……結構。被告人は全ての罪状に対して罪を認めた。反論はあるか? 証人の用意が間に合わなかったとしても、現段階で召喚に応じられる者がいるなら、それを喚ぶのは被告人の権利だ。証人を召喚するか?」

「いいや、用意している証人はいないし、証人を喚ぶつもりもない」

「では、今まで述べた事実について反論は?」

「ない。全て事実だと認める」

 

 裁判長はふむ、と小さく息を吐いて、手元の書類を何枚か捲る。そうして手の動きを止めてしばし、ミレイユに顔を向け直して言った。

 

「何の反証もないと言うなら、このまま判決を言い渡す事になる。その前に何か言いたい事は?」

「……何も」

 

 余りのやる気のなさに、アキラは大いに顔を顰めた。

 ミレイユは大丈夫だと言っていたが、このような様子を見せられては、とても安心して見守っていられない。

 

 アキラには彼女が全てを諦めてしまっているように感じる。全てを投げ出し、どうにでもなれと思っているように見える。

 列挙された事実は間違いないが、暴行や監禁についてミレイユは何もしていない。指示をしたかどうかという部分を争点に持っていくとか、何か言うべき事はあった筈だ。

 しかし彼女は何もしないし、何も言わない。

 

 それがアキラには不満だった。

 横目でアヴェリンを伺ってみれば、やはり膝の上に置いた拳が強く握られている。彼女も同じ思いなのだ。しかし被告人席にいるアキラ達は証人として動けないし、発言する自由もない。

 

 もどかしい気持ちでミレイユの背中を見つめ、何か言ってくれと念を送る。

 その思いが伝わったのか、ミレイユが一言声を上げた。

 

「ああ、一つだけ。……早くこの茶番が終わればいいと思ってる」

 

 この期に及んで挑発するような発言に、アキラは頭が痛くなった。思わず身体が横へ倒れそうになる。実際少し傾きかけたが、それを意思の力で捻じ伏せて、身体の位置を元に戻す。

 

 裁判長は明らかに面食らった顔でミレイユを見つめ、そして怒りをぶつけるようにガベルを叩いた。

 

「結構! ……本法廷はこれ以上の審議を認めない。全ての罪状に対して罪を認め、また反論もない。よってここに実刑と判決を言い渡すものである。被告人ミレイユを有罪とし、禁固十年を言い渡す!」

「馬鹿な!」

 

 アキラは思わず出してしまった言葉を飲み込むように手で蓋をした。

 視線がアキラに向けられているのを感じて冷や汗が浮かぶ。

 

 だが、いきなり実刑など有り得るのか、という思いが胸中を占める。執行猶予とか何とか、色々あっても良いように思うし、機密保持違反だ何だと言われても、そもそもミレイユは組織に所属している訳でもない。

 

 粗は探せば色々出てくる筈で、しかもこちらには弁護人すら用意されていないのだ。

 これから同じようにアキラ達も尋問されていくとして、これらを覆すような証言や証拠など提出できない。全員が同じような判決を受ける事になる。

 

 ミレイユの大丈夫というのは無罪を勝ち取る事ではなく、あくまで脱獄する事を言っていたのだろうか。彼女が茶番だと揶揄していたのも、判決は最初から決まっていたと知っているとか、どうせどのような判決が出ても逃げるだけだからとか考えていたせいなのかもしれない。

 

 そもそもが神明裁判、非公開、秘密裁判。

 有利な条件など何一つなかった。最初からミレイユは腹を括っていたのかもしれない。

 

 アキラは気持ちが地の底まで落ちていくように感じた。

 腹の底がズンと重い。呼吸する事すら難しい気がした。それほど強い絶望感が身体を支配している。次は自分たちの番、そして似たような判決を言い渡されるだろう。

 

 もしかしたら、それすらもなく一蓮托生、全員同罪として裁かれるかもしれない。

 公にされないというなら、同じグループの下っ端程度にしか思われていないアキラなど、その程度の扱いしかされないとしても、今更驚かない。

 

 そこへ頭上から厳かな声が降ってきた。

 

「頭師裁判長、大義であった」

 

 その一言で全員が――ミレイユ達を除く全員が一様に頭を下げる。

 アキラも例外ではなかったが、今はそうしている事が恐ろしい。自分たちはどうなってしまうのかという暗い思いが身体中に巻き付いて、身体をとにかく振り回したいような気持ちだった。

 

「本来ならば妥当な判決であろうが、そこに一つ考慮せねばならぬ事柄がある」

 

 それに対し発言する者はいない。

 神の発言は何者も遮ってはならない。頭を上げるように言われなければ、そもそも発言すら許されないというのが常識だ。だからアキラはオミカゲ様が何を言うつもりなのか、祈るような気持ちで待ち続けた。

 

 もしや、あるいは、という気持ちを抑えきれない。

 そしてオミカゲ様は厳かに続けた。

 

「この者ミレイユ、只人に非ず。よってこの者、法では裁けぬ」

 

 アキラは一体、それが何を意味するのか理解できなかった。言っている意味は分かる、しかしならば何故裁判など始めたのかという思いがあった。

 法で裁けぬ存在というのも意味不明なら、それがミレイユというのも意味不明だった。

 

 ミレイユが只者じゃないのは理解している。別世界の住人だという事もアキラは知っている。だが、もしそれをオミカゲ様も理解しているなら、日本人ではないから日本の法律では裁けないと、そう言いたいのか。

 

 だとしたら、この裁判を始めた事すら意味がない。そして、それを理解してない筈もなかった。混乱がアキラの頭の中を搔き乱す。

 その時、オミカゲ様が変わらぬ厳かな声音で朗々と告げた。

 

「被告人ミレイユ、そなたをここに無罪を言い渡す」

 



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神明裁判 その5

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 アキラは視線を床に向けながら、その言葉にポカンと口を開けた。

 喜ばしいと思いつつ、納得できない自分がいる。

 

 無罪な事は喜ばしい。罪を問わないと、神の口から言われたのだ。

 しかし、何故と思わずにはいられない。罪を(つまび)らかにし、その上で神判による無罪を言い渡す為に、こんな事を始めたのか。

 ……一体なんの為に。

 

 その時、ミレイユが茶番と言った事を思い出した。

 最初から有罪になると知っていたからと思っていたが、もしかすると、逆にこうなる事を知っていたのだろうか。だからあれほど余裕を見せていたのだろうか。

 

 だが、だとすると何故、ミレイユがそれを知っていたのかという疑問が出てくる。

 アキラはもう何が何だか分からなかった。考えても分からないだろう事は理解しているが、誰か教えてくれという思いが脳内を駆け回る。

 

 そこへオミカゲ様の声が降りてきた。

 

「納得し辛い判決であろうな。……よい、理解しておる。一同、面を上げよ。全て説明する」

 

 神の許しがあって、アキラは顔を上げた。

 誰しも頭を垂れていた中、やはりアヴェリン達は頭を下げずにいたようだ。やるせない気持ちを抑えながら、とにかくアキラは続く言葉を待った。

 

「まず最初に、この場に我の望む者全てが集った事、嬉しく思う。急な呼び出しに苦労を掛けた事だろう。……大儀であった」

 

 その一言で、またも背後から整然とした衣擦れの音がする。彼らが深々と一礼しているのだろうと思われた。アキラもまた礼をした方がいいのかと思ったが、言葉の意味を考えれば傍聴席へ呼びかけたものだろうし、それだとアキラが頭を下げるのは不自然だ。

 しかし何もせずにいられず、とりあえず顎を引いて軽く俯く程度に礼を示した。

 

 背後の衣擦れが再び聞こえて、それでアキラも視線を戻す。

 ミレイユに顔を向けると、明らかに苛ついている様子だった。不機嫌な表情を隠しもせずに、御簾の向こうへ鋭い視線を向けている。

 

「我が無罪と判じた理由は先に言ったとおり。只人ではない、という理由。しかしこれは、単に日本国の国民ではないから、という意味ではない」

 

 オミカゲ様が一度言葉を切って、そして外に向けて手を振った。

 まるで人払いするかのような振り方だったが、それで後ろに控えていたらしい巫女が前に進み出て、まずオミカゲ様に向けて一礼した。

 続いてその御簾に手を掛けて、その前面部分を取り払って玉顔を顕にする。

 

「……ッ!!」

 

 アキラは言葉にならない悲鳴を上げた。

 その玉顔を目に出来た事にも驚いたが、しかし真に心を乱したのは別のところにあった。

 

 オミカゲ様のご尊顔を目にする機会というのは、実は意外に多い。多くは写真や絵画に寄るところだが、奉納試合など世間に接する事はあるので、そこから垣間見える機会も多いのだ。

 

 では何に驚いたかというと、その玉顔ばかりではなく感じられるマナがミレイユに良く似ていた事からだった。

 御簾を取り払い、中で正座している御姿が目に入ったと同時、まるでそれまで封じられていたかのように、ふわりと流れて来たマナが肌を撫でた。

 

 毎日のように目にするものだから、ミレイユのマナはよく覚えている。

 全くの同一のようにすら思えた。アキラは未だに未熟な身だから正確に読み取る事は難しい。それでも、個々の資質がここまで似るのは偶然とは思えなかった。

 

 アキラは改めてその玉顔に目を移す。

 オミカゲ様の表情はミレイユに比べて平坦で無感動。席の位置から考えても、どうしても見下ろす形になるから余計に冷たい印象を受ける。

 

 髪の毛は長く胸に届く長さで総白髪。白髪というより純白、雪原の上で新雪が輝くような眩しさを放っている。その髪に負けぬ輝かしさを放つのは、深紅の瞳だ。

 赤よりも赤く、そして瞳孔の具合で少し黒くも見える。その瞳に射貫かれでもしたら、どのような嘘も欺瞞も言えなくなりそうな気がした。

 

 御装束には巫女服にも似た神御衣(かんみそ)で、豪華な巫女服のようにも見える。

 元より巫女服はオミカゲ様の神御衣を簡略化したものとしてデザインされているから、その着相が似た印象を受けるのは当然だった。

 

 ただやはり違うのは使われる色が朱だけでなく、金糸銀糸を縫い込まれている点で、更に肩から柔らかそうな領巾を掛けて前に流している。

 その首元や耳元にも金で輝く装身具が纏われ、その輝き以上に美しさを引き出していた。

 頭の上には宝冠が乗せられ、金と輝石を用いられた傑作は神を神足らしめん威厳を表している。

 

 アキラはこれほど瓜二つの存在がいるものなのか、と唖然とした気持ちになった。

 双子と言われても信じられる程、その容姿はあまりに似か寄りすぎている。事ここに来て、ミレイユがオミカゲ様と全くの無関係とは思えなかった。

 茶番だと強気の発言をした事についても、彼女はその関係について既にアタリを着けていたのではないか。

 アキラには、そう思えてならない。

 

 オミカゲ様がその双眸で一同を睥睨したのが見えた。

 目を合わせるのが恐れ多くて、アキラは咄嗟に目を伏せる。そして痛いほどの沈黙のなか、オミカゲ様の視線はミレイユで止まった。

 

「――この者、我が御子である」

 

 アキラは今度こそ音にならない悲鳴を上げた。

 背後にいる御由緒家を始めとした名家も同様で、流石に無言を貫き通すのは不可能だったようだ。不敬と分かっても、言葉にならない溜め息とも悲鳴とも、感嘆ともとれない声が漏れ聞こえてくる。

 

 ミレイユはどうしているかと見てみれば、そこには挑むように睨みつけている姿があった。

 神の発言中、何人たりともその言葉を遮ってはならない、という常識を無視して彼女は叫ぶように言った。

 

「馬鹿な、有り得ない!」

 

 それは傍聴席にいる者、あるいは全てを代弁するような発言だったが、同時にアキラは不思議に思う。てっきり、身内である事を理解していての強気な態度、強気な発言だと思っていた。

 しかし今の彼女は本気で動揺しているように見える。

 

「私に親はいない! いる筈がない!」

「筈がない、というのは可笑しな話であろう。桃を割って中から生まれてきたとでも? 親なくして子は生まれまい」

「桃でなくとも、無から生まれる事はあるだろうさ」

「道理に合わぬ事を言う」

 

 ミレイユの焦燥感溢れる声と対象に、オミカゲ様の声はどこまでも平坦だった。

 端から聞いているアキラでさえ、理屈に合わない事を言っているのはミレイユだと分かる。突然親だと名乗る者が出てきて、しかもそれが神様となれば動揺するのも当然かもしれないが、ミレイユの様子は単に事実を認めないと駄々をこねているようにしか見えない。

 

 ミレイユはかつて、親がいないとアキラに言った。

 物心つくより前に捨てられたのだと勝手に想像していたし、ミレイユからすれば実際そのとおりだったのかもしれないが、ここまで強く拒絶するからには何か理由でもあるのだろうか。

 

 捨てられた恨みか、それとも実は突然の事態で混乱しているだけか。

 常に余裕ある態度を見せてきたミレイユが、これほど取り乱すのは初めて見た。しかし自分の身に置き換えてみれば当然、捨てた筈の親が突然現れたら、アキラだって取り乱す。

 

 しかもこのような場、そしてあのような神なのだ。

 ミレイユはとても、平静ではいられないだろう。

 

 ただ少し思うのは、あそこまで強く拒絶されるオミカゲ様も不憫に思う、という事だった。

 

「……されど、即座に納得できぬのもまた道理。寝耳に水の事であろうしな」

「する訳がないだろう。……何を企んでいる」

 

 ミレイユが警戒も顕に睨みつけ、それを平坦な視線でオミカゲ様が受け止める。

 そこへ遂に堪りかねた裁判長が、神の発言中であると知りつつ口を挟んだ。その怒号に合わせて、周囲の警護の為に立っていた兵もまた槍の穂先をミレイユに向ける。

 

「被告人、先程からどういうつもりだ! オミカゲ様に対してあまりに無礼! あまりに不敬! 例え他の罪が赦されようとも、神への不敬で罰せられよう!」

「――よいのだ、頭師裁判長」

 

 裁判長の熱の籠もった言葉は、しかし他ならぬオミカゲ様によって止められた。

 言葉を放つ毎に顔を赤くさせていたが、その一言で一気に鎮静し、兵達もまた構えを戻す。

 

「他の者ならば赦さぬ。……しかし、この者については例外。この場で宣言しよう。この者に限り、我に対して不忠不敬は何ら咎めに値せぬ。(みな)もよく心得えよ」

「……ハッ! 出過ぎたことを申し、大変申し訳ございません!」

「よい。そなたの忠義、嬉しく思う」

「勿体なきお言葉!」

 

 裁判長は感涙にむせび泣きそうな勢いで平伏した。勿論、オミカゲ様は裁判長の背後だし、そもそも座っているしで、正しい形での平伏ではなかった。しかし、頭のツムジが見える程に深く頭を下げているのを見れば、その敬意は窺える。

 

 アキラは背後を窺って見たい気持ちを必死で抑えて、膝の上で握った拳を見つめた。



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神明裁判 その6

 御由緒家を始めとした彼らは一体どうしているだろう。そして、どういう表情でミレイユ達の遣り取りを見ているのだろう。

 やはり納得できずにいるのだろうか。

 それとも、今のオミカゲ様の発言で、より信憑性を増したと考えるのだろうか。

 

 実際、オミカゲ様が己への態度としてあらゆる不敬を許すと言ったのは、明らかに過度な対応だ。名家であっても、あるいは名家であればこそ、親への不敬は咎めるに十分な要因になる。

 

 家の中にあっても軽薄な発言を許さず、厳しく教育していたりするものだ。それを考えれば、神が子に許す範囲を大きく逸脱しているように思えてならない。

 それともアキラが知らないだけで、神が思う親子間の敬意とは、それほど緩いものなのだろうか。

 

 ミレイユは変わらぬ挑むような目つきで、オミカゲ様を見ていた。

 ただ言われるままではない、と反撃を考えているかのようだった。そしてそれは事実だったようで、裁判長が顔を上げるよりも早く口火を切る。

 

「親だと? 道理に合わないというなら、父は誰だ。誰との間に設けた子だ」

 

 傍聴席からざわめきが生まれる。

 それは確かに無視できない発言だった。子が桃から生まれないのと同様、女ひとりで子は孕めない。それが誰かというのは重大な問題だった。

 

「それは言えぬ」

「言えない? 知らないの間違いだろう。私に親などいないのだから……!」

「いいや、言えぬのだ。お前の父神は今も高天原におるが、さりとて婚姻をした訳でもない。名を明らかにすれば、奉る神社関係が黙っておらぬ。権威、金銭、政治、あらゆる面倒事が発する事になる」

「下らない。そんな事の為に公表できないと?」

「神の権威とは、それ程のものなのだ。我と深い結び付きが出来た神社は、ある種の快挙として祭り上げられるだろう。その神社の宮司だからという理由で、大きな権威すら与える事にも成り得る。私の預かり知らぬところで信仰を売り物に便宜を図り、また見返りを求めるだろう。名を出す訳にはいかぬ」

 

 神が一人の男神を庇う説明に、ミレイユは顔を顰めて押し黙る。

 これでは幾ら言えと押しても決して頷かない事を悟ったのだろう。この場で聞いているだけのアキラにしても、言い訳に過ぎないのだと理解しても、それを理由に突き崩す事は出来ないのだと分かる。

 

 同じ神とはいえ、一人の男が神の情によって守られている。それが羨ましくもあり、妬ましくもある。複雑な感情が胸を駆けた。

 

 ミレイユは更なる追求は諦めたようで、つまらなそうに息を吐いて腕を組む。片手を軽く上げて自身の顎先付近をトントンと叩いた。

 

「それで、私が御子とやらと決めつけたのは、この顔が良く似ているからか?」

「一つの要因には違いない。だが、そもそも容姿の類似は、まず先に詐欺を疑う。『オミカゲ様の子を名乗りゃ、嘘つき詐欺師、雷打たれろ』……聞き覚えは?」

 

 ない、とミレイユが簡潔に答えると、オミカゲ様は平坦な視線に満足気な雰囲気を纏わせて頷く。

 ミレイユなら知らなくて当然だが、日本人なら一度は聞いたことのあるフレーズだった。元はわらべ唄の一節で、その一部分を変えたものだと聞いた事がある。ただし、詳しい事までは知らない。

 

 だが、その唄の言いたい事は明らかだ。

 オミカゲ様の子だと嘘を付くような者は、嘘つきか詐欺師のどちらかだ。そんな奴は雷に打たれてしまえ、という意味だ。

 

 御由緒家がその末裔だとは世に広く知られている事だが、それ以外にも末裔はいると声高に主張した者がいた。事実かどうかは問題ではなかった。御由緒家という血筋があるのも確かなら、落し胤がいたとしても不思議ではない、という主張だ。

 

 そしてその主張を拡大させ、オミカゲ様の子だと言う者すら現れた。

 時には傷を癒やし病を癒すような輩まで現れ、その言葉に信憑性すら現れたが、その全てが偽物だった。では何故、偽物だと分かったのか。

 話は簡単、神宮にまで呼びつけた上で、オミカゲ様自らその真偽を確かめたからだった。

 

「本日行われた神明裁判と同じ理屈よ。我が子を名乗るならば、理力を扱えて当然。扱えれば一つの証明にはなる。出来なければ果断な罰が下されるのみ。……その中には偶然にも理力の素養を感じさせる者もいたが、最終的に我の要求には応えられず、やはり厳罰が下った」

 

 その多くの逸話の中にあって、誰一人オミカゲ様に認められる者は現れなかった。オミカゲ様が直接問い質した上での結果なので、民衆は大いに納得し、次第にそれを名乗る者も見かけなくなった。

 今ではオミカゲ様の子を名乗るのは、馬鹿の代名詞とさえ言われる。

 

「そなたは理力を扱える。使えと命じられるよりも前に、既にその場面を目撃されておる。そなたの主張ではなく、客観的事実として理力を使えると証明された。それが一つの理由ではある」

「だが残念ながら、私が使うのは理力ではない。――魔力だ。よく似ているのかもしれないが、別物だろう」

 

 ミレイユが顔を顰めながら否定しても、オミカゲ様の表情は平坦なまま変わらない。

 

「その認識こそが誤りである。そなたの扱うその力は神の理の力。そして人によっては理外の力。故に理力と呼ばれる。そなたが振るう力は理力に違いない」

「馬鹿な……、有り得ない……」

「受け入れやすいというなら、単に言葉の違いと表現してやっても良い。それは似ているのではない、全く同質のものである」

 

 ミレイユはただ(かぶり)を振って否定している。しかし言葉もなく主張もなく、ただ否定しているようでは、駄々をこねているのと変わりない。

 弱々しく見えるその姿に、アキラの胸が傷んだ。

 

「単に顔が似ているというだけで、我が御子と判断した訳ではない。似た顔でありつつ理力もある。十分な理由ではないか?」

「……いいや、どちらにしても子でもなければ親でもない。認められない。そんな筈がない」

「捨てられたと思ったか。近くにあっては不都合故に、外で育てさせたというだけの話。我がヤヤゴとなれば、どのような者が近寄るか分からぬ。内にいるより遥かに安全であった」

 

 ミレイユは苛立たしげに鼻を鳴らした。

 組んだ腕を強く握り、足も小刻みに動かしている。強いストレスを感じているようだ。

 

「育てるだと? 育てられてなんかいない。私に幼少期など――そんなもの……!」

「――相分かった」

 

 言い募ろうとしたミレイユの声を遮って、オミカゲ様が声を上げた。

 

「確かに性急過ぎたかもしれぬ。だが、お前の犯した罪がどのようなものであろうとも、如何なる罰も与える事は出来ぬと証明したかっただけなのだ。――人の法で神は裁けぬ、とな」

 

 そういう事だったのか、とアキラは漸く納得した。

 ここまで多くの名家や大家を呼びつけて、わざわざ秘密裁判まで開いてやることが無罪判決では納得できないのではないか、と思っていた。

 

 だが、これがオミカゲ様の御子としてのお披露目も兼ねているというのなら、納得できるものもある。背後から聞こえてくるざわめきも、恐らく同じような感想になっているのではないか。

 

 もしかしたら、今までがそうだったように遠くから見守るだけだった可能性もある。

 だが今回、ミレイユは明確に法を犯した。単なる窃盗や暴行ではなく、理力を用いた犯行だ。公にされないよう法整備すらされていたのに、それを無視して大暴れしたとなれば、実刑は免れぬと見て動いたのだろう。

 

 だがこうして大っぴらに動いたとなれば、当然その説明も求められる。

 だからいっそ、全てをオミカゲ様の信頼する一部の者へ白日のもとへ晒すつもりになったのではないか。

 

 アキラなんぞは完全に場違いで、単に巻き込まれただけの小市民に過ぎないが、それでも一応ミレイユの関係者として、周知させる目的もあるのかもしれない。

 

 ――それは流石に考えすぎか。

 アヴェリンを始めとした三人は、完全に面通しの意味合いはあるだろうな、と思いながら、アキラはミレイユの顔を見つめた。

 

 そこには、今まさにオミカゲ様より放たれた白い紙らしきものが、ミレイユの手元に舞い落ちたところだった。

 その紙をじっと見つめ、そして唐突に握りしめられる。

 顔を上げたミレイユの表情は、大いに顰められていた。何かが書いてあったのだろうと思うが、一瞬の制御で魔術を練ると、あっという間に灰にしてしまう。

 

 オミカゲ様が声を上げる。先程よりも大きな、朗々と響くような声だった。

 

「最後に一つ。一つだけ望む。この場で神威を見せてみよ」

「神威……? 無理を言うな、私は神じゃない。神威など持ち合わせていない」

 

 ミレイユは小馬鹿にするように頭を振った。ささやかな抵抗に成功したと思っているような顔だった。

 オミカゲ様は一つ頷き、そして続ける。

 

「この場に呼ばれ、侍る事を許された者どもに、我が神威を感じ間違える者などおらぬ」

 

 アキラは元よりミレイユもまた、その言葉の真意を理解できていないようだった。ミレイユの困惑する様子をよそに、オミカゲ様は傍聴席に座る者たちを睥睨しては満足気に頷いて見せる。

 どうやら傍聴席のお歴々たちは、それに頷きでも返したらしい。

 

「神威とはこれだ、見せてみよ」

 

 言うや否や、御簾を上げた時と同様、マナがオミカゲ様よりマナが溢れた。ミレイユと同様のものだと感じたあのマナが、先程より遥かに多い量が部屋中に満ちる。

 ごく軽く少量ではあったのだろう。

 

 いつだかミレイユにされた時に比べ、気分はそれほど悪くはならない。慣れるものだしな、とも言っていた。そのせいでもあるかもしれない。

 ――だが、とアキラは思う。

 

 だがこれを神威と言うのは詐欺のようなものなのではないか、という気持ちが湧き上がる。本当の意味の神威などアキラは知らないが、単に自己から生成されたマナを放出しただけのこと。

 だが同時に神から受ける威圧というなら、間違いでもない気がする。

 難しく眉根を寄せている間に、ミレイユも同じことをして見せる気になったようだ。

 

 肩を竦めると一度深呼吸して、そして部屋中全てを覆う程のマナが溢れる。手加減をする気がないのか、あるいはストレス発散のつもりか。先程よりも強力なマナが突風のように吹き荒れ、そして出現と同様、瞬間的に収まった。

 

 その直後の変化は劇的だった。

 傍聴席に座っていた者達全員、立ち上がる音がする。咄嗟に背後を振り返って見れば、そこでは一糸乱れず最敬礼の角度で腰を曲げている者たちが目に映る。

 

 兵たちも槍を床に置いて平伏していた。

 扉の前に陣取っていた老齢の巫女もまた同様で、膝を畳んでは、見事に背筋を伸ばした礼を見せている。

 

 アキラもそれらに倣った方がいいのか逡巡する。

 しかしアヴェリン達は動こうとしないし、一体どうしたらと視線を彷徨わせていると、オミカゲ様が今迄のどれより大きく威厳に満ちた声を放った。

 

「この者、神威を発揮し、ここに神の一柱であると証明した! これよりは我が御子として、相応しい敬意を払うよう命じる!」

「神命、しかと承りましてございます」

 

 老齢の巫女が代表して声を上げた。オミカゲ様は更に続ける。

 

「また、御名を神鈴由良豊布都姫神(みれいゆらとよふつひめ)と称し、呼び慣わす事を重ねて命ずる」

「ハッ! ご尊名賜りましたこと、光栄に存じます! その御名、神鈴由良豊布都姫神様。オミカゲ様の御子として、また一柱の神として頂く栄誉賜りましたこと、御礼申し上げます!」

 

 老齢とは思えぬ声量、肺活量だった。

 アキラが呆然としている間に何かの神聖な遣り取り、口上は終わったらしく、シンと静まってからもどうしていいのか、顔を左右に向けてしまった。

 

 更にオミカゲ様の声が頭上から落ちてきて、アキラはとりあえず頭を下げた。

 

「これにて閉廷とする! 大儀であった!」

 



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神明裁判 その7

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 閉廷と退出を命じられたものの、アキラはその場を動く事が出来ないでいた。

 一番最初にオミカゲ様が入ってきた扉から退出されると、次にミレイユの退出の番となるようだった。老齢の巫女が姿勢を正して恭しく連れ出して行くのを目で追った。

 

 裁判長も退席してしまえば、後はアキラ達も自由に退席して良いようなのだが、そもそもアキラ達の罪状やその他諸々はどうなったのか不明だ。

 全てが有耶無耶になってしまった感じがして、アキラ達の行方も宙に浮いた状態な気がする。傍聴席にいた方々も、何やら興奮気味にそれぞれ話しているようで、アキラ達には関心を向けていない。

 

 そうして自分たちの退席の番となったのだが、思考をどこに着地させて良いのか分からず、今では単にボーっと前を向いていた。

 そうしている間に女官らしき人がやって来て、アキラ達――というよりアヴェリン達に向かって丁寧に一礼した。

 

「お初にお目にかかります。女官長より皆様をお部屋へお連れするよう、申し付けられています。今から向かっても宜しいでしょうか?」

「ああ、構わん。……が、そこがミレイ様より離れた部屋というなら断固拒否する」

 

 アヴェリンが不遜とも言える態度で言い切ると、女官は柔らかく笑んで頷いた。

 

「はい、お任せ下さい。全て心得ております。皆様にそれぞれ一室、御子神様の近くから順に割り当てさせて頂いております」

「分かった。しかし私はミレイ様と同室が良いのだが……」

「私は案内を仰せつかっただけですので、細かい調整については、また別の者とご相談下さい」

「ふむ……、そうか。先程まで使っていた部屋とは違うのか?」

「左様でございます。あちらは客間で、今回は専用の個室となります。では、ご案内致します」

 

 女官は一礼すると踵を返して扉から出ていく。

 扉の両脇に控えていた兵は、近くに寄った時点で踵を揃えて直立した。穂先を上に向けた槍を両手で捧げ持ち、槍を身体の左から右に向けて脇を締める。最後に槍の石突きを床板に落とし、腰を浅く前に倒した。

 

 二人は全く同じ動きを見せて、その練度の高さを伺えるものだった。

 恐らく敬礼のような意味合いがあるのだろう。アキラは背筋が伸びる思いで二人の間を通り、アヴェリンに続いて外に出た。

 

 向かう途中何度か女官や巫女の方々とすれ違い、その度に一度足を止めて廊下の端へ邪魔にならないよう移動し、通り過ぎる度に一礼を受ける。

 とはいえ廊下の幅は広く、大人五人が横に歩いてもまだ余裕があった。端に寄る必要はないように思えるが、礼儀の問題なのかもしれない。

 

 まるで自分が偉い人物になってしまったかのように錯覚するが、これは全てミレイユのお付きに対する礼儀なのだろう。アキラはお付きですらないが、アヴェリン達に対して無礼な態度は取らないという表明なのかもしれない。

 

 来た時と同様、どう歩いているのかも分からない状態で廊下を進み、時に階段を降り、複雑に廊下を曲がって目的の部屋に着いた。

 女官が踵を返して一礼し、襖の前で膝を折る。丁寧な手つきでスルスルと開けて行き、入るように促してきた。

 

「こちら御子神様のお部屋になります。戻るまでこちらの部屋でお寛ぎ下さるよう、申し付けられております。また後になりましたら、それぞれのお部屋にご案内いたしますが、今の内に確認しておきたいという事でしたら、ご案内致します」

「……どのくらい待てば良いかも分からないしな。今のうちに部屋の場所だけでも確認しておくべきか」

「そうね、何か良く分からないけど、どうせすぐには来ないでしょ。部屋の場所ぐらい確認する時間はあるわよ」

 

 ユミルも同意すると案内が再開され、ミレイユの部屋より目と鼻の先へと案内される。アヴェリンの部屋が最も近いが、構造上の問題で隣という訳にはいかなかった。

 

 増改築の弊害なのか、ホテルのように部屋が横並びになっていないのだ。アキラにすら一室用意されていて非常に恐縮してしまったのだが、しかし女性ばかりの中で誰かと同室だとしても、それはそれで問題がある。

 結局男女別にしようと思えばアキラだけ別室とするしかなく、結局一人で部屋を使う事になっていたろう。

 

 アキラにさえ丁寧に襖を開けてくれ、それにペコペコと頭を下げながら足を踏み入れる。客間同様、ここも和風様式なのかと思ったが、意外な事にそうではなかった。

 

 和洋折衷とでも言うのか、畳よりも床板の方が面積は多く、また家具の多くは洋式だった。テーブルや椅子、ベッドなどがあり、普段からそれらに慣れている身からすると、随分と生活し易そうに感じた。

 

 それ以外の、例えば小物棚であったり箪笥であったりとした部分は和風だったが、別にこれらは使用する事もないだろうし問題ない。

 別に寝る時は布団だけでもいいのだが、やはり食べたり飲んだりするなら椅子とテーブルの方がいい。

 

 十分に確認が済んだところで部屋を出ると、同じように他の面々も部屋から出て来たところだった。アキラにしてみれば、そもそも今日泊まるかどうかも分からないので、あまり気にしてもいない。

 一人暮らしの身だから誰に断る必要もないとはいえ、流石に学校を無断欠席する訳にはいかない。二連休だったから事なきを得たようなものの、流石にこれ以上は難しい。

 

 このまま無罪放免で出して貰えるならいいのだが、もしかしたらそうはならないかもしれない。大きい波は乗り越えたものの、実際はどうなるか分からない。

 丁寧な対応ぶりを見れば大丈夫のような気もするが、はっきりと言葉に出された訳でもない。

 

 不安がアキラの胸中を支配する。

 大丈夫なのかと眉根を寄せながら先程のミレイユの部屋まで戻っていると、隣に立ったユミルが顔を覗き込んできた。

 

「ちょっとアンタ、何て顔してるのよ」

「……そんな酷い顔してますかね?」

「まぁね、不安と不満が合わさった上で、光の見えない闇の中を歩いているみたいよ」

 

 アキラは力なく笑う。

 

「まさにそのとおりって感じです。あの裁判、あくまでミレイユ様の裁判であって、僕ら完全に添え物だったじゃないですか。罪状はきっとミレイユ様と同じでしょうに、僕らってどうなるんですかね?」

「さぁねぇ……。最初に求刑されたとおり、アタシ達にそれが適用されるんだか、それとも日を改めて別の裁判があるんだか、どっちかでしょうねぇ」

「あぁ、そうなるんですか……」

 

 アキラは頭を抱えて溜め息を吐いた。

 明日は普通に学校へ行こうと思っていた自分が馬鹿みたいだ。ユミルの言うとおり、何一つ解決していないのに、そのまま放免されると考える方が可笑しいのだ。

 

 ミレイユの部屋に戻ってきて、室内へと入る。

 流石にアキラの部屋とは内装に雲泥の差があって、また部屋も広い。ミレイユがベッドの方が好むと知ってか、こちらでもやはり和洋折衷のような様相を呈していた。

 

 だがやはり、調度品一つを取っても違いが見える。そもそもの配置や、その置き方も見る角度を意識して整えられており、少しでも快適な空間を提供できるように、という配慮が見える。

 

 一国の王に対するかのような扱いだが、事実としてミレイユはその王より上の神という立場をオミカゲ様から与えられた。

 果たして本当に親子だったのか、それとも違う何かなのか、アキラには分からない。

 

 ミレイユの裁判が始まる前と後を見れば、彼女にしてもまた予想外の展開だったと推測できる。余裕に満ちた表情から、途方に暮れるような表情を見て、アキラも何とか出来ないかと思ったものだ。

 

「……さて、色々聞きたい事もあるけどね、本人が帰ってこない事には何も始まらないのよね」

「寝るには少々早いですしね」

 

 言いながら、ルチアは巨大すぎるベッドに体全体を使って飛び込み、そのふくよかな感触を楽しんでいる。それを子供をあやすかのような表情で見ながら、ユミルはテーブルの席についた。

 アヴェリンは一応、室内をくまなくチェックする事にしたようだ。もはや敵中だとは思えないのだが、彼女からすればあの裁判は味方と判ずる証拠とはならないらしい。

 

 アキラも部屋の端で立ち尽くしている訳にもいかないので、とりあえずユミルの対面となる場所に腰を下ろした。

 とはいえ広い室内、自分の裁判がどうなるかも分からない。未来を思って不安になる。どうにもソワソワするのが止められず、流石にユミルから咎めが入った。

 

「ちょっと、その落ち着きのない姿やめなさいな。そんな調子でどうするのよ」

「そうは言ってもですね……。僕の未来の瀬戸際なんですよ……!」

「あぁ、そうかもねぇ。逃げ出したところで、逃げ切る力も跳ね除ける力もないものねぇ」

 

 ユミルは椅子の背に凭れて小馬鹿にするように笑った。

 

「でもまぁ、そう不安がる事ないんじゃない? その気になれば揉み消すでしょ?」

「いや、でしょって言われても……。そんな筈ないじゃないですか、ここは法治国家ですよ」

「えぇ、でもそれって人にとっては、でしょ? 法律なんて神にとって関係ないって、今日証明されたじゃないの」

「いや、それはミレイユ様にとっては関係ないかもしれませんけど、僕はれっきとした人間な訳で……!」

 

 アキラが苛立ち混じりにそう説明すると、ユミルは呆れたように息を吐いた。

 

「だからアンタ、なんでそう馬鹿正直なのよ。あの子に一言お願いすれば済む話じゃないの」

「お願いって、何をですか?」

「だーかーらー、今回の罪を帳消しにしてくれって頼めばいい、って言ってるの」

「いや、そんなの! そんなの駄目ですよ! 不正ですよ! 大体そんな権利、ミレイユ様にだって……!」

 

 アキラが両手を広げて熱弁するが、ユミルはつまらなそうに視線を外に向けた。

 

「でもアンタ、今回何やった?」

「はい? 何って?」

「ホント……。今日のアンタ疲れるわ、察し悪すぎでしょ。まぁ昨日から災難続きで、頭も相当疲れてるんでしょうけど」

 

 ユミルは息を吐いて視線を戻す。

 

「だからアンタ、昨日のヤクザ襲撃からこちら、別に何もしてないでしょ? 誰か殴り倒した? 魔術使った? ――ああ、こっちじゃ理力? それとも理術って言うんだっけ? まぁともかく、道路を爆走しただけでしょ?」

「いや、それはそうですけど。それだって、何か理力を外で使っちゃいけない法律みたいなのあるみたいじゃないですか」

「ああ、そうね。アタシの妨害魔術かかってたから、その辺相当グレーだと思うけど。一般人に見られちゃ拙いっていうなら、アンタの姿を見た一般人はそうそういないでしょ」

「それは……でも、見られたどうかなんて証明できないですし」

 

 アキラがしどろもどろ、指先をもじもじと合わせるのを見て、ユミルは遂に我慢できなくなったらしい。

 

「うっさいわね。だからやったのなんて精々そんなモンでしょ!? そんぐらいで人生棒に振るくらいなら、素直に助け求めなさいよ。何の為の秘密裁判よ、逆に利用してやろうって思わないワケ?」

「思わないし、思えないです……!」

 

 ユミルの強弁はあまりに恐ろしく思えた。特に学校教育では不正を行う事を推奨するような教えなどない。全くの逆だ。道徳を育み、集団行動を学び、そして知識を与え、蓄え、将来の糧とする為通いに行く。

 

 ユミルのように考えるような発想は、そもそもからしてアキラにはない。

 呆れ果てたように息を吐き、ユミルはその手を顔の横で投げ遣りに手を振った。

 

「……面倒な奴ね。ま、いいわ。既にあの子が何か手を打ってるかもしれないし、そうだったらもうアンタの罪なんて丸っと消えてるでしょ」

「そう……なんですかね?」

「なにを期待してるのよ。自分からやらなくても、誰かが勝手にやってるなら享受するっての? 浅ましい奴ね」

 

 まさしくそのとおりだったので、アキラは図星をつかれて言葉に詰まった。ぐぅの音も出ないとはこの事で、表情に暗い影を落として俯く。

 

 アキラは視線を上げる事が出来ない。ユミルはアキラ自身自覚していなかった心情を的確に言い当て、心の奥にあった願望を詳らかにした。

 それがとにかく不甲斐なく情けなく思えて、アキラはそれから口を開く事はしなかった。ユミルもまた何か話しかけてくる事はしなかった。

 



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神明裁判 その8

 それからどれだけ時間が経ったのか分からない。視界の外でアヴェリン達の話し声などは聞こえていたが、それが意味を伴って拾ってはいなかった。

 時折窓の外へ視線を移していたぐらいで、さしたる動きも見せていない。

 

 そうしていると、背後から襖の開く音がして誰かが入ってくる気配がする。

 真っ先に反応したアヴェリンが、早足で近寄っていくのを横目で見てから、アキラも椅子から立ち上がって姿を確認しようとした。

 

「ミレイ様……!」

 

 いつもどおりの姿を想像しながら振り向いたアキラは、そこにいたミレイユを見て度肝を抜かれた。常とは違う荘厳な御装束を身に着けている。

 壇上にてオミカゲ様が纏っていた、巫女服にも似た神御衣(かんみそ)で、重いのか動きにくいのか、とにかく窮屈そうに首元に指を差し込んでは襟元を広げようとしていた。

 

 よくよく観察していた訳ではないが、オミカゲ様のものとは作りに差があるように見える。もしかしたら、簡略式のような者なのかもしれない。

 だがその姿は神々しくも美しく、アキラはその姿から目を離せない。

 

 ミレイユはアヴェリンに近づき、その肩を叩く。

 疲れた顔でありつつ優しげな瞳で、次にまるで幼子を安心させるような手つきで撫でた。アヴェリンは感動の面持ちで肩へ置かれた手に、自分の手を重ねる。

 分かっている、という風にミレイユが頷き、それで肩から手が離れた。

 

 そうしてアヴェリンの横を通り過ぎると、次にルチアとユミルに顔を向けた。

 それぞれからはアヴェリン程の熱い歓迎をされなかったが、しかし安心したと顔には書かれている。そして最後にアキラへ顔を向け、そして怪訝に顔を傾けた。

 

「どうしたお前、やけに暗い顔だぞ」

「いや、これは……」

「どうも自己嫌悪中って奴らしいわ」

「は……?」

 

 アキラが何か言うより先に、ユミルはその心情を暴露してしまった。

 眉根を寄せて見つめる視線に目を合わせる事ができず、アキラは俯いて口を固く結ぶ。

 

「なんか自分の罪状がどうなるか気になっていたみたいで、その事あれこれ考えた結果、あんな感じなのよ」

「さっぱり分からん……が、お前たちの罪は無かったことにされる。それは確約する」

「あら、やっぱりそうなのね」

「そもそも表に出せない判例故の、秘密裁判だしな……」

 

 言いながら、ミレイユは広い長方形型のテーブルの上座に座ろうとする。

 だがその前に、いつの間にいたのか、アヴェリンより先に女官がサッと動いて、その椅子を引いた。ミレイユは一瞬動きを止めたが、何を言うでもなく腰を降ろす。

 

 女官は若く、溌剌とした雰囲気を発していた。

 ミレイユが座った後も椅子の後ろ――右斜め視界に入らないギリギリ――に位置取り、無言のままに控えている。部屋から立ち去る気はないようだった。

 

「それに有罪にしたところで私の家人だ。わざわざ神にまで承認しておいて、その不興を買うような真似はしない。例え有罪判決を言い渡しても、私が握り潰すだけ。意味がない」

「いやいや、普通に話を続けないでよ。そっちの説明は何もないワケ?」

 

 ユミルが先程の席に座り直しながら、女官に人差し指を向けて言う。

 そうだった、とミレイユは苦笑して、背後に向けて手を軽く上げた。手招くよりも更に小さな動きで、女官に向けて簡潔に命じる。

 

「自己紹介しろ」

「畏まりました」

 

 女官は一歩前に出て一礼する。

 

「お初にお目にかかります。御子神様の世話役という大任を仰せつかりました、京ノ院咲桜(さくら)と申します。以後、お見知りおき頂きますよう、お願いいたします」

「世話役だと?」

 

 アヴェリンが剣呑な眼差しで咲桜を見つめた。その目には、そんな奴は必要ない自分一人で十分だと如実に語っていたが、しかし当のミレイユが疲れた顔を横に振った。

 

「我慢しろ。ここにいる限りは、その世話を受けねばならんだろう。この服も一人では着られないし、それにまだ私の世話役は三人いる。面通しを許したのは、この咲桜だけだ」

「まだいるの……?」

「名前から察せられるかもしれないが、咲桜は身分が高く、また信任篤い家柄の生まれだそうだ。基本的に他の三人は、この咲桜の指示で動き私と直接会話はしない。部屋の掃除や着替えなど、そうしたメイドのような扱い……らしい」

 

 ルチアが納得するような息を吐き、ユミルが面白そうに笑う。

 

「暮らすだけでも息苦しそうね。監視役も兼ねてるってワケ?」

「どうだかな。私としては当然そうだろうと思っているが、素直に頷く筈もない」

「それもそうね」

「――滅相もございません」

 

 ユミルの言葉を遮り、深々と一礼したのは咲桜だった。

 

「限りなく快適にお過ごし下さるよう、配慮した結果でございます。オミカゲ様は只々、御子神様に過不足ない環境を整えたいだけなのです」

「……今はそういう事にしておこう」

 

 ミレイユが言うと、咲桜は再び一礼して下がる。いつだったか、良いメイドは気配すら主人に察知させず仕事をすると聞いた事があるが、もしかしたら彼女もそういう類の存在なのかもしれない。

 そこにユミルが不機嫌そうな顔をしたミレイユへ、取り直すように話しかけた。

 

「あー……、それで? アタシたちは無罪になったって? もうなってるの? それともこれから?」

「そこは既に進めさせている。近い内に正式な書面で届くだろう」

「アタシは別にどうでもいいけど。――ほら、良かったわねぇ、アキラ?」

 

 ユミルが顔を向けてきて、アキラはギクシャクとした動きで頭を下げた。

 

「う……あ、はい。ありがとうございます、ミレイユ様!」

「元よりお前だけは、無罪にするよう掛け合うつもりでいた。私の我儘に付き合って将来を棒に振る必要はない」

「あら、随分気にかけていたのねぇ」

「そもそも未成年だという事を忘れていたしな。最初からアキラだけは他とは違う扱いだったろうが、そうでなくとも前科が付かないよう配慮するつもりだった」

 

 ミレイユの心底を知って、アキラは胸の奥が熱くなるのを感じた。目頭も熱く、油断してれば鼻水が出てきそうだった。

 そんなアキラの顔を見て、ミレイユは困ったように見つめたが、結局何も言わず視線を入り口に向けた。

 

 入室の許可を求める声が聞こえてきて、それで咲桜が素早いのに見苦しさを感じさせない動きで襖へ向かう。開いた先では盆にお茶を乗せた女官が見えた。

 咲桜が戻ってきて、それぞれに配膳を始めようとしたところでミレイユから声がかかる。

 

「いつまでそうしているつもりだ。とにかく、まずは座れ。話さねばならない事もある」

「あ、……はい!」

 

 言われるままに先程まで座っていた席に戻り、アヴェリンもいつも通りミレイユの最も近い席に座った。ルチアも無言のままそれに続き、全員の着席と、それぞれにお茶が配られたところを確認して、ミレイユは口を開いた。

 

「これから夕食があるが、どうにも面倒な事になった」

「あらら……。アンタが面倒と言うなら、相当なんでしょうね」

「例の御由緒家を交えての夕食会だ」

 

 うげぇ、という声がユミルから漏れた。アヴェリンも端正な顔を歪ませ、既にルチアは視線を窓の外に向けて現実逃避を始めている。誰もが貴族とのパーティに良い思い出がないので、自然とそういう反応になった。

 

「あの……僕は関係ないですよね? そんな偉い人たちとは今後も交わる事ないでしょうし」

「そんなコト言ったら、アタシにだってないわよ」

「いや、ユミルさん達はミレイユ様の身内じゃないですか! 紹介なしとはいかないんじゃ?」

 

 痛いところを突かれたとでも言うように、ユミルは顔を歪ませて言葉に詰まる。縋るような視線をミレイユに向けるが、そのミレイユが顔を横へ緩やかに動かした。観念しろと言っているようだ。

 

「まぁ、諦めろ。私だって嫌なんだぞ」

「そりゃそうでしょうけど、アンタは仕方ないでしょうよ。大体なんだって、あそこで神威を見せろとか言われて従っちゃうワケ? そんなコトしたら、承認されるかもとか考えられるじゃない」

「そうもいかない事情があった」

 

 ミレイユは後悔を滲ませた溜め息を吐いた。

 アキラはもしかして、という思い当たるフシがある。

 途中、不自然に、まるでメモでも渡すかのように、白い紙がオミカゲ様から流れてきた。それと何か関係あるのでは、という気がした。

 



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顔見せと夕食会 その1

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「途中で飛んできた、あの紙に何か重要な事でも書いてあったんですか?」

 

 アキラが尋ねると、ミレイユは素直に頷いた。

 

「……重要ではないが、そうだ。話が進まん、今は従えとな。すべて説明する用意があるからとな。私に対し、個人的に」

「信じたのですか?」

 

 アヴェリンが訝しげに問いかけたのも当然かもしれない。

 別に詐欺に加担したという訳ではないが、その場で明らかにされるべき全てを、あれで有耶無耶にされたという思いがあった。

 

 オミカゲ様からすれば、あの場を利用してミレイユを神と認定する証拠が出れば――神威の発意があれば、それで良かったのかもしれないが、大事な部分は何一つ分からなかった。

 

「信じるというより、あの場ではそうするしかなかったという話だ。あの場では最初から着地点は決まっていただろうし、対して私の望む答えを教えるには、その場所が悪いという事情でもあったんだろうさ」

 

 ミレイユが最初茶番だと言っていたとおり、これは最初から、裁判の形をした新たな神を知らしめる場に過ぎなかった。無罪をそれと分かる形で報せる必要もあった、という理由もあって、一挙両得に収めるつもりだったのかもしれない。

 しかし、やり口が少々乱暴のようにも思える。

 

 今まで人心を案じ、長い歴史と日本の礎を築き続けて来たオミカゲ様にしては性急過ぎたようにも思えた。アキラのような小市民には分からない何かがあって当然とも思うが、同時に不自然さも感じてしまう。

 

 アヴェリンは続けて問う。

 

「では、ミレイ様の望む答えはこれから得られそうなのですか?」

「どのような答えであれ、得られる機会はあるだろう。あの流れは私にとっても予想外な展開だったが、過程に違いがあっただけの事。話す機会はある、知るのはその時でもいい」

「オミカゲサマが、あんたの母神だって話? それまでは御子神様とやらを演じるワケ?」

 

 呆れたように見つめるユミルに、ミレイユは難しそうに眉根を寄せた。

 

「演じると言うと語弊があるが。しかし、それに付き合ってやる必要はあるだろう。答えが得られた時、どうなるかまでは分からないが」

「あの、そんなこと言っちゃっていいんですか。……聞かれてますけど」

 

 アキラがおずおずと、ミレイユの後ろに控える女官を指差した。咲桜は目を伏せ何も反応を示さない。ミレイユはアキラの問いへ、つまらなそうに手を振って答えた。

 

「私がどのような腹積もりなのか、その程度の事はオミカゲも承知している。以前と違い、敵とも味方とも言えない立ち位置から、明確に味方に与するよう動いて来た。それ以降どうするつもりかは、まぁ御手並み拝見といったところだろう」

「……そうですか。ところで、ここで暮らすつもりなんですか? 別に住む場所はどこでも困らないのでは?」

 

 ルチアが口を挟んで、そのような事を言ってきた。

 思わずアキラの心臓が跳ねる。いつまでも一緒にはいられない、いつまでも鍛錬に付き合っていられない、そういう発言は何度もされてきた。

 

 アキラもそれに納得していたが、今日からとなれば幾らなんでも急過ぎる。

 別にアキラの部屋に住んでいる訳でもないし、それこそ小箱を移動させれば引っ越しも終わるという手軽さがあるから、ルチアが言う事も分からないではない。

 

 しかし、アキラは単純に離れたくなかった。もっと一緒にいたいという気持ちが胸の中を支配する。

 アキラはミレイユがどのように答えるのか、祈るような気持ちで待った。

 そしてミレイユは冗談めかしたような口調で、ルチアに答える。

 

「そうだな、確かに困らない。食費に頭を悩ます必要もなくなるしな」

「ああ、やっぱり困ってたの? 最近やけにケチくさいと思ってたのよね」

「うるさいんだよ、まだ余裕はある。しかし収入が……ああ、そこも解決したか。また質に細工品を持っていけば良いんだ。変に警戒する必要もなくなったしな」

「つまり……?」

 

 ルチアが詳細を促し、アキラの祈る気持ちが弥増しに増して強くなる。思わず身体を強張らせ、前のめりになりつつ続く言葉を待った。

 

「様子見だ。しばらくはここにいながら、という事になるだろう」

「そうですか、了解です」

 

 ルチアがあっさりと頷き、アキラはガックリと項垂れた。

 その対比に気付いたミレイユが、困惑の色を滲ませて何事かと聞いてくる。

 

「……どうした、さっきから?」

「いえ、もう会えなくなるのかと思うと、寂しくて……」

「なんで……?」

 

 不思議そうに首を傾げて言ってきたのはユミルだった。それに多少の苛立ちをぶつけながら答える。

 

「何でって、普通そうでしょう……! 僕はここに通えるような身分じゃないし、皆さんはここに住むんですから……!」

「そうね?」

「そうしたら、もう会う機会なんて滅多にないじゃないですか。鍛錬の方はどうなるのかという気持ちはありますけど、今までは温情で稽古を付けて貰ってた自覚もありますし……!」

「いや、だから、なんで会う機会がこれからも減るなんて思ってるのよ? アタシたち、別にアンタの部屋の中で暮らしてたワケじゃないでしょ」

 

 やはり不思議そうに首を傾けたまま、ユミルが言う。

 暮らしていなかったのは確かだし、最近は箱庭への通行許可も貰えたので、会うとなればすっかり箱庭の中が定番になっていたが、それだって結局箱庭が持っていかれるのなら同じ事。

 会う機会が減るのは当然だと思うのにそれに関心を示さないのは、情緒に問題のあるユミルならではだと思った。

 

「それはそうですけど、でも絶対会う機会減るじゃないですか。箱庭にだって通えないんですから……!」

「ああ、許可の遣り取りし辛いのが問題だって言いたいの?」

「そうじゃなく、許可の取りようも……」

 

 そこまで言って、どうもユミルとアキラ自身の認識に大きな隔たりがあるように思えてきた。単にアキラの気持ちが汲めないのではなく、そもそも会えなくなるとは微塵も思っていないような。

 それを考えると、ユミルの言っていた台詞も別の意味に思えてくる。

 

 アキラはミレイユに顔を向けると、切実な思いと期待を胸に言葉をぶつけた。

 

「もしかして、別に会えなくなる訳じゃないんですか……!?」

「ユミルがそう言ってたろう」

 

 にべもなくそう言われて、思わずアキラの肩が落ちた。

 

「いや、あんな言い方じゃ分かりませんよ……」

「お前が勝手に早合点しただけだ。別に私達は小箱を経由しないと箱庭に入れない訳じゃないしな」

「そうなんですか……?」

「私達、というより私が、というべきだが。しかし行きたいと思えば、登録した相手ならここからだって送ってやれる」

「えぇ……? だって、それじゃ何で今までやらなかったんですか? 外から帰ってくる時、いつも徒歩だったじゃないですか」

「色々と発動までに条件があるから、所謂テレポートのように好き勝手に使える訳でもないんだよ」

 

 ミレイユからの返答があっても、アキラの疑問にはそれとは別にアヴェリンが横から口を出す。その言葉は威圧が籠もった視線と共に発せられた。

 

「貴様……緊急時でもないのに、ミレイ様を馬代わりに便利使いしろとでも言うのか?」

「あ、あぁ……! いえ! すみません、ミレイユ様! そんなつもりで言ったんじゃ……!」

 

 自分の不明さに気付いてアキラが必死になって頭を下げると、分かっている、とミレイユは笑って手を振った。

 

「お前は時に、本来聞きにくい事でも深く考えず聞いてしまうところがあるからな。……まぁ、気をつけろ」

「はい! 申し訳ありません!」

 

 アキラはもう一度頭を下げた。

 二人の遣り取りを見て、アヴェリンも怒りの矛を納めてアキラから視線を切る。アヴェリン程にもなると視線にも圧力を持たせてくるので、視線を外せばすぐに分かる。

 

「だが、覚悟しておけ」アヴェリンは視線を向けずに言う。「明日の早朝鍛錬は楽しい事になるだろう」

「そん……、そんな……! そんなつもりで言ったんじゃないんですって! ミレイユ様もお許し下さったのに!」

「そうだな、だからそれは良い。だから、それとこれとは別の話だ。今回の件で少々尻に火がついたのではないか? お前は弱いが、弱いから仕方ないと、いつまで言ってるつもりだ」

 

 アヴェリンの言葉は胸に刺さるものがあった。

 マフィアへの追走、結界内の強敵、神宮勢力の精兵たち。

 いずれもアキラ一人の実力では、どうしようもない相手だった。

 

 実力の差は歴然としている。それは事実だが、彼らに近づく事は出来ないと諦めるつもりはなかった。

 逃げ出したくもない。そして彼女たちと離れたくないと思えば、力を磨くしかないのだ。

 

 アヴェリンの台詞も、それを慮ったものだと分かる。

 彼女たちは一度はアキラに見切りを付けた。才能の有無以前に魔力がないからと。そして魔力があったとしても、あくまで並よりマシ程度でしかなく、才気溢れるという訳ではない。

 

 それでも見捨てず、チャンスをくれた。

 着いていきたいという気持ちは本物だが、気持ちだけで着いて行けるものでもなかった。着いていきたいと思うなら、必死になって必死以上の結果を出すしかないのだ。

 

 アキラは身体の向きを変え、アヴェリンに頭を下げた。

 

「はい、師匠。申し訳ありません、弛んでました。ご指導よろしくお願いします!」

「私自身、尻に火が着いた思いがしている。私は私の為に鍛錬する。お前はそれに着いてこい」

「はい、師匠!」

 

 アヴェリンの台詞は意外に感じた。結界内の魔物にしても、神宮勢力にしても、アヴェリンの敵になっていなかったからだ。単純に魔力を込めて通り過ぎるというだけで、相手を無力化した程の実力だ。

 武器を持って本気で戦うというなら、その比ではない力量を示すだろう。

 

 だが、それでもアヴェリンにも危機に感じる事があるとしたら、オミカゲ様が関係しているのかもしれない。あの神威を身に受けて、もしかしてと思った可能性がある。

 

 アキラには緩やか、あるいは穏やかにすら感じた神威だが、高い力量を持つ彼女たちならまた別の何かを感じ取ったとしたら……。

 それは別に不思議な事ではない。

 

 アヴェリン自身、まだ己を高めようという意志が続いているのだ。

 そしてきっと、それはミレイユの為なのだろう。いつでも彼女の盾となるべく、その盾を強靭以上の状態で保ちたいのだ。

 

 ミレイユはアヴェリンの目を見つめて目礼した。それだけで、彼女たちには言葉も必要なく通じているのだ。

 アヴェリンはそれに対し大きく頭を下げる。ユミルにもルチアにも同じように目礼すると、彼女らはそれぞれに軽い調子に見える反応を返した。

 しかし二人には共通して、不敵な笑みが浮かんでいる。

 

 アキラは彼女たちの関係を羨ましく思った。

 自分もその中に入れたら、いつか自分にも信頼される視線を向けられたら……。分不相応と分かっていても、ついそのように思ってしまうのだった。



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顔見せと夕食会 その2

 一件落着したような気持ちでお茶に口を着けたが、実は何の解決もしていない事に気が付いた。正確に言うと、アキラとしては問題ないのだ。そもそも夕食会など、ミレイユの身内と言う程ではないアキラからすれば、呼ばれる理由がない。

 

 精々が付き人か荷物持ちくらいの立ち位置で、そんな丁稚モドキを招く筈もないと安易に考えていた。

 ユミルたちも着替えの必要があると聞いて、辟易していた顔を更に歪め、ミレイユに向けて非難していた。

 

 ルチアはその事については予想できていたらしく、小さく溜め息をついただけで了承していた。アヴェリンは自身に似合う格好などないと、ユミルとは別の理由で嘆いていた。

 

 少々冷めてしまったが、良い茶葉を使っていると分かるお茶を一口飲み、尚も参加撤回できないか、ごねているユミルを見る。

 それらに一切関係ないアキラとしては、嫌がるユミルを高みの見物で口元を綻ばせていたのだが、そこにミレイユから特大の爆弾が落とされた。

 

「何を呑気に茶を飲んでるんだ。関係ないって顔してないで、お前もそろそろ準備を始めろ」

「……はい!? 僕が!? 何故!?」

「呼ばれたからだな」

「誰が? 僕が!? お、おみ、オミカゲ様にですか……!?」

 

 アキラは気が動転して舌が回らない。高級そうな湯呑を、振るえる手で必死に抑えてテーブルに降ろす。落とすと怖いので両手で持っていたのだが、それでも尚、危険な手つきだった。

 

 ミレイユは首を横に振って、それで幾らか不安も収まったが、同時にオミカゲ様からお声が掛かる筈もないと苦笑と共に納得する。

 しかしだとすると、何故、誰に呼ばれたのかという問題が出てくる。

 

「で、でも、僕にお呼びを掛ける人なんて、ここにいないでしょう? 一体誰に呼ばれたんです」

「何とか家のナントカという奴だ」

「それじゃ全然、分かりませんよ!」

「御由緒家の誰かだ。全く……あいつらの名前は分かりづらくて好かん」

「何をサラッと、とんでもない事言ってるんですか。――あ、いや、ミレイユ様なら別に問題ないのか……」

 

 言いながら、その顔を見つめた。

 オミカゲ様の御子だと知った今でも、不思議とその実感はない。アキラにとってはいつものミレイユだったが、そのような接し方も本来なら許されない事なのだろう。

 

 ミレイユ本人が何も言わないから甘えさせて貰っている形で、女官の方々など眉を顰めているのではないか。

 そう思ってチラリとその顔を窺ってみたが、背景に同化しているかのように動きがない。静かにミレイユの背後で控えているだけで、何かを申し付けられない限りは、ああしてただ待つだけのようだ。

 

 アキラとしては全く落ち着かない気分なのだが、ミレイユには全く気にした様子がない。いっそ無視していない者として扱っているのではないかと思った矢先、ミレイユは片手を上げて咲桜を呼びかけるように手を振った。

 咲桜はそれに即座の反応を見せ、一歩前に出て一礼する。

 

「アキラを呼びつけたのは何と言ったか……?」

「由喜門家の当主、藤十郎様でございます」

「……だ、そうだ。お前も同じ苗字だろう。知り合いじゃないのか?」

 

 ミレイユは手を振って下がるよう指示すると、再び一礼して咲桜は下がる。

 使用人に対する振る舞いというものをアキラは知らないが、あのような態度で良いのだろうか。礼の一声くらい掛けても良いのでは、と思ったが、それよりもミレイユの言葉に返す方が先だった。

 

「いや、まさか……! 単に同じ苗字なだけですよ、今まで会ったことなんて一度もないんですから! もしかしたら遠い祖先から別れたりしたのかもしれませんけど、僕は全く知りませんし」

「だが……、うん、そうだな」

 

 ミレイユは何かを言いかけ、口を噤む。

 それがどうにも気になってしまい、アキラは恐る恐る聞いた。

 

「あの、何かご存知なんですか?」

「なんで私が知ってるんだ。……ただ、お前はいま一人で暮らしてるだろう。早くに親を亡くした。もしかしたら、その親がお前に教える前に他界したのかと、そう思っただけだ」

「それは……」

 

 ないとは言えなかった。

 両親としても、そんなに早くアキラを残して逝くなんて考えていなかったろう。教えるつもりがあっても、成人してからとか大学入学を機にとか、そういう考えがあったかもしれない。

 

 今となっては知りようもないが、確かにミレイユの言う事は正解に近い気がした。

 実際、そうでなくては可笑しいという気すらしてくる。

 関係していると理解していなければ、傍流かどうかすら不確かな相手に声をかけたりしないだろう、とも思う。

 

 少しの間考えてみたものの、答えは出なかった。結局のところ、その真意など話を聞いてみなければ分からないのだ。

 とはいえ、だから会ってみろと言われて素直に頷けないのも確かだった。そのように立派な家と関わり合いになった事もなければ、生活の中でちらりとも見た事がない。

 

 難しい顔で唸っていると、ユミルが嫌らしい笑みを浮かべながらアキラへと指を差してきた。

 

「その辺どうでもいいから、とりあえず参加しなさいな」

「やっぱり、そういう話になるんですかね? 礼儀作法なんて知りませんし、ミレイユ様に恥をかかせるだけなんじゃないかと……」

「作法なんてアタシだって知らないわよ。あっちの作法はともかく、日本の作法はね。何でか知らないけど、こっちじゃすぐ頭下げるじゃない。割りと意味不明よ」

 

 呆れからか、あるいは理解を放棄した故か、諦観のようにも見える表情でユミルは笑った。

 

「それにアンタ一人だけ楽するなんて我慢できないし」

「そっちが本音ですか……」

 

 アキラは苦い顔をして呻いた。

 アヴェリンの方へ縋るように顔を向けると、無言で静かに首を振ってくる。その瞳の中には、やはり諦観のようなものが伺えた。どうやら、素直に付き合えという事らしい。

 

「どう考えても場違いなのになぁ……」

 

 肩を落として息を吐き、一縷の望みをかけてミレイユを見る。

 しかしユミルを立ち上がらせ、着替えの準備をさせる指示を出し始めた。アキラの方へは全く意識を払っていない。

 あるいは、そんなに嫌なら出席しなくていい、と言われないかと期待したのだが、そのような素振りすら見せなかった。

 

 そこでふと思う。

 ――ああ、こういうところが浅ましいって言われるんだな。

 無意識とはいえ、都合よく救いの手が差し伸べられるのを期待していた。それを自覚して、またも自己嫌悪に陥った。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 奥御殿では、パーティを開くような催しは殆ど行われない。

 ただ一柱、オミカゲ様という神を奉じ、また快適に過ごして貰うためだけに存在している。しかし全くの皆無という訳でもなく、慶事があればその為の会を開くし、御由緒家の冠婚葬祭ともなればオミカゲ様から直接の言葉を賜る事もある。

 

 そうした時に利用する為の会場があった。

 本日も格別の慶事があって、誰しも心が浮足立つ。オミカゲ様の世話をする為に登宮できるのは、一部の限られた者だけだ。それも大変な名誉だが、本日ばかりはまた違った名誉がある。

 

 普段は広い奥宮を清潔に保ち、また、たった一柱を世話する為だけに百名以上の者が携わっている。厳選な審査があり、また単に育ちが良いというだけでも選ばれない。

 

 とはいえ、代々御殿女官の家系というものは存在する。

 試験に際し、全てのものは公平で、贔屓にされる訳でも優遇される事は厳禁とされている。しかし具体的にどの程度の基準を満たせば合格を貰えるかを熟知している家は、幼い頃からその為の教育を施せるので一般枠より遥かに有利だ。

 

 そうして代々御殿女官を輩出する家は名家とされる。

 京ノ院家もその一つで、今代の女官長を勤める鶴子が多くの女官たちを前に薫陶を述べていた。

 

「よろしいですか。本日は千年という永き時の中でもなかった、新たな神をこの奥御殿にお招き出来る(よろこ)ばしい日。オミカゲ様の御子たる神を、お迎えする栄誉を賜りました。例え些細な不興であったとしても、被ること罷りなりません」

 

 鶴子は既に七十歳を超える老齢と言って良い年だが、未だに後を譲らず大任を身に帯びている。深いシワと白くなった髪は年齢に違わぬものだったが、その眼光には些かの衰えもない。

 一同を見渡し、その表情から適度な緊張と些かの緩みもないことを確認していく。

 

「申し付けられる事があれば、それが何であれ可能な限り実行するよう。出来ません、分かりませんなどという返答はないと心得なさい」

 

 そこまで言って、厳しい表情しか見せていなかった鶴子は和らげて見せた。

 

「ですが御子神様はオミカゲ様同様、大変おおらかな御心をお持ちでいらっしゃる。理不尽なお申し付けもなく、またお役目には労いの言葉すらあるでしょう。皆の者、その栄誉に預かれるよう、しっかりと励みなさい」

『はい!』

 

 一同から狂いなく揃った返答に、鶴子はようやく笑顔を見せた。

 

「これよりは御由緒家を皆様方を招いての夕食会。懇親会のような、堅苦しくない場にするよう、オミカゲ様より仰せつかっています。何事も初めての御子神様への配慮です。ご来客の数は多くありませんが、だからと油断せぬように」

 

 再び一同を見渡して、その表情に油断ないものを確認した鶴子は、一層声を強めて宣言した。

 

「これよりオミカゲ様、並びに御子神様がいらっしゃいます。皆、気を引き締めていくように!」

 

 

 

 女官たちが最終確認している間にも、忙しくしているのが料理人だった。

 普段からオミカゲ様の食事を任されているだけあって、その腕は日本で指折りの実力がある。いつでも緊張感を持ってその腕を振るっているが、今日はまた特別な緊張があった。

 

 本日より新たに降臨した神――オミカゲ様の御子神、その料理まで任されたとあっては、倍では利かない緊張感がある。

 誰しもその新たな降臨に浮足立っているし、今も立食形式で用意された会場では今や遅しと待ち構えている筈だ。

 その容姿はオミカゲ様に瓜二つで、鮮烈な衝撃と共に受けた神威には感動を隠せずにいられなかったという。

 

 今は僅かな噂しか耳に入ってこないが、判断に困る噂も同時に入ってきている。

 無茶な要求をするとか、あるいは気軽に御声をかけてくる優しい方だとか、ゴシップのような内容だった。人の噂に戸は立てられないとはいえ、あまりに節操がない。

 

 不敬だとも思うが、厨房や使用人専用の食堂などは一種の聖域だ。

 誰しも息抜きなしには生きられない。そういう噂話に興じるのも、また人間らしさというものだと理解している。

 ゴシップに興味のない人間としては、やはり眉を顰めてしまうのだった。

 

 そして、忙しくしているのは料理人だけではない。

 給仕をする者たちなどは、秘蔵の酒を地下のセラーから運び出しているし、食器類やグラス磨きにも余念もない。何一つ粗相が許されないとあって、その準備にも力が入る。

 

 そうしている内に、更に外が騒がしくなってきた。

 御子神様が会場に入ったのかもしれない。その姿をひと目見たい衝動に駆られるが、裏方は口ではなく仕事で語る。それで御心を温めることが出来れば、何一つ言う必要はないのだ。

 万雷の拍手が遠くに耳に聞こえ、使用人も料理人もまた背筋が伸びる思いで仕事に集中した。

 



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顔見せと夕食会 その3

あーるす様、誤字報告ありがとうございます!
 


「御子神、神鈴由良豊布都姫神(みれいゆらとよふつひめ)様、ご来臨!」

 

 咲桜に案内されるまま到着した会場へ、ミレイユが足を踏み入れると同時、朗々たる声が響き渡る。同時に、議場でも見た顔ぶれが一斉に頭を下げた。

 

 広い室内には幾つもの円形テーブルが用意されており、そこに白いクロスが掛けられている。その上には所狭しと料理が並べられていて、多くは二人で一つのテーブルを利用しているようだった。

 

 奥には壇上に用意されたテーブル席があり、こちらにも同様の物が二つ用意されている。こちらに誰もいないのは、そこがミレイユ達に用意された場所だからだ。それが咲桜の先導で分かった。

 

 一つのテーブルを通り過ぎる度、顔を上げていくのが衣擦れの音と、背中に受ける視線から分かる。ミレイユの後ろに付いて来ているアヴェリン達も、同様に居心地悪い思いをしているに違いない。

 

 彼女たちもまた、今回の為に衣装を改められている。

 御子神の眷属という立ち位置で、巫女服よりも神御衣に近い貫頭衣を纏った姿で参加していた。どれも意匠に僅かに違いがあって、それが彼女たちの個性を際立たせている。

 アキラも同じような姿をさせられて、それですっかり萎縮してしまっていた。

 

 壇上より最も近いテーブルもまた空席だった。

 まだ誰か来ていない者の指定席かと思いきや、どうやらアヴェリンら護衛の席らしい。しかしアヴェリンは席に着くことを断固として反対した。

 

「護衛の席というなら、そもそもお側を離れて食事をするなどあり得ん話だ。ここは安全だの、今は護衛を忘れろなどという戯言も聞きたくない。何と言われようと、私はミレイ様のお側に控える」

「……畏まりました。御子神様、どうなさいましょう?」

「アヴェリンならそう言うのは当然だ。やめろと言っても聞かないし、それ以前に言う気もない。好きなようにさせろ」

「そのように。……では、他の方はどうなさいますか?」

 

 咲桜が目を向けると、ユミルとルチアは顔を見合わせ、そして肩を竦めた。

 

「アタシはここで良いわよ。壇上だけじゃなく、その下から見張る役も必要でしょうよ」

「同じく。壇上へ近づくには、ここを通らずには行けないみたいですし、有事の際には丁度よい歯止めになるでしょう」

 

 ルチアがそう言うと、咲桜は最後に残ったアキラへ目を向けた。

 向けられた当のアキラは困惑して、顔と共に両手も横に振る。

 

「僕が壇上だなんて有り得ないでしょうし、そもそも僕は付き人以下みたいなものなので……! 席すら必要ありません……!」

「では、ユミル様、ルチア様とご同様、そちらの席でお寛ぎ下さい」

「……う、あ、はい……」

 

 寛ぐなんて出来る筈がない、とその顔には浮かんでいた。

 周囲から向けられる視線で、針のむしろのような感覚を受けているだろう。身の置き場もなく、肩を小さくすぼめて少しでも視線から隠れられるよう、涙ぐましい努力を続けていた。

 

 ミレイユはそれに困ったような笑みを浮かべ、そうなるだろうな、という感想を胸中で述べた。

 

 一人だけ場違いなのは確かだし、先方がどう願おうとアキラを自室に残して来ても良かった。それでも連れてきたのは、天涯孤独の身だと思っていたアキラに、身内の影らしきものが見えたからだ。

 

 単に権力を意識した者が手を伸ばして来たというなら、ミレイユも歯牙にもかけなかった。

 しかし御由緒家当主というなら、既にオミカゲ様の最も信任篤い地位と名誉を受けているという事になる。新しい神に対して覚えめでたくありたい、という欲があったとしても、それを足掛りにどうこうしようという野心はないと判断した。

 

 落ち目の家という評価もされておらず、また他家を押し退け前に出るという野心もないとの評価を咲桜から聞いた。後に嘘と分かれば、ミレイユから不興を買う。それを理解していて、調べれば分かる嘘を吐くとは思えなかったので、乗ってみようという判断だった。

 

 初手からこの女官がミレイユに対して良いように転がせるか試しているつもりというなら、ミレイユもまたそれを見て試している最中だという事だ。

 アキラには悪いが、これを一つの試金石にさせてもらうつもりだった。

 

 ミレイユが壇上の席に着き、アヴェリンがその背後、三歩離れた後ろに控える。

 手にはシャンパンらしきものが入ったグラスを渡され、飲まずに手の中で転がしていたところで、再び朗々とした声が室内に響き渡った。

 

御影豊布都大己貴神(みかげとよふつおおなむちのかみ)様、ご来臨!」

 

 先頬議場で見た姿と同様の神御衣(かんみそ)で、オミカゲ様が入室して来た。

 ただ一つ違うところは、その長い裾を引き摺らないよう、後ろから女官が手に持ち付いて来ているところだ。議場では居なかったと思うし、裾を引き摺るような音もしなかったので、また違う服装なのかもしれない。

 

 一歩足を踏み入れると同時、ふわりと、一陣の風が肌を撫でるように神威が室内に広がった。

 ミレイユが着た時と同じ様に、テーブル席にいる者たちが一様に頭を垂れる。四十五度の最敬礼より僅かに深く腰を曲げているのは、神に対する最敬礼をしているせいなのかもしれない。

 

 なるほど、とミレイユは一人ごちる。

 毎回、何かしらの機会があれば、あのように自分のマナを見せているならば、神威の表れだと勘違いする者が出るのも頷ける。

 

 初めて目にする機会であれば、あの程度なら顔を青くし震える程度で済むだろう。あれが神威だと教われば、神の威光に身体が勝手に反応したと勘違いも生む筈だ。

 

 ――自身の演出とその効果について、よほど考えを練っている。

 それがミレイユの感想だった。

 

 神としての権威と威光を確固たるものとする、詐欺にも似た演出。無知な者を引っ掛けて、それで自身の評価を確固たるものとする。

 ミレイユの知る神とは全く違う思考回路、そして思考誘導。

 信仰獲得と維持についても思った事だが、なるほど厄介だな、とミレイユは再確認する。オミカゲ様が来るのを、冷ややかな視線で待った。

 

 オミカゲ様の歩調は緩やかだったが、しかし遅すぎるという訳でもなかった。

 平坦な表情にはどのような感情も窺う事はできなかったが、しかし御由緒家に対して快く思うような雰囲気は伝わってくる。

 

 それが彼らにも伝わっているのか、通り過ぎた後、しっかりと五秒経ってから上げた顔には晴々とした表情が浮かんでいた。

 

 それを快く思えば良いのか判断も出来ず、ミレイユはその光景をただ見送る。彼らの関係を深く知るに連れて、また違う感情が芽生えたりするのだろうか、と他人事のように思っていた。

 

 オミカゲ様が壇上に登り、ミレイユの横にあるテーブルに着く。

 他のどれより豪華絢爛の様相を呈しているのは、神と人とに対する扱いの違い故だろう。ミレイユの為に用意されたものとも、やはり多少の違いはある。

 

 立食形式の格式張らない昼食会とはいえ、神が同席するとなればそう簡単なものにはならないらしい。オミカゲ様は壇上より見下ろし、それぞれに顔を向けた。

 御由緒家の誰もが、それに期待するような視線を向けている。

 オミカゲ様が威厳を含ませた声を、平坦な表情に乗せて言った。

 

「このような形で我が御子を紹介する場を設けた事、不満に思う者もいるかもしれぬ。国を上げて歓迎し、国民全て含めて祝うべきだと考える者もいるだろう。だが、分かって欲しい。我はこの事を公表するつもりがない」

 

 ざわり、と会場内の空気が騒ぎ、そしてオミカゲ様の目線一つで沈黙した。

 

「人の戸口は軽いもの、黙っていても判明する事かもしれぬ。奥御殿に閉じ込めるつもりもない。結界への出入りを制限するつもりもないし、その他多くの許可を与えるつもりでいる。無制限、無軌道、傍若を許すものではないが、神の責務を与えるものではないと明言しておく」

 

 今度は音を立てはしないものの、困惑の表情が強く浮かんでいた。

 それはミレイユも同様で、何を考えているのか不安に思う。暴虐の限りを尽くすつもりはないが、神の認可を得たとなれば、大抵の事は法を無視して動けるだろう。

 

 このような場で言う事ではないだろうし、また許しを与える事に不信感を覚える者も出る。離反者が出るというほど大袈裟な事ではないだろうが、心の内が見えなくて不安になるのは間違いないだろう。

 

 ミレイユが先に起こした事件もある。

 あのような勝手が今後も続くのか、と暗澹たる気持ちになる者もいそうだ。

 悪手としか思えない発言に、ミレイユも殊更眉根を顰めて顔を向けた。

 

「現世に慣れるまでの話である。それまでは、不満もあろうが優しく見守ってやれ」

 

 オミカゲ様が放ったその一言で、会場にいる者たちの頬が緩む。

 あくまで常識を学び終えるまでの措置であると、母神が御子神を気遣っているだけと判断したらしい。

 そのような中、ただミレイユとその関係者だけが懐疑の視線を向けていた。

 

「今日この様な立食形式にしたのも、礼儀や作法を極力考えなくて済むようにした為だ。皆も今日だけは礼儀も格式も程々にして、我が御子へ顔見せをしてやって欲しい。後で直接出向かせる、それまでに腹を満たしておくと良かろう。……以上である」

 

 オミカゲ様がそう言って言葉を締めると、万雷の拍手が会場を包んだ。人数は然程でもないというのに、そこはやはり一人ずつが出せる音の違いか。

 少し見渡してみると、手の空いている者であったり給仕係であったりする者も手を叩いている。

 単に威厳ある存在としてではなく、単純に慕われる存在でもあるのかもしれない。

 

 新たな発見をした思いでいると、皆がそれぞれ食事を開始したようだ。給仕の者がグラスに酒やワインを注いでいくのを皮切りに、追加の料理なども運ばれて来る。

 

 自分で動くわけではなく、給仕が全て行って主人へ皿を渡している。

 どのような物から食べていくのかも決まっているのか、淀みなく盛り付けをしていく。いざ食べようと思っても動きにくそうな礼装だというのに、袖の下を上手く捌いて箸を使っている。

 

 妙に感心した気分でいると、ユミル達がこちらを伺っていた。

 まだ誰も箸やフォークに手を付けていない。食しても良いのかと、その目が問いかけていた。近くに控えていた給仕も困ったようにしているので、ミレイユはそれに頷いて好きにするよう指示した。

 

 ユミルは早速自分でワインを注ぎ、何から食べるかあれこれ注文し始めた。

 アキラは困った顔して縮こまるばかりで、給仕に仕事をさせるつもりはないようだった。むしろ自分でやりたいと思っているようだが、それを口にするのも憚られるという様子だ。

 

 アヴェリンにも何か食べさせてやりたいと思っても、代わりの護衛がミレイユの傍に控えない限り、いつまでも食べる事ができない。それで取り敢えずルチアには早く食べてしまうよう、身振りで指示を出す。

 得心した頷きを返すのを見て、ミレイユもようやく一息ついた。

 

 ミレイユにも当然給仕として咲桜が付いて、まだ好みを知らない故にどれから取るべきか迷っている。指示を乞うような、縋った視線をよこした。

 今は何を食べても味が分からないだろうな、と思いながら、お任せで盛り付けるよう頼むのだった。

 



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顔見せと夕食会 その4

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 食も程々に進み、横目でオミカゲ様を盗み見ている時だった。

 普通に食事を取るんだな、などと野次馬のような感想を抱きながら見ていると、こちらに顔を向けてきた。立食であっても上品に見える食べ方は、年季の違いに寄るものか。

 

 見ているだけでは飽き足らず、空になった皿を側仕えに預け、こちらに向かってやってくる。

 

 来るなとも止めろとも言えず、皿に盛られた一品を箸で摘んで口に入れた。大いに顔を顰めながら顎を上下させていると、珍しくオミカゲ様が表情を崩した。

 苦笑としか言えない表情でミレイユを見てくる。

 

「そのように嫌な顔をするでない」

「すまないな、育ちが悪いものでね」

「またそういう事を言いよる」

 

 オミカゲ様が近づけば、アヴェリンも身動ぎして警戒を顕にする。そこに笑みを含むものを見せながらも、あえてそちらに注意は向けずミレイユの横顔をひたと見つめた。

 

「今だけの辛抱、少々は付き合え」

「そういう言い方をする奴が、少々であった試しはない」

「なかなか痛い所を突く」

 

 面白い冗談を聞いたかのように、オミカゲ様は眉を上げた。

 丁度、給仕をするため近くでそれを見ていた咲桜は、驚愕に目を見開く。しかし己の失態に気付いて、即座に表情を隠し給仕を終えてミレイユの背後に控えた。

 それを訝しげに思いながら、単なる好奇心で聞いてみる事にした。

 

「今の咲桜の表情……、何か思い当たる節は?」

「さて、とんと思い当たらぬが……あるいは、表情を変えたせいかもしれぬ」

「確かにお前は鉄面皮のようだと思っていた。だが違ったな」

「表情を動かすほどに、感情を動かされるような事がなかったせいやもしれぬな。長く生きると、色々な事に慣れてしまう」

「……含蓄の溢れる言葉をどうも」

 

 ミレイユが大いに皮肉を交えて告げ、適当に取った物を口に入れて咀嚼する。それでとうとうオミカゲ様は相好を崩して、ほんの小さな笑顔を見せる。

 周囲の者が歓談をやめ、驚愕しては言葉を失っていた。

 

「そういう台詞を聞いたのは何百年振りの事か。……やはり良い、心が洗われるようだ」

「ああ、そう。それは何よりだったな」

「何がそんなに気に入らんのだ」

「言わなければ分からないか?」

「いいや。そなたの不満、よく分かる」

 

 オミカゲ様は笑みの中に悲しげな色を浮かべて言った。平坦な表情から悲嘆すら窺えるような目を見せられると、ミレイユも思わず口を噤んでしまう。

 しかし、このミレイユそっくりの顔をした――オミカゲ様と呼ばれる何者かが、その真実を語らない限り、強硬な姿勢を崩すつもりはなかった。

 

 その正体を嘘で固めているのも、それに拍車を掛けている。

 全てを(つまび)らかにしない限り、そして要求が重なり続ける限りにおいて、ミレイユは何一つ心の内を開くつもりはなかった。

 その正体について確信すら得られているからこそ、その気持ちは強かった。

 

「この場で改めて誓っても良い。全て話す、必ず全てを。だから、それまでは現状を飲み込め。決して悪いようにはせぬ――しないつもりでいる」

「そう願うよ。その嘘も隠し事もな」

「何を嘘と言うかは受け取り手次第と思うが……だが我の信じる真実を話す。それは約束しよう」

 

 ミレイユが小さく何度も頷きを見せた後、上目遣いで問いかける。

 

「それはいつだ?」

「近々、としか言えないな」

「日にちの指定ぐらいしろ」

「そうは言っても……実は衝撃の事実だが、我は暇している訳ではない。こう見えて多忙である」

 

 誰にも言うな、と唇に人差し指を立ててあるかなしかの笑みを浮かべたが、実につまらない冗談という感想しか浮かばなかった。

 

 実は多忙なんて言われなくても、食べて寝るだけの生活ではない事ぐらい予想がつく。多くは経営権を手放しているとはいえ、五百社を超える会社を作ったのはこのオミカゲ様なのだ。

 

 神社運営についても、全くのノータッチという訳でもあるまい。

 最終的に認可の印鑑を押すだけのような仕事でも、それが積み重なっているのなら、その数は膨大なものになる。

 相談事を受ける事も多いだろう。それが会社的なものなのか、社会的なものなのかはともかく、頼りにされる存在である事は違いない。

 

「……まぁ、分かった。あまり煩く言っても早まる訳でもなさそうだしな」

 

 ミレイユが肩を竦めると、オミカゲ様は給仕の手を止めるように指示を出す。

 咲桜は動かしかけた手を止め、ミレイユの後ろに下がって一礼する。

 

「そなたとの会話は楽しい故、ついつい時間を忘れてしまいそうになるが……。そろそろ皆に挨拶回りを始めねばならぬ」

「食べてばかりでいられたら楽なんだが……」

「地位に伴う責任である。受け入れよ」

「地位も責任も受け入れた覚えはないがな。……だが今だけ、今だけは我慢しよう。話を聞き終わるまではな」

「それでも良い」

 

 オミカゲ様が機嫌よく頷き、壇上に掛かる階段を示す。

 観念したように溜め息をつき、ミレイユはアヴェリンと咲桜を伴い歩き出した。

 

 

 

 最初に足を止めたのは、ユミル達のいる席だった。

 まだ何も食べさせていないアヴェリンの腹に、何かを入れさせてやろうと思っての事だった。何かと入れ替わるタイミングが見つからず、結局今まで食べる機会を失っていた。

 

 だからこれを期に食べるか、食べてる間はルチアと交代させるつもりで来たのだが、アヴェリンは固辞して頭を振った。

 

「私の食事などより、御身の護りの方が遥かに大事です」

「そうは言っても腹は減るだろう」

「ですが、まだ十全に力を振るえます。私が離れた隙を突かれる様な事があれば、私は悔やんでも悔やみきれないでしょう。どうか、このままでいさせて下さい」

 

 アヴェリンの瞳から窺える意志は固い。

 言い包めるような事でもないし、小さく頷いて好きにさせた。

 

 そこでふと目についてアキラの顔を見たのだが、その顔色は蒼白になっている。食事も殆ど手を付けておらず、緊張でそれどころではないという様子だった。

 

「気持ちは分からないでもないが、お前は何か食べておけ。別に護衛として期待してる訳でもないしな」

「ここで襲われるような事態になったら、そもそも僕が役に立てるなんて思ってません。そうじゃなくて、何ていうかもう、場違い感が凄くて……」

「そうだな……。まぁ注意を向けられている訳でもないだろうが、針の筵という気持ちも分かる」

 

 ミレイユは一つ頷き、ついてくるよう手を動かす。

 

「だったら、さっさと当初の目的を済ませてしまおうじゃないか。それが終われば退室できるし、以降は自室で待機していても良いしな」

「……そういう事なら。分かりました、お願いします……」

 

 アキラが頭を下げて一礼し、アヴェリンの後ろを位置取る。

 そういえば、ミレイユの後を付いて来るような素振りをしていたオミカゲ様はどうしたのかと首を廻らせてみると、壇上近くのテーブルで、どこぞの当主と歓談しているようだった。

 

 ミレイユと話していた時のような顔はしていない。敬意を示され、敬意を受け取り、それに機械的な返しをしているような冷たい雰囲気が見えた。

 

 どうにも良く分からない気持ちでそれを眺め、そして咲桜に声を掛ける。

 

「アキラに用があるという、由喜門家はどこにある?」

「はい、ご案内いたします。向かって右側、一番奥のテーブルになります」

 

 そうか、とだけ返事をしてアキラを伴い歩いて行く。

 途中幾人もの視線を向けられるが、それに応えるつもりもない。また、話し掛けてくるという事もなかった。不文律として、こういった場では地位の低い者から高い者へと話し掛けるのはマナー違反とされる。

 

 特に神への奏上は気軽に行えるものではなく、事前の許可無く行えない。

 単純な挨拶の口上すら許されず、必ず声を掛けられるのを待ってからでなくてはならなかった。理由は明快、話し掛けたい者が話し掛けたいまま好きにすれば、目的の場所に辿り着く事すらできないからだ。

 

 ミレイユはこの立食パーティに参加するに辺り、そのような暗黙の了解があるのだと教えられた。四方八方から話し掛けられて面倒事になるような事態は起きない、とは言われたが、しかし同時に面倒事を回避する事は出来ないとも釘を差された。

 

 ――好き勝手に、地位を与えておいて。

 そう思わないでもなかったが、同時にやり易くなったのも事実だった。お陰で不法入国として逮捕される心配もなくなったし、金に困る事もない。

 

 そう考えて、いや、と心の中で頭を振った。

 仮想敵としてのオミカゲ様は鳴りを潜めたが、相容れない部分があるのは確かだろう。それ如何によっては離れる事も考えているし、以前のように敵同然の関係に戻る事はなくとも、新たに身を立てる必要は出てくるかもしれない。

 

 ――考えすぎるのも良くない。

 それを分かっていても、考える事をやめられない。

 今が瀬戸際だと理解しているからだ。現在の状況が懐柔策だとは思っていないが、それに近いものはあると自覚しておかねばならない。

 

 そこまで考えて、ミレイユは眼前に迫った由喜門家へ意識を向けた。

 歓談しつつも一直線に歩いてくるミレイユに、彼らは気付いていただろう。幾らかの緊張感を滲ませて、当主と思われる男が顔を向けてきた。

 

 ここにいる男女は全て第一礼装を着ているので華やかと共に堅苦しい印象を受けるが、不思議とこの周辺ではその空気が緩やかに思える。それはもしかすると、人柄の為せるものなのかもしれなかった。

 

 ミレイユが男の前で立ち止まると、深々と最敬礼より僅かに深い礼を見せる。続いて近くに立っていた少女も頭を下げた。親子だと分かる顔立ちの、まだ中学生くらいの少女だった。

 

 見たことはないが、何かが気に掛かる。その事だけ意識の片隅に残しながら、ミレイユから男に声を掛けた。

 



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顔見せと夕食会 その5

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「私の方から名乗る必要はないだろう。名乗るといい」

「ハッ! 御子神様よりわざわざの御足運び、まこと恐悦至極に存じます。わたくし、由喜門家の当主の座を賜っております、藤十郎にございます。以後、お見知り置きお願いいたします」

 

 ミレイユはうん、と気のない返事をしただけだが、周りのテーブルからは羨望のような視線を受ける。まだ何処の家とも親密な関係を築いていないのに、真っ先に選ばれた家として羨む気持ちがあるのだろう。

 

 ミレイユとしては特別扱いするつもりはなく、そもそも何処かの家に偏って接するつもりもない。それ以前にどこの家とも仲良くするつもりもなかったが、周りはそう考えないのかもしれない。

 

 最初に声を掛ける家というのは、もう少し考えてから動くべきだった。

 今更考えても仕方がないので、後ろのアキラを紹介しようとしたが、その前に傍らに控えた少女を紹介された。

 

 手を横に差し出し、その手を取るような動きを見せつつ、少女を前に出す。

 

「どうか我が息女の紹介もさせて下さいませ。由喜門家が長女、紫都(しづ)にございます」

「ご紹介に預かりました、紫都でございます。どうぞ、お見知り置き下さいますよう、お願い致します」

 

 まだ中学生のように見えるが、しかし立派な教育を受けているのだろう。見事な礼を見せた後、小首を傾げて笑みを浮かべた。そこまで見せるのが礼儀作法というものなのだろうな、という感想を抱きながら、ぞんざいに頷く。

 

 そのような態度であっても、そこに不満など欠片も感じさせず、今度は小さく一礼する。

 その顔を見つめて、そしてふと全身を上から下まで見つめる。見覚えがあると思ったが、あるのは顔ではなく魔力の方だ。

 こちらでは理力と呼ばないと煩そうだが、とにかくその魔力には覚えがある。

 

「……どこかで会ったか?」

「いえ、直接はなかったと思います」

「間接的には会ったと言いたいのか?」

 

 ミレイユの不機嫌に聞こえる声が叱責と思ったのか、紫都は慌てて頭を下げた。

 

「も、申し訳ありません! あい、曖昧な表現は避けるべきでした……!」

「ちょっと待て」

「はい、申し開きもございま――」

「そうじゃない、落ち着け」

 

 ミレイユは二歩、三歩と近づき、腰を深く追った紫都の肩に手を当て、その身体をごく軽く押し上げる。

 

「私は普段から愛想の良い話し方じゃないからな。勘違いさせてしまったようだが……いや、今日は確かに不機嫌だが、それはお前たちとは関係がない」

 

 紫都は言われている言葉が耳に入っていないように、ミレイユの顔と触れられた肩とを見比べている。

 

「私は御子神という事になっているが、別に偉い訳じゃないからな。何かを為したという記憶もない。だから私に傅く必要はない。年の離れた友人程度に思って

おけ」

「お、恐れ多い事でございます……!」

 

 紫都の顔は引き攣って、声も裏返っていた。

 今にも顔を左右に振り出しそうな程だったが、最後に残った理性がそれを押し留めているようだった。

 ミレイユは触れた手の先から、より深く紫都の魔力を探知する。それで漸く、もしかしたらという予想が頭をよぎった。

 

「お前……紫都、結界の近くに居たりしたか?」

「は、はい、おりました。その際、理術を通して御子神様の姿を確認しております」

「ああ、そのせいか……」

 

 ミレイユは肩から手を離して元の位置に戻る。

 幾度か距離があるのに視線を感じた事もあった。勘違いとも思ったものだが、視線ではなく理術を通したという点で、ミレイユの探知を逃れたのだろう。

 

 元より優れた探知能力を持っている訳でもないので、それに特化した能力があるというなら、ミレイユの目を逃れた事にも納得できる。

 ミレイユは眉尻を下げて息を吐く。

 

「きっと何か、面倒をかけた事だろうな……」

「い、いえ……! 面倒という程では……っ」

「随分と好き勝手にやっていたからな。こちらにはこちらの事情があったにしろ、現場を色々と混乱させていたんじゃないのか。昨日の一件だけではなく、多くの辛抱をさせる事態になっていたのではないかと思う。許せよ」

「許すなどと……! 私などの為に、勿体ないお言葉でございます!」

 

 恐縮させるだけと知りながら、それでもミレイユは言わねばならない。本日の夕食会の本題は、実はそこにこそあるのだ。

 ミレイユは苦笑いをしつつ続ける。

 

「今日の顔見せ顔合わせなどと言うのは建前でな……。本当は挨拶周りに見せかけた謝罪周りだ」

「そのような……」

「自己満足のようでもあるがな、とりあえず迷惑をかけたという自覚もあるからな……」

 

 重ねて言ったミレイユの言葉には、流石にどう返して良いのか分からないようだった。

 頭を下げて謝罪するべきかと思っていたが、流石にそれをやると卒倒しかねないので自重しておく。これからまだ回る家があるというのに、頭を下げて回っていると知られたら、それこそ事件発生のように戦慄するだろう。

 

 自分の用事は済んだので、紫都には下がるよう申し付ける。明らかにホッとした顔をさせているのは減点だろうが、その気持ちは痛いほど分かった。

 テーブルの離れた位置まで移動したのを見届けると、後ろに控えているアキラを後ろ手で手招きする。

 

 ことの成り行きを静かに見守っていたアキラが、ミレイユの左斜め後ろにつくのを気配で感じると、当主の藤十郎へと顔を向ける。小さく手を向けてアキラを示すと、そちらも得心がいったような顔付きになった。

 

「連れてきて欲しいと言われていた、アキラだ」

「そんな……! こちらから伺いに参りましたものを! 大変、恐れ多いことをさせてしまいました。重ねて、お詫び申し上げます!」

「コトのついでだ、気にするな。さっきも言ったが、私は別に大人物という訳でもないからな」

 

 そうは言われても、はいそうですね、と頷ける筈もない。

 余計困らせていると分かって、とりあえず意識をアキラに向けさせた。

 

「同じ由喜門の名前だ。何かあるんじゃないかと思ったが、本人には思い当たる事がないらしい。もしその事で呼んだなら、話せる限りで教えてくれないか」

「勿論でございます、隠し立てする事ではございません。ただ、少々込み入った話にもなりますので、掻い摘んだ内容とさせて頂きたく……」

「勿論、構わない」

 

 ミレイユが頷いて見せると、藤十郎は安堵した表情をしてアキラへ顔を向けた。

 

「そのアキラという名の少年、実は我が兄の子――つまり私の甥に当たります」

「本家長子の息子なのか」

 

 ミレイユが視線を向ければ、本人も驚いた顔をしている。

 先程も、そして初めて会った時も、御由緒家とは関係がないと言っていた。たまたま名字が同じだけで、もしかしたら遠い祖先が傍流として分かれたのかもしれない、と。

 

 だが実際は、違った訳だ。

 ミレイユの予想通り、早逝したから伝えられなかったか、あるいは墓場までその事実を持っていくつもりだったのかは知らない。

 しかしアキラはこれで本家の血筋と知れた。他者より幾らか魔力総量が多かった理由も、これにあったのかと納得する。

 

「だが何故、今なんだ?」

「ハ……」

 

 ミレイユが気になったのはそこだった。

 藤十郎は言葉に窮する。

 ミレイユの訊いた内容を正確に把握するからこそ、そのように困った表情になるのだろう。甥というほど近しい関係なら、アキラの両親が死んだ時に役所も連絡くらいはしただろう。

 

 死亡届が出された時にでも、アキラは親に兄弟がいた事も知れた筈だ。今日まで沈黙を保っておいて、甥の立場が急変したから連絡を取ろうとしている、と思われても仕方ない。

 ――つまり、御子神に接近する為の道具として。

 

「今まで放置しておいて、今更接触しようとした理由は? 今更、甥の存在を知ったとは思えない。孤独な甥に助け舟を出すにしろ、もっと早いタイミングがあったんじゃないのか?」

「はい、支援というのなら、既に行っておりました」

「……なに?」

「誤解なさらないで下さい。何もわたくしは有利な立ち位置にいると気付いた甥に接近したい訳でも、それを利用して御子神様へお近づきになりたいと考えている訳ではないのです」

 

 ミレイユはその表情を伺って、嘘を言っている目ではないと判断した。

 てっきり他の御由緒家を出し抜く為に、利用するぐらいの事はするだろうと思っていたが、もしかすると早合点だったのかもしれない。

 

 ミレイユの知る限り、同列の貴族家があれば出し抜こう、蹴り落とそうと暗躍するものだし、より高い地位にあってもそれは変わらない。

 完全に資産や規模が同じ貴族家など存在しないので、それ故に出し抜き、あるいは出し抜かれまいと動くのだ。ここでもそれは変わらないと思っていたのだが――。

 

 ミレイユがアキラに視線を移すと、話を聞こうと前向きな姿勢を見せている。

 そもそもミレイユが出しゃばる問題でもないのだ。実際に一歩引いて、二人が話すに任せる事にした。

 

 アキラがそれに代わって一歩前に出て、藤十郎と目を合わせる。

 

「あの……初めまして。由喜門、暁と言います」

「うむ……。由喜門家当主、藤十郎だ。……君は兄とは似ていないな」

 

 藤十郎は少し寂しげに笑った後、小さく頭を下げた。

 

「今まで一人にさせてしまった事、申し訳ない。お詫び申し上げる」

「いえ、そんな……! そもそも最初から親族なんていないと思ってましたから、それで恨みとか思ってませんし!」

「ああ、取り決めもあったからね。そうも出来ない事情があった。だからせめてと、金銭的援助だけはさせて貰っていた」

「そんなもの貰った覚えは……。だって生活は国からの助成金……いや、もしかして」

 

 アキラは否定しようと首を振り、そして唐突に動きを止めた。手で口を覆うように当て、視線を下に向けて考え込む。

 しばしの沈黙に業を煮やし、ミレイユは我慢できずに声を掛けた。

 



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顔見せと夕食会 その6

Lunenyx様、モンハンの民様、えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「何か思い当たる事があるのか?」

「ミレイユ様……はい、もしかしたらと思い当たるものが。国から助成金が出てるので、それで生活費や学費を工面しているんですけど、やけに多目だと思ったんです」

「そうなのか?」

「子供が施設に入るのは、何も自分ひとりで生活できないからという理由だけじゃなくて、そもそもそういった資金を用意する事が出来ないからです。一人一人を支援するより一箇所に集めた方が管理もしやすく費用も抑えられるから、という切実な理由もあるので……」

「それを考えると、一人に配る費用としては多すぎる?」

 

 アキラは神妙な顔をして頷く。

 金さえ出せば子供が一人で生きていけるか、と言われれば難しい。誰もが浪費する訳でもないだろうが、節度ある使用が出来る者は少ないし、使った分だけ補填される訳でもない。

 

 政府にしても金だけ払えば義務を果たしているという事にはならない。親代わりに子を導く存在は不可欠だ。結果として浮浪児を増やすだけになるだろうし、それでは援助とは言えない。

 

 だが、それなら何故アキラは一人で暮らす事が許可されたのか、という疑問が浮かんでくる。

 

「僕が施設に入らずに済んだのは、一重に一人で生きる為の資金があるせいだと思ってました。最初は施設に入る選択を迫られたんです。お金があっても一人で生活するのは困難だから、と」

「もっともな話だ」

 

 日本の治安が良い事は確かだが、だからといって未成年の子供が一人暮らしする事を保証するものではない。

 学費と一口に言っても大きな金額が動くし、修学旅行の費用積立など、子供が管理するには難しい問題は幾らでもある。幸いアキラは上手くやっていたようだが、それとて恵まれた環境にあればこそだ。全ての人間に当て嵌められるものではない。

 

「やけに積極的に勧められるから、逆に不安がってしまって……。殆ど逃げ出すような形で一人暮らしを始めたんですけど、でも実は違ったんですか? ずっと助けられていたんでしょうか?」

 

 藤十郎は静かに頷く。

 

「あのアパートは良い物件ではないかもしれないが、しかし保証人もなく子供一人を住まわせてくれる程に、恵まれた物件という訳でもない。両親と共に住んでいたとはいえ、その両親が亡くなったとなれば、普通は追い出されてしまう」

 

 藤十郎は一度言葉を切り、そして小さく息を吐いてから続けた。

 

「由喜門家が後ろで手を回した。助成金の増額についても同様、こちらで支援したものだ」

 

 アキラが言葉もなく溜め息を吐いた。信じられない気持ちと、信じたい気持ちが合わさり、どう対応して良いのか分からないでいるようだ。

 

「人をつける程ではないが、金の流れを追い、生活に困窮していないかは確認していた。残額が大きく減るような事があればチェックし、その度に補填するような形でね。……幸い、そういうような事態はなかったが」

「でも……、何故そんな回りくどい方法を? 別に家へ招いてくれとは言いませんし、今更となれば尚の事言えませんけど……でも、どうしてそこまでしてくれるんですか?」

 

 藤十郎は寂し気に笑い、そして再びアキラへ視線を合わせる。

 

「それは君が私の甥であり、兄の忘れ形見であるからだ」

「でも……一度も会った事ありませんよね? 僕は一度も親から自分があの御由緒家だとは教わりませんでした。関わりがないとさえ言われました。なのに何故……?」

「それは……、兄は由喜門家から離縁したからだ」

 

 藤十郎は苦渋に満ちた顔付きで、絞り出すように言った。

 りえん、とアキラは口の中で言葉を転がす。

 

「兄は自分を絶縁した上で勘当という扱いにしてくれ、と言っていたが、私はあくまで穏当に行きたかった。兄とは書類上絶縁という形にしたが、困った時に頼れるよう、家中では離縁という扱いにすると言ってあった」

「そうか、だから……」

 

 役所でも親類の話が出なかったのは、そういう理由か。

 アキラが納得と同時に悲しげに目を伏せるのを、ミレイユは後ろから見ていた。

 

 藤十郎の言う話は筋が通っていて、また嘘を言っている様子もない。ここまでの話を聞く限り、今更アキラの存在を知って擦り寄って来たとは、もはや考えられない。

 むしろ、このような場にあって姿を見せたからこそ、その話をする為に声を掛けたのだろう。

 

「でも、何故父は絶縁などと言ったんですか? 何か悪い事でも……」

「悪事を為した訳ではないが……、敢えていうなら弱い自分が悪だからと思ったからだろう。それが許せなかった」

「弱い……?」

 

 アキラが困惑して聞き返すと、藤十郎は悲しげに目を伏せて頷く。

 

「御由緒家にあって、弱さとは罪と考える者は多い。オミカゲ様の矛となり盾となるのが、我ら御由緒家の使命。その為の力も備わっている。それを伸ばし、最も適正の高い理術をオミカゲ様より授かる。その後は鬼を退治する為、戦い続ける人生を送る」

 

 そればかりじゃないがね、と付け加え、藤十郎は口の端を小さく上げた。

 

「他の家に生まれていたらと思うよ……。兄は戦う事に向かない性格だった。能力そのものは平均より上だったが、鬼を見ると戦えなくなる。恐怖に負けてしまったんだな。死にかける事なんて、鬼退治などしてれば日常茶飯事だが、兄は一度で心が折れてしまった」

「それは……分かる気がします。誰だって怖いし、逃げ出したいと思うのは普通です」

 

 藤十郎は首を静かに横に振って否定した。

 

「だが、御由緒家にあってその理屈は通じない。戦う為の御由緒家だ。我々が先頭に立たねば、誰がそれに付いて来る? 肝心な時に逃げ出すような者に、誰が信頼を預ける。――我ら御由緒家は、戦う者たち全ての規範となり模範とならねばならない。泣き言は許されない。だから御由緒家でいられる」

 

 アキラは押し黙って俯いてしまった。

 

「無論、御由緒家の歴史にあって戦えぬ者も皆無ではなかった。兄同様、戦えぬ者はいたのだ。御由緒家は単なる武闘集団という訳ではなく、今では日本経済を支える会社を受け持つ家でもある。そこで働けば良いと言いもした」

「でも、父は拒絶したんですね……」

「恥の上塗りは出来ぬと言ってね。長子であったのも理由の一つだろう。兄は努力の人だった。男性として生まれたからには、最初から理力について女性より劣って見られる。それは事実だ。だから努力を重ねて、女性と渡り合えるだけの力を身に着けもした」

 

 藤十郎は再び首を左右に振り、溜め息を吐いた。

 

「戦えない身になって一番に嘆いたのは兄だ。幾度も恐怖に負けまいと刀を振るい、より理力を高める努力もした。しかし戦場に立てば、一歩も動けなかった。そして兄は失意のまま、逃げ出す事を選んだ……」

 

 アキラは溜め息をつくだけで顔を上げない。

 藤十郎はその頭へ落とすように言葉を放った。

 

「絶縁してくれと言い出したのは兄の方だ。当主だった母は、兄が戦えぬと知って床に伏せてしまい、話が出来る状態ではなかった。母は庇ったろうが、父は腹を切れと喚いていた。兄が逃げるように去ろうとした日、私は兄を見送り、いつでも帰ってこいと言って別れた」

 

 当時の事を思い出しているのだろう、その声はあまりに重く寂しい。

 藤十郎もまた重い溜息を吐いた。

 

「書類上とはいえ、一度絶縁した身内を懐に入れたとなれば、それ即ち醜聞となる。私は御家の為に君を切り捨て、そして良心の呵責を埋める為に出来る範囲の事をした。それに感謝する必要はない。都合の良い事を、と恨み言を言っていい。君にはその権利がある」

「いえ、そんなの……ある訳ないですよ。何も知らなかったのに、裏で助けてくれていたのに、知りもしないで感謝もしないで……」

 

 アキラは顔を俯向けたまま、上げようともしない。声音から泣いている訳ではないと分かるが、合わせる顔がないとでも思っていそうな雰囲気だった。

 

 しばらくの沈黙が続く。

 アキラが口を開こうとしたところで、横合いから口を挟んだのはミレイユだった。

 

「そこで謝罪合戦を始めようというなら、全くの不毛だからやめておけ。意味もなければ価値もない。……お前はどうしたい?」

「どう、と言われても……」

「特に思う事はないんだな?」

「ないと言うより、むしろ感謝の気持ちはありますけど……」

「じゃあ、それで話は終わりだな。感謝しろ。頭を下げて礼を言え」

 

 ミレイユが一方的に命令口調で指示を出し、つまらなそうに手を振った。

 困惑しつつもミレイユに一礼してから藤十郎に向き直り、改めて深く頭を下げた。

 

「あの……、今まで……ありがとうございました。こういう時の作法とか全然知らないし、どう伝えたらいいのかも分からないんですけど……。でも、ありがとうございます」

「いや、何よりその気持ちが嬉しい。作法などと気にする必要はない。私の方こそ、ありがとう」

 

 アキラの言葉を飾らない感謝に、藤十郎も笑顔を浮かべた。

 そしてミレイユの方へも振り返り、深く深く頭を下げる。

 

「御子神様へも感謝申し上げます。このような機会を頂き、また背中を押して頂いたこと、どれほどの言葉を重ねても伝える術を持ちません。誠に、ありがとうございました……!」

「ミレイユ様、僕からも……! 間を持って頂いて、ありがとうございました!」

 

 ミレイユは頭を下げる二人へ、面倒そうに手を振って顔をしかめた。

 

「いいから、そういうの。単に不毛な遣り取りを身近で見せられたくなかっただけだ。放置して行けば後々まで煩いこと言われそうだったしな。復縁させるのは難しいだろうが、金銭的援助が心の拠り所になるというなら、送ってやれば良い」

「ハ……、そのように」

「アキラも受け取れ。助けると思ってな」

「はい、そうします……」

 

 ミレイユが小さく息を吐いてから、二人に顔を上げるように命じた。

 素直に応じて頭を上げた二人へ、チラリと笑みを見せる。

 

「ま、良かったじゃないか。お互いにとって救いになると言うならな。まだ謝罪や感謝を言い合いたいというなら好きにしろ。私は次のテーブルに行かねばならない」

「え、はい……。着いて行った方がいいですか?」

「いいや、必要ない。護衛として見ると、お前は頼りがいがなさ過ぎる」

 

 そう言って、アヴェリンに顔を向けてニヤリと笑った。

 アヴェリンもまた笑みを返して、アキラの方へつまらなそうに鼻を鳴らす。

 

「せっかくだから話して行けばいいだろう。ろくに食べていなかったろうし、これでさよならは寂しいんじゃないか?」

「いえ、でも……」

「ああ、それはいい。良ければ兄の話を聞かせて欲しい。私からも、かつての兄の話など聞かせようじゃないか。どうだね?」

「そうですね……」

 

 アキラは一度ミレイユへ、どうしたらいいのか乞うような視線を向けてきたが、無視して隣のテーブルへ顔を向けた。あちらからも、ここの話は聞こえていたろう。

 

 醜聞が広まってしまったようなものだが、本当に広まるのが嫌ならば時と場所を改めて話していた筈だ。最低限、身内だと明かした上で、詳しい話は自宅で、という流れで終えても良かった。

 

 それでも続けたというのだから、始めから覚悟の上か、あるいは御由緒家の間では知られた話だったかの、どちらかだろう。

 アキラの意は決したらしく、この場に残る事を選んだ。

 

「申し訳ありません、ミレイユ様。少しこの場で話してみます」

「ああ、好きにしろ」

 

 ミレイユが踵を返すとアキラが一礼し、藤十郎も同じくして一礼した。その背後でも同様に、紫都も礼をしてミレイユの背中を見送っている。

 アヴェリンを伴って隣のテーブルに着く頃には、背後から娘を紹介する藤十郎の声が聞こえた。

 



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顔見せと夕食会 その7

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 ミレイユと由喜門家の遣り取りを見ていたのだろう、テーブルへ近づくのと同時に、その場にいた二人が身体を向けて一礼してきた。

 

 阿由葉京之介と結希乃の二人だった。

 頭を上げた結希乃の顔には緊張の色が窺える。京之介に緊張が見えないという意味ではなかったが、結希乃の緊張は度を越しているようではある。

 

「ご尊顔拝謁致しまして、恐悦至極に存じます。阿由葉家当主、京之介でございます。お見知り頂きますよう、お願いいたします」

「阿由葉家次期当主、結希乃でございます。ご尊顔拝謁賜る栄誉を噛み締めております」

 

 二人が再び頭を下げ、きっちり五秒経ってから頭を上げる。ミレイユもまた、なるべく友好的に見えるよう、手を挙げて挨拶した。

 

「元気そうだな、結希乃。大事ないか」

「ハッ、御子神様におかれましても、ご機嫌麗しゅう。その節は、大変なご迷惑を……!」

 

 言い刺した結希乃の言葉を、手を振って強制的に切った。

 不興を買ったかと顔を青ざめさせた結希乃に、ミレイユは困ったような笑みを向けた。

 

「結希乃、お前が謝る必要はない。此度は私の方から謝罪に来たのだ。お前の仕事と権利を蔑ろにした、その事に対してな。――許せよ」

「滅相もございません……! 此度の事は私の不遜と致すところで――」

「いいから、やめろ。必要ないんだ……分かるか?」

 

 ミレイユの口調が僅かに棘を帯びたのを感じて、やはり結希乃は失態を悟り青褪めた。

 困った顔のまま京之介の方へ顔を向け、小さく首を傾ける。

 

「いつもこうなのか、結希乃は?」

「決してそのような事は……。自分が仕出かした事の重大性を認識するにあたり、重責を感じてあのようになってしまったようです。普段はもっと凛々しい……」

「ああ、まぁ、分かった」

 

 親馬鹿の子供自慢が始まりそうな雰囲気を察して、ミレイユは早々に会話を打ち切る。

 ミレイユは不躾とも取れる距離まで自ら近づき、今も臍の辺りで両手を重ねている結希乃の手を取った。少しでも安心させてやりたくて取ったその指先が、あまりに冷え切ってしまっている。

 

「緊張していたのか、そこまで……?」

「お許し頂けなくとも、謝罪はせねばならないと心に決めていました。御子神様に対する不敬不遜を考えれば、命を持って償うべきだとも……」

 

 結希乃は手ずから握られた自身の手を、恐ろしいものを見るような視線を向けている。

 その反応を考えれば、ミレイユが軽率にやってみせた手を取る行為そのものが拙かったのだろう。僭越だとか恐れ多いだとか、考えているのかもしれない。

 

 ミレイユは安心させるように自らの手を上に重ね、手の甲を優しく擦るように動かす。

 

「ここまでの時点で、もう何度も言っている事ではあるんだが。……私は別に偉い訳じゃない。そのように緊張されると、私もどうして良いか分からなくなる」言ってちらりと笑みを見せる。「そういう訳で、私を助けると思って普段どおりに過ごしてみないか?」

「は、はい……」

 

 結希乃は喘ぐようにして頷く。

 言われるままに頷いたというだけで、意味を深く理解して頷いた訳ではない。どうしたものかと京之介へと顔を向ければ、やはり困ったように笑っていた。

 

「御子神様の言うとおりだ。そのように緊張して、ろくに返事も出来ないのは不敬だろう。助けると思って、と言って下さっているんだ。お前ももっと歩み寄る努力をしなさい」

 

 結希乃は目だけ向けて、こくこくと頷くと、改めてミレイユに膝を軽く折るだけの礼をした。近くで手を握っているせいで、頭を下げられなかった故の苦肉の策なのかもしれない。

 

「お許しを。余りに……その、恐れ多く感じまして」

「二人の出会いのせいか?」

「そう……かもしれません」

 

 ミレイユは擦る手を止め、優しく離した。

 結希乃は感極まったように、その手を胸の前で抱く。

 

「あれは完全に私が悪かったんだし、気に病む必要はないと思うんだがな。私も丁度イライラしていたから、とにかく暴れたい心境だったしな」

「あのヤクザ者のせいでしょうか?」

「それとは別件だ。だが、スイッチを押したのは間違いなくアイツらだな。……お前には迷惑をかけた。それだけだ、今回立ち寄った理由はな」

「はい、真に恐れ多くも……」

 

 なおも謝罪を重ねようとする結希乃に、ミレイユは素早く手を上げ言葉を止めた。

 

「いいから……、いいんだ。大体、私のやる事に一々謝罪していたら身が持たないだろう。こういう遣り取りに辟易してるんだ、分からないか?」

「ハ……」

 

 もはや癖になりつつあるのか、また謝罪しそうになったところで、結希乃は慌てて動きを止める。

 ミレイユの中では結希乃はデキる女の代名詞のように見えていたのだが、ここら辺で少し見直す必要があるかもしれない。

 京之介に眉を顰めて目を向けて見れば、済まなそうな顔で小さく頭を下げていた。

 

「娘が失礼いたしました。結希乃も、御子神様のご気質は壇上にいらした時から見えていただろう。そのような態度こそが最も疎まれるのだと理解なさい。同年代の上司のように見てみたらどうだ」

「その辺りが落とし所か?」

「ハ……。友人のように気安い付き合いというのは絶望的かと。オミカゲ様への信仰心にも関わる事ですので、気安すぎる態度というのは躊躇われます」

 

 ふぅん、と当のオミカゲ様へと視線を向ければ、先程とは別のテーブルで何か話をしているようだ。やはり平坦な表情で、声までは分からないが、やはり平坦な声で対応しているように見えた。

 

 それへ威嚇するように鼻へ皺を寄せて、喉の奥で唸る。

 その様子を見ていた京之介は、しみじみとした表情でミレイユに頭を下げる。

 今度は何だと思いながら、重い溜息を漏らした。

 

「だからそういう態度を――」

「申し訳ございません、どうしても謝意を表明したかったのです」

 

 そう言って、京之介はミレイユの言葉を待たずに頭を上げた。

 

「壇上でのお二柱の遣り取りを見させて頂きました。気安く軽口を叩き合い、口さがなく物を言い合う。オミカゲ様は実に楽しそうにしていらした」

「いう程の事じゃないだろ。単なる馬鹿な遣り取りだ」

「それこそがオミカゲ様にとって、遥か彼方、手の届かなくなったものでございましょう。仮に同じ振る舞いをせよ、と命じられても出来る事では御座いません。魂がそれを拒むのです」

「そこまで大袈裟な話か?」

 

 ミレイユは胡乱げな目を向けたが、京之介は大いに頷いた。

 

「オミカゲ様が千年の間に、我が日本国に、日本国民に、どれほどの事をして頂いて来たか、ご存知ですか」

「色々聞いたし、調べもした。多くのことを為して来たようだ。国の礎を築いたとも言えるし、またその庇護についても、他国からすれば嫉妬で狂うレベルだろう」

「まさに仰るとおり。オミカゲ様から受けたご恩は数知れず、怪我と病気から救われた者など正に数えられますまい。千年もずっと、そうして国を護って頂いておるのです。不要と言われようと、先祖代々の教えと誇りが、それを許しません」

「難儀な事だな……」

 

 オミカゲ様が友を求めたとしても、長い年月して来た事を思えば、感謝や敬意の方が先に来て、それを拒んでしまうのか。

 願うものは些細であるのに、しかし決して手に入らない。

 自身の行ってきた千年が、それを拒絶するのだ。

 

「ですから、オミカゲ様のあのような笑顔を見られてて、我ら臣下一同感謝しております。高天ヶ原より参られた御子神様、どうか末永くオミカゲ様と共にして頂きますよう。もしも叶うなら、これに勝る喜びはありません」

「さて、どうかな……。そんな事言うより前に、オミカゲ様に気軽な挨拶でもする練習をすればいいだろうに」

 

 無理な事を言っている自覚はあるが、京之介の顔色を伺う限り、やはり無理であるようだ。ミレイユが言った事を想像しただけで額に脂汗を浮かべるようでは、決して叶わぬ願いだろう。

 

 ミレイユは改めてオミカゲ様を見る。

 気安い相手と、気安い関係。そういう者が一人もいないとは思いたくない。オミカゲ様の正体がミレイユの考えるとおりなら、一人もいないという事はあり得ない筈なのだ。

 

 だが、ここのところ奥御殿で過ごすに辺り、ミレイユが考えるような人物は目に掛かっていない。その事実に思い至って、思わずミレイユは強い視線をオミカゲ様に向けた。

 

 視線が交叉し、見つめ合う。お互い以外に見えるものがなくなっていく。

 話し声や食器に何かが当たる音、耳に入る音全てが遠くなった。

 

 見つめている間、お互いに何も言わないし、何も匂わせない。その視線から汲み取れる意思はなく、ただ時間だけが過ぎた。

 意味があるかも分からない行動、それを先にやめたのはミレイユだった。

 

 気づけばアヴェリンに肩を叩かれている。

 心配そうな表情が横からミレイユを伺っており、それを認識するのと同時に雑音が戻ってくる。喧騒という程大きいものではなかったが、視界に映るものが増えるに連れて、その音も大きくなっていった。

 

「ミレイ様、ご気分でも悪いのですか……?」

「いや、違う。……いいんだ、大丈夫」

 

 肩に触れていたアヴェリンの手をそっと引き剥がす。

 それでも視線はオミカゲ様に向いたままだった。あちらはもう、ミレイユを見ていない。先程とは別の人物と会話しており、やはり平坦な表情で相手を見つめている。

 

 ミレイユの杞憂であればいい。

 そうであって欲しい、という気持ちと、ある可能性を示唆する気持ちがぶつかり会う。それは胸の奥で澱のように溜まり、ミレイユの心にシコリを残した。

 

 ミレイユの表情が歪む。

 気づかねば良かった、という気持ちがドッと胸に去来した。

 視界を左右へ廻らし、壁際四面それぞれを見ていく。そこには護衛や見張りをしているような者が、控えめに直立していた。給仕の格好をしているが、体付きからそれと分かる。

 そしてミレイユの知った顔は一人もいない。

 

 それを確認して溜め息を吐いた。

 重い重い溜め息だった。



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顔見せと夕食会 その8

 あまり一つの所で長居していられないので、ミレイユは別のテーブルに移動しようとした。今回の集まりはそもそも、ミレイユの顔見せを兼ねている。とりあえず、それを終わらせてしまわなくてはならない。

 

 しかし横から、アヴェリンの気遣う声が聞こえてくる。

 

「ミレイ様、ご気分が優れないようなら、今日はもう自室でお休みになっては……」

「左様です。機会はこれから幾らでもありましょうし、無理するような事ではありますまい」

 

 京之介からも心配される声を貰ったが、実際ミレイユは体調が優れないという訳ではなかった。食欲もあるし、酒だって飲みたい気分だ。

 ミレイユはそれに笑顔を返して、続行すると告げた。

 

 去り際に、結希乃の肩を軽く叩く。

 

「次に会う時までには、前と同じような扱いが出来るように頼む」

「……鋭意、努力致します」

 

 引き攣った苦笑いだったものの、結希乃は確かに頷いた。

 ミレイユとしては前途多難に思えたが、努力するというなら期待して待とう。

 

 軽く手を挙げて席から離れると、すぐ隣のテーブルに向かった。

 ここよりは阿由葉と違って関わりも薄く、ミレイユとは直接かち合わなかった者たちが続く。見覚えのある顔もなく、簡単な挨拶だけで済ませていく。

 

 大袈裟な礼儀、装飾された言葉を聞かされていると、慣れないミレイユからすれば辟易してしまう。あるいは慣れたところで、辟易する気持ちは収まらないかもしれない。

 オミカゲ様が挨拶を交わす度に平坦な表情をするのも、もしかしたらそういう理由があるのかも、と思った。

 

 由衛、比家由とテーブルを移っていき、ようやく最後の由井園までやって来ると、そこには熱心な視線を向けてくる女性がいた。

 どこの誰もがミレイユに対して関心を向けるのは、ある意味当然と言えるが、この女性だけはそれとはまた違ったものが窺える。それが何かと言われても分からないが、悪意ではない。

 何かを熱望するような、あるいは渇望するような、熱い視線を向けている。

 

 テーブルには二人いて、年嵩の方が母親で当主だろう。

 ミレイユが顔を向けると、おっとりとした表情で一礼した。

 

「お初にお目にかかります。由井園家当主、志満でございます。以後、お見知り頂きますよう、お願い致します」

「ご挨拶が遅れました事、大変申し訳ありません。由井園家次期当主、侑茉(ゆま)でございます。拝顔賜わりました栄誉に驕る事なく、邁進していく所存です。身辺警護は由井園の領分、どうか心穏やかにお過ごし下さい」

 

 熱心に見えたのは視線だけではなかった。

 誰よりも長い口上と家の役割――由井園だけに任された警護をアピールした上で、丁寧な礼を見せた。見事な礼とは思うが、肩の力が入りすぎているようにも思う。

 侑茉は一体、ミレイユに何を見ているのだろう。

 

 顔を上げた志満はおっとりと笑い、侑茉は顔を上げた後、なおも熱心に言葉を掛けてくる。

 

「お過ごしの中で、何かご不満な点は御座いませんか? 即座に対処させて頂きます」

「奥宮の警護はともかく、部屋の中まで口を出せるのか? また管轄が違うんじゃないか?」

「左様でございますが、こちらから働きかける事で、叶うものもあるのではないかと愚行する次第です」

「ほぅ……?」

「――これ、侑茉。不躾ですし、僭越です。奥向の事まで口を出すものではありません」

 

 志満に叱責され、侑茉は悔しそうに顔を背けた後、一礼した。

 やる気はあるのだろうが、何故そこまでやる気なのか分からないし、そもそも空回っている気もする。他所の部署から勝手に口出しされて面白くないのは、どこでも同じだろう。

 それが分からぬようで次期当主が務まる筈もない。どうにも侑茉には焦りのようなものが見えた。

 

 外の警護の事で不満がないかと言われたら、そもそも働きぶりを知らないミレイユに何も言えない。騒がしく行進しながら警護しているというなら文句も言おうが、これまで部屋で過ごしていて、音に不満を覚えた事はなかった。

 そもそも、どこへ行っても静かなもので、音を出す事が不敬に当たるのかと思った程だった。

 

 部屋の中に不満があるかと言われても同様で、過ごす時間が短すぎて問題は頭に浮かばない。仮にあったとしても、そこまで長居するつもりがないミレイユからすれば、ちょっと旅館に泊まっている程度の感覚だ。

 

 何か欲しくて声をかければすぐに持ってくるし、不満などない。初日のコーヒーのように、無い物は無いで我慢できるし、そこで不満を述べるつもりもなかった。

 

 しかし、どれほど長くここで過ごすかは分からないが、オミカゲ様と話し合いの場を設けるまで長く掛かりそうではあった。それまであの部屋でただ漫然と過ごすというには、確かに娯楽がなさ過ぎる。

 

「そういえば一つ……、用意して貰いたいものがあるな」

「何なりと仰って下さいませ」

 

 前のめりに身体を傾けそうになりながら、侑茉が聞いた。

 

「テレビが欲しい。あるいはスマホかタブレットか……。用意できるか?」

「それは……」

 

 侑茉の顔色が明らかに曇って、ミレイユはおやと首を傾げた。

 決して無茶な要求をしたつもりはない。テレビくらいどこの家庭にもあるものだし、スマホについても同様だ。訳なく了承されると思ったのに、予想外な反応はミレイユを困惑させた。

 

「出来ないのか……?」

「……何と申しましょうか」

 

 無理だと口にするのは憚られるらしい。

 何故だと重ねて聞こうとする前に、横から別の声がそれを遮った。

 

「我も欲しいと思っているが、これがなかなか叶えて貰えぬ」

「――オミカゲ様!」

 

 突然の事で、志満と侑茉が慌てて頭を下げた。

 それへ気にするな、とでも言うように肩の高さまで手を挙げ、そして平坦な表情のままミレイユへ顔を向けた。

 

「何で来るんだ。お守りが必要な年じゃないぞ」

「そう邪険にするでない。興味深い話題が耳に入った故、少し聞かせてやろうと思ったまで」

「テレビがない理由か?」

 

 オミカゲ様が頷き、そして不満を見せる表情でミレイユを見る。

 

「神には相応しくないという理由でな。同じ理由で携帯電話も、ゲームすら禁止されておる」

「お前に教育ママでもいるのか? しかもその要求を呑んでいるというのが意外だ。その程度の苦言、幾らでも覆せるだろうが」

 

 不満を見せれば誰であろうと、それを叶えようと走り出しそうなものだが、しかしオミカゲ様はやはり首を横に振った。

 

「今代の女官長は、中々融通が利かず厳しいという事もあるが、神の威厳を貶めるようなものには近づけさせない不文律がある」

「……昔からそうなのか?」

「うむ。神が娯楽に興じている姿など、誰も望んでおらんという理屈らしいな」

 

 オミカゲ様は達観した表情で視線を上に向けた。

 それはそれで仕方ない、と受け入れてしまっているらしい。外に漏らさねばいいだけで、自室の中ぐらい好きにさせればいいと思うのだが、それではいけないのだろうか。

 ミレイユはそのように聞いてみたのだが、それにもやはり達観した否定が返ってきた。

 

「そういう訳には行くまいよ。布団の上で寝転びながらゲームする神か? 想像するだに愉快だが、これまで積み重ねてきたもの全てが崩れ去るであろう」

「黙っていろとか、忘れろとか言っておけばいいだろうが」

「外の人間より、むしろ近くにいる巫女たち女官たちの方が、我の威厳を正し維持しようとする。我より我の事を考えておるのよ。少々、行き過ぎに感じる時もあるがな」

 

 そう言って、疲れたように小さく笑う。

 何を言っても聞かないとでも、思っているような口振りだった。本当に嫌ならそう言うだろうから、別にミレイユから何を言う気もなかったが、神なればこそイメージが大切だと言う事かもしれない。

 

「まぁ確かに、神が課金してガチャ回していたり、動画投稿してたりする姿は見たくないな」

「極論、そういう事であろうな。神には神に相応しい事だけしていろ、という事らしい。過去、許された娯楽といえば、碁と将棋であった」

「やるのか……将棋を?」

「好みに合わなかったから、今は碁しかやっておらぬ。よもや知らぬとでも?」

「……何で知ってなきゃいけないんだ?」

 

 ミレイユが鼻に皺を寄せて顔を背けると、その先には驚愕した顔でミレイユ達の遣り取りを見ていた二人がいた。歯に衣着せぬ物言いが衝撃的過ぎたらしい。

 ミレイユは興味本位で二人に聞いてみた。

 

「どうも碁に対して並々ならぬ自信があるらしいが、……強いのか?」

「は、はい、勿論でございます。人の領域では届かぬ高みから繰り出される一手は、まさに碁神の名に相応しいものです」

「本当に? 勝てば打首に遭うとか、神の威厳を貶めるとか言う理由で、誰も勝てないだけじゃないのか?」

「まさか……!」

 

 侑茉が口にした否定は、まるで悲鳴のようだった。

 図星を指されたというのではなく、不敬に対する悲鳴だった。

 意外としか思えない視線をオミカゲ様に戻すと、不敵な笑みを浮かべて待ち構えていた。

 

「本当に強いのか?」

「……長く生きているとな、見えるものも違ってくる。もしも人の寿命が千年であれば、我より強い碁打ちは幾らでも生まれていよう」

「なるほど、そういう理屈か。確かに摩耗する事なく考え続けられるのは、一種の強みだ。高齢者は思考力だけでなく体力も衰えるしな」

「始めたばかりの頃も、別に強い訳ではなかった。ただ、長いことやってるだけだ。我の強みは、そこにこそある」

 

 そう言ったオミカゲ様の瞳に剣呑な光が宿った。

 何か決意めいたものを感じる。それは決して囲碁に対する向き合い方を言っているのではなく、もっと広い視野で、もっと別の何かを表しているような気がした。

 

 それへ曖昧に頷いてみせると、オミカゲ様もまた頷きを返す。それから左右に視線を向けた後、周囲にも聞こえるよう厳かに告げた。

 

「そろそろ良い頃合いである。我が御子もまた全員の顔を覚え、皆もまた我が御子と知己を得ただろう。本日の意義を達せる事が出来たように思う」

 

 その言葉を聞いた者たちは、揃って頭を下げた。

 あまりに唐突に始まった演説だと思えたが、彼ら彼女らに動揺したところは見られない。よくある事なのかもしれなかった。

 

 ミレイユは正面でその演説を聞きながら、左右へ身体を向ける。

 アヴェリンは勿論、ユミルたちも頭を下げてはいない。ユミルと目が合うと、彼女はグラスに残ったワインを悪戯っぽく掲げて飲み干した。

 

「本日は少しでも互いを知り、懇親できたなら喜ばしい事である。急な呼び出しに応え、真に大義。御子に対し接触を制限するものはない。御由緒家に限り、親睦を深めたいと思うのならば好きにさせよう」

 

 そう言ってオミカゲ様は周囲を睥睨する。

 信頼するから好きにさせるのだと、その下げた頭に告げるようだった。

 

「――以上である」

 

 オミカゲ様がそう宣言すると共に、踵を返して歩き去ってしまった。

 何もかもが突然、唐突で、そして終わる時でさえ唐突だった。言いたい事を言って去っていく姿には傍若無人とした感じを覚えたが、神のする事と周囲は慣れているのかもしれない。

 

 ミレイユがそう思って顔を上げた面々の姿を確認したのだが、しかしそこにも困惑した表情が浮かんでいた。釈然としない気持ちが強まる。

 今正に恭しく開けられた扉から去っていく後ろ姿を見送りながら、ミレイユは彼女の胸中を推し量っていた。

 



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御影会談 その1

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 あれは果たして夕食会なのか、それとも懇親会だったのか。詳しい名称すら知らない顔見せから、既に二週間が経った。

 

 それまでの間に、アヴェリンに与えられた自室の一角と箱庭を繋げた。

 最初はミレイユの部屋と考えていたのだが、これにはアヴェリンが猛反対して頓挫する事になった。アキラにその気はなかろうが、ミレイユの寝室へ直通できてしまう事が問題らしい。

 

 そのような甲斐性はない、というのがミレイユの弁だったが、それは完全に黙殺された。

 アヴェリンは与えられた自室で寝泊まりせず、護衛の為、寝起きはミレイユの寝室で行う。自室に執着しないのは、必要としていないというのが一番の理由だろうが、ミレイユの護衛以上に大事なものなどないからだろう。

 

 むしろ箱庭への直通部屋として活用されて、満足している節すらある。

 箱庭にさえ通えれば、そして、そこまで遠くなければ後はどうでも良いのだろう。

 弟子として認めたからには、アキラの鍛練は継続して行う意思があるので、自室と繋がったのは渡りに船だったかもしれない。

 

 今はアキラの様子を見に行くような事をしていないが、どうやら相当揉まれているらしい、というのはアヴェリンの報告から伺う事が出来た。

 例の骨休めに骨を痛めつける行為も、ルチア主導のもとで行われているようだ。泣き言だけは一丁前だと、アヴェリンが苛立たしげに溜め息を吐いていたのを覚えている。

 

 ミレイユも暇潰しに顔を出したいと思っているのだが、そうもいかない事情が出来た。

 ある日、いつものように箱庭へ行っている間に、気を利かせて御用聞きに来た女官が、無人の部屋を見てパニックになった。

 

 確かに部屋へ入ったのを見た筈なのに、誰もいない。

 どこへ行ったのか、誘拐か、失踪か、と奥宮を上下に振ったような大騒ぎになった。護衛と身辺警護を勤める由井園への責任問題にも波及しそうになったところで、遂にそれがオミカゲ様の耳にも入る事態となった。

 

 そんな大事になっているとは知らないミレイユが、空腹を覚えて帰ってくると、オミカゲ様が直々に部屋の中で待ち構えていた。

 事情を聞き、懇切丁寧な説明と共にミレイユのやった事を理解させられると、それっきり箱庭には行かなくなった。行くこと事態を止められた訳ではないが、手続きを踏む必要がある。

 

 それが一々面倒で、そしてオミカゲ様の作戦は実に成功の目を見た事になる。アレは面倒な手続きを踏むくらいなら、暇だろうと部屋に居続けると理解していたのだ。

 

 ミレイユは椅子に座って、今も非常に不満を滲ませた顔で窓の外を見つめている。

 アヴェリンは鍛錬に行っているので、部屋の中にはルチアとユミルもいるのだが、さりとて会話に花が咲く訳でもない。

 

 彼女ら二人は何か学術的、あるいは好奇に任せた推論を挙げ連ねており、ミレイユがその隙間に入る余裕はない。

 というより、その話に巻き込まれるのが嫌で、敢えて無視するような形で窓の外へ目を向けている、というのが正解だった。

 

 ――二週間。

 オミカゲ様が話し合いの場を設ける、と言ってから経った時間だ。あまりしつこく尋ねるのも野暮な気がして今日まで我慢して来たが、流石に催促するべきだと思えてきた。

 

 組んだ足の先が苛立ちで揺れている。

 我慢強いという自覚のあるミレイユにしても、我慢の限界というものがある。直談判という単語が脳裏をよぎった時、咲桜が部屋の外から声を掛けてきた。

 

「失礼いたします。朝食の用意が整いました、こちらへお運び致しますか?」

「……そうしてくれ」

 

 食事は自室で取っても、あるいは食堂で取っても、どちらでも良かった。食堂といっても贅を凝らした貴賓室のような場所で、そこへ行くには少々歩かねばならない。とにかく広く、また複雑な道になっているせいで、どこへ行くにも億劫に感じてしまう。

 別に長くいるつもりはない、という思いがあるせいで、道を覚える意欲も薄い。待っている話し合いが終わればこの生活も終わり、という思いがそれに拍車をかけていた。

 

 それにまだ、アヴェリンが帰ってきていない。

 いつもと変わりない時間に帰ってくるなら、そろそろ姿を見せても良い筈だが、帰ってきてミレイユが食堂に行っているようでは寂しいだろう。

 

 ミレイユは咲桜の給仕に任せるまま、テーブルに朝食を用意させる。

 そうして全ての準備を終えた時、汗を流して来たと見えるアヴェリンが帰ってきた。

 

「ただいま戻りました、ミレイ様」

「ああ、丁度いいタイミングだったな。朝食にしよう」

 

 アヴェリンは恭しく礼をしたが、続いてユミル達二人へ目を向けて顔を険しくする。まるで護衛の任を全うしていると見えないのが、アヴェリンを苛立たせた原因だろう。

 

 実際二人はミレイユそっちのけにして、ベッドの上で腹這いになっては互いの意見をぶつけていたので、護衛の事など始めから意識にない。

 そもそも護衛の必要ある相手と認識していないので、意識は向けても気はそぞろだった。

 

「貴様ら、何だその体たらくは。そんな事でいざという時、ミレイ様を守れると思っているのか」

「だって必要ないじゃない。その時になれば、アタシよりよっぽど上手く対処するわよ。そんな相手に護衛なんて必要ある?」

「弛んでるぞ。そんな事で――」

「まぁ、いいじゃないか。まずはメシだ」

 

 アヴェリンの語気が上がり始めたところで、ミレイユが止める。

 これ幸いとユミルは席に座ってパンを手に取る。朝食は皆の希望でパン食と決めていた。朝からガッツリ食べないのがこれまでの慣習だったので、用意される朝食も質素なものだ。

 

 アヴェリンは渋い顔でユミルを見送った後、溜め息を吐いて席へ着いた。

 全員が着席したところでミレイユが一口パンに齧り付き、それを合図に全員が思い思いの物に手を付け始める。

 ミレイユはパンをしっかりと咀嚼し飲み込んでから、アヴェリンに問う。

 

「それで……、最近のアキラはどうなんだ? 少しはマシになったか」

「相変わらずです。魔力総量のノビは良いですが、それ以外の技術向上については予想通りといったところで……」

「使い物にはならないか」

「左様でございますね」

 

 アヴェリンが想定するレベルでは、現世の誰であろうと使い物になる戦士とはならないだろう。あまりに想定している基準が高すぎる。

 しかし、一人でも戦い続けるというアキラの理想を考えれば、採点も厳しくなるのは仕方ないところだった。

 

 そもそも一人で戦うというのは強者の理論だ。

 あらゆる困難、あらゆる強敵を一人で乗り越えるのは格好良く見えるが、実際には複数人で当たらねば、生き延びる事が出来ない事態というのが殆どだ。

 ミレイユでさえそれを自覚しているし、だからこそアヴェリン達と共にいる。

 

 そこまで考え、ふと現状と昔は勝手が随分違って来た事に思い至った。

 アキラが自分一人でも戦うと奮起したのは、そもそも身を護るにはそうするしかなかったからだ。魔物に対して無力であり、そして襲われる人が出るなら、それを護れる実力を身に着けたいと思っていた。

 

 魔物討伐組織なんてものも、あるかどうか不確かだったあの時は、そうするのが最善だった。だからといって今更武器を捨てる気もないだろうが、方針を変える事はできる。

 

「アヴェリンのお眼鏡に叶う水準に達する事はない、それは分かる。だが、この世界の戦士と比べた場合はどうだ? あの夕食会にいた者たちを基準として考えた場合は?」

「あの場にいたのは、この世界では高水準に当たる者たちなのですよね?」

「そう聞いている。まだ未熟な者もいたろうが、それでも平均を遥かに上回る実力を持っていた筈だ。結希乃ぐらいだと、他に類を見ないと称せるレベルのようだな」

 

 アヴェリンは暫く考え込む仕草を見せ、それから頷いた。

 

「そういう事ならば、届く可能性は十分にあるかと。最終的な成長までは分かりませんが、並び立つ可能性は残っています」

「……なるほど。全くの才能なしでもない訳か」

 

 ミレイユが考え込むような仕草を見せるにつけ、アヴェリンは不安にかられたような顔をする。まさか、という表情を隠しもせずに、ミレイユへ詰め寄ろうとした。

 だがその前に、ミレイユは笑って顔の前で手を振った。

 

「別にアレに対してどうこう、というつもりはない。……今のところはだが」

「ミレイ様……!」

 

 アヴェリンが非難するような声を上げるのとは反対に、愉快そうな声を上げたのはユミルだった。

 

「そう心配する必要ないでしょ。この子が認める実力を得る程に成長するとは思えないし。それならせめて、想定の半分程度の実力は身に着けて貰わないとねぇ……?」

「まぁ、そうだな。高いにしろ低いにしろ、レベルが違い過ぎる者を他と同じように扱う事はできない。それは必ず軋轢を生む。共にする理由がない」

 

 そうよね、とユミルが肩を竦めた。

 心配しなくても、アキラがミレイユ達と行動を共にすることはないだろう。今は状況が特殊だから別として、後は一人で鍛錬しろとアヴェリンが認めたとしても、だからミレイユ達のパーティに入るとはならない。

 

 その程度では、ユミルが言ったような半分の実力にすら届かないからだ。

 仮に数年の自己鍛錬を挟んだとしても、やはり無理だろう。才能の格差というのは続けた年数程度で届くものではない。ミレイユ達との間にある壁は、それほどまでに高いものだ。

 

 だからミレイユが匂わせた台詞は完全な遊び心でしかなかったのだが、アヴェリンには本気で考えているように見えてしまったようだ。

 

「何故そんな勘違いをしたんだ」

「いえ、それは……。アキラに対して余りに待遇が良すぎると思ったからでして……」

「ああ、それはアタシも思ったわねぇ。将来的に囲うつもりなのかと思ったわ」

 

 可愛い顔してるし、とユミルが笑って付け加えると、アヴェリンは顔を顰めて鼻を鳴らした。

 

「その程度でお側に置こうなどとは考えられん。ミレイ様を侮辱するな」

「そんなつもりはなかったけど……でも、不思議には思うワケよ」

 

 ユミルが顔を向けてきて、ミレイユ自身も不思議に思って首を傾けた。しばらく考えてみたが、それらしい答えは見つからず、傾けた状態で軽い調子で頷いて見せる。

 

「敢えて言うなら巡り合せだろう。気が向いただけと言い換えても良い。特別な理由は本当になかった。……いや違うか、同情かもな。若くして天涯孤独、だから少しは力を貸しても良い、という気持ちはあった」

「ふぅん……? それだけ?」

「そうだな。それ以上の意味はない」

 

 ミレイユの答えには、それぞれから納得したような雰囲気が伝わってくる。

 実際、何か一つ出会い方が違っていたら、今のようになっていなかったという気がする。だから本当にただの運だとしか答えようがなかった。

 

 そうして朝食が済んだ後の時間。

 今日もどうやって時間を潰すかを考えていたところで、ようやく待ちに待った手紙が来た。

 オミカゲ様と会談する日時に対する返答だった。

 

 ――準備が整った。今日の昼に遣いを出す。

 



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御影会談 その2

 遣いの女官は、昼食が済んだタイミングでやって来た。

 先導する彼女の後をついて行きながら、ミレイユはようやく来たか、と胸中でごちていた。オミカゲ様が忙しいのは話の端々から理解していたし、それとなく聞いた女官からも忙しい身だとは聞いていた。

 

 それでも待たされ続けてきた不満はある。

 この時間は結界への対処も他人任せで動いていなかったし、アキラは一応近所の見回り程度の動きはしていたようだが、実際遭遇する事はなかったそうだ。

 

 お陰で随分暇を持て余していたし、バカンス気分というには緊張が常に付き纏うような状況だった。さっさと終わらせてしまいたい、という気持ちを常に袖にされていたようなもので、だからミレイユの胸中は不満の気持ちが渦巻いていた。

 

 ミレイユの後ろにはアヴェリンは当然として、ルチアとユミルも着いて来ている。のんびりとした歩調で進みながら、やはりのんびりとした口調で問いかけてきた。

 

「一応聞くけど、アタシたち着いて来て良かったの?」

「駄目だとは書いていなかったのだから問題ないだろう。私一人で来るように伝えるなら、そのように禁止する旨を書くはずだしな」

「……ま、そうかもね」

 

 ユミルは気のない返事をしながら、小さく息を吐いた。

 それがどうにも気になって、後ろを振り返りながら聞いてみる。

 

「……何だ、どうしたんだ」

「んー……。何だって事はないんだけど、どうにも苦手なのよね、アタシ」

「苦手? オミカゲ様の事が?」

「そう、そのミカゲ某」

 

 ユミルがそう言った事を言うのは珍しい。

 ミレイユが善悪で、アヴェリンが強弱で他者の認否を定めるように、好悪で決める傾向が強いのはルチアで、ユミルは損得でそれを決める。単純な好悪だけで、他者を否定も肯定もしない。

 

 そしてオミカゲ様が損害を与えるような真似をしたかというと、状況的にマイナスへ傾いている訳ではない、というのがミレイユの判断だった。

 直接話した事もない相手を、最初から否定するような物言いをするユミルを意外に思った。――それとも、それが神を名乗る者となれば話も変わってくるのだろうか。

 

「何でまた、そのような事を……?」

「何でと言われてもねぇ……。あの目、かしらね」

「変な目で見られたという事か?」

「ならば間違っておりますまい。変に見える奴を変な目で見た、というだけの話でしょう」

 

 ミレイユとの話に割り込んで、アヴェリンがそう言っては鼻で笑った。

 ユミルもまた鼻で笑って、いつもの応酬が始まるかと思いきや、アヴェリンの方へ見向きもしない。思い返すように視線を外へ向けては、時折考え込むように唸る。

 らしくない様子に、ミレイユは思わず声を掛けた。

 

「……どうしたんだ、ユミル」

「口に出してみて、やっぱり思ったのよね。何であんな目を向けたのか……」

「具体的にはどんな目だったんだ?」

「何と言ったら良いのかしらね……」

 

 ユミルは再び考え込んで眉を寄せる。

 

「哀れみ……とは、違うわね。……もしかしたら謝罪、かしらね」

「謝罪? お前にか?」

 

 不可解な顔をしながら言ったユミルだったが、それはアヴェリンにとっても同様で、不可解な事を聞いたと顔に貼りつかせ問い返した。

 ユミルは口にした言葉を咀嚼するように何度も頷く。

 

「……そう、やっぱりそれが一番近いみたい。理由も意味も不明だから本気にしなくていいけど、アタシはそう感じたとだけ言っておくわ」

「ふむ……」

 

 確かにそれは、意味不明で理解不能な態度だったろう。

 ユミルとオミカゲ様との間に接点はない。それは常に行動を共にしていた、この場全員が証明する。

 そこへアヴェリンが何気ない口調で割り込んだ。

 

「そういう意味合いの視線なら、私もされたな」

「謝罪めいた視線を、という事か?」

「左様です。まったく意味不明だったので流しておりましたが、ユミルも同様にされていたというなら……ルチアもそうだったのか?」

「いえ、私にそういった視線は向けられませんでしたね。ただ、お二人には意味ありげな目を向ける事には気付いていましたけど」

 

 他の二人には向けるのに、ルチアにだけはそれがない。

 奇妙な事に思えるが、オミカゲ様の正体に当たりをつけているミレイユからすると、その発言は相当に意味が異なる。幾つも推論を重ねてきた事実に、また一つ嫌なものが重なって顔を顰めた。

 

 不都合な事実が重なる事は誰だって嫌な気持ちになるものだ。

 そして、その回答を得る機会が、今まさに目の前までやって来ている。夕食会で気が付いた一つの事実、そしてユミルの言葉の意味を理解すれば、聞きたくないという気持ちも湧いてきた。

 

 ミレイユは前へ振り返り、無言で先導を続ける女官の背中を見つめた。胃がずっしりと重くなった気がする。

 今更ながら、踵を返して帰りたい、という思いが湧く。

 ――不都合な真実が、正にあと一歩のところまで近付いていた。

 

 

 

 辿り着いた先は、やはりと言うべきか、豪華でありつつそうと感じさせない瀟洒な一室だった。畳張りの間で純和風の造りである事は意外でも何でもなかったが、天井があまりに高かった。

 二階部分を取り払っているのではないかと思える程に天井が高い。明かり採りとなる窓も多くあるので暗くは感じないが、しかしここまで高い天井にする必要があったのかは疑問に思った。

 

 鉤型になっている部屋の中央には縦長のテーブルがあって、それが部屋を二つに割っていた。片方の壁際にはさぞ価値のあるだろう壺や、華が生けられた皿などが飾ってある。

 

 もう片方の、反対となる壁は中庭に面していて、縁側部分にあった障子も全て開け放たれている。天井が高い分、障子もまた異常に縦長だが、開け放たれてしまえばその遠大な中庭を一望する事ができた。

 この部屋は、もしかするとこの中庭の景観を楽しんでもらう為にあるのかもしれない。

 

 障子が完全に取り払われ、遮るものが何もないので、室内に明かりをさんさんと取り込んでいる。

 室内が広いお陰で、その明かりが直接席にかかる訳でもなかった。しかし時間によっては、直接背に当たって辛い思いをしそうではある。

 

 室内にはまだ誰もいない。

 権威の高さ、爵位の高さなどで入室する順番は変わってくると聞いているので、ミレイユ達が先に来ているのはおかしい事ではない。

 待つ相手はオミカゲ様、この国において誰も彼女を待たせる事は出来ない。

 

 どの席に座るべきかと迷っていると、上座に一番近い席へと誘導され、女官が恭しく座布団を指し示す。ミレイユはその指示に従って、非常に分厚い柔らかなそれに尻を置いた。

 アヴェリンやユミルなども同じ扱いで、最後にルチアも座らされると、奥から盆を持った女官が四人やってくる。

 

 そうしてミレイユ達へ、順次お茶と茶菓子を配っていった。

 待っている間、ある程度快適に過ごせるように、という配慮なのだろうが、それなら遅れずやって来いという気持ちになる。

 ミレイユの不満顔が明らかだったせいか、ユミルが苦笑して言った。

 

「……気持ちは分かるけどね。もしアタシが知ってるマナーが、この世界でも共通する認識の元で成り立っているなら、待たせるのもまたマナーだと思うわよ」

「……そうなのか?」

 

 ええ、とユミルは頷いてお茶に口を着けた。

 

「権威付けに箔付け……。くだらないと思うけど、権威ある世界に住む者にとっては、それが武器にも盾にもなるものだから。色々形式を変えつつ無くならないのも、そのせいでしょうよ」

「そういうものかね?」

「特に時間に関してはね……」

 

 ミレイユは困ったように額を親指で掻いた。

 

「昔は明確に分かったのが、日の昇り具合傾き具合しかなかったじゃない? だから目算で現在時間を計るワケだけど、個人の見方でズレが出るのよね」

「まぁ……、そういう事もあるだろうな」

「けれど、自分より明確に目上な相手を待たせても不都合が出るワケでしょ?」

「そうだな」

「じゃあ予定より早く待ってようと思っても、目上の人間が早めに来たら、それはそれで破綻するワケよ」

 

 ユミルが何を言いたいか分かって、ミレイユもようやく得心がいって頷いた。

 

「つまり、そういう行き違いを防ぐ為に生まれたのが、そもそも目上の者は明確に遅れてやって来る事だと、そう言いたいのか?」

「あくまでアタシが知るマナーの話ではね。権威付けにも丁度いいから、お互いに分かった上で待ち合わせるのよ。時間ってのは誰にとっても平等だしね、それを目上は一方的に奪えるってワケねぇ」

「なるほど……。それがつまり、箔にも繋がる訳か」

 

 多分ね、とユミルは笑って茶菓子を口の中へ放り込んだ。

 ここまで博識ぶりを発揮しておきながら、しかし作法など知らないとばかりに、ユミルは庶民的な身振り手振りで菓子を食べる。

 

 楽しそうに菓子を頬張る姿は、作法を知っていればまずやらない事で、作法に対して侮辱しているようですらあった。

 そして事実、ユミルはそういった作法をくだらない、蔑ろにしてやりたいと思っている。それは彼女が家名を捨てた事にも関係するのだが、今となってはどうでも良い話だった。

 

 それよりは眼前に迫ったオミカゲ様との会談に集中したい。

 そう思った矢先の事だった。

 

 ミレイユ達が入ってきた扉が開かれる。

 待たされたといっても絶妙な待機時間で、遅いと感じるよりも前の事だった。実際には十分と待たされていない。長くやっていれば、その待たせる時間もまた計算されているのかもしれなかった。

 

 オミカゲ様の姿はいつだったかの神御衣とは違い、随分と軽装に感じてしまう和服姿だった。

 旅館の女将というのとは違い、襟元も開かれ幾らか着崩してある。下品な程という訳でもないが、舞台上で映えるような姿だった。

 宝冠もなく、本日がプライベートな場だと窺う事が出来る。

 

 そのオミカゲ様が自らその手で持って、誰かの手を引いて入室して来た。

 まだその姿は見えない。手だけを見れば痩せて枯れ木のようで、そして何より皺だらけだった。こちらも白い和服の前袖と袂、そこから伸びる手だけが見えている。

 オミカゲ様はミレイユと目が合うなり悲しげに目を伏せた。

 

 それが何を意味するかも分からず、我知らず息を呑み込んで続く姿を待った。

 和服と思ったのは間違いなかった。しかしそれを正確に言うなら巫女服というのが正解で、そして本来なら朱色である筈の袴や掛襟の内側などが、紫色を使った意匠に変わっている。

 

 皺だらけの手がそうであったように、続いて見せた顔にも深い皺が刻まれていた。髪は総白髪で伏せた目からは何の感情も伺えない。

 オミカゲ様の手を引くに任せ、背筋を伸ばして慎重に足を進めている。

 

 老女の席は上座に最も近く、ミレイユの対面となる場所だった。

 この時すらオミカゲ様御自ら手を貸して座らせる。明らかに異常な厚遇に、ミレイユは眉を寄せる。単に高齢者であれば、誰でも同じ扱いをするという訳ではないだろう。

 

 オミカゲ様がそれだけの敬意を見せる相手で、しかもそれが巫女装束を身に着けているとなれば、思いつく名は大宮司という者しかいない。

 

 ――まさか、この老女が。

 ミレイユは目を細めて、大宮司と思しき女性の動向を窺った。

 



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御影会談 その3

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 彼女がそうなのか、という思いと、今にも倒れそうな細い身体は、本当にそうなのかいう思いとで揺れ動く。オミカゲ様がそれだけの誠意を見せる様子は、単なる友人知人に向けるものとは一線を画すように思えた。

 いつか結希乃が大宮司に対して、単なる宮司と一緒くたに出来ないと言っていた姿と重なる。

 

 オミカゲ様は女官に促されるまま上座へ座った。

 全員の姿を確認できる、長机の先端の席だ。彼女らにもミレイユたち同様に茶器が置かれていく。僅かな硬質な音だけが響く中、ミレイユは目の前の老女の顔が伺えないかと見つめていた。

 

 見覚えがある、という気がする。

 非常に身近な存在に。

 

 それを知りたいという思いと、知るべきではないという警告が身の内から生じた。脳裏に何かが思い浮かびそうになり、それを形にしようとしたところで、オミカゲ様から声がかかる。

 

 ミレイユはハッとして思考を中断し、オミカゲ様の方へ顔を向けた。

 

「……では、始めようと思うが……良いか? 心の準備は済ませていた筈であろう」

「勿論だ、既に済んでいる。だというのに、待たせたのはお前の方だ」

「それも然り。ではまず、遅れた言い訳をさせてもらうか」

 

 そう言って、オミカゲ様は傍らの老女へ顔を向け、手の平を向けた。

 老女は沈黙を続けたまま、丁寧な仕草で静かに頭を下げる。

 

「彼女が大宮司だ。御影日昇大社の宮司であり、また全御影神社の宮司を束ねる存在でもある」

「ご紹介に預かりました、大宮司の大職を預かっております、雪咲(ゆきざき)一千華(いちか)と申します。お見知り置き頂きますと共に、此度の不明をお詫び申し上げます」

 

 一千華と名乗った老女は頭を下げたまま、そう言った。

 何と返して良いものか迷っていると、きっちり五秒経ってから頭を上げる。その時、彼女と初めて目が合った。

 その瞳には様々な感情が揺れ動いているようであり、それは同時によく知った目と似ているようで困惑する。

 

 思わずルチアの方へ顔を向けると、彼女もまた食い入るように老いた宮司を見つめていた。

 一千華はルチアへ目を向けない。ミレイユをひたと見つめたまま謝罪の続きを述べた。老年の見た目に違わず、嗄れた細い声だった。

 

「此度発したわたくしの勅により、度重なるご迷惑お掛けした事、深くお詫び申し上げます。いかなる処分も受け入れる覚悟は出来ております、何なりとお申し付け下さいませ」

 

 そう言って、再び一千華は頭を下げたが、ミレイユは手を振って首も振る。

 あれはもうミレイユの中では終わった話だ。謝罪も処分も必要ない。ただ、どういう意図を持って行われたのか、それだけが気がかりだった。

 

「謝罪なんて不要だ。だが何故、強引にも思える手段で作戦へ介入したのか、教えられるならそれを持って詫びとしたいんだが、どうだろうか」

「それは我を思っての事であろうが……そうだな、説明は任せようか」

 

 オミカゲ様が堪りかねたように口を挟んできたが、一千華から無言の抗議めいた視線を受けて、素直に手を向けて譲る。

 

「オミカゲ様はああ仰って下さいましたが、全てはわたくしの思慮の浅さが招いた事でございます。貴女様の存在を知ったわたくしが、これ以上は捨て置けぬと判断し動いたまで。それが全てでございます」

「……フン」

 

 ミレイユは少し考える振りをして、それから鼻を鳴らして否定した。

 

「それは嘘だな。私の存在を知り、そして脅威と判断したなら、あの程度の戦力でどうにか出来ると思わない筈だ。それでも敢えて強行したというなら、別の理由がある筈じゃないのか?」

「まぁ……」

 

 一千華は虚を突かれたかのように目を丸くし、それから苦笑としか取れない顔を見せる。

 

「いいえ、浅慮だったと申し上げましたとおり、あれで十分だと考えたのでございます。貴女様はあの程度と仰りますが、当時投入された戦力は用意できる最大級のもの。決して侮って用意された戦力ではございません」

「では、それはいいとして、その真意はどこにあったんだ? 私達の実力の底まで見られなかったのは良いとして、捕らえてどうするつもりだった?」

 

 一千華はやはり苦い顔のまま、そこへ申し訳無さが交じる声で言う。

 

「本当はもっと穏便に済むと考えていたのです。戦力を見せつける事で、意図を掴んで投降すると考えておりました」

「よく知りもしない相手を、よく穏便に済ませられると考えたものだ」

「結界への出入りで、貴女様がたの存在は察知しておりました。そこから結界内の様子もまた、見る機会は多かったのです。そこから考えた結果、お互いの置かれた状況から最善を選んで頂けると、そのように想定したのでございます」

 

 一千華はそう言って、また頭を下げた。

 嘘は言っていない気がする。だが本当の、心の奥底に眠るものまでは曝け出していない気がした。

 今も熱心に一千華を見つめるルチアは、その眼に込める力が徐々に強まっている。信じがたいものを直視するようでもあり、また見たくないものを見せられているようでもある。

 

 ミレイユはそれを奇妙に思いながら、一千華が頭を上げたのを期に、続けて問うた。

 

「捕らえた場合の話を聞いていないぞ。そちらは?」

「そちらは単純です。オミカゲ様へお引渡しするつもりでした。貴女様は私のよく知る御方。そうするのが最善だと思ったのです」

「御子神だから、か……?」

 

 ミレイユが胡乱な視線を向ければ、一千華が事も無げに頷く。

 

「左様で御座いますね。……実を申しますと、貴女様の存在は現界された直後から気付いておりました。オミカゲ様にも報告しましたが、それと知りつつ放置するよう指示していたのもまた、オミカゲ様なのです」

 

 意外な事を言われた気がして、ミレイユは眉を上げて顔を向ける。そこには常にあるような平坦な表情で、話し続ける一千華を見ていた。

 

「ですが貴女様の行動は目に見えて活動を増やして来ましたので、何も知らせず、何も教えず隠匿を続けるのが難しくなってまいりました。今回の件に便乗して捕縛してでも話を聞いてもらおうと、そういうつもりでいました」

「力任せに言いたい事だけ言い、そして聞かせようと?」

 

 一千華は苦笑しようとした表情を、袂を上げて上品に隠す。

 

「そう言われると非常に暴力的な事態に聞こえてしまいますが、武力を見せれば対話の席に着くと思ったのです。何しろ、とにかく我の強い性格をしていらっしゃいましょう? 文を届けて日時を指定するようなやり方では、話すら出来ないと思ったのです」

「だが、結果としては逆効果で、私達は強行突破する事態となった」

「はい、ですから浅慮と申しました。全てはわたくしの浅慮蒙昧から生じた事態です。何卒、お許しを……」

 

 一千華が頭を下げようとするのを、ミレイユは鋭い声で止めた。

 

「そう何度も頭を下げようとする必要はない。見ている方も疲れてしまう」

「かしこまりました」

 

 そう言って一千華はおっとりと頷き、それを見たミレイユもまた頷いて、次いでオミカゲ様へ顔を向けた。

 

「勅が二つあったのは、お前も出したせいだと思っていいのか?」

「そなたが部隊を全滅させるような暴挙に及ぶ前に、それを止めるように指示を出したのだが……混乱は大層なもので、正確な意図が伝わらなかったようであるな。我が怒り狂っているように思ったらしい」

「それはまた……、何故?」

 

 オミカゲ様はミレイユへ顔を向けると、面白そうに笑みを浮かべた。

 

「御由緒家が総出で掛かって止められぬというのは、それだけの大事だと言う事よ。それで意思の齟齬が生まれた。何としても捕らえなければ面子が立たぬと思ったらしい」

「あの実力でか?」

「残念ながら、その実力でだ」

 

 オミカゲ様は苦々しい顔と共に息を吐く。

 ミレイユ達の実力を正確に把握しているのなら、その差は正に雲泥と言って良く、そして同時に忸怩たる思いがした事だろう。

 

 ミレイユ達との実力差は天と地だが、同時に疑問にも思う。

 オミカゲ様の私兵としては余りに頼りなく、そしてそれで満足しているというのも有り得ない。

 

 無論、個々の戦力というのは、磨けば際限なく上昇するものではない。だが、それを加味した上でも弱すぎる、というのがミレイユの感想だった。

 それとも、そこに何か理由でもあるのだろうか。

 

「ともあれ、今回の騒動の発端については、既に説明されたとおりである。そなたの傍若不遜な振る舞いから始まったとも言えるが、枷なく世を闊歩させた我にも全く責がないとは言えぬ。しばらくは好きにさせていようと思ったのが、そもそも間違いであったやもしれぬ」

「私達の存在を最初から認識していたのにか?」

「然様である。そもそも、それがそなたの望みであろうが」

 

 その指摘に、ミレイユは虚を突かれた気がして動きが止まる。

 強く意思を込めてその顔を窺うと、オミカゲ様は挑むような目つきで見つめ返していた。

 

 ――何を、どこまで知っているのか。

 そんなものは考えるまでもない。彼女は全てを知っている。ミレイユの予想が正しければ、むしろ知らない方がおかしい。

 間違いであってくれと思いながら、オミカゲ様の顔を睨み返す。

 

 彼女にとって、これは挑戦に違いない。

 先程の言葉を合図として、それを知らせる時が来たと告げている。

 

 ではまず、何から言うべきかを考えている間に、オミカゲ様は視線を切ってしまった。肩透かしのような気持ちでいると、一千華へ顔と手の平を向けた。

 

「此度の会談の話を聞いた時、彼女が是非参加したいと申して来た。理由も良く分かる故、その調整をしていたら殊の外遅くなった。……許せよ」

「ああ、そうか。……まぁ、いいさ。それについては理解した」

 

 そもそも会話の始まりは遅れた事の詫びと、その理由からと話されていた。

 やや強引な幕引きだったとも言えるが、しかし始めた話を、ここで終わらせたと明確に示した。

 

 一千華も頷く程度の角度で、小さく頭を下げて謝意を示す。謝罪の叩頭としては余りに小さいが、ミレイユに言われた事を反映した結果、ああいう形になったのだろう。

 ミレイユもまた頷く程度に頭を下げ、それで謝意を受け取ったという形に落ち着ける。

 

 これで最初の挨拶とも言えるジャブが終わった。

 本題はミレイユに対して振る舞われた暴挙ではない。法的観点からは、むしろミレイユは加害者なので、改まった謝罪は最初から必要としてなかった。

 

 本題からずれた話を持ってきたのは、そもそも最初にしなければ、もうどこにも差し込めむ余地がなかったからだろう。

 それは理解するが、しかし苛立ちが募る振る舞いであるのも確かだった。

 

 オミカゲ様の手中で転がされている気がする。

 本題があると見せかけ、しかしさらりと躱し、そしてまた匂わせた上で意識を逸らす。

 

 苛立たせ、冷静な態度を取らせないつもりでいるなら、それは間違いなく成功だ。相手の術中に嵌っているという自覚がある。しかし、その自覚がある内は、まだ大丈夫だ。

 

 それを冷静に見返し、対処する意思がある限り、完全な術中に嵌ったとは言えない。真の術中とは、その事を相手に気づかせない事だ。気づいた時には全てが終わっている。

 

 ミレイユは一度大きく深呼吸をして、それから改めてオミカゲ様に顔を向けた。

 そこには平坦な表情ではない、何かを期待する、そして挑むような視線が見える。

 

 ミレイユはこうして対話する場が設けられたら、まず最初に何を言うかずっと考えていた。聞きたい事は沢山ある。魔物の存在、結界の理由、オミカゲ様として日本に君臨する是非。

 色々あるが、まずその大きな間違いを正す事から始めるべきだと思った。

 

「オミカゲ様、お前の正体について聞きたい」

「知っている筈であろうが」

「そうだな。まずお前は母神でもないし、そもそも私を生んでいない。裁判で言った事は全て嘘だ。――そうだろう?」

 

 黙って控えていたアヴェリン達から、動揺する気配が伝わった。

 



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御影会談 その4

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 オミカゲ様は肯定も否定もしなかったが、大いに満足そうな顔を見せた。

 ミレイユは鼻を鳴らして不快感を顕にすると、ユミルも同様に呆れた声を出した。

 

「……まぁ、何かあるんだろうとは思ってたけどねぇ。まさか、お偉方を集めておいたあの場で、盛大な嘘をぶちまけていたの? 何の為に?」

「利のない事をする奴でもないだろう。ならば当然、何か理由がある事になるが……」

 

 ミレイユがねめつけると、オミカゲ様は眉を下げる。困惑とも哀れみとも違う、慮るような視線を向けてきた。

 

「流石に理由は分からぬか?」

「盛大な詐欺をしたかった理由など分かるものか。精々、私を自分の身内に取り込む為だとか、そしてそれを正当化させる為に周知させたとか、その程度の目的かと思ったが……」

「間違いではない。そなたを私の御子だと周知させる事には意味がある」

「そうとは思えない」

 

 ミレイユが吐き捨てると、オミカゲ様は語気を強めて言った。

 

「あるとも。――そなたの為だ」

「私の? ……あぁ、私の身柄が宙に浮いた状態だと困る訳か。どこか勝手に他の組織に取られても、あるいは勝手に興されても困るものな」

「そう拗ねた物言いをするでない。理由は至極単純、そなたらを護りたかったからよ」

 

 そう言われて、怪訝な視線を向けたのはミレイユだけではなかった。アヴェリン達もまた、同様に怪訝とも懐疑とも取れる視線を向けている。

 

「何から? 悪の秘密組織か? それとも海外の諜報機関か?」

「制度、あるいは常識からだ」

 

 ミレイユの懐疑の眼差しが強まるが、それを無視してオミカゲ様は続ける。

 

「実際、我が御子としての立場はこの国で暮らすに、実に有利に働く。なに不自由なく暮らせ、ある程度自由に振る舞える。国籍を持たないという身分も、これで解消されるし、必要なら個人を証明する何かを用意してやってもいい」

「不自由がないとは良く言ったものだ。今現在、私はあまり自由とは感じてないがな」

「何もかも自由に振る舞うという訳にはいかぬ。しかし働くに働けず、金銭を得るのに困窮していた時から考えれば、随分恵まれた環境であろう」

「大人しく飼われるくらいなら、地を這ってでも生きる方を選ぶさ」

 

 ミレイユが突き放すように言うと、それへ同意するようにアヴェリンが大きく頷く。アヴェリンがミレイユを見つめる眼差しには、尊崇の色が混じっていた。

 オミカゲ様はミレイユを悲しげに見つめ、それから小さく息を吐く。

 

「そうさな……。そなたならば、そう言うか……。良かれと思ったが、余計な事だったやもしれぬ。我は何も単に身分の保証、生活の保証を確保したと言いたい訳ではない。言語伝達の補佐とて同じこと」

「――言語の補佐?」

 

 聞き咎めて、ミレイユは咄嗟に割り込んだ。

 

「電線に魔力を流して、それが翻訳作用の働きをしていると思ったが、やっぱりお前がそれをしていたのか?」

「そう、言葉が通じぬでは不便であろう。気を利かせたつもりだったのよ」

「その為だけに、あんな大掛かりな真似をしたのか」

 

 呆れた声で呟くと、それには静かな否定として返ってきた。

 

「大掛かりという程の事ではない。一度システム化すると、そう面倒なものでもなくなる。あくまで余波を利用したものであるしな」

 

 そう言ってから、オミカゲ様は神妙な調子で首を左右に振る。

 

「また話が逸れた。――我が御子として定めた一番の理由とその恩恵は、我との対面が容易く叶うという事であろうな」

「なるほど、確かに簡単じゃない。チケットを買わなければ、お前は会えない相手だものな」

 

 ミレイユの軽口に、オミカゲ様は肩を震わせて笑う。

 

「正しくそのとおり。我としても、そなたと会って話さねばならないと思っておった。しかし、それには身分が邪魔をする。単に顔が同じ相手を通すほど、奥宮の壁は低くない」

「だが……たかが、そんな事の為に?」

 

 到底信じられない事を聞いた思いで、ミレイユは顔を突き出すようにして、オミカゲ様へと顔を向けた。

 

「ただ対面して話す機会を作る為に、あんな大袈裟な事をやったのか? 御由緒家や他の名家、神宮勢力を集めて、神明裁判なんてものを開廷させたのも?」

「そう、そなたと誰憚る事なく会う条件を作る為だった。そなたが会いたいと言う、あるいは我が話したいと言えば、女官が万事取り計らってくれよう。誰でもないそなたが押しかけたところで、神宮勢力が迎え撃つだけ」

「……密談という方法もあったんじゃないのか?」

 

 ミレイユは苦し紛れにそう言ったが、実際それは無難な解決方法に思われた。

 何も信頼する部下たちを騙してまでやる必要はない。何かしら密かに会う機会など、権力者にとっては珍しい事ではない。隠す手段とて、無数にあって然るべき筈だ。

 

「無論、あったとも。だが、それではいつまで経っても、そなたから懐疑の目は晴れぬであろう。懐に入れ、曇りなき眼で見定める機会を設ければ、いずれ晴れると確信しての事だった」

「……どうだろうな。私は今の台詞で、なお懐疑の目を強めたが」

「それならそれで構わぬ。見続ける事で見えてくるものもあろう。最終的に理解してくれれば、それでよい」

 

 悠長なことを、と馬鹿にしながら、オミカゲ様から向けられる慈愛の籠もった視線から目を逸らす。

 ――気に入らない。

 何もかもが気に食わなかった。それが子供の稚気のような癇癪めいた感情だと理解しつつも、眼の前の神を気取る存在を認める気にはなれなかった。

 

 オミカゲ様は視線が合わない事を気にもせず、そのまま続ける。

 

「現世で憂いなく過ごして欲しいと思ったまで。……それが例え、僅かな間でも」

「憂いなく、ね……」

 

 その憂いを生み出した元凶が良く言ったもの、そう口に出そうとしたが、オミカゲ様と目が合ってしまって、急遽口を閉じた。

 実際、嘘を言っていないのは確かだろう。発言自体が本音である事も理解できる。しかし、それでもミレイユにそれを受け入れる気概が持てなかった。

 

 彼女が本当にミレイユの母だったなら、それも考慮できただろう。

 ――しかし、違う。

 オミカゲ様が嘘を吐いたという不信感から言うのではなく、単に信じたくないという気持ちばかりが先行して、そのせいで素直になれないのだ。

 

 言葉に詰まったまま視線を逸したままにしていると、そこにユミルが口を挟んできた。

 

「保護目的だろうと、対面が簡単になるんだろうと、何だっていいけどね。……結局アンタは何なのよ。何がしたい――いいえ、何者なの?」

「ソレから聞いておらぬのか」

 

 オミカゲ様がミレイユに向かって顎をしゃくったが、ユミルは肩を竦めて両手を上げた。

 

「何か知っているようだったけど、話してはくれなかったのよね。この場で明らかになるんだろうからと、今日まで待っていたけれど……。流石に、いい加減教えてくれてもいいでしょ?」

「良いだろう」

 

 オミカゲ様は神妙な顔付きで頷くと、ユミルからミレイユへ視線を移す。

 

「私はミレイユの未来であり、過去であり、そして現在(いま)である」

「なんで神を名乗る輩っていうのは、物事をスッパリ言えないのかしらね……。謎掛けめいた問答は、もう十分間に合ってるのよ」

 

 ユミルは大仰に溜め息を吐いて、人差し指をオミカゲ様へ向けた。

 

「で、アンタは誰なワケ?」

「――私だ」

 

 ユミルの詰問に答えたのはミレイユだった。

 慚愧に堪えないといった表情で、オミカゲ様を見つめながら続ける。

 

「いまアレが言ったとおりだろう。この先の未来で私は過去へ渡り、そしてこの現代まで神を名乗って生きてきた。……そういう事なんだろう?」

「細部については大きな認識の隔たりはあろうが、正解だ。そのとおり、何故そのような答えに辿り着いたか、聞いても良いか?」

「白々しいぞ。幾つもヒントを置いておいて、今更分からない訳ないだろうが」

 

 吐き捨てるように言ったミレイユだったが、それに待ったをかけたのはアヴェリンだった。

 

「お待ちを。……本当に、本当にここにいるオミカゲ様と名乗る者がミレイ様だというのですか? ミレイ様の未来の姿だと? 何かの間違いではなく?」

「アタシも正直、嘘だと思いたいけどねぇ……。どうも本人同士は、それと認めちゃってる感じなのよねぇ」

「神宮に入ってからこちら、頭を悩ませている風だったのも……何かに気付いたように見えたのも分かっていました。それがこれだったと?」

 

 ミレイユが無言で頷くと、それぞれが唸って黙り込んでしまった。

 到底信じられない、とその表情が物語っている。

 それも当然だろう。似た顔だと前から知っていたとしても、それで実は同一人物だったなど、それが過去に渡ったミレイユだなどと、素直に受け入れられる訳がない。

 

 俯向けていた顔を上げて、難しい顔をしたままのアヴェリンが問う。

 

「……ヒントと言うのは? 私達の知らぬ間に接触があったという事でしょうか?」

「いいや、そういう意味じゃない。それとない誘導はあったのかもしれないが、明確に露わにしてきたのは神宮に入った時からだ」

 

 入った時、とアヴェリンは口の中で単語を転がして、考え込む仕草を見せる。それから幾らもせずに顔を上げ、眉根を寄せながら言った。

 

「鳥居を潜った時の事ですか? マナの生成地であると判明したあの時……」

「材料の一つにはなったかもしれないが、それだけで判るものじゃない。――思えば、今日の会談の為、この話に誘導する為、予め用意してあったんだろう」

「一つも見つけられないとは思っておらなんだが、一つでも多く見てもらう為、複数用意し導線を引いておいた。自分自身にのみ気付く形であったから、他の者には分かるまい」

 

 オミカゲ様がアヴェリンを取り成すように言っても、彼女の表情が晴れる事はない。一つでも分からなければ、まるで自分の忠誠を疑われるとでも言うように、その眉間に皺が寄っている。

 そうして捻り出した考えを、僅かに上気させた顔で発した。

 

「……では、あの八房と呼ばれる精霊は? ミレイ様へと馴れ馴れしく鼻面を押し付けて来たアレは!」

「あぁ、あれはまさしく決定的だったな。八割、あるいは九割の懐疑が、それで確信へと変わった」

 

 アヴェリンは明らかにホッとした顔付きで問いを重ねる。

 

「では、あのとき自己紹介されたと申されていたのは……」

「うん、あれは八房自身の自己紹介だ。自分が何者か、という内容の」

「神狼を名乗る精霊? そんな存在、アンタの身近にいた?」

「千年を経て、そう名乗るようになったというだけだろう。だから、それとは別に考えるとして――私が召喚できる精霊で、犬の形を取る奴がいたろう?」

「フラットロ……?」

 

 アヴェリンが呆然と見える口調で言うと、ミレイユは頷く。

 精霊は時として長い年月の間でその姿を変える事がある。小精霊から大精霊へと成長した場合が顕著で、それ以降は大きな変化はないとされる。

 

 例えば角を持つ姿なら、その角が立派に成長していくという変化はあるものの、姿を大幅に変える事はない。見違える、と言える変化があるのは、大精霊へと成長した時だけだ。あとは精々、マナを身の内に取り込むにつれ身体が大きくなるくらいだった。

 

 尾が八つある事については分からないが、その尾の先に炎を灯らせて見せたのも、自分の正体を察知させる為だったのだろう。二人といない筈のミレイユがいて、それで威嚇したというのも事実かもしれないが、すぐに気付いて甘えるように鼻面を当ててきた。

 

「そう、鍛治の手伝いをよく頼む、あのフラットロだ。そして自分が何者かを伝えてくれた。……あれもお前がよこしたのか?」

「それは少し違う」

 

 オミカゲ様がする否定の返事へと視線を移した時、部屋が唐突に影に覆われる。巨大な雨雲が日を遮ったとも思えず、そちらへ顔を向けると、狼園で見たあの神狼が縁側に足をかけているところだった。

 

「――来たか、八房」

 



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御影会談 その5

 オミカゲ様が顔を向けるのと同時、縁側にかけた足が前に出て、遂にはその巨体が部屋の中へと入って来てしまう。

 元より天井の高い部屋でもあるので、八房が入ることに問題はないだろうが、それで一気に部屋の中が狭くなった。見守るしか出来ずに黙ったままでいると、丁度空いているオミカゲ様の後ろのスペースで丸くなり、その場で寛ぎ始めてしまった。

 

 オミカゲ様が咎めないので、誰一人それに文句を付けられない。それをいい事に、尻尾の一つをオミカゲ様へと向け、その身を包み込むようにして持ち上げ攫ってしまった。

 そのまま腹の辺りへ置くと尻尾から解放する。オミカゲ様も慣れたものなのか、そのまま腹を背にして巨大クッション代わりにするようだ。

 置き去りにされた座布団を魔力を制御して取り寄せると、自身もまた寛ぎ始めた。

 

 この様子を見れば、この部屋自体が八房を迎える為にあったのだと判る。

 あまりに高い天井も、広く開けられた縁側も、八房が来ることがあればいつでも招けるようにという配慮なのだろう。

 

 八房はひた、とミレイユへ双眸を向ける。

 しばしの間、その視線が交差して、何を思ったのかミレイユまでも尻尾で攫おうとした。しかし、それをやんわりと止めたのはオミカゲ様だった。

 手を挙げるだけの動作で尻尾が止まり、左へちょいちょいと動かすと、そのまま大人しく下げてしまう。

 その様子を見て、すっかり毒気を抜かれたミレイユは、疲れた溜め息を零しながら問うた。

 

「いずれ、あの小さなフラットロがこうなるのか」

「そうなる」

 

 オミカゲ様がその毛皮を撫でているのを見て、次いで畳へ目を向ける。部屋に入ってきた時にも思ったものだが、どこにも焼け跡が残っていなかった。

 

「何か防護でもしているのか? 触れれば立ち所に燃えてしまう筈だが」

「それは小精霊だった時の話。大精霊になれば、その辺の制御が上手くなる」

「……そうなのか。それにしても大きいな、今は私の腕の中に収まる大きさなのだが」

「これでも小さくしている方である。体積を尾の方へ回しているのでな、だから八つも増やす事になってしまった」

 

 ミレイユは眉を顰める。

 大きく姿を変える事のない精霊が、わざわざそのような面倒事をするとは思えない。部屋の中に入る事は出来なくなるだろうが、そもそも住処は精霊界だ。大きいことが不利にはならない筈。

 その考えが顔に出ていたのか、オミカゲ様は先読みするかのように言った。

 

「八房はもう、我と契約している召喚精霊ではない。この地と契約する精霊である。霊脈をマナに変換する役割を持ち、またそのマナで現界する精霊故な。だが、それで取り込むマナが殊の外大きく、不便な大きさを解消する為、尾の数を増やしていった」

「随分と義理堅いんだな、契約が切れても傍に寄って来るのか」

「友である故にな。そうであろう、八房?」

 

 オミカゲ様は顔を上げ、八房の頭に向けて手も挙げたが、フシッと鼻から息を出すだけで見向きもしない。オミカゲ様は苦笑して、挙げた手を程々に降ろして腹を撫でる。

 

「照れておるのよ」

「どうでもいいが、そんな事は。じゃあ、あの時……お前が八房を仕向けた訳ではないのか?」

「うむ……、それはこの八房が勝手に動いた。我と同質の存在を察知して、その確認に動いたようだ。だから次いでと思って、止める事なくそのまま行ってもらった」

 

 ミレイユは溜め息を吐いて腕を組む。

 精霊は気紛れな存在だが、時として絆を育み、召還主へ異常な執着を見せる事もある。そういった場合は大抵、召還主と切っても切れない関係になるもので、契約を切るような事はしない筈。

 

 説得の結果かもしれないが、それも互いの絆が深ければ出来ない事だろう。

 感心とも呆れとも取れない感情を持て余していると、そこにユミルが顔を向けてくる。

 

「じゃあ他に気付いた点ってどれ? やっぱり刀かしら」

「……ああ。そうだな、それだ」

「実に分かり易かったであろう。興味本位で入れば、まずそれと気付くと確信しておった」

 

 そうだな、とミレイユは忌々しく思いながら同意する。

 

「あれは私の付与術とよく似ていた。現世に来てから外で見せた事がない以上、真似した誰かも存在しない。ならばそれは誰の作だ、と考えればピースがまた一つ埋まる」

「また一つっていう事は、まだ他にもあるの?」

 

 ユミルの疑問に首肯して、指を一本立ててはオミカゲ様を示す。

 

「こいつの名前があったろう」

「ああ、はいはい。ミカゲなんたら……」

「アレに私の本名が隠れている。いや、隠れているというのは適当ではないな。漢字と呼び名が違うから音だけ聞くと分からないが、見る者が見れば直ぐに分かる。つまり、あの名前――御名と呼べばいいのか? あれは箔付けのでっち上げだな?」

「然様である。過去……遥か昔の事だが、名を聞かれて……考えた末に自分で着けた名だ。まさかミレイユと名乗る訳にもいかぬ故にな」

「――ちょっと待って」

 

 ユミルが手を挙げて二人の会話に割り込んだ。

 その表情には若干の苛立ちが見える。その矛先はオミカゲ様ではなく、ミレイユの方だった。

 

「本名って何よ? ミレイユが本名じゃないって意味じゃないでしょうね?」

「そうなのですか、ミレイ様?」

「ミレイさん……?」

 

 ユミルばかりではなく、他の二人も参戦してミレイユへ詰め寄ろうとする勢いだった。

 拙い事になったな、とミレイユは内心で冷や汗を流す。言う機会がなかったのと、そもそも訂正する必要もなかったので流して来たが、確かにミレイユは本名ではない。

 

 特にこの三人は信頼する仲間であり、家族同然の存在でもある。

 相手もそのように思っていただろうに、名を預かっていなかったという事実は相当に堪える筈だ。名前を告げるというのは、簡単な事ではない。多くの種族は、名前には力が宿ると考えているから、本名を相手に教える事は同時に信頼を現す事に繋がる。

 

 アキラと始めて会った時、誰もフルネームを教えなかったのがその証拠だ。

 それぞれ理由は異なるものの、名乗らないという選択だけは同じだった。

 

 しかし、ここに来て本当は名を預けてもらってなかったと判明するのは、実は信頼していなかったと告げるに等しい行為だ。裏切りだと思われても仕方がない。

 

 ミレイユはどうにか乗り切る方法はないかと冷や汗を搔きながら、必死に頭を働かせた。

 

「嘘は言っていない。この身体に付けられた名前は、間違いなくミレイユだ」

「じゃあ、あの長ったらしい名前の、どこにミレイユがあったのか言ってご覧なさいな」

「いや……」

 

 思わず口籠ったミレイユに、ユミルの瞳が鋭くなる。アヴェリンやルチアなどは、すっかり失意の表情を見せていた。

 ルチアに――エルフにとって、名を預ける相手は対等の相手と認めた証でもある。自分が伝えたから相手からも預けられて当然、とはならないものの、大抵は認め合った仲だから預けるのだ。

 それをここに来て嘘だと分かれば、悲しむのも当然だった。

 

 ミレイユが言葉に窮していると、助けは意外なところからやってきた。

 それまで何一つ会話に参加してこなかった一千華が、その袂に手を入れて、中から一枚の札を取り出す。十センチほどの長さで厚みを持つ札で、そこにはオミカゲ様のご尊名が書かれていた。

 

 御影豊布都大己貴神(みかげとよふつおおなむちのかみ)――。

 

 その太めの筆書きで記された名に、骨と皮しかないような指を動かして示す。

 

「その名は漢字の中に隠れておりますよ」

 

 そう言うと、影の漢字に指を当てる。

 

「この右側、部首の(さんづくり)、ここから逆に見ていくのです。そうすると、これがミに見えますでしょう?」

「……そうね」

「次に景のした部分、京の真中に(れい)が見えます」

「……ちょっと苦しくない?」

「そして御。この右側に(ふしづくり)、逆から見て傾ければユのように見えます」

「……相当苦しいわよね?」

「これにて、オミカゲ様の御名に()()()()の文言が含まれている証明が出来ました」

 

 ユミルが札に書かれた名前を何度も見返し、それにつられるようにルチアも御影の文字を矯めつ眇めつする。

 十秒以上そうした後に、お互いに目を合わせた。そして渋い顔で顔を横に振った。

 

「いや、ないです。駄目です。ちょっと認められません」

「特に最後の傾けるっていうのは意味不明よ。あからさまにこじ付けじゃない。それがなければ考えても良かったけど……」

 

 ユミルの指摘はごく真っ当なものだったが、それを無視して、ミレイユは身を乗り出しては一千華の手を取った。

 相手にどういう意図があろうとも、この機会を逃せば、他に気の利いた弁明など出てこないだろう。この嘘に全力で乗っからなければならない。

 

 ミレイユは乱暴にならないよう、十分に加減して握った両手を上下に振る。

 

「よく見てくれた。あらぬ疑いを晴らしてくれて礼を言う」

「とんでも御座いません。お役に立てたなら望外の喜びです」

 

 そう言って柔らかく笑む一千華を見て、ミレイユもまた相好を崩した。

 だが同時に、今更ながら疑問に思う。

 

 大宮司という身分が、どれほどの高みにあるものなのか、ミレイユは知らない。結希乃に取調室で聞いた話から考えると、相当高い身分であるとは予想がつくが、かといって、このような機密性の高い場に残れるとも思えない。

 

 謝罪が目的だというなら、それは既に叶った筈だ。

 ミレイユからも許しを得て、それで話は終わった。本来なら、その場で退席して然るべきだった。しかしオミカゲ様はそれを無視するかのような扱いで、話を進めてしまった。

 

 まさかこれを見越して残していたとも思えないので、残したからには別の理由があるのだろう。

 ミレイユは一千華から手を離し、乗り出していた身体も戻す。その際ちらりとオミカゲ様へ視線を向けてみても、彼女の退席を促すような姿勢は見せない。

 

 彼女の身分と謝罪以外に、この場に留まる理由があるのだ。

 それを頭の片隅に残しておきながら、横から刺すように向けられた視線を努めて無視する。三対の視線がミレイユの頬を刺しては戻り、戻っては刺してきて、我慢出来ずに顔を向けた。

 

「信じていいのですよね?」

 

 懇願するかのように言ったのはアヴェリンだ。

 ユミルは拗ねるような目線、ルチアは哀しむような表情をしている。ミレイユは断腸の思いで頷き返した。

 

「私は誓う。この身に刻まれた名前は、間違いなくミレイユだと。決して違わず、真実を述べていると誓う」

 

 断言して見せると、アヴェリンは安心しきった表情で息を吐く。

 ユミルは未だ納得するような表情を見せてはいないが、それでも懐疑の目だけは向けなくなった。ルチアもまたアヴェリン同様、ホッと胸を撫で下ろしていた。

 

 実際、嘘は言っていない。

 ミレイユはこの身体の名前である事に偽りはない。ただ、魂の名前が御影豊だと言うだけで、決して嘘を言った訳でも、誤魔化しを言った訳でもないのだ。

 

 そもそもこのミレイユという名前も、初めて名乗る時に本名たる御影豊(みえいゆたか)と言い切れなかった事に端を発する。

 あまりに日本人的名前を、この姿で名乗る事に違和感を感じ、途中で名乗りを不自然に止めた結果、「みえい、ゆ……」となってしまった。

 

 それで『ミレイユ』という名前だと誤解されたのだが、怪我の功名とでも言うのか、むしろこの身に良く合う名前だと思って、訂正する事なく今に至る。

 だからこの身体の名前がミレイユというのは、決して間違いではないのだ。

 

 ――乗り切った。

 多少居たたまれなさを感じつつも、そうと分からぬように胸を撫で下ろす。いらぬ失言で、とんでもない事になるところだったが、一千華の助力でどうにか大事に至らず済んだ。

 

 ミレイユは視線を感じて、ちらりとそちらへ顔を向ける。

 その時のオミカゲ様の表情と来たら、まるで面白い見世物でも見せられたかのようだった。殴りつけようとする己の拳を、必死の自制心で止めなければならなかった。

 

 そうして、含み笑いを隠そうともせず、オミカゲ様は話を戻そうとする。

 

「ともかくも、我が名を見て、確信に至るピースがまた一つ埋まった訳か」

「……あぁ。あぁ、そうだ。お前の正体は、それら様々な要因から推測する事ができた。――だが、ちょっと待て。お前が私なのはいいとして、その妙な話し方は何なんだ?」

「聞く意味ある質問ではなかろう」

「確かに、好奇心以上のものではないが……」

 

 オミカゲ様は小さく笑う。己に対する諦観するかのような笑みだった。

 

「知れた事よ。神が軽薄な話し方をすると威厳を失う。現世で神をやるには、相応の苦労がある」

「それは……本当か? ふざけて言ってるんじゃないよな?」

「無論の事。娯楽にしても同じ事よ。観劇も推奨されぬ、昔は歌舞伎も見るべきものではなかった。今では逆に観て欲しいもののようだな。歴史ないもの、浅いものには触れさせて貰えぬのよ」

「……神なのに?」

 

 オミカゲ様はミレイユへ、儚いものを見るような視線を向けた。

 

「人の理屈も分かるでな……。神へ近づけるものは、それ相応の格が必要だと」

 

 ミレイユは何と言って良いか分からず声に詰まる。

 慰めの言葉を言うのも違う気がして、沈黙のまま、ただじっと視線を見返す。そうすると、オミカゲ様は表情を平坦なものに戻して話を戻した。

 

「ともかくも、そなたは我がミレイユであるという確信を得るに至ったわけか」

「そうだ。だが同時に、何故という疑問は解消できなかった。何故そのような事態に陥ったのか。何故そうする必要があったのか。――ここに来て、もう隠す意味はないだろう。教えてくれるんだよな?」

 

 オミカゲ様は疲れを滲ませる溜め息を吐いて、神妙に頷いた。

 

「……そう。それこそが本題。千年待つに至った話を、これから聞かせよう」

 



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御影会談 その6

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 オミカゲ様は無聊を慰めるように手を動かし、八房の見事な毛並みを撫で始めた。目を閉じ、その手が何度となく往復した後、ようやくその目を開く。

 

「前から話す内容は決めておったつもりであったが、いざ話そうと思うと難しいものよ……。まず、何から話したものか……」

 

 そう言って視線を天井に向け、また黙ってしまった。

 ミレイユはそれを辛抱強く待つ。事ここに至って、急かした所で仕方ない。

 

「そうさな……、最初は魔物について話そうか」

「魔物……あちらの世界の生物だ。それがこちら側に流れてきている、という認識で良いのか?」

「それで間違いない。ただ、こちらではあれを『渡鬼(わたりおに)』と呼称しておる故、他の誰かと話す際には留意せよ」

「魔力を理力と呼ばせているように? もしかしてだが、魔術も理術と呼ばせているのか? ……何のために?」

 

 ミレイユは一応聞いてみたが、その内容は凡そ理解していた。

 オミカゲ様と呼ばれ神を演じているように、ハッタリを利かせるには有効だったからだろう。神の扱う力が魔力という名前では都合が悪い。だから呼称を変更する事にした、という具合に。

 

「単に耳馴染みが良く、当時としてはそちらの方が分かり易かった。ただ、それだけの事だった。魔物や魔力と言っても分かりづらい。魔物というより鬼と言う方が理解も速かった」

「理力もか? 神術の方が分かり易そうなものだが」

「それだと人が使える道理がない。神と人が同列に置かれる事にもなってしまう。……まぁ、言葉遊びよ。時代によって変わって行くものでもある」

 

 ふぅん、と気のない返事をして、ミレイユは頷く。

 そこは別にどうでも良かった。そもそも最初は魔物からという話だったのだ、余計な事を聞いて横道に逸らしてしまった。

 

 ――どうにも余計な事ばかり聞いてしまう。

 これ以上話が逸れるような事は聞かないようにしよう、と思いながら、ミレイユは話の続きを促せば、一つ頷いてオミカゲ様は言う。

 

「さて、魔物が何故こちらの世界に現れたと思う?」

「お前が呼んだせいじゃないのか」

 

 ミレイユが鼻を鳴らし、視線を逸らす。

 実際のところ、ミレイユはその説を既に間違いだと切り捨てているが、しかし予想に反してオミカゲ様は頷いて見せた。

 

「間違いではない。だがより正確に言うならば、呼び込んだのはそなたである」

「……どういう事だ?」

 

 ミレイユは鋭くオミカゲ様へと視線を戻す。

 アヴェリン達もまた、謂れのない中傷に剣呑な気配を見せた。ミレイユ達が魔物を呼び込んだ、などという事実はない。だが、ここで嘘を言う理由も、下手に貶す理由も、オミカゲ様にはないだろう。

 

 そう考えると、もしかして、と思える予想が頭をよぎった。

 一番最初、魔物に遭遇した時、あるいはと思った事がある。それは――。

 

「私が世界を渡ったからか? そのせいで、何か不都合な事態が生まれた……?」

「――然様」

「ちょっと待ちなさいよ」

 

 オミカゲ様の首肯を見て、即座に反対したのはユミルだった。

 

「あの孔だって、ここ数ヶ月で始めて生まれたものじゃないでしょう? 私達が初日、あのゴブリンを倒した時には、それを調査しに来た何者かがいた。結界だってそうよ、初めてのものに対処するには出来すぎた代物だった」

「ミレイさんが発端とするには、ちょっと無理がありますよね」

 

 ルチアもまた同意すると、全員がオミカゲ様へ懐疑の視線を向ける。

 だが、そこには平坦な表情で見返す視線だけがあった。

 

「事態はそう単純な事ではない。――というより、過去に渡った事が、事態を複雑化させた。そして、()()()()が現世へ帰還した事が原因で、魔物が現れるようになったというのも、また間違いではないのだ」

「それだけではサッパリ分からん。詳しく説明してくれるんだろうな?」

 

 無論、と短く返事をして、オミカゲ様は続ける。

 

「そもそも何故、孔が生まれると思う? ――あの世界から逃げ出した、ミレイユを連れ戻す為だ。その為に幾度も、幾度でも孔を開けては虎視眈々と狙っている。だが孔は小さく、また一度に開けられる数も少ない。だから、これまでは水際対策が保たれていた」

「私を……連れ戻す? あの『機構』を使ったせいか? そんな馬鹿な……!」

「受け容れよ。それが事実である。そこを認めてこそ、話が始められる」

「そんな事……! そうですか、なんて頷けるものか」

 

 ミレイユは強く睨んでオミカゲ様の言葉を否定した。

 大体、それだと分からない話が幾つもある。辻褄が合わない事が、頭の中で幾つでも思い浮かんだ。

 

「連れ戻す? そもそも誰がそんな事を? それに使う魔物がゴブリンだの、トロールだの、まるで意味がない。そんなものを出して私を捕獲できるか? 孔は何故すぐ閉じる? 大体、孔は私が来るより前からあるだろう!」

「随分と聞きたい事が多い。……だが答えよう。連れ戻そうとするのは十二の大神、魔物が弱いのは今だけで、孔を拡大する為に小さいものから送り込んでいるに過ぎない。孔がすぐ閉じるのは結界で覆って座標を誤認させているせいだが、向こうからすれば開ける事自体に意味があるからだ」

 

 矢継ぎ早に言われてミレイユは混乱する。

 情報が氾濫していて整理しきれない。意味があっても理解できず、そのまま全て右から左へ流れてしまった。

 そこへ非難するようにユミルが咎める声を上げた。

 

「もっと分かるように言いなさいな。そんな次々と言われたんじゃ、到底理解できないわ」

「次々と質問してきたのはミレイユであろうが……しかし、少々意地悪であったな。……うむ、順に答えよう」

 

 オミカゲ様がそう言うと、ユミルも頷き素直に引き下がる。

 ミレイユは既に、疲れがどっと肩に乗し掛かっているように感じた。このような話になるとは思っておらず、最初は精々その正体みたり、と指を突きつけるぐらいのつもりでいた。

 

 こんな事になると知っていたら、きっとミレイユは早々に逃げ出していただろう。

 そんなミレイユの気持ちを知ってか知らずか、オミカゲ様は続ける。

 

「まず、そなたを逃したと歯噛みした――かどうかは知らぬが、連れ戻そうと考えたのは十二の大神である。それ故、そなたが現世に現れると共に孔が生まれ、そこから魔物が出るようになった」

「孔が生まれた原因については、とりあえず納得しよう。しかし、何故十二の大神がそれを望むんだ」

 

 この質問には素直に答えなかった。

 ただ、意味が深そうな視線をユミルに向け、受けたユミルは知らぬ振りをして顔を逸らした。オミカゲ様は何事かに納得するように頷き、そして続ける。

 

「それについては後で話そう」

「後だと? 説明する為に話してる筈じゃないのか」

「物事には順序というものがある。そちらの方が理解も早かろう。今は捨て置け」

 

 そのように言われてはミレイユも強く言えない。

 ユミルの方へ顔を向けても正面を向いたまま、こちらに視線も向けてこない。何かを知っていたとしても、言わなかったのはお互い様。追求するような事は出来なかった。

 

「……まぁ、いいさ。では、魔物は? 連れ戻したいと考えてるなら、もっと強いものを選ぶだろう。あれではあまりに弱すぎる。とても本気とは思えない」

「そうであろうな。本気ではないのだから」

「どうしてそうなる? 言ってる事がおかしいだろう。連れ戻す為に兵を送り込んでいるんじゃないのか?」

 

 オミカゲ様はゆるく首を横に振った。

 

「まず孔が小さいというのが問題でな。強いものを送りたくとも、小さくては通れぬのよ。だから弱いものから送って、その孔の拡大を図っておる。いずれ送る本命の為にな。……最近、その魔物の強さが増しているのを感じた事はないか?」

「それは……確かに」

 

 最初はアキラも魔力なしで戦えるような敵がいた。

 それがついにはトロールが出るようになり、アキラには戦力外通告を出した程だ。そして今ではインプ程度の魔物はすっかり見なくなり、そしてトロールが最低基準になりつつある。

 

 それを考えれば、孔の拡大が進むにつれて、強い魔物が出やすい状況になっていると考える事はできる。

 

「つまり、最終的にドラゴンのような強大な魔物を送り込み、打倒した私を連れ去るのが大神の目的という事か? それとも神が乗り込んでくるつもりでいるのか?」

「乗り込むつもりはないであろうな。そもそも神は世界を越えられぬ。これは摂理の問題で、やる気や能力とは別の問題だ」

「そう……なのか?」

「神は信仰を得る事で力を得るが、同時に信仰に縛られるものでもあるのよ。世界に根を下ろすと言い換えも良い。だからもっとも手っ取り早い、神の手に寄る奪還は出来ない。――だから、こんなまどろっこしい事をしておるのだろう」

 

 最後の台詞は、まるで吐き捨てるかのように強い語調だった。

 実際、忸怩たる思いもあるのだろう。オミカゲ様の表情には強い嫌悪が浮かんでいる。

 

 しかし、そんな事より気になる事は幾らでもあった。

 

「私が現世へ帰還してから孔が出来たと言った。だが実際は、それより前から孔はあるんじゃないのか。だから結界なんてものも用意してあった。これでは言ってる事と矛盾する、そうだろう?」

「いいや、そうでもない」

 

 オミカゲ様はキッパリと否定し、そして八房により強く背を預けた。

 



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御影会談 その7

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 つまらなそうに首を振り、そして自分自身を指差して続ける。

 

「我がここにいる事実を忘れてしまっては困る。……つまり、千年前から顕現しておる事実をな」

「そして狙いは()()()()を連れ戻す事、だったな」

「うむ。我もまたその狙いの一人であったという事よ。だから孔は昔からあったし、その対策として結界も用意されていた。いずれ(きた)るそなたの為であると同時に、我を護る為でもあったのよ。……そう、かつてはな」

 

 最後に付け加えた意味深な物言いに引っ掛かるものはあるものの、ミレイユはとりあえず納得して頷く。

 それについては良い。疑問は解消されたと言えるだろう。ミレイユの為に用意された結界、という言葉に偽りはなかった。

 だがそれは、同時に別の疑問を呼び起こす。

 

「まぁ、それはいいさ……納得したよ。だが、分からない」

「ふむ……?」

「お前が私自身だという事については納得した。そこを蒸し返すつもりはない……しかし、過去へ飛んだと簡単に言ってるが、そんな事が可能なのか? 可能だとしてタイムパラドックスは? 私はオミカゲ様がいた事実なんて知らないし、この世には御影豊(わたし)がいたという痕跡だってないだろう。それについてはどうなるんだ? ミレイユを狙って孔を開けるというが、それならば先に狙われたお前と、後から来た私、そこに時間的矛盾は生まれないか?」

 

 矢継ぎ早に繰り出した質問に、オミカゲ様は大仰に手を振って顔を顰める。これみよがしに溜め息すら吐いて見せた。

 

「ややこしい問題を、ややこしく幾つも聞いてくるものよ。何も聞かずに受け入れろ、という答えでは納得すまいな?」

「当たり前だろ」

「我は全知全能でもなければ、真理を体現する神でもない。だから分からない事もある。そこを納得できるというなら、話してやるが」

「ああ、じゃあ是非ともその全知っぷりを発揮して聞かせてくれ」

 

 オミカゲ様は渋い顔をして眉間を揉み、かといって何かを言い返して来る事もなく、しばらく思考に没頭し始めた。

 何をどう話せば良いのか整理していると見え、そのまま暫く待ってやる。それから一分を過ぎ、五分を過ぎ、ようやく眉間から手を離して口を開いた。

 

「過去に渡った方法については簡単なこと。ドワーフ遺跡の『機構』を使った。空間を飛び越え別世界から帰って来れるくらいなのでな、時間さえ飛び越えるのはそう難しい事ではない」

「しごく簡単そうに言うが……まぁ、そうだな。それで可能だったと言われれば、そうかもしれないという位には納得できる」

「次に時間的矛盾についてだが、これは時を飛び越える度、並行世界が作られる事で回避されているのだと思う」

 

 ミレイユは少し首を傾け額に手を当てる。

 

「元いた世界と同じ、しかし細部が変わる世界という事か?」

「どの程度の差異があるにしろ、そういう事だと思う。そうでなければ、この世界には他にもミレイユがいなくてはならなくなる。最低でも、私を再びあちらに飛ばしたミレイユがな」

 

 ミレイユは自分が聞いた事ながら、頭が痛くなる思いがした。渋面を作って額に当てた手を擦るように動かす。

 

「お前は……過去に戻ったんじゃなく、そもそも飛ばされたのか? また別のミレイユに、しかもあちらの世界へ? それで『機構』を使って過去の日本へ戻ったと?」

「――いやはや、さっぱり目的が見えて来ないわ。一体なんの為にそんな事をしたの?」

 

 堪りかねたようにユミルが口を挟んだ。

 それについてはミレイユも同意するところで、話を聞く限り途中の動機がすっぱりと消えている。ここにいる事実からして過去に飛んだのは良しとして、ならば何故そのような事をしなければならなかったのか、という問題が噴出する。

 

 元の世界へ再び帰るという話は良いとして、そもそも過去に飛ぼうなどという発想は生まれない。事故でそうなってしまったのなら仕方がない。しかし、そうでないなら強い動機があって行ったという事になる。

 それこそ、何か余程の強い動機がなければ――。

 

「ちょっと待て、何で過去なんだ。戻って来たいというなら、現代へ帰還すれば良かったんじゃないのか。一度やった事だ、同じ事をすればいい」

「ああ、然様……。その部分が抜けておったか。世界の破滅を阻止するため、そういう事になろうか」

 

 ミレイユは愕然として、オミカゲ様を見返す。

 あまりに唐突な世界の破滅という単語は、驚愕して言葉を失うに十分だった。この場で突飛な嘘を吐く理由はないとはいえ、信じ難い話ではある。

 現実味のない台詞を、八房の巨体を背に預けて言うものだから、それに拍車が掛かったという部分もあった。

 

「滅ぶのか、この世界が……? 何故?」

「幾らか予想がつくのではないか? あの孔が作られる目的は、そなたを連れ戻す事に違いないが、その副次的作用として何が出て来ている?」

「それは……魔物を吐き出しているが。……まさか、それで世界が滅ぶのか?」

 

 魔物は弱く、ミレイユからすれば雑魚でしかない。オミカゲ様が自分と同程度の力量を持つなら、あれらに負けるなど考えられない。

 だが、それでも滅びを止められないというのなら、単純な力量以外に問題がある、という事になる。

 

「例えば、数が問題だとか。……そう、一つではなく百なら、あるいは千なら……。対処が追いつかず、いずれキャパを超える。そういう事か……?」

「なかなか良い発想だ」

 

 オミカゲ様は満足そうに頷き、そして一つ息を吐いた。

 

「……孔とは、そもそも何だと思う?」

「よく分からないが。魔物が出てくるくらいだ、あちらと繋がるトンネルみたいなものじゃないのか」

「繋がるという意味ではあながち間違いではないが、少し違う。あれは一方通行のものである。こちらから入って行く事は出来ない」

 

 オミカゲ様の言い分に、ミレイユは眉を顰める。

 連れ帰るのが目的だという言い分を信じるなら、それでは全く意味がない。孔の拡大が成功したところで、強大な魔物を送り込めるだけで本当の目的は達成できない事になる。

 最初から意趣返しに世界を滅ぼすつもりだというなら、納得出来る話ではある。だが、そうではないとオミカゲ様は言ったばかりだ。

 

「こちらから行けないというなら、孔を開ける意味はなくないか? 連れ戻す為に開けたつもりじゃなかったのか」

「ああ、孔が最大化するまでは行けない、と言い直そうか。魔力を多く持つ者ほど、通行可能となる孔は大きくなる。そなたは自分がどれ程強大な力を持つか理解しておろうか? あちらから強力な魔物が出て来ていない以上、そなたもまた行けないという話である」

「つまり、それだけの孔を広げるまでは、ひたすら拡大に勤しむつもりだ、と?」

 

 オミカゲ様は頷いて見せたものの、その表情はやや煮えきらない。理解しているつもりで、実はそうではないと思っているように見えた。

 

「そうさな……。今まではその拡大を防ぐ水際対策が成功しておった。弱い魔物――つまり小さな孔しか発生しておらなんだ故にな……」

「何故そんな事に……? いや、結界か」

「然様。昔はそれこそ、発生の感知と共に駆けつけて封じていたものよ。遠い場所だと馬では遅すぎてな、この八房の背に乗って走った事もあった」

 

 そう言って、オミカゲ様は優しげに八房の毛皮を叩く。

 それまで外へ顔を向けるか、それとも伏せの姿勢で顔を背けているかしていた八房が、頭を持ち上げて鼻面をオミカゲ様の頭に押し付ける。

 くすぐったそうに身体を捩りながら、その口元あたりを優しく撫でた。

 

「オミカゲ様の鬼退治。……あぁ、そういう話があると聞いた事が……」

「我一人で戦っていた訳でもないがな。御由緒家とは、その鬼退治の為に組織した。我との混血が魔力を身に宿す人間を生み出すか、そういう実験の結果でもある」

「そして実際、魔力持ちの人間が誕生し、今では日本中に溢れるようになったと……」

 

 必要な事だと思っての行動だったのかもしれないが、あまりにクレバー過ぎるとミレイユは顔を顰めた。そこまでする必要があるのか、とすら思う。

 何をするつもりか、何のつもりでやっているんだと思っていたが、ここに来て感じるものがある。

 

 ――執念だ。

 その強い想いがオミカゲ様を突き動かしている。

 

「御由緒家はオミカゲ様の矛であり盾であると聞いた。その言葉どおりだったという事か。戦う為に必要だったから、武器を鍛造するように子を作って増やしたと」

「なかなか辛辣な事を申すもの。……だが、告白しよう。最初の目的は確かにそうだった」

 

 オミカゲ様は遠い目をして天井を見上げた。

 その表情は懐かしむようなものであると同時、悔恨も多分に含んだ様なものにも見える。

 何を思っているのかミレイユには想像もつかないが、楽しいものでなかった事だけは理解できる。

 

「一人では手が足りなくなるのは分かりきっていた。最初の孔が作られるペースは非常に緩やかで、ともすれば十年に一度という按配だった。しかし未来を知っておる故な……、緩やかなままでおらぬことは自明であった。我は百を救う横で千を失うと理解していた」

「だからこその御由緒家か……」

 

 オミカゲ様は重々しく頷く。

 

「うむ……、必要だからと割り切ってな。だが、それだけではないぞ。この腕に子を抱いてからというもの、御由緒家は家族――愛しい我が子である。それは千年経た今でも変わらない。必要だからと子を生むような事は、それからしておらんしな」

「だが戦わせている事に変わりはない。子を戦地に送るというのはどういう気持ちなんだ」

「そこは家業として割り切っておるよ。戦えぬ者でも構わず武器を取れといった事はない。斯く在るべし、という気風はあるものだが」

 

 オミカゲ様は悲しげに目を伏せた。

 好き好んで戦わせている訳ではない、表情はそう物語っていたが、そうせざるを得ない事情があっての苦肉の策であったのだろう。

 

 百を救う横で千を失う、と言った。

 ミレイユも自分の力量を良く理解しているが、確かに一人で行える限界など百人には遠く及ばないものだ。特にもぐら叩きを例に出すなら、手の届かない範囲はどうにもならない。早く叩けたところで届かない部分は見逃すしかないのだ。

 日本の国土は広いとは言えないが、しかし一人で全域をカバーできるものではない。

 

 八房も気遣わしげに頬擦りしようとするが、その巨体だ。精々その頭を小突きまわるような体になってしまい、小さな笑い声を上げたオミカゲ様がタップするように口元を叩いた。

 



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御影会談 その8

「ただ誤算があったとすれば、子が魔力をあまり引き継がなかった事よ。これは直子であっても代を経ても変わらぬ問題で、個人差はあっても我の一割程度、多くとも二割しか届かない」

「混血とはいえ――いや、むしろ混血だからこそ、なのか。水が合わない、とでも言うべきか……」

 

 ミレイユが難しい顔で呟くと、オミカゲ様は頷き同意を示す。

 

「そういう事なのであろうよ。本来は母体の半分の魔力を引き継ぐ筈だが、この世界の人間との混血では魔力が上手く引き継がれない」

「誤算というのも分かるが。……しかし、魔力の有無は魔物と戦う上で重要だ」

「無論そうだ。引き継がなかったよりマシと思うべきかもしれぬな」

 

 オミカゲ様は小さく息を吐いて気持ちを落ち着けてから、話を続ける。

 

「そうして我の知る、剣術を始めとした様々な技術を伝えた」

「……あぁ、もしかすると、あの神格にあった鍛冶神、刀工神やらもそういう話か? やたらと多い神徳も伝えた技術が、そのまま今のオミカゲ神を形作ったと……」

 

 オミカゲ様は含み笑いをしながら頷いた。

 

「然様である。そして魔力持ちには理術を与え、それを鍛える方法を教えた。そなたにも覚えがあろう? この世に魔術書などは存在せぬが、我らならば体得した術を与えられる」

 

 言われてミレイユも首肯でもって答える。

 本来なら長い年月をその習得に当て研鑽を持って身に着ける魔術だが、ミレイユならば使えるようにさせる事だけは出来る。

 

 とはいえ、基礎技術がなければ扱えないのは誰でも同じで、例えば内向魔術しか磨いていないアキラに何か使えるようにさせたところで、その瞬間から扱えるようになる訳ではない。

 

 武器を与えれば振るうだけはできるのと同じ理屈で、それを技術として扱えるかどうかは別、という話だ。

 習得時間の短縮になるのは間違いないが、本来はその行程も体得に至る筋道として重要なので安易に使って良い力ではない。

 

 しかしこの世界に、そうした魔術書がないとなれば、体得する順番が逆となるのは否めない。まず習得し、そして使いながら練度を上げていく、という方法で会得していくしかないのだろう。

 

 オミカゲ様は納得の色を示すミレイユを、頷き見やって話を続けた。

 

「そうして時代を経て、近代では電気を用いた自動化によって、孔の発生と同時に封じ込める事すら可能になるまでになった」

「あの結界か……」

 

 苦々しく思う部分がありつつも、良く出来たシステムだとは思う。

 何より魔物を外で自由にさせない、という一点に置いて有効に働いている。

 御由緒家を筆頭とした魔力持ちが、いつでも近辺にいるとは限らないのだから、特に情報発達した現代では、目撃されるより早く封じ込めるのは絶対条件だろう。

 

 電気が生まれる前の時代、つまり産業革命以前は迷信が多く残っていた時代だから、対処に遅れても問題にならなかったと予想がつく。

 鬼が出た、妖かしが悪さをした、という話は全国に幾つもあるが、その内の幾つかは本物が混じっていたりしたのかもしれない。

 そして、それが許されていた時代でもある。

 

「我が何処より早く電気を実現化させたのは、国民に便利なものを提供したいからではなかった。魔物による被害は確実に減るから、そういう意味では恩恵もあったろうが、本当の意味で実現させた背景には、孔を封じる理由があったからよ」

「つまり、封じ込めには成功していると見ていいんだろう? 弱い魔物ばかりなところを見れば、孔の拡大は防げている訳だ。滅びは回避出来ていると見ていいんじゃないのか」

 

 ミレイユの指摘は至極真っ当なものだと思えたが、しかしオミカゲ様は首を横に振る。そこには諦観にも似た雰囲気すら感じられた。

 

「これまでは確かに成功していたな。即座に封印する事で座標の特定を防いでいた」

「座標……、特定……?」

 

 単語の意味は分かっても、意味するものが何かまでは理解不能だった。

 首を傾げたミレイユに、困ったような顔をしたオミカゲ様が言う。

 

「これは今までの経過を見てそうと判断したものであって、真実かどうかは別だと先に断っておく」

 

 それは最初から、全ての真理や正解を知っている訳ではないと言われていたので、頷いて先を促す。

 

「あちらもな、正確な場所の特定は出来ていないと思うのよ。つまり、逃げ込んだミレイユがどこにいるのかをな。何しろ次元を超えた先の相手だ。絞り込むのにも限界がある、という事ではないかと思う」

「だからある程度、孔の位置にブレが出来るし、そうと特定出来てないから孔を広げる段階に入っていないと?」

「そうであろうと思うておる。弓の遠当てのようなものかもしれぬがな。中心に当てればいいと分かっていても、毎回正確に狙える訳でもない、という具合に」

 

 納得できるような出来ないような話だった。

 ともかく、この部分は推論に過ぎないのだろうから、深くは聞かない。そこにケチを付けたところで意味はないのだ。

 

「なるほど。そして、命中しても結界で隠されてしまう訳か。座標というのはこの事で、当てた場所が見えなくなってしまう、と考えていいのか?」

「恐らくな。孔を広げるにも同じ場所に命中させる必要があるとすれば、その場所が見えず拡げられない、そういう話ではないかと思うておる。最初は針のように小さな孔に、そこへ少し太い針で貫く。すこし拡がった孔に、また少し太い針で貫いていく。そうして孔を拡大していくつもりだったのではないかとな」

 

 ふぅん、と気のない返事をしながら顔を上げ、オミカゲ様へと顔を向ける。

 

「その針の役目が魔物と言うことか? あるいは、開いた穴を少しでも押し広げる為の役割かもしれないが。……まぁ、推論に推論を重ねても仕方がない」

「ここは想像するしかない故な。しかし千年の間、拡大を防げていた以上、間違いなく結界の有用性は証明されておる」

 

 それは確かな事だと思うので、ミレイユも頷く。

 しかしそこで、オミカゲ様の表情が曇った。

 

「だが、その結界も既に長くない。存続が危ぶまれておる」

「何故だ。電力を用いて自動化された結界なんじゃないのか。電力だけで……だけじゃない、そうだな? 信仰心を魔力に変換していた筈だな? 足りてないのか?」

 

 少し考えてみれば妥当に思える。そもそも電力によって作られた結界ではなく、魔力によって作られた結界だ。電力はあくまで補佐的役割で、それこそ自動展開させる為のものだと推測できる。

 結界の生成に必要なのは、むしろ魔力であり、そしてマナだ。

 

「……おや、知っておったのか。マナと魔力を循環させ、増幅させる為の宗教であり神社である。霊地の上に神社を建てるのもそれの為。それは結界の為であり、怪我の治療の為であり、病気平癒の為であり、そして理術付与された武具を作る為でもある」

 

 それに、と一度言葉を切ってからオミカゲ様は続けた。

 

「武神、剣神として神格は、野に開く強者を探すのに役に立った」

「剣術道場は今も盛んなようだな。私が知っている剣道など、道場を持てない程に下火になっていたものだったが……」

「それもまた信仰心の獲得と兵の選定に役立つものだ」

 

 その一言を聞いて、かつてアキラから聞いた、ある単語を思い出した。

 夏の終わりだったか、それとも秋の事だったか。とにかく、オミカゲ様による御前試合が執り行われると聞いた。

 

 そこで優勝すれば栄誉だけでなく、より拓けた未来が約束されるとか言っていた気がする。細部は違うかもしれないが、つまりこの御前試合が御由緒家以外の有力な魔力持ちを探す手助けになっていたのだろう。

 

「……全ては、魔物を倒す為に、か。それらの事を民は知る由もないとはいえ、信仰する代わりに見返りがあるとなれば、喜んで拝めて貰えると」

「拝めて貰うのは手段であって目的ではないがな。願う力というものは馬鹿にならないエネルギーとなる。私は神として君臨したいのではない、民を護る為のシステムとして必要だから、その座にあるのよ」

 

 オミカゲ様が真実の神として君臨しているのかどうか、そんな事は些細な問題なのかもしれない。

 恩恵を授かる民、そしてそこから感謝や願いという力を受け取り、別の力へ変換し、それを用いて魔物という脅威から護っている。

 

 それを見れば搾取という訳でもなく、むしろよくやっているとすら思う。

 お互いに益があり、そして両者に不満がないというのなら、それはそれでいいのだろう。

 だが、肝心な部分をまだ聞いていない。

 

「上手くやれているというのなら……つまり、魔力不足から結界が崩壊する訳ではないのか?」

「然様。……寿命である」

「寿命……結界に?」

 

 ミレイユは胡乱げな視線をオミカゲ様へ向けた。

 結界は確かに長時間持続させるのは難しい。とはいえ、この寿命の意味は、それとは異なるだろう。毎回作っては消しを繰り返す結界に、機械的な摩耗がある訳でもない。

 電柱や電線にはあるだろうが、それこそ交換すれば済む話だ。

 

 だが寿命というからには、その結界システムの根幹部分に寿命があるという事だろう。

 交換も修理も出来ない、何かの部分に。

 ミレイユが何かに察した視線を向けると、オミカゲ様もまた、それへ理解の色を示して頷く。

 

「結界の生成は全て、たった一人が担っておる。結界の術式の基礎構築から始まり、その運用に関するノウハウ。その全てを」

「その者の寿命が尽きるから、結界が崩壊すると? 代替わりすればいいだけじゃないのか? 今までそうしてきたのだろう?」

 

 千年の時間があったなら、代替わりがあって当然だ。

 その時代によって術者の良し悪しはあったにしろ、しかし脈々と受け継がれて来た事でもある筈だ。一人の寿命で途切れる緩い地盤を構築してきたとは思えなかった。

 



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混迷の真実、明瞭な虚栄 その1

「最近、結界の魔物が強くなって来た、という話は覚えておろうな? 何度も結界には入り込んでおった事だし、その実感もあったのではないか?」

「それは……」

 

 確かにあった。

 それは最初の話題として挙がった時にも思っていた事だ。

 アキラを基準に考えた時、最初は魔力なしで戦えていたものの、僅かな間で魔力ありでなければ戦場に立てなくなる程だった。

 

 アヴェリンのしごきで再び戦場に立てるようになったものの、つい最近ではミノタウロスすら出てきて、アキラが対抗するには厳しい展開になってきた。

 

 千年もの間、拡大を阻止して来ていた事を思えば、この敵の強化具合は異常の一言に尽きた。敵が持つ魔力の大きさと、その戦闘力はイコールで考える事は出来ないが、指針とするには十分なものだ。

 それを考えれば、孔の拡大は急速に広まっている証明ともいえる。

 

「……ああ、確かに魔物の強さの最低基準は上がってきている。インプの姿はすっかり消え失せ、今ではトロールが居て当然。最初とは雲泥の差だ」

「代替わりをすればいいと申したな?」

 

 突然の話題転換に眉を顰め、そしてすぐに結界の事だと思い直す。転換ではなく、戻っただけだ。もう少し分かり易く言え、という気持ちで睨みつけると、オミカゲ様は自嘲気味に笑った。

 単にミレイユへ謝罪するというものではなく、己の無力を悔いるような、悲し気な笑みだった。

 

「どうせ無理だと思って試してみたが、そうした矢先にこの現状がある。防げていない訳でもないし、これまでも再戻鬼(トロール)ぐらいまでなら出ておった。珍しいことではあったが、牛頭鬼(ミノタウロス)も一体までなら出たこともあるのよ。今回は一度で五体という異例の数。……結界の破綻は遠からず訪れるであろう」

 

 そこまで言ってオミカゲ様は、慚愧に堪えぬといった表情で顔を歪めた。

 

「結界の精度、あるいは厚さ、結界を構成するあらゆる要素に対し、その力量が足りておらぬのが理由であろうな。それと並ぶ実力を擁する者がおらぬ故に、このような事態になった。――いや、責めておるのではない。貧乏くじを引かされて、その者も参っている事であろうよ」

「それ程までに質の低下する事なんてあるのか? 千年保った方が奇跡だろう。それとも、そんな運任せの綱渡りをして来たとでも言うのか?」

 

 オミカゲ様は首を振る。悲しげに、やるせなさを多分に含んだ動きだった。

 八房から背を離し、座布団を手に取って立ち上がる。重い足取りで戻って来ては、最初にいた席へと座った。

 そして改めて、傍らへ一言も発せずに座っていた老女へ片手を向ける。

 

「改めて紹介しよう。こちらの大宮司が、その結界を担っていた術士である」

「そういう事か……」

 

 寿命というのは言葉通りの意味だった訳だ。

 一人の才能ある術士の生命が尽きようとしている。この場に同席するには込み入った話を聞きすぎているとは思うが、結界を担う人物となれば、この世を護ってきた中核の一人として、参加する権利があると見做されても不思議ではない。

 

 とはいえ、仮にそうだとしても、聞いて良い事以上の話を聞かされているようにも思う。そこまで評価している人物なのかと目を向けたのと同時、更なる衝撃の発言がミレイユを襲った。

 

「そして最初から、その本名を名乗らせなかった非礼を詫びよう。この者、我と共に千年を生きた友である」

「何……?」

 

 ミレイユがその単語の意味を理解するより先に、一千華は一礼してから顔を上げ、その顔に儚げな笑みを浮かべた。

 

「千年、この時を待ち侘びていました。本当にお久しぶり……。今の名前はオミカゲ様より賜ったもの。私の本当の名は……ルチアです」

「なっ……!? ルチア!?」

 

 ミレイユも相当に驚いたが、それより大きな反応を見せたのは、当のルチアだった。

 ガタン、と音を立てて膝立になり、両手を机の上に乗せ、身体を前に出しては一千華を食い入るように見つめている。

 

 お互いの目が合うと、凝視するようにルチアが眉間に力を入れる。

 十秒もそうしていたかと思うと、やがて力尽きたように弱々しく座り直した。

 

「既視感はあったんです……。どこかで見た、どこか知っている感覚。でも、あり得ないと最初に除外した可能性が、まさか当たってるだなんて……」

「本当なの、ルチア? 間違いない?」

 

 ユミルが伺うように聞いてみれば、ルチアは俯いたままコクンと頷く。

 ミレイユもまたその老女を見てみれば、その瞳が良く似ていた。老いて皺だらけの顔面とはいえ、その面影は確かに残っている。

 

 エルフの寿命は長い。

 千年生きたとしても不思議ではなく、そしてルチア程に制御力を持つ魔術士も他にはいないだろう。というより、ルチアだからこそ結界をここまで堅固な術として生成できていた。

 彼女の代わりを務められる人材が、他にいないと言われれば、むしろ納得しかしない。

 

 そして同時に、この場でミレイユ達と同席できる身分である事も理解した。

 この面子の中でどうしているのかと疑問に思ったものだが、むしろ彼女以上に同席して良い人物はいないだろう。

 

 ミレイユは我知らず、口元を覆って重い溜め息を吐いた。

 何と声を掛けて良いのか分からない。どういう表情をすれば良いのかも分からなかった。

 

 一千華がルチアを見ながら、おっとりと笑って小首を傾げた。

 

「千年前のわたくしは、本当に小さくて……こんなにも頼りなく見えたかしらね」

「……私は非常に複雑な気分です」

「そうでしょうね。一目会いたいと願って、それを叶えてくれたオミカゲ様ですが、本当はそうするべきではなかったと理解しています」

 

 ルチアは伏せていた顔を上げ、非難するような視線で見つめる。

 

「ここで素性を明かすのは、私に結界を継いで欲しいからですか。頼りない誰かより、私の方がよほど頼りになりますものね?」

「思い上がらないで下さい、小娘さん」

 

 予想に反した強い非難を帯びた物言いに、ルチアのみならず他の面々も面食らった。

 一千華は深いシワをくしゃりと曲げて、笑みを浮かべたまま続ける。

 

「他よりマシである事は確かでしょうけど、わたくしの千年の集大成、自分だからとそう簡単に真似できるとは思わない事です」

「でも、私は結界を解析できました。……そう、私の癖とよく似た術式、だから理解も早く、そして外からこじ開ける事だって出来た。だから……!」

「他よりマシだと認めると言ったでしょう。でも、それだけです。それだけで私の千年と並べるとは思わないで下さい」

 

 厳しい口調で言われて、ルチアは悔しそうに顔を歪めてまた俯いた。

 実際、それは事実ではあるのだろう。他より遥かにマシであっても、同様の効果を発揮するには研鑽が必要だ。そして、既に諦めを見せているという事は、その研鑽は結界の崩壊より早く終るものではないと理解している、という事になる。

 

「それを教えてどうするつもりだ。何が目的だ」

「もはや結界の崩壊は免れん。いずれ強大な魔物もやって来る事だろう。座標の確度が上がれば、孔の数も増えてくる筈。対処せず見捨てるつもりもないが……」

「共に戦えと言いたいのか? 少しでも破滅を遅らせる為、結界から出てくる敵を倒して回れと?」

 

 ミレイユは眉間にシワを作り、頭が痛くなる思いで言った。

 座して死を待つつもりもない。そうとなれば対処に身を投じるしかないだろう。御子神という立場は、自ら動くも人を使うも自由にやれる権力を与えてくれる手助けになる。

 

 ミレイユは今更ながらに、なるほど、と感心すると共に呆れてしまう。

 それを見越しての御子神認定だったか、と歯痒く思うが、有事の際には確かに有効な方法だった。

 

 だが、オミカゲ様は首を横に振った。

 

「世界の破滅はいずれやってくるだろう……。日本は護れるやもしれんな。だがアジア全域となれば? 欧州まで広がれば? 海を超えた先は?」

「そこまで広がるのか? いや、そう考えればこそ、か……?」

「元より跳ね除けられるものではなかったのかもしれぬ。そうと願い、その為にこの力振るったものだったが無理だった。だから、そなたに頼むのだ。あちらに戻って大神を止めろとな」

 

 ミレイユは突然の事で息が詰まった。それから重く息を吐く。身を屈めて肘を机に下ろし、それから額へ手を当てた。

 ゆっくりと揉み解すように手を動かし、それから目だけを向けてオミカゲ様を見る。

 

「……言っていたな。お前もまた、あちらに飛ばされたのだと」

「然様」

「だが、こうしているという事は失敗したと見ていいのか?」

「まさしく。だから過去に飛んでやり直しを計った」

「そこが分からない」

 

 ミレイユは視線を向けたまま額を揉む。

 

「何故過去へ飛ぶ必要があるんだ? それも千年という時間を。あちらに戻る直前に帰ってきて、何故失敗したかを伝えてやり直させる訳にはいかないのか?」

「それも解決の手段かもしれぬが……それで世界は救われぬ」

「されないのか?」

「されぬであろうな……」

 

 オミカゲ様は遠い昔を思い出そうとしてか、天井付近に視線を向けた。それから重い溜め息を吐いて瞑目する。

 

「我が帰還した時の日本は、今のように恵まれた状態ではなかったのよ。既に結界は機能しておらず、日本は魔境と化していた。我は訳も分からず彷徨い、魔物が蔓延る日本を渡り歩いた。あれこそまさに、水際対策を失敗した末路であったろう」

 



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混迷の真実、明瞭な虚栄 その2

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 オミカゲ様は目を開いて、ひたとミレイユと視線を合わせた。

 

「我が失敗したからと、その状態の日本へ戻る意味があったか? 失敗したから別の方法を選べと助言し、それで大神が手を引く結果になったとしよう。そこから一度滅んだ日本を再興する道も、確かにあったろうが……」

「それは……」

「そもそも我は、多くのことを教えられ、説得の果てに飛んだ訳でもなかった。むしろ強制送還に近い。最低限の説明のみで飛ばされた。その時のミレイユと対決の末、負けた結果飛ばされたのよ」

「負けたのか、お前……」

 

 苦々しい顔を向けたミレイユに、オミカゲ様は消沈した様子で頷く。

 

「あの地獄のような世界で戦い続けてきたミレイユだ。何年戦ってきたのか想像も出来ぬが、しかしその実力は我の倍では利かぬものよ。到底対抗できるものではなかった」

「そこまでか……」

「ともかくな、あの時代へ戻るぐらいなら、やり直せないかと考えたのよ。魔物に蹂躙される世界を救いたかった、原因を作ったのは自分だった、その負債を取り消したかった。……起こる未来を阻止したかった」

「――それは違うわ」

 

 鋭い口調で口を挟んだのはユミルだった。

 大した興味もなく、大人しく聞いているとばかり思っていたので、この乱入には少々驚かされた。

 

「原因は大神であってアンタ達じゃない。帰って来なければ良かったというのは……、あるいは間違いじゃないかもね。でも、過ちは間違いなくアッチにあるのよ」

「……そうかもしれん」

 

 ユミルがそうであったように、ミレイユもまた溜まりかねて声を上げた。

 

「お前の責任ではないだろう。自己弁護したい訳じゃないが、事実としてそうじゃないか。悪いのは大神の方だ」

「ああ……いや、きっとそうなのだろう。だが、だとしてもやる事は変わらぬのよ」

 

 オミカゲ様は悲し気に微笑んだ後、ミレイユへと顔を向ける。

 

「確かにそうだ。原因が我にありと言うのは誤りだ。しかし結局のところ、世界の破滅は受け入れがたい。我が望むのは、あの豊かな暮らしが出来る社会へ帰ること。決して、魔境へ戻りたい訳ではなかった」

「それは、そうだな……」

 

 ミレイユにしろ、帰還の理由は戦いのない世界、娯楽に満ちた世界、そして食料に困らない世界で自堕落に過ごす事だった。

 再び何かしら働いて金銭を得ようとも考えていたが、どちらにしても豊かな現代日本へ帰りたいのであって、魔物が蔓延る世界ではない。

 帰ったところで叶わないのなら、その意味もなかった。

 

「タイムパラドックスについては気にならなかったのか?」

「ならなかったな。あの世界が壊れるなら、むしろ本望といったところだった。賭けであったのは事実だが、結果は見てのとおりよ」

「しかし、それにしても相当な無茶だぞ……」

 

 現代科学においても、時間の構造なぞ予想するしかない段階だ。

 矛盾を生むことで宇宙が消滅するとかいう話を聞いた事があるし、そもそも時の流れは一本の川で、過去に戻る事すら歴史の一部だと解釈される場合もある。

 

 改善するつもりがより酷い未来を作る事だってあるし、あるいは戻った結果が今の歴史を作る事になって、結局何一つ改善できない、という話だってある。

 

 どれが正解か分からないのに、そこへ飛び込んで行くのは狂気の沙汰だ。

 だが、もしかしてオミカゲ様は知っていたのだろうか。そうならない確信があったのだとしたら――。

 

「多元宇宙論を信じる訳ではないが、私を飛ばしたミレイユが言うには、失敗したら過去へ飛べと言っていた。そうする事で、また違う時間の流れが生まれるのだと知っていたんだろう」

「いわゆる枝分かれ式か……」

 

 タイムトラベル理論には幾つもの論説があるが、所謂枝分かれ式とは過去に戻った時点で世界が分岐し元々いた世界と重ならない、という理論だ。

 人間が一人増えようと、親殺しのパラドクスが起きようと、自分の存在が失われる訳ではない、という理屈だった。

 

「それが正解かは知らぬが、我らを取り巻くこの世界の時の流れは、螺旋式になっているのではないかと予想している」

「過去に戻るという流れが、本来一本の道をぐるぐると回してしまっているという事か?」

「――そう、しかし重ならない。一巡する大きさに隔たりがあったとしても、それは必ず上に向かって渦巻くように伸びていく。そしてミレイユは必ず、その一番上の流れに落ちてくるのだろう」

「ああ、枝分かれだと新たに別の世界が作られるのは確かだとして、その後にやって来る()()()ミレイユは、必ず最も新しく生まれた時間軸に戻ってくる訳か」

 

 そこまで言われて、ハタと気づく。

 今まで頭の片隅に生まれていた違和感、その正体が掴めた気がした。

 

 ミレイユが過去に戻り、枝分かれに別の時間軸を作ったとして、そこへ現代への帰還を望んだ最初のミレイユが帰ってくる。そうして、そのミレイユが異世界へ戻され、そこから過去の日本へ帰って来たという風に考えたなら――。

 

 そして枝分かれが正確でなく、螺旋式になっているというオミカゲ様の言葉を信じるのなら、この時間はループしているという事になりはしないか。

 

 ミレイユは愕然とした気持ちでオミカゲ様を見つめた。

 ここに来て、既にミレイユが理解できる範疇を大きく超えている。だが、ここで逃げる訳にもいかなかった。

 

「ループしているのか、この時間軸は……」

「そうだろうと思っている。どこかでこの一巡が途切れるようなら、このループは既に破綻している筈だ。そうでない以上、螺旋構造上の時の流れが出来ていて、最初のミレイユは必ず新たに出来た時の流れに乗り、そして再び世界を渡るのだろう」

「そして失敗してやり直している訳か? だがな、おかしいと思わないのか?」

 

 ミレイユは乱暴に前髪を掻き毟ってオミカゲ様を睨みつけた。

 

「いま私がそう思っているように、このループを一体何度繰り返せば気が済むんだ? ループを止めようと考える奴はいなかったのか。これは一体何度目のループだ」

「……さて、一体何度目になるのやら。仮に私を飛ばしたミレイユが最初だとして、二番目が我、そして三番目がそなた、となる訳だが……果たして本当にこれが三周目だと思うだろうか?」

「現実味のない話ではあるが、もしも本当に繰り返しているとして、このループがたった三回目だとは私も思わない」

 

 ミレイユが苦々しい溜め息と共に頷くと、オミカゲ様もまた頷いた。

 

「無限に螺旋を描いて繰り返している可能性すらある」

「どうしてそんな事してるんだ。どこかで断ち切ろうと考える筈だろう。私が考えているなら、お前も同様に考えていた筈だ」

「一度でも成功してれば終わる螺旋だが、してない以上はいつも失敗しているか、あるいは情報の断絶が起きている。失伝するような事態が起きているのだろうな」

「……どういう意味だ?」

 

 ミレイユは既にその予想もついていたが、しかし聞かずにはいられなかった。

 予想が外れていて欲しい、自分の口から言うと現実になりそうだ、などという考えが頭をよぎる。

 

「我の時がそれに近そうだ。逼迫した状況、破綻した結界、蹂躙される世界。いつ最大まで拡大された孔が現れ、そなたを攫うか分からぬ状況、説明もなしに奪われるのが最悪の想定だ。そして、そうなるくらいなら……説明もなく奪われる前に送り返してしまえ、そう考えるミレイユがいてもおかしくない」

「それで断絶、そして失伝か……。しかし、説明なしに送る意味があるのか?」

「ループ回数を数えられている場合なら、すでに引き返せないところに来ていると思うものかもしれぬ。今回で三回目と仮定しても、この時点で既に捨て置くには惜しい数字だ」

 

 重い声で唸り、実際それには同意せざるを得なかった。

 そこでもまた違和感を覚える。ここにも一つ、矛盾がありはしないか。

 思い当たったミレイユの疑問より先に、ユミルが口を開く。

 

「なんか今の流れを聞いていると、既にウチの子が行く事になってるみたいじゃないの。……それとも行く気なの、アンタ?」

 

 ユミルに見つめられ、渋面と共に顔を逸らす。

 行きたいとは思わない。ミレイユはそもそも平穏な生活を求めてやって来た。それを捨て去りたいとは思っていない。

 

 それに必ずミレイユが行かねばならない、という理由もない筈だ。

 そしてそれこそ、ミレイユがオミカゲ様に訊かねばならない矛盾点だった。

 

「……なぁ、何で私を行かせたがるんだ? ループを断ち切るというなら、一度は渡ったお前が再び行けばいいんじゃないか?」

「そういう訳にはいかぬ。……よいか、ジレンマだ。神は世界を越えられぬ。信仰を得て力を獲得し、そして増して行く神だが、同時に世界に根ざすものでもある、そのように最初説明したろう。だから我が再び行く事はできないし、そしてそれがお前に行って欲しい理由だ」

 

 ミレイユが唾吐くような思いで鼻を鳴らすと、オミカゲ様もまた苦虫を噛み潰したような顔をしていた。業腹な事ではあるのだろう、他の者で済むならそうするつもりもあったのかもしれない。

 

 しかし、あちらの世界は過酷な世界だ。ミレイユの一割から二割程度の力量で、その世界を乗り越えて希望を叶えられるかといえば、無理だと判断するしかない。

 ミレイユも確かに強いが無敵でもない。しかし誰より頼りになるのも確かだった。

 

 そうと分かっていても素直に頷けるものではない。

 ミレイユは一縷の望みをかけて、分かっていても聞かずにいられない質問をしてみた。

 

「お前は神を演じていたんじゃないのか? 本当に信仰を得て、そして神として力を奮っていたのか?」

「今更聞くことではあるまい。マナを生み出す、変換する、龍脈、霊地があるからと誰でも出来るものではないぞ」

「それは、そうかもしれないが……。精霊を使っていることだし、そこでどうにかしているとか……。だから神と見せているだけで、実際は違うのだと、そういう話になったりしないか?」

 

 オミカゲ様はしばらくの間、呆れたようにミレイユを見つめ、それから盛大に息を吐いた。

 



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混迷の真実、明瞭な虚栄 その3

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「縋りたい気持ちは分からないでもないがな。しかし、それでは不可能な事など幾らでもあるであろうが。龍脈を整えるのも、霊地から霊地へマナを流すのも、マナを生成するのも、人であっては出来ぬことよ」

「やろうと思えば、私は……」

「そうとも、お前ならば出来る。私が神として顕現できている時点で分かりそうなものであるが……。そしてこれこそが、最初に言った大神がお前を狙う理由でもある」

 

 オミカゲ様がユミルへ流し目を送るが、ユミルはそれに決して目を合わせようとしない。

 不思議に思いながらも、ミレイユはまさかと思いながら詰問するように口を開く。

 

「私が神の素体だとでも言うのか? この身体を神に差し出す為、そうする為に在るとでも?」

「細部は違うが、そのようなものである。お前は逃げたが、捨て置く事を良しと出来るほど変えの利くものでもなかったのだろう。だから、こうして世界を飛び越え次元を飛び越え、孔を開けては周囲の被害など考えず、そなたを取り戻そうとしている」

 

 言っている事は理解できる。しかし、だから納得できるかと言えば、話は別だった。裏を確認取れるものでもないし、きっと嘘は言っていないのだろう。話の筋は通っているように思えたが、素直に頷く事も出来ない。

 恨みがましい目をしながら、オミカゲ様へ憎まれ口を叩く。

 意味がないと分かっていても、自分の感情をコントロールできなかった。

 

「お前を取り戻そうとしている、の間違いじゃないのか。私がそうだというなら、お前だって回収対象だろう」

「最初はそうであったろうが、この地で信仰を得て神となってからは対象外であろう。神は世界を越えられぬ。やる気や能力の問題ではなく、これは摂理の問題故に」

 

 くそっ、と吐き捨て、ミレイユは再び額に手を当てうつむく。

 よく磨かれている机はミレイユの顔を反射して見せてくる。情けないほど憔悴した表情が写っていた。これが本当に自分の顔かと疑ってしまう程だった。

 

 逃げるように鏡面から視線を逸らし、そこでふと、思い付いた事がある。

 

「……ちょっと待て。じゃあ私を御子神として認定したのは拙いんじゃないのか。世界を渡れなくなるだろう?」

「だから公表せぬと言ったのではないか。あの場にいた全員がそなたの信徒になるかは分からぬが、たかが数十人の信奉を得たぐらいで神になれる訳なかろうよ」

「……あぁ、それもそうか。実際は何人ぐらいがボーダーラインなんだ?」

「これは確実な数字とは言えないが、経験上三千人程度だという気がしておる。何しろ分かり易く光ったり、身体の構造の変化が起きるという事がないのでな」

 

 ミレイユは胡乱な眼をして、オミカゲ様の頭髪に目を向けた。

 同じ存在だというのなら、明らかに違う、しかしハッキリとした違いがそこにある。

 

「髪の毛はどうなんだ。見た目的に年齢の変化は見られないから、身体的成長や老化はないんだろう。だったら白髪はおかしくないか」

「これは神になる前のこと故な……、精神面で非常に強いストレスがかかれば、こうなる事もある」

 

 オミカゲ様は目を伏せて己の指先に髪を絡めた。

 螺旋を描いて巻かれた毛髪は、滑らかな動きで指から解けていく。

 

 強いストレスにより一夜にして毛髪の色が白くなった、という話は実際に聞いた事がある。彼女もまたそれだけの衝撃を受ける何かが、その身に起きたのだと言うなら、そういう事もあったのかと納得する。

 

 そしてこれは、不用意に聞いてはいけない問題だろう。

 話さねばならない内容なら、オミカゲ様の口から語ってくれるだろうし、それまでは聞かない方がいいに決まっている。

 

 そうして沈黙が続いた後のこと、オミカゲ様が再び口を開いた。

 

「ともかくも、神は世界を越えられぬ摂理がある。だから狙いは別に――今となっては別にあり、そしてそれが、結界の破綻を招いた原因ともなったのよ」

「どういう事だ? まだ隠し立てする何かがあるのか」

 

 オミカゲ様は困ったように眉を下げて、小さく首を振った。

 

「いいや、言うタイミングを計っておっただけよ。結界を維持できていた理由の一つに、我が神化したという部分もあると考えておる。ミレイユという素体を見失ってしまったのだな。だから座標が分からず、しかし曖昧なまま続けておった」

「だが、それなら何が理由で……あぁ、そうか……!」

 

 何を言いたいのか理解して、ミレイユは頭を乱暴に搔きむしった。

 

「私がこの世界に帰還したから……! それで再び座標の確度を上げた訳か……!」

「うむ、千年の時は神にとって長いものではないが、無駄にして惜しいとも思わぬ時間だ。見つけたなら少々強引にもなってくる。結界も弱まり孔の拡大も容易になってきた。遂に廻って来た良い機会、と考えたやもしれぬ」

 

 ミレイユは力なく頭から手を離し、重い溜息を吐きながら硬く目を瞑る。

 気遣うようにアヴェリンがその肩に手を置き、ミレイユもまた自分の手をその上に重ねた。アヴェリンは何を言う訳でもなかったが、その手の平の温かさが、何よりの気遣いと感じられる。

 

 そこへオミカゲ様の声が落ちてくる。

 

「混乱しておるな。……分かるとも、我も通った道故な」

「それは……」

「だが、そなたはまだ恵まれておる。敵が襲い掛かってくる状況でもなく、武力でもって押し付けられながら、相手の言いたい事だけ聞かされておる訳でもない」

 

 確かにそれは今とは随分違った状況だろうが、恨みがましい目だけは抑えきれなかった。

 オミカゲ様は平坦な声で続ける。

 

「――強制送還された訳でもない」

 

 ミレイユは思わず息が詰まった。

 その時の状況がどういうものであったか、ミレイユには想像も付かない。

 しかし、世界が魔物に蹂躙されている状況というのは、己が目を疑うに十分だったろう。ミレイユはアパートの一室に帰ってきたが、自分の知る世界より少々違うという状況でしかなかった。

 

 環境に大きな変化はなく、生活していくのに不便はなかっただろう。金銭を得る手段も幾らだってあったし、やろうと思えば、アキラの手助けがなくとも生活だって出来た。

 

 だが、目の前にいるオミカゲ様は、何も分からぬ状況で打ち倒された。そして現状の理解を強制され、最低限の知識を与えた上で、問答無用で飛ばされたのだ。

 その混乱はミレイユの比ではなかっただろう。

 

 それを思えば、確かにミレイユは恵まれていた。

 オミカゲ様という神が、その状況を作らぬように整え、そして今日(こんにち)まで栄えさせてきた。ミレイユの現状は、その世界の上で成り立っている。

 

 ミレイユはオミカゲ様が執念で動いている、と感じた。

 それは決して間違いではなかった。オミカゲ様はこれまでのミレイユ達と、その失敗の回数を背負っている。そして自分もまたループを終わらせられない事実に歯噛みしているだろう。

 また次代へ託すしかない事を悔いているかもしれない。

 

 自分が同じ立場なら、間違いなくそうなる。

 それが確信として胸の奥で渦巻いていた。

 

「一つ聞かせてくれ。どうして千年も前に帰還したんだ。そんなに昔まで戻る必要はあったのか」

「あるとも、――ジレンマよ」

 

 ミレイユの不躾な態度にすら不満も見せず、快く頷いてオミカゲ様は続ける。

 

「結界の破綻がいつ起きたかは推測するしかないが、瓦礫が多く残っていた事を思えば十年以内、多く見積もって三十年以内だと思うた。だが確実性に欠ける故、その倍は最低限戻らねばならん。そうでなくては崩壊した世界へ帰還する事になる」

 

 それを防ぐ為に過去へ戻ろうと考えたろうから、その理屈は分かる。だとしてもギリギリに戻ったところで意味はないだろう。どうせなら、それより前に戻った方が準備期間を設けられる。

 

「だが近代では信仰を得るには向いておらん。事実として奇跡を扱える者として信徒は得られようが、仏教が広く信仰されておる故、新興宗教としての色が強く出るだろう。結界の自動展開も苦労する。電気を抑える事が出来たとしても、そこは事業家以上の立場は難しい。来る情報化社会で隠匿は難しくなる」

「魔物に襲われる人も、加速度的に増える訳か」

「神化による座標の目くらましにも苦労する事だろう。信徒を得て信仰を向けられて初めて至るものだから、そもそも神化すら出来ないかもしれぬ」

 

 ミレイユはそれを聞きながら、難しい顔して額を叩く。

 

「だが、最初は十年に一度くらいのペースでしか孔がなかったんだろう? それぐらいなら何とかならないか?」

「結局一人で抑えきれる範囲を超えた時点で、そのペースはあまり意味がないのよ。抑えきれないのなら、やはり人手は必要になる」

「それも、単なる人ではなく、魔力持ちが必要か……」

 

 然様、とオミカゲ様が頷いて続ける。

 

「御由緒家を始めとした魔力持ちを用意できたとしても、数を期待できない。手が足りなくなるのは目に見えているし、ミレイユの帰還と共に座標の確度が上がる事を思えば、その時点で抑えきれなくなる」

 

 なるほど、とミレイユは顔を上げて、髪を手ぐしで直そうと試みながら、話の続きに耳を傾けた。

 

「ではそれより少し遡れば……三百年ほど前ならば、というと現実味がありそうに思えるが、信徒の数を簡単に増やせるか、という問題がある。時間は多く、現代までに増やせそうではあるが、しかし霊地の多くは既に使われており、そこから押し出して建立は難しい」

「結局マナ不足で困窮する破目になるか……」

「信仰の願力は結界の堅固にも影響する故、これを疎かには出来ぬ。魔力持ちの数も、やはり三百年では足りぬだろう」

 

 手櫛では上手くいかないもので、それでもしつこく手で梳かす。難しい顔をしながら、ミレイユは問いかけるように続けた。

 

「難しいものだな。だが、増えない足りないというのも仮定にすぎないんじゃないか?」

「いいや、この千年を生きてきて推移を見てきた事実と照らし合わせれば、大きく間違っていなかろうと思う。現代に近ければ近いほど、信徒の獲得は難しいとも考えるべきだ」

「ではいっそ、千年以上前に行くのはどうだ? 準備期間を長く取り、その分強化に充てるというのは」

 

 良いアイディアに思えたが、オミカゲ様は首を横に振った。

 

「それでは一千華の寿命が足りぬ。結界は一千華頼みである以上、千年より前だと破綻が先にやってくる」

「他の誰かで代用できないのか」

「一千華と同じ力量を持つものか? 居らぬだろう」

「お前がやるのは?」

 

 ミレイユの指摘はごく当然のものに思えたが、しかしオミカゲ様は苦笑して首を振った。

 

「お前はもう少し謙虚であったと思ったが……。我とて万能ではないし、他の誰より有用であろうが、しかし一千華に並ぶものではない」

「並び立てるレベルでなければいけないのか? 無理だというなら、例えば複数人で当たるというのはどうだ?」

 

 ミレイユの意見は、オミカゲ様から情けないものを見るような視線で却下される。

 

「その程度の事、考えないでいる訳なかろうが。だが出来ていないという現実を見よ。我とて結界の重要性はよく理解しておる故、それに力を注ぐのはやぶさかでない。されど現実問題として、我は結界術に向いておらぬのよ」

「まぁ、それは私自身認めるところだが……。しかし、そうか……それ程なのか」

 

 ミレイユは大仰に溜め息をついて首を振る。

 

「なるほど、考えた結果が今だという事は理解した」

「――ジレンマよ。千年よりも後なら結界が持たず、前であっても結界は元より他も付いて来ぬ。一年、二年を前に倒すのは有効かもしれぬが、それでも多くを遅らせる事はできぬ」

「ままならん、という訳か……」

 

 ミレイユが重く息を吐いたところで、オミカゲ様は決意の籠った視線を向けて来る。まるで射抜くかのような鋭い視線だった。

 執念だとミレイユが感じた、あの熱意が千年経っても摩耗する事なく渦巻いている。

 

「そなたには行ってもらわねばならん。今度こそ、これが最後だという思いで、我はその為にこの時代を築き上げた。その為の土台も整えたつもりだ」

「ああ……」

 

 それについては心の底から感心するし、敬意を向けたい気持ちもある。

 だが、それでも尚、決心が固まらない。やってやる、任せておけという奮わせるような思いが沸いて来る事はなかった。

 



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混迷の真実、明瞭な虚栄 その4

 オミカゲ様はミレイユの心情を理解してか、一転気遣いを感じる声音で言う。

 

「それほど長くはなかろうが、それまで自由に暮らせ。望むものは用意しよう。……例えそれが、僅かな間でも」

 

 ――あれはそういう意味だったか。

 最初、謎めいた言葉、不安を煽るだけの台詞かと思ったが、色々聞いて分かった今だと、だいぶ心境が変わる。

 オミカゲ様の――多くのやり直しを背負ったミレイユの言葉だと思えばこそ、やりきれない思いになる。

 

 どうしたものか、どうしたらいいかを考えてしまう。

 そうするべきだと、そうするしかないのだと思っていても、やはり決意する勇気が湧いてこない。

 

 この世界に留まっていても、いずれ孔が拡大し、そして魔境が出来上がるだけ。世界の破滅が待っている。

 オミカゲ様の言葉を信じるならば、そういう事になる。しかし今更疑うものでもなかった。

 疑いたい気持ちがあるのは、その選択から逃げ出したいからだ。全て嘘なら、決意なくては出来ない選択をする必要がない。

 

 そして、思うのはそればかりではなかった。

 せっかく帰ってきたのに、また行かねばならないのか、という嘆く気持ちもまたある。

 

「こちらに帰って来たんだ、二度目の人生(セカンドスタート)を始めるつもりだったんだがな……」

「いいや。あちらに向かい、二周目の開始(セカンドスタート)を、これから始めて貰わねばならない」

 

 ミレイユは前髪をまたも掻き乱した。せっかく整えたのに、またも無惨な姿を晒している。頭髪というより頭皮を乱暴に搔き乱し、一度顔を下へ向ける。

 固く目を瞑り、十秒の沈黙の後、顔を上げた。

 

「返事は今すぐでなくては駄目か?」

「無論、後で構わぬよ。些か性急すぎたきらいがある。ゆっくり考える時間も必要であろう」

「些かだと? そんな生易しいものじゃないだろうが……」

 

 ミレイユは髪の中に突っ込んでいた指を、頭皮を揉み解すように動かした。考えを纏めるのに幾らか助けにならないか、マッサージのつもりで動かしてみたが、しかし全く何の助けにもならない。

 思考は頭の中で渦巻くばかりで到底カタチにはならず、そもそも理解を拒絶したい気持ちすらある。

 

「なぁ……。結界の破綻まで残り僅かとは言うが、具体的にどのくらい時間が残っているか、予想は着いているのか?」

「そうさな、最大で……」

 

 オミカゲ様は小首を傾げるようにして天井付近へ視線を向け、そうして五秒程度視線を彷徨わせた後、体勢を元へ戻して言った。

 

「一年あるかどうか、その程度であろう」

「そうか……長いようで短い時間だな」

「あくまで目算に過ぎぬと心得よ。孔の拡大速度が常に一定とは限らぬ。ある程度、波があるものだと判明しているが、これからの状況次第では加速度的に増加していく可能性もある」

「波というと……。ああ、ゴブリン程度しか出ない筈が、ミノタウロスの出現も皆無ではない、という話か……。そのようなこと言ってたな」

 

 ミレイユが即座に理解の色を示すと、満足するようにオミカゲ様は頷く共に、萎れる花のように首を落とした。

 

「それに何より一千華の寿命もまた、考慮せねばならぬ」

「……長くないのか」

「こればかりはな……。一年か、それとも半年か。その時が来るまでは分からぬが……」

 

 ミレイユは改めて一千華へ視線を向ける。

 静かに座り、全員の様子を楽しそうに目を細めて見る姿には、寿命が近いと感じさせない風情がある。寝込んでいる訳でもなければ、その顔に生気がない訳でもない。

 縁側でお茶していても不思議ではないのに、既に己の死を予期しているとは思えなかった。

 

 それこそ、全て冗談で老人特有の寿命ネタで笑いを取ろうとしていると言われても、信じる事が出来るように思える。

 しかし、瞳に宿る光には諦観に似た色が浮かんでいて、己の死期を悟り、そしてその事を受け入れている覚悟すら見えた。

 

 手を引かれて部屋へ入って来たとはいえ、背はしっかりと伸びていて気品すら感じられる。思わず本当なのか、と疑わずにはいられない程だった。

 

 疑わずに、というよりは信じたくないのだ。

 眼の前にいる一千華をルチアと切り離して考えるとしても、それでも完全に別物だと考える事は出来ない。その一千華が亡くなると言われて動揺しない方がおかしかった。

 

 そこまで考えて、ふと思う。

 

「現状の結界は、既に一千華の手を離れているんだったか?」

「そうさな、だから孔の拡大を許しておる。拡大自体はそなたが帰還より後の事であったが、離れたのはそれより前のことよ。……ふむ、どれほど前の事だったか」

「三ヶ月程前の事でございます、オミカゲ様」

 

 一千華がおっとりとして発言すると、目を合わせてゆったりと頷いたオミカゲ様は小さく笑む。

 

「そうであったな。……それがどうした」

「いや、まだ元気そうに見えるのに、結界の管理から離れたのが疑問だった。まだ元気そうで健康そうだ。ならば、継続できたのではないかと思って……」

「――生命の火が消えるまで、結界の維持に努めろと? その死の瞬間まで維持を続けろとでも言うつもりか?」

「いや……」

 

 オミカゲ様の声音には明らかな怒気が含まれていた。

 ミレイユは己の失言を自覚して顔を顰めた。頭の隅に思い浮かんだとしても、それは口にするべき事でないのは明白だった。まるで電池か歯車のように、遣い潰して交換すればいいとでも言っているようなものだ。配慮も遠慮もない失言だった。

 

 ミレイユは流石にしっかりと頭を下げて、一千華へと謝罪する。

 

「申し訳ない。そういうつもりで言ったんじゃないんだ……」

「分かっておりますよ。それにわたくしは、そうしても良いとオミカゲ様には申し上げていたのです。最期の瞬間まで結界の維持に努めても良いと……」

 

 予想外な発言に顔を上げて見ると、そこには苦笑としか言いようのない表情が浮かんでいた。

 オミカゲ様の方を見てみれば、頑なに首を振り、否定する意思を見せている。

 

「それは認めぬと言った筈だ。千年ものあいだ苦楽を共にした友だ、もう十分休んでも良い程、そなたは我を支えてくれた。残された時間、有意義に過ごせ」

「そう言われても困ってしまいますね……。では、一緒にお茶を飲んで下さりますか?」

「勿論だ。何なれば、我自ら一服、進ぜよう」

「あら、素敵ですわね」

 

 お互いに微笑み合う姿は睦まじく見えるが、オミカゲ様の表情は切なく泣いているようにも見える。

 思えば長い間――気の遠くなるような長い時間を共に過ごして来た仲だ。その正体も本音も、何もかも打ち明けて憚ることない間柄だったろう。人であれば、誰しも永遠には生きられない。

 

 誰にでも順番がやってくる。

 そして、その順番が遂に一千華にもやって来たという話だ。多くの別れを体験してきたオミカゲ様だろうが、堪える死というものは慣れないものだろう。

 

 いっそ否定したい事ですらあるだろうに、お互いがそれを受け入れて、そして旅立ちを見送ろうとしている。

 ミレイユは改めて自らの失言を恥じた。

 効率、あるいは合理的でありつつ無神経な発言。自らにも同じ事が起きれば、とミレイユは盗み見るように、アヴェリンから隣に続く面々へ目を向けた。

 

 今となっては居て当たり前と思える三人。

 その誰であっても別れを体験したいとは思えない。抗えるものなら抗いたいと思うのが普通だろう。そして――。

 

 ミレイユは改めて自分たちと対面に座る一千華を見た。

 長机に四人で並ぶ一列と、その反対に一人しかいない彼女。

 

 その正体を聞いてから、他の二人はどうしたのかと思わないではなかった。いない事について考えないようにしていた。昼食会にて気づき、オミカゲ様の周囲に()()いない事を不審に思って周囲を見渡したりもした。

 

 しかし、そこに居ないというなら、それが事実なのだ。

 ミレイユはソレ以上を考えないよう、敢えて思考に蓋をする。考えても仕方ないというよりは、考えたくないという稚気にも似た思いだった。

 

 そこで強制的に意識を切り替えるように、オミカゲ様が手を叩いた。

 一拍だけの乾いた音を耳が叩いて、沈み込みそうになる意識を強制的に引き上げられる。目を合わせると、オミカゲ様は静かに手を降ろして皆を見渡した。

 

「さて、長い間、話すに話した。そろそろ疲れた頃合いであろう」

「話した時間の長さから来る疲れじゃないだろう、これは……」

 

 ミレイユがげんなりして言うと、オミカゲ様も苦労を感じさせる表情で頷く。

 

「しかし先延ばしにも限度のある話故な。今は即座の納得も理解も出来なかろうが、しかと考えておいてくれ」

「まぁ、そうだな……」

 

 ミレイユが力なく口から吐き出すと、オミカゲ様の背後で巨体が身動ぎして立ち上がった。

 部屋中の誰もがその動きに注目し、その中にあってオミカゲ様が振り返っては立ち上がる。

 

「もう行くのか、八房」

「……ウォン」

 

 小さく一鳴きして、その鼻面をオミカゲ様の頭に擦り付ける。

 短い間じゃれ合って、そうして他には目もくれずに身体向きを変えた。尻を向けて踵を返した時に、その大きな一つの房がミレイユの頭を慰めるように撫でていく。

 果たして気遣いだったのか、ほんの偶然だったのか、その違いが分からないような撫で方だったが、ミレイユはどこか心落ち着くような気落ちになる。

 

 背を見せて縁側を降り、そうして威厳を感じさせる足取りで中庭を横切っていく。姿が完全に見えなくなるまで見送っていると、オミカゲ様も寂しげな声音で声を上げた。

 

「さぁ、今日の所はここまでにしよう。一千華は今後、こちらに逗留してもらう予定である。何か用事があるか、あるいは話したいというならお付きの者に申しつけよ。我との先約がなければ、最優先で引き合わせるよう取計らう」

「それは大変、よろしゅうございますね。暇なご隠居と話したいと思ったら、いつでもお声がけ下さいませ」

 

 一千華が笑って一礼すると、ミレイユ達はお互いに顔を見合わせては頷く。

 特にルチアは非常に複雑そうな顔をしていて、どう反応するか迷っているようだった。それはそうだろう、といったところだが、ルチアにも向き合うには時間が必要かもしれない。

 

 とにかくも、それでその場は終了となった。

 オミカゲ様が部屋の外へ声を掛けると、控えていた女官が現れミレイユ達の先導を始める。身体は非常に億劫だったが、動かない訳にもいかない。

 アヴェリンに頼めば背負ってくれそうだが、そうしてもらうには余りに理由が酷すぎた。

 

 ミレイユは非常に重く感じる身体を、両手を机を押し退けるように立ち上がる。その際、オミカゲ様と目が合い、不思議な視線だと思った。見ていると落ち着かなくなる、謝罪をしているかのような視線。

 ユミルが言っていた己に向けられる目とは、これの事かもしれなかった。

 

 その視線を断ち切るように顔を背け、女官の先導に任せて足を進める。敢えて何も考えないようその背を見つめ、ただ歩く事に専念した。

 ミレイユの背に掛けられた、オミカゲ様からの挨拶に反応すらせぬまま、逃げ出すように部屋を出た。

 



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混迷の真実、明瞭な虚栄 その5

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 その翌日の事だった。

 ミレイユは会談の終わりと共に部屋へ帰ると、その日は誰とも会わず、誰からの問い掛けも無視して引き籠もっていた。途中咲桜が食事や湯浴み、着替えなどの用向きを伝えてきたが、それらも一貫して応えない。

 

 ただベッドの上で、染み一つない天井を見つめていただけだった。

 何も考えずとは思っても、益体もない事は思い浮かぶもので、言葉遊びをするように横から横へと流れる思考を垂れ流すままにしていた。

 

 そして更に翌日、流石にそのまま居続けるのも意味がないと諦め、咲桜を呼んでは湯浴みと着替えを済ませた。食欲までは湧かず用意されていた食事を下げさせたが、せめて汁物だけでも、という言葉に頷いてお吸い物だけは飲んだ。

 

 そしてやはり何もやる気が起きず、大人が五人並んでも尚、余裕のある広さを持つベッドの上で天井を見つめている。

 考えまいと思っても、やはり思い浮かぶのは会談の内容で、大きく溜息を吐きながらベッドの上で体勢を変えた。

 うつ伏せになった上で、布団の表面に顔を埋めながら声を出す。

 

「あ゛ぁぁぁぁぁ……!」

 

 それが全く意味はなく、何の助けにも慰めにもならないと理解しつつ、ミレイユはそれを止められない。

 今は何も考えたくなかった。

 暴れ出したい気持ち、腕を振り回したい気持ちを抑え、その代わりに声を出す。

 自分に降り掛かった理不尽と、そこから生まれるストレスを上手く制御できない。

 

「あ゛ぁぁぁぁぁぁぁあ……!」

 

 尚も口から意味のない音を出して額を布団に擦りつけた。

 そうして遂に足をバタつかせ始めた時、その肩に温かな何かが触れる。一瞬あとに、誰かが手を置いたのだと気付いた。

 顔を向けると、そこには気遣う視線で見つめるアヴェリンがいる。

 

 ミレイユは一瞬動きを止め、それから苦笑しながら顔を上げ、身を捩って体も起こした。

 入室許可を与えなくとも、アヴェリンは護衛の任を真っ当しようと同室で待機しようとする。それが日常となっていたのだから、ここにいるのは不自然という訳でもなかった。

 昨日は気を利かせてくれたのだろうが、いつまでも捨て置けぬと、こうしてアヴェリンも様子を伺うつもりで来たのだろう。

 

「恥ずかしいところを見られたな……」

「そのような事……! 無理もない話です。あのような事を聞かされて、平静でいられる筈もありません」

「……確かに、少々取り乱した。信じられないという程ではなかったが……、信じたくないというのも本音だった」

「……分かります」

 

 アヴェリンがしみじみと頷くのを見ながら、ミレイユはずりずりとベッドの上を移動して縁に腰掛ける。その隣をポンポンと叩くと、遠慮がちにアヴェリンも腰掛けた。

 

 ミレイユは沈黙のまま、正面に見える窓の外へ目を向ける。

 時間は既に夕刻へと迫り、日も陰りを見せていた。ここから見える中庭は良く手入れされていて、短く切り揃えられた芝は美しい。

 

 飛び石が通路を作った先には池があって涼し気な雰囲気があり、また池の傍に植えられた梅の木は見事な枝ぶりを見せていた。

 今はもう開花時期が過ぎ枝には青々とした葉が茂っているが、それはそれで見ていて楽しいものだ。

 

 そうして心が落ち着いて来ると、ようやく話すつもりになってきた。

 ミレイユは敢えて視線を正面に据えたまま口を開く。

 

「最初はこうなると思っていなくてな……」

「それは、そうでしょう……」

「オミカゲの正体には察しがついた。いっそ露骨と言える程だったし、それは後に自身の正体を教える為、その説得力を増やす為だと理解できたが、理由となればそれぐらいのものだと思っていた」

「裏の意味、といいますか、その真意までは汲めなかったと……」

 

 アヴェリンの視線がミレイユを見つめている事は感じていたが、今はそちらへ顔を向けられない。

 池に目を固定させたまま、溜め息を吐いて話を続けた。

 

「何故だと考えてみた事はある。しかし納得の行く理由は思い当たらなかった。そもそも理由について思い至るような情報は見当たらなかったし、ならば大した意味などないのかと思いもした」

「無理もない事かと……。誰であろうと思いつくものではないでしょう」

 

 うん、と力なく頷いたが、可能性について思い当たっても良い筈だった。

 その全貌についてではない。何かの切っ掛け、取っ掛かり、その程度の事は思いついて然るべきだった。繰り返している事など分かる筈もないが、時間を渡るというのは半端な覚悟で出来る事ではない。

 

 その事にもう少し思慮を向けるべきだった。

 

「だがまぁ……思いついたからといって、何が出来た訳でもないが……」

「オミカゲ様の目的や覚悟を思えば、逃げられたものでもないでしょう」

「そうだな……」

 

 今回ミレイユの捕縛を命令した事は、単に都合が良かったからだろう。

 これからまた送り返すつもりでいるから、現世を少しでも満喫させておこうという心遣いはあったと思う。しかし結界の事を思えば、そう長くも遊ばせる事ができないとも思っていた筈だ。

 

 今回の件がなくともミレイユの住む――というかアキラのアパートへ誰かしら派遣していたに違いない。所在地は掴んでいたというから逃げられなかったろうし、闇に乗じて逃げようとも、あちらには千年の研鑽を詰んだ一千華(ルチア)がいる。

 

 隠蔽するにも限度があり、そして早晩見つかっていただろう。

 逃げていれば話を聞かずに済んだかもしれない、という妄想も、結局のところ時間の問題でしかなかった訳だ。その気になれば、どこであろうと見つけ出したろうし、そして時間的限界がある以上は決して逃しはしない。

 

 仮に逃げ切れたとしても最悪だ。

 その時は知らぬ間に、しかし確実に魔物が溢れる世界へ変わっていく。安寧や平和とは程遠い世界だ。静養のつもりで暮らす、などというのは夢のまた夢だろう。

 

「休暇のつもりで過ごせとは言ったが……、本当に休暇になってしまったな」

「ルチアなどは、こちらにいる時間が長いのだとしても、いずれ帰るつもりでいると思っていたようですが」

「そうなのか?」

「ええ、休暇というからには、帰るものだと思っていたようです」

「そんなつもりはなかったんだが……」

 

 ミレイユは困ったように眉を垂れ下げ、力なく笑う。

 

 確かに休暇という言葉だけ聞けば、慰安旅行のようなつもりでいたとしても不思議はない。これはミレイユの言葉選びが悪かった。

 最初から帰るつもりなどなく、現世で骨を埋めるつもりでいた。二度とあちらの地を踏むことはないと思っていたものの、帰りたいと言う者がいた場合、その手段を講じるつもりでもいた。

 すぐではないが、いずれその方法を探そうなどと、悩ましい問題として考えていたのだ。

 

 ――今となっては、それも意味がないが。

 

「誤解しないで貰いたいんだが、別にあちらの世界が嫌いという訳ではない」

「分かっております」

 

 アヴェリンは慈愛を感じさせる視線を向けながら頷く。

 面映ゆい気がして、ミレイユは尚の事そちらへ顔を向けられなくなった。

 

「ただ平穏が欲しくてな。あちらでは、それは求めても手に入らないものだったし……」

「あらゆる騒動が、ミレイ様を中心に起こっていたようでした」

「間違いではなかったんだろうな。十二の大神の目的など知る由もないが、世界を飛び越えても手放すまいとするからには、全ての騒動は何か目的を持って引き起こしていたんだろうさ」

「それは……、そうかもしれません……」

 

 アヴェリンは言葉を探したがそれも一瞬の事、すぐに思い直して頷いた。

 どれほど腕に覚えのある戦士だろうと、神の目に留まるという事は少ない。あるいは気紛れで目をかけられる事はあっても二度目はなく、また大抵は一度の試練で命を落とす。

 

 神の試練とはそれほど過酷なのだが、だからそれを突破できた者には惜しみない賞賛と神器を受け取る栄誉を賜る。それも歴史上片手で数えて足りるくらいのものだが、ミレイユは一人で五個の神器を集めた。

 

 それからというもの、竜退治を始めとした大討伐、世界から陽を奪おうとした魔族との対決、世界の支配を目論む始祖の妨害など、壮大な事件に巻き込まれる事になった。

 これは一人の人間が遭遇するには、あまりに壮大過ぎる事件のレパートリーだ。

 

 そしてミレイユは、それを当たり前とすら認識していた。

 この世界はそれぐらいの事が起きると考えていて、特別な事であっても自分にとっては日常だと受け止める、一種の洗脳めいた妄信があった。

 

 そんな筈はないと、冷静になった今なら理解できる。

 そしてそれを悉く打ち倒し、乗り越え、そして更なる高みへ至ったのも、全て大神の狙い通りだったのかもしれない。乗り越えられるだけの壁を、乗り越えられる高さを用意し、順に用意して謀った。

 それが大神達にとって、一体どのような利益になるのかは分からない。

 

 神のやる事だから、どうせ碌でもない事か、仕様もない事だとは思うが。

 自分のことはこの際仕方ないが、しかしアヴェリン達は不憫だ。巻き込まれた――ミレイユが巻き込んだと言って過言ではない。

 そのような事を言ったら、彼女たちは怒るだろうか。

 

 顔色を伺うようにアヴェリンへ目を向けると、困ったような表情で笑っていた。何だと思って眉根を寄せると、彼女は困った表情そのままで言う。

 

「何を言いたいか、言うつもりかは察しが付きます。ですが、どうかその言葉は飲み込んでおいてください」

「そんなに分かり易いかな……」

「ええ、特に最近のミレイ様は非常に分かり易いかと。ルチアはともかく、ユミルに言おうものなら怒り狂うかもしれません」

「そこまでか……?」

 

 呆れる事はあっても、今更怒るというのは考えにくいのだが、しかしアヴェリンは自信に満ちた表情で頷いた。

 

「その事には余程の自信があります。……まぁ、アレも最近は感情を良く露わにしますから、尚更かと」

「ユミルはいつも感情の起伏が激しいだろう」

「……あぁ、何と言いますか。アレは大抵馬鹿な発言をするか、厭味ったらしい笑みで本音を隠すのです。アレの発言の多くは感情的ですが、そこに本音はありません」

「……よく見てるな」

 

 ミレイユが笑うとアヴェリンも苦笑した。そこには苦慮の嘆きが見え隠れしているような気がする。

 

「御身を御守りしようとすると、自然とアレの発言には注目せざるを得なかったという話で……」

「苦労をかけるな」

 

 今更ながらの発言をしみじみと伝えると、アヴェリンは感動で打ち震えるようにして頭を下げた。何かを言う前に動きを止め、肩を押して頭を上げさせる。

 

 ミレイユとしては主従の関係より対等な扱いを望むのだが、今やアヴェリンの意思を尊重すると決めている以上、友人関係にはなれないだろう。

 しかし今のような態度を見せられると、いたたまれない気持ちになる。

 

 残念そうな顔を見せるアヴェリンに苦い笑みを見せていると、入り口の襖が開けられた。

 制止する咲桜の声が聞こえてきたが、それを無視してユミルがやって来た。ズカズカと入り込んではミレイユ達二人の前に立って、いつもの嫌らしい笑みを浮かべる。

 

「も、申し訳ありません、御子神様!」

「ああ、いいよ。分かっている」

 

 咲桜が慌てて寄っては恐縮し切って頭を下げたが、それへ鷹揚に応えて手を挙げる。

 どうせユミルが取り次ぎを頼んだものの、返事を受ける前に入り込んで来たのだろう。彼女にそういう礼儀を期待するのは時間の無駄だ。

 

 何しろユミルは分かって礼儀を無視している。無視する事、打破する事に意味があると思ってやっているので、幾ら止めてもやめてくれない。

 咲桜へ退室するよう命じてから、ミレイユは改めてユミルに顔を向けた。

 

「それで、どうした?」

「仲睦まじい時間をお邪魔しちゃって、ごめんなさいね」

「邪魔だという自覚があるなら入ってくるな」

 

 ユミルがベッドサイドに腰掛ける二人を揶揄するように言えば、猛烈な敵意を漲らせてアヴェリンが威嚇する。

 そういう態度がユミルを喜ばせるのだろうなと思いながらも、敢えてそこに口は挟まない。何を言ってもユミルを喜ばせるだけと知っているミレイユからすれば、餌を与える口実を作りたくなかった。

 

 改めて顔を見てユミルへ問えば、実に軽快な口調で言って来た。

 

「ところで一昨日の話、本気にしてるとは言わないわよね?」

 



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混迷の真実、明瞭な虚栄 その6

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 ユミルの口から飛び出た疑心に満ちた言葉に、ミレイユは思わず動きを止める。

 その顔をマジマジと見つめてみれば、若干の不機嫌さが察せられる。確認の意味で言った言葉というよりは、念押しのつもりだったように思える。

 

 ミレイユからしてみれば、疑う余地のない話に思えた。

 敢えて口にしていなかった事もあったろうし、事実そのことに気付いてもいたが、しかし一日の僅かな時間で全てを言えないのも事実だったろう。

 

 それでも伝えるべき内容、訊くべき内容は聞けたと思う。

 その上であの内容に大きな齟齬はなく、真摯に話し合いに応じてくれていたと感じていた。それがミレイユにとって不都合な内容であったのは確かだが、しかしそれを持って信じないという事にはならない。

 

 ミレイユが返す言葉に困っていると、ユミルは近くから椅子を持ってきて対面するような位置へ座った。

 アヴェリンは顔を顰めたが、どうやら単に邪魔しに来ただけではないと見て、二人の話を聞く事に徹するようにしたようだ。

 

 ユミルが挑むような顔付きで腕を組んだのを皮切りに何事かを言おうとして、それより先にミレイユが気になった事を聞いてみる事にした。

 

「ルチアはどうした。一緒じゃないのか?」

「部屋にいるわよ。声を掛けたけど、どうもそういう気分じゃなかったみたいで」

「それは、そうだろうな……」

 

 ミレイユ自身も相当なショックを受けている。

 オミカゲ様の正体が自分自身だった事は良いとして、それが時の螺旋を描いてループしている事にも衝撃は受けたし、そして破滅を防ごうと奮闘している事にも言い様のない衝撃があった。

 

 しかも一度は失敗した世界を体験し、それ故にその未来を作らせまいとして、考え得る対策を施してやって来た。

 そして、その『やり直し』にルチアも己の人生を賭して付き合い、その寿命が尽きようとしている。見た目の変化が乏しいオミカゲ様と違い、一千華の容姿は大いに老いた女性となって対面した。

 

 元気な姿に見えたものの、寿命と言われれば納得する他なく、だからこそ受けるショックも大きかったろう。

 今は一人で居たいという、ルチアの気持ちも良く分かる。

 大仰に溜め息を吐きたい衝動を飲み込み、吸った息をなるべく静かに吐いてからユミルへ向き合う。

 それで、と口に出してから、ミレイユは小さく首を傾げた。

 

「……本気にしてるって言うのは、どういう意味だ? 私が騙されているとでも言うのか? 嘘を言っていたようには見えなかったが」

「まぁ、嘘は言ってないでしょうよ。螺旋を描く時の流れだとか、そういう検証しようがない部分についても、今は置いときましょう。――問題は、アンタがその気になってるか、ってコト」

 

 ミレイユは首を傾けたまま、後頭部を人差し指でコリコリと掻く。

 

「あちらの世界に、再び殴り込む気があるのかって?」

「そうよ。まさかとは思うけど、一応ね。……昨日は一日引き籠もってたし、深刻に考え過ぎてるんじゃないかと不安になって」

「あの話を信じて、今度こそループを終わらせようと考えるかもって? ……考えない訳がないだろう。深刻にもなる」

 

 疲れたように溜め息を吐けば、アヴェリンが労るようにミレイユの腕を撫でた。その手を重ねた後、優しくポンポンと叩けば気遣う仕草を残しながらも離れていく。

 

 アヴェリンはユミルへ射抜くように見つめながら、不満を露わにして声を上げた。

 

「貴様こそ無神経過ぎるのではないか? 整理する時間とて十分持てたとは言えない。それをズケズケと……!」

「考えが固まる前に言うからこそ、意味があるワケ。いいから黙っておきなさいな、アタシは何もケチつけに来たんじゃないんだから」

 

 お互いに喧嘩腰のような物言いだったが、先にユミルが真意を露わにした事で、アヴェリンもとりあえず矛先を収める。口出しをしないという意思表示の為か、ミレイユから一歩分横へ離れてベッドの端を軋ませた。

 

「まず大前提として言うんだけど――」

 

 そう前置きした上で、ユミルはチラリと笑ってから続ける。

 

「アタシはね……アンタが何を考えようと、どう結論しようと、何処へ行くつもりだろうと、付いていく気でいるワケよ」

「そうなのか?」

「ええ、そっちの方が楽しそうだから」

 

 笑みを深めて言った台詞に、ユミルらしいと肩を竦める。

 娯楽に飢えているユミルだからこその意見だが、それを言うなら現代は娯楽に事欠かない。楽しむというなら金銭がなくては語れないが、それでも日本から外へ視野を広げれば、千年遊んでも飽きはしないだろう。

 

 そこで唐突にユミルの笑みが消える。

 

「――でも、その上で言わせてもらう。アタシは反対よ。ここで暮らして戦いから身を置くのが目的だったんでしょう? そうすればいいじゃない」

「そういう訳にもいかないだろう。お前としては、こっちにいられる方がいいんだろうが……」

「ちょっとちょっと、そんな理由で引き止めると本気で思ってる? だとしたら、アンタの事ちょっと買い被り過ぎてたってコトになるんだけど」

 

 不快に思っていると分かる雰囲気を、全身から吐き出してユミルは腕を組んだ。

 それにはミレイユも苦笑して素直に謝罪した。気持ちが後ろ向きになっていたとはいえ、長年連れ添った仲間に掛けて良い言葉ではなかった。

 

「まぁね……、逃げるのも手だと思うのよね」

「逃げてどうなる。結局安全な地など、この地球上から無くなるぞ」

「本当のコト言ってるとは限らないでしょ。あの話に説得力があったのは確かだけど、それで裏付け取れないものを信じるのはどうかしらね」

 

 ユミルが鼻に皺を寄せて言うのに対し、ミレイユは困ったように笑った。

 

「そうは言っても結界が展開されているのも事実なら、魔物が孔から出てきているのも事実だろう。それともユミルは、孔は召喚して出来たもので、自作自演でそう見せかけているだけだと主張するのか?」

「……あら、それは考えていなかったけれど。それもいいわね、採用よ」

 

 そう言って指を差して笑い、今度はミレイユが鼻に皺を寄せる破目になった。

 再び腕組みして鼻息荒く吐き出して、ユミルは続ける。

 

「大体ね、封印がこれからも維持できないっていうのも、どこまで信じていいか分からないでしょ?」

「何故だ? 一千華の姿を見て偽物だと思ったか? その口から出た言葉は信じられないと?」

「いいえ、オミカゲ様は未来のアンタだと思うし、一千華が未来のルチアの姿だという部分は信用するわよ。でも、だから結界は維持できないし、いずれ封じ込めにも失敗すると信じるのはどうかしらね」

 

 確かにそこは、二人の口から出た言葉を信用するしかない部分だ。

 ミレイユ達には結界術がどのように組まれ運用されているのか理解できないし、現代技術と融合された自動展開など、説明されたところで理解できないだろう。

 見せられたところで何一つ理解できないとも考えてないが、それでも、だから疑うというには根拠が薄い気がした。

 

「そう言うからには、何か疑う根拠があるのか?」

「ルチアがさ……ああ、こっちのルチアね、そのルチアが協力するって申し出たでしょう?」

 

 確かに言っていた。

 他の誰が無理でも、同一の存在であるルチアだからこそ助けになれる、という主張には頷けるものがあった。しかし、それを一蹴されてしまった。一千華に及ばないのは事実だとしても、他の術士よりは効果的だろうと思うのだが、強く拒否されてしまったのだ。

 小娘とまで言った拒否には、絶対に近づかせまい、という強い意思を感じた。

 

「その場しのぎにしかならないのが本当だとしても、拒む理由になるかと言えば疑問なのよね。だってそうでしょう? 少なくとも破綻するまで、結界の展開をやめるつもりはないみたいじゃないの」

「……まぁ、そうだな。先延ばしにしかならないにしろ、伸ばせる時間は増えそうなものだが」

「その()()を無意味と切り捨てるのなら、現状の維持にだって大した意味はないってコトになるじゃないの」

 

 ユミルは大いに鼻を鳴らして、ツンと顎を突き出しては大いに顔を顰めた。

 

「選択肢を与えるような事を言って、最初から選べる選択肢を排除しているのよ。タイムリミットも近いと焦らすようにして、精神的余裕も削ごうとしている。冷静な判断をさせず、望む方向へ誘導しているようですらあるわ。信用できるかってのよ」

「そう言われるとな……」

 

 ユミルの言い分には一理あるように思われた。

 結界の延命が叶うというなら、ルチアの協力は拒むところではない筈だ。現在の術士とルチア、そこにどれほど効果の違いが出るのか分からないミレイユ達からすれば、そこで疑気が出るのは当然だろう。

 

 だが、その差が微々たるものであるなら。あるいは、それでルチアの時間を多く拘束するというなら、どうせ移動は免れないなら、残り時間をせめて楽しむようにと勧めても不思議ではないように思える。

 

 頭から信じるのではなく、疑う気持ちを持ち検討しようとするのは良い事だ。これが盛大な詐欺だとは、どう考えても思えないが、しかしそうした冷徹な思考もまた必要な事だと理解している。

 だがユミルがそう言うなら、ミレイユとしても一つ言っておかねばならない事がある。

 

「お前が神嫌いで、だから相手の言う事を信じられないのは分かる。――だが、あれは私でもあるんだぞ」

「全く同じ顔で、同じ魔力波形を持ってて、同じ様な思考をするってだけでしょ?」

「……つまり、それは私じゃないか」

 

 ユミルの言わんとしている事が分からず、ミレイユは眉を顰めた。

 

「同じ様な、と言ったのよ。つまり似ているってだけ。同じと似てるは、近いけれど別物よ。――良いこと? 千年の時の流れっていうのは、決して軽いものじゃない。別人にするには十分な時間なのよ」

「……そうかもしれないが」

「それにアイツは、まだ言っていない事がある。嘘か、あるいは隠し事……そういうのが。それが明らかにならない限り、信じるべきじゃないと思う」

 

 頭ごなしに否定したい訳じゃない、信じるに足る全てを曝け出すまで信じるな。

 ユミルはそう言いたいのだ。

 

 確かにオミカゲ様が自分自身で、そして全てを託して任せたいというなら、嘘も隠し事もあってはならない事だろう。それで信用しろと言うのなら、むしろ疑心が増えるばかりだ。

 

 ミレイユは納得したと、ユミルへ向けて何度も頷く。

 感心して拍手すらしたい程だった。

 

 そこへ、焦った表情を必死に押し隠した――あまり成功してはいない――咲桜が、しずしずと近付いて来ては見惚れるような一礼をしてきた。

 例え焦る事態であっても、身体に染み込ませた礼儀というのは正常に発揮するらしい。

 

「オミカゲ様が、お部屋の前までいらしております。入室の許可を求めておりますが、如何致しますか?」

 



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混迷の真実、明瞭な虚栄 その7

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 咲桜が恐縮しきった顔を上げ、ミレイユはどうしたものかと首をひねる。

 そもそもどうして来たのか、どういうつもりなのか、という疑問が脳裏を掠めた。オミカゲ様という立場にあって、用事があるなら呼びつけるのが当然で、自ら足を運ぶ事などしない筈だ。

 

 咲桜が見せる動揺も、恐らくそれが原因だろう。何事かあれば、一声上げるだけで周りの者がそれを叶えるべく行動する。女官の数が多いのは、何も掃除をさせる為だけにいる訳ではない。

 オミカゲ様の手足の代わりとなるべく存在しているのだ。御子神と認定されているミレイユでさえその扱いなのだから、当の神への扱いなど推して知ろうというものである。

 

 とはいえ、いつまでも部屋の前で待たせるのも無作法というものだろう。

 ひと目すら合わさず帰らせるのも難しい。呼び付ける無礼を慮って自ら足を運んだつもりなのか、それとも対面を断れないよう自ら足を運んだのか、これでは判断できない。

 

 迷ってユミルへ顔を向けると、好きにしろとでも言うように頷いた。アヴェリンへ向けても同じ事。そもそも彼女については、外敵ならまだしも、そうでないならミレイユの意見を尊重する。

 この場で伺う事ではなかったかもしれない。

 数秒考えた末、外へ顔を向けて口を開いた。

 

「咲桜、部屋の中へお通ししろ」

「畏まりました」

 

 一礼して去っていく背中を見ていると、ユミルも同じように目を向けて呟くように言う。

 

「ちょっと意外ね。まだ会いたくないとか言って、門前払いでもするかと思ったわ」

「正直、それは少し思ったが。わざわざ部屋まで来たんだ、茶ぐらい出してやらねば」

「まるで自分が家主みたいな言い分ね?」

「……まぁ、あながち間違っていないだろう」

 

 ミレイユが小さく笑うと、ユミルも笑って頷こうとし――その先にオミカゲ様の姿を認めて表情を硬くさせる。

 アヴェリンもベッドから立ち上がり、一応の警戒を見せた。とはいえ敵愾心のようなものは見えない。出そうとしては、その表情を見て毒気が抜かれたかのようだ。

 

 オミカゲ様の表情は常にあるような平坦なものではなく、眩しいものを見るように目が細められていた。そこには若干の申し訳なさと、出会えた喜びのようなものが見える。

 

 ミレイユもベッドサイドに座ったままでは拙かろうと立ち上がり、先導されて来る前に小卓の方へと移動を済ませる。この場合、上座はどちらに譲るべきなのか、と考えている内に、オミカゲ様が近くまで来て立ち止まった。

 

 咲桜は横へずれて一礼し、元の待機場所へ戻っていく。

 そちらへは一瞥もくれる事なく一歩だけ前へ出て、オミカゲ様は口を開いた。

 

「最初に、顔を合わせてくれた事に感謝しよう。まず無視されるだろうと思っておった」

「じゃあ何で来たんだ……。足を運ばせたとあって門前払いなどしたら、それこそ問題になるんじゃないのか」

「他の誰かならばそうであろうが、そなただけは別である。そのように周囲には言い含めてある故な」

 

 だからと言って、いきなり訪ねてくるのはマナー違反ではなかろうか。

 普通は先触れがあるものだろう。ミレイユに本日の予定などないし、明日もある訳ではない。だから、それを理由に断る事はないとはいえ、来訪は事前に伝えるものだ。

 騙し討ちを受けたような気分になって、ミレイユは歓迎する気になどなれなかったが、ともかくもやって来てしまったものは仕方がない。

 

 ミレイユが椅子を勧めようとする前に、オミカゲ様はユミルとアヴェリンへ交互に顔を向ける。

 

「ここよりはミレイユと二人で話をしようと思う。席を外して貰いたい」

「へぇ……、アタシたちに聞かれちゃ困るって?」

 

 ユミルは鼻白んで腕を組んだ。臨戦態勢のような気配すら発して、梃子でも動かないとでも言うかのようだった。しかし、それをミレイユが止めた。

 

「ユミル、いいんだ。聞いてみるだけ聞いてみる。そうするだけの理由があるから、こうしてやって来たんだろうしな」

「あの日、あの場で言えない内容だってコト? ますます怪しいわね」

「ミレイ様がそうせよ、と仰るならそうしますが……」

 

 流石のアヴェリンもオミカゲ様の申し出には懐疑的な様子だった。訝しんではミレイユの傍で盾になる位置まで移動する。

 それを宥めて退室に同意させるのは骨だったが、ともかく不安と警戒を抱いたまま部屋を出ていこうとする。その背に向けて、ミレイユは声を放った。

 

「盗み聞きはするなよ、お前は確かそんな術を持っていただろう」

「はいはい、お任せあれ」

 

 返事だけは良いが適切な返事ではないな、と胡乱な目線でユミルを見送り、そしてぞんざいに手を振ってユミルは去っていく。やはり心配な目線で未練がましく見てくるアヴェリンへ手を振って、襖が閉められるのを確認する。

 それから改めて、オミカゲ様と対面した。

 

 この部屋の主は自分だが、客人をもてなす立場というのも違う。むしろ自分が客人の立場なのだから、上座に座るのは避けようと、そこに最も近い席へ座る。

 しかしオミカゲ様も上座は避けて対面へ座ってしまい、座り直した方が良いのかと上座へと目を向けたが、小さな笑い声で引き戻された。

 

「いや、よい。この場で、そういう面倒な作法は無しにしよう」

「まぁ、お前がそう言うなら別にいいが」

 

 うむ、と頷いたオミカゲ様はチラリと小さく笑みを浮かべる。

 

「やはりそなたを御子としたのは正解であった。直接会いに行くと言ったら、快く送り出してくれた。これが他人であったら、遥かに面倒な手続きを踏まねばならないところであった」

「それは良かったな……。まさかとは思うが、御子神認定させたのは、それが本命とは言わないよな?」

「無論そうではない。便利な立場を与えたかっただけである。それが相互に作用するよう期待したのも事実であるが」

 

 どこまで信じて良いのか分からず、それで曖昧に頷いて会話が止まる。何をどう切り出そうか迷っていると、咲桜がお茶を持って現れた。

 二人に対して完璧な給仕を終えると一礼し、自らもまた部屋から出ていく。何かを言われる前に望むことが出来るのは、流石に神宮で仕える女官といったところだった。

 

 ミレイユがお茶に一口つけると、それを待っていたかのようにオミカゲ様が口を開く。

 

「そなたにも申し訳ないと思ったのだが、しかしあの場で話せなかったというのは事実なのだ。お互いのみが知るべき事であるからな」

「アヴェリンは元より、他の者だって命じれば漏らしたりしないと思うが」

「だが我は聞かれたくなかったし、知られたくないと判断した。もしそなたが話しても良いと思ったとしても、胸に秘めておれ。少なくとも、現世におる間はな」

 

 重々しい口調には、問答無用で頷かせる迫力があった。

 それだけで今から言う内容が、とんでもない厄種だと分かる。しかしミレイユが知っておくべき内容だと判断したなら、それを聞かないという判断もまた出来なかった。

 

 とはいえ正直なところ、まだ会談で聞いた内容の整理も出来てない状態で、畳み掛けるような事はしないで欲しいというのも本音だった。

 しかし、オミカゲ様が話すつもりなら聞くしかない。

 思いっきり顔を顰めて見てやれば、あやすような口調で赤い瞳をキラリと光らせ言ってきた。

 

「そのような顔するでない。意図的に話さなかった事について、そなたなら察しが付くのではないか?」

「何だ、ルチアの話は出てきたのに、アヴェリン達には全く触れなかった事か……?」

 

 オミカゲ様の変化は劇的だった。

 途端くたびれたように顔が下を向く。溜め息を吐いた後、平坦な表情は変わらぬまま、疲れたような雰囲気を放って首を振った。

 その心情と表情の乖離に違和感を覚える。出来る事が出来ない、出来て当然の表現を封じられているかのように感じられた。

 

「……正に。辛いが、それについても話さねばならない。だが、今はそれより先に、そなたの事を話す。――即ち、何故そなたが神々によって狙われるのか、その意味を」

「確かにそれは気になっていた部分だ。どうせろくでもない理由だろうと思っていた……だが、それは皆には話せないのか?」

「心に留めておくべきであろうな。まずは聞け」

 

 オミカゲ様が身体を持ち直して背筋を伸ばすと、ミレイユも釣られたように背を伸ばす。そうして続く言葉を待った。

 

「今となってはどう感じているのか、我は忘れてしまったが……。そなた、ミレイユとして過ごす事に違和感は覚えぬか?」

「なに?」

「言っている意味が分からぬか? そなたはかつてよりミレイユではなかった筈だ。日本で生まれ育った名前は別にあったろう」

 

 言われて、当然ながらに思い当たる事がある。

 ごく自然、ごく当然と思い、違和感の一欠片すら覚えずいたが、ミレイユには元となる一人の男の人生があった。理解しているつもりだったが、その事は頭から抜け落ちたようですらあり、どこか他人事のように感じている。

 まるで男として生きた人生こそが偽物で、ミレイユとして生きた数年の人生の方をリアルだと感じている。

 

 女性的身振り手振りも、自然な事だと受け入れていた。

 自身を鏡で見ても違和感はなく、何かがおかしいと引っかかるものすらなかった。その異常を改めて認識して顔が青くなる。

 

御影豊(そなた)は自宅でゲームをしていた。そしてクリアしたと思ったその瞬間、意識の暗転と共に今の身体へ乗り移っていた。ゲームで作成したアバターと同じ見た目になっていた、そうであろう?」

「……そうだ」

「何故だと思う」

「分かるものか。考えて分かるものでもないだろう……!」

 

 ミレイユは余裕なく頭を振る。考える事が怖かった。考える意味がないと分かっているから、それ以上考える必要がないと思えるから、全て締め出してしまいたかった。

 

「あるいは男として生きた人生こそ夢だったと思っておるやもしれぬが……、そなたは拉致されたのだ」

「拉致……? どういう意味だ」

「見た目ほど分かり易い拉致事件という訳ではない。魂そのものであり、肉体的な拉致ではなく、精神的な拉致である。そうして、神の素体へ移し入れられた」

「この……、この身体にか?」

 

 ミレイユは自分の身体を見下ろしながら両手を広げる。

 均整の取れた肉体、女性的起伏を持ちつつ筋肉も程よく付き、そして人間とは思えぬ魔力総量を持つ。容姿の美醜については御影豊としての趣味が現われているが、かといって己の容姿に頓着した事がなかった事を思い出す。

 

 違和感というなら、それが違和感だろう。

 己の理想を体現した容姿なのに、それについて見惚れる事もなければ気に掛ける事すらしていない。あるがまま受け入れて、それ以上の感想など湧いて来なかった。

 ――その、違和感。

 

「不都合な考えは生まないよう、調整されておるのよ。ある種の思考誘導がされておる。自由意志を剥奪しておらんのは余裕のつもりか、それとも出来ないだけなのか、あるいはそこまですると汚染になると判断したのか、そこまでは分からぬが……」

「この肉体に宿った時点で、何かをさせるつもりでいたというのか?」

「然様。そして、それを見事裏切ってくれたから、このような面倒事へ発展したとも言える」

 

 ミレイユは頭が痛くなる思いで――実際痛みを感じて、額に手を当てた。

 



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混迷の真実、明瞭な虚栄 その8

 ミレイユは思い切り顔を顰め、オミカゲ様を睨み付ける。厄介事、厄種だとは思っていたが、ここで更に畳み掛けられると、流石に文句の一つも言いたくなる。

 

「何で私なんだ。言っておくが一般人だった筈だぞ、私は!」

「そうとも、別にお前が特別優れていたから選ばれた訳ではない。部品としての役割を果たせれば誰でも良かったし、その中で上手く動いたのがそなたであったというだけの話であろうな」

「意味が分からない……。そんな事があると思うか? あり得ない、あり得る筈がない」

「考える事から目を背けるな。――よいか、簡単な思考誘導である。しっかりと見据えておれば、なお見えないものではない」

 

 オミカゲ様に見つめられて、その赤い瞳から強い意志を向けられる。頭が痛いという程ではないが、無性に腹が立つような、貧乏揺すりをして顔を背けたくなるような気持ちが湧いてくる。

 これがつまり思考誘導なのだろう、と分かると、必死に歯を食いしばって見つめ返した。

 

 ぎりぎりと歯を食いしばり、意味もなく頭を掻いて荒い呼吸を繰り返す。そうしていると、自然と意識が明瞭になってきた。先程まで霞掛かりハッキリしなかった意識や、考えようとすると目を背けたくなる事実へも、思考するのが容易くなり始める。

 それを確かに認識できて、ミレイユは話の続きを促した。

 

「それで、私にそれを信じろというのか? 会談での話も信じきれないままに、今もこうして話す内容を信じろと?」

「そうさな、信じてもらう他ない」

「私を神の素体に入れる事が目的だって? マネキンに魂を入れて、動くようになったから成功だと喜んでいたとでも言うのか?」

 

 皮肉を存分に込めた内容だったが、オミカゲ様は単に首を横に振るばかりで応じて来ようとはしない。今の状態は我ながら皮肉にも全くキレがなかった。

 

「いいや、魂を入れれば動くのは誰であっても同じだったろうと思う。問題は、それを成長させ昇華させる事が出来るかどうかよ。器の中に収まれば成功ではなく、そこから開始なのだ」

「だが、何故それが分かる? 何故知っている? 神を作ることが目的だった? 信じるというには荒唐無稽だぞ」

「我が知っているのは、勝ちを確信した神によって御高説賜ったからである。あの時の顔、声、態度、今から思い出しても腸煮えくり返る思いよ……! だからそれより先に教えてしまおうと言う訳でな」

 

 オミカゲ様は握った拳をもう片方の手で包んでは握りしめる。

 みきみきと異音が鳴るが、そのような事より気になる事があった。オミカゲ様は一度は神々と対面し、そして勝ち誇った相手から事情を――情報を抜き取ったという事だろうか。

 

「そして、その隙を見事突かれて逃げられたという訳か。なんとも間抜けな話だな」

「獲物を前に舌舐めずり、勝ちを確信した時こそ最大の油断という事実を知らなかったのであろうよ。そういうところも実に神らしい、と言えるがな」

 

 皮肉と侮蔑と嘲笑が入り混じった感情を吐き出しながら、オミカゲ様は続けた。

 

「そなた自身もゲームの内容を知るからこそ、上手くやれていた自覚はあったろう。そして『機構』の効果を知るが故に、それを頼って現世への帰還を望んだ。そうであろう?」

「……そうだ」

「ゲームのエンディングへ到達するには、何の選択肢を選ぶのだった?」

「……『神になる』」

「ゲームのタイトルは?」

神人創造(ゴッドバース)……」

「神の誕生を促す為のもの、あのゲームはそういうものだった」

 

 馬鹿な、とミレイユは我知らず呟いていた。

 あちらの神々が現世に降り立ち、せかせかとゲームづくりに勤しんでいたとでも言うつもりなのか。そんな遠回りをしてまで行う理由がない。あまりに迂遠過ぎるし、見合った効果が出るとも思えない。ゲームを遊ばせれば神に至るなど、あまりにフザけた内容だと言わざるを得ない。

 

 ミレイユは自らの考えを吐露するように言うと、オミカゲ様は最もだというように頷いた。

 

「その考えは正しい。神は直接作った訳ではなく、その知識を一人の人間に与えただけだ」

「知識を……? つまり、あちらの世界の成り立ちだとか、種族やそれにまつわる歴史、魔術や魔力の事などを、か?」

「然様。与えられた人間は天啓のようなインスピレーションと感じた事だろう。それを狙った神は書物に(したた)めるとでも思っていたようだ。それが結果ゲームとなって世に流れたのは、予想外であったようだ」

 

 オミカゲ様は鼻を鳴らして顔を背けた。

 

「だが、その誤算は予想以上の結果を生んだようだな。単なる文章を情景として浮かび上がらせるより、映像表現として、そして遊びながら体得できるというのは大きなメリットであった」

「神々はそうまでして何を伝えたかったんだ?」

「あの世界の常識を始めとした全てをよ」

 

 ミレイユは訝しんで眉根を寄せる。

 当然、遊びのためのインスピレーションを与えたいが為でない事は理解できる。だがどちらにしろ迂遠である事には違いない。何が目的なのか、結局見えて来なかった。

 

 オミカゲ様は大いに顔を顰めながら、正面に向き直る。

 その両目がミレイユを居抜き、強い敵愾心を浴びながら言葉に耳を傾けた。

 

「最初は特に考えず、単純に魂を拉致して使っていたようである。しかし、それはすぐに悪手だと分かった」

「それは……、まぁ普通に悪手だろう。何をさせるにしろ、それで何もかも上手くいくか?」

「特に神へ昇華させる、というのが難関でな。多くは何も出来ず、何も成せぬまま死んだらしい」

 

 オミカゲ様が吐き捨てるように言って、ミレイユもまた唾棄するような思いで悪態を付いた。

 ミレイユが辿ってきた軌跡が神への昇華を意味するなら、それは普通無理難題を言い付けられるに等しい行為だ。やれと言われて出来るものではないし、肉体のスペックに頼ったところで多くは無理だ。

 

 日本と違いすぎる文化が、まず邪魔をするし、無法とも呼べる程に文化的成熟がなっていない。弱いものが悪く、奪われる方が悪い、という思想が広まっている世界で、現代合理主義の洗礼を受けた日本人が上手く生きていける筈もない。

 

「そこで考えたのが、旅のしおりを作る事だった。凡その道筋だとか、どういう魔物が分布しているか、どういう地理をしていて、どこに村や街があるか、といった内容のな」

「旅を円滑に進めて欲しかったという事か」

「然様。そうして作られたあのゲームが、つまり世界を渡り歩くチュートリアルとしての役割であり、そしてサバイバルガイドとなる事を担った、という訳であるな」

「魂を拉致し神の素体となる肉体を与え、補助輪付きで神に至ってもらう、それが神々の目的だと?」

 

 オミカゲ様は笑う。小馬鹿にしたような笑いだった。

 

「あれが補助輪と言えるほど、便利なものであったら良かったがな。だが然様、そのままではあまりに無駄玉を使ってしまうと嘆いた神の、苦肉の策ではあったのであろう」

「あの世界に適応し、やって行ける現代人というのは余りに希少だったろう。……いや、別に現代人に限らないのか? 十二の大神と六の小神……、神が造られているというのなら、この六の小神が……」

 

 オミカゲ様は溜め息と共に頷き、ミレイユの考えに同意した。

 

「日本人に限った話でもなく、更に言えば地球に限った話でもない。多くの惑星が拉致対象であり、そして菜園なのよ」

「菜園? 農場みたいな感覚か……家畜とすら見られていないのか。……家畜だとしても許せるものではないが」

 

 ミレイユは嫌悪感を乗せ、呪詛を絞り出すように吐き捨てた。

 

「あちらの神々からすれば、別にリスクを持ちながら狩り取るものではないのでな。樹の実をもぎ取るような気楽さで、人の魂を奪っていく」

「気に食わん。実に気に食わん……が、何故? 神を欲する理由も不明なら、何故わざわざ別の惑星から魂を搾取しようとする?」

 

 それだって楽な事ではない筈だ。下を向けば魂なんて幾らでもあるだろうに、遠くまで手を伸ばす理由などあるとは思えない。実際の労力など知らないが、星を飛び越え次元を飛び越え、その更に遠くまで手を伸ばすくらいなら、もっと簡単な方法がありそうなものだ。

 

 ミレイユの疑問はオミカゲ様にとっては想定済みだったらしく、その答えはすぐに帰ってきた。

 

「魂もまた一つの資源であるからよ。そして、神への昇華が叶う魂というのは恐ろしく少ないのだ。百や千程度の数で済むというなら犠牲の範囲内と許容できよう。だが、それで賄えない程に多量の魂を磨り潰すから、他から取ってきているのだろう」

「一の神魂を作ろうとして、それで億を失うから他から取ってこようと?」

「然様。樹の実が欲しくて樹を切り倒すようなもの、と言うておった。収穫できても見合わぬであろう。あるいは先が続かないと言いたかったのやもしれぬが、まぁどうでも良い」

 

 確かに神の理屈など、この際どうでも良かった。

 オミカゲ様にとってもミレイユにとっても、それは受け入れがたい事実として認識するだけだ。そして、その苦労の果てに出来上がった一つの神魂がミレイユと言う訳で、収穫の時に手から零れ落ちた果実を取り戻そうとしている。

 

 そして、幾つの魂を擦り潰そうと構わない、と思っているような神だ。

 取り戻せるなら何人犠牲になっても構わない、という論法なのだろう。大事なのは神魂なのであって、そこに暮らす人々など考慮の外なのだ。

 

 忌々しい気持ちで鼻を鳴らすと、オミカゲ様もまた大きく溜め息を吐いて肩を落とした。

 言うべき事を言い終えた、という表現のようにも見えたが、しかしミレイユにはそこから汲み取る思いに戸惑うものがある。

 

「神が私を狙う意味は分かった。今更アレコレ疑う気もないが……、それを話してどうしたかったんだ? 決意を固める手助けにしたかったか?」

 

 その真意がいまいち掴めず聞いたのだが、オミカゲ様は疲れたように手を左右に振る。

 

「それを期待せぬでもないがな。居丈高に宣う神々の面目を潰してやりたいという気持ちはあるが、……それはいい」

「お前の私怨に付き合う気はないぞ」

「無論である。どちらかと言えば、同じ目に遭わせたくないという気持ちの方が強いでな……。ともかく、これまでは未だ前座に過ぎぬ。本題は別にあるが、とにかく前提を知らねば理解できぬ事も多いのでな」

 

 ふぅん、と気のない返事をして、それから話の内容を思い出しては首を傾げる。

 

「それで……アヴェリン達を締め出す理由はあったか? 別に聞かれて困る内容でもなかったと思うが」

「知られて困るのは、そなたの前世となる部分である。真相を話すにはゲームとは何だ、御影豊とは何だと、面倒な説明が増えるであろう。そこまで詳細に話そうと思えば、前提となる説明が膨大になる」

 

 オミカゲ様の言い分には一理あった。

 別にこれまでのミレイユとしての人生を否定する訳ではないが、それ以前の人生を全く隠蔽しているような形になる。

 説明するには難しい事も含まれていて、そもそも何から説明すべきか悩む。

 それに今となっては、ミレイユとしての個が全てであり、かつて男として生きた人生は夢の中の出来事のような気もしている。

 尚のこと、自身の整理も付かぬまま説明できる事ではなかった。

 

「まぁ、それは確かに……。知られて困るというよりは、説明が難しいと言うべきかもしれないが」

「差に在ろう。あれらは――特にユミルは、気にし出すと口を挟まねば済まぬ性質であるしな。だから、席を外して貰っただけの話である」

「あぁ、それはな……」

「だから話したかったら好きにせよ。むしろ秘しておいて貰いたいのは、ここからなのでな……」

 

 オミカゲ様が意思の籠もった瞳でミレイユを射抜き、それから視線を下に向けて息を吐く。今更思い出したように茶へ口を付け、それから遠くへ思いを馳せるように上を向いた。

 



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混迷の真実、明瞭な虚栄 その9

 いよいよか、とミレイユは改めて心構えを新たにした。

 昨日あの場で意図的に話さなかった事――アヴェリンとユミルの行末を口にしなかった理由は、それが決して愉快なものにはならなかったからだと想像がつく。

 

 オミカゲ様が見せる表情も、それに拍車を掛けた。

 ミレイユは我慢が出来ず、何かを説明しようとしたオミカゲ様よりも先に口を開く。

 

「あの場にいたのが一千華だけ――もっと言えば昼食会など要人が集まる場にも、ユミルらしき者がいなかったのは不自然だと思っていた。アヴェリンはどうあっても寿命を迎えていたろうが、ユミルは別の筈だ。……沈んだ表情と関係あるか?」

「大いにあるが……それは話せぬ。詳しく言えぬ理由があるのだ、……分かれ」

「その事を話すつもりで来たんじゃないのか。それを今更……」

 

 咎めるように詰め寄ろうとしたところで、オミカゲ様は緩慢に首を左右に振る。沈んだ表情は、それを申し訳ないと物語っていたが、詳しく説明できるものでもないとも語っていた。

 幾ら脅すような真似をしたところで、口を開くものではないだろう。

 

 不快感が胃を締め上がるのを感じて腕を組み、そうして顎をしゃくって次を促す。

 

「じゃあ何なら話せるんだ。アヴェリンの事も無理か?」

「いいや、それは話せる。己の無力感で死にたくなるがな……、知っておけ」

 

 そう言って顔を上げたオミカゲ様の両眼には、決意めいた光と哀願のような光が混在していた。

 

「我が最初に帰還したばかりの事だ。そのあらましは既に話したであろう」

「まぁ……、そうだな。実際の所は想像する他ないが、既に魔物が地上を蹂躙していたんだろう?」

「うむ、小物であろうと現代兵器は通用しないが故な。警察も軍隊も、その脅威に対して無力であったろう事は想像に難くない。我が降り立った地点は、蹂躙し尽くした後の場所であったようだ。人の気配もなく、廃墟と廃屋、倒れた電柱に罅割れたアスファルト、インフラが死亡した町がそこにあった」

 

 聞いた当時にも思った事だ。

 その光景を前にして、思った事は何だったろう。まず真っ先に思うのは転移先の間違いだと、『機構』の不具合を疑うことだったと思う。

 そうでなければ、目の前に広がる廃墟が現実だとは到底受け入れられない。

 だが、実際は違った訳だ。

 

「仲間が後を追ってやって来たのは、そなたと同じよ。四人で廃墟を彷徨い、町から一度足を踏み出せば、そこには魔物たちが闊歩している世界だった。既に人はどこぞへ避難した後か、それとも全て被害にあった後なのか、そこまでは分からない」

「シェルターくらい用意されてあったんじゃないのか。お前の立場なら、それが出来た筈だろう」

「……かもしれぬ。いずれにせよ、前周の……というと語弊もあろうが、前周の我がどういう行いの果てにそうなったかまでは分からぬ事」

 

 そうなのか、と首を捻って、そうかもしれない、と思い直す。

 インフラもなく、人も見当たらず、ラジオの一つも手に入らなかったとしたら、情報を得る手段など皆無に等しかったろう。果たして前周がオミカゲ様のような地位を築いていたのか、あるいは全く違う手段でアプローチしていたのかも、知る手段がなかったのかもしれない。

 

「そうして前周ミレイユに遭遇したのも帰還初日の事だった」

「ボロ負けしたんだったか」

「……そなたはもう少し、言葉を選ぶ事を覚えよ。ついでに配慮もな」

 

 ミレイユがチラリと笑みを見せると、それにつられてオミカゲ様は疲れたように首を振った。小さく、あるかなしかの笑みを浮かべたが、それもすぐに儚い笑みへと変わってしまう。あるいは、自嘲の笑みのつもりであったかもしれない。

 

「今だから分かるが……というより、当時としては全くの意味不明であったが、自分とよく似た姿を持つ敵が襲ってきたと思ったものよ」

「それは……うん。不思議でも何でもないが、……しかし相手はどうやって説明したんだ?」

「あれは説明とは言わぬ。殴りつけながら、その合間に言いたい事を言っていただけ、というのが適切という気がするが……。我は相手の言い分の半分も理解しておらなんだ」

 

 それはそうだろうな、とミレイユは内心で同意した。

 唐突に襲い掛かって妄言を垂れ流す誰か、というのが正直な感想だろう。実情を知る今であれば、余程切羽詰まっていたのだろう、という予想も立つが、それにしたって酷い。

 もう少しやりようもあったろうし、時間を掛ければ話の通じない相手という訳でもないと分かる筈だ。そもそも自分自身の事、それを分からぬ道理もない。

 

「だが当然ながら、相手の言い分を鵜呑みにする事は出来ぬ。そもそも帰還したばかりの事、即座にトンボ帰りする気もなかったでな。決死の反撃を試みたのだが……」

「まぁ、結果は言わなくていい」

 

 ミレイユは茶化すように言ったが、しかしオミカゲ様は厳しい表情で頭を振った。

 

「――よいか、しかと心得よ。それが如何に困難な事であろうとも、アヴェリンはミレイユの意思を尊重し、それを叶えようと最大限の努力をする。時には、その最大限すら越えてな……。だから、使い所を間違えるな」

「それは……」

 

 言われずとも分かっている事だ。

 アヴェリンはその忠義心から時に諌めて来る事もあるが、基本的にはミレイユの意思を最優先として行動する。ドラゴンの頭に張り付き、目を逸らさせ行動を封じろ、と言っても遂行しようとする。

 

 これが他の誰かなら――例え大陸随一の剣士だとしても、たった一人でやらせる事かと激昂するところだ。しかし、ミレイユが命じた事ならするし、死ぬことになろうと構わないと考える。

 それが捨て駒としての扱いだろうと、ミレイユが生き延びるのに必要とあらば躊躇う事なくやるだろう。

 

 そこまで考え、まさかと思いながらオミカゲ様へと目を合わせる。

 その瞳には理解と同意、そして憐憫の色が窺えた。

 

「……然様。アヴェリンはその時に命を落とした。我の現世に留まりたいという願い、あるいは帰りたくないという願いを汲んでな。我以上の抵抗を試みた結果、殺すまで止まらないと悟った前周ミレイユに殺されたのよ」

 

 オミカゲ様の深い溜め息に、ミレイユは言葉もない。

 思わず固く目を瞑って、やるせない思いで息を吐いた。

 

「せめて遺体も共にと手を伸ばしたが、届かなかった。ただ一人、廃墟の中に遺して行くことになってしまった……。その忠義に最後まで報いてやる事ができなかった。悔やんでも悔やみきれぬ」

 

 聞けば納得せざるを得ない。それは確かに後悔するだけでは足りないだろう。自分の我儘で死なせ、そして結局送り返される破目になった。その死の動揺もあったろう、万全な状態で抵抗できたとは思えない。

 他の二人からの援護もあったろうが、四人で対抗できない相手に、三人では時間の問題だったかもしれない。

 

 自嘲の笑みを浮かべながら、オミカゲ様は長い白髪を一房摘んだ。

 

「この髪もな……、気づけばこのようになっていた。我ながら、余程の衝撃を受けたらしい」

「うん……」

 

 ミレイユとしても、その気持ちは良く分かる。

 想像もつかないが、もし同じような事が起きれば、涙し嘆くだけでは到底足りない。ミレイユにとって、アヴェリンのみならず仲間の存在はそれほど大きい。

 

「大きな後悔だったが、それよりも更なる後悔は我が失敗した事よ。犠牲を出して、なお事を成せなかった……その後悔」

 

 オミカゲ様の手は関節が白くなるほど握り締められている。

 その形相も直視出来ないと思わせる壮絶なもので、むしろ自戒に潰されていないのが不思議なほどだった。

 だが、それがふと幕を下ろすようにストンと消える。

 平坦な表情になって、話を続けた。

 

「送還されたばかりの我は荒れていた。とにかく荒れた。もう一度日本に帰りたくて仕方がなかった。やり直すというのなら、あの惨劇を防ぎたいというのが本心だった。……だが結果として、それも無理だった訳だが」

「掛ける言葉が見つからんよ……」

 

 オミカゲ様はそれには応えず、首を横へ振る。

 

「……後悔だ。何より救えないのが、何一つ理解してなかったが故に、機会を悉く不意にした事よ。何も為せず、何も救えず、ただ逃げ帰ってきただけ。魔物の脅威を現世に持ち出して、それすら完全に防ぐ事すら出来ていない」

「だが、それも決して無意味な事じゃなかったろうが」

「解決の先送り、渡すバトンを保持できただけの話。何一つ解決に近付いてはいない」

「だが、お前に言われたように、前周ミレイユには神々を止めるよう言われて飛ばされたんじゃないのか? 何も為せずというが、本当に何一つ為した事はなかったのか?」

 

 ミレイユの質問は彼女にとっては重いものだったらしく、肩を落として打ちひしがれた。

 

「細々としたものならあったろうな……。だがそれはごく局所的なものであって、大局的には意味がない。神にもまんまと逃げられ、為す術を失くし、万策尽きてやり直すしかなかった」

「アヴェリンがいなかったとしても、お前たち三人が事に当たって万策尽きるなんて事があるのか? あちらに敵しかいないという訳でもないだろう。協力して乗り越えて――」

 

 言い掛けたミレイユの台詞を、オミカゲ様は手を振って遮った。

 

「そういう訳にもいかぬのよ。我が強大な力を持ち、多くの問題を解決できるというのが困りものでな……」

「解決能力が高いからと、困る事になるか? 普通、逆だろう」

「そうでもない。この場合、我が神の素体として完成を見ていたというのが問題でな……。人並み外れた能力は、それだけ他人に頼られる。頼み事の規模も、解決と共に大きくなっていくものだ」

 



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混迷の真実、明瞭な虚栄 その10

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 その事には覚えがある。

 最初の依頼は小さなものだった。実力はあったとはいえ、まだ眠っているものも多く、それらは経験によって花開いていったが、任される仕事は小さなものだった。

 出来るかどうか分からないなら、小さい事から始めさせるのは当然の事。

 

 しかし使えると分かれば、頼りにされるのもまた当然だった。

 そして最終的には大規模討伐への依頼を任されるに至り、そして一つの国家との戦争、民族の救済へと、雪だるま式に巻き込まれる規模が大きくなった。

 

 まるでゲームのように大事件が起きて巻き込まれるな、と当時は思っていたし、ゲーム世界に入り込んでいたとさえ思っていたから、その事について深く疑問に思わなかった。

 しかし、それが素体と魂を適合させ、昇華させる為の段取りだったとするなら納得できる。

 

 対処できる問題を一つ解決する度、一段上げて解決させる。そのサイクルを強いられていただけなのだ。そして民族の救済を為せる程になったとき、感謝以外にも尊崇を向けられるようにもなっていった。

 

 そこまで考え、まさか、という気持ちが去来する。

 神の素体として完成した者が、信仰めいた感謝を向けられるという事は――。

 

 ミレイユの確信めいた表情を見たオミカゲ様は、神妙に頷いた。

 

「そう……、信仰を得る毎に神へ近付く。昇華されてしまえば世界を越えられない。あの世界に根ざしてしまい囚われる事になる」

「何て面倒な……!」

 

 厄介な事になっている、というのが正直な感想だった。

 確かにこれは解決能力が枷になっていると言っても過言ではない。生活の為に小銭を稼ぐ程度なら良いとしても、それは神々が許さないだろう。

 何かしら、ミレイユではなければ解決出来ない厄介事を用意してくる。それこそ、無視すれば何万もの人が死ぬような類の……。

 

「我も人の事は言えないが、そなたは依頼を受けたり、厄介事を引き受け解決していく事に疑問を抱かなかったろう。……何故だ?」

「何故と言われても、そういうものだから、としか言いようがない。あの世界での生活は、基本的依頼を受けて解決した報酬で――」

「それが間違いだ。ゲームでそうやって遊んでいたから、それをなぞっていただけだろう?」

 

 言われて思わず言葉に詰まり、眉を顰めた。

 言い訳は喉から出ず、だからその指摘が図星だと認めるしかなかった。

 

「咎めている訳ではない。そもそも、その肉体には思考誘導が為されている。依頼があれば引き受け解決するような、より大きな難問に立ち向かおうとする意思がな……。事前にゲームをプレイしていた事も、それを後押しする結果となっておっただろう。前向きに解決しようと動く違和感を、打ち消す役割を果たしていた部分もある」

「全て、掌の上か……。そこまでするか……」

 

 呆れた気持ちと嫌悪感を纏めて追い出すように息を吐き捨て、そうしてオミカゲ様へ目を向ける。この際だから聞いてみたかった。

 そこまでするか、というのなら、オミカゲ様の行動もまた常軌を逸している。

 

 ――執念。

 その一言で片付けようと思っていたが、それだけで千年もやれていけるものだろうか。親しい友、我が子との別れ、多くの別離を経験した事だろう。

 その度に置いていかれる気持ちになったのではないか。唯一、一千華が居てくれた事は救いになったろうが、それでも千年同じ思いを抱き、進み続けるのは尋常な事ではない。

 

「聞かせてくれ、何でお前はそこまでやれるんだ? やり直そうと考えたのも、その手段があったからという理由も分からないではない。だが、千年もの間それを思い続けるのは異常に思える。それとも、神になれば違うのか?」

「全ては次へ託す為。あの破滅を防ぐ為……」

 

 気高い理由だが、それだけとも思えなかった。本当にそうなのか、という疑問すら湧いてくる。自分に置き直して考えてみても、その思いだけで動けるとは思えなかった。

 

「本当にそれだけか?」

「そうさな……自らの失敗が己一人の責で担えるならば、ここまで思う事はなかったかもしれぬ。しかし、失敗の引き換えが人類滅亡の危機となると、仕方ないで済ませられる問題ではなかろうよ」

「それは、確かにそうだが……」

「あちらでは何度もやってきた事であろう。世界を救うのは初めての事でもなし。何よりそういう意思を持たせたのは奴らの方である」

 

 ミレイユは皮肉げに笑う。

 皮肉というなら、これ以上の皮肉はない。

 

「なるほど、大きな問題を解決するよう動く意思……。確かにな」

「だが、本当にそれだけで動ければ良かったのだが……。理由は他にもある」

 

 ミレイユの皮肉気な笑みに、同じく笑みで返した後、その人差し指を目尻に当てた。

 赤く輝く宝石のような瞳だった。髪と同じく、ミレイユと違う部位の一つだ。

 

「この色を見て、何か思い当たる事はないか?」

「何だ、赤い瞳は神性を意味するとでも……? ――いや、待て」

 

 その瞳の色には覚えがある。ユミルと良く似た色だった。

 そして、かつてアキラに言った言葉を思い出す。

 ――ユミルの眷属となれば、彼女と同じ色の瞳になる。

 

 そして眷属になったなら、その命令には絶対服従という制約がつくことも。

 ミレイユはまさか、という思いで見つめ返すと、オミカゲ様は理解の色を認めて幾度か頷いた。

 

「この感情を忘れないように、とな。折れず曲がらず、進み続けろと。ユミルに頼んで命じて貰った」

「諦めず投げ出さない為にか? 何故そこまで? お前が――私が、そこまでやらないといけないのか?」

「それはお前が決めろ。だが我は決して破滅の未来を受け入れられなかったし、神々の身勝手さも許せなかった。叶うならこの手で報いを与えたかった。だが無理だった。――でも。それでも、諦める事だけはしたくなかった。この気持ちだけは前周ミレイユも同じであったろう。故に我は送還されたのだし、奴はあの地獄のような世界でも生き続けていたのだろう」

 

 次へ託す――。

 その為にそれだけの事が出来るのか、とミレイユは憂鬱な気持ちになった。それだけの暗い気持ちを抱き続け、それでも尚足を止めないでいられるのは言う程簡単じゃない。

 

「そうか、だからか……」

「決意はあった、我はやると決めたら必ずやる。しかし怖いのは、この気持が摩耗してしまう事だった。千年の長さはそれを思い直せるには十分な時間。それに、気懸かりな部分は他にもあった」

「……寿命か」

「然様。神へ昇華すれば無縁であるが、その昇華までに何年かかるのか、それが問題であった。十年か、あるいは二十年か。もしかすると、先に老衰する可能性もある。全てが順調に行くとは思っておらなんだ。千年……、民の心に新たな信仰を芽生えさせるには十分な時間とはいえ、その時代には既に仏教が広まっておったが故に」

 

 ミレイユもその推測には納得がいって首肯した。

 当時、寺社勢力は大きな権力を持っていた。宗教として敬われるだけでなく、葬儀を盾に取った脅迫も多かったのだ。私腹を肥やす生臭坊主というのも珍しい存在ではなく、埋葬を許さないというだけで民は言いなりになるしかなかった。

 

 そこに神が顕現したとして、傷や病を治してみせたら民は喜ぶだろうが、寺社勢力は黙っていない。既得権益を犯すものを、全力で排斥しようと動くのは目に見える。

 

「実際にな、我も昔は仏敵と呼ばれ、人心を乱す魔女と指弾されておったのよ」

「信じられんな……」

「見た目も少々、奇抜であったのも拍車を掛けた。我に近づけばバチが当たるとして、寺社は接触禁止令を出した程であった」

「だがまぁ、今こうしている以上は、その戦いに勝利したんだな」

 

 オミカゲ様は小さく首を傾けて、やはり小さく笑みを浮かべた。

 

「ここまで話せば、そなたも分かってくれるだろう。何故、我がこうまでして頼みにするのか」

「復讐か……」

「それもある。もはや我には手が届かないが、その為の道を敷くことで報いを与えられるなら、そうする」

 

 ミレイユは重い溜息を落とした。

 自分の事だ、その気持ちは良く分かる。ミレイユは拉致されたのだ。魂だけを抜き取られ、モルモットのような扱いを受けた。その過程全てが煩わしいかと言えば、決してそうではないのも事実だ。アヴェリン達との出会いを代わりに得られたというなら、それだけの価値もある。

 

 だが同時に、神々の蛮行が決して看過し得ないのもまた事実だった。

 

「我の負債を負わせるのが、誰か他人ならこんな願いはしない。……これほど辛く、険しい道をな。だが、そなただから――自分自身だから頼むのだ。やり遂げてくれ、他のミレイユが出来なかった事を、そなたが終わらせてくれ……!」

 

 ミレイユは即座に返事が出来ない。

 分かった任せろ、と気楽に請け負えたらどんなに良いだろう。しかし、これは竜退治ほど楽な戦いではない。失敗すれば、自分もまた次のミレイユの為の布石として生きねばならない。そうかと思えば二の足を踏む。

 

 それが唯一の方法だと思えないが、代替案がないのなら、次善の策としてそうせざるを得なくなる。かといって断ったところで世の破滅だ。オミカゲ様はそれを座して待ったりはしないだろう。

 

「因みに、断った場合は……?」

「……それを我の口から言わせる気か?」

 

 その剣呑な眼差しから全てを察した。

 強硬策に出るつもりでいるのだろう。かつて自分がやられたように、強制送還するつもりだ。

 

「……あぁ、ろくでもない目に遭う事だけは分かった」

「ここまで丁寧に説明して説得してるのは、我の手であの三人を傷つけたくないからだ。殺してしまうような事態になって欲しくないからだ」

「私達四人を相手取って、打ち負かす自信があるのか。かつて自分がやられたから、自分にだって出来る筈だって?」

 

 ミレイユが挑発するような物言いをすると、オミカゲ様は毅然とした態度で頷いた。

 

「それだけの準備をしてきた。何も千年間を信仰の獲得に心血を注いで来た訳ではないぞ。対策とて十分に用意しておる。――ここが何故マナの生成地となっているか分かるか」

「専門じゃないから分からんが……、その対策の一環に関わっているとするなら……」

 

 ミレイユは口に出しながら考えて、そして嫌な予感を覚えた。

 かつてルチアは言っていなかったか。ここがマナの生成地であると同時に、マナの集積地であると。それを電池のように使用して、何かに利用していると推測していた。

 



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混迷の真実、明瞭な虚栄 その11

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「マナの集積と何か関係あるか?」

「そこまで分かっているなら十分だろう。孔への対策、魔物対策として用意したものではあるが、それを我自身が運用して、有無を言わさず叩き潰す。失意を感じるよりも前に送還してやろう」

 

 全く……、とミレイユは頭を抱える思いで、細めた視線をオミカゲ様にぶつけた。

 

「もはや説得なのか脅迫なのか分からんだろうが。……だが、まぁ分かった」

「やってくれるか」

「どのみち選択肢なんて無いだろうが」

 

 ミレイユは吐き捨てるように言ったが、オミカゲ様の顔は憑き物が落ちたように晴れやかだった。腕を伸ばしてミレイユの手を握る。指先が冷たいのは緊張のせいか、と邪推してしまうが、とにかく握り返して上下に振った。

 いつまで経っても終わらないので、こちらの方から振り払って強制的に終了させる。

 

「ありがとう、感謝しておる。今すぐ抱きしめてやりたい気分だ」

「やめろ。自分自身とハグなんて、どんな罰ゲームだ」

 

 オミカゲ様は嬉しそうに微笑んだ後、急に顔を曇らせる。

 気分の浮き沈みが激しいな、と思いながら見守っていると、悲しげな声音で呟いた。

 

「前周ミレイユは何故、ああも強硬策に走ったのであろうな。話せば分かってくれると、そう期待することすら諦めて。ただ押し付けて、突き放すように力尽くで……。そうすれば、アヴェリンを喪う事も……いや、あの死は誰かに転嫁してはならんな。我のせいでアヴェリンは死んだ」

「……そう、あまり悔やむな……」

 

 折れる時間に差はあるだろうが、結局自分の事なのだ。

 話の通じない頑固頭を相手にする訳でもない。それとも、見限ってしまう程の何かがあったのだろうか。オミカゲ様の前周の身の上に起こった何かなど、ミレイユには想像すら出来ない。

 しかし、そう思わせるだけの事情があったとしたら……。

 

 ミレイユは頭を振る。

 今となっては考えても意味のない事だ。だが前周もまた後を託そうと、そうするしかないと判断した事は事実だ。彼女もまた諦める事だけは良しとしなかった。

 

 またもやるせない気持ちでいると、オミカゲ様が手を叩いて外へ声を掛けた。

 話し合いも終わり、待たせている二人を呼び込もうというのだろう。

 暫くしてから、アヴェリンとユミルが咲桜に案内されて入ってくる。そのアヴェリンの両眼が真っ赤に充血していて、涙を必死に堪えているせいか、顔までひどく歪んでいた。思わずぎょっとするのと同時に全てを察する。

 

「ミレイ様……、私は……っ!」

 

 何に対する涙までかは分からないから、どう対応して良いか分からない。アヴェリンの琴線に触れてしまったのは、どの内容だろう。繰り返し、やり直す事を決意したミレイユに対しての事かと思ったが、それにしては感情が強すぎる気もする。

 そう思ってユミルへ目を向ければ、必死に目を合わせまいと外を向いていた。

 

「……ユミル。お前、使ったよな?」

「何が? 何のこと?」

「惚けるな。魔術で聞き耳立てたんじゃなければ、どうしてアヴェリンが泣いてるんだ」

「いや、だって……。使うなって念を押されたら、つまり使えってコトかなって思うじゃない」

 

 どういう理屈だ、と額に手を当てると、オミカゲ様が立ち上がる。

 これはお小言が始まるな、と思って見れば、アヴェリンの前で立ち止まった。その双眸をひたりと向けて悲しげに微笑み、そして向けられた当の本人は身を固くさせた。

 

「いま目の前にいるのは我のアヴェリンではない、それは理解しておる。だが、もしミレイユの危機あらば、やはり同じ行動を取るだろう」

「ハ……、勿論です」

「我は……」溜め息を吐くように漏れた息が震える。「我のアヴェリンには言ってやる事が出来なかった。だが他の誰にも返せぬ言葉故、我儘と知りつつそなたに言わせてもらう」

 

 一度言葉を切り、震える声を抑えきれず言った。

 

「アヴェリン、大儀だった」

「……うっ、ふぐぅっ!」

 

 アヴェリンが堪えきれず涙を流した。大粒の涙をぼろぼろと落とし、拭うこともせず溢れるままにしている。

 では、これだったのか、と今更ながらに理解した。

 何がアヴェリンの琴線に触れたのかと思ったが、主と認めた相手を一人にさせてしまった事を、彼女もまた襖を挟んで悔いていたのかもしれない。

 自分自身ではないが、当時のアヴェリンと重ねて考えてしまったのだろう。

 

 アヴェリンにとって強敵との戦いは誉だ。勝つ事も大事だが、己を打ち負かせる相手と戦えた事もまた大事だと考える。だから己が死んだ事を聞いても悔いは感じなかったろう。

 だが今の一言で、そのアヴェリンもまた報われたと感情移入してしまったのかもしれない。

 

「オミカゲ様っ、そのアヴェリンも必ずや己を誇りに思っている筈です……! 悔やむ事などございませんっ!」

「……ああ、その言葉を励みにしよう。千年待った甲斐があったな……」

 

 その一言で更に涙を流し、泣きじゃくるままのアヴェリンの肩を優しく叩く。そして次にユミルの前へ移った。

 ユミルは視線を合わさぬまま、顔を外へ向けている。言外に話す事などない、と主張していたが、オミカゲ様は会話しようとする姿勢を崩さない。

 

 真摯にその目を見つめ続け、顔を向けるのを待っていた。

 そうして時間が経つこと十秒、遂に根負けしたユミルが顔を向ける。

 

「ちょっと、やめてよ。……アタシ、そういうの求めてないから」

 

 ユミルは疲れたような顔をした後、げんなりと息を吐いた。

 

「同情はするけどね。馬鹿な事をしたもんだと思うし、アンタがそんなコトになってる以上、アタシの最期も何となく想像付くし」

「ああ、そなたは……」

「身を挺して庇ったか、時間稼ぎの為に残ったか、あるいは隠し場所を逸らす為に別方向へ逃げたか……。そんな感じじゃない?」

 

 ユミルがあっけらかんと言うと、オミカゲ様は表情を歪めて頷いた。

 

「我を庇って傷を負い、逃げ切れぬと悟ったそなたは、我らが逃げ切る時間を稼ごうと、その身を犠牲にした」

「あら、意外にやるわね、アタシも」

「……感謝しても、受け取る謂れはないと言われそうであるな」

「当たり前でしょ。そんなのあの世に行った後に取っておきなさいな」

「……あぁ、そうだな。そんなものが、本当にあれば良いが……」

 

 オミカゲ様は儚く笑って頷いた。

 元よりユミルから優しい言葉を投げかけられるとは思っていなかったろう。寂しそうな雰囲気はその背中から感じたが、ミレイユとしても掛ける言葉が見つからない。

 

 ただ、とユミルは悲しげに眉を寄せて言った。

 

「その命令は解除してあげるわ。アンタはやり遂げたんだし、もう十分でしょ。縛られるコトなく自由を謳歌なさいな」

「それはそれで怖いが……。この決意は千年間、一日たりとも絶える事なく続いてきたもの。撤回された途端、消えたらと思うとな」

「それなら大丈夫でしょ。忘れろっていう命令じゃないんだから。それこそ染み付いたせいで消えないんじゃないの?」

 

 そう言うなり、ユミルは佇まいを直す。オミカゲ様が制止するより前に、意思を伴う声を放った。

 

「全ての命令を撤回する、アンタは自由意志で好きに生きなさい」

「……あぁ、全く。我の言い分も、もう少し聞いてからで良かったろうに……」

「ま、いいでしょ。そうしたいと言うなら、これからは義務で縛られるのではなく、自分の意思で続けなさいな。例え捨ててしまおうと、それだけの事が許される生き方してきたんだしね」

 

 ユミルが笑顔で言うと、オミカゲ様は俯くようにして頷いた。

 そして顔を下に下げたまま動かなくなる。肩の荷が降りたとでも思っていると、次第にその肩が震えてきた。そしてとうとう身を震わせるだけで済まなくなると、ユミルの肩へ額を押し当てるようにして抱きつく。

 

「ごめん……! 私は託されたのに! 何も出来なくて……! 受け取るばかりで……何も返せなくて! ごめん……っ、不甲斐なくてごめん……っ!」

 

 オミカゲ様の嗚咽が漏れる。

 まるで感情が決壊したかのようだった。今まで抑え込まれていたものが、ユミルの撤回で溢れたのかもしれない。ユミルに縋り付く後ろ姿から神の威厳は窺えず、まるで外見相応の娘に見える。

 

 ユミルも流石に振り払う様な真似はせず、何も言わずにただその背を撫でた。

 静寂の中、部屋の中には嗚咽だけが響いた。

 

 この千年、どういう気持ちで生きてきたのだろう。

 ミレイユは今更ながらに、そう思った。

 

 本来なら、あのように涙しながら生きる事になっていたのだろうか。それを押し殺し発散する事もできないまま、千年過ごすのは拷問のように思える。

 服従の命令あってこその事とはいえ、それがあまりにも哀れに思えた。

 

 しばらくユミルの胸を借りていたが、次第に嗚咽も収まり、顔を上げる。

 濡れた箇所を拭うように手を動かしたが、それだけで消えてくれる筈もない。恥ずかしげに顔を伏せ、それから背後を振り返っては苦い笑みを浮かべた。

 

「恥ずかしいところを見られた……」

「感情の発露は自然な事だろう。恥ずかしい事があるものか」

 

 ミレイユが精一杯のフォローを入れると、オミカゲ様はアヴェリンへ顔を向ける。

 

「そうさな、泣き顔仲間もそこにおる」

「……はい、今日ばかりは、そのお仲間に甘んじたいと思います」

 

 アヴェリンも泣き笑いで応えると、オミカゲ様は一層笑みを深くして近付いていく。

 

「今日ばかりはと言わず、これから我に仕えぬか? そこにいるような朴念仁では仕え甲斐もなかろう」

「あ、ハ……いえ、そのような事は……」

 

 遂にはその手を取ろうとしたところで、ミレイユが割って入って突き放す。蝿でも振り払うかのように手を振って、顔を顰めて言い放った。

 

「コレは私のだ。お前はもう用は済んだんだろう、さっさと帰れ」

「み、ミレイ様……!」

 

 感動で打ち震えているアヴェリンを背にしながら、尚もシッシと手を振る。そこへ声を上げて笑うユミルが、オミカゲ様の背を覆うように負ぶさった。

 

「あらあら、妬けちゃうわね。アタシはこっちに鞍替えしようかしら」

「そうしろ、そうしろ。お前はそっちに行ってしまえ」

 

 アヴェリンが勝ち誇るような笑みを浮かべて言うと、ユミルは愉快そうに笑ってオミカゲ様の肩に顎を乗せる。その頬に手を添えつつ、オミカゲ様は優しげな笑みを浮かべた。

 

「勿論、いつでも歓迎だとも」

「駄目だ、許さんからな」

「あらあら、独占欲が強いのね。二人両方得ようとして全て失う、なんてならなければいいケド」

「私はそうと決めたら全て得るからな。そんな言葉は意味がない」

「ま、いいけどね」

 

 ミレイユが断言して、ユミルは笑いながらオミカゲ様の背を離れた。

 そうして別部屋で控えている女官に声をかけて、まるで自分の部屋のように振る舞う。茶と茶菓子を人数分頼み、そうして上座から離れた定位置へ座ってしまった。

 

 今更お茶を取り止めるのもどうかと思い、ユミルへ苦い顔を見せながら、ミレイユもとりあえず上座に腰を下ろした。

 



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脅威拡大 その1

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 アヴェリンが上座に最も近い席へ腰を下ろし、その対面にオミカゲ様が座ると、ミレイユはあからさまなジト目を向けた。

 

「何でサラッと座ってるんだ。帰れと言ったろうが」

「そう邪険にする事はなかろう。人数分のお茶が来るのだから、我も席に着かねば無作法というもの」

「そんなの知った事か」

「嫌われたものよ。……なぁ、ユミル」

「こっちに振らないでよ」

 

 楽しそうに笑うオミカゲ様への返答としては、ユミルの返事は素っ気ないものだったが、その顔には似たような笑みが浮かんでいる。

 

「無作法だなんだと言ってるが、仕事の方だってあるんじゃないのか。ここで油を売ってる暇なんてないんじゃないか?」

「無粋な事を言うでない。それに……好きなようにせよと、自由にやれと命令されておる故にな。己が心の向きを変えられんのよ」

「だからと言って、怠ける事を許容させるものではないだろ。好き勝手言うな」

 

 それには声を上げて笑うばかりで応えようとしない。感情の発露も全く隠さないようになっているし、今なら箸が転がっても笑い出しそうだ。

 そんな姿を見ている内に、楽しくやるのも別に良いか、という気がしてくる。こうして気軽に笑い会える間柄など、他に探して見つかるものでもないだろう。それを思えば、幾らか許容してやろうかという気にもなった。

 

 そうして、ふと思い立つ。

 

「こうなってくると、ルチアを呼ばないのも障りがあるだろう。除け者にしたくないしな、誰か呼びに行かせよう」

「来るかしらね? そもそも先に声を掛けてたんだし」

「昨日の事で沈んでいたとはいえ、今頃は気持ちの整理も幾らかついたかもしれないだろ」

「ま、別に反対ってワケじゃないからね、別にいいけど」

 

 ユミルが肩を竦めると、丁度お茶を運んで来た咲桜へ、給仕が終わるのを見計らって命じる。

 

「ルチアの部屋まで行って、ちょっと呼んできてくれ。その分の茶も用意……いや、そこまで言う必要はないか」

「畏まりました、すぐにお声掛けして参ります」

 

 万事心得ている女官に、それ以上の命令は不要だ。むしろ信用を置いていない発言となってしまう。一礼して部屋を出ていく姿を見送りながら、ミレイユはお茶に口を付ける。他の者たちも同様に口を付け、茶菓を頬張りながら待つ事にした。

 

 

 

 果たしてルチアがやって来て、ミレイユたちを見るなり目を丸くした。

 ミレイユ達を、というよりはオミカゲ様が何食わぬ顔で茶を啜っている姿に驚いたようだ。そしてユミルが肩を叩き、アヴェリン、声を掛けて笑い合うような気軽さを見せたのも原因だろう。

 

「……何ですか、これ。どういう状況ですか?」

「おお、ルチア、来たか。ささ、こちらへ参れ。膝の上に乗るのはどうだ?」

「いや、何言っているんですか。意味が分かりません」

 

 上機嫌なオミカゲ様を見て、ルチアは身を引いて表情を強張らせる。

 ミレイユは苦笑して空いてる席を示した。

 

「あぁ、これは酔っ払いのオッサンだとでも思ってくれればいい。気にせず席に座ってくれ」

「お酒を飲んでたんですか?」

「いや、お茶だ。……少しタガが外れてるんだ、適当にあしらっておけばいい」

 

 はぁ、と曖昧に頷きながら、ルチアはアヴェリンの隣に座った。意図したものではないだろうが、そこがオミカゲ様から最も遠い席だった。

 困惑を隠しきれないまま席に座って、他と同様お茶が給仕されると、それには手を付けずにミレイユを見る。

 

「……それで、どうして呼ばれたんでしょう? 何か厄介事ですか?」

「ああ、一人で考えたい事もあったろうに、足を運ばせて済まなかったな」

「いえ、それはいいんですけど……」

 

 厄介事がオミカゲ様にあると断定するような視線を向けて、警戒する姿勢を崩さぬままルチアは曖昧に頷いた。

 そこにユミルが軽口を叩くかのように説明を始めた。

 

「なんやかんやあって、この子の決意が固まったみたいだから、その報告にアンタを呼んだの。

別に明日だろうと明後日だろうと良かったんでしょうけど、一人だけ知らされていないって嫌でしょ?」

「それは勿論、そうですけど……。でもどうしたら、そんな急に決まっちゃうんですか? なんやかんやって何ですか? ミレイさんも相当に、混乱してた筈じゃないですか」

「おやおや、ルチアの何故なにが始まったか。懐かしいものよ」

 

 オミカゲ様が微笑ましいものを見るように幾度も頷くのを恨めしい目で見返してから、ルチアはミレイユへ顔を向け直した。

 

「というか何でこの人、こんなに寛いでいる上に馴染んでいるんですか? 向けてくる視線が生温くて気持ち悪いんですけど……。昨日までと様子が違いすぎません?」

「それは何というか……一から説明すると面倒臭い。後でユミルからでも聞いてくれ。聞き耳立てるのが大好きなぐらいだ、舌すら良く回してくれるに違いない」

 

 ルチアは不承不承に頷いたが、オミカゲ様へは汚物を見るかのような視線を向けてから顔を逸らす。向けられた当人は、それが相当ショックだったようで、目に見えて肩を落として茶を啜った。

 ミレイユは苦笑しながら二人の間を視線を動かし、ルチアへ諭すように言う。

 

「厄介事を運んできた張本人には違いないが、そう邪険にしないでやれ。あれでも一応、私なんだしな」

「……結局、信じたんですか」

「そうなる。だから、あちらに再び行かねばならない」

 

 ルチアは眉根を寄せて唇を尖らせる。彼女のこういう仕草は珍しい。

 不満がある事を咎めるつもりはないが、それが何なのか聞こうとする前に、ユミルが先に問い掛けた。

 

「あら、アンタもご不満?」

「という事は、ユミルさんも?」

「そりゃあね、止められるものなら止めたいわよね」

「……何だ、そうだったのか?」

 

 ミレイユは意外な気持ちで二人を見た。

 ユミルだけならまだしも、ルチアも共にとなれば、それは現世に縋り付きたい訳でも、現代文明を堪能したいという、自堕落な気持ちから来ている訳でもないのは明白だった。

 

「懸念があるなら言ってくれ。不満があるなら、それも聞こう」

「不満は別にないんですけど、……えぇ、懸念というなら二つあります。つまり、それって相手の思うツボって事ですよね?」

「オミカゲ様の考えに乗るのが嫌って意味か?」

 

 虫を見るような目をしていた事だし、そこまでオミカゲ様が気に食わないのか。

 そういうつもりで聞いたのだが、ルチアは首を左右に振った。

 

「いえいえ、そっちではないです。あちら側で手ぐすね引いて待っている奴らの事ですよ。孔なんか開いて、ミレイさんを取り返そうとしているんですよね? 戻ってしまえば相手に利する行為になってしまいませんか?」

「だが、こちら側で留まっていても解決しない。時間が経つ毎に孔は拡大し、今は防げている魔物も対処不可能な事態に陥る。……そう言ったよな?」

 

 ミレイユがオミカゲ様へと顔を向けると、無言で首肯を返してきた。

 状況的に敵が強大化しているのは確かだし、疑う部分ではないと思うのだが、ルチアからすれば違うのだろうか。

 

 ルチアはそれに頷きながら指を一本立て、そして続けて二本目を立てた。

 

「そこで懸念の二つ目です。孔が拡大しているとか、敵が強くなりつつあるとか、その辺りがあやふやじゃないですか。状況証拠と言い張る事もできますけど、ハッキリ言えば信用できません。あの程度の変化では、強化されてるようには感じませんから」

「ま、そうよねぇ。変化は緩やかだし、階段状に段階が上がるんじゃなくて、坂を登るように上がっていくものだろうから、それもあって分かり難いんでしょうけど」

 

 オミカゲ様はふむ、と唸るように頷いて袖口の中に手を入れて組んだ。

 

「どうして欲しい? 我は何も隠し立てなどしておらぬし、する気もない。手の施しようがないほど強大な敵が出てきてから、ほら見たことかと言っても遅かろう。確証を得る手段を提供する事は難しいと思うが……、望みがあるなら申してみよ」

「それなら簡単です。私を結界に関わらせて下さい」

 

 面白い事を聞いたと反応するように、オミカゲ様は眉を持ち上げ笑った。

 

「それが望みか? 封印の手助けでもするつもりか?」

「そうですね。正直に言えば、私を結界から遠ざけようとするのを不審に思っています。侮辱する訳ではありませんが、こちらの術士より私の方が頼りになりますよ。結局防ぎ切れるものではないのが事実だとしても、端から切り捨てる程ではない筈です」

 

 ルチアの言っている事は正しいように思われた。

 これはミレイユもまた感じていた違和だった。一千年の研鑽に届かないのは確かだろうと、用意していた誰よりも優秀なのは、ルチアに違いない。

 だと言うのに、その協力に対する申し出は拒否というより拒絶に近かった。

 

 オミカゲ様は幾度も頷いてから、堪りかねたように息を吐いた。

 

「……うむ、あの態度が裏目に出たか」

 

 ルチアから鋭い視線を向けられ、オミカゲ様は申し訳なさそうに笑った。

 

「そうではない。今そなたが言ったとおりよ。結局防ぎ切れないのだから、余計な事に煩わされていないで現世を楽しんでおけと、あれはそういう配慮だったのよ」

「あの態度が……?」

「自分自身のこと故な、一千華にもそなたの性分が良く分かっておる。一度関われば抜け出せぬ。結界の分析や改良、それが可能か不可能か、最終的に封じ込め続ける事が出来るかどうか、そういう『研究』に没頭するであろう?」

 

 指摘されたルチアは言葉に詰まる。

 その光景はミレイユにも想像が容易い光景だった。気になる事は調べずにはいられない性分だし、分からぬままに放置していられるタイプでもない。

 そして、一つを追求した結果、枝分かれした分析が生まれたら、もう片方、更に片方と再現なく追求していくタイプでもある。

 

 そういうルチアだから、最初から無理だと理解しているオミカゲ様や一千華からすれば、最初から関わらせたくなかった、という事なのだろう。

 

 その懸念から出た態度だったのだとすれば、ミレイユも納得できてしまう。

 しかしルチアは、その説明を聞いても納得する素振りを見せない。今更、口だけでそれらしい説得をされても素直に頷けるものではないのだろう。

 

 オミカゲ様もまたそれを理解したと見えて、ルチアへ真摯な視線を向けて腕組みを解いた。

 

「しかし、そなたの望みが、それと言うなら止めるものでもない。明日から直ぐというのは無理であろうが、そなたの参加を打診しておこう。一千華にも話を通しておく」

「……ありがとうございます」

 

 意見が素直に通った事が意外であったようだ。

 ルチアは最初から疑念を持っていたようだし、それを突き崩す為の前準備として揺さぶる程度のつもりだったのかもしれない。

 

 隠し立てするつもりはない、というオミカゲ様の言葉どおり結界に関われるというなら、遠ざけようとした理由にも嘘がないのだろう。

 そして結界へ直接的に参入するとなれば、そこに暴くべき嘘がないことも判明する。

 ミレイユとしてはもはや疑っていないので、それをルチアが補強してくれるなら文句もなかった。

 

「論より証拠とも言うしな。オミカゲ様の話で確証を得られるものは多くないかもしれないが、結界についてはルチアに見てもらえば安心できる。……だがまぁ、程々にな」

 

 ミレイユが笑い掛けると、ルチアも降参するかのように手を挙げて頷く。

 

「現世にいられる時間が伸びるなら、それはそれで意味があるとも思うんですけどね」

「それでお前がカンヅメになっているようじゃ意味がない。いられる間は現世を楽しむというなら、お前も一緒でなくては」

 

 ルチアは嬉しそうに微笑んで手を降ろす。ようやく湯呑に口を付け、それで一件落着の空気が流れたのだが、ユミルが口を出して再び剣呑とした空気が生まれた。

 



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脅威拡大 その2

「ルチアは一応の納得を見せたみたいだけど、アタシはそうじゃないからね」

「いえ、私も今の言質だけで、全てを鵜呑みにした訳ではありませんよ」

「まぁ……そうよね。でも、あっちが少し胸襟を開いたから、アンタも態度を軟化させたってだけでしょ?」

 

 ルチアが首肯するのを見てユミルは満足気に頷いたが、ミレイユは意味が分からず首を傾げる。

 ならばユミルは何が気に入らないというのだろうか。

 

「ユミルは何が不満なんだ? 何も心を許して信じ合えというつもりもないが、今更言ってもどうにもならない事だと思うが」

「そうねぇ、アンタはあっちに還るつもりでいるものね。でも、よく考えて欲しいのよ」

 

 考えた結果のつもりだったが、ユミルに言わせれば考えが足りないという事らしい。

 その懸念について尋ねるより前に口を開く。

 

「あっちは危険だとか、こっちの方が楽しいとか言うつもりはないのよ。ただね、アンタ達はループしてるって考えてるワケでしょ?」

 

 アンタ達、という部分でミレイユとオミカゲ様を指差し、そしてミレイユは頷く。

 そこが基本となっている話ではある。時間の概念に対して理解が深いと言えないが、オミカゲ様が過去へ渡ったという話を信じるならば、そういう事になる。

 

「――で、それが一度や二度じゃ済まない回数繰り返しているとも考えてると」

「そうだな。繰り返す流れが出来ているように思えるし、だったら今の私が、その最小回数の位置する場所にいるとは思えない」

「そうね、そこは同意するわ。調べようがないけれど、最低でも今は三回目ではあるんだろうし、そして楽観主義でない以上、それよりもっと多い回数、同じような事が繰り返されてきたと考えてる」

「そうだな、だからループと呼んでいるんだろう」

 

 ミレイユがオミカゲ様へと視線を向ければ、無言で肯定を返してくる。

 ユミルは立てたままでいた人差し指を、再びオミカゲ様へと向けた。

 

「つまり、抜け出せないって考えたりしないワケ?」

 

 その指摘にミレイユは言葉を詰まらせ、オミカゲ様の表情も固まる。

 長い時を生きてきたオミカゲ様だ。考える時間は幾らでもあったろう。状況を打破する為の方法も、考えて来なかった訳が無い。

 

 自分では終わらせられなかった、だから次に託す選択をした。

 しかし繰り返しが終わらない、終わらせることが出来るのか、それを考えなかったとも思えない。

 

 どうなんだ、とオミカゲ様へ目を向ければ、目を閉じて押し黙り、何の返答もない。

 

「これが何回であるか分からないけど、無限回数繰り返しているとも言ってたじゃない。それなのに、どうしてこれを最後に成功させられるって考えてるの? 川の向こう岸まで石切りで渡らせようとして、百回も失敗すれば普通は無理だと思うでしょ。それが努力で覆せる距離じゃないと分かれば尚更よ」

 

 これにはミレイユも押し黙って、唸り声を出す事しか出来なかった。

 ユミルはアプローチが間違っていると言いたいのだ。

 

 全力で投げても中腹あたりまでしか届かないというのなら、そもそも向こう岸に投げ入れるのは不可能だ。それでもいつか届くと願って、中腹に向かって石を投げ続けている。

 

 頭では無理だと分かっているのに、それでも繰り返し投げてきたのは、その向こう岸が見えていなかったからだ。どれほど距離があるにせよ、届く筈だという願いだけで投げ続けて来た事になる。

 

 本当に向こう岸へ届けようと思うなら、投げる以外の方法を考え付かねば、いつまで経っても達成できない。ユミルはそう言いたいのだ。

 

「つまりブレイクスルーが必要だと? あるいは、コペルニクス的転回か?」

「こぺ……?」

 

 ユミルが眉を顰めて小首を傾げるのを見て、ミレイユは苦笑して頭を下げた。

 こちらに馴染みすぎているせいで、つい忘れてしまうが、むしろ知らない事の方が多いのだ。

 

「……だから、今まで信じていたものを根本的に変えてしまう必要があると。ユミルが言いたいのは、そういう事だろう? 投げ入れて届かないなら、船で渡って落とすなり、あるいは投石機を使って投げ入れるなり、発想の転換が必要だと」

「ま、そうね。何千、何万とやって無理だったんなら、そりゃ最初から無理だったって話でしょ。だったら違う方法探した方が、きっと成功率上がるって思うワケ」

 

 ユミルの言い分には一理あるように思われた。

 これまで駄目だったのだから、これからも駄目だろう、という指摘は正しい。それが努力で覆せると信じて来たのがオミカゲ様であり、これまでのミレイユだった。

 だがそれは、同時に一つの可能性を潰す事を意味する。

 

「無論、考えた事はある。……事がある、という言い方は語弊があろうな。幾度となく考えた事である。だが、その革新的と思える方法を採用し、失敗したら? その時も都合よく『やり直し』が出来るのか?」

「いや、でもアンタ、それで愚直に繰り返す事にどんな意味があるのよ? 眼の前にぶら下がった餌に向かって、追い付けないと理解しつつ走る事に意味なんてないじゃない」

「少しずつ、変わってはいる筈だ。今回、我が説得を成功したように、ここまでの土台を厚く広く作れたように、生まれた違いから、違う結果を生む筈だ」

 

 ユミルが鼻を鳴らし、呆れたように目を細める。

 

「それすら繰り返されてきた一部分だって、アンタ自身が理解してない筈ないでしょ。自分に嘘を吐くのはお止しなさいな。……いいこと?」

 

 一度言葉を切って、ユミルは人差し指を立てた。

 

「アンタが期待しているのは成功する結末じゃなく、やり直せる状況を壊さないでおく事よ。確かに失敗をやり直せるというのは魅力的だわ。次に機会を託せる権利は捨てられないわよね。――でも、捨てるべきだわ。これを最後に終わらせるつもりでいると言うなら、必要なのは捨てる覚悟よ」

 

 オミカゲ様は喉の奥で唸り声を上げて押し黙った。

 ミレイユも同様、ユミルの意見に返す言葉もない。

 

 その指摘は至極真っ当に思えた。

 失敗した時の為に保険を用意する、それこそがループを維持している原因だとすれば、いくら繰り返そうと何度だってループする。

 

 結果として失敗するのではなく、失敗するべく行動しているという事になる。

 そこから脱却するには、ユミルの言うとおり保険を捨て去る勇気こそが必要なのかもしれない。

 

 ミレイユは黙ったままでいるオミカゲ様を見つめる。

 その返答次第では、物別れ、仲間割れという事態にも成りかねない。緊張した空気が場を支配し、オミカゲ様の反応を固唾を呑んで見守った。

 

 オミカゲ様は再び袖口の中へ腕を通し、重い溜息を吐いてから口を開く。

 

「ユミルの言う事、至極真っ当なものに思える。……そなたの言うとおりよ、保険ありきで考えていたのが、失敗の元であったかもしれぬ」

「それじゃあ……?」

 

 ユミルが期待するような声で顔を近づけるものの、オミカゲ様は首を横に振った。

 

「しかし、賛成するには憚られる」

「何故だ」

 

 ミレイユが不機嫌な声を滲ませて問うと、オミカゲ様は難しい顔で眉に皺を寄せる。

 

「問題なのは時間である。その話を先に聞いていること叶うならば、むしろ真っ先にルチアを結界強化へ誘致しておったやもしれぬ」

「つまりこの場合、孔の拡大が問題になるって事か?」

「そうさな……。あるいは、帰還直後にミレイユだけでも場所を移し、結界内に匿うなど、何かしらの対策で時間稼ぎは必須であろうと思う」

 

 ミレイユは怪訝に思って首を傾げた。

 オミカゲ様は苦渋に苛まれているように見える。頭ごなしに否定している訳でもなく、ユミルの意見を採用しようとした結果、シーソーのように問題が別に持ち上がったと。

 

 あちらが立てばこちらが立たず、そういうジレンマを感じているのだろう。

 ユミルが苛立ちで顔を歪めながら、オミカゲ様へ強い視線を向ける。

 

「そんなに時間がないの?」

「最大まで拡大する時間がどれ程残っているか、それは予想できぬ。ルチアが参加するとしても、一年保てば良い方だと思うが、それすら確かではない。だが、どちらにしても、解決案を模索し実行する為の時間が足りぬのは確かであろう」

「まぁ、確かにね。ループを破るにしても、我ながら無茶言ってる自覚はあるわ。じゃあ、あちらに向かわずどう対策するのか、どう対応して打破するのか、その考えはないワケだし」

「なのに、あんな大それた発言したんですか」

 

 ルチアが苦笑して言うと、ユミルはちらりと笑顔を見せながら言った。

 

「大言壮語だって言われたらそうなんだけど、でも繰り返したって無意味だって分かるでしょ?」

「それはまぁ、そうですね……。でも代案はもう少し具体的かつ的確に言って貰えませんと」

「だが、方向の提示は悪くなかった。問題は、それを実行に移すまでの計画が白紙だと言う事だ」

 

 ミレイユの言葉に同意して、オミカゲ様は重々しく頷く。

 

「その為に必要な時間はどれ程かかる? そもそも実行可能なものなのか? 突き詰めなければならない勘案は幾らでも出てくるだろう。いっそ、そなたが次の周で……」

「その後ろ向きな考えをやめろって言ってるのよ。今回で終わらせるんでしょ? だったら、今だけはそれに向けて邁進するぐらいの気概でいなさいよ」

 

 ユミルに鋭く言われて、オミカゲ様も困ったように笑う。

 しかし、そうは言ってもこれまでの努力を無にするような事は出来ないし、したくないというのも本音だろう。レールを打ち壊す為に、自分たちの足場まで崩して落ちては意味がない。

 膨大な回数繰り返して来たと予想できるからこそ、そう簡単に頷けないというのも分かる話だった。

 

 そうして幾らかの沈黙した時間が流れ、遂にオミカゲ様が頷こうとした、――その時だった。

 襖が控えめに叩かれ、その取次として咲桜が動く。何事かと視線を集中させると、一人の巫女が床に額づけるように頭を下げて正座していた。

 

 事情を伺う咲桜が近くへ膝を付き、そして何事か声を掛ける。

 しばし細い声で遣り取りが続き、それに首肯を返した咲桜が下がるように命じた。巫女は額づける姿勢から少し頭を上げたものの、結局一度も顔を見せる事なく襖が閉められた。

 

 咲桜が戻ってきて、ミレイユの近くで一礼してから口を開く。

 

「阿由葉より救援要請が入っております。御由緒四家で結界内討伐の行動中、見た事もない鬼と遭遇したと。止められないと決断し、恥を忍んで救助を頼んだそうでございます」

「ご苦労、下がってよろしい」

 

 ミレイユが頷いて労う言葉を投げると、それで神妙に一礼して隣室へ移動する。

 それを見送る事なく視線を切って、オミカゲ様を見つめた。思わず睨み付けるような格好になってしまったが、他意はない。

 

「どういう状況だ? 御由緒家で対応できない、そして救援要請、これって割りと普通なのか?」

「そのような事ありはせぬ。つまり、異常事態であるな。結界の拡大速度は、我らが考えるより深刻なのかもしれぬ」

「……それで、何でこっちに話が回ってくるんだ? オミカゲ様宛なのに、こっちにいたから報告が私に来ただけか? それともお前が動くのか?」

「御由緒家で対応出来ねば、我が動く算段であるが……ここ数百年はなかった事態でな」

 

 ミレイユは苛立たしげにテーブルを指で叩いて、首を傾げた。

 

「つまり?」

「行ってくれるか?」

「……まぁ、お前が直接動くっていうのは、かなり対面が悪いんだろうが……好きにやっていいのか?」

「……ふむ。この際だ、二つの事を試そう。……嫌そうな顔するでないわ、面倒に感じようとも厄介ではない」

「詳しく話せ」

 

 オミカゲ様の言葉を聞くなり盛大に顔を顰めてから、ミレイユはアヴェリン達へ目配せする。それだけで理解の色を示し、それぞれが立ち上がる。

 アヴェリンが全員を代表して一礼した。

 

「全て、我らにお任せを。万象万事、あらゆる露を払ってみせます」

 



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脅威拡大 その3

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 その日の渡鬼(わたりおに)討伐も、いつもと変わらぬ作業になると思っていた。

 最近の鬼は強化傾向にあると警告は受けていたが、そもそも鬼の出現傾向にも波はある。常に同じ鬼が出る訳でもなければ、その落差が大きくなる事も決して珍しい事ではないのだ。

 

 強大な鬼が出れば一般隊士では相手にならない。

 この一般隊士は多くは世上から見出された剣士達で、御前試合にてオミカゲ様から見出されただけあって、才能もあり士気も高い。

 

 だがそれは一般人から見た場合であって、千年前から戦い続けている上澄みの中の上澄みからすれば、歯牙にも掛けない隔絶された実力差があった。

 それが御由緒家と呼ばれる集団だ。

 

 剣術一つ、理力総量一つ、その扱い方一つ、そして士気と忠誠心においても、一般から見出された才人では歯が立たない。

 

 とはいえ土鬼を代表する小鬼などであれば、訓練さえ受ければ問題なく対処できる。

 その為の武器や防具も支給されるし、その為の座学も準備されている。再戻鬼程度であれば、彼らでも一個小隊ないし二個小隊で挑めば勝てる。

 

 御由緒家の人間なら単騎で挑んで勝てる実力を有し、牛頭鬼であっても複数で挑めば勝てるとされる。もしも一般隊士が遭遇したなら、即座に本部へ連絡し、そして救援が来るまで現場を保持する事を義務付けられている。

 

 つまり、勝てないと割り切った上で時間稼ぎに徹しろ、という意味だった。

 結界の外に鬼を出す事だけは防がなくてはならない。一般人に被害を出さず、また一般人に知られぬよう、身命を賭して戦う。それが理力を与えられた際、オミカゲ様へと誓約した誓いだった。

 

 その誓いを胸に戦う事こそ隊士の誇り。

 だからいつでも命を捨てる覚悟は出来ている。誰に褒められる事も知られる事がなくとも、オミカゲ様だけは知っている。その労をねぎらって下さると知っているから、自らよりも強大な敵へと挑む事が出来るのだ。

 

「えぇい、くそったれめ……!」

 

 第十二一般小隊隊長である勇山伝治(でんじ)は、目の前に聳え立つような鬼を睨み付けながら悪態をついた。

 

 最初の違和は顕著だった。

 孔が鳴動して鬼が出てくるのはいつもの事。その外縁へ手を掛け、押し広げるように身体を孔から引っ張り出し、そこから現れた再戻鬼は二個小隊を持って倒す事が出来た。

 

 いつもなら、一体ないし二体倒せば終わりだ。

 しかし、それが収まらない。三体倒し、四体倒し、五体倒して尚、終わりが見えなかった。

 明らかにおかしい、と思ったところで、更に孔を押し広げ出てきたのが牛頭鬼だった。その時点で体力も相当すり減らされていた事もあり、あっという間に蹴散らされた。

 

 一般隊士は相対的に見て弱いとはいえ、無力な存在ではない。

 隊の中には必ず治癒術士がいるし、支援術士もいる。そう簡単に死にはしないし、逃げに徹していれば、どうにか時間を稼ぐ事も難しくない。

 

 だが、その牛頭鬼に更なる追加があるとなれば、話は別だった。

 

「御由緒家への緊急支援は!?」

「既にやってます!」

 

 牛頭鬼の攻撃を躱しながら伝治が叫び、それに部下の隊士が同じく悲鳴のような声で返した。

 孔は常に一夜に一個しか空かないという訳でもない。ここと同じく、別の場所でも対処に困り、御由緒家へ支援を要求している可能性はある。

 

 御由緒家も常に手が空いている訳でもなければ、近くにいる訳でもなかった。到着までの時間、何としても全滅を防ぎ鬼の注意を結界の外へ向けさせない努力が必要だ。

 二体の牛頭鬼相手に何処までやれるか、と顔を顰めた時、孔が更に鳴動を始めた。

 

「……このうえ更におかわりかよ!」

 

 伝治は目の前の牛頭鬼を前にしながら歯噛みした。

 現在はもう一つの小隊と連携し、一体を一個小隊で受け持っているからこそ、膠着に持って行けている。だがそれは本当にギリギリの均衡の上で成り立っている綱渡りの状態に過ぎない。

 

 隙を見つけたところで攻撃せず、機会があっても陣形の維持を努める。常に薄皮一枚程度の余裕しかないところを、それでどうにか凌いでいる状態なのだ。

 次に出てくるのがどのような小者だろうと、この膠着状態が決壊するのは目に見えていた。

 

 ――どうするべきか。

 その一瞬、牛頭鬼から意識を逸した一瞬の出来事だった。 

 思考を外へ向けていても、牛頭鬼から目を離してもいないし警戒も怠っていないつもりの伝治が、斧の横薙ぎで吹き飛ばされた。

 

「……ゴハッ!」

 

 凄まじい衝撃が身体を襲った事は理解したが、それ以上の事は何も分からなかった。何度も地面を転がったらしく、体中が擦り切れるような痛みはあったが、意識までは辛うじて残っている。

 伝治の持つ理力が防御を主体にしたものだった事もあるが、何より自分が落ちればこの戦況はどうなるのか、その一念が意識を辛うじて繋いでいた。

 

 他の隊士が伝治へ近寄り、傷の手当を開始する。

 しかし傷の具合からいって骨も内蔵もやられており、治癒が終わるよりも早く敵がやって来る方が早いだろう。止めを刺そうと斧を握り直すのと同時、結界の一部が開かれる。

 

「……あぁ」

 

 そこから覗かせた顔を見て、伝治は安堵の息を吐く。

 見覚えのある顔だった。御由緒家の一人が刀を手に握ったまま、警戒を強く滲ませた表情で歩を進めていく。その後ろには一般隊士が付き従い、やはり緊張と警戒を強く表した表情で近付いていった。

 

 それを見て伝治は意識を手放す。

 彼らが来たなら心配ない。御由緒家が到着したなら、事態の解決は約束されたようなものなのだから。幾度となく見た御由緒家の活躍を思い出しながら、伝治は瞼を閉じていった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「一般小隊は直ぐに下がれ! 怪我人保護を最優先、余裕があるなら理術の支援だけやってくれ!」

 

 阿由葉七生は片手で刀を握りしめながら、もう片方の手で指示を出す。

 牛頭鬼が敵と見定めた相手を移して、七生に向けて威嚇の雄叫びを上げた。それを鬱陶し気に顔を顰めながら、更なる指示を飛ばした。

 

「私達は左を担当。まず速攻で一体落とす。すぐにでも孔から追加が来るわ。――凱人!」

「分かってる、俺は右だな」

 

 七生に続いて結界内へ入ってきた由衛凱人が、小隊を率いて向かって右の牛頭鬼を見据えた。

 両手を肘まで覆う巨大な手甲を打ち鳴らし、それとない仕草で七生へ問う。

 

「他はまだなのか? 漣も来ると聞いたが」

「紫都もこちらへ向かっている。御由緒救援が打診された時点で結界班が分析を完了、大規模孔空である可能性が高いそうだ。更なる増援も視野に入れているらしい」

 

 凱人は唸り声を上げて押し黙った。

 大規模孔空とは通常開かれる孔とは全くの別物で、少々の鬼を吐いたぐらいじゃ収まらない。百鬼夜行とも呼ばれ、通常は日が落ちきる頃には終わる討伐が、夜通し行われる規模にまで拡大する事を意味する。

 

 その内容は様々で、子鬼が大量に排出される事もあれば、強大な鬼が一匹しか出ない事もある。子鬼の方は単純に処理に時間が掛かるだけだが、強大な鬼は正に夜通しの時間が掛かるほど手こずる相手だという事だ。

 

 眼の前にいる牛頭鬼が既に二体いる事を思えば、これから出てくるのは子鬼ではあるまい。

 あれより強い者が一体か、あるいは牛頭鬼ランクの鬼が更に幾らか出てくるだけか。それは蓋が閉まるまでは分からない。

 だがとりあえず、何はともあれ目の前の牛頭鬼を処理しなくてはならなかった。

 

 処理と言えるほど生易しい相手ではないが、今日の予想される規模を思えば、あれは前菜に過ぎない。まずは数を減らす事が肝要だった。

 

「それじゃあ、二人が到着するより前に片付けるとしよう」

「そうね。少し楽をさせてあげましょうか」

 

 凱人の軽口に七生も乗って頷く。

 刀を構え直すのと同時、牛頭鬼も突進を始めた。別の一般小隊は相手する必要はないと見切りをつけたようだった。

 

 その判断は、ある意味において正しい。

 御由緒家が率いる小隊はエリート部隊だ。御由緒家そのものがエリートである事は当然として、それと曲りなりにも連携を組もうと思えば、その隊士ですら並大抵の実力では叶わない。

 

 厳しい選抜試験を乗り越えた者たちだから実力は折り紙付きで、七生や凱人よりも年上の者も多い。三十代の者もいるが、七生が隊長である事に異議を挟まない。

 経験不足故の失敗はあるが、そのエリート集団の中にあってさえ、七生達の実力は頭二つ分抜けている。一対一の戦いなら、隊の誰も彼らに勝てないほど実力に開きがあった。

 

 強大な敵に相対する機会の多いエリート部隊だからこそ、その敵の真正面に立てる者は誰よりも強くなくてはならないのだ。

 その気概と実力を認めるからこそ、まだ年若い彼らを侮るような者は誰一人いなかった。

 

 七生は鋭く理力を制御して、自身の強化を完了させる。

 阿由葉は鋭く早いと評されるその制御を遺憾なく発揮し、隊士たちへと声を上げた。

 

「行くわよ! 時間を掛けないで、即座に済ませるわ!!」

「おう!」

 

 その声を少し離れた場所で聞きながら、凱人もまた制御を始めた。

 阿由葉は攻撃寄り、由衛は防御寄りの内向理術を得意とする。重く固いと表現される制御を完了させると、凱人の身体は文字通り岩より硬くなる。

 

 七生が隊の中で攻撃の要となるなら、凱人は守りの要となる。

 強靭な体躯と防御力で相手の攻撃をいなすか受け止め、それを隊の皆で攻撃するというスタイルだった。

 

 凱人もまた声を上げて隊を鼓舞する。

 

「何度も倒してきた敵だ、怖気づく必要はない! ただ、今日はちょっと数が多いだけだ! 気を引き締めろ!!」

「ウォッス!!」

 

 迫力ある声を背中で聞きながら、凱人は地を蹴り牛頭鬼の正面からぶつかりに行った。

 



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脅威拡大 その4

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 比家由漣と由喜門紫都が結界内へ侵入した時、そこは既に惨憺たる有様だった。

 立っていられるのは七生と凱人だけで、他の小隊隊士は戦線から離脱している。誰もが傷を負っているが、しかし誰も死んではいない。

 

 そして死んでおらず理力も尽きていないとなれば、戦闘は続行される。今はその怪我を治癒されている最中というところだったが、一体何が起こったものか、あの二人以外は戦闘続行できない傷を受けたという事らしい。

 

 だが彼らも決して素直にやられた訳ではない。

 見てみれば、地面に散乱し倒れ伏した牛頭鬼や再戻鬼が、今しがたも次々と消えていっている。その数は十や二十ではきかない。

 

 御由緒救援が掛かってからまだ三十分程だが、それだけの激戦をこの短い間で繰り広げたという事なのだろう。

 

「どうなってんだ、異常だぞこりゃあ……!」

「そんな事は分かってる。大規模孔空の中でも、相当厄介な部類の百鬼夜行。普通、これだけの数が出る場合は子鬼ばかりの筈なのに、見えるだけでも牛頭鬼が五体もいる」

 

 倒れ伏した四体と、今も七生と凱人の二人がかりで相手をしている一体。

 どこまでを二人で倒したのかはともかく、鬼気迫る勢いで倒している姿は頼もしいを通り越して恐ろしいぐらいだった。

 

「何にしても、見てるだけって訳にゃいかねぇ! お前ら、準備しろ!」

「先に陣を張る。支援をお願い」

 

 紫都が両手を拡げて複雑に手を動かしながら制御を始めた。緑色の光が手の平を包む。

 それを見て何をしたいか察した紫都の小隊は、紫都に制御補助の理術を掛け始める。漣の小隊もまたそれに加わり、瞬く間に制御が終了した。

 

 紫都が両手を地面に向けると、半径三メートル強の陣が地面に現れる。

 そこに触れているだけで、何やら足から胴へ温かなものが伝ってくる。怪我人達へ指示を出して、その陣の中へ移動させた。

 

 まだ身動き出来ない隊士を優先させ、寝転ばせるように陣の上に置けば、その傷が見る間に塞がっていく。

 半径三メートル強と大きくない陣なので、そこまで一度に多くの者たちは癒せない。その治癒速度も早いと言えるものではないが、この陣が有用な部分は、傷の手当に付きっきりだった隊士を他に回せるという事だった。

 

 今も類稀な連携を見せて牛頭鬼の猛攻を防ぐ二人へ、その治癒術を回せるというのが何よりも大きい。

 紫都は次の理術の制御を始め、手の空いた漣の小隊も制御を始める。

 手の空いた治癒術士は、攻撃を受け流しつつ、皮膚を削られ血を流した七生に対して治癒術を放ったりと、とにかく前線が潰れないよう努めた。

 

 その治癒術を受け取って、一瞬ハッとしたものの、ちらと見ただけで事態を正確に把握した七生に笑みが戻る。

 懸命に、仲間の元へ敵を近づけさせない、という気持ちで戦っていたのだろう。険しい顔には余裕が生まれたように見える。

 

「待ってたわよ、紫都! 奴ら、遠慮と言うものを知らないのよ! 招待状も送ってないのに!」

「全く、こっちはスタミナもすっからかんだ! 楽させてやるつもりだったが……少しは楽させてくれ!」

 

 七生と凱人、二人から軽口とも苦言とも取れる言葉を投げられ、紫都の顔にも笑みが浮かぶ。それは漣にとっても同様で、口の端に笑みを浮かべながら軽口を叩く。

 

「あぁ、遅れて悪かった。折角の一張羅、見せびらかせようと準備してたらこのザマよ」

「分かったから、早く撃つもの撃ってくれ!」

 

 凱人から余裕のない叫び声を聞いて漣の表情も引き締まる。

 漣が制御を開始すると共に、部下の隊士達も同様に制御を開始した。

 漣の小隊は攻勢理術に特化した、砲兵のような役割を得意とする。敵の射程外から一方的に撃ち込み、その数を減らしたり体力を削るのが主な戦法だ。

 小隊に組み込んだ支援理術士も、その援護に適した者を配置している。

 

「よっしゃ、離れろ!」

 

 制御の終了と共に漣が声を張り上げ、それと同時に七生と凱人が一撃浴びせて左右へ飛び退く。

 その瞬間を見逃さず漣と小隊が同時に理術を撃ち込んだ。

 

 放たれたのは漣が最も得意とする攻勢理術、炎の連弩だった。着弾と共に爆発し、例え炎に対して強い抵抗を持っていたとしても、その爆風で吹き飛ばし身動きさせない効果を持つ。

 それが連続して着弾するのだから、上下も方向も見失い、それだけで大抵の相手は次の理術制御の時間を与えてしまう。初手が効果的でなかったとしても、次の一手の為の布石としても使える為、漣はこれを重宝していた。

 

 難点があるとすれば、術の威力そのものが低い事だ。個人の実力で威力に上下があるとはいえ、漣が使っても不満が出るような威力しかない。数で補ってこそとも言えるが、これに威力が加わればと悔やむ事は多々あった。

 

 今もまた、その悔やむ場面に相当する。

 吹き飛んだ牛頭鬼は怒りの形相を露わに立ち上がるが、その戦意は衰えていない。体中に火傷痕は見えるものの、継戦能力に問題はなさそうだった。

 

 吹き飛んだ斧を拾い、それを持って突進しようとする前に、漣は既に制御を終えている。隊士からの支援もあり、その制御速度も上昇していた事も理由の一つで、もう一つの理由は効果的な理術でない事を知っていて予め次を用意していたからだ。

 

 ――距離は稼いだ。時間のかかる理術を使うに十分な距離を。

 

「くたばれ……!」

 

 漣から放たれる氷風の奔流が、牛頭鬼を包む。

 繊細な制御力と時間が掛かる術だけに、その威力も折り紙付きだった。一瞬で表面に霜が浮き、次いで動きを鈍らせる。まるで亀のような鈍足になり、そうかと思えば完全に動きを止めた。

 

 それを確認するより早く動いたのが、七生と凱人だった。

 苦し紛れか、あるいは助命の為だったのか、雄叫びを上げようとして声を出せぬまま、凱人によって腕を砕かれる。

 文字通り、氷漬けの身体が氷像のように砕けたのだ。武器を持った腕が落ち、そして首まで七生によって切り落とされる。

 

 とうにバランスを崩していた牛頭鬼が、それで完全に力を失くし、背中から地面にぶつかる。ゴドンと重くも軽くも感じる音を立て、その亡骸が横たわった。

 

 軽く息を吐いて、その場の誰もが身体から力を抜く。

 とりあえず、いま結界内にいる鬼どもは片付いた。遠くを見れば未だに孔が残っているから、まだ続きはあるのだろう。辟易した気分でいるのは誰もが同じ、それでも消えてくれるまでは戦い続けねばならない。

 

「百鬼夜行か……くそっ、忌々しい」

「今更、口に出さないでよね。皆同じこと思ってるんだから」

 

 漣が思わず吐き捨てれば、それに蓋をするように七生が被せて言ってくる。刀を左右に振って露を払うと鞘に収めて睨み付けすらした。

 一時、空白時間となったので、その間に傷を癒そうと凱人と共に陣へ近付いていく。通り過ぎざま殊更顔を顰めて行き、それをげんなりとした表情で見送っていく。

 

 紫都にはその肩を叩いて労う仕草を見せているのに対し、態度の落差をまざまざと見せつけられた気がした。その漣の肩を凱人が叩いて労う。

 

「……なぁ、やっぱアイツ。俺にアタリ強くね?」

「励ましのつもりだろう。責任感がそうさせるんだ……。多分、多分な」

「つまり違うってこったな。……まぁ、余裕がなくてカリカリすんのも分かるけどよ」

「お前たちが来たのは、最も激しい波が収まってからの事だった。小隊から部下が一名欠けていく毎に、早く来てくれと願ったのも事実だ。乗り切った後、最後の一体で到着となれば、文句の付けやすい相手に、ああいう態度にもなってしまうんだろうさ」

「つまり、八つ当たりじゃねぇか。途中コンビニ寄ってた訳でもねぇんだぞ」

 

 漣が七生の後ろ姿を見ながら吐き捨てると、凱人は苦笑しながら肩を二度叩く。

 

「七生も分かってるよ、それは。……最大限好意的に受け取って、あれは甘えなのかもしれん。誰にでも公平な態度を崩さない七生が、お前にだけそういう態度なのは何か理由があるとは思えないか?」

「お前、アイツに対して甘く考え過ぎだろ。嫌われてるって考えた方が納得できんだろが」

「……心当たりでもあるのか?」

「ねぇよ」

 

 漣は短く答えて部下を引き連れ、皆の集まる陣へ近寄っていく。

 おしゃべりが過ぎたか、と思いながら凱人もその背を追った。七生の鋭い視線を見れば、実際そのような暇はなかったと自省する。

 今この瞬間は敵がいないが、孔が消えていない以上、これはまだまだ続く。

 その終わりが見えない現状、体力回復に努めるのも義務だし、その手助けがいる者へ補助するのもまた義務だ。

 

 陣のお陰で相当楽が出来るとはいえ、全てを他人任せという訳にもいかなかった。

 それに、四人の御由緒家が揃ったからには作戦の変更も必要だし、陣形を改める必要もあるだろう。作戦会議をする時間的余裕がある現在、その時間を投げ捨てるような真似は許されなかった。

 

 陣の近くへ到着するのと同時、七生が率先して口を開く。

 このメンバーが集まると彼女がリーダーを任される事が多い。なので、時間のない今、そこに誰も口を挟まない。

 簡単に現状を整理した上で、これから起こり得る事、その打破に向けての作戦と、その為の小隊毎の運用と配置について説明を終えると、七生は全員を見渡した。

 

「ここまでで、何か質問は?」

「過去の規模から考えて、あとどのくらい続くと思いますか?」

 

 声を上げたのは一般隊士だった。

 これまでの間で、身動きできない重症者というのは全て戦線に復帰できる程まで回復している。今は陣に立っている者しかいないので、一度に回復できる人数も増えた。

 陣の上に生えたように直立している彼らの一人からの質問だった。

 

 七生は悩ましく息を吐きながら、眉根に皺を作りながら答える。

 

「まだ半分も終わっていません。とはいえ、過去とは規模が違いすぎます。一度に排出される鬼が強ければ強い程、鬼の総数は減っていく筈。百鬼夜行は数は多けれども弱い鬼ばかり、というのが通説でした。その前提が生きていないので、同じ敵がこれからも続くのか、それとも最後に大きな鬼が出てくるのか判断できません」

 

 ――前例がない。

 現状はこの一言に尽きる。今は怪我だけは治癒を終えたし、他の者達の傷も癒やす事が出来るだろう。だが、これが続くというのなら早晩瓦解する。

 子鬼の代わりとしてあれらが出てくるようになったというなら、七生が言ったとおり、これはまだ始まったばかりだ。

 

 しかし同時に、最悪の想定も出来てしまう。

 常にあるように、孔は弱い鬼を吐き出してから強い鬼を出してくる。この段階が、その強い鬼を出す前提の動きでしかないのだとしたら、それは最早七生達でも対処できない鬼が出てくる事を意味していた。

 

 鬼の対処や対策を、書物として多く残してある御由緒家だからこそ分かる事だった。

 そして、同じ結論に至った者が他にもいた。

 紫都が挙手した上で、緊張をハッキリと表情に出して発言する。

 

「御由緒、由喜門家より意見具申。これは結界崩壊の危機と捉えるべき。次の波で抑えきれないと判断した時には遅すぎる。今から奏上申し上げるべきです」

 

 七生は思わず口を片手で覆って息を吐いた。その表情は苦渋に満ちている。

 紫都が提案した内容は理解できていたし、その可能性も考慮してもいた。

 その結界を放棄せざるを得ないと判断した時、あるいは全滅を覚悟した時、もしくは強大かつ未知の鬼と遭遇した時、御由緒家はオミカゲ様へ救援要請する事を許可されている。

 

 何より大事なのは結界の保持と鬼を外へ出さない事なのであって、それが自力で解決できないと判断した時、その解決を神に委ねる事を許されていた。

 しかしそれは、過去数百年起こらなかった事態でもあるのだ。

 

 御由緒家はオミカゲ様の矛と盾。

 それを誇りとして生きている。それなのに、矛と盾が責任を放棄するような発言は相当な勇気がないと出来る事ではない。

 そして、それを奏上するとは即ち――己が無力を知らせる事にもなり、そしてそれが今代御由緒家の評価となってしまうのだ。

 

 七生は隠した手の中で唇を噛む。

 提案した紫都は元より覚悟の内だろうが、他の二名はどうかと見ると、凱斗には紫津同様の表情が浮かんでいた。漣の方は決めかねているようで、その表情はパッとしない。

 

 二対二の状況、そして現在はどうにか出来ている状況が、決断を躊躇わせる。

 その七生を後押しするように、凱斗が口を開いた。

 

「戦闘が始まれば、状況次第で救援など呼べないかもしれん。この程度で呼ぶなと、お叱りも頂くかもしれん。だが想定外の多い現状、最悪を考えて作戦を練るべきだ」

「……そうね」

「お叱りを頂く時は、俺のせいにしてくれて良い」

 

 凱斗が笑うと、七生も口から手を離して笑った。

 

「そういう訳にはいかないでしょう。今ここのリーダーは私なんだから。紫都、連絡頼める? 文面どおりにお願い。阿由葉より意見具申――」

 

 紫都が頷き返し制御を始めるのを見て、七生は厳しい顔付きで言葉を紡いだ。

 



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脅威拡大 その5

天の川(・・?)様、えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 阿由葉七生は紫都と凱斗の進言を、強く感謝しながら刀の柄を握りしめた。

 自身の予測はある意味で正しく、大量の牛頭鬼など単なる前哨戦でしかなかった。

 

 あれから孔が鳴動し、その外縁を引き裂くように出て来たのは、四つの腕を持つ青黒い肌をした巨大な一つ目鬼だった。

 見上げるほど大きい、という表現は決して比喩ではない。実際に鬼と自分達の身長差は大人と子供程もある。凱斗であっても股まで届かず、紫都に至っては膝に届く程しかない。

 

 そしてその巨体と四腕も、決して飾りではなかった。巨大な拳は振り回されるだけで脅威だし、そして鈍重という訳でもない。

 

 四方から包囲するように隊を分けているが、初めて相対する敵――未知の敵だ。その対処法も未知なら、攻撃方法もまた未知だった。

 これが決定的なミスを生むかもしれないと思えば、積極的に動けないのも当然。

 

 だが今は、とにかく防戦に徹していれば望みがあった。

 既に救援要請は届いている筈。要請が届いたとして、実際に動いて下さるのかという問題はあった。オミカゲ様が良しとされたとしても、神宮の女官や巫女が止める可能性がある。

 

 神が武器を取って戦う事を許さず、安全な場所にいて欲しいという気持ちは分からないでもない。得てして巫女は神の在り様を優先し過ぎるきらいがある。

 あらゆるものに優先されるのが神であって、それ以外は神を支える為に存在すると考えるのだ。

 

 オミカゲ様の本心よりも、神としての存在の方に重きを置く。

 平時ならばそれで良いが、結界が崩れる瀬戸際とあらば、こちらを優先して貰わねばならない。その理屈も恐らく、巫女達には通用しないだろう。

 余計な横槍で時間を食うのは目に見えている。

 

 忌々しい気持ちでいると、四腕鬼が七生に目を付け腕を振り上げた。

 小隊の皆にも下がるように命じて、自身も一際大きく跳躍する。

 

「――チィ!」

 

 七生は歯噛みしながら、振り回される腕を躱して一太刀を加えた。

 回避に専念した為、攻撃に割いた理力は少ないが、それでも薄皮一枚切れる程でしかなかった。

 

 敵の俊敏性とて低くはない。

 四本の腕でそれぞれを対処しているから杜撰になっているとはいえ、誰か一つの小隊に絞ったなら回避を続ける事は難しいだろう。

 

 加えて、あの鉄皮である。

 使っている武器も理力を付与された一品だから欠けるような事はないが、それでも相手を傷付けられないという意味では全くの無力だった。

 

 攻撃に関して――その一太刀にかけた一閃は、七生にとって密かな自慢だった。姉はあらゆる力量に置いて全て自分を凌駕すると認めていたが、こと抜刀一閃に関しては自分が上だと思っていた。

 それは驕りではなく、確固たる事実として並々ならぬ自信と誇りを持つものだったが、それもあの鬼には通じない。

 

 これでは一進一退の状況に持っていく事すら難しく、一方的にスタミナを削られ続ける七生達が不利だ。

 七生の一撃で掠り傷なのだから、他の者が攻撃したところで大差はない。それぞれに七生にない強みを持っているが、それも圧倒的強者には通じるかと言えば、難しいと言わざるを得ない。

 

 紫都は元よりサポート向けなので攻撃に参加せず、左右どちらかの仲間が攻撃や防御をする際に的確な支援で助けている。本来なら後ろに下げておきたいが、今は四本の腕に一小隊を当てて撹乱した方が得策だと判断した。

 

 ――まだなの。

 

 必死に祈って救援を待つ。

 オミカゲ様の助けを待ってオミカゲ様に祈るのだから、この祈りが届かない事はない筈だ。庶民に比べて強い信仰心を持つという自負もある。

 これまで数え切れない傷や病毒を癒やして来て貰った。縋る時に縋れる神がいるというのが、どれほど気持ちに余裕を持たせるのか、七生は良く知っている。

 

 信じる者は救われる、と渡来の信仰は言う。

 対して日本人に、救われるから信じるのだろう、とオミカゲ様を揶揄もしてくる。

 

 馬鹿を言うな、と七生は思う。

 神の腕に抱かれているから安穏としている、と思われるのは我慢ならない。我らが傷つく事を知っているから、それでも立ち上がる者達だと知っているから、神は手を差し伸べ、その傷を労り癒やすのだ。

 順番を履き違えている。日本人の――御由緒家の信仰は、そんな安いものではない。

 

 遂に痺れを切らしたのか、四腕鬼が大きく息を吸って肺を膨らます。

 今まで見た事のない行動だが、何をしたいのか想像は着く。

 

「総員退避! 後方に下がりながら防御壁を張れ!」

 

 吐き出すものが火であるなら問題にはならない。しかし、それが他の何か――毒や麻痺などのガスなら、そしてそれが一見して判断できないものなら、適切な対処が遅れて命を落とす者も出るだろう。

 

 とにかく距離だ。距離があれば見極めの可能性も出てくる。

 七生が分からなくても、紫都が分析してくれるかもしれない。

 全体を俯瞰し、その対処を誤るな。父から何度となく言われてきた教えだった。

 

 他の小隊も距離を取り、どこも小隊の誰かが盾を作る。一芸に秀でる癖のある小隊ばかりとはいえ、そこはやはり防御壁くらいはどこの隊でも扱えるものだ。

 その防御の厚みに違いが出るのは仕方がない。個人の力量で厚みを作る以上、エリート集団とはいえ優劣は出る。

 

 七生は一瞬の内に計算する。

 果たして分散したままで攻撃に備えるべきなのか。もしも相手がこちらを一掃するつもりでいるのなら、むしろ悪手になりはしないか。

 全員が一塊になる事で集中した攻撃を加えられるリスクと、全体に満遍ない攻撃でそれぞれが落とされるリスク、その両方を考え、七生は前者を選択した。

 

 ――全員の力で一つの強固な防御壁を作り、それで堪える。

 四腕鬼が火炎放射のように息を吐くのか、それとも巨大な火球を吐き出すのか、それによっても結果は変わりそうだが、今はとにかく一挙手一投足が賭けだ。

 

 今は自分の勘を信じるしかなかった。

 

「全員一箇所に集まれ! 紫都を中心に方陣を組んで!」

 

 四腕鬼を中心にして四方に散っていたので、七生の小隊が最も遠い。

 攻撃の溜めが終わる前に到着できなければ、あるいは方陣が間に合わなければ全滅する賭けだった。それでも、自身の考えに一定の根拠はある。

 

 敵は四方から攻撃され、また攻撃しても当たらない事に業を煮やしたのだ。

 そこに起死回生の一撃を与えようと思えば、四方向を攻撃出来るものか、一方向を確実に倒せる何かを吐き出すと考えるのが道理。

 

 集まったところで、それを耐えきれるだけの防御壁を作れるかの賭けになるが、一つずつ削られていくのが最も最悪なシナリオだ。

 四個小隊全員を動員して作る防御壁が貫かれるというなら、どの道どうやっても全滅は免れない。

 

 ――今はこの考えと閃きに賭ける!

 

 既に集結している三個小隊へ合流し、自身の小隊と合わせた合力防壁が展開される。七生もまたその展開へ理力を持つ者たちを鼓舞するべく肩に手を置いたが、それと同時に敵の口から何かを吐き出される。

 

 放たれる閃光と爆発、衝撃と爆風に吹き飛ばされ、七生は意識までも飛んでいった。

 

 

 

「う……っ!」

 

 気を失っていたのは、ほんの一瞬だったらしい。

 頬を叩かれた感覚で目を開き、咄嗟に腕を動かして刀を探す。しかし近くに落ちている事もなく、また目視の範囲内でも見当たらなかった。

 

 頬を叩いていたのが凱人だと知れて、それで未だ頭痛と耳鳴りが酷い頭を振りながら問いかける。

 

「一体なにがあったの……?」

「分からん、あまりにも一瞬で……。だが吐き出した何かが爆発して、それでやられたのは間違いないと思う。だが、アイツも撃った直後は動けないらしい」

 

 見てみろ、という催促と共に視線を向ければ、顎をだらんと下げて両腕までもが地面に触れている。いや、触れているというよりは、倒れそうな身体を四本の腕で支えているのだ。

 使えるものなら初手から使うだろうし、そしてリスクがないならもっと早くに使っていただろう。それにあれほど広範囲に地形すら変える一撃を、今まで見た事がなかった。

 

「咄嗟の集合は、まさに起死回生の一計だった。距離を離して各個防御態勢だったら全滅していたろう。よく見てくれた」

「えぇ、賭けだったけどね……」

「だがこっちも無傷とはいかなかった」

 

 凱人が目を向ける方向に七生も顔を向けると、そこには倒れ気絶している隊士達が見える。

 誰も彼も軽傷で擦り傷程度の怪我しかないから、戦闘続行は出来るだろう。ただし、それは意識を回復し、そして理力が残っていればの話だ。

 

 ――首の皮一枚繋がった。

 そう表現して良いだろうが、同時に再び四腕鬼が起き出した時、立ち向かう理力が残されているかどうか……。

 

 仲間たちをせめて陣へ移動できないか、と首を左右へ廻らせたが、その痕跡は見つけられなかった。あの爆発で全て吹き飛ばされてしまったらしい。

 

 紫都が再び陣を敷こうとしているが、あれは膨大な集中力と理力を使う。万全な状態ならばまだしも、今もフラついている身体では到底無理だ。

 その紫都を支えるようにして立つ漣も、相当辛そうに見える。

 

 内向理術士である七生や凱人は、防御壁の構築には無力だった。

 そもそも内包する理力を外へ出すのに向いていない。だが、もしもそれが出てきていたなら、もっと強固な壁が出来ていたろうし、そうしたら今の惨状はなかったかもしれない。

 

 歯噛みしながら立ち上がる。

 武器もどこかへ飛ばされたが、壊れてはいない筈だ。痛む足を引き摺るように歩きながら、周囲を見渡す。誰も彼もが倒れ伏し、意識ある者は誰もいない。

 

 七生達が起き上がれたのは御由緒家故の、高い理力があればこそだ。

 戦えるかどうか分からないが、せめて退避させてやる必要はある。このままでは戦いの邪魔になるし、倒れたままの仲間が踏み潰されるような事があれば、悔やんでも悔やみきれない。

 

 結界の外に出す事も考慮せねばならない。そう考えていると、四腕鬼がやおら身動きを始めた。

 振り返って見てみると、顔を上げ、四つの腕に力を込めて、ゆっくりと身体を持ち上げ始める。

 

 もう動けるのか、という苦い気持ちで顔を歪め、刀はどこだと必死で顔を巡らせる。

 あれが無くては戦えない。

 だが仲間達も見捨てる訳にはいかず、今ならば外へ逃してやる事も出来るかもしれない。だが武器があれば、注意を引いてやる事も可能かもしれない。時間稼ぎとして己が身を捧げ、その隙に仲間を逃がしてもらえば……。

 

 焦りが判断を曇らせ、とにかく武器を、と身体を動かした時、凱人に腕を掴まれた。

 

「なに、早く武器を……!」

「どこにあるかも分からんのでは間に合わん。仲間たちを助ける方が先だ。指示をくれ」

「え、えぇ……。そうね、仲間を……そうよ、助けないと」

 

 痛む頭と朦朧とする視界が、上手く言葉を出してくれない。

 切迫する敵の動きも、それに拍車を掛けていた。

 

 ――どうにかしないと、どうにかすれば。

 思考が悪戯に空回りして、物事を正確に考える事が出来ない。焦りばかりが募って、とにかく何かをしなければ、という強迫観念に背を押される。

 

 四腕鬼が完全に立ち上がり、睥睨するように見渡し、その内一本の腕を持ち上げた。

 躱せば味方が巻き込まれてしまう。例え無理と分かっていても、逃げ出す訳にはいかなかった。

 

「まだなの、後どのくらい待てばいい……?」

「七生?」

「オミカゲ様はまだなの!!」

 

 堪り兼ねたように七生が叫んだ、その時だった。

 紫都が目の前にディスプレイのようなものを展開して、耳に手を当てている。咄嗟に七生も耳に手を当てたが、衝撃のせいかイヤホンは失くしてしまっていた。

 その紫都が珍しく焦った声を張り上げた。

 

「オミカゲ様、お出ましになります! 六時方向、結界入口、これより三秒間のみ一時的に開口します!」

「三秒? ――ちょっと駄目! 間に合わない!」

 

 紫都の報告は希望の福音に違いなかったが、同時に四腕鬼へ視線を向けて絶望する。振り上げていた拳を、今まさに振り下ろそうとしている。

 そして標的は七生達だけではなかった。拳の大きさからいって、その一撃を地面にぶつけただけで相当な衝撃を生むのは間違いない。

 

 受け止め損ねても、あるいは受け止めきれても無防備な仲間が衝撃で吹き飛ばされてしまう。だが、見捨てるという選択だけはあり得なかった。

 この身一つでも、と駆け出したのは七生だけではない。凱人も横並びで駆け出し、そしてその二人を支援するように理力を放つ漣がいる。

 

 しかし、それだけやっても受け止めきれず、横へ流すだけが精一杯だろう。正面から受ければ七生達の方が吹き飛ぶ。だからといって、座して仲間たちの死を見送るつもりはなかった。

 

 ――やってやる。必ず一撃止めてみせる。

 死を覚悟するつもりでその拳へぶつかる、その瞬間――。

 

 七生達に追い付き、追い越していく影の姿があった。

 何がと思う暇もなく、七生達が拳の先端に触れるよりも先に、その巨大な拳が――四腕鬼が吹き飛び転がっていく。

 

「……何が起こった」

 

 呆然とした声は凱人のもので、それは七生の心も代弁していた。

 見れば前方には一人の金髪をした女性が一人、武器を振り抜いた形で制止している。よく見ようと顔を動かした時、背後から聞き覚えのある声がした。

 

「ギリギリ間に合ったか?」

「――オミカゲ様!!」



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脅威拡大 その6

 違う名前で呼ばれて、ミレイユは視線を一人の少女に向けた。

 期待に満ちた顔は、お互いの目が合わさると同時に困惑へと変わる。似てはいても別人だと分かり、次いでそれが何者かも分かったようだ。

 

「まさか……御子神様!?」

「如何にも。オミカゲ様じゃなくて悪かったが、私でも役に立てるだろうと参じた。……ガッカリさせて悪かったな」

「と、とんでもございません!」

 

 ミレイユがちらりと笑って見せると、恐縮しきった顔で頭を下げる。

 だが勘違いしたのも無理はない。ミレイユが着ているのは神が身に着ける神御衣だ。この国で唯一、それを着用できる存在となれば真っ先に思いつくのはオミカゲ様の名前だ。

 それも、これまでは、という但し書きが付くが。

 それにこの服も、オミカゲ様が身に着けているものとは細かなところで違いがあるものの、そんなところまで分からないだろう。

 

 ミレイユは改めて少女の顔を見つめる。

 しかし見覚えのない顔だ。阿由葉からの救援要請といっていたから、てっきり結希乃がいるのだと思っていたのだが、それらしい姿を確認できない。

 

 立っている者は全員、例の昼食会で見た顔だから、御由緒家に連なる者が残ったのだろう。

 ではこの少女も、と考えて、消去法で御由緒家の一人だと当たりをつけた。

 

「お前が救援を要請した阿由葉か?」

「は……、ハッ! 恐れ多くも御子神様にお出まし頂きまして恐悦至極! 万難を排するが御由緒家の役目、この度の責は全て――」

 

 釈明のつもりなのか、それとも咎を背負うのは自分だと言いたいのか、難しい言葉を並び立てた少女を、ミレイユは片手を振って止めさせた。

 

「ただ確認したかっただけだ、そういうのはいい。……名前は?」

「は、はい! 阿由葉七生と申します!」

 

 うん、とミレイユは頷いて、今しがたアヴェリンが吹き飛ばした敵を見た。

 四つの腕を持つ、青黒い肌をした巨人。最近見た敵がミノタウロスだった事を思えば、その敵の強化度合いが一足飛びに上がっている。

 

 あの魔物は、ミレイユの知るところではサイクロプスと呼ばれていた。

 青い肌で一つ目の、四つの腕を持つ巨人。

 魔物も人と同様、個体差があるから確かとも言えないが、単純にミノタウロスの二倍から三倍の強さを持つ。

 

 敵の強さが加速度的に増加している、その証拠とも言えるだろう。

 既にこれだけの魔物が孔を抉じ開けて出て来られるなら、猶予は殆ど残っていないのかもしれない。不都合な現実を見せ付けられたような思いがして、ミレイユは思わず顔を顰める。

 

 ミレイユの表情から現状が相当悪いと勘違いさせたのか、七生の表情も暗くなった。

 だが実際、敵は強いが悲嘆するような状況でもない。この敵が今後の基本となるようなら絶望的だが、それを打破する為にミレイユはやって来た。

 

 ミレイユは近くで控えていたユミルを呼び、アヴェリンの方へ顎をしゃくる。

 

「とりあえず、二人で協力して翻弄させていてくれ」

「腕の幾つか落としておく?」

「いや、そこまでしなくていい。こっちに来ないよう、引き付けておいてくれ」

「それだけ? ……ま、いいけど」

 

 不満げではあったが素直に頷き、地を蹴ってアヴェリンの横へと降り立つ。伝言もしっかり伝えているのを確認してから、次にルチアを呼んだ。

 

「私は何します?」

「……あれが見えるか」

 

 ミレイユが指差した方向には、未だ脈動を続ける孔があった。

 あれだけの魔物を吐き出しても尚、残り続けているという事は、倒したところで終わりではない事を意味する。

 今更ながらに気付いたらしい七生が、顔面を蒼白にさせていた。

 

「あれを放置できない。即座に塞げ」

「出来ますかね?」

「私が知ってる結界術を教える。現世結界のベースとなった術だろうから、効果はある筈だ。拡がった孔を小さくできるなら尚いいが、そこは努力目標だな」

「無理と判断したら、即座に閉じても?」

「それは任せる」

 

 ルチアがしきりに頷いて了承を与えると、ミレイユは右手に魔術の制御を始める。

 白い光が螺旋を描くように広がり、そして唐突に収束した。掌に収まる程まで小さくしたそれを、掲げるように持ち上げる。左手でも制御を始め、そこから緑色の光が掌と甲を周回するように円を描く。

 

 光が一際大きくなると、掌を上にした左手をルチアへ差し出した。

 ルチアがその上に掌を重ねると、右手にあった光がルチアの胸へ突き刺さるように入り込む。

 一瞬びくりと震えたが、それ以上の変化もなく、軽く頭を振って手を離した。その顔には苦い笑顔が浮かんでいる。

 

「相変わらず反則ですね」

「それはこの際、言いっこなしだ」

 

 ミレイユが苦笑を返すと、ルチアも己のやるべき事をやる為、踵を返した。

 その背を見送りながら、今更ながら思う。

 

 ミレイユには自身が修得した魔術を他人に与える能力がある。渡せば使えなくなるという意味ではなく、転写するという意味合いに近い。

 あちらの世界ではゲームの機能として用意されたものだと勘違いしていたが、そもそも順番が違うのだろう。

 

 オミカゲ様が言っていた事を信じるなら、あくまでこの身体で出来る事が、あのゲームで再現されていたに過ぎない。何の為にそうしていたのかは知る由もないが、便利なものは便利だった。

 

 オミカゲ様に頼まれていた、用事の一つはこれで終わった。

 この能力が問題なく使えるのか確認するのが、頼まれた用事の一つだった。そしてもう一つの用事が、問題なしと判断した時、それを御由緒家に使ってやる事だ。

 

 戦力強化の手っ取り早い手段だから、使えるものなら使えというのは分かる。

 オミカゲ様は自分なら出来ると言っていたから、ミレイユに確認させたのはあくまで念の為でしかなかったのだろう。それは別にいいが、ミレイユへ押し付ける事の意味が分からない。

 

 だからそのように抗議したのだが、返ってきたのは神務の多忙さと、機会を持てない制度にあった。オミカゲ様は基本的に奥御殿から出てこない。それは警備上の問題や、御身の安全を思っての事もあるのだが、同時に一日のスケジュールが埋まっている事に起因する。

 

 戦力の強化として隊士達に会おうと思っても、それを捩じ込む時間はない。あらゆる理術はオミカゲ様から与えられるもので、そういった場を年に一度設けているが、それすら時間的にギリギリなのだと言う。

 

 既に体得している者たちへ、更なる上位互換を与えるというには、現在までの敵に苦労していないし優先度は低かった。かといって、新たに体得する者たちを蔑ろには出来ない。

 いつだって戦力の補充は必要だから、そちらを優先した結果、今ある術で研鑽を積め、という方向に落ち着いたらしい。

 

 らしいと言えば、らしい話だ。

 いつだって喫緊の問題を優先して対処するもので、現状どうにかなっているなら、現状維持されてしまうのが普通だ。

 

 ミレイユが改めて七生へ視線を向けると、驚愕と感嘆の表情で、まるで祈るような真摯な瞳を向けてきた。

 佇まいを直し、深々と頭を下げてくる。

 

「神の御業、拝見させて頂きまして恐縮でございました」

「あぁ、うん……。そういう態度は好まないんだ、普通にしてくれていい」

 

 そう言われても、素直に頭を上げられるものではないらしい。

 あるいは御由緒家として教育されたものが、簡単に頭を上げさせてくれないのかもしれない。

 

 その時、衝撃音と共に振動が足元を揺らした。

 音の方向へ目を向ければ、アヴェリンが魔物を吹き飛ばしたらしいと分かる。あの程度の相手なら、アヴェリン一人で転がすなどいつもの事だ。そして、その横でユミルと何か言い合いをしてるのも、またいつもの事だった。

 

 七生がそれを、信じ難い光景を目にしたように呆然と見つめた。

 

「すごい……。あの方たちが、御子神様の従属神なのでしょうか」

「従属しているとは言えるかもしれないが、別に神という訳ではない」

「でも、とても人の技には見えません」

「そうかもしれないが……、だが今日は近いところまで『上がって』もらう」

 

 そうと言われても理解できる筈もない。

 言葉選びを間違えたな、と首を傾け苦笑する。それから七生へ視線を戻し、改めて言った。

 

「私はオミカゲ様から、お前たちの強化を請け負ってきた。だからお前たちにはあの魔物を倒してもらわねばならない」

 



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脅威拡大 その7

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 七生が息を呑み、それがヒュッと音を立てた。

 その表情には、ハッキリと自分には無理だと書かれている。今はその実力差が壁のように立ちはだかって、無理に思えるだろう。

 

 だが、それを覆せると分かっているからこそ、ミレイユは言った。どの程度、ミレイユの干渉で強化が出来るかは、ある程度分かる。だからこそ言った。

 

 この話を請け負った時、それを確認出来た内容時点で、無理だと分かれば鬼を倒してしまうと決めていた。

 御由緒家の者たちに限った話ではないが、基礎術を修得してから、ひたすらその基礎の研鑽を続けてきたのが、現世の理術士達だ。本来なら次のステップに進んで良いのに、本来なら基礎術から初級術、中級術へと進むべきところなのに、その基礎のみを積み上げてきている。

 

 その基礎を今こそ活かす時で、そして昇華された制御術を扱えられたら、あの程度の鬼は倒せると見切った。

 

「お、お言葉ですが御子神様……。何か理術を授けて頂いたところで、あれが何とかなるとは思えません……」

「お前は知らないだけだ。自分たちが身に付けたものが、深奥へと辿り着く、ほんの些細な一歩でしかないのだと。ただ入口で、足踏みしている状態でしかないのだとな」

 

 ミレイユが言った事は表現が曖昧で、理解するには難しすぎたようだ。

 指の仕草で立ち上がるように指示すると、七生は素直に従って神妙な顔付きで立ち上がる。

 

 ミレイユは離れて様子を伺っていた三人にも、手招きして呼び寄せた。

 話の内容は聞こえていたろうに、互いに目配せして恐る恐る近寄ってくる。

 

「お前たちとは顔を合わせたから、今更自己紹介はしなくていいな」

「は、それは、勿論ですが……。神前のご挨拶などは……」

「いるか、そんなもの。戦闘中だぞ、優先するのは敵の排除だ」

 

 凱人が情けない顔をしながら首肯するところを見れば、現状がイレギュラー過ぎて対応に困った事になっているようだ。左右に立ち並ぶ漣や紫都を見ても同様で、神との対面が叶えば、まず許しがあるまで頭を上げないとか、そういう面倒な決まりがあるのだろう。

 

 それが骨の髄まで染み込んでいるのだとしたら、とかく恐れ多いというオーラを出しているのも頷ける。

 だが、それではいつまで経っても話が進まない。

 

「いいか、面倒な話じゃない。普通にしていろ、私もそうする。今はアイツを倒す事に専念しろ。勝てる手段をこれから与える」

 

 ミレイユが親指で魔物を指し示せば、そこにはユミルとアヴェリンが二人がかりで蹴り飛ばしているところが目に入る。

 文字通り()()事のみを考えての攻撃だから、敵もダメージは負っていない。単に転がされたようなものだが、凱人達の表情は引き攣っている。

 

 自分たちでは手も足も出なかった相手を、子供扱いするかのようにあしらっていては、そういう気持ちになるのも良く分かる。

 倒せるというなら倒して欲しい、とさえ考えているかもしれない。

 

「オミカゲ様はお前達が、これから鬼に対抗出来なくなる事こそ危惧している。今日、あのような鬼が出てきた事から分かるように、その戦力は強化傾向にある。そしてこれは、この先も続くと考えているようだ」

「そんな……」

「私達なら勝てる……、それはそうだ。だがお前達は? これから逃げ惑うしかないのか? 我々の到着まで、その場を死守するだけで良いのか? 戦う意思はあるのか?」

 

 言い終わって、ミレイユは素早く四人を見渡した。

 

「――どうなんだ?」

「あります! 我ら御由緒家はオミカゲ様の矛と盾! その誇りを失くしては生きていけません!」

 

 他の三人も口々に戦う意志を見せると、ミレイユは大いに頷く。

 

「お前達の基礎力は高い。これまで弛まぬ努力を続けて来たからこそだろう。やり方さえ間違わなければ、あの鬼にも勝てる」

「そうだとしても……、私どもは既に理力が底を突いております」

「あぁ、そうだったな」

 

 ミレイユが何でもない風に鼻を鳴らし、肩から力を抜いて息を吐く。

 青い光が立ち昇り、次の瞬間には四人全員を光の奔流が飲み込んだ。

 

 一瞬、立ち眩みのように身体を揺らす者もいたが、すぐに持ち直して佇まいを直す。

 そして自身を見下ろし、両手を開いたりと、体の調子を確認していった。そして、その意味にようやく得心がいったらしい。

 驚愕と尊崇の表情を綯い交ぜにして、誰もがその場に跪く。

 

「よもや神威にそのような効果があるとは思いませんでした……! なんと気高く、気遣いに溢れた力なのか!」

「だから、そういうのは止めろって言うんだ。……立て、いいから。話が出来ないんだよ」

 

 神威を浴びた者は何人といるだろうが、現代において理力を消耗した状態で神前に出るなどと言う事はなかったのだろう。

 それ故の感動と驚愕だと分かるが、いずれにしてもミレイユからすれば鬱陶しくて適わない。

 四人はそれを聞いても軽々しく頭を上げる事はしなかったが、ミレイユが重ねて言ってようやく頭を上げる。早く立てと促して、それで次の話が出来るようになった。

 

「内向理術を得意とする者は?」

「はい、私と凱人です」

 

 七生と凱人が挙手をして、二人をミレイユの前に、それ以外を少し外へ置く。

 そうしてまず、七生の手を取った。

 明らかに動揺している様子が伝わってくるが、一々構っていられない。両掌を上に向け、七生にはその上へ重ねるように命じた。

 

「では、制御してみろ。自分が普段、その力を振るう時と同じように、動かしてみるんだ」

「わ、分かりました……!」

 

 何度も頷いた後、七生は目を瞑って制御を始める。

 内向術士は自分の身体を巡回させるように運用する。必要な時、必要な場所へ力の層を作って瞬発力を上げる、という運用法もあるものの、何より重要なのは、この巡回速度にある。

 その速度が早ければ早いほど、力の層が蓄積される。それは同時に消費されていく層でもあるのだが、消費よりも多ければ多く蓄積できるし、蓄積量が多ければ多くの力を発揮できる。

 

 集中している七生からは、それでもまだ余裕があるように感じた。

 戦闘中の運用を意識しているのは分かるが、同時に全力でもない。

 

「もっと早く。全力を絞り出すように」

「はい……!」

 

 返事と共に回転速度は上がったが、それでもその差はごく僅かだ。本能的にブレーキを掛けているのか、それを全力と勘違いしているのか、どちらかだろう。

 ミレイユは断りを入れてから、その制御を奪った。

 

「お前の全力はもっと早い。巡らせる事に意識を割きすぎて、出力が疎かになっている。……いいか、こうだ」

 

 その変化は劇的だった。

 まるで軽自動車からスポーツカーへ乗り換えたような速度の違いがある。

 七生の巡回速度は全体から見ればムラがあり、また一回転する毎に一瞬の溜めがあったり、途中で引っ掛かるような部分さえあった。

 

 単純に癖の部分もあるだろうが、苦手意識が出た部分もあるのだろう。

 その全てを無視して高速回転を始めれば、戸惑うのも当然だった。身体が震え、足元すら覚束なくなる。顔面は蒼白なのに汗が溢れ始めた。

 

「こ、怖い! 怖いです……!」

「そうだな、慣れろ」

 

 ミレイユは弱音に頓着せずに続ける。実際、すぐに慣れる筈なのだ。自動車に乗った事のない人が初めて乗れば怖く思うだろうが、七生はそれに乗って普段からスピードを出して走っていたようなものだ。

 乗った車も違い、そして最高速度も違うのだとしても、スピードを出して走るのが日常的だったなら、すぐに慣れる筈だった。

 

「持て余しているものを動かしてやっているだけだ。お前は本来、これだけやれる。制御しているのは私だが、出来る事をさせているだけ……。この感覚を掴め、同じようにやってみろ」

 

 言うなりその手を離し、奪っていた制御を戻す。

 離した瞬間は不安定だったが、すぐに勘を掴んで同じように制御してみせた。初めて補助輪を外して走る自転車のような危なっかしさだが、しかしそれでも走れている。

 

 それが出来る自分が信じられないようだ。

 ミレイユを見て、次いで凱人を見ては、泣き笑いのような表情を見せる。そしてクールダウンさせるように、徐々に制御速度を落としていって、それでようやく息を吐いた。

 

 顔面は蒼白なのに肩で息して、額には大粒の汗が浮いている。

 そして顔面には、引き攣った笑顔が浮かんでいた。

 

「信じられない……! 今の本当に私がやったんですか?」

「まともな師を持てなかったのが、お前の不幸だったな。限界を決めつけられ、その運用が正しいと思い込んでいた」

「私の師は父上なのですが……」

「じゃあ、その父の教えが悪かったんだろうさ」

 

 そう言ってしまえば、誰もが渋い顔をする。

 御由緒家の技術は一子相伝という訳ではないが、それでも同じ家名の者にしか授けられない技術だ。そしてそれは代々受け継がれ、研鑽され、昇華させて伝えられてきた。

 数多の技術がそうであるように、常に進化させて継承された技術を、そうと切り捨てられてしまえば苦い顔にもなる。

 

 だが実際、その技術の限界を簡単に突破してみせたのも、神の技術なのだ。

 これが他の誰かならば反発もあったろうが、教えを授けたのが神となれば話は変わる。強力な鬼を前に、神がその力を授けたとなれば本家の誰も文句は言えない。

 

 七生は未だ心臓の音が煩い身体を必死に押し込めて頭を下げた。

 ミレイユはそれに軽く頷くように感謝の意を受け取り、次の相手へ顔を向ける。

 凱人が一歩前に出て頭を下げた。

 

「御指南の程、よろしくお願いします……!」

「あぁ、だが見ていたとおりだ。心構えは出来ているな?」

「勿論です!」

 

 凱人が両手を差し出し、ミレイユがそれに重ねる。

 そうして再び、ミレイユの手による簡易修行が始まった。

 

 

 

 

 制御技術は内向術士にとって大事なものだが、外向術士にとってもそれは同じだった。制御の方向性は異なるが、早ければその分、放つまでの時間が短くなる。

 単純に早ければ良いという訳ではないから、その扱いは内向術士とは比べ物にならない難度になるが、一流と呼ばれる者は全員それがやれる。

 

 残った漣や紫都はまだ一流ではないものの、いずれは辿り着いて貰わねばならない境地だ。

 だからその一端を味あわせたのだが、二人はすっかり参ってしまった。

 

「いや、とてもじゃないけど出来る気がしねぇです……!」

「神のみに許された領域、……だと思います」

 

 外向術士にとって、制御の失敗は死にも繋がりかねない危険を孕むから、その運用は慎重を期する。速さは重要だが、安全マージンを取る事が当然と思っている二人には酷な修行だったようだ。

 

 だが、それは別にいい。

 本来の目的は、より上位の術を使えるようにしてやる事だ。術の威力は術者の力量によって変わるとはいえ、初級の術ではどうあっても届かない敵というのは存在する。

 

 単純に外皮を貫く威力がなければ、全てを無力化してしまうような相手だと、外向術士は全く役に立たなくなる。ミレイユが本来いた世界では、魔術書があるから好きに修得すればいいが、こっちの世界ではそうはいかない。

 

 今も涙ぐましく騙し騙し使ってる状況、というのがミレイユからの評価だった。

 そして実際使わせてみて感嘆する。よくも、そんな骨董品を使っていたな、と呆れる気持ちすらあった。どんな術にも上位互換となる術はあるものだ。それが初級術ともなれば候補は膨大で、何を修得させるか迷ったのだが、今は最も得意な術に絞って与えた。

 

「これが神の扱う理術ですか……。早速使ってみたくてウズウズしてますよ!」

「不謹慎。……でも、気持ちは分かる」

 

 漣には攻勢理術、紫都には支援理術をそれぞれ与えた。理力の消費量も増えたが、それに値する働きはするだろう。習熟すれば使い勝手も分かってきて、その消費量も抑えられていく筈だから、使い始める今が我慢時だ。

 

 アヴェリン達へ目を向けると、近づけさせるな、という命令を守って敵を遠くへ追いやっている。戦況は余裕でアヴェリン達へ傾いており、口を開けて息を吸おうとする時も、素早く顔面と腹を強打して封じていた。

 

「なるほど、ああやればいいのか……」

「生半可な攻撃じゃ、どっちみち止められないでしょうけど」

 

 凱人と七生がそれぞれ感想を言い合うのを横目に、ミレイユが口を開く。

 それで一斉に佇まいを直してミレイユに向き直った。

 

「私の見立てでは、苦戦はしても負けはない筈だ。私の言葉が信じられるなら、勝てる勝負に勝ってこい」

「勿論です! 必ずやこの勝利を御子神様へ捧げます!」

「別に私に捧げる必要はないがな。……ああ、倒れてる奴らは私の方で面倒見よう。誰も死にそうな怪我していないし……、問題ないだろう」

「ハッ! 全く倒れた者どもが羨ましいくらいです! 部下たちをよろしくお願いします!」

 

 凱人が頭を下げ、同じように三人も頭を下げる。

 次に顔を上げた時には、鬱陶しそうに手を払って敵へ向かうよう指示する。それで踵を返すと、跳ねるように飛び出し魔物へと向かって行った。

 



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脅威拡大 その8

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 理力の変化は劇的だった。

 七生は身体を試すように動かしながら疾走する。

 

 まず瞬発力が違う。

 踏み出し、蹴り込み、地面から反発される力が雲泥の差で、身体が羽のように軽い。今まではまるで枷を嵌められていたかのように感じ、そしてそれは初めて理力を扱って動いた時の事を連想させた。

 

 理力を伴う運動と一般人の運動も、また雲泥といって良い差がある。

 その差が今まさに、自分の身体で起こっていた。

 七生は漣と紫都のように新たな理術を授けられた訳ではない。癖を矯正され、より良い運用法を直接教示頂いただけだ。時間にしても一分ほどしか掛からなかったように思う。

 

 だが、それだけで飛躍的な制御力の向上を見た。

 改めて神に対する畏敬の念を覚える。人に理力を授ける機会は一度しかないのだと思っていたが、あるいはこれだけの力を与える事を懸念しての事だったのかもしれない、と思い直す。

 

 ――まるで麻薬だ。

 自分が何でも出来る万能感を得たように、錯覚してしまいそうになる。

 それ程までに能力の上がり幅が異常だった。しかもこれは自らが培い、鍛え上げてきた土台の上に与えられたものだという。

 

 鍛錬を怠った事はなかったが、同時に頭打ちだとも思っていた。周囲の御由緒家を見ても、力量の差はあっても僅かなもので、その中で突出していたのは姉ぐらいのものだった。

 だからこれ以上は才能の差だと思いこんでいたのだが、全く違うと証明されてしまった。

 

 御子神様は師が悪い、と仰っていた。

 素直に肯定できないものだったが、これを知ると消極的にではあっても肯定しない訳にはいかないだろう。そしてこれを他にも教える意思があるとしたら――。

 

 これからの強敵とも十分渡り合える。

 七生は確信を持って全身に力を込めた。敵は既に目前まで迫り、自分が今まで感じた事もない速さで接近して行く。

 

 お互いが手を伸ばせば、届く距離に凱人もいた。

 目配せすれば、相手からも頷きが返ってきた。幾度となく繰り返して来たこと、お互いにやりたい事は判っている。

 

 従属神の御二方は、七生達の接近を察知すると同時に攻撃を止めていた。

 今は鬼と相対する形だが、既に臨戦態勢は解いていて、一人は腕組すらしている。とりあえずの壁役として残っていたのだろうと察し、通り過ぎざま目礼して謝意を示した。

 

 鬼もこちらの動きに気がついて、その巨大な腕を振り上げてくる。

 

「――凱人!」

「応!!」

 

 七生の呼びかけに応えて凱人が前に出る。

 両手の大籠手を前に翳し、両腕をピッタリと閉じて防御を固めた。今までは頼りになり、そして四腕鬼には為す術もなかった防御法だったが、今なら通用する筈、と祈るような気持ちで後に続く。

 

 まずこの一撃を受け止められるのか、それが鍵になる。

 七生自身、新たに扱えるようになった力に酔っていた部分はあった。凱人も同様、今の自分なら大丈夫という自信があるのだろう。

 

 ――だが、もしそれが単なる過信だったら。

 背筋をひやりとしたものが通り抜ける。任せて大丈夫なのか、後方の支援と交えてから戦術を見直した方が良いのではないか。

 

 今更ながらの後悔が湧いてくる。

 しかし冷静になるには遅すぎ、凱人は拳を受け止めようと前傾姿勢を取った。もはや逃げるよう声を掛けても逆効果にしかならない。

 

 七生も腹を括って刀を構える。

 今は成功する事だけを考えるしかない。

 

 鬼の拳が凱人に刺さる。

 ドゴン、という思い衝撃音が聞こえた。凱人の身体が横へ流される。駄目か、と思った瞬間、それが攻撃を受け流した動きだと分かった。

 

 凱人は攻撃をいなしながら、身体を回転させてその衝撃を逃したのだ。

 巨拳は方向が逸れ凱人のすぐ傍へ突き刺さる。その瞬間を見逃す七生ではなかった。

 

「ハイィィィ、ヤッ!」

 

 腕が伸び切った肘目掛けて、七生は刀を振り下ろす。

 その巨体故、腕の大きさも長さも尋常ではない。一振りで切断できるものでもないが、腱を切断できれば身動きを封じる事は出来る。

 問題は、あの鉄皮に刃が通るか、という事だったが――。

 

 その心配は杞憂に終わった。

 七生の刃はそれまでが嘘であったかのように、あっさりと皮を引き裂き、筋肉を貫いて腱を切断した。あまりに簡単すぎて、そもそも外したかと思った程だった。

 

「ゴォォォォオオオ!」

 

 四腕鬼が腕を抑えて雄叫びを上げる。

 痛みを堪えきれず、他の二本の腕を闇雲に振り回した。七生はそれを余裕をもって回避し、凱人も同様に躱し、あるいはいなして捌いていく。

 

 距離を取ったところで、紫都からの支援が飛んできた。

 今までも使ってきた、自身の周囲に防御膜を張る理術だが、その厚みに大きな差がある。上位の理術を与えると御子神様は言っていたが、その効果はより顕著に現れているようだ。

 薄皮のような膜が、今では指一本の厚みがある。

 

「二人とも速すぎ。途中で支援かけようと思ってたのに、まるで追い付けなかった」

「気が逸り過ぎだろ。何とかなってるみたいだけどよ」

 

 七生は自省するつもりで頭を下げた。

 言われるまでもなく、これは七生が悪い。紫都の多彩な支援があるなら、あのような博打をするにしても、もっと安全にやれていた筈なのだから。

 

「対処に問題がないってんなら、上手いことやってくれ。弱らせてくれりゃ、俺がでかいの一発打ち込んでやる」

「それで倒せる?」

「分からんが、刀一本突き刺して倒せる相手じゃないだろ。口の中にでもかましてやりゃ、一発で済むと思うがな……」

「いいわ、じゃあそうして」

 

 七生は凱人に目配せして、着いてこいと言うかのように腕を振る。

 その前に紫都から更なる支援が飛んだ。

 

「これは?」

「スタミナがより早く回復する。速度上昇もあるけど、今はしない方がいいと思う。まだ自分の新しい速さにも慣れてない時に使うのは危険」

「そうだな。必要になる場面があれば、使って貰うかもしれん」

 

 紫都は首肯を持って応え、凱人にも同様の支援理術が飛ぶ。

 それと同時に二人は駆け出す。

 四腕鬼は怒りの形相で七生を睨み付け、腕の仕返しをしようと狙いを付けてくる。七生はそれを俊敏に躱し、また別方向から来た巨拳には凱人が受け流して守っている。

 

 それを頼もしく見ながら、漣は制御を開始した。

 今までとは難度が違うから、その制御にも慎重になる。だが扱える筈だと与えられた理術、その期待に応えたいという気持ちが強い。

 

 だったとしても、まず目標が定まらなければ撃ち様もなかった。

 

「そうしろって言ってもよ、口を開ける瞬間なんてそうねぇぞ……!」

 

 腕を振り回す関係で顔の位置は大きくブレる。左右に動くだけでなく、上下にも激しく動いた。

 同じ場所に立っている訳でもないし、翻弄する二人に向けて身体を動かすせいで、そもそも口を狙えない。同じ場所に立っている都合上、狙われたなら制御を解除して逃げに徹する必要もあるだろう。

 

 敵の猛攻を躱しながら制御を続けられるほど、この理術は甘くないのだ。

 タイミングがあったとしても、果たして撃てる瞬間制御が終了しているか、という問題もあった。

 そうこうしてると、四腕鬼の目が漣達を捉える。

 

「マズい……!」

 

 棒立ちの二人見つけて、鬼が放って置く筈もなかった。

 制御を止めるにしてもスイッチを切るように終わらせる訳にはいかない。例えるなら、坂道でトロッコを押し上げているようなものだ。頂上につけば後は手を離せば敵に向かって落ちていくが、それより前に離したら自分が轢かれてしまうだけ。

 安全に手を離そうと思えば、段階を踏まねばならない。

 

「大丈夫、任せて」

 

 紫都がそう言って、手を前に翳す。

 漣が制御している間に、紫都も制御していたらしく、即座に理術が展開された。

 眼の前に光の壁が築かれ、レンガを重ねるように積み上がっていく。それは半円形を描きながら形作られ、瞬く間に二人の周囲をきれいに覆ってしまった。

 

「すげぇな……」

 

 漣の呟きに耳を貸さず、紫都は制御に集中する。最終的に半透明なレンガドームに包まれ、四腕鬼の拳を跳ね除けた。

 単純な四角形でなく半円形なのは、その衝撃を分散させる為で、それが更にこのドームを強固にしている。

 

 そのドームを壊そうと躍起になって殴りつけている鬼に対し、先に動いたのは凱人だった。

 下から掬い上げるかのように殴りつけ、顎が跳ね上がる。その瞬間を見逃さず、七生が顎の付け根辺りを切り裂く。それで顎を支える腱が切れ、鬼の口がだらしなく垂れ下がった。

 

「――今よ、やって!」

 

 七生の声を拾って、漣も理術を放とうとして紫都を見る。この壁を解除しろというつもりで視線を送ったのだが、紫都は首を横に振って鬼目掛けて指を差す。

 

「大丈夫、内側からはすり抜ける!」

「そうかよ!」

 

 漣は渦巻く力を解き放ち、頭上に見える口の奥目掛けて炎の塊を撃ち込んだ。

 直径一メートル程の巨大な火球だった。今までは精々握り拳程度の大きさしかなかった事を思えば、その質量の変化は顕著だが、その真価は大きさではない。

 

 喉奥へ吸い込まれるように着弾すると、火球は握り拳よりも小さく収縮する。

 次の瞬間にはその巨大な頭すら吹き飛ばす、巨大な爆発が巻き起こった。

 

 紫都はそれを予期して念動力で七生と凱人を回収していたが、一歩及ばず二人は爆風に押し出される。紫都は一瞬だけドームの一部を開くと、そこへ押し込まれるようにして、二人がドームの中に入ってきた。

 入室しきったかを確認するより早くドームの一部分が閉まり、そして熱烈な閃光と爆発音が辺りを震わす。

 ドームの中は爆発の余波を受けていないとはいえ、その巨大爆発が目前で巻き起こって平静ではいられなかった。

 

 爆発は一瞬だったが、それが巻き起こす旋風と衝撃はすぐには止まない。

 上半身を失って背後へ倒れ込む四腕鬼を見つめた後、誰もが呆然としてそれを見つめる。余りの威力、余りの衝撃に思考が追いつかなかった。

 しかしそれが十秒も経つと認識も追いつくもので、七生は漣に食って掛かった。

 

「あんた何てもん使ってんのよ!? 紫都が機転利かせてくれなかったら、私達巻き添えくらってたってこと!?」

「いや、俺もそんな威力あると思わなくて……」

「知っときなさいよ、自分の術でしょうが!」

「加減が分からなかったんだよ! 全力込めなきゃ倒せないかもしれねぇって思ったんだ!」

 

 漣も負けじと言い返すが、命の危機とあっては七生も黙っていられない。

 危うく仲間に殺されかけたとあっては憤る気持ちも分かるが、今回ばかりは大目に見ない訳にはいかないだろう。

 

「何しても、紫都には助けられた。ありがとうな」

「……ん。でも分かった。なんでオミカゲ様は強力な理術を今まで人に与えなかったのか」

「そうだな……。あのような力、本来なら人には分不相応だろう。大砲のように運搬が難しいというものでもない。身一つが巨大な砲身となるなら、自由に使える人間は脅威と成り得る」

 

 だが、その解禁を許す程、今回の鬼は強力だった。そうせざるを得なかった、という事なのだろう。その力を与えられた者は、その高い能力故に、力を振るうことにより強い責任を持たねばならない。

 

 それは何も漣だけの話ではない。

 七生にしても凱人にしても、この力を十全に発揮すれば、もはや止められる人間が存在しないという程、隔絶した力を得た。

 元より御由緒家はその力を振るう事をオミカゲ様に許されたものと認識しているから、私利私欲で使う者はいないが、もしもという事はある。誇示する事も安易に振るう事も許さない、それを強く戒めた。

 

 紫都が防壁を解くと、遠くから歓声が聞こえてきた。

 倒れ伏していた隊士達が起き上がり、笑顔で勝利を祝っている。爆発の余波も隊士達までは被害を出すような事もなかったらしく、鬼に吹き飛ばされた時のようにはなっていない。

 

「御子神様は……!?」

 

 周囲を見渡しても姿が見当たらない。従属神の姿もまた見えなかった。

 問題視していた孔も既になく、やるべき事をやって帰ってしまったのだと悟った。

 見上げれば結界に罅が入り、次いで乾いた音を立てて割れた。

 

 終わったか、と誰もが肩で息をつく。

 長い夜だった。前代未聞の百鬼夜行。もう終わりかもしれないと思い、そして神の助力で切り抜けた。何にしても、今だけは笑って肩を叩き合って許される筈だ。

 

 手を振りながら駆けつけてくる隊士達へ手を振り返し、七生達もまた顔を綻ばせて彼らを迎え入れた。

 



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幕間 その1

少し時間は遡って、ミレイユとオミカゲ様が対面するより前の話です。
 


えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 オミカゲ様と呼ばれる神は、普段から威厳に満ちて神々しく、取り乱す事のない完璧な存在だと、国民からは思われている。

 その御神徳から国民を遍く護り、病怪我から救い、悪鬼悪霊を滅する雷神として、陰日向なく守護して下さる存在だと信じている。

 

 それは間違いではない。

 高みから見守るだけの存在ではなく、確かな存在感を持って地上へ降臨している神の一柱。その神に信仰を捧げる事がに、喜びを感じる者も珍しくない。

 

 海外からも、社を立てて欲しいという声は幾つも聞く。

 しかし、元はミレイユが再び現れるまで、戦う者たちを癒す目的で作られたシステムだから、その見返りを求めて信仰を願う者たちに興味も持たないのは当然だった。

 

 ――極東には本物の神がいる。

 そのように名が知られるに連れ、かつては誹謗中傷も多く挙がったものだった。

 奇跡の御業は軽々しく扱われるものではなく、また扱える神はこの世でただ一柱だと妄信する者たちにとって、オミカゲ様の存在は非常に不都合だった。

 

 それ故の迫害だったが、そもそも外へ信仰を広めるつもりのないオミカゲ様にとって、そのような者たちは、端から興味もなければ関係もない。

 大事なのは孔を封じ続ける事であって、海外に向けての信仰の押し売りなど最初から考えてすらいなかった。時に悪魔の化身、悪魔の毒婦などと蔑称で呼ばれてきた。

 

 それ以上の特別な対処がなかったのは、ひとえに日本が島国であった事、また当時世界の中心から離れすぎていた事が挙げられる。

 とにもかくにも対岸の出来事でしかなく、派兵して宗教を取り潰そうというにも遠すぎた。宗教による侵略もなかったので、世界の片隅で大人しくしているなら放置してやるか、という寛大さを示したという体裁である。

 

 だが現在では掌を返して、その社を建立して欲しいと懇願している。

 心が狭いと言われようと、今更遅いという気持ちと、ミレイユ帰還まで最善の形で維持しておきたい、という気持ちが強いので、海外については尚更どうでも良かった。

 

 先日も外交を任せている由衛から、そのような話を聞かされて、オミカゲ様の心中も穏やかではいられなかった。より正確に言えば、遂にミレイユとの面通しが叶うから、穏やかでいられないと言った方が正しい。

 これから大事な時なのに、面倒事など運んでくるな、という心境だった。

 

 常に威厳あり、平静な姿を見せるオミカゲ様からは信じられないような落ち着きの無さだった。

 とはいえ、オミカゲ様のごく身近に侍る事を許される女官からは、そのように完璧な存在だとは認識されていない。

 苛烈な時もあるが、その気質は穏やかで、困る時には困る、人と変わらぬところも多くあると知られている。

 

 長いことオミカゲ様のお付きをしている、女官長を拝命している京の院鶴子は、それを知る数少ない人間の一人だった。

 部屋の中を左右へ行ったり来たりするオミカゲ様を見て、鶴子は上品に口元を隠して笑う。

 

「オミカゲ様のそのような御姿、久々に拝見いたしますね」

「……そのような意地悪申すでない。我は気が気でならんのだ」

 

 オミカゲ様の居室は神の住まう処に相応しく、広く豪奢な造りになっている。基本は神社の建立形式に則った板張りであるものの、オミカゲ様の好みに合わせて部屋の半分に畳を張り、寛ぐにも休むにも適した空間になっている。

 それ以外の床は板張りで壁もまた板張りだったが、寒々しさなどはない。数々の調度品や生花で飾られた空間は、見ていて感嘆で息を吐く程だ。

 

 オミカゲ様は不意に立ち止まって額を揉む。

 自分のやり方が間違っていたのではないかと、今更ながらに不安が渦巻いてきた。

 

 ミレイユが帰還した当初から、その動向を掴むように指示していた。自分自身の事でもあるし、その思考傾向は理解している。

 帰還が叶ったばかりで住む場所も確保出来ているとなれば、しばらく自由に過ごさせてやろうという、ミレイユの事は親心のような気持ちで見守っていた。

 

 だが時が経つに連れ、どうもこちらを良く思っていないというか、勘違いしているような節が見られるようになり、遂には戦力のぶつかり合いが起こった。

 ぶつかったというよりは一方的に轢かれたようなものだったが、武力衝突が起きたのは間違いない。

 

 オミカゲ様よりも余程状況を理解していた一千華が動き、その解決を図ろうとしたが逆効果で、とうとう壊滅的な誤解を与えるに至った。

 一千華にしても当初あった作戦を取り潰し、変更を余儀なくされた。自分の望みを押し通すよりも、その一挙両得を狙うつもりがあったのだろうが、結果としては散々なものだ。

 そもそも、何か言われて大人しくするような者たちではない。

 

 現世を満喫させるつもりもあったが、下手な対立構造を生んで、後の話し合いが拗れるようになれば目も当てられない。話をするテーブルに着かせる事すら不可能になっては、穏便に事を運ぶつもりだった目的が、全て御破算になってしまう。

 

 オミカゲ様の放った勅は役に立った。

 元より幾つもヒントを置いてあったオミカゲ様の正体である。その事に食い付かないほど、無能でも狭量でもないと思っていた。

 

 非常に肝は冷やしたが、話し合いの場を設ける前段階まで、無事に持ってこれたのだ。

 問題は裁判を利用した、御子神判定を受け入れるかどうかだ。

 

 今後日本で行動するにも、オミカゲ様たる神と会うにも、これが最善の方法だと思っているが、逆上するような事があれば有力家系の者たちに死人が出る。

 神の庭、ひいては住処である御殿で人死が出るというのは、非常に厄介な問題となる。体裁だけではなく、多くの首が飛ぶだろう。

 そうなればオミカゲ様としてミレイユを罰するしかなくなるし、穏便な話し合いなど露と消える。

 

 ――神の御子と認定させる事を、先に了承させておくべきだったか。

 だが、それを飲み込ませるには理由も教えなくてはならず、それにはオミカゲ様の正体を明かす必要も出てくる。どのように対面するかという問題にも繋がり、まさかこれだけの大事を手紙だけで済ませる訳にもいかない。

 

 どうにも歯痒く、痒いところに手が届かない。

 上手い方法が思い付かず、苦悶の声を上げる。

 そうすると、控えていた鶴子がとうとう声を上げて笑った。

 

「そのように思い悩みますな。ご安心なさいませ、全て滞りなく事が運びましょう」

「勿論……そう願うし、信じておるが……」

「オミカゲ様の御子の事でございます。必ずや上手くいきますよ」

 

 オミカゲ様は額から手を離し、縋るように顔を上げた。

 

 鶴子には掻い摘んで説明したが、そもそも認識している前提が間違っている。最終的に自身の子であると説明しなくてはならない、という話は説明した。

 だから、これから会うのはオミカゲ様の実子だという話に誤解されている。

 

 最終的には全員に御子であると認識して貰わねばならないが、しかしそれは、謂わば詐称と言って良い。その御子とはミレイユの事であり、そしてそれは自分自身でもある。

 現世の身分を与えるに当たって、その方が都合がいいから、という理由で、実子である事を証明するに過ぎない。

 

 曲解させるのが目的とはいえ、実際の問題点に対する齟齬がある。

 その事は説明できないから、鶴子の優しい表情が心に痛かった。

 

「神様の常識は存じませんけど、親に想われて厭う子などおりませんよ」

「そうであろうか……。あちらは親などと思っておらぬし、初めて会うものだしな」

「例えそうであっても、その愛が本物なら親子の情は通じるものでございます」

「親の心、子知らずとも言うであろうが。結局何一つ信じてくれず、背を向けられる事を思うと……心が重い」

 

 まぁ、と眉を八の字に落として傍らまで近づき、その背を撫でる。

 本来なら不敬とされる行動も、長い付き合いだからこそ許される。神と人の関係とあっても、長く共にいれば情も結ばれるものだ。

 

「オミカゲ様は、御子様の事を大切にお想いでしょう?」

「然様……。この身より優先されるべきものである」

「それほど強く想っておいでなさっていて、その御心が伝わらぬとは考えられません。オミカゲ様、お気を強くお持ちなさいませ。必ずや、その想いは伝わりましょう」

 

 オミカゲ様はその肩に置かれ手に、自分の手を重ねて幾度か頷いた。

 

「……そうさな。道理の分からぬ者でもない、理性的に話を聞いてくれよう」

「左様でございますとも。ご心痛お察しいたしますけれど、御子様を信じていれば、きっと良い方へ向かいましょう。心安らかにお過ごし下さいませ」

「うむ……。その言葉を頼りに、この不安を耐えよう」

 

 鶴子の善意には決定的なかけ間違いがあるのだが、それを指摘したところで意味はなかった。

 前提が間違っているので、その言葉は慰め以上の意味はなかったが、それでも自身を慕い言ってくれる言葉には励まされた。

 

 鶴子の深い皺が刻まれた顔を見る。

 思えば、彼女も長く仕えてきた。オミカゲ様に仕える者は幾度となく代わり、その度に親交を深め、そして別れてきた。誰一人粗末に扱ってきた事はないが、鶴子はその中でも特に親しい間柄となった。

 

 鶴子もまだ元気だが、年齢を考えればそろそろ代替わりの時期だ。

 健康を理由に退職する者は少ないが、余生を楽しんで欲しいという思いから早めの退職を促す事が多い。鶴子と一緒にいるのは気が休まるから、つい甘えてしまっていたが、彼女にもそろそろ暇を与えるべきなのかもしれない。

 

 任せるべき後進がいない、という人材不足もない筈だ。

 オミカゲ様は皺だらけになった手をやんわりとどけて、小さく笑む。

 

「茶を淹れておくれ。黙っていては落ち着かぬ、少々無駄話に付き合ってもらおうか」

「はい、只今お持ちいたします。……ですが、無駄話でございますか?」

「たまにはよかろう」

「左様でございますね」

 

 鶴子もおっとりと笑って隣室へ移っていく。

 オミカゲ様が所望すれば即座に用意できるよう、茶道具一式揃っている。オミカゲ様付きの女官ともなれば、茶を点てるなど必須技能だった。

 

 畳の間に移り、茶を点てる様を見つめながら過去を思う。

 常に鶴子へ頼む訳ではないが、思えばその回数は多かったかもしれない。こうして点てる姿を見ていると、色々な年代の鶴子の姿が思い浮かぶ。

 

 まだ黒髪だった頃、子が生まれた後の頃、子が成人した時の頃、様々な姿が脳裏を流れ哀愁の気持ちが強く出る。それが表情にも出ていたのだろう、鶴子は不思議そうにしながら、点てたお茶を差し出して来た。

 畳の上に置かれたそれを、作法に則って受け取り手の中に収める。

 

「どうかなさいました?」

「そなたの昔を思い出しておったのよ。……うむ、初めてあったのは赤子の頃、我の腕の中で大人しくしていた時だった。そうであると思えばお漏らしを始めて、お前の親は顔面蒼白にして――」

 

 オミカゲ様から忍び笑いが漏れる。

 鶴子は目を丸くしては笑い始め、それが今宵限り、愉快な茶会の始まりの合図となった。

 



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幕間 その2

 神明裁判の進行は、問題なかったように思う。

 御子神であると認定された本人は不服だったろうし、あの場でオミカゲ様の正体に対する答え合わせをするつもりだったのなら、更に不本意な結果だったろう。

 

 ミレイユには全てを話すつもりでいる。

 その為の準備もしてきた。それでも説得が成功するかどうか……、その成否は半々だった。

 

 オミカゲ様は裁判が終わった後の自室で黙考する。

 ――失敗は許されない。

 千年生きてきたのは、この時の為。全て順当に、穏当にミレイユに託して返すのが、オミカゲ様として生きてきた自分の使命だ。

 

 それは解っている。

 それでも不安は拭えない。自分のしてきた事の集大成が遂に結実するとあっては、その心底穏やかではいられなかった。こういう時、心置きなく話せる相手が傍にいたら――。

 

 そう思わずにはいられなかった。

 自分と共に千年を生きる覚悟を持ってくれた友人はいる。都合が合えば、いつでも互いの心の内を話し合ってきた仲だ。こういう時に話すこと、内心を吐露することが出来たら、と思う。

 

 だが彼女にも役割があり、いつでも傍に置くという訳にもいかない。

 明日にはやってくる予定だが、傍に寄り添って貰いたいと思うのは、今だった。

 

 また部屋の中をウロウロと動き回ろうとしていたところに、襖の奥から控えめな声で入室の可否を問う声が掛かる。

 聞き慣れた鶴子の声に頷いて許可を出した。いつもどおり完璧な所作で入室してきて、一礼したところに声を掛ける。

 

「何用か? 今日はもう誰も通すなと申した筈」

「はい、誠に申し訳ございません。ご来客として参った大宮司様が、是非取り次いで欲しいと申されまして……如何致しましょう」

「……一千華が? 何故……いや、我も話したいと思っていたところ。通せ」

 

 再び一礼して退室すると、幾らもせず入れ替わりで紫袴を穿いた老女が入ってきた。

 オミカゲ様は顔を僅かに綻ばせて、自ら歩み寄ってその手を取る。

 

「どうしたというのだ。予定では明日の到着ではなかったか」

「オミカゲ様におかれましては、心中穏やかでいられないと思いまして、老骨に鞭打って参りました。幾ばくかでも、その心をお慰め出来ればと……」

「そなたには何でも見抜かれてしまうな」

「長い付き合いですもの」

 

 一千華が上品に笑うと、オミカゲ様もつられてその笑みを深めた。

 手を取ったまま部屋の奥へ促しながら思う。

 

 ――長い付き合い。

 一言で表すにはあまりに長大な時の流れを思い出し、オミカゲ様は思わず重い息を吐く。

 その心中を慮てか、一千華は両手でその手を覆うように握った。言葉はなかったが、気遣う仕草だけで何を思っているのか分かる。

 見つめて来るその視線が、何より雄弁に物語っている気がした。

 

 その気遣いに甘えながら二人は席に着く。

 この部屋にも椅子とテーブルは用意されているが、長い年月を生きる内に、すっかり座敷と座布団に慣れてしまった。座り心地の良い座布団の上で膝を畳むと、お互いに向かい合って座る。

 

 しばらくすれば万事心得た鶴子が茶を用意してくれて、その給仕する様を見るともなく見て作業の終わりを待った。滞り無く終わると、一礼して去っていく。

 見える範囲には居ないが、一声掛ければいつでも用向きに来られる場所に控えている筈だ。

 

 改めて一千華と目を合わせる。

 目の前に用意されたお茶に口を付ける姿を見ながら、その老いた姿を見つめる。長命な一族とはいえ、よくここまで着いて来てくれたものだと思う。

 

 遠く故郷から離れ、逃げ戻ってきた世界で、消沈する思いもあったろうに、多くを支えられて生きてきた。支えられるだけでなく、互いに支えてきたのだという自負もあるが、それでも助けられてきたという感謝は強い。

 

 お茶から口を話した一千華、が小首を傾げた。

 

「どうされました、その様なお顔で」

「……いや、昔の事を思い出しておったのよ。長い付き合い……まさにそのとおりだと思ってな」

「左様でございますね。大変な千年でしたが、……でも大変ばかりでも御座いませんでしたよ」

「そうだといいが……」

 

 楽しかった過去というものが、どうにも思い返せない。

 常に激動であった訳ではないが、それでも常に時代を制御する苦心と共にあったように思う。全ては滅びの未来を回避する為、己の責任を果たす為だった。

 

 一千華はおっとりと笑って胸に手を当てる。

 

「例えば、この名もその一つです」

「それは……」

 

 その一言で胸の奥から込み上げるものがあった。

 エルフにとって、名とは命と同じだけ大事なものだ。だから本名を気軽に預けるような真似はしない。しかし、この世界で生きるに当たって、そこに大任も預かるようになれば、外国風の名前はいかにも拙かった。

 

 純和風の名前を名乗る必要が出てきて、その時彼女に名を与えた。

 名前を考えるのにひと月は掛かり、苦心を重ねて生み出したのが今の名、雪咲一千華だった。雪中にあって千年咲き続ける華と、願いを込めて伝えた彼女は、それを受け取り名乗るようになる。

 

 それは単なる改名とは違う。

 エルフにとって名とは命そのものだ。その命を挿げ替えるようなものだから、名乗ることを決意するには、多くの葛藤と重大な覚悟が必要だったろう。

 だが彼女は、それをおくびにも出さず名を受け取り、そして名乗ったのだ。その意味は大きい。

 

「気に入っているんですよ?」

「それは嬉しい……何より報われる思いだ。しかし、今まで一言もそんな事、言わなかったではないか。なぜ今更」

「名乗った時点で、気持ちは伝わっていると思ったものですから」

「それは、そうだが……。そなたが違う名を名乗るという意味を、我はしかと理解しておる」

「だから、それで十分かと。それを今更言ったのは、そうですね……」

 

 一千華は少し考えるような仕草を見せて、儚く笑う。

 

「もう終わりが近い事を、察知したからでしょうか」

「遺言のつもりか?」

「いいえ、そのようなつもりは。……ただ、私は長く生きました。エルフの平均寿命を考えても、長生きした方です。それを思えば順当だというだけの話で」

「そうだな……、よく仕えてくれた」

 

 延命する事も不可能ではないが、それでも一千華は人生を終わらせる事を選んだ。長くを生き、長くを支えてくれたからこそ、個人の我儘で止めるつもりはない。

 

 生あるものは、いずれ死ぬ。その終わり時を見定めたからには、終わる時を見誤る事無く終わらせたい、それがオミカゲ様の気持ちだった。

 

「結界の引き継ぎが済んだ報告は聞いたが、そなた手助けしたりしていないであろうな?」

「勿論です。後進に任せねば、信じて任された方も堪らないでしょう。……ですが、それ故結界の弱体化は止められていません。同時に、孔の拡大も同様に」

「進行は抑える事が出来ないか」

「わたくしの手出しを許さないというなら、まず不可能です。現状のままなら半年から一年、もっと早まる可能性もあります」

 

 オミカゲ様は重く息を吐いて、腕を組むように袂に腕を通す。

 そこへ追い縋るように、一千華が声を投げ掛けた。

 

「やはり、わたくしに任せるのが最善かと。今回のミレイさんには現世を満喫させてあげるつもりだったのでしょう?」

「いらぬ苦労も背負っているようだが、そのとおり」

 

 特に質屋の一件が面倒な事になった。

 身分証を持たぬ身で売買できると思いこんでいたようだったから、手を回して取り引き成立に持ち込んだのが仇となった。いらぬ警戒心を呼び起こし、場合によっては助力するよう手の者を付けても逆効果で、更なる警戒心を強めた。

 

 自分は危険分子として監視されていると思っているだろうが、全くの逆だ。危険から遠ざける為に用意してあるのだが、ミレイユ達の監視網の広さと感知力の強さで寄り添う事が出来ず、結果何の意味もない監視員が生まれた始末だ。

 

「しかし、現世を満喫して欲しいというなら、そなたも同じだ。この話はもう終わった筈、そなたも残りの人生、もう少し自分を労ることに使って良いだろう」

 

 これには返事がなく、不服そうな雰囲気を出すだけだったが、どちらにしてもこれ以上話すつもりはなかった。そして、自身は心変わりをするつもりがない。

 それで以前から一つ、気掛かりな部分を聞いてみる事にした。

 

「お前の出した勅だが……」

「ええ、明日の場ではしっかりと謝罪するつもりで御座いますよ」

「いや、そっちではない。形式としてそうする必要はあるだろうが、我が聞きたいのは別の事だ」

 

 はて、と首を傾げた一千華へ、重ねて問う。

 

「作戦に対し口出ししたのは、何も神刀の行方を思っての事ではないのだろう? 御由緒家招集をかけたところで、ミレイユ達を止められないのは判り切っていた事だ」

「ああ……、それなら、良い演習になると思ったからで御座いますね」

「経験させてやった、という事か?」

「左様です。自分達の教官となる者達の、実力が知れる良い機会にもなると思いました」

 

 その引っ掛かる一言に、手を挙げて止めた。

 

「……待て。……教官?」

「これから孔の拡大に伴い、強力な魔物が出てくる事は予想の範疇ですが、それだと御由緒家とても相手に出来ない事例が多く出て来ましょう?」

「そうであろうな……」

「かといって、彼ら以上の術士がいないとなれば、ミレイさん達に動いて貰うしかなくなりますが、それだと現世を満喫させたいという気持ちに添いません。ならば実力を上げて貰わねばならないのですが、訓練できる人材はおりません。出来るとすれば、それはミレイさん達以外いない、という話になりますから」

「次善の策としては、そうなってしまうか。直接兵として動かすよりは、確かにマシな案ではある。……了承するか別として、教官役についてくれるなら、事前に実力を知っていれば隊士達も素直に従うと考えた訳か」

「ミレイさんは御子神として認定された訳ですから、兵たちもその命令には従うでしょうけど、やはり心評が違えばそれだけ努力してくれるでしょうから」

 

 オミカゲ様は改めて、腕組みをするように袂へ腕を入れる。

 言われて見れば悪くない考えのように思えた。最初は自分自身が動くつもりでいた。オミカゲ様を動かすなど御由緒家の恥、という反発は生まれるだろうが、現実として実力が足りないのだからそうする他ない。

 

 早くから、その実力を伸ばす方向に持って行きたかったが、それも難しかった。それが最善でもあったろう。しかし出来なかった。

 二百年程前、その懸念を加味して中級の理術や内向の手解きをした事があったが、己の実力を勘違いして神に歯向かう者が現れた。基礎術から初級術を越え、中級に至った時点で最早恐れる者などいない、と過信してしまったらしい。

 

 その者はしっかりと神罰を下して終わりにしたが、過ぎたる力は容易に人の道を誤らせる。高い忠誠心を持った御由緒家からでさえ、そういう者が生まれたのだ。

 表向きは御由緒家同士の仲違いという形で納め、家は取り潰しとしたが、オミカゲ様の心に落とした重りは軽くない。

 

 それからというもの、強力な鬼が出ないという理由もあって基礎術を磨く方向へ舵切りした。ミレイユが帰還してから苦労すると分かっていても、それまでの時間で神への反逆が流行って貰っても困るのだ。

 

「今更ながらの感は否めないが、それでも兵たちを強化する事を睨んで、アヴェリンらに期待しているという事か」

「ミレイさんの、自身が修得した魔術を他者に転写する能力は、是非有効活用したいところですが……」

「そうでなくても、基本的に何でも出来るしな……。粗探しも上手いだろう。的確な指示と向上が見込める。……本人にやる気があれば、だが」

 

 唸るように息を吐くと、一千華は嬉しそうに笑い、その皺を深めた。

 

「教官を引き受けてくれなかったとしても、その実力を見せておくのは有用だと思えましたから。それが御子神様、引いてはオミカゲ様の護りに付くと知れれば前線の者も憂う事なく戦えましょう」

「なるほど、よく分かった。……が、それは明日の会談の場では言わぬ方が良かろうな」

「左様で御座いましょうね。では、他に何を言って良いのか悪いのか、その摺り合わせを致しましょう」

 

 一千華の笑みは変わらずで、実に楽しげだった。

 それはオミカゲ様も同様で、実際話題は何でも良かった。互いに胸の内を晒し合い、つまらない事でも言葉を交わす事が嬉しかった。

 

 旧交を温めるかのように、二人は時に昔を思い出し、時に昔のような話し方をしながら、明日に備えてその内容を確認していった。

 時に話が脱線し、時に脈絡もない事で笑い合う。旧友同士の気安い関係だからこその態度だった。控え目な笑い声がいつまでも絶えない中、そうして夜も更けていった。

 



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第五章
一難去って その1


Lunenyx様、誤字報告ありがとうございます!
 


 御由緒家の尻を蹴って事態の解決を導いてから直ぐのこと、ミレイユはオミカゲ様の居室へとやって来ていた。神処とも聖処とも呼ばれるオミカゲ様の部屋は、神が住まうに相応しい豪奢な造りで、調度品も吟味を重ねられたと想われる逸品のみが並び、生花との親和性に重きを置いているのだと分かる。

 

 ミレイユに充てがわれた部屋も随分と豪華なものだと思ったものだが、流石に神宮の主ともなると、扱いの差も歴然とするものらしい。

 豪華でありつつ嫌味もなく、見る者が見れば感嘆する光景に憮然とした表情でミレイユは立っていた。帰還すると同時に(くつろ)ごうと思っていた矢先、アヴェリン達共々この部屋へと案内され、今ではオミカゲ様と対面する破目になっている。

 

 ミレイユの部屋と同様、海外様式の椅子とテーブルが用意された一角へと、座るように促される。

 無視したところで意味はないと分かるので、言われるままに着席し、用意されたお茶と茶菓子に口を付けた。

 

 それを見たオミカゲ様が、困ったように眼尻を下げて笑う。

 

「一声掛ける前に口を付けるでない」

「そいつは済まなかったな。ママは躾を教えてくれなかったからな」

「おっと……、随分と懐かしい台詞が飛び出たものよ。皮肉も効いておる、中々言うものよな」

 

 オミカゲ様は喜ぶような声を上げたが、そこに呆れを含んだ揶揄を飛ばしたのはユミルだった。

 席の都合で不可能だが、場所が許せば肩でも組んで来そうな気安さで、オミカゲ様とミレイユへ順に指差しながら言う。

 

「ちょっと何を普通に感心してるのよ。それに私達のママはこの子だから、勝手に取られないでよね」

「違うだろ、誰もママでもない。何ならそれをしつこく言ってるのは、お前だけだ」

「……何よ。嫌なの、ママ呼び?」

 

 ユミルが顔を顰めると、ミレイユの方こそ大仰に顔を顰める。

 

「何で喜ぶと思ったんだ? 一度でも肯定した事があったか?」

「言われてみれば止めろとしか言われてなかったけど、内心満更でもないと思ってたから」

「なるほど? 心配りの効いた気遣い、実に痛み入るな」

「気にしないで。アタシが勝手にやってるだけだから」

「……それはそうだろう、何でお前はそう……。いや、もういい」

 

 ユミルが実に晴れやかな笑顔を見せて片目を瞑る。

 ミレイユが痛みを堪えるかのようにコメカミに指を当てると、喉の奥でくぐもる様な笑い声が聞こえてきた。音の方を見れば、案の定オミカゲ様が顔を逸して笑っている。

 

「……何だ。お前、笑ってないで止めろ」

「ほんのじゃれ合いではないか。止めずに見ていた方が面白かろう」

「あら、分かってるわね」

 

 ユミルも調子に乗って口を開けて笑う。

 その笑顔を見ながら、オミカゲ様は哀しげに笑みを浮かべた。

 

「それに、実に懐かしい遣り取りだったものでな。もっと見ていたいと思ってしまった」

「気持ちは分かると言わないが……」

 

 ミレイユは難しい顔で一度押し黙り、それから再び口を開いた。

 

「その悲しい過去をチラつかせるの止めてくれないか。気が滅入る……」

「それは済まなんだ。……うむ、今後留意しよう」

 

 悲しげに肩を落としたオミカゲ様を見かねたのか、ユミルが指差して咎めるように言ってくる。

 

「アンタ、もうちょっと優しくしてあげてもいいんじゃない? 苦労もして来たみたいだし」

「何で私が久々に来た孫みたいに、優しく接してやらねばならないんだ。私はここへ老人介護しに来たんじゃないんだよ。――そもそも何で呼ばれたんだ。用があったんじゃないのか」

 

 吐き捨てるようにミレイユが言って、茶菓子の一つを口に入れ茶で流し込む。

 それを目敏く見つけたオミカゲ様が、労るように声を掛けた。

 

「空腹か? 何か用意させて進ぜよう」

「結構だ。部屋に帰った時、自分で頼む。どうせなら、そのように申し付けておいてくれ」

「……然様か。では、そのようにしよう」

 

 オミカゲ様が部屋の外へ呼びかけると、即座に一人の女官がやって来る。既にかなりの高齢に見えるが、その動きや立ち姿、そして眼光に淀みがない。

 その所作も美しく、オミカゲ様の御付きとなっている理由が推し量れるというものだった。

 

 オミカゲ様はミレイユが言ったとおりに申しつけると、老齢の女官は一礼して去っていく。

 そこから視線を切って、改めて向き直った。

 

「それで、用向きは? まぁ、あれの後だ、その報告だろうと思っていたが」

「まさしく、それを聞きたくて呼んだ」

「……報告書が上がってきたりするんじゃないのか?」

「無論そうだが、時間も掛かる。それに報告書には書けない事もあるであろうしな」

 

 ミレイユは怪訝に思いながらも首をひねる。

 あの後――御由緒家の者共を送り出してからの事について、特筆することはない。

 面倒を見るという宣言どおり、怪我した者たちは全て癒やした。それと同時に馬鹿みたいな出力で魔術を使った者の尻拭いとして防御壁を張ってやり、爆発よりも前に処置を終えたルチアが帰ってきて、討伐完了を見届けると同時に帰還した。

 

 その事を伝えると、オミカゲ様は心得たように幾度も頷く。

 

「理術を与える事について不安に思っておらなんだ。我にも出来る事はそなたにも出来る道理、問題はどの程度の術を与えたのかと言う事よ」

「言われたとおり、中級までに留めておいた。だがまぁ、実際大したものだろう。今まで基礎術の研鑽のみで、それであのレベルに到達していたというのは、素直に称賛すべき事だ」

「だとしても、この状況はちょっとお粗末よね。あんな魔物が出て来たあとに、ギリギリ慌てて戦力増強だなんて。準備は万端にして来たんじゃないの?」

 

 ユミルが尋ねると、オミカゲ様は悩ましげに大きな溜め息を吐く。

 腕組するように袂へ腕を差し込み、眉根を寄せて口を開いた。

 

「過ぎたるは及ばざるが如し……。それは解っていたが、過去の失敗を教訓にするなら、戦力を強化するにも二の足を踏まざるを得なかった」

「どういう意味? ……ねぇアンタ、言ってる意味分かった?」

 

 ユミルがルチアへと顔を向けるが、知識欲の強いルチアでもその意味までは理解が及ばないようだった。オミカゲ様は悩ましい顔付きのまま、二人を見つめて首を振る。

 

「つまり、過去にも兵の強化に着手した事があったのよ。ただ、鬼については結界が有効に働いていたせいもあり、強個体はあまりおらなんだ。そこで鬼に対して隔絶した力を手に入れた者が、大きな勘違いをしてな……」

「過ぎた力に溺れる、よくある話です……」

 

 ルチアが納得したように頷けば、それに心当たりがあるらしいアヴェリンもまた頷いた。

 それら二人へ同様に頷いてみせてから、オミカゲ様は続ける。

 

「増上慢とでも言うのか……、まるで自分が神に至ったかのように思えたらしい」

「そりゃ馬鹿でしょ」

 

 ユミルが鼻で笑ったが、しかしそれが本当なら笑い話では済まない。

 

「なまじ魔術書などの学習を通じて身に着ける訳ではないのも、その理由であろう。覚える為の学習機関を飛ばしても、我ならば基礎を磨けば扱えるようにしてやれる。そして実際、これまでとは違う天上の力を身に着けたと思った輩は、遂に背信するに至った」

「アンタに喧嘩売ったワケ?」

 

 これにはユミルも目を丸くしては信じ難いものを見るように、その顔を見つめ返した。

 遣る瀬無い気持ちを表すかのように、顔を左右へ緩く振って言葉を落とす。

 

「無論、その者を処さねば示しがつかぬ。御由緒家同士で泥沼の戦いになる前に、我自らが手を下した。……そういう訳でな、初級術のみを与え、基礎力の鍛錬に身を置くようにさせたのよ」

「なるほどね……、実際それでどうにかなる魔物――鬼しか出て来ない事情も重なって、戦力強化には及び腰になってたワケ……」

 

 だが、分かる話だ。

 性善説を信じるばかりに、それを教訓とせず力を与えていたら、もしかしたら人と神の戦いが始まっていたかもしれない。全ての者が背信する訳でもないだろうし、むしろ少数派になるだろうが、内部分裂は避けられなかった筈だ。

 

 力を与えてその気になるなら、その気になる力を与えないのが賢い選択だ。

 最後に泣きを見る思いをするのだとしても、最後まで行き着かなければ意味がない、という考えだろう。

 その考えにはミレイユもまた、賛成できるものだった。

 

「戦力をその時になるまで増強できなかった理由は分かった。しかし……私を頼みにするというのは、計画に穴があったとしか言えないが」

「……なに、断られたら我自ら動けば良いこと。良い顔をすまい者も出て来ようが、それは我が黙らせば良い。計画に問題はなかった」

「スマホ一台持たせてくれない神が良く言う」

 

 ミレイユがくつくつと笑うと、オミカゲ様もまた力なく笑う。

 

「……そこについては、我慢してやっているという部分でもあるがな。神威を放って怒りを示せば、誰あろうと止められるものではない」

「……まぁ、そうかもな。だが、スマホが欲しいと怒りを示す神というのも……」

 

 威厳を示して声を発して、それがスマホというのも馬鹿らしい話だ。最早コントの領域だろう。

 そんな事を考えていると、オミカゲ様は一度仕切り直した。

 

「さて、理解が得られたところで、次の話に移ろうではないか」

「……まだあるのか?」

「本題が二つ残っておる。というより、未だ本題に入っておらぬ」

 

 本気か、とミレイユは思わず片手を額に当てた。

 戦闘後の事だし、何か報告的な事を求められるのだとしても手早く終わるものだと思っていた。だからこそ、先程も食事の誘いがあっても自室で食べると断ったのだ。

 

 今更ながらにその事を後悔する。

 これ以上長い話になるようなら、先の考えは翻す必要がありそうだった。

 

「それで本題の一つというのは、結界の事よ」

「それはそっちの領分だろう」

「……言葉が足りず済まなんだ。今回、ルチアが孔に対して行った処置についてだ」

 

 ああ、と頷いて、ミレイユはルチアへ顔を向け、言ってやるように仕草を向ける。

 それに頷き返してから、ルチアは首を傾け天井付近に視線を向けた。何を話したものかと考えあぐねているようだ。

 顎先を摘みながら黙考し、それからしばらくしてから口を開いた。

 



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一難去って その2

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「先に言わせて貰うと、十分な分析は出来てませんからね。手短に終わらせる事を優先させたので、少々雑な感じになります」

「無論、構わぬ」

 

 ルチアが前置きして強調すると、オミカゲ様は鷹揚に頷いて応えた。

 それに頷き返してルチアは続ける。

 

「やはりあの孔の拡大を止める事は出来ないようです」

「……まぁ、予想の範疇ではあるか」

 

 ミレイユが残念そうに息を吐くと、ルチアは語気を強めて言った。

 

「ただ、縮小は出来ました。魔物が孔に直接干渉して拡大するなら、こちらからも干渉して縮小を促す事は不可能ではありません」

「……へぇ! やるじゃない」

 

 ユミルが笑みを浮かべてルチアの頭を撫でくり回したが、ふとその手の動きが止まる。オミカゲ様の表情を見て、そこに何の感情も含まれていない事に違和感を持ったようだ。

 

 そしてまた、ミレイユも察する。

 本来なら小躍りして喜びそうな朗報にさえ無感動だというのなら、それは十分想定された内容に過ぎなかったという事だ。

 

 そもそも千年前から一千華(ルチア)がいて、一度もその対処を試みなかったとは思えない。今回使わせた結界術とてミレイユから与えたもの。かつてユミルに苦言を呈された事もある、身を飾る為に身に着けた魔術が役立った形だが、それならばオミカゲ様もまた所持しているのが道理。

 手段も目的もあって、過去、試みなかった筈がない。

 

「何か知っていそうだな?」

「そうさな……。或いは、という期待はあった。だが拡大率を上回るほど縮小が出来ないというのなら、それは結果を先延ばしにしかならぬ事。意味はそう大きくあるまい」

「稼げる時間が増えるなら良いじゃない。現状、何も決まっていない状態だからこそ、猶予が伸びたのは喜ぶべきコトでしょ」

 

 ユミルが不満を露わに言えば、オミカゲ様は力なく頷く。

 

「それは間違いではない。対抗できる手段は限られようが、取れる手段も増えるかもしれぬ。しかし結局、それは我が――我らがやってきた事の延長線上でしかないのよ」

「長く現状を維持できるなら価値もあるが、いずれ力尽きる延命処置だけでは意味がないって?」

 

 ミレイユもまた若干の苛立ちを表に出しながら言ってやると、オミカゲ様はそれには息を吐くだけの反応を示し、ルチアへと視線を向ける。

 

「実際どうなのだ。結果は上々と言えるか?」

「……そうとは、とても言えませんね。今回拡大した数値を十として、甘く見ても五まで縮小させたといったところで」

「でも、無意味じゃない。そうでしょ?」

「そうとも言えるが、効果的かと言われると首を捻るだろう」

 

 その言い分は、少し悲観的過ぎるように思えた。

 ゼロでないなら意味があるとまでは言わないが、それでも確かな効果が見られたのだ。今後の魔物討伐に対し、処置を必須事項とすれば――。

 

 そこまで考え、自らの思考に大きな過ちが潜んでいるように思えてならなかった。

 気づかず落とし穴を踏み抜こうとしているような、漠然とした不安が頭をよぎる。

 眉根を寄せてオミカゲ様を見つめてみれば、そこには諦観と憐憫の眼差しがあった。

 

「まず前提として、結界術に秀でた理術士がおらぬ。――おらぬというのは語弊があったな、まず結界展開の方へ優先的に配置されるから、余剰分がおらぬと言うべきであった」

「……あの結界は自動展開されると、聞いた事があったが」

「そこにも少々、語弊がある」

 

 オミカゲ様は額に手を当て、揉み解しながら続きを言った。

 

「電線に通した微弱な理力が、孔の存在を察知する。それは出現と同時に、波のような揺らぎとして魔力を波紋のように広げるから、それが電線に触れる事で判明するのだ」

「いつ何処に現れるか分からない孔を、それで見つけていた訳か」

「然様。後はその電線と最も近い電柱を四つ選んで四角形に結界を展開するのだが、自動展開された結界は脆い。そこに理術士が後付するように理力を送って、遠隔的に結界を堅固にしておる」

 

 ミレイユは呆れた気分で溜め息を吐いた。

 

「なんとまぁ、随分と手の混んだ……それでいて無駄な技術が使われているな」

「堅固な結界を張るには現場でするのが一番ですよね。……でもそれが不可能だから、次善の策としてそのような形になった、という事ですか?」

「理解が早くて助かる」

 

 オミカゲ様が首肯すると、ルチアも納得して何度となく頷いては、片手で口元を覆うように当て、思考に没頭し始める。

 ああなると長いので、そこから視線を切って話を続けた。

 

「まぁ、何より先に結界の展開を優先すべき、という考えは理解できる。孔の出現から魔物の出現――ああ、失礼。鬼の出現までタイムラグもあるだろうしな。衆目から隠すという目的にも叶うんだろうさ。だが、一々現場へ急行させていられないって事か」

「孔の出現は必ず一日一回という訳でもないでな。複数箇所の対処を考えれば、現場へ走らせる訳にはゆかぬのよ。強力な鬼が出れば複数人で一つの結界に当たり、より堅固にする必要もある」

 

 へぇ、と感心するように息を吐き、それからふと思う。

 遠隔と簡単に言うが、遠方展開させるのはミレイユにも難しい技術だ。これは結界に限らずどのような魔術にも言える事だが、自分の魔力を外に出し、それを利用するという特性上、その魔力がない遠方に火の玉を突然出現させるなんて芸当は出来ない。

 

 どうやっているものかと考え、そして電線へ思い至った。常に微弱に流れる理力を利用すれば遠方でも可能そうに思えるが、それでも簡単な事ではない。

 何事にも限界がある。まさか電柱に手を当てれば、それで発動可能になる術が開発されている、とでも言うのだろうか。

 

「話を聞くだに高度な技術が使われているようだが、個人の才覚でそこまで出来るものなのか? 出来るように成れる者が、それだけ少ないという意味なら納得するが」

「確かにそれには長い時間の修練も必要だが、神社にはその為の設備がある。そこで巫女をやっているのは大抵が結界術士である。一千華も巫女服を着ていたであろう? 宮司は社の管理を任されるが、同時に優れた結界術士に与えられる職でもある。一千華はそれの総元締という訳だな」

「それだけ聞くと、結構な数の結界術士がいるように思えるが……」

 

 全国に何箇所、神社があるか知らないが、十や二十では利かない筈だ。百すら越えているだろうと思う。神社に一人しかいないとも思えないから、その二倍から三倍の数、結界術士がいる事になる。

 

「幾ら優れた結界術士とはいえ、全国へ理術を伸ばす事はできぬ。それが出来るのは一千華だけ。だから大抵は、一つの町に一つの神社が対処する。展開と封じ込めさえ出来れば、後は一千華が上手い事やるでな。……これまでは、という意味だが」

「なるほど……」

 

 だが寿命を期に結界から離れた結果、その封じ込めに綻びが出始めた、という事か。

 そしてそれはミレイユの帰還と同時に、より拡大率を高めた事にも起因する。悪いことが重なる、というよりは、オミカゲ様の言うジレンマに与する事柄だろう。

 そしてこれは、どうしても防げなかった――防ぐことの出来なかった問題でもある。

 

 一千華が厳しい口調でルチアを嗜める筈だ。ルチアの実力は良く心得ているが、この全国へ網のように張り巡らせた電線へ、魔力を通して目的地へ結界を展開するのは容易な事ではないだろう。

 

 遠ければ遅れるのは当然だろうが、遅すぎれば鬼は結界を壊して、外へ飛び出す危険が増す。討伐隊が駆け付け縫い止めてもくれるだろうが、それは結界を信頼して戦う事を前提にしている筈。

 多少遅れても、という甘えた考えは双方に危険をもたらす。

 

「そういう訳でな……結界術士は現在でも外へ回す余剰分がいない。むしろ一千華の抜けた穴を埋める為、各神社へ追加で一名加えたいぐらいでな……」

「つまり、追加で数百名欲しいって? ……可能なのか?」

「分かりきった事を聞くでない。ミレイユほど多才で力量があっても、結界術はどうあって不得手であるように、これには才能が必須である故な……。だから結界内へ派遣し、その孔の縮小を図るのは難しいのよ」

 

 ユミルは喉の奥で唸り声を上げながら腕を組む。背もたれに身を預け、眉間に皺を寄せて黙り込んだ。

 

 ミレイユもまた難しい顔で溜め息を吐いた。

 何もかもが上手く行かない……というより、これまでやれていた事を褒めるべきか。

 ――それとも千年経っても諦めの悪い神々を罵るべきか。

 

「だが、結界については悪い事ばかりでもない。孔が拡大したせいで、そこから漏れ出すマナが、結界を強固にする手助けをしておる事が判明した。術者の力量が足りず、内側からの破壊という惨事は免れたと思って良い」

「それはまぁ……、朗報と思っていいんだろうな」

「唯一の、とも言えるが。結界術士達にしても、多少は気が落ち着く事であろうよ。封じ込めるのが彼らの役目、鬼が強力だから無理である、という言い訳は通用せぬ」

「そうだな……。戦ってるあの……、隊士だったか。その隊士だとて死ぬと分かって挑んでいた訳だしな」

 

 全てはオミカゲ様の為に、という訳だ。

 だが、そこには決定的な齟齬がある事を彼らは知らない。

 

 御由緒家を始めとする隊士達は、日本国民を――無辜の民を護る為という使命に命を燃やして戦っているだろう。それは間違いではない。広義の意味では、オミカゲ様もそれに同意するだろう。

 結界の崩壊、国民への被害、国の破滅――引いては世界の破滅に繋がりかねない事態を防ぐ為に戦ってきたし、オミカゲ様も数々の対処を施してきた。

 

 だがそれと同じか、それ以上に大事な目的が、オミカゲ様にはある。

 それが、ミレイユを十全な状態であちらの世界へ送り返す事だ。

 全てはその土台となる為に存在するに過ぎない。この世界の破滅は止められないと悟ってさえいる。今回も駄目だったが、しかし次があると。

 

 次へ託す余地が残されていると思っているから、オミカゲ様はここまで往生際悪く対抗を続けていた。

 それが此度のミレイユへの助けになると思っているから――己達の負債を巻き返す為に必要だと思っているから、行っているに過ぎない。

 性根の曲がった考え方だが、しかしそのように思ってしまう。

 

 ――茶番だ。

 最早それに縋るしかなかったのだとしても、今この世界で生き、必死で抗おうとしている者たちへ、それは裏切り行為になりはしないか。

 

 オミカゲ様はミレイユを送り返せば、その責務は終えたとでも思っているのかもしれない。やりきった、責任は果たしたと胸を撫で下ろすのかもしれない。

 その胸の内を暴く気はないが、現実に生きている民へ悔やむ気持ちはないのだろうか。だが例え、ないと開き直られても、ミレイユは罵る気持ちになれない。

 

 ミレイユはオミカゲ様の自責の念を知っている。

 仲間を失い、友の犠牲の果てに、やり直しをする権利を得た。それこそ、何を犠牲にしても達成したい命題だと思っているだろう。

 

 オミカゲ様の過去を聞いて、ミレイユは実に遣る瀬無い気持ちを抱いた事を思い出した。

 辛い気持ちはあったろうと思う。険しい道を歩いて来たのだろうとも思う。

 だが同時に思うのだ。

 

 十全な準備の為にと土台にした世界を、踏み台にして良いのかと。

 次に進む為に利用するのではなく、共に進む道はないのか。

 道具のように扱い、踏みつけて捨てるのではなく、土台の上に何かを飾って傍に置く事は出来ないのかと。

 

 この気持ちを口にすれば、諦めを知らない故の綺麗事だと罵られる気がした。

 この世界で生きる全てを救いたいという気は、ミレイユとて無い。だが、現世で知り合った、全ての人を投げ捨てるのもまた、後ろめたい気持ちにさせる。

 

 どうにか出来る道が、か細くとも残っているのなら……。

 その道を歩く手段が本当にないと分かるまで、ミレイユは少し足掻いてみようという気になっていた。

 

 ――足掻くつもりになっていた。

 



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一難去って その3

天の川(・・?)様、えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 密かな決意を胸に秘め、ミレイユは気になっていた事を聞いてみる事にした。

 

 結界の本来の目的は、ミレイユという存在の座標を隠す為にあった。

 だがミレイユがオミカゲ様として神へ昇華してからは、その役割に変化が起きた。

 神となったミレイユは世界を越えられない。ミレイユへと向けた座標も意味をなくした。

 

 そこで本来なら副次効果としてあった、無辜の民を危険から遠ざけるだけの結界が、鬼の被害と混乱から護る為への機能へと変化したのだ。

 それは現在においても変わらぬ機能で、ミレイユの帰還より前には、むしろそれを主な役割として置かれていた。

 

 だが同時に疑問にも思う。

 日本の土地は、その多くが山岳地帯で平地は少ない。人が住んでる場所より、そうでない場所の方が多いのだ。電線がなく、結界も自動展開できない場所ならば、鬼は山岳地帯や森の中に今も潜んでいておかしくない。

 

 目撃情報も多くあって良い筈だ。

 今の時代、山の付近を車で走っていたら、熊を見かけたとSNSに投稿されたりする。鬼が山や森の中で生態系を作っているとは思いたくないが、そうであるなら熊と同程度の目撃情報はあって然るべきなのだ。

 

 だがミレイユは、その様な話を聞いたこともない。

 依然として鬼や妖怪は怪談の類だし、アキラも言っていたようにゴブリンさえ見た事がないという。そこに不可思議な矛盾が眠っているように思えてならない。

 

 それを口にすると、オミカゲ様は数度頷いてから教えてくれた。

 

「結論から先に言うと、孔は郊外に出る事はない。より正確に言うと、出なくなった。かつては感知を頼りに探したが、それも全て狩り尽くした」

「ルチアの感知があれば、それも可能だろうが……しかし何故だ? どうして現在は出現しない? 人を狙っているとでも?」

「いいや、魔力を狙っておるのよ。だから電線が、誘蛾灯の様な役割を果たしているのであるな」

 

 魔力、と口の中で言葉を転がし、そこで違和感を覚える。

 それならば、むしろもっとミレイユの近辺で孔が開いていそうなものだ。

 

「孔はある程度狙って開けているというのが持論だったな? ならば分散し過ぎじゃないか? もっと狙いを付けられそうなものだ」

「紛れてしまってよく分からぬのだろう、というのが我と一千華の見解だし、だからこそ上手く隠せてこれたのだろうと思うておる」

「紛れる? 私の魔力も見えている上で、それでも特定できていないと?」

 

 うむ、と大仰に頷いてオミカゲ様は続けた。

 

「夜の衛生写真を見た事はあるか? 日本をまるごと写した、電気で闇を払った写真だ」

「ああ……、見た事ある気がする」

 

 あれは転移するより前の事だ。

 電気の行き届いた、あるいは人口の密集した地域は明るく光り、そして山岳部分は黒く塗りつぶされていた。都市が発展している箇所ほど光り輝き、各都道府県の人口差異を光の明暗を確認できる、面白い写真だと思ったものだ。

 

 そこまで考え、オミカゲ様が何を言いたいのか分かった気がした。

 

「なるほど、その光の中にいる事は分かっても、どの光かまでは特定できないと……。だが、一層輝く光があると分かりそうなものだ。それとも、言うほど違いはないのか?」

「お主もそうだろうが、魔力の出力を抑える事が出来るであろう? そして基本的には抑えている。電線を流れる魔力より下という事ではなかろうが、電線が交叉する場所では時折スパークするように跳ね上がる事がある。それが良い目暗ましになっておるのよ」

 

 そこまで電線を注意して見た事はなかったが、オミカゲ様がそう言うのなら確かなのだろう。

 そして、だからこそ夜の衛星写真のように、どこにいるのか特定できないでいる。

 

 しかし、だとしたら孔の出現箇所を誘導する事も出来そうな気がした。

 光を目指しているというなら、限られた地域のみに魔力を流せばいい。いつどこで、と考えるよりも出待ちしていた方が効率的に思える。

 

 ミレイユが思いつく事はオミカゲ様も思いつくだろうから、やってないからには理由があるのだろうが、そこにどんな理由があるのかは気になった。

 

「魔力を目指しているというなら、目眩ましにするくらいより、一箇所に集中させる訳にはいかないのか? 住民被害を考えるなら、どこか無人の私有地にでも誘導すれば良いだろう」

「早い段階でそこに気付いた事には褒めてやらねばなるまいが……、やれるものならやっておるのよ」

「……まぁ、そういう返答があるとは思っていた」

 

 軽く肩を竦めてやれば、小さく苦笑を浮かべてオミカゲ様は言った。

 

「孔を作るのは的に遠当てするようなものかもしれない、と表現したのは覚えておるか?」

 

 ミレイユはそれに首肯して応えた。その事については覚えている。

 恣意的に選んでいる比喩だとしても、妙な表現をするものだと思ったものだった。

 

「そも同一箇所に対して固執せぬようでな、無理だと思えば他所へ逃げるのよ。目的は孔を押し拡げる事にあるのであって、魔物を送り込み害する事ではない。……嫌がらせとして有効ぐらいには思っているやもしれぬがな」

「だが、それを千年繰り返している訳だろう? 無理というなら、もっと別の手段を考えるだろう。それこそ一つの手段に固執し過ぎだと思うが」

「それを我に言われてもな……」

 

 オミカゲ様が苦笑して、それもそうかとミレイユも息を吐く。

 千年続けている以上、あちらに諦める意志がないのは明白。どれだけ愚鈍に思えても、それしか方法がないというならするしかない、という話なのかもしれない。

 あるいは――。

 

「こちらが半自動化で運用、対処しているように、あちらも自動化している可能性はあるか」

「うむ、それも可能性の一つではある。千年続けている理由は、そこにこそあるやもしれぬ。やたら無闇に続けているというよりは、単純に止めてないから続いておる、というのが実情かもしれぬ」

 

 神にとって千年は短い時間かもしれないが、かといって毎日続けるというには遠大すぎる。そこまで強い意志で続けられるなら、幾つも改善案を練ってきてもおかしくない。

 とはいえ、そこは大して重要ではないだろう。考えても仕方がない事だ。

 

 そして結果は明白。

 敵は千年続けた、その結果が現れつつある。既に喉元に手を掛けたような心境だろう。千年の時間は無駄ではなかったと、ほくそ笑んでいるかもしれない。

 それを思えば腹の奥に煮え滾るものが浮かんでくる。

 

 ミレイユはそれを意思の力で押し込んで、溜め息と共に外へ押し出す。

 

 話も随分と脱線してしまった。

 元は何の話をしていたのか、と思い返して、孔の縮小への対処は容易ではない、という話だと思いだした。

 

 オミカゲ様からは思考を読まれているのか、何の話をしていたか忘れていたな、という白い目が向けられている。

 それへ煩そうに手を振って、ミレイユは改めて聞いてみた。

 

「出現した孔に対するアプローチは、別に考え直した方がいいんだろうな」

「孔の出現があるからと、その全てにルチアを出動させたとしても、手の届かぬ部分は出る。近い部分だけ対処するというのも、結局焼け石に水にしかならぬだろう。ある地点が孔の縮小を狙ってくるというなら、その近辺に出現しなくなる可能性は多いにある」

「面倒な……!」

 

 ミレイユが吐き捨てると、誰もが同様の溜め息を吐いた。

 思考に没頭していたルチアも、また難しい顔をして悩み込んでいたユミルも、諦めたように首を振っている。

 

「いっそミレイさんを囮に出来たら、少しはマシになったんですけどね……」

「それじゃ本末転倒でしょうよ。この子を隠す為の結界だったわけでしょ?」

「でもですね、ユミルさん。もう座標とやらは伝わっているらしいじゃないですか。その確度を上げたからこそ、拡大する事にも躍起になっている訳でしょう? どうにか利用できませんかね?」

「いやぁ……」

 

 ルチアが縋るような仕草でユミルへ顔を寄せるものの、その反応は芳しくない。

 相手からすれば場所はどこでも良いという訳でもないにしろ、こだわりはないだろう。とにかく孔の拡大さえ終われば、大戦力を送り込めるし、そこでミレイユを確保すればいいだけだ。

 

「既に詰めの段階に入っているんだろうな……」

 

 ミレイユは忌々しい気持ちと共に舌打ちする。

 もっと早い段階で、孔へ縮小のアプローチを行っていれば、と思っても後の祭り。そもそもオミカゲ様は、既に次のループにミレイユを進ませる方へ賭けていたのだから、思慮の外だったろう。

 そしてもし思い付いていたところで、果たして打つ手があったかどうか……。

 

 だから少ない時間でも現世を堪能しろ、という気遣いのつもりで接触して来なかったのだし、そもそも孔を作らせないようにするには、神々を説得するか弑するしかない。

 オミカゲ様は次のループに賭ける以外の対抗策を思いつかなかったから、そこに向けた最良の方法として現在の対策を選んだ。

 

 瓦礫だらけの焼け野原から送り出されるのではなく、せめて歓呼の声と共に見送られるようにと。

 だがそれは、あまりに後ろ向きに思えた。

 何とかしたいという気持ちはミレイユよりも大きいだろう。それだけ長い時間、この国と共に歩んできた。もしかしたらと思うからこそ、超大な時間を使って備えてきた。

 

 全てが順調ではなかったろう、上手くいかない方が多かったかもしれない。

 御由緒家を強兵化できず、そして結果として全体の弱兵化を招いたのは悔恨の極みかもしれない。新たな対処法は歓迎の筈だ。そうでなければ、単に綺麗な状態のまま次へ繋げようという気持ちにはならないだろう。

 

 ミレイユが送り出されて、次のループが始まるような事態になった時、この世界は綺麗に消えてしまうのか、それは分からない。

 だが今の日本の光景を維持したいと思っているからこそ、ここまでの準備をしたのではないだろうか。単に踏み台として利用するのではなく、踏み台とした後も綺麗に残していたいと思わなければ、ここまで整えておく必要はないだろう。

 オミカゲ様は間違いなく、この世界――この日本に大きな愛着を抱いている。

 

 ならば、するべき事は、絶え得るギリギリまで待ってから、ミレイユを送り出す事ではない。打開できる策を考え、ギリギリまで抗う事だ。

 

 送り出した後、全てが憂いなく解決する訳ではないだろう。ミレイユがいなくなる事で、孔の拡大も孔の出現も無くなる可能性は、もしかしたらあるかもしれない。

 だが、それに賭けるには、余りに不確定要素へ頼りすぎる。

 

 縋れるものがあるのなら、縋りたいと思っている筈だ。ミレイユはオミカゲ様の顔を見つめながら、そこにある種の確信を感じていた。

 



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一難去って その4

Lunenyx様、天の川(・・?)様、えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 ミレイユは溜め息を一つ吐いて、胸の下で腕を組もうとして断念した。袖に袂のついた服では嵩張って腕が届かない。仕方なくオミカゲ様のように袂の口へ、それぞれ手を差し込んだ。

 

「……とにかく、現状は結界の縮小化に大して有効な手立てはない、という事だな」

「然様。それが可能なら最善であったろう」

 

 オミカゲ様もまた、ミレイユにつられてか小さく息を吐いた。

 

「これまでは鬼も弱かったから対処出来てきた。相対的に孔も小さかったが故に、その封じ込めも可能としていた。だが同時に、孔への対処は遠からず崩壊すると、最初から予想できておった。だから水際の次善策として、強力な鬼への対処法を優先させたのよ」

「御由緒家の強兵化は、とりあえず上手くいったと思って良いだろうな……。しかし、敵の強さは時を経る毎に増して行くんだろう? 御由緒家ですら最早十分とは言えない。強化レースに負ける日は近いぞ」

「然様……。今ではないが、その危機はすぐ近くまで来ておる。――そこで、本題の二つ目だ」

「……あぁ、嫌な予感がしてきた」

 

 ミレイユはあからさまに顔を顰めて横を向く。オミカゲ様から視線を切って、とにかくその話題から遠ざかろうと健気な努力を続けた。

 だがその現実逃避に意味はなく、オミカゲ様の口も止まらない。

 

「これからの教育に、より適した教官が必要だと考えておる」

「それは結構な事だが、言ってる意味が分からんな。そういう事は、教員免許を持ってる奴に話してくれ」

 

 ミレイユはあくまで視線を合わせず、蝿を払うかのように手首を動かす。

 その横顔に視線がビシビシと突き刺さるのを感じながらも、あくまで自分とは無関係だというスタンスを崩さなかった。

 

「教えて欲しいのは学業ではないし、まして優良な成績を取らせる事でもない。資格なんぞ必要ないし、そもそも御子神としての身分はあらゆる資格を超越する。時に法を無視する事があっても、その意志が尊重されよう。教官役程度、どうとでもなる」

「分からず言ってるのか? それとも分かってて惚けているのか? 私はやりたくない、という話をしてるんだが」

 

 ミレイユはキッパリと拒否を示したが、オミカゲ様はそれに笑って応える。

 心の内を見透かすような、柔らかい視線を向けてきた。

 

「されど、日頃暇を持て余しているであろう? 何かやる事がないかと思っていたのではないか? 時間を持て余しているようだと、報告を受けておるぞ」

「それはお前が、外出を困難にさせていたせいだ。何が残りの時間を楽しめだ。中庭ばかり見つめていたら、暇に感じるのは当然だろうが」

「外出するのを止めた事などない。望みは叶えるよう、女官たちにも申し伝えておる」

 

 オミカゲ様の言う事は嘘ではなかった。

 ミレイユが望めば、それを実現させようと努力を厭わない。外出も実際、女官たちに止められた訳ではなかった。それを実現させるべく動き、結果として神輿を用意され、その上に乗って移動すると伝えられたから断っただけだ。

 

 神は地に足を着けて移動するものではないらしい。

 店先に入る事などあれば、無論神輿を降りねばならないが、自分の足で歩くという事をさせたくないのだろう。その間、神輿を担ぐのは当然、神の護衛を任されている由井園家から選ばれる事になる。

 

 人力車のようなものだ、と言われても実情は全く異なる。

 御簾が降ろされているから外から顔は見えないのだとしても、移動速度は遅すぎるし、そもそも担がれて移動する趣味もない。

 

 当然、とんでもない衆目を浴びるだろう。

 見世物になって移動する事になり、降りる時ともなればその表情を見られる事にもなる。羞恥で震えているか、あるいは能面のような無表情を晒すことになるだろう。

 そのような忌々しい気持ちになるぐらいなら、初めから外に出ない方がマシだった。

 

 コンビニに行くにも映画に行くにも、ちょっと喫茶店まで行くにもそのような対応なら、来店された店主だって気が気じゃないだろう。

 作法を習った者が出迎えなければ不敬となるだろうし、間違いがあれば咎められるだけでは済みそうもない。ミレイユにその気がなくとも、付き添いの女官が叱責を飛ばしそうだ。

 

 アヴェリンなども着いてくるにしろ、一人で移動も許されない。

 そして大名行列のような移動をすると分かって、それでどうして外に出たいと思うだろう。

 

 一度勝手に塀を越えようとしたら、あっさりと由井園に見つかって涙ながらに嘆願された。

 逃亡を許すような不手際があれば腹を切るしか無いと言われれば、知った事かと飛び越して行くのも憚られた。あれは単なる脅しではない、彼らはオミカゲ様に面目が立たないと思えば、本気で腹を切る。

 

 それが分かるから、ミレイユもすごすごと帰るしかなかった。

 断りを入れて、帰宅時間を告げれば箱庭に入る事も出来るものの――。

 ミレイユはその時の事を思い出して溜め息を吐いた。

 

 箱庭はアキラの部屋にも通じているので、そこから外に出る事が出来る。

 だから、そこから喫茶店にでも行こうと思っていたのだが、周囲は以前とは全く違った包囲網が築かれていた。そして、それを全く隠そうとしていない。

 

 というより、むしろ気づかせたいのだ。

 あなたを見張っています、と言葉にせず明確に告げている。それを無視して外に出れば、恐らく翌日にはオミカゲ様を通して、説教めいた苦言が飛んでくるのだろう。

 

 それが容易に想像できて、ミレイユはアパートからも外に出る事を断念した。

 そういう訳で、やる事もなく中庭を見つめているか、その中庭を散歩するかしか、許される行動がなかった。奥御殿の中を探検する事も考えたが、どこでも大抵、女官がいて仕事をしている。

 ただ通り過ぎるだけでも、彼女らは手を止め足を止め拝礼する。その仕事を中断させる事になるので、そもそも御殿を意味なく歩くこともやめにした。

 

 暇を持て余していると言われれば、そのとおり。

 ミレイユは時間を持て余している。箱庭に引き籠もっていたところでやる事がないのは同じなものの、女官に対する気遣いがない分、よほど楽だ。

 とはいえ、いつまでも箱庭に居ると、帰ってこない御子神に対してオミカゲ様へ報告が行き、そして聞きたくもない小言を聞く破目になる。

 

 どうにもこうにもままならず、無駄に時間を溶かす事を生業としているような有様だった。

 それを思えば、何か役目を与えられるのは悪くない事のように思える。

 ――しかし。

 

 絶対面倒だし、厄介だろう、という気持ちが胸中で渦巻く。

 単に目の前に立っている相手を打ちのめせば良い、という問題ではない。それを通じて戦力の向上を教え、そして過ぎた力に驕る事無いよう導く必要すらあるだろう。

 

 それを思えば、素直に頷く事は出来なかった。

 正直に言えば荷が重い。高い成績を残したスポーツ選手が、良き指導者になるかどうかは別の話という問題に良く似ている。

 

 そして間違いなく、ミレイユは指導役に向いていない。

 自分自身の事なのに、オミカゲ様にそれが分かっていない筈がないのだ。それでも勧めようというのが、不可解で不可思議だった。

 

 その困惑の色を受け取ったのだろう、オミカゲ様が神妙な口振りで言ってきた。

 

「我がそなたに頼みたいと思う理由は幾つかある。一つは、新たな理術を修得出来る者に、それを授ける事が出来るから」

「……ま、そうだな。あの場にいた御由緒家がそうであるように、本来なら基礎術から脱却していて良い実力者は、他にもいるんだろうさ。お前がやるには時間を捻出できない、という理由も一応納得しておいてやる」

「時間以外にも、神との対面には障りが多いのよ」

 

 ミレイユは不思議に思って首を傾げた。

 

「私はいいのか?」

「そなたは正確に神として組み込まれている訳ではない。……それも時間の問題であろうが、制度上は神と認識されておらんのだ」

「お前が有力者や名家の前で宣言したろう」

「それでは不十分だと言う事よ。我の言葉は事実として重いが、御子神の顕現というのは余りに急すぎた。神と認めることに問題はないとして、その扱いを決めかねておる」

 

 言いたいことは分かる気がした。

 ミレイユを神として認めたら、その位はオミカゲ様より下位に置くのか同列にするのかで揉めるだろう。御子であるから下位であるというのも暴論で、それなら同列に置くとなれば、その権威も同列にするのかという問題も出てくる。

 

 そもそも神宮を建立して御殿を建てるべきなのか、どのように保護すべきなのか、様々な問題も格付けが済まねば、その規模も決められない。

 オミカゲ様からの意見も重要だろう。

 

 そこを(こまね)いている内は、大きい事は出来ない。

 御子神の扱いに言及するにも、諸問題が大なり小なり押し寄せる事になる。その混乱の間なら、ある程度好きなことが許されるのかもしれない。

 

 奥御殿から外に出ないオミカゲ様より、フットワークの軽い御子神を重宝するとか、そういう事にならなければ良いが……。

 背筋の凍るような思いを振り払い、ミレイユは話を戻す。

 

「……ま、言いたい事は何となく分かった。今後の為にも、御由緒家だけでなく全体的な強化を願いたいという訳だ。魔術書もない世界で新たに修得させられるのは、確かに私とお前だけだ」

「うむ。それに制御術や戦闘技術に関しても、期待したいところであるな」

「……それは別の奴に頼め」

 

 ミレイユが疲れた顔で首を横に振ると、アヴェリンが最初に名乗りを上げた。

 

「私で役立つ事なら、ミレイ様に成り代わり、その職務を真っ当したく思います」

「確かに……そなたなら戦闘技術に対して、一部の指導は任せられそうではある」

「既に一人、弟子を持って教えているぐらいだし、少しはコツも掴めているんじゃない?」

 

 オミカゲ様が一応の納得を示すと、それにユミルも追従する。

 自信が表れる表情に相好を崩すと、大いに頷いた。

 

「では、ミレイユだけでなく、アヴェリンにも頼むとしよう」

「お任せ下さい」

 

 アヴェリンは背筋を正して一礼する。

 オミカゲ様の過去やミレイユと同一の存在と認めてから、その態度は明らかに軟化し、ミレイユと同じではなくともそれに次ぐ扱いをするようになった。

 同じ扱いではないのは、主君はミレイユただ一人と定めているせいなのかもしれない。

 

「ユミルは任されてくれぬのか?」

「アタシ? この子がやれって言うならやるわよ。……でも、言わないわよね?」

 

 そう言いながら、ユミルはミレイユへ強い眼差しをぶつける。

 確認というより、言うなという脅しのように思えた。

 ミレイユは笑顔を作って頷いた。

 

「勿論、参加して貰う。大切な者を仲間外れにすると思うか? そんな残酷な真似、私には出来んよ」

「ちょっと嘘でしょ……。一人二人に、ちょちょいと教えるってだけじゃ済まないワケよね? それをやれって?」

「私だって一人二人で済むんなら、難色を示したりしないんだよ」

「ミレイ様の仰せだ、諦めろ」

 

 アヴェリンが嘲るように口を出すと、ユミルのコメカミがぴくりと動く。

 アヴェリンからすれば、ユミルが自分の思うままにならない姿を見るだけで楽しくて仕方ないのだろう。敵意をぶつけるような視線を向けられても、アヴェリンは笑みを造り、そしてそれは深まるばかりだった。

 



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一難去って その5

天の川(・・?)様、えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「……となると、私もそちらに参加した方がいいんですか?」

 

 ルチアが顔を向けて聞いて来て、ミレイユは思案顔になる。

 彼女の制御力は確かなもので、使う魔術によってはミレイユをも凌ぐ。結界術に加え、探知や感知にも造詣が深い。ミレイユにもそれらは使えるが、単に使えるだけのミレイユよりも適任になる事は間違いないだろう。

 

 しかし同時に、ルチアには結界に注力して欲しいという気持ちもあった。

 一千華の後釜に据える事が出来るのは彼女しかいない。同じことが出来るようになるまで多大な時間が掛かる見込みがあるとはいえ、現状改善に向けようと思えば、彼女以上の適任もいなかった。

 

 さりとて、一人傍から離すのも憚られる。

 いつも四人一緒だったものを、必要だからと切り離すのは難しかった。

 

 また、孔の縮小の件もある。

 効果的ではない、という理由で却下されたが、これもまた単に無意味だと切って捨てるには勿体なく思えた。探せばどうにかなりそうでもあるし、何より縮小計画を現実的な規模で実現出来たなら、それは非常に魅力的だ。

 

 結界の展開か、縮小か。

 どちらも必ず効果的な結果を生む訳ではないが、延命という目的には叶う。それとも目前の鬼討伐へ即戦力となる、制御術向上へと注力すべきか……。

 

 ルチアには取れる選択が多すぎて、すぐさまこれと決める事が出来ない。

 難しい顔で黙考した後オミカゲ様へ顔を向けると、そちらでもやはり難しい顔をして唸っていた。

 

「……うむ、悩ましい。どれか一つと言わず全てと言いたいぐらいであるが、それでは余りに無体。ミレイユに限らず、そなたら全員に現世を楽しんで、心置きなく送り出したいと考えている我からすると、取れぬ選択でもあるしな」

「やれと言っても、私が許可しないが」

「それじゃあ、私の希望を言ってもいいですか?」

 

 ルチアが挙手して発言し、ミレイユはそれに頷いてやる。

 

「以前にも言ったとおり、結界に関わりたいと思っているんですよね。縮小が現実的ならそちらが良かったんですけど、まだちょっと無理みたいですし」

「まぁ、そうだな……。どこか一つを縮小させたところで効果は小さい。ルチア一人が成功させるのではなく、それこそ全箇所で成功させなければ意味がないんじゃないのか」

 

 それでも先延ばしの時間が増えるだけ、というのが悲しいところだ。

 更に悲しいのは、ルチアに与えた結界術でないと縮小するだけの効果が見込めない上に、それが上級魔術に分類されるという点だ。

 

 つまり、人間が扱うには難しい術という事だ。エルフ並の魔力総量と制御術は必須として、更にそれを行使するまでの安全も確保しなくてはならない。

 孔が閉じ切る前に使用する必要もあり、孔が開いている状態という事は、つまりいつ魔物が飛び出してきても可笑しくない状況だと言える。その緊張の中、正確な制御を求められるのだ。

 

 現代風に言えば、タイマー表示がされない時限爆弾を解体するようなものだ。

 時間的余裕がどれ程あるか不明なまま、孔へ手を伸ばしていなければならない。魔物が出てくれば、まず間違いなく最初の犠牲者になるだろう。

 

 孔から出てくるのは雑魚敵、という常識が通じなくなった今、出現した敵の対処にも手こずる事態もあり得る。護衛として隊士を一人でも割けば、それだけ安全は確保されるが、肝心の戦闘で苦戦も免れない。

 縮小させた上で孔を閉じるというのは、拡がろうとする力との押し合いだ。力比べに勝利できるかが鍵で、単に術を向けるのでは意味がない。

 それを、いつ鬼の手や顔が飛び出してくるか分からない、極度の緊張状態の上で成功させろと言うのだ。

 

 腕の立つ結界術士を一人充てがえば良い、という口で言うほど簡単な話ではない。

 上級レベルまで到達できる人がどれ程いるのか、そしてそれを喪うリスクすら天秤に掛けて作戦へ挑まなければならない。命のリスクがあるのは討伐に参加する誰もが同じだが、それでも結界術士だけが飛び抜けて大きくなるのは間違いないだろう。

 

 優秀な術士であるならば強靭な精神を持っているかと言われれば、全員が全員そうである筈もない。

 考えれば考える程、現実味のない方法に思えた。

 それを朝飯前と成功させてしまう、ルチアが異常なのだ。彼女の場合は他と比べて命のリスクが少ない、という精神的余裕があったのは間違いないが、それを現世の結界術士に言っても詮無き事だ。

 

「いずれにせよ、抜本的解決策がなければ、とても縮小案を推し進める事は出来ないだろう。となれば、中央で結界の制御に従事する、という事になりそうだが……」

「大社に行って、全国を睨んだ結界の展開をする訳ですね」

「話を聞くだに簡単じゃなさそうだが……」

 

 ルチアは同意するように頷いたが、しかし同時に楽観的な笑みも浮かべた。

 

「一千華だってやれたんですから、私にだって出来ますよ。完成までに至る道だって知ってる筈ですし、近道だって出来る筈ですから、何とかモノにして見せますよ」

「実に心強い申し出であるな」

 

 オミカゲ様は相好を崩して、信頼を込めた視線をルチアへ向けた。

 そして次いで、ミレイユに顔を向ける。

 

「この者達も、こうまで申しておるのだ。そなたも否とは申すまいな?」

「……確かに、もはや私だけ不参加を決め込む訳にもいかないだろうが……」

「当たり前でしょ。こっちを巻き込んでおいて、そんな言い分通じるワケないじゃない」

 

 ユミルの突き刺すような視線を、苦笑と共に手を振って受け流す。

 

「我としては、そなたに参加して貰う本当の理由は、教官役に留まらず楔としての役割を期待しておるのだが」

「楔……? 誰に対する?」

「それは御由緒家を始めとした、新たな力を身に着けた理術士たちへ」

 

 言われてミレイユは思い出す。

 己の力を過信して、神への反逆を企てた者の事を。

 

 力の果て、あるいは頂点、それを知る者からすると御由緒家が到達出来る程度の力は中腹にすら至っていないのだと理解できる。今回、その力を授かった御由緒家達には、まだ伸びしろがあるとはいえ、単純な戦闘能力でアヴェリンに届く事はないだろう。

 

 しかし現世においては比類なき、という言葉が似合うだけの力を手にした。

 頂きを知らず、頂きに立ったと勘違いした者が現れぬよう、先に釘を刺すというのは必要なのかもしれない。かつて反逆が起きたというなら、またいつか起きるかもしれない、という事でもあるのだから。

 

 過敏に反応し過ぎていると想われても、その対処は必須だと考えるのは良く分かる。

 そこへ単純に強いアヴェリンを相手にさせるより、オミカゲ様の御子神を用意すれば、更なる抑止効果が期待できる、と考えているのだろう。

 その力量を思い知らせれば、大きすぎる楔として彼らの胸に刺す事が出来る。

 

 ミレイユは思わず溜息を吐いて、何度となく頷く。どこか力ない、諦観の含まれた頷きだった。

 

「まぁ、分かった……。だが、明日すぐにという話でもないんだろ?」

「無論である。大事にならぬよう、ある程度の情報規制も必要であろうし、あちらの準備もあるだろう」

「あちら、ね……。軍学校か何か?」

「似たようなものではあるが、教わるのは理術の制御方法や、その正しい運用方法などだ。完全スカウト制かつ全寮制の学校である」

「……教えるのは学生が中心なのか?」

 

 オミカゲ様が首肯して、ミレイユは再び溜め息を吐いた。

 今まで見てきた御由緒家は、その殆どが若く、またアキラと同年代のように思えた。各家の世継ぎの年齢が重なったのは偶然だろうが、いずれにせよ彼らのような者がいるなら、そういう教育機関があっても不思議ではない。

 

「……それじゃあ彼らは、普通の授業も受けつつ、授業で理術の鍛錬を行っているのか?」

「そうさな。詳しいカリキュラムまでは知らぬが、そう思ってくれて構わぬ。いわゆる名門校として名高い。将来は御影本庁への就職が決まっているようなものだから、期待も大きいがな」

「……部活動とかしてそうなイメージはないな」

「その時間は理術訓練に充てられる事になっておる。まぁ、体育が多めに取られた学校ぐらいに思っておれば良かろう」

 

 そう簡単なものかね、と思ったが、口出しせずに頷くに留めた。

 

「無論、現役の隊士たちにも指導を頼む故、学生たちだけ相手すれば良いという訳でもない」

「おい……、予想以上に忙しそうじゃないか。毎日あくせく、働くつもりはないからな」

「分かっておるよ。この時期が大事だと理解もしておるが、現世を楽しめという言葉に偽りもない。多くは自主訓練にたのむ事が多くなるであろうし、神が人の道具になる事を巫女らが許さん」

 

 何やら不穏な雰囲気は感じたが、とにかく働き詰めにならずに済むのは確認できた。

 ミレイユとしては観光に大きな願望はないが、アヴェリン達には見せてやりたいという気持ちがある。しかしそれも、神輿に担がれなければ移動できないと分かれば萎縮してしまう。

 

 そこまで思って、ハッと顔を上げてオミカゲ様を見る。

 

「主に学校へ赴くことになるんだよな?」

「そう言ったであろう」

「まさかと思うが、あの悪趣味な神輿に担がれて登校する事になるのか?」

 

 オミカゲ様の喉が一瞬詰まる。

 目が左右に泳ぎ、顎を摘むようにして思考に没頭し始めた。

 非常に嫌な予感がし始めたところで、顔を上げたオミカゲ様が恐る恐る口にした。

 

「……因みに、神輿は拒否する方向か?」

「どう聞いたら、少しぐらいオッケーだと勘違い出来るんだ。嫌に決まってるだろう」

 

 ミレイユが明らかな拒否を表明すると、オミカゲ様は喉の奥でくぐもった声を出した。

 眉間に皺を寄せ、首を左右へゆらりと向ける。

 

「只今、女官や巫女達の中で、非常に浮足立った空気が昇っておるのだが……」

「それは……新たな神を迎えたから、とかそういう理由か?」

「うむ……。我の御子だというのも、それに拍車を掛けておる。いかなる無礼も不敬もあってはならぬと息巻いておってな……」

 

 それ自体は悪くない事のように思える。

 隣に座ったアヴェリンも、何度も頷き満足気な笑みを浮かべている。そういう態度は当然だ、とでも言いたそうな表情だった。

 

「我が中々表に出ぬし、神処から出ぬ事も多いでな……。彼女らの忠義は本物だが、それを向ける機会が非常に限られるのよ」

「カモを見つけたってワケね……」

 

 ユミルが面白そうに告げて、ミレイユは大いに顔を顰めた。

 

「言い方があるだろうが。……だが、分かった。今までの鬱憤を私で晴らしている側面もあるんだな? 着付けに三人掛かりなんて、おかしいと思ってたんだ」

「いいや、それは普通である。むしろ一人でやらせるようなら、いつまで経っても終わらぬよ」

「ああ、そう……」

 

 ミレイユは力なく返事して項垂れた。

 



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一難去って その6

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 毎日の着付けは大事で面倒だと思っていたが、ごく普通の事だと言われたら黙るしかない。

 

「それにお主は我に良く似ておるからな……。その身近に侍られるとなれば、俄然張り切り出すというものよ」

「似ているというか……まぁ、それはいい。結局オミカゲ様への親愛や敬愛を、お前が受け取らないからこっちに流れてるんじゃないか」

「そうとも言えるが……。まぁ、我も割と近付いて欲しくないと思っておるし」

「ふざけるなよ、お前!」

 

 気まずい顔をして背けたオミカゲ様に、ミレイユは思わず声を荒らげる。そのしわ寄せを受けている身としては、少なくともその八割程度は引き受けろという気分だった。

 そもそもミレイユはオマケ的存在であって、向けられるべき矢印はオミカゲ様であるべきだ。

 

「お前に対する信仰だろう、お前が受け取れ!」

「だが何というか……、あれらは少し怖いであろう? 向けてくる視線が……、信仰や敬愛、尊崇とも別の……隷属の喜び? そういう気持ちが漏れておるし」

「お仕えできて幸せとか、そういう気持ちが強い……強すぎるって言いたいのか?」

「うむ……。神へ奉仕できる喜び……悦び? それが前面に出ていて、時折怖さすら感じる。我としては社長に対する部下ぐらいの、もう少し柔らかな態度を望んでおるのだが……」

「じゃあ、そう言え」

 

 ミレイユは蔑むような視線を向けつつ、鼻を鳴らして顎を上げる。

 オミカゲ様はその視線から逃れるように顔を背けた。

 

「そうは言っても、我の言葉は時々良いように解釈されてしまう事が多いでな……。自分たちは試されているとか、言葉の表面ではなくその裏の真意を読み取るべきとか、そういった類のな。信仰や神への接し方について、上手い誘導が叶わぬのよ」

「それは……どうなんだ? お前の言葉に重みがないだけじゃないのか」

「どうであろうな……。否定的発言は、試しの儀と勘違いされてしまうというか……」

 

 オミカゲ様はまたも顔を逸し、一拍会話の流れを止める。それから顔の方向は同じまま、軽い調子で口を開いた。

 

「まぁ正直、それがそなたに流れてくれて助かっておる」

「お前、私をスケープゴートにするつもりか!?」

 

 ミレイユは声を荒らげ机を叩いた。予想以上に大きな音を立て、ルチアの身体がビクリと跳ねる。部屋の外で待機していた女官も何事かと姿を見せ、オミカゲ様が何事もないと手を振って、それでまた一礼して部屋を出ていく。

 

 それを見送ってお互いが目配せするように空気を読んでいると、くつくつと喉の奥で笑う声が響いてくる。声の方に目を向けると、ユミルが実に楽しげな表情でミレイユを見ていた。

 

「いや、アンタがそんな感情的になるの久々に見たわ。やっぱり、自分自身が相手だと、遠慮がなくなるものなのかしらね?」

「まぁ……、そうかもな」

 

 実際ミレイユに、オミカゲ様へ遠慮する気持ちなど微塵もない。

 その正体を知ってからというもの、元よりなかった敬意や尊崇など吹き飛んでしまった。時折、殴りつけてやろうかと思う時もあるぐらいだ。

 先程も距離さえ近ければ、机の代わりにその肩ぐらいは叩いていたかもしれない。

 

 ミレイユから気まずい空気が流れて沈黙が続く。そこに咳払いを一つたてオミカゲ様が、顔の向きをミレイユへ戻して口を開いた。

 

「しかしな……、そなたの行いにも責任があるのだぞ」

「私の何に問題があった? 御殿の部屋を与えられてからこちら、何もおかしな事なんてしていないぞ。騒ぎだって起こしていない」

「中庭へ頻繁に姿を現し警備の者へ労いを示したり、御殿の女官を労ったりしたであろうが」

 

 目を細めて諌めるように言われたが、ミレイユにそのような記憶はない。

 労うとは言うが声を掛けた事もないし、頭を下げて道を譲られて頷いて見せたりした程度だ。気まずい気持ちの方が強く、その場から急いで離れようと歩調を早めさえした。

 

「……サッパリ覚えがない。我ながら、ぞんざいな態度だったと思うぐらいだが」

「なるほど、自覚なしか。……最敬礼に対し、そなたが行った目礼というのは神から人に対して、多大な感謝を表す礼となる。良くやっている、満足している、という返礼になる訳であるな」

「……そうなのか?」

「そもそも神は、滅多な事では人に感謝などしない。奉仕される事、最上に頂き敬われる事は当然の事であって、そこへ感情を向ける事などないものだ。神はただ、それを受け取るだけ」

 

 ミレイユは思わず唸り、片手で額を抑えた。

 日本人の小市民として生きてきた過去からいって、頭を下げられたら同じく頭を下げずにはいられない。電話越しですら頭を下げるような国民性だから、ミレイユも当然、そうしたい衝動に駆られる。

 

 しかし、まさか本当にそうする訳にもいかない。それぐらいはミレイユも弁えている。だから自分の立場を慮って、偉そうに見えるよう、頷く程度に留めていたのだ。

 まさからそれが、人に対する最上の礼になるなど夢にも思わなかった。

 

「その無償の奉仕に対して、満足していると返礼がある訳だから、そなたの周りにいる女官たちは舞い上がる思いであったろう。より満足される奉仕を心掛けなくては、と躍起になっておるぐらいだ」

「これは、やっちゃったわねぇ……?」

 

 やはり楽しそうにユミルが笑い、獲物をなぶるように視線を向けてくる。

 顔を逸しても視線が蛇のように絡み付き、決して逃そうとしない。舌先がチロチロと頬を撫でるようですらあった。

 

「無知は罪とは、良く言ったもんだわ。自業自得というには可哀想だけど、甘んじて受け入れるか、意識改革を促すか、どっちかしかないんじゃない?」

「それで促せるぐらいなら、我は苦労などしておらぬ。端的に言えば、話は通じるが通じてない……その様なものである」

「勘弁してくれ……。大体、それだと到着までに何時間掛かるんだ」

 

 ワッショイという掛け声と共に上下へ揺さぶられる事はないだろうが、徒歩となれば数時間の移動は覚悟しなくてはならない。往復となると六時間も移動時間に費やす事になる。

 見物人も多く出るだろうし、頻繁な外出は名物と化して、出待ちする人達で溢れる事になってもおかしくない。警備上の観点から、多くの人員がそれに駆り出されるだろう。

 

 単に神輿と担ぐ四人で済む訳がない。

 大通りを神輿と共に練り歩き、お祭り騒ぎで周囲に人が溢れる様を幻視して、ミレイユはとうとう、頭を抱えて項垂れてしまった。

 しかし、その頭に容赦なく言葉が降り注いでくる。

 

「そのような訳でな……。そなたへの敬愛と尊崇が増すばかりの中、神輿はいらぬ等と言っても通用せぬと思った方が良い。或いは、神輿を頭に乗せた専用車もあるが……」

「車があるなら、先にそれを提案しろよ」

 

 ミレイユはその言葉に光明を見て顔を上げたが、同時に引っ掛かりも覚えて首を傾げる。

 

「……いや待て、頭に乗せたというのは?」

「言ったとおりよ。例えるなら霊柩車のようなもので、ちょっとした装飾が施された車という訳であるな」

「それは結局、誰が乗っているか一目瞭然ではないのか? ある程度情報規制が必要とか言ってたろう。それは何処にいった」

 

 ミレイユが顔を顰めて言うと、オミカゲ様は飄々とした調子で応える。

 

「元よりそこは、完全な秘匿を考えて言った訳でもないのでな……。奥宮からの出入りを隠し通せるものではなし。出発する時間帯を日の出る前など、工夫をする事で誤魔化そうと考えておった」

「それならまず、ユミルに幻術使わせろよ。早い時間に文句言うつもりもないが、せめてそれぐらいあって良いだろう」

「然様であるな。……頼めるか?」

「いいけどね、別に」

 

 ユミルが短く了承して、伺いを立てるようにミレイユへ顔を向ける。それでミレイユも追従するように頷いた。そこへオミカゲ様が何でもない事のように手を振る。

 

「そなたはまだマシであろう。転移があるのだから、一度(おとな)えば、次からは楽して移動できる」

「ちょっと待て。それをしていいなら、最初から使わせろ。予め秘密裏に移動させるとか……」

「それはならぬ。形式というのは重要なものである故な。正式な形で一度は顔を見せる必要がある」

 

 ミレイユは改めて息を吐き、痛む気がする頭を抑えた。

 

「何というか……、現世で過ごすだけというのも簡単じゃないんだと実感するよ」

「アタシは最初から分かってたけどね」

「……この事態をか?」

 

 抑えた手の隙間から伺うようにユミルを見てみれば、嫌らしい笑みを浮かべたユミルが首を横に振っていた。

 

「そうじゃなくて。平穏な日常なんて訪れないってコトをよ」

「むしろ何かしら厄介事に巻き込まれるのが、日常とすら言えます」

 

 ルチアまで悪ノリするように言ってきて、ミレイユは再び溜め息を吐いた。

 否定したくとも出来ないだけの実例があるだけに強くも言えない。恨みがましい視線を向けるだけで精一杯だった。

 その二人は顔を見合わせ笑い合うだけで悪びれる様子もない。

 

 思い返すまでもなく、帰還してからも平穏と呼べるものは騒動と騒動の間、その隙間に少し挟まるものでしかなかった。束の間の平和ですらなく、それが次の新たな火種にすらなっていたように思う。

 そういう星の下に生まれたと達観するには早過ぎるし、諦めたくもなかった。

 

「非常に不本意ではあると、先に伝えておくからな」

「分かっておる。素直じゃないだけで、最善を尽くすつもりがある事もな」

 

 他人の心を見透かすような発言に吐き捨てる様な思いで鼻を鳴らし、それからふと頭の片隅によぎるものがあった。

 学校と訓練、そこへ赴くというのなら――。

 思い付いた事を実現すべく、オミカゲ様へ尋ねてみる。

 

「今すぐという話じゃないとは聞いたが、それじゃあどのくらい先の話になるんだ?」

「それこそ話し合ってからでないと確かな事は言えぬが、遅いと困るのは明白。三日に一度は孔が生まれる事を考えれば、一日たりとて無駄に出来ぬが……遅くとも一週間以内には間に合わせたい」

「そうなのか……」

 

 呟くように言いながら、ちらりとアヴェリンへ視線を移す。

 その視線を受け止めたアヴェリンは、主の考えを汲み取ろうとしたものの、結局困ったように小首を傾げた。

 

 ミレイユはそれには応えず、再びオミカゲ様へ視線を戻した。

 

「引き受けるに当たって、こちらからも希望があるんだが」

「無論、構わぬ。余程の事でなければ叶える用意もある。好きに申せ」

「それなら一つ……、受けるに当たって条件がある」

 



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提案と決断 その1

 アキラはその日、いつものように箱庭の中庭の片隅で、アヴェリンから鍛練を受けていた。果敢に挑み返り討ちに遭うのも、幾度となく転がされ身体中に打撲痕を作るのも、またいつもの事だ。

 内向魔術の制御力も向上してきたと褒められたが、同時に鍛練のレベルも上がったので、その向上がどれ程のものなのか実感する暇がなかった。

 

「うわっ……!」

 

 今もアキラは吹き飛ばされ、空中で制動を試みて身体を撚る。頭から落ちるところだったのを、それで足から着地したが、勢いを削ぐことが出来ず転がってしまう。

 咄嗟に受け身を取って立ち上がり、地面を蹴って一瞬の間でアヴェリンへと肉薄した。

 

 だが、それは当然読まれていて対応される。

 振るった刀を横滑りに受け流され、開いた脇腹に膝蹴りが叩き込まれた。咄嗟に身を固くしたものの、それを貫く破壊力で吹き飛ばされる。

 

「オ、……ッゴォ!」

 

 まるで鉄の棒が、脇腹を貫通したかのような錯覚を覚える。

 面でも点でもなく、直線で衝撃が走り、痛みで吐き気を覚える程だった。

 

 しかし、そのような態度を見せれば即座に折檻という名の暴力が身を襲うので、表情にはおくびにも出さず刀を構え直す。

 立ち止まっていると、それはそれで折檻される理由となるので、とにかく痛みを押し殺して足を動かす。痛みで速度を落としても叱責が飛ぶので、とにかく遮二無二身体を動かした。

 

 怪我も痛みも、後で治癒して貰えば元に戻る。

 痛みは危険へのシグナルだ。だが本当の危険は痛みに屈した後にやってくるのだと、経験から知っている。屈した事を後悔した事は、一度や二度ではなかった。

 

 アキラは奮起しながらアヴェリンからの攻撃をいなし、躱して肉薄を試みるが、武器を振るう速度が早くて近づけない。

 アキラの攻撃に対応して完璧に防御して、その衝撃を逸している。跳ね除けるのではなく、あくまで逃しているだけなので、アキラからも連撃を繰り出せるのだが、その全てが悉く届かない。

 

 魔力の制御を早めれば、連撃の速度も比例して増していく。

 だがこれは、同時に諸刃の刃だ。制御自体が難しく、単にペダルを力いっぱい漕ぐのとは訳が違う。淀みない循環を作り出すには、集中力が必要だ。

 

 そして、その集中とは別に、目の前の相手から隙きを見つけ出し、そこへ狙いをつけ、時にフェイントを交えながら攻撃しなければならない。今では酸欠の起きかけた身体で、それをこなすというのは指一本動かすのさえ辛い。

 

 しかし、生半な攻撃は折檻の元になる。

 命を削るような心持ちで腕を振るい、そして上段からの攻撃を撒き餌のようにフェイントとして繰り出す。そこから下段の掬い上げへと繋げ、それすらフェイントに中段へ攻撃したが、あっさりと受け流され、空いた方の手で殴り飛ばされた。

 

「……はぐッ!」

 

 肩口を殴られ、それで半身がずれて横目でアヴェリンを伺う形になる。武器を持った手は外へ投げ出されたせいで、反撃にも移れない。

 時間が極限まで引き伸ばされた世界で、アキラは追撃の鉄棒が肩へ吸い込まれるように振り下ろされるのを見つめていた。

 

 そして直撃した衝撃で地面に叩き付けられる。

 起き上がろうとしても、身体が言う事をきかない。耳の後ろから煩いまでに鼓動の音が聞こえ、頬に触れる草の感触すら曖昧なまま、とにかく地面に手を付ける。

 

 ――まだ動ける。動かないと……!

 

 しかし地面に付いた手は、震えるばかりで言う事をきかない。

 足にも力を込め、爪先を立てて起き上がろうとするが、やはり動いてはくれなかった。

 

 筋力が悲鳴を上げているなら、魔力を使えば良い。

 そう思って制御を始めたが、集中力が千千(ちぢ)に乱れて言うことが利かなかった。

 目の前まで足が近づいて来たのを見て、目線だけでも上げようと試みる。しかし、それすら困難で、降参を告げる言葉まで喉から出てこない。

 

 ――もう駄目だ。

 そう思うのと同時に視界が暗転する。アキラは気絶すると認識するより早く、その意識を失った。

 

 

 

 次に気が付いた時、アキラは中庭の一角、植物園のテラス席に横たわっていた。

 植物特有の青臭さや、花から他漂う芳香が鼻先をくすぐる。身体中を走っていた痛みは既になく、起き上がるのに支障はなかった。

 

 身を起こしてみれば、額に載っていた濡れタオルが落ちてくる。どうやらアキラは、椅子を連結させるように並べた即席のベッドの上で、寝かされていたらしい。

 腹の上に落ちたそれを摘み上げ、近くのテーブルに乗せた。

 

 直上にある太陽を見てしまって、アキラは咄嗟に手で(ひさし)を作ったが、次いで意味がなかったなと思い直して手をどける。

 箱庭の内部は明るいが、眩しくはない。空高く太陽が昇っているように見えても、それはハリボテか幻に過ぎず、日光という形で照らしている訳ではなかった。

 

 太陽があればそこから照らされていると錯覚してしまうが、実際は魔法的な何かで箱庭内部を照らしているのだと、いつだったか教えられた。

 辺りを見渡して見ても、近くには誰もいない。介抱され、そしてマナの補給をする為に、その密度が濃い植物園に連れて来られたのだとは分かったが、放置は何だか寂しい気がした。

 

 寂しいと言えば、最近ミレイユに会えていないのもまた、胸にポッカリと穴を開けられた気持ちにさせられる。

 オミカゲ様の御子だと判明してから、基本となる住居が神宮に移った。箱庭への行き来は出来るので会えなくなる訳ではない、と言われたものの、実際顔を合わせる機会は終ぞ訪れなかった。

 

 彼女は彼女で忙しいのだろうし、元よりアキラに会いに来る理由もないので仕方ない。

 しかし、これまで頻繁に顔を合わせて、時には食事も共にする場も設けてくれていたのに、それもすっかり消えてしまうと、やはり寂しい。

 

 アヴェリンから受ける毎日の鍛錬はなくなっていないので、今も繋がりが保たれている事に感謝しているが、一目見かけるだけでいい、という気持ちは日に日に増すばかりだった。

 

 神宮内部の事、そしてオミカゲ様に関わる事なので、おいそれと伺うのも拙い気がして、アヴェリンにも話を聞けていない。

 事務的というほど淡白ではないが、話す内容は鍛錬の事に始終しており、世間話も皆無ではないがミレイユに関する事は聞けなかった。

 

「……今日が休日で良かった」

 

 ポツリと呟き、空を流れる雲の動きを目で追う。

 一体何時間寝ていたのかは分からないが、朝練のあいだ実際に動いた時間を加味して考えれば、気絶していた時間が一時間未満でも、遅刻はまず間違いなかった。

 

 ボーッとして、時間を無駄にしていると自覚しながらも、ただ雲を見つめる。

 雲の形は不自然に思えるほど崩れる事なく、遠くへ流れては消えていく。箱庭内に風は吹かないが、もしあったらここが現実の世界と間違っていてもおかしくなかった。

 

 その時、パチリという音を耳が拾った。

 植物園の中から聞こえて、何処から音がしたのか、何の音かと思いながら首を巡らすと、再びパチリと音がする。

 まるで植物の剪定でもするような、鋏を使って茎を切るような音だった。

 

 それは事実だったようで、ユミルが植物の間から顔を覗かせる。

 中腰だったらしく、身を起こした事でその姿が顕になった。その手には今しがた切り落としたらしい、花の蕾が握られている。

 

 アキラの顔を見ては、ニヤリと口の端に笑みを浮かべてユミルが近づいて来た。

 手の中の蕾が一瞬にして掻き消えたが、例の個人空間へ仕舞ったのだろう。

 

 アキラはベッド代わりにしていた椅子を元の位置に戻しながら、ユミルが通り過ぎるのを期待した。目線を合わせずいたのだが、ユミルはアキラから程近い一席に座ってしまう。

 いつまでも無視する訳にもいかないので、諦めて顔を上げ、自らもまた対面に位置する席に座った。

 

 ユミルはアキラの顔を見つめると、満足気に頷いては笑みを深める。

 

「傷は大丈夫そうね。体力の方も問題ないんじゃない?」

「……え、あぁ。今回はユミルさんが診てくれたんですか?」

「そうよ。だから消費した分、補充しようと思って採取してたワケ」

「ああ、それは……」

 

 アキラは立ち上がって頭を下げる。

 苦手にしている人物だろうと関係なく、面倒を見てくれた人には一定の感謝と敬意を示さねばならない。

 

「どうもご苦労おかけしました。ありがとうございます」

「アンタって、ホントそういうところ律儀よね。でもまぁ、あの子から面倒見るよう言われただけだから、そう気にする事ないわよ」

「ミレイユ様からですか……!?」

 

 アキラが喜悦も露わにすると、ユミルは苦笑する。

 

「アンタって露骨よね。……ま、いいケド。立ってると落ち着かないから、早く座りなさいな」

「は、はい。失礼します」

 

 露骨と言われて赤面し、気まずい思いで着席したものの、何を話せば良いのか分からない。

 ユミルからしても、頼み事が終わった時点で帰っておかしくない筈だ。新たに水薬を補充する為に立ち寄った様な事を言っていたし、作業があるなら尚の事アキラに関わる暇もないように思う。

 

 それとも、何かあるのだろうか。

 アキラの疑問が顔に出ていたのか、ユミルは表情を見つめたあと鼻で笑って口を開く。

 

「理由がなくっちゃ話し掛けてるなって? アンタも冷たいコト言うようになったわねぇ」

「いや、言ってないし! ――いやいや、思ってもないですけどね!?」

 

 慌てて弁明しながら手を左右に振るが、心の底を見透かされてるのか、嫌らしい笑みを浮かべるだけで取り合おうとしない。

 元よりユミルはそういう人だ。本気で相手をすると馬鹿を見る。

 アキラは肩から力を抜いて、椅子に座り直した。

 

「あら生意気。すっかりスレちゃって……。何か言う度、あたふたしていた頃が懐かしいわ」

「誰のせいですか、誰の……。言っておきますけど、こんな態度取るのユミルさんだけですからね」

「ヤダ……! アタシは特別ってコト? でもゴメンなさいね、もっと自分に相応しい人を探してちょうだい」

「何でいきなり振られたんですか、僕は。そういう意味じゃないですよ。分かってますよね?」

「分かってるけど、言っておきたい台詞じゃない?」

 

 そう言ってカラカラと大口開けて笑われては、アキラもそれ以上何も言えなくなってしまう。

 機嫌は急降下し、頬杖付いて外を向く。指先でテーブルをコツコツと叩きながら、視線だけちっりと向けて口を開いた。

 

「……それで、何か御用でもあるんでしょうかね。雑談相手に僕は向かないと思いますけど」

「イヤねぇ、転がしてるだけでも十分楽しいわよ、アタシは」

「……帰っていいですか?」

「別にいいわよ。起き上がるまで待てって言われただけだし、朝食の用意もされてるけど、それを蹴りたいっていうのも自由だものね」

 

 ユミルがにっこりと笑みを深めると、アキラの表情がみるみる固まる。眉根を寄せ、伺うように身体を前のめりに近づけていった。

 

「朝食の、用意? それってもしかして……」

「ええ、あの子が招いてくれてるわよ。一応、今も待ってくれているみたいね」

「それ先に言って下さいよ!」

 

 アキラは立ち上がると、ユミルの存在を忘れたかのように走り出す。既に体力も魔力も十分と見えて、その走力はたいしたものだ。

 その後姿を眺めながらユミルも苦笑しながら立ち上り、ボヤくように呟いた。

 

「ホント……露骨よね」

 



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提案と決断 その2

 アキラは邸宅の前で急停止すると、身嗜みを整えてから扉に手をかける。

 汗も存分に掻いたので臭くないかと肩口を嗅いでみたが、顔を顰める程でもない。薄っすら感じ取れる程度だが、エチケットとして流しておくべきかもしれないと考え直す。

 

 だが同時に、もう随分待たせてしまっている筈なのだ。

 どの程度気絶していたのかも分からないし、どのくらい待たせているのかも分からないが、汗を流すぐらいなら直ぐだ。そうした方がいいかもしれない、と踵を返したところでユミルがもう傍まで来ている事に気が付いた。

 

「何してんのよ、早く入りなさいな。犬が餌に食らいつくみたいに走りだしたクセして」

「何ですか、その例え。……いや、汗まみれの格好じゃ失礼じゃないかと」

「そんなの今更でしょ。いいから入りなさいよ、あの子だって一々気にしないわ」

 

 そう言って背を押されてしまえば、抗うのは難しい。

 扉を開けて中に入ると、懐かしい香りが鼻腔を擽る。室内は木目調の壁から想像できるとおり、木と花を基調とした表現し難い香りに満ちている。

 箱庭には毎日来ているが、邸宅へ入るのは久しぶりで、優に二週間以上は経っていた。

 

 奥へ歩を進めれば、そこに以前良く招かれていた朝食のメニューの香りも混ざって来る。思わず腹の音も鳴り始め、気恥ずかしく思いながらダイニングへ向かった。

 

 一番奥の上座には、既にミレイユが座っていて、コーヒーカップから口を離したところだった。

 アキラの姿を認めると、軽く頷くような仕草で挨拶してくる。それに心の奥底から湧き上がるものを感じながら、アキラは腰を大きく曲げて頭を下げた。

 

「お、おはようございます! お招きして貰ったのに長い時間待たせてしまい、申し訳ありません!」

「うん。そう固い挨拶なんてするな、そういうのはもう十分間に合ってるんだ。早く座ってしまえ」

「……はい、失礼します」

 

 顔を上げれば、席についているのは他にアヴェリンしかいない。

 それぞれの席の前には、ソーサーの上に置かれたカップがあるぐらいで、食器はなかった。アキラの席には香りどおりのメニューが用意されて湯気を立てているが、他の人の準備はこれからなのだろうか。

 ルチアがこの場にいない事を見れば、その可能性は高そうに思われた。

 

 アキラは席に座って行儀正しく背筋を伸ばす。

 ユミルも同席するのかと思いきや、その背後を通って邸宅の奥へと消えていった。採取した植物を仕舞いに行ったかしたのかもしれない。

 

 全員揃うのを待っていようと思っていたが、それより前にミレイユが掌を向けてきた。

 

「我々はもう済ませてしまった。悪いが、食事は一人でやってくれ」

「あ、そうだったんですね」

「思いの外、起きてくるのが遅かったからな」

 

 アヴェリンが憮然として言って、自分のカップを持ち上げる。不本意そうな雰囲気があったが、以前のような刺々しさは大分薄い。少しは認められるようになったのだろうか。

 ミレイユの視線に促されるまま、アキラは食事に手を付けた。

 

 食前の挨拶をしてからパンを手に取り、スープに浸して口に運ぶ。

 香辛料は僅かにしか入っていないスープで味は薄めだが、アキラからすれば懐かしい味に頬が緩んだ。他には取り合わせとしてチーズや干し肉のスライスなどがあり、それらは噛むほど味が出るので、一緒に食べれば丁度良い塩梅だ。

 

 食事中に余計な会話はなかった。

 時折、ミレイユとアヴェリンの間で雑談が交わされる事もあったものの、アキラには良く分からない事だった。その多くは神宮内に関わる内容のようで、だからなるべく食事に集中して会話が耳に入らないよう気をつけた。

 

 食事も終わり満足気に息を吐き出し、ミレイユに向けて頭を下げた。

 

「ごちそうさまでした!」

「うん……、満足したなら少し話そう。足りないなら追加を持って来させるが」

「いえ、大丈夫です! 十分、頂きました。でもその前に食器を……」

 

 アキラが綺麗になくなった空の皿を示すと、一つ頷きが返ってきたので立ち上がる。先に後片付けをしたいという意図を汲み取ってくれて、お礼の気持ちで食器を洗う。

 これまでは大抵ルチアなどが買って出てくれて、アキラがやる機会はなかったのだが、今まで何度となく見てきた光景なので、問題なく終わらせる事が出来た。

 

 席に戻ると、いつの間にやらユミルが着席している。

 手にはワインボトルとグラスがあり、丁度栓を開けて注いでいるところだ。朝からお酒か、と思わないでもないが、ミレイユが咎めないならアキラが何かを言う権利もない。

 

 しかし改まって話をしたいと言われると、何やら緊張してしまう。

 ここのところ会う機会も減ってしまっていたので尚更だった。そして改めて思う。目の前にいるのは単なる敬愛すべき隣人ではなく、オミカゲ様の御子なのだと。

 

 ミレイユがいつものように振る舞ってきたから、アキラもまたいつもどおりを気に掛けて食事をしていた。彼女が身に着けているのも、よく邸宅で過ごしていた時の衣服で、だから今日はオフ日だと主張しているようですらあった。

 

 頭を下げられる生活を悩んでいるような発言もしていたから、変に畏まった態度は逆に不機嫌にさせてしまうだろう。その事に気を付ければ、そう問題はないかもしれない。

 そもそも生活についても不安はなくなったろうから、食事についても邸宅に帰ってくる必要すらない。それでも足を運んで来るということは、息抜きを兼ねているのかもしれなかった。

 

 ――それなら神宮内での生活なんかは聞かない方が良いのかも。

 アキラはそれを心に留めながら、改めて頭を下げた。これも嫌がられるかもしれないが、癖のようなものだ。道場で受けた礼儀作法が染み付いてしまっているとも言える。

 

「改めて、お久しぶりです、ミレイユ様。僕が言うのも烏滸がましいとは思いますが、中々お目に掛かれないので心配していました」

「そうだったか……。そうだな、箱庭には何度も帰って来ていたが、時間が合わなかった。こうして顔を合わせるのは久しぶりだったな」

 

 そうだったのか、と少し悔しい気持ちになる。

 とはいえアキラも一日の大半を学校で過ごす。行き違いになるのは可笑しな事でもなかった。

 

「今日は早くから、時間的余裕が出来たから寄ってみた。休日でもあるし、いつもより遅い時間まで続けているのではないかと思ってな」

「それじゃ……もしかして、見てらしたんですか」

 

 これには静かに頷いて肯定された。

 では、相当無様な姿を見られたという事だ。いつもは地面に膝を突くこと程度は良くあっても、気絶するところまでいく事は少ない。

 

 いや、とアキラは思い直す。

 普段は学校が控えているから抑えられているだけで、休日ならば普段から似たようなものだ。気絶ギリギリか、あるいは時間いっぱい転がされているかのどちらかで、どちらにしても無様な姿を晒す事に、そう大きな違いはない。

 

「見ない間に、腕を上げたな」

「そう……なんでしょうか」

 

 疑問を口にするが、そこには僅かな喜悦が潜んでいる。素直に褒められる事は珍しく、その喜びは隠しきれるものではなかった。

 アキラの口元がだらしなく垂れ下がろうとしたところで、アヴェリンからの鋭い視線で我に返る。言われるまでもなく、それで調子に乗るなんて事はしない。

 

 以前、魔力総量を上げつつ制御力を向上させる、という話が上がって以降、その鍛錬に多くの時間を割いてきた。ここでもやはり、アヴェリンのお眼鏡に叶うものではなく、多くの罵声を浴びつつ続けてきたが、その意味はあったようだ。

 

 実際それは、実に()()()()作業だった。

 まだ伸び代があると言われているが、むしろ『ある』と言われて絶望したのは初めての事だ。いっそスッパリとこれ以上やっても無意味だと言われたかった。

 

 アキラは今まで才能がある、と言われた分野は皆無に等しかった。

 その才能を見出された部分が、非常に痛みを伴うものでなければ泣いて喜んでいただろう。今も泣かされているが、そんな涙を流すくらいなら、やっぱり才能なしと判断されたいぐらいだ

った。

 

 アキラの顔が曇りだした事で、何かを勘違いしたらしく、労るような声音でミレイユが口を開く。

 

「最近は……どうだ? いつもあんな感じなのか?」

「ああ、いや、何と申しますか。いつもはあそこまで酷い事もなく、もう少し動けているような……」

 

 必死に今日の失態を取り繕うと言い訳を重ねようとしたが、アヴェリンから鋭い視線を向けられて、すぐにそれも諦めた。

 

「いえ、まぁ、あのようなもので……。上達もないのか、転がされる回数も同じようなものだ、とは思うんですけど」

「ん……? いや、そっちじゃない。アヴェリンを相手にしていると思えば、まぁそんなものだろう」

「じゃあ、えっと……。他に何かありましたか?」

「お前はよくアヴェリンに怒鳴られていたろう。駄目出しや弱点を指摘されていた。だが、今日は罵声もなく淡々としたものだった」

「そう、ですね……」

 

 いつ頃からだったかイマイチ覚えてないが、もしかしたらそれは、一週間程前からの事だったかもしれない。

 制御力の訓練の過程で、一度だけ褒められ、それからは怒鳴りつけるような事は減っていったように思う。殴り付けられるのは同様だが、それは自分のミスを諌めるような指導的なものだ。

 

 致命的な隙やミスを見せると、単に躱せなかっただけと違い、痛烈な衝撃を与えてくる。今日も受けた直線に走る痛みがそれだった。

 口で言っても分からないから身体で覚えさせる作戦に切り替えたのだろう、と思って特に気にもしなかった。対応出来る攻撃も増えていったし、実際効果は上がっている。

 

 対応できると分かれば、また別の切り口の攻撃が増えるだけなので、結局腕前の上昇は実感できていないのだが、それもまたいつもの事。

 怒鳴られもしないが、褒められもしない。

 剣筋を交わして、対話するように指導を受ける。それが最近の鍛錬法だった。

 



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提案と決断 その3

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「アヴェリンを相手にしてると実感が湧かないだろうが、少しは成長した証かな……」

 

 ミレイユが眩しいものを見るように目を細めた。

 アキラはその表情に赤面して顔を俯向けたが、アヴェリンから向けられる眼差しは常と変わらず厳しいものだった。

 

「ミレイ様、あまりこれを甘やかされては困ります」

「……多少は褒めてやらねば、伸びないだろう。すぐ調子に乗るようなタイプでもないしな」

「そうかもしれません。確かに調子には乗りませんが、すぐ油断するタイプです」

 

 アヴェリンの指摘に、アキラの喉が詰まる。

 そんな事はないと否定したかったが、同時に思い当たる節もあった。何とも言葉を発せられずにいると、ユミルがくつくつと笑う。嫌らしい笑みを存分にアヴェリンへと向け、頬杖付きながらグラスの中のワインを転がした。

 

「なんとまぁ、随分と良く見ているようじゃないの。嫌々教えていた頃とは雲泥の差ね」

「弟子と定めたからには、面倒を見るというだけの話だ。武器を重ねている内に、この程度は自然と理解できるようになる」

「……それもそうかもね」

 

 一つ頷いてアッサリと身を引き、ユミルはグラスに口を付ける。平行近くグラスを傾け気にワインを呷ると、ちろりと舌を覗かせて唇の周囲を舐め取る。

 無駄に蠱惑的な姿を見せられて、アキラは顔を背けた。

 

 そこへミレイユの声が降ってくる。

 

「魔力制御にも大分慣れてきたように見えたが、本人としてはどうだ?」

「あー……、そうですね。以前より、ずっとスムーズに動かせるようになったと思います。師匠からはその調子で続けろ、としか言われてませんけど、視線は厳しいままです」

「元より要求する最低限のラインが高いからな……。文句を付けられていないというなら、お前のレベルなら及第点を上回っているという事だろう」

「そうなんですね」

 

 ミレイユから保障してくれるような発言を貰い、アキラの気持ちはグッと軽くなる。

 アヴェリンは駄目な部分は指摘してくれるが、良い部分については指摘してくれないし、褒める事もしない。自分なりに良くやれたと思える一撃を放ったところで当たらない事もあって、自分の力量が信じられなかったのだ。

 

 しかし、敬愛するミレイユから太鼓判を押すような発言をされると、その心境もだいぶ変わる。

 浮ついた気持ちでいると、だが、とミレイユは言葉を続けた。

 

「だが同時に、心得ておく必要がある。魔力制御とは、慣れて上手くなったと思った瞬間から下手になっていく、というのが通説だ」

「そう……なんですか?」

「誰もが通る道だと言われているぐらいには、知られた話だ」

 

 ミレイユが言う事だ。嘘を言っているとは思わないが、それでもやはりピンと来ない。

 これ以上は向上せず頭打ちだと言われるのならまだしも、下手になるというのは想像し難かった。

 

「実際には本当に下手になる、という意味ではないと思うが。要はスランプに陥るという事だろうな」

「あぁ……」

 

 それなら意味がよく分かる。アキラは今、単にがむしゃらなだけだが、それだけでは駄目な時が遠からず来るだろうと思っている。

 アヴェリンの指示に従うだけの現状で間違いなく向上し続けているが、やはり何処にでも癖があったり残ったりするものだ。直そうとしても直らないというのは、スポーツ界でも良くある話。

 なまじ技術が身に付きつつあるからこそ、精神と肉体の齟齬から結果が出せなくなるのだ。

 

 ユミルはワインを注いだばかりのグラスへ口を付けながら口を挟む。

 

「魔力制御って、本来繊細なものだから。力押しでやれている内は向上を認識できるでしょうけど、更なる向上を意識し始めた時、その繊細さが足を引っ張るように感じるのよね」

「なるほど……。だから下手になっていくように感じると……」

「アンタも既に、そこに片足突っ込んでいるように見えたんじゃない?」

 

 うぐぐ、とアキラは喉の奥で唸る。

 アキラは自身が繊細に制御できているかと言われると、多分できてないと答えるだろう。比較対象がないから分からないが、上手くやれているかどうかも分かっていない。

 

 アヴェリン達は実力が違いすぎて参考にならず、それを可視化して観察するほど扱いに長けている訳でもないので、やはり感覚で身に着けているような状態だ。

 これまではそれで文句も出なかったから、これで良いと思っていたし、このまま続ければ良いとも思っていた。しかし、それで躓くような段階に、そろそろ入ってきたのだと、二人はそう言いたいようだった。

 

 ユミルの言葉の続きを拾って、ミレイユが言う。

 

「アヴェリンは感覚派だ。天才肌とも言うな。そんな彼女だから、誰に言われるまでもなくその壁は越えられた事だろう。だが、お前はそういうタイプじゃなさそうだ」

「ですね……。そういう天才と名の付くものとは無縁である自信があります」

「そう卑下するものでもないがな。……とにかく、基礎固めが天才思考な部分で進められているから、いざ壁に当たった時、それを矯正するのに苦労するだろうな、と……今日見て改めて思った」

「は……、気を付けます」

 

 言いながら、アキラは我ながら間抜けな返答だと思った。

 気を付けて回避できるぐらいなら苦労はしない。今も金言を頂いた気持ちがあって感謝もしてるが、じゃあ明日から気を付けようと考えても、具体的にどうすれば良いのかは分からない。

 

 天才肌というアヴェリンだからこそ、そこを言語化して指導するのは難しそうに思えた。ただ違うと言われて、殴られる日々が続きそうだ。

 

「――最近、結界の方にも行かせていなかったろう」

 

 そんな泣きそうな気持ちでいると、突然の話題転換に目を白黒させる。

 困ったように眉根を寄せて、それでもとりあえずアキラは頷いた。

 

「え、ええ……ですね。皆さんお忙しいのだと思って、今は後回しにされてるんだと思ってました」

「忙しかったし、慌ただしかったのも事実だが、それが理由ではないな」

 

 それを別に不満に思っていた訳ではなかったが、同時に少し寂しくも思っていた。

 魔物を斬り倒すのが趣味でもないし、命を張るスリルを楽しみたい訳でもない。アキラの戦闘願望の根底は、自分の身とその範囲――友人知人という些細な範囲を護れる力が欲しかったからだ。

 

 結界もそれに(まつ)わる他の事も、神宮勢力――引いて言えばオミカゲ様がやっている事だと分かった。昼食会で叔父に当たる由喜門家の当主に話を聞いた限りでは、鬼退治というオミカゲ様の伝説が、古来から行われて来た事実だと知れた。

 

 現在は御由緒家主導で行われる護国防衛だと分かって、アキラも肩の力を抜いたぐらいだ。

 

「今更、僕なんかが行っても仕方ないと思ってもいるんですけど。でも、鍛えて頂いた分、何かの形でお返ししたいとも思ってますし……。別に今のが惰性で続けてるって訳でもないんですけど、少し方向を見失っている感じはあります……」

 

 言わなくても良い事まで言ってしまっている気がする。

 だがミレイユを前にして嘘を吐くのも嫌だった。本心を丸裸にしたい訳でもないのだが、目を見つめられると、その気力も削がれてしまう。

 

「確かに結界について、悪意あるものでない事は確定した。それに対抗する組織をオミカゲ様が作ったというのも事実だ。お前よりも頼りになる奴らも、それに関わっている」

「はい……」

「だが、それを理由に遠ざけたんじゃない。比較対象がアヴェリンだから己の力量が見えて来ないんだろうが……、御由緒家の平均的力量を見た今なら、そう捨てたものじゃないと思っている」

 

 アキラを見たアヴェリンが、つまらなそうに鼻を鳴らした。

 褒められたからと調子に乗るな、と釘を差されたようだった。元より調子に乗れるような楽観をしていない。眉尻を下げて頷くと、ミレイユが苦笑して言った。

 

「アヴェリンが毎日、お前を扱いたお陰だろうな」アヴェリンへ顔を向けて言う。「良くやった」

「勿体ないお言葉です」

 

 アヴェリンが背筋を正してする礼を見届けて、ミレイユは顔を元に戻した。

 

「だから、結界から遠ざけていたのは別の理由だ。魔物の強さが増していく傾向にあった話はしていただろう?」

「それは、勿論。それで僕の魔力を目覚めさせて頂いたんですし……」

「そうだったな。……それが昨今、更に二段飛ばしで強くなった」

「え、二段……!?」

 

 アキラが目を剥いて驚愕すると、ミレイユは疲れたように頷く。

 

「既存の戦力では歯が立たないような相手だった。今は少し落ち着いているが、いつどのタイミングでまた現れるか分からない。だからお前を遠ざけていた」

「ついて行ったところで、役には立たないと……」

「有り体に言えば、そうだ。参加させても端によっていろ、逃げ回っていろと指示されても困るだろう?」

「ですね……」

 

 アキラが力なく項垂れると、ミレイユはそうじゃない、とでも言うように手を振った。

 

「だが今日、お前の鍛錬風景を見て考えが変わった。私が知っているのは魔力の制御を始めたばかりのお前だが、それが今では様変わりしていた。私の評価を様変わりさせるに十分な成長がな」

「あ、ありがとうございます……!」

 

 何だか持ち上げられているようで面映ゆい。

 だが、お世辞を言うような人ではないし――人ではなく神だったが――、そもそもアキラを煽てる必要だってない。素直な評価だと受け取って、これまでの努力全てが報われるような心境になった。

 

「正しく導けば、更に伸びるだろう。だが、問題もある」

「何でしょう……。あ、もしかして師匠が天才肌である事と関係が?」

「無関係じゃないが、そういう事ではなくてだな……。これからお前に鍛錬をつけてやる暇がなくなる」

 

 その一言は、予想以上にアキラの心を掻き乱した。

 既に日常と変わりないものとなっていたが、そもそも温情で付けてもらっていた稽古だ。いつまでも面倒を見ない宣言されてもいた。基礎だけ教えて、後は自己鍛錬だと言われていたような気もする。

 

 ではつまり、その終わりが遂に来たのだと、そういう事なのか。

 アキラの表情がズンと沈んだのを見て、ユミルが小馬鹿にしたように笑った。

 

「アンタの悪い癖ね。いいから話の続きを聞きなさい」

「う……、あ、はい」

 

 それに一縷の望みと先行きの見えない恐ろしさを感じながら、ミレイユを見つめる。

 

「あまりヤキモキさせるのも悪いしな、最初に結論から言おうか。今日はお前に、転校を勧めに来た」

 



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提案と決断 その4

あーるす様、天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


「転校……ですか?」

 

 あまりに突飛な発言に、アキラは思わず眉根を寄せて訝しんだ。

 話の繋がりが見えてこず、困惑の色が深い様子を見て取って、ミレイユは一つ頷いて見せる。

 

「突然何を言っているんだと思っているだろう。……順に説明する」

「……お願いします」

「先程言っていた魔物――こちらでは鬼と呼び習わしているようだが、とにかくそいつらが強くなって来たのが原因でな……。今迄どおりでは手に負えなくなってきた」

「ミレイユ様たちでも……いや、違うか。御由緒家の方々でも、という事ですか?」

「そうだ。そこでちょっと、教育してやらねばならなくなった」

 

 意外な発言に、アキラは思わず身体を前のめりに倒した。

 

「ミレイユ様が教師をするって事ですか……!?」

「教壇に立って教鞭を振るうというのとは違うがな。私の立場としては、座して待つ事も、見て見ぬ振りする事も出来ないらしい。オミカゲ様の代わりとして、少し便利遣いさせられる訳だ」

「そんな言い方、不敬ですよ……」

 

 そのように苦言を呈しながらも、ミレイユだけは許される発言なのかも、と思い直す。

 大体、神の名代というのがまず異常なのだが、御子神としてというなら納得できてしまう。というより、他の誰にも務まらないだろう。

 

 鬼退治に対して御由緒家が有効に機能しなくなった、というなら、そのテコ入れするのも御子神様とする必要があるのかもしれない。

 その白羽の矢が立ったのがミレイユだと言うなら、従う他ないという事なのかも。

 アキラからすれば、この人――御方が熱心に何かを教える風景というのも想像できない。本を片手に椅子に座り、時折視線を投げかけるだけ、という授業になりそうで不安になる。

 

 だがとにかく、手に職を持つ――というと語弊があるが、とにかく忙しくなるから鍛錬の時間が取れなくなる、と言いたいのは理解できた。

 

「でも、それがどうして転校を勧める事になるんですか?」

「それに答える前に一つ……、神明学園という学校を知っているか?」

「えーと、はい。縁が無いと思って詳しく調べた事はないですけど、神宮直営の学園で全寮制の名門校だってぐらいは知ってます」

「多くはスカウト制か推薦で、一般入試は受け付けてないという、非常に変わった学園でもある」

 

 そうなんですね、と頷いて、アキラの動きがハタと止まる。

 何となく、ミレイユの言いたいことが見えてきて非常に嫌な予感がしてきた。

 

「……つまり、僕をそこへ推薦したいとか、転入試験を受けろとか、そういう話なんでしょうか?」

「理解が早くて助かるな。スカウト制である理由は、その生徒には理力を扱う才能があるかが重要だからだ。まだ、才能があっても人格によっても篩いに掛けられる。非常に狭い門でもあるらしい」

「理力、ですか? 魔力とは違うんでしょうか」

「同じものだ。呼び方が違うだけだな。我々が魔物と呼ぶものも、こちらでは渡り鬼だとか、あるいは単に鬼と呼ぶ」

 

 はぁ、と気のない返事をした後で、何と話を続けるべきか迷う。

 ミレイユはアキラの様子に頓着せずに続けた。

 

「お前がいつだか言っていた、御前試合というものも、本来その才能を見出す為のものだったようだな。学園に通う者は剣を扱えるかは必須ではないが、体力のない者は結界内では生きていけない。最低限の自衛手段は持っていて然るべきだから、そういう意味で身近な存在として利用していたんだろう」

「それで……、僕ならそのお眼鏡に適うというのは何となく分かりましたけど……。でも本当に?」

 

 どうもね、とユミルがグラスの中でワインを転がしながら口を挟んだ。

 

「アンタをそのまま放って置くのは勿体なく思ったみたいなのよ」

「そうなんですか?」

「アヴェリンの弟子として、そこそこ腕は磨いて来たんだし、実際今日それを目にして合格とも思ったみたいね。……で、アンタにその気があるなら誘ってみようと思ったワケ」

「それは……、とても有り難い話です」

 

 アキラが言った事に嘘はない。本心からの言葉だった。

 しかし、どうにも話が急すぎた。ミレイユが持ってくる話は大体そうだが、心の準備をする暇というものを与えて欲しいと思う。

 

「学園には毎日通うワケじゃないから、その隙間を縫って教えるっていう案も、あったにはあったのよ。でも、そこまでする必要あるかって話もあってねぇ……」

「それは……、ええ、僕には答えにくい話と言いますか……」

「それに向上を目指すんなら、そういう教えに慣れた場所の方が効果的なのかなって思ったワケ」

「ユミル、人の心境を代弁しているかのように見せて、自分の意見を言うのは止めろ」

 

 ミレイユが言い差すと、ユミルは肩を竦めてワインを呷った。

 恨めしいような目つきをユミルから離し、アキラに向き直ってミレイユは言う。

 

「ユミルの言った事が全面的に嘘という訳でもないが、レベルに見合った教え方というものはある。アヴェリンは良くやってくれているが、アキラのレベルに合わせた教え方というなら、やはりそちらに慣れた者から受けるのが一番だろう」

「なるほど……」

「これから鬼の動向も激しくなる。壁に躓くようなら、即座に置いて行かれるだろう。お前が続けて行きたいというのなら、その為の場を用意してやろうと思った」

「色々考えて頂いて、ありがとうございます」

 

 アキラは素直に頭を下げた。

 実際、分不相応というのは確かだった。教えを受けるのも、それに見合った実力があって意味あるものだ。そこに正しい道筋を与えて貰えるというなら、願ってもない提案と言える。

 アキラが何かを口にしようとした時、ミレイユはそれより前に、断りを入れるかのように手を振った。

 

「当然だが、強制じゃない。より危険な戦場へ送り出す事にもなる。それに卒業すれば、まず間違いなく御影本庁入りだ。その後も鬼退治と深く関わっていく事になるだろう。よく考えろ」

「それって、就職は殆ど内定するって意味ですか? それも御影本庁へ?」

「そうだな。理力を最低基準でさえ扱える者は少ない。貴重な人材だから、他所へやりたくないんだろうな。そうでなくとも、御由緒家傘下のどこかへ行く事になるんじゃないか?」

 

 アキラは高校卒業と共に、就職も視野に入れていた。貯金はあるものの裕福という訳ではない。一人で自立して生活しなくてはならず、その為には私立へ入学する費用を捻出できなかったからだ。せめて公立である必要があるが、アキラの学力では難しいという予想も立てていた。

 

 だが、その学園へ入学を許可されれば、人生の展望も広がる。

 危険と隣り合わせであるというのは、人によっては大きなマイナスだろうが、アキラにとっては今更の事だ。それに本庁入りという事はつまり、オミカゲ様の元で働けるという事でもある。

 叶うならば、こちらからお願いしたいくらいだった。

 

「是非、お願いしたいです……! でも、ちょっと問題が」

「何だ……?」

「入学費用はどうなるんでしょう? 転校するって事になれば、それまで積み立てた金額とかもどうなるか分かりませんし、金銭面で不安があります」

 

 ああ、と頷き、ミレイユは眉根に皺を寄せて首を傾げた。

 

「その辺の事は私にも良く分からないな……。だが、入学費や授業料は掛からない筈だ。寮費も無料で、むしろ給料が支払われる」

「そうなんですか……!?」

「形態としては軍学校とかに近いのかもな。訓練をしながら勉強して、そして実地訓練として結界内にも入る。危険手当も兼ねてるのかもな……。その辺までは知らないが」

「それは……凄いですね。でも高校生の段階で、そこまでやらせるんですか? 演習程度ならともかく、実際に鬼を退治となると、大分勝手が違うような……」

 

 ミレイユは首を傾げたまま腕を組む。視線を天井付近に彷徨わせ、それからアキラへ戻した。

 

「そうだな。本来なら既に卒業して現場に出ている隊士達の仕事だろうな。……だが、時に実力者とは、その年齢という分を超越する。強い鬼には実力者しか相手にできない。だから御由緒家が出張る事になるんだろうし、そうした時はまだ高校生でも命令が下るんだろう」

「あの昼食会で見た時も、既に次期当主として認められた人の中に、高校生の人もいましたもんね……」

「そうだな……。当代は実力者揃いで当たり年などと言われているようだ」

 

 ミレイユは薄く微笑んでは、話を続ける。

 

「鬼の強さが以前と比較にならない現在、その辺りをどうするつもりなのかは知らんが……。遊ばせている戦力はないと考えるだろう。お前も、その実力が認められたのなら、既存の隊士を押して選ばれる事になるかもしれん」

「なるほど……」

 

 アキラは幾度も頷いて、膝の上に置いた拳を握った。

 それから視線を下げ、その握った拳を睨みつけるようにして見つめる。

 話は分かった。危険はこれまで以上あって、そして任意ではなく強制参加という形で招集される可能性もある。だが参加すると言っても、今までだって強制参加させられていたようなものだ。

 

 訓練のようなつもりで蹴り出され、死の危険なら幾つも感じて来たし、そして乗り越えてきた。

 後になって分かった事だが、それは強者が安全を確保していてくれたという、揺り籠の中の環境とでも呼べるものだった。しかし、それでも戦ってる最中は間違いなく死ぬ思いと、それを乗り越える覚悟を持って戦っていた。

 

 それを思えば、然程環境が変わったとは思えない。

 今の学校にいる友人達には悪いと思うが、それでもこの条件を蹴るのは余りに勿体ないと感じた。それに、転校しなければ、これまで以上にミレイユと接触する回数が減るのは間違いない。

 

 そして、このまま疎遠になり、いずれ自然消滅してしまいそうな気がする。

 これまで鍛えてくれた恩も返せず、そのまま別れてしまうのだけは嫌だった。

 

 アキラはミレイユの瞳を正面から見据え、腹に力を入れてその答えを口にした。

 



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提案と決断 その5

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「僕は行ってみたいと思います。大変だろうし苦労もあるでしょうけど、それでも行ってみたいです……! 自分の力がどこまで通用するか、それを知りたいと思います」

「アンタってさぁ……、割と困難で面倒な道を選ぶタイプよね。もっと楽な生き方できないワケ?」

 

 ユミルが呆れたような声を出し、半眼で見つめてはグラスを口元へ運ぶ。

 何杯目だと思いながらも、アキラは苦笑いを返す。我ながら難儀だとは思うが、自分に嘘を吐くような生き方は嫌だった。後悔しないと啖呵を切れれば良かったのが、きっと後悔する破目になるだろうなぁ、とも思うので、そこまで大言壮語は出来なかった。

 

 アキラの心情を知らず、アヴェリンは感心した顔付きで何度も頷く。

 

「困難に立ち向かえるようでなければ、大成なぞ出来ん。我らとて、いつまで居られるのか分からんのだから、自立した考えを持つのは良い事だ」

「ちょっと……!」

 

 ユミルが鋭く叱責すると、己の失言を悟ったらしいアヴェリンは顔を顰める。

 ミレイユへ窺うように顔を向けて、視線が合うと頭を下げた。どちらも無言の遣り取りだったが、ミレイユは小さく手を振って気にしていない、というようなジェスチャーをした。

 

 その短い遣り取りがどうにも気になって、アキラはミレイユに聞いてみる。

 

「あの、今のどういう意味ですか? いつまで居られるか……?」

「別に決まった話という訳でもない。お前は気にするな」

「え……っと、はい。やっぱり、そんなに長くは学園に教えに来ない感じですか?」

 

 アキラが問うと、ミレイユとユミルの間で一瞬の目配せが行われる。

 それに鷹揚に頷くと、ユミルが殊更明るい声音で追随した。

 

「そうなのよね。この子も一応、神って事になってるから、そもそも働く事を良しとされないらしいのよ」

「そうなんですか……? いや、確かに神様を働かせるなんて、どれだけ不敬なんだって話ですけど」

「今回も、まぁ異例中の異例でしょ。そうせざるを得ないからしてるってだけで」

「へぇ……。あ、じゃあ僕はやっぱり、学園に通うような事になったら、今迄みたいな態度は拙いですよね?」

 

 ユミルからミレイユへ顔を移すと、少し考えるような仕草をした後で頷いた。

 

「私としては関係ないと言いたいが、そうは言っても周りが許さないだろうな。どういう態度が適切なのか知らないが、周りに合わせて上手くやれ」

「そうします。……でも、そうなると、いつごろ転入する事になるんでしょう? 試験とかあるんですか?」

「そうだな……。実は既に転入願いを受け入れるよう、学園には話を通してある」

「え、そうなんですか!?」

 

 アキラはこの話を受け入れたが、もしそうでなかったらどうしたのだろう。

 書類一枚で済むような簡単な話でもない筈だ。急な転校というのは物語では良く聞く話だが、実際にやるとなると、その準備にも色々あると思われる。

 アキラが平穏な生活に戻ります、と言ったらどうするつもりだったのだろう。

 

「でも、先に話を通すなんて、よくそんな無茶考えましたね……? 僕が行くなんて予想つかない筈なのに……」

「いやいや、それはアンタ、馬鹿にしすぎでしょ」

 

 ユミルが笑って、アキラは思わず眉根を寄せて、その顔を覗き見た。

 その表情には嘲笑ではなく、つまらない冗談を聞いた時のような笑みを浮かべている。

 

「その話を持ち込まれて、アンタが断るなんて考えないもの。アンタが面倒な性格してるって、あの子もちゃあんと分かってたみたいね。後はアンタの実力確認が済み次第って感じ」

「えぇ……? だって、それならやっぱり話を先に進めてたら拙かったんじゃ? ミレイユ様のお眼鏡に適わない可能性もあったじゃないですか」

 

 ミレイユはそれにアッサリと頷いた。

 

「そうだな。だが、それならそれで、取り止めだと言えば済む話だ」

「そんな簡単に……先方にも迷惑が掛かるんじゃ?」

「お前はまだ実感が湧かないのかもしれないが……まぁ私自身もないが、神の言う事だぞ。大抵の事には融通が利くんだよ」

「あぁ、なるほど……」

 

 妙なところで腑に落ちた。

 神を自称する輩はゴマンといるが、目の前に座るのは本物の、それもオミカゲ様の御子なのだ。この日本国において、その一言は余りに重いのだと想像がつく。

 学園長も、やれと言われれば粛々と進めていくに違いないだろうし、中止を聞かされればそのように処理するだろう。

 

 それ以上なんと反応して良いか困って、唸るように息を吐く。それからハッとしてミレイユへ問い掛けた。

 

「それで……結局、僕はいつ頃から通う事になるんでしょう? 来学期からですか?」

「いや、三日後だ」

「三日……え、三日!? 三日で準備するんですか!?」

 

 ミレイユの持ってくる話は、いつだって急だ。

 しかし、これには信じられず何度も聞き返す事になってしまった。確認というよりは、撤回してくれという意味合いで言ったのだが、続く言葉が更にアキラを窮地へ追い落とした。

 

「いや、三日後から通い始めるから、入寮はその前日。つまり今日一日で準備しなければ間に合わない」

「何でそんな急に言うんですか! 絶対間に合いませんよ、これ!」

「男の手荷物なんて少ないものだろう。とりあえず服と替えの下着くらいあれば、生活するのに問題ないものじゃないか」

 

 ミレイユは簡単そうに言うが、実際そんな簡単なものじゃない。一人暮らしのアパート住まいだったのだ。家具や電化製品、日用品の片付けなんかもある。とても一日で終わらせられる内容じゃない。

 

 アキラがどうしようかと頭を抱えている間に、そこへ異議を唱えるように、ユミルが口を挟んだ。

 

「それにスマホも必要ね。現代人の必需品よ」

「あぁ、そうだったな。……じゃあまぁ、換えの下着と靴下、寝間着、スマホと……。あとは一緒に寝る用のぬいぐるみだけ用意すればいい」

「ありませんし、いりませんよ、ぬいぐるみは! えっ、本当に!? 本当に今日一日で準備しなくちゃいけないんですか!?」

「だから、そう言ってるだろ。飲み込みの悪い奴だな」

 

 ミレイユが顔を顰めて不機嫌を露わにするが、不機嫌になりたいのはアキラの方だった。

 

「飲み込みが悪いんじゃなくて、飲み込みたくないからですよ!」

「あるいは単に信じたくないだけね」

「――どうでもいいんですよ、その辺の細かいニュアンスは!」

 

 アキラが慌てて立ち上がろうとするのを、ミレイユは魔術を使って強制的に座らせた。

 暴れるように再び椅子から腰を上げようとしても、その身体は言うことを利かない。何のつもりだと言うつもりで顔を向けると、落ち着けという仕草で手を上下に振っている。

 

「大丈夫だから落ち着け。部屋はそのままでいい。旅行に行くようなつもりで準備しろ」

「いや、だって、部屋を引き払ったりしないといけないんじゃ?」

「将来的にそうしたいなら別にいいが、それは今日明日の事じゃないだろう」

「でも、そしたら部屋代やら電気代やらで維持費が嵩みますし……!」

「その辺は急な話を持ち出した、こちらに非があるからな。神宮か、あるいは由喜門に払わせる。ひと月に何度か掃除に来る必要はあるかもしれないが、引き払う必要はないんじゃないか」

 

 それを聞いて、ストンと身体から力が抜ける。

 ミレイユもアキラの様子を見て取って、魔術での拘束を解いたようだ。身体を巨大な手で握られるような感覚が消えていく。

 

 だがどちらにしても、維持費を支払わせるというのは後ろめたい。

 それも神宮と由喜門本家との二択というのが、更にアキラを躊躇わせた。どちらに頼んでも角が立つというか、恐れ多い気がして素直にお願いしますとも言えない。

 

 アキラが困って眉を悲しげに垂れ下げていると、ミレイユから声が掛かった。

 

「難しく考える事はない。こちらで万事取り計らっておく。……部屋の掃除もさせておこうか?」

「いえいえいえいえ! 大丈夫です、そこまでして頂く必要はありません!」

 

 両手を前に突き出し、手をバタバタと左右に振ると、ミレイユは首を傾げるように頷いた。

 

「だがまぁ、これは詫びのようなものだ。だから気にしなくていいぞ」

「詫び……というのは、この急な報せについてですか?」

「いいや、いつも周辺に監視を張り付かせていた事に対して」

「監視されてたんですか、僕は!?」

 

 今度こそ席から立って、驚愕も露わにテーブルに手を着く。予想以上に大きな音を立て、テーブルの上に置かれていたカップが、耳障りな音を立てた。

 

「お前を監視していたんじゃなくて、私が部屋に行かないかを見ていたんだ」

「あぁ、偶に誰かいたような形跡ありましたけど……。いつものユミルさんかと思ってました」

「それもあったろうが、私が箱庭を通じて外へ逃げ出さないか見張っていたんだ。寮に移ればそういう事もないだろうから、安心していい」

「それは、はい……安心ですけど。ミレイユ様、逃げ出そうとしてたんですか?」

 

 アキラの素朴な疑問に首肯して、それから答えた。

 

「気軽に外を散策したいと思って、ちょっとお前の部屋を経由させてもらおうと思ってな……」

「普通に奥宮から……、いや目立っちゃうのか」

「外へ出る時、目立つくらいなら別にいいんだが、奴ら私を神様扱いしてくるからな……」

「いや、だって神様じゃないですか。……ああ、だから自由に外へ出られないと」

「外出したいと言えば出してくれるが、お付きの者も一緒で大名行列みたいな事になると知った瞬間から、その選択肢は消えた」

 

 ミレイユが苦い顔をして外を向いて、その仕草と表情から如何に嫌がっているか分かる。

 確かに、数週間前まで一般人――というには色々と逸脱してるが――だったのに、神として認定され、それに相応しい扱いが付いて回るとなれば辟易してしまうだろう。

 以前のような気軽に喫茶店でお茶する、という自由は得られないに違いない。

 

 縛り付けるようなものでないにしろ、自由がないとなれば可哀想に思えてしまう。

 憐憫の眼差しを向けてると、アヴェリンの小さく叱責が飛ぶ。慌てて表情を戻し、手元に視線を移した。いつもの、お前ごときが烏滸がましい、というやつだ。

 小さな溜め息と共にミレイユが顔を戻したので、アキラも倣って元に戻した。

 



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提案と決断 その6

天の川(・・?)様、えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「……とにかく詫びだから、それは受け取っておけ。安アパートの家賃くらい、どうとも思わないだろうさ」

「いやぁ……金銭面的な負担はないでしょうけど、そこまで厚かましくなれないというか……」

「気持ちは分かるがな。だが実際、長いこと暮らしてきて愛着もあるだろう。捨てずに済むんだ、得をした程度に思っておけ」

 

 ミレイユに重ねてそのように言われては、固辞し続ける事は難しい。

 重々しく頷いて、アキラは改めて謝意を述べた。

 

「分かりました、有り難く受け取らせて頂きます」

「ああ、それでいい」

「でも、それならせめて支払いは由喜門家の方にお願いします。神宮へ請求が行くなんて恐れ多いですし、由喜門の方なら何かあった時に返したり出来ると思うので……」

「分かった。そのように取り図るよう、申し付けておく」

 

 ミレイユの返答に改めて頭を下げ、そして頭の位置を戻した後で困ったように笑う。

 

「凄いなぁ……。前から人を使う事に慣れているように見えてましたけど、今はそれとも違う感じで慣れているように見えます」

「まぁ……、そうだな」

 

 ミレイユもまた複雑そうな心境も露わに、困ったように笑った。

 

「あれらは命じられると喜ぶからな……。神から下される命令で、動かされるのが嬉しいらしい」

「あれら、と言いますと?」

「主に女官だが……巫女もまぁ強烈で、狂信的な感じがあって少し怖い」

 

 口に出す事で思い出してしまったのか、露骨に顔を顰めるのを見て、アキラは思わず笑ってしまった。じろりとミレイユが見つめて来て首を竦めたが、それにユミルが茶化すように口を挟む。

 

「そりゃあね、直接見てなきゃ笑い話に聞こえるでしょうよ。アンタが弱音を吐くところって、普通じゃ想像できないしね」

「ですです! 何というか……動じる事なんてないと思ってましたから」

「そういうものかね……」

 

 ミレイユが理解できないように首を振ったが、アキラからすれば当然のような印象だった。

 特に思ったのが、トロール相手だろうと構わず椅子に座り続けていた時だ。今となってはアキラとしても強敵という認識ではないが、当時のアキラからすれば逆立ちしても勝てない相手だった。

 

 その脅威は一つの咆哮で悟ってしまうような有様で、身を竦めて逃げ出したのを覚えている。

 それでもミレイユは泰然としていて、しかも背後を振り返るような余裕も見せていた。それからというもの、ミレイユは敵に対して大体似たような対応をしていたので、すっかり何者にも動じないというイメージが根付いてしまった。

 

「でも、何というか……複雑な気持ちです。ミレイユ様はいつものミレイユ様なのに、でもずっと遠くに行ってしまって。本当なら、こうして話す事すら許されない方ですから」

「それは今に始まった事でもないがな。私は最初から同じように思っていた」

 

 アキラに言葉を向けたのはアヴェリンだ。

 言葉は辛辣だが、その表情は幾分柔らかい。弟子に取って、その努力を一番見てきた相手だから、幾らかはアキラの事を認めてくれているのかもしれない。

 

 アキラは困った顔をして頭を掻いた。

 そうしながら、先程口にしながら気になった事を聞いてみる。

 

「やっぱりミレイユ様は、前にいた世界でも人を使う様なお立場だったんですか?」

「いや……、立場としては別に普通だ」

「普通……」

 

 ミレイユの言い方は曖昧で誤魔化しているようにも見える。旅をしていたという話だから、どこか王城に仕えていたという話ではないのだろうが、それなら人を使う事に慣れたりしないだろう。

 どういう事かとアヴェリンへ目を向けると、誇るような顔付きで朗々と語り始める。

 

「ミレイ様は確かに権威ある地位に付いていた事はない。しかし、人々を圧政と弾圧から救い、連合を率いて一国と敵対し勝利に導いた立役者だ」

「うわ! つまり英雄ですね!?」

「英雄的活躍というのも確かだし、虐げられていた尊厳を取り戻したという意味でも、大いに敬われている。最初に救われたのがエルフで、そして次第に他の者たちも救いを求めるようになった」

 

 アキラはその声に聞き入りながら、身体も自然と前のめりになっていく。

 感心と感嘆するような表情に気を良くしたアヴェリンの口は軽く、次々と口から物語が飛び出してくる。

 

「幾度となく合戦が行われたが、その前線には必ずミレイ様と我らがいた。敵の数は多く、場合によっては十万と戦うような事すらあった」

「味方の数は、どうだったんですか? 敵が多くって事は、半分ぐらいしかいなかったとか?」

 

 攻城戦なのか防衛戦なのかで話は変わってくるが、どちらにしろ基本は敵より数を多く集めて勝てるように戦う、というのが基本原則の筈だ。

 戦術を駆使して少数が大多数を返り討ち、というのは夢があるが現実的ではない。魔術のある世界でも同じようなものだと思うが、彼女たちのような実力者だと話は変わってくるのだろうか。

 

「いや、二万もいなかった筈だ。だが逸脱者の含まれる合戦というのは、単純な数で勝敗を計れないところがあるからな。特にミレイ様が陣営に加われば、五倍以上の戦力差というのは意味がない」

「そんなに凄いんですか? いえ、勿論疑う訳じゃないんですけど、敵味方入り乱れるような戦闘じゃ色々勝手が違って上手くいかないんじゃないかと」

「その認識は正しい」

 

 アヴェリンが大いに頷いたところで、水を差すようにミレイユから声が掛かった。

 

「……その話、まだ続けるのか?」

「なりませんか? アキラもミレイ様への正しい認識を持っても良い頃かと」

「必要あるとは思えないが……」

 

 その一言でアヴェリンの眉が寂しげに下がったのを見て、ミレイユも困ったように眉間に皺を寄せる。それから好きにしろ、というように手を振ってコーヒーカップに口を付けた。

 二人の遣り取りを黙って見ていたユミルも肩を竦めて、改めてグラスにワインを注いだ。

 アヴェリンの表情も元に戻り、改めて仕切り直して口を開く。

 

「まぁ、とにかく実際平野で戦うような状況というのは、中々起きない。というより、数に置いて劣勢の軍が平原で正面から衝突するような戦い方は選ばないものだ」

「それはそうでしょうね……。挑めば負ける戦いなんてする筈ないですし」

「そういう訳で、普通は森の中など大軍が有利に動けない環境を戦場に選ぶ。だがステューム川の戦いでは、川を背にして正面には平原という戦場で戦った」

「まるっきり背水の陣じゃないですか。追い込まれたら戦うしかないでしょうけど、それで勝てるなんて幻想ですよ」

 

 思わず辛辣な物言いになってしまったが、それは事実だ。被害を最小限に抑えたいというなら間違いなく愚策だろうが、秘策があるなら話は別だ。

 それにアヴェリンは負け戦の話をしているようには見えない。

 何かあるのだろうと思い直して、話の続きを黙って聞くことにした。

 

「言わんとする事は分かる。実際、作戦を聞かされた参謀は強硬に反対したが、数で負ける我らは罠に嵌めるしか勝つ方法は無かった」

「あぁ、やっぱりそうなんですね」

「近くに森はあったが、そこへ逃げ込まない事を敵軍も不審に思ったようだ。しかし近いと言っても伏兵や挟撃をするには距離がありすぎた。有効的ではない、とそれは切り捨て、追い詰めたと思った敵軍は一網打尽にしようとした」

「他に視界を遮るようなものはなかったんですか?」

「ない。そもそも、別働隊など無かった。川を背にしたのは、敵の包囲を狭め一箇所に集める事を目的としたからだ。一網打尽にしようとしていたのは、敵ではなくこちら側だった訳だな」

 

 それで、とアキラは鼻息荒く続きをせがむ。

 戦争映画など見た事はあっても多くは現代戦の話で、ファンタジー世界の戦争など見た事がない。それに実際に参加した人から聞ける話というのは、胸を躍らせるような興奮を覚えた。

 

「敵軍の前進と共に我軍が川へ入り始めた。川の流れは強くないが、胸まで浸かるほど深い。エルフは身に着ける装備も軽装だが、身動きは鈍る。敵軍は矢を射掛けるだけで仕留められると考えただろう」

「戦いもせず逃げたんですか? 川の中へ? 二万という兵数を用意して、矢の一本も撃たなかったんですか?」

「数を用意したのは、敵軍の数を多く引きずり出したかったからだ。最初から正面きって戦う気がなかったとはいえ、百の数じゃ敵も千人すら用意しなかっただろう。やりたかったのは敵軍の壊滅であって、小さく削る事じゃないからな」

 

 アキラはその大胆な作戦に溜め息を吐くと共に、恐ろしさすら覚えた。

 その十万を削る為に二万を餌にした、という事は失敗すれば、その二万全てが全滅するという事だ。作戦の成否でその命運が分かれる。

 従う方も気が気じゃなかっただろう。

 

「そして川へ逃げ込む我軍へ突撃をしかけた敵軍を、その場に残ったミレイ様が魔術を使って吹き飛ばした」

「ミレイユ様が一人その場に残って、魔術を撃ち込んだんですか?」

「いや、我らも壁役として残っていた。いつもの四人だな」

「四人対十万っていう構図になるんですか、それじゃあ」

 

 アキラの怖々とした発言に、アヴェリンは顔を横に振る。

 

「いいや、ミレイ様対十万と言って良い。矢避けの為に残っていたが、実質的にはそんなものだ。制御を終わらせるまでの間、堅守していれば良かったからな」

「たった一発の魔術が、趨勢を決定したって事ですか?」

「そうだ。補助として他の二人も協力していたが、必須という訳でもなかった筈だ。……どうなんだ、ユミル?」

 

 突然話を振られて、ユミルはグラスに口を付けたまま片眉を上げた。

 小さくグラスを傾けて中身を少し口に含むと、飲み込んだ後に頷きで応えて口を開いた。

 

「そうね。……まぁ、単に制御が楽になる、早くなるってだけで、助力が必須じゃなかったのは確かよね。アタシ達が残る事で魔術防壁を築く必要もあったから……差し引きゼロってトコロじゃない?」

「……まぁ、そういう訳で、ミレイ様の放った魔術で十万の敵が吹き飛んだ」

「一発で十万人、ですか……!?」

「生き残った者もいた筈だから十割の殲滅ではないだろうが、全滅といって良い威力だったろう」

「本来の想定とは違った結果の筈なのよ。術の方も、ちょっとワケ分かんない威力してたしね。……ていうか、アレ失敗でしょ?」

 

 ユミルが呆れたような顔を向けると、ミレイユは肩を竦めて同意した。

 

「そうだ、失敗だった。威力が高すぎると分かって、咄嗟に抑えようとしたのが裏目に出た。今まで使用できた者はいない、という理由をもう少し考えるべきだった……」

「そんなの使ったんですか……」

「正確にはいたのだろうが、正確な結果を記す事を恐れたのかもしれない。……いま改めて考えると、そちらの方がしっくり来る。それにまぁ、自分なら出来るという驕りもあったな……」

 

 ミレイユは遠い目をした後、唐突に顔を顰めて下を向く。悔恨するような溜め息を吐いた。

 

「……着弾と同時に爆発。爆風が周囲数キロに渡って広がり、次いで爆縮、破壊のエネルギーが一点に収縮したのを見て、これは駄目だと思った。周囲数キロが跡形もなく消し飛ぶと理解して、集ったエネルギーを空へ逃した。それがまるで光の柱のように、爆光が天高く聳えた。森奥深くにいたエルフも、敵首都にいた王族にも、その光は見えていた事だろう」

 

 当時のことを思い出したのか、草臥れたようにユミルが笑う。

 

「そうしなければ、今頃味方もアタシ達すらも消し飛んでいたわね。作った防壁も吹き飛ばされるような有様で、三人がかりで張り直したり、後追い強化したり……。とにかく爆心地に一番近かったのはアタシ達だったから、そりゃ酷い目に遭ったのよ」

「それじゃあ、味方の軍の人達にも犠牲が……?」

「川の底に身を沈めてやり過ごしたわ。元よりその被害から逃れる為に川を利用していたんだしね。爆風や爆発は川の表面を削るように吹き飛ばしたけど、奥底に楔とロープを打ち込んでいたから、それに掴まっていれば被害を受けなかったのよ」

 

 呆けるように生返事をしてしまい、ユミルも呆れたように笑う。

 これはアキラというより、その所業を巻き起こしたミレイユに対してのものらしかった。ユミルの視線がそれを物語っている。

 

「そもそも、あんな近距離で使うようなモンじゃないって、知っとけって話でしょ。明らかに威力過多だし、アンタは魔力欠乏に陥るしで、てんやわんやよ」

「ミレイユ様ですら足りなくなる魔術なんですか……」

「一発撃つだけならいけたんでしょうけど、その後の防壁構築で、その爆発やらを耐えるのに多く魔力を消費したみたいね。……でもそれがエルフを助ける決定的な一打になったし、エルフを追い詰めるとあの魔術が飛んでくると思わせたし、あの子も畏敬をもって扱われるようになったワケ」

 

 一人で一軍を追い返せるような魔術士なら、それはそうもなるだろう、と思いながらミレイユへ顔を向ける。

 特に魔術に対して深い誇りを持つエルフには、そのような魔術を使い熟せるミレイユを敬うような気持ちを持ってしまうのも当然なのかもしれない。

 ミレイユ自身は渋い顔をしてコーヒーカップを傾けていて、この事に何か口を挟んだり付け加えようとするつもりはないらしい。

 

「それからね……。この子が、たった一人で戦力過多って言われるようになったのは」

 

 あんまりな言いように思えるが、同時に的確な表現のようにも思える。

 そしてそれは、決してその魔術だけを現した言葉ではないだろう。話を聞くに、ミレイユは何でも出来ると言われていた。その事も多分に含んでいるに違いない。

 



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提案と決断 その7

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 アキラは、やれやれとミレイユが首を振り、コーヒーカップをソーサーに戻す姿を、複雑な心境で眺めていた。

 

 ミレイユは相変わらず何一つコメントらしい言葉を言わないが、それはきっと、彼女に取っては誇れる事ではないからなのだろう。一人殺せば殺人で、百人殺せば英雄だとは言うが、十万近い人の命を自らの放った魔術で奪うというのは、一体どういう心境になるものなのだろう。

 

 もしもアキラにその手段があって、使わなくては多くの味方を殺してしまうのだとしても、だからといって躊躇なく使えるかと言われたら無理だと答える。

 その時のミレイユに、どのような葛藤があったのかは分からない。

 しかし現代日本に住む者の感性として、やるべき事はやったと枕を高くして眠れる気はしなかった。

 

 必要だからやったのだと、そう簡単に割り切れるものだとは思えない。だからミレイユも、きっと同じような気持ちなのではないか、という気がした。

 だから殊更、己のやった事だと誇示するように話を聞かせる事もないし、話そうとするアヴェリンを諌めようともする。

 

 だが、根っからあちらの世界の常識で生きているアヴェリンからすれば、それは勲に他ならず、語るべき武勇として映るのだろう。

 敵軍がどのような悪政を敷き、弾圧していたのかは知らない。想像すら出来ないが、だがもし、それだけの被害を出さなければ意見すら聞かない相手だとするなら、力の誇示は必要だったのかもしれない。

 

 敵に回すのは割に合わないと思わせるのは重要な事だったろう。そして、それを為せる人物が味方にいるとなれば、エルフ達もさぞ溜飲が下がったに違いない。

 救い主や、救国の英雄として祭り上げたくなる気持ちも分かる。

 

 以前ルチアが言っていた、エルフと人間の歴史云々というのも、そこに関係があるのかもしれない。

 そこまで考えて、改めてテーブルの上を見渡した。いつも四人は大体一緒にいるのに、今日はルチアだけがいない。

 

 鍛錬から目覚め邸宅へ入った時、彼女は食事の準備でもしているのだろう、と思っていた。だが実は、既に食事は済んでいて、アキラを待っていただけと分かった。

 お茶の準備をしているのかもしれないとも思ったが、だとしても余りに遅すぎる。今日はそもそも、彼女は一緒ではないのだろうか。

 

 珍しい事だが、必ず一緒でなくてはならない、という話でもない。

 日本の常識が薄かった当初と違って、今なら一人で出歩く程度、許可されているだろう。

 それでも何となく気になってしまって、アキラは話の腰を折ると分かりながら聞いてしまった。

 

「あの……、ルチアさんはどうしたんですか? 今日は姿が見えないですけど」

「何よ、今度はルチアが気になるの? 恋多きお年頃ってワケ?」

「何ですか、今度はって! 別に誰にも恋してないですし、単に見かけないと思っただけで!」

 

 ユミルは嫌らしい笑みでニヤニヤとしながら言うので、アキラも声を荒らげて返す。大袈裟に手を振ってアピールするも、この様な遣り取りはありふれたものだけに、アキラ達の姿がミレイユの目に映っていない。

 そもそもミレイユは、この類のゴシップには微塵も興味がないようだった。

 

「ルチアなら今日は別行動だ。私達が何かと忙しくしているというのは嘘ではなくてな、その中でもルチアは特に忙しくしている方だ」

「因みに一番暇してるのがアヴェリンね」

「馬鹿を言うな。私はいつでもミレイ様の護衛の任を果たすべく、周囲への警戒を怠ったりしていない。ワインばかり飲んでいる、お前に言われる台詞ではないな」

「イヤね、神宮の部屋じゃ日本酒だって飲んでるわよ」

「そういう意味じゃないでしょ……」

 

 アヴェリンとユミルの、よく見るじゃれ合いが始まって、アキラも溜め息を吐きつつ小さくボヤいた。そうしている間にも、二人の言い合いは加熱していく。

 しばらく見守っていれば、勝手に飽きて終わるだろうと思っていたのだが、予想に反してより激しさが増して来たようだ。

 

 アキラが縋るような視線を向けるのと、ミレイユがテーブルを指先で叩くのは同時だった。

 トントン、と小さな音が鳴っただけで、ピタリと二人の舌戦が止まり佇まいも直る。

 

 こういうところを見ると、やはりミレイユはリーダーとして認められているんだな、と感心する。ユミルも普段は自由奔放で誰の言う事も聞かなさそうなのに、ミレイユの本気の怒りだけは買いたくないようだ。

 

 愛されてもいるが、同時に恐れられてもいる。

 それが二人から感じた、ミレイユの人物評価だった。

 

 ミレイユは二人へ睨めつけるよう交互に動かした後、表情を和らげアキラを見つめる。アキラは怒られていない筈だが、その瞳に見つめられれば、自然と背筋が伸びる思いがした。

 

「……そろそろ、いい時間だ。ルチアの様子も見に行かねばならない。手伝える事もないだろうが、傍に寄り添うだけで気分も違うだろう。現世に踏み留まる努力をしているルチアに、遊んでばかりいるのも悪いしな」

「踏み留まる……?」

 

 アキラの疑問には手を外側へ振り払うような動作を示すだけで、何も応えてくれない。まるで、聞かなかった事にしろ、とでも言うような手振りだった。

 

「そういう事らしいから、アンタも帰りなさい。忙しくしてるっていうのはね、別に方便ってワケでもないのよね」

「はい、分かりました。そういう事なら僕も帰ります」

 

 アキラは席を立って一礼する。それから椅子を戻して踵を返そうとしたところで、ミレイユから声が掛かった。

 

「明日、昼過ぎには迎えの者が来るだろう。それまでに準備を終わらせておくといい。寮の部屋には当日から暮らせるように設備は揃っているらしいから、最低限着替えさえあれば、どうにかなるそうだ」

「え、あー……。でも学校の方に連絡とか……。HRで皆にお別れの挨拶とかですね……」

「却下だ。……いや」

 

 キッパリと否定されたと思いきや、顎の下に手を当てて何事かを考え始める。五秒と経たぬ内に視線を戻し、それから一つ頷き言ってきた。

 

「明日の昼までは自由だとも言えるしな。お前の学校には連絡がいっている筈だが、親しい友人には自ら説明したいところだろう。だが、理術や神宮の事を除いて上手く説明する事が出来るのか?」

「う……!」

「神明学園はスカウト制を採用しているだけあって、そういった説明をする専門の人間もいる。気持ちは分かるが、そっちは任せておけ。友人にはスマホで連絡して、ボロを出さないように済ました方がいいだろうな。……今生の別れという訳でもないし」

 

 確かにアキラには、事情を全て踏まえて破綻なく説明できる自信はない。

 ただ配慮という以前に、不誠実という気がして嫌だった。そもそも、急いで決めずに段階を持って話を持ってきてくれれば、問題など起きなかったのだ。

 

 本来、転校となれば学期を境に移るものだし、間に長期休暇を挟めば混乱も少ない。

 そうするべきなのに性急すぎる所為で、こんな事になってしまった。

 

 ――性急すぎる。

 そこで思わず、ハタと思考が止まる。遮断機でも降りてきて、動きを強制停止されたかのような気付きだった。

 

 急ぎすぎている、というのは確かだ。

 今日のアキラの動きを見てから転校を誘うか決めたと言ったが、それならアキラの通う学校へは、一体いつ連絡をしたのだろう。ミレイユの言葉を全て信じるなら矛盾が生じる。

 あるいは予め、全てどうするか決まっていて、アキラには事後承諾を取るつもりだったのだろうか。

 

 急ぎすぎというより、まるで追い立てられているようだ。

 そこに妙な胸騒ぎを覚える。魔物が格段に強くなっている、とミレイユは言った。その事に関係していて、それで戦力が一人でも欲しいというなら、それは理解できなくもない。

 

 だがアキラは事情を説明されれば――力を貸してくれと請われたら、一も二も無く承諾するだろう。断る選択肢など持っていない。それはミレイユのみならず、アヴェリンも理解していそうな事だ。

 ここまで性急に、承諾を得る前提で周りを動かす必要があるのだろうか。

 

 分かりそうで分からない。

 手が届きそうで届かない、非常にもどかしい気持ちでいると、肩を揺すられている事に気が付いた。ハッとして横を見ると、ユミルが不思議そうな顔で見つめている。

 

「どうしたの、アンタ? 急に動きを止めちゃって……」

「疲れているなら良く休め。転校すると、今より疲れる生活になるのは間違いないぞ」

「そうですね……。そうします」

 

 アキラはどういう事か聞いてみたかった。事情があるなら説明して欲しいと思ったが、同時に聞いてしまえば、何か取り返しのつかない事になりそうで怖かった。

 不安になる気持ちを抑えつけ、それでも信じようと心に決める。今までだって辛い思いをした事は多くあったが、それら全てはアキラの為になっていた。

 

 話さないというなら、今のアキラには知らなくて良い事なのだ。

 そのように自分を説得して、アキラは改めてミレイユへ一礼しダイニングから出る。邸宅から出て自室に戻り、今は支え棒が外れた小箱を見た。

 

 後ろ髪を引かれる思いで小箱を見つめていたが、意志の力で断ち切り顔を背ける。まずは汗を流してしまおうと、寝室へ着替えを取りに入って行った。

 



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提案と決断 その8

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
事細かく指摘して頂きまして、大変恐縮しております。
 


 アヴェリンは純然たる武勇伝と思っている様だが、ミレイユからすれば単なる失敗談でしかない話を披露され、汗顔の思いで聞き流す努力をしていた。

 結局は巻き込まれて少しばかり注釈を加える事になったが、結局それも言い訳に終始するようなもので、自らの未熟さを釈明するものでしかなかった。

 

 退席しようとしたアキラが不自然に動きを止めたのも、そこに理由があるかもしれない。

 何も見栄を張って良い所だけ見せようなどと考えている訳でもないが、さりとて不甲斐ない所を見せたくないという矜持もある。

 

 アヴェリンを始めとした三人には、誇れる主人であろうと決めたミレイユなので、そういうやらかしを表に出されると、やるせない気持ちになる。

 心の奥底では重い物を飲み込んでいるとはおくびにも出さず、ミレイユは箱庭から自室へと帰ってきた。

 

 服装は箱庭で過ごす普段着なので、神宮内で同じ衣服だと浮いてしまう。

 それだけではなく、これから御影昇日大社へも赴かねばならない。神宮に次いで格式高い社へ行くのに、オミカゲ様の御子神たる存在が洋風の衣服を纏って見せるというのは、いかにも外聞が悪かった。

 

 神宮から大社へはそれなり以上の距離があるが、一度場所を訪れマーキングしたからには、距離はミレイユにとって敵ではない。

 既に先触れを送って到着時間は知らせてあるので、それまではゆっくりと準備が出来る。

 

 ミレイユの御付きとなっている咲桜には、既にお召替えについて進言されていた。それを断って先にお茶の準備をさせたのはミレイユだ。

 今もアヴェリンは決して離れずという言葉を忠実に護り、部屋の中でも睨みを利かせている。咲桜を疑っている訳ではないが、例え誰であっても、警戒を解く訳にはいかないという理由からの行動だった。

 

 ミレイユが着替える為、別室へ移動する際にも結局ついて来るのだが、ポットで茶を用意しておけば、彼女も飲みたい時に勝手に飲むだろうという配慮だった。

 その咲桜が帰ってきて、テーブル中央にポットと茶器を用意した後、側仕え三名を連れてやって来る。

 

「お待たせいたしました、御子神様。すぐにお取り掛かりしましょうか?」

「ああ、頼む。この後、大社まで行かねばならないからな」

「お任せ下さい。大社の巫女様方に白い目で見られぬ様、誠心誠意取り組ませて頂きます」

 

 咲桜が一礼すると、他の三名も同じタイミングで頭を下げる。まるで軍隊のような、というほど堅苦しいものではないが、一糸乱れぬ一礼だった。顔を上げた者たちには見覚えはない。それもその筈、召し替えの際には専属ではなく、どうやら日替わりでやって来る側仕えだと、最近分かった。

 

 ミレイユが頻繁に移動して、その度にお召替えをすると気付いてからは、それに関わりたい者たちが急増した。オミカゲ様は基本的に直接関われる機会は稀で、また長く務めその実力も高い者たちで占められる。

 

 だが御子神となると、その辺はまだ厳格ではなく、新人であっても関われる可能性がある。お召替えとなると更に緩く、直接的な会話をする事もない為、その審査基準も甘い。

 それが判明してからというもの参加希望者が続出し、結果ローテーション制にするというところで落ち着いたようだ。

 

 ミレイユからすれば知らない顔、慣れない相手ばかりで落ち着かないのだが、教育に付き合うと言った手前、こっちは嫌だという主張は通らなかった。

 

 ――謀ったな、オミカゲめ。

 衣服を剥ぎ取られ、着せ替え人形となりながら呪詛を吐く。とにかく一人で着替えられる物ではないので、今は甘んじるしかないのだ。知らない顔など些細な事で、三巡もする頃には見慣れた顔、慣れたものだと開き直れるだろう。

 

 準備が万端終了し、ミレイユの身長よりも高い三面鏡の前に立つ。

 神御衣は新雪のように白く、一片のくすみもない。布は柔らかでありつつ、糊付けしたかのように皺もなく綺麗なものだった。両腕を拡げてみても同様で、多くの布が重なり合うようなのに、やはり変な皺や腕を持ち上げた時の引っ掛かりもない。

 

 背後に映る女官の三人は、目を伏せ両手は臍の下で重ね、背筋を伸ばして立っていた。そちらへ小さく頷くように目礼する。途端、表情は崩さぬものの、身震いするように小さく揺れた。

 

 目礼一つで人に取っては最上級の礼になる、と教えられたが、今更突然やめてしまうと自分たちに何か粗相があったかと自己嫌悪に陥る者が続出したので、今ではそれを再開した。

 お世辞を口にする訳でもなく、頷くだけで満足するなら別にいいか、とミレイユも開き直った格好だった。

 

「では、大社へと赴く。……アヴェリン」

「ハッ」

 

 短い返事と共にアヴェリンが身を寄せ、護衛の任を全うするべく右斜め後ろの定位置に付く。

 そして部屋の外へと連れ出されると、そこには既に控えていた咲桜が、先導役として待っていた。大社までは転移で行けるが、奥御殿の何処でも使用して良い、という訳ではない。

 

 転移は便利だが、その使用には厳格な規則が設けられている。

 転移術は高等で誰にでも使えるものではなく、今代の術士に扱える者は今のところいないが、さりとて好きに使用させるには怖い術だ。

 だから専用の部屋で使う必要があり、ミレイユは今そちらへ先導されつつ向かっている最中だった。そして長い時間を経て到着すると、その送り迎えをする女官たちが待機していた。

 

 小さく手を挙げる程度の挨拶だけを済ませると、短い時間で制御を完了させ、掌に握り込んだ紫の光が飛び散る。次の瞬間、二人の姿は掻き消え、目的の場所へと転移した。

 後には、その見事な制御力に感嘆する女官たちの溜め息だけが残った。

 

 

 

 御影日昇大社は規模でこそ神宮に敵わないが、その広大な敷地は他の神社に類を見ない。境内入口には御影石を用いた大鳥居があり、堂々たる佇まいを見せている。

 

 当時、治承四年(1180年)に書かれた史料によると、源頼朝は挙兵直前に大社への奉幣を命じ、その後の戦で見事敵将を討ち取ったという逸話が残る。また、頼朝は同年に平家軍との戦のため西へ向かう際にも大社を拝んだという。

 

 このような戦勝祈願をするほど大社は源頼朝から篤く崇敬され、頼朝からは神領の寄進、臨時祭料として御園の寄進をし、正月に参詣、馬や剣の奉納も行われた。

 ただこれは、単に熱心な信仰というだけでなく、神宮にてオミカゲ様の不興を買った償いの為という側面も持ち合わせている。

 

 頼朝が開いた鎌倉幕府は、この大社を神宮と並んで遇し信仰している。頼朝以後も鎌倉幕府将軍は代々御影日昇大社へ参詣しており、特に四代将軍・藤原頼経は最も多くの参詣を行なった。

 そこまで続く篤い信仰が、今日の御影日昇大社を作る原型となっている。

 

 その御影日昇大社の主要社殿は本殿、幣殿、拝殿からなり、大社側ではこれらを御殿と称していた。その歴史は古く、千百年頃には現在の大社の原型となる本殿のみが既に造られていた。

 それから時間を掛けて主要施設が加えられ、時の流れと共に修繕される形で現在の形へ変化していく。

 

 本殿、幣殿、拝殿いずれも総欅素木造で、国内有数の規模の社殿だった。

 また本殿脇障子にはオミカゲ様の説話に基づく彫刻を始めとして、本殿の内法上の小壁、本殿と拝殿の蟇股などの要所に彫刻が施されている。

 これらは数人の名工が競い合って完成させたものといわれ、これら社殿三殿は日本を代表する建造物であるとして、国の重要文化財に指定されている。

 

 拝殿前に建てられている舞殿(ぶでん)は、本殿等と同時期に創建され、古くは「祓殿」と呼ばれる神楽祈祷を行う場だった。しかし後に舞の奉納も行われるようになったので、「舞殿」と称されるようになり、いつしかそれが通称となった。

 

 現在では、舞の他にも各種神事でも使用されているものの、実際には現在も祓殿の役割は些かも変わってはいない。もしも敵が結界を突破した時、分かり易い名称のまま残して襲撃されるようでは困った事になる。それを嫌い、擬装にでもなればと現在の形へと変化していった、という裏の世界の人間だけが知っている真実もある。

 

 この日本へやってくる渡鬼(わたりおに)に対抗する為の結界を張る術士は、この舞殿から全国を睨む制御を行っているのだ。

 

 ミレイユはその入口前に立って、巫女の案内を受けていた。

 御子神が訪れるというだけあって、その警備も物々しい。裁判所でも見かけた、槍を手に持った兵が四方を囲むように立っている。見ただけで魔術付与されていると分かる武具を身に着け、何者が襲って来ようと迎え撃つ構えだ。

 

 当然、全員が理術士で、恐らく玉体警護の責任を持つ由井園が、その警備に当たっているのだろう。

 本来は境内に人が溢れている筈だが、現在は締め出されて内側を窺う事は出来ない。全ての門は封鎖され、参拝者も困惑すると共に何があったのかと不便している事だろう。

 

「随分と大事になってしまって、軽々しく来るなんて言うんじゃなかったな……」

 

 一度目は完全な不意打ちというか、抜き打ちでの訪問だったから、それは大層驚かせた。一千華は既に一線を退いている筈だが、ルチアの指導という事でその場にいた。

 大抵のことには動じないと思っていた彼女すら、この突然の訪問には面食らっていた。

 だから、次来る時には先触れをなさいませ、とキツく注意されたのだ。

 

 申し訳ないと思ったのは事実なので、今度は間違いなく先触れを出してから訪問した。

 それがまさか、全門封鎖の上、並べる程に警備兵を用意した上で迎えられるとは考えもしていなかった。護衛というならアヴェリン一人で事足りるし、ミレイユ一人でも迎え撃つのに遜色ない。

 

 奥御殿で暮らしていても見える範囲に兵など置いていないので、ここでも同じように行くのだと思っていたのだが、全く予想が外れた。

 姿が見られれば騒ぎになるのは分かるので、転移して来るなら封鎖すれば安全というのも分かるのだが、どうにも物々しく、また仰々しく思えて申し訳ない気持ちが先に出る。

 

 だが、そんな独白も巫女からすれば、考慮に値しない事であるようだ。

 

「とんでもない事で御座います。御子神様御自らのご来臨、誰もが恐悦至極、喜びに打ち震えております。此度、舞殿へお招き出来る栄誉以上に、大切な事など御座いません」

 

 ミレイユはそれには応えず、ただ首肯する事で示した。

 巫女は恭しく礼をして、舞殿の入口を開く。ミレイユが中へ踏み込めば、そこでも巫女が左右に整列して頭を下げて列を作っていた。

 

 それへ鷹揚に頷いて見せて、その中央を歩く。

 辿り着いた先には大きな扉があって、その前で待ち構えていた二人の巫女が礼をしてから開く。スライド式の扉は大きく開かれる毎に、その部屋の全貌を露わにしていく。

 

 仰々しい設備があるのかと思ったがそうではなく、実際には斎祀で見かけるような、注連縄や祓い棒の先端に付いている紙垂(しで)の様なものが、壁際に飾られているだけだった。

 そして中央には畳を組み合わせて正方形に作った四畳程のスペースがあり、それぞれの対角線上に垂直に立てた白木の棒と、紙垂が糸で結ばれていた。

 

 ただこれは、単なる見栄えで用意したものではないと分かる。

 部屋を構成する全てのもが、それぞれ非常に高度な魔術付与がされている。霊脈が複雑に交叉し、その一点に集中された真上に術者が鎮座する畳が置かれている事を考えても、この部屋が結界術をサポートする巨大な装置となっていると察した。

 

 今はそのすぐ傍にルチアと一千華が立っていて、ミレイユの入室と共に一礼する。部屋の中で待機していた他の巫女もまた、それに続いて礼をした。

 

 ミレイユは黙って礼を受け取り、面を上げるのを待つ。

 しかし、いつまでも上げる気配が見えないので、何か間違ったかと不安になり始めた時、ようやく二人が顔を上げた。それに続いて巫女達も顔を上げる。

 

 隠れてホッと息を吐きながら、正直ルチアから仲間としてではなく、部下としての礼儀をされて居心地の悪さを感じた。本人の意志ではなく、大社が神を迎える礼儀としてやらされているのだろうが、どちらにしても気まずい。

 

 ミレイユの心情を推し量ったのか、ルチアが困ったような顔をして笑った。

 それを横目に一千華が改めて礼をした上で、上品に微笑んだ。

 

「御子神様のご来臨、大変恐縮でございます。ようこそお出でいただきました、本日はどうぞ、よろしくお願いいたします」

 



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提案と決断 その9

「出迎え、大儀」

 

 状況に合わせた相応しい言葉や対応など、ミレイユは知らない。だからそれらしい台詞を口にしてみたのだが、一千華からの反応は上々だった。

 周りをそれとなく見渡してみても、不審に感じている様子はない。あったとしても反応を見せていないだけ、となるとお手上げだが、こればかりは教育すら受けていないミレイユにはどうしようもない事だった。

 

 気持ちを切り替えて、ルチアの方へ顔を向ける。

 彼女は困ったような情けないような表情で、曖昧に笑った。

 

「わざわざ御足労して貰って、申し訳ありませんね」

「お前にまでそんな事を言われると、何だか悲しくなる。いつもどおりにしてろ」

「いや……、この空気の中で、それはちょっと難しいと申しますか……」

 

 ルチアは隣の一千華を窺うように顔を向けた。

 老齢の身体に直立は堪えるだろうに、背筋はピンと伸び、大宮司を示す紫袴の巫女服も皺一つない。威厳漂う姿から発せられる雰囲気は、些細な粗相も許さないと如実に告げていた。

 

 一千華はミレイユの正体を知る数少ない人物だ。

 本当は御子神などと、讃えられるべき存在でない事も知っている筈。それでもオミカゲ様の御子神としての態度を崩さないのは、そこに何らかの意味を見出しているせいなのかもしれない。

 

 あるいは単に、オミカゲ様という偶像に傷をつけたくないからか……。

 周りに目がある状況で、そう軽々しく今まで築き上げてきた畏敬を崩すわけにはいかない。

 彼女にとってオミカゲ様とは、畏敬を持って接するべき存在にまで昇華されているのだとしたら、その態度にも納得できる気がした。

 

 ともあれ、ここで立ちっぱなしという訳にもいかない。

 本日やってきたのは、ルチアの結界に対するアプローチ結果を知る為であって、見学に来た訳ではないのだから。

 

「それで、ルチア……? 進捗状況はどんな感じだ?」

「まだ教えられてから日数も経っていないので、あまり良くないですね。……いえ、見栄を張らず正直に言いましょう。私の苦手分野なので苦戦しています。なので……」

 

 それ以上は口にせず、ルチアは項垂れるように下を向いた。

 ルチアはエルフとして間違いなく天才と呼ばれるに相応しい才能を持って生まれたが、同時に大きな欠点も持っていた。中級魔術までしか覚えられない、という欠点だ。

 

 魔術は数学的理解に通ずるところがあり、その理解が出来なくては習得する事は出来ない。日本の授業でも中学までは付いていけた数学も、高校進学や理系に進んだ途端、その難易度に付いていけなくなるという話はよく聞く。

 

 エルフは元より魔術的知見に長けているので、才人が躓くとしたら、むしろ実践使用の方だった。まず理解が先になければ習得できず、かといって習得さえ出来れば、誰もが習熟できるという問題でもない。

 

 今度は楽器を演奏するような器用さが必要になるので、その両方に秀でるようでなければ、上級魔術は使用できるものでもなかった。

 ルチアは幸い、そちらの才能はあったので中級魔術を使っても他の追随を許さない実力を持っていたが、エルフとしては実践使用よりも習得する事に重きを置く。

 

 魔術を誇りとするという事は、必ずしも使用する事と意味を同じくしない。

 ルチアはその思想の為に躓き、爪弾かれ、遂には里で身の置き場を失くした。かつて将来を渇望された才人の姿はなく、己の才気に絶望した凡人が出来上がった。

 

 凡人といっても、それはエルフの世界での話であって、そこから一歩飛び出せば、やはり才人として活躍できた。中級魔術を使い熟せる人間というのは、存外少ない。それを無詠唱で扱える、となれば更に少なかった。

 だから傭兵稼業で考えれば、それは引く手数多の外向魔術士として扱われ、誰もルチアを下に見るような事はしなかった。卑下する必要もなく、誰からも必要とされた。

 

 そのような時だ、ミレイユがルチアと出会ったのは。

 

 ミレイユは思い出に思考が没頭し始めた事を自覚し、ハッとなって元に戻る。

 未だ項垂れるようにしているルチアの肩を叩いて撫でてやる。

 ルチアが躓いているというのなら、結界の扱いは数学的理解からは切っても切り離せず、だから絶望的だと言うなら、こうまで項垂れる気持ちは理解できる。素直に諦めて良いとすら思う。

 

「……まだ始まったばかりだから、と無理を言い渡すつもりはない。時間だって潤沢に残されている訳じゃないんだろうしな。その限りある時間で達成できそうにないというなら、それに固執する事はない」

「その言葉は有り難いです……。本当に有り難いんですけど、もう少し努力してみたいと思います」

 

 努力は絶対裏切らない、という訳ではない。

 時間制限がある中で、生まれるプレッシャーもあるだろう。それでも自分自身という先達が成功させているなら、望みは確かに際あるのだ。

 問題は、やはり時間という事になるだろう。

 

「実際のところは……どうなんだ?」

 

 ミレイユは一千華へ視線を移し、ごく柔らかく問う。

 果たしてルチアに望みはあるのかどうか、過去自分が通った道から算出すれば、ある程度説得力のある数字を出してくれるだろう。

 そう期待して、ミレイユは軽い気持ちで聞いてみた。

 

 一千華は既に答えを用意していたようで、一拍の間も置かず返答してきた。

 

「殆ど絶望的でございます、御子神様。わたくしが予想していたとおりですので、然程驚きはありませんが」

「そこまでか?」

「こればかりは……適正の問題ですので。手取り足取り教えて上げる事は出来ます。細かく注釈を入れて導く努力も致しております。いずれは到達出来るでしょう。しかし、問題は時間なのです」

「やはり、そこへ行き着くか……」

 

 ミレイユが苦い顔で溜め息を吐くと、一千華は同意して頷く。

 

「はい、時間です。仮にの話ですが、アキラさん……彼に才能があったとして、今から鍛えてアヴェリンに並び立つまで、どのくらい時間が掛かると思いますか?」

「アヴェリンと同程度の才気がある前提で?」

「左様です」

 

 ミレイユは一度振り返り、アヴェリンの顔を矯めつ眇めつしながら考える。

 彼女の実力は、あちらの世界でも有数の実力者だった。並び立てる戦士は五指に満たず、単純な技量のみならず魔力量から生み出される瞬発力は、誰にも止められないとされる程の武勇でもって語られた。

 

 当然、一朝一夕で身に付いた力ではない。

 彼女の努力も然ることながら、その師匠にも恵まれたからこそ達成できた実力だろう。それも加味したとして、その薫陶を最初から教授できたと考えても一年では不可能だ。

 最低でも、その倍以上の時間は必要だろう。

 

「まぁ、甘く見ても二年かな……」

「正確な分析ですね、わたくしも同意見です。このルチアに、わたくしが教え込むなら一年で仕込んで見せますが、()()()()()を楽観的に見ても、保って一年といったところでしたでしょう?」

「……そうだな、早ければ半年という話も出ていたな」

 

 一千華は首を左右に振る。実に諦観のこもった仕草だった。

 

「とても間に合いません。自分自身(ルチア)の事を悪く言いたくはありませんが、無理なものは無理でしょう」

「うん……」

 

 ミレイユは一千華につられるようにしてルチアを見る。その言葉を聞いても、ルチアの瞳から活力は失われていない。諦め悪くしがみついてやる、と語ってくるようですらあった。

 

「どうやら、今の話を聞いても止めるつもりはないようだな?」

「ええ、無理だと解っているからと努力を諦める事はしたくありません。アキラだって岩に齧りついてでも離そうとしていないのに、どうせ無理だからという理由で止めたくないです」

「へぇ……」

 

 ミレイユは思わず口の端を曲げて、まじまじとルチアを見つめてしまった。

 アキラが見せる努力は、ルチアに良い影響を与えていたようだ。確かに諦めの悪さだけは一流だと、ミレイユも認めるところではある。

 かつて、一度は挫折した道を再度歩きだそうと思える程度に、アキラはルチアの心に焼き付けるものを見せたらしい。

 

「勿論、私は応援する。今すぐ諦めたくないというなら、とりあえず七日様子を見よう」

「ええ、必ずや良い成果をお見せしますよ」

「そうだな、期待しておこう」

 

 とはいえ、ルチアの努力を疑う訳ではないが、やはり問題になるのは時間になる。

 元より二年掛かるだろうと思われる時間を、短縮して一年なのだ。既に一度その道を踏破したからこそ、その経験を活かして一千華が近道を示せる。

 それでも一年掛かるという。

 

 その一年にしても、あくまで希望的観測を最大限に見た上で一年なのであって、本当にそこまで短縮できたとしても、やはり遅い。

 むしろ必要なのは、今から半年までの間に開く結界のフォローだ。その間にも鬼の強化は起きるだろうし、孔の拡大も続く。

 

 結界強度の問題もある。その間のフォローはどうするのか。

 孔が最大まで拡がった後に対応出来るようになりました、では余りに遅い。

 問題は時間、時間、時間だ……。

 

「もっと根本的な部分で解決しないと意味がなさそうだな」

「……と、言いますと?」

「いや、まだ具体的な事は何も浮かんではいないが。何にしても、結界を破られてしまえば意味がない。それをされるぐらいなら、最初から出現と同時に討伐完了させた方が、まだ意味がある」

 

 とはいえそれは、倒せる戦力を持っているかで大分話は変わってくるが……。

 あるいは、結界内に入って孔の縮小を試みるか。

 焼け石に水だと理解しているが、本当に無意味という訳でもない。三歩進んで一歩下がるというような、止められないが意味ある一歩だ。遅滞戦術というなら、こちらの方が意味が大きいように思う。

 

 だがこれは、将来的な結界破綻を許容する事を意味する。

 より強力な鬼が孔から出てきた時、結界はそれを抑え込み続ける事はできないだろう。その出現は遅くできるが、出現と同時に破られてしまう。いつ破られるか戦々恐々としつつも、その時を先延ばし出来るが、破られるとなると一瞬だ。

 

 そして今やっているのは、先延ばしには出来ないが結界自体を堅固にできる。強力な鬼が出たとて、その結界破綻を防げるだろう。より強力な鬼の出現に耐え得る結界という事でもあるが、より強い鬼が出たら対処できる隊士がいない、という問題を抱える事になる。

 

 だから現在、それに対処できる隊士達の強兵化を試みていた。アキラを誘ったのもそれが理由だ。

 

 結局、どちらにしても破綻のタイミングはそう変わらないのではないか、という気はする。そしてどちらを選んでも大局は変化しない、という気すらする。

 ならば好きにさせた方が気分は良い。

 どちらも先送りに出来る手段でしかなく、そしてそのアプローチをどうするかの違いでしかなかった。

 



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提案と決断 その10

あーるす様、天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 ままならない気分で首を振り、そして顎に手を添え考えていると、同じく考え込んでいるルチアが目に留まった。

 唐突に思案に暮れるルチアというのは珍しくないが、その表情は苦悶に満ちている。努力が無駄になるという公算を導き出したせいなのかもしれない。

 何と声をかけようか迷っていると、唐突にルチアが顔を上げた。

 

「出現と同時に倒す……これって不可能ですかね?」

「……どういう意味で? 保有戦力として御由緒家が最高である事を考えると、出現した鬼次第としか言いようがないが」

 

 そもそも出現する場所が分からないという問題もある。誘導も不可能で、一つの箇所で出鼻を挫かれ続けると、次から孔の出現場所は移動してしまうという話だった。

 だから警戒網を広げざるを得なかったし、場当たり的対処が最適だという結論に至ったと聞いている。

 

「でも、出現すれば瞬時に察知できる訳じゃないですか。その後展開された結界の強度に問題があって、その補強に大社が使われている。現状の術士では、後追いの補強が間に合っても、その強度にも不安が残るというのが現在の懸念じゃないですか」

「そう聞いてる」

「……ミレイさんなら、場所さえ特定できれば戦力送り込めませんか?」

 

 上目遣いで申し訳無さそうに言ったのは、結局ミレイユに頼り切る方法だと理解しているからだろう。本来、働かせるつもりがないというのが前提にあったろうし、ミレイユ自身、戦いから身を引くと公言していた。

 

 休暇に来ているようなものだ、という説明もしたが、帰還当初と現在では状況が大きく異なる。当時は本当に、現代日本に危険もなければ、危機的状況との接触も皆無だと思っていたのだ。

 だがここに至って、自ら動く事を躊躇している訳にはいかないだろう。

 

 アヴェリンはルチアの提案に難色を示し、威嚇するような気配を放ったが、ミレイユがそれを手を挙げ制する事でやめさせる。

 

「話はそう簡単にはいかないだろうな。マーキングが必要だ。私が転移できるのも、転移させるのも、それがなければ不可能だから」

「電線には魔力が――あー……、理力が流れてますよね。私達の言語も、それを利用した術式で翻訳されている。そうですよね?」

 

 ルチアが一千華へ顔を向けると、ただ静かに首肯が返ってきた。それに機嫌を良くしたルチアはミレイユに向き直る。

 

「つまり、私達の知る既存の術とは全く違う術式が使われている訳じゃないですか。翻訳理術とでも言うものを電線を通して散布させているというなら、転移術だって、そのマーキング部分を散布できませんか? 孔を察知する自動反応に、そのマーキングも組み合わせてしまうんです」

 

 ルチアが両手を胸の前で合わせて、掌を打ち鳴らす。

 

 それは一考の価値があるように思われた。電線のある場所なら日本全国どこにでも転移できる、というのはメリットが大きい。

 本来魔術とは既存の物を利用するだけで、自分から開発、発明する事は出来ない。それは神の領分で、人に出来る事ではないからだ。だが事実として、あちらの世界にはない翻訳魔術が現世にはある。

 そして、それを作ったのは誰かといったら、それは神へと至ったオミカゲ様以外にあり得ない。

 

「そうすれば、全国に分散された実力ある結界術士も有効的に活用できますよ。今のところ、同時発生するといっても片手で事足りる訳ですし、それ以外の術士を遊ばせているような状態なんですから」

「……そうだな。それらを一箇所に集中運用できれば、懸念されていた結界の補強も満足出来るかも知れない。ルチアを孔の縮小活動へ充てる事も出来る」

 

 正に一石二鳥と言える、良いとこ取りの提案だが、無論問題もある。

 それを真っ先に思い付き、また口に出したのは一千華だった。

 

「では、オミカゲ様へ相談するべき案件という事ですね。その御手を煩わせる事にも繋がり、そして可能であるかも未知数であると。そして可能であったとしても、どれ程時間の掛かる事か分かりません」

「御手を煩わせるというが、別に拒みはしないだろう。……忙しい身なのは承知の上だが、そもそもが孔の問題、解決の糸口になるかもしれない一手を無視しないと思うが」

 

 一千華は首を横に振る。その表情には何の感情も現れていなかったが、そこから発せられる雰囲気は、しっかり無理だと語っていた。

 

「それが成立するなら有効なのは認めましょう。……そうですね、ですから今感じているこの情動は後悔です。非常に後悔しています」

「どういう意味だ?」

「もっと早く思い付いていれば良かった。オミカゲ様は最初から次周を見越して動いておられた。他ならぬ、貴女に全てを託す為、その為の道を敷いていたのです。貴女が旅立つに辺り、最大限のサポートをと……」

 

 一千華が言葉を口にする度、その後悔が表に出てくるようだった。

 言い終わる頃には、その眉間に深い皺が刻まれていた。

 

「貴女方に限りある現世の時間を、有意義に過ごせるようにと接触を遅めたのも、今となっては後悔するばかりです。翻訳術式を構築するくらいなら、ルチアが言ったような術式を組み込んでおくべきでした。それを他ならぬ(わたくし)が思い付かなかったのも、……後悔です」

「今からやればいいだろう。まだ遅くない筈だ」

「いいえ、遅いのです。その術式開発にどれほど時間が掛かると思いますか? 掌から水を出すような陳腐な術とは違うのですよ」

 

 それを言われて言葉に詰まる。

 新術の開発や、それに関する難易度など気にもしていなかった。神なれば出来るというなら、やれば出来るのだろうという軽い思い付き程度の認識だった。

 

 だが言われてみれば、やろうとしている事は途轍もない。自身が全国へと魔力を送る訳ではないにしろ、それを半自動展開させているというだけでも驚嘆物だ。

 その事実を忘れていた。

 開発に掛かる時間がどれ程かかるかなど、ミレイユには想像もつかない。

 

 だが、一千華が悲観的に言うのなら、つまりそれが答えだ。

 時間が足りないという事なのだろう。ここでも時間、時間、時間だ。

 

「……じゃあ、これも無理か」

「ご相談だけはするというのは良いと思います。もしかしたら妙案をお持ちか、あるいは閃いて下さるやも……」

「そうだな……。言うだけならタダだ」

 

 ミレイユは言っておきつつ、我ながら無意味な発言だと感じていた。時間が最大の敵だというなら、それはオミカゲ様にもどうしようもない相手だ。

 

 ――時間が最大の敵。

 何とも皮肉な話だった。

 

「聞いたところで意味のない質問かもしれないが、結界の術式にはどれぐらいの時間が掛かったんだ?」

「構想から含めると、三十年程になる筈です」

「三十……」

 

 思わず口から漏れた声が、ルチアの声と重なった。

 新たな術式は全くのゼロから構築という訳でもないだろうから、同じ時間が掛かる訳でもないと思うが、それでも三十年という年月は長すぎる。それはミレイユを諦めさせるには十分な時間だった。

 

 電線の設置と共に運用を始めたとも思うから、今とは勝手も違うかもしれないが、かといってどれほど短縮できるものだろう。一年先から運用可能と言われても、それではルチア同様意味がない。

 

「話すだけ話してみるが……今の話を聞いた後じゃ、どうにも希望が持てないな」

「ですね……」

 

 ルチアも沈んだ顔を見せて頷く。

 室内に重苦しい沈黙が降りたが、それをアヴェリンが振り払う。単純に素朴な疑問を口にする気楽な声で、実際それは正しかった。

 

「箱庭を使えばよろしいのでは?」

「……なに?」

「ですから、箱庭です。あの中で過ごす時間は、調節可能だった筈では? 限界はあるにしろ、有効に使えるのではないかと、考える次第です」

 

 それは福音に等しく、頭の中で鐘が打ち鳴らされるかのような衝撃が身を突き抜けた。それと同時に、足元が崩れ去るような愕然とした思いも突き抜ける。ミレイユは自身に対し、なぜ思い至らなかったのかと殴り付けたくなるものだった。

 

「そうだ……! 確かに限界はある。だが、半分に短縮する事は出来るだろう。ルチアが本当に一年で修得できるというのなら、半年後に間に合わせる事が出来るかもしれない!」

「アヴェリンさん、貴女という人は!」

 

 ミレイユは思わずアヴェリンに抱き着き、思い切り腕を締める。加減が出来ず嫌な音を立てたが、アヴェリンの表情は満更でもないどころか、のぼせ上がっているように見えた。

 抱き締め返そうとする腕をするりと躱し、ルチアの方へ向き直る。

 アヴェリンは突然のミレイユ消失につんのめり、寂しいような恨めしいような視線を向けた。

 

 ミレイユはそれを殊更無視して、ルチアへ声を掛ける。

 

「少し展望が見えてきた。オミカゲ様の方については難しいかもしれないが、だが半分で済むかもしれない、というのは大きな収穫だ。話せば何か新しく思いつく事もあるかもしれない」

「ですね……!」

「それを実現させるにも、とにかくルチアがどれだけ習熟してたのか見せてくれないか。時間が有限である事に変わりない、有効に使えるものか見てみたい」

「ええ、それは構いませんけど……。今の調子じゃ、あまり良いところは見せられそうもありません。あまり期待しないで下さいね」

 

 苦い顔で無理に笑って、ルチアは部屋の中央、紙垂によって囲まれた畳へと向かう。糸を潜って入るところは、まるでステージに上がるボクサーのようにも見えた。

 中央で正座したルチアは背筋を伸ばし、軽く顎を引く。しばらくすると、自身の魔力が紙垂を伝わり部屋全体へ広がり、それが注連縄を通って地下へ向かった。

 

 その力の奔流とも言うべきものが、更に下へ下へと降って行き、遂にミレイユには追い切れなくなる。おそらくは、そのまま龍脈まで浸透させるつもりなのだろう。

 

 ルチアの表情が苦悶に歪む。

 自身の魔力を身体から放つのは外向魔術士として慣れたものだ。しかし、そこから離して伸ばすというのは、口にするほど簡単ではない。

 

 龍脈へ接続する事そのものが、本来なら危険行為だろう。それを可能にしているのが、周囲にある魔術付与された数々の品である事は間違いない。

 それがフォローすると共にルチアを護る役目も果たしているようだ。

 

 部屋の中に巫女の数が多いと感じたものだが、彼女達はこれら魔術秘具を起動する役目を担っている訳だ。手の空いている者もいると思いきや、残った四人もルチアを中心として正座し、囲む四隅の紙垂へ手を当てる。

 それがルチアを支援する者だと分かり、ただ見守るに留めた。

 

 ルチアの表情は、より険しく、より苦々しいものへと変わっていく。

 両手を膝の上で握り締め、それが時折強く震える。額には汗を掻き、悶えるように口の端から息が洩れた。

 

 それがどれ程続いただろう。

 顔を赤くし、息も荒くなった時、唐突に弾かれるようにしてルチアが後ろ向きで倒れた。受け身を取る事もままならず、肩から落ちては立ち上がる事もせず荒く息を整えている。

 

「ルチア!」

 

 慌てて近づき、その身体を抱き起こしたが、きつく閉じた目はミレイユを見ようともしない。荒く吐く呼吸音だけが部屋に響いた。

 そこに一千華の冷静な声が割って入る。

 

「……焦りすぎ、そして拒みすぎね。だから脈流に投げ出され、弾き飛ばされた。制御するのは自分だけではない、組み合わせ一つとなった龍脈を制御する事が大事なのです」

「それは……つまり、あまり良くない状況のようだな」

「方向性は良いし、学んだ時間から見れば他に類を見ない進歩を見せているのは確かです。ですが、まだ基礎段階すら脱していません」

「もう一度……」

 

 ルチアは抱き起こしていたミレイユから礼を言って起き上がると、再び畳の上で背筋を伸ばして正座する。しかし起きる結果に大きな変化はなく、時に一千華から叱責されながら続けていく。

 

 ようやく終わりを見せたのは、気絶するまで続けてからの事だった。焼き増しのように後ろへ倒れたルチアを倒れる前に抱き止める。

 このような事は今日だけの特別ではなく、ルチアが初めてからずっと続いている事らしい。

 

 ミレイユはルチアを掻き抱いて、汗で張り付いた前髪をどけてやる。

 今も苦悶の表情で気絶するルチアを見て、何故そこまで、と後悔にも似た感情が胸の中で渦巻いた。目の前にぶら下げた希望のために違いない。

 自分なら出来る、やれる、その姿勢を貫きたかったのだろうか。ルチアのような小さな体に無理をさせるのが心に辛い。

 

 そのいっそ献身的と思える行動を取られる度に、ミレイユはどうしようもなく自分の至らなさに気付かされた。そこまでしてやる価値があるのか、と言いたくなる。

 だがそれを聞けば彼女達への侮辱となるだろう。

 ミレイユに出来るのは、それに相応しい態度を取り続ける事のみ。

 

 ミレイユは、ルチアの小さい体を抱いたまま立ち上がり舞殿を後にする。

 自室まで転移で戻り、ルチアの部屋の布団に寝かせてやった。風呂も入りたいだろうが、そこは起きてからお付きの女官に任せようと、よくよく言い含めておく。

 

 ルチアの頭を一度撫でてから、感謝の言葉を耳元で囁き、ミレイユは部屋から出ていった。

 



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御子神の一日 その1

Lunenyx様、天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 ――ルチアは相当な覚悟を以て挑んでいる。

 それがミレイユの感じた、ルチアの意志だった。何故そこまでする、と問いたかった。だがこれは、直接本人に聞いてはいけない類の質問だろう。

 それは彼女を愚弄する事に繋がる。彼女の心情を慮るなら、彼女が誇りに思える自分になるしかない。

 

 ルチアの覚悟を身を以て知った翌日、ミレイユは中庭の散策をしていた。

 部屋の中で考えていると、鬱々としてきて精神衛生上よくない。しかし晴れた本日なら、その整えられた庭を歩くだけで、少しでも気分転換になる気がした。

 

 後ろにはいつもどおり、アヴェリンが付き従う。

 奥御殿の中庭で狼藉など起きないと思うし、アヴェリンも一人の人間として気軽に過ごす時間を設けて欲しいとも思うが、これが彼女にとって一番だと言われれば、許してやる他ない。

 

 中庭には庭師なども常駐して、その景観を完璧に整えようとしているが、ミレイユの進行方向を察するや逃げていってしまう。逃げるというと語弊があるが、視界に映るより早く場所を移るので、ミレイユが庭師の姿を目撃した事は一度もない。

 どうもお目汚しになると思っているらしく、衛兵達の情報網により向かうより前に先じて先払いが行われるらしい。

 

 ミレイユも庭を保つ為には人手が必要だと理解している。例えば、短く切り揃えられた芝生を維持しようとすれば、這いつくばって処理してなければ保てない。枯れたりして色が変わったものも、芝生そのものを傷付けないように、根から穿(ほじく)り返す、爪のような道具で引き抜くしかないのだ。

 

 広大な敷地に広大な芝生が青々と茂っているのは、その努力を決して怠っていないからだ。

 この芝生は、オミカゲ様の目を楽しませる為に整えられていたものだろう。それを思えば、ミレイユが出歩いたくらいで仕事の手を休ませるのも忍びない。

 

 そう思って一度提案した事があったのだが、御子神たるミレイユであっても、その対応は変わるものではないらしい。彼らにとってオミカゲ様が最上であろうとも、ミレイユに対する礼儀を疎かにする理由にはならない、という事らしい。

 

 今も平伏する衛兵の横を通り過ぎ、池の畔に立ち竦みながら考える。

 ルチアに報いる方法が、何かないものか。そして、それはきっと結界に対する打開策を授ける事になるのだろう。

 

 オミカゲ様へ、とりあえず書面で報告書を送ったが、それが読まれるのはいつになる事か。

 回答が返ってくるのも時間が掛かるが、返ってきたところで色良い返事がない事も理解できる。それが一層ミレイユの心を重くする。

 

 水面を見つめながら溜め息を吐きそうになり、グッと我慢する。細く鼻から息を逃して、静かに揺れる水を見るともなく見た。

 

 とりあえず明日から、ミレイユも神明学園に赴く事になる。忙しく働かせる事はない、と言われているが、それもどれほど信用できたものか。

 そちらで忙殺されるという事にはならないにしても、ルチアの手助けとなる方策を思い付ける時間を捻出できるかといったら、難しい気がした。

 

 ミレイユは重く息を吐く。出してから気づく、無意識の溜め息だった。

 その時、それまで常に気配も抑えて控えていたアヴェリンが一歩近づき、囁くように言ってきた。

 

「ミレイ様、お付きの者が近づいてきております」

「……咲桜か?」

 

 ミレイユが気配のする方へ顔を向けると、そこには果たして咲桜がいた。不躾でない距離まで近付くと一礼し、片手を横に向けた。

 

「お茶の準備が整いまして御座います。よろしければ、あちらでお寛ぎ下さるのは如何でしょうか」

 

 咲桜が差し向ける方へ目をやれば、東屋の傍で上品な和服を着た女性が、地面に敷かれた赤いマットの上に座っていた。傍らには同色の和傘が突き立っており、茶道具からは仄かに湯気が上がっている。

 そして東屋の中には横長の、背もたれがついていない椅子にオミカゲ様が座っていた。

 

 目が合えば頷くような仕草を見せてきて、思わず顔を顰める。如何でしょう、と聞きながらも、これは実質強制と変わりない。断るような事があれば、奥御殿における立場というものを失くす。

 オミカゲ様にしても、どうしてここにいるのか、仕事はどうしたと思わないではないが、昨日の返事が聞けるというなら丁度よい。もしもまだ読んでいないというなら、話をしてやる良い機会だ。

 

 和服に身を包む上品な壮年の女性は、どうやら茶人であるらしい。この場に招かれるような信用の置ける人物なら、例え込み入った話をしても聞かなかった事にするだろう。というより、吹聴するような事があればオミカゲ様からの信用を喪う事になる。

 オミカゲ様の信用という特権を、秤にかけるとは思えなかった。

 

 ミレイユは一度アヴェリンへと顔を向け、頷いて見せる。誘いを受ける事を伝え、咲桜に案内するよう命じた。恭しく礼をしたのち踵を返し、東屋までの先導に任せた。

 

 

 

 案内が終われば咲桜の役目は終わりとなるが、何かしらの用を申し付けられるかもしれないという事情もあり、少し離れた場所で待機している。

 ミレイユはそれを見送ってから東屋へと近付く。東屋は全方位吹き抜けで、誰が座っているか分かる仕組みになっている。一応壁はあるものの透かし文様が刻まれていて、人が隠れていようと一目で分かるようになっていた。

 

 手入れも行き届いていて、吹きさらしだろうに草の一本も砂埃さえ見つからない。

 東屋から離れた一角に置かれた、ビロードとは違うだろう高級そうな朱のマットの上で、茶人は深々と頭を下げる。作法に則ったものなのかは知らないが、綺麗な一礼だと思った。

 

 しかし、こういった格式高い場での作法など、ミレイユは当然知らない。

 東屋に入って座った方がいいのか、それとも一声かけるべきなのか、判断付かず縋るようにオミカゲ様を見ると、呆れたような視線が返ってきた。

 

「早う声を掛けてやらぬか。いつまで平伏させておくつもりだ。……ふむ、そうさせたいというなら好きにさせるが」

「……そんな訳ないだろう。……そこの者、面を上げよ」

 

 言われるままに顔を上げ、ミレイユと目が合う。遠目から姿は見えていたろうが、実際に間近で容姿を見ると、やはり思うところがあるらしい。

 オミカゲ様そっくりの顔を見て、驚くと同時に納得もしたようだった。

 にこりと笑って前に手を付き、再び深く頭を下げる。

 

「拝顔賜わり、恐悦至極で御座います。わたくし、裏橘宗家家元、橘あかねと申します。何卒、お見知りの程よろしく願い致します」

「オミカゲ様の御子神だ。名前は……、まぁ尊称で呼ぶだろうから別にいいか」

「良い訳がなかろうが。神鈴由良豊布都姫神(みれいゆらとよふつひめ)と言う。あかね、見知りおけ」

「尊き御名をお教え頂き、感謝いたします」

 

 あかねは再度頭を下げて謝辞を述べ、それから頭を上げる。

 ミレイユもいつまでも同じ場所で立っているのも不自然と思い、どこへ座ろうか迷う。場所としては東屋の椅子に座るのが適切なのだろうが、二人揃って隣り合わせに座るのも気不味い。

 何しろ同じ顔が並ぶというのが、特に嫌だった。

 

 野点の茶道具辺りに座り込もうとしたところで、オミカゲ様より声が掛かった。

 

「何をしておる。早うこちらへ来て、座るが良い」

 

 抵抗したところで他に座れる場所もない。無視して地べたにでも座れば、しつこく叱責すら飛んで来そうな雰囲気だ。

 それで渋々ながら隣に座り、なるべく隙間が開くよう離れて座る。アヴェリンはミレイユの後ろに立ち、鋭く周囲へ気配を探っている。彼女はこのまま、護衛の任を続けると言外に告げていた。

 いっそ二人の間に座ってくれる事を期待したのだが、職務中とでも考えているアヴェリンに、それを望むのは酷なようだ。

 

 そうしている間にも、あかねは茶を点てる準備を始めている。

 既にいつでも点てる用意はしてあったのだろうが、ミレイユが来るまで待たせていたようでもある。本物の茶人など見たこともないし、そのお点前とやらも技力的なものは一切分からない。

 そもそも茶に誘うというなら、いつものように部屋で良かった筈だ。外の開放感も素晴らしいが、格式張ったお茶会となれば話は別だ。

 

 ――だが、それよりも。

 ミレイユはオミカゲ様へ顔を向けず、流れるような手捌きで茶を点てる様を見ながら口を開いた。

 

「茶人……という事でいいんだよな? 宗家とか家元とか言ってたが」

「然様。裏橘という流派で、我が特に好むものである。あかねには幼い頃より、その才能の蕾を感じていたものよ」

「そこはどうでもいいが。……お茶を飲みたいという理由で、その家元を呼びつけたというのか? 茶ぐらい御付きの女官が淹れられるだろうが」

 

 ミレイユが苦言を呈すると、そこへ茶を一服点て終わり、ミレイユへと手ずから運んでくるあやねが、にこやかに笑いながら手渡してきた。座っている状態だから、膝をついて両手で差し出してくるあかねに、どう受け取れば良いのか分からない。

 

 普通、畳の上に差し出された物を受け取って、掌の中で三回まわしたりと、作法があった筈だ。

 差し出して来たからにはそのまま受け取れば良いと分かっても、神としては両手で受け取るような丁寧な手付きが正解なのかどうか……。

 

 迷っていると、苦笑したオミカゲ様が、首を傾げるようにしてミレイユを見てくる。

 面白そうに困惑している表情を眺めてから、ミレイユに向かって扇ぐように掌を向けた。

 

「好きなように受け取り、好きなように飲め。野点は格式や作法を忘れて飲む場でもある。ただ味わい、楽しむには最適な方法よ。何も知らないそなたに対する、我の配慮である」

「……それなら最初からそう言え」

 

 ミレイユは両手で茶碗を受け取って、手の中で回すことをせずに口を付ける。

 茶の温度は熱すぎず、思わずホッと息が出るような塩梅だった。中身は抹茶らしく甘さもあれば苦味もじんわりと広がる優しい味で、更に一口と喉奥へ押し込むつもりで飲み干してしまった。

 ミレイユが満足そうに息を吐いて茶碗から口を離すと、二人から優しい笑顔を向けられて表情が固まる。茶碗をあかねに突き返すようにして渡した。

 

「お点前を褒めた方がいいのか?」

「別にせずとも良い。良い点前なのは、我が良く判っておる故な」

 

 それとこれとは別で、礼節の問題ではないかと思う。だが言わなくても良いというなら、その褒め言葉もろくに知らないミレイユが口にするべきではないだろう。

 ミレイユはあかねの目を見て頷くに留めたが、それだけで十分気持ちは伝ったようだ。

 受け取った茶碗を胸に抱き、感動した面持ちで恭しく礼を取った。

 



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御子神の一日 その2

あーるす様、沢山の誤字報告ありがとうございます!
いつも助かっております。
 


「先程の質問に答えて貰ってないが。神っていうのは、茶が飲みたいと思えば家元すら呼び付けるのか?」

「まぁ、そうさな……。必要とあって欲すれば、それを速やかに用意するのが良き家臣であるしな……」

「つまり……何だ? 持って回った言い回しは止めろ」

「実際、呼び付ける事は出来る」

 

 ミレイユの視線が冷ややかなものに変わった。呆れを存分に含んだ視線だった。

 

「そういう反応が返ってくると分かっていたから、正直に言いたくなかったのよ。だが、今回のは違う。勘違いさせる言い方をした我も悪かったが、ともあれ違うのだ」

「何が違う?」

 

 二人が言い合っていると、思わず含み笑いをしたあかねが茶碗を持って帰ってきた。

 新しく別の茶碗を、オミカゲ様へ捧げ持つようにして受け取るのを待っている。よくよく見てみれば、その茶碗も見事なもので、さぞ価値のあるものだろうと思われた。

 

 神が直接口づける茶碗だ。粗末なものを使うとは思えないが、下手をすると国宝級のものを使っているのではないだろうか。

 そしてもしかすると、先程ミレイユが使ったものも、そうであったのかもしれない。さっきは気が動転していてそこまで観察する余裕はなかったが、次にもう一度見たら冷静でいられる自信がない。

 

 落として割ってしまったらと思うと、怖くて茶が飲めなくなりそうだった。

 オミカゲ様が茶碗を受け取ると、あかねは笑顔のままに二人を見比べるようにした口を開いた。

 

「無論、わたくしども茶人、オミカゲ様からのお呼びとあれば、即座に駆け付ける準備を致しますよ。オミカゲ様に直接給仕できる事は大変な栄誉です。断る者などおりませぬ」

「……もしかして、それが普通なのか?」

「いいや、実際のところは違う」

 

 オミカゲ様は手の中で茶碗を作法に則った形で回しながら答える。

 

「女官にとって茶の稽古は必須で、尽く作法を身に着けておる。中には看板を掲げる事を許されるだけの実力者もおる程だ。家元ともなれば忙しい身、来いと言われて即日に来れるものではない」

「じゃあ、今回は……?」

「ひと月ほど前に声を掛けておっただけの事。予定の会う日に茶を点てに来よ、とな」

「ああ、なんだ。しっかり事前に予約してあったのか……」

 

 オミカゲ様は頷いてから茶碗に口を付ける。

 茶碗を僅かに傾けて飲む様など、実に堂に入った姿だった。やはりそこは、長い年月で培った教養から滲み出るものらしい。

 飲み終わると茶碗の縁を摘むようにして、口づけた部分を拭う。

 そうやるのか、と心中で唸る気持ちが湧き出たが、ミレイユは表に出ないように振る舞う。

 

「しかし、その裏橘流というのが、オミカゲ様の贔屓にしている流派なのか?」

「そうさな、ここ三十年程はそうなる」

「やっぱり年代によって変わるのか……」

「要因は様々であるものの……このあかねは、我が知る中で歴代で三指に登る実力者でもあるしな」

「へぇ……! 歴代の裏橘で?」

「いいや、我の知る中で」

 

 思わず、あかねの顔を凝視して、まじまじと見てしまう。茶を点てる能力が外見に出るとは思わないが、オミカゲ様の知る中でという言葉は意味が深い。

 様々にある流派だけでなく、更に数百年という歴史の中から選ばれた一人と言う事だ。

 

 あかねは照れた表情を隠すように俯き、そして両手を地に付けて頭を下げた。

 

「わたくしなど、とんでもない事で御座います。全てはオミカゲ様の御威光の賜物と心得ております」

「……確かにさっきの茶は美味かった」

 

 ミレイユがポツリと呟くと、更に恐縮したように額を地面に近づける。

 実際、呼ばれたら即座に駆け付けるというのは嘘でもないだろう。オミカゲ様御用達という看板は、なにものにも代えがたい魅力がある。

 門下生などを取っているとしたら、その威光がどれ程の助けになるか言うまでもない。

 

 ミレイユが益体もない事を考えていると、オミカゲ様が口を開いた。

 

「そなたを今回の茶会に呼んだのは、この茶を味わって欲しいというのもあったのだが……。実際は一千華が突然来られなくなったから、その穴埋めとしてだった」

「ほぅ……」

「何やらルチアの熱心ぶりに感化されたものがあるらしい。目処が立つまで、そちらに注力したいと、断りが今朝早くに来てな……」

「その事については、昨日書面で上げた筈だが」

 

 オミカゲ様はコクリと頷く。

 顔を上げたあかねに茶碗を返しながら話を続けた。

 

「それについては目を通した。斬新な発想であったな。今朝の一千華からも簡単に話と謝罪を受けた。確かにこれは、事前に把握し対処しておくべき問題であった」

「それで……どうだ。可能だと思うか?」

「簡単ではなかろうな。……だが、何より時間の枷、それが箱庭で短縮できると言うのは良い着眼点だった。早くてひと月、遅くとも三ヶ月までに初回運用が開始されていなければ効果は薄いと考えれば、確かに希望は見えて来る」

「そうか……」

 

 ミレイユはホッと息を吐き、そして唐突に思い付いた。

 自身が持っている箱庭は、当然オミカゲ様とて持っている筈。それなのに、最初から全く候補に挙がらなかったのか、利用しようとしなかったのは疑問に思った。

 

「お前の箱庭はどうしたんだ。それがあれば取れる選択は色々あったんじゃないのか?」

「そうもいかぬ。あれは破壊してしまった……」

「破壊……。待て、破壊されたのではなく、破壊したのか?」

 

 微かな衝撃と共に問うと、オミカゲ様は頷く。

 それが事故であったら仕方ないと諦めるのかもしれないが、自らの手で破壊したというなら意味は異なる。何があれば箱庭を破壊する事に繋がるのか、ミレイユには想像も付かなかった。

 

「そうさな……。あれは便利だ、使っていれば手放し難くなる。そうであろう?」

「当然だ、あれがあるかなしかで、旅の苦労が随分違う」

「そして、あれは神から下賜された」

「……ああ、つまりそれが原因だと。それがお前の怒りに触れたか」

 

 そういう意味なら理解できる。

 ミレイユのループは神の手により始まった。そもそもの発端、魂の拉致が神の手に寄るもので、それ故にここまでの苦労を背負う事になったのだ。それを思えば、向け用のない怒りを物にぶつけるのは当然に思える。

 

「そう短絡的なものではない。手放し難いほど便利なら、使い続けるが道理。……あれはな、使い続けさせる事を目的として作られた」

「……なんだと?」

 

 あまりに剣呑な内容に、ミレイユは冷静でいられなくなった。あれに隠された意味があり、そしてそれが神の思惑だというなら、聞かない訳にはいかない。

 

「お前に座標の話をしたであろう。この世界へ顕現した際、お前を目標と定めていたのだと」

「そうだが……、いや、まさか!」

「そう、より正確に言うのなら、箱庭が座標となっておる。だから現世に顕現したと同時に、その確度を上げた。この近辺にいる事は間違いないとな」

「何故それを早く言わなかった? 孔の拡大はそれが原因だろう?」

「いいや、出現と同時に発覚している以上、破壊したとしても変わらぬ。一度でも、その座標を確認できれば十分。結果は変わらぬ」

「だからといって……」

 

 今まで利用していた事に寒気すら覚える。

 謂わばGPSを持ち歩いていたようなものだ。常に自分の位置を把握されていた。だから発信の後に破壊したところで、この惑星、この国にいると確信を持って行動を開始する。

 今現在受信できない事に意味はないのだろう。遠く離れたかどうかは問題になるかもしれないが、それとて探す手段は魔術的手段を駆使すれば見つけ出せる。

 

 ミレイユは苦々しい気持ちでオミカゲ様を見る。

 言ったところでどうしようもないとはいえ、言っておいて欲しかったと思う。いや、下手に暴走して破壊してしまう事を恐れたのかもしれない。自身がそうであったように、知れば破壊せずにはいられない、と思ったのかも。

 そして、それは果たして正解だった。

 

「良い機会だから言っておく。あれは残しておけ、起死回生の手段に成り得る」

「そうなのか……? 根拠は」

「それはこの場で言うべきではなかろうな。こればかりは、余人の交えぬ場でなければならぬ」

 

 ミレイユはとりあえず頷く。

 余程の信頼を受けるあかねだろうと、聞かせるべきではない事もある。それこそ例外を設けられない程の内容ならば、ミレイユも今話せと言うつもりはなかった。

 

 しばしの間、重い沈黙が辺りを漂う。

 あかねは既に、自身が聞いて良い話ではないと察して、茶碗を持って茶道具のある辺りまで下がっている。耳をすませば聞こえてしまう距離でもあるが、あの場にいるなら何一つ聞いていないし、聞こえていないという態度を取っている事にもなる。

 

 だがよくよく考えると、こうして二人で話しているような状態も、本来健全とは言えない気がした。

 茶会とは、茶を振る舞う者と受け取る者とが対話を楽しむ場である、と聞いた覚えがある。身分の上下なく、茶室では俗世を忘れて振る舞う場所でもあると聞く。

 

 だが今では、茶人を放り出して二人で話し込んでしまっている。

 深刻そうな二人を見れば、それが重大な話であると察しもつくだろうが、茶会としてはどうだろうか。話題を断ち切るべきかと思ったが、不躾や無配慮であると言うなら、オミカゲ様の方から話を終わらせるだろう。

 

 ミレイユより余程それらに詳しいオミカゲ様が続行するというなら、ただそれに付き合うだけだ。

 

「とにかく今は捨て置け、いずれ話す。問題は、箱庭を利用してルチアを鍛えられるかどうか、であろう?」

「是非とも期待したいが、上手い方法は何かないか?」

「そう劇的な短縮は無理であろう。成長などというものは、常に一定の速度で流れる単純な話でもなし……。使える時間が倍に増えたからと、習熟時間も倍とはならぬだろう」

「そうだよな……」

 

 重い溜め息を吐いて外へ目を向ける。

 東屋にある壁は、壁と言えるほど視界を遮るものはない。ぐるりを視界を回せば、その支柱程度が邪魔に思えるだけで、外の景色がハッキリと見える。

 

 ――そう上手い話はないか。

 最初から分かっていた事だ。ルチアには話すだけ話すと約束したが、その時も、それだけで事態が解決する程、簡単な問題じゃないと理解していた。

 

「転移を電線の流れる場所ならどこにでも、それもやはり無理か?」

「それこそ簡単ではなかろうよ。三十年掛かると言うのは構想を含めての時間だが、だからと言って、それを一年未満で完成させるのは更に無理だ」

 

 元よりそこは無理そうだと思っていたので、落胆は少ない。順当な返答をもらったというだけだ。

 

「だが、一千華とルチアが諦め悪く足掻いているというのなら、その二人より先に我らが諦める訳にも行くまい。少しは知恵を絞らんと申し訳が立たぬであろう」

「……それもそうだ。私は明日から学園だし、四六時中考える暇がある訳でもないが」

「それを言うなら、我とても同じ事よ。時間を見つけて――捻出して再考してみる必要があるな」

「結局、最終的に術式に手を加えられるのはお前だけだ。新しく作るにしろ、改良するにしろ、どういう手法を取るのが最善なのか私には分からないが、お前に任せる他ない」

 

 分かっておる、と短く返事をして、オミカゲ様もまた遠くへ目をやった。

 そこへ盆の上に茶菓子を乗せて、あかねが笑顔と共に戻ってきた。二人の間に丁度良いスペースがあって、そこに盆を置いては膝を畳んでその場に留まる。

 

「そのようにしておりますと、本当に瓜二つで、何やら感動してしまいますね。お互いに気の置けない間柄のようで、明け透けにものを言って……。オミカゲ様への言葉遣いには恐ろしく感じてしまいますけれど、互いにとってはそれが自然なのですね」

「此奴の口の悪さは指摘しても直らぬ。品のない口調は改めて欲しいが、今は好きにさせておる」

「まぁ……」

 

 オミカゲ様の目を細めて小馬鹿にするような仕草に、あかねは口元を抑えて笑いを堪える。滅多に見られない表情に、役得とでも思っていそうですらあった。

 オミカゲ様はそちらの方にも流し目を送って、ちらりと笑う。

 

「我の若い頃を見るようであろう。例えば、近いところで千年程前の」

「それを近いとは言わない。神様ジョークのつもりなのか?」

 

 若い頃を見るよう、ではなく、そもそも若い頃を見ているのだ。ミレイユ以外には意味が分からぬ言い回しが、渾身のギャグを言ったように聞こえたようだ。

 あかねは愛想笑いを浮かべて畳んでいた膝を持ち上げ、茶道具の方へ帰っていく。

 

 あれは呆れて逃げたか、上手い返しが思い付かず退散したかのどちらかだろう、とミレイユが考えている内に、今度は茶碗を持って帰ってくる。

 

 そう、抹茶は和菓子と共に食べるものだ。

 ミレイユは盆の上に綺麗に置かれた菓子の一つを手に取って、口の中へ投げ込んだ。

 十分に咀嚼して飲み込んだ後、口内に残った甘味を流すようにお茶を口に含む。程よい熱さが心地良く、菓子と茶が口内で馴染むようですらあった。

 

 堪能した後に飲み込んで、ミレイユはあかねに顔を向ける。

 

「先程から私達二人で話してばかりで済まなかったな。今度はお前の話を聞かせて欲しい」

「滅相もございません。ですけれど、わたくしの話が御子神様にお楽しみいただけるなら、甚だ疑問で御座いますが、その無聊を慰める一助になるのであれば喜んでお話させて頂きます」

「ほぅ……、幾らか気を利かせる事が出来るようになったか」

「その上から目線の親目線は、やめてくれないか」

 

 ミレイユの苦い顔が、あかねの笑いを誘う。

 まだ日は中天まで来ていない。全員が忙しい身の上だ、昼より前に解散する事になるだろう。それでも、今だけは目の前の難題を忘れ、楽しい時間を過ごせそうだとミレイユは思った。

 



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御子神の一日 その3

あーるす様、えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 あれから茶菓子と一杯の茶を楽しんだ後、野点の茶会はお開きとなった。

 畳の上の行儀作法など考えなくて良い茶会は、ただ味を楽しむだけで良く、ミレイユとしても十分楽しめ、また貴重な体験となった。

 

 目の前にある難題を無視するような形だが、考えれば妙案が浮かぶという訳でもない。適度に心と体を休めた方が良い場合もある。

 さりとてこれから予定もない。明日の学園訪問を控えた身としては、何か準備も必要かと思ったが、聞いた話ではそれも必要ないらしい。

 

 それで自室まで帰ったのだが、しかしそれからこちら、ミレイユは時間を持て余していた。

 というより、奥御殿へ居を移してからというもの、持て余していなかった時間などない。オミカゲ様の様に責務を持つ訳でもないから好きにして良いのだが、外出するのも憚られる。

 何しろ、身一つで済まないのが煩わしい。

 

 ミレイユがぼんやりと室内の調度品を見て回っていると、そこに咲桜が声を掛けてきた。用事を申しつける時以外、基本的に会話の遣り取りがない咲桜には、大変珍しい事だった。

 

「御子神様、もし宜しければ乗馬など嗜まれては如何でしょうか」

「乗馬……?」

「はい。先程から、何やら物思いをしておられるご様子。室内で過ごす機会の多い御子神様には、丁度良い気分転換になるのではないかと、ご提案させて頂いた次第です」

「……だが、それはこの中庭で出来る事ではないのだろう?」

 

 広い庭ではあるが、馬を歩かせ、あるいは走らせるのに向いた場所という訳でもない。

 そもそも馬房があるという話も聞いた事がなく、もしもあったらそれなりに臭いも漂って来る筈。それがない以上、外へ出て牧場なりへ向かわなくてはならないという事だ。

 

 しかも今は昼になろうとしている時間帯。昼食もこれからなら、随伴する者たちにも準備する時間を与えなければならない。移動の準備となれば、更に時間が掛かるだろう。

 日が暮れる前に帰ってこなければならない訳でもないだろうが、スケジュール的に余裕のあるものにはなるまい。

 

 気乗りしないミレイユの心情が伝わったのか、咲桜は一礼して頭を下げた。

 

「勝手なことを申しました。何卒、お許しください」

「いいや、その気遣い自体は嬉しい。ただ、行くのもそうだが、行くまでの準備も相当なものだろう? だから気軽に行くとも言えない」

「重ねてご容赦を。本日、いつでも出立できるようにと、準備を整えておりました」

「既に? 今からでも行くと言えば行けるのか?」

「はい、準備万端終えております」

 

 ミレイユは、はて、と首を傾げた。

 馬に乗りたいと口にした事もないし、そう思わせる素振りを見せた事もなかった筈だ。いつも部屋の中で籠もっている事が不健康と思われたのなら、その息抜きにと気を利かせたのも頷ける気もしたが、何もかもが急だ。

 部屋でばかり過ごすミレイユに、そこまで気を揉む様子が現れていたのだろうか。

 

 ミレイユはアヴェリンへと視線を向ける。

 時間を持て余しているのは、何もミレイユだけではない。アキラの朝練や夕練があるし、身体を動かしている分幾らかマシとはいえ、彼女もまた暇する時間は多い。

 旅をしていた以前と比べれば、随分と物足りなく感じている事だろう。

 

 いつだったか、アヴェリンにも現世で趣味の一つも見つけて欲しいと思った事を思い出す。アキラのアパートを出入りしていた頃ならまだしも、今の御殿暮らしではそれも難しい。

 あの時もあの時で、金銭的問題から不自由させていたから、叶えてやれていたか不明だが、自由という意味では以前の方があったように思う。

 

 アヴェリンは馬好きだ。

 あちらの世界で過ごしていた時も、アヴェリンはその世話を率先してやっていた。暮らしの一部と言っても良い程だった。

 それが近場でさえあれば、アヴェリンも一人で出かけるような事があるかもしれないし、それを思えば出かけるのも良いかもしれない。

 

 そこまで考えてから、視線を咲桜に戻す。

 

「因みに、行くとしたら何処になるんだ?」

「由井園家が保有する牧場になります。先方にも連絡は済んでおり、もし来て頂けるなら喜んでお迎えすると返事を頂いております」

「……今日行くかどうかなど、私の予定にはなかったろう。断っていたらどうしていたんだ?」

「その時はその時で構いません。こちらで勝手にやった事、御子神様におかれましては好きになさるが宜しいかと。勝手気ままに振る舞うは神の特権、オミカゲ様からもそう申し伝えられておりますれば」

 

 ミレイユは思わず唸って眉を顰めた。

 勝手気ままという割に、オミカゲ様は周囲を完全に固められて自由がないように思える。スマホ一台持たせてもらえず、観劇すら満足に見せて貰えないと笑っていた。

 内容を多く知る訳ではないが、書類の決裁など多くの仕事も抱えているようだ。それを知る身からすると、オミカゲ様の発言は裏があるように思えてならない。

 

 ――いや、とミレイユは思い直す。

 そもそもが僅かな現世の時間を楽しんでおけ、というのがオミカゲ様の方針だった。孔の拡大は止められず、破綻するより前に送り返す事でやり直しを決行するつもりだ。

 

 ならば好きに振る舞えという言質を与える事で、ミレイユには本当に好きにさせるつもりなのだろう。方針に若干の修正が入って学園へ教導するような破目にはなったものの、好きに暮らせるように後押しする、という発言に嘘はない訳だ。

 

「……行くと言うなら、今からでも良いのか? つまり、この瞬間から」

「勿論で御座います」

「昼食については?」

「御車を用意いたしますので、そちらでお召し上がりになられますし、到着した先で用意させる事も出来ます」

「……そうか。では、車に用意しろ」

「畏まりました、仰せのとおりに」

「それとユミルにも声を掛けてみてくれ。着いてくると言ったら、その分の用意もしてやってくれ」

「お任せ下さい」

 

 咲桜は一礼した後、部屋を出ていく。方々へ知らせに走るのだろう。待っていれば、遅からず出発の声掛けがある筈だ。

 ミレイユはアヴェリンに身体ごと向け、申し訳無さそうに笑う。

 

「すまないな、勝手に決めて」

「すまない等と言う必要はありません。ミレイ様の行く所には、どこであろうと着いて行きます」

「……うん。だが、どうだ? 久々に乗馬できるとなると、少しは楽しく思えそうか?」

「私の事をお考えになる必要はありません。ミレイ様の為さりたいように為さって下されば、それが一番よろしいのです」

「ああ、つまり今は、お前を喜ばせる事が私のしたい事だ」

 

 ミレイユはちらりと笑って肩を叩いた。ポンポンと、ごく軽く叩いた手の上にアヴェリンは手を重ねる。花開くかのような輝く笑顔で頷き、深く頭を下げた。

 

「……乗馬、楽しみだな」

「はい……!」

 

 

 

 咲桜が請け負ったとおり、準備は整っていたらしく、すぐに迎えがやって来た。

 しかし部屋の中にユミルの姿は無かったという。ミレイユはアヴェリンと互いに顔を見合わせて頷いた。

 

「まぁ、いつもの事か……」

「ですね。どうせ、どこか適当に徘徊しているのでしょう」

「そういう訳だから、ユミルの事は捜さなくて良い。この二人だけで行く」

「畏まりました」

 

 あちらの世界にあっても、ユミルは時折ふらりと姿を消した。旅の最中、情報収集して来る事もあれば、単に酒を飲み歩いていた事もある。大抵は憂さ晴らしを兼ねたもので、いつも出立前には帰ってきていたので、特に煩く言わなかった。

 

 だがミレイユに断りなく姿を消す行動に、アヴェリンは良く気炎を上げていたものだ。軍隊のような規律を求めている訳ではないものの、家長の言う事は絶対という価値観で育ったアヴェリンとは、対立が絶えなかった。

 半年もすれば言っても聞かないと判断し、好きにさせるよう放任する事にもなったものだ。

 

 もし今回の話を何処かで耳にしたのなら、どこかで合流する可能性もある。そうでなくても別に困らない。元よりアヴェリンを労うような意味で出掛けるのだ。

 

「では、行こうか」

 

 ミレイユの掛け声と共に、アヴェリンを伴い部屋を出る。

 御殿を出る頃にはそれなりの随行員がいる事が分かり、咲桜も当然のように同行している。中には鎧と槍を持った者すらいる。護衛には違いないだろうが、同時に示威目的も兼ねているのだろうと思った。

 

 御殿の中に車は乗り入れられないので、神宮から出て外にある専用駐車場まで歩かねばならない。だが当然、そこまでミレイユを歩かせる訳にはいかないと、神輿が用意されていた。

 

 既に四名の担ぎ手が平伏して待ち構えており、乗り込みやすいよう、小型の階段が神輿に続いている。自らの足で歩くと言っても、外には参拝者がいて、それはそれで目立つだろう。

 

 どちらがマシかと考えて、顔が見られないだけ神輿の方が良いかと判断した。

 専用駐車場というのも神輿が乗り入れられる程の高さや広さがあるんだろうし、一般客への貸出なんかもしていない筈だ。そこまで行けば見られる事なく車に乗り込めるだろう。

 明日の予行練習と思えば、今の内に慣れておくのも良いかもしれない。

 

 ミレイユが乗り込み、御簾が降ろされる。

 内側からは外の内容が薄っすらと見えるが、外側からはそのシルエットしか映らない。恥ずかしい姿を激写される事態だけは避けられる。

 

 神輿内は広い空間だが、他に乗り込む者はいなかった。

 アヴェリンくらい傍に置いておきたい気持ちはあるが、神輿は名前の通り、神が乗る為の輿で、他の者が乗り込む事は許されない。

 

 ミレイユが座る位置を直そうと尻をもぞもぞさせていると、掛け声が一つあって神輿が持ち上がる。非常に安定した一糸乱れぬ動きで整然としたもので、予想していたよりも乗り心地は悪くなかった。

 

 まるで水面を漂う板に乗っているかのようで、人が運んでいるとは思えない。

 中々に楽しい体験をしていると、神輿は神宮の外へ出る。重々しい音と共に扉が開かれ、それを目にしていた参拝者達は、神輿が現れた事に驚愕したようだ。

 

 波が押し寄せるようにざわめきが広がり、同時に誰もが道を開ける。

 道の両端に寄った人達は、膝を付いて頭上で指を絡めるように手を組み合わせた。オミカゲ様に対する信仰の現れで、感謝と祈りを捧げる祝詞のようなものが聞こえてくる。

 

 乗っているのはオミカゲ様ではなく御子神なのだが、周りの人にそんな事まで分からない。そもそも一般的には御子神などという存在を知らないのだ。そして神輿に乗った誰かがいるとなれば、何者なのかなど考えるまでもない。

 勘違いを訂正する事も出来ず、もどかしい気持ちで早く終る事だけ祈った。

 

 どこから聞き付けたものか、人の波は途切れるどころか更に増した。どこに向かうのかも心得ているようで、両端で膝を突く人々で道が作られていた。

 従業員らしき人も店を放り出して、膝を付いては両手を組み合わせる。誰も彼も慌てた様子ではあるものの、騒ぎ立てるような事はしなかった。

 

 もっとワッショイワッショイ言ってくるものかと思ったが、敬虔な信者の如く、その歩みを止める事がないよう見守るような感じだった。

 その信仰を捧げる事が出来る喜びを、噛み締めているようですらある。

 

 ――慕われてるんだな。

 それを改めて実感する。見せ掛けの、あるかないかの奇跡ではなく、事実として民を助ける神となれば、拝まずにもいられないのかもしれない。

 

 それをミレイユに向けられては申し訳ないが……。

 オミカゲ様とミレイユは同一人物だが、厳密には違う。千年の時を歩んできた道のりが、その差を歴然のものと知らしめている。

 

 向けられるべきは自分ではないが、せめて駐車場に辿り着くまで無心でいよう、とミレイユは御簾の隙間からゆっくりと流れる景色を目で追った。

 



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御子神の一日 その4

 神宮前通りで和菓子屋を営む孤狼堂の女将は、店の前を足早に通り過ぎていく人を見て不思議に思った。一人が足早に通り過ぎていく事は珍しくないし、不思議がる事もないが、それに五人、十人と増えていくとなると注目せずにはいられない。

 

 神宮前通りは一等地の商店街だ。格式高い老舗が軒を連ね、熱心に通う客は勿論、参拝者もまたこの道を歩く際の振る舞いを心得ている。

 誰もが敬虔な信者という訳ではないが、それでも騒ぎを起こすような不調法は起こさないものだ。神へ通ずる道というのは、それ程までに敬意を持って歩く事を意識させ、周囲の店員も粗雑な振る舞いを許さない。

 

 だというのに、まるで祭りでも始まるかのような浮ついた雰囲気を感じる。

 我先に駆け付けようとする者たちを見ると、それもあながち間違っていないように思えた。しかし本日祭りがあるなんて話は聞いていない。

 

 というより、商店街に店を構えているなら組合にも参加しているのが当然で、そういったスケジュールも全て把握している。

 誰に言われるまでもなく、本日が特別でないと女将は理解していた。

 

 そこまで考え、脳裏に閃くものがある。

 まさか、という思いがドッと胸に去来する。極めて珍しい事だが、ない訳ではない。神宮前通りが一等地なのは、その立地的価値も勿論だが、その恩恵を存分に得られる事にも由来する。

 

 店の前を通り過ぎようとしている者の一人に顔見知りを見つけ、女将は声を掛けて呼び止めた。もう凡そ想像は付いていたが、万が一という事もある。

 

「弁慶堂さん、どうなさったんです。神宮の方へ向かうという事は、やはり……?」

「ああ、孤狼堂さん。ええ、私も聞いただけですが、どうも本当らしいです。オミカゲ様が奥宮から、お出ましになられたとか……!」

「まぁ、本当に!? こうしてはいられませんわね……!」

 

 女将は丁寧にお礼を言って、店内へと取って返す。

 アルバイト店員の一人に店を任せ、店内の奥、和菓子作りの作業場へと一歩だけ踏み入れる。急いではいても、埃を立てたり、奥深くへと踏み入れたりするような振る舞いはしない。

 

 作業場には二名の職人と、その親方となる夫が作業の手を止めて訝しげな視線を向けていた。

 作業中の出入り厳禁など、女将に言うような事でもないし、女将自身も良く弁えている。その上での乱入なので、それには何か重大な事があったのだと察したようだ。

 

 何事かと問い質す事なく、女将の発言を待っている。

 

「神宮よりオミカゲ様がお出ましに……! お店は古賀ちゃんが見てくれますから、お早く――」

「なんだって!?」

 

 女将が全てを言い終わるより前に、親方は元より職人も慌ただしく動き出した。

 腰巻エプロンへと手を掛け、作務衣帽子を取り外しながら作業場から出てくる。我先へと飛び出して行くのを女将が壁に背を預ける事で避け、そして自身もまた後を追って小走りに駈けていく。

 

 ほんの僅かな間でしかなかったのに、店の外に出た時には、既に大勢の人が道路の脇を固めていた。神宮の出入り口、大鳥居からすぐ脇が一般駐車場となっている。神宮関係者の専用駐車場は、そこから少し離れたところにあった。

 

 本来なら専門駐車場ともなれば、もっと近辺に作りたかったろう。一般者用の駐車場がより近くにあるというのも不思議に思うが、この近辺は古くから店が周囲を固めていて土地が無く、それで已む無く離れた場所に作ったという経緯がある。

 離れたといっても不便に感じるほど遠くはない。

 

 御足労と不便を掛けるべきではない、という声もあった。しかし、今回のように玉体を拝める機会が生まれるので、周囲に住む人々からは有難がられている部分もある。

 孤狼堂の人達もその口で、熱心な信者ではあるものの、現在の状態はむしろ歓迎していた。

 

 神宮側にしても、その気になれば土地を買い上げる事は難しい事ではない筈だ。

 丁寧に説明すれば、その権威もあって穏便に立ち退きさせる事は出来る。それをしないのは、一重に現状が不利益ばかりではないせいだろう。

 

 信仰を理解できなくても、オミカゲ様へ感謝を捧げる喜びは理解出来るという者は多い。普段から病気や怪我から守られているのだから、それに感謝を返すのは容易い。

 短い距離であろうとも、その御姿を御簾越しであろうと拝める事が出来るのなら、何にもまして駆け付けたいと思うのは自然な事だった。

 

 孤狼堂の従業員もそうだし、いま道路を埋め尽くさんばかりの人々もそうなのだろう。

 神宮関係者は元より、十分に心得ている人達が、率先して指揮を取り進行の邪魔になる者をどかしたり、空いてる場所に誘導したりしている。

 

 女将達はどういう場所に居れば良いのか知っているので、専用駐車場に程近い場所を選んで到着を待った。終着点近くは騒がしいばかりなのに、神輿の近くは静かで物音一つしない。

 オミカゲ様を前に不敬とも不実とも取られかねない行動は慎むよう、誰もが理解しているのだ。

 

 静けさが迫る程に、オミカゲ様の御威光を感じる。

 ただ、その場に跪く音、衣擦れの音が聞こえ、話し声などは上がらない。

 

「あなた、そろそろですよ……!」

「ああ、分かってる。それにしても、このような幸運があるとは……!」

「全く縁起がいいや!」

 

 女将が声を掛ければ、夫の親方も、そして職人も口々に褒めそやす。

 誰もがオミカゲ様の御威光に触れる機会を得られて嬉しいのだ。何しろオミカゲ様が表に出る機会は多くないし、公式行事ともなると入念な交通規制が入る事もある。

 

 行事でないなら、その分少ない人員での規制になるので、今回のように一般人がお側に侍る事も出来るようになる。そのような機会は年に一度もない。

 つまり大変な幸運に恵まれたという事になる。

 

 視界に映る範囲の人垣が次々と膝を折るのを見て、孤狼堂の人達もまた同様に膝を折る。まるで波に押されるかのように、人垣の高さが小さくなっていくのを見ると、遂に来たのだと否が応でも実感できてしまう。

 

 先頭の護衛兵が伏せた視線の先で見えるようになれば、いよいよオミカゲ様の登場が近い証拠だ。長蛇にも思える護衛の列が続き、少しの間を置いて担ぎ手が見えてきた。

 

 女将は組み合わせた両手を頭上で掲げ、その御神徳、御神慮に感謝を捧げる。これまで守ってきてくれた事、これからも守ってくれる事も含めて祈りを捧げた。

 孤狼堂の様な好立地に住んでいる人でも、こうして玉体の間近まで迫れる回数は少ない。だが、その少ない経験でも理解している事がある。

 

 オミカゲ様は、その御威徳とでもいうべき気配をハッキリと持っている。それは人が努力して発する事が出来るような気配ではなく、明らかに人ではないものと肌で理解できるものだ。

 それを口で説明するのは難しいが、ただ一つ判っている事は、神だからこそ発する威だという事だった。

 

 温かいようで冷たい、不安になるようで安心する、相反する何かが身体を通り抜ける。

 それは錯覚ではなく、オミカゲ様を間近に感じた事のある人達が共通して覚える感覚だった。

 

 その感覚が、今日もまた女将達の身体を通り抜ける。

 激しいものではなかった。小川に手を差し伸べたような、柔らかな感触が身を包んでは離れていく。その感覚を覚え、多大に感謝を捧げつつ、身震いするような感動を覚える。

 

 確かな神に感謝を伝えられるという事実、その神に護られているという事実に、誰もが感動せずにはいられない。

 神輿が遠く離れ、専用駐車場の中へと消えていく姿を横目で見ても、まだ頭を上げる事ができない。その感動を、感謝を、そう簡単に終わらせたくないと思うからだった。

 

 それはこの場にいる誰もが同じで、しばらく身体が固まったように動かない。

 再び動き出すようになるのは、同じように感謝を捧げていた隣人が顔を上げてからだった。顔を見合わせれば、誰もが同じ思いを抱いていたのだと分かる。

 

 付近から雑踏と雑音が戻り、周囲も遠慮をなくして口々に話し合う声が聞こえてくる。

 同じ感動を分かち合いたい者たちの話し声だった。

 

 女将が隣の夫に顔を向ければ、目が合って互いが何を言いたいのか理解する。

 夫婦の間で、それが分かっていれば十分だった。頷き合って立ち上がる。

 

「店の方も放り出して来てしまった。早いところ戻らないと、タネも駄目になっちまう」

「そうですね。……それにしても、何て光栄なのかしら。今年はきっと良い年になりますよ」

「勿論だ、そうに違いない」

 

 お互いに笑い合って、来た時同様小走りで店へと帰る。

 浮足立つ心はしばらく収まりそうもないが、それはいま無理に抑えつける必要はないだろう。店に訪れる客も知人も、きっと同じ気持ちに違いないのだから。

 



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御子神の一日 その5

天の川(・・?)様、えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 ミレイユは車へ乗り換えるため、アヴェリンから手を借りて神輿を降りた。

 それほどか弱くもなく、介添えが必要だとも思えないが、ポーズとしてやらねばならない時もある。特にアヴェリンなどは、ミレイユが民に恭しく(かしず)かれる姿を見るのを好む。

 

 昨今のミレイユへ接する人々の姿は、アヴェリンの自尊心を大いに満足させるだけではなく、あるべき姿が漸く認められたと思っているようだ。

 神輿から降りる時に手を差し伸べたのも、その一環だろう。誰もが膝を付いて傅く中、己だけが立って手を差し伸べられる事に優越すら感じているかもしれない。

 

 ――それにしても、とミレイユは思う。

 神宮からこちら、それほど長い距離でなかったのにも関わらず、周囲の人間が集まって道を作った事には驚いた。あれは足の進みを止めてはならないという配慮であると同時に、車の通行を規制するような役割もあったのだろう。

 

 神輿はそれなりに大きいから歩道は歩けない。

 無理して通る事は出来るかもしれないが、護衛などが取り囲むので横幅が足りなくなる。それを考慮して車道を歩くのだが、そうすると当然、通行しようとした車両の邪魔にしかならない。

 

 予め話を通してあったのだろうとは思うが、それにしては係員とも思えない人間が、整理に動いていたのが気に掛かる。

 あるいはこれが、オミカゲ様の作ってきた信頼や尊崇から自発的に生まれた規律というものなのかもしれない。

 

 益体もない事を考えながら、案内されるままに車へと移動する。

 用意されていたのはリムジンに似た車で、屋根部分に簡略化された神輿のようなものが乗っている。流石に人が乗れるような造りにはなっておらず、オミカゲ様が言っていたように、霊柩車のような冠部分として用意された状態だった。

 

「これじゃ誰が乗っているか、広告して走るようなものじゃないか。目立ちすぎだろ。本当にこれでなくちゃいけないのか?」

「神様に御乗車いただくのは、これと決まっておりますれば……」

 

 咲桜がスモークガラスの張られたドアを開きながら言った。

 ミレイユは苦いものを飲み下すような渋面で車を見ながら、オミカゲ様が外出したがらない理由を思う。これに乗るのが嫌で極力出ないようにしているだけではないのか。

 

「……他に、コレ以外の車両はないのか? 屋根に何も載ってないタイプの奴は」

「御座います……同型の御車もご用意出来ますが、御子神様が乗るべきものとは、とても……」

「いや、この様な車は、あくまでオミカゲ様に敬意を表して用意している訳じゃないか? 同列の様に扱うのでは余りに心苦しい。それより一段劣った扱いとして、普通の車で構わない」

「ですが、オミカゲ様からは同列に扱うよう、仰せつかっております」

 

 あくまで命令を受けたとおりに遂行しようとするのは、お付きの女官としては当然だ。しかし、そこをどうにか説き伏せないと、また行列を作って拝められるような始末になる。

 あれはオミカゲ様に向けられるべきものであって、ミレイユがそれを受け取るのは間違っている。頭を下げ、傅かれる事は以前からあった。アヴェリンもその一人だが、この場合、オミカゲ様への思いがミレイユに向いてしまうというのが一番の問題だ。

 

 向けられたところで受け取れないし、向ける相手も勘違いだと知らずに信仰を捧げたい訳ではないだろう。そこにいるのがオミカゲ様だと思うから頭を垂れるのだ。

 ミレイユがそれを横から掠め取るような形になってしまい、だから気分も悪かった。

 

「確かに同列に扱えと言われたのかもしれないが、しかし本当に同列というのは違和感がないか? 私は御子神であって本人ではないし、本来向けられるべき尊崇はオミカゲ様である筈だ。つまり、それに乗れるのはオミカゲ様ただ一柱だろう」

「それは……」

「道行く人々は、私をオミカゲ様と勘違いしていたろう。それは間違いだと思わないか? 正しい信仰は、正しい相手に向けられるべきものである筈だ」

「それは……左様でございます」

 

 ミレイユは満足げに何度も頷く。

 

「では、屋根に何もない車へ案内してくれ。それが正しい行いというものだろう」

「御子神様が、そこまで仰られるのであれば……」

「うん、そこまで言う。何か言われたら、私が強く命じたと説明すれば良い」

「……畏まりました」

 

 咲桜は一礼するとリムジンのドアを閉めた。

 近くの者に何かを申しつけると、運転席まで回って何かを伝えに行ったようだ。しばらくするとリムジンが発車し、駐車場内のどこかへ姿を消した。更に待っていると、後ろに控えたアヴェリンが声を抑えて言ってきた。

 

「ご希望のとおりに運んだようで何よりですが……そこまで強く拒否するものでしたか?」

「そこまで強く拒否するものだったな。ハッキリ言うと、悪夢に近い。……だがこれで、明日以降も車移動する際にはマシになるだろう。口舌を駆使した甲斐もあった」

 

 アヴェリンと話している間に、別の車が帰って来た。

 咲桜が言っていたとおり、屋根の上には何も載っていないリムジンに似た車だ。それがゆったりとしたペースでミレイユの前で停まると、咲桜がドアを開ける。

 今度は文句の一つもなく、広々としたスペースがある車内へ身を滑り込ませた。

 

 

 

 車内には当然アヴェリンも同乗し、加えて咲桜も入って来た。

 横向きで座る椅子は弾力性があって座り心地も良いし、一人や二人増えたところで問題ないだけのスペースがある。だからそこに文句を言うつもりはなかったが、同乗するのは意外に思えた。

 

 てっきり、同じ車内で同座するのは畏れ多いとでも言って、別の車で後をついてくるのだと思っていた。だが、その疑問はすぐに氷解する。

 

 ミレイユが車内で食事を取りたいと言ったので、その準備と給仕をする為に残ったのだ。

 車内に備え付けのキャビネットから飲み物などを取り出し、テーブルを引き出してグラスに注ぎ二人の前に置かれる。食事に関しても重箱に入った料理を脇から取り出し、手際よく並べた。

 

 備え付けとは別に皿を用意してあって、そこに咲桜が盛り付けて差し出してくる。箸も同様に預かって、それで食事が始まった。

 神宮お抱えの料理人が作ったと思しき料理は、期待を裏切らぬ美味しさだった。

 

 食事が終わる頃には既に街中を離れ、遠くには草原が見えている。

 ここまで走って感じた事だが、やはり乗車しているこれは珍しい車種でも、道行く人々はそれ以上の感想を持たないようだった。車を指差す子供の姿は目にしたが、結局反応らしい反応はそれぐらいだ。

 

 ミレイユにとってはその程度が好ましく、何なれば空気のように無視してくれるくらいが調度良い。今となっては、それすら高望みと分かっているが、思わずにはいられなかった。

 

 物思いから帰ってきて、見渡す限りのように思える草原に目を戻す。

 馬を飼うというなら広大な敷地は必要で、近いとはいってもそれなりに走らねばならない。それでも一時間掛かるかどうかで到着し、食後のお茶を飲み終わる頃には目視出来る距離に馬が見えるようになっていた。

 

 御由緒家の敷地で一般公開されていないという事もあり、付近に人は見受けられない。入口から滑るように車が入っても、すぐさま到着とはならないようだ。

 放牧され草を食む馬を時折見かけながら、車は道を進む。

 

 そうして五分ほど走ってから、ようやく停車した。

 到着した先で既に何十人という人々が待ち構えており、整然と列を作っていた。執事らしき人物がリムジンのドアを開けると、まず先に咲桜が降りる。

 次にアヴェリンが降りて周囲を見渡し警戒を解いてから、ようやくミレイユの降りる許可がでた。

 

 先頭に立つ二人と、その背後に立ち並ぶ使用人と牧場を管理している者たちが頭を下げて待ち構えていた。背後の者たち程、腰を深く曲げて最敬礼を取っている。

 それから遅れて、ミレイユの顔を見てから頭を下げたのは、ここの主人である由井園志満と侑茉だった。いつだか見たように第一礼装を着用しての出迎えだった。

 

「ご無事の到着、まことに祝着でございます」

「拙宅にお越し頂けました事、大変光栄に思います」

「あぁ、久しいな二人共。出迎え大儀」

 

 どういう挨拶が適切なのか分からないから、それらしい言葉を並べてみる。変な言い回しや不適切な発言なら咲桜が訂正してくれるだろうと期待しての事だったが、どうやら問題ないようだ。

 二人は感激したかのように身を震わせ、その喜びを噛み締めているかに見えた。

 

 このような態度が、ミレイユにはどうにも理解できない。

 彼女らが敬意を向けるべき相手はオミカゲ様であって、単にその子だと紹介された者に、同様の敬意を見せるのは異常に見える。

 

 王族や貴族は単に嫡子であるというだけで、相応の敬意を向けられる存在だが、それは将来の権力者――後継者に対する期待に向けられたものであって、単に子だから偉いという訳ではない。

 

 ミレイユの場合、人ではなく神である、という証明が為された後だから、その敬意は単なる子に向ける敬意とは別だろうが、さりとて後継者という訳でもない。

 オミカゲ様は不老不滅の存在という認識だし、だからミレイユもその御座を継ぐ事はない。

 

 むしろ宗教的には商売敵とも成り得る存在なので、敬われるのは可笑しい気がした。

 頭からオミカゲ様から敬意を向けろと言われたなら、その臣下たる御由緒家は従う他ないのかもしれないが、その事に疑問を持ったりはしないのだろうか。

 それとも、二代揃って国民に対し恩恵を与えるものだと妄信しているのだろうか。

 

 ――考えても仕方のない事ではあるが。

 場合によっては、ミレイユ達は現世を去る。そうしない為に動いているし、だからこそ明日から学園に行って、教導めいた事をしに行かねばならないのだが、違和感は拭えなかった。

 

 むしろ、だからこそか。

 ミレイユが教導に赴くこと。それが御由緒家の目から見ると、既に民の為に動いているように見えるのかもしれない。

 

 志満と侑茉が顔を上げた事で、控えていた者たちもまた顔を上げる。その表情は様々で、緊張のあまり固く引き締めている者もいれば、驚きとも感動ともつかぬ顔をしている者もいる。

 だが総じて敬意と称賛、感謝と好意が見えていた。

 

「内の者が気を利かせて、気分転換を用意してくれたらしくてな……。今日はよろしく頼む」

「大変な栄誉に身を震わせております。どうぞ、本日は心ゆくまでお楽しみ下さい」

 

 ミレイユが声を掛けると、代表して志満が一礼した。

 それへ鷹揚に微笑みかけ手を挙げた。それで頭を上げて奥の方へ片手を向ける。

 

「すぐに馬場の方へご案内致します。先に何かお口に入れたいという事でしたら、軽食やお飲み物もご用意しておりますが……」

「いいや、大丈夫だ。馬場へ案内してくれ」

 



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御子神の一日 その6

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 競技をする訳でもなく、単に乗馬を楽しみたいというのなら、女性の場合横向きに騎乗する事もある。本日ミレイユが着用している服のように、オミカゲ様の代名詞ともいえる神御衣は、足を広げて跨るには向いていない。

 

 だから横乗りするには専用の鞍が必要で、馬と乗り手の双方に合った物をしつらえなくてはならない。由井園ほどの馬舎を擁する家となれば、乗馬の道具に事欠かないものだが、用途が限定される物については、その限りではなかった。

 

 オミカゲ様から品種と血統管理を任されているだけあって、鞍もその種類も豊富にある。

 しかしそれは、あくまで一般的な乗馬道具に限った話であって、横乗りする女性の乗馬道具にまで多種多様に用意されている訳ではなかった。

 

 そもそも横乗りは優美に見えるが安定性に難があり、跨るよりも技量を要する。歩行と共に揺れる馬上は、安定した姿勢を取ろうとしても上手くいかない。素人が手を出すには向いてない座り方なのだ。

 

 だから鞍も、自身に合った物を選ばないとずり落ちる危険が増す。

 オミカゲ様と同じ物を用意すれば良いという話を聞いてはいたが、本来ならその身体にあった道具を誂えてやらねばならないのだ。靴のように大きさが同じだからと使う訳にはいかない。

 

 顔も体格も良く似ているオミカゲ様と御子神様だが、全くの同一という訳にはいかない筈だ。しかし問題ないと強弁されてしまえば、由井園としては突っぱねる事も出来なかった。

 

 案内を自ら仰せ付かった侑茉は、今更ながらに緊張で心臓が飛び出そうとしていた。

 厩舎の近くにある馬場まで案内したが、形が悪い、尻の座りが悪いと叱責されたらどうしようと、そればかり考えている。

 それに気づいたらしい御子神様が、怪訝そうに首を傾げた。

 

「どうした、酷い緊張ぶりだが……」

「い、いえ、お気になさらず……! 御子神様を案内できる栄誉に昂ぶっているだけです」

「乗馬に来ただけだ。迷惑を掛けるような事はしない」

 

 気遣ってくれる姿勢は嬉しいし、噂で聞くより余程優しい一柱のようだが、それとこれとは話が別だ。そう言われて緊張せずにいられれば苦労はない。

 侑茉は二人を宿舎から少し離れた場所まで案内すると、前方からやってくる二匹と二人の影を認めて足を止める。

 

 見てみれば、馬の調教を請け負う馬丁たちが、二匹の馬を引き連れてやってきた。

 初めて乗るなら、年嵩(としかさ)の大人しく賢い雌馬が良いと思ったのだが、そこでもオミカゲ様と同じ好みのものを、と言われて別の馬を用意したという経緯がある。

 

 オミカゲ様は、古くは御自ら馬を駆って戦場を渡り、鬼を退治して来た御方なので、気性の激しい悍馬(かんば)を乗りこなす事を好む。大人しく従順な馬を嫌う訳ではないが、自ら手綱を操るなら少々の苦労はあった方が楽しいという事らしい。

 

 実際、乗馬に慣れた者にそういう気持ちを強く持つ者は多い。

 或いは母神を真似て、という事なのかもしれないが、決して初心者に乗せてよい馬ではなかった。

 

 落馬したところで命に関わるとは思わないが、それでも初めてと知りながら、もっと乗りやすい馬を勧めなかった事に非がある、と責められやしないかと不安になる。

 高天ヶ原に馬がいるかは知らないが、乗馬した経験がある事を祈る他なかった。

 

 常に御子神様の傍らに立つ、長身の女性が朗らかに空を見上げる。

 豊な金髪が自然と波打つ姿は美しく、その日に焼けた美貌もまた類を見ない程に美しかった。御子神様の傍に侍る事が許されるだけあって、外国人のようなのに、その美貌も実力も桁外れだ。

 その彼女が草原しかない周囲を見渡して言った。

 

「絶好の乗馬日和で、なによりでしたね」

「そうだな。日差しはあるが、風は冷たく心地よい。汗もかかなくて済みそうだ」

 

 護衛の者だと思うのに、気安い態度に咎める様子もない。二人の間には単に主従というだけでなく、特別な関係が築かれているように見える。

 オミカゲ様は外国人と親しくした話は聞いた事がなかったので、少し疑問に思ったが、その間にも二人の前へ馬が運ばれてきた。

 

 御子神様の分はともかく、そのお付きの人の分までとなると、その鞍は用意されていない。格好事態は足を広げるのに問題なさそうだったので、近いと思われる鞍を複数持って選んでもらうようだ。今まで何通りもの鞍を手配していた馬丁からすれば、遠目であってもある程度適した物を用意できる。

 あとは本人に座り心地を確かめてもらって選ぶだけだ。

 

 その選んでいる傍ら、御子神様が一頭の馬の前に立つ。

 用意されたのは名馬揃いの由井園の厩舎から選ばれた、一・二を争う優れた馬だった。オミカゲ様からもお褒めを賜った名馬で、侑茉の目から見ても誇れる見事な馬だ。

 

 均整の取れた体躯はすらりとして逞しく、また力強さに溢れている。美しい黒毛の馬体は完璧に磨き上げられていて、まるで鏡のように光を反射していた。

 艷やかな馬体は歩く度にうねる筋肉まで美麗に映し、そのしなやかな美しさを存分に表現している。たてがみも綺麗に編み上げられていて、御子神様が騎乗する馬を、馬丁たちが最新の注意を払って仕上げたのだと分かった。

 

 白と紫はオミカゲ様の色だ。

 今回白馬を用意せず、あえて黒毛の馬を選んだのは、その立場を慮ったが故だ。御子であっても同一ではなく、優劣ではなく差はある。

 オミカゲ様専用馬である最良馬を提供しなかったのは、その対比として黒毛が適していると思った為だった。その気持ちを詳細に説明する気はないが、同じく敬いながらも別であると表明したも同然だった。

 

 御子神様が馬首の腹を叩くと、あっさりと鐙に足を掛けて騎乗する。乗るだけの事すら手助けが必要だろうと傍で待機していたのだが、あの様子を見る限り何の問題もなさそうだ。

 馬上にある姿も堂々としたもので、乗り慣れている事を伺える。

 助言も手引きも必要なさそうだった。今も優しげに首を撫でる姿も危なげなく、馬も心地よさそうに嘶いていた。

 

 もう一方はどうかと首を巡らせて見ると、丁度鞍を選び終えたところだった。

 馬具を固定させると幾らか揺すって確かめ、馬の方に機嫌を伺い首筋を叩く。何度か呼び掛けつつ撫でる姿は手慣れていて、こちらも何の問題もなさそうだった。

 

 特に無理やり騎乗しようとせず、対話から始めて許可を得ようとしているところは、古式ゆかしい熟練の職人のような貫禄を見せる。

 とうとう許可をもぎ取ったらしい彼女は、そのままひらりと、重力を感じさせない動きで騎乗した。その姿の美しい事と言ったらなかった。

 馬もご機嫌な様子で、首筋を撫でられるのも嫌がろうとしない。あの馬は気性が荒く、そう簡単に心を開くような性格をしていないのだが。

 

 こちらも御子神様が乗った馬とは引けを取らないほどの見事な栗毛の名馬で、やや大きい馬体が長身の彼女に良く似合っている。

 手入れも行き届いていて、既に人馬一体とも見紛う姿は泰然とすらしていた。

 

 二人の姿を見ていると、もはや何の助力も必要ないとは思うが、それでも全くの放置も出来ない。今にも腹を蹴って馬を走らそうとしている二人に、馬丁の一人を付けた。

 無論、この場は柵に囲まれ危険もなければ余人も来ないが、万が一という事もある。

 

 馬丁を近くまで呼んで、耳を貸すよう命じる。

 馬を近寄らせて体を屈めて来た馬丁へ、十分な配慮をするよう声を掛けた。

 

「お忍びで、気分転換の気晴らしにと来ていらしているのだから、決して邪魔になるような事はせぬように。遠くから見守るのと同時に、外から誰か来ないかしっかり見張って」

「勿論です、よく分かっております」

「柵の方へはなるべく近づかせない方が良いわね。変に耳の良い輩が来ているとも限らないから」

「はい、その辺に行きそうなら回り込んで、やんわりと方向転換を願うようにいたしますよ」

「ええ、お願いね」

 

 そこまで言うと、遂に二人は馬を走らせた。それに数秒遅れて馬丁も動き出す。

 本当なら侑茉が馬を駆って後を追いかけたかった。しかし本日は第一礼装という服装なので、とても乗馬は出来ない。

 

 礼儀として衣服に気を配るか、それとも馬場でも後を付いて回るかを迷って、結局礼儀を重んじる事を選んだ。侑茉は最後まで抵抗したのだが、母による礼儀を失する方がイメージは悪くなるという説得で折れる事になった。

 

 まだ十分な話も出来ていないし、幾らでも話をしたかったのだが、今はその機会がなかった。まずは十分に乗馬を楽しんで頂き、侑茉が話したい事はその後、機会があれば話すで良かった。

 この場で話し掛けて不興を買う方が、後々を考えればずっと損をすると分かっている。

 今は耐える時なのだ、と自分に言い聞かせ、既に遠く離れたその背を見送った。

 

 その馬術は問題ないどころか優美そのもので、馬上でも安定した姿勢で走っていく。走るといっても最初から飛ばす訳ではなく、常歩(なみあし)を経て速歩(はやあし)へ、馬に任せた負担のない走りをさせている。

 明らかに、馬の扱いになれた者の走らせ方だった。

 

 これならば口出しも心配も無用だと、改めて胸を撫で下ろす。

 後は馬丁に任せて、宿舎と併設されている邸宅へと赴く。乗馬が長く続くようなら、終わる頃には夕食が近い時間帯となる。

 

 既に母の志満が赴き、万事取り計らっている筈だが、何か手伝える事があればと思って自らも赴く。とはいえ何かあってお申し付けがあるかもしれないので、一人残しておく必要があるだろう。

 宿舎から一人呼んで万全に対応出来るよう言付けると、侑茉はその場を後にした。

 



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御子神の一日 その7

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 ミレイユは速歩(はやあし)のままアヴェリンと並走しながら、その横顔をちらりと眺めた。

 やはりミレイユと一緒にいるせいか、素直に乗馬だけを楽しむ訳にはいかないようで、周囲の警戒を怠るような真似はしていない。

 

 それでも頬が緩むのを抑えきれないようだ。久々に楽しげで、心地よさそうな顔をしていた。

 左手に手綱を握り、右手をぶらりと垂らして馬の足並みに身体を預けている。カッポカッポと蹄が鳴らす音にさえ、身を預けるような軽快さで揺れていた。

 

 アヴェリンもまたミレイユとの並走を維持しようとしていたが、馬は飛び出して走りたくて仕方ないようだ。チッチッと舌を叩いて歩速を維持するよう(たしな)めているが、慣れた相手でもない者の言う事は素直に聞いてくれない。

 馬首を巡らせて、うずうずと催促してくる始末だった。

 

「こいつも最早、我慢できないそうです。少し走らせてやりますか?」

「ああ、好きにさせてやれ。私も傍にくっついて走らせる」

「畏まりました。では失礼して……ハイッ!」

 

 掛け声と共に腹を蹴り、手綱を両手で握って走らせる。それで一気に速度を増して、一馬身ほど距離を離す。ミレイユもその動きに合わせるように馬の腹を蹴り、両手で手綱を握った。

 手綱を上手く操り方向を微調整させてやりながら、アヴェリンの駆る馬の背を追った。

 

 パカラッパカラッという、軽快な駈歩(かけあし)の音が辺りに響く。

 風に当たる強さも増し、頬をなぶって髪も乱れた。しかし二人ともそんな事は気にしない。再び並走できる距離まで縮まる頃には、遠く前方に柵が見えてきた。

 

 アヴェリンが一度手を上げ左前方を示す。それで左に大きく湾曲するよう走らせ始めると、ミレイユもそれに合わせて走り方を変える。

 

 馬場は広いが馬を走らせるとなると、やはり少々手狭に感じた。

 どこまでも広く自由だったあちらと違い、どうしても制限がある。だがそれも、安全と引き換えと思えば悪いものではない。あちらでは、いつ横合いから人か魔物が襲ってくるか分からない緊張が常にあった。

 

 馬とは本来、幾度となく休憩を挟ませながら走らせなければならない。乗り物であると同時に生物なので、水も飼葉もなしに走り続ける事は難しい。

 無理をさせれば、すぐにへばる。

 

 そういう認識であったのは現世の話で、あちらの馬は事情が異なる。

 基本的に今の駈歩程度なら七日続けて走り続ける事ができる、とされている。実際に走らせた事はないが、事実だろうと思っていた。脚力も持久力も桁違いなのがその理由で、競馬で良く見る全速力が千メートル越えてもヨレなかったのを実際体験したからだ。

 

 疲れ知らずとはいかないが、そもそもの地力が違う。それも現世と違い、マナを有する生物だからだろう。人間や他の知恵ある種族ほど上手く運用できる訳ではないが、それでも走る事に関しては、大概の生物より上手く制御する。

 

 だから瞬発力は元より、襲歩で全速力を出させても、失ったスタミナは常歩させるだけで回復してしまう。外敵に襲われやすく、その牙と爪に対抗しようと思えば、その逃げ足を活かす事しかない。それ故の走力特化の運用法なのだろう、とミレイユは考えていた。

 

 そのような馬に乗り慣れていたアヴェリンからすると、現世の馬は少々物足りないだろう。

 体躯は立派に見えても、実際は仔馬に乗っているように感じてしまうかもしれない。

 ミレイユは馬を並走させながら、風と蹄が邪魔するなか、声を張り上げて聞いてみた。

 

「お前には少し物足りないんじゃないか」

「いいえ、その様な事はありません。こうして低速で走るというのも、それはそれで良いものです」

「それについては同意するがな」

 

 空遠くに見える雲を見ながら答える。

 穏やかな気候と冷たすぎない風、それと蹄の音だけが響く馬場が今二人しかいない世界だと錯覚させる。そこを馬に走らせるだけで得も言われぬ高揚感が沸き起こった。

 

 何もかも捨てて逃げ出したい、そういう気持ちが沸き上がって来る。

 もしもこのまま、馬を駆って逃げ出したら――。

 そのように夢想して、同時にそれは出来ないと自省もした。逃げてどうなるものでもない。それに、やるしかないのだと心に決着をつけたのも確かなのだ。

 

 ミレイユとアヴェリンは悠々と馬を走らせる。

 時に緩急を変え、駈歩から速歩、速歩から駈歩と、馬が走りたいようにさせた。ミレイユはその上で風を感じながら身を任せるだけで良かった。

 

 ミレイユとアヴェリンの間に会話は多くない。

 話題がないというより、単に馬に身を任せて並走しているだけで満足だった。お互いの機微はお互いに良く分かっている。なので、必要がなければ口を開かない。

 

 馬場は広く、最初は物珍しさも手伝って、いくら見ていても飽きないくらいだったが、一時間も走らせれば流石に見慣れた景色になる。特に変化がある訳でもないので、見渡す限りの草原はそれだけ飽きが来るのも早い。

 

 そこから更に一時間走らせて、馬の息遣いも粗くなって来た頃だった。

 よく運動できたと見えて、その首周りに汗を掻いているのも見える。そろそろ頃合いかと思って、隣のアヴェリンへと顔を向けた。

 

「一周りしたら馬を休ませよう。こいつらも十分走ったろう」

「そうですね。まだ走り足りないようなら、その時は付き合ってやりましょう」

 

 お互いに頷き合って、馬を走らせる。

 そうしながら前傾姿勢になって馬の首を三回叩いた。それでミレイユの気持ちを理解した訳でもないだろうが、その歩速をゆっくりと落としていく。

 隣り合う栗毛の馬も、同じく速度を落とした。

 

 駈歩から速歩へと速度を変え、再びカッポカッポと蹄の音を変える。

 最初の時より速めではあるものの、宿舎が見えてきた辺りで、その歩速も緩やかになった。到着すると、残っていた馬丁が丁寧に礼をして迎えて来る。

 

 ゆっくりと速度を落として停止させると、アヴェリンが素早く降りてミレイユに手を差し伸べてきた。そのような介添えがなくとも降りられるが、最近のアヴェリンはとにかく主従としての関係を強めたがる。

 ミレイユの周りに傍付きが多くいるせいだろう。今までの多くの仕事は取られてしまった形なので、出来る事があれば自ら動きたいという欲求が強まるようだ。

 

 ミレイユは素直にその手を借りて馬から降りる。

 目線だけで礼を言って、次いで馬の首を数回叩いて、そして撫でた。心地よい嘶きを聞かせ、馬も顔を寄せてくる。その鼻面を優しく撫でて、その滑らかな感触を存分に堪能してから離れた。

 

 馬も今日は十分に走ったと見え、アヴェリンが騎乗していた栗毛の馬などは、既に水飲み場へ鼻を突っ込ませて水を飲んでいる。

 黒毛もまた、馬丁に引きつられて宿舎へと戻っていった。その際も、馬丁は丁寧に礼をしていくのを忘れない。手綱を握ったまま一度膝を折って頭を垂れ、そうして立ち上がっては去っていく。

 

 馬を見送りミレイユ達の後を付いて来ていた馬丁も、馬を降りると近くの同僚に馬を預ける。そして本人は宿舎とは別の方へと走って行った。

 何とも慌ただしいと思っていると、幾らもせずに今度は侑茉を引き連れて帰って来る。

 

 侑茉はミレイユの近くまでやって来ると、丁寧に頭を下げてから口を開いた。

 

「勝手に場を離れて申し訳ございません。拙いものですが、僅かばかりの心尽くしとして、お食事の準備をしております。よろしければ、拙宅で疲れを癒やして頂ければ幸いです」

「そうだな、疲れてはいないが……」

 

 ミレイユはアヴェリンの顔を窺うようにして見てから、空へと視線を移す。

 まだ夕食には早い時間だが、軽く摘むぐらいはしても良い。喉が小さく乾きを覚えているのも手伝って、その申し出を受ける事にした。

 侑茉はその返事を受けると、あからさまに顔を綻ばせ、ホッと安堵の息を吐く。

 

「それではご案内致します。こちらへどうぞ」

 

 

 

 付いて行った先は宿舎の隣にあった、立派な邸宅だった。

 馬の世話を任されているとはいえ、まさかここが本邸ではないだろうが、そうと見紛う程に優美な作りだった。調度品なども馬に関する物が多いようで、蹄や蹄鉄を模したものが見える。

 

 トロフィーなども飾ってあったので、もしかしたら競走馬などの飼育をしているのかもしれない。興味を持って聞いてみると、侑茉は滑らかに説明してくれた。

 

「そちらは競馬ではなく、馬術競技のトロフィーで御座います。馬術は武芸十八般にも数えられているとおり、武芸の重要な科目ですから。由井園の馬は、そういった方面で特に名を残しました」

「なるほど、この厩舎は名馬揃いという事か」

「名馬と呼べるのは一握りだけですが……オミカゲ様からご満足頂ける馬を維持する事は、由井園の使命と心得ております」

 

 侑茉は強張った顔で一礼し、深く頭を下げる。

 誇りを持って行う仕事ではあるのだろうが、馬の必要性が薄れた現代では、乗馬は貴族の道楽だろう。その第一人者がオミカゲ様なら、まだ肩身が狭いという事もなさそうだが、侑茉には不満そうだった。

 

 鬼退治の御由緒家としても外に置かれている状況で、馬が移動手段として優れていた時代ならともかく、現在では移動するなら車を使う。それで歯痒い思いをしていそうな雰囲気を、侑茉から感じた。

 

 トロフィールームは別にあるそうだが、廊下の両端や壁にもトロフィーや賞状が飾ってある。栄光の歴史というやつだろう。長い廊下を歩くなら、その間に楽しんでもらおうという配慮なのかもしれない。

 

 案内された先は食堂のような作りだった。迎賓館も兼ねているのか、飾られた装飾も見事なものだった。そこに当主の志満とその夫君、そして使用人一同が頭を下げて待っていた。

 そのような態度をされても疲れるだけだと思っても、ミレイユも既に染まり始めており、今となっては無感動にそれを受け入れるまでになっている。

 

 顔を上げた志満が笑顔のままに口を開く。

 

「ようこそ御出くださいました、どうぞごゆるりとお寛ぎ下さいませ」

 



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御子神の一日 その8

天の川(・・?)様、えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


 案内されるままに上座へと座り、今回ばかりはアヴェリンも後ろではなく席に着かせる。難色を示したが、無理にでも言い聞かせる事で納得させた。

 ミレイユから向かって右側に由井園家の者が、左側にアヴェリンが座る。咲桜はミレイユの後ろに控え、必要とあらば給仕をする。

 

 時間的に夕食には早く、あまり重たい物は食べたくない。

 そこで茶会という形で菓子とお茶を楽しませて貰う事にした。今日はアヴェリンを楽しませたいという目的もあったので、お菓子を食べさせる為に席へと座らせたのだ。

 

 御由緒家はオミカゲ様の血脈とあって、日本古来からある格式を重視する。何事につけても和風めいた部分が多いのに、この邸宅を見ても分かるとおり、洋風の趣が強い。

 本邸はまた純和風形式なのかもしれないが、ここまで大っぴらに洋風なのは意外に感じた。

 

 運ばれてきた茶菓子も洋風のマロングラッセで、お茶も紅茶と洋風だった。あるいはアヴェリンを見て、そちらの方が喜ばれると思ったのかもしれない。

 神宮でも望めばコーヒーでもマテ茶でも何でも出るが、やはり日本茶や抹茶が一番多い。

 茶菓子もそれに合わせるので、こうした洋菓子は新鮮だった。

 

 それを互いに楽しんでいれば、雰囲気も柔らかくなる。紅茶の代わりも貰った辺りでは、由井園家の緊張も解れてきたようだった。特に夫君の緊張の程は凄まじく、汗をハンカチで頻繁に拭っても次から次へと溢れ出る程だ。

 

 ――さて。

 ただ乗馬を楽しんで、一言の挨拶もなく帰宅というのは拙い気がして、こうして招待に応じたが、何を話したものか迷ってしまう。これも一種の社交なのだろうし、御由緒家としては御子神を歓待しない訳にもいかないのだろうが、礼節やしきたりを知らないミレイユからすれば、どう行動するのが正解なのか分からなかった。

 

 素直に咲桜から聞いても良いと思うのだが、御由緒家を前に迂闊なことを言うのも憚られる。

 ティーカップとソーサーが、カチャリと小さく立てる音ばかりが響く。

 そこで唐突に思った。

 まさか、目下の者から話し掛けるのは礼式・礼法に違反しているというやつだろうか。神から話し掛けられない限り、話し掛けてはいけない、という類の。

 

 思えば歓迎の挨拶以外、それらしい発言は聞いていない気がした。

 このまま沈黙が続くのは辛いし、飲み終わったから帰るというのも無理だ。礼儀知らずの恥知らずとでも思われるのは恥ずかしい。

 

 ミレイユは一番手近にいる、志満の顔色をちらりと伺ってから話し掛けた。

 

「他の御由緒家は知らないが……行き届いた配慮と馬の扱い、もてなしに感謝しよう」

「感謝などと……! 光栄に存じます、家中の者も喜ぶ事でございましょう」

 

 志満は感涙にむせんばかりの勢いで頭を下げた。夫君も侑茉の顔にも、それと良く似た表情が浮かんでいる。

 もっと柔らかい表現で良かったかもしれない、と反省すると同時に、どうやら方向性は間違っていなかったようだと推測した。

 話を広げる程に彼女らの事を知らないミレイユは、これからどうしようかと考えていると、侑茉の方から話し掛けてきてくれた。

 

「他の御由緒家を知らないと仰られましたが、我が家を一番に訪れてくださったのですか? てっきり由喜門にはお顔を出されたのだとばかり……」

「そうだな。言われてみれば、由喜門にも一度行っておくべきかもしれないが……」

 

 一応アキラは内弟子のような関係だから、そういう意味でも挨拶がてら顔見せに行くのは自然だったのかもしれない。しかし、その予定は頭の中に全くなかった。

 

「一番を我が家に選んで頂いたこと、真に光栄でございます……!」

「ああ、うん……」

 

 その様な意図は全くなかったのだが、結果として何処を最初に選ぶかというのは、御由緒家にとって重大な事だったのかもしれない。

 それがつまり今後も贔屓にするという事と同じではないが、他家より一歩リードしたように感じたのではないか。貴族位はないとしても名家には違いなく、表向きは仲の良い家同士であっても、格差や確執などもあるのは不思議ではない。

 

 ――だが、まぁ関係ないか……。

 利用するもされるも、結局はオミカゲ様次第。この事を報告すれば、上手いこと転がすだろう。それが良いのか悪いのか分からないミレイユからすれば、丸投げするのが一番楽で安易な解決法だ。

 

 ところで、と志満が顔色を伺いながら聞いてくる。

 

「御子神様は、学園の方で教官役という任を受けたと聞き及びました。それは本当でしょうか?」

「耳が早いんだな。御由緒家には隠す事でも何でもないから言うが、そのとおり。明日から通う予定だ」

「なんという事でしょう……!」

 

 答えは予期できていたろうに、志満は大袈裟に驚いた。

 

「それは由喜門の者がいるのが理由でしょうか?」

「いいや、それとは全く別の話だ。由喜門本家に忖度する理由が私にはないしな。……昨今の結界情勢については知っているか?」

「はい、それなりに知っているつもりです」

「ならば、鬼の強さの飛躍的上昇についても知っているな?」

 

 志満は元より、侑茉も顔を固くして頷いた。

 侑茉は更に顔が青い。次期当主としての責任から来るものなのかもしれない。ある程度、鬼の強さには揺れがあったとされているが、御由緒家が対処できない強さの鬼は、長い歴史を遡ってもそうそういなかった筈だ。

 それが自分の代で現れたとなれば、対処に当たるのは当然侑茉になる可能性は高い。それを危惧しての固い顔なのかもしれない。

 

「私が行かねばならないのは、それが理由だ。学園の生徒たちの戦力向上を図るのが私に与えられた役目だ」

「先に現れた四つの腕を持つ鬼には、現行世代でも全く歯が立たなかったと聞いておりますわ。同時に、御子神様の介入で打破できたとも。……わたくしはてっきり、御子神様が直接お手を下されたのだと思っておりました」

「いいや、倒したのは、その現行世代とやらだ。私が力を与え、その結果として彼らが打破した」

 

 ミレイユの淡々とした説明に聞き入っていた二人だったが、それにアヴェリンが異を唱えて訂正した。

 

「正しくは倒せるようにお膳立てしてやった、というべきかと。あれらの力だけで勝ち取ったかのような表現は、少々譲りすぎです」

「……そうかもな。ただまぁ、あの時はまだしも、これからはそうでなくては困る。その期待を込めてといったところで……」

 

 そのやり取りに、侑茉が思わず口を挟んだ。

 

「み、御子神様も、オミカゲ様同様、理術を与える事が出来るのですか……!?」

「そうだな。与えるだけでなく、その制御力に関しても向上を図ってやる事ができる。……与える方はともかく、制御に関しては個人の資質が色濃く出るが」

「阿由葉の……、阿由葉結希乃にも、その御力を……?」

 

 質問の意図が分からず、ミレイユは眉を顰める。

 あの場に結希乃がいなかった事ぐらい分かっているだろうに、わざわざ聞いてくるのが疑問だった。その表情には焦りがあり、あまりに余裕を欠いているように見える。

 しかし、隠すような事でもないので素直に答えた。

 

「いいや、あの場に居たのは妹の方だ。だから当然、与えたのは妹のみになる」

「――では! その……私にも、是非その御力の一端を、授けて頂く訳にはいかないでしょうか……!」

「侑茉、無礼ですよ!」

 

 一大決心したかのように侑茉が口にして、志満が鋭く叱責した。

 

「何卒、伏してお願い申し上げます……!」

「侑茉ッ!! 神の一柱に対し、不遜にも自らの願望を叶えて貰おうと口に出すなど、許されることではないのですよ! 恥を知りなさい!」

 

 伏してと言ったとおり、侑茉はテーブルに額を付けるかのように頭を下げた。

 そこに志満が先程の叱責など小言に見えるほど、厳しく叱って批難した。その背景には激しい怒りが浮かび上がって見えていた。

 

 二人が――というより、人が神へ奏上するような事は、大抵は個人を飛び越え組織で当たっても不可能だと思える事へ嘆願する事態になって、初めて起こる事だとされる。

 困った時の神頼み、とは言うが、直接己の願いを叶えて貰う為で口に出す事はない。無論、絵馬に願ったり空に願ったりするのは自由だが、神と対面して言う事ではないのだ。

 

 しかもそれが、弁えていて当然の御由緒家から出た言葉とあれば、神――御子神を軽んじていると取られかねない。場合によっては重い処罰さえ考えられた。

 それを思えば、志満の叱責は決して大袈裟なものではなく、人によっては刃傷沙汰にしてもおかしくない大失態になる。

 

 志満は一端、侑茉への対応を後回しにするようにしたようだ。

 ミレイユへと向き直り、侑茉同様、深々と頭を下げる。それに慌てたように、続いて夫君も頭を下げた。

 

「何卒、ご容赦を……! 不遜で過度な要求をしたのは当家の責任、次期当主としての任も解きますので、どうかお怒りをお沈めください!」

 

 そうは言われても、ミレイユとしては困ってしまう。

 怒りもしてないし、それが不遜とも思っていない。むしろ、ただ必死なだけで不器用なやつなんだな、と思っていたくらいだ。いっそ実直で言葉を選ばない姿は好ましく思っていた。

 

「……顔を上げてくれ」

 

 ミレイユがそう言っても、許しの言葉無く簡単に頭を上げる訳にはいかないのだろう。三人ともぴくりともせず、ただ頭を下げている。

 侑茉は今更ながらに事態の深刻さを理解したらしい。表情は見えない筈なのに、青い顔をして愕然としている顔が見えた気がした。

 

「――許す。三人とも、顔を上げろ。これでは話も出来ん」

「は……っ!」

 

 三人が顔を上げ、表情を固くした志満と、青い顔をして身を震わせている侑茉に、改めてミレイユは言い渡す。

 

「今起きた事の全てを許す。気にするなと言っても聞きはしないだろうが……、私は気にしてないのは確かだし、むしろその心意気を好ましく思った」

 

 侑茉の顔が、勢いよくミレイユの方を向く。

 表情に余裕はなく、驚愕と歓喜が同居して怖いものになっていた。ミレイユは別に侑茉を個人的にどうとも思っていないし、純粋に庇ってやりたい気持ちからの発言でもない。

 単純に利益を天秤に掛けての話だった。

 

 志満に叱責は必要ない、と言っておいてやらなければならない。まさかないとは思うが、離縁や勘当されでもしたら厄介な事になる。

 いや、拾ってやれば感謝もするし手駒も増えるか、と実現させる気もない妄想を、脳裏に押し込め口を開いた。

 



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御子神の一日 その9

「……いいか、遅いか早いかの違いだ。今は学園生を優先して教導する事になるだろうが、どの道それ以外の、今も最前線で戦う隊士達にも行う予定だった」

「そう……なのですね」

「御由緒家も当然、その対象だ。戦闘に向かない、一線を退いて長い、そういった者たちを除いて、順次強化を行う予定でもある。……つまり、それほど切羽詰まった状態だ」

「遊ばせる戦力は一つとしてないと……」

 

 先程とは違う意味で顔を青くさせた侑茉が呟き、ミレイユは頷く。

 

「そうだ。現行世代の戦力でも、支えるだけで精一杯だと見ている。しかし、鬼の強さはまだ上昇すると分析した」

「そのような事……! あり得るのですか!」

「言いたい事は分かる。これまでの歴史上、あまりに例外、あまりに異質だと言う事はな。だが、事実だ。オミカゲ様も同じ意見だし、だからこそ、それに備えて鍛えなければならない」

 

 ミレイユは殊更明るく声音を変えて、両腕を広げた。

 

「むしろ、どうやって口説き落とそうかと思っていたくらいだ。志願してくれたのは僥倖でしかない。だから志満、今回に限っては何も言ってやるな。咎めもするな。私が許す、お前も許せ」

「は……、ハッ! 御子神様が、そうまで仰られるなら、お言葉に従います」

「うん。……侑茉」

「はい!」

 

 呆然と、あるいは恍惚とミレイユの顔を見つめていた侑茉が、その呼び掛けに跳ねるように返事をした。

 

「一応聞くが、力を求めると言う事でいいんだな? 直接嘆願したからには、優先的に動いて貰う事になるぞ。今までの鬼とは比較にならない相手と戦う事になる」

「はい! 私の答えは変わりません! 是非、オミカゲ様の――御子神様のお力とならせてください!」

「いいだろう。追って連絡させる……が、その前に一つ。会得している理術は?」

「由井園として、防壁術と治癒術を修めております」

 

 ふぅん、と呟いて、ミレイユは侑茉の身体を上から下まで見つめ――下までといってもテーブルが邪魔となって下半身は見えないが――、そして片手を差し出した。

 まさか握手したいなどと思わない侑茉は、その手を見つめて固まってしまう。

 早く手を取れと急かすように上下に振って、それで恐る恐るミレイユの手を握った。

 

「理力の制御をしてみろ」

「は、はい……!」

 

 返事と同時に目まぐるしい勢いで、体内の理力が動き出した。

 緊張している事を差し引いても、これはあまりに酷い。持ってる理力総量は多いのに、力任せで無理に回しているせいで、ヨレてしまっている。

 緩急も多く真っ直ぐに走れていない、蛇行運転のような有様だった。

 

 それでも並の者では彼女に勝てないだろう。あまりに強い癖だとしても、それを捻じ伏せて勝ててしまうだけの総量がある。

 それだけに惜しい。これが生来のものなのか、指導された上で矯正できなかったのかは分からないが、直せるものなら直したいと思っているだろう。

 侑茉が先ほど頭を下げて言った事を思えば、あながち間違いでも無い気がする。

 

 ミレイユは、もう片方の手も差し出して、握るように催促した。

 やはりおずおずと手を差し出して遠慮がちに握ると、ミレイユは制御の流れを奪い取り、強制的に動かしてやる。

 それが例え正常な動きであろうと、慣れない方からすれば戸惑うし、恐ろしく感じてしまうというのは前回から学習済みだ。七生と凱人から得た経験から、いきなり正常で正確な流れを作るのではなく、徐々に導く形で修正していく。

 

「あ、ぁ、あぁ……!」

「落ち着け、抵抗するな。……そのまま、肩の力を抜け」

 

 ミレイユが諭すように言えば、青い顔をさせながら何度も首を縦に振る。

 強張って持ち上げるようですらあった肩も、少しずつ力を抜いて下がっていった。視線はどこか虚ろで斜め上を向いていて、震える身体は寒さというより感動に打ち震えるように変わっていく。

 

 その異常とも言える変化に、志満は恐ろしさを感じたようだ。

 ミレイユを見る視線に含まれていた緊張とは別に、畏怖も加わったように見える。それに安心させるように頷いてやると、即座の納得はしてないものの、とりあえず見守るだけはする事にしたようだ。

 

 ミレイユは侑茉へと視線を戻す。

 最初はミレイユの手を強く握っていた侑茉も、今では自然体で重ねるようにしていた。強張り震えていた身体も元に戻り、弛緩するように肩を落としている。

 

「いいか、その感覚だ。今までのやり方は一度忘れろ。その流れを維持するよう意識するんだ。今から制御を返す、やってみろ」

 

 言うや否や、ミレイユは重ねていた手を離した。

 その際、制御の流れは乱れたものの、すぐに調子を取り戻す。ミレイユが操っていた時と同一ではないが、それでも近い感覚で同じ事が出来ている。

 

「……うん、いいだろう。一旦、止めろ」

 

 ミレイユの命令通り止めようとしたが、流れの勢いは最初とは雲泥の差だ。まだそれに慣れない侑茉には、急な停止は無理なようだった。少しずつブレーキを踏むように、その制御速度も落としていく。

 

 たっぷり十秒使って完全に制御を停止させると、大きく息を吐く。吐いた息は震えていて、また身体も思い出したように震えだした。

 額から汗が一筋流れると、それを皮切りとして一気に汗が吹き出してくる。

 

「御子神様……、今のは……!」

「理力制御の正しいやり方だ。これはお前だけじゃないが、御由緒家の誰もが癖のある制御で行っていた。代々力の使い方を伝承していく内に、捻れて伝わっていったんだろう」

「それでは……、これは与えられた力ではなく……!?」

「お前本来の力だ。無駄なく正しく運用すれば、元よりそれが出来るだけのポテンシャルがあるんだよ」

 

 アキラの時は初歩の初歩から教えたから、そのような変なクセもなく順当に制御力を伸ばしていた。ミレイユやアヴェリンが普通、当たり前と思っているやり方を実践させていたのだ。

 だから、現世の人間も同様にやっているものだと思ったのだが、実際は真逆。

 

 家それぞれの個性とでも言うべきか、当時の実力者が自分はこの方がやり易いと感じて変えたのだろうが、本人は良くても、それはあくまで個人の範疇。誰の型にも嵌まる方法ではなかったという事だ。

 それを更に当代の人間が自分に合った方法を探し出していった結果、現在では歪な型として継承されるに至った。そういう事ではないか。

 

 侑茉は改めて理力制御を開始する。

 先程の目まぐるしく、ともすれば目障りとも映った理力運用が、全くの別物として滑らかに流れていく。無駄がそれだけ無いという事は、その余剰を自身の力へ転用できるという事だ。

 

 それが肌で理解できるのだろう。

 高揚する気持ちを抑えるように胸に手を当て、制御も止める。これもまた先程とは違い、実にスムーズだった。

 

「……うん、既に慣れ始めている。その辺りは流石というべきなのか、基礎力は高いんだよな」

「は……! 恐縮です」

「それにしても、今まで誰も指摘しなかったのか。それとも個性的の一言で片付けられていたのか?」

 

 ミレイユが多少苛立たしく口にすると、侑茉は大きく首を振って否定した。

 

「いえ、そのような……! そもそも手を取っただけで他人の制御を正せる方などおりませんでしたし、このような神業――そう、神ならざる者に出来る事ではありません!」

「オミカゲ様に見てもらうとか、そういう機会は?」

 

 これには志満が顔を青くしながら否定した。

 

「オミカゲ様にその様な事、あまりに恐れ多く願い出られるものではありません」

「見る機会があれば気づくと思うが」

「かつて御由緒家と共に戦場に立っていた時ならいざ知らず、ここ数百年ではお目にかける機会などございませんでした」

「……対面した時に、ちらっと制御して見せるとか」

「それでは叛意ありと見られてしまいます……!」

 

 青い顔を更に蒼白にして否定する志満を見て、まぁそうだよな、という他人事のような反応で頷いた。ご機嫌麗しく、と礼を取りながら制御を始めれば、それは刀を抜くのに等しい行為だ。

 ミレイユは視線を侑茉に戻す。

 

「その制御法を知ったとしても、まだ知っただけだ。修学し、そして修得したとは言えない。まずはそれに慣れる事だ。そうすれば、今より出来ることは格段に増えるし、そして修得していた理術も……」

 

 言い掛けて、ミレイユは唐突に言葉を切った。

 隣の夫からハンカチを借りて汗を拭っている侑茉と目が合うと、困惑の眼差しが返ってくる。改めて上から下まで見下ろし、そして制御の流れを奪っていた時の事を思い出す。

 それを脳裏に思い描いてから、侑茉の会得しているという理術の事を思い返した。

 

「防壁術と治癒術か……。支援、防御系に優れた才能……そう言われたのか?」

「は、はい。左様でございます」

「いつ?」

「それは勿論……、神前信与の儀の際でございますが……」

「初めて聞く単語だ……。説明しろ」

 

 侑茉は叱責でもされたかのように緊張した顔つきで、言われたとおり説明を始めた。

 神前信与とは、オミカゲ様から理術を与えられる儀式のことで、結界内でミレイユが雑に行った対象に術を覚えさせる事を、より格式張った形式で執り行う事を指すのだという。

 

 実際、人ならざる力を神から与えられるというのは、奇跡以外のなにものでもないだろう。その瞬間を当事者として目の当たりにする人間は、神との繋がりを得た気がして感涙に咽び泣く者もいるという。

 

 熱心な信者であれば理解できる気がするが、ともかくその際に適正を見てもらって才能に見合った理術を授けられるのだそうだ。

 基礎訓練しかしていない人間なら、どのような力でも五十歩百歩、特に何かに秀でているのか見抜くのは困難だろう。千年近く同じ事を繰り返してきた実績が、ある程度傾向を見抜いて授ける事にも繋がっているのかもしれないが、訓練次第で幾らでも化けるものだ。

 

 侑茉も由井園として防壁術と治癒術を会得した、と言っていた。

 この分だと、御由緒家はその背景に見合った術を与えられて、実際の才能と合致しなくても与えているのではないか。真剣に才能を見抜き、掘り起こすには時間が掛かる。オミカゲ様にその時間がないとなれば、ある程度流れ作業になるのも仕方ないのかもしれないが……。

 

 とはいえ、使える戦力を欲している現在、それだけでは不十分だった。

 特に能力があるものには、それに見合った術を授けてやらねばならない。

 ミレイユは改めて侑茉に視線を合わせた。

 



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御子神の一日 その10

えりのる様、誤字報告ありがとうございます!
 


「侑茉、お前に防護術の適正がないとは言わないが、より適しているのは支援系だ。それに特化した方が伸びるだろう」

「それは……真でございますか?」

「これ! 御子神様の言葉を疑うなどと……!」

 

 横から志満の叱責が飛んで、侑茉は肩を窄めて深く頭を下げた。堅苦しい謝罪を羅列し始め、ミレイユはそれに手を振って止めさせる。

 

「気にしてないから、今は捨て置け。大事なのは、お前にあるのは支援理術の才能だと言うことだ。防護術を鍛えてきただけあって、そちらも伸びているのは確かだが、既に頭打ちは近いだろう」

「では、支援理術はそうではないと……!?」

「防護術に比べれば、そうだ。治癒術はどちらとも言えないが……あって困るものでもないしな。伸び代は残っているように思うから、そちらも続ければ良いと思うが」

「ハッ、そのように……!」

 

 侑茉が深く頭を下げ、ミレイユは面倒そうにプラプラと手を振った。

 

「まずは練習用として自己支援、身体強化の術から慣れるのがいいだろう。先程矯正した制御術と合わせれば、そこそこ覚えも早いだろうしな」

「え、それでは……今ここで神前信与の儀を?」

 

 侑茉が畏れ多いものを見るように背を反らす。 

 志満を見ても似たような反応で、本来なら世間話のように口に出す事ではないのだと物語っている。これはオミカゲ様の特権であると同時に、信与とあるように互いの信用と信頼あって与えられる力だ。

 

 おいそれと慣習を飛び越えて好き勝手やって良いものではないのだろうが、何しろミレイユにしても時間がない。

 ――御由緒家は使える。

 これはミレイユが感じた、市井に埋もれた才人に比べた能力から分かる事で、幼少時から基礎を鍛えているせいなのか、とにかく地力が違う。

 

 そのような者たちには優先的に能力向上と、理術を会得して習熟してもらわねば、時間が勿体ないのだ。今となっては人材だけでなく、時間さえもが資源だ。

 形式と違う、慣習と違う、格式にそぐわない、そういう理由で鍛える時間を奪われる訳にはいかないというのがミレイユの考えだが、その辺りはオミカゲ様と意識の摺り合わせが必要かもしれない。

 

 だが今は例外措置として黙認してもらおう。少なくとも御由緒家に対しては、早急に戦力として完成して貰わねばならない。

 ミレイユは左手を差し伸べて、右手で目的の理術を制御し始めた。基礎的な初級術だけあって、一瞬で完了する。

 侑茉は何度やっても慣れないと見え、恐る恐る手を差し伸べてきた。侑茉と志満へ交互に視線を向けてから、握った左手でも術を与える制御を始める。

 

「本来なら、こんな気軽にやる事ではないんだろうが。今だけは目を瞑れ」

 

 返事を待たずに制御を完了させた術を、ミレイユの手を通して侑茉に与える。発動させるのと同様に右手から光が発し、それが収まるのと同時に侑茉は術を会得した筈だった。

 

「あぁ、そんな……! 本当に、この身体に力が流れ込んだのが分かります!」

 

 ミレイユは身振り手振りで術を使ってみろと催促し、侑茉は言われたとおりに術を発動させようとする。単に制御している時と、術を使おうとする時は勝手が違う。

 前と同じような制御をしようとするのを、未だ握られている左手から操作して矯正する。嗜めるような視線を向ければ、恐縮したように頭を下げた。

 

 そうして侑茉は自己強化の理術を発動させる。

 まだまだ拙い、改善の余地が幾らでもある制御だったが、発動した術は問題なくその力を発揮した。侑茉から手を離すと、自身の両手と見比べるように視線を移し、次いで腹を見るように顔を動かす。

 

「こんな……こんな簡単に! それにこの強化効率……信じられません!」

「私に言わせれば無駄が多いし改善の塊だと思うが、しかし初めてというなら……そんなものかもしれない。まずは使う事に慣れろ。理術制御だけでなく、剣を振るうとか、身体も一緒に動かしてな」

「はい、ありがとうございます! 仰せの通りにいたします!」

 

 侑茉が起立して一礼し、それを鷹揚に見やって頷く。

 

「苦難の時が訪れようとしている。今はまだ、始まりに過ぎない。御由緒家には苦労してもらう」

「はい、お任せ下さい! その為の御由緒家でございますれば……!」

「うん、期待している。……さて」

 

 ミレイユが視線をアヴェリンに向ければ、得心したような頷きが返ってきた。

 咲桜が察してミレイユの後ろに付き、腰を上げたタイミングで椅子を引く。ミレイユが立ち上がればアヴェリンもそれに続き、同時に侑茉達も立ち上がった。

 

「今日のところは、そろそろ帰るとしよう。ついでだからと余計な事までした気がするが……、乗馬は実に楽しかった」

「勿体ないお言葉でございます。よろしければ、またお越し下さいませ」

 

 志満が代表して頭を下げると、席に座った他の者たちも同時に頭を下げた。計ったように同時なのは、そうする事に慣れている故か。整然と頭を下げる姿は見事だった。

 

 ミレイユは目礼するだけでそれに応え、踵を返す。

 こういった場合、当主の先導で帰ったりするものなのだろうか。どうするのが正解なのか知らない身としては、せめてそれが当然と見えるように、自信の満ちた姿でいなくてはならない。

 

 ドア付近にいた執事が恭しく開き、一礼と共にミレイユを見送る。後ろに付いてくる御由緒家の気配を感じながら、玄関へ向かって逃げるように歩を進めた。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 玄関から出て、迎えに来ていた専用者の前まで、来た時同様一家総出でお見送りする。車に乗り込んでしまえば、スモークガラスの奥でどのような表情をしているのか窺う事は出来ない。

 志満は精一杯の感謝と崇敬と共に頭を下げる。それに続いて使用人も含めた全ての人間が頭を下げた。車へ到着するまで一言もなかったし、誰も何も発しなかった。

 

 発進する直前になって窓が下がり、そこからお付きの咲桜が顔を見せる。伏せった顔に笑顔を忍ばせ一言発する。

 

「大変満足したと、大儀であったと申しております。皆様におかれましても、ご健勝であられますよう。それでは、失礼致します」

 

 それと同時に窓が上がって再び姿は見えなくなる。

 車が見えなくなるまで頭を下げ続け、エンジン音も聞こえなくなってから頭を上げた。

 

 オミカゲ様同様、饒舌に話す方ではなかった。その心の内にある真意についても、よく分からない。ただ、不興を買う事だけはなかった。言葉の表面だけ見れば、確かにそうだった。

 

 志満は娘を睨み付ける。

 場合によっては、本当に次期当主の権利を剥奪するつもりだった。それ程までに度し難い失態を侑茉は犯した。何事もなくいったのは、あくまで御子神様のご気質によるものだったと理解している。失態と叱責は不可分だ。

 

「侑茉、あまり勝手をするものではありません。お前の気持ちは分かっていましたが、直接嘆願などという愚を犯すなど思ってもいませんでした。何事もなかったのは偶然と幸運でしかなかったと、よく心得ておきなさい」

「……はい、申し訳ありません。己を自制できなかった事、深く悔やんでおります」

「だいたい……!」

 

 言い掛けたところで、周りの視線に気づいて声を抑えた。

 叱責も反省を促す事も、使用人総出の前でするべき事ではない。侑茉には実際、次期当主として立って貰わねばならないし、今回の事でそれがより強くなった。

 使用人の前での叱責は、後々の上に立った時に陰りを落とす。

 

 志満は見渡した顔の中に、目的の人物を見つけて声を掛ける。今回、乗馬をするに当たって付けた馬丁たちだった。

 志満は鋭い双眸からひたりと見据えて口を開いた。

 

「あなた達から見て、御子神様はどう見えましたか」

「えぇ……、馬の扱いが巧みで、お優しい気質の方かと思います」

「はい、馬もすぐに慣れて、よく懐いていましたよ。まるで数年は共に走ってきたかのようで」

 

 馬丁たちが互いに目配せするように答えると、志満は満足したように頷いた。それだけで二人を下がらせ、似たような質問を使用人たちにしていく。

 その答えは誰もが同じで、単に周りに合わせているだけ、悪いことを言いたくないだけ、という理由からではなく、本心で言っているのだと分かった。

 

 御子神様のご気質に関して、誰もが共通して悪い事は言わない。苛烈なように感じる物言いも、神ならばむしろ当然で、あの程度は不遜ですらない。

 御子神様とその御力を疑った事はなかった。ただ、オミカゲ様よりは劣って当然という認識があったのは確かだ。御子だからとはいえ――御子だからこそ、同じことは出来まいと思っていた。

 

 ――しかし。

 神の御業であるからこそ、なのだろうか。

 神前信与を何の気負いもなく、いとも容易く行ってみせたのには度肝を抜かれた。それだけではなく、その制御法さえ正してみせた。

 

 侑茉の表情を見ても分かる。

 これこそが神であると、その力の一端に触れて、すっかり感化されてしまっている。

 

「今更確認する必要はなさそうだけど、侑茉……御子神様の印象は?」

「こんな感動はオミカゲ様と直接対面した以来です、お母様。お優しい気質というのは、そのとおり。でも厳しい面もあるのだと感じました。その必要があれば、どこまでも苛烈になれる御方だと」

「そうね……。御由緒家には苦労してもらう、というお言葉に嘘はないと思うわ。今までも決して楽をして来た訳ではないけれど、確かに鬼に対して優位性はあった……」

 

 特に市井から選ばれた者たちから見て、相対的に御由緒家は強者で間違いなかった。

 だが、今日は事のついでと言いつつ、その矯正を御子神御自ら行ったのだ。その意味は決して軽くはない。

 

「……もしかしたら、視察を兼ねていたのかしら。御由緒家のオミカゲ様に対する信仰、忠誠……そういったものを」

「では、その御力の一端を見せてくださったのも……?」

「ええ、ある意味で楔を打たれたと見るべきでしょう。軽々しく捨てられるものではないとはいえ、プライドばかり高い旧家など必要なしと見るのかも。特に現在、鬼の強化が見える昨今、御由緒家不甲斐なしと断じられる可能性もある……」

 

 あまりに悲観的な物言いに、侑茉は大袈裟に手を振り否定した。

 

「御子神様がこうして力を引き出してくださったのに、それは余りに後ろ向き過ぎるのでは?」

「よく考えてご覧なさい。あなたは確かに力を増した。まだ伸び代もあると仰って下さったわね。でもそれは、御由緒家のみの特権ではないのよ。市井の才能ある者たちに与え、御由緒家がその座にあぐらをかいていたら、その力関係は逆転する。高みから見下ろしていたものが、見下されてしまうのよ」

 

 当然だが、御由緒家の総数より市井から見出された者たちの方が数は多い。

 しかし絶対強者として立っていた御由緒家は、その数の不利を容易く蹴散らす力があった。だが御子神様から指導を受ければ、御由緒家と並ぶ力すら身に着けるかもしれない。

 そうなれば、数の多い方を優先するのは目に見えている。

 

 その予想は詳しく説明するまでもなく、侑茉にも理解できたようだ。

 己の増した力とその比率は、自分が良く分かっている筈だ。それが平等に配られ、御由緒家を遠ざけたとしたらどうなるか、志満より余程詳しく想像できるだろう。

 

「分かりました、お母様。御子神様へ――いえ、オミカゲ様へより一層の忠節をお見せすること、それが何より大事だと心得ておきます」

「そうなさい。少なくとも今はまだ、その御心は御由緒家に向いている。それを決して損なわぬよう、努力するのです。……そうせよと、御力を与えられたのだと思いなさい」

 

 志満が神妙に言うと、侑茉も神妙に頷く。

 御由緒家はオミカゲ様の矛であり盾である。由井園はその中でも特に盾として、その任に当たってきた。だが、それでは不足だと言われたのだ。

 

 侑茉にとっては、むしろ待っていたと言いたいところだろうが、期待を裏切るような事になれば――。

 いや、と志満は首を振る。ついつい後ろ向きに考えてしまうのは、志満の悪い癖だ。

 少なくとも期待はされている。今はそれを励みに努力するしかない。

 

 志満は今は遠く、既に姿が見えなくなった車へ顔を向けた。

 



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学園の転入生 その1

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 その日の夕方、アキラは車に乗って神明学園へ向かっていた。高級車の後部座席で、身体を小さくして座っている。

 神宮から遣わされたという車だ。

 ほんの少しの汚れも付けてはならない、という強迫観念めいた気持ちが、アキラを縮こませて座らせる原因だった。

 

 車の窓から流れる景色にすら、視線を向ける余裕がない。不躾なところを見せる訳にはいかないと、膝の上に手を乗せて、その甲へと視線を落として微動だにしなかった。

 

 アキラを迎えに来たのは昼過ぎの事で、昼食も済み、歯も磨いて準備万端整えた後の時間だった。落ち着きなく部屋をウロウロとし始め、もう一度旅行鞄の中を確認しようかと思い至った瞬間の事だ。来訪を告げるインターホンの音が鳴り、開きかけた鞄を閉め、ドタバタと音を立てながら玄関へと向かった。

 

 扉を開いて出てきたのは若い男性で、パリッとしたスーツに身を包んだ姿は、出来る営業マンのようにも見えた。その人は一歩後ろに身を引いてから一礼して名を名乗った。

 

「本日の運転と案内を仰せつかりました、三瀬と申します。どうぞ宜しくお願い致します」

「い、いえ、どうもこちらこそ! よろしくお願いします!」

 

 アキラがペコペコと頭を下げて礼を返すと、三瀬はアキラの持った旅行鞄へチラリと視線を向けて、にこやかに笑顔を向けて言った。

 

「準備がお済みでしたら、すぐにでも出発できます。手伝える事がございましたら、何なりとお申し付けください」

「いえ、大丈夫です! もう全部済んでます……済んでるんですけど、本当に着替えだけでいいんでしょうか? いえ、筆記用具やノートなんかも持ってきてますけど、教科書とかそういうの何も用意してないんです」

 

 軍学校のようなもの、と言っていたが、まだ高校生の身分だから、本当に同じものではないだろう。訓練に日々を費やすよりも、勉学の時間の方が多い筈だ。学校によって扱う授業内容も教科書も違うだろうに、その事について一切の言及がなかった。

 

 着替えだけで良いというなら、その辺りの手配も済んでいるのかもしれないが、何も言われていないというのが不安を煽った。

 三瀬はやはりニコリと笑顔を見せて頷く。

 

「はい、問題ございません。全ての手配はこちらで済ませております。御子神様より、良きに計らうよう、ご命令を受けておりますので」

 

 あのミレイユと古風な言い回しは、微妙に食い違って違和感を覚えたが、神と崇める存在からの言い回しとしては、それが自然なのかもしれない。

 

 ――でも、そうか……。

 この男性は神宮からの遣いなのだ。神宮と言ったら和装をしている人を連想してしまうが、スーツを着ているのは周りからの視線を紛らわせる、一種のカモフラージュなのかもしれない。

 

 神宮の関係者と改めて認識すると、緊張感が増してきた。無様な態度や不躾な姿を見せる訳にはいかない。

 アキラの態度一つ、言葉遣い一つで、推薦しただろうミレイユの顔に泥を塗る事になるのだ。編入試験や面接など、そういった諸々がないのに即日転入を許可されるなど、余程の例外措置がなければ有り得ない。

 その例外が、神からの鶴の一声だとすれば、アキラの評価はそのままミレイユの評価に繋がる。

 

 今更ながらにその事を自覚して、大した覚悟も用意もしていなかった事を悔やんだ。

 だが今は、とりあえず目の前の事態を穏便に済ませるよう、努力しようと心に誓った。アキラは心の底で意気込んで、改めて三瀬に頭を下げた。

 

「それでは、その……よろしくお願いします」

「お任せください。到着は夕方頃になる予定ですので、お疲れや体調が優れない事などございましたら、遠慮なくお声がけください」

 

 三瀬に促され、アキラは鞄を持って家を出た。

 愛着のある、生まれ育った家――アパートの部屋だ。手放す必要はないと慮ってくれたミレイユに感謝しつつ、車に乗り込む前に今一度部屋へ視線を向ける。

 

 ――行ってきます。

 心の中で呟いて、三瀬が開けてくれたドアから乗り込んだ。

 

 

 

 三瀬が言ったとおり、学園に到着したのは夕方頃、日が沈み始めるよりも前の事だった。

 都市部から離れ、山間の中を進んでいくと、森に囲まれた校舎が目に入ってくる。三階建ての建物で、外観からは普通の学校のようにしか見えない。

 

 違うところと言えば、グラウンドや体育館らしきものが複数ある事、また校舎から離れた所に学生寮がある事だった。校舎から向かって右にあるのが男子寮で、反対の左側にあるのが女子寮らしい。

 

 グラウンドにしても野球やサッカーといった学校らしいものと違い、演習場といった方がしっくり来る。スポーツをしないという訳でもないのだろうが、授業で行う運動というのは、むしろ訓練といった内容になるのかもしれない。

 

 だがそれは別に意外でも何でもなかった。

 アキラは元より、この学園へ招かれた者たちは、より良い学生生活を送りに来た訳ではない。将来の高給取りを目指しに来た訳でもなく、戦う力を身に着ける為、ここへ来たのだ。

 

 そして何より違うところは、この場が霊地にあるという所だろう。

 校門から足を踏み入れてから分かった事だが、ここは神宮と同じ気配を纏っている。このような山奥に校舎を建てたのは、これが一番の理由だろう。

 理力を使わず訓練をするなど片手落ちに違いなく、消費した理力をどうするつもりなのかと思っていたが、始めからそれを計算に入れた上で立地を決めていたのか。

 

 感心する思いで校舎から目を離し、荷物をトランクから取り出してくれた三瀬に、アキラは礼を言って鞄を受け取る。

 

「えぇと、ありがとうございました。短い間でしたが、お世話になりました」

「いえ、こちらこそ。もっと気の利いた話題でも提供できれば良かったのですが……」

「そんな、とんでもない!」

 

 実際、アキラの緊張ぶりを見て、気さくに声を掛けては解きほぐそうとしてくれていたのだ。しかし全くの逆効果で、神宮の人間に粗相をしてはいけないと、固辞するような形になってしまった。

 何と反応して良いのか分からず、とにかく大丈夫ですの一言で片付けていた節さえある。

 これについては相当申し訳ないと思うのだが、とにかく緊張ばかりでどうにもならなかった。

 

 アキラは改めて礼をして感謝を伝えると、三瀬はやんわりとした笑顔を見せて同じように頭を下げた。

 

「それでは私はこの辺りで。ご健勝とご活躍をお祈りしております」

「は、はい! ありがとうございます!」

 

 車に乗り込み、走り去っていく姿を見送ってから、アキラは改めて校舎に向き直る。

 まずは寮へ行って自室で待機する事は決まっている。そこで諸々の説明を受けるのだとは思うが、十分な説明はされていないので、やはり分からない。

 

 とりあえず寮へと足を向け、入口まで辿り着くと、奥から二十代後半と思しき女性が出てきた。見るからに厳しそうな、目付きの鋭い女性で、短く切り揃えてた髪型と鍛えられた体付きが、鬼軍曹というイメージを呼び起こさせる。

 

 その女性がアキラを上から下まで見つめると、眼光を鋭くさせて口を開いた。

 

「由喜門暁、で間違いないな?」

「はい、そうです。本日からお世話になります、よろしくお願いします!」

鷲森(わしもり)理衣(りい)だ、男女兼用でここの寮長をしている。そしてお前の担任でもある。よろしくな」

 

 アキラが鞄を地面に置いて頭を下げると、それを満足気に見て頷いた。

 玄関を示すように腕を振って、自らもアキラへ背を向けて歩きだす。鞄を手に取って、それに慌てて付いて行った。

 

「……問題行動さえ起こさなければ、寮内で何をしようと自由だ。夕食は夜六時、門限は夜八時だ。風呂は十時までの間に済ませろ、就寝は十一時。起床は朝六時、七時から朝食、八時に登校、夕方まで授業だ。何か質問は?」

 

 アキラを部屋へ案内するまで、顔も向けずに一通りの説明を続けていた。

 一日のスケジュールだけでなく、寮内の細々とした他のルールもあって、例えば掃除などは持ち回り制であったり女生徒の連れ込み禁止など、様々な説明があった。

 

 寮内は清潔で、また古臭さを感じない作りだ。

 壁や床に傷や罅など見当たらないし、少々の汚れはあるものの、それは建築年数が長ければ自然と付いてしまう類のもので、染みを放置しているような不潔さはない。

 

 寮内に音はなく、また人の気配も感じなかった。

 聞こえてくるのは鳥の声や虫の音ばかりで、森が近くにあるせいか、とにかく動物由来の音が大きい。夜は夜でフクロウの鳴き声など聞こえてきそうで、睡眠の邪魔にならないかと不安に思った。

 

 二階にある奥まった一室まで辿り着くと、鍵を使って開け、室内へと案内する。ちらりと他にもある部屋へと視線を向けても、そこも生徒はいるのだろうに、やはり気配は感じなかった。

 あるいは、まだ六時にはなっていないから、学校の方にいるのかもしれない。

 

 室内に踏み入ると、予想とは違うという意味で度肝を抜かれた。

 部屋は広く清潔で、アキラが住んでいたアパートの一室よりも広い。2DKの部屋で暮らしていたが、それぞれが六畳間だったのに対し、ここは十畳もある。

 

 ベッドも備え付けてあって、狭い二段ベッドを想像していたのに、セミダブルの大きさでしかも一段ベッドだ。クローゼットには制服やジャージ、運動着などが既に収まっていて、外靴中靴も置いてあった。

 

「サイズは合っている筈だ。試しに着てみて、違うようなら申告しろ。すぐに用意する。教科書は少し遅れているが、明日の授業中に渡す手筈になっているから、そこは安心しろ」

「はい、分かりました」

「それと、男子は女子寮への入室を認めない。理由の説明は不要だろう」

 

 アキラが首肯すると、理衣は室内を不機嫌さを滲ませた視線で見渡す。

 

「こういう格差があるから、余計……」

「……はい? 何か言いました?」

「いや……。ああ、足りないもの欲しいものは売店で買える。売店は校舎側にしかないが、夜八時までに閉店するから、必要なものがあれば別途そちらで購入するように」

「具体的に何が足りないかも分からないんですけど……」

 

 アキラがおずおずと答えると、鷲森は当然だと言うように頷く。

 

「現状、生活する上で不足している物はない筈だ。洗面用具、入浴道具、歯ブラシやタオルなど、生活必需品は全てあるが、破損したり消耗したりしたら自分で購入する事になっている」

「そうなんですね……」

「給料から天引する事も出来るが、金の管理は使わなければ覚えない。よほど事情がない限りは教育の一環としてやらせている部分もあるので、お前もなるべくは自分で購入しなさい」

「そうか、給料出るんでしたね……」

 

 自己負担はケチくさいとも思ったが、そもそもそのお金すら提供されるというなら不満もなかった。寮生活では一人暮らしより支出も少ないだろうし、貯金すら出来るかもしれない。

 今までが一人暮らしだったので、金銭管理も慣れたものだ。強く反発する理由もないので、アキラは素直に頷いた。

 

「質問がなければ、以上だ。後の詳しい事は、寮生に聞くと良いだろう。実際に生活している者からの視線で助言が貰える筈だ。私から教えるにしても、男子と女子では色々と勝手が違うからな……」

「分かりました。あとは追々、慣れていく事にします」

「それがいい。……私は理術の授業を持っているので、何かと顔を合わせる事も多いだろう。分からない事があれば遠慮なく聞きなさい」

「はい、ありがとうございます!」

 

 アキラが頭を下げると、鷲森は早々に部屋から出ていく。

 見送りを兼ねてアキラも外へ出ると、今しがたアキラ達がやって来た方向から一人の生徒がやって来た。制服姿をした同い年と思しき男性で、アキラに向かって剣呑な視線を向けている。

 その男子生徒は鷲森に向かって丁寧に頭を下げると、アキラを親指で示した。

 

「お疲れ様です、鷲森先生。もう案内が終わった頃だろうと思って呼びに来ました。……ソイツが転入生で、新寮生ですよね。お借りしてもよろしいですか?」

 



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学園の転入生 その2

 その生徒の提案に、鷲森はあっさりと頷いて気安く声を掛けた。

 

「構わないが、あまり騒ぐなよ」

「勿論です、ちょっとした……単なる()()()ですから。それなりに自重しますよ」

「羽目を外し過ぎないようにな」

 

 お互いに、既に了解を取り終えているかのようなやり取りだった。

 アキラは、生徒の睨み付けるような視線を受けながら肩を落とす。これがどういう意味か分からないほど、アキラは鈍くもない。

 

 一種の可愛がり、伝統行事だとでも言うのだろう。

 後から入って来た人間を、上下関係を教え込む為に徹底的に扱くというアレだ。大抵は運動部などの全員対自分という構図で、勝てないようになっている。

 

 鷲森が黙認するというなら、寮内の掟の一つとして認知されている事で、助けを求めても手を差し伸べてはくれないだろう。そもそもが鬼と戦う為の戦闘訓練学校だ。ここで泣き言を言うようでは期待できない、という側面もあるのかもしれない。

 

 アキラは覚悟を決めて身体に力を入れる。

 入口付近に置きっ放しだった鞄を、奥へと押しやり扉を閉める。そのタイミングで鷲森が振り返ってきて、何事かと思ったら部屋の鍵を手渡してきた。

 

「失くした場合、即座に申し出るように。合鍵を作り直すが、その際は自腹になるから気を付けなさい」

「了解です……」

 

 アキラは受け取った鍵をポケットに捩じ込む。

 これから起こる事を理解しているだろうに、それについて言及するつもりも、助言するつもりもないようだった。

 鷲森はそれが済むと興味を失ったかのように背中を向けて、来た道を戻っていく。恨めしい気持ちが視線に出ていたのか、男子生徒はアキラと目が合うとニヤリと笑った。

 

 自己紹介はした方がいいのかと思っていると、その生徒も背を向けて歩きだしてしまう。逃げてもろくな事にはならないと分かるので、アキラも黙ってついて行った。

 階段を降りて玄関の見える所まで帰ってくると、その道を直進して大きな扉の前で止まる。生徒は振り返ってアキラを見ると、道を譲って親指で扉を示した。

 

「ほら、お前が先に入れよ」

「何しようって言うんです?」

「大方、予想ついてるんだろ? わざわざ言わせるなよ、早く行けって」

 

 鼻に皺を寄せて、威嚇するように言われれば、その先を言わなくても確かに予想が着く。扉に手を掛けた時、ちらりと上を見てみれば、白いプレートに食堂室と書かれていた。

 そのまま押し拡げるように扉を開くと、複数の破裂音がアキラの耳を叩いた。

 

「ようこそ転入生! ようこそ!」

「歓迎するよ、転入生! ホント嬉しい、仲間がまた一人増えた!!」

 

 破裂音はクラッカーで、一拍遅れて紙吹雪が舞い散り、アキラの頭に幾つもの紙の帯が掛かった。それを呆然と見ながら、満面の笑みを浮かべて歓迎の意を表している生徒たちを見る。

 

「え、これ……何です?」

「何って、歓迎会さ! そう言われなかったか?」

 

 先頭に立つ、一際大きな身体をした、優しそうな男子生徒が代表して答えた。背後では指笛でピューピューと音が鳴っていたり、ヤケにテンションの高い歓声が上がる。

 確かに言っていた。ちょっとした歓迎会だと。後ろを振り向いて確認すると、悪戯が成功した事に、会心の笑みを浮かべた男が親指を立てていた。

 

 アキラは喉の奥でうめき声を上げる。顔は盛大に引き攣っていただろうし、不快に思う仕草も見えていただろうが、その生徒は歓声を上げながら食堂へ入っていく。

 

「イェー! すっかり騙されてやがった!」

「よくやった! お前を選んだかいがあったな!」

「こいつ、睨み付けたらマジで悪人面だからな!」

「褒めてんのか、それ!」

「褒めてるよ!」

 

 仲間に迎え入れられ、その背や肩をバンバンと叩かれながら、誰もが笑顔でアキラを見ている。ジュースの入った紙コップを受け取ったその生徒は、アキラに向かって乾杯するように紙コップを掲げた。

 

 アキラが固まっていると、あれよあれよという間に引き入れられ、手にはジュースの入ったコップを持たされる。頭にはパーティ帽子、首からはハワイで見るような花飾りの首輪を幾つも通され、されるがままにされていく。

 

 そうしている内に、先程の大柄な男がコップを手にして全員の前に立った。

 

「さ、皆に飲み物は行き渡ったか? ……よぉーし、いいだろう。それじゃあ始めようじゃないか。新たな転入生、新たな地獄の道連れ相手を祝して、乾杯!」

『かんぱーい!!』

 

 誰もが笑顔でコップを打ち付け合う。アキラも誘われるがままに打ち付けて、皆が流し込むように飲むのを確認してから口を付けた。

 

 よく辺りを見渡してみれば、中央には長テーブルを幾つも重ねて作った大テーブルがあって、その上にはパーティオードブルのような料理や、コンビニで買えるようなお菓子が幾つも並んでいる。

 一人がそれを紙皿に適当な盛り付けをして、アキラの前までやって来た。

 

「はい、どうぞ。俺、田中裕也ね。隣の部屋だし、何かあったら相談してよ」

「あ、あぁ……、ありがとう。由喜門暁です。えーっと、新入生には、いつもこんな歓迎してるんですか?」

「何で敬語? タメでいいって! 同い年でしょ、きっと。俺二年だし、一般枠だからさ」

「うん、二年だけど……一般枠? 軍学校みたいな場所って聞いたから、もっと厳格なところかと思ってた」

 

 アキラがしどろもどろに言うと、その言葉を噛み締めるように何度も頷いて理解を示した。

 

「いや、分かるよ。実際授業じゃそんな感じだと思うし。普通の学校のように思ってると痛い目みるかな。怪我の絶えない、明るい学校ですって感じ」

「あんまり脅かしてやるなよ。きっと不安がってるだろう」

 

 そう言ってチキンに齧りついて笑うのは、乾杯の音頭を取った生徒だった。

 

「俺は由衛凱人。同じ御由緒家だし、会場でも会ったよな。そっちは緊張で他人の顔を見る余裕などなかったろうが」

「え、えぇ、あのときは本当に余裕なくて……」

「それが普通だろうさ。一般枠っていうのは、つまりスカウトして入って来たって事さ。御由緒家みたいに小さい頃から入学が決まっていた奴らとは違うって意味。ほら、そこの――」

 

 凱人が先程の目つきの悪い生徒を指差し、それに気づいた男が気軽な調子で近づいてくる。

 

「――漣も同じ御由緒家だ」

「よぉ、さっきは悪かったな。でも俺のアイディアじゃないぜ? 皆がやれって言うからやったんだ」

「いえ、そこはもう怒ってませんよ」

「なんだ、同じ御由緒家だろ、敬語なんてやめろよ」

「いや、僕は御由緒家といっても、ちょっと事情が違うっていうか……」

 

 アキラが気不味くなって曖昧に言葉を濁すと、漣は鼻で笑ってジュースを飲んだ。

 

「関係あるか、そんなもん。お前の理力を見れば、どんな実力があるか大体分かる。そこんとこから見るとよ、お前相当やれるだろ?」

「いや、どうなんでしょう……」

 

 謙遜ではなく純粋に疑問なので、その質問には答えられなかった。

 アキラは常に転がされていたので、実力的な部分に自信はない。むしろ才能がないと何度となく言われてきたので、一般止まりだと思っているくらいだった。

 

「期待して貰って心苦しいですけど、そんなでもないと思います」

「そうかねぇ……。まぁ、その辺はいいさ。結局才能がモノを言う世界だし、それは努力だけじゃ覆せないものだしな。だから格差はあってもそれを当然とし、上の者はそれを示さなきゃならねぇ」

「自分が強いと誇示するって事ですか?」

 

 アキラの言った台詞が意外だったのか、単に無知だと憤ったのか。眉を上げて凝視するようにアキラを見ると、漣は手を振って答えた。

 

「いいや、上の者は下を守るって事を示すんだよ。力持つ者の責任を示すのさ。強さは威張るためにあるんじゃない、守るためにあるものだ。御由緒家はそれを示し続けてきたし、だから尊敬される。オミカゲ様の教えでもある」

「そうなんですね……」

 

 妙に感心して辺りを見回した時、アキラはようやくその違和感に気づいた。今までは余裕もなく、クラッカーの音や紙吹雪で混乱し、まともに周りが見えてなかった。

 コップを渡された時点でそれに気づいても良さそうなものだが、呆けた頭では考える事すら出来ていなかったという証左だろう。

 

「あの……、この歓迎会は内々の、ごく身近な人だけ招いたものなんですか? つまり、御由緒家に連なる人だけ、みたいな」

「……あん?」

 

 漣が怪訝に眉を寄せ、凱人もその周囲にいた者、似たような反応を見せる。

 ここにいるのは全部で七人だ。アキラを含めても八人しかいない。歓迎の意を示すのに人数が揃わない事を文句言うつもりもないが、寮生全員を集めているとも思えなかった。

 

 漣たちの反応を見て、全員が参加するものでも、都合が付かない者もいるのだろうと思い直した時、凱人がようやく得心がいったように頷いた。

 

「ああ、いやいや、違う。これで全員だ。寮生は全員参加しているし、我が校の男子は総計七名だ……いや、だった、というべきだな」

「たったの……七名? あれだけ大きな学校なのに?」

 

 グラウンドは広く、また複数用意された上、校舎も三階建てでアキラの知る他の高校と遜色ない大きさだった。在学中の学生は千人ぐらい居たはずだから、この学園でも同様の規模の生徒がいるのだと頭から思い込んでいた。

 

 しかし男子生徒がこれしかいないというなら、女子生徒はどうなるのだろう。この場にいないのは何か理由があるのかもしれないが、もしかしたら山間部にあるが故に、廃校寸前にでもなっていたりするのだろうか。

 

 アキラの顔を見てから、漣は苦い顔をしながら凱人へ目配せする。

 お互いに何か意思の疎通があったらしく、頷き合ってからアキラへ顔を戻した。

 

「勘違いしてるみたいだから、しっかり言っておかないとな。別に複雑な理由がある訳じゃねぇ」

「……そう、実に単純な話だ。お前への熱烈な歓迎もそれを因としている」

 

 二人の深刻そうな表情に、アキラは思わず喉を鳴らして二人の言葉を待った。

 



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学園の転入生 その3

 漣と凱人の表情は、痛いものを堪えるかのように歪んでいた。

 周りで話を聞いていた他の生徒も、あれだけ騒がしくしていたというのに、今では固唾をのんで見守っている。その一変した空気に、アキラは思わず身を固くして動揺した。

 

「一体、何があったんです……? そんな……何か深刻な事が?」

「いや……」

 

 漣は堪えていたものを吐き出すように重い息をついた。

 

「言ったろ、単純だ。……女子の人数が多いってだけのな」

「えーっと……。それだけ? 単に男女比率のバランスが、異常に悪いってだけですか?」

「お前……!」漣は声を荒らげかけたが、(すんで)の所で留まる。「――いや、知らないってだけだよな。責める事ぁできねぇ」

 

 次いで同情するような表情でアキラを見て、儚げに笑う。

 場の空気は最悪で、お通夜のような雰囲気だった。誰もが表情を暗くして、たまにコップに口を付けるぐらいで、声を出す人はどこにもいない。

 

 アキラもその気配に気圧されて、何も言えずにいた。

 だが単純な事だと言う割に、その雰囲気は余りに深刻だとしか感じられなかった。本当に単純なだけなら、もっと明るく笑い飛ばす筈だ。

 

 それにこの場で騒いでいたのは、誰もが陽気で人当たりも良さそうな人達だった。

 女子が多いとなると、それだけで浮かれて騒いでも良さそうなのに、それもない。異常とすら思える事態だが、つまりそれこそが原因なのかもしれない。

 

 凱人が労るような眼差しでアキラを見て、それから顎を擦りながら口を開く。

 

「その比率というのが問題でな。一学年は三クラスあって、そして一クラス三十人の女子に対し、男子は一人という割合だ。今まで七人だったから、女子しかいないクラスもあったりしたが……まぁ、そこは問題じゃない」

「つまりクラスの中にゃ、自分しか男がいないって状態になるんだよ……」

 

 疲れたように溜め息を吐く姿には哀愁が漂うようだった。他の生徒も似たようなもので、そこには負の感情しか表れていないように見える。

 さきほど自己紹介してくれた田中が、その哀愁へ追随するように自虐的な笑みを浮かべた。

 

「いや、なんつーの? 最初はさ、気恥ずかしさもあったけど、同時に期待しちゃうような部分もあってさ……。女の中に男一人だし? ……ほら、分かるだろ?」

「あぁ……な? ハーレム状態、みたいな?」

 

 他の男子が頷いて、他からも似たような同意が上がった。腕を組んで、したり顔で頷く姿が周りで幾つも起こり、そして唐突に肩を落とした。

 

「でも、身の置き場がないんだよな……」

「そう、完全にアウェー。俺なんて置物だよ、全然いない存在と変わんないもん」

「やっぱ、どこでもそんなもんだよな……」

 

 アキラは恐ろしいものを見るように、周囲の愚痴とも嘆きとも取れない言葉を聞き、幻想は幻想に過ぎないのだと悟った。珍獣扱いでもなく、落ち度もないのに、いない存在として扱われるのは辛いだろう。

 

 それとも、モテ男子ともなると話は変わってくるのだろうか。

 御由緒家の二人は家柄を鼻にかけるような性格に見えないし、実際名家として敬われる存在でもある。見目も良いし、それこそクラスではハーレム状態を築いていそうに見えた。

 

「その……お二人もそんな感じで?」

 

 そんな事はないですよね、という期待を込めて聞いてみた。

 漣と凱人の二人すらそのような態度を取られるなら、この学園はちょっとした地獄だ。牢獄で過ごしているかのような――あるいはその方がマシのような生活を送る事になる。

 

「まぁ、そうだな……。俺たち二人はまだマシだと思うぜ。……まだ、な。無視される事はないし、敬意を持って扱われるっていうのは間違いない。というか、そこについては単純に積み重ねてきた歴史があるからな」

「護国守護、という歴史ですか」

「そうだな。だからまぁ、御由緒家の真の役割や鬼の知識を深めるに当たって、敬意を向けざるを得なくなる。問題は別にあって……女尊男卑っていうか、女性優位っていうか、そういう気風が強いんだよな」

 

 元より日本国はオミカゲ様という女神を擁しているだけあって、女性の権利が世界に比べて大きい。女性の参政権が早い段階からあったり、男性を一段上に見るような風潮は元よりなかった。

 だから、この学園において女性比率が多いとなれば、立場が大きくなるのは避けられないように思う。

 

「鬼退治ってのは実力社会だ。弱い奴が上に立って、権勢を持って伸し上がるっていうのは理屈に合わねぇ。強いってのは、事この学園にとっちゃ絶対の正義なのさ」

「あぁ……、性差の問題でまりょ――理力は女性の方が多いっていう、その理屈ですか」

「そうだ。筋力や体力なんてのは、理力を扱える者からすりゃ何の指針にもなりゃしねぇ。それは分かってるだろ?」

「……えぇ、それはもう痛いほど分かります」

 

 アキラが実感を如実に込めて言うと、若干気圧されたかのように漣は頷いた。

 

「お、おぉ……。ま、そんな訳だ。俺と凱人は男にしちゃ随分多い方で、同じ御由緒家の女たちにも引けを取らねぇ。だが、こっちの一般組は最も強い理力持ちでも、女組の平均ってとこだ」

「格差があるのは仕方ない」

 

 凱人が真面目な顔で諭すように言う。

 

「俺たち御由緒家が、その格差の権化のようなものだからな。努力で覆せない壁というものは、実際ある。だが――だからこそ俺たちは、その格差に腐らず己の力を高める努力をせねばならない」

「ここにいるのは、全員がその力量ありと認められた奴らだ。理力っていうのは、単に潜在的に多ければスカウトされるって訳じゃねぇ。当然、その力を振るうのに人格も求められる。こいつらはそれをクリアした奴らだ。頼りにしていい」

 

 アキラは改めて面々の顔を見回す。

 そこには認められた事に対する自負と誇りがあった。選ばれた事は間違いない名誉だろう。それは間違いない。ただ、ちょっと思い描いていた学園生活と違った、というだけだ。

 

「でも、それでここまで人数の差が出るものですか。単純に女性は男性の倍だという話は聞いた事がありますが、それなら女性の数はもっと少ないとか、あるいは男性はもっと多くても良い気がしますが」

「そこは単純に合格ラインの差だ。そのラインを越えられなきゃ、鬼と相対しても戦える基準を満たさねぇ。男じゃ特に才能ある者じゃなければ、その基準に届かないのさ。だが、その基準も女子ならまぁ、そこそこ見つかるってだけで」

 

 それにしては少なすぎるような気がしたし、校舎の規模に対して女子の数も少ない気がする。どんぶり勘定で小さいより大きい方が良い、として今の大きさで建設したのだろうか。

 そんな事を考えていると、凱人が重苦しく口を開いた。

 

「女子の方も悪気あってのものじゃないと思う。普通校じゃ運動が出来ない男子がいても、まぁそういう人もいるってだけで終わるが、ここじゃそうはいかない。自身の死と直結しかねない問題だ。だからそう……より近い表現だと、失望って事になるんだろう」

「そうかもなぁ……」

 

 漣が首筋を掻きながら苦い顔で同意した。

 

「女は守るもの、守られて当然なんて考えてないだろうけど、だからといって頼りがいのない男ってのも嫌なもんなんじゃねぇか。一度下に見えちまうと、その気持ちが失望になっちまうのかも」

「でも二人は例外として認められてるんですよね? なんというか、よく他の男子から恨み買いませんね?」

 

 アキラのあけすけな物言いに、漣は呆れを含んだ苦笑で応えた。言ってしまってから失言だと気付いたが後の祭り。恐る恐る凱人の方へ窺ったが、そちらからも怒気のようなものは発していなかった。

 

「よくもまぁ、そう聞き辛い事ズバッと言うよな」

「す、すみません……!」

「ま、でも、別に俺たちは一般組からはそれなりってだけで、同じ御由緒家からはアタリ強いからな。逆に御由緒家から一般組は優しい扱いだ。……だろ?」

 

 漣が首を巡らせて聞けば、他の面々は幾度も頷いて同意する。

 

「むしろ守られてるんじゃないかな。悪い態度を取った人には積極的に注意してくれるし。いや、悪いって言っても、攻撃を受けきれなかった俺が悪いって部分もあるから、一方的に悪者だって言う訳でもないんだけど」

「あぁ、それな……。他の女子なら今の受けられるとか知ってると、そういう態度、結構顔に出るからな……」

 

 確かにそれはキツい。

 明らかに劣っていると感じたものを、取り直し出来る回数にも限度がある。アキラからすれば、アヴェリンとの格差は圧倒的だと端から認めていたから問題ではなかったが、同年代で同時期で鍛錬を始めた相手となると、なかなか難しいかもしれない。

 

「同じアタリがキツいって言っても、一般組と御由緒家とじゃ話が違うしな。一般組は学園だけの話だろうけど、こっちは実家帰っても言われるんだぞ。お家同士の付き合いでもネチネチ言われたりするしよ。冗談じゃねぇっての」

「余りそう言う内向きの事を外で言うな。この話が漏れたら、また家の恥だの何だのと言われるぞ」

「それはマズイ。――な、お前ら。俺たち一蓮托生、地獄の底まで一緒だもんな!?」

「お、おう」

 

 理力があろうと、御由緒家には御由緒家なりの苦労がある。

 それを知ってる彼らからすると、一般組の女子から一定の敬意を向けられるくらい、どうという事はないのかもしれない。むしろ同情の方が強い気がする。

 アキラは彼らの視線から、そういった憐憫の眼差しを読み取った。

 

「……で、その地獄に今日から仲間入りするから、こうして盛大な歓迎をしてやろうって話になった訳だ!」

 

 言いながら、漣はアキラの肩に腕を回した。

 がっちりと力強く組まれた肩からは、とても逃げ出せそうもない。

 

「転入組っていうのは、そうそうないからよ。俺たちも期待してんだ。出来るヤツが入ってくれりゃ、ちっとは気持ちが楽になる」

「おお、そのとおり! 俺たちは数が少ないし、団結しなきゃな! いがみ合うなんて馬鹿のすることだ」

 

 他の男子も口々に言い合って、中身を減らした紙コップにジュースを注いでいく。空気も幾らか弛緩して柔らかくなった事を皮切りに、適当にお菓子や食べ物を手に取り始める。

 

「暗い話はやめにしようや、まずは乾杯! 新たに苦楽を共にする仲間に対して! ――かんぱい!」

「かんぱーい!!」

 

 それぞれが紙コップを控えめに打ち合わせ、盛大に傾けて喉を見せつつ呷る。

 半ば自暴自棄で無理やりテンションを上げていく様な有様だったが、彼らにはそれが何より必要らしい。そうまでしなくてはいけない生活を送り始めると思うと、アキラとしても相当な苦労を想像してしまう。だが、今だけは忘れようと思った。

 アキラもコップを漣と凱人と打ち合わせ、コップに波々と注がれたジュースを口に入れた。

 



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学園の転入生 その4

 オードブル類もお菓子も、そこそこに片付け終わった後の事だった。

 それぞれ仲の良い相手と自然と雑談し始めて、まだ仲の良いと言える相手のいないアキラが取り残される形になってしまった。

 そこに漣と話していた凱人が気付き、アキラの傍までやって来る。

 

「まったく、こいつの歓迎会だってのに、一人にさせてどうすんだ」

「いや、別に気にしてませんよ。それだけ気さくに話したい相手がいたって事じゃないですか」

「懐の広いこって。……ま、お前がいいなら構わねぇけどよ。けど歓迎してるのはポーズじゃねぇぜ、特にアイツらからすれば、仲間は一人でも多い方が心強いだろうしな」

 

 苦労を分かち合える相手というなら分かるが、これは少し意味合いが違うように思える。どちらかというスケープゴートに出来る相手は、多い方が良いといった意味に思えた。

 アキラが苦笑していると、重い口調で凱人が言う。

 

「……男女の格差は広がるばかり、一般組も気が気じゃないっていうのが本音だろう。努力を怠る者たちじゃないが、それでもな……」

「理力持ちも少なくなるばかっりだとかで、オミカゲ様もお嘆きだと聞く。だから今回の事は、渡りに船ではあったんじゃねぇのか。御子神様は、我らに新たな扉を開いて下さった」

 

 漣が遠くを見つめるように言うと、凱人もそれに頷く。

 

「御子神様から授けられた制御法は衝撃だった。まるで世界が変わって見えたものだ。我が家に代々伝わる制御法は、一体何だったのか思う程だった」

「新しい理術にしてもそうだ。あの制御法を知らずにいたら、まともに運用できる気がしねぇ。今も毎日あの時の感覚を忘れねぇように鍛錬してるけどよ……校舎すら吹っ飛ばし兼ねねぇ威力ってのは、正直手に余るぜ」

 

 泣き言のような発言に、凱人は諫めるように肩を叩いた。

 

「だが、それなしで今後の鬼と戦うのは難しいだろう。俺も全力を尽くすし、お前だけを頼みにするつもりはないが……しかし今までの理術同様、使い熟して貰わねばならん」

「……だな」

 

 二人だけが分かり会える内容に、アキラは置いてけぼりを食らう。話に入っていけないので、それを漫然と見つめていると、その視線に気付いた凱人が困ったように笑った。

 

「すまない。……お前に聞かせるような話じゃなかったかもしれないな」

「えーと……、何がですか? 聞いちゃいけないって意味ですか?」

「いや、そうじゃなく……。何も聞いていないのか?」

 

 アキラは言っている意味が分からず首を傾げた。

 ミレイユが御由緒家に制御法を教えたという話も初耳だし、そもそもあの人達は秘密主義なところがあって、アヴェリンの弟子という立ち位置でも知らされない事は多い。

 

「俺達が御子神様の薫陶を受けたっていう話さ。その御手から直接、ご指導くださった……」

「――え、直接!?」

 

 アキラでさえ、解説のようなものを受けた事はあるが、指導を受けた事はない。

 そもそもアヴェリンに任せるという話だから、それを横から奪うような行いは出来なかったろう。彼女への信頼を裏切る行為になるし、任せると言った以上、ミレイユは声を掛けても簡単な説明程度、助言に留まる内容しか話してくれなかった。

 そこにはアヴェリンの役目を奪うべきではない、という思いがあったように思う。

 

 それをしかと理解しているから、ミレイユはアキラに対して、いっそドライと思える対応が多かった。だが、二人は手ずから教えを受けたのだ。 

 それに嫉妬しないと言ったら嘘になる。

 

 アキラの表情を見て、二人は何かを悟ったようだ。互いに顔を見合わせて、それから困惑を隠せず問いかける。

 

「お前、御子神様の弟子なんだろ? ……違うのか?」

「いや、違っ……いや、どうなんだろ。全く違うとも言えないような……」

 

 アキラは咄嗟に否定しようとして、思い留まる。

 アキラの戦闘技術の師匠は、間違いなくアヴェリンだ。武器の振るい方、攻撃の躱し方、間合いの取り方など、元は剣術道場で身に着けたものをベースとしているとはいえ、そこから実戦で戦える形に直してくれたのはアヴェリンだ。

 

 制御方法についてはアヴェリンだけでなく、ルチアであったりユミルの助言もあり、そしてミレイユからの助言もあった。そして何より、この身に魔力を宿せるよう取り計らってくれたのはミレイユだ。

 

 身内と認めてくれたのもミレイユで、箱庭への出入りを許可してくれたのも彼女だ。

 それを思えば、師匠や先生といえる程でなくとも、それに準じた存在ではある気がする。それをどのように呼べば良いのかアキラには思い付かないが、全くの関係なしでもないのだ。

 

 考え込んでしまったアキラの肩を小突くように叩くと、続きを促すように顎をしゃくった。

 

「……で、実際どうなのよ? 弟子じゃねぇの? 俺はてっきりそうだとばかり……」

「いや、そもそも、どこから弟子って話が出てきたんですか」

「だってお前、夕食会の時、御子神様と一緒に入室してきたじゃねぇか。その後も、御子神様近くの客間を出入りしてたりしたんだろ?」

「それだけじゃないぞ。金髪の戦士と一緒に走っていたのを見ているし、あの事件とその裁判でも一緒だったんだ。身内だとしても毛色が違いすぎるし、じゃあ恐らく弟子なんだろう、と勝手に思っていた」

「……まぁ、それが自然だよな?」

 

 漣と凱人が互いに目配せして頷く。

 その憶測だか推測だかを聞くと、アキラとしても納得せざるを得ない。むしろ見事な類推だと感心したくらいだが、その実アキラはミレイユに取っては付き人程度の存在でしかない。

 

 それを素直に口にするのは心苦しい。

 かと言って嘘も言えないし、言いたくない。そこでアキラは嘘とも真とも言えない、微妙なところで有耶無耶にする事を決意した。

 

「弟子というか……弟子未満、弟子見習いといったところで……。まだ認めて貰えてない、みたいな感じかな……」

「あぁ、そうなのか……。ま、分かるぜ。御子神様に認めて貰うなんて簡単じゃねぇだろ。目を掛けて貰えるだけでも、有り難いと思わなきゃならんのだろうな」

 

 それはそのとおりだと思うので、アキラは神妙に頷く。

 そうしていると、後ろから三人の話を聞き付けた他の男子が顔を覗かせてきた。

 

「御子神様って、凄い力与えてくれたりするらしいけど、本当なの?」

「凄い力ってお前……、オミカゲ様から神前信与の儀で、理術授けられてんだろ」

「いや、それは勿論そうだけど、漣や凱人みたいにさ……! 今までより凄い術、授けてくれたりするんでしょ?」

 

 確かにミレイユは超常の存在で、その力を推し量る事は出来ない。オミカゲ様以外、他の誰にも出来ない事とは思うが、都合よく恵みを与えてくれる神のように思われるのも嫌だった。

 アキラは不満を滲ませた声音で反論する。

 

「その二人みたいって言うのは分からないけど、都合よく力は与えてくれないと思うな。ミレ……御子神様は、努力しない人とか楽して頂き、みたいな人のこと嫌うから」

 

 アキラはそう口にしながら、かつて安易にユミルの眷属になった場合の末路を思い返していた。ミレイユ自身は慈悲を見せていたが、ユミルがその気なら確実に人生を狂わされていただろう。そして、その落差はともかく報いを受けて当然のような物言いもしていた。

 

 漣もまた、その気楽過ぎる発言に眉根を寄せる。

 

「こいつの言うとおりだ。楽して簡単に授けられるなんて思うなよ。あくまで基礎力あってのものだって俺たちも言われたんだ。あくまで制御法の手本を示されるだけだ。……まぁ、それが相当ブッ飛んでるだが」

「どういうこと……?」

「制御を御子神様に奪われるのさ。それを強制的に動かされる……まぁ、ちょっとした恐怖だったな。自分の意志とは別に、腕や足を動かされるような……。しかも滅茶苦茶、高速で動かされる。下手すりゃ、自分の身体が千切れ飛ぶんじゃないかってレベルでな」

 

 漣が顔を青くさせると、それにつられる様に凱人も顔色を変えた。

 二人の様子を見れば、尋常じゃない目に遭ったのは予想でき、胸を高鳴らせるようにしていた男子は軒並み意気消沈している。

 

 一種の近道ではあるのだろうが、自身の体が千切れ飛ぶリスクを負ってまでやりたくない。

 アキラも相当スパルタな目に遭っていたという自覚があったが、それに比べれば骨が折れたかのような痛みは、まだ温情があるのかもしれなかった。

 

 そこまで考えて首を振る。

 ――毒されている。

 骨を折る痛みがマシと思えるのは、決して正常な事ではない。四肢が千切れ飛ぶ事と比べれば、どんな事でもマシに思えて当然だ。

 

「それまでの努力とか研鑽とか、そういうのも木っ端微塵にされるしな。勿論、それまで積み上げてきた努力があればこその制御力向上だろうが……女子との格差が縮まるなんて幻想は抱かない方がいいぞ」

「まぁ、そりゃ……。仮に並べたんだとしても、そこでまた突き放されるだろ。男子にだけ施すっていうのも有り得ないだろうしな……」

 

 誰かが項垂れるように言って、同意の声があちこちから上がった。

 

「どの道、それまでの努力に実が結ぶのは確かだ。土地をしっかり耕せていたヤツは、今まで芽吹いてなかった種も生やしてくれるって事だろうさ。――何にしても御子神様に、不甲斐ない真似だけは見せねぇようにしないとな!」

『おう!』

 

 威勢の良い返事が男子全員から返ってきて、漣も機嫌良さそうに頷くと、それからアキラへ顔を向けた。

 

「明日、ご来臨なさるんだろ? 何か気をつける事とかあるか?」

「いや、どうだろ……。真面目にやってれば、即座の結果が出なくても寛容に見て貰えると思うけど……。でも多分、手抜きは嫌うと思う。すぐバレるよ、薄皮一枚残した余力すら見抜くから」

「……そこまでしなきゃいけねぇの?」

「血反吐を吐く位は当然だと思うけど……」

 

 アキラが腕を組んで斜め上へ視線を向けた事で、それが冗談の類だと思ったようだ。周りの男子は元より、漣や凱人も苦くはあっても笑顔を見せて笑っている。

 

 それが冗談だと思えるのは幸いだ、と慈愛に満ちた視線を向ける。

 毎日通う事はない、忙しくなる、という様な事を言っていたので、頻繁な顔出しはないだろう。しかしミレイユが顔を見せる日は、地獄特訓の日となる筈だ。

 

 アキラの視線は、不安を煽るには十分過ぎる効果を発揮したらしく、今日はもうこれ以上パーティを続ける気力も失せたようだ。

 凱人が音頭を取って片付けを始めると、誰もがテキパキと役割を割り振って動いていく。アキラは本日だけは賓客扱いという事で、見ているだけで済んだ。

 全ての片付けが終わり、解散となったところで、漣と凱人がアキラの前に立った。

 

「ま、何にしてもヨロシクな。俺の事は漣でいいぜ、名字は……ちょっと堅苦しいだろ?」

「俺もそれで頼む。家名は誇らしいが、変な緊張感が出るからな」

「あ、うん……勿論。俺の事もアキラでいいよ」

 

 それぞれが握手を交わして、一度だけ拳を打ち付ける。

 対等な仲間というのは良いものだ。アキラは気持ちが上向いていくのを感じた。

 彼らとの友情が深い絆になり、互いを尊重できる仲に成れたら良い。そんな事を考えながら、肩を揃えて多目的ホールを出る。

 

 明日から本格的に、新たな生活が始まる。

 幸先の良いスタートを感じながら、アキラは自室へと帰って行った。

 



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学園の転入生 その5

 翌日、期待と不安を胸に、アキラは鷲森の後を付いて教室へと案内されていた。

 教室の数は多いが、逆に空き教室も多い。一クラス三十人というのは、高校に相当する施設としても少なく思うが、特殊技能を持つ者しか入学できないとなると、少なすぎるという事もないのかもしれない。

 

 校舎自体は古臭さを感じないので建て直されたりしたのだろうが、その時には今ほど生徒数が少なくなかったのかもしれなかった。

 理力総量が一定数を超えるか、超えると期待できる者でなければ入学できない、と漣は言った。志願者を募れば解決する問題でもない以上、必要人数に届かないのは仕方のない事なのだろう。

 

 アキラが転入するクラスは二年二組だと聞いている。

 廊下を歩く先に、そのプレートが見えてきて緊張感も増してきた。単に転入するだけでも緊張は程々にあるものだろうが、向かう先は男子が一人もいないのだ。その事実を受け止めなければ、嫌にも気持ちは重くなる。

 

 昨日の男子会での悲喜こもごもを思えば、そう楽しい事にならなそうなのは想像が付く。女性だらけの環境としても、向かう先は実力主義社会だ。男子は女子を守るもの、という考えが古いのは分かっているが、それでもアキラは守れる力を身に着けたかった。

 それをこの先発揮できなければ、きっと愉快な学生生活にはならないだろう。

 

 鷲森が先に教室へ入り、騒然といていた話し声がピタリと止む。

 アキラは教室の外で室内から見えない位置で待機していた。鷲森に呼ばれてから入室する段取りで、そこで自己紹介してもらって朝のHRが始まるという進行らしい。

 

 待っている間に、それ程でもなかった筈の鼓動が暴れだす。早鐘のように打ち付けられるのを感じ始めたとき、教室内からアキラを呼ぶ声がした。

 意を決して扉を横へスライドさせて中に入る。

 

 視線を向けないようにしながらも、女子からの刺さる視線は痛いほど感じていた。ちらと見た限りでは本当に女子しかいない。もしかしたらという、一縷の望みも絶たれ、苦いものを飲み込みながら教壇に立った。

 横から鷲森の声が掛かる。

 

「それでは、自己紹介してくれ」

「はい。……由喜門、暁です。不慣れな部分でご迷惑おかけする事もあるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします!」

 

 アキラが頭を下げると、ぱらぱらと拍手が起きる。刺さるような視線は更に増し、顔を上げると多くの顔がアキラを見ていた。

 呆然としたように見る者、挑戦的な視線を向ける者、しきりに髪をいじって身なりを整えようとする者と、反応は様々だ。しかし悪意めいたものは一つもない。誰もが好意的に見ている訳ではないが、クラスへ迎え入れようという意気込みだけは伝わってきた。

 

「質問は後で、各自で行うように。名前から分かるだろうが、御由緒の一家だ。粗雑な扱いは控えろ。暫くは何も分からず不便するだろうから、その世話役として阿由葉を付ける」

 

 鷲森はそう言って、中心近くの座席に座る一人の女生徒へ視線を向けた。

 

「構わないか?」

「勿論です、お任せください」

「何を言うにしろ、言われるにしろ、同じ御由緒家ならやり易いだろう。そういう事だから、由喜門も困った事があれば阿由葉を頼れ。無論、私に言うでも構わない」

「分かりました」

「では、後ろの空いてる席に着け」

 

 言われるままに空いてる席を探すと、中央付近にそれがあった。

 相変わらず刺すような視線の間を、縫うように歩いて席に座る。居心地の悪さと座り心地の悪さに意味はないと分かっていても、居た堪れない気持ちになった。

 

 先程紹介してくれた阿由葉が前の席で、少し救われた気持ちになる。

 同じ御由緒家と言っても、アキラにとっては遥か頭上にいるような人だ。昨日知り合った二人も、思い返せば気安く付き合いやすい人柄だったから、御由緒家といって緊張する必要はないのかもしれない。だが、それはそれで初対面の人に対する礼儀は弁えなくてはならない。

 

 アキラが前を向いて鷲森の続きを待っていると、周囲の浮ついた空気を諫めるように声を張り上げた。

 

「気持ちは分からんでもないが、お前らもう少し現状に対して理解に努めろ。今この学園に、御子神様がご来臨なされている。お前達の不甲斐なさを憂いたオミカゲ様が、ご指導遣わせてくださった。粗相がないのは当然として、男子がいるというだけの事で、浮ついた気持ちを御前に持っていくつもりか?」

 

 鷲森の指摘は効果覿面(てきめん)で、まるで線を引いたかのように空気が変わっていく。それが出来るなら最初からしろ、とでも言いたげな視線を周りに向けたあと、改めて口を開いた。

 

「御子神様は既に当学園へご来臨されている。最初の授業は理力測定だ、HRが終われば準備しろ。他のクラスとも合同で行うから、下手に遅れたりしないように。以上だ」

 

 鷲森にも準備があるのだろう。言うだけ言うと、キビキビとした動きで教室から出ていく。その後ろを守るように生徒達の顔が動き、扉が閉まってから五秒、しっかりと待機する。

 シンと沈黙が教室に降り、そうかと思えば、堰を切ったように誰もがアキラに殺到した。

 

「ねぇねぇ、どこから来たの?」

「彼女いる?」

「やだ、髪超キレー!」

「メッチャ王子様。ヤバイ、すごいヤバイ」

「御子神様の弟子って本当?」

「ほら、やっぱり筋肉結構あるって! 細マッチョかもこれ!」

 

 アキラを取り囲んで、一斉に質問攻めを敢行してくる。

 さっきの鷲森の叱責と、殊勝な態度は何だったのか。

 誰も彼も遠慮なしに髪や頭を撫でたり、腕に手を回して肉付きを確かめたりしている。昨日の話ではいない存在として扱われている、という談もあったが、これでは完全に珍獣扱いだ。

 あるいはペットの方かもしれない。

 

 力で押し返す事も引き剥がす事もできず、アキラは困惑するままに周囲を見回す。

 

「えぇーっと……、あの……」

「やだ、めちゃ可愛い!」

「照れてる! 顔赤いし!」

「やっぱり理力は支援系?」

「SNSやってる? 交換しない?」

「――ちょっと待ちなさい! 待ちなさーい!!」

 

 取り囲んでいる人の間を掻き分けるようにして、一人の女子がやって来た。それは先程、世話役として任じられた阿由葉で、強い抵抗が出来ないアキラから強制的に女子を引き剥がしていく。

 

「ヤダ、ちょっと……!」

「やだじゃないでしょう! 転入生の事より、今は最初の授業に集中なさい! 御子神様への不忠や不敬は、決して許されるものではありませんからね!」

 

 御由緒家の阿由葉が言う事は、そう簡単に無視できる事ではないらしい。そもそも注意したばかりというのに、今のような凶行に走るというのが恐ろしい。

 あるいは、オミカゲ様とは別の存在だからという理由で、少し侮る部分があるのかもしれない。御子神といえど、別の一柱という認識は間違ったものではないだろうが、だからといって不遜な態度を見せられるものではないだろう。

 

 どうにも予想していたものとは違いすぎる展開に目を白黒させていると、阿由葉は纏わり付いていた女子全てを引き剥がし終えた。

 手を大袈裟と思えるほど左右へ振り、女子たちを遠ざけると荒く息を吐いた。

 

 両手を腰に当て、威嚇するように睨み付けると、未だ未練がましく残っていた女子も散って行った。最後に盛大な溜め息を吐いてから、阿由葉はアキラに向き直って微笑む。

 

「ごめんなさいね、このクラスはちょっと……元気過ぎるみたいで」

「いえ、大丈夫です。助けてくれて、ありがとうございました」

 

 アキラが笑顔と共に手を差し出すと、阿由葉は時が止まったかのように動きを止めた。

 やってる事の意図が掴めないのか、それとも握手を求めるのは不敬だったのか。アキラが手を引っ込めようとしたところで、素早い動きで掌を握られた。

 その動きは、まるで捕食しようとする蛇のようで、柔軟であると同時に切り込むような鋭さがある。

 

「阿由葉、七生よ。このクラスで委員長もしているの。一人のクラスメイトとして、御由緒家抜きで仲良くしてくれると嬉しいわ」

「こちらこそ、よろしくお願いします。畏れ多い気持ちもありますけど、そう言ってくれると助かります。分からない事ばかりで、たった一人の男はやり難いでしょうけど、言ってくれれば改善しますから」

 

 女子校は男女共学とはまた違った不文律があると言う。

 厳密にはこの学園は女子校とは違うが、生徒の比率を考えると似たようなものだろう。女子だけの教室では、色々と男子が邪魔してしまう事もあるかもしれない。

 

 そう思っていると、七生はもう片方の手で、アキラの手を包み込むようにして握った。そして、そのまま動かない。いや、より正確にはアキラの手を揉むように動かしているような気がする。

 気がする、というか、手の甲を擦るようになれば、流石に気の所為では済まされない。

 

「あの……?」

「あぁ、ごめんなさい。……あなたの手、剣士の手ね。それも相当鍛えてる」

 

 慌てたように手を離し、七生はその感触をどう感じたのか、自分の掌を揉みながら小さく頭を下げた。

 アキラも握手した瞬間、掌の皮が厚く、また剣ダコが出来ているの感じていた。アキラが気付いたくらいだから、彼女にも同様に感じた部分があるだろう。

 

 恐らく、彼女は内向術士として近接戦闘を得意としている。

 内向と外向、この学園でその比率がどうなのかは知らないが、同種の人間だと分かって悪い気はしない。もし、どちらかを下に見るような風潮があるなら悲しいが、それでも仲間がいると分かれば嬉しいものだ。別にライバルとして、蹴落とそうという腹積もりでもない筈だ。

 

「楽しくなりそうね。……私に付いて来られる剣士って、あまりいないの。あなたはそうでないと期待するわ」

「え、えぇ……。期待に沿えれるように頑張ります」

 

 アキラとしては、その全力をぶつけた所で良い勝負が出来るとは思えないが、ここで情けない返事も出来ない。結果として勝てないまでも、最初から侮られるような真似は慎むべきだと、昨日の男子会で知った。

 結局、下に見られる事になろうとも、失望の訪れは遅い方が良い。

 

「一時間目は第二運動場で行われる予定よ。着替えたら移動するけど、まずは女子の方が先ね。気にしないなら、その間にトイレで着替えてもいいけど」

「あぁ……、それならトイレで済ませます」

「ごめんなさいね、それじゃあ出て貰える?」

 

 七生に促されるまま、アキラは運動着を手に取って外に出た。

 トイレに向かいながら、今はもう学園内にいるというミレイユを思う。普段から鍛錬を見られる機会が多いとはいえ、こうして誰かと比較して見られるのは始めての事だ。

 

 不甲斐ない場面を見せてしまうと、恥というだけでなく失望されてしまうかもしれない。彼ら彼女らがどの程度の実力か、アキラにはよく分からない。

 とにかく全力で向かうだけだと意気込み、アキラはトイレの扉に手を掛けた。

 



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学園の転入生 その6

 それから着替えを済ませてトイレを出て、替えの制服を教室に持ち帰ろうとしていると、見覚えのある後ろ姿が見えた。

 彼もアキラ同様、トイレで着替えをしていたらしく、手には着替えの済んだ制服を持っている。

 

「やぁ、漣。早速、洗礼を受けたよ……」

「おう。……洗礼ってなんだ?」

 

 朝、食堂で一緒の席についていたので、挨拶も簡素なものだ。漣もアキラの手荷物を見て事情を察したようだが、言っている意味までは分からなかったようだった。

 アキラは、苦笑というにはあまりに苦い笑みを見せつつ言った。

 

「挨拶が済んだところで席に殺到さ。まるで珍獣扱いだった。無視よりマシだと思うけど、これから評価が反転するかもと思うと気が重いよ」

「珍獣? まあ、可愛がられたって言うぐらいなら良いじゃねぇか。俺なんて……いや、やめとこう」

 

 何か思い出したくないトラウマでもあるらしい。

 急に表情を暗いものに変えて肩を落とした。きっと触れない方がいいんだろうな、と思いながら廊下を歩く。

 

「お前、第二運動場とか分からねぇだろ? 一緒に行くか?」

「ああ、うん。お願い。そういえば、世話役に阿由葉さんっていう人が付いてくれたよ。慣れるまで少しの間、色々教えてくれるって」

「あぁ……そうなのか」

「同じクラスに御由緒家がいるとは思わなかった。そういうのって、もっとバラけさせるものだと思ってたし……」

 

 クラス対抗戦などと言うものがあるかは知らないが、一つのクラスに戦力を集中するのは間違っている気がした。単純に戦力だけの話ではなく、権力的な――アキラにそんなものはないが――バランスを保つ為にも各クラスに振り分けた方が良い気がするのだ。

 アキラがそのような事を口にすると、漣は肩を竦めて笑った。

 

「最初からバラけさせてたって。二年の各クラスに一人いたら、そりゃどこかは二人になる所だって出るだろ」

「あれ、そうなの? 漣とは同学年だと思ってたけど、そうしたら他には誰が?」

「凱人に決まってんだろ。一つ下には、お前の従姉妹の紫都がいるけどな」

「凱人? 本当に? てっきり年上かと……」

 

 アキラが思わずボヤくと、漣は声を落として囁くように言った。

 

「それ凱人の前で言うなよ。老け顔だって見られるの嫌ってるから」

「いや、別にそう思ってなんかない! 身体大きいし、頼りがいありそうに見えたから年上かと思っただけで……!」

 

 必死に弁明するほど嘘の上塗りのように聞こえる、と我ながら思った。アキラはそれ以上言うのをやめて、口を閉じたまま廊下を歩く。

 やがて教室が見えてくると、掛かっていたカーテンが外れている。女子の着替えは終わっているらしいが、着替えが置かれている中、堂々と入る勇気はない。

 

 どうしたものかと思っていると、七生が教室から顔を出した。

 

「あら、漣。一緒だったの」

「おう、丁度帰り道でな。アキラ、荷物は教室入口付近に置いとけ。手を伸ばして届く範囲に。授業が終われば女子連中が使うし、遅れようもんなら中にも入れねぇんだから」

「ああ、うん。了解」

 

 言われるままにアキラは手提げ袋に制服を移して、ドアから手の届く範囲、移動の邪魔にならない場所を選んで置く。

 そうして後ろを振り返ると、七生が困ったようにアキラへ微笑みかけた。

 

「案内しようと思って待ってたけど、その分じゃ漣と一緒に行くみたいね。それじゃ、私は行くから……漣、ちゃんと遅れず連れて来なさいよ」

「他の授業はともかく、御子神様が来るってんのに遅れるかよ」

 

 吐き捨てる、というほど強い言い方ではないにしろ、面白くなさそうに鼻を鳴らして漣が言った。七生はそれに大した頓着も見せずにアキラへ目配せすると、軽く手を振ってその場を離れる。

 

「それじゃ、また」

「うん、わざわざありがとう」

 

 二人のやり取りは、アキラと対話する時と比べてどうにもギクシャクしているように見えた、しかし二人の事情も知らない者が、おいそれと口出しする事でもない。

 御由緒の家同士に関係する事かもしれず、だからアキラは何も言わず七生の背を見送った。

 

 漣の方を横目で伺うと、何とも言えない表情で去り行く七生を見つめている。無言で歩きだして、アキラもその横へ並ぶように付いていく。

 

 目的の第二運動場は屋外競技場のような場所で、観客席がないという部分を除けばよく似ていた。ただし今は訓練に使うと思しき木刀や木槍などが、まるで飾るようにして用意されている。傘立てのような物に入っているが、使い込まれて年季を感じさせる物も幾つかある。単に古臭いというのではなく、執念のようなものが宿っていそうな雰囲気があった。

 

 それを横目で伺いながら到着した頃には、他のクラスも既に大部分が揃っていた。

 運動場の中央付近に集まっていて、クラス別に纏まって立っているようだ。アキラたちが最後という訳ではなかったが、危ないところではあった。

 

 背後を振り返ると、慌てたように走ってくる女生徒が数人見える。

 既に整列も始まっていて、鷲森が指示を出して先頭に立つ生徒へ指差しながら何かを言っていた。

 

「それじゃ、俺もここでな」

「うん、ありがとう」

 

 漣が別れて自分のクラスの元へ走っていくのを見て、アキラもそれに倣って列の後ろに付く。

 場は緊張感に包まれるという程、緊迫した空気ではなかったものの、私語も殆どなく、列も整然と作られていく。並ぶ順番は出席番号を元にしているらしく、アキラは最後尾につけられた。

 

 そうして全員の整列が終わると、その場で待ての姿勢で待機するよう言い渡される。

 アキラはそうした訓練は受けていないから、周りの人の動きを真似てそれらしく振る舞った。鷲森からの視線を受けたが何も言ってこない事から、特別指摘して直すところはないらしい。

 

 前に立つ女生徒を見ても、微動だにせず待ての姿勢を維持している。

 ここは軍隊ではないだろうに、他の人達を密かに盗み見ても、やはり姿勢を乱していない。まるで人形が立っているかのように錯覚してしまうが、運動場へ近付いてくる独特な気配を感じた事で、その姿勢も僅かな乱れが出た。

 

 鷲森にも緊張した様子が見える。

 生徒から離れた対面に移動し、生徒同様待ての姿勢で待機した。その視線は真っ直ぐ前を見ていたが、その目には緊張の色が濃く出ている。

 

 アキラも敢えて顔を向けるような愚は犯さない。

 漏れ出るように感じるマナの気配――神威が足元から撫でるように近づいてくる。一種のパフォーマンスのように神威を扱う事は夕食会で知っているので、まさか来たのがオミカゲ様ではないかと思ったが、その視界に映ったミレイユを見て杞憂だと悟る。

 

 上品な衣装に身を包んだ、年嵩の女性が率いていた。まるで今日のために拵えた一張羅のように見えたが、きっと間違いではないだろう。

 ミレイユ達を引率する事が許されるような人なら、きっとこの女性が学園長なのだろう。誰が率いても格式に合わない事になりそうだが、学園の最高責任者以外に適任もいない。

 

 ミレイユの後ろにはアヴェリンとユミルもいたが、ルチアの姿は見当たらなかった。

 ここ最近、このメンバーの姿を見ても、ルチアだけいない事は多い。何か理由はあるのだろうが、アキラが知る必要ないと判断される限り、何も教えてくれないだろう。

 

 それを不満とは思わない。

 彼女たちは特別な存在で、ミレイユにとっても重要な存在だ。おいそれと話せる内容ばかりではないと、アキラは十分に心得ている。

 

 ミレイユ達が近付いてくるのを、視界の中央に収めないようにして見ながら、ふと疑問に思う。神が近くを通るとなれば平伏するか、せめて最敬礼している必要がある。頭を下げて地面に視線を落とし、直接目にするような事がないようにする。

 

 許しがなければ頭を上げる事は許されない筈だが、待ての姿勢のまま、一向に礼をするよう指示が出てこない。

 礼をするにもタイミングがあるのかもしれないが、運動場に足を踏み入れた時点であっても良さそうなものだ。

 ミレイユ達が、とうとう生徒の前までやって来て、それでようやく鷲森から礼をする掛け声が飛んで来た。

 

「気を付け! ――礼!」

 

 それこそ軍隊式のように踵を打ち付け、一斉に訓練された動きで礼をした。アキラも咄嗟の中で真似たが、一拍遅れて動いてしまうのは避けられない。整然とした動きで一人だけ遅れたとなると、さぞ目立った事だろう。

 

 僅かな物音も出ず、礼の姿勢のまま、五秒が過ぎた。

 

「直れ!」

 

 掛け声と共に姿勢を直す。周りの動きに合わせて動くよう、必死だった。遅すぎても早すぎてもいけない。単に頭を上げる事が、ここまで体力と気力を失う事など今までなかった。

 

「休め!」

 

 再びの掛け声で、最初の動きに戻る。

 ミレイユの方を盗み見ると、そこには何の感情も浮かんでいなかった。面倒臭いものを見せられた、という感想ぐらいしか抱いていないのかもしれない。

 

 アヴェリンやユミルは、意外にも感心したような表情を見せている。

 ただそれは兵としての練度という意味ではなく、御大層な見世物に対してのもの、という気がする。

 そんな感想を胸中で呟いていると、学園長が一歩前に出て声を張り上げた。

 

「皆さん、ごきげんよう。先に通達があったように、オミカゲ様の御子たる一柱、神鈴由良豊布都姫神(みれいゆらとよふつひめ)様を当学園へ御来臨いただく栄誉を頂きました。それだけでもとんでもない事ですが、教導して頂く旨を御約束して頂いています。これほど名誉な事はありません。――これより、御子神様よりお言葉を賜わります。……よく拝聴するように!」

 

 学園長が生徒たちを睥睨して睨みを利かせ、そして鷲森のいる辺りまで下がると、大仰に礼をする。ミレイユはそれを無感動に見送り、それから正面――生徒達へと向き直った。

 

 それだけで一陣の風が吹き抜けるように神威が飛ぶ。

 ごく少量だったのでアキラは何ともなかったが、中には身を震わせた者、荒い呼吸をする者、顔色を悪くさせる者と、様々な反応を見せる。

 

 それをつまらなそうに見つめてから、ミレイユはようやく口を開いた。

 大きな声ではない、張り上げた声でもなかった。しかしそれは、まるで身体に染み込むように声が響いて聞こえてきた。

 



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学園の転入生 その7

「既に聞いている事だろう。私はオミカゲ様の命により、理術への理解を深め、制御力を高め、平均を底上げする為にやって来た。鬼どもは、その力を急速に高めている。それに対抗する為には、より強い力を持つしかない」

 

 ミレイユはそう言ってから一度言葉を切り、ゆっくりと睥睨してから再び口を開いた。

 

「誰もが強者になれる訳ではないだろう。だが、このまま学んだところで戦場に立たせる事すら出来ない。だから私がやって来た。これまで努力を怠っていた訳ではないだろうが、努力だけでは至れぬ境地へ、引き上げる事が今回の目的だ。――励め、奮戦に期待する。以上だ」

 

 ミレイユが短い演説を終えて踵を返した。

 拍手した方がいいのかと手を持ちげて、しかし誰も動いていない事に気付いて慌てて元の体勢に戻った。儀礼的に何が正しいのか分からないし、こうした場面で拍手はそぐわない事なのかもしれない。

 

 そんなミレイユの後ろ姿を見ながら、アキラは演説していた時の姿を思い返す。

 口調からは一切の感情が感じ取れず、ともすれば期待などしていないと取れるような物言いだった。どの程度の力量を期待しているかは知らないが、御由緒家ですらその期待に応えられていなかったというなら、他の誰でも期待できないだろう。

 

 まだ若い学生だからこそ、現状の力量ではなく今後の伸び代を見て貰いたい気持ちはあるが、それも神の視点からすれば五十歩百歩。余程の才人でも、期待すら出来ない事なのかもしれない。

 

 そんな事を考えていると、ミレイユと入れ替わりで学園長が前に出てくる。

 相変わらず緊張した顔つきで、生徒たちを右から左へ見渡してから言った。

 

「まず最初に、どの程度の力量を持つのか、それを見てみたいと御子神様は仰っています。ですので、これから一対一の試合をして貰います」

 

 これには流石に周囲からどよめきが走った。

 アキラは学園のカリキュラムを熟知している訳ではないが、普段から戦闘訓練などは行っているだろうと推測はできる。それでも動揺したというなら、その理由はきっとこれが単なる訓練ではなく、御前試合のようなものだと察したからだろう。

 

「個人の武勇というよりは、全体の平均を知りたいという事です。勝ち負けが今後を左右する訳ではありませんが、神の御前で不甲斐ない試合だけは見せないように。よろしいですね?」

 

 学園長は再び生徒の顔を見渡し、それから満足気に頷いた。

 

「一度の試合は三分間、勝敗が着かなくとも次に移ります。詳しい段取りについては鷲森先生から説明して貰うので、よく聞くように」

 

 それだけ言うと、学園長は場所を譲って鷲森と交代する。

 自分はミレイユの接待役として動くつもりらしい。パイプ椅子を運んできた他の教員から受け取って、それを開いて差し出そうとしたところで、ミレイユが自分で椅子を出現させて早々に座ってしまう。

 

 少しは力の使い方を覚えた今だからこそ分かる。

 ミレイユがやった事は何気ない事のように見えるが、その実あまりに高度でどうやったのか全く理解の外だった。制御速度が全く違うので、まるで何もせずに勝手に出てきたのかと錯覚するような手腕だった。

 

 しかもそれが、どういう術だったのかさえ分からない。

 アキラ自身が無知なところがあるのは否めないが、どういう術かを理解させずに使うというところから、その非凡さが伺える。もしもこれが攻撃だったら、為す術もなく防御も回避も出来ずに終わるだろう。

 

 あるいは、学園で多くを学んでいる理術士なら、もう少し詳しく分かるかもしれない。

 そう思って周囲をこっそり見渡して見るが、それを見ていた生徒からは困惑や驚愕した気配しか感じない。誰もが同じ反応である事を不安がるべきか、それともミレイユを感心するべきなのか迷った。

 

 鷲森がそんな生徒を叱咤するように、大きく声を張り上げる。

 

「いいか、聞いたとおりだ! あくまで御子神様が知りたいと仰るのは全体の力量だ。紙面からでは伝わらない、実際の動きをお望みなのだ。身体的、理力的な運動量と制御力、また個々にある力量差を測って下さる」

 

 鷲森の一喝で生徒たちは気を引き締め、それが態度にも現れ出す。ミレイユが見せた衝撃も冷めやらぬだろうに、鷲森を一点に見つめて続く言葉を待った。

 

「だが時間は有限だ。御子神様もお前達の為に、そう多くの時間を割いては下さらない。……そこで、一度に三つの試合を同時に行う。各クラス、先頭から順に二名前に出て戦え。隣の試合相手から攻勢理術が飛んで来るかもしれないが、受け入れろ。対処できない方が悪い。戦場で一対一が遵守されるなど有り得ん話だ、分かるな?」

 

 鷲森が言っている事は正論だが、それに不満を感じる生徒もいるだろうと思った。しかし意外な事にそれを当然と受け入れている者ばかりで、恐らく普段からそういう理屈を教えられているのだろう。

 

「勝敗は二の次だと言ったのは間違いないが、三分間で己の全力を出して戦う事。それだけは条件として組み込ませてもらう」

 

 誰もが首肯したのを見て、それで鷲森も頷きを返した。

 

「……では、始める。最初の組は残り、後は後方へ下がって待機だ。私語を禁じるものではないが、試合内容に対する議論においてのみ認める。試合前の対策も、試合後の反省も好きに行って良い。――では、行動を開始しろ」

 

 駆け足で移動が始まって、アキラもそれに合わせて走る。

 最後尾だったアキラは校舎近くの外側に立って、後続が追いついて揃うのを待つ。これから試合を始める生徒達も別方向へ走って行って、どうしたんだと思って見てすぐに分かった。

 

 彼らは自分が使う為の武器を取りに行ったのだ。

 誰もが内向理術士とは限らないが、そもそもこの学園にスカウトされている時点で武器の扱いには長けている。というより、それが最低ラインなのだろう。例え治癒術や支援術に長けていたといしても、だからと言って、自身が戦えない事の理由にはならない。

 

 三分という短い試合時間だから、次の試合を待つ生徒もまた武器を取りに行っている。自主的に動けているところを見るに、普段からこうした訓練模様なのかもしれなかった。

 その光景を目で追っていると、隣から声を掛けられて顔を向ける。そこにいたのは凱人だった。

 

「よう、初の授業が合同訓練、しかも御前試合となれば気が気じゃないだろう」

「いや、そこはあんまり……。よく鍛錬しているところは見られていたから」

「そうなのか? 何とも羨ましい話だ。普通、神との対面なんてそうそう適わないし、それに助言なんて皆無に等しいものだぞ」

 

 凱人の声音は心底からそう思っていると感じさせるものだが、ミレイユの場合は大抵見ているだけで有用な助言など殆どなかった。アヴェリンにその役を任せたのだから、自らが出しゃばる訳にはいかないと思っての事だと理解しているから、そこに不満を思う気持ちはない。

 

 ただ、痛みに耐え兼ねて動けないでいるところに治癒術を飛ばしてきて、鍛錬続行させるなどの鬼畜めいた行動だけはしていたように思う。

 不敬だとも不実だとも分かっているが、それについては未だに恨めしい気持ちを持っていた。

 

「それじゃあ、緊張で実力を発揮できないなんて無様は、晒さずに済みそうだな」

「それについてはね……。ただ、エリート揃いの学園で、自分の実力が通用するかっていう不安はあるけど」

「随分と謙虚なんだな。……それとも、気圧されてるのか?」

「気圧されてるって事はないと思うけど……、単に自信がない所為かな」

 

 アキラが肩を落として溜め息を吐くと、意外なものを目にしたように凱人は眉を上げる。それから含み笑いを交えて口を開いた。

 

「それだけ理力を持っていてか? 他を見れば彼我の実力差だって自然と分かるものだろう?」

「いや、その辺ぜんっぜん駄目で……。どういう訳か、そういう察知する能力が欠けているみたいなんだよね……」

「そんな事あり得るのか?」

「お陰で鈍感過ぎるって馬鹿にされてるよ。比較できる対象を多く見れば、そのうち慣れるかもしれないとは言われてるけど……。どうも師匠達しか見てないせいか、判断基準が壊れてるらしい」

 

 ほぉ、と凱人は感心半分、呆れ半分で溜め息のような返事をしてアキラから顔を逸した。

 凱人は腕を組んで、競技場を挟んで反対側にいるミレイユ達へと視線を向けた。

 

「お師匠様か……」

「下手なところを見せると、また酷い目に遭わされるんだろうな……」

 

 それが単純に実力差から生まれるものであっても、食らいつく様がアヴェリンの基準から離れていれば、間違いなくそうなる。

 骨が一本折れる程度では勘弁してくれないだろう。そう瞬時に予想できてしまう自分が恨めしく、またそれに慣れてしまっている自分に呆れてしまう。

 怪我はすぐ治るとはいえ、骨折程度を当然と思っているのはどうなのだろう。

 

 そんな会話をしていると、二人の様子が見えたのか、漣までやって来て隣に立った。

 まだ順番は後とはいえ、こんな所に集まって良いのかという疑問は湧く。私語は禁じていないと言っていたが、クラスの列を離れるのは褒められた事ではない。

 

 本来なら群衆に紛れるのかもしれないが、男三人でいると、とにかく目立つ。

 今もアヴェリンやユミルから視線を向けられて、意味深な笑みを浮かべていた。アキラの両隣に立っている二人もその姿は見えていたようで、息を詰まらせるように動きを止めている。

 喉の奥からくぐもった声を出しながら、漣が声を掛けてきた。

 

「なぁ、お前って……あの二人に師事してんの?」

「助言めいたものは貰うけど、実際に手合わせしたりするのは一人だけ」

「全員から受けてる訳じゃないのか」

「そりゃ贅沢ってもんでしょう……。ただでさえ目を掛けて貰えるだけで奇跡なのに」

「まぁ、それはな。ただ、親しそうに見えたから、そういう事もあんのかな、と思ってよ」

 

 親しいと言えば親しいが、あれはアキラをオモチャにしたいだけだ。

 今日も一体何をしでかすつもりかと気が気じゃない。ミレイユの傍にいる限り滅多な事はしないと思うが、それだって決してアキラに平穏をもたらすものじゃないと分かっている。

 

 溜め息を吐きたい気持ちをグッと我慢して、今にも始まろうとしている試合を見守った。

 だがその前に、アヴェリンへと視線を向け続けている凱人が、熱を帯びるような声音で口を開いた。

 



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学園の転入生 その8

「御子神様は我々の平均を底上げする為に教導して下さるとの事だったが、一緒にいる御二方もそれに参加されるのか?」

「いや……、どうだろう。御由緒家に施した事を他にもするとかいう話だったから、その内容次第じゃ参加するのかも……」

「そうか……」

 

 凱人が失意の底を見せるような態度で視線を落とし、それを見た漣がアキラを挟んで声をかけた。

 

「そんなガッカリする事かよ?」

「どう逆立ちしても敵わぬ存在だ。手合わせ出来れば、必ず身になる薫陶が受けられるだろう」

 

 凱人が諦めきれない表情を隠そうともせず言うと、慮るような視線を向けつつ漣が言う。

 

「俺も聞かれたくなかったし、だから聞こうともしなかったけどよ……。そんなに凄ぇ相手だったのか?」

「手も足も出ないとは、ああいう事を言うんだろうな……。俺の技は何一つ届かなかった。相手は単に走り去っただけ、見向きもされず打ち倒された」

「それ程か……。報告書は読んだがよ、もう少し戦闘らしいものが起きたと思ってた」

「いいや、何も無かった。他の隊と一緒だ、鎧袖一触……相手にもされない。隔絶した力量差っていうのは、ここまで心に来るのかと思った。他の奴らが御由緒家を見る目が理解できたな」

 

 凱人がため息混じりにそう言うと、漣もまた苦い顔で同意した。

 

「確かにな、自分を見つめ直す良い機会にはなったと思うぜ。俺もちったぁ謙虚になれた。相手にもされないってのは、実際心に来るよな……」

「あぁ……、それも報告書で読んだ。正しく相手にされなかったようだな……。紫都がいてそれなら、他の誰でも同じだったろう。あれは仕方がない」

「真っ向勝負が出来たとして届いたか、って言うと……まぁ、凱人達の様子を見る限り望み薄だな。きっと適当にいなされて終わりだろうさ」

 

 漣が顔を顰めて言った後、アキラに顔を戻して視線で問う。実際どうなんだ、とその目が訴えていて、嘘を吐いても仕方がないので素直に答えた。

 

「正しい分析だと思うよ。多分、どんな小細工をしたところで、全部対応してくるか、踏み潰されて終わりじゃないかな」

「やっぱり……、そうか?」

「力押しは最もしちゃいけない愚策だと思う。師匠たちはそれが一番得意だけど、だからって策を弄したところで、やっぱり通じるビジョンが浮かばない。あらゆるレベルが違いすぎて勝負の土台にすら立てないっていうのが、正直なところじゃないかな」

「そこまでか……」

 

 漣が額を抑えて呻くが、アキラは事も無げに頷く。

 御由緒家が凄い事は分かるし、実際他の一般組から見て隔絶した強さを持つだろうが、それでもアヴェリン達には届かない。傷を一つ付けられるかも疑問だった。

 本人たちには酷だろうが、この予想には余程自信がある。

 

「まぁ、実力差が開いているなんて分かり切った事だけどな……。じゃなきゃ御子神様の護衛なんて務まらねぇだろうし」

 

 アヴェリンはともかく、ユミルは護衛をするつもりも、しているつもりもないだろう。だがアキラは、敢えて訂正しなかった。言っても意味がないと分かっていたし、じゃあ何しに来てるんだと聞かれても答えに窮してしまう。

 

 アキラは完全に遊び目的で来ているのだと確信しているが、それをこの場で言ったところで誰も信じないだろう。

 

「……けど、師匠か。確かにな、見てもらえるって言うんなら見て欲しいよな。助言一つで強くなれるもんでもねぇだろうけど、あの制御法は天地がひっくり返るような衝撃だったし」

「そうだな。あれがあるなら他にもないのかと期待してしまう。近道したいというのではなく、より良い鍛錬法を知っているんじゃないかとな。……実際、どうなんだ? 師事を願い出て、それに応えてくれると思うか?」

 

 漣と凱人がそれぞれ言い合った後、期待を込めた視線をアキラに向ける。

 情けを掛けるような人達じゃないから、頼み込んだところで無理なものは無理な気がした。そもそも彼女たち自身に、後進の育成などという殊勝な心がけはないだろう。

 

 アキラにしても、ちょっとした偶然が重なった結果として師事が認められたようなものだ。

 ミレイユからの命令があれば別だろうが、それが一番むずかしい。

 もし仮に許可されても、地獄のような特訓と鍛練に身も心もボロボロにされて、後悔する様になるのが目に見えるようだ。

 

「……無理なんじゃないかな。基本的に相手にされないし、今はもう許可しないと思う」

「でも、お前は許されたんだろ?」

「それはそうなんだけど、タイミングの問題かな……。大体、こうして学園に通うようになったのも、その鍛錬の時間が割けなくなったからっていう理由からだったし」

「変な時期に来たと思ってけど、そういう理由かよ……」

 

 ミレイユの鶴の一声で学園へ通うことになったが、見捨てられたとは思っていない。

 アキラに本当の意味で興味がないなら、別れの言葉と共に関係は終わった筈だ。そもそも最初から基礎を教えて終了、という話で始まった師弟関係だった。

 

 長く教えていられないと明言されていて、それを受け入れた上で師事を願ったのだ。

 それでもこうして理力を扱う学園があるからと紹介してくれ、そこで力を磨くよう導いてくれた。これはアキラに期待しているのだと見て良いだろう。

 

 最近の鬼が強大になっているという話から、アキラがまるっきりの戦力外というなら、その旨を説明して遠ざければ良かったのだから。

 

 二人から諦めの溜め息が洩れて、それでアキラの視線も前を向いた。

 既に最初の組は試合を終えていて、次のグループが入れ替わりで前に出ていくところだった。アキラのクラスからは七生が出ていて、対戦相手は気の毒になりそうなほど緊張している。

 

「阿由葉さんって、やっぱり強いの?」

「そりゃそうだろ。近接戦闘技術に秀でた阿由葉の一員だぞ。女傑揃いで有名な上、そこでの訓練は相当酷って聞くぞ。少し上の姉もスゲェ優秀だしな。これで強くなけりゃ嘘だろ」

「そうなんだ……」

 

 アキラの中でひっそりと親近感が増した中、凱人が注釈を挟むように解説を始める。

 

「それに理力総量も高い。今も見てみると分かるだろう? 向かい合ってると顕著だ。あれほど明らかにされると、戦う前から戦意喪失だろうな」

「あれ、御子神様から授かった制御法だろ? それを見せたいせいなのかもしれねぇけど、あれじゃ対戦相手が可哀想だろ……。もっと抑えてやりゃいいのに」

 

 二人には分かる事らしいが、アキラには全く分からない。

 二人の間に力量差があるのは理解できるが、可哀想という程に大きなものではないように思えた。これがアキラの限界なのか、それともアヴェリン達を基準にした所為での錯覚なのか判断に迷うが、脅威に対して鈍感になるのは拙いと思った。

 

 相手の力量を正確に量る技術は生存に欠かせないものだ。

 それと知らずに立ち向かった相手が実は強敵、という事態になるようでは、自分だけでなく味方まで危険に巻き込む事になってしまう。

 

 だが、幸運にもこの学園ではそれを鍛える環境に事欠かない。

 剣の腕も制御力もそうだった。アキラは最初から何もかも上手くできるタイプではない。同じことを愚直に繰り返して、それでようやくものに出来る努力型だ。

 

 分からない事は、これから分かるようになればいい。

 そう自分で結論付けて、アキラは目の前の試合に集中した。

 

 試合内容は終始、七生の優位で進んでいた。

 対戦相手の得意分野は、見る限り支援系理術であるようだ。自身の強化を図るが、七生の猛攻に防戦一方で上手く制御できていない。

 

 試合開始直後に距離を取って制御を始めたのが唯一の機会で、それを潰されてから新たに制御を始めようとしても攻撃を受けるか避けるかを迫られ、術を完成させられなかった。

 アキラはそれを唸りを上げながら見つめていた。

 

 かつて、ミレイユ達から魔術の説明を受けた時、使えるものなら自分も使いたいと思った。

 内向術は自身の強化にのみ特化したものだが、外向術を使っても同じ様な効果を得られる。自分のみならず味方にも強化を施せるなら、それは実に魅力的だと感じたのだ。

 

 しかし、向かい合って試合開始という状況であっても、実力差がある相手ならば、あのように術を使わせてくれる機会すら与えられない。

 そもそもの力量差を覆すための強化だろうに、それを封じられてしまうと後は防戦一方で、いずれ術を使う機会を窺う内に力尽きてしまうだろう。

 

 術を使うには起死回生の一撃を受けてでも発動させるという胆力か、発動させる為の用意を予めしておく必要がある。相手のミスを期待しての作戦など、組み立てるものではないからだ。

 

 術の行使は楽器を演奏するような繊細な作業だと、ミレイユは言った。

 一つでも音を外せば術は発動しない、しかしそれを戦闘中に行う事が前提なのだ。制御を素早く行う事は重要なスキルだろうが、そちらにばかり気を取られても攻撃を食らう。

 

 痛みは制御を困難にさせるだろう。

 そう考えると、内向術士というのは実は相当有利な位置で戦える戦士なのかもしれない。

 

 三分が経って、試合終了の合図が鷲森から告げられる。

 七生は軽い運動後のように小さく息を乱している程度だが、対戦相手は疲労困憊といった様子だった。武器を手にしていても杖代わりに身体を支えているような状態で、額から汗が滝のように流れている。

 

 アキラは感嘆の息を吐きながら、視線は七生に向けたまま漣へ話し掛けた。

 

「流石だね、阿由葉さん。御由緒家って事を抜きにしても、攻撃のセンスがいいって思う。攻撃して欲しくないタイミングに、して欲しくない場所に攻撃が来る」

「まぁ、御由緒家の利点って言えば、その理力総量が多いって部分だからな。それだけでも随分な恩恵だが、技術は遺伝しねぇし。あれは阿由葉家であろうと、実力者じゃなければ許されない御影源流の刀法だ」

「あれが……!」

 

 アキラも剣術を習う身として憧れていた流派だ。

 一般人でも御前試合でその力量を認められれば、道場に通うことを許される。アキラは自分に才能がないの分かっていても、いつかあるいは、と願ったものだった。

 それが目の前で見られたとあっては、感動せずにいられない。

 

 七生が言っていた、自分と比する剣士はいないという言葉は誇張でも謙遜でもない訳か。

 改めて感動したような面持ちで見つめていると、その視線がアキラと交わる。一瞬、虚を突かれたかのように動揺した仕草を見せ、それから照れる仕草を隠すかのように顔を伏せた。

 

「何だ、あの反応? お前、七生に何かしたのか?」

「いやいや、今日の朝初めて会って挨拶しただけなのに、何をするもないでしょ」

「まぁ、そりゃそうか。妙にぎこちない動きだったが……でも、どうでもいいな」

 

 漣があっさりと切り捨てて、同意する訳にもいかず曖昧に笑う。

 剣士として手合わせを願うような素振りを見せていたし、その前に手の内を晒す様な真似は極力割けたかっただけかもしれない。思えば、予め全力で試合に取り組むようにと通達されていたのに、七生は手加減していたようだった。

 

 全力で行くと三分間試合を継続させられないから、という理由なら納得だが、もしかしたらアキラを前にして見せたくなかっただけかもしれない。

 新たな気づきを得たような気分で、アキラは続く試合へ意識を集中した。

 



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学園の転入生 その9

 七生の試合を見た後だと、どれもが陳腐で平凡に思えてしまう。勿論、そうと言うには失礼な話だと理解しているが、どこか心の内でそんなものか、と落胆する気持ちがある。

 

 それはアヴェリンにしろルチアにしろ、超級の達人の動きを知っているからこそだが、エリート集団である筈の学園生なら、もっと上の実力があるものだと思い込んでいたせいでもある。

 自分など歯牙にも掛けられないと思っていた所為もあり、これなら相手次第で無様な姿は見せなくて済むかもしれない、という希望も湧いてきた。

 

 問題は今まで見てきた数組が、学園の平均レベルと同程度なのか、という事だった。

 一定以上の水準を越えた者達のみを集めた学園とはいえ、御由緒家を筆頭に力量の幅はあるだろう。それが完全な二分化されていない限り、下限と上限の間で揺れ幅がある筈。

 

 これまで見てきた者たちが、果たしてその中のどの程度の位置にいるのかによって、アキラの感想も変わってくるだろう。

 視線は試合に向けたまま、ちらと凱人へ顔を向けて問いを放った。

 

「今まで見た試合って、実際どうなの? 力量的に平均? それとも、もっと下?」

「そうだな……」

 

 凱人は組んだでいた腕から右手を持ち上げ、顎を撫でるように左右へ動かす。

 

「今まで見た試合で突出していたのは当然七生だが、それ以外というなら並、あるいは並以下ってところだろう。七生以外に突出した生徒もこれから出るだろうが、それでも並を大きく超えて来る事はないだろうな」

「あれ、そうなんだ……? 並からそれ以下の数は多くて、並より上は極端に数が減る感じ?」

「そうだな……。並と言うと平凡に聞こえてしまうが、その並に達する事とて簡単ではない。あくまで上限を御由緒家レベルと定め、そして下限を入学ラインと見た場合の中間を見ただけで、その並レベルは決して力量が小さいという意味ではないからな」

 

 なるほど、とアキラは神妙に頷く。

 つまり御由緒家が見せる頂きが高すぎるせいで、下限を合わせた平均を出してしまうと底上げされてしまう、という事か。御由緒家を除いた場合なら、その並と呼ばれる人達は上位に位置する者すらいるかもしれない。

 

 そうして見た場合、今も並レベルと称された彼女らは、この学園では屈指のレベルという事になる。だとすれば、アキラにも少しは光明が見えてくる。周りに良い所を見せられるかもしれない、という希望が更に増した。

 

 そうして幾つかの試合が経過して、よりその確信を強めた時、漣が腕組みを解いて動き出した。

 彼の出番が回ってきたのだ。他の皆がそうであるように、内向術士でなくとも武器は持っていた。単に防御一辺倒になるのだとしても、盾代わりに使えるものがあるとないとでは雲泥の差だ。

 

 しかし漣は武器を壁から取る事もなく、前方に向けて歩いてく。

 アキラはお節介と知りつつ、その背中に声を掛けた。

 

「漣、武器は選ばなくていいの?」

「いらねぇよ、相手が七生や凱人でもない限りな」

 

 漣は後ろを振り返りもせず、片手を振ってそう答えた。

 本人に自信があるなら外野が何を言うでもないが、やはり全力で取り組むという教師からの指示に反してしまう気がする。明らかなハンデを与えてしまうようなものだし、他の試合を見ても外向術士は何かしら武器を携えていた。

 

 素手で武器を持った相手をいなすというのは、言葉以上に難しいものだ。明らかな不利を物ともしないというのなら、そこはやはり漣も御由緒家という事なのだろう。

 

 不安げな視線を凱人に向けたが、その力量を知っている本人からすれば気に掛ける程の事でもないらしい。気楽な調子で腕を組み、既に勝利を疑う素振りも見せない。

 御由緒家なれば勝つのは当然で、問題はどう勝つのか、という部分に重きを置いているように見えた。

 

 それにはアキラも興味がある。

 相手は内向術士で、本来一対一なら漣が不利になる状況だ。七生の時とは正反対の取り組みと言える。それにどう対処するつもりなのか、胸中を逸る気持ちが湧き上がってきた。

 

 漣が試合開始線の前に立つ。相手も同様に線の前に立って、緊張を滲ませた表情で武器を構えた。相手の持つ武器は槍で、リーチがある分、漣に対して有利に働くように思える。

 中距離から牽制程度の攻撃でも、制御を乱されれば満足に戦えないだろう。

 

 鷲森が開始の合図を出して、それと同時に動いたのは対戦相手だった。

 アキラがこの距離から見ても鋭いと感じる程の一撃だったので、正面に立った漣はそれより遥かに鋭く感じただろう。

 

 槍の穂先は丸めてあるが、その速度から繰り出される打突は間違いなく怪我をする威力を持っている。これまでの試合にもあったが、互いが満身創痍で戦っている場面もあった。

 治癒術士も控えているので後日まで引くような怪我にはならないだろうが、戦闘中は間違いなく不利になる。

 

 その穂先が漣に当たると思った瞬間、爆発と共に吹き飛んだのは相手の方だった。

 漣が放った理術が穂先を無視して、対戦相手に火球をぶつけたのだ。開始の合図と共に制御を始め、そしてそれが穂先の命中よりも早く発動した。

 

 使った理術は爆発と言っても小規模なものだったので、初級理術だと予想できる。今までの外向術士は近接戦闘にまるで付いていけてなかったので、漣がどれほど規格外の速度で制御したのかが分かる。

 それをアキラと見ていた凱人は、感嘆めいた息を吐いて顎を撫でながら言った。

 

「漣の制御速度は、以前と比べて倍以上は速くなった。それまでは、さしもの漣も回避に専念してから機を伺ってから攻撃に移っていたものだ」

「それは……やっぱり、御子神様の力っていうやつで?」

「そうだ。速度だけではなく、威力も上がったようだ。あの理術は漣の十八番で、まず目暗まし程度に使う事が多かったが、今では吹き飛ばす程の威力になっている」

「近付くのは骨が折れそうだ……」

「実際、それがカギだろうな。威力のあるものは、流石にあの速度で使う事は出来ない。相手にしても、あの打突が最初で最後の機会だと理解していただろう。後は時間内に、どう攻略するか、あるいは耐え切るかを選択しなければならないが……」

 

 一度距離が離れてしまえば、後は漣の独壇場だ。

 魔力総量も相応にある漣には息切れを期待できないようで、距離を保ちつつ回避に専念している。しかし、飛び出す火球は速度に緩急がある上、追尾してくるものまで織り交ぜていた。

 

 その多くは相手の速度について行けず回避されてしまうものの、その所為で尚のこと近付くことを困難にさせている。

 そして、終わりは唐突に訪れた。

 

 誘導弾を躱すことに専念し過ぎて、横合いから飛んできた火球に気づけなかった。

 一度吹き飛ばされ、受け身を取ろうとした所で追撃、体制を崩し床に倒れた所で更に追撃。後は起き上がって来る前に連続して火球を打ち込まれ、そして身動き出来なくなって試合が終わった。

 

 起きた爆発よりも傷は浅く、怪我のせいだけが動けなくなった原因ではなさそうだ。

 やれやれと息を吐きながら、凱人は顎から手を離して腕を組み直す。

 

「相手も可哀想に。もう少し手加減してやればいいものを」

「……してたんじゃない? 倒れてからの追撃は、相当の数、外していたみたいだから。威嚇のつもりか、降参を促すつもりか……ああ、つまり戦意喪失狙いかな?」

「へぇ……? よく見てたじゃないか」

「弾道が不自然に思えたから……まぁ、偶然だし、実は全然見当違いなこと言ってるかもしれないけど」

 

 実際、言ったことは当てずっぽうに近い。

 アキラは慌てて弁明したが、凱人は感心を深めたように何度も頷いていた。その視線がむず痒く、またもどかしく、何とか話題を逸らすため、凱人へ一つ質問をした。

 

「因みに、凱人ならどうやってあれを攻略する?」

「俺なら無理を通して突撃する。小器用に回避するような技術もないし、それに漣はそれを一番嫌がる」

「ああ、なるほど……。つまり凱人も内向術士なんだ」

「そうだ……、というか知らなかったのか? この学園にいるなら、誰もが御由緒家が持つ理術や傾向はチェック済みだと思っていた」

 

 少々の呆れを滲ませて言った凱人から、アキラは目を逸らして曖昧に頷く。

 興味がないという意味ではないが、そもそも調べようとする思考すら頭の中にはなかった。頼りにする仲間として、また切磋琢磨する間柄としてそれくらいは知っておかねばならなかったろうに。

 

 自省している内に漣が帰ってきて、元いた位置で気怠げな息をついた。

 

「おかえり。……言ったとおり、武器は必要なかったみたいだね」

「まぁな。けど課題が山積みだ。一つ解決したと思ったら、また次の課題が生まれやがる。まぁ、成長なんてのは、そういうモンかもしれねぇけどな」

 

 それについてはアキラも強く同意できる。

 一つの壁を越えたと思えば、またすぐ次の壁が現れる。そしてそれを越えろと、容赦なく責め立てられた経験が幾度となくあった。そしてそれは、この学園に来る直前まで変わることのない鍛練風景だった。

 

「オミカゲ様は……そして御子神様は、これからも強い鬼が出てくるって仰ってるだろ? 俺たち掛ける期待ってのも、相応にある筈だ。またあの鬼が出てきたら、俺の小隊メンバーだけでも対処できるようにならねぇと……」

「同感だな。オミカゲ様の望む頂きは高いだろう。しかし、その頂きに到達される事を望んでおられる。我らの敗北はオミカゲ様の敗北だ。そのような無様、晒す訳にはいかん」

 

 二人が断固たる決意を表明した時、とうとうアキラの番がやってきた。前から順に消化して、これが最後の試合だ。漏れ聞こえて来た話によると、アキラと対戦する相手は外向術士という事だった。

 計らずも、七生と同じ対戦内容という訳だ。

 

 隣を見れば、凱人もまた同時に順番が回ってきたようで、肩を大きく回しながら歩き始めている。そして、その目はアキラを挑戦的な視線で見つめていた。

 どのような戦いをするか楽しみにしている、とその目は暗に語っているようだった。

 

 アキラも覚悟を決めて歩き出す。

 背後から漣の送る短い声援に応えながら、アキラは試合場まで緊張で跳ねる心臓を抑えながら進んだ。

 



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学園の転入生 その10

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 アキラが試合開始線の前に辿り着いた時には、既に対戦相手は指定位置で待っていた。

 ミレイユ達への距離が近くなって、否が応でもその視線を意識してしまう。何か語りかけてくる訳では無いが、不甲斐ないところだけは見せられないと、アキラは胸中で決意を新たにした。

 

 対戦相手と、お互いに目が合って一礼する。アキラも例外なく壁から木刀を借りていて、それを正眼で構えた。相手も一応、木刀を構えてはいるが、あくまで主体は理術の使用だろう。

 

 重心は中央よりも後ろ寄りになっていて、初手から距離を離す事を考えていると窺えた。

 アキラとしても、当然逃げられたら対処が難しくなるので接近する事しか考えていない。七生がやっていたように、とにかく攻め立て術の制御を妨害してやるのだ。

 

 そこから先は流れで動くしかない。

 相手の得意戦法を知らない以上、今はそれしか考えられなかった。

 緊張を滲ませた表情はお互い様で、アキラが知らないのと同様、あちらもアキラの得意戦法を知らない。だから、その初手を見誤らなければ主導権はこちらが握れる筈だ。

 

「……始め!」

 

 それぞれが睨み合う三つの組を見渡して、鷲森が声を張り上げ合図を送った。

 アキラも足に力を込め、逃げ去る相手を追撃しようとして、突然目の前に現れた対戦相手につんのめった。振るわれた木刀を咄嗟に受け、そして力を逃げす為に後方へ逃げる。

 しかし、距離を取ろうとした事さえ読まれて、更に追撃を放ってきた。

 

「くぅ……っ!」

 

 攻撃は受け切れたが、一撃は思いの外重たく、その力の全てを逃がす事が出来ない。

 木刀だけの攻撃ではなく、隙を見つけて蹴りまで放って来た。それも躱すが不格好な姿を晒してしまい、恰好の一撃を繰り出すチャンスを与えてしまった。

 

 振り降りされる一撃を、横転する事で躱し、距離を取る。

 そうしながら、アキラは完全に出し抜かれたと歯噛みしていた。

 

 外向術士は別に剣を振るえぬ訳じゃない、というのは知っていたつもりだった。最低限の腕前を持っているのは間違いないが、外向理術を学ぶからには二足の草鞋を履いて、刀の鍛練まで出来る訳がないと思っていた。

 

 それに開始線の前では確かに重心は後ろへ傾いていた。

 だから理術を使うことを前提としていると思っていたのに、それは全てアキラを騙す為の擬装だったのだと、今更理解した。理術を学んでいるからとて、刀を捨てる事はない。

 彼女はきっと、今までどちらか片方を捨てる事を良しとせず、両方の鍛練を続けて来たのだろう。

 

 卑怯とは思わない。

 ミレイユが――御子神様が見ている前で、単に全力を出すだけで満足する訳もない。負けるより、引き分けより、勝った姿を見せた方が印象も良いと考えるのは自然な事だ。

 

 アキラにも、勝った姿を見せたいという欲はある。

 これは単に相手の作戦勝ちであって、思うとすれば、相手の戦力や戦術を真剣に捜さなかった自分の不甲斐なさだ。本気で取り組むというには、覚悟が足りなかった。

 アキラは転がって逃れた先で、即座に立ち上がって振り返ったが、その先に相手の姿はない。

 

 ――どこに!?

 そして、いつの間に消えたのか、そう思って一瞬の硬直が生まれ、そしてその一瞬は相手にとって値千金の時間だったろう。上空から影のような何かが見えた気がして、考えるよりも先に手が動いた。

 

 咄嗟に振り上げた木刀が、硬質な音を立てて何かを遮る。腕に掛かる負担は、それまでの比ではなく、腕ばかりか身体全体に衝撃が走って踵まで貫いた。

 

「ぐぅ……ッ!」

 

 うめき声を鳴らして、沈み込みそうになり身体を必死に堪えて、上から襲撃をして来た相手を上半身のバネで跳ね返す。あと一瞬でも反応に遅れていたら、この額は割られていた。

 冷や汗を拭う暇もなく、着地したばかりの相手が攻め立てて来る。

 

 外向理術といっても、その内容は様々である事は知っている。

 どういった術があるのか、それはユミルから簡単に聞いていた。何しろ種類が多いし、アキラは使えないし、使う相手とも戦う機会がなかったので、割愛される部分も多かった。

 

 だが目の前の対戦相手が使ったのは攻勢理術ではなく、身体強化などを含む支援系だと察知できる。そうでなければ、アキラの視界が切れている一瞬の内に、自身を上へと姿を消す事など出来ない筈だ。

 

 それとも、その認識そのものが間違いだったのか。

 始めから外向術士というのが嘘で、アキラの聞いた情報が嘘だったとか――。

 

 それもまた、十分にあり得る事だと思われた。情報戦を仕掛ける事は卑怯ではない。それとて事前に対戦相手を知っている段階で、調べようと思えばアキラには知る機会があったのだ。

 漏れ聞こえた話だけで、知ったつもりでいたアキラが悪い。

 

 不甲斐ない思いで自身へ歯ぎしりしながら、鋭く打ち付けて来る木刀を捌く。

 完全に冷静さを欠いていて、本来なら反撃に移れるような機会も、そのせいで逃してしまった。防戦一方の戦いが続き、苦し紛れの反撃も難なく防がれ、返しの一撃を受けた。

 

 息が乱れ、攻め立てる動きは幾つものフェイントを含む複雑さを見せてきた。

 それを受ける事に集中するあまり、ろくな反撃も出来ず――、そしてそのまま試合を終えた。鷲森の終了の合図を耳が拾ったが、その内容を理解できなかった。

 

 到底、始まってから三分経ったようには思えないのに、相手は武器を降ろしてしまうし、隣の試合も荒い息をつきながら終えている。

 愕然としながら、アキラは両手で構える持ち手部分を見つめた。

 

 ――何一つ出来なかった。

 最初から最後まで相手優位で、主導権を握られ、それを取り返す事も出来ず、そしてがむしゃらに対応している内に終了してしまった。

 

 アキラは目の前の対戦相手に顔を向ける。

 その目には、そんなものか、という呆れと侮りが如実に現れていた。

 

 アキラは自分が不甲斐なく、また自身を鍛えてくれた師匠に申し訳なかった。

 別に華々しいデビューを飾りたかった訳ではない。ただ、せめて正当な評価はして欲しかった。自分の力量はこんなものではない、と叫びたかったが、口で言ったところで意味はないだろう。

 

 アキラは項垂れたまま開始線へと戻り、相手と対面して頭を下げた。勝ち誇る顔を見て、憎々しく思う。相手にではない、何もかも足りてなかった自分自身に対して怒りが湧く。

 

 その時、肩を落として元の場所に戻ろうとしたアキラの背に、降り掛かってくる声があった。

 

「……アキラ」

 

 運動場は仲間の勝利を祝う声などで少々騒がしかったが、その呼び声は静謐の中に一石を投じるように響き渡る。

 アキラはそちらへ顔を向けるのが怖かった。何を言われるか想像はつく。叱咤されるなら救いはあるが、落胆の声を聞くのは耐え難かった。

 

 アキラがゆっくりと声の方へ振り向くと、平坦な表情で見つめるミレイユと目が合う。

 その後ろに立つアヴェリンの形相は凄まじいもので、明らかな怒りが見て取れた。アヴェリンからは咄嗟に目を逸らすと、次はユミルと目が合う。こちらはいつもどおりで、特に怒りや呆れの表情は見えなかったが、つまらないものを見せられたとは思っているような顔をしていた。

 

 ミレイユは感情を感じさせない、ゆったりとした口調で続ける。

 

「……負けたな」

「はい、申し訳ありません」

「負けた事を責めてるんじゃない。私はお前が全く本気でなかったことを嘆いている」

「本気の……つもりでした」

 

 自分でそう言ってから後悔する。つもりどころか、本気の本気であったのは間違いなかった。後手後手の対処で十全に力を発揮できなかったが、それでも本気であったのは確かだ。

 

「何を持って本気だと言うんだ? 試合の開始から、ようやく戦う気になった事か? 攻め方に遠慮があった事か? 死ぬ目に遭わねば必死になれない事か?」

 

 一言一言が胸に刺さる。

 そのどれもが的確にアキラの試合内容を表していた。試合が始まるまで、アキラは理力を制御してなかった。対処が後手になったせいで、満足に練る事ができず、まともな運用は出来ていなかったと思う。

 

 相手が女生徒という事で遠慮があったのも確かだ。頭を割ったり、骨を折ったりするような一撃は無意識的に避けていたと思う。

 鍛練相手は常にアヴェリンだった。そしてそれは、常に死の危険を感じる程の一撃を受ける事を意味する。必死にならねば避けられなかったし、必死でやっても――二つの意味で――骨が折れるような内容だった。

 

 それを思えば、鋭い一撃とはいえアヴェリンの一撃には遠く及ばず、その一振りに死の危険などなかった。上空からの一撃は、対処が遅れれば額は割られていたろうが、それだけだ。

 相手も打ち負かすつもりでいたろうが、決して殺す気では来ていない。

 

 普段の鍛練とは緊張感からして、雲泥の差だったのは間違いなかった。

 それが油断や怠慢に繋がったと指摘されれば、なるほどそのとおりだと納得するしかない。

 

「私はお前の本気が見られると思っていた。お前もまた、この学園において自分がどの程度通用するのか、確認するつもりがあると思っていたんだがな。……それとも、この学園のレベル程度じゃ満足できないか?」

「いえ、決してそんな事は!」

「――では、見せてみろ」

 

 ミレイユは事も無げに言って、椅子の肘付きの上で頬杖を付いた。

 もう一度機会を貰えるというなら、アキラとしてもそれに応えたいと思う。しかし、何を、どうやって、と頭を悩ませている間に、ミレイユが再び声を発した。

 

「……由衛、相手をしろ」

「ハッ!」

 

 ミレイユが既に生徒の待機場所に戻っていた凱人の名を呼べば、実直に声を張り上げて応えた。そして視線を横にずらすと、生徒の中からまた別の顔を見つめる。

 

「阿由葉、お前も出ろ」

「は、……ハッ!?」 

 

 名前を呼ばれて動揺を隠せず、裏返った声が響いた。

 単に名前を呼ばれた事が意外だったからではない。このタイミングで呼ばれた事が意外だったのだろう。何故なら、このタイミングで呼ばれたというなら、それは二人を相手にするという事になるからだ。

 

 しかし、出ろと言われて拒否する選択など有りはしない。

 七生も鷲森とミレイユへ忙しなく視線を動かしながら、アキラの近くまで歩いて来た。既にやって来ていた凱人と隣り合うように立ち、それから次の指示を待って背筋を伸ばす。

 

 ミレイユは鷲森へと視線を向け、手招くように手首を曲げた。

 鷲森が即座に近寄って膝を折る。ミレイユは既に決定事項を告げる体で口を開く。

 

「これから今一度、この三人を戦わせたいが、問題ないか?」

「は、ハッ! 既に一通りの試合は終了しておりますので、後続が待たされる事もありませんし、授業の終了時間まで幾らか余裕もあります」

「うん。では、やってもらおう。――アキラ、この二人を同時に相手して戦え」

 

 ギョッとしたのはアキラだけではない。

 この屋内にいた誰もが同じ気持ちだろう。普通、御由緒家を一人相手するだけでも無茶なのに、順番に戦うというならともかく、同時となってはまともな戦闘は成立しまい。

 

 二人の試合を見ていたミレイユが、それに気づけない訳もなかった。

 しかし、それをやれというからには、私刑めいた罰則の考えでもあるのかと、誰もが思った。

 

「分かりました」

 

 しかし、アキラは覚悟を決めて受け入れた。

 この二人が同時に来たところで、アヴェリン一人より手強いという事はない。それなら普段の鍛練よりマシな戦いになるだろう、という楽観的な考えも浮かんでいる。

 

 しかし、それに待ったを掛けたのは凱人だった。

 神の決定に逆らうような発言に、驚くと共に感謝も湧く。どうやらたった一日で、良好な関係が築けたらしい。

 

「いいのか、アキラ。二人同時に相手しようって言うんだぞ。やれというからには手加減しない、それでも良いんだな?」

「大丈夫、罰として殴られるんじゃないんだから」

「そうは言うけど……似たようなものでしょう」

 

 七生まで非難めいた口調で、アキラへ囁くように憂いた。彼女まで心配してくれるのは有り難いが、それがミレイユの決定だからという理由だけでなく、アキラ自身その力量を正当に判断してもらいたい、という気持ちで受け入れたのだ。

 

 それに、ミレイユは決して出来ない事をやれとは言って来なかった。

 その彼女が、この二人を相手にしろと言ったからには、きちんと意味があって言った事に違いないのだ。

 

 アキラが開始線まで移動すると、凱人と七生は顔を見合わせて渋い顔で頷き合う。

 二人が開始線まで移動し、横並びで対面した。

 アキラは二人の顔を交互に見て、それから安心させるように顔を引き締め頷く。それで二人も覚悟が決まったのか、戸惑いを隠して表情を引き締めた。

 

 立ち上がった鷲森が元の位置まで戻ってきて、手を振り上げる。

 開始の合図を始めようと、大きく息を吸い込んだ。

 



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神と人の差 その1

「全く、世話のやける……」

 

 ミレイユは開始線へと移動するアキラを見ながら溜め息を吐いた。

 アヴェリンの顔は見えないが、その気配から忌々しくも、また不甲斐なくも思っていると察せられる。ユミルとしては特に思う事はないらしく、完全に観戦者として見ているようだ。

 

「んー……、常にアヴェリンを相手にしていた弊害なのかしらね。それと魔物を相手にして来た事へも。アキラにとっては、命の危険が常に付き纏うものだったワケじゃない?」

「ああ……、だから身の危険を感じないと、その気になれないという事か」

 

 アヴェリンが納得したように呟いたが、しかしだから許せるという訳でもないようだ。吐き捨てるような物言いで続ける。

 

「戦士であるなら、相手がどうあろうと戦う気構えは出来ていているものだ。殺される心配がないから本気を出せないなど、戦士以前の問題だ。明らかに欠陥だろう」

「そうだけどねぇ……でも、アキラの気持ちも分かってやりなさいな。同格以下の相手なんて、最初のインプくらいなものでしょ? 命のやり取りを強要され過ぎたのよ。そのクセ、鍛練でさえ常に身の危険が付き纏うんでしょ? 欠陥というより、どこか壊れちゃってるんじゃない?」

 

 ユミルの指摘はミレイユとしても同意するところだ。

 だから戦力的に拮抗すると見た凱人だけでなく、ダメ押しの七生も参戦させた。これでも命の危険がないのは変わらないが、本気にならざるを得ないと頭ではなく身体で理解した事だろう。

 

 ミレイユはアキラに続いて開始線へと移動した、凱人と七生を見つつ言った。

 

「強い敵意や殺気を受けなければ本気になれない、というのは、これから教え込む事で克服できるだろう。……その為の学園でもある。今は頭と身体が理解に追いついていないだけ」

 

 そう言つつも、ミレイユはつまらなそうな視線をアキラへ向ける。

 

「とはいえ……この期に及んで理力の制御を始めないのは、何かそういうルールがあるからか?」

「まぁ、開始の合図が出るまでは自然体で、っていう取り決めはあるのかもね。制御速度も実力の内、開始後から始めて間に合いません、っていうなら、遅い本人が悪いだけ。……そういう事なのかも?」

 

 ミレイユはアキラと対戦相手二人を交互に見つめ、そして制御の動きがない事を認めてから頷く。ユミルの予想は正鵠を射ているだろう。

 制御は速度を求めれば、練度は疎かになるものだ。逆もまた然りで、丁寧に理力を練り込もうと思えば速度を犠牲にする。

 

 その二つを高いレベルで扱える事は理想だが、元より速度に向かないアキラである。このままでは二人に良いようにあしらわれて終わるだけだろう。それでは、わざわざ二人をアキラと戦うよう指示した意味がない。

 

 ミレイユは今にも合図を送ろうとしている鷲森に向けて手を挙げ、声を上げて止める。

 

「――待て」

 

 ミレイユの静かな一言で、振り下ろそうとしていた鷲森の腕が止まる。

 アキラや凱人達も構えを解き、鷲森は振り返ってその場に膝を付いた。

 

「お互いに、まず制御を始め、練度を高めてから開始しろ。……鷲森、見極めは任せるから、両者が高め終えたと判断した時に合図を出せ」

「畏まりました!」

 

 ミレイユが満足げに頷くと、鷲森は立ち上がって一礼する。アキラたちへと向き直ると、制御を開始するよう促した。

 即座に開始する凱人と七生と、それに一拍遅れてアキラが始める。

 

 アキラはその制御速度の遅さから、自然とスロースターターになってしまう。後半に近付くにつれ、その本領を発揮すると言えば聞こえは良いが、実力伯仲する間では序盤で押し切られて負けてしまう事を意味する。

 

 それどころか、本質的には勝っているのに、その実力を発揮出来ないせいで負ける事も多いだろう。鍛練中なら上手いこと加減されるから、長く打ち合う事を考えれば問題ないのだろうが、今回のようなケースなら、間違いなく汚点となる。

 

 先日アキラの鍛練を見た時、その最大まで高められた時の理力は決して凱人達に劣るものではなかった。これはアヴェリンとルチアが丁寧に制御を教えたお陰で、また()()()()ような制御訓練の賜物でもある。

 

 ミレイユが御由緒家へ施した修正をするまでもなく、アキラは非常に素直な制御練度を持っている。後は速度さえ出せれば、この学園でも上位に食い込む実力を誇るようになるだろう。

 ただし、問題点は未だ多い。

 手放しで褒められるものではないが、この学園にいる者たちにとっては、流石は御由緒家と言わしめるに相応しい実力と認知されるあろう。

 

 ミレイユは対戦相手二人へ視線を移す。

 結界内で制御を正してやったのは記憶に新しい。本日の試合内容を振り返ってみても、その制御技術は間違いなくモノにし始めている。未だ完璧とは言えないが、その兆候は窺えた。

 

 対し、アキラはその制御技術だけは二人に対し勝っている。理力総量は僅かに劣り、速度に至っては相手にならない。だが総量で大きく劣っていないなら、拮抗した勝負は出来る筈だ。

 互いに内向術士であるならば、最後に勝負の決め手となるのは、その戦闘技術と克己心になるだろう。

 

 アキラの理力が練り込まれ、ボールを膨らませるように身体中を駆け巡っていく。既に凱人たちは終えていて、アキラの準備を待っているところだ。

 後ろに控えている選手達は、その練度に舌を巻く気分のようだ。小さなどよめきが起こっている。これが本当に先程のアキラと同一人物なのかと、疑う気持ちすら生まれているだろう。

 

 凱人はそれでこそと認めるように両腕を開いて構え、七生は挑戦的な笑みを浮かべて木刀を構え直した。二人で相手する事に躊躇いはあったように見えたが、ここに来て、その甘さを捨てる事に決めたようだ。

 

 アキラも目を閉じて急速に巡らせていた制御を止め、木刀を正眼に構えて目を開いた。

 それが合図となり、鷲森が声を張り上げ腕を振り下ろす。

 

「……それでは、始め!!」

 

 

 

 最初に動いたのはアキラだったが、それに一瞬で反応して動いたのは凱人だった。

 剣道で使用する篭手に良く似た防具を両手に嵌め、ボクサーのように拳を肩の高さまで持ち上げて突進した。その直ぐ後ろ、ひと一人分の間隔を開け阿由葉も続く。

 

 以前も見たから知っているが、この二人は攻守を完全に分けて動く事に慣れている。単に二人を相手にするのとは違って、互いに何が出来て何が出来ないかと熟知している。連携にも長けていて、アキラにとっては、まるで腕が四本ある人間と戦うようにすら感じる事だろう。

 

 ――どう対処するのか見ものだな。

 ミレイユは元より試合観戦のつもりでここに来ていたし、少しは見応えのある勝負があるかもと期待する部分があった。普段はプロの野球試合を見ていても、高校野球はそれはそれで見応えがある、という具合に。

 

 しかし結果としては消化不良で、どれを見ても中途半端、退屈極まりないものだった。御由緒家はその中でもマシな部類ではあったが、相手が弱すぎて加減しなくては試合が成立しない有様だったし、ならばと思って一般組同士の取り組みを見ても、興味ひかれる試合はなかった。

 だからアキラに、今一度機会を与えるつもりで試合を組ませた。

 

 今度こそ見応えある試合になってくれ、と思いながらアキラの動向を見守っていると、どうやら凱人よりも七生を優先する事にしたようだ。

 その突進を躱し、凱人をやり過ごして七生に一太刀浴びせようというのだろうが、それを簡単に許すようなら壁役として価値がない。

 

 横へ跳んで回避しようとするアキラへ、凱人も張り付くように反応して、やり過ごさせる事を許さない。そうしている内に七生が逆にアキラの側面へ回って、無防備な肩へ一撃を振り下ろしたが、これには木刀を上手く回転させる事で、肩との間にクッションを作り直撃を避けた。

 

 だが、敵は一人ではない。

 凱人は壁役に違いないが、チャンスがあれば攻めにも転じる。

 七生の狙った方とは別方向から、捻り上げるようなボディブローがアキラの腹に突き刺さった。

 

 トラックに衝突されたかのような破壊音を響かせながら、アキラが吹き飛ぶ。しかし木刀を地面に突き付け、体勢を立て直すと共に、地を蹴りつけ再び攻勢に戻る。

 まるで攻撃を受けた影響を考えさせない、俊敏な動きだった。

 

 周りの生徒からは悲鳴のような声が上がったと同時に、アキラの反撃を見て歓声を上げる。

 避ける事は不可能と察したアキラは、凱人と対峙する事に決めたようだ。直線的に接近すると、肉薄すると同時に木刀を振り下ろす。

 しかし直線的な動きは分かり易い。回し受けの要領で木刀を捌き、空いたもう片方の手で突きを繰り出す。

 

 だがそれはアキラにも分かっていた事のようだった。

 木刀から片手を離してその突きを防ぎ、受けた衝撃で一歩後ろに下がると、それと同時に構え直して逆袈裟に凱人の顎を狙う。それはスウェーで躱されるが、アキラは一歩踏み込んで更なる追撃を繰り出した。

 

 凱人はそれを両手で受け止める。

 凱人の小手は何かしら付与された形跡が見られないので、本当に単なるスポーツ的な防具に過ぎないだろう。力一杯振り下ろされて、パァンと小気味よい音が響く。

 衝撃も相当なものであったろうに、それに痛痒を感じさせない反撃をするのは、流石の壁役、由衛の面目躍如と言ったところか。

 

 アキラは次の一撃を繰り出す前に、凱人の腹を蹴りつけ距離を離す。

 敵は一人ではない。アキラの隙を窺って、いつでも一撃を加える機会を狙っている。その七生が堪えきれなくなったのか、凱人の後ろに隠れるのを止めて突っ込んで行った。

 

 彼女は剣士として思うところがあったのかもしれない。

 それとも、アキラの一太刀を見て、余人を交えず剣をぶつけ合いたいという欲が高まったか。

 ともあれ、七生は逃げたアキラを追いかけて木刀を振るう。

 

 それを横に躱し、次の一撃を身体を横へ軸移動だけで躱し、更なる追撃を木刀で逸して躱した。

 そこから更に続く連続の猛攻にも、アキラは一撃も受けずに回避を続ける。七生の顔に焦りが生まれた時、アキラが肉薄し両手の間、柄の部分で鍔迫りの形へ持っていった。

 

 ガチッと七生の木刀を受け止めると、そのままスライドさせて七生の手まで到達する。互いに木刀を垂直に立てるような形になったが、武器を封じたつもりかと思った瞬間、アキラの身体が沈み込み、持ち上げるような動作で七生の事を突き飛ばした。

 

 七生を嫌がって距離を離したようなものだが、両腕を大きく振り上げた動作は凱人の恰好の的だ。先程と同じ場所にボディを打たれ、アキラが吹き飛ぶ。

 またしても、観戦している生徒から悲鳴が洩れた。

 



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神と人の差 その2

「ふぅん、って感じね」

「大宮司の言っていた事は大袈裟じゃなかったんだな。御由緒家が最高戦力、あれがそうか」

「それってどっちの意味? 落胆、それとも称賛?」

 

 ユミルとアヴェリンが、ミレイユの後ろで観戦内容を言い合っている。

 アヴェリンは盛大に溜め息をつきながら言った。

 

「無論、落胆の方だ。学生という、まだ研鑽の途中である事を考慮に入れてもな。あれらは戦士たちを押し退けてまで、戦場へ駆り出される事もあったと言うではないか。それであの質だというなら、程度も良く分かろうというものだ」

「だから梃入れする気になったんでしょ。……とはいえ、遅きに失したわね。後一年、欲を言えば三年、それだけあったら、もっとマシな状態で孔の拡大へ対処出来たでしょうに……」

 

 ユミルからも失意が漏れ出て、ミレイユは後ろを見ずに首肯した。

 

「それについては、オミカゲ様の完全な失策だったろう。……最初から、次の周回を意識しすぎたな。あるいは、ある程度の時点で見切りを付けただけかもしれないが。いずれにしても、鍛え直すというには遅すぎる」

「ま、今回見た内容次第じゃ、少しは楽観的になれるかと期待したけど……不都合な現実が露呈しただけだったわね」

「オミカゲ様が忙しい所為で、その戦力まわりを十分にケアできなかったのも理由の一つなんだろうが……。決して才能豊かと言えない数ヶ月鍛練したアキラと、最高戦力が拮抗するというのは異常だろう」

 

 改めてしっかりと見てみれば、実際には拮抗と言うほど恰好良いものではなかった。

 アキラも頑張っているが、連携の取れた二人を突き崩すには実力が足りない。しかし本来なら最初の一撃で吹き飛ばされた時点でリタイアしても良いくらいだったし、剣術に自信を持つ七生の連撃を退けられたのは、剣術以外に原因がある。

 

 内向術士はその練り込み具合で如何様にも身体能力を向上させるとはいえ、反射神経、動体視力を強化した程度で、七生の攻撃を凌ぐのは無理だ。

 では何故躱せたのかと言えば、七生が自身の出している速度について行けていないのが原因だろう。制御速度に振り回されている、といっても良い。

 今まで軽の車に乗っていたのに、いきなり本格的なスポーツカーに乗せられて、まだ調子が掴めていない、といったところか。

 

 十分な時間を使えば更に良くなるだろうし、そうなれば更なる高みへ進める段階に達っせられるとも言えるが、それにはとにかく実戦を経験するしかない。

 ただ武器を素振りして、それに合わせて理力を練り込むのではなく、緊張感のある制御が必要なのだ。

 

 それがアキラとの差だ。

 本当の理力制御は本番でしか鍛えられない。しかし練習なくして本番も有り得ない。まだ未成年である事も加味して練習の割合が多くなるのは当然で、それが常に死の危険と共に理力を磨いてきたアキラとの差に繋がった。

 

 まだ二人の方が実力は上である事は認めるが、鍛えてきた時間を思えばそれが普通だ。

 アキラもアキラで、危険のない本番では実力を発揮できないという欠点を抱えてしまったので、その点は明らかにマイナスだが、現御由緒家はぬるま湯に浸かっていたと判断せざるを得ない。

 

 強力な鬼の出現で尻に火がついたのは事実だろうが、それをどこまで現実感を持って鍛えているものだか……。ミレイユの出現は、むしろ彼らに安心感を与えてしまったかもしれない。

 

 これは国民が悪いという話ではないが、常にオミカゲ様がいれば大丈夫という信用と信頼の中で生きてきた。オミカゲ様もそれを惜しみなく与えてきた。

 強力な鬼がいようとも、そこで御子神まで現れたというなら、万全の対策が出来ていると思わせる原因と感じてしまっても仕方なしだろう。

 

 御由緒家はオミカゲ様の矛と盾。

 その矜持があるから鍛える事にも熱心だが、御子神というセーフティーが彼らから危機感を奪ってしまった可能性がある。新たな制御法を伝えたというのに、七生と凱人の制御練度の低さが、それを物語っている気がした。

 

 ミレイユがそのような事を考えている内に、試合内容が新たな動きを見せる。

 七生とアキラの立場が逆転し、アキラの連撃が七生を攻め立て続けていた。剣術の腕前で言えば、明らかに七生が勝っている。しかし、それでも七生の表情には焦りと緊張、苦痛が表出していた。

 

 アキラの木刀は一度も七生に有効打を与えていない。

 しかし一撃そのものが重く、七生は受けるので精一杯で反撃に移れなかった。時々引き剥がそうと逃げる素振りも見せるのだが、アキラは喰らいついて離さない。

 

 七生が隙を突いて放った一撃が、アキラの腕を打つ。僅かにバランスは崩すものの、それを意に介した様子もなく攻め立てていく。

 七生の一撃が有効打となっていない。当たらないせいで速度を重視し、結果として一撃が軽くなってしまっているのが原因だ。だからアキラは変わらぬ攻めを続けられる。

 

 アキラの一太刀は、確かに七生に届いていない。しかし七生の表情を見る限り、それが届くのも遅くなさそうだ。

 アキラの連撃の合間に、七生の針の穴を通すような一撃が胴を叩く。しかし、ものともせずに、その木刀を押し返すように前進を続ける。

 

 あれはアヴェリンが良くやる戦法で、多少の攻撃はむしろ受けて自分のチャンスへ繋げる。己の防御力と回復力を信じているからこその闘法だが、他の者がやれば肉を切らせて骨を断つ、という捨て身戦法にしかならない。

 

 不完全と分かった上で師匠の技を真似したのだろうが、それにも意味はあった。

 遂にアキラの一撃が七生の頭上へ振り下ろされる、という瞬間、横合いから凱人が殴りつけ、アキラを横っ飛びに吹っ飛ばした。

 

 惜しいところだったが、これは二対一の戦闘。上手くいったと思った瞬間、攻撃に集中した瞬間こそ、己の防御が最大限弱まる瞬間でもある。

 アキラは絶好の機会を逃したくないという欲が出すぎて、攻撃を焦った。

 

 七生と凱人が何やら言い合いを始めたのを見ながら、ミレイユは鼻から不満げな息を出して耳の裏を掻く。

 それを見ていたらしいアヴェリンは、ミレイユへ弁明するかのように口を開いた。

 

「周囲の様子が見えていなかったの落ち度でした。本来の使い方ならば、それすら押し退けるか、最悪でも一太刀入れること叶っていたでしょうに」

「お前ならば、そもそも前衛を押し潰して進むだろうから、その前提は有り得ないが。……そうだな、単純に練度不足のやぶれかぶれ、それが敗因だ。戦闘の組み立て方が下手とも言う」

「なかなか辛辣ねぇ」

 

 ユミルが(からか)うように言うと、ミレイユは苦笑しながら手を振った。

 

「いや、ついつい言ってしまったが、実戦経験の乏しいアキラからすれば、あれでも十分良くやっている方だろう。評価が辛くなるのは、私の傍にいる戦士がアヴェリンだからだろうな」

 

 そう言って、アヴェリンへと顔を向けてはチラリと笑った。

 アヴェリンもまたくすぐったそうに笑みを返し、慇懃に礼をする。ミレイユはそれに手を上下に振る事で、その敬意を受けると共に止めさせた。

 

「イチャついてないで、ちょっと試合の方を見なさいよ」

「ば……っ! 誰がイチャつくなどと!」

「――いいから。そろそろ決着つきそうよ」

 

 ユミルに指摘されて、ミレイユもまた試合の方へと顔を戻すと、その場面は丁度アキラが再び吹き飛ばされている所で、思わず顔を顰めてしまう。

 何度吹き飛ばされても愚直に向かって行くのは結構な事だが、もうそろそろ二人の連携に対応するところも見せて欲しいところだった。

 

 アキラはこれまで突進を繰り返してきたが、今回のそれは、今までと明らかに毛色が違う。その眼光は剣呑に光り、試合という枠組みを越えた戦闘へと変わろうとしている。

 その眼光に充てられ、凱人は明らかに怯みを見せた。

 

 アキラは既にこれを試合だとは認識していない。動けなくなるまで死力を尽くして動くし、動けなくなれば死ぬだけだ、と理解しているかのような意思を感じる。

 そして今のアキラにとって、それは間違いない真理なのだろう。

 

 百あった力がゼロになれば動けなくなるのは道理。そしてゼロに近付くにつれ、その動きは散漫になる。しかしアキラの場合、それが一でも残っている限りは動き続ける。

 もう駄目だ、もう動けないなどという泣き言は通用しなければ、動きを止めて倒れ込んでも無意味だと理解している。

 

 骨の一本、ヒビの一箇所程度、アキラにとっては怪我の内に入らない。

 終わりの合図を言われるまで、その動きを決して鈍らせる事は許されないと、アヴェリンのシゴキで骨の髄まで染み込まされているのだ。

 

 アキラには既に考える頭など残っていないが、その必死と決死の思いが、試合をしているだけと思っている凱人と明暗を分けた。

 

 剣術ではなく体術で凱人を転ばせ、倒れた凱人には目もくれず、七生へと急接近していく。この体術もアヴェリンに仕込まれたものなのは、すぐに分かった。

 技の掛け方、その呼吸が、アヴェリンの持つ技法に良く似ている。

 幾度となく技を掛けられたアキラだからこそ、染みつけられた鍛練が素直に表へ出ているのだろう。

 

 だが、体力まではそうはいかない。

 直線に走る事が出来ず、左右へ身体が揺れる。そしてそれは、愚直な姿しか知らない七生にはフェイントのように映った。

 

 その一瞬の焦りが、七生の迎撃を一拍遅らせる事になってしまった。

 だがやはり、そこに至るまでが十分ではなかった。凱人を投げ転ばせただけで放置したのは悪手で、二対一の戦いは依然継続中なのだから、当然彼が邪魔してくる。

 

 しかし同じ内向術士で、実力差も大きく離れていないのなら、その背を追う距離は絶望的なまでに遠い。だから凱人がやった事は、身に着けていた小手を外し、アキラの頭部めがけて投げつける事だった。

 



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神と人の差 その3

「あらら……」

 

 ユミルの呆けた様な声とともに、小手は見事命中し、アキラの体勢が崩れる。その絶好の機会を見逃す相手でもなかった。命の危機を感じた為か、七生もまた実力以上の理力を練り込み、横薙ぎの一撃を放つ。

 その握力があまりにも強かったせいで、柄を握り潰して砕く程だった。

 

「……ちょっと。頑丈な木刀だと思ってたから、すっかり付与された武器かと思ってたけど、案外そうでもないの?」

「されてはいたようだ。しかし術士の力量の問題だろう。不壊までは出来ず、頑丈程度の武器にしか、ならなかったのだと思う」

「あらまぁ。色んなところで、力量の低さが露呈していくわね……」

「だが、折れた事でアキラへの衝撃は最小限になった。もしも不壊の付与がされた武器だったら、死ぬまではないにしろ、危険な状態になっていたのは間違いない」

 

 学校の備品として本業がやった物もあるだろうが、授業の一環として作成した物が混じっていたりもするのだろう。あるいは学生としては十分な力作だったのかもしれないが、七生はそれを上回り、砕く程の練度を見せた訳だ。

 そして、だからこそアキラも九死に一生を得た。

 

 その七生の一撃を受けたアキラは、これまでとは比較にならない衝撃を受けて吹き飛んでいく。既にまともな意識が消えかかっていたように見えたし、これで完全に飛ばされただろう。

 元より勝てる試合ではなかったが、間違いなくアキラの糧にはなった。

 そしてこれは、七生と凱人にも言える事だろう。他の生徒に対しても、一種の意識改革となったなら、今回の試合を組んだ意味があったというものだ。

 

「これは……勝負あったわね」

「そうだな。良いところが全く無かったとは言わないが……、まぁこんなものだろう」

 

 アヴェリンは普段から鍛練をしてやる間柄だから、多焦点が辛くなるのだろうが、ミレイユとしては概ね満足した内容だ。アヴェリンと剣を交える場面は見ていても、やはり実力の近い相手なら余程良い動きをする。

 

 終了の宣言をしようと、ミレイユが声を上げようと思ったところで、アキラがふらつく足取りで立ち上がった。そして一歩踏み出す姿勢で、唐突に動きを止める。木刀も構えているが、既にアキラには意識すらないだろう。

 気力も体力も精も根も果てているのに、立ち上がって構えて見せたのは感心する他ない。

 

「……ちょっとちょっと、アタシったらアキラのこと見直しちゃったわ」

「ほぅ……。あれだけやられて尚、立ち上がって構えたというなら、これは素直に褒めてやらねばならん」

「そうしてやれ。……だがよくもまぁ、そうさせるまで仕込めたものだ。完全に意識を失っている筈だが」

 

 ミレイユが含み笑いで感嘆とした息を吐くと、アヴェリンも腕を組んで満足気に笑みを浮かべて何度も頷いている。弟子の育成結果に満足しているようだ。

 

 だが七生たちにはそれが分かっていないのか、更に追撃する姿勢を見せた。

 アキラも目を閉じている訳でもないから、未だ失っていない眼光に勘違いしてしまったのかもしれない。

 流石にあの状態で一撃を受けたら死んでしまう。それを止める為に立ち上がり、ミレイユは朗々と声を響かせた。

 

「――それまで。勝負あった」

 

 まるでその声を、アキラが理解しているかのようだった。

 ミレイユが声を発し、その僅か二秒後に武器を構え手放さぬまま、アキラは横倒しで崩れていく。固唾を呑んで見守っていた生徒たちは、倒れたアキラを見て悲鳴を上げ、中には即座に動いて駆け寄っていく者もいる。

 

 直接アキラの目を見ていた七生は、一瞬ミレイユの言った事が理解できないようだった。呆然として動きを止め、倒れたアキラを見て漸く事態を理解した。

 次いで顔を青くさせ、凱人を引き連れアキラの元へ走っていく。制止の声がなければ、無防備な相手に渾身の一撃を加えていたところだと気付いたらしい。

 

 ミレイユは椅子に座り直して、生徒に取り囲まれたアキラを見る。倒れる瞬間を見た限り、命に別状はない。怪我は多いだろうと思われるが、そもそも内向術士は怪我に強い。一日ゆっくりと眠るだけで大抵の傷は良くなる。

 

 今回のような傷は、アヴェリンと鍛練している間には良くあったものだ。

 取り立てて騒ぐような事でもない、というのがアヴェリンを含むミレイユ達の感想なのだが、学生たちには刺激が強かったようだ。

 

 授業中に気絶するまで戦い続けるという、馬鹿な振る舞いをする者はいない、というのも理由の一端な気がする。普通はその前に降参するのだろうが、アキラに降参などという選択肢は、鍛練を始めた当初から与えていないなかった。

 

 それはこの学園で異色に映るだろう。

 これが今後の学生生活に吉と出るか凶と出るか、それは分からないが実りあるものになる事を祈ろう、と他人事のように考えていた。

 

「何はともあれ、これで一通りの試合は見た訳ですか」

「二年生の試合はな。あと一年と三年の試合が……、つまり今の倍の数が控えている」

「それはまた何とも……。一つ見れば十分なのでは? 全体の評価は変わらないでしょう」

「それはそうなんだがな……」

 

 アヴェリンの言う事は確かだった。

 二年生より一年生は実力的に乏しく、三年生は秀でた者がいたとしても、大きく違うような事はないだろうと思えた。二年全体と三年全体を見比べた時、そして御由緒家を抜きで考えた時、その差はあっても大きなものにはならない筈だ。

 

 学園全体における評価は、殆ど決まったと言って良い。それでも見なくてはならないと判断する理由は、一重に生徒が実力をアピールする場として認識している事にある。

 オミカゲ様の御前試合みたいなもので、既に学園側が焚き付けたお陰で後はもう見ないと言えない雰囲気が出来上がっている。

 

 勿論、ミレイユはそれを無視できる権利も権限も持っているが、これは同時に御子神の紹介を兼ねている。生徒達に良い印象を与えようという気は更々ないが、今後の授業で実力の底上げをしていく事を考えると、軋轢は少ない方が良い、とう打算もあった。

 

「……ま、折角来たんだ。見るだけ見てみるさ……。案外、面白い逸材がいるかもしれないしな」

「そうだと宜しいのですが……」

 

 アヴェリンは期待するような素振りを見せたが、実際はそんな事はないだろう、という諦観に満ちている。ミレイユにしても同じようなものだ。

 精々、一年にいるという由喜門の次期当主に期待できるくらいだ。

 それとて戦闘用ではないと聞いているので、このような試合内容では大きな見せ場にはならないだろう。彼女のような支援型は後方で控えている事に価値がある。

 

 ミレイユはアキラの方を見つめながら、生徒の中にいた治癒術士が懸命に手当てするのを見る。誰が治癒するかで揉めている辺り、特別な才能があったところで、どこまで行っても学生でしかないんだな、と冷ややかな目で見つめた。

 

 それはユミルも同様だったようで、誰か一名が押し退けて治癒に当たる光景を見て、溜め息を吐く。一段低くなった声で、呆れた様子を隠す事なく告げた。

 

「子供のお遊びかっての」

「どっちの意味だ? 誰が治癒するか揉めた方か? それとも術の練度に対してか?」

「……どっちもだけど、どちらかと言えば術の方ね。もう少しマトモに行使できないの?」

「遊んでいるようには見えないが……。教える奴すら、あの程度だという可能性もある」

「ないでしょ……ないわよね?」

 

 否定しようとしても、しきれない不安があった。

 彼女らは決して無能ではないが、今の治癒術や基本の制御術を見ても、不正確な方法で行使しているように見える。間違っているとは思っておらず、それが正解だと思って使っているのだ。

 

 御由緒家とて似たようなものだったのだから、これが彼女らの――学園での常識なのだと類推できてしまう。教導役だと言っても、もう少し楽なものを想像していたが、これは相当に根が深いのかもしれない。

 

 御由緒家くらいしか、現世の理術士を知らない事が仇になった。

 無意識にあの程度の力量はあるのだと思いこんでしまっていた。理力総量や練度に違いはあっても、根底となる技術は身に付いているのだと。

 しかしそれは、余りに楽観的な考えでしかなかったようだ。

 

「でもまぁ……、今更驚く事でもなかったかもね。ちょいちょいと制御技術を弄ってやれば、今より遥かにマシになるでしょ」

「簡単に言うよな……。他人事だと思って」

「だってアタシには出来ないもの」

 

 そう言ってユミルは笑った。

 ユミルだけではない、ルチアにも出来ないし、他の誰にも出来ないだろう。これはミレイユだけに許された、それこそ神の素体として持つ能力故だ。やり方を教えたからと出来る事でないのは納得できるが、それを高みの見物されるのはどうにも癪だった。

 

 何か意趣返しの方法でも考えよう、と心の中で決めたところで、鷲森がおずおずといった調子で近付いてくる。そちらに目を向ければ、不躾でない距離まで近付いてから膝を付いた。

 

「本来は真っ先に私が中断の合図を出さねばならない事でした。御子神様へ余計なお手を煩わせました事、伏してお詫び申し上げます」

「……うん。謝罪を受け取ろう。だが、あのアキラは外から見ると非常に分かり辛かった。元よりあれを知っていればこそ出来たこと。お前も今後は注意すれば良い」

「はっ……! 寛大なお言葉、ありがとうございます!」

 

 謝罪する相手から、その謝意を受け取らないのが一番拙いと、この短い御子神生活から学んでいる。まずは受け取った上で、下手な慰めだろうと口にするのが大事なのだと、最近分かってきた。

 

 特にミレイユとどう向き合えば良いのか、というのはこの日本国においても難しい問題で、蔑ろにしないのは当然としても、神としてどこまで敬えばいいのか分からない部分がある。

 オミカゲ様の御子なのだから、それ相応の対応で、と言っても王女のような扱いというのも違う。子とはいえ、一柱の独立した神という認識なのだ。

 

 しかし、オミカゲ様と同立させるのも憚りがある。

 それがまだ定められていないし、未だ正確な通達がないせいで、こうしてミレイユと対面する者は非常に扱いに困るという事態に陥っている。

 

 申し訳ないと思うと同時に、ミレイユを正式な神と発表できない事情もあった。下手に信仰を得て世界に縛らせたくない、という考えが根底にある為だ。

 ミレイユにしろ、この世界で生きていく希望を捨てたくないから、こうしてやりたくもない教導などを引き受けている。しかし最後の保険として『世界渡り』の可能条件は残しておきたいという、オミカゲ様の考えも理解できるのだ。

 

 ミレイユは鷲森を下がらせ、アキラを見る。

 そこでは、その場で半身を起き上がらせ、称賛と心配の声を掛けられ照れる姿を見ることが出来た。褒められ慣れていないアキラだから、これほど簡単に意識を取り戻した事にも称賛される意味が分かっていないらしい。

 ミレイユはその困った顔を見ながら、小さく頬をほころばせた。

 



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神と人の差 その4

あーるす様、誤字報告ありがとうございます!
 


 その日の内に他の二学年の試合を見たが、どれもパッとしない内容だった。

 御由緒家が固まっていた二年は、それ相応に見応えがあり、そして最後に見せたアキラ達の戦いがそれに拍車を掛けた。

 一年には御由緒家の由喜門がいたものの、やはり支援系術士だと華やかなものにはならず、予想以上に制御技術を磨いていた事以外は特筆する事もない。

 

 三学年に至っては今の二学年を順当に成長させたものに過ぎず、見ているのが退屈になる程だった。とはいえ、神の御前にあってやる気だけは大いに見せていたので、本当に退屈しているように見せる訳にもいかない。

 

 黙って見ているだけというのは得意でない自覚はあったが、これで本当に嫌いになった。

 全ての試合が終わり、学園長や進行役の鷲森から感謝であったり気遣いなりを受けつつ退場し、それでその日は終わりとなった。

 

 学園に来た時と違って、帰る時は一瞬で済む。

 奥宮へと転移して、それで学園を辞した。転移が出来るとはいえ、どこにでも移動できるという訳にはいかない。転移する起点を定める必要があり、それ自体は好きに設定できるのだが、しかし何処にするのかという問題があった。

 

 最初に自室を起点とするのは禁じられた。

 理由を尋ねれば、外出したミレイユが勝手に自室へ帰還したとなれば、迎えの者が困惑するという返答があったからだ。室内を清掃している場合もあるだろうし、そうした仕事をしている場面を部屋の主に見せる事は不敬に当たる。

 

 もし仕事が途中であっても、ミレイユが帰って来たとなれば急遽整えて終わらせるだけはしなくてはならない。それに場合によっては、ミレイユにお茶や菓子などを用意して、別室で疲れを癒やして貰っている間に終わらせたりもできる。

 

 こうした掃除や整頓などを主に見られる事は恥とする考えがあるから、ミレイユが部屋へ直通で帰って来れるような起点を作られては困るのだ。

 

 ではどこにすれば都合が良いのか、という話になった時、用意されたのが奥宮の転移に用いる一室で、それはオミカゲ様が転移に使用する為に用意させた部屋でもあった。

 滅多なことでは利用しないとの事で、埃を被っているに同然の部屋――無論、掃除は行き届いている――だったが、今回の事があってミレイユの為に開放された。

 

 室内は殺風景にならない程度の調度品が置かれているだけで、部屋の中央には大人五人が横に並べる程の囲いがある。

 神社内にあれば不自然に感じられない朱漆で染められた柱で組まれたもので、それが帰還する際の場所として用いるよう申し渡された。

 

 隣接して置かれた部屋もあり、そこには帰還を迎える為の女官が控えている。

 ミレイユが帰って来ると分かるや否や、しっかりと迎えられるようにと待ち構えているらしい。そんな事をさせるぐらいなら直通にしてくれと思ったが、伝統の一言で切って捨てられた。

 

 そうしてミレイユは転移によって帰還し、転移室の床を踏む。

 アヴェリンとユミルの二人を引き連れ囲いを出ると、即座に女官がずらりと並んで一礼した。いつ頃帰るか伝えていたものの、その時間を正確に把握はしていない筈。

 

 もしかしたら、一時間前からずっと待ちっ放しだった可能性すらある。

 それを思うと労ってやりたい気持ちが湧いてくるが、直接声を掛けると過ぎた礼だと恐縮させてしまうのだ。実に面倒くさいが、神と人の立場を思えば気にするなとも言えない。

 

 それで片手を上げるだけに留めるのだが、それすら頭を下げている女官達には見えない。しかし腕の動きぐらいは察知できる。たったそれだけの事で、女官は身震いせんばかりの感動を覚えるようだ。

 

 非常に煩わしいと思う一方、最近は一々そんな事に意識を割く事も少なくなって来た。

 慣れたというよりも、あえて考えず在るがまま受け入れるという、ある種の達観が芽生え始めた形だ。

 

 ある意味、毒されていると思いながら、ミレイユは両脇で頭を下げる女官たちの間を歩いていく。そしてミレイユの前には、先導して歩く一人の女官がいる。未だに道を覚えていないミレイユの為に、こうした場合につけられる女官で、この名誉ある役目は非常に人気があると聞く。

 

 非常に面倒な事ながら、この転移室から自室までは遠い。つまりそれだけの間、御子神を先導できるという訳で、傍付きでもない女官が神を身近に感じられる役得がある。

 その話を咲桜から聞いた時には辟易としたものだが、とにかく今は、ただ無心で先導する女官の後ろを付いて行った。

 

 

 

 自室に踏み入れても安寧の時は、まだ遠い。

 まずは着替えを済まさねばならず、これを咲桜含む三人がかりで行わなければならない。特に本日は外部に赴くという事で、一層手の込んだ衣装なので着るのも脱ぐのも時間が掛かる。

 

 もはや警戒の必要もないのだが、アヴェリンも部屋の隅で召し替えを見守っていた。着替えの最中は両手を開いて無防備になる瞬間もあるから、害を成そうと思えば絶好の機会、というのがアヴェリンの談だった。

 

 部屋着と言えど、スウェットのような気軽な衣装という訳にはいかない。

 一度それとなく振ってみた事があるのだが、軽い冗談だと思われて流されてしまった。だから今日も簡易的とはいえ神御衣を着せられている。

 

 それが終われば漸く一息つけるのだが、布団の中へ飛び込むような事は出来ない。

 気分としては全くそうしたい気分なのだが、周りで常に控えている者がいるとなると、それも躊躇う気持ちが出る。

 

 ――なるほど、周囲の目というのは大事なんだな。

 見られていると思えばこそ、だらけた姿を見せられないと自制する。傍付きの存在は、一種のストッパー装置として働いているという事だ。

 

 ミレイユがアヴェリンを伴って着替え部屋から戻り、部屋の片隅にある小卓へと腰掛ける。そこには既にユミルが我が物顔で占拠しており、アヴェリンもそれに続いて座る。

 そうすると、何を言うまでもなく咲桜がお茶を持ってきて、一礼しては去っていく。あとは遠過ぎず近過ぎずの位置で、ひっそりと気配をなくして控えた。

 

 こうなると居ないものとして扱う必要があり、今でもこれには肩が凝る思いが抜けない。

 なるべくそちらへは視線を向けないように気を付けながら、改めて息を吐いてお茶を手に取った。

 ユミルがその姿を見ながら、ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべて言う。

 

「苦労してるわね」

「そう思うなら、少しは労ってくれ」

「それはアタシの役目じゃないもの」ユミルは笑ってアヴェリンを流し見る。「それで、一通り学園生の実力も見れたところで、ようやく底上げの方に移れるワケね?」

「そうなるな……」

 

 ミレイユは痛いものを堪えるように渋面を作り、それからゆっくりと口にお茶を含む。

 ほぅ、と息を吐いて芳醇に香るお茶を楽しんだ後、惜しむように茶器を置いて口を開いた。

 

「……面倒だが、やらない訳にはいかないだろう。間違ったやり方を正す事は出来ても、そこから慣らす作業は自分自身でやって貰わねばならない。その過程で、基礎術から脱却できる者には能力に見合った術も授けねばならないだろう」

「大事業ねぇ……。時間足りるの、それ?」

「それこそ私も慣れる必要があるだろうな。一人当たり、効率的に運用できるよう手早く正確に教え込んでやらねばならない」

 

 とはいえ、これは言うは易しの典型だろう。常に時間に追われているようなものだから、この部分を遅らせる事は出来ない。そして同時に、疎かにしてしまうと実力の伸びがイマイチになり、結局苦労したほど成果が見込めない、という事に成りかねない。

 

 実に腹立たしい思いだった。

 その心情を敏感に察知してか、アヴェリンが労るように声を掛けてくる。

 

「ですが、やるしかない以上、やり切るしかないかと……」

「正しくそのとおりだな……。気は滅入るが」

 

 ミレイユが密かにオミカゲ様へ怒りを向けていると、話題は自然と今日の試合についての事へ移る。大体はそのレベルの低さを嘆くものだが、アキラの事となると、それも少し変化があった。

 

「まだまだ荒削りだけど、最初思っていたよりはマシな成長したんじゃないの?」

「そうだな……。やれると判断したからこそ逐一段階を上げて鍛練していったが……、正直ここまで着いてくるとは思わなかった」

 

 アヴェリンの声音には僅かな喜色が見える。そして、それについてはミレイユも同感だった。

 元より現代人には似つかわしくない程の根性を見せていたアキラだが、続ける事の努力は決して裏切らないのだと証明してくれた。

 

「あとは才能さえあれば言う事なしだったが。……天は二物を与えない、とも言うしな」

「それ、アンタに言われると反感しか生まないから注意なさい」

 

 珍しくドスの利いた声を出して、ユミルが呻くように言った。妙な迫力に気圧されて、ミレイユもとりあえず無言で幾度となく頷く。

 

「将来性があるのかと言われると……ここまでは期待を裏切ってくれたアキラだ。その後も、と思ってしまうな。……どう思う、アヴェリン」

「期待したい、という点では同意できますが、純然たる壁の前には無力でしょう」

「こっちの世界基準で見れば評価が高い、そういうレベルで収まるかな……」

「……おそらくは」

 

 順当といえば順当な評価だった。

 あくまでこの世界で言えば、強者の一角には昇りつめられる。同世代に限って言えば五本の指に数えられるのも不可能ではなく、そしてそれは、ミレイユ達からして見れば及第点に届かないという事を意味する。

 

「これから出てくるらしい強敵が、どの程度かによって価値が変わるわね」

「拡大を続けていくというオミカゲ様の言い分を信じるなら、だが。その為にルチアも努力している」

「ですね……」

 

 結界へアプローチが成功すれば、また以前のような小物の魔物しか出現しなくなる。あるいは、現状のまま拡大せず、維持できる期待が持てる。それが出来るかどうかはルチアの手腕に掛かっていた。

 今も彼女はその為の努力を続けているだろう。あの日、息を切らして倒れるまで結界へ挑んでいた姿を思い出す。それを思えば、ミレイユばかり不満を言う訳にはいかなかった。

 

 ミレイユは小さく手を挙げ咲桜を呼び付ける。視線はこちらを向いていなかった筈だが、しかし即座に反応して近くで控えた。

 

「明日、学園へ向かう前に大社に寄る。ルチアを労いたい。向こうにはその様に伝えろ」

「畏まりました」

 

 最近では移動の時間も惜しいと、ルチアは大社で寝起きしている。顔を合わせる機会がめっきり減ったので、会おうとしなければ会えるものではなかった。

 ミレイユ達が特に不自由せず顔を見合わせ、こうして茶を飲み合えるのに、ルチアばかりが蚊帳の外の状態は寂しい。頻繁に出向く位しか、その努力を労う方法がなかった。

 

 咲桜が一礼して下がったのを見ながら、ミレイユは明日以降の苦労を思って溜め息をついた。

 



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神と人の差 その5

 制御の調整、あるいは矯正については、実に順調に進んだ。

 元より敬意を向ける存在である事や、オミカゲ様と良く似た容姿が信仰の混同を産み、それが労苦を与えてはならない、という風潮を呼び起こした。

 

 一矢乱れず整然と並び、実に心得た動きでミレイユの前に跪く。両手を差し出し、制御を奪われたにも関わらず、己を差し出すように全て任せる。

 本来、制御を奪われる事は本能的に拒否するものなのだが、信仰の賜物か予想以上にすんなりと進んだ。既に一度、その制御を受けている御由緒家の者たちが説明して回った事も、それを後押しする結果となったのかもしれない。

 

 ミレイユの前に一列に並ぶ者たちは私語もなく、整然と受けていく様は一種異様にも映ったが、背後に佇むアヴェリンとユミルが睨みを利かせているとあっては、軽はずみな行動も取れないだろう。

 

 ともあれ、事情はどうであろうとスムーズに事が運ぶのは喜ばしい。

 都合三日は掛かると予想していたのに、その半分で終わってしまい拍子抜けした程だった。折角時間が余ったのだから、後は自力で慣れろ、と済ます部分を急遽変更し、制御指導もする事になった。

 

 これについてはアヴェリンにもユミルにも出来る指導なので、一緒になって生徒の間を見て回ってもらう。

 今現在、ミレイユ達は訓練場にて三列で並ぶ生徒達の間を、個別に練り歩いては気になった点を逐一指摘して修正させていた。

 

「そうだ、基本は循環。それを念頭に置けば問題ない」

 

 最初は御子神様を歩かせる不敬などさせられない、と強弁に否定されたのだが、一人ずつ前に出て制御させるでは時間がかかり過ぎる。矯正の時はミレイユが慣れて来た事もあって、非常にスムーズだったが、まだ新しい制御法に慣れない生徒では苦戦する場面は多いだろう。

 

 それを逐一指摘していくでは時間が掛かり過ぎるし、あちらが立てばこちらが立たず、という不器用さ見せる生徒だっている。自主訓練はさせるが、その訓練基礎を染み込ませるには適切の指導があってこそだ。

 

「頭のテッペンから爪先までを意識なさい。漏れることなく隅々まで、それを心がけると違うかもね」

「素早ければ良いというものでもない。丁寧さがいる、丁寧さが。慣れぬこと、辛いことは雑になる。しっかりと意識しろ」

 

 それぞれの指摘は的確で、本来は簡単に見えるはずもない理力の動きを、的確に掴んでは的確なアドバイスを与えていく。

 それは概ね好評で、時に指導の違いでアヴェリンとユミルが対立し合わない限りは、実に有意義に生徒達の平均値を底上げしていった。

 

 生徒の中にはアキラもいて、彼はそもそもアヴェリンが付きっきりで指導していたので今更言うことはない。ただ、それだけにアヴェリンの視線は厳しく、少しの乱れがあれば厳しく叱った。

 

「その程度の動揺で制御を乱すな! 平常心と冷徹なまでの心が何事にも負けない制御を生む! ――違う! 流れに拘りすぎるな、時に練度を優先しろ!」

「はいッ!」

 

 時に容赦なく殴りつけるアヴェリンだから、それを見た他の生徒はすっかり萎縮してしまっていた。いっそ理不尽なまでの指導だったが、そうなるのはアキラだけで他は小さな指摘をしていくだけ。

 周りからは、いつもあんな目に遭ってるのか、という同情と憐憫の目が向けられていた。

 

 

 

「三分間、休憩とする。しっかり休め」

 

 生徒の疲労状況を見て、ミレイユはそのように宣言した。

 途端にほぼ全員が座り込み、荒い息を吐いては理力の回復の努めだす。立っているのはアキラと凱人だけで、その二人にしても膝に手をついて息を整えようとしている。

 

 アキラは回復する時も立ったままでと指導されているので今更だが、凱人まで出来るというのは意外に感じると共に称賛を浴びせたくなる。

 一般組と違って御由緒家は特に厳しく指導するようにしていた。だから七生も他の生徒同様座り込んでしまっているが、それは別に七生が不甲斐ないという意味ではなかった。それだけ凱人もタフネスが高いという事なのだろう。

 

 その間はミレイユも椅子を出現させて座り込む。いつも何かとあれば用意する高級感溢れる椅子で、ユミルにも同様の物を用意し、一応アヴェリンにも聞いたが案の定固辞された。

 今の授業では監督役として教師も付いているが、ミレイユの方を見て唖然としている。大方、どうやって椅子を用意したのかとか考えているのだろう。

 教える気は更々ないので気付かない振りをして、生徒達を見渡した。

 

 額からは汗が噴出しているし、中には天を仰いで疲労の限界を見せるもの、座るどころか倒れ込んで休む者と、中々死屍累々の有様だった。

 それらを見やりながら、ミレイユは傍らのユミルに話しかける。

 

「初日から飛ばし過ぎたかな……」

「まぁ、あの様子を見ればね。手心は加えてたつもりだけどねぇ……、そんなに難しいこと要求してないし……」

「少しアキラ基準でモノを考え過ぎた可能性は?」

「アタシはアキラ基準なんて、ロクに知らないから該当しないわね」

「つまり普通にやり過ぎたという事じゃないか、それは?」

 

 ハッと鼻で笑って、ユミルは顔を逸した。何が面白いのか、次いでケタケタと笑い出す。不審なものを見る目でユミルを見つめていると、顔を戻して更に笑みを深くした。

 

「なんだ、一体……」

「アンタの時を思い出してたの。アンタほど教え甲斐のある者も、同時に教え甲斐のない者もいなかったなって」

「それは褒めてるのか?」

「……微妙なトコロね」

 

 ユミルは魔術士の師匠で、主にその制御法を伝授して貰った。それまでは何となくの勘頼りで使っていたものを、ユミルの方から見兼ねて押しかけ師匠となったのだ。

 言われたことを言われたとおりにやらないのに、何故か結果だけは出すという、ユミルにして頭を捻る状態となり、最終的に匙を投げられた。

 

 だがそれでも、ユミルから教えられた基礎はしっかりとミレイユの中で生きている。

 問題は応用の方で、何故そうなるか、何故そうしたいかをミレイユは上手く言語化できなかった。そのせいでユミルには大いに不便を掛けたが、結果として大成した魔術士として認められるに至る。

 

 たった一年半前の事なのに、酷く昔の事のように思われ、その時の事に思いを馳せていると、横合いからアヴェリンが遠慮がちに声を掛けてきた。

 

「そろそろ三分です。準備を始めた方がよろしいかと」

「ああ、ありがとう。アヴェリン」

 

 小さく手を挙げて礼を言うと、アヴェリンも一礼して一歩横へ移動する。それを合図に立ち上がり、続いてユミルも立ち上がるのを待ってから、制御を一瞬で完了させて椅子を消した。

 ミレイユ達が立ち上がった事で、休憩時間が終わった事を悟ったらしい生徒達は、それでノロノロと立ち上がって自然体に身構える。

 

 ミレイユが生徒達の顔を左から右へと見渡して、それから手を叩くのと同時に制御を各々開始していく。上手くやれば三分であっても十分な回復が見込めるものだが、新たな制御法に矯正された昨日の今日で、上手くやれる方が少数派だった。

 

 さっきとは全く比較にならない速さで脱落者が生まれてくる。

 それを見て、今日はもう無理そうだと見切りを付けた。倒れた生徒を介抱するよう伝えて、その日の授業は終了とした。

 

 二学年には御由緒家が多いという事から、何かと目を掛けてしまいがちだが、他の学年も疎かにする事は出来ない。大体一日おきに学園に来ては制御法の効率化、運用法を伝授していく。

 伸びの大きい者には目を掛け、また基礎理術しか身に着けていない者には、現在の実力に見合ったもの、その能力に見合う理術を教えていく。

 

 由井園で行った時もそうだったが、成長するに従って能力の伸びに変化があって、結果得意とする術が変わる者もいる。そうした生徒には説明してやった上で、新たな術を教えていく。

 変わるといっても方向性が真逆になるような事はない。流石にそこまで見誤るようなオミカゲ様ではなく、単純に適正が固まっていなかった時期に見た事が原因だろう。

 

 そうして各々の実力が伸びていき、つい先日の自分とは雲泥の差であると理解する者が出てくるに連れ、愚かなことを口走る者も出てくる。

 そしてそれは、間の悪い事にミレイユの耳にも入ってきた。

 

『これだけ急激に伸びたんだし、いずれ神様にだって届くかも』

 

 いち生徒の無邪気な冗談だったかもしれないが、看過できない言葉もある。

 過ぎたる力は己の命すら脅かす。

 それを教えていなかったのは、果たして教師の怠慢か、それとも勘違いさせたミレイユの責任か。オミカゲ様が懸念したとおり、大きな力は人の心を狂わせる。

 

 急激に伸びる力は麻薬に等しい。

 まるで全能感を得たように勘違いし、それが多幸感を呼び起こす。ミレイユが底上げしてやる以前の御由緒家レベルまで実力を上げたとなれば、己の湧き上がる力に勘違いしても無理はない。

 たった一週間でこれ程ならば、ひと月後では、一年後では、と妄想を広げてしまうものだろう。

 

 その勘違いは正さねばならない。

 始めから想定できていた事だ。馬鹿な事を言い出す者は全体の一割にも満たないが、それでも捨て置けばいつかの背信者のような者が生まれる可能性がある。

 それは断固阻止せねばならない問題で、そしてそれを見越していたオミカゲ様は、教導役を頼む際、既にミレイユへ指示を出していた。

 

 

 

 本日はミレイユが教導を終える最終日。

 ミレイユは全生徒が立ち並ぶ第一訓練場で、整列する生徒達を前に薫陶を述べていた。元より教導役として派遣されて来た様なものだが、同時に長期間行うものでもなかった。

 基礎と理術を教えれば、後は自己研鑚に任せる。最初からそういう約束で、長期間拘束されるものではないと明言されてもいる。

 

 ミレイユは緊張した顔つきをする生徒達を見回し、僅かな間にも関わらず確実に上昇した実力を見抜いて満足気に頷く。一年生はその上昇幅が少ないのは仕方ないとして、二年生以上は最低でも倍は力量を増したと感じただろう。

 

 外向術士にとっては、与えられた術が段違いに優れた術だと気付いた筈だ。その事に感謝もあるだろうが、同時に試してみたいとも思っている。座学や講義で見聞きしている相手など、恐るるに足りないと気炎を上げてすらいた。

 それについては結構だが、大海を知らないままの蛙でいてもらっても困るのだ。

 

 今ミレイユ達がいる場所は、第二訓練場と比べて古臭さがある。しかし何しろ広くて遮蔽物がなく、壊すようなものがない、という特徴があった。そこへ一度に生徒を集合させたのは、単にお別れの挨拶をする為ではなく、勿論別の理由があった。

 

 ミレイユは生徒達の前に立ったまま、無感動に見える表情で最後に一つ、衝撃の言葉を口にした。

 

「これから、お前達対私一人で模擬戦を行う。私からの置き土産だ、頂きの高さを知っておけ」

 



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神と人の差 その6

 アキラはその一言が衝撃的すぎて理解できなかった。周りの生徒も何か冗談だと思ったのか、リアクションに乏しい。困惑したような顔つきで、ただお互いの顔を見返すばかりだった。

 あまりにも突然で、教師からもそのような通達はなく、嘘か真か、その真偽が掴めない。武器を振るい理術を放つなど不敬に当たるのではないかと混乱するばかりで、誰もが動くこと出来ないでいた。

 

 ミレイユの後ろに控えている、アヴェリンもユミルも何も言わない。

 いっそ無感情に睥睨していて、事の成り行きを傍観するつもりでいるようだ。問題があるなら真っ先にアヴェリンが止めるだろうから、納得ずくではあるのだろうが、本当に大丈夫なのか、という疑念は晴れない。

 

「勿論、全員で掛かれと言っても、本当に全員同時に仕掛ける訳にはいかない。まず間違いなく同士討ちが発生するし、数ばかり多くて戦闘どころではないだろう」

 

 詳しいルール説明が始めって、アキラだけはようやく本気なのだと思い始めた。ミレイユが戦える人だという話はアヴェリンから聞いていたが、実際のところは後方で座っているだけというイメージが強すぎて、どういう戦闘スタイルなのか見当もつかない。

 

 彼女の目は決して冗談ではないと語っているのだが、それでも未だに動き出そうとする生徒はいなかった。

 しかしミレイユは、それに頓着せずに続ける。

 

「だから一度に四組用意して、一つの組がリタイアすれば新たに一つの組が参加する、という方式にする事にした。無論、リタイアしたと言っても、後方支援組がこれを治癒させ戦線復帰させるのも自由だ」

 

 具体的な話を続けるに至って、他の生徒達もどうやら本気で口にしていると察したらしい。だれもが表情を強張らせていく。

 中には神と手合わせ出来ることに興奮する者もいたが、本気でこの人数を相手にできるのか不安に思う者、不敬で表情を青くさせる者もいたりと、反応は様々だった。

 

「――それを生徒全員か、私一人、どちらかが動けなくなるまで続ける。普段小隊を組んで演習しているだろうから、それを基本構成として参戦しろ。一年にはまだ早いだろうから、お前達は外に出て防壁を築いて見学しろ。それ以外は、これからどう攻めるか、攻め手は誰が担当するか、今から決めろ。十分間、与える」

 

 ミレイユが手を叩くと、途端に蜂の巣を突付いたような騒ぎになった。

 一年生は指示通り離れて人数を集め、強固な防壁を築こうと行動している。

 二年から三年は互いに慣れた者同士で四人チームを組み、それで小隊を作っていく。そこで七生が声と手を挙げ、誰もがそちらに視線を集中させた。

 

「とにかく今は特別演習として割り切りましょう。不敬だとか一人相手にとか、そういう余計な事は考えないで。御子神様は置き土産と仰ったけど、あまりに不甲斐ない結果だと失望だけでは済まないわ」

「済まないって、具体的には?」

 

 一人の生徒が手も挙げずに問い掛けたが、呆れたような顔をするだけでそれには答えない。アキラにもどういう結果になるか予想できないが、鬼と戦わせるつもりである以上、これからは戦線に出さないとか、そういう損切りを考えていそうな気がした。

 七生は続ける。

 

「強大な敵と想定して、今だけは全力で立ち向かう事。だから作った小隊を四つ一纏めの中隊として組織し、中隊規模での運用とフォローする事を提案するわ。常に有機的、能動的に動く事を意識するの。凱人、その内一つの中隊指揮は任せていい?」

「勿論だ。模擬戦経験しかないものには、小隊リーダーすら難しいだろう……。ここは即興にならざるを得んな」

「とりあえず自薦他薦構わないから、やりたい人いる?」

 

 実戦経験豊富な者が主導権を握る事に、不平不満は出なかった。

 三年を押し退けた形だが、相手は御由緒家、実力主義の気風のある学園では、そういった文句が出てこない。

 

 三年の中でパラパラと手が挙がり、それらの顔や能力を把握しているらしい七生がテキパキと振り分けていく。それを把握している時点で凄いとしか言えないが、これも御由緒家としての矜持というものなのだろうか。

 

 とはいえ七生自身、相当な無茶を言っているという自覚があるのだろう。任せる相手を指名しても、苦渋の決断だと顔に出ていた。学生の内から鬼と戦う者は少ない。殆どいないと聞いているし、だから純粋に戦闘規模として大人数の運用など出来ないと考えていそうだ。

 

 概念としては知っているし、授業で習った事でもあるが、実戦経験はない。模擬訓練すら二年の中では十分ではなく、単に小隊が四つあるだけのチームと成り下がるのが目に見える。

 

 アキラとしても手助けしたい気持ちはあるが、如何せん常に一人で魔物の前に蹴り出される事が基本で、チーム戦などした事がない。一兵士としては貢献できるかもしれないが、統率など不可能だった。

 

 それでも指示を出せる人間は足りていない。

 七生の視線がアキラの前で止まった。それから数秒見つめ合う形になって、まさかという疑念が湧き上がる。険しい顔で七生が頷き、口を開いた。

 

「由喜門くん、任せていい?」

「いや、そんな無理ですよ、まったく経験ないのに!」

「でも、その実力は誰もが認めるところだわ。私達相手に一歩も引かなかったし、誰より前に出て、誰より最後まで戦うと、誰もが認めるでしょう」

 

 七生が言えば、それに同意する声が幾つも上がった。

 アキラが見せた御由緒家二人を相手に奮戦する様を、それ程までに評価してくれた事は嬉しいが、やはり指揮官というのは一兵士と全く別物だろう。

 強いんだから大丈夫、という理屈は通らない。その事は誰より七生が知っていそうな事だ。

 

「そんな無茶な! 素人相手に指揮を任せるとどうなるかなんて、そんなの分かりきった事じゃ……!」

「消去法で申し訳ないけど、他の誰かに任せるくらいなら、あなたに任せる方がマシなの。だって、あなたの指示なら従うわ。誰より最後まで諦めないって分かるし、その姿に励まされるだろうって思うの」

「だからって、イロハも知らない素人ですよ!?」

「最後まで立って仲間を鼓舞して。それ以上は求めないわ」

 

 そんな、とアキラ呻いて周りを見た。

 根性論だけで承認されるなど有り得ない筈だ、と思っていたのに、そこには期待する目ばかりが並んでいた。アキラを認めてくれているのだ、と思うのと同時、自分がやりたくないだけじゃないだろうな、という不信のような気持ちも湧いてくる。

 

 アキラは黙って成り行きを見守っている女生徒達へ、訴えるような視線で言った。

 

「皆もいいの!? ド素人の指揮なんて、怖くて任せられないでしょ!」

「いいよ、全然オッケー」

「ていうか、私はむしろそっちがイイ」

「アキラ様に命じられたい……」

 

 信頼する指揮官として期待したいというよりは、むしろ別の思惑が透けて見えて非常に怖い。

 いつの間にか定着した、様付けで呼ばれるのも怖かった。御由緒家の一員として見られての様付けなのかもしれないが、むしろアキラはその一員からは遠い身だ。

 

 アキラにとって親は優しく尊敬できる人物だったが、ある理由によって絶縁関係となっている。その子であるアキラが復縁して舞い戻るのに嫌な顔をする人も出るだろうし、そもそもアキラにその気もなかった。

 

 詳しい説明を生徒達にするのも憚られ、やめるように言うだけでは聞いてもらえず、それでなし崩しで今のような状態になってしまっている。

 アキラは顔を引き攣らせながら、最後の希望と思って漣と凱人へ顔を向けた。

 

 しかし二人の表情は肯定的で、やれ、とでも言うように頷いてきた。

 凱人が漣に目配せした後、口を開く。

 

「未経験という意味では、誰であっても大差はない。実践を経験している分、アキラの方が幾らかマシだろう。俺たちとの試合で、その気概も示した。今は時間が無いんだ、受けてくれ」

「う、う……! 分かった」

 

 アキラが不承不承に頷くと、七生は一瞬だけ破顔して顔を引き締める。

 今は総指揮官としての立場を見せる場だと理解しているようで、順次最後の小隊などを指示していく。それぞれが場所を移動し、四人一纏めとなって七生を中心に半円形で整列した。

 

 小隊のリーダーが先頭で、その四人のうち中隊指揮を取る者が更に一歩前に出ている。凱人と漣は当然として、添え物のように見えてしまう三年生が数人並ぶ。アキラもその横へ、自信なさげに立った。

 

 七生はそれら全員を見つめた後、アキラへ視線を向ける。すぐに言葉は発さず、どこか躊躇うような仕草を見せた。何だ、と心の中で身構えた時、遠慮がちに七生が口を開く。

 

「それで……、由喜門くんに聞きたいんだけど。御子神様は、どういった戦闘スタイルをしているの?」

「……はい?」

 

 予想外の質問に、アキラの素っ頓狂な声が洩れた。

 



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神と人の差 その7

「いや、あの……申し訳ないけど、言える事は何もないです」

「分かってるわ。そう簡単に仕える神の情報は漏らせないって事は。詳細な情報を提供して欲しいって訳じゃないの。心構えが出来るような、あくまで表面的なもので構わないから」

「……いや、そういう事じゃなく」

「どこまで話して良いか分からないって事? それとも、一切話す事を禁じられているのかしら? そうであれば、これ以上は無理に聞かないけど……」

 

 どうにも口を濁すアキラを変に慮って、最終的には申し訳なさそうに手を引っ込めようとした七生に、アキラこそ申し訳なくなって真実を口にした。

 別に隠すような事でもない。単に情けない気がして、口籠ってしまっただけなのだ。

 

「いえ、そういう事じゃないんです。本当に、何一つ、どういった戦闘スタイルなのかすら知らないだけなんです」

「本当なの……? でも、御子神様の弟子なんでしょう?」

「いえ、そこが既に間違いで……。目を掛けて頂いてますけど、助言を幾つか貰えたくらいで、指導らしいものは受けてないんです」

「そうなの……。じゃあ何一つ知らないの? どういった理術を使うかも?」

「そうです、本当に知りません。本当に、何一つ」

 

 自分で口にしながら、これを告白させられるのは辛いものがあった。

 まるでミレイユとの付き合いが表面上のものに過ぎず、交流すらもないように聞こえてしまう。どういった術を使うかも知らないというのは、彼女が戦闘を全て他人に預けていたからで、決してアキラを信用せず、その姿を見せなかったという事ではない。

 

 しかし、いま聞いた言葉の表面上だけなぞれば、そうとしか聞こえなくなってしまう。

 自分で口にしながら、案外ミレイユとは親しくなかったのかも、と思い直してしまった。時折、息を吐くように使う椅子やテーブルを生み出す術も、あれの正体が何なのかを知らない。

 

 そこで唐突に思い当たる事があった。

 何一つ知らないとは言ったが、実際に目の前で見せられた術が一つだけあった。

 

「あ、ミレ……御子神様は、念動力が使えますよ!」

 

 意気揚々と口にしたが、返って来た視線は白いものだった。

 

「えっと……、それを主体に使うという事? 戦闘の主軸に据えているとか?」

「ん……? え、いえ、それは別に……。ただ手足の延長のように使うので、戦闘中にも使うかもしれませんけど……」

 

 自信なさげにアキラが言うと、少し離れた所から、凱人がフォローするように口を開く。

 

「御子神様は単に神の一柱というんじゃなく、オミカゲ様の御子だ。我々に授けられた術が神の理から生まれた術である以上、それら全て扱えるという前提で動くべきだ」

「あー……、だな。十分あり得るか。新たに授けられた術も、単に上位互換とも違うものを授けられた奴もいるみたいだし、既存の術以外にも隠し玉はあると見るべきかもな」

 

 漣も頭を掻いて同意し、アキラへ伺うように顔を向ける。

 どうなんだ、という顔をされてもアキラには分からない。そもそもアキラは内向術士で、他の人達のように上手く運用出来るわけでもない。

 

 その辺に限って言えばアキラは最初から何一つ教わっていないに等しいので、期待を寄せられても困ってしまう。

 アキラは情けない顔で首を横に振ると、漣はそれに落胆した様子も見せず細かく頷いて顔を戻した。

 

 アキラも顔を正面に戻し七生へ顔を向けると、その端正な顔がサッと引き締まる。それまでの緊張感を讃えつつ、どこか軽い雰囲気があったものが霧散し、戦士の顔付きになっていた。

 それに引き摺られるように、他の面々の顔も引き締まっていく。

 

 どうしたんだと思うのと同時、ミレイユが時間切れを示すかのように手招きしている事に気が付いた。アキラも表情を引き締める。

 

 アヴェリンが慕う姿や、ルチアだけでなくユミルまでも一目置く存在だから、決して弱い存在ではないのだと理解している。恐らく手も足も出ないのだろうが、こちらは数が数だ。一矢報いるくらいは出来るかもしれない。

 

 それに相手は強大だが、命までは取られない。

 実戦とは違い、そこは確約されている筈だから、少しは気が楽になる。あまりに不甲斐ない姿を見せれば、後でアヴェリンから個別に拷問的なシゴキが待っているので、決して油断して良いものでもないのだが。

 それでも命を賭す必要までは求められない、というのは幾らか気が休まるものだ。

 

 七生が一同を見渡して口を開いた。

 

「最初は様子見から、なんて腑抜けた事は言わない。恐らく、そういう慎重策は望んでおられないでしょうし、裏目に出るだろうと思うから。だから最初から全力で行く」

「おう、任せろ」

「口だけじゃないことを証明してね、漣」

 

 景気よく答えた漣は、どこか挑発するような七生の言い分に肩を竦めた。

 七生は続ける。

 

「……常に中隊規模で動く事を意識して。どこか一つの小隊が落ちたら、他の中隊と交代する。怪我や気絶も後方待機させた治癒小隊に任せる。前線に出さない分、そこで労力を使い切って貰うわ」

「了解です」

「支援組はその中間辺りで治癒小隊を守りつつ、前線への支援をお願い。余裕があって、かつ有効なら御子神様へ仕掛けるのも許可するわ」

「任せて下さい」

 

 最後に七生が全員を見渡して、緊張した顔を見せる全員に向け、鼓舞するように声を張り上げる。

 

「こちらは即興の混合チーム、十分な時間もなく、訓練された連携も出来ない。でも、鬼と対決するような事があれば、即興の連携を求められることは少なくない。これからの鬼退治に通用するか、今回の戦いは我ら学園生に対する試金石にもなってる筈よ。勝てないと思っても、弱音だけは吐かないで。神明学園に我らあり、と見せ付けてやりましょう!」

『おう!』

 

 全員の返答があって、それぞれが訓練用の木刀や槍などを手に掲げる。

 七生もまた武器を掲げ、ミレイユに向けて振り降りした。

 

「一番槍は、凱人に任せるわ。第一中隊、突撃!」

 

 

 

 

 連携は心掛けても、実践を想定した戦いではそれもままならない事など、誰もが理解していた。特に相手は神の一柱、人が相手にしてどうにかなる存在ではない。

 凱人はそう考えていたが、誰もが同じ様に考えている訳でもなかった。

 

 特に一般組は神前信与の儀以外で対面する機会もなく、またその片鱗を窺う機会もなかった。手にした力を存分に振るう機会も与えられず、訓練に勤しむ日々。

 常に抑圧され、常に自制する事を求められて来た所為もあって、制限も枷もなく発揮できる今を楽しんでいるようでもあった。

 

 ――そんな浮ついた気持ちで戦うつもりか。

 まだ若い学生の身分であっても、与えられた力は信与されたものだという、自覚を持っていなければならない。神から信じて与えられたのだ。それを正しく使える、使うべき場面を自覚できると、そう期待されて授けられた。

 

 今までのように、姿を直視できないオミカゲ様とは違う。

 御子神様が学園まで、わざわざ足を運んで教導してくる意味を、理解できない筈がないだろうに。教師からも確りと言い渡されていた筈だ。

 

 それを理解できずにいるからこそ、御子神様は今回の演習を敢行されたのではないかとさえ思える。七生の言っていた事は杞憂ではなく、いま凱人達は(ふる)いに掛けられている。

 使えない、使える見込みがない、と判断されれば、容赦なく切り捨てられるだろう。

 

 それは不寛容ではなく、むしろ慈悲だ。

 四腕鬼を前にして、為す術もなかった凱人だからこそ分かる。あの戦場へ送られる事になれば、相応の実力がなければ犬死にしかならない。悪戯に死なせる位なら、この先に進むことは許さないと排除するのは優しさだ。

 

 凱人は誰よりも速く前進し、御子神様へと突き進む。

 そもそも凱人の全力に付いてこれる者はいないという理由もあるが、様子見でありつつ全力の攻撃をぶつけるには、他の者達は邪魔だった。

 

 胸の前で顎まで隠すように立てていた腕を、殴り付ける為に構えを解く。渾身の理力を練り上げて右腕に集中し、自然体で立ち尽くす御子神様へと振り抜いた。

 

「――なにっ!?」

 

 だがそれは、片手の掌を軽く前に突き出す動作だけで防がれてしまった。

 いなされ、外側へと力を逃される。それはまるで、油を塗った真球を殴り付けたかのような手応えだった。さしたる感触もなく、手応えもなく、芯を外された攻撃が有効打になる筈もない。

 

 凱人はその場で踏ん張ろうとしたが、雑に手を振り払われただけで、もんどり打って倒れた。

 合気という訳ではない。もっと何か、別の力で転がされた。それが何かも分からぬまま、嫌な予感だけはして、その場で横転して距離を取る。

 直後、凱人がいた場所に何か大きな力が加わり地面がひしゃげた。まるで大きな槌で殴り付けたかのような凹み方をしている。

 

 凱人がぞっとしている間に、後続が追いついてきた。

 彼我に実力差がある事など最初から分かっている。問題は、その開きがどの程度なのかという事だった。それを確認する為の全力攻撃だったのだが、愚直な直線的攻撃は、測る事すら許されない無意味な攻撃だと理解した。

 

 真正面から殴りつければ、校舎でさえ二つに裂ける程の威力を持つと自負しているが、それがああも簡単に力を殺されるのなら、どこかで突破口を見つけて攻撃するしか方法はない。

 他で注意を向けさせ、そこに乾坤一擲の一撃を加えるしか方法はないだろう。

 

 そしてそれは、凱人が一人で担わなければならない問題ではない。

 こちらには数がいる。その数を頼みに挑むのだ。元よりこれは、個人の武勇一つでどうにかするような戦いではない。

 凱人はそれを強く認識した。

 

 他の小隊が凱人に追い付き、凱人が短くハンドサインを出すと、それに従い左右へ展開していく。取り囲んで、どこか一つに集中させない為の指示だったのだが、しかしそれが裏目に出た。

 

 御子神様は凱人に視線を合わせたまま、小さく手を一振りした。衝撃音と共に左右の小隊を吹き飛ばされる。まるで蟻の子を蹴散らすような有様で、見えない槌により薙ぎ払われたかのようだ。

 凱人からはその様に見えた。

 

 空中に吹き飛ばされた生徒達は、無惨にもバラバラと落ちてくる。うめき声を上げて身動きを取ろうとしているが、その誰もが起き上がる素振りを見せない。

 骨折していたり怪我を負った者もいるかもしれなかった。

 

「ちぃ……! 早速か!」

 

 様子見はしない、そういう七生の指示はあったが、同時に尻込みする気持ちはあった。特に凱人の攻撃が簡単にいなされたのを見て、他の生徒は戦慄するような思いだったろう。

 その心の隙を突かれたのかもしれない。

 

 それにしても、脱落するというなら小隊の中から一名、二名程度かと思っていた。同じ小隊メンバーが抱えて後退する事を期待していただけに、一度に二個小隊が脱落したのは痛すぎる。

 回復にも時間が掛かるだろう。

 凱人は外で次の順番を待っている漣へ、怒鳴るように呼びつけた。

 



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神と人の差 その8

 凱人の意図は理解できる。

 漣は即座に反応し、倒れた小隊へと駆け寄る者たちをフォローするように、入れ替わりで参戦した。倒れた小隊へ御子神様が攻撃するとも思えないが、それを救助しようとする小隊へは何かしら干渉するかもしれない。

 

 漣の役目は、途切れなく攻撃する事で、その余裕をなくす事だ。

 支援組へとハンドサインを出して、ありったけの支援理術を要求しながら、漣は理力を練っていく。その制御速度は実に見事で、他の者たちと比較するには申し訳ない程の開きがある。

 

 行使するのは漣の十八番、『火炎連弾』。名前のとおり、火球を連続射出する理術だ。威力も制度も桁外れに成長した理術は、少しの間でも漣へ釘付けに出来る筈だった。

 

 漣が率いる部隊は攻勢理術中隊で、非常に攻撃的であり、外から一方的に相手を縫い留める事ができる。他の小隊と連携すれば、あらゆる種類の攻勢を仕掛ける事も出来る。

 単純な攻撃一辺倒だけでなく、凍結や突風、沈下など、多くの妨害をしながらダメージを与える事も可能だ。相手次第では完封すらできる布陣だった。

 

 漣の理術行使を皮切りに、他の二個小隊も攻撃を始める。残りの一個小隊が支援班で防御壁を展開しては、無防備になる攻撃班を反撃から守った。

 

 御子神様はあっという間に煙に紛れ、見えなくなってしまう。

 突風で煙を飛ばして目標を露出するのも他の小隊の役目だが、今は縫い付けることを優先したかった。

 

「泥濘を張れ! 即座に凍らせて動きを封じろ!」

 

 凍り付いた泥濘はコンクリート並に硬くなる。それすら時間稼ぎにしかならないだろうが、とにかく撃ち続ける時間が伸びればそれで良い。

 漣達の中隊による攻撃がどれほど有効なのか、それを確認したかった。無傷ではないだろうという確信がある。ならばどれだけ傷を負わせられるか、それが分かれば後の展開に役立つ。

 

 今はまだ序盤、七生達が動き出す頃には、少しでも御子神様の実力の底を計っておかねばならない。自分を捨て石にするかのような考えだったが、それぐらいの気持ちで挑まなければ神に太刀打ちできないだろう、と漣は思っていた。

 

 漣が一度に打ち込める数は決まっている。

 これは練度の問題ではなく、理術としての設計だった。だから一度撃ってから次の発動まで、隙間となる時間がある。その隙間を埋める為に、同じ小隊のメンバーがそれを補う術を放つのだが、その術の着弾音が聞こえなくなった。

 

 煙すら誰も使っていないというのに、勝手に晴れていく。

 いや、勝手にではない。誰もがやっていないというなら、やれる者は一人しか残されていないのだ。

 

「手を止めるな! とにかく続けろ!」

 

 煙が晴れた場所から現れたのは、煤すら付いていない、無傷の御子神様だった。

 自分たちの攻撃が全くの無力だと知って、思わず呆けてしまったのは責められない。漣としても、自分の理術には自信があった。これまでの僅かな期間で、以前の自分とは比較できない飛躍を見せたという自負もある。

 

 程度の差はあれど、他の小隊も似たような気持ちであったろう。

 だが無事な姿を見せられてしまえば、攻め方だって見失う。何をすれば、という迷いも生じる。絶望にも似たような思いが沸き起こる中、御子神様を凍った泥濘に膝下まで埋まっていた足が動き出した。

 

 ピシリ、と一度亀裂が入ると早かった。

 まるで飴細工のように呆気なく、簡単に砕けてしまい、足を持ち上げて凍った泥濘の上を歩き出す。一歩踏み出し近づく毎に、その身体が巨大になっていくように錯覚した。

 

 決して動きやすいとは言えない神御衣、巫女服を豪奢にしたような見た目だから、当然戦闘にも向いていない。袖付けより下の、垂れ下がった袂など、腕を振るうには邪魔にしかならない。

 

 しかし、その僅かな腕の動きだけで制御は終了し、着弾する直前に無効化させてしまう。無効化に見えるだけで、別の何かかもしれないが、全く効果的でないという意味では同じことだ。

 その、圧倒的な制御速度は神業というに相応しく、努力だけで到れるとは思えない隔絶した練度を思わせた。

 

 御子神様が一歩踏み出す度に、生徒達から恐怖が滲み出て来るようだった。

 だが、小隊の誰もが恐怖してしまう訳ではない。その歩みを止めてみせようと奮起する者もいた。

 

「なんで……! なんで、こんな……!?」

 

 それは小隊の一つを任せられた女生徒で、だが人が歯牙にも掛けられず、一顧だにされず前進するのを見て、悔しさに塗れた声を出した。進む速度は牛歩の歩みで、まるで本気になっていないのは分かる。

 あえて攻撃させ、あるいは妨害させ、その実力を量る目的があるのだろう。

 

 しかし己の全力が、あらゆる手立てを講じて放たれる理術が、全くの無意味だと知らされるのは心に重かった。

 

 ――何をすれば止められる?

 漣の胸中をよぎるのは、その疑問だった。漣も攻勢理術を切り替えて、様々な攻撃を繰り出してはいる。しかし、それは腕の一振りと共に制御を完了させた御子神様に、その全て無効化されていた。

 

 あまりに早すぎるその制御速度は、有利な筈の先手を追い越して、その防衛理術を完成させているように見える。後の先を取られているのだと分かるのだが、対応しようとするのは全て漣に対してだった。

 

 他の者も同様に様々な術を行使しているのに、そちらの方へは一顧だにしない。そこにカギがあるような気がした。

 注意を向けるべきは漣だけで、他を取るに足らない、防御する必要すらないと考えているなら、漣が使う術とは相反するものを使わせれば、効果を出せるかもしれなかった。

 それに――。

 

「皆、霧を出せ! 直接当てるな、周囲に展開させろ!」

 

 ――泥濘凍結は無効化されていなかった。

 直接的に理術をぶつけるのではなく、その床や壁など周囲を利用するなら、全くの無意味ではないかもしれない。

 

 同じ方法では対処される可能性が高い。

 漣は出現した霧に風を送り込み、その周囲を回転させて濃霧を作った。まるで綿飴に包まれているように、御子神様の周りだけ不自然に霧が濃い。

 

 単純に視界を奪うだけが目的なら、こんな回りくどい方法は取らない。これもあくまで時間稼ぎのつもりだが、それだけという訳でもない。

 支援班から更なる増強を要求して、その練度を底上げさせると、全員示し合わせて土壁を築く。

 

「霧を囲うように作れ! 八面体で、急げ!」

 

 漣の宣言で即座に壁が築かれ、御子神様がいるであろう場所を完全に取り囲んだ。このままでは単に目の前に壁があるだけの、嫌がらせに過ぎない。

 視界が利かないとはいえ、目の前に壁があろうと横や後ろへと迂回しようと考えず、壁を壊して進もうとするだろう。だが、そこでわざわざ事前に用意した、綿飴程の強烈な濃霧が役に立つ。

 

 漣は再び指示を出し、示し合わせて理術を制御する。

 それは泥濘の時にも使用された、凍結の理術だった。

 

「今だ、空いた上から流し込め!」

 

 漣の合図で同時に凍結理術が放たれ、グラスの中に液体を注ぐかのように膨大な量の凍結術が流れ込む。逃げ場もないのは御子神様だけではなく、その凍結術も同様だった。

 溢れ出るものは止めようがないとはいえ、濃霧自体に害はなく、無効化するような警戒はされていなかった筈。ならばそれを一瞬で凍結させれば、その動きも止められると予測したのだ。

 

 だが、泥濘がそうであったように、止めていられる時間は長くないだろう。片手で数えられる程の時間でしかないかもしれないが、その時間だけ足止めできるだけでも重畳だった。

 

「壁を狭めろ! 時間との勝負だ!」

 

 各人が出した八面体になった壁が御子神様に向けて動く。

 最初は十分な距離を取って作られたものが、今では大人三人が入れるだけの狭いスペースになっている。凍結の冷気が上から溢れ、白い靄が天井付近から垂れるように流れてきた。

 

「壁を増やせ、二重にでも三重にでも、時間が許す限り作るんだ!」

 

 漣の指示で壁一枚の八面体が、更に更にと押し込めるように囲っていく。

 それを見ながら、漣は漣で別の理術を制御していた。

 

 御子神様は明らかに漣の理術を意識していて、他を切り捨て漣にだけ対応する術を都度使っていた。それは他の者では使うまでもなく無効化できるからかもしれないが、漣だけは対応しなければ防げないという意味だと察した。

 

 霧で視界を塞いで、なんの術か分からいまま使っても効果はあったかもしれない。

 しかしそれでも、効果が出るようなビジョンが見えなかった。精々火傷は負わせられるかも、という程度で、やはり意味はなかったろう。

 

 漣が使える術の中には四腕鬼を倒せるだけの威力を持つものもあるが、あれは仲間への被害を考えると容易には使えない。

 そこで用意したのが壁だった。これだけなら単なる封じ込めとしか見えないだろうし、即座に壊すにしろ、凍結させれば少しは身動きを遅らせられるだろう。

 

「お前ら、下がってろ!」

 

 漣が渾身の理力を練って飛び上がる、ポッカリと穴を開けてる八面体の口へ、全力の爆炎術を解き放った。

 未だ御子神様の動きはない。一秒でも遅れていたら壁は壊され、漣の術は味方殺しとなっていた恐れもある。しかしそれは見事に着弾し、八面体の穴の中で大爆発を起こした。

 



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神と人の差 その9

「……ぐぅぅ!?」

「きゃああああ!!」

「何やってんだ、バカ!!」

 

 逃げ場を失った爆発は、その八面体を射出口として天井へ吹き上がった。

 衝撃も閃光も殺しきれず、まるで火山の爆発のような現象を引き起こしたが、築いた土壁以外に被害らしい被害はない。呆然として立ち尽くし、あるいは衝撃で転んでしまった生徒達が、その八面体を固唾を呑んで見守っていた。

 

 爆炎術の威力は凄まじく、最終的に五重となった壁に罅を入れ、内側が炭化して溶け出した部分もある。制御を失った壁はガラガラと崩れ落ち、もうもうと煙を放った。

 

「ねぇ、ちょっと……大丈夫なの、これ……」

「殺しちゃってない?」

「バカ! 不遜なこと言うんじゃないわよ!」

「いや、だってこれ……!」

 

 動揺した声が上がるのは当然だった。

 今も、もうもうと煙を放つ爆心地では、人影のようなものすら見えない。倒れ伏しているのだとしても、僅かな盛り上がりさえ見えなかった。

 土壁が炭化する程の高火力に晒され、その御身を焼き尽くしてしまったのではないか、と想像してしまうのも無理からぬ事だった。

 

 アキラもまた、それを見ながら不安に胸を押し潰されそうになる。

 強さに重きを置くアヴェリンや、ルチアなど優秀な外向術士から一目置かれるような存在だから、ミレイユもまた一方ならぬ実力者だと分かる。

 時折その一端を見せる制御力を見れば、それが事実だと語っているようですらあった。

 

 漣の放った理術は凄まじい威力で、上方へ威力が逃されたとはいえ、その余波はアキラ達にも伝わり、踏ん張らなければ転がるような有様だった。

 それ程の威力なのだから、幾らミレイユとて無傷では済まないだろうと思う。

 そして、その姿が全く見えない事が、その予想が真実なのではないかと不安にさせるのだ。

 

「ミレ……御子神様は、一体どこに?」

 

 アキラの独白はこの場にいる全員が思うところだった。

 爆発や煙に紛れて不意を打つような真似をするとは思えない。この状況を利用して反撃を試みるというような、小手先の戦いをするようには思えないのだ。

 それは先程までの余裕ある戦いぶりからは対局にある戦術で、全てを正面から迎え撃つという、余裕ある戦いぶりしか考えられない。

 

 アキラが混乱していると、何かに気づいたらしい七生が天を仰ぐ。そして鋭く声を上げた。

 

「上よ! 空にいる!」

 

 声につられて、アキラも上を見上げようとした瞬間、訓練場の床に魔法陣が描かれた。どちらを注視すべきか迷って、その見覚えのある図形に目が引き寄せられる。

 それは、かつてアキラが箱庭内で天井まで射出された時に使われた、あの魔法陣に良く似ていた。細かい図案など覚えていないが、よく似ている気がする。あるいは同じものなのかも――。

 

 そう思っている内にミレイユが地上に落ちてきて、床まで残り一メートルといったところで、まるで落ち葉が舞い降りるようにゆったりと着地した。

 その身には傷どころか火傷痕も、埃も煤すらも付いていない。

 

 そこで唐突に思い至る。

 きっと、漣が攻撃するより前に、あの飛行術とは名ばかりの直上射出術で空へ逃げたのだ。漣の理術で飛ばされたのかとも思うが、自ら跳んだと考えた方がしっくりくる。

 実は既に逃げていると知らずに全力攻撃を仕掛け、そして無意味に跡地を見つめていただけだった訳だ。

 

 アキラはガッカリするような、あるいはホッと胸を撫で下ろすような複雑な気持ちでミレイユを見つめる。

 彼女は邪魔そうに髪を掻き上げて、漣を見つめてはニヤリと笑った。

 

「理術に込めた練度は素晴らしい。切り札として利用できるよう、しっかりと制御を磨いていたようだな。良いだろう、お前は見込みがある」

「だってのに、無傷ですかい……」

 

 漣は引き攣った笑みで疲れたように言う。

 それを離れたところで見ていた七生が、それに疑問を投げかけるような独白を零した。

 

「あの八面体の壁が大砲の筒の役割してた筈でしょう? 衝撃は余すことなく御身に受けた筈、それなのに無傷というなら……」

 

 何をしても無意味じゃないのか、七生はそう言いたいようだった。

 だが、近くで控えていたアキラは強い口調で頭を振って否定する。

 

「いいえ、御子神様は直撃よりも先に逃げたんです。そういう術があったのを思い出しました。嫌がらせ以外に使い道があるとは思いませんでしたけど、逃げたからには直撃は拙いと思ったんじゃないでしょうか」

「確かなの?」

「ええ、緊急回避として使えるというのは盲点でしたけど、確かに直上へ飛び出す術があるんです」

「……そう! ならば傷つくのを恐れて退避したのだと思いましょう。無傷だからと絶望する必要はないわ。当たれば倒せる、斬れば傷つく、御子神様は自らそれを証明したのよ!」

 

 七生の鼓舞が消沈しかけていた生徒達の心を燃やす。

 それらの目付きにも輝きが戻り、抜け落ちたような表情にも力が戻ってきた。

 

 だが実際、漣以外の者では御子神様へダメージを与える事は難しいだろう。一定以下の術には見向きもせず、その対処を漣に絞っていた事からも、それは窺える。

 直接攻撃を与えない、周囲に展開する妨害術などに絞って使って貰う必要があるのかもしれない。

 

 アキラがその様に頭の中で算盤を弾いていると、それより先にミレイユが動いた。

 掌に赤い光が灯ったと思うと、直後に制御が完了している。腕の一振りを小隊に向けると、そこから炎の矢が飛び出す。どんな理術か飛び出すかと戦々恐々としていただけに、それには正直、拍子抜けした。

 

 しかし続けてもう片方の手が、既に制御を終了させてもいた。

 そちらも腕を一振りすると、風が巻き起こった。小型竜巻というよりも更に小さい、人の身の丈程の小竜巻が、その炎の矢を食べて火炎旋風へと変化する。

 それが意志を持つような動きで小隊へと向かっていった。悲鳴を上げて逃げ出そうとするのを、漣が必死に押し留め、同じく風で押し返すよう指示する。

 

「接近スピードは遅い! 冷静に対処すれば押し返せる! 他の隊は氷結理術か何かをぶつけろ、火勢を弱めるんだよ!」

 

 そう言って自らも理術を放って同じ様に火勢を弱めようとするが、その勢いはまるで衰えず、また接近しようとする竜巻を押し留める事も出来ていない。

 誰もが竜巻を見つめる中、アキラはミレイユの動向に注意していた。

 

 そのミレイユが前進を始める。

 彼女の狙いは、恐らくその竜巻に注力させる事だ。一度放てば残り続ける竜巻を用い、自らは自由に行動する。そちらばかり注力していると、ミレイユの行動は妨害できない。

 

「漣、駄目だ! 御子神様が自由になってる!」

 

 漣の形相が険しくなる。

 今は漣が竜巻を支えているから、その勢いをマシにさせているが、そこから離れればどうなるかは火を見るよりも明らかだ。かといって、ミレイユを自由にさせるなど、最もあってはならない事。

 

 支援班が防御壁の枚数を増やすが、それがどれほど意味のある事か。

 案の定、腕の一振りで三重防壁は砕かれ、漣達が吹き飛ぶ。そして勢いを抑えられなくなった竜巻が生徒達を蹂躙した。

 

「うあぁぁぁあ!!」

「きゃあああ!!」

 

 悲鳴と怒号が飛び交い、抑えようと必死になった者から火に飲まれる。

 アキラが思わず口元を覆ったところで、唐突に火が消えた。既に立っている生徒は一握り、呆然と何があったか状況を理解出来ていない者が多数だった。

 

 漣が立ち上がろうとするより前に、七生の指示が飛んだ。

 

「由喜門くん達、第五中隊は前に出て! 部隊を二つに分けて、やられた彼女たちを後方に避難させて! その間、残った二班で御子神様を押し留めて!」

「無茶言うよなぁ……!」

 

 アキラは盛大に顔を顰めて自らが任せられた部隊へ目配せする。

 そして腕を振って救出部隊を分ける。そうしている内に七生から再びの指示が飛んだ。

 

「支援中隊を救助に入って治癒小隊へ運んで! 傷は表面的な火傷だけだから、すぐに復帰できる! 急いで!」

 

 倒れ伏している者たちの中には、目を覆うような重症者はいない。その辺りも上手く加減されていたのだろう。鬼と戦う事を思えば、あの程度の傷は日常茶飯事。それで怯えるようでは話にならない。

 アキラは火を吹くような敵と出会った事はないが、いても当然という風には思っている。もしかすると、あれはそういう事を自覚させると共に、その対処を見ていたのかもしれない。

 

 アキラがミレイユの前に飛び出すと、そこに支援理術が飛んでくる。具体的にどういう術なのかは知らないが、力と俊敏性が増した気がした。他にも何かあるのかもしれないが、今はそれに意識を回すより、目の前のミレイユに対処しなければならない。

 

 アキラが指揮するのは内向術士が中心で、漣達のような小手技を駆使して戦う事は出来ない。そもそもの総数として内向術士が多いので、自然とそういう小隊が多くなる。

 一応、中隊の中には支援が出来る者もいるが、神の威圧を間近に受けるところで、どれほど冷静に制御できる事か……。

 

 それをやり切った漣の部隊は、そう考えると畏敬の念すら覚える。

 アキラが武器を構えると、それに応えるようにミレイユも武器を出した。例の個人空間から取り出したものだろうが、木刀ではなく木剣のようだった。ここで威力のある武器を出すとは思えないので、魔術秘具であったとしても、精々不壊が付与されている程度だと思いたい。

 

「お前とアヴェリンの鍛練は幾度も見たものだが、手合わせするのは初めてだったな」

「はい、胸を借りるつもりで頑張ります!」

「その程度の威勢で、どうにかなればいいがな」

 

 アキラの後ろには他に三名いる。戦いやすい人数は、やはり三名から四名だろう。それぞれが動きを妨げるようなら、囲んで戦う事にも意味がない。

 本来連携とは、互いの癖を熟知した上で組むのが好ましいのだろうが、現状はとにかく手を出す以外やれる事がない。特に転入したばかりで模擬戦すら碌にしていないアキラとでは密な連携など不可能に近い。

 

 ――それでどこまで食い下がれるものか……。

 アキラは木刀の柄を握り込んで正眼に構え、呼気を鋭く吐き出すと共に斬りかかった。

 



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神と人の差 その10

「――次だ」

 

 アキラは何度目になるか分からない一撃を加え、そしてそれまでと同様、上手くいなされ転がされていた。転んだ先で素早く受け身を取り、空いた隙間に別の誰かが斬りかかる。

 常に四人で斬りかかり、そして誰か一人が上手いこと捌かれ、常に誰か一人が強制離脱させられる、という状況が続いていた。

 

 打ち込む隙を最小限、ミレイユが誰か一人を捌いている後ろから斬り掛かっても同様で、とにかく上手いこと捌かれ、いなし、弾かれてしまう。

 その剣捌き、体捌きが冴えに冴え、有効打を一つとして打たせてくれていない。

 

 隙があるように見えて打ち込めば、それを未来予知しているかのように対応され、やはり上手いこと対処されてしまう。

 今も他の隙を埋める為に斬り込んだ木刀が、死角からの一撃だったにも関わらず躱され、その反撃を見事に食らって吹き飛ばされていた。

 

「はい、次」

 

 ミレイユの呼吸に乱れはない。

 袂がある袖は動きにくい筈なのに、それを感じさせない軽やかさで対応してしまう。

 たった一人に対して、既に怪我人を後方に下げて復帰した者たち一個中隊、それが代わる代わる斬り込んでいるというのに、全く歯が立たなかった。

 

 アキラが率いる中隊合計十六人の、その剣術を認められた者たちが、子供と大人以上の開きであやすように転がされている。腕に覚えがある者も多い中、それでもミレイユの前には赤子同然だった。

 

 明らかに数の利を用いての戦術が、全く有利に働いていない。

 模擬戦の体をしているが、それまでの対処を見ていても、ミレイユは単に打ちのめす事を考えていない。生徒達を試し、どう対処するかを見ている節がある。

 

 最初の凱人たち中隊だけは例外だが、あれはもしかしたら、単に力加減を間違えてしまっただけなのかもしれない。試すというには、あれは余りに呆気なさ過ぎた。

 

「えぇい、このっ!」

 

 アキラは斬りかかるのを止めて、何か突破口にならないかと打突のみで攻撃してみる。理力を練り上げ、突きに速さを乗せて繰り出すが、ミレイユは半身にズレたり突きの距離を見切って僅かに後退するのみ、とまるで当たる様子がない。

 

 そうしている間にも、横から後ろからと攻撃はある。

 しかしそれすらも躱すか、あるいは木剣で弾いてしまい、場合によっては相手の木刀を握って投げ飛ばす、なんて事までした。

 

「……次だ」

 

 一人が外れれば、別の誰かがそこに入る。

 場合によっては連携に慣れた二人が入る為に、敢えてもう一人退くこともあるが、とにかくミレイユの指示が一声上げれば、その空いた穴に誰かが入ってくる。

 

 そんなつもりはなかったのに、今ではすっかりその様な流れになっていた。

 ミレイユは殴り掛かる元気がある内は、好きなようにさせている。完全に稽古の流れだが、それを不満に思う者はいない。時に反撃もあるが、痛いだけで戦闘不能になるまでは行かない。

 

 神が扱う剣術を身体で教えて貰っているようなものだ。

 最初は剣が当たらぬ事、反撃を受けて為す術もなく転がる事に、苛立ちのような気持ちがあった彼女たちだったが、今ではすっかり従順な稽古待ちの顔になっている。

 

 実際、アキラから見ても道場主の師範より、確かな剣筋をしていると感じた。

 アヴェリンも同じく敵う相手ではないと思っていたが、こちらはまた別の次元で敵うと思えない。技術としてのレベルが異次元と感じてしまう程、アキラたちとは隔絶している。

 

 単純な剣捌き体捌きの技術、剣技剣筋の技術、相手の気配の読み方。攻撃と防御の呼吸、複数人を相手にしつつ間合いの妙、全てのレベルが違う。

 その一手一手を受ける度、自分たちの力量を底上げされているようにすら感じた。一つ違えば、そうじゃないこうだ、と反撃を受ける。良しならば、いなされ転がされる。

 

 それが四人同時に行われている。

 見守っている他の中隊も、羨ましそうに見つめていた。次は自分の番だとすら思っているような視線だった。

 

 そうして続けること暫し、息が切れ、とうとう立ち上がれない者も出てくる。

 ミレイユはそれに立ち上がれと言う事はない。ただ手を振って外にやれ、という身振りを見せるだけで、他の隊の者が速やかに後方に下げていく。

 

 直接的な怪我は打撲程度だから、治癒もすぐに済むのだが、倒れた原因はスタミナにあるので戦線復帰はすぐとはいかない。

 そうして徐々に数が減っていき、遂にアキラの他数名が残るのみになると、次いで七生の方へ手を向ける。手招きするような動きを見て、七生は嬉々として中隊を率いてやって来た。

 

「由喜門くん、まだやれる?」

「勿論。この程度でへばっていたら、師匠のシゴキには耐えられないよ」

「頼もしいわね」

 

 七生がミレイユから目を離さぬまま、獰猛に笑う。

 

「外向理術を使われたら勝てないのは分かってた。攻め筋があるなら近接戦闘しかないと思っていたけれど、それすら甘い認識だったわね」

「僕もあれほど巧みに剣を扱えるとは思っていなかった」

「おまけに、すっごくタフだしね……!」

 

 既に十人以上を体力切れまで追い込んだというのに、当のミレイユは汗も掻くことなく平然としている。多少、息を乱すような事があれば良かったのだが、神と人との間をまざまざと見せ付けられた気がした。

 

「しかも、常に余裕を残して戦ってるし、本気の五割も出していないと思う。理術を同時に使うとかあり得るかしら」

「出来ないと考えるより、出来る前提で作戦を組み立てた方が良いと思うね」

「そうね、そうするわ。あなたは今まで通り、とにかく御子神様に喰らいついて」

「遊ばれていただけで、喰らい付けていた訳じゃないけど……」

 

 実際、ミレイユが本気だったら、アキラは一撃で沈んでいるだろう。

 他の者同様、その技量や根性などを見る目的がなければ、一人が一撃放つ度に反撃を受けて戦闘不能へ追い込んでいる。それが容易に想像できて、アキラはげんなりと息を吐いた。

 

「どちらでも良いわ。せめて、お褒めの言葉を賜れる位はやってみせなきゃ」

「それはそうかもね」

 

 アキラが頷くと、七生は視線で合図を出して攻め込むように指示を出して来た。言われたとおりにアキラは突っ込む。

 七生が率いる中隊には三年も多く含まれていたようだから、その技量もまた今までより期待できる筈だ。彼らの奮戦に期待して、アキラは自分が出来る事をする。

 

 そしてアキラに出来る事といえば、愚直に突き進むだけだ。

 何度いなされ、突き崩され、倒れる事があろうとも、その度に起き上がって剣を振るう事しか出来ない。才能がないと言われ続けても、それでも剣を振るう事だけは続けて来た。

 アキラにもアキラなりの矜持がある。

 それを認めて貰いたいという一心で木刀を振るった。

 

 しかしそうやって挑んでも、アキラに付いて来ていた小隊メンバーは、遂に体力の限界を迎える。一人、二人と離脱して、最後にはアキラ一人になった。

 

 ――それでもせめて、七生達の準備が終わるまでは食らいつく。

 それだけでもアシストできれば、ある意味でアキラの勝ちだ。挑む目付きでミレイユを見ると、薄く笑みを浮かべて見つめ返された。

 

 何故だか心を見透かされたような気がして、心臓がドキリと跳ねる。

 その時、七生の寄越した小隊がやって来た。アキラと入れ替わりに三年が猛攻を仕掛ける。それまでの生徒達と技量に大きな違いはないように思えたが、明確に違うのは、その連携の巧みさだった。

 

 今までは互いに気づいた時は隙を突く、互いの邪魔にならないように動く、という遠慮があちこちに見えていた。それがこの三年には無い。

 互いに何が出来るか、何をやりたいか、というのが分かり切っているようだった。邪魔しないように、ではなく、邪魔にならない立ち回りを理解している。

 

 ――しかし、それでも。

 それでもやはり、ミレイユには届かないのだった。

 

 それぞれの巧みな連携すら読み切り、あるいは気配で察し、呼吸を盗んで、的確に対処する。アキラがそうしている様に、外から見ていれば対処出来るかも、というレベルの猛攻が、ミレイユからすれば先程までの延長としか感じないらしい。

 

 赤子と大人から、幼児と大人に変わっただけで、依然力量差は歴然としていた。

 三年の顔が歪み、余裕がなくなる。一人が転がされ、二人が突き飛ばされ、三人が木刀を逸らされ、そしてそれがほぼ同時に起こった。

 

 アキラの目には、それは完璧な連携に見えた。

 しかし一つも有効打に成り得ず、ミレイユには通用しなかった。

 思わず七生の顔が歪んだのも、当然と言えただろう。

 

「……次だ」

 

 無常にも聞こえるミレイユの言葉に、恐怖すら覚える。

 三年の攻撃を躱すのには、流石のミレイユも激しい動きをしていた。それにも関わらず、相変わらず呼吸も乱さず汗も搔いていない。一体何をすれば突き崩せるのか、そもそも崩せるのか、という思いすらしてきた。

 

 勝てないまでも、こちらには人数がいる。

 数で攻め続ければ、いずれスタミナだって尽きる。削れ切れれば御の字だが、そうでなくとも息切れくらいは見せるだろう。そこからどれだけ食い付けるか、そういう勝負だと思っていた。

 

「うぉぉおああああ!!」

 

 他の三年の小隊が破れかぶれの攻撃を仕掛けるが、それが一番の悪手だ。理性を捨てた攻撃はミレイユに通用しない。

 予想どおり、あっという間に昏倒させられてしまった。続く小隊にも覇気がない。何をどうすれば良いのか、何が通用するか分からなくなっている。

 

 気持ちは分かるが、気持ちを途切れさせた者から脱落していく。

 見込みのある者は何度でも挑む限りにおいて対処してくれるが、その気概が見えない者は容赦なく沈めて来るのがミレイユだ。それをこれまでの観察から分からないというのなら、退場させられるのも已む無しに思えた。

 

 遂には三年という弾も尽き、床に死屍累々と転がる破目になった。

 途中から参戦した凱人中隊、そして復帰した漣中隊も混じっての攻勢となったが、結果は大きく変わらない。

 

 凱人はそのタフネスから戦力維持に一役買ったが、漣達の外向理術中隊は、そこへ組み込める程上手く機能してくれない。間隙をついて仕掛けてくれるのだが、威力不足もあって援護になっているとも言えなかった。

 

「……次」

 

 ミレイユの声が――余りに静かな声が訓練場に響く。大きく張った声でもないのに、恐ろしいほど正確に耳に届いた。

 一人また一人と離脱者が増え、支援班も治癒班も理力を使い果たして、ぐったりと倒れていく。既に立ち上がれる者は幾らもいない。

 

 荒く息を吐いてはいるものの、立っている者は誰の目にも戦意が漲っていた。

 ここまでやられて、ここまでやってもらって、不甲斐ない真似を見せられるか。それが彼らの胸中で渦巻く思いだった。その気持ちを原動力に動いている。

 

「……あぁ、残るべく者が残ったな」

 

 ミレイユが、ごく自然体でアキラ達を睥睨する。

 最後まで立って残っていたのは御由緒家の面々。即ち、七生と凱人、漣とアキラの四人だった。

 アキラ達は意志の力でその瞳を睨み返す。必ず一矢報いてやる、という気概が見えていた。

 

「……うん、私の好きな目だ。では最後まで残った褒美として、少々実践的な助言をしてやろう」

 



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神と人の差 その11

 ミレイユの一言に、アキラは顔が引き攣るような思いがした。

 実践的な助言、と彼女は言った。今までも散々転がされてきたその事実が、何よりも雄弁に実践的な助言として語られていたと思う。

 

 周囲に気力も体力も、そして理力も使い果たして倒れる生徒達。

 治癒班も支援班すら、直接的な攻撃を受けていないのにも関わらず、気力も理力も使い倒されて体を横にしていた。中盤からは、まるでわんこそばの様に次々と送り込まれる生徒達を見て、愕然としていたのは見えていた。

 

 治癒しても治癒しても、途切れない負傷者というのは、悪態を吐くには十分な光景だったろう。

 支援班にしても同様で、味方への援護を飛ばさなければ刀を打ち合わす事すら出来ないのに、支援したところで一撃で転がされるのを幾度も見ている。

 

 それを常に周囲を四人に囲まれ、そして間隙なく攻撃を仕掛けられているというのに、顔色一つ変えずに捌いてしまうのが御子神様なのだ。

 アキラから見て、まるで魔法みたいだ、という感想が飛び出すくらいなのだから、他の者から見ても意味不明な光景だったに違いない。

 

 アキラは改めて目配せするように、立っていられる他の三人へ視線を向けた。

 誰しも未だ士気軒昂ではあるものの、体力と理力までは付いていかない。ミレイユの言う『実践的』な助言に何処まで食らいつけるか、そこに不安は感じていた。

 

 単なる汗ではないものが、額から流れていくのが見える。

 ミレイユは木剣を持っていない方の手で、小さく手招きしてアキラを呼んだ。

 

 自分か、という苦い思いを飲み込みながら、アキラは改めて木刀の柄を握り、細い息を吐く。そして再び息を吸うと同時に、一気に理力を練り込んで足を踏み出した。

 一瞬で狭まる距離、そして広がる視界。強化された動体視力は周りの動きを遅く見せるのに、ミレイユの動きは軽やかで何より速かった。

 

 振り下ろした木刀を流すのではなく受け止め、そして……来ると思った反撃が来ない。咄嗟に木刀を引いて更に打ち込めば、受け流すのではなく正面から受けられた。

 

 今までは一撃に対して致命的な一撃を返され、それで為す術もなく倒れるか転がされるかのどちらかだった。力の反発すら利用しているようで、反撃が何一つ上手くいかない。

 反撃に対するカウンターを狙った事もあるが、それにすらカウンターを合わせられて打ち負けた事がある。

 

 だというのに、今回のミレイユは打ち続ける事を許していた。

 何をするつもりにせよ、一撃で終わらせるような真似はしない、と言っているようであった。あるいはその防御に徹している間が、実践的な助言を意味するのだろうか。

 

 アキラは構わず攻撃を続ける。

 隙があると思えば打ち込み、またなければ隙を作るべく横へ動いたりフェイントを交えたりした。どれもが有効的だったとは言えないが、ミレイユから基本的に攻撃はして来ない。

 あるとすれば、それはアキラが明らかな隙やミスを見せた時で、その場合ですら躾けるような打撃があるだけで、打ち負かすような攻撃ではない。

 

 アキラが何度目かになるか分からない攻撃を繰り出し、また何度目かになるか分からない反撃で肩を打ち据えられてから、ミレイユが口を開いた。

 

「攻め所、守り所、堪え所、そして勝負所。その四つをハッキリさせろ。漠然と戦っていてはミスをするし、その誘発も出るだろう。よく考えて武器を振るえ。お前には、まずそれが足りてない」

「はい、ありがとうございます! 肝に銘じます」

 

 言われたことを念頭に置いて、アキラは木刀を振るう。

 しかし言われた事を即座に実行できるような小器用さがあるなら、アキラはこれまで苦労などしていない。ミレイユは困ったような顔をしたが、特に何を言うでもなく、今度こそアキラを打ち倒した。

 

 腹を薙ぐように切り払われ、呻いて膝を付いた所を蹴り飛ばされ、元の位置まで戻って来る。したたかに背中を打って息が詰まったが、もう動けないという程ではない。

 立ち上がろうとしたところで、そのすぐ傍にいた七生が押し留めた。

 

「え、ちょっと!? まだやれるって……!」

「違うわよ、今度は私をご指名だわ」

 

 アキラがミレイユへ目を向けると、確かにミレイユの視線は七生に向いており、アキラの時同様、小さく手招きをしている。

 それを見て、アキラは肩から力を抜いた。七生へ視線で謝罪して、それを笑みで返してミレイユへ向かって歩み出す。更に一歩動いてから、まるで前振りもなく七生の姿が掻き消えた。

 

 理力の制御を事前に見せない、瞬発的な操作だった。

 単に速いだけでなく、その練度が見事なのはミレイユに防御させた事でも理解できる。続く連撃による猛攻が繰り広げられるが、多くは躱されて防がれた。

 

 アキラと違い、一撃毎に一撃の反撃はなく、ミレイユに反撃を許す事なく攻撃を続けている。

 瞬発力とそれを許す制御力がなくては出来ない芸当だろう。先程ミレイユに助言された、攻め所と信じて打っているのかもしれないし、躱されても続けているのは堪え所と思っているからかもしれない。

 

 そして、この二人が相対して思うのは、その剣術が良く似ている事だった。どちらも身に着けているのが御影源流だからだろうが、七生の方が洗練されているように見えるのに、優位に立ち回っているのはミレイユだった。

 

 未だに有効だが一つもない事からも、勢いだけではミレイユの防御を抜けないのが分かる。

 そのミレイユが、七生に存分に打たせてから、反撃の一撃で木刀に絡めた。そこから一気に接近する事で木刀をスライドさせ、足を七生の踵へ差し込み、手首を捻って回転させる。

 

 転ばされる瞬間、七生は重心を中心に自ら回転して逃げ、側転を二度して改めて構え直した。

 ミレイユはそれを満足気に見つめ、木剣を目の前で掲げては上から下まで矯めつ眇めつする。刃の峰に指を添え、切っ先まで動かしてから木剣を一振りした。

 

「どこにでも技術はいる……堪え所には、技術が特に重要だ。勝負所には勇気、守り所には理性、攻め所に剣筋が、それぞれ重要になる」

 

 そう言ってから、ふと気づいたように困った顔になった。

 

「抽象的……あるいは感傷的過ぎて分かり辛いか?」

「いえ……はい、ちょっと。でも、言わんとしている事は分かります」

「……うん。お前は剣筋は良いのに、守りに重きを置き過ぎる。常に反撃を予期して安全を残した攻撃をするが、だからこそ勝負時を逃していた。守りを捨ててでも、その一撃を振るう勇気……それを持てれば、お前は更に伸びるだろう」

「はっ、はい! ありがとうございます!」

 

 七生が恐縮しながら頭を下げると、ミレイユは手を振って下がる合図をする。

 もう一度、頭を下げて言われるままに元の位置へ戻った。

 

 アキラは興奮に頬を紅潮させている七生を羨ましそうに、あるいは恨みがましく見つめる。アキラもミレイユに褒められたかったという欲が、今更ながらに湧いてきた。

 元より幾度も才能なしと指摘されてきたとはいえ、やはり承認欲求というのは抗いがたい。それがミレイユからの、となると尚更だった。

 

 ミレイユは次に、凱人へと目を向け手招きした。

 今や遅しと待ち構えていた凱人は、喜び勇んで駈けていく。ミレイユが構えると、凱人もまた両手を顎の下で身を縮めるように構えた。

 

「お願いします!」

 

 凱人が構えを変えぬまま、ミレイユへと突っ込む。それを迎撃するように木剣を横薙ぎし迎え撃った。凱人の身体が横に流されかけたが、それを耐えて更に一歩踏み込む。

 歯を食いしばりながら木剣を押し返し、また一歩踏み込めば、そこは凱人の間合いだ。

 

 下から抉り込むようなボディブローが、ミレイユの腹に突き刺さる。重い衝撃音が響いたが、ミレイユは拳と身体の間に、空いた手を差し込んでいた。

 凱人は構わず、もう一発打ち込む。角度を変え、腹から顎先へと狙いを移したが、それは小さく後ろに下がる事で躱されてしまった。

 

 間合いが離れれば凱人は不利だ。

 下がった分だけ凱人が近づく。顎先へとフェイントを加えつつ、本命の左で腹より更に下、太股部分を狙ったが、それも空振りに終わった。

 

 凱人は構わず殴り付ける。

 当たらないなら当たるまで、次々と乱撃を繰り返し、そして時に足を使って下段蹴りも繰り出すが、どれもいま一歩のところで当たらない。

 時に腕または手でガードさせる事は出来ていたが、それすら上手くいなされて衝撃を逃している。だから殴りかかった方の凱人が、逆に体勢を崩される事が多かった。

 

 ミレイユも剣と拳という違いでやり辛さを感じているかと思って表情を盗み見たが、そんな事はないようだった。剣での間合いとするには近すぎるが、しかし攻撃を受け切った後でその間合いを気にせず木剣を振るってくる。

 

 本来なら不利にしかならない攻撃だが、それをミレイユが繰り出すとなると、決して油断出来ない一撃となる。腕を小さく畳んで手首の返しだけで行う攻撃は、本来なら大きなダメージにはならない。精々牽制程度にしかならない攻撃が、凱人が受けた時は横へ吹き飛ばされる程だった。

 

 間合いが開いてしまい、ミレイユがその気になれば再びの接近は出来ない。

 凱人にもそれが分かっているから必死に喰らい付き、そして上下に振り分けた攻撃を繰り返す。顎先と思えば腹、腹かと思えば腕、左右どちらかへ集中しないよう、それさえ振り分けているというのに、致命的な一撃は一つとして刺さらなかった。

 

 ミレイユが突き出して来た凱人の腕を取り、蛇のように巻き付いて固定する。横合わせに密着するような形になり、そこから逃げ出そうと身を捻ったところへ、木剣が振り抜かれる。

 凱人は身を屈めて剣は避けたが、そこを待ち受けていたかのような膝が、凱人の顎を突き上げた。

 

 もんどり打って背後に倒れ、衝撃をそのまま利用して後転しながら立ち上がる。顎先は青く痣が出来ていたが、凱人は一つ拭うだけで再び構え直した。

 そこにミレイユが、木剣の構えを崩しながら口を開く。

 

「丁寧にやれ。……丁寧の意味が分かるか?」

「ハ……、意味だけなら」

 

 ミレイユが口にする言葉は、抽象的で捉えにくい。蚊帳の外のアキラも思わず眉を顰め、やはり質問の意図が掴めない凱人は、困惑した声を漏らした。

 

「辞典に載ってる意味が知りたい訳じゃない。……お前は少し、雑すぎる。もっと丁寧に」

「……申し訳ありません、やっているつもりでした」

「先に二撃目を決めてから初撃を打て。どう動くのか、動かすのか、躱したら、受け止めたら、それを考えきった上で攻撃しろ。それを丁寧と言うんだ」

「ハッ……! 金言、有り難く」

 

 凱人が姿勢を正して頭を下げる。

 ミレイユは一度頷いてから木剣を構え直し、早く来いと言う様に切っ先を上下に動かした。

 それで凱人も拳を打ち付け飛び掛かる。

 ミレイユが迎え討った初撃を地面にへばり付くように躱し、木剣を掻い潜って一足飛びに接近する。下から打ち上げるボディーブローは空を切るが、それを即座に戻して二の撃を打つ。

 

 手を差し込んで防御したものを、更に押し込むように動かし注意を向けたところで、視覚外からの上段の打ち下ろしが繰り出された。

 それすら身を捻って躱されると、押し込もうとしていた腕へ全体重を掛けた、瞬発的な一撃を放つ。体重移動が完璧ではなかったのか、タイミングの問題か、後ろへ飛ばす事は出来たものの、ミレイユはダメージを感じさせない動きで軽やかに着地した。

 

 ミレイユは自分の手の平を見つめて、面白そうに片眉を上げる。

 凱人へ顔を戻して満足気に頷くと、外へ出るよう手で示した。

 

「ありがとうございました!」

 

 凱人にしても会心の出来だったらしく、その顔は実に満足げで誇りに溢れていた。

 



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神と人の差 その12

 アキラはまたも羨ましそうにその横顔を目で追って、そして最後に残った漣が視界に入る。

 漣は手にした槍を器用に回転させてから、小脇に仕舞うように腕を畳んだ。そして意気揚々と歩き始めたのだが、それにミレイユが待ったをかけた。

 

「お前はいい」

「え……、どういう意味ですかね?」

「お前の役目は外向術士として動く事で、近接戦闘を磨く事じゃない。護身程度は出来て当然だが、それ以上鍛える時間があるのなら、もっとマシな事に時間を使え」

「でも、懐に潜り込まれた外向術士は弱い。その弱点を補う事は重要じゃねぇんですか?」

 

 外向術士としての漣は、それ以外に価値がないとでも思ったのか、不満が態度に現れていた。漣は口調も荒くなっている事に気付いていないのか、更に続けようとするのを、アキラは顔を青くさせながら見守った。

 

「他人の足を引っ張るような奴に、なりたくねぇんです。それには近づけさせない槍が良いと思ったし、距離を保てれば理術を使う隙だって生まれると……」

「お前に武器を扱う才能があれば、私もそれを勧めたろうがな」

「俺には才能がないですか。こうして最後まで立ってるのに……」

 

 まるで不貞腐れているような言い草だった。

 ミレイユはそれに全く興味がないのか、頓着せずに首を横に振る。

 

「お前が立っているのは仲間が必死にフォローしていたからだ。自分一人だけの実力だと思っているなら、とんだ勘違いだ。後方にいるお前の懐に入られるような事があれば、それはむしろ前衛の問題だ。他の仲間が全員やられているという事だからな。そうなれば、そもそも勝ち目がない」

「でも、俺の小隊は外向術士で固められていて……」

「それが間違いだな。壁役は入れておけ」

 

 即座に納得しかねるように、漣は渋い顔をした。

 恐らく、今まで苦楽を共にし、互いの連携を知り尽くした四人なのだろう。一点集中火力を目指すか何かしていたのかもしれない。今更変えろと言われても、簡単な事じゃないのは分かる。

 だが助言はあくまで助言だ。嫌だというものを強制的に変えさせるものでも、そうさせる命令でもない。

 

「……考える時間はある。他と話し合って好きにしろ。だが、すぐ熱くなるのは、お前の弱点だ。闘志だけ維持できる者は多い。だが外向術士なら、冷静さも維持出来なくてはならない。どちらか一方ではなく、同時に維持できて意味がある」

「ハッ……! 申し訳ありません!」

 

 漣は自分でも思い当たるものがあるのか、これには素直に頭を下げた。

 ミレイユに楯突くような有様だったので、七生もこれにはハラハラして見守っていた。いざとなれば殴り倒してでも、漣を連れ戻そうとでも考えていたような顔だった。

 

「では最後に、お前達四人を同時に相手する。言われた事を忘れず挑んで来い」

「ハイッ!」

 

 四人の声が重なり、それぞれが武器を構えては頷く。

 凱人が壁となり、その後ろに二人並んでアキラと七生が続き、全体を俯瞰するよう漣が付かず離れずの位置を確保する。後方と距離がありすぎれば、そこを狙い撃ちされる可能性がある。漣はそれを良く分かっているようだ。

 

 凱人が踏み出し、その後ろへピッタリくっ付くようにして二人が続く。

 言われた事を実行しようにも、個人と小隊規模戦闘では勝手が違う。自分だけではなく、仲間の動きも勘定に入れて動かなければならない。

 

 凱人も二撃目をどうするかは判断に迷うだろう。

 何しろ、凱人を壁にして動いているのはアキラと七生。その二人の一撃をどう繰り出すつもりなのかなど、打ち合わせなしで分かる筈もない。

 

 アキラにしても同様で、何をすれば邪魔にならないかを必死に考えていた。攻め所や勝負所はどこにあるのか、それを考え、探しながら動く。

 ミレイユ相手に数の利など無い事は十分に理解している。個人個人に有益な助言を与えたからといって、すぐにその差が覆らない事も理解していた。

 

 凱人が拳を打ち付けた所を狙って、アキラは左から飛び出し側面から斬りつける。反対側から七生も斬りつけるが、お互いの攻撃は避けるか受けるかされてしまった。

 凱人の二撃目はミレイユに先手を取られる事で不発に終わった。反撃が来る前に逃げ出そうとして、その腹を蹴り飛ばされる。そこを狙った七生の振り下ろしは、木刀の側面へ軽く手を添える事でいなされてしまった。

 

 アキラの足元に、背後からヒヤリとした冷たい何かが通る。

 確認するより前に飛び跳ねて、上段からの打ち下ろしをミレイユへ放つ。それは手に持った木剣に防がれたが、その冷たい何かがミレイユの足元に絡み付いた。

 

 背後から来たのなら漣が何かしたのだろうと、ヤマを張ってみたのだが、それは見事的中した。

 ミレイユの足は床に縫い留められている。泥濘すら簡単に割るミレイユだから、これは一秒と保てば良い方だろう。

 

 アキラは着地と同時に、横薙ぎにした渾身の一撃を繰り出した。

 しかしそれでも、その一撃はミレイユに届かない。立てた木剣によって防がれている。だがミレイユの顔には小さな笑みが浮かんだ。

 少しは期待に添える一撃を打てたのだろうか、とアキラの表情も僅かに緩んだ。

 

「良い太刀筋だ。少しは分かってきたか?」

「分かりません。むしろ分からなくなってきました」

「贅沢な悩みね!」

 

 その隙を狙った七生が、逆側から袈裟斬った……が、それも虫を払うような動作で剣筋を逃されてしまう。

 

「分からないのに、そんな太刀筋を持てるの?」

 

 自身の一撃が簡単にいなされてしまう事への妬みだろうか。繰り返す連撃も、そちらに顔を向けないミレイユに掠りもしない。

 ミレイユが興味深そうにアキラの顔を見て、そして軽い動きで突き飛ばした。

 

「うぐぅ!?」

 

 だが軽く見えるのは動作だけで、実際の衝撃は凄まじい。足を固められて、十分な体重移動すら出来ないはずなのに、その衝撃は他の生徒の一撃より遥かに重かった。

 突き飛ばしたままの姿勢でいるミレイユが言う。

 

「だが、その悩みが続く内は上手くも強くもなれるだろう。制御技術にも同じ事が言えるな」

 

 ミレイユは懐に入り込もうとする凱人を適当にいなし、氷を砕いて足を持ち上げ、横へ大きく薙ぐように蹴りつけては、七生を巻き込んで二人を飛ばす。

 まだもう片方、氷に縫い留められている足を取り出しながら、ミレイユは言った。

 

「攻撃を当てようと先を見すぎるな。拘りすぎれば、臆病にも雑にもなる。……まぁ講釈垂れるほど、私も知ってる訳じゃないがな。お前たちは、もう少し繊細であればと思うが……」

 

 ミレイユは凱人と七生を順に見てから、アキラへ視線を移す。

 

「繊細と慎重も違う。それらが分かれば、もっと良くなるだろう。一皮も二皮も剥けるんじゃないのか」

「ハイッ!」

 

 景気よく返事をして、ミレイユも満足そうに頷いてから武器を構える。

 アキラ達も構え直すと、手招きするように木剣を動かした。それを合図にアキラ達も動き出して床を蹴る。背後で漣が何かの理術を制御する気配を感じた。

 安全に制御を完了できるよう、とにかくこの場に縫い付けられるよう、アキラは必死になってミレイユの動きを読みつつ木刀を振るった。

 

 

 

 ――そして今、アキラ達は訓練場の床に転がっていた。

 立っているのはミレイユのみ。流石に疲れたのか、溜め息を吐くような呼吸を口から出していた。額には薄っすらとした汗が浮かぶぐらいで、前髪が張り付く程は流れていない。

 

 つまり、アキラ達に出来た事といえば、その程度だった。

 助言も金言も受け取ったとて、それで劇的に良くなる訳ではない。しかし、幾らか喰らいつけるようにはなった。その粘りが、気力も体力も理力すらも、絞り汁一滴すら出ないまでに出し尽くす結果となった。

 

 誰もが荒い息をつき、起き上がる事すら出来ていないというのに、ミレイユだけが訓練を始めた当初と変わらぬ体力を残して立っている。

 彼我の実力差をまざまざと見せ付けられて、既に起き上がれる程までに回復した他の生徒たちも、青ざめた顔でその光景を見つめていた。神は強いとされている、しかしまさかここまでとは、と誰の顔にも書かれていた。

 凱人が疲れだけではない何かを滲ませて、項垂れながら言った。

 

「ここまで、差があるのか……!」

「これが、神と人の差、ね……」

「強くなったと、思ったのになぁ……!」

 

 だが、声音は悲嘆だけのものではない。

 届かなかったし、届く気配もなかった。しかし御子神であるミレイユが強いというのなら、その母神であるオミカゲ様もまた強いと想像できるのだ。

 

 それが分かるから、神の頂きを垣間見えたからこそ、御由緒家の彼らの顔は明るい。

 神は強くなくてはならないと言う訳ではなかったが、強い神である事は誇りに感じる。だからアキラ達は、最後の最後、残った一絞りの気力を総動員して、せめて座った姿勢で頭を下げる。

 

「ご指導ご鞭撻、ありがとうございました……!」

「ああ、頂きは見えたか?」

「見えません、まるで……。我らの矮小さを思い知った気分です」

「それが分かっただけ、収穫はあったな」

 

 アヴェリンが傍に立って差し出すタオルを受け取って、汗を拭いながらミレイユは続ける。

 

「教えるのは今日が最後だ、手向けにしろ。学園には顔を出すかもしれないが、これまでのような事はない。今も強くなってる鬼に、対抗する力を付けるよう期待する」

「ハッ! ご期待に添えるよう努力致します!」

 

 七生が代表して答え、頭を下げた。周りの生徒も膝を折っては頭を下げている。

 ミレイユはそれに頷くだけで何も言わずに踵を返す。遠ざかっていく足音を聞きながら、遠のく気配に畏怖と憧憬を感じていた。

 



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幕間 その1

 阿由葉七生は本日から神明学園にやって来るという男子生徒に向けて、どの様に対応したら良いか、その感情を持て余していた。

 

 御子神様の弟子である、という話があると同時に、しかも男子生徒である、という話がある。

 神を師に持つというだけでも妬みの対象になるものだが、それが男子であるという事実もまた、その感情に拍車を掛けていた。

 男子というのは一等下に見られやすい。理力総量は女子より低い事が圧倒的に多いので、それにつられて弱いというイメージが付き易かった。

 

 それ故に、弱い男子が神に目を掛けられたという風に見られており、悪感情とまでいかないまでも、良いようには見られていない。七生自身、その彼が御由緒家から絶縁された者の息子として聞いているから、同時に同情も感じている。

 

 彼自身に問題が無くとも、親の所為で正当に評価されないというのは悲劇だ。

 本来なら御由緒家の末席に連なる者として、幼い頃から理力の修行や剣の鍛練など、多くの学びの機会があった筈なのだ。

 それを奪われていた訳なので、もし違う未来があったなら、転入などという形でなく順当な形で入学していただろう。幼い頃から互いの屋敷を行き来するような間柄であったかもしれない。

 

 そして、この半端な時期であるにも関わらず転入を許されるという事は、それだけの理力や武術も、彼は有しているという事になる。

 姉が指揮を執っていた事件の折にも、彼は神宮勢力と敵対する形で参戦していたという。

 

 遠目ではあるが、かつて一度だけ結界内へと侵入した姿を見た事がある。

 その時の事は、他に居た者たちの――後にそれが御子神様と知った――印象が強すぎて、男子については記憶が薄い。小鬼に対して剣は振るっていたものの、大した力量ではない、という薄っすらした記憶のみ残っている。

 

 そのチグハグに思える印象が、七生の感情を複雑にさせていた。

 単に偶然目に留まって贔屓にされているだけなのか、それとも実力を見抜かれ、そして見事に開花させた者なのか。

 

 ――実際に見て決めれば良い話だわ。

 七生は自身にそう言い聞かせ、今や教室の話題を独占している彼を思考の隅に追いやる。

 担任の鷲森が教室に入って来て、僅か数日前に急遽転入が決まった男子生徒の紹介を始めた。

 

「……という訳だから、お前たちも余り騒がしくしないように。それでは由喜門、入ってこい」

 

 鷲森の合図で入室してきた生徒を見て、七生は思わず息を止め、身体が硬直した。

 本当に男性なのかと疑い、そして体付きを見てそうだと認める。明らかに鍛えていると分かるのに、その肉体を内側に閉じ込めたような細身をしていた。

 

 顔付きは、そうと知らなければ女性にも見える程に男には見えない。だが、その緊張を讃えた凛々しい目付きは、七生の心を引き付けるには十分な破壊力を秘めていた。

 

 あるいは、と不敬にも思える邪推が心の奥底で燻る。

 その容姿故に、神に目をつけられたのではないか、という気がした。古今東西よくある話だ。その容姿を気に入られて、神にちょっかいを掛けられる、というのは。

 

 ――だとしたら、私は。

 いやいや、と慌てて七生は頭を振った。

 単なる想像、憶測で決めつけるなど有り得ない話だ。しかもそれが神に対する不敬となれば尚の事、真偽などこの先いくらでも知る機会があるのだから、結論を出すのはその時でいい。

 

「由喜門、暁です。不慣れな部分でご迷惑おかけする事もあるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします!」

 

 声まで中性的な、よく通る音だった。

 周りも呆けた様な顔でパラパラと拍手をしている。七生と同じように、思い掛けないアイドルの様な男子の登場に面食らっているのだろう。

 誰もがこれを期に、お近づきになりたいと思っている筈だ。男子生徒の数が異常に少ない当学園では、魅力的な男子というのは相当に価値が高い。

 

 容姿さえ良ければ実力など評価しない、という者もいるが、やはり少数派で、アキラは御由緒家という看板がある所為で、その部分もクリアしている。

 引く手あまたで争奪戦が起こるだろう事は、想像に難くない。

 

 だから、アキラの世話役を任されたのは役得としか言い様がなかった。

 鷲森から任され、それが下心の見えないように返事をするのは、大変な労力を必要とした。

 

「勿論です、お任せください」

 

 声が上擦ったり、変に緊張した声を出さなかった自分を褒めてやりたい。

 自分のすぐ後ろがアキラの席というのも、また嬉しいポイントだった。これなら授業の時も、休憩時間中も、何かと声を掛けたり自然な接触が出来る。

 

 思わずニヤけそうになる口元を隠す為、手で口を覆った。

 七生はクラスでも、お固い委員長だと思われている。御由緒家の一員としても、そういうミーハーめいた気持ちを表に出すべきではない。

 

 そう思ってやり過ごし、鷲森からの御子神様が既に御来臨されている事などの注意点を聞いて、HRが終わった後はどのように彼へ話しかけるかばかりを考えていた。

 だから、そのスタートダッシュに圧倒的な出遅れをしてしまった。

 

 女三人寄れば、とは言うが、クラス全員となれば半端な威力ではない。

 アキラは早速揉みくちゃにされて玩具にされている。挙げ句、その柔らかくも手触りが良さそうな髪に触ったり、腕に手を回して抱き着くような恰好になっていたりした。

 

 何と羨ましい――いや、はしたない真似をするのか!

 七生自身、他の女生徒から押しやられるような形になっていたが、そこへ強制的に割り込み、人の波を泳ぐようにしてアキラの元へ近づく。

 

「――ちょっと待ちなさい! 待ちなさーい!!」

 

 中々、人垣を分けて進めないので、声を張り上げながら前へ進む。

 そうすると、ようやく割って入ろうとした者が誰なのか分かったようだ。そこから推測するに、もしかしたら単に男へ近付きたい誰かだと認識されていたのかもしれない。

 ライバルを一人でも蹴落とそうと、近付く者は一人でも少ない方が良いという行動だったのだろう。

 

 だとすると、現状既にアキラ人気は凄まじい事になってしまっている。

 これが一過性のものなのか、それとも今後の成績次第で下落していくのかは分からないが、その動向には注意を払っておく必要がある。

 

 特に戦闘技能において、その方向性は強く出るだろう。

 他のクラスにいる男子も最初は良く見られてはいた。しかし、理力が自分たちより弱かったり、理力自体に文句はなくとも、戦闘センスがイマイチだったりで、その関心が離れていく事がある。

 

 学園に在席している生徒達の多くは、強い男性を望む。

 他校における、単純にスポーツが得意な男子生徒に人気が出るのと似たようなものだが、今から将来を考えるような目敏い人は、強い男性と結婚を望む。

 

 理力が強い者同士との間に生まれた子供は、母と同じかそれ以上の理力を持って生まれてくるのだという、一種の迷信を信じているからだ。

 御由緒家が正にそれを続けて来た家系で、だから今でも一般組とは隔絶した理力を持つに至る。女性の半分程度しかないとされる男性ですら、御由緒家は一般組の女子よりも高い理力を持っている。

 

 その事実が、まだ誰の手垢もついていない男子――アキラへの積極的関心と繋がっているのだろう。実力は不明でも御由緒家の名を持つ男性を、おいそれと捨て置く事など出来ないのだ。

 既に在学中の御由緒家、漣や凱人なども最初は人気があったのだが、結婚相手は家が決めるので、自由恋愛は許されていない。

 

 その事を知って、未だに中世の世界観で生きているのか、と愕然とした彼女らの顔を今でも覚えている。だが実際、本当に自由恋愛を許されていないか、というと、それには少し語弊がある。

 彼らは次期当主として確定しているので、どこの馬の骨とも知れない相手との婚姻が許されていないだけで、その身元と理力が認められれば、余程頭の硬い当主でなければ普通に婚姻まで持っていける。

 

 そもそも男性でかつ高理力保持者というのは相当に希少なので、名家以外から嫁を取らなければ存続できないという無情な事実がある。

 当主の子が必ず家を存続する世襲制ではなく、最も優れた理力保持者が、その人格までも認められて収まるものだから、普通に当主の姪や甥が当主の座に収まる事もある。

 

 それを思えば、御由緒家なら誰もが優れた理力保持者を欲しそうなものだが、そもそも特別優れた男子の希少性を考えれば、妥協せざるを得ないという部分があった。

 あまり締め付けて婚姻が遅れ、子が生まれない方が余程まずい。

 

 だから姉の結希乃はともかく、七生はそれほど婚姻相手に強い者を求められない。その自由があればこそ、目の前にあるアキラは七生にしても垂涎の的だった。

 最悪、戦えるだけの理力さえあれば良い、と思っていたのに、そこへ将来有望で、且つ七生の心を鷲掴む男子がやって来たのだ。

 

 この千載一遇のチャンスを、七生は逃がすつもりなど無かった。

 周りの女子も狩人気質だが、本当の狩人がいかなるものか、思い知らせてやらねばならない。

 

 そして何より、七生は一目で恋に落ちた。

 七生の初恋は遠い昔で、そしてご多分に漏れず呆気なく破れた。

 二度目の恋、そして学生の恋となれば、それは色々特別なものだ。狭い寮で暮らす生活は、新たな出会いも潤いも少ない。

 だがもしも……もしも恋叶うなら、この学園生活は大変特別なものになるだろう。

 

 その特別を手にしたい、という気持ちがフツフツと湧いて来た。

 何かとアピールし、近付く機会は多い筈。それを少しでも、一つでも多く接すれば、あるいは……という算盤を弾く。

 

 七生は群がる女子生徒を御子神様のお題目を持ち出して蹴散らしてから、その下心が少しでも露出しないよう、細心の注意をしながらアキラへ微笑む。

 

「ごめんなさいね、このクラスはちょっと……元気過ぎるみたいで」

「いえ、大丈夫です。助けてくれて、ありがとうございました」

 

 そう言って握手するように差し出された手を見た時、その心境をどう表現したものだろう。

 早速チャンスが、という気持ちと、早すぎるガッツキ過ぎるな、という二つの気持ちで揺れ動いた。安易に握るようでは余りに(はした)ないのでは、と思ってしまって素直に手が出ない。

 

 それを不審に思ったのか、あるいは待たせすぎて不安になったのか、困った顔をして引っ込めようとする手を、慌てて握り返した。

 少々不自然だったが、直接手を握れるチャンスをみすみす逃がすのは惜しい。必死すぎないように見えたなら良いのだが……。

 

 そう思って感触を楽しもうと、少し違和感があろうと構わずニギニギ動かして、それから皮の厚さに気が付いた。

 両手でその手を包み込むように握って、筋肉の厚みを確認する。

 

 ――間違いない、これは剣士の手だ。

 普段から木刀を握る、勤勉な修行者の剣ダコを持っている。七生自身、そして多くの人と握手した経験から分かる。剣ダコには、その者の為人が出る。

 

 勤勉な者は幾度もタコを潰し、回復してはその度に何度でもタコを作って皮を厚くさせるものだ。才能ある者でも、その鍛練を怠るような人を七生は決して認めない。

 そこから考えると、またもアキラは七生のお眼鏡に一つ叶った事になる。惚れ直した、と言い返しても良い。

 

 恍惚と手の甲を撫で、手の平の厚みを感じるのを止められないでいると、アキラが困惑した声を出してきた。

 

「あぁ、ごめんなさい。……あなたの手、剣士の手ね。それも相当鍛えてる」

 

 慌てて手を離し、取って付けたような言い訳を述べた。その感触を名残惜しく思いながら、自分の掌を揉みつつ小さく頭を下げる。

 ここで手の平を握っては恍惚としていた変態と思われる訳にはいかない。殊勝な態度が表れていれば良いのだが、と思いながら頭を上げた。

 

「楽しくなりそうね。……私に付いて来られる剣士って、あまりいないの。あなたはそうでないと期待するわ」

 

 彼は優れた剣士だろう。

 努力は必ず実るものではないと、七生も知っている。しかし努力は裏切らない。仮に実力が伴わくとも、それでも努力し続けられる人間は、間違いなく尊敬できる。

 

 ――楽しくなりそう。

 その言葉に偽りはなかった。剣士としても、一人の男性としても、七生の心を掴んできた。

 実に楽しい学園生活になりそうだった。

 



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幕間 その2

 御子神様を御前に控えた試合には、酷く緊張させられた。

 一般組の平均底上げと、その為の実力確認という名目で行われた試合だったが、それは御由緒家が参加免除になるという意味ではない。

 むしろ、以前授けられた制御法を十全に使いこなせているか、その確認をしていたと見て良い。そこで不甲斐ない真似を見せれば、必ずやお叱りを受けるだろう。

 

 その意気込みを持って試合に臨んだ。

 一般組とは、以前であっても隔絶した実力差があった。授業の中でも試合をする事は多く、その時は程々に加減して、相手を自信喪失させないよう、程々の手加減をしていたものだ。

 その時ばかりは、生徒というより教師よりの立場となる。

 

 だが今回は、そういう訳にはいかなかった。

 いっそ相手が不憫になるような試合内容だったが、新制御法が身に付いていないと思われる訳にもいかない。

 試合が始まる前にも相手には一言断っておいたが、終わった後にも声を掛けた。

 

「ごめんなさいね、御子神様の前で手を抜く事は出来なかったの」

「うん、それは分かってたから別にいいよ。まぁ正直、あそこまで何もさせて貰えないとは思っていなかったけど……」

 

 力なく笑う相手に苦笑を返しながらも思う。手を抜けないと言いつつも、実際には手を抜いた部分は多々ある。最初の一撃で昏倒させる事だって出来たし、それ以外の合間にも、いつだって戦闘続行不可能な一撃を見舞う事は出来た。

 

 それをしなかったのは、これが七生だけの試合ではなく、対戦相手二人を見るものだったからだ。その力量がどれ程か、見抜くより前に倒しては意味がないと、ギリギリの線で戦っていた。

 

 互いに全力で、という指示には反してしまうが、本当に七生の全力を見せるというなら、他の御由緒家を対戦相手と選ぶだろう。だからこの選択は間違っているとは思っていない。

 その様に、言い訳のような言葉を並べながら待機場所に戻っていると、その途中で、視線に気づいて顔を上げた。

 

 アキラがこちらを見ている。その視線が、かっちりと合った。

 完全な不意打ちで、思考が一瞬で白く染まる。

 試合内容も見られていた筈だ。不甲斐ないと思われなかったろうか、拍子抜けと思われたなら、それには理由があったと言い訳したかった。

 

 実際にあれは七生の全力とは程遠い。

 そう弁明したかったが、無論この場でそのような発言、出来る筈もない。

 それで七生は顔を伏せて、逃げるように待機場所へと戻った。

 

 その後は順調に試合も消化され、他の生徒も七生としても、待ち遠しかったアキラの試合が始まった。御子神様の弟子と噂される男子生徒、それが注目されない筈もなかった。

 だが、蓋を開けてみれば、拍子抜けと言う他ない。

 

「あれで御子神様の弟子なの……?」

「正直、イイトコなしって言うか……」

「でも顔は可愛いし」

「関係ないでしょ。……でもさ、緊張してたこと差し引いても、うーん……」

 

 誰が口を開いても、その評価は辛口だった。

 それは七生にしても同感だったが、本領を発揮しようと奮起している場面は幾つか見えた。それを相手が上手くいなし続けた結果とも言えるが、それを覆す実力がなかったとなれば、やはり拍子抜けという他ない。

 

 御由緒家という看板が重かったのも事実だろうし、それで色眼鏡で見てしまっていた部分はある。過剰に期待し過ぎた結果、順当な実力が判明した。そういう見方も出来るが、七生としては違和感が拭えない。

 

 緊張を抜きにしても、あれが実力を発揮出来なかった結果だとしても、あまりにお粗末としか思えなかったのだ。彼の実力はあんなものではない、という期待とは別の勘が、七生にそう言っていた。

 

 それは御子神様にしても同様であったらしい。

 弟子の実力を知る者としては、その力量を遺憾なく知らしめよ、という配慮だったのかもしれない。凱人を対戦相手に指名したのは、そういう事だと推測した。

 しかし、続く言葉に七生は思わず硬直する。

 

「阿由葉、お前も出ろ」

「は、……ハッ!?」

 

 名前を呼ばれて動揺を隠せず、思わず声が裏返る。

 七生の傍にいた生徒達も、ギョッとして御子神様と七生とを見比べている。本気なのか、と向ける視線が何より雄弁に物語っていた。

 

 七生自身も呼ばれた事が信じられない。

 凱人一人でも手に余るだろうに、そこへ七生も加わるとなれば、それはもう私刑と似たようなものだ。先程の戦いぶりを見た後では、尚の事そう思えてしまう。

 

 鷲森へと視線を向け、止めてくれないか、という縋る様な視線を向けながら、立ち上がって試合場へと近付いていく。結局、鷲森からは何も言われなかったが、責める事は出来ない。

 進言するなら、むしろ立場的に七生や凱人の方が相応しい。それでも七生は何も言えず、結局凱人と並ぶように横へ立った。

 

「いいのか、アキラ。二人同時に相手しようって言うんだぞ。やれというからには手加減しない、それでも良いんだな?」

「大丈夫、罰として殴られるんじゃないんだから」

 

 そうは言うが、心情的には似たようなものだ。

 まるで拷問官にでも任命された気分になって、思わず非難めいた言葉さえ口からついて出てしまった。しかしアキラはどこまでも現状を受け入れる姿勢を崩さない。

 

 アキラが開始線まで移動すると、七生も凱人と顔を見合わせ、渋い顔で頷き合う。

 開始線まで移動すると、横並びになる二人とアキラで対面した。

 

 事ここに至って、やらないという選択肢はないし、そして不甲斐ない姿を見せる事も出来ない。凱人が言ったように、相手にするというなら、それは全力で臨む事になるのだから。

 七生にとっては非常に不満だが、御子神様に取ってはそうではないらしい。

 

 チラリ、とその姿を盗み見れば、満足そうな雰囲気を纏ってアキラを見ている。

 七生と凱人を相手取って、戦う内容になると確信しているようですらあった。アキラの実力を知る者として、この試合を組んだというなら、七生としてもその前提で戦うしかない。

 

 七生は木刀の柄を握り締め、今も真剣な表情で見つめてくるアキラを見返し、開始の合図を待った。

 

 

 

 開始直前にちょっとしたトラブルは遭ったものの、それ自体は歓迎すべきものだった。

 事前にアキラの理力総量を推し量る事が出来た。御子神様からその教えを受けているだけあって、つい最近知った七生達とは違い、その制御力は大したものだった。

 

 対峙する七生たちが正確に把握出来るのは当然として、この試合を見ている他の生徒達も目の色を変えた事だろう。

 直前までのあの試合を見ていれば尚更で、こんな力を隠していたのか、という感想すら抱いた筈だ。しかしこれは単に隠していたのが理由ではなく、その時間がなかった事こそ一番の理由だろう。

 

 制御とは繊細に扱わなければ十全に扱えない。しかし繊細であり過ぎれば弱くも頼りなくもなるものだ。速さを求めれば、その分練度の方が疎かになる。

 だから戦闘中に維持する事は勿論、どれだけ速く最高の状態に持っていけるかもカギになる。

 どちらか一方ではなく、両立させる必要があるから難しくなる。

 

 アキラはその速度が遅い所為で、試合開始とその後まで尾を引いて、十分に制御を練ることが出来なかったのだろう。もしこの状態で試合を開始出来ていたら、先程の試合もきっと簡単に押し切っていた。

 

 開始早々実力を出せないというのは、紛うことなき欠点だ。鬼は待ってもくれないし、こちらの事情に頓着なんてしてくれない。実力さえ発揮できれば、なんて言い訳は通用しないし、一緒に戦う仲間だって許しはしない。

 

 幸い、この欠点は良く見る部類のものだ。

 修正も努力次第で解決できるし、そうしてくる生徒の姿も多く見てみた。アキラが努力を怠らない限り、この欠点はいずれ克服されるだろう。

 

 凱人が常にあるように両腕を開いて構えるのを横で感じると、七生もまた挑戦的な笑みを浮かべて木刀を構え直した。

 



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幕間 その3

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 当然の事だが、七生と凱人による二対一の戦いは常時有利に展開されていた。

 アキラの力は強い。七生もまた相当だという自負はあったが、アキラに制御速度がない分、その力に変換される練度は並外れている。

 

 動体視力や純粋な身体能力に掛かる制御が抜群に上手く、七生でさえ的確な反撃を逃し、更に有効な一太刀を打てないでいた。

 また時に当たっても、それに怯まぬ防御と胆力を持っている。

 痛みを無視しているだけなのか、それとも上手く制御しているのか判断出来ない。

 

 阿由葉が攻撃寄り、由衛が防御寄りと言われているが、このアキラはその中間という気がした。どちらに特化しているというよりは、バランス型なのだ。

 無論、それが最も理想的であるのは七生も知っている。全てを高水準で纏めるのが、最終的に行く着く理想形だろう。

 

 しかし現実はそう上手くいかない。

 才能という問題もあるし、どちらかに特化した方が強くなるという部分もある。七生は防御に寄った制御が、どうにも上手くいかないのと同様、凱人もまた単純に攻撃に回すのが苦手だ。

 

 それもこれも、これまで使ってきた制御術にあったのだろう、と今更ながらに気付かされる。

 攻撃に最適化された制御法だからこそ、防御が苦手となる歪な制御になっていた。現在の形なら、それも克服できそうだが、染み付いた癖というのは中々消えてくれないものだ。

 

 理想的な制御形態を作るのは、まだ時間が掛かるだろう。

 初めから、変な癖なく伝授された制御法だからこそ、アキラはそこまでバランス良く理力を練られるのかもしれない。

 

 最初は七生単独でも有利に試合を進められていたが、それにも陰りが見えてくる。

 そして遂には七生とアキラの立場が逆転し、アキラの連撃が七生を攻め立て続けた。剣術の腕前で言えば、明らかに七生が勝っている。しかし、それでもアキラは予想以上の粘りを見せて七生を苦しめた。

 思わずその表情にも焦りや苦悶が表に出て来る。

 

 しかし七生にも意地がある。アキラの木刀は一度も七生に有効打を与えさせていない。

 しかし、その一撃は回数を重ねる毎に重くなっていき、七生は受けるので精一杯になって来た。本来なら反撃に移れそうなタイミングさえ、大きく体勢を崩された後では、それも適わない。

 

 そして何より厄介なのが――。

 

「くぅ、この……っ!」

 

 七生が隙を突いて放った一撃が、アキラの腕を打った。バランスは崩せるものの、それを意に介した様子もなく攻め立てて来る。

 

 ――私の一撃は、こんなにも軽かったの?

 

 今まで思った事もない不満が胸中を駆け巡る。

 七生の一撃が有効打たり得ないというのは、そう思わせるには十分だった。骨を打った音が鳴っても、動きを止めないので攻めきれない。

 

 だがアキラの一撃もまた、七生には届いていない。単純な剣術勝負として見た場合、まだ七生に軍配が上がる。御影源流の刀法を伝授されているという自負もある。そう簡単に一本与えるつもりはなかった。

 

 アキラはそれでも構わず連撃を仕掛けてくる。その合間に、七生は針の穴を通すような一撃を放ち、胴を叩く。しかし、やはりアキラは止まらない。その木刀を押し返すように前進を続けて来る。

 

 遂にアキラの一撃が七生の頭上へ振り下ろされる、という瞬間、横合いから凱人が殴りつけ、アキラを横っ飛びに吹っ飛ばした。

 

「凱人、余計な事しないで!」

「そうも言ってられん。二対一は健全でも対等でもないが、チームとして戦えとの仰せだ。そのピンチに黙って見ている壁役がいるか」

「く……っ!」

 

 アキラは何度吹き飛ばされても、その速度も力も落とさず愚直に向かって来る。

 運動着の下は見えないが、既に青痣や出血、骨にヒビなど惨憺たる有様になっている筈だった。それなのに、まるで意に介していないように猛攻を続けようとしている。

 

「全く……、痛みがないのか! 効いてない訳ないだろうに!」

 

 悪態をつきながら振り被った拳が、アキラの突進に合わせて突き刺さる。殴り付けた腹に拳が大きくめり込み、そして吹き飛ばされるより前に、アキラの木刀が凱人の防御に回していた肘を下から叩いた。

 思わず呻いて腕の防御が外れる。アキラの木刀の切っ先がその頬を掠め、そこから一筋の血が流れた。

 

 アキラは吹き飛び、そしてもんどり打って床を転がり――そして今更驚く事もないが、再び床を蹴りつけ突進して来た。

 凱人はアキラの眼光に充てられ、明らかに怯む。

 アキラは既にこれを試合だとは認識していない。動けなくなるまで死力を尽くして動くし、動けなくなれば死ぬと判断しているかのようだった。

 

 骨の一本、ヒビの一箇所程度、アキラにとっては怪我の内に入らないとでも言うのか。

 終わりの合図が出るまで、どこまでも愚直に突き進み、その動きを鈍らせるような気配を見せない。――その所為なのかもしれない。

 その必死と決死の思いが、試合をしているだけと思っている凱人と明暗を分けた。

 

 呼気と共に振り抜かれる一撃は、それまでの一刀より尚鋭いものだった。

 凱人はそれを両腕で受けたつもりだったが、先程受けた肘への一撃が踏ん張りを利かなくさせていた。片腕が流され、上手に攻撃をいなせてない。

 

 アキラはその動きに合わせて体捌きを変え、流れた腕に合わせて横へ動き、剣ではなく体術の技で凱人を転ばせた。くるぶしを蹴りつけ、体勢が崩れた所を押し込もうとし、それに反発するように動いた凱人の動きを利用して転倒させる。

 

 そして倒れた凱人には目もくれず、アキラは七生へと急接近しようとした。

 それまで愚直なまでの突進だったのに関わらず、今だけは左右へとフェイントを交えながら向かっていく。これには七生も焦り、その対応に一瞬遅れた。

 

 今までの愚直さは、正に起死回生の一手として使う為の布石だったと、七生は今更ながらに気が付いた。そして気付いた時には、構え備えた所とは違う方向から木刀が向かってくる。

 アキラと目が合った七生は、その決死さに身が竦んだ。避けきれないと思われた一撃だったが、衝撃音と共にアキラの身体が横にズレていく。

 

 何がとは思ったが、その絶好の機会を逃す七生ではない。

 アキラに充てられ、死の危険さえ感じた七生は、その生存本能を余すことなく発揮した。腕の動きはそれまで以上に俊敏に、そして木刀へは最大級の力を込め、奇跡とも言える威力を持った一撃がアキラを打った。

 

 そのインパクトの瞬間、木刀の持ち手が砕けてひしゃげ、刀身まで縦割れのヒビが走る。

 アキラが吹き飛ぶのと同時に木刀は割れて、手の内から砕けて落ちた。アキラは吹き飛び、床に落ちると横へ何度も転がる。

 

「ハァッ、ハァッ、ハッ……!」

 

 アキラの決死に充てられ、七生もまた決死の一撃を放った。

 呼吸は乱れ、鼓動はそれ以上に乱れている。

 だが七生の中に油断はなかった。

 アキラは何度でも起き上がり、そして決死の武器を振るう。その確信があった。武器は七生の手の中で砕けたが、戦えなくなった訳ではない。それなら無手で戦えば良いだけだ。

 

 七生も決死の表情で腕を上げて構えを取り、予期していた通りにアキラが立ち上がった。そして一歩踏み出す姿勢で、唐突に動きが止まる。木刀を構え、今にも飛び出してくるという体勢なのに、まるで動き出す様子がない。

 

「……何? 怖いわね」

 

 受けた後のカウンターを考えていた七生だが、こちらから攻め込む事も考えなければならないか、と構えを変えた時、朗々と響く声に動きを止めた。

 

「――それまで。勝負あった」

 

 七生は御子神様の声を、最初なにを言っているのか理解できなかった。

 だってアキラは立っている。立ち上がる限りは武器を振るう相手であると、七生はこの短い時間で理解していた。そしてそれは、どちらかが倒れるまで終わらない。

 

 だが同時に、決死の表情のまま微動だにしないアキラを不思議にも思った。

 既に踏み出す力が残っておらず、待ちの構えで迎え撃つつもりなのかと怪訝に見据えた。そして唐突に、ゼンマイの切れた玩具のように、武器を構え手放さぬまま、アキラは突っ伏すように倒れて崩れた。

 

「うぁぁあああ!?」

 

 観戦していた生徒たちから悲鳴が上がる。

 幾人かの生徒が駆け寄って、治癒術をかけようと隣に膝を付いて腕を翳した。彼女は泣きそうな顔をさせながら、それでも必死に理力を制御して術を行使しようとしている。

 

「嘘でしょ……」

「たかが練習試合なのに、気絶する直前まで武器を振るえるヤツがいるのか……」

 

 自分に同じ事は出来ない、と言外に語っているかのようだった。

 凱人は七生の近くまでやって来て、近くに落ちている小手を拾った。

 それでにわかに理解した。七生に絶好の機会と木刀を振るった瞬間、アキラの体勢が不自然に崩れたのは、凱人が理力を纏わせた小手を投げつけたからだ。

 

「またやってくれたわね……」

「いや、今回ばかりは間違っていない。あれは頭部を狙っていたし、受けたら死にかねない一撃だった。アキラの奴、おかしくなったのかと思ったが……もしかしたら既に意識はなかったのかもしれん」

「そう……かも。あの表情、あの視線、背筋が凍るほど恐ろしかった。この身と引き換えにしてでも、っていう死を厭わぬ攻撃に見えた……」

「俺もだ。その時から既に意識がなかったというなら、相手を慮らない攻撃も頷ける。――そして、ああまでなる程の鍛練を、日常から受けていたという事にもなる」

 

 七生は顔を引き攣らせてアヴェリンを見る。

 気絶するまで身体を動かせ、そして死ぬなら諸共、と意識の根底に刷り込ませる程、日頃から過酷な鍛練を課す相手……。

 恐ろしものを見るように、畏怖の表情で見つめたが、当人はどこ吹く風でアキラを見ては、満足げな表情で頷いていた。

 

 そして唐突に気づく。七生もいつまでも呆然としていられない。

 介抱の一助でも出来ないかと走り出し、その無事を祈りながら走り寄った。

 



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幕間 その4

 アキラの周りには既に多くの女生徒が取り囲んで、その傷を治療しようとしていたのだが、しかし同時に諍いも起きていた。

 

「ウチがやるから、あんた引っ込んでなよ!」

「何言ってんのよ、治癒術ヘタクソな癖に、こんな時だけ出しゃばらないでよ!」

「はぁ? あんたよりマシですけど!」

「どっちも似たようなもんでしょ、下手な治癒されたらアキラ様が可哀想よ。私がやるわ」

「何がアキラ様よ、さっきまで失望するような目で見てた癖に!」

「でもアキラ様って呼び方はいい」

「それね、それはね。でもあんたはお呼びじゃないから、どっか他所いってなさいよ」

 

 今はピクリともしない気絶したアキラを巡って、誰が治癒するかで大いに揉めている。誰がやるか言い合う暇があるなら早く治癒してやれと思うのだが、そこに浅ましい下心が加わる事で、熾烈な争いとなってしまっているようだ。

 

 七生は盛大に溜め息を吐きながら、治癒術士以外の、輪になって様子を窺っている生徒達へと分け入っていく。

 

「いいから早く治癒してあげて! 崎守さん、あなたにお願いするわ。このままじゃ、いつまでたっても終わらないもの」

「お任せ下さい」

 

 七生自身が使えれば、有無も言わさず治癒しに走ったのだが、この場面ではそうもいかない。心配そうであるものの、争いに加担しなかった一名を指名した。

 役得とでも思ったのか、頬を紅潮させてアキラへ近付いていく。

 

 あれも要注意だな、と思いながら施術されていく姿を見守る。

 傷は実際、酷いものだった。打撲に裂傷、骨折まで、およそ一日の訓練で受けるような怪我ではない。理術士は頑丈で、治癒によるサポートがあるとはいえ、ここまで過酷な訓練は課されないし、進んでしようとも思わない。

 

 実際、骨折の一つも自覚したなら、まず棄権を申し出るだろう。

 だが、アキラは戦い続ける事を選んだ。傷を受けても、骨を折られようと、戦う意思までは折れなかった。これが鬼を相手にする際、どれほど勇気づけられる行動であるか、言わなくても伝わる。

 

 実際、彼女らの熱狂的支持は、そこにこそあるのだろう。

 御由緒家二名による私刑とも取れる試合に、あそこまで果敢に喰らいついた。終わってみればアキラの完敗でしかなかったが、その試合内容を見ればアキラを見直すには十分すぎるものだった。

 

 先の試合の失点など、あってないようなものだ。

 とっくに取り返して、アキラの株はストップ高まで急上昇している。

 

 ギリィ、と七生の奥歯が音を立てた。

 朝の段階でも、既にその人気は高かった。実力不足でもまぁ顔は良いし、というミーハー的考えをしている生徒も多かったのだ。

 

 しかし、あの戦いぶりと熱気に充てられて、アキラ自身に熱を向ける者も多くなっている。

 ライバルの数が大幅に増えた事に、危機感を覚えずにはいられない。じっとりと熱に浮かされた顔を睨み付けていると、背後から凱人と漣がやって来た。

 

「怪我の方は大丈夫なのか」

「……まぁ、一応は。もっと早く着手してくれていたら、と思わずにはいられないけど。でも所見に寄れば、そう深刻な怪我でもなく、後遺症もなさそうよ」

「呆れた頑丈さだな……」

「ハッ、凱人に言われる程たぁ、アキラの奴も相当だな」

 

 今も目を瞑って時折うめき声を上げるアキラへ、半ば感心するように言った凱人を、漣は鼻を鳴らして笑った。

 だがそれは、実際七生からしても同じような感想だった。

 あれだけ勝ち目のない戦いに身を投じられるというのもそうだが、傷付きながらもそれを感じさせない動きで戦い続けられるというのも、頑丈の一言で片付けて良いものではない。

 

 一体どれほどの訓練と薫陶を受ければ、あのように動けるのだろう。

 真似するべきとも規範となるべきとも言えないが、これが新たな仲間だと思えば、実に頼もしいと言わざるを得ない。

 

 漣が傷だらけの身体から、徐々に回復していく姿を見ながら言う。

 

「けどよ、俺ぁアキラを見直した。コイツはやる奴だと思ってたぜ」

「そうだな。本領発揮してからは凄まじいものがあった。だから最初は、あんなものかと拍子抜けしてしまった訳だが」

「エンジンあったまるのが遅いってのは、まぁ問題だがよ。けど、あれだけ戦えるなら、まず文句ねぇだろ。誰だってそう言うぜ」

「……そうね。あの女子どもを黙らすのは骨が折れそう」

 

 なるべく気軽と思わせる調子で同意しようとして、しかし意思に反して声が一段低くなった。

 漣と凱人がギョッと顔を向けてくる。七生がそれらを睨み付けるようにして見返した。

 

「……何よ?」

「いや、別に」

「そうだよな、別にアレだよな」

「……言いたい事あるなら、言いなさいよ」

 

 七生の声がまた一段低くなって、凱人と漣は慌てて首や両手を横に振った。

 

「いや、何も? だよな、凱人!」

「勿論だ。それよりも、あれだ……ほら」

「何よさっきから、あれあれと指示代名詞ばかりな連中ね」

 

 今度は指を差し向け七生の後ろを指し示す。いい加減しびれを切らしそうになったところで振り向くと、鷲森が苦言を呈する様相でこちらを見ていた。

 

 そして気づく。

 本来なら全ての試合が終了したところで、御子神様へと観覧に対する礼をせねばならないところだ。気絶する程の怪我人が出た事で有耶無耶になるところだったが、本来なら怪我人は誰か治癒術士に任せ、他の者は整列を始めていなければならない。

 

 七生は声を張り上げて、生徒達の尻を叩いて訓練場へと戻す。

 礼を失するような真似は決して出来ない。

 そうして万事滞り無く授業のスケジュールを消化すると、七生は大きく安堵の息を吐くのだった。

 

 

 

 怪我の治療は無事に済んだからといって、気絶から目の醒めないアキラは保健室へと運ばれていった。今日は一日ベッドの上か、あるいは途中で寮の方へ運ばれるかすると思っていたのだが、昼休みよりも少し早く復帰してきて、クラス中の度肝を抜いた。

 

 回復力が早いという問題ではない。

 単に傷が塞がっていると言うだけで、内蔵へのダメージは残っているだろうし、何より体力や理力までは回復しない。今日一日はダルさが取れず、何をする気にもなれない筈だった。

 そして、それを怠慢だと糾弾する者はいないだろう。今日一日と言わず明日いっぱいまで休息を取っても、誰も異議を唱えたりしない。

 

 そして現在昼休み、食堂で同じテーブルの対面という良席を手にしながら、七生は気遣わしげにアキラを見た。小さく目立たない青痣程度はあるようだが、内臓系の痛みなど苦にもしない様子で食事に手を付けている。

 

 四人がけのテーブルには、七生の隣には漣、アキラの隣には凱人と、珍しい取り合わせで席を囲んでいる。アキラの近くに座りたがる女子による争奪戦が行われようとした時、七生が咄嗟に機転を利かせて御由緒家のみで話し合う事がある、と遠慮して貰ったのだ。

 

 多く乱発できない手段だが、何事も最初が肝心とも言う。

 ここで煩わしい女子どもを近づかせる訳にはいかなかった。

 それに実際、このメンバーで聞きたい事があったのは事実だ。特に凱人や漣などは、今日の試合の事で何かと聞きたい事もあった筈で、声を掛けられて渡りに船と思った筈だ。

 

 その漣が自分の食事を手に付けず、呆然とした様子で次々と胃袋に収めていくアキラを見つめた。

 

「お前、よくそんな食えるな……。健啖家とか、そういうレベルじゃないだろ」

「そうだな、あんなにしこたま殴られて、よく食事を胃が受け付けるものだ。普通はもっと……消化に良いものにでもしないと、戻してしまうと思うのだが」

 

 凱人からの助言とも常識への訴えとも言える発言を聞くともなく聞きながら、アキラは食事を続ける。そこは少しでも栄養を補給しようと無理する姿ではなく、ごく普通の自然体――腹を空かしているから食事を摂る、という風にしか見えなかった。

 

「ほんと……凄いわね。私だったら、もう口元抑えてしまいそうだけど……」

「師匠との鍛練では、あのぐらい痛めつけられるのは当たり前だったから。試合中に気絶して、でも起き上がって戦うというのは、正直過去にも無かったと思うけど……でも多分、師匠は出来て当然くらいのこと言ってくるんじゃないかな」

「マジかよ……。お前んとこ、そんな厳しいの?」

 

 漣は顔面を蒼白にして聞き返す。さっきからまるで食事の手が動いておらず、想像だけで食事が喉を通らなくなってしまったようだ。いたずらに箸が容器の底を叩くだけで、口元に運ぶ気配がまるでない。

 

 とはいえ、七生としても似たような感想だ。

 食事が喉を通らない程ではないにしろ、アキラの話を聞く限りでは、それは鍛練ではなく拷問の類だ。むしろ師弟関係を解消する為、自発的に辞める事を期待して行ってきた虐待にしか思えない。

 嬉々として鍛練の様子を語るアキラには、同情以前に正気を疑う破目になった。

 

「気絶するまで転がされたり、殴られるのなんて日常だよ。痛みは慣れなきゃ耐えられないっていうのが持論で、耐えられない方が悪いっていう論法だから。それにさ、耐えられなければ鬼の食い物にされるだけじゃないか。一種の優しさだと思うよ」

「いやいやいや、正気に戻れよ。痛みに慣れる云々は良いとしても、だから気絶するまで殴るっていうのは、現代じゃ有り得ねぇ修行法だからな。時代錯誤も甚だしいだろ」

「あー……」

 

 その指摘は的を射ていると思ったのか、アキラも言葉を探して黙ってしまった。

 御子神様に仕える従属神だから、世の常識と違うところはあるにしろ、現代に在るなら現代の在り様というものも学ぶべきではないか。

 

 何より、その端正な顔が傷つく様は見たくない。というより、傷付けるなら自分以外は許せない、という気持ちが湧いてくる。

 七生はアキラの顔を改めて見つめた。この様に近い距離で観察する機会があれば、それを逃すつもりはない。

 

 そして思うのは、女顔でありつつ中性的な雰囲気があり、そして時に凛々しくも雄々しい姿を見せるという事だった。肌のきめ細かさや睫毛の長さなど、とても男性的とは思えず、だからクラスの誰かが王子様だと評した表現は実にらしく映った。

 

 七生の心を掴んで離さない男性が、目と鼻の先、息の届く範囲にいる。

 その余りに近く遠い距離に、七生はもどかしさを覚えて身悶えした。

 

 アキラの視線が七生を向く。

 見つめていた事がバレたのだろう。七生に視線を合わせ、そして困ったように笑った。

 その笑みに当てられて、七生は思わず顔を伏せる。そして伏せると同時に拳が動いた。

 

「――フヌっふ!」

「ばっ……! いっでぇな、おい!」

 

 どこに放出して良いものか分からない感情の爆発が、七生に暴力の発露という形で発散させた。隣に座っていた漣の肩を殴り付ける形になったが、それがなければ目の前の笑顔に飛び付いてしまっていたかもしれない。

 

「お前、七生! なんでいきなり殴り付けて来たんだよ、おい!」

「……黙って。必要な事だったのよ」

「必要な事って、何言ってんだ。これ人によっちゃ、骨折れてたからな!?」

「だが、見事な制御速度だったじゃないか。飯時でも油断しない姿勢は、俺も見習わないといかんな」

「そこじゃねぇだろ、凱人。突然暴力振るった我らがリーダーに、もっと言う事あんだろが!」

 

 涙目になって腕を擦る漣に、ズレた発言をする凱人。その気兼ねない態度に、アキラが声を上げて笑った。その笑顔が眩しくて、顔を真赤に震わせた七生の、再びの拳が漣の方を襲う。

 悲鳴が上がり、そしてそれに輪を掛けた笑声が上がった。

 

 学園生としての貴重な時間が、笑顔と共に過ぎていった。

 



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第六章
嵐の前の その1


 それから三ヶ月の時間が流れ、秋は終わり冬が訪れた。

 雪が降るようになり、奥宮の広い庭園も一面白く染まった。春には春の穏やかさ、夏には夏の晴れやかさ、そして冬には冬の侘しさを表現するのが、この庭園らしい。

 

 ミレイユの居室から窺える風景も、窓という枠の中に収められた情景が、ちらほらと降る雪と合わさる事で、何とも言えない物寂しさを表している。

 ただ寂しいだけ、悲しげに感じるだけけでなく、雪をコントラストとした美がそこにあった。

 

 ミレイユはアヴェリンと共に窓の外へ視線を向けながら、お茶を飲んではその情景に思いを馳せていた。室内は温かいが、窓辺付近は冷気がやんわりと届く。

 その冷気すら楽しみながら、冬の美しさを堪能していた。

 ミレイユが過ごす室内と、その周辺にも音らしい音はない。

 その静謐さがまた、外の光景をより一層引き立てているようであった。

 

 ミレイユとアヴェリンの間に会話はない。時折視線が合っては、ちらりと笑みを浮かべるぐらいだ。二人にはそれで十分だった。

 沈黙を苦としないのは、お互いの心の距離が近いからだ。沈黙ですら一つの娯楽として受け入れるだけの度量がある。

 

 しかし、その時間も長くは続かない。

 冬の沈黙と静謐を、無遠慮に打ち壊す者があった。

 控えめに戸が叩かれ、入室の許可を求める声が上がる。室内に待機していた咲桜が動き、その取次を行った。何事かを囁き合うような会話の後、しずしずとミレイユの元へやって来ては頭を下げる。

 

「ユミル様がいらっしゃっております。お通ししても宜しいでしょうか」

「あぁ、通してくれ」

 

 ミレイユは鷹揚に応えて頷く。

 程なくして案内されて来たユミルが、近くにある小卓の席へと座る。ミレイユとアヴェリンも窓の景色を一望できる広縁(ひろえん)から動き、ユミルに合わせて席を移った。

 

 程なくしてお茶と茶菓が運ばれて、ミレイユがそれに目礼してやってから口を付ける。それを見届けたユミルも、同様に口を付けてはホッと息を吐いた。

 

「まぁ……、何だか随分ゆっくりしてるわね」

「何だいきなり、開口一番。ここ最近は忙しくしていたんだ、少しの余暇を楽しむぐらいは構わんだろう」

 

 アヴェリンが鼻白んで反論すると、ユミルは苦笑しては面倒そうに、手首をプラプラと動かす。

 

「別に文句を付けてるワケじゃないってば。忙しいのは事実だったしね」

「神という立場が、それほど忙しく働かせないという話だった筈だがな。……結局、アレコレと理由を付けて、動かされていた感じだったな」

 

 ミレイユが嘆息してお茶を口に運ぶと、ユミルも鼻を鳴らして頷く。

 

「時間的余裕がない、という理由も分かるけどね。孔の拡大は強まるばかりで、結局オミカゲサマの言うとおりになってるし。戦力の強化や充足は必須だったんでしょう」

「まぁ、そうだな。だからこそ今でも結界は維持出来ているんだろう。以前のままであったなら、到底持ち堪えられなかったろうし、そうなれば私かオミカゲの出番だったろうな」

 

 だが御由緒家は護国の(かなめ)、オミカゲ様の矛と盾、という誇りが強く、神を頼りにする事を良しとしない。安易に頼るのは以ての外だという認識でいる。

 それを恥とすら思っている節があり、救援要請を出すのは玉砕覚悟で突っ込んだ後に出すものだと思っている。

 

 それを考えると、ミレイユが呼ばれた状況は随分特殊だった。年若い者たちばかりがいた状況が、柔軟な発想をさせた原因かもしれない。

 

 ミレイユとしては、それで正解だと言いたいのだが、軽快すぎるフットワークで神が動くというのも、それはそれで問題があるらしい。

 何より安易な行動を取ると巫女達がうるさい。神の為に死ぬのが人の定めだとでも言いそうだし、オミカゲ様至上主義が行き過ぎているきらいがある。

 

 オミカゲ様に仕えている、その身近さがある種の特権意識を持たせるものらしく、傲慢さの様なものが見え隠れしていた。

 直接、神と意見を交わせるだけに留まらず、オミカゲ様もまた多くを呑むからこそ、今のような形になっているのではないか、という気がする。

 

 何かと巫女連中に甘いのだ、オミカゲ様は。

 抗弁すれば幾らでも我が通るというのに、それをしないのは甘さだけが理由ではないのかもしれない。とはいえ、そんな事はミレイユに取ってはどうでも良かった。

 

 ユミルはどこかつまらなそうな表情で言う。

 

「別にさ、戦闘に引き摺り出されるのは良いんだけどね……。あっちじゃ珍しくない事だったし。それより問題は、間に合うのかって事でしょ」

「……そうだな」

 

 ミレイユ達が戦力強化として動いたのは、何も学生たちのみに行っていた訳ではない。むしろそちらはオマケに近く、御由緒家だけを強化するよりも、同じ場所にいるのだから他の生徒も、と同時に行おうとなっただけに過ぎない。

 

 むしろ必要なのは、現在主力として動いている御影本庁の一般隊士たちの方で、こちらは学生たちと違って日夜、鬼と戦っている。

 現学生の御由緒家に救援要請を出すのは、あくまで緊急事態に限った事で、基本的にはこの隊士達が鬼を処理する。

 

 だから、その隊士達を強化するのは当然だったし、学生よりも数の多い隊士へは、より一層力の籠もった指導が飛んだ。

 学生と違って遠慮の必要がない、というのが理由の一つだが、吸収力が段違いだった、という理由もある。普段から戦っているだけに実戦経験豊富で、学生よりも基礎力も高い。それはやはり訓練時間の差から生まれる、如何ともし難い部分だろう。

 

 学生は当然ながら勉学に勤しむ時間が在るが、隊士達にはそれがない。基本的に一日中訓練している事も少なくないので、その基礎力の差は学生とは歴然としている。

 鍛えに鍛えた基礎力は、ミレイユの指導で花開き、今では以前の御由緒家と並ぶ実力を持つ者も出るようになった。

 

 だからこそ、とも言えるが、鬼の強化が日毎続く中、今でも水際対策が保たれている。

 

「まぁ、ギリギリ間に合った、という事かもな」

「間に合ったとは言えないでしょ。魔物の強化度合いに付いて行けてるのは事実だけど、早晩崩されるのも目に見えてる。延命処置が功を成したのも認めるけど、延命は延命でしかないワケよ」

「うん……」

 

 ミレイユは重苦しい息を吐き出して頷いた。

 現状の強化曲線は、鬼と隊士はほぼ同じ動きを見せている。

 しかし鬼の強さというのは、時として曲線ではなく直線的に上昇する。牛頭鬼(ミノタウロス)が現われている中で、四腕鬼(サイクロプス)が出現したように、その強化曲線は一定ではない。

 

 次の直線強化が起きた時、その戦いに付いて行けるのは、やはり御由緒家を始めとした一握りだけ、という事になるだろう。初めて四腕鬼(サイクロプス)と相対した時のように、一般隊士が役に立たないという事態になる。

 

 だが一つ救いがあるとするなら、一般隊士の成長著しいのと同様、御由緒家の面々もまた、その成長具合に舌を巻く事だった。

 

「この前、学園の方まで足運んだんでしょ? どうだったの?」

「……そうだな。予想よりも遥かに実力を増していた。正直なところ、意外だった。嬉しい誤算と言えるかもしれないが」

「へぇ……? 何かあったの?」

 

 ユミルが興味深げに聞いて来たが、しかし学生の身であれほど伸びた理由が、ミレイユにも見当がつかない。

 御影本庁の隊士からすれば、喫緊の問題だから本気で取り組むのは分かる。七生を代表とする御由緒家たちも、自分たちが学生だからという理由で安全地帯にいるとは思っていない。

 

 幾度も緊急招集を受けているから、いつだって動けるよう、そして戦えるよう準備しているとはいえ、その実力の伸びは予想を遥かに超えるものだ。

 ミレイユとしては、何故と首を傾げるしか出来ない現象だった。

 そこへアヴェリンが、ミレイユと共に見て感じた自論を口にした。

 

「あれに関しては、アキラが程良く焚き付ける形になっていたのが原因かと思われます」

「焚き付ける?」

「……というと、語弊があるでしょうが。アキラ自身も良い刺激を受けていたようです。やはり同年代で同じ様な実力者との手合わせは、良い成長を与えるものですから」

 

 それでミレイユも得心がいった。小さく頷きながら顎に手を添える。

 

「アキラは最後の一絞りまで動く事に慣れていたからな……。そのアキラに感化されて他の者も同様に絞り込むようになり、それが相互に働いた結果、著しい向上に繋がったと……」

「そうだと思います。ライバル意識なんぞも、あったかもしれません。それが良い結果を生んだのでしょう」

「まだ若い彼らだしな。向上力だけで言えば、一度火が付けば宜なるかな、といった感じか」

「真に、左様ですね」

 

 アヴェリンが薄く笑むと、ミレイユも更に得心顔になって頷く。

 そこへユミルが、つまらなそうに鼻白んで話を戻した。

 

「戦力の向上が予想以上であるのは喜ばしい事よ。全体の底上げという、当初の目標は達成できた。そして御由緒家を始めとした一握りの実力者もまた、その向上著しいというのも目出度いのかもね。でも結局……、でしょ?」

 

 最後は言葉を濁して言わなかったが、何を言いたいのかは理解できる。

 それはユミルが先程言った、延命は所詮延命でしかない、という言葉に繋がる。

 あちらの魔物の強さや種類を知っているミレイユ達からすれば、現在出現している魔物がどの程度の敵なのか理解している。御由緒家を始めとする現世勢力は、いま必死に食らいついてはいるものの、実は中級程度の相手に苦戦しているような状態だ。

 

 四腕鬼(サイクロプス)ですら中の下というべきで、これが中の中に上がったなら、その段階で、もう戦闘には付いて行けなくなる。

 個体差には違いがあるから、上位種が出たとしても喰らいつける可能性はあるが、更にもう一段階上がった時点で瓦解が始まると見て良いだろう。

 

 そしてその時になって、御由緒家ですら戦力になれるかというと……。

 難しいと言わざるを得なかった。

 

「時間は残されていないな」

「そうね。この短時間で実力を伸ばした事は評価するけど、結局……中の下止まりでしょ? 元から対策としては、その場しのぎだと分かっていたじゃない。解決を計るなら、孔を縮めるか、それとも開けさせない方法を探らないと意味がないって」

「それも分かってるが……。開けさせない方法なんてあるなら、とっくに何かやってる筈だろう。千年放置していた問題というからには、そんな方法はないんじゃないのか」

「ま、そうね……。未来のアンタだもの、オミカゲ様だってバカじゃない。アタシの助言がなくても、アヴェリンの手助けがなくとも、ルチアと二人三脚で対策を講じたコトでしょう」

 

 聞き咎められかねない単語が口から出て、ミレイユは小さく眉を顰める。口にしたユミルも、自身やアヴェリンの事を言うに当たって、何とも複雑そうに顔を歪めた。

 だがいずれにしても、ユミルの推論が間違っているとは思えない。

 

「……つまり、孔については後手にならざるを得ない、臍を噛んで開く孔を見続けるしかなかった、という事なんだろうさ」

「それでこそ、なのかもしれないけど……結界術を上手く活用したわよね。その手腕は褒めてあげたいけどねぇ……」

 

 ユミルは流し目で窓の外へ視線を向け、それから舞い落ちる雪を眺めてから元に戻す。

 

「結界の方は――ルチアの方はどうなってるの?」

「芳しくないらしい。元より分かっていた事だ。本人たっての希望だから聞き届けたが、そもそも圧倒的に時間が足りないというのは、最初から言われていた。もしかしたらという期待が無かったとは言わないが……」

「そうね、……一度行ってみる? 進捗状況も確認したいし、それに何より……、そろそろ決めるべきでしょ」

 

 ユミルの言いたい事は分かる。

 しかし即座に返答するのも難しい。難しいというよりは、踏ん切りがつかないのだ。それを決めるには、ミレイユにとっても相当な覚悟がいる。

 

 ミレイユは窓の外に視線を移し、陽の高さを確認した。今は昼を少し過ぎたばかり、冬の空と雲に覆われて陽の光は見えないが、その明るさから察する事は出来る。まだ陰るには早すぎる時間帯で、動くに動けないという訳でもない。

 

 何より移動には転移があるから――転移室への移動は面倒だとして――、外出時間に関して神経質になる必要はない。

 ミレイユは咲桜を呼び付け、支度の準備を進めるように言って、大社へ訪問する旨も同時に伝えるよう指示した。

 

 余りその必要はないが、アヴェリンにも準備を進めるように言うと、ミレイユは残りのお茶を喉の奥に流し込んだ。

 



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嵐の前の その2

あーるす様、誤字報告ありがとうございます!
 


 御影昇日大社に転移が完了して、舞殿へと移動している最中、思わぬ寒さで身を震わせた。あちらの世界で活動していた地域は冬の寒さが厳しく、その為寒さには慣れたものだと思っていたが、神宮内の快適な室温に慣れてしまうと、それもあっさりと覆されてしまうものらしい。

 

 室内に入れば風は凌げるが、暖房が効いていたりはしていないようだ。

 ここでの生活が、まるで修行者のように思えてきて、暖かな室内で過ごしているのが申し訳なく思えてくる。だが、最奥の部屋まで案内されると、それも杞憂と分かった。

 

「ハァッ、ハァッ、ハッ……ハッ……!」

 

 ルチアが額から汗を流して結界に向き合っている。

 いつもの様に、部屋の中心にある三段に積み上げられた畳の上で、巫女服に身を包み、正座をしながら結界術を行使していた。

 以前のように倒れ込むような事は無くなってきたと聞いているし、事実ミレイユは倒れた姿を見た覚えはないが、それでも額に汗して制御に集中する様は、鬼気迫るものがあった。

 

 ミレイユが入室したというのに、ルチアは見向きもしない。

 目を固く閉じて、時折口の中で何かを呟くように唇を動かすだけだ。そのルチアを指導している一千華は、流石にミレイユの入室に気付いて、ルチアの集中を妨害しないよう、ごく軽く頭を傾けて礼をした。

 

 ミレイユもそれに頷く事で返礼とし、今も続くルチアの制御を見続ける。

 ミレイユの両脇に位置するように直立するアヴェリンとユミルも、邪魔しないよう極力気配を消して、音の一つも立てなかった。

 

 どれ程の時間そうしていたのか、遂に呼吸も乱れに乱れ、柳眉の間に深い皺が刻まれるようになると、一千華から止めるように指示が飛ぶ。

 

「――そこまで。もう、結構です」

「ハァッ、ハァッ……。はい……」

「休憩した方が宜しいでしょう。続きはまた後で。……お客様もいらしておりますしね」

 

 その言葉を聞いて、ようやくルチアはミレイユ達の存在に気付いたようだった。

 ミレイユの顔を見るなり顔を綻ばせ、そしてすぐに表情が萎む。肩を落とし、まるで自分が不甲斐ないとでも思っているような雰囲気を纏わせた。

 

 ミレイユはそこへ歩み寄り、盛り積んだ畳の縁に手を掛ける。

 身を屈めて膝を折り、汗で張り付いた前髪を払い、撫で付けてやる。その間もルチアはミレイユへ顔を向ける事はなかった。気恥ずかしい思いでいるなら微笑ましいばかりだが、罪悪感から来ている事は理解していた。

 

 やってみせるという様な啖呵を切った手前、というものもあるだろう。

 自分ならばやれる、という自負もあったに違いない。

 しかし、実際の進捗具合は芳しくなく、更に言うなら進展なしと言って良い有様だった。

 

 合わせる顔がない、と思っても仕方なのない状況ではある。

 ミレイユは、そんなルチアの肩へ手を置き、それから胸の奥へ仕舞い込むように抱き込んだ。

 

「ちょ、ちょっとミレイさん……!?」

「責任感が強いのは良いがな、そう思い詰めるな……。誰もお前を咎めやしない。お前の努力を知ってなお、謗るような奴はいないんだ」

「はい……」

 

 しおらしく返事して、ルチアは抱かれるままにコクンと小さく頷いた。

 ミレイユはその華奢な背をしばらく撫でる。熱で火照って熱い身体は、それだけ辛い制御を続けて来た証明だ。一体何時間そうしていたのかは分からないが、相当な無茶をしている事だけは分かった。

 

 それを身体中で感じて、最後にその背をひと撫でしてから身を離す。

 ルチアは名残惜しそうに見つめて来たが、それを笑みで返して一千華へ向き直った。

 

「……それで、どうなんだ? やはり……」

「はい、お察しのとおりです。当初想定されていた段階より、遥かに凌駕している事は認めます。わたくしの補助があったとはいえ、その鬼気迫る努力は限界を越えた先へ辿り着いたと言って過言ではありません。ですが……」

「一千華に迫る程のものではなかった、と……」

 

 本人が言い辛い事をミレイユが代わりに言って、それで一千華の緊張した表情が僅かに緩む。

 最初からルチアに対して苦言を呈していた身とはいえ、その事を口にするには抵抗があったのだろう。

 ミレイユは続ける。

 

「このまま続けさせる意味はあるか?」

「ないとは申せません。今までの成長と適応は、わたくしの想定を上回るものです。あるいは、と思わせるものもございます。とはいえ……」

「時間は今となっては資源だ、かつてそう言った事もあった」

 

 言いながら、ミレイユは視線を一千華から切り、ルチアへと向ける。

 

「最初からボーダーラインは三ヶ月と考えてもいたろう。そこで実用範囲まで力を付けられなければ、早くて半年で破綻する結界までには間に合わないと。……この辺で見切りを付けるべきだと言う声もある」

「言ったのは、どうせユミルさんでしょ」

 

 ルチアはミレイユが壁になって見えない背後へ、ひょいと顔を動かしてはユミルを睨め付ける。当のユミルは顔を外に向けたまま、肩を竦めて言った。

 

「誰かが口にしなくちゃいけないコトでしょ。この子にしろアヴェリンにしろ、アンタの努力を知ってるから、おいそれと口に出来ないってだけだし」

「でも、成果は出てるんです……!」

「そのようね。でも、その成果が実る保障の方が、少ないのもまた事実なワケでしょ? アタシは別にイジワル言いたいワケじゃないのよ。失敗しました、間に合いませんでした……そんな詫び一つで済まされないって、アンタも分かってるでしょ?」

 

 ルチアは悔しげに唇の端を噛んで俯く。

 仲間思いであればこそ言えない事だった。その貧乏くじを自ら引いてくれたユミルには感謝したいが、しかし同時に現実を突き付けられたルチアを哀れに思う。

 

 元より苦手な結界術だ。

 長年の研鑽の果て、一千華はそれを克服し昇華するに至ったが、同じ道程(みちのり)を幾らか短縮して進めるとはいえ、それは決して簡単に縮められる時間ではない。

 

 分かっていても諦められない、という事はある。

 元より負け試合に挑むようなものだった。順当な結果といえば、順当な結果に終わった。予想以上の努力を見せてくれたが、常に実る訳ではないのも、また努力だ。

 

「鬼の強化傾向は、結界に触ってるアンタが一番良く知ってるでしょ? 御由緒家であっても、手の付けられない相手が出てくる日は近いわよ。いっそ現場に出てきてくれた方が助かるんじゃない?」

 

 御由緒家の出動は、今でも日常的に行われている事だ。

 それは学生達にとっても同様で、強個体の鬼が相手と分かれば動員されていた。未だミレイユへ救援要請が来るまでには至っていないが、それも時間の問題だろうというのが大抵の予想だった。

 

 ミレイユはルチアに寄り添って、その手を取っては甲を撫でる。

 

「お前は今まで良くやって来た。どうせ無理だと言われていたものに抗い、そして一千華を驚嘆させる程の成長を見せた。だから今は少し休め」

「そんな暇なんて……! 休めって……、もしかしてもう外されるのは決定なんですか?」

 

 ルチアがその手を握り返して、縋るように見返してくる。

 互いの額が触れるかのような近さで、ルチアは真摯に目を見つめてくる。その目は、まだやれる、まだ諦めないと言っていた。

 

 しかしミレイユは、損切りも必要だと思っている。

 これまでの努力が無に帰すようで申し訳なく思うが、しかし同時に無理だと思えば諦める、という条件でもあった筈だ。

 

 それをこの場で口にするには勇気がいる。

 だからミレイユは、とりあえずの避難先として別の話題へ話を逸らす事にした。

 

「……なぁ、今はとにかく、休息する時間があっても良くないか。これまでの三ヶ月、ろくな休みも取ってないだろう?」

「時間も資源と言ったのはミレイさんです。休んでる暇なんて……!」

「だが、下手をすると、このまま現世を離れる事もあるかもしれない。……いつだったか、もう一度遊びに連れて行くと約束したろう。その約束を、私に果たす機会をくれないか」

「それは……」

 

 今となっては、それも遠い思い出になってしまった。

 あの時は自分たちを監視する目があっても脅威とは思わず、そして監視者に魔力があろうと、どうとでも対処できると予想していた。

 警戒を怠るような愚は犯していなかったが、同時に楽観もしていた。結界も魔物も、そしてオミカゲ様の事も知らず、安穏としていたものだった。

 

 気紛れにアキラを拾って、そして気付いた範囲で結界内の鬼を倒して回っていた。

 その一種、平和とも思える日々が、ひどく懐かしい。こんな事になると知っていたら、もっと早くに遊びへ連れて行ってやれたものを。

 

 ルチアは言葉に窮し、顔をうつむけて答えない。

 

「難しく考える必要はない。休息する事で見えてくるものもある、それはルチアも知っているだろう。急ぎで余裕がないからと言って、休息を取る事が必ずしも悪とはならない」

「そうですけど……」

「ねぇ、ルチア。気分転換すれば、また違った発見があるかもしれないじゃない。一日ぐらい付き合いなさいな」

 

 ユミルが口を挟んで、ルチアはムッと眉を寄せた。

 それから不承不承という体で小さく頷くと、ミレイユは一千華へと顔を向ける。

 

「そういう訳だから……明日一日、ルチアを借り受けるが、構わないか」

「ええ、どうぞ連れて行って下さいな。休めと言っても休まない娘ですから、強引なぐらいで丁度よろしいでしょう」

 

 我が事のように見透かした物言いに、ルチアは大いに顔を顰めたが、結局何も言わないで遊びに行くことを了承した。

 実際に自分の事、勝手知ったる事なのだ。何を言っても無駄だと理解している顔つきだった。

 ミレイユも小さく顔を綻ばせ、明日朝の一番で迎えに来る、と言い残して大社を去った。

 

 明日一日くらいは、何も考えずに過ごせるようにしてやりたい、と心から思う。

 それ程の努力を、ルチアはこれまで続けて来た。

 とはいえ、急な事でどこに向かうかも決めていない。ミレイユが外出するとなれば――それが大社などの御影関連じゃないとなれば、何事にも大事にしたがるのが奥宮の連中だ。

 

 それを上手いこと回避しながら、外へ遊びに行くにはどうしたら良いものか――。

 転移術を使いながら、ミレイユは頭を悩ませ始めた。

 



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嵐の前の その3

 翌日、ミレイユはアヴェリン達を伴って大社へと訪れていた。

 今日は外へ遊びに行くと言う事で、いつもの様な神御衣ではない。起床してから身支度を整えた後は、常にあるように着せられていたのだが、先じてアキラの部屋へと転移していた。

 

 そこで箱庭へと入り、いつか買ったこちらの洋服に着替えてからやって来た。

 ルチアの服装は巫女服なので、出掛ける前に着替えさせる必要があるだろう。舞殿の入口で対面し、二人は互いに挨拶を交わした。

 

「おはよう、ルチア」

「おはようございます、ミレイさん」

 

 ルチアと朝の挨拶をするのは久しぶりで、何やら面映ゆい気がしてくる。それはルチアも同様だったらしく、どこか気恥ずかしい笑みを浮かべていた。

 そしてミレイユの背後に視線を向け、アヴェリン達にも挨拶をしていく。そしてユミルの背後に隠れるようにして立っていた人物に目を留め、次いで首を傾げた。

 

「……何でそこに、あなたが?」

 

 肩身を狭くし、実に気不味げな表情で立っているのはアキラだった。

 今更このメンバーに含まれる事については、別段おかしくはない。ルチアとしても、その事に異議を差し挟む発言ではないだろうが、居る事そのものを不思議に思っているようだ。

 

 アキラの顔からも困惑したものが窺える。

 自分自身、どうして呼ばれたのか理解しておらず、久々に会うルチアにどう話し掛けたものか悩んでいるようだ。特に親しい間柄でもないので、尚更どうしたら良いのか困っている。

 

「ああ、私が連れて来た。娯楽施設について、私も大概詳しくない。観光案内というか、何かと説明役は必要だと思って、使えるだろうと思った奴を用意した」

「そうなんですね」

「……え、そんなつもりで呼ばれたんですか、僕は」

 

 アキラから驚愕というより、呆れの声が強く出た。

 本日は休日という事もあって、丁度良いからと拉致同然で連れて来た。特に理由を話さず、準備して待て、という伝言だけ持たせて使いの者をやったので、困惑具合もよく分かろうというものだ。

 恨めし気な視線をミレイユに向けてくるが、そんなものは当然無視した。

 

「別に構わんだろう。学生の休日なんて、遊ぶか寝てるか馬鹿やるかの三択だと決まっている」

「凄い偏見に満ちた発言ですね……。馬鹿をやるが、また広義すぎるし……」

 

 愚痴を言っても覆らないというのを、今になっても理解していないらしい。

 アヴェリンが睨みを利かすと、背筋を伸ばして直立し、顔を横に向けた。

 ミレイユがそれに、ちらりと笑ってアキラを見た。

 

「だが、あんな閉塞された場所では、娯楽なんてないだろう。そんな場所だから、売店での品揃いは豊富だと聞いたが……それにも限度はあるだろうしな」

「えぇ、はい、そうなんですけど……。でも暇していたという訳では……」

「そうなのか?」

 

 意外に思って聞いてみると、アキラは渋い顔から神妙な表情に変えていった。

 

「オミカゲ様が仰せのとおり、鬼は加速度的に強まっています。誰もが危機感もって挑んでますし、休日だからと訓練を怠るような人はいません。今日もそのつもりでいましたし……」

「あぁ、そうか……。それは確かに、そうだろうな」

「単なる案内役が欲しかったというなら、神宮にいる誰かで良かったんじゃないですか? 世話役の人とか、色々と気遣ってくれそうじゃないですか」

 

 アキラはこの場から逃げ出したい一心でそう言ったのだろうが、しかしミレイユがその程度考えつかない筈もない。近くの女官ではなく、わざわざ遠くのアキラを選んだ事には、勿論理由がある。

 その内一つが、そもそも事情を話せば遊びに行く許可など降りない、という事だった。強弁すれば許されるだろうが、それをすればパレードの如き護衛や世話役が付いて来るのは目に見えている。

 

 遊び先と選んだ場所が貸し切りになりそうだし、あらゆる優先と配慮がなされるだろう。

 しかしそれは、ミレイユの望むものではない。単なる一般市民同様、他の誰かに紛れるような恰好で、遊びに出かけたいのだ。

 大体、それでは気疲れの方が多くあって、ただ楽しむという事は出来ない。

 

 それに――。

 オミカゲ様が以前言っていた事が正しいなら、ミレイユが思うような娯楽施設には連れて行ってくれないだろう。若者が休日に訪れるような場所とは無縁な、堅苦しい能や歌舞伎などに案内されそうだ。

 

 本日の目的はルチアを楽しませる事なので、以前の約束を果たす為にも、よりそれらしい場所へ行きたかった。しかし全く同じ場所というのも芸が無い。

 現世でしか見られないような、特別な場所へ連れて行きたかった。

 若者らしく、アキラもそういう施設にはそれなりに詳しいだろう。

 

 そして、もう一つアキラを選んだのは、女官を傍に置くのとは間逆な理由が挙げられる。

 ミレイユは、この三ヶ月で幾らか精悍な顔付きになったアキラを見ながら言った。

 

「誰かを共に付けるなら、気心知れた者の方がやり易い。お前にとっては厄介事かもしれないが……まぁ今日一日だ、我慢しろ」

「……あぁ、いえ。そうまで言って頂けると、こっちが恐縮してしまうというか……。でも分かりました。案内役は務めさせてもらいますけど……、どこへ行こうと言うんです?」

「うん、やはり遊園地あたりが妥当かと思うんだが、お前はどう思う」

 

 何気ない提案のつもりで言ったのだが、アキラは途端に渋い顔になった。

 

「雪が降り始めたら、もう営業期間は終わってますよ。他を探した方がイイんじゃないかと」

「……そうか。だが、そういう事なら暖かい地方なら、まだ営業していると言う事か?」

「そうですね……、そういう場所もあると思います」

「では、そうしよう」

 

 事も無げに言って、ミレイユが制御の準備を始めると、アキラがそれを止めてきた。大仰に、ミレイユへ掴み掛からんとする勢いで近付いてくる。

 

「随分と簡単に言いますけど、行って帰って来るだけでも相当な時間ですよ。遊ぶ時間なんて、とてもとても……!」

「私が転移できるの忘れてないか? 行きも帰りもそれで済ませる」

「いや、でも前は馬車扱いする気か、と師匠に怒られたような……」

 

 そう言って、背後を窺うようにアヴェリンへと顔を向けて、それからミレイユへと向き直る。

 だが、その心配は杞憂というものだ。

 単に楽をしたいからという理由で、時間的余裕もあるのにミレイユを使うのと、使わなければ間に合わないという理由では話が違う。

 

 そして何より、ミレイユがそうしたい、という理由があるなら、アヴェリンは基本的に良しとする。それがあからさまに苦言を呈する内容でない限り、彼女は口を挟んだりしない。

 

「それは分かりましたけど……、どこでも自由に行ける訳でもないんですよね? ミレイユ様、あまり外出しないイメージあるんですけど、今も雪が降っていない地方で遊べる場所とか知っているんですか?」

「それは数週間前、九州地方で救援要請があったろう?」

「ええ、はい……ありましたね。僕は待機でしたけど」

「その時、遠くに観覧車が見えた。あまり大規模な施設のようには見えなかったが、むしろ目立ちたくない私達からすると、調度良い塩梅だろう。だから座標を記録しておいた」

 

 それなら大丈夫か、という納得する顔でありつつ、そんな事の為に、という釈然としない顔で頷いた。

 実際に足を運んだ訳でもないし、座標場所からはしばらく歩かないといけないだろうが、それでもミレイユ達の足ならば十分と掛からない。

 隠蔽して走り抜ければ、目視できる距離など車で行くより早いくらいだ。

 

「でも、まだ問題が……」

「まだ何かあるのか。いいから早く行ってしまおう」

「そうしたいのは山々ですけど、これは確認しとかないと」

 

 早くしないと追手が付く可能性があるので、神宮勢力下では長居したくなかった。しかし、ここでアキラが言う問題を蔑ろにするのも何やら怖しい。

 だからミレイユは、言ってみろ、と顎をシャクって腕を組む。

 

「これは根本的な問題ですけど、入園にはお金が掛かります。入るだけじゃなく、入った後のアトラクションにも。……結構お金かかると思うんですけど、ちゃんと持ってますか?」

「それなら問題ない。以前、ルチアが質屋に入れて手にした金は、殆ど残っている」

 

 当時は再度金銭を入手する機会を思い付けず、今後の生活費を思って苦慮していたものだが、神宮に移ってからは、当然そういった悩みとは無縁となった。

 外出そのものも減った所為で出費もなくなり、箱庭の中で腐らせているような状態だった。このまま置いてあっても有効活用される事はない筈なので、この際に使ってしまう事にしたのだ。

 

 だから現在、ミレイユが持つ財布にはパンパンに札束が詰まっている。

 入園料を込みで考えても、余裕で今日一日過ごせる金額だった。

 

「そう言う事なら、分かりました。というか、何の為に呼ばれたか知らなかったので、僕もお金持って来てませんよ。取りに戻らせて貰って良いですか?」

「いや、こちらで持つ。送るとそちらに付いていく破目になるし、変に目撃情報を増やしたくないしな。煩いのがやって来る前に移動したい」

 

 アキラが申し訳無さそうに頷いて、それで了承の姿勢を見せようとしたところで、その動きが止まった。不審なものを見るような顔付きで、ミレイユの顔を窺う。

 

「……何ですか、目撃情報って。煩いのがって……それ、神宮の女官だったりしませんよね?」

「いや……そんな事はないが」

「じゃあ何だって見られたくない、なんて言うんですか。外ならまだしも、神宮勢力の中で。……いや、ちょっと待って下さいよ。まさか、誰にも言わずに出てきたなんて言うんじゃないでしょうね!?」

 

 アキラが再び詰め寄ろうとして、ミレイユは煩そうに顔を顰めて空へと視線を向けた。

 その態度が、アキラにとっては何より雄弁な回答となったらしい。引き攣った顔をして首を横に振った。

 

「何で勝手に出てきたりしてるんですか、それ絶対ヤバイやつじゃないですか」

「一々どこ行きたいなんて、断り入れて外出する方がおかしいんだ。私は子供じゃないんだぞ」

「いや、子供じゃないけど御子神様じゃないですか。そんなフットワーク軽く外を出歩かれたら、周りの人は絶対困りますよ」

 

 アキラの言葉は全くの正論だったが、時に正論は暴力の前に屈する、という事実を知らなければならない。

 ミレイユはアキラの言葉を無視して、転移の為の制御を始める。

 まだ何か言おうとしたアキラを、まず強制的に転移した。それからユミルとアヴェリンに目配せして、ひと一人が通れる程の転移門を開く。

 

 その門を潜ろうとしたユミルが、愉快に顔を歪ませて、ミレイユへ流し目を送ってくる。

 

「アンタも馬鹿なコトするようになったものね」

「時々ならいいだろう」

 

 ミレイユが片眉を上げて言えば、ユミルは笑いながら門を潜っていく。それにアヴェリンも続いて、ミレイユへ困ったような笑みを浮かべて入る。

 最後にルチアを誘って、姿が完全に門の中に隠れると、それに続いてミレイユも入る。

 遠くでは聞き覚えのある女官の声が何か叫んでいるように思えたが、それを無視して自らも門を潜る。

 今日の予定をどうしようかと、昨日組み立てていた内容を反芻しながら。

 



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嵐の前の その4

 最初にアキラの部屋を経由して、箱庭でルチアの着替えも済ませると、そこから目的地へと転移する。神宮周辺では既に雪が薄っすらと降り積もっていたのだが、こちらでは見える範囲でその気配はない。空気までも暖かく、冬というより秋のような気候だった。

 

 記憶を頼りに首を巡らせて見れば、やはり遠くに観覧車が見える。

 明るい時間帯で見るのはこれが初めてだが、観覧車以外にもジェットコースターの線路も見えた。あまり大きな遊園地でない事は確かだが、定番どころは抑えているようだ。

 

 雪降るような季節となれば、街中にもクリスマスのイルミネーションがあちこちに飾られている。オミカゲ様への信仰が強いとはいえ、こういったところは歩む歴史が違っても変わらないものらしい。

 

 商店街の店先にはクリスマスカラーを用いた宣伝が並び、その電飾などもチカチカと瞬いて、通行人立ちの注意を引こうとしている。

 それを見たユミルは、途端に興味を示して近づこうとしたが、それをミレイユが腕を取って止めた。

 

「……ちょっと何するのよ。何だか楽しげな雰囲気があって良いじゃない」

「楽しげなのは結構だが、今日の目的はそっちじゃない」

「そうは言っても、ほら御覧なさいな。あんなに赤いの、一体何の儀式かと思うでしょ。これは解明すべき問題だわ」

 

 他宗教に寛容なオミカゲ様だから、クリスマスを祝う事にも頓着しないが、神宮周辺では自粛するような気配が在る。流石に神のお膝元で、他宗教のイベントを開くのは不敬だと考えてしまうようだ。

 他の神様を祀る神社周辺ではそういう話を聞かないので、やはり現実に降臨して存在している神、という認識が遠慮をしてしまう原因になっているのだろう。

 

 ミレイユは掴んだ腕を、そのまま引き寄せ密着する。その耳に唇を寄せたかったが、お互いに帽子を身に着けている所為で、それも難しい。だからとにかく聞こえる範囲の小声で、言い聞かせるように伝える。

 

「……いいか、これから行くのは遊戯場みたいなものだ。当然、そこには集客目的とした色々なものがあるだろう。ここと同様、あるいはそれ以上の何かがな。ここより更に興味深い物もあるやも……」

「本当に?」

「多分……、大抵はそういうものだ」

 

 ふぅん、とユミルは呟いて、掴んだミレイユの手を数度叩く。

 それで手を離すと、ユミルは挑むような目付きで遠く見える観覧車へ顔を向けた。

 

「ま、そういう事なら乗ってあげるわ。見るべきものは幾らでもあるものね。……アタシも今の内に、もうちょっと遠出してみようかしら」

 

 ユミルは基本的にミレイユ達と比べて、その制約が非常に緩い。

 時々、用事があって頼み事をしようとしたら部屋にいない、などという事は頻繁にあり、それは別にここに来てから始まった事でもない。

 

 言ってしまえばいつもの事で、それについて言い含めたのも手伝って、最近では女官達も慣れたものだった。それに気を良くしたユミルは、教導の方も落ち着いた昨今、頻繁に外出しては色々見て回っているらしい。

 

 ミレイユはやれやれと息を吐く気分で、同じように見つめる。

 下手をすれば今季営業が終了している可能性もあったが、観覧車が回っているなら、その心配も杞憂だろう。

 せっつくように動き出したユミルの後を追い、ルチアの方に困った笑顔を向けてから、ミレイユ達も歩き出した。

 

 

 

 辿り着いた遊園地は二十年以上前から営業していそうな、少々古めかしい印象を受けるものだった。クラシックと評するべきか、あるいは単に潰れかけのローカルだと言うべきか、その判断に困る。

 遠くから見えていたジェットコースターの線路を支える支柱なども、所々塗装が剥がれ、錆びた鉄が浮かび上がっている部分もあるようだ。

 

「ほぅ……」

「……へぇ」

「賑やかな所ですね!」

 

 しかし客足自体は、そう悪いものではない。

 休日である事を差し引いても、家族連れの姿が多く見える。反してカップルの姿は余り見えない。デートスポットとして来るには、確かにここは若者に好かれるような見栄えもなく、また分かり易い派手さもない。

 

 だが、基本的に現世の娯楽に無知な三人からすると、それだけでも十分驚嘆するもののようだ。

 行き交う人々と、その先にある見た事もない建築物。ホラーハウスやミラーハウスなど、目に付く物の多くは洋風建築でありつつ奇抜、どこを見ても興味の尽きない光景に目を輝かせていた。

 

 既に入場料と一日フリーパスを購入しているので、どれを遊ぼうと自由だ。

 ルチアは頭上を走っていくジェットコースターに目が釘付けで、その背を追いかけるように首を巡らせて追っていく。

 

「あれに乗ってみたいのか?」

「いえ、そういう事ではなく。どう動いているのか気になってました」

「まぁ、速度的には大した事はないものねぇ。んー……、せめてあの倍は速ければ乗ってみたかったけど」

 

 ルチアの興味は乗り物よりも、その構造にこそあるようだ。

 ユミルが隣で追従するように頷くと、走り去っていくコースターを指差して続ける。

 

「あれは多分、普段知らない速度で、急降下したり急旋回する動きを楽しむものだと思うんですけど……。私達が楽しむには、ちょっと遅すぎますね。時々線路を外れるようなら、楽しめそうですけど」

「そんな事あったら大惨事ですよ。誰もがルチアさん達みたいに、頑丈な訳じゃないんですから」

 

 アキラが白い目で物騒な感想を言うルチアを見れば、肩を竦めて小さく笑った。

 このメンバーの中にあって、外見上一番若く見える彼女が遊園地内にいる光景は、実に良く合う。しかし彼女が持つ視点は、その外見上からは想像もつかない所にあるのだ。

 

 そんなルチアから目を離し、ミレイユは周囲にいる面々の顔を順に見ていく。

 

「とにかく、折角来たんだ。ここで見ているだけでは仕方ない。何か興味のある物があるなら、そこへ行ってみたいが……どうだ?」

「それには賛成ね。興味深いものが沢山あるのは確かだけど、ここは見るより体験するのがメインなんでしょ?」

 

 そうだ、という返事の代わりに頷いてやれば、ユミルは早速周囲を見渡し始める。

 目敏く案内板を見つけると、その前に陣取って仁王立ちで見つめた。ルチアもそれにつられてユミルの横に立ち、やはり同じ様に仁王立ちする。

 見ている分には微笑ましいが、あれだけで分かるものでもないだろう。

 

「アキラ、二人からの質問があれば答えてやれ」

「あ、はい。了解です」

 

 小走りで二人の後に向かうアキラを見ながら、ミレイユは今更ながらに息をつく。

 気晴らしになれば良いと思って企画したものだが、あの二人を満足させるように動くというのは、中々に骨だ。ルチアの笑顔が見られるなら安いものと思っていたが、今から前途を多難に思わせる言動が、ミレイユの心に澱を作っていた。

 

 そんなミレイユに、アヴェリンが気遣わし気に声を掛けてくる。

 

「大丈夫ですか? 今からその様な心労を感じているようですと、とても今日一日など保ちそうもありませんが……」

「お前も中々言うようになったよな」

「いえ! 決してそのようなつもりでは……!」

 

 ミレイユが悪戯を多分に含んだ笑みを向けると、慌てたようにアヴェリンは首を振る。

 それに気を良くして更に笑って、それから案内板を指差しては、アレコレとアキラに質問を飛ばしている二人を見た。

 

「アキラもいる事だし、幾らか負担は軽減されるだろう。馬鹿をするようなら、お前からも何か言ってやれ。場合によっては、殴ってでもな」

「それは俄然、やる気が湧いて来ましたね」

 

 アヴェリンも笑って応えると、そこへユミルの呼ぶ声がする。

 顔を向ければ手招きしていて、どうやら何処へ行くべきなのか揉めているようだった。ミレイユとアヴェリンは二人顔を見合わせて笑い、呼ばれるままにユミルの元へ歩いて行く。

 

 そうして到着してみると、ルチアとユミルの主張が互いにぶつかり合って、どちらも譲らない状況になっていた。まるで子供の喧嘩だが、遊園地とは童心に帰る場所だとも言う。

 その事について是非は問わないが、とにかく二人の主張を聞いてみる事にした。

 

「だから、まず先に興味の薄いものから行くべきなのよ。どこでも自由に行けるって言うんだから、取捨選択しないで全部まわるべきでしょ」

「違いますよ、時間は限られているんです。全て回って、本当に一つずつ体験できますか? もう一度試したい、と思った場合は? それなら最初から希望の物を選ぶべきです」

「そうよ、待ち時間と同様、移動時間も考慮にいれないと行けないわ。好きなものを選ぼうとしたら、その無駄な移動時間が発生する事にも繋がるワケ。だったらその無駄な時間を省いて、効率的な移動をしつつ体験する方が良いじゃないの」

 

 ミレイユは思わず深い溜め息をついた。

 アキラの方に顔を向けても渋いものを浮かべるだけで、二人の間に入って諍いを沈めるつもりは無いことが分かる。

 

 二人の主張は、どちらにも一定の理がある。

 一通り体験するのも、気に入ったものをリピートするのも、遊園地ではどちらも正しい遊び方と言える。特に外観からは内容が伺えないものは、まず体験してみるというのは正しい事に思えるが、それが自分の好みに合わなかったら実に悲惨だ。

 

 時間を無駄に感じてしまう事もあるだろう。だがこれは、単純な好みの問題にも関わってくるので、一概にどうとも言えない。

 だが今回の主役は、ルチアと決めている。だから当然、優先されるのはルチアの意見だった。

 

「今日のところは、ルチアの意見を優先しよう。お前の好きに選べ」

「流石ミレイさんっ! ……こういうのは効率じゃないんですよ、また一つ賢くなれましたね」

「何でアンタは、そういきなり高圧的になれるのかしらね」

 

 ふふん、と鼻で息を出しながら胸を張るルチアに、ユミルは痛ましいものを見るような視線を送る。どうであれ、生産性のない言い合いをしているより何倍もマシだ。

 ミレイユはまず、ルチアがどこに行きたいのか聞いてみた。

 

「ええ、まず目についた時点で行ってみたいと思ってたんです。……ほら、あそこのホラーハウスってやつですよ!」

 



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嵐の前の その5

「ホラーハウスって……、正気ですか。僕には絶対、ダメな事が起きる未来しか見えないんですけど……!?」

「これって、そんなに拙いんですか?」

 

 ルチアがきょとんと目を瞬かせると、ミレイユは首を左右へ緩く振った。

 

「そういう事じゃなく、単に驚かせるような仕掛けが多い施設だからだ。突発的に何かを発動させたり、殴って壊すような事を危惧しているんだろう」

「ははぁ……。でも、驚かされるなんて言っても、そんな無様な姿を晒したりしますかね?」

「そうだな。そもそも子供騙しみたいなところがあるしな。普段から魔物なんぞに見慣れているお前達なら、尚更驚かされる事などないだろう」

 

 なるほどねぇ、とユミルが笑い、そしてアヴェリンへ嘲るような顔を向けた。

 

「ま、アンタ以外は、お遊びにもならないという事は分かったわ」

「何で私をわざわざ名指しした? 私だって恐れる訳ないだろうが」

「あらそう、口だけなら何とでも言えるけど」

「それで挑発のつもりか? 私は何者も恐れない」

「じゃあ、行けるわよね?」

「だからといって、子供騙しに付き合ってやる義理もあるか?」

 

 ユミルはあくまで挑発を繰り返し、嘲る態度を崩さない。アヴェリンは腕を組んで苛々と肩を揺すって無視するように顔を逸していたが、その横顔を見つめる視線に堪えきれず、とうとう肩を怒らせてホラーハウスへと歩き出す。

 

「何だ、その目は! 全く……お前の挑発は気に入らんが、何より逃げ出すと思われるのは我慢ならん。行ってくれば良いんだろう!?」

「そうよ、最初からそうなさいな。アンタの反応次第で、アタシも行くかどうか決めるから」

「じゃあアヴェリン、私と行きましょう」

 

 ユミルが手をヒラヒラ振ると、ルチアがその背を追いかけて隣に付く。アヴェリンは大仰に顔を顰め、ルチアの手を引くように入口へと向かって行った。

 そんな後ろ姿を見て、アキラは不安を募らせたらしい。ミレイユの横顔を伺いながら聞いてくる。

 

「あの……、二人のあの態度を見ていると不安になって来たんですけど……。師匠って怖いの駄目なんですか?」

「いや? アヴェリンが言ったとおりだ。私もあれが、何かを恐れるところを見た事がない」

「あ、そうなんですか。……じゃあ、本当にただ行かせて面白がろうと思ってたとか、そういう事ですか?」

 

 ホッと息を吐いたアキラへ、ユミルが顔を向けてにんまりと笑う。

 

「アヴェリンは別に見た目恐ろしい相手だとか、驚異的な攻撃をしてくる魔物とか、そういうのに恐れたりしないわよ。子供騙しと聞いて尚の事、こんな場所で恐怖を覚えるものなどない、って油断してると思うのよね」

「あれ、もしかしてユミルさん、ホラーハウスが何か知ってるんですか?」

 

 ユミルはニタニタと嫌らしい笑みを浮かべながら、アキラの疑問に頷いた。

 

「アタシだってこっちの世界はそろそろ長いんだから、それなりに色んな知識、身に着けたわよ。必要なものも、そうでないものも、下らないと笑い飛ばすものも……色々とね。だから、あの手のものが、どういう類かは知ってる」

「……じゃあやっぱり、あれで師匠を怖がらせるのは無理だって、分かりそうなものじゃないですか」

「ところがそうでもないのよねぇ……。だって、この手で与えられる恐怖って、肉体に直接的な危害を加えないところにあるでしょ?」

 

 アキラがそれはそうだ、と頷くのを見て、ミレイユも同じように頷く。

 アミューズメント施設のホラーとは、恐怖と銘打っていても、精々がおどろおどろしく見えるとか、びっくり箱を開けるような脅かしがある程度だ。

 

 人を配置するのではなく、人形が演出している事も多い。

 演者が脅かし役としていると、反撃して殴り付けるような人がいるとも聞いた事があるから、それを防ぐ意味でも、音や演出で恐怖を体感させる施設は多い。

 

 ここがどういう類のものかまでは分からないが、あまり金を掛けた施設に見えない以上、凝った内容のものではないと思われる。

 そんな施設だから、アヴェリンも恐怖する事がないだろうし、問題なく戻ってくるだろう。

 

 アキラにも察しがついたようだが、それでもやはり首を傾げる。

 遊園地程度の演出で、アヴェリンが驚く様子は想像できない、というのは共通の認識のようだ。

 

「……でも、やっぱり想像つきません。恐怖もしないだろうし、演出に驚くような事もないと思えるんですけど」

「そうねぇ。でも、日本という国は、恐怖を見えない触れないもの、と表現するみたいなのよ。半霊体とでも言うの? そういうのに免疫ない筈だからねぇ」

「ああ、なるほど……。ゾンビとかスケルトンは平気どころか見慣れてるけど、ゴーストはそうじゃないと……」

 

 アキラは相槌を打てば、ユミルは大いに頷く。

 

「そうそう。だから何か反応見れるかしら、と思って」

「だと良いがな。この手のタイプには、演出に掛ける金も設備もなくて、子供にすら失笑を買う物もそれなりにあるぞ」

「……そうなの?」

「私も詳しい訳じゃないが。まさにびっくり箱のような、単に驚かす事に集中しているタイプもある。飛び出してくる人形程度で驚く事はないと思うが、まさか、その頭を叩き潰すなんて事は……」

「ルチアが上手く制御してくれていると良いわね」

「もしも壊すような事をしていたら、むしろ私の方が恐怖で震えるぞ。弁償とかそういう話になれば、女官にどう説明したらいんだ……」

 

 ミレイユが良からぬ危惧を懸念した時だった。

 ズドン、という衝撃音と共に、ホラーハウスとその一帯が揺れた。まるで爆発でも起きたかのような音だったが、まさかあの中に爆弾があった訳でもないだろう。

 まさか、という思いでミレイユはアキラと顔を見合わせる。

 

「まさか、本当に……? 嘘ですよね、まさか師匠でも、今更そんな非常識な事しないですよね!?」

「あれとて現世に来てから日は長い。それなりに適応しようと努力もしていた。驚かされたから叩いたなんて事、する筈……する筈は……」

「アンタ、それ完全に願望を口にしているだけじゃない。現実を受け止めなさいな」

 

 そうは言うが、そもそも焚き付けたユミルにも責任はある。

 もし何か破壊していたら、その責任はユミルに被せようか、と考えていると、ホラーハウス周辺に人だかりが出来始めていた。

 

 あのような衝撃と爆発に似た音が発生すれば、何事かと集まるのは当然だ。

 係員もその対応に追われ、他から回されて来た人が、中はどうなっているのか確認しようと、奔走している姿も見える。実は本当に火災事故が発生していたりしないか期待したが、出入り口から煙が漏れ出したり、天井から煙が吹き上がっていたりする事もない。

 

 ミレイユは暗澹たる思いで溜め息をつき、そして本当は何事もないと二人の口から聞けないか、祈るような気持ちで帰って来るのを待ち続けた。

 

 そうして、何より長い三分間を待ち、二人はようやく姿を見せた。

 係員に何かを聞かれているが、それは安否確認のようなもので、危険はなかったか、身体に怪我はないかを聞かれているようだ。それらにそつなく対応して、二人は悠々と見える足取りで帰って来る。

 

 二人の表情からは悲壮な感じは見受けられない。器物損壊などしていたなら、アヴェリンはきっと顔に出るだろう。だがそれがないという事は、期待できるのではないか。

 そう思っていると、ミレイユが何かを言う前にユミルが口を開く。

 

「……それで、どうだった?」

「別に、何も無かった」

 

 アヴェリンは澄ました顔で答えたが、視線は微妙にズレている。そして、誰とも決して合わせようとしない。それがミレイユの不安を大きなものへと変えていく。

 ミレイユが目を合わせようとしても同様で、むしろ必死に視線を合わせないよう注意している。

 

 自然体を装うとしているのが逆に不自然で、顔を向けないアヴェリンに痺れを切らし、ミレイユはルチアへ問いかけた。

 

「……実際は、どうだったんだ?」

「ええ、……何もありませんでした。安心してください、きちんと修復済みです」

「何も無かった筈なのに、なぜ修復なんて単語が出てくるんだ?」

 

 その発言である程度察したアキラが、アヴェリンに向かってうわぁ、と声を出さずに口を開ける。

 目敏く視界に収めていたアヴェリンは、アキラの後頭部を平手で打ち抜いた。スパァンという小気味よい音が響くと同時に、アキラは頭を抑えて蹲る。

 

 そのアヴェリンにチラ、と視線を向けながら、ルチアは自身ありげな顔で言った。

 

「何かが起こる前と同じ状態に戻っているなら、それはもう何も無かったのと同じですよ」

「それを詭弁と言うし、何より暴論に過ぎるだろ。一体なにがあった、怒らないから言ってみろ」

「いえ、そう言って怒らなかった人は見た事ないですし……」

「良いから言え、怒られたいのか。……どうせ驚いたあまり、何かを殴り付けて壊したとか、そういう類だろう?」

 

 ミレイユが呆れの混じった溜め息を吐きながら言えば、ルチアが気不味そうにアヴェリンを見る。アヴェリンは眉の間に深いシワを作り、喉の奥で唸り声を上げては顔を逸していた。

 

「こんな事で、命令なんかしたくないんだがな……」

「アヴェリンさんの名誉の為に言いますけど、別に驚いて何かを殴り付けたとかじゃないですよ」

「……ふむ、そうなのか」

「ええ、驚いた拍子に床を踏み抜こうとした衝撃で、部屋とその周辺を沈下させたというだけで……」

 

 ミレイユは何も言えず口を半開きにしたまま、アヴェリンへと視線を移す。見られたアヴェリンは、痛いものを耐えるような表情で下を向いた。

 そこにゲラゲラと声を上げて笑うユミルが、指差してアヴェリンを煽った。

 

「あの衝撃と爆発音って、そういうコト? 何を無駄に器用に、衝撃を分散させてるのよ。単に足元だけブチ抜いておけば良いのに……あっはっは! だから騒ぎになったんでしょ!」

「うるさい、元はと言えばお前が……!」

「へぇ、アタシが? アタシが悪いって? 恐怖に屈するところを見せたくないって、アンタが見栄を切ったからそうなったんでしょ?」

「何をヘラヘラと……! だったらお前も行ってみればいい! そうすれば、どうせお前も醜態を晒すに決まってる!」

「ところがねぇ……」ちらりとホラーハウスへ目を向ける。「原因や危険の有無が確認できるまで、入場は禁止されるみたい」

 

 ユミルにつられるように顔を向けてみれば、確かに入場を規制する動きを係員が見せていた。爆発音にも似たものが聞こえたとなれば、そしてこの場にいたミレイユ達にも伝わる衝撃となれば、安全の確保は最優先だろう。

 規制は当然と言えたが、それを逆手に取って、ユミルはここぞとばかりに煽る。

 

「残念ねぇ、アタシも是非体験してみたかったわ。ホ〜ント残念」

「ぐぐぐ……!」

「やめろ、ユミル。あまり挑発するな……」

 

 流石に不憫になって間に入って止めると、ルチアはその遣り取りを見て笑っていた。ユミルの様に辺りを憚らない笑い方ではないが、隠すように笑う程でもない。

 もしかしたら、という思いがミレイユの頭をよぎる。

 

 ――もしかしたら、ルチアの気を休める為に、敢えて煽る真似をしたのではないか。

 ユミルとアヴェリンは見た目ほど不仲という訳ではないが、諍いが絶えない仲ではある。そしてそれは、この四人が集まれば良くある光景でもあった。

 それを見せる事で、ルチアに幾らかでも前と同じ状況を作ってやりたかったのではないか。ミレイユは何となく、そう思った。

 

 特に昨今のルチアは気が張っていて、いつでも結界に向き合って悪戦苦闘していた。

 心休まる時など、そうそう無かったに違いない。思い詰め、そして追い詰められるような思いで、自らが潰されそうになっていたようにも感じる。

 

 だからユミルは、気遣いのつもりでああいう態度を取っているのではないか。

 ――ついでに、本人の趣味も兼ねて。

 ミレイユもまた口の端に笑みを浮かべ、今まさに掴み掛かろうとしているアヴェリンを引き離す。興奮冷めやらぬアヴェリンをユミルから離すのは相当な骨で、ユミルを逃がす必要にも迫られた。

 

 いつまでも蹲っているアキラを足先で軽く小突き、早く次のアトラクションへ案内するよう指示を出した。

 



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嵐の前の その6

あーるす様、誤字報告ありがとうございます!
 


 どこか憂いた表情を浮かべていたルチアも、遊び続ける事で笑顔を見せる事が多くなった。まるで妖精のよう、と表現される容姿だけあって、ルチアがその様にあどけない笑みを見せれば、周りの入園客から視線も集まる。

 

 ミレイユもまたサングラス越しに、その微笑ましいルチアの姿を見ていた。

 ルチアが手を引くようにミレイユを連れ回そうとするのも、また嬉しい事だった。遊園地は童心に帰るという言葉に偽りなく、ルチアが心底から楽しむ姿を見られれば、連れて来た甲斐もあるというものだ。

 

 次に連れて来られたのはミラーハウスで、これも遊園地では定番と言えるアトラクションだ。最近では話題にも上がらない稚拙なものだが、何もかもが新鮮に思える彼女たちにとっては、良い遊び場になるかもしれない。

 

 一度に入れる人数には限りがあるようだが、一人が待つ間隔は短い。それに厳密な取り締まりがあるものでもないようで、家族同士入っていたりもしていた。

 アキラがそれを見ながら呟く。

 

「懐かしいです。僕も昔、子供の頃ミラーハウスに入った事があります」

「ほぅ……。では、この施設に自信アリという事だな」

 

 アヴェリンが挑むように言うと、アキラは苦笑しながら首を振った。

 

「別に競うような場所じゃないですけどね。惑わされるのを楽しむような所ですし。もしかしたら、師匠達でも簡単に出口へ行くのは簡単じゃないかもしれませんよ」

「それは尚更、興味惹かれるな。同じハウスの名を冠する施設だ。先程の失態を無かった事に出来るよう、挽回せねばなるまい」

「遊ぶところですからね? 変に構える必要はないんですからね……!?」

 

 アキラが焦った声を出してアヴェリンの熱意を冷まそうとしている間に、ミレイユ達の番がやって来る。

 係員の指示に従い、まずルチアとユミルが先に入った。それから一分程度待たされ、ミレイユも後に続く。ミラーハウスの名のとおり、床から天井まで鏡張りの仕切りがあり、眩しい光で反射させながら、進もうとする者を惑わす迷路が作られていた。

 

 ミレイユも昔、一度ミラーハウスに入った事はあったが、これほど立派なものではなかった。迷路自体も実に狭く短く、子供心に拍子抜けだったのを覚えている。

 このミラーハウスは、その時に入った施設より何段も上の出来栄えだが、今は別の意味で拍子抜けしている。

 ミレイユが持つ肉体と、鍛えられた感覚が、本来惑わす仕掛けを無効化してしまっている。そしてそれはきっと、アヴェリンも同様に感じているだろう。

 

 何の気兼ねもなく、また惑わされる事なく進んでいくと、先を行っていたルチア達に追いついてしまった。近づく前から姿だけは反射して見えていたものの、実際は追いつこうと思ってもその場にいないなど、視覚から得られる情報に差異が出る。

 追い着いたと思って角を曲がっても本人はいない、という事が起こる筈なのだが、本来の楽しみ方を全く出来ずに合流した。

 

「あら、もう追いついて来たんですか?」

「ちょっと、余裕やゆとりってものを考えなさいな。鏡に騙されてやるのも遊びの一種でしょ?」

「そう言われるとそうなんだが」

 

 ミレイユは苦笑しながら周りを見渡す。

 そこには上下左右が反転された姿で、鏡面に映るミレイユやルチア達の姿があった。全てが同じ鏡像でもなく、横幅広くなったり、逆に細くなったりしている。

 普段は見ることの出来ない、肥満体のような姿に笑い合っていると、後続のアヴェリンもまた追い付いて来てしまった。

 

「……何よ、アンタもなの? せっかちって言われない?」

「何の話だ。道に沿って来ただけだろう」

「いやあ、周りの鏡像を見て何も思わないワケ? 惑わされて方向見失ったり」

 

 実際、鏡の迷路は何も鏡が行く手を遮っているだけ、という訳でもない。惑わす仕掛けが他にも用意されている。

 ルチアもまたユミルに追従するように、周りを指し示しながら言った。

 

「これを見ても何も思わないんですか? 見慣れない光景に驚いたりとか……」

「そもそもこれは、惑わされないよう進むものではないのか。あくまで障害としてある以上、それを克服して進むのが正しいやり方だ」

「いやぁ、どうでしょう……。もっと単純に、見たとおり遊ぶものだと思いますけど……。それにホラ、鏡だけでなく透明なガラスの仕切りまであるんですよ」

 

 ルチアは実際に触って、そこに鏡像が映し出されない事を見せる。

 

「これで尚の事、進みたい方向に行けないようになってるんじゃないですか。手探りで進む程に惑わされる、それなのに……」

 

 そう言って、自分の言葉に改めて気付かされたように、ミレイユへと顔を向けた。

 

「普通、手を前に出したりして恐る恐る進むものじゃないですか。鼻をぶつけたくないですし。ミレイさんもそうでしたけど、ごく普通に歩いて来てましたよね。……どういう理屈ですか?」

「――ああ、良かった。追い付いた……!」

 

 ミレイユが何かを答える前に、アキラが背後から近付いてきた。安堵の息を吐いたのは、先にズカズカと進んでしまったアヴェリンと合流するのに必死だったからだろう。

 アヴェリンはアキラへ煩そうに目を向け、それから叱咤の混じった声を放った。

 

「……何をそんなに苦労する事がある。目で見て惑わされるなど、初心者のする事だ。お前も少しは出来るようになったと思ったが、買い被りだったようだな」

「そんなこと言われましても……、そんなの教わってないですし」

「ほぅ、師に口出しするとは、お前も偉くなったな。学園へ通うようになれば、誰もがお前のように傲慢になれるのか?」

「いえ! 決して、そのようなつもりではっ!」

 

 何やら師から弟子への可愛がりが発生しそうな気配を感じて、ミレイユは素早くアヴェリンの傍へ寄る。その腕を優しく叩いて宥めるように言った。

 

「今は遊ぶ時間だ。気付いた事に口出しするのは師の務めかもしれないが、それ以上は興が冷める。今日のところはナシでいこう。……お前も楽しめ」

「ハッ……」

 

 アヴェリンが慇懃に礼をして、ミレイユは困ったように笑って傍を離れた。その遣り取りを見ていたルチアは、ミレイユに問う。

 

「アヴェリンが言うところでは、それってつまり、ミレイさんも鏡像に惑わされず、正しい道を直進して来たって事ですか?」

「まぁ、そうだが。視覚を惑わされるだけじゃ、別に枷にはならないからな」

「流石ミレイ様です」

 

 アヴェリンが我が事のように喜び、誇りを感じる笑顔で頷く。次いでアキラへ顔を向け、諫めるように目を細くして見つめた。

 アキラは肩を窄めて身体を小さくし、萎れたように下を向く。

 

「アキラについては、今後の課題が一つ見つかったとして、それで良しとしよう。……あまりここで立ち話をしていても、また後続が追い付いて来て邪魔になる」

「他の誰もが、あなた達の様には行かないと思いますけど……じゃあ、ミレイさん達が先に行って下さいよ。私達が先だと、またすぐ追い付かれてしまいますし」

「そうだな、そうしよう。……アキラは折角だから、訓練のつもりで動いてみたらどうだ。視覚に頼らないとはどういう事か、少し考えながらやってみろ」

「わ、分かりました……!」

 

 アキラの緊張した声を背中で聞きながら、ミレイユはアヴェリンを連れて動き出す。ミレイユとアヴェリンの鏡像に惑わされず進む方法に違いはあるだろうが、こういう迷路ならば簡単で、風の通り道を探せば良い。

 

 迷路であっても出口と入口は一本の線で繋がるというルール上、それさえ感じ取れれば視界に頼らず進むことが出来る。

 後は人が近くにいるなら、その気配や息遣いなどを把握できれば、それもまた自身の位置を把握する手助けになる。

 

 そうして難なく出口まで辿り着くと、明るい陽射しの下に出る。

 ルチア達が出てくるまで暫く掛かるだろうから、それまで近くのベンチで待つ事にした。

 アヴェリンと隣り合って、出口が見える場所で腰を下ろす。そのアヴェリンがムッツリと出口を睨み付けているので、その太ももに手を置いて揺らし、気を逸らした。

 

「そう怖い顔をするな。ユミルより早く出て来なければ、とでも考えていただろう?」

「ハ……、真に、そのとおりで……。曲がりなりにも内向術士なら、あれより早く出てきて貰わねば困ります」

 

 内向術士は遠くの敵を感知するような事は出来ない。それは外向術士の領分だ。だからこそ、自身と周囲の気配には敏感で、また背後からの一撃であっても躱せるように、その技術を磨いておくべきという考えがある。

 

 ただしそれは、誰にでも出来るようなものではない。

 あちらの世界でも、当然のように出来る技術ではなかった。それをアキラに求めてしまうのは、師の贔屓目があるからか。己の弟子なら、出来ないよりも出来て欲しいという、欲の目もあるのかもしれない。

 

 アヴェリンも中々入れ込むようになったな、と不思議な感慨に耽っていると、出口から何者かの影が見えてきた。

 

「……さて、どっちだ?」

 

 興味深げに見つめていると、姿を現したのは、果たしてユミルの方だった。

 アヴェリンの盛大な舌打ちを聞きながら、ミレイユは笑い声を冬の空に響かせる。アキラも大変だな、と他人事のように思いながら、明日以降の訓練メニューに新たな項目が追加されるのを確信した。

 



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嵐の前の その7

 昼食も混み合う時間を避ける為、少し早めに園内で済ませ、そして幾つかのアトラクションを遊び回れば、少し遊び疲れも出てくる。体力的には問題ない筈なのに、旅をしている時とはまた別種の疲れを感じていた。

 

 やはり慣れた疲れより、感じた事のない新鮮な疲れの方が身体は意識してしまうものらしい。

 あるいは、目まぐるしく感じる遊園地という環境が、精神疲れを呼び起こすのかもしれない。

 

 まだ陽は高く、冬の空とはいえ気候も暖かい。さんさんと降り注ぐ光を浴びていれば、むしろ暑いくらいだった。そこに冷たい風が通り過ぎれば、心地良さすら感じる。

 

「少しこの辺で休憩されますか?」

「そうだな……。ルチアは……」

 

 ミレイユの調子を見て取ってアヴェリンが提案してくれたが、本日の主役であるルチアは、逆に遊び足りないと感じているかもしれない。それで顔を向けてみたのだが、彼女から不満は感じられず、素直に頷いてくる。

 

 それでミレイユ達は、近くにあったフードコートへ寄ってみる事にした。

 店内だけでなく、外にもパラソルを広げた丸テーブルが置いてあり、そこでも軽食を楽しめるようになっている。今日のように陽射しもよく、風も心地よいくらいだと、そうして間食を楽しむ人も多い様だ。

 

 ミレイユ達も一同、外のテーブルで休憩する事にした。アイスクリームを中心としたデザート類は外でも注文でき、そこで受け取り好きな席に座るというシステムだ。ミレイユは財布を渡して注文を任せ、一人で先に席で待つ。

 

 思い思いに注文を済ませ、それぞれ手にした物を持って戻って来ると、それでようやく一息つけた。今日もミレイユは飲み物だけで、アヴェリンは期待を裏切らず、いつものとおり甘味を選んでいる。

 見れば誰もが甘い物を頼んでいて、ルチアもアイスクリームを手に持って嬉しそうにしていた。

 ユミルとアヴェリンはジェラートを頼み、アキラもチョコアイスにした様だ。

 

「ご馳走様です、ミレイユ様。……勿論、これだけじゃなくて」

「ああ、気にするな。今日の払いは、こちらで持つと約束したしな。……今日のような事がなければ、使い道もないしな」

 

 何と反応して良いか困ったのだろう、曖昧に笑みを浮かべて、アキラは手にしたアイスクリームを食べていく。

 ルチアもすっかり機嫌を良くして、遠くへ視線を向けながら、アイスクリームの先端を舐め取っていく。

 

「それにしても、こちらの娯楽には本当に驚かされます。何より、これだけの設備を維持出来る事が異常ですよ。ミレイさんが、こちらの世界に拘った理由がまた一つ分かった気がします」

「そこに着眼点を持つのは、この中ではお前くらいだと思うが……。まぁ、楽しんで貰っているようで何よりだ」

 

 ルチアはこくこくと頷いて、今度はアイスクリームに付属していたスプーンを使って口に運んでいく。もにゅもにゅと口を動かしては、満足げな笑みを浮かべた。

 ユミルがそれを見ながら、まぁねぇ、と呆れた様な口振りで言う。

 

「こっちの娯楽に掛ける情熱って、ちょっと異常よね。それだけ平和ってコトなのかもしれないけど」

「……そうだな。一般人にとって、鬼や魔物なんてモノは、想像上の生き物に過ぎないんだろう。オミカゲ様が上手くやって来た成果とも言えるが……」

「あら、アタシはネット上で、鬼を見たとか幽霊がいたとか見たけど」

 

 ミレイユは何と反応したものか迷う。

 真実を知っている立場からすると、鬼の目撃情報自体はあっても不思議でもないが、幽霊と合わせて考えると途端に嘘臭く感じる。

 それにネットの情報は鵜呑みにするべきじゃない、という常識もそれを後押ししていた。

 

 ミレイユが答えに窮していると、全て心得ているようにユミルは笑う。

 ジェラートを機嫌良く口の中へ運びながら、続けて言った。

 

「ま、アタシも鵜呑みにはしてないけどね。何しろ鬼やら妖怪やらというのは、オミカゲ様に追いやられた、という考えが根底にあるみたいだし」

「それは確かに聞き覚えがあるな」

 

 そうして流し目を送ると、チョコアイスにかぶり付いていたアキラが顔を上げる。

 口の端に付いたアイスを、ぞんざいな手付きでペーパーナプキンで拭き取ると、補足しようと口を開いた。

 

「ええ、よくある話でして……。オミカゲ様は雷神として、雷光で魔を追い祓うと言われてます。だから、畏れや怯えといった感情より、妖怪はやられ役みたいに見られますね。怪談話なんかあっても、ライトをチカチカ点滅させれば、それで逃げ出すなんて言う話も多いです」

「魔を祓う、か……」

 

 呟きながら、それが一段と低い声になってしまい、アヴェリンなどは気遣わし気な表情になる。

 アキラはそれに知ってか知らずか、オミカゲ様への熱い思いを滔々と語り出した。

 

「お伽噺みたいに思ってましたけど、あの学園に入って改めて尊敬しました。遥かな昔から、人知れず鬼から護って頂いていたなんて、感謝だけでは足りません。その一翼に加えて頂けたのは、本当に光栄としか……!」

 

 アキラの目が熱を帯びるどころか、それを通り過ぎようとしているのを見て、ミレイユは慌てて肩を揺する。恍惚と目の焦点が合わなくなり始めたところで、アキラは我を取り戻して帰って来た。

 

 元よりアキラは一般人として過ごしていた時から、厚い信仰を捧げていた者だから、真実の姿を知って尚、その信仰を強めたのだろう。

 とはいえ、その熱の入り用は少し怖い。

 しかもそれは、ミレイユの視点としては別人ではあるものの、同一人物の事なのだ。その思いが自分にも向けられるのかと考えると、ちょっとだけでなく、かなり嫌だ。

 

「それにオミカゲ様は、何も魔を祓うだけの神様じゃありませんからね」

「ああ、手広く商売をやっていたな。銀行を作ったり何だりと……」

 

 それも、今思えば納得だ。

 世界に先じて電気を実用化出来たのも、雷神としての加護や知識によって齎されたと人々は考えたのだろうが、多くの気づきを持つミレイユならば、それを知識人に伝える事で実用化させる事が出来たろう。

 

 資本主義の母と呼ばれるのも、現代を知っていればこそ――二周目をやっている彼女からすれば、神としての信頼を得た後なら、多くのことを先じて進められたに違いない。

 

 日本は戦争に負けていない、というのもまた頷ける話だ。

 現代戦では見なくなった一騎当千という存在も、オミカゲ様が保有している隊士を用いれば嘘でなくなる。戦車砲の一撃を受け止めるなどという、戦場伝説として笑い話にしかならない逸話も、きっと嘘ではないのだろう。

 

 現代兵器ですら無力な彼らを使って、そしてオミカゲ様の――ミレイユが持つ魔術を利用して、勝ちを拾えない方が異常なのだ。

 その気になれば、単身都市部へ向かい、隕石の一つでも落としてやれば壊滅的な被害を与えてやれるだろう。味方まで被害に遭うので、遠く敵陣と睨み合うような形の戦闘でしか使用できないが、やる気さえあれば、いつでも敵首脳陣へと打ち込める。

 

 まるで掌の中に隠せる、核兵器を持っているようなものだ。

 本気で潜入しようとして、止められる者などいないだろう。もし原子爆弾が落ちていたら、神対世界の戦争に発展した可能性すらある。

 

 この世界の戦争では、一体どのような形で参戦し、そして終戦までどういう経緯で持って行ったのかは知らないが、大変な外交努力があった事は理解できる。今の平和も、それを過去より維持しているのも、並大抵な事ではない。

 

 今更ながらそれを認識して、ミレイユは遠く空を見上げた。

 考えたくもないが、もしかすると、それを自分がしなければならないのか、と思えば気分も重くなる。

 溜め息を吐きたい気持ちでいると、アキラが申し訳なさそうな顔をしていた。

 

「……あの、何か僕、マズイこと言っちゃいましたか」

「ん? ……ああ、いや、違う。ただ、ちょっと見直していたのさ。難しい事をやっていたんだな、と。今度から少し、態度を和らげようかと思っていた……」

「あぁ、そうなんですね! ミレイユ様は近しい存在だから実感湧かないのかもしれませんけど、オミカゲ様は本当に偉大な御方なんですから」

 

 ――近しい存在。

 言い得て妙だが、確かにそうだ。アキラは同じ神の一柱という意味合いで言ったのだろうが、その表現はミレイユの心を僅かに揺らした。

 

 ミレイユとオミカゲ様は、近くて遠い存在だ。歩んだ時の長さがその差を生んだとも言えるが、既に在り方として別の存在でもある。

 オミカゲ様にあってミレイユにないのは、何よりその覚悟だ。

 世界の破滅をその目で見たかどうかも、その違いを顕著にしているだろう。

 

 自分に出来るのか、という不安が、どっと胸に去来する。

 未来を思えば臆病にも謙虚にもなる、とは誰の言葉だったか。先の見えない未来、覆すのが困難な憂慮、そして神々との敵対。

 

 自分に出来るのか、同じ自問を繰り返す。

 やりたい事というより、やらねばならない事、というのが、更にミレイユの胸を重くした。ついに溜め息を吐いた時、アヴェリンが気遣う視線を向けている事に気が付いた。

 

「ミレイ様、何か御座いましたか?」

「いや、詮無いことを考えていただけだ」

「駄目ですよ、ミレイさん。今日は楽しむ為に用意した時間だって、貴女が言ったんじゃないですか」

「そうだったな」

 

 ミレイユが笑えば、それにつられてルチアも笑う。アヴェリンも気遣う視線を止めて、手元の空になった紙製カップを見つめた。

 ミレイユはそれに笑って、気遣いのお礼として言ってやる。

 

「食べたかったら、もう一つ頼んで来てはどうだ?」

「よろしいのですかっ!」

「ああ、折角色々な味が用意されているんだ。別の味を試すのも良いだろう」

「では、行ってまいります」

 

 嬉しそうに立ち上がったアヴェリンに、微笑ましい笑顔を向けていると、その背に掛かる声がある。ユミルが自分の空になったカップを持ち上げて、ひらひらと振って見せた。

 

「ついでにアタシの分も買って来て頂戴。今度はオレンジが良いわね」

 

 アヴェリンはちら、と視線を寄越したものの、返事をせずに去って行く。殆ど無視するような有様だった。その背にユミルは罵声を浴びせるように声をぶつける。

 

「ちゃんと買ってきなさいよ! 誰のお金だと思ってるのよ!」

「メチャ高圧的だし、師匠には逆効果じゃないかな……。大体、ユミルさんのお金じゃないですよね……」

「アタシのみたいなモンでしょ。この世のあらゆるものは、大体アタシの物って自信あるし」

「どっから出てくるんですか、その自信……」

 

 無茶苦茶だ、とアキラがうんざりとチョコアイスを食べ始めると、ユミルが持っていたスプーンで一掬い奪っていく。

 あっと思うよりも早く口元へ運ばれてしまい、勝ち誇るようにユミルは笑う。アキラは悲しげとも呆れとも取れる視線を向けて、ミレイユはそれを見て喉の奥で小さく笑った。

 



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嵐の前の その8

あーるす様、誤字報告ありがとうございます!
 


 アヴェリンが帰って来て、その手の中に一つのカップしかない事を認めると、ユミルは大仰に眉を顰めた。これ見よがしにテーブルの上で頬杖を付き、顔を傾けてアヴェリンを睨む。

 

「……ちょっと。ねぇ、アタシの分は?」

「知るか。欲しいなら自分で買ってこい」

「はぁ? 何でアンタはそうなのよ。次いでなんだから、買って来ればいいじゃない。気遣いとか真心とか、そういう気持ちは持ち合わせていないワケ?」

「勿論あるが、お前にだけ持っていないだけだ」

 

 アヴェリンが鼻で笑うと、ユミルは席を立って詰め寄る。

 

「ふざけんじゃないわよ。罰として、アンタの寄越しなさい」

「馬鹿を言うな、底に残った分でも舐めてろ! 人を舐めるのが得意なら、物を舐めるのだって得意だろうが!」

 

 奪おうとするユミルと、それを死守しようとするアヴェリンが立ち上がる。

 取っ組み合いの喧嘩が始まろうとしたところで、アキラは早々に自分の分を口の中に押し込んだ。巻き込まれては敵わないと、席を立って場所を離れる。

 ルチアは二人の様子を呆れた目をしな見ながらスプーンを動かし、ミレイユはいつもの事だと笑って見ていた。

 

 直接的な殴り合いだとアヴェリンが有利過ぎるのだが、壊れやすい入れ物を守り続けなくてはならないというハンデがある。

 対してユミルは、最悪ジェラートを台無しに出来れば良いので、奪い取れなくても嫌がらせが成功すれば勝ちと考えている。

 

 即座に勝負が着くだろうと思っていたが、意外にも互いに決め手が欠け、周りの目も厳しくなってきた。数秒で収まるならまだしも、長く続けば迷惑だし煩わしい。

 微笑ましく見ているだけとはいかず、ミレイユは指先でテーブルを二度叩く。

 

 それだけで即座に二人が元の席に戻って、まるで何事もなかったかのように振る舞い出した。

 アキラが二人を交互に見、そしてミレイユへ困惑した表情を向けてきた。

 

「……前にも思ったんですけど、ミレイユ様がそれやると、凄い素直になると言うか……。ケンカやめますよね。昔、何かあったりしたんですか?」

「そうだな、肉体的な説教をした事がある」

「あれは説教とは言わないでしょ。肉体に訴えかける暴力って言うのよ」

 

 ユミルが本気で恐怖しているかのように身を震わせ、そしてアヴェリンは聞こえない振りをして神妙な表情でジェラートをぱくついている。

 アキラは恐る恐る元の席に戻り、顔色を窺うように聞いてきた。

 

「あの、言い辛かったら無理に聞かないんですけど、……何をしたんですか?」

「別に言うほど大した事はしていない。ユミルの頭をカチ割っただけだ」

「いや、言うほど大した事ですよ、それ!」

 

 アキラは大きく背を仰け反って、席を蹴飛ばすように立ち上がる。だが、周りから奇異な視線を向けられたのに気付いて、ペコペコと頭を下げて席に座り直した。

 それからユミルの方へ顔を向け、痛ましいものを見つめるように視線を向ける。

 

「ミレイユ様は温厚な方じゃないですか。何をしたら、そんな事になるんです?」

「別に内容は覚えてないわね。さっきみたいな下らないじゃれ合いよ」

「それで、頭を割られちゃうんですか……?」

 

 その程度の事で、と言外に言っているかのようだった。口で言って聞かないのなら、引き離すように動くとか、やり方は幾つでもあるとでも思っているような顔をしている。

 どう説明したら良いか迷っていると、それまで黙って聞いていたルチアが口を開いた。

 

「本当にただ掴み合いしてるだけなら、ミレイさんだって笑って見てますよ。でも、放っておくとじゃれ合いで終わらないから、直接的な仲裁に入るんじゃないですか」

「あらまぁ……。頭を二つに割る事を、そう表現する子がいるとは思わなかったわ」

「気に入りません? だってユミルさん、熱くなると手段を選ばなくなるじゃないですか」

 

 その一言で、アキラの表情に幾らか納得の色が浮かぶ。ある程度、何があったか察しも付いたらしい。問題があるとするなら、直接手を下したミレイユではなく、ユミルの方にこそある。

 その予想は正しい。

 

 そして実際、口で言おうと間に入っても止めなかったから、ミレイユが直接制裁の意味を込めて介入する事になった。ミレイユが本気でやめろと言えば、アヴェリンは素直に応じる。

 だが、アヴェリンが動きを止めた事で、むしろ好機と動いたのはユミルだった。

 

 それまでも魔術を使った応手を繰り返していたが、アヴェリンも簡単に隙を見せないから、争いのレベルは上がっても膠着状態には変わらなかった。

 しかし、応じて動きを止めたアヴェリンに攻撃をした為、派手に吹き飛ぶ事になった。小さなものだが怪我も負い、そうとなればミレイユも本腰を入れざるを得ない。

 

 これは何もアヴェリンを一方的に味方する行為ではなく、チームをまとめるリーダーとして、今後のチーム運用を考えての事だった。

 形だけいるリーダーに意味はない。時に威厳を持って、チーム内の争いを鎮めるし、鎮めることが出来る存在と教えてやらねばならない。

 

 その為にミレイユは動いたし、そして抵抗の素振りを見せたから、制裁するレベルまで対応が上がった。ここで日和ってはならず、リーダーとしてチームをまとめられる人物だと教えてやらねばならなかった。

 

「まぁね、アタシもちょっと遊び過ぎたかなぁ、とは思って、それから反省したワケよ。……あらゆる抵抗を無視して、足止めすら有効じゃなく、着実に接近してくる相手って恐怖よね」

「それには確かに覚えがあります……」

 

 アキラはふるり、と身体を震わせた。学園で見せてやった、二年生以上全員と戦った時の事を思い出しているのだろう。

 あれは実力差が大きいから実現したのであって、同じ様な事はそうそう出来ない。高い力量を誇るユミルに対して出来たのは、その手口を多く知っているから、その攻撃に対応出来ただけだ。

 

 搦手や初見殺しを多く用意しているユミルだが、知られてしまえばそれが逆に弱点となる。

 ルチアは懐かしむように目を細め、それから気の毒そうに声を落とした。

 

「最後は殆ど懇願するように謝ってましたけど、ミレイさんは許してあげませんでしたね。無表情のミレイさんに詰め寄られて、万策尽きた状態で脳天に一撃って……私なら夢に出ますよ」

「何言ってるの、――今も時々夢に見るわよ」

 

 ユミルは指先を一本向けて片目を瞑る。

 その動きは様になって見えるが、言っている事は情けない。それを感じさせず、また尾を引いていない様に見せるのは、ユミルが普段から持つ雰囲気のお陰か。

 

 アキラが感嘆にも似た溜め息を吐いて、ユミルを見つめる。

 

「へぇ……、ユミルさんでもミレイユ様を止められないんですか」

「んー……? 本気になったら、どうかしらね……。でも、そうしたらこの子も本気になるだろうし……やっぱり無理かしらね?」

「そうなんですか……。ミレイユ様もやっぱり凄かったんですね」

「凄かった、とは何だ、馬鹿者」

 

 アヴェリンが横から頭を叩いて、アキラの身体がグラつく。アヴェリンはスプーンを口で咥えたまま睨みを利かせて凄んだ。

 

「は、はい。すみません……失言でした。ミレイユ様が凄いのは身を以て知りましたけど、結局皆さん凄すぎて、どの位凄いのか分からないんですよね。皆さん大体、同じくらいの強さって聞いてますし」

「皆さんって誰のこと指してるのか分からないけど、アタシ達三人って言うなら、まぁ……そうかもね?」

「扱う術や役割が違い過ぎて、一概には言えませんよ。……でも、そこを抜きにしてごく単純に考えると、私たち三人は大体近しい実力じゃないですか?」

 

 ユミルに続いてルチアまで同意すると、アキラも納得したように頷き、それから不意に首を傾げる。そうしてミレイユへ顔を向けた。

 

「三人って言いますけど、それじゃあミレイユ様はまた別って事ですか? やっぱりリーダーするぐらいだと、他三人より実力は上だと?」

「別に一番強い者がリーダーでなくてはならん、などと言う原則はない」

「あ、そうなんですね。じゃあ、もしかしてミレイユ様は……?」

 

 アヴェリンがつまらなそうに口を挟んで、アキラは懐疑的な視線を向ける。アヴェリンはそれを振り払うように手を振ってから続けた。

 

「あくまで一般論を言っただけだ。ミレイ様は……そうだな、私達三人が束になって挑んで、五分に持ち込めるぐらいだ」

「え、そんなにお強いんですか……!?」

 

 アキラが畏怖をありありと浮かべた表情を向けて、またアヴェリンに頭を叩かれた。

 我ながら失礼な態度だったと思ったらしく、アヴェリンに何事か言われる前に謝罪してくる。

 

「申し訳ありません、ミレイユ様。また失礼なこと言いました……」

「ああ、治らないな、お前のそれは。……癖なのか?」

「驚くと、どうも取り繕えなくなるタチのようでして……」

 

 またもペコペコと頭を下げるアキラに、ミレイユもやんわりと手を振って謝罪を受け取る。

 

「まぁ、今更の事かもしれないが」

「はい、すみません……。でも意外というか、むしろ困惑の方が強いと言いますか。師匠だって物凄く強いですけど、そのざっと三倍は強いって事でしょう? まるで想像つきません」

「なんだ、その頭悪い計算は。箱の大きさを計るんじゃないんだ、そんな単純な訳があるか」

 

 それはそうですが、とアキラが肩を落とすと、ため息混じりにアヴェリンが言う。

 

「近接戦闘だけで言えば、私とミレイ様の実力は拮抗する程だが……」

「あれ、そうなんですか? そう聞くと……」

「お前、ミレイ様が外向術士である事を忘れてないか。それで私と拮抗するんだぞ」

「――あっ!」

 

 言われて初めて気付くのも情けないと思うが、アヴェリンの実力を知っていると、それと拮抗できる外向術士など端から除外してしまうものらしい。拮抗できると聞いた時点で、その選択肢が頭から消えたようだ。

 だが実際、それは間違いではないのだ。

 

 アヴェリンと近接戦闘をして、五分に持ち込める外向術士というのは類を見ない。

 ユミルも剣を扱えるし、並大抵の剣士より腕前もあるが、その領域の極みに近い部類まで昇ったアヴェリンに敵うものではない。

 

「だから当然、近接戦闘しか出来ない私と違って、ミレイ様の引き出しは非常に多い。多彩に過ぎる、と言うべきだろうな。先程は五分と言ったが、こちらが先手を取れなければ負けに傾くだろう」

「そんなに……」

「多彩な手段を持っているという事は、こちらに対して数多くのアプローチが出来るという事だ。ミレイ様に先手を取られたら、それを覆すのは容易じゃない」

「へぇ〜……。因みにそれは、どんな……?」

 

 アヴェリンは三度その頭を叩く。

 今度こそ、呆れを存分に含んだ溜め息を吐いた。

 

「手の内というのは秘めるものだ。親しい仲であろうと聞くべきでないし、聞かせるものでもない。その程度、理解しているものだと思っていたのだがな……」

「はい、すみません。学園じゃ御由緒家の理術とか、その戦闘傾向とか共有情報みたいになっていたので……。それに流されたと言いますか……」

「呆れたな……」

 

 アヴェリンが憤懣やる方ないと首を振るのを見て、ミレイユが苦笑を漏らす。

 

「彼らは鬼に対する商売敵でもなければ、背中を刺される心配もない仲間内だという信頼から、そうさせるんだろうさ。あちらのギルドの様な殺伐さはない。それが理由だろうな」

「……なるほど。確かにギルドは仲間内ではあっても、商売敵でもありライバルです。蹴落とすのも蹴落とされるのも、当然の世界でした。それを思えば……」

 

 うん、とミレイユは頷き、未だ後頭部を抑えるアキラを見る。

 

「そういう訳だ。私が剣を扱える事は知っているから、その分に関してはアヴェリンも教えた。こちらの常識とはそぐわなくとも、それ以上踏み込んで聞くのは無礼だ。覚えておくといい」

「はいぃ……!」

 

 ミレイユはアヴェリンの方へ向いて、眉尻を落として笑う。

 アヴェリンも仕方ない奴だ、という風にアキラを見てから笑みを返した。

 

 空は中天を当に過ぎ、時計を見れば三時を越えている。待ち時間などを考えれば、あと幾つも楽しめないだろう。全員、手の中にあった物も食べ終えており、十分な休息も取れたように思う。

 日が暮れるより前に帰りたい事を思えば、後一つか二つのアトラクションで遊べるかどうかだろう。

 

「そろそろ、ここを出てアトラクションに行こうか?」

 

 ミレイユがその様に問いかければ、ルチアを始めとして他の者も立上がる。

 風の冷たさも肌に強く感じるようになって来た。西陽が強まっているから、まだそれ程には感じないが、しかし寒いと感じ始めたらすぐだろう。

 

 ルチアが急ぐように促すと、アヴェリン達は空になったカップをゴミ箱に捨て、その背を追うように園内奥へと急ぎ足で歩き始めた。

 



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嵐の前の その9

 残り時間も少なくなって来た事はルチアにも十分理解できていたらしく、次に遊ぶアトラクションはすぐに決まった。というより、何をどういう順番で遊ぶか、既に決めていたと言うべきだろう。

 

 ミレイユは先導するように歩くルチアとユミル、二人の背を追って、目的のアトラクションに辿り着いた。そして見渡すように首を巡らせ、疑問に思う。

 それは、どうもルチアが選ぶものとしては意外に感じた。

 

「ここでいいのか……?」

「ええ、先程の決着をつけるという意味でも、中々面白い事になるのではないかと」

「先程……ユミルとアヴェリンのか?」

 

 そうです、とルチアが頷いた上で、件の二人に顔を向ける。

 二人はそのアトラクションを見ても、今一ピンと来ていないようだった。実際、それは板張りの壁が視界を塞ぐように広がっているだけで、遊び道具のようには見えない。

 

 アヴェリンは首を傾げて言った。

 

「勝負や決着は良いとして、これは一体何なのですか?」

「見てのとおりだ」ミレイユは入口上に掲げられた看板を指差す。「――迷路だよ」

「迷路? ……これが?」

 

 アヴェリン訝しげに、遠目でも入口を窺うように顔を動かした。

 入場と同時に丁字路になっていて、その全貌は全く分からないが、高さ三メートル程の高さを持つ壁が縦横に巡らされている事は、その規模から窺える。

 

 だが、地下ダンジョンや要塞など、これまで入った者を迷わす前提で設計された場所に踏み入り踏破したのは、一度や二度で済まない。両手の指の数では到底足りない程、それらを越えて来てもいる。

 たかが板の壁で作られたお遊び迷宮など、それらの内に含めるのも烏滸がましいと、その顔には書いてあった。

 

 それは侮りに違いなかったが、同時に驕りでもない。

 ミレイユもアヴェリンも、人工的な迷路や、自然窟を利用した迷路も数多く踏破して来た。今更お遊び迷路など敵ではなという自負は、自信相応のものだ。

 

 ルチアはそんなアヴェリンへ、にっこりと笑いながら指を立てた。

 

「実際、迷路としての難易度は難しいものみたいなんです。子供だけじゃなく、大人でも苦戦するという触れ込みもあるみたいですけど……、このメンバーなら大なり小なり問題にはならないと思うんですよね」

「それはそうだろうな」

「だから勝負なんです。誰が一番早くゴールに到達するか、その時間を競うんですよ」

「……ふむ、いいだろう」

 

 アヴェリンは不敵に笑みを浮かべたが、それに難色を示したのユミルだった。

 小馬鹿にするというよりは嫌気が差すように顔を顰め、腕を組んで顔を逸している。

 

「迷路はともかく、何で勝負までしないと行けないのよ。やりたいのなら勝手になさいな。付き合ってられないわ」

「あら、意外です。アヴェリンさんとの勝負事なら、間違いなく乗ってくると思いましたのに」

「んー……、まぁ、他の事なら別に良かったけどねぇ」

 

 あくまで渋面を崩さないユミルに、アヴェリンは鼻で笑ってから、ルチアへ労るように声を掛けた。

 

「トイレの出口だって見つけられない奴だ。これには少し荷が重かったんだろう。私達だけで楽しもうじゃないか」

「……はァン?」

 

 ユミルのコメカミがぴくりと動き、顔を巡らせアヴェリンを見つめる。怒りの形相を必死に抑え、平静を装いながら笑みを浮かべた。

 

「何ですって? ちょっと良く聞こえなかったわ。他の事はともかく、アンタに侮られるなんて我慢ならないのよね。――勝負? 良いわよ、吠え面かかせてあげる」

「いや、お前には無理だろう。大人しく待っていろ」

「黙りなさいな。敗北の味ってやつを、たっぷりと味わわせてあげる。……その代わりアンタ、負けたら分かってるわよね」

「靴でも何でも舐めてやる。だから今の内に準備しろ、負けて這いつくばる準備をな」

 

 アヴェリンとユミル、二人の視線がぶつかり合う。

 まるで視線が圧力を持っているかのように、空気が撓んで膨れ上がっている気がした。周囲に人影はなく、また二人の尋常ではない気配に気圧されて近づこうとしない。

 

 アキラもまたその一人で、恐ろしいものを目撃した様な表情で、二人の睨み合いを窺っている。

 

「大丈夫なんですか、あれ……? 今にも殺し合いが始まりそうな雰囲気ですけど……」

「そうするつもりがないからこそ、睨み合いだけで済ませているんだ。……考えてもみろ、アヴェリンが本気で殺そうとしたら、口より先に手が出ている」

「……あぁ、そう言われると」

「だからあれは、二人の友情表現みたいなものだ」

「物騒な表現もあったものですね。それにユミルさんが、師匠の挑発にアッサリ乗ったのも意外でしたし……」

 

 これにはミレイユもそう思ったので頷いておく。

 ユミルは基本的に短絡的な考え方をしない。深い思慮を持つ時とそうでない時の落差が激しいのも事実だが、損得の算盤は常に弾いている筈だ。そこに自身の欲を満たすのに、どれが最適かを考えて動くのだが、今回はそこから外れているように見える。

 

「そこは深く考えても仕方ない。……まぁ、ユミルのやる事だから、の一言で片付くようなものでもある」

「あぁ、それは……何か納得できてしまうのが怖いです」

 

 アキラも苦い顔を浮かべて笑う。

 そうしてお互いに顔を見合わせた時、ルチアが既に移動していて、入り口付近から呼ぶ声がした。時間も迫っているのだし、早く並んでしまいたいのだろう。

 いつまでも睨み合いを続けていそうな二人を引き剥がし、その腕を取って入口へと導く。

 

 この迷宮の面白いところは、入口が四つある所にある。

 ゴールは中央になっていて、全体図で見ると四角形になっている迷路の四隅から向かって行く事になる。これなら同時に出発して誰が一番に到着したのか、視覚的に分かり易い。

 

 こちらは五人いるので、一人はその同時スタートから漏れてしまう関係上、ゴールで待ち構える一人を用意すれば良い、という話になった。

 そして、それに選ばれたのはミレイユだった。

 

「……私は競技仲間から除外か?」

「いや、アンタ入れたら一番が誰か決まったようなものじゃない」

 

 ユミルにそう冷静に指摘されては、ミレイユとしても頷くしかない。迷路は必ずしも実力順でゴール出来るものではないが、有利だと思われるのも仕方ない気がした。

 

「それにミレイさんなら、僅かな差でゴールしても、どちらが早かったか正確に判断できそうですしね」

「……そうね、公平にも判断してくれるでしょ。アキラだったらアヴェリンの圧に負けるかもしれないし」

「いや、そこは流石に公平に判断しますよ。……ただ、同着にしか見えなかったら、どっちが早いかの判断は出来ないと思いますけど」

 

 アキラから申し訳程度の言い訳が飛び出したところで、一つルールを厳守させる、という話が挙がった。ルチアは入口の一つに置かれた案内板、その注意事項を指差して言う。

 

「いいですか、走るのは禁止ですからね。私達以外にも迷路に挑む人がいる以上、誰かを怪我させたりする危険のある行為は禁止です」

「……師匠達が走ったら、そりゃあダンプに轢かれるのと変わらないもんなぁ……」

「なので、歩く事が最初の条件です。――勿論、こちらの世界における徒歩速度だと理解して下さい。歩いているように見えるから、なんて理由で一般人が走るより速く歩いたりしないように」

 

 アキラが一瞬、訝しげな表情を見せたが、すぐに得心がいったように頷く。

 

「ああ、競歩とかありますもんね。それに近い事を師匠達にされたら……、確かに危険かも」

「それさえ守ればいいのか?」

 

 アヴェリンが問えば、ルチアは頷く。

 ミレイユにしても、妥当な提案に思えた。このような個人が自由に動き回れる場所では、アヴェリン達はある程度配慮する必要があるだろう。

 アヴェリンは腕を組み、それから片手を上げて顎を摘むと、小首を傾げて更に問う。

 

「壁を破壊して進むのは?」

「駄目に決まってるでしょう」

 

 堪えきれずというより、ほぼ反射的にアキラが言った。

 迷路内は大人二人がすれ違うには十分な広さを持っているが、しかし狭さを感じるには十分でもある。破壊して進むのが論外なのは当然として、他人に怪我をさせない、という前提を無視する発言だ。

 

 仮に上手くやれる自信があったとしても、やはり候補に上げるものではない。

 ルチアがアヴェリンを呆れた顔で見ながら言う。

 

「修復できないんなら破壊しちゃ駄目ですよ」

「いや、修復できても破壊しては駄目です」

 

 すかさずアキラから駄目出しが飛び出て、ルチアは目を丸くさせた。じゃあ、どうやって二人に勝つんだ、とでも言いたそうな顔をしている。

 ルチアがミレイユに顔を向けてくるので、アキラを肯定するように首を振ってやれば、やはり信じがたいものを見るようにルチアは首を横に振った。

 

 それを見ていたユミルが二人を嘲笑う。

 

「馬鹿ね。壁は壊すものじゃなくて、乗り越えるものでしょ」

「何でちょっと良いこと言ったみたいになってるですか。本当に乗り越えてゴール目指さないで下さいね。どれも駄目ですから!」

「何よ、アレも駄目、コレも駄目って。そんなんじゃ、もう後は普通に歩くしか出来ないじゃない」

「そうしろって話なんですよ! ――ちょっとミレイユ様、何とか言って下さい!」

 

 もはや脊椎反射的に駄目出しとツッコミを繰り返すアキラに、ミレイユは忍び笑いを漏らしながら三人を見つめた。

 

「……まぁ、ふふっ。聞いたとおりだ。普通に歩いてゴールを目指せ、それ以外の一切を禁じる。……そういう事で良いな?」

「えぇ、はい。……大丈夫です。そういう注意はもっと早く……いえ何でもないです」

 

 ミレイユに苦言を呈しそうになったところで、アヴェリンが切り込むように睨みつけ、アキラは咄嗟に口を噤んだ。

 ユミル達にしても、そのルールに文句を付けられなくなって、それで幾度か頷いた後にミレイユが先に行くよう促す。

 

「では、私はゴールで待っていよう。十分後に、それぞれスタート位置から始めろ」

「それって任意のタイミングってコト?」

「……公平性に欠けるな。それじゃあ、私がゴール地点に着いた時点で、上空に破裂音を起こす。それが合図だ」

「了解よ」

 

 ユミルが首肯すれば、他の面々も続いて了承を示す。

 ミレイユはそれらに手を振って、入口の一つへ入って行った。

 



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嵐の前の その10

 ミレイユが到着できなければ、いつまでたってもアヴェリン達はスタート出来ない。歩く以外を禁止した手前、率先して自分が術を使って踏破する訳にもいかなかった。

 それでミレイユなりに急いでゴールへ歩いたのだが、それなりに長大な迷路で、ゴールにはすぐに行き着いてしまった。

 

 途中、自分の位置やゴールの位置を把握する為に、物見台のような物が設置されているのは、子供が迷った時などの救済措置でもあるのだろう。

 大人でも普通にやれば十分以上掛かるような規模なので、それなりに歯応えはあるのだと思う。

 

 ミレイユは五分と掛からず終わらせたが、果たして他の面々はどうだろうか。

 ゴール地点は広場のようになっていて、中央には物見櫓のようなものがある。そこで待機したり、未だゴールで迷ったりする人を、誘導したり出来るのかもしれない。

 

 ミレイユはそこへは登らず、櫓の根本付近で待機する事にした。

 入場する前に宣言したとおり、ミレイユは周囲の目を盗んで上空に術を飛ばす。

 本来は対象に当てた瞬間、接触部分をこそいで破裂する、というものなのだが、当然当てる物体などないので、二つ同時に射出する。

 

 それが空中で衝突して破裂音が鳴った。

 一つ当たったくらいでは、それほど大きな音が鳴るものでもないのだが、術同士を当てたことで、予想とおり大きな音が鳴る。

 

 アキラなどは運動会の当日など、馴染み深い音に聞こえた事だろう。

 入口付近で待機していた四人にも聞こえていた筈だ。ゴール地点で知人を待っているらしい他の人達は、突然の大きな音に周囲を見渡していたが、特に騒ぐことなく元に戻っていく。

 

 近くで誰かが爆竹でも鳴らしたとでも思ったのかもしれない。

 何分掛かって到着するにしろ、その間ミレイユは手持ち無沙汰だ。走ってはいけないというルールがある以上、ミレイユが到着するより早く来るとも考えられず、しかしゴール部屋の入り口へ意識を向けないでいる訳にもいかない。

 

 何とも面倒な役目を引き受けてしまったな、と思いつつ、アキラが参加する事に誰も意識を割いていなかった事を思い出した。

 普通に勝負の一人として参加させられていたのにも関わらず、それに感心が向かなかったのは、アキラが他の誰より先んじるとは思われなかったからだろう。

 つまり入口四つに対する人数合わせとしか見られてていなかった。

 

 ――それはそれで可愛そうだな。

 実際、ミレイユも大番狂わせで一番に来るかと思えば……。やはりアヴェリンより速く到着するとは思えない。午前中に見たミラーハウスの一件もある。

 そこを鑑みれば、やはり一番はアヴェリンで次点がユミルと見るのが妥当な気がした。

 

 入口がそれぞれ別とはいえ、歩く方向によっては途中合流する可能性はある。ゴールとなる出口は二つだから、互いが向かった方向次第では十分に有り得るのだ。

 そこで妨害行為をするとなれば、順当な結果とはならないかもしれないが、歩く以外は禁止としている以上、ルール違反を行うとも思えない。

 

 ――いや、どうだろう。

 アヴェリンとユミルが行き合った時、歩いていただけと抗弁して体当たりする位はやっていてもおかしくない。そこで互いに足の引っ張り合いに発展すれば、一番に来るのは誰になるのか予測が付かなくなる。

 

 そこまで考えて、ふと思う。

 これは別に一番を競うものではなかった。一位争いの最有力がアヴェリンだったから、自然とそう考えてしまったが、これはアヴェリンとユミルのどちらが速く辿り着くか、という勝負だった。

 そこへ他の二名が参加した形で、仮に一番はルチアであっても、アヴェリンが二位なら勝敗の行方はアヴェリンの勝ちとする動きに傾くだろう。

 

 ――まぁ、一位は一位で褒めてやるべきだろうが。

 待つしか無い身でいると、つい益体もない事を考えてしまう。速く誰か一人でも来てくれれば、この暇も紛れるのだが、と上空に視線を向けた時だった。

 

 地響きの様な衝撃が足元を揺らす。

 何かが破壊されるような音ではない、ただ何か衝撃が地を伝っただけだ。しかし、同時にそれが自然的でないものだと理解できてしまう。

 ミレイユが懸念した事が的中してしまったのか――。

 

 周囲で地震かと俄に騒ぎ始める人達を横目に、ミレイユは衝撃音の発生した方向を溜め息と共に見つめた。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 アヴェリンは迷路の中を、走る事なく歩き抜けていた。

 主人たるミレイユがそうせよ、と課せられたルールなら、それに準じ無い理由もなかった。迷路自体の作りも簡素なもので、単に木の板を並べ立てただけのもの。

 行く手を阻む罠や、視覚的に錯覚を覚えさせたり、方角を見失わせる罠がある訳でもない。

 

 見上げれば中央部分と思しき場所には物見櫓もある。

 それがゴールだと思えば、目指すべき方角だけは見失う事はない。

 ただ、そればかりに固執すると、行き止まりへと誘導される作りになっている事は留意せねばならない。そして十字路に行き変えば、ある程度運任せで道を選ぶべきケースも出て来る。

 

 正解のルートが各入口に付き一つなのか、それとも一つしかないのか、それもまた問題だった。踏破距離に明確な有利不利を設けているとも思えないが、正解ルートが一つなら、実質有利な入口というのはあった筈だ。

 それは入口からは分からないが、その有利をユミルが引いていたのだとすると、安穏としてもいられない。

 

 今更ながらに危機感を煽られて、アヴェリンの歩が僅かに速まる。

 迷路内には当然、アヴェリン以外にも人がいる。せわしなく行き交う事もないが、小さな子どもを連れて楽しげに歩く親もいる。それらを押し退けて進む程、アヴェリンは常識知らずでも切羽詰まってもいない。

 

 だが歩き始めて暫し、目の前にユミルがいるとなれば話は別だった。

 ――もしかすると、正解ルートは一つだけか。

 ユミルを視界に収めて、それに真実味が増した。

 

 勘に頼る部分もあったが、アヴェリンは着実に正解の道を選んできたという自信があった。それは根拠なき自信であると同時に、己の才覚に身を置いた自信でもある。

 だから目の前にユミルがいるというのなら、あれもまた一つの正解ルートを正確に辿って来たと見るべきだった。

 

 二人の視線がぶつかり、そして互いに歩みの速度を変えぬまま十字路へ行き交う。

 止まる事なく近づき続け、そしてそれは接触するまで止まらなかった。

 

 互いに肩をぶつけ、それでようやく動きが止まる。接触の瞬間、互いに譲らぬ意志がぶつかり、その衝撃が周囲を揺らした。こうした肉体のぶつけ合いで内向術士が負ける事はないが、ユミルもそれを理解して魔力を放出して補っている。

 

 肩をぶつけ合い、互いに譲らぬまま視線もぶつかり合う。

 そうする内に力の均衡がずれ始め、摩擦と張力が一気に弾かれるように、互いが身を離した。

 その際にも先程より激しい衝撃が発生し、それがアヴェリンの髪をなぶった。

 

「……フン」

「ここは十字路よ、どちらに進むか決めなさいな。決められないなら、アタシが先に、勝手に行くわ」

「選んだ別の方を行くと言う事か?」

「いいえ、アタシは既に決めているの。同じ道なら、また次の分かれ道まで一緒になるわね」

 

 アヴェリンに正解の道を探させるという、ブラフではあるまい。既に道を決めているという、その発言は真実に違いなかった。もしかすると、既にゴールまでの道が見えている可能性もある。

 隠蔽、隠密、追跡は、ユミルの得意とするところだ。最も多く歩かれた道がどれかなど、何かしら確信に至る根拠を持ち合わせているのかもしれない。

 

 だがアヴェリンもまた、人の意志や気配を感じ取る、鋭敏な感覚を有している。数多くの激戦を制して培われて来た能力で、大抵は危機察知能力として働き、その戦闘を助けてくれる。

 しかし、それも使い方次第で、己の勘と合わせれば正解の道を探し出すなど造作もない事だった。

 

 アヴェリンはユミルの視線を断ち切るように顔を左へ向け、そして何言うでもなく歩き出す。普段よりずっと速歩きだが、許容の範囲だろう。

 そうして三歩進むよりも早く、その後ろをユミルが着いてきた。

 

 それに焦りはない。戸惑いもなかった。

 互いに正解を選んだという、確信が得られただけだ。

 アヴェリンとユミルは肩を並べるように歩き始め、そしてどちらともなく前に出ようと、その歩速も速めて行った。

 

 肩を激しくぶつけ合いながら、互いが少しでも前に出ようと、身体を前のめりにして歩く。

 途中すれ違う人を追い越し、道を戻ろうとする人を左右に避けては進み、再び肩をぶつけあってゴールを目指す。

 

 時折相手を睨み付けるように視線を向け、丁字路、十字路、それぞれ選ぶ時間さえ見せず全く同じ動きで曲がり続けて道を進んだ。

 そして最後の曲がり角を超えれば、そこには物見櫓が見えてくる。その足元にはミレイユの姿もあった。二人の歩速はいや増しに増し、お互いを睨む視線も強くなる。

 

 走ってはいけないというルールだから、互いに肩をぶつけて後方へ押し込もうとするのだが、どちらも一歩も引かないまま、ついにゴール部屋へと足を踏み入れた。

 そのままミレイユの元へにじり寄り、どちらが先だったか問い詰める。

 

「ミレイ様、どちらの勝ちでしたか! 私ですよね!?」

「出しゃばるんじゃないわよ、アタシに決まってるでしょ。最初に部屋の入口の線を踏んだのは、どっちだったかアンタには分かる筈よね!?」

 

 ミレイユは気圧されたように一歩下がり、そしてそれでも歩み寄る圧を止めない二人の肩を押して元に戻る。それから呆れたように息を吐いたあと、申し訳なさそうに眉尻を下げた。

 

「白黒ハッキリ付けたかたったが、同着だ。どちらも一歩も譲らず、最初に部屋の土を踏んだのも、私には同時にしか見えなかった」

「そんな……!」

「あぁ、もう……っ!」

 

 アヴェリンは落胆の息を吐き、そしてユミルは天を仰いで額を抑えた。

 本当に間違いないか、と重ねて問いたい気持ちが湧き上がるが、ミレイユが間違いを犯す筈もない。二人の姿を認めてから、ミレイユの方からも注視する気配は感じていた。

 その上で同着だと言うのなら、それを受け入れるしかないのだ。

 

 ただ、敗北ではないとしても、勝ち切れなかった悔しさは残る。項垂れるような気持ちでいると、背後から明るい声音が響いた。

 振り返ってみれば、そこには予想通り、ルチアが明るい笑顔を浮かべて立っている。

 

「あら、やっぱり二人には追い付けませんでしたね。どっちが勝ちました?」

「同着だ。私でも差が分からない程だった」

「あらら……。まぁ、二人はいつだってそんなものですし、今更驚くものでもないですけどね」

 

 ルチアが言うのは正しくて、ここぞという決着はこれまでも付かずにいた。小さな勝負でなら幾らでも勝ち負けはあるのだが、白黒ハッキリさせようとなると、どうにも運命が邪魔しているような感じすらする。

 そこへアキラがゴール部屋に帰って来て、それで全員集合する事になった。

 

 ミレイユが全員を見渡して言う。

 

「まぁ……、面白げもなく順当な結果になったな。一位は同着だったのが、どうにも締まらないが、それも結果だ。お遊びの延長としては良い落とし所だったんじゃないのか」

「変に不貞腐れられても困りますもんね」

「しないわよ、そんな大人げないコト」

「さて、どうでしょう?」

 

 ルチアが珍しく悪戯好きそうな笑みを浮かべ、ユミルはつまらなそうに顔を背けた。

 負かしてやりたいという気持ちも強いが、決定的な決着が付かなくて良かったとも思っている筈だった。少なくともまだ、こういった勝負をこの先仕掛けられるという事になるだからだ。

 

 アヴェリンもまたつまらなそうに鼻を鳴らし、ミレイユの後ろへ――いつもの定位置へ戻って腕を組んだ。陽は既に傾き始め、空が茜色に染まっている。

 頬に当たる風は冷たく、底冷えするような夜風が近付いていた。

 



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静けさ、その後 その1

 アキラは何とも言えない居心地の悪さを感じながら、肩を小さくすぼめて座っていた。

 

 引き分けというのは、ユミルに取って不本意なものであったらしく、その機嫌は宜しくない。口では大人げない事はしないと言った手前、噛み付くような真似こそしないものの、眉間に皺を寄せて口をへの字に曲げている。

 

 今現在、一行は観覧車に乗って、夜へ移り変わる直前の茜空と、それを照らす町並みを見つめていた。

 ルチアは窓へ齧り付く様に外を眺め、その額をガラスに付ける熱心ぶりだった。ミレイユはそれを微笑ましく見つめ、アヴェリンとユミルも、その表情に差はありつつ、やはり視線は窓の外を向いていた。

 

 その視線は窓より下ばかりではなく、その上にも向けられる。

 稜線の先へ沈み行く太陽を見ながら、ルチアはポツリと独り言を零すように言った。

 

「こんなに高い場所から、街の灯りを見下ろすなんて初めてです。空が近いと感じる日が来るとは思いませんでした」

「山の上とか、登った事はなかったんですか?」

 

 アキラは咄嗟に口から出た言葉に、もしかしたらまた訊いてはいけない事をしたかな、と周りを窺ったが、叱責めいた視線は飛んでこない。

 ルチアは相変わらず視線を窓の外へ固定したまま、アキラの質問に答えてくれた。

 

「それは勿論ありましたよ。でも山の中腹から下界を見下ろすのと、こうした平地から見下ろすのとでは、また違った感慨があるでしょう?」

「それは確かに……そうですね」

 

 アキラはいつだったか、魔術を使えるなら空を飛びたい、と言って引かれた事を思い出した。空を飛ぶ事、空への憧れを持つ事は、あちらの世界では一種の禁忌だ。

 確からしい理由は誰も知らないようだが、それが神の権能を犯す事、そして神へ近付く事を許さないから、という考えが一般的であるようだ。

 

 神は空に浮かぶ島などに住んでいる訳ではない、という話も聞いた気がするから、空への禁忌というのが実際どういう意味合いを持って語られるのか、アキラは知りようもない。

 だが、唯一鳥だけが空を飛ぶ事を許された、という話を信じるなら、神もまた人や知的生物が空へ向かう事を嫌ったという事になるのだろうか。

 

 現世にはかつて、バベルの塔を築き神へ近づこうとした人間の奢りに天罰を与えた、という神話もある。人が憧れだけで良しとせず、それを求めようとするのは世界を越えた共通認識であるのかもしれない。

 

 アキラなどは、神が空より高い場所にいるのなら、山程度の高さを飛ぶくらい許してくれても良いのに、と思ってしまう。だが、実際に存在する神からすると、やっぱり違うものなのだろうか。

 とはいえこれは、考えても仕方ない事ではあるし、アキラには一生知る機会が得られそうにない答えでもある。

 

 観覧車から町を見下ろすだけ、というのはアキラにとっては退屈なものだ。

 それで退屈を紛らわせる遊びのつもりで、物思いに耽っていたのだが、そこへユミルが未だしかめっ面のままアキラを見てきた。

 

「……アンタ、また下らないコト考えてるでしょ」

「いや、下らないって何ですか。別に……空を飛べないっていう、そちらの常識が、僕からすると不思議に思えたってだけで……」

「あぁ……。こっちじゃ良く、空を飛ぶ大きな鳥モドキもいるものねぇ」

「あの、バタバタとうるさい音を立てるやつか?」

 

 アヴェリンも会話に混ざって来て、航空機の一種を例に挙げた。

 

「それはヘリコプターですね。ユミルさんが言ったのは飛行機の方で、人だけじゃなくて物も運んだりしますよ」

「私も一度ミレイ様から聞いた事があるが……、相当巨大なものであるらしいな。飛んでる姿は幾度も見かけたが……あれが魔力もなしに飛ぶとは信じられん」

「あら、飛行機が飛ぶ原理知らないの? アタシは知ってるわよ」

「だから何だ。知ってるから偉いとでも言いたいのか?」

「いぃえぇ、とんでもないわ。……ただ、アタシは知ってるって言いたいだけで」

 

 ユミルはニンマリと嫌らしい笑みを浮かべて、小馬鹿にしたように目を細める。アヴェリンの目も細め、腕組みしていた指先から二の腕を握り締める音が聞こえた。

 二人の視線が、また危ない気配を発して交わり始める。

 

 アキラは咄嗟にミレイユへと目配せしたが、当の彼女は好きにさせる方針の様だ。流石に観覧車のような狭い空間で暴れだすような、常識なしとは思っていないらしい。

 アキラもそれを信じたいが、先程までの剣呑な雰囲気を知っていると、どうにも危なく感じてしまう。何なれば、アヴェリンの貧乏揺すり一つで観覧車が停止すると思っている。

 

 それで救いを求める目を向けるのだが、ミレイユからは可笑しそうな視線が返って来るだけで何も言ってはくれない。早々に説得の期待を諦め、アキラは二人の間へ入ることにした。

 

「まぁ、そうは言っても僕だって飛行機が何で飛ぶか知りませんけどね……!」

「……それはそれで、どうなんだ。お前の世界の事だろう?」

「いや、別に原理を知らずに使っているなんて、珍しい事じゃないですし……。ほら、魔術だって曖昧なまま使ってるって言うじゃないですか」

「それとこれとは話が別でしょ」

 

 ユミルが呆れた声で話を遮った。

 

「曖昧である事は事実だけど、それを良しとせず探求し続けているのが魔術という学問なのよ。知らないまま、ただ享受するまま使っているのと同じにされちゃ堪らないわ」

「あ、はい。すみません……」

 

 アキラは素直に謝罪をして頭を下げた。

 魔術を覚える事は、魔術書に向き合い知識の果てに得る、一種の契約だと聞いた覚えがある。確かにこれは、ただ家電を使うようなものと同一視されては堪らないだろう。侮辱と捉えられても仕方がない。

 その下げた頭に、アヴェリンの蔑みを含むような声が落ちてくる。

 

「思慮の浅いところは、いつまで経っても変わらんな……」

「そこに付いては、まぁね。でも意思を変えない部分については、アタシは結構気に入ってるんだけど」

「余り甘やかすな……。ただでさえ私の手を離れて調子に乗ってるのに、これ以上図に乗られても困る」

「……え、そんな風に思われてたんですか、僕」

 

 普段から謙虚を売りにしている訳でもないが、自らの力をひけらかす訳でも、その力で高圧的な振る舞いをした覚えもない。

 全く身に覚えのない指摘に戸惑っていると、アヴェリンが冷めた視線を向けてきた。

 

「……自覚がないのは問題だな。お前、私との鍛練より生温い環境だからと、油断しているだろう?」

「して……っ、ましたかね……?」

「言葉に一瞬詰まったというなら、全くの自覚なしという訳でもないらしいな。……お前は叩いて伸びるタイプだ、褒めて伸びない訳でもないんだろうが……」

「周りの環境に影響され易いんじゃない?」

 

 ユミルの指摘に、アヴェリンは小さく頷いた。得心したようにユミルからアキラへ顔を戻し、そして指を立てて言う。

 

「お前自身は勤勉であるものの、他より突出して突き放すより、その突出した他人と足並みを揃えようとするのかもしれないな。目立ちたくないと考えるタイプか? 他より頭一つ抜ける事を目指すより、そこで拮抗する事を選ぶ」

「あぁ、アキラってそういうトコロありそう……」

 

 アキラは完全に言葉を失くし、喉の奥まで出掛かっていた言葉も引っ込んでしまう。

 その様に考えた事はなかった。今まで才能ある者は常に自分の上にいたし、努力を続けても追いつけるものでもないと自覚していた。

 

 才能ある者は、常に追い付こう、追い縋ろうとする対象であって、それに並ぶ事すら出来ないと頭から思い込んでいた。

 だが学園に通い始めてから、それは変わった。

 アヴェリンに鍛えられた技術は確かに通じるもので、一部では御由緒家を優越するものですらあった。御由緒家は才能や才覚以上に特別な存在で、それが自分と並び立てるなど、考慮の外でしかない。

 

 だが実際は、二人相手取って善戦できるレベルで、しかもそれからは一目置かれて大事にされてきた。実際アキラは御由緒家の一員ではあったのだが、幼い頃から関わりはなく、一般人と変わらぬ位置にいた。

 

 見上げる存在に並びたいという欲はあっても、飛び越して行きたいと思う欲はない。

 指摘されるまで、その事に気が付かなかった。

 

 ある意味で、御由緒家はアヴェリン達と同様、雲の上の存在だった。

 アキラがそう信じる限り、そうでなくてはならなかったし、そうあるべき存在として、頭上に位置する存在で居て貰わなくてはならないと、根拠もなくそう思っていた。

 

 アキラは愕然とした気持ちでアヴェリンを見、そしてミレイユ達へと視線を移す。

 彼女らは特別な存在だ。

 そもそも、この世界の住人ではないという意味も含めて、決して届かぬ存在だった。それは今も変わらないが、彼女たちが魔力という異質な力で隔絶した力差を見せた事で、アキラの先入観を塗り固めてしまった。

 

 その異質な力を扱う者は、常に自分より上だと。

 才能がないと言われ続けたアキラは、それに決して追い付けないのだと。

 ――だが、今や決して、そういう訳でもないのだ。

 

 アキラは不安と期待を混ぜ合わせた視線を、アヴェリンに向ける。

 

「……師匠、僕はこれ以上強くなれますか? これよりまだ、伸び代はあるんでしょうか?」

「お前は私に何を期待してるんだ。下手な慰めなど、私の口から出ると思うか」

「いや、はい……。そうでした」

 

 アヴェリンはいつだって厳しい。優しさや情けというものが、鍛練に寄れば尚の事ない。厳しい言葉の裏には、後になって意味ある事だったと気付く事もあるが、それでも彼女の言葉はアキラの心をよく突き刺す。

 

 だが、今回はユミルがそこに助け舟を出した。

 ニヤニヤとした笑みは変わらないが、そこに幾らかの憐憫が混じっているような気がする。

 

「厳しいだけじゃ伸びないわよ、たまには褒めてあげなさいな。……アンタに伸び代があるのかと言われたら、そりゃあるわよ。ただ、今のぬるま湯では腐るだけね、もっと自分を追い込みなさい。そうすれば、また違った道が見えるかもね?」

「は、はい! ありがとうございます……!」

 

 予想外にしっかりとした返答を受け取れて、アキラは感激と共に頭を下げた。

 しっかりと数秒下を向いてから顔を上げると、不機嫌に顔を逸したアヴェリンが見える。腕を組んだ姿勢のまま、先程のユミルと表情が入れ替わったかのように憮然としていた。

 

 そこへミレイユの声が横から飛んでくる。

 

「アヴェリンは褒めるのが苦手だ。特に自分より弱い相手にはな」

 

 それは何となく分かる気がした。

 アヴェリンは強者には惜しみない賛美を向けそうだが、反して弱者には苛烈と言える程の態度を取る。弟子にした相手とはいえ、未だに弱者と変わりない相手に、素直な褒め言葉は向け辛いのだろう。

 

 それが分かってアキラは微笑み、そして無言の平手打ちが頭を襲った。

 今日幾度目かになる痛みで頭を抱え、そこにユミルの笑い声が降ってくる。一時の賑やかな笑い声が、観覧車の一室に満たされた。

 



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静けさ、その後 その2

Lunenyx様、誤字報告ありがとうございます!
 


 観覧車は時計回りにゆっくりと回転しながら一周する。

 現在は一時の角度まで上がり、そろそろ二時に届こうかというところだった。とうにピークを過ぎた現在、終わりに向かって少し寂しい気分で眺める事になる。

 

 アキラは窓の外へ顔を向け、茜色もすっかり消え、藍色へと変わりつつある空を見た。

 先程まで賑やかに笑い声が響いたのに、今ではすっかり沈黙が降り、誰もが何も発しない。終わりゆく景色を惜しむようですらあった。

 

 観覧車が三時に差し掛かろうとした時、ポツリとルチアが言葉を落とした。

 

「ミレイさん、……今日はありがとうざいました」

「私が好きにやった事だ。以前の約束もある、改まって言われるような……」

「いいえ、きっとこれが最後の機会だから、ですよね。最後のギリギリ、その余裕があるところで外へ連れ出したかった。遊ぶ暇なんて、これから訪れるか分からないから」

 

 ミレイユはこれに答えなかった。

 ルチアの目を見て、表情を変えず、ただその言葉を聞いている。

 

「……やり遂げるつもりでいます。箱庭での修練、大社での実践、それを繰り返す日々ですけど、手応えは感じているんです」

「うん、その努力を疑った事はない。近づきつつあるのだとも思う。完成は目前に控えている、あと一歩といったところなんだろうな」

 

 ミレイユは優しく諭すように言って、言葉を一度区切る。

 アキラには二人が何を話しているのか理解出来ないが、何か重要な事を言っているのだと、雰囲気で察した。

 それからミレイユは重い溜息を細く細く吐き出し、それから小さく頷いた。

 

「……間に合わないと思われていたものが、間に合うかもしれない、というところまで来た。それは確かだ。だが……」

「どうにもなりませんかね?」

「どうにかする努力は続けて来た。私も、お前も、それ以外も。……だが拡大率は上がっている。一定速度ではなく、加速度的に拡がる可能性はある、と聞いていただろう。そのとおりになっただけだ。当初あった早くて半年という数字が、そもそも見通しの甘い楽観でしかなかった、という事だろう」

「……悔しいですよ、己の力が及ばなかったのは」

 

 ルチアの顔は未だに窓の方を向いている。

 今まで一度もミレイユの方へは向けていない。姿勢正しく座席に座り、顔だけ外を向いていた。だが、その膝に置かれていた手が震えていて、強く握りすぎて関節が白く染まっていた。

 

「結末を変えるには、そもそもの根幹を変えなければならない。それは全員が一致する見解だった。ならばどうする、という解決案は、ついぞ見つからなかった。孔の放置が許されない以上、そちらを優先せねばならず、結果として後手に回って何も出来ない。……それが全てだった」

 

 アキラには二人が何を言っているのか理解できない。

 しかし孔という単語から、鬼やそれに纏わる()()だと理解できる。そしてそれが、決して良くない方向へ進んでいるという事も。

 アキラは他の二人へ視線を向けるが、黙して何も語らない。達観したような表情で正面を見据えるだけだった。

 

「せめてお前の半分程の実力が、他の者にあれば良かった。だが遺伝的問題で魔力はヒトに上手く伝わらず、謀反を警戒して能力を伸ばせず、鬼を弱いまま維持できたお陰で危機意識を刺激する事も出来なかった」

「せめて後三十年、早く計画を進められていたら……。時間が足りていれば、人材が足りていれば、そうすればもしかして縮小も封印も、そして決着も付いたかもしれないのに……」

「もし、を言っても仕方がない。考えたくないが、オミカゲの発想どおり、()()()()()方法しかないのかもな……」

 

 それまで黙っていたユミルが、首を動かして否定した。

 

「それはやめておくのが懸命よ、同じ轍を踏むだけだわ。次へ託すという考えは捨てなさい。そうでなければ、いつまでも繰り返す事になるわよ。……とはいえもしかしたら、もっと視野を広げた時、現在の流れすら予定調和の可能性もあるけど」

「考えるだに恐ろしい話だな。……そうでない事を祈ろう」

 

 ミレイユは眉間に皺を寄せ、それから揉み解すように指を添えた。

 

「けれど、こちらで封じ込める事も、締め出し跳ね除ける事も出来ないとなれば、元凶を潰すかやめさせるか……。それしか方法はないと思うのよね」

「……あぁ、決定的な被害が出る前に、私達が移動する事で注意を逸らすか? やはり考えたくないな、それは」

「間違いなくその目はアンタを見てる筈だから、注意が逸れるのは間違いない……けど、腹いせは続く可能性がある」

「あるいは自動的かもと言っていたな。千年続けているのではなく、止めていないから千年続いただけなのだと」

 

 ユミルは渋い顔をしたまま頷く。

 

「もしもそうなら、当然アンタが移動した程度じゃ孔は塞がらないって事になる」

「……だが、それに賭けるしかない段階に来ているのも、また事実という訳か」

「そうね、不本意ながらね」

 

 ユミルが溜め息を吐き、それにつられるようにミレイユも息を吐いて、眉間に深い皴を刻む。その表情には不満がありありと浮かんでいて、それで沈黙が再び支配した。

 それから二人の視線が申し訳無さそうにルチアへ向く。

 向けられたルチアはガラスの反射越しに、その二人を見ているように思えた。

 

 ここまでアキラも口を挟まず――挟めず、黙って話を聞いていたが、何か凄まじい事を聞かされた気がする。世界の裏側、その一端を垣間見たかのような、不条理を一つ知ったかのような、そういう居た堪れない気持ちが沸き上がってくる。

 

 果たしてアキラが聞いて良かったものなのか、それとも聞いた上で何も話さないという信頼の上で交わされた会話なのか、それすら分からない。

 ただ、ここにいる四人が何処か遠くへ行ってしまうような、漠然とした不安だけを感じてしまった。

 

「……あの、今の会話、僕が聞いても良かったんですか?」

「……そうね、あまり良くなかったかもね」

 

 ユミルがちら、と視線を向けて、それからミレイユの顔を伺うように言った。

 

「でも本当に駄目なら、この子が途中で止めてる筈だから、そう深刻になる必要はないと思うけど」

「あぁ、そうなんですね……。実際、まるで良く分かりませんでしたし……。ただ、凄く深刻な感じだけは伝わってきましたけど……」

「そうだな、実際深刻だ。だから聞かせたとも言える」

 

 ミレイユがアキラの目を見てそう言った。

 

「お前は一応アヴェリンの弟子でもある。身内という程近くはないが、他人という程遠くもない。だから、義理を通すような意味合いで、その事を聞かせた」

「……でも、話の内容が難しくて、一体なにを言っていたのか、よく……。結界についてなのか、とはおぼろげに理解できましたけど」

 

 ミレイユは眉間に添えていた指を離し、胸の下で腕を組んだ。それから天井を見上げて、しばし動きを止める。何か考えがあるのだろうと、アキラはミレイユが話し始めるのを待った。

 

「……そうだな……、非常に業腹だが……。私達は近く、元の世界へ帰還する事になるのだろうな」

「そうなんですか!?」

 

 その一言は、アキラを驚嘆させるには十分だった。

 かつて、この世界へやって来た当初、休暇のようなもの、という話を聞いた事がある。バカンスのようなものとアキラも考えていたので、ならば帰る日が来たとしても不思議ではないが……それでも、その事実を聞かされるのは、相当な衝撃と失意を呼んだ。

 

「どうしても帰らないといけないんですか? オミカゲ様だっておられますし、こっちの世界だって良いものですよ」

「それは分かっている。嫌気が差して帰る訳じゃないからな。そうする必要がありそうだ、という後ろ向きな発想か来るものだ。残れるものなら残りたい」

「だったら……!」

 

 言い募ろうとしたアキラを、アヴェリンが一睨みで黙らせる。鬱陶しそうに髪を掻き上げ、鼻を鳴らして威嚇するように顔を顰めた。

 

「ミレイ様が既に言った事だろうが。不本意ながら帰還する、その必要があるのだと。何も告げずに消えるのは不義理だからと、こうして話して下さっているんだ。それに感謝して、別れの言葉でも考えていろ」

「でも……師匠、それじゃあ……、いつか帰ってくるんですか? すぐじゃなくても、またいつか、帰って来られるんでしょうか?」

 

 これにミレイユは答えない。

 他の誰も答えなかった。ユミルすら何も発せず、誰もアキラと目を合わせない。

 それが答えのような気がした。

 

「もう、会えないんですか……? だったら、僕も連れて行ってくれませんか?」

「それは断る。お前の世界は、こちらの世界だ。こちらの世界の住人は、こちらで暮らした方が幸せになれる」

「幸せって何ですか……? 平穏に暮らせれば幸せなんですか?」

「何が幸せかは、お前にしか決められない。だが、あちらにはないだろう。それだけは断言できる」

 

 そんな、とアキラが項垂れると、ユミルは難しい顔で重苦しく息を吐きだしてから口を開いた。

 

「……こちらでいるのが幸せっていうのも、どうでしょうねぇ」

「なんだ、お前は連れて行きたいのか?」

「そういう意味じゃなくって。さっき言ってたでしょ、アンタが還ったところで、孔は残り続けるかもって。孔はその大きさを維持するのかしら、それとも変わらず拡大するのかしら。拡大したとしたら、より強い鬼が出てくる事になるんでしょうね。……平穏って、いつまで続く?」

 

 ミレイユはそれに答えない。ただ答えないというより、答えられないように見えた。

 しかし何よりアキラを動揺させたのは、その孔に対する言及だった。

 

「待って下さい、孔ってこのままだと手に負えなくなるんですか?」

「……伝わってないのか? 孔の拡大、鬼の強化、それは十分周知されている筈だろう」

「それはそうですけど、過去にも例年より強い鬼が出る事はあったと……。一時的なもので、それを耐える必要があるとしか……」

 

 アキラは自分の発言が、そう思わせる為に上が言った嘘でしかなかったのだと、ようやく気付いた。何しろミレイユ達が嘘を言う理由がない。

 拡大しているのが事実なのは周知の通りで、そして対抗する為にミレイユ達が、その真髄を享受させて隊士たちを強化して回った。自分たちも強くなったが、同時に鬼の強さも激しさを増した。

 相対的に見て、まったく楽になっていないというのが現状だった。

 

 そしてそれが本当に破綻する前兆であったとしたら、それを馬鹿正直に言う筈もない。

 混乱は避けられず、御由緒家は例外としても一般組には離反する者も出てくるだろう。悲観的になって、何もかも放り出す者だって出るかもしれない。

 

 それが分かっていない筈もなく、ならばミレイユ達が話していた内容にも、ある程度信憑性が出て来た。もはや、こちらで止められないなら、元から止めるしかない、という事だ。

 

 パイプから流れてくる水のようなものだ。

 幾ら出口でバケツを用意しても、それが満たされてしまうのは止めようがない。パイプを手で塞ぎ続ける事は出来ないだろうし、それならば元栓を閉めるのが賢い選択だ。

 

 彼女たちは、その元栓を閉める為に、世界を越えようとしている。

 元より鬼はあちらの魔物だ。それを和風に呼び習わしていたに過ぎない。あちらから流れてきたと言うなら、あちらで直接止めようというのは、実に理に適っているように思う。

 

 それならば、尚の事アキラには強い決意で持って口にする事が出来る。

 単なる帰郷ではなく、この世界を守る為の旅路だと言うなら、アキラにはそれを手助けしたい意志がある。待ちの姿勢ではなく、攻めの姿勢で赴くミレイユ達に、僅かながらでも力になりたい。

 その気持ちが、今も激流のように沸き上がってきた。

 



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静けさ、その後 その3

「お願いします、僕も一緒に連れて行ってください。この世界を鬼の氾濫から守る為だというのなら、この世界に住む僕にも手伝わせてくれませんか……!」

「へぇ……?」

 

 アキラが持論を展開すると、ユミルが面白そうに眉を上げた。

 興味深げにアキラの顔を舐め回すように見つめ、それからミレイユへと視線を向ける。

 

「なかなか尤もだと思えるコト言うじゃない。苦し紛れの発言に思えて、結構的を得るコト言ってるわよ」

「……そうかもな」

 

 ユミルはアキラに肯定的で、ミレイユもそれに同意したが、それは結局表面上の言葉だけだと分かる。ミレイユの表情は変わらず、アキラから視線を切って見向きもしない。好意的に思っていないのは瞭然だった。

 

「お願いします、僕はミレイユ様に御恩があります。その恩に報いるだけの事を、させて貰っていません。もう二度と会えないかもしれないと言うなら、僕は恩知らずになってしまいます」

「……何処かで聞いたようなこと言うじゃないですか」

 

 ルチアがここでようやくアキラの方へ顔を向けた。

 睨み付けてるようでもあり、また眩しいものを見るようでもある。声音は突き放すようでありつつ、どこか優しさを含んでいた。

 

「恩を返したい、その気持ちは私にも良く分かるんですよ。離れ難いという気持ちもね。私達は自力で……というと語弊がありますか。……まぁ、手段があったから後を追いましたけど、もし無かったらと思うと、とても平静ではいられなかったと思います」

「それは……悪かった」

「いえ、責めたい訳じゃないんです。その話はもう、とうに終わったじゃないですか。ただ、アキラの気持ちも分かるという話で……」

 

 ルチアはミレイユを見て困ったように笑みを浮かべる。儚い笑みで、どこか胸を締め付ける思いがする。アヴェリンにも同様に思う事があったのか、目を固く瞑って難しい顔をしていた。

 しかしミレイユは、だからといって絆されるつもりはないようだった。避難するような目付きで、ルチアの目を見返す。

 

「だから連れて行けとでも? そんな無責任な真似が出来るか」

「無責任というなら、返せる恩の機会を奪うのもまた、無責任って気がしますけど」

「……お前はアキラの味方なのか?」

「いいえ、徹頭徹尾、貴女の味方です。……ただ、頭ごなしに否定するより前に、一度考えるだけの機会を与えても良いと思っただけです」

 

 ミレイユは呆れたように首を振った。

 

「絆されている様なものじゃないか。アキラは確かに身近に置いていたが、お前達と同列に扱うなんて出来ない。お前たちを置いて行こうとし、しかし受け入れたのとは全く話が別だぞ」

「それはそうでしょう。むしろアタシ達とアキラを、同列に扱われちゃ堪らないわ」

 

 ユミルは小馬鹿にしたように笑った。

 ミレイユを見て、次いでアキラを見る。それから頬に手を当てて、上下に頬を撫でながら言った。

 

「共に乗り越えた修羅場があるワケでもなく、単に教え導いてやった、謂わば師弟関係のようなものでしょう? ――あぁ、アヴェリンは本当に師弟関係なんだけど、だからアタシ達より一段も二段も下に置くのは当然よ。だけど切り捨てるという程、浅い関係でもないじゃない?」

「……なんだ、お前もルチアの意見に一票か。……考えてやっても良いが、置いていく結果に変わりはないぞ」

「それならそれで良いわよ。考えを覆せって話じゃないし、一度見直した結果、やっぱり駄目っていうなら仕方ない。……アンタもそうでしょ、考えを改めないと許さないって言うワケじゃないわよね?」

 

 ユミルがアキラに水を向けてきて、咄嗟に何度も頷く。

 

「勿論です、駄々をこねたい訳じゃありません。ただ、お許し頂けるなら行きたいですし、そして駄目な理由を教えられるなら、それを聞いてみたいです」

「幸せになれない、という理由だけじゃ納得できないか?」

「……ですね。漠然としすぎてますし、それを断言できる理由も分からないというか……」

 

 ミレイユは重く息を吐く。駄目な教え子を見るような視線でアキラを射抜き、そして口元を覆うように片手を当てた。それで口の動きは分からなくなったが、舌打ちをしているような気はする。

 

「……そうだな、理由の一つとして文化の違いが挙げられる。いつだったか、その食文化について話した事もあったろう? 治安の違いも察せる筈だ。この国に住んでいれば、多くの当然を享受できていたが、あちらにはそれがない」

「簡単に言えば、不便だと言う話ですか」

「……そうだな、それが一番分かり易い。テレビやスマホもない生活、ガスも冷蔵庫もない生活に、いきなり放り出されてやって行けるか? 海外旅行じゃないんだぞ、一週間で元の生活に戻れるなら不便も一種の楽しみかもしれないが、一生そこで生活すると考えてみろ」

 

 確かにそれは、現代人として生きてきたアキラには、想像も出来ない生活だった。テレビやスマホは我慢できても、便利な電化製品、更に言うなら夜の灯りだって身近なものではなくなるだろう。

 

 食生活についても同様で、初めてミレイユと会った時、米が食べたいと言っていたから、あちらには当然ないのだろう。米だけに限らず、醤油やソースなどの調味料もないと聞いた覚えもある。便利なスーパーなど望むべくもなく、新鮮な食材なども手に入らない世界なのだろう。

 

 アヴェリンが遠くに見える林を見て、鹿でも狩って来ようと思うぐらいには、肉を得る手段というのは限られてくるのだと予想も付く。

 生活の殆どに常識が通じない。アヴェリン達が日本に来て、相当おかしな行動を取っていたものが、それが今度は逆になる。

 

 本当にやって行けるのか、と言われれば、不安は当然ある。

 だが、その程度の不安は、アキラが与えられた多くのものと比較すれば、ごく小さなものだ。その不安に背を向けて、恩を返せずそのまま暮らすなど、アキラは考えたくもなかった。

 

「それでもやっぱり、僕がミレイユ様方に受けた恩というのは特別なんです。僕はまだ何も返せてません。これからは、向かう先でしか返せないというなら、その先で返す機会を与えて欲しいんです」

「うん……。その心意気は買うがな……、それを嬉しくも思う。だがな……」

 

 ミレイユは口元を覆う恰好を崩さぬまま、思考に没頭するように目を瞑った。

 そこにユミルが声を掛ける。

 

「何が不満なの? アキラの人生を背負うって部分? 付いて来たら帰れないからって?」

「そうだな、そういう部分は確かにある」

「そんなのアンタが背負う責任ないじゃない。事前に説明して、付いてくるなと言って、その上でアキラが来るっていうなら、それはアキラの責任よ。後で悔いても、そら見たことかと笑ってやる権利すら、アンタにはあるのよ」

 

 そうよね、とユミルが目を向けてきて、アキラは咄嗟に頷いた。

 言っている事は少々過激だが、間違いではない。来るなと言われた上で、それでも付いていく意志を示したのなら、何があろうとアキラが責任を負うべき事だ。

 

 その先で幸せになれないと言われ、そして本当に不幸になったと悔いるなら、アキラが馬鹿だったというだけの話でしかない。ユミルの言うように、小馬鹿にされても甘んじるし、そう出来ないなら悔いる権利すらないだろう。

 

 ルチアもそれに援護するような、どこか達観した遠慮のない言葉で言う。

 

「ここまで納得ずくなら問題ないと思いますけどね。問題だというなら、ただ弱いって事だけじゃないですか。足手まといはいらない、っていう話で終わるなら、話はもっと単純だったと思いますけど」

「それもあるがな……」

 

 そこを突かれると確かに弱い。アキラは思わず言葉に詰まった。

 アキラは当初と比べて腕を上げた。魔力が無かった頃と比べたら雲泥の差と言っていい。学園へ通うになって三ヶ月、そこでも更に腕を上げた。

 

 切磋琢磨できる、腕前も距離感も近い相手というのは、何より実力を伸ばすのに得難いものだった。今まで自信のなかったアキラも、その期間で確かに実感を得られる程に能力を伸ばした。

 

 だがやはり、ミレイユに敵わないのは勿論、アヴェリン達に肉薄するような実力は得られていない。その力の底すら知れない、という程に、彼女たちとアキラとの差は歴然としている。

 その彼女たちに付いていくと言うのなら、それは確かに足手まといにしかならない。

 

 荷物持ちとして付いていく、という理由も通用しないだろう。

 何しろ個人空間という、限りはあっても膨大な量を仕舞えてしまう能力がある。旅の間は用意する物も多いとはいえ、それは彼女たちに関係ないだろう。

 

 アキラにアピール出来るポイントと言ったら、恩を返すという情に訴えかけるだけ。自分が付いていく事に利がない以上、アキラにはそこを推すしか他に手は残されていなかった。

 

「お願いします、僕も一緒に……! どうか御恩を返させて下さい!」

 

 アキラは狭い観覧車の室内で頭を下げる。正面にいるのはミレイユではなかったが、それでも必死の願いを込めて頭を下げた。

 沈黙が室内を支配する。誰も何も言わない中、衣擦れの音だけが聞こえていた。

 

 それから静かに、そして厳かに告げるように、ミレイユから声を掛けられる。

 顔を上げろ、と言われて、素直に上げてミレイユを見返した。その表情には何の感情も浮かんでいなかったが、ただ迷惑そうに手を振っているのが、その感情の発露のような気がする。

 

「勝手に付いてきて、勝手に死なれても困るんだ。……分かるか?」

「……それは、はい。ご迷惑になるかと思います」

「死ぬな、なんて命令、何の役にも立たないだろうし、お前を護ってやるほど私達は優しくない。お前は私の命令に従えるか?」

「はい、従えます。自分の意志で付いていくんです。必ず従いますし、自分の身は自分で守ります」

 

 ミレイユはそこで感情らしい感情を露わにし、小さく息を吐く。

 

「その宣言一つで、本当に守れるなら話は簡単なんだがな。――アキラ、お前……私が殺せと言えば人を殺せるか?」

「え……」

 

 ミレイユが言った事の意味は、あまりにも明らかだ。

 だが咄嗟に答えを返す事出来ず、アキラの身体が固まった。

 



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静けさ、その後 その4

Lunenyx様、天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


「人を……、人殺しをしろって言われたら、ですか?」

「そうだ。――出来るのか?」

「それは……」

 

 アキラはやはり答えに窮して口籠る。

 出来る、と言わねばならないだろう。付いていく上で、ミレイユの命令には絶対従え、という約束をさせられたら、アキラは人を殺さなければならない。

 

 そんな機会があるのか、と思うのと、単に覚悟を確認している例えに過ぎない、という思いでせめぎ合う。

 この場で出来る、というのは簡単だ。その機会がいざ訪れた時、武器を振るえなかった場合を考えなければ尚更簡単だろう。

 

 だが、嘘を吐けば信頼は失墜する。

 そしてアキラ程度の嘘、ミレイユは簡単に見抜いてしまうだろう。

 アキラがいつまでも答えないでいると、ミレイユはアヴェリンへ顔を向けた。

 

「アヴェリン、お前は私が殺せと言えば殺せるか」

「問われるまでもありません。――出来ます」

 

 そうだろう、とアキラは納得するしかない。

 アヴェリンは野蛮という訳でもないし、ミレイユの命令にどのようなものでも絶対服従でもないが、必要と思えば殺人を躊躇わないと思わせる、揺るがぬ意志がある。

 言われなくても、それが必ずミレイユの益となると判断すれば、それが誰でも殺して見せるという、信頼めいた確信があった。

 

「ユミル、お前はどうだ?」

「そりゃ殺すわよ。殺せと言われたら殺すわね。それ以外ある?」

 

 ユミルの返答は飄々として軽いものだが、そこには決然とした思いがあった。

 そもそも命を重いものだとは考えていない節が窺える。樹の実を枝からもぎ取るような気安さで、人の命を奪うような気がした。

 魔物も人も、殺すとなれば、そこに差を持たない。彼女はその様に考えているように思う。

 

「ルチアは、お前は殺せるか?」

「殺せますよ。必要とあれば、幾つでも」

 

 ルチアの容姿でそれを言われるのは、正直心に重かった。

 しかし彼女もまたミレイユの腹心の一人で、そして多くの修羅場を潜った魔術士なのだ。実際、言われただけでなく殺した事もあるのだろう。

 彼女の一言も軽いもので、その発言どおり例え千人であろうと、必要なら魔術の一掃で殺してしまいそうであった。

 

 ミレイユの双眸が、ひたとアキラを見据える。

 

「それでアキラ、お前は殺せと言われたら殺せるのか?」

「それは……、その、悪人だけの話ですか?」

「今更何を聞いてるんだ」

 

 アヴェリンが深く溜め息を吐いて、頭をガシガシと搔いた。

 

「相手が悪人だとハッキリ判明するまで、猶予を与えろと言うのか? 悪人らしい悪人、目の前で殺人でも起こした野盗でなければ武器を振るえんか?」

「それは……そうですよ。善人を斬って良い筈ないです」

「そうかそうか。では、先程いった野盗なら、躊躇わずに殺せるんだな?」

「……、分かりません」

「分からない? 分からないとはどういう意味だ? 悪人なら殺せるんだろう?」

「だって、人を殺した事なんてないんですよ! 悪党らしいってだけで、殺されそうになったというだけで、だから自分も殺してやるとはならないですよ……!」

 

 アヴェリンは明らかに落胆した溜め息を吐いた。

 目を細め、侮蔑するような視線を向ける。それからミレイユに向き直った。

 

「なるほど、ミレイ様の危惧した事が分かりました。こいつは連れて行くべきではありません」

「そんな……!」

 

 アキラは追い縋るようにミレイユを見つめ、それから擁護してくれていた二人に目を向ける。

 しかし見つめ返してくるのは、アヴェリン同様落胆か、あるいは軽蔑する視線だった。

 ミレイユは言う。

 

「私が殺せという相手を殺せないなら、お前は付いて来ない方がいいだろう。……私が無辜の民を殺せと命じると思うか? 街道で適当に目を付けた婦女子を斬りつけろって?」

「……思いません」

「私がそれを命じるなら、それ相応の確信あっての事だ。例えそれが無辜の民に見えたとしても、それを命じるなら、命じるだけの根拠がある。それを懇切丁寧に説明し、お前が納得しなければ刀を振るえないか? 悪人であっても殺せないと言うお前が、私の命に従わず、逆に自分の命を失っても、私は仕方ないの一言で済ませると思うのか?」

「……思いません」

 

 だが、殺人というのは忌避感があって当然だろう。

 度胸の一つで出来るものではない。鬼や魔物のように、それが人型であるというなら問題なかった。それは人のような形をしているだけであって、あくまで人に仇なす敵でしかないからだ。

 

 仮に戦争中の敵兵であったとしても、殺す許可が得られているとしても、実際に武器を振り下ろすのは簡単な事ではない。やるべきだ、やるしかない、と頭では分かっていても、だから出来ると断言できなかった。

 

 ミレイユは平坦な声で続ける。

 

「私が何より危惧するのは、その倫理観だ。その精神は、現代日本では尊ばれるものだ。悪人にも人権があり、公平な裁判を受ける権利がある。人の命は平等で、犯すべからざる権利であるとな」

 

 アキラは何も答えられない。

 

「だが、国も違えば文化も違う、文字通りの別世界で、お前の倫理観など何の役にも立たない。むしろ枷だ。人の命に差があり、権利も無ければ不平等。法があっても尊重されず、犯罪が横行する。一度町から離れれば、そこは法の届かぬ力の世界だ。襲うのは人だけではない、当然魔物も闊歩している」

 

 アキラは項垂れる気持ちで、何一つ返せない。

 

「お前の倫理観はどこまで尊重される? 人を殺すのは間違いか? 無論、そうだ。ではそれを、誰が判断する? 国か、法か、憲兵か? どれも当てにならない。では、誰が判断するんだ」

「それは……自分で、するしかないんでしょうか」

「頼りになるのは自分だけ、というほど殺伐としたものでもないがな。互助会のような物があり、互いに互いが睨み合って、それで安全が確保されていたりもする。憲兵よりもギルドの方が頼りになるし、そこに所属する事で身分も安全も、ある程度保障されたりもする。……では、ギルドの全てを信頼できるのか? お前はどう思う」

 

 問われてようやく、アキラにも答えられそうな質問が来た。

 その世界の常識のように思えたが、そこに疎いアキラに正解など知りようがない。だから自分が考えられる範囲で答えを言った。

 

「分かりません。法とは別に、ギルドにはギルドの規則みたいな物があるんでしょうか」

「そうだな、ギルドにはギルドのルールがある。無法であればこそ、最低限のルールがあり、それを守れないなら追放となる。それには当然、殺しも含まれる」

「命じられるんですか、誰かを殺せって……」

「あの世界の命は軽いが、だからと言って、とにかく殺せというほど野蛮ではない。だが、ギルドの保護を受けるなら、命じられれば殺さなければならない。追放処分は、無所属よりも立場が悪い」

 

 それは分かるような気がした。

 犯罪を起こした訳ではなくとも、命令違反は軽犯罪者扱いのようなものだろう。無所属はどこかへ所属する選択肢があるが、追放となれば別組織でも所属は難しくなるのは当然だ。

 

「……いいか。どこに所属するにしろ、お前が考えるより簡単に、暴力が振るわれる。まずそこが根底にあるんだ。言うことを聞かせるのに、そして見せしめという意味でも、実に有効だからな。話し合いでの解決も勿論あるが、まず暴力で屈服させようと考える奴に話し合いは通用しない。話したいなら、まず殴って黙らせて、そこからスタートとなる」

 

 アキラは開いた口が塞がらない。

 アヴェリンやユミルが、暴力に手慣れていると感じた事がある。いま聞いた話のとおり、暴力を根底にしている世界で培った常識なら、そうなるのも当然という気がした。

 

 剣と魔法の世界というのは、一種の憧れだ。

 どこか綺羅びやかで、そして殺伐としている世界。そういう認識だったのだが、実際は遥かに泥臭い世界らしい。

 

「差別も横行していて、むしろ当然と認識されている。命が平等じゃないなら、権利も当然平等じゃない。お貴族様の世界は平民とまた違った不平等があるし、正しい事は報われない。それを続けるというのは、本当に難しい事なんだ」

「……分かるか? その正しさを続けて来たのがミレイ様だ」

 

 アヴェリンが補足するように言い足して、それでアキラは顔を上げた。

 彼女は誇りを存分に感じる姿で、そしてそれを口にするのが誇りであるという様に続ける。

 

「誰もが正しい事を望んでいる。しかし、腐敗の力というのは相応に強く厄介だ。大抵はそれに潰されるか、同じく腐り果てていく。だがミレイ様だけが違った。何が正しいかを示し続けた。あらゆる不平等、あらゆる腐敗、あらゆる暴力を跳ね除け、現在の王政を敵に戦った」

「私がエルフである事を理由に迫害され、差別されていた事も同様に、それを正しエルフを救ってくれたのもミレイさんです」

「そういえば、神様のように崇められているって……」

 

 かつて聞かせてくれた事があった。

 ミレイユが、耳を丸めたエルフと呼ばれるような事があったのだと。それはこれが原因だったのか。そこにどれだけの差別や迫害があったかのか、アキラには分からない。

 

 しかし、神のように崇められるというのは、尋常でない事だけは理解できる。

 ミレイユが仲間内から尊敬されている理由、そして最年少でもリーダーである理由が、これで少し分かった気がした。

 

 そしてだからこそ、ミレイユが殺せと言えば、躊躇わず殺す事が出来るのだろう。その絶対の信頼が、その背景にある。

 アキラもミレイユを信頼しているのは間違いないが、だからと動ける程ではない。彼女らとアキラの違いはそこにある。

 

「暴力もまた正義には違いない。それを正しく扱える限りにおいて、その暴力は正しい力となる。ミレイ様はそれを良くご存知だし、どのように扱うかも熟慮される。だから多くの人を救ったし、災害のような竜すら討伐に赴くから、その人徳と武威から多くの尊崇を集めた」

「言ってましたね、千人を集めた大連合で挑み、唯一生き残ったミレイ様たちが討伐したと」

「うむ、その時の事と言ったら――!」

 

 アヴェリンの発言に熱が帯びて来たところで、ミレイユが待ての合図が飛んできた。

 

「話が脱線している。それはどうでも良い。――アキラ、私が言いたいのはな。振るうべき時にすら力を振るえないなら、何一つ自分の思うとおりにはならない、という事だ。理想のまま生き抜くのは難しい。無念のままに死ぬのも人生かもな。だが、それを私の後に付いて来てまでやるな」

「……はい」

「今のお前なら、理想を抱いて死ぬというほど、立派な死に様を迎えられない。ただ、そうしたくないという稚気で死ぬだけだ。それも、私が許可したという前提の元でな。それは認められない。……だから、お前は付いてくるな」

 

 アキラは何も言えなかった。

 暴力が根底にある、それが法を――ルールを機能させる大前提だというなら、確かにアキラの倫理観はその世界にそぐわない。殺しも躊躇わないだけの強い胆力もなしに、ミレイユの後ろを歩く事すら出来ないのだ。

 

 アキラはやはり、やれと言われて殺せるとは思えなかった。

 顔を上げて周囲を見る。

 

 ユミルを始め、最初は擁護してくれていた人も、今では考えを正反対に変えている。

 ミレイユにあそこまで言われては、アキラもまた自分が付いていく事が正しい事とは思えなかった。悔しさはある。恩を返したいという気持ちは本物だ。

 しかし、それを許されるには、多くの覚悟がアキラにはない。

 

 どうしようもないのかと、諦めの溜め息を吐いた時、観覧車が終りを迎えた。

 乗降口の係員が扉を開け、外へ促す声が聞こえる。

 アキラはグッと重たくなったように感じる身体を、引き摺るように外へ出ていった。

 



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静けさ、その後 その5

 失意にも似た感情のまま観覧車を降りると、陽はすっかり落ちて、遠く稜線に薄っすらと明かりが見える程度になっていた。

 観覧車を始めとした、様々なアトラクションに飾り付けられた電灯が、綺羅びやかな発色で主張している。

 

 ミレイユが言ったのは明らかな拒絶だった。

 そして、その原因はアキラの方にある。あそこまで整然と理由を述べられ、それに納得してしまえば、アキラにもミレイユに理があると理解できてしまう。

 

 アキラがしたいのは恩返しであって、決して困らせる事ではない。

 戦力的な足手纏いという程度なら、ルチアやユミルも受け入れるつもりでいたと思う。しかし、アキラの精神性、その倫理観一点において、連れて行くのは無理だと態度を一変させた。

 

 人を殺せる度胸があるかが問題ではないのだろう。

 いざ自分に危険が迫ったところで、それを跳ね除けるのに武器を振るえないのが問題なのだ。その一撃が相手の生命を奪うと思ったら、きっとアキラは手加減するだろうし、急所は外して狙うだろう。

 

 そして、それが理由でアキラは手酷い反撃を受け、致命傷を受けると――死に繋がると考えている。

 現代人の常識――命は平等、という考えが通用しないのは、ファンタジー漫画を読んでいても当たり前に登場する設定だ。だからアキラもそれを頭では分かっているつもりだった。

 

 成熟した精神性を持った国家はなく、いっそ野蛮で武力を示す事が求められる国家。どちらが正しいというのではなく、時代がそれを求めるのだろう。

 それに人間の敵は、同じ人間ばかりとは限らない。

 

 魔物が普遍的に存在し、野生の鹿や熊などと同じように生息しているのなら……そしてそれが人間の生活圏を脅かす位置にあるのなら、武力とそれを背景にした統治は必須だ。

 まずは話し合いからではなく、まず殴り付けてから、という考えが根底にあるのは、そのせいなのかもしれない。

 

 であるならば、アキラの思考や倫理観は、間違いなく世界の常識と大きな齟齬を生む。

 その齟齬が、幾らでもアキラに危険を及ぼすだろう。生きづらい世界だとも感じる筈だ。

 

 ミレイユが日本出身である、と言っていたかつての言葉を信じるなら、彼女もまた同じような葛藤があったに違いない。それを鑑みて、ミレイユはアキラには無理だ、向いていない、と判断を下したのだろう。

 

 そうであるなら、アキラにはもう何も言えない。

 どちらにしろ、異世界の事を知らないアキラが何を言おうと、それは彼女たちの心には響かない。現実が見えてない奴のセリフだと思われるだけだろう。

 

 考える程に気持ちが後ろ向きになっていく。

 アキラにミレイユを説得できる材料がない事こそ、それに拍車を掛けていた。

 アキラが一つ溜め息を吐いた時、ポケットに仕舞っていたスマホが音を立てて震える。取り出して確認すると、凱人の名前が表示されていた。

 

 ミレイユに目線で確認を取り、頭を下げて通話ボタンを押す。耳に当てて返事をすると、焦ったような声音が聞こえてきた。

 

『アキラ、お前いま何処にいる?』

「え、どこって……、あー……」

 

 質問の意図が不明なことを除いても、これに答えるのは難問だった。

 現在の状況がプライベートな事と捉えても、遊園地と素直に答えて良いものか。一人で行く場所ではないし、共にいるのは御子神様だと知られている。デートのような甘酸っぱいものでない事は確かでも、余計な詮索をされそうだ。

 それに、素直に伝えてしまえば.自分以外の居場所も教えてしまう事にもなる。

 

 ミレイユは神宮から逃げて来たような素振りを見せていたので、それで密告するような形になるのは不本意だった。

 それにアキラ達は、ミレイユの転移でやって来たので、大雑把な場所を伝えようにも、ここが九州地方である事以外、何も分からない。

 アキラは答えに窮して、曖昧に口から出た言葉をそのまま伝えた。

 

「……うん、どこだろう」

『真面目に聞いてるんだ。緊急招集が掛かっている、相当拙い事態が起きた。すぐに帰還しろ』

「き、緊急招集……!? 一体なにが!」

『電話口では伝えられない。とにかく、可及的速やかに帰還、これは上からの命令だ。確かに伝えたからな』

「あ、ちょ、ちょっと……!」

 

 詳しく話を聞こうとするより早く、通話が切られてしまった。

 何事かと視線を向けてくるミレイユに、アキラは困惑した表情のまま、電話口に伝えられた事をそのまま教えた。

 

「……なるほど? 何が起こっているかはともかく、お前は今すぐ帰した方が良さそうだ」

「はい、申し訳ありませんが、お願い出来ませんか」

「ああ、だがここでは目立ち過ぎる。場所を変えよう」

 

 ミレイユに促されるまま、アキラはその背の後を付いていく。

 そうしながら、アキラは彼女達がどう動くつもりなのか聞いてみた。これは興味本位ではなく、緊急事態が起きているというなら、御子神様たるミレイユにも緊急連絡が届く可能性があるからだ。

 

 もしかしたら、いつか強力な鬼が出た時のように、救援要請のようなものが出されているかもしれなかった。それならそれで、ミレイユ達も待機状態に入るのか、それを現場に伝えられたら、という思いからの質問だった。

 

「ミレイユ様は、どうされるんですか? やっぱり神宮にお帰りになるんでしょうか?」

「まずはルチアを大社まで帰す。それからどうするかは、そこで得られる情報次第かな。鬼に関係する事なら、結界を通して詳細な情報を既に入手している筈だ」

 

 それはアキラに取っても分かり易い判断だった。

 少なくとも、ミレイユは現状に対して傍観を貫くでも、御由緒家に全てを任せるつもりでない事も分かった。いざという時はミレイユがいる、というのはアキラの心を軽くさせた。

 

 ミレイユの先導に従って進んだ先はトイレの裏で、茂みのようになった場所で振り返る。

 その手には既に紫色の光に包まれていて、制御も完了している事を示していた。

 

「……とにかく、こちらでも確認しておく。いつもの様に、また一段強化された鬼が出ただけという気もするが……まぁ、気をつけろ」

「はい、ありがとうございます。身命を尽くします」

 

 アキラの返答にミレイユは困ったように眉根を寄せ、それには答えず腕を振るう。

 その一瞬あとには視界が黒く染まり、そして次の瞬間、自分が転移したのだと悟った。一秒に満たない時間の後、肌を撫でる空気の違いに気付き、自分の転移が完了したのだと理解した。

 冬の夜、その肌に感じる冷気に身を引き締めながら現在地を確認してみれば、そこは学園の入り口より少し進んだ辺りだった。

 

 今も凱人を始めとした隊士達は、緊急事態に忙しく対処している最中だろう。

 アキラもそれに助力するべく、地を蹴って校舎へ走り出した。

 

 

 

 そしてアキラが知ったのは、衝撃の事実だった。

 今は御影本庁の会議室、現役の隊士達に囲まれて、御由緒家全員が揃った中で知らされた。正直、そこにアキラが混じるというのは相当な場違い感があるのだが、有無を言わさず連れて来られた場所が、ここだったので仕方がない。

 

 会議室にはパイプ椅子が整然と並んでおり、室内には現在五十人近い人数が揃っている。

 その最前列には各小隊の隊長格が肩を並べ、そしてそれとは別に御由緒家の面々も座っていた。アキラもその末席に連ねていて、紫都の横で小さく肩を窄めている。

 

 その会議室全面のディスプレイには現在の状況などが表示されていて、その横には鋭い視線と重い口調で説明する阿由葉結希乃が立っていた。

 

「――以上、説明したとおりだ。鬼が結界から逃げ出し、市街地へと紛れた。現在これを全力で捜索中で、神社の宮司と巫女達……結界術士がそれを血眼になって痕跡を追っている」

 

 それを聞かされたアキラが受けた衝撃は、遥かに重大で直視したくないようなものだった。まるで大地が崩れて空に上がった、とでも言われたような、現実ではないと拒絶したくなるほど信じられないものだ。

 

 ――結界神話の崩壊。

 それが目の前で起きている。これまで幾度も鬼が出て来たが、同時に結界内へ閉じ込める事も成功してきた。だから理力を持たない日本人は、その存在自体、フィクションの出来事だと思っている。

 ――かつてのアキラのように。

 

 だが、それが崩れた。

 逃げ出した鬼は、今も人を襲って爪や牙を血で濡らしているかもしれない。それを思うと、居ても立っても居られなかった。

 アキラが握る拳にも力が入る。

 

「出現した鬼は結界が生成され、次に堅固になる理力が注がれるまでの僅かな時間で逃げ出した。生成されたばかりの結界は脆い。そこを突かれた形だ。合わせて被害者が出ていないかも探しているが、現状は何の手掛かりも得ていない。――現状伝えられる情報は以上だ」

 

 結希乃が質問を許可する旨の事を言うと、隊長格の一人が挙手をする。それを指差すと、彼女は起立して口を開いた。

 

「手掛かりがないとなれば、我々も捜索に出向くべきではないでしょうか!」

「それは認められない。現状のまま待機、ただし戦闘態勢を最大レベルで維持したままだ」

「何故でしょうか? 神社関係でさえ探せていないというのなら、足を活用するべきです。足の数は多ければ多いほど、発見が早まると思われます」

 

 何一つ質問内容など思い付かないアキラからすれば、その質問は実に理に適っているように思えた。理力を使った捜索で鬼が発見できないとは思えないが、それで見つからないというのなら、人の目で捜すしかないように思う。

 戦闘でそれなりの手助けしか出来ないという、アキラの自己判断からすれば、そちらに回してくれた方が貢献できそうとすら思っている。

 

「結界術士ですら見つけられていないというのが問題だ。その事実は、鬼が単なる鬼でない事を示している」

 

 前代未聞の結界逃れをした鬼だ。普通でない事など、誰の目にも明らかだ。

 何を言いたいのか分からず、アキラが目を白黒させていると、結希乃が構わず言葉を続けた。

 

「つまり、理力に寄る捜索から逃げ続けられるだけの、制御力を持っているという事だ。それが強力であろうと非力であろうと、目に映らず逃げ続ける事は不可能だ。だが、現状それを成しているという事は、非常に優れた制御力で痕跡を消すか残さず移動している事になる」

「鬼は強力なだけではない、優れた理力制御のできる相手である、という事でしょうか」

「理力という呼び名が適切であるかは、この際置いておこう。だが、そのとおりだ。鬼というより術士を敵と想定するべき、という結論に至った」

 

 会議室の中が騒がしくなる。

 誰もが動揺を隠せず、隣り合う相手に信じられない表情を向けたりと、規律の行き届いた隊士にはあるまじき失態だった。

 

 だがその気持ち、アキラにも良く分かる。

 いつだって敵は醜悪な魔物だった。人型をしていても人とは似ても似つかなかったり、そもそも頭部が別の何かだったりする。攻撃するにも刀を振るうにも躊躇はなかったが、それがもしかすると、人と変わらぬ姿をした相手かもしれないのだ。

 

 動揺は当然と言える。

 しかし、そこに結希乃から鋭い叱責が飛ぶ。全員を睥睨し、起立したままの隊長を座らせた上で言った。

 

「――聞け。敵がその様な相手である以上、各個撃破されかねない人海戦術による捜索は出来ない。敵が孔から偶然漏れ出たと言う訳でなければ、必ず目的がある。その遂行の際には、力を表面に出さず成せない筈。その瞬間であれば神社も即座に捕捉できるだろう。そうなった時、我々が全力で当たるには纏まっている必要がある。だから、連絡があるまで現状のまま待機。……分かったな?」

『了解しましたッ!』

 

 全員から裂帛の気合による返事があって、部屋そのものが振るえたような気がした。覚悟も何もないまま、そして用意する間もないまま、事態はアキラを置いて進行していく。

 アキラはドコドコと音を立てて激しく動悸する胸を抑え、細く呼吸を繰り返す。

 

 ミレイユから先程言われたばかりの懸念が胸をよぎる。

 それが例え悪人と分かっていても、その生命を奪う為に刀を振るえるのか――。

 

 今から相手にするのは明確な敵だ。

 その姿形が本当に人間型なのか、それとも別物なのは分からない。変わらず醜悪な姿をしているのかもしれない。そしてそれは、間違いなく人にとっての敵だ。

 鬼がそうであったように、放っておけば際限ない被害が出るだろう。

 

 今までと何も変わらない。それが人間型だったとしても、アキラのやる事もまた変わらない筈だ。頭では理解できる。だが躊躇う気持ちが生まれるのは、止めようがなかった。

 



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静けさ、その後 その6

Lunenyx様、誤字報告ありがとうございます!
 


 その日、神宮内部、奥宮の警備を任されていた由井園侑茉(ゆいぞの ゆま)は、妙な胸騒ぎを感じていた。常に宮内の警備を任される由井園だから、結界討伐に向かう事は少ない。

 しかし御子神様に制御力の精髄を学んでからは、強く志願して赴く機会も得られていた。

 

 磨いた制御力をそこで発揮し、由井園恐るべし、と思われることを期待したが、他の御由緒家も同様に実力を磨いていた。そこに驚きはなかったが、同時に落胆もあった。侑茉には御子神様御自ら見出されたという自負がある。

 

 その自負を身に抱えたまま戦闘を続け、隊士の中にも由井園侮りがたし、と思われるに至った。宮内警備も決して軽んじられるものではないが、同時に鬼の脅威から遠い場所でもある。

 最前線は、やはり結界内での戦闘という事になる。だから、そこから離れた位置に配置される由井園は、同じ御由緒家の中でも、その実力という面において一段低く見られる風潮があった。

 

 だが、侑茉が実戦でその力を見せつけた事で、侮るような気配は消えた。

 宮内に留まるでもなく、強力な鬼が出現するようになった昨今、その侑茉が助力して結界討伐に参加してくれる事は非常に歓迎される事でもあった。

 

 しかし現在の侑茉は宮内警備で、険しい顔をさせて周囲を見渡している。

 電灯を用いていないので、基本的に篝火で明かりを取っていた。鉄製の籠に三本の足で支えたもので、高い位置で明かりを燈しているものの、遠くまでは照らせない。

 利便性より伝統や雰囲気を崩さない為、という理由で古来からの様式を維持しているが、それが今では恨めしい。

 

 侑茉の表情が険しいのは、単に結界討伐に参加出来ない訳でも、闇夜を照らす光が弱い事でもない。現在の警備、警戒を厳とする事にあった。

 

 ――鬼が結界から逃げ出した。

 巫女や神社の失態でもあるが、それを咎めるつもりはなかった。元より弱体し始めた結界、そしてそれに反するように強化を始めた鬼。結界の絶対性と安全神話は、遠からず崩れ去るだろう事は予測できていた事だ。

 

 侑茉が問題とするべき事は、その鬼の行方が知れず、そして未だに捕捉できていないという点だった。それはつまり、この神処たる奥宮へ鬼が侵入するかもしれない事を意味する。

 神の庭を守護し、オミカゲ様の盾として敵に対峙する由井園の、その本分を発揮するべき時が、遂に来たのかもしれない。

 

 それを思うと、侑茉は誇りと共に緊張感も押し寄せてくる。

 今までの宮内警備も、決して警戒を怠っていた訳では無いが、本日だけは明らかに別だ。迷い込み、あるいは興味本位で覗き込もうとする輩はいるものだが、その様な者さえ、今日だけは許さない。

 

 侑茉は宮内に揃った精兵達を前に、厳しい顔で睨み付けて見渡した。

 身に着けているのは陣笠を取り払った足軽兵のような恰好だが、その全てに理力を伴う付与が為されている。鬼からの鋭い爪や牙ですら、容易に貫通されない特殊な防具だ。

 

 武器には手に槍を持ち、腰には刀を佩いている。

 その何れも当代の刀工によって打たれ、当代の最高峰による付与術士に作成された理術秘具だ。緊急事態でなければ持ち出されない、警備部門の本気を窺える装備だった。

 

「今日だけは、それが例えどのような理由があろうとも、侵入した者に誅を下す。一切の言い訳も釈明も許さず、それが例え子供であろうと躊躇わず武器を振るえ!」

『はいッ!』

「ここはオミカゲ様の御わす神聖な場所、その庭を荒らす様な、いかなる狼藉も許さん! 我らオミカゲ様の盾として、誰であろうと必ず食い止める! 我らの誇りと命を持って、どのように強力な鬼であろうと臆せず喰らいついて行け!」

『はいッ!』

 

 侑茉の薫陶が終わると、それぞれが一個小隊を組んで警戒に当たる。奥宮は広い、それなりの人数がいなければ、その全域を覆えるものではなかった。

 だが敵は結界を逃げ出し、その後の追跡も振り切るような相手だ。

 宮内もまた、多くの巫女を擁しているから、その警戒と感知、そしていざという時の結界展開も可能だが、発見には人の目が重要であると結論付けられていた。

 

 だから一人を分散して配置に付けるのが最善と分かっていても、敵を警戒して小隊規模で動くしかない。その網の目を躱して侵入されるのも怖いが、一人しかいない部分を狙って侵入されるのもまた怖い。

 苦肉の策のようなものだが、今はこれ以上最善の策がないのも事実だった。

 

 侑茉もまた警戒しながら、時折周囲を歩いて回る。

 大社の方から捕捉報告でもあれば、現在の警戒方法にも変化を与えられるのだが、今は我慢の時だった。もっとも警戒が必要な入り口付近は、やはり人数を厚くせざるを得ず、他は巡回しながら警戒という形になる。

 

 心許ない篝火の明かりと、頼りに出来ない感知を用い、目を皿のようにしていた時、それが現れた。

 奇妙な風体であれば良かった。それが鬼であると分かるような見た目であれば、即座に頭へ槍を突き刺していただろう。

 だが視線の先、奥宮を囲む塀の上、その塀瓦の上で身を屈めるように座っているのは、人間の男のように見えた。

 

 髪の色は青と奇抜ではある。しかし着ている物はスーツで、しかも身の丈に合っていない。これは言葉どおりの意味で、腕や足の長さに対して服が短すぎるのだ。

 自分の体に合わせた服ではなく、誰かの物を勝手に着ているように見えた。そして恐らく、それが真実なのだろう。

 

 男に表情はなく、遠く奥御殿へ視線を向けていた。

 侑茉に気付いて目線を下げても、気にした風もなく興味も示さず、すぐに戻す。

 

 この男が果たして何者なのか、そんな事はどうでも良かった。

 塀に足を掛けた時点で利敵行為と変わらない。単なる不審者であろうと、引きずり降ろして縄をする以外、選択肢はなかった。

 

 侑茉は声を張り上げ、部下に命じた。

 塀の男に対する警告など与えない。それをする事の不敬を知らない等という、稚拙な言い訳は通用しないのだから。

 

「塀の上にいる男を撃ち落とせ、引きずり降ろして捕らえろ!」

「ハッ!」

 

 部下の一名が返事をし、それから理術の制御を始める。

 この部下達も例外なく御子神様から、その制御術を学んだ者たちだから、その完成までの速さも、そして威力も格段に上昇した。

 

 侑茉をして感嘆する程の制御を見せて、塀の男へと一直線に理術が飛ぶ。

 拘束するに向いている、念動力の理術だった。着弾と共に動きを拘束し、そのまま足元まで運んでくれるだろうと思っていたら、男は掌で受け止め、握り潰すようにして消してしまった。

 

「――なっ!?」

 

 その掌には、間違いなく理力の制御が見て取れた。

 理術の全てはオミカゲ様から授かる者である以上、扱える人間は例外なく神宮勢力だ。御子神様を始めとした例外は最近あったものの、それ以外に他にも野に隠れている、という話は聞かない。

 

 それに何より、鬼は理術のような力を使うという予測は立てられていた。

 ならばきっと、目の前にいるあの男が――人間のようにしか見えないあの男が、目標とする鬼に違いない。

 

 侑茉は警戒を引き上げ、鋭く周囲に向けて叫んだ。

 

「――敵の侵入を確認! 全部隊集合! 巫女は即時、結界を張れッ!!」

 

 叫びというより怒号に近かった。

 その声に弾かれるように他部隊が集合し、そして奥宮を囲むように結界が包んだ。この場に鬼が出るなど、そして何よりその侵入を許すなど前代未聞の事態だ。

 

 勘違いであって欲しいという気持ちはある。塀の男が実は侑茉も知らない理術士であったら、という懸念はある。だが、この緊急事態が発令されている時点で、奥宮の塀に足を掛ける意味を知らない者が、味方である筈もない。

 

 御子神様の知己であったりするようなら、その時はその時だ。

 今は敵と判断した上で、無力化する事の方が重要だった。

 

 侑茉は理力を完璧に制御し、その力を解き放つ。

 それだけで声の届かぬ場所にいる者にも、異常事態が発生したと分かるだろう。そして、この場で起きる異常事態など一つしかない。

 

 今も御影本庁で温存されている御由緒戦力にも、この事態は遅からず伝わる筈。即座に援軍もやって来るだろう。だから侑茉がやるべき事は、必ずしも敵の無力化ではなく、この場で逃さず拘束を続ける事だ。

 

 だがもし拘束が叶うなら、他の御由緒家を出し抜けたとも言えるだろう。

 侑茉は手に持つ槍を握り締め、男へ向かって投げ飛ばした。

 



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静けさ、その後 その7

 アキラは必死に足を動かしながら、今は冷静となった心と向き合っていた。

 鬼の出現地点と、そこから予測される逃亡範囲、三つの円が交差するように示された範囲を、結希乃が説明を加えながら状況を報せている間に、それは起こった。

 

 ――奥宮にて侵入者あり。現在交戦中。

 

 その報告が会議室にもたらされた時、騒然具合は、鬼に逃亡を許した時の比ではなかった。奥宮には――奥御殿にはオミカゲ様が御わす。

 日本国民を守護して下さる神が住まう地であり、そして同時に国民の心の拠り所であり、天に戴く誇りでもある。敵の侵入を許すなど恥の一言では済まされない事だった。

 

 奥宮を囲むように結界を展開したというなら、敵は袋の鼠だと推測できる。

 敵は実際結界から逃れたが、逃亡を許した時とは状況が違う。奥宮には巫女もおり、最悪の状況を想定して、オミカゲ様の守護するに相応しいだけの力量を持った者たちが在中している。

 展開された結界は堅固だろう。

 

 更に、今回の逃亡を機に更なる安全を確保する為、緊急措置として多くの実力者をその守護に当てた。防備は万全となったが、それが逆に捜索を遅らせる原因ともなった。

 侵入を許しても、そこで堰き止められる事を喜ぶべきか、捜索が遅れたから侵入を許す事になったと嘆くべきか。その判断をどうするかは分からないが、ともかくオミカゲ様の安全だけは最優先で確保しなければならない。

 

 その説明をされてアキラの動揺は少し紛れたが、しかしその膝下に敵がいる事には違いない。逸る気持ちは誰もが同じだろうが、結希乃は鋼の意志で全員を統率し、今は現場に急行している。

 

 現在は全員が大型のバンに乗って移動しているが、信号機で止まるような事もなく、法定速度を無視して疾走している。これはサイレンなどで周りに停車して貰うという訳でもなく、結界を順次進行方向へ展開する事で、まるで無人の野を行くかのように目的地へ向かっているからだった。

 

 サイレンを使う事も出来るが、対向車などはやはり完全に停車しない事もあるし、事故の危険は常に付き纏う。それなら結界内を移動した方が、下手な気遣いもない分、それだけ早く、かつ安全に移動できる。過去からある、緊急事態の移動方法だった。

 

 結界の展開は一度に生成できる大きさに限りもあり、車の移動速度も速い為、すぐに結界の端まで行き着いてしまう。だから次々と新たな結界を生成して行くのだが、これは口で言うほど容易ではない。

 現場にいる――バンに乗っている結界術士と、各神社からの援護あっての結界だが、オミカゲ様の危機とあっては、どの神社も協力は惜しまない。

 

 最短距離、最短時間で神宮前まで辿り着くと、それぞれが飛び出すようにバンから降りる。敵と交戦しているとして、現状どうなっているかは、ここから窺い知る事は出来なかった。

 どれほど大規模であろうと、神宮内の結界は独立しているから、ここからでは判断できないのだ。

 

 奥宮には、もしもの場合を想定し、大規模な部隊が駐留していた。

 交戦報告と結界の展開からここまで、二十分も経っていない。応援としては破格の速さで辿り着けた。だが安心も油断も出来ない。

 

 結希乃の指示の下、それぞれが小隊規模で参道をひた走る。

 誰より早く駆け付けたい、早く現状を確認したい、という気持ちを押し付けて、隊列を維持したまま走り抜けた。

 

「総員、抜刀! 武器構え!」

 

 正面に奥宮前の鳥居が見えて来て、それで結希乃の命令が飛んできた。

 装備は基本的に支給され、アキラが身に着けている防具も他と同様、足軽のように見える装備だった。全員それぞれの防具に、付与術士が用意した最高の一品が付与されている。

 

 この防具は大抵の理術に抵抗があって、それだけで炎や雷など、多くの威力を削いでくれるし、耐刃性能も高い。武器も支給されているが、アキラはミレイユから渡された一品物を使用していた。

 

 御由緒家には多い話だが、支給品よりもオミカゲ様から下賜された武器を愛用していて、当然それは支給品より出来が良い。

 やはりそういう武器を持つ者は頼りにされるし格がある、とされる。

 一目も二目も置かれるので、アキラもまたここでは戦闘の中核を成す部隊に配属されていた。

 

花郁(かい)、結界の一部を開放しろ!」

 

 結希乃が己の部隊にいる結界術士に命じると同時、塀の上の一部が切り裂かれるように開かれる。

 門扉は閉じているし、開門させる訳にもいかないので、不本意ながら塀を乗り越えて入る事になるようだ。あまり大きく開けても逃げられる可能性が出てくるので、大人二人が並べるくらいの幅しかない。

 

 そこへ小隊規模で、到着した順番で潜って行く。

 

「行け、行け、行け!!」

 

 尻を蹴飛ばすような勢いで促され、前にいる部隊――凱人の部隊の背に続いて後を追う。

 そして結界内への侵入を果たすと同時に、その光景を見て唖然とした。

 

 激しい戦闘の痕があった。

 綺麗に整えられた芝は捲れ上がり、所々大きな穴が開いている。

 人が吹っ飛ばされ、地面を抉って地を滑った後も残されていた。見事な枝振りを見せていた梅の木も折れ、無事なものを探すのが難しい程だった。

 

 辺りは小さく火種が燻り、煙があちこちから上がっている。

 焼けた芝も多く見られ、青々としていた草の絨毯も、すっかり焦げて見るも無惨な光景になっていた。

 結界内での損壊は、その解除と共に無かった事になる。それが分かっていても、目の前の光景には怒りと衝撃を受けた。

 

 そして、その上に、やはり倒れ伏せた隊士達。

 

 無事な者は殆どいないように見える。ただし、倒れ伏した者ばかりではなく、治療を受ける者も見られ、命を繋ぎ止めている者もいる。

 基本的に術士というのは頑丈なもので、治癒を自力で出来ないまでも、その命を生存させる能力は秀でているものだ。

 

 即死でない限り、自己の持つ理力が最後の最後まで命を繋ぎ止めようとする。

 それ故の頑丈さでもあるのだが、今現在、倒れ伏している者たちに、どれほど無事な者がいるのかまでは分からなかった。

 

「これは酷い……」

「オミカゲ様の庭だもの、精兵を集めた筈なのよ。それなのに……」

 

 思わず呟いてしまった声に、律儀に返してくる七生の声があった。

 御由緒家並とまで言わないまでも、それに準じる力を持つ者たちだった筈だ。ミレイユから制御法を教わる前の御由緒家になら、その実力に並べる程に成長を遂げた者たちばかりの筈だった。

 

 鬼の数は一体だった筈。

 複数逃げたという話は聞いていないが、一体のみで確定している、という情報でもなかった。

 ならば、もしかしたら、ここを襲撃した敵は複数いるのかもしれない。

 

 そう思って気を引き締めた時、最後の一人まで結界を潜って、背後の開いた穴が閉まっていった。結希乃が再び陣頭に立ち、現状を素早く確認する。

 

 惨憺たる有様だが、まずは今も敵が生き残っているのか、それとも相討ちに持っていけたのか、それすら分からない。アキラが呆然としている内に、一部隊が現状確認の遣り取りを生き残りと行っていたらしく、それを結希乃に伝えている。

 

 険しい顔で二度頷くと、結希乃は総員に向き直った。

 

「今も鬼は生存しており、由井園が交戦中、敵を引き付けているとの事だ! 我々は即時援護に入り、この鬼を排除する!」

 

 アキラの顔が強張り、刀を握る力も更に増した。

 

「鬼の見た目は、青い髪をした若い男だそうだ。サイズの合わないスーツを着ている。だが惑わされるな! どのような外見であろうと、奥宮でこれだけの狼藉、死罪に値する!」

 

 鬼の外見が、懸念したとおり人間のような見た目である事に、アキラは渋面を作って眉根を寄せた。周りからも動揺する気配が伝わったが、続く狼藉の言葉で誰もが黙った。

 

 そう、神の庭をこれだけ荒せばただでは済まない。

 人の外見を持っていようと、鬼の首を落とすのと同様、そこだけは変わらないだろう。一瞬萎え掛けた戦意が向上する。倒すべき敵、という気持ちを新たにして、アキラは理力の制御を高めていく。

 それはどの部隊も同様で、漲る理力が身体から漏れ出る者すらいた。

 

「鬼はここより北方向へ移動したようだ。それを追っている部隊もいる。これに合流し、討滅する!」

『おうッ!』

 

 誰彼も怒りを吐き出すように声を上げた。

 敵は慮外者で、不敬で不徳の輩だが、強力な鬼である事に違いはない。冷静さと余裕を欠いて倒せる相手ではないのは、現状を見れば明らかだ。

 アキラもまたそれを自分に言い聞かせて返事をした。

 

 結希乃が腕を振り上げ、鬼がいる筈の場所へ向かって走り出し、それぞれの部隊がそれをカバーするように付いて行く。

 アキラもそれを倣うようにして移動を開始すると、幾らもせずに剣戟音が聞こえてきた。鉄と鉄がぶつかり合う鋭い音は、激しい戦闘を想起させる。

 

 そして戦場に到着すると、それと同時に一人の人間が吹き飛んできた。見覚えのある防具を身に着けているから、今まで戦っていた味方に違いない。

 結希乃がそれを受け止めると、血だらけになった女性が荒い息を吐いて悪態を吐く。

 

「……遅いぞ、阿由葉。相手は、尋常じゃない。単騎でここに乗り込んでくるだけはある……」

「鬼はここが何処か理解した上で襲ってきたというの?」

「正確には知らないんだろう。だが、強い理力に引き寄せられたんだと思う。鬼とは会話が通じる、そのような事を言っていた」

「会話が……!?」

 

 外見が人間に酷似しているとはいえ、鬼だ。

 これまでの常識を打ち壊すような事を言われ、結希乃も流石に表情が強張った。それも当然だろう、鬼は叫び声や怒号を上げる事はあっても、それは獣と変わらぬものだ。

 威嚇と変わらぬものであって、会話を試みようとした事などなかっただろう。

 

 だが、高度な理力制御が出来るというのなら、それは即ち高い知能を持つ、という事でもあるのかもしれない。

 

「……そう、分かった。注意する。聞き出せた事はあった?」

「お喋りな奴だ、色々言っていたが、意味は理解出来なかった。お互いの持つ知識に隔たりがあるのだと思う。専門用語を聞かされているような……、聞き取れても意味が分からない」

「単に惑わせ、こちらの集中を乱していた可能性は?」

「……わからん、あるかもしれん」

 

 そう、と呟くように返事して、結希乃は手近な部下に女性を預けた。

 

「後はこちらで引き受ける。侑茉は休んで、十分時間を稼いでくれた」

「ああ、悔しいが……私の攻撃は通じなかった。技術の問題だけじゃない気がする、通じない事には何かタネがある。単に無力化されたとは違う、何か別の理由が……」

 

 侑茉は重要な情報を得て、それを伝えてくれた。

 それまでは決して気絶できないと堪えていたのかもしれない。伝え終わるや否や、最後の気力を使い切って気絶してしまった。

 

 アキラは彼女の事を知らない。

 だが、血だらけになって、困憊する身体で無理してでも、その最後の瞬間まで諦めてはいなかった。勝利に導くと信じて、掴んだ情報を託して意識を失った。

 

 ――その貢献に報いなければならない。

 それがアキラの気持ちを昂らせる。鬼が人のように見えようとも、躊躇わずに刀を振るえそうな気がする。

 

 その時、篝火で照らせない闇の向こうから、地を踏む足音が聞こえてきた。

 侑茉を吹き飛ばして来た方向から聞こえてくるというなら、それは敵が立てる音で間違いない。そのつもりで武器を構え、取り囲むように散開する。

 

 果たして闇の向こうから姿を現したのは、青い髪をした若い男だった。

 ニヤついた、人を嘲笑するように口元を歪めて、サイズの合わないスーツを着ている。戦闘があった後だろうに、その服には傷も汚れも付いていなかった。

 



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静けさ、その後 その8

あーるす様、Lunenyx様、誤字報告ありがとうございます!
いつもいつも助かっております!
 


「ああ、ようこそ。新しい客人だ、歓迎するよ」

 

 青髪の男はそう言って、出迎えるように腕を広げ笑みを大きくした。

 その仕草に吐き気を覚えるような怒りを覚える。この神聖な場所で好きなように暴れた襲撃者、その人を食った態度、悪びれもしない態度が、男を殊更醜悪な存在に思わせた。

 

「自己紹介は必要かな? ――エルゲルンだ。やれやれ……誰も彼も、全く話を聞こうとしない。狂ってるのか?」

「……どこに足を踏み入れたと思ってる。この世の常識を知らぬと言っても、鬼がこの世で自由を許されるなど思うな」

 

 結希乃の声音は怒りで震えていた。それも当然だが、その怒りのままに動くより、情報を収集する事を優先したようだ。

 警戒を解かないようハンドサインで周知させつつ、武器を構えたまま会話を続ける。

 

「へぇ……鬼、ね。時空孔から抜けて来た奴をそう呼ぶのかな。……で、あんたらはその退治屋って訳だ。じゃあ、これからは廃業だな。今迄は何とかやれてたみたいだけど、俺クラスが来れるようになったら、もうオシマイだよ」

「何を言ってる……?」

「今迄はお遊びだったという話さ。シンジン確保の為に本腰上げたって事だよ。さっきの奴にも話したんだぜ? でもそうしたら、会話が通じないほど怒り狂ったからなぁ。やっぱり、これ言わない方が良いのかなぁ……」

 

 エルゲルンと名乗った男は、緊張感のないまま腕組みを始めて首をひねった。

 圧倒的な大多数で取り囲まれているというのに、男から緊張感というものは伝わって来ない。強者の余裕のつもりなのは見て分かる。

 これまでエルゲルンが相対したのは神宮を守護する精鋭で間違いないが、ここにいるのは最精鋭だ。その奢りを正してやれねばならない。

 

 アキラは今すぐにでも飛び掛かりたい気持ちを必死で抑え、結希乃が出してくれる指示を待つ。

 彼女の意図は明らかだ。それが分かるから、アキラも待機できている。だが、同時にエルゲルンからの挑発が怖かった。今にでも暴発しそうな怒りを、誰もが秘めている。

 それをいつまで抑えきれるかだが、男の吐き出すセリフによっては、アキラにもその自信はなかった。

 

 結希乃が底冷えする声でエルゲルンに問う。

 

「鬼はお前が送り込んでいた、という認識で良いのか?」

「いや、俺じゃないし別の誰かだと思うが……どうだろうな。送ってたっていう認識はないんじゃないか? なんていうんだ? 放ったらかしさ、つまり。……小さく穴を開ければ、そこを通りたがる奴らが勝手に穴を拡げてく。蜜に吸い寄せられる虫の様にな。だからまぁ、その認識はなかった、っていう答えになるんだろうさ」

「……穴を空けていたという自覚はあるんだな」

「そりゃそうだろ、それが目的なんだから。……な? だからもう目的は達した。俺がここにいるからな」

 

 エルゲルンは嘲笑するように顔を歪め、鼻で笑った。

 

「大昔から御大層に続けて来て、やることがお前一人を通す事か」

「んー……、それはちょっと違うかな。始まりさ、つまり。ここまで拡げりゃ、もう取り返しはつかない。苦労はなくても気苦労はあったと思うぜ? 全然見つからねぇし、空けても直ぐに塞がるんだから」

「見つからない……? シンジンとやらか?」

「そうそう、いつからかパッタリと見えなくなったと聞いてる。でもいるのは間違いないから、それで続けていたって話だな。詳しい事は知らんが、とにかくまた見えるようになったから、今度は逃がすかってんで、だから本腰入れたんじゃねぇのか。そこんとこは俺もよく知らん。大事なのは、ここまで拡がった方の事だろ」

 

 男はまるで親しい友人に語るように、聞かれた事を素直に話す。それが不気味でもある。自分たちの内情をペラペラ話す人材など、到底信用できるものではない。

 それなのに話すという事は、何か複雑な思惑があるように思われた。

 

「シンジンというのは?」

「教えてくれりゃ良いんだけどなぁ。教えてくれねぇんだろ、どうせ。この近辺にいるのは間違いねぇと思うんだが……また囚われちまったしなぁ」

 

 そう言って周囲を見渡し、遠く奥御殿で視線を止める。

 

「折角こっちで目立たないように、それっぽい服も奪ったってのに。塀を越えたら、この始末よ。お前らも死にたくねぇだろ? 素直に教えて通しちゃくれねぇかなぁ。とはいえ……まぁどうしたところで、どうせ死ぬかね、お前ら」

 

 それは嘲笑ではなく、決定事項を告げるような口調だった。

 互いには隔絶した実力差がある、という事実を口にするというより、既に死が決定しているというような口ぶりだ。抵抗が無意味というのもそうだが、それよりもっと大きな別の何かを思っての事な気がする。

 

 男が何もかも簡単に口を割るのも、そうした後腐れが発生しないと確信している為か。

 死に行く者への、手向けのつもりですらあるかもしれない。

 

「色々聞かせてもらって感謝するけど、だからと言って、こちらから渡すものは何一つない。最期にお前は、首を置いてけ」

「そりゃフェアじゃねぇよな。……まったく、見逃してやるって言ってんのによ。神っぽい奴を差し出しゃ、少なくとも今は死なずに済むんだぜ?」

「……何だと?」

 

 その一言は結希乃のみならず、この場にいる誰にも聞き捨てならない台詞だった。

 この国で――もっと言えば、この場所で、神と名の付く者は二柱だけ。更に言うなら、神と聞いて連想するのは、オミカゲ様以外いなかった。

 

 ――この侵入者は、オミカゲ様を狙っている。

 それが分かってしまえば、もはや隊士達を抑え込む事は出来ない。誰もが戦意を漲らせ、殺意を持って男を睨んだ。

 

「お前の目的はオミカゲ様かッ!!」

「ほら、怒った。前のヤツも、そう言って言葉が通じなくなったもんだ。けど、そいつが神っぽい奴っていうんなら、そういう事になるんだろうな」

 

 エルゲルンが腕組みしたままあっさりと肯定した事で、殺気は更に膨れ上がる。

 戦闘態勢を維持したまま二人の遣り取りを黙って見ていた部隊も、そろそろ我慢が利かなくなってきている。それでも勝手に飛び出して行かないのは、この惨状を作ったのが目の前の男であるという事と、結希乃からの指示が飛んで来ていないからだ。

 

 だが、結希乃が構えた武器を掲げた事で、全員の意識がそちらに向かう。

 刀の切っ先で円を描くように動かすと、それの意味を知っている部隊が制御を始める。あの合図は支援理術の行使を命じるもので、そしてそれは外向理術士を強化させる為のものだ。

 

 戦いが始まり、そしてそれが乱戦になれば細かな指示は難しくなる。

 だが初撃だけは、その機会がある限りにおいて、事前に組み立てた戦術を使う事が出来る。場合によっては前衛が動きを止めてからも考えていた作戦で、砲手に当たる部隊がまず全力で攻勢理術を撃ち込む事から始まる。

 

 距離も十分にあり、味方への被害を考えず撃ち込む事が出来る筈だ。

 エルゲルンは未だに動きを見せない。どうせ自分には効果がない、とでも言っているかのようだった。その完全に舐めた態度は、先程まで交戦していた部隊で、こちらの戦力を見切ったつもりでいるからだろう。

 

 後悔させてやれ、という気持ちを敵にぶつけて結希乃の指示を待つ。

 そして遂に、その腕が振り下ろされた。

 紫都を始めとした支援理術のエキスパートが、漣を含む外向理術士へと術を放つ。一度に放たれた光は眩いばかりに漣たちを包み、そして既に制御を終了させていた術が、支援の効果が出ると同時に放たれた。

 

 使われたのは漣の十八番でもあり、こういった場合の定番、炎の矢だった。一発の威力は決して高いものではないが、数を揃えた術の威力は侮れない。

 しかもそれが、最高峰の支援能力を持つ理術士達から援護された上で放たれるのだ。

 

 そして、一発放てば終わりという訳でもない。

 威力こそ弱いが、素早く制御を終了できるという点において、この術は他より優れている。だから、全員が少しタイミングをずらして放つ事で、途切れる事なく発射する事を可能としていた。

 強化支援も受ければ、その雪崩の如く打ち付けられる術に耐えるのは容易ではない。

 

 十発耐えようと、五十、百と着弾が続けば、どこかのタイミングで防御も崩れる。

 長時間の制御の果てに撃つ理術というのは、当たれば強いが、その制御する時間が枷となってしまう。また、高威力な術は味方を巻き込む恐れもあった。

 

 だが、これなら間違いなく同士討ちの可能性はない。

 四腕鬼ですら、この術を受けては根を上げる。防御はされるが、防御の先が続かないのだ。そして何れ、その防御を貫き軽症を与える事になる。

 

 一度防御を破り、それが軽症であれ傷つけば、後は飽和攻撃で片が付く。

 制御力の向上で、出来るようになった事の一つだった。

 

 その炎の矢が打ち込まれ続け、辺りから着弾の煙と、周囲を燃やす煙が立ち昇る。範囲を絞っているので、大人三人が並ぶ程度の大きさでしかないが、敵の姿は確認できなくなってしまった。

 だが煙の奥から、ゆらゆらと揺れる人影が見えた。

 

 あくまで揺れて見えるのは光の当たり加減、そして煙の動きに寄るもので、エルゲルンの影そのものに動きはなかった。まるで棒立ちしているかのように見える。

 幾ら何でも、これだけ撃って一切の痛痒を与えていないとは思えないから、もしかしたら変わり身のような何かで置き換わっているのかもしれない。

 

 その懸念は結希乃も思い至ったようだった。

 肩の高さまで手を挙げると、それに呼応して炎の砲撃が止まり、次第に煙が晴れていく。しかしそこには変わり身となった何かではなく、果たして先程までと全く変わらないエルゲルンの姿があった。

 



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静けさ、その後 その9

 エルゲルンは退屈そうに欠伸までして、緊張感のない顔つきで外を向いていた。その肌は勿論、服にまで影響が見えない。火傷どころか、服の裾に焦げすらなく、煤も付いていなかった。

 

「チィ……ッ!」

 

 漣から憤りの籠もった舌打ちが聞こえた。

 アキラも同様の気持ちで毒づきながら、苦い顔をしつつ敵を睨み付ける。

 ミレイユにだって、あれは出来ない芸当だった。あの飽和攻撃に対しては、理術の行使で無力化はさせたが、一切の無防備で受ける事は避けた程だ。

 

 エルゲルンには、それが出来るだけの力量があるのだろうか。

 理術に対して高い耐性を持つのか、それとも何か別の――。

 そこまで考えて、侑茉が何かタネがある、と言っていたのを思い出した。

 

 攻撃が利かないなど、端から思慮の外だった。そもそもが最精鋭、外向術士として誰より優れた漣が率いる部隊もある。それだけで倒せるほど容易い相手でもないだろうが、一切の傷を負わせられないとも考えていなかったのだ。

 

 これが単に力量差によって生まれた結果なのか、それとも別のタネがあるのか、それを見極め暴かなければ、守護隊の二の舞いになるだけだろう。

 攻勢理術が効果的でないというなら、次は近接戦闘を仕掛けるしかないのでは――。

 アキラがそう思っていると、果たして結希乃が号令を下した。

 

「近接部隊、前へ! ――支援ッ!」

 

 結希乃の声でアキラが前に出る。凱人や七生といった、見慣れた顔も横に並んだ。それと同時に支援がアキラ達の身体を包み、そして筋力や体力などが強化された感覚が突き抜けた。

 

 アキラは刀を握り締め、深く呼吸を始める。

 全身に理力の巡りを感じ、十全に制御させる事を意識しながら、次なる号令を待った。

 

「――掛かれ!」

「ウォォォオオオ!!」

 

 怒号と共に飛び出したのは凱人の部隊だった。

 自身が率いる隊において、凱人だけが突出した速度を持っているので、一人突っ走る傾向のある彼だが、この時ばかりは自制できたようだ。二歩ほど前に出ているものの、陣形を崩す程ではない。

 

 アキラも七生も、その後に続く形で飛び出す。

 凱人を一の矢だとすれば、アキラと七生は二の矢、三の矢だ。凱人の攻撃が通れば、それに続く形で攻撃を加え、反撃などがあれば凱人部隊がそれを受け止め、左右へ別れて攻撃を加える。

 

 そのつもりでいたのだが、肉薄できる距離まで接近したところで、エルゲルンの姿が忽然と消えた。咄嗟に視線を動かせば、離れた位置に同じ格好で立っている。

 その手には今しがた理力を行使した痕跡の残る、淡い光が残っていた。

 

 だがそこで、アキラは小さな違和感を覚える。

 理術を使ったのだとすれば、それは転移だとしか思えない。だが、だとすれば、ごく短距離のものだったとしても、あまりに早すぎる。

 転移術を使って貰った経験からして、シャッターを押したように消えるようには出来ていない、という感覚でいる。だから目の前で起きた事が不可思議に思えた。

 

 術を制御して使えば、それは光という形で現れる。どのような術であれ、それは隠せない痕跡で、そしてそれは使った術の系統で色の変化が表出する。

 ミレイユの使った術とは、その色に違いがあった。ミレイユが紫であったのに対し、彼の手に残った光は緑だった。ならば別系統だと思うのだが、それだと転移できる理屈が分からない。

 

 術の全てを知らないアキラだから、単に未知の術を使われただけとも思える。

 だが、攻勢理術に癒しの術がないのと同様、転移という同じ結果を生みつつ別系統の術、というのは有り得ない気がした。

 ミレイユがこの場にいれば、あの術の正体を、その場で看破できたのだろうか。

 

 七生へ視線を向けても、瞬時に移動した事に驚いていても、術にまで気を回している風には見えない。咄嗟の方向転換でエルゲルンへ向かい、距離的に凱人より早く肉薄する事になった。

 

「――シィッ!」

 

 七生の繰り出した剣撃は、アキラから見ても凄まじく鋭いものだ。

 ミレイユから薫陶を受けた時より更に鍛練を増し、今では凱人ですら受けるのを嫌がる程になっている。エルゲルンは未だに武器らしいものを見せないが、七生から逃げる素振りを見せなかった。

 

 隙は極限まで小さく、突き刺すように見える胴薙ぎは、その直撃寸前で取り出された剣によって阻まれた。見たことない形状の武器で、サーベルのような形に似ているが、それともまた別種な気がする。別の文化から生まれた、その個性を表した武器なのかもしれない。

 それまで何も持っていなかったように見えたのに、七生は剣が握られている事に驚かざるを得なかったようだ。

 

「くぅ……ッ!」

 

 だが七生に動揺は少ない。七生の隊員が既に攻撃を加えようとしている。攻撃を受け止めさせた事が功績とも言えるし、一撃を加える事が出来るなら、それは誰でも意味ある事だ。

 だが、隊士の攻撃はあっさりと空振る。

 後ろに退いて躱したからだが、一本の刀から逃れたところで別の者が襲い掛かった。

 

 それを更に躱し、武器でいなしながら逃げ続けていく。

 七生が刀を鞘に納め、低く構えた。それで何をしたいのか分かった隊士達は、その決定的な隙を作る為、連携の取れた攻撃を仕掛けた。

 

 その全ては決定打にならないものだが、徐々に形勢は傾いていく。この男は根っからの武人ではない。武器は持っていても、その鍛練に重きをおいていないのは直ぐに分かった。

 才能だけで振るわれる、努力の痕跡が見えない剣術。

 受け止められる一撃だと判断すれば、それを受けて小馬鹿にする。彼我の実力差を自慢気に晒すかのようだった。

 

 それは鍛えて来た者からすれば屈辱だが、七生が一矢報いてくれると分かるから、隊士達の顔に曇りはない。そして三人から攻撃を受け切る事で、決定的な隙が生まれる。

 その瞬間を、七生は見逃さなかった。

 

 食いしばった歯の隙間から漏れる、鋭い呼気と共に足を踏み出し、それが地面を抉る。それこそ瞬間移動と見紛う程の速度で接近し、抜刀された一撃がエルゲルンの胴を二つに割った。

 ……割った、と思った。

 

 だが、ガキィッ、という鋭い音と共に、刀が止まる。

 決定的な隙があった。それは隊士たちが作り上げてくれた隙だ。才能に頼った剣技では、その連携からの思惑までは見抜けないと思った。

 

 だが、あるいはその隙こそ作られたものだったのかもしれない。

 エルゲルンは肘と膝で、挟み込むように受け止めていた。

 振り抜こうとする力と、挟み込む力が拮抗して刀が震える。七生が憤怒の表情で睨み付け、それを振り切ろうとしている横、その上方向から凱人が殴り込む。

 

「オッラァ!!」

 

 その頭を強打で殴り付けた。

 岩でも殴り付けたかのような硬質な音が聞こえ、エルゲルンは吹き飛んでいく。七生がつんのめるように体勢を崩して、凱人を恨めし気に睨んだ。

 

 決定的な一撃を横取りされたようなものだが、それをここでは口にしない。

 そもそも誰か一人が優先される戦いではない。互いが互いを助け、時に利用して傷を与えるようでなければ、この敵は倒せない。

 アキラにもそれが分かるし、七生も理解しているからこそ、恨めし気に見つめるだけなのだろう。

 

 凱人の一撃は直撃した筈だが、しかしあの一撃で終わったとも思えない。

 既に別の部隊は先回りするように追い立て、その身体に追撃を加えようとしている。

 だがそれは、一瞬で広がる力場の様なもので吹き飛ばされた。

 歩を進めていたアキラも、これには竦んで様子を見ようとしたが、背後から鋭く叱咤する結希乃の声がする。

 

「臆するな、掛かれッ!」

 

 無策で突っ込む意味があるのか、と懐疑的に思ったのも一瞬で、背後から半透明に光る防壁のようなものが展開された。

 紫都らの支援部隊が強化理術を使い終わって、こうした戦局を有利にさせる術を使う余裕が出来たのだろう。

 

 それに励まされる形で、アキラも一撃加えようと突き進む。

 吹き飛ばされた隊士達は、地面の上で受け身を取れなかった者もいたようだが、土の上である事が幸いした。命に別状ありそうな者は見受けられなかった。

 

 総勢二百を超える隊士の数に対し、敵は一人。

 ミレイユの時もそうだったが、数が多くても一度に相対できる人数には限りがある。だから小隊規模で攻撃を仕掛け、それをフォローし、隙を見つけて外向理術士が攻撃を仕掛ける、というのが理想的だった。

 

 それをミレイユの時に予習できていたのが幸いした。

 現役の隊士達もそれは同様であったらしく、何を言う必要もなく自分たちの役割を理解していた。結希乃の簡単な号令だけで陣形を組み、エルゲルンを包囲しては攻撃を続けていく。

 

 隊士達は攻撃を仕掛け続けるが、その尽くが決定打になっていない。

 凱人の時のような不意打ちは、早々決まらないだろう。だが前後左右からなる飽和攻撃は、次第にエルゲルンから余裕を奪っていった。

 

「ああっ、くそ! 馬鹿どもが! いい加減、諦めろ!」

 

 攻撃を受ける事はなくなり、回避に専念し始める。

 武器を振るう事より理術を使う事の方が多くなった。

 そうして隊士の一人の胸が切り裂かれ、あるいは吹き飛ばされて戦線から離脱させられていくのだが、その穴を即座に埋めて息つく暇も与えさせない。

 

 倒れた隊士は別の治癒術士によって怪我が治り、そしてまた戦線に復帰する。

 敵が倒れるか、こちらが倒れるかまで続く消耗戦だ。

 

 ミレイユとやった時は、こちらの完敗だった。

 敵も強大だ、同じ結果になるかもしれない。だが彼女の時との決定的な差は、対応が理術に傾いているという事だ。体術の方は大した事がなく、だから理術に頼っている。

 

 だが理術は、使えば使うほど消耗する。武器を振るう事とて体力や筋力を消耗して戦っているものだが、理術の消費はその比ではない。

 だから敵からすれば殺してしまいたいのだろうが、付与された防具が致命傷から助けてくれている。本来なら一撃で倒れる隊士達も、その付与によって一命だけは取り留める事ができていた。

 

 そして防壁があればこそ、その命の危険は助かっている。

 防壁は、その名の通り壁でしかない。

 敵の攻撃は元より、こちらの攻撃も防いでしまう。だから攻撃を仕掛ける際には邪魔にしかならないのだが、倒れたり吹き飛ばされたりした隊士に対しては有効だった。

 防壁は敵と味方を遮るように置かれるのではなく、最前線より離れた場所に展開されている。

 

 エルゲルンは一人ずつでも敵の数を削いで行きたいだろう。

 持久戦が不利だとは百も承知。だから吹き飛んだり、あるいは敢えて飛ばした相手に追撃を放とうとするのだが、それを阻むのが防壁だった。

 

 戦線から飛ばされた味方に壁が当たれば、それだけで怪我を負うから、即座に開いて収納するようにまた閉じる。安全な場所であり、更なる追撃が入らないよう、怪我人を守る壁があるというのは、安心して戦える材料だった。

 

 今のところ、戦局は一方的にこちらが有利。

 ――このまま押し切れば勝てる。

 

 誰もがそう感じた時、それまでとは比べ物にならない衝撃が辺りを覆った。

 



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静けさ、その後 その10

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 あまりにも唐突、あまりにも強い閃光と爆発は、咄嗟の防御が間に合わなかった。

 アキラに限らず誰もが吹き飛ばされ、そして防壁が仇となってぶつかっていく。紫都たち支援隊としては、直ぐにでも防壁を解除したかっただろう。

 

 だが、それを解除すれば、衝撃によって吹き飛ばされてくる隊士、壁に張り付かされている隊士を助ける事はできるが、致命傷を負って今なお治療中の隊士達を見捨てる事になってしまう。

 どちらを優先するべきか判断つかないまま、衝撃波は発生した時と同様、唐突に終わりを告げた。

 

 後には倒れ伏した隊士達、そして衝撃の中心で肩で息をするエルゲルンが立っている。そして吐き捨てるように言った。

 

「はぁ、はぁ……。全く、ここまで馬鹿やる奴らだと知ってりゃ……! 短命種って奴ぁ、もっと命を惜しむもんなんじゃねぇのか」

「惜しいものか、馬鹿め……ッ」

 

 震える身体で立ち上がり、険しい顔付きのまま睨む結希乃は決然と言い放った。

 

「我らオミカゲ様の矛と盾。お前の目的がオミカゲ様だと分かったからには、この命、例えこの場で果てようと、必ずお前を倒す……!」

「姉上……、同じ気持ちです!」

 

 七生も立ち上がり、凱人、漣、アキラと立て続けに起き上がった。

 壁は新たに敷き直され、倒れた隊士たちをその戦闘区域から引き離す。自分たちとエルゲルンのみを隔離するような形だが、結局のところ強者には強者しか相手にならない。

 

 一般隊士の努力と献身が無意味という訳ではない。

 事実、彼らの奮戦があればこそ、エルゲルンの理力を大幅に削る事が出来た。それまで余裕を崩さなかった敵の仮面を剥がす事も出来ている。

 どの程度――何割削れたかは問題ではない。確かに爪痕を残した事こそが重要なのだ。

 だから、それに報いようとアキラ達も奮戦できる。

 

「全く……それじゃあ仕方ねぇ。この後も戦闘控えてるんだろうし、それまで温存しときたかったがよ、そういう訳にもいかねぇか。――面倒クセェ奴らだな!」

 

 エルゲルンが一喝するように言うと、その両手に光が集る。紫の光が制御の終了を告げる前にアキラと凱人は足を踏み出し妨害しようとしたが、辿り着く前に完了してしまう。

 術が解き放たれると共に、一瞬の閃光がで目が眩んだ。

 

 反射的に目を逸したお陰で直視せずに済んだが、視線を戻した時には、既にエルゲルンはいなかった。気配を探って目を向けた先には誰もおらず、そして他の誰かが逆を指し示した。

 

「小癪な真似を!」

 

 凱人が殴り付けようと地を蹴り、接近しようとしたところで再び姿が消えた。

 かと思えば、直ぐに別の場所で姿を表す。

 最初に見せた転移のように思えるが、それにしては理術の行使が見当たらない。アキラの時はともかく、凱人の時に何もなかったというのは腑に落ちなかった。

 

 そう思っていると、突然、結希乃が横薙ぎに吹き飛ばされる。

 エルゲルンは武器を振るう動作を見せていたが、距離は離れすぎている上に、その間には凱人も七生も立っていた。その二人を無視、というより貫通して結希乃に攻撃が通るのも理解不能だった。

 

「ぐう……っ!」

「何が起きた!?」

「――幻術だ!」

 

 結希乃は攻撃を受けたが、致命傷には程遠い。咄嗟に防御した所為もあるが、敵の攻撃力自体が高くないお陰もあるからだろう。

 見れば、その表情は獲物を前にいたぶるような、残忍な笑みを浮かべている。

 この隔離され、閉じ込められた状況にあって、敵には余程の自信があるのだろう。

 

 漣が素早く制御を完了させ、エルゲルンに炎の矢を放つ。だが、着弾より前に姿を消し、また別の場所に現れた。本当に幻術なら、攻撃を受けても良かった筈だ。

 それを悟らせたくなかったのか、それとも瞬時に転移しているだけなのか、そこに疑問は残る。相手に情報の確度を上げさせない、という意味では有効かもしれないが、アキラは思考の片隅に小さなシコリを残した。

 

 ここにはエルゲルンの姿が、幻術かどうか見分けられる術士がいない。未だ壁の外で治療に当たる者たちがこちらに注視できないからこそ、そういった戦術を取るのかもしれなかった。

 ――戦闘に慣れている。

 

 それもこうした、相手の手札が分からない、理術士相手の戦いに。

 だが、治癒術や支援術に秀でている訳でないのは分かった。それが出来るなら、とうに自分に対して使っている筈だ。

 

 だがとにかく、アキラに出来る事は敵を切りつける事しかない。

 アキラは凱人と目配せして、同時に仕掛ける。また消えるようなら、それに反応できるよう、凱人からは距離を取って後を追う。何をするにせよ、七生もまた意を汲み取ってアキラの後ろに付いた。

 

 そして凱人が肉薄したところで、また姿が掻き消えた。視線を素早く動かし次の目標を捉えると、そちらへ向かって急制動を掛けて飛び込む。

 刀を握り締め、その頭に振り下ろそうとしたところで、また姿が消えた。

 

 眼の前で消えられては、次の目標を探すのに時間が掛かる。だがそれは既に七生が捉えていた。アキラがそうしたように急制動の後、角度を変えて弾かれたように接近し、その刀を振り抜く。

 完璧に捉えたと思い、そして実際首筋から脇へと刀身が走った瞬間、エルゲルンの姿はガラスが割れるように砕け散った。

 

「――なにッ!?」

 

 幻像そのものを斬り付けて、それで素通りしたというなら分かる。

 だが砕けるというのは意外だった。

 ならば本人は、と顔を巡らせると、再び結希乃をサーベルで斬り付けたところが目に入った。結希乃とて当然、警戒はしていただろう。

 

 続けて結希乃を狙ったというのなら、エルゲルンの狙いは司令塔を最初に潰すことだ。それ自体は狙いとして当然、良くある斬首戦術に過ぎないから、攻め立てている最中でも結希乃は警戒を怠らなかったに違いない。

 だと言うのに、こうも簡単に接近を許し、なおかつ攻撃までさせてしまった。

 

 そこへ漣が鋭く叫ぶ。

 

「こりゃ幻術だが、鏡像だ! 幻像と良く似てても別物、本体は鏡像の真逆にいる!」

「そうと分かれば!」

 

 凱人が目の前のエルゲルンに背を向けると同時、その背中に斬撃を叩き込まれ、前のめりに倒れた。頭から倒れたが、咄嗟に受け身を取って前方へ転がるように衝撃を逃がす。

 付与された防具には優れた耐刃性能があるが、それを斬り裂いてしまっている。出血は激しそうではないが、徐々に血の染みを拡げていた。

 

「そんな!?」

「いやいや、そんなこと言われたら、それ利用するに決まってるだろ。鏡像に映して姿を消す? それとも姿を隠さずそのまま残る? 色々やり方はあるんだよな」

「一人は必ず鬼の前に! それ以外は対角線を意識しろ!」

 

 結希乃が指示を飛ばし、エルゲルンの顔が嫌らしく歪む。

 その手が紫に光ると、止めようと走り出すが、その前に制御が完了してしまう。敵の制御が見事なのか、それとも術自体の難易度がそれ程でもないのか、あまりに完成までの時間が短い。

 

 次に現れたのは、それぞれの対面に立つエルゲルンの姿だった。

 鏡像など無視しようと思ったが、無意味な事をするとも思えない。踵を返しかけたところを直前で思い直し、直感に従って横っ飛びに躱す。

 

 鋭い音が耳元を過ぎ去り、そして髪が数本散った。

 ――これが本物!? 鏡像と入れ替わったのか!

 

 アキラが躱した無理な体勢のまま武器を振るうと、その切っ先が腹に突き刺さる。肉を切った感触が返って来るかと思いきや、実際には硬質な何かを引っ掻く音を立てた。

 そして鏡像は砕け散る。

 

 ならばさっきの攻撃は一体、と思っていると、誰も彼も眼の前の鏡像を砕いていて、そして再び別の鏡像が同じ数だけ出現していた。

 だが、向いている方向がそれぞれ違う。

 正面を向いているものはなく、右や左、斜め正面と、全て別方向を向いている。

 アキラは今日遊んだ遊園地、そのミラーハウスの事を思い出していた。

 

 ――まさか。

 アキラの懸念は、他の者も即座に思い付いたようだ。

 

「鏡は一枚じゃない、そういう事か!? 反射させて、自分の正確な位置を分からなくしてる!」

「そして鏡像は幻像じゃない。斬られれば傷を受けるぞ!」

 

 そこにパチパチと手を叩いて笑い声が響いた。

 声が聞こえる方向すら惑わせ、正確な位置を掴ませまいとしている。

 では、一番最初に感じた、気配の方を振り向いて誰もいなかったあの時、あれが最も敵に接近していた瞬間だったのかもしれない。

 

「まぁ、そうなんだが、お前ら挑発しがいがあるねぇ。幻術士と戦うのは始めてかよ? 疑心暗鬼になったら、もう抜け出せねぇよ。この術を馬鹿にする奴もいるがよ、何でも頭と使いようだよな」

「――惑わせるな! 鏡像は脆い! とにかく一撃加えてしまえば無力化できる!」

「ところが、そう上手くいかねぇんだな」

 

 エルゲルンの嘲笑が響き、そして制御を始めると、即座に術は完成して発動される。

 眩い光は一瞬だったが、次の変化は劇的だった。周囲全方向、あらゆる場所にエルゲルンが、そしてアキラや凱人、七生たちがいる。

 まるで本当に、ミラーハウスへ迷い込んでしまったかのようだった。

 

「術の対象は俺だけじゃねぇぜ、お前たち――もっと言えば、この場所自体に掛けてやった。お前らに見分けられるのかねぇ……?」

「無意味な事を! 私達の鏡像が増えたところで、どうだと……!」

 

 結希乃が目の前にある凱人を斬り倒そうと武器を振り下ろし、その鏡像を砕く。呆気なく、何の抵抗もなく砕けたのは事実だが、その動作が周りにどう働くかは考えていなかった。

 

 結希乃の鏡像がアキラの髪を数本斬り飛ばし、目の前を通った斬撃に怖気が走った。

 もし何か間違っていたら、鼻が切り落とされていてもおかしくない。結希乃の鏡像――もっと言えば仲間の鏡像は敵ではないかもしれないが、その攻撃自体は害となり得る。

 

「これ、下手に武器振り回せませんよ!」

「でも倒さないと話にならないでしょう! とにかく目の前の鏡像を砕いて! 殺すつもりじゃなければ致命傷にはならないし、敵を斬りつけ続ければ何とかなる筈!」

「その考えこそ術中とは思わねぇのか! どうみても同士討ち狙ってるぞ、これ!」

 

 七生の提案に漣の叫び返したが、それこそ真実を捉えているように思えた。

 数に押されたエルゲルンだからこそ、その有利を覆そうとしている。それが幻術で姿を消す事であり、鏡像であるのだろう。

 眼の前の鏡像を斬りつけるつもりで、誰かの背を斬り付けているのかもしれない。

 

 自分の知らないところで、自分の鏡像が仲間を斬るのが恐ろしい。

 アキラは武器を振るうのに、二の足を踏まざるを得なかった。

 



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反撃開始 その1

あーるす様、誤字報告ありがとうございます!
 


「どうしたらいい? 大体鏡像って……!」

 

 鏡に映った姿でしかないものが、実体を持って襲ってくるというのは卑怯な気がした。

 そもそも鏡像というなら、本体を真似る動きしかしないし、鏡の反対側には実体がある筈。そして同様に板状なり壁状なりの鏡もある筈なのだが、それらしい物体は見当たらない。

 

 空間そのものに投影される鏡像、というのが、この術の真価という気がした。

 鏡像が輪郭を持って存在し、それが物理的にも干渉する。しかし鏡であるという部分は変わらないから、非常に脆い。

 

 この術の弱点は、そこにこそある――のかもしれない。

 アキラはいっそ、破れかぶれの気持ちで叫んだ。

 

「下手な致命傷を受ける前に、少ない被害で済ませるべきだ! 漣、やってくれ!」

「あぁ? ――あぁ、そういう事かよ。いいですか!?」

 

 漣が最早どこにいるかも正確でない結希乃に向かって叫ぶと、それに呼応する声が上がる。

 

「許可する、やれ!」

「頼むぞ、漣! しくじるな!」

「全員、耐衝撃体勢を取って!」

 

 凱人と七生からも注意が飛んで、漣が制御を始める。

 だが簡単にやらせてくれる程、甘い相手でもなかった。エルゲルンから妨害が入り、漣の腕や顔、身体が斬り裂かれる。だが、それでも顔を顰める程度に留めて制御を乱す事なく続けた。

 

 この時にも助けにいけない自分を不甲斐なく思う。

 下手に動けば、そして下手に助けるような動きを取れば、漣のみならず他の誰かに武器が当たるかもしれない。今だけは漣を信じて待つ他なかった。

 

 忸怩たる思いで歯噛みして待っていると、身を斬られ血を流しながらも、最後まで制御を乱す事なくが完成させた。

 赤い光が漣の両手を包み、収縮するように掌へと消え、そして一際激しい光が指の間から漏れる。

 

「抑えて撃つけど、耐えろよお前ら!」

 

 漣が両手を広げると、自身を中心として爆炎が拡がった。

 それは防壁内を蹂躙するように燃え広がり、踊るように炎が尾を引いて暴れ回る。

 

 アキラはそれを背中を丸め、頭を隠すように腕を回して、それに耐えた。

 空気が熱を持ち、息をすると肺が焼けてしまいそうだ。目を開けていようものなら、表面の水分すら飛んでいきそうで、歯を食いしばって目を閉じる。嵐が過ぎ去るのを待つような心境で、術が終了するまで、じっと耐えた。

 

 まるでいつまでも続くかのように思われた炎の嵐だが、実際は終了するまで十秒も経っていなかった。

 その術が唐突に終わりを告げ、アキラは顔を上げる。鏡像はどうなったかと周囲を見渡し、そして綺麗さっぱり消えているのを見て、成功を確信した。

 

 見慣れた四人の姿だけがあり、そして漣の前にはエルゲルンがサーベルを突き刺す恰好で立っている。その刀身は漣の腹部を深々と刺し貫いていた。

 

「――漣ッ!!」

「くそっ、貴様!!」

 

 アキラが顔面を蒼白にして叫ぶのと、七生が飛び出すのは同時だった。一瞬遅れて凱人もそれに続く。

 エルゲルンはサーベルを引き抜くと、七生へと顔を向け、嘲笑するように口を曲げる。そして姿が歪んで消えた。

 七生は構わず刀を振り抜いたが、手応えらしきものは見えない。そのすぐ傍に現れたエルゲルンへ、咄嗟の反応ので攻撃しようと、手首を返し半身を向けた瞬間、七生の背が斬り裂かれた。

 

「ぐぁッ!?」

「だぁから、駄目だって。凄い反応速度だけどさぁ、目で見て反応するほど引っ掛かるんだよな、こういうの。内向使いは馬鹿だから助かるよ、ホント」

「ふざけ……っ!」

 

 七生は裂傷を負ったが深手ではない。たたらを踏みそうになりつつ、更に身体を捻って背後へ刀を振ったが、既にそこにはエルゲルンの姿はなかった。

 だがその一瞬後に、その姿が現れる。目で追いつつ、惑わされぬよう別の場所に姿を見出そうとして、突き出されたサーベルに腹部を刺された。

 

「がっ! 本物!?」

「虚像か? それとも実像か? 見抜こうとするほど術中にハマる。これはそういう術だぜ? 特にお前らの様な奴には効果テキメンってな」

 

 言うだけ言って、また姿が掻き消えた。

 追撃をする事なく逃げ出したのは、そこに凱人が迫っていたからだろう。事実その直後、凱人が直上より振り抜いた拳が地面を抉った。

 

「大丈夫か、七生!」

「……えぇ、ごめんなさい。でも、それより早く漣を!」

 

 崩れ落ちそうになる七生を、凱人が支える。

 漣の方を窺ってみると、既に結希乃が動いていた。自力で立てない漣を防壁の傍まで連れ、そこから外へ逃がそうとしている。結希乃が外へ声を掛けると、そのレンガ状に組み上げられた壁の一部が左右に拡がって穴を作った。

 

 そこで治療が済んでいた一般隊士が引き取り、奥へ連れてはその治療に専念していく。

 結希乃が再び戻る頃には、既にエルゲルンの姿が幾つも増えていた。

 

 アキラは状況を見据えて歯噛みする。

 漣の理術は上手くいった。アキラ達は髪が少し焦げたくらいで、それ以上の火傷はない。漣が火力を上手く調節してくれたお陰だろうが、その所為でエルゲルン本体には些かのダメージも与えられなかった。

 

 そして何より、その致命的な隙を見逃してはくれなかった、という事だ。

 鏡像は全て砕けた。それは狙い通りだったが、同時に敵からしても狙い通りでしかなかった。連に取らせた戦法は、味方への誤射を恐れないなら、確かに一度で全ての鏡像を壊せる。

 

 敵からしても厄介な相手だったろう。

 エルゲルンは内向術士を馬鹿にする発言をするが、返してみれば、それは外向術士は脅威足り得ると考えている、という事だ。

 自分を倒せるのは外向術士だと思っている。

 

 エルゲルンは数を増やし、更にそれぞれが別方向へ歩きながら、誰にも顔を向けないで拍手を送る。その顔には勝利を確信した笑みが浮かんでいた。

 

「魔術で一掃するっていう手は良かったよな。鏡像を砕ける威力でありつつ、お前達には被害が出ないっていう絶妙な力加減でもあった。良い術士だったと思うぜ? けど、その後がお粗末だったなぁ。制御中の魔術士が無防備なんて、誰でも知ってる事だろ? あいつ無しで、俺にどうやって勝つのよ」

 

 確かに虚実入り交じったエルゲルンの攻撃は脅威だった。

 それに、明らかに敵は本気ではない。こちらが対抗策の一つや二つ出す事は、そもそも織り込み済みだろう。そういう戦いを繰り返してきた、熟練した術捌きを感じさせた。

 

 この術一つで戦ってきた訳でもなく、剣の心得もあり、そして双方使って翻弄する。他にも隠し玉があるかもしれない。

 手の内全てを見せる事もないだろうし、こういう相手なら気づかせず使っている可能性もある。力押しではなく、間接的に倒すのが真骨頂という気がした。

 

 数を揃えて挑んだところで、一定以上の力量がなければ先程の二の舞いだろう。

 隊士達は己の命を顧みず武器を振るうだろうが、無駄死にさせる意味もない。

 そこに死体の数が必要だというなら、それが有効に働く作戦、そして仲間の死と引き換えにエルゲルンの首を落とせるぐらいでなければ割に合わない。

 

「とはいえ、グズグズしてると治癒されて帰って来るだろ? お前らとしちゃ、最後まで誰か一人が立っていた方を勝ち、と見るつもりかもしれねぇが、そこまで付き合ってやるつもりもねぇしな」

「漣一人落としたぐらいで、もう勝ったつもりか! 何一つ、お前に対抗できないと思うな!」

 

 結希乃の一言で、アキラの萎え掛けていた戦意が再び高まる。

 自分が言った提案で、漣が傷付き倒れる事になった。それに対する失意はある。不甲斐ない、馬鹿な発言、己を悔いる気持ちは幾らでも湧き上がってくるが、その謝罪も後悔も生きていればこそだ。

 

 目の前の敵を倒す。

 オミカゲ様を害する者は、何人たりとも容赦しない。

 

 その怒りを戦意に変えて、アキラは刀の柄を握る。敵の姿は四体、こちらの数に合わせた数だが、あの中に本体がいるとは限らない。

 それ以上の数も用意できるし、アキラ達の鏡像を作らない事から余程の自信を窺える。このままでも勝てるという意味なのか、それとも何かを隠しているのか――。

 

 アキラは頭を振って思考を外へ追い出した。

 疑心暗鬼になる事は、敵の利にしかならない。そうする事が相手の狙いで、それを本人の口からも聞いている。だが、しかし――。

 考えなしの攻撃もまた、敵への有効打にならないという気がした。

 

 がむしゃらに突っ込むだけでは、足元に引っ掛けられて転ぶだけ。

 しかし、下を意識すれば上から何かが落ちてくる。その、常に先手を取られる感じが二の足を踏ませ、そして遂には踏み出せなくなる。

 それだけは避けなければならなかった。

 

 ――いっそ武器を捨てるか。

 馬鹿なことを、とアキラは大きく顔を歪めた。同士討ちの怪我は減るだろうが、それでは敵を倒せない。エルゲルンは外向術士だ。それを思えば素手でもダメージを与えられる可能性はあるが、どちらにしても有効打を与える前に、こちらが力尽きそうな気がする。

 魔力総量も相応に多く、魔力も強いだろう。その防御膜を、果たして抜けるかどうか……。

 

 アキラが思考の迷路に捕らわれていると、結希乃が声を張り上げる。

「目は捨てろ、気配を頼って武器を振るえ!」

「それは分かります……が、それだと鏡像からの攻撃は避けられません!」

 

 気配を頼りに攻撃を避ける事は出来る。

 アキラにも出来る事だが、それは人の思念を頼りに察知するから出来ることで、全くこちらを意識しない攻撃を避けるのは難しい。

 

 それこそ視界を頼りに、勘を頼りにするしかないのだが、勘はともかく視界を使わず避けるなど、到底出来るとは思えなかった。

 

「鏡像も実体を持つ身として、武器を振るえば空気を動かす。それを頼りに避ければいい! 泣き言を言う暇あったら、今すぐ対応しろ!」

「は、はい!」

 

 言ってる事は分かる。分かるのだが……、やれと言われてやれるのなら苦労はない。だが今この時、自分だけでなく仲間の命も掛かっているとなれば、やるしかないだろう。

 出来ないといったところで、アキラに現状の打開策など思い付かない。

 

 ――それに。

 それに今できないなら、今できるようになれ、という言い分はアヴェリンと良く似ている。今まで散々、言われ慣れてきた事だ。

 

 アヴェリンはアキラの成長を見て、できると確信するから言っていた事だが、今回は単なる発破に過ぎない。それが分かっていても、やらねばならない。

 自分達が護るものはオミカゲ様だが、それが害されるとなれば、引いては国民全ての身を裂かれるのと同じ事だ。

 

 凱人が小手を打ち鳴らして構えを取り、結希乃と七生が同じ構えで納刀し腰を落とす。アキラもまた刀を正眼に構えて、目の前の敵を見据えた。

 エルゲルンも制御を始め、その両手に紫の光が纏う。それを合図として、アキラ達は雄叫びを上げて地を蹴った。

 



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反撃開始 その2

「ウォォォオオオ!!」

 

 誰よりも先に突出したのは、凱人だった。

 エルゲルンへと肉薄するよりも早く、その魔術が行使される。すると、先程よりも更に倍する数の鏡像が現れ撹乱してきた。

 

 凱人は構わず突進する。

 反撃する動きさえ最小限、それを心得ていれば他者の邪魔も最小限に留まる。それに、凱人の攻撃は重くはあっても、刀傷より怪我は小さくて済む。

 力加減を誤らなければ鏡像を砕きつつ、仲間への誤爆を防げた。

 

「フンッ!」

 

 凱人が目の前の鏡像を砕き、更にもう一発と殴り付けたところで、感触が違った。

 これは本体、と思った時には既に遅かった。凱人は反撃を受けて、強かに吹き飛ばされる。ダメージは少なかったが、本体を取り逃がしたという失態に悔やまれる。

 

 立ち上がった時には既に姿は消え、また別の場所にエルゲルンが現れていた。

 他の仲間も鏡像を斬り付けているが、その剣筋は普段の彼ら彼女らからすると、やはり弱々しく思える。自爆覚悟ならともかく、仲間を傷付けるのは忌避感が勝るのだろう。

 

 だが、それではエルゲルンに勝てない。

 攻撃の瞬間が最大の隙である、とも言うように、実際そこに合わせて敵は攻撃してくる。そして鏡像を砕ける程度に抑えた攻撃では、痛痒すら与えられないだろう。

 

 ――そこに最大のジレンマがある。

 仲間を慈しむ気持ちを利用されているのだ。

 敵は感情を利用する。挑発的な台詞が目立つのも、それが理由だろう。目で見るものを利用し、耳で聞くものさえ利用するというのなら、結希乃が言っていた対策も危ないかもしれない。

 

 そう思った瞬間、刀が振り下ろされるような、風を切る音が右から聞こえてきた。

 咄嗟に躱したつもりが、その刃は左からも同時に聞こえ、躱す間もなく斬撃が肩を叩いた。角度が甘かったお陰で刃は横滑りして裂傷は作らなかったが、反撃として七生の鏡像を砕く。

 

 最初に感じた右側からの風切り音の所在を確認しようとしてみても、敵の――そして鏡像の姿はない。

 やはりか、という思いで苦い顔をしていると、同じ違和感を覚えたらしいアキラが困惑した表情で鏡像を斬り裂いていた。

 

 それと同時に横合いから刀が振り下ろされる。

 アキラの鏡像だと理解すると同時に、別の鏡像からも攻撃され、それを転がり避けた先で腕を裂かれた。

 

「グァアアアッ!!」

 

 顔を見上げれば、そこには下劣な表情を浮かべるエルゲルンがいる。これは本物だ、と思って身を捻って立ち上がり、そこへ全力で殴り付ける。

 すると、エルゲルンは砕け散り、代わりに別方向にいたアキラが凱人の胸像から受けた横殴りで吹き飛んでいった。

 

「ああっ、クソッ!!」

 

 手の内で転がされている。それが分かっていても対処が難しい。冷静さを欠くのは敵の思う壺だと理解していても、思うように戦えない窮屈さが、焦れつきと苛立ちを呼び起こす。

 その時、結希乃から鋭い声が響いた。

 

「巻き込むわ、身を低く! 合わせて、七生!」

 

 何をする気だ、と考えるまでもなく、その身を低く、しゃがみ込むような恰好になった。アキラは倒れ伏し、起き上がろうとしたところで動きを止める。

 そして結希乃と七生がやった事は、互いに背中合わせにして、とにかく目の前のものを斬りつけるという事だった。

 

 ただ直立しているのではなく、直進し、時に体位置を置き換え、そうしてエルゲルンを斬り付けていく。同時に七生と結希乃の鏡像も相手にする事になるのだが、その鏡合わせの斬撃は不思議な事に、常に二人の有利で進む。

 

 二人の斬撃、そして多くの鏡像が繰り出す斬撃で、周囲はまるで暴風が吹き荒れるような有様だった。鏡像は砕かれれば、それで終わりという訳でもない。更に追加で出現し、二人を囲むように数を増していく。

 

 最初あったエルゲルンや凱人達の鏡像は減り、今や結希乃と七生が互いに刀を振り回す空間になっていた。そしてその斬撃は結希乃達を中心に起きていて、凱人たちを相手に見ていない。

 あくまで牽制程度の数でしかなく、振り回す斬撃は鋭いものだが掻い潜る事は容易。

 

 二人は斬撃の嵐を生み出しながら、それを自身の鏡像からも向けられ、そしてそれを同時に防ぎつつエルゲルンへ向かおうとしている。

 互いに背を向け、互いの斬撃を受け、そして小さな裂傷を幾つも作っている。致命傷になり得るものは全て避け、鏡像の動きを制しているのは流石としか言い様がなかった。

 

 エルゲルンの数は四体、それが逃げるようにバラバラの位置にいる。

 一体は今、二人が向かっているところだが、そういうつもりなら他にやりようもある。

 

「アキラ! 掻い潜って他を狙え!」

 

 鏡像の出せる数には限りがある。

 あの様に暴れられ、次々と砕かれては困るのだろう。だから二人へ向けられた数は多いのに、身動きを取らないアキラと凱人へ向けられる鏡像は少ない。それどころか、明確に数を絞ってまず七生達を仕留めようとする意図がよく分かる。

 振り回す自身の武器で自爆を狙ったのだろうが、予想以上の粘りを見せる二人に、多くの鏡像を割き過ぎたのだ。

 

 今や凱人とアキラの周りに見える鏡像は少数、エルゲルンへと向かうのは簡単だ。

 敵としても、簡単には向かわせないというつもりはあるにしても、回転しながら動く彼女らに合わせて鏡像も動く。そこを抜けるのは難しい事ではなかった。

 

「オォォラァッ!!」

 

 それまでの鬱憤を払うかのように拳を打ち付け、そして鏡像が砕け散る。

 次のエルゲルンを探して顔を動かし、そして目の付いたものを殴り付けていく。視界の端で、アキラも一体砕いているのが見えた。

 

 他はどこだ、と顔を巡らせ、再び出現したエルゲルンを見つける。ではあれは鏡像だ、と思うのだが、本物の可能性を捨て切れないのが厄介なところだった。

 そもそも、あの二人が繰り出す斬撃の前に姿を見せるか、という問題もある。

 二人は今もエルゲルンへと向かっている最中で、その斬撃に飲み込まれるように、また一体がま砕かれた。

 

 一体砕けば、同じように斬撃を繰り出しながら別の一体に狙いをつけて移動する。

 そのリスクを前に姿を見せられるのか、という気がした。

 二人の斬撃には容赦がない。自爆覚悟でいるから裂傷は耐えないが、それでも戦い続けている。あれに飲み込まれたくはない、と考えるのが自然で、それなら今も姿を隠して鏡像だけ出していそうなものだ。

 

 二人は優れた剣士で内向術士だから、小さな傷なら無視してしまえるだけのポテンシャルがある。しかし無尽蔵ではない。それが尽きるまで待つつもりでいるなら、いつまでも見える鏡像を追っても仕方ないだろう。

 

 だが同時に、長期化させる事は漣の復帰を意味するから、それまで維持して貰いたい、という気持ちもある。そうすれば、次はもっと上手く鏡像を無力化させつつ戦えるだろう。

 問題は漣の傷の深さからいって、そう簡単に復帰して来ないだろう、という事だった。

 

 そもそも二人に頼り切り、というのは男がすたる。

 二人がやってる事は、意識と戦力をそこに集中させる事だ。その間に本体を見つけ出し、倒してしまうのが最善。凱人はアキラの姿を探して首を回し、そうして今し方、鏡像の一体を砕いたアキラに叫んだ。

 

「――探れ! 見えるものは無視だ!」

 

 その一言で、果たして通じたかどうか。

 だが凱人にも余裕はない。鏡像は常に一定の位置にいる訳ではないし、エルゲルンの鏡像も時折姿を消しては別の位置に現れたりする。

 その鏡像も攻撃を仕掛けてくるのだから、本体を見つけ出すのは簡単ではなかった。

 

 ――だが、あの二人からは距離を取りたい筈だ。

 そう思わせるのが狙いだろうか。鏡像を出現させ、そちらに誘導しつつ自分はその後を付いていく。そういう悪魔の発想をする相手だと、凱人は良く分かっていたつもりだった。

 そこを狙って探りを入れてみれば……。

 

 ――見つけた!!

 果たしてそこに、非常に希薄な気配がある。七生質の斬撃は外を向いているが、エルゲルンの鏡像へ向かうという性質上、後方というものがある。その背後に位置する、斬撃がギリギリ届かない位置に何かがいる。勘違いと思ってしまいそうな程に、薄い気配が確かにあった。

 アキラに見つけられたかどうか、二人で合わせて攻撃出来れば頼もしいのだが、と思っていると、アキラはこちらも見る事なく一足飛びで接近する。

 

 凱人もそれに合わせるように飛び出した。

 距離からして、アキラの方が到達が速い。それに敵も馬鹿正直に攻撃を受けたりしないだろう。姿を消したまま回避する事を念頭に置き、そして何より接近する二人へ差し向けるように動くエルゲルンの鏡像に注意して動いた。

 

「ハァッ!」

 

 アキラの袈裟斬りは空を切った。手応えらしきものは見えなかったが、血相を変えて飛び退いた位置は分かっている。

 凱人はそこに全力で拳を振り下ろした。

 ガゴン、という確かな手応えを感じると共に、エルゲルンが姿を現す。敵は憎々しく表情を歪め、そして鏡像を差し向けてきた。

 

 相変わらず二人に向ける数が多いため、凱人に使う数は少ない。

 七生と結希乃の鏡像は脅威に違いないが、それは一方向へ攻撃が集中した場合だ。すぐに横を向いてしまうので、その二人は迎撃には向いていなかった。

 

 その脇を通り過ぎ、両腕を畳んで肉薄する。

 姿を再び消そうとしているが、瞬間移動でない事は分かっている。姿が消え、その場にエルゲルンが現れようと、そのすぐ近辺に本体がいる事は見えていた。

 

 鋭く素早く拳を鏡像に突き出し、砕かれる鏡像と破片を両拳の間から伺う様にして、頭から突っ込む。その破片の向こうに、本体がいる筈だった。

 更に大きく一歩踏み込み、そこへ今日一番の制御を練り込んだ一撃を叩き込んだ。

 

「ゴバァァッ!!」

 

 肉を貫き、骨も砕くような一撃がエルゲルンの腹に突き刺さっている。身体をくの字に曲げ、顔を歪めて大きく開いた口へ、横合いから更に殴り付けた。

 顔が吹き飛び、身体もつられて傾いて、そこへ更に体重を乗せた一撃を加える。

 

「オッラァ!」

 

 ドゴン、という車の衝突にも似た音と共に、エルゲルンの身体が縦に浮かんだ。

 そこへ更に右、左、右、と拳を打ち込むごとに、それに合わせて体が揺れる。全ての鬱憤を晴らすように殴り付け、最後に大きく右のストレートを叩き込んで吹き飛ばす。

 

「見たか! ふざけやがって! ハァ、ハァ、ハァ……ッ!」

 

 凱人は肩を上下させて息を整える。

 手応えは十分だった。吹き飛んだ先でゴロゴロと転がり、雪の上でその派手な衝撃が煙を上げた。土と雪が混じり合った煙だった。倒れた先で煙に紛れてしまい分からないが、動く気配は感じられない。

 

 ――勝った。

 その確信を持って凱人は拳を握り締め、晴れやかに笑みを浮かべた。

 



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反撃開始 その3

「……凱人、まだだ! 終わってない!」

 

 会心の手応えがあったのは、傍目に見ても良く分かる。凱人に顔に勝利の笑みが浮かんだ瞬間、アキラは嫌な予感がして声を上げた。

 敵の強さは未知数だが、四椀鬼より強い敵である事は違いないのだ。魔力量が高ければ、それだけ防御膜も固くなる。単純な皮膚の厚さや頑強さでは一歩どころか何歩でも譲るのだろうが、しかしあれで倒せたと油断するのは危険だと思った。

 

 術に傾倒する者ほど、その肉体的強度は低くなるものだ。

 それは術の習得難度を考えれば、自然と肉体の鍛練には時間を割けないからだが、それをカバー出来るのも魔力総量なのだ。そちらを伸ばせば、余剰分が肉体を強化してくれる。

 

 それはつまり、相手の魔力量を上回れなければ、攻撃の多くは通らない、という事にもなるのだ。アヴェリンと同じように考えるのは危険だが、彼女がアキラの刀を怖がらないのは、アキラ程度に傷つけられないと確信しているからだ。

 

 だから鍛練の時間でも真剣を使っている。

 もしも肌を切り裂くと知っていたら、刃を潰した別の刀を用意するだろう。

 

 エルゲルンの魔力量を、果たして貫通するほどにダメージを与えられたのか?

 先程まで見せていた姿を見せれば、決定打を与えたように思える。身体をくの字に曲げていた事など、演技のようには見えなかった。

 だからこその確信だろうが、エルゲルンは何もかも利用しようとするのだ。自分のやられ姿を利用する事ぐらい、考えそうなものだ。

 

 凱人が笑みを浮かべた表情から、アキラを不思議に見るようなものに変わり……そして唐突に表情が固まる。

 そして視線が下に向かい、信じ難いものを見るように表情が崩れた。

 

「……馬鹿な」

 

 凱人の腹からは、漣の時と同様、サーベルが生えている。

 背中から突き刺され、その切っ先が覗いているのだ。

 

「凱人ぉぉ!!!」

 

 アキラは刀を持ち上げ、一瞬で肉薄すると、エルゲルン目掛けて刀を振り下ろす。敵は素直に引き下がって、また姿を消した。腹からサーベルを抜かれ、血が流れ出す。

 アキラはそこに手を当て、崩れ落ちる前に肩を支えた。

 

「すまん……、油断した」

「いいんだ、喋らなくていい。すぐ防壁の外に……!」

「いやいや、許さないよ」

 

 声が聞こえると同時、空を切る音が聞こえて身を捩った。

 だが凱人を抱えたままでは十分に動くことが出来ず、左肩を斬り裂かれ、逃げ出そうにも逃げ出せず、更に痛めつけるように何度も凱人とアキラを切り刻む。

 

「アァァアアア!!」

 

 その斬撃を必死に避け、どうにか逃げられないかと背中を向け、そして力の限りを振り絞り地を蹴った。

 だがろくに考えず周りも見ていなかった所為で、向かう先には鏡像がいる。

 今も刀を振り回す、七生と結希乃の鏡像だった。躱せない事を悟り、アキラは凱人を投げ飛ばす。十分に反動を付けられなかったので距離は出なかったが、斬撃からは逃がす事ができた。

 

 その直後、二人の鏡像に正面から斬り裂かれる。

 胸に縦二本、横に三本、そして無事な方の右腕にも二本斬られた。斬撃から少しでも遠のこうと、身体を反らしていたのが幸いした。どれも防具を斬り裂いたが、十分に貫通せず、身体の表面をなぞっただけだ。

 血は出ているかもしれないが、深刻な傷でない事は感触で分かった。

 

 アキラは転がるように逃げ出して、向かった先でエルゲルンに遭う。

 本物かどうかを考える必要はなかった。その腹を突き刺し、そして来るだろう反撃に備えて即座に引いた。そしてやはり、その場を風切り音が過ぎていく。

 

「……ふぅーん、ま、これはさっき見せたしな。あんまり馬鹿にするもんでもないか」

「なぜ……」

 

 エルゲルンの様子は実に気楽なもので、その表情にも焦りは見えない。

 さっきは追い詰めたと思ったし、その確信を持ったのは凱人だけではなかった。だが、仮にあの攻撃で倒したというのなら、今も七生と結希乃が相手する鏡像は消えていなければおかしい。

 そしてあの時、咄嗟に声を掛けたのは、その鏡像が未だに視界の外に映っていたからだ。頭で理解するより、その違和感があったから、咄嗟に声が出たのだろう。

 

 どこかつまらなそうに見つめてくる、目の前にいるエルゲルンは、あまりに自然体だった。

 凱人からあれだけの攻撃を受けて、全くの無傷というのも考えたくはない。これにも何かタネがある、そう思っていると、変わらぬ気楽な調子で両手を上げる。

 

「んー、言ってもいいけどな。でもあんまり手の内晒すってのもなぁ、勝手に気づけって感じだよな。まぁでも、簡単に言えば変わり身ってだけだ。俺の姿をおっ被せた別人を殴っていただけ。……な、タネを聞いちまうと単純なモンだろ?」

 

 だがそれなら、一体いつ入れ替わったのか、という問題が起きる。

 殴り付けた直前に入れ替わったにしても、付近に入れ替わる人物などいなかった筈だ。防壁内にはこの五人以外誰もいなかったし、誰も立ち入れなかった。

 

 そう考えて、幾つか例外があったのを思い付いた。

 漣を外に逃がす時に防壁が開いたが、その瞬間、誰かを連れ出していたとしたら。姿を隠したエルゲルンが直接乗り込んだのか、それとも念動力で攫いつつ透明化させたのかは分からない。

 だが、それなら説明も付く。

 

 それとも、もっと早い段階――防壁を張られるよりも前に一名透明にして確保していたのだろうか。気絶し倒れていた隊士は沢山いた。その誰か一人を見失っていたとしても、それはアキラ達には分からなかっただろう。

 

 どちらも有り得そうだが、今となってはその方法を探る事に意味はない。

 聞けば話してくれそうでもあるが、聞いたところで怒りが沸き起こるだけだろう。本人が自身の口から言ったとおりだ、こちらの神経を逆撫でする意図もあるだろうから、余計に聞く気はしなかった。

 

「……何でオミカゲ様を狙うんだ」

 

 アキラはいっそ関係ない事を訊いてみた。

 世間話がしたい訳ではない。視界の端、エルゲルンの死角で防壁の外へ移動しようとする凱人への助力になればと思っての事だった。

 時間を稼げば凱人は逃げ(おお)せるし、漣の復帰も有り得るかもしれない。

 

 エルゲルンはアキラの質問に肩を竦めて視線を逸した。

 

「さぁてねぇ。そこは知った事じゃないし、知らされてもいないしな。……まぁでも、俺の勝手な予想じゃ、時空孔を塞ごうとして、それが叶いそうになったから本腰入れたのかと思うがね」

「孔を……塞ぐ?」

 

 鬼との争いは千年続く戦いだと学園で習った。

 鬼は孔を通じて別の世界からやって来ているというのが通説で、だから奴らを渡鬼(わたりおに)と呼称している。

 

 その孔を封じる手段は、過去幾度も試みられて来たし、逆に孔を通って向こう側へ行こうとした事もあったようだが、その尽くが失敗で終わっている。

 だから孔は封じる事も出来ないし、出現する鬼に対し常に後手で対応しなければならない。隊士にとっては、そういうものだという認識だった。

 

 だがそれに封印の目が出ていたというのは、アキラにしても青天の霹靂だった。

 ミレイユに近しいとはいえ一人の隊士でしかないから、そのような事実があったとしても知らせる事でもないかもしれないが、それが実現したならどれ程良かったか。

 

 ミレイユ――もっと言えば、最近ルチアが何かやっていた事は知っていた。観覧車で話していた内容は、アキラにはまるで理解できなかったが、今その事実が浮かび上がって来ると、その意味も分かってくる。

 

 彼女はその封印にもう一歩のところまで手を掛けていた。

 間に合うかどうか、という瀬戸際であるとも言っていたが、無茶無謀なものでもないと考えていたようだ。最悪の事態として、孔の向こうへ帰った上で元凶を叩くとも考えていたが、足掻く価値のある所まで漕ぎ着けていたのだろう。

 

 だが、封じられて困る側からすると、今回のような凶行に走る理由には十分だった訳だ。

 そう考えて、ふと思う。

 封印に際し、オミカゲ様の助力が無かっとは思わないが、封印の執行を阻止したいなら……狙いは別にあるような気がした。

 

 観覧車での話を聞いていた感じでは、その中核を成すのはルチアのようだった。

 だから狙いがルチアの抹殺というのなら分かるが、ここでオミカゲ様を優先的に狙うというのに違和感を覚える。無論、結界だけでなく、全ての中核はオミカゲ様だ。

 だから狙う、というのも十分理に適っている。

 

 狙いが一つではない、こちらに来たからには多くの作戦目標がある――。

 様々な理由があっての行動かもしれないから、あまり疑問に思っても仕方ないのかもしれない。

 それにエルゲルンは嘘つきでもある。その話の内容と真偽をどこまで信じて良いものか。聞いた話はあくまで聞いたまま報告し、それ以上はアキラが考えるべきではないだろう。

 

「ま、そもそもの目的は神っぽい奴を連れて行く事だと思うしな。それなのに塞がれちゃ堪らねぇんだろ」

「……連れて行く、だと?」

 

 我ながら底冷えのする声だと、他人事のように思った。

 オミカゲ様を連れ去る、それを理解した瞬間、頭の奥がカッと熱く燃え上がり、胸の奥から力が湧き上がった。

 エルゲルンは絶対にこの場から逃してはならぬ敵、この場で仕留めるべき敵だと認識し、殺人への忌避もどこかへ飛んでいく。

 

 しかし、それと同時に冷静な部分が警笛を慣らす。

 それが、時間稼ぎを忘れるな、凱人が防壁に行き着くまで注意を逸らせ、と言っていた。

 刀の柄を握る腕がぶるぶると振るえ、憎しみを込めた視線のみがエルゲルンへ向けられる。視線の一薙ぎで断ち切れるなら、とうにエルゲルンは二つに割れているだろう。

 

 そこへ、そんな視線を向けられても、あくまで調子を崩さないエルゲルンが、面倒そうに頭を掻きながら言う。

 

「……なぁ、なんで俺がこんな無駄話してやってると思う? お前はどうせ死ぬからか? 冥土への土産のつもりかって? ――そうかもしれねぇな。だがよ、時間稼ぎしてるつもりなのは、別にお前だけじゃねぇんだぜ?」

 

 その一言でハッとなった。

 仲間は別に凱人だけではない。今もなお、奮闘している阿由葉姉妹もいる。刀を打ち鳴らす音が聞こえていたのに、気づけばそれも消えている。

 

 二人の方へ顔を向ければ、満身創痍で体中を刀傷だらけにしていた。

 防具も最早、その機能を喪失していて血の染みがない場所を探すのが難しい程だった。だが、それでも二人は歯を食いしばって立っている。

 

 倒れないのが最後の矜持だと言っているようだった。

 肩で息をし目は虚ろ、倒れていないのが不思議な程で、戦闘続行は不可能に思えた。

 その二人を囲うように、変わらず鏡像が同じ格好で立っている。そして、鏡像は何をするでもなく自然と砕ける。それを見届けて、姉妹はとうとう膝をつき倒れてしまった。

 

「……ま、大したもんだ。良くやったと思うぜ? そこんとこは素直にそう思ってんだ。――さて、トドメを刺すのは慈悲か、それとも哀れみか? お前はどう思う?」

 

 エルゲルンの鏡像が一体、二人の傍に現れた。

 本体が腕を上げれば、鏡像も同じ様に腕を上げる。振り下ろす位置には倒れ伏した二人の姿があった。それを視界に収めた瞬間、アキラの身体が勝手に動く。

 ――決して、その腕を振り下ろさせてはならない。

 

「ウォォォアアアア!!!」

 

 雄叫びと共に疾駆し一瞬で肉薄すると、刀を下から掬い上げるように斬り上げる。

 エルゲルンのサーベルを、アキラの一刀が振り下ろされる前に受け止めた。

 憎悪を持って向き合うアキラと、愉悦を持って嗤うエルゲルン、双方の視線が交わる。鍔迫り合いをしながら、互いに押し合い拮抗が生まれた。

 

 アキラは鋭い呼気と共に腕を振るい、エルゲルンの身体を持ち上げ突き飛ばす。

 ――距離を開けられてはいけない。

 後ろへ下がる動きに合わせてアキラも肉薄し、決して逃がす素振りを許さない。最早頼りになる仲間はおらず、アキラの孤独な戦いが始まった。

 



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反撃開始 その4

 ――二人を人質に取られている。

 アキラは、まるで絡みつく様なやり辛さを感じながら、必死に刀を振るっていた。実際この戦いは、そのようなものだ。倒れ伏した仲間へ攻撃を向けさせない為、とにかく喰らい続けなければならない。

 

 決定的な隙を見せれば、エルゲルンは足元に素振りをするだけで仲間へ追撃する事が出来る。それは首元などの致命傷を与える傷でないかもしれないし、全く致命傷に届かない一撃であるかもしれないが、そんな事は関係なかった。

 

 ただとにかく、無防備な仲間へ、嘲笑混じりの一太刀が入れられるのは我慢ならなかった。

 幸いエルゲルンは遊んでいる。残り一人まで減らしたという余裕が、そうさせるのだろう。だが、仲間が戦線復帰する事を危惧してもいたから、その遊びも長くは続かない。

 

「粘るねぇ、どうにも」

「いつまでだって、粘ってやる!」

 

 剣裁を加えながら、アキラは必死で喰らいつく。エルゲルンも距離を取ろうという素振りを見せるが、それを許してしまえば姿を消してしまう。

 剣撃の合間に姿を消そうとした事もあったが、スタミナを度外視して攻め立てれば、流石に防御や回避に専念せねばならないらしい。今のところは逃さずに済んでいた。

 

 アキラとしても必死だ。

 頼れる仲間はなく、ただ独りで倒さなくてはならない。

 それを嘆いているのではない。こうして一対一の状況まで持ち込めるよう、仲間たちが導いてくれたから今がある。

 最終的に残ったのはアキラだったが、例えそれが他の誰であっても、やはり同じように戦っただろう。

 

 それが分かっているから、アキラは刀を振るう。

 ――仲間の想いを束ねて戦っている。

 だから彼我の実力差があろうと、臆せず喰らい付けていけた。

 

 エルゲルンは恐らく、天才の部類なのだろう。

 外向術士でありながら、剣まで卒なく扱えている。二つを高いレベルで修める事は非常に難しい。それは実体験として、アキラ自身が理術を身に付けようとした場合に、必要な努力を知っているからこそ、そう言える。

 

 アキラはいつだって亀だった。兎と亀、いつだって鈍重で覚えが悪く、そして成長も遅い。行き着きたい到達点へ、遅々として進まない。

 兎には常に追い越され、常に背中を見つめる日々だった。

 

 ――だが。

 アキラは決して諦める事だけはしなかった。

 進む先には、必ず到達点があると思うからだ。遅くとも、辿り着けるなら意味があると信じるから、進み続けられた。

 

 ――それでも。

 幾ら罵倒され、才がないと諭されても、振るえる腕があるなら……あり続ける限り、振るい続ける。

 到達点へも、いつか辿り着けると思えば、進み続けられる。

 その馬鹿な一途があったから、ここまでやって来れた。その思いがあって、エルゲルンに喰らいつく事が出来ない筈がない。

 

「お、まえ……ッ!」

 

 エルゲルンの顔が僅かに歪む。

 常に攻め続けるアキラを、ここでようやくおかしいと思い始めたようだ。剣の腕だけを見ても、才があるのはエルゲルンの方だろう。だから今までもミスなく受け続けられている。

 

 だが、攻め手は時に守り手側よりも疲弊するものだ。攻め続けても、その全てが当たる訳でもないし、反撃を躱しながら前進を続けるアキラは、その分スタミナも減りやすい。

 すぐに息切れを起こすか、決定的な隙を見せると思った事だろう。だから律儀とも思えるほど、エルゲルンはアキラの攻撃を受け続けていた。

 

 だが、その攻撃の手が緩まない。

 続くと思えば、いつまでも続くと思える苛烈な攻めを続けている。

 アキラの射抜くような視線が、圧を持ってエルゲルンを押し付けた。この身朽ち果てようと、必ず一撃入れてやる、という気迫の圧だった。

 

 その圧に押され、一歩、また一歩とエルゲルンを追い詰めていく。

 その表情には余裕がなく、素直に受ける意味もないと逃げようとするが、その度に肉薄して決して逃さない。

 

「いい加減に……、しろッ!」

 

 エルゲルンの振り払ったサーベルが、咄嗟に避けたアキラの頬を裂き、横一文字の線を引いたが、それ如きでは攻め手を緩めない。体中を血だらけにして戦っていた阿由葉姉妹を思えば、流す血は足りないくらいだった。

 その苛烈な姿が目に焼き付いているから、アキラもまた動き続けられる。

 

「くそっ、何なんだお前! どいつもこいつも狂ってやがるな!」

 

 アキラは心中で、鼻で笑う。

 こいつらは日本人の、更に言えば神宮勢力の逆鱗に触れた。

 外から鬼を送るだけでは飽き足らず、オミカゲ様すら連れ去ろうとする奴らだ。それを敵にすればどうなるか、教えてやらねばならない。

 

 攻め続けなければ逃げられる、そういう目前の問題だけでなく、息つく暇を与えないのには、また別の理由もあった。

 エルゲルンは鏡像を増やしていない。阿由葉姉妹を落とすのに集中させ、そして最後に砕かれた。再度新しく出す事は出来るだろうに、傍に一体張り付かせているだけで、それ以上はない。

 

 アキラが猛攻仕掛けている横か後ろに出現させ、そして複数体で抑えれば良い。むしろ、そういうスタイルこそ、エルゲルンの得意とする所だろう。だがしないのは、新たに出現させるにも制御の集中が必要だからだ。短い時間で素早く行使できるのだとしても、流石に防戦一方の状況では不可能なのだ。

 

 だから一瞬の隙だけでも作ろうと武器を振り回すが、アキラは傷を負うことも厭わず攻め立てる。逃げること、距離を取ることを許さず、まるで命を燃やす様にして喰らい続けている。

 アキラにしても、これ以上の勝ち筋など見つからないからだ。

 

 一太刀入れればそれで勝ち、となるかは分からない。首を落とす位しないと無理かもしれない。だが、それでも、まずは喰らい続けなければ先がないと分かっているから、それをしているに過ぎなかった。

 

 その時、阿由葉姉妹の傍にいた鏡像が別の場所に移動しているのに気付いた。

 いや、移動しているというよりは、鏡合わせの動きをする以上、エルゲルンが動けば鏡像もまた動くのだ。二人の傍から離れたのは良いが、しかしこれはアキラを挟むような形にもなっている。

 気づかぬ内に、上手く誘い込まれたという事なのだろう。

 

 アキラは攻撃しているつもりで、相手有利の場所へと誘い込まれていた。

 エルゲルンは戦巧者だ。自分の使える術の有利性を熟知して、そしてそれを利用し戦う術に長けている。それは理解していたつもりだった。だが、敵がその一歩先を行った。

 

「……ぐぅっ!?」

 

 敵の意図を悟って、思わずアキラの口から苦悶の声が漏れた。

 エルゲルンから遊びが消え、仕留めるつもりになった。アキラにまさか、前後二体を相手にする余裕はない。どちらかに注力せねばならないが、本体を相手にすれば鏡像に刺されるだろうし、鏡像を優先させれば本体に抉られる。

 

 誘い込まれるのを良しとせず、そこから離れる事を選べば、やはり逃げられる事になる。

 逃げた先で再び鏡像を量産すれば、後はアキラに成す術がない。

 もはや詰みの状態だった。

 

 せめて一矢報いようと、強引に攻め立てたが、余裕を取り戻したエルゲルンには通用しない。状況を理解したアキラを嘲笑するように口を曲げ、剣撃を受け流していく。

 分かっていても逃げる動きを止めようとすればする程、敵の望むように動かされる。鏡像も迫り、もう駄目かと思った。

 ――その時だった。

 

「――オッラァァ!」

「ゴホァッ!?」

 

 ボゴン、という重い打撃音と共に、エルゲルンの表情が驚愕に歪む。

 口の端から血を流し、腹部も血で濡らした凱人が、その背後からエルゲルンを殴り付けていた。

 背後から横腹を殴り付けられ、身体を曲げつつ背後を伺い、そこにいる筈のない姿を目にして、エルゲルンの表情は更に歪んだ。

 

 その直後、鏡像も同時に砕け散る。

 砕け、霧散しながら落下していく欠片の向こうから、七生の姿が現れた。その背後では、結希乃がカタパルト代わりになったと思われる、何かを投げ出す恰好のまま崩れ落ちようとしている。

 

 七生の表情もまた、憤怒と共に凄まじいものになっている。それでアキラは先程の会話が七生にも届いていたのだと察した。

 振り抜いた刀をそのままに、手首を返して方向を変えると、更に一歩踏み込んで、エルゲルンの太ももを斬り裂く。

 

「ガァッ!?」

 

 咄嗟の事で反応できなかったが、アキラも呆けている訳にもいかなかった。

 剣撃を繰り出していたのは、まさにこの時の為。アキラもまた一歩踏み出し、太ももを切られて身体を支えられず、崩れ落ちそうになったエルゲルンを袈裟斬った。

 

「ハアッ!!」

 

 肩の付け根から脇腹までを大きく切り裂く。

 身を捩って逃げようとする身体を、凱人が殴り付けて逆側へ飛ばし、そしてその方向にいた七生が鬱憤を晴らすかのように蹴りつけた上で唐竹に斬り付ける。

 

 背後へと二歩たたらを踏んだところで、更にアキラが逆袈裟に斬り、遂に血飛沫を上げてエルゲルンは倒れた。

 

「ハァ、ハァ、ハァ……!」

 

 誰もが肩で息をし、満身創痍である事が見て取れる。

 特に凱人と七生は酷いもので、どうして立てているのか不思議なくらいだった。

 

「ハァッ、ハァッ……! 御由緒家をッ、舐めるな……ッ!」

 

 七生が口にした、その言葉が全てな気がした。

 内向術士は、その継戦能力の高さ、そして自己治癒能力の高さが頭抜けている。膝を震わせて立っているのも奇跡で、万全には程遠く、幾つも武器を振るえない状態でも、最後の力を振り絞って奮戦した。

 

 この為に残した余力というよりは、僅かな力を捻出する為に控えていたのだろう。

 そしてそれは、本当に最後の最後で間に合った。

 アキラは荒い息を吐きながら、二人に感謝の頭を下げた。

 

「……ありがとう。お陰で助かった……」

「礼を言われる事か……。俺のせいでもあるしな……」

 

 エルゲルンが別人に被せた幻術は、誰も見抜けていなかった。最初に攻撃を当てたのがアキラだとしても、途中で違和感に気付く事はなかっただろう。

 それを思えば、誰に責められる筈もない。あるとすれば、それは殴られた本人だけだろう。凱人の連撃を受けたなら、相当悲惨な事になっただろうから、それについては誠心誠意の謝罪が必要かもしれない。

 

「――今はよそう」

 

 緩みかけた空気を、アキラは刀を振るうことで掻き消す。

 まだ戦闘は終わっていない。エルゲルンの戦闘不能を確認できるまで、油断する訳にも、警戒を怠る訳にもいかないのだ。

 どこまでも油断できない敵、それを戦闘中、幾度も痛感した教訓だった。

 



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反撃開始 その5

 アキラは刀の切先をエルゲルンの喉元へ向け、今は固く目を瞑っている顔を見つめていた。

 斬り傷からは今も血が流れ落ち、身体は僅かに痙攣していた。

 完全に気絶しているように見える、トドメを刺すなら今しかチャンスはない。躊躇えば手痛いしっぺ返しを食らう。

 

 それが分かっているから、互いに目配せした時点で、何を成すべきか理解していた。

 刀の柄を両手で握り締め、そして思い切って振り上げる。躊躇い、取り逃す事になれば後悔するだけでは済まない。断りや確認を取る事すら惜しみ、七生に任せるという選択肢すら与えなかった。

 七生にも当然覚悟はあるだろうが、それをさせたくないという気持ちの方が勝る。

 

 アキラは自分が変に考え込んでしまう性格だと理解しているから、無心になるよう心掛けて刀を振り下ろす。考えれば迷う。迷えばもう、だから振り下ろせる気がしなかった。

 

「ハァッ!」

 

 迷う事すら振り払うように、気合を声に乗せて首を切った。

 呆気ないほど刀身が肉と骨を断ち、切先が地面を噛む。次いで噴き出る鮮血が刀と地面を濡らし、そこから逃げるように後ろへ下がった。

 

 得も言われぬ不快感がアキラを襲う。

 ――人を殺してしまった。

 後悔とも罪悪感とも違う、何か虚無感が胸の内を過ぎていった。

 刀を持つ手が震える。

 

 間違いなく、やらねばならない事だった。

 異世界からの侵略者、そして神の簒奪を目論んだ者に、それ以上の慈悲は掛けられなかった。誰もがその為に戦っていたし、捕縛するにしても危険すぎて諦める他ないと理解していた。

 だからといって、自分の行いは正義だと喧伝する気はない。

 

 そうするしかなかったのだと、そう自分に言い聞かせるしかなかった。

 沈黙がその場に落ちる。

 それと同時に、七生と凱人も崩れ落ちた。気力だけで立っていたものの、その最期を見届けて気が抜けたのだろう。

 

「だ、大丈夫……!?」

「ああ、まぁ、何とかな……」

「私も、って言いたいけど……ちょっと苦しいかも」

「難敵だった……間違いなく、これまでの鬼とは一線を画していた。理術を使い熟す敵が、これほど厄介だとは……」

 

 それはアキラも感じた事だ。

 漣のように攻勢理術に頼る、いわば砲撃や銃撃のような攻撃方法ならやりようはあった。これまで戦ってきた鬼に、理術を十全に扱う敵はいなかったが、それと似たような脅威は幾らでもあったから、それの応用で戦えていたろう。

 

 だが、今回のエルゲルンは幻術を多用し、そしてその戦い方も熟知していた。

 敵をどう動かすか、自分がそれでどう優位に立つか。不利な場面からどう有利に動かしていくか、その手玉に取るやり方は、老獪な戦士のやり口のようにも思えたものだ。

 

 実際、見た目ほどの年齢ではないのかもしれない。

 ルチアやユミルが、その外見と実年齢が合わないように、この男も百年を超える年齢であっても驚かない。

 だが、何にしても――。

 

「何とか、勝てた……」

「だな……」

 

 アキラが溜め息にも似た感じで息を吐き、そして二人と同じようにその場に崩れ落ちようとして、はたと止まる。

 ――いつだって、勝利を確信した時だとしても、動きを止めるな。敵の死を前にしても、警戒を解くことは有り得ない。

 

 アヴェリンはいつも厳しいし、理不尽な事も言うが、嘘と間違いだけは言わない。出来もしない事を口にしても、それは現段階のアキラが出来ない話であって、決して虐めの類で口にした事は無かった。

 

 その教訓がアキラの崩れ落ちそうな膝を思い留めた。

 まだ戦闘は終わっていない、というつもりで柄を握り締め、もう一度周囲を見渡そうとしたところで、アキラに掛けられる声がある。

 

「なかなか容赦ないよな。可愛い顔して、案外簡単に首を落とすんだもんなぁ」

「――なっ!?」

 

 声のした方を咄嗟に振り向こうとして、腹部が急激な熱を帯びた。そうかと思えば冷たい気もして、そして直後に痛みが走り悪寒も背筋を昇っていく。

 自分の腹を見下ろして見れば、そこには見覚えのあるサーベルが生えていた。

 

 信じられない思いで、エルゲルンの死体を見る。

 そこには血溜まりを残した痕のみがあって、落ちた首も身体も消えていた。

 サーベルが引き抜かれ、アキラは今度こそ膝から力が抜けて崩れ落ちる。青い顔で見上げた先には、呆れた顔をしたエルゲルンが立っていた。

 

「なぁんど同じ目に遭えば気が済むのかねぇ。自分がやられた時の保険くらい掛けとくもんだろ? 特に幻術士は自らの死すら演出するし利用する。目で見えるモン一切信じるな、ってのが一般的なのに、首を落としたくらいで勝った気でいるとはねぇ……」

「けど、確かに……!」

 

 アキラの手にはその時の感触が残っている。

 肉を裂き、骨を切り落とす感触は、今なお手の中に残っている。それさえ嘘だと、幻術だとは思えなかった。

 

「見たものを、見たもの以上に感じるってのが人間だからな。もう勝ち切ったと確信してたろ? 反撃もない、気絶してる、無防備で、痙攣した姿。……どこまで真実だと思った?」

「ぐ、うぅ……!?」

 

 どこまでと言われても、その全てが真実だと思って疑っていなかった。

 今の姿を見る限り、七生やアキラが作った裂傷は確かにある。ならばきっと服の下にも凱人が殴り付けた痕があるのだろうが、幻術を仕掛けられたとするなら、その後としか思えないのに、その機会があったとは思えない。

 

「幻術士ってのは弱いってのが通説だよな? 小手技で足元掬って勝ちを拾う、そう見られがちだが、だからこそ幾つも手札を持ってるし隠してるのさ」

 

 そう言って、自慢気に腕を広げれば、それに重なるように二重にも三重にも後を追って腕が広がる。まるでエルゲルンの後ろに人がいて、一拍遅れて腕を広げたかのように見えた。

 ダンスショーでも良く見られる手法で、正面から見れば一人の人間に何本も腕が生えているかのように錯覚するアレだ。

 

 だが、エルゲルンが見せているのはマジックショーでもなければ、単なる錯覚を利用したものでもない。その背後から、ひょっこりと顔を覗かせたもう一人のエルゲルンが、愉快そうに顔を歪ませ身体も横に出してきた。

 

「俺が幻術士だって分かってて、それで鏡に関係する魔術しか使えないと思った理由って何なんだ? 俺がそんなこと一言でも言ったか? ……ほらな、見るものを見たい様に見るのも、また人間ってやつだよな」

 

 アキラは己の失態を悟って歯噛みした。

 敵の一言一句、反論のしようもなく正論だった。鏡像を利用し、それ以上のものを見せないのだから、それしか手段がないと思っていた。

 だが、伏せ札は伏せているから価値がある。

 

 起死回生の状態で使うというなら、相手に悟らせずに使うのだろうし、それを最期まで教える事もないのだろう。何も分からぬまま、何が起こったか理解せぬまま死んでしまうに違いない。

 だが、だったらエルゲルンは、何故こうも手の内を晒すような真似をするのだろう。

 

 まるでいたぶるように、勝利を確信しての舌舐めずりというには、言っている事とやっている事と違っている気がした。

 アキラが憎々しく思いながらエルゲルンを睨み付けると、嘲笑を浮かべて手を叩く。

 

「そう、それ! それが見たかった! 負けを確信し、死を前にして最期に出来るのは睨み付けるだけだよな! 俺はそれが大好きなのさ。精々後悔しながら死んでくれ」

 

 そう言って、再び手を広げて大笑した。

 七生と凱人も同様に、憤怒を力に変えて立ち上がろうとしていたが、元より気力だけで立っていた身、震えるばかりで身体が言う事を聞いてくれていない。

 

 アキラもどうにか一矢報いられないか、と歯を食いしばった時、エルゲルンはサーベルを振り上げる。先程のアキラの動きをなぞるように、両手でサーベルを握った。

 

「まぁ、結構楽しめたぜ。期待はしてなかっただけに、特にな」

 

 そのまま武器を振り落として来たその瞬間、遠くから炎の矢が飛んで来て、エルゲルンの腕を撃ち抜く。だがその手からサーベルは落ちていかないし、スーツが焦げたくらいで火傷の一つも負っていない。

 

 エルゲルンは意外そうな顔をしていたものの、まるで痛痒を感じさせない表情で、不機嫌そうに目を細めた。

 それと同時に、周りを囲っていた防壁が消え去る。その代わり、消えた壁と入れ替わるように隊士達が立っていた。それぞれが手をかざし、その手には制御が完了したと分かる光が纏っている。

 

「――放て!!」

 

 志都のまだ幼さを感じる号令が下されると同時、炎のみならず、雷や氷など、様々な属性の矢がエルゲルンへと殺到した。

 その直ぐ傍にいるアキラは気が気でなかったが、その狙いは正確で一本も外れる事なく命中していく。轟音が目の前で起こる中、アキラの身体を何かが包む。

 抵抗しようと藻掻いたが、全く意味もなく背後へと連れ去られた。

 

 そして一瞬あとに、それが支援班に寄る念動力で救助されたのだと悟る。

 傷の治療を終えた隊士らが戦線に復帰したのだ。

 エルゲルンは間違いなく油断していた。アキラ達の勝機を覆し、自らが勝利したと、実際その首に刃を当てる寸前だった。

 

 そこへ不意打ちとして放たれた理術の雨は、さぞかし効果的だったろう。

 敵の目前で戦っていたアキラは勿論、七生や凱人、結希乃も救出されて理術の矢を放つ、人垣の間を抜けて後方に送られている。

 

「時間稼ぎ合戦は、僕らの勝ちだ……!」

 

 苦し紛れの発言のように思えたが、それは事実でもあった。

 どのような戦術にも相性がある。そして幻術を使うというなら、そこへ近寄る事なく一方的に理術を撃ち込まれたら何も出来ないだろうし、虚像を生み出すというなら、それごと理術の弾雨で撃ち抜いてしまえばいいのだ。

 

 アキラは傷の治療を受けながら勝ちを確信し、そして直後、大規模な爆発で吹き飛ばされた。

 



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反撃開始 その6

「ぐぁぁあああ!!」

 

 アキラばかりでなく、多くの人の叫びが聞こえる。

 そして、その衝撃を身に受けながら、戦闘の最初を思い出す。数多くいた隊士達を一掃する術、それをエルゲルンは使えるという事を。

 

 一度使ったら、もう二度と使わないという事はあり得ない。警戒して然るべきだったのに、幻術のインパクトが強すぎて失念していた。そもそも敵は、幻術士と名乗っていても、幻術しか使えない訳でもない。

 

 相手は歴戦の、そして高い力量を誇る外向術士なのだ。

 一般隊士に寄る攻撃はダメージにはなっても脅威たり得ず、だから弾雨の中で制御を続け、そして放って来たのだろう。

 

 あの時と全くの二の舞いで、復帰した隊士がまた吹き飛ばされただけ。

 そう思って絶望していると、それに紛れて頭上から近付く影がある。

 ――漣だ、と思った時には、もう理術は発動されていた。

 

「分かってたんだよ、それ使う事ぐらいはなぁぁ!!」

 

 漣は誰かの助けを受けて、頭上に飛び上がっていたらしい。

 結希乃が七生を投げ飛ばしたように、誰かが漣を空へと逃した。そして頭上から接近し、外向術士である漣が敵へと肉薄しようとしている。

 何をするつもりだ、と思うより前に、その術が解き放たれる。

 

 右手を大きく伸ばし、その掌がエルゲルンへと触れた直後、爆光が広がり頭上へと向けられる。その爆発規模は凄まじいのに、アキラ達へは届かず、ひたすら頭上へと昇っていく。

 だがその風圧と光は抑えられるものではなく、アキラは再び投げ飛ばされるように転がっていった。

 

 腹部の治療も十分ではなく、表面だけ塞がっていた傷が再び広がって血が流れた。

 その風圧だけは収まるのが速く、逆に術の発動地点へ、吸い込まれるように流れていく。

 あまりに凄まじい威力だが、同時に仲間を省みない一撃にも思える。何を考えてこんな術を、と痛む腹を抑えつけながら首を上げると、凱人が苦悶の表情で爆発を睨み付けていた。

 

「何なのあれ、漣は一体なにをしたんだ……」

「全くだ、馬鹿な真似を……ッ!」

「え……?」

 

 凱人の悪態は、仲間の攻撃に向けたものにしては黒い響きを持っていた。

 確かに仲間も同時に吹き飛ばしかねない威力だったが、悪し様に言うには検が籠り過ぎている。何だか嫌な予感がして問い質した。

 

「どういう事? 確かに凄い威力だったけど……」

「あれは術を放つというより自爆に近い。高威力だが外しやすく、使い所が限られる。だから確実に当てようと思えば、あれほど近付かなければならない。だが、高威力故に自分も爆発から逃げられない。自爆覚悟でなければ使えない術だ」

「そんな……! それじゃ、漣は……!」

 

 悔恨にも似た表情で凱人が首を振ると、アキラは倒れ伏しているのにも関わらず、足元が崩れ去るような錯覚に陥った。

 身体が重く、平衡感覚が崩れていくような気がした。頭の奥が痺れ、ふらふらと彷徨うように揺れた。

 

 爆光が収まり直上へと流れていたエネルギーも鳴りを収めた頃、上から何かが落ちてくるのが見える。アキラは咄嗟に凱人を呼んだ。

 

「凱人、あれ!!」

 

 アキラが震える指で示す向こうには、身体を弛緩させたまま落ちてくる漣の姿が見える。

 それは風に流されるようにしてこちらに向かって来ていた。受け止めようとして立ち上がろうとし、しかし半身さえ持ち上がらず崩れ落ちる。

 早く立ち上がろうと気ばかりが焦り、しかし気力だけでは身体が付いて行かず、やはり崩れ落ちる破目になった。

 

「大丈夫だ、任せろ!!」

 

 凱人が声を上げて立ち上がる。

 落下方向はほぼ凱人を示していて、僅かに前後左右へ微調整しながら受け止める準備をしていた。そしてとうとう凱人の元まで落ちてくると、その落下速度を上手く逃して受け止め、漣共々投げ飛ばされた。

 

 何度か地面を転がってから止まり、火傷だらけの漣を伺う。

 アキラも必死に這ってそちらに近付くと、凱人が周囲を見渡しながら声を張った。

 

「――生きてる! 誰か、早く来てくれ! 治癒できるなら誰でも良い! 頼む!!」

 

 周囲の隊士は誰もが倒れ伏していて、起き上がる者が居ない。

 必死な呼び掛けも意識を失った仲間には届かなかった。

 

「頼む! 誰かいないか、誰かッ!!」

 

 貼って辿り着いたアキラも、凱人の腕に抱かれた漣を見る。

 顔中火傷だらけで、身に着けていた防具も焼けて爛れてしまっていた。場所によっては溶けた服が肌に張り付いているようだ。血と煤と火傷に塗れた姿を見れば、どうにか助けてやりたいと思う。

 

 呼吸はか細く目は虚ろ、即座の治療がなければ助からないだろう。

 本人は自身の死と引き換えにでもエルゲルンを倒すつもりでいたのかもしれないが、あの凶悪な敵を討ち倒した恩人を、ここで死なせたくはなかった。

 

 アキラも凱人に続いて声を張り上げる。

 誰か助けて、誰でも良い、そう思いながら声を上げた。

 

「誰かいませんか! お願いします、誰かッ!!」

 

 その時、瓦礫を動かすような音が聞こえた。

 荒い息をさせてはいたが、その足取りは確かで頼りがいがありそうに思えた。既に明かりとして用意されていた篝火は消えていて、足音は聞こえても姿は見えない。

 ならばあちらも姿は見えていないだろう。

 アキラは必死で声を上げ、助けに来てくれているだろう誰かを必死で呼ぶ。

 

「ここです! ここにいます! お願いします、早く!!」

「……あぁ、そこか」

 

 聞こえた声に、アキラは身体中が強張るのを感じた。

 あの戦闘の後、そして爆風に曝され、身体中は熱を持って冷やしたい程だった。それなのに、その一声を耳が拾った瞬間、刹那の内に体温が下がったのを自覚した。

 

「そこにいるんだな? どれ、俺が診てやるよ。助かる保障はないけどな」

「お前……、エルゲルン!!」

 

 アキラは立ち上がれないまでも、刀の切先を声の方に向けた。

 その先にはアキラが思ったとおり、エルゲルンが立っている。身体中、火傷はあっても軽傷で、あの爆発規模から思えば全くの無傷と思える程に通用していない。

 

 着ていたスーツはボロボロで、既に衣服としては機能していなかったが、エルゲルンはさして気にした様子はない。

 その表情も苦々しいものを見るように歪んでいたが、傷を慮ったものではなかった。足取りが軽く聞こえたのも当然で、戦闘の続行は問題ないように見えた。

 

「いや、本気で焦ったよ。マジでもうおしまいって思ったさ。実際、見事な不意打ちだったよな? 仲間全員を使った目眩まし。自分も仲間も巻き込む一撃だった。その覚悟がありゃ、あんな威力にもなるわな」

「なんで……」

 

 アキラの声は自然、震えた。

 受けた本人が言うくらいだから、漣の一撃は効果的だったのだろう。その威力にも褒める調子が含まれていた。敵ながらあっ晴れとでも思っているのかもしれない。

 だが、それなら何故こうして無事なのか。

 

 全くの無傷という訳ではない。

 だが、そうとしか思えない程、ダメージを負っていないように見えた。

 

「不思議か? ……不思議なもんかねぇ? 単にそれだけ互いの実力に差があったっていうだけの話だろ。外向術士の勝負は、結局のところ魔力防膜を貫ける威力を持てるかどうかだ。――つまり、こいつと俺の実力差がこの姿って事だよ」

「切り傷は負ってるのに……?」

 

 アキラの指摘には、エルゲルンは実に興味深けに刀を見つめた。

 

「ま、そこだよな。だから勘違いさせたのか? 自分達の攻撃が通じたから、魔術だって通じるだろって? 魔力付与された武器に防膜が弱いなんて当然だろ。ま、それも相性や対策次第だが。俺は基本、自分より強い敵に近接戦闘なんてしねぇし。使う魔術にしても、遠距離から攻撃する方が向いてるだろ? じゃあ、反撃されるにしても、そういう対策に重きを置くわな」

 

 底意地の悪そうな顔をして、舌を出しては小馬鹿にするように嗤う。

 アキラの顔が歪み、凱人は話している間に漣を背後へ庇うように移す。アキラはもう立ち上がって戦える程に余力はないが、凱人ならば一撃打ち込むぐらいの体力は残っているだろう。

 

 先程、漣を受け止めるのにそれを使ってしまったのなら、もうどうしようもないが、しかしここに来て諦めるのは嫌だった。

 敵はあからさまと思える程に、自身の情報を喋っている。そうした末に勝利を引っくり返されて来たというのに、未だに遊んでいるのだ。

 

 それは今度こそ覆される事のない勝利だと確信しているからかもしれないが、だからこそ、その顔に泥を塗ってやりたい、という気持ちが湧いて来る。

 そう思わせるのが奴の狙いで、怒りと憎しみ、そして諦観を表情に見るのが好みだと知っていても、抑える事は難しかった。

 

 凱人が立ち上がろうとして、その膝が震える。不意を打ちたかったろうに、腕を払われるだけの動作で、もんどり打って倒れた。手を付いて立ち上がろうとするも、それも適わない。

 ただ歯を食いしばった立ち上がろうとするその眼には、未だ萎えない闘志が燃え盛っている。

 

「……あっそ、お前は楽しくないな。勝てないと分かって立ち向かう姿ってのは、滑稽だが好みじゃない。さっさと死んどけ」

 

 振るったサーベルには、咄嗟に身を捩って浅い裂傷で済む。しかし無理な体勢からの回避は身体にも負担だったらしく、そのまま横へと倒れてしまう。

 エルゲルンが再び武器を振るおうとして、アキラは這ってその足へ縋るように引っ張る。

 

「やめろ!!」

「あぁ、いやいや、止めたくないね。……おっと、そうだった。時間稼ぎ合戦は俺の勝ちかな? ……まぁ、最初から何の意味もない時間稼ぎだったが」

 

 エルゲルンがぞんざいに足を動かし、それでアキラは吹き飛ばされた。

 待て、と更に追い縋ろうと手を伸ばし、しかし届かず歯噛みする。喉奥から恨みと怒りの唸り声が上がりそうになった時、唐突にエルゲルンの姿が掻き消える。

 

 遅れて鈍い衝撃音が聞こえて、それで誰かが殴り付けたのだと察した。

 ここに来て一体誰が、と重たい頭を持ち上げると、そこには見慣れた――非常に見慣れた姿が目に入った。

 

「――あぁ、つまり、コイツらの勝ちだ。時間稼ぎに意味はあったな」

「ミレイユ様……!」

 

 アキラの視界が涙で歪む。

 震える身体は安堵の溜め息で、更に震えた。

 何故これまで来てくれなかった、などと泣き言を言うつもりはない。そもそも彼女は守られるべき存在だ。誰より強くとも、だから隊士より前に出て戦えなどと言える筈もない。

 

 ミレイユが軽い調子で手を挙げると、その背後にいたルチアがすぐさま治癒術を行使する。それもたったの一瞬と思える程の速度で、まずはアキラ、その近くにいた凱人や漣、それを中心に広がっては癒えて行く。

 

 ミレイユの隣に立っていたアヴェリンが前に出て、そして、そこから少し離れてユミルも続く。その後姿を見ながら、これほど頼りに思える背中もない、とアキラは思わず笑ってしまった。

 

 ルチアは更に魔法陣を用意して、そちらに重症者を移していく。傷は表面上を治しただけで、一命を取り留めたに過ぎない。更なる治癒が必要なら、魔法陣に赴かなければならなかった。

 

 ミレイユが顎をしゃくるようにして動かしてから、アキラに言う。

 

「お前も必要そうなら、あちらに行け。後はこちらで受け持つ」

「はい……、不甲斐ない僕らをお許し下さい」

「いいや、良くやった」

 

 アキラはその一言だけで、全てが報われたような気がした。

 身体の力が抜けて、汚れた顔に笑みが溢れる。

 ――もう大丈夫だ。

 

 今日何度か感じた勝利の確信は、思い違いが多かった。だがこれだけは間違いないと、これこそ確信して思える。

 アキラはへたり込みそうになる身体を叱咤しながら、せめてその戦いだけは見届けようと背筋を伸ばして師の背中を見つめた。

 



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反撃開始 その7

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 アキラは離れていくアヴェリンの背中を見ながら、その恰好へ目を移していた。

 

 アヴェリン達は全員が完全装備だ。ここ最近よく見る私服姿でも、神宮で過ごすに当たり、身に着けていた貫頭衣姿でも、そして訓練着でもない。

 初めて公園で目にした時のように革鎧の所々金属プレートを張った、身動きを阻害しない防具に、螺旋を模した抉れた形の黒光りするメイス、そして同じ材質と思える盾を持っている。

 

 そして制御を学び、学園でも付与された武具を見てきた事からこそ分かる、非常に高度な付与装備に目を剥く。学園内にあったものが備品であり、訓練用であり、そして学園生の手に寄って作られたものである事を差し引いても、その性能は群を抜いていた。

 

 ここまで距離が離れていても、その武具に含有されている魔力が桁外れに多いと分かる。それはつまり、それだけ高威力を持った武具だという証明でもあった。

 付与されたものは単純に切れ味を保持するもの、あるいは上昇させるもの、火を吹き出すなど、その効果は様々だから一概には言えない。

 

 しかし、それだけの魔力を持つ武具が、単なる見掛け倒しであるとも思えなかった。

 その一撃が山をも砕くと言われても信じてしまいそうな魔力だった。

 

 それはアヴェリンだけが身に着けている訳ではなく、ルチアもユミルも同様だ。全身を目も眩むような魔力が滲み出ている。

 しかし、エルゲルンは余裕の笑みを崩さない。その程度は全く脅威と思っていないような表情と口ぶりだった。 

 

「……あぁ、お前だな。ひと目見て、直ぐに分かった」

 

 エルゲルンは歩を進めるアヴェリンを無視して、ミレイユへと視線を固定したまま言った。右手にメイスと盾を持った姿は、誰が見ても内向術士だと分かる。

 自分の敵ではないと思っての余裕なのだろう、とアキラは思った。実際、アヴェリン程の実力者であっても、力押しでは勝てないのが幻術士というものだろう。

 

 アキラはそれを身を以て痛感している。それをどのように攻略するのか気に掛かると同時に、翻弄される姿など見たくない、という師を思い遣る気持ちもある。

 落ち着かない気分で見守っている間にも、エルゲルンは演説するかのように声を張り上げ腕を広げた。

 

「お初にお目に掛かるな、シンジンよ。俺がここにいるっていうのは、つまり()()()だ。連れ戻すという以外に――」

 

 何かを言い掛けていたエルゲルンを、それより前にミレイユから放たれた雷が頬を打った。己の頬に手を当てて、信じ難いものを見るような視線を向けた。

 直接的なダメージは殆どないように見えるが、そちらの事より話もさせずに遮った事にこそ衝撃を受けたように見える。

 

「あぁ、いい演説だったな。――かかれ」

 

 ミレイユが首を傾げるように動かすのと同時、アヴェリンが弾かれたように飛び出した。

 離れた位置にいるアキラにさえ、その速度を目視するのは難しい。その余りに桁外れの速度には、エルゲルンも脅威に映ったようだ。顔を引き攣らせて身を捩ったのが、辛うじて見えた。

 

 しかし、アヴェリンの一撃は呆気なくエルゲルンの肩を捉え、そして砕く。

 悲鳴を上げて仰け反るかに見えたが、まるで幻のように消えてしまった。

 ――まるで、ではない。またも幻でしかなかったのだ。

 

「ミレイユ様、あいつは……!」

「ああ、あれで分かった。大丈夫だ、慣れたものだしな」

 

 ミレイユもアヴェリン達と同様、完全装備でいつかの魔女か戦士か分からない、敢えていうなら両方を盛り込んだような姿をしていた。

 下から見る表情にも余裕がある。胸の下で腕を組んだ様子はいつもどおりで、構える様子も備えるような様子もない。口にした事も嘘ではないだろう。

 

 そもそもアキラが心配する事自体、烏滸がましい事なのだ。強張った身体から力を抜いて、アキラは師の戦いに目を戻した。

 

 アヴェリンは即座に身体を横向きにすると、その背後からサーベルを突き出そうとしていたエルゲルンを盾で殴り飛ばした。しかしそれすらも偽物で、今度は消えるでもなく砕けて落ちる。

 鏡像だったと知り、正面へ向き直ると同時に駆け出した。

 

 姿は見えなくとも、アヴェリンにはその姿がハッキリと捉えられているようだった。一直線に向かってその武器を振り下ろせば、衝撃音と共にサーベルで攻撃を受けたエルゲルンが姿を現した。

 その表情に余裕はなく、先程までの飄々とした態度、そしてアキラ達と相対していた態度からは想像もできない程の、焦りが見える。

 それこそれが、アキラ達とアヴェリンの力の差でもあった。

 

 アヴェリンがメイスに力を込めると、じりじりとサーベルが下がっていく。力の拮抗が完全に崩れるより前に、アヴェリンの膝蹴りがエルゲルンの腹に突き刺さった。

 

「ゴホォ……ッ!」

 

 エルゲルンの手からサーベルが落ちる。腹を両手で抑えて二歩後ろに下がると、素早い制御で魔術を放つ。その直後にはアヴェリンを取り囲む、アヴェリンの鏡像が現れていた。

 阿由葉姉妹にもやった手法だ。

 砕いたとしても、また次々と追加され、自分の動きを模倣した斬撃に傷を負わされていった。あの時は二人で背後を庇い合う形だったから保っていたが、アヴェリン一人では背後までカバーし切れまい。

 

 これは流石に拙い、とそれを見守るように立っているユミル達を見たが、彼女らが動き出す気配はない。それが信頼からくるものだと分かっていても、ユミルの表情からまるで見捨てたようにも映ってしまう。

 ミレイユへ何か進言した方が良いのか、と迷っている間に、アヴェリンはその場で大きく足を持ち上げ地面へ落とす。

 

「――ハッ!!」

 

 気合と共に打ち下ろされた蹴撃は、それだけでアキラを少し浮かび上がらせるような衝撃が走った。アヴェリンを取り囲んでいた鏡像は、その一撃で尽く砕け散り、次に生成されるよりも前に走り出す。

 

 逃げ出し、距離を取ろうとしていたエルゲルンだったが、たった一歩で肉薄されてメイスが振り下ろされる。頭を狙った一撃は転がるように逃げた所為で外れたが、未だそこはアヴェリンの間合いだった。

 その間合いの中にあって、逃げ出す事も、また一撃浴びせる事も困難なのは、アキラが一番良く知っている。どうするつもりだと窺っていると、初めから近接戦闘では勝てないと理解しているのか、武器を持ち出さず制御を始めた。

 

 だが、それをみすみす見逃すアヴェリンでもない。

 嵐のような連撃でその両肩、腹、顔を打ち据える。だが敵もさる者で、エルゲルンは制御をやめなかった。顔面も肉を削がれて血がダラダラと流れていたが、それでも魔術は完成し、行使される。

 

 すると、まるで世界が鏡合わせのように歪み始めた。

 エルゲルンを中心として世界が狭まり、かといえば広がり、遠近感も無くなっていく。まるで万華鏡の中に放り込まれたかのような錯覚を覚えた。

 

「み、ミレイユ様……!?」

「いいから、黙って見ていろ」

 

 アキラの焦った声にもミレイユは動揺を見せない。相変わらず腕を組んだまま、しかし視線をアヴェリンからユミルに移す。

 その視線を受け取ったからではないだろうが、ユミルは楽しそうに頬を緩めて歩き出した。そうして彼女が動く度、左右上下に世界の姿が変えていく。

 

 ユミルの下にも横にもその姿が歪に現れ、そしてエルゲルンは鏡の後ろに隠れるようにして姿を消してしまった。

 ユミルの口角が皮肉げに歪められる。その笑みはまるで獲物を見つけた捕食者のようだった。

 

「へぇ……? アタシ相手に幻術勝負しようって? いい度胸じゃないの」

「引っ込んでいろ。これは私が任された」

「いやいや、アンタだけとは誰も言ってないじゃない。アタシ達三人に行けって言ったんでしょ?」

「だったとしても、手に負えない状況でもない。一人でやれる」

「そこを疑いたい訳じゃないんだけど、でも幻術ってアンタと相性良い相手とは言えないでしょ。スマートに終わらせようって話をしてるのよ」

「それならルチアに手伝わせよう。それでも問題ない筈だ」

 

 アヴェリンが視線を向ければ、ルチアはどちらでも、とでも言うように肩を竦めた。その表情には呆れたものが存分に表れていて、アキラも似たように感じていた。

 ここに来て、あの様な強敵を前にして言い争う場面でもない。トロール相手に口喧嘩していた状況とは違うのだ。真面目にやってくれ、という気持ちが湧き上がる。

 

 ミレイユを恐る恐る見上げてみたが、余裕の表情はやはり崩れていない。いつもどおりの光景だからと気にしていないようでもあるが、時と場合という言葉は彼女に関係ないのだろうか。

 ユミルはアヴェリンへ、諭すように人差し指を持ち上げた。

 

「……いいコト? あれだけの魔力総量を持った敵が現れたというなら、戦闘はこれだけじゃ終わらない。アタシの予想じゃ、まだ続くわ。だから出来るだけ消耗なく、スマートに勝ち続ける必要があるワケ」

「ムゥ……」

「適材適所を考えなさいな。これの相手はアタシがする……と言うと煩そうだから、引き摺り出すのを請け負うわ。だから、頭を砕くのはアンタに譲る。好きでしょ、砕くの」

「何たる言い草だ。引き摺り出すのは良いだろう、やれ。だが貴重な情報源だ、殺しはしない」

「……そうね、それでいいわ」

 

 二人の間でようやく協定が結ばれたらしい。

 アヴェリンは軽い調子で武器と盾を構え、そしてユミルは制御を始める。そして、何処から聞こえてくるかも定かではない声が、二人を小馬鹿にして嘲笑った。

 

「良くもまぁ、敵を前にしてそこまで馬鹿話が出来るものだ。お陰で追加の制御を加える十分な時間を得られた。だからまぁ、文句を言うものでもないがな。――そこの金髪、良いように殴ってくれた礼は、百倍にして返してやるぞ」

「……もう勝ったつもりでいるのか、間抜けが」

 

 アヴェリンが鼻を鳴らすと、ユミルも同じように小馬鹿にした笑いを上げた。

 

「アンタも良くご存知でしょうよ。幻術は格上には通用しない。所詮は格下狙いの、弱者をいたぶる手段に過ぎないって」

「何事も使いようだ。明確な格上だって、相手次第じゃ幾らでも転がしようはある」

「……まぁ、ね。それはあるかもね」

 

 ユミルが意味深な笑みを浮かべてアヴェリンを見、そして正面――エルゲルンがいるであろう場所へ視線を戻した。

 

「だから教えてあげる。幻術を使う者同士の戦いってのは、明確な差があると勝負にもならないってコトをね」

 



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反撃開始 その8

 ユミルが両手の五指を胸の前で合わせるように持ち上げると、淡い紫の光が両手から漏れた。制御の開始と同時にエルゲルンの攻撃も始まる。

 あれだけの啖呵を切った相手とはいえ、馬鹿正直に付き合うつもりはないらしい。今やこの空間はエルゲルンの支配下と言って良い。

 

 全てが不規則に動く万華鏡の世界は、あらゆるモノが武器となる。それはアヴェリンやユミルと言った姿を象る鏡像だけでなく、空も地面も樹木までも対象としていた。

 不規則な動きと不規則な形で作られる樹木は、無限に形を増やして二人を挟み込むように襲い掛かる。

 

 アヴェリンがそれを振り払おうとする動きすら敵の攻撃として作用し、雪崩のように襲い掛かる。そして、それを防ごうとする動きも阻害するように、盾が何重にも増えて打ち付ける。

 

 それを見て、アキラは敵が本気ではないと言った意味を、ここに来て本当の意味で理解した。今となっては指先一つ動かす事が怖い。

 何か一つ動きを見せれば、それが敵意あるものと認識されるか否かに関わらず襲いかかってきそうだった。ミレイユは相変わらず動きを見せないが、それが果たして動かないのか、それとも動けないのか、それすら定かではない。

 

 エルゲルンの扱う幻術は、それ程までに恐ろしく感じた。

 ユミルの制御もまた、その無限に増え続ける鏡像に阻まれようとしていた。本を開くかのように地面が隆起し、そして飲み込もうと畳んでは閉じていく。

 結局ユミルは何も出来ないまま地面へ飲み込まれ、そしてその後にも鏡写しで作られた地面が、動きをなぞるように積み重なっていった。

 

「何だ何だ、ご立派なのは口だけか。知らなかったようだが、この術の前には何人(なんぴと)たりとも自由にはならない。全てはこちらの意のままさ」

 

 言ってる合間にも万華鏡の世界は目まぐるしく変わっていく。

 アヴェリンも上手く防ごうとしているが、その尽くが裏目に出るような、阻害と攻撃を同時に受けて何も出来ないでいる。まるで蜘蛛の巣に引っ掛かって藻掻こうとして、更に絡め取られているかのようだ。

 

 ルチアもミレイユ同様、何の動きも見せていないので、攻撃らしい攻撃は受けていない。だが、それもユミルがやられ、アヴェリンも落ちた後なら、次の標的となるだろう。

 それが分かっていて尚、動き出す気配はない。ただ杖の両手で握り、胸の前で抱くように構えているだけだ。

 

「……ま、見せ場を与えられなくて悪かったな。お前らはさ、馬鹿みたいに話してる間に、最初で最後のチャンスを逃したんだ」

 

 それは事実だと思うので、アキラは歯噛みする気持ちでアヴェリンを見る。

 明らかに戦闘は優位に進んでいたのに、いつもの悪い癖が全てを台無しにした。その実力差から勝ちを確信しての事だったかもしれないが、幻術士が油断ならない事は、ミレイユの発言からも理解していた筈なのだ。

 

 それが一手で覆されて、情けないやら悔しいやらと、胸の内に不快などろどろとした感情が沸き立つ。そしてアヴェリンもまた、鏡合わせに飲み込まれようとした瞬間、その一切が停止した。

 

「……なんだ?」

 

 それはエルゲルンから出た言葉だが、同時にその場にいた誰もが同じ感想を抱いただろう。

 アキラもその突然の停止に困惑を隠せない。アヴェリンへの攻撃だけでなく、それまで忙しなく風景を変えていた万華鏡も、その動きを止めている。

 

 すると今度は、ユミルが飲み込まれた部分が逆再生するように動いていく。何重にも積み重なった地面が、ページを捲るように開いていき、そして次第にユミルが姿を現した。

 

 腕を一振りすれば、自分の周囲のみならず、世界そのものが逆再生を始める。アヴェリンを囲むように襲っていたものも振り払われ、そして元の変哲もない風景が帰ってきた。

 ユミルが頭の横でくるくると腕を回しながら、ニタニタと嫌らしい笑みを浮かべる。

 

「見せ場を用意して貰って申し訳ないわね。……けれど、これで分かったでしょ? 幻術は同じ内容で上書きされたら、もう何も出来ないのよ。つまり、上書き出来るだけの力量差があれば、ってコトだけど」

「何を、そんな馬鹿な! この術は、そんな生易しいモンじゃ……ッ!!」

 

 エルゲルンが腕を振るい、そして何も起こらない事に顔を歪ませて、そして新たな術を制御し始める。両手に制御の完了を示す光が灯ると同時に広げるが、どの様な反応も起こらなかった。

 ユミルがつまらなそうに手を振れば、その身体が正四角形の細切れになり、かと思えばルービックキューブのように向きを変え、次々と形を変えては不揃いの人形のようにしてしまう。

 

 そうなれば、最早エルゲルンも身動きが取れないようだった。

 正確には、動こうとしてはいるものの、その動きが正常に伝わっていない感じがする。手を動かそうとして足が動いているような、意志とは別に、複雑に捻じ曲げられて伝えられているように思える。

 

「ば、馬鹿な……! 俺が本気を出せば、こんなもの……!!」

「だったら最初から本気出してなさいな、お馬鹿さん。アタシだって、遊ぶのなら相手を選ぶわよ。……お分かり? だからアンタは最初から、本気を出すに値しないって言いたかったんだけど」

「ぐ、ぎ、ぐぎ……!」

 

 エルゲルンは怒りと憎しみで顔を真赤に染め、憎悪の込められた視線でユミルを睨み付けた。

 そこに軽い足取りで近付くと、頬を指先で突付いて嗤う。

 

「悔しい? 恨むのなら、自分の無力を嘆きなさいな。敗者の生殺与奪の権利は、こちらが握っていると理解しておいた方が身の為よ?」

「ふざけやがって……ッ! 殺してやる! 腸引き裂き、無惨な死体を晒してやるぞ!!」

「んー、そうなのね。そんな強気な言葉、この状態で吐かれてもね。……まぁ負け犬の遠吠えってのは、大体いつもこんな感じだけど」

 

 ユミルが指を動かせば、それに応じて幾つにも分割された身体のパーツが、くるくると回転して更に可笑しな恰好を作っていく。頭もそれに応じて後ろを向いて、その顔も見えなくなった。

 その時になって、ようやくユミルがミレイユの方へ顔を向けた。

 

 ミレイユはそれで腕組を解いて歩き出す。

 アキラもそれに付いていこうとして腰を上げたが、すぐに膝が笑って動けなくなってしまった。素直に治癒陣の方へ向かった方が良さそうだ、と逆方向に歩き出す。

 敵については、自分たちの出る幕はない。全て任せた方が問題はないと思うから、素直にそうした。

 

 その戦闘を見ていた隊士達は、自分たちとは異次元の戦いに呆然としていた。

 神が動くような事態となれば、敵の能力もそれ相応。端から自分達の敵う相手ではなかったのだ。

 

 失望はある。

 だがそれは、自分あるいは自分達に向けられたものであって、神に対してではない。不甲斐ない自分が許せない、神を動かして申し訳ない、それが大多数に占められた素直な感情だった。

 

 アキラは陣の中に足を踏み入れながら、今も治療中である筈の漣を探した。きっと凱人も近くにいるだろうと思って顔を動かすと……大きな体はよく目立つ、すぐに見つけて傍に寄った。

 凱人の影に隠れて見えなかったが、そこには七生もいる。同じく治癒中の姉に付き添っているようだった。

 

「……皆、無事で良かった」

「あぁ、命はないものと覚悟して戦っていた。実際、命を拾えたのは運のようなものだ。アイツが遊んでいた所為でもあるがな」

「だね……」

「そして、そんな相手でさえ、御子神様の神使は遊びの余裕があって勝ててしまうんだな……」

 

 凱人は複雑そうな表情で、ユミル達を見ていた。

 エルゲルンが使った大魔術を見れば、今まで自分たちがどれほど遊ばれていたのか分かろうというものだ。もしも初手で使われていれば、まさに成す術もなくやられていただろう。

 

 今この場に五体満足でいられるのは、実際には運の要素が強い。

 彼我の実力差を感じ取った時点で、遊ぶことは決定済みだったろう。そして実際、それを許すだけの差があった。

 

 この数ヶ月、死物狂いで訓練を重ねてきた。

 実際にそれに見合うだけの飛躍的な実力向上も見受けられた。しかし、今回新たに現れた鬼には、遊ばれる程度の実力しか身に付かなかった。

 

 そして、これが今後の当たり前となるのだとしたら、あの孔の向こうからやって来る鬼は――強い鬼とはどれ程の数がいるものなのか。

 それを考えずにはいられなかった。エルゲルンが普遍的で平均的だとは思えない。間違いなく強者の一角なのだろうが、ならば他には一体どれほどの数がいるのだろう。

 

 そしてそれは、これからも孔を越えてやって来るのだろうか。

 その時アキラ達は、それらに相対できるだけの許可を得られるのだろうか。

 かつてアキラがトロール相手に戦力外通告を受けた時のように、お前たちでは無力だからと遠ざけられるのだとしたら、それはあまりに悔しい事だ。

 

 退魔鎮守という理念。鬼からこの国を護る、という事。

 オミカゲ様の護るこの国と、そしてオミカゲ様自身を護る。

 オミカゲ様に代わる矛と盾として、この身を犠牲にしてでも戦うと誓った。その誓約に偽りはない。だが、厳然たる事実がその前に立ち塞がる。

 ――全くの無力で、果たしてその任を果たせるのか。

 

 羨望の眼差しを向けるように、アキラはアヴェリン達を見つめる。

 その表情から感情を読まれたのだろうか、凱人が同じ先を見つめながら言ってきた。

 

「……折れたか?」

「え?」

「決して敵わぬと分かってしまった。敵は強大で、我らは弱小だ。届いたつもりが、薄皮一枚斬り付けるだけのものでしかなかった。……だから、もう戦えないか?」

 

 凱人の言葉は気遣うような調子だったが、アキラは断固として否定した。

 

「そんな筈ない。僕らはオミカゲ様の矛だった。それは間違いない。でも、勝てない傷つけられないというのなら、盾ぐらいにはなれる。弾除けの数は、多くて困る事はない筈だ」

「ハッ……、そうだよな。神のお出ましを許す事態だ、人の出る幕じゃないのかもしれん。だが盾にはなれるよな」

 

 そう言って凱人は笑い、アキラの肩を叩いた。

 友情を示す気軽な調子で叩いているつもりなのだろうが、凱人の力でやられると普通に痛い。

 

「……いや、正直なところ、俺の方が折れそうだった。鬼を退けられない御由緒家に何の意味があると。だが、そうだな。それが容易く貫通する盾であろうと、三枚重ねれば捨てたモンじゃないかもしれん」

「そうさ、弱小だっていうなら、弱小なりの戦い方がある。それを鬼に教えてやろう」

 

 アキラがヤケクソ気味に笑みを向ければ、凱人も大いに笑って頷いた。

 視線の向こう、ミレイユ達はエルゲルンへ尋問めいたものを始めようとしている。

 

 今日を堺に鬼の強さは格段に上がった。最早、御由緒家でさえ通用しない世界、何れ来ると予想していた世界が遂にやって来たのだ。

 行先を指し示して欲しいと思う。どうすれば良い、と縋りたかった。

 

 だが唯一変わらない事は、神を護るという使命だ。

 その為に戦えというなら戦える。それだけは間違いない決意だった。

 



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退魔鎮守 その1

 ミレイユは歪な形に変じたエルゲルンの前に立ち、どうしたものかと考えていた。

 前に立ったとはいえ、その顔は後ろを向いており、目を合わせられる訳ではない。それでも傍にミレイユが立ったと分かって、緊張した雰囲気を纏う。

 

「お前に聞きたい事は幾らでもあるが……」

「そうだろうな。だが話さねぇよ。言えることも限られるし、知らされてねぇ事の方も多い。俺は伝令役……メッセンジャーだ。言うべきこと以外、何一つ大事なことを知る立場にないのさ」

「なるほど? では侵入したのも、あくまで伝言の為だけだったと?」

「だから余計な破壊も殺人も、何一つしてねぇだろ? まぁ、襲われたからには反撃したが、その時の怪我はまた別の話だよな」

 

 その言葉には一定の信憑性があった。陽動のつもりで、どこか離れた場所で破壊工作をしてから神宮に向かった方が、邪魔になる人数は減らせた事だろう。

 こちらの戦力を侮っていたのだとしても、事をスムーズに進めたいなら、損にならない手は打つべきなのだから。

 

 今回のケースで言えば、離れた場所で爆発一つと多くの死傷者を出しておけば、御由緒家の到着を遅らせる事が出来ただろう。エルゲルンの目的が何であれ、そうすればミレイユ達の到着も間に合わなかった。

 

 神宮への侵入を謀ったというなら、オミカゲ様が目的だろうと推察できるが、しかし分からぬ事もある。この世界に根ざして神へ昇華したミレイユ――オミカゲ様には既に用はない筈だ。

 むしろまだ神化していないミレイユこそが狙いだと、オミカゲ様も予想していたが、まさか何か思い違いをしていたのだろうか。

 

「そうだな、侵入しておいて何て言い草だとは思うが。……いいだろう、そこは置いておいてやる。お前の狙いはオミカゲ様なのか?」

「そのオミカゲ様ってのは分からねぇな。人の名前らしいが……それはどうでも良い、俺の狙いはシンジンだ。つまり、お前だよ」

「なんだ、やはりそうなのか。それは予想されていた事だが……つまりお前は、人違いでオミカゲ様を狙ったのか」

「こんだけ濃密なマナがある場所だ、ここを根城にしてるんだろうと思って探りに来たのさ。別に確信があって来た訳じゃねぇ。見つけ出すまでが俺の役目だ」

 

 なるほど、とミレイユは一つ頷く。

 つまりマナの収集と集積を担うこの場所は、エルゲルンからすれば捨て置けぬ場所で、単に立ち寄って見たというだけの話だったらしい。

 

 この世にいるのを確信しているからこそ、マナのある場所にいるだろうと予想を立て、そして目についた一番強いマナを目指して接近した。そういう事か。

 

「……つまり、虱潰しに探すつもりで、まず最初に来たのがここだったと」

「そうだ。隠れようと思えば何処にでも隠れられるんだろうしな。だが、高密度のマナのある場所に住むと考えるのは妥当だろ? だから来た、そして出会えた。狙い通りってこったな」

「分からん話じゃないが……。この状態も狙いどおりか?」

 

 エルゲルンは肩を竦めて首を振ろうとしたようだが、歪められた身体はそれを表現できず、ただ首を横に振るだけになってしまった。その頭も後ろを向いているので、全くサマにならない。

 

「伝令役という言うには、随分派手に暴れたな。それで役目が果たせると思ったのか?」

「いや、なんつーか言葉が通じねぇよ、アイツら。いや、言葉は通じるけど通じてない……これ、意味分かるか?」

「侵入した場所が場所だしな。何を言おうと捕縛へ走るだろう。ちなみに、何て言った?」

「……ここにいる神っぽい奴に話がある、って感じだったか。チャンスがありそうなら連れ去るって事も言ったか」

 

 ミレイユの目が鋭く細まり、顔を背けた。

 どちらの言葉も聞き捨てならないが、その神っぽい奴の表現には、最大限分かり易い言い方に直した配慮が見える。だが、それでは何も知らない者からすれば、オミカゲ様の事だと誤解させるし、侵入者が言う台詞なら尚の事問答無用という反応になるだろう。

 

 そして連れ去るという言葉。

 ミレイユとしても、それは理解していたし覚悟もしていた内容だが、実際に相手の思惑として聞かされると不快感が込み上げてくる。

 

 思わず手が出そうになって、ミレイユはそれをグッと堪えた。この男を殴ってウサを晴らしたところで意味はないだろう。結局のところ、ミレイユ奪還を考えている神があちらにいる限り、その意思を翻させるには、この場――この世界にいる限り不可能だ。

 

 千年の間、その意志が変わらなかった事と同様、鬼を防ぎ続けているだけでは、その意志を折る事は出来ない。

 ――分かっていた事だ、そんな事は。

 ミレイユは吐き捨てる思いで改めてエルゲルンへと向き直ると、何かを言うより前にユミルが問い質した。

 

「アンタは伝令役だって言ったわよね。……()の伝令役なの?」

「どういう意味だ? この件に携わっているのは一柱だけだぜ?」

「そんなワケないでしょ。十二の内、最低でもその半数が関わらないと、こんな大規模なコト出来ないワケ。たった一柱がチチンプイプイと指振るぐらいで可能になってたまるもんですか」

「チチン……?」

 

 本気で困惑した声を出したエルゲルンに、一瞬虚を突かれた様な顔して、それからユミルは顔の横で手を振った。

 

「あぁ、気にしないで。……アタシもだいぶ現世に染まって来てたみたい。ま、とにかく一柱で行えるモンじゃないって、もうバレてんのよ。……こうなったからには隠す必要もないでしょ? 誰が()なのか、それを知っておきたいのよね」

「うぅむ……」

 

 エルゲルンは言葉を濁して黙りこくった。

 世界の創造と維持を司るとされる十二の大神は、その全てが維持に関心を示しているものではないという。何かしら関わっているのは間違いないとはいえ、ただ在るだけで維持の要となっている神もあれば、大きく動きを見せる神もいると聞いた覚えがある。

 

 それまで黙って聞いていたルチアは、興味を抑え切れぬ様子でユミルに問うた。

 

「私は神の全てが狙っているものだと思ってましたし、だから全てが敵だと思ってましたけど、そういう訳じゃないんですか?」

「違うでしょうね。神の権能も様々で、そして神の性格も様々なのよ。常に眠っている神もいるし、そういう神は自身の権能も自動的なら、己の生にも世界の生にも興味がない。ただ在るだけで有り難い神だから、それは敵になり得ない」

「つまり、海のようなものですか? 水害は脅威だけど、別に悪意あって起こるものではないと」

「そっちは明確な悪意があって起こるものよ。むしろ『西神のくしゃみ風』と呼ばれるアレが、悪意なしの方ね。あの突風は時として家屋を吹き飛ばす程強力だけど、大気の循環のしわ寄せで起きるようなものだから。じゃあ循環しないでいいかと言われたら、それは困るワケよね」

 

 停滞する空気は淀む。淀んだ空気は腐り、そして様々な場所で被害を出すだろう。それを未然に防ぐための不可抗力というのなら、確かに受け入れざるを得ないのかもしれない。

 ルチアが尚も興味深そうに質問を重ねようとしたところで、ミレイユが手を挙げて止める。

 確かに重ねて聞いてみたい内容だが、それより先に確認しなければならない事があった。

 

「だからね、結構気になるところなのよ。どれが加担して、誰が首謀したものか。意外と予想外な名前が出てきたりして……、どうなのよ?」

 

 ユミルが顔の横で振っていた手を、くるりと回転させるように動かすと、後ろを向いていたエルゲルンの顔も元に戻る。そこには苦々しく思っている事を窺える表情が浮かんでいた。

 更に催促してみても、口を閉じて何も話さない。

 

 そこへ無防備になっている――元より一切の抵抗ができない――腹に、アヴェリンがメイスを叩きつけた。

 

「ボゴホッォ……!!」

「お前に黙るという選択肢はない。話せないならそう言え、だが沈黙は許さん」

「だっ、たら……! それっ! 殴る前に言ってくれ! 拷問されたって知らねぇ事は言えねぇんだから!」

 

 そうだろうな、と同意を示すようにミレイユが頷いて、それでアヴェリンは一歩下がって答えを待つ。顎をシャクって続きを促した。

 

「だが、お前に指示した奴の名前は言えるだろう」

「言えねぇ――いや、そうじゃない! 知らねぇんだよ、誰からの指示かなんて!」

「伝令役が、誰からの伝言かも知らないで使いっ走りになったの? 神の指示なら、そりゃ喜んで使いっ走りもするでしょうけど、それなら尚更どの神の指示か明確になるモンでしょ」

 

 ユミルが口を挟めば、エルゲルンは頷く。

 

「確かにな、俺はラウアイクス様から命令を受けて来た。だが別の神の発案であるとは仰られていたからな、それがどの神なのかまでは知らねぇんだ」

「なるほどねぇ。でもとりあえず、ラウアイクスの加担は間違いないと……」

「水源と流動の神、ラウアイクスか……。いきなり大物の名前が出てきたな」

 

 大神の一柱に数えられる神だから、どの神の名前が出ても大物には違いない。

 だがラウアイクスの権能は世界の根幹、その中心に根ざすものだ。他とは一線を画すと言って良い権能で、だからその名が出てくるのは予想出来るのと同時に、出てきて欲しくない名前でもあった。

 

 やさぐれたい気分で溜め息を吐くと、エルゲルンへ促すように手を差し出す。

 

「……正直、相当面倒臭いが……まぁ、いいさ。お前は伝令役なんだろ? そのメッセージとやらを聞こうか」

「俺がメッセージだ」

「ああ、自己紹介は良いから、さっさと言え」

「そうじゃない。俺がこの場にいる事そのものがメッセージ、って意味だよ。……本当に分からないか?」

 

 察しの悪さを毒づくように、エルゲルンは顔を顰めて言った。

 それでようやく一つ思い当たるものがある。

 

 エルゲルンの魔力総量から言って、彼が通過できる程の孔というのは、生半な大きさではない。上級魔術士が通過できるというだけでも頭の痛い問題だが、それより問題なのは、エルゲルンの通過によって、さらに広がっただろう孔の方だ。

 

 そしてそれは、これまで何としても防ぎたいと思っていた事態が、遂に起こってしまったという意味でもある。

 

「……まさか」

「そのまさかさ。もう止まらない。今日一夜で最大限まで拡大される。そうなれば、もう止められない」

 

 エルゲルンの言葉に、まるで呼応するかのようだった。

 それまで何事もなかった空を、覆い尽くすかのように数々の孔が空く。大きさは様々だが、最も大きい物で民家を丸ごと飲み込める程にもなっている。それは今まで見てきたものでも類を見ず、絶望的な状況をまざまざと示していた。

 



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退魔鎮守 その2

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 暗澹たる気持ちのまま、ミレイユは睨み付けるようにして空を見ていた。

 見ている間にも孔は増え続け、今では空の中に孔がない部分を探す方が難しい程になっている。その中にあって唯一救いがあるのは、巨大な孔の数はまだ多くないという事だ。

 

 今迄の基準から言って小規模、ないし中規模な孔が主体で、それ以上だと確信できる程の巨大な物は三つ程しかない。

 そして孔の出現と同時に、結界が更に何重にも張られていく。

 機敏に感じ取った神宮内の結界術士達が張ったのだろう。

 この場が決戦の戦場になるのは疑いようがなく、孔一つ増える度に結界も増えていくような有様だった。

 

 その判断は正しい。

 ここに来て鬼を外に出さない事、そしてそれが神宮から溢れさせるなど、あってはならない事だ。だがこれで、ルチアのやって来た事が無意味になった。

 

 ルチアは今日(こんにち)まで結界の強化に腐心してきた。

 それは完成を間近に見ていて、猶予が三ヶ月先と考えれば十分間に合うと思える進捗だった。だがそれは、遊園地で受けたアキラの電話内容で一変した。

 

 猶予というものは既になく、結界の即時強化は急務だった。

 だから箱庭に籠もり、中の時間を止めてルチアの完成を手伝っていた。外から支えれば結果が出るというものでもないにしろ、傍で見守り、そして急がなければならないという窮地は、ルチアの完成を後押しした。

 

 敵が迫っている事は察知しても、ミレイユ達が遅れたのは正にそれが理由だった。

 最後の瞬間まで、その結界封印の完成を目指して粘っていた。そして完成と同時に箱庭を飛び出して来たのだが、遅きに失した。

 

 事ここに至って、結界の強化がどうこうという段階は既に過ぎた。

 ここでもまた一つ、失敗したことを悟らざるを得なかった。最大で一年の猶予があると思っていたが、実際には三ヶ月しか残っていなかった。

 

 ルチアが悔恨を滲ませた言葉を落とす。

 

「私のせいですね……。結界に拘ったりしなければ……結界術の修得とその強化ではなく、孔の縮小へとアプローチしていたら、また違った結果があったかもしれません」

「いいや、ルチアの所為じゃない。それを認め、後押ししたのは私だ。誰の所為というなら、その方針を決定した私の責任だろう」

「最初から目がない事は分かっていたんです。でも私は自らのプライドを優先させました。それがなければ、この結果はきっと生まれていません」

 

 それは事実かもしれないが、結局この『いずれ来る事態』を先延ばし出来るだけだ。稼いだ時間で何が出来たか、それは分からない。だが完全な封印も、孔を出現させない事も、どちらも出来なかっただろう、というのは誰もが持つ共通認識だ。

 

 そこにクツクツと嗤う声が二人の会話を遮る。

 見るまでもなく、その音の出処はエルゲルンで、嗤う音に合わせて頭をグラグラと揺らしていた。

 

「いやぁ、そりゃ結界にイタズラしようって時点で、孔の拡大を急ぐ事になるのも当然だろ」

「なに……? 神にはこちらの動きが見えていたのか?」

「いや、全てが見えてる訳じゃねぇだろうな。だがとある神器なら……その中だけなら話は別だ。異質な空間で何かを始めたから、()()が目に映ったんだよ」

 

 エルゲルンが言う事には曖昧な部分が多かったが、だがそれだけで十分だった。

 元よりオミカゲ様から箱庭について聞いていた。あれはミレイユに手放すことなく持ち続けさせる為に、便利な道具として用意したのだと。

 

 武器や防具といった神器は実際あって、そして強力な武具であったのも事実だが、ミレイユにとって魅力的な品ではなかった。

 単純に強く有用な付与がされた品ではあるが、趣味の問題で防具のデザインが好まず、武器に至っては造形が不気味という理由で飾るに至った。

 

 だから見た目にも効果にも不満が出辛い神器を与えたあの神は、まさに慧眼の持ち主と言えるだろう。強力なだけの武具は、ミレイユにとって魅力的ではなかった。

 そして本当に魅力的に映り、肌身離さず持っていたのは『箱庭』だけだった。

 

「……インギェムは上手くやったな」

「繋合と双方のインギェムね……。だから言ったのよ、優しい顔した神なんて信用ならないって」

「それは今更、言ったところで仕方ないだろうが……」

 

 当初、そのユミルの発言も手伝って、疑う気持ちが強かったのは確かだ。

 しかし箱庭という便利な空間を持ち歩ける事に慣れると、そうした猜疑心は見事に消えた。使い続けるデメリットがある訳でもなし、いつの間にか非常に身近な存在となっていった。

 

 それを計算して行えていたというのなら大したものだが、しかし神となればそれぐらい出来そうな気もする。比較するのがオミカゲ様だと、どうにもそうしたイメージは湧かないが、その執着や執念の強さは知っている。

 それを思うと、手段を選ばぬ方法で、と考えれば何をしても不思議ではないのかもしれない。

 

 そしてミレイユは疑問に思う。

 口を滑らせたかのように思わせる口調だが、明らかにエルゲルンは情報を隠そうとしていない。拷問めいた攻撃の前に屈したように見えたが、それはあくまで見せかけとしか思えなかった。

 

 人を小馬鹿にして嘲笑うのが好きでも、拷問には簡単に屈するというのは珍しくない気もするが、こういう手合はいつでも逆転する機会を伺っているものだ。

 空に幾つも孔が空いた今、味方も多く出現する事を見越してのものだろうか。

 

 確かにミレイユも、いつまでも尋問している訳にはいかない。

 孔の出現と、そこから鬼が出現するまでの間には時間が掛かる。だからこそ、いつも結界には後追いの強化が間に合っていたが、エルゲルンにはそこを突かれて逃げられた。

 今すぐにも出現してくる鬼がいても不思議ではないのだ。

 

 ミレイユがこれ以上聞くことより対策を優先させる旨を伝えると、誰もが頷いてエルゲルンから離れようとする。すると、焦ったような声が背後から聞こえてきた。

 

「おい、これどうすんだよ! いつまでこのままなんだ!」

「何で話し終わったら自由にされるなんて思ってるのよ。百害しかない奴を開放する理由ある? 殺されないだけ有り難いと思いなさいな」

「あぁ……、クソッ!」

 

 悪態つく声を無視して歩き出し、孔の多さと大きさに武者震いをしている隊士達を見る。

 そこに恐怖で逃げ出すような者は一人もいない。どのような鬼が出てくるものか、慄いている者は確かにいたが、しかし自分が逃げ出す事で、後に何を呼び起こすのか理解しているのだ。

 

 実際、この孔の多さは脅威に他ならない。

 そこから一斉にやってくるのなら、間違いなく死ぬ者も出てくるだろう。それが自分であれ友であれ、不退転の決意でいるのは分かるし、中には既に指示を出して動き回っている者もいる。

 その中の一人からアキラがやって来て、戦士の表情でミレイユを見てきた。

 

「ミレイユ様、みんな事態が分からず混乱しています! あれだけの孔が一箇所に集まるなんて異常です、あれは一体なんなんですか!?」

「何だと言われたら困るが、つまり敵はあれを作り出す事が目的で、今まで孔を拡げていた」

「一度に作れる数には限界があった筈じゃ?」

「……そう思わせたかっただけなのか、単に本腰入れていなかっただけなのか……。あぁ、両方かな」

 

 自分がそれを口にさせられるのは非常に不快だった。

 何もかもが足りなかった気がする。やり直せるならやり直したい、という気持ちが沸き上がった。そして、それをやり直す手段は、ない訳でもないのだ。

 

 苦渋に顔を歪ませたミレイユを見て、アキラは別の心配をし始める。

 この戦いに勝利できない、という風に映ったようだ。ミレイユに引き摺られるように、アキラの表情も曇っていき、それを引き戻す為に肩を叩いた。

 そして微かに笑ってやる。

 

「そんな顔をするな、やりようはある」

「本当ですか、どうしたら良いでしょう!?」

「そうだな……。孔の大小があるなら、出現する鬼にも差があるだろう。敵う鬼だけ相手にしろ、防壁と陣を駆使して急増の防御陣地を築き、数を減らすことに専念しろ」

「分かりました!」

 

 アキラの頷きにミレイユも頷きを返し、更に続ける。

 

「孔は全周方位しているという訳じゃない。私達の後ろ側に居れば比較的安全だろう。なるべく離れた場所に築いて……後は上手くやれ」

「はい、そういった訓練もちゃんと受けています!」

「デカい奴、小さくとも強敵、そういうのはこちらで受け持つ。孔とて無制限に継続できるものではないだろう。持久戦だ、厳しい戦いになるぞ」

「はい、あの……お願いします! 僕らも僕らに出来る事を、精一杯やってみせます! 何か指示があれば遠慮なく言って下さい!」

 

 エルゲルンとの戦いを見て、自らの立ち位置を十分に理解したらしい。

 実際、これから出てくる敵というのは、エルゲルンを基準として見て、強敵が多く出て来るのは間違いないだろう。そして、その敵にアキラ達は為す術もない。

 

 ただ蹂躙されるだけだが、逆にそれ以下の敵も多く出てくると予想出来る。

 そちらにもとなれば、流石にミレイユ達も手が回らない。場合によっては自分たちへ向かってくる敵を、その防御陣地へ流す事になるだろう。

 

 数多く押し寄せる敵に、的確な対処をしなければ容易く決壊する。

 重傷者も多く出ていたようだし、そこの不安はある。だが今実際探して見回してみても、今なお倒れ伏している兵というのは何処にもいなかった。

 

 混乱は見えるが、悲惨さはない。

 士気の高さは頼もしいが、不気味にも思えた。最後にはバンザイ特攻すればいい、という破れ被れでいるんじゃないだろうな、という疑念も出てくる。

 

「やる気があるのは結構だが、何やら怖いな。防御陣地で堪えてもらうが、死ぬ必要まではないからな。逃げるしかないとなれば、逃げろよ」

「はい、その言葉はきっと更に皆の士気を上げますよ。誰の顔にもやる気があるのは、その前線にミレイユ様が立っているという事実があるからです。だから怖くても戦えるんだと思います」

「ミレイ様と共に並んで戦えるのは栄誉だ。それを良く分かっているようだな」

 

 アヴェリンが誇りを感じさせる表情で頷けば、アキラもまた頷く。

 

「神と戦列を並べて戦えるなんて、まるでお伽噺の世界ですよ。誰もが奮って戦うような状態だと思います。ミレイユの背中が見えるだけで、誰もがそれを励みに戦えるでしょう」

「そう言ってくれると光栄だが、これじゃ不甲斐ない真似は見せられないな」

 

 ミレイユがおどけて見せると、それにユミルが乗っかってアヴェリンを指さして笑った。

 

「それじゃアンタなんて、戦場に立つ事すら止めた方がいいんじゃない?」

「忘れているようだがな、ユミル。今の私は完全武装しているぞ」

 

 アヴェリンが揶揄するように口角を上げ、これ見よがしに手首でメイスを振り回すと、その風圧だけでユミルの前髪が吹き上がる。

 ユミルがむっつりと口を曲げて顔を顰めると、ミレイユは声を出して笑った。

 

「……あぁ、いいじゃないか。窮地で輝いてこそ、我らがチームと言うものだな」

「まさしく、仰るとおりかと。この現世においても、我らが武勇をあまねく広げてやりましょう」

「その時は、私だけ匿名でお願いしますね」

 

 アヴェリンが不敵に笑い、ルチアもまた可憐に笑って杖を掲げる。

 それにユミルが笑ってアキラの肩を二度、三度と叩いた。

 

 その光景を見ていた誰もが、この激戦を予想させる直前に見せる余裕と笑みに救われる。神に取っては笑って過ごせる状況でしかないのだと、そう励まされて士気が上がった。

 

 そして今――直上に見える一際大きな孔の中から、一つの影が顔を見せようとしていた。

 



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退魔鎮守 その3

 孔の中から出てきた巨大な何かは、孔を押し広げるように鼻面を左右に動かした。そこからずるりと顔を覗かせると、そのまま全貌が姿を現す。

 

 顔は鱗に覆われ爬虫類を思わせる形をしていて、黄色い瞳に黒い虹彩は縦に割れ、眦は大きく開いている。頭の上に二本の角があり、アギトは大きく開いて鋭い牙も見えている。その牙の間から太い舌が時折見えて、喉奥からは炎がチロチロと燃えていた。

 

「え、あれって……まさか!」

 

 アキラの焦った声が響く。

 その様子を見れば、孔から覗く顔を見て何を想像したのか予想は付いたが、全身が見える頃になれば意見を翻すだろう事も予想が付いた。

 

 頭の全てが孔から出ると、次に出てくるのは首だったが、肩が出てくる様子はない。

 そのまま全身の半分程も姿を見せると、困惑するような声が上がるようになった。

 

 本来なら肩口と、そこから伸びるであろう翼はなく、まるで蛇のような身体を晒す。逞しい腕や足、本来ならあるはずのドラゴンらしい体躯などはない。雄々しい顔面が張り付いているだけに、初見ならばまず間違いなく混乱するだろう。

 西洋ファンタジーに慣れ親しんだ者ならば、尚の事そのギャップに困惑する事になる。

 だが、あれの名前はこう呼ばれる。

 

「……ドラゴンだな」

「えっ、あれが? あれがそうなんですか!? 想像してたものとだいぶ違うんですけど!」

「この危機的状況にあって、それを言えるのは余裕の現れか? それとも単に馬鹿なのか? ……まぁ、私も最初見た時は何の冗談かと思ったがな」

 

 それを正確に呼ぶのなら、ドラゴンヘッドとも呼ぶべき存在に思える。蛇の身体に竜の頭、そういう類の魔物なのだと。

 だが実際、あれはドラゴンに違いない。蛇の身体に模様のように見える部分は確かに翼であり、そして腕であり、足なのだ。

 

「よく見ると翼もあるのが分かるだろう? あまりに小さく、退化してしまった部位のような有様だが、かつては私達が想像するような形だったろうと思わせる名残がある」

「でもアレは、自然環境に適応しようと退化したってワケでもないのよね」

 

 ユミルがやるせない表情で息を吐きながら、注釈を加えるように言った。

 

「歪められたのよ、その存在と形を。空を飛ぶ権利を与えられたのは鳥のみ、神がそう定めた。空の王たる彼らは地に落とされ、そして本来から掛け離れた、名残の見える姿へと変貌させられてしまった」

「何でそんな……」

 

 アキラの呟きに返って来る言葉はない。

 何故、神がそこまで空に拘るのか知る由もないが、いま考える事でもないだろう。あれが地上に落ちてくれば、並の隊士では歯が立たない。一方的に蹂躙されるだけだろうし、防壁も大した意味は持たない筈だ。

 あれはミレイユ達が対応せねばならない。

 

「アキラ、お前も下がれ。防壁の間で、漏れてくる残敵の相手をしろ。……無理はするなよ」

「はい、ミレイユ様も……皆さんにも、ご武運を!」

「ああ、精々生き残る事を考えろ」

「――はいッ!」

 

 ミレイユの端的な激励に感動した面持ちで返事をして、アキラはその場から離れていく。その足音を背後に聞きながら、ドラゴンに対して顔を向け直した。

 既にその身体は孔から半分以上抜け出して、鎌首をもたげては睥睨するように周囲を見ていた。

 

 ドラゴンはその権威も能力も神から奪われたが、その知性まで奪われた訳ではない。人間や他の動物と同様、個体によってその差はあるが、成竜したなら最低でも人間並みの知能は有している。

 長く生きた個体なら、人間では及びもつかない知能や知識、そして魔術も操って見せるのだ。この個体は若いように見えるから、その心配はないだろうが、この後に続いて出現してくる可能性はある。

 

 ――いや。

 ドラゴンが神の要請を受諾するとは思えない。神と竜の仲は最悪だという逸話には枚挙に暇がない。現世で言う犬猿の仲という言葉を、そのまま神と竜に置き換えて言う事が出来る程だ。

 だから、出現するのはそれすら分からないか、あるいは理解していない若い個体に限られるだろう。それをユミルに尋ねてみると、首肯と共に答えが返って来た。

 

「そうね、その考えで良いと思うわ。上手く誘導されたのか、あるいは孔へ興味本位で近寄った馬鹿なのかは分からないけどね。他の魔物同様、あまり賢くない奴が来てしまったというコトね」

「異国の地で果てるのは可哀想だが……、ここに来たのが運の尽きと思って貰うしかないな」

「本人――本竜にその自覚はないでしょうけど、でも尖兵となっているからには、倒さないって選択肢はないのよね」

「あのドラゴンですら、始まりに過ぎない事を忘れてしまっては困りますよ」

 

 ルチアが嗜めるように言えば、ユミルが頷き、ミレイユも頷く。

 

「そうだな……。私を連れ出すつもりで孔を拡げている以上、私と釣り合うだけの魔力総量を保持した相手が出てくるまで、これがしばらく続く筈だ。完全に拮抗する相手であるのか、それより僅かなりとも少ないかで話は変わってくるが」

「少ない……あぁ、多少強引でも連れ出せるなら、孔が開き切っている必要はないのかも、と? ……そうかもしれません。先程のドラゴンも、そしてそれより前の魔物も、自ら孔を拡げて出てきてましたものね」

「連れ出せる最低条件さえ満たせば、後はどうとでもなる、という考えなのかも。……ま、そこはどうでも良いわ。応じてやるつもりもないんでしょ?」

 

 ユミルが首を傾げて聞いてきて、ミレイユは眉間に皺を寄せて頷いた。

 

「勿論だ。こちらから赴く事になろうと、あちらの手管で連れ去られるつもりはない。……だが考えてみれば、どうやってオミカゲの奴は私達を送り込むつもりだったんだ?」

「気になる疑問だけど、集中して下さいよ。もうすぐ全身、姿を現しますよ」

 

 ルチアの注意で意識を切り替え、そちらへ集中しようとした時、遂に孔の中から落ちてくる。尻尾の先で巨体を支えていたと見え、尻尾が抜けると同時にその巨体が地響きを立てて降り立った。

 

 その際、何か悲鳴にような声と何かが潰れるような音が聞こえたが、その様なこと些末な問題だろう。まだ成竜ではないとしても、ドラゴンは油断できない魔物である事は間違いない。

 他所へ視線を移したり、意識を割くような真似は出来なかった。

 

 蛇のように舌先を出さないまでも、似たような仕草で周囲を見渡す。

 見た事もない建造物に興味を示しているようにも、見ず知らずの世界に出現して困惑しているようでもある。

 そして、その双眸がひたりとミレイユと合う。

 

「ギャォオオオウ!!」

 

 鋭く叫んで威嚇するような叫び声を出した。

 標的を見つけたとでも思ったか、あるいは単に、周囲にいる唯一相対する人間を敵と定めたか。

 ユミルがいっそ、愉快そうに声を上げた。

 

「あぁ、声からしても分かるわ、若い個体ね。――来るわよ。行ける、アヴェリン?」

「忘れたのか、ユミル。私は今、完全武装しているぞ」

 

 アヴェリンが余裕の笑みで返すと、ミレイユもまた余裕を持って鷹揚に構え、その左手で制御を始める。敵の頭に喰らいつき、そして一番槍を任せるのは誰なのか、それは既に決まっていた。

 

「アヴェリン、行け。好きに暴れろ、こちらで補う」

「畏まりました!」

 

 ミレイユが命じると、それに応じてアヴェリンが一人突出して飛び出した。

 敵意を感じたドラゴンは喉元で燻っていた炎を吐き出し、全面を覆う程の巨大な火炎の息を吐き出す。ミレイユが制御をしていた魔術を行使し、アヴェリンの身体能力を上げるのと同時、ルチアが既に察して氷の盾で炎を防ぐ。

 

 本来なら即座に溶ける氷の盾は、アヴェリンの動きに応じて炎を完全に遮り続けて移動を助けた。表面は溶け始めているものの、その速度は非常に緩やかで、アヴェリンがドラゴンに到達するまでは十分に保つように見える。

 

 そしてルチアは、何も盾を出すだけで役目を終えるつもりもない。

 右手で制御を続けつつ、左手に手を持ち振るう事で、そこから氷の礫を射出する。礫と言っても、単に先端が尖った射出物というだけでなく、魔力が相当に籠もっていて、見た目よりも大きなダメージを負う。

 

 それが二度、三度と、一定の間隔を持って放たれれば、ドラゴンとしても無視していられない。礫は皮膚を貫通する程ではないが、間違いなく表面を傷をつける程度には斬り裂いてくる。そしてルチアは頭を執拗に狙うので、眼球を守りたいドラゴンは顔を左右へ激しく振った。

 

「ギャオオォォオオオ!!」

 

 顔を振る度、炎の息もそれに合わせて左右へ揺れる。

 しかし構わず接近するアヴェリンにも盾をしっかりと追従させ、時折そちらへ流れてしまう炎にもしっかりと防御させている。

 

 接近するアヴェリンか、後方から礫を放つルチアか。迷うように視線を動かした時には、もう遅かった。既にアヴェリンの攻撃範囲に入っていて、一際強く地面を蹴りぬくと、一瞬の間に肉薄する。

 その勢いを乗せて、振り上げたメイスを力いっぱい殴り付けた。

 

「ギィィイイ……ッ!?」

 

 凄まじい衝撃音と共に、骨を砕く音が響く。

 ミレイユの横で完全に観戦モードだったユミルは、それを見て大いに顔を顰めた。

 

「やだやだ、これだから馬鹿力ってのはねぇ……」

「ドラゴンの骨は、そう容易く折れるものではないが……。そこはまぁ、アヴェリンだからな」

 

 ミレイユが支援魔術で補助している事を抜きにしても、その膂力と魔力制御から繰り出される一撃は凄まじい。鋼鉄よりも固いとされるドラゴンの骨すら、アヴェリンの前には他の動物と変わらない。

 殴れば折れるという、この世の理にケンカを売るような所業を、いとも簡単に実現するのがアヴェリンなのだ。

 

 ドラゴンはより脅威なのがどちらなのか、それで決定付けたようだ。

 外からチクチクと攻めるルチアを無視して、アヴェリンへと顔を固定させた。だが、ひと一人とドラゴンではその大きさが違う。一口で丸呑みしてしまえば終わる距離とはいえ、それが容易く行えないとなると、今度は逆にその大きさの比率が枷となる。

 

 実際、ドラゴンが巨大なアギトを広げて食いつこうとしても、飲み込むより前にアヴェリンは姿を消してしまっている。そして反撃として一撃加えて去って行くので、ドラゴンとしてもたまったものではないだろう。

 

 炎の息を吐いても、動き続ける対象を捉え続けるのは難しく、氷の盾に守られては尚のこと無理だった。そうしてアヴェリンが殴り、ドラゴンの反撃という反撃が空振りを続け、幾度もその衝撃音が轟き続ける。

 掛かる時間も長いものではなかった。

 脅威と思われたドラゴンはあっさりと沈黙した。

 



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退魔鎮守 その4

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 今し方ドラゴンを仕留めたとは思えない足取りで、アヴェリンは意気揚々と帰って来た。

 とはいえそれは、あくまで一般的な戦士における評価であって、単にアヴェリン一人に向けた評価だと、妥当であるという感想以外、何も浮かばない。

 

 火炎を吐き出すドラゴンに対して、ルチアのフォローも上手く働いた。簡単に接近できたのは、勿論それあってのものだったが、接近できれば勝てるという簡単な相手でもないのは言うまでもない。

 ミレイユは二人に労いを言って、それから改めてアヴェリンに問う。

 

「……それで、どうだった。久々の実戦は?」

「なかなか悪くありませんね。少しは錆びついている部分もあるかと思いましたが、想像通りの動きが出来ました」

「それは良かった」

 

 アキラに付けてやっていた鍛練や、結界に入って戦って身体を動かしてはいた。だがそれは本気を出すというには程遠く、実戦から長く遠退いていたと表現して相違ないものだった。

 時に実戦から離れた勘を取り戻すのに、離れていた時間以上が必要とされるとも言うので、それを考えれば、遜色なく動けたというなら自己鍛錬は欠かしていなかったのだろう。

 

 そんな他愛ない話をしていると、背後から歓声が上がる。

 何事かと思って振り返ってみると、アキラを始めとする隊士達が両腕を上げて声を張り上げていた。

 

 少し考えて見れば、良く分かる。

 遠く離れていたとはいえ、見たこともない蛇のような巨大な魔物は、彼らにとって脅威と映った事だろう。遠くにいようと、その威圧や魔力など、感じ取れるものは幾つもあった筈。

 

 どのような激戦が起きるか、あるいは勝つことすら難しいのでは、と考えていたところに、アヴェリンの完勝だ。全く危なげなく、そしてアッサリと勝利をもぎ取った戦士へ惜しみない賞賛を浴びせたいと思うのは、至極当然の事だった。

 

 それもまだ、他の孔から敵が出現していない事も影響しているだろう。

 戦局的にまだ傾いてもいない状況での見事な勝利は、それだけ彼らの士気を上げた。これならば勝てる、という気持ちの後押しも得られたに違いない。

 

 だが、ミレイユは彼らほど楽観していなかった。

 空を覆い尽くす程の孔があって、単なる威嚇で用意したものではない事は明白。これから長引くに連れて、まだ小さな孔すら拡大していくだろう。

 前哨戦が始まった直後でしかない現在、到底甘く見る事など出来ないのだった。

 

 ――いや、とミレイユは思い直す。

 彼らはミレイユ達に縋りたいのだ。勝利を見せてくれる彼女らに続け、と味方を鼓舞し、そして己を鼓舞する。その為の空元気だと思えば、なるほど、幾らでも利用してくれとすら思う。

 

 ミレイユがそんな事を考えている傍らで、ユミルはドラゴンの死骸を物欲しそうに見つめていることに気が付いた。

 

「どうした、ユミル。……まさか、この期に及んでドラゴンの素材が欲しいなんて言わないよな?」

「……何よ、この期に及んでって。言うわよ、言うでしょ普通。せめて鱗の一つでも取って来なかったの、アヴェリン?」

「来る訳があるか。私が何をしに行ったと思ってるんだ」

「……使えない奴ね」

 

 吐き捨てるようにユミルが言うのと、アヴェリンが剣呑に武器を構えたのと同じくして、空の孔から再び魔物が顔を出す。

 今度は大きめの孔からではなく、全体的に小さいものから出現し始めた。多くは小物だが、しかし最低でもトロールより弱い存在は見当たらないから、隊士の方にばかり任せていては、手に余る事態になるだろう。

 

 それが地面に着地しては、不揃いの隊列を作って歩いてくる。

 その目や表情には、爛々とした戦意の発露が見えていた。

 

「あら、生意気。あいつらに真っ直ぐ行進なんて真似が出来たのね」

「あれを行進とは言わんだろう。単に先着順で歩きだしたら、結果そうなったというだけで。……どうなされます、ミレイ様。また私が切り込みますか?」

「そうだな……」

 

 ミレイユはちらり、と背後の隊士達へと目を向けた。

 今ではすっかり傷も癒えたようだが、消費した理力まではそうもいかない。ここはマナの集まる場所だから、その回復を手助けしてくれはするものの、戦闘中という緊張状態での回復は微々たるものだ。

 

 彼らの負担を少なくする事を勘案すれば、なるべくこちら側で受け持つしかないだろう。

 アヴェリン一人切り込ませるのは有効な手段ではある。思うさま敵を蹂躙してくれるだろう、という期待に背かない結果を生み出す。だがアヴェリンはむしろ、大物にぶつける方が効果的に働く。

 

 先程のドラゴンのように、一人を使って一匹を受け持ってくれるなら、そちらの方が戦局的には有利に傾くだろう。

 ミレイユはそう考えると、ルチアとユミルへ目配せする。

 それで全てを察した二人は、気楽な調子で手を挙げた。

 

「ま、いいわよ。あの程度の小物なら、一掃してしまった方が早いし楽よね」

「大規模魔術は得意ですからね。こういう時こそ、任せて下さいよ」

 

 二人が気軽に請け負って、アヴェリンと入れ替わるように前へ出る。

 既に眼前では、次々と現れる魔物の群れで、まるで絨毯のように敷き詰められているような状態だった。その全員から向けられる敵意と殺意も本物で、弱い魔物であろうとも、数が揃えば吹き付けてくるようにすら感じる。

 

 だが、そんな事で今更二人は動揺したりしない。

 使う魔術の違いで制御の完了は、ユミルの方が早く終わった。右手と左手、それぞれ同じ術を制御し、そしてルチアに目を向けていつでもどうぞ、という風に手を向ける。

 

 ルチアはそれをちらりと目を向け、小さく笑った。

 彼女が制御している魔術は、そう簡単に終わるものではない。ユミルもそれが分かっててやっているのだが、急かすようにも茶化すようにも見えて、つい笑ってしまったようだ。

 

 ミレイユが邪魔するな、と口には出さずにユミルを見ると、眦を大きく広げて大袈裟に怖がる振りして前を向いた。

 

 敵の大群は更に近づき、その息遣いさえ聞こえて来そうな距離までやって来る。

 流石に急かしたい気持ちが湧いて来た時、遂にルチアの制御が完了する。両手で掲げた杖の先には、極限の暴風雪を球体の中に閉じ込めたようなものが浮かんでいた。

 

「――行きます!」

「いつでもどうぞ」

 

 ルチアが声を掛ければ、ユミルが肩を竦めて声を返した。

 解き放たれるのは攻勢魔術、『黒き冬への誘い』と呼ばれる、扱える人間は五指にも満たないと評された上級魔術だった。

 

 その名が示すのとは逆に、白い雪の嵐を出現させるのだが、その密度故に前が見えず、また細かな氷片が目を傷つけ、目を開けていられない事からそう呼ばれる。目だけに限らず、露出している部分があれば細かに傷つけていくから、極寒の状態だとそれだけでも脅威だ。

 完全な半球体状ドームの中で、そこだけ雪の嵐に見舞われるという魔術だから、それなら早く抜け出せば済む話ではある。そうなのだが、そこにユミルから放たれる魔術が効いてくる。

 

「はいはい、ご苦労さん」

 

 ユミルから放たれるのは『雷兎の戯れ』と呼ばれる中級魔術で、一度直撃するとそこから直ぐ隣の対象へと飛び跳ねるように伝播していく。

 威力は基本的に低く、単体で使うには痺れさせる程度の威力しかないのだが、それが密集地帯で使うと凶悪な足止め効果を生み出す。

 

 しかも極寒の嵐の中、足を止める一秒毎に体力も気力も奪っていく。目は開けていられず前にも後ろにも進めない状況で、雷撃による麻痺まで起こされるとなると、悪夢でしかない。

 それをユミルがほいほいと、両手で交互に撃ちまくるものだから、嵐に飲み込まれた集団は恐慌を来たす状況になった。

 

 また、極度に低温まで下げられてしまえば、超電導と呼ばれる現象が起き、電気抵抗を著しく下げる。本来は痺れ程度で済むものが、無視できないまでの痛みを伴って次々と電撃を見舞っていくのだ。

 

 とうとう阿鼻叫喚の叫び声が嵐の中から聞こえるようになり、そこから抜け出そうと藻掻くほど雷兎の餌食となって痺れる事になる。

 こちらから見る分には寒さも風の強さも感じないが、雷が時折弾けるように瞬き、その中で悲鳴が起きているとなれば、中で起きている惨状も想像が付くというものだ。

 

 とうとう叫び声すら聞こえなくなって、ルチアは魔術の制御を解いた。それに続いてユミルも制御を止める。

 後に残ったのは、倒れ伏して動かない大量の死体と、雪に覆われた円周状の一帯だった。

 

「相変わらず、凶悪な組み合わせだな」

「お褒めに預かり光栄よ」

 

 ユミルがにこやかに笑みを見せると、背後からは再び歓声が上がった。ユミルが振り返って手を挙げてやれば、更に歓声が大きくなる。ユミルもまた大変な美貌を持つので、男女問わず、そうした魅力に引き寄せられて応援する声にも力が入る。

 

 これで彼らは再認識させられた。

 巨体を持つ敵だろうと、数を揃えようと、ミレイユ達を越えて進む事は出来ない。それをまざまざと見せつけるような内容になった。

 

 絶望的な状況にも希望が見えた事だろう。

 このまま完封できるとさえ思ったかもしれない。それほどまでに、背後から聞こえる歓声は凄まじいものがある。その歓声が力になると信じているかのように、ミレイユを呼ぶ声が止まらない。

 

「御子神様! 御子神様! 御子神様!」

 

 戦っていたのは何れもミレイユ以外なのだが、ミレイユの戦力という意味では正しい。彼らもミレイユが旗印となっている事は理解している。一々訂正して水を差す事でもないので、ミレイユは背後へ振り向かず、そのまま小さく手を振った。

 

「ウワァァァァアア!!」

 

 そして上がる歓声に、手を振って終わらせると、じっとりと目を向けるユミルと視線が合った。

 

「……なんだ」

「いえ、別に。人気者で結構ですコト」

「手柄を横取りしたようで悪かったな」

「ま、それは別に良いけどね」

「――そうだ、我らの評価はミレイ様のもの。我らの武勇はミレイ様の名を高めるのだ。何の不満がある」

「まぁ、そうね。別にアタシ個人がどう評価されようと、知ったコトではないんだけど。アンタはちょっと気をつけるべきよね」

 

 そう言ってミレイユへ流し目を送り、その意味深な視線が何かを考え、すぐに思い至った。

 

「……そうか、信仰か」

「そうそう。下手に集めると、アンタ世界に根ざすコトになるわよ。オミカゲ様もそう言ってたじゃない」

 

 確かにそれは問題だ。

 あれが果たして信仰か、それとも前線指揮官に向けるような敬意なのか、それは分からない。だが安易に手を挙げるようなサービスは、今後控えた方が良さそうだった。

 



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退魔鎮守 その5

 積み重なった死体は邪魔だ。

 単に見栄えの問題ではなく、視界の確保を困難にし、そしてこちらから攻め入りたい時にも思うように進めなくなる。基本的にこちらは防御側なので、果敢に攻めるような事になっても、アヴェリンが見せたように単騎突撃か、それに近いものにしかならない。

 

 敵の進軍の邪魔になるかと言えば、そうなのかもしれないが、潜伏されるような真似をされる方が厄介だった。死体の血は凍って固まっているから、それを利用して血塗れを演出する事は出来ないだろうが、何にしろ死体を利用して隠れられると、どこかのタイミングで横合いから襲われる。

 

 しばしの小康状態が起きている今の内に、死体はどけてしまう方が良さそうだった。

 ミレイユはユミル達二人の顔を見てみたが、こういった事に得意な術を使えるタイプではない。どうやら自分一人でやる必要がありそうだ。

 

 アヴェリンは命じればやってくれるだろうが、時間が掛かる。今の状態で、いつ敵が降ってくるか不明なまま、その直下で働かせる訳にもいかない。

 

 ミレイユは両手にそれぞれ別の魔術を制御し始め、途端に眉を顰めた。

 どうにも魔力の巡りが悪い。筋肉痛の後に無理して動かしたかのような、どうにもヤキモキする感覚で完了させると即座に放つ。

 即座というより、単に暴発させるのが怖くて開放したい、という気持ちの方が強くて手放す。

 

 放たれた魔術は螺旋を描いて炎が舞い、舐めるようにして死体を焼いていく。『烈火の猛り』と呼ばれる魔術で、高火力の炎を小規模な竜巻として出現させる。これで吹き上げらせながら、死体を焼きつつ移動させようと思ったのだが、とにかく数が多い。

 

 もう片方の手には念動力を行使させ、蛇行しながら進む炎の竜巻に、スコップで石炭をくべるかのように死体を投げ込んでいく。

 辺りにはツンと鼻をつく匂いが漂い、早く終わらせてしまおうと竜巻の回転も早めた。

 

 そうして竜巻が全ての死体を飲み込むと、そのまま結界の境目まで運び、骨ばかりになった死体を投げ捨てる。そのまま『烈火の猛り』を解除したら、骨が辺りへ散乱しそうになって、慌てて念動力を操作して壁とする。

 

 ミレイユは眉間に皺を寄せたまま、落ちていく骨を見送っていた。

 そこに、ミレイユの表情を見ていたユミルが口を出す。

 

「何よ、その不満気な表情。臭いっていうなら、燃やすなんてコトした自分を恨みなさいな。……ま、数が数だし、燃やしたのは正解だと思うけど」

「……そうなんだが、そうではなくてだな。非常にやり辛く感じて、ブランクを感じたよ。アヴェリンが自身のコンディションを維持していたのが奇跡に思えるな」

「あら、嫌味だコト。別系統の魔術をアレほど見事に行使して、まだ不満があるっての? 危なげなくやってたじゃない」

「前はもっとスムーズに出来た」

 

 ミレイユとしては率直な不満を口から出しただけのつもりだったが、ユミルは馬鹿言うなとでも言うように、ぞんざいに手首を振って顔を背ける。

 

「あれだけの制御を見せて、不満があるなんて言われちゃ溜まらないわよ。……アンタもそうでしょ、ルチア」

「いや、まぁ……。贅沢な悩みだとは思いますけど、ミレイさんの悩みって、時々私達には理解不能だったりしますからね」

「……そう言われたら、確かにそうね。それを思えば、今回もまた意味不明なコト言い出した、って片付けて良さそう」

「何でいきなりアタリが強くなったんだ。別にいいだろう、ちょっとブランク感じるくらい」

 

 ユミルは顔を向けないまま、鼻を鳴らして答える。

 

「別にいいけど、それってかなりアタシにとっても癪だから、ちょっと拗ねるくらい許されるでしょ。両手で別系統の魔術って、当たり前にやってるけど普通できないからね」

「……あぁ、まぁ、そうだったな」

「ほら出た! 無自覚な優越。無責任な中傷! そんなコトしてるから、子供が非行に走るのよ」

「……子供って誰だ。お前……自分の事だなんて言い出すんじゃないだろうな」

 

 ミレイユが眉を寄せて睨み付ける。何かとママ呼びしていたユミルだが、最近鳴りを潜めていたと思っていた矢先にこれだ。

 ほら出た、とはこちらが言いたい台詞だった。

 そこに呆れを存分に含んだ声音で、また呆れた表情を隠さずアヴェリンが言う。

 

「少しばかり緊張感がなさ過ぎるのでは? 只今が敵の侵攻中である事を忘れられては困ります」

「……うん、すまなかった」

 

 最もだと思ったので、ミレイユは素直に謝罪する。

 ユミルもバツの悪そうな顔をしたものの、アヴェリンに謝罪する事はしない。だが身振りだけでも謝罪を表明したのは、やはりそれなりに申し訳ないと思っていたからだろう。

 ユミルは天地が割れてもアヴェリンに謝罪も感謝もしないと思っていただけに、これはちょっと意外だった。

 

「……何て目で見てるのよ。やめなさいよ、その顔」

「……あぁ」

 

 全く自覚がなかったので、頬を擦りながら無数に空いた孔を見つめる。

 更なる追加が現れそうな雰囲気を感じて、ミレイユは警戒を新たにした。

 

 単に小康状態だったから多少のおふざけをしただけであるものの、長く続くと思われるこの戦いにおいて、やはりその緊張を和らげるやり取りというのは重要なものだ。

 ユミルはともかく、笑顔しかない戦場には不安しか感じられないが、まったく笑顔が消えた戦場というのも恐ろしい。

 そういう意味では、ユミルが傍にいるなら悲壮な戦闘とは無縁でいられそうだった。

 

 孔をじっと見つめていると、次に出てきたのは、やはり先程よりも強そうな者たちばかりだった。強そうな、ではない。実際強いのだ。

 吹き付ける戦意や殺気は先程までと段違いで、降り立ったばかりだというのに、周囲の確認も警戒もなく走り出してくる。

 

 まるでそこに最初から敵がいると知っているかのような動きだったが、まさか孔から出てくる前から状況を知っていたりするのだろうか。

 もしもそうなら、敵が何処にいるかだけでなく、ミレイユが魔術で何をしたかまで分かった事だろう。同族ばかりではないが、それがぞんざいにやられた事は見えていたかもしれない。

 それが怒りに火を注いだのだとすれば、彼らの行動にも一定の理解が出来る。

 

「ワォ、凄い勢いでやってくるじゃない。ガッついても女にはモテないって教えてやらなきゃ」

「そうだな、ディナーの誘い方を教えてやる必要がある」

「そして今日のところはご飯抜きね」

 

 ユミルの軽口にミレイユが乗って、素早く制御を完了させる。青い光を掌に握って、そうして次に行使された魔術から、出現したのはフラットロだった。

 召喚されたフラットロは嬉しそうにミレイユへ近づこうとして、その異様な雰囲気に気付く。怒号と地面を踏み荒らす音に引かれるように顔を向け、そして目を剥いた。

 

「何だ、あれ!!」

「見ての通り、少し面倒な事になっている」

「そうだな! 何か沢山いる! 怒ってるな、何でだ……?」

「多分、私が沢山あいつらの仲間を殺したからだな」

「なんだ、そんな事か!」

 

 フラットロはそれだけ言うと、迫る魔物の大群に興味を失ってしまった。召喚された精霊に生死の概念は良く分からない。長く生きた精霊はともかく、そもそも精霊に死の概念がないので理解しづらいのだ。

 

 生物は何もしなくても死ぬ。

 それは怪我であったり寿命であったり、時に本当にくだらない理由で死ぬ事もあるものだ。そして百年を越して生きる人間はともかく、百を超えて生きる魔物というのも、実は少ない。

 

 だから、殊更フラットロにとっては、同胞の死で怒りを燃やして襲い掛かって来ることも、天寿を全うして死ぬ相手を悼む気持ちも、似たようなものと受け取る。

 死は死でしかなく、単なる現象として受け止める。

 

 今にも迫ろうとする魔物たちを尻目に、ミレイユにジャレ付こうとするフラットロを止め、大群の方を指し示した。

 

「お前を呼んだのは、アレらの相手をして欲しいからだ。適当に焼き、適当におちょくり、適当に遊んでくれ」

「そうなのか? そうして欲しいって言うならするけど!」

 

 ミレイユは頷き、更に魔力を込めてフラットロの頭を撫でるように動かす。今は炎の耐性を上げていないので、直接触ると火傷する。だからとりあえず、精霊を活性化させる為に魔力だけ注ぎ、触れるようにして見せたのは振りだけだ。

 それに少し不貞腐れた様子は見せたものの、魔力が注ぎ終わると力を漲らせてミレイユの頭上を一周りした。

 

 尻尾に着いていた火は更に燃え上がり、口の中や目までも吹き上がって小さく爆ぜた。

 犬の鳴き声に似た雄叫びを上げてから、フラットロは大群の中へ突っ込んだ。

 

 その瞬間、着弾地点を中心に大きな爆発が起きる。

 その爆発が十分に広がるよりも早く、爆心地からフラットロが飛び出し、そしてまた新たな標的を見つけては着弾して、爆発を引き起こしていった。

 黙っていても大群は全滅しそうではあるが、フラットロは計算して爆発を起こしている訳では無い。というより、説明したところで理解してくれないので、好きに暴れさせるのが一番効率が良かった。

 

 当然、撃ち洩らしは多く発生するし、何より爆発から逃げようと、より多くの大群がこちらに向かってくる事になる。

 それを見て、既にどうなるか予想を付けていたルチアが一歩前に出た。

 

「……とりあえず、動きを止めるだけで十分ですかね?」

「十分でなければ、こちらでどうにかする」

「ですね、了解です」

 

 ルチアが中級魔術の制御を始め、それが一瞬で完了する。杖の先端から放たれたのは、『極北の霜風』で、膝より下程度の高さで冷風を飛ばすというものだが、使い手に寄って威力が異なる。

 中級に位置するだけあって、行使にはそれなり以上の難易度があるものの、敵を傷付けるのには向いていない。この風に充てられた者は、その動きを著しく鈍らせるという効果だ。

 

 そして鈍い動きはフラットロの餌食となるのだが、ルチアの術はそれだけに留まらない。霜が付着したら最後、それが凍り固まって身動き出来なくさせる。

 アヴェリンが苦手とする戦法で、これに対処できるだけの魔術秘具を用意しているなど、何かしら外部からの手助けがなければ、まず間違いなく縫い固められてしまうという魔術だった。

 

 実際、勢いよく迫っていた筈の大群は、ミレイユ達に近付く程に地面へ縫い付けられ、下半身は動けなくなって固まっている。

 その後ろから続々と敵が集まってくるが、固まってしまった者たちが邪魔で、更に霜風で縫い止められていく。そうこうしている内にフラットロがやって来て、氷漬けになってしまった部位ごと爆発の果てに蒸発させた。

 

「楽で結構なコト……」

 

 ユミルが呆れとも付かない言葉をポロリと零し、ミレイユも同意する意味で小さく笑った。

 



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退魔鎮守 その6

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 存分に遊び終わったフラットロは、上機嫌でミレイユの元に帰って来た。

 そこかしこが爆発の余波で地面に穴が空き、そして雪も霜も綺麗に消え去ってしまっている。今度は骨さえ残らない場合が多かったが、流石に強力な魔物は骨すら丈夫で、溶けきれなかった物も多い。

 それについてはミレイユが先程同様、念動力で端へと投げ捨てるように移動させておいた。

 

 だが敵を一掃したのも束の間、孔の中から続々と魔物が降り注いでくる。

 まるで詮していたものが溢れたかのような有様だった。それまでの大群がお遊びだったかのように、蛇口を捻ったかのように次々と魔物が飛び出してくる。

 

 出て来る魔物は雑魚が大半だが、しかし数は脅威だ。

 今までが遊びだったとは思っていなかったが、とうとう本気を出して来た、という事だろう。

 ミレイユはそれぞれに目配せすると、まずフラットロに魔力を注いだ。直接触れられない事に申し訳なく思いつつも、それが戦闘継続に十分な量を与える。

 

「……大丈夫だな? 頼めるか?」

「やるよ! 沢山やるよ!」

 

 具体的な発言をしなくても、何をして欲しいか察したフラットロは、戦場へと切って返し飛び去っていく。そしてそこに、別方向から新たな火球が――フラットロよりも巨大な火球が地面へと突き刺さり、爆発が起こった。

 

「なんだ……?」

「何よ、アレ」

 

 ミレイユとユミルの発言は同時だった。

 そして、あの爆発がミレイユのものではないと、ユミルはそれで察したようだ。しかも、あの火球は魔術的というより、フラットロのように精霊寄りのもので、自然発火のものでもなかった。

 そこまでくれば、あれが何なのかも想像がつく。

 

 次の瞬間、火球が鎌首をもたげるような変化をした。

 形が変わり、狼の姿と八本の豊かな尻尾が現れる。そして一鳴きすると、周囲の魔物に喰いかかった。時に噛み潰し、時に鼻面を振って吹き飛ばし、時に尻尾を振るって突き飛ばす。

 

 そしてフラットロと良く似た、しかしそれ以上に洗練された炎を操り敵を焼き焦がしていく。

 

「……八房か」

「そういえば、ここ奥宮はアイツの縄張りだって話だったかしら」

「そこに、この魔物の侵攻だ。オミカゲから指示がなかったとしても、黙ってはいなかったろうな」

 

 八房は番犬のような役割で存在する精霊ではない筈だが、何にしてもこの状況にあっては心強い。何を言わずとも勝手に敵を処理してくれるというのは、蛇口が壊れたように湧いてくる状況では手放しに称賛したい程だ。

 

 だが今はそんな贅沢が許される状況ではなかった。

 その活躍を目の端で追いながら、次はアヴェリンへ顔向きを移した。

 

「お前にも、ありったけの支援術を掛けておく。これからは十分な補助もフォローも出来ないだろう。――これだけの数がいるなら、魔術の誤爆が怖い。その為の支援を厚くするから、他は少し控えめになる」

「大丈夫です、魔術抵抗を強めて頂ければ、あとは自分でどうにか出来ます」

 

 うん、と頷いて、ミレイユは即座に支援術の制御を始めた。

 目まぐるしく身体を走る魔力を練り込み、左右の手で別々の術を行使しては、交互に動かし次々と光が点滅するように放たれる。最終的には、魔術耐性と抵抗を主軸にした計八つの支援を掛けた。

 一度に大量の魔術を行使して、ドッと疲労感が増す。久しく感じていない感覚だった。

 

 だが同時に、ミレイユには自己生成できるマナがある。霊地である場から吸収出来るマナも含めれば、たった十秒と掛からず消費した分は回復できた。

 それを何とも言えない表情で見つめていたユミルは、視線を断ち切るように顔を前に向ける。

 

 十全に支援の行き渡ったアヴェリンは目配せ一つ向けてくると、そのまま飛び出して行く。ミレイユも頷き返して、今度はルチアに支援術を掛けていく。

 ルチア自身も使えるものではあるが、自己の防御に偏っていて魔術の威力を上げるようなものにはレパートリーが少ない。それは単にミレイユを頼れば済む話なので、今まで問題はなかった。

 

 そうしながらも、アヴェリンは敵陣の正面へ突っ込んで行く。

 メイスを大きく振りかぶり、大きく跳躍して、全体重と共に武器を地面へ打ち付けると、そこを中心として凄まじい衝撃が走った。

 

 盛り上がる地面と吹き飛ばされる砂や砂利、そして衝撃波が魔物たちを吹き飛ばしていく。そうしている間にもアヴェリンは既に地を蹴って、メイスを横薙ぎにして振り回していく。

 腕が一つ動く毎に、魔物が吹き飛び宙を舞い、アヴェリンに近づくもの全て薙ぎ倒されていった。近づこうとする大量の魔物と、それを押し返すたった一人のアヴェリンという構図だが、今のところどちらも攻めあぐねているような状態だ。

 

 そこへ支援の完了したルチアが魔術を飛ばす。

 『氷霜の嵐』と呼ばれる上級魔術が、魔物たちへ舐めるように近付いていく。吹き付ける冷気と風、それに混じる氷礫はアヴェリンまで飲み込んで通り過ぎていく。

 後に残ったのは立ち竦むアヴェリンのみで、足元には凍り付いた何かが落ちているだけだ。瞬間的に氷結させられた敵が、礫によって砕かれ、バラバラになって崩れたのだ。

 アヴェリンは霜の付いた髪を一つ払って、また別の集団へと襲い掛かる。

 

 そしてルチアの魔術はそれだけで終わらない。

 制御を続けている限り、その嵐は止むことがないから、今もなお孔の中から落ちてきている魔物たちへも襲い掛かっていく。

 落ちてくる魔物と、それに飲み込まれ、地面でバラバラになるという、まるでミキサーに掛けられる食材のような様相を見せていた。

 

 ユミルは大規模魔術が使えない。

 上級魔術の修得はあるが、どれも個人に対するものか、もっと小規模な集団に対するものであって、数百を一度に相手取るような術は使えないのだ。

 むしろ、使える方が異常と言える。それだけ難易度が高く繊細な制御を求められる上に、失敗すると自爆だけでは済まない被害を出す、というデメリットが存在するのだから。

 

 上級魔術とは、それ程の自信がなければ使えないものだから、そもそも修得しようとするぐらいなら、使える中級魔術の種類を増やす方が効果的なのだ。

 だから今のところ、ユミルの出る幕は早々なかった。ただ思い出したように雷撃を放ったりしているのみで、それも遊び程度のもの、彼女の本領はもっと別のところにある。

 

「暇そうだな?」

「そう見えちゃう?」

 

 ミレイユ自身は忙しく制御を回して、次の魔術の準備をしながら、傍らのユミルに声を掛けた。

 魔物はどこからでも出て来るから、ルチアの魔術一つ、アヴェリンの活躍一つで流れを抑える事は出来ない。最初に見せた勢いは衰えを見せているものの、だからと止まる事はない。

 

 アヴェリンへと殺到する組と、ミレイユ達へと向かってくる組と別れた所為で勢いが弱まっているように感じるし、ルチアの魔術でそもそもの数は減らされているが、それでも孔から出現する魔物に終わりは見えそうになかった。

 

 その中にあって、一際大きく孔が脈動し、そして姿を見せる魔物がある。

 身の丈五メートルを超える巨人だった。肌の色は青く、細身で頼り甲斐の無さそうな外見で、その顔には髭が覆い目は小さく落ち窪んでいる。

 

 弱そうな見た目とは裏腹に、実際は細身に見合わぬ膂力を持ち、家程度なら小石を蹴り飛ばすように壊してしまうし、ドラゴンすら捕食対象だ。

 その手には、巨木を切り倒して適当な形に均した棍棒を握っており、それを振り回されれば、相当な脅威である事が分かる。

 

 だが一番の特徴は、この巨人に冷気属性は通用しない、という事だった。

 青白い肌が示すのは不健康さではなく、氷の山岳で育った事を示す、氷の巨人を意味している。反して炎に弱いので、その弱点を突けば脅威ではない。

 並大抵の魔術士の炎では痛痒すら感じさせないが、何しろこちらにはフラットロがいる。

 

 精霊に思念を送ろうとして、傍らのユミルを思い出し、取りやめた。むしろフラットロには離れるよう指示を出して、ユミルへの方へと顔を向けた。

 

「どうだ、あれを利用してみる気はないか?」

「あら、出番を譲ってくれるの?」

「あぁ、私達が忙しくしているのに、一人暇させているのは忍びない」

「お気遣い痛み入るわね」

 

 今にもグラスを取り出して、ワインでも飲みだしそうな雰囲気を出していた、というのも理由の一つだが、何もしていないというのが素直に癪だった。

 巨人へと目を向ければ、何を求めているのか即座に分かったらしい。

 

 ユミルと巨人の間には、大きな距離がある。

 何をするにも近づかねばならないし、あるいは近付いてくるのを待たねばならないが、ユミルは幻術を使ってそれを克服した。

 

 巨人は味方が分かっていないのか、単に歩行の邪魔なのか、足元の魔物を気にせず踏み潰して進んでくる。その一歩の歩幅は非常に大きいが、歩み自体は遅かった。踏み潰す前に頭上が影に覆われるから、足元の魔物も逃げようとはする。だが、注意を向けていない者も多く、頭上方向からの踏み付けなので、為す術もなく潰される数の方が圧倒的に多かった。

 

 それに怒った他の魔物が攻撃し、既に仲間割れすら起き始めている有様だが、ユミルは目前に窓のようなものを作り出し、そこへ巨人の顔を映し出す。

 目を合わせて魅了をし、更に幻術も重ね合わせてより強力な催眠を施した。

 

「ボオォォォオオオ!!」

 

 既に足元へ攻撃していた相手だから、攻撃対象を少し弄っただけで、明確な敵と刷り込むのは実に簡単な事だった。

 棍棒を振り回せばバラバラと魔物が宙に舞って落ちていく。ミレイユ達へ迫ろうとする魔物と、自陣にいる脅威を排除しようと動く魔物に分かれ、敵陣は完全に混乱に見舞われた。

 

 そして、そこにアヴェリンやフラットロが横合いから殴り付けてくるのだから、たまったものではないだろう。

 

「ほっほっ! いやぁ、ザマァないわね」

「なんだ、その気色悪い笑い声は。……だがまぁ、これで少しは楽になったな」

「まだ一匹として辿り着かせていないのに、良く言いますよ」

 

 ルチアが呆れたように笑い、そしてミレイユは前方に向かって炎を波飛沫を浴びせるように、広範囲へ放った。

 それで地獄から抜け出した幾らかの魔物も消し炭となる。

 ルチアが言ったように、未だ敵が攻撃できるまでの距離に近づけさせてはいない。

 

「もしかすると、このまま完全試合が出来るかもしれないわねぇ」

 

 ユミルが挑発するように言うと、それに呼応するように複数のドラゴンが孔から落ちてくる。

 ルチアが目を細め、なじるように言葉を放った。

 

「……黙ってればいいのに」

「いや、あれはアタシの所為じゃないでしょ! 単にタイミングの問題で!」

 

 確かにあれはタイミングが悪かったとは思うが、日頃の言動を見ていると、何か一言嫌味でも言いたくなる気持ちは分かる。

 

「まぁ、ツイてなかったな」

「そうは言いいますけど、私達にツイてた時なんてありました?」

「それは……」

 

 あったろう、と言い掛けて、思い返してみても、そうそう運良く何かを成した、という事例がない事に思い当たった。大抵は何かしら巻き込まれるか、巻き込まれに行く事が大半で、それを時に魔術や暴力で解決するのが常だった。

 

「つまり、いつもどおりという事か」

「じゃあ、いつもどおりやれば勝てるわね」

「そうですね、そして祝勝会にたんまり食べましょうよ」

 

 誰の顔にも笑顔が昇る。

 脅威はいつだって傍にあり、そしていつでも巻き込まれ、立ち向かい、そして制してきた。

 ここまで大規模なものは早々ないが、しかし乗り越えられなかったものは一つとしてない。ならば今回の脅威とて、いつものように乗り越えられない筈がなかった。

 

 その決意を胸に、ミレイユは口の端に笑みを浮かべて、新たに魔術の制御を開始した。

 



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退魔鎮守 その7

 孔から三体のドラゴンが落ちてきて、落下の衝撃で地面が揺れた。

 その衝撃のみならず、ドラゴンの巨体に押し潰されて絶命する魔物は少なくない。そしてよく見れば、その何れも最初に見たドラゴンよりも身体が大きく、個体としても強力な存在であると分かった。

 

「……あれ、不味くない?」

「巨人にとっては、確かにな」

「せっかく良い兵隊になると思ったのに、もうお役御免ですか」

 

 巨人はドラゴンを捕食する事はあるが、ドラゴンもまた巨人を捕食する存在でもある。完全な上下関係がある訳でも、生態系としてどちらが上にあるかが決まっている訳でもない。

 個体ごと、どちらが強いかで全てが決まる関係だ。

 

 多くの場合、ドラゴンは群れる事がないから、今回のようなケースは随分特殊だが、複数体から襲われれば強力な巨人であっても成す術がないだろう。

 実際、巨人は善戦してみせたが、一度噛みつかれたら最後、あっという間に三体からの攻撃に飲まれてしまった。

 

 棍棒を振り回し、簡単に近づけさせず、一度は頭を打ち据えて遠退けたものの、三体同時に相手するには力不足だった。

 ドラゴンの内の一体は、頭に傷を負ったが継戦能力に問題ないように思える。

 口の中に炎を燃やし、見定めるようにミレイユ達へ頭を向けては、じっとりとした視線を向けてきた。

 

「……どうします、先手を打ちますか? 『氷霜の嵐』を差し向ける事も出来ますよ」

「ああ、だが一定数の魔物を自動的に処理できてるのは、結構魅力的なんだよな……」

 

 それがあるからこそ、ミレイユの放つ魔術で、こちらに向かってくる魔物を処理できている。それをドラゴンに回してしまえば、攻撃を逃れる魔物は数を増やすだろう。

 それだけでやられてしまうほど脆くはないが、現状の破綻を招く前兆になるのは間違いない。

 かといって、ドラゴンを自由にさせても結果は変わらない気がする。

 

 ミレイユはとりあえず、アヴェリンをドラゴンへ差し向ける事にした。

 思念を飛ばして命令を送れば、即座に了解の意が返って来て、魔物たちを弾き飛ばして前進を始めた。

 絨毯のように敷き詰められた魔物の中を疾駆するのだから、相当な邪魔が入るだろうと思いきや、一本の矢が貫くが如しで、抵抗らしい抵抗をさせぬままドラゴンの元へ辿り着く。

 

 そのまま傷付いたドラゴンの頭へ一撃を加えると、持ち上がっていた頭が地面にぶつかり、眼球が飛び出し圧潰する。悲鳴を上げる間もなく一体のドラゴンが葬られ、ミレイユは意外そうに片眉を上げた。

 

「あのドラゴン、あんなに脆かったのか? 見た感じ、それほど弱い個体には見えなかったが」

「そうね……、最初に巨人からダメージを受けていたのは確かだけど……。案外、見た目以上に深刻だったのかしら? だったらもう少し、巨人に黙祷捧げてやらなきゃならないんだけど」

「いやぁ……、もっと単純な理由だと思いますよ」

 

 ルチアが呆れた様な、あるいは気分を害したような表情で、次の標的に移ったアヴェリンを見た。それに合わせてミレイユも視線を向けて、そして目を細めて注視すると、彼女の顔が歓喜に溢れているのに気付いた。

 

 四方八方から襲い掛かる攻撃を躱し、いなし、受け止めて、そして反撃で骨を砕く。時として返り血が肌を汚し、革鎧にも付着するが、それが彼女を更に興奮させていた。

 戦場で色づく戦化粧、それがアヴェリンを彩り、それを力に変えるかの如く更に敵を屠っていく。メイスを一つ振る度に、力を一つ増していくようですらあった。

 

 同じものを目にしていたユミルは、視線を切って首を振る。

 

「あぁ、ヤダヤダ……。張り切りすぎでしょ」

「そうなる気持ちは分かるがな。最近は少し、我慢させ過ぎた。アヴェリンに見合う敵が出現しなかったせいもあるが……何にしてもストレスを多く溜め込んでいたようだな」

「あちらでは基本、私達に立ち塞がるに相応しい敵ばかりだったものですし……」

 

 タネの割れた今となっては不思議でもないし、不快感が募るばかりだが、常に神々から試練を与えられていたようなものだった。階段を一つ上がれば次の段、そうしてミレイユが成長できるよう、常に苦戦する相手を充てがわれていた。

 

 楽な相手もいたが、それは大抵落差の激しい小物であり、恐らくそちらは何の忖度なしに偶然ミレイユと関わり合った相手だったのだろう。

 魂の昇華を促進したい神々からすれば、差し向ける試練は厳選し、その最短ルートを提示していたつもりだったのかもしれない。

 

 ――今となってはどうでも良いが……。

 常に強敵と戦いたい欲求を持つアヴェリンにとっては、むしろ都合の良い戦闘環境であったろう。現世に来てからこちら、アヴェリンを満足させられる敵が現れなかった事を思えば、あのはしゃぎようも理解できる。

 

 アヴェリンが二体のドラゴンを掻い潜り、二つのブレスを盾で防ぎながらも突進し、その内一体を殴り飛ばす。それがもう一体のブレスを躱す盾となり、その間に頭部の後ろに回り込んで首の根元辺りを殴り付けた。

 

 どのような生物であれ、首があるなら大抵はそこが弱点だ。ドラゴンは蛇のような見た目であるものの、やはり首の付根に位置する部分に急所はある。

 身を仰け反らせて痙攣し始めると、即座に残りの三体目に飛びかかった。

 

 ここからでは聞こえないが、恐らく戦いの雄叫びを上げて殴り付けている事だろう。それは己の戦意高揚を呼び起こすだけでなく、敵への威嚇と威圧を兼ねている。

 ドラゴンとアヴェリンの周りに魔物が寄ろうとしないのは、何も一人と一体の戦いが危険だからという理由ばかりではない。

 

「絶好調ですねぇ、アヴェリンさん……」

「なんか身体から湯気立ってるし……。あれ絶対、血の温かさだけが原因じゃないでしょ……」

 

 戦意の高さを血が滾る、と表現する事があるが、今のアヴェリンは正にその状態である気がした。もはや単純な痛みでは、彼女を止める事はできないだろう。

 両手を失っても、敵の喉笛を噛みちぎって戦場を走り回りそうですらある。

 

 残りの一匹に止めを刺して、アヴェリンはドラゴンの頭上で雄叫びを上げた。

 今度はこちらにも伝わるような大音量で、周囲にいた魔物たちも竦み上がっている。本来、敵陣の真っ只中にいる人間などカモでしかないだろうに、誰も近付いていかないどころか、逃げ出すようにミレイユ達の方へ向かって来ていた。

 

 敵は別にいる、あちらが本命だ、という大義名分を自分に言い聞かせて逃げているのかもしれない。

 だが背を向けた相手をそのまま逃がす程、アヴェリンは甘くない。そして背後を見せた群れというのは実に脆かった。ミレイユの射程に入る前には半壊していて、そこへ更にフラットロも加わる。

 

 ミレイユの放った魔術とフラットロの突撃で大爆発を起こし、残っていた魔物達も綺麗に片付いた。後には大量の死体が残るばかりだが、孔からは更に魔物が落ちてくる。

 

「あらまぁ、トコトン楽させてくれないみたいね」

「一番苦労しているアヴェリンの前で、それ言うなよ」

「あれはあれで苦労を楽しんでいるから、別に良いのよ」

 

 ユミルが皮肉げに笑って、遠くアヴェリンへと視線を向けた。倒すべき獲物が吹き飛び、次なる獲物を目指して疾駆する姿を見つめる。

 確かに苦とも思っていない素振りだが、だからと余裕ぶって構えてる訳にもいかない。

 

 それに――。

 またも孔からドラゴンが落ちてくる。今度はどれも先程より大きな個体で、一筋縄ではいかない敵に思えるが、アヴェリンからすれば笑みを深めるばかりの相手だろう。

 

 ミレイユはドラゴンの脅威よりも、むしろ孔の方へ目を向けた。

 落ちてくる度に孔は拡がり、ドラゴンが通ってきた孔は、更なる拡がりを見せる事で隣り合った孔とくっつき、より巨大な孔を作っている。

 それまで小さく空いていただけの孔も同様で、無数にあった筈の孔は、今では数を減らしてより大きい孔を形成するに至っていた。

 

「嫌な感じだな……。ドラゴンを大盤振る舞いだと思っていたが、むしろ目的は別にあるのか?」

「有り得ますよね。ドラゴンすら捨て駒、より巨大な孔を開けるための布石だという事ですか。でも、それにしては可笑しい……」

 

 ルチアが眉を顰め、そしておざなりになりかけた制御を取り戻そうと、慌てたように杖を翳して形を崩しかけた嵐を戻した。

 しばし制御に集中しようと顔を向けなくなったので、続きを催促しようにも憚られる。

 何を言い掛けたのか考えようとして、横合いからユミルが言葉を継いだ。

 

「そうね……、あれ成竜したばかりでもなく、長く生きたドラゴンでしょ? 孔があるから入りたい、なんて思う輩じゃないと思うのよね」

「神の口車に唆されたか?」

「話し合いにすらならないと思うんだけど……、何か余程甘い飴でもぶら下げられたのかしらねぇ……」

「飴さえ用意できれば、言う事を聞くと思うか?」

「さて……」

 

 ユミルは首を傾げて考え込み、今も暴れようと身体をくゆらせるドラゴンを見る。

 

「難しいと思うのよね。でも、どのような飴であれ、片道の一方通行だと思っているなら用意できるのかもね。捨て駒だと知っているのは神ばかりなり、というコトよ」

「恐らく、あちらの目的は私を連れ出す事だと思うが……成功するとは見ていないのか」

「数を投入しても無理と考えているのかも。――実際そうよ、一所にドラゴンが集まれば、仲間割れするのがドラゴンなんだから。共通の敵が目の前にいたところで、果たしてアンタをどうこう出来るかしらね?」

「……だから、孔さえ通ってくれれば良いと。そして、その為ならどのように甘い条件でも飲んで見せたという事か。……なるほど、大きな空手形を切ったな」

「達成できないと頭から知っていれば、どんな手形だろうと切れるってモンよねぇ……」

 

 ユミルが嫌悪感を多分に含んだしかめっ面で吐き捨てると、制御を取り戻したルチアが声を掛けてきた。

 

「ドラゴンすら捨て石で拡大させるって……、ミレイさんを通すだけで見たら過分に思えるんですけど。一体何をするつもりなんでしょうか」

「そればっかりはアタシにも分からないわ。単にこの子を通すには、それだけの大きさが必要だと考えただけかもしれないし。そうじゃないなら……、神造兵器を用いる為とか」

 

 聞き慣れない言葉に、ミレイユは眉を顰めてユミルに問う。

 

「随分物騒な単語だな。どういうものなんだ」

「現世の兵器とは、また定義が異なるわよ。大砲みたいなものじゃなくて、何ていうのかしらね……。巨人というより……ゴーレム、そう、ゴーレムが最も近いかしら」

「人造ならぬ、神造のゴーレム兵器だと? 具体的には?」

「アタシは直接見たコトないから知らないわ。ただ、巨大なもので人型をしている、という情報を知ってるだけ。『地均し』って異名を持つコトもね」

 

 地均し、とミレイユは口の中で言葉を転がす。

 それが言葉通りの意味を持つなら、その巨体で世界を平らに出来るほどの力を持つのかもしれない。あくまで誇張表現だというだけで、本当にそこまで巨大である訳ではないだろうが、もし仮に狙いがそれだとしたら、脅威になるのは間違いなかった。

 

 何しろ、単に巨体である敵は面倒であっても脅威ではない。ジャイアント・キリングは幾つも成功させてきた、ミレイユの勲だ。

 だがそれは、きっと脅威に見合った戦闘力を持っていて、それがミレイユを打ち倒せると踏むからこそ、送り込んでくるのだろう。

 

「――ま、今は憶測に憶測を重ねたものに過ぎないわ。アタシですら伝聞でしか知らない古代の物、悲観的に考えるものでもないわよね」

 

 ユミルに言われて、その通りだと頷く。

 今はとにかく、襲い掛かってくる魔物に対処するのが先決だった。

 ミレイユは魔術を制御し、前方に向かって火炎旋風を放つ。多くの魔物が炎の嵐に巻き込まれ、吹き上がっては燃え散っていく。

 

 孔から出現してくる魔物の数に陰りはない。

 長く掛かる戦いと予想はしていたが、まだまだ終わりは見えそうになかった。

 



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退魔鎮守 その8

 孔の一つ一つが大きさを増してきたからといって、その孔に見合う巨体が現れるという訳でもなかった。そもそもミレイユがそうであるように、孔に対して見合う大きさを持っていなくても、魔力総量の問題で通行できるかは別の問題だ。

 孔の大きさはあくまで、その指針となるものであって、巨体であるほど魔力が多いとはならない。だが実際、ドラゴンや巨人がそうであるように、巨体に見合う――そして生きた年齢に見合うだけの魔力総量を持つ個体というものは多い。

 

 次に姿を見せたのも、そういう類の魔物で、ドラゴン三匹を束ねたような巨大な身体を有していた。遠目で見ただけではヘラジカのようにも見える。

 偶蹄類のような見た目で、厚い毛皮と長毛が垂れ下がり、足が長く体高があって二十メートルを軽く超えている。箆のように平たい角を持つが、それが鈍色に輝いているところが現世の生物と大きく違う部分だ。

 あれは魔力器官となっていて、マナを大きく吸収する手助けをすると共に、魔力を効率良く放出する役目を持つ。

 

「エルクセスじゃないの、あんなのまで来たワケ? 巨大モンスターの品評会でも開くつもり?」

「私は初めて見ました。……あれがそうなんですね。氷結属性は明らかに不利な見た目してますけど……」

「まぁ、実際効果は薄いでしょうよ。嫌がらせが精々でしょ。……あれはちょっと、アヴェリンでも手を余らすと思うのよね」

 

 エルクセスは単なる魔物でもなく、また獣でもない。災害と同列に扱うような存在だ。魔物を含めた生物に対して思う事はない筈だが、単に通り過ぎるだけでも破壊の跡を残してしまう。

 攻撃するのが一番の悪手で、その巨体故に矢か魔術を使うのが有効となるのだが、毛皮によって矢は届かないし、魔力はその角によって妨害される。

 

 あれが避雷針のような役割を持っていて、そちらに流れてしまうのだ。

 並大抵の魔力はそのまま吸収され、反撃の為に再利用されてしまうので、エルクセスへ利する行為となってしまう。自らの街を守るため、進路を変更させようと悪戦苦闘しつつも、結局踏み潰されるだけ、というのはよく聞く話だった。

 

「ボホォォォオオオオ!!」

 

 そのエルクセスが、ミレイユ達を目に止めて角笛を吹き鳴らすかのような声音で吠えた。

 ドラゴンも更に追加されようとしているし、地上には多くの魔物が犇めいている。それが無秩序に向かって来ようとしていた。アヴェリンはドラゴンの一体に狙いを付け、フラットロはエルクセスと相性が悪いから遠ざける。

 

 元よりフラットロ一体で留めていられるものではないが、その物量を既に抑えきれなくなってきた。最初の頼もしさは既になく、時折起こる爆発も、小さな花火のように感じられる有様だった。

 ユミルが一つ息を吐いてから言う。

 

「……なかなか厳しい状況ね」

「エルクセスは、こっちに寄らせたくないが……かといって迎撃は現実的でもないな」

「アンタでも無理?」

「アヴェリンを巻き込む。それ程の規模の術でなければ止められない」

「……魔術抵抗の支援を掛けた筈だけど、それをブチ抜く程の威力じゃないと無理だって?」

「半端な魔術じゃ吸収されてオシマイだ。反撃に利用されれば、私達はともかく後ろの被害は甚大だろう。試すつもりにはならない」

 

 ユミルは顰めた顔から、盛大に息を吐いて鼻の頭を掻いた。

 エルクセスの吸収量とて無尽蔵ではない。反撃の暇も与えずに、あるいは反撃をさせつつ魔術を打ち込み続ける。そうすれば、吸収するより早く蓄積量を上回り、いずれ自爆する事になるのだが、それをするには隊士達が邪魔だった。

 

 恐らく、その間に流れ弾を受けて吹き飛んでしまうだろう。

 彼らは必ず生かすべき人材でも、守り続けなければならない民という訳でもないが、彼らにも彼らなりに出来る役割がある。すぐにでも、大物を相手にする為小型や雑魚はそちらへ流す必要に迫られるだろう。

 それをさせる為にも、今は無理をしてまで取る戦術ではなかった。

 

「ミレイさん、私はどうします? 雑魚を散らし続けていますか」

「そうだな、今はそれでいい。だが、私が合図したら小型は後ろに流れるよう誘導しろ。同様に蹴散らしつつ、逃げ道を用意するんだ」

「了解です」

 

 ルチアに頷いて見せて前を向く。敵の動きとアヴェリンをどう使うか考えていると、隣から不満気な調子で声がかけられた。

 

「……ちょっと、アタシは?」

「何かちょっといい感じに何とか上手くやってくれ」

「アタシの指示がどうしてそうも、適当でいい加減なのよ!」

 

 ミレイユは新たに魔術を放ちながら、肩を揺さぶってくるユミルをぞんざいに払う。

 なおも食って掛かろうとするユミルを止めて、ちらりと視線を向けてから前を向いた。

 

「お前なら何か言う必要もなく、最善の方法を取るだろう? これはつまり、信頼の表明だ」

「どこがよ。アタシが本当に適当やったら文句言う癖に」

「そりゃあ馬鹿をされたら、文句の一つも出るものだろう」

「だったら先にやって欲しいコト言っとけって話でしょ」

「――いいですから、馬鹿な言い合いは、そろそろ止めておいて下さいね」

 

 ルチアからの仲裁が入って、ミレイユもユミルも口を噤んだ。

 言い合いをしている間も、ミレイユは魔術を制御をしたりと別にサボっていた訳ではないのだが、端から聞いている者からすれば関係ないだろう。

 戒めるつもりでルチアに小さく頭を下げて、それから魔術を一つ放ち、魔物を吹き飛ばしながらユミルへ向き直る。

 

「上手く気を回してフォローしてくれるだろう、というのも正直な感想だし、言わなくてもやるだろうと思ってもいたが……。あれだけ魔物を殺したんだ、やって欲しい事は分かるだろう」

「死霊術使えって?」

「『死霊作成』した上で、『呪霊変化』からの『死出の支配』で撹乱させろ。恐慌状態にさせた上で、統率された動きをさせなくするんだ」

「……あら、大仕事ですコト。アンタ簡単に言うけどね、それ別に簡単な魔術じゃないからね?」

「今まで楽して来たんだ、その貸しを返すと思え」

 

 死霊術は他の系統と違って、また別の才能が必要になるとされる。

 死霊を作成する、という時点で肉体から離れた魂を利用する術だけに、多くの即興性を求められ、また作成しただけでは弱すぎて戦闘には向かない。

 

 暗がりから飛び出させてやれば驚いて逃げる相手もいるだろうが、この場で使うには不適切だろう。

 だから作成した死霊を呪霊へと変化させてやる必要があるのだが、これにはまた別の魂を掛け合わせなくてはならず、二体以上の死体が必要だ。

 

 多くの魂を使用すればするほど強力な死霊になるが、自我を持ち始めた死霊は生者に対して牙を向く。それは作成者に対しても例外ではなく、単に精霊を召喚して戦わせるよりも尚リスクが伴う術なので、倫理的に使用を拒むという以前に誰も使いたがらない。

 

 多くの条件とリスクを負っても精霊より弱いというのが常なので、実戦には向かないし、使い終わった死霊は勝手に消えてはくれない。その場に残り続けて生者なら何でも襲う悪霊と化すので、そういう意味でも人にも魔物にも嫌われる存在だ。

 

 それが力を持つと、物理的攻撃は元より効果がない上に壁なども無視して動き、魔術的抵抗も持って襲うようになる。これを支配し続けるというのは大変な労力で、この支配を断ち切られると、今度は自分が危ない。

 だから使うべきではない、というのが通説だが、これを使いこなせば精神的に敵を追い込みつつ、自分は安全な壁の向こう、建物の向こうから攻撃する事も発狂させる事も自由自在だ。

 

 ここに壁はないし、無防備な姿を晒す事になるが、何しろここにはとにかく利用できる新鮮な死体が無数とある。材料には事欠かないので、適当に作っても十分な嫌がらせを行う事が出来るだろう。

 魔物に限った話ではないが、とかく死霊は嫌われ近付きたがらない存在だから、一方向へ誘導ささせるには役に立つ。

 

 そして魔術も魔術付与された武器もない相手には、一方的に攻撃できた。

 本来は壁の中に籠もった相手などへ使って、外に誘き出したりするのが正しい運用方法だと思うが、今回は少し変則的な方法で使ってもらう。

 

 実際、統率されていない群に使うなら、前も後ろも流れに逆らって動けない奴らには有効に働くのだろうから。

 

 ミレイユが目配せ一つで頼む、と言うと、ユミルは嫌がる口ぶりと反して魔術の行使を始めた。手近にあった死体から白い球体がゆっくりと動き出し、それが下半身を持たない人型のような形を作っていく。

 

 同じように作られたもの同士を繋ぎ合わせ、より強固な存在へと作り上げていくのを尻目に、ミレイユは前方へと意識を集中する。

 アヴェリンは今もドラゴンと戦闘中だが、個体の強さと数、そしてエルクセスが気になって集中し切れていないように思う。

 

 あれと戦いたいというよりは、あれがミレイユの元まで辿り着いてしまう、と理解したからだろう。その時、自分が傍にいないでどうするのか、とでも考えているのかもしれない。

 ミレイユとしても、いつまでもアヴェリンを孤軍奮闘させておくつもりはない。

 そろそろ一箇所に戦力を集中させるべき時だろう。

 

 ミレイユはフラットロにも思念を飛ばし、戻って来るよう伝えると、再び魔術の制御を始めた。自身にはいっそ無尽蔵と思える魔力があるが、無理をさせているルチアは少し苦しそうだ。

 そちらに休憩を与える為にも、少し無理をする必要があるだろう。

 

 ユミルが一つの呪霊を作成し、それを盾とするように前面へ配置するのを見届けると、ミレイユは足元に向かって魔術を放った。

 



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退魔鎮守 その9

「あー、面倒くさっ……! 久々に使ったらホンット思うわ。これ絶対、意味不明で用途不明よ! 使われなくなった理由も分かるわ……!」

「一々そんな事、愚痴らないでくださいよ。私だって別に、楽々行使してる訳じゃないんですけど……」

「分かってるわよ、そんなコト。でもアンタ、こっちの工程の多さ知ったら、言いたくなる気持ち分かるわよ……!? 死霊を作ってから、実践レベルまで持っていくまで長すぎでしょ!」

「分かりましたから、やめてくださいよ。気が滅入ってくるじゃないですか。ただでさえ視界の中に呪霊がいるっていうのに……」

 

 ミレイユもまた同意して首肯を繰り返した。ルチアにとっても、ご多分に漏れず死霊が苦手で、顔を顰めてはなるべく見ないで済むように身体の向きを変えたりしている。

 苦悶の表情でうめき声を上げては、ゆらゆらと浮遊している霊を見れば、そうしたくなる気持ちもよく分かる。叶うならミレイユもそうしたい所だが、何しろ自身を守護するように揺蕩っているので、どう足掻いても視界に入る。

 

 注視する事だけはしないようにしながら、ミレイユは制御していた魔術を足元へと放ち陣を作成した。『詠み唱う星の陣』とよばれるこの魔術は、幾科学模様の描かれた陣内で、使用者の制御を助けてくれる。

 喉につっかえていた声が滑らかに流れ出すように、制御もよりスムーズに動くよう補助してくれる陣だが、これは単に楽させる為に用意したのではなく、これから激化するだろう戦闘の助けになるだろうと思っての事だ。

 

 ユミルはお湯に浸かったかのように息を吐いたが、リラックスできるような余裕が出来るのは今のうちだけだ。

 何しろ――。

 

 ミレイユは前方の遥か奥、エルクセスの方へと視線を向ければ、そこには戦意を見せ鼻息荒く地を削るように前足を動かす姿が見えた。

 エルクセスが何かに感心を寄せる事も、何かに敵意を向けたりするのを見たのは初めてで、またそのような気質を持っているのを初めて知った。

 

 存在を災害に例えられるように、ただ在るが儘ある、というだけで多くの生物に取って害になる。悪意持つ存在ではないので、ただ通り過ぎるのを待つか、あるいは逃げるかを選択するしかないし、敵意を向けなければ敢えて攻撃をしてくる相手でもない。

 

 それが明らかな戦意を見せたとなると、やはり神の介入があったと見るべきか。

 あれらが本気である事は理解していたつもりだが、この現世を滅ぼしても構わないと思っている事は、これで再確認できた。

 

 あれに敗北するか、あるいは逃がす様な事があれば、間違いなく壊滅的な被害を受ける。結界内から出すつもりがないから、この場で仕留めてしまうしかない。

 だが、倒したいと思って倒せる程、容易い相手でもない。

 

 思念を飛ばして戻るよう指示していたフラットロも、即座にここへ帰って来た。

 あれほど暴れさせたとあっては、疲れのようなものを感じてしまうらしい。精霊に体力切れの疲労というものは存在しないが、消費した魔力量に応じて、それに似たような状態にはなる。

 

 咄嗟に自身へ『炎のカーテン』を行使して、自身の火耐性を上昇させると両手を広げた。フラットロはそこに嬉しそうに飛び込んでくる。

 労いと魔力補給を同時に行うには、これが一番効率的なのだ。

 

「大丈夫か、フラットロ。苦労させるな」

「平気だよ! ぜんぜん平気!」

 

 まるで本当の犬のように首筋にじゃれついて来るのをあしらいながら、その背を撫でつつ魔力を注いでいく。尻尾もうるさいほど左右に振れ、フラットロの機嫌も急上昇していく。

 首筋や口元に鼻を寄せていたフラットロは、それから思い出したかのように背後を窺った。

 その視線はエルクセスへと向いており、次いでどうするつもりなのかと顔を寄せてくる。

 

「あれ倒す? ……あれは平気じゃないかも」

「あぁ、分かってる。お前は十分よくやってくれた」

「まだやれるよ! ぜんぜんやれるよ!」

 

 身を捩って腕の中から抜け出し、自分の戦意をアピールしてくる。その仕草までもが犬のように見え、とても精霊とは思えない。

 だがその心意気は嬉しかった。本来精霊との契約は、もっと淡白でドライなものだ。与えられた魔力の分だけの仕事をする。命じられたように動き、それが終われば帰還するものなのだ。

 

 多くの術士が精霊個人ではなく精霊の種として契約するからこそ、そういった形になるのが自然なのだが、ミレイユとフラットロは個人契約のような状態だ。

 火の精霊なら、どのような状況でも必ずフラットロがやってくる。気紛れな精霊は言うことを聞かない事も多く、へそを曲げたら呼びかけにすら応じなくなるから、個人契約のような関係は悪手と見做す傾向がある。

 

 だが、ミレイユとフラットロのようにウマがあったり心を許す関係にまでなると、注いだ魔力量以上の働きを見せてくれる。

 死という概念がないからこそ、大抵の危険にも物怖じせずに応じてくれるのだが、何しろエルクセスとは相性が悪すぎる。

 

 近付くだけで吸収されてしまう恐れすらあった。

 それは別に死を意味しないし、単に魔力が切れた状態と同じで精霊界に帰還するだけだが、敵を前に意味を成さないという意味では、頼りにする事は出来ない。

 

「フラットロ、お前には引き続き、数の多い魔物を間引いてもらう。――出来るか?」

「やるよ! ぜんぜん出来るよ!」

「ああ、頼むぞ。好きに暴れろ」

 

 その言葉を聞くや否や、フラットロは飛び出して目に付く集団へとぶつかって行く。その度に小規模な爆発を起こし、所々から悲鳴が上がった。

 それを見送ってユミルへ視線を転じると、思わずギョッと身体を固くした。

 

「……何やってるんだ、お前」

「いや、手持ち無沙汰だったから、ついやり過ぎちゃって……」

 

 ユミルから少し離れた場所には、呪霊が既に十体作成されていた。

 使用できる魂が溢れているからといって、容易に出来る事ではない。そもそも、それだけ用意して運用できるのか、という問題もあった。

 

 本来は最大でも三体まで、というのが通説だ。

 それぞれに糸を張って動かすようなものだから、単純に一体を操作するより難易度が上がる。何も腕一つ上げさせるのに苦労するという事はないが、数が増えれば単純な命令しか出来なくなるものだった。

 

 それこそ、機転を利かせた動きなど不可能で、互いのフォローも満足には行えまい。辺りに漂わせて半自動化、という扱い方になるだろう。

 

「……それ、大丈夫なのか? 襲ってきたりしないよな?」

「勿論、大丈夫よ。襲うにしても魔物だけって、そこは徹底させてあるから。自分だけは死霊入りにさせないなんて、基本中の基本よね」

「自分だけ? いま自分だけって言ったか?」

 

 どうにも聞き逃がせない台詞にミレイユが睨め付けると、ユミルは片目を瞑って手をヒラヒラと動かした。

 

「やぁね、言葉の綾よ。勿論アンタ達も平気だってば。……多分」

「多分?」

「いや、恐らく。おおかた……かなり、想定に寄ればね」

「何一つ意味が変わらないんだよ。――お前、本当に大丈夫なんだろうな」

「大丈夫よ、一つ仕込みがあるからね」

「……だと良いがな」

 

 ミレイユが疑わしい視線のまま向き直ると、遠くでアヴェリンがまた一体のドラゴンを仕留めたところだった。

 流石に無傷とはいかないようで、返り血とは違うものが頭部から流れている。吐く息も荒く、満身創痍という訳ではないが、これ以上の継戦は難しそうに見えた。

 

「誰かさん達が馬鹿な遣り取りをしている間にも、アヴェリンさんはしっかりと自分の役目をこなしてましたよ」

「そのようだ……、労ってやらないとな」

 

 アヴェリンは一人になった時、回復などが受けられない時などに備えて水薬を複数所持している。傷を受ければ飲めば良いだけだが、敵の猛攻が激しい時には、それをさせてくれる余裕もない。

 今のアヴェリンは複数のドラゴンから上下左右に囲まれている状況で、その内の一体を仕留めたところだ。知らぬ内に絶体絶命のピンチを迎え、そしてそれを脱する切っ掛けを作ったところだったようだ。

 

 しかし、四体いる中から一体を倒すという偉業により、支払った代償は大きかった。

 残るドラゴンのブレスに焼かれるか、あるいは飲み込まれるか、それとも……という状況で、ミレイユはさっと一つ腕を振るって魔術を行使する。

 

 アヴェリンに限らず、この三人には常にマーキングがされていて、ミレイユの意思一つで喚び出せる。一種の契約召喚を結んでいるから出来る芸当だった。それを誰もが知っているから、手の届かない場所でアヴェリンが危機と思っていても、声すら上げない。

 正にアヴェリンがドラゴンのアギトに飲み込まれる瞬間、その姿が掻き消え、ミレイユの傍らに現れる。

 

「ハァ、ハァ、ハァ……!」

 

 付近の温度が一瞬で上がったように感じた。

 返り血と自身の血で湧き上がるように湯気が立ち昇り、そして荒い息は全身の熱を逃がそうとするかのように熱い。

 一瞬で視界が切り替わり、その直ぐ近くにいるのがミレイユと知ると、アヴェリンは強張った身体を弛緩させた。

 

「アヴェリン、よく戦ってくれた」

「ハッ! ありがとう……っ、ハァ……っ、ございます!」

「苦労してくれたが、すぐにまた戦って貰う。だが今は休め」

「ハッ。では、暫し……」

 

 言い切る前に、アヴェリンは腰を落とし膝を付いた。そのような状況でも、武器を手放さないし盾も構えた状態のままだ。座り込んだといっても、命令あれば、あるいは危機あれば即座に動けるような体勢を取っている。

 

 そこにミレイユは治癒魔術を掛けてやりながら、自身でも所持しているスタミナ回復の水薬を口元へ持っていった。親指一つでコルクを抜いて、喉元へ流し込むようにしながら、もう片方の手で傷を癒やす。

 

 明らかにアヴェリンの顔がホッとしたものに変わり、言葉通り一つ息を吐いた瞬間、横合いから水を掛けられた。これもまた、言葉通りの水掛けで、魔術で生み出した水を頭から掛けられたのだ。

 やったのは誰かと言えば、この状況で手が空いているのは一人しかいない。

 

「ご無事で何よりでございますけれど、アンタ臭いのよ。血糊と汗の匂いで、すっごいコトになってんのよ?」

「だから何だ。戦場で彩る戦化粧は誉れだろう。強敵となれば尚更だ」

「いやぁ、確かにアンタ、生き生きし過ぎて怖いくらいだったけどさぁ……」

 

 アヴェリンは髪や顔から滴る水を、ぞんざいに拭い落として立ち上がる。冷や水をぶっ掛けられたというのに、未だ心は戦闘中のようで、その瞳は剣呑に輝いていた。

 そこに空気を敢えて読まないルチアが言う。

 

「うわぁ、寒そう……。大丈夫なんですか、それ」

「水すら今の私には熱い……! 滾ったものが溢れ出しそうで爆発しそうだ」

「――ならば直ぐに動くか? 別にまだ休んでもいいんだぞ」

「いえ、叶うならばこのままで。ドラゴンどもに、どちらが格上か教えてやらねば」

 

 アヴェリンの瞳が再び爛々と輝く。

 だが、それより前に……あるいは平行してやって貰わねばならない事があった。

 

「エルクセスを放置してはおけない。こちらへ向かってくるつもりだぞ。逃げる事も、逃がす事も出来ない。その間の雑魚は二人と――」

 

 言いながら、背後で防御陣地を更に堅牢に構築し終えた隊士達を示す。

 

「あれらに請け負ってもらう。――エルクセスは、まず手早く片付けねばならない」

「お任せ下さい!」

「私も一緒に前へ出る。共にやるぞ」

「ハッ、光栄です!!」

 

 元より高かったアヴェリンの戦意が、更なる急上昇を見せた。

 身体の震えは歓喜の震えに違いなく、強敵相手に二人で挑めることを感謝しているようですらあった。ルチアはそんなアヴェリンを見て、唖然としてから顔を引きつかせ、自らの役目に戻っていった。

 

 孔の直下ではなく、敵を後方へ誘導しながら間引いていっている。陣があるので楽に制御できているし、ミレイユが抜けて手薄になった部分には呪霊がいる。

 暫しのあいだ離れていても問題はないだろう。

 

 ミレイユは隣に立ったアヴェリンに目配せすると、一つ頷いてから飛び出した。

 



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退魔鎮守 その10

 ミレイユは駆け出しながら魔術を行使し、自身の強化を図る。

 そろそろアヴェリンの強化も切れる頃合いなので、完全に効果が消失する前に重ね掛けしておく必要があった。

 

 アヴェリンはミレイユに合わせてわざと歩調を緩めているが、この強化の掛け終わりか、あるいは敵の突進次第で、即座に離れていくつもりだろう。

 盾役として若干前に出てはいるものの、このような場合、より前に出て敵の攻撃を誘うのが常道なのだ。

 

 前進する間に、他の魔物も襲い掛かってくる。

 どれも鎧袖一触とはいかない相手とはいえ、ここで足を止めて戦ってしまえば、エルクセスへと到達する前に魔物の波に呑まれてしまう。

 

 ミレイユは多方面から襲ってくる攻撃を躱し、時に殴り付けてくる敵を踏み台にしながら前進を続ける。エルクセスも自らが標的としている相手が向かってくると分かって、その長い脚を伸ばして踏み出した。

 

 その一歩だけで地響きが起こる。

 ゴフゴフと荒い息を口の端から零し、ミレイユをひたりと見つめていた。それと同時に鈍色に光る箆角が輝き出す。それは魔力制御を始めた予兆だった。

 

 光る色は青く、それが氷結系の攻勢魔術であると察し、アヴェリンに掛けていてた支援術を早めて完成させる。最後に氷結系に対する耐性を高めてやって、一つの魔術を加えると共にその背を叩いた。

 

「――よし行け、アヴェリン!」

「ハッ!」

 

 その背に指先が触れると共に、魔術による手助けもあって弾丸のように飛び出した。

 元より素早く動いていた二人だが、それで完全にミレイユを置き去りにして前に出る。瞬きの間にエルクセスへと肉薄し、跳躍すると共に肩口へと殴り付けた。

 

「ブフォン!」

 

 その衝撃で身体が揺れたものの、エルクセスは不機嫌そうに一鳴きしただけで、それ以上の反応を示さない。

 アヴェリンとしても、その一撃で沈められると思っていた訳でもないだろうが、ここまで蔑ろにされるとも思わなかった筈だ。

 

 ミレイユとしても同じ思いで、せめて体勢が崩れるぐらいの事は起きると予想していただけに、これには思わず舌打ちしたい衝動に駆られた。

 エルクセスは構わず制御を続けて、箆角が更なる輝きを増し、そして魔術が解き放たれる。

 

 ――あれは拙い。

 アヴェリンの一撃で制御が中断される事を期待していただけに、そちらへの対応が遅れてしまった。両手で制御する氷結耐性の盾を瞬時に行使し、前面へ手を突き出す。

 

 エルクセスの放った魔術と、ミレイユが作った盾の魔術が発動するのは同時だった。

 普段は片手で使うことの多い魔術だが、両手で使えば制御も威力も大きく上がる。それを常にやらないのは、そうするだけの場面に巡り合わなかったというのもある。

 だが、より大きい理由として、片手のどちらかを自由にさせておいた方が、咄嗟の対処への対応力が違うからだ。

 

 しかし、今回ばかりはその対応力を捨ててでも、目の前の魔術に集中せねばならなかった。

 一極集中された雹風がミレイユへと押しかける。難なく受けられるとは思っていなかったものの、予想外の強さでその場で足踏みしてしまう程だった。

 

「重いっ……!」

 

 横へ流して逃げようとしても、その度に柔軟に操作して、標的としたミレイユを逃さない。足止めさせて近づけさせない、というのは、それだけミレイユを脅威と思っているからだろうが、目的はそれだけでもなさそうだった。

 

 足を止めたという事は、他の魔物からの攻撃も受けやすくなるという事。

 無防備に背中を見せるミレイユは、恰好の獲物に見えただろう。それまで蹴落としてきた奴らが好戦的に向かってくるのを気配で感じていた。

 

 迫りくる魔物を躱す事は出来る。

 前方から押し付けてくる雹風は、ともすれば他の魔物をも巻き込んだ。逃げる方向を調節すれば、代わりに倒して貰う形へ持っていく事も出来たのだが、それがいつまでも続く訳もない。

 

 雹風を受けるか、それとも背後からの攻撃を受けるか、その択一を迫られた時、大きな爆発が魔物たちを蹴散らす。

 その爆発には覚えがあった。本日幾度も見てきた爆発だ。

 

「フラットロ……!」

「平気、平気! 後ろは守るよ!」

「頼むぞ!」

 

 ミレイユが雹風を受け流すように横へ移動すれば、それに合わせてフラットロも動く。魔物の全てが炎に弱い訳でもなく、むしろ耐性を持つ者も多くいるが、爆炎から守られても爆風からは逃げられない。

 

 わざと足元へ爆発を起こせば、その衝撃までは躱せず吹き飛ばされる事になる。

 非常に頼りになるが、エルクセスへは一向に近づけず、そして動く度に魔物を引き寄せる状況は、楽観できるものではなかった。

 

 フラットロの爆発で敵を遠退ける事は出来ても、倒せない敵は蓄積していく事にもなってしまう。

 その時、硬いものを殴り付けた様な、甲高い音が響き渡ると共に、エルクセスの制御に乱れが生じた。

 吹き付ける雹風が断続的になり、押し付ける力も弱まる。その隙を逃さず、大きく横へ飛び退き、手近な魔物を蹴りつけて、その反動を利用してエルクセスへと接近した。

 

 顔を上方へ向けると、アヴェリンが箆角を力いっぱい殴り付けた姿勢で空中にいた。あの角が魔力器官である事は広く知られた事だ。そこへ攻撃を加えようと考えるのは当然だが、何より頭上までは距離がある。

 

 本来なら、エルクセスもそちらへ注意を払うのだろうが、相手にしていたのは力押し一辺倒で行ける程、簡単な相手ではないミレイユだった。

 普段なら簡単に押し勝って悠々と次へ移るのだろう。だから粘っている間に、箆角を攻撃させる隙を許してしまった。

 

 これで罅の一つでも出来ていれば良いのだが、と目を凝らしてみたが、どうも小さな凹みすら確認できない。アヴェリンの攻撃ですらそれとなると、破壊を目指して注力を向けるのは、あまり得策ではないかもしれない。

 

 アヴェリンが箆角を蹴り飛ばし、その反動で離れて肩口へと降り立つ。ミレイユもまた同じ場所へと登り上がり、肩を揃えて巨大な顔面を見上げた。

 

「……呆れた頑丈さだな」

「元より災害に、武器一つで挑むようなものです。手応えが感じられないのは当然かと」

「だが生物である以上、やりようはある筈だ」

「左様ですね。精々見せつけてやりましょう、蟻の一噛みから崩れ落ちる事もあるのだと!」

 

 敵はあまりに巨体で、実際にエルクセスとアヴェリンとの対比を見れば、蟻のようなものだ。その攻撃も大した効果を上げていないように見える。普段ならこれ以上頼りになる者はいない、と思える武器捌きも、エルクセス相手だとそうもいかない。

 

「ブフォォォオオオ!!」

 

 巨大な口を開けて吠えれば、その音と風圧だけで吹き飛ばされそうになる。跳ねるように肩を揺すられれば尚の事だった。

 ミレイユは一本の剣を召喚し、そこに自分の魔力を纏わせる。召喚の仕方が独特なので、その武器自体が半透明になっていて存在すらも希薄だ。それを魔力でコーティングする事で、有り触れた武器さえ名剣を凌ぐ切れ味を持たせられた。

 

 吹き飛ばされるより前に、ミレイユはその肩口へと武器を突き立てしがみつく。

 アヴェリンも毛皮へしがみつこうとしていたが、何分片手が塞がっているので心許ない。ミレイユは念動力でそれを支えつつ、次にどうするかを考えていた。

 

 エルクセスの肩に載ったお陰で空までが近くなった。

 この場は結界で封じられているが、それがギシギシと音を立て、今にも壊れてしまいそうな雰囲気を肌で感じられる。そもそもの耐久力を考えれば、既にもう破綻していてもおかしくなさそうだったが、それこそ近隣の神社全ての結界術士を動員して保たせているのかもしれない。

 

 次々と現れる、より強い魔力を有した魔物たち。

 下手をすれば、エルクセスが出現した時点で、破壊されていても不思議ではなかった。それでも現在、形を保っていられるのは、全ての人員を回すような努力あってこそだろう。

 

 そして――。

 まだドラゴン達も残っている。

 ミレイユたちが手の届かない所にいるので、下から威嚇するように吠えているものもいるが、早々に見切りをつけてルチア達の元へ向かおうとしているものもいる。

 

 ミレイユがそう指示したとおり、隊士たちへも魔物は流れているし、あまり苦戦が長引けばれば彼らのみならず、ルチア達もまた危ない。

 エルクセスの咆哮が収まると、ミレイユは念動力をアヴェリンに纏わせたまま顔面へ向かって投げ飛ばす。それに続いてミレイユも飛び出した。

 

 明確な弱点と思えるのは箆角だが、アヴェリンにでさえ無理だったなら、ミレイユにも無理だ。残るは眼球ぐらいしか狙えるところがなく、それに狙いを付けてアヴェリンを飛ばしたのだが、瞼を閉じられてしまえば打つ手はない。

 だが、アヴェリンは閉じた瞼の上から構わず叩きつけた。

 

「――ハァッ!」

「ブビィィィィ!!!」

 

 エルクセスは悲鳴を上げて大きく揺れる。涙を流しながら顔を左右に激しく振って、そうしながらも箆角が魔力の制御を示して激しく光った。

 激しく揺さぶるエルクセスの鼻面がアヴェリンを叩く。それで弾き飛ばされたアヴェリンを、ミレイユが咄嗟に念動力で受け止めた。

 

 だが、その強すぎる衝撃にミレイユまでがその動きに引っ張られ、受け止めきれず手放してしまった。

 遠く地面へ吸い込まれるように落ちていくアヴェリンを尻目にしつつ、ミレイユは自分のすべき事を見定めた。

 ――地上へ落下したぐらいで死ぬアヴェリンでもない。

 

 ミレイユは剣を構えて涙を溜めた眦へと一足飛びに近付くと、手首を返して逆手に持ち、体重を掛けて刃を眼球に突き落とした。

 

「ブフィ、ギヒィィィン!!!」

 

 差し込むまでは固く、そして差し込まれてからは柔らかく感じた手応えのまま、重力で引かれるに任せて眼球を引き裂く。

 だが傷つけられ、顔を振って暴れるエルクセスの衝撃は凄まじく、ミレイユもまたアヴェリン同様に吹き飛ばされてしまった。

 

 浮遊感と共に離れていくエルクセスの顔面、血と共に流れる涙を見つめながら、続く落下に身を任せて、ミレイユは次の魔術の制御を始めた。

 



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決戦の舞台 その1

 ミレイユは落下しながら『落葉の陣』を行使しようとして身を捻る。その視線の先では一体のドラゴンが頭部を砕かれ崩れ落ちていて、その頭の上にはアヴェリンが立っていた。

 どうやら落とされた先で、落下速度を乗せた一撃を、その頭に叩き込んだという事らしい。

 

 ――ただで転ぶ奴じゃないよな。

 最初から彼女の事は信頼していたし、怪我の一つもないと思っていたが、ついでにドラゴンを仕留めるというのが、いかにもアヴェリンらしい。

 

 ミレイユはほくそ笑みながら地面へと魔法陣を放ち、それと同時に別の魔術の制御を始める。その、地面までの僅かな距離の間に完了させ、身体がふわりと浮き上がる感覚と共に魔術を放った。

 『猛火の煌き』は術士の前面で扇形に火炎を広げる魔術で、炎を撒き散らすだけでなく残留する。数が密集している場合には、勝手に周囲へ燃え移る上に、消耗も少ない魔術と使い勝手の良いものだった。

 

 悲鳴を上げながら逃げる魔物も多いが、炎に耐性のある魔物は殺意を撒き散らして向かってくる。ミノタウロスは雄叫びを上げながら斧を振り上げ、そして剣を召喚したミレイユは、もう片方の手で袖の中に隠していたダガーを取り出す。それで軽く受け流して、開いた胸元に剣で斬り付けた。

 

 深々と鎖骨から腰まで袈裟斬りにされ、ミノタウロスは倒れる。

 他に向かってくる敵にも攻撃を躱しながら斬り付け、あるいはいなして斬り付け、そして肩からぶつかり耐性を崩して斬り落とした。

 

 足を止めたまま攻撃していたのでは埒が明かないので、大きく飛び退いてアヴェリンの元へと降り立つ。ドラゴンの頭はそれなり高さがあるので、一時しのぎの逃げ場所には丁度良かった。

 付近に残っていた炎に強い魔物には氷結魔術で一掃し、そして遠巻きにしていた魔物が再び襲って来ようとしたところへ、『猛火の煌き』を放って蹴散らす。

 

 それで一旦、一息つけると思っていたのだが、燃える身体を一顧だにせず、それでも武器を掲げて向かってくる魔物がいた。

 アヴェリンがそれを見て、感心したように声を出す。

 

「燃えているのに向かって来るとは、骨のある奴だ」

「そうだな。……ユミルなら、それでも燃えているなら良い気味ね、とでも言いそうだが」

「あれに戦士の矜持は理解できませんから」

 

 アヴェリンの言い分にミレイユが確かに、と含み笑いに応えて、魔物が到達するより前に衝撃波を放って吹き飛ばす。飛ばされた向こうで他の魔物に引火し、そこで阿鼻叫喚の光景を生み出した。

 ミレイユは一瞥だけして満足した顔で頷き、それからアヴェリンへ顔を向け、そしてエルクセスへ視線を固定した。

 

 今も痛みに暴れて頭を振り、悲鳴に似た嘶きを上げては地面を踏み鳴らしている。その蹄が地面を叩く度、衝撃が地面を走り、軽く身体が浮き上がる。

 アヴェリンは元より、ミレイユもまた忌々し気に見上げた。

 

「……あの巨体では、眼球以外に攻撃できるところもないし……かといって、両眼を潰した程度で倒せる相手でもないな」

「全く、左様で……。蹄を潰すことは出来そうですが、足を折るまでとなると難しそうです」

「魔術を使えれば話は早いんだが……」

 

 ミレイユは忌々しい気持ちで睨み付けた。

 実際、エルクセスが災害と評されるのは、そこに理由がある。剣一つ、槍一つで退ける事が出来ない以上、魔術に頼った攻撃をせねばならないのだが、箆角がそれを拒んでしまう。

 

 反撃される前提で攻撃するなら、その戦法もアリなのだが、この場でそれは出来ないという結論に至っている。後は魔力が箆角へ吸収されている間に飽和させる、という方法が取れたら良いのだが……。

 

 ちらり、とミレイユはルチアの方へ目を向ける。

 そちらも押し寄せる魔物を間引きしつつ誘導しているので、とても手が余っているようには見えない。当たり前のように維持している魔術も、本来ならば簡単な事ではない。

 単に上級魔術を扱える程度の力量では、十秒維持して消失させるのが常だ。本来、それ程の威力がある魔術なので、それで十分とも言えるのだが、とにかく見る人が見れば呆れるような手並みを見せている。

 

 少し手を貸せ、と言える状況ではなかった。

 そうとなれば、ミレイユ達二人だけでどうにかするしかない。

 どうしたものかと考えて、とにかくこの場に居続けるのも面倒しか招かないと判断し、アヴェリンの腕に手を触れた。

 

「まず上に飛ばす。両眼を潰す事から始めよう」

「畏まりました」

 

 返事を聞き終わるのと、殺到する魔物がドラゴンを駆け上がってくるのは同時だった。

 アヴェリンを頭上へ射出すると、即座に自分も同じく頭上へ飛ぶ。ほぼ同時に打ち上がったが、そもそもこの術は自由に空を移動するようなものではない。

 

 結界に頭をぶつけるか、あるいは潰されてしまう事になるので、『念動力』を使ってアヴェリンの移動方向を強制的に変えてやる。ミレイユもまたエルクセスの長毛に掴まるようにして、強制的に向きを変えてはその背中に降り立った。

 

 アヴェリンはより頭部に近い場所へと降り立っており、既に未だ無事な眼がある方へ走り寄っている。エルクセスにとっては、ひと一人の体重など微塵も感じないだろうに、ミレイユの気配を敏感に感じて後ろを向いてきた。

 

 ――体重というより、魔力を察したか。

 顔を向けた事で、アヴェリンが近くにいる事もまた知ったようだ。雄叫びを上げて振り落とそうと身を揺すり、飛び跳ねて振り落とそうとする。

 だが、その程度の振動で無様を晒す、ミレイユでもアヴェリンでもなかった。

 

「ブフォォォオオオ!!」

 

 振動も大音量の雄叫びも、意味はなくとも煩わしい事には違いない。

 特に音量については耳を塞ぎたくなる程だったが、とにかく耐えて眼に近づこうと走り続ける。だが、片目を潰されたエルクセスが、その意図に気付かない筈もなかった。

 

 箆角に魔力が集中し、鮮やかな明滅が始まる。

 そして解き放たれた魔術は、ミレイユ達を中心に風として現れ、瞬く間に暴風となって襲い掛かってきた。

 

「――これ、は……ッ!!」

 

 何が何でも近寄らせない、という意志を感じる。

 単なる暴風ではなく、小型の竜巻が二人を襲い、そして踏ん張ろうと長毛に掴まるアヴェリンを飛ばし、それを『念動力』で掴まえようとしたミレイユ諸共かっ攫った。

 

 小型の竜巻には長毛に絡まっていた砂や小石が含まれていて、それが砂嵐のような効果を生んでいる。まともに目を開けていられず、ミレイユ達は再びエルクセスの身体から突き落とされてしまった。

 

 歯噛みする思いで浮遊感に身を任せ落下すると、小型の竜巻も身体から離れていく。その代わり、竜巻は顔面付近で留まり、己の盾として使用し続けるようだった。

 元より知恵の働かない相手とは思っていなかったが、接近するのが更に困難になって、顔を顰めながら制御を始める。

 

 落下予測地点を見てみても、クッションにできそうな魔物はおらず、それどころか付近がぽっかりと空いている。ミレイユが先程、魔術で焼き払った地点で、既に炎は鎮火しているとはいえ、避けて通りたい場所ではあったようだ。

 

 片手で『念動力』を使ってアヴェリンを引き寄せると、もう片方の手で『落葉の陣』を放ち、問題なく着地する。

 再び振り出しに戻り、再び頭を悩ます事になってしまった。

 共に降り立ったアヴェリンも、渋い顔をしてエルクセスを見つめる。

 

「中々、厄介ですね……」

「ああ、どうしたものかと、さっきから考えてる」

「片目を潰されて、次を警戒しない筈もありません。別の手法を試すべきかと……」

「そうだな。とはいえ……」

 

 小型の竜巻は自動的ではないとはいえ、顔の周辺を漂っており、接近を感知するや否や襲い掛かってくるのは予想できる。

 そして、エルクセスは魔力を感知して見つけてくる関係上、全くの隠蔽をしつつ接近するのも難しそうだった。

 

 何しろ、あの頭上へ近付くのに手登りなど考えられないし、どの程度の隠蔽までは安全なのかも分からない。二度、三度と失敗を繰り返せば、やはりエルクセスも相応の新たな手段を講じてくるだろう。

 

 ――それに。

 ミレイユは、ルチア達や隊士達の事を思う。

 あまり長引かせれば、あちらの方が決壊する。

 戦場の倣いとして、戦う事を選んだからにはいつ死ぬかも想定しているものだが、最善を尽くす事なく犠牲にさせてしまうのは嫌だった。

 

「口の中に入り込んで、そこで魔術でもブッ放してみるか?」

「そこは確かに、生物である以上は弱点なのでしょうが……。嚥下された後で逃げ出せなかったら、どうなさるおつもりです?」

「まぁ、そうだな……。そこからなら魔力が箆角に流れていかないという根拠も乏しいしな。水や空気のように、密閉したら閉じ込められるという性質でもなし……」

 

 傷を負わせられるという確信はあるものの、撃った後で確実に外へ逃げ出す方法もない。傷を受けた瞬間、果たしてどう反応するかと言えば……咄嗟に一度口を閉じそうでもあるし、咳き込むように吐き出しそうでもある。

 

 そして、何も犬や狼のように、常に口を開けて呼吸している訳でもない、という問題もある。口を開けさせるには、何度も威嚇するように雄叫びを上げさせたから、それについては簡単そうだった。しかし、それなら前提として、まず相手に気づかせてやらねばならない。

 

 だが、竜巻がある以上、口を開けるより先にそちらを動かして対応しようとするだろう。

 考えれば考える程、ドツボにはまるような気がした。

 そもそもの戦闘経験がない以上、ある程度出たとこ勝負になるのは仕方ない。とりあえず、もう一度上がろうかと思ったところで、エルクセスの箆角が輝き出した。

 

 その制御の働きを見て、ミレイユは大きく眉間に皺を寄せる。

 エルクセスが使おうとしているのは、広範囲殲滅型の『極寒氷嵐』だと察知した。触れる者を瞬く間に凍らせ、そして細切りに切り刻み、後には氷になった小石しか残らない、という様な魔術だ。

 

 他の魔物がどうなろうと、どこへでも隠れられるミレイユ達を、確実に殺そうという意志が伝わってくる。

 

 ――あれを使わせたら終わりだ。

 ミレイユは耐えられる。ルチア達二人も大丈夫だろう。だがアヴェリンが無事かの保障はなく、そして隊士達が全滅するのも免れない。

 

 いや、とミレイユは思い直す。

 結界が張られた範囲と、使用される魔術の規模が全く合っていない。阻まれ逃げ場のない魔術は、とんでもない威力を発揮する事になり、アヴェリンと言わずミレイユすら危険な水準へと引き上げる。

 

 なんとしても、あの魔術が使われるのを阻止しなければならない。

 ミレイユは両手に魔術の制御を始めて、アヴェリンを置いて頭上へと射出した。

 



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決戦の舞台 その2

 まるで世界の終わりを示すような、大量な孔の出現に、誰もが浮足立っていた。

 アキラも同じような気持ちだったが、何より信用するミレイユ達が魔物達を迎え撃つように立っている。その背を見ているだけで、全ては大丈夫だと思えるのだ。

 

 勿論、神たるミレイユを自分たちが支えるでもなく、その盾になるでもなく後ろに下がっている事に不満はある。ミレイユへの思いではなく、そうさせなければならない、自分達の不甲斐なさに思う不満だ。

 

 だが、直前に自分達と神の力量を思う様知らされた身としては、後ろに下がっていろ、という命令を無視して横に立つなど、そんな傲慢さを見せる事は出来なかった。

 

 何れにしろ、あの大量の魔物全てを相手にするつもりはく、負担を減らす為に隊士達へと流していくという話だったから、それならばと雑魚の相手と処理は請け負おうという気概でいた。

 それを伝え聞いた結希乃も、十分な対応が出来るよう、人員を相応しい形へと手直しし、そして防御陣地を適切に作っていっている。

 

 既に孔から幾つも魔物が落ちてきている事から考えても、その構築に掛かる時間から間に合いそうもない、というのがアキラの所見だったが、素人が何を言える筈もない。

 隊長として、そして部隊全体を預かるリーダーとして、結希乃を信じて指示に従う他なかった。

 

 今はそのリーダーも、由井園侑茉という、アキラにとっては馴染みのない御由緒家が復帰して、隊士達を鼓舞する事で上手くいっている。

 防御や警戒に対しては、普段から神宮の警備を任されているだけに阿由葉家よりも秀でていて、それを存分に発揮して陣地構築を助けていた。

 

「それでは敵の突撃を受けきれない! どう動くのか想定して防壁を築け! 多数の敵を相手にするんだ、それを阻害するよう構築するんだ! 数の利を相手に使わせるな!」

 

 そうして改良されていく陣地に、アキラは奥まで到達した時の前衛として配置されている。

 正面には蛇行した細い道があり、その両端には外向術士が攻撃する為のトーチカめいた防壁も用意されていた。

 数と勢いに任せた突撃は出来ず、そして詰まって上手く移動できていないところを、外向術士の攻撃で数を削り、そして到達した敵をアキラ達が仕留める。

 そういう流れを想定していた。

 

 本来なら、これに段差を設けたり穴を掘ったりと、簡単に前進できないよう工夫をしたかった所らしいが、兎にも角にも時間が足りない。

 いつ何時(なんどき)、その突撃がここまで届くか分からない以上、切り捨てる部分が出て来るのは当然だった。

 

 孔から落ちてくる魔物が殺意を向けて突撃するのを見て、アキラは生唾を飲み込み覚悟を決めた。先程からしきりに尿意をもよおしていたが、戦闘が始まったと理解した途端、ピタリと止まる。

 

 そして魔物側からの突撃が始まり、殺意が形を持って吹き付けて来るのを幻視した直後、ルチアとユミルの合せ技とも言える魔術が、いとも簡単にその突撃を蹴散らした。

 

「信じられない……、これが神の戦いか……!」

「あれほど精密に正確な制御……、実際に感じないと嘘だとしか思えない……!」

 

 人間に到達できる領域であるかはともかく、それが現実として存在するものだとは、その肌で理解できた事だろう。その興奮が、ミレイユの挙げた手で更なる興奮を呼び起こした。

 安心しろ、この程度の敵何するものぞ、と言っているようですらあった。

 御子神様と、その尊称を連呼しながら、誰もが腕を突き上げる。

 

「ウワァァァァアア!!」

 

 御子神様とあのような方たちが味方にいて、それでどうして負ける事があるだろう、と誰もが思う。アキラとしても同意見だが、孔の数を見ているとあれだけで終わる訳でも、あの規模しか出ない訳でもないと予想できてしまう。

 

 今は一時の勝利に酔っているが、それが醒める時が来てしまうのが怖い。

 だが士気が高まるのに文句を付ける馬鹿もいないだろう。彼女らの背中は頼もしい、それは間違いない事実なのだから。

 

 そして多くの敵勢に対し、一人で突っ込むアヴェリンに、アキラは己の目と正気を疑った。そしてそれが自分の見間違いではないと分かると、次いでアヴェリンの正気を疑う事になる。

 明らかに悪手としか見えないのだが、彼女が高く跳び上がり、そして手に持つメイスを叩きつけたところで、それが決して勝算なしでやった事ではないと分かった。

 

 遠く離れたアキラの位置にすら届く衝撃は、多くの魔物を吹き飛ばし、そして一振りする事に魔物が紙細工のように吹き飛んでいく。

 アキラから見ても、到底一度武器を当てる程度で倒せるようには思えないが、大人と子供以上の力の差を見せつけて圧倒していく。

 

「あれが……、御子神様の護衛を許される戦士なんだ……」

 

 誰かが零した言葉が、誰もの心中を代弁していた。

 アヴェリンの事を、ここにいる隊士の誰より知っているアキラからしても、あれ程の戦士だとは思っていなかった。強い事は知っていたし、自分では一生敵わないとも理解していたが、まさかあれ程の力量を持っていたとは思わない、というのが本音だ。

 

 続いて出てきたドラゴンにも度肝を抜かれた。

 最初の一匹をいとも容易く屠っていたアヴェリンだが、三体ともなると容易くはないだろう。もしアキラにもっと力があれば、その助力に走りたいと思う程度に、さっきのドラゴンより強そうに見えた。

 

 だが、それさえアヴェリンに取って、敵わぬ敵という訳ではないようだった。

 苦戦はしていても、優勢に戦闘を運び、そして勝利して見せた。己の身の丈とは比べ物にならない巨大な魔物に対し、あそこまで戦えるものなのか、あれほど圧倒できるのか、という感動が胸の内を締める。

 

 返り血塗れのアヴェリンが、上向いて発する戦いの咆哮は、常に武勇を重んじる彼女に似つかわしく、また恐ろしくも美しいと感じてしまった。

 ――何か、毒され始めているのかな……。

 

 少々不安になる自身の新たな心境に気付いたが、そんな事より戦況は刻一刻と変化していく。

 巨人が出現した時も大きいと思ったものだが、次に姿を見せたのは、それすら小物と思える程の巨大なヘラジカだった。

 

 角が鈍色に輝いているという部分が現世のヘラジカと違うが、後は巨大であるという以外は大きく違いがあるようには見えない。

 遠く離れているから細かな部分は勿論分からないのだが、今までは魔物らしい魔物が出てきていたので、いっそ動物とさして変わらないものの出現には、周囲からも困惑した空気が流れた。

 

「ブフォォォオオオ!!」

 

 だが、そこはやはり単なる動物ではなかったのだ。

 距離があるにも関わらず、鼓膜まで震わせる咆哮は、根源的な恐怖を呼び起こす。そして次から次へと落ちてくる、小型の魔物も無視できない存在だった。

 

 先程からルチアがその数を減らしていたし、ミレイユもまた炎で薙ぎ倒してもいたのだが、その数が飽和して来ているように思える。

 敵そのものも単なる雑魚は見えない。最低でも牛頭鬼からで、見たこともない鬼も複数確認できた。

 近くにいた凱人からも、上擦った声が聞こえてくる。

 

「おい、大丈夫なのか、あれ……」

「どっちの事?」

「どっちもだと言いたいが、巨大な奴は俺たちでは最初からどうにもならない。地に溢れるが如しの鬼どもだ」

「陣地構築に対して詳しくないけど、でも時間を多く稼いでいてくれたお陰で、その防備を厚くする事はできたみたいだ……」

 

 アキラに手伝える事はなく、そこは支援班の仕事だから脇目に見ていたが、侑茉の指示の元、最初よりも遥かに堅固な防壁陣地を築く事が出来ている。

 あの数を見ると不安にしか思えないが、それでもやれるかもしれない、という気概は湧いてきた。

 

「そうだな。百鬼夜行なんぞ、もう今年はお目に掛からないだろうと思っていたんだがな……」

「あぁ、噂に聞く……」

 

 アキラ自身は体験した事はないが、その悪名高きデスマーチとも揶揄される、鬼の氾濫については知っている。そして氾濫というなら、今まさに目の前に見える光景こそ、それだという気がした。

 

「おい、見ろ……!」

 

 凱人が緊張した声を出して、アキラも指し示す方へ視線を向ける。

 気づけばユミルが、おぞましい幽霊のようなものを周囲に展開していたが、凱人が言っていたのはそちらではなかった。

 

 ミレイユがアヴェリンを先行させて敵陣へ突っ込んでいる。

 それまで前衛はアヴェリンに任せ、本人は後方から支援を使ったり、近付く魔物を焼き払っていたりした姿を見ていただけに、その行動は意外に思えた。

 

「どうしたんだろう、近接が有効な相手だとは思えないけど……」

「そうだな……。あれ程の巨体、足を斬り付けた程度では対して意味はないだろう。それに腹を狙うにしても、内蔵まで到達する傷を負わせられるかと思うと……」

「じゃあ、敢えてしないって事は、つまり出来ないって事かな?」

「理術が通用しない敵、か? 今まで、そんな鬼に出会った事はないが……」

「でも、あれを鬼と見るには、ちょっと動物的すぎない? 何か特殊な事情か理由があるのかも……」

 

 推測は推測でしかなく、憶測の域も出なかった。

 見守っているしか出来ず、そして高低差など無視するようにして、いとも簡単に頭部付近まで接近すると、何やら攻撃を仕掛けたことは分かった。

 

 既に二人は虫より小さなものとしか見えない。

 それでもアキラには二人の位置が分かったし、何をするつもりであるかも分かった。

 ――眼だ、視界を潰すつもりなんだ。

 

 そう心の中で呟くのと同時、叫びを上げ暴れ始めたヘラジカにアヴェリンが吹き飛ばされる。次いでミレイユもまた吹き飛ばされた。

 

「――ミレイユ様!!」

 

 咄嗟にアキラの口から言葉が出た。

 呼んだところで届く筈もないと理解していても、悲鳴じみた声を抑える事は出来なかった。だが勢い付けて落ちたとしても、地面へ墜落する瞬間、その動きが緩やかになったのが見えて、そうだったと思い出す。

 

 アキラ自身もその魔法陣に世話になった。

 どれだけ高所から落ちようと、落ちる場所さえ間違えなければ怪我など負う事はなかったのだ。

 

 だが、ホッとしたのも束の間の事だった。

 ルチア達がその術によって鬼の数を削っていたものの、ミレイユが抜けた穴は埋め切れず、その処理能力にも陰りが見え始めた。

 

「おい、鬼どもがこちらに向かってくるぞ」

「……うん、敵を倒していながらも、対応出来ない奴らがこっちに来てる」

「それが狙いだろう。あの悪霊めいた奴ら、あの二人を護っているみたいだが、誘導員みたいな役割もあるようだ」

「でもあれって、鬼でも近付きたくないんだ……」

 

 アキラ達が嫌悪感を示すのは自然な事に思えるが、鬼まで逃げるようにこちらへ進路を変えてくるのは、意外な発見というべきなのだろうか。

 むしろ、鬼にすら嫌われる悪霊、というものが存在する事実に、恐れるべきなのか。

 

 そこに結希乃の声が頭上から響いた。

 

「――さぁ、気合入れろ! ここからが本番だ、ここからが我らの力の見せ所! 再び御子神様がお戻りになり、鬼を殲滅出来るまで、我らがその役を担うのだ!」

「おうっ!!」

「戦え! 死力を尽くせ! 鬼どもを叩き返せ!!」

「おう! おうッ! おうッ!!」

 

 結希乃の激励に励まされ、誰もが武器を握って突き上げる。

 アキラもまた、周りの威勢に加わって、必死に声を張り上げ武器を掲げた。

 



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決戦の舞台 その3

 殺意が塊となって襲い掛かる、それは錯覚や比喩表現ではないと、アキラはこのとき生まれて初めて知った。敵意と戦意、それを合わせたものを殺意と言うのだと思っていたのだが、実際に体験してみると全く別物だった。

 

 吹き付けるような怒号と共に、何が何でも息の根を止めてやる、という感情の発露こそが殺意なのだ。実戦に出ていた経験から知っていたつもりになっていたが、その本物の殺意に身を震わせそうになる。

 だが、そこに結希乃から発せられる激励があった。

 

「臆するな! 敵は多い、だが統率された集団ではない! ただ前進し、目に付く者を攻撃したいだけだ! 戦うのは自分一人ではない、仲間を信じて武器を振るえ! 理力を高めて鬼にぶつけろ! それで勝てる!!」

 

 実際はそう簡単なものではないだろう。

 しかし、目先の出来る事だけ指示され、都合の良い未来を示されれば、それに縋りたくなるのも人間というものだった。

 そして何より――。

 

「オミカゲ様もご照覧なされている! 今こそ、我らが武威を示すのだ! 悪鬼の尽くを殲滅せよ!!」

「ウォォォオオオ!!」

 

 そう、ここは奥宮、オミカゲ様の住まいである。

 ここで戦う隊士達の姿を、そのオミカゲ様が見ていない筈がない。

 

 かつて、民を鬼から救う為、オミカゲ様は御自ら武器を手に取って戦っていたという。それを御由緒家が己が役割と定めて共に戦う事になり、そこへ神の血を引かない者達もまた助力するに至った。

 鬼との戦いは千年にも及ぶ。江戸時代が訪れる頃には、既にオミカゲ様は御由緒家を、その矛と定め一線を退いた。

 元よりオミカゲ様を守る盾としての側面が強かったが、それからは矛として第一線で戦うという役割を担う事になる。

 

 御由緒家の歴史は戦いの歴史であり、そしてオミカゲ様の千年は鬼と戦う歴史でもある。

 国を支え民を守護するという表の顔は、返せば鬼と闘争する裏の顔あってのものだった。

 その闘争の歴史に類を見ない侵攻が、いま目の前で起こっている。それに注目していない筈がない。それはつまり、隊士達の動向も見守っていらっしゃるという事だ。

 

 ――不甲斐ない姿は見せられない。

 アキラの心に炎が(とも)る。その決意が胸にある限り、鬼から向けられる殺意なぞ、物ともしないのは道理だった。

 アキラも、そしてこの場に立つどの隊士達も、オミカゲ様から見られていると察して奮起しない筈がないのだ。

 

 特に御由緒家の何人かは、鬼の目的がオミカゲ様の簒奪だと聞かされている。

 鬼が結界の外へ抜けたら何をするつもりか、そんな事は考えるまでもない。決して簡単にやられるとは思わないし、御子神様たるミレイユがあれ程の強さを見せるなら、オミカゲ様の御力も推し量れようというものだが、だからといって玉体への襲撃を許せるものではない。

 

 ――でも、ちょっと待てよ?

 アキラの頭、その片隅に違和感を覚えて眉をひそめる。

 何かがおかしいと思うのに、それが形を成してくれない。あの人を食った嫌な奴が言っていた台詞と、何か食い違う部分があったような……。

 

 結局アキラは答えを見つけ出せず、目の前に集中する事にした。

 何しろ今は襲撃を受けている真っ最中なのだ。その鬼に対し、意識を逸らすのは馬鹿のする事だ。オミカゲ様をお守りする為にも、気の紛れをしている時ではなかった。

 

 そう思いながら、アキラは迫りくる鬼たちを見る。

 鬼どもが隊士達を無視して、四方八方に散ろうとしないのは、何故だか不思議だと思う。知恵ある姿には見えないし、統率する個体らしきものも見えない。

 だから逃げようとする者さえ現れるのは当然とも思うのだが、ミレイユ達へ向かうか、ルチア達へ向かうか、隊士達へ向かうかという動きが出来ている。

 

 それがアキラにはどういう事か分からないが、理力ある者を標的にしているというのなら、むしろ願ってもない展開だ。元より、結界の外に出すつもりはなく、そしてこの場で食い止めるつもりでいる。最悪でも、この場に縫い止めておく必要があり、そしてそれが叶うなら役目を果たしていると言えた。

 

 アキラは迫りくる鬼どもを見据える。

 ルチアの操る氷嵐によって数を減らされ、そしてユミルが使役している悪霊が、鬼へと手を触れては昏倒させている。どういう効果によるものか、その手が触れるだけで崩れ落ちるように倒れる鬼は気絶しているだけなのか、それとも命を奪われているのかまでは分からない。

 

 だが、その見るだけで生気を奪われそうな外見は、ひと撫でするだけで命を奪うと言われても信じてしまいそうだった。それなら、あの悪霊に近付きたがらないという鬼の行動にも頷ける。

 もしかしたら、鬼はこちらに向かっているのではなく、悪霊から逃げているだけなのかもしれない。

 

 蛇行するように作られた道へ、鬼どもが雪崩れ込む。

 そこへ鋭く侑茉の声が響いた。

 

「第一、第二、――撃てぇ!!」

 

 左右に作られたトーチカから、理術の炎が飛び出し着弾と共に爆発する。明らかに威力が高いと思われる火球は漣のものか。次いでまばらに撃たれたと思えた火球は、しかし続けて放たれたものが雨あられと降り注ぐ。

 

 使用された理術の差によるものだったらしく、着弾した炎は弾けて周囲に炎を撒き散らす。

 飛び火して自分のみならず、周囲の敵にまで燃え移り、それがさらに広がっていく。

 進むにも逃げるにも困難な道、そこへ更なる理術の追撃が入った。

 

「第三、第四、撃てぇ!!」

 

 再び侑茉の声が聞こえて、今度は氷の風が吹き荒ぶ。単に全員で同じ術を使用しているという訳ではなく、氷と風は別の理術らしかった。

 それでルチアが使った理術を再現しようとしたようだが、どれほどの人数がいたかは不明でも、ルチア一人分の術と比肩するものは出来ていない。

 

 そこからもルチアの非凡さが窺えるが、それでも隊士たちが放った理術は有効だった。

 ろくに戦闘行動を取れない燃える敵は氷付き、炎に強い敵は、その急激な温度変化に堪えられず、やはりその身を氷像へと変じた。

 

 それがまたバリケード代わりに機能し、後続の進行を鈍らせている。

 鈍った足では悪霊に追い付かれ、そして触れられる事に抵抗もできず崩れ落ちていく。武器を悪霊に向かって振り回す鬼もいたが、そのどれもが有効打になっていなかった。

 やはりそこは幽霊らしく、武器が素通りしてしまうらしい。

 

 ミレイユが抜けた穴も、現状はどうにか補えている。

 鬼の数は多いが、前進を愚直に続けようとする知恵の足りない戦法を取っている限り、このまま耐える事は出来そうだった。

 

 ルチアやユミルによるフォローもある。

 アキラたち近接部隊まで辿り着いても、まだそこから粘って見せるという気概もあった。今のところ前方を睨み付け、警戒を怠らないという構えしか出来ていないが、だからこそ戦場の奥でミレイユとヘラジカが戦う姿が良く見えた。

 

 そこで気付く。

 鈍色の箆角が眩く明滅し、何か巨大な力が渦巻くのを。

 アキラが気づけたぐらいだから、他の誰にもそれが気づけただろう。箆角へと集中する力は、今にも解き放たれんと更に激しさを増し、そして鬼の攻勢もまた激しさを増した。

 

 焼け爛れ、氷漬けにされた鬼を踏み潰し、あるいは殴り砕いて前進してくる。

 中には明らかに盾として利用しながら進んでくるものもあった。奴らの瞳に理性の色はない。ただ前進し、誰かを殺そうと殺意を燃やして前進しているのだ。

 

 外向理術による攻撃も継続して行われているものの、何しろ数の桁が違う。遠くに見える孔からは、今も鬼が落ちてきていた。時間が過ぎる程に孔自体が拡大し、鬼の強さも底を上げる。

 ドラゴンと聞かされた、頭が竜なだけの大蛇もいて、それが後方に控えているせいで安心も出来ない。あれが何をするつもりでいるにしろ、いま行動に移さないのは鬼で通路が埋まっているせいだ。

 

 それを倒さなければならないのは当然だが、倒せば次にはあれが突っ込んでくる。

 アヴェリンでさえ簡単には倒せない相手だ。アキラ達にどうこう出来る相手とは思えない。アキラは歯噛みする思いで迫る鬼を睨み付け、結希乃の掛け声で我に返った。

 

「まず鬼の突進を受け止めろ! 支援班、足止め用の防壁を展開! 動きを止めた所で、逆突撃を加える! 衝突するより前に解除しろ!」

 

 事前に聞いていた作戦通りの内容を、再度聞かされ刀を構えた。

 忘れていた訳でもないが、こうして直前に言い直されれば考えも纏まるし安心できる。自分の行動一つで勝ち負けが決まるとは思わないが、些細のミスもしたくない状況なら、こうした指示は大変助かる。

 実戦経験の少ない者達への配慮でもあるのかもしれない。

 

「構え! ――突撃ッ!!」

「ウォォォオオオ!!」

 

 結希乃の号令と共に近接部隊が飛び出した。アキラや凱人、七生などの見知った小隊以外にも、既に現役で活躍している小隊が幾つも横一列になって突撃していく。

 全部で五個中隊はある近接部隊は、通常の結界掃討なら、まず投入されない数というだけではなく、あまりに頼もしいと思える光景だ。

 

 用意された最高戦力。

 その勇士と肩を並べて戦えるなら、アキラも普段より力を発揮できるような気がする。蛇行の道を通ってきた鬼は、いずれも無傷ではない。理術の集中砲火を潜り抜けてきた鬼だから、確かに強力な鬼ではある。しかし理術の爪痕は確かなダメージを刻んでいて、だから本来なら挑めないような相手でも、上手く対処する事が出来ていた。

 

 小隊のメンバーも頼りになり、アキラを前面に立たせつつその補助として立ち回り、支援理術を加えてより優位になるよう動いてくれている。

 日の浅いチームの割に、他と遜色ない成果を上げていた。

 

「ハァッ……!」

 

 今もまた一体の牛頭鬼を斬り伏せ、後ろへ押しやる。

 倒れる筈の身体が横へと弾かれ、何がと思うより前に別の鬼が襲い掛かってきた。息つく暇もないとはこの事で、とにかく後続を止めてくれない事には、この勢いに攻め負けてしまう。

 

 アキラは必死に制御を振り回して目の前の鬼を斬り付け、あるいは躱し、時に距離を取っては切り替えして倒していく。

 アキラは内向術士だからその消費も少ないが、他の者たちはそうもいかない。どれだけ続くか分からない戦いだから、その継戦能力を維持する為に控えめな使用に留めている。

 

 それでも長く続けば陰りが見え始める。

 後続の処理も上手く行かず、むしろ数の圧は増しているようですらあった。

 巨大なヘラジカが集める魔力も、それが更に高まってきたのを感じる。何をするつもりにしろ、それが莫大な被害を招くのは疑いようがない。

 

 誰かに警告したところで意味はないだろうし、何か出来るとも思えない。

 ただ高まる緊張感が増し、そして鬼の圧力も増してくる。刀を振り続けながら、とにかく目の前の鬼を倒す事に全力を傾けた。

 

 ――オミカゲ様……ッ!

 そうしながらも縋る事を止められなかった。このような窮地にあって、何かに縋るものがあるとしたら、その御名しか思い浮かばない。

 困った事辛い事があれば、ついその名前が思い浮かぶのは日本人のサガだ。日常的に頼る癖があるから、こういう時でもついその名前が頭をかすめる。

 

 そして――。

 その時、頭上で光が瞬いた。

 巨大なヘラジカの頭部から発せられる、鈍色に光っていた角が明滅の終わりと共に魔力が解き放たれ、その一瞬に、アキラの視界は白一色に染め上げられた。

 



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決戦の舞台 その4

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 本来ならば、アヴェリンと共にエルクセスへと挑んだ方が良いというのは理解している。

 だが、あの魔力を開放させてはならない、という本能が理性を凌駕し、とにかく一撃加えるのが優先だと割り切って頭上へ跳んだ。

 

 名ばかりの飛行術は、こういう場面では非常に役立ち、初めてこの術が無駄でなかったと実感した。

 ミレイユの胸中を支配するのは、とにかくエルクセスがやっている制御を妨害すること。解き放たれてしまった後で、その術を止める事も封じる事も出来ないと理解していた。

 

 飛行術と同時に始めていた制御を、ここで開放する。

 『灼熱の新星』と呼ばれる最上級魔術で、まるで手の中に星が生まれたかのような灼熱の球が生まれる。片手で制御を始めていたが、完成に近付くにつれ制御が乱れ、両手で行わなくては暴発する危険性すら発した。

 

 幸い、飛行術は一度発動させれば後の制御は必要ない。

 ミレイユは即座に一つの魔術へ制御を集中し、そして同時に狙いをつける。

 この魔術は派手な爆発は起きないが、着弾した場所に高々温度の灼然が球となって、まるで超小型の恒星のように維持し続ける。炎に耐性のある敵であっても、その灼熱が対象を溶解させるまで維持するような代物だから、発動さえすれば勝算はあった。

 

「まったく……ッ!」

 

 だが、制御を集中する程に、その魔力が箆角へと流れていくのを感じる。

 発動の妨害も発生しており、制御の綱引きが始まるような感覚だった。押し合いへし合い、集中し辛い中で完成させても、あの箆角がどれほどの魔力を吸収できるものか不明だ。

 もしかしたら全くの徒労に終わるかもしれないが、やらない訳にはいかなかった。

 

 そして、狙いは最初から頭や胴体ではない。

 どうせ避雷針の役目を持つ箆角が、放った魔術を吸い付けてしまう。それこそ、不自然な角度で曲がって向かってもミレイユは驚かない。

 

 始めからあの角が厄介なのは、分かっていた事だ。

 どうせ無理だと分かっていても、ここで賭けに出ない理由もなかった。

 

「くらえ……ッ!!」

 

 ミレイユは渾身の制御を練って、その頭上――箆角めがけて魔術を放つ。

 その放つ直前、エルクセスの視線がミレイユと交わる。その瞳の色には優越と、そして勝ち誇るような喜色が浮かんでいた。

 

 ――笑っていられるのも……!

 そう腹の(うち)で罵っていると、ミレイユの魔術を無視してエルクセスが準備していた魔術も解き放たれる。

 先に着弾したミレイユの『灼熱の新星』は、直径三メートル程の、赤よりも白に近い真球を作り出したが、即座に箆角へと吸収され、その魔力が葉脈のように角全体へと流れていった。

 

「ぐぅ……っ!!」

 

 ――足りなかったか。

 ミレイユは歯噛みしながらエルクセスを睨み付ける。

 ミレイユの魔術は間違いなく、その箆角へ多大な影響を与えた。吸収しようとした魔力は角全体へと伝わり、その魔力を分散させようとしているが、それも完全ではない。

 

 本来なら魔術の使用に変換させたりと、即座に利用するのだろうが、今は既に魔術を使用せんとする段階だ。だから吸収した量を即座に消費できず、膨張しようとしている。

 だが、破裂させるまでには至らないようだった。

 

 もしもルチアと同時に魔術を使えていたら――。

 それならば、今回のようなタイミングを狙えば……その時は箆角を破壊に成功し、そして続行される戦闘も有利に進めていけただろう。

 

 未だ飛行術の影響下のまま上昇を続けている中で、エルクセスの魔術が目の前で発動する。

 それは閃光に等しく、目の前が真っ白に染まり、何が起きたか理解できない。強烈な閃光は網膜が焼かれるかと思う程で、その直後に響いた轟音が、尚の事ミレイユの理解を困難にさせた。

 

 それはまるで落雷のように聞こえ、エルクセスが放とうとしていた魔術とは別物に思える。

 視界が利かず、さりとて極寒が肌を凍らせる事もなく、何が起きたか分からないまま上昇し、そして唐突に動きが止める。

 結界の天井にぶつかるには早すぎ、また不自然で、そして何より誰かに掴まれているような感覚が意味不明だった。

 

 一応、治癒術を瞼の上から当てながら目を開くと、気の所為ではなく、確かに誰かに掴まれている。それが誰かを確認するより前に、再びの落雷が耳元で鳴った。

 それと同時に何かが破壊される音が響き、そして大きな物が地面へと衝突する音も聞こえる。

 

 いい加減、何がどうなっているのか確認したくて、手の平で庇を作るようにして目を開くと、そこには箆角を破壊されているエルクセスがいた。

 角の根元から、その自慢の箆角がポッキリと折れてしまっている。

 何が起きたのかと思い、そして自分を空中で支えている誰かへと顔を向けると、そこには意外な人物が視界に映っていた。

 

「――オミカゲ、か。何故……」

「ここにいるのか? 元よりここが分水嶺、出向かぬ筈がなかろうよ」

「その割に随分と遅い登場だったが……。狙っていたのか?」

「いいや、女官や巫女たちを結界の維持と強化へと回し、そして集積しておいたマナを取り出すのに、少々時間を取られた」

 

 激戦に次ぐ激戦、それで消耗しない筈もなかった。元より隊士達にとっては格上との戦いを強いられる訳で、その消耗度合いも普段とは段違いだろう。

 そして、そういった場合に備えての蓄積というのなら、ここで使わない手はない。

 

「私に対抗する為に用意していたものだと思っていた。……そうも言っていたよな?」

「無論、対抗策の一つとして用意していたが、本来の用途はこちらである。最初から、そなたとは対話で納得してもらうつもりでおった故に。……これ程の規模になるとまでは、予想しておらなんだが」

 

 オミカゲ様は眼下へ視線を向けては、苦虫を噛み潰したかのように顔を顰めた。

 その気持ちは誰もが同意するところだろう。孔の拡大は常に大きくなる一方だったし、いずれの破綻は予測できていた事だ。しかし、それは常にあるような、鬼が十体未満出て来る事を予測されていたものであり、その差はあっても敵の強度が異なる程度だと思っていた。

 

 しかし蓋を開けてみれば、そこにあったのは地獄の始まりを示すような鬼の氾濫だった。

 この場合、何より重要なのは鬼を外へ逃さない事だ。周りは壁に囲まれているとはいえ、飛び越えて行けない高さではないし、鬼の種類によっては壁にすらならない。

 

 特に、あのエルクセスの出現も例外中の例外で、ミレイユの見通しでも結界が未だ破綻していないのは意外でしかなかった。

 だがそれが、オミカゲ様の助力あってものものだったとすれば納得できるものがあるし、そこで一段落ついたからこそ、こうして現場に出て来れるようになったのだろう。

 

 そうして、改めてエルクセスの頭部を見つめた。

 根本から何かが破裂したような、ささくれた後を残し、立派に広がる箆角はなくなってしまっている。何かが崩れ落ちたような音は、その角が地面に落ちた際に聞こえた衝撃音だったのだろう。

 今は無惨に割れた姿を晒している。

 

 誰かあと一手――ルチア並みの術者が放つ一撃さえあれば、と思っていたが、これがオミカゲ様であったのなら、確かに十分すぎる追撃となっていただろう。

 エルクセスが憎々しげにミレイユ達を睨み付けているのが、視界の中に映った。

 潰れた片目があるので、そちらを庇うように顔を背けているのだが、それがまるで人間らしい感情表現に見えて、ミレイユは小さく笑ってしまった。

 

「随分と余裕があるではないか。角がなくなれば、確かに大した相手でもあるまいが」

「そういう意味じゃなかったが……。というか、浮いているんだな」

 

 ミレイユは今更ながらに気が付いた。

 オミカゲ様に肩を抱かれ、足は宙に浮いている。気づかぬ方が不自然な状況だが、何しろ目の前にある角を失ったエルクセスのインパクトは大きかった。

 

「神の権能故にな、浮くことぐらい造作もない事よ。……とはいえ、雑談に興じている暇もない。我が愛し子、我が隊士達が鬼の数に圧殺されようとしておる。我はそちらを対処する故、引き続きエルクセスの相手をせよ」

「ああ、分かった。……抜かるなよ」

「誰に向かって申しておる」

 

 皮肉げに笑って、オミカゲ様は何の合図もなく手を離した。

 久しぶりの実戦だろうから、それを気遣うつもりで言ったのだが、どうも侮りに近い発言のように聞こえてしまったようだ。

 ぞんざいに手放されれば、ミレイユは自由落下するしかない。その先にエルクセスがいる訳でもないので、攻撃に移るにはひと手間が必要だ。

 

 落下している間に制御を練り込み、眼下の動きを見極める。

 そこでは既にアヴェリンが走り始めていて、一撃を加えようとエルクセスに向かっていた。それを『念動力』で捕まえて、エルクセスの顔面近くへ放り投げる。

 

 そうしながら、ミレイユは『落葉の陣』で着地し、その後を追うように駆け出した。自分自身に『念動力』を使えれば楽できそうに思うのだが、残念ながらそういう使い方は出来ない。

 

「ブフィィィンン!?」

 

 アヴェリンがエルクセスの鼻面を殴り、辺りに大きな悲鳴が鳴り響いた。

 その鼻からは大量の血が流れ出ているが、瞳から感じられる戦意には些かの陰りも見えない。落下を始めたアヴェリンに、首を振って弾き飛ばそうとするところを、またも『念動力』で捕まえ、回避させつつもう片方の眼に送った。

 

 意図を明確に察したアヴェリンが、その眼球目掛けてメイスを振り下ろせば、閉じた瞼に防がれるものの、またも大きく悲鳴を上げて顔を振り回す。

 ミレイユは『念動力』でエルクセスの長毛に掴まると、テコの原理で反動を利用しながら上に登っていく。そうして顔まで辿り着き、眼球付近の長毛を握りしめて、張り付いているアヴェリンと合流した。

 やはり念動力で回収して、アヴェリンを自らの傍に置く。

 

「無事そうだな」

「はい、お世話をお掛けしまして」

「もう片方も潰したか?」

「えぇ、手応えはありました」

「良くやった」

 

 簡潔に褒めると、アヴェリンは大きく顔を綻ばせようとして、即座に表情を引き締める。こくりと小さく頷き、続くミレイユの声を待つように姿勢を正した。

 



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決戦の舞台 その5

「箆角がなくなった以上、奴は魔術を警戒するだろう。離れて大規模魔術を使うのは悪手だ。目も見えないなら、気配を頼りに暴れ回る可能性の方が強い」

「では、どこを攻めましょう」

 

 問われて、ミレイユは口元を覆うように手を添える。

 好きに暴れさせては被害は拡大するばかりだし、それを利用すれば孔から湧き出る魔物を潰してくれるかもしれないという期待も出来るが、それは同時にルチア達も危険に晒すことを意味する。

 そして隊士達のいる場所へ行くような事があれば、圧されつつも踏ん張っている彼らの全滅は免れない。エルクセスの前では、必死に築いた防壁とて紙のような脆さだろう。

 

 だから、ミレイユ達はまだここにいると知らせると共に、注意を向けさせつつ攻撃しなくてはならない。魔力を察知して場所を特定できるなら、上手く誘導することも難しくないと踏んでいる。

 エルクセスは箆角という魔力器官を失ったが、それは魔術の制御を助け、そして外からの魔力を吸収するのに使われる。だが魔力と行使する力を失った訳では無い。

 

 接近するのを難しくしていた小型の竜巻は消えているが、それもまた復活させる為に使用する可能性は高く、そして使われたなら暴れ回るエルクセスに対し、再びの接近は更に難しくなる。

 ミレイユは考えた末、短時間の接近戦で決着を付けなくてはならないと結論付けた。

 

 ――その為には。

 

「頭蓋を打ち抜くしかないな」

「骨はドラゴンと同じくらい堅固です。罅を入れる事も困難かと」

「そうだな。――だから工夫がいる」

 

 ミレイユがアヴェリンへ期待する視線を向ければ、それだけで全て了承するように顎を引いた。それがどのような内容であれ、アヴェリンが自身に頼まれる事があれば、あらゆるものを蹴散らして叶えてみせよう、という気概に溢れている。

 

 ミレイユもまた、その気概を受け取り一つ頷くと、手早く内容を伝えた。

 やる事はシンプルだ。ミレイユが突き立てた剣に、アヴェリンが柄を叩きつけて頭蓋を貫く。

 それだけ聞けば、アヴェリンに取っては十分だった。単純な指示であればある程、アヴェリンの遂行率は高くなる。

 武器を構え身を屈め、次の指示を待つ体勢に入った。

 

「お任せを。いつでもご指示をください」

「ああ、任せる」

 

 アヴェリンはそれで良いが、問題はミレイユのやる事だった。

 まさか本当に剣を突き立てて終わる訳ではない。ミレイユの持つ剣では、頭蓋を貫通できたとしても、中まで打ち抜く事はできないし、大した傷にもなりはしない。

 

 だからミレイユがする事前準備として、まず剣を作成する所から始めなければならなかった。

 頭蓋を打ち抜き、そして頭蓋の中で魔術を炸裂させる。それを封入する剣を作るのだ。口にするほど簡単ではないが、ミレイユの応用力がそれを可能にする。

 

 ミレイユは、まず先程も使ったように一振りの剣を召喚した。

 武具の召喚それ自体は、腕の良い召喚術士ならば良く取る手法で、異界の武器を契約を持って召喚する。その異界が何処にあるのか、どういう理屈で作られた剣なのか、それは知られていないが、とにかく魔術書を読み解き召喚する際には、その契約を持って召喚する事が可能となる。

 

 熟練者ともなれば、鉄と同じ強度の武器を召喚して戦う事が出来るが、そもそもとして現実にある武器の方が強い。壊れたとしても簡単に代わりを用意できるし、敵に奪われたところで術を解除すれば消えてしまう。解除しなくても時間で消えてしまうので、そういう意味では安心できるものではある。

 

 だが、剣士として戦士として、より強い敵と戦おうとなれば、鉄のような柔らかい武器では通用しない。同じ鉄の剣でも魔術付与という手段で幾らでも用途に幅を持たせられるので、例えば火属性の剣として、不定形の魔物には有用な武器として活躍してもらう事だって出来るのだ。

 

 召喚武器は扱いが手頃で替えが幾らでも利く、という利点は大きなものだが、強敵と相対するには更なる修練を武器召喚の術に捧げなければならない。

 そして強い武器を持っているだけでは強敵に勝てないので、武術の修練もまた疎かには出来ないのだ。二足の草鞋を履く事になり、それならば金をかけて武具を揃えた方がマシだった。

 

 つまり、武器召喚とは人気のない術であり、趣味の領域の術と言える。

 だが、それをミレイユが使うとなると、凶悪な術へと変貌を遂げるのだ。

 

 ミレイユはまず単に召喚するのではなく、その実体までも喚ばない半召喚を行う。

 実体がないから振るったところで傷一つ付けられないのだが、それをミレイユが自身の魔力を変性させてコーティングし、それが鋭い刃となって武器になる。

 

 魔力を変性させて使用するというのは良くある手法だが、刃として使うには薄く細く纏わせなければならない。そうすると自然と脆くなってしまって、一合打ち合う事も難しく、また鉄の強度に勝るものにもならない。

 

 しかしミレイユの魔力にものを言わせる力押しで、鉄より遥かに強度を持つ剣を作成する事が出来るのだ。更に凶悪なのが、剣自体に実体は無いから、そのコーティングした魔力を解除すれば硬い鱗も甲殻も意味を為さないという点だ。

 

 貫いた後で魔力を変性しなおせば、あらゆるものを断つ事ができる魔剣となる。

 更に別の魔術をコーティングの内側へ封入させておけば、今回のような敵に対して、外皮が厚かったり魔術を内側で爆発させたい時などに、非常に有効な武器となる。

 

 これだけ聞くと非常に便利な術に思えるが、作成するまでの工程が複雑すぎるので、他の誰かが真似しようとして出来るものではない。ユミルに見せた時は、呆れて物も言えない、と口にしながら頭を叩かれるという暴挙があったものだ。

 

「ええぃ、くそ……っ、これするのは久々だからな……」

 

 スムーズに制御が回らず、眉根を寄せて行使する。

 やってる事が狂人のそれ、とまで言われた複雑な制御を経て、ミレイユは一振りの剣を完成させた。剣の形状自体は真新しくもない、よく見かけるような飾り気のない直剣に過ぎないし、それ自体は蜃気楼のように揺らめいて現実味がない。

 それがミレイユの魔力で紫色にコーテイングされ、その中には封入された魔術が赤い光として瞬いていた。

 

 今回封入したのは中級魔術に当たる『爆炎球』で、その名の通り、着弾と同時に爆発する火球を放つ。頭蓋を貫通して放たれる『爆炎球』は、エルクセスでさえ一撃で絶命させるだろう。

 ミレイユは作成した剣を手首を返しながら幾度か振り回し、問題ないと判断して一つ頷く。

 

 それを見ていたアヴェリンは感嘆めいた息を吐いた。

 

「相変わらず見事なものです」

「あぁ、ありがとう。――では、始めよう」

 

 エルクセスもミレイユの魔術制御に気付いていた。

 自分の両眼を潰した敵が、その顔面に張り付いていると分かっては冷静でいられないらしい。乱暴に顔を振りながら、敵もまた魔術制御を始める。

 顔面から飛ばされる原因にもなった、あの小型竜巻だった。

 

 しがみついているだけでは、同じ結果になってしまう。

 ミレイユはアヴェリンへと目配せして、エルクセスの顔面を一目散に駆け上がった。

 片手が召喚剣で塞がっているので、即座に使える魔術には限りがある。竜巻が迫りくる中、いつでも補助できるよう構えつつ走った。

 

 身体能力ではアヴェリンが上だが、揺れる顔面と不確かな足場では、その能力を十全には活かしきれない。竜巻を回避しつつ揺れる足元で駆け上がるというのは、想像以上に困難を極めた。

 アヴェリンの足元が滑り、そこへ竜巻が迫る。

 

「――アヴェリン!」

 

 ミレイユは咄嗟に『念動力』を使ってアヴェリンを頭上へと投げ飛ばし、そして自身もまた安定しない足場の上で苦戦しながら進み続ける。

 だが再び魔術を使ったところで位置がバレてしまった。

 

「……ぐぅっ!!」

 

 左右から竜巻が迫り、これは躱せない、と顔を顰めた時、前方で衝撃音が鳴り響くと共に、ミレイユの身体が弾かれるように持ち上がった。

 ミレイユの身体が、というのは正確ではない。

 見てみれば、アヴェリンがエルクセスの眉間あたりを殴り付け、その反動で顔面を動かした、という事だったらしい。

 

 ミレイユはアヴェリンへ皮肉げな笑みを見せては近くに着地し、そして剣を突き下ろした。

 根本まで深々と刺さった剣だが、その程度ならエルクセスも針に刺された程度にしか感じていまい。だが、その刺した瞬間を俊敏に察知して竜巻をミレイユに襲わせた。

 

 身体が掬われ足元から接地感が消える。

 浮遊感と共に身体が横へ流されていくのを感じた。アヴェリンも驚愕じみた表情でこちらに顔を向けていたが、それより重要な仕事が彼女には残っている。

 

「――やれ、アヴェリン!!」

 

 落下しながら叫んで命じ、それで咄嗟に身を翻す。

 その身を捩る勢いそのままに、アヴェリンは腕を渾身の力で振り下ろした。柄の先端にメイスが接触するのと同時、再びの轟音が鳴り響き、そして彼女の剛腕がそのまま眉間を再び殴り付けた。

 

「ブフフィィィンン!?」

 

 その遮二無二振り動かす首の動きで、アヴェリンが吹き飛ばされて行くのを見ながら、ミレイユは右手を前に突き出して握り込む。

 

「――開放!!」

 

 魔術の制御が、剣の中に封入された魔術を発動させる。

 瞬間、ボグン、とくぐもった音が聞こえ、エルクセスの頭部が弾けた。眼球が内側から外れて弾け跳び、そして鼻から口から滝のように血が飛び出す。

 それから遅れて煙が流れ出てきて、エルクセスの巨体が動きを止める。

 

 落下中に再び制御を始め、『落葉の陣』を行使すると、浮遊感が消えてふわりと着地する。ミレイユと離れて落下していたアヴェリンを『念動力』で回収するのと同時、エルクセスの巨体が横倒しになって倒れた。

 

「ハァ……ッ!」

 

 溜め息のように呼吸をして、それでアヴェリンに握り拳を向ける。

 はにかむように笑みを浮かべ、アヴェリンも同じように拳を握って互いにぶつけた。

 

「やったな」

「我らに掛かれば、このようなものでしょう」

 

 明らかに誇りを満面に飾りながら、事もなげに言う。

 それが本当に無表情なら様になった台詞なのかもしれないが、エルクセスを討伐したという興奮が先走って、まるで成功していなかった。

 

 ミレイユはちらりと笑って頷くと、次の標的を見定めようと首を回し、そこで空を覆いつくす雷雲が出ている事に気付く。

 結界内だから天気の影響など受けない筈だし、そもそも空に雲など掛かっていなかった。急な天気の変化とも見れるが、それより納得の行く理由が即座に思い立つ。

 同じ事を思ったらしいアヴェリンが、それを先に口にした。

 

「これは、オミカゲ様の仕業なのでは?」

「……そうだな。『雷霆召喚』だ」

 



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決戦の舞台 その6

 アキラは視界が白一色に染まった直後、続いた轟音に身を震わせた。

 目の前の鬼を斬り伏せた直後の事でもあり、視線が光と轟音の方へと向いてしまう。そして巨大なヘラジカの頭部に、堂々と立っていた角が圧し折れ落ちていくのを目撃した。

 

 ミレイユがやった事なのだろう、と直感的に想像し、そして改めてオミカゲ様の御子なのだと感じ入る。とても人が行使できる術の範疇にない威力は、それが神のもたらす力なのだと理解させられた。

 

 しかし、いつまでもそれに呆けていられない。

 鬼の集団もまた、その強大な力に身構えている。目の前にいる隊士達など、今更どうでも良くなったかのように見えた。

 

 威嚇するように空を見上げては吠え声を上げ、あるいは唸り声を上げては、何かに挑むような姿勢を見せる。

 何事かと思っていると間に、背後から巫女たちが走り寄ってきて、必死な顔で何かを伝えようとしていた。その手には籠を持ち、中には薄っすらと青白く光る直方体が幾つも入っている。掌の中にすっぽりと収まるような小さなもので、それが入った籠を大事そうに抱えていた。

 

 結希乃が彼女らに気付いて防壁の一部を開放する。

 そうして入ってきた巫女たちは、それぞれ手近にいる隊士達へとその直方体を手渡していく。結希乃も受け取ったものの、これが何かは分かっていないようだった。

 この状況下にあって、巫女が動いて直接手渡すものだから、無意味なものではないと分かっても、どうして欲しいのかまでは分からない。

 

 どうしたものかと結希乃が直方体を見つめている内に、巫女達はやるべき事はやったと、さっさと次の隊士たち――砲撃部隊の方へと移動して行ってしまった。

 だが、手渡された者たちから順次、それが何を意味するのか理解する。手の中にあった直方体は溶けるように消えていき、そして消耗していた理力が取り戻されていくのを感じたのだ。

 

 では、あれが何なのかは今更問うまでもない。

 オミカゲ様が、こういった時の為に用意していた支援物資だったのだろう。既に消耗度合いも無視できない状況になって来ていて、この支援は大変有り難かった。

 

 前線に出ていたアキラの部隊と、後方で一時退避していた部隊とが入れ替わる。

 そこで後続でやってきた巫女からも直方体を受け取り、そして理力を回復させていく。アキラの消耗自体は少ないので、それを他の者に回して様子を伺う。

 誰もが安堵した表情で直方体を受け取り、そして回復させていく様を見れば、萎え掛けていた士気もまた回復してきたようだった。

 

 支援系理術士にとって、理力の損耗は死活問題だ。

 いつまで続くか分からぬ戦況ならば尚更で、このまま戦っていて大丈夫なのか、という不安は常に付き纏っていた事だろう。

 

 同じようなタイミングで帰って来た七生もまた、消耗の激しかった味方を回復させてやれて安堵の息をついていた。

 お互いに目が合って、小さく微笑む。

 常に敵の圧を受け続けていた状況で、この回復は砂漠を渡り歩いた後に与えられる水のように感じられたものだが、彼女も似たような気持ちのようだ。

 

「オミカゲ様に感謝しなくちゃ。……まさか、こんな便利なものがあるとは思ってもなかった」

「そうね、オミカゲ様には、いつかこのような状況が来る事も見えてらしたのかも。……それにしても」

 

 言い差して、七生は戦場へと顔を向けた。

 今は前線を維持する為、他の部隊が前に立っているが、先程までの圧力は感じない。数を減らすべく隊士たちが斬り掛かっているが、それの対応もまたおざなりに見えた。

 

 今まではとにかく前へ進もうとする気迫が鬼どもからは感じられたが、今はそれとは全く別に感じる。逃げようとするのとは違う、敵を別方向から感じているような動きをしている気がした。

 

「鬼のあの様子は、一体どういう事なのかしら」

「やっぱり、あの御子神様の理術を恐れたんじゃないのかな。どういう物かは知らないけど、凄い威力だったし……」

「そうね、だけど……鬼が威嚇するように見ている方向が……」

 

 七生の見ている方へとアキラも見ていると、確かにミレイユがいた方向とは微妙にずれがある。というより、落下して地面の陣へと身体を預けたところなのに、後方に居る鬼どもの視線は未だ空を向いたままだ。

 

 ――何かを警戒している。ミレイユ達ではない、別の誰かを。

 それが何か分からぬまま、鬼どもは空に向かって火を吐いたり、雷や氷礫、何かの術を飛ばし始めた。そうしてみると、攻撃の先に豆粒ほどの大きさをした何かが飛んでいるのが目に入る。

 

 白い衣装を着た、白い女性のように見えた。

 その女性が空を軽快に飛びながら、衣装をはためかせ、ふわりふわりと鬼の攻撃を躱している。それがこちらへと近付きながら鬼を攻撃していると視認できた時、今更それが誰かなどと確認するまでもなかった。

 

「――オミカゲ様!?」

 

 思わず七生とアキラの声が被る。

 かの神を護る為に戦っていたというのに、それが本陣まで出向いてきたとあっては本末転倒という気持ちが湧き上がった。

 だが、もしかしたら違うのかもしれない――。

 

「見ているだけじゃ全滅すると思ったから、御自らご出陣なされたのかな」

「そう……なのかも。現状を見ても、大丈夫だと楽観できない状況なのは確かだもの。全滅させた上で攻められるか、それとも全滅させずに自ら出向くか、そういう種類の問題と捉えられたのかも……」

 

 それを不実とは思わない。

 信じて任せてくれと言うのは容易いが、死なば諸共と止められる状況でなかった事も確かだ。それで阻止を成功させられたら、感謝と労いの言葉を与えられるだろうし、隊士としても本望だろう。だが、全くの無駄死にであったなら、死んでも死にきれない。

 

 そして今の状況は無駄死に成りかねない状況だった。

 それを思えば、御自らの出陣を有り難いと思わねばならないのだろうが……。

 七生は慚愧に堪えないといった表情で空を見つめた。

 

「不甲斐ない……!」

「阿由葉さん……」

「私達がもっと強ければ、そのお心を痛める事も、煩わせる事もなかったろうに!」

 

 自他ともに認めるオミカゲ様の矛と盾、その役目を担えないというのは、生まれた時から御由緒家で教育を受けてきた身としては耐えられない事だろう。

 そのオミカゲ様は鬼の攻撃を躱しつつ、理術を一瞬の制御で完成させて放っていく。その練度も速度も、流石神だと感嘆できるものであり、多くの鬼を瞬く間に雷で射抜いていった。

 

 だが、いつまでも見ているだけでいる訳にはいかない。

 前線に出てきてくれたオミカゲ様へ報いる為にも、少しでも多く鬼の数を削らなければなららなかった。

 アキラは七生の肩を叩く。

 既に理力の回復を終え、隊士達がアキラ達の合図を待っていた。

 

 アキラ達と入れ替わりで出撃した部隊の損耗は、それほど激しくない。

 だが御由緒家の部隊と違って、その戦力には隔たりがある。まだ動けるという状態で退かせなければ、あっという間に崩れていく。

 七生はアキラへ目配せするようにして頷くと、部隊へと号令を掛けた。

 

「ただちに再出撃、最後に装備の点検だけは怠るな! 途中で交換なんて出来ないからね!」

 

 アキラの刀と違って、付与された武器に全て不壊の理術が込められている訳ではない。それぞれの得意理術を補助するものであったり、攻撃を有利にするものだったりと、その効果は様々だ。

 当然、無茶な使い方をすれば壊れてしまうし、これだけの猛攻を凌いでいるとなれば、予期せぬ傷とて付いていて当然なのだ。

 

 即座に代わりを用意できない物もあるが、だからと戦闘中に壊れたと言われても困る。

 アキラも同様に自分の部隊へと確認させ、そして全員から問題なしの合図を貰うと、七生へと顔を向ける。

 

「――出撃!」

 

 近くにいる支援部隊が防壁に穴を開け、そこから飛び出し戦場へと戻る。

 元いる部隊へと声を掛けつつ入れ替わるように前へ出て、下がるように指示するのと同時、幾つもの雷が降って鬼を焼いた。

 それでポッカリと穴が空いた戦場に、オミカゲ様が降り立つ。

 

 傷ひとつ無い身体であるものの、その神御衣には攻撃を躱した時に付いたと思われる汚れや傷があった。

 突然、降って湧いたかのようなオミカゲ様の出現に、アキラは元より誰もがどうして良いか分からない。己らの不甲斐なさを謝罪するべきか、それともまず先に救援に対する感謝を口にするべきか。

 

 だが、それよりも先に対処しなければならないのは、迫りくる鬼達だった。

 オミカゲ様が地面に降り立ったと知って、我先にと襲い掛かってくる。それらを一顧だにせず、オミカゲ様の降臨に駆け付けて来た結希乃へと、その双眸を向けた。

 

「これより鬼を一掃する大規模理術を展開する。空にいては集中できぬ。制御が完成するまで、この身を守れ」

「――ハッ! 必ずや、この命の代えましても!!」

 

 結希乃の発言は、この場にいる全員の総意だった。

 終わりの見えない戦いの、敵の数に圧殺される未来を予想した、勝利の見えない戦いだった。それを、神御自らがその道筋を示した。

 

 ただ勝利するだけではない、その玉体を守護するという、この上ない名誉ある役目を負っての勝利である。誰もが奮起し、そして勝利を疑う事なく邁進する。

 結希乃の声にも自然、熱が籠もった。

 

「防壁を展開! 決してオミカゲ様まで到達させるな、壁の前に隊士は並べ! 壁に触れさせるなどという不甲斐ない真似を見せるな! オミカゲ様の御前である、総員理力を絞り出し、一層奮起努力せよッ!」

 

 それで誰もが、この一戦を制する為、理力の制御を強めた。

 この後を考えない、全力の理力制御だった。

 オミカゲ様の制御が始まると、その身体中から青白い光が漏れ出し空へと上がっていく。その、人には到底到達できない、超越された圧倒的な理力には誰もが息を呑んでしまう。

 

 だが、鬼も当然それで勢いを増してきた。

 知恵のない鬼でも――あるいは、だからこそ――あの理術がどういう類のものか察知できたようだ。完成されたら負けだと分かれば、破れ被れにもなってくる。

 

 攻撃は激しいが、その攻撃は力任せの単調なもので、むしろ威力に目を瞑れば躱しやすいくらいだった。

 オミカゲ様はその制御を巡らせる毎に、理力の奔流が玉体を持ち上げる。一メートル程浮き上がったところで制御は完成が間近に迫り、そして空が雷を伴う黒い雲に覆われた。

 

 思わず視線を空へと向けたその先で、遠く離れた巨大なヘラジカが、ゆっくりと倒れ始めたのが視界の端に映った。

 



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決戦の舞台 その7

 アキラはつい、その倒れていく光景を目で追って、慌てて目の前の鬼へと集中し直した。

 あちらの方でも、ミレイユが奮闘していたのは知っていた。

 巨大な箆角が地面へ落ちたのを皮切りに、何度か攻撃を仕掛けていたのは、そのヘラジカが悲鳴を上げたり顔を左右に振ったりしていたので、何となく分かってもいた。

 

 あの巨体なので、どうしたって視界の端には映ってしまう。

 だから攻撃は継続しているのだと思っていたし、そしてそれが倒れ伏す姿を見えてしまうと、動揺する気持ちも湧いてくる。

 

 何しろ十階立てのマンションに相当するような、高さと大きさを持つ生物だ。

 そのような巨体を持つ生命は地球上にはいないから、倒れる――あるいは倒せる光景が思い浮かばなかった。だから、ゆっくりと硬直した姿勢のまま横倒しになっていく敵の姿は圧巻だった。

 

 それを見た所為というだけでもないだろうが、鬼どもの圧力も、いや増しに増してくる。焦りからなのか、大ぶりの攻撃も増えてきた。

 支援理術も飛び交いアキラの防御も速度も上がっていたが、細かな傷は増えていく。牛頭鬼を代表として、人型に近い体格を持つ攻撃は躱しやすいが、獣に近い鬼はその俊敏性から攻撃を受けてしまう事が多い。

 

 鬼の勢いは増すばかりだが、隊士達の士気は否が応でも高まっている。たかだか傷を受ける程度で、簡単に収まるものでもなかった。

 そこへ結希乃からの発破が飛んでくる。

 

「なんとしても護り切れ! オミカゲ様の前に鬼を立たせるな、隊士の恥だぞッ!!」

「護るだけなどと考えるな! 押し返せ、切り返せ! 隊士の底力を見せてやれ!!」

 

 砲撃部隊の指揮を他に任せたらしい侑茉も、前衛に加わり声を張り上げている。

 実際、彼女の防御に関する動きは巧みで、後の先を取るような戦い方が抜群に上手い。ここに来て、彼女が防衛に加わってくれたのは、非常に心強かった。

 

 アキラもまた、その二人に気持ちを後押しされるように刀を振るう。

 次々と迫りくる鬼の中には、口から剣のような牙を生やした虎もいる。巨体に似合わぬ俊敏性と、その牙だけでなく太い爪も脅威だった。

 

 血走った眼と、口の端から垂れる涎は理性の欠片も感じられないが、本能だけで戦うだけにしろ、獣の闘争本能は厄介だ。

 危機に対する回避能力が高く、容易くアキラに一撃を加えさせない。そして一歩譲るように身を屈めれば、その隙間を埋めるようにして別の鬼が入り込んでくる。

 

 ワニを無理矢理、二足歩行にさせたような見た目の鬼だが、その能力は馬鹿に出来なかった。単純に噛み付く攻撃は恐怖を誘発するし、実際その咬合力は見た目以上である事も疑いなかった。

 腹は柔らかそうに見えても妙なヌメリがあって、刃が上手く斬り込んでいかない。

 しかもこいつは口から火を吹くので、接近するもしないも嫌な相手だった。

 

「うっ、くそ……!」

 

 ワニの長い口先から逃げようと距離を取ったところで、その炎がアキラを焼く。咄嗟に隊員から防御理術が飛んできて、その炎を二つに割ってくれたお陰で直撃は割けたが、同じミスをするのはこれで二度目だ。

 

 炎を掻い潜って接近し、刀で首の付根を狙う。

 だが、首の動きは俊敏で刃をその歯で掴まれてしまった。顎の力と捻って体勢を崩そうとする首の力は、想像するより遥かに強い。

 不格好に身体を沈めるように地面へと押し込まれそうになってるところに、虎の鬼が飛び掛かってきた。

 

 刀を手放して逃げるか、その一瞬の思考――。

 アキラの門前まで爪が伸びて来て、逃げ出そうと反射的に動いた瞬間、その腕が斬り飛ばされて宙を舞う。

 飛んで行く腕の先から血の跡が尾を引くように流れ、そして鬼の群衆の中に落ちては消えた。

 

 飛んだ腕は虎鬼の方だった。

 悲鳴を上げて飛び退る虎鬼を見据え、ワニの捻り上げる力から逃げず利用するように動きつつ、その頭を蹴りつけて咬合から抜け出す。

 

 ちらりと一瞬だけ視線を向けて、アキラは危機を救ってくれた味方に礼を言った。

 

「ごめん、助かった!」

「いいのよ、余裕があったのは偶然だったし。いつかのピンチがあったら、こっちもお願いね」

「当然!」

 

 言い返しながら、アキラはワニの口先を縦に斬り裂く。

 どこも滑りそうな外皮を持つが、口周りだけは例外だった。それを狙ってみたのだが、その予想は見事に的中した。

 口先を仰け反らして追撃から逃れようと、身体も逸したところへ追撃で首元へ刃を突き刺す。滑ろうとする刀を、抱き止めるように脇を畳んで切先に力を込めた。

 

 刃が一度外皮を穿つと、あとは簡単に突き進む。中程まで貫いてから、横振りして大きく斬り裂いた。首元に手を当てて血を堰き止めようとする動きまで人間らしく、出血多量で沈み込むように倒れこむ。

 

 その間にも片腕を失った剣虎は、好機を窺いながら唸りを上げていた。

 前足一本失ったとは思えない俊敏性で接近して来て、流石にアキラを仕留めるには足りない。小さな跳躍で横へ避けると同時に刀を振り抜き、もう片方の腕も切り落とすと、倒れた剣虎の首に刀を振り下ろした。

 

 喉を大きく斬り裂き、勢い付いた刃が地面を噛む。

 血で溺れるように空中を蹴って藻掻くような動きを見せたが、アキラにはその最期を見届けるような時間も感傷もない。

 次の鬼に狙いを定め、襲い掛かろうとして来る奴らがいないか警戒しながら武器を構えた。

 

 ――その時だった。

 

「皆の者、よく耐えた」

 

 オミカゲ様の厳かな声と共に、莫大な理力の流れが上空へ流れる。そうかと思うと、空を覆う雷雲から、次々と雷が降ってきた。

 それはまさに、雨の代わりに雨のように降る雷、と表現するに相応しい光景だった。

 

 轟音が幾つも鳴り響き、そして眼前を白とも黒ともつかない明滅が支配する。とても目を開けていられず、光から庇うように腕で庇を作った。このような無防備な姿を晒すのは悪手だと分かっていても、そもそもどう動いて良いかすら分からない。

 

 下手に斬り込めば雷に打たれる怖さがあり、そしていつ自分の持つ刀に雷が落ちてくるかと気が気でもない。

 自然現象の雷とは違うと分かっていても、やはり鉄製の物に向かって落ちてくるのでは、という危惧は拭えなかった。しかし、ただ成すがまま見守る事しか出来ず、腕で隠した狭い視界の隙間から、鬼どもが撃たれる姿を伺うことしか出来ない。

 

 そして、いつまでも鳴り止まないと思われた轟音も、突然終わりを告げた。

 途端、静かになったと思いきや、最後の駄目押しと一つ落ちた雷を最後に途絶える。恐る恐る腕を下ろして眼前の光景を見て、現実の光景かと目を疑いたくなった。

 

 全ての鬼は雷によって打ち抜かれ、薄く煙を上げながら倒れ伏している。ただ一体の例外なく、焼け爛れ、あるいは炭化した死体があるのみで、生者は一つも存在しない。

 

 雷神として、そして戦神として敬われるオミカゲ様の存在を、紛うことなく体現していた。

 過去、幾度となく雷と共に現れ、そして悪なる者に神罰を下した神として祀られているのは何故なのか、それをこの光景が知らしめている。

 

 先程までは間違いなく劣勢だった。

 押し込んでくる鬼どもを、堰き止め続ける事すら難しいと、誰もが理解していた。だが、神のひと薙は、これ程までの威力があるのだ。人と神の差を見て、愕然とした思いもある。

 

 だが、勝利は勝利だ。

 孔から流水のように現れていた鬼も、先程の一撃を最後に出現しなくなっている。そして最後の一匹まで一掃されて、誰もが喜びに打ち震えた。

 

「オミカゲ様、万歳! オミカゲ様に勝利を!」

「オミカゲ様の御威光を、あまねく示さん!」

 

 中には武器を手放して腕を持ち上げている者すらいる。

 褒められた行為ではないが、今だけは許されるだろう。それ程までに、この勝利の喜びは他の何にも代えがたい。

 

 アキラが宙に浮くオミカゲ様を見上げていると、その隣に七生が立った。

 

「オミカゲ様の矛として役割は果たせなかったけど、でも盾の役割は果たせた。あの守りがあればこそ、あの大群を相手を一掃できるだけの理術を放って頂けた。オミカゲ様と共に戦えたのは、間違いない誇りよ」

「そうだね……。誰もが打ち震えて喜ぶのも分かるよ」

「でも、あなたは不満そうね?」

 

 七生はそう言って困ったように笑った。

 声を掛けてくれたのも、それが原因であったのかもしれない。

 他の誰もが喜んでいるのに、アキラだけが武器も手放さず、そして喜んでもいない。それを不審に思ったか、あるいは単に心配してくれたのか。

 

 実際アキラはこの状況を素直に喜べなかった。

 オミカゲ様の活躍にも、隊士達の活躍にも不満がある訳ではない。むしろ逆で、共に戦った仲間にも敬意と感謝を、そしてオミカゲ様にも感謝と崇敬とがある。

 

 ただ、胸騒ぎが収まらない。

 本当にこれで終わりなのか、という不安が拭えなかった。

 余りに簡単に、余りに呆気なく終わってしまったから、そう思えるだけなのだろうか。あれほど尽きぬ勢いで溢れ出ていた鬼も、急に止まってしまった事が怪しいと感じてしまう。

 それとも、これは単に考え過ぎなだけなのだろうか。

 

 アキラが神妙な顔をして考え込んでいるいる間に、人垣が割れて歓声が上がった。

 見てみれば、ミレイユとその仲間が一列になって歩いて来ている。この戦いの多くは、彼女達がいなければ成し得なかった。もし到着が遅れていたらアキラ達の命はなかっただろうし、続く鬼の氾濫にも対処できなかった。

 

 間違いなく彼女達が勲一等で、誰もが感謝と共に労う声を上げながら、彼女達を迎え入れる。

 その歩みはオミカゲ様まで一直線で、二柱の神が互いに称え合う姿を想像しながらその時を待ち、そして結局不敵に笑い合うだけで済ませる、という実に味気ないもので終わった。

 

 だが、すぐにミレイユの顔が引き締まる。

 何事かを話しているが、アキラからは距離のせいもあって聞こえない。オミカゲ様と御子神様を称える歓声が邪魔しているのも理由の一つだった。

 

 ミレイユは親指を背後――空の方へ向けているから、孔に関する事のような気がする。

 そう思って、ハッとした。

 孔が消えていない、という事実が示す現象は一つしかない。

 

 そして、これだったのだ、とアキラはようやく理解した。鬼の全滅と周囲の歓喜に流されていたが、孔が閉じていないのなら、まだ終わりではない。

 アキラは隣に立っている七生へ声を掛けた。歓声で消えてしまいそうな声だが、今はそちらの方が都合が良かった。

 

「……ねぇ、鬼を全滅させて、それでも孔が閉じないなんて事あるの?」

「普通はない……けれど」

 

 七生も言われて、ようやくその不自然さに気付いたようだ。

 

「でも、何かもかも前例なしの状況なのよ? それにあれだけ巨大な孔、閉じるにしても時間が掛かるんじゃないかしら」

「それは……」

 

 反論されて言葉に詰まる。

 何もかも例外で、孔の大きさも規格外だ。人の身の丈程の大きさ、あるいはそれを上回る程度というのがこれまでの常識だった。今ではそれが、十倍かそれ以上の大きさになっている。

 幾つも空いていた大きな孔も、今では一つの巨大な孔に変貌しているのだ。

 もし今も縮小を徐々に始めているのだとしても、アキラにそれは判断できないだろう。

 

 いずれにしても孔も結界も、アキラの管轄外の事だ。

 ミレイユもオミカゲ様もいらっしゃる現状、何事かがあっても上手く対処してくれる、という安心感はあった。周囲のはしゃぎようも、それを感じての事なのかもしれない。

 

「待って、あれ……!」

 

 アキラはその一点を指差すところでは、孔が巨大な脈動をしているところだった。それを見て、アキラの浅はかな考えが間違いだと分かった。

 あれは縮小していない、更なる拡大を見せようとしている。その外縁に何かが掴むように覗いている。形状だけ見れば、それは指のように見えた。

 

 あまりに巨大な指が四本、その外縁を掴んでいる。

 今、その孔から想像を絶する巨大な何かが這い出ようとしていた。

 



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決戦の舞台 その8

 ミレイユは『雷霆召喚』によって充満される魔力を感じて、呆れた顔をオミカゲ様へと向けていた。威力も強く範囲も広いこの魔術は、その最大の弱点として使用までに時間が掛かる点が挙げられる。

 そもそもが広範囲に対して扱う術だから、一対一の状況で使われるものでもなく、多くの前衛に護られる前衛で使うものと言える。

 

 その上、範囲を広げる毎に魔力の消費が跳ね上がるので、そう軽々しく扱えるものでもなかった。本来なら、たった一人で扱う術でもないのだ。

 多くの魔術士が十人以上で円陣を組むようにして扱うからこその広範囲魔術であり、ミレイユとてこの規模で使おうとすれば、継続時間は五秒と保たない。

 以前使った時はもっと小規模で、しかも規律良く並んでいた軍隊だからこそ、最小限の労力で済ます事が出来た。広範囲に、しかも視界を埋め尽くすような数となれば、別の手段を取るだろう。

 

 だが、それを可能としているのが、神としてこれまで鍛えてきたオミカゲ様の力であり、そして集積していたマナを使うからこそ実現できた結果だろう。

 

 ミレイユは隣にアヴェリンを控えさせながら、その術を制御する姿を見守る。

 周囲に魔物は居るが、遠巻きにして近付いて来ないか、あるいはオミカゲ様が降り立った方へ攻撃に参加するかのどちらかで、直接ミレイユ達へ攻撃を加えようとするものはいなかった。

 

 今まさにエルクセスを倒した二人に対する畏怖が表出していて、襲い掛かるべきという執念と、勝てる筈がないという本能がせめぎ合っている状況のようだ。

 ミレイユは傍らのアヴェリンへ、目配せしながら腕を組む。

 

「オミカゲの術が完成するまで、ここで待つ。わざわざ倒して回らなくても、あの術が全てを終わらせてくれる」

「分かりました。では、警戒だけすると致しましょう」

 

 元より油断など見せていなかったアヴェリンだが、改めて武器を持ち直して周囲を睥睨するように首を回した。

 戦う仕草を見せないミレイユを見ても、魔物たちが襲ってこようとしないのは、既に怯えの表情が出始めている事から戦意喪失しているのが分かる。

 

 その死の瞬間まで戦うのを止めないものかと思っていただけに、そのような態度は意外に思えた。だがその時、オミカゲ様の『雷霆召喚』の制御が完了したようだ。

 莫大な魔力が雲天まで上がり、そして目も眩む程の光量が視界を埋め尽くす。その直後、雷の轟音が耳を叩いた。

 

 ドゴゴゴゴ、とまるで工事現場の中に迷い込んだような錯覚に陥る。

 雷の語源が『神鳴り』であった事から分かるように、落雷とそこから起こる轟音は、神がもたらすものだと信じられていた。そして目の前で起こっている雨のように落ちる雷をみれば、オミカゲ様は雷神であると、誰もが疑う事なく思っただろう。

 

 あるいはこの魔術を使用した過去が、オミカゲ様を雷神と結びつけた原因なのかもしれないが、魔術など知らない者たちから見れば、これは間違いなく神と見紛う現象だ。

 ミレイユもまた眩しさに目を細めながら、落雷が収まるのをじっと待つ。周囲でミレイユ達二人を襲撃しようと逡巡していた魔物たちもまた、その落雷の直撃で次々と打ち倒されていく。

 

 雷に対して耐性を持つような敵ですら、耐えたなら耐えた分だけ雷に撃ち抜かれ、結局倒される結果となっている。完全耐性を持つような敵がいたら、それだけでも倒してやろうと思っていたが、どうやらその必要もないようだ。

 

 雷に対して弱い魔物は焼け爛れるだけでは済まず、炭化してしまっているものまでいる。

 いつまでも続くかに思えた落雷と轟音も、いつしか鳴りを潜め、最後まで残っていた最後の一匹が消し炭になったのを最後に途絶えた。

 

 魔物だけを狙い撃ちにしていたとはいえ、近くに数えきれない程の雷が落ちたせいもあって耳まで麻痺したように感じる。キーンと音だけは聞こえるのだが、隣に立つアヴェリンからの声が聞こえない。

 

 何か簡単な防壁だけでも立てておくべきだったか、と今更ながら後悔したのだが、何しろ自分が使った時はこのような至近距離では放っていない。

 その時の状況をそのまま当て嵌めてしまい、まったく対策してなかった状況は我ながら間抜けだったと自省しながら、治癒術を耳に当てて使う。

 

 鼓膜の破裂まではいっていないので、果たしてどれほど効果があるか疑問だったが、直ぐに音が帰って来る。同じような状況かもしれないアヴェリンにも、まず同じ治癒術を使って、その耳に手を当てた。

 

 くすぐったそうに顔を歪めたが、直ぐに音を取り戻した事に気がつくと、皺を寄せていた眉から力を抜いて小さく笑う。

 

「ありがとうございます、ミレイ様。魔物も綺麗に一掃されたようです。……オミカゲ様の元へ参りますか?」

「そうだな、ルチア達を回収して向かうとするか」

 

 全滅している事は分かっているが、一応生き残りがいないか周囲を見渡す。遠くでは隊士達の歓声が上がっているが、この近辺では物音一つ起こっていない。

 それを簡単に確認した後、ふと気が付いて頭上に空いたままの孔を見た。

 

 孔は大量の魔物を通した事で拡大の一途を辿り、最初は細かに幾つも空いて見えていたものも合体し、巨大な孔へと変貌している。

 その孔も未だ健在で、消える兆しが見えない。

 結界内で知った事実として、魔物が全滅した時点で孔は消えるもの、という認識でいたのだが、今回の孔は巨大過ぎる。その所為で消滅にも時間が掛かっているのか、とも思うのだが、何かそれとも違う予感がする。

 

 ミレイユは肩を軽く上げる動作だけでアヴェリンに付いてくるよう指示すると、すぐにルチア達と合流を果たした。

 ユミルは呪霊を消滅させている最中で、作成していた時と同様、面倒臭いと呟きながら最後の一体を消した。

 

「二人共、ご苦労だったな」

「……全くね。別に身の危険はなかったけどねぇ、まぁとにかく疲れたわよね」

「呪霊が傍にいて近付こうとする、あるいは近づける魔物はいませんでしたからね。……でも確かに、少し魔力を使い過ぎました」

 

 少しというには少々控えめ過ぎるが、確かに魔術をずっと維持していたルチアの顔には疲労が色濃い。魔力的な部分もそうだが、維持に掛かる精神的負担というのは馬鹿にならないものだ。

 ミレイユとしても直ぐに休ませてやりたいところだが、何にしろ孔の確認を済ませない事には、終わったと素直に喜べない。

 

「……ねぇ、ミレイさん。あの孔って非常に良くないものを感じるんですが……。あれ封じないと拙くないですか?」

「やはり、そうなのか? 私もそれを今から確認しに行こうと思っていたところだ。あれほど巨大だと縮小するのも封じるのも簡単じゃなさそうだが……、とにかく聞いてみない事には始まらない」

「ですね。ここは責任者さんの弁明に期待しましょう」

 

 神を捕まえて責任者というのも散々な表現だが、あの落雷を目の前で落とされては、意趣返しの一つもしたくなるというものかもしれない。

 それにはユミルも乗っかって、嫌らしい笑みを浮かべては髪の先端を弄って毛先を見せた。

 

「アタシもちょっとばかり被害の報告してやらないと。……呪霊の半数以上は雷で消し炭にされたしね」

 

 髪の毛よりも、むしろそちらの方が比重の重そうな発言だった。

 片付ける手間が省けただけじゃないのかと思うのだが、苦労して作成した分、色々と思うところがあるのかもしれない。

 とにかく、ここで話していても仕方がないので、先程のアヴェリンの時と同様、肩を回すような仕草をして歩き出した。

 

 それにアヴェリンが続いて、その後からルチア、ユミルの順でついてくる。

 隊士達の誰もが喝采を上げて、腕や武器を頭上で振り回しながら喜ぶ中へ、ミレイユは近付いて行く。肩を叩いて喜び合う者たちも、その気配を敏感に察して道を開ける為に左右へ分かれた。

 

 そうなると次々とそれに倣って場所を譲り、オミカゲ様へ一直線に通ずじる道が出来る。

 それらから喝采を浴びながら進み、オミカゲ様の前まで辿り着くと、互いに小さく笑みを作った。ミレイユからすれば御大層な事をやったな、という皮肉の笑みだが、オミカゲ様からは労いの笑みだったように思う。

 

 だが挨拶するよりも前に、聞いておかねばならない事があった。

 ミレイユは単刀直入に、親指を背後の孔へ向けて言葉を放つ。

 

「大変なはしゃぎようだが、あの孔は勝手に閉じるのか?」

「前例ないこと故、確かな事と言えぬが、閉じぬであろうな」

「そうだとしたら……ここで喜んでいる場合じゃないだろう」

「あまり水を差すようなこと言うでない。勝ちは勝ちであるからな。あの処理を終わらせる前に、その余韻に浸る時間くらいは与えてもよかろうよ」

 

 オミカゲ様の物言いに、引っ掛かるものを感じてミレイユは眉をひそめる。

 

「自然に閉じないまでも、閉じる方法は別にある……というのか?」

「然様である。でなければ、ここで隊士達の笑顔を見てばかりおられるものではない」

「なんだ、そういう事か……。手伝った方がいいのか?」

「うむ、その方が確実であろう。ルチアにも手助けを求めたいが、良いか?」

 

 オミカゲ様がルチアに顔を向けてから、ミレイユに確認を取ってくる。ルチアを動かす権利はミレイユにあるので、それを飛び越えて勝手に命令するのは御法度だと理解しているのだ。

 ミレイユは頷きかけて、ふと首を傾げる。

 

「一千華は呼ばないのか? 結界術に秀でているのは、むしろあちらだろう」

「業腹だが……背に腹は代えられまい。無論、最後の奉公として、これに参加してもらおう」

「分かった、そういう事なら好きにしろ。……直ぐに掛かるか?」

「一千華も奥御殿にて、結界の補助をしてもらっていた。こちらに呼ぶにも時間は掛かろうし、縮小封印にも時間は更に掛かるだろう。休める時に休んでおいた方が良い」

 

 そう言われたら、ミレイユに拒否する事は出来ない。

 何にしろ、ルチアの疲労が大きいのは確かなのだ。これから最後の大仕事を前に、しばしの休憩は必要だろう。オミカゲ様にしても、『雷霆召喚』を行使しての損耗は、集積していたマナを使用していたとしても、軽いものではない筈だ。

 

 それを言ったら、おそらく一千華の消費も大きいものだと思われるが――結局、誰も彼も損耗している事は間違いないのだ。

 ミレイユは背後を窺い、そして見上げながら思う。

 ――しかし、空に残った巨大な孔は、見過ごすというには不穏が大きい。

 

 そう思った時だった。

 巨大な孔の縁に手を掛け、何かが這い出でようとしているのが見えた。あまりに巨大で遠近感に齟齬が生じる。それが人型をしているというのは分かっても、存在を信じたくないという気持ちの方が強く出た。

 

 ――この上、更に。

 孔が消えていないのは、これまでの前例と同様、まだ出て来る魔物がいたからだ。

 そして幾つも孔を開けていたのは、つまり――。

 ミレイユは歯噛みして、孔から出ようと腕を伸ばした何かを睨み付ける。

 

「全てはアレを通す為か……! 多くの魔物を捨て石にして、巨大な孔を開ける為だけに利用して……!」

「あれは、まさか……ユミルさんが言っていた?」

 

 ルチアが一つの事を思い出し、伺うようにユミルを見れば、首を振りながら苦い顔で孔を見ていた。

 

「言ったでしょ、見たことはないんだってば。けど、間違いないでしょ。……あれが、神造兵器の『地均し』でしょうよ」

 



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決戦の舞台 その9

 巨大な孔から出てきた巨大な何かは、人の形を模していても多くの部分に違いがある。

 まず首は無く頭部も無かったが、鎖骨に当たる部分の中央に、一つのレンズらしきものが付いている。それが眼の役割を果たしているのは、せわしなく動いて周辺状況を把握しようとしている事からも、推し量る事が出来る。

 

 手足も長く胴は寸胴で、胸と肩部分が大きく盛り上がっていた。頭部を無理やり胸に埋め込んだ為に、その分が盛り上がっているようにも見える。そして、関節はそれぞれ球体で出来ていた。

 ユミルがゴーレムだと言っていたとおり、人を造るというより人に似せる事を目指したような、どこかチグハグな印象を受ける。

 

 腕にも足にも背中にも、武装らしきものは付いておらず、表面は滑らかで凹凸は殆ど無い。エルクセスの箆角を思わせる色と質感をしていたが、それが身体も腕も関節も、全ての部分を覆っていた。

 

 その身長はエルクセスより尚高く、直立したなら肩高まで三百メートル程度はあるだろう。東京タワーやエッフェル塔に相当する、あまりに規格外の高さだが、重要なのはそこではなかった。

 『地均し』と名付けられただけあって、足の底面は広く大きかった。片足だけでも五十メートルはありそうだったし、それが歩行しようものなら攻撃の意志がなくとも多くのものが破壊されるだろう。

 

 そして何より、今は孔から這い出す姿勢で屈んでいるような状態だが、今は上背をあげようとしている。当然、結界に接触する事になり、今も背中部分で押し退けるような体勢で、結界に罅が入っていた。今はまだ何とか耐えているが、結界の崩壊は時間の問題だった。

 

 八房も、今は八本の尻尾を広げては唸り声を上げて威嚇している。すぐにでも飛び掛かりそうな体勢だが、オミカゲ様からの指示を待っているようだ。

 その様子をじっと見つめるオミカゲ様と、同じく気圧されるように動けていない隊士に対して、ミレイユは声を張り上げた。

 

「おい、何してる! さっさとアレを止めるぞ!」

「あぁ……」

 

 ミレイユの声にもオミカゲ様の反応は芳しくなかった。

 近くに控えるように立っていた結希乃が、弾かれたように跪いて顔を上げる。

 

「ご指示を! あれを野放しにすれば、どれだけ被害が出る事か……! この場で何としても押し留めなければなりません!」

「そう……、然様であるが……。もはや隊士達で相手になる存在ではあるまい」

 

 確かに武器を手に取り戦える相手ではないだろう。

 何しろ大きさが違いすぎる。あれにダメージを与えるには、最低でも上級理術が使える隊士がいなければならないが、今の所そのような者はいない。

 

 内向術士にしても、外側を幾らか傷つけられる程度で止まるような相手ではない。

 アヴェリンとまで言わなくとも、それに次ぐ実力者でなければ足手まといだ。敵は巨体故に鈍足でもあるから、接近する事は難しくないだろう。

 しかし、接近できた後が問題だった。

 ミレイユは傍らに立つ、ルチアに尋ねる。

 

「あの鎧甲、何の材質か分かるか……?」

「あれって装甲の一種なんですかね? そこからが疑問なんですけど。ゴーレムなら全身芯部まで、あの素材って事は無いんですか?」

「アタシの所見が正しいなら、丸ごとってコトはないと思うわ。この子の言うとおり、装甲として覆われた素材が、今見てるアレなんだと思うけど」

 

 ユミルが返答して、それから大いに顔を顰める。

 

「間違ってて欲しいと思うけど、あれエルクセスの箆角を鎧甲として使っているんだと思うのよね」

「つまり、術は無効化されて吸収されるという意味か?」

「そう……。全く同じ素材であるかは分からないし、見当外れかもしれないけど、もしそうだとするなら、あの全身全て、魔術を吸収して動力にされる機能を持つ鎧の可能性がある」

 

 ミレイユは唸りを上げて、むっつりと押し黙った。

 ゴーレムである以上は、内部に動力を持っているのだろうし、そして補給なくして動き続ける事も出来ないだろう。

 それを外部の供給に頼っていて、しかもそれが敵から受ける魔術だとすると、下手に攻撃する事が出来なくなる。

 

 エルクセスの箆角は、アヴェリンでさえ小さな罅一つ入れる事が出来ないほど頑丈なものだ。打撃にしろ斬撃にしろ弾いてしまい、そして魔術でさえ有効ではない。

 エルクセスの場合は角が吸収できる許容量というものがあったが、あれにも同じくあるかどうか……。

 試してみるというには、あまりに危険だった。

 

「ちなみに、エルクセスの時と同様、飽和させて破壊する事は可能だと思うか?」

「可能不可能で言えば可能でしょうね。でもそれは、湖を完全に干上がらせるのは可能か、と言うのと同じでしょうよ。可能だとして、ひと一人が持てる桶の大きさには限度がある」

「水を一掬いするのと、魔術を一つぶつけるのを同じ事と考えた場合……あまり現実的とは言えなさそうですね」

 

 ルチアがユミルの言葉を引き継いで、小さく溜め息を吐いた。

 この場で合ってる適切な表現とは言えないが、言わんとしている事は理解できる。しかも、これは飽和させる事が出来なければ、それが直接動力として使われる事を意味する。

 それが大きければ大きいほど、運用に割くエネルギーも別の役割を得るだろう。

 

「エルクセスがそうであったように、吸収した魔力で魔術を使ってくる可能性は、考慮に入れておかねばならない」

「そうね、魔術よりも、もっと原始的な……単純なエネルギーに置換して放出するとか。いかにもありそうじゃない?」

 

 ユミルが目玉に相当するレンズに指を向けて、したり顔で言った。

 それは確かに有り得そうな話だ。構造を知らないから何とも言えないが、ゴーレムが魔術を使ってくるというより余程想像しやすい。

 

 だがいずれにしろ、攻撃しなければ結界を破壊されてしまう現状、座視して待っている訳にもいかなかった。何かしらの対処は必至で、しかし何をするにしても良い対処が思い浮かばない。

 

 まず攻撃しなければならないのだが、その攻撃はあの巨体である故に、まず魔術の行使しか選択肢が浮かばないというのが拙い。

 そして、それこそが狙いという気がしてしまうのだ。

 攻撃の誘導と同時に補給を兼ねている、という気が。

 

「……まぁ、あの巨体を見て、まず殴りかかろうとは考えないわよね」

「距離もありますし、鈍重な相手なら、まず魔術を使って様子を見ますよ。どういった魔術が有効なのか、初手が通じないなら別の魔術を試し続けますよね」

「それが動力になるとも知らずにか? ……いかにも神々の考えそうな事だ。自分達の手の平で踊る相手を見るのが、大好きな連中だからな」

 

 ミレイユが吐き捨てるように言えば、同意するようにユミルが何度も頷いた。

 下手に魔術を使うのは愚策だと分かる。だが同時に、接近戦を挑む相手でもない。近付いてしまえばこちらも安全だろうが、同時にダメージを与えられるかと言えば、やはり首を傾げる。

 

 アヴェリンが眉間に皺を寄せながら言った。

 

「だからといって、その継続時間が尽きて勝手に止まるまで耐える、というのも消極的過ぎるように思います」

「そうだな。それが一番確実でもあるだろうが、それこそ『地均し』が終わるまで止まらないだろう。そうさせまいと躍起になる度、あるいは自分の街や家を守ろうと先走った者が出る度、思う壺に嵌るという事だろうな」

 

 アヴェリンは鼻を鳴らして大いに不満を露わにし、腕を組んで『地均し』を睨み付ける。

 

「あの魔物の大氾濫を凌いだ者たちへの、最後の置き土産がコレという訳ですか」

「最後というより、本命がコレなんだろう。消耗も多い我らだ、元より簡単ではないが、許容量を飽和させるだけの魔力は捻出できないと踏んでいるんだろうさ。目的を達成させる最後の一手、それがアレだ」

「でもですよ……言ってしまえば、全て推測でしかないですよね。あの鎧甲も、エルクセスの篦角だとは限らない訳ですし……」

 

 ルチアが懸念と疑念を合わせたような表情で言うと、ミレイユも素直に同意する。

 

「そうだな、そうとも限らない。外見を良く似せた別物の可能性はある。だが奴らからすれば、疑念を植え付けるだけで十分なんだろう。直前にエルクセスを送り込んだのも、果たして偶然なのかどうか……」

「いやでも……、そこまで考えてますかね?」

「手出しするのに二の足を踏んでいる現状が、まさに狙い通りという気がするが……」

 

 ミレイユは忌々しく思いながら『地均し』を睨み付ける。

 神々は予想よりも、余程本気でミレイユを狙っている。数多くの魔物、そしてドラゴンや巨人、エルクセスといった、替えが簡単に利かないものまで捨て駒として利用していた。

 

 巨人はともかく、ドラゴンもエルクセスも、その総数は多くない。数体しかいないような希少生物ではないとはいえ、捨て駒にするには惜しい存在の筈だ。

 だが、現実を直視すれば、神々はそれで良いという判断をしたのだ。

 

 ただ打ち払えば、堰き止めれば十分と考えていたミレイユ達にも責はあるのだろう。しかし――。

 ミレイユは先程から黙りを決め込んでいるオミカゲ様へと顔を向ける。

 

「どうするんだ、隊士達も指示を待っている。何をするのか、何をさせたいのか、今すぐ決めてくれ」

 

 ミレイユがそう言えば、ユミルに続いて跪いた隊士達から決意の籠もった視線が向けられる。八房からもまた、同様の視線が向けられていた。オミカゲ様の命ならば死をも厭わない、彼らの熱が籠もった瞳はそう語っている。

 隊士達の後ろには巫女たちも控えていて、その手に持つ籠は既に空だったが、指示一つで如何なる命令にも果敢に立ち向かうだろう。

 

 オミカゲ様は皆を見渡してから、一つ頷く。

 

「結界の維持を最優先、まずはあのゴーレムを外に出さない事に注力せよ。支援理術を習得している隊士達にも、その援護に回ってもらう」

「ハッ!」

「また維持に失敗した時の為、再展開の準備も同時に行え。――理力の備蓄はどうなっておる?」

 

 オミカゲ様が巫女の一人に目を向けると、即座の返答があった。

 

「ハッ! 現在の使用率は四割を超えておりますし、結界術士達へ回した分はそろそろ尽きる筈ですが……。継続する分、再展開の分にはまだ余裕があるかと」

「ならば直ぐに再供給を開始し、今後も優先的に供給せよ。あれを外に出すのは、最たる悪夢だ。そちらの供給が終わり次第、こちらにも持ってくるように」

「ハハッ!」

 

 巫女が一礼して頭を下げると、オミカゲ様の命を実行するべく走り去って行った。

 



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決戦の舞台 その10

 神々に一つ誤算があったとすれば、それはオミカゲ様がマナの蓄積を怠っていなかった事だ。自身の神としての格を上げる、信仰という願力を自身に還元するのではなく、集積する事に使っていた。

 これはあちらの神々には出ない発想であると同時に、いつか来ると確信していたオミカゲ様だからこそ用意できたものだろう。

 

 あちらの神々も、これだけの準備を行ったからには覚悟あっての事だろうが、オミカゲ様の覚悟もまた相当なものだ。

 オミカゲ様は改めて隊士達へと顔を向ける。

 

「結界自体が張れずとも、制御を補助する陣や理術を使える者はいる筈だ。その者たちも結界術士の支援に動け。今すぐ、即座にだ。場所は女官が知っている、御殿に入れば必ず目に付く所にいる筈だ。そちらに聞け」

「ハッ!」

 

 指定された理術に心得がある者たちが立ち上がり、巫女の後を追って駆けて行く。

 後に残ったのは防壁などを築ける防御に特化した術士と、攻勢理術を得意とする術士、そして内向術士だった。

 これらをどう使うかが悩みどころだろう。

 

 アヴェリンでさえ傷つけられなかった箆角を鎧甲に持つ相手へ、こちらの内向術士が何を出来るかと思うと首を傾げてしまう。他に何か、露払いをして貰いたい雑魚もいない。

 防壁を築けるのは今後出番はありそうだが、外向術士は敵に塩を送る事にしかならない。飽和攻撃が完全な賭けで、その内負ける可能性が非常に高いと分かっているものに対し、とても使えるものではなかった。

 

 ――あるいは、もっと数が居れば。

 そう思わずにはいられない。飽和させるのが最上だと分かっていても、ミレイユを含めた全員で攻撃したとしても無理だと分かる。

 

 エルクセス一体の為にミレイユとオミカゲ様二人分が必要で、そして全身を覆われた『地均し』の鎧甲には、エルクセス十体分は優に超える量を使用されている。

 数で補うというなら、現状、到底届かない数を用意する必要がある。

 それも、最低でも御由緒家クラスの者が千や二千がいなくてはならない。到底望んで得られるものではない。

 

 ――その時だった。

 

「オミカゲ様、遅参いたしまして申し訳ありません!!」

「なんだ……?」

 

 振り返って見た先には、既に一戦を退き、当主を譲った者たち――先代や先々代の当主達が、使い古された武具を身に着け膝を立てて座っていた。

 中にはミレイユの知らない顔もいる。

 だが昼食会で見た顔は全ていて、阿由葉京之介や由喜門藤十郎、由衛十糸子(としこ)、由井園志満、そして比家由家、それらの親と思しき老人の姿も見えた。

 

 それが各家から十名前後、計五十人程が理力を漲らせている。

 老いたとはいえ、それでも一般組より劣るという事はない。その彼らが、それぞれ武器を取って命令を待つように一心に視線を向けていた。

 

「我ら御由緒の老兵、火急の危機と聞き、馳せ参じました。どうか、如何様にもお使い下さい!」

 

 

 

 

 

 たった五十、そうと聞けば頼りなくも思えるが、彼らから感じる熱量を見れば、そう捨てたものではない。

 直接的な戦力には結び付かなくとも、彼らの一助が役立つ事はあるだろう。

 ミレイユは彼らの忠誠心に熱いものを感じて、思わず胸の辺りで拳を握った。

 オミカゲ様もまた一歩前に出て、跪く彼ら彼女らへと労いの言葉を落とした。

 

「皆の者、よくぞ来てくれた」

「オミカゲ様が直接お出ましになられるような凶事、若者ばかりを戦わせる訳にも参りません! 老骨と痩せ細るばかりの肉にも、使い所はありましょう。その為に命失おうとも、本望でございます!」

「そなたらの忠義、真に大義。ならば、存分に役立って貰うとしよう」

「ハハッ!」

 

 一同が一斉に頭を下げ、そしてオミカゲ様はミレイユへと向き直った。

 直接近付いて来て、そして顔まで寄せて声を潜めて言ってくる。その視線はちらりと『地均し』へと向いていた。

 

「忠臣には報いてやらねばなるまいが、現状……アレに勝つのは難しい」

「……この場で言う事じゃないだろうが」

「一人として無駄に死なすつもりはないし、死んで欲しくないものであるが、実際的な問題として不可能だ」

 

 そもそもの攻撃手段として乏しい上に、それがこの数しかいないとなれば、敵を利する行為にしかならない。

 ミレイユとオミカゲ様とルチアとユミル、それとあるいは八房もまた勘定にいれるとしても、難しいと判断せざるを得ないだろう。それとも、イチかバチかを試してみるか、あるいは内向術士が総出で、どこか一箇所を殴り付けてみるか――。

 

 出来る事があるとすれば、それぐらいだろう。

 だが、そのどれもが効果的と思えないと予想できてしまう。

 ならばどうするつもりだ、と挑むような目付きでオミカゲ様を見ると、同じような視線がミレイユを射抜いた。

 オミカゲ様は更に声を潜めて、音を零すように言った。

 

「我が送る。そなたは世界を渡れ」

「……何を、何を言ってる? 逃げろというのか? 敵へ挑む事もせずに……!?」

「そうだ、逃げろ。そなたをこの戦いで喪う事、あるいは神々の手に渡る事、我はそれを恐れている」

「馬鹿な事を――ッ!」

 

 ミレイユは激昂しそうになり、そしてこの二人へ周囲の視線が集中している事に気付いて、慌てて声を潜め平静を装う。

 オミカゲ様の言う事は分からないでもないのだ。

 最初から世界を渡る事には了承していた。しかし、ただ渡るだけでは同じ事の繰り返し。それでは結局ループを抜けられないだろうし、それを踏まえて多くの対策を施してきた。

 

 そのつもりでいたのだが、同時に時間が足りない、用意が足りない事も自覚していた。多くは事前準備が足りておらず一年先、早くて半年先を見据えていたもので、しかもそれが急激に早まってしまった。

 それは神器として渡されていた箱庭で、ルチアが結界へのアプローチを強めていた為で、それを察知した神々が、それを阻止する意味合いで本腰を入れたのだと知った。

 

 何もかも一手足りなかったという自覚はある。

 しかし、ここで逃げ出しては結局同じ事、ループを破却できる可能性が縮まるに違いない。それを分からぬ筈もあるまいに、そうしろとオミカゲ様は言っているのだ。

 

 ミレイユは黙っておられず反論しようとしたが、それより前にオミカゲ様が口を挟み、そしてその内容故にミレイユは口を噤んだ。

 

「――いいか、我はようやく理解した。なぜ前周ミレイユが話も聞かず、我を強制的に異世界へ送り還したのかが」

「何だって? 待て、まさか……」

「そう、あれが原因だと判断した」

「何を根拠に」

「我一人でも……いや、我とそなたら四人合わせても倒せないと、前周ミレイユが見切っていたと思うからだ。奴はあれが来る事を知っていた、そして止められない事もまた同様に」

「だから、奪われるより前に強硬策に走ったと? それだって推論に過ぎないだろう」

「そうとも、お前より幾らか前周世界を知っている、私が見た世界からの推測だ。だが、追い立てるように我を送還したのは何の為だ? 話を聞かずに、アヴェリンさえ手に掛けてまで、何故そうしたかった? 前周ミレイユにとっても、アヴェリンは知らぬ仲ではないのだぞ」

 

 ミレイユは二の句を告げなかった。

 何故と思っていても、解決には至らず想像する他ないとあっては、深く考える意味を見出だせなかった。それが深く考えなかった理由だったが、確かに強引と一言で言い表すには、行動が異常に思える。

 

「何かが我を襲えば、それを跳ね除けることが出来ないと知っていたからだ。前周ミレイユは、それから逃がす為、そして奪われない為に必死だっただけだ」

 

 その時の状況はオミカゲ様にしか分からない。どういう表情をして襲ってきたのかも、対話を拒否してまで何を急いでいたのかも、何もかも分からない。

 しかしそれは、同時にミレイユ自身の事でもあるのだ。どのような人生を歩んだにしろ、その行動原理は大きく違わない。極端に逸脱した、想像も出来ないような行動を取る事も、またない筈だ。

 

 ならば、自分に置き換えて考えれば、その時の行動も何となく読めてくる。ミレイユには薄っすらとしか分からない事でも、既に一周してきたオミカゲ様には、それがより深く読めてくるのかもしれない。

 

 ならば、いま言ったオミカゲ様の言葉にも一定の理解は出来た。

 ――何かから逃がす為。

 それがあの『地均し』だと言うのなら、そうかもしれない、と納得できる部分はあった。

 

 オミカゲ様が降り立った世界は、既に瓦礫の山であったという。

 人の気配もなく、荒廃した世界のみがあった。それがもし、既に地均しされた後の世界であったなら――そしてそれが、ミレイユ達四人に周回してきたミレイユを合わせても、勝てない相手であると知っていたのなら、最早逃がす以外に選択肢は残されていない。

 問答する時間すら惜しいというなら、実際に『地均し』は直ぐそこまで近付いていた可能性もある。

 

「今の我らにあれが打倒できるか? 理術の一切を封じたまま、あれを倒すのは現実的に可能だと、努力すれば成し得ると、そなたは本当にそう思うのか」

「それは……」

「そなたを奪われた時点でこちらの負けであろう。後には焼け野原と()()()された世界だけが残される。それだけは避けねばならぬ。――理解れ、理解ってくれ」

「だからと、言って……!」

 

 ミレイユには反論できるだけの材料を持ち得なかった。

 諦めるのは早すぎる、何か手立てがある筈だ、言いたい言葉は幾つもあるが、同時にそれが只の感情論であるのも事実だった。

 意味も意義もある提案ではなく、まだ何とかなるのだと、踏ん張る事が出来るのだと、そう感情に任せて訴えたいだけに過ぎない。

 

 事実、踏ん張る事は出来るだろう。

 そう簡単にやられる事はない。しかし、同時にそれは周りに屍を築く事を意味するのだ。ミレイユ達には耐えられても、他の者達には無理だ。

 

 そしてそれは、ただでさえ勝ち目の薄い戦いを、更に難しくさせていく事に繋がる。対抗策の一つとして有効な、吸収魔力量を飽和させる、という手段も、彼らを失えば実現できなくなるだろう。

 ミレイユが一秒耐える度、仲間や知り合い、顔見知り、それらが次々と犠牲になっていくのが分かる。それならば、そうするぐらいならばいっそ――。

 

 だが、かつて考えた筈だった。

 ループを脱却するには、まずループする事を止めるべきだと。失敗したから繰り返しているのではなく、繰り返す為に失敗しているような状況に陥っているのではないか、と。

 

 繰り返せるという保険そのものが、ループの原因になっているなら、世界を渡るのは悪手だとも考えていた。だが、今この状況にあって、事態を好転できる何かがあるとも思えない。

 本当の最悪は、ループする手段を失くすのではなく、ミレイユが捕獲される事だ。この現世で敗北を喫し、神々の思惑そのままに奪われる事、それだけは回避せねばならない。

 



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決戦の舞台 その11

 ミレイユの考えが傾き始めた時だだった。

 今も立ち上がろうと結界を背中で押している『地均し』が、その目玉のようなレンズをこちらへ向ける。何か不吉なものを感じた、次の瞬間。

 

 カッと一瞬の閃光と共に、何らかのエネルギーが放出された。

 ミレイユが身構えるよりも前に、オミカゲ様が庇うように前に出て、そして防御壁を張って攻撃を防いだ。

 

「ぐぅぅ……!?」

 

 ズガァァン、とまるで鉄同士を打ち付けたような重撃音が鳴り響く。

 その熱量と光量、そして衝撃は凄まじく、ミレイユであっても思わず体勢を崩してしまいそうになる程だった。オミカゲ様が歯を食いしばって防いでいるが、そのレーザービームのような光線は防壁に阻まれては、昼と見紛う眩い光を放っている。

 

「待ってろ、今……ッ!」

「いい、そなたは……!!」

 

 ミレイユが咄嗟に制御を始めようとした時、必死の形相でオミカゲ様が止めた。そうしている間に他の隊士がオミカゲ様の前に展開し、次々と防壁を築いていく。

 しかしそれは、築いた瞬間熱したナイフを当てられたバターのように崩れてしまう。

 オミカゲ様の防壁の威力が分かろうというものだが、そこへ更に更にと人を増やす事で、なんとか塞ぎ止める事が出来るようになった。

 そこへ更にルチアが加わる事で、今の状態を維持している。

 

 彼女ら隊士達も必死の形相だ。

 この場にいる全員、駆け付けた御由緒家を含めてようやく止められるようになったものの、それは溶けて消えた瞬間、また貼り直すという力技を何重にも渡って行っているからに過ぎない。

 このような方法では、あっという間に理力が底をつく。

 

 オミカゲ様自身も防壁を張り続けつつ、しかし余裕は取り戻したようで、顔を向けて片手も向けてきた。

 

「最早議論の余地はない。これから、そなたらを送る」

「だが、どうやって……?」

「結界内に孔さえあればな……、それを利用し孔を作ってやれるのよ。既に孔の空いた空間に、それを一つ増やす位は造作もない。この世の神として、孔に干渉して行き先を変える事も出来る」

「行き先……?」

「奴らが作った孔の、同じ行き先では拙かろうよ。着いた先が神の作った牢獄でも良いと?」

 

 言われて確かに、と納得する。

 神の目的がミレイユの奪取である以上、孔を潜らせれば任務完了とはならない。奪取した後の目的も当然あって、その為にミレイユの身柄を野放しにするとは思えなかった。

 それこそ辿り着いた先が、出口のない密室であっても驚かない。

 

「だが心せよ、細かな場所を指定までは出来ぬでな……。とりあえず――カハッ!?」

 

 オミカゲ様が何かを言い掛けようとして突然吐血をし、それがミレイユの顔に掛かった。見てみれば、『地均し』が放つレーザーは消えていて、代わりに細かい線のような光線を幾条にも放っていた。

 激しい光も音もないから分からなかったが、それが湾曲して防壁を回避し、それがオミカゲ様の胸を貫通したという事らしい。

 

「おい、大丈夫なのか!?」

「この程度では何ともならぬ……ゴホッ!」

 

 また一つ吐血をしたが、その片手には治癒術の制御を示す光が灯っていた。

 それを胸に押し当てながら、もう片方の手で別の制御を始める。翳した手の向こうでは、怪しげな光と共に、今では見慣れた孔が出現した。

 人が一人通るには十分な大きさで、全員が同時に入ろうとしても大丈夫そうに思える。

 

 孔の向こうは暗く何も見えないが、その遥か先に針の穴程の光が見えていた。

 ルチアが防御壁を維持させつつ、ミレイユの傍へとやって来る。

 

「話していた内容までは分かりませんでしたけど、これに入れって事なんですか?」

「そうらしい。オミカゲの奴は次に託す事を選んだ」

「この土壇場で送還、ね……。今の状況を見れば宜なるかなって感じだけど……。そうね、それも一つの手かもしれないわ」

 

 ユミルは納得しているようには見えなかったが、同時に仕方ないとも思ってもいるようだった。

 アヴェリンは黙して語らず、ただミレイユの決定に従うつもりでいるようだ。

 

 だが、この状況にあっても、ミレイユは踏ん切りが付かない。

 まだ何かやれる筈だろう、と訴えたかった。損切りするなら早い方が良いという判断なのかもしれないし、それなら今が最後のチャンスなのかもしれない。

 

 ――だが。

 ――それでも。

 何とかしたい、という気持ちが拭えなかった。

 逃げたくない、立ち向かいたいという抵抗心が湧き上がってしまう。本当に駄目だと思ってからでは遅い、それは分かっている。だが、その時まで戦い抗いたいという気持ちもまた、ミレイユの本心だった。

 

 その時――。

 

「カッ、ゴボッ……!!」

 

 またも湾曲した線状の光がオミカゲ様の胸や腹へと、計五箇所を貫く。

 オミカゲ様を庇って防壁を展開していた隊士達も、放たれる光線に合わせて動かしているのだが、それを上手く回避されるか、あるいは貫かれてしまうのかのどちらかだった。

 

 一度に五箇所も貫かれては、流石に膝が震えガクンと落ちる。吐血の量も先程より遥かに多く、神御衣も血が滲んではその広がりを作っていく。ルチアは防壁を維持したまま、オミカゲ様の方へと防御に回すが、それを上手く掻い潜って、更なる傷を増やしていく。

 

「ゴホッ、ぐ、ぐぅ……! 行け、早く……ッ! 維持も長くは続かない!」

「わ、分かった、だが……!」

「――よいか、そなた、箱庭はどこにある……?」

「なに、箱庭? 何だ、何故いまそんなことを……!?」

「破壊したのか!」

「い、いや、してない……まだ、アキラの部屋にあるのだと……」

 

 血を吐き出しながらの気迫に圧され、ミレイユはとにかく思いつくまま口にした。

 それについても、いつか詳しく話すという事を聞いた気がするが、結局後回しにした挙げ句、十分にその内容を知る機会も失われてしまった。

 だが、ミレイユの返答を聞いたオミカゲ様は、一筋の希望を見出したかのような笑みを見せる。

 

「よいか、箱庭はこちらにある、それを覚えておけ……。それがあるいは、救い、に……ゴホッ!」

 

 オミカゲ様も自らに治癒術を使ってはいる。

 だが片手での治療では回復は遅いし、もう片方では孔を維持して手放せない。ミレイユがせめて自分で治癒してやろうと手を出したが、それより先にその手を振り払われる。

 そして、諦観を感じさせるような困った笑顔を浮かべた。

 

「……いいから。そなたは上手くやれ」

 

 そして肩を押され数歩後退り、それで孔へ落ちるように吸い込まれていく。

 手を伸ばすが、更に襲い掛かってきた線状の光がオミカゲ様を貫き、その場でたたらを踏んだ。治癒に回していた手を孔の維持に回し、両手で制御して送還しようとしている。

 

 更に吐血するのが見えたが、そこへ尚も追撃の光線が撃ち込まれた。しかも狙いはオミカゲ様だけでなく、ミレイユへもまた光線が飛んで来ようとしている。

 

 咄嗟にアヴェリンがミレイユを抱きしめるように庇って、孔の更に奥へと押しやる。

 それにユミルが追い、防壁を盾に孔を庇うルチアと続いて、光線から逃げるように孔へと入った。

 

「オミカゲぇぇぇええ!!」

 

 足を動かし必死に藻掻いたが、それはいたずらに宙を掻き、反発したものを返してくれない。

 アヴェリンに抱き留められたまま、伸ばした片手も何も掴めない。ただ、血を吐き身体中を血に染めて、最後までミレイユに託す事をやめないオミカゲ様に、何か報いてやりたいという気持ちで伸ばした手だった。

 

 孔の奥へと進む速度は速い。

 ただでさえ小さい孔から見えていたオミカゲ様は、あっという間に見えなくなった。

 戻ろう、戻りたい、と遮二無二手足を動かすが、速度は更に増して言う事を聞いてくれない。いつしかミレイユの目から涙が流れた。頬を熱いものが伝っていく。

 

「うっ……、くっ……!」

 

 嗚咽が漏れ、頬へ熱いものが他にも伝わる。

 それはミレイユの涙ばかりではなく、アヴェリンのものも含まれていた。

 アヴェリンは小さくなっていく孔を一顧だにしない。だが、オミカゲ様がどういう気持ちでいたか、どういう気持ちで送り出したか、それを良く知っている。

 

 二人分の涙が穴の中を流れ、輝くような軌跡を描いた。

 それを呆然と眺めていると、唐突に終わりが訪れる。固い何かが背中を打ち、少しばかり息が詰まった。アヴェリンが庇うように抱き留めていてくれたから、その程度で済んだとも言えた。

 

 アヴェリンがまず起き上がり、そして丁寧に手を伸ばして起き上がらせる。

 その手を握りながら上体を起こし、そして周囲の景色が一変している事に気付いた。時間も違えば季節も違った。春先らしい風と共に、明るい光が天から照らされていて、雪など一欠片も見えない。

 

 日本らしい見慣れた建築物などはなく、草が生い茂り、周囲にはまばらに木が生えていて、遠くには森が見えた。その他には岩が幾らか転がっているだけで、他に見るべきものも、目印らしきものもない。

 ただ広い青空の下で、まばらに雲が流れていく中、どこまでも草原が広がっていた。

 

 ミレイユはアヴェリンから手を離し、一歩、二歩と後ろに下がる。

 アヴェリンの背後にはルチアもユミルも立っていて、彼女らもまた無事に付いてこれたのだと察した。だが――。

 

「はぁ、はぁ……、ッ!」

 

 呼吸ばかりが荒くなり、気持ちの整理がついていけない。苛立ちを八つ当たりするように、前髪を両手で掻きむしった。

 最後に見た、オミカゲ様の全てを諦めた、困ったような笑顔が脳裏をよぎる。

 何か出来なかったのか、何か手はあった筈だ、その後悔ばかりが胸中を覆い尽くした。

 ついに感情が爆発して、それと共に魔力も身体中から溢れ出す。

 

「うわぁぁぁぁぁぁあああああああ!!!」

 

 絶叫と共に、青白い光が天を衝いた。

 感情と共に噴出した魔力は、加減を知らずにどこまでも伸び、光の柱も太くなっていく。周囲の地面も剥ぎ取って広がる光は、大量の破壊痕を残して唐突に途切れた。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……!」

 

 ミレイユはガックリと項垂れて、その場に崩れ去るように倒れる。

 魔力を全て解き放ち、身体中が空になり、そうして意識をも手放した。今は何も考えられず、そして考えたくもなかった。

 

 ――

 

 その日、世界は一人の神人の帰還を知る。

 莫大な魔力の奔流は、世界に暮らす人々が目にする事となり、その青色い光柱は多くの者に畏怖を与え、そして光を知る者は歓喜に震えた。

 

 そして、神人の帰還を望んだ者たちは、その成功にほくそ笑んで光を見ていた。

 



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幕間 その1

 京の院咲桜(さくら)は、御子神様の居室――未だ立場が不鮮明な為、神処とは呼ばれない――傍の控室にて、掃除の準備を進めていた。

 その日の御子神様は朝から気分も良く、時折笑顔も見せていた。何事にも厳格で規律を重んじられるオミカゲ様と違い、御子神様は大変おおらかで何かを注意するような事もない。

 

 それが決して良いとばかり言えないのも、神へ奉仕するという事なのかもしれないが、多くの緊張を強いられるオミカゲ様と違い、多少気を抜いて接する事の出来る存在だった。

 給仕するくらいで一々礼はしてこないが、しかしこちらが些事と思うような事でも感謝をしてくれるのは素直に喜びへ繋がる。

 

 信仰心は変わらずオミカゲ様へと向いているが、支持する様な立場を取る女官もいる。本来謝意を示す方が神としては不適切なのだが、オミカゲ様も御子神様の立ち振舞を聞いても口を挟まないので、いち女官の咲桜が何かを言える筈もない。

 

 それでなし崩し的に気安い立場を見せる神、として認知が広がり、誰もが御子神様と関わりたくて仕方がない、という雰囲気が出来上がっている。

 浮ついた雰囲気とも言えるが、御子神様は静謐と緊張を見せるより、そちらの方が好みの様で、女官たちへの指導も控えめになった。戒めは必要だし、過度な気安さや接触は厳禁だが、咲桜もまたそれを許してくれる御子神様を好ましく思っていた。

 

 そして、今日――。

 朝から御子神様の姿が見えなかった。

 

 最近は(とみ)にこういった事が多く、女官の目を盗んで外出する事が多い。気安い雰囲気が生んだ、御子神様の気安い外出と見てしまえば、これは今一度規律の見直しが必要な気がした。

 咲桜は手近にいた女官の一人を捕まえて声を掛ける。

 

「誰か御子神様が、どちらへいらっしゃったか聞いた者は?」

「いえ、聞いた方はおられないかと。咲桜様が知らないなら、他の誰も知らないと思います」

「そう……。ならば、行き先はきっと大社だと思うから、そちらに使いをお願いします」

 

 御子神様が外出する際は、その多くが大社で、かつ伝言すらも無い場合は殆どが大社へと赴いている。日が暮れるよりも前に帰って来るのは間違いないので、他の女官もすっかりそれに慣れてしまっていた。

 

 最近は大社とは別に、神として外出する回数が多く、それは公務による為で、オミカゲ様の命により隊士達へ稽古を付けているのだと聞いている。

 

 昨今の隊士達、その不甲斐なさに嘆いたからだと咲桜は思っているが、さもありなんという気もした。咲桜は結界の中で鬼と戦った経験も、これから戦う経験もないだろうが、鬼が強化傾向の一途を辿っているという話だけは聞いている。

 

 御子神様が直接お出ましになって解決を図る事もあり、それは大いなる不敬だと考えていた。人が神に縋るのは真理かもしれないが、頼りにするのと頼みにするのは全く別だ。

 人は己が足で歩かねばならず、神を杖代わりに歩くなどあってはならない。

 杖なしでは歩けないと嘆くのではなく、杖なしでも歩けるよう努力する義務がある。

 

 頼りにする事が当然となると、もう杖なしで歩く事など考えられず、それ以上の努力を怠る。神とは決して、人にとって都合の良い道具などではない。

 鬼に立ち向かうのも同様、人のみで解決せねばならない問題なのだ。

 

 御子神様がそれを正す為、隊士達にそれを理解させる為、教育するのは素晴らしい事だ。

 ただ、それを直接神が行うという部分には首を傾げてしまうが、神の口から直接下される薫陶は彼らの身になるに違いない。今だけの事だと自分に言い聞かせ、隊士たちへの不敬を胸中でなじる。

 

 そうしながら、掃除の準備を再開した。

 御殿の中にいないというなら、機会がなくて出来なかった掃除も今の内にしてしまおう、と奥の部屋へと移動する。

 今日も変わらぬ平穏な一日、それが当然これからも続くと疑わずに――。

 その日が大変な災厄に見舞われるなど露ほど思わず、咲桜は掃除道具を片手に歩き出した。

 

 ―――

 

 咲桜は今、奥御殿の中を忙しなく駆け抜けていた。

 普段なら音を立てて廊下を走るなど有り得ない事だ。叱責だけでは済まされず、謹慎処分さえ考えられる行為だが、今はそれが許される状況だった。

 

 ――鬼が、奥宮に現れた。

 その事実は宮中を驚愕で包みこんだ。

 何かの間違いではと混乱する者、オミカゲ様を連れ出し逃げるべきと言う者、事態の対処に指示を乞う者と、その反応は様々だった。そして咲桜もまた、間違いではないかと疑った者の一人だ。

 

 奥宮は霊地であり、神の加護を存分に受ける場であり、同時に鬼から避けられる場所。

 結界が張られるような事態になった事も、そして鬼の侵入を許した事もなかった。それはオミカゲ様の加護であるという話もあるし、同時に孔の出現をさせない誘導を施しているのだ、という話もある。

 

 咲桜にとって、それにどれ程の違いがあるのかも、それらが事実であるかも知らなかった。だが、出現したことがないという一つの事実を持って、それがオミカゲ様の加護のお陰だと信じていた。

 だが、結界が張られた事が分かると、間違いでも勘違いでもないと理解せざるを得ない。

 

 オミカゲ様の加護を破り、侵入した鬼がいるのだ。

 神と御殿の守護を司る由井園が既に動いており、常に警備として配備されている衛兵もまた、その対処に動いたと聞いている。

 だがそれだけでは不足と、オミカゲ様の号令の元、女官もまたその戦いに関わるよう指示が下された。

 

 奥御殿に務める事を許された巫女や女官だから、当然その御身を御守りする為の技能は修めている。多くの場合それは護身術で、賊が侵入した場合、それを取り押さえる事が出来るだけの力量は鍛えられていた。

 

 それも単に武術を修めているというだけでなく、理力も持っている者が選ばれるから、当然単なる賊など相手にならない。赤子の手を捻るが如きで対処できる、という自負もあった。

 だが、鬼との実戦は皆無だ。

 

 いきなり戦えと言われても無理と考えるのが普通で、どの女官も浮足立っていたが、しかしそのような者たちにまで、酷な命令を下すオミカゲ様ではなかった。

 

 女官長が音頭を取って、今は結界補助をする為に奔走している。

 巫女の場合、最初から結界術に秀でた者が配置されていたし、それは万が一鬼が侵入した場合、結界内へ閉じ込める役割を求められてもいる。

 

 女官の場合は防御術や支援術に秀でた者が多く、実際直接戦闘出来る理術を習得している者は皆無に等しい。

 それは何にもまして、その結界術を補助する事を目的とされる為で、支援理術を習得している者は、既に巫女達を補助するべく動いている。

 

 そして咲桜のように防御術に秀でている者は、現在適した役目を果たせない為、オミカゲ様が秘蔵していたという、箱詰めにした理力を運ぶ役目を仰せつかっていた。

 理力を修めた者として、長距離を走るだけならば何て事はない。

 

 ただ、直接お役に立てる機会が欲しいと思ってしまっていた。

 華やかな戦闘をしたいとまでは思わないし、自身の習得した理術から言っても壁を築く位しか出来ないが、だが御身を護る壁として傍に置いてくだされば、と思ってしまうのだ。

 

 その表情が顔に出ていたのだろう、女官長をしている母から叱責が飛んだ。

 ――事このような状況にあって、無駄なお役目など一つもない。

 咲桜は己を恥じて、今はその箱詰め理力を丁寧な手付きで運んでいる。

 普段はご禁制として近付く事も許されない部屋から、山のように積まれた青白く光る箱を丁寧に取り出し、それを巫女達へ届けるのが咲桜の負った役目だ。

 

 結界術について多くを知らない咲桜だが、それが非常に負担の掛かる理術だという事は知っている。その制御も維持にも多大な理力を消費するものだ。

 大宮司様が核として行使されていた時は、その膨大な理力と確かな制御力で補助があったが故に、現実的な使用が出来ていたとも聞いている。

 

 だが、その大宮司様も年齢と理術の衰えを理由に役を退いてしまった。

 その御年は百歳を超えると言われているから、退役するのは当然としか言えないが、このような状況にあっては大宮司様の助力を願ってしまう。

 

 ――お年を召したからには、簡単とはいかないでしょうけど。

 百を超えても奉公を続けて来たという事実には、畏敬の念を覚えずにはいられないが、奥宮へ鬼の侵入という大事件だ。

 より優れた術士を頼りたくもなってしまう。

 

 そのような願いを抱いていたからだろうか。

 結界神殿へと辿り着いた時に、大宮司とオミカゲ様が共に立っているのを見て、安堵の息を吐いてしまった。

 

 ――願いが通じた。

 オミカゲ様がその御手を広げ、万事全てを執り成そうとしているのだ。ならば咲桜は何も心配する事はない。オミカゲ様の命に従い、その通り動けてさえいれば、何事もなく終わる。

 確信を抱いて、咲桜は箱詰め理力を巫女達へと手渡していく。

 

 だが彼女らは受け取る余裕もないようで、険しい顔をして部屋の中心へと手を掲げていた。

 神殿内は、注連縄とそれに繋がれた朱色の御影柱で四角形をしていて、その更に中心部分には結界補助をする為の高台がある。

 

 大社にも同様のものがあるらしく、その中央で制御をすると術が増強されるような仕組みらしい。その中央の台座に座る術士へ、周りにいる術士が補助をしてより強固な結界を作ったり、遠く離れた場所にまで結界を張ったり出来ると聞く。

 その補助要員ですら、台座をぐるりと囲んで二十人以上が理力を送っていた。

 

 今は奥宮で一番と聞く結界術士がその台座で術を行使しているが、こちらもまた険しい表情で固く目を瞑って維持している。額に浮いた汗は既に流れるほど大量で、肩で息もしている。

 まだ結界を張って三十分と経っていない筈だが、それだけ結界術の行使と維持が過酷であると物語っていた。

 

「それでは、済まぬがそなたに結界を任せる。……もう結界には携わらなくて良いと言った手前、このような事を頼むのは心苦しいが……」

「滅相もありません、オミカゲ様。むしろ部屋でそのまま休んでいろと言われた方が、よほど酷というもの。これを最後の御奉公と思い、全力で取り組ませて頂きます」

「うむ、終わった後で、共に茶を楽しもう。……これで最後だ、それは約束する」

 

 オミカゲ様が切ない表情で大宮司の頭を撫で、そして手の甲で頬をひと撫でしていく。

 皺だらけの老婆である大宮司も、その時ばかりはまるで少女のような笑みを浮かべた。

 咲桜はそれを羨ましくも、同時に切ない気持ちで見つめていると、唐突にオミカゲ様が声を張った。

 

「これよりは、我もまた結界の補助を行う」

「――オミカゲ様!? まさか、その様な事、お任せさせる訳には……!」

 

 大宮司が慌てたように手を伸ばしたが、オミカゲ様はそれをやんわりと受け止め、戻してしまう。

 

「結界に封じ込め、それを隊士達に任せるだけでは足りぬ。結界内の様子は分からぬ者も多かろうが、鬼の数は多い。この場にいる全員の両手を借りても数えられぬ程だ」

「まさか……」

 

 誰かが息を呑む音が聞こえ、そして事態は想像以上に深刻だと知った。

 

「こちらの結界の強化と維持が一段落したら、我もまた直接戦場へと出向くつもりだ。――これは総力戦である、皆の者、一層気を引き締め事へ当たれ!」

「ハハッ!」

 

 オミカゲ様が一括するように言って、咲桜も身体の向きを変えて姿勢正しく頭を下げる。

 総力戦、オミカゲ様はそう仰った。御自らが戦場に出向くのだと。

 事態は深刻な事など理解していた。だが、まさかこれ程までに深刻などとは埒外の事だった。果たして本当に大丈夫なのか、まさかの事態を考えて戦慄する。

 

 だが同時にオミカゲ様の横顔を見て、その凛々しくも決然とした表情を見れば、何事も問題ないと思えた。オミカゲ様の信じて、その指示に従って動く。

 咲桜に出来るのはそれだけだったし、それさえしていれば大丈夫なのだと、その横顔を見つめながら感じていた。

 



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幕間 その2

 ――総力戦。

 オミカゲ様が仰っていた事に間違いはなかった。

 戦場にまで直接、箱詰め理力を届けるよう指示された時には、それを強く実感させられた。結界内で鮨詰のように溢れる鬼ども、吹き荒れる理力の嵐と、人の身の丈を優に超える異形が凄惨な姿となって屍を晒す。

 

 防壁によって鬼の進路を誘導しつつ、砲撃を加えるように多種多様の理術が撃ち込まれ、それさえ突き抜けてきた鬼を、武器を直接握った隊士達が連携を持って打ち倒す。

 

 ――まるで地獄の釜の蓋が開いたかのようだ。

 そうと形容するしかない光景が、目の前に広がっていた。

 

 隊士や御由緒家の事を、不甲斐ないと罵るような思いを抱いていた自分こそを、罵りたい衝動に駆られる。戦場に立った事のない咲桜が、その実態を知りもしないで悪態などつくものではない。

 

 あれ程の猛攻を受け、それでも退け続けて武器を振るう姿には感涙さえ浮かび上がりそうになる。己よりも遥かに巨大な敵に一歩も引かず、恫喝するような恐ろしい咆哮にも怯むことなく、傷を受けようと物ともせずに武器を振るい続けている。

 

 ――これが鬼と戦うと言う事。

 そして逃げ出さず戦い続けていられるのは、そこにオミカゲ様がいるから、という理由ばかりではない。オミカゲ様の威信を守る為、――それだけでもない。

 

 自分達が負ければ、この地獄が外に溢れると理解しているからだ。

 これを退けられない事、それは己の死よりも恥ずべき事だと理解しているからだろう。

 咲桜は決して粗雑な扱いをせぬよう心掛けながら、丁寧に箱詰め理力を手渡していく。

 

「どうぞ、こちらです! ――はい、手に持てば直ぐに効果を発揮します! 動けない方はこちらで使用致します!」

 

 テキパキと動き、隊士達へと手渡し、時に身動きできない程に疲弊した者たちへも献身的に対処していく。後方で暴れているヘラジカに良く似た巨大な怪物も倒れても、咲桜は歓声を上げたい気持ちを押し殺して役目を続けた。

 

 実際、強大であり巨大な鬼の一体が倒れた事は歓迎すべき事だが、目前には絶え間なく襲い掛かってくる鬼どももいる。防壁の内部で安全性が確保されている中で、気軽に喜びを上げられる状況でもなかった。

 

 だが、形勢が不利に動いていた状況での、大きな朗報であるのも確かだった。

 隊士達の中にも幾らか検が取れた雰囲気が流れる。

 

 咲桜は箱詰め理力を運ぶ係りだから、籠に入れた物を全て渡せば再び取りに戻らねばならない。それが役目だと分かっているから、咲桜は空になった籠を持って踵を返す。

 防壁を築くのは防衛の要で、そしてその使い手は幾らいても足りない筈だ。それを手伝いたいという欲求はあるが、断ち切るように走り出す。

 

 女官長にも言われた、無駄な役目など一つとしてない、という言葉を胸に刻んだからには、己の役目を弁えて従事するべきだと理解していた。

 今だけは普段の規律をかなぐり捨てて、走りに走って箱詰め理力を持って帰る。

 その途中、空に暗雲が立ち込め、そして幾らか経った後に、雨のような雷が降り注いだのが見えた。

 

 目も眩むような光と、耳をつんざく轟音。

 足を止めて跪きたくなる畏怖を必死に押し殺し、止めてしまった足を再開させる。

 

 オミカゲ様が敬われ、そして恐れられもする理由の一つ、雷神としての側面をこの場で顕現させたのだと、すぐに分かった。

 恐れ多いことに、戦場にてオミカゲ様が立っている。

 それが分かれば咲桜の足も速くなった。隊士達がその理力を取り戻せば、オミカゲ様のお役に立てる機会を取り戻す事になる。そしてそれは、今なにより欲せられる支援になる筈だった。

 

 だが、戦いは既に終着に至ったのだと、駆け付けた時に知れた。

 鬼の尽くはオミカゲ様の力に焼かれ、哀れな屍を晒している。持ってきた箱詰めが無駄になったのは惜しい事だが、誰の顔にも祝勝の笑顔が浮かんでいれば、そんな事はまさしく些末だ。

 

「オミカゲ様! オミカゲ様! オミカゲ様!」

 

 誰もが鬨の声を上げながらその御名を呼ぶのを見ていると、咲桜も同じように参加しながら、手を叩いて笑みを浮かべた。

 間違いなく未曾有の危機だった。

 奥宮に孔が出現しただけでなく、視界を埋め尽くすが如き鬼の出現は、この世の終わりを彷彿とさせた。

 

 だが、オミカゲ様がおわす限り、そのような最悪の事態は起こらない。

 それが、まざまざと証明されたような戦いだった。

 

「オミカゲ様……!」

 

 咲桜は誇りを持ってオミカゲ様のご尊顔を見上げる。

 己には戴ける神がおり、その神に信仰を捧げられるという喜びが、咲桜の胸いっぱいに広がった。オミカゲ様へ向ける信仰を改めているところに、御子神様の姿も見えた。

 

 普段と違い、神御衣すら身に着けていない、御子神として全く相応しい格好とも言えない。しかし戦場で、その御力を存分に発揮していただろうと言うのは、周りの反応から見て分かる。

 無粋な事は言いたくないが、後ほど苦言を呈しなければならない、と心中を改めていると、巨大な何かが現れた。

 

 咲桜は鬼の種類に詳しい訳でもないし、それについて深い知見を持つ訳でもない。

 しかし、それでもあれが邪悪なものだと理解できる。鬼というより人形めいた姿をしていて、動きもいっそ機械的だった。感情らしきものも感じられず、事前にインプットされた動きをなぞっているようにしか見えない。

 

 あまりに巨大である故に、結界内では立ち上がれない程だった。

 しかし巨大であるというのは、それ一つが武器だ。結界は押し退けて立ち上がろうとする巨大な敵に、結界も維持しようと必死に堅持する。罅が入り始め、本来は直線である筈の結界が撓んで歪んでしまっている。

 

 結界術士も必死だろうが、押し留め続けるのは簡単ではないだろう。

 オミカゲ様が、あれが外に出るのは最たる悪夢と仰るのも頷ける。結界の維持と、もし破られたなら、それに合わせた再展開を指示するのは当然と言えた。

 咲桜もまた指示されたとおり、結界神殿へと向かおうと思って、ふと足を止める。

 

 ――持ってきた箱詰め理力は、渡しておいた方が良いかもしれない。

 どうせ途中で寄ることになるのなら、こちらでも激戦が繰り広げられるのなら、同じく必要とされる筈だ。籠は戻れば用意できるから、咲桜はそのまま近くに置いてから奥御殿へ戻ろうと思った。

 

「こちらに置いておきます! 必要な方は随時ご利用下さい!」

 

 邪魔にならない場所を選んだが、少し見辛い場所だったかもしれない。

 しかし目に付く場所は、隊士の方々が交代で治療を受ける場所だったりするので、移動の際にも不都合が生じそうだった。時間もなく、咲桜としてもすぐに結界術士たちへの援助に向かいたかったので、深く考えもせず置いてしまう。

 

 そして、ようやく踵を返そうとした、その時だった。

 ズガァァン、という金属同士が打ち合うような音と、眩いばかりの閃光が弾ける。

 何事かと見れば、オミカゲ様が御子神様を庇うように防壁を築いて防御している。他の術士達もオミカゲ様を護るべく理術を行使するが、まるで役に立っていない。

 

 隊士達の術が悪いのではなく、敵の攻撃が強烈すぎるのだ。

 居ても立っても居られず、咲桜も駆け出してオミカゲ様を護ろうと防壁を展開する。たった一枚加わっただけでどうなるものでもないだろうが、しかし意味はあった。

 

 何重にもなっている防壁は即座に貫かれてしまうのだが、厚みだけはあるので全てを突破されるまでに数秒かかる。その数秒の間に貫かれた術は解除して、再度展開しているのだ。

 

「消耗は激しいだろうが構うな! オミカゲ様を御守りするのだ!」

 

 由井園の侑茉が声を上げ、それを手助けしている隊士達が声を上げた。

 咲桜もそれに参加しながら、箱詰め理術を置いてきてしまった事を激しく後悔する。あれが手元にあったなら、激しい消耗でも今暫く保たせる事が出来たろうに。

 

 だが、それより強い後悔は直ぐに訪れた。

 極大の光線は唐突に途切れ、そして代わりとなる小光線が、曲線を描いて防壁を回避しながらオミカゲ様を襲う。それにいち早く気付いた咲桜は、進路を妨害するように防壁を張ったが、全く意味を為さなかった。

 

 咲桜の作った防壁は紙のごとく一瞬の拮抗すら生まずに貫かれ、そしてそれがオミカゲ様の胸を貫く。

 咲桜は顔を真っ青にさせて、思わず叫んだ。

 

「――オミカゲ様!!」

 

 咲桜の声は届かない。

 それは別にどうでも良かった。ただ、オミカゲ様と御子神様の様子がおかしい。巨大な人型の後ろに佇む巨大な孔、それと同様に見える孔が御子神様の背後に空いていた。

 しかもそれは、どうやらオミカゲ様が開いたものであるらしいと分かると、なお意味不明だった。

 

 そして尚も襲い掛かる光線は、咲桜が再展開した防壁を全く意味も成さず貫いていく。悔しさに歯噛みする程に、己の無力さへ悪態をつく。

 

 ――何の為の防護術なの!

 何事かあった時、その万難から御守りする事を求められ、それを実行できると判断されたからこそ咲桜はこの御役目を授かった。傍付き女官というのは家名だけで就ける職ではない。

 職権、職務に見合うだけの実力あり、と認められたからこその傍付き女官なのだ。

 

 咲桜だけでなく、他の隊士も防壁を築いてオミカゲ様を守ろうとしているが、曲がりくねる光線が絶妙に避けてはオミカゲ様を貫く。

 悲鳴を飲み込んで必死に光線を遮れるよう、他の防壁と重なり合える位置を選んで術を行使するが、そのどれもを回避し或いは貫いて、オミカゲ様を攻撃してしまう。

 

「くそっ――!」

 

 奥宮の女官らしからぬ悪態まで口をついた。

 それでも光線は止まらない。どうにかしたいという気持ちばかりが空回りし、そして御子神様がオミカゲ様の手によって肩を押された。

 その手は宙を掻いて、更に襲い掛かる光線から、身を以て護ろうとしたアヴェリンによって孔の奥へと押し込まれる。他のお付きも二人に続いて孔へ入るのと同時、オミカゲ様の胸に、更なる光線が穴を開けた。

 

「オミカゲ様ッ!!」

 

 悲鳴は意味を為さず、オミカゲ様は膝をつく。

 それを絶望にも似た思いで見つめ、駆け寄ろうとしたところで誰かの影がオミカゲ様の横を素通りした。

 その時、オミカゲ様へ謝罪と悲哀を綯い交ぜにした表情で通り過ぎたのは見えた。

 しかし、それでもオミカゲ様を助けるのではなく、自ら孔の中へ飛び込んで行ったのは、怒りを通り越して呆れてしまう。

 

 御子神様を取り戻そうと、あるいは孔から引き上げようとでも考えたのかもしれないが、それよりもオミカゲ様を助けるのが、何より優先される事の筈。

 女顔をした隊士に呪詛にも似た悪態を、閉じていく孔の向こうへ向けつつ、オミカゲ様を介抱するべく急ぐ。その背も血で塗れて触れるのも憚られ、とにかく治癒できる誰かがいないかと周囲を見渡した。

 

「誰か! 治癒術を早く!」

 

 咲桜が声を張り上げるよりも早く、既に隊士の中から動いている者がいた。

 言い終わるよりも早く来て、傍に膝を付いて理術を使い始める。

 

 オミカゲ様は荒い息を吐き、青い顔をしていたが、自分自身でも理術を使って傷を癒そうとしていた。隊士よりも遥かに強力と分かる理術を行使しながら、その顔は巨大な敵へと向ける。

 咲桜も顔を向けて、驚きよりも先に絶望を感じた。

 

 巨大な孔は今にも閉じようと脈動させながら縮小していたが、それとは別に新たな孔が開き始めている。その大きさは閉じようとしている孔より遥かに小さいが、それでも既に人が十人は横に広がれる程までに拡大している。

 

 その孔からは明らかに強大と思える力が感じられ、そしてそれは一つではない事まで理解できた。……理解、出来てしまった。

 まだ、あの孔からやって来る。

 強大な力を持つ、複数の――それこそ百では利かない数の何かが来る。

 

 オミカゲ様の顔を見れば、下唇を噛みながら、その孔へ顔を歪ませて睨み付けていた。

 咲桜もまたその表情を見て、最早どうにもならないのだと悟り、同じように顔を歪ませる。

 そして今まさに、孔の向こうから複数の人影らしき姿が列を為して出てきたのを、確かに捉えた。

 



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第七章
孔を抜けた先は その1


 その時アキラが最初に思った事は、このままではもう二度と会えなくなる、という危機感だった。それが真実なのかは分からない。ただ、仕方ないと座視して待つ事だけはしたくなかった。

 何かに急き立てられるように駆け出し、血塗れのオミカゲ様へ精一杯の謝罪をしつつ、その横を通り過ぎて孔へと入った。

 

「申し訳ありません、お許しを――!」

 

 幾条にも走る光線を前に見て、その後を追うように――置いて行かれまいと足を動かした。ミレイユ達四人全員が入った事で、急速に閉じ始める孔へと、アキラは頭から飛び込み入り込む。

 光線は孔までは入らず、それを避けるように不自然な曲がり方で地面に着弾しては消えた。

 

 孔の中は実に不思議な空間で、音もなければ光もなかった。

 遠くに針の穴程の光が漏れており、それがどこかへ繋がっている事を示していたが、それ以外は何一つない。ただ、時折星の瞬きのような光が、後ろに流れていくのが見えていった。

 

 遠くに見える光以外、特に見えるものがないとはいえ、分かっている事もある。

 それは遠い前方にミレイユたち四人がいる事と、そして凄まじい速さで移動しているという事だ。体感的な速度から推し量っても、車で走る以上――新幹線かそれ以上の速さで移動している、という感じがする。

 

 ――いつまで続くんだ、この孔は。

 『孔』とは、鬼が出て来る地獄の入り口で、そして鬼どもが跳梁跋扈する暗黒の世界――そういうものだろうと長らく信じられてきた。

 

 孔は遠くからしか見る事はなかったし、鬼が出て来るのは間違いないので、その話を頭から信じていたし、だから穴に入れば戦闘があると覚悟してもいた。

 

 だが実際は、何者も存在せず、形らしい物も存在せず、ただ暗い中を移動させられるだけだ。

 まるでパイプの中に入り込み、水と共に押し流されているような錯覚を覚える。

 

 ――だが、とアキラは気を引き締めた。

 孔の中に鬼が棲んでいる訳ではないにしろ、鬼の棲む世界に繋がる孔ではある筈だ。遠く見えるミレイユ達の更に奥、その光る点の先には鬼が犇めいているに違いない。

 

 彼女達が遅れを取るとも気を抜くとも思えないから、アキラが気に掛けるべきは自分の安否だけだ。つい先程まで、鬼の氾濫を目の当たりにした身としては、あの中へ自ら飛び込むような真似が、自殺と変わらぬ愚行だと理解している。

 

 ――それでも。

 彼女達は身を守れるだろうが、アキラだけは別だ。

 それでも現世に逗まるという選択だけは、不思議と思いつかなかった。考えるより身体が動いた、と表現する方が正しい。

 

 このままでは二度と会えなくなるより、孔の向こうで死ぬ方がマシだった。

 後先考えない能無しと誹りを受けても、かつて着いてくるなと諌められたとしても、だから仕方ないと、自分に言い訳して見送りたくなかった。

 

 後悔したくないだけ、という子供じみた感情で動いた訳ではない。

 アキラの実力から言って、彼女達に付いていく事は迷惑になるだけだと理解しているからだ。だから許されるなら、どのような命令でも従うつもりでいた。

 同行を許されるとしたら、アキラが平身低頭願った程度では駄目で、その覚悟も示す必要があるだろう。

 

 それが何かはまだ漠然としていて頭に浮かばないが、何しろ考える時間なら沢山ある。

 見るべき風景などもない暗い世界だ。考える以外に、やる事もない。

 そう思っていると、終わりは唐突に訪れた。

 

 小さな点としか見えていなかった光が眼前に広がり、眩しいと思うと同時に外へ放り出される。

 突然身体が宙を舞って、草ばかりが生えた地面が迫った。咄嗟に受け身を取って衝撃を逃しながら転がり、そうして顔を上げる。

 

 そこにはアキラの知らない、見た事もない景色が広がっていた。

 既に日が落ちて長い時間が経っていた筈なのに、孔の外は明るく、昼を少し過ぎたばかりのように思える。陽射しは柔らかく、まるで春のように暖かな風がアキラの髪を撫でた。

 

 呆然としたまま周囲を見渡す。

 生えるがままになっている雑草の背は高く、アキラの膝丈程もあり、そして疎らに木と岩がある以外には、目に入るものは何もない。

 

 いると思っていた鬼の姿もなく、それどころか襲い掛かって来そうな獣の姿すらない。空には一羽の鳥が飛んでいたが、それもすぐに見えなくなった。

 ここが日本でない事だけは確かだった。

 

 季節も時間も、まるで違う。

 それだけでなく、空気までもが違う気がした。言葉で言い表す事は出来ないが、違うというだけは分かる。ふと下生えの草を見つめて、そこに何か――もしかしたらマナが流れているのかもしれない、と当たりを付けた。

 

 アキラは理力を感じ取る力に長けていないが、それでも微弱な何かを内包しているというだけは理解出来る。もしこれが、ミレイユ達の言っていた汎ゆるものにマナが内包している、という事を意味するなら、その微弱な何かこそがマナなのかもしれない。

 

 そしてそれは、現世では決して見られなかったものだ。

 霊地とされる場所でも、草一本にすらマナが宿るなどという事はなかった。だとすれば、ここが別世界であると否が応でも認識してしまう。

 むしろ、それ以外ないのだと実感してしまった。

 

 ミレイユ達は少し離れた場所に立っていて、その様子には尋常ならざる気配を感じる。そう思ったのもつかの間、即座にミレイユから異変が起きた。

 頭を掻き毟ったかと思えば、絶叫しながら魔力を開放する。

 普通、何か術を使う際には己の持つ魔力を外に出して使うと言うが、それが可視化できる程の量となるのは実に稀だ。

 

 学園にいた誰もが、同じ事は出来ないだろう。

 可視化出来るだけの魔力を外に出すというのは、それだけ膨大な魔力を持つというだけではなく、多くを無駄にしてしまう事にもなるからだ。

 

 普通、十の力で理術が行使できるとして、百を出す者はいない。

 いるとしたら、それはとんでもない初心者で、かつ力の使い方を知らない愚か者と言う事になる。あるいは単に大魔術を使おうとしても同じような現象が起こるが、ミレイユがしているのは魔術制御ではない。

 

 感情に任せた魔力の開放とでも見るべきで、あまりに危うい行為としか見えなかった。

 だがそれをアヴェリンを初め、誰も止めようとはしない。

 

 天を衝く程の、そして地面を抉る程の膨大な魔力だから、近付くだけで危険だと分かるが、それが原因ではないだろう。

 感情のままに吐き出す姿を、それと分かって見つめているようでもある。それが必要だと思って見守っているのかもしれない。

 

 アキラには、オミカゲ様とミレイユの間でどのような会話がされたのか知らないし、この世界に送られるに至った理由も知らない。

 だが感情的にならざるを得ない何かがあるのだとは、あの慟哭から理解できる。……せざるを得ない悲しみを、そこから感じ取れた。

 

 ――ミレイユ様……。

 アキラからして身も竦む程の魔力を放出しているが、そこに恐怖は感じない。地面を抉り破壊の爪痕を残しながら拡大する青白く光る柱だが、破壊するつもりで放出している訳ではないと分かるからだ。

 

 アヴェリン達が付かず離れずの距離を保っているのも、その証拠だろう。

 だが何より意外なのは、あのように感情を露わにするミレイユの姿だった。彼女が莫大な力を持ちつつ、それを表に出さないようにしている、というのは分かっていた。

 

 使いたくないとか、ひけらかしたくないと言う理由とは違う気がしたが、そこは別にどうでも良い。

 その力を保全しつつ、泰然とした姿を見せる。

 それがアキラの知るミレイユの姿で、そしてどこか皮肉げな笑みを見せる人、というイメージだ。一言で言えば強い人で、それは単純な力だけでなく、精神的な面も含んでいる。

 

 アヴェリンやユミルといった一癖も二癖もある人達を率いれるだけでなく、それらに敬意を持って接せられるというのは、単なる武力を持つだけでは不可能だろう。

 彼女にはそれをされるだけの根拠を持っているのだ。

 

 アキラがそのように現実逃避にも似た考えを巡らせていると、唐突に始まった魔力の放出は、始まった時と同様、唐突に終わりを迎えた。

 糸が切れたように倒れたミレイユを、アヴェリンが目にも止まらぬ速さで動いて受け止める。被った帽子の所為で、ミレイユの顔色も分からないが、アヴェリンに抱き留められる姿はひどく小さく見えた。

 

 恐る恐る、その姿を見守るルチアとユミルへと近付いていく。

 足音を忍ばせても気づかれると分かっているし、そもそも下生えを掻き分けて近付くので音を隠すも何もない。

 だから幾らも近づかない内に、二人に気づかれた。

 そしてユミルは片眉を上げて腕を組み、それから背中に回していたフードを被って、呆れたように息を吐いてきた。

 

「何しに来たの、アンタ……」

「えぇ、はい……。それは言われるだろうと思ってました」

「観覧車の中でも言われた筈だけどね。アタシ達が現世から離れる事になろうとも、アンタは付いてくるなって」

「はい、確かに言われました」

「……ま、いいわ」

「え……?」

 

 てっきり苦言や、あるいは罵詈雑言が飛んで来ると思っていただけに、そのアッサリとした引きの良さは意外でしかなかった。

 ルチアも一瞥だけ向けただけで、何を言うでもない。

 ミレイユを抱き起こしたアヴェリンへと視線を向け、そしてユミルも組んだ腕を解いて顎をしゃくった。

 

「まずは移動が先決ね。このままだと何が来るものだか分からないもの」

「えぇっと、何で……、何が来るんです?」

「何でって、あの馬鹿みたいに放出された魔力を感知すれば、誰だって様子見に来るわよ。魔物ぐらいなら可愛いものだけど、それ以外だと厄介だしね」

 

 魔物だけでも十分厄介ではないのか、と思ったが声には出さなかった。

 だが魔物より厄介だというものが何にしろ、そんなものには遭遇したくないという気持ちは一緒だ。恐らく苦言に対しても後回しにされただけで、安全な場所で再開されるのだろうし、その時は師匠たるアヴェリンからも更なる苦言を呈されるだろう。

 

 それを思えば心が重いが、それを覚悟しての後追いでもあった。

 アキラは殊更こちらを無視するように動き出したアヴェリンの背を見送り、そして後を追って歩き出した二人の、更に後を追って歩き始めた。

 



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孔を抜けた先は その2

 着いた先は森の入り口だった。

 入り口というより外縁というべきで、人が通るような道が続いている訳ではない。

 迷うことなく一直線に向かっていたので、こちらへやって来た明確な理由があるのだろうと思うが、人の手の入っていない森は危険が多い。

 野生動物がいるのか、あるいは魔物がいるのか、それさえも分からないが、森の外縁部分に立っていても、虫や鳥など様々な音や鳴き声が聞こえてくる。

 

 足で踏み慣らした跡などもないので、ただの草生えから深い森へと代わる境目へと踏み込んでいく。そして森の中を数歩進んだ時、明確な敵意のようなものが身体を貫く錯覚を覚えた。

 アヴェリンはミレイユの身体を大事そうに、そして丁寧に飛び出した枝などから守りながら、自然な足取りで踏み入っていく。

 

 ルチアも華奢な身体に見合わぬ軽快さでそれに付いていき、アキラは歩き慣れない凹凸の激しい森の地面を、苦戦しながら追っていった。

 森の土は柔らかく、踏めばそれだけ沈み込んで行くような不確かさがある。

 だと言うのに木の枝や倒木はそこかしこにあって、コンクリートの上を歩くようには進めない。湿気のある森の空気は息切れしやすく、また多くの葉が茂っているだけに陽射しも悪く見通しも悪い。

 

 その上、敵意は常に身体を取り囲み、アキラが感知できない遠くから、魔物か何かが様子を伺っているのを感じていた。隙を見せれば襲い掛かって来そうで、常に気が休まらない。

 幸い、武器も防具も身に着けているから簡単にはやられないと思いたいが、あの激戦で防具は殆ど役に立たないまでに損壊している。

 果たしてどの程度、敵の攻撃を受けて保ってくれるものだか……。

 

 アキラの不安は増すばかり、しかし一同に会話はなく、さりとてアキラから話し掛ける事も出来ず、ただただ森の中を進んでいく。

 そうしていると、いつしかルチアが木の枝を拾いながら歩いているのに気が付いた。子供じみた真似だと思って見ていたのだが、足元に手を伸ばすでもなく『念動力』を使って拾うものだから、何か手持ち無沙汰に魔力を運用しているのだろうか、と思ってしまう。

 

 手に取った枝は直ぐに個人空間に仕舞っている為、その手や腕に抱えて運ぶという事もしていない。何に使うつもりかと怪訝に思っていると、ユミルが横顔を向けて言ってきた。

 

「アンタも拾っておきなさい。ただ歩くんじゃなく、やる事があるなら気も紛れるでしょ。でも枯れ枝だけにしてよね、太さは気にしなくていいから」

「あの……、それは良いんですけど。敵が周りにいるのに、屈んだりして隙を見せるの拙くありません?」

「別に襲って来やしないからいいのよ」

「……来ませんかね?」

 

 アキラが胡乱げな声で窺うように問うても、ユミルは気にした風もなく事も無げに頷いた。

 

「周囲にいるのは魔獣ばかりだからね、そんなに危険はないわ。縄張りを犯しているのはこちら、だから威嚇しているけど、荒らすような真似さえしなければ襲って来ないわよ」

「……縄張りって言うのは何となく分かりますけど」

 

 森の中に関わらず、野生で生きる動物には全て縄張りがあり、その範囲で生活している。それは食料を確保するに必要な範囲であり、群れを養うのに必要な面積を意味する。動物にとって自分の群れを生存させ、維持するのは重要な事で、その為に必要な縄張りを非常に大事にする。

 

 だから木の枝くらいならまだしも、果実や動物、食料になりそうなものを勝手に取る事が、宣戦布告を意味するというのも理解できる話だ。

 本来ならこちらもまた食料のように見られていそうだが、襲ってこないと断言するからには、そこまで気性の荒い動物ではないのだろうか。

 

 アキラは一応、見えないと分かっていても木々の間から森の奥を見る。

 敵意は渦巻くように取り囲んでいても、その姿は見えない。気配だけは分かっているのに、その影すら目視する事が出来なかった。薄暗い森の中である事を考慮しても、あまりに姿が見えなさ過ぎる。

 敵意の強さから警戒していない筈はないのに、襲ってこないと断言する理由が見えなかった。

 

 そこまで考えて、ふと首を傾げる。

 アキラは狼などの動物を思い浮かべていたが、ユミルは魔獣と口にしていた。言い方の違いで同じような意味だと思ってしまったが、もしかしたら違うものを指していたのだろうか。

 アキラは既に視線を前方に向けていたユミルへ、その背中に声を掛けた。

 

「さっきは魔獣って言ってましたけど、魔物とは違うものなんですか?」

「さぁて……、どうかしら」

 

 ユミルはアキラへ振り返らなかったが、僅かに顔を横に向けながら答える。

 

「自分で言っておいてアレだけど、定義が曖昧なのよね。でも一般に魔力制御を上手く出来る獣を魔獣と言うし、制御できるだけでなく、それで害を為すものを魔物と大別したりするわね」

「人を襲う魔獣を、魔物と呼ぶ訳ですか?」

「そもそもの習性として、人を襲わない獣なんていないわよ。人に関わらず、縄張りを犯せば襲うものだし。でも積極的に襲ってくるか、あるいは獣に見えない異形の存在に対しては、問答無用で魔物扱いね」

 

 ユミル自身も考えあぐねるように、首をひねりながら答えてくれる。

 彼女が迷うというのなら、その口から出たように定義が曖昧なのだろう。細分化すると魔物に見えても魔獣だし、その逆も然りというよう状態になっているのかもしれない。

 

「……まぁ、でも二足歩行してるヤツは問答無用で魔物かもね。そういうのは大抵知恵を持つし、人間並みでなくとも小賢しいことは考えるものだし」

「ゴブリンとかトロールとか、ミノタウロスとかですか?」

「そうね、トロールはともかくミノタウロスは獣的要素は大きいし、その思考傾向も獣に近いのよ。武器を持っていても技術はないから、力任せに振るしか脳がない。でも、こいつを魔獣とは言わないのよね」

「なるほど……」

 

 見た目で選ぶのでもなく、習性で選ぶのでもない。

 それを考えれば、定義が曖昧と言うユミルの言い分も理解出来た。

 

「それにホラ、奥宮で出てきたバカでかいヘラジカがいたでしょ? あれは獣の外見でありながら、高度な魔術まで使用する。こいつは何になると思う?」

「魔獣、のように見えますけど、やっぱり違うんですかね。凄く強大な力を持っていて、でも見た目は獣の姿をしてましたけど……。凄い巨大だという点を除いても、魔獣と呼ぶには抵抗があります」

 

 その時の記憶は未だに色褪せていないし、これからも褪せる事はないだろうと思わされる光景だった。アキラに関わらず、御由緒家の全戦力を集結させたところで勝てる相手ではなかった。

 それほど強力な獣だから、魔力制御に長けているという点だけ見て魔獣とは呼べまい。その強大な魔術は間違いなく人にとって害となるだろうから、魔物という区分の方が相応しい気がした。

 

「だから……、まぁ魔物なんじゃないかと思いますね。魔術を向けられたら、凄い被害出そうじゃないですか」

「そうね、アンタの推論は的を得ていると思うわ。でもあれは、災害と呼ぶのよね」

「災害……」

 

 人にとっては自然の猛威同然、そのような存在だと言われたら納得するのと同時に、それを討ち倒したミレイユ達を、改めて驚嘆してしまう。

 

「エルクセスって呼ばれてるけど、別に人を襲わない、気性の大人しい……魔獣って事になるんだけど、移動するだけで被害が出るからね」

「あー……」

 

 あれだけの巨体だ、その蹄も相応の大きさだろう。移動する場所はきっと山や森だろうが、近くに寄って来られたら為す術もないのも理解できる。

 

「本来、討伐するんじゃなくて、移動する方向を逸らすとか、そういう方向に努力を向ける相手でもあるのよ。人間だって森の開通に、樹木が憎くて切り倒す訳じゃないのと同じで、エルクセスも通りたいから通るだけであって……」

「なるほど、被害は出るけど悪意はないから災害だと……」

「別の地方じゃ聖獣と扱われていたりもするわ。魔獣も同じで、別地方じゃ魔物扱いだったりするし、魔物だってその程度じゃ魔獣止まりだと言うヤツもいるわね」

「定義が定まっていないんですか」

 

 そこは学者であったり、国の偉い人だったりが一応決めていそうなものだ。

 やはり暫定的にしろ、定義はないと不便するものだろう。

 

「一応、学者が定めた定義はあるわよ。でもやっぱり国によって変わるから、全てに共通する、というのは難しいのかもね。冒険者から言わせれば、学者の言う事は当てにならん、っていうのが通説だし」

「冒険者……!」

 

 アキラの声が一段高くなって、思わず喜色を帯びたものになる。

 それに面白そうに口の端を曲げて、ユミルが顔を向けてきた。

 

「アンタ、そういう話が好きだったわね、そういえば。……だから、付いてきたの?」

「いえ、決して! そういう浮ついた気持ちではなく!」

 

 こればかりは決して誤解されたくない部分だった。

 アキラも年頃の男子として、ファンタジーを代表とする魔法の活躍する物語が大好きだ。そういうものには冒険者が付き物で、大抵華々しい活躍を見せてくれる。

 それについて憧れにも似た感情を持っているものの、それを求めて付いてきたと思われるのは心外だった。

 

「……ま、いいけどね。とにかく、周辺にいるのはアタシ達の定義に則って魔獣と呼ぶような奴らがいるんだ、と思っておけば良いわ」

「えーと……、冒険者定義って事ですか?」

「そうね、そう思ってくれて良いわ。……で、この気配の感じ方から、アタシ達を包囲しているのが何なのかもまた、察しが付くワケ」

「……それは因みに、どの様な?」

 

 ユミルは一瞬、言葉を止めた。

 答えを渋る訳ではなく、どう言えば伝わるか考えているように見えた。

 

「……アンタの感覚からすれば、分かり易いのは狼だと思う。言っとくけど、神宮にいたのとはまた違うからね?」

「ええ、はい。野生の狼については理解してます。特に海外のシンリンオオカミとか、そういう類のと、ニホンオオカミは別物だと言う事も」

「……そう。まぁ、それを凶暴にして、身体能力を魔力で底上げしているものだと考えてくれれば、概ね間違いないと思うわ」

 

 さらりと言ったが、実はそれは、とんでもない事ではないだろうか。

 主に狼は群れで狩りをする生態で、また一撃で仕留めるのではなく、小さく傷を幾度も付けて獲物を仕留める戦法を取る。仲間意識も強く、連携も巧みで、一度狙われたら相当厄介だという話も聞いた事があった。

 

 しかもそれが、こちらでは魔力を使った――内向術士の様に魔力を練って襲ってくる事を考えれば、決して呑気に構えて良い相手ではないように思える。

 今のアキラは殿(しんがり)を務めるような位置を歩いているので、狙われるとすれば最後尾に位置する者からだろう。

 

 敵意を巡らせているのは、何も威嚇の為だけではあるまい。

 そう考えると、いつ襲われるのか気が気でない。何故、縄張りを侵すと理解して入り込んだのか、理解不能で混乱した。

 だが、勝手に付いてきたのはアキラの方なので、そこに文句を付けるのは筋違いだった。

 

「大丈夫なんですか? 襲い掛かって来るんじゃ……?」

「魔獣ってのはね、そこまで馬鹿じゃないの。少なくとも、アンタと同程度にはね」

「僕程度、ですか……」

 

 魔獣と同じレベルに置かれて、何とも言えない表情をすると、ユミルは皮肉げな笑みを向けてくる。

 

「アンタ、今の力量ならアタシ達の実力も、それとなく測れるんじゃない?」

「いや、ちょっと……相変わらず下手でして。ただ自分より遥かに上というぐらいしか……」

「それだけ分かれば十分よ。周囲にいるのも、それぐらいは分かってるから」

 

 そう言われて、ふと不意に落ちた。

 仮にアキラが食うに困って誰かを襲おうとしたとして、ユミル達を見つけたからと獲物に定めるだろうか。あれは相手にしちゃいけない、というその判断だけは下す確信がある。

 

 幾ら力量を読むのが下手なアキラでも、このレベルを相手にしてどうなるかを想像できないボンクラではない。

 むしろ最後尾という重要な位置に、明らかに他と違う低レベルの者がいたら逆に怪しむ。敢えて襲いやすい位置に置いて罠に嵌める気ではないか、と疑心に陥るだろう。

 

「あぁ、なるほど……。だから威嚇はしても近付いて来ないっていうのは、本当に警戒しているだけって事なんですか」

「そういう事ね。賢いからこそ、襲った後のリターンが見合わないって、ちゃんと理解してるわ。だから、少なくとも森を抜けるまでは安全ね。逆にアイツらが他の魔獣が近付くのを防いでくれる」

「……あれより強い魔物とか出てきた場合は?」

「相手にすれば良いだけの話でしょ」

 

 これにも事も無げに言い切って、ユミルは小馬鹿にしたように笑った。

 ――そうだった。

 彼女らはそもそも、そういう手合なのだ。基本的に我が道を行くタイプだから、邪魔する者がいれば押し通るのが彼女らの流儀だ。

 

 仮に包囲しているのが襲ってくるタイプだと言うのなら、やはり事も無く薙ぎ倒して前に進んでいただろう。

 アキラが一人納得していると、前方にいたアヴェリンが立ち止まり、こちらに顔を向けていた。

 

「随分楽しそうにお喋りもしていたが、今日の所はここで休む。すぐに準備しろ」

 



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孔を抜けた先は その3

 その場所は、樹木が生い茂る森の中にあって平地になっている場所だった。

 地面には湿った土は勿論、枯れて砕けた枝なども散乱しており、倒木も多くある。だが十人ほど纏まった数が立っても手狭に感じない程の広さがある。

 

 樹木のないスペースだからと思って見上げても、枝が広く伸び、葉も生い茂っているので空は見えない。葉の隙間から薄っすらと見える限りでは雲は出ていないようだが、月明かりが差し込むからと、そこから推測したに過ぎなかった。

 

 アヴェリンはミレイユを大事そうに抱きかかえたまま、倒木を適当に蹴り飛ばして外側に転がす。小石を蹴り飛ばすような動作で、太い幹が転がっていく様に今更驚きはしないが、しかしいつ見ても現実離れした光景だとは思った。

 

 そうして更に二本の倒木を転がすと、それで良い塩梅に寛げるスペースが出来上がる。

 ユミルが倒木の一つに腰掛けると、周囲から枯葉や枯草を魔術で引っ張ってくる。そうして自分から少し離れたスペースに小さな山を作り出した。

 

 ルチアは手近に落ちている石や木を組み合わせて、足の付いた焚き火台を作り出すと、自身の魔力を変性させてコーティングするように纏わせた。

 一瞬だけキラリと表面を輝かせ、握った拳の甲側でコンコンと叩いて強度を確かめると、それでユミルの用意した枯草などを持っていく。

 

 そして自身が途中拾っていた枝などを三角錐の形で組み上げると、ユミルへ指先で手招きしてから台を指す。

 ユミルも心得たもので、それだけで指先を向けて雷を放つと、パチリと音を立てて火が燻り始めた。ルチアが軽く息を吹きかければ、それだけで火勢が増してすぐに枝へと火が燃え移り、そして小枝より少しずつ太い枝を追加で乗せていく。

 

 その火を熾すまでの手際の良さを見れば、やはり旅慣れた様子を感じさせた。

 旅をしていれば野営は当然で、この程度の事は必須技能なのだろう。以前、まだミレイユ達と出会ったばかりの頃、肉を捌けない事に侮られるような、失望されたような目で見られたが、このように野営するなら獲った獲物をその場で解体出来ないようでは死活問題だろう。

 

 アキラも彼女らに付いていくつもりであるなら、その辺りは良く学習しておかなければならなかった。火を熾すのも、それを消さないように維持するのも、今後アキラが担う機会は多い筈だ。

 その手際をしっかり見て、真似して実践できるようにならなければならない。

 

 そういう気持ちでルチアの手付きを観察していると、火の傍に寝袋が敷かされた。

 その上にはミレイユが寝かされ、何かを巻いて枕代わりにした物を置き、更にマントを重ねて上に羽織らせる。どれも丁重な手付きで済ませると、アヴェリンも倒木の一つに腰を下ろした。

 

 こうして見ると、火を囲んで三つの倒木がコの字型に並んでいて、最初からそうするつもりで蹴飛ばしていたのだと気付いた。パチ、パチ、と小さく火の粉が弾ける音が聞こえ始めると、ルチアは更に薪になりそうな太さの木を取り出し、アヴェリンへ放った。

 

 それを片手で受け取り、両手で持ち直す。

 ナタでも取り出して薪にするのだろうと思っていると、そのまま紙を割くような仕草で薪を二つに割ってしまった。薪に出来る程の太さだし、割れ目が入っていた訳でもない。目を剥いて見ていると、それを更に幾度か割って薪に適した大きさにすると、それを焚き火へと投じた。

 

 ぞんざいな手付きに見えるが、元の形を崩さない絶妙な力加減で、しかも適切な形で三角錐を維持するように投げたものだと分かる。

 こういう所でも玄人っぽさが垣間見せて、アキラはキャンプ慣れした姿を惚れ惚れした顔付きで見ていた。

 

 木を焦がす匂いが鼻をついて、つい頬を緩ませていると、アヴェリンがじろりと睨んではぶっきらぼうに口を開く。

 

「いつまでそうしているつもりだ、座れ」

「は、はい……」

 

 肩身の狭い思いをしている所に、野営でも何一つ役立てる事が出来なくて、更に肩身の狭い思いをしていた。そんな状態だったので、アヴェリンのキツイ口調は心に刺さる。

 言われたとおり、どこへ座ろうと見回して困ってしまう。

 倒木は人が二人どころか、三人で座っても十分な長さを持っているが、誰と一緒に座るのかという問題が起きてくる。

 

 一つの倒木に一人ずつ座っているから、誰かとペアになる事になるのだが、誰と一緒でも障りがある。それで焚き火近くへ、直座りしようとしたのだが、屈み込んだところでユミルから声を掛けられた。

 

「何でそこなのよ、何もアヴェリンだって地面で十分だ、なんて言わないでしょ。……こっち座りなさいな」

「……はい。では、失礼して……」

 

 正直、ユミルの隣というのは気後れ以前に嫌な予感しかしないので断りたかったのだが、道中も声を掛けてくれたりと、気を遣ってくれたのもまた彼女だ。

 それで誘われるまま、ひと一人分の間隔を開けて座ったのだが、それから特に会話が発生する事もない。ルチアが薪になる太さの木をアヴェリンへと放って、それを自分の傍に溜め込み、燃料にする大きさへと裂いていく。

 

 その様子と、ちろちろと燃える火を見ながら、時折木の爆ぜる音を耳に聞いていた。

 沈黙は苦に違いないが、それぞれには割り振られている仕事があるようで、それを理解して動いているからには、今更言葉にする必要がないくらい繰り返されて来たのだろう。

 

 アヴェリンは薪の準備と火の管理、そしてルチアは焚き火台へ、更に鍋を設置して雪を生み出しては水に変えていっている。水に、というよりはお湯を沸かそうとしている様子で、そこにユミルが干し肉などを取り出して、食材を切って皿の上に盛ったりし始めた。

 

 ユミルが料理などする様子は初めて見たので、それをまじまじと見つめてしまう。

 いつも運ばれてくる料理を見ているだけか、あるいはワインを飲んでいるだけの姿しか知らない為、むしろそういった役目を担わされていないのだと思っていたくらいだ。

 

 しかし食材は切るだけで、料理まではしないようだった。

 むしろ、切るまでが仕事で、それ以上の事はしなくても良いらしい。しなくても良いのか、それともそれ以上させられないのかまでは知らないが、ルチアは受け取った食材を傍に置き、湧いたお湯を木製マグに移して、それぞれに回してくれる。

 それにはアキラの分まで用意されていて、頭を下げながら感謝を告げた。

 

「すみません、ありがとうございます……」

 

 ルチアから回されて、ユミルから受け取ったマグを口につける。

 入っていたお湯は、(ぬる)めで直ぐに飲み干してしまった。考えてみれば森に入ってから歩き通しで、夜になるまで休憩もなかった。喉も相応に乾いていたので、この気遣いは非常に有り難い。

 昼間は気温もあって暑いぐらいだったが、夜はそれなりに冷える。冷水より温めの水というのも嬉しい配慮だった。

 

「ルチア、もう一杯頼む」

「アタシも」

 

 二人がお代わりを頼むなら、アキラも頼みたくなってしまう。

 額を濡らすほど汗を掻いた訳でもなかったが、一口飲むと更に喉が乾いてしまうように感じる。かといって図々しく頼むのも気が引けて、どうにも自分から言い出せずにいると、ルチアの方から手を差し出してきた。

 

「え?」

「欲しいのでしょう? 早く回して下さい」

「はい、すみません……!」

 

 恐縮して頭を下げながらユミルへと渡すと、ユミルが皮肉げな笑みを浮かべながらそれを受け取る。そして直ぐに返って来たマグをアキラに渡すと、呆れた口調で言ってきた。

 

「そんな物欲しそうな顔されたらね、そりゃルチアだって、ああ言うってモンでしょ。水を欲したら分け与える、それぐらいは常識だって知っておきなさい」

「えぇ、はい、すみません……。水は分け与えるって……、常識なんですか?」

「そうね、全くの見ず知らずの相手でも、欲する物が水ならば見返りを求めず与えるもの。それがこの世界の常識ではあるわね。最低限の相互互助、その取り決めが水の譲渡ってワケ」

「なるほど……」

 

 アキラは今のところ、この世界について知っているのは、この森のみだ。

 人が住んでいるとも思えない、この魔獣か魔物しかいない地で、人に出会うような偶然があるとは思えない。だが、それでも助けを求められ、それが水という要求であったなら応えなければならない、というのは理解できた。

 

 だが同時に、疑問にも思う。

 それが強盗の常套句になったりしないのだろうか。悪さをしようとする者は、付け入る手段があるなら必ずそれを利用しようとする。

 水を求めて近付き、そして油断したところを襲撃する、そういう事を考えそうなものだった。

 そんな事を考えてると、ユミルが嫌らしい笑みを向けながら言ってくる。

 

「アンタ、水を理由に油断させてどうこうするヤツいそうだな、とか考えたでしょ」

「……そんな分かり易い顔してましたか?」

「ええ、アンタって顔に出過ぎるから。――でも、そうね。それを理由に襲う者はいるか。そう聞かれたら、そりゃいるって答えるわよ」

「あ、やっぱりそうなんですね」

 

 性悪説を唱えるつもりはないが、世の中は善意だけで回るものでもない。小賢しい者はどこにでもいる、とアヴェリンが言っていた事があるように、やはり最低限の相互互助ですら利用しようとする者もいるだろう。

 

「でも、それってバレなきゃやっても良いって言うのと同時に、バレたら酷い目に遭うってコトでもあるワケよ」

「悪人にも、モラルを気にする奴もいるって事ですか? 酷い目に遭いたくないから、そういう取り決めは守るとか?」

 

 マフィアやギャングのような悪人は、上にいる人間ほど規律に厳しく、それを守ろうとするもの、と聞いた事はある。社会的地位も高い為に、鉄の掟のようなものを敷いて、それを部下に守らせようとする。

 

 だが、得てして末端は暴走しがちだし、大きな組織に所属しないようなチンピラは、もっと好きにやりたい放題する。全てが全て、悪人なりの道理に従う者ばかりではないだろう、という気がした。

 

「そりゃあね、全てを敵に回す覚悟がなければ、やっちゃいけない。そういう常識もあるワケだから、おいそれと手を出せない手段でもあるのよね。それに、こういうのはバレるようになってるものなの」

「でも、法で縛られていないものですよね? そもそも悪事ってそういうものですし……、守る悪人なんているんですか?」

「襲った相手も皆殺しにすれば、どう近付いたかなんてバレないものね。でもね、その最低最悪の手段を使って悪事を働こうって奴は、つまり頭の中身が入ってない馬鹿って言う意味でもあるのよ」

「それは……」

 

 そういうような気もする。

 賢い者ならそもそも悪事など働かないだろうが、賢い極悪人なら、もっと別の手段を講じる事が出来るだろう。追い込まれて他に手段もない、という輩もいるのかもしれないが、それを選ばざるを得ない状況に陥った時点で、救いの目もない気がした。

 



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孔を抜けた先は その4

「黙っていればバレない筈だ……、確かにそう。でも、どうやってバレずに行うか、それが問題よね。馬鹿な奴らが集まって、それで道端の誰かを襲ったとして、一人で歩くような馬鹿いるワケないでしょ? 集団で移動しないワケないのに、武装した集団が、どうして近づけると思うのよ」

「根こそぎ奪うとかすればバレませんよね?」

「アンタ結構簡単に言うけど、その馬鹿集団の周りにだって悪人はいるのよ。手柄を挙げれば、その手段の話にだっていくワケ。どうやって奪ったんだ? どんな仕事をしたんだ、ってな具合にね」

「あぁ……、武力で制したというなら、それを自慢気に語ったりしそうなもんですね」

 

 アキラが想像したのは、野卑な髭面の男どもが酒場でエールのマグを打ち合って、乾杯の音頭を取りながら、派手に飲んでは武勇伝を語る場面だ。

 成功したデカいヤマには、それなりの脚色はあるにしろ、語り合うのも一種の娯楽だ。成功者はそれを語る事が義務ですらあるような感じがする。

 

 成功したのを秘密にして、酒場に寄らず、定食屋か何かで細々と食を繋ぐ。そういう賢い行いが出来るものなら、発覚しないものもあるかもしれないが――。

 そもそも街道を一人で歩くような馬鹿はいない、それはそうだ。魔獣はいるし、魔物もいるのだから、傭兵を雇うなり商隊を組むなりして移動するのが基本だろう。

 

 襲われたなら、消えた人間や荷物が存在する事になり、取引相手や傭兵の知り合いなど、事件が全く発覚しないという事も有り得ない。

 消えたなら誰に襲われたのか、あるいは魔物に襲われただけなのか、そういう取り調べはありそうなものだ。そして魔獣でも魔物でもない、人の手に襲われたなら、それも誰かという捜査は当然あるだろう。

 

 問題はその捜査レベルであったり、本腰を入れて調べられるのかという部分で、それで発覚しないという事はありそうだが……。

 だが、結局のところ馬鹿しかやらない手法でもあるのだから、その隠蔽もおざなりだったりするのだろう。

 アキラが渋い顔をさせているのを見て、ユミルも可笑しそうに笑った。

 

「まぁ、蛇の道は蛇って、アンタの世界でも言うでしょ? 悪事を隠蔽できたとしてもね、表の連中は騙せて隠せても、裏側の連中の目と耳まで誤魔化すっていうのは、そう簡単じゃないのよ。関わる人間が多ければ、それだけ外に発する情報も多くなる」

「リーダーがそれなりに頭がキレても、協力した奴までそうじゃないと」

「そうね、それぞれ取り分だって受け取るワケじゃない? ……で、お前みたいのが、どうやってカネを手に入れたんだ、って具合に聞きに来る奴だって出る」

 

 チンピラにもチンピラの世界なりに、ヒエラルキーがあるものだ。

 出来ない奴は、どこの世界でも侮られる。カネが手に入ったというなら、真っ当に働いてもいない者が、どうやって手に入れたのか疑問に思うだろう。

 

 悪人だと自覚しているからこそ、悪人の中には、その成果をひけらかす者がいて、そして成功者にはやっかみを覚える者だっている。

 清廉潔白な手段で入手したと思ってもいないからこそ、その成果の内容を気にするのは良くある事だ。

 

「悪人の世界にも、スリや窃盗で成果を上げるなら良しとしても、強盗は許さないって言うのはいるって聞いた事あります……。いや、言ってたのは映画でしたけど」

「まぁ、そうね。殺人も厭わないって言うのは別に珍しくないけど、こっちでは。でも馬鹿集団がカネを持っていたら、そこを不審に思う奴は必ずどこかで出るのよね」

「あぁ……、それで発覚に繋がると。見つかるように出来てるっていうのは、そういう事ですか?」

 

 ユミルは出来の良い生徒を褒めるように頷き、そしてアキラの頭を数度、軽く叩いた。

 

「アンタがするとは思えないけど、でも善人だって追い詰められたら、最悪の悪事をするかもね。そして皆殺しにする程の度胸もなく、持てる物だけ持って逃げたとする」

「えぇ、はい……。確かに僕は、善人を皆殺しにする度胸なんてないですけど……」

「顔しか知られてなくても、そういう情報の伝達は速い。アンタは一時は生き延びられても、そこから汎ゆる奴らを敵に回す事になる」

「汎ゆる……?」

 

 国家権力だけに留まらず、裏社会の悪人なんかも、狙ってくるという意味だろうか。

 衛兵なんかは頼りないイメージがあるから、やはり傭兵なんかも目に付けられて襲ってきそうな気がする。

 ユミルは頷きながら話を続けた。

 

「アンタが善人だと知られているような状況なら、命を狙われるような真似はされない。ただ誰からも相手にされなくなるから、街で生きていく事は出来なくなるわね」

「相手にされない……それだけで済むんですか? 随分、温情がある扱いな気がしますが」

「アンタね、相手にされないってのはつまり、何一つ売ってくれないって事よ。水だって井戸を使わなきゃ汲み取れないのに、それすら使っていれば邪魔される。何一つ得られないってのは、街の中で生きていけないって意味なのよ」

 

 それは確かに酷な扱いだ。

 お金があっても購入できず、しかも水すら入手できないとなれば、密かに餓死する以外選択肢がない。それ程の扱いを受けるなら、素直に自首してしまった方が楽に思えるが、正規の裁きを受けられるかも疑問で、仮に受けられても、罰とて楽なものじゃないだろう。

 

 だが、それが嫌なら最初からやるな、という話だ。

 やった方が悪い、悪い奴には相応の報いがある。最低限の相互互助を破るというのは、きっとそれ程まに重いものなのだ。

 

「なるほど……。でも、その相互互助や暗黙の了解っていうのは、……何というか意外です。助け合いの精神って、もっと希薄なのかと思いました」

「別に懇切丁寧に扱えって意味じゃないけどね。本当に困っていても、水だけは許してやれって意味で、だから食料まで分け与えろって意味でもないし。水だけで生きていけるワケでもないからね」

「それは……そうですね。でも最低限の助け合いの精神は、きっとどこかで実を結ぶ事もあるんじゃないでしょうか」

「どうかしらね。……乾き切った時の一杯の水は、確かに救われた気分になるものよ。でも、そこから命を繋げられる者っていうのは本当に少ない。欲しい助けが水じゃない事も多いしね……」

 

 そう言って、ユミルは遠い思いへ馳せるように、この葉の陰から見える空を見つめた。

 

「だから、それで本当に助けてくれる奴っていうのは、とても希少なのよ。大抵は見知らぬ近付く奴がいたら、そもそも会話するより前に攻撃する。あるいは逃げる」

「そうなんですか……」

 

 意外な気持ちで落胆するのと同時に、そうかもしれない、と納得する部分もある。何だかんだ言っても、武器を腰から降ろしている相手を素直に受け入れるのは難しいだろう。

 水をくれと求められるより早く、声を掛けられるよりも早く逃げれば、それに応じる必要もない。近付き、声を出すより前に恫喝して遠ざける方が、よほど合理的に思える。

 

 だから、とユミルはミレイユへと顔を向けて、柔らかな笑みを浮かべた。

 

「それで本当に助けてくれると、その優しさが染み渡るのよね」

「……ミレイユ様は、その助けてくれる稀な人って言う訳ですか?」

「そもそも逃げないし、話だけは聞いてくれる。それがどのような相手でもね。……これって言っとくけど、他に類を見ないって断言しても良いからね?」

 

 それは分かる気がする。

 ミレイユは相当な実力者だが、同時に罠に嵌めようとする相手は、あらゆる手管を使って反撃しようとするだろう。話さえ聞いてもらえれば丸め込めるとか、話自体は真実でも、何か裏があって利用されたら、果敢に逆襲を遂行しそうだ。

 そして、それが出来るからこそ、話だけでも聞こうとしてくれるのではないか。

 

 危険から遠ざかろうと思えば、まず近づかない、近づけさせない事が重要だ。

 あるいはミレイユならば、待ち構えた上で全てを解決しそうと思わせる、妙な頼もしさもある。

 

「実際に悪人から話を持ち込まれたり、罠に嵌められたりした事はないんですか?」

「そりゃ、あるわよ」

 

 あっさりと肯定して、不遜な態度で笑みを浮かべた。

 

「そもそも私達を邪魔者として排除したかった連中から、依頼で向かった先で四方を囲まれて襲撃されたりね。悪の片棒を担ぐと知らずに、協力した荷運びなんかもあった」

「それは……」

 

 襲撃の方はともかく、荷運びの方は真偽を確かめるのは難しい。

 特に事前に知らされた内容と荷の中身の違いなど、よほど杜撰でなければ分からないものだろう。

 

「……けどまぁ、そういうのは不思議とどこかで発覚するのよね。加担した事を責められたり、あるいは馬鹿が尻尾を出したりして」

「そういう場合は……」

「当然、騙ったからには相応の罰が下されるわよ」

「えぇと、警察か何かに突き出すんですか?」

「馬鹿ね、そんなの決まってるでしょ。アタシ達相手に騙りをしたっていうなら、それはアタシ達を敵に回すってコトよ。何するかなんて決まったようなモンでしょ」

 

 不敵に笑って、何かを握り潰すような手振りを見せた。

 それは見た目通り、そいつらを潰した事を意味するのだろう。上手く姿を隠して逃げられるか、という問題をクリア出来なければ、決して敵わないものを敵に回すというのは、恐怖だったに違いない。

 

 ユミルはその不敵な笑みを隠し、次いで儚げな笑みを、再びミレイユに向けた。

 

「それでも、あの子は話を聞くコトだけはやめなかった」

「何故、なんでしょう……?」

「さぁねぇ……。聞いたコトはあったけど、はぐらかされたわね。でも多分、それがあの子の当然の行いなんでしょ。――相手がどんな身なりでも、話ぐらいは聞くものだ。確かそう言ってたっけ……」

 

 それは確かに、はぐらかされた言い訳のようにも聞こえたが、同時にミレイユの信条を体現した言葉のような気がした。

 裏切られようと、罠に嵌められようと、その全てを食い破って進める実力あってこその言葉だという気がするし、それを実行するからこそ眩く見えるのかもしれない。

 

「だから、この子は慕われて尊敬される。敵には恐れられ、味方には敬われる。この子が善と判断し、かつ良しと判断されれば、それを解決するべく動くからね。この子が動けば大抵の事は片付くから、それに対する信頼も凄くてね……」

「そうだったんですね」

 

 アヴェリンはともかくとして、他の二人からも一定の敬意を向けられているのは、そういう理由からだと理解した。

 考えてみれば、アキラの時もそうだ。

 アキラが力を欲して、それがあまりに惰弱であったとしても、途中で投げ出したり止めたりしなかった。解決方法を模索し、その為の道筋まで用意してくれた。

 そして今のアキラがある。

 

 ルチアもまた、恩返しで付いてきているという話は聞いた事があった。

 アキラも同じだ。あの時、オミカゲ様が作った孔の中へ咄嗟に飛び込んだのは、何かの感情に衝き動かされたからだ。このままでは嫌だという、言葉に出来ない感情からの行動だったが、それが今わかった。

 

 アキラは、受けた恩を返したい、という一心で駆けた。

 このまま別れたら、その恩を返す機会すら喪う。それが嫌で、恩に報いる気持ちが強くて遮二無二に動いた。

 実際アキラにとって、受けた恩の強さというのは、住み慣れた家や国から飛び出してまで返すだけの価値がある。

 

 アヴェリンやルチア達が、かつてこの世界までミレイユに付いてきた時の気持ちが、今のアキラには良く分かる。

 その為になら、世界を飛び越える事など考えるまでもない選択だった。

 

 アキラは今も滾々と眠り続ける、ミレイユの顔を見つめる。

 今は無防備な姿だから、何かあれば身を挺してでも護らなければならない。その決意を胸にした時、隣から茶化すような声を掛けられた。

 

「アンタ、そんな顔してると……まるでアヴェリンみたいよ」

「えっ……?」

 

 アキラは慌てて頬を撫でる。

 時として狂信的とも思える程の熱意を向ける彼女だから、同じように見られるのは心外だった。ある意味で純粋な気持ちなのかもしれないが、同類と見られるのは何かと憚られる。

 

 アヴェリンもそんなアキラの顔を見て、どこか納得するように頷いている。

 同類認定されたようで、やはり嫌だった。

 

「……その表情(かお)が出来るなら、まぁ良いだろう」

「何がですか。どんな表情してたんですか……!」

「自分の決意に向けて聞いてみろ。それが答えだ」

 

 良い事を言ったような、あるいははぐらかされただけのような、複雑な気持ちで視線を焚き火に移す。そうすると、ルチアが手際よく料理をしていたのが目に入り、そしてそれも完成しそうな状態まで来ているのだと分かった。

 

 気づかぬ内に、会話へ夢中になってしまって、何一つ手伝わぬまま支度は終わってしまったようだ。それに申し訳ない気持ちでいると、鍋を焚き火から外して器に盛っていく。

 

 火にかけたままでいないのは、中の具材が煮詰まるのを防ぐ為だろう。いつか起きてくるミレイユに、粗末な物を食べさせる訳にはいかない、という配慮であるのかもしれない。

 アヴェリンとユミルに器を手渡し、それが当然のようにアキラにも手渡され、受け取って良いものか逡巡する。

 

 先程の話を聞く限り、水だけなら分けてやるから、食料は自分でどうにかしろ、という内容に思えた。そういう意味で釘を刺すつもりで話してくれたのだろうと思っていたが、もしや思っていたより受け入れられていたのだろうか。

 

 感謝しながら器を受け取ると、ユミルは皮肉げな笑みを浮かべて言った。

 

「……ま、最初は確かに飯の用意は自分でしろって、森に蹴飛ばすつもりだったんだけどねぇ」

「やっぱり、そうだったんですか……」

「けど、アヴェリンのお墨付きも出た事だし、まぁ良いかなって感じでしょ」

「それは……ありがとうございます」

 

 アキラはアヴェリンにもルチアにも頭を下げて礼を言った。

 そうでなければ、今頃あの暗い森の中、何が食べられるかも分からぬ物を彷徨っていた可能性がある。あるいは、遠くから指を咥えて焚き火を見つめるしかなかった。

 

 身震いする気持ちで、もう一度頭を下げてから、アキラは手渡された木製スプーンを手に取って、器の中のスープを啜った。

 



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孔を抜けた先は その5

 スープはシンプルな内容で、干し肉と何か乾燥させた草を、それぞれが出す塩っ気や風味で味付けされたものだった。

 それにスライスされたパンが付き、スープに浸さなくても良い薄さで食べられるようになっている。食事内容は実にシンプルで、腹に溜まるようなものではない。

 

 だが、野営の食事というのは大抵こういうものだと言う。

 アヴェリンがしたり顔で言った。

 

「腹が満たされれば眠くなる。少量を複数に分けて食事を取った方が、見張りをするにも効果的だ。このような場所で深い睡眠が取れるものではないが、火を絶やすような真似は許されないからな」

「襲って来ないと分かっていても、見張りは必要なものですか」

「当たり前だろうが。そもそも寝込みを襲うなど常套手段で、魔獣の背後にいるかもしれない魔物を警戒しない訳にはいかない。魔物には理性なき獣の様な奴らもいるしな」

「なるほど……」

 

 アキラが神妙に頷くと、疑わしい目つきで射抜きながら、アヴェリンは続けた。

 

「それに必要なのは火を絶やさぬ事だ。状況によって火は二時間と保たずに消える事もある。居眠りなどしてしまえば、簡単に消してしまう事になるだろう。暗い中、火を消して警戒するのは時として有効だが、全く無しで見通す事も難しい。……特に、お前のような者はな」

「えぇ、はい……。確かに」

 

 アヴェリン達が夜目が利くと言われても驚かないが、アキラには到底無理だ。

 特に何も貢献出来ないアキラに出来る事は、火の番をして夜の警戒をするぐらいしかない。腹一杯にさせない食事も、気遣いの一種なのだ。

 

 そこで焚き火を見ながら一つ思う。

 アキラの想像する焚き火というのは、防風の為に石で周囲で囲って、その中に薪を置いて火をつける方式なのだが、ルチアは魔術で石と木を適当に組み合わせて台を作った上で焚き火にした。

 

 どこか現代的な方法だと思ったのだが、それともこれがこちらの主流なのだろうか。それを聞いてみると、ルチアから不審な表情で見返された。

 

「ここは確かに湿った土だし、風も乾燥していません。でも飛び火の可能性は、極力避ける努力はするものです。焚き火で焼けた草木は、時として燻り続けるものですから、その予防という意味でもこうした土台を用意するのは基本です」

「あ、はい……。すみません、キャンプは不慣れなもので……」

 

 アキラの言い訳には気に入らないものがあったのか、それに眦を吊り上げて怒りを露わにしようとしたルチアを、ユミルがやんわりと止めた。

 

「まぁまぁ、アンタも落ち着いて。これから教えてやりなさいな、アキラは赤ちゃんみたいなものなんだから」

「赤ちゃん、ですか」

「何にも知らないし、何が危険か分からず手を突っ込むような真似をするって意味よ。教えてあげれば、それなりに従うでしょ。怒るというなら、同じ間違いを繰り返した時にしなさいな。アヴェリンが良くやるみたいにね」

 

 そう言って、皮肉げな笑みをアキラとアヴェリンの両方へ向ける。

 確かにアヴェリンも最初の指摘や間違いを、直ぐ様怒るような事はしない。怒り殴り付けられるのは、決まって同じ間違いを繰り返す時だ。

 

 現代では体罰だ何だと煩い事を言われそうな指導を、容赦なく繰り出してくる。

 その時の事を思い出して身震いしていると、ルチアもアキラとアヴェリン二人の様子を見て、納得したように頷いた。

 

「……そうですね、そういう事なら。今後、少しずつ学んでいって貰うとしましょう」

「そうなさい。――アンタもね、下手なコト言うんじゃないわよ」

 

 ユミルは優しげに笑みを浮かべた後、ストンと表情を落としアキラへ脅すように顔を近づける。

 

「ルチアがエルフって知ってるんでしょ? 少しは考えてモノを言えって、あの子にも言われてたじゃない。森や木を大事にしそうなコト位、当然想像しなさいな」

「はい、確かに。仰るとおりで……すみません」

「アンタのその、裏表ないくったくさを、あの子も好ましく思っていたみたいだけどさ。でも考え察する努力を、見逃すものじゃないからね」

「はい、気を付けます……」

 

 至極最も、正論しか言われず、それに凹んで肩を落としてスープを啜る。

 そうして食事も終わると、ルチアは新たな鍋に魔術で雪を注いでお湯を沸かした。鍋にしても思う事だが、手ぶらで旅を出来るというのは相当大きなアドバンテージだ。

 

 水までは個人空間に入れていないようだが、沸かして済ませられるなら、幾らか工程を挟んでもそちらの方が良いという判断なのだろう。

 今度はスープを入れていた器に、何か茶葉を煮沸かしたものを注いでくれて、それを飲みながら会話を再開させる。お茶は烏龍茶に良く似た、少し香ばしい風味をしたものだった。

 

 そこで最初に口を開いたのはアヴェリンで、最初の棘は幾らか抜けたが、それでも鋭い目を向けてくる。

 

「……それで、どうして付いてきた?」

「それって今更、聞く内容?」

 

 即座にユミルからツッコミのような発言が飛び出して、呆れたように肩を竦めた。

 

「あの表情見れば、そんなの察しが付くでしょうよ。それに聞いたところで、どうでも良いしね。ここに来てしまっている以上、今更帰れと言って帰れるものでもないし」

「それはそうだが……。そうだな、聞いたところで始まらんにしろ、腹の虫が治まらん。――なぁアキラ、お前に何が出来る?」

 

 それはこの問題の核心を突く、鋭い一言だった。

 ミレイユの後を付いていくというのなら、それは観光目的のような気楽な旅にならない事は容易に想像がつく。そして賑やかしなど求められていない以上、価値ある存在でなければ同行を許す意味がない。

 

 有益でないにしろ、せめて無害である必要がある。

 アキラは別に積極的に害を為すつもりもないし、そうならない努力をするつもりでもあるが、全く何も知らない世界で、トラブルに巻き込まれる事も、自ら生み出す事もきっとあるだろう。

 

 それはこの世界における、常識を知らないが故に発生させてしまう類のもので、自身の意図とは関係がない。だがアヴェリン達からすれば、何故分からないのか、何故それをしたのか、と呆れる要素が多分に含まれるに違いない。

 

 一緒に連れて行くリスクばかりがあり、放り出した方がむしろ益になる。

 野営の仕方も狩りの仕方も、獲物の捌き方も知らないし、商人に対し言葉巧みに物を売りさばくスキルだってない。

 

 アヴェリン達を押し退ける程でないにしろ、せめてそれに近いレベルの何か、自分をアピール出来るものを持ってなければならないが、即座に思い浮かぶものもなかった。

 アキラが言葉に窮していると、アヴェリンは続けて言った。

 

「お前は確かに私の弟子だし、ミレイ様の覚えめでたい輩だが、だからとそれを以って無条件に迎えられるとは思わない事だ。無能に付いてくる資格はない、――私の言いたい事が分かるか」

「はい、分かります……」

「全くの無能ってワケでもないでしょ。学園に入ってから三ヶ月、そしてあの猛攻に参加して生き延びてもいる。見どころが全く無しでもないと思うのよね」

「それはそうだ。私とて自身が育てた男を無能とは思いたくない。だが、この場合だ――」

 

 アヴェリンは一度言葉を区切って、ユミルの顔を見返した。

 

「我らに同行するだけの力量があるとは思えない。物見遊山じゃないんだぞ、明らかに劣った力量を持つ相手を、庇いながら旅をしろというのか? 適当な街で職でも見つけてやって、置いていくのが最も妥当な選択だろう」

「あら、意外。ただ見捨てるだけじゃなかったのね」

「曲りなりにも弟子だ。それにミレイ様も、それぐらいの面倒は見ろと仰るだろう。お前に見合う職ぐらい探してやれる」

「妥当な提案だと思いますけどね……」

 

 ルチアもそれには同意して、器を傾けてお茶を飲んだ。

 ユミルもミレイユへ視線を向けながら、軽い調子で頷きを返す。

 

「そうね。放り出す真似だけは、この子もしないかもね。剣の腕も魔力制御もそこそこ出来るし、食うに困るというコトだけはなさそう」

 

 ユミルからもアヴェリンの意見を支持する発言が出て、アキラはがくりと肩を落とす。

 アキラ自身、彼女らに付いていくだけの積極的な売りを用意できない。この世界の武力として、彼女達が最上位に位置するのだとして、自分がどの位置にいるのかも知らないが、中級より上という事もないだろう。

 

 武力以外にアピール出来るものがないのだから、アキラには素直に彼女らの提案を受け入れるしかない、という気もしてくる。

 あるいは受け入れて貰える期待していたが、現世にいた時とは状況が違う。あの時だって多くは厚情で受け入れられていただけで、アキラを身内として扱っていた訳ではない。

 

 非常に近い存在であっても、やはりアヴェリン達と同列にはならないし、その一段下というのも期間限定のものだった。学園に移ってからは、その弟子という肩書さえ、頓着なく元弟子へと変えたくらいだ。

 

 だが、ミレイユの後を追って来た以上、ここで諦めるのも嫌だった。

 憧れと恩返しを混同している部分はあれども、しかし半端な気持ちで来た訳でもないと、胸を張って言える。荷物持ちすら必要ない彼女らには、男手が一つあったところで邪魔にしかならないのだろうが、それでもここで素直に頷いて置いていかれるのは嫌だ。

 

 何か自分の価値を証明できるものはないか、と頭を巡らせていると、またもユミルが場を取り成す様に言う。

 

「でもアタシ達には、味方が必要になると思うのよね。対抗する相手が相手だし……」

「味方は分かるが、それで候補に上がるような奴か? 頼りになりそうな者が欲しいというなら、他に幾らでも候補はありそうなものだ」

「そうね、でもアタシ達が相手にするのは神なのよ。それも、この子を奪取するという目的の為に千年の間も追い続け、そして最後にアレだけの用意周到さを見せてきた、という相手のね」

 

 アキラには言っている事の半分も理解できない。

 相手が神とか対抗する相手とか、しかも千年追って、という意味も通じていないように思える。

だがアヴェリンが渋面を作るには十分な内容のようだった。

 

 少なくとも彼女らには、その意味が齟齬なく通じている。

 それこそがアキラと彼女らとの間にある溝なのだと、改めて理解した。

 




これが今年最後の更新です。
拙作を読んで頂いて、いつもありがとうございます!
皆さま、よいお年をお迎えください。
 


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孔を抜けた先は その6

明けましておめでとうございます。
今年も本作をよろしくお願いいたします。
 


「それに、アタシ達も最初現世へやって来た時には、それなりに世話になったじゃないのよ」

「だが、必須という訳でもなかったろう。宿も飯も、即座に困窮するという状況でもなかったし、命の危険すらなかった。放り出されたところで……」

 

 持論を展開しようとしていたアヴェリンは、そこで一度言葉を切った。

 アキラに向けていた目をミレイユに移し、そしてルチアとユミルへと一周して帰って来る。それから不承不承に頷いてから続けた。

 

「そうだな、我々にはミレイ様がいた。万事取り計らってくれたろうし、そもそもが生まれ故郷だ。ミレイ様に着いて行けば問題ない、という安心感もあった」

「生活する為の資金だって、得るための協力はアキラ頼みでしたね、そういえば」

 

 ルチアは当時のことを思い出すように見上げ、アキラに顔を向けて頷く。

 

「そう考えると、問答無用で放り出すのは不義理なのかもしれない、と考えてしまいます」

「そもそもの前提を混同しているぞ。ミレイ様の目的は休養のようなものだった。過度な贅沢を望んでいた訳でもなく、ただ静養できればそれで良かった。――対して、ここではそうもいかない。目的からして違う。多くの努力を強いられるだろう」

「まぁ、努力は前提として当然でしょ。アタシ達だって現世で馴染む努力をしなかったワケじゃないんだから。……そういう意味じゃ、スマホは実に役に立ったわね。こっちにそんなモノないし」

 

 ユミルが反論するように言って、複雑な表情で首を振った。

 仮にガイド本やサバイバル術が載った本があったとしても、アキラに読めるとは思えない。そう思って、唐突に思い至った。

 

 こうして普通に話しているが、そもそも会話できていたのは魔力のお陰という事らしかった。翻訳魔術みたいなものが電線を通して放たれていたから、という理由だったが、それだと今アキラと会話できてることの説明がつかない。

 

 アキラがそのように聞いてみると、ユミルは呆れを通り越した顔で言った。

 

「アンタね、そんなのアタシ達が日本語を話してやっているからに決まってるでしょ。馴染む努力をするって意味分かる? 今ならそんなコト思わないけど、あの翻訳魔術に全幅の信頼を置くワケないじゃない。文字を覚えるのと同時に、日本語の発音だって覚えていったわよ」

「そうだったんですか……。そんな素振り見せないから、てっきり……」

 

 だが確かに、ユミルだけに留まらず、ルチアもタブレットの使い方を即座に理解していた。

 それは地頭の良さから出来る事なのだろうが、単に操作だけでなく何が書かれているのかすら理解していたように思う。即日に全て理解できた訳でもないのだろうが、アキラは日本語について説明を求められた事も、解釈を求められた事もなかった。

 

 あるいはアキラの知らないところでミレイユに聞いたりしていただけかもしれないが、会話はともかく文字の読み書きで何か苦戦しているところを見た事がない。

 

「まぁ、魔術書の解読に比べたら簡単だってトコもあるから、同じコトをアンタにも直ぐ出来るように求めるつもりはないけど。だけど、アンタも言葉については覚えた方が良いわよ」

「そうですね……。それについては、僕も努力を怠ったりしません。……そうなると、師匠も言葉だけじゃなくて文字も読めてたんですか?」

 

 感心してアヴェリンへと顔を向けると、当の彼女は顔を背けて目を合わせない。

 おや、と思っていると、ユミルは嫌らしい笑みを浮かべた。

 

「アヴェリンは読み書きできないわよ。言葉については勝手に覚えただけでしょ。日常的に使われてれば、勝手に耳が学習していくものだから。でも文字は覚えようとしないと無理なのよね」

「別にいいだろうが。我々はチームだ、多くの事を分担している。読み書きは必須でもない」

「そうね、でもアキラはチームなんて持ってないのよね」

 

 ユミルがしたり顔で言うと、ルチアは不服そうに眉を顰めた。

 

「私たちとは前提の多くが違う、という事は分かりましたよ。互いに世界を超える際には勝手に付いてきた身とはいえ、片や頼れるチームと共に、片や独りの身で。休養でやって来たつもりと、抗争であった場合。身の危険が有るか無いか、言語のサポートがあったかどうか。色々と不利な条件が、アキラに偏っているのは認めます」

「だが、そこで情けを掛けて味方に引き入れるのも違わないか。味方が必要という話に戻すなら、これに味方足り得る力量はない、という話にもなるぞ」

 

 そこにはアキラとしても、同意しなければならないところだった。

 努力で超えられない壁というものは存在する。アキラがどれだけ誠意と努力を向けたところで、報われない事はある。必死になればミレイユ達と並び立てるだけの実力を持てるか、と言われても素直に頷けるものではないだろう。

 

 ユミルが先程から味方してくれるのは素直に有り難いが、アヴェリンにああ言われてしまえば閉口するしかない。

 そもそも先行きを全く見ずに、感情に任せて飛び込んだアキラの自業自得とも言える。

 だが、ユミルは首を横に振って笑みを引っ込めた。

 

「そこで話は、じゃあ敵は誰だ、という話にもなるのよね。言ったでしょ、奴らは目的を遂げる為なら、一重も二重も策を用意する相手よ。味方を欲していると知れば、手先を送るぐらいの事はすると思わない?」

「内部事情を(うかが)う為に? 可能かどうかは引き入れる味方の数にもよるでしょうけど……、やるかどうかというなら――やるかもと思えますね」

 

 ルチアが険しい顔をして同意すると、アヴェリンもそれには頷く。

 

「お前の主張は認めるが……だから味方は増やせないと? アキラで妥協しておけと言うのか?」

「そうじゃないわよ。アキラ一人でどうなるものでもない、足手まといって言うのはそのとおり。でもね、アキラは間違いなく神々の息が掛かっていない、掛け値なしに疑わわないで済む相手なのよ。それって結構、貴重だと思うのよね」

「まぁ……、裏切らぬ相手、という意味では確かにな」

 

 アヴェリンの険しい視線がアキラを射抜く。

 確かに、アキラが主張できるポイントとしては、最早それ以外残っていない気がした。何一つ貢献できないとしても、裏切る事だけはない。

 それだけは断言できる。だが同時に、裏切らないという信頼一つで全てを納得させられる訳でもない事は自覚していた。

 

「……別に私も積極的に排除したい訳ではない。しかしな、結局決めるのはミレイ様だぞ。恐らくミレイ様も同行は認めまい。私が声高にアキラの同行を認めないのは、最初から面倒を省く為でもある」

「そうね、決めるのはこの子よ。ある程度の損得を提示して、それで納得するかどうかよね。駄目と言われたら、やっぱりどこかに置いて行くしかなくなる」

 

 ユミルがそう言って目を向けてきた。

 アキラは素直に頷く。

 

 勝手に付いてきたのはアキラだ。事前に来るなと止められてもいた。それでも付いて来て、だから同行を認めろ、という主張は通らない。むしろミレイユには拒否するだけの権利がある。

 駄目と言われたら、アキラは素直に引き下がるしかなくなるが、それを飲み込めないというなら、完全な拒絶を突きつけられても文句を言えない。

 

 だが実際、ユミルがアキラをそこまで高く買ってくれた事は嬉しかった。

 アキラは頭を深く下げて感謝を示す。

 

「ありがとうございます、ユミルさん。勝手に付いてきただけの僕に、そこまでフォローしてくれて」

「まぁ、邪魔だと思えば、いつでも捨てるつもりでいるけどね。結局、今のところ損がないから置いておこうっていうだけで、今後害を為すようなら置いていくし」

 

 らしいと言えばらしい台詞に、アキラは曖昧に笑んで頷く。

 

「えぇ、それでも構いません。ミレイユ様次第でしょうけど、味方してくれた事には素直に感謝します。……僕も、ミレイユ様がどういう理由で孔に入ったかも、その先で何をするつもりでいるのかも知りませんでした。本当に邪魔にしかならないなら、僕が邪魔するような事、したくありませんから」

「……そうでしょうね。神に喧嘩売ると知って、付いてくるワケないでしょうし」

「さっきもチラチラと言ってましたけど、ミレイユが孔に入った理由は、神様と戦う事なんですか?」

 

 確認というより、そうであって欲しくない、という念押しのつもりで聞いた。

 神と言ってもアキラが知っているような内容ではなく、つまりオミカゲ様のような存在とは別の、凄く強い個人か何かを指しているのだと思っていたのだが、ユミルの表情は無情に満ちていた。

 

「んー……間違いじゃないけど、戦う為に入った、というのとは、ちょっと違うのよねぇ。火の粉を払う、っていうのも少し違う気がするし」

「繰り返す時の流れから、抜け出す為でもあるんだろうさ。オミカゲ様のご心痛を思えば、私も腸が煮えくり返る思いがする……!」

 

 アヴェリンが犬歯を剥き出しにする獰猛な表情を見せると同時に、膨らんだ敵意が周囲に向かって広がった。自分で気付いて即座に収めたものの、それだけで周囲の獣などが逃げ出したのが分かる。

 

 悲鳴や鳴き声が突如として上がり、焚き火が立てる音ばかりだった森が急に騒がしくなる。

 アキラも背筋が凍るような思いがしたが、やたらと暴力を振り回すような人ではないと知っているから冷静でいられる。

 実際、嘆息して佇まいを正すと、器の中のお茶を飲み干せば、すぐに冷静さを取り戻した。

 

 だが、アキラからすると、会話の繋がりが全く分からない。そこでオミカゲ様の名前が出てきた事は重要な事だと思うのだが、それが神々と戦う事や、繰り返す時、火の粉を払うという部分と、どう関係するのか全く見えなかった。

 

 アキラが堪りかねて聞くと、アヴェリンは煩わしさを隠そうともせず答える。

 

「お前が知る必要のある事じゃない」

「――でも、知っておいても良いんじゃない?」

 

 アヴェリンの切り捨てるような、にべもない返答に、待ったを掛けたのはユミルだった。

 眉根を寄せて、アヴェリンが詰問する。

 

「何故だ」

「単純に不便だから。何が有意義な発言があるかは別にしろ、蚊帳の外にいたんじゃ会話もままならない時も出て来るでしょ。今さら隠すようなコトでもないし」

「……秘密にするような事でもないのは確かですけど、それって同行を許可されてからでも良いのでは?」

 

 ルチアが言葉を差し込むと、それにはユミルも大いに頷く。

 

「だと思うけど、まぁ……暇つぶしよ。アタシとしても、自分で整理して納得したい部分なのよ。何も知らないヤツなら何かの気付きがあるかもしれないし、そういう意味でも聞いて貰って良いかもと思うのよね」

「気付き、ですか……」

 

 ルチアが疑わしそうな目を向けてきて、アキラは針のむしろのような思いで肩をすぼめた。

 何かを期待されても、そういった頭脳に関する部分に自信はない。だが、気になる内容に触れられるというのなら、アキラとしても否応はなかった。

 

 アキラは催促するようにユミルへと頷くと、彼女は挑発するように肩を竦めてから口を開いた。

 



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孔を抜けた先は その7

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


「これ結構ややこしい話なんだけどねぇ……。まず何で私達が孔へ送り出されたのか、と言えば、オミカゲサマが失敗を悟ったから、っていう話になると思うんだけど」

「オミカゲ様が、ですか?」

 

 そこでオミカゲ様の名前が出る事が、まずアキラには理解できない。

 首を捻ったが、それには構わずユミルは続ける。

 

「オミカゲサマの目的は、こっちと合致してるから、繰り返しを阻止する一番の目的は孔を封じるコトだと考えてたのよね。二度と現世に孔が開かないように出来れば、それが理想的な逃げ切り勝利になってたと思うんだけど……」

「力及ばず、申し訳ないですね……」

 

 ルチアがしゅん、と肩を落としたのを見て、ユミルは面倒そうに手を振った。

 

「誰もそんなコト言ってないでしょ。時間も準備も足りなかった。更に言えば、こっちの狙いを察知されたが故に、神々だって本腰入れて来たって話らしいじゃないの。時間不足を解消するには、箱庭内に用意された時間調整を使うしか方法はなかったと思うんだけど、箱庭を頼らせるコトが保険として用意されてた以上、結局手の平の上だったってコトでしょ……」

「切羽詰まれば、それを頼りに使うだろう、と……。そして箱庭の中での動きを読める以上、我々の動きを教える手助けになっていたという訳ですか。……確かにこれは、用意周到としか言い様がありません。どこまでが狙いで、どこまでが偶然だったのか……」

 

 ユミルがそれに頷いて、したり顔で言った。

 

「全部が狙いどおりではなかったにしろ、最終的に目的を達せられるように複数の手を打って誘導する。そういうのが得意だってのが分かるでしょ。だから、絶対に神の手先ではない、と確約されているアキラは、頼りに出来なくても頼みに出来る場面はあるのかも、って思うワケ」

「なるほど……。ある意味で便利使いの出来る駒、それが手元に有るかどうかは、確かに重要であるかもしれません」

 

 ユミルの意見にはルチアも一定の価値を見出したようだ。

 先程よりも納得の色合いが濃い視線で、アキラを見つめてくる。戦力的な価値を期待されていない以上、何か役立てる事があるなら、それこそ願ってもない事だった。

 アキラは食い入るようにルチアの目を見返し、何度も首を縦に振る。

 

「きっとお役に立ちますよ、それが無理な願いじゃなければ……!」

「……熱意は買いますよ、熱意は」

「結局はこの子次第で決まるから、そこはまぁ後にするとして……」

 

 言いながら、ユミルはミレイユへと顔を向け、そして改めてアキラを見た。

 

「逃げ切り勝利は達成できず、また現世で追い詰められる状況になったから、やっぱり逃げるしか無くなったんだけど……」

「やっぱり?」

「始めからそういう理由で現世に留まっていたからね。オミカゲサマの説得で、アタシ達は元より世界を渡る予定だったから」

「ええ、はい……。そういう話は観覧車でされましたよね」

「――で、何で世界を渡る必要があるのかと言えば、現世にいる限り手出しを止めるコトが出来ないから。仮に孔を封じる結界が成功していても、十年でも百年後でも、再び孔が開く可能性だってある。現世にいる限り……神々の意思を変えさえない限り、本当の意味でループは終わらないと考えるコトも出来るわ」

 

 ユミルが神妙に言って、アヴェリン達にも沈黙が落ちる。

 難しい表情で考え事をしているが、やはりアキラには理解できなかった。それがどうして、時の繰り返し(ループ)という話が出て来るのだろう。

 

「やっぱり話がサッパリ見えないんですけど……。オミカゲ様とミレイユ様、それとループがどう関係するんです?」

「ああ、そこを知らないと意味不明よね。この子とオミカゲサマは、同一人物なのよ」

「――は!?」

 

 アキラは目を剥いてユミルの顔を見返す。

 そこには虚偽を言っているようにも、いつものように騙して遊ぼうという嗜虐的な笑みも浮かんでいない。当然の事を口にしているようであり、そしてアヴェリンやルチアを見ても、同意するように頷きが返って来るだけだった。

 

 初めてミレイユを目にした時、あまりにオミカゲ様そっくりで仰天した覚えがある。

 それこそ同一人物だと思い、その場で平伏した程だった。だが、日本史に於いてオミカゲ様は、千年かそれ以上前から日本国へ顕現された神として知られているから、それではミレイユと繋がらない。

 

 顔が似ている、神威を発せられるのは、単に親子神であるというだけで十分説明がつくように思えた。むしろ、そちらの方が理が通っているだろう。

 

「いや、それは有り得ないんじゃないですか? オミカゲ様は千年前からいらっしゃるんですよ?」

「そう、だからこの子が、こっちで神々を阻止しようとして失敗して、千年前の日本国へと逃げるコトでループが始まる。そうして人の世を支え、鬼に対抗しながらその手から逃れ続け、そうして再びやって来るミレイユへ、神々を阻止するよう送り出す。そういう流れが出来ているのよ」

「再びやって来るミレイユ、というのは……?」

 

 ただでさえ理解不能なところに、やはり理解の難しい状況を差し込まれ、アキラは混乱の極みにあった。そもそも時空間移動に関しては色々矛盾を孕む問題で、おいそれと実現できないと思っている。

 だからその様に聞いてみたのだが、これにはユミルも渋面を浮かべた。

 

「まぁ……、この辺はオミカゲサマの言い分を信じるしかない、検証できない部分なんだけど。要はループの基点となる以前に飛ぶと、世界は矛盾を回避する為に別宇宙が作られるのではないか、そういう話だったわね」

「多元宇宙論、ですか」

「アタシはその辺詳しくないけど……。ミレイユの視点として現世に帰還した時点がその基点で、ループしても必ずミレイユの帰還は起きるみたいね。宇宙を板に見立てて、その上に重ねていくようなもの、と言ってたかしら。ループするコトで作られた、その一番上の宇宙に起点ミレイユが帰って来ると。……そもそもの破綻を防ぐようになっているとも言ってたかしら?」

 

 アキラも他の皆と同様、渋面を浮かべて唸り声を上げた。

 そんな事が本当に有り得るのか、という問題は、今は棚上げしておこう。ユミルが言っていたように、検証して確かめられる事ではない。

 

 確かな事は、それをミレイユもオミカゲ様も納得した上で飲み込み、そしてそれを前提に動いているという事だ。

 そうである以上、タイムトラベルについて詳しい事を知らないアキラが口を挟んでも仕方がない。今は理屈の事より、そういうものだと納得して話を進めるしかなかった。

 

「オミカゲ様が、ミレイユ様……。じゃあ僕が――僕らが知るオミカゲ様は、ミレイユ様が神々へ挑戦して、でも失敗して千年前に帰還する事で生まれる存在、という事ですか?」

「そうらしいわね。本人の口から聞いた限りだと」

「オミカゲ様は……、神様じゃなかった?」

 

 アキラが僅かな失望と共に口にすると、ユミルはそれをやんわりと否定した。

 

「それは違うわ。オミカゲサマっていうのは、間違いなく神ではあるのよ。ただ、その在り様が特殊なだけ。人の身から神へと昇華した存在で、間違いなく神としての権能も有している」

「……そう、なんですか」

 

 アキラがあからさまにホッとした笑みを浮かべると、冷めた表情を見せてユミルは続ける。

 

「現金なヤツね……。ま、神じゃなければ説明つかないコトは沢山あるけど、一番分かり易いのは空飛んでたコトでしょ。自由に飛べる権利は神にしかないからね。それにまぁ、マナ関連を持ち出せば幾らでも説明できるし」

「ははぁ、なるほど……」

「まぁつまり、その『神になる』っていうのが発端よねぇ……。神の素体を用意して、そこに手当たり次第に魂を入れたのが始まり、とも言えるのかしら」

 

 やはり専門的な話に思えて、アキラは首を傾げる。

 神の素体という単語だけ見れば、まるでホムンクルスのように人体を用意して、そこへ人工的――神工的に魂を嵌め込んで作ったように思える。

 だが、もしかすると――。

 アキラは自身の想像を疑いながらユミルの目を見つめると、得心して頷く。

 

「そう、神造の神――小神って呼ばれる存在が、そのオミカゲサマなのよ。そして、その素体としてまだ神になっていない状態が、この子ってワケよね」

「そもそもが人間じゃない……?」

「本人だけは人間だと思ってるみたいだけどね……でも、そう。どのような魂でも良いらしいワケでもないし、失敗も多かったらしいけど。他世界から魂を拉致して、それを埋め込んで成長させて昇華させ、そうして昇神させるのが神々の計画みたいね」

「計画……でも、そうするとミレイユ様は、オミカゲ様として神様になった訳じゃないですか。それなら神々の計画は成功したって事ですか?」

 

 理屈の上ではそうなる筈だ。

 どういう意図があってそのような計画を練り、なぜ他世界から魂を拉致する、という要素を盛り込んだのかは知らない。だが、神を作るという成果は得られた筈だ。

 神が神を造るというのは不思議に思えるし、子作りして増やすものじゃないのか、という疑問は浮かぶが、そうしない以上は、造る方が早いとか理に適うなどの理由があるのだろう。

 

「あー……、そうじゃないのよ。神々が欲したのは、あくまで自分の膝下で働く神なワケで、他世界に神を逃しても良しとは思わなかったの。だから、ああして孔を開けて奪取しようとしていた」

「鬼が出ていた理由は、それが真相だったんですか……!?」

「……そういえば、オミカゲサマはどういう理由で鬼と戦わせていたのよ」

「オミカゲ様が仰った事かどうかは知りませんが、鬼は人を襲う、それから護るのが使命、そういう感じですかね」

「……まるっきり嘘ってワケでもないわね。襲うには襲うんでしょうし……」

 

 ユミルは腕を組んで首を傾げ、それから難しそうに顔を歪めた。

 

「でもハッキリ言うと、尻拭いでしかないって感じかしら。帰還してから神へ至り、そしていずれ来るミレイユの為に、その崩壊を防ぎつつ次へ託そうと足掻いていた」

「崩壊、ですか……。それって――」

「アンタもその場に居たでしょ? 魔物がわんさと出てきて、最後には神造兵器まで持ち出して来たアレ。オミカゲサマの目的は、次のミレイユに解決を託すのと同時に、世界の終焉を防ぐコトだった」

「確かに、あの鬼の数と最後の巨大なアレは……」

「オミカゲ様となったミレイユは、かつて実際にその終わりの世界を見たらしいわ。自らが再び送り返される前にね。だから、それを未然に防ぐだけの準備も進めていた。結果は……」

 

 ユミルはそれ以上何も言わなかった。ただ溜め息を落として、悔しげに顔を歪めている。

 アキラにしても衝撃的な事実の羅列で頭がパンクしそうだった。本当にその全てを信じても良いのか、という気持ちにもなってくる。

 そう思えてしまう程、今聞いた話は荒唐無稽と言っても良いような内容だった。

 

 だが、アヴェリン達の様子も見てみれば、そこに茶化すような雰囲気や、逆に茶化せるような表情を浮かべていない。

 アヴェリン達はそれを事実として認識し、そして忸怩たる思いを抱えている。

 アキラもまた、今の話を受け入れざるを得なかった。

 



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孔を抜けた先は その8

 だが同時に、疑問にも思う。

 ミレイユは神の計画の成就直前に帰還を選んだという。最初に現世へ到達したミレイユは、一度はやはり異世界へと送還され、そこでまた逃げ出したという事になる。

 神の壮大な計画の割には、取り逃がす回数が多すぎる気がした。

 

「そこのところは、どうなんですか?」

「さぁてねぇ……。取り逃がしたからこそ、本腰を入れるようになった、とも言えるし。そもそも神が一柱で計画したものか、それとも逃したから関わる神が増えたのかも分からないし……。前半の杜撰さを考えれば、逃したコトで介入してきた神がいる、って考えた方が自然な気はするけど」

「そういえば神々と言ってましたね……。どの位の神がいるんですか?」

「大神が十二の、小神が六ね。さっき言ったとおり、神造の神が小神だから、合計十八柱いるコトになる」

 

 アキラは唖然として口を開いた。

 ミレイユが抗う予定の神々は、それ程までに数がいるのか、と呆然としてしまった。神々というくらいだから三柱か五柱くらいだと思っていたのだが、これでは文字通り桁が違った。

 

 解決する手段が必ずしも剣を交えるだけではないにしろ、これではあまりに勝算が乏しいように思えてしまう。

 一柱がミレイユと同等の力量を持っていると仮定すれば、到底勝ち目など無い。

 アキラは青褪めた顔で、ユミルをまじまじと見返した。

 

「それ……勝算あって挑む戦いなんですか?」

「一度や二度の挑戦で勝てるものなら、とっくにループを抜け出しているでしょうし、私達がこうしているコトもなかったんじゃない? それこそ、オミカゲサマは上手くやってた方でしょ。でも、駄目だった」

「そんな……、そんなの……」

 

 アキラが青い顔を更に青くさせて俯いたところで、アヴェリンが叱責するように言葉をぶつけてきた。

 

「お前のような者が烏滸がましいぞ。勝てない戦いだと知りつつ、挑むことをやめなかったミレイ様がいたからこそ今がある。――オミカゲ様は仰った。己の命一つの為ではなく、現世の滅びを回避する為に戦っているのだと。我々はその意思と共に、犠牲にした御身へ報いねばならん」

「そう……そうですね」

 

 ミレイユは千年の時を繰り返している。

 神々への叛意が根底にあるにしろ、その為に千年もの時間を使って準備し対抗しようとする意思には素直に感服してしまう。同じ立場にあって、アキラに同じ事が出来るとは思えない。

 

 神の素体という下地があったとして、それだけ強大な力を持っているから、だから出来るとは思えなかった。

 そこへユミルが、いつものような嫌らしい笑みを浮かべて、アキラの青褪めた額を軽く叩く。パチンという、実に小気味よい音が、焚き火の音に混じって立てた。

 

「――いたっ!」

「あの子を差し置いて、しょぼくれた顔してんじゃないわよ。それに、神々の数は多くても、その全てが敵に回るものでもないしね」

「そうなんですか……?」

「一致団結なんて神々の間で起こるものじゃないし、端から仲が悪い間柄もいる。常に眠っているが故にこの件に関与してない神だっているし、そもそも小神には味方に着いて貰えるんじゃないかと思ってる」

「敵ばかりという訳でもないんですね……」

 

 実数がどれだけかは不明でも、全てではない。これは大きい。

 だが、味方になり得る小神というのは疑問に思えた。話を聞く限り、彼らは神造の神で、つまり大神の部下や子供のような存在だろう。その敬称にも明らかな上下関係が見えている。

 味方になるより、明らかな敵対関係になりそうに思えた。

 そして、同じ疑問を抱いていたのはアキラだけではないらしい。ルチアが小首を傾げて言った。

 

「味方になってくれる神がいるのなら実に頼もしいですけど、そう簡単にいきますかね?」

「なぜ神が神を造るのか、その真相を知れば……転がる可能性はあると思うのよね」

「あぁ、あれですか……」

 

 ルチアが渋面の中にも納得する表情を見せたが、アヴェリンは不思議そうに眉根を寄せた。思い出せないというよりも、そもそも知らないと思っているようで、それが不快そうでもある。

 誰しも隠し事の一つや二つはあるものだが、これが神造の神に――ミレイユについてなら話は別だ。

 アヴェリンは二人に鋭い視線を向けると、感情を感じさせない声音で言った。

 

「……何の話だ」

「言うつもりもなかったし、こんな事になってから言うのも申し訳ないと思うけどさぁ……。まず、その目をやめてくれる?」

「いいから、さっさと言え」

 

 アヴェリンが更に険しい顔つきになって、ユミルは肩を竦めて嘆息した。最初から通る要求とも思っていなかったようで、眉間を指先で掻きながら続けた。

 

「まぁ、大神が小神を何故造るのか、と言えば……世界の維持に必要だからって話になると思うんだけど」

「維持? 世界が存続の危機にあり、その為に小神の力を欲していると? 大神の力だけでは及ばないから、その為に神を造り出すという胡乱な方法を取って、それで維持しようとしていると?」

「協力を仰ぐために小神をこさえた、というのなら良いんだけど……そう簡単なコトじゃないワケよ」

「だったらなんだ。勿体振らずに、さっさと言え」

 

 アヴェリンが苛立ち混じりに、視線を更に鋭くする。

 ユミルは明らかに面倒くさそうに顔を顰めた。話す内容を渋るようでもあり、もしかすれば、それを聞いたアヴェリンが激昂するとでも思っているのかもしれない。

 

 アキラとしても、嫌な予感がしている。

 話を聞くに善なる存在とも取れない、神が行う造神計画。そもそも他世界から魂を拉致して行う事からも、ろくな内容でない事が窺える。

 話の続きを聞くのが怖いくらいだった。

 

「何ていうのかしらねぇ……。つまり燃料代わりにしたいワケよ。世界を維持するのに、とても効率が良いとか、そういう理由で魂を搾取しているのね」

「搾取だと? 燃料代わり? 魂を燃やせば、世界を維持出来るとでもいうのか?」

「アタシに当たらないでよ。理屈や詳しい方法までは知らないわよ。ただ、それってすんごい昔から普遍的に行われてきたコトだし、それ自体は今更って話でもあるのよ」

 

 そう言って、悔しがるように顔を歪めた。

 

「……あの子が神の素体だと確信を得られたのは旅の終わり直前だったけど、もし知ってたら旅そのものを止めていたわね」

 

 アキラからすれば、やけに情報に通じているユミルを不審に思う。

 それが事実だとして、世界の裏側へ通じるような、本来知るべきではない――知っていてはいけない情報に感じる。神そのものや、それにごく近しい存在の一握りのみが知っているべき情報で、それならユミルこそが神の眷属や何かではないかと思えるのだ。

 

 単に長く生きているだけで知られる情報でも、知って放置される存在でもない気がする。

 その不審に思う視線に気付いたのか、ユミルは皮肉げな笑みを浮かべた。

 

「……あら、アタシが知りすぎているのが、そんなに疑問?」

「いや、まぁ……はい。情報通というだけじゃ、ちょっと説明がつかない気がしまして」

「そうね、本来は隠すべきような内容だから、知っている存在がいるのは邪魔でしかないのよね。だから本来滅びる筈だったし、そこから逃れたとしても、やっぱり我が一族は滅びるしかなかった。そして、本来ならアタシも死んでる筈だった」

 

 ユミルがあまりにあっさり言うものだから、アキラはぎょっとしてその顔をまじまじと見つめてしまう。そこには暗い影もなく、実にいつもどおりの表情が浮かんでいて、まるで他人事を口にしているような雰囲気があった。

 

「でも、この子がね……」ユミルは未だ目覚めないミレイユへと目を向ける。「話を聞いてくれたから、この命を拾った。本来なら問答無用で殺されていたと思うわ。そういう状況にあった――持っていかれた状況だったから。私からすると完全な詰みだったんだけど……神の見誤りってやつを、この子が作った」

「それで……ユミルさんは何かとミレイユ様には従うんですね」

 

 唯我独尊を行き、何もかも好き勝手やるように見えて、本気でミレイユが嫌がる事はしない。アキラにはそれが疑問だったが、やはりミレイユへの恩義が根底にあった。

 口ではどうとでも言うが、ミレイユに付き従うには、その背景に彼女が示した行動の敬意がある。それを知って、アキラも心が暖かくなった。

 ユミルはアキラの表情を見ては、鼻を鳴らして顔を顰めた。

 

「……ま、アタシの話はいいのよ。長く生きてると知ってるコトだって、そりゃ色々よ。とにかくね、アタシがもし神の素体だって知ってたらきっと早い段階で止めてたし、燃料なんかにさせなかったわよ」

「それが分からない」

 

 アヴェリンは剣呑な気配を隠さずに言った。

 

「世界の維持にはエネルギーが必要、それは良いだろうさ。それには魂が最良だとして、神である必要はあるのか? 必要だというなら幾らでも魂はあるだろうが」

「同じような質問、この子もしていた気がするけど……オミカゲサマが神から直接聞いたという内容は、樹の実を得るのに樹を切り倒すような行為、だそうよ。樹の実を燃料にしようにも、いつかは樹の実どころか樹がなくなる。だから外から持ってくるんでしょうよ」

「外から持ってくるのは百歩譲って良いとしよう。無いというなら、有る所から取ってくるだけ。飢えて滅びを受け入れるか、奪ってでも存続を選ぶかなど考えるまでもない」

 

 アヴェリンの私見には暴論も含まれているが、そこのところはとりあえず置いておく。

 いま重要なのは、その魂が単に拉致され利用されたというだけではない。神造という工程を経て利用されている、という事だ。

 

「魂の搾取……なるほど、それでミレイ様が日本からやって来た、というのは良いだろう。だが、その魂を消費するのではなく、神へと昇華させたのはどういう事だ? 狙いとしては分からなくもないが……」

「そうね、不確定、そして不都合な事の連続だったでしょうよ。我が一族の完全抹殺も、単に昇華への踏み台くらいに思われていて、体よく利用されたってところだと思うから。そして上手く行かずに、こうしてアタシは生き残ってるし」

「必要なのは神ではなく、むしろ神へ至れる程に磨かれた魂、という事か? その為に、多くの困難を、それと知らずに与えられていた……のか?」

 

 理解を得る程に、アヴェリンの険しい表情が、憎々しげに歪んでいく。

 それを見て、アキラは身の毛がよだつような恐ろしさを感じた。アヴェリンの握った拳からミキミキと何かが軋む音がして、風で揺れた焚き火が、より一層大きな音を立てて爆ぜる。

 

 焚き火の明かりで下から照らされるアヴェリンの形相は、普段の彼女を知らねば逃げ出しかねない程のものだ。今にも猛々しく叫びだしそうでもあったが、ミレイユの口からうめき声のようなものが上がると、ハッとなって居住まいを正した。

 



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孔を抜けた先は その9

 猛々しい形相から、ミレイユのうめき声で一転したアヴェリンを見ながら、ルチアが恐縮したように頷く。

 

「アヴェリンの言う事、間違ってないと思いますよ。魂一つでは燃料とするには心許ないのでしょう。ならば数が必要という話になるんでしょうけど、その数を用意するのも簡単ではないと。それなら高純度、高水準の魂を造ってしまえば良い、という話なのではないでしょうか」

「その為の素体か? 拉致した魂が簡単に死んでは元も子もない、と。頑丈な器に入れて、それで良く熟すように、上手く調整してやるという訳か」

「細かい部分は知りようもないですけど、そういう事なんだと思います。……そうですね、欲しいのはガソリンじゃないんですよ。むしろ炉の方――それも核融合炉とか、そういう高エネルギーを生む炉を造っていた、という感じじゃないですかね?」

 

 アキラは唸って腕を組んでは頭を捻った。

 ルチアの見解は的を得ているような気がする。世界の維持や、その危機について知りようもないが、ユミルの話などを聞くに、その前提で考えるしかない。

 

 そして維持するエネルギーを得る度に、己の世界の魂を使えば目減りしていって、いずれは果ててしまうのだろう。そういったエネルギー問題は、どこの世界も同じらしい。

 石炭やガソリンなど、消費していけばいつかは尽きる。発熱には電気が主流になり、より効率の良い発電方法が求められ、そして原子力発電が生まれた。

 その効率は従来の方法とは比較にならず、一時は諸手を挙げて歓迎されたものだった。

 

 ユミルは細かく頷きながら、はんなりと笑ってルチアを見返す。

 

「なるほど、核融合炉ね。言い得て妙だけど、確かにそれならって納得するかも。造るのが簡単ではない、という理由だけでもないでしょうけど、捨てるには惜しいと思える程には貴重よね」

「ガソリンがいらないというより、強く欲しているはあくまで炉。炉を使い潰して得るエネルギーですか。さぞかし良いエネルギーが得られるんでしょうね。そもそも無限に使える炉も存在しませんが……」

「ここで考えられる推論では限界があるけどね……。間違ってないと思うわよ。そして貴重だと思うからこそ、あそこまで躍起になって奪取しに来てたんでしょうよ」

 

 ユミルが吐き捨てるように言って、アキラは眉根を寄せた。

 

「あそこまで、というのは?」

「執拗なまでに千年も付け狙ってたコトよ。逃げられたなら、まぁいいか、とはならなかったワケでしょ? それだけの価値あればこその執拗さでしょ」

「あぁ、そうですね」

 

 アキラは素直に納得したが、ルチアは柳眉に皺を寄せて考え込んでいる。顎の先を摘むようにして、何かへ深く思慮を巡らせているようだった。

 一同が自身へ視線を集中させているのに気付いて、ルチアは顎から手を離して言う。

 

「いえ、炉を欲しているとはいえ、既に六つ手中に収めている訳ですよね? 小神が既に存在しているのですから。そこでまた逃した一つに固執するものなのかなぁ、と……」

「じゃあ、六つでは足りていないとかですかね?」

 

 アキラが聞くと、ユミルが首を横に振って答えた。

 

「そうでもないと思うけどね。小神の数はストックの数と言い換えても良い筈だし」

「では、それが間違いだとか? 炉を同時に稼働させるつもりでいたとか、そういう理由が思い付きますけど」

「ふぅん……? それには一考の価値があるかもねぇ」

 

 面白そうに片眉を上げたユミルに、反対の声がルチアから上がる。

 

「だったとしても、既に幾つも造っているのは証明されているんですから、また新たに造ればいいんですよ。千年追い続けるより簡単な気がしますけどね」

「それもそうね。……あぁ、でも追っていたのは自動的だって推測もあったじゃない? 続けているのではなく、止めていないだけだって。だから千年も続いていたとかさ」

「んー……、でも追い続けていたのは確かなんですから、それだと今一しっくり来ないんですよね」

 

 それぞれに推論を持ち出すものの、結局ハッキリした事は誰にも言えないだろう。

 説得力のある考察が出たところで、その答えは、まさに神のみぞ知るだ。ここで深く考える事にあまり意味はなさそうに思えるのだが、ユミルの考えは否だった。

 

「どうせ分からないから考えないなんて、そんな馬鹿な発言しないでよね。むしろ都合よく答えなんて降ってこないけど、考える意味があるから考えるんじゃない」

「えーと……、それはどういう?」

「最初に言ったでしょ、これはループしてるの。抜け出す方策を思い付けなければ、また繰り返す破目になる。観測できる主観において、少なくとも三回繰り返しているのは確認できたから、それ以上の回数である事は確実よ」

「三回……」

 

 ミレイユにオミカゲ様が居たように、繰り返す時の中で、前周の自分と出会う事は確かだ。

 ループを抜け出すという意志があるなら、その蓄積された経験、抜け出す為の試行錯誤が伝言ゲームのように継承されていく事になる。

 

 失敗したというなら、何をやって失敗したのか、何をすれば有利に働くのか、そういった細かな情報を繋ぎ合わせれば、最終的に脱出が成功するだろう。

 ――だが、と思う。

 

 ミレイユが飛ばされた状況は異常だった。

 余裕はなく、切羽詰まって逃げ出したと表現するに相応しい。

 一つ一つの対処を適切に行えば、いつかはミレイユの思いを束ねて抜け出す事も叶うように思うが、あの状況でそれが正しく出来ていなかったというなら、非常に厳しい展開になるだろう。

 

「ミレイユ様は、オミカゲ様から託された時、必要な情報は受け取っていたのでしょうか」

「話す機会は幾らでもあったもの、していたんじゃないの? それこそ、アタシ達が知らないコトまで知ってそう。自身が小神として神造され、贄として欲せられているコトくらい、承知の上でしょうよ」

「辛いですね……」

 

 それを受け取らざるを得ないと悟った辛苦は、アキラには到底想像できない。その一割でさえ理解できないだろう。したいと思って、出来るものでもない。

 アキラは消沈して顔を曇らせる。

 

 それを見たユミルは、大いに顔を顰め、盛大に溜め息を吐いた。そうして、またアキラの額を叩き始める。それも一度ではなく、聞き分けのない子供を叱るように、幾度となく繰り返された。

 

「辛いに決まってるでしょ。自身の運命のみならず、オミカゲサマが背負ってきたもの、それを託されたのよ。余りに重く、あまりに大きい。簡単に受け取れもしないし、背負えもしない。……だからってアンタ、そんな表情、あの子の前でするんじゃないわよ」

「はい、すみません……」

「ほんとに分かってるのかしらね……。情けだとか憐憫だとか、下手な感情持ち出すなって言ってんのよ。よく覚えておきなさい」

「はい……」

 

 アキラにその重荷を共に背負う事は出来ない。

 背負えたら、と思いはするが、しかし出来るとすれば、それは共に歩んできた彼女達だけだろう。共に生きたのは数年の事かもしれないが、その数年には互いに信頼と信用を育むには十分な密度があった筈だ。

 

 アキラが友人たちと過ごした数年と比較できないだけの、互いの命を預け合い、助け合うような壮大な何かがあった。それは時折、アヴェリンが語ろうとしていた英雄譚からも窺える。

 人が一生に体験できないだけの偉業が、その数年に詰まっていた。

 

 そして、それこそれがアヴェリン達に慕われる理由だ。

 強く魔力が豊富なのは、神の素体を持つからかもしれない。強敵との遭遇も、お膳立てされたものかもしれない。

 だが、ミレイユが示した行動は違う。それは本来滅ぶ筈だったという、ユミルの台詞からも見て取れた。そしてそれら幾つもの偉業が、彼女たちに鮮烈なものとして映っているのだ。

 

 ユミルはアキラから目を離し、場の空気を切り替えるように手を振って、それから神妙な顔つきで言った。

 

「でもまぁ……、知り得る限り、同じ流れで失敗を繰り返しているワケでもなさそう。そこには間違いなく差異がある。付け入る隙があるとしたら、そこかもね」

「私はそれ、詳しく知らないんですけど、一体どういう差異があったんですか?」

 

 ルチアが聞くと、ユミルは記憶を探るように上方を見て、それらを整理するのに数秒使ってから口を開いた。

 

「オミカゲサマがこの世界から、現世へ最初に降り立った時点で、見える範囲全てが既に崩壊していたらしいのよね。つまり、アタシ達がアキラと出会ったあの日、同じ繰り返しをしていたなら崩壊した世界に降り立っていたコトになる」

「……なるほど、オミカゲサマの前の周のミレイさんは、何か別の失敗を早い段階でしていたと」

「そう、到着したその日に強制送還されたという話で……後はまぁ、その時点で更に大きな差異があったのよ」

 

 ユミルは口を濁してアヴェリンを見る。

 目を向けられた当の本人は、先程とは随分と違った沈痛の面色(おももち)をミレイユに向けていた。

 ユミルもまた、その二人を複雑な表情で見やって続ける。

 

「その更に前にはどういう差異があったのか、となると分からないけど、前回の失敗から多くを推測して対抗しようとしていたのは分かる」

「オミカゲ様は、そうなさっておいでのようでしたね」

「憶測も混じっていた部分はあったでしょうけど、最悪を避ける為の準備を怠らなかった。世界の破滅を防ごうとしながらも、現世にいる限りは全てを解決できないコトも理解していた。――自分は踏み台だと受け入れた上で、次へ託すミレイユの為に、十全な準備を整える方針へ舵を切った」

 

 ルチアは内容を吟味するように、幾度となく頷く。

 

「だからミレイさんが到着した時点で、世界は破滅していなかったし、その兆候もなかった。ミレイさんは良く似ているけど違う世界だ、と言ってましたが……」

「まぁそれが、オミカゲ様が残した足跡、というコトになるのかしらね」

「そういえば、世界と自分の間にズレがある、という様な事も言ってましたっけ……」

 

 唸るように息を吐いて、ルチアは自分を抱き込むように腕を組んだ。

 前のめりに身体を傾け、焚き火を覗き込むように視線を固定する。

 

「いっそ後ろ向き過ぎた、というところなんでしょうかね。失敗を恐れ、次に託す事へ集中し過ぎたあまり、可能性を一つ摘み取ってしまっていた」

「そうね、孔の完全封印。あるいはそれが叶っていれば、と思うけど……でも、それってやっぱり、神々が別の方策を思い付けば同じコトなのよね。孔とは違う手段を講じられるかもしれないし、完全に手を引かせるには、やっぱり現世にいては不可能なのよ。必ず、新たに現れるミレイユへ託す必要に迫られる」

 

 ルチアのみならず、ユミルもまた唸りを上げて腕を組む。

 

「あるいは、オミカゲ様よりも攻撃的な方法を選んだが故に、前周ミレイユは失敗したのかもしれないけど。何をして失敗したのか、それまでに何を知ったのか。伝達すべき情報も、そこで途絶しちゃってるらしいし……」

「上手くやろうとしても、あちらが立てばこちらが立たず、の典型なのかもしれませんよ。オミカゲ様の失敗も、そのようなものでしょう」

 

 それに応える声はない。

 失敗を認めたいのではなく、どう声を返せば良いのか分からなかったのだ。沈黙と火の粉が爆ぜる音ばかりが支配する中、アキラも何も言えず口を閉じた。

 



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孔を抜けた先は その10

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 アキラは話を聞いているだけだったが、壮大な話になり過ぎて途中から付いていけなくなった。

 オミカゲ様は単に千年前から顕現したのではなく、初めから神だった訳でもなく、そしてその背景には神々の思惑と、それに抗おうとする戦いがあった。

 

 オミカゲ様は只与え、民を守護する存在――。

 その様な認識でいた。一般人のままでいたら、きっとそれ以上の事を知らず、純粋な信仰を向けるままだったろう。艱難辛苦の果てに、ミレイユへ託す思いなど知り得る筈もなかった。

 

 そしてきっと、オミカゲ様にも多くの背負ったものがあったのだろう。それすら今となってはミレイユが引き継ぎ、新たな戦いへ赴こうとしている。

 アキラに何が出来るかは分からない。突発的に身体が動いて付いて来ただけだったが、アキラの人生に意味があるのだとしたら、この為だったのではないか、とすら思う。

 

 微力な助けにしかならないし、それがどれ程のものになるかも分からない。

 しかし純粋に、自分に出来る事ならどのような助けもしたい、という気持ちに溢れていた。

 

 未だ起き上がらないミレイユを見る。

 アヴェリンも同様、時折薪を入れて火力を調整しながら、気遣わし気に視線を向けていた。上から掛けたマントの位置を調整したりと、甲斐甲斐しい世話を見せている。

 

 普段は粗暴としか思えないのに、ミレイユに対してだけ敬意を向けるのも、今なら分かる気がする。彼女の根底にあるのは信仰だ。人として、主として、力ある存在として敬意を向けつつ、ミレイユが歩んできた行動に尊崇も向けている。

 

 アキラがオミカゲ様を愛するように、アヴェリンもミレイユを愛している。

 遠くから見るしかないアキラと、直接触れ合えるアヴェリンとで立場は違うが、その想いは共通している気がした。

 

 また一つ、火の粉が弾けた時、ルチアが溜め息を吐くように言葉を落とす。

 

「……全貌は見えずとも、ミレイさん――ミレイさん達、と言うべきなんですかね。彼女達が繰り返し抗ってきたのは分かりました。そして恐らく、私達の想像以上の回数を繰り返して来た事も」

「だから、どこかで断ち切る妙手が必要とも思うのよ。前回のオミカゲ様と違って、こっちはフルメンバーでいるワケだし、予想外の味方も出来た」

 

 そう言って、ユミルはアキラに流し目を送った。その瞳には僅かな期待も籠もっている。

 それを見たルチアが、訝しげな表情をアキラとユミルの間で動かす。

 

「だから最初、ユミルさんはアキラに協力的だったんですか。変に庇うとは思っていましたが……」

「どれ程の回数ループを繰り返して来たのか、それは分からない。でも抜け出す為には、火種となるものが求められる筈よ。最低でも前回と違う行動が必要になる」

「アキラが、その火種になると?」

 

 アヴェリンが疑わしげに目を向け、その圧力すら感じる視線から、逃げるように顔を背けた。

 

「今は火種にすらならない小さな火よ。結局着火せず、ただ消えるだけかもね。……でも、アタシ達四人で十分打開できるなら、こんなコトにはなってない。変化が欲しいと思ったら、何かを外から加えなきゃ」

「なるほど、尤もな話だ。お前がイレギュラーとして使える奴なら、それに越した事はない」

 

 アヴェリンの視線から受ける圧が高まる。

 それは重圧となってアキラの身体にぶつかった。まるで実際に重りを載せられたかのように感じたが、アキラ自身、そのようなプレッシャーを与えられても困ってしまう。

 

 助けたい気持ちは本物だが、まるでキーパーソンのような言われ方をされても、それに応えるなんて気安く受けられない。凡人以上にはなれないという、生来の卑屈さも加わり、アヴェリンに返答する事さえ出来なかった。

 そこへルチアが容赦ない言葉と共に、冷たい視線を向けてきた。

 

「……それって別に、手心を加えるって意味じゃないですよね? 邪魔なら切り捨てるっていうのは変わりませんか?」

「それはそうね。何か違ったコトを加えたいっていうのは、つまりアキラを優遇するって意味じゃないから。こちらの有利に働く確約を得られるモノでもないしね。期待と言っても、そこまで大きなものじゃないわよ」

「それもまた、尤も話だ」アヴェリンは頷いて腕を組む。「どこかに石を置いておけば、それに躓くかもしれない。向ける期待は、その程度のものか」

 

 ユミルは我が意を得たり、とでも言いたそうな笑みを浮かべる。人差し指を向けて、片目を瞑った。

 

「それで転べば万々歳よ。石を置く程度は労力にもならないんだから、持ってるだけで邪魔だと思えば、捨てれば良いのよ」

「目茶苦茶辛辣な上に、とんでもない事いわれてますね……」

「別に捨て石になれ、なんて言わないケドね。不確定要素だと思うものは、取り入れてみる価値がある、と思っただけだから」

「それもミレイ様が許可を出さなければ、意味もないがな」

「それはそうね」

 

 ユミルは当然だと頷いてから続ける。

 

「一応、アタシなりの見解や連れて行くだけの根拠を言ってやるつもりだけど、あの子が嫌がればこの話はナシよ。どこか大きめの街で別れるコトになるでしょうよ」

「はい、分かってます。ミレイユ様が駄目と言って、なお付いて行く気はありません」

 

 そこは最初から覚悟していた部分だ。

 アキラを高く買ってくれていた訳ではないにしろ、その存在に価値を見出してくれたから欲が出てきた。まだ共に歩けるかも、という未来が垣間見えて、それに縋りたくなる。

 

 だがやはり、アヴェリン達の言うとおりなのだ。

 どれだけ弁舌が立とうと、優位性を説こうと、自分を奴隷扱い便利使いしてくれとアピールしようと、ミレイユの許可次第なのは変わらない。

 

 それは最初から解っていた事だ。

 だが、アキラの一助を求めてくれるなら、これ以上光栄な事はない。熱の籠もった視線でミレイユを見ていると、そのミレイユが身じろぎをする。

 

 アヴェリンに運ばれている時でさえ、そして火を焚いてからも一度も反応を見せず、昏倒するように眠っていたミレイユが、いま起き上がろうとしていた。

 ゆっくりと目を開き、それからふらつくような心許なさで、いっそ無防備に起き上がった。現状を確認するような素振りもない。未だ夢心地といった感じで、完全に目が覚めた訳でもないようだ。

 

「あぁ……、なんだ。なにが……」

 

 ミレイユは自分の上に掛かっていたマントを不思議そうにどかし、髪を掻き上げながら焚き火へ顔を向ける。普段目にする事の出来ない仕草に、アキラが胸をドキリとさせていると、アヴェリンが気遣わし気にマントを拾ってその肩に掛けた。

 

「大事ありませんか。まだ横になっていても……」

「うん……。どういう状況だ……焚き火……? 何でわざわざ……」

 

 現状の理解も追い付いておらず、寝起きである事を差し引いても、あまりに察しが悪すぎるように思えた。それとも、アキラが知らないだけで、彼女の寝起きとはこういうものなのだろうか。

 ミレイユは不思議そうに焚き火を見つめた後、緩慢な動作で頭を掻き回す。

 

「あぁ……そうだ、箱庭はないんだったか。……それにテントは、あぁ……私が持っていたな」

「ミレイさん、とりあえずお茶をどうぞ」

 

 ルチアが器に淹れたお茶を差し出すと、薄く開いた目で受け取る。

 のろのろとした動作で口元へ運び、啄むように少しずつ嚥下していく。

 

「今スープを温め直しますから、何かお腹に入れておいた方が良いと想います」

「うん……」

 

 ミレイユは覚束ない足取りで立ち上がると、アヴェリンの助けを借りて倒木に腰を下ろした。まるで病人のような足取りで、ただ立ち上がって何歩か歩く事さえ大変な労力に見える。

 アヴェリンに支えられ腰を下ろしても、背もたれもなく丸みもある倒木は座りにくい。フラフラと揺れるのに見兼ねて、アヴェリンが自分の肩を貸して、そこにもたれさせた。

 

 ミレイユも抵抗する事なく受け入れ、薄く開いた目で焚き火を見ていた。

 誰からも話し掛ける事が出来ず、アヴェリンはマントを掛け直させて、熱を逃さないよう抱き締める。アヴェリンの視線は痛ましいものを見るかのようで、とにかく手厚く介護しているような有様だった。

 

 ルチアが温め直したスープと、その器の上に薄くスライスさせたパンを乗せる。

 具も大して入っていないスープの筈なのに、器を持つだけでミレイユの腕が震えていた。見兼ねたアヴェリンが器を持って、手ずから食べさせようとしている。

 

 薄いパンだけは自分で持って、口元へ運ばれるスープの合間にパンを食べる、という動作を繰り返していた。食べている動作すら緩慢で、途中で眠ってしまいそうなくらいだった。

 

 全てを食べ終え、口元さえアヴェリンに拭われると、やはり緩慢な動作で懐から何かを取り出す。懐へ手を伸ばす動作をしただけで、実際は個人空間から取り出したのだろうが、とにかく手に持っていたのは四角形の茶色い何かだった。

 

 アキラがそれをまじまじと見つめても、何であるか分からない。

 まるで四角形型のテントかコテージ、そのミニチュアのように見えた。手のひらサイズで、部屋に飾るには良いインテリアのように思えるが、この場で出した意味が分からない。

 

 それをアヴェリンに手渡すと、ついに糸が切れたように腕を落とす。

 薄くしか開いていなかった目も閉じて、頭をアヴェリンに預けたまま、掠れた声で言った。

 

「すまん……寝る」

「はい、ごゆっくりお休み下さい」

 

 その言葉すら聞き終える前に、再びミレイユは眠りに落ちた。規則正しい寝息が聞こえてくると、アキラはとりあえずホッと息を吐いた。先程までは身じろぎすらも無かったが、今はとりあえず小さく胸が上下してる。

 

 起き上がったばかりの時より、顔色も良くなったように思えた。

 アヴェリンは優しくミレイユを抱き直すと、受け取ったミニチュアをユミルに放る。片手で受け取ったユミルは、アキラに立つように指示すると、倒木を蹴飛ばして外へ出してしまう。

 

 何をするつもりだと見守っていると、地面にミニチュアを置いて何かの魔術を使う。そうすると、僅か数秒で何倍にも体積を増し、五メートル程の巨大なテントが出現した。

 

「な、なぁ……!?」

「早くどけ」

 

 驚いている間に、背後にはミレイユを腕の中に抱えたアヴェリンが立っていた。

 慌てて横へ逃げると、縫い目の一つが自動的に開いて中が見える。そこには丸められた寝袋が幾つかと、奥まった端にはテーブルや椅子が一脚ずつ置いてあった。

 

 テーブルというより手紙机のような形で、椅子も丸く背もたれがない。普通ならテントの中にある物でもないが、これほど広ければ邪魔という訳でもなかった。

 布製のテントとは思えないほど作りがしっかりしていて、骨に使っているのは木製とも金属ともつかない何かだ。天井部分にはランプが一つ吊り下げられていて、明かりも用意されているらしい。

 

 ルチアがアヴェリンの横をするりと抜けて、手早く寝袋を広げる。

 アキラが知っているようなミノ虫タイプではなく、幾らか頑丈な布を広げるというようなものだった。伸ばし終えれば枕部分が出てきて、それで準備は完了のようだ。

 

 身体を包んでくれるものは別途用意する必要があり、寝袋と一緒に畳んであった毛布を取り出し、ミレイユを寝かせて掛けている。

 アキラがそれをテントの外から眺めていると、ユミルに肩を小突かれ、慌てて顔を向けた。

 

「交代で見張りをするわよ。あの子も朝まで起きないでしょうし、詳しい話はその時にしましょ。アンタは一番手。アタシ達は先に寝るから」

「は、はい、分かりました」

 

 それぐらい出来るでしょ、と言った含みを持たされた目で見られれば、そうと頷くしかない。やるべき事は火を消さない事、何か魔物が近付いてくれば知らせる事だ。

 何も難しい事はない。

 

 アヴェリンとルチアが、自分達の寝袋を用意しているところにユミルが入っていく。テントの入口は開いたまま、アキラはアヴェリンが座っていた位置へ戻り、薪を手にして腰を下ろす。

 何気なく見上げてみたが、木の葉の繁りで、相変わらず空はよく見えない。

 ただ、その先へと視線を向けながら、とても長い夜になりそうだ、と思った。

 



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孔を抜けた先は その11

 アキラは虫や鳥の鳴き声を遠くに聞きながら、忙しなく周囲を見渡していた。

 現世であっても、人の手の入っていない森の中には危険が付きまとう。火の明かりを怖がる獣もいれば、逆に近付いてくる獣だっている。

 明かりの元には人がいる、と知っている、知性の高い獣もいるものだ。

 

 それを思えば、魔獣がアキラ達を取り囲んでいる状況というのは恐ろしく感じて仕方なかった。簡単には襲い掛かってこない、という説明にも一定の説得力があったが、しかしここにアキラしかいないと分かれば、考えを改めるのではないか。

 そう思うと怖くてたまらない。

 

 だから、風が立てる音すらも怖い。

 何かが草を踏み分ける音は無いか、草や木の間から、こちらを見つめる光る眼がないか、それを探さずにはいられなかった。

 

 アヴェリン達はすっかり寝静まっており、離れている所為で寝息すら聞こえてこないが、それが尚の事アキラを不安にさせた。

 魔獣が脅威と見定めているのはアヴェリン達だ。テントの中にいる事もあって、その安全性は幾らか高い。どこから見ても、まずアキラが視界に入るだろうから、襲うとなれば誰からなど考えるまでもない。

 

 それが分かるから、風が立てる葉擦れ音までが怖かった。

 風に揺られる焚火の火先が吹き上がり、顔を舐めるように動いて手で払う。

 

「あっち、ちっ……!」

 

 慌てて手を振り払って顔を背けた。

 火は頼もしいが、同時に危険でもある。注意を向けるべきは、何も森の奥だけではない。無駄に火を大きくした焚火は山火事の原因になったりもする。

 

「今は僕が火を任せられているんだから……!」

 

 明かりの確保、熱源の確保、というだけではない。

 火の扱いには責任を伴う。ここで火を消したり、あるいは制御できない火勢にでもしてしまえば、ミレイユの許可など必要なく置いていかれるだろう。

 

 薪もそこそこ燃えてきて、新たに継ぎ足さねばならない段階まで来た。

 アキラは見様見真似で置いてみたが、火が上手く回らない。置き方が悪いのか、それとも他に原因があるのか、悪戦苦闘し幾度も置き直している内に更に火勢は弱まっていく。

 

「あぁ……っ、まずい!」

 

 一度完全に消化させてしまえば、再点火させるのはアキラには困難だ。

 アヴェリンがやってる時は実に簡単そうだったし、丁寧に形を整えているようにも見えなかった。ぞんざいに薪を投げ入れているようにさえ見えたのに、熟練の手に寄ればそんな事は関係ないらしい。

 

 気ばかりが焦り、更に火勢が縮まると、アキラもパニックに近い状態になる。火に口を近づけて吹きかけてみたりするのだが、効果は感じられない。

 どうしたら、と思っていたところで、目の前にユミルが立っているのに気が付いた。

 

「何やってんのよ、アンタ」

「す、すみません。火が中々……!」

「分かってるわよ、そんなの見れば。あんまりガタガタ煩いと迷惑なのよね、目が覚めちゃったじゃない」

「すみません……」

 

 アキラが恐縮して肩を窄めると、ユミルは溜め息を吐いて隣に座った。

 

「ま、どうせ次の順番はアタシだからいいけど……」

「あ、ユミルさんも、こういう当番とかするんですね……」

「そりゃそうでしょ。今は緊急事態でもあるしね」

「あ……、ミレイユ様……。大丈夫なんですか、凄くふらついてましたけど」

「大丈夫でしょ」

 

 ユミルは気楽な調子で肩を竦めて答える。

 そこには楽観した表情しか浮かんでないのだが、元より彼女は常にそういった雰囲気を出しているので、本当なのかどうか掴めない。

 

 飄々としておいて、実は裏で不安がっていても不思議ではなかった。

 アキラの表情を横目で見て、ユミルは顔を顰めて言う。

 

「大丈夫だってば。身体中のマナを全部すっからかんにした所為で、ちょっとした欠乏症に罹っているだけだから。寝てれば治るのよ、だから明日には問題なく起きてくるわよ」

「そうなんですか……? それにしては足元も覚束なくて、食事してる間も崩れ落ちそうになってましたけど……」

「魔力総量が膨大過ぎるコトの弊害ね。本当なら空になれば死ぬコトすらある、危険な状態だけど――」

 

 聞き捨てならない台詞を聞いて、アキラはユミルに詰め寄る。

 

「じゃあ、やっぱり問題ありじゃないですか!」

「デカい声出すんじゃないわよ。いいから聞きなさい、でも、あの子は自分でマナを生成するから、空になっても死なないの。精々フラつく程度で、後は安静にしてれば正常に戻るのよ。マナがより濃い森の中を歩いたのも、それが理由」

「あ、だから森を進んでいたんですか……」

 

 現在地も旅のセオリーも分からないアキラにとって、森の中を進むのは危険という位の認識しか無かったが、旅慣れた彼女らが選んだルートなら、それが正しいのだと頭から判断していた。

 あるいはどこかへ向かう近道だとか、街道から離れた場所だからここを進むしかないだとか、そういう、あくまで目的地への最適解を選んでいたのだと思っていたのだ。

 

「わざわざ危険な森を進むなら、と思ってましたけど、ミレイユ様の為だったんですね……」

「別にそれだけってワケでもないけどね。姿を隠したいから、っていう理由もあったんだし」

「ああ、あの光柱を見て、調べに来る人や勢力がいるって話でしたっけ……」

「そう。森の樹木が空からも地上からも、アタシ達の姿を隠してくれる。最大戦力とリーダーを失った状態で出会いたくないでしょ」

 

 そうですね、とアキラがアキラが同意したところで、ユミルは傍に置いてあった薪を手に取った。そしてアキラが組んだ薪を崩してしまう。

 

「あ……!」

「アンタね、薪にも火が付きやすいのと、そうじゃないとがあるんだから。使うんだったら、そっちが先で、より細い方から使いなさい。火勢が衰えてるんなら尚更。太い方は後から使うの」

「それは……、知りませんでした……」

「そうでしょうね。教えてなかったと後から気付いたわ。でも、火を保つくらいは出来るだろうと思っていたし、所謂……こっちの常識として、それが出来ないなんて頭にないのよね」

 

 アキラに置き換えれば、ガスコンロに火を付けたり、部屋の電気を付けるようなものだろうか。明かりを付けてと頼まれた時、現世に来たばかりのユミル達に初見でスイッチを押せたか、と言われたら、きっと無理だろう。

 

 それと同じで、もしかしたら彼女達にとっては、それぐらいの常識なのかもしれない。

 何しろ火は生活のどこにでも使い、そして無くてはならないものだ。火の扱いは子供の頃から習うのだろうし、アキラの年齢まで火を保てない人間がいるなど、想像の外だったに違いない。

 

「すみません……」

 

 アキラがもう一度謝ったが、それに対する反応は無かった。

 ユミルは手早く薪を加え、細かった火をたちどころに蘇らせてしまう。その手際はアヴェリンに勝るとも劣らないもので、常識と口にするに十分な手際だった。

 火が十分な大きさに育つと、ユミルは薪から手を離して腕を組む。

 

「……まぁ、別にそこまで気にするコトじゃないでしょ。習って出来ないなら問題だけど。アタシもスマホの操作やイロハは色々教えて貰ったしね」

「あ、あぁ……。でも、それとは重要度も扱いも違うというか……」

「そう変わらないと思うけどね。現世でスマホを扱えないって、相当なハンデでしょ。人によっては火よりも大事、という輩だっているかもね」

 

 そこまで豪語するような人は相当なスマホ中毒者、という気がするが、実際所持していない、使用出来ない人というのは現代では大きなハンデだった。

 所持して当然、というほど普及していて、多くのサービスはスマホ基準で考えられていた。自身で料理する必要すらなく、注文一つで食べたい物が届く。それを考えれば、スマホの重要性は火を見るよりも明らかだ、と言う人が居ても不思議ではなかった。

 

 優しい言葉は素直に嬉しい。ユミルの気遣いは心に染みるようだが、同時に違和感も覚えた。

 ユミルは他人に優しくするより、むしろ虚言で陥れるようなタイプだ。ミレイユに対しては例外だという気はするが、アキラなど玩具程度にしか見ていないだろう。

 

 それには些かの自信がある。

 その考えが表情に出ていたのだろう、ユミルが嫌らしい笑みを向けて言ってきた。

 

「アタシの気遣いが、そんなに意外?」

「いえ、まぁ、なんと言いますか……」

 

 正直にそうです、とも言えず、言葉を濁して視線を逸らす。

 

「……分かるけどね。でも、アンタとの付き合いも、何だかんだで長いワケよ」

「そうですね……。あっという間に感じますけど、半年ぐらいですか。凄い濃厚な月日だった所為か、全然そんな風に感じませんけど」

 

 ミレイユ達と初めて出会ったのは、春と夏の間、コンビニ帰りの公園での事だった。あの日の夜は、まだ少し肌寒かったのを覚えている。それが本当に気候的な感覚だったのか、今となっては分からないが、とにかく夏が始まるより前の事だった。

 それが今や、雪の降る、既に年末も近くまで迫る、という季節になっていた。

 

「アタシ達は基本的に、旅から旅への移動だったから、長い付き合いをしていた相手は稀なのよね。一つ所に逗まる事はあったけど、やっぱり半年以上同じ場所にはいなかった。だからね、アンタは近しい人物ってコトになるのよ」

「それは……光栄です」

「まったく、何て顔してんのよ」

 

 ユミルは笑みを深めて、本日幾度目かになる額叩きをした。

 

「そうよ、光栄に想いなさい。近しい相手には、それなりに気を遣うもんでしょ。あの子の方針ってのが最初にあったにしろ、見捨てられないだけの気概を示したアンタのコトは、それなりに気に入ってるのよ」

「えぇと、そう言われると逆に不安になりますけど」

「何でよ」

「ユミルさんのお気に入りって、つまり玩具にするには丁度良いって意味かなぁ、と……」

「あら、アンタも言うようになったわね」

 

 ユミルは愉快げに笑って薪を投入し、焚火の形を整える。

 そうしながら、細い薪を火掻き棒代わりにして上手いこと調整している様を見て学ぶ。今後は同じ事が出来るようにならなければ、アキラを擁護してくれれたユミルにも立つ瀬がない。

 近しい人物と認めてくれたユミルに報いる為にも、アキラは集中してその薪の扱いを観察した。

 



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孔を抜けた先は その12

 薪の扱いについて、それから幾つか解説と講義を受けて、話題も一区切り付いた時の事だった。

 先程、話題に上がっていた、一つ気になる事を聞いてみようと思いたつ。

 

「……あの、一ついいですか?」

「何よ、改まって」

「さっき、追ってくる勢力がいるかもって話でしたけど、それって具体的に思い当たる相手とかいるんですか? ……逆に味方になってくれる人達はいないんでしょうか?」

「そりゃ、いるわよ」

 

 ユミルがあっさりと頷いて、アキラは拍子抜けしてしまった。

 いや、と思い直す。誰が来るかは運頼りになるし、そもそも敵も多くいそうなミレイユだ。ユミルが言っていたように、最大戦力とリーダーを失った状態で接敵されるのは避けたい事態だろう。

 

「安全策を取ったというよりも、あの状態だとまず敵しか来ないだろう、という予想が立つから移動したのよ」

「味方は遠くにしかいない、と分かってたんですか?」

「そうじゃなくて」

 

 ユミルは一言前置きすると、小さく息を吐いてから続きを話す。努めて冷静な態度を心がけようとするような態度だった。

 

「直前に何があったか考えてご覧なさいな。手ぐすね引いて待っていた奴らがいるのよ、どこに出現したか判明すれば、即座に手先を送り込むくらいするでしょうよ」

「つまり、その……ミレイユ様を狙う神々が、という事ですか」

「そう、簡単にやられるつもりもないけどね。でも、完全に気絶したあの子を護りながらっていうのは、結構なハンデだし……。まぁ、逃げの一手を打つわよね」

 

 神妙な顔つきで言うユミルに、アキラも神妙になって腕を組みつつ頷いた。

 ユミル達から実情を聞いたとはいえ、あまりに規模も大きく壮大過ぎて、その渦中にあるという実感がいまいち湧かない。

 

 だが、思い返してみれば、あの鬼の氾濫が起きる切っ掛けとなったのは、一人の魔術士の出現だった。あのような敵が複数出現するかもと考えたら、確かに追い払うよりまず逃げた方が賢いように思う。

 

「あのエルゲルンのような敵が現れたら……」

「誰だっけ、それ?」

「奥宮に侵入して来た青髪の男ですよ! あいつには相当、苦戦させられたんですけどね……」

「……あぁ、完全に忘れてたわ。大した相手でもないしね」

「そりゃユミルさん達にとっては、そうでしょうが……」

 

 挑発を繰り返し、煮え湯を飲まされた相手を、そう簡単に忘れる事など出来ない。

 実力伯仲という相手ではなく、最初から格上に遊ばれていただけに過ぎなかったが、常に攻撃が届くと思わされ、まるで沼に誘い込まれるような戦い方をする相手だった。

 

 その時、エルゲルンが言っていた事を思い出す。

 ――神っぽいやつを捜してる。

 ――ようやくお目に掛かれたな、シンジンよ。

 

 奥宮に出現し、神っぽいやつ、という発言からオミカゲ様を狙う賊だと思っていたが、つまり最初からミレイユが狙いだった訳か。

 神っぽいの方は何となく分かるが、シンジンというのは分からない。どういう意味かと聞いてみたが、それはユミルも知らない単語のようだった。

 

「……さぁね。神と人の間、だからシンジンと言うのかも。小神へと昇華する、その寸前まで鍛えられた相手のコトを指すとかね。神でも人でもない、と言っても意味は通りそうだし、呼び名についてはどうでも良いわね」

「それは……そうですね、はい」

「むしろ問題は、今もこの世に、その神人が他にいるかどうかよ。邪魔者を消し去るのに、都合の良い相手として差し向けてくる可能性がある。――アタシにあの子を、ぶつけて来たみたいにね」

 

 アキラは思わず口元を覆う。

 神人とは神の素体を与えられ、他世界から拉致した魂を詰め込んだ存在だ。神からすれば、その魂を熟成だか成長だかさせる為の器ぐらいにしか考えておらず、素体に入れる人格など考慮に入れていないだろう。

 

 どういう理由と目的かは予想しか出来ていない状態だが、とにかく電池のような消耗品のように思っている節があるようだ。小神が複数いるのは、備蓄を用意しているようなもので、消費する事が前提だからこそ、その人格を考慮しない。

 

 いつだったか、神は(いたずら)に村を滅ぼしたりする、と聞いた事があるが、まさか人々を玩具にしているのは、そういう神だったりするのだろうか。

 

「いつだったか、人に害を為す神様っていうのは……」

「制裁的に命を奪う方は大神ね、確かに。人や村、国を滅ぼすには、必ず神の倫理や規範に則った理由がある。対して小神にはそれがない。気に食わない相手、馬鹿にされたから、子供の癇癪のような理由で人に害を為す」

「そんな事、許されるんですか……?」

「許されてるのよね。全人類を滅ぼすつもりなら、そりゃあ他の大神から制止が入るんでしょうけど。小村や小国を幾ら気分で滅ぼしたって、それが神というもの、という一言で片付けられるわよ。大神からしたら、いずれ奪う命だから今は好きにさせてやる、っていうつもりなんでしょ」

 

 アキラは唖然として二の句を告げない。

 それではまるで、神々にとっては世界の存続以上に大事な事はないように思う。実在する神なら、全ての命に平等で博愛を説くべし、とまで言わないが、しかし守護する存在であって欲しいという思いがある。

 

 アキラたち日本人にはオミカゲ様がいた。

 この世界に神がいるなら、同様に民を慈しむ神がいるものだと、そう思っていた。だが実際は、そうではないのだ。

 

「実利主義とでも言うんでしょうか……。いつか言ってましたね、神が信仰を受け取って、それを力に変えていると」

「そうね。そして、その力を高めるモノだとも言ったわ。ここまでで十分、それ以上は必要ないと考えるものでもないとね」

「それってつまり……」

 

 ユミルはつまらなそうに鼻を鳴らしす。

 焚火の明かりが表情の陰影に暗い影を落とす。時より揺らめく明かりのせいで、その表情が凄惨なものになったように見えたが、果たしてそれは、火影の所為ばかりだろうか。

 

「奴らは下剋上を恐れてる。同時に、同士討ちにも敏感よ。互いが互いを牽制し、そして小神を確実に仕留める時だけは協力する。信者の取り合いも良く起こるし、健全な仲というワケでもない。……そうね、色々と歪なのよ」

「僕がこの世界でやって行けないって言ったのは……」

「神が殺人を許可し、扇動するコトもある世界よ。命の値段が安くなって当然でしょ? 信者同士の殺し合いなんて珍しくないし、アタシ達が命狙われるコトだってあるでしょうね。刺客を差し向けられたら、殺してやるまで止まらない。その相手は神の啓示を受けたんだから、説得なんか受け入れないわよ」

 

 アキラは苦り切った顔で俯いた。

 もし……、アキラの夢枕にオミカゲ様が立ったとして、そこで丁寧に誰かの殺人を頼まれたら――。

 あるいは、その殺人の正当性を説かれた上で頼まれたら――。

 もしかしたら、アキラも刀を抜いてしまうかもしれない。それが正しいと信じて、神の怨敵ならば致し方なし、と。

 

「アタシは神人だと確信できるヤツなんて見たコトないけど、確かにヒトにしては明らかに強い、っていうヤツは現れるのよ。その実力は様々だし、でも単に才能の問題で片付けられない様なヤツが出て来る」

「ミレイユ様も、その一人だと……」

「そうね、あれ程の強さは例外だと思うけど。何しろ強いだけじゃなく、やたらと多彩でしょ?」

 

 そのように同意を求められても、ミレイユが出来るとされる事は聞いた事があっても、見る機会には恵まれなかった。剣士として一流でありつつ、魔術士としても一流であると知っているぐらいだ。

 

「僕は言うほど、ミレイユ様の実力を見た事がないので、よく分かりませんけど……」

「……そういえば、そうかもね。でもまぁ、何となく分かるでしょ」

「ですね、何となくは……」

 

 アキラが頷くと、ユミルは凄惨な顔つきに渋面を浮かべて続ける。

 

「素体だって簡単には用意できない物だと思いたいけど、でも手駒で無理なら神人の起用も考えそうなものなのよね」

「でもそれって本末転倒じゃないですか? 神人を欲するのは、あくまで確保して利用する事にある筈じゃないですか。それなのに、共倒れするかもしれない手なんて選びますかね?」

「……それもそう、かしら? あの子より優れていないと止められないでしょうけど、それほど優秀なら、初めから新たに作った神人を小神へ昇華させてしまうかしらね?」

 

 突発的に口から出た事とはいえ、それは的を得ている気がした。

 ミレイユが他の素体より優秀で、だから逃した先から取り戻そうとしたというのなら、ミレイユを確保するには、彼女以上に優秀な駒が必要になる。

 

 最低でも、その抵抗を潜り抜け捕獲できるだけの実力は必須だ。

 だが逆説的に、それだけ優秀な神人を造れたというなら、もうミレイユに固執する必要がない。むしろ高い実力者同士の戦いは、互いの死亡というリスクすら孕む。

 その程度のリスクを、勘案しない筈もなかった。

 

「ふぅん? 十分に有り得るわね。でも、だったらどう確保するつもりなのかしら。神が直接出向く訳でもなく、アタシ達四人を無力化出来ると思っているなら笑い草なんだけど」

「出向く事は有り得ないんですか?」

 

 ユミルがそれほど自信満々に言うのなら、やはり簡単な事ではないのだろう。

 だが、出向かないまでも取り得る作戦は幾らでもありそうなものだ。実際、奥宮ではそれ故に逃げ出さねばならなくなった。

 

「実力だけ言えば、あの子は神と並ぶから。戦う相手を選べば神すら殺せる。リスクを考えて出向くコトだけはない――むしろこっち? それが理由で狙われるのかしら。……いや、だったら呼び戻す理由がない。世界を跨いで神となり、世界を超えられなくなるのは都合が良い筈……」

 

 両手を胸の下で組んで、ぶつぶつと独り言を始めたユミルから視線を外す。

 一人考察の世界に入ってしまって、もうアキラに構う余裕はないようだ。

 

 アキラもまた改めて考える。

 神々がミレイユを狙う理由は、未だ不透明だ。恐らくは炉として使うのだろう、という予測が立つにしろ、そこに決定的な矛盾が孕んでいるような気がしてならない。

 

 あるいは、用意周到、二手三手先を睨んで行動するような神が相手なればこそ、アキラ達が気付かない別の理由が隠されているだけなのかもしれなかった。

 もしかしたら、その狙いすらミレイユは看破しているかもしれない。

 

 ミレイユ個人が、というより、それ以前のミレイユ――オミカゲ様も含めたミレイユ達から受け継いだ何かがあるのかも。

 そのように考えていると、ユミルがアキラに顔を向けて、テントの方へと顎をシャクった。

 

「アンタもいい加減、もう眠ったら? 本来ならもう交代する時間よ」

「はい、そうします」

「感謝しなさいよ、見張りを一番手にしてやるなんて、最初の内だけだからね」

「……一番手が優しさ、ですか?」

「あるいは最後もね。その中間は、途中で起こされ、見張りが終わったらまた寝ないといけないから。どうしたって睡眠時間は短くなるのよ」

「あぁ、なるほど……」

 

 それに、眠気眼で見張りをして良い筈もない。

 特に自分の初動で危険や被害が大きく変わるような環境ならば尚の事で、そして見張りが終わったからと、即座に眠れる訳でもない。直前まで集中して見張りをしていたなら、やはりすぐに眠りに落ちる事は出来ないだろう。

 それを思えば、確かに最初か最後は得な部分だ。

 

「……では、失礼します」

 

 アキラは立ち上がって一礼する。そして幾らも歩かない内に、背後から声が掛かった。

 

「あの子たちと離れたところに、一つ寝袋があるから、そこで眠りなさい。不埒な真似するんじゃないわよ」

「――しませんよ!」

 

 そんな事をすれば信用を喪うのと同時に、森の中で置いていかれるだろうし、そうでなくても彼女達は敏感に気配を察知し、目を覚まして腕の骨を折るぐらい事はしてくる。

 

 思わず振り返って威嚇するように言えば、ユミルはからからと笑って薪を足した。

 眠るのは良いとして、同じテントで寝かせてくれる温情を意外と感じた。てっきり焚火から少し離れた、テントの傍とか陰とかで眠れと言われると思っていたのだ。

 

 しかし中に入ってみれば、そこには十分なスペースがあって、寝ている彼女達と隣り合う心配もない。六畳間ほどの広さがあるテントだからこそ許された、という理由があるのだろう。

 密着する距離で眠る、というのなら、そ流石に許されず外で眠る事になっていた気がした。

 

 アキラはテントの入口側、寝ているミレイユ達とは対角線上になるような場所にある寝袋で横になった。傍には毛布も置いてあって、非常に硬い枕を頭に乗せて横になる。

 あくまで携帯品だから快適性は皆無で、背中も固く枕は反発が無くて血流が滞る気がする。

 

 疲れているとはいえ、果たして眠れるかどうか……。

 だが気付いた時には既に朝で、首を持ち上げて見ても、テントの中には既に誰もいなかった。

 



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決意と表明 その1

 ミレイユが目を覚ましたのは、朝日が昇り始めた、まだ肌寒い時間の事だった。

 目が覚めて、薄暗い室内と、そして見覚えのない天井を疑問に思う。ここ最近まで見ていた、起床と共に見る天蓋の天井画はなく、ただ薄黒い布製の何かが見える。

 

 背中に当たる硬い感触と薄い毛布、それだけが寝具だと悟って身動きしたところで、隣にユミルが寝ている事に気付いた。

 次いで首を軽く起こして見渡してみると、六畳程の広さの中に簡素な家具と収納庫、そして開け放たれた入り口が見える。登り始めた日光が入り口を照らし、そこから薄く煙を上げる焚火も目に入った。

 

 それでようやく、ここが自分の用意したテントである事に思い至った。

 『掌中のテント』と呼ばれる魔術秘具で、本来なら嵩張る携行道具を、ごく少量に収める事が出来る、という便利道具だった。個人空間があって手荷物は減らせる前提があるとはいえ、この空間に収められる容量には個人差がある。

 

 その個人差とはつまり魔力総量と直結し、そして体積と重量が大きければ、それだけ収納量を圧迫する。この収納量が少ない者は、優先するものを考えて個人空間に収めなければならない。

 多くの場合、破壊や損失の大きいものなどを優先するし、食料など嵩張る物を容れる者が多い。

 最も多いのは水薬など、貴重でありつつ破損しやすい物で、それら二つが収まってなお余裕のある者が武器や防具などを収納していた。

 

 テントは畳んで小さくできるとはいえ限界があるし、人によってはそれ一つだけで個人空間を圧迫してしまう。自分一人用のテントを各自持つか、パーティの誰かが複数用のテントを預かる、というのがが普通だった。

 

 テントを用意していてもこれほど巨大な物は稀で、持っていれば収納量を削減できるだけでなく、とにかく便利だから冒険者垂涎の品なのだが、当然高価だ。

 都市部の家屋一軒と同等の価値があるので、それならば装備を充足させるとか、拠点となる家を購入する人が多くなる。

 

 箱庭を手に入れてからというもの死蔵していた物だったのが、売り払う事も譲る事もしていなかったのが幸いした。

 箱庭は、このテントを数十倍便利にした代物だし、そもそも悪天候すら関係ない。猛吹雪が吹き荒ぶような日は、移動も出来ないからテントに籠もるしかないのだが、その風の具合次第ではテントを押さえつける為に苦労する羽目になる。

 

 防護術で壁を築くとしても、その維持を数日に渡って行うのは拷問に等しい。

 箱庭にはそういったデメリットもなく、ただ埋もれないよう注意した場所を選ぶだけで良かった。

 

 ミレイユは毛布をどけて、上半身を起こす。

 顔を向けた先、焚火の近くにはルチアがいて、鍋を置いて何かを煮立たせている。アヴェリンの姿は見えないが、近くで血臭がしていた。すぐ傍という訳ではないし、人の血でもない。

 

 かつて旅をしていた時によく嗅いでいた、獣血の臭いだった。

 近くで襲い掛かってきた獣を返り討ちにしたか、あるいは獲物を狩って解体しているかのどちらかだろう。

 

 しだれかかるかのように腰の辺りへ覆い被さってきたユミルの腕を戻し、毛布も整えてやってから立ち上がった。テントの中というのは基本的に中腰で移動するものだが、このテントは立って移動できるだけの十分な天井高がある。

 

 テントから出ようとして、その端に小さく身体を丸めて寝ている誰かが目に入った。

 毛布を目の高さまで被っているので誰か分からないが、黒い短髪である事だけ判別できる。誰だと思いつつ、テントに招き入れる判断をされたというなら、後ほど紹介があるだろう。

 

 そう思って特に気にせず外に出て、朝霧が漂う中、肺の中へ目一杯空気を取り込む。

 そうして、現在地が森の中である事を再確認した。テントの中からも後ろに木々が見えていたとはいえ、その規模までは分からない。林を背後に見ているだけかもしれず、あるいは複数本の木々が偶然視界に入っていただけかもしれなかった。

 

 腕も大きく上に広げて身体を伸ばすと、凝り固まった筋肉が伸ばされて気持ちがいい。

 背骨や腕などからバキバキと骨が鳴る音が聞こえ、息を吐くと同時に脱力する。もう一度深呼吸を終わらせてから、焚火を挟んでルチアと対面した。

 

「おはよう、ルチア」

「おはようございます、ミレイさん。よくお眠りでしたね」

 

 倒木の一つに腰を降ろしながら、ルチアに困ったような笑みを向ける。

 不甲斐なさを感じると共に、後先考えず魔力を放出した事を申し訳なく思った。だが感情に歯止めが利かず、また発散せずにはいられない心境だった。

 

 ルチアにもまた咎める意図はなかったと思うが、ミレイユの反応を見て自分の失言を悟ったようだ。慌てて言い直そうとしたところで、ミレイユは片手を挙げて左右に振る。

 

「……いいんだ。実際、よく眠らせて貰ったしな。お陰で身体が少しダルい」

「もう少し、この辺で休んでおきますか?」

「……そうだな、どうしたものかな」

 

 身体自体に不調は感じない。

 全ての魔力を放出したにしては、軽い方だろう。以前、大規模魔術を使って枯渇させた時と比べれば、その差は歴然としていて、むしろ好調なぐらいだ。

 

 ミレイユが言葉を濁したのは、そもそもの現在地が分からない所為だ。

 深い森の中、周囲全てが木々に囲まれ、そして空すら葉に隠れて満足に見えなかった。薄く上がる煙が葉の隙間を通っていけば、そこから見えるのは薄明るい空に映る雲ぐらいしかない。

 

 現在地が分からなければ方針も決められないのだが、近くに街があればそこに向かいたいと思った。テントもあるし、水も用意できるが、備蓄できる食料は持っていない。

 箱庭と違ってテントの中に食料を置いても普通に腐るので、収納箱の中には何も入っていない筈だった。保存食などは確保しておきたいし、水も置いておけば何かと便利だ。

 

 だが、ここが油断できない地域であるなら、街に寄るのは当然却下だ。

 いっそ森を通って、どこか安全な地帯へ抜け出した方が良い。ここで小休止を取ると判断したのがアヴェリンなら、少なくともこの場とその周辺は安全だ。

 

 復調するまで待機する、という判断の目も出てくる。

 だがまずは、話を聞かない事には始まらなかった。

 

 ミレイユは心中でその様に結論を下していると、ルチアが鍋から掬ったものを器に注ぎ、それを手渡してくる。器の中には薄茶色の液体が縁まで入っていた。

 

「どうぞ、お茶です。すぐに朝食に取り掛かりますので、ちょっと待ってて下さいね」

「ああ、そうしよう」

 

 器に口を付け、湯気の立つお茶に口を付ける。

 火傷する程に熱いお茶だが、今はそれぐらいが有り難い。湿った空気の中だと、焚火を前にしていても冷えるものだ。マントを個人空間から取り出して、それで少しでも暖を取ろうとしたところで、背後からアヴェリンが近付いてきた。

 

 その手には、今し方解体したであろう肉が握られている。

 それをルチアに手渡しながら、ミレイユの傍に膝を付いて慇懃に礼をした。

 

「おはようございます、ミレイ様。お加減は如何ですか?」

「ああ、いい調子だ。気づけば森の中だったが……、どうやらここまで運んでくれたのはお前のようだな」

「当然の事です」

「うん、だが大変だったろう」

「何ほどの事もございません。婦女子一人の重量など些細なものです」

「お前の献身に感謝……いや、真に大義。よく私を守ってくれた」

 

 ありがとうと言っても、アヴェリンは有り難く思わないし、感謝を受け取る以前に当然の行いと捉える。だから言葉を選び直して、主人に相応しい言葉を投げ掛けた。

 アヴェリンが無言で頭を降ろせば、その鼻先へ向けるように手を差し出す。

 

 震える両手でミレイユの手を捧げ持つと、それを額に押し当てた。

 ミレイユが出来る、アヴェリンに向けた最大級の感謝を示すに、これ以上の手段はない。たっぷりと十秒そうしていると、流石に居心地も悪くなる。

 

 ルチアから視線は感じないものの、いつまでやってるんだ、という雰囲気は感じた。

 ミレイユが小さく咳払いをすると、それで両手が離れていき、倒木の座る位置を開けてやる。

 

「ほら、いつまでも地面に膝を付けてるものじゃない。こちらへ座れ」

「……ハ、それでは失礼して」

 

 アヴェリンが隣に座るのと同時に、ミレイユと同様の器が差し出される。中身もやはり同様で、薄茶色の液体が波々と注がれていた。

 感謝を口にして受け取り、息を吹きかけながら飲み始める。それを横目に見ながら、ミレイユは肉の方に目を向けていた。

 

「あれは何の肉だ?」

「鹿肉です。少し足を伸ばしましたが、ちょうど良い獲物がいて幸いでした。疲れた身体には新鮮な肉が必須でしょう」

「ふん……? だが、これだけ血の匂いを出したら、周囲の魔獣が騒ぐんじゃないか?」

「左様ですね。あれらに包囲されておりますが、昨夜の内に脅し付けておりましたおきましたので、襲撃の心配はなかろうと思います」

 

 そうか、とミレイユは素直に頷く。

 アヴェリンのそういった嗅覚は非常に頼りになる。彼女の部族は狩猟民族なので、獣の付き合い方も当然心得ている。旅の合間に幾度も彼女の知見には助けられたので、彼女が断言するなら疑う余地はなかった。

 

 ルチアも新たに出した鍋にお湯を張って、即席の鹿鍋を作ろうとしている。

 新鮮な野菜は望めないし、調味料とて満足にないが、調理台として用意されていたまな板には、野草を乾燥させた物や粉状の何かがあった。

 

 周辺を歩いて、使えそうなハーブ類を摘んだりしたのだろう。

 フリーズドライの要領で一瞬で水分を抜き、料理に適した形に整えるのは彼女の得意とするところだ。香草には調味料代わりになるものもあるが、やはり塩や醤油といった調味料には敵わない。

 だが、旅先で現地調達したものと考えれば、それほど悪いものでもなかった。

 

 無味でも食べられない訳ではないが、やはり味気ない食事は気分も滅入るものだ。

 そうして火力の調整をアヴェリンに任せ、ルチアは食事の準備を進めていく。ミレイユの個人空間には既に食品を取り除いて久しかったから、手元には何もない。

 

 今回のように急な転移があると予期できていれば、もう少し楽な旅も出来ただろうと思っても後の祭りだ。

 待つより他にする事もなく、出来上がりを心待ちにしていると、ルチアから薄くスライスされたパンが手渡される。

 不思議に思って見返すと、苦笑としか言いようのない表情で言ってきた。

 

「そんな表情されたら、渡すしかないじゃないですか。とりあえず、それで我慢していて下さいね」

「ひもじそうな顔に見えたか……?」

「というより、物欲しそうな顔、ですかね? そんな表情初めて見ました」

「それは……すまなかったな」

 

 頬を擦りながらパンを受け取り、口いっぱいに頬張る。

 薄いのにも関わらず固く、そのうえ味気なく、ボソボソとした口当たりだった。だが、不思議と懐かしいとは思わない。長らく口にしていなかった筈なのだが、まるでつい昨日食べたかのような感覚だった。

 奇妙に思ったが、それだけ身近に思っていたのだろうと、特に気にせず料理の完成をただ待つ事にした。

 



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決意と表明 その2

 料理が完成に近付き、野草とスパイス代わりの野草が投入され、煮詰まったところに薄く切られた肉も投入されると、それらが合わさり芳しい香りが漂い始めた。

 その匂いにつられてか、ユミルが這いずるようにテントから抜け出してくる。

 

「……おはよ」

「ああ、おはよう。なんだ、凄い顔だな……どうしたんだ」

「そんなの、慣れない見張りしたからに決まってるでしょ……」

 

 力なく言って、盛大な欠伸をさせて倒木の一つに腰掛けた。

 言われてみれば当然で、夜営をするなら交代制で見張りをする。平時であれば、ミレイユが担当するのも例外ではなく、箱庭を所持してから加入したユミルなどは、共に旅する間にはした事もなかった。

 

 ここ最近は特に、奥宮で悠々自適な暮らしをしていたユミルにとって、見張りの番をするのは酷な事だったろう。とはいえ、それが必要な状況となれば、彼女も我儘を言わない。

 昨日は例外的にミレイユが担当から外れていたとはいえ、持ち回りでやらねばならない事だ。

 

 ミレイユは素っ気なく頷いて、今や遅しと鍋の完成を待った。

 ユミルも眠気に瞼を(しばたた)かせ、勝手にお茶を器に注ぐ。焚火から降ろして冷え始めたとはいえ、未だ湯気は上げているので、ちょうど飲みやすい温度になっているかもしれない。

 

 そんなユミルを後にして、そういえば、とアヴェリンへと顔を向ける。

 

「テントの入口付近にいたのは誰だ? 道中、誰か助けてやったのか?」

「は……、はい?」

「いや、いたろう? 寝ているのが一人」

 

 はぁ、とアヴェリンには珍しい気のない返事をして、何かがおかしい、と違和感を覚えた。

 ルチアやユミルを見ても同様で、理解していないミレイユをこそ心配している風ですらある。見覚えがない相手とは微塵も思っていないような雰囲気だが、しかし到着早々気を失い、それまで一度も目覚めていないミレイユからすると、知っている筈もないと理解出来る筈だ。

 

「……何だ、おかしい事を言ったか? 昨日、誰かを拾っていたとしても、ずっと寝ていた私に知る筈がないだろう」

「ずっと? ……ずっとも何も、一度起きたじゃない」

 

 ユミルから訝しげな視線と共に言われて、それこそ記憶のない事で混乱する。

 ミレイユの感覚としては、到着早々、魔力を放出し、枯渇の影響で気を失い今に至る、という認識なのだ。途中で起きた記憶などない。

 

 だが言われてみれば、『掌中のテント』はミレイユの個人空間に仕舞われていたものであり、他人のポケットをまさぐるように取り出せる物でもない。

 あれが表に出ているというのなら、それはミレイユが自分の手で取り出したという事になる。

 嘘を言わないと信頼できる、アヴェリンに向かって訊いてみた。

 

「……私は一度起きたのか?」

「は、然様です。お食事もなされましたし、それだけで限界だったらしく、終わるなり直ぐにお眠りになりましたが」

「そうだったのか……」

 

 気のない返事をしたところで、そこへまたユミルが口を挟んで来る。

 

「……記憶がないとか言わないわよね? 変な後遺症とか」

「欠損した記憶など思い付かないが……。そうか、だが昨日は食事を取っていたのか」

「すごく眠そう……というか、半分寝ながら食べてた感じだったけど。……本当に大丈夫よね? これ何本に見える?」

 

 そう言いながら指を三本立て、そして同時に幻術を駆使し、五本に増やしたり二本に減らしたり、瞬時に指の本数を増減させる。

 イタズラなのか、医療行為のつもりかは分からないが、わざわざ指摘するのも億劫で、見えるままに口にしていく。

 

「三、五、二、四、五、三、一……」

「……見えてるわね」

「そういうのは普通、立てた指の数は変えないものじゃないか?」

「いや、幻術に惑わされないか、そして変えた本数に対応できるかまで見たかったから。その調子じゃ問題なさそうだけど」

「因みに、惑わされていた場合は?」

「ずっと三本に見えてた筈」

 

 なるほど、と頷いて、正常である事が証明できたところで話題を戻す。

 本来確認したいのは、そんな事ではないのだ。

 

「だから、あそこにいた奴は誰なんだ。私に許可取る暇が無かったから、拾った事は良いとして、理由ぐらいは教えてくれ」

「あー……、そう。見えてても見てなかった、ってコト? 本当にアイツの顔、忘れたとかじゃないわよね?」

「何でそう変に勿体振るんだ。出て来る時だって、顔が見えなかったんだから仕方ないだろうが」

「あ、あー、そういうコト。確かに頭まで毛布被って、顔見えてなかったっけ……。なるほどね。――あれ、アキラよ」

「何だって?」

 

 一瞬、何を言われたか理解できず混乱する。

 アレアキラとは何だ、と首を傾げそうになり、そして直後にアキラだと察した。だが、それなら尚更分からない。アキラは現世にいる筈で、オミカゲ様とて共に送り込んだりしないだろう。

 

 だが、理解を拒絶する様が、本当に不調である様に映ったらしい。

 アヴェリンは心底心配そうに顔を覗き込み、労るように声を掛けてくる。

 

「本当に大丈夫ですか? 記憶の混濁や、体調に不良があるのなら、食事の後にすぐお休みになられた方が良いのでは……」

「いや、済まない。大丈夫、言ってる意味は分かったが、意味の理解を拒絶しただけだ。……それにしても、アキラ? 私達のよく知る、あのアキラか?」

「……あぁ、なるほど」

 

 繰り返し聞き返せば、アヴェリンから得心の表情が返って来た。

 

「何故この場にいるのか理解できないと。その気持ち、分からないでもありませんが……どうやら我々に続いて孔を潜って来たようです」

「何故……?」

「それは本人の口から聞くべきでしょう。ただ、やむにやまれずでもなく、偶然や事故でもなく、本人の意志で孔の中へ飛び込んだようですが」

 

 馬鹿が、と罵る言葉が出そうになって、その直前で息を止める。

 世界を渡ってミレイユに付いてくる行為を馬鹿にするのは、同様に後を付いてきたアヴェリン達も馬鹿にする行為に成りかねない。

 

 あの時と状況も違えば、個人が持つ力量も違う。大いに違う、というべきだろうが、それでも決意を持って後を追おうとする行為に違いない。

 それを口汚く罵るようでは、彼女達の決意すら汚してしまう事になる。

 

 代わりに長い溜め息を吐いて、まだ痛む気がする頭を眉間を揉み解す事で解消しようとした。その仕草を見て取って、やはりアヴェリンは気遣う仕草を深める。

 

「お気持ちは分かりますが、我々からも問い詰めた結果、アキラなりの決意あっての事だと分かりました。全てはミレイ様のお気持ち次第で、どのような返事も受諾すると言質を取ってあります。話だけでも聞いてやって良いかと……」

「うん……? 随分と――」

 

 高く買ってるんだな、と続けそうになり、やはりミレイユは言葉を止めた。

 どうにも失言が口から飛び出そうになってしまって、未だ本調子ではないのか、と自分を疑いそうになる。

 

 アヴェリン達にも、アキラに共感する部分などがあったのかもしれない。己らの身の上に起こった事を思えば、後追いする気持ちも分かるのかもしれないし、アキラの決意には聞いてやるべき価値があると思ったのかもしれない。

 

 だが、アヴェリンからそういう進言が出るというのは意外で、早く送り返すか切り捨てるべき、という台詞が出るものだと思っていた。

 ユミルに視線を向けても無言の頷きが返って来るだけで、それなら話を聞いてやるだけ聞いてみても良いか、という気持ちになってきた。

 

 とはいえ、溜め息を吐きたくなる方の気持ちは増すばかりで、居た堪れない感情が湧き上がってくる。正直な事を言えば、これ以上の面倒事は御免だ、という気分だった。

 自分一人でさえ持て余すような状況、ここにアキラを加えた場合を想定すると頭が痛くなる。連れて行くと決めたなら、その命には責任を持たなければならない。

 

 アヴェリン達にも同様の責任を持っているが、彼女達は強い。それが信頼の背景になっているので、腫れ物を扱うような気遣いもいらないのだ。

 勝手に付いて来て、死ぬなら勝手にしろと言うほど、冷酷にも無責任にはなれなかった。どう扱うべきか考えているところに、料理が完成して器に盛られ始める。

 

 パンを細かく砕いて入れているので、まるで雑炊のような食事だった。食べ応えもありつつ消化に配慮した料理で、ルチアの心遣いを感じ取れる。

 手渡してくれた物をありがたく受け取り、木製のスプーンで具を掬う。

 

「いただきます」

 

 同様に配られている間に、一足先に口を付けた。

 調味料の問題で美味と言える出来ではないが、それでも何もかもが足りていない状況で、よくここまで調理してくれた、という思いが勝る。

 

「……うん、美味いぞ」

「ありがとうございます」

 

 感謝の言葉を口にすれば、はにかむようにルチアが笑った。

 アヴェリン達も口を付け始め、それで一気に食事が進む。器自体は大きいものではないので、それ一つ食べれば満足できる、という量ではない。

 おかわり自由という訳でもないが、肉の量などパッと見では分からないものだ。控えめに取っていたつもりでも、底の方にはもう幾らも残っていない、という事は珍しくない。

 

 腹を満たそうと思えば、出来るお代わりは早めにするに越した事はなかった。

 ミレイユが珍しく、勢い良く食べるのを見兼ねてルチアが言う。

 

「お肉、追加で入れましょうか」

「……そうだな、頼めるか」

 

 了解です、と短く返事をして、未だ血臭のする方面へ歩いて行く。

 アヴェリンへ目を向けると、小さく頷きが返って来た。

 

「肉の量は大丈夫ですが、他は手早く干肉に変えてしまおうかと思っています。本来なら長らく時間を掛けて作るものですが……」

「あぁ、分かった。後で手伝おう」

 

 流石に主人へ働けと口にするのは難しかろうと、率先して言ってやる。

 明らかにホッとした表情をして、アヴェリンは仄かに笑った。

 ミレイユは器の中から雑炊状になったパンを掬い取り、それをしげしげと見つめながら言う。

 

「それにしても、良くパンなんて持っていたものだ。現世で必要になる機会などなかったろうに……。誰が持っていたものだ?」

「あぁ、それは私とルチアです。私の場合は危機管理の観点から、常に持っておりました。ルチアについては、何か不穏なものを感じて、箱庭から奥宮へ向かう直前に幾らか食料を持ち出していたようです」

 

 なるほど、と頷きながら二人への危機管理能力の高さに舌を巻く。

 ミレイユも最悪の状況を想定していたとはいえ、食料を持ち出す事には無頓着だった。箱庭に備蓄していた様々な素材を思い出しては後悔が渦巻く。

 

 あれには文字通りのひと財産が入っていた。

 それを失ったのは大きく、また旅の助けになるものも実に多い。その助けが丸々得られないというのは、これからの旅を困難なものに感じさせる。

 箱庭を持っていない時は、テントすらなく野宿する事すらあったというのに、贅沢な思考をするようになったものだ。

 

 ミレイユは心中で自らに苦笑していると、テントの中から物音がし始めた。

 問題のアキラが起き出したのだろう。

 どのような話をしてくるつもりか辟易するのと同時に、どういう対応が適当だろうかと、テントから出て来る姿を認めながら考え始めた。

 



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決意と表明 その3

「おはようございます、皆さん。そして、ミレイユ様」

「……あぁ、おはよう」

 

 遅れてやって来たアキラは恐縮した様子で頭を下げ、それから朝の挨拶を交わした。

 この場にいる事に納得していないミレイユからすれば、随分と素っ気ない挨拶となってしまったが、それも否めない。

 

 アキラの朝食もルチアがよそったところで、やはり肉の量が全く足りない事に気付いたらしい。自分の分を確保する意味でも肉を切り分け、鍋に投入していく。

 細かく、そして薄くスライスした肉はすぐに色付き、とろみが増したように見えるスープと共に器へ盛って、ようやく自分も食べられるようになった。

 

 はふはふ、と口から湯気を出しながら満足気に頷くところを見るに、自分でも納得できる料理であるようだ。

 それを視界の端に収めながら、ミレイユも食事を続ける。

 

 各自それぞれ二度程おかわりをして鍋も空になり、再びお茶を沸かして全員に行き渡ったところで、全員の視線がミレイユに集中した。

 食事中も雑談程度の会話はあったが、どれも他愛ないもので、料理の味であったりとか、森の様子であったりと、どれも当たり障りのない内容だった。

 

 この時の為に、あえて話題に乗せなかったとも言える。

 話し合う内容は大きく分けて二つ。

 これからの行動方針と、アキラの処遇についてだ。

 

 どちらも気が重くなるような内容だが、面倒事は後回しにして、まずアキラの事を決めてしまおうと思った。

 ミレイユはお茶に一口含んで、舌に残った料理の後味を洗い流すように飲み込むと、その双眸をひたりと向ける。

 

 向けられた当のアキラは背筋を伸ばし、表情を引き締めて見返して来た。ここが自分の正念場だと、本人も理解しているようだ。

 ミレイユはもう一度お茶に口を付けてから問いかけた。

 

「……それで、どういうつもりだ?」

 

 ――

 

 アキラから熱弁という程の言葉はなく、ただ傍に置いて欲しい、という簡潔な主張のみがあった。非力な身でもお役に立ってみせます、という熱意は買うが、それだけでは如何にも弱い。

 

 アキラを無価値と断じるのではなく、むしろ見捨てたくないという気持ちがあるからこそ、同行を認めるには難色を示した。

 

 最低限、自らの身を守る力量がある事は認めるものの、それは野生に生きる魔獣や魔物に対してであり、それも十全とは言い難い。

 ミレイユ達と相対する敵ともなれば、戦える能力はないと断じるべきだろう。

 本人にもその自覚はあるようだが、それでも同行を願う気持ちは強いようだった。

 

 その熱意は理解出来ないでもない。

 こうして先の見えない孔へ、自ら飛び込んだ事からも、それが窺える。

 だが、それだけで到底認められるものでもなかった。

 

 やはりどこか大きな街で、職を見つけてやるのが妥当な落とし所か、と思っていたところに、ユミルからの援護が入った。

 それはミレイユとしても幾らか納得のいく内容で、ループを断ち切る為の一方策として用意しても良いか、と一考に値できる程だった。

 

 ――恐らく。

 幾度も行われてきた千年の繰り返しには、彼女ら三人の献身は間違いなくあっただろう。だが、その三人の手助けだけで突破できていないのは、同様に間違いない事実でもあるのだ。

 

 ならば、そこから抜け出す方法は、それまで無かったと思える要素を加えるべき、という提案は妥当なものに思えた。

 しかし、これで解決できるほど簡単なものではないだろう。

 

 結果としてアキラの存在が、何もかも足を引っ張る事態を招くかもしれない。だが挑戦を恐れていては、失敗を待つばかりなのも確かな事だろう。

 

 ミレイユはアキラから視線を外さず話を聞いていたが、二人から話を聞き終わるなり、盛大に息を吐いて片手で髪を掻き上げる。

 アヴェリンやルチアの表情を見ても、同行そのものを不服と思っていないようだ。

 

 最低限――本当に最低限の自衛能力を認めた上で、同行するだけは許し、いざと言う時は切り捨てれば良い、と考えている。

 

 いっそ無慈悲と思える程だが、彼女らの優先順位として、そもそも人命は高い位置にない。そこにミレイユが絡むなら、面倒を見た相手であっても冷徹になれる。

 

 敵ならば容赦も慈悲も与えない。

 それはミレイユも同様だが、一度身内として認めた相手だ。アヴェリンの弟子と認めたところでもある。だが本当に思いやるなら、死ぬ可能性が高い旅に同行させるのは優しさとは言えない気がした。

 

「まぁ……、お前の気持ちは分かった。ユミルの意見も分かる。以前観覧車で聞いた、お前の倫理観から殺人を厭う気持ちも引っ掛かるが……。既にこの地を踏んでいるなら、今更言っても仕方ない。だがな……」

「……っ、だめ、ですか……」

 

 一瞬、アキラの顔に歓喜の表情が上がったが、すぐに消沈して眉根が下がる。

 

「十中八九、お前は死ぬ。むしろ私が断る本当の理由は、こちらの方だ。同行を許すというのは、お前の自殺同意書にサインするに等しい」

「そんな……事は」

「私を思って追って来た、それには礼を言おう。だが、お前の自殺に私の許しを求めるな」

「あー……。そういう風になっちゃうのねぇ」

 

 ユミルは困ったような顔をして、ミレイユとアキラの顔を交互に見つめる。

 そして鼻の頭を掻くと、苦り切った表情をミレイユに向けた。

 

「同行は自殺に等しい。……確かにそうかもね。だから同行を許可する事は、その死の責任を担うコトになると。……でもね、そこまで責任感じる必要ある? 好きで付いてくるだけの話でしょ?」

「全て自己責任、それも確かだ。誰が責めるでもない。援護する発言をしたユミルは元よりアヴェリンも、アキラもまた、その死の責任を私に求める事はしないだろう」

「はい、勿論です。僕が自分で、自分の為にミレイユ様の助けになりたいと思っているだけです。それで結局死んでしまっても、どうしてミレイユ様を責められますか」

「――だが、私の気持ちはどうなる」

 

 その一言で、アキラの息が止まる。思いもしない返答に、二の句が告げなくなったのは、その表情から分かった。

 

「私が、勝手に望んで勝手に死んだだけの知人、としか思わないと言うのか? その死を悼み、その死を嘆くとは考えられないのか?」

「そんな……」

「路傍の石に気を付ける事などしない。私も必要なら幾らでも無慈悲になれるが、浅い付き合いでもない相手に、無頓着にも無慈悲にもなれない。お前は自分の死を軽く扱うが、それを悲しむ相手がいるとは考えないのか?」

「そんな事……」

 

 アキラの表情は驚愕に染まっている。

 まさか自分が大事にされるような発言が飛び出るとは、夢にも思っていなかったようだ。自分は弱いから、弱いから無価値だと、気に掛けられる程の価値はないと思っている。

 

 捨て石にされようと、その身がミレイユを護れたら本望とでも思っているのかもしれないが、護られた方にも自責の念は生まれるものだ。

 それが人命と引き換えにされたものなら尚の事で、よくやったと褒めると同時に、必ず嘆く。

 

 アキラとの付き合いも長くなった。ならば良かろう、好きに果てろ、と言い捨てる事は出来ない。それはアヴェリン達と同列に扱う程ではないし、一等も二等も下るにしろ、だからと何も感じない程その扱いは軽いものでもなかった。

 

 刺すような視線を感じて顔を向ければ、そこにはユミルを始め、アヴェリンもまた、ミレイユの発言を意外に思って驚いている。

 

 アキラほど驚愕に染まった顔ではないにしろ、誰もが表情を難しく歪めていた。

 ユミルが一つ息を吐いて、苦いものを飲み込むようにお茶を飲み込む。

 

「……ま、そういうコトなら仕方ないかしらね。アタシは道具としか見てなかった。役立つ期待を優先させたけど、アンタは人としての生を優先させたのね」

「我儘だとは理解してる。お前の言うとおり、冷徹に使えるものは全て使う、それぐらいの気持ちで挑むべきなんだろうさ。でも……」

「分かっております」

 

 言葉を遮ったアヴェリンが感動の面色(おももち)で、ミレイユの顔を覗き込むように身を寄せた。

 

「その気高き精神が、今まで多くの偉業を為して来ました。誰憚る事なく、お好きにすると宜しいのです」

「……ですね。いつだって好きにやって、そして成果を上げてきたんじゃないですか。この選択が正しいのか、分からず進むのもいつもの事。だったらきっと、これで上手く行くんじゃないですか?」

 

 ルチアからも援護する声が掛かって、それでミレイユはアキラに顔を戻す。

 

「お前の決意を無下にしたようで済まないが、それが私の本心だ。悪いが受け入れてくれ」

「いえ、そんな……! むしろ感動してます、そのように言ってくれて……!」

「本来なら家に帰してやると約束してやりたいぐらいだったが……。それも適いそうにない、許せよ」

「いえ、大丈夫です。帰れるかどうかなんて考えず突入しましたけど、でも考えなしに突っ込んだ僕が悪いんです。それこそ自己責任ってやつです」

 

 頬を紅潮させて言う視線には熱意以外にも、別の感情が混ざっているように感じたが、努めてそれは無視する。結局、ミレイユには命の安全を保障できないし、大きな街で暮らしたからと安定した生活を約束できるものでもない。

 

 治安もインフラも、あらゆるものが現代日本と劣った世界で、アキラは大変な苦労を背負いながら生きていく事になる。

 仮に安定した収入や、あるいは高額な報酬を得られる仕事をこなしたとしても、やはり利便性という贅沢はそこにはない。

 

 生活する程に実感するだろう。日本で暮らした生活の違いと、慣れる程に比較してしまう劣悪な環境に。

 ユミルがそんなアキラの頭をポンポンと叩きながら言う。

 

「ま、あそこまで言われたら諦めるしかないでしょうよ。言われたアンタだって本望でしょ?」

「いえ、まぁ、はい……。正直、雑兵Aとしか見られていないだろうなぁ、と思っていたので……」

「アタシは割りと今でもそう思ってるけど」

 

 酷い、などと泣き笑いの表情になったりと、アキラの表情は忙しない。

 だがそれも、己の決意を無下ではないにしろ断られた事への裏返しなのかもしれない。明るく振る舞っていないと、きっと悲哀が溢れてくるのだろうし、そうでなくとも後で隠れて泣くのだろう。

 

 ミレイユはそれに改めて心中で謝罪すると、次の議題に気持ちを切り替える。

 そして、それこそが考える事すら億劫な難題だった。

 



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決意と表明 その4

 ミレイユが難しい顔で黙りこくっていると、しばらくしてルチアがおずおずと声を掛けてくる。

 しかしそれにも返事をせず、眉間に皺を寄せて片手を額に当てたまま目を瞑った。考えなくてはならないと理解していても、思考がまとまらず徒に空回りする。

 考えなければ、という考えのみが脳裏を支配し、だが結局何一つ考えが纏まらなかった。

 

 そもそもの解決案があるなら、それに向けてどうすれば良いのか考えれば良いが、その解決案が不透明だ。失敗は許されない。失敗してもやり直せる希望があるとはいえ、それは結局次のループを動かす歯車になる事を意味する。

 

 今回でループを終わらせたい。

 自らの数奇な運命から逃れたい。

 だが現状は、雁字搦めで身動きできないような状況だ。

 これまで数多のミレイユが紡いで来た、己の運命の糸に捕らわれ動けない。その様な気さえしていた。

 

 果たして上手くやれるものだろうか。

 そして失敗した時、そのまま己の命が終わる事より、生き長らえる事の方が余程つらい。

 その時が来たのなら、きっと隣には頼りになる仲間が欠けている。それを考えるだけで胸が痛かった。

 

 最早、解決策を模索する事すら嫌気が差す。

 いっそ逃げ出せば……神々との抗争から棄権すれば、ループも終わるのではないか。

 そのように考えてしまう。今までのミレイユから受け取った重荷を投げ出し、神々から逃げ続ける事を選べば、あるいはそれが正解となりはしないか。

 

 思考が後ろ向きに働いていく。

 解決出来るというのなら、とっくにしている筈だった。繰り返す時の中で、一度も解決まで導けなかったというのなら、それが答えなのではないか。

 

 神々に抗おうと考える事すら――。

 

「――ミレイ様!!」

 

 突然、肩を揺さぶられ、思考が強制的に中断される。

 声がした方を見れば、アヴェリンが心配そうに顔を覗き込んでいた。

 それでようやく事態を理解する。ルチアに声を掛けられたところまでは覚えているが、そこから他人の声は一切耳に入って来ない、一種の瞑想状態になっていた。

 

「あぁ、なんだ……?」

「いえ、難しい顔で考え込んだと思ったら、一切反応を返さなくなったもので……」

「うん、少し……分からなくなってな」

 

 そう言って溜め息を吐いて、今度は両手で顔を覆う。

 全体を揉み解すように上下させ、そうして次に、前髪を持ち上げるように腕を動かす。そこで唐突に動きを止めて、焚火を注視した。

 ちろちろと鍋の底を舐める火先の動きを見ていると、次第に思考が麻痺したように固まる。考えようとする程に、何も考えられなくなっていった。

 

「ねぇ、アンタ……大丈夫なの? まだ調子悪いっていうんなら、テントで横になったら?」

「そのとおりです、ミレイ様。まだご気分が優れないなら、無理するような事でも……」

 

 ユミルとアヴェリンの二人から、心配そうな声音で言われたら、そうなのかもしれないと思えてしまう。

 だが実際、多少のダルさはあっても肉体的には問題ない。むしろ身体を動かして暴れたい程だっった。

 問題があるとするなら、精神的なものだ。

 

「いや、大丈夫だ。体調は問題ない。ただ……」

「ただ……、何です?」

「……何もかも億劫になってくる」

 

 その一言は周囲に衝撃をもたらしたようだ。息を呑む音すら聞こえたが、一つ弱音が吐き出されると、次々と口の奥から湧き出てくる。

 

「私に何が出来るっていうんだ……? 私はつまらない人間なんだ、大事を為せるような大人物という訳じゃない。そもそも荷が重いんだよ」

「ミレイ様、お気持ちは分かります。オミカゲ様から託されたもの、軽い訳がありません。お辛いでしょうと、気軽な慰めも出来ません。弱音とて、吐きたくなるのも当然というもの。しかし……」

「――違う。そうじゃないんだ。そんなもの託されたって、どうにか出来る事じゃないんだ」

 

 吐き捨てるように言って、顔を背ける。

 ミレイユは、そもそも日本で御影豊(みえいゆたか)として生を受けた。何かに挑戦した事もなく、程々の努力をして、程々の収入で、程々の趣味で生きていた。

 

 順風満帆の人生とは言えない。不満があるにしても身の丈にあったもので、もう少し給料が高ければとか、もっと休日が欲しいとか、その程度の些細なものだった。

 

 大それた野望なんて持った事もないし、何かを成し遂げたいと思った事すらない。

 程々に趣味を楽しむなどして生きていければ、それで良かった。それが身の丈にあった人生というものだった。

 

 それが、たかがゲームで遊んでいたというだけで一変した。

 デイアートという異世界へ降り立ち、自分がゲームで作っていたキャラクターそのものになり、そしてゲームと同じ世界を駆け回る。

 

 ミレイユに――御影豊にとって、異世界での暮らしはゲームと混同し、ごっこ遊びをする場と変わらなかった。姿形が女性だから、自然と話し言葉は女性に寄っていったし、その動きや仕草も同様に変わっていった。

 

 戦う事は不自然でなく、依頼を引き受け解決するのは当然という認識だった。受ける依頼は薬草採取から魔物退治へ、そして山賊団の壊滅などに傾き、より強大な敵への戦闘へと変わっていった。

 それがゲームと見分けが付かないほど自然になったのは、一体いつ頃だったろう。

 

 ゲームだからと大胆になれていた物事や、他人への接し方すらゲーム的だった事に気付いてからは、逆に恐ろしくなった。

 逃げ出したいと思うようになり、戦う事、そして死ぬ事が恐ろしくなった。

 

 それまでが、あまりに順調すぎたのもある。

 肉体的に優れ、覚えるのに苦労する魔術すら簡単に習得し、それを持って強敵を倒す。力を振るうのは快感で、魔術を覚えるのは全能感を覚えた。

 

 だが、唐突に気付く。

 いつだって自分は薄氷の上で勝利を掴んできたのだし、ゲームと割り切っていたからこそ大胆になれたのだと。死んだところでやり直せる、と頭から思い込んでいたところがあり、だが気付いてしまえば一瞬だった。

 

 命の奪い合いとは一方的なものではない。

 いつだって、自分が死ぬリスクを孕んでいる。そして武器を振るい、戦闘に身を置いている限り、そのリスクは永遠に付き纏うのだ。

 現世で交通事故に遭う確率など笑い話にしかならない程、非常に危険な綱渡りをし続けなければならない。

 

 それからは、この世界から逃げ出せないか模索する事になった。

 だが同時に、その手段だけは直ぐに思い至った。この世には全てを叶える全能の『機構』がある。

 

 帰りたいという決意は最初からあったが、それが戦闘での高揚感や全能感で追いやられていると感じると、帰還の準備を整えるのは早かった。

 

 そして実際、ミレイユは逃げ出した。

 それまでの全てから背を向けて、アヴェリン達もNPCだと言い聞かせ、全てはゲーム内の出来事だったと自分に言い訳して帰還したのだ。

 

 だがアヴェリン達が追って来た事で――いや、最初から神の思惑があった事で、全ては夢想の霧と化した。

 ミレイユの実感として、デイアートで行っていた大胆な行動は、全てゲームと混同していたから出来ていた事だ。それが実世界で、どれほど荒唐無稽に見えたとしても、ゲームならば許される。

 

 町端で喧嘩を見て見ぬ振りをするのが普通でも、ゲームならば仲裁したのち二人共地面に沈めても許された。それをするだけの実力と、そして実力を背景にした信頼があった。

 

 常識知らずの行動さえ許される。それが結果として良い方へ転ぶと、なお称賛されて推奨された。

 それもこれも、現実と混同して見ていた、大胆不敵さが根底としてある。

 

 ――メッキの勇気だ。

 自分一人の力量ではなく、自分の努力で勝ち取ったものですらない。

 ミレイユがアキラを買っているのは、それが理由だ。自分にはない眩しいものを持っている。

 

 ミレイユが残した足跡、成し遂げた偉業。

 それらがどれだけ自分の力量で成し遂げられた事か……。今となってはそれさえ分からない。

 

 ゲームではないと理解しているデイアートで、ミレイユは一体何が出来るだろう。それこそ無惨に敗北して、やはり逃げ出す事しか出来ないのではないか。

 

 逃げ延びたと思ったら、しかし捕まり再び連れ戻された。

 神々の思惑通りというのなら、その思惑から逃げ出せるとは思えない。

 もう成るようにしか成らないとさえ思う。

 

 ミレイユは、不思議なものを見るような眼差しを向けるユミルへ、自身へ落胆しながら息を吐いて言った。

 

「私は何もかも覚悟が足りていなかった。ゲームだと思っていたからな。そんな私に何が出来る。……何も出来やしない」

「ゲームってあれ? オミカゲサマとも何か話してたけど、結局良く分からなかったのよね。つまり、お遊びってコトでしょ?」

「そうだ……! 遊んでいただけだ! 何一つ――」

「なぁんだ」

 

 感情も露わに吐き捨てようとしたところで、ユミルはあっけらかんと笑った。

 一種の懺悔のような気持ちでいたというのに、それを事もなげに振り払い、面白い冗談を聞いたような反応で顔を向ける。

 

「それってつまり、本気じゃなかったってコトでしょ? お遊び感覚であれだけ出来るっていうんなら、むしろ期待できるってモンよねぇ」

「なに? 待て、ユミル」

 

 ユミルの一言に食いついたのはアヴェリンだった。

 

「あれだけの偉業を為しておいて、未だ本気ではなかったと言うのか、お前は」

「本人がそう言ってるもの。……そうなんでしょ? 覚悟も無く、腹も括らず、それで世界を三回ほど救っちゃうのよね?」

 

 そういう事もあった。

 世界を焼き尽くそうとする巨大な邪竜、全ての生物を闇の中に閉じ込めようとした魔族、人類支配を利己目的で目論んだ堕ちた小神。

 

 その全ては放置していれば、世界の存続が危ぶまれる程の事件だった。

 まだ全能感に酔っていた時期のミレイユは、神器を入手するという目的を果たす為、それに頭を突っ込んでいった。

 思えば、その何れも神々の誘導に寄るものだったのだろうが、今更知ったところで意味もない。

 

「何を言ってるんだ、何を勘違いしているか知らないが……」

「――いいから、腹括って覚悟決めろって言ってんのよ」

 

 へらりと笑っていた表情が、精悍に引き締められた。

 ユミルにしては珍しく、ミレイユに刺すような視線を向けている。その表情にはくだらない言い訳や言い逃れ、逃避を許さないと語っていた。

 

「アンタが覚悟なく力を振るっていたなんて、こっちはとっくに知ってんの。アクセサリー感覚で魔術を身に付けていた辺りからね」

 

 それはつまり、出会って間もない頃という事になる。

 魔術の使い方を勘を頼りに動かしていたのを、見咎められて無理やり押しかけ師匠のような形で教わる事になった。

 

「覚悟がなくてもあれだけのコトが出来たんでしょ? だったら、覚悟を決めさえすれば、それ以上のコトが出来るって寸法じゃないの。簡単なコトじゃない」

「だが……私の身体は、力は……」

「その力は、神の素体があるからこそだって? だから何よ。自力で手に入れた力を、馬鹿みたいな使い方をするヤツだっている。それを考えれば、よっぽど上等な使い方じゃない」

 

 ユミルの吐き捨てるような物言いに、今だけは咎める事なくアヴェリンも同意する。

 

「ミレイ様に救われた人は間違いなくおります。それが間違った力の使い方とは思えません。私とてその一人……いえ、ここにいる誰もが同じ様に思っている筈」

 

 見渡してみれば、確かに全員が頷いている。

 ユミルでさえ、軽く顎を引いて頷くような仕草を見せた。

 だがミレイユは、それに苦い顔を向けてやる。

 

「数々の偉業と持て囃すが、それだって神々の誘導あってのものだ。誰が私の意志だと証明できる? 全てお膳立ての上で、進む道を歩まされていただけだ」

「だったとしたら、アタシはアンタに殺されてた。神々が我が一族を邪魔者としていたからこそ、アンタは私達の前に現れたんだろうし、そこで殺されるまでがシナリオだった筈」

 

 ルチアもそれに同意して続ける。

 

「神々にさえ、全てが想定通りになんて出来ないって、そんなのミレイさんが世界を離れたところから理解できるじゃないですか。実際には行き当たりばったり、偶然に任せていた部分も多いと思いますよ」

「ミレイ様は、その御気質で多くの事を成し、そして御自身の力を正しく用いた。それを傍で見ていたからこそ、我らが傍にいるのです」

「……あの時言った台詞、もう一度言いましょうか? 築き上げてきた信用と信頼が常人とは違うし、その信頼をアンタは一度として裏切って来なかった。それが全て」

「私達がミレイさんに向ける信頼は、私達に向けられる信頼の裏返しです。単に貴女が強いからじゃないんです」

 

 方々からそう言われて、頭の霧が張れていくような気がした。

 極端な卑下が心の何処から生まれたものか、実際のところは分からない。神々を強大な存在として見るあまり、その実像と掛け離れたものを幻視していただけかもしれない。

 己の想像が肥大し、それで勝手に自滅していただけなのかも。

 

 ミレイユは髪に当てていた両手をそのまま乱暴に動かし、もう一度息を吐いてから天を仰いだ。

 



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決意と表明 その5

「かつては、その信頼を嬉しく思った。自分にその価値があるかは分からないが、その信頼を向けられるに相応しいだけの存在になろうと」

「いいじゃない、そうなさいな」

 

 ミレイユは力なく首を振る。

 言うは易しの典型だ、と陳腐な台詞を言うつもりもなかった。向けられたその時と、今この時とでは状況が違う。

 

 平穏で安全な日本、気楽に生きて行けると思う下地があればこその余裕だったように思う。その余裕を取り除かれて尚、気高く振る舞うのは難しい。

 

 結局、メッキはメッキでしかなかったのだ。

 だが、そんな後ろ向きの思考を先回りするようにして、ユミルは言う。

 

「気張んなさい。かつてのアンタ――オミカゲサマだって、やってのけた道でしょ。失敗はしたかもしれないけど、その覚悟は本物だった。それなら、アンタにも出来ない道理がない」

「そうかもしれないが……」

 

 今となっては、どうしてそのように動けていたのか疑問だ。

 だが少し考えてみれば、オミカゲ様は送還された時点で既にアヴェリンを失っている。違いがあるとすればそこで、その怒りや喪失こそが原動力となっていたのかもしれない。

 

 いつまでも煮え切らない返事をするミレイユへ、ユミルは諭すように言葉を落とした。

 

「アンタに救われた命だもの。いざという時は、この命を捨ててでも、アタシが上手いコトやってあげる。だからアンタも、やるべきコトをやんなさい」

「――無論、このアヴェリンも同じ気持ちです。この命、如何様にもお使い下さい」

「僕も、僕も同じ気持ちです! ミレイユ様に受けた恩義は、僕にとってそれ程の……」

「やめろ!」

 

 流石に黙って聞いていられなくなり、ミレイユは声を荒らげて強制的に話を止めた。

 彼女らの信頼は嬉しい。それを向けられる事を誇らしくも思う。それが独り善がりのものではなく、双方向のものだと分かっているから尚更の事だ。

 

 だが、だからこそ恐れてしまう。

 そこまでの信頼を向け、そして向けられる相手を喪う事を恐れる。ユミルが口にした事は、オミカゲ様が異世界にいたとき実際やっていたからこそ、自分も必要ならそうする、という実感を持って言えた事かもしれない。

 

 ミレイユにとって、それは意外でもあったが同時に納得もできる。

 ユミルは損得の計算に、己の命も含めて考えられる人物だ。そうするべきと結論を下したなら、自身を犠牲にしてでも、ミレイユを逃がす位はやってのけるだろう。

 

 アヴェリンは言うに及ばず、ミレイユを護る為なら文字通り命を投げ出し、事を成そうとする。

 しかし、むしろそれこそがミレイユの恐れる事だった。屍を築き、その死を背負って生きる事。この先を進むという事は、そうなる公算が非常に高いと予想できた。

 

「私は怖い。お前達を死なせてしまう事が怖い。神々と戦い、しかし敵わず逃げ出して、お前達を喪うばかりで事を成せないのが怖い。それを考えれば、頭を掻き毟りたくなる。その上、その業を背負って千年生きろというのか……。次のミレイユに託す為、孔から出て来る魔物と戦い続けながら、それでも生きろと……」

「ミレイ様……」

 

 アヴェリンからの気遣う声を聞いた時、いつの間にか、視線は地面を向いていた。

 到底、弱気な表情は見せられない。情けない表情をしていると思う。だから顔は上げられなかった。

 

 ミレイユという存在は時の流れに囚われている。幾度も繰り返す流れを止めようと、都度ミレイユ達は挑戦して来た筈だ。しかし止められず、現世の崩壊すら招く要因となって、単に己を繰り返す流れから、逃げ出させる事だけが目的ではなくなった。

 

 数多のミレイユから受け取った重荷、そして世界を救うという責務、その二つが肩に伸し掛かり、到底顔を上げる事が出来ない。

 何故こうなってしまったのか、という悔恨のみが残る。

 

 元より何も持たない人間だ。何故か神の思惑に乗せられ、たまたま上手くいってしまっただけの一般人。そんな奴に託されたところで、上手く行くものではない。

 

 どうせまた繰り返すだけではないのか。それを思えば、仲間の命を預かっている以上、軽々しくやってやろうと言える筈もなかった。

 そこにユミルが、柔らかい口調で同意して声を向けた。

 

「確かにそうね、酷であるのは確かなのかも。自分の為に命を張った仲間がいたのに負け試合、その後の千年は消化試合……そんなのクソッタレよ。でもね、項垂れたって仕方ないでしょ」

「……分かってる」

「勿論、よくご存知でしょうよ。信頼が重い、命が重い、そんなの今更でしょ? アンタは何度でも世界を救った。覚悟も自覚もなしにやれてたんだから、今ここでやる気だしてやんなさいよ!」

「――口が過ぎるぞ、ユミル」

 

 言葉を吐き出す度にヒートアップしたユミルを、アヴェリンが固い口調で窘めた。普段なら激昂して掴み掛かろうとするだろうに、それがないのはユミルの言にも一理あると思っているからか。

 

「……良いコト? 黙って聞いているだけでいい、でも顔は上げなさい」

 

 言われるまま、ミレイユは顔を上げた。

 ノロノロとした動作だったが、それを非難するような言葉も視線もなかった。ユミルと視線が交わると、一本指を立てていた手をアヴェリンに向けた。

 

「コイツはアンタが誰より信頼する戦士でしょ? 立ち塞がる敵に容赦なく、どのような敵にも怯まず、決して諦めるコトなく立ち向かう。アンタの隣に立つ戦士として、これ以上頼りになる者もいない」

「……当然だな。私はミレイ様の一振りの武器として、望むままに打倒するのが務め」

 

 アヴェリンは大いに満足した顔つきで頷き、更に腕を組んでからも幾度か頷いた。

 ユミルは続けてルチアに指を向ける。

 

「高度な魔術制御と最上級魔術を使いこなす氷結使い。アンタの為と思えば、苦手な結界術だってモノにして見せた。高い学習能力もあって、魔術の研鑽も欠かさない。頼りになる後衛として、何度も助けてもらった」

「魔術の分析と、その行使ならお任せを。治癒術にだって一家言ありますよ」

 

 自慢気にルチアが頷いて、個人空間から取り出した杖を胸に抱く。

 ふわりと周囲を覆う繊細な魔力制御は、一瞬にして朝露を凍結させた。だが同時にミレイユ達へ、その冷気は伝わって来ない。小手先しか身に着けていない魔術士には、到底無理な芸当だった。

 

 次にユミルは自分の胸に手の平を当てて、自慢気に胸を張る。

 

「そして私が持つ多くの知識は、必ずアンタの役に立つ。剣術、幻術、死霊術……それに攻勢魔術。なんでもござれで、あらゆる状況に対応するわ」

 

 そして、とユミルがミレイユへ指を向けようとしたところで、残りの一人――アキラの熱意あり過ぎる視線を向けている事に気が付いた。

 ミレイユが気付いているくらいだから、当然ユミルも気付いている。

 

 他の二人同様、自分にも何か紹介してくれる事を願っているようだ。

 その熱視線に根負けしたように、ミレイユへと向けていた指をアキラへと曲げる。

 

「……で、アンタはアキラ。以上。それだけ」

「幾ら何でもあんまりです、他に何か言って下さいよ!」

「さっき、しれっと自分をアピールしたコト許してないからね。駄目と言われたら諦めるって言ってた癖に。あの流れだと許されると思った?」

「でも、そんな……だからって!」

「今はもう締めなんだから、そこで大人しくしてなさい」

 

 ユミルはシッシッと蝿でも払うかのように手を振って、ミレイユへと向き直る。

 

「……ンンッ、ゴホン。で、アンタは言うまでもなく――」

「この流れで続けるのか?」

 

 思わず口からついて出た言葉に、ルチアがブフォッと盛大に吹き出した。

 アヴェリンもまた苦い笑みを浮かべていたが、ユミルは頓着せずに胸を張る。

 

「いいでしょ、むしろアタシ達らしいじゃない。気勢を張って何かするって、そもそも向いていないのよね」

「ひどい開き直りだな」

「そっちの方がアンタも好みでしょ。アンタ好みに合わせられる、良いオンナなの、アタシって」

「あぁ、そうか。まぁ……分かった」

 

 ここで更に話の流れを変えるのも拙い気がして、とりあえず頷く。

 ユミルも満足げに頷いて、何事もなかったかのように話を続けた。

 

「……で、アンタの実力は誰しも疑うものじゃないでしょ。そして、これだけ頼れる仲間もいる。全てアンタ一人で考えて、そのうえ万事見事にコトを成せなんて言わないわ。アンタはアタシ達のリーダーよ。使いこなして見せなさい、それがアンタには出来る筈よ」

「それが例え、神々に対するものでもか」

「それが何であってもよ」

 

 ミレイユは笑う。

 その自信は何処から来るのか。あまりに簡単に言いのけてしまえるのは、責任を放棄しているからでも、未来が見えていないからでもない。

 

 ユミルには、それが出来るという自信があるのだ。根拠のない自信だったとしても、時にそれが身体を動かす原動力になる。

 アヴェリンもまた、熱の籠もった声で言った。

 

「微力を尽くすなどと、謙虚な事は言いません。我らならば出来る。あらゆる罠を噛み千切り、全ての壁を破壊して突き進む。そうせよ、とお命じ下さい。必ずやご期待に添えます」

「オミカゲ様が受け取った重荷は、貴女にしか背負えません。でも、私達なら支える事が出来る筈。一人で抱え込むのではなく、私達の肩に手を置いて下さい。私達四人で考えを合わせて、計画を練り直しましょう」

 

 ルチアからも続けて言われて、ミレイユはじんわりと胸が暖かくなるのを感じた。

 一方的に支えているとも、逆に支えられているとも感じた事はなかった。心の中で対等でいると思っていても、リーダーとして一つ上の位置にいるのだと思っていた。

 彼女らを支配し、上手く制御するのが務めだと。

 

 だが、違うのだ。

 ミレイユはいつだって支えられていた。ただ、メッキの上から触れられていたから感じられなかっただけで、いつだって彼女らはミレイユの身体に手を添えていた。

 

 気持ちを受け取っていた筈なのに、鈍感だった。あるいは、鈍感でありたいと、どこか責任から逃げる用意をしていただけなのかもしれない。

 ミレイユは天を仰いで息を吸い、そして盛大に息を吐く。

 溜め息ではない、自分の心を見直す為の深呼吸だった。

 

 オミカゲ様の最後の言葉と表情が思い出される。

 あの時、再びの送還を違う空を見て感じた瞬間――。

 重圧と共に現実へ直面し、メッキの覚悟で送還され、その為に拒否と逃避で魔力全てを放出した。あれは間違いなく狼煙の役割を果たし、ミレイユの位置を神々へと報せる事になったろう。

 

 悔やむと言えば、後悔ばかりが浮かび上がる。

 遠くへと逃したつもりでいるオミカゲ様の、その配慮にすら唾を吐くような行為だった。

 ――その彼女は、こう言った。

 

「お前は上手くやれ。……別れの(きわ)に、そう言われたな」

「ミレイ様……」

「やるさ、やってやる」

 

 一言、そのように口に出せば、腹の底からやる気が漲ってくる。

 メッキはメッキ、本物にはなれない。だが、本物に変えるだけの魔法をミレイユは持っている。それが目の前で向けられる仲間からの信頼だ。

 彼女らの視線には一点の曇もなく、それが本物だと信じている。ミレイユもまた、それを信じれば良いだけだった。

 

 そのやる気は熱を持って、先程まで消沈していたミレイユを押し流すかのように身体中を駆け回った。情けなく垂れ下がっていた眉にも力が入る。

 真っ直ぐにユミルを見つめれば、それだけで満足気に頬を緩めて頷いた。

 

「――お前達を頼る。必ず神々の思惑を打破してやる。どうか力を貸してくれ」

「元よりそのつもりよ」

 



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決意と表明 その6

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
いつもお世話になっております!
 


「アンタが決意と覚悟を決めたって言うんなら、それは大変喜ばしいわよね。ヤキモキもしたし、口悪く罵るような言葉も言ったけど……」

「そうだ、まずお前はそれを謝罪しろ」

 

 アヴェリンが視線厳しく睨み付けるが、それをミレイユがやんわりと止める。

 

「いや、あれは不甲斐ない私に活を入れる為にした事だ。悪役を買って出てくれただけとも言える。ユミルを責めるな」

「いえ、あれは言いたい事を好きに言っていただけです。自ら汚れ役を買って出たなどと、奴を好意的に、また過大評価し過ぎです」

「だったとしても、今だけは大目に見ろ」

「ハ……、その様に」

 

 ミレイユが少し厳し目に言えば素直に応じたが、その鋭い視線までは応じていない。憎々しくユミルを睨み付けながら元の姿勢に戻る反面、ユミルはどこ吹く風でニヤニヤと笑っていた。

 そこへ場を取り成すように、ルチアが声を上げる。

 

「正直に言って、ここに来て意志を挫くというのは、ちょっと意外でした。私はてっきり闘志を燃やすと言いますか……叛逆の意志を高めるとばかり思っていましたから」

「ミレイユ様の意外な一面という事なんですかね? 僕は強いミレイユ様しか知らないので、尚の事意外に思えたんですけど……」

 

 アキラもそれに乗っかって、口々に感想を言い合う。

 ミレイユの豪胆さはメッキの部分は確かにあるが、実力に裏打ちされた豪胆さでもある。実際、自分より強い相手と戦う事は珍しくなく、その壁を乗り越えてきたという自負もあった。

 

 しかし、それを用意された超えるべく用意された壁だと知った後では、その自信にも陰りが出た。果たしてどこまでが実力で、どこまでが運だったのか。

 自分は本当に強いのか。そこを迷った。

 だが仲間たちがそれを本物だと信じてくれる限り、ミレイユは自信を持って強いと応えられる。

 

 とはいえ――。

 自身の精神が鋼で出来ているとは思わないが、多くの事に無頓着だったのは確かだ。

 自信があるからというより、意識を割いていなかった、と言う方が正しい。無意識に当然と思っていた節があり、それは現世へ帰還した後も変わらなかった。

 

 それが神々との対決という現実を受け止めた途端、気弱で消極的な思考になった。

 今までの自信に溢れた姿も、それはそれでミレイユの真の姿だ。誰も自分に敵わない、とまでは言わないものの、間違いない強者であるという裏打ちもあった。

 

 神々もまた強者だ。

 世界に働きかける力しかり、その権能しかり、戦闘能力しかり。

 だが、その力は決して敵わないものでも、届かないものでもない。神々の全てが戦闘に長けている訳でもないし、司る権能故にそもそも戦闘を好まない、という神もいる。

 

 大神と小神という上下関係を明確にした尊称を持っているが、その実力にまで大きな差を持たない。戦う相手を選べば小神だって大神を上回るし、ミレイユ達は実際に小神の一柱を倒してもいる。

 頭から決して敵わない敵だと認識する筈もなく、戦意を挫かれる目標でもないのだ。

 

 その事に違和感を抱かなかった事こそが、違和感だった。

 ユミルは神妙な顔つきで顎先に手を当てたミレイユを見て、不思議そうに小首を傾げた。

 

「どうしたのよ、そんな顔して……」

「一つ思い至った事がある。オミカゲに聞いた事だが、この身体――神の素体には、幾つか調整されたものがあるらしい」

「……そうね? 自力でマナを生成したり、無頓着に魔術を習得できたり、他人に魔術を転写したり……。普通じゃ考えられないコトするのも、つまりそれが理由でしょ?」

 

 ユミルが傾げたままの頬に、指を一本当てながら言った。

 それに頷いて見せてから、話を続ける。

 

「そうなんだが、それだけじゃない。肉体的な能力だけでなく、精神の部分にも作用する調整が入っている。つまり、そもそもの目的が魂を器の中で熟成、昇華させ、昇神させる事が目的なんだから、気弱なままじゃ困る訳だ」

「あぁ……。アンタがそうであるように、外から来て魔物を初めて見て、それで逃げ出すようじゃ話にならないと……」

「うん。だから精神が麻痺しているというか、恐怖に対して鈍感な部分があるのだと思う。それと同時に、強敵や困難に立ち向かおうとする意志が根付いているらしい」

 

 ユミルが更に小首を傾げ、指の先が頬の中にめり込んでいく。

 

「世界を三度も救う結果になったのも、その困難や強敵に立ち向かう意志があったからって? ……アンタ、また話を混ぜっ返す気? 自分の本当の意志じゃなかった、ホントは違うって?」

「そこじゃないですよ、ユミルさん。もっと簡単な違和感があるでしょう」

 

 ルチアが柳眉を寄せて苦言を呈した。既にミレイユの言いたいことを理解しているルチアが、憐憫の混じった視線を向けた。

 

「世界を焼き尽くそうとした程の難敵、世界を闇に閉ざそうと画策した脅威、そして人類支配を目論だ小神……。それに対して臆さず進んだミレイさんが、神々への敵対に直面しただけで、あれほど萎れるなんて異常ですよ」

「あぁ……、そういうコトね。初めから困難に立ち向かえるようになっているというのなら、ここに来て神々と敵対するに対しても、同様に立ち向かう意思を見せていたって言いたいワケね……?」

 

 ミレイユは頷く。顔を両手で覆うように上下させ、顔を軽くマッサージしてから手を離した。

 

「叛逆の意思を抱かないよう、調節されていると見るべきだろう」

「なるほどねぇ……。十分有り得る話だわ。自己保身の塊みたいな神々が、その危険性を考えなかった筈がない。小神へと至った後も下剋上を考え出す輩が出ても不思議じゃなく、だから予めそういう安全装置を取り付けていたと……」

「ユミルさん、以前言ってましたよね。小神は必ず大神に負ける、と……。これってつまり、そういう事なんじゃないですか? 神々へという括りではなく、大神に叛逆できない、という」

 

 ユミルは首の位置を元に戻し、腕組して何度も頷く。

 

「そうね……。そうだわ、だからこそ小神の討伐を果たしているワケだしね。この子は……」そう言ってミレイユへ複雑な視線を向ける。「多分、予想以上の出来栄えだったんじゃないかしら。アタシが言ったコト覚えてる? 明らかに才能というだけでは、片付かない力量を持つ者が現れる、って話」

「えぇ、覚えてます」

 

 ミレイユはその話に覚えがなかったが、だがとりあえず続きを待った。

 話の流れから、それが素体を持つ者だと察しが付く。

 

「でもね、この子ほどの実力者ってのは居なかったのよ。頭一つ――いいえ、下手すると五つは抜けてるんじゃないしら」

「それは誇らしいな」

 

 自身の主人が他と類を見ないというのは、その誇りをくすぐるものらしいが、言いたいことは別にあるだろう。

 ユミルが白けた視線をアヴェリンに向けてから、改めてミレイユを見る。

 

「だから色々欲が出たんでしょうよ。本来なら忸怩たる思いをしていた輩への、始末屋として利用するコトを思い付いた。更なる高みへ昇らせるコトも出来るし、邪魔者は消えるし、めでたいコトばかりよね」

「邪魔者……。その三つ全てがそうだったとすると……」

 

 アヴェリンが口元に手を添えて、ボソリと呟いた。

 竜と神とは、そもそも仲が悪い。というより、竜の姿を今の蛇に酷似した姿に歪めたのは神々だから、初めから仇敵の扱いだ。しかし、たった一匹で世界に対して戦いを起こすような竜であれば、当然神にとっても脅威の相手だ。

 

「戦って勝てるか、勝てるとして犠牲が出るか……。そう考えたなら、とりあえず痛手にならない相手をぶつけよう、となった訳か」

「年若い個体はともかく、長く生きた竜は脅威。腕一本失おうとも討伐してやる、という熱意は、神々には持ち合わせていなかったんでしょうね」

 

 アヴェリンは吐き捨てるように悪態を付く。大いに顔を顰め、苛立たしげに膝を揺らした。

 

「では、世界を闇で覆うというのも……。これはユミルの方が詳しいな」

「……そうね。あれの目的は神々の視界から逃れる為だったから、その為に闇を欲したというのが真相よ。そこから逆劇を恐れたというのも嘘ではないでしょうけど……、目的は他にもあったかも」

「つまり……?」

 

 ユミルがミレイユの目を射抜く。その心情を伺うように、そして()()()を伺うように。

 

「オミカゲ様のコトを思い出してよ。アタシが眷属に迎えるコトで、絶対命令権を行使してオミカゲ様の意思を固定させたでしょ。決して枯れぬ執念を持ち続けるように、と。つまり、神の素体の精神調整すら打ち抜くのよ」

「あぁ……」

 

 得心の息を吐くと共に、ミレイユは乱暴に自分の頭を掻き乱す。

 その調整を振り払えないと分かっていても、そうせざるを得なかった。

 

「そんなの邪魔でしかないじゃない。今まで黙っていたのは、そもそも最後まで生き残った我が一族が、それなりに脅威だったコト、下手に差し向けて命令権を取られたら困るから、が理由じゃない? 一族が隠れていたのも勿論その一つでしょうけど、でも積極的ではなかった。……小神すら近寄って来なかったのも、その理由かしらね」

「だが、始末屋として使える程の、未完成品がここにいた訳だ。小神を失うのは惜しい、だが素体ならば替えが利くと」

「そうね、遂には小神すら下す程に昇華した、アンタがね。――そして人類支配を目論んだ小神っていうのも、ここまで来ると……」

「大神にとって叛逆に近い何かを……最低でも不利益をもたらす何かをする、と判断されたから、適当な理由をでっち上げて処分を決めた訳か。そもそも人の世は神の箱庭だ、既に支配しているとも言える」

「……だと思うわ。小神なら自らでも手を下せるんでしょうけど、でもそれでより良い素体が出来上がるなら、試してみたいと思うものじゃないの? いざとなれば小神相手なら介入しやすいんでしょうし……」

 

 アヴェリンが唸りを上げて腕を組んだ。

 強敵と戦えるのなら文句はない、という意識が強い彼女だが、流石にこれは腹に据えかねたらしい。自身だけのみならばともかく、それがミレイユを利用するものでしかなかったと理解して、苛立ちを露わにしている。

 

「それら全ては大神にとって厄介者で……つまり私達にとっては味方になり得た者たちだった訳か」

「今更言っても仕方ないですが……、惜しいですね。それにユミルも、もっと詳しく言ってくれれば……。いえ、責めるつもりはないんです、ただ……」

「分かってるわよ。でもね、父はそれを理解して選んだの。一族の滅亡は最早避けられない――計られたのよ、都合の良い餌をぶら下げられ、それに食い付いたヤツがいた。有能な始末屋も見つかったのも理由でしょうね」

 

 遣る瀬無い思いでミレイユは息を吐く。

 個人的にユミル自身から話は聞いていたし、その気持ちの整理もついていると知っているが、しかし改めて神の思惑を知ってから聞くと、また胸に迫る思いがする。

 

「……ここまで全て狙いどおりか? あらゆる筋道が神の掌の上か? 私達は結局、良いように転がされていただけだったのか?」

 

 ミレイユは改めて胸が重くなるのを感じた。

 決意を胸に秘めた筈だった。だが結局、全ては掌の上、何も出来ないのだと悟らされただけだ。

 眉間に皺を大きく刻み、万感の思いで溜め息を吐いた。

 



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決意と表明 その7

「そうとは思えません」

 

 キッパリと断言したのはルチアだった。

 形の良い柳眉を逆立て、項垂れようとしていたミレイユの目を射抜く。

 

「ユミルが言っていたじゃないですか。それならどうして、ユミルさんが生き残っているんです。一族全てがユミルさん一人を生き残らせるよう、何か動いていたのかもしれませんけど、全てが計算通りなら、それさえ不可能だった筈でしょう?」

「それは、そうだな……」

「何よりミレイさんを世界から逃した。使い勝手の良い始末屋として、利用する側面があったのだとしても、有力で有能である事は認めている訳じゃないですか。世界を超えて取り戻そうとすらした。全てが掌の上だったら、こんな失態犯しませんよ」

「それも、そうだな……」

 

 ミレイユの同意を得て、ルチアは満足気に一度頷き、更に続ける。

 

「ユミルさんはこうも言ってました。ミレイさんほど優れた素体はいなかった、と。神に至るまでもなく、小神を下すというのも相当な話ですよ。あの時戦った小神の権能を考えると、決して戦闘向きではなかったとは思えませんし」

 

 それもまた確かだった。

 共に死力を尽くして戦った『堕ちた小神』は、何度ももう駄目だ、と思える程の強敵だった。明らかに戦闘に長けていて、ミレイユを残して他は全員膝を付いていたような状態だった。

 

 相手が本気であったか、今となっては想像する他ないが……それでも本気だったと思う。火の粉を払う程度というのではなく、その全力を持って力を振るっていたように感じていた。

 だが、ミレイユという素体はともかく、アヴェリン達が生存を許されていた事を思うと、その命を奪う事までは消極的だったのかもしれない。

 

「もしもですよ、小神まで至った事だけが重要ではなく、その力量までが加味されるなら……。ミレイさんは他の誰より、類を見ないほど強力な小神として生まれ……、そして他より類を見ない炉の役割を果たすのではないかと……。そう思う訳です」

「馬鹿な! その為に世界を超えて追い回すというのか!」

 

 アヴェリンが遂に堪忍袋の緒が切れて、立ち上がりざまルチアに怒鳴りつけた。

 ルチア本人も恐縮した素振りを見せたが、怒りを向けているのはルチアと言うより、その先にいる神に対してだ。

 

 だからルチアもすぐに冷静になって、アヴェリンへ接する態度にも変化がない。

 そして、ミレイユは思う。その推測が全くの間違いだとも思えない。

 

 小神という種別の中にもランクがあり、それによって炉の出来上がりにも差があるとするなら……。あるいは炉から生成される世界を存続させるモノに差が出るなら……、より良い炉を欲するのも当然かもしれない。

 

 ミレイユはアヴェリンを落ち着かせ、隣に座らせて肩を撫でる。

 アヴェリンの憤りは尤もで、ミレイユもまた同じ様に憤りを感じていた。感情が爆発するより早く鎮火したように感じていて、それもまた精神調整が神への怒りを鎮めた所為なのかもしれない。

 

「どこまでが狙いだったのか……、それは分からない。だがユミル、お前はこうも言っていたろう。神々は娯楽を求めてる」

「言ったわね。……ちょっと待って。もしかして、そういうコト?」

「予め計算立ててはいたんだろうさ。だが、そこに遊びを混ぜていた。魂一つ、素体一つ、それがどう転ぶか見て楽しんでいた部分があったんじゃないのか。最後の最後、『遺物』を使って選ばせるなんて、その最たるものだろう」

 

 驚愕するような呆れるような表情で固まっていたユミルは、それから数秒してからようやく再起動を果たした。ミレイユのように頭をガリガリと搔いて、それから乱暴に息を吐く。

 

「そうよね、もっと確実な手段はあった。そして逃がす手段なんて用意する筈も、理由もなかった。……ああ、そう。遊び心ね。はいはい、なるほど。自らに対して脅威かどうかは二の次、良い駒が出来たからそれで遊ぼうとか、その程度の理由だったって……!?」

「それなりにルールはあったんだろうさ。自分達が楽しく遊べる範囲でのルールは。だが、駒が盤外へと飛び出してしまった。それは許せない、認められない。……そういう事なんじゃないのか」

「あり得ます」

 

 ルチアは胸の前で両手を組んで、それを顎の先に押し当てて頷いていた。寒さから身を縮める為に行った動作なのだろうが、それではまるで敬虔な信者の祈りのように見える。

 だが、この時の心情と動作では、そこに齟齬がある気がしてならない。

 

 神々が自ら何かを行う事は少ない。水害などを始めとした猛威から守ってくれる事はないが、猛威を振るった事はある。

 その原因は神ではなく、地上に住まう全ての者にある、という考えを持つものは多く、だから日頃の平穏に感謝を示して祈りを捧げるのだ。

 

 世界の真実、神の真実を知ったルチアからすれば、その神に対して祈りは向けられない気分だろう。実際この世界しか知らない者たちかすれば、他世界から魂を拉致しようと自分達の利益になるというのなら、それを煩く言う者はいないかもしれない。

 

 だが、その裏で嘆き悲しむ人がいると知ったらどう思うだろう。

 やはり見知らぬ他人、知った事ではない、というかもしれない。だが、ルチアにとっては当事者、そしてミレイユの事でもある。

 到底、冷静ではいられない。

 

「神の傲慢さは、それが自然で当然だと思っていました。山の噴火、津波に恐れても、怒りを向ける事はない。病さえ治癒していれば務めを果たしている、という按配です。それを祝福と思って感謝もしていました。でも、正しく民を守護して導く神も、実はいるのだと知りました……」

 

 そう言って、ルチアはミレイユの顔を見た。

 ミレイユというより、ミレイユの奥に見えるオミカゲ様に対してのものかもしれない。

 

「日本での暮らしは衝撃でした。多くの刺激を受け取りましたが、神への敬意と感謝の違いが何より大きい。あそこまで幾つも神社を作って、それに祈り、そして笑顔で信者同士が語り合う。そんな信徒を持つ神は、こちらにはいません」

「……それもそうね。神社……神宮の中は笑顔で溢れてた。誰もがオミカゲ様に敬意を抱いていた。畏れも無かったワケではないけど、陰りない尊崇を向けていたわね」

「ああいう神が私達の上から見守ってくれているのなら、そりゃあアキラみたいなのが生まれますよ」

 

 突然水を向けられ、目を大きく開いて自らを指し示す。

 それにルチアは頷いてやりながら、自分もまた指差す。

 

「だってあなた、実際オミカゲ様の為に命を張って守っていたでしょう? あなただけじゃない、他の隊士達も、巫女も女官も、あの戦いに参加していた」

「そうね、頼りないとは思ったけど、でも大したものだとは思ったものよ」

「それって一部の狂信者が勝手にやってた訳じゃないですよね? 誰もが自らが積極的に護りたいと思って動いていたんでしょう?」

「勿論、そうです」

 

 アキラが断言して頷くと、ルチアは眩しいものを見つめるように目を細めた。

 

「こちらに同じ様に動ける信徒は多くありませんよ。神から勅命を受ければ別ですけどね、声を掛けずに自主的に動けるのは狂信者だけです。それも一等頭の可笑しい類いの輩が……」

「そう……なんですか? 沢山の神々がいるのに」

「数がいるのが問題なのかもしれませんけどね。自己保身的で、全ての神が仲良く手を繋ぐ訳でもありませんし。敵対する間柄だと信徒同士で代理戦争もありますね。なんというか、頭上に頂いて安心できる存在ではないんですよね……」

 

 ルチアが苦い顔をして言うと、似た表情でアヴェリンも頷く。

 

「それが当然と思っていれば不満もなかったが、オミカゲ様の在り方を知ってしまうと日本国民が羨ましくなる。神の機嫌を伺って供物を捧げるのではなく、感謝と尊崇から捧げられるというのは私達の部族になかった。それがミレイ様と知ってしまえば、尚の事……!」

 

 話している内に熱がこもり、握った拳がふるふると震えた。

 アヴェリンがミレイユへ向ける忠誠心は本物で、そして仕える事を誇りと思っている。その主人が神として民の上に君臨し、そしてその民の大多数から尊崇を向けられているとなれば、感動の一言では言い表せないものらしい。

 

 ミレイユは話を聞いている間に、むず痒くなって背中を揺らした。

 口元を両手で覆いながら、意味もなく頬周辺などを擦る。

 そんなミレイユを見ながら、小さく笑ってルチアは続けた。

 

「話が脱線しましたね。その実態が見えてくる程に思ってしまうんです。正しい神がいたら……もしかしたら、こんな事態にはなっていないのかもしれないと。献身を向け、そして向けられる健全な上下関係があったなら、こんな殺伐な世界にはなっていなかったんじゃないかと……」

「つまり、ルチア……お前はこう言いたいのか」アヴェリンがその目を射抜く。「我々には正しい神が必要だと」

「何を言ってるんだ? どういう事だ?」

「それは……」

 

 アヴェリンが口元を覆ってミレイユを見る。その目には熱く輝く期待が渦巻いていた。

 ユミルからの視線を感じてそちらを向くと、新事実を発見した学者のような目つきがあった。

 

「なんだ……。どうした、お前ら。何だか怖いぞ」

「ねぇアンタ、この世界……どう思う?」

「言ってる意味が分からない」

「そうね、広義が過ぎたわね。神の数がちょっと多すぎると思わない?」

「いや、元より日本には八百万の神という信仰もあるしな……。十数の神々はむしろ少なすぎるぐらいで……」

 

 日本に限らず世界には様々な神がいた。

 それは真実世界に根を下ろし、人を支配し導く存在でなかったかもしれないが、しかし多くの神話が実在した。そこに登場する神々の数や種類は豊富で、とても十数で収まるものではない。

 

 それを思えば、確かにデイアートの神々は多くないのだ。

 だが、そんなミレイユの言い訳染みた返答を、切って捨てるようにユミルは言う。

 

「はぐらかすの止めてちょうだい。実在する神々が、己のシェアを奪い合っている現状が不健全で、そしてだからこそ自己保身と信者の奪い合いなんて発生してるのが問題なのよ」

「……そうか? そうなのか?」

「世界の存続……御大層なお題目に思えるけど、これって本当だと思う?」

 

 聞かれたところで返答に困った。

 地球に生まれ日本で育った身としては、世界とは即ち惑星だと理解している。その惑星の存続に、エネルギーを注入する必要があるとは思えなかった。

 

 資源の枯渇、環境汚染から始まる諸問題、惑星寿命を縮める原因は幾つもあるが、それを外からエネルギーを与えて存続、と言われても疑問に思える。

 

 だが、神々が実在し、魔術が存在し、マナが存在する世界では、これが当て嵌まらないとも思うのだ。魔法的エネルギーは何でもありだ。そういう事もあるのかも、と漠然と納得できる。

 とはいえ――。

 

「……今となっては疑わしい。何もかも嘘だとは思わないが、何かを信じるというには、神は私に牙を向けすぎた」

「そうよね。アタシはね、さっきこう考えたの。世界の存続ではなく、神々の存続に必要だから、炉を求めたと」

 

 その一言は、まるで物理的な衝撃を持つように、ミレイユの胸を打ち抜いた。

 もしかして、まさか。それならば、或いは――。

 そう言った考えが頭の中を巡り、そしてルチア達はその言葉に大いなる賛同を示しているようだ。

 

「ねぇ、そう考える方が自然な気がしない? 世界なんてあやふやなものより、自分達の存続を優先させる方が、凄く()()()じゃないの」

「だが、それじゃあやはり、遊び心について疑問が残る。幾らか駒に選択肢を与えるのは理解出来ても、必要な炉を逃がす手段を用意するとは思えない」

「それは確かに……。えぇ、同意するわ。まだ全てを読み切ったワケでもないでしょうし、他にも何か思惑が隠れていたりするのかもしれないわよね。もしかしたら、全く違う別方向に考えが向いていたりするかも……」

「そうだな、その可能性も十分ある」

 

 何を言いたいのか、言い出すつもりなのか、それとなく察したミレイユは、その決定的な言葉を口に出来ないよう逃げ続ける。

 どうにかはぐらかせないか、と思っていたし、いっそこの場は一時退散しようと思った程なのだが、腰を浮かすより前に隣のアヴェリンが肩を捕まえてきた。

 

「な、何だ。離せ、アヴェリン」

「いえ、ミレイ様。ここはどうか、お聞き下さい。持って回った言い方は止しましょう。――貴女様には、どうか我らの神になって頂きたい……!」

 



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決意と表明 その8

「ば、馬鹿を……! 何を言い出すんだ」

 

 ミレイユは当然、平静ではいられない。

 ここに来たのは、あくまでループから抜け出す為、そして神の思惑を止める為だ。ミレイユの身柄を求める意思を挫けば勝利となるのだろうし、送り出した神造兵器も回収できれば尚喜ばしい。

 

 完全にミレイユとオミカゲ様、そして現世への干渉を止める事が目的で、そして全てが丸く収めれる事が出来たなら、もしかすると現世への帰還も叶うかもしれない。

 

 元よりミレイユが現世に戻りたい、と願った事が発端だ。

 その思いは今もある。この世界が嫌というより、現世の方が居心地が良い。どちらで末期まで過ごしたいか、と言われたら、やはりミレイユは現世を選ぶ。

 

 その帰還の願いを、未だ捨ててはいない。

 何もかもが不利な状況、未だに神を挫くという目標までの道筋を見つけていない。だが、可能ならば帰還したい、という希望は未だに胸の奥で燻っている。

 

 そんなミレイユの心情など無視して、ユミルは得意満面の笑顔で言った。

 

「一矢報いるついでにさぁ、他の神、蹴落としちゃいましょうよ。……うん、全てじゃなくて良いかもね。海神とか寝ててばかりで無害だし、過去四千年で起き上がった事実もないし。神が飽和状態で互いが邪魔で、でも炉を使って解決してるっていうんならさぁ、そもそも数を減らしちゃいましょうよ」

「神殺しは最後の手段だろう。私と現世への手出しを諦めさせれば解決なんだから」

「馬鹿ね。説得一つ、脅し一つで大人しく引っ込むワケないじゃない。その場は笑顔で握手して、背中から刺させるのが神ってもんよ。そういう醜悪な奴らがね、いらないっていう話なのよね」

 

 ユミルは鼻に皺を寄せて吐き捨てる。

 その言葉には憎悪すら乗っている気がした。長く生きた彼女とその一族には、そう考えるだけの根拠がある。だが、神殺しはともかく、この地で神として根を下ろす、というのは一時の判断で決められないものだ。

 

 だが、アヴェリンは更に身を寄せて言い募る。

 肩に手を置いた手を離し、ミレイユの手を両手で包むように握って来た。

 

「貴女様が正しく我らの上に立ち、我らを護り、導いて下されば、何を恐れる事がございましょう。無論、我らとてただ護られるばかりでは御座いません。尊崇を信仰し御身の守護を奉ります」

「いや、待て。話がおかしいぞ」

「ミレイ様に、我らのオミカゲ様となって頂きたいのです。あの日本国のように我らの頂に立ち、この世を導いて下さい」

 

 ―――

 

 考える程に、それを口に出す程に熱が入り、興奮状態になった二人を宥めるのは相当な苦労だった。だが単に熱に浮かされ意見を推したくらいで、ミレイユとしても素直に頷けるものではない。

 げんなりとしながら膝の上で頬杖を突き、すっかり冷えたお茶を啜る。

 

「大体、信仰を集めるなど簡単な事ではないだろう。現世と違って、それこそ競合相手は多数いる。ユミルが言うように、別の信徒が騒ぎ出す。神を殺したとして、その信徒の暴走は必ず起こる」

「相当な混乱が起きるでしょうね……。神が一柱失われる事は、歴史上起こりうる事なので、それほど大きな騒ぎにはならないかもしれませんけど……弑し奉る、その総数は、もっと多くなるのでしょう?」

 

 ルチアの言葉を引き継いで、ユミルは頷く。

 

「最低で半分、それは必要でしょうね。話の通じない相手がゼロとは言わないけど……、通じるとしても、まぁ穏当に済むものでもないでしょうし。とはいえ実際的な問題、話せる相手というなら小神の方でしょ」

「味方に付いてくれるかもって、ユミルさん言ってましたね」

 

 合いの手を挟んだアキラにも頷いて、ユミルは続けた。

 

「どういう理由を聞かされて小神にまで至ったかは知らないけどさぁ、その真実を知れば大神におもねる可能性は高いと思うのよね」

「……思うんだが」ミレイユは目を細めてユミルを見た。「お前、私怨が多分に含んでないか?」

「含んでるわよ、当然でしょ。一族郎党皆殺しにされて、恨みに思わないヤツなんている?」

「それは……そうだな」

 

 ミレイユは深い溜め息を吐いて目を瞑る。

 ユミルの一族に寿命はない。生殖で増える事もないが、増やすとなれば伝染病のように増殖していく。神々はかつてそれを良しとし、定命と長命、そして無命との争いを扇動したと言う。

 

 結果として無命が勝利し、地に無命ばかりが溢れた。世代交代が行われなくなり、生産は停滞し、一つの時代が終わろうとしていた。

 

 無命の――ユミルの一族が王族として立ち、時代の勝者となった筈だが、その全てをひっくり返したのも神だ。詳しい理由はユミルも知らないと聞いた。

 ただ結末が気に入らなかったのか、一つのゲームが終了し次へ移行したのか、あるいは世界の有り様として不健全と判じた神がやり直しを求めたのか、それすらも分からない。

 

 だがそれ以降、ユミルの一族は日陰者として追いやられ、その数を増やせないよう病毒の加護を与える事で封じた。正しくは病でないのかもしれないが、その様に呼び習わせば同じ事で、以降新時代では忌み嫌われる存在として、狩られる側となった。

 

 その様に、かつてユミルは、ミレイユへ語ってくれた。

 数が増やせないなら、突きぬ寿命があっても減り続けるしかない。最終的に残ったのは三十人程度でしかなかった。

 そして誰の目にも映らない絶海の孤島で隠れ住む事になり、そうしてユミルの一族は長い時間人々から忘れられるまで、そこに留まり続けていた。いつしか伝説、伝承の存在になるまで。

 

 かつての栄華に思いを馳せれば、現状は実にみすぼらしく嘆かわしいと思ったことだろう。

 一族を纏め上げるユミル親子は良く我慢し、他一族を宥めていたが……最終的に一部の暴走を許す事になり、それが一族滅亡を招いた。

 

 ユミルからすれば数千年前の事を持ち出されて、いつまでも虐げられていたようなものだ。復讐したいと言うのなら、その怒りも正当なものだろう。

 恨みを晴らしたいと言うなら、一部ミレイユの目的と合致するから協力もしたいと思うが、言うまでもなく神殺しは簡単な事ではない。

 

「……まぁ、お前の気持ちは分かった。手を引かせる説得を諦める訳でもないが、お前の意見は尊重しよう。小神を味方に付けるよう動く、というのも良いだろうさ。いずれにしても、所在すら知らないので、話をしようにも出来ないが」

「まずそれより、神として立つコトに賛同してよ。アンタに世界を変えて欲しいの。この世界の在り方をね。その為には、人の身のままじゃ不可能でしょ」

「そうは言うがな、そんな簡単に……」

 

 ミレイユは頭痛を感じてコメカミを親指で押す。

 この頭痛が心労から来るものか、精神調整に寄る叛逆を抑制するものか分からなかったが、どちらにしても気の疲れる問題だ。

 

「大体、意思一つで成れるものでもないし、成ったところで小神でしかないだろう。結局、大神に逆らえない事には変わらない。味方に付けるという、小神にしてもそうだ。積極的な味方は難しいだろう」

「まぁ……、そうね。あくまで見てみぬ振りしか出来ない、っていう程度で留まりそう。それじゃ、まずはそこから解決しましょうか」

 

 随分と簡単に言うので不思議に思って顔を上げると、ユミルが立ち上がって近づこうとしてくる。アヴェリンも不審に思って腰を上げると、ミレイユの前を塞ぐように立つ。

 

「待て、何をするつもりだ」

「だから、オミカゲサマの時と同じよ。言ったでしょ、アタシの絶対命令は精神調整すら貫く。神々への叛逆する意思を、千年持ち続ける程に強固なものよ。このままじゃ、神に対峙した時点で戦闘不能にすらなりかねないわ。それを解消しないと」

「それは分かるが、同意もせずにお前の眷属になどさせられるか。大体、それだとミレイ様の望みではなく、お前の望みを優先される恐れがある。軽々に許される事ではない」

 

 アヴェリンの懸念は尤もで、一度眷属になれば何度でも命令の追加、修正が出来るだろう。オミカゲ様の時は、既にユミルが亡き者となっていたから、その恐れはなかったが、この状況となれば話は変わる。

 

 小神へ攻撃できる事は実証済みだが、大神へは不可能だろうという推測は自然と成り立つ。その意志を持つだけで消極的、後ろ向きになるぐらいだから、直接対峙すれば武器すら抜けない事もあり得た。

 

 だから大神と敵対するなら、遅かれ早かれ、ユミルの絶対命令を受け入れる必要がある。

 だが正直な所、何をされるかと緊張する気持ちの方が強い。何を言われても実行せざるを得ない、というのは心理的に拒否感が生まれるものだ。

 これが仮にアヴェリンだったら安心だったのだが――。

 

 思慮に耽っている間にも、ユミルたち二人の言い争いは続く。

 ミレイユもまだ考えていたいし、その諍いで時間を稼ぐにはもってこいだった。

 自身の決意を固める為にも、しばらくの間、放置して思考の海へ没頭した。

 



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決意と表明 その9

「――そう簡単に認められる訳がないだろうが! 何を命令するか分かったものじゃない!」

「だから、何度も言ってるでしょ。必要なコトで、それしないと意思を挫かれるんだから。気を抜いた瞬間、その場にへたり込んだりされたらどうすんのよ」

「確かに、いずれ神々と対峙する時までには必要な措置と認めよう。その時になって戦えないでは困るし、下手をすると我らを攻撃してしまう可能性すらある。だがな、やるべきは決して今じゃない筈だぞ!」

「だから、それが間違いなんだって。神々はあの子の帰還を知ったんだし、あの場に留まり続けているなんて考えてもいない。きっと捜索を続けているでしょうし、今この瞬間だって安全だとは言えない。遠く離れるより前に、捕まったりしたらどうするのよ?」

「安々と捕まったりなどするものか、それは過剰な不安というものだ! 何が来ても押し返せる。最悪でも逃げ出すくらいは出来るだろう!」

「へぇ、でも奴らだって本気なら、アタシ達さえ手に余る輩だって来るかもよ?」

「簡単に言うがな! 我らを下せるような相手は早々いない! 一体どこから連れて来る気だ!」

 

 放っておけばいつまでも続きそうな言い合いに、ミレイユもいい加減飽き始めて来たところだった。アキラも二人をつまらなそうに見ていたし、ルチアも呆れて新しくお茶を温めて、ミレイユに手渡して来た。

 

「いつまでやってるつもりなんですかね、あれ。ミレイさんが一言やめろと言えば、それで終わるじゃないですか。いい加減、話を纏めてくださいよ」

「そうは言ってもな……。心の整理に時間も欲しい。結構、勇気がいる事だぞ。誰かの支配を受け入れるというのは」

「相手がユミルさんっていうのも、また考えさせられるポイントだと思いますけど……。でも実際、悪用なんてしないと思いますよ。お酌する事くらいは要求されるかもしれませんけど、悪戯の域を超えた事をすればどうなるかなんて分かり切ってますよ。だから、心配する程の事でもないと思うんですよね」

「……そうなんですか?」

 

 いい加減二人の近くで罵詈雑言を聞くのも耐えかねたアキラが、近くに寄って来て首を傾げた。

 ルチアは不愉快そうに眉根を寄せ、それから諭すように言う。

 

「命令が絶対だからこそ、その扱いは重要だって話ですよ。信頼を預けた相手なのに、理不尽な命令をするっていうなら、それはつまり裏切りですから。悪戯の範囲で命令しても、度が過ぎれば笑えないですし、同様に数も多ければ不興を買う。アキラだってそうでしょう?」

「そうですかね……。それがオミカゲ様からの命令なら、どれだけ理不尽でも変に思ったりしないかも……」

「だから、その信頼が問題だって話ですよ。心を預けた相手の命令なら良いとしても、それで不徳であったり悪徳であったり、不義であったりした内容は嫌でしょう?」

 

 アキラは眉根を寄せながら頷く。

 

「それをユミルさんがするかもって話ですか?」

「しないですよ。する訳ないじゃないですか。でも、その可能性を内在させる事が、アヴェリンは嫌がってるって話で」

「……ユミルさんの事、信頼してるんですね」

「勿論、信頼してますけど、それとはまた別の話です」

 

 そう言って、ルチアは二人を――とりわけアヴェリンへ視線を向ける。薄く微笑を浮かべ、それからユミルへ狩人が獲物を見るような目を向けた。

 

「ミレイさんに悪さしたら、私とアヴェリンが許しませんからね。笑って済ませれる内容でも、顎で使うような命令が頻繁に起きれば制裁します。……想像できませんか、怒り狂うアヴェリンさんの姿が」

「ええ、それはもう……分かる気がします」

 

 アキラも二人を見つめて、ぶるりと身体を震わせる。

 

「私だって許しませんよ、その時は容赦しません。それが分からぬユミルさんじゃないし、ミレイさんを想う気持ちは一緒だからこそ、そんな事はしないと分かるんです。互いに背中を預け合える間柄を、そんな馬鹿な事で失いたいと思いますか?」

「それは、確かに……。やりそうとは思っても、実際にはやらないでしょうね」

「アヴェリンだって理解してますよ。そうせざるを得ない状況っていうのも。だから、あれはまぁ久しぶりのじゃれ合いって事なんでしょう」

 

 ミレイユが頭の中で整理していた事は、全てルチアに言われてしまった。

 結局のところ、命令権があるとはいえ、それを行使する事は最初の命令以外ないだろう。その能力と共に生きてきたユミルだからこそ、使われた相手の心境を理解している。

 軽々しく扱うものでもないし、催眠と違って永続するからこそ、その扱いには慎重になる。

 

 眷属にする事もまた安易に行うべきではないと思っており、世界を離れた後ですら、アキラを眷属にする事には難色を示していた。

 彼女にとって禁忌というほど重いものではないが、軽々しく扱うものでもない。ユミルはそれをよく理解している。

 

 だから命令も軽々しく行わないし、その内容も慎重に吟味して施される筈だ。

 ミレイユが二人の鍔迫り合いに目を向けると、ちょうど二人も目を向けてきたところだった。

 

「ほら、アンタが納得するなら、あの子に毎晩愛の言葉を囁くよう命令してあげるから」

「……ほっ、本当か!?」

 

 アヴェリンの瞳が動揺で揺れている。

 そこから目を逸らし、ルチアへ目を向ければ、半眼になって心底呆れたような表情をしていた。きっとミレイユもまた、同じ様な表情をしているだろう。

 

「前言撤回します。今ここで氷漬けにして封印しませんか?」

「そうだな、諸共地の深くまで沈めてしまおう。神々とて音を上げるような封印を施してみせる」

 

 その声音から本気具合が窺えたらしい。

 二人は慌てて傍までやって来て、特にアヴェリンは膝を付いて縋るように顔を向ける。

 

「ち、違うのです、ミレイ様! 決して甘言に乗るつもりではなく、本気でそのような言葉を吐いたのか、という怒りをぶつけたのであって、決して私は……!」

「そうよ、アタシが冗談でそんなコト言うと思う? 有り得ないわ。時と場合を選ぶわよ」

「言うと思うし、選ばないと思う」

「というか、実際言ってたじゃないですか」

 

 ミレイユとルチアが共に半眼のままに言えば、ユミルは乾いた笑い声を上げて、それから直ぐに別の言い訳を述べ始めた。どうやら簡単に非を認めるつもりはないらしい。

 アヴェリンは祈るようにミレイユの手を捧げ持って、言い訳のような許しを請うような発言を続ける。

 

 既に場が混沌としていたのに、そこへ凄惨さが加わって、もはや手のつけようがない有様だった。少し自由にさせ過ぎたのと、あまりに不甲斐ない様を見せたのが悪かったのかもしれない。

 彼女らがミレイユへ向けるに敬意には、些かの衰えも見せないが、しかしユミルはそれまでの重い空気を一掃するのに、敢えて振る舞いを変えた気がする。

 

 ユミルの支配を受け入れる事、ユミルの眷属として生きる事、それは実際簡単な事ではないのだが、簡単な事として済ませてしまう方が良い場合もある。

 結婚は勢いが大事とも言う。これは結婚ではないが、勢いのまま行動しなければ、いつまで経っても同意する事はないだろう。あるいは膨大な時間を必要とする。

 

 大神が直接出向くような事はないにしても、例えばその腹心にも、同じように逆らえなくされている可能性はあった。

 いずれ眷属になる事は必要で、決定事項でもある。

 神々へ対抗しようとするのなら、後は早いか遅いかの違いでしか無い。

 

 ミレイユは二人へ威嚇するように、一度ごく小さく魔力を放出した。

 それで二人の声がピタリと止まる。

 ミレイユの手を握っていたアヴェリンは恐る恐る手を離し、それから沙汰を待つ囚人のように頭を垂れ、ユミルも一切の表情を消してただ視線だけを向けた。

 

「ここで下手な言い合いを許したのも、私が不甲斐ない所為だろう。最初から音頭を取って、制御していれば、こんな馬鹿騒ぎになる事もなかった」

「いいえ、違います、ミレイ様。全ては私の不徳といたす所です。如何様にも処罰を」

「私のことを思っての事だろう。行き過ぎた思いでもあったろうが……利益や安全を考慮するなら、まず私の精神調整へ介入は必須だった」

 

 アヴェリンは頭を上げぬまま、ただ頷く。

 

「私が即座に頷けなかったから、お前は私が乗り気でないと判断した。気持ちを代弁するつもりで、しばしの猶予を作ろうと、理由探しをしてくれていた」

「ハ……、勝手なことを、真に……」

「謝るな、私は感謝しているんだ。私の心に寄り添い、よく私の代わりに動いてくれた」

 

 そう言って手の甲を額近くへ差し出すと、アヴェリンは感激の面色でその手を包み、自分の額に押し当てる。

 

「勿体ないお言葉です……」

「全ては私の意気地がなかった事が原因だ。必要な事なんだし、手早く済ませてしまおう。……腹を括れと、誰かさんに口汚く発破をかけられた事だしな」

「そうよね、誰かさんはいつだって言葉が綺麗で頼りになるのよ」

 

 ユミルが皮肉げに笑みを浮かべて小首を傾げた。

 それを合図としていたかのように、アヴェリンが額から手を離す。手の中にある壊れ物を、そっと置くように手を離すと、その一直線に向けられる視線に頷く。

 

 それでユミルの方へ目を向けてやれば、アヴェリンと場所を入れ替わって、同じ様に手を握った。アヴェリンと同じように膝をつき、額ではなく口元へ持っていく。

 その唇が触れるような距離まで近付いて、改めて視線を向けてきた。

 

 言葉はない。

 だが本当に良いのか、という最終確認をして来ているのだと分かった。

 それに頷くと、ユミルは親指の先端部分に歯を立てる。カリッと音がして、すぐに指先から血が流れた。ユミルは唇を当てているが、血を吸ってはいない。

 

 一度だけ指を口の中に加えて、その傷跡をちろりと舌先で撫でたのが分かった。

 すぐに指は口から離され、そしてアヴェリンから伸びてきたハンカチで指先を拭ってもらう。浅い傷で、すぐにでも血は止まりそうだった。

 

 アヴェリンは恐れ慄くような、口に指先を含んだことを憤慨するような、血を取り込んだ事を羨ましがるような百面相を見せる。思わずそちらに目を奪われてしまい、自身に何が起きているかなど、思慮の外だった。

 ユミルは膝を地面から離し、簡単に土を払って元の倒木に腰を下ろす。

 

「続きは三日後ね。それで変容する筈だから、その時に命令するとしましょう。文言はアンタが決めてちょうだい。一緒に考えるでも良いけど、そっちの方が安心でしょ?」

「そこのところは今更不安に思っていないが、大神への抗いをやめない、で良くないか?」

「いいと思うわよ。大神へ反抗心を強く持つ、でも良いと思うし。そこはより強く心に刻まれる文言が良いわね。それを考え定める時間と考えれば、まぁ三日は遅くもないでしょ」

 

 そうだな、と頷いて、アヴェリンから開放された指を見る。

 綺麗に傷つけてくれたらしく、治った後も歪んだりしなさそうだった。変容と一口で言っても、未だ実感は湧かない。あるいはそれが分かるのは三日後かもしれない、と思いながら、憎々しい視線をユミルに向けつつ腰を下ろすアヴェリンを目で追った。

 



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決意と表明 その10

「さて、一つは問題が片付いたワケだけど……」

「まぁ……そうだな。厄介な一部分は片付いたと言えるかもな」

「そうよね。そこで次にアンタが神として立つコトを……」

「――待て。それを混ぜっ返すな。折角流れたと思っていたのに」

 

 ミレイユは顔を顰めながら言った。

 そもそもが神という立場に魅力を感じないミレイユからすると、なってくれと言われてなるものでもない。チームのリーダーぐらいはやるし、時として隊を率いるくらいはしても良いが、国王すら飛び越えた位に就きたいとは思わない。

 

 御子神としての立場くらい気楽ならば良いが、端から見ていてオミカゲ様の苦労を知っているミレイユからすると、同じ事をしてくれと言われて頷ける訳がないのだ。

 だがユミルは、それに構わず身を乗り出す。その瞳は決して逃さぬ狩人の目をしていた。

 

「何でよ。いいでしょ、やってよ」

「そんな頼み方があるか。子供のお使いじゃないんだぞ」

「ですが、ミレイ様……」

 

 しかめっ面で、にべもなく断ったというのに、簡単には引き下がる気もないのはユミルだけではなかった。アヴェリンは申し訳無さそうな顔をしていたものの、しかし諦めるつもりだけはないようだ。

 

「人々が神の奴隷などと申す気はありません。争いが絶えないのも多くは人間のエゴが原因で、それを止めるのは神の役目ではないと理解しております。しかし、扇動となると話は別です。人が正しく生きるには、正しく見守る神がいる。ミレイ様ならば、それに相応しい存在ではありませんか」

「そうは言うがな……。私は神になりたいとも、人の上に立ちたいとも思った事はないぞ。神が魂を拉致するというなら、それは止めたい。地上を盤面に人で遊んでいるというなら、それも止めたい。場合によっては力ずくでも。……だが、それで引きずり降ろして成り代わるというのは、全く別の話だ」

 

 かつては三年暮らした世界だ。

 それなりに愛着もある。だが故郷というほど強いものでもない。自身の現世への帰還を捨ててまで、この世界に尽くしたいとは思えないのだ。

 

 彼女らにしてみれば、現世は便利で楽しい世界なのだろうが、やはり故郷はこちらであり、骨を埋めるのもこちらが良いのだろう。

 帰還を果たしたとなれば、こちらで再び生活していくビジョンも浮かんだ事だろう。そうなった時、現世では感じなかった神の脅威というものを肌で思い出した。

 

 アヴェリンは必死な顔をして続ける。

 

「我が部族に限った話ではありません。ただ獲物を狩って生きるだけでも、簡単なものではない。時として一番良い獲物を捧げる事もありますが、それは苦と思いません。しかし、欲しい肉でなかったと勘気に触れる事はあります。それで被害が出る事も。今となってはそれに思う所もあります……」

「それはまぁ……、畏怖と尊崇を同時に求めた結果なのでしょう、と思ってしまいますが」

 

 同情するように瞳を向けたルチアが言った。

 

「信仰は大事ですけど、敬意を持たれ続けるというのは難しいですから。でも、何かしら神罰めいた演出を出せば、畏怖を受けとるのは簡単という訳でして……。どこの神も似たような事してますよ」

「だが、オミカゲ様はそんな事しておられなかった。民の庇護、病魔からの守護、子育て守護、そして数々の施設や教育の促進、数え切れぬ程の利益をもたらしていた。抑えつけ従わせるのではなく、背中を支え、そっと見守る。なればこそ、あれ程の尊崇と繁栄があった」

「そうねぇ……。たった千年であれでしょ? 神々が文化と文明を停滞させているとはいえ、四千年変わりない生活をしているコトを思えば、やっぱり羨ましくなるわ」

 

 このデイアートでは文明の繁栄があったとしても、それは一定以上の成長を見せない。

 高度な文明社会は築かれず、産業革命のようなブレイクスルーは起こさないものだ。それは神々が統治するには邪魔になるから、いわゆる愚民政策と似たような事が行われている。

 

 アヴェリン達は思ってしまうのだろう。

 もし、神の横槍や暴走がなく、地上に生きる者が思うように発展していたら……現世の日本のような繁栄もあったのではないかと。

 

 人は争うものだし、神の代理という大義名分の下に暴走する輩もいる。小さな火種が原因で、国家間の戦争に発展する事も珍しい事ではない。

 そしてそれが必ずしも人間が原因ではなく、本当に神の画策だと分かるから、アヴェリンなどは平穏に過ごせない、と感じるのだろう。

 

「ゲームセンターや遊園地なんて気の利いた娯楽施設はないし、車や電化製品みたいな便利な品物も生まれて来ない。神々がそれを許さないワケ。でも日本では、知恵は専有されてないし、スマホなんていう誰でも共有できる知恵の箱まで自由に持てる。束縛のない世界って、あんなに生きてる実感を持てるのかと思ったものよ」

「……分かります。エルフは原因があって虐げられていましたけど、その原因だって遥か昔のものです。その風潮を維持させていたのも神々だし、その神に赦しを得ようと祈りを捧げていたのが、かつてのエルフです。最終的には、その解放も成された訳ですが……」

 

 ルチアはそう言って、ミレイユに感謝の視線を向ける。

 どうにもむず痒くなって視線を逸したが、暖かな視線は変わらずミレイユの頬に当たっていた。

 アキラが虚を突かれたようにルチアへ顔を向け、何気ない事のように聞く。

 

「ルチアさんが人を快く思っていないのは漠然と分かってましたけど……。それって元はといえば、神の所為だったんですか?」

「そうですよ。虐げられるようになった原因はエルフの方にもあったので、そこについては何も言いませんが、それを風化させず維持させたのは神々です。何千年も前の事を、人間がいつまでも煩く言うのは、一重にそれがあったからです」

「ヒトは判り安い敵が出来て団結できて幸せ、神はエルフの祈りを受け取れて満足、そういう寸法でしょ。いずれ赦される、と言質があればこその信仰と祈りだった筈だけど、長く続けば当然という感じで、今更感あったのよね……」

 

 人種差別を始めとした、様々な問題と、それと戦ってきた現世の歴史を知るからこその感情だろう。神の一声は何よりも重い。神がそうする、と言えばいずれ叶うと確約されたようなものだが、それがいつとは指定しなかった。

 

 エルフはいずれ来る約束の時まで、辛抱強く祈りを捧げるしかなかった。それまで差別や酷遇を耐え忍ぶ事を求められたが、神からすればそれこそが狙いだったのだろう。

 アキラは不快なものを見るように、ユミルへ目を向ける。

 

「でもそんな、今更感なんて言い方……」

「いやぁ、今更だったのよ。大っぴらに敵視できるのがいれば、勝手に団結するでしょ? 放っておけば勝手に戦争始めるのが人間ってやつだしさぁ、その風潮が長く続きすぎて取り消せないまでに浸透しちゃったのよね」

「もはや神の一声だけで払拭できるものでも無くなってました。勝ち取れ、さすれば与えられん。それが神から受けた最後の言葉です」

「最後、というのは……?」

「別にいなくなったとかじゃありませんよ。単にどの信徒からも声が届けられなくなったし、受け取れなくなったというだけです」

「え……、それって約束を反故にしたって事じゃないですか?」

 

 アキラが呻くように言うと、ルチアは苛立たしげに頷く。

 

「全くの反故でもないです。勝ち取れ、と言った様に、エルフが勝てば正当性を主張して擁護してくれたでしょうから。だから、負けた側が更なる反撃をして来ようとしても、抑えつけてくれたと思いますよ」

「あぁ、いや……。だとしても……」

「そうですね。エルフ側の心情では、赦しを得られると同時に、それまであった全てが公平になると思っていた訳ですから、結局ハシゴを外されたようなものです」

「それで、戦った訳ですか」

 

 それまで難しく皺を寄せていた眉が、その一言で八の字を描く。

 自分自身、それを告白させられるのは嫌だと思っているようだ。知られたくないとは言わないが、ルチアが直接口にするのは憚られる。

 それを敏感に察知したアヴェリンが言葉を続けた。

 

「戦えと口で言うのは簡単だが、実際の被害を考えれば、そう簡単に踏み出せるものではない。元より兵力差は二十倍とも、それ以上とも言われていた。蓋を開ければ更に多かった訳だが……、それで簡単に戦端を開こうと思えないのが普通だ」

「それはそうですね……。でも、確か……勝ったみたいな話を聞いたような?」

 

 アヴェリンは大いに頷く。その顔には大いなる自信と誇りが満ちていた。

 

「その話を聞いて、味方についたのがミレイ様だ。圧倒的な戦力差を知っても尚、そのお気持ちに変化はなかった。私にも共に戦えと仰った時には、胸が震える心地がした」

「アンタ、負け戦が好きだもんね」

 

 ユミルが揶揄するように言えば、アヴェリンは鼻に皺を寄せて反論した。

 

「負け戦を勝ち戦に変えてこそ、武勇というものだろうが。勝てる戦いに勝ったものとは比較にならん……!」

「その辺の是非は置いておくとしても、これの重要なところはね……。勝てなければ、永遠に汚名は雪がれないってトコにあるのよね」

「神様は味方してくれないんですか?」

「励ましや労いくらいはあったかもね。でも、戦力的な補充をしてくれたり、有益な情報を教えてくれたり、という援助は絶対にない」

 

 アキラも思わず同情的にルチアへ視線を向け、その視線を鬱陶しそうに振り払い、ルチアはミレイユの方へ顔を向ける。

 

「ミレイさんは当然のように言ってましたけど、そもそものエルフ排斥の風潮に異を唱えるのは普通の事じゃありませんでした。負けると分かっている戦いに挑む者は更に少ない。元より少ない味方は更に減り、馬鹿な真似はするな、という向きに考えが傾いていました」

「それは……分かる気がします」

「ですが、動かなければ永遠の差別を約束されたも同然でした。誇りを賭けて戦うか、それとも長い雌伏の時と言い聞かせて蹲るか、その選択を迫られたのです」

「そして、ミレイユ様の助力があって勝つ事が出来たんですね」

 

 ルチアは大いに頷く。

 

「エルフは誇りを取り戻し、そしてエルフ差別撤廃の意識が一夜にして広がります。これは神々とは別の、エルフ達が立ち上がり反撃した事に対する認識の変化から来たものです」

「前に、この子が神のように拝められてるって言ったでしょ? それはエルフをやる気にさせて、先頭に立って戦ったから来るものでもあるのよ」

「だから、もしミレイユさんが神に弓引き、自らが天に立つと言えば、きっとエルフは味方するんじゃないですかね? というか、立たせようと喜び勇んで躍起になりますよ」

「それはまた、この場で聞きたくない台詞だったな……」

 

 ミレイユは額に手を当てて溜め息を吐いた。

 求められても困る、それが本音なのだが、この世界の不自由不平等さを知っている身からすれば、助けてやりたいとも思ってしまう。

 

 神が梯子を外す様な真似をしたのは、それこそミレイユを昇華させる為に用意した、いわゆる『イベント』だったのかもしれないが、だとしても今のミレイユにその実績が重く伸し掛かっている。

 

 この件に関するルチアが向ける尊崇の念は、普段アヴェリンが向けてくるものと同質で遜色ないものだ。それがエルフ社会全体から向けられると思うと気が滅入った。

 貧しい時では幾らでも感謝しても、豊かになれば忘れて傲慢になる。彼らもそうだと、むしろ嬉しいのだが……。

 そう思いながら、ミレイユはもう一度溜め息を吐いた。

 



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行動方針 その1

「ちょっと待ってよ……。そんな額に手を当てちゃうほど嫌なの?」

「私が誰かの上に立ちたいと、一度でも言った事があったか……?」

「そりゃないけど……でもアンタ、あっちじゃ将来的にオミカゲ様として上手くやれる、っていう実績があるじゃない。……まぁ、上手くやる為には苦労もあるでしょうけど」

「だから、こっちでも上手くやれって? 同情はするが……、流石に私の手に余るだろ……」

 

 そう言って、ミレイユは額から手を離して(かぶり)を振った。

 神という絶対者による統治は、それが健全であり平和であるなら尊びもするし歓迎できるものだろう。だがこの世界における実情は別物で、民を病から護るかと思えば戦争は止めないし、時に個人を救う事はあっても、村を滅ぼしたりする。

 

 矛盾に満ちた存在で、それは火事や地震といった災害と同様、頼るべきというより畏怖すべき存在と見做されている。

 時として神像や祭壇へ祈りを捧げる事で回避できるから、通り過ぎるのを待つしかない災害と勝手は違うが、話が通じるという事実がまた事態を厄介にさせていた。

 

 伺いを立てず敬わなければ、実際に被害が及ぶ。

 現世においても、古代や中世では、天候や季節に対して伺いを立てるような風習はあった。農作物の出来や狩りの成否に関わって来るので、当時はその先読みに真剣だったし、読める者は敬われた。

 

 だが、こちらの世界はで神の胸三寸だ。

 真剣に祈っても成果が上がる訳ではないが、敬いを捨てれば被害に遭う。常に首根っこ掴まれて、その視線や顔色を伺って生きるのが、この世界の常識なのだ。

 

 現世を知って、肩肘張らずに安穏と生きていけるというのは、彼女達からすれば実に魅力的に映った事だろう。同じ事を、こちらの世界でも実現できれば、と願うのは分からないでもない。

 しかしそれをミレイユに託されても、困るとしか返答しようがなかった。

 

 ミレイユの顔が難しく顰められたままでいるのを見て、ユミルは切り口を変える必要があると気付いたようだ。その視線を他の二人に向けて、それぞれに指を向けて言い放つ。

 

「アンタ達からも何か言ってやってよ。私の意見に賛成派でしょ?」

「それはそうだが……」

 

 アヴェリンはむっつりとへの字に口を曲げ、ミレイユへ労るように見つめた。

 

「ミレイ様は既に一つ、オミカゲ様から託されたものがある。お前から聞かされた時は素晴らしく思えたし、私自身、我を忘れてしまったが……。そちらの片が付かない限り、あるいは片付く目処が立たない限り、新たに背負って頂けるものではあるまい」

「一理どころか、三理も四理もありますね……」

 

 ルチアが幾度か頷いて、ユミルに諦めるよう勧めた。

 

「これはアヴェリンさんの言うとおりですよ。いきなり何もかも話を進め過ぎです。一つずつやって行きましょうよ。私達は失敗できないんです。……正確には、失敗するとやり直す破目になるんですけど。とにかく、慎重に行く必要があります」

「それにはアタシも同意するけどね、その慎重論の結果が、先のオミカゲサマ失敗の原因じゃないかと思うのよね。彼女は確かに上手くやったし、慎重にコトを運んでいたように見えた。……でも、失敗した。最初から慎重派だったのか、途中から切り替えたのかは分からないけど、でも同じ轍を踏めないというなら、ここから変えていくのも悪手ではないかもしれない」

「――つまり、まず思いつかない選択肢を選ぶ、と」

 

 ミレイユは難しくさせていた顔を、更に険しくさせて重い息を吐く。

 どちらの言い分が正しいと、断じる事が出来ないのが難しいところだ。

 オミカゲ様は慎重派だった。だからきっと当初からそうだったろうし、アヴェリンを喪って失意の中にあった故に、更なる喪失を避ける為に慎重に動いていた、と言われたら納得出来てしまいそうになる。

 

 だが同時に、激しい怒りを覚えて自暴自棄になっていた筈だ、と思い直す。

 いつだったか、実際自暴自棄になっていて、神々との対立で汎ゆる面で失敗した、という様な事を言っていた気がする。むしろ慎重派へと鞍替えしたのは、千年前の現世へ逃げ出してからなのかもしれない。

 

 だが違う事をやろうと思っても、多くの事を無駄にした、という話しか聞いていないので、そもそもどう動けば()()()になるのか分からない。

 

 だが、どちらにしてもユミルの言う事は性急すぎ、また受け入れるには困難だった。

 神を討滅する、残った神の上に立つという目標が、どれだけ高く無理難題か、敢えて言う必要すらない。

 

 神を押し退けて頂点に立ったとして、人の世も混乱する、という話も出た。

 簒奪だと騒ぐ者たちもいるだろう。全てを納得させる必要があるかどうかは別として、納得させるだけの材料がなければ、神殺しの汚名だけを着せられて排斥される事になってもおかしくない。

 

 ユミルはミレイユとルチア、二人の表情を眺めて、それから困ったように眉根を下げたが、すぐに頷いて腕を組む。

 

「でも……そうね、確かに性急過ぎたわ」

「あら、素直ですね」

「強制させるものではないし、強制されたと思われたくないもの。考える時間は沢山ある。これからどう行動するかについても、考えなくてはならない事も多いワケだしね。――そこでアタシのいち意見としては、慎重論は推したくないって感じかしら?」

「それはやっぱり……オミカゲ様の件があるからですか」

「それだけじゃないけど。そもそもとして、安全策は切り捨てて考えるべきだと思うから。安全マージンを取った行動でループを抜け出せるなら、とっくに抜け出して終わっている筈でしょ?」

 

 ユミルに続いてルチアも腕を組んで首を傾げる。

 

「そこについては異論ある……というか、何を言っても反対意見は出そうなものです。何をして失敗したのか、どこまで良い感じに食い込んだのか、その知識が無いんですから。きっとこうだ、で行動した結果が、幾度も繰り返す時の流れを生み出してそうですし」

「下手に考えると、抜け出せなくなるジレンマね……。これだと思う反対を選べば良い、という単純なモノでもなし……」

 

 ですね、と返事して、ルチアはかっくりと首を落とした。

 実際これはユミルの言う通りだ。何か少し捻った程度で抜け出せるというのなら、――何百と繰り返していると仮定して――とっくに抜け出せている筈で、こうして悩む必要もなかった。

 だとするなら、大きく捻れば良いのか、と思えば……大きく捻りすぎた方策は大抵失敗するのが世の常だ。

 

 だが、まず何か一つ目標を定めなければ、それに向かって進めない。

 このループを止める、という大目標の下に、その為の小目標を設けるとして、ではそれをどうするか、という問題になる。

 

「一度に多くを考えては足が止まるものだろう。まず一つ、確実としておきたいところがある。何をするにしろ、私達の目標は神だ。もっと言えば対面する必要がある」

「でも、相手側から姿を見せる筈ないですよね」

「命を狙われてると感じてるかは知らないけど、どちらにしても姿は見せないでしょ。そんなメリットある? 伝えたいコトあるなら、使者を寄越せばいいんだし」

「そうですよね。じゃあ、神の所在地を探すのが目標、って事になるんですかね?」

 

 そこでまた重苦しい沈黙が場を支配した。

 神との対面を願う者は多い。というより、熱心な信徒は対面を願うものだ。それが夢枕のようなものであったり、瞑想の果てであったりと手段は様々だが、実際に対面が叶ったという話は驚くほど少ない。

 

 直接的な対面が叶った例も皆無ではないが、それは伝説に残るような偉業を為した時であったり、あるいは歴史の転換期に起こるようなもので、願えば可能であるというものではなかった。

 宝くじのように、いつでも可能性だけは存在している、というのとは話が違う。

 

 それでも願わずにいられないのが信者というものだろうし、歴史の転換が今だと盲信して願う信者もいる。動機は様々だろうし、その熱心ぶりをどうとも思わないが、ミレイユ達がそれを行う訳にはいかない。

 

 仮に夢枕で出会えたら、むしろ問題だ。

 敵意を悟られれば二度と姿を現さない。それこそ雲隠れしてしまうだろう。

 そこまで考え一言、雲、と呟いた。

 

 一度見上げて見るが、繁った葉のお陰で空は十分に見えない。ぽっかりと空いた小さな葉隠れの空には、小さな雲が流れては消えていった。

 

「……神々は、どこに居ると思う」

「そうねぇ、どこと言われたら……。空の向こう、という事になるのかしらねぇ……」

 

 ユミルもまた、困ったように眉を顰めた。

 ミレイユと同じ様に首を上げ、しかしチラと見てすぐに戻す。

 そんなユミルを見て、アキラは不思議そうに首を傾げた。

 

「どこにいるか分かっていないんですか? 神様と言ったら僕は神宮とか奥宮っていうイメージですけど、海外では神殿とか……やっぱり雲の上とか、神の国に住んでたりするんですけど」

「まぁ、そうよねぇ……。神の領域っていうのがあるとされていて、それが神の国と言えるかもしれないけど……。アタシは疑わしいと思ってるのよね」

「そうなんですか? 神の領域なんてものがあるなら、やっぱり別の次元とか空間とか、そういう所に住んで暮らしてる……なんて想像しちゃいますけど」

 

 そうね、とアキラへ頷いて、ユミルはしかめっ面で眉間を揉む。

 それから気怠げに視線を上げて、ルチアの方へ顔を向けた。

 

「アンタはどう思う? アタシは真実の場所を隠す為のブラフって思ってるんだけど」

「その神の領域ってやつですか? ……確かに、別次元や別空間って言うのを想像してましたし……特に疑問に思わずそういうものだ、と考えてましたけど」

「アンタでもそうなの? すっかりそういう認識が定着してるのね」

「逆に、ユミルさんがそうではない、と考える根拠は何なんですか?」

 

 ユミルはそれには答えず、ミレイユへと顔を向けた。

 何かを期待する視線ではない。事実を確認するような目だった。お前は知っているか、と問いかけるような目だったが、生憎とミレイユ自身も知らない事だ。

 

 ルチアが言うように、神がそれぞれの領域を持っていて、そこに暮らしていると思っていた。神それぞれの特色を示した空間で、そこで思い思いに過ごしている。

 そのような記述をどこかで読んだ覚えがあり、それ以上の事をミレイユも知らない。

 

 現世と繋げる孔がある事だし、次元や空間を飛び越えたどこかに暮らしていたとしても、それは別段疑問にも思わない。

 だからルチアに同意するつもりで、その視線には頭を振ったのだが、ユミルは落胆する素振りを見せて頷いた。

 

「じゃあ、アタシの根拠を述べるわね。提示できる証拠はないから、推測も多分に混じるけど、とりあえず聞いてちょうだい」

 



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行動方針 その2

 ユミルは一つ断りを入れて、人差し指を立てた。

 根拠の一つ目、と言うのと同時に、その指先を上下させて空を示す。

 

「神はヒトから空を奪ったでしょ。近づかれたくないから、そうした措置を取ったのよ。別次元、別空間にいるのなら、そんなコトする必要ないじゃない」

「それは違う。空を飛ぶのは不敬だと言い始めたのは人間の方からだ」

 

 ミレイユが咄嗟に否定すると、おや、とユミルは首を傾げて、それからルチアへ視線を向ける。

 ルチアもそれに頷いて、呆れたように半眼で見つめた。

 

「それ、前にユミルさんが言ってた事じゃないですか。恨みが募るあまり、ない事まで含めないで下さいよ」

「あぁ、そうだったわね。策略を講じるのが大好きな奴らであるのは確かだから、色々飛び火させて考えちゃったけど……そうね、これはヒトが勝ってに言い出した方よね」

「飛行術を与えたのは、神様だって言ってましたよね……」

 

 アキラが複雑な顔をして呻くように言った。

 その被害に遭わされた身としては、思う所があったらしい。死と直面するような事態となれば、それも当然というものかもしれない。

 

 それで思い出した。

 箱庭を用意され、まだ何もない野原と、どこまでも広がる空しかなかったあの時、その中心に置かれた魔術書があった。これは当然、どこからか紛れ込んだものではなく、神が用意したものだろう。

 

 箱庭自体が神々にとって、一種の安全装置の役割を果たし、そして保険のような機能を持たされていた。

 箱庭での動きは察知されていた、というような発言もあり、便利であるが故に重宝させる事そのものが目的であった節もある。

 

 それを考えると、あの魔術書は、下手な使い方をすると自死を誘発させかねない危険なものだ。箱庭を与えた時点で殺す意図はなかった筈。そこに矛盾を感じる。

 

 神々には目的があったのは確かで、その為にミレイユを利用していた。

 時として始末屋としての側面を持たせつつ、その本質は魂の昇華だった。神の試練もその一つで、乗り越えたからこそ与えた箱庭で、対応できなければ死んでしまう罠を仕掛けるのは、度を越しているだけでなく意味不明だ。

 

「ミレイ様……?」

「あ……、ん? どうした?」

「いえ、突然、微動だにしなくなりましたので、どうなされたのかと……」

 

 気づけばアヴェリンが顔を覗き込んでいて、心配そうな顔で見つめていた。

 そもそもが体調不良を疑われていたので、疑わしい仕草一つで過剰に気をかけてしまうらしい。ミレイユも口元を抑えて固まってしまっていたので、謝罪するように一つ頷いてからユミルへ顔を向けた。

 

「そういえばユミル、箱庭の天井に穴のようなものがあった、と言っていたな」

「そうね、調べておけば、とも言ったわよ。……調べたの?」

「いや、すっかり忘れていた」

「アンタね……」

 

 ユミルの眉間を揉み解していた指先に力が籠もる。

 揉むのを止めて同じ場所を叩きながら、首を傾げて聞いてくる。

 

「今となっては調べようもないでしょうし……、一応聞くけど無理なのよね?」

「ああ、無理だ。箱庭はあちらに置いてきている、召喚できるものでもないからな」

「それは仕方ないけど、だとすれば、あの穴が箱庭を監視していたっていう前提で考えるしかないわね。そう言ってたワケだし」

「……そうだな。GPSのような役割を果たしていて、かつ箱庭での行動を監視できていたようだ。ルチアが結界術を習得し、孔を封じようとした事で、神々が行動を起こした……そう考えて良いんだよな?」

 

 ユミルは叩く指先を止めて頷く。

 

「そうね、そういう口ぶりだったから、としか言いようもないけど。鬼の強化度合いから、本来ならあと三ヶ月は猶予があって、もしかすると更に半年程は大丈夫だって試算が急に覆ったワケでしょ? ルチアが箱庭を使って修練し始めた時期とも一致するし……それは間違いないと思うけど」

「あれが覗き穴のような役割を持っていたというには、遥か天井にあり過ぎて意味がないようにも思うが……それは置いておこう。問題は、その穴を察知できる手段を敢えて用意してあった、という点だ」

「手段……? アンタ、その魔術書を箱庭で拾ってたの?」

「そうだが……」

 

 ミレイユは一言返すと、ユミルは黙り込んでしまった。

 元より顔を顰めていたので、その表情に変化がないように見えるが、不機嫌さは上がったような気がする。見ている間に顔が更に険しさを増し、それを隠すように手で覆った。

 

「……まさか、箱庭がアンタを殺す為の罠として用意されたものじゃないだろうし」

「というより、それでは神々の目的と合致しないだろう。あれらは素体を死ぬ目に遭う様な状況へ放り出したいだろうが、殺したい訳ではないからな」

「そうね。それに種の試練として用意したと考えても、あまりにショボ過ぎる……」

「思うんですけど……」

 

 そう言ってルチアが手を挙げた。

 本人も発言しながら、自分の意見に自信があるという訳ではないようで、その顔には困惑も窺える。

 

「殺害が目的でないというなら、つまりヒントを与えていたって事になりませんか? 頭上を見ろ、というようなメッセージと言いますか……」

「穴自体は遥か上空で、見上げたくらいじゃ目に付かない。だからわざわざ、それを可能とする術を授けたと?」

「そうすると辻褄が合うと思うんですが……」

「合うわね。合うけど意味がないというか、だからどうしたって話でしょ。アタシが見つけた時のように、それが何であるか分からなかったし……仮にそれで意図を察せたとしたら、やっぱり不利になるだけで意味がない」

「それってつまり、さっき言ってた()()の部分なんですかね?」

 

 アキラが言って、時が止まったようにユミル達の動きが止まる。

 全員がアキラを注視したまま動きを見せなかったが、それに動揺して仰け反ったアキラに呼応するようにして、ミレイユ達もまた動き出す。

 

「有り得ると思うか? これは遊び心というより、むしろ利敵行為だぞ」

「――つまり、そういうコトなんじゃない?」

 

 何かの気付きを得たように、ユミルの瞳が爛々と輝く。

 

「神々が盤面を見て遊んでるって話をしたじゃない? 複数人がそれを見下ろして、駒がどう動くか見守ってる。……でもこれ、もしもチェスのような対戦であったとしたら?」

「利敵行為に見えるような事も……本来与えない逃げられる選択肢があった事も、それなら説明がつく……か?」

 

 もしかしたら、とルチアが前のめりになって全員の顔を見渡した。

 

「もしかしたらですよ。対戦ですらなく、妨害する意図を持つ神がいて、私達の利となる手助けを陰ながらする神がいたとしたら……それこそが鍵となりませんか?」

「小神は初めから味方に引き込むつもりでいた、と言ってたな」

 

 ルチアの思慮を読んだアヴェリンが、同じく興奮した顔つきで頷いた。

 

「大神の神器に細工できる神なら、同じ大神だろう。それが我らの味方になるなら心強い」

「ちょっと待ちなさいな。味方になるとは限らないわよ。単に不仲だから妨害してやろう、という程度の認識で、アタシ達へ積極的な助力をするとは限らない。気紛れの可能性もある」

 

 興奮気味に言い募ろうとした二人へ、ユミルは水を掛けるように言い放った。

 基本的に大神嫌いのユミルとしては、そこに積極的な味方である、という認識は持ちたくないだろう。

 

 だが、敵対する神が一人減ってくれるなら、それに越した事はない。

 ミレイユとしては、もし大神と敵対する大神がいるのなら、むしろ味方に引き入れたいと思っている。味方するつもりでいたのか、それとも別の意図があったのか、それは確認しなければならないだろうが、もしも可能ならば非情に頼りがいのある味方になる。

 

「ユミルとしては当然、大神憎しだろうし、全ての首を落としてやりたい気持ちだろうが、味方に出来るというなら、それは必要な事だと思う」

「そうだ、個人の我儘を言うところではないぞ」

 

 アヴェリンからも言われ、ユミルは不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 

「そうね、アンタの言うコトに頷くのは癪だけど、そこは受け入れなければならない部分でしょうよ。アタシの意見一つで可能性を一つ潰すワケにはいかない。可能である、信用を置ける、という判断を下したなら、味方に引き入れるのは有効な手だわ」

「ちょっと意外です。もっと頑強に否定すると思ってました」

 

 ルチアが目を丸くして、それでいて感心する素振りを見せると、ユミルは顔を背けて腕を組む。

 

「アヴェリンも言ってたでしょ。オミカゲサマから託されたものっていうのはね、決して軽くないのよ。……あの時の泣き顔と懺悔を目の前で聞かされた身としてはね、それを最大限尊重してやりたいの」

 

 ユミルの双眸が、ひたりとミレイユの瞳を見つめる。

 

「あの子が託されたものを、アンタに託された。それを叶える為ならね、アタシの屈辱なんてどうでも良いのよ。あの子に報いてやりたいし、神々には報いを与えてやりたいけど、託され続けてきた想いを考えれば、アタシの感情なんて考慮に値しない」

「お前……そんな風に思ってたのか」

 

 ルチアだけでなく、ミレイユもまた意外な思いでその双眸を見つめ返していた。

 ユミルは確かに何が大事かを良く心得ている。その為に己の命すら厭わないのは、オミカゲ様を逃したところからも理解できるが、下手をすると復讐を遂げられないかもしれないというのに、そこまで言い切る事に胸が震える心地がした。

 

「あのとき感じた涙の温かさは、未だに……、ここに残ってるからね……」

 

 ユミルは自分の肩口に手を当てて、それから悲しげに目を伏せる。

 それで何も言えなくなった。ミレイユが受け取ったのと同じ様に、ユミルにも受け取った何かがあるのだろう。それがオミカゲ様の意図したものではなかったとはいえ、ユミルにも報いてやりたいという熱い感情を抱える事になった。

 

「……うん、最善と思える出来る限りをしよう」

「そうですね、そうするしかないんです」

「必ずやり遂げましょう」

 

 他の二人からも激励と完遂の意を感じ取れ、ミレイユの気持ちを新たにする。

 これはミレイユ一人の問題でもなければ戦いでもない。

 共に成し遂げるべき難題として意識を切り替え、それぞれに感謝の視線を送る。それだけで皆はミレイユの思いを理解して頷き返してきた。

 

 必ず終わらせる、とミレイユはここで新たに誓った。

 



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行動方針 その3

 胸に誓ったは良いものの、問題としては何一つ解決していなかった。

 そもそも推測が大いに混じり、願望すら紛れているような状態だ。箱庭に配置されていた魔術書と天井の相互関係は不明であり、そしてそれに関与していたと思しき神も、本当にいるのか分からない。

 

 そして何より、その神が誰なのかは勿論、接触する方法すら不明という有様なのだ。

 そこで問題は最初に戻る。

 ――神々はどこにいるのか?

 

 触れる事も、見る事も出来ない空間にいるのか。

 そうでないとしたら、一体どこにいるのか。そして空にいるだろう、というユミルの推測も、脱線したお陰で、まともに話を聞けていなかった。

 

 脱線というには余りに大きな迂回だったが、神の一柱が味方になるかもしれない気付きを得られた。だから話を一つ先に進めて、今こそユミルの根拠を聞かなければならない。

 

「……それで、人から空を奪ったのは神ではない、という話で終わっていたと思うが……。結局、根拠の一つは勘違い、思い違いだったと言う事か?」

「いやいや、思い違いだったコトは認めるけど、単なる勘違いとも思って欲しくないわよ」

 

 しぶとく自論を否定しないユミルに、ミレイユはとりあえず続きを促す。

 根拠の一つが潰された訳でないなら、むしろ安心できるというものだ。それだけが根拠という訳でもないだろうが、自信満々に言った一つ目がそれだと、今後が不安になる。

 

「空を奪われたという話は誤解を生んだけど、私が言いたいのは、鳥のみが空を飛ぶコトを許されたって言う部分よ」

「同じ事じゃないのか、それは? それがどうして空が根拠になる?」

「だから、元より空を飛ぶのは鳥だけじゃなかった、って言いたいの」

 

 言われて一瞬、虚を突かれた。

 魔物に空を飛ぶものがいないかと言われたら、決してそんな事はない。だがやはり、高く飛べる魔物は存在しないし、長距離も移動できない。

 

 蝙蝠のように羽ばたく事が出来ても、その多くは洞窟内で暮らしていたりと、やはり空とは無縁でいるような輩ばかりだ。

 そう思案を巡らせていると、アキラがあっと声を上げた。

 

「そういえば、ドラゴンを実際に見たら、想像と随分違った姿だったのを思い出しました」

「竜の頭を持った蛇、そう表現するに相応しい姿だが……確かにドラゴンの姿には、かつて空を飛んでいたと思える名残りがある」

 

 アヴェリンがそれに同意すると、ユミルも我が意を得たりと頷く。

 

「元々、空を飛んでいた種族はその姿を歪められ、あるいは地下へと押し込まれた。空に届き得る存在は邪魔、だから対策を講じた。……そういうコトだと思ってるけど」

「……だが、本当に邪魔なら滅ぼしてしまえば良いんじゃないか? 姿を歪めるくらいだ、消す事だって出来るだろう」

「それを私に言われてもね……。でも一つ思い当たるコトを言うのなら、その上で必要だったからでしょ」

 

 必要、と口の中で転がして、ルチアはかっくりと首を傾げた。

 

「つまり、利用価値があったと? 竜にしても戦力は個体に影響され千差万別ですが、それとて神に届き得る力を持つ竜もいました。残す必要がありますか? ……あるいは、神の力を持っても簡単に消す事が出来なかっただけ、という可能性もありますが……」

「神々の目的の根底には、素体に入れた魂の昇華があるワケじゃない。それは強敵へ立ち向かい、戦い、乗り越え、打ち倒す、そういうプロセスが必要になるでしょ?」

「でしょ、と言われても……。そうなんですか?」

 

 ルチアがミレイユへと顔を向ける。

 魂の昇華、という目的にどういう手段が必要なのか、あるいは適切なのか、それはミレイユにも分からない。だがそれが、ゲームにおけるレベル上げに近しいものという認識ではいる。

 

 ミレイユには次々と神の試練であったり、強敵との戦闘へ誘導されていたから、それがつまり神々の目的に沿うものなのだろう。

 

 目ぼしい、狩りやすそうな魔物を数で補うのではなく、ユミルが言ったように常に自分と拮抗するか、それより一段上の相手と戦う事で磨かれていく。 

 

 雑魚をいびり倒すような戦いを続けても、魂が磨かれていくとは思えない。ユミルの推測は正しいところを突いているだろう。

 ミレイユはルチアに頷いて見せる。

 

「推測だが、そう言うものだろうと思っている。だが、それで素体を失うリスクを天秤に掛ければ、如何なものだろう、という気もしてくる。敢えて強敵に挑むより、それよりは幾らか下の弱敵で、数をこなした方が効率的に思えるんだがな」

「でも、神は娯楽に飢えているんでしょう? リスクと天秤に賭けて、その上で楽しめるギリギリを攻める……そういう考えも出来そうですけど」

「……それは、言えてるな。素体を用意する手間はない、魂の拉致は些事……そういう前提において、ルチアの話は納得がいく」

「結局、推論に推論を重ねているだけですけどね。前提が間違っていたら方向も何もかも、全てを見失いますよ。……自分で言っておいて申し訳ないですが」

 

 ルチアはそう言って、肩を窄めて小さく頭を下げた。

 ユミルも肩を竦めて、一定の理解は示したようだ。それにミレイユも頷いて戒める。

 今は確からしい根拠もなく、ただ推測を重ね、それに議論している状況だ。まずは方向性を定める必要があるし、話し合いを続ければ、見えるものもあるかもしれない。

 

 だからまず、その方向性を示すために、必要だと割り切って推論を重ねるしかないのだ。

 納得がなければ方向が見えても進めない。そしてその納得を得る為に話し合いがある。

 

「分かってる。ユミルも最初に言っていた、まずは話を聞こう」

「ですね、話の腰を折ってすみません」

 

 ルチアが頷くと、気にするな、という風にユミルも手を振って、それで続きを話し始めた。

 

「……ま、何にしても魂の昇華――小神の造神が目的であるのは確かなワケよ。そして、その為に強敵を用意する必要もある、と考えている節は窺える。ないものを作るより、あるものを利用するのが簡単で自然でしょ? ドラゴンを消さないでいるのもそれが理由だし、だから翼を奪い、姿を歪め、それで良しとした。……そういうコトだと思ってるワケ」

「空の支配を求めたら、力持つ者が居座るのは都合が悪い。だが消すというには、その存在価値が十分あった……そう言いたいのか?」

「そう。……そして、定期的に力を蓄えたドラゴンが反旗を翻そうとするワケよ。空を取り戻そう、神を打倒しようとね。そこに毎回、都合よく素体がいるのか確かじゃないけど……、でも、アンタはいたわよね」

 

 ユミルがしたり顔で言うと、ミレイユは顎先に握り拳を当てて考え込む。

 当時を思い出してみれば、特に信徒や神と縁ある者から伝えられた事ではなく、冒険者ギルドからの依頼だったように思う。当時からそれと分かる直接的な干渉は、神の試練ぐらいなものだったから、それ以外は自然的、偶発的な事件という認識だった。

 

 だがそれが、そもそも偶発的に利用されるものとして用意されていたのなら、神の意図になど気付ける筈もない。

 ミレイユは最後まで利用されていると気づけなかったのだから、そこに思慮が及ばなかったのも、仕方ないといえば仕方ないのだが――。

 

「放っておけば世の破滅、世界が焼け野原になるという話で参戦したものだが……」

「それは本当だったでしょうよ。竜にその意志がなくとも、動くだけで自然を損なうのが巨竜というものだわ。魔獣も魔物もその生態系を崩すし、縄張りから逃げ出してヒトの領域を侵すとなれば、その原因を止めないワケにはいかない。攻撃には反撃を持って応戦するでしょうし……、深刻で莫大な被害が出るのは間違いなかった」

「その推測が成り立つから、自主的に動いたのがギルドという訳か。あくまで巻き込まれたというか……逃げられない戦い、というべきだったのかもな。……それを思えば、神からすれば勝手に動く都合の良い駒、なのかもしれない」

 

 ミレイユがそう言いながらユミルに目を向けると、彼女は我が意を得たりと頷く。

 

「――自分の掌の中で転がすのが好き。神ってそういうものだと知ってるでしょ? 竜にしても、そういうコトなんだと思うわ。でもそれじゃあ、何で姿を歪める必要があったのか、と言えば……」

「空を自由に飛び回られるのは不都合だから、そういう理屈か……」

 

 そう、とユミルが頷き、腕を組んで周りを見回した。

 反対意見を待つかのようだが、同時に反論は出て来ないと確信しているような顔つきだった。実際ミレイユにしても、――真実はどうであれ――説得力のある意見だと思う。

 

 世界を焼き尽くすなどと言われるドラゴンなど、そうそう現れるものではないが、しかし野良ドラゴンとでも言える魔物はそれなりにいるものだ。

 非情に珍しい事ではあるが、討伐依頼が舞い込むこともあり、そしてドラゴンとは例外なく強敵なのだ。

 

 魂の昇華と言われてもピンと来ないのはミレイユとしても同じだが、単に実力や力量を上げる、魔力を使いこなすという概念と、似て非なる物だとも理解できる。

 そうした時、ドラゴンを始めとした強敵を神の外敵となり得るからと消していってしまえば、世には魂の昇華を効率よく手助けできる敵がいなくなってしまう。

 あるいはその牙爪が神にも届く、と言われる魔物がいるのも、それが理由なのかもしれない。

 

 ミレイユは顎の下に拳を乗せたまま幾度か頷く。

 ユミルの方にも納得した素振りを見せると、得意げになって胸を張った。

 そこにアヴェリンが声を放つ。

 

「御大層な根拠にミレイ様も満足されたが……、それ一つで根拠というには乏しくないか。ドラゴンの在り様だけで神は空にいると言われても、別空間にいる事を否定できるものではないと思うが……」

「あら、スゴイ。アンタにも、そういうコト考えられる頭があったのね」

「馬鹿にしてるのか? ミレイ様に関わる事だ、真剣にもなる」

「……まぁ、そうね。茶化す場合でもなかったわ。それはまた次の機会に取って置きましょ」

「いつだって、そんなものは求めてない」

 

 アヴェリンが鼻の頭に皺を寄せて、威嚇するように睨み付けたが、当のユミルはどこ吹く風だ。その二人の遣り取りを楽しげに見つめた後で、ミレイユはユミルに水を向ける。

 

「それで……アヴェリンの言い分にも理があるように思えた。他に根拠があるなら聞かせてくれ」

「えぇ、勿論あるわよ。もう一つ、とびっきりのがね」

 



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行動方針 その4

 ユミルは一つ前置きして、全員へ挑戦的な笑みを浮かべてから口を開いた。

 

「世界の端って知ってるでしょ?」

「それは、勿論そうだが……それだけか?」

「それ根拠にしちゃいます?」

 

 アヴェリンが怪訝に眉根を寄せ、ルチアも似たように顔を歪めた。

 二人が信用できないような顔を見せるのは無理もなく、これは世界の創世神話からなる話だ。神が作った世界に関する話で、その当然の理を口にされても困る、という事だろう。

 大体、それだと神は別次元にいない、という反論になっていない。

 

「世界に端があるなんて当然じゃないですか。それを口にされたところで……」

「あのー……、ちょっといいですか」

 

 ルチアの機嫌が急降下し、口調が荒れ始めようとした時にアキラが声を上げた。

 申し訳なさそうに眉を下げ、ルチアやユミルを見つめている。そうしてミレイユの方へ窺うように顔を向けた。そのような目を向けられても、ミレイユにはアキラが何を思っているのか分からない。

 

 まるで察してくれ、代わりに発言してくれ、とでも言いたそうであるものの、残念ながらその意を組んでやる事は出来なかった。

 ミレイユは顎を動かし、発言するように指示する。

 

「えぇーと……、世界に端ってあるんですか? ないですよね?」

「あぁ……」

 

 それでようやくアキラの言いたい事を理解した。

 現代社会で学んだ常識として、世界は球体であり断崖絶壁のように途切れた場所がないと知っている。大航海時代にマゼランの世界一周航海によって、それが立証されたのを皮切りに、世界各所で地球平面説は否定されるようになった。

 

 だが、それを知り得ない世界の住人が、世界に端があると考えるのは自然な事だ。

 アキラはそれをミレイユに、やんわりと否定しつつ説明して欲しいと思ったのだろう。

 しかし、ミレイユが何かを言う前にユミルが先に口を挟んだ。

 

「アンタね、こっちの世界のコトを知らずに適当言うの止めなさいよ」

「いや、確かに何も知りませんけど……。でも、世界に終わりの境界線なんて無いものじゃないですか。――そうですよね、ミレイユ様」

「うーん……」

 

 ミレイユはどう説明したものか、内容を整理しようと眉の辺りを撫でる。

 それが顔を隠すような仕草になってしまい、余計周囲を混乱させる要因になってしまった。

 

 アヴェリンはミレイユの様子を見て、実は端がないのかと驚愕しているし、ルチアは逆に端はあると強弁している。ユミルがアキラに食って掛かり、軽率な発言を(なじ)り始めた。

 討論と言うほどお上品なものにもならず、ただ相手を攻撃するような発言が飛び交うようになると、流石に止めない訳にはいかない。

 

「だから迂闊な発言いつもするなって言ってるでしょ。大事な話をしようってのに、そこで話の腰を折るんじゃないわよ。さっきもあの子が、まず話を聞けって言ってたじゃない」

「いや、つい口が出てしまったのは申し訳ないですけど、でも端があるというのは迷信の類いじゃないですか」

「だから、何でアンタがそれを決めるのよ。勝手にアンタの常識持ち出さないでくれる?」

「僕の常識じゃなくて宇宙の理で、惑星っていうのは球体をしているものなんです。平面じゃないんです」

「――どういう事なんですか、ミレイさん。端がないって、ミレイさん知ってたんですか?」

「だが、ミレイ様が即座に否定しないというなら……」

 

 ミレイユは両手を二度打ち鳴らして発言を止めさせ、その視線を自身に集中させる。

 ユミルは特に不満そうな視線を向けてきたが、今の状態ではその根拠を聞くどころではない。誤解というべきか、とにかく話を進める為にも一つ説明しておかなくてはならなかった。

 

「まず……私が認識している知識において、世界というのは球体だ」

「ですよね!」

 

 アキラが歓喜の声を上げ、ユミルは不満気に鼻を鳴らしたが、話はここで終わりではない。

 

「だが同時に、それはこちらの世界に端がないという事を意味しない。間違いなく世界には、これ以上先に進めない、という端が存在している」

「つまり、壁が設置されているんですか? 岩とか山とか、そういう自然物で先に進めないだけじゃなく?」

「あぁ、そういう事じゃない。自然物という意味では同様だが、進めないとされる明確な境界線がある。そしてそれは、海に存在している」

 

 うみ、とアキラは小さく口にして首を傾げた。

 それこそ球体説を支持するなら、真っ先に否定するところだと思っているような顔だった。実際そのとおりなのだが、迷信でも海流の違いで帰ってこれない訳でもない。

 

 デイアート大陸の周囲に広がる海は、絶対に西東へ進んでいけない――。

 船乗りの常識であり、戒めて守らねば成らない薫陶でもあるのだ。

 

「それ以上、進めないんですか? 進まないように心掛けている、という訳でもなく?」

「進めば死んでしまう。だから誰も近づかない、そういう場所だ」

「強大な海の怪物がいるとか、ですか?」

「あぁ……、それが全くない訳ではないが、それが理由で近づかないんじゃないな。言ったろう、境界線だ。これ以上進めない、という明確なライン。それを境界線と呼ぶ」

 

 そうは言っても、やはりアキラには理解できないようだった。

 首を傾げたまま考え込み、黙り込んでしまった。

 アヴェリンやルチアにしても、それは常識の事でしかないので、何が理解できないのかを理解できないような顔つきだ。

 

 ルチアなどは、好奇心と興味にどこまでも突き動かされるような性格をしているから、現世へやって来た事でそれを知ったのかもしれないと思ったが、どうやらそうでもないらしい。

 

 だがよくよく考えてみれば、ルチアがスマホを持っていた時でも、そこに興味を抱かなければ調べようとは思わなかっただろう。海の先に何があるのか、それが現世も同じだという思い込みが、新たな発見を見逃したのかもしれない。

 

 アキラは考え込んでいた顔を上げたが、やはりそこには納得の表情はなく、ただ形容し難い視線を向けて口を開いた。

 

「誰も進みたがらないのでもなく、進めないんですね? 線を引かれているから、誰も先に進まない、と……国境線とは違うんですか?」

「そういうものじゃないんだ。境界線だ、言ったろう。意志があろうと無かろうと、物理的に進む事が出来ない。近づけば巻き込まれ、死ぬ事になる」

「巻き込まれ……? でも、そうですか。な、なるほど……」

 

 そこまで強く言えば、アキラも納得せざるを得なかったようだ。

 話の腰を折った事を詫ると、ユミルが佇まいを直して話を再開しようとしたが、その前にミレイユへ渋い顔を向けた。

 

「……アンタって時々説明下手よね。それだけじゃ分からないし、イメージ掴めないでしょ。――アキラ、境界線っていうのはね、もっと分かり易く言えば大瀑布よ。右から左へずーっと、巨大な滝が目の前に広がってる」

「巨大な、滝……」

「当然、そんなところに近づけば命はない。ただ横に長いだけじゃなくて、上にも高い。見上げてもどこから水が落ちてきているのか分からない程度にはね」

「水飛沫で雲の層が出てきてしまっているからな。山より高いのは確実だし、どれほど遠くから見ても、その滝口が見える事はない」

 

 水が落ちてくる場所を滝壺と言うが、その逆、水流の落下開始地点を滝口と言う。

 今アヴェリンが言ったように、晴れた日であろうと、大陸のどこからであろうと、その滝口の様子を見る事は出来なかった。

 

 そもそもが吹き上がる水飛沫によって作られる雲で遮られてしまい、年中晴れない雲がその先を見せてくれない。

 アヴェリンはアキラに皮肉げな笑みを見せながら続けた。

 

「あるいは滝口なんてものは無いかもしれない、という者もいるがな。神の作り出した光景だ、そうであっても不思議じゃない」

「確かに……僕の知ってる大瀑布でも、どれだけ離れても途切れた部分が見えないなんて、有り得ないですし。そもそも瀑布って川があって成り立つものでしょう? そんな事あり得るんですか?」

「実際に見てみなければ、納得できるものでもないだろうがな。私もかつては度肝を抜かれたものだ。そういうものがある、という常識というか……人伝てに聞いただけでしかなかったものが、実在する事に驚いたものだ」

 

 なるほど、と頷いて、ユミルの意図を汲み取ってルチアは言う。

 

「つまり、それだけの光景を作り出せるのも神だけなら、その滝口の向こうに大陸か何かあって、そこに住めるのも神だけだと……。そう考えている訳ですか」

「島が空に浮かんでいたり、そこに住んではいないだろう、とかつて言っていた根拠はそれか……」

 

 そういう事もあった。

 それはやはりアキラが空を飛びたいと言った時の事で、そして空を飛ぶことを鳥のみ許可した、という話をした時だった。

 

 神の所在は神話やお伽噺の類で話される事もあるが、どれも曖昧で確かな記述は存在しない。教えたところで大瀑布の向こう側では近づけないだろうし、どれほど強固な船でも滝壺付近へ行ける訳もない。

 

 直角の滝登りなど出来る訳もないので、その滝口を覗こうと思えば空を飛ぶしかないのだ。

 そうとなれば、話は先程のドラゴンとも繋がってくる。

 

「つまり、そういう事か……? 姿を歪めてまで空を奪ったのは、大瀑布を超えて欲しくないからだと……」

「そう、それがアタシの考える理屈。文明の発展を抑えているのも、それが理由でしょ。あっちじゃ千年でヒトは空を飛ぶ機械を生んだのに、こちらでは四千年も変わらず停滞しているのは、それを神が許さないからよ」

「ですね……。いつだったか、そういう話をされました」

 

 ルチアも暗い顔をして頷いた。

 どういう話をしたのか、ミレイユは聞いていないし知らないが、だがそれなりに内容の察しは付く。多くはユミルの愚痴のようなものだったろうが、発展を許容しない神の最配は、疑問にも思った事だろう。

 

 ――それら全てが、空への道を封じる事に繋がっている。

 そうと言われたら納得できるだけの根拠に思えた。

 

「……確かにそうです。まるで空へ向かわれるのを、恐れているようですらあります。執拗に手段を潰されているかの様に感じますね」

「でしょ? そこまでして行かせたくない先に何があるのか……。それが神の所在地だと、アタシは考えてるワケ」

「なるほど。ここまで聞かされると、納得できる話ではあるな。だから別空間に居を構えてるとは思えない、か……」

 

 アヴェリンもルチアと同様、最後まで聞き終わって納得した表情で頷いている。

 実際、この話を聞く価値はあった。大瀑布の向こうに神が本当にいるのなら、という前提になるし、神が隠し封をしたいものが他の何かでない限りにおいて、所在地は大瀑布の向こうであるかもしれない。

 

 だが、別次元を作って隠れないのか、という部分においては、ミレイユとしては反論があるのだ。既に話し合いに一段落ついた雰囲気が漂っているが、それを真っ二つに斬り裂くように口を開いた。

 



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行動方針 その5

「ユミル、お前の主張にはそれなりの根拠があった。空の向こう――もっと言えば、大瀑布の向こうにある何かを秘したいから――それが神居だから、という話には納得できた」

「そうでしょ?」

「だが、『箱庭』の存在を忘れてないか。箱の中に別空間を作れるなら、似たような事で自らの所在地を隠せるだろう」

 

 自慢気に胸を張っていたユミルが、その一言で固まる。

 鼻すら高々と伸ばしていたところに、ミレイユの言葉はそれを折ってしまうには十分だったようだ。完全に身動きをなくし、呼吸すら止まっていそうに見える。

 

 そこへアヴェリンがしみじみと、同情を感じさせる声音で言う。

 

「短い栄華だったな。私は私情抜きにミレイ様の主張を支持する。手の中に収まる小箱に、あれだけの空間を作れていたのだ。最低でも同じ事が出来なければおかしいし、それなら隠す場所には困るまい」

「作れる限界のサイズがどうか、という検討は必要だと思いますけど……。でもまぁ、仮に箱庭での空間サイズが限界だったとして、暮らすに不便な大きさでもないですよね」

 

 次々とミレイユの主張を支持する声が上がって、止まっていたユミルが再起動した。

 

「いやいや、ちょっとお待ちなさいな。神々が隠れ住むコトを良しとすると思う? 有り得ないわ」

「別次元に暮らすっていうのが、そもそも隠れ住んでると言えなくもないですが……。その前提だと、最初から別次元説は崩れる訳ですか」

「それは暴論というか、どうとでも解釈できる点だろう。このデイアートを本当に盤上遊戯に見立てているとしたら、そもそもの地に居を置こうとしないだろうし、むしろ別次元説を後押しする事になる」

「でも、そんなの確認しようが無いじゃないのよ! 聞いても答えてくれるヤツなんている?」

 

 ユミルはついに辛抱が切れたかのように、冷静さをかなぐり捨てて、身振り手振りを大袈裟に交じえながら口にする。

 

「『箱』の中に作った世界を神の領域と名付けるのは勝手よ。それならアタシも別次元説をむしろ推すわ!」

「『箱庭』という物証がある以上、あやふやな別次元説を持ち出すよりは、返って根拠が増すかもな」

「そうでしょ? でもそれなら、何かしらの『箱』たる入れ物を用意しなきゃならない。本当に箱の形にする必要もないでしょうけど、その『箱』をどこに置くかっていう話にもなるじゃないのよ!」

「少し落ち着け……」

 

 アヴェリンが煩そうに顔を顰めたが、ユミルはそれに取り合わない。むしろもっと気分を刺激して興奮度合いが増していった。

 

「どうでもいいでしょ、そんなコトは! どうなのよ!」

「ふむ……。それは確かに、悩ましい問題だな。箱の大きさだったとしても、それを人間に預けるなど、絶対にしないだろう」

「隠すのに不便な大きさにする必要もないですし……、そうした時、どこか深い森の中とか……」

 

 ルチアにしてもチラリと頭の中に浮かんだ発想を口にしただけだろうが、ユミルはそれへ大仰に否定した。

 

「そんなのプライド高い奴らが選ぶ方法なワケないじゃない! 神がどうして、そんな見窄らしい真似しなきゃならないのよ。誰憚るコトなく、隠れるコトなく堂々と安置するし、何なら隠すコトも隠れるコトもせず、堂々と暮らすに決まってるわ!」

「多分に私情が混ざってる気がするが……。だが隠れ住むというのも、確かに些か納得いかないものがあるな。隠れるような後ろ向きな方法は嫌だ、しかし所在は隠したい、その折衷案が大瀑布の向こう……。それがお前の主張だと言うのか?」

 

 ミレイユが内容を纏めて口にすると、ユミルは大いに賛同して頷く。

 

「そうよ、それ以外ないでしょ!?」

「興奮するな、別に否定してないだろ。だが、どうして大瀑布の向こうだなんて思うんだ」

「四千年前には無かったからよ!」

 

 ユミルが堪りかねたかのように口にしたが、それに即座の反応を見せたのはルチアだった。

 

「何でそれ先に言わないんですか。最初に言ってたら、そうかもって納得してましたよ」

「え、待って下さい……ユミルさんって四千才、超えてるんですか?」

「そこに食いつくんじゃないわよ!」

 

 スパァン、と小気味良い音と共にユミルの腕が振り抜かれ、アキラの頭が横に跳ねる。

 その衝撃に耐え兼ねてアキラの身体も一緒に倒れ、その先には焚火があり、そして火に掛けられた鍋があった。

 アキラも咄嗟に避けようとしたが結局無理で、鍋を盛大に引っくり返して焚火に顔を突っ込む事になった。

 

「アチ! アッチ! アチチチッ!!」

「何やってるんですか、もう……っ!」

 

 ルチアが即座に魔力を制御して、最下級の氷結魔術を放つ。

 お湯を被ったり焚火に突っ込んだりと、災難続きではあったものの、ルチアの助けで大怪我は負ってない。火傷もあったが、火を消すのと同時に治癒術も放たれ、服や頭髪が凍り付いただけで事なきを得ている。

 

「酷いですよ、ユミルさん……。何でそこまでするんですか」

「酷い目に遭ったのは、単にアンタが鈍臭いからでしょ。アタシの所為にしないでよ」

「どういう理屈だ。いいから今はアキラを介護してやれ」

 

 ミレイユが言えば、ユミルはやれやれと息を吐く。

 緊迫した雰囲気は、今の騒動でだいぶ薄れた。ユミルの興奮度合いも影を潜め、今では冷静にアキラを見下している。介護しろという命令をどう受け取ったのか、座って足を組んだまま、腕を伸ばして凍った頭髪を乱雑に解していた。

 

 その間にもアヴェリンはテキパキと焚火を手直しして、再び火を着けようとしている。

 ルチアもまた、転がって中身がこぼれてしまった鍋を拾い上げ、簡単に洗っていた。鍋の中が煮沸かしたお茶で良かった。これが料理であったら、単に食事を駄目にしただけでなく、食べ物の恨みを買う事になっていただろう。

 

 ただ一人、何もしていないのはミレイユだけだが、それに文句を言う者はいない。

 何かしようとしても今からやれる事はないし、それにアヴェリンは止めてくるだろう。

 今はとりあえず、場が元に戻り、また落ち着いて話が出来るまで大人しく待つ事にした。

 

 ――

 

 アキラの着ている――というより身に付けている防具の裾が、灰まみれになった以外は元通り、再びお湯も沸かせてお茶を配り終えれば、話し合いの再開をしようという空気も出来上がった。

 ユミルは未だに不機嫌さを解消してはおらず、ねちねちとした視線をアキラに向けていた。

 そのアキラは決して目を合わせまいと、必死に目を逸らして木々の間に視線を向け続けている。

 

「いや、すみません……ユミルさん。そんなつもりじゃなかったんです」

「そうよね? アタシが千年すら超える年嵩だって? アンタはそう言いたいんですものね?」

「いや、そんな……! ルチアさんより年上だって聞いたから、つい色々飛び越えてそう思ってしまったというだけで……。そうですよね、文献とかで読んで知ってたとか、そういう話に決まってますもんね」

「謝るつもりがあるなら、アンタいい加減こっち向きなさいよ」

 

 いつだって、どこの世界だって女性は年齢を聞かれるのを嫌がるものだ。

 それが千年を超えたら、もはや羞恥を通り越して誇りとなりそうなものだし、実際エルフの慣習だと皺の数が一定数以上なら、むしろ美徳とされている。

 

 ミレイユはユミルとアキラのやり取りを見ながら、むしろユミルは年齢の事など露とも思っていないと予想していただけに、これは意外に感じていた。

 アキラが恐る恐る顔を向けるのと同時に、それとは別にアヴェリンがミレイユに聞いてくる。

 

「実際、どうなのですか? ユミルは時々よく分からない事まで知っています。そして、それを憶測ではなく、事実と認識した上で口にしている節が、多々ありましたが……」

「お前の懸念は当たっている。ユミルは四千年以上生きているし、大瀑布が無い以前の姿も知っているだろう。雲が浮かんでいる事を当然と思うように、世界に大瀑布があって当然と認識するより前の姿を」

「そうなのですね……。あれの尊大な態度を許すミレイ様に疑問を抱いた事もありましたが……、つまり年齢に対する一定の敬意が含まれていたと……」

 

 ミレイユは困ったように笑う。

 それは間違いではないが、事実とは異なる。むしろミレイユには彼女の一族を滅ぼす一端となった、という負い目があった。

 

 ユミルはミレイユの在り方や、自分だけは救ってくれた事、一族の無念を共に拾ってくれた事に感謝しているから、それ以上何も言わない。

 そしてミレイユの方から謝罪を言うのは、彼らの尊厳を傷つける事になってしまうので、やはり何も言えない。それで単に、ミレイユが一方的に負い目を持っているだけだ。

 

 アヴェリンがユミルに顔を向けるのにつられ、ミレイユもまた顔を向ける。

 そこには何度も頭を下げるアキラの姿と、腕を組みながら尊大に謝罪を受け取るユミルの姿があった。

 その尊大な姿が鼻に付いたのか、アヴェリンは声音を一段落としながら声を放った。

 



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行動方針 その6

「しかし、ユミル。お前は一族が狙われていた事など話していたが……、大瀑布の存在如何を知っていたというのなら、狙われた理由がまた一つ明らかになったな」

「あら、素敵なご指摘ありがとう。滅んだ今となっては、最早どうでも良いけどね」

「だがそうなると、また一つ疑問が出てきたな。それが本当に不都合なら、もっと早くに滅んでいたとしてもおかしくないだろう」

 

 その一言でユミルの動きがピタリと止まる。

 アキラを見ていた顔をアヴェリンに向け、それから一度思考を巡らせるように視線を斜めに上げてから答えた。

 

「一理あるけど、引きこもってる分には害がないとでも思ったんじゃないの? 簡単に突き崩せないからこその存続でしょ」

「長い年月の間、襲撃に遭ったりしなかったんですか……?」

「そりゃあったわよ、何度もあったわ。神々から直接は無かったけど、それ以外の有象無象の輩がね。……言ったばかりでしょ、簡単には突き崩せないから存続してたのよ」

「そのようだな。私は神に感謝すべきか? それとも嘆くべきか?」

 

 うるさい、とユミルは手を払うように動かして顔を背けた。

 いつもと言い包められる側が逆で、アヴェリンが一矢報いたような形だが、そうと言うには少々趣味が悪い。ミレイユが咎めるような視線を向ければ、アヴェリンは素直に謝罪した。

 

 ユミルにもその言葉は届いたが、素直に返事をするほど単純な性格をしていないのが彼女だ。

 この両者の関係はいつでも拗れているが、これでまた更に拗れたな、と心の底で息を吐きながら二人の姿を交互に見た。

 

 ――

 

 実際のところ、話し合いをするような空気ではないのだが、さりとて今は午前中、日も中天へ差し掛かってもいない時間帯だ。小目標も定まっていない現状、それを決める以外に優先する事もない。

 それでミレイユは全体を見渡し、それまでの空気を払拭できないままに再開した。

 

「……まぁ、とにかくだ。話を整理しよう。ユミルの言い分としては、大瀑布の向こう側には神がいるだろうと主張するんだな。その根拠は四千年前には無かった大瀑布で、それまで空を飛んでいたドラゴンなど、力あるものを地に落とし、近付けさせないよう手を打ったからだと」

「……そう、明確な線引きをしただけでなく、隔絶した場所を設けた。神の威光を持ってすれば、これ以上この場所に近寄るな、とヒトに命じるコトは簡単よ。でも十割じゃない。魔物に関しては言うコト聞かないものは多いでしょ? でも絶対の安全と保障を欲したから、ああいう場を作ったんじゃないかと思うのよ」

 

 ルチアは唇を突き出して、可愛らしく眉根を寄せながら考え込む。

 幾らか頭を悩ませた後、息を吐いてユミルを見た。

 

「十二の大神全てが声を揃えて命じたら、それこそ禁忌神聖の地として勝手に守護してくれそうですけど……。でも、乗り込んでやろうとする者も逆に生まれそうだ、というのも確かですね。それに……ユミルさん達のように、恨み持つ者たちへ所在地を教える事になりますし」

「神は偉大であるとしても、同時に恨みも買うものだ。理不尽で偶発的な死などは、神も良く使う手段だ。そして、その恨み辛みが神に向かうのも良くある事。だからと害される神でもないだろうが……煩わしさはあるだろうな」

 

 アヴェリンもまた賛同するような意見を出したが、それでもやはり、首を横に振る。

 

「だが解せん。大瀑布を造り出したのは良い。それが安全策を講じた結果だとして、だからといって、別空間を作り自分の領域で過ごしている事を、否定するものにはならないのではないか?」

「だから、それは……そう。本来、別空間にいる、という部分は別にどちらでも良いのよ。でも、こちらと繋ぐ線は残しておかないといけないじゃない。降り立つ先にしても、毎回ランダムというワケにもいかない。じゃあ確実に安全な場所から出入りするとして、そこは何処にするのか、という話になるじゃない」

 

 ユミルの言い分にはミレイユも納得させられ、つい何度か頷いてしまった。

 確かに、奴らには『孔』を作り出し、世界を渡る道を作れる。そしてそれは、ある程度場所を指定出来るものでもあるのだろうが、しかし渡ろうと思う度、絶対安全な場所を探るのは簡単な事ではない。

 

 仮に安全であったとして、それは毎回必ず間違いない保障をするものではなく、そして百年後も同様に安全である保障もない。

 長い年月――それこそ四千年経過した後でも、間違いなく人の手が入っていない場所を、予め選んでおく事は困難を極める。

 

 ミレイユは現世の事を思い出した。

 本来は人が登る事など考えられない険峻な山ですら、人は己の足のみで登頂して見せた。それは世界最高峰のエベレストでも同様で、人の挑戦心は止められない事を意味している。

 

 対してこちらの世界は、それを補助する手段が山と用意されている。

 人の足で向かえる先であれば、それはどこであろうと安心を保障できるものではないだろう。いつか到達し得る、と言うなら、いずれ到達する、という意味でもあるのだ。

 

 そうであるなら、確かにユミルの主張は正しいように思う。

 誰にも到達できない場所に、安全を保証される場所を作った。その為に、鳥以外空を飛ぶ事を許可しなかったし、元より持つものからは、それを奪ってまで保障を作った。

 ――そういう事ではないのか。

 

 ミレイユは感心した目つきをユミルへ送り、そしてそれを受け取ったユミルは、やはり大きく胸を張った。

 そんな様子をルチアは見ながら、同様に得心したような表情で顎の先を摘む。

 

「……確かに、言われる程に納得できるものではありますね。いつか言っていた、地上へ降り立つのに足掛かりとしている部分は空にある、と言っていたのは、これの事ですか」

「そうね。アタシは神が自分の領域にいるとされているのはブラフだと考えていたけど、『箱庭』があるんですもの、普段はそちらで過ごすと考えてもいいわ。別にそれはどっちでも良いもの。ただ大瀑布の向こうに神へと繋がる何かがある、アタシはそう主張したいの」

「それは分かったが……」

 

 ミレイユは悩ましげに頭を捻った。

 実際にそうと話を聞けば、あの向こうに何があるのか、それは気になる。何かがあるとして、それが本当に神へと繋がるものかどうか、その確かな証拠もない。

 だが行ってみる価値がある、と言ったところで、行く手段がないのもまた問題だった。

 

「大瀑布へは近づきようがない。船は論外、可能な限り近寄る為と割り切ったとしても、やはり滝口まで接近、飛び越える手段は別に用意する必要がある。そこをどう解決する?」

「アンタの飛行術で何とか出来ない?」

「あれは直上へと飛び上がるもので、好きな方向に飛べるものではないからな……。いや、あくまで頭の向いている方向へ、という事なら方向転換も不可能じゃないだろうが……試してみないと分からない」

 

 使った回数も片手で足りるし、そもそも行使した瞬間直上へと飛ばされた。

 当然、使った場合はいつでも頭は上を向いていたが、では横になった状態で使ったら、本当に真横へ飛ぶのか疑問に思う。

 同じ疑念を抱いたのはミレイユだけではない、苦言を呈して来たのはルチアだ。

 

「いや、危険過ぎますよ。下手に試すのも、お得意の改変するのも止めておいた方が良いです」

「まぁ、この辺で使えば木々にぶつかって怪我するか、あるいは薙ぎ倒す破目になると思うが……」

「いやいや、それだけじゃないです。直上なり、あるいは多少上手くやって斜上に飛んだとして、それが神の目に映ったら絶対厄介な事になりますよ。空を飛ぶ物体に対して無警戒でいるかが賭けになりますし、ミレイさんが飛行術を使って何かしてると判明すれば……」

 

 その先は言わなくとも理解できる。

 ミレイユは手を挙げて、それ以上の発言を止めた。恐らく数千年もの間、空を飛ぶのは鳥だけだったろうから、今も目を皿にして見張っているという事はないだろう。

 

 だが、ミレイユがこの世界に降り立ったのが周知の上である以上、そのミレイユが飛行術を使いその改変を目指しているとなれば話は変わる。

 幾ら魔術を既存のものから上手く変えるのが得意とはいえ、試算や練習もなしに扱う事は出来ない。そして事が事だけに、運良く見つからない偶然に頼るのは危険だろう。

 

「そうだな……。奴らとしても、私の身柄は押さえたい筈。街中で暴れたところで目立たないだろうが、これはまた違うベクトルで目立つ事になるだろう」

「え、あの……街中で暴れても目立たないんですか? 普通、そういうのは目に付くんじゃ……」

 

 アキラが怪訝そうに言うと、アヴェリンは首を横に振る。

 普段なら呆れた様な表情をするのだろうが、今は憐憫にも似た眼差しを向けている。そこで暮らす事になるであろう当人に、現実を教えてやろうという優しさが表出しているようだ。

 

「暴力沙汰一つで騒ぎになるような、お上品な街などこの世にはない。殺傷沙汰に無関心という意味ではないが、殴り合い程度なら良く目にするものだ。理由次第じゃ黙認されるし、正当な理由なくとも大多数が一人に負けるようでは、理が一人へ傾く事もある」

「一々気にしてるようでは始まらない、と……。弱肉強食の世界ですね……」

 

 アキラが恐々と言うと、アヴェリンは大いに頷く。

 

「そうとも。だからこそ、強者は滅多な事では力を振るわんがな。力ある者は、同時に名誉ある者だ。下らん理由で力に任せて言うこと聞かせる者は、真に名誉とは言えない。名声を持つ者は自制した行いを取るものだ」

「なるほど……。じゃあ仮に乱闘騒ぎになっても……」

「騒ぎには違いないが、事件でもないし、注目を集めるという程ではないな。いつだって暴力沙汰を起こすのは、自らを強いと勘違いしている半端者だ」

 

 それも騒ぎの内容次第だが、と締めくくってアヴェリンは沈黙した。

 実際街中で暴れるような者は決して珍しくない。それに一々対応していられない、というのが実情で、国の衛兵も野放しにしているような状態だ。

 

 だからギルドが自分達の範囲でそれぞれ面倒を見るのだが、ギルド同士の軋轢などで野放しになっていたりする者もいる。暴力だけで解決しようとすれば、ギルドから派遣される実力者が制裁に来るので無法者が好き勝手できる訳でもない。

 

 その様な状態が蔓延しているのが世の常で、大きな街なら毎日必ず何か揉め事が起きている。

 だから、目立つというなら、無人の荒野で空を飛ぶような奴の方が、神からすれば余程目立つだろう。

 

 そもそも術の改変は高度な技術を必要とするから、一朝一夕で出来るものではないし、実践せずに本番で使うのなど、凡そ考えられる事ではない。

 神の目から逃れ続けながら、こちらの意図を掴ませずに行動する、というのは難題だ。実に悩ましいジレンマだった。

 

「ま……、そうよねぇ。奴らはこの子を捜してる……それから逃げるか迎え討ちつつ、目的を果たさなければならない。見つかる事が、即終了ってワケじゃないけど……やり難くなるコトも確かだと思うし」

「でも、とりあえず街中に入ったりするのは大丈夫なんですよね?」

「人の目から逃れたいワケでもないからね。むしろ木を隠すなら森の中、とも言うでしょ。そこは神経質になる程じゃないと思うけどね。……アンタはどう思う?」

 

 ユミルに問われて、ミレイユは頷く。

 完全な自給自足が難しい以上、どちらにしても街や村に立ち寄る事は必要不可欠だし、全てにおいて逃げ隠れして行動するつもりもない。

 

「神々からすれば、今日明日にでも捕らえたい、というほど切羽詰まった状態じゃない筈だ。ある程度は泳がされると考えて良いだろう。こちらも完全な隠密行動を強要される程じゃない」

「……自由行動が許可されていると考えても?」

 

 ルチアが聞けば、ミレイユは即座に頷いた。

 

「行動を束縛するような事はない。それに、そもそもアキラの生活も考えてやらねばならない」

「そうよねぇ……」

 

 ユミルが悩ましげにアキラを見た。

 何にしても、放り出す意思がない以上、最低限の援助はしてやらねばならなかった。ミレイユにとっても、アキラは赤の他人ではない。そう思えばこそ、街での行動は必要不可欠だった。

 



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行動方針 その7

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 今後の方針について、大瀑布の向こうを目指すのは決定事項となった。

 神と対面するだけでなく、むしろ急襲するように接近するのが目的だ。ただ会いたいというだけなら、空を飛び回っているだけで勝手に出会えるだろう。

 

 ただしそれは玉座での対面のようなものではなく、身柄を完全に拘束された上で、何一つ行動を許されない状態であって、下手をするとそれすら行われない。

 ミレイユ――というより素体という存在が、部品のパーツか何かだと言う認識でいる限り、その扱いなど期待するだけ無駄だ。

 

 オミカゲ様も神との戦いで敗北し、そして挑発されるように真相を聞かされる破目に陥っているので、同じ目に遭ってやるつもりは無かった。

 

 だが、同時に思うのだ。

 神がミレイユの前に姿を現すのは、勝利を確信した時だけだろう。オミカゲ様は逃げ出す事に成功したようだが、それは幸運やユミルの自己犠牲に依るところが大きい。

 

 全てを円満に解決する、という目的が、ミレイユにはある。

 だから安易な方法で神と出会う訳にはいかないし、可能なら有利な状態で対面したい。

 大瀑布を超えて――そこに神がいるとして――要求を突きつけるには、少なくともその直前まで、その目的を悟られる訳にはいかないのだ。

 

 ミレイユは頭痛と精神的不調に耐え兼ねて、重く息を吐く。

 まだ変容は十分ではなく、ユミルからの絶対命令を受け取っていない身では、神々への叛逆を考えると頭が痛くなる。考えが後ろ向きになり、また考え続けるには多大な意志が必要になった。

 

 ルチアから手渡されたお茶は、生姜湯の様な保温効果を持つ筈だったが、体の奥がやけに寒い。指先まで震えてくるような有様で、その状態に目敏く気付いたアヴェリンが、身を寄せて頬に手の甲を当ててきた。

 

「ひどく冷えています、どうなされたのです」

「さっきまでは何とも無かったが……。思えば、噛まれてから少し変な……」

 

 全くの憶測だったが、ここに来て風邪を引いたのではないとするなら、それ以外に思い当たるフシがない。

 それを聞いたアヴェリンは、即座に顔を上げてユミルを睨み付けた。

 

「――おい、ユミル。これはお前の仕業か」

「酷い言い方しないで頂戴。変容が始まっているのよ、正常な状態だわ。一時的に体温の変調が出るだけだし、命に別状はないわよ」

「だったら、それを先に言え! 話し合いを続けるより、テントで横になっている方が遥かに有意義だ!」

「いや、とっくに知ってるコトだと思って……。それに本来ならもっと早く始まってる筈だから、この子レベルだと関係ないのかしら、とか思ったり……」

 

 ユミルのしどろもどろの言い訳など、アヴェリンの耳には入っていない。

 胸の中に抱き留めながら、震える指先を押さえつつ聞いてくる。

 

「……ミレイ様、動けますか? 今はとにかく、他の事は後回しにして横になっていて下さい。周りの警戒など、万事こちらにお任せを」

「……そうだな、任せる」

 

 体調の急激な変化が変容によるものだと分かると、不思議なもので途端に身体が重く感じられた。

 身体の震えも大きくなり、器を持ち続けるのも難しくなった。それをルチアに返して、アヴェリンの手助けを借りながらテントに入る。

 

 まだ出しっ放しだった寝袋マットへ、身を投げ出すように横になると、周りの毛布を掻き集めて丸くなる。風邪とは違うから、特別意識が朦朧とする事はなかったが、眠れそうもないというのが逆に辛い。

 

 アヴェリンとユミルが激しく何かを言い合うのを聞きながら、とにかく症状が落ち着くのを待って、早く変容が終わる事を念じながら瞼を閉じた。

 

 ――

 

 瞼を閉じるだけ閉じてみたものの、やはり昨日長い間寝ていただけに、眠気は全くやって来ない。しかし寒気はあっても熱はなく、指先までも冷たくなっているというのに、気分はさほど悪くないという不思議な状態になっていた。

 

 だから暗い視界の元、ただ外へ耳を傾けるぐらいしかやる事はないのだが、飛び込んでくるのはアヴェリンとユミルが、いがみ合うような雑言が飛んでくるだけだ。

 時折アキラが槍玉に上がっていたりと、完全にとばっちりを受けているような形だったが、とにかく黙っていれば症状も次第に落ち着いてくる。

 

 指先の震えが止まると、寒気が消えるのも早かった。

 一時間ほど経過し、ルチアが目に染みるような薬湯を持ってきた頃には、気分もすっかり落ち着いていた。促されるままに身体を起こし、鼻にもツンと染みる薬湯を啄むように口を付ける。

 

 匂い同様、味の方も酷いもので、苦いのか酸っぱいのかすら判然としない。

 思わず抗議するような視線を向けたが、ルチアは小さな子を諭すように優しげな目で言う。

 

「今朝、偶然森の中で見つけていた薬草と、とある樹木の若芽をすり潰したものです。味も匂いも酷いですが栄養価は高いですし、滋養を付けようと思えば有用なものです。話を聞く限り、ミレイさんは病人ではないようですけど、朝の食事だけじゃ栄養も足りないでしょうから」

「……うん、気遣いは有り難いんだが……」

「ちゃんと飲んでくださいね。そうじゃないと……」

 

 言いながら、ルチアは今も口論が絶えない二人に目をやる。

 

「一切フォローしませんよ」

「中々エグい提案をしてくるな……」

「まだ話し合いは途中でしたし、再開すれば何かと衝突はあるんじゃないですか。特にあの二人の間には」

 

 そうだな、と頷きながら、ミレイユもまた二人に顔を向けた。

 基本的に水と油の二人だが、ミレイユの事になれば、そのいがみ合いも度を越すのが常だった。それに今回はミレイユの体調に直結する事だけに、アヴェリンの態度が険しくなるのは避けられない。

 

 これから続く話し合いの最中、二人があのような態度のままだと思えば、今から既に頭が痛い。

 一向に前へ進まない議論の所為で、何日もここで足止めというのも笑えない話だ。

 

「どちらにしても、ミレイさんの容態が安定するまで動けませんし、三日程の時間は掛かるらしいじゃないですか。その間に神の横槍でも入って、ミレイさんが行動不能にされても困りますし、ちょっとの間、森暮らしも良いんじゃないですか?」

「あの二人の頭も、その間に冷えるれば良いが……」

「そう願いますよ。今回の話し合いは実に濃密で、私も整理しておきたいところですし。その間に、何か良い案も浮かぶかもしれませんしね」

「……そうだな」

 

 結局のところ、神と対峙するという大目標の為に、まず何処を目指すべきなのかが定まったに過ぎない。それとて推測から導き出された憶測に過ぎず、確信あっての事ではない。

 ミレイユは今だけは頭を空にして、とりあえず二人の喧騒を肴代わりに薬液を喉の奥へと流し込み、そして直後にえづく。

 

「……えほっ、ゲホッ! 酷いえぐ味だ……」

「苦いですけど、若芽ばかりを選びましたから、そんなに酷いえぐ味は無い筈なんですけど……?」

 

 突き放すように伸ばした腕の先にある器へ、ルチアは鼻先を翳して小さく嗅ぐ。そして首を傾げて小指で掬い取り、舐め取って舌先で味を確認しすると、やはり首を傾げてしまった。

 

「やっぱり私には少し苦いだけの、よくある薬湯の類いに思えるんですけど……。これって変容の兆候なんでしょうかね?」

「あぁ……、そうかもしれない。ユミルも独特な味覚を持っているが、それは先天性というか、種族由来というか、そういうものだからな。私にも同じ事が起きていても不思議じゃない」

「やっぱり、そうですか。今後は食事の方も、少し気を遣った方が良さそうですね」

 

 ミレイユは小さく頷いて、頼むと伝える。

 実際ユミルの食事には匂いの強い香草などは控えめにするなど、今まで面倒にならない範囲での配慮があった。それを今度はミレイユにも同じ事を施すと言ってくれているのだ。

 

 ミレイユ自身、何がどう味覚の変化が起きたのか理解できていないので手探りになるのだが、その辺はユミルの食事をよく作っていたルチアの方が詳しい。

 任せておけば大丈夫だろう、という信頼がある。

 

「じゃあとりあえず、その薬湯だけは飲んじゃって下さいね」

「笑顔で言うなよ、そういう要求を」

 

 妖精が浮かべる笑みと言って過言ではない、まるで花開くかのような笑顔での言い草だ。味覚が変わって飲めた物ではない、と理解していての発言なのだから、尚の事その笑顔が意味するところが怖い。

 

 普段の食事事情から鑑みれば、確かに昨日今日とろくな食事を取っていないのは事実だ。喪った魔力を補う為、マナを過剰に生成した所為もあって体力も落ちたろう。

 

 それを補充するのには、とにかく栄養価の高い食事を摂るしかないのだが、現状ではそれも難しい。体調を万全に戻す事を考えるなら、現状用意できる唯一と言って良い薬湯を断る訳にはいかなかった。

 

 ミレイユは突き放したままでいた腕を戻し、器を口の近くまで近づける。

 既に一度痛い目を見た所為か、身体が拒絶反応を起こして腕が震えてきた。鼻孔から侵入した香りが染みて、薄っすらと涙が目尻に浮かぶ。

 

 呼吸すら荒くなって来たところで、ちらりとルチアへ視線を向けると、そこには先程とは打って変わって、嗜虐的な笑みがこちらを見ていた。 

 ミレイユが涙目で口先伸ばしながらも飲めない姿が、痛くお気に召したらしい。

 

 そこへギラリと視線を鋭くさせると、怖い怖いと両手を上げて笑みを引っ込めてしまった。

 しかし、その飲み込ませようとする意志まで、引っ込ませる事は出来なかった。その目は早く飲めと告げている。

 

 ミレイユは一度深呼吸してから、なるべく舌の上を滑らないよう意識しながら流し込み、そのまま嚥下する。顔いっぱいに渋い顔を浮かべた後、痛いものを堪えるように息を吐いた。

 胃の中から昇ってくる匂いまで味覚を攻撃して来るようで、いかにも辛い。

 

「頼むから、口の中を濯げるような、お茶か何か貰えないか」

「分かりました、ちょっと待っていて下さい」

 

 ひとしきりミレイユの醜態を見て満足したらしいルチアは、おもむろに立ち上がってテントから出ていく。その後ろ姿を恨めし気に見つめながら息を吐き、自らの薬臭い息が鼻をかすめて顔を顰めた。

 



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行動方針 その8

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
いつも助かっております!



 それから翌日、話し合いの結果、一つの案が決定した。

 三日の間、ミレイユが復調するまで――正しく言うなら変容が完了するまで、この場で待機しているのが良いだろう、という結論だった。

 最初は少しでも移動して、人のいる村なりを見つけ出すべき、という意見もあったのだが、結局ミレイユが倒れるリスクを天秤に掛けて、留まる事に決まったのだ。

 

 一応、追われる身でもあるので細々とした移動は繰り返すべきだ、という意見もあったのだが、森の中の移動は簡単ではない。特に体調をいつ崩すとも知れないミレイユを帯同させるのは、アヴェリンが最も激しく抵抗した。

 

 彼女なら苦もなく、背負うなり腕に抱くなりと移動できる。そして、それは実際やって見せたが、やはり実際に身の危険が起きた時、咄嗟の対処が難しいという事が難色の理由だった。

 森の中とはいえ、追跡に長けた者なら発見は容易い。

 

 それならば罠を張って待ち構えた方が対処し易いだろう、という意見を採用する事になった。

 上手く魔法陣を隠せば、一方的優位で対処できるし、それぐらいならミレイユも問題なく行使できるので、動かないままでいる案が採用するに至った。

 

 それに、留まるメリットはミレイユの身体を慮る以外にも理由がある。

 この時間を使って、アキラにこの世界の常識や言語を教えられる事だ。翻訳魔術などという都合の良いものは、こちらの世界では開発されていないので、自力で覚えてもらう必要がある。

 

 外国語教育を受けていたという、他言語を習得する下地はあるものの、一般的な学生の一般的な教養しか持たないアキラに、これは相当な苦労が付き纏うものだった。

 

「だぁから、違うってば。……『ルァ』、アンタのは『ラ』、全然違うでしょ?」

「分かりますけど、日本人は苦手なんですよ、その発音……」

 

 アキラは弱り切った顔で項垂れた。

 中学高校で習う英語など、大抵は読み書きが主軸で、発音もまた教わりはするが、喋られるようにはならないものが多い。アキラもやはりその部類で、英語の成績は悪くなかったそうだが、発音に対する理解も相応のものだ。

 

 しかし、こちらの世界は統一言語が使用されているので、幾らかの訛は存在していても、片言レベルで話せない者というのは存在しない。

 習得して貰わねば、生活すら危ぶまれるだろう。

 他と違うから、という理由だけで排斥されるのは、どこの世界でも同じなのだ。ただそれが強さというベクトルになれば話も違ってくるのだが、それをアキラに求めるのは更に酷だ。

 

「しっかりなさいな。そんなんじゃ、パン一つだって買うコト出来ないわよ。野生の中、狩り一つで生きていくつもり?」

「そんなつもり、全然ないですけど……。でも、いきなりは無理ですよ。日本人だって英語が喋れるようになるのに、何年も掛けて習得するんですから」

「でもアンタ、そんなコト言ってる暇ないでしょ。アタシ達にアンタの通訳として生きていけと言うつもり? 本来なら放り出されていても仕方ないって、ホントに理解してるんでしょうね?」

「いや、それは勿論理解してますし、感謝もしてますけど……!」

「だったらもっと本気になりなさい。あの子が教えろって言うから教えてやってるんじゃないの。挨拶や身の回りに関するコトだけでも覚えないと、生きるに生きていけないじゃないのよ」

 

 ミレイユは二人のやり取りを焚火の隙間から伺いながら、ちらりと笑みを浮かべた。

 いつでも体調を崩す訳ではないので、平常時はこうして焚火の火に当たりに来るのだが、そうしてやって来てみれば、語学講座が開かれていて、思わず聞き入ってしまう。

 

 当初は警戒していた追手も全く姿を見せないし、手早く警戒陣を張ってしまえば、影のように隠れていたとしても見つけ出せる。そして陣は複数に渡って網のように敷かれているので、掻い潜って接近するのも不可能であり、そのお陰でいつまでも外に意識を割かなくて良くなった。

 

 気を緩めてはいけないと分かっていても、常に気を張る事も無理なもので、そうして二人のやり取りを見ているのは、ちょっとした娯楽になっていた。

 

「デュレン・ラーヴァ」

「デュレン・ラーバ」

「……うん。次、デュレン・ルァール」

「デぅレン・らール」

「違うってんでしょ!」

 

 今までは口頭で注意していたのが、ついに手が出てアキラの頭をはたき落とす。

 ルチアはお腹を抱えて笑っているし、ミレイユも頬の緩みが抑えられない。アヴェリンでさえ腕を組む素振りで顔を隠し、アキラ達から背けて肩を震わせていた。

 

 この二つの単語は出会い頭の挨拶と別れを示す、所謂『ごきげんよう』と『さようなら』を意味する言葉なのだが、これが基礎の基礎と言って良い会話なので、ここで躓いているようでは後が怖い。

 

 聞き慣れない、そして滑稽に聞こえる単語にルチアは笑ってばかりだし、ユミルの怒りによる制裁が、まるで漫才のように見えて笑えてしまう。

 お陰で退屈しない時間を過ごせているが、当のユミルは怒り心頭でそれどころではない。

 とうとう、そのお鉢がミレイユの方に向いて、怒りの感情そのままに言葉をぶつけてきた。

 

「ちょっと、どうなってんのよアレ。初めからアレで、どうやって言語を習得させろって言うのよ?」

「……苦労をかけるが、やって貰うしかない。言葉も通じないまま放り出すのでは、街まで案内して職を探してやっても意味がないだろう。生活の基盤を整えてやるというなら、そこから自立できるだけの援助も与えてやらねば」

「だったら笑ってないで、アンタも手伝いなさいよ。何か知ってるんじゃないの、同じ国の出身として」

 

 そうは言っても、とミレイユは腕を組んで首を傾げた。

 視線を向ければ、アキラの申し訳無さそうな顔が見えている。ミレイユ自身が言語に不自由していなかったのは、一重に素体という予め用意された知識を持っていたからであって、努力して身に付けたからではない。

 

 語学に堪能だった過去もないし、やはり学校の授業でも英語は話せなかった。

 何か効率の良い学習法など、知っていたら最初から教えている。努力しろ、という身も蓋もない助言以外、してやれる事はなかった。

 

「……まぁ、聞いたことのある一般論として、その言語しか通じない状況に置かれれば自然と話せるようになる、という話だ。つまり習うより慣れろ、という事なのだが……」

「あらあら、身も蓋もないコト言うわね」

「だが実際のところ、本人のやる気次第だ。話せなくては生きていけない、というのなら、アキラとて話せるようになる。初日から上手くやれるようなお前達とは、根本的に違う。そういう小器用さとは無縁の奴だしな」

「それもそうねぇ……」

 

 ユミルは息を吐いてアキラを見る。

 落胆の溜め息という訳ではなかった。単に急ぎすぎた事に対する自責の念が、そうさせたのだろう。最低限、生活の面倒を見るという話だから、街に送り届けて職を探して終わり、という訳にはいかなくなった。

 

 最低限、これで大丈夫という安心と納得がなければ、街を離れる訳にはいかない。

 ミレイユがした提案というのは、そういうものだ。ならば街へ拘束される時間も生まれるという事で、アキラが独り立ち出来なければいつまで経っても移動出来ない。

 

 無論、成長を感じさせない不甲斐なさを見せれば、即座に足切りしてしまうつもりでもあるが、アキラの勤勉さは良く理解しているから、そこは別に心配していない。

 

 ただ、本人の努力以上に時間が掛かってしまうようなら、足止めの長期化も避けられないから、それを危惧して焦りを生み、それが急かす結果となった。

 ユミルとミレイユの二人から視線を向けられ、アキラは恐縮し切った顔で頭を下げる。

 

「申し訳ありません……。言い訳するつもりはありませんが、どうも耳馴染みのない単語っていうだけで、耳が滑ってしまって……」

「してるじゃないのよ、言い訳」

「いいから、ユミル。話が進まん」

 

 少しばかり棘のある言い方をしてしまったユミルに、咎めるような視線を向けて手を振る。

 

「……アキラの言い分も良く分かる。だから、これから耳に馴染ませる事から始めよう。ここからは基本的に日本語を禁止にする」

「日本語……使えないなら、僕は何を喋れば……」

「ああ、勿論お前は例外だ。分からなければ……今はまだ全く分からないだろうが、聞き返したりするのに日本語を使えばいい。だから今は、拾える単語をオウム返しに発音するだけでも良いだろう。未知の言語は雑音にしか聞こえないだろうが、知る単語が増えるに従って、理解できる単語も増える筈。まずは、その慣らしだ」

 

 へぇ、とユミルは感心した表情でミレイユを見た。

 気づけば笑いを止めたルチアまで、似たような表情で見返してくる。

 

「随分と具体的なアドバイスするので驚きました。私達は最初から聞こえる言語は理解できてましたから、その習得も早く楽でしたけど、そういうのが一切ないと、確かに今言った事は理に適っている気がします」

「そうね、耳馴染みがないというなら、まず耳に馴染ませろっていうのは良い案だと思うわ。出来ない子向けのやり方ね。そういう事を知ってるなら、最初から助言貰ってたのに……」

「私のは一般論だ。これがアキラにも上手く行くかは……」

「その一般論ってのが、アタシにはなかったからね」

 

 確かに、言語の壁がない世界である以上、他言語習得のノウハウなどある筈もない。

 ミレイユにしても、どこかで耳を齧って知ったぐらいのもので、確かな背景を持って発言した訳ではなかった。だがアキラの暗雲が晴れたかのような表情を見るに、とりあえずの慰めにはなったらしい。

 

 そこから本当に習得できるかは、アキラ自身の努力に掛かっている。

 苦労しない訳もないが、そこのところは勤勉さに期待するしかない。

 

 ミレイユの変容が終われば移動を再開する。街までの距離は、この深い森の中にあっては測定も不可能で、もっと言うなら現在地も不明だった。

 街まで何日で到達出来るか分からないが、それまでに簡単な挨拶程度は出来ていなくては困る。

 

 ミレイユの指示で言語を切り替え、あからさまに狼狽し始めたアキラを尻目に、ミレイユは今後の具体的な方針について話し始めた。

 



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異世界デイアート その1

 当初は危惧されていたアキラの言語学習だったが、一度説明以外で日本語禁止にしてみたところ、目に見えて習熟速度が上がった。

 発音自体は聞けたものではないが、物を受け取る際には必ずその名前を聞いてみたり、言われた事に対し聞こえた単語を、とりあえず発音してみたりする事が常習化した。

 

 すると、あれは何だ、これは何だ、と拙い発音で聞いてくるので、それに返す度理解を深めて、繰り返し発音を練習する。

 最初は単語レベルでしか発音は難しかったが、今は常套句程度なら発言する事が出来る。ただし自分で考えた文章は発音できず、あくまで型に嵌まった例文をやり取りするに留まる。

 

 だが、たった一日で大した進歩だった。

 アキラの努力が目に見えて理解できるので、ユミルもつい楽しくなってしまったらしい。発音は置いておいて、何くれと単語を教えるのに熱中している。

 

 書き取りする為の紙やペンがあれば便利だろうと思ったのだが、生憎とそのように上等な物品はなかった。そこでルチアが粘土板を作って、文字を書き残す手段を用意してくれた。

 アキラが書くのはカタカナの単語と、それに対応したこの世界の文字、そしてそれを訳した日本語という形で記される。

 

 覚えたものは次々に消されていくという記憶法だから、その習得度は高いのだが、音を覚えられても文字までは覚えられない。この世界でも文盲は珍しくないので後回しで良いという判断から、あくまでオマケ程度の要素として加えられていた。

 

 粘土板は嵩張り、持って移動するには適さない。それに一度に書き込める単語数もノートよりも大きくなりがちだ。複数用意してくれたとしても、やはりそれには限界があり、覚えたものから消していかねば新たに書き込めない、というジレンマもあった。

 

 その背水の陣のような練習法が、追い詰められているアキラと上手く噛み合い、意外な程の習熟速度を生んだ。

 ミレイユの変容がすっかり終わった四日目の朝には、ごく簡単な挨拶や日用品の名称、物やお金の数え方は習得してしまっていた。

 

 数字に関しても覚え方はローマ数字に近い為、そちらは問題なく読めるようになった。ただ、桁が増えると怪しい。とはいえ大規模な数字のやり取りなど、普通に暮らしていれば必要ないから、覚える必要がないと言えばそれまでだった。

 

 そうしてこの短い森の生活の中で、五歳児程度の知識は詰め込まれたアキラは、いつもどおり焚き火を囲む中、目の下に隈を作りながらも意気揚々と頷く。

 

「なんだか、やっていけるかも、という気がしてきました……!」

『まぁ、そうかもね。数日でこれなら、見込みあるわよ、アンタ』

 

 アキラの日本語に対し、ユミルがこちらの言語――アール語で話す。意味を完全に理解していないアキラも、その幾つか理解できる単語から、褒められたのだと推察したようだ。

 はにかむような笑みを浮かべた。

 

「精進します」

「この分なら、ひと月後には相当マシになっているかも、と期待できるな。自ら話せなくても、聞き取りだけは出来る。身振り手振りでも意思疎通は可能だし……まぁ、吹っ掛けられる可能性は高まるが」

 

 複雑な話をするので、ここでは日本語に戻して話した。

 ミレイユがそう説明すると、アキラは情けなく眉を八の字に曲げた。

 

「うぅ~ん……。やっぱり話すっていうのは難しいですよ。ちょっとした言い間違いで真逆の意味になったりするのは、どの言語でも良くある事じゃないですか」

「そうだな、だがその日のパンを買えるようになれば……そして隣人の理解と手助けを得られるようになれば、話は変わってくるだろうし」

 

 ミレイユがそう言うと、アキラは納得行かないような、不満とは別の表情をさせて首を傾げる。

 

「そういうのって期待して良いものなんですか? 話を聞くだに弱者は奪われるだけ、って感じなんですけど……」

「無論、お前が受け取るだけで何も与えないでは成り立たない。だが、お前は最低限の腕っぷしがあるだろう」

「でも、それだって誰もが魔力を持ってるんですよね? 僕程度で役に立つんですか?」

「誰しも得意不得意があるものだ。魔術に対しても同様で、魔力があるから習熟する、とならないのが世の常だ」

 

 そう言ってもアキラは納得しない。

 やはり首を傾げたまま、難しく眉根を寄せて考え込んでしまった。

 

「スポーツや武術と同じと思えばいい。誰にだって、その門戸は開かれている。サッカーなんてボール一つで遊べるものじゃないか。じゃあ誰もがサッカーをしていたか? 答えはノーだ」

「それはそうですけど……、スポーツは娯楽の側面もありますし、同じ様には考えられませんよ。それに、魔物っていう分かり易い脅威がいるじゃないですか。そして弱者は奪われるだけ、っていう不文律みたいなものまであります。……それでも?」

「それでもだ。だから冒険者ギルドなんてものがあって、荒事専門の戦士が重宝される。争い事に向いていない者というのはいるものだし、誰だって痛いもの恐ろしいものから目を逸らしたくなるものだ」

 

 その言葉にはアキラも理解を示した。

 幾度か頷いて緊張を解く。眼の前に脅威があると知って、なお武器を取れる者は多くない。アヴェリンが育った部族のように、生活の根底に武力が根付いている場所ならともかく、都会暮らしで同じ事にはならない。

 

 荒事を嫌う者、どうしても性に合わない者は必ずいる。魔力があれば鍛える、と思える人間ばかりではないのだ。それを聞いたアキラは、それでようやく若干の期待も浮き上がってきたようだ。

 

「じゃあ、その荒事で助ける代わりに生活の知恵を借りる、というような関係が出来たら最高ですね」

「あぁ、私の知る限りでは……お前はこちらの世界でも、そこそこやれる筈だしな。ギルドの加入も認められるだろう。ヒヨッコだと追い返される事はない、それは保障してやれる」

「それを聞いて安心しました」

 

 アキラは心からの笑みを浮かべる。

 目の下に浮いた隈は睡眠を惜しんで学んだ証だ。しかし実際は、不安で眠れないから学習に充てるしかなかったのだろう。話を聞き取れないと、話せるようにならないと生活が出来ない、その不安を打ち消すか、あるいは逃避するには学習するしか道がなかった。

 

 そして今、ミレイユからの言質を得られて生活の糧を得られる道も示され、少しだけ気が安らいだのだろう。僅か三日の詰め込み教育とはいえ、知識だけなら五歳児並になれた。

 これからの移動時間にも学習は続く予定で、小休憩や夜営の度にその時間は設けるつもりだ。街へ到着する頃には、更にマシになっているだろう事を思えば、生活していくのも不可能ではない。

 

 そして、その街へ行くにはどうするか、と言うところなのだが、それについてアヴェリンに森での狩りをさせるついでに調べさせていた。

 そちらに顔を向けて聞いてみると、アヴェリンは自身に満ちた顔つきで頷く。

 

「到着した直後、我らの背後には、遠く峻峰な山々の連なりが見えました。そして周囲は草原で、前方二時方向には大規模な森が広がっていました。この森の主な原生樹木は黒ツマ赤ツマ、イコヒン、イグスです。鹿の数も多く、狩りの獲物に困りません。となれば、この森はグラキスンド東に位置するウォンポダン森林である可能性が高いと思われます。このまま西進すれば、グラキスンドに出られましょうし、北東へ進めばオズロワーナ都市が見えてくるでしょう」

「よく見てくれた」

「恐れ入ります」

 

 ミレイユが大義そうに頷けば、アヴェリンは誇らしさを満面に浮かべて恭しく礼をする。

 主従に置いて、臣下の手柄は主の手柄だ。アヴェリン程の忠臣となれば、手柄を献上出来る事こそを喜びとする。素直な称賛が返って来れば、それに勝る喜びはないという考えだから、ミレイユも率直な物言いで笑みを向けた。

 

 アキラはアヴェリンから具体的な――ある種、具体的過ぎる分析に舌を巻いているようだった。

 だが、本来アヴェリンの部族は狩猟を生業とする。一箇所に定住しているから他の土地に詳しい訳ではないが、これは長く共に旅した事から得た、アヴェリンの知見だ。

 

 純然たる個の能力として、アヴェリンの頭の中には測量道具一式が詰まっている。

 周囲の環境を調べれば、自分のいる場所など凡そ導き出すなど造作もないだろうし、実際に現在地を確固としているなら、どちらに進めば、どの程度の時間で到着するか等も導きだしてくれる。

 

 アヴェリンたち部族の狩猟では、時に武器も防具も身に着けず、身体一つで獲物を追い仕留める事すらやってのける。三日三晩と追い回す事もあると聞いた気もするので、それぐらいの能力がなければ生きて帰って来れないのだろう。

 

 この計四日となる森の中での生活でも、肉の調達はアヴェリンの仕事だった。その際にも血抜き用のナイフはあっても仕留める時は素手だったと言う。

 本来なら俊敏性において追いつけない獣の足でも、アヴェリン程にもなると木の幹も反動に利用して接近していたようだ。そして生きたまま捕らえて気絶させ、血抜きした新鮮で臭みの少ない肉を途切れる事なく供してくれた。

 

 それはまさしくアヴェリンが望む役割で、だからここ数日のアヴェリンは実に機嫌が良いものだった。

 そして、そのお陰で移動中の保存食として干し肉も多く備蓄できたし、最悪一週間なんの獲物が見つからなくても食料に困らなくもなった。移動を開始する前に出来た、嬉しい誤算といえる。

 

 後方から来ると予想していた追手も結局姿を見せず、結果として旅の行先に抱える不安を少なくする事が出来た。

 ミレイユがこれまでの三日を頭の中で回想していると、ルチアの方から声が掛かる。

 

「それで、ミレイさん。どこへ向かうんですか? もう決めてあるんですよね?」

「そうだな。距離的に近いのはグラキスンドだろうし、そちらも大きい町ではあるが……」

「何かマズいんですか?」

 

 アキラが尋ねると、ミレイユは首を横に振る。

 

「別に拙いという事はない。森林資源が豊富だから林業が盛んで、木材の輸出で経済が成り立っているような土地柄だ。森に獣も魔獣も多いから、狩りも同じ様に盛んだしな。住みづらいという事もないと思うが……」

「しかし余所者を嫌う風潮がある。過去の事件から、悪いものは全て外からやって来る、と思っているような節があるんだ。新参が暮らしやすい土地ではないだろう」

 

 アヴェリンが補足するように言うと、アキラは納得して頷いた。

 ミレイユが言い淀んだのも正にそれが理由で、受け入れられれば田舎暮らしと都会暮らしの中間くらいの、程良い刺激の中で暮らしていけると思われたが、言葉すら危うい人物となれば排斥される可能性は高い。

 

 それならば、少しの変人くらい埋もれてしまうような都会へ行った方が良く思えた。

 そしてそれこそ、アヴェリンがもう一つ名前を挙げた、オズロワーナという名前の都市だった。

 



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異世界デイアート その2

 オズロワーナは各都市へ向かうに便利な土地で、平坦で広い大地は農耕に向いているし、実際盛んでもあるが、その広い土地を貿易都市へと変貌させたという歴史がある。

 それぞれの各都市からの貿易品が一箇所に集まる事と、高い壁に守られた安全性が呼び水となって商人の商売を活性化させた。

 

 王の采配も確かなもので、税の取締や不正が極めて少なかった事から、そこを信用されて商売人も二重の意味で安心できる商売場所として重宝されるようになる。

 だがそれは、あくまで人にとってのものであり、エルフを始めとした他種族には排他的だった。

 

 エルフは高い魔力を持つから、オーガ族は高い腕力を持つから、とにかく人より優れたものをもつ種族は、それを理由に税をかけられ不当に扱われた。

 単に二重税が発生するだけならまだしも、それはいずれ種族に対する弾圧へ繋がり、他種族排斥にまで事態は進行していく。

 

 豊さや富は人間が支配する事となり、他種族はより危険な土地、あるいは森深くへと追いやられていった。そして人間は数を増やし、勢力の拡大が増すばかりで、他種族との力の差が圧倒的なまで拡がった時、ついに恭順か死かを迫るようになる。

 

 個人では負けない各種族だが、数の暴力には勝てなかった。実際に滅ぼされる種族も出て来るようになり、それはいずれ、ミレイユが介入するまで続く事になる。

 そしてミレイユ達とエルフ達が結託する事で王国へ逆撃し、ついに王国は滅ぶことになった。

 今では王は排除され、エルフが支配しているか、あるいは共存しているかのどちらかだろう。

 

「私はそれを見届ける前に去ったから、そこから先は知らないが」

「前に話してくれた、あの……」

「そうだな。その都市へ向かう。ギルドで無くとも、職の多さは他都市と比べものにならないだろうし、変人にも寛容だろう。生きやすいかどうかは、実際見てみないと分からないだろうが……まず行ってみるには良い場所だ」

「なるほど……。国の首都みたいな場所なんですね、それなら確かに仕事も色々ありそうだし……」

 

 そうは言いながらも、その瞳はギルドに入ろうと決意している、と語っていた。英雄の冒険譚などに憧れを抱いていたアキラならば、とりあえずその門戸を叩いてみようというつもりでいるようだ。

 

 実際、アキラの腕に太鼓判を押したのはミレイユだから、その決定に異論はない。

 ただ、それ以外の――例えば農業などの力仕事でも、やはりアキラは良い仕事をしそうな気はした。

 ミレイユがアキラの決意めいた目を見つめていると、そこにユミルから声が掛かる。

 

「それじゃ、とりあえず向かう先はそれで良いとして」

「うん……? 何かあるのか?」

「何か、じゃないでしょ。何の為に留まっていたと思ってんのよ。アンタの変容も済んだみたいだし、さっさと命令刻んじゃいましょ」

 

 軽い口調で言いながら、ユミルは自らの目尻を指差した。

 それは視線を結んで行う事を意味するのと同時に、ミレイユの瞳色が変化した事を言っている。自分では気づけないが、元は茶色だった瞳が今ではユミルと同じ紅色となっているらしい。

 

 変化と言えばそれ位で、体調が元に戻った以外、他に思い当たるものはない。変容と言うからには、もっと色々変わっていても良さそうなものだが、実感できるものは何一つ無かった。

 そこへ、そういえば、とアキラが呟く。

 

「僕の時は魔力を得られるとか、何かそういう話あったと思うんですけど、ミレイユ様もそういう風な感じなんですか?」

「……いや、そういうのは感じないな」

「あるわよ。……ある、と思うんだけど、仮に得ていても雀の涙程で、実感得られないってだけじゃないかしらねぇ」

「そうなんですか?」

「そりゃ、三やら五から百となると凄い変化に感じるでしょうけど、万単位に百が加わったところでね……。大体、そんな規格外な存在、眷属する機会なんてなかったから、実際のところは分かんないし」

 

 ユミルから聞こえた単語が耳に入るなり、アキラはミレイユへと顔を向ける。目を剥いて、そして同時に信じ難いものを見るような表情をしていた。

 

「万単位……? え、千とか二千とかじゃないんですか?」

「基本的にはそんなものだが、枷をしていればこそ、その数値だからな。取っ払えばそれぐらいだし……、そもそも私に総量の多さはあまり関係がない。消耗するより供給される方が多い所為だ。内側から破裂しないよう措置していたんだが、この身体の秘密を知った今、それも必要なかったのかもな……」

「対処に気付いて処理出来るところまでが、試練の可能性もありますから、一概には何とも……」

 

 ルチアから困った顔で言われれば、なるほど確かにと思えてしまう。

 魔術への正しい理解は魔力の理解に通ずる。より深い知見と力量を得るには、その対処にまで深く理解していなければならない。

 

 それを考えれば、より強い魂を欲する神々からすると、ふるいに掛けるつもりで用意していたとしても不思議ではない。気付けず、あるいは気付いても対処できないような不出来は、そこで切って捨てられるのだ。

 実に有り得そうな話に思えた。

 アキラは更に問を重ねる。

 

「じゃあ、例えばそんな強力な存在は眷属になったりしないものなんですか?」

「普通ないわね。こっちにだってメリットないし」

「ないんですか?」

「そりゃそうでしょ。絶対的な命令って、口にするより遥かに重いのよ。内容次第じゃ反感だって買うわ。命令だから従うけど、自分より弱いと分かっていれば寝首を掻くコト画策したりするものだし。逆らわないというコトと、反撃できないというコトは同じじゃないの」

 

 抜け道というのは、どこにでもあるものだ。

 従属させた相手が主よりも強いとなれば、魔力で作った枷とて万全には働かない。その力量の差が大きければ大きい程、その鎖には罅が入るだろう。

 

 それを理解していて、敢えて自分より強い相手を従属させるのは相当な勇気がいる。いつ寝首を掻かれても構わないという、破れ被れな状況か、あるいは短時間で構わないと割り切った場合でなければ出来るものではないだろう。

 

 今回の場合、ミレイユの方から頼む形だし、その支配力から来る拘束力を頼みにしているから成り立っている。不本意な命令をしないと言う信頼も背景にはあるが、ユミルもまた、その信頼を秤に掛けられているというデメリットを背負っている。

 

 このような事がなければ、ユミルは今までどおりミレイユ達の横に並んで歩いていただろう。だが、今では常にアヴェリンがその背後に立ち武器を握って睨みを利かせている。

 何もしないとユミルが誓っていても、それでも決してアヴェリンは止めない。そういう関係を背負わせてしまった、とも言えた。

 

 ユミルも、それは理解している。

 対等な友人でも師弟関係でも、パーティメンバーでもない。お互いの首に鎖を掛け合う関係。悪化ではないとはいえ、とても健全とは言い難い。

 それでも必要だから、という理由で自ら請け負った。

 

 これもまた一つの献身だと思うから、ミレイユは頼むと願った。

 そして今、本来なら主従を誓う命令を、別の違う命令で刻もうとしている。

 

 以前に、より強く感じられる内容が良い、というアドバイスをユミルに貰った時から、考え続けてきた事ではある。

 大神への叛意喪失、そして恐らく直接攻撃の禁止、大神への害意となること全てが無意識下の内に抑制されるのだと考えれば、ミレイユが刻む事は一つだ。

 

「こんな話はどうでもいいわね。それじゃあ、始めましょ。こんなコト、いつまでも後回しにするものじゃないわ」

 

 ユミルは立ち上がり様、アキらの後頭部を叩き、それからミレイユの前までやって来て跪く。

 その両手を握って、互いの瞳を合わせた。隣に座っていたアヴェリンは何も言わなかったが、緊張させた雰囲気を発している。

 ユミルの瞳には力があって、まるで虹彩同士が一本の線で繋がったかのように目が離せない。

 

「……良いコト? 最初の命令というのは特別で、より強烈な拘束力がある。そして力ある言葉というのは、単純で短い方が望ましい」

 

 眷属となって最初にされる命令というのは、絶対的な主従関係を強制させる事だ。新たに刻む命令は、その回数ごとに強制力を損なわれるらしく、頼み事一つする度に支配力が弱まるのでは意味もない。

 

 だから主従という関係を作り、眷属には自ら心腹して行動したいと思わせるのが最も効率が良い。だから通常、命令が出来たところで多くは刻まないのが通例で、その最初の命令を別に使う事で強制力を強めようとしているのが、今回の初回命令だ。

 オミカゲ様が千年続けていた執念も、つまりそういう事なのなら納得も行く。

 

「長々と説明やら注釈を加えるようなものは、卒のない内容になるかもしれないけど、同時に拘束力が弱くなる。素体それ自体が持つ思考調整を貫けない可能性もある。それを踏まえて文言を教えて」

「オミカゲの奴も通った道だ、その時の言葉も聞いている。同じ言葉でも作用するだろうが、違う道を進むつもりなら、この言葉も変えないとな……」

 

 かつてオミカゲ様は、ユミルに『折れず曲がらず、進み続けろ』と命令するよう頼んだという。それは既に神々と対峙する機会はなく、それからの千年を対抗するのに生きてくには、役立つ命令だったろう。

 だが、これから直接対峙し挑むミレイユにとっては、その文言も相応しいとは言えない。

 

「それもそうね。考えが既に決まっているなら、聞かせて頂戴」

「――抗え、大神を挫け。そう命令してくれ」

 

 ユミル大きく唇を曲げ、実に愉快な笑みを浮かべた。

 

「いいわね、それ。さぞ強固な命令になりそう」ユミルは表情を改める。「汝、眷属ミレイユに最初の命令を刻む。『抗え、大神を挫け』……その身の生涯を掛け完遂せよ」

「……うっ!」

 

 視線を逸らす事が出来ないまま、言葉が意志と力を持って頭と身体を駆け巡る。

 そうしたい、のではなく、そうせねばならない、という強く堅固で追い込まれるような強迫観念が身を襲った。非常に落ち着かない気分になり、今まで同じ様に考えていなかった事が申し訳なる程だった。

 

 自分自身に対して哀れみすら感じる。

 そう思わないでいる事は罪であり、一瞬たりとも考えずにいる事もまた罪だと思える程だった。ユミルの紅い瞳が歪み、上下が反転するような錯覚を覚えるのと同時、瞬間的に意識が明瞭になる。今まで逸らせなかった視線があっさりと切れ、そして両手に目を移すと、それを握るユミルの手が見えた。

 

「――大丈夫?」

「あぁ……、うん。なるほど、これが最初の命令として刻まれる感覚か。これが主従を強制されるものなら、確かに破ろうとは思えなくなるだろうな」

「だからキライなのよ、アタシは。時に主人を諫めるコトが出来てこそ、本当の忠臣ってモンでしょうに」

「それは……言えてるな」

 

 満足と誇らしさを感じながらアヴェリンへ視線を移すと、同じく誇りを感じさせる佇まいで見守るアヴェリンがいた。

 互いに視線を交えて頷き数秒、それまで凛々しかった顔つきを嫉妬に歪めて、ミレイユの手に齧り付く。即座にユミルを引き剥がし、ミレイユの両手を優しく擦った。

 まるで表面の汚れを拭うかのような仕草で、引き剥がしたユミルには蝿を払うかのように手を振る。

 

「ほら、もう要件は済んだんだろう。さっさと出立の準備を始めたらどうだ」

「はいはい、じゃあそうさせて貰うわね」

 

 ユミルもアヴェリンからの扱いには慣れたもので、特に気にした風もなくテントの中へと入って行く。準備といっても持ち込んだ物など殆どない。テント内の汚れやゴミを片付け、寝袋マットを畳んでおく位だ。

 

 ミレイユが困ったような笑顔を浮かべていると、アヴェリンもまたサッと立ち上がり、アキラのケツを蹴りつけながら、ルチアと共に焚火周辺の片付けを始めていく。

 今更追手がいるとも思えないが、一応焚火や夜営があった痕跡は、そうと分からない程度に隠蔽しておく必要がある。焚き火台を使ったのは、こういう意味でも隠蔽し易さから重宝できるものだ。

 

 テント内の準備が終われば、それを畳み小型化させて保管するのはミレイユの役目だ。今後は変えて行っても良いかもしれないが、今のところ話題に登っていないので続行する。

 ユミルがテントから出て来るのと見計らって、ミレイユも立ち上がってテントに歩み寄って行った。

 



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異世界デイアート その3

 準備が整えば、出発までは早かった。

 簡単な偽装工作をして設営場所を分かり辛くさせ、それからアヴェリン先導の元、森の奥へ向かって歩き出す。

 

 頭の中に測量器具一式詰まっているのは伊達ではなく、ろくに空も見えず周辺から方向も判断できないような状況でも、アヴェリンは迷いなく進んでいく。

 

 かつて旅の道中、何度と無く助けられたアヴェリンの先導だ。

 ミレイユは何一つ危惧を感じる事なく、その背へ続いて歩いて行く。

 一日中歩き通しで、小休止を挟みながら進み続け、昼の休憩を経て、陽が傾き切る前に野営設営の準備をする。

 

 そうして、それまでと同じ様に代わる代わる見張りをして夜を明かし、また簡単な朝食の後に出発する。そうして有るき続けること暫し、陽の光が中天より傾いた頃になると、森の外と思しき光が視界の中に入って来た。

 

 暗いばかりだったの木々の間に光が差し始め、それが森の途切れを教えてくれる。

 今までも小広場のように開けた場所は幾つか見てきたし、実際そういう所を設営場所に選んでいたが、視界いっぱいに広がる光の差し込み、というのはこれまで無かった。

 

 森を抜ければ直ぐにオズロワーナという訳でもないが、旅程の三割ほどは消化した事になる。

 ミレイユが小さく息を吐いた時、背後からも盛大な溜め息が聞こえてきた。

 

「あぁ、良かった……! ようやく終わりが見えてきた……!」

「あら、アンタ……森がお嫌い?」

「いえ、嫌いっていうか、単純に歩き難いじゃないですか。地面は柔らかくて足が滑りますし、柔らかいと思っていれば何か固いもの踏んじゃったり、倒木を越えたり避けたり……」

 

 辟易として言った後、それから周囲へ気配を窺いながら更に続けた。

 

「それに周りを囲む不穏な気配とか……、とにかく心休まる瞬間なんて無いじゃないですか」

「それら何一つ考慮に値せんだろうが、馬鹿者」

 

 厳しく叱責したのは、先頭を歩いていたアヴェリンだった。

 アキラは素早く背筋を伸ばして、自らの失態を悟る。

 

「魔獣など可愛いものだ。時に魔物は縄張りを越えてでも追って来る。その襲撃もなく、ただ歩き辛いだけの道程など、旅をする間では散歩と変わらん。それを、この程度で泣き言とはな」

「はい、すみません……」

「まぁ、いいじゃないのよ」

 

 アヴェリンの厳しい追求に合いの手を入れたユミルは、悪戯げに笑う。

 

「アキラはまだ子供なのよ。世界の常識、言葉遣いも五歳児並、旅の知識もそれ相応。僕ちゃんは(いたわ)ってあげなさい」

「じゃあ、野菜も沢山食べないと。今夜からサービスしますよ」

「アンタの作るやつは野菜っていうか、野草でしょ」

「いいじゃないですか、ちょうど良さそうな山菜見つけましたし」

 

 アキラは実際未成年で、日本の法律では子供であったかもしれないが、ユミルが言っていたのはそういう意味ではないだろう。明らかに小馬鹿にするような物言いで、ルチアもそれに乗っかって囃し立てている。

 

 お陰で重くなりかけた空気は払拭されたが、当のアキラは困惑気味だった。アヴェリンの言にも一理あると納得して、その叱責を甘んじて受けつつ、そのフォローされた内容にどう返して良いのか分からない。

 何かを言いたいのだろうが、何も言えないと、その表情が物語っていた。

 

 森を抜けると、その先は小高い丘になっており、その奥には峻峰な山々が見える。

 丘の上には神を祀る祭壇があったが、今は信者の姿は見えない。

 この祭壇には特定の神を祀る事もあれば、特定せず神そのものを祀るもの、あるいは複数を祀るものと、三つの種類があるものだ。そしてあれは、特定の神を示ていない祭壇のようだった。

 

 この世界にはそういった祭壇が各地にあって、信者たちの礼拝を受けている。時に巡礼者が各地を回って礼拝を行う姿も見かける事はあるが、そこまで熱心な信者は実に稀だ。

 

 そして、その丘と森を挟むようにして、細い道が一本入っていた。

 轍も立っているから、頻繁に行き来するのに使われている道だろうが、路面の状態は良くない。主要道路ならば、もう少し整備されていて良い筈だから、ここは少し外れた道なのかもしれない。

 

 ミレイユに続いてルチアとユミル、そしてアキラも顔を出す。

 ユミルは空を憎々しく睨んでは、フードを被ってミレイユの背後に立った。

 

 アヴェリンは視線を巡らせ、次いで遠くにも目を向けてから表情を厳しくさせる。

 森を抜けて魔獣の気配も遠巻きに消え、新たに感じる気配もない。警戒を増やす要因は無いように思えたのだが、アヴェリンはミレイユへ向き直ると頭を下げた。

 

「申し訳ありません、ミレイ様。道を間違えました」

「お前にしては珍しい……。まぁ、そういう事もあるだろう。だが、あの祭壇やその奥に見える山々の連なりなど、見覚えのある物もある。オズロワーナへ近付いているのは確かじゃないか?」

「私もそう思っておりました。ですが、御覧ください」

 

 言いながら、アヴェリンは祭壇が見える丘より左手側を指し示す。

 そこにもやはり木々があり、そしてそれは小さな林などではなく、大きな森が拡がっているのが確認できた。ミレイユの記憶からして、あの近辺に森と言えるほど豊かな植生は無かった筈だった。

 

「……見知らぬ森だ」

「然様です、私にも記憶にございません。もしかしたら、全く違う方向、全く別の場所に出ていた可能性も、あるやもしれません」

「確かに……小高い丘も、そして祭壇も珍しい物ではないからな……」

 

 村や街の中に祭壇や神殿があるのは当然で、そして村と村、あるいは街を繋ぐ街道の間に祭壇があるのも良くある事だ。それ一つ見ただけでは、記憶違いが呼び起こされるのも不思議ではなかった。

 しかし、そうすると困った事になる。

 

 アヴェリンにも分からないとなれば、ミレイユ達は現在地を見失ってしまったという事だ。とはいえ、目の前に小さいながらも道がある以上、それを辿ればどこかへ通じるのだろうし、大きな通りへ出る事が出来れば希望はある。

 

 主要な辻には大抵、看板が立っているもので、距離までは書かれていないまでも、主要な都市かあるいは街の名前くらいは示しているものだ。

 それさえ見つかれば、目的地へ向かう事も出来るだろう。

 

「だがまぁ、オズロワーナへ向かう前提で進んでみようじゃないか。道の上を歩くなら、そう拙い状況にもならない」

「然様ですね。では、当初想定していたとおりの方角に向けて進んでみましょう」

 

 ミレイユの背後にいたルチア達にも目を向けて、了解の意志が返って来ると同時に歩き出す。ミレイユもまた歩き始め、空や山々に視線を向けながら、今更ながらに帰って来たのだと実感が湧いてきた。

 

 かつて旅していた時も、こうして遠く見える山々、空を流れる雲、近くに見える木陰など、様々な場所に視線を移して楽しんでいたものだ。

 遠くに向ける視線は純然たる趣味だが、近くに見えるものにも向けてしまうのは癖のようなもので、襲撃を事前に察知する為の警戒だ。

 

 魔物に限らず野盗の類いも、そして命を狙う物好きも、常にミレイユ達の傍にいたものだ。それが名を上げるつもりで挑む者であれば可愛いもので、ユミルに賭け事で負かされた事の腹いせであったりもする。

 

 どちらにしても不意打ちで先制を取ろうとする者が多く、そうした動きは木陰からでも察する事が出来る。機会があると思えば、その敵意や戦意を隠して戦う事は難しい。殺気となれば言うまでもない。

 

 いくら気を抜いているように見えても、この癖ばかりは消えてくれない。

 ちらりと見た感じでは誰もが似たようなもので、唯一例外なのは、森を抜けた事で気が抜けたらしいアキラだけだ。

 

 旅慣れぬアキラに最初から最後まで気を抜くな、という事は難しい事だ。それに言ったところで、今すぐ出来るようにはならないだろう。

 その辺の事はアヴェリンか、あるいはその他に任せて、ミレイユはただ歩くに身を任せる事にした。

 

 しばらく歩き続けていると、道から外れて馬車が倒れていた。荷車代わりに使われる、幌すら付いていない農民向けの馬車だ。

 

 だが奇妙な点もあって、荷台が異常に分厚い。荷台の底を開けて、他にも何かを入れれそうな造りをしていた。重くなるばかりで農民の荷台としては似付かわしくないものだが、全く無い訳でもない。

 

 そこそこに重量があって、速度を出して走っていただろう事は、轍の後を見れば分かる。そして道を外れて外の野原へ飛び出し、しかし車軸が壊れて横転したという事らしい。

 

 現場を見る限りでは、どうやらそうと見るしかない。馬はないので上手いこと外れて逃げたか、あるいは連れ去られたのか。死体もないので、馬車の持ち主は馬に乗って逃げたのかもしれない。

 ミレイユと同じ様に倒壊した馬車を見たユミルは、愉快そうな笑みを浮かべて言った。

 

「……これはヤバい感じね」

「あぁ、戦闘のあった後だ」

「だからアタシが、そう言ったでしょ」

 

 互いに視線を合わせぬまま、馬車を見ながら口撃が始まる。

 

「お前はヤバいとしか言ってない。それで何を分かれと言うんだ?」

「見れば分かるコトだからよ。戦闘があった痕なんて自明でしょ、賢い者は短弁なのよ」

「あそこでアホ面晒しているアキラなんぞ、お前の発言に首を傾げている有様だったろう。伝わらないのなら短弁である意味もない。愚か者の短弁なぞ、誰が求める」

「それは真理を汲み取れない愚か者が悪いのであって、アタシの知ったコトではないわね」

「意味と真理を短弁で語れればこその賢者ではないのか。伝わらないなら発言していないのと変わらない」

「そこが違うのよねぇ。真理を悟れぬ愚者全てに――」

 

 よしよし始まった、という頭の中を明るく照らされるような光景を見て、ミレイユは即座に観戦モードへ入った。アキラは嫌なものを見たように顔を歪めていたし、ルチアも辟易したような顔をしている。

 

 ミレイユが楽しもうとしているところに、そんなルチアが近付いてきて、傍らで腕を組んで溜め息を吐いた。

 

「何でミレイさんは、あんなの見て喜ぶんですか」

「楽しくないか? 私はあの二人が仲良くしている光景が見れて嬉しいんだが」

「仲良く……まぁ、ある意味、仲が良いんでしょうけど……」

「じゃれ合いには違いないが、元より馬の合わない二人だ。時々ガス抜きする位で丁度良い。最近、少し我慢をさせ過ぎた。このような場なら、殴り合いになっても問題ないしな」

「いやぁ、問題ないとも言い切れない気が……」

 

 ルチアが大いに顔を歪めたところに、アキラが不安げな表情のまま寄ってきた。

 剣呑な雰囲気を増し続ける二人の間に入ることも、そして近付くことも嫌だったらしい。

 

「ミレイユ様、いいんですか、あのまま放っておいて……」

「構わない、お前も気にするな」

「でも……戦闘があった後だとか言ってましたよ。本当なんですか?」

 

 馬車の轍が狭いとはいえ、突然道から逸れた事からも、何か追手のような者から逃げ出そうとしたのは明白だろう。急ぎ旅だったとしても、やはり道以上に馬車を安全に走らせられるものはない。

 

 この惨状を示すとおり、石に車輪を取られたり、草が変なところに絡まったりと、ろくな目に遭わない。少し考えただけでも、他に幾つでも不安材料が思い浮かぶので、急ぐからと道を逸れるなどという選択肢はない。

 それこそ、道を逸れるだけの、大きな問題がない限りは。

 

「アヴェリンが言った事は間違いない。血の跡も死体も、何もかもないが、ここで起きたのが事故じゃないのは確かだ」

 



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異世界デイアート その4

 ミレイユが断言するからには、それで間違いないと自分を納得させたようだが、しかし腑に落ちないのも確かなようだった。

 ミレイユはそれを一つ一つ、指差しながら指摘してやる。

 

「まず、轍の跡だ。突然、進路を変更したのが分かるだろう」

「です……けど、急変更という訳でもないような……」

「車のようにサスペンションがある訳でも、グリップが利く訳でもないからな。それに動かしているのは馬だ。怯えさせて混乱させたら、手を付けられなくなる。好きなようにハンドルを切れる車と、その扱いが根本的に違う」

「あぁ……、なるほど」

 

 アキラは幾度となく頷く。

 実際、馬の機嫌が悪ければ出発さえままならないのが、馬車というものだ。人間だって重い物を轢いて歩きたくないのと同様で、馬だって嫌がる時は嫌がる。

 エンジンキーさえ回れば、いつでも命令通り前進してくれるような物ではない。

 

 ミレイユは次に野原に生える雑草と、根本から土ごと落ちている雑草とを指差す。

 

「見ろ、蹄が草を抉り、根本から弾き飛ばしている。鞭を打って走らせた証拠だ。道の上に蹄の跡はあっても、土を蹴った跡はなかったから、道から逸れて初めて速度を上げたのだと思う」

「何故でしょう?」

「馬は重い、そして蹄の音も意外と響くものだ。追跡してくると知った直後に走らせたのでは、勘付かれたと教えるようなものだ。草の上なら、それも幾らかマシになる」

「ああ、草がクッションと防音効果を生むんですか」

 

 意図した事を素早く理解したアキラに、優秀な生徒を褒めるような眼差しで頷いてやる。

 そして車軸と車輪の接合部に指を向けた。

 

「そう、逃げる機会を窺っていた、恐らくそういう事だろう。そして逃げ出したつもりだったが……見ろ、鏃の跡だ」

「……本当だ、何かが刺さっていた跡があります」

「そうして車輪と車体の間に固い物が挟まった所為で、車輪が固定され、バランスを崩し、そして横倒れになった。そのように推測できる」

「なるほどぉ……」

「……荷も手付かずですから、目的は持ち主の命でしょうかね?」

 

 姿が見えないと思っていたら、馬車の中を物色していたらしい。外から見た限りでは、そもそも幌さえ付いてない馬車だから、荷物らしい荷物も見えなかった。

 着替えらしきものが入った袋と、備え付けられた椅子代わりにも使われる箱、そして水が入ってると思しき小さな樽があるだけだ。

 

 元より商売人や、身分のある者が利用する馬車ではない。

 野盗にしても盗むような物がないと分かるだろうし、今日の食い扶持すらままならない奴らでなければ、襲うものではないだろう。

 

 とはいえ、どういう意図があったにしろ、ミレイユ達には関係ない事だ。

 むしろこの横転した馬車は都合が良い。

 

「持ち主がどうなったにしろ、今のところは感謝しよう。丁度良い風除けになる。……今日のところは、ここで夜営にしようじゃないか」

「……え、あの、いいんですか?」

「少し早いが、日の傾きも見せている。準備が済んだ頃には、稜線に沈む頃合いになっているだろう。――薪を取ってこい」

「あ、はい。了解です。……でも、ここに戻って来たりとか……」

 

 アキラの怯えた懸念に、ミレイユは眉根を寄せる。

 

「持ち主が、って事か?」

「いえ、襲撃した誰かがです。もし取り逃がしたとかしたら、何か探しに来たりするんじゃ……」

「だったら何だ。好きに探させてやればいい。何も馬車から取ったりしないんだしな」

「……そういうものですか」

 

 アキラは更に何か言い募ろうとしたようだが、結局何も言わずに薪を探しに行ってしまった。

 とはいえ実は、薪が必要でアキラを使ったのではない。森の移動中、あるいは森を離れてからも、目に付く小枝や薪になりそうな木は集めている。

 

 日が暮れてから探し始めるのでは遅いし、場所によっては見つからない事もある。歩きながらそれとなく薪を拾う癖は付いているものなのだが、敢えてアキラに命令したのは、この場で話を聞かれたくなかったからだ。

 

「それで……何がいた?」

「ご存知でしょう? 荷台の二重底に隠された――あるいは、匿われた子供がいました」

「『荷は手付かず』……荷以外の何かがある、という暗喩だったな」

「奴隷商人にも良くある手口なんですけど、親が子供を隠すのにも使われるんですよね」

 

 農民が使っていそうな荷台だというのに、そこに不自然な厚みがあるから嫌な予感はしていた。中に隠されたのが商品なのか、それとも親に匿われた子供なのか、それで話は変わってくる。

 追手から逃してやりたい一心なら救いはあるが、密売などで隠しておきたかっただけなら、解放して逃してやっても良いだろう。

 

 その場合、追手の立場も様変わりする訳で、どこをどう突いても厄介事にしかならないと分かり切っていた。

 弓矢の扱いを考えても、追手の中には腕に覚えのある者がいる。鏃の痕のみで矢が抜かれていた事を思えば、一度荷を改める為に足を止めたのだろう。

 

 二重底に気付かず持ち主を追ったのは良いとして、それが再び戻ってくるかもしれない、というのは面倒な気がした。

 傭兵くずれなら良いが、憲兵のような者なら、共犯を疑われる可能性すら出て来る。商品の直ぐ側で火を焚く真似をすれば尚の事だろう。

 

 だが、もし親が敵を欺き、そして上手く撒いた後に帰って来たというなら、その機転には賛辞を与えてやらねばならない。

 狙いが子供なのか、それとも親なのか、捕らえるつもりなら理由は何なのか、そちらもやはり厄介事を運んで来そうだ。

 

 無論、厄介事に付き合ってやるつもりも、今更厄介事へ進んで首を突っ込むつもりもないミレイユからすれば、無視して通り過ぎるのが一番賢いやり方だ。

 倒れているから見てみたら、空の馬車があっただけ、すぐに離れたから他には知らない。

 仮に何か聞かれても、そう答えて終わりだろう。

 

「どうします? いっそ消してしまった方が、後腐れないと思うんですよね」

「魅力的な提案だ。だがな、……私はしないって分かってて言ってるだろ」

「やっぱり、そうですよね」

 

 無表情で冷酷な事を言ったとは思わせない、実に花のある笑顔を浮かべてルチアが言った。

 ミレイユは暫し考え込んで、一つ結論を下す。

 

「今夜、ここで一夜明かすのは決定だ。それまでに姿を現すなら良し、荷を守る程度の事はしてやれる。だが出立する時まで誰も来なければ、近くの町で人を寄越す位はしてやれる」

「あら、優しい。放置じゃないんですね」

「……まぁ、それぐらいはしてやって良いだろう」

 

 疲れたような顔を見せるミレイユに、ルチアはまたも笑顔を浮かべる。

 

「宜しいんじゃないですか? ……でも、それなら何故アキラを移動させたんですか?」

「アイツなら、この場に子供がいると知れば、きっと離れようとしないと思うからだ。知らなければ……あるいは後に知ったなら、煩い事も言わないだろうしな」

「ですかね? グチグチと一人で言ってそうです」

「それぐらいは権利の内だろう」

 

 ミレイユは眉の端を面倒そうな顔つきで掻きながら、懐からテントを取り出す。

 いつまでもじゃれ合っている二人に声を掛け、事情を説明した上で納得させた。薪を拾いに行ったアキラをそのままに、三人はテキパキと夜営の準備を整えてしまう。

 

 当然、アキラの帰りを待たず焚火も熾し、細い煙を天高く伸ばした辺りで、ようやくアキラが帰って来た。既に日は稜線にかかり始めており、アキラが薪を探しに行ってから、随分と時間が経っていた。

 

「……何ですか、薪なんて最初からあったんじゃないですか!」

「誰が備蓄の一つも無いと言った」

「そりゃ言ってないですけど……、今日の分さえないのかと」

「もしもないなら、私だって道中、自ら薪を探しながら歩いている。それがないというなら、まず大丈夫という事だ」

「……あ、はい、そうなんですね。でもまぁ、薪の備蓄は多くて困るものじゃない筈ですし……」

 

 そう自分を慰めながら、アヴェリンの傍らに腕いっぱいに抱えた薪を置いていく。

 基本的に火の調整や維持はアヴェリンが務める事が多いので、自然と薪の置き場所もそうなる。ただ最近は、アヴェリン指導の元でアキラが行う事も多い。そういう意味でも、その置き場所は都合が良かった。

 

 アキラ以外は、荷車の中に隠れた子供がいる事を知っている。

 だが、そちらに意識を向けたり、その素振りを見せるような者はいない。

 

 食事の準備を始める前に、まずお茶を用意するのもいつもどおりで、そしてお茶を片手に談笑しながら、ルチアが料理を始めるのもいつもの事だった。

 

 日も完全に暮れようとした頃合いになって、遠くから蹄が地面を叩く音が近付いてくる。

 いつか来るとは思っていたが、意外と早かったと思いながら、お茶に口を付けた。誰もが馬の方にすら注意を向けない中、ただ何も知らないアキラだけが、不安を滲ませた顔を外へ向けた。

 

 蹄が鳴らす音は一定で、しかも一つしかない。

 追手の数が一名だけの可能性は十分あるから、まだその正体は掴めない。ただ、馬を走らせるというのは訓練なしでは出来ないし、農耕馬では到底一定の速度を維持させられない。

 

 速歩(はやあし)程度なら問題なく、また続ける体力もあるとはいえ、それ以上となると普段からさせないだけに、そもそも出来ない。

 

 これは追手の方かな、と思っていると、近くまでやって来た馬が嘶きと共に止まる。

 馬の荒い息と共に、馬上にいると思しき者の荒い息まで聞こえてきた。

 

 アキラは一人、馬上の人物を見上げ、それからミレイユ達へと目配せするように顔を動かす。しかしミレイユ達はその一切に無関心だった。

 ユミルは今日歩いた森の話を一人で続けていたし、ルチアはそれに意味のない相槌だけ打っている。いっそ異様と思える雰囲気に、アキラが何かを口にしようとした瞬間だった。

 

「――しまった!?」

 

 馬上にいた人物――どうやら女性のようだ――から、焦りと苦渋に満ちた声が上がる。

 馬首を巡らせ、馬が嘶きと共に向きを変えようとしたところで、矢が一本、風を切って飛んできた。狙いが逸れたのか、あるいはそもそも当てる気はなかったのか――。

 

 馬上から逸れた矢はアヴェリンの直ぐ傍を通過しようとし、そしてそれを途中で掴んで止める。アヴェリンは背を向けていたが、風切り音さえ聞こえれば、彼女からすればどうという事のない芸当だった。

 

 アヴェリンはその矢を、矯めつ眇めつしてから近くへ放る。

 避けなくても直撃しなかったにしろ、敢えて掴み取ったのは矢の性能を知りたかったからだ。これに付与された鏃を使っているようなら、それを扱えるだけの資金か実力を持っているという事になる。

 

 だがその矢は、ミレイユから見ても特に着目する所のない量産品に見えた。

 となれば、持ち主の持つ背景が、幾らか絞られてくる。

 そこで初めて馬上の人物に目を向けると、金髪の華奢なエルフが目を見開いて、今の様子を凝視していた。

 

 咄嗟に馬を降り、その場の全員に目を向けて、その中にルチアの姿を目に留め、縋り付くように地に足をつける。

 

「どうかお願いします、わたくしどもをお助けください……!」

 



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異世界デイアート その5

 女性が頭を下げ、悲壮感も露わに懇願しているにも関わらず、周りの反応は非常に鈍かった。直接頭を下げられているルチアは元より、アヴェリンもユミルも視線すら向けない。

 何故ルチアなのか、とミレイユがようやく視線を向けて納得する。

 

 彼女もまたエルフで、同族ならば助けてくれるかもしれないと、そう安易に縋ったからだろう。だが、ルチアはパーティ内で起こる事で、自ら主張する事は少ない。

 今回の様なケースであれば、リーダーであるミレイユの意見を最大限尊重し、まずその意見を確認しようとする。

 

 ルチアは頭を下げた女性エルフを迷惑そうに一瞥したが、それに声を掛ける事なくミレイユへ顔を向ける。

 そこにユミルが、一時止まっていた雑談を再開させた。

 

「だからね、森の中なら別に良いワケ。その隙間から、ようやく空が見える程に葉が茂っていたから。別に陽の光が嫌いってワケじゃないのよ、本当にイヤなのは……」

「その辺は同じ眷属となりつつ、ミレイ様が問題なく陽の光の元を歩いていたから分かってる。私が言いたいのは――」

「ちょちょちょちょ……!」

 

 全く無視した行動を取る二人に、流石にアキラが止めに入った。

 今も地に片膝をつき、そして頭を下げて微動だにしない女性を気の毒そうに見て、諫めるように声を放った。

 

「何を普通に雑談を再開させてるんですか。そこに助けを求めて来た人がいるじゃないですか」

「……うるさい奴だな」

 

 アヴェリンが本気で煩わしそうに顔を顰め、それから諭すように言う。

 

「いいか、この場のリーダーは誰だ」

「それは勿論、ミレイユ様です」

「分かっているなら結構だ。我らはミレイ様以外の命令にも、嘆願にも応じない。ミレイ様が動かないというなら、我らも何の行動も起こさないという事だ」

「そんな、だったら……!」

 

 アヴェリンの態度は冷酷だったが、チームとして纏まっている以上、その対応をリーダーが決めるのは当然だ。自分の好悪だけで好きに行動を起こせば、チーム内で纏まりを欠く。

 アキラは悔しそうな顔をしてから、縋るようにミレイユへと顔を向けた。

 

「ミレイユ様、助けを求めて来た人ですよ。このまま無視するんですか……?」

「無視するとは言ってない。どんな相手でも、話ぐらいは聞くものだ」

「じゃあ……!」

「――アキラ。お前の正義感は好ましいが……」

 

 ミレイユは咎めるように視線の圧を強くした。

 

「言った筈だぞ。この世でお前の倫理観など意味を為さない。――話は聞く。だが、それは役者が揃ってからだ。あの女は誰から逃げていたのか、何故逃げていたのか、それは確認せねばならないだろうが、一方からのみ聞いて鵜呑みにするのは、正しい行いとは言えない」

「それは……そうですけど、でも……!」

 

 息を荒らげ、何かから逃亡していたエルフの女性、そして追っている相手は武装している。それだけ見れば、どちらへ味方すべきか、あるいはしたくなるかは明らかだ。

 だが、そこだけで盲目的に味方するのは危険だ。

 

 この世界では虫も殺せぬような顔をして、善人を騙そうとする者は幾らでもいる。

 ミレイユもまた、そのような被害に遭った事があるし、だから警戒するのは当然と言えた。だから不憫とは思いつつ、近くまで迫っている追手を待つ事にしたのだ。

 

 ミレイユは視線を感じてそちらに目を向けると、頭を下げていたエルフが、いつの間にやら頭を上げ、そしてミレイユを凝視するように見つめていた。

 口の中で、ミレイユ、と名前を転がしているようでもある。

 

 エルフの中で、ミレイユの名前は有名だ。遍く広がっていると自惚れる程ではないにしろ、この女性が知っていたとしても不思議ではない。

 だがそれを、まるで呆然としている様に見えるのは不自然に思えた。

 

 そうこうする間に、追手も近くで馬を降りては、足音を五月蠅く鳴らして近付いてくる。

 金属音は聞こえるが鎧ではない。金具が互いにぶつかる程度の小さなもので、だから憲兵の類ではないだろう、とアタリを付けた。巡回兵にしろ憲兵にしろ、その権威の象徴として金属鎧を付けたがる。

 

 追手が公的な身分を有するなら、そういった装備をしているだろう、と予想していたので、ならば相手は傭兵の類いか、あるいは――。

 

 姿を現したのは二人組の男で、どちらも髭面の三十代と思しき年齢だった。全身を革鎧で身を包んでいて、革の品質にこそ違いはありそうだが、同じ姿格好なので同じ組織に属するものなのかもしれない。

 

 男達には形も柄も違うが、額や頬に入れ墨が彫ってある。風体には似つかわしいが、公的身分の人間と考えた場合、あまりに不自然だった。

 

 ミレイユはちらりと見ただけで、すぐに視線を焚火に移す。

 お茶を一口含みながら、未だ雑談に話を咲かせている二人に目を向けた。

 

「だぁから、違うってば。嫌いなのは陽の光じゃなくて、空の方よ。見られてるみたいで気が休まらないの。だからフードで隠すのよ」

「フード一つでどうにかなるものか?」

「そりゃ単なるフードならね。これは何処にでも売ってる粗悪品じゃなくて――」

「何をしている、我らの姿が見えんのか!」

 

 男は威圧的に声を放ち、忌々しいものを見るかのようにユミル達を見る。それから視線を移して、ルチアの背後、蹲るようにして座るエルフ女性に目を向けた。

 

「そこの女は――」

「手触りだけでも分かるでしょ、一等品の魔術秘具なのよ。監視する目があれば、そこから逃れる事を約束してくれるワケ」

「だが、現世へ行ってからもフードか、それに近しいものを常に身に着けていたではないか」

「そっちは単純に癖よ。今となっては、最早ないと落ち着かないのよね」

「――煩いぞ、なぜ話を続けてるんだ! 黙れと言われないと分からんのか!?」

 

 とうとう堪りかねて、男の一人が声を張り上げた。

 本人は一喝して黙らせたつもりなのかもしれないが、話していた二人は興に水が差されたと、無表情で抗議の視線を向けている。

 

 彼女ら二人からすれば、そもそもミレイユから制止が掛からなければ、話を中断する理由すらない。黙れと言われて素直に従ってやる義理がない、と考えていて、更に会話を再開させようとしたのだが、それより前にミレイユが止めた。

 

 手首を小さく手を上げると、それで開きかけていた口を閉じる。

 男達に目を向けると、それに続いて全員が男に注目し、それで気分を良くした男は胸を張って言い放った。

 

「そこにいる女をこちらに引き渡せ。それと近くに子供もいる筈だ。そちらもだ」

「……理由は?」

「理由だと? 知れたこと、逃げ出したからよ」

「さっぱり分からんし、状況も掴めない。説明する気があるのか?」

「あるか、そんなもの! お前達は早く引き渡せば良い!」

 

 ミレイユは息をゆっくりと吐いて頬を撫でる。

 男達は居丈高で、そしてそれを当然だと認識している。憲兵のようにも見えないのに、その様な態度が出来るというのは異常で、特に彼らのような者は冒険者との衝突を嫌う。

 

 冒険者は国の庇護を受けない代わり、その身一つで生きる才覚を持つ。

 権力を笠に着ても軋轢を強めるばかりで意味はなく、そして本当に強力な魔物が国に被害を出そうとした時、その助力を得られなくなる事から、その対応は丁寧と言わないまでも不遜にならない程度に留める程だ。

 

 ミレイユ達の身なりは、どう見ても冒険者寄りで、平民にも商人にも貴族にも見えない。

 男達の態度に不自然なものを感じながら、ミレイユはエルフ女性を見ながら尚も問い質す。

 

「その女は奴隷なのか? ……逃亡奴隷だとか」

「いいや、だが奴隷になるだろうな。馬車を盗んだからにはな」

「違う! あれは私が買ったものです!」

「だが店主は違うと言っていた。盗まれたのだと。そうだよな、トルスト?」

「えぇ、間違いありませんや」

 

 男の一人が、もう一人の髭面に顔を向ければ、下卑た笑みを浮かべた、トルストと呼ばれた男は頷く。

 ミレイユの瞳がギラリと二人を居抜くと、男達は驚いたように身を竦ませた。

 

「お前達、そんな身なりで憲兵なのか?」

「そ、そうとも……! 見れば分かるだろうが! 我らデルン王国の憲兵だ。お前も人間なら、早くそのエルフを引き渡せ!」

「デルン王国ね……」

 

 ミレイユが眉根に皺を寄せながら息を吐くと、アキラが恐る恐るという風に聞いてきた。

 

「あの、どういう国なんですか。人間ならエルフを渡せとか、何か良い感じを受けないんですけど……」

「さぁな、さっぱり知らん。聞いた事もない」

「え、ないんですか、聞いた事……?」

「貴様ら、どこの田舎の出身だ! デルン王国を知らんだと……!?」

 

 聞いたアキラが驚いて、そして男達も驚いていた。

 ユミルに目配せしても、やはり知らないと首を振る。新興の王国など幾らでもあるのだろうが、男の口ぶりからすると、知らない方が異常と本気で思っているようだ。

 

 それとも、知っているつもりでいるのは男達の方で、その権威を盗んで野盗が名前を使っているだけとも考えられる。男達の身なりを思えば、むしろそちらの方が正しい気がしてきた。

 だが何より聞き逃がせないセリフがある。まるでエルフ排斥が当然と言うような、人間至上主義を掲げるような発言は、多くのエルフを敵に回す。

 つい最近起きた、エルフ主導で起きた戦争を思えば、そのようなセリフは出ない筈だった。

 

「聞きたいんだが、お前たちは窃盗の罪でそのエルフを捕らえたいのか? それともエルフだからという理由が先にあって、それで罪をでっち上げようとしているのか?」

「何と無礼な娘だ! 我らデルン王国の憲兵が、捏造した罪でエルフを捕らえようとしていると、そう言いたいのか!?」

「……そう言ったつもりだが。装備が見窄らしいし、何より憲兵には見えない。それに、まるでエルフを目の敵にするような発言は捨て置けない」

 

 ミレイユがそう言うと、男達の表情がみるみる変わっていく。

 図星を突かれたというよりは、信じ難いセリフを聞いたから出た表情のように見える。怒りを込めた視線をミレイユに向け、それからエルフ女性にも目を向ける。

 

「エルフに対する保護、そして隠匿! 憲兵への誹謗中傷、不敬により! 今すぐお前らを逮捕してやる!」

「何を言ってるんだ……。それとも、お前達……まさか、本当に憲兵だったのか? だが、それなら尚更一種族に対する差別発言は……」

 

 あまりに堂々とした発言をするもので、これが事前に考えていた台本というのなら大したものだった。実にそれらしい台詞に、思わず本物だと思いたくなる。

 

 だが、エルフはミレイユの助力もあって、時代の支配者となった。エルフ排斥が根底にあって、それを払拭する為に起こった戦争だから、亜人という種族の根底的な排斥は根絶されるよう動いた筈だ。

 

 ここがどれだけ田舎王国だろうと、その天と地がひっくり返るような衝撃は、遍く大陸中に響き渡った筈だ。支配者層は人間からエルフに代わり、そしてだからこそ、今のようなエルフをを奴隷にする、なんて動きを許す筈もない。

 新たな戦争の火種を自ら作る事にもなる。王の思想はどうであれ、時流を読めず短絡的な行動は、未来を喪う事に繋がりかねないだろう。

 

「それによく見れば女達も上玉だ。こりゃあ、いい……」

「肌に何も刻んでいないってのも良いですな。こりゃあ、高く付きますぜ」

 

 ミレイユ思案している間に、男達二人は下卑た皮算用を口にしつつ剣を抜いた。それで男達への評価が決まった。野盗であろうと役人であろうと、もう結末は変わらない。

 ミレイユは男達に一瞥すら向けず、アヴェリンへ首肯する。

 

 その小さな動作で全ては決した。

 彼らは何も出来ず、何が起きたかも理解できないまま、無力化されて地面へ転がされ、そして両手に縄をされる事になった。

 



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異世界デイアート その6

「くそっ! 一体どうなってやがる!」

「刻印だってねぇのに、なんであんなに強ぇんだ!」

 

 聞きたい事があったので、二人は気絶させていない。

 男二人は確かに鍛えてはいたようだが、想定したものより遥かに弱く、そして両腕を背後で縛られていても、未だに強気な態度は崩さなかった。

 

 これが本当に野盗が憲兵に扮しているだけなら、無力化された時点で続ける意味はない。言葉遣いは粗野で教養を感じさせないから、それが尚の事野盗の印象を与えてくる。

 発言自体も意味不明で、自分達が負けるなど最初から思慮の外だったらしく、理不尽な事態への悪態も止まらない。

 

 だが分からないのはミレイユも同じで、どうしてそこまで自信満々だったのか不思議でならない。彼我の実力差が分からぬ程の力量しか持たず、それでどうして自分が有利だと思ったのか。

 単なる間抜けで片付く問題でもある気がしたが、それよりまず確認したい事があった。

 

「今更ここで隠す意味もないだろう。お前達は野盗が扮した偽物か? それとも本物の憲兵か?」

「だから言ってるだろう! 俺たちはデルン王国の憲兵だ!」

「騙ってる訳じゃないんだな?」

「そうだ! 嘘じゃない!」

 

 男は何度も首を縦に振って、必死の形相で言ってくる。

 言葉遣いについてアヴェリンは多いに不満を滲ませ、武器さえチラつかせていたが、ミレイユの視線一つで武器をしまう。だが剣呑な視線は収めず、何か不都合な動きを見せれば叩き潰す、と暗に語っていた。

 

 男達もそれを分かっているから、言葉遣いはともかく暴れようとはしない。

 身を捩るような素振りはあるものの、それは食い込む縄を少しでも楽に出来ないか動かしているからだ。度を越せば制裁が待っているが、きつく縛るよう指示したのはミレイユだ。

 

 野盗や、あるいは後ろ暗い事を生業としている者なら、縄抜けぐらいは身に付けているものだ。中には捕まるまでが前提で、そこから抜け出して仕事を成功させる、なんていう輩までいる。

 口で身分を語るだけで、男を信用するのは早かった。

 

「お前たち分かってるのか、憲兵にこんな仕打ちをして、ただで済むと思うなよ!」

「すぐさま解放するというなら、その罪を軽減してやってもいい!」

「ふぅん……? その傲慢な態度は、演技には見えないけどねぇ……」

 

 ユミルが男二人を胡散臭そうに眺める。

 基本的に悪人か、あるいはその疑いのある人物に対して接する機会が多い為、その態度は高圧的、威圧的になりがちなのが憲兵だ。

 

 国の権威を背景に暴力を振るう事も多いとはいえ、しかし、だからといってチンピラ崩れのような態度は見せないのも、憲兵というものだ。

 ミレイユが更に疑いの眼差しを深めた時、未だ傍らで静かにしていたエルフ女性が、おずおずと声を上げた。

 

「……そちらの方々が、憲兵であるのは間違いないと思います」

「そうなのか? じゃあ馬車を盗んだというのは?」

「馬車は私が買ったものです。でも、口裏を合わせるというか……何かしら取引はあったのだと思います」

「お前を陥れる為に? そんな事をされる心当たりはあるのか?」

「ありません!」

 

 咄嗟に返した言葉が大きくなってしまい、恥じ入るように俯いた。それから男二人へ軽蔑の籠もった眼差しを向ける。

 

「デルン王国での、エルフの扱いは粗雑です。それが捏造であるか否か確認するより、憲兵の主張のみで罪が確定します。相手がエルフであるなら何をしても良い、そういう過激な一派があるのです」

「そんな、まさか……」

 

 ルチアが我知らず、と言った感じで声を零す。

 それはまた、ミレイユも同じ感想だった。

 

 エルフに対して長い時を迫害し続けてきたから起きた戦争、それを知らぬ筈がない。二の舞いを防ごうと考える国は他にあるだろうし、実際それが公になった時、大義名分を得たと戦争が起きるだろう。

 

 当時、ミレイユが与したエルフ連合とは、それ程勢いのある組織に膨れ上がっていた。

 ミレイユ達が抜けた事で、その戦力は大幅に弱体化しただろうが、外から見えていた国からは分からない。二の舞いを避けたいと考えるのが自然で、だから裏で暗躍する組織ならまだしも、憲兵という身分で堂々とそれを行うというのは、凡そ考えられない自体だ。

 

 しかも末端のいち兵士ではなく、一派として公になっているというのなら、それを知られるのも時間の問題だ。到底、正気とは思えない。

 ミレイユにそう思わせる程、当時の熱気というものは凄まじかった。圧政から解放された革命の様なものだ。当時の支配階級は全てが追いやられ、そして人間と亜人の立場は逆転した。

 その熱気は簡単には消えないと思っていたし、それが大陸全土を覆い尽くすのは時間の問題のようにも思えていた。

 

「だが、一派という言い方をするのなら、そうでない者たちもいるという事か?」

「はい、デルンの人々全てが、他種族に対して排他的という訳ではありません。ですが、過去の遺恨と現在の武力が、他種族を威圧する背景になっているのです」

「過去の遺恨、ねぇ……」

 

 ユミルは腕組して首を傾げ、ミレイユもまた同様に首を傾げた。

 エルフと人間の間に、遺恨があったのは確かだが、それも随分昔の事だ。つい先日というと語弊があるが、とにかく最近まで人間上位の立場で、覆って間もない現在、その遺恨という単語を持ち出すのには違和感があった。

 

「どうにも分からん……が、とにかくお前は虚偽の罪を着せられ、そしてその為に売り飛ばされそうになっていた。そう言う事でいいんだな?」

「はい……! お助け頂き、ありがとうございます!」

「うん。お前、名前は?」

「リネィアと申します」

 

 礼を言ってアヴェリンやルチアへと頭を下げていたリネィアは、名乗ると同時に再び頭を下げた。汗や土で汚れた金色の前髪がさらりと流れる。髪は長いが三つ編みで、移動中は邪魔にならなによう結わえていたようだ。

 リネィアは素直に名前を口にしたが、その名は体外的に名乗る仮名のようなものだろう。だが、それは種族として当然の慣例みたいなものなので、敢えて何も言わない。

 

 ミレイユは視線の先にある倒れた馬車へ、気遣うような素振りで指先を向ける。

 

「お前が隠していた子供も、いつまでも押し込んだままでは息が詰まるだろう。そろそろ出してやったらどうだ?」

「は……っ、はい。それでは、失礼して……!」

 

 実を言えば、ずっと気に掛けていたのだろう。なるべく視線を向けないようにしていたが、気を向ける事まで避けられなかった。子供の方も恐ろしい思いをしていただろうに、物音一つ立てず耐えていた。

 

 リネィアはすぐにでも抱き締めたいと思っていただろうから、必死に気を逸しているのを見兼ねて水を向けてやった。当人は気付かれていないと思っていたようで、その一言に困惑していたが、結局素直に受け入れて我が子を助け出す事に決めたようだ。

 

 やはり荷台は二重底になっていて、そこから出てきた、リネィアをそのまま小型化したような子供は、声を押し殺して母親に抱きついている。

 無事な再会を果たせて何よりだった。

 

 子供をあのような形で置いていったからには、いざとなれば自身を犠牲に子供だけ逃がすつもりでいただろう。

 ところが予想以上に上手く撒けたので、元の場所まで帰って来たのだが、結局ああいう形になってしまった。これについては憲兵の方が上手かった、という事だろう。

 ミレイユは再び憲兵達へと顔を向け、そして向けられた当人達は苦々しい顔をして顔を背けた。

 

「さて、お前達の処分だが……」

「処分だと!?」

 

 男の一人が、その一言で顔を戻す。

 

「何様のつもりだ! こんな事、お上が知ったらタダでは済まされんからな!」

「じゃあ、後腐れなく殺して燃やす?」

「ば……っ、なに、何を言ってる……!?」

 

 男達が動揺して身を揺するが、ユミルは爪先の形をつまらなそうに弄りながら続ける。

 その口調はどこまでも気楽なもので、視線すら男達に向いていない。

 

「放置するんじゃ殺すのと同じだし、かといって解放したら厄介事にしかならないじゃない。だったら全て燃やして無かった事にするのが、一番簡単で楽よ」

「巡回中に行方不明……まぁ、よくある話か。傍に血に染まった鎧でもあれば、勝手にそれらしい憶測をしてくれるだろうしな」

 

 アヴェリンもそれに応じて頷き、男達へ平坦な視線を向ける。

 男は半狂乱になって頭を振り、唾を飛ばす勢いで捲し立てた。

 

「言うに事欠いて、な、何が楽だ! そんな理由で殺すだと!? 狂ってるのか!」

「あら、随分お上品なコト言うのね。逆にそうまでされて、どうして生きて帰れると思ってるのよ。そっちの方が不思議だわ」

 

 爪先をいじっていたユミルは、指先にふっと息を吹きかけてから流し目を送る。

 その虫を見るような目付きに当てられ、顔面蒼白になった。その言葉が脅しではなく、本気のものであると悟ったようだ。

 そこへ、アキラが恐る恐る声をかける。

 

「……あの、流石に殺すというのは、どうなのかと……。悪いことをしてたにしろ、命を奪う程でもないような……」

「オマエに意見なんて聞いてないの、黙ってなさい」

 

 ピシャリと言い放たれて、アキラも二の句を告げずにいたが、しかしすぐに首を振って言い募る。

 

「でもですよ! 罪人だったとしても、国の役人なんですから、やっぱり裁きは国が責任を取って行わないといけないと思うんですよ……!」

「正しく裁くというなら、そのとおり。証人として、馬車を売った当人も呼んで裁判してもらう? 金を握らせてアイツらは無罪放免、そしてアタシ達は不敬罪で牢獄行きね。あら良かった、これでめでたしめでたしね?」

「そんな……そんなの分からないじゃないですか! デルン王国の名前すら知らないのに、その司法が正しく運用されてるかなんて、それこそ……!」

「――アキラ」

 

 議論が白熱しそうになったところで、ミレイユが声を上げて止めた。

 ミレイユの視線を受け、アキラは己の失態を悟ったようだ。アキラの言った事は正しい。人命を軽々しく奪ってもいけないし、そして罪があるなら国によって裁かれなくてはならない。

 

 私刑が許される状況というのは限られる。だがやはり、アキラはこの世界において異邦人でしかないのだ。己の常識をもって正当性を主張する発言は、ここでは通用しない。

 それは事前にも話していた筈だった。

 

 アキラは己の失態を悔いるように顔を俯けたが、ミレイユはそれを取りなすように手を振る。そして、出来るだけ柔らかく聞こえる声音で声を掛けた。

 



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異世界デイアート その7

「熱くなると物事が見えなくなるのは誰譲りだ? ……やはり、師匠の影響か?」

「ミレイ様……!」

 

 慌てたようなアヴェリンの声に、ミレイユはくつくつと笑う。

 未だ顔を俯けるアキラへ、労りとも諫めるとも違う声音で続ける。

 

「お前は正しい事を言ったが、正しい事が常に求められる訳じゃない。そう言ったな?」

「はい……」

「私達もデルン王国を知らなかった。だが公正な裁きが受けられないだろう事は、察しが付きそうなものじゃないか? 法は常に公正で公平に運用されるべきなのは理想だが、残念ながらそうとは限らない。そして、ここで捏造がまかり通るようなら望み薄だ」

「はい……」

「こいつらを解放したら、一体どうなると思う?」

 

 アキラは少し考えて、顔を上げてから答えた。

 

「やっぱり、その……報復とかでしょうか?」

「そうだな。憲兵をもっと多く、そしてより権威を持つ役人なんかも同伴してやって来るだろう。その場で罪を言い渡されて、そして捕縛という訳だ。あるいは法外な罰金で手打ちにするか、娼館労働を強要されるか……まぁ、その辺だろう」

 

 ミレイユが男達へ目を向けると、図星だったのか忌々しい顔つきで顔を逸した。

 それを見たアキラは、嫌悪感を滲ませた瞳で睨み付ける。

 

「私達はどうすべきだ? 腐った役人というのは、その法を上手く利用する術も身に付けているものだ。私達はきっと不利な立場に立たされるだろう。……さて、私達はどうすべきだと思う?」

「それは……」

 

 アキラはそれ以上何も言えず、押し黙ってしまった。

 正しい事の為に、声を上げられる者は好ましい。それが自分達と敵対するような相手でも、悪であろうと罪に見合った罰を、とする心根は大事にされるべきものだ。

 

 ミレイユは何も、アキラを虐めたい訳ではない。

 ただ、この世界で生きるには飲み込む必要のある事、そして飲み込めなかったとして、その後に何が起きるのかを知って欲しかった。

 

 完全な善意で助けたとしても、その後の手際が悪ければ、全て覆されてしまう。

 彼らをただ解放しただけでは、仮にアキラへは何も起こらずとも、助けた筈のエルフ親子が再び捕まるような事になりかねない。

 

 とはいえ、ユミルの解決策もまた過激である事は否めなかった。

 ミレイユはアキラをフォローするように、再び俯いてしまった顔に声を掛ける。

 

「とはいえ、殺して済まそうというのも短絡過ぎだったな。お前はそれに反応せずにはいられなかったのだろうが……だが、ユミルも本気で言っていた訳じゃない」

「いや、アタシは本気だったけど」

 

 ミレイユの慰めも一瞬で冷めさせる発言をさせつつ、ユミルはアキラを追撃するように言う。

 

「八方丸く収まる方法なんて無いんだから、その中で最もマシなものを選ぶなんて当然でしょ。

生かしておけば、どうせまた同じようなコトするわよ」

「でも、改心とか更生とか……人にはチャンスがあるべきじゃないですか?」

「それアンタ、自分に向けて言ってる?」

 

 ユミルからの指摘は、アキラの心を抉ったようだった。

 一言呻いて、それ以上何も言えなくなっている。だがチャンスを与えて欲しいというアキラの台詞には、少し思うところがあった。

 

 デルン王国の事を少しも知らないという理由で、憶測で決めつける訳にはいかない。彼らからの反応からして限りなく怪しいと言わざるを得ないが、ミレイユとて灰色だからという理由で、殺人を許容する気はないのだ。

 

 だから、ここは折衷案で決める事にした。

 殺しはしないし、だが報復を諦めるよう、その意思を挫いてしまう。

 ミレイユはユミルを手招きして、その耳元へ口を寄せる。

 

「恐怖を刷り込んでやれ。二度と関わり合いになりたくないと思える程の」

「催眠ってコト? 効果が切れたらオシマイよ?」

「いや、実際に痛い目を見てもらう。その痛みと恐怖を増大させてやれ。効果が切れても、その恐怖は残り続ける。痛みが更にそれを喚起するだろう」

「まぁ……報復を確実に防げるかは疑問だけど、アイツら程度ならそれで十分かもね。でも、これからもそんな生温い方法で行くつもり?」

「相手のレベルに合わせただけだ。苛烈な相手には苛烈な方法で。……基本だろ?」

 

 どうにも納得いかない顔をさせていたユミルは、それで華やぐような笑みを浮かべて、ミレイユからの願いを請け負う。

 男二人の襟首をそれぞれ片手で掴み、抵抗も許さず引きずっていく。

 男達は足をバタつかせて必死の抵抗を試みたが、それまでの不穏な会話を聞いていただけに何をするつもりか、最悪の想定をしてしまったようだ。

 

 懇願と謝罪の言葉を並べながら、草むらの奥へと消えていく。

 それが細く聞こえなくなるまで遠くへ行ったかと思うと、次に身の毛もよだつような悲鳴が響いた。アキラもそれには俯いた顔を上げ、そして悔恨混じりに表情を歪めて肩を落とす。

 

 エルフ親子まで顔面蒼白にして、リネィアは子供の耳を抑えて己の身体で包み隠そうとしていた。

 別に死んではいないのだから、この事はアキラにも親子にも後で説明する必要があるだろう。

 しばらく悲鳴が鳴り響き、そうして唐突に聞こえなくなった頃、ユミルが溌剌とした笑顔で帰って来た。

 

「もう大丈夫よ。いい子いい子して、よぉ〜く言い聞かせてあげたから、今日何があったか話題にするコトすら避けるわよ」

「ご苦労だった。男達は……?」

「色々あって放心中。拘束は解いてるから、気付けば勝手に逃げるでしょ。それともこっちに連れてくる?」

「いや、そのままで良い。不幸にも襲われる事があったなら、自己責任と割り切ってもらおう」

 

 改めてユミルを労い、そして席に戻ってもらう。

 どういった内容を彼らに施したのか、それを確認すつもりはない。大丈夫だと太鼓判を押してきたのだから、それを信頼するだけだった。あれから生まれる面倒は消えた、と思って良いだろう。

 

 これで面倒事が一つ片付き、これからの事を考える時間が作れる。

 当初の目的地であるオズロワーナを完全に見失ってしまった形なので、周辺の地理にまだしも詳しそうなリネィアに、色々と聞きたいところだった。

 

 そして彼女は、すっかり怯えてしまった子を膝の上に抱いてあやしている。

 話を聞きたいと、焚火の方まで呼んだ時は気後れする姿勢を見せたものの、そこはやはり恩人という立場で多少強引に呼び寄せる。

 

 おずおずと近付くリネィアを火の当たりが良い場所に座らせ、そして子供はすっかり背を向け母の胸に顔を埋めていた。まだ五歳かそれ以下に見える少女で、長命種のエルフと言えども幼少期の成長速度は人間と変わらないものだ。

 

 だから見た目通りの年齢なのだろうし、一人隠されて閉じ込められていては恐怖を感じて当然だろう。それを思って声を掛けたのだが、怖がるばかりで顔すら見せない。これはもう仕方ないものとして諦め、リネィアと話をする事にした。

 

「恐らく何処かへ逃げる予定だったと思うのだが、少し話を聞かせて欲しい。今日はもう日が暮れるし、屋根のあるところで身体を休めたいだろう。その交換といったところでどうだ?」

「えぇ、それは勿論……! 何なりと聞いてください」

 

 ミレイユが背後にあるテントへ指を向けて言えば、リネィアは一も二もなく頷く。

 雨風を凌げるだけでなく、護衛付きで夜を明かせると思えば悪くない条件だろう。特に小さな子供が一緒となれば、たった二人で夜を明かすのは自殺行為に等しい。

 

「それで、私達はオズロワーナを目指して旅しているのだが、どうにも迷ってしまったらしく……。どこか大きな街があれば、そこを教えて欲しいんだが」

「オズロワーナでしたら、ここから北東方面にありますけれど……」

 

 リネィアは困惑した眼差しでそう言ってきた。

 それもその筈、貿易都市と言われるだけあって、多くの道はオズロワーナに通じている。今し方ミレイユ達が通っていた道もまた、通じているという前提で歩いていたものだ。

 

 オズロワーナ周辺に通っている道なら、方向さえ間違えなければ、歩いているだけで辿り着ける。それはオズロワーナと、その周辺で生活する者にとっては常識だ。

 だから彼女も困惑した顔を見せたのだろう。

 

 だが、それで困惑したのはミレイユ達も同じだった。

 ミレイユはアヴェリンや他の者たちに目配せする。

 

 当初はアヴェリンの所見で現在地と方向を見定め、そして移動を開始した。それはアヴェリンの説明からも納得できるもので、決して当てずっぽうの内容ではない。

 そして歩いて向かった先には見覚えのない森があり、そしてデルンという聞いた事もない国の領内であると言う。だが、それでもオズロワーナは予想していた地点にあるのだ。

 

「もしかしたら、私達の知る都市とは別物かもしれないが……」

「知りもしないデルン王国に、たまたま同名の都市があった、って言う可能性?」

 

 ユミルが眉間に指を当てながら聞いてきて、それに首肯を返す。

 

「デイアート大陸の中央南部にあるのが、我々の知るオズロワーナだが、リネィアの知る都市はどこにあるんだ?」

「それはやっぱり……貴方様方が仰るとおり、中央南部です……」

「んん……?」

 

 リネィアの返答で、ユミルは眉間に皺を寄せて口をへの字に曲げる。

 薄く開けた目を向けて、詰問するような口調で言った。

 

「現在地って、デルン王国の領内なのよね?」

「そうです……」

「そして、オズロワーナもここから北東、歩いて二日程の地点にあるのよね?」

「……そうです」

「交易によって成り立つ都市で、今は人間からエルフに支配層が変わってる。もしかしたら他人種を交えた合議制かも知れないけど……」

「いえ、支配層は人間です。エルフは締め出されてしまってます」

「……は?」

 

 オズロワーナは世界の中心地と言って過言ではない。そうである、と神が定めた。

 だからかつてより、この都市を支配する層こそが、大陸を支配すると言う不文律があった。かつてはエルフが興した都市であり、そして魔力革命によって人間が反乱で取り上げ、交易路を整備して更に発展を遂げ人口を増やした。

 

 人間は個より群で力を発揮する種族だから、国体を成して力を付けると、もう取り返しがつかない事態まで成長した。単純な国力差として見た時には、厚い壁や揃えられた武器によって守りを固め、エルフも数を取り戻した後にはもう開戦すら出来ない程に戦力差が開いていた。

 

 そしてエルフのみならず、他の種族も手を出せない状態のまま長く時が過ぎ、人間により他種族排斥が始まり出した。耐え忍んだ他種族だが、最後に種族の存亡をかけたエルフの反撃と、他種族の共同作戦により、人間支配の時代が終わった。

 終わった筈、だった……。

 



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異世界デイアート その8

 リネィアが嘘をつく理由は無い。

 だから、言った内容に誤りを疑う意味も無かった。しかしそれだと、ミレイユ達の知る知識と齟齬が生じる。それをどう理解するかが問題だった。

 それぞれに目配せしていた中から、ルチアが発言する。

 

「それってつまり、……もしかして過去にやって来てしまったという事でしょうか? 孔の行き先にズレが生まれて、それが単純に場所だけでなく時間のズレを生んでしまったとか」

「有り得ない話じゃないかもね。そもそも、オミカゲ様の権能が何にしろ、世界同士を繋げるのは簡単ではない筈なのよ。あの場には大量の孔と通路が幾つもあった、だから利用できたのも納得できるけど、全く同じ精度で作れたかは疑問だわ」

「それに手傷も負っておられた。送り出す最中にも、追撃を受けていた筈だ。手元の狂いが生じたとして、誰が責められる」

 

 アヴェリンの指摘には納得できる。

 オミカゲ様は異世界へ送り出す、という最後の仕事をやってのけた。だが、あの状況は万全でも安全でもなく、とにかく逃がす事を強いられる状況でもあった。

 

 ミレイユには血を吐いて孔へ送り出す、オミカゲ様の困ったような笑顔が思い出された。

 神々が送り出そうとしていた場所からズラす、というような発言もあったし、その意図的なズレが時間の方にも作用してしまったとしても、仕方のない部分だった。

 

「だが……そうすると、ここは私達が出会うより遥か過去という事になるのか? つまり、創世第一紀が終わり、第二紀、人間支配の始まりの時代だと?」

 

 そして第三紀、人間支配と繁栄を越え、第四紀、圧政と排斥の後期にミレイユがこの世界に降り立った。そして最終的にエルフへの助力を最後に姿を消すのだが、その事を確認しようとしたユミルが不満気な視線を向けた。

 

「……で、どうなの?」

「申し訳ありません……。学がないもので、その第何紀と言われても、全く……」

「あぁ、それはそうよね……」

 

 ユミルは残念そうに首を振ったが、落胆はしていない。

 歴史学問が出来るのは裕福な層だけで、魔力を鍛え魔術を得る学問とは全く違う。余程の知識欲がなければ、自分たちの歴史認識など深く追求しないものだ。

 

 精々身近な出来事を知っているだけで、生活の糧にならないような事は身に着けない、というのが普通だ。だからリネィアは支配層の変遷は知っていても、年代までは知らないのだろう。

 そしてそれは、この世界に暮らす人々の普遍的常識でもある。

 

 申し訳なさそうにしていたリネィアは、そこへ思い出したかのように付け加えた。

 

「でも、人間支配が再び始まったのは、二百年近く前だったと聞いています。私が生まれるより前の事だという話なので……」

「ちょっと待って……、再び? 人間支配が再び始まった?」

「……はい、そう聞いてます……。本来なら新しい幕開けがあった筈だけど、人間の逆襲によって再び元に戻ったのだと」

 

 ユミルは眉間に添えていた指を離して、今度は額を覆ってしまった。

 これが何を意味するか理解して、ミレイユもまた同じような動きを取りたくなる。だが努めてそれを我慢して、ルチアへと顔を向けた。

 

「エルフの歴史に置いて、支配層を奪われたのは一度きりだよな?」

「そうです。私が知る歴史においては、そうなります」

「実は歴史に記されていないという事は……」

「ないとは言い切れません……。一度支配を取り上げられて、しかし奪い返したものの、また奪い返された、なんて恥の上塗りで誰も残したくないでしょうから。でも……」

 

 ルチアがユミルへ目を向けると、額から手を離して力なく首を振った

 

「違うわね。アタシが知る限りでも、そんな事実ないもの。大体、デルン王国なんて知りもしないって時点で、ねぇ……」

「でも、違う場所に送り出されたって言うなら、別大陸って事はないんですか?」

 

 疑問を顔に出しながら、そのまま口にしたのはアキラだった。

 それは新しい着眼点で、そしてこの世界の常識を持たないからこその発想だろう。だが、世の理を良く知っている身からすると、それは有り得ないと断言できる。

 

「他に大陸は存在しない。地球を知るお前には不自然に思えるだろうが、それが事実だ」

「そう……なんですか? 確認できる手段とかあるんですか? 航海技術が優れてて、もう世界一周してるとか?」

「外海というのが無いからな。大瀑布によって全てが遮断されている。東側はそういう分かり易い壁があるし、西側にも似た理由でやはり行けない」

「北と南は?」

「どちらも陸続き、海が見えると言う話は聞いた事がないし、そもそも峻峰な山々が連なる。踏破した者は、いないという話だ」

 

 アキラはそれだけ聞いて尚も疑問を深めたようだ。

 首を傾げて更に質問を投げかけようとして来たところで、ミレイユは手を挙げて止めさせる。

 

「話がズレてるぞ。もっと詳しく説明しても良いが、それはまた何れの機会だ。ここはお前の疑問を解消する場じゃない」

「はい、すみません……。でも、場所をズラしたという話を元にするなら、時間を考慮に入れるより、もっと単純に遠い場所へ行ってしまっただけ、と考えた方が自然に思えたんです」

「うん、お前の言も最もだ。だから蔑ろにせず、簡単に質問にも答えた。だがよくよく考えてみると、孔はそもそも時間移動できるものだ、という前提を忘れてはならない」

 

 ミレイユが失敗して過去の日本に逃げ出しても、孔は当時から存在していた。その事実を思えば、世界を越えた先に同一時間軸という概念は持ち込まれない可能性すらある。

 時間が等速でないどころか、そもそも世界が横並びで移動するものでないかもしれないのだ。

 だが今はそこを議論する意味もなく、二つの要因からミレイユ達が時間移動したと考える根拠を見る事が出来る。

 

 一つはユミルでさえ知らない、エルフの歴史に齟齬があった事。

 そしてもう一つは、リネィアがポロリと呟いた単語だった。

 

「リネィアはさっき、ミレイユの名前を聞いて呆然としていた様に見えた。それは何故だ?」

「それは……私達が逃げ込もうと思っていた所が、ミレイユの森と呼ばれているからです」

「おっと、これは予想外の答えが返ってきた……」

 

 ミレイユの予想としては、エルフの中で良く知られている名前として、その単語に反応したと思っていた。当然だが、その名が知られるのは、エルフに助力した第四紀からでなければならない。

 だから第二紀前後の時期ではあり得ない、と言いたかったのだが、思わぬ返答に面食らってしまった。

 

 ユミルはそんなミレイユの表情を、愉快そうに見つめてからリネィアに尋ねる。

 

「その森ってどこにあるの? ……もしかして、ここから見える所だったりしない?」

「はい、そうです。とはいえ、あれは本当に森の末端で、それを指して言うのはもっと中央寄りになるんですけど……」

「ふぅん……? 因みに、いつ頃から呼ばれてるのかは?」

「詳しいところまでは……。ただ百年以上前であるのは確かで、人間が支配を取り戻した後からなのも、間違いないと思います」

「なるほどねぇ……」

 

 ユミルが深く納得するように頷き、そしてミレイユにもまた、それがどういう意味か掴めて来た。見知らぬ森があると思って、だから別方向に歩いているのだと勘違いしたが、そもそも知ってる場所に森が出来ていただけなのだ。

 

 そう勘違いしたのは、まさか時間移動してると思っていなかったからで、エルフが本気で植林をしたなら、二百年近い年月があれば森ぐらい作れるだろう。

 そして、その森にミレイユの名前が付けられている事実は、意味が深い。

 

 何より、もしも森の中心近くの事こそをミレイユの森と呼ぶのなら、そう呼ばれるだけの理由が思い付いてしまう。

 ミレイユが目を向けると、アヴェリンもまた同じ答えに辿り着いたようだ。

 神妙な顔で顎を撫でながら口を開く。

 

「……もしも森の中心近くをミレイユの森と呼ぶのなら、そしてそれがここから一日行った先の事を言うのなら、そこにはミレイ様の屋敷があった筈ですね」

「そう、箱庭を手に入れてから、あまり利用しなくなった家でもある。必要なものは移したから、後に残ったのは私にとって無価値に等しいものだったが……」

「エルフなりの恩返しのつもりかもしれません。放置して朽ちさせるのも気が咎めるでしょうし……」

 

 ルチアがエルフの気持ちを代弁して言えば、なるほどそういうものかもしれない、と思えてくる。ミレイユにとっては、当初帰るつもりもなく、捨てたも同然の家だったから何も思わないが、恩義を感じる彼らからすると、話は違うかもしれない。

 

 そうしていつしか森で覆って余人が簡単に近付けさせなくした、というのもまた、エルフらしいと言えば、らしい話だ。

 リネィアがおずおずと続ける。

 

「やはりデルンで暮らすには、多くの不満があるものですから……。ただやはり昔に森から出て暮らしていた者からすると、平地の方が暮らしやすい、食料も手に入りやすいとあって、田畑を耕したりして暮らしていたのです……。でも、最近は締め付けが強まるばかりで、それで逃げようと決意したのです」

「それで逃げ出す先が森になるのは分かるが、何故そんな新しい森なんだ? 昔ながらのエルフの森じゃ駄目なのか?」

「近いというのも一つの理由ですが、そこでは未だ抗戦派と言いますか、穏健派と言いますか……そういう派閥が根を下ろしている場所ですし……。それに当初から持つ他種族との融和を掲げる一派でもあります」

「なるほど、私が知る頃のまま、同じ題目だな。とはいえ、その融和の中に、やはり人間はいないんだろうが……」

 

 苦い笑みを浮かべて、ミレイユはアキラに向き直る。

 

「少し考えと違ったが、ここまで来ると、やはり私の知る時代より後に来てしまったと考える方が自然だな。別大陸の発想は面白くはあったが、この世界ではまず受け入れられない話になる」

「はい、どうもその様な感じで……。でも、大丈夫なんですか?」

「何がだ?」

「いえ、その……ミレイユ様の目的達成に問題が出ないのかなって……」

 

 ミレイユは少しの間、小首を傾げて考える。

 目標の達成とはつまり、大神の企みを阻止する事――引いてはミレイユから手を引かせる事だが、それは予定より後の時間に来てしまった事で、難しくなるという問題ではない。

 

 他者に助力を求め辛い事もあり、当時繋がりを作れた者たちとの関係が絶たれても、大きな支障は出ないだろうとも思う。

 それに、もし現世で二百年も時間がズレたら、その夥しい変化に生活もままならないだろうが、この世界は変わらず停滞が続いている。

 何しろ大きな変化を遂げずに、四千年近くを現在の水準のまま動いた世界だ。今更二百年後ろにズレ込んだぐらいで、何か困る事が起きるとは思えなかった。

 

「ではリネィア、オズロワーナにはこの道を進めば、間違いなく着けるんだな?」

「はい、途中で大きな道に出ますので、そこを進めば程なく……」

「分かった。少し戸惑いも問題もあったが、結局は予定通りだ。まずオズロワーナへ行く」

「了解よ。……森の方はどうする? 無視するのも、気が引けるじゃない?」

 

 確かに自分の名を付け、今も家を守っているかもしれないエルフ達の事は気にかかる。

 本当に今も続けているのなら、何かしら礼を言わねばならないだろうし、同時に突然消えた事に謝罪も必要かもしれない。

 

 だが、新たに増えた問題より、最初からある問題を一つずつクリアして行きたい、という気持ちが勝る。一つ行動を変えれば、そこからまた別の問題が転がり込んで来そうな不安感もあった。

 

「それはいずれにする。まずは一つ一つ、頭から片付けよう。……それでいいな、アキラ?」

「はい……」

 

 アキラは素直に頷いたが、やはりその表情は苦渋に満ちていた。

 ミレイユも同意を求めるというより、念押しに近い言い方だった。既に決めた事。ミレイユがその意思を翻さなければ、アキラは同行を許されない。

 

 そして、ミレイユの意志が翻るなどという事は、何か切欠なしに起き得ない。

 項垂れる視線の向こうでは、諦観を飲み込むような暗い色を讃えていた。

 



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別世界からの住人 その1

 一度会話の流れが留まると、それまで聞かれるままに答えていたリネィアが、今度は自ら聞いてきた。好奇心というよりは、確認せねばならないという、使命感めいたものを感じる。

 その表情も子を思うものばかりではなく、ひどく神妙なものに変わっていた。

 

「大変、不躾で恐縮ではありますけれど……。貴方様方は神々に連なる方たちなのでしょうか?」

「全く違う。むしろ……いや、まぁ、これは良いか。とにかく、神々と私達は関係ない」

「無関係とは言えないでしょうよ。神々の側には立っていないというだけで、特にアンタは色々と複雑な……」

 

 それ以上何か言う前に、一睨みしてユミルを黙らせる。

 彼女も会ったばかりの相手に聞かせるものではないと思い直したようで、謝罪のように見える頭の下げ方をした。素直に頭を下げられないのは、彼女の性格故か。

 さして気にしないミレイユは、それに小さく頷き、それから改めてリネィアへ向き直る。

 

「だが、どうしてそう思ったんだ?」

「聞いているお話から、森とエルフに無関係だとは思えなかったので……。それに森の名前は、同時に主の名とも呼ばれます。今もエルフを守護する存在として崇められていて……、一説では長い眠りに付いていて、いずれ目を覚まし、再び救いをもたらすとも……」

「何それ? アンタら、そんなコト信じてるの?」

 

 心底呆れた声を出したユミルに、リネィアは悲しげに顔を横へ振る。

 

「誰しも信じている訳ではありません。本当に今も眠っていると信じているより、そういう事にしたいんです。人間が簡単に森へ攻め入ろうとしないのも、その風聞に寄るところが大きいですから……」

「あぁ、手痛いしっぺ返しを恐れてるのね……。実際、一度は遭ってるワケだし」

「だが……だからこそ森の外で暮らすエルフに皺寄せが行ったと、そういう考えも出来そうだが……」

 

 ミレイユの指摘にリネィアは頷く。

 

「エルフは恐るべきもの、そういう考えは根底にあったのでしょうが、今代の王に代替わりがあってから、過激な方向へ切り替わりました。予てより、ミレイユの森に住むエルフを、魔族と言い慣わす風潮もありまして……」

 

 そう言いながら、リネィアはちらりとルチアへ視線を向ける。

 より正確に言うと、その頭髪へと向けられていた。

 

「フロストエルフはその中でも特に発言力も強く、そして実際強大な一族です。森に暮らす者たちのまとめ役にもなっていると聞きます。その一族の方と一緒にいる、森の名を持つ方々ですから、もしかして、と思いました……」

「なるほどな……、話は分かった」

 

 ミレイユは礼を言うように小さく頭を下げながら、我知らず大きく息を吐いていた。

 口元を覆うように掌を当て、そこに当たる息に初めて、自分がそうしている事に気付いたくらいだった。

 その様子を気遣わしげに見ていたアヴェリンに、何でもないと手を振って応える。

 

「現状に対し不憫に思う事はあるが……」

「別にアンタが悪いって話じゃないでしょ。アンタが抜けた事で逆襲に耐え切れなかった、そういう話にも思うけど、じゃあ永遠に守護するべきだったかと言われたら……ねぇ? 助力なら十分したでしょうに」

「その事で、別段恨み言は無いと思いますけどね」

 

 ユミルに同意してルチアが言った。

 

「最初から助力は決着が付くまで、そういう話でした。ミレイさんにも旅を続ける理由があった。だから戦争の集結と同時に抜けたんですし、一族も盛大な見送りをして送り出した。話はそれで着いてます。その後の事は私も残念に思いますけど、逆襲を考えていなかったのだとしたら、そっちの方が馬鹿なんです」

「随分と辛辣だな」

「だって当時の戦後を考えてみて下さいよ」

 

 ルチアは渋面を浮かべながら指を一本立てた。

 

「戦争前の戦力差は十倍以上と言われていたものが、終結時には等倍になっていたと言われる程の大勝を挙げたんですよ? 虐殺にも等しい戦果を挙げて恨みを買わない筈ないじゃないですか」

「だが、勝てない戦に挑む馬鹿もいないと考えるものじゃないか? 十倍の戦力で負けたのに、それでどうして逆襲を挑もうと考えられるのか。再び戦力を整えるのには何十年も掛かる。慢心するのも当然という気がするがな」

 

 アヴェリンが自分なりの推察を述べると、それにはルチアも頷く。

 

「ですね、それも確かに。長い鬱憤も溜まった上での大勝、喪った戦力を取り戻すまでは安全。しかも経済力の要である都市も奪った。今後数百年は安泰と考えたなら、それも否定できません。だから、その裏を突く何事かがあったのかもしれませんが……」

「ふぅん……、面白いわね? 起死回生の手段っていうのは、確かにあるものね。一人の勇者が神の試練に挑み、それで神器を持ち帰るとか」

「そんな見所のある奴がいれば、あの戦争で頭角を現している。……が、実際にはいなかったろう」

「それもそう……。じゃあ、何がどうやれば、あの状態で逆襲なんて目に遭うのやら……」

 

 これ以上を知ろうと思えば、当時の生き証人に会って話を聞く以外ないだろう。

 そして、本気で知ろうと思うなら、会って話を聞けば良いだけだ。その当時を知るエルフは、今も森の中で生きている。だがミレイユにとって、それは優先される事ではない。

 

 気にも掛かるし、現状の低迷を覆してやりたいとも思うが、ミレイユにも今は余裕がない。

 どうする、と問い掛けるような視線を向けてくるユミルに、とりあえず首を横に振った。

 先程言ったとおりだ。まずは一つずつ片付ける。

 

 ミレイユがその様な視線を返した時、可愛らしい腹の音が聞こえてきた。

 音の方向に目を向ければ、リネィアの胸に抱かれた小さな子が泣きそうな顔で見上げている。

 元より日が暮れるような頃合いで、腹が空かぬ筈もない。話を聞くと言うには時間も立ちすぎた。ミレイユは直ぐに晩飯の準備をさせると、リネィアにも声を掛ける。

 

「長話をして済まなかったな。旅中の食事だから質素なものだが、是非口にしていってくれ」

「ありがとうございます、お世話になります」

 

 リネィアは我が子の頭を抱きながら、深々と頭を下げた。

 

――

 

 温かい食事を口にすれば、気持ちもそれなりに解れてくる。

 特に今は横倒しになった馬車やテントがあって、良い風除けにもなっているので暖も取りやすい。リネィアの子供も流石に膝を折りて、その横にちょこんと座って母親から食事を食べさせて貰っている。

 

 満面の笑顔で、口をほふほふと動かす姿は見ていて愛らしい。

 思わずミレイユの顔にも笑みが浮かび、一時とはいえ憂いを忘れさせてくれた。

 リネィアの子の名前はリレーネと言うのは食事の前の挨拶で聞いた。だが相変わらず怖がられていて、ミレイユを始め誰とも視線を合わせようとしない。

 

 その中で唯一の例外となったのはアキラだった。

 まだまだ拙い喋り方で、また語彙も少なく幼児のような喋り方なので、自分に合わせた話し方をする優しい人だと思ったらしい。今もアキラを隣に置いて、何事かを話している。

 

 アキラもまた子供の扱い方には慣れているようで、言葉を習ったりする相手としては良いパートナーであるのかもしれない。

 その姿を見ていたアヴェリンは、複雑そうな顔して言葉を零す。

 

「……誰にでも、得意なことはあるものだ」

「あら、嫉妬?」

「抜かせ。……私は元より子供には好かれん質だから良いが、ミレイ様のお顔を見ると忍びない」

「あの子はあの子で楽しそうだけど。ご覧なさいな、リレーネとかいう子供を見つめるだらしない顔を……」

「――人を変態みたいに言うのは止めないか」

 

 こっそりと二人で話しているつもりでも、ミレイユの耳にはしっかりと届いている。

 アヴェリンが背を正し、ユミルがからからと笑う姿を見ながら、やれやれと首を振りつつミレイユも笑う。侮辱ではなくユミルなりの気遣いだと分かるから、ミレイユも笑って済ましてやれる。

 

 どうにも素直に目的地へ進めないと思いきや、今度は予定地点から大きく()()た場所に降り立ったと分かった。

 元より前途多難と覚悟した旅路だ。この程度はその多難の一つに数える程でもないが、気分を落とす要因になったのも確かだ。

 その気持ちを少しでも軽くしようという、彼女なりの気遣いだった。

 

 食事も済み、腹が満たされれば眠くなるものだ。

 特にリネィア親子に取っては激動の一日で、疲れも自覚してしまえば眠気に抗えない。テントの奥を使うよう指示すると、二人は礼を言ってすぐにも眠りについてしまった。

 広いテントなので、大人と子供が一人増えたくらいで、他の者が締め出される事もないから、気兼ねなくテントにも誘える。

 

 ミレイユ達も別段やらねばならない事はない。敢えて言うなら、交代しながら見張りをし、少しでも翌日に疲れを残さないよう眠る事だ。

 最初の見張りはアキラがするというのが最近出来た慣例だから、それに任せて他は眠る。ミレイユも順番に入っていて、最も楽な最後になった。

 

 翌日、まだ馬車に残っていた食料や水を纏め、リネィアに背負わせる。

 朝食が済めば出発し、一日掛けて森の縁を歩いて行く。当初の目的地である森の入口近くで一夜を明かして別れ、そして涙ながらに感謝される事になった。

 

「一夜のテントだけでなく、ここまで厚く手助けして頂いて、感謝の言葉もありません……!」

「旅は助け合いとも言う。それに、ああいう場面で出会ったのも、何かの縁だろう」

「はい、ありがとうございます。返す機会が得られるなら、その時は必ず……!」

「気にするな。お前は単に運が良かったんだ」

 

 それだけ言って、ミレイユたちは背を向ける。森の入口と言っても丁寧に道が入っている訳でもない。獣道より幾らかマシ程度のもので、それも侵入者避けなどもあるだろうから、エルフでなければ簡単に奥まで行けるものではないだろう。

 

 彼女らもまた、森へ行き着けば全てが順風満帆に事が運ぶとは考えていない。

 住み慣れた土地を捨て、財産もろくに持てないまま、逃げるように森を頼みにして来たのだ。だが、これ以上はミレイユ達も踏み入れない。後は彼女たちが自分たちでするべき事だ。

 

 森から離れて行っても、背後に感じる二人の気配は動かない。

 見えなくなるまで見送るつもりのようだ。ちらりと背後を窺うと、頭を下げ続けている母の傍らで、リレーネが大きく手を振っていた。

 

 それに笑い返して、帽子のつばを摘み、目線を隠すようにしながら前を向く。

 遠くまで眼前に広がる草原には、それを真っ直ぐに縦断する細い道以外には何もない。草の丈は短く、だからどこまでも見渡す事が出来た。

 

 敵が接近すれば発見も容易で、気を張らずとも良いのは素直に楽だ。しばらく歩けば大きな道にも出るだろう。

 あと一日も歩けば、オズロワーナに到着する筈だった。

 



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別世界からの住人 その2

 貿易都市オズロワーナ、そこは石壁によって囲まれた城郭都市だった。

 門扉は東西南北に一つずつあり、そして今は南門の関所にて、順番待ちをしているところだ。初めて訪れる旅人は別枠で審査を受ける必要があり、冒険者の身分も持たない人だと色々聞かれる。

 

 そういうものだと理解していたつもりだったが、ミレイユは既に辟易していた。

 何しろ長蛇の列は一向に消化される気配がない。勿論それは気の所為でしかないのだが、そうと思いたくなる程、長時間都市の入り口で足止めを受けていた。

 

 最初はミレイユ達の持つ許可証があれば問題ない、という話だったのに、内容が古すぎるという事で彼女たちも一緒に審査を受ける破目になった。

 

 それでアヴェリンなどは、すこぶる機嫌が悪い。

 見ているお湯は沸かないとでも言うのか、列の進みが遅く感じるのは、彼女の勘気に触れている所為なのかもしれない。

 

「まぁ、ある意味証明になって良かったんじゃない?」

「……突然、何の話だ」

「許可証の話。ある程度、推論でしかなかったものが、こうして実際に古すぎるから不許可っていう保証を受けたのよ。確認する手間が省けたじゃない」

「だからどうした、という話でもあるが。あまり意味のある問題でもないだろう」

 

 アヴェリンは左右に広がる城壁を見ながら、睨み付けるようにして目を細める。

 ミレイユの目から見ても古めかしい印象を受けるが、二百年の時を経ているなら、そこに年月相応の経年劣化を見つける事も出来ると期待しての事だった。

 

 だが実際は、そうはならない。

 この中で唯一分かっていないアキラに、アヴェリンが丁寧に説明してやる。

 

「修繕自体、術士がやるものだしな。あまり作り替えというものもしないし、あの程度の見た目から経過日数を測る事は難しい」

「そうなんですね……」

 

 そういうところもファンタジーだなぁ、とでも納得してそうな顔をアキラがしている横で、ユミルは食い下がらずに尚も話を続ける。

 

「アンタ、敢えて話さないようにしてる? 長命種でもないアンタなんだから、もう知り合いも親戚も、この時代では誰も生きていないってコトになるのよ?」

「だから何だ。もう二度と会えないなど、ミレイ様を追うと決意した瞬間に覚悟を済ませてる。こうして帰還する機会には恵まれたが、だからと腑抜けた考え方をしたりしない」

「……そういや、アンタの部族ってそういうヤツラだったわよね。身体が死んでも魂は故郷に帰る。そもそもどう生きるかより、どう死ぬかの方を重んじるんだっけ? そりゃあねぇ、そう考えるってもんよねぇ」

 

 アヴェリンは腕を組んで不快げに眉を寄せ、ユミルを睨み付ける。

 

「それにも語弊がある。死に方も重要だが、生き方を蔑ろにして良いという意味ではない。誇りを持って生き、そして重ねた誇りを抱いて死ぬのだ。戦いの中で死ぬのは最上の誉れだ」

「アタシにはさっぱり分からない生き方ね。下手な戦いをしても、それで死ねば最上なの?」

「それは内容による。戦いの最中、敵に背を向け死んだなら、やはりそれは恥になるものだしな」

「はぁ〜ん……。まぁ、どうでも良いわね」

「何だその言い草は。だったら何故、聞いた」

「そこは流れで……。だって暇だし」

 

 ユミルのあんまりな言い草に、アヴェリンの額に青筋が浮く。

 ここで武器を抜くような愚を犯すとは思っていないが、それよりミレイユは己の心根を恥じながら声を掛けた。

 

「アヴェリン、私はそこまで考えていなかった。二百年後の世界と知ったなら、お前の親類についても、思い至って良かった筈だろうに……」

「その様な事、申す必要はないのです。それに別れは、部族から離れる際、とうに済ませています。お心を痛める必要はございません」

「だが……」

 

 更に何事かを言おうとしたミレイユだったが、アヴェリンに優しく微笑まれ、それ以上何も言えなくなってしまった。それで眉根を顰めた、曖昧な笑みを浮かべるに留める。

 

 アキラはそのやり取りをチラチラと見ながら、顔は空に向けている。まじまじと見つめるのは気が咎めてその様な事をしているようだが、その視線に誘われるように空へ向ければ、既に時間は昼に近い。

 

 関所に着いたのは朝方より少し経った頃で、時計などないこの世界で正確な時間は知りようもないが、大体九時頃だった筈だ。既に三時間が経とうとしているのに、長蛇の列にはまだまだ先がある。

 

 どんな内容だろうと、とにかく話題に飢えてしまったユミルの気持ちも、幾らか分かろうと言うものだった。

 ミレイユはただ、自分達まで順番がやって来るまで、アヴェリンからの視線から逃げるように、過ぎ去る雲を見つめていた。

 

 ――

 

「……ねぇ、あんたら、冒険者?」

 

 ミレイユ達パーティの最後尾に並ぶアキラに、そう声を掛けてくる女性がいた。

 それまでも特に気にしていなかったが、後ろに立っている女性もまた革鎧を身に着けた、冒険者風の装いをしていた。

 

 年の頃は十代半ば頃で、人好きのする笑みを浮かべている。赤い髪を背中まで一本に纏めた髪を流しっぱなしており、背中には大きな剣を背負っていて、女性の風体とは似付かわしく思えた。

 しかし冒険者として見たのなら、その格好はむしろ()()()のかもしれない。

 

 その上、頬や腕には入れ墨のような独特な模様が刻まれている。色味がそれぞれ違い、何か意味を感じさせる形をしていて、よく見れば憲兵達がしていた物とも似ている気がする。

 もしかしたら、この地方には良くある伝統なのかもしれなかった。

 

 ミレイユの知る世界においても、魔除けや願掛けなどで入れ墨が風習として重んじられている時代があった。

 彼らについても、同じ事が言えるのかもしれない。

 

 アキラは問われた事に答えようとしていたものの、言葉に窮してこちらに視線を向けてきた。そもそもアキラの語彙は多くない。この場合、単に違うと答えても良い気がするが、しかし冒険者志望でもある。

 ミレイユもまた答えに窮している間に、ユミルが横から口を挟んだ。

 

「――えぇ、そうよ。そう見えない?」

「見えないから聞いてみたんだけど……。肌も綺麗だし」

「あら、いきなり乙女の肌を見つめるなんて無遠慮なコト。特に理由はないけど、いきなりアンタのコト嫌いになったわ」

「ホントに理由はないんですかね……?」

 

 アキラが思わず突っ込んで、女冒険者は一度不思議そうな顔を向け、それからユミルに向き直り弁明を始めた。

 

「いま何て言ったんだ、変な言葉使う奴だな……? あぁいや、そういう事じゃないんだよ。単に肌に何も刻んでないんだ、って言いたかっただけで」

「別に何かをアピールしたいワケじゃないからね。アヴェリン、アンタんところどうなの?」

「既婚ならば、男女問わず肌に塗料を刻む風習はあるが……。獲物を狩ったり戦勝祝に刻む例もあった……が、珍しい部類だ。戦士だからという理由で、肌に何かする事はないな」

 

 アヴェリンは女冒険者の入れ墨を、上から下まで胡散臭そうに見つめながら言う。

 腕組したまま一瞥で済ませたのは、そこから力量を感じさせないからだろう。風体がどうであれ、力持つ者には敬意を払うだろうと思うから、この人はまだそれ程の実力者ではないのかもしれない。

 

「いや、そういう意味で言ったんじゃないんだけど……。あんたら、田舎から出てきたばっかりなんじゃない?」

「何故そう思う?」

「だって、こんな所に並んでるし……、それにオンナだけでパーティ組んでるじゃない?」

「何か悪いか」

 

 アヴェリンはちらりとアキラへ視線を向けたが、それは数に入っていないと言うように、一歩外へ動くよう目線で促した。

 素直に応じて四人で固まるアヴェリン達へ、女冒険者が視線を集中させると、やはり気不味そうに顔を顰めた。

 

「違う違う、悪いと言いたいんじゃないんだよ。純粋な忠告。きっと、古い伝聞とか伝説とか聞いて憧れたんでしょ? その気持ちは分かる。でもね、この街でその格好は拙いんだ」

「何の話をしてるんだ」

「アタイも他の街でやってたんだけど、そこそこ力も付いて来たってんで、こうしてオズロワーナの冒険者組合に所属しようと思ってきたんだよ。田舎じゃ、()()に憧れたり(あやか)りたいと思う奴は未だにいるから」

「話がさっぱり分からないわ。何の話をしてるのよ。もっと具体的に言いなさいな」

 

 要領を得ない内容に、アヴェリンは元よりユミルまで機嫌が悪くなろうとしている。

 肩を揺すって苛々と足先で地面を叩く姿を見て、女冒険者は頭の後ろに手を当ててペコペコと頭を下げた。

 

「いや、だからね、あんたらの格好は嫌われるって言いたいんだよ。オンナばかり四人組で、実にそれっぽい格好してるじゃないね? だから忠告だよ、この街で平穏無事に過ごしたいなら、格好だけでも変えた方がいい。揃えるの……苦労したんだろうけどね」

 

 そう言って、気の毒そうにユミル達を――とりわけミレイユを見つめた。

 帽子のつばを下げていたので直接視線は交わせてないが、しかしその声音から、本気の忠告だという事が分かる。

 

 ミレイユは自分の格好を改めて見下ろしてみたが、おかしな格好とは思えなかった。

 そもそもがこの世界で活動していた時の姿で、アキラと初日に出会ったままの格好だ。勿論、誰かの装備を真似て、今の装備を構築したという事もない。

 

 鈍色にくすんだ銀の手甲と足甲、太腿が露出するほど深いスリットの入った魔術士ローブの上に、やはり鈍色の局所的なブレストプレートを身に着けている。

 

 グローブの上には肩を露出した姫袖、頭には魔女帽子を被っていて、大枠では魔術士らしい格好なのだが、その上に不釣り合いに思える戦士の防具を身に着けている、その様な格好だった。

 

 アヴェリンは茶の中に緑が交じる革鎧を基調としているが、一般的な冒険者が持つ物とは素材からして一線を画す。動きを阻害しないよう特殊な技法で鞣した竜の表皮を使い、所々防御を固める金属プレートは魔法銀と呼ばれる特殊な金属だ。剛性と柔性を兼ね備え、衝撃を和らげるだけでなく外へ逃してくれる。

 

 今は旅の途中だからマントを使っているが、それも毛皮を厚重ねしたもので、肩から首周りが大きく覆っている。竜の骨を使って首周りを守っているので、背後から見ると人には見えないかもしれない。

 

 ユミルの格好は冒険者として見た場合常識的で、黒色に近いという前提を無視すれば、多くの者が身に付ける旅装に近い。

 頑丈な布を用いた下地にして要所を革で防護する、というような形だった。顎の直下まで首を覆っていたり、グローブは薄手でありつつ繋ぎ目が見えず、とにかく肌が露出している部分がない。

 それに同色のフード付きマントを身に着けていて、影に立てば見えなくなりそうな風体だった。

 

 ルチアが身に付けている物は魔術士らしくごく軽装で、髪色に合わせた、白地に銀の刺繍が入ったワンピースのような服を身に着けている。体のラインが出るほど薄手でスカート丈も短いのだが、太腿の付け根近くまで伸びる白いタイツが露出を最低限に押さえていた。

 

 薄手で防御力が皆無に見えて、その実、下手な鋼鉄製の鎧より遥かに勝る。

 高い魔力を持つルチアと、それを最大限活かす付与のお陰で重い鎧を必要とさせずにいるのだ。

 

 ミレイユは改めてそれぞれ身に着けた装備を見渡して、変わったところも可笑しな所もない事を確認して首を傾げる。ミレイユが知る冒険者の格好としても、常軌を逸するような外見はしていない。

 

 その装備全てが高性能の魔術付与をされた超一級品だが、そこを問題としているとも思えない。

 やはり理解できないミレイユに、女冒険者は遂に痺れを切らして言った。

 

「だから、あんたらの格好は『魔王ミレイユ』みたいだって忠告してるんだよ」

 



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別世界からの住人 その3

「魔王……? ミレイユ?」

「だめだめだめ! あんまり大声で言わない方がいいよ。敢えて口出ししない奴もいるけどさ、嫌がる奴は嫌がる。あんたの格好、そして取り巻きの格好が、それにすんごい似てるんだって……!」

 

 女の説明は実に必死で、冗談を言っているようには見えない。

 完全に善意の忠告で、自分から気付けるよう、それとない注意を最初に促してさえいた。周りの顰蹙(ひんしゅく)を買わないよう、また悪目立ちしないよう配慮してくれていたのだろう。

 本人も田舎からやって来たと言っていたし、外見に似合わず純朴なのかもしれない。

 

 彼女の言っている事は分かったが、しかし理解するに連れて頭が痛くなる。

 二百年前に起きた戦争、その立役者。人間からすれば、ミレイユは悪夢みたいな存在に思えただろう。

 何故そのような悪名が付いたのか、それに思い至るのと同時、隣にいたユミルが爆笑した。

 

「だーっはっはっはっは! アンタ……それ魔王って! あーはっはっ、最高のジョークだわ!」

「馬鹿者! 不敬だぞ、何を馬鹿笑いしてる!」

 

 アヴェリンは怒り心頭でユミルを罵倒したが、ルチアもまた顔を背けて背中をぷるぷると震わせている。ユミルと違って声を上げて笑わないだけ思いやりがあるが、しかし首筋まで赤くなっていては、言葉よりなお雄弁に語っている気がしてならない。

 

「いやぁ、そりゃ蛇蝎の如く嫌われるでしょうねぇ……! いっそ歴史から消せば良かったのにねぇ、アンタみたいに馬鹿な格好する奴いなくなるし……っ! あーはっはっは!」

 

 ミレイユの格好を指差して笑うユミルに、ミレイユは半眼になって指摘する。

 

「言っておくがな、お前もその魔王一味に数えられてるからな。取り巻きその一……いや、その三として」

「いやよ、何で三なのよ。アタシは二号さんってコトにしときなさいな」

「お前こそ何で変な言い方で訂正したんだ。やめろ、如何わしい意味になるだろ……!」

 

 緊張感のない馬鹿笑いするユミルと、それをやはり緊張感の見えないミレイユが諫める構図は、せっかく忠告してくれた彼女の誠意を台無しにした。

 ミレイユ達の格好に気付いた、他の冒険者風の男が近づいて来ては、入れ墨付きの顔を剣呑な目付きで威嚇してくる。

 

「なんだお前ら、馬鹿みてぇな格好しやがって。どこのおのぼりだ」

「あーっはっはっは! ついでにお約束みたいな馬鹿まで付いて来たわよ、どうすんのアンタ!」

「ぷふっ! 魔王さまがどうにかしてくれるんじゃないですか……? 何かこう、魔王的なやつで」

 

 ユミルの笑いに誘われて、ルチアまで堪えきれずに吹き出す。その笑いに引き摺られるように、おかしな発言まで飛び出す始末だった。

 新たにやって来た男の顔が、一瞬で赤く染まる。今にも武器に手を掛けそうな勢いでもあり、それを見たアヴェリンの目が細くなった。

 

「おのぼりの魔王気取りで何を抜かす! 俺を誰だか知ってるのか!」

「知るもんですか。そしてアンタらは三下気取りってワケ? あーっはっは! 似合いすぎ! 馬鹿じゃないの、とうとう泣けてきたわ!」

 

 笑いすぎて実際に涙を流し始め、それを見せびらかすように目尻を拭った指先を突き付けた。

 男は犬歯を剥き出しに獣のような表情で剣を抜き、忠告をしてくれた女冒険者は、巻き込まれるのを嫌がって逃げていく。逃げた事は正解で、むしろ巻き込まくて済んだと気が楽になった。

 

 ミレイユもまた、男の言動に大した感慨を抱かない。むしろ腕を組んだまま視線すら向けず、鼻で笑う始末だった。

 それが逆鱗に触れたらしい。

 

「ふざけやがって、バカ野郎が!」

 

 ついに武器を抜き払って威嚇してきたが、それでもミレイユは、歯牙にも掛けない態度を崩したりしない。そんな態度を見せる事そのものに、我慢できなくなったようだ。

 男は腕を大きく広げ、刃を水平に立てる。

 

 狙いはミレイユだ。明らかに大きく馬鹿にしていたユミルではなく、その標的をミレイユにしたのは、距離の問題もあるのだろう。癪に障った奴として近い順から斬り伏せるつもりでいるのかもしれない。

 男は奇声を上げて武器を水平に薙ぎ、斬り付けてきたのだが、それを横合いから腕を伸ばしたアヴェリンによって、指先三本で掴み取られてしまった。

 

「な、な、なん……!?」

 

 押しても引いてもびくともしない刃に、男の顔が驚愕に染まる。赤い顔を更に赤くしても動かせず、アヴェリンは軽蔑するような目で見下した。

 

「何だ、この太刀筋は……馬鹿にしているのか? その程度の武力しか持たず、彼我の実力差も分かぬまま武器を抜いたのか?」

「な、なんだ……。あんたら、一体……」

 

 ここに来て勝てそうに無いと分かっても、武器を手放して逃げるつもりは無いらしい。かちゃかちゃと刀身がカタ付く音が鳴る中で、ミレイユは男に目すら向けずユミルへ声を放つ。

 

「お前の責任だ。お前が処理しろ」

「いや、でもアタシ、刀身を指で挟まれている状態の敵を倒すような技術もってないし」

「どういう言い訳だ。いいから、お前の得意な事で手早く済ませろ」

「……得意な? 誰とでもすぐ酒飲み友達になれるってコトで?」

 

 ミレイユが呆れた息を出す横で、ルチアがまたも吹き出していた。

 そこにアヴェリンが刃を手放さぬまま、吐き捨てるように言い放つ。

 

「あぁ、人を苛つかせるのも得意なようだな」

「あと神に喧嘩売るのも、ですよね」

「それは好きなのであって、得意とは違うだろう」

 

 ルチアが軽口の応酬に加わると、もはや緊迫した緊張感は霧散して消えていた。

 未だに武器を取り返そうと奮闘している男が、まるでコントの様に見える始末だった。武器から手を話して刃からアヴェリンの指を剥がそうとしたり、腕の関節を痛めつけようとするのだが、全て何の効果もない。

 

 あげくそれを無視して仲間内で遊び始めてしまうのだから、男からすると立場がまるでなかった。流石に哀れに思えてきたので、アヴェリンに武器を返すよう命じる。

 すると即座に指を動かし、機敏な動きで剣の柄側を男へ向けた。

 はやく持っていけ、と態度で示す形になっているのだが、男は中々受け取ろうとしない。

 

 それでアヴェリンが面倒になり、刃を投げ捨て地面に突き刺した。

 ビィィンと刃が細かく揺れ、それがどれほど強い力で、また手首の動きだけで動かせたのかを示している。

 

 男は柄を奪うかのような動きで掴み取り、そして逃げるように去って行った。一度、一瞥するかのように振り返って来たが、その顔には明らかな恐怖が浮かんでいる。

 元より街の方から出てきたようだし、何かの依頼でも片付ける途中であったのかもしれないが、あんな調子で大丈夫なのか……。

 

 ミレイユがいらぬ心配をしている間にも、列は動いていたようだ。

 前方がすっかり空いていて、関所の入り口には数人しか立っていない。

 

「思わぬ見世物で良い暇つぶしが出来たな」

「いえ、ミレイユ様。前方にも誰もいないのは、巻き込まれるのを恐れて、皆逃げたからです……」

 

 現実を直視できていなかったミレイユに、アキラがやんわりと訂正した。

 だが何はともあれ、待ち時間は大幅に削減されたのだ。この程度の騒ぎで憲兵が動く筈もないので、悠々とミレイユたちは順番待ちを回避して進む事ができる。

 

「まぁ、良いだろう。待たなくて済むのなら……」

「はい、勿論……ミレイユ様が良いなら、それで良いのですが……」

 

 騒ぎを起こした事は素直に申し訳ないと思うが、しかし風体が奇抜というだけで因縁を付けてくる方にも問題がある。

 ユミルの態度は褒められたものではないが、しかし武器を抜いて来た相手に、ただで済ませただけ穏便でもあるのだ。アキラには暴力が土台にある常識、という説明をしたものだが、しかし簡単に武器を抜いて良いという訳でもない。

 

 抜いたからには遊びで済まない、というのもまた常識なのだ。

 穏当に済ませてやった事は、むしろ感謝されるべき事だった。

 

 いい加減、笑い疲れ始めたルチアとユミルを引っ立てて、前方に三人しか並んでいない列の後ろに付く。ガラスのない枠だけある窓口から見える役人からは、胡散臭いものを見るような視線を受け取った。

 

 あの騒ぎが角度的に見えていたとは思えないが、しかし騒ぎの中心が誰かくらいは分かってしまうようだ。審査がマイナスになるような事はないと思うのだが、しかし今だけは行儀良くしていた方が良さそうだ。

 

 そうして順番が来て、来訪理由などを告げていると、その途中でルチアを見た男が豹変した。それまで役人らしい気怠い調子で問答を続けていたのに、即座に審査を取り止めてしまう。

 

「駄目だ、許可できない」

「……理由は?」

「如何なる理由があろうとも、魔族に許可証など発行できるか!」

「エルフが駄目だって? それだけの理由で? どんなエルフでも?」

 

 信じ難い、という気持ちで役人を見返す。

 リネィアの一件を考えても、この都市で良い待遇など期待できなかったが、文字通り門前払いを食らう程とは思っていなかった。

 

 エルフに対して過激な考えを持つ者はいるだろう、というのは予想できていたが、拒絶されるとまでは考えにない。足税に余計な金額が掛かるくらいは覚悟していて、そして、それぐらいなら許容しようとも考えていた。

 

 かつてミレイユがこの世で旅をしていた時も、オズロワーナはエルフに対して差別的だった。いっそ露骨な程だったが、それでも門前払いを受ける訳でも、都市の中で生活できない程ではなかったものだ。

 金でも握らせて許可証をもぎ取ろうか、と思ったところで、横合いからユミルが顔を突き出す。

 

「エルフ? エルフなんていないでしょ、ほら良く見てご覧なさいな」

「あぁ……?」

 

 突然乱入してきたユミルに、役人は胡散臭そうな目を向けたが、すぐにその焦点が合わなくなる。緩慢に手を動かして、すぐに人数分の許可証が発行される。

 アヴェリンが苦い顔をさせて悪態をついた。

 

「さっきだって、それを最初からやっていれば良いものを……」

「いや、あれはやんないのが正解でしょ。そっちの方が面白いし」

 

 またもルチアが吹き出して、その頭をアヴェリンがごく軽く叩く。

 それぞれに許可証を配り、黙って最後尾にいたアキラにも渡して門を潜った。長く掛かったが、ようやくオズロワーナだ。実際には到着していたものの、門の外で締め出されていたのでは入国したとは言えない。

 

 土と草が目立つばかりの土地と違い、文明が見て取れる一大都市。

 ここであれば、土と草の匂いに包まれて、常に外敵を意識しながら眠る必要もない。都市は都市で、また別の悪臭が付き物だが、今だけはそれも我慢しよう。

 今日は暖かな寝床が確保できる。それだけで今日一日がマシになりそうに思えた。

 



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別世界からの住人 その4

 関所を越え、巨大な木製の門扉を潜って都市内を一望した後、後ろにいたアキラが感嘆の声を上げた。

 アキラがそのような声を上げてしまう理由は、ミレイユにも良く分かる。

 年頃の男子にとって――特にファンタジーに憧れを抱いている男子にとって、眼前に広がる光景は夢にまで見た光景だ。

 

 都市の中央を一直線に貫く広い道は、馬車が片幅四両、十分なスペースを取って通行できるようになっていて、その両端には通行人が多く行き合う。壁は高く閉塞感を覚えてしまいそうになるが、しかしそこは貿易都市だ。

 街に入って一番に目にする場所だから、露天商がひしめく様に埋め尽くし、その活気さが閉塞感を消し飛ばす。ただ、別の窮屈さを感じてしまうのは否めない。

 

 呼び込みする声と、それを冷やかす客、熱心に買う物を選ぶ客と、その姿は様々で、その人口密度には圧倒されずにいられない。

 人の往来が多いだけに、商品も庶民向け、あるいは旅行者向けで、食料品も多く目立つ。少ない金銭で済む物が多く、武具などがあっても使えそうなものは本当に一握りだ。

 

 無防備に刃の付いた物が置かれているのは、アキラにとってはカルチャーショックだろう。

 鞘も付けずに晒しているものも多く、また樽の中に十把一絡げで突っ込まれている物もある。それらを物珍しく目で追っては歩いていく。

 

 道幅が広いので高い壁があっても陽がサンサンと照らし、影は多くても暗いとは感じなかった。日当たりの良い場所は露天場所としても人気が高く、活気ある露天道にあって、尚活気に満ちている。

 アキラが感動した面色を満面に浮かべて言った。

 

「……いや、本当に凄いですね。圧倒されます。呼び込みの人達もパワフルですし……!」

「そうだな。露店をやってる者の多くは裕福ではない。彼らの中にも明日買うパンに困る者がいて、売れない事は死活問題だから」

 

 どのような商人でも売れない事は死活問題だろうが、道楽で出来る程、余裕を持って商いをする者は少ない。一攫千金を求めるような者もいるが、それは大抵が詐欺だ。

 冒険者がいらなくなった武具を売りに出したり、買い替えたから古い方を売りに出したり、と自分で売り出す様な事がない限りは、露店にある高額商品は偽物だと見た方が良い。

 

「じゃあ、あそこにいる人は……」

 

 アキラが指差した先には、露店商人が周りを囲む中で、魔術士風の女性が小さな露店を開いていた。この女性にも、やはり額に入れ墨が入っている。

 誰もが商人風の格好をしている中で、あの格好は目立ってはいるものの、客足は遠かった。

 杖が数本並んでいるようだが、呼び込みもしていないから見向きもされていない。

 

「どこぞで発見した物を売ってるか、自分で必要なくなった物を売ってるんだろう。店に並ばない掘り出し物かもしれないが、安い買い物かどうかは……さて」

「色々あって目移りしますね。一日ここで時間が潰せそうです」

「実際そうだろうな。買うつもりでいなくとも、何があるか見るだけで時間が潰れる」

 

 掘り出し物は幾らも目に入らないが、粗悪品なら幾らでも置いてある。

 その日だけ凌げれば良い、というのならともかく、あるいは見せ掛けだけでも腰に武器が欲しいというのでなければ、このような場所で買うものではない。

 

「見るのは楽しいものだが、金銭に余裕があり、そして少しでもマシな物を買うつもりでいるなら、場所を移した方が良い」

「……まぁつまり、安かろう悪かろう、と言うワケよ」

 

 話を聞いていたユミルが、面白そうな話題に口出しを始めて、道の奥を指差す。

 

「掘り出し物を狙うのでなければ――それも普通は見つからないけど、露店じゃなく店舗を持つ商店に足を運ぶ方が良いの」

大店(おおだな)と呼ばれる様な商店ならば、高級品や稀少品なども扱っていて、何より品質が保証されている。値段に見合う提供をされて、そして詐欺など行わない。店の名前と沽券に関わるからな」

「ははぁ……。それはやっぱり、こういう賑わう場所にはないんでしょうね」

「そうだな。そちらを尋ねるなら、もっと奥の専用区画まで足を伸ばさねばならない」

「昔と変わっていないなら、だけどね。あっちの方は格式に見合った商店しか出店できないから。単に金を積めば良い、というものでもなかったような……」

 

 アキラは大きく口を開けたまま、納得したかどうか、曖昧な息を漏らす。 

 そのまま、ユミルが指差す方向を見るが、人垣の群れで到底目に入れる事は出来ない。

 荷車に多くの商品を積んだ馬車が往来している所為で、尚のこと奥まで見渡す事は難しかった。

 

 地面は石畳が引かれていているが、現世で見た道路のように真っ直ぐでもないし、石の凹凸以前に路面がそもそも水平ではない。

 基礎工事に不手際があったか、それ以前にしっかり踏み固めていなかったのか、路面を通る度に摩耗した結果かもしれないが、とにかくそのせいで水溜りが多く目立つ。

 

 この都市に来たばかりの者ならば、馬車が近くを通る度、その水飛沫に気を付けねばならない。

 だが周りの人間は慣れたもので、最初から濡れる前提でいる者すらいる。

 

 その地面から視線を移し、道を隔てる建物を見れば、多くは三階建てになっていて、それもまた石造りだった。

 木製部分がない訳ではないが、それは庇部分に設けられていたり、あるいは基礎部分に使われていたり、外側からは見え辛い部分が大半だ。

 

 建物は民家である事もあるが、やはり店も用意されていて、露天の隙間を縫って入っていくような様子になっている。店の内容も露天とそう変わりがない。食料品であったり消耗品であったりと取り扱いは様々だが、しかし種類が豊富だ。

 

 露天と店の違いは正にそこで、一つの場所で欲しい物が複数購入できる。その規模と在庫の種類で多くの隔たりがあるので、歩くこと、探すことを苦にしないなら露天の方が安く購入できる。

 だが店は一定のところから買い付けている場合も多いので、一定のクォリティが保証されている。反して露天の買い付け先は常に変動する場合が多く、もし気に入っても再度購入できない可能性があった。

 

 結局のところ、自分の購入スタイルに合わせて決めるのが一番なので、一方的にどちらが良い悪い、という話でもない。

 

 多くの往来、多くの露店、多くの商店でひしめき合うこの場こそ、オズロワーナの顔とも言える。しかし、この都市へやって来たのは、これを見せる為ではない。

 南区画は貿易都市に恥じない様相を見せているが、東区画は主にギルドのある場所だ。商業には多くの取り決めがあるし、それを遵守させる事が重要になる。

 

 建物が必要なら大工が必要だし、工具や金具を作るには鍛冶がいる。一つで完結するものではなく、多くの互助がなくてはやっていけないから、その為にギルドが生まれた。

 必然として多く取り決めも生まれ、そのやり取りをするには近場にいた方が良い、という事で生まれたのがギルド区画だ。そうして、冒険者ギルドもそこにあった。

 

「冒険者ギルドですか……。持ちつ持たれつ、というのなら、やっぱり冒険者もその互助をしてるんですか?」

「そうだな……分かり易いのは素材採取や護衛だろう。錬金術ギルドは常に素材を欲しがるし、商工ギルドは荷を安全に運びたい。荒れ仕事は冒険者ギルドの役目だ」

「荷運びや護衛というなら、自分のギルドで募集かけたりした方が安く済みそうですけど……。それとも、それこそ互助の部分で、ルール違反だったりするんですか?」

 

 ミレイユは顎の先を指で掻きながら、訝しげにアヴェリンを見る。

 その視線で全てを察したアヴェリンが、詳しく解説してくれた。

 

「自分のギルドで直接、力仕事の出来る者を雇うのは自由だ。しかし、そこはやはり専業にしている者と差が出る。本当に力量ある者は自分を安売りしたりしないものだし、その場合で言うと、冒険者ギルドにいる方が、余程自分を高く使ってくれるからな」

「そういうものですか……」

「別の商工ギルドに属してしまえば日当だ。仕事の成果で別払いも発生するものだが、やはりギルド依頼料より下になる事が多い。自分の実力を中の下程度と認識しているなら、むしろ食べていきやすい生活を送れるかもしれないが……」

「なるほど……」

 

 それは暗に、アキラならそちらの道もあると言っているように聞こえたが、何を選ぶかは当然アキラが決める事だ。破門になる事態でもなければ、ギルドを移る事は違法ではないし、日銭を稼ぎながら他の仕事を知るにつけ、そちらを選ぶという方法もある。

 

「ギルドはギルド員を守る。保護下に置いてくれて、他ギルドと衝突した場合は矢面に立ってくれる事もある。冒険者の仕事は必ずしもギルドに属しなくても出来るが、面倒事を回避するなら属しておく方がいいだろう」

「僕なんかは、まず面倒事を起こしそうですね……」

「面倒ばかり起こすようなギルド員は、いつまでも保護下に置いてくれない。当然だな、厄介者を保護し続ける事は、逆にギルドの損になる。せめて損を無かった事に出来る益を提供できねば、保護しておく理由がない」

「それも、そうですね……」

 

 だからいっそ無所属でいるのも一つの選択で、今後の評判、仕事の成否で所属するかを決めるのも選択の内だ。

 特にアキラは言語という、大きなマイナスを抱えているから、それに伴うトラブルもあるだろう。それをギルドがどれだけ目こぼししてくれるか……。

 

 言葉を習得してから所属すれば、そこの問題は回避できるから、所属するにしてもすぐに追放という事もないと思う。

 だがそれもまた、アキラが考えて出す答えだった。

 アキラが不安そうな顔を向けて来て、ミレイユは申し訳なく思いつつ首を振る。

 

「そんな顔をするな。不安は尤もだが、何もすぐ傍を離れる訳じゃない。今後の先行きが見えるまで面倒見てやる」

「はい、ありがとうございます」

 

 アキラは殊勝に頭を下げたが、やはり表情は寂しげだった。

 ミレイユもそれには申し訳なさそうに目を伏せ、それから東区画へと歩き始める。

 露店の間を縫い歩き、東区画への入り口が見え始めた時、後ろから声を掛けてくる者があった。

 

「……待って、待ってくれ!」

 

 不正に入国したのだから、後ろから声を掛けてくるような事には後ろめたくなってしまう。人の往来も激しいから、それに紛れて隠れる事も出来るだろうと思った。雑踏と雑音が邪魔で聞き取れなかったなど、後の言い訳もしやすい。

 

 だが、よくよく考えてみると、その声に聞き覚えがある事に気が付いた。

 それと同時にアキラの肩に手が乗せられる。ここまで来ては無視も出来ないと、ミレイユは面倒事をひしひしと感じながら振り返った。

 



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別世界からの住人 その5

 ミレイユ達を呼び止め、アキラの肩に手を置いたのは、関所で忠告してくれた女性冒険者だった。息を切らして顔が赤くなっていて、その表情には幾らかの興奮も含まれている気がした。

 そういえば、彼女には善意で声を掛けて貰っていたのに、ろくな挨拶もしていなかった事を思い出s。

 

「あぁ、忠言を貰っていたのに無下にしたようで悪かったな。改めて礼を言おう」

「え、あぁ! いや、そんな別に……! そんな事で追いかけて来たんじゃないし!」

「そういえば、お前……名は?」

「は、はい、ッス! メラータ! と言います!」

「そうか、メラータ。礼を言われるような事をしていない、というなら、何か用でもあって追って来たのか?」

 

 ミレイユが帽子のつばに手を掛けながら聞くと、彼女は渋い顔で唇を突き出し、何とも言えない表情をする。どういう反応なのかイマイチ掴めずにいると、申し訳なさそうにヘコヘコと頭を下げてきた。

 

「いえ、すんません。スメラータと言います。スメラータ・レグレモナ」

「それは済まなかった」表情の意味を理解して小さく笑う。「……それで、スメラータ。一体どうした」

「いえ、その……!」

 

 聞かれた彼女は、途端に勢いを失くした。

 視界を左右に忙しなく動かしたと思うと、次にアヴェリンを見て、視線が合うとすぐに逸らす。何を言うつもりか考えていただろうに、いざとなると勇気が萎んでしまったらしい。

 

 もじもじと胸の前で指を絡めている様も煩わしいが、往来の真ん中で立ち止まるのも迷惑になる。実際、舌打ちして横を通り過ぎて行く者たちもいて、明らかに通行の邪魔になっていた。

 スメラータが話し出すまで待っていられないので、とりあえず往来が少し穏やかな所まで歩いてしまった方が良い。

 

 実際のところ、彼女が何を言い出したいのか察しは付いている。

 ユミルは面倒臭そうにしているし、アヴェリンも顔を大きく顰めている事から、やはり皆、なにを言いたいのか理解しているようだ。

 

 だから断るつもりしかないのだが、スメラータはミレイユ達の態度に希望を感じたらしい。

 輝く瞳で何度も頷いて、両手で握り拳をブンブンと縦に振った。

 それを尻目にミレイユ達は歩き出す。公園などという小洒落た場所は存在しないので、広場の一角、木箱などが乱雑に積んである場所で落ち着く事にした。

 往来の邪魔になりさえしなければ何処でも良いので、丁度ギルド区画へと入った辺りで話を始める。

 

 木箱はどれも空で、穴の空いた物も多い。ゴミ捨て場のような扱いを受けた場所らしく、だから遠慮なく背中を押し当て壁代わりにした。

 アヴェリンとルチアが両脇を固め、ユミルとアキラはスメラータとの間に立つような格好になる。コの字型に近い形でミレイユとスメラータは向かい合い、そして彼女は意を決したように口を開いた。

 

「あなた達、冒険者なんですよね!?」

「ギルドに属していないから正確には違うが、似たようなものだ。そこへコイツを加入させるつもりで、この街にやって来た」

 

 ミレイユが胸の下で腕組したまま代表して答え、アキラを顎で指して言う。そして、その返答はスメラータには予想と違うものだったらしく、面食らった顔をして驚いている。

 

「他の場所で、ギルドに入っていたとかでもなく?」

「そうだな。実のところ、ギルドに所属していた経験がない」

 

 これにはスメラータだけでなく、アキラからもそうだったの、という困惑と驚愕が合わさったような表情を向けられた。

 ギルドに所属経験があるのはアヴェリンだけだが、それも今となっては意味もないだろう。突然の失踪扱いだろうが、それは強者弱者問わず珍しい事でもなかった。

 

「色々理由があって、それなりに付き合いもあったが……というか、今となってはそれもどうでも良いか。……それで、それがどうした?」

「そんなに強いのに……ギルドに頼る事なく、そこまで強くなったの?」

 

 スメラータの視線はアヴェリンを向いている。

 アヴェリンは隣で、やはり腕を組んだまま訝しげな視線を向けた。質問の意図が理解できていないようだが、それはこの場にいる誰もが同様で、別にギルドに属したから強くなれる訳ではない。

 

 戦慣れしているから強敵と戦う機会も多く、実績を挙げれば強敵と戦う依頼も優先的に回ってくるから、そういう意味では属する事で力量を上げやすい環境を得られると言える。だが、それ故に強くなれる訳ではない。

 

 強くなれるかどうかは、あくまで個人の才覚だ。

 強くなればギルドから個人指名の依頼を受けるようにもなるし、そういった場合は総じて強敵を案内される。あるいはそれが、強者へ成長するレールを敷かれているように見えているのかもしれない。

 

 当然だがギルドにそんな意図はないし、相手にして勝てると判断した相手に斡旋しているに過ぎない。あるいは強敵でなくとも、危険な道を護衛できるという保証ができる相手に依頼を回す。

 それこそ成長を促す要因とも言えるが、しかし、どうにもスメラータの言ったニュアンスは違って聞こえた。

 

「どういう意味だ? ギルドは成長補助組合ではないぞ。属して強く成れるかは、己の才覚と巡り合わせ……運に掛かっている」

「それはそう……! そうなんだけど……」

 

 アヴェリンが苛立たし気に言えば、スメラータも慌てた様子で同意する。しかし、どうにも要領を得ない。

 だがミレイユには一つ、彼女が言った事で気にかかる点があったのを思い出した。

 

「そういえば、肌がどうのと……刻印だとか、何だか言ってたな?」

「あぁ……野盗崩れの憲兵も、()()()()()のに、などと(のたま)ってましたか」

「字面から察するに……、お前がしているような入れ墨の事を言うのか?」

 

 ミレイユがスメラータの額や頬、それに腕に彫られた入れ墨を指差す。

 てっきり郷の部族や古い慣習に則ったものだと思っていたのだが、そういう事でもないのかもしれない。昔と違ってやけに目にすると思っていたが、そもそも本当に慣習なら当時から目にしていても良さそうなものだ。

 指摘されたスメラータは、我が意を得たりと言わんばかりに頷いて、その腕に刻まれた入れ墨を撫でながら言う。

 

「刻印はギルドの管轄だから……。これのあるなしじゃ、やっぱり強さに雲泥の差が出るもんだし。でも、あんたたち誰もしてないじゃない? それが気になって……」

「あぁ、弟子入り希望という訳じゃなかったのか」

「私もその類いと思っておりました」

 

 予想が外れて嬉しいやら恥ずかしいやら、という気持ちでミレイユはアヴェリンと顔を見合わす。スメラータは苦い笑顔をを見せて頭を掻いた。

 

「ホントはお願いしたいくらいだけど、底が知れなさ過ぎて怖いし……。魔王呼ばわりされてるのを知っても笑ってるし、まるで気にもしないって感じが逆に……。とんでもない辺鄙な所から出てきたんじゃないの? ホントに?」

「とんでもない辺鄙な所から来たのは事実だろうな。そんな噂を知らないぐらいには、遠い場所からやって来た」

「え、あ……そうなの? だから刻印魔術も知らなかったのかぁ……」

 

 妙に納得した声を出したスメラータだが、聞き捨てならない単語を言った。

 ミレイユはルチアとユミルに目配せして、互いに不穏さを感じながら視線を交換する。二人とも小さく首を横に振り、それについて何も知らないと語った。

 

「魔術……、刻印の。その入れ墨は魔術なのか?」

「そうだよ。入れ墨じゃないけどね。これ自体が、魔術が形を変えたものなの。効果は様々で……、昔の人は長々と詠唱したり、魔術制御とか言って小難しく使ってたみたいだね」

「その刻印一つが、一つの魔術に対応しているのか? つまり、詠唱も制御もなく、常に発動している?」

「いや、その辺はピンキリで……使う時は魔力を通すものもあるけど。……ねぇ、ホントに何も知らないの?」

 

 今度はスメラータの方が訝しげで呆れ顔だった。

 この世の常識を改めて説明しているかのような、理不尽さを感じてしまったらしい。

 

 だが、当然ながらミレイユ達にとっては初耳で、初見の事だった。

 魔術を刻印として身に刻み、そして行使するというのは、その理論からして存在しない。それが常識として浸透していて、しかも刻まない冒険者が異端と見なされる世界など、知っていよう筈もなかった。

 

 二百年の経過、その一端が、この刻印魔術という事なのだろう。

 ユミルは感心を通り越して、呆れにも似た顔をさせながら、ぺちぺちと手を叩いた。

 

「いやぁ……そう、我ながら面食らうわ。……魔術の進化ね。詠唱から制御へ、そして今や刻印へと。便利になったもんねぇ。スマホでアプリを起動するみたいに、指先一つで気軽に発動できちゃうんだ? こんなの良く神々が許したわねぇ……それとも、この程度は許容範囲なのかしら」

「スマ……ホ? アップリケ?」

「あぁ、気にしないで。とにかく指先を動かすような気楽さで、魔術が発動できるんでしょ?」

「回数に制限はあるけど、そうだよ。ちょろっと魔力を流してやれば、予め刻んでおいた魔術が発動するの」

 

 ユミルはスメラータに近付くと、その腕を取って上から下まで見回す。 

 好奇心旺盛なルチアもそれには黙っていられず、上から下までと言わず、横から奥からと眺め回す。見ているだけでは飽き足らず、腕を取って捻って見ようとする始末で、スメラータは悲鳴を上げて飛び退った。

 

「いだだだだ! いだい、痛いって! ――いったい、っての! そっちに曲がるか! 考えたら分かるでしょ!」

「じゃあ、ちょっと傀儡人形にして撫で回しちゃう?」

「そっちの方が面倒なくて良いですね。動かせない部分が邪魔で仕方ないですよ。……ところで刻印は、肌を露出してない部分にもあるんですかね?」

 

 今にも本気で魔術を使いそうな雰囲気に、スメラータは悲鳴を上げて涙を流す。

 アキラが咄嗟に庇うように動いて手を引き、ミレイユの傍まで連れてくると、自身の背の後ろに隠してしまった。

 スメラータは背に隠れてユミル達の視線から隠れたまま、ミレイユに涙声で必死に言い募る。

 

「ちょっと怖いこと言ってんだけど! あの人達どうにかして! あたしは刻印なしの、強さの秘密が知りたかっただけなのに!」

「あぁ、それはすまなかったな……」

 

 謝罪しながらも、ミレイユの視線はすぐ傍にある刻印に釘付けだった。

 不躾と思いつつも眺めてみれば、それは確かに入れ墨ではない。肌に刻むというのは間違いないのだろうが、墨などを針で注入している訳でもなさそうだった。

 刻むというより張り付いているような感じだが、擦って剥がれるようにも見えない。

 

 そして刻印一つ一つに色があって、それが一つの魔術を示しているようだ。大きさはどれも大体掌サイズで、象形文字ともルーン文字とも付かない形で現れていた。

 もしかしたら、発動させた瞬間には、そこに対応した刻印が光ったりするのかもしれない。

 

 ミレイユの目にも剣呑な光を感じたのだろう。

 スメラータはユミル達ばかりでなく、ミレイユからも逃げるように角度を調節してアキラの背に隠れる。興味は付きないが、彼女独自のものという訳でもない。

 冒険者は必ず刻むというなら、専門店もあるだろう。詳しい事を知りたいなら、そちらで聞いた方が良さそうだ。

 

 ミレイユは宥めすかして謝罪すると、ユミル達にも今は抑えるよう指示する。

 スメラータの警戒はそれだけで解けるものでもなかったが、しかしそれで再び話をする準備は整える事が出来た。

 



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別世界からの住人 その6

「しかし……強さの秘密を知りたいだけ、というには、随分とまごついた様子だったが……」

「いやぁ、普通は自分の強さにある秘密とか教えてくれないと思ったし……。それに、あんなに強いのに、それをひけらかすような真似もしないし……。凄く格好いいなぁ、と思って……」

 

 スメラータの視線はちらちらとアヴェリンへと向けられ、ある種の熱意がその頬に突き刺さっている。アヴェリンはといえば、単に迷惑そうに外へ顔を向けるだけで、それに反応を示す事もない。

 

 己をより高める為に、そう言った貪欲さを見せるのはある種好ましいものを感じるが、しかし秘密などと言われても、アヴェリンも困るだろう。

 身も蓋もない言い方をすれば才能や才覚という話になるだろうし、後は地道な魔力制御訓練をしろという話にもなる。

 

 スメラータを見れば武器を使って戦う前衛タイプだと分かるので、武術や体術もそれと並行して鍛えろ、という助言をする他ない。

 

「今どき刻印なしで戦うなんて考えられないし、でも無くても強いんなら、アタイもその秘密を知ればもっと強くなれるのかな、ってさ……!」

「まぁ、本当にそんな秘密があるなら、簡単に教える筈がないと思うし、だから変に思い留まっていたのか……」

 

 スメラータは恐縮したように頷く。

 駄目で元々のつもりで聞いたようだが、ミレイユ達からすれば常識で、今更隠すような事でもない。ミレイユがそういうつもりでアヴェリンを見れば、一つ頷いてスメラータへと顔を戻して言う。

 

「魔力の制御精度や練度を高めろ、言えるのはそれぐらいだ。どこの世界でも同じ事、基礎を磨け。言えるのはそれぐらいだ」

「そんな精度や練度とか言われても、よく分からないし。……ホントに? ホントにそれだけ?」

「逆に何で分からないんだ。基礎は奥義に通じる、お前も楽な道を探さず地道に歩け。躓き転び、また道の一つを間違えても、それを礎とする事が糧になる」

 

 これはまた、アキラにも言える事だ。どうやらアヴェリンもそのつもりで口にしていたらしく、流し目を送ると、アキラも殊勝な態度で頭を下げた。

 二人の様子を見て、スメラータは二人の関係に察しがついたようだった。

 

「えっ……、二人って師弟なの? 弱っちそうな上に、変な格好してるのに」

「弱そうという部分は否定しないが、別に格好は……」

 

 そうでもない、とフォローしようとして、アキラが身に着けている防具が酷い様子だったのを思い出した。元より足軽のような形をしていた隊士の防具は、激戦の末、修復もされず鎧部分に穴が空いたり砕けたりと散々な有様だった。

 

 衣服としての機能は損失していないし、とりあえず困る事もないからそのままにしていたが、確かに変な格好と言われても仕方がない。これについては、早い内に買い与えてやる必要があるだろう。

 そんな事を考えている間に、スメラータはアキラの背から飛び出し、その横顔から首筋など、肌の見える部分を視線でなぞっていく。

 

「やっぱり刻んでないね。……でも、へぇ……」

 

 アキラは居心地悪そうに眉根を下げ、視線から逃げるように顔を背けた。

 

「あんた、名前は?」

「アキラ……デス」

「……何か、変な言い方ね」

「喋るノ……ニガテで」

「……ふぅん?」

 

 目を合わせようとしないアキラに、スメラータはしつこい程に視線を上から下まで沿うように眺める。

 

「弱そうに見えるけど、案外そうでないのかも? よく分かんないね、刻印もないから尚更だし」

「刻印があると、実力も分かり易いのか?」

 

 思わずミレイユが聞くと、アキラから目を離してスメラータは答える。

 

「そりゃあやっぱり、そうだよ。強い魔力を持ってるなら、それだけ強力な魔術が刻めるしさ。刻印から、どういう系統を得意としてるか分かるし」

「……それは、どうなんだ? つまり不得意分野を知らせる事にもなるんじゃないか?」

「ある程度、察しはつくと思うけど……。でも本当の隠し種は服の下にあるもんだし、そこまで明確に分かるもんじゃないしね。アタイのだって、これは見せ札ってやつだよ」

 

 そう言いながら、自慢げに腕の刻印をひと撫でした。

 その顔には自慢げで快活な笑顔が浮かんでいる。

 

「自分は最低でも、これぐらいの事は出来るんだっていうね。力量の証明みたいなものでもあるし、それを見れば依頼主も安心するでしょ? それだけの仕事は任せられるんだって分かれば、依頼だって任せ易いし」

「なるほど……。刻む場所が有限なら、どうしても見える場所には、見せるだけの価値あるものを選ぶという事か……。その上で隠したものがあるのも分かるから、見る者もその前提で考える……」

「戦士だったら、アタイみたいに常時発動型を見えるところに刻んでおくの。それだけの強化されてる事、そして更に強化される何かがあるぞ、って教えてあるのよ」

 

 そして、それが何かまでは分からない訳だ。

 もしかしたら強化する何かではなく、回復や防御に偏った刻印が隠されているのかもしれない。強化部分としては見えてる範囲の刻印だけで、他は全く違うものであるかもしれない。それは実際に戦うまでか、あるいはチームメンバーしか知らない事なのだろう。

 

 もしも一人で戦う事を前提にするなら、回復を主体にした刻印を選ぶのもアリなのかもしれない。そう考えると、中々に奥が深い。

 ミレイユは関心した声を上げて、腕組していた手を顎の下に添える。

 

 興味深そうにスメラータの刻印を見つめ、そして更なる好奇心を刺激されたルチアも、まじまじと熱心な視線を向けた。流石にミレイユの命令の後だから、勝手に動き出そうとはいないが、許しがあれば獣のように飛びかかりそうな雰囲気を発している。

 その隣でユミルもまた、好奇心を抑えられない顔で声を上げた。

 

「でも、肌面積は限られている訳でしょ? 刻める数にも限りがある筈よね。実際どのくらい刻むものなの? 限りがあるなら、上級魔術ばかり刻むのも悪手という気がするし……悩ましいコト」

「普通に考えたら、上級魔術ばかり刻むなんてしないよ。そんな事したら一瞬で干上がっちゃうし。自分の魔力量や適正に見合ったもんじゃなきゃ、例え刻んでも一回しか使えない、とかなっちゃう。常時発動型なら、それこそ刻印に吸い上げられて寝たきりになったりするもんだよ」

 

 あぁ、とユミルは実に得心のいった顔で頷く。

 

「どういう理屈かと思ったら、予め魔力を刻印に使わせておくのね。で、発動までの準備を自動化させてあると……。すでに制御が終了してある段階で留めてあるから、後は燻っている薪に火を付けるような気楽さで、魔術を発動させられるって寸法なのねぇ」

「本来の意味の魔術だって、別に際限なく覚えれるものでもないですけどね。……なるほど、だから『一回しか使えない』なんて言葉が出て来るんですか。魔力総量ではなく、刻印毎に魔術の使用回数制限が設けられるって事ですね?」

 

 ユミルの推論にルチアが乗っかり、自身の考えを開陳すると、スメラータは素直に頷く。

 

「そうだよ。魔力の多いやつはそれだけ多く一つの術が使えるし、常時発動でも効果が上がる」

「ふぅん? それはそれで不便ねぇ。魔力量に余裕があっても、同じ術ばかり使ってると弾切れを起こすワケか……。身体強化の刻印は……まぁ、これは内向魔術の範疇かしらね。それこそ鍛える手間を省けそうに思えるけど……」

 

 ユミルはそう言いながら、アヴェリンの方へと顔をちらりと向ける。それにつられてミレイユも顔を向けた。

 ユミルの言わんとしたい事は分かる。

 先程、関所で起きた騒動で、チンピラ冒険者に絡まれた時の事を言いたいのだろう。

 

 あの男にもまた刻印があった。武器もあって戦士の装備、おそらく刻印の内容は常時発動型であったろう。何か隠し玉があるなら、刃を掴まれた時に使っていただろうから。

 しかし、その刻印の補助があってさえ、アヴェリンと比べれば赤子同然だった。勝負の土台に立てないほど開きがあり、刻印による強化が微々たるものに思えてしまう。

 

 どんなものでも使い手次第だと思うが、男の挑発が虚仮威しでなければ、それなりに名の通った実力者なのだろう。多くの実力者を擁する冒険者ギルド、大陸でも名の知れたオズロワーナのギルドに所属しての発言だ。あれが本当に実力者だと言うなら、その質は大したものではないかもしれない。

 

 とはいえ、本当の実力者というのは、あそこまで低俗でも俗物でもないものだ。

 門前で騒ぎを起こすような輩が、最強の一角に位置するとも考え辛い。本当に口だけなのかは知る由もないが、刻印魔術への過大な期待はしない方が良さそうだった。

 

 ユミルからの小馬鹿にするような視線を感じて、アヴェリンは殊更機嫌を悪くさせて睨み付ける。

 

「……なんだ、何が言いたい」

「いいえ、単にアンタの馬鹿力を褒めてやろうと思っただけよ」

「何が馬鹿力だ。適当な事ばかり言いおって……」

 

 アヴェリンが鼻を鳴らして顔を背け、逆に機嫌を良くしたユミルが、スメラータへ声を掛けた。

 

「まぁでも、メリットもある分、デメリットも相応にあるもののようね。己の力量を越えた物は身に着けられないし、魔術の行使を自動化された結果、ペース配分すら刻印に支配される。とはいえ、便利は便利に違いないわね」

「何事も使いようですし、使用者の扱いようですよ。刻印のお陰で身近になって、いっそ内向術士なんて選ぶ必要さえなくなったように感じますけど、馬鹿が使えば馬鹿な使い方にしかなりません。魔術が簡単で誰にでも使えるようになった結果、魔術士と呼べる存在も一握りになってしまったんじゃないかと懸念しますね」

 

 ルチアが刻印を見つめながら蔑むように言って、スメラータは気分を害したように睨み返す。そしてその目が、ルチアの顔を疑いの眼差しで見つめるもの変わり、周囲を警戒するように首をめぐらせた。

 

「……いや、ちょっと待って。何かエルフみたいな言い方するなぁ、と思ったら……。その髪色と、色素の薄い肌の色……まさかフロスト・エルフじゃないよね? いや、でもそんなの関所が通す筈ないし……」

「当たり前じゃないの。役人にもしっかり確認してもらって許可貰ってるんだから」

 

 スメラータからルチアを隠すようにユミルが前に立ち、分かり易いように許可証を指先で摘んでひらひらと揺らす。

 それは見ながら、うんうんと頷き、スメラータはホッと息を吐いた。

 

「だよね、フロスト・エルフなんて一等ヤバい奴らじゃん。そんなの入れる訳ないもんね」

「……一等ヤバい奴ら? そうなの?」

「まぁ、魔王のシンパって言うか……信奉者の代表格だから。だから森に住むエルフは、魔族って呼ばれたりするかなぁ」

 

 ルチアが吹き出し、ユミルが再び爆笑し始め、アヴェリンが眉をしかめて息を吐く。

 アキラはきょとんと呆け、ミレイユは意味を理解できない彼を羨ましく思いながら、天を仰いで息を吐いた。

 



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別世界からの住人 その7

「魔族ね……。そういうレッテルを貼って、差別を正当化してるのか。二百年前に一矢報いられたからといって、そうまでして虐め続ける理由があるものか……?」

「一矢報いられたからこそ、かもしれないわねぇ。誰だって権力の座から引き下ろされたくないものじゃない?」

「それは考えられない事じゃないが……」

 

 それにしても異様だ。

 公然とエルフ狩りのような真似すらしているようだし、そんな事をされてエルフも黙っている訳がない。スメラータはフロストエルフを例に上げたが、エルフは他にも種類がいる。国民によって髪色肌色が違うように、やはりエルフにも同様の違いがある。

 

 一つの種族を差別し攻撃する事は、他の種族すら敵に回す行為であり、決して賢明とは言えない。それだけ強気にも攻撃的にもなれる理由が、ミレイユには思いつかなかった。

 神妙な顔付きをしたミレイユに、スメラータが気不味そうに言う。

 

「いや、別にアタイも変に味方する訳じゃないけどさ、エルフだって悪いよ。負けなら負けで認めればいいのにさ、今も対立を止めないんだから」

「その口振りじゃ、単に負けを認めないだけではないらしいな」

「攻撃的なのはお互い様って事だと思うし、どちらから始めた事かは知らないけどさ……。でもエルフは長生きだからさ、人間と違って忘れないじゃん。終わった事を蒸し返して、それで今も徹底抗戦を続けるってどうなのさ……」

「終わったコトねぇ……。確かに、エルフの中では終わっていないだけなのかも……」

 

 神々は戦争を是としている。

 地上で暮らす数多の種族が、互いに争い、奪い、殺し合う事を止めようとしないのが神というものだ。オズロワーナを大陸の中心地と定め、それを握った種族が支配層と定めたのは、争いを煽りたかったからだろう。

 

 争いと信仰は深く結び付く、と考えているのかもしれない。

 戦勝祈願や戦死の弔い、戦争に関わる悲喜こもごも。それが効率よく信仰――引いては願力の収集に役立つと考えていたのなら、そう定めた理由も分かる気がした。

 

 そして一度奪取した筈のエルフが諦めず今も対抗し、かつての栄華を取り戻そうと考えているのも理解できるし、そして人間はそれをさせたくないのも良く分かる。

 だが当時のエルフを知るミレイユとしては、そこに違和感を覚えずにはいられなかった。

 

 権力に固執するというより、弾圧からの解放こそを願い、そして他種族との共存こそを願っていたから立ち上がった。人間との戦力差は大きく、自滅する他ないと分かりつつ、拳を振り上げねば未来はないと思っていたから立ち上がった。

 

 だからこそミレイユは力を貸したのだし、その悲願が目前まで迫り、実際一度は掴んだ。だから再び人間に覆されたというのなら、再起を願いそうとも思う。

 

 だが、それで魔族と忌み嫌われる程の過激派に転向するのは、違和感しかなかった。

 ルチアへそれとなく視線を送って確認しても、やはり彼女も違和感が拭えないようだ。訝しげに首を傾げ、納得いかないと言わんばかりに腕を組んでいる。

 

 当時何があって、そして当時何を思ったか知らないミレイユに、それ以上何か考えつく筈もなく、だから話題を元に戻す事にした。

 琴線に触れて未だ爆笑しているユミルを置いて、ミレイユはスメラータへ向き直る。

 

「……まぁ、何にしても色々と面白い話を聞かせてくれて助かった。……これは、何か礼の一つでもしてやらないといけないか」

「だったら、弟子――!」

「弟子入りは無しだ」

 

 スメラータが全てを言い切る前に、アヴェリンがぴしゃりと断る。そして次に、それらしい言い訳を語り始めた。

 

「既に一人で手一杯なのに、更にもう一人加えられない」

「えぇ……? だったら、その……アキラ? の代わりにアタイを弟子にしてよ! そいつよりきっと強いし、鍛え甲斐あると思うよ!」

「お前も言うほど……自分が思っているより強くないがな。アキラの力量を見抜けないなら、そういう判断になる」

「あら、随分高く買ってますコト……」

 

 ユミルが悪戯めいた視線を向けると、アヴェリンは顔を顰め、煩わしそうに手を振った。

 

「分かっている事を一々言うな。単純な話だろう、そいつとアキラの力量差など」

「まぁ、そうね。刻印が魔力を吸うせいで、本来見えるものが違っているのを加味しても……。やっぱりアンタ弱すぎるわ。他の奴らもそんなモノなの?」

「何でそこまで言われなきゃいけないんだ! アタイはブローガでは名の知れた戦士なんだ。だからオズロワーナでやっていけるって、推薦状だって貰ったんだぞ!」

「あら、自推じゃなくて、他の誰かに保証されてやって来たの。ふぅん……? あら、そう……。でも、あんまり悪いコトは言いたくないけどさぁ……」

「――そこまでだ」

 

 いい加減、スメラータの我慢も限界を迎えそうに見え、それでミレイユが先に止めた。

 勝てないと分かっていても、侮辱を払拭する為に勝負を挑むというのが、誇りある戦士というものだ。単に力をひけらかしたくて勝負を挑むような馬鹿者もいるが、このスメラータには良心と己の武威に誇りがある。

 

 単純な善意で話し掛けてくれた事を考えても、ユミルの好きに言わせてしまうのは忍びない。

 刻印魔術がこの世の常識なら、遅からず知る切っ掛けは幾らでもあったろうが、しかし積極的に色々と教えてくれたのも彼女だ。

 ……例えそれが、弟子入りという打算があったにしても、それなりの礼を見せねばならない。

 

 だからといって、当然、弟子入りを許してやる訳にはいかないが、今日の飯代くらい持つ位はしてやっても良い。

 ミレイユは、まだ何か言いたげなユミルを黙らせて、木箱から背を離し、アヴェリンを伴って歩き始める。

 

「……この情報の対価なら、飯ぐらいが丁度良い塩梅だろう。着いて来い、場所はギルドで良いよな、用事もある事だし」

「見えない所で様変わりしている部分がありそうです。今も併設されているかどうか……」

「飲み食い騒ぐのが好きな連中だ。今更撤廃してるとは思えないが」

 

 それは例えば祝勝を願う為であったり、困難な魔物を討伐したり、あるいは困難と言われる依頼を達成したりと、その内容は様々だが、酒と冒険者は切っても切り離せない。

 

 時に仲間がその過程で死んでしまう事もある。そういった場合であっても、やはり酒がなくては始まらない。宿屋の一階が酒場兼飯屋をやってる事も多いもので、そちらを使う者も多いものだが、仕事終わりにすぐ酒を浴びられる場所というのは重宝するものだ。

 

 だから冒険者ギルドの隣に酒場があるのは、どこの街でも良く見かけるものだった。

 二百年も経てば何が変わっているか分からないので、もしかしたら場所を移しているかもしれないが、それならそれで用事を済ませてから飯屋を探せば良い事だ。

 そのまま歩き去ろうとした所で、背後からスメラータの焦ったような声が追って来た。

 

「えっ、ちょっと、その格好で行くつもり!? 門前でも絡まれてたのに、ギルドに入ったらもっと面倒な奴らは、きっと沢山いるんだよ!?」

「ふむ……?」

 

 ミレイユは自分の装いを見下ろし、それからスメラータへと視線を移して、次にアキラの格好を見る。顎の下をひと撫でしてから、首肯すると共に口を開く。

 

「確かにアキラの格好は見窄らしい。先に少しまともな格好をさせてやるか」

「そっちもだけど、そっちじゃない! 自分の格好で気付いてよ! 絶対それ悪目立ちするんだから!」

「……それもそうだな。下手な難癖程度、どうという事はないが、しかし目立つというなら控えるべきか」

 

 それにさ、と横合いからユミルが近づき、他には聞こえないよう耳元に口を寄せてきた。

 

「どこに()()()()があるか分からないじゃない? アンタを見つけ出そうと手の者を放ってるかもしれない。幻術くらいは掛けておいた方がいいわよ」

「そうだな、頼めるか」

 

 一言伝えると、ユミルはそのまま密着させた体勢で魔術の行使を始める。

 別の装備や着替えを用意せず、幻術で済ませようとしたのは、一重にミレイユが身に付けている装備による。単に替えが利かないだけでなく、別の装備では大幅な弱体化は避けられない。

 

 敵の不意打ちも想定できる現状、敢えて大きな隙を用意する事は出来なかった。

 ミレイユの見た目が魔術の発動で一瞬に切り替わる。全体的なシルエットに変化はないが、しかし見れば別物と分かる程度に変化した。

 その変貌を間近で見せられたスメラータは目を丸くする。

 

「わっ、なにそれ……。刻印使わってないのに、そんな事まで出来るの? すごい、全然わかんない……!」

「私達からすると、逆に刻印ありきで使う事に違和感あるがな……」

「刻印ありきでの考え方は、なんか怖い感じするわね。ていうか、目の前で幻術使われてるのに、それで騙されてるのが驚きよ。こういうの慣れてないの?」

「……まぁ、そうだけど」

 

 スメラータにあった剣幕はすっかり鳴りを潜めて、複雑そうな顔で頷く。

 刻める数に限りがあるとなれば、覚える魔術も選定するしかない。より効率的、より有意義なものと、そうでないものを弾いていった結果、幻術が選ばれなくなるのも頷ける話だ。

 

 ミレイユたちの実感として、幻術は常に警戒する必要のある魔術だったが、この時代ではそうでもないのかもしれない。

 

 だがとりあえず、忠告どおりに姿は幻術で覆ったので、目眩ましは大丈夫そうだった。下手な因縁を付けられ、下手に騒ぎを起こす要因を潰せたとなれば心も軽い。

 ミレイユについてはこれで良いとして、そうとなれば次はアキラの番だった。

 

 スメラータには、とにかく着いてくるよう指示して、一度東区画から出て北区へと向かう。

 こちらは露店や庶民向けなどの小さな店とは対極をなした、ギルド公認の店が立ち並ぶ区画だ。立派な店構えをしているものが多く、そして実際取り扱っている商品も、露店に並ぶようなものとは比べ物にならない高級品が揃っている。

 

 錬金術の水薬に用いる高級触媒を専門に取り扱う店もあれば、付与術で扱う宝石をや装飾品を扱う店もあり、そしてミレイユの目的とする先は、防具を取り扱う店だった。

 他の店構えと比べれば古めかしさは否めないが、しかしミレイユの記憶通りにその店はあった。

 

 『サルベス衣料雑貨店』と書かれた看板を見て、ミレイユのみならずアヴェリンもまた頬を緩ませた。

 

「実に懐かしい。私の防具を設えて貰ったのも、ここでしたね」

「腕は確かな職人だった。問題なく弟子を育成できていたら、まだあるかもしれないと期待していたが……どうやら、そのとおりだったようだな」

 

 衣料雑貨店だったのは、ミレイユが利用した時代より更に前の話で、今もその看板どおりの商品を用意しているが、その本業は革製品を原料とした防具の作成だ。

 その腕はミレイユさえも唸りを上げずにはいられず、ドラゴン素材を使うという難しい注文にも応えてくれた、実に稀有な存在だった。

 

 当然、加工が非常に難しいドラゴンは、そもそも職人は素材を受け取りたがらない。どうしたって手に余り、目的とした武具を作成する事が出来ないのだ。

 アキラにそれ程の防具を与えるつもりはないが、しかしその職人の技を受け継ぎ、今でも高品質な防具の提供は行っているだろう。

 

 そのつもりで入店し、そして気難しい顔をした中年男性が、ミレイユを上から下まで舐め回すように視線を動かした。実に訝しげな視線で、一見の客に向けるものとしても不適切と思えるものだ。

 しかしミレイユはそれを気にせず店内を眺め、そして小さな変化は幾つもあるものの、しかし大きなところでは変化のない様子を見てホッとする。

 

 ルチアもユミルも、防具の――それも革鎧に対してさしたる興味は抱かない。店内をぷらぷらと歩いては、暇つぶしに表面をなぞったりと、気ままに過ごそうとしている。

 

 店内の壁際には革製品を中心とした鎧や小手、足具、盾などがズラリと並んで置いてあった。

 衣料雑貨店という看板を嘘にしない為、申し訳程度に衣服や修繕に使う布なども置いてあるが、しかし全体として見た場合、そこはやはり防具店なのだった。

 

 無造作に壁掛けしてある防具もあれば、しっかりとケースに収め鍵を掛けられているものもある。革製品といっても、その素材となる魔獣や魔物によっては鉄より頑丈になる。

 剛性を持ちつつ柔性が強く、そして素材そのものが持つ熱耐性などが込められた防具は、特殊金属で耐性付与されたものより高くなるケースもあった。

 

 金属製防具より軽くて動きを阻害しないので、革製品を好んで使う冒険者も多い。

 金属製は華美に映り、多くは憧れを持って見られるが、魔力制御を極めれば、硬い金属で身を守る必要はなくなる。むしろ動きを阻害される分、着用を嫌がる傾向にあった。

 

 ドラゴン素材など誰にでも入手できるものではないが、だからアヴェリンも金属鎧は装着していない。むしろ耐性を高められる素材を持つ防具と、より動きやすい防具を選ぶ。

 ひと通り、懐かしい気分で眺め回した後に、ミレイユは店主に声を掛けた。

 

「店主、こちらの男に合う防具を頼みたい」

「随分とけったいな格好してるな。……だが、金があるなら勿論かまわねぇ。どんなのがいい?」

 



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別世界からの住人 その8

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 自分の防具を買って貰えると知らずに付いて来ていたアキラは、その事実を知って非常に恐縮していたが、ミレイユとしても別に高額な商品を買い与えるつもりはなかった。

 現世の鬼が弱卒だったと言う訳ではないが、こちらで壊れたままの防具で戦う事は、決して楽な道ではない。せめて壊れた胸鎧の部分を、他の何かで代用しない事には、まともな戦闘もさせられないだう。

 

 かといって、あまり防具に頼って戦うような戦闘法を身に着けられても困る。

 便利や有利は、時に人の努力を妨げる要因にもなってしまう。アキラは基本的には勤勉で努力できる人間だが、頼りになると分かって尚、それを頼らず戒めて行けるほど、意志強固ではないだろう。

 

 だから過度な性能を求める事なく、耐性を持っていても小さい、頼りにする程ではないものを注文した。

 

「それだと魔獣の合皮で作った革鎧がお勧めだ。マキィオと裏当てにイッシュの皮を使う。それなら既に店頭に並んでるし、体格的にもちょっと修正するだけで問題なく着用できると思うぜ」

「じゃあ、それに頼もう」

「……あの、本当に良いんですか、ミレイユ様?」

 

 恐縮しきって頭を下げながら言う、アキラの言葉は日本語だった。

 それを咎めていては話にならないので、気にするな、と手を振って頷く。

 

「それでは落ち着いて戦う事すら出来ないだろう。高い物を買い与える訳でもない。餞別と思って受け取っておけ」

「……はい、ありがとうございます」

 

 アキラが改めて頭を下げて感謝を示すと、それを店内入口付近で見守るように立っていたスメラータが、訝しげな声を上げながら首を傾げた。

 

「あんた達、変な声を口から出すね。それ何て言ってたの?」

「気にするな、ちょっとした癖みたいなものだ」

 

 スメラータは納得したように見えなかったが、ミレイユが詳しく言うつもりがない事も理解したらしい。それ以上何も言わず、入口付近から動かないまま店内を見回す。

 何故そんな所で、と思わないでもないが、こういった店に入るのは初めてなのかもしれない。

 

 ミレイユが視線を戻すと、店主は早速革鎧の調節を始めた。

 手を入れると言っても、肩から下げる部分であったり留め金の調節だったりするので、そう時間の掛かる物でもない。

 気を張る作業でもないので、手を動かしながらミレイユに向けて聞いてきた。

 

「なぁ、お客さん。それ……良いモン使ってるな、最初は馬鹿な格好してると思ったが……。見りゃ、あんただけじゃねぇ、最後のヒヨッコ以外、みぃんな目を剥くようなモン使ってやがる」

「……分かるのか」

「そりゃ、どっちの意味だ? 幻術を見抜いた事か、それとも装備の方か?」

 

 店主は手元を見たまま、動かす手を止めずに鼻で笑った。

 

「そんぐらい目利きが出来なきゃ、この業界で生きていけねぇ。験担ぎだか、馬鹿な噂を鵜呑みにしたお登りかと思ったら、いやはやどうして……」

 

 魔王という蔑称で呼ばれ、忌み嫌われる人間。

 この国での評価は、ミレイユという名前は人間支配の終焉を招いた厄災のような存在であり、同時に凄まじいまでの実力を持った旅人、その様に見られている様でもある。

 恐ろしく思われているが、同時にその実力が本物で、肖りたいと思っている。田舎に住む人ほど、恐れよりも憧れを抱く傾向が強いようだ。

 

「一流の冒険者にしか、一流の装備は身に着けられないもんだ。単に金に物を言わせて買う奴もいるが、そういう奴は装備に着られてるのが一目で分かる。……けど、あんたらはそうじゃねぇ。なのに、なんだってわざわざ、魔王に肖るような格好してるのかねぇ」

「……これが私達の装備だから、だろうな。しっくり来るんだ、戦闘スタイルにあった付与もしているしな。今更、同等の装備は揃えられない」

「へぇ……! ま、そうだろうな。同じ重さの金を用意したって、そんだけのもんは揃わんだろうよ。とんでもねぇ装備(モン)、拵えたもんだ」

 

 ミレイユは肩を竦めるに留めて、それ以上の返答を止めた。

 装備を作るに当たって、最もお金が掛かる部分は、一般に付与だと言う。専門性が強く、そして付与に掛かる触媒の用意など、より効果的、より効率的な付与をさせれば、それだけ金額が嵩む事になる。

 

 次が素材の値段で、より強く、より固く、より柔らかく軽い素材などと、追い求めていたら家を購入できるような金額にまでなってしまう。

 そして最後に掛かるのが加工費だが、これも名のある名工にやってもらおうとなれば、当然高額になるが、上記の二つよりは遥かに安い。

 

 そしてミレイユ達の場合、ほとんど自分達でやれてしまうので、掛かる費用はそこまででもなかった。ただ、勿論例外はある。それがミレイユが身に着けているものの一つ、魔術士のローブだった。

 

 流石のミレイユも布までは自作出来ない。

 素材を持ち込んで作って貰ったのだが、それが正にこの店だった。

 ミレイユは悪戯心に自分のローブを撫で付けて、また分かり易いように姫袖を差し出してやる。

 

「この布は、この店で買ったものだが……」

「馬鹿言うな」

 

 店主はちらりと一瞥しただけで、自分の作業に目を戻した。

 

「そんな素材、うちで扱った事なんてありゃしねぇ。そもそも手に入らねぇし、あったところで買い手も付かねぇ。あんたみたいに一級の魔術士なら、その素材も存分に活かせるんだろうが、そんな気概のある奴ぁ、この国にゃもういねぇよ」

「確かに、これは単に魔力を補強してくれるだけの布じゃないが……」

「制御が滑らかになり過ぎるんだ。氷の上を歩くようなもんさ。上手く利用できりゃ、走るより早く進めるんだろうが、大抵の奴はすっ転ぶ。転んで怪我して文句を垂れる。刻印魔術士に使えるもんかね」

「……店主は刻印が、お嫌いらしいな」

 

 その特性を聞く限り、非常に便利な代物という気がしていた。

 誰もが制御に躓くから、大抵は魔術を身に着けようとしない。そのハードルが高すぎるせいで、誰にも魔力があるのに、誰もが欲しいと思えるものではなかった。

 

 それが刻印を刻むだけで――恐らく金銭は掛かるのだろうが――使えるというなら、多くの人の肌に刻印が見えるのも頷ける。

 だが店主の肌には、刻印らしきものは確認できない。肌の露出は手首から先と首から上だけとはいえ、大抵の人はその部分にこそ刻印を持っていた。

 

「別に刻印そのものを否定する訳じゃないがね。それに頼り切ってる奴が鼻持ちならねぇのさ。ありゃ努力の段階をすっ飛ばして、結果だけ与えてくれるもんだ。あんたらみたいに、基礎から全て自分で固めてる奴らとは、そこからが違う。だから魔術の使い方も下手くそなんだよ」

「おやおや、散々な言い草だ」

「だから俺ぁ、あんたの事が気に入った。手直しなんて、普通自分でやれって買わせて終わりなんだがな……? だが努力を怠らない奴は信用できる。刻印に頼らず、そんだけの装備を掻き集められて、使いこなせるだけの実力者は特にさ。信用には誠意を見せねぇとな」

「それはまた……嬉しい言葉だ」

 

 ミレイユは曖昧に頷いて、小さく笑みを浮かべた。

 アヴェリンやユミルなども、店主の言葉には感銘を受けたようだった。アキラは言葉の意味を半分も分かっていないので、周囲の空気の変化に曖昧な表情を浮かべていたが、スメラータは完全に針の筵のようで、表情も固くなっている。

 

 ただ、と店主は調整の終わった胸当てを引っくり返して、確認しながらミレイユを見る。

 

「その布を買った、っていう嘘をついた理由が分からん。からかっただけか?」

「さて……、そこは何とも説明し辛い。嘘ではないんだが……」

「爺さんの代には、それだけの素材はもう取り扱わなくなってた筈だ。そこから更に爺さんの代に……ははっ!」

 

 記憶を掘り起こすように視線を上に上げて口に出していた店主は、唐突に吹き出して、それこそからかうような視線を向けた。

 

「爺さんから聞いた話だ。その爺さんが、自分の子供の頃、爺さんから聞いた話によると、この店は魔王御用達の店だったんだとさ」

「……なに?」

「魔王ミレイユが贔屓にしてたって話さ。勿論ホラ吹かれたんだろうが、あんたの格好見てたら、どうにも思い出しちまった……!」

「あぁ……」

「その時代なら、もしかしたら本当に、店に来た事があったかもしれねぇな。贔屓と呼ばれるほど足しげく通う魔王なんて、笑い話にすらならないと思うがね」

「……そうだな」

 

 ミレイユが曖昧に笑うと、店主は調整の終わった胸当てを差し出し、アキラの方へ目を向けた。アキラに元から付けていた胸当てを外させ、代わりに身に付けるように言うと、その前に、と店主が口出ししてくる。

 

「胸当ての下も、穴空いたり(ほつ)れてたりするじゃねぇか。そっちも手直ししておくか?

「……そうだな、そうして貰うか。アキラ、脱げ」

「ん? はい? ……聞いた、間違え、です?」

「いいから脱げ、直して貰えるから」

 

 身振り手振りで何をして欲しいか説明して、それからどうやら聞き間違えじゃなかったと悟り、観念した顔で脱ぎだす。誰も男の裸になど興味がないし、そもそも下着まで脱げと言っている訳でもない。タンクトップにボクサーパンツ一丁の姿となって、脱いだ服をミレイユに手渡して来た。

 

 渡す先は自分じゃない、と指先で払って店主の方へ指差し、そちらへ渡せと指示すると、すごすごと申し訳なさそうに手渡しに行く。

 

「……へぇ、やっぱりお前ぇも刻印なしかい。鍛えてもいるみたいだし、こりゃ師匠の教えがいいのかね」

「こいつの師匠は、あっちの方だ」

 

 ミレイユが顎を向けて教えると、店主の機嫌は更に良くなる。

 

「いいねぇ、やっぱり刻印に頼らん戦士ってのは貫禄が違ぇよ。今じゃ内向なんて呼ぶ奴、もう殆ど見ねぇもんなぁ」

「そうなのか……、その辺までも刻印頼りか」

「まぁ、誰だって楽してぇってのは分かるし、鍛えた上で刻む奴もいるから、一概には言えんがね。だが、まっさらな肌で戦士やってるってんなら、縫うぐらいはタダでやってやらにゃならんか!」

「そこまで気を回さなくてもいいんだが……」

「いいんだ、今日は気分が良い! 良いもん見せてもらった礼だ」

 

 最初は素っ気ない態度だったが、今となっては随分気の良い中年の笑顔を見せるようになっている。職人気質というのは、気に入った客にはとことん親切なものだから、これには有り難く申し出を受け取ってやってもらう事にした。

 

「これまた見た事ねぇ布だが、でも良い布だな。縫い目も綺麗だし、それに知らねぇ様式で作られてる。おまけに付与までされてんのか……どこで手に入れた?」

「……どこだったかは忘れてしまった、すまないな」

「あぁ、いや、それなら良いんだが……。もし思い出したら教えてくれねぇか。ちょいと意欲を掻き立てられる造りだ」

「……あぁ、思い出したら」

 

 店主は手早く修繕して、アキラに足軽めいた衣服を返すと、着替え終わるのを待って胸当てまで装着させてやる。手甲、足甲までセットで付いてきて、こちらは単にベルトの調節だけで済むので手直しは必要なかった。

 

 全て身に着けたアキラは、その和風な下地に洋風の鎧を身に付けるという、一種アンバランスな雰囲気を醸していたが、店主の目には良いように映ったらしい。

 腕を組んで二度ほど頷くと、その胸当て部分をバンバンと叩く。

 

 音は大きいが衝撃はそうでもないらしく、アキラも痛がる様子も咳き込むような真似もしない。

 それに納得して元のカウンターに戻り、店主は上機嫌に笑った。

 

「まぁ、なかなか良いもんじゃないか。さ、お代は金三十だ」

「……随分と安いな」

「いいや、相応さ。こっちが損するような値段は、職人としても提示しねぇ。これで良いんだ」

「そういう事なら」

 

 ミレイユは懐から――より正確には、懐に手を入れるようにして個人空間から金貨を取り出し、それを三十枚、カウンターに置く。

 それを一枚手に取って、店主は物珍し気にしげしげと見つめた。

 何か悪かったかと思いながら待っていると、その視線に気付いた店主は慌てて手を振る。

 

「いや、別に問題ねぇよ。だが、こいつはラメル金貨じゃねぇか。両面無事なモンも珍しいが……また随分古いもん持ち出したな。二百年前に流通していた金貨だろ、これ?」

「……古いものが好きなんでね」

「そんな格好してるぐらいだもんな。こいつは筋金いりだ。まぁ、いいさ。まいどあり!」

 

 両面無事、とはどういう意味か気になったが、これ以上ボロが出るのは拙い。アキラにも礼を言わせ、そしてミレイユもまた礼を言いながら店を出る時、一度振り返って帽子のつばに手を掛ける。

 

「もし墓参りに行く事があれば、ジェレットに宜しく言っておいてくれ」

「ジェレット……? そいつぁ、一体……?」

 

 先祖とはいえ遠い血縁、流石に五代遡って名前を覚えているものではないらしい。

 ミレイユとしても、本気で墓参りの時に伝えてくれるとは思っていなかった。ほんの悪戯心のつもりで言って、そしてやはり困惑した顔つきで見返す店主に帽子を下げて店を出た。

 

 切なくも物悲しい、複雑な気持ちのまま空を見上げ、何故だか無性に笑い出したくなった。

 大きく息を吸い、空に向かって息を吐く。

 行き交う雑踏、音を立てて走り去る馬車に掻き消されて、ミレイユが上げた溜息の中に混じったうめき声は、誰の耳にも届かなかった。

 



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別世界からの住人 その9

 何一つ進展はしてないが、一つ問題が解決したかのような心持ちで、ミレイユは東区画へ戻ろうとしていた。

 この区画も人通りは多いが、南区と違って高級店が多く連なる場所だから、歩く人より馬車で移動する人の方が多い。

 

 だから歩道は狭いものの、先程とは違ってゆったりと歩く事が出来た。

 時間が昼時であるのも、それに一役買っているのかもしれない。

 そこにユミルが隣へ並んで、いつもの嫌らしい笑みを浮かべながら言ってくる。

 

「……それにしても、随分お喋りでしたコト」

「そうだな、少し調子に乗った」

「ヒント出しすぎでしょ。……でもまぁ、店主は冗談の類としか思っていなかったし、後になって思い至るコトもないでしょうけど」

「……あぁ、聞く人が聞けば、何か思い付いた可能性はある。今後、自重しよう」

 

 とはいえ、それで仮にミレイユの正体が(くだん)の魔王と知れたところで、何が出来るという訳でもない。オズロワーナから追放、あるいは賞金首として張り紙が出されるなど、考えられる事はあるものの、それが特別困る事かと言えば、そうでもなかった。

 

 だが、正体が知られているより、単に可笑しな格好をしている変人程度に思われている方が都合はいい。街の中でもスリや暴漢など、注意を払うのは当然だが、それに命の危険まで加味して警戒するのは面倒くさい。

 

 それを考えれば、確かに自分からヒントを与えるような発言は控えた方が良かった。

 

「そうなさいな。今なら馬鹿なコスプレイヤーが出た、というだけで済むんだから」

「そのコスプレっていう概念が、こちらには無いだろうが……とにかく、分かった。私が迂闊だった。それで良いだろう?」

 

 帽子のつばを上げて簡単に謝意を示すと、ユミルは満足気に頷いてルチアの隣に戻る。

 流れ行く店先を指差しながら、あれこれと雑談し始めて、それでミレイユとのやり取りをずっと見ていたスメラータが、それと入れ替わるように前へ出てきた。

 

 だが、そこは流石にアヴェリンが必要以上に近寄る事を許さない。

 そもそも、スメラータが馴れ馴れしい口調で話し掛けるのも、ずっと我慢ならない様子だった。ほんの少し、昼食を奢ったら終わりの関係、それでもう偶然以外で会わないと分かっているから、必要以上に騒がなかっただけだ。

 

 アヴェリンから圧を感じて近寄るのを止め、それでアヴェリンの後ろを歩いていたアキラの横に並び、無言の威圧から隠れるようにしながら声を掛けてくる。

 

「……あのさ、良く考えたら、あんた達って凄い不思議だよね。上手く言えないけど……、でも何か変だ。ねぇ、アタイ達って、まだ自己紹介してなかったじゃん。名前、聞かせてよ」

「おぉっと……!」

 

 顔は立ち並ぶ店舗に向けつつも、話はしっかり聞いていたらしいユミルが、面白がるような声を上げた。一つの懸念が早速、形になって現れた事になり、ミレイユはユミルへ非難するような視線を向けてから、表情を戻してスメラータへと顔を向ける。

 

「……必要か?」

「そりゃ、知らなかったら不便だし。何より、知り合ったら名乗り合うのが礼儀でしょ」

「それを言われると、確かにそうだが……」

 

 ミレイユは素直に名乗るべきか、それとも懸念を警戒してはぐらかすべきか考え、結局素直に教えない方へ舵を切った。

 

「まぁ……、好きに呼べ」

「それ自己紹介、放棄してるじゃん。……あ、それとも、アタイなんかに名乗る名は無いって言いたいの?」

「どう捉えて貰っても結構だ。いいからお前は素直に飯を奢られて、それで何処へなりと行くといい」

「えー……、まだ強さの秘密教えて貰ってないのに……」

「教えると言ってないし、隠してもいない。伝えるべき事なら伝えた。後は自分でどうにかしろ」

「冷たいなぁ……」

 

 スメラータが唇を突き出して不貞腐れる様に言ったが、そんなものミレイユには何の意味もない。むしろ、その態度にアヴェリンが機嫌を悪くし、今にも掴みかからんばかりの威圧を放つようになっただけだ。

 

 それで更にアキラの影へ隠れるように身を潜め、それきり何も話さなくなった。

 これ幸いと足を早め、時刻も頃合いである事から、昼食を取ろうと店を探す。

 

 昼食といっても、便利なファストフードや軽食を出すレストランなどない。露店か市場で果物やパン、あるいは干し肉に似たものを買うか、あるいは屋台に似た軽食を出す店を利用するかだ。

 

 更に足を伸ばせば飯屋というのはあるのだが、大抵の昼飯は固いパンとクズ野菜のスープというのが定番だ。昼は簡素なもので、夜にがっつり食べるという文化があるので、よりマシな物を食べたいとなったら屋台を選ぶ方が賢い。

 

 酵母がないからパンは固いし、そもそもパンとは保存食としての側面も強い。だからそれは良いのだが、せっかく街に着いたのだから、久しぶりに良い物を食べたいという欲もある。

 現世の食事に比べれば、どれも味気ないものだが、この場で文句を言っても始まらない。

 

 南区へ戻れば、書き入れ時に呼び込みをしている屋台も良く目に付いてくる。

 定番でハズレの少ないパンと果物を人数分買い、後は肉の串焼きに良く似た物を買おうと、屋台の前に立つ。

 塩もタレもない、ただ焼いただけの肉で、その塩もまた別売りとなっている。塩は高価だから、何も付けずに食べる人の方が多い為、このような形になっていた。

 

「ほら、新鮮な肉だ! 食ってけ食ってけ!」

「シンセン……」

 

 アキラの視線が肉に釘付けになって、パンと交互に見つめている。

 新鮮な肉なら森の中でアヴェリンが獲ってくれていたものだが、多くは干し肉へと加工され、そういった焼肉とは少々ご無沙汰だった。

 獲ったばかりの、正しく処理した肉は実際美味い。森の中で食べた肉鍋を思い出しているのだろうが、しかしこの世の現実というものをアキラに教えてやらねばならない。

 

「新鮮というのは、つまり死後一週間ほど経った肉という事だ。昨日獲れた、あるいは今朝獲れたばかりの肉というのは、もっとお高い場所に卸される。つまり買い手の付かなかった肉、粗悪な肉がこれと言う訳だな」

「うっ……!」

「腐り始め、その食肉可能ギリギリの肉が、こう言った場所で売られる肉だ。だから安いし、美味くもないが腹は膨れる」

 

 ミレイユの解説で、アキラはすっかり食べる気を失くしたようだった。

 実際、ここで肉を買うくらいなら、もっと安心できる食肉店で買う。街で買い足しが出来るので、今は先に作った干し肉をそのまま消費するつもりでいたので、最初から買うつもりがなかった。

 

 露店同様、屋台もまた同じ店が毎日並ぶものではなく、その内容も様々なので、良い物がないか一応覗いて見ただけだ。

 買ってしまえば、後は食べるだけだった。

 フードコートなどという洒落た、あるいは気の利いた物など無いので、そのまま邪魔にならない場所で立ち食いするのが定番だ。

 

 飯屋に行けば座れるが、代わりに味気ないクズ野菜スープが付いてくる。どちらが良いかは、非常に悩ましい問題だった。 

 ミレイユ達は例の東区画入り口の、空き箱捨て置き場へと再び帰ってきた。誰の邪魔にもならず、この手の食事を取りながら落ち着ける場所は、他に思い付かないというのが理由だ。

 

 誰かに先を越されていれば、歩きながら食べるつもりでいたが、しかし他に利用している者もおらず、その場で空き箱を椅子代わりに昼食を始める。

 

 雑談に興じながらの食事だが、やはりというか、スメラータの口数は少ない。その中でも会話へ積極的に参加しないアキラを何度となく見つめていたが、食事中何度か話し掛けても困ったように笑うだけのアキラに、とうとう話し掛ける事すら止めてしまった。

 

 そして食事も取り終われば、スメラータともお別れとなる。

 誰もが知ってる筈の情報で、一食分が浮いたと思えば悪い話ではないだろう。そのまま別れを告げて立ち去ろうとしたのだが、スメラータはその背に声を掛けてきた。

 

「……まだ何かあるのか?」

「あるっていうか……。やっぱり、このままサイナラじゃ味気ないしさ……冒険者ギルド行くんでしょ? アタイもそこ行くつもりだから、どうせなら一緒に行こうよ」

「それぐらいなら……別に良いが」

 

 よっしゃ、と握り拳を胸の前で固めて、スメラータは喜色を浮かべる。

 どういうつもりだ、と訝しんでいると、彼女は更に続けた。

 

「あのさ、それより前に、考えた方が良いよ。……そっちの、アキラが登録しに行くんでしょ? だったら刻印つけた方がいいって。絶対だよ」

「……付けてる奴は軟弱者、みたいな風潮もあるみたいだが」

「そんなの未だに頭の固い、頑固オヤジが言ってるだけじゃん! 普通は皆刻んでるし、無いやつは舐められるんだってば! アタシなら色々アドバイス出来るしさ!」

 

 意気揚々とアピールするスメラータには、打算が見え隠れしている。それを悪く思うつもりはない。恐らくは、その見返りとして、隠していると信じ込んでいる、強さの秘密を聞き出そうと言うのだろう。

 

 付き纏うのを止めてくれるなら、もっと実際的な指導をしてやっても良い。

 だが――。

 

 ミレイユはそこで思考を断ち切り、何か言葉を返すでもなく、視線を外に逸した。

 そこに、それまで特に口出しする事なく雑談に興じていたユミルが、ミレイユに向かって口を開いた。

 

「アンタさ、敢えて考えないようにしてる? 可能性を見出すのが嫌なんでしょ?」

「……唐突に、何の話だ」

「はぐらかすのは、お止めなさいな。それぐらい分からない程、浅い付き合いじゃないじゃないの。アヴェリンはアンタの心情を慮って何も言わないけどさ、とっくに一つの可能性には思い至ってるわよ」

 

 ミレイユがアヴェリンの方へ顔を向けると、表情を変えないまま首肯する。分かっていて当然だろう。あるいは、という可能性を頭の中で算盤を弾く位の事はする。

 ミレイユとて、そうだ。だが、その実数が未知数だったから、そしてより知ろうという意識が希薄だったから、その上で敢えて考えようとしなかっただけだ。

 

「刻印魔術か……。実際どれほど便利なものだか。刻むだけで強化を計れるというが、それとて限界はあるだろう。自身の魔力を糧にする、という前提である以上、鍛え抜いた内向魔術を越えられるものではない筈だ」

「同意するわ。推測でしかないけど……魔術を外付けで使えるようにする、そして自身の魔力を動力源にしている、という特性である以上、自身の持つ限界以上の力は発揮できない」

「それが出来るようなら、魔力と魔術という関係性と理論が破綻します。その推論は正しいでしょう」

 

 ルチアから推論の後押しがあって、ユミルも満足そうに頷き、それからミレイユへ挑発的な笑みを向けてきた。ご満悦でいるのは結構だが、だとすれば、結局のところ努力を続けるだけで良いという話になる。現状を越えられないのなら、敢えて刻む意味もない。

 

「まぁ、正直……内向術士は恩恵が少ないと思うわよ。自身の成長の機会を奪っているだけだし、結局限界の前借りでしかないでしょ? 鍛えればその限界値だって上限はあっても伸びるのに、刻印に頼ってたら、それさえ失くすんだから」

「えぇっ!? そうなの!?」

 

 素っ頓狂な声がスメラータから上がり、呆れた視線が四者から向けられた。

 



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別世界からの住人 その10

 スメラータは自身が馬鹿にされるような視線に、我慢ならないようだった。

 そもそも刻印の事など、さっきまで知らなかった人達に、さも全て知ってます、という顔をして講釈を垂れる事に納得できないようだ。

 

「それって違うよ! 刻む術によって強化度合いが違ってくるんだし、強くなればそれだけ強い魔術を刻めるんだから。だから……別に成長の機会を失ってなんかないよ!」

「それって単に魔力総量が増えたから、その分を利用できるようになっただけでしょ? 自分の魔力を使うのが刻印なら、その消耗と回復を繰り返して総量が上がるのは道理だもの」

「でもさ、それも強さだし成長じゃん! 別に機会を失ってたりなんか……」

 

 ユミルが理解し難いものを見るような視線を送り、ルチアが心底呆れた表情で言葉を零した。

 

「内向の意味、理解してますか? 制御速度や制御練度、それに強度。どれも総量とは別物ですよ。骨格が総量なら、他は筋力、体力みたいなものです。骨だけ大きく頑丈になっても、それは成長としては不健全でしょう? 骨格に付く筋肉は変わらないままで、どうして成長って言えるんです」

「背が伸びたから、それを成長と勘違いしてるんでしょうね。ちょっと見下ろしてやれば、ガリガリの身体だって分かりそうなものだけど」

「でも、でも……、皆そう言ってるし……」

 

 最初は威勢のあったスメラータも、具体的な例を持ち出されて的確な言い返しが出来なくなってきた。誰もが便利だと言っているから、誰もがそれを頼りにしているから、だから刻む事は正しい、と思いこんだ。

 

 それは時代の流れと共に正常で、正道で、常識だとされたのなら、それを一個人が反意を得るのは難しい。むしろ学が無ければ、流されて当然だった。

 

 それが間違いかどうか、世界の常識となってしまっている現状で疑う事は難しい。

 魔術に対する深い見識と理解、そして実践なければ分からない事だ。それも正しい師がいなくては、触れる事すら難しいというのが魔術というものだ。

 知らない――知る機会を得られなかったスメラータを、責めるのは筋違いだ。

 

「実際、強さを実感できるのが、問題を直視させない原因にもなってるんでしょう。最初は弱い刻印、でも使っている内に余裕が出来て、より強い刻印を。あるいは別の刻印で別の強化をされていたら、それは……気づくのは無理というものでしょうね」

「……お、おぅ……。それ……そう、アタイがそれ……」

 

 スメラータは自分の手を、そして腕を見下ろして、ワナワナと震える。

 自身の実情、それから実態を悟り始めるにつれ、後悔するような表情で刻印を見つめた。

 流石に不憫に思えたのか、ルチアからフォローするような言葉が飛び出す。

 

「まぁ……、勘違いも無理はないって気がしますけどね。というより、無理でしょう。特に誰もが恩恵を受けているように見えて、そして誰もが無理解で使っているというのなら」

 

 これにはアヴェリンも首肯して、同じくフォローするように続けた。

 

「それに……、内向を鍛える事は、実は辛い。強化の度合いは牛歩の歩みだ。辛さに比例していないと感じるものだし、それを一足飛びに与えてくれる刻印は、実に素晴らしいものと映ったのではないか?」

「へぇ……、アンタの口から辛いなんて言葉が出るなんてね?」

「事実は事実だ」

「なるほど? ……で、だから誰もが縋りついて、そして結局……最終的には、アンタの指先にすら及ばない力量差が生まれるってワケ? 本末転倒すぎて笑えるわ」

 

 ユミルが小馬鹿にするように言えば、流石にミレイユも不憫に思えて言葉を添える。

 

「アヴェリンを引き合いに出すのはどうかと思うが。それが誰であれ、比較される方が可哀想だろう」

「それは……そうかもね?」

 

 ユミルが茶目っ気たっぷりにウィンクしてから、アキラとスメラータの間を交互に視線を動かす。同じようにミレイユも見てみれば、同じ内向術士としての戦士、という括りであっても、その力量差は歴然としている。

 

 あるいは伏せ札と言っていたものを使えば、瞬発的にはスメラータが上なのかもしれないが、その基礎力には莫大な差が生まれていると見抜けた。

 本来は多くない魔力総量で持って、その内向を鍛える事によって生まれる強み、というのを放棄してしまっているのだ。ひたすら外向魔術による支援術で、自身を強化させ続けているようなものだ。

 

 それなら最初から内向を鍛えている方が、遥かに効率的で魔力のロスも少ない。

 魔力総量を増やす事だけに傾倒し、それで自身が強化されていれば、確かにそれは内向魔術のように思えるものだろう。だが、それは所詮見せかけに過ぎず、本当に鍛え抜かれた戦士との力量差は、まざまざとアヴェリンが見せつけてくれた。

 

 アヴェリンと比較するのは可哀想と言った手前、ではアキラではどうだったかと想像してみると……。恐らく、両手で白刃取りぐらいはやれただろう。そしてやはり、相手はその剣を取り戻すのに酷い苦労をしていた筈だ。

 

 ユミルは小馬鹿にしていた態度から一変、スメラータへ労るような声を掛けつつ、視線をミレイユに向けながら言う。

 

「誰だって便利で楽になるものは好きなものよ。デメリットも大きいけど、メリットもあった。でも本来、刻印魔術の本質って、そこじゃないと思うのよね」

「聞かせろ」

 

 ミレイユが簡潔に言うと、ユミルは演技掛かった恭しい礼をしながら言う。

 

「内向術士と外向術士との垣根を取り払った事よ。外向魔術を使うに当たって、最大の壁ってその習得の難しさでしょ? そして覚えたところで行使できるかのセンスも問われる。失敗すれば被害も出る。こんなのね、普通誰もが使いたいとは思わないのよね」

「それ、魔術に対する冒涜ですよ。習得が難しいのは当然です。無理解で使って良いものじゃないですし、魔術を紐解き世界の在り方を理解する。学問として前提にあるんですから、そこを無視して貰っては困るんですよ」

 

 思った以上に熱の入った反論が帰って来て、ユミルも分かるという風に頷きながら続けた。

 

「まぁね、それはそうなんだけど……。でも、同時に誰もが憧れるものでもあった筈なのよ。だから刻印という発明が、その前提をすっ飛ばしたんでしょうし、刻印魔術が世界を席巻するコトになったんでしょうよ。そうして、適正のない奴にも魔術が広く使われるようになった。どんなにセンスがなくても、魔術が使えるっていうのは、凄まじい強みよ」

「……まぁ、魅力的だな」

 

 ルチアは苦虫を噛み潰すような顔をしているが、結局それが真理という事だろう。

 魔術の習得に対して誇りを持つエルフが、それに嫌悪を向けてしまう気持ちも良く分かる。しかし習得に十年は長すぎる。短い人の人生で、それを身に着けたいと熱意を燃やし続けれるだけの人間が、一体どれ程いるだろう。

 

 魔力総量を増やす事も、言うほど簡単な事でないとはいえ、しかし入り口にすら立てなかった人からすれば、朗報以外の何物でもなかったに違いない。

 スメラータもまた、そういった習得に対して向いているようには見えず、そして恐らく、百年以上の時の中で、現在の様な気軽に刻める形へ進化もして来たのだろう。

 

「――で、話は最初に戻るんだけど、これをアキラに刻んだらどうなるんだろうって思うワケ。内向との下位互換である常時発動は無視するとして、他の外向魔術を刻んでやったら……少しマシになるんじゃない?」

「……なるかもな。だが、そうまでして連れて行きたいのか?」

「別に。アキラがどこで死のうが知ったコトじゃないけど、アタシはアンタを生かす為に打てる手を打ちたいの。本人が盾になって死ぬのが本望って言うなら、盾になって死ねと蹴り出すつもりで傍に置きたいだけ」

「とんでもないこと言うな……」

 

 あまりに過激な発言に、ミレイユも思わず目を剥く。

 アキラ本人は何を言っているのか理解できていないが、自分の名前を呼ばれた事だけは気付いている。それで恐ろしそうに視線を彷徨わせているのだが、誰も翻訳して伝えるような事はしなかった。

 

 それが優しさかどうかは……、議論の余地があるだろう。

 ユミルの主張には、アヴェリンもまた賛成のようだ。アキラを視界の端で見ながら頷く。

 

「あまりに弱すぎて盾にもならないからと、手放す事に賛成しましたが……。もし、それでアキラが使い物になるのなら、傍に置き続けるのもよろしかろうと思います。己の命を預けたいと言った相手に、それを拒否されるのは辛いものがありますから」

「お前らしい台詞だが……」

「アキラも覚悟あって付いて来た筈です。一度は拒否されて、それでも尚、後を追って来ました。ミレイ様はその優しさで持って、命を喪う事を憂いてくれていますが、命を預けたい者からすると、その優しさは酷です」

「そんな風に思っていたのか……」

「申し訳ありません。差し出がましい事を申しました」

 

 アヴェリンが深々と頭を下げると、ミレイユは緩やかに首を振る。

 きつく目を瞑り、腕組しながら上空へと顔を向け、重たい息を吐いた。

 

「アヴェリンは正に、その命を預けたらんと欲するに相応しい戦士だが……」

「本人の命、本人の人生よ。甘ったれたコトを言うようなら、今度こそ放り出してしまえばいいじゃない。自分の命の使い時、好きなようにさせてやれば?」

「だが……、アキラは未成年だ。まだ子供で、守られるべき立場の人間だ」

「あぁ、何か頑なだと思ったら、それが根底にあったのね……」

 

 納得の中に呆れも含んだ声音で頷き、それから手首をくるりと返す動きでアキラを指差す。

 

「でもそれって、現世における基準でしょ? こっちじゃ十五で立派な成人なんだから、その理屈で言うと、本人の好きに決めて良い筈じゃない」

「……そうかもしれないが」

「アタシはね、アンタを生かす為に……そして馬鹿げたオミカゲサマなんかにさせない為に、ここにいるの。使える物は何でも使うし、使えって言うわよ」

 

 ミレイユは上空へ向けていた顔を、今度は地面へ向けて、やはり思い息を吐く。

 幾度となく失敗してきただろうミレイユのループだ。それを打開するつもりなら、確かに手段を選べるような贅沢はないのだろう。

 それは理解できる。

 ――だからと言って……。

 

 ミレイユは顔を上げて、アキラの顔を見た。

 やはり話の内容を理解できておらず、不安げな視線を向けている。本人もまた、その口から命も惜しまないという言葉を口にしていた。口にする以上の覚悟も、そこにはあったのかもしれない。

 

 次に、ミレイユはアヴェリンの顔を見た。

 命を預けたいと言った相手に、拒否される気持ち――。

 一度は拒否しておいたのだから、その上で付いて来た事については自業自得、断られるのも同じ事。そう思わないでもないが、ここまで付いて来るのなら、やはり覚悟は本物だろう。

 

 難しく考えすぎているだけなのかもしれない、とミレイユは思い直す。

 子供だと言うなら、守られるべき存在というなら、そもそも戦い方を教えるべきでも、戦場へ連れ出すような真似もするべきでもなかった。

 

 覚悟というなら、下手な大人より上等な覚悟を持っている。

 アキラへと視線を転じると、隣に居心地悪く座っていたスメラータが恐恐とした表情で言った。

 

「……あの、アタイ……席、外してようか……?」

「素直に今すぐいなくなれと言いたいが……。別にいい、話は終わった」

「では……?」

 

 アヴェリンが控えめに尋ねると、ミレイユは素っ気ない仕草でアキラに立つよう指示する。

 

「今から魔術士ギルドに行く。一つ、刻印魔術とやらを試してみよう」

 



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幕間 その1

 『ミレイユの森』と呼ばれる森林地帯の最奥には、一つの集落が隠されている。

 かつては平原であり、一軒の邸宅がある以外、他には何もない場所だった。その邸宅の背後には小さな林があり、その背後には小高い山があるぐらいで、見晴らしが良いという以外、とりわけ注目すべき物もない。

 

 だが、約二百年前、その邸宅を中心として木を植え増やし、現在の森に成長させたのはエルフ達だ。木の成長は遅く、森にするには莫大な時間が必要となるが、魔術を得意とするエルフだからこそ、その時間を大幅に短縮する(すべ)も心得ている。

 

 そうして境界を敷き、人間のみと言わず、誰しも簡単に侵入できない結界としての役割を築いて、その邸宅を覆い隠した。

 隠すだけでなく、守護する目的としてエルフもそこに住まい、それが自然と集落として形成される事になった。以降は邸宅を聖地として隔離し、護り拝め奉るようになる。

 

 一人のエルフが始め、そしてそこに多くのエルフが加わって来たが、何もエルフのみが住まう森という訳ではなかった。後から森への定住を求めてやって来て、他にも多種多様な種族が加わり共に暮らしている。

 

 その中には元より森の中で暮らしていた種族もいて、森の恵みを採取したり、樹木の無い平地に田畑を耕したりと、次々に順応を見せていった。

 

 森に獣が棲み着くようになれば、狩りに長けた獣人族がそれを助ける為に請け負い、外敵の侵入を拒むのに(オーガ)族が、森の外周付近の警戒に就いてくれた。そういう互助が成り立って、エルフのみならず多種多様の集落へと変貌していった。

 

 森に住む種族の中でエルフは最も数が少ないが、最初に森を作って住み始めた事から、その中心に立っている。取り分けフロストエルフは戦争の功労者としてあった事もあり、他全ての代表として皆を取り纏めていた。

 

 フロストエルフは、その名が示すとおり氷結魔術を得意としていて、それが種族を冠する名前となっている。魔術を修学し体得し、そして行使するのはエルフの誇りだ。だが、数多ある魔術全てを体得するのは、エルフの寿命を持ってしても容易い事ではない。

 

 だから過去、得意とするものを選別し、その魔術を極めていく事を決めた時から、その系統に累する名前を付けた。そしてそれが、今は自らを誇りとなっている。

 フロストエルフに付いても同様だが、今となっては若干、意味が異なる様になった。

 

 フロストエルフは、オズロワーナ戦争で最も活躍した一族であり、そしてミレイユという助力者を得つつも、その勝利に貢献した一族でもある。

 

 勝利についてはともかく、このミレイユを頭上に戴いていたというのが、何よりの誇りとなっている。というのも、実質的に勝利へ導いたのがミレイユで、その寛大な精神で種族の弾圧から解放し、種族同士の融和まで成し遂げた、と誰もが知っているからだ。

 

 フロストエルフは、ミレイユを信奉する者たちとして側面を持っていたし、森に集った者達は同じ気持ちを持つが故に、故郷よりも森を選んだ。

 そしてミレイユの邸宅であった屋敷を、聖地として今も護り通している。

 

 だが、その気高い精神も昔の事――。

 最近では種族間の争い、諍いも多く目立つようになった。

 

「所詮は夢物語、理想は理想でしかないのか……」

 

 木材で作られた暗い一室で、一人の男が執務机に座りながら溜め息を吐いた。

 元より照明器具などなく、明かり取りとして開いている上部の窓からしか光は入って来ないので、構造上暗い部屋ではあった。

 だが、男が発する雰囲気から、より暗く陰鬱な印象を与えている。

 

 男の名はヴァレネオと言い、フロストエルフの長だった。

 女性優位の社会において、男性が里の長となるのは非常に珍しい。だがミレイユ第一主義であり、戦争での功労者、そして娘がそのミレイユの片腕として働いていた事から、現在の地位に就いている。

 それがそもそも間違いだった、と今更ながらヴァレネオは思う。

 

 華々しい活躍も、娘の存在も、森の中には存在しない。

 そして何よりミレイユという個が、この森には存在しないのが、綻びの原因だった。彼女は森に取っての光だった。種族の結束も強めたのも彼女であり、そしてだからこそオズロワーナ戦争において、勝利を掴み取る事が出来た。

 

 皆を纏められるとすれば彼女であり、ヴァレネオは所詮、エルフを取り纏めるので限界だったのだ。

 彼女自身、その卓越した制御技術と豊富な魔力量から強大な魔術を扱えたが、何もその絶大な力のみに心酔した訳ではない。

 

 その種族が抱く独自の問題を解決したり、そして力のみを至上とする種族には、正面からぶつかり圧倒する気概も持っていた。

 その姿、その為人に感じ入る者も多く、だから一つ所に他種族が集まっても何とかやって来れたのだ。

 

 だが、その彼女がいないとなれば結束力が緩むのも仕方がない。

 エルフには彼女に対する恩がある。それは未だに現実感を持って語られるが、短命種にとっては既に過去の出来事で、無いものに等しい。

 

「聖地として嘘をつき続けて来た、その反動もあるか……」

 

 ヴァレネオは草の茎から作られた紙を、まるく巻いて机の端に置いた。

 問題は幾つもあり、それを取り纏め整理して解決策を模索するのも、長たるヴァレネオの役目だ。溜息を吐きながら、窓の先――ここからは見えない聖地を思う。

 

 聖地に入るには、長の屋敷を経由して行かねばならない。

 長の屋敷にも直接繋がった離れがあり、それが聖地と集落を分断する役目を負っている。だから誰にでも入れる場所ではなく、特別な事情なしでは許可なく近寄れるものでもなかった。

 

 聖地にあるのは、かつてミレイユが建てた邸宅で、誰もがそう認識している。それは間違いではない。

 彼女の私物が多く残され、そして貴重な物品も多く残されていた。彼女に取っては用済み、あるいは価値なしと見做した物が数多く残されていたが、しかしそれは誰にとっても無価値という物でもない。

 

 当時のヴァレネオには知る由もなかったが、そこにはある()()()()が眠っていた。どこぞの盗人がそれを持ち出し、その力を利用して、再びのオズロワーナ奪還を許してしまった。

 

 後悔は勿論ある。

 彼女の邸宅の事は知っていて、ふとした拍子に気に掛けてもいた。もし、それより早く自分が見つけていたら……そう思わずにはいられない。

 

 ヴァレネオが敗退と同時に落ち延びた先で、偶然その邸宅の存在を思い出していなければ、ずっと気付かぬままだったろう。

 邸宅には金属の錠だけでなく、魔術的な錠が施されていた。

 それ自体は簡素なものだったが、鍵開けの技術があっても、魔術的制約を突破できる者は多くない。山賊、野盗程度が力任せに突破できるほど、易しい代物ではなかった。

 

 だから中は未だに手付かずだろうし、荒らされてもいないだろうと推測できた。ヴァレネオ自身、その屋敷に向かったのは、落ち延びた先で何か利用できる物がないか、と当てにしたのは否めない。

 

 だがそれは決して疚しいものではなく、見つけたはしたものの、果たして入室して良いか最後まで躊躇った程だ。だが魔術錠の損壊を見て、不審に思って入室を決めた。そして中で見たのは、手付かずの調度品や高価な家具、それに反して奪われたと分かる装備品だった。

 

 邸宅とはいっても、貴族のような屋敷という訳ではない。

 部屋の数もリビングと主寝室を除けば四つだけだったで、その何れの部屋も簡単な小物や衣類など、生活感を感じるものばかりで、ここにも装飾品があったが、手を付けられていなかった。

 

 一階と二階は女性が住む家としては特に言及するところなど無かったが、しかし地上部分が擬態と思われる程に広大な地下室があった。

 地下室には付与された武具や錬金術で作られた水薬、また触媒や素材の倉庫としても活用されていたらしく、奥の一室は展示室のような形になっていた。

 

 鎧や剣などが飾り立てられ、目を剥く一品ばかりであったのだが、その最奥には飾り立てから乱暴に取り外したと分かる、無惨な光景が広がっていた。

 

 最も目立つ、重要な位置にと思しき場所には何も無く、そして他にもある強力な武具は手付かず。盗人はそこに何があるのか知っていて、そしてそれが如何に価値あるものか理解して奪っていたのだ、と悟った。

 

 ――あの時。

 オズロワーナを再び奪還されるのに割かれた戦力は、たったの一人だった。

 強力な武具を身に纏い、だがまるで統一性のないそれぞれの品。一から戦士として、あるいは冒険者として集めて来たものなら、決してそうはなるまい、という不自然さだった。

 

 だが、その強さは本物で、全てを圧倒され、為す術もないまま敗北を喫した。

 その時失った仲間は多い。自分の妻さえも――。

 悪意と怨念が身の内側を掻き乱しそうになり、慌てて首を振って思考を元に戻す。

 

 あの時、相(まみ)える瞬間まで、デルンなどと言う名前は聞いた事もなかった。

 あまりに唐突に出現した者であり、それ程の強者というなら、その出自や職がどうであれ、少しは名が知れていても良さそうなものだ。

 

 彼女がそうであったように、人の常識では測れない強者というのは往々にして存在する。だが本当に生まれた瞬間から、強者である者は存在しない。彼女においても、振り返ってみれば、と思い当たる逸話が幾つも浮かぶ。

 

 強者が世に現れれば、その足跡というのはとにかく目立つ。

 あまりに急速に世へ名を知らしめる為、その行動や偉業が語られ易いのだ。

 だが、デルンにそのような逸話はなく、唐突としか言いようのない形で出現した。あれ程の武具をどのように手にしたのか、それすら定かではない。

 

 まるで空から落ちてきたか、地に落ちていた物を拾ったかのような不自然さだ。

 そして彼女の邸宅から盗み出されたと思われる武具を思えば……、あるいは、と思える部分が浮き上がる。その場で何があったのか、確証あって言う事は出来ない。

 

 ――だが。

 疑念は尽きず、もしもを疑わずにはいられなかった。この屋敷にあった武具を用いたからこその快進撃だし、それ故の奪還だったのではないかと。

 

 更にそれだけでは飽き足らず、他の物品をも手中に収めようと考えたなら、執拗な森攻めにもな特がいくのだ。彼らが求めるのは残党退治ではなく、森の邸宅に眠る価値ある武具なのではないか。

 実際、デルン本人ではなく多くの派兵によって邸宅を囲まれた事もあった。だがその時は、彼女が残した武具を使って退散させる事ができたのだ。

 

 武具のみならず水薬も使用し、そのとき多くを消費してしまったが、それでも奪われる事なく追い返せたのは、一重に彼女の『遺産』によるところが大きい。

 デルンは数年と経たず、いつの間にやら姿を消したが、残した子が王位を継いで、現在まで険悪な仲が続いている。その後も武具を狙ってくる事は解っていたので、防備し易いように森を造り変え、魔術を施し、形を整えた。

 

 そして彼女の遺産を守る為、又いざという時、その武具を活用出来るようにと、聖地として守るようにしてきたのだ。

 だが同時に、それだけでこの屋敷を守るという、賛同を周囲から得られないとも解っていた。強力な武具や道具を奪われるのを防ぎたい、というのなら、持って逃げれば良いだけだ。

 

 だが、ヴァレネオは彼女に恩義ある身として、彼女が残した物を守りたかった。

 奴らは奪った後、あるいは奪える物が殆どないと分かった後、腹いせに燃やすくらいはするだろう。征服した暁には、今ある形ある物を壊す。略奪とはそういうものだ。

 

 だから、この場を守り抜く方便として、聖地には彼女が眠っている、と伝えた。

 何れ来る時に備えて眠り、そして何れ起き上がる時に備えて、我々は守り抜かねばならない、と信じ込ませてきた。

 だが時を経るに連れ、その信奉も思慕も無くなり、今では守護を任じたフロストエルフ以外、聖地に敬意を払う者も少なくなった。

 

 種族の間で起こる諍いの原因も、そこに言及したものも多い。デルンの目先にいるから襲われるのだ、いつでも攻め立てられるような距離にいるのではなく、もっと安全な場所に居を移した方が良い、という主張だ。

 

 現在はそれが主流であり、防衛、抗戦派は声が小さくなった。戦争の度に数を減らす、森で暮らす人々を見れば、この先に未来は無いと誰もが思う。

 ヴァレネオは重く溜息を吐き、先程端にどけた紙を忌々しく見つめた。

 



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幕間 その2

 聖地を守る、という主義主張だけで、全ての種を纏めるのは難しくなったのは、随分前からの事だ。それでも未だ集落を維持できているのは、一重に長く暮らし続けてきたから――故郷として定着してから、という理由故だろう。

 

 故郷を攻撃されて、恨まない種族はいない。

 敵は数を有利に戦おうとするが、狭い森の中では軍隊を上手く活用できず、しかし森になれた獣人族や鬼族にすれば、格好の的でしかなかった。

 

 自らが外へ打って出る事はないが、攻め込まれて敗戦した事もない。追い返す、勝利を謳うというのは、一時は気分を高揚させる。地理的有利があり、それに助けられた勝利があればこそ、今まで森を守るという意義も保てた。

 

 人間側に和平という選択を持たず、森の民は不当な占拠をしているという主張だから、いつまでも攻め立てるのを止めない。森の焼き討ちも魔術に秀でたエルフ相手に効果は薄く、すぐに鎮火させ、更に健全な形に戻すから、人間たちも攻め勝てない状態が続いていた。

 

 一進一退という程、楽観できる状況ではない。

 正面からは勝てないと見て、人間たちは森に住む者を魔族と言い習わし、森へ入る者全て問答無用で攻撃してもよい、という風聞を作り上げた。

 

 森に暮らしていなかったエルフに対しても攻撃的になり、奴隷として売り捌く例も少なくない。

 二百年前の戦争にも、フロストエルフと直接関わり合いのないエルフであろうと、ただエルフであるという理由で、排斥するようになったのだ。

 

 当然、素直に暮らしていけないとなれば、後は逃げるしかない。

 そして頼りに出来る人がいないなら、森へ逃げ込むしか残された道はないのだ。しかし、そうなれば魔族として扱われ、むしろ堂々と襲って良いというレッテルを貼られる。

 

 頼ってくる同胞に対し、逃げ込める先として、いつでも快く迎えてやりたいと思う。

 しかし森の外では巡回兵が見張っている。外周を守護する鬼族によれば、常に虫一匹逃さないというほど網を張っている訳ではないものの、やはり警戒だけはしているのだと言う。

 

 それに兵だけでなく、私掠団の様なものすら出来上がっている。

 冒険者くずれか、あるいは本職か。それが森からほど近い場所に、野営地まで築いて襲い始めた。森に近づく者なら誰であれ奪って良いというお墨付きで、森へ逃げ込もうとする同胞を襲っている。

 

 これは冒険者が進んで行っている事ではなく、デルン王国の策謀だ、とする声もあった。だがどちらであろうと同じ事。森の民を――引いては森へ逃げ込む者を襲っている相手が、どの手の者だろうと関係ない。

 

 デルンから敵対される者として、逃げ込みたいと言う者を見放す訳にはいかなかった。

 助けてやりたいと思うが、森から離れた場所では不利になる。奴らは追い払っても、幾らでも湧いて出る。一人二人というならまだしも、基本的には集団でしか動かないから、正面から戦えば森に犠牲が出た。

 

 遮蔽物のない場所では特に犠牲無く勝つ事は難しく、幾らでも補充される相手と同じ事をしていては、いずれこちらが根負けする。

 根比べをする意味もなく、そうでなくとも敗戦は濃厚だった。

 

 ――昔ならば、そのような無様を晒す事もなかったのだが……。

 ヴァレネオは歯噛みして、大いに顔を顰める。

 

 いつからか広まったものか……百年以上前から、少しずつ刻印を持つ者が増えてきた。

 魔術の真髄も知らず、ただ道具のように扱って、それで優位を得ようとする者どもだ。本来なら長く険しい道を経て得る魔術を、まるで松明に火を付けるような気軽さで扱ってくる。

 

 エルフにおいても簡単ではない中級魔術を、制御する素振りも見せず繰り出されて、当時は正気を疑った。威力そのものは習熟したエルフに適うものではないが、しかし制御による集中を必要とせず、また石を投げるような気楽さで放たれる技術は、恐怖に値するものだった。

 

 魔術の扱いやその威力については、いつの世もエルフに軍配が上がってきた。

 だが人数で勝るのは、常に人間の方だ。

 数が多ければ、正確さや威力は二の次に出来る。とにかく数を揃え、そして粗悪であろうと放てば良いのだ。

 

 力量差が顕著でなければ、少数を制するにはそれで十分になる。

 同じ規模を再現する事は造作もないが、中級魔術には集中力と制御力を要する。誰もが素早く制御できる訳でもなく、立ち止まって集中する必要だってある。だが、敵は即座の発動を可能としているのだ。

 

 不利は否めない。

 そして森の住人達が数を減らす以上の損害を、敵側に与える事が出来ないのだ。同数の敵を倒すのは難しい事ではない。しかし十倍の被害を出してやらねば、釣り合いが取れるとは言えない。遮蔽物のない場所での不利は大きく、だから森の外で戦う事は禁じねばならなかった。

 

 助けを求めて森に近づく者たちを、目の前で攫われて、為す術もなく見ているしかなかった事もある。遊撃に出ようとする仲間を、押し留める事で多くの反感も買った。

 だが見えている敵が、全ての敵とは限らない。

 

 伏兵を隠している事は多く、敵の規模も分からない。若い者は森の生活しか知らないから、人間の数がどれだけいるか、実感として知らない。

 どうしても森の生活を物差しとしてしまい、敵の数が少なく見えれば、それ以上いる筈がないと思ってしまうのだ。

 

 だから、ヴァレネオの行動は腑抜けに映る。

 ほんの数人蹴散らせば助けられた者を、血を流す事を恐れて見逃した、と見做すのだ。

 本当に伏兵がいたのかどうか、それはヴァレネオにも分からない。本当は森を侮って少数で来ていた者たちかもしれない。

 

 だがそれが分からない以上、森を預かる者として、慎重にならざるを得ないのだ。

 窮屈な森の生活、常に外敵が森を見張っているストレス、見殺しにしたと糾弾する捌け口……。そういった積もり積もったものが、集団の和を乱し、種族間の諍いを招いている。

 

 ――二百年前のある日、姿を消した彼女の事を思う。

 元より別れは切り出されていた。戦争の終結まで、という約束もされていた。いなくなった事を恨むなど有り得ないが、しかし寂しくは思う。

 

 もしも彼女が残っていたら、きっとこの様な事態にはなっていない。

 彼女を頼みにするだけの考えなど浅ましいものだが、現在の窮地を思うと、縋らずにもいられなかった。

 

 ――何しろ。

 心無い若者が聖地へ隠れて踏み入り、そこに何者の姿もない事を確認してしまった。

 来たる時に備えて眠っている事になっているミレイユが、実はもぬけの殻だった。その事実が集落を駆け回り、今では様々なあらぬ噂が飛び交う始末だ。

 

「起き上がったばかりで、久々に外の世界を見に行っただけ、と説明はしたが……」

 

 信じている者は殆どいないだろう。

 我ながら苦しい言い訳だったと思う。少し外を見回ったら、すぐにでも帰って来る、その時改めて皆に説明するつもりだった、そういう説明でその場を切り抜けた。

 

 なし崩しにして逃げたものの、それとて五日と保たず不満が噴出するだろう。

 森を捨て遠くへ逃げるべき、という発言が更に強さを増す筈だ。ミレイユの邸宅を守りたい、というのはヴァレネオの――引いてはフロストエルフ総員のエゴだ。

 

 真に守るべきは森に暮らす全員であり、形として残るばかりの家ではない。

 囲い攻めも日々激しくなる一方、オズロワーナから遠く離れた場所では平和なものだと言う。彼女の名前は異端ではなく、今なお敬意を持って語られる地域もあると言う。

 

 彼女の遺産を持って逃げるべきか――。

 だが、狙いが彼女の私物である以上、これを持っていけば同じように追い立てられるかもしれない。遠く離れた場所まで遠征するのは容易ではなく、諦める可能性も十分あるが……。

 しかし、戦火を遠い異国の地にまで飛び火させる訳にはいかない。

 

 そして、彼女の武具を手に入れたデルン王国が何をするつもりか、それを思えば残していくのも憚られる。

 初代から数え、今なお同様の思想を継承しているとは思えないが、かつては武具さえあれば力づくで他種族を平定できる、とでも考えていたのだろう。

 

 一人のみならず、それが十人の戦士に身に着けさせたなら、それも可能だと考えていたのかもしれない。だが、今では単に長いあいだ楯突いてきたエルフに、憎しみと制裁を加えたい一心で行動しているように見える。

 本当に只それだけなら、逃げてしまえば追って来ない目も生まれるかもしれない。

 

 早々に決断しなけば内部崩壊を起こす危険があるし、その時にはヴァレネオが責任を取って何らかの処罰も必要だろうが、本当にそれで良いのか、という警笛が胸の内で鳴っていた。

 処罰を恐れての事ではない。

 森に住む全ての者にとって、本当の最善は何なのかを考えると、何故か胸騒ぎがして止まらないのだ。

 



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幕間 その3

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 机の前で、まんじりともせず座っては、難しく眉に皺を作っていると、戸の扉を叩く控えめなノックが響いた。

 返事をして入るよう指示すると、集落の見回りをしている一人の男性エルフが顔を出した。

 

「お忙しい所、失礼します」

「……どうした、そんな顔をして」

 

 ヴァレネオが指摘したとおり、その男性には訝しげな、あるいは大きな懸念を匂わせるような表情をしていた。

 

「えぇ……、本日一組の親子エルフが森に辿り着きまして。外周警護の鬼族に警護され、先程迎え入れました」

「それは……珍しい。だが、喜ばしい事ではないか。小さな子を連れて、冒険者か巡回兵の目を潜って辿り着くのは、容易な事ではなかったろうに……」

 

 ヴァレネオは心底感心するように声を零し、それから親子へ慮って配慮を勧める。

 

「森へ逃げ込むしか無かった者たちだ。手厚く歓迎してやりなさい。食料も備蓄から回して構わないから」

「はい、そうさせます。ですが、言いたいのはその事ではなく……」

「なんだ、それとも……その親子は人間側が送り込んだスパイだとでも?」

 

 数が少ない方が発見され辛い。だから少数で行動するのは理解出来るし、だから辿り着けたとも思えるが、しかしたった一組で掻い潜るのも簡単な事ではない筈だ。

 

 森のすぐ近くまで辿り着き、しかし森の中まで入り込めなかった逃亡者達を、ヴァレネオは何度も見てきた。震える拳を握り締めながら、それを見ている事しか出来ない自分に怒りを覚えながらも、そうしなければならかった過去を思う。

 

 それを思えば、たった一組で辿り着いたと考えるより、送り込まれたエルフと考える方が妥当な気がした。内部をつぶさに調べ、いずれ行う予定の大攻勢の役に立てるつもりなのかも。

 森の外に作られた、計五つの野営地は、その前準備だと思っていたし、ならば攻撃の日は近い。

 ヴァレネオが疑念と敵意の籠もった視線を向けると、相手は慌てて手を振った。

 

「いえ、違います……! そうではなく、逃げ切る……というか、子供だけでも逃がす手筈を整えて、それで何とか逃げて来たそうです……。でも結局、巡回とは別の憲兵に見つかったようで……」

「巡回も憲兵も似た様なものだろう。だが、よく逃げ切れたな……」

「はい、一度は撒いたと思って戻ったところ、しかし結局捕まりそうになったと……」

 

 相手が口にする台詞は、どうにも歯に物が挟まったような物言いでハッキリしない。

 自分自身、それを報告して良いものか迷っているような口振りだった。

 特大の問題が頭上を圧迫している今、ヴァレネオに長く付き合ってやるような余裕はない。早く言うように急かすが、やはり口ごもりながら言った。

 

「一組の冒険者パーティに助けられたそうなんです。五人組の……」

「冒険者に助けられ……。それもまた珍しい事だが、中には国の利害を超越して行動する者もいる。国に属しているという意識が薄く、だから自分の信念に則って動く者がな。……最近では、めっきり見ないが」

「えぇ……。それがですね、その中にいた四人が、明らかに我々の良く知る方に似ていると……」

 

 遅々として話が進まなく、流石にヴァレネオも苛つきが募る。

 結論を先に言え、と強く催促して、それで相手も意を決したように口を開いた。

 

「その者は、自分をミレイユと名乗ったようです。他に同行していた者の人相も、我々が知る彼女らと良く似ています。ですので……まさか、本当にあの方が……!」

「そんな……! 本当なのか!?」

「はい、本人はそう説明しています。フロストエルフも同行していて、だから助けを求めたのだと……!」

「だが、しかしそんな……! 有り得ない!」

 

 現在、森の外で暮らすフロストエルフは存在しない。

 戦争時に全員が森から出て戦ったし、それから敗退してからも、現在の森で暮らしている。外に出て行方不明になったフロストエルフはいないし、知られずに別の森で暮らしている者も居ない筈だった。

 

 ミレイユとその仲間の格好は、広く知られた話だ。

 田舎暮らしの冒険者は、その冒険譚に胸踊らせて、験担ぎも兼ねて似た格好をする者もいるのだという。彼女を慕い、またその武威に肖りたくて似た格好をするのは好ましく思えるが、この時にあっては判断を曇らせる一報だった。

 

 思わずそれに縋り付きたくなる。

 本当に彼女なら……彼女たち四人がこの場にいたら、どれほど事態が好転するだろう。だが、現実はいつだって厳しい。

 

 五日ほど前の事、空を引き裂くような魔力が光柱として天へ昇っていくのが見えた。

 それだけの魔力を可視化させるのは勿論、その魔力波形には覚えがあり、あるいはと思ったものだ。彼女が姿を消して二百年、その年月を思えば本人だとも思えないのだが、もし自分の位置を知らせたいという理由で放ったのなら……。

 

 そう思って部下を数人引き連れて向かった先には、損壊した地面以外、何も残されていなかった。争った形跡もなく、魔力によって抉られた地面ばかりが残る草原には、それ以外の痕跡は何も無かった。

 

 歓喜の感情が大きかっただけに、落胆もまた大きい。

 結局無駄足を踏ませた事を侘び、失意のまま帰路に着いた。

 ヴァレネオがそれらを思い出して顔を曇らせる。だが、それを見た衛兵は、その杞憂を吹き飛ばすかのように、声を弾ませ言い募る。

 

「金髪の戦士は、刻印を持つ憲兵二人に対し、まるで赤子を捻るが如しだったそうです」

「そんなもの、いる訳が……!」

 

 咄嗟に否定しかけたが、彼女が信頼していた一人の戦士を顔に浮かべれば、それは実に容易いと理解できてしまう。刻印は魔術を非常に身近なものに変えたが、だから扱う者の力量も上下の幅が非常に大きい。

 

 刻印があるからと全てが厄介な訳でもないが、しかし二人の憲兵を同時にとなると流石に捨て置けない。

 もしかすると、あるいは――。

 

 ヴァレネオの気持ちが上向いていく。あの場にいなかったのは、待っている間に移動を開始したからだ、そう思おうともした。だが、待つつもりもなく、あのような合図を出した理由は思いつかなかった。

 

 だから、思い縋るあまり混同したのだと、自分の中で結論づけたのだ。

 ――それが、間違いだったとしら。

 

「その親子は何処にいる? すぐに連れてこれるか? 詳しく話を聞きたい……!」

「ハッ! 疲れてはおりますが、怪我もなく健康です。話す分には問題ないと思われます。すぐに連れてまいります……!」

 

 機敏に身体を翻し、足早に駆けて行く背中を見ながら、ヴァレネオはもしかしたらという期待感に胸を膨らませる。

 だがそこに、水を差すような声が入って来た。

 

「……お待ちを」

 

 衛兵の影に隠れて見えなかったが、まだ他にも誰か居たらしい。

 暗闇から湧き出るように姿を見せたのは、森の定住を始めてから幾らかしてからやって来た、一人の男だった。黒髪赤眼の中背中肉、特別外見的にも秀でたところはなく、どのような風景にも溶け込めそうな風体をしていた。

 

 古株なので何かと話をした事もあるし、時として有益な助言もあるから、敢えて疎遠にはしていない。しかし付き合いの良いとは言えないこの男が、執務室に現れたのは少々意外だった。

 

「スルーズ、どうしたと言うのだ……?」

「かの者の探索、私にお任せ頂けないかと……」

「なに……? しかしまだ、当の彼女が本物であるか、その真偽を確かめる段階だろう。決めつけ動いたところで、勘違いなら捜したところで意味もあるまい」

「はい、ですから……。このあと確認が済み、その真偽が信じるに傾いたなら、その時は私にお任せ頂きたい、とそう申しているのです」

 

 提案自体はこの場で蹴る程の事ではないが、しかしこの場で申し出るには不安を感じる。

 向こうから訪れるつもりでいるのなら、この森には罠も多く一筋縄にはいかない。集落を見つけ出すのも困難であろうし、それなら迎えに行く、というのは悪い提案でもなかった。

 

 とはいえ、こちらから見つけ出すにしろ、それが彼で良いのか、という問題もあった。

 彼女と面識が無い者より、娘とも面識のあるエルフを遣わした方が面倒も少ないだろう。手紙一つ持たせるのでも、やはり顔馴染みの方が話は早い。

 

 スルーズが自分で申し出なければ、その役目には絶対抜擢しなかった。

 かといって、彼に敢えて頼む理由も、やはり無かった。

 

「申し出自体は有り難いがね……」

「いえ、どうぞお聞き下さい。彼女がエルフを気に掛けていて、そしてその親子を送り届けたというのなら、一緒に森へ踏み込んでいる事でしょう?」

「それは……確かに、そうかもしれん」

「であれば、彼女には後ろめたさのようなものがあるのかも……。素直に顔を出し辛い、そういった心情があるのではないでしょうか……?」

 

 それもまた、有り得る話だった。

 二百年もの音信不通、本来ならそれは彼女の死、という形で納得するものだ。しかし寿命程度どうだと言うのだ、と思ってしまうのは、彼女の力を知っていればこそだ。

 

「いっそ、姿を隠してしまうやもしれません。エルフが捜しているなどという噂が立てば、やはり姿を見せ難くなるものでしょう」

「一理あるが……」

「私ならば、その点心配いりませんし、情報の収集も得意としております。顔見知りという点においても、……適任かと」

 

 実際、森の奥では入手できない情報は、このスルーズがもたらして来たものに頼っている。嘘も虚偽の報告もした事がないし、外の野営地が冒険者を使った王国の策謀だ、と教えてくれたのもスルーズだ。

 

 どこから仕入れた情報かは知らないが、この古株は一度として不利益を森に運んでは来なかった。人付き合いを苦手にしているのに、どうやって情報を入手しているかは気になっていたが、その能力を疑ってはいない。

 

「そもそもエルフが外に出て捜す危険性も承知している。バカ正直に耳を出して捜す訳でないにしろ、まず森から出るのも簡単な事ではなくなっているしな……」

「その点、私なら上手く隠蔽して出入り出来ます。これまで同様、吉報をお待ち頂ければ……」

「そうだな……。ユミル殿と同じ一族、その言葉が嘘でないと証明できる機会でもあるか。今更それを疑ってもいないが、しかし同胞といち早く会える機会だ。それを逃したくはないか」

「そういう意味ではありませんが、しかし……えぇ、神々の思し召しでもあります」

「神々、ね……」

 

 影の向こうでにたり、と笑うスルーズに嫌悪の眼差しを向けて顔を顰めた。

 今となっては、エルフも神を信奉していない。かつての戦争時、神から見放されたという意識が強いエルフからすれば、当然の感情だった。

 

 失ってから気付くとは言うが、信仰の見返りとしてあった疾病治癒の加護も無くなり、病が森で流行った事もある。新たに祭壇を用意しても既に遅く、その声も加護も届く事はなかった。

 どちらが先に見限ったのか、などと申したところで後の祭りだ。それからというもの、神に対する忌避感は募るばかりだ。

 

 その中にあって、未だに神への思慕を捨てられないスルーズは異常に思えるが、一々咎める程ではない。それはヴァレネオには鼻の付く事だが、排斥する程ではない。彼は有能でもある事もまた確かなのだ。

 

「だが、戦争も近い。あまり森を離れて欲しくないのだが……」

「この時期だからこそです。かの者が見つかれば、趨勢など決まったようなものでしょう」

「彼女には十分以上世話になった。恩義も感謝も十分ある。この上、恥の上塗りをするつもりはない」

「……それは本音ですか? まぁ、よろしい。かの者が助力するかは別として、見つけ連れて来る事に異存などない筈。里の混乱も少しは収まりましょう。……どんな手を使っても、連れて来るだけの価値があると思いますがね」

「それは少々過激な発言だな。戦争は我らがすべき事。だがその上で、一度でも顔を見せて頂ければ、これに勝る幸せもない」

 

 そう、それに比べれば里の混乱など些事に等しい。

 この混乱の始末は自分が付けることで、彼女を頼るつもりで捜すべきではない。ただ本物ならその感謝を伝えたい、その一心で捜すというなら咎められるものではないだろう。

 

 スルーズは暗闇の中から笑みを浮かべた。悪事や奸計を巡らすように見える笑みだが、これは彼の癖だった。ヴァレネオはその様に感じている。これまでも同じ笑みを浮かべていたが、それでも里の不利益を持ち込んできた事はない。

 長い年月が、その誤解を解いてくれたが、しかし今回だけは酷く不安が勝る。

 

「勿論ですとも。ですから見つけ出します。必ずや、見つけ出してみせますよ。どんな手……いや、あらゆる手段を講じてでも……」

「……うぅむ。いや、待て」

 

 ヴァレネオが止めようとした時には遅かった。闇の中に溶け込むように姿を消し、そして気配も既に失くなっている。不吉な予感はしたものの、最早どうにもならない。

 せめてスルーズの口から出た言葉が、単に大袈裟な物言いである事を祈る他なかった。

 

 先走ったスルーズだが、そもそも本当に彼女であったか確証もない。

 今もまだ待たせたままでいる衛兵に、その親子を連れて来るように頼み、ヴァレネオはすっかり疲れ果てた気分で椅子の背もたれに背中を置いた。

 



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第八章
ギルド訪問 その1


 東区画に入れば、そこは南の露店広場とは違う活気に満ち溢れていた。

 職人らしき人達が荷車を押して、商品か或いは原料の入った箱を運んでいるし、鍛冶で鉄を打つ音や、親方が弟子に怒鳴りつける声なども響いてくる。

 

 区画の入り口ほど、そういった職人気質の店は多く、客の呼び込みをする様な声はない。大抵は何処かの店と契約を結んでいて、そこに卸す製品を作っており、直接取引するような事は滅多にない為だ。

 頼まれて作る事も皆無ではないが、やはり主流ではなかった。よほど個人的な繋がりが強いか、何かの事情で頼み込むような事がなければ、起こる事ではない。

 

 区画の奥側へ行けば、商館のような建物が見えてきて、それがギルド全体を取り纏める総本部になる。それぞれのギルドは持ちつ持たれつ、という関係性なので、そこを公平に取り持つ存在が不可欠になのだ。

 

 互いの契約の不履行であったり、あるいはギルド同士の不和などの問題も、総本部で取り持って解決するよう動く。

 魔術士ギルドはその総本部から目と鼻の先にあって、道を挟んだ反対側には冒険者ギルドがあった。やはり何かと繋がりの多いギルド同士なので、どこの町でも大抵近しい場所にある。

 

 そこへ近付いてくれば当然、戦士や魔術士の姿も多く見えるようになって来た。元より東区画に入った時からその姿は散見していたが、ギルドのお膝元となれば見える人数も自然と増える。

 そしてやはり、誰の肌にも刻印が刻まれていた。戦士の多くは革製、鉄製の違いはあっても鎧を身に着けていて、肌を露出している部分は多くない。

 時に腕を晒している者もいるが、やはり大幅に肌を晒しているのは少ないものだ。

 

 だが、それでも刻印を誇示する為なのか、多くは頬や額、首筋などに貼り付けていた。

 中には頭の右半分の頭髪を添って、その部分にも刻んでいるくらいだ。どのような刻印を持っているかが、即ち自身の能力を証明する手段になる。

 自身の強さや力量を知らしめる意味でも、その様な手段を取る者もいるのだろう。

 

 ――しかし。

 それらを視界の隅に収めながら、ミレイユは小さく眉を顰めた。

 刻印は入れ墨とは違うものだと解っていても、ゴテゴテと顔や頭部に刻んでいる姿は品が悪く映ってしまう。

 

 額にワンポイント、あるいはスメラータのように頬に小さくあるようなら、それも一種のファッションのように見える。だが、顔面のパーツが埋もれてしまうような刻み方は、どうにも見ていて気分の良いものではない。

 それも一種の効率化、合理的と見る目もあって、冒険者の間では共通の認識なのかもしれないが……ミレイユは好きになれそうもなかった。

 

 かつて魔術師とは、己が魔術の片鱗すら見せないのが、美徳とされていた時代もあった。

 どの魔術を使えるかを知られる事は弱みになる。実際、そう考える魔術士は多かったし、秘匿する事が一つの強みであるのも確かだった。

 

 だが今は逆で、まず見せる事で、上下関係を知らせる意図があるのかもしれない。

 実際、現地で即興のパーティを作らねばならない時に、その意味は大きいという気はする。どのパーティが、どの人物が主導権を握るかで、報酬の配分にも変化があった。

 

 一見した時点で誰に譲るか、ある程度の指針が最初からあるなら、そういったトラブルも――いや、それはそれで無くならないトラブルか。

 ミレイユは首を振って思考を改める。そんな態度を近くで見ていたアヴェリンが、気に掛けて声を掛けてきた。

 

「……ミレイ様、どうかされましたか」

「いや、単に刻印を顔面にベタベタと貼り付けている輩が、気に食わないと思っただけだ」

「あぁ……」

 

 ミレイユが不快気な声を上げたのを見て、アヴェリンもまた同意する。そして、道の反対側に見える、剃髪した頭部全体に刻印がある男へ顔を向けた。

 

「確かに、ああいうのは見ていて不気味さが先立ちます。あれが強者の基本なのだとしたら、私としても快い気持ちにはなれません」

「実際、どうなの?」ユミルはスメラータへ顔を向ける。「アタシ達は刻印を読み取れないから、あれが凄いかまでは分からないんだけど、あれは威嚇になってるワケ?」

「まぁ、威嚇って言うか……」

 

 スメラータは少し口籠ってから続きを言った。

 

「やっぱり、刻める量は本人の力量を示すし……。上級刻印は一つあれば上等って言われるし、大きい刻印ほど大きな魔術って言われるから、頭に一個大きいの乗っけてるのは、確かに誰もが一目置くのかも……」

「でも、実はそれ一つしかない、ってオチもあるかもしれないでしょ?」

「それは……まぁ、そういう奴もいるかも。でも、現実的じゃないよ。それなら下級刻印を複数入れた方が、色々対応できる場面が多くなるし、便利だと思うけどな……」

 

 そこでユミルが、へぇ、と言った少しばかり感心した声を出す。

 

「アンタ、馬鹿みたいに見えて、案外考える頭持ってんのね」

「なにさ! 馬鹿が長く生き残れる訳ないじゃん! アタイはもうこれで三年食ってるんだ! 一端の冒険者なんだからね、舐めんな!」

「あらあら、怒らせちゃってゴメンナサイね、威勢の良いヒヨコちゃん。でも、そう……三年」

 

 ユミルが値踏みするように上下へ視線を移し、その絡みつくような視線に怯えて、スメラータはアキラの後ろに隠れた。最初の威勢はどこへやら、と思ってしまう仕草で、そしてアキラを盾とするところもすっかり定着してしまっている。

 そんなスメラータからすっかり興味を失ったユミルが、アヴェリンへと顔を向ける。

 

「三年って言ったら、結構悪くない数字に見えるんだけど、アンタから見てどうなの?」

「独力でやって来たというのなら、実際大したものだろう。一人で出来る事には限界がある。多くは一年で潰れるし、そうなる前に徒党を組む」

「まぁ、そうよね。自分に足りない分は他で補う、基本よね」

 

 そうして再び、ユミルはスメラータへ視線を戻し、それにつられてミレイユも視線を向けた。

 スメラータには他に仲間はいないようだった。関所で待っている間にすら見掛けなかったというなら、本当に一人で来たのだろう。

 

 そして独学でこれまでやって来たと言うなら、案外悪くないのかもしれない。

 かつて魔術とは師匠がいなくては成り立たないものだったが、しかし刻印という手段の誕生で必要性を薄くし、その為に正しい鍛錬方法も失われていったとするなら、それもまた皮肉という他なかった。

 

「けれど、刻印によっては、独力でやっていけるだけの能力を獲得出来るワケね……」

「それもまたピンキリだろうが……」

 

 ミレイユもまた口を出して、今はまだ読み取れないスメラータの刻印を見つめる。

 

「独りで全ての状況に対応するには無理がある。最初期では刻める量も少なそうだ……。だが、刻めばその分、魔力を刻印に吸われる訳だろう? ならば身体能力は、刻んだ数だけ弱体化するんじゃないか」

「何の魔術も使えない代わり、戦士としての能力へ一点特化したのが内向術士という存在だものね。その理屈で言うと、やっぱり弱体化は免れない……かしらね?」

「よほど魔力が余っているなら、刻む量にも余裕が生まれるんだろうが……」

 

 そう言いながら、スメラータを見つめ、そして自然とアキラにも視線が移る。

 アキラもまた魔力総量が多いとは言えない部類だ。鍛錬と()()()()様な苦労の末、出会った当初より大分上昇したと思うが、それでもまだ基礎力が固まっていない状態だ。

 

 過剰な魔力など持っておらず、例え割ける魔力があったとしても、ほんの一握り程度だろう。

 つまり、刻む魔術は一つが許容範囲と判断せざるを得ない。そうでなければ、刻印一つ得る度に、その身体能力を落としていく恐れがある。

 戦闘センスがあれば、その不利も乗り切れるかもしれないが、やはりそれもアキラにはないものだ。

 

 アキラに魔術を刻む為に魔術士ギルドへ向かっていたが、ミレイユとしては早々に刻む数を一つにすると決めた。将来的に増やせる希望は持てるし、その成長性によって数を変動させていける希望もある。最初から無理する必要も、欲張る必要もない。

 因みに、とミレイユはスメラータへと声を掛けた。

 

「刻印を購入するにも料金が掛かるだろう? 相場というのは、どれくらいのものなんだ?」

「そりゃあやっぱり、便利だったり強力だったり、下級か上級かで色々変わるよ! はったりだけで金を稼げるもんじゃないしさ、だからさっきの頭にでかでか刻印あった人は、金貨百枚とか使ってると思うよ」

「なるほど……。威嚇の為だけに払える金額ではないな」

「当たり前でしょ。自分は凄いんだって見せつけるものであるのは確かだけどさ、でも見せ札だけで戦えるもんでもないし!」

 

 アキラの後ろで自慢気に胸を張り、そして刻まれた魔術を見せつけるように腕を曲げた。

 結局、見せつけられても、ミレイユにはそれがどういう魔術か判別できないのだが、スメラータにとっては見せつけるに値する刻印であるらしい。

 

「その刻印はどういう効果で、値段は幾らした?」

「なに、お金ないの? コイツの鎧には三十枚ポンと出してたのにさ」

「いいや、余裕ならある。ただ相場が知りたいだけだ」

 

 ミレイユの言葉は事実で、溜め込むだけ溜め込んだ金貨が山程ある。それに個人空間に仕舞ったままになっている、武具や道具を売っても相当な価値があるし、稼ぐ必要があるなら水薬を作って売っても良い。

 水薬ならユミルの方が得意だし、野山を歩けば素材は幾らでも発見できる。一日で金貨千枚稼ぐ事も決して夢物語ではない。

 

 ミレイユの余裕を感じさせる発言を、特に疑う素振りも見せないまま頷き、スメラータは頭を捻って口に出す。

 

「そうだなぁ……。この刻印は中級自己強化の、筋力増強だよ。金額は二十枚だったかな」

「随分、安いんだな」

 

 同じ魔術が記されている魔術書を購入しようとすれば、それの十倍は出さねば手に入らなかった。元より魔術書は高価なもので、最上級の魔術書となれば金貨三千枚もする物もあった。

 家どころか豪邸を建てても余りが出るような金額で、ミレイユであっても購入する時には勇気がいった。

 

 だが現代では、中級程度ならその程度の値段で購入できてしまう訳だ。

 需要と供給という経済の一側面を見ても頷けるが、他にも理由はある気がする。ミレイユは、その思い付いた理由を口にしてみた。

 

「刻印は……刻むだけでなく、外す事も出来る。……そうなんだよな?」

「そりゃそうだよ。じゃなきゃ、上位の魔術を刻めないじゃん」

「あぁ、そういう発想か……。古いものは捨て、新しいものを得る。魔力に余裕が出れば、その分を刻むか上位魔術へ切り替えていく」

「刻む側からすれば、現物が失くなるワケじゃあないものね。だから安く済んでいるって部分もあるワケ……」

「お金が無ければ貸してくれるしね。……まぁ、代わりにゴリゴリに使い潰されるけど」

 

 魔術士ギルドと強い繋がりを持つのは、いつだって冒険者ギルドだ。

 長らく依頼の受け手がおらず、塩漬けにされている案件などが、そういった者たちへ回されるのだろう。誰も受けないのだから報酬が渋いとか、向かう先が面倒だとか、何かしら理由はあるのだろうが、それを片付けられるというのならお互い嬉しい取引かもしれない。

 

 スメラータが苦い顔して視線を逸した態度から言って、もしかしたらそれは、彼女の体験談だったのかもしれない。

 そんな事を話している間に、魔術士ギルドの前までやって来た。

 

 立派な石造りの建物で、三階建の建物だった。一見して現世の教会のように見えたのは、その屋根が三角形をしていたのと、その先端にギルドマークが飾られていたからだった。

 ギルドマークは八芒星の内側に円と四角が入った、十字とは似ても似つかぬ形だが、外側から感じる雰囲気がそのように見せていた。

 

 外開きの扉は大きく開け放たれていて、人の行き来は自由なようだった。

 時間の関係なのか、それとも普段からこのようなものなのか、あまり客は入っていない。一度刻めば、頻繁に変えるようなものでもない所為もあるのだろう。

 

 中級魔術に金貨二十枚は確かに安いが、しかし安い買い物でない事も確かだ。

 利用客が途絶えるものでもないとはいえ、普段はこういうものなのかもしれない。

 

 板張りの階段を五段上がって、やはり板張りの床を踏む。階段はギシギシと煩かったが、登り切った後の床板は、頑丈で良く手入れされているようだ。入口付近に砂の汚れは目立つものの、中は広く清潔そうに見える。

 ミレイユは先導するように入ったアヴェリンに続いて、魔術士ギルドの入口を潜った。

 



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ギルド訪問 その2

 その一団がギルド内へと入って来た瞬間、周囲の空気が一変した。

 美貌の集団を見て呆け、次いで高価な装備に目が眩んだ。先頭にいる四人は特に別格で、いずれの品も素材からして最高級、そして尋常ではない付与がされた一品だと分かる。

 

 目の肥えた冒険者は勿論、受付で次の客を待っていた職員もまた、その異様に目立つ一団には目を付けていた。

 高価な装備、堂々とした立ち振る舞いには、最上級の冒険者を思わせるのだが、その姿をこれまで一度も目にした事がない。魔術士ギルドの刻印魔術がなければ、冒険者は成り立たないと言われる程だから、あれ程の装備を入手できる冒険者ならば、これまで一度ならず目にする機会もあった筈だった。

 

「……あの人達、誰なのか知ってる人いる?」

 

 職員の一人、ジェランダが近くの職員に小声で聞いた。

 傍の男性職員、アニエトが見惚れた顔を取り成して返答してくるが、やはり知らないと言う。

 

 装備品は冒険者の格を現す。刻印同様、装着者の格を知るのに役立つものだ。

 あれだけの装備を身に付けるには一朝一夕に行く筈がなく、そして遠く離れた場所で活動していたとしても、全てのギルドの総本山たるオズロワーナで全く聞こえてこないというのも不自然だ。

 それに何より――。

 

「だけどあの装備……。確かに見事だけど……あれ、魔王の格好でしょう?」

 

 ジェランダが思わず眉根を寄せてしまったのも、無理ない事だった。

 見る者が見れば分かってしまう。幻術によって隠蔽はしてあるようだが、しかし見識ある者を誤魔化せるほど幻術は便利なものではない。

 

 術の使用そのものが、下手な騒ぎを起こすつもりはない、という表明と配慮に見えるが、それなら最初からその様な格好をしなければ良いだけだ。

 良識ある魔術士ギルドの一員として、声高にも直接にも非難するつもりはないが、しかしトラブルの元になるのも確かだ。それほど魔王ミレイユという存在は嫌われている。

 

 かつて魔族を率いてオズロワーナで大虐殺を行った魔術士として、多くは畏怖する存在として語られていて、この都市に昔から住む者ならば両手で歓迎できない格好だ。

 そして改めて見てみると、身体の何処にも刻印がない。

 

 最後尾に付いている赤毛の女性冒険者だけは例外だが、一緒に入って来た一団の中には、見える肌のどこにも刻んでいなかった。

 その事に訝しむ気持ちが募る。

 

「……まさか、刻印も無しにこれまで活動して来たの?」

「いや、まさか。見えない場所に刻んであるんだと思いますよ」

「でも、だからって一つも見える場所に刻まないなんてある?」

「それは……まぁ……、でも個人の趣向の問題ですし」

 

 歯切れ悪く答えるアニエトも、やはり普通ではないと思っている様だった。

 普通である事を強要するつもりもないし、アニエトの言うとおり個人の問題であるのも間違いない。だが、刻印を持たない冒険者は、同業者からとかく舐められる。

 

 誰もが力量の物差しとして計るので、それを持たない者は力量なしと見做されるのだ。

 冒険者として活動しているなら、それを知らない筈もない。

 円滑なやり取り、あるいは無用のトラブルを避けるなら、不利に働かない刻印は見える場所に付けるべきなのだ。だが、トラブルを避けるつもりがあるのなら、最初からあのような格好で都市に入っても来まい。

 

 ジェランダはあの集団をどう判断して良いものか、ほとほと困ってしまった。

 他に考えられるのは――。

 

「お貴族様の道楽って事はないかしら……」

「あー……」

 

 アニエトがしたり顔で例の集団を見つめる。

 あの美貌も、そして装備も、刻印を持たないのも、それで説明が付いてしまう。高価な装備は金に物を言わせただけ、貴族なら肌に何も刻んでいないのが当然で、そして堂々たる振る舞いも、普段からそうしているなら頷ける様相だ。

 

 ただ一つ、あの格好だけは褒められないが、一種の火遊び程度に考えているのかもしれない。

 世間知らずのご令嬢が、冒険者ごっこをしてみたくなってやって来た――。

 ジェランダはそのように考えた。ならば当然、威力や効果の高い魔術など刻める者もいないだろう。

 

 適当に、形が見栄えする下級魔術でも勧めてやって、それで気分良くお帰り願えば良い。

 その時、受付の奥――背後に設けられた部屋から一人の男がやって来た。その部屋はギルド長室へと繋がっている。いつもの癖で振り返ると、そこにはやはりギルド長が立っていた。

 

 五十を過ぎた細身の身体で、紫色に白いものが混じり始めた頭髪を後ろへ流している。

 同じ色の口ひげを蓄え、片目グラスを付けた姿は、まるで貴族家の家令の様にも見えた。

 

 ギルド長は普段の職務以外に、現場の仕事振りを観察したり、訪れる冒険者をチェックするのに外へ出て来る。どのような魔術が好まれるかは、毎日集計したものを見ているので分かるが、冒険者の個としての質などは、そこからでは分からないものだ。

 

 それで休憩がてら、良くこうして現場を見に来る。

 目が肥えたギルド長ともなると、個々の資質や力量など、外から見える刻印から以外からも大抵の予想が付くものらしい。噂では、刻印のみならず、その魔力などからも読み取って、その将来性を見抜く力もあるのだとか。

 

 時折、まだ駆け出しの頃の冒険者に、ただ同然で刻印を与える事があるし、実際そういう冒険者は大成する事が多いとも聞いた。人材発掘はギルド長の趣味と言える。

 そのギルド長が、例の一団に目を留めて、目を細くさせた。

 

 値踏みというには不躾なまでに長く見つめ、ジェランダは要らぬ騒動を予感して背筋を寒くする。相手が貴族だとすると、無用なトラブルを招きそうだと警戒していると、ギルド長はサッと視線を向けてきた。

 

「ジェランダくん、直ぐにサロンの方へお通ししなさい」

「えー、あの……見目華やかなご集団でしょうか?」

「そうです」

「でも、あの方たちは一見さんですよ。やっぱり、お貴族様だから、そういう対応ですか?」

 

 貴族のお歴々が魔術士ギルドに顔を出した、という例は聞かない。

 冒険者ギルドの方には、顔を隠して依頼する事もあるのだが、それだって本人ではなく、使いの者がするものだ。本人が来る必要はないし、仮に合っても馬車を使うだろう。

 

 貴族は歩いて移動しないものだ。

 そのように考えていると、珍しく苛立たし気に、ギルド長が視線を厳しく向けてくる。

 

「そうではありません。……珍しく、本当に珍しく本物を見ました。決して粗相のないよう、気を付けてお連れするように。直接の対応はわたくしが致します」

「は、はい。分かりました……!」

 

 厳しい声音と視線に、自然と背筋が伸びる。

 即座に椅子から立ち上がり、専用の出入り口の戸を開けた。

 

 通常、サロンを利用できる客というのは上客と決まっていて、それは単純に多くの回数を利用しただけでなく、高い実力を持つ者たちに限られる。

 上級魔術はそれだけで大変高価だから、その場で払うにもカウンターでは障りがある。

 

 大金を用意するので、安心して広げられる場が必要、という現実的な面もあって用意された部屋だった。部屋の中は机やソファも一級品で揃えられており、上客をもてなすに相応しい家具で飾られている。

 

 相手が貴族なら、一見さんでも対応する場所として適当だが、ギルド長の口振りだと、どうやらそういう事でもないらしい。

 普段から厳しい一面はあるものの、しかし物腰は柔らかで、理不尽な怒りなど見せない尊敬できる人だ。それが感情を露わにして見つめる姿は、一種異様ですらあった。

 

 だが、命じられればその通りにするのが一般職員というものだった。

 近付けば近づくほど、その美貌に当てられるような気がした。自分の身なりを客観視して、近くに立ちたくないとすら思ってしまう。

 だが、そんな様子をオクビにも出さず、普段から客に見せている笑顔を浮かべて一礼した。

 

「ようこそ、魔術士ギルドへ。当ギルドに足をお運びいただきありがとうございます。付きましては、お客様にはサロンの方をご用意いたしました。そちらの方で、ごゆるりとお寛ぎいただき、お望みの刻印魔術をお探しください」

 

 魔王装束を身に着けた女性を、先頭で庇うように立っていた金髪の戦士が、満足気な笑みを浮かべた。その輝く美貌を間近で直視してしまい、ジェランダは思わず、時間を忘れて呆けながら眺めてしまった。

 



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ギルド訪問 その3

 魔術士ギルドの中に入って、最初に感じたのは煙の匂いだった。火事という訳ではなく、この世界の室内というのは、何処も大抵このようなものだ。窓だけでは明かりが足りない時、昼であっても蝋燭を使う。金を持っているギルドとは、火を惜しみ無く使い、それが権威や格付けとなっていたりもする。

 

 次いで感じたのは活気で、利用している客が少ない割に、そうと感じさせない雑音が耳を叩く。

 入って正面は広く、人の行き来を邪魔しない造りとして広く取ってあって、その先には受付らしきカウンターがあった。

 

 向かって右手側には机と椅子、それを囲むように壁際には本棚が敷き詰められてあって、利用客の姿がもチラホラと見える。

 机に座っている者達の中には、それを熱心に読み込んでいる魔術士らしき人もいるし、反して仲間と思しき友人と、あれこれと相談しながら本の図案を指差している戦士風の男もいる。

 

 右側のスペースは、どうやら望む刻印を探す為に用意された場所であり、そして雑談スペースの様な役割も持っているようだ。

 左側にもスペースはあるが、右側と違ってあまり人はいない。

 壁際には設置されたボードに、幾つか手の平サイズの紙が貼り付けてあって、これは冒険者ギルドでも良く見る光景だった。

 

 ただ、それが主流の冒険者ギルドにあって、こちらはあくまでオマケという印象を受ける。

 荒事を主に引き受け、多種多様の業務を受け入れているのとは逆に、魔術士ギルドが求めるものは魔術士にしか出来ない内容だ。

 

 ここからではその内容までは分からないが、かつては魔術書の買い取り案内であったり、付与術が出来る魔術士の応募案内であったり、魔術の講師を募集する内容などがあった。

 冒険者という括りが大き過ぎる所為で、あちらの募集依頼の内容は多岐に渡るが、本来のギルドとはその専門性を元にした依頼になるものだ。

 魔物の討伐は他に任せているので、魔術士ギルドでは、それに近しい内容は無いとも言える。

 

 室内に明かりといえば、窓から差し込む光しかないので、暗い印象があった。右側スペースは本を傷まないようにする所為か、尚の事窓の位置は高く、直接光は落ちてこない。

 あれでは読む方も苦労するだろう、と思うのだが、だから蝋燭を使って読んでいる。暗い室内で昼から明かりを使って本を読めるのは、一種の贅沢だ。

 

 現世を知っている身からすると可笑しく思えるが、光というのは実に貴重だ。

 まだ駆け出しの冒険者は何かと入用で金がない。蝋燭代にも事欠くのは珍しくなく、だから無料で利用できるこの場所が、活気を生んでいる原因でもあるのだろう。

 

 読書スペースに明かりは無くとも、受付の上部には大きく窓が設けられていて、それが入り口まで貫くように明かりが差し込んでいる。

 その中を悠然と歩きながら、ミレイユは周囲の様子をそれとなく見つめる。

 冒険者らしき男からは不躾な視線が飛んで来て、少しでも力量を持つ魔術士は怪訝な様子で注視していた。

 

 何より緊張を持って様子を見て来たのが受付職員で、恐らくこの職員は事態を正確に理解していそうだ、と思った。

 いっそ不釣り合いで、不都合とも思った事だろう。

 少しでも魔力を計れる技量を持つのなら、その力量を察せられるのが当然で、そして現在の刻印魔術主流の世において、何も刻んでいない者達へ不信感を抱かない筈がないのだ。

 

 一体、何者だと思うのが普通で、そしてミレイユの格好もまた、それを後押しする要因となっているだろう。どうやらミレイユ自慢の装備一式は、大分不名誉な形で広まっているらしいので。

 

 ミレイユは周囲を見渡す次いでに、アキラの方へも視線を向けると、物珍しく見渡す中に不安と緊張の色も見える。自分の身に何か起こる、あるいは起こされると察しているようだ。

 ルチアやユミルは大きく間取りが変わってしまったギルド内を、感心したような顔つきで見つめている。

 スメラータからも感心した様子は伺えるが、他の者より興味を示しているようではない。やはり、どこの町のギルドも、同じ様な造りなのかもしれない。

 

 ここへ来た理由は、アキラに刻印を与える為だ。

 何が良くて、どういった物を選べば良いのかは、その戦闘スタイルを熟知しているアヴェリンに、助言が貰えれば十分だとは思う。だが、ミレイユがまるで知らない魔術を、刻印としている物もあるかもしれない。

 その解説役になるかと思って、勝手に付いて来るスメラータにも、特に何も言わないでいた。

 

「さて、まずは受付に行くのが良いのか、それとも勝手に本を呼んでも良いものか……」

「流石に勝手は拙いんじゃないですか? ギルドに加入もしてないのに」

 

 ルチアの常識的な発言に、それはそうだ、と納得と共に頷いた。

 本は未だに大量印刷できる物ではないので、一冊が大変高価だ。粗雑な冒険者が扱う事を考えれば、破損も当然織り込み済みで読ませているだろう。

 

 それをギルドの加入条件に弁償などを盛り込んでいたり、あるいは予め料金を徴収して利用させていたりするのであれば、ギルド員ですらない見知らぬ者に使わせる道理がない。

 かつて魔術書を読む者は、その貴重性や重要性を理解する魔術士しかいなかった。今ではその門戸は広く開かれ、例え字が読めずとも術が使える。

 それを思えば、加入者しか利用出来ないのは、むしろ当然の措置と言えるかもしれない。

 

 本棚へ向かい掛けていた身体を止め、受付へと方向修正したところで、カウンターから立ち上がり、机の一部を持ち上げて一人の職員が向かってきた。

 それは訝しげな視線を向けていた女性職人で、緊張した雰囲気を纏わせて近くで止まり、ぎこちない笑顔を見せて一礼する。

 

「ようこそ、魔術士ギルドへ。当ギルドに足をお運びいただきありがとうございます。付きましては、お客様にはサロンの方をご用意いたしました。そちらの方で、ごゆるりとお寛ぎいただき、お望みの刻印魔術をお探しください」

「……サロン?」

 

 かつての魔術士ギルドには存在しなかった場所だ。

 良く金を落とす上客などを応接するのに使う部屋なのだろうが、ミレイユ達は当然ながら利用するのは初めてだ。アヴェリンは当然の対応と満足気に頷いているが、唐突な招待には思わず面食らってしまう。

 今日が初訪問となる上に、ギルド未加入者へ勧めるものではない。

 

 何か裏があるのか、と勘ぐるのが当然で、もしかするとスメラータがいる事で招かれたのかと思ったが、その表情を見るに、どうやら違うと判断できた。

 スメラータの表情には疑心と驚愕が渦巻いていて、何が起きているかも理解できていないようだ。

 

 否定も肯定もする前に、折った腰を上げてキビキビと歩き出してしまう。

 罠や誘いなどと言うほど露骨なものではないだろうが、果たしてどう対応するべきか考えている間に、ユミルがさっさと後へ付いて行ってしまった。

 

「おい……」

「別に大丈夫でしょ、ここで変に警戒しても意味ないし。周囲を見れば、その程度も分かろうってもんだわ」

「……そうだな」

 

 本棚付近にいる冒険者達にしろ、ギルド内にチラホラと見える魔術士にしろ、敵と認識するのさえ憚られる程、その力量は低い。

 魔力総量を測ればその全てが分かるという訳でもないし、その魔力も刻印に吸収されている所為で正確なところが分からないが、何があっても対処できるという自信が持てる程度には、彼らは敵になり得なかった。

 

 どうにも気が張って、変に気を回してしまうが、ユミルだけでなくアヴェリンとルチアまで鷹揚に構えているのなら、彼女らの判断を信じて良いだろう。

 ミレイユもそれらの背に続くと、アキラもスメラータもその後に付いてくる。

 

 応接室は向かって左側にあるらしく、掲示板付近のドアを開けて、職員は入口付近でドアを開いたまま、中へ招き入れるよう腕を動かした。

 そこへ最初に入るのはやはりアヴェリンで、室内の様子を確認してから頷きを見せる。その様子を確認するかどうかという、ギリギリのタイミングでユミルが先に中へと入り込んでしまう。

 ルチアが苦笑してミレイユへ先に入るよう勧めた時、スメラータからの遠慮がちな声が、それを止めてきた。

 

「……あのさ、アタイやっぱり付いて行かない方がいい? 待ってた方がいいかな?」

「そうだな……、やはりサロンに招かれるような経験はないんだよな?」

「ある訳ないよ……! あんな所に入れるのなんて、ホント第一級の特別な人達だけ! 言われるまで、そんなのがある事すら忘れてたもん!」

 

 そうだろうな、とミレイユは頷く。

 その様な場所に縁がないのは何となく分かる。スメラータが冒険者の枠組みの中で、どれほどのランクに位置するのか分からないが、上位一割に属していないのは間違いないだろう。

 その一割が利用できる場所であるかは未知数だが、特別待遇の目が出て来るのは、大抵その位の上位になってからと相場が決まっている。

 

 だが同時に、それはギルドへ加入した組合員の特権でもある筈だった。

 そうではないミレイユ達を招き入れるというなら、その規定を無視したメリットがあるという事だ。悪目立ちする格好だが、金は持っていそうだと目を付けたか、あるいはそれだけの価値があると青田買いする気持ちで接触するつもりか……。

 

 刻印の事は触りしか知らないミレイユ達だ、少々値段を釣り上げられても分からない。

 それならば、元より刻印について教えてやりたい、というつもりのスメラータには同行させた方が良いかもしれなかった。

 

 全ての刻印を網羅している筈はないだろうが、不当な値段の釣り上げくらいなら、分かってくれる可能性がある。

 いっそ怠け者の番犬くらいの、役に立てば儲け物、という気持ちで連れて行くのが良いかもしれない。

 

「刻印について教えてくれるんだろう? そのつもりで付いて来たというなら、役立ってもらおうか」

「いやぁ……、本当に教える必要あるかな」

 

 その声に自信はすっかり消え失せていたが、恩を売るチャンスとも思ったようだ。

 歩き出したミレイユの後ろをルチアが続き、その後ろをアキラと横並びに付いて来る。少々待たせた事を侘びながら入室し、そして見事な装飾の室内に我知らず感嘆の息を吐いた。

 



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ギルド訪問 その4

 入室して一番に目に入ったのは、白い壁だった。

 それは外と変わらぬ素材に思えるが、実際にはその光沢などに違いが見える。何より自然光を多く取り入れられる工夫が施されており、非常に明るい。

 

 それまでに暗い本棚スペースを見ていただけに、その対比で驚いてしまった。

 あるいは、この対比を楽しませる為に暗くしていたのではないかと、勘ぐってしまう程だ。

 

 調度品もまた白を引き立てる物を用意されていて、壺には花が生けられ、絵画が掛けられていたりと、目を楽しませる工夫が髄所に見える。

 机は長方形の大きなもので、光沢のあるダークブラウンの材質は落ち着きを見せ、そしてそれを取り囲むように置かれたソファーは、対象的に丸みを帯びて柔らかい印象を与える。

 

 天井に視線を移せば、木の梁が縦に数本走っていて、そこから吊り下げられた蝋燭のシャンデリアが見える。今は当然、火が入っていないが、蝋燭を計八本立てられたシャンデリアが三つもあれば、夜でも使用するのに不便はないだろう。

 

 サロンと呼ぶに相応しい広さも用意されていて、暖炉も完備された室内は、どのような季節も不便なく過ごせそうだった。

 アヴェリンが納得するように頷いて見せた仕草も、敵が潜んでいない事を確認したばかりではなく、もてなしとして用意された部屋の内容も含んでいたのだろう。

 

 職員に促されるまま部屋の奥へ進み、そして上座へ腰を下ろして帽子を膝の上に置く。

 アヴェリンは、やはり定位置となる右斜め後ろで立ち、ルチアとユミルはそれに合わせた窓際の席へと座る。アキラとスメラータも立っていようと、ユミルたち側のソファ背面に回ろうとしたのだが、それを止めてユミルたちの対面に座るよう指示する。

 

 スメラータは立っていても良いのだが、アキラに刻ませようと言うのに、その本人が立ったままでは締まらない。言葉の多くは聞き取れないだろうが、しかし説明を受ける本人が近くにいないというのは不便だろう。

 

「それではお茶を持ってまいります、少々お待ち下さい」

 

 入り口で待機していた職員が一礼し、扉を音を立てないようにして閉めていく。

 それでアキラが肩を落とすと、大きく息を吐いて背中を丸めた。

 不安そうな視線を彷徨わせているのは相変わらずで、そういえば説明をまるでしていなかった事を思い出した。

 

「……アキラ、ここに来た理由だが」

「は、ハイッ」

「お前に……、いや」

 

 そのままアール語では理解できないと思い直し、途中から日本語に切り替えた。

 ミレイユが日本語を使ったとなれば、アキラもまた使用を認められたと思い、日本語を使って返してくる。

 

「お前は話に全く付いて来れていなかったと思うが、私達がこの世界を離れている間に、刻印魔術という新技法が世を席巻していた。――その、スメラータが腕にしている入れ墨みたいな奴だ」

「――それ、魔術だったんですか……」

「詳しい説明は後程するとして、つまり誰にでも簡単に魔術を使えるようにした技術、それが刻印という事らしいな」

 

 なるほど、と口の中で呟いて、隣に座るスメラータの腕や頬の刻印を、無遠慮と思える程に見つめた。そんなアキラの様子を、スメラータは訝しむように見ている。

 

「――つまり、お前にも魔術が使えるという意味だが」

「僕にも!?」

「そういう事らしい。本来は才覚が物を言う魔術だし、それ故にお前には向かないと言ったものだが、刻印という技術がそれを可能にする」

 

 そこまで言われて、自分がここにいる理由に思い至ったようだ。

 ここがどういう場所か、魔術士ギルドという場所で何が出来るのか、それが分かっていなかったとしても、この場で説明したからには、どういう意図があっての発言だったのか分かるだろう。

 理解が広がるに連れ、その表情に期待が深まるのが見えてくる。

 

「それじゃあ……!?」

「うん。お前に魔術を覚えさせる為、魔術士ギルドに来たという訳だ」

「本当に……!? それが本当なら……、本当に凄い事ですよ!」

 

 アキラの興奮ぶりは凄まじく、まるで子供のようなはしゃぎようだ。

 今までも学園で年の頃が同じ少年少女が、魔術――この時は理術と呼ばれていたが――を使う度に、自分には無理だと言い聞かせ、忸怩たる思いをしていたに違いない。

 

 人には向き不向きがある、と理解していても、使いたい、使えたらという気持ちは常に胸の何処かにあった筈だ。いつだったか、魔法や魔術と言ったものへ憧れを語っていた事を思い出す。

 諦めていたものが突然、幸運にも天から降って来たような心持ちだろうが、勿論、話はそう単純ではない。

 

「さて、喜ばせた上で、このような事を口にするのは心苦しいのだが……」

「あ、やっぱり何かあるんですね……」

 

 愚痴の様な事を口にしそうになって、アキラは咄嗟に背筋を伸ばして顔を引き締めた。

 

「いえ、失礼しました。機会を与えてくれた事だけでも、感謝しています」

「……そうだな。まぁ、実際の機会については、これからのお前次第だが……」

 

 何やら不安を感じ取って、アキラはユミルやアヴェリンへと目配せする。

 しかしアヴェリンからは視線が返って来ないし、ユミルはいつもの嫌らしい笑みを浮かべて膝の上で頬杖を突くばかりで、返答らしい返答もない。

 

 アキラは生唾を飲み込んで、落ち着かなく身じろぎした。

 

「それで……、それは一体……?」

「お前に刻む魔術は一つだ。その一つをこの場で決めろ」

「一つ……。一つ、だけ……」

「少ないと思うか?」

 

 意地悪な質問だと思うが、アキラは一瞬迷う仕草を見せ、すぐに顔を横に振る。

 

「いえ、幾つもあったところで使い切れる自信もありませんし、それが僕相応だと判断されたのなら、不満なんてありません」

「うん、殊勝な判断で嬉しい……と言いたい所だが、もっと現実的な理由がある」

「……と、申しますと?」

 

 アキラに伝わらなくて当然だ。困惑した表情で首を傾げるアキラに、上下に手を振って気を落ち着かせるように言う。

 刻印という技術は、何も万能な物ではなく、誰もが身に着けやすい反面、内向術士とは決定的に相性が悪いという事実も分かっている。

 

 肌面積が許す限り、という制限はあるものの、その制限まで刻んでしまうと、内向術士としての強みを喪う。それが転移といった便利な魔術と引き換えに覚えたい、というならそれも有効かもしれないが、間違いなく戦士としての格は落ちる。

 

 それもまた戦い方一つで幾つでもやりようはあるだろうし、単純一直線の戦い方より搦め手を多様する戦い方もまた、強さの一つだ。

 それを魔術制御という超難関技術を身に着けず使用できる、というのは強みになるのは確かなのだが、ここまで内向術士として育てた力量を失わせるのは、素直に惜しい、と思ってしまう。

 

 何よりアキラは小難しく戦闘を組み立てるより、間違いなく剣を振り回している方が向いている。強みを一つ捨て去って、器用貧乏に割り振れば、そもそも生き残る事を優先させたいミレイユの意志と反してしまう。

 アキラの意志を極力尊重するなら――、そして今後も付いて来たいというのなら、ここは飲み込んで貰わねばならない。

 

「刻印を一つ刻む度、お前は弱体化する。……あぁ、内向術士の戦士として、という意味だが。実際に刻める数は魔力総量に応じた数、という事になるのだろうが、好きに刻めば練り込める量が減る分、内向術士としての出力が低下する」

「そう……そういう。それで、僕なら一つで限界だと判断されたんですね」

「余程、魔術に精通して使いこなせるなら、話は別の可能性もあるが……。お前が自分で言うくらいだ、自覚はあるのだろう」

「ですね。だから一つで、むしろ安心できるというものかもしれません」

 

 アキラが苦笑して頭を掻くと、ミレイユも口の端に小さく笑みを浮かべた。

 

「そこでお前には、自分が身に付けるべき、自分の戦闘スタイルに合う何か、それを考えて貰う。今の自分に付け加える、それに最も適した何か……それを思い描け」

「……それは分かりましたけど、僕にはどういう魔術があるのか分かりませんよ。それとも、学園で目にしてきた理術を参考にしろ、という事なんでしょうか?」

「そうだな、魔術は実に多岐多様に渡るし、刻印魔術として発展してきた中で、新たに注目を浴びるようになった魔術もあるかもしれない。それについては、これからカタログなんかが用意されて、そこから探せるようになっているだろう」

 

 アキラは最近癖になりつつある、困った顔で眉を八の字に曲げた。

 

「見せられても、やっぱり僕には分かりませんが」

「……そうねぇ。だったら変にカタログから探すのはお止しなさいな。今アンタが戦う中で、もしくは戦ってきた中で、こういう事が出来ていたら、と想像できるものはないの? あるいはこうした事が出来れば、と思うものとか。それを考えてご覧なさい」

「おっと……、実に的確な助言だな。黙って見ているのが不安になったか」

 

 ユミルが小馬鹿にするような表情ながら、実に理に適った助言をすれば、それを面白がってアヴェリンが揶揄する。

 アキラは素直に助言を感謝し頭を下げ、目を瞑って戦闘を思い起こし始めた。

 

 即座に思いつけるのか、それとも時間が掛かるのか――。

 別に急かすつもりはないが、ここで決められないようなら、いつまでも決められない。たった一つと釘を差されたからこそ慎重になるのは当然だが、それで決められないというなら、それはそれで問題になる。

 

 最終的にはアヴェリンから助言、ないし指示の上で決めて貰おうと思っているが、それで決めるという話になれば、アキラの評価を一つ下げなくてはならなくなるだろう。

 そう心の底で思っていると、黙り込んだアキラを期に、訝しげな表情をしていたままのスメラータが口を開いた。

 

「ねぇ、さっきから何を言ってたの? 全然知らない音を出して、なんか言葉っぽいのが通じてるみたいだし。この国の人じゃないの?」

「これはまた……答え難い質問だな」

「最初はアキラが、人から離れて小さい頃から生きてきたとか、そういう理由で話せないだけかと思ってた。でも本当は普通に話せてて、それがアタイの知らない何かだって分かった。ねぇ、もしかしてあんた達って……!」

 

 別にどうとでもなるが、どうしたものかな、とミレイユは心底で唸った。

 連れて来たのが失敗とまでは言わないが、一々相手にするのも面倒臭い。求めているのは、単に刻印に対する助言のみなのだ。

 

「あんた達、もしかして別の大陸から来たの……!? そんなの無い、お伽噺だって聞いてたけど、もしかしたら本当に……!?」

「あらぁ……」

「そう来たか……」

 

 ユミルが呆れたように天井へ視線を向け、そしてミレイユ重く息を吐いた。

 アヴェリンは反応しないのが正解と思っているようだし、ルチアも同様に顔を背けて言葉を発しない。

 スメラータは口に出した事で、自分の意見に更なる自信をつけたらしい。更に勢い込んで、両手を握り拳にして上下に振る。

 

「だって、そうじゃないと可笑しいじゃん! 刻印知らないし、変な雰囲気してるし、変な言葉使うしさ!」

「……言われてみると、そんな気がしてきた」

「ちょっと、アンタが変な意見に染まらないでよ」

 

 ほんの冗談のつもりだったが、本気に近い叱責が飛んできて、ミレイユは小さく謝罪した。

 ミレイユの反応を見て、スメラータは更に興奮度を増して、鼻息荒くアキラへ迫る。

 

「ねぇ、どっから来たの? 何て国から? アタイもいつか行けるかなぁ!?」

「……は、え、なに?」

 

 突然肩を揺すぶられて、瞑想状態だったアキラの身体が跳ねた。

 何事かと動揺しながらスメラータを見返し、それから助けを求めるようにミレイユ達へ顔を向けてくる。

 

 いつまでも好きにさせておくと、いつまでも喚いていそうなので、手っ取り早く解決する事にした。

 ミレイユはユミルに目配せすると、それだけで全てを察したユミルが、スメラータの顎を掴んで強制的に顔を向けさせ命令した。

 

「いま起きたコト忘れなさい。アキラは山奥で一人、早く親を亡くして生きてきた。言葉を知らないのは、その所為よ」

「は、お……」

 

 ユミルと目が合った途端、焦点が合わず脱力する。

 言葉にならない言葉を口にして、ソファの背もたれに身体を預け、呆けたまま天井の一点を見つめたままになった。

 

「催眠のついでに、自分自身の考えを刷り込ませたのか」

「そう、自分の考えから生まれたものなら、それをより信じ込むから。時間が過ぎれば催眠も解けるけど、そうした時、予てから自分で考えていた意見の方が強く表に出るでしょ。大陸云々言い出したら、何を寝言言ってんの、って恍けてやればいいんだし」

「……うん、よくやった。皆もそのつもりで」

 

 三人から了解の返事があると同時、ノックの後しばしの間を取って扉が開けられた。

 職員の手にはトレイがあって、最初に言っていたとおり、お茶と茶菓子が載っている。それを手慣れた手付きで、それぞれの前に配置して、一礼して去っていく。

 

 そうしてお茶に口を付けるより前、職員と入れ替わるようにして、一人の紳士が入室して来た。

 



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ギルド訪問 その5

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 サロンへ入室してきた品の良い老紳士の手には、一冊の分厚い本が丁重な手付きで携えられていた。

 その彼はまず最も近いスメラータへ目を向け、それから対面のルチアとユミルへ、そしてミレイユという順で追うと、その相好を崩した。

 ミレイユの背後で立ったままでいるアヴェリンに対しても、興味深い視線を向けたが、椅子に座るように勧める事もなく、ミレイユの対面となるソファの横に立って一礼した。

 

「私、当ギルドの長を務めております、ガスパロ・オフレーゼと申します。当ギルドに足を運んで頂き、感謝しております。お客様にはごゆっくり寛いで御用を申し付けて頂けるよう、この様な場をご用意させて頂きました」

「うん、その気遣いには感謝したいが……しかし、そうされるだけの理由がない。私はギルドを利用した事がないし、そちらも面識などない筈だ」

「まこと、ご最もでございます。ですが(わたくし)め、己の審美眼には些かの自信がございますれば……」

 

 ふむ、とミレイユは視線を下へ向け、手慰みで帽子の縁を触る。

 

「私達を、どなたか貴い人物か血族と勘違いさせたか……?」

「いえ、決して見てくれの話ではございません。お客様程の魔力を持つ方、魔術士ギルドの長を務める者が、分かろう筈もございません。それだけの魔力を獲得するに至った方々へ、粗相があってはならないと、そう判断したのでございます」

「……分かるようで、やはり分からん理屈だな」

 

 ミレイユは帽子から視線を上げ、ちらりとガスパロへ目を向けた。

 片眼鏡の奥から見える柔和な瞳には、尊敬や感謝といった感情が伺えて、腹に一物持っているようには見えない。単純な接待として、相応しい(もてな)しをしようと考えているのは窺えるが、そうなればやはり、尚のこと分からなかった。

 

 ミレイユは確かに大きな魔力を持っているし、それに敬意を示す事はある。エルフに置き換えると、その部分は遥かに顕著なのだが、人間社会では力自慢と変わらない扱いだ。

 凄いは凄い、だがあくまでそれだけ。

 

 人によっては――魔術士によっては、己より遥かな高みへ至った者への敬意を示す事はある。だが、ギルドがそれで優遇するなど聞いた事がなかった。

 あるとすれば、長年ギルドに貢献した第一級の冒険者に限るだろう。人格的に優れ、多くの難題を解決してくれる冒険者は、どこであろうと大事にしようとするし、他のギルドへ拠点を移られるのを嫌う。

 

 そういう意味でも、優遇政策を取る為に、こうしたサロンを用意しているとも言える。

 だがやはり、人格も犯罪歴すら分からない者を招くものではない。

 ミレイユは警戒心を一つ上げ、ユミルの方にも視線を向ける。その動作だけで理解したユミルは、ガスパロには伝わらないよう、小さく顎を引くだけの首肯を返した。

 

 ガスパロは慇懃に一礼した後に、背筋を伸ばしてソファに座った面々を見る。特にミレイユを中心とした四人組には、更に熱心な視線を向けて来た。その変に熱の籠もった視線が怖い。

 

「お客様にもご理解が深いと存じますが、昨今の魔術士には本物が居られない。刻印を使っているようで使われている、魔術士くずれと呼ぶに相応しい者で溢れています」

「随分、大胆な事を言うんだな」

「それを販売してるんだか、普及させてるのはアンタ達じゃないの」

 

 ミレイユの控えめな非難とは逆に、ユミルから強かな追撃が飛び、ガスバロはさもありなん、と頷いた。

 

「既に仕方のない事と割り切っております。どのような技術にも進歩はあるものです。建造技術しかり、鍛造技術しかり、魔力技術しかりでございます。より便利で簡単、効率的な技術が取捨選択され、そして古い物は失われていく。……そういうものでございましょう」

「……それが許せないんだな」

「いえ、許せないなど僭越な」

 

 ガスバロはゆっくりと(かぶり)を振った。

 

「刻印魔術は、間違いなく素晴らしいものです。一種の特権であった魔術行使を、望む者に手が届くようになり、広く知れ渡った昨今、金銭の取引だけで身に付けられるようになりました」

「だが、刻印はただ便利であるだけじゃない、という事だな?」

「左様でございます。人には身の丈にあった身に着け方、という物がございます。それは例えば衣服であったり装飾品であったり、あるいは武具であったりします。金銭で賄えるからと、鏡を見ずに服を着るなど有り得ましょうか」

「なるほど、言いたい事は分かりかけてきた」

 

 ガスバロは礼儀としてスメラータへ視線を向けないようにしているが、あのようにゴテゴテと刻印を持つ者を憂いているのだろう。

 

 それこそ、金があるからと、服の上に服を重ねて着飾るような不手際を見せられているような気分になっているのかもしれない。それがファッションとして通用する範囲ならまだしも、ドレスの上に肌着を着るような本末転倒を見せられているなら、そのような憂いも生まれるのかもしれなかった。

 

「己が分を弁えず、それで刻む者を認めたくないというのなら、ギルド長として何か出来る事があるのではないか?」

「そういう訳にも参りません。あくまでご助言という形で口を挟ませて頂くものの、求める者に販売しないという事は出来ません。かつては刻める個数と冒険者ランクを紐づけしていた事もございましたが、やはり不満は大きかったようです。ギルド同士の決め事として、販売抑制は撤廃されました」

「まぁ……、荒くれ者どもが一斉に不満を露わにしたとなれば、どちらのギルドも押し留める事は難しいかもしれないが……」

 

 ガスパロは憐憫を感じさせる様子で、重たく頭を上下させた。

 魔術士を志しているような者は必然的に学が身に付くが、田舎から出てきて、剣の腕一本で成り上がってきたような者には、理が通じない事は実際多い。

 

 その実力でのし上がって来たという自負は、ギルド職員の言う事を聞かないというのもザラだ。あまり行き過ぎた態度は破門となるので、その変は弁えているものだが、商品としてある物を売らないとなると、それに不満を零すのは止められなかっただろう。

 

 依頼が終われば、その報奨金で最初の晩は豪勢にやるものだし、酒が入れば歯止めが利かなくなる者も多い。自分の魔力にはまだ余裕があるのに、なぜ制限されねばならないのか、と愚痴を言い合う事など珍しくなかったろう。

 そういった者達から陳情という名の鬱憤を放たれ続ければ、ギルドとしても対処せざるを得なかったに違いない。

 

 その結果が今の冒険者の姿になると知っていれば、恐らく必死で止めていたのだろうが、誰しも先見の眼が備わっている訳ではないのだ。

 

「刻印を持てば魔術が使えます。あるいは常時発動の刻印が、自身を強化してくれる……。選択肢が一つ増え、戦術の幅が広がり、それが強さだと誤認いたします。無論、取れる選択肢が増える事は生存の可能性を増やしますが、しかし余りに魔力練度を蔑ろにする行いです」

「門前でも会った奴がいたな……。デカい口を叩くだけの無能かと思っていたが、今となっては印象も変わる。軽くあしらったが、きっと嘘でも大言壮語でもなく、冒険者の中では一角の人物だったのだろう」

「目に浮かぶ様でございます。貴女様がたのような本物には……、もうお目に掛かれないと思っておりました」

 

 ガスパロは昔を懐かしむように、あるいは惜しむように眉根を寄せ、上向きのまま動きを止める。しかし、それも数秒の事、すぐに顔を戻して柔和な顔を見せた。

 

「魔力の練度、制御に秀でる方は分かるものございます。隠しておられようとも、分かる者には逆に目立ってしまう。(わたくし)、その様な審美眼には些かの自信がございますれば……」

「なるほど、そういう事か……。だが、この格好はこの都市では好まれないんだろう? 可笑しく思ったのではないか?」

「些細な事でございます。その様な事より、是非お話を伺えればと思い、まことに僭越で勝手ながら、このような場を用意させていただきました。ご気分を害していなければ宜しいのですが……」

「ああ、いや……」

 

 ガスパロは低頭平身する勢いで頭を下げたが、ミレイユは小さく手を横に振って、気にしないよう諭す。

 この老紳士に言動から含むところは感じられなかったし、ユミルに視線を送っても、やはり同意見であると頷きが返って来た。本当に、本心から()()()()()()を歓待したいだけなのだろう。

 それで警戒心を引き下げ、ミレイユは鷹揚に頷いた。

 

「そうか。では、もてなしを有り難く受け取ろう。話をするというのも、長時間でなければ構わない。だが、まずは当初の目的である刻印を見たいのだが、良いだろうか?」

「勿論でございます、こちらがその目録となります」

 

 ガスパロはキビキビとした動作でミレイユの傍まで近づくと、机の上に重厚な革張り装丁の本を恭しく置く。一礼したあと元の位置へ戻り、背筋を伸ばしたまま直立して待機した。

 そのままにさせて置くのも落ち着かず、正しい対応かどうかは置いておいて、ソファに座るよう勧めた。

 

「ありがとうございます、失礼いたします」

 

 固辞する仕草すら見せず座った事から、どうやら間違った作法ではないらしい。

 内心で安堵しながら、本を丁寧に開く。

 そこには一つのページに、一つの刻印と説明が記されていた。

 

 魔術の系統別、そして等級別とで記されているので、必然的に大量のページが必要となる。この場で全て見ていたら、日を跨いで読んだとしても終わらないだろう。

 やはりこれぞ、という魔術を伝え、それに近しい刻印を幾つか紹介して貰う方が、手早く確実という気がする。

 

 ミレイユが本から手を離すと、興味津々で見つめていたユミルが、奪うかのような手付きで持っていく。ルチアも同様の気持ちだったのは今更確認するまでもなく、開いたページに顔を近付けて読み込んでいる。

 そんな二人へ目を細くさせて非難の視線をぶつけてから、改めてガスパロへ顔を向けた。

 

「……ギルド長。私が欲しているのは、たった一つの刻印で、それをこちらのアキラへ刻もうと考えている。実力的に見ても、それが妥当と思うが、どうか」

「まさしく、仰るとおりでございます」

 

 ミレイユの紹介でアキラへと視線を転じたガスパロは、アキラの魔力練度、それからミレイユの提案にひどく感心した様子で頷いた。

 

「刻む者に最も適した個数というのは、やはり魔力総量にあるもの。そしてその練度から窺える能力は、近接戦闘に適しております。このよく鍛えられた練度を損なわない為にも、一つに絞るのは妥当としか言いようがなく、その慧眼には頭が下がる思いでございます」

「そこまで言われるとこそばゆいが……。うん、だがギルド長の太鼓判を貰えたというなら心強い。アキラにはこの場で考えるよう言ってあるが……」

 

 視線を向けても、未だ目を閉じて難しく眉間に皺を寄せているだけで、こちらの会話にも意識を向けていない。話している内容を理解だけではなく、それだけ集中しているなら結構な事だが、どこかのタイミングで催促しなくてはならないだろう。

 

 だが今はまだ急かす程ではないので、どうしたものかとユミル達へ視線を向け、そうかと思うとガスパロから質問が飛んできた。

 

「そちらのアキラ様、貴女様がたのお弟子でいらっしゃるのでしょうか?」

 

 渡りに船だと思い、ミレイユはこの遅れたタイミングで自己紹介させてもらう事にした。

 



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ギルド訪問 その6

 ガスパロにしても、その様な意図で水を向けた格好だったろう。

 ミレイユは一つ頷き、それから実際には背後にいて見えないアヴェリンへ、顔を横に向けた状態で紹介した。

 

「あぁ、遅ればせながら紹介しよう。アキラに稽古を付け、その基礎を磨いたのは私の後ろにいる者だ」

「アヴェリンです、よろしく」

「お見知り頂ければ幸いです、アヴェリン様。……しかし、実に見事な……」

 

 ガスパロはその立ち姿を注視すると、眩しいものを見るように目を細め、それから惚れ惚れと首を左右へ振って息を吐いた。

 その様子を見ながら、ミレイユも思わず苦笑する。

 

「我々も基本的な技術として、他者の魔力を読み取る事は出来るが……、そのような反応する者を初めて見る。……見えているものが違うのかな」

「いえ、そう変わるものではなかろうと存じます。しかし、(わたくし)にとって、これ程の実力者を目にするのは、本当に稀で感動できる事なのです」

「稀……というからには、皆無ではないんだな。最後に見たのは……?」

「左様でございますな……」

 

 ガスパロは遠い情景を思い出すかのように、遠くへ視線を向ける。

 

「かれこれ四十年程前になりますか……。私がまだまだ若輩者だった頃です。既に刻印魔術が広く普及し、安価で刻めるようになり始めた時代です。その中において、今でも古くからの方法で自らを鍛えていると、その様な御老体とお会いしました」

「へぇ……、時代に流されず、刻まないまま自分を貫いていたのか。では、それからは一度も……?」

「はい、一度も……。その頃も正しく鍛えた魔術士というものを、眩しく思えたものでございます。その方は恐らく、アヴェリン様と同じ内向術士だったのでしょう。良く似た輝きをお持ちでいらっしゃいます」

 

 アヴェリンは何と返事して良いものか迷い、結局何も言わない事にしたようだ。

 居心地悪く身じろぎする気配が、背後から感じられる。

 

「無論、アヴェリン様だけではございません。他のお嬢様がたからも、やはり素晴らしい輝きを感じられます」

「あぁ、そちらも紹介しよう。……ほら、読むのを止めて、名前を言え」

 

 ガスパロが視線を移すのと同時に手を差し向け、そして全く反応を示さない二人へ、念動力を使って軽く小突く。掌をくるりくるりと動かす度に、ルチアとユミルの頭が一度ずつ揺れた。

 

「もう、何よ乱暴ね。アタシはユミル、よろしく……するかどうかは、これから次第ね」

「ルチアです。――ほら、早くページ捲ってくださいよ」

 

 何やら意味ありげな台詞を言ったユミルと、そもそも自己紹介に意味を見出さないルチアは、ちらりと顔を向けただけで、すぐに本へと戻ってしまった。

 そんな二人をしょうがない、と嘆息したところで、ガスパロが瞠目してミレイユを見ている事に気が付いた。

 

「……どうした。あぁ、室内で勝手に魔術を使うのは無作法だったか」

「いえ、……いえ、そうではございません。あまりに見事な魔術制御に驚いてしまったのです。まるで己の手を動かすように、それを制御するという意識すら感じさせず行使するというのは……感動の一言だけでは片付けられません。まるで大地が空へ落ちていくかのような衝撃と申しますか……!」

「……そうか、そのように見えてしまうか」

 

 ミレイユの制御力は過去の時代においても、他に類を見ないものだ。

 無詠唱と呼ばれる、制御が瞬時に完了するような行使が出来る者も、殆ど居なかった。

 だが単純かつ初級魔術に分類されるようなものなら、ルチアもユミルも同じ事が出来る。だから念動力を使わせれば、やはり同じ事が出来るのだろうが、これが上級となると明確な差となって現れた。

 

 この時代において、古代の魔術制御を未だに行っていて、その制御の真髄を見せられたとあっては、偏執的魔術趣向を持つガスパロからすると身震いしてしまうものらしい。

 ミレイユは困ったように眉根を下げ、小さく苦笑する。

 

「自慢気に見せるように映ってしまったかな」

「いえ……! 決して、そのような!」

 

 ガスパロは声を荒らげてしまった事を恥じるように、一度顔を引き締め、それから元の柔和な表情で続けた。

 

「貴女様にとっては、それこそ手を動かすのと変わらぬ、簡単な事に過ぎないのでしょう。咄嗟にそれが出来てしまうというのが、その証拠。決して自慢気などと思ったりは致しません」

「……うん。この程度は魔術を使うという認識ですらいない」

「流石としか言い様がありませんな……!」

 

 やはり感嘆めいた息を吐いて、瞳を輝かせて見つめてくる。

 髪に白いものが混じり、良い年であろうと思うのに、そうしているとまるで少年のようだ。かつての若輩者として生きていた時代、本物の魔術士を見ていた時も、同じ様な目をしていたのかもしれない。

 そこで唐突に眉を八の字に曲げ、膝の上に置いた手を握り締めて、覚悟を決めた口調で言ってきた。

 

「大変、不躾ではございますが……」

「……うん?」

「もしも上級魔術を会得しているなら、この場でその制御だけでもお見せして頂けませんでしょうか……!」

「内容は何でも良いのか?」

「――幾つも会得しているのですか……ッ!」

 

 ガスパロの目が驚愕で見開かれる。

 ヒトの世界の魔術士にとって、上級魔術というのは一つ身に付ける事さえ大変なものだ。それは何百年、遡っても変わらない事実だ。そもそも人の手には余るもので、例え会得しても使う機会が滅多にない。

 

 制御の失敗は身の破滅だけのみならず、周囲への被害も考えられるので、試しに使うのも恐ろしいと考えられるものだった。それを実戦でとなれば、緊張からの失敗も十分考えられるし、いつ自分に向かって攻撃が飛んでくるかを考えれば、尚更無理だ。

 

 高い制御力を持った上で、鋼の心臓を持つ胆力、最低でもその二つを兼ね備えていなければ、到底扱えるものではない。人の世にあっては伝説の類、というのが上級魔術というものだった。

 

「幾つ会得しているかなど、それこそ自慢にしかならないから言わないが’。しかし試しに使ってくれと言うそちらも、まぁ随分な要求を言うものだ」

「はっ……! 不躾でございました、大変失礼を……!」

「いや、その胆力を褒めているんだ。下手をすればギルドそのものが消し飛ぶ要求を、この場でするとはな」

 

 それを聞いたスメラータがギョッと身体を強張らせ、次いで猫のような俊敏さでソファの後ろへ隠れる。最悪の事態では、ギルドごと消し飛ぶと言っているのに、そんな場所では全く無意味だろう。

 

 無論、ミレイユはそんなヘマをしないので問題はないのだが。

 ガスパロは額に浮いた汗を、ハンカチで拭いながら頭を下げる。

 

「ハ……、恐縮です」

「だが、そこまで強い思い入れがあるなら、断るのも申し訳ない。……これで良いのか?」

 

 ミレイユは右手を顔の高さまで持ち上げ、手の甲を見せるようにして指を広げる。

 そうして『火炎旋風』の上級魔術を制御し始める。魔力が掌へと集まり、そしてその制御が光となって現れ、赤い燐光が掌を包んだ。

 

 流石にその制御を身近で感じたとあってはアキラも目を開き、そして唐突な高度制御に何をしているんだ、というような表情になる。

 本に目を落としながら話を聞いていたユミル達は、そもそも制御の失敗など疑っていないので見向きもしない。

 

 五秒程度の制御の果てに、魔術は完成を見る。

 グッと拳を握ってその終了を見せると、ガスパロの身体はワナワナと震えた。その瞳には薄っすらと涙が浮かんでいて、喘ぐばかりで言葉が出てこない。

 

 それらをソファの後ろから、目だけ出して見ていたスメラータも、ミレイユが何をしているかだけは漠然と分かったらしい。恐ろしいものを見てしまった者そのままの目を、ミレイユへ向けては絶句している。

 

「――さて」

 

 一度完成させた魔術は、解き放つより消滅させる方が難しい。

 同じ制御を逆再生させるように終わらせると、手からも燐光が消えていった。

 

「名乗るのが最後になってしまったが、ミレイ……うん、ミレイユだ。よろしく、ギルド長」

「ミレイ……ユ、様」

 

 偽名か何かで誤魔化そうとも思ったのだが、皆に本名を名乗らせておいて、自分だけが別名というのも忍びない。そして他に妙案も浮かばなかったので、そのまま名乗る事にした。

 

 ガスパロは名前を聞いて、一瞬それが何の名前か判別できないようだった。

 頭の中で反芻するように動きを見せず、それからたっぷりと五秒使ってから再起動した。

 

「魔王……そんな馬鹿な。大体、あれは二百年も前の……」

「勿論だ、ギルド長。こんな格好をして、少しばかり魔術が得意だからと、勘違いしては名前まで名乗っている馬鹿な小娘だ」

 

 演技掛かった口調でそう言って、膝の上の帽子を被ってツバを落とす。

 何もかも演技めいた仕草を見せる事で、何かの冗談だと思わせたかったのだが、むしろ確信を深めたように、首だけ前のめりになって頷いた。

 

「なるほど……そう、左様でございますな。多く他人に知らせるべきではありません。私めにさえ教える必要はなかった……。その寛大さに感謝いたします」

「いや、そういう事ではなくてだな……」

「分かっております、みなまで仰いますな。このガスパロ、一端を知り万端を知るなど申しません。心の中に留めて置く事と致します。では……なるほど、ではあの伝説も本当でしたか」

 

 何やら不穏な雰囲気と、変な方向へ転がりそうで聞きたくなかったが、しかし確認しないままでいるのも恐ろしい。

 それで嫌々ながらも聞いてみる事にした。

 

「その……、伝説というのは?」

「ハ……。人の世が傲慢になり、他種族との協和を忘れると、その度、魔王が現れ厄災をもたらすと……。その様な事が(まこと)しやかに語られているのでございます」

 

 神妙に頭を下げ、まるで臣下が王へ奏上するかのような物言いには頭が痛くなるが、何故そんな伝説が作り上げられているかの方に、むしろ頭が痛くなった。

 

 二百年前についてはミレイユが手を貸したが、そもそも原因は別にあるし、発端はエルフにあると言える。むしろ他種族の弾圧を強めた人間にこそ、その発端があるとも言え、謂わば自業自得でしかない。それなのに、たかがミレイユが一度その弾圧から解放したからと、その様な伝説が生まれるのは不可思議だった。

 

 ミレイユが首を捻ってると、ユミルがニヤニヤとした嫌らしい笑みを浮かべているのに気が付く。

 あの顔は何かを知っているか、あるいは勘付いている顔だ。

 聞きたくないが、聞くまであの顔が延々と続くと思えば、聞かないわけにもいかない。

 

 仕方がない、と腹を括ってユミルへ不機嫌さを隠そうともせず尋ねた。

 



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ギルド訪問 その7

「……何だ、ユミル。言いたい事がるなら言ってみろ」

「いやぁ……、ねぇ? 別に単なる思い付きで、確証あるコトでもないしさぁ」

「いいから、言ってみろ」

 

 更に睨め付けながら催促すれば、ユミルは笑みを深めて言う。

 

「まぁ、二百年前っていうのが、例のオズロワーナ戦争で良いとして、その更に二百年前にも同じ様なコトがあった訳よ」

「……そう言われると、あったような気もするが」

「そう、馬鹿な真似をしたって揶揄した例のアレ。……覚えてる?」

 

 言われて暫し考え込むと、二百年という数字と馬鹿な真似から呼び起こされるものがある。そこから連想するのは、いつだったかミレイユ達の道中に現れた、一人の男だった。

 自らを魔王と名乗り、そして死の呪法――不死の呪いを自らに掛けた、肌の青い年若い男性。

 

 出会い頭の急襲を計り、だがミレイユ達は当然のように返り討ちにした。

 その時は自らの身と仲間を危機から退ける為、そして高い洗脳能力を持つ男を殺すしか、安全を確保する手段がないと割り切り、その場で殺した。

 ミレイユの中に苦い思いが蘇り、思わず顔を顰める。

 

「……あぁ、いま思い出した。それが……?」

「アレもさ、魔王と呼ばれるに至った動機が、アンタと良く似ていたのよ。一つ種族が優位を得るのではなく、融和と共生を説いた。けど、支配者層からすると邪魔でしかないから、魔王というレッテルを貼られて討伐されたってトコなんだけど……」

「それも、いつだか聞いたな……」

 

 だが、命が途絶えるその瞬間まで、理想を投げ捨てる事はなかった。

 死の間際、己に呪いを掛けてでも、成し遂げようと誓った。その悲願を成す為、いつか必ず弾圧から解放するという強い執念が、後の地獄を見据えながらも、男に呪法を使わせた。

 

 その目標も執念も倒した後に知った事だが、しかしその手段の一つに洗脳を用いたのは悪かった。正攻法で説き伏せる事より、手っ取り早く最短の道を選んだのだ。

 その先も同様の手段で事を為すつもりだったのかは知る由もないが、洗脳で仲間を奪われる訳にも、ミレイユ自身も自我を奪われる訳にはいかなかった。

 

 洗脳という脅威を残しておくのは恐ろしく、逆恨みで逆襲してくる事を想定して、予めその命を断っておくのが、最善で合理的だった。

 男にしても、もっと別のやり方もあったろうし、狙ったのがミレイユ達でなかったなら、もしかしたら事の成就もしていたかもしれない。

 

「馬鹿な真似って言ったのはさ、確かに呪法についてもそうだけど、あの時点でアイツの目標がほぼ達成されていたっていう事の方なのよね」

「他種族との融和と共生か……」

「そう、アンタがやった」

 

 実際はエルフが発起人で、ミレイユはそれを後押しと助力をしただけだ。

 だが、各種族の間を取り持ち、そして人間と戦えるだけの集団として纏め上げたのはミレイユだった。だからミレイユを旗頭として見ていた個人は多いし、エルフでさえ神聖視して、そのような目で見ていたものだ。

 

 戦争にも勝ち、そこからの交渉次第で種族の融和と共生は成就していたかもしれない。

 それを見届ける前に旅立ったが、確かにユミルの言う通り、魔王に出会った時点で、彼のほぼ目標は達成されていたと言える。

 

 魔王は現界したばかりで、何も知らない状態であったろう。

 仮にミレイユ達と会わずにどこかの街へと辿り着いていたら、その時はどう思ったろう。呪法によって蘇生を果たし、しかし直後に悲願成就は既に出来上がっている。

 

 自分は何の為に、と嘆いたろうか。

 あるいは自分の夢見た光景が目の前にある、と喜んだろうか。

 今更、それを知った所でどうなるものでもないが――。

 

「つまり、その四百年前の魔王騒動と、二百年前の戦争とで、同じ理由が根底にあったから、今もまたそれと紐付けされて考えられてしまっていると……」

「そう、あの魔王とアンタが紐付けされてるって思っただけで笑えるでしょ? 実際、腹抱えて笑ったけど」

「あぁ、大変ご機嫌麗しくていたな……」

 

 やれやれ、と息を吐いて首を左右に振る。

 ユミルは大満足に笑みを浮かべ、その間にも勝手にページを捲っていたルチアの手を叩いた。

 

 そこまで聞けば、ギルド長(ガスパロ)が言っていた伝説の事も、何となく理解できて来る。

 つまり人間支配の構造が長く続き、そしてそれが他種族の排斥や弾圧が重なれば、それを諫める存在が現れる、という噂が生まれてしまったという訳だ。

 

 あるいは、それは願望まで含まれているのかもしれないが、そこに二百年という区切りがあるお陰で、今またミレイユが伝説から蘇ったと見られたのかもしれない。

 だが当然の事として、ミレイユにはミレイユの目的があって、それは種族の融和とは掛け離れている。むしろ足を引っ張る結果となり、その様な事に関わる様では、目的の失敗を招きかねない。

 

 それまでユミルとの話を黙って聞いていたガスパロは、その話へ理解を深めるにつれ、想像していたものとズレがあると気づいたようだ。

 それまであった伝説との齟齬を、自分の中で何とか埋めようとしている。

 

「……では、この混迷の時代にあって再び現れ、そして当ギルドに現れた理由とは、一体何なのでございましょうか……?」

「その再び現れ、というのが誤りだな。私は単なる田舎者で、馬鹿な噂を真に受けた、魔王に変な憧れを持つ娘に過ぎない」

「――でも、ホント? ホントにホントで? でもさっき、なんたら金貨出してたじゃない。何百年も前に使われてたってヤツ!」

 

 猜疑心の塊のような視線を向けていたスメラータが、その疑念が爆発したかのように、二人の会話へ割って入って来た。

 余計な事を、とミレイユは心の中で唾を吐く。

 

 視線を感じて顔を向ければ、ユミルが大変楽しそうな笑みを浮かべていた。

 視線が合えば、我関せずと読書の熱中へ戻ってしまう。

 どうやら助けは期待できず、アヴェリンへ話を振ろうとも逆効果になりかねない。むしろ、それを自覚しているからこそ、何も発言しないのだろう。

 

 もしくは単に、ミレイユに任せておけば大丈夫、という信頼感からかもしれないが、今は孤軍奮闘の心持ちだった。

 ミレイユはスメラータから視線を逸しながら、何とか誤魔化せないかと言葉を紡ぐ。

 

「その時も言った筈だ、古い物が好きなんだよ。……この格好も、その一環という訳でな」

「いや、でも、二百年だか四百年だか……」

 

 尚も言い募ろうとしたスメラータへ、それより前にガスパロが嗜めるように言った。

 

「従者が主人との会話を遮るのは正しい行いとは言えません。弁えなさい」

「いや、アタイ別に、従者って訳じゃない……」

「……ふむ? アキラ様は実に素晴らしい才能をお持ちで、将来は大成すること間違いなしでございましょうが。しかし……」

 

 完全に何かを誤解しているガスパロは、スメラータへは懐疑的な視線を向ける。

 アキラに対しては弟子と公言しているので、多少の世辞も混じっているのだろうが、昨今の魔術士を見て嘆いているガスパロからすると、幾らか本気の声も含まれているようだ。

 

「お弟子でもなく、従者でもないとすると、何故この場で同席を許されておるのですかな?」

「いや、最初は刻印のアドバイス、出来ればと思って……」

「貴女が……?」

「いや、だってホントに何も知らないみたいだから、たぶん役に立てると思ったし、こんな所に連れて来られるなんて思ってなかったし……!」

 

 最終的に、スメラータの声は悲鳴のようなものに変わっていった。

 周囲の豪奢な調度品を見て、それからミレイユへと顔を向けてくる。本人としても、きっと例の薄暗い本棚近くで、アレコレと説明する気持ちでいたのだろう。

 

 一般的な冒険者として、ごくありふれた光景をそのまま行うつもりだったに違いない。

 あれこれと質問されて、それに胸を張って答えていく様を想像しては、自分を売り込む算段だったのだろうが、それが初手から潰されていた。

 

 スメラータの思惑はともかく、こんな事になるなら連れて来るのではなかった。それは彼女からしても同じ様に思っているだろうが、あの時は詐欺に合う可能性を思えば、連れて行かないという選択肢も取れなかったのだ。

 着いて来いと言ったのはミレイユの方でもあるし、ならば見捨てる訳にもいかない。

 

「ギルド長、こいつとは、ほんの少しの巡り合わせで出会った。何か役立つかと、連いて来るよう言ったのは私の方だ。あまりそう、厳しい目で見ないでやってくれ」

「なるほど、左様でございましたか。差し出がましい事を申しました」

「いいや、忠言に感謝しよう」

 

 ガスパロが嬉しそうに背筋を伸ばすと、スメラータは居た堪れない表情で唇を突き出す。

 

「いや、そんな人の使い方に慣れてて、世間知らずの田舎娘は無理あるじゃン……」

「ぶふっ……!」

 

 思わずルチアが吹き出して、ミレイユと視線が合うと咄嗟に本へと視線を戻す。ミレイユもまた渋い顔をして帽子のつばをなぞった。

 だが、スメラータが言う事は的を得ていた。その台詞だけでなく、これまでの言動を振り返ってみても、到底ギルドの長を前にして見せる態度ではない。

 

 あまりに堂が入っていて、人へ指示する事に慣れた言動を見せすぎた。

 ガスパロがミレイユの嘘を最初から形の上でしか信じて見せなかったのも、そういった部分に原因があるのかもしれない。

 

 何とか誤魔化そうと思ったが、今となってはそれも無理そうだ。

 ルチアが吹き出した事で、疑念が確信へと変わってしまった可能性もある。何を言っても意味はなさそうだが、しかし釘の一つも差しておかねばならない。

 

「私は田舎育ちの世間知らずなまま、ここへやって来た。この格好も、つまりそういう訳だ。そのように理解しろ」

「えぇ……?」

 

 スメラータは今更何を言ってるんだ、という顔をして呆れた声を出したが、ガスパロの返事に躊躇いはなかった。何かしら命じられる事に、慣れているようにも見える。

 

「畏まりました。では、お名前について、どう呼べば宜しいでしょう」

「ミレイユで良い。そう頻繁に名前を呼ばれるような事もないだろうしな」

「アタイは……?」

「いつまで着いて来るつもりでいるんだ。刻印の購入が終われば、それでお別れだ。――忘れろ」

「なんでぇ……!?」

 

 その驚愕は、高圧的な命令と、関係性の終わりを告げた事、その両方についてに見えた。

 だが、最早刻印の説明についてもスメラータを頼る必要がないとあっては、どうして関係が続くと思っているのか、逆に聞きたい。

 

 多くを脱線してしまったが、元より本来の目的は刻印の購入にあるのだ。

 ガスパロから向けられる、眩しいばかりの視線を外へ追いやる。

 

 あれから更に二百年という節目に現れた、ミレイユを名乗る本物の魔術士。

 それを見た後では、何やら色々と妄想逞しくしてしまうものなのかもしれないが、それらの期待に一切応える事はないだろう。

 

 今日、魔術士ギルドへ足を運んだのは、単純に刻印魔術というものに興味を持ったというのが一つ。もう一つが、少々の心変わりとして、アキラの同行に機会を、そしてこれから与える試練に使えるかどうかを見定める為だった。

 ミレイユはそろそろ、これと決められるものが出来ていないかと、アキラへ視線を転じた。

 



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ギルド訪問 その8

 アキラの顔を見ると、既に目は開かれていて、何か思い付いたものがあると伺わせた。しかし、その瞳には迷いがあり、幾つかある候補の中から絞り込めていないのでは、と予想できる。

 

 思いつくものがあるなら言ってみろ、と促してみるつもりで、それより前に言語について注意しておく。また変に騒ぎ立てられるのは面倒だった。

 ミレイユもアキラが分かり易いよう、言葉を選んで話し掛けた。

 

「それで、何がある?」

「えぇ……と、あー……、直す、と……盾、です」

「直す? いや……治す方か。治癒、という事か?」

 

 意味を汲み取って聞き返してやると、アキラは何度も首を縦に振った。

 自己治癒か、あるいは防壁術が良い、と考えたようだった。

 

 確かにその二つは、近接戦闘において役立つ。良い着眼点と言えた。

 治癒は言うまでもなく継戦能力を高めてくれるし、そのうえ死から遠ざけてもくれるだろう。アキラは防御が下手という訳でもないが、しかし傷というものは戦闘中避けられないものだ。

 

 そして盾として防壁を作るなら、それはやはり役に立つ。

 遠距離からの攻撃であるかに関わらず、躱せないと判断した時、怪我から守ってくれるだろう。刻印の特性上、瞬間的に展開できる盾は、多くの怪我から守ってくれるに違いない。

 

 これは確かにアキラも悩むのは仕方ない。

 傷を治す方が汎用性が大きいように思うが、受けた傷によっては治せないし、そもそも昏倒させられたら意味がない。

 

 盾は逆に傷を受けた後はどうしようもないが、そもそもの傷を受けない状況を作り出せる。盾もまた万能ではないが、防げる状況においては治癒より役立つかもしれない。

 アキラの戦闘スタイルから見ても、どちらが良いと即断できるものではなかった。

 

「どう見る、ギルド長。アキラが得意とするのは近接戦闘で、治癒と盾のように扱える魔術が良いと考えたようだ。とはいえアキラの魔力総量では、そう強いものは望めないと思う。何か適当な物はないか?」

「左様でございますね……」

 

 ガスパロは視線を落として考える素振りを見せ、それから一呼吸の間を置いて答えた。

 

「刻印と言えども魔術は魔術。使用者によって相性もあり、その威力に変動はあるものでございます。アキラ様の練度を伺いますに、初級魔術でも問題はなかろうと……。戦士としての能力を落とさず、その上で、となりますと……多少変則的な物が役立つやもしれません」

「具体的には?」

「メリットばかりではなく、デメリットが目立つ故に使い辛い魔術です。だからこそ、コスト自体が少ないと言えます。弱者だから少ない魔力で使えるものの、弱者ほど向かない魔術と申しますか……」

「え、まさかアレとかアレ勧める気……? 不使用魔術の代名詞みたいなもんじゃ……」

「だが、アキラ程であれば、メリットの方が勝ると考えた訳だな?」

 

 スメラータのぼやきに構わず、ガスパロへ問えば首肯が返って来る。

 どのような魔術にも言える事だが、習熟した者が扱う術は強力であるものだ。それは単純な威力だけに表れる事もあれば、使い方に表れる事もある。

 

 術そのものにデメリットがある、というものは、ミレイユ自身も中々身に着けた事がない。上級魔術は行使そのものに危険があるから、それがデメリットと言えるが、知っているのはそれくらいだった。

 

 初級魔術は威力が低く範囲が狭いというのがデメリットで、メリットは扱いやすいといったところだが、ルチアやミレイユが使う初級魔術は平均的な中級魔術を上回る程になる。

 それほど簡単だと連射も利くので、あえて初級魔術を使う事は珍しい事ではなかった。

 

「刻印は自動的である故に、そういった細かい違いはないのだと思っていた」

「それが誤解なのです。大抵は中級魔術を扱える段階まで上がると、不都合が目立つ初級魔術など見向きもされません。ですが、結局は刻印に込められる魔力次第なのです。量だけでなく、そこに質が加わる事で、劇的な変化を見せる術もございます」

 

 なるほど、とミレイユは思い至る事があって頷く。

 スメラータがそうであるように、多くは魔力制御を蔑ろにし過ぎだ。単に魔力総量があれば、そこから自動的に魔術が発動するから満足するが、実際の威力は練度こそが大事になる。

 

 そしてその練度は制御によって生み出すものだ。

 魔力の効率的運用が余力を生み、その過剰魔力を身体能力に上乗せするものを練度とも呼ぶ。それが出来ない者には、それを必要とする魔術はデメリットばかりが目立って見えるだろう。

 

「はい、治癒術については『追い風の祝福』、防壁術では『年輪の外皮』と呼ばれるものを提案いたします」

「――やっぱり!」

 

 スメラータは声を張り上げて、ガスパロへ指を突きつけた。

 

「やめておいた方が良いよ! すっごい少ない魔力で使える刻印だけど、それ初心者の罠って呼ばれる魔術なんだから! 値段も安いし効果も便利そうに聞こえるけど、実際上手く使えてる人なんて聞いた事ないもん!」

「いえいえ、これら二つなら、平均的な初級魔術ほぼ一つ分に相当します。たった一つという制約にこだわりがないのなら、是非お勧めしたい刻印でございます」

 

 スメラータは不信感も露わにしているが、ガスパロは意に返さない。

 詐欺を働きたいというのなら、そもそも高い刻印を買わせるだろうし、後からミレイユの不興を買うと分かって、この場で口にするものでもない。

 

 今までの言動全てが、何かしらを誤魔化す演技だと言うなら大したものだが、とてもそうは思えない。それにスメラータがこれだけ否定的に言うものを、それでも推奨するというのなら、やはりそれだけの意味はあるのだ。 

 

「しかし、それらは私も知らない魔術だな。……これまでもあったか?」

「さぁねぇ……、アタシも知らないし、聞いた事もないわ。でも、その二つならさっき見たわね。どこだったかしら……?」

「確かこの辺ですよ。……ほら、ここ。追い風の……これじゃないですか?」

 

 ユミルさえ知らないというのなら、ここ二百年で新たに誕生した魔術なのかもしれない。

 ルチアがサッと本を取り上げて、パラパラとページを捲ると目的の魔術が出てきた。その文を目で追って読めば、なるほど不使用魔術と言われる所以が分かってくる。

 

「動き続けている限りにおいて、自身の傷を癒やすというのか。……動けない程の傷を負ったら、全くの無意味だな。この動くというのも曖昧だ、どの程度の事を指す?」

「歩く速度であれば発動致します。また、速く動けばその分、治癒効果も上昇します。ただ、やはり初級術の範疇を越えませんが……」

「なるほど……。少ない魔力で済むのが納得のデメリットだ。では、年輪の……というのは?」

 

 ルチアへ視線を向けると、それだけで了承して本を手に取り、またも即座に該当のページを開いて寄越した。

 今度は予想に反して、防壁術として見れば便利そうに見える。単に説明文から見えないデメリットがあるというなら、問題は防ぐに効果が乏しい所にあるのだろう。

 

「年輪の、という名の通り、幾つもの層で自身を守る壁を作れるのか。……いや、外皮というからには、あるいはその層が分厚くて身動きの邪魔になるとか……? 樹の中に閉じ込められるかのように、身動きが取れなくなる、というような」

「いえいえ、そういう事ではございません」

「そうだよ、凄い薄っぺらいんだよ! 年輪っていうほど何重にもならないし、一枚が下手な樹皮より柔らかくて紙みたいなもんだし。三層より多い人なんか聞いた事もないし、その三層も一発で突破されて壁の役になんか立ってないんだよ!」

 

 ふぅん、と気のない返事をしながら説明文を読み込む。

 確かに術者によって層の厚さは変わると書いてある。増える事で動きを阻害する事もなく、見た目としては薄い膜が表面を覆うようなものらしい。

 

 だから一層の防御を突破されれば次の層が表れるという形なのだろうが、許容量を大きく越えたダメージを負えば、他の層まで一気に巻き込んで消滅してしまう訳だ。

 そして一層毎の許容量も、そして何層まで作れるかも、魔力の質次第という事なのだろう。

 

 ミレイユは顔だけ横へ向け、背後に佇むばかりのアヴェリンへ問うた。

 

「どう思う、アヴェリン。この二つの組み合わせ、私は面白いと思うんだが」

「仰るとおりかと。話を聞くだに、上手く扱えれるなら実に有効な働きを見せるでしょう。それに、こちらは単に偶然でしょうが、アレの()()との相性も良い。ギルド長の審美眼とやら、なかなか侮れないものがあるようです」

「師匠からの許しも得たようだ。ギルド長、よく見てくれた」

「勿体ないお言葉でございます」

 

 心底嬉しそうに、屈託のない笑顔を見せてガスパロが一礼する。

 だが、それに面白くないのはスメラータの方だ。自らの常識に則って、順当な助言をしているつもりが、それを蔑ろにされている。

 

 面白くないのは当然だろうが、ミレイユとしては新たな境地が見られるかもしれないと、期待する部分があった。

 

「でも、でもさ……!」

「まぁ、お前も落ち着け。何もお前の意見を無視しているとも、歯牙にも掛けないと言っている訳じゃない。本当に使えないのか、私が見てみたいと思っただけだ。そして使えないなら外せば良いし、そうした時に新たに助言を貰えば良い。……そうだろう?」

「……うん、そうだね。それに……そうだよ。アタイは助言するだけなんだ、どうするかを決めるのはいつだって自分自身だ。勝手を言ったよ、……ゴメン」

 

 それまでの勢いはどこへやら、途端に勢いを失くして頭を下げた。

 妙に含蓄を感じる台詞だが、あるいはそれが冒険者としての心構えというものなのかもしれなかった。

 ミレイユはその謝罪を素直に受け取り、次いでアキラへ顔を向ける。

 

「お前に、二つ、与える。良いな?」

「――っ! ありがと、ざいます!」

 

 アキラがたどたどしい口調で、背筋を伸ばして深く頭を下げる。

 ガスパロは何か物珍しいものを見るように、下げた頭を見つめた。それで言い訳がましく、ミレイユは一言付け加えた。

 

「まだ言葉がぎこちなくてな。……少し、多めに見てやれ」

「人里離れて山奥で、たった一人で暮らしてたんだってさ。言葉を知らなかったみたい」

「……ほぅ。それ故に魔力も擦れてないのやもしれませんな。いやはや、なるほど……」

 

 スメラータには催眠も上手く作用してくれたらしい。

 ユミルと互いにしたり顔の笑みを浮かべ、それから改めてガスパロへと向き直る。

 

「では、その二つ刻印を頼みたい。時間は必要か?」

「お待たせするなど、とんでもない事でございます。すぐにでも開始させて頂きます」

 

 ガスパロは音もなく立ち上がり、一礼しては踵を返して退室する。

 すっかり飲み食いするのを忘れていた紅茶を口に含み、そして完全に冷めて渋みが増したお茶に顔を顰めた。

 



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ギルド訪問 その9

 ガスパロは幾らもせずに、一人の女性を伴って戻って来た。

 魔術士らしい淡い紫色のローブ姿で、フードは被らず後ろへ下げ、その栗色の頭髪が露わになっていた。三つ編みを後ろから肩へ回すとという落ち着いた髪型は、三十歳手前と思われる容姿と良く似合っていた。

 

 その表情には、見て分かり易い程の緊張が表れていて、額には勿論、首筋にまで薄っすらと汗が浮いている。その首筋も刻印が見えていて、やはり魔術士となれば、冒険者でなくとも見える場所には刻んであるものらしい。

 

 緊張の度合いが凄まじいが、相手の素性がどうであれ、サロンへ招かれる程の客の応対だ。当人からすると、それ程の事なのかもしれない。

 

 流石に初めて目にする相手に帽子を被ったままでは失礼かと思い、膝の上へ置き直して小さく頷く。ガスパロの顔を立てる事になるかどうかは不明だが、上客らしい振る舞いをして見せる。

 

 とはいえミレイユは、その上客が振る舞うべき正しい作法など知らないのだが。

 ガスパロが一礼すると、半歩後ろで待機していた女魔術士も頭を下げる。

 

「お待たせいたしまして申し訳ありません。こちら、当ギルド随一の刻印施術師、ラエル・バエリソと申します。本日の施術を担当いたします」

「ラッ……、ラエル・バエリソです。ほっ、本日は、精一杯の施術を行わせて頂きます……!」

 

 ラエルの緊張度合いからすると、その裏返った声音も当然のように思えるが、単なる緊張にしては度が過ぎる気がする。

 

「……ひどく緊張しているな。ギルド長に何か言われたのか?」

「いえ、決して……その様な事は! ただ、えぇ……何と申しますか……!」

「やんごとなき御方に対面し、喜びで打ち震えておるのです。緊張で手元を誤るなど御座いませんので、そこの所はご安心を」

「ふん……?」

 

 ラエルの表情を見る限り、とてもそうは見えない。とはいえ、そこは信じるしかないだろう。

 ――しかし。

 

 ガスパロの言い訳は表面的なもので、きっと何か強く言い含められていたのだろう、という事は察せられた。ラエルが口籠っていたのが何よりの証拠だし、何より目の動き方が顕著だった。

 ミレイユの態度がガスパロの確信を変な方向へ導いていまったので、今更何を言える訳でもなかったが、ただラエルには申し訳なく思う。

 

「それでは、開始させていただきます」

 

 ガスパロの一言で、ラエルがぎこちない足取りで動き出す。

 アキラが座るソファの背面から回り、ミレイユの傍で両膝を着いて頭を下げる。

 では、とミレイユの手を取ろうとしたところで、アヴェリンが待ったを掛けた。

 

「頼みたいのはそちらの方だ。間違えている」

「し、失礼しましたっ……!」

 

 直接、手が触れるより前にアキラを示すと、盛大に頭を下げて謝罪する。

 ミレイユが、ちらりとガスパロに目を向けると、失態を叱責するような視線をラエルへ飛ばしていた。当然、誰に施術するかは説明していたのだろうが、意識がミレイユへ向き過ぎてしまった所為で生まれた失敗なのだろう。

 

 やはり緊張で頭が回っていないと見え、任せて大丈夫なのか、という不安が生まれる。それを表情に出さないよう気をつけながら、とりあえず経過を見守るか、と思い直した。

 ラエルは一度立ち上がり、そして数歩動いてアキラの傍へ近寄ると、ミレイユのとき同様に膝を付く。それから、おずおずとその手を取った。

 

「そ、それでは始めさせて頂きます。刻む場所に、どこかご希望はありますか?」

「えー……」

 

 ラエルはごく真っ当で簡単な質問をしているが、それがアキラに理解するのは難しい。

 困った顔で眉を八の字にしているのを見て、助け舟を出そうとしたところで、その横からスメラータが顔を突き出してきた。

 

「どこにするって聞いたんだ。分かる? ど・こ。額とか、手の甲、最初は大体ここ」

 

 実際に身振り手振りで説明してやり、額を指差し、次に手の甲を指差して、どこに刻むべきかを教えてやっている。それでアキラも理解して、両手の甲をそれぞれ指差した。

 それで良いか、という視線をアキラが向けてきたので、ミレイユも首肯を返してやる。

 

 実際、どこであろうとミレイユは困らない。

 ただ一応、刻印がなければ舐められるというスメラータの助言を考えれば、どこか見えやすい場所が良いだろうと思っていただけだ。

 

 アキラの表情からそれで良い理解したラエルは、次に刻む魔術を聞いてくる。

 それに先程ガスパロから勧められた魔術を伝えると、ラエルはぎょっとして目を剥いた。アキラとガスパロの間を、顔の向きが交互に変わる。

 

 その反応だけで、この魔術の不人気ぶりが分かろうと言うものだ。しかし、本当に使い物にならないようなら、その時は改めて順当だと思える刻印を選べば良いだけだ。

 ミレイユからもそれで良い、と言質を与えると、それで恐る恐る施術を始めた。

 

 ラエルがアキラの手を取りながら、瞼を閉じて集中し始める。

 左手を皿代わりにアキラの手を置き、そして右手で手の甲を擦るように動かす。二度、三度と動かした後、アキラの腕が僅かに跳ねた。

 

 痛みを堪えるように眉根が寄り、ラエルの右手が上下すること数回、焼印を押し付けるような音と共に、アキラの左手甲に印が刻まれる。

 最初は図形とも取れない小さな物で、それが徐々に拡大して見えるようになり、そして最後には手の甲からハミ出しそうになる、というところで止まった。

 その刻印は濃緑色をしていて、立体四角形の中に風の動きを盛り込んだかのような図形をしている。

 

 アキラは既に痛みが抜けているのか、不思議そうに手の甲を擦っていたが、その手もすぐにラエルに握られ、続いて同様の手順が行われて行く。

 そうして、やはり同じだけの時間を掛けて、薄水色の図形が刻まれた。円が幾重にも重なる刻印で、術名の通り年輪を現しているのが分かり易い。

 

 その二つ、手の甲いっぱいを使って刻まれた印を見て、アキラのみならずガスパロまでが感心した吐息を漏らしていた。

 アキラとガスパロでは大きく意味合いが違いそうだから、その事を聞いてみる事にした。

 

「何やら感心したように見えたが、施術の出来が良かったのかな?」

「いえ、この様な場で身内贔屓のような振る舞いは、失礼に当たります。無論、そうではございません。刻印の大きさに感心したのでございます」

「はい、私も驚きました。初めて刻む人が、まさかこれほど大きな刻印になるなんて……。しかも初級魔術でこの大きさ……、今の冒険者に同じ大きさを刻める人がいるかどうか……!」

 

 ラエルの緊張は、今度は別の方向で現れたようだ。

 アキラを見ては畏怖のような視線を向けている。

 

 だがどうやら、二人の感想を聞くに、刻印とは持つ者の魔力とその練度によって大きさを変えるものらしい。強い魔術は最初からそれなりに大きいが、弱い魔術は小さい物というのが常識であるのだろう。

 スメラータの頬に見えるような、ああいう小さな刻印が、初級魔術の基本的大きさであるのかもしれない。

 

「驚くような大きさであるというのは、誇っても良い事なんだろうな……」

「勿論でございます。それ程の大きさを持つなら、誰なりと疎かにする事はございますまい」

 

 ガスパロはそう言って笑顔で太鼓判を押すが、スメラータの表情は険しかった。

 

「……いや、でもどうかなぁ。刻んでる魔術が魔術だし……、この大きさが意味するところを理解できる奴らがどんだけいるかは……結構ギモンっていうか」

「それは……、確かにそういうものかもしれませんな。彼らは実力至上主義でもありますから、学術的な面から見た魔術の視点というものを持ちません」

「なるほど、どうせならばもっとマシな物を刻めと思う者ばかり、という訳か」

「真に残念ながら……」

 

 ガスパロは慚愧に堪えない、という表情で顔を外へ向ける。その方向には、もしかしたら冒険者ギルドがあるのかもしれない。

 

「時に、単なる好奇心として聞きたい」

「なんなりと」

「上級魔術が既にそれなりの大きさであるのなら、魔力を持つ者が刻めば、その体表面積を簡単に越してしまうのではないか? 背中などに刻むにしても、やはり限界は早いんじゃないかと思ってしまうのだが……」

「あぁ、確かに気になるわねぇ……」

 

 ユミルも同意して頷き、隣のルチアも好奇心を刺激された顔を向けた。

 ラエルの口振りからすると、それだけの魔術を刻めるだけの冒険者は多くなさそうだし、そこまで考える必要はないように思うが、何も無能ばかりしかいないという訳でもないだろう。

 そういう本当の実力者がいるのなら、その時はどうしているのか知りたかった。

 

「それは簡単でございます。上級魔術に限った話でありませんが、高度な術というのは一つの図形で現せるものではございません。謂わば、一つの刻印を縄に見立てた連続体で示すのです。ですから、必然と一面ばかりを使うものでなくなります」

「ふぅん……? 足首から始まって太腿まで、トグロを巻きながら刻まれるみたいなもの?」

「そこまで極端に長い者はおりませんでしょうが、そういう事です。単に直線で刻む者も多うございますよ。そういった場合、とりわけ腕に刻む事が好まれるようです」

 

 そうしてガスパロはスメラータの腕へ視線を移した。

 そこには確かに、拳一つを下回る大きさの刻印が、手首から二の腕まで走っている。あれが仮に上級魔術だとしたら、それを見せ札としているのは有効な気がした。

 

「スメラータ、因みにその腕の刻印はどういうものだ?」

「思いっきり侮られてそうだけど、上級魔術だよ。身体強化の」

「……へぇ、上級を刻めるような実力があったのか」

 

 それは確かに、意気揚々と冒険者ギルドの総本山へやって来ようと思える訳だ。

 頬に見える刻印が小さい事から、それで他の刻印も推して知れようと言うものだが、それこそが罠であるのかもしれない。上級一つと初級一つ、それが限界で、伏せ札にも乏しい物しかないのか、あるいは他にも……という読み合いが冒険者の中にはあるのだろう。

 

 だが、そのぐらいではガスパロのお眼鏡に適うものではないらしい。

 その視線に侮るものは見えないが、さりとて感情らしいものは伺えない。

 

「まぁ……、お前も言うだけの事はある奴だ、という認識に改めておこう」

「……どうも」

 

 刻印魔術と魔術制御の最大の違いは、習得難度以外に、その保有数にあるだろう。人間が覚えられる個数は、その寿命と掛かる日数から基本的に少ない。

 だから十年掛かって会得できる魔術など、最初から選択肢に上がらないものだ。会得するのは大抵が学者としての魔術士か、あるいはエルフというのが通説だったし、数を持てるのもエルフというのが常識だった。

 

 それが覆ったのが現状の刻印という技術だろう。

 最終的に実力あるエルフを前にすれば、その数の優位さえ覆されるし、それだけの魔術を習得しているなら実力でさえ優位に立てない。

 

 だが、昔から数を揃えるのが人間の強みだった。

 最大級に強い個人ではなく、最底辺でも万を揃えて敵に挑む。正面から殴りつけるだけでなく、多くの戦術、策略で攻略する。

 それが個としては弱い人間の戦いだった。

 

 真の実力者に蹴散らされるのは、どの時代でも同じだろうが、しかし工夫を生み出す機知に長けているのは常に人間だ。

 二百年の時の流れを思っていると、ラエルが会話の邪魔をしないよう静かな動作で立ち上がった。施術を終えれば彼女の役目は終了だ。

 

 一礼し退室していく後ろ姿へ労いの言葉を渡し、恐縮する様で姿を消す。

 それからアキラの刻印へ目を向けつつ、ガスパロへと新たに問いかけた。

 



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ギルド訪問 その10

「……これで刻印を得た訳だが、これは即座に使えるものなのか?」

「個人差はございますが、やはり一昼夜経たねば使えぬものです。刻印へ魔力を通すには、やはりそれなりの時間が掛かります」

「……なるほど。古来からの魔術士も、一度カラにした魔力を充填させるには、やはりそれなりの時間が掛かるものだしな」

「左様でございますな。ですから、使用感を確かめるのも明日以降が宜しいでしょう」

 

 ミレイユは頷き、それをアキラへ説明しようとして動きを止める。

 ふと湧いた疑問を一つ、聞いてみる事にした。

 

「これの使用回数については? 刻印ごとに使用回数があるんだろう?」

「はい、ですがそれは個人によって変わるものです。刻めたからには一度は使える事が確約されておりますが、その最大数は自分にしか分からないものです」

「刻印の外見にも現れないのか?」

「はい、分かりません。ですから、一度使ってみて、どの程度刻印から魔力が失われたか、それを持って自分で判断するしかございません。アキラ様におかれては初めての施術、最初はその回数が酷く曖昧に思えるでしょう」

 

 なるほど、とミレイユは頷いた。

 そこは制御による魔術と、大きな違いはないらしい。

 ミレイユ達もまた、魔術を一つ使ったからと、その具体的な消費量は分からない。体力や筋力と同様、どのくらい使えるか、どのくらい消費したかを体感的に理解しているのみだ。

 

 具体的な数字は、その経験から来る。

 同じ規模の魔術なら後何回使える、他の術ならどれくらい、と自分なりの物差しを使用練度と共に得るものだ。刻印には刻印ごとの回数があって、ミレイユ達の感覚とはまた違うのだろうが、しかし似通った考えで運用しているだろう。

 

「なるほど、良く分かった。アキラにも、後程詳しく教えておこう。ご苦労だった」

「有り難きお言葉」

「……もう隠す気、ぜんぜん無いじゃん……」

 

 慇懃な礼を見せるガスパロと、二人のやり取りを見て鼻に皺を寄せるスメラータの対比は面白かったが、面白がってばかりもいられない。

 終わったのなら、払う物は払ってしまわねば。

 

「ギルド長、支払いを頼む」

「まさか、お代など……! 今回の事は、当ギルドからの細やかな心配りとして……」

「正当な仕事には、正当な報酬を。私はそれを自分にだけでなく、相手にもまた求める。ギルド長、支払いを頼む」

「畏まりました、只今準備致しますので、少々お待ち下さい」

 

 重ねて言えば、流石に再び断るような事を言って来ない。ガスパロは惜しむような表情を見せながら退室し、そして暫し歓談する時間が出来た。

 アキラは自分の手の甲を見つめ、何やら感慨深い表情を見せている。本人はそれを見ても、まだ詳しい効果を知らない。回復と盾という本人の要望は叶えた形なので文句はないだろうが、その詳しい効果や特性は知っておかねば使えないだろう。

 

 しかし、一度スメラータから変に詰め寄られたから、日本語での会話もし辛い。

 どこか宿を取った後での説明にするしかないか、と息を吐く。

 

 ルチアとユミルは、未だに本を読んでいて、それぞれの術や刻印について自論を展開している。

 アキラの得た刻印がそうであるように、ミレイユ達の知らない魔術はあるようで、主にそちらが興味の対象であるようだ。

 

 身に付けたいというなら止めはしないが、どうやら本人達にその気はないらしい。気に入ったデザインの服でも眺めて、互いの意見を交換している、その様な雰囲気に見えた。

 そんな光景を眺めていると、ガスパロがトレイを手にして戻ってきた。

 

 紅と茶色の中間のような色合いで、小さいながらも足も付いている。

 光沢はあるが鉄ではなく木製のように見えた。トレイその物の両端に取っ手になる突起が付いていて、そこを持って音も立てずミレイユの前まで歩き、そしてやはり音も立てずにトレイを置く。

 

 トレイの上には羊皮紙が一枚置いてあって、そこには施術した刻印の名前と、それに掛かった料金が書かれている。

 内約としては、それぞれに掛かる刻印の値段と、更に施術料が上乗せされた値段になるようだ。

 

 相場などミレイユには分からないから、ここは素直にアドバイザーとして付いて来ていたスメラータを頼る事にする。

 

「それぞれ刻印が金貨七枚と八枚、そして施術に五枚と……これは普通か?」

「ちょっと高い……っていうか、高いと思ったのは施術料の方だけど、ギルドで一番の施術師なんて利用した事ないから分かんない。でも、アタイが普段使う奴らより良い値段するっていうなら、多分その位だと思う」

「そうか……」

「ていうか、良かったの? 勝手に値段、高い方の施術師使われてたけど……」

 

 どのような技術であれ、高度な腕前を持つ職人に掛かる費用が高いのは当然だ。それは鍛冶師であったり裁縫師であったり、錬金術師であっても変わらない。

 よりよい効能、より高い性能を持つ物を求めるなら、当然料金は上がるものだろう。それに対して不満はない。アキラに過ぎたる、などとケチくさい事を言うつもりもなかった。

 

「勿論、不満などない。良い施術師を紹介してくれたというなら、感謝をするものだろう」

「あぁ、うん……。そうだね、お金に困ってなさそうだもんね……」

 

 何かに達観したような表情を浮かべるスメラータと別に、ガスパロは感極まるような表情で一礼した。この二人は一々反応が対照的で面白い。

 ――それにしても。

 

 口には出さず、心中にて思う。

 領収書のような物を用意するとは、この世界も変わったものだと実感してしまう。人間社会で上客の扱いなど受けた事が無かったから、単に知らないだけかもしれないが、こうした金額を記した証拠を渡して来るなど考えもしなかった。

 

 羊皮紙はそれなりに高価なので、やはり普段使いされるものではない。

 だから買い物程度で見た事がなかっただけかもしれないが、やはり面食らってしまう部分がある。勿論、ミレイユはそんな事はおくびにも出さず、内約どおりの料金をトレイに乗せ、代わりに羊皮紙を受け取って懐に仕舞った。

 

 ガスパロは置かれた金貨を慎重に手に取って、その裏表を確かめる。

 金貨が偽物かと疑う眼差しではない、単なる好奇心で見つめているように見えた。

 

「ラメル金貨……。古くに流通していた金貨でございますね。当時の敗戦を期に使われなくなった金貨ではありますが……」

「ここでは使えないか?」

「そのような事はございません。当時は表に彫られた王の横顔を削って使われていたので、両面とも綺麗な金貨は非常に珍しい。残念ながら、稀少品として金貨の価値を変動させる事は出来ませんが、しかし使用に問題はございません」

 

 暗にこの金貨を所持している事が、ガスパロが抱く確信をまた一つ大きくした、と語られた気がする。とはいえ、直接的な言質を与えるつもりはなく、ただ頷くだけで返事とした。

 そして、辞去の意図を伝える。

 

「おや、もうお帰りでございますか。何かお急ぎの用でも?」

「特にないし、アキラには冒険者ギルドへの加入をさせようと思っていた位だが」

「それならばやはり、明日にする方が宜しいでしょう。一度宿へお戻りになって、それから訪問する方がスムーズに事が運ぶ事かと存じます」

 

 時刻は昼を大きく過ぎ、まだ夕刻にも早いぐらいの時間だが、無意味な提案をするとは思えない。今日、冒険者ギルドで事件でもあったというなら別だが、そういったニュアンスでもなかったように思う。

 

「あえて明日にする理由があるのか?」

「いや、単に刻印に魔力が通ってないからっていう理由だと思う」

 

 横からスメラータが口を出して、それで自然と視線が集中する。

 アキラのみならず、ルチアやユミルまで向けているものだから一瞬萎縮したが、しかし一度口にした事の自負でもあるのか、ぐっと口元を引き締めてから続ける。

 

「刻印の使用回数とかは外から分からないけど、でも魔力が通っているか位は分かるんだよ。だから今から行ったら、刻印を初めて貰って意気揚々と赴いたおのぼりさんだって、すぐにバレる」

「……それが何か悪いか?」

「それが田舎町のギルドなら別に良いんだけど。少しでも大きなギルドだと、そういうおのぼりさんってホラ……、嫌うってんじゃないけどさ」

「舐められる、か?」

 

 そう、とスメラータは鼻息を荒くして持論を展開し始めた。

 

「大抵は足引っ掛けたりとか、可愛いイタズラ程度で済むけどさ。割りと深刻に上下関係、教えこんで来たりする奴もいるもんで……。だから少しでもマシな状態で行った方が……」

「……必要な事だとは思えないが」

 

 仮に喧嘩を売られたのだとしても、そこで気概を見せれば一目置かれる。例え勝てずとも、骨のある奴だと思われれば、実質勝ちのようなものだ。

 スメラータのように、分かり易い箇所に上級魔術の刻印があれば、そんな心配もないのだろうが、しかしアキラでは不安が募るのだろう。

 

 ミレイユとしては、むしろアキラの現地での立ち位置を知る為に、積極的な可愛がりを求めるくらいなのだが、しかしユミルが待ったを掛けた。

 

「良いじゃない。どうせ喧嘩売られるなら、刻印の効果がどの程度か知りたいじゃないの。良い機会だと思いましょうよ。実戦じゃないし、どうせ本気の殺し合いにはならないわよ」

「そう言われると……確かに興味はある」

 

 アヴェリンにまで言われると、ミレイユに敢えて強行する理由がない。

 それにユミルの言われて、ミレイユ自身興味深く思ったのも確かだ。

 ガスパロに顔を向けて、頷くように小さく頭を下げる。

 

「助言、感謝しよう。では、明日の朝にでも向かう事にするか」

「……宿の方はもうお決めになっておられますか?」

「いや、それもこれから決める」

「それでしたら、逗留先は是非ともこちらへお任せ頂ければ……。決してご不満、ご不便かける場所を選ばないとお約束致します」

 

 どうする、とミレイユが他の面々へ目を向けると、それぞれから任せる、といった返事が戻って来る。警戒を放棄している訳でもないが、ミレイユ次第とする事にしたようだ。

 

「では、ギルド長、よろしく頼もう」

「畏まりました。万事取り計らいますので、鷹揚な気持ちでお待ち下さい」

 

 ガスパロは腰を曲げて一礼したが、その表情は晴れやかだった。

 まるで尊敬する王へ、ようやく役に立てたと胸を撫で下ろす臣下のような表情だ。それでガスパロへの今後の対応をどうしようかと、ミレイユは頭を悩ます事になった。

 



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二つのギルド その1

 宿の手配が済むまでには小一時間ほど掛かるらしく、それまでサロンで過ごす事になった。

 その間もガスパロが行き届いたもてなしをしてくれ、直近にあった出来事などを面白おかしく紹介してくれた。芸人のように笑わせてくる内容ではなく、知的で気の利いた、思わず感心するような発言で、良く諧謔を理解している話し方だった。

 

 その間にも、ミレイユの正体について、不躾でない探りを入れられていた事には気付いたが、そのどれにも答えなかった。

 探られて痛い腹という訳でもないし、ガスパロ個人は魔王ミレイユについて畏怖はあっても嫌悪を抱いていない。その畏怖においても、強大な魔力を十全に扱える者に対する畏敬、という意味合いの方が強かった。

 

 だから答えても良かったのだが、賢い者なら一つの問から十の答えを得る者だ。それに懸念して答える事は控えることにした。

 とはいえ、そのお陰で、誰もが魔王を嫌っている訳ではないのだと理解できたが、さりとてガスパロはその中でも変わり種の部類だろう。

 

 ギルドの長をしていながら、刻印という技術に対して忸怩たる思いを抱いている。だからこそ、それを頼みにしないミレイユ達へ、友好的な態度を見せるのだ。

 あるいは、その刻印を使うにしても、アキラへ指示したような分を知る扱い方をしようとする。

 そこへ共感するからこそ、同好の(よしみ)のようにも感じているのかもしれない。

 

 まだ夕刻という時間ではないが、日が沈み始める気配を感じ始める時間帯、その頃になって使いの者がやって来た。

 ミレイユが立ち上がるのを皮切りに、他の面々も立ち上がって簡単な挨拶をする。

 

「色々と世話になった。実に心配りされたもてなしで、こちらが恐縮する程だ」

「大変、過分なお言葉を頂戴しまして、まことにありがとうございます。是非また、当ギルドへ足をお運び頂けたなら、これに勝る喜びはありません」

「そうだな、……機会があれば」

 

 ミレイユとしては、変な誤解――それが実は真実にしろ――している相手には、あまり接触したくないというのが本音なのだが、ユミルは上機嫌で本を一撫でして笑みを向けた。

 

「中々、興味深くて面白かったわ。今後、また利用に来るかもしれないわね?」

「恐縮でございます。是非またのご利用、お待ちしております」

 

 ガスパロもまた笑みを浮かべ一礼し、それで各々が軽い挨拶を交わし、辞去する事となった。ギルドの入り口では御者が待機していて、馬車まで用意してある。

 その事にも礼を言って別れ、そして全員が乗り込んだところで出発した。

 

 そうして、その乗り込んだ者の中に、スメラータが居ない事に気付く。

 面の皮は相当なものなので、勝手に付いて来るとばかり思っていたのだが、出発していざアキラの隣を見てもいなかった。

 

「……付いて来るなと言わない限り、勝手に付いて来るのだと思っていたが」

「己の分を知ったのでしょう。役目が終わればそれまでと、その様に思ったのは良いとして、一言の挨拶もないのは許し難い」

「教育が行き届いているように見えなかったとはいえ、義理は大事にするように見えたんだけどねぇ。割りと典型的な、冒険者気質って感じだったし」

 

 アヴェリンの苛立ちに追従するようにユミルは頷いたが、同意を得た相手がユミルだったのが嫌だったらしく、小さく眉を顰めて、それきり喋らなくなる。

 それでミレイユは、最後に聞いたユミルの台詞を思い出して、その時の事を尋ねてみた。

 

「ユミルはまた利用するかも、と言っていたが。刻印魔術がそれほど気に入ったのか?」

「アタシっていうか、むしろアンタが使うのはどうかと思って、一応言っておいたのよ」

「……私か?」

 

 首を傾げて聞いてみれば、ユミルは大いに頷く。

 

「魔力が有り余ってんのに、それを有効活用しない手はないでしょ。一体、どれほど無駄に使ってる魔力があるって言うのよ。さっき頭を小突いた念動力だって、本来そんな些事で一々使うもんじゃないでしょうに」

 

 ミレイユは渋い顔をしつつも頷いた。

 その魔力生成の多さから、ミレイユは点穴の量も相当多い。規格外の多さだが、それでさえ無駄に魔力を消費するよう心掛けて、ようやく飽和させずに済んでいるような状況だ。

 

 では何故そのような危ない状態を維持しているかといえば、戦闘中であっても魔力を回復できるという利点を捨てたくなかったからだ。

 

 本来ならば、魔力で自分が殺されない、最適な量に調整する必要がある。

 それは生成量をそもそも抑えて鍛えるとか、点穴を増やすなどして対応するのだが、そうすると自然、消費した魔力の回復量も落ちてしまう。

 

 ミレイユの魔力総量も相当多いので、この数量が多い者の共通の懸念として、回復には多大な時間が掛かる、というものがある。

 一度の戦闘で強敵と戦う機会の多かったミレイユとしては、その回復までに掛かる時間すらも惜しんだ。

 

 そして、それが現在まで続いている。

 本来、魔力の回復とは、気の休まる状態でなければ回復が遅い。それは体力とも同じ様な事が言え、強い緊張やストレスを与えられる環境では回復が遅い、というのと良く似ている。

 

 だがミレイユが持つ生成量なら、それが戦闘中でも関係ない。

 継戦能力の向上と、戦闘能力の低下を最大限抑える事が出来るものの、その代わりに普段の生活では不便が生じている、という具合だった。

 

「確かに、刻印に持っていかれる魔力量次第では、一つか二つは考えても良いか……」

「そうなさいな。勿論、気に入ったものがあればっていう前提になるけどね」

「アキラみたいな、デメリットとメリットがあるものは、メリットだけ活かせる状態だと強さが際立つものもありましたよ」

 

 ルチアも会話に参加してきて、本の内容を思い出しながら口にする。

 

「例えば?」

「そうですね……『求血(きゅうけつ)』っていう魔術刻印なんですけど、放った光球が対象に当たると、その場で滞空し続けるっていう効果で……」

「それが血を吸い続けるのか?」

「だったら別にデメリットないじゃないですか。そうではなく、与えたあらゆる傷を光球が肩代わりして、そこへ蓄積されていくんです」

 

 では、敵ではなく味方に使う魔術なのだろうか。

 それだけ聞くと、術の効果中は傷を受けないでいられるように思える。だが、これだとやはりデメリットにならないので、きっと違うのだろう。

 

「受けた傷は光球が代わりに引き受けるんですけど、時間の経過で破裂します。その破裂した時、傷は二倍になって返って来る、そういう魔術であるようです」

「それは……どうなんだ? 一撃でも入れれば特、というように思えるんだが」

「効果を知らない相手には、恐らくそうでしょうね。一撃離脱も有効かもしれません。でも、効果を知ってる相手からすると、それだけの無傷時間を与える事になるんですよ」

 

 あぁ、とミレイユは思わず呻いた。

 もしも自分が掛けられたら、その時間を有効に使って、とにかく相手を殺そうとする。術者が死ぬか、あるいは気絶しても継続し続ける魔術というのは聞いた事がない。

 

 だから、汎ゆる防御を捨て去って、汎ゆる致死の攻撃を与えようとするだろう。

 もしこれが、仮にアヴェリンに仕掛けられたとしたら、その仕掛けられた時間を逃げ切れるかの戦いになる。そして汎ゆる防御を捨て去ったアヴェリンから、果たして逃げ切れるかと言うと、中々難しいものがあるだろう。

 

「そして逆に、その時間を有効に使えたなら、格上の相手にも多大な傷を負わせられる、そういう術か……」

「その様です。……うぅん、あまり一対一で使うべき術ではないのかもしれませんね。無傷時間の猛攻を凌げるか、凌いでいる間に致命傷を与えるだけの傷を与えられるか、そういうギャンブルになると思いますよ」

「いいわよね、面白そうだと思わない?」

 

 ユミルが悪戯好きな子供のような笑みを浮かべたが、ミレイユとしてはリスクの方が大きい術の様な気がする。術を知らない魔獣や魔物には有効だろう、という気がするから、そういう相手向きの術なのだろう。

 

 ただし、やはり強力な魔物に対し、全くの無傷時間を与えるのは、相当なリスクになるのは間違いない。

 術の効果とその対応を思い描きながら、ミレイユは思う。

 

 それを選ぶかどうかは別にして、刻印魔術にはミレイユの知る常識とは別の概念が、そこへ盛り込まれている。魔術の効果そのものに、メリット・デメリット、リスクとリターンを秤にかける術というのは見た覚えがない。

 

 術の行使そのものがリスクと言えるようなものだから、その所為なのかもしれないが、扱いの難しい術が増えているように思える。

 それならば、確かな強化が約束される常時発動を選ぶ者が多いのではないか。例え上級魔術の刻印を使える魔力があったとしても、常にリスクを背負って戦うのは、好まれるものではない。

 

 アキラに施術された二つの魔術、それが不人気と呼ばれるのは、その効果のみならずリスクを伴う事にこそあるのかもしれなかった。

 

「でも、まぁ……そうだな。その無傷時間というのは、どれ位になるんだ?」

「それは込めた魔力量に依存する事になりますね。というか、刻印は自動的に近いので、細かな調整は端から無理です。自身が持つ最大値を強制的に使われる事になりますから、ミレイさんが使うとなると、それはもう長い時間になりそうな感じです」

「それが何秒か分からないのは怖いが、しかし長時間になるのは間違いなさそうだな。それだけの時間、相手に無傷時間を与えるのか……。だが破裂するまで攻撃を当て続けられたなら、その二倍になるダメージも相当なものになる……」

 

 ミレイユが理解を示すと、ルチアは得意げな顔付きで頷いた。

 

「中々に面白い効果でしょう? それを選びたくないというなら、有効に扱えそうなものも他にありますし、検討するだけしても良いのではなかと……」

「そうだな」

「でしょ? アタシのオススメはねぇ……」

「止めろ、聞きたくない」

 

 意気揚々と話し続けようとしたユミルを、ミレイユはぴしゃりと打ち切る。

 

「何でよ、面白いと思うわよ。気に入るかどうかは別にして」

「まず、なぜ面白いが前提に来るんだ。先に気に入りそうなものを餞別して言え。好きで苦労したい訳じゃないんだよ」

「そうなの? アンタ進んで苦労しに行くし、好きに違いないと思ってたのに」

 

 その一言はミレイユの胸にグサリと刺さった。

 思わず一呼吸、動きが止まって、渋い表情で顔を逸らす。くすくすと笑うユミルの声は聞こえていたが、そちらへは決して目を向けられない。

 どうせいつもの、嫌らしいニヤニヤとした笑みを浮かべているに違いなかった。

 



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二つのギルド その2

 そのように話し込み、幾つもの脱線を含んで話が盛り上がっていると、いつしか馬車が停まり、豪奢な宿が窓から見えた。

 御者がドアを開けてくれたので、近い者から順次降りていく。

 全く必要ないのだが、アヴェリンが手を取って、エスコートするようにミレイユも馬車から降りた。従者の様な振る舞いを好むのはいつもの事なので、殊更文句を言ったりはしない。

 

 宿の外観は石造りの街の中にあって、その素材からして厳選して作ったと分かるほど見事なものだった。石工の腕次第で石の切り方も切り口にも違いが出るものだが、ここの石は角から全て直線で歪みもなく、石の間に詰め物をして誤魔化したりもしていない。

 

 石の色も乳白色で気品があり、明かりを多く灯してあるのも、また豪華さに拍車を掛けていた。中に入ると外観から想像したとおりの内装で、暗くなりがちな室内を可能な限り明かりで灯し、そして煙が籠らないよう工夫もしてある。

 

 宿と言えば、その多くは一階が酒場か食事処になっているもので、喧騒もそれなりに大きいものだが、ここにはそれもなかった。

 簡単に見渡した限りでは、ロビーとして用意された広場には椅子やテーブルはあっても休憩用で、その更に奥に食堂があるようだ。

 

 そちらにも時間的に人はあまり利用していないようで、高級宿に相応しい静けさが漂っている。

 受付のカウンターへ近寄ると、即座に従業員が対応してくる。宿は基本的に前払いである事が多く、それで支払いをしようとしたのだが、やんわりと断りが入った。

 

「既にお代は頂戴しております」

「……あぁ、つまり、魔術士ギルドの方から?」

「はい。ガスパロ様個人から、お代を受け取っておりますので、食事の方もお好きなものをご注文下さい」

 

 刻印の値段も最初は固辞しようとしたガスパロだから、それを別の場所で代わりにしたかった、という事なのだろう。

 何とも言えない表情で、とりあえず従業員に頷いた後ろで、アヴェリンがこっそりと耳打ちしてくる。

 

「これは、また魔術士ギルドの方へ、顔出ししなくてはならなくなりましたね」

「そうだな、最低でも礼の一言は届ける必要がある」

 

 最悪、今日が最後の別れにならないように、というガスパロなりの狙いがあったのだろう。

 別にそれを卑しい戦略などと思ったりしないが、しかし単なる配慮以上の気遣いには、何か執念めいたものを感じられた。

 

 いつまでも受付前で、渋い顔をしてもいられない。

 従業員から案内されて部屋へと移動し、そしてそこでは、それぞれが一室を与えられていたのだが、やはりここでもアヴェリンは同室を望んだ。

 

 高級宿と言っても、多くは旅人が利用する宿なので、部屋も一人が過ごすに十分な間取りしかない。ベッドもシングルサイズが一つだし、椅子とテーブルはあるが一組だけで、誰か他人を招き入れる構造にはなっていなかった。

 

「構いません、床で寝れば良いだけです」

「そうは言うがな……」

 

 以前、共に旅をしていた時は、これほど過剰に護衛しようとはしていなかった。

 部屋が別なら別で、隣を希望する程度の要望はあったが、それぐらいなら順当な要求でしかない。だが、こちらへ帰って来た理由を思えば、アヴェリンとしては気を抜いて良い状況など早々ないのだろう。

 

 自分で取った宿なら、部屋の都合などもう少し融通が利いたのだろうが、生憎今回は用意して貰った宿だ。それだと要求もし辛いので、一部屋分、無駄になるのも仕方ないと思いながら、アヴェリンの要求に折れようと思った。

 

 だが、それならばと従業員が気を利かせて、別の部屋を用意してくれた。

 ユミル達とは少し離れてしまうが、ベッドが二つあって部屋の間取りが幾らか広い。手狭な感じは否めないが、しかしベッドがあるだけ上等だった。

 

「無理を言ってしまったようで済まないな」

「とんでもありません。この程度の無理であれば、いつでもどうぞ」

 

 笑顔で応対する従業員に、ミレイユは思わず感心した息を吐く。

 現世で過ごしていれば、直前になっての部屋替えも、空きがあるなら応じてくれるという前提でいるが、こちらの世界で接客サービスなど受けた記憶がなかった。

 

 多くの旅宿は家族が経営しているもので、宿というより巨大な家だ。

 流石に従業員の部屋と客の部屋は、間取り的に隣接していたりしないし、明確に離れた場所にあるものだが、泊まりに来たというより泊まらせてやるというような雰囲気が強かった。

 

 宿の質がその程度なら、客の質もそのようなもので、だから細やかなサービスなど期待できるものではない。

 食事も用意して貰えるが、質は大した事ないものが多く、外で取る事を選ぶ人も多かった。

 酒はどこも対して変わらないので、それで夜まで飲み明かす旅人は多いが、大概煩くて深夜まで寝付けないという事も珍しくないものだ。

 

 こういった高級宿では、そういった悩みはなさそうで、質の良い睡眠が取れそうだ。

 最近は野宿ばかりだったから、暖かく柔らかなベッドは有り難い。アヴェリンは固い床で寝る事を苦にも思わないかもしれないが、しかし自分だけというのも寝覚めが悪いところだった。

 

 そうして全員に部屋が行き渡って、食事までは自由時間となった。

 ルチアとユミルは先程まで見ていた刻印魔術に対して、色々と議論をぶつけ合いたいらしく、二人で一室に籠もって話し合いを始めた。

 

 アキラに刻印の説明をせねばと思い出し、それでアヴェリンに呼ぶように頼んだのだが、しかしそれには渋い顔をして難色を示した。

 

「ミレイ様の寝室に呼ぶというのは、如何なものかと……」

「そうは言うが……、食事の時間まで暇だしな」

「でしたら、ロビーで話していても宜しいでしょう。その様に、歓談で使える場として用意されているのだと思いますし」

「まぁ、そうか……。つい簡単に考えてしまうが、あまり褒められた行為じゃなかったな……」

 

 はしたないとか言う以前に、日本語を外で聞かれたら面倒だ、という程度の気持ちで呼ぼうとしていた。合理的かもしれないが、その程度の理由で寝室へ招くものではないのだろう。

 だが、それならいっそ食事時に話した方が面倒が少ない、とも思ってしまう。

 

 しばし考えて、やはり食事時に話す事に決めた。

 今は偶に出来た何をするでもない時間を、アヴェリンと共に楽しもうと思った。

 

 ――

 

 高級宿に相応しく、周囲の客も弁えたもので、大声を上げて話す者は皆無だった。

 冒険者らしき姿をした集団も見掛けたが、ミレイユ達には一瞥しただけで話し掛けて来たりもしない。やはりその視線にはキナ臭いものを感じたものの、騒ぎを起こす非常識さを持ち合わせてはいなかったらしい。

 

 食事の内容も素晴らしく、どれも満足できる一品ばかりで、これは単に高級か否かの問題ではなく、時代を経て生まれた結果だろう。

 どこかのタイミングで食文化が花開いたのかもしれない。

 

 食事にも満足し、ワインで喉を湿らせながら、ようやくアキラに刻印の説明を始めた。

 ルチアとユミルの二人に説明させ、それで難しい顔をしながらも、口元に手を当てて何度も頷く。

 

「……というワケよ。分かった?」

「僕が考えてたものとは大分違いましたけど……。でも、一つだけと言っていたのに、何故二つに増えたのか、これでようやく納得がいきました」

「まぁ正直、回復の方はあまり頼りに出来ないとは思うのよね。所詮は初級魔術、切り落とされた腕まで治るようなもんじゃないし」

 

 アキラは口元に手を当てたまま、難しくさせていた顔を更に険しくさせた。

 

「……くっ付くんですか、上級魔術は」

「そりゃ付くわよ。本来は長い時間かけて治すもんだけど、ルチアに掛かれば一分も掛からないんじゃないかしら。――どうなの、実際?」

「まぁ、そうですね。切断されてからの時間にも寄りますけど、目の前で落ちた腕なら三十秒で治せますよ」

 

 アキラの表情が驚愕で歪み、息を呑む。

 大怪我をした訳ではないから、その系統の術は見せた事がなかったが、ルチアは現世の常識では考えられない治癒を発揮できる。

 

 当然、治癒魔術の内容や、術者の技量によって治り方にも差異はある。

 時間をかければ治せる者もいれば、治したところで後遺症を残す者もいる。そういった意味では、確かにルチアの治癒技術は驚異的なのだ。

 

 単に氷結使いとして魔術に秀でている訳ではなく、治癒術にも深い造詣を持っている。それがルチアという魔術士だった。

 アヴェリンが話の流れを断ち切るように、アキラの手の甲左右、それぞれ指差しながら言う。

 

「話が逸れているぞ。お前が欲した治癒と盾、本来ならお前の魔力量から考えて、どちらか一方が相応と思われていた。だが、その二つならお前の力量も変わらない。何より『年輪』は、内向術士と相性が良い」

「盾と言ってましたので、前方に展開する壁とか、そういうものを想定していましたけど……。これはむしろ鎧なんですね。全身をすっぽりと覆う……」

「そうだな、そういう意味では背後からの一撃も受け止めてくれる、という観点で見れば有効だ。ただし当然ながら、一箇集中して守る訳ではないから、受け止める力は盾より弱いものになるだろう」

 

 アヴェリンが間違っていないか、問うような視線を向けてきたので、それに首肯してやる。

 

「やはりそこは、一般的に見て防御力が下がる。……が、そこは本人の魔力練度によっても変わるな。お前がこれまでアヴェリンから受けた鍛錬を、十全に発揮できたなら、年輪もまたそれに合わせた厚さになる」

「何層も出来るって話でしたっけ……」

「スメラータが言うには、最大で三層までしか見た事がなく、しかも紙のように役立たないものであったようだ」

 

 それでアキラの眉が八の字に垂れ下がる。

 そこには許しを請うような、物悲しい瞳が揺れていた。

 

「やります、やってみせます。そのつもりは間違いなくあるんですけど……、本当に僕で使い物に出来るんでしょうか……」

「さて、どうなるものやら……。ギルド長の見立てでは、そこそこ期待できる様ではあったが」

「情けない事を口にするな」

 

 アキラの弱音を一掃するように、アヴェリンが厳しい口調で叱責した。

 

「お前に何の期待も持てないようなら、そもそも機会など与えてくれない。その機会を与えられている現状が、ミレイ様にどう思われているかを理解しろ。出来るのかどうか、自分を疑うより前に、出来ると気概に身を燃やせ」

「――はいっ、申し訳ありません! また弛んだ事を言いました、誠意努力します……!」

 

 アキラが後頭部が見えるまで深く礼をして、アヴェリンが鼻を慣らして腕を組んだ。

 相変わらず師匠は厳しく、そして未だ見捨てず良い師匠であるようだ。アヴェリンへ微笑みかけていると、その笑みに照れた様子を見せながら、尚も続ける。

 

「結局のところ、お前の力量を落とさず回復も盾も与えるには、そういったリスクを選ばねばならなかったが、しかし生存率を高める魔術は手に入った。――私が最初に教えた事を覚えているか?」

「えぇっと……、武器を手放すな?」

 

 アヴェリンは満足した顔で頷き、更に続きを促す。

 

「……他には?」

「転んだらすぐに起き上がれ、決して動きを止めるな、そう言った薫陶を頂きました」

「……あぁ、だからこれまでの経験と蓄積が役に立つ。今までと何も変わらない、そうだろう?」

 

 アヴェリンは念押しするようにアキラへ一対の視線をぶつけ、そしてアキラは背筋を正して言葉を待つ。

 

「痛みを押して動き続けるのも、最後まで武器を取って戦い続けるのも、何一つ変わらない。そこに傷を癒やす、傷を減らせる効果が付随しただけ。それでどの様に変わり、どこまで戦えるようになるかは、お前次第だが……」

「はい、その意志が折れない限り、武器を振るい続けます」

「それでいい」

 

 アヴェリンが腕組したまま満足気に息を漏らした。

 

「動き続ける事以上に、()()()を振るい続ける事に意味がある。その事を覚えておけ」

「はい、ありがとうございます」

 

 殊勝に頭を下げようとしたところで、ミレイユが余計な一言かもしれない、と思いつつ口を出す。

 

「何故アヴェリンが武器でなく刀と言ったか、その事を覚えておくと良いだろう。教える機会があるかどうかは……、今後次第か」

「ミレイ様、少し話し過ぎでは……」

「そうだな、どのタイミングで話すかはお前に任せるんだった。つい口が……」

 

 その一言さえも、アキラへのヒントになってしまいそうで、慌てて口を噤む。

 アキラの顔を伺うと、何かを思い付きそうで、しかし思うかばないもどかしさが浮かんでいた。自分で思い付いても推測でしかないから、それと認識せずに使う事はないだろう。

 

 だが一度はアヴェリンに任せると口にしたからには、ミレイユから教えてやるのは僭越だった。

 強制的に話を切り上げ、そして明日の予定を告げる。

 

「明日はギルドに行ってアキラの登録を行う。試験の類もあるかもしれないから、アキラは準備しておけ」

「あるんですか、試験……!」

「内容は私も知らないが、誰彼構わず受け入れていた昔とは違うらしい。何か自分の強みなど見せる必要はありそうだ。大概は、まず刻印を持っているかどうかで判断するらしいが」

 

 アキラは自分の両手甲を見て、安堵するような息を吐いた。

 刻印を持たない者は門前払いだろうが、あったところで受け入れるかは、また別の問題だろう。アキラが正しく判断されるかどうかは、行ってみるまで分かりそうもなかった。

 



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二つのギルド その3

 翌日、宿を辞して冒険者ギルドへ向かう。

 馬車の用意も出来ますが、という宿側からの提案は丁重に断った。ギルドに向かって馬車で乗り付けるのは、依頼をする客側だけだ。

 

 これから冒険者になろうと門を叩くつもりの若者が、馬車で乗り付けて入り込む、というのは些か以上に不自然だった。

 それこそ、貴族の道楽で遊びに来たと思われても不思議ではない。

 

 だから現在は徒歩で移動していて、西区画から城のある中央区を迂回して東区画へと向かっていた。中央区は城壁によって区切られていて、専用の門からしか入る事は出来ないが、それだけではなく巡回兵もいる。

 

 城は単なる王族が居住しているだけでなく、都市を運営する施政所のようになっているので、自然と警備も厚い。ミレイユの格好は幻術で誤魔化しているだけなので、いらぬ騒動を招きそうな場所は避けたかった。

 

 少々遠回りする事になったが、南区画の賑わった喧騒を横目に通り過ぎ、簡単に果物だけ買って、それを食べながらギルドへと赴く。

 食べ終わって残った芯を、魔術を無駄に行使し地面へ捨てる。アヴェリンは元よりルチアもユミルも普通に道端へ捨てていたのだが、アキラはそれに倣って捨てるのに抵抗を示した。

 残った芯を持て余しながら、日本で育った者らしく、気不味い表情を浮かべている。

 

「あまりお行儀良くやっていては、いつまで経ってもこの世界には慣れないぞ」

「そうは言いましても……、やっぱり染み付いた常識ってものが、どうしても……」

「それはつまり、やましい事をしたくない、法を犯したくないという責任感があるからだろう?  だが、そもそもポイ捨ては犯罪じゃない」

「こっちでは、そういう法整備がないんでしょうけど、でも……」

 

 アキラは現世の常識を持ち出して反論しようとしたが、それこそが間違いだった。

 ミレイユはそれを遮って続ける。

 

「お前の考えも分かる。誰もが好き勝手に生ゴミを捨てていたら、あっと言う間にゴミで溢れる。法で咎められないからと言っても、自分のモラルが許さない、……そういう事だろう?」

「えぇ、はい。そんな感じです」

「まず、前提としてゴミを捨てるのは悪事ではなく常識で、捨てて良いのは生ゴミだけだ」

「……何か違うんですか、それ?」

 

 アキラの疑問も最もで、普通はポイ捨てして良い物なんてないだろう、という考えが浮かぶ。

 そこへミレイユが道から少し外れた場所を示した。

 

「あそこに豚がいるだろう。生ゴミっていうのは、つまりアレの餌でもある。元より規制しても止めないから、そこで豚の餌にして肥え太らせようという訳だな」

「それじゃあ結局、豚の糞がそこら中に溢れちゃうじゃないですか。本末転倒では?」

「そのとおり。だから処理人がいる。人気もなく最底辺の職業かもしれないが、そもそも馬も街中で運用すれば糞を落とすんだ。動物の糞は肥料になる、だから馬だけでなく豚の分まで糞が拾えれば、処理人はむしろ糞が売れて助かるという訳だな」

 

 都会ともなれば、その辺りはしっかりしていて、糞便の臭いはそれほどキツくない。見掛けたら処理人がすぐ回収してくれるからだが、昔と違って臭いも殆ど感じられないのは、もしかしたらここでも刻印が活躍しているからかもしれない。

 

 それはともかく、アキラは納得できるような、あるいは出来ないような表情で豚を見つめる。

 単純な効率面で見て有効的とは思えない、などと思っているのだろう。それもそうだが、しかし都市の運営について、現代の洗練された構造を真似は出来る筈もない。

 

 現世を生きた人間から可笑しく見えるのは当然で、そしてそれこそが、この世界に根ざしている常識なのだ。それを知ったなら、反発よりもまず先に受け入れねばならない。

 その上で耐えられないというのなら、自らが変えていくしかないのだろう。

 

 当時のミレイユはそもそも、この世界がゲームの世界としか思っていなかったから順応も早かった。そして変革など考えもしなかったから何も思わなかったし、あるがままを受け入れるのが自然とさえ思っていた。

 

 暮らす程に不便な部分は色々と目立って来るが、しかし変えてやりたいと思うほど熱心ではなかった。結局のところ、何か変革をもたらしてやりたい、と思える程に熱心ではなかった、という事だったのだろう。

 

 ギルドへ向かう間も、その他アキラが気になった事などに答えてやりながら道を進み、そうして昨日も通った道に出て来た。

 この道を進めば魔術士ギルドへ辿り着き、そしてその道を挟さんだ正面に、冒険者ギルドが建っている。

 ギルドはやはり多種多様あるものだが、この二つが最も有名で東区画の顔になっているのは間違いない。

 

 三角屋根だった魔術士ギルドと違い、こちらは対象的に四角屋根で、敷地面積も大きい。ギルドマークが屋根上にあるのは同じだが、建物は比較してこちらの方が大きく、そして隣にはやはり酒場が併設されている。

 一々外へ出ず通えるよう、短い渡り廊下で繋がっていて、今もチラリと覗いた限りでは、朝食を取っている者もそれなりにいるようだ。

 

 ギルドの方はまだ朝早くだというのに盛況そうで、剣や斧を背負う戦士風の者、ローブを羽織った魔術士風の者、弓を持った者といった様々な冒険者が出入りしている。

 

 意気揚々と出掛けようとしていたり、難しい顔して入り口を潜ったりと、その様子は様々だが、魔術士ギルドとは違った熱気があった。

 その全員には刻印があり、やはりそれは必ず見える場所にあった。

 

 ミレイユ達が邪魔にならない位置で立ち止まると、アキラは建物を上から下まで見つめて、感慨深い溜め息を吐いた。

 感慨に耽るばかりでなく、早く加入手続きを済ませて欲しいのだが、しかしその前に大きな声でミレイユ達を呼び止める声があった。

 

「見つけた! 待ってたよ!」

「スメラータ、……お前、自分から居なくなっておいて、良くそんな言い草が出来るな?」

「違うよ! いや、違わないけど……」

 

 スメラータは一瞬、戸惑い困った表情を浮かべてから、手を大きく開いて弁明し始めた。

 

「アタイだって馬車に乗ろうとしたよ! でも、馬車なんて乗り合いの奴しかしらなかったし、あんな立派なモンに乗って良いのかな、なんて思ってたら、勝手に出発しちゃったんだってば!」

「……追いかけて来なかったのか?」

「いや、目の前でバタンって閉じて、パカラパカラ動き出すもんだからボーゼンとしちゃってさぁ。追いかけようとしたけど、……一瞬冷静になったら、いや追うのもどうなの、って思っちゃって……」

 

 そこまで言うと、スメラータはしゅんと肩を落とした。

 確かにスメラータの装備はミレイユ達と違って魔術付与されたものではないし、革鎧の姿はアキラと似通っているように思えるが、使い古されて年季を感じる。

 

 同じパーティの冒険者というより、たまたま馬車の近くにいた別の人、と思われても不思議ではないかもしれない。

 

「まぁ、それで、冒険者ギルドに行くって話は聞いてたし、待ってたらいずれ来るだろうと思って……」

「それで、ああして待っていたという事か……」

 

 だとすれば、昼より後に来ていたら、それまで延々と待ち続ける事になっていたのだろう。

 それを思うと不憫だが、しかしスメラータの役目は十分終わっている。最初から刻印の説明を求めるくらいの役割で、それも魔術士ギルド内では、破格の待遇を受けた事で、多くは不必要となってしまった。

 

 だが確かに、庶民目線での金銭感覚は役に立ったし、まったく有益では無かったとも思っていない。礼の一言くらい、しても良かったろうと思っていたから、この早すぎる再開も好ましいと言えば好ましかった。

 

「……まぁ、昨日は助かった。良くしてくれた事に礼を言おう、それじゃあな」

「いやいやいや、ちょっと待って……!」

 

 淡白に、そして簡潔に礼と別れを告げてから、皆を伴ってギルドへ入ろうとすると、それより早くスメラータが行く手を遮る。

 ミレイユは帽子のつばを摘んで上げ、迷惑そうに眉根を寄せて睨み付けた。

 

「まだ何か用があるのか?」

「……何でそんな、おっかない顔すんのさ。アタイと皆の仲じゃない」

「偶然行き合って、多少の助けを借りただけの仲だろう。礼も済んだ。それ以上求めては、欲をかいていると思われるぞ」

「まぁ、そうなんだけどさ……。でもやっぱり、そう簡単には諦め切れない訳で……」

 

 千載一遇のチャンスと思う、スメラータの気持ちは分からないでもない。だが正直に言えば煩わしいし、鬱陶しい。ミレイユ達にも目的があり、そしてそれには弟子の面倒など見る余裕はない。

 仮に一切の面倒事が無く、この世界で生きていくしかなかったとしても、やはりスメラータを弟子に取ろうとは思わないだろう。

 

 そもそも冒険者とは、同業者ではあっても、同時に商売敵でもある。

 同程度の実力ならば、それは仕事の奪い合いになる事も多いから、若い芽は早い内から潰しておこうと思う過激派もいた。

 

 目立つ者は叩かれる風潮もあり、それが同じ冒険者にも手の内を晒さない秘密主義のような形へと発展していた。

 それを良く知るミレイユやアヴェリンなどは、わざわざ敵に塩を送ってやる意味などない、と考えてしまうのだ。同門の弟子同士、仲良くしろと言われたらその通りにするかもしれないが、しかし結局、アヴェリンにも教えるつもりなどない。

 

 大事なのはこれから始まる神々との抗争なのであって、いち冒険者の憂いなど気にしていられないのだ。

 

「いずれにしても、まず持って行うべきは、アキラのギルド加入だ。お前にも都合や考えがあるにしろ、私達が応えてやる義理もないしな」

「ミレイ様も既に通告した筈だろう。一応の働きがあったから大目に見たが、度が過ぎれば力付くで排除する事になるぞ」

 

 アヴェリンから小さな苛立ちが漂って来たが、その腕を叩いて宥めてやる。

 

「そこまでする必要はない。それより手早く済ませてしまおう。ギルドにあるという、アキラの試験も気になっている。とりあえず刻印は与えたが、同行までは許可していない。あいつの決意を袖にするもしないも、そもそもの実力次第である事にも変わりないんだ。刻印を得てどう変わったか、私はそれを知りたい」

「そうですね……。現行の制度は昔とは違って易しいようなので、その場で戦闘試験があるとは思えませんが……。何か獲物を狩るにしろ、最初は低級魔獣討伐程度でしかないでしょう。その時は試金石とする為に、どこか別の魔物を狩りに行く事も考えなければなりませんか……」

 

 魔物というのは、とにかく何処にでもいるという存在ではない。

 大抵は人里から離れた所に住むし、大きく移動を繰り返すものもいる。大抵人に被害を出すのは魔獣の方で、冒険者の討伐依頼もこちらが多い。

 

 だが魔物が人里近くに出たり、あるいは接近情報が入れば、まずギルドの方で管理し、その情報の精度や確度を高めていく。その為の情報収集依頼もある程なので、どこにどういう魔物がいるのか、それを知るにはギルドを頼るのが一番早い。

 

 魔物の多くは、その素材が何かしらの役に立つ。

 それは装備の素材であったり錬金術の素材であったりで、より大きなマナを溜め込んでいる為に、活用できる部位は多いのだ。

 

 だから魔物情報はいつだってギルドにある筈だし、いつだって討伐依頼は出ている。

 依頼を受けなければ、その詳しい情報は得られないので、単に魔物とアキラを戦わせたいと森中を歩き回るのは非効率極まりない。

 

 一番の近道は、ギルドに加入した上で、その依頼を受ける事だった。

 それでアキラの実力や、今後の伸びしろを考える。その上で同行を許可するか決めるつもりだった。仮に拒否する事になったとしても、そこまで面倒見てやれば、今後この街で生きていく事もできる。

 

 後の問題は言語だが、そちらは頑張って覚えろ、と発破を掛けるしかない。

 これは結局同行する事になっても身に着けて欲しいスキルなので、疎かにしたいものではなかった。そちらをどうしたものかと考えながら、スメラータを押し退けてギルドへ足を踏み入れた。

 



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二つのギルド その4

 入って真っ先に思ったのは、昔と違って清潔だ、という印象の違いだった。

 魔術士ギルドは昔から魔術書を扱っていただけに、色々な部分で清潔さを心掛けていたが、冒険者ギルドは違う。荒くれ者が集まる場所だし、言ったところで聞いてくれない。

 

 だから床は粘着質の液体が落ちていたりする事は当然だったし、酒臭さや獣臭さが充満しているものだった。それが現在では見る影もない。

 冒険者の中には荒くれ者だけではなく、身形の良い者達が多い。貴族という訳ではないだろうが、しかし良家の出を伺わせる者もいた。

 

 刻印は冒険者全体の弱体化を招いたかと思ったが、その間口が広くなったお陰で、腕っぷししか自慢できるものがない奴らばかりでなく、常識人も集まるようになったようだ。

 

 その数の多さが安定を生み、そして力ばかりでない戦い方が主流となり、そして依頼達成率も上がっていったのかもしれない。

 

 英雄譚は輝かしく、眩しく見えるものに違いないが、本来たった一握りの者しか解決できない依頼、というのは健全ではないのだ。数を頼みに、しかし大きな確率で達成できるといのなら、そちらの方が依頼主にとっても、ギルドに取っても好ましいに違いない。

 

 入って正面には魔術士ギルドと同様、広いホールとなっていて、そして奥には受付が見える。そして左右の両方の壁には、ボードの上に所狭しと依頼の書かれた紙があった。

 あちらのギルドと違って読書スペースの様な物は無く、その代わりに依頼ボードが置いてあった。そういったスペースを置く余裕すらない程、依頼量の多さが桁違いなのだ。

 

 やはり荒事に限らず、何か頼むなら冒険者ギルドというのが常識で、その依頼内容によって、どのボードを探せば良いのか分かり易くなっているらしい。

 まだまだ少年少女の域を出ない者達と、屈強な冒険者達とは、立ち位置からして明らかに隔たりがある。それもまた、依頼レベルの違いから来るものなのだろう。

 

 ミレイユがホールの中程までやって来ると、周囲の冒険者たちが目の色を変えた。多くはその格好と華やかな見た目の所為だろうが、中には剣呑な視線を向けてくる者もいる。

 予想通りの反応で、特に感慨もなく進んで行き、受付の前に立った。受付には対応してくれる職員が五人いて、その中の一つに、たまたま空いたタイミングで滑り込んだ。

 

「ギルドの加入を頼みたい」

「……貴女が?」

 

 職員の視線は不躾で、小馬鹿にするような雰囲気が感じられた。

 ミレイユの見える肌部分に、一切の刻印が無い事から来るものだろうから、それについては一切気にしない。ただ、ミレイユを侮る視線に我慢できないアヴェリンを、宥めるのには苦労した。

 

「……いや、こっちの方だ。来い、アキラ」

「ハ、ハイ……!」

 

 ミレイユと入れ替わるようにアキラを前へ押し出すと、上擦った声を出して返事をする。

 刻印の事はまだしも、ギルドに対して他に偏見は与えていないので、素直な気持ちで挑める筈だ。ただ、質問の意図が分からず、汲み取れない部分は出て来るだろうから、それはこちらでフォローしてやらねばならないだろう。

 

 職員はアキラを上から下まで見て、そしてやはりミレイユと同様の視線を見せる。

 結局、刻印はないのか、と思ったかもしれないので、アキラへ両手の甲を受付に乗せるように言った。そして職員もその刻印へ目を向け、それからアキラの全身を見回したのだが、鼻を鳴らして嫌味に笑った。

 

「やはり冒険者とは実力社会です。私どもも、若者の命を無下にしたい訳ではありません。もっと実力を付けて、もっとマシな刻印と装備を得てから戸を叩くのが宜しいかと」

「……つまり、門前払いという事か?」

 

 ミレイユが聞くと、片眉を上げて小馬鹿にするような息を吐いた。

 

「当たり前でしょう? そんな刻印でどうなさるおつもりで? 夢を見るのは結構ですが、当ギルドでは受け入れられません。借金してまで入れた刻印でしょうけど、まずはどこか別ギルドで働いて、そこでお金を返して、一から始めた方が建設的でしょう」

「……刻印の大きさから、持つ者の実力が測れるものと聞いたが」

「ええ、ですから馬鹿な真似をしましたね、としか。それなら、もっとマシな刻印が他に幾つもあったでしょうに。どうせなら、事前に相談されれば、こちらからも有用な助言が出来ましたが」

「分かった上での門前払いだと?」

「……他の方がお待ちですから、どうかお引取りを」

 

 後ろに待ってる客など居なかったが、つまりもう話す気はない、という意思表示だろう。

 苦情を申し立ててどうにかなるだろうか、と一瞬頭をよぎったが、それが通用するのは現世の方だ。口調こそ丁寧なものだが、そもそもギルド側としては親身になって応対する理由がない。

 

 冒険者は報奨金が破格で、実力さえあるなら他のギルドで働くのが馬鹿に思える程の金額を得られる。だからこそ職員も夢を見るのは、などと言ったのだ。

 大方、大金を得るのに夢見た少年が、無理してギルドの門を潜った、と思われたのだろう。

 

 ギルドからすると、新人冒険者など幾らでも入ってくるし、是非とも加入をお願いしたいものではない。刻印のお陰で加入者数自体も増えているのなら、尚のこと親身な応対などしないだろう。

 来る者拒まずだった過去とは違い、今では餞別し弾き出せる立場だ。

 

 ミレイユはアキラの肩に手を置いて、出口を親指で指して歩き出す。その後ろではアヴェリンが肩を怒らせながら付いて来た。

 

「まさか審査や試験などまで受けられないとは思わなかったが……、そうとなれば仕方ない」

「ミレイ様に対し、何たる無礼、何たる態度だ……!」

「私はここでは奇人変人の類だ、そこは仕方ないだろうな。その所為でアキラまで門前払いされたのだとしたら、流石にそれは申し訳ない気がしてくるが」

 

 アヴェリンの怒気とは裏腹に、ミレイユは気軽な調子で小さくボヤく。

 唐突に踵を返したミレイユ達に、アキラは困惑した表情を見せながら付いて来た。

 

 スメラータが気の毒そうにアキラを見ていて、そして自分はどうしたものかと顔を曇らせている。他の方、というのがスメラータの事だったとしたら、確かに彼女の登録を邪魔してしまった事になる。職員はその事を言っていたのかもしれない。

 

 その職員も、スメラータの刻印を見ては態度を一変させる。

 どのギルドでも、実力者に対しては一定の敬意と便宜を図るものだ。上級魔術が腕に刻印されているとなれば、ああいう態度になるのも頷ける。

 

「いきなり計画が頓挫してしまって、果たしてどうしたものか。若干種類も意味合いも違うが、似た仕事を出来るギルドはあるから、そちらでもと考えているんだが……」

「アキラの実力を見るだけ、というのなら、私が手合わせしても宜しいですが」

「どうせなら魔物との戦いが見たかったんだよな……。お前達は互いに手の内を知っているから、それを前提に組み込んで戦うだろう? ある程度、敵の情報を渡すにしても、それを初見でどう乗り越えるかを見たかった……」

「なるほど、そういう事でしたか。それならばギルドを利用しつつ小金も稼げて、丁度良い按配になるところでしたものを……」

 

 アヴェリンが憎々しい視線を背後へ向け、そしてホールの中程まで来た時、大柄な戦士が道を塞いだ。髭を生やした、いかにも山賊らしい様相だが、こんな所にいるというなら、冒険者の一人であるらしい。

 

 その男が、やはり小馬鹿にした視線を向けては、ミレイユ達を順に見て、そして最後にアキラの手甲へと目を留める。

 

「なんだぁ、コイツら。武器も持たずに加入希望、しかも馬鹿な刻印で来る始末だ。そんなお遊びに付き合ってくれると、お前ら本気で思ってたのかよ?」

「あぁ……、なるほど。それでどうやって依頼を受けるつもりなのか、と思われたのか? 武器をわざわざ手に持ったり、背負ったりする訳ないだろう」

 

 そう言って、自分の発言に違和感を持って周囲を見渡すと、誰もが武器を身に着けている。武器だけでなく盾もまた背負っている者までいて、誰も個人空間を使用していない。

 

 不思議な発見をした気がしてユミルへ顔を向けると、やはり同様の発見に気付いたようで、周囲を見渡しては頷き始める。

 そうして隣のルチアと、最近よく見る議論をその場で始め出した。

 

「結局ね、個人空間ってのは魔力を根底にしているものだから、最初からそれを刻印に使っている奴らには、縁のないモノになってるんじゃないかと思うのよ」

「でもですよ、それって収納できる利便性を軽視し過ぎてはないですか? 普段は両手が自由になるし、更に言うなら自分が背負って運べる量を、遥かに凌駕するんですよ?」

「結局、その利便性ってのは刻印を一つ削るほど魅力的じゃないって事なんでしょうよ。いつからその考えが主流になったか知らないけど、それなりに魔力を割くんだし」

「そこまで余裕ないものですかね?」

「余裕というより、刻印で何もかも解決しようとした結果、という気がするのよね。だってさ……」

 

 聞いているだに頭が痛くなりそうな議論が開陳されて、絡んできた男も面食らっている。周囲の無関係な冒険者まで、二人の言動には訝しげな視線を送っていた。

 一度始まると滅多な事では止まらないので、二人には好きにさせる事にした。

 ミレイユは改めて男へ向き直る。

 

「貴重な助言、感謝しよう。ところで、次からは武器を手にしていけば、色良い返事を貰えると思うか?」

「し、知らねぇよ……! 何だお前、俺がそんな親切に見えんのかよ、馬鹿にしてんのか!?」

「馬鹿な絡みをして来たのは、お前の方だ。まだ加入も出来ない新人をイビって、それでお前の格が上がるのか? 情けない真似をする前に、自分の行動を鑑みろ」

 

 ミレイユが率直な意見を述べてると、周囲から囃し立てるような笑い声が飛び交う。

 

「あーっはっはっは、言われたな、ドメニ! だから止めとけって言ったろ! そいつらは馬鹿だから、馬鹿故に馬鹿な格好してるんじゃねぇんだって!」

「――黙ってろ! おいお前、お前のせいで恥かいたぞ、どうしてくれる!」

「また下手なイチャモンの付け方を見せられたな。――おい、コイツは馬鹿なのか?」

 

 後ろで囃し立てていた他の冒険者に顔を向けると、嬉しそうに頷く。

 そうだそうだ、馬鹿だ馬鹿だと、周囲の冒険者まで言い始めて、ドメニと呼ばれた男の顔が真っ赤に染まった。

 

「うるせぇ! 黙ってろって言ったろうが! 馬鹿はコイツだ、見てみろ!」

 

 ドメニがアキラの手を指差し、そしてそこに浮かび上がる刻印を嘲笑する。

 

「一丁前に緊張した顔してよ、『年輪』と『追い風』を自慢気に晒してるんだぜ! これじゃ馬鹿にしに出てきても、仕方ねぇってもんだろが!」

『おぉー、そうだそうだ、そいつぁ仕方ない!』

 

 本気で同意しているのか、それとも野次のつもりなのか分からない返事が、周囲から上がる。ドメニはそれに満足し、したり顔で頷いた。

 

「だから教えてやろうと思ったのよ、そんなんで冒険者目指せるほど世の中甘くねぇってな! その頼み方が気に入ったらよ、ちょいと教えてやっても良いと思ってたのによ!」

『ばぁか、どうせ綺麗なネーチャンの身体目当てだろが!』

「うるせぇ! 声すら掛けられない意気地なしは下がってろ!」

 

 三度、後ろの冒険者の野次へ罵声を浴びせる姿を見ながら、ミレイユはどう穏便に収めるかを考えていた。殊更穏便に収める必要もないのだが、しかし腹の奥でフツフツと湧き上がるものを感じる。

 職員の応対で生まれた苛つきが、ここに来て小さく湧き上がってきたようだ。

 

 ただで済ませるのも面白くない、と思っているところで、いつの間にやらルチアとの議論を終わらせていたユミルが、アキラの肩に手を置いていた。

 その耳に口を寄せて、何かを囁いている。

 

 助言の様なものだろうが、どうせ碌な内容ではないだろう。

 止めろというべきか、それとも静観しておくべきか、迷っている間にアヴェリンが動く。ドメニへ掴み掛かろうとしたので、それは流石に押し留めた。

 

 アヴェリンもまた鬱憤が溜まっていた様子なので、下手をすれば大怪我どころか殺してしまう。流石にギルドのホールで殺人は許容できなかった。

 いいから落ち着け、とその身体を抱き締めるように止めていると、アキラが一歩前に出てドメニに向かって言葉を放つ。

 

「坊や、アンヨが上手ネ。ママは何処?」

 

 一瞬の沈黙の後、周囲を巻き込む大爆笑が巻き起こった。

 その拙い言い方が、また幼子を相手にするように聞こえ、実に滑稽だった。言った本人は意味を理解しておらず、そして、したり顔すらしないアキラに、ドメニは顔を茹でダコのように赤くして唸り声を上げた。

 

 そんなドメニを、ユミルも周囲同様に指を差して笑い転げている。

 涙まで流して馬鹿笑いする姿から、大事に発展しそうな気配を感じ取る。それを生み出したユミルをどうしたものかと、思い悩みながら溜め息を吐いた。

 



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二つのギルド その5

 スメラータは素気なく追い返されていくアキラ達を見ながら、申し訳ない気持ちで受付の前に立った。

 彼らに助言はした。選ぶ刻印についても、冒険者ギルドが何を思うか予想した上で説明した。それを軽んじたのは彼らの方で、だからスメラータが負い目に感じる必要などない筈だった。

 

 しかし、言葉が分からず、拒否された理由も分からないで、背を押されるように去って行くアキラを見るのは心に痛かった。

 他にやりよう、言いようもあったのかもしれない、と思う。

 

 スメラータが彼女らに声を掛け続けていたのは、何も親切心ばかりではない。

 最初に弟子入りしたいという動機があって、それが無理なら強さの秘密、その一端を知りたいと思った。戦闘技術は飯の種だから、そう簡単に教えてくれないと思ったが、しかし戦士の中には実力を認めた相手に、努力の仕方を教えてくれる者もいる。

 

 そういう小さな善意を期待して、何くれと世話を焼く事で見返りがないかと、あれこれ口出ししていたのだ。

 しかし、彼女たちを知ると共に、明らかな異質さが顔を出してきた。

 それは単に刻印を知らないというだけでなく、根本的な強さの源泉を別にしている、という部分にあった。

 

 既に色褪せた、使い難いばかりの古代技術。

 二百年程度を古代と言うと語弊もあるが、そう言ってしまえるほど、現在の刻印と魔術制御の間には大きな隔たりがある。魔術制御とは、火を熾すのに木の棒を使った摩擦熱を利用する様なものだ。それがこれまで、スメラータが感じていた印象だった。

 

 そんな面倒な悪い方法を選ばなくても、もっと楽で簡単で、そして効率の良い方法など幾らでもある。敢えて無理して苦労している様にしか見えなかったものが、実は本来得られる力を投げ捨てている行為でしかなかった。

 それが嘘じゃないと分かる程、アヴェリンが見せた力の一端は衝撃だった。

 

 ただ小銭を稼ぎたい、その日の糧を得たいだけの人間と違って、より高みを目指したい戦士にとって、アヴェリン達の実力は、まさしく羨望と言って良い程だ。

 屈強な戦士を赤子の手をひねるように扱う様には、感動で身震いもした。

 

 自分もああなりたい、と思うのは自然な事で、だから自分をアピールする場、できる場ではそれを惜しまなかった。

 ――そして、彼女たちは、ただ強いという訳ではない。

 

 特に自分をミレイユと名乗る彼女には、底知れぬ何かがある。

 自信と言動に裏打ちされる、ギルド長にも上から物を言える振る舞いには、不思議と納得できてしまう凄味があった。

 

 魔王と同じ名前を持つ、アヴェリン程の戦士を従わせる魔術士。

 しかも刻印を持たない、古来の魔術士だ。複数の上級魔術を持っていて、それを手の中で顕現させる事が出来る技量を持つ魔術士なのだ。

 

 まるで御伽噺の世界へ迷い込んだかのようだった。

 人の手に余り、また人の手で扱えるものではない、という常識が根底にあるもの――それが古代上級魔術という代物だ。

 

 だからかつて、エルフに支配層は破れたのだろうし、そして刻印の発明がその有利を覆した事で、現在の支配構造を作ったのだろうと思う。

 エルフは頑なに刻印を嫌悪しているし、そのプライドがエルフを森に閉じ込めているのだとも思うが、ミレイユ達の様な本物がいるなら、その幻想も終わりそうな気がする。

 

 故事に曰く、ドラゴンの鼻息と同じだ。

 ドラゴンはただ息を吐いたに過ぎないが、人間は簡単に転げて吹き飛ばされる。彼女らは全くそのつもりがなくとも、腕を払うような気安さで、全てを薙ぎ払って進めるだろう。

 

 それに恐れを抱いているのではない。

 自らもその後ろに付いて隠れたいのではなく、その技術と力を身に付けたいのだ。そしてその為には、このギルドに所属したままでは駄目だという気もしていた。

 

 今まではそれが正しいと思っていた。

 誰でも最初は弱い刻印から。そして実力を上げて金を貯めて、より強い刻印を得る。そうしてギルドのランクが上がれば、より高い報奨金の仕事にもありつける。

 

 成功し続ける限り、強さと名誉を得られる職業だ。そう考えていたし、だからこそ総本山であるオズロワーナギルドへと籍を移そうとやって来た。より強い敵、より高い報奨金、より上の名誉、それらが得られると疑わずにいた。

 しかし――。

 

「……あの? 加入希望の方、ですよね?」

「あ、あぁ……」

 

 いつまでも動かず、離れていく背を見つめいたスメラータへ、職員が訝しげに声を掛けてきた。

 アキラとは切磋琢磨できる相手だと思ったし、もしアヴェリンの弟子になれたら兄弟弟子になるのかも、などと思っていた。

 

 彼らは職員の忠告を受けて、刻印を変えてから、また来るだろうか。

 刻印が無理なら、せめて武器を身に着けた上で、再び門戸を叩く事になるというなら、登録した上で待っているのも良い。

 スメラータは職員へと向き直る。

 

「えぇと、移籍希望で、推薦状は貰ってきてます。これがその推薦状で……」

「はい、拝見いたします」

 

 職員は嬉しそうに書状を受け取る。

 差し出した腕の刻印にも十分に時間を掛けて確認し、既に理解していたものに満足気な笑みを浮かべていた。

 上級魔術を一つでも刻めるなら、それは相当数の修羅場を潜っている事を意味するから、彼らにしても移籍を断る事は少ない。

 

 どこかから流れてきたのではなく、他ギルドから推薦状も得ているとなれば、その人柄や実績も保証されているようなものだ。以前の町のギルド長も、両手を広げて受け入れてくれる、と言ってくれた。

 

 引くならまだ間に合う。

 このままギルドに置くべきか、それともアキラ達の後を付いて行くべきか――。

 迷っている間にも、職員は推薦状を上から眺めて満足気に頷いて、書類の受付を進めていこうとする。それを葛藤するまま眺めていると、突然背後で喧騒が生まれた。

 

 何事かと振り返ってみれば、その中心にはミレイユ達がいる。

 あの美貌に当てられて絡みに行ったのか、あるいはアキラの門前払いを見てからかいに出たのか……。どうやら、そのどちらからしいと分かったが、しかしアキラが挑発して怒らせてもいる。

 

「ちょっと、拙いよ……」

 

 スメラータの独白が聞こえたらしく、職員は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

 

「別に拙いという事は無いでしょう。一種の洗礼、新人には良く起きるトラブルです。少し痛めつけられて終わり、良くある事です」

「いや、痛めつけの可愛がりは良くあるけどさ……」

 

 特に加入したその直後に、新人の度胸試しという(てい)で絡みに行く者は多い。実際に暴力を振るうつもりでなく、あくまでどう対応するつもりか見たい、という娯楽目的で声を掛ける事も多かった。

 だが、今回は声を掛けた相手が悪い。

 

 ミレイユ達を怒らせたら――そしてアヴェリンの逆鱗に触れたら、果たしてどうなるかなど想像も付かなかった。

 冒険者ギルドの所属者にとって、喧嘩は華だ。殴り合い程度で怒られるような事はない。特にギルド内で行われる喧嘩は、他の冒険者が安全を図るのが暗黙の了解になっていて、大きな怪我など起きても誰かが治癒してくれる様になっている。

 

 道端で他のギルド員に理由もなく喧嘩を売るのは論外だが、少なくとも冒険者ギルドの中では、囃し立てても咎める者も、咎められる事もない。それが常識だった。

 ギルド入り口のホールが広く取られているのも、その喧嘩をする舞台にする為だ、と冗談めかして語られたりもする。

 

 自分が止めに入るべきかどうか、逡巡している間に、ミレイユが男を指差して、アキラに行けと告げている。どうやら殴り合いを始めるつもりのようで、周囲の冒険者の熱狂が増した。

 

「ちょっとヤバいよ……骨だけで済むのかな」

「大丈夫でしょう。冒険者を目指すなら、それぐらい頑丈だって自覚ぐらいあるものです」

 

 スメラータと職員の心配は真逆のものだったが、スメラータには心配の気持ちが募る。

 何しろ、アキラはあのアヴェリンの弟子なのだ。弟子と認められた男が、果たして見た目どおり弱いなど有り得るだろうか。

 

 確かにスメラータは、アキラの実力など知らない。

 まだ山から降りて来たばかなのかもしれず、あまり訓練も受けていないのかもしれない。しかし、刻印を施術されていた時からギルド長の覚えめでたかった事と、実際に刻印の大きさから測れる魔力から、全くの凡愚でもないと予想出来るのだ。

 

 一人の戦士として、スメラータもアキラの実力が見てみたい。

 アヴェリンに弟子と認められるだけの実力とは、果たして如何なるものなのか知りたい、という欲求が出てきた。

 

 顔に塗料を塗ったかのような赤い顔を見せる男が、開始の合図より前に殴り付ける。

 挑発に相当頭に来たとはいえ、自分から仕掛けた喧嘩で余裕を失くすのは不甲斐ない。あれでは例え勝っても男の格が下がるだけだろう。

 

 スメラータが舌打ちする気持ちで視線を逸らすのと同時、アキラの姿が掻き消えるように動いて、男の動きを後押しするよう、背中を押す。

 それで簡単につんのめり、無様に顔を床にぶつけた。

 

 途端に上がる笑い声と歓声。

 遠巻きに見ていた冒険者も、良い見世物だと近付いてきて、周囲を円で描くように人垣で埋めようとしている。

 

 アキラの顔には困惑が浮かんでいて、ミレイユは早々に人垣近くへと離れて行ってしまう。

 何をやったのだか、手を一振りするだけで、立派かつ高級そうな背もたれ付きの椅子まで出てきて、そちらへ大義そうに腰を下ろした。

 

 アヴェリン達もその両脇に立って、周囲に冒険者が近付けられないようにし、その上で観戦を楽しむつもりでいるようだ。

 人垣で見られなくなるより前に、とスメラータも前に出る。ミレイユ達とは離れた場所になってしまったが、観戦するだけならそう悪い場所でもない。

 

 他にもまだ人が増えそうで、流石に単なる新人未満の相手をするには大仰過ぎると思えてきた。

 冒険者の誰かが声を張り上げ、音頭を取っては舞台を整えていく。

 

「おい、誰か結界張れ、余計な横槍いれさせんな!」

「こんな時間に、そんな上等な術使える奴いねぇよ! 壁でいいか?」

「あぁ、石壁土壁じゃなけりゃいい! 興奮すると人垣が縮むからな、下手な怪我を飛び火させねぇようになりゃ上等だ!」

「おっしゃおっしゃ、俺が防壁やってやる!」

 

 誰もがお祭り気分で買って出て、それで即席の舞台が出来上がった。

 周囲の人垣も自由に動いて、築かれた半透明の防壁の外で、良いポジションを取ろうと躍起になっている。スメラータの知る可愛がりと全く違う様相に、どういう事かと隣にいる冒険者に訊いてみた。

 

「ちょっと、これどうなってんの? 大袈裟になりすぎじゃない!?」

「あぁー、そうかもね。ただ、あそこのドメニって奴、ちょっとした嫌われモンだからさ、これをネタに殴ろうとしてる奴が騒ぎ立てたんじゃない?」

「いや、相手アレだよ? 新人だよ? ――いや、新人未満の冒険者志望……」

「だからさ、早々に負けて退散すれば、後から乱入って形で続行しようってハラだろね。殴れるんなら、別に理由なんて小さいモンでいいのさ。新人の敵討ちとか、例えばそんなのでさ」

「でも、それにしたって……」

「あと、意外にその新人がやれるってんで、それで湧いたのもあるかもねぇ。あの幸運がどれだけ続くかも見ものだし……、ちょっと面白くなりそうだ」

 

 まるでそれが、周囲の冒険者による総意であるかのようだった。

 誰もがアキラに期待はしていない。まぐれ当たりだと囃し立てては、ドメニを挑発するような言葉を投げ掛けている。顔面を強かに打ったドメニの顔面は凶相に歪められていて、骨一本では済まさないと告げているように見えた。

 

 スメラータはドメニという男が、どれ程の冒険者なのか、当然知らない。

 だが、悪評も嫌われ者も、実力さえあれば黙らせられる。それが冒険者の世界だ。

 殴る機会を欲する程度には嫌われていて、でも面と向かって殴り合いはしたくない、そういう相手なのだとしたら、あまりにアキラが気の毒だ。

 

 スメラータが見たこともない、奇妙な構えを取って相対するアキラと、巨漢のドメニとは大人と子供の差がある。冒険者の強さは身長でも筋力でも決まるものではないとはいえ、見ている方を不安にさせる。

 

 それが実力者と、無名の新人未満ともなれば尚の事だった。

 ――すぐにアキラがやられたら、その時は自分が殴り込んでやる。

 その心意気を胸に秘め、男が咆哮を上げて突撃する様を、拳を握り込んで見送った。

 



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二つのギルド その6

 強い意気込みがあったのは確かだが、アキラへの心配など杞憂だった。

 お互いに刻印を使っていない戦闘――喧嘩だから当然だ――とはいえ、その格闘技術に雲泥の差がある。ドメニは巨漢らしい力強い拳で、そして巨体に見合わぬ速さの拳を持っていたが、その繰り出す一撃は、一度たりともアキラに掠っていない。

 

 アキラは拳以上に速く動き、そして距離を取って戦うスタイルに、ドメニは完全に翻弄されてしまっていた。背中に剣を背負っていて、尚且つ防具にも重さの違いがあるから、それもあって尚更速度に大きな差がある。

 

 互いに軽装のような防具であるものの、ドメニは全身鎧に近い形だ。アキラは胸当てや腕当て足当てといった、特に身軽な装備をしている。

 

 だが、その差があるから当たらないのかと言えば、決してそればかりとも思えない。

 アキラは躱すだけでなく、いなして敵の動きを利用しようとする。それは攻撃を見切らなければ出来ない芸当で、だからこそ実力差が顕著に分かるのだ。

 

「どうしたドメニ、どうしたよ!? お前、新人以下の奴に遊ばれてんぞ!」

「その程度だったのかよ、ドメニィィィ!」

「うるっせぇよ!!」

 

 外野の野次にも怒鳴り返し、ドメニにも余裕がない。

 よそ見するだけの余裕があるのかと言えば、そもそもアキラが露払い程度にしか思っておらず、倒すのにも気が引けているから出来ている、というのが真相だろう。

 

 決定的な隙にも関わらず、そこへ攻撃を仕掛けようとしていない。

 そこへドメニが威圧的に、そしてスタミナ回復の時間稼ぎのつもりでか話しかけた。

 

「まぁ、お前は逃げ回るのが得意って事ぁ分かった。逃げ足だけでやってくつもりなら、ギルドに入れるかもな。だがよ、逃げてるだけで勝てるもんじゃねぇのも分かるだろう……!?」

「……えぇ、はい」

 

 アキラの返事はどこまでも素っ気ない。

 それが相手にしていない、する必要がない、と思われているようにも見え、それがドメニの怒りへ更に油を注いでしまっている。

 その時、隣から小さくボヤく言葉が聞こえた。

 

「やめときゃいいのにねぇ……」

「……あんたもそう思う?」

「あれはもう、逃げ回るのが上手いとか、そういうモンじゃないだろ。遊ばれてるよ。それに気付けないってのが、ドメニの限界なんだろうけど……」

「本人が遊んでるつもりかどうかはともかく……、なかなか辛辣だね」

「最初はさぁ、誰がドメニを殴り付けるのかっていう見世物だと思ってたけど……、いやはやどうして、滅多にない掘り出し物が出てきたもんじゃないか」

 

 楽しげに笑う女戦士は、顎の下を撫でながら感嘆の息を吐く。

 スメラータもまた、それに同意して頷いかけたところで、周囲が大きくざわついた。

 それもその筈、茹で上がった顔の眉尻から顎先にかけて、大きく描かれた刻印が発光する。ドメニは刻印の使用へ踏み切ったのだ。

 

 それはつまり喧嘩の枠組みを越えて、本気の戦闘を仕掛けようとしている事を意味する。

 ギルドの喧嘩でご法度という訳でもないが、しかし事前の取り決めなどで、その使用を制限するものだ。今回それが無かったのは、まさか新人以下に使うなど誰も思っていなかったからであって、それを敢えて使用するというなら、ドメニの信用を著しく下げる事になるだろう。

 

 勝っても名誉は得られず、負ければなお悲惨だ。

 馬鹿が、と吐き捨てるようにスメラータが言うと、やはり女戦士は同意した。

 

「ホントさ。負けるよりマシって思ったかもしれないけど、勝った後でどうなるかまで考えなかったのかね。新人相手にあそこまでやって……他の奴らが黙っちゃいないよ」

 

 言われて気配を探ってみれば、熱狂的に囃し立てている奴らの外で、冷静なまま見守っている冒険者たちもいる。そちらからは、静かな敵意の様なものが漏れ出していた。

 冒険者は荒くれ者が多いのは事実だが、無法者ではない。

 

 冒険者には冒険者なりのルールがあり、それは厳格に定められている。自ら逸脱するものには容赦がないもので、このまま勝利できても、次にドメニは公然と私刑(リンチ)にされてしまう可能性すらあった。

 

 だが、そんな時は訪れなかった。

 ドメニの刻印発光が収まると同時、掻き消える様に接近した拳は容易に受け止められ、いなされた。勢いそのままに前転させられ、背中を強かに打つ。

 

「――ゴハッ!?」

 

 肺から空気が飛び出し、呼吸が一瞬止まる。

 流石にそこまで優しくないのか、アキラの踵が鳩尾に繰り出され、ドスンという地響きのような音が鳴った。

 身体がくの字のように折れ曲がり、盛大に吐瀉して、そのまま気絶してしまった。

 

「ほっほぉー! やるやる!」

「嘘だろ、ドメニやられたんかよ!」

「新人ちゃん相手にか!?」

「刻印使ってまで? いい恥晒しだな、おい!」

 

 ギルド内が盛大に沸く。

 拍手喝采が飛び交い、アキラが片手を頭の後ろに置いてペコペコと頭を下げた。その謙虚な姿勢が受けたのか、指笛まで響いて来て、大盛況の賑わいを見せてしまう。

 

「新人に感謝しろよ、ドメニ! 勝ってたとしたら、逆に全員からボコられてたからな!」

「さっさとそのゴミ片付けろ! 目障りだ!」

「よっしゃ、次、誰行く?」

「馬鹿お前、新人相手に連戦させるつもりか!?」

「いや良く考えろよ、ドメニ倒せる奴が新人だってか? どっか別ギルドにいたに決まってんだろ!」

「誰だよ、新人とかホラ吹いたの! ありゃ相当やるぜ!」

 

 既に人垣は最初の倍以上になっていて、一体このギルドの何処にいたのかと思う程だった。

 よくよく見てみると、入り口から騒ぎを聞き付けて来た人達が混ざり、隣の酒場兼食堂からも人がやって来ている。

 

 その中にあって、引き摺り退去させられるドメニに代わり、騒ぎ立てていた内の一人が名乗りを上げる。アキラの戦い振りを見て、我慢が効かなくなったらしい。

 

「よっしゃ、次は俺だ! 相手してくれるよな!? 刻印はありかなしか、どっちにする!」

「えぇっと……」

 

 アキラが言い淀んでも、興奮が冷めやらない回りの連中が無責任に騒ぎ立てる。

 

「そこはありだろ! 今更なしじゃ引っ込みつかねぇよ!」

「そうだ、やったれやったれ! 大丈夫だ、死にゃしねぇ!」

「やれんだろ!? 新人じゃねぇんだから!」

「おーっし、治癒の刻印あるやつ、ちぃっと面倒見てやれや!」

 

 変なところで団結力を出すのも、また冒険者というものだ。

 アキラが返事をしていないのにも関わらず、あれよあれよとルールの変更や追加が行われていく。興が乗ったのかどうか、一歩引いて冷静に見ていた者達さえ、近付いて見ようとしている。

 

「どうだ、アリだよな! そうだろ!?」

「……アリ!」

 

 アキラが困ったようにアヴェリンを見て、そちらから首肯が返って来ると、即座に刻印使用の許可を出した。それで更に周りが騒ぎ始め、もはや通常の業務どころではない騒ぎに発展した現状に、職員まで駆り出されてきた。

 

 ここまで大規模なものはスメラータも知らないが、多くは冒険者同士の喧嘩を止めるのは野暮とされる。下手に治めようとすると暴動になりかねないので、ある程度公認の上でルール決めをし、後腐れを失くした方が建設的なのだ。

 

 そうして出てきて場の仕切りをしようとした職員は、あのアキラを応対した職員だった。渦中にいる人物の、その姿を認めて絶句している。

 

「なに、あなただったの!? 何でこんな大事になってるの! どうして新人でもない人がここに……!?」

「いいからさっさと始めさせろ! こっちゃあ依頼すっぽかして見てるんだぞ!」

「それは行っとけ、すっぽかすな馬鹿!」

 

 野次に対して野次が飛び、周囲の雰囲気も険悪になり掛けている。

 今更どうにもならないと見てか、職員はどうにでもなれ、という表情のまま手を振った。

 

「殺しだけは無し! それだけは守ってもらいます! 見ている者は全員、最大限、事故が起きないよう努力すること! いいですね!?」

「わぁかったから、はやくしろ! 見終わるまで仕事に行けねぇ!」

「はいはい、それではどうぞ始めてください! 当事者同士、同意があったと見做し、当ギルドはこれを黙認します!」

 

 その宣言が合図になった。

 挑戦者は刻印を行使しようと発光させる。その、戦闘直後の有るか無しかの油断を縫い分ける様に、アキラは一足飛びに跳躍し接近した。

 

 直後に鳴り響く轟音が耳を揺らす。

 アキラの振り被った右腕が腹へ突き刺さり、その一撃で悶絶して崩れ落ちていく。

 周りも大喝采を上げたり、笑い声を上げたり、不甲斐なさをなじる声と様々だったが、その強烈な一撃は、分かる者には感心した声を上げている。

 

 スメラータもまた、隣の女戦士が感嘆した様子で、素直に褒め言葉を耳に聞く。

 

「何が来るかも、何が得意かも分からなかったら、そりゃ最初の一撃で潰すのが一番賢いってもんだね」

「使わせる前に倒す、確かに理想的だけどさぁ……。言うほど簡単じゃないって」

「そうさ、当たり前だね。警戒だってしてない筈がない。でも、それを掻い潜って一撃当てて、それで沈めちまえるっていうんだろ? あれはヤバいって」

 

 まるで我が事の様に喜ぶのが不思議なようであり、そしてアキラを先に知っているという優越感が、その言葉に大きな喜びを見出す。

 

「あれで他の奴らも目の色変えたなぁ。次々と挑戦者出てきてるよ。大丈夫なのかな、アキラの奴」

「なんだ、あんた知り合いかい。ハッ、でも無理無理。アイツは本物の戦士だ。あそこで声張り上げてるような奴らじゃ、到底相手になんないよ」

 

 顎の下を擦りながら、勝ち気そうな笑顔を浮かべて、新たな挑戦者達を笑う。

 スメラータが最初にしていたアキラへの心配は、とうに露と消えていたが、代わりにもっと恐ろしいモノがアキラを見定めている。その危機感を肌に覚えながら、今も吹き飛ばされていく哀れな挑戦者を目で追った。

 



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二つのギルド その7

「――ちょっと待て! 武器も解禁しろ! 素手じゃ勝てる気しねぇ!」

「だったら素直に負けを認めてろ! こりゃ喧嘩だ、殺し合いじゃねぇって言ってんだろ!」

「素手で弱い自分を恨めよ! 強ぇ奴は素手でも強ぇ、当たり前の話だってんだ!」

「大体、新人相手に武器で挑むとか、恥ずかしいと思わねぇのか!」

「だから新人じゃねぇって! あんな新人、いて溜まるか!」

 

 好き放題言い始める挑戦者を見て、スメラータは呆れながら溜め息を吐いた。

 最初は歓声が上がるばかりだったアキラとの対戦も、今では良い勝負が出来る者が出ずに、ついには非難まで始まる始末だった。

 

 強い者が正しい、という実力主義社会において、弱い者の発言は遠吠えにしかならない。だが得意武器で挑むなら話は別だ、と息巻く者は多く、そして連勝を重ねるアキラに土をつけたいと考える者は多かった。

 

 それに、本当に実力ある者は、まだ誰も挑戦していない。

 それまでの戦闘を興味深く見つめている者は幾らでもいたが、しかし彼らにも矜持がある。ギルドに加入していない者へ、面白そうというだけで力を振るう事を良しとしないのだ。

 

 武器の使用を認める者と、それを不甲斐ないとなじる者とで別れ、また別の所で乱闘が始まりそうになった時、鶴の一声が上がった。

 

「武器の使用を認める。全力で挑め」

 

 そう発言をしたのは、アヴェリンだった。

 見れば、明らかに場違いな椅子に座るミレイユへ、腰を落として伺いを立てる視線で了解を得ていた。ミレイユ達の周囲には不自然なほど人が居ないが、彼女たちが何かしているのかもしれない。

 

 だがともかく、何か凄い人から許可する声が上がったとだけは理解したと見え、それで誰もが武器を片手に鬨の声を上げた。

 まるで戦場へ赴くような気迫だったが、本気のつもりの彼らからすれば、そう意味合いは変わらないのかもしれない。

 

 だがやはり素手に対して武器を持ち出すには、余りにも余りだ。

 それでアヴェリンが無造作に鉄の棒を取り出して、それをアキラに渡した。滑り止めに布を巻いてある以外、本当にただの鉄棒は到底武器と言えるものではないが、しかしハンデ差を思えば、それぐらいが順当な気がしてくる。

 

「おい、相手はただの鉄棒だ。これで遊ばれるってんなら、お前ちょっとヤバいぞ!」

「恥かく前に、やめといた方がいいんじゃねぇか?」

「相手はまだ刻印だって使ってねぇんだぞ。それで勝てんのか?」

「いやお前、良く見ろ。刻印って、『アレ』だぞ! 『アレ』でどうするつもりなのか、逆に聞きてぇ!」

 

 相変わらず観戦しているだけの者達は威勢が良く、好きなだけ野次を飛ばしている。

 冒険者らしく刻印については一定の知識があり、アキラが所持している刻印にも詳しい。それだけ悪評高い刻印とも言える訳で、誰もが知ってて誰もが使わない、そういう腫れ物の様に扱われているのは、どこのギルドでも同じみたいだ、と場違いな感想を抱いた。

 

 挑戦者が片手斧を持ち、そしてアキラが鉄棒を構える。

 アキラが正眼で構える立ち姿は、堂に入っていて美しさすらある。一瞬、怯むように見せた挑戦者だが、次の瞬間、腕の振りさえ見えない速度で斧が飛んだ。

 

 回転しながら飛んでくる斧を躱し、しかし武器を失った相手がどうするかと言えば、その手には既に武器が握られている。全く同じ武器に見えるが、どこからか取り出したのではなく、投げた筈の斧が手元に戻ったのだろう。

 それがこの男が持つ、刻印の効果である様だ。

 

「シャラァッ!」

 

 挑戦者の斧使いは巧みで、その上、右手にも左手にも現れては消える。

 受け流す前に斧が消え、かと思えば別の手に握られた斧がアキラの腕を叩く。切断されるほど強い一撃ではなかったとはいえ、それで血飛沫が舞い、両手で武器を持てなくなった。

 スメラータは、それを臍を噛むような思いで見つめる。

 

「かぁーっ、ようやく一撃入ったか!」

「おら! もう十分だろ、勝ち名乗り上げて、さっさと下がれ! それ以上だと血ぃ見るだけじゃ済まんくなる!」

「――いいや、続行だ」

 

 冒険者たちの声を遮って言ったのは、鶴の一声を上げた時と同様、アヴェリンだった。

 彼女は自分の両手の甲を合わせる様に叩き、アキラへも刻印を使う様に指示した様だ。そうして、アキラの顔が意気込むように引き締まり、それから唐突に表情が消える。

 

 困惑にも似た雰囲気を感じ、まさか、という気がしてきた。

 まさか、刻印を得てから、まだ一度も使った事がないのでは――。

 

 使い方自体は簡単だが、いざ使ってみようと思っても、初めはどうしたら良いのか分からないものだ。魔力を流せば良いと言われても、それはひどく感覚的で、口で言っても伝わらない。

 新しく増えた腕を上げてみろ、と言われるようなもので、実際に動かしてみるまで、どう動かせるものだか分からないのだ。

 

 一度感覚を掴めば、それこそ腕を上げるような気楽さで、特に意識もせずに使えるようになるのだが、その最初の一回が厄介だった。

 

 アヴェリンが続行と言ったとおり、挑戦者の猛攻は続く。

 アキラは刻印を使えないまま戦闘再開となり、そしてやはり巧みな斧捌きで傷は更に増えていった。

 

「あっちゃ……! 見てらんないねぇ」

「『年輪』なんて役に立つかどうか分からんし、『追い風』だって回復は出来てもなぁ……。痛い時、蹲りたい時にこそ、そういう術が欲しいもんだろ? もう幾らも動けず降参するって」

 

 アキラが受けた傷は浅くない。

 今も腕から血が垂れているし、動く度に激痛が走っている筈だ。鉄棒に手を添えているものの、握りは甘く碌な支えになっていない。

 

 本人は刻印を使う気でいるのだろうが、一向に発光する気配がなかった。

 そこでアキラが一度大きく距離を取り、自分でも分っていないまま手の甲を合わせる。どうすれば良いのか分からないから、アヴェリンがやっていた動きをそのまま真似してみるつもりでいるようだ。

 

 そういう事じゃないんだ、と声に出しても、それはアキラに届かない。

 だが、嘆きに反してアキラの刻印が発光し出す。まるで火打ち石を打ち付けるように、あるいは摩擦でマッチに火を付けるように、手の甲を合わせて弾く動きで刻印が発動した。

 

 アキラの身体に膜のような光が覆い、そして一歩踏み出す毎に、傷が癒えて行くのが分かる。本来は目に見えて分かるほど、大きな回復量を持つ刻印ではない筈だが、それこそが刻印の大きさで発揮される効果の差、なのだろう。

 

 身体を動かしている限り、アキラの傷は癒え続ける。

 挑戦者もそれを座して見ている訳がない。先程と同様の猛攻が再開され、そしてアキラも対応し始めてはいるものの、やはり翻弄されて受け切れない一撃が入る。

 

「――だっ!? なぁ!? かってぇ、どうなってんだ!!」

 

 挑戦者の困惑した声が上がり、そして周囲からも困惑した声が上がった。

 紙よりも頼りない、と言われるのが『年輪の外皮』という刻印の効果だった筈だ。しかし、アキラの見せる回復速度から見ても、発揮している魔術は常識と合致しない部分がある。

 

 回復の方が異常なら、外皮の硬さもまた異常であっても、理不尽には思うが不思議ではない。

 同じ事は周囲の冒険者も思ったようだ。明らかにアキラの使う刻印がおかしい。どうなってるのかと、勝手な憶測が飛び交う。

 

「実は新しい刻印だとか、か!?」

「いや、そんな話聞いたことねぇ! 同じ刻印だって、使う奴で効果が違うだろ! あれだってそりゃ……、もしかしたらそういう事かもしんねぇだろ!」

「だからってよ、あれがそんなに固いって知ってたら、他にも誰か使ってるだろ!」

「木の皮どころか紙より使えねぇってんで、誰も使わなくなったんじゃねぇのか!?」

 

 もしも鉄の刃すら跳ね除ける防御力があるのなら、恐ろしいのはむしろそちらではない。『年輪』という名が示すとおり、一枚破っただけでは終わらない持続時間の長さこそが脅威となる。

 

 アキラは攻撃を躱そうとしているが、しかし巧みな虚実入れ合わせた攻撃へ、即座に対応できるものではない。対応しつつあるし、既に攻撃を受けた左腕も動き始めていて、もはや有利は覆っているように見えるが、翻弄から抜け出せる程ではなかった。

 

 しかし、避けられない攻撃は全て外皮が受けて、しかもそれを突破されていない。

 翻弄できる攻撃も、その攻撃が効果あって意味のあるものだ。頭部への一撃すら、頭を軽く振る攻撃でいなされ、そして反撃の一撃が挑戦者の肩を打つ。

 

 その一撃で動きを止めた挑戦者へ、更に腹部への横薙ぎが入ると、悶絶に顔を歪ませて倒れ込んだ。

 アキラは十や二十の攻撃を受けてもうめき声さえ上げなかったというのに、挑戦者は武器を手放し、腹を抑えて無様な泣き声を上げている。

 

 情けない、と侮蔑も露わに視界の端へ追いやって、スメラータはアキラを見た。

 アキラ自身、その劇的な変化について行けていないようだ。両手を見つめてから、既に消え失せた傷に困惑し、そして最後に受けた頭部を擦っては笑みを浮かべている。

 

 その横顔を見つめて、スメラータもまた、小さく安堵の息を吐いた。

 

「あの分だと、外皮がたったの三枚って事もなさそうだ。少ない奴は一枚、多い奴で三枚。それがこれまでの常識だったけど、アキラは一体、何枚の外皮を持ってんのかなぁ……?」

 

 アキラの完膚なきまでの勝利で、周囲の者達も湧きに湧く。

 あの刻印がそこまで使えたのか、と素直に感心している声もあった。そのまま次の挑戦者が出て来るのかと思いきや、流石にあれを見て挑もうとする者は出ないようだ。

 

 誰かが行け、という空気があるし、実際焚き付ける者も多くいたが、しかしあれの二の舞いは御免だと誰もが思ってしまっている。

 それもその筈、アキラはそもそもギルドに加入していない。

 

 ギルド員でもない一般人に負けたという汚名は、進んで得たくないものだ。

 一人の魔術士風の格好した男が名乗り出て、風の刃で切り刻もうとしていたが、それすら外皮に拒まれ、接近を止める事が出来ずに昏倒させられた。

 

「何しに出てきたんだか……」

「弱すぎるから誰も検証してなかったけど、あれは魔術的攻撃にも有効なのか……。歯牙にも掛けて来なかった刻印だけど、これは少し見方が変わったねぇ……」

 

 それはスメラータも思った事だ。

 だが、同様に誰もが有効に使えるものでもないだろう。正しい鍛錬を積んだ下地があってこそ、あれだけの有用性を発揮するのだと、ギルド長からの会話からも推測できる。

 スメラータが刻んだところで、アキラと同様の効果は望めないだろう。

 

 改めて、アキラの発揮した効果が、どれだけデタラメか分かろうというものだ。

 魔術士の攻撃すら有効でない、しかし接近戦もまた難しい。

 誰もが囃し立てて次の挑戦者を待ったが、今度はすぐに名乗りが出なかった。これは流石に終了か、と白ける雰囲気が漂いだした時、遂に声が上がって歓声が響く。

 

 しかし、その声と顔を確認しようと顔を動かして、スメラータはギョッとした。

 それは今まで隣にいた、したり顔で解説するように立っていた女戦士からのものだった。

 



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二つのギルド その8

「あたしが挑戦する。本物の戦士と手合わせ出来るのは、我らが部族にとって最高の名誉だ。他が納得するなら挑戦したい!」

 

 高らかに宣言して、女戦士は背中から取り出した武器を組み合わせて槍にし、石突きで床を高らかに打ち鳴らした。

 槍の全長は彼女の身長より遥かに高い。身に着けて歩くだけでも不便だから、ああして折りたたんでおける仕組みなのだろう。

 

 一人の女戦士の登場に、周囲は沸き立つ者と困惑する者とに分かれた。

 挑戦者不在という事で、このままアキラ勝利の流れが出来ていたところでの名乗りなので、彼女が出来る戦士というのは分かる。

 

 周囲の高揚も、その高名さから来るものだろう。

 だが、そうであるなら、やはり新人の喧嘩ごときに顔を出すべきではない。厳密なルールで決まっている訳でもないが、やはり高位冒険者には品格というものがある。

 その品格や品位を汚す事を、同じ高位冒険者は嫌がるものだ。

 

「あのイルヴィかよ、こりゃ大物が出てきたな……!」

「でもよ、有り得るか? 一級の冒険者が、下らない喧嘩から発展したコレなんかに!」

「そうだよな、顔出し程度ならともかく、手も出すなんてよ?」

「だから言ってんだろ、他が納得するなら挑戦ってよ。でもよ、正直見てみたくねぇか……!?」

「見てぇなぁ。イルヴィにあの新人がどこまでやれんのか見てみてぇ」

「だから新人じゃねぇって」

 

 周りの困惑も、次第に興味の方が勝っていき、戦えという風潮が強くなっていく。

 戦え、倒せ、勝て等の戦意高揚を煽る『ソール』の掛け声までが、周囲から上がり始めた。

 

「ソール! ソール! ソール!」

「――ソール! ソール! ソール!」

 

 その掛け声に合わせてイルヴィが石突きで床を鳴らし、それに合わせて周囲からの足踏みも加わって、さながら戦場へ出陣する直前のような雰囲気が生まれた。

 熱気と熱狂が渦を巻き、既に中止を言い渡せるような状況ではなくなっている。

 

 周囲で見守るだけでいた高位冒険者たちも、これには苦い顔を見せていたが、しかし止められないと察したらしい。特別何か声が上がるでもなく、それで許しを得たと解釈して、イルヴィが更に前へ踏み出す。

 

「……ソール! ソール! ソール!」

 

 一歩踏む毎に一つの石突き、それが音を打ち鳴らす度、周囲の掛け声と足踏みも更に高まっていく。そうして防壁の前まで辿り着くと、最後の石突きと同時に足踏みも掛け声も止まる。

 防壁の一部が開かれて、イルヴィが戦舞台の中に入った。

 

 先程までの興奮が嘘のように静まり返り、そしてアキラと鋭い視線を向けて相対する。

 左手に槍を掲げ、背中に掛けた盾を右手に持つ。イルヴィの防具は金属製で、かつ上半身しか守っていないもので、足甲はあっても太腿などを守るものはない。

 

 胸部と腹部さえ守られれば、他は守りを捨てて良いと思っているような装備だった。

 そして、イルヴィが持つ刻印は見えるだけで二つのみ。その二つが上級魔術だというのは、刻印が持つ長さから推測できる。

 

 そしてその二つとも自己強化をするもので、しかも常時発動型ではない。

 見せ札が威圧にもなっている、実力者にとって相応しい刻印だった。

 

 イルヴィがいざ構えようとしたところで、静かな声音が響く。決して大きな声ではないというのに、まるで染み渡るように耳へ届いて来て、不思議ではあっても不快ではない。

 声の出処はミレイユで、肘掛けに頬杖を突き、イージスを大義そうに睥睨している。

 

「ここの冒険者の実力は分かった。もう戦う意味もないと思っていたんだがな」

「参加したのは、お祭り気分の奴らばかりさ。あれでギルドの底を知ったつもりになられてもね」

「知りたかったのは底じゃない。更に言えば天辺でもな。中位程度が知れれば、全体の平均も見えるものだ」

「まぁ……、そいつは確かに。でも、ここまで来て止めろって?」

「始めたのはお前らだ。だが、幕引きはこちらで決める」

 

 その声には有無を言わさぬ迫力があった。

 イルヴィも確かに実力も胆力もあるのだろうが、その帽子の隙間から睨み付けられての一言に、思わず息を呑んでいた。

 

 しかし、そこへ傍らに立つアヴェリンが、静かな口調で耳打ちする。

 小さな声であるものの、辺りが静まり返っているせいで、その声音が僅かに聞こえてくる。

 

「あの者の武器の持ち方、少々覚えがあります」

「それが……?」

「あの者の口調から、部族の出である事は一目瞭然です。そして手に持つ武器と構え方、あれは私の叔父が得意としていた戦法です」

「あぁ……、つまり……」

 

 そうか、と一つ頷き、ミレイユはイルヴィへと向き直る。

 

「お前、名前は?」

「……イルヴィだ」

 

 眉根を寄せて、訝しげだった彼女は、簡潔に名前だけを述べた。名字まで名乗らないのは不敬とはならないが、そもそも持たない者も多い。

 だからスメラータは疑問に思わなかったが、しかし傍らに立つアヴェリンの表情が劇的に変わる。

 

 それは憤怒だった。親を殺されたとしても、ああまではなるまい、と思わせる、激怒を越えた怒りが表情に浮かぶ。

 

「舐めてるのか、貴様ッ! 戦士が戦場に立って、名乗りを求められて言う事がそれかッ!!」

 

 いつの間にか、アヴェリンの手には黒光りするメイスと盾が握られている。

 そのメイスを盾へと打ち付け、一歩踏み出し腰を落とす。その戦闘態勢一つの衝撃が、それまで歓声を上げていた周囲の音量より遥かに勝った。

 

 その衝撃がギルド全体を走り、身体全体を突き抜けて行って、沈黙以上の沈静が辺りを支配した。中にはへたり込んで身体を震わす者もいる。

 誰もが言葉を発せない中、しかしイージスは槍を握った拳を盾へ二度打ち付けて腰を折った。それが誠意ある謝罪だと分かったのは、アヴェリンが体勢を戻して武器をしまったからだ。

 

 イルヴィはミレイユへと頭を下げた後、(いかめ)しい声音で、韻を踏みつつ話し始める。

 

「戦場での無礼、真に失礼。もしもあなたが許すなら、再び名乗りを許されたい」

「受け入れよう。今こそ再び名乗るが良い」

 

 スメラータは田舎の出だ。だから外の事にはそれほど詳しくない。

 だが、一部の界隈では、大事な話には韻を踏んで即興の詩を紡ぐ事を、礼儀とする部族がいると聞いた事がある。

 

 韻を踏む詩は頭の回転が無くては出来ない事で、それが出来るだけの技量と知性を示すのは、誇りある事だと聞いた。

 それをミレイユもまた韻を踏んで返したというのなら、その礼を誇りと共に返した、という事になる。

 イルヴィは再び朗々と名乗る。

 

「我が名はイルヴィ、バスキの一族! ファエトの子にして、槍を抱く者! 今ここに、戦美を見せられ、一戦せねば収まらぬ! いざ尋常にして、勝負されたし!!」

 

 韻に合わせて石突きを叩き、最後に盾と拳を打ち合わせて構えを取る。

 アヴェリンは腕を組みながら満足そうに何度も頷くが、アキラの方は当然ながら、韻を踏んで返答など出来ない。

 

 だが、勝負を挑まれていた事は理解していたろうし、仕切り直されたのだとも分かった事だろう。何を言うのが正しいのが分からなくとも、名乗らねばならないとだけは理解出来たようだ。

 

「私の名前はアキラです。よろしく、ねがいます」

 

 そう言って一礼すると鉄の棒を構える。アヴェリンへ向けていた、怯えていた表情も切り替えて、その瞳にも力が入る。

 

 お互いの視線が交差し、互いの腰が深く沈む。

 それが合図のようだった。アキラがこれよりも尚速い速度で肉薄し、鉄の棒を打ち付ける。しかしイルヴィも、安々と殴られてはやらない。

 

 丸みを帯びた盾を掲げて武器をいなし、槍の握り場所を変えて接近戦でも上手く立ち回る。

 普通、槍はリーチがある分、懐に入られたら不利にしかならないから近づかれるのを嫌うものだ。しかし、折り曲げて短くできるという彼女の槍は、それだけで一方的な不利とはならない。

 

 一瞬の隙を見つけてアキラの腹を突き刺して、その身体を大きく吹き飛ばす。

 今まで全く削られなかった『年輪』が、それで三枚消し飛んだのが見えた。

 

「おいおい、今まで誰も無理だった防御を、たった一撃で三枚もかよ!?」

「流石、一級者は違うわなぁ……!」

「てことは、これで新人は丸裸か?」

「いや、まだ身体に膜があんだろ。使う奴が使えば、硬いだけじゃなくて、その枚数も多いって事なんだろうよ!」

「――おい、馬鹿お前、いつまでへたってんだ! 見ないと絶対後悔するぞ!」

 

 戦闘が始まれば熱気も再開して、誰彼と構わず騒ぎ立てる。

 足踏みまで加わって、イルヴィを応援する声も多いようだ。一級冒険者は当然ながら力だけで登る事が出来ず、その品位まで求められるから、普段の素行が悪ければ決して昇級できない。

 

 それを許されただけの冒険者だから、強さも相まって、他の冒険者や他ギルドからすらも人気を持つのが、彼ら一級冒険者なのだ。

 彼らも彼らで、当然それを誇りにしている。このような場で決闘を申し込んだとなれば、下手をすればその誇りに傷をつける行為なのだが、しかし互いの奮戦を見ればそんな事も言えなくなる。

 

 アキラは更に接近しようと試みているが、最初の不意打ちじみた肉薄はともかく、今はそれも難しくなっている。再び槍の長さを戻したイルヴィは、巧みな槍捌きで接近を許さなかった。

 互いに攻めあぐねているような状況に見えるが、イルヴィはまだ刻印を使っていない。アキラにしても、彼女の太腿に刻まれたものは見えているだろう。

 

 使われる前に倒すのが難しいなら、せめて受けないようにしようと考えている筈。

 だから接近が難しいと思っても、攻撃の手を緩めていない。時に強引と思われる攻撃を仕掛けるが、それも『年輪』を頼りにした特攻で、しかしそれも枚数を削られるだけで、一撃加えるに至っていない。

 

「おいおい、アイツ一体、何枚の外皮持ってんだ?」

「もう六枚か? 七枚か? あんなに多い枚数持てるんだな……」

「しかもまだ品切れじゃねぇと来た。あんな便利なモンだと知ってりゃ……!」

「馬鹿、ムダだ。駄目な奴が刻んでも、駄目な結果にしかなんねぇよ!」

 

 周囲の野次とも応援とも付かない声が飛び交う中でも、戦闘は進む。

 互いは線と点との攻撃だが、卓越した戦士にはその動きが読み易いらしい。まだ本気ではないからかもしれないが、決定打に欠くような戦いをしていた。

 

 しかし、一瞬の隙を突いてイルヴィが踏み込む。

 躱しきれず、アキラも腕を振るって逸らそうとしたが、その動きはフェイントだった。

 腕へは微かな接触に見えたが、しかしそれでアキラの外皮が剥がれて膜も消える。計八枚の外皮、それがアキラの最大数であると知られると共に、複数の打突が腹部へと叩き込まれた。

 

 血の跡を点々と残しながら吹き飛ぶアキラと、周囲の沸き立つ声が重なった。

 



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二つのギルド その9

 吹き飛んだアキラは、防壁へと強かに背中を打って動きを止めた。

 一瞬の均衡の後、ずるずると重力に従って落ちる。腹には三つの穴が空いていて、今も血が流れ始めていて、放っておけば死にかねない。まさしく致命傷に違いなかった。

 

 これは勝負あった、と誰もが思い、スメラータも同様に思った。

 結局、一級者が順当に勝ちを拾っただけ。見応えのある試合であったのは確かだし、挑む価値のある相手だったと思うが、やはり寂しくも思う。

 

 あれだけの戦闘を見せたアキラなら、もしかしたら、という期待感はあったのだ。

 それは勝手な期待に違いなかったが、しかし番狂わせがあったなら、という期待感もあったのだ。アキラが見せた刻印には、それだけの可能性があるように思えた。

 

 すぐにでも治癒術を持つ誰かが駆け寄る様なに思えたし、勝利の勝ち名乗りを上げるとばかり思っていたのに、未だに起きていない。

 それどころか、イルヴィは死に体に攻撃を仕掛けようとしている。

 誰か止めないのか、と思った瞬間、弾かれたようにアキラが動き出した。

 

「――バッ、……か!?」

 

 まるで傷を受けた事など感じさせない動きに、周囲もまた大きく騒ぎ立てる。

 

「あれ食らって動けるのかよ!?」

「でもよ、ほら、動けば回復されんだろ?」

「馬鹿、腹に三個も穴あいてんだぞ! 痛くて動けねぇんだよ、普通は!」

「痛みってモンを知らねぇのか、あの新人は!」

 

 痛みがあるのは当然だろう。

 アキラの表情を見れば、歯を食いしばって必死の表情で動いている。だが、痛みを感じるより、痛みに屈するより、それより大事な何かがあるから動けるのだ。

 

 それは戦士の誇りであったり、勝利への渇望であったりと、その意味は様々だろうが、何にしろ強い意志がなければ出来ない事には変わりない。

 その姿に気持ちを後押しされて、それまで大声を上げなかったスメラータも、喉を裂くように張り上げる。

 

「やれーーー!!! 負けるなぁぁぁ!!」

 

 アキラの奮戦には、スメラータの興奮から伝搬するように、味方する声も増えていく。

 足を踏み鳴らし、腕を持ち上げ、高らかに勝利を願って叫ばれる。

 

「ソール! ソール! ソール!」

「ソール! ソール! ソール!」

 

 イルヴィも口角を持ち上げて、攻撃を躱すアキラを見る。イルヴィの槍を躱し、しかし避けきれず肩や腕へと傷を増やしていく。

 動いて癒えて行く傷より、新たに増えていく傷の方が多い。

 

 結局のところ、治癒の速度がそれなりにあっても、それ以上の速さで傷を作られるなら意味はないのだ。新たに刻印を使って防御を固めれば良いのに、使い慣れていないアキラには集中する時間が必要なようで、再度の使用がまだ無かった。

 

 だと言うのに、アキラは決して動きを止めない。

 動いている限り勝ち目はあるのだと、その行動で示しているように見えた。だが無駄な動きがあろうものなら、そこをイルヴィは容赦なく突いてくる。

 

 不必要で意味のない行動は、熟練の戦士にとっては格好の的だ。

 だから、時には足を止めて隙を窺う必要もある。傷を癒やしたいという後ろ向きな動きでは、逆にそれを利用されるだけだ。

 

 だが、アキラの動きは、決して後ろ向きなものばかりではなかった。

 『年輪』が無かったとしても、その果敢な攻撃には緩みがない。それどころか、相手の動きや癖を読み解こうとする、攻めの姿勢が見て取れた。

 

 ――勝ち筋を諦めていない。

 その闘志や戦意、勝利へ執着を見て、スメラータまでもが嬉しくなる。イルヴィがアキラを本物の戦士と評していたのは、これを見抜いていたからなのかもしれない。

 そのイルヴィからも歓喜の声が上がる。

 

「――いいぞ! 我が部族以外に、本物の戦士などいないと思っていた! 刻印に頼らず、自らの力のみで戦う! それが戦士だ! それこそが戦士だ!」

 

 刻印を否定する戦いは、今の世にあって健全とは言い難い。

 誰もがそれを頼りに戦っている。刻印は戦の華でもあり、それを十全に扱える事もまた、一流の冒険者というものだ。

 

 しかし、傷だらけになりながら、それでも足を止めずに戦い続けるアキラを見ると、スメラータの胸にもどうしようも出来ない感情が暴れそうになる。

 それは同じ戦士としての渇望だった。

 

 己の力を高め、そしてその高めた力でぶつかりたい。

 互いの全力を出した上での勝負がしたい。

 今すぐにでも、その欲求をぶつけたくなる。だが、それと同時に目の前の決闘からも目が離せなかった。そのせめぎ合いがまた、スメラータの胸の内を掻き毟るのだ。

 

 アキラの傷は増えるばかりで、致命傷に思える傷も増えていっているように見える。

 口の端から血を流しているし、腕や足にも傷は多い。だが、決して動きが鈍らないのは不思議でしかなかった。腱が切れた訳でなければ動けるのだろうが、しかしだからと動き続けられるものでもない。

 

 傷の治癒も止まっているように思う。

 効果時間がどれ程なのかは知らないが、所詮は初級魔術、何十分も継続するものではないだろう。この戦闘が始まるより前から使われているのだから、その効果はとっくに切れていても不思議ではなかった。

 

 だが、アキラの猛攻は決して無意味ではなかった。

 癖を見抜いたか、あるいは猛攻に槍を持つ手が痺れたのか。アキラの攻撃をいなし続けていた槍の穂先が、次の一撃を躱せず接近を許した。

 

 その隙が最初で最後、最大のチャンスだと理解しているのだろう。

 アキラの瞬発力は、これまでに類を見ない速度を見せた。身を低く屈め、まるで地を這うような格好で接近し、そして下から掬い上げるように鉄棒が振られる。

 

 脇腹に突き刺さった一撃は、メシリと骨が軋む音を立てて、イルヴィを吹き飛ばし――したかに見えた。だが、イルヴィは僅か一歩後ろによろめいただけで、即座に足を踏み立てて耐える。

 

 アキラの一撃による衝撃で顎は上がっていたが、それで見下されるような視線になって、その眼光に些かも衰えがないのが分かる。

 背筋が冷えるような恐ろしい眼光だった。直接間近で見ているアキラは、スメラータの比ではないだろう。

 

 肋骨あたりに罅が入っていても、不思議ではない一撃だった。

 剣でない分、その衝撃は更に大きかったろう。だが、それと感じさせない機敏な動きで盾を一振りし、アキラを突き飛ばすと同時に、短く持った槍で追撃を放つ。

 

 だが、その時にはアキラも両手の甲を打ち付け、火花を散らすように甲を弾く。

 それがアキラのルーティーンのようだった。

 一瞬の内に『年輪』が展開され、そして槍の穂先を肩で押し付ける。

 

 やはりその一撃で三枚の外皮が剥がれるのが見えたが、アキラは構わず突撃した。

 これまで頑なに使わなかったのは、あるいはこれの為だったのかと理解した。油断を誘うつもりだったのか、単に使い方を理解していなかったのかは分からない。

 

 しかし、ここぞという完璧なタイミングで不意打ちの様に発動した『年輪』は、間違いなく有効に働いた。

 再び繰り出される脇腹への一撃で、衝撃が起こる。

 

 金属同士を打ち付けたようには思えない衝撃音が鳴り響き、そしてイルヴィの身体が傾いた。

 しかし、倒れはしない。

 背筋が反れるように傾いたが、倒れる事も、更には一歩引くこともない。砕けてしまうのではないかと思えるほど、強く歯を食いしばり、そしてそれまでとは違う軽い調子でアキラの腹を突く。

 

 まるでただ当てるだけで攻撃する意志はない、と言っているかのような一撃だった。

 しかし、それは違うのだと、一瞬あとに理解する。

 

 テコの原理を利用するように、アキラの身体がひょいと持ち上がり、宙へと浮き上がった。

 突然の浮遊感に、アキラも動揺を隠せないようだったが、イルヴィは次の瞬間にはまるでやり投げをするかのように、自身の体を弓のように引き絞っている。

 

「刻印を使わないなんていうのは、あたしの我儘だ。使う使わないは勝手な事。お前が悪いわけじゃない。――だから」

 

 イルヴィの瞳に剣呑な眼差しが光る。

 引き絞られた身体と、槍を握った手に力が籠もる。両太腿へこれ見よがしに刻まれた刻印が発光し、その発動を知らせた。

 

「あたしの刻印も知っていけ。――死ぬなよ……!」

 

 アキラの浮遊が落下に変わる瞬間、イルヴィから全力の突きが繰り出される。

 身体を捻り、腕の先まで捻り込んだ動きが、刻印と合わさり旋風すら巻き起こして、アキラへと突き刺さった。

 

 刻印はどれも自己強化の物で間違いない。

 だからあれは、引き絞られ、そして繰り出された一撃から生まれた余波に過ぎないのだろう。

 アキラは直撃を受ける寸前、両腕を十字にして受けようとしたようだが、それを掻い潜って腹へ当たった。

 

 その直後、複数の外皮が破られ砕かれる音と、捻られた衝撃そのままに、アキラもまた乱回転しながら吹き飛んでいった。

 

 その衝撃は凄まじく、防壁に当たってもなお動きを止めず、それどころか突き破って飛んでいく。

 はるか後方でようやく着地し、それでも勢いが止まらず、何度も跳ねてようやく止まった。土煙が尾を引いて姿は隠れて確認できないが、どうなってしまったかなど想像するだに恐ろしい。

 

「おい、死んだろ、あれ……」

「防壁に当たった時点で失神して、下手すりゃ身体が上下に分断されてんよ」

「誰か見て来い……!」

「嫌だよ、おっかねぇ!」

 

 スメラータはその光景を、呆然と見ているしかなかった。

 イルヴィは技を放った後の硬直のまま動きを止め、それからゆっくりと腕を降ろしている。その表情から読めるものはないが、落胆でも失意でも過失を悔やむものでもなかった。

 

 こんなギルド内で決闘を起こして、殺人だけは止めろという警告もあったのに、彼女の心境はどうなっているのか。一級冒険者としての名誉は地に落ちただろう。

 他の者達からの追求もあるに違いない。

 

 今すぐアキラに駆け寄って、その安否を確かめたい。

 そう思うのに、周りが言う声に自らも煽られてしまって、見に行くのが恐ろしい。本当に死体があったなら……、それを知ってしまうのが恐ろしい。

 

 何故こうなったんだ、と嘆きたい気分だった。

 興奮は水を掛けられたように冷え切り、誰も彼も言葉を発しない。

 ミレイユ達ですらそうなのだが、しかし不思議と安否を気遣う素振りが見えなかった。彼女らにとっては、弟子などその程度の価値しかないのだろうか。

 

 その時、ギルドの外――その入口の石を踏む音がする。

 こんなタイミングで誰かがギルドに用事があって来たのか、それとも誰か外にいた冒険者が何かを伝えに来てくれたのか、そう思いながら出口を注視していると、足を引き摺る音が聞こえてくる。

 

 咳き込むような音まで聞こえて、何だ、という声とまさか、という声が混じる。

 入り口は外の明るい日差しが入り込んで逆光になっている所為で、その姿まで確認できない。

 暗い室内へ入って来て、そして蝋燭の明かりで照らされて、ようやくその姿が視認できた。

 

「ゴホッ! ごホツ!」

 

 咳き込む物の中には血が混じっている。

 しかし、一歩進む毎にその足取りは確かになり、割れた防壁を潜った時には、すっかり元に戻っていた。

 

「――アキラ!!」

 

 無事だったのか、と安堵ともに涙が漏れた。

 周囲の冒険者も悲鳴やら歓声やらで、怒号がホールを支配する。

 

「何で生きてんだ!? ありゃホントに同じ奴か、別人じゃねぇのか!?」

「本人だろ、見ろよアイツの武器!」

「ていうか、あれ武器じゃねぇだろ、いま気付いたぞ!」

「しかも、あんな目に遭っても握ったまんまかよ! おっかねぇな、おい!」

「アイツを新人って言った奴でてこい! あんな新人いてたまるか!」

 

 再びギルド内が騒がしくなったが、アキラとイルヴィの態度は変わらない。

 イルヴィは実に嬉しそうに笑みを浮かべ、その奮戦を讃えているようだった。アキラはきまずそうな視線をアヴェリンへ向けており、それでも武器を構えようと体勢を取った。

 

「おい、嘘だろ! まだやる気か!? 死ぬのが怖くねぇのか、あいつ!」

「やめろやめろ、死ぬって今度こそ! 回復してるのは傷だけだろ、正気じゃねぇぞ!?」

 

 それにはスメラータにも同意しか出来ない。

 挑むからには勝機があると思っているのか、スメラータが見る以上に戦力差は開いていないだけなのか。どちらにしても、もう十分だろうと言うのが全体の総意だし、誰か止めてくれと叫んでいる者まで出てきている。

 

 流石にここまで大事になっては職員も出て来るしかない。

 ギルド権限を持って終決を宣言し、それでようやく場も収まったのだった。

 



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二つのギルド その10

 防壁も解除されて、周囲の冒険者も喝采を上げて勝負を称える。

 喧嘩が起きるのは日常茶飯事でも、命を賭けた戦いは勿論、実力者同士の名勝負も滅多に見られるものではない。特に実力者というのは、簡単に力をひけらかしたりしないので尚更だ。

 

 一級冒険者と、それ以外の実力差というのは隔絶しているという事もあり、そもそも勝負が成立しない。熟練の冒険者は勿論、まだ日の浅い冒険者も、この戦いには目を輝かせていた。

 ただし、そもそもがつまらない喧嘩を発端とした勝負だ。

 

 勝ったとしても名誉は得られない。

 アキラだって、大事になってしまった勝負事に付き合う必要はなく、更に言えば命を失う覚悟で挑む必要もない。実力差を知ったなら、そこで降参したとしても、新人である事を加味すれば善戦を讃えられただろう。

 

 しかし、アキラはイルヴィ最大の一撃を喰らって尚、戦う意志を投げ捨てなかった。

 一級冒険者へ食らいつくだけでなく、命果てるまで武器を手放さず、戦い続けられる意志を示した。勝って得られるのは名誉だけ、それでも尚、命を賭けられる者は少ない。

 

 非常に少ないと言って良かった。

 現在では、それを称えるという習慣さえ久しく見なくなった。

 無理をする必要はない、生きていれば丸儲け、勝利と名誉より人命、そういう風潮が蔓延した所為でもある。

 

 だからアキラが見せた戦意は、スメラータには眩しく映った。

 そしてそれは、どうやらイルヴィにとっても同様だったらしい。

 

 先程よりも随分狭くなった人垣の輪、それらから称賛の声を浴びせられながら、その中心で二人は手を握っていた。

 スメラータも人波を掻き分けるようにして、二人へ近付いていく。

 

「お前なら死なないとは思っていたが、まさか起き上がるだけでなく、未だ戦おうとするとまでは思わなかった……! 全く……っ、あたしは嬉しい! お前の様な戦士を、部族以外で見られるとは!」

「あぁ……、えぇ……」

「しかし直撃だった筈だ。手応えもあった。……どうやって対応した?」

 

 矢継ぎ早に繰り出される質問に、アキラは困った表情を浮かべるだけで返答しようとしない。

 イルヴィは眉と唇と跳ね上げるような、奇妙な思案顔を見せたあと、次には得心顔で頷いた。

 

「……あぁ! 相手の手管を聞いておいて、自分の話はしない、というのは不実だったな。あたしのは隠すもんじゃない。刻印のとおりさ。たった三秒しか効果がない、しかし爆発的な効果がある自己強化魔術。その二つだけを持って挑むのが、あたしの流儀なのさ。ほら、あんたは?」

「えぇ……、あー……」

「――割り込んで済まないが」

 

 やはり困った顔で答えないアキラに、イルヴィが詰め寄ろうとしたところで、横からミレイユの声が割り込んできた。

 やはり彼女とその周辺は異質な気配が漂っており、冒険者が近寄って揉みくちゃにしないのは、彼女らの存在が大きい。近寄りたくても近寄りがたい雰囲気が漂っている。

 

「そこのアキラは言葉を知らない。事情があってな……、だから言っている事の一割も理解していない」

「なんだ、そうなのか? お前にも色々あるんだろうが……そうか、言葉が分かってたら、あたしの我儘にも付き合っていたのか? 実に知りたいところだな」

「やれと言われれば、何を思うでもなくやるだろう。そもそも、昨日まで刻印など持っていなかったんだしな」

「――昨日!?」

 

 その一言は、イルヴィのみならず、周囲で話を聞いていた冒険者まで驚かせた。

 

「それで今日、あの戦いの最中に初めて使ったって? 道理で使い方がおかしい筈だ。ぎこちないし、もっと上手い方法もあったろうと思ってたところさ」

「実戦に勝る訓練はない、とも言うしな。使い方を覚えて、そして使いこなそうと知恵を絞ったんだろう」

 

 ミレイユはアヴェリンへと目配せすると、それだけで意思疎通が出来るらしく、アキラの手を取って刻印が見えるように甲を翳す。

 そこには使用回数制限に達した事を示す、暗褐色の刻印が刻まれていた。

 

「恐らくは、『年輪』の外皮が破られた直後にまた貼り直す、というのを繰り返したんだろう。最低でも十枚以上は、一撃で削ったという事になるのか」

「消耗なしなら、あるいは完全に止められていたのかもしれないねぇ。全く……、『年輪』をそこまで見事に、盾として有効に使った奴なんて聞いた事もないよ」

 

 台詞自体は呆れを含んだものだったが、その表情は反対に晴れやかで、我が事の様に喜んでいた。

 

 では、あの両腕を交差するような動作も、単に防ごうとしただけでなく、刻印を発動するつもりでやっていた事だったのか。使い慣れていないアキラは、どうやらそのルーティーンがなければ使えない、というのが、この戦いで見せた癖だった。

 

 イルヴィはアキラへと向けていた好意的な視線を、次にアヴェリンへと移す。

 

「しっかし、あんた何者だい? 部族の流儀も、戦士の名乗りも知っている……。多分、あんたの主さんもだ」ミレイユへと意味深げな視線を向け、それからすぐに戻す。「けど、あんたほど見事な戦士など見た事もない」

「……そうだろうな」

「それに刻印だって持ってないだろう? 鎧の下に隠しているとも思えない。あんたは誇りを知る高潔な戦士だ。刻んだとしても、それを隠すような真似はしない」

「それもまた、そうだろう」

 

 アヴェリンが再び大きく頷き、強い視線を送る。

 まるでそのひと睨みで、値踏みだけでなく彼我の実力差を教えるような圧力があった。

 イルヴィは早々と両手を上げて、降参の意を告げた。

 

「……こりゃ参った。あたしも部族の中では、一番の戦士だと思ってた。張り合える奴がいないってんで、こうして街に出てきてギルドなんかにも入ってみた。確かに強い奴はいたさ、でもあたしが求める戦士はいなかった」

「刻印が気に入らないか?」

「本当の戦士は、己が力のみを頼りにする! ……するもんだったさ、昔は。でも、そうも言ってらんないもんなのさ。実際、あるとなしとじゃ雲泥の差だ」

 

 自分を卑下するように顔を伏せ、その先に自分の刻印を見る。たが、すぐに持ち直してアヴェリンへと熱の籠もった視線を向ける。そこには、長年追い求める理想を目にした、乙女のような情熱が見え隠れしていた。

 

「まさか本物の戦士が実在してるなんて……! もしもあんたが部族の戦祭に出ていたら、アヴェリンの称号はあたしの物じゃなかったろうね!」

「……何だって?」

「まぁ、知らないだろうとは思ってたよ。三年に一度行われる、戦士の技量を競う大会みたいなもんさ。一番強い奴が、アヴェリンの名前を譲られる。かつて実在した、部族始まって以来最強の戦士だ。あたしはそれを寝物語に育ったんだ」

 

 ほぅ、とアヴェリンが気のない返事をする。

 スメラータは互いの顔を見比べて、その熱の入れ込み違いに眉を顰める。既にその名を憚りなく名乗る彼女、そしてそのアヴェリンを知らない、同じ部族だというイルヴィ。

 

 またもピースが一つ埋まった気がするが、それを口に出すのは拙い気がする。

 何しろ、訝しげな顔を向けた途端、ミレイユから射抜くような視線が突き刺さった。迂闊な事を口にすれば容赦しない、と言っているようで、だから口を噤んでいるしかなかった。

 

 そこへユミルがニタニタと笑いながら、挑発しているとしか思えない顔つきでアヴェリンを見る。

 

「良かったじゃない、アンタ。勝ち続ければ、晴れてアヴェリンを名乗れるわよ」

「うるさい、黙ってろ」

 

 アヴェリンは視線すら合わせず、にべもなく切り捨てた。

 イルヴィも二人のやり取りに違和感を持ったようだが、それでも深く考えるつもりも追求するつもりもないらしい。

 

 職員が業務を再開するにあたり、邪魔だから解散するようにと声を掛けているのを見て、イルヴィの顔が晴れやかに変わる。

 

「いつまでも立ち話ってのも悪いね。どうだい、隣に場所を移して話さないかい? それとも、何か用事でもあるってんなら、日を改めるけど」

「別にないが……、どうされます?」

 

 アヴェリンがミレイユへと顔を向けると、少し考える素振りを見せて立ち上がる。

 手首を小さく上下させる僅かな動きで椅子が消え、イルヴィに案内するよう告げた。

 

「……ま、いいだろう。少し話すくらいなら」

 



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決闘演舞 その1

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 最初はイルヴィがお代を持つ、と言っていたのだが、酒場は既に満席に近く、纏まった人数が座れそうもなかった。解散を命じられた彼らは、そのまま仕事へ赴く者も多かったが、同時に興奮の余韻を肴に、酒を飲もうと考える者も多かったのだ。

 座れないとなれば、何処か別の場所へ行くしかない。

 

 その意見にはミレイユも同意し、では何処が良いだろうと考えてみても、まだ昼にもなっていない時間帯、飯屋だって開いてはいない。

 冒険者ギルドに隣接している酒場だからこそ、どのような時間でも酒や食事が取れるのだが、他の場所でも同じ様にいかないのは当然だった。

 

 だが、本日の主役はイルヴィとアキラの二人だ。

 その二人を押し出すような真似はできないと、一番大きいテーブル席を譲り、元いた冒険者たちはどこぞへ去って行く。

 

 六人がけのテーブルで丁度良いと思ったのだが、何処からか椅子を持ってきたスメラータが、無理やり身体を捩じ込んで参加して来た。

 それを見かねたミレイユは、眉を顰めて言う。

 

「何でまだお前がいるんだ。もう関係ないだろう」

「関係ないなんて言わないでよ! アタイはもぅ……っ、感動した! あぁなりたいって思った! だから絶対弟子になりたい!」

「馬鹿を言うな」

 

 険しい顔で否定したのはアヴェリンだった。

 

「弟子ならば、もう間に合ってる。増やす気もない。お前の勝手を押し付けるな」

「へぇ……! じゃあ、その弟子ってのがアキラかい! まぁ、あんた程の弟子がアキラっていうなら、あの強さにも納得だねぇ!」

 

 イルヴィが上機嫌にエールを喉に流し込み、盛大に酒臭い息を吐く。

 隣に座っていたアキラは、鼻の頭に皺を寄せて顰めっ面をしたが、彼女は構わず肩を組んだ。

 

「羨ましいよ、あたしも弟子にして欲しいくらいだ。……いやいや、それより前に、名前を聞いていなかったね。改めて名乗りを上げた方がいいかい?」

「それは必要ない。酒の席での自己紹介まで、そこまで堅苦しくするものじゃないだろう」

「それもそうだ! だが一応礼儀として、あたしから名乗ろう。イルヴィだ、バスキ族だよ」

 

 晴れ晴れと名乗って、拳を三度、前頭部にぶつけた。それが彼女の――部族なりの礼儀らしい。それを終えると、イルヴィは再度エールを喉に流し込む。

 空になれば即座に称賛と共に振舞い酒が飛んで来て、自分で注文する必要がない状態だった。

 

 アヴェリンは即座に返礼しない。何と言ったものか迷って視線を彷徨わせている所に、ユミルが嫌らしい笑みを浮かべて、ワインの入ったマグから口を離した。

 

「ほらアンタ、礼儀って大事なんでしょ? 同じ部族なら尚のコトじゃない」

「黙ってろと言ったぞ」

「……同じ部族?」

 

 イルヴィが首を傾げ、それで観念したようにアヴェリンが溜め息と共に名乗る。

 

「アヴェリンだ。バスキ族、エルベルの子。……同族の誼みだ、よろしくな」

「あーっはっは! そりゃあんたが戦祭に参加すりゃ、優勝間違いなしだろうさ! でも今から名乗るのは気が早すぎるね! 今代のアヴェリンはあたしなんだ!」

「……まぁ、そういう反応になるか」

 

 思わずミレイユがそう零し、アヴェリンもどうしたものかと複雑な表情をした。 

 しかし偽名を名乗らせるのも違うと思うし、そもそも誤魔化す意味もない。ギルドとの付き合いもなければ、今後、深く結びつく事もない。

 

 必然的にイルヴィとの付き合いも希薄になるだろう。それなら、この場だけ名前呼びを改めれば良いだけだ。

 大抵は目配せで通じる二人だから、殊更名前で呼び合う必要もない。

 他の二人は、そもそも積極的に会話の参加を考えていないし、少し言い含めておけば問題ないと思われた。

 

 イルヴィはひとしきり笑ったかと思えば、突然動きを止めて顔を顰めた。

 いったい何事かと思えば、突然、脇腹を抑えて蹲るように背を丸める。

 

「いた、いだだだ……! まったく、同じとこ二度もぶっ叩きやがって……!」

「水薬は持ってないのか?」

「そういう訳じゃないけど、強者との決闘で受けた傷は名誉だろ? それにあたしは嬉しいんだ、これだけの傷を与えられる奴がいる事が!」

 

 そう笑ってアキラの肩を遠慮なく叩き、そしてその自ら起こした衝撃で再び痛みで動きを止める。

 

「いぎ……! ハッ、痛みだって喜びさ。この痛みを肴に酒を飲める。酒が旨くてたまんないってなもんだ……!」

 

 間違いなく本音である事は分かるのだが、痛みで顔を顰めていては強がりのようにしか見えない。しばらく痛みと格闘した後、アキラの手の中にある杯が、全く減ってない事に気付いたようだ。

 

「なんだアキラ、お前全然飲んでないじゃないか! ほら飲め、今日はお前が主役なんだ。タダで浴びるほど飲めるぞ!」

「アキラは酒を飲んだ事ないんだ」

 

 ミレイユから注釈が入ると、意外なことを聞いたように目を見開き、それから杯同士をぶつけ合う。

 

「何だ、そうなのか。だったら今、飲んだらいい!」

「……そうだな、アキラの好きにさせる」

 

 ミレイユが身振り手振りと、簡単な単語でそれを伝えると、アキラは意を決したように口を付け、そして盛大にむせた。

 見ている方が可哀想に思えるむせ方で、顔を真っ赤にさせていつまでも咳を続ける。見ているこちらが申し訳なくなるような有り様で、到底もっと飲めと言える雰囲気ではない。

 

「……まぁ、こいつは……、向いてなかったみたいだね」

「あるいは飲み慣れれば、という事もあるかもしれないが……。今日のところは別の物で良いだろう」

 

 それに反対する声はなく、アキラを除いて杯を傾ける。

 そうしてイルヴィは酒で傷を癒やすかの様に杯を空にし続け、四杯目を口にしようとした時、高らかに杯を掲げながら声を上げた。

 

「――だから、アヴェリンとは最も気高く、もっとも強い戦士の名なんだ! あんたがどれだけ強かろうと、二年先まで、その名はあたしのもんだ!」

「あぁ……、まぁ、分かった」

 

 イルヴィの声は大きく、顔は赤かったが呂律が回っていない訳でもない。

 しかし酒の勢いが、彼女の気を大きくしているのは間違いなかった。

 

「アヴェリンは誰より力が強かった! 山だって動かしたんだ!」

「それは無理だ」

「アヴェリンは何より強かった! ドラゴンを一撃で倒したんだ!」

「それなら出来た」

 

 イルヴィの一言に、アヴェリンが一々相槌を打って、それで機嫌を悪くするように顔を顰める。

 

「何であんた、我が事のように言うんだい。違うだろ、あんたはアヴェリンじゃない!」

「まぁまぁまぁ……!」

 

 イルヴィが掴み掛かろうとしたところを、スメラータが間に入って止めた。

 そのやり取りをユミルがいつもの嫌らしい笑みを浮かべ、頬杖を突きながら眺めている。もう片方の手にはワインが入った杯を、弄ぶようにゆらゆらと揺らしていた。

 

「でもねぇ……、こいつってば自分をアヴェリンと勘違いしてる、ちょっとおかしな奴だから。まるで見てきたかのように言うワケよ。ほらアンタ、どのドラゴンを倒したんだっけ?」

「お前が喋るとロクな事にならん。いいから黙ってろ」

 

 アヴェリンは汚物を見るかのように顔を顰め、揺らしている杯を手で払って弾き飛ばそうとした。

 それを俊敏に察知したユミルが、その攻撃から逃れようと身を捻る。

 

 逃げられた事が気に食わなかったのか、顰めた顔を大仰に歪めて二の撃を放とうとした時、スメラータを躱したイルヴィが、アヴェリンのすぐ傍に立った。

 顔を間近に寄せて、酒臭い息を吐き出しながら、胡乱げに上へ下へと視線を向ける。

 

「……大体あんた、本当にバスキ族なのかい? 見たところ、そう年も離れてないだろ。なのにあたしは、一度だってその顔を見た事がない! それに、あんたほど強い奴が一度も人の口に上がらないなんて事あるものかい? ――いいや、有り得ないね。エルベルの子なんて言われても、そんな奴だって知らないさ!」

 

 イルヴィは言うだけ言うと、目を座らせてアヴェリンへと凄む。

 

「あたしにそんな嘘は通じないんだ。本当の事が言えないっていうなら、ここで決闘始めて名乗らせようか?」

「別に嘘なんか言ってないんだがな……」

「百歩譲って、うちと全く無関係の別地方で、偶然その名を受けて育った、って言うんなら良いさ。そういう事もあるんだろうさ。でも同族だって言うんだろ? おかしな話じゃないか」

 

 アヴェリンからすれば真実を言っているだけだが、当然イルヴィは虚言だと疑っていない。それも当然だろう、としか思えないが、さりとてアヴェリンも誇りを賭けて偽名ではないと言うだけだ。

 

 どうしたものか、とミレイユは膝の上に乗せていた帽子を弄んでいると、今度は標的がこちらに移る。

 

「それにあんた、この見事な戦士を預かる程の女……。忠義を向けられるに相応しい者かどうか……。加えて、その格好……」

「……おや、分かるのか」

「なんで分からないと思うんだい」

 

 ミレイユは悪戯混じりの笑みを浮かべて肩を竦めたが、イルヴィは不機嫌に鼻を鳴らした。

 常に周囲を鋭く観察するような者には、そもそも幻術を掛けていても無駄に終わる事もある。彼女はもしかしたら、そういう類いなのかもしれない。

 

 イルヴィには初めから本来のミレイユの装備が見えていて、そしてこの格好が未だに伝聞で、魔王装束として伝わっているのも承知している。

 

 ミレイユはわざとらしく袖を持ち上げて、見せつけるように掲げた。魔王が気に食わない者には、これが挑発として映るだろう。

 だが、イルヴィからの返答は否だった。

 

「……まさか! アヴェリンは魔王の右腕だったんだ。思う様、その腕を振るって有象無象を片付けた。アヴェリンが従うくらいだ、やった事の是非はともかく、強大な存在だったんだろうさ」

「意外と肯定的なんだな……。蛇蝎の如く嫌っているものと思っていたが」

「強者には敬意を払う。それがどういう類いの者でもね。ただ、この国が言っている魔王ってのは私怨が入ってるみたいだし、本気で信じちゃいないってのもある」

 

 この都市とその周辺が特に被害が大きかった事もあり、それが理由で嫌うのは分かる。だが、その被害のなかった者達まで、それにつられて嫌うほど強い理由ではない。

 特にアヴェリンという不世出の英雄を一族から排出してる者としては、簡単に朱に交わる気にならなかったのかもしれない。

 

 だが、とイルヴィはミレイユへ凄もうと近づき、それより前にアヴェリンから首根っこを捕まえられて動きが止まる。

 抜け出せないと瞬時に悟ったようだが、しかし凄むのまでは止めなかった。

 

「だが、その格好をしてミレイユを名乗り、この戦士にアヴェリンを名乗らせて良からぬ事を企んでいるんだとしたら、それはあたしと我が一族への侮辱だ。その時はあたしが、この首落とされようとも、喰らいついてやるから覚悟するんだね……!」

「……なるほど、良く分かった。肝に銘じておこう」

 

 それでいいんだ、と豪勢に頷いて杯に口付け、全て飲み干し高らかに笑う。

 イルヴィは単に顔に出ない体質なだけで、案外酔いが回っているのかもしれない。

 アヴェリンへ目配せてした解放するよう促すと、イルヴィは掴まれていた事など一つの文句も言わず、足取り確かに元の席へと戻って行った。

 

 その様を見送ってから顔を戻せば、こちらを見ていたアヴェリンと視線が交わる。

 お互いに苦労を偲ばせる表情を向け合い、ひっそりと苦笑しながら杯の中身を飲み干した。

 



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決闘演舞 その2

 イルヴィは酒の所為で誰彼構わず絡み出すようになり、今では遠ざける為にユミルが相手を務めていた。流石に酔った相手をするのはお手の物で、イルヴィにとっては楽しく酒を飲める相手となっているようだ。

 誰とでもすぐに酒飲み友達になれる、と冗談めかして言っていたが、あれを見ると全くのその場しのぎで言った言葉でなかったと分かる。

 

 だが、他にも酒の力に飲まれている者がいた。

 顔を赤く染めたスメラータが、席に座ったまま握り拳をテーブルへ付き、身を乗り出すようにしてミレイユへ話し掛けてくる。

 

「お願いだよぉ、アタイも強い戦士になりたいんだ! 強さと、その先の名誉を求めて町を飛び出して来たんだからさぁ! 弟子入り認めるように言ってよ! あんたの命令なら受け入れるでしょ!?」

「なぜ私が、そんな命令をしてやらないといけない。大体、私達は拠点としてこの町に落ち着くつもりもないんだし、お前を連れ回すつもりもない」

 

 明らかにそれと分かる胡乱げな視線を向けつつ言うと、スメラータは衝撃を受けたように身体を硬直させた。

 受けたように、ではない。

 実際衝撃だったようで、目を見開き、わなわなと震えた後、更に顔を向けてくる。

 

「なんで!? ギルドに加入しに来たんでしょ!? だったら、ここを拠点に動くつもりだったんじゃないの!?」

「都市に入る前と後とで事情が変わった。最初はアキラに仕事を与え、暮らしていける最低限の面倒まで見てやるつもりだった。……が、ここで長居する理由がなくなった」

「えぇ……!?」

 

 スメラータは大仰に驚いた。それを杯を傾け視界から隠していると、アヴェリン悩まし気な表情で顔を近づけてくる。

 

「では……?」

「訓練は必要だろう。慣れて欲しい事柄は多々ある。……が、本人は最低限の気概と実力を示した。業腹だが……ユミルの言う事も分かるからな」

「オミカゲ様とは違う事を、と……?」

「アキラは居なかった、それは確かだ。だが、ひと撫でされただけで脱落する味方を、傍に置く理由もまたない。……だが、さきほど見せたアレなら、最低限、喰らいついていけるかもしれないな」

「然様ですね。あれが逃げ出さず、戦い続ける気概を見せる限り、命を繋ぐ可能性も増えます。……無論、今のままの実力では困りますが」

 

 うん、とミレイユが頷いて、杯をテーブルに置く。

 二人で密談するような格好になっていて、それがスメラータには気に食わなかったのか、子供のように頬を膨らませている。

 

 弟子入りを認めるか否かは、師匠となる者の匙加減ひとつだ。

 それに拒否する事は、咎められる事でもない。認められないからと不満を露わにするのは、子供の稚気と変わらぬ行為だ。

 

 喚いたところで、ミレイユの意思は変わらない。

 考えが表情に出ていたのか、スメラータは怯むように身を仰け反らせた。それから気を取り直し、鼻息を一つ荒く吐いてから、改めて身を乗り出してくる。

 

「でもさ……! ギルドに加入すれば、色々と便利な事もあるしさ。有象無象はともかく、二級冒険者になれば、その肩書は役に立つし……! あって損する物でもないと思うなぁ……!?」

「役立つも何も、最初から加入を拒否された身だ。そもそもアキラは冒険者になれないと、夢を見るなと爪弾きにされた」

「いや、まぁ……。それは……そうだけど」

 

 スメラータも、その場面を直接間近で見ていたのだ。

 本人の資質を見る事もなく、単に刻印の選択を間違えた、という理由で話を聞く事もしなかった。あれほど大規模な決闘場が形成されるに辺り、その渦中にいたのがアキラだと分かった職員は目を丸くしていたものだ。

 

「アキラには今少し、経験を与えてやらねばならない。未だにその実力では不満だ。特に魔物との実戦経験の無さは致命的だし、だからギルドに加入させようとしたが……別にこのギルドに拘らずとも、他がある」

「そりゃそうだけどさぁ……! えぇ、嘘でしょ……!?」

 

 スメラータは頭を抱えて、テーブルの上に突っ伏してしまった。

 魔物の討伐は、何も冒険者ギルドの専売特許ではない。多くは自ら退治する事なく、より経験に長けた冒険者ギルドへ、その情報を伝えるものだが、発見と同時に討伐してしまう者もいる。

 

 しかし、見た目からその実力を計れなかったり、計った上で勝てないと判断する事が圧倒的に多いから、その役目を冒険者に託すのだ。

 そもそも混同されがちだが、冒険者の討伐対象は魔物であって、それ以外ではない。

 

 住み分けされていて、魔獣討伐や獣の狩猟などは、狩猟ギルドの区分だ。似て非なるものであって、それまで冒険者の区分だと思われる事も多いが、実際には違う。

 魔獣の棲家と魔物の棲家はよく似ているので、その道中で魔獣退治も必然的に行われるというだけだ。本来魔獣退治は、また狩猟ギルドが担当していているものなのだ。

 

 その退治の最中、あるいは接近している間に魔物を発見すれば、それをギルドへと報告するもので、だから単一ギルドの情報網では有り得ない魔物、魔獣分布を熟知している。

 発見しても己の区分以外の対象を討伐してはいけない、という法はないので、速いもの勝ちという意味では、狩猟ギルドに属した方が有利な部分もある。

 

 距離があるなら、ギルド間の情報はそれだけ共有され難いので、少し離れた冒険者ギルドに所属するという手もある。

 オズロワーナは確かに大陸で随一の規模を持って、その情報量もそれだけ豊富だろうが、地方の情報までは入手していないものだ。

 レベルが見合わない、と言うなら、レベルに見合ったギルドに所属すれば良い。

 

 ミレイユの中では既に、その様に結論付けられていた。

 しかし、話の内容が聞こえていたらしいイルヴィは、唐突に椅子を蹴って立ち上がり、杯を握りながら怒号を上げた。

 

「加入できないってのは、どういう事だ!!」

「話は聞いていたんじゃないのか? 実力不足と見做され、門前払いだった」

「実力不足……、実力不足だと!? あの戦いぶりを見た上で、まだそんな事を言ってるのか!!」

「別に再度、加入を申し込んだ訳じゃないし、今更どう思っていようが関係ないが――」

 

 イルヴィにミレイユの言葉は耳に入っていない。

 単に加入を拒否された、という一文だけを理解していて、それに怒りを爆発させていた。

 

 イルヴィは椅子を踏み出しにして机の上に立ち上がり、杯を掲げて周囲を見下ろす。

 他の冒険者たちは、突然けたたましい音を立てて卓上へ登ったイルヴィを、訝しげに見つめた。

 イルヴィは大きく息を吸い込み、そして杯を持っていない方の手をアキラへと向ける。

 

「みんな、聞いてくれ!」

「なんだぁ、またイルヴィの酒癖の悪さが顔を出したかぁ?」

「今日は何すんだ、歌でも歌うなら聴いてやらぁ」

 

 下卑た笑いと揶揄が湧き起こるが、イルヴィはそれを払拭するように、更に声を大きくする。

 

「このアキラが――!」

 

 その一言、その発言だけで、何を言うのか察しが付いた。

 ミレイユは咄嗟に念動力を行使して、イルヴィを卓上から引きずり降ろし、椅子の上に座らせた。

 

 恐らく、ギルドの加入拒否を食らった事に対し、不満をぶち撒けるつもりだったのだろう。別に愚痴を言うぐらいで、その口を塞ぐような真似をするつもりはないが、それが扇動となれば話は別だ。

 

 ただでさえ暴力沙汰が日常である彼らに酒が入り、そこへ何か焚き付けるような事を言えば、彼らが何をするかなど分かり切っている。

 イルヴィもそれなりに良識ある冒険者なのだろうが、普段から酒癖が悪いのは、今の冒険者たちの反応から見ても分かる。

 

 何か大事、厄介事を起こす前に止めるのが賢明だった。

 イルヴィは暴れて椅子から立ち上がろうとして、抵抗を諦めようとしない。面倒になったので、念動力で頭部を揺らし、強制的に脳震盪を起こして昏倒させる。

 

「ふげっ……!?」

 

 蛙が踏み潰されるような声を出して意識を手放し、机の上に額から落ちた。

 それを見た冒険者たちは、何が起こったか理解しておらずとも、無様に酔い潰れたと見えたようだった。ゲラゲラと汚い笑い声を上げて、各々の話題へ戻っていく。

 

「……よろしいので? 何を言うつもりかも分からないまま対処したのでは、また別の面倒事になるのでは?」

「酒宴の席での事だ。酔っていたなら、そう厄介な事にはならないだろう。……それに、アキラの加入について、下手な騒ぎを起こされる方が、よほど面倒だ」

「それも……、確かに……」

 

 実際にどうするつもりだったかはともかく、アキラの加入拒否を聞いて、激怒した上であの発言だ。まだ名前を呼んだだけだったが、その後に続くのが不満や嘆きであったなら、それを他の冒険者にも賛同させるのは難しくなかっただろう。

 

 そして、それが暴動に近い直談判にでもなったら大変だ。

 あの決闘を許可したミレイユにも、その責任の一端はあると言えるし、そして見過ごしたなら、やはりその騒動の責任は皆無とは言えない。

 

 昏倒させたのは申し訳なく思うが、酒場で眠りこける冒険者など、一年中見られる風物詩みたいなものだ。誰も気にしないし、気にも留めないだろう。

 ミレイユがそのように自己完結させていると、頭を抱えたままだったスメラータが勢い良く顔を上げた。

 

「――そう! だったらアキラは!? アキラに弟子入りなら良いでしょ!?」

「……どういう理屈で、それなら許されるって思ったんだ?」

 

 酔ってる事を差し引けば、その支離滅裂さも納得してしまいそうになるが、どちらにしろアキラに師匠など無理だ。

 向いていないというのではなく、もっと単純な話で、未だ人に教えられる領域には達していない。

 

「だってホラ、アキラには魔物に慣れさせたり、経験を積ませたりしたいんでしょ? でも、あんた達が手取り足取り教えるんじゃなくて、実地で勝手に覚えろって言うつもりなんでしょ?」

「まぁ、そうだな……。全てを放棄して投げ出すものでもないが、基礎的な事は教え終えているから、後はそれを磨けば良い。他の所は、それこそギルドに所属しながら学べば良い事だ」

 

 アヴェリンへと目配せすれば、粛々とした首肯が返って来る。

 アキラを学園へ預けたように、アヴェリンによる基礎的な鍛錬は既に終了していた。その基礎練のやり方さえ知っていれば、後は不定期に実力を知る機会さえあれば十分なのだ。

 

 実際のところ、丁寧に様子を見れば、その分だけ伸びるというものでもない。

 そしてアキラに掛ける期待というのは、それほど大きいものでもないのだ。結果として、良くここまで成長したものだ、と感心する部分はあったにしろ、現状に満足している訳でもなかった。

 

 良い意味で期待を裏切ってくれた、という思いはあるが、しかし期待以上という訳でもない。

 今回、刻印を手に入れた事によって、その防御力と生存率を飛躍的に上げたと見たが、しかしそれで十全と見る程、甘くなれなかった。

 

 使い物にすらならない凡愚と見做す事はない、というだけで、ミレイユの望む水準には到達していないのが実情だった。

 アヴェリンとの差は永遠に埋まらないが、旅の同行を頭から拒否するものでは無くなった。

 そしてその差を、これからどの程度埋めて行けるか、それを時間を与えて知りたいと思っている。

 

 とはいえ、そんな事までスメラータに教えるつもりはない。

 だが、ミレイユの発言だけで彼女には十分なようだった。

 我が意を得たり、と頷いて、ミレイユは殊更、嫌な気配を感じ取る。その口も閉じさせるべきか、と考えながら、意気揚々と口を開くスメラータへ渋い表情を向けた。

 



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決闘演舞 その3

「だからさ、ギルドにいる間、あたしが一緒にチーム組んであげるよ! 色々教えてやれるしさ、代わりにちょいちょいと強さの秘密を教えて貰うんだ。……どう、良いでしょ!?」

「それは……」

 

 駄目だ、と反射的に答えようとして、よくよく考えれば、そう悪いものでも無いような気がしてきた。

 何しろ、何かに付けて初心者であるアキラだ。依頼の受注の仕方は勿論、ギルドに有る不文律や常識なども当然知らない。

 

 しかもそれは多岐に渡り、その時その時でなければ教えられない。

 そしてミレイユ達に、そこまで付きっ切りで教えてやるつもりもないのだ。

 それを自ら買って出てくれるのは有り難いし、その代わりとして、アキラが知る技術を教えるのは悪くない取引に思えた。

 

 現在となっては、アキラが持つ制御技術は廃れてしまった古い技術だが、しかし秘匿するものでもない。イルヴィの様に、天賦の才か、あるいはカンの様なもので近い事が出来ている者も、この世の中にはいる。

 

 教えて欲しいと請われて教えるものではないが、それがアキラの面倒を見る事と引き換えならば、許可しても良い、という気がする。

 しかし、それには一つ大きな問題があった。

 

「アキラは言葉をあまり知らないぞ。……それはどうする」

「あたしが教えるってば。ちょっとは話せるっていうなら、色々取っ掛かりはあるだろうしさ。それぐらいの面倒と引き換えに強くなれるんなら、全っ然、余裕だねっ!」

「意思疎通の齟齬や間違いは、それなりに負担だと思うがな……。だが、早くからアキラの世話から解放されるのは魅力的だ」

 

 アキラが危険に陥るのは、一重にミレイユ達と共にいるからだ。

 傍から離れれば、その分危険性は減少し、その分安全に実力向上を図れるだろう。その見返りをアキラ自身が払うというのも、本来なら当然なのだ。

 

「アキラがいなければ、その間に進められる問題もあるだろうしな……」

「……何か聞かせられない事でも?」

 

 アヴェリンがそっと耳打ちするように顔を寄せてきて、ミレイユは小さく首を横に振る。

 

「いいや、単に連れ回すには、その実力が枷になるだろうと思っていただけだ。だが、私達と離れている間に勝手に学んでくれるなら、時間の節約にもなるだろう」

「然様ですね。言語を教えるにも、本腰を入れるなら時間が幾らあっても足りません」

「本来ならその間、時間を捨てるような思いでいるつもりだった。せめてもの情け……いや、私に付いて来た者への労いとして。だが当然、その時間の分だけ、神々へ打つ手が疎かになる」

 

 ミレイユが神妙に言えば、アヴェリンは周囲に目配せした上で頷く。

 スメラータにこのやり取りは聞こえないよう話しているが、万が一という事もある。改めてミレイユも周囲で聞き耳立ててる者が居ないかを確認した上で、話を再開した。

 

「償いというものでもないが……、しかし投げ捨てるつもりがないのなら、それぐらいの面倒は見なければならないと思っていた。それを買って出てくれるというなら、願ってもない」

「……対価としても、出し惜しみするものでもありませんしね。何よりアキラ自身が払う、というのが大変、妥当かと」

「それにスメラータは事情を知っている。……というより、人里離れた場所で育ったと、誤解させる事が出来ている。同情を買えているようでもあるし、生来の気質から鑑みて、頼りにするのも不安がない」

 

 アヴェリンがスメラータへ視線を移し、そして得心したように頷く。

 ミレイユもそれに頷きを返せば、アヴェリンはゆっくりと離れて椅子の背に凭れた。

 アヴェリンの表情が悪いものでないと分かっているからだろう、スメラータがミレイユを見る表情は、期待に満ちて身体が前のめりになっている。

 

 ミレイユはそれに頷きかけてやりながら、口を開いた。

 

「……良いだろう、アキラをお前に預ける。世話をする代わりに、アキラから鍛練の方法を学べ。ある程度経ってアキラの成果を見るついでに、お前の成果を見てやっても良い」

「やった……!!」

 

 スメラータは両腕を天井へ突き上げて喜んだが、しかし釘だけはしっかりと刺しておかねばならない。ミレイユは語気を強めて言った。

 

「近い内……恐らく数日の内に食料などの保存食を買い揃え、それから一度、ここを離れる。その離れている間にアキラの進展が何一つ見えないようなら、その時点でこの話は無しだ」

「それは……分かったよ、うん。でも……二、三日で帰って来たりしないよね? 単語の十や二十を覚えさせたのを進展って見てくれるなら、それでも良いんだけど……」

「何もお前の成果を理不尽に計ったりしない。どれくらい時間が掛かるかについては、分からないとしか言えないから、その掛かった時間に見合った進展を計る」

 

 それはつまり、ミレイユの匙加減一つでしかないのだが、スメラータとしてはそれに頷くしかない。納得いかないような顔をするのも仕方ないだろう。

 重さを計るような、分かり易い指針がある訳でもない。これだけは教えろという命令をした訳でもなかった。

 

 どこを到達線と見做せば良いのか分からねば、成果を上げたと自らが判断しても、それを覆されてしまうかもしれないのだ。

 実際、ミレイユとしては厳しく判断するつもりはなかったのだが、その正否如何に限らず、引き離さねばならない事もあるだろう。

 例えば、オズロワーナと全面的に敵対する、などがそれに当たる。

 

 他にも遠く旅する可能性もあって、それに随伴させるとなればアキラの世話も鍛練も即座に終わりを告げるかもしれない。

 だが、ミレイユにスメラータの人生や、その設計プランまで考慮してやるつもりはない。理不尽と嘆くなら、嘆いてもらうしかなかった。

 

「では、最初の助言……というか勧告をしてやる。今からすぐに酒を抜いて、初級魔術一つだけ残し、他の刻印を外して来い」

「え……、一つだけ?」

「別に全部でも良いが」

 

 スメラータは慌てて両手を左右に振る。

 そして自らの刻印を眺めては、情けなく眉を八の字に落とした。

 

「いやいや、一つで良いよ、十分だよ! ……でも、それじゃマトモな戦闘出来ないっていうか、依頼も受けられないっていうか……。生活にもお金がいるし、刻印を外すのにだってお金かかるのに……」

「……まぁ、確かに金貨を何十枚も請求されそうではあるな」

 

 まさか金貨の一枚も持っていないという事はないだろうが、宿泊費や食料代など、一日ただ生活するだけで消費される金額は、都市と田舎では雲泥の差だ。

 スメラータも都市で暮らす事を念頭に置いて、幾らかの貯金を持ってやって来たのだろうとは思うが、余計な出費を考えていないのもまた冒険者というものだ。

 

 その日暮らしというほど酷いものではないが、一部の一握り以外、いつだって金に困っている。それは装備の充実であったり、魔術書――今では刻印――の購入であったりと、上を目指し続ける限り、常に金欠で悩まされるものだ。

 

 刻印の解除に掛かる費用は、刻むよりは割安にはなりそうだが、しかしパン一個相当という事にもならないだろう。

 それはスメラータの表情からも理解できる。だが、ここで施しのように金銭を与えてやるのも違うだろう、という気がした。

 

「お前が強さを欲するなら――アキラと同種の強さを欲するなら、刻印は邪魔だ。刻印に魔力を割かれる事そのものが枷となる。外すことは前提条件で、決定事項だ」

「うぅ……、そうだよね」

「生活費はアキラ自身に稼いで貰うつもりでいたし、そちらの方が尻に火が付いて良いだろうと思っていたが、最初の一週間くらいはこちらで持とう。それでどうにかしろ」

「うん、ありがと……ありがとね」

 

 スメラータは悲しげな顔をさせつつ頭を何度も下げたが、アヴェリンにはその態度や口調が気に食わないらしかった。今までも何かと我慢させていたが、孫弟子の立場になったからには、態度を改めさせようと思ったらしい。

 

 椅子の背凭れから身体を起こし、何かを怒り混じりに発言しようとしたところで、手を挙げて止めさせた。

 

「……ミレイ様?」

「お前の言いたい事は分かるし、今まで良く我慢してくれたと労うべきなんだろうが、構うな。むしろ慇懃な態度をされると、いらぬ誤解を生む」

「しかし……」

 

 アヴェリンは難色を示したが、今度はミレイユの方から顔を近付けて耳打ちする。

 

「今後、目立つ行為は否応なく起こるだろう。それは仕方ない」

「何事も、強大な力を持つ者は、頼りにされ……そして諍いも呼ぶものです」

「今日が良い例だな」

 

 先程までの騒ぎを指して、互いに頷く。

 

「一つ一つは些末でも、積み上がれば無視できない大きさになる。だから私は、その些末な一つを蔑ろにしたくない。傅くような態度は見せる相手は、少なければ少ないほど好ましい」

「確かに、我らを目に映したい輩には、目立つ程にその機会を与える事になりましょうが……」

「ギルド内での決闘騒ぎ程度でも、その些末な一つには違いない。我々の今後を思えば、その些末は少ない方が良いんだ。……分かるだろう?」

「……ハッ」

 

 色よい返事を聞けて、ミレイユはアヴェリンの耳元から口を離す。

 可能ならば、という希望でしかないが、神々の目に映る前に、その喉元へ刃を突き付けたい。そもそも、その喉元まで近づけるのか、という問題は依然解決していないし、その見通しも立っていない。

 

 だが、みすみす付け入る隙を与えたくもないのだ。

 未だに神々が沈黙を保っているのは、ミレイユを発見できていないか、あるいは泳がせているだけだろう。

 

 しかし、現状は未発見であると仮定し、その元に行動計画を練っている。

 完全な隠密や隠匿は、前提として不可能というのは分かっていて、その気があるなら発見は難しいものではない、とも認識している。

 

 人が使える以上の魔力を使った時点で、恐らく目に留まるか、凡その位置は把握されるだろう。ミレイユがデイアートに到着した時点で見せた魔力は、その波長を記憶させるには十分だった筈だ。

 

 それを思えば、大きな失策をした、と歯噛みしたくなる。

 もう一度、何か大きな魔力を使ったなら、その波長を頼りに神々の手先が送られてくる、と考えるべきだった。そして、例えそれをしなくとも、下手な騒ぎが続くなら発見に繋がる。

 

 今回の騒動の中心であるアキラをここへ置いていくのは、一種の囮を期待してだ。

 噂が広まるような事があり、そして確認に来たら別人だったと分かれば、その捜査は白紙に戻る筈。ここで起きた騒ぎが別人の起こした些末だと誘導できたら、ミレイユの存在を隠す手立てと使えるかもしれない。

 

 神々も馬鹿ではないので、そう上手く行くとは思っていないが、打って損の無い手は打っておくべきだった。

 ミレイユは椅子の背もたれに身体を預けて、次にアキラへ視線を移す。

 

 これまでの会話は当然理解していないので、それをこれから説明してやらねばならない。

 スメラータに聞かれると、また言語の事で煩い事になりそうなので、さっさと魔術士ギルドへ追いやってから、その説明を再開した。

 



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決闘演舞 その4

「……なるほど、話は分かりました。じゃあ僕は、当初の予定通り、ギルドに所属して依頼をこなして行けばいいんですね?」

「そうだ、主に魔物の討伐を中心にな。無論、依頼は日によって変動するから、必ずしも魔物ばかり討伐できるものでもないだろう。依頼は速いもの勝ちで、優先的に回ってくるものでもない。受けられない日の依頼内容は、お前に任せる」

「では、その当たりはスメラータさんと相談して決めます」

 

 アキラがそう言って、悲しげに微笑んでからテーブルに着いた面々を見回た。

 今やスメラータもおらず、イルヴィも昏倒していて、顔を上げているのはミレイユ達のみだ。

 そこへ感極まったように頭を下げた。

 

「初期費用まで用意して頂いて、ありがとうございます。皆さんに教えと薫陶を受けた者として、恥ずかしくない振る舞いを心掛けていきます」

「あー……、ミレイ様。伝え損ねている事があるのでは?」

 

 アヴェリンから気不味い視線を受け取ってみれば、確かにアキラの態度は不自然だった。

 まるで今生の別れのように、瞳に涙を溜めている。必死に涙を見せないようにしているようにも見え、それでアヴェリンの指摘が正しいと気付いた。

 

 決闘の場で、ミレイユが座る椅子の傍にいたメンバーには伝わっていたろうし、酒場に席を移してからも、それらしき事を言っていたからアキラにも伝わったつもりでいた。

 難しい単語や長い会話まで理解できないアキラには、そこで離された内容を理解できていなくて当然だった。

 

「……アキラ、最初に伝えておくべきだった。お前は最低限の合格ラインを越えた事を、先の決闘で私に見せた。お前の同行を許可する」

「そ、それ、本当に……っ!」

「最低限、でしかないがな。捨て置く程に無価値でない事を、お前は自ら証明した。だから私も、お前の気概に応えてやる」

「う、嬉しいです……! 僕はてっきり――、やっぱり駄目だったのかと……っ!」

 

 言葉にしながら嗚咽が混じり、喋り切る前に目元を腕で覆った。

 歓喜のあまりの男泣きなのだろうが、その余韻にいつまでも浸らせる訳にもいかない。

 無情と思われようと、やるべき事をやらねばならなかった。

 

 ユミルにちら、と目配せすると、イルヴィの背を迂回して、アキラの後頭部を叩いて前を向かせる。目を赤くさせたアキラが、目を白黒させながらミレイユを見つめた。

 

「話は終わっていない。ならば何故、私達から離れて行動させるか、それを説明する」

「は、はいっ。お願いします」

「まず一つ、お前は刻印の扱い方を学ばねばならない。それは私達には教えられないから、扱いに慣れた者に教わるのが手っ取り早い」

「だから、スメラータさんなんですね」

 

 未だ少し声は震えていたが、落ち着きを取り戻したアキラは得心して頷く。

 

「そうだ。そして、私達の後を歩くというなら、魔獣や魔物との戦闘は避けられない。対応方法を知らない、出来ないという相手を、介護しながら戦うつもりもない」

「僕はまず、それを学ばなければ、付いて行く資格がないって事ですか」

「うん。それについて教えられる事は多いだろうが、どうせギルドに所属するなら、そこで依頼を受けつつ学んで行け。魔物の生態や行動など、多くはギルドで共有されてる情報だから、知るだけならここで十分だ。実際に見て倒して学ぶ事は、自分にしか出来ない。それも私達の手を借りずにやってみろ」

 

 アキラは神妙になって頷き、それから背筋を伸ばして手を膝の上に置き、頭を下げる。

 

「数多くの配慮を思慮を賜りまして、真にありがとうございます。ご厚情に恥じないだけの学びを得ると、ここに誓言いたします」

「……うん。まぁ、頑張れ。言語の方も、簡単な会話くらいは出来るようになってくれると助かるんだがな」

「は、はい。……鋭意努力します」

 

 聞き慣れない言語に、すぐ慣れろと言って難しいのは分かる。

 だから、苦り切った顔で視線を逸したアキラには。あえてそれ以上、何も言わなかった。

 

「そういう訳で、スメラータとは持ちつ持たれつ、教え教えられの関係で上手くやれ。お前の問題が早く片付いたから、私達は予定していたより少し早く動ける」

「それは、何を……?」

「お前は知らない方が良いだろう。――いや、知る権利がない、と言いたいんじゃない。知らないでいてくれると、私が助かるんだ」

 

 そう言うと、不安げな表情が消し飛び、決意を感じさせる目を向けてくる。

 

「分かりました、そういう事でしたら、何も知らない事にします。ギルドには頻繁に顔を出されるんですか?」

「……分からないが、そうはならないだろうな。それに、私の予定は突発的に幾らでも変わるだろうとも思っている。……何とも答え辛い」

「そうなんですね……。でも、一つ懸念があって……」

 

 アキラが困ったように眉を寄せ、それを解すように人差し指を当てた。

 そこへ揶揄するように、ユミルが盛大に背もたれに身を寄せて口を開く。

 

「あらまぁ、同行を許されたからって、もう一端のメンバーのつもり? 何でも質問が許されると思わないコトよ」

「いえ! 決してそんなつもりじゃ!」

 

 アキラは自身の誤解を解くべく、必死に両手を前に出して左右へ振った。

 ミレイユはそこへ、腕を組んだまま顎をしゃくる。

 

「なんだ、言ってみろ」

「……僕ってギルドに加入しているんですか? なんか、両手を見せてから即座に踵を返す事になって、どうにも門前払い食らったようにしか見えなかったんですけど……」

「あー……」

 

 ユミルが背もたれに体重を預け、椅子の脚を浮かせながら天井へ視線を向ける。

 スメラータとの相互協力の件があったので、すっかりギルド加入が当然の前提で考えていたが、そもそも加入拒否を受けて、撤回の申し立てすらしていない。

 

 門前払いを受けたのなら、別のギルドでも良いか、という考えだったのだが、こうなってくると障りが出て来る。アキラを狩猟ギルドに持っていくか、あるいは別の町を活動拠点に移すか、と考えていたが、そういう訳にもいかなくなった。

 ユミルが天井から視線を戻し、胡乱げな視線を向けてくる。

 

「……どうすんの?」

「加入を飲ませるしかないだろう。いざとなれば……」

「なれば……、またアタシ?」

「いや、もっと単純に……脅しつける」

「――脅し!?」

 

 アキラは悲鳴のような声を上げたが、別に力を誇示するのは悪い事ではない。

 実力至上主義で通る冒険者ギルドだ、先の決闘騒ぎを持ち出せば、それなりに上手く事が運ぶと睨んでいる。それで無理なら、また別の案を考えれば良いだけだ。

 

 それこそ拠点を移すなり、スメラータを狩猟ギルドへ移籍させても良い。

 彼女はまだこの都市での活動実績がないので、引き止めや面倒な手続きなんかも無い筈だった。

 

「まぁ、いい。今から行くぞ。スメラータが帰って来る前に、このギルドに所属できるかどうかだけでも確認しておきたい」

「わ、分かりました……!」

 

 ミレイユが立ち上がって帽子を被る。

 そうすると、次々とそれに倣って立ち上がり、そして酒場の出口へ歩き始める。完全に出るより前に、十数枚の金貨が不自然な軌道を描いて、ミレイユ達の居たテーブルに音を立てて並んだ。

 

 ――

 

 朝早くから乱闘まがいの決闘騒ぎが起きた事で、ギルドの仕事は多く滞っていた。

 本来なら既に粗方依頼の受注も終わり、冒険者の多くがギルドを出て行くような時間帯でも、今は長蛇の列で順番待ちをしているような有様だった。

 

 突発的に問題行動を起こすのは冒険者の(さが)だ。誰もが慣れたものとはいえ、お上品に順番待ちをするような者は少ない。

 それこそ、新人は後からやって来た冒険者へ場所を譲り、そして譲らない者には喧嘩腰になったりと、殺伐とした雰囲気が場を覆っていた。

 

 決闘騒ぎの熱が収まっていないのか、この場で再び武力で順番の決着を、と息巻くような声まで聞こえてきて、ミレイユは煩わしく思いながら前進を続けた。

 事前にアキラには武器を出させ、それを腰に佩かせた上で、並ぶ冒険者たちを押し退けて進む。

 それを見たアキラが不安げにミレイユの顔色を窺ってきた。

 

「いいんですか、これって無作法なんじゃ……。また生意気な奴だって、止められませんかね?」

「いいか、アキラ。一つ教訓を与えてやる。――強者は堂々としていろ。舐められたら、黙っておらず殴り付けろ。それを義務と思うと良い」

「義務、ですか……」

 

 アキラには今でも全く自覚はないが、決闘で見せた姿は、少なくともこのギルドの中では強者の振る舞いだった。並み居る挑戦者を正面から打ち返し、一級冒険者すら引き出して見せた。

 それだけでも新人としては快挙だが、引き分けに持って行けたから、直後に酒盛りの騒ぎにも発展したのだ。

 

 強者には横暴に振る舞う権利がある、とは言わないが、冒険者は強い、という一つの事実が特権の様に扱われる。

 そして強いと認めた相手には、それ相応の振る舞いを許すものだ。許されて当然、という不文律さえある。だから、ここでアキラが見せる姿は上品に順番待ちをするのではなく、直線的に受付に向かう事だった。

 

 実際、アキラを引き連れるミレイユ達の姿を見れば、誰しも道を開けて行く。そこに不満らしいものはなく、順番待ちで決闘を持ちかけていた冒険者さえ、顔を見るなり笑顔で道を譲った。

 中にはアキラの背を気安く叩く者までいる。

 

 アキラは恐縮してしまっていたが、構わず進むミレイユ達を引き止める者は、受付に辿り着くまで皆無だった。

 今まさに受付で依頼の受諾している冒険者は流石に退いたりしないが、隣の受付で依頼の申し込みをしている商人風の男性などは、周りの厚遇ぶりに好機の視線を向けていた。

 

 その冒険者もさっさと手続きを済ませると、逃げるように場を離れていく。

 入れ違いに前へ出て、先程と同じ職員の前にアキラを差し出した。

 ミレイユとアキラの顔を交互に見合わせ、そして先程の騒ぎを良く理解している職員の顔色は蒼白になっている。

 

「……さて、私達が何をしに来たのか、良く解っていると思うが」

「え、えぇ! それは……それはもう! その節は、大変……!」

「謝罪が欲しい訳じゃない。それともやはり、形ばかりの謝罪をして門前払いか?」

 

 ミレイユが帽子のつばを人差し指で押し上げ、睨みを利かせる。

 職員は蒼白の顔を左右へ振って否定した。額には脂汗まで滲んでいる。

 

「いえ、決して! 決してその様な事は! この方の様な冒険者を迎え入れられる事は、大変喜ばしい事で……!」

「では、手続きを始めろ。別に贔屓にしろなんて言わない、慣例通りの等級からやらせてくれれば良い」

「は、はっ……! えぇ、この方の実力でしたら、問題なく……早い段階で昇級試験を受けられると思います!」

 

 等級が上がれば受けられる依頼も増え、そして同様に危険な魔物を討伐する依頼も受けられるようになる。一足飛びにそこへ位置付けしろ、というのは相当なコネがないと不可能だろうから、言って無理な事は要求しない。

 

 ただ、職員の安堵の表情を見れば、一つ譲ったように見えたようだ。

 そこを利用する(したた)かさがアキラにあれば、早く昇級できそうなものだが、そこまで期待するのは止めておこう。

 

 ただ実技試験については免除となる様なので、後は通訳としてユミルを置いて傍を離れる。

 順風満帆とは言い難いが、とりあえず始める所までは進められた。手続きが終わるまでは待っておかねばならないので、邪魔にならない離れた場所で壁に凭れる。

 

 息を吐き、出入り口へと視線を向けながら、今後の動向について思考を遊ばせ始めた。

 



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決闘演舞 その5

 魔術士ギルドからスメラータが帰って来た時になっても、アキラの手続きはまだ終わっていなかった。今はもう自身の名前を書き、後は発行されるギルドエンブレムを待つばかりとなって、ユミルもミレイユ達の元へ帰って来ている。

 

 この待ち時間が長い所為もあったが、スメラータが帰って来たのがそもそも早いという事もあった。刻印を刻む施術は時間が掛かっても、外すとなれば簡単なものらしい。

 

 施術師によって掛かる時間の変化はあるようだが、刻印の解除となれば大抵どの施術師でも変わらない。手隙の者が行ってくれたので、順番待ちも殆ど無かったと言う。

 そのスメラータが興奮気気味に、ミレイユの傍で捲し立てて言った。

 

「それでさ、乱闘騒ぎはやっぱり魔術士ギルドの方でも話題になってたみたいでさ! そっから来たアタイはもう、大人気だった。話を聞きたくて、立候補が三人もいたくらいなんだ」

「……よほど娯楽に飢えていたのか?」

 

 そうじゃなくて、とスメラータは肩を落とした。

 しかし即座に気を取り直して、両手を胸の前で握り、声高に語り出す。

 

「昨日、施術されたアキラの事は、あのギルドで話題になってたって事だよ! 只でさえサロンで施術されるなんて滅多にない事なのに、ギルド長まで絶賛していたあの人が、いきなり冒険者ギルドでやらかしたんだよ? 気になる人が多いのも当然じゃない」

「なるほど……、そうかもな。吹き飛んでいった先も、魔術士ギルドの目の前だった筈だし」

 

 ミレイユが同意すると、スメラータは途端に上機嫌になって詰め寄ろうとして、それをアヴェリンが事前に防いだ。不満そうに唇を尖らせたが、しかしすぐに気分を切り替えて、続きを話した。

 

 スメラータは喜怒哀楽が表出し易く、また切り替えも早い。見ている分には飽きないが、付き合う方は疲れる。今更ながらに、そんな感想を抱いた。

 

「実際、話題の新人である事に違いないしさ。話題だけじゃなくて、期待だって大きいよ。それに一級冒険者と戦って、腹に三つも穴を開けても、なお戦い続けるなんて誰だって出来る事じゃないんだから!」

「だが、出来て貰わねば困る。痛いから、死にそうだから、と武器を手放す戦士に価値などない」

 

 アヴェリンがきっぱりと断言すると、スメラータは痛いものを堪えるように顔を歪める。

 

「いやぁ……、そりゃそうだけどさぁ。それで戦意を維持できる戦士が、一体どれだけいるのかって話……。だから理想を体現する戦士が新人で現れたから、こうして話題になってる訳で……。老獪な戦士が戦い続けられるのは当然でも、二級冒険者でも同じ事できる奴は少ないもんだよ」

「それは自分に対する言い訳か? 早い段階で実力以上の力を手に入れ、その所為で他が蔑ろになっていては意味もないだろう。単に強い武器を手にしただけの者を、戦士と呼ばないのと同じ理屈だ」

「いやはや……、耳が痛いよ。アタイはきっと、その武器を使いこなしているつもりだった、戦士未満の能無しでしかなかったんだろうね。だから、アキラの姿が鮮烈に映った。一級者に対し、折れず挑み続ける姿が眩しかった」

 

 スメラータが見た光景は未だ新しい。

 目を細めて遠くへ視線を向ける様子を見るに、その時の姿を脳裏に思い浮かべているのだろう。数秒、全く動きを見せないでいると、電気を流されたかにように身震いして我に返った。

 

「――ま、まぁ、そういう訳で、アタイの条件を呑んでくれて、本当に嬉しいよ。断られたら、一体どうしようかと思ってたもん……。付き纏って頭下げ続けても、きっと頷いてくれないだろうって思ってたし……」

「弟子の育成なんて考えてないのに、頼まれたぐらいで受け入れる理由がない。そのアキラだって、まだ戦士として完成とは程遠い段階だ。そこから何を、どれだけ汲み取れるかはお前次第だ」

 

 だよね、と今度は打って変わって、静かに頷く。

 今後を思って真剣な面持ちで自身を――かつてはあった刻印部分を見下ろし、重い息を吐いている。

 

 アキラには言語も文字も覚えて欲しいが、必須技能という訳ではない。

 日本語を使う事で奇異な目で見られる事で、変な注目を浴びてしまうから、やり取りには不便が強いられるが、それは街の中にいるだけの話だ。

 

 アキラにひたすら疎外感を与えるという以外、差し迫った問題が起こる訳でもない。

 とりあえずアキラを預ける形になるものの、それが如何なる形だろうと、時が来れば連れて行くつもりだった。その時点で師弟関係は終了させ、スメラータとは引き離すし、付いて来たいと言っても、こればかりは同意する訳にいかない。

 

 そこで関係は終了となる。

 その間にスメラータが戦士として一端の者になれるかどうかは、彼女の努力に掛かっている。

 

 どれだけの時間、冒険者として過ごさせるかも未定だし、下手をすると一月に満たない可能性すらあるが、そこも含んで飲み込んでもらうしかないのだ。

 ミレイユには、何より優先しなければならない命題がある。

 

 ――命題。

 ミレイユは心の中で呟いて、そして今はもう逢う事の出来ないオミカゲ様を思う。

 己の命や立場すら踏み台として捉え、次に託す事のみを考え生きていた。己の使命、己の責務と考え、まさしく命題を為すべく立ち向かっていた。

 

 それを思うと、本当に自分にも出来るのかと不安になる。

 それだけの覚悟があるのか、と自分に問いかけても、それが答えとして返って来る事はなかった。ただ、私怨に近いものが胸の奥で渦巻いているだけだ。

 

 こうなってしまった事に対する不満や慨嘆、怒りや鬱憤が澱のように溜まっている。

 その全てをぶつけてやれば、命題を果たした事になるのか、と心中でごちる。それで神々を弑し、計画が止まるなら、あるいは正しいと言えるのかもしれない。

 

 だが、その感情に振り回されるようでは達せられないという自制も、また同時に働くのだ。

 神々は小狡く、小賢しい。奸計に関して、ミレイユ達より遥か上を行くだろう。軽率な行動は奴らを利する事になり、そして思うように転がされてしまう結果になりかねない。

 

 それが歯痒い。

 ミレイユは腕を組んだまま、指に力を入れて二の腕を握る。万力のように、徐々に力を込めたところでアヴェリンから声が掛かり、それで一人思考に没頭していると気付いた。

 

「……ミレイ様? 大丈夫ですか、恐ろしい顔をしておりましたが」

「いや、すまない。……多分、酒のせいだ。悪い方にばかり、物事を考えてしまう」

「まぁ、無理もないって話でしょ。前途多難、五里霧中、何一つ目標達成の道筋が見えていない現状ではね……」

 

 ユミルが労るように声を掛ければ、それに伴いルチアも頷く。

 

「今はまだ、あまり難しく考えるべきではないと思いますよ。貴女が楽観するなんて思ってませんけど、だからって好転する材料がない今、何を考えても後ろ向きになってしまうでしょうし」

「……そうだな。お前達には苦労をかける」

「何よ、随分しおらしいわね。……何か、前より弱くなった、アンタ?」

 

 その言葉が侮辱に思えたのだろう。

 アヴェリンが憤怒の表情で掴み掛かろうとしたのを、ミレイユは咄嗟に止める。

 片腕を横に出してアヴェリンを止め、そしてその怒りを労うように肩を叩いた。

 

「確かに私は弱くなった」

「――いえ、決してそんな事は……! 我らはほんの少し前に、たった二人でエルクセスを……!」

「心持ちの話だ。……だろう?」

 

 ミレイユがユミルに顔を向ければ、直接の返答は避けて肩を竦めた。

 アヴェリンへと顔を向け直して、ミレイユは続ける。

 

「以前この地にいた時は、仲間を使っていても、頼りにしていたのは自分自身だった。そして汎ゆる事に対する自信があった。――今は違う。私は弱くなったが、その弱さの分だけ強くなった。お前達を頼りにすると決めたからだ」

 

 そう言ってからルチアとユミル、アヴェリンへと順に視線を合わせ、頷く程の小さな礼をして見せる。

 

「私には、これだけ頼りになる仲間がいる。そして、これほど頼りになる仲間もいない。だからきっと、この弱さは正しい弱さだ。……私は、この弱さを誇りに思う」

「み、ミレイ様……!」

 

 アヴェリンの目には感涙で溢れたものが、今にも流れ出そうとしている。

 ルチアは嬉しそうに微笑み、ユミルは顔を背けて腕を組んでいるが、その表情には満更でもない笑みが浮かんでいた。

 

 アヴェリンの涙腺は遂に決壊し、肩に置かれた手を両手で包み込むようにして握る。

 

「ほ、誇りなどと……! その様に思って頂けて、私は……!」

「あぁ、私に自慢できるものがあるとしたら、それはお前達以外有り得ない」

「お、おぅっ……! うっ……う!」

 

 アヴェリンは捧げ持つようにしていた手を、跪いて自身の額に押し当てた。

 感涙で咽び泣くアヴェリンとは対照的に、冷めた視線を向けているのはルチアとユミルだ。

 

「何でそういう事を、ここで言うんですかね。周囲の視線を見てくださいよ、完全に可笑しな奴らを見る目ですよ」

「時と場所を考えてモノを言いなさいな。……どうすんのよ、この空気」

「何故だか、ポロリと言葉が口を出てしまって……」

 

 弁明もそこそこに、言われた通り見渡して見れば、奇異の目をした冒険者たちが、一定の距離より外から見つめている。誰も近寄ろうとしないのはある意味当然だが、そこに含まれる視線は非常に居た堪れない。

 

 近くに居た筈のスメラータまで、いつの間にやら遠巻きにしている連中の中に紛れている。

 その顔には、同類と思われたくない、という表情で如実に語られていた。

 

 何とも言えない気持ちで立ち尽くしていると、アヴェリンの涙が止まらない内に、間の悪いアキラが手続きを終えて帰って来た。

 やはり周辺の空気とアヴェリンの泣き顔を見て、困惑したまま歩み寄ってくる。

 

「どうしたんですか。何です、これ……?」

「この子がちょっと、場も弁えずに馬鹿しただけよ。気にしないで」

「ミレイユ様が……?」

 

 アキラが信じられないと言うように顔を向けてくるが、ミレイユとは別に、何事も完璧に失敗も犯さぬ超人という訳ではない。

 馬鹿をやったと言われるのは腑に落ちないが、変な空気を作り出してしまったのも間違いなくミレイユだった。

 苦い顔のまま甘んじて受けて、アヴェリンを立ち上がらせながら、アキラに問う。

 

「……それで、どうだった?」

「貰えた、……ました」

 

 ぎこちない言葉遣いで頷きながら、受け取ったエンブレムを胸の前で掲げる。

 冒険者ギルドを象徴する、ひし形の中に線が斜めに交差する物で、銅製であるそれは剣と盾を表しているのだと言う。

 

 裏面には持ち主の名前と等級が特殊なインクで書かれていて、昇級する度に裏面が書き直されていく事になっている。大抵はリングを後付けして鎖を通し、それを首から下げるのだが、紛失さえしないのならどういう形で持つかは自由だ。

 

 ベルドのバックルに括り付ける者もいて、身分の証明を求められて、即座に取り出せる形になっていれば、それを咎められる事はない。

 どちらにしても加工は必要で、革細工ギルドを頼らねばならなかった。ここでもやはり、横の繋がり――ギルド同士の互助が働く。

 

 登録が完了されれば、その日の内から依頼を受ける事は可能だ。

 初日から受けられる依頼というのは、取るに足らない物しかない、というのが相場ではある。そしてアキラは、刻印の使用回数を使い果たしているし、少量とはいえ酒も入っている。

 

 ならば、今日はもうスメラータに魔力制御を教えるなり、宿をどこにするかを決めた方が建設的に思えた。

 スメラータへそのように聞いてみれば、彼女は同意して頷く。

 

「……うん、だね! アタシは昨日の宿を使えば良いけど、アキラもどうせなら同じ所の方がいいじゃん? これから一緒の依頼を受けたりする事もあるだろうしさ、その方がムダもないし」

「私達は昨日の宿を使うから、そっちの良いようにしろ。食料を買い溜めたり、こちらはこちらでしたい事がある。明日、また同じ時間、この場所で落ち合おう」

「いいよ、そうしよう。アキラにも、少し使えそうな言葉とか教えておこうかな……」

「冒険者なりに、よく使う言葉や単語とかあるだろう。そういうのを教えてやれ。じゃあ、私達は行く」

 

 アキラの肩を叩いて労いと励ましを告げ、その場を離れる。

 別れを惜しむ視線は感じたが、さっき言ったとおり、明日また会う。その時になっても、ミレイユにとっては別れを惜しむような感情は湧いて来ないだろうが、形ばかりの手向けの言葉は贈ってやるつもりだった。

 

 ミレイユ達は、一先ず保存食の買付に南地区へと足を運ぶべく、アキラ達へ背を向けて冒険者ギルドを後にした。

 



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決闘演舞 その6

 食料の買付け自体は順調に進み、今は宿の一室でそれを広げ、一応の確認をしているところだった。保存食ともなれば大抵の制作過程は同じで、塩漬けにされたものが主になる。

 あるいは徹底的に水分を抜いて、とにかく日持ちさせるような物ばかりで、当然味は悪い。

 

 しかし、工程が丁寧である程に味の違いは出るものだし、雑であるなら保存性も悪く、すぐに傷んでくる物もある。

 ここは粗悪品を売りつける商人が悪い、というのではなく、見抜けず買った消費者が悪い、という論理が成り立つ世界だ。

 

 食料の消費を考えて購入しているのに、カビ始めるのが早ければ、その計算も狂う。

 安心や信頼できる商人を知らないミレイユ達からすれば、入念なチェックは欠かせなかった。前提として大丈夫そうなものを購入してはいるのだが、見落としというのはあるものだ。

 

 現在、そのチェックをしているのはアヴェリンとルチアで、ミレイユも参加しようとしたのだが、大仰に止められてしまったので見ているだけに留めている。

 ユミルは最初から参加するつもりもなかったようで、ミレイユと同じくベッドの上に座って、その作業を眺めていた。

 

 他より幾らか広い室内とはいえ、やはり四人集まれば手狭だし、そもそも保存食を広げていて足の踏み場もない。

 全てを出さず、広げられる分量を出してはチェックし、都度入れ替えていく形なので、それなりに時間も掛かっている。

 

 その全ての確認が終わった頃には夕食の時間が迫る程で、ユミルはあくびを隠そうともせず、暇そうにその光景を見つめていた。

 そして結局、使う分には怖いもの、使うなら早めのものを広げ、最終的に半分程しか安全と思える物は残らなかった。

 

「意外に多かったな……」

「……ですね。選んで買ったつもりでしたが、商人もさるもので、傷んだ部分を上手く隠す(すべ)を身に着けているものですから……」

「後は、実際に掛かる日数によって変わってくる、という感じか?」

「はい。早めに帰るか補充が利くなら、残った内の七割は使えます。宿があるなら飯屋もあるでしょうから、全てを保存食で賄う必要もなくなりますし」

 

 ミレイユは一つ頷いて顎に手を添える。

 目的地は遠くない。宿もあるだろう、しかし食料までは分からなかった。宿場町の様な場所ならともかく、農村というものは、そもそも滞在する人間に対する余分な食料というものを持たない。

 

 一日だけならば謝礼金を渡すだけで問題なく馳走してくれるが、これを四人分を五日という話になると、金があろうと食料がない、という状態になってしまう。

 日本の生活のように、無いなら近所のスーパーで、という訳にはいかないのだ。

 

 歩いて半日で着けるなら近い部類で、数日掛かる事は珍しくもない。

 当然、街へ移動するまでに危険は付き物だから一人では行かないし、複数人で行くのなら、やはりその分多く、食料を持ち出さなくてはならない。

 

 暴力に対して心得がある者ばかりでないし、あったところで即ち、安全に行き来が出来る事を確約するものではない。

 村から出るというのは、命がけなのだ。 

 

 そして、どうせ街に行くなら農具を研いで貰ったり、別途必要なものを購入したりなど、多くの()()()も発生する。

 当然村中から欲しい物のリストなんかも託される事になり、馬も荷車も必要になってしまう。その分の飼葉も往復分詰め込む必要があり……と、とにかく鼠算式に用事が膨れ上がってしまうのだ。

 

 農村に住む人というのは、だから基本的に村内で完結できるよう、計算して食料を作るものだし、計算して消費する。

 外に出て、何かを買ってくるというのは大事業だ。

 

 だから年に一度か二度で済むようにしているものだし、余計な面倒を持ち込む旅人を好まない。金さえ出せば良い、相場の十倍出せば快く応じる、というものではないのだ。

 しかし食料を持ち込むとなれば、そこまで嫌な顔はされない。自分の事は自分で面倒を見る、テントを張る場所だけ提供して欲しい、という程度なら受け入れも快諾される事が多い。

 

 ミレイユがこれから向かおうとしている先も、やはり自閉しているコミュニティだろうから、他所からやって来た者に対し、食料を分け与える事を良いように考えないだろう。

 村についてからも、食料は自分たちが用意したものを使用する。その前提で買い揃えるべきだった。

 

「到着自体は早い筈だ。そこから更に奥深く入る事を考えても、余計な分は二日と言ったところだろう。だが、補充は出来ないと考えるべきだ」

「別にどこ行くつもりでも構わないんだけど、どこ行くつもりなのかは教えて欲しいのよね」

 

 ユミルがあくびを再び噛み締めながら言うと、ミレイユは素直に詫びる。

 

「……そうだった、最初に言うべきだったな。例の、私の名前が付いた森へ行く」

「何でまた? ……あぁ、ルチアの為?」

「別に私に気遣う必要はありませんよ。エルフが住みついた森で、だから親類縁者はきっと居るでしょうけど、別にそれで足を運んで貰うのも……」

 

 ルチアが申し訳なさそうに言う隣で、アヴェリンは毅然とした調子で口を開く。

 

「話を聞くだに苦境に立たされているのは理解できます。しかし、彼らも既に森へ住み着いて二百年になるのでしょう? 逃げ出すというには、長く住み続き過ぎた故に意地もあるでしょうが、敢えて手を伸ばすのも如何なものかと……」

「一度は助けたエルフだけど、いつまでも助けなきゃいけないものでもないでしょう。……それとも、知ったからには見捨てられない? それならそれで、あー……別に良いわよ」

 

 ユミルが軽い調子で言って、カクンと首を横に倒す。

 いっそ眠ってしまいそうな程、その瞳は微睡みを堪えるように瞬いていた。

 

 だがミレイユは、ゆるりと首を横に振る。

 そこには非常に利己的な思惑があった。

 

「全く気に掛けていないと言えば嘘になるが、森へ行きたいのは別の理由だ。……話に聞いた通りだとすると、あの森の奥には私の屋敷がある筈だな?」

「森の名前の由来からしてそうなんだから、そうなんでしょうよ。……あぁ、つまりアレ?」

 

 ユミルは目を揉むように擦り、ほゎゎと小さなあくびをしてから続ける。

 

「その屋敷に――もっと言えば、屋敷へ置いてきた物に用があると……」

「ミレイ様、二百年ですよ。何か価値あるものが残っているかどうか……」

「ミレイさんには恩義もあるし、多大な感謝も感じているでしょうけど、追い詰められて来たというなら、切り崩して使ってたりしてるんじゃないですかね? 本人不在が百年続いた時点で、とうに見切りを付けていても可笑しくないかと」

 

 二人の言い分には理解が出来た。

 エルフ達は、ミレイユの事を耳を丸めたエルフと呼んでいたが、だからこそ実際にはエルフではないと知っている。ある種の期待感を持って、そう呼んでいたのも事実だろうが、百年も姿を見せないとなれば、いよいよ諦めも付いていただろう。

 

 そうして、現在はそこから更に百年経ってしまっている。

 森に対して害意を持って攻めて来た者に対し、抵抗を続けていれば水薬は当然として、武器や防具もまた使われてしまっているだろう。多くの錬金素材や、鋳造資材など、使える物は使ってしまうのが賢い行いというものだった。

 

「だが、彼らが森に住んで、かつ森に私の名前を付けたのは何が理由だと思う?」

「それは……尊崇だったりするんじゃないかしらね? 放置したまま、見知らぬ人間とかに荒らされるのを嫌ったとか」

「墓守のようなつもりでいたかもしれませんよ。荒らされたくないという目的は同じでしょうけど、ミレイさんの物として残った形あるものですから。それで周囲に住み着いて……住む為に森を作った、という感じじゃないかと思うんですけど」

「アンタの口から言われると説得力あるわね」

 

 ユミルが茶化して言うと、ルチアは苦笑しながら首を傾げる。

 

「でもやっぱり、平和が存続していたならともかく、長年虐げられても来たらしいので、対抗できるものがないか、家探しみたいな事はせざるを得なかったんじゃないかと……。本当にそうなら、申し訳ない事なんですが……」

「いや、それについては問題ない」

 

 ミレイユは首を横に振りながら、手も小さく上げて同じく振った。

 

「盗賊に持っていかれるならともかく、彼らならば文句も言えない。むしろ眠らせ腐らせるより、余程マシな使い道だろう。文句を言える筈もない」

「あら……、じゃあ何も残っていない、っていう考えには賛同するのね? でも、行きたいの? 二百年も屋敷を守っていた事を労いたい? 実際、エルフが敢えて森を築いて残る必要なんてないのよね」

 

 ユミルの発言には、アヴェリンも頷く。

 

「被害を受ける要因の一つとして、オズロワーナの目と鼻の先にいるから、というのもあるだろう。かつてのように、元の森へと避難すれば、それとて容易ではなくなる。皆無になるかどうかは別だし、敗退した事を認めるのは癪でも、それで二百年も留まるというなら、何か理由があるかとも思う」

「そうだな、私も同じように思った」

 

 エルフの親子は、出会った場所より更に離れた場所で、そしてオズロワーナより離れた場所に住んでいた。しかしエルフ迫害の風潮が強まり、暮らしていけなくなって、仕方なくミレイユの森へと避難することに決めたのだ。

 そこに理由があるように、ミレイユは思った。

 



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決闘演舞 その7

 そのエルフとて、オズロワーナへ近づく事は、それだけでリスクになると分からぬ筈もない。

 しかし彼女は、それでもミレイユの森へと逃げ込むしかない、と判断していた。それだけ一筋縄でいかない戦力が揃っているからだろうし、最早自分の知る村や街でエルフは暮らして行けないと悟ったからだろう。

 

「一種の駆け込み寺として機能しているのが、現在のミレイユの森としての形だからではないか。動かないというより、動けないというのが前提にあるんだと思う。他にも暮らしていけなくなったエルフが、最後の手段、一縷の希望として森を目指してくるのなら、受け皿として残らざるを得ない……のかもしれない」

「それは、確かに……十分に有り得る話です」

 

 ルチアは深妙な顔付きで頷いた。

 始まりの理由としては、ルチアが言ったとおり、墓守めいた理由であったかもしれない。しかし時間と共に、初期の理由や動機付けなどは、幾らでも変わってしまうものだ。

 

 今もエルフがミレイユの森を捨てて、遠く離れたエルフが元々住んでいた森へ退避しないのは、これからも逃げて来る同胞を見捨てられないからではないか。

 そして逃げ出すからには、食料や財産とて多く持ち出す事は難しい。

 

 既にそれだけ追い詰められているから逃げ出すのであって、普通は住み慣れた土地で暮らし続けようとする。だからエルフ迫害の政策が、諸手を振って掲げられるようになったのは、もしかしたら最近の事なのかもしれない。

 

 でなければ、そもそもエルフが人間の村で暮らしていた筈もなかった。

 本格化したから――そしてオズロワーナより離れていたから、その実施も遅れてやって来た。

 

 そういう事の様な気がした。

 ミレイユが頭の中で考えを整理していると、やはりこくんとユミルは首を傾ける。

 

「……だからさ、結局そのエルフ達を手助けしたいって理由があって、森に行こうって言うんじゃないの? 別に好きで苦労を背負い込もうとするなとか言わないから、素直に理由を言いなさいな」

「私に責任があるならまだしも、単に再び逆襲にあって支配者層から転落したっていうなら、それはそういうものだと認めるしかない。神々がそれを力で奪う事を是として認めているのだから、守れないのは自己責任だろう」

「……そうね? 一度オズロワーナを攻め落としただけで、助力は十分と言える。それが原因で、なんて言われたら堪らないもの」

「言いませんよ……」

 

 ルチアから非難する視線を向けられて、初めから本気でなかったユミルは、ごめんと言うように手を上下に振った。

 それから改めてミレイユへ顔を向けてくる。

 

「だからさ、何で行くのかって話なの。理由によっては反対するかもしれないけど、とりあえず言われてみなければ反対も出来ないし」

「反対だと? ミレイ様の為す事に文句を付けると言うのか」

 

 アヴェリンが剣呑な視線を向けたが、ユミルは事もなげに頷く。

 

「言うわよ? この子はアタシ達を頼りにするって言ったの。それはつまり、忠言や提言には耳を貸すってコトじゃないのよ。これは決定事項を伝える場じゃなくて、相談をされてる段階なんだから。無駄に思えたら、反対意見出すのがアタシの役目だと思ってるけど」

「む、ぅ……」

 

 ユミルにそう言われてしまえば、アヴェリンにも返す言葉がないらしい。

 ミレイユにしても、その言葉は正に求めていたものだ。ミレイユ一人の考えが、全て正当とは思っていない。間違いがあるなら、とりあえず追従するより反対を言う方が有り難い。

 

 ミレイユは感謝を示す視線を向けると、見せつけるように指を一本立てた。

 

「勿論、同情や義憤で行くというのではない。屋敷には強力な武具があった。それを敵には渡せない。あれらは私達の命を十分に奪い得るものだ」

「いやいや、アンタ……さっき何を聞いてたのよ。とっくに使われて、保管なんかされてる筈ないじゃないの」

「確かにそうだ。そう言っていた」

 

 ミレイユは一度言葉を切って、立てた指を仕舞い拳を握る。

 

「だが、ルチアが言うように墓守に徹していた場合は? 消耗品はともかく、形として残る物はどうだ?」

「屋敷という形ある物を守ろうとするなら、その中で保管されれていた武具も、出来るだけ保全しようとする……かもしれません。あくまで、かもです」

 

 言葉だけでなく、口調にも自信の無さが表れていたが、そんなものは当然だろう。

 発見したその年や、直近ならばまだしも、二百年もの時が経過していて、それでも有効と知りつつ使わない方がどうかしているのだ。

 

「オズロワーナから襲撃がある度、対抗するのに使われるとして、それでそのまま返さないものかな……」

「借りている、という(てい)であるのですから、使い終われば返すかもしれません」

「それも有り得るが、戦士への褒美を忘れているぞ。十分な戦働きをしたのなら、褒美として優れた武具を下賜するのは、良くある事だ」

 

 エルフ達はアヴェリンの言うような戦士の風習を持っていないだろうが、長い時の間、戦の功労者が出なかったとは思えない。

 その時、強力な武具に魅入られ、それを欲した者がいたとしても不思議ではなかった。

 

「なるほど、アヴェリンの言うことは一理あるな。それがもし褒美の品として使われているなら、屋敷から消えていても妥当な理由に思える。既に持ち主がいるなら、返せとも言えないしな……」

「二百年ぶりにひょっこり帰って来て、それ返せっていうのは……まぁ、心情的に受け入れ難いでしょうねぇ」

 

 ユミルが呆れたような困ったような顔で言うと、ミレイユもそれには同意して苦笑する。

 

「エルフは私の顔を覚えているだろうから、無理をして無理を通せない事もないだろうが……」

「でもやっぱり、面白くはないワケよ。返したくないって言われたら、さてどうすんのって話でしょ」

「それは……、困るな。だが敵の手にさえ渡らないのなら、それで目的は達成しているとも言えるが……」

「まぁ、今の今まで敵の手に渡っていないなら、神やその勢力にしても、別にそれほど大事に見ていないってコトだろうしねぇ……」

 

 ユミルも何とも言えない表情で、腕を組みながら天井を見た。

 ミレイユはこの世界から逃げ出し、全てを捨てて帰還した身だから、今更返せと言う資格はない。長い間、有効的に活用してきた、というのなら、これからも使って貰えば良い。

 

 それだけの事を言う権利もある。

 武具は強力で、神から直接下賜された品だから、今更自分の手で使うには抵抗がある。

 箱庭がそうであったように、どのような仕掛けがあるか分からないからだ。

 

「問題なのは、それが単に強力な武具という理由ではなく、神によって作られた武具である、という点だ。だから、それを敵となる相手に使われるのも怖い。どのような効果が飛び出すものか分からないしな……」

「あぁ、それならむしろ納得というか、回収するのを支持するわ。使うべきものが使えば、本気でミレイユ殺しが出来るとしても不思議じゃないし……、アンタが身に付けたなら、もしかすると何ならかの手段で傀儡化する可能性だってある」

「――ならば、すぐにでも森へ向かわねば!」

 

 アヴェリンが必死な形相で立ち上がる。

 手に持てる物だけ持って飛び出そうとさえしそうで、ミレイユはまず落ち着くよう、肩に手を置き座らせた。

 

「だから、その為にどの程度の食料を持っていけば良いか、という話に戻る訳だ。装備の回収、あるいは破棄。それを目的に森へ向かう。誰か異存ある者は?」

「ないない。……っていうか、考えただけでゾッとするわ。今も無防備に、神がアンタに下賜した装備がどっかにあんの? ハッキリ言って悪夢でしょ」

「ですね。アヴェリンが言ったみたいに、もしも戦の功労者として武具を与えられていても、強制的に取り上げるくらいで良いと思いますよ。強弁して奪っても許されるぐらい、危険な代物です」

 

 二人からの賛同も得られて、とりあえずの方針は固まった。

 だが、ミレイユの森を外から見ただけでは、その踏破をして屋敷まで辿り着くのに、何日掛かるものか見当も付かない。

 

 森の規模を考えれば、直線的に進むことが出来るなら一日程度だろうと思われるが、エルフの住む森だ。そのような単純な道など、用意されていないだろう。

 魔術的作為のある迷路が出来ていても、何ら不思議ではない。

 許しを得た者ならものの数時間と掛からず進めて、逆なら膨大な時間が掛かる、というエルフの森は、事実かつて存在したのだ。

 

「そう考えると、森の中でひと月過ごす事も視野に入れた方が良さそうです。食料はまた明日、朝一番で買い付ける事にしますよ」

「あぁ、よろしく頼む。……こうしてみると、食料の再確認をして正解だったな。お陰で、こうして改めて補充し直す事が出来る」

 

 提案したのはルチアだから、それに直接褒め言葉を贈ったような形だ。

 ルチアはこそばゆいような笑みを浮かべて頷いた。

 

 そのやり取りを見ながら、居ても立っても居られない、と忙しなく動き出したのはアヴェリンだった。事の重大さを知るに当たり、とにかく黙って座っていられなくなってしまったようだ。

 ミレイユは再びアヴェリンの、今度は両肩に手を置いて座らせた。

 

「急いても仕方ない。気付いてしまってからには私も焦りはあるが、だが明日はアキラにも朝にギルドで会おうと約束している。……恐らく、ひと月単位での別れになるだろう。一声くらい掛けてやらねば、捨てられたと勘違いさせるぞ」

「それは……そうですが、別に後でも……」

 

 ミレイユは肩に手を置いたまま、アヴェリンの顔を覗き込むように見つめる。

 

「一応は認めた相手だ、それなりの礼は尽くさねば。それに、見捨てられたと思えば、居ない間の鍛練にも身が入らないだろう。いざ、連れて旅立とうとして、腑抜けて何もかも投げ出したアイツが出てきたら、私はきっと後悔するぞ」

「では、言伝を残して……」

「そんな雑な扱いされたなら、アタシは体よく逃げられたって思うわね」

 

 小さく鼻を鳴らして言うユミルに、アヴェリンの息が詰まる。

 ミレイユはその肩を優しく擦って、そこから離れた。

 

「奪われる価値があるのなら、この二百年の間に機会は幾らでもあった。焦ったところで仕方ない。だが、まだ森に残っているなら、神々にとっては唯一無二の価値ではない、幾らでも代わりはある、という認識なんだろう」

「そう……、そうですね。一度は与えたくらいですし、きっと作ろうと思えば他にも作れるのでしょうし……」

「そういう意味じゃ、回収したところで無意味かもしれませんね?」

 

 ルチアが床に広げていた保存食を仕舞いながら言うと、ユミルが煩そうに手を振った。

 

「それとこれとは話が別でしょ。使われて困るものが二つと三つとがあるなら、せめて二つの方を選ぶでしょうよ。千も万もあるのなら、確かに言ってる事は正解だけど」

「実際、あると思いますか? 千や万は言い過ぎでも、十くらいはあっても不思議じゃないと言いますか……」

「出来るのか、という話なら、可能だとしか言えないけど……やらないでしょうね」

 

 出てきた言葉は意外なもので、ルチアは手を止め、きょとんとした顔を返した。

 しかし、ミレイユにはその理由が何となく理解できる。結局、神が作るものというのは、槌を鉄に打ち付けて製造するようなものではない。

 

 それが理由だろう、という気がした。

 そして実際、それが正解だとユミルの口から語られた。

 

「神が下賜する武具っていうのは、神力を使って作るのだから、作った分だけ神の力が減るのよ。だから一つならまだしも、量産しようっていうつもりが最初から無い。多分、神ひと柱につき、地上に一つあれば、それで十分って考えるんじゃない? 仮に増やしたとしても、ひと柱につき三個もない。それには余程、自信があるわ」

「なるほど……、弱体化と引き換えですか。それなら確かに控えるでしょうね。でも、神々は信徒から信仰を受け取って、それで強化される訳じゃないですか? それなら増やした分を使えば良いような……」

「そして、武具を追加で作らない神がいれば、それだけの差が生まれるワケね。……そんなの耐えられると思う?」

 

 実に納得できる答えに、ルチアは何度も頷いて作業を開始した。

 最悪の事態は起こらないのだと納得して、アヴェリンも肩の力を抜く。自らもルチアの仕事の手伝いを再開し、ミレイユはそれらを眺めながら息をついた。

 

 屋敷の中には無いにしろ、森の中で受け継がれている可能性はある。

 だが同時に、そうではない可能性がある事にも気付いていた。最悪の想定、推測に推測を重ねた結果に過ぎないと、ミレイユは盗掘という予想を努めて外へ追い出した。

 



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決闘演舞 その8

 翌日、ミレイユ達は昨日より若干遅い時間に宿を立った。遅くなった原因はユミルの寝坊で、これもまた別段、珍しい事ではない。

 しかし、少し気が急いているアヴェリンからすれば、その怠慢は我慢ならないものらしく、そこでもまたいがみ合いが発生した。

 

「何故このような日に寝坊なのだ! 昨日は早くに寝たのではないのか!?」

「いやぁ、それが聞くも涙、語るも涙の理由があって……」

「私が気付かないとでも思っているのか!? 昨日の夜もどこぞへ出掛けていたな! 一体どこへ行っていた!」

「いやまぁ、それはアレよ。適当に夜遊び……?」

「ふざけるなよ、馬鹿者!」

 

 これもまたいつもの光景で、ミレイユとしては朝食の席で見られる事を楽しんでいた位だった。しかし、普段なら言いたいことが言い終われば、後を引かない性格のアヴェリンが、こうして冒険者ギルドへ向かう間も気を落ち着かせていない。

 

 不思議に思って聞いてみれば、謝罪の一言と共に胸の内を打ち明けてきた。

 

「ご気分を害してしまい、申し訳ありません。……ただ、私としても余裕がないと申しますか。……不安なのです」

「あぁ……」

「ミレイ様が何者かに害される……目的が捕獲であろう事を考えれば、実際に命を奪うとは思えませんが……。しかし、そんな事は何者にも不可能だ、というつもりでおりました」

 

 アヴェリンは力なく零す。

 ミレイユはその気持ちが分かる様な気がした。

 悲劇の中心に居るのはミレイユかもしれないが、だからと言って、彼女たちも同じ気持ちにならない筈がない。

 

 打倒を訴えるのは誰もが同じだ。

 それが神々ではなく、足元を掬おうとしてくる輩がいて、それが現実的に可能かもしれない、となれば冷静なままではいられないだろう。

 

「そして、昨日の武具の話を聞いて、それが揺らいだ訳か……」

「然様です……」

 

 神々が作った武具というのは、文字通り神がかった一品で、人間に真似して作る事は出来ない。切れ味の良い刀剣、魔術を弾く盾、希少性の高い付与、その程度の物品を指すのではないのだ。神がかり的、と表現するのが相応しいほど、他に類を見ない一品が揃っている。

 

 魔術を作り出すのが神の特権であるから、その付与術についても、ある種神の思うがままだ。

 一切の制約がない、という意味ではないだろうが、箱庭にあったような、使う本人すら理解できない機能を付与する事も出来る。

 

 ミレイユは下賜された武具を、デザインが嫌だ、という理由で使っていなかった。

 強力な武具である事は確かだったが、それに頼らねば打破できない、という敵と遭遇していなかった理由の方が、むしろ強い。

 

 自分が持つ技量や魔術を駆使すれば、何者にも負けない、という傲慢さが根底にあったように思う。必要な物は高額な値段で購入しても良かったし、自分で製作しても良かった。

 それで実際、上手くいっていた。だから、そういう理由もあって倉庫の肥やしとなっていたのだ。

 

「神々としては、私に使わせたくて用意していたものだろうな……。使えば依存するほど便利な武具だったろう事は想像できる。実際には、使う事でどのような効果で身を蝕んでいたか、分かったものではないが……」

「十重二十重に策を講じる奴らです。使われなかった場合の事も、考えていたとして不思議ではありません。それこそ、ユミルが言ったように、他の誰かが所持した時、『ミレイユ殺し』として機能するような……」

 

 ルチアの懸念に、ミレイユは重苦しく頷く。

 

「私個人、というより、むしろ『素体殺し』と言った方が正しいような気がするが……そこはニュアンスの違いかな。とにかく、所在だけでも確認しなくては気が済まない」

「――ですが、見つけたとして、どうします?」

 

 隣に立ったルチアが、小首を傾げながら聞いてくる。

 だが、ミレイユとしても、どうするかまでは考えていなかった。

 

 回収は前提として、説得で手に入るならば良い。無理なら奪うまで。

 その後となれば、迷うところだった。手元に置いておくのは、何があるか分からないので恐ろしい。何もかもが神の掌ではない、と分かっているのだが、だからと危険物を傍においておく趣味もなかった。

 

「破壊が出来れば、それが一番良いんだろうが……」

「難しいんじゃないかと……。不壊であるのは、神造武具の特徴だった筈ですし。かといって、何処であろうと隠すだけでは心許ない……ですよね?」

「ならば封印、結界、守護、という手段だが。……どれも不確実に思える」

 

 ミレイユが額を撫でながら答えると、ルチアも同意して頷く。

 

「どれもが不確実なら、どれもを使って確実性を上げるしかないのでは。ミレイさんとユミルで封印、私が結界を、そして隠した上で守護する何かを用意する」

「完璧と言える手段がない以上、それが現実的か……」

「まぁ、妥当でしょ。より良い案が出るまでは、とりあえず、それが方針で良いんじゃない?」

 

 ユミルが被ったフードの位置を調整しつつ同意して来て、見つけた後の処理方法も決定した。

 中央区までやって来たところで、ルチアとユミルとは別れる。南区画で食料の調達、という役割を持った時、ルチア一人でいさせるのは不安があった。

 

 一応、この都市はエルフの入出は許されていないので、万が一見つかった時、逃げる手段が豊富なユミルが一緒なら安心できる。

 買い出し自体はすぐ終わるだろうし、ミレイユ達の用事も一言二言で終わる予定だ。

 

「では、最低でも一時間後に南門広場で合流だ。予定の変更が出来るようなら、こちらから連絡する」

「了解です」

「じゃ、アキラによろしくね。女のケツばかり追わないよう、釘刺しておいて」

 

 二人も一言だけの簡単な挨拶をして、背を向けた。

 どこまでも軽口を忘れないユミルに苦笑を返して、ミレイユ達も冒険者ギルドへ向かう。

 伝えていた時間より多少の遅刻があったとは言え、非常識なほど遅れた訳ではない。その入口へと向かうよりも前に、アキラがこちらに気付いて近付いてきた。

 

「おはようございます、ミレイユ様!」

 

 元気な挨拶で一礼して来て、ミレイユが小さく頷いて返事をすれば、アキラは二人しか居ない事を不思議に思ったようだ。

 

「あれ、ルチアさんとユミルさんは……?」

「用を与えたから、そちらに行っている。……少し、急を要する事があってな」

「そうなんですね。ちょっと寂しいですけど……でも、それもきっと聞かない方が良いんですよね?」

 

 ミレイユは黙って頷く。

 神々は現在、ミレイユ達の所在を見失っている筈だ。もし発見しているなら己の信徒を差し向けているだろう。だが、もし発見した上で泳がせているのなら、やはりアキラは何も知らない方が良い。

 

 だが、ミレイユはただ泳がせているとは考えていない。

 千年掛けて追ったミレイユが帰還したなら、それを手中に収めるべく動くだろう。今度こそ逃さない、というつもりでいると考えるのが妥当だった。

 

「ユミルが得意とする催眠も、何も専売特許という訳ではないからな。抵抗が難しい催眠は高度に違いないが、幻術使いなら似たような事も出来る。お前が裏切るつもりはなくとも、情報を抜かれる可能性はある」

「な、なるほど……。それなら尚の事、僕は知らない方が良さそうですね」

「馴れれば抵抗できるが、力量差が大きければ端から無理だ。お前に、この手の抵抗は最初から期待できないからな」

「――仰るとおりです」

 

 アキラが返答するより早く、アヴェリンがしたり顔で頷いた。

 返す言葉もなく、アキラは申し訳無さそうに頭を掻いて、それから顔を向け直した。

 

「……では、もう出発を?」

「そのつもりだ。味気ない別れだが、今生の別れでもない。早くとも、ひと月以上掛かると思うから、その間の鍛練を怠るな」

「ひと月以上、ですか……」

 

 その数字はアキラからすると予想外だったらしい。

 悔やむような、物寂しい表情を見せながらも頷く。

 憐憫に似た表情を見せるミレイユに対し、アヴェリンは苛烈とも思える声音で言った。

 

「その間に何の進展も見せないようなら、容赦なく切り捨てるからな。お前は最低限の合格を受けただけ、という事を忘れるな。あまりに不甲斐ないようなら、当初の予定どおり町へ捨て置いて行く」

「わ、分かりました……! 決してご期待には背きません! マシになったと言ってもらえるよう、精進します!」

 

 それでいい、とアヴェリンが頷き、それに合わせて、いよいよ踵を返そうとした時だった。

 横を通り過ぎていく冒険者チームから、聞き捨てならない台詞が聞こえてきて、それを拾おうと耳をそばだてる。

 

「今日は運良く空いてて良かったよ。あの依頼って、森の魔族を見張るだけで良いんだろ?」

「見張るだけじゃない。出て来る奴がいたら叩くんだよ」

「出る奴だけじゃなくて、近付こうとする奴がいても同様だ。報告の義務もあるのを忘れんなよ」

「後は物資の買付も忘れないように。これナシで野営地行ったら、とんぼ返りだから。……にしても、依頼元が保証されてんのは有り難いね。下手な文句つけられて減額される事もないし」

 

 明るい顔をして雑談混じりに話しながら、冒険者たちは離れていく。

 帽子のつばを下げながら、横目でその会話を聞いていると、何やら不穏な気配が感じられる。

 

 森や魔族という単語から連想されるのは、これからミレイユが向かおうとしている場所だ。

 そこを冒険者を使って見張りにする、というのは、先手を打たれた様に見えなくもない。だが、今日は運良く、と言っていた事からも、近日出されたばかりの依頼でない可能性がある。

 

 デルン王国と森のエルフとは古くから交戦状態にあるから、兵を使わず代替として、冒険者を斥候代わりに利用しているだけかもしれなかった。それが古くから続いているなら関係ないが、ここ最近から始まったものであるなら、ミレイユの所在を探す意図あってのものかもしれない。

 

 冒険者の会話はアヴェリンも聞いていたらしく、目が合えば険しい顔をして頷いて見せた。

 依頼元が信頼の置ける筋である、というのなら、それは是非とも確認しなくてはならなかった。

 

「予定の変更が必要かもしれない。それを確認しに行く」

「ハッ、お供します」

 

 肩で風を切るように冒険者ギルドの門をくぐり、ミレイユ達は依頼ボードへと向かって行った。

 



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詭計と疑心 その1

 ミレイユ達はギルドの中に入ると、依頼ボードの前へ近付いていく。

 壁一面に貼り付けてある依頼票と、それを吟味する冒険者たちが溢れていたので、その後ろから眺めるに留めた。

 

 依頼票は壁面に据えられたボードにだけあるのではなく、受付でも相談に応じて選んでくれるものだが、そちらもやはり混雑していて入って行けない。

 無理をしてまで、その依頼について探りを入れている事を、公に知られるのは避けたかった。

 

 とはいえ、このまま後ろで眺めるだけで、いつまでも依頼票の吟味も出来ず、立ち尽くしている訳にもいかない。

 分け入って行こうかと思ったところで、横合いからスメラータが声を掛けてきた。そちらへと振り向くと、元気の良すぎる挨拶と笑顔を向けてくる。

 

「おはよー! 昨日だけでも、みっちり基礎教えてもらったよ! いや、アタイも一緒に迎えようかと思ったんだけど、アキラが一人で待ってるっていうからさぁ。だから、アタイは何か目ぼしい依頼でもないかと物色してたんだけど」

 

 軽快な挨拶もそこそこに、すぐ次から次へと言葉が口から突いて出て来る。忙しい、と素気なく振り払おうとしたのだが、スメラータの言葉は止まらない。

 

「いや、でも中々良い依頼ってのはないもんでさ。特にアキラはまだ低等級だからどうしてもねぇ……。それにしてもどうしたの、なんかおっかない雰囲気で入って来るし。……何かあった?」

「あったと言えばあったが、お前には――」

 

 関係ない、と言おうとして、ミレイユは動きをハタ、と止める。

 冒険者稼業を生業として、ここまで生きて来たスメラータだ。当然、その事情にはミレイユ達よりよほど詳しい。どこにあるのか、あるいは未だ残っているのか分からない物を探すより、訊いてみた方が早いと気付いた。

 

 受付で聞けばどこで話が漏れるか気が気でないものの、それとなくスメラータに聞くだけなら問題ないだろう。そう結論付けて、ミレイユは顔を依頼票へ向け直して問いかけた。

 

「……なぁ、スメラータ。近くの森で魔族がどうの、という話を聞いたんだが……、何でも割の良い仕事らしい。お前は何か知ってるか」

「あぁ、なに? アキラにその手の仕事やらせたいの? ……まぁ、初めて受ける依頼なら良い仕事かもね。ただ、実力的に物足りないと思うよ?」

 

 思惑が漏れないよう、無表情のまま頷く。

 全くの誤解でしかないが、そのまま弟子を慮っているだけ、と思われるなら、そちらの方が好都合だった。

 

「ま、アタイもそこまで詳しくないけどね。他の街で冒険者してたからさ、ここだけでしか受けられない、その手の依頼には詳しくないんだよ」

「……では、何か知ってる事は?」

「低位冒険者と、高位とで受けられる依頼に違いがあるって事かな? 目的はどっちも魔族を外に出さない事を主眼にしている事。アキラが受けられる方は、基本は偵察、斥候のみで、戦闘は不意遭遇した場合のみって感じかな」

 

 スメラータが腕を組みながら首を大きく曲げ、天井付近へ視線を向けながら言う。

 

「高位冒険者は、近くに野営して積極的に狩り出したりするらしいよ。定期的に、そういう事やるみたいだね。なぁんで国の喧嘩に、アタイら冒険者を使ってるんだって思ってるけど。アホらし」

「国の喧嘩……? 依頼元はデルン王国なのか?」

「そう、だから金払いは良いみたい。互いの合意さえあれば、何でもやるのが冒険者とはいえ、これってギルドとしては問題だと思うんだけどねぇ」

 

 困ったもんだ、と降参するようなポーズで肩を竦めた。

 実際、ギルドは国に属するものとはいえ、一種の自治権を持っている。完全に傘下へ置かれた組織でもなければ、兵士の仕事を肩代わりするものでもない。

 

 戦争になっても冒険者は徴兵を拒否できるが、これはそもそも国外へ籍を移す事を防ぐ対策も兼ねている。本人が志願すればその限りではないが、基本的に冒険者は兵として動く事を嫌うものだ。

 

 ギルドとしても、それで国に調子付かれても困るので、実質的な兵として運用できないよう、それを阻止しようと動く。だから、武力要員として要請された依頼は、ギルドが跳ね除けるのが通例だった。

 

 つまり、依頼票としてボードに貼られる前に、ギルドが握り潰すのが当然なのだ。それをしないとなれば、癒着があるのか、あるいは権力以上に強い力で抑えつけられているのか、そのどちらかだろう。

 

 都市の外から来たスメラータには、正しい認識が備わっているようなので、ここ二百年で変わったギルドの常識、という訳でもなさそうだ。

 このデルンは、国を挙げてエルフとの敵対を後押ししている。

 

 エルフ憎しでやっているにしも、ギルドさえ巻き込むやり方には疑問を覚えた。

 その事を踏まえてスメラータに聞いてみる。

 

「例の森に住む者は、魔族と呼び習わしているんだろう? つまり、エルフを。お前はそれを普通と思うか?」

「うぅん……、普通かと言われたら、まぁ普通と答えるかなぁ。嫌われてるからそう呼ばれてるのか、そう呼ばれてるから嫌われてるのかは知らないけど」

「……そこに、悪感情はない訳か?」

 

 ミレイユが問うと、スメラータは再び腕を組んで考え込み始めた。

 

「まぁ……そうだねぇ、ないねぇ。だってアタイが暮らした街なんか、被害を受けた事なんかないし。蛇蝎の如く嫌われてるのは知ってるってだけで、害がないから別にって感じ」

「デルン王国内でも、オズロワーナから離れた場所では、普通に暮らしていたりすると聞くが」

「そうだねぇ……。だから割と最近じゃないかな、所謂エルフ狩りってのが始まったのは。ここニ、三年の話だよ。森への合流を防ぐ為に始めた事らしいけど、それで逆に合流する数が増えたとかって聞くね」

 

 馬鹿だよね、と笑いながら、スメラータは依頼票へと目を向けた。

 つまりそれで、予想以上に森へ戦力が集中した結果、冒険者すら借り出して森への警戒を強めている、というのが現状らしい。

 

 そして国の兵隊が範囲を広げ、より遠くのエルフを狩り出すにつれ、森を警戒する為の兵員割れを起こしたのだろう。

 そして狩り漏れた者が森へと向かうなら、それを迎え討つ役目を冒険者にやらせている、という訳だ。

 

 村で暮らしているエルフと森のエルフであれば、どちらが手強いかなど言うまでもない。

 兵は金が掛かる。育成だけでなく、装備一式を与えるのだって金は掛かるのだ。もし捕らえられ、あるいは殺されたなら、その装備も奪われる。

 

 エルフがそのまま使うとは思えないが、鋳潰すなりして鏃など再利用するだろう。

 どのような用途であれ、国からすれば損失になりつつ敵を強化する事になるので、どうせ失うなら少ない被害で済む冒険者を使った方が、安上がりという訳だ。

 

 冒険者からすれば金払いが良い仕事に思えるのだろうが、体よく使われているだけに過ぎない。

 とはいえ、傭兵とは元来そういうものなので、国に所属しない武力を顎で使うのは当然だった。

 問題は、それをギルド側が容認している点だ。

 

「……ギルドは何を考えて、こんな横暴を許しているんだ?」

「さぁねぇ……。そこんところは、来たばかりのアタイには分からない事だよ。アタイが元いたところじゃ、国からの命令なんて知った事か、って尖ってたもんだけど」

 

 スメラータは顎の下を指二本でなぞりながら、顎と一緒に視線を上へ向けた。

 

「やっぱり国のお膝元にあったら、強く抑えつけられて、言うこと聞くしかないとかなんじゃない? 報奨金を踏み倒されるならまだしも、金払いは悪くないんだし」

「依頼内容自体は、真っ当な部類だしな。別に悪事への加担を促すものでもなし……」

 

 むしろ、国としての主張としては、正義を成す為の前段階を任せる、ぐらいのつもりなのだろう。実際に戦争になったら戦うのへ兵士の仕事、そこに冒険者を使わない。あくまで斥候、偵察が役目で、実力者には合流を防ぐ事だけ任せている。

 

 それも既に戦争への加担として見るに十分だが、二百年もエルフ憎しで魔族呼びをしている相手になら、簡単なところの手助けくらいはやってしまうのかもしれない。

 

 スメラータが言っていたように、普通ならギルドは跳ね除ける。

 国の庇護下にある、という認識が薄いせいだ。職人気質が強く、己の腕一本でやって来たし、これからもやって行く、という気風に溢れているものだ。

 

 それを長年懐柔した結果で取り付けた、という事ならば、ミレイユから煩く言う事はない。

 しかし、ここ数年、その勢いを増し始めた、という事に軽い引っ掛かりを覚える。

 ミレイユが帰還するより、だいぶ前から始まっているから、これはミレイユとは別件だと判断する事もできる。

 

 単にエルフとの決着を考え、味方する者や背後からの襲撃を憂慮して、その事前行動と見る分には良い。

 あるいはエルフという種そのものを、一網打尽にする目的である、というのなら、それも理解できなくはないのだ。

 

 ミレイユが難しく考え込んでいると、右斜め後ろの定位置で見守っていたアヴェリンが、静かに前へ出て、顔を寄せながら小さく聞いてくる。

 

「……何か問題でもございましたか?」

「いや、つい考え込んでしまっただけだ。一つ一つは、別におかしい所はない。数年前から始まったエルフ狩り、ギルドへの懐柔、森へ逃げ込むエルフ。最後のは集結させられている、と見るべきか? 仮にそうなら、それはこの戦争で全ての決着をつける為? そういう事なら、やはり問題ない」

 

 口に出して、ミレイユは慌てて手を振る。

 

「……いや、エルフが滅ぶ事を歓迎する訳でもないが。だが、これがもし作為的であったなら、一つ一つでは見えて来ず、これにミレイユという要素が含んだ場合なら……非常に用意周到な作戦があるように見えてくる」

「……考え過ぎ、と言うには、整い過ぎているように思えます」

「お前もそう思うか」

 

 ミレイユは横目にアヴェリンを見ながら頷く。

 神々が二百年のズレをどのように認識しているか分からないが、帰還する事は理解していた筈だ。もし、その時間のズレさえ理解していたら、ミレイユへと積極的に協力するであろうエルフは邪魔になる。

 

 その為に準備をしていたというなら――神々が裏で糸を引いていたと言うなら、この用意周到さにも理解できてしまう。単にお粗末な王が、粗末な作戦を組み立てたように見えるのが、また鬱陶しい。

 

 それが真実である可能性が十二分にあり、同時に、察知されても痛手ではないだろう。

 エルフへの攻撃が失敗したところで問題にはならず、そして圧倒的不利な状況のエルフが持ち直すなら、そこにミレイユがいる可能性は高くなる。

 

 ――これは釣り餌だ。

 

 ミレイユは思わず歯軋りする。

 エルフは長命だから、未だ知り合いの誰かが存命である可能性は非常に高い。そこへ大規模な攻勢が見え隠れしているところで、果たして見捨てられるか、というところに悪辣さが見えた。

 

「どこにいるか分からず、捜し出す事も簡単でないなら、自らに出てきて貰えば良いという事だ。そして私は、その性分として、ルチアの家族がいるであろう森を見捨てられない」

「しかし、そこまで見抜いてみせたのです。ルチアに説明すれば、納得もしてくれましょう。――いえ、待って下さい。今回のコレに気付けたのは偶然の筈。そのまま事が運んだ可能性の方が高いのでは……。考え過ぎという線も……」

「それならそれで、私を支援するだろう最大の勢力を潰せるな。どちらに転んでも損はない、これはそういう狙いだろう」

 

 アヴェリンは顔を上げ、そして唸り声まで上げて押し黙った。

 ミレイユも帽子を深く被り直して思慮に耽る。

 

 もしも先にエルフの所在を知り、そちらへ向かっていたのなら、やはり神々は単に攻勢を仕掛けるだけで良かった。しかし森から逸れ、エルフの事も知らないなら、冒険者ギルドを通すなりして、事情を知る事ができる。

 

 神々にアキラの事など、視界に入っていないだろう。だが、よくよく考え直してみても、仮にアキラもエルフも思慮の外であれ、やはりミレイユはギルドに行っていたように思う。

 

 実際に加入するかどうかはまた別だが、多く様変わりした中で、情報を得る一つとして訪れた可能性は非常に高かった。

 そこでミレイユがこの件を知るかも運に任せる事になるが、やはり別に構わないのだ。

 

 ミレイユに味方するというなら、それは将来の敵になり得る。

 それを潰せるという事だし、気付かなくても他にも策は弄しているだろう。ならば二百年の間に潰しておけば良かったろう、と思うのだが――。

 あるいは、これも遊び心の一つ、という事なのかもしれない。

 

 この餌に食いつかなくても良い、という事だろう。

 気付けば良し、それでどうするか見物になる。気付けなくとも良し、ミレイユに味方する敵は減る。後で気付いたミレイユは、悔やみ涙するかもしれない。遊び心というなら、それが見られるかもと、ほくそ笑んでいるだろう。

 

 苛立ちが募り、思わず鼻の頭にも皺が寄る。

 そこへ再びアヴェリンが顔を寄せ、小声で囁いてきた。

 

「いずれにしても、まずはルチアに相談すべきかと」

「あぁ、ユミルにもな。考えすぎだと笑い飛ばすなり、何か献策をくれるなり、反応が返って来るだろう」

 



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詭計と疑心 その2

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 ミレイユは数歩離れてこちらの様子を窺っていたアキラを、指先だけ動かして手招きする。

 スメラータには礼を言って、その入れ替わりでアキラを近付けると、声を潜めて告げた。

 

「……いいか。ここに貼られている森の偵察や斥候に関する依頼、あるいはそれに類する全て、探して確認しろ」

「分かりました。探して依頼を受諾すれば良いですか?」

「いいや、お前は……」

 

 受けるな、と口に出そうとして、言葉を止める。

 ボードの方へと顔を向け、目線を合わせぬまま続けた。

 

「……そうだな、お前は受けられるものがあるなら受けておけ。他に受ける者が出そうなら止めろ」

「止める……ですか。僕みたいな新参者が言ったところで、止めるものですかね?」

「期待は薄い。明確な理由なくして、言う事を聞く義理もない。……まず、止めないだろうな」

 

 それから思考を巡らす動きにつられるように、首も巡らせ冒険者たちを見つめる。

 どの顔にも邪気はない。単に日銭を得る為に、あるいは自己研鑽や栄光を求めて、依頼票を探す姿が目に映った。

 

 ギラつくような雰囲気を持つ者があっても、それは自分の栄達を夢見る故で、冒険者としてはむしろあるべき姿だと言えた。

 ミレイユの返答に、アキラは困ったように眉尻を下げる。

 

「それじゃあ、意味ないんじゃないでしょうか……」

「うん。だからお前が庇いたい奴、仲の良い奴、仲良くなりたい奴などに限定して、積極的に止めろ」

「えぇ……? そこまでして止める必要があるのに、僕は受けた方が良いんですか?」

「そうだ、受けるまでは良いが、遂行しようとするな。投げ出せ」

 

 ミレイユの言い分は理不尽な命令に違いなく、アキラの困惑度合いは更に増す。傍で聞いていたスメラータもまた、困惑した声を出した。

 しかし、意味のない事を言わないと理解しているアキラはまず頷き、それから理由を問うてくる。

 

「仰るとおりにします。……これについても、理由は聞かない方が良いですか?」

「いいや、流石にそれでは説得するのも無理だろうから教えておく。……これから、森の傍にいるだろう奴らを、私達が狩り出す事になるかもしれない。それに巻き込ませない為の措置だ」

「狩り……出し」

 

 アキラは同業者たちの今後を思って絶句し、それから同情するような視線を窓の外へ向けた。

 

「ミレイユ様たちが、冒険者たちを襲撃するって事ですか?」

「あぁ。恨みはないが、痛い目には遭ってもらう必要があるだろう。少なくとも、戦線復帰したいと思えなくなる程度には痛めつける」

 

 断言したミレイユの顔を見て、うわぁ、と引き攣った形で口が動いた。

 アヴェリンからの鋭い視線を受けて、慌てて佇まいを正して一礼する。

 

「は、はい、分かりました。力の及ぶ限り、森に関する依頼を、新たに受ける者が出ないよう努めます。……流石に、この理由は聞かない方が良いですよね?」

「そうだな、知らない方が良いだろう。そもそも杞憂の可能性もあって、結局そういう話にならない場合もある。その時は悪いが……」

 

 ミレイユが全てを言い終わる前に、アキラが首を横へ振る。

 

「いえ、大丈夫です。入ったばかりで傷つく名誉も外聞がありませんし。ただ、ミレイユ様のご無事だけお祈りしておきます」

「――お前に心配される様なヘマはしない」

 

 アヴェリンが堪り兼ねたように横から声を刺して、アキラもアヴェリンへ一礼する。

 

「師匠も……師匠にも、武運を祈ったところで要らぬ世話と言うんでしょうけど……」

「そうだな、要らぬ世話だ。我が行く道には、ミレイ様との栄光しかないからな」

 

 顎を上げて得意げに微笑む姿には、絶対の自信が浮かんでいる。

 つい悪い方へと考えてしまいがちのミレイユには、アヴェリンのこういう自信が必要だった。まるで心を陽が照らすように感じ、アヴェリンの笑みに誘われミレイユも笑む。

 

 アキラは眩しいものを見るように目を細め、それから改めて一礼した。

 

「では、どうぞお気を付けて。再びお目に掛かれる時には、きっとマシになったと思われるように努力します」

「うん。……そうだな、ただ一つすら、何も無いというのも味気ない。お前がやる気になるかもしれない言葉を授けてやろう」

「はい……ッ」

 

 何かとんでもない試練や課題でも授けられるのではないかと、アキラは恐々とした表情で、固唾を飲んで見守る。

 

「あの『年輪』は中々良かった。硬度と回数を増やせるようなら、私が頼みにする機会もあるかもしれない。それを磨くと良い」

「……っ、は……。は……!」

 

 アキラは酸素の取り込み方を忘れたように口を開け閉めし、目を見開きながら顔を紅潮させた。

 言葉を紡げないままでいるアキラの、二の腕を軽く叩いて背を向ける。

 アヴェリンを伴い、ギルドの出口まで後少し、というところで、その背にアキラの声が届いた。

 

「精進します! 決して落胆させないよう、努力します!」

 

 ミレイユは振り返る事もせず、肩越しに手を振るぞんざいな態度でギルドを後にした。

 

 ――

 

 ギルドから出て、東区画からも出ようとしたところで、正面からやって来た少年がビクリと肩を震わせ立ち止まった。

 

 まだ十二、三歳と思しき幼い少年で、青い肌に黒い髪という出で立ちが珍しい。髪はボサボサで伸び放題、肌も汚れて姿格好も粗末な物で、それが浮浪児だと思わせた。

 その少年が、ミレイユを見るなりワナワナと震え始める。

 

「み、ミレイユ……!?」

 

 声に出した事で拙いと思ったのか、すぐに両手で口を塞ぎ、辺りへ機敏に視線を彷徨わせると、ミレイユが視線を向けると同時に逃げ去って行った。

 

 ミレイユは自身の姿を見下ろして、小さく手を広げる。

 改めて確認してみても、幻術は正常に働いているように感じられ、問題ないように思えた。

 アヴェリンも逃げていく少年を目で追い、腰を落としながら聞いてくる。

 

「捕らえますか?」

「……いや、いい。気にならないと言えば嘘になるが、まだ子供だ。あの迂闊さでは、密偵の類いでもないだろう。優れた魔力の持ち主には、この程度の幻術は見抜かれるものだしな……」

 

 初めから疑って見ているなら、魔力が低かろうと見抜けてしまうのが、この偽装幻術というものだ。だから普段から気にも留めない状況下であれば、ミレイユの本当の服装など見抜けるものではないし、見抜こうともしないものだ。

 

 それが少年には見抜けてしまったのなら、そこに意識を向けていた、という事にもなるのだが、あの年齢は色々と多感な時期だ。

 話ばかり恐ろしげに語られる魔王なども、耳に入れる機会も多いのかもしれない。

 

 密偵の手伝いをしているにしては、あの迂闊さは致命的だろう。だから候補から外して良いだろうし、そもそも捜すのではなく、炙り出そうとしている、と結論付けたばかりだ。

 

 今はむしろ、その考えについてユミル達の意見を聞きたい。

 珍しく未だ視線で少年を追うアヴェリンを呼び、南門広場へと急ぐ。そうして、既に買い出しも準備も全て万端整っている二人と合流し、街の外へと向かうつもりで関所に並ぶ。

 

 門を潜ろうと思えば、出るのも入るのも金が掛かる。

 入る時ほど面倒ではないし、掛かる費用も微々たるものだが、この待ち時間は煩わしかった。単なる旅人ではなく、冒険者となれば――確かな身分の証明さえあれば――この面倒から解放されるから、加入だけでもしておくべきだったかもしれない。

 

 そうは思っても、どうせ無理だと(かぶり)を振った。加入してしまえば、それと同時に義務も生まれる。

 ギルドエンブレムは都合の良い証明書ではなく、関所の通行税が免除されるのは、依頼の報奨金から天引きされるからだ。だから一定数の依頼を受けること、そして複数回成功させる事が、一定期間内に必要となる。

 

 成功報告は受けたギルドでしか出来ないので、移動も多く一定の場所に居ないミレイユには、身分証として活用するには向かない方法なのだ。

 

 そして現在、スムーズに流れていく人波に続きながら、ミレイユは冒険者ギルドでスメラータから聞いた話と、自分の中で気付いた点とを二人に話していた。

 

 それまで黙って聞いていた二人は、話し終わるなり組んでいた腕を解き、傾けていた首を元に戻した。ルチアとユミルが目配せして、それからルチアが口を開く。

 

「……まぁ、考え過ぎではないかと思うんですけどね」

「お前はそう思うか」

「えぇ、だって事が急な変化を迎えたのは、三年ぐらい前なのでしょう? エルフにする事に対し憤りは感じますけど、それが餌だと言われても、正直……」

「あら、アタシはむしろ、だからこそって思ったけどね。二百年の空白について疑問があるんでしょうけど、別にそれは問題にはならないのよ。むしろ生け簀のつもりじゃない?」

 

 言いながら、ユミルは鼻の頭に皺を寄せて機嫌を悪くした。

 

「攻め落とすには戦力が不十分、それを逆手に取って維持していた、という気すらするわ。だから定期的に攻撃して、数の調整だけはしていたんじゃないの? 全滅は困る、でも増え過ぎても困る。そうして、いざ使える時を待っていても良いんだし」

「最初から攻め滅ぼすつもりはない、いざ活用できる時まで残すのが目的……。でも、森に住む以外のエルフにも攻撃を始めたのは? これって必要あります?」

 

 それについては、ミレイユとしても確信あって言える事は少ない。

 合流させない、というのも後付であり、無理にねじ込む理由付けでもある。ミレイユとは別件と、切り離して考えても良いのかもしれない。

 

「でも現状、何も行動しない事が、アタシ達への明確な損害に繋がるって部分を考えて欲しいワケ。相手方は、ルチアがいるってコトも当然知ってるワケよ。……見捨てられるかどうか、っていう心情的な部分もあるし、見捨てた場合パーティ内の不和が生まれるかもしれない。それがなくても、やはりエルフの助力は今後期待できない。こちらの不利しか発生しないのよね」

「……そういう悪辣さは、確かに神が好むところですが……」

「でしょ? これはいつ始動したかが問題になるんじゃなく、いつでも始動できるって部分にあるのよ。その時が来るまでお遊び程度に小突き回していれば良く、そして時が来たなら本格化させれば、後は食い付くかどうか期待するだけ」

 

 神々を良く知るユミルからすれば、その手法もまた良く知っている。

 彼女の考えでは、既にこれが神々の詭計と判断されていた。

 

「アンタの言うとおり、これは丁寧に用意された撒き餌で間違いない。よく見抜いてくれたわね。それでどうする? 罠と分かって飛び込む? ――あり得ないわ。アタシは反対よ」

「お前ならば、そう言うと思っていた……」

 

 ミレイユは重く息を吐き、人の流れに身を任せながら帽子のつばを下げた。

 



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詭計と疑心 その3

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 ミレイユの態度を見て、ユミルは言い聞かせるように言葉を続ける。

 

「アンタの気持ちも分かるけどね……。ルチアの身内が居るだろうってコトもある。普通は無視するもんじゃないでしょうよ。でも、誰が何の為に敷いた罠なのか、そこをよく考えて欲しいのよね」

「……分かってる。コレが本当に神々が用意した罠なら、抜け出すのも壊すのも簡単じゃない事くらいはな」

「ご理解頂いて結構だわ。……そういうコトだから、ルチア……悪いけど」

「思うところが全くないと言えば、嘘になります。けれどこの場合、最も優先しなければいけないのはミレイさんの身柄です。捕らえられたら全てが台無し……、それは分かってますから」

 

 ルチアは悲しげに微笑み、ユミルの案に同意するように頷いて見せた。

 その表情を見て、ミレイユは顔を歪める。

 

 何かを優先しなければならない事など無数にあるが、それが親族の命と引換えにさせなければならず、そしてそれをルチアに我慢させる、というのがミレイユには我慢ならなかった。

 

 何もかもを救うという、都合の良い手段が存在する事は実に少ない。皆無と言って良いのだろうが、簡単に諦めてしまうのも性に合わなかった。

 何か無いかと考えを巡らせている内に、アヴェリンが疑問を一つ投げ掛けて来る。

 

「しかし、屋敷の奥に眠っている武具、それらの確認はどうされます? 捨て置けない、という話だったのでは?」

「それは確かに、そうなんだよな……。全く、こうなると不都合な状況全てが、複雑に絡められた糸のような気がしてくる……。それこそが正に、狙いなんだろうが……」

 

 ミレイユは帽子を脱いで、乱暴に頭を掻き毟った。

 ルチアも流石に苛立ちを隠さず顔を顰めて、鼻の頭に指を添えて言った。

 

「丁寧に用意された罠、そして撒き餌ですか……。神具の存在が森へと意識を向けさせ、そして森に住む命を秤に掛けさせ、攻撃した時に姿を見せるかどうか試している。そして何より――」

 

 ルチアは鼻の頭に添えていた指を離し、次に口元を覆って尚大きく顔を歪める。

 

「どちらにしても、神々にとって損が無いように出来ているのが憎らしいです。私達にはどうあっても損になるというなら、損が少ない方を選べば良い、という話になるんでしょうけど……」

「つまりそれが、森には近寄らないって話になるんでしょ? 見殺しは気分が悪いわよ。助けてやりたいって気持ちも、アタシにだってある。でも、この子の所在を知られるのは、エルフの命と神具を秤にかけても尚、秘匿しておきたいコトじゃない?」

 

 ミレイユは再び重い息を吐いた。

 人波の流れに沿い、関所の出口も近くに見えるようになって来て、再び思考に没頭する。

 

 ユミルが言っている事にも、一理あるように思える。

 神々はミレイユの所在を見失っている。帰還と同時に、あれだけの魔力を放出してしまったから、凡その位置まで特定しているのは間違いないが、その後の足取りは森を通った事で隠せていた。

 

 もし見つけているというのなら、己の信用する信徒か何かを差し向ければ良いだけだ。

 帰還させるだけで、あれ程の労力を掛けた神々だから、見つけた後にもそれ相応の準備をしてあると考えた方が良い。

 

 姿を見せるのは悪手で、そしていずれ――それが可能かどうか未だ不明だが――神の(ねぐら)へ襲撃する時には、その潜伏している状態が役に立つだろう。

 神々は団結しないだろうが、命が関わる状況においては別である可能性はある。

 

 その団結されるより前に、不意討ちで一柱仕留められるようでなければ話にならない。その為の潜伏であり、隠匿でもある。その利を自ら捨てるのは愚かな事だ。

 しかし――。

 

「私の良心が、見捨てる事を拒否している。本当に助ける事は不可能なのか、これは神の計略としての一つなのか、私はそれを確かめたい」

「それも分かるけどさぁ……。現実問題として、それが誰の発案かなんてどうやって知るの? 分かったとして、その時には手遅れっていう状態にだってなってるかもしれない。下手な希望や憶測は、返って自分の首を締めるだけよ?」

 

 ユミルから諭すように言われ、ミレイユも渋々といった様子で頷く。

 それは分かっている。最も現実的で利の多い行動としては、このまま関所を抜けて森とは別方向へ移動する事だろう。

 

 ある程度の憶測を含めて、同時に打った手の一つがエルフに対する攻撃であって、それで特定できれば良しと考えているのか、それとも今後邪魔になる可能性が高いエルフを滅ぼすつもりで打った一手なのかは分からない。

 

 スメラータが言っていた様に、単にデルン王国がエルフ憎しで行っていた政策の一つでしかなく、それを深読みしてしまっている可能性だってあった。

 考えれば考える程、深みに嵌ってしまうようですらある。

 

「神の奸計能力を肥大化して見る余り、無いことすら有るように見えているだけかも……」

「自分を騙すのはお止めなさい。アヴェリンにも言われたんでしょ? 状況が整い過ぎてる。アタシ達に対して、あまりに不利なこの状況が、単なる偶然で起こるワケないじゃない。自分自身で気付いておいて、どうしてそこで日和るのかしらね」

「そこがミレイ様の良いところだろう。必要とあらばどこまでも非情になれるが、しかしその根底には善性がある。なればこそ、簡単に諦めようとはしないのだ。――お前と違ってな」

 

 アヴェリンは指まで突き付けて、嘲るように言う。

 だが、その嘲りに黙っていられず、ユミルは同じような表情で口の端を上げつつ言い返した。

 

「いやいや、アンタ。勝った後のコト考えてなさ過ぎでしょ。この国の憲兵とやらが、あの程度の実力しかないんなら、アタシ達の介入で勝つのは簡単よ。それで所在がバレるのも、この際大目に見ましょ。……それで、次はどうなる?」

「……む、ぅ……。次か……」

「神々の狂信者、あるいは実力ある何者かに狙われ続けるコトになるのかしらね? 別にいいわよ、それぐらい。アンタだって望むところでしょ?」

「そう、だが……」

 

 反論らしい反論も言えず、言葉に窮しているアヴェリンへ、ユミルは畳み込むように続ける。

 

「網に掛かったからといって、それで都合よく巻き網漁の如く連れ去られたりしないわよ。こちらの抵抗なんて予想の上でしょう。だから一つの策として、アタシたち戦力を少しずつ剥ぐように、無力化して行くような方法を、取って来るんじゃないかと思うわ」

「戦力を削ぐっていうのは、つまり私を脱落させるとか、戦闘不能にさせるとか、ですか?」

 

 ルチアが自らを指差して尋ねると、ユミルは自信に満ち溢れた表情で頷いた。

 

「そうだと思うわ。簡単には行かないでしょうけど。でも四人から三人に減れば、それが二人になれば、一人残された状態なら……。そうして最後には、この子を連れ去るつもりでいるかもしれない」

「何故そう思う? 神造兵器を用いるなり、一気呵成に仕留める事は出来そうなものだが」

 

 アヴェリンの疑問に一応の頷きは見せたが、しかしユミルの答えは否定だった。

 

「だけど、そう単純な手を使わないのが、神ってモンなのよ。世界を盤面に見立てて遊んでいるんだから、胡乱な方法さえ、それが最終的に望みが叶うなら採用する。本当にコトを急ぐんなら、幾らでも大胆な手を使って来るんでしょうけど、奴らからすれば既に詰みが見えた状況でしょ?」

「だから『遊ぶ』という訳ですか……。すぐに終わらせてしまうより、どうせなら遊んだ上で勝ちを拾おうとする。そして、所在が知られたらまず行われる事が、私達パーティの解体、あるいは減少狙いだと……」

 

 ルチアが不愉快そうに柳眉を顰め、口を手で覆った。その視線は宙を向いていたが、まるで虫を見るかのように目が細められている。

 

「森へ向かわねば、あるいは私がパーティを抜けるとか、不和を呼ぶとか思われているんですかね?」

「どうかしら? むしろそこは、どうでも良いと思っていそうね。そうなれば面白いと思っていそうだけど、期待一割、落胆九割って所でしょ。奴らの狙いは参戦させるコトにこそ、あるんでしょうから」

「それはそうでしょうね」

 

 ルチアが歴然で明白だ、とでも言わんばかりに頷くと、ユミルは軽く笑って手を振る。

 

「いやいや、そうじゃなくてさ。本命としては、参戦させた上で、勝たせてやるコトが目的だと思うのよ。他の狙いは全部オマケで……この子が参戦した上で、勝利を握らせるコトに意味がある」

「敗けるつもりで森を攻撃するのだと? ……いえ、ミレイさんが参戦せねば、そのまま勝てば良く、参戦するなら敗けるだけの戦力しか用意していない、と言う事ですか……?」

「そう、実際のところは知らないけど、それに近い事になってそう。……ねぇ、この子の助力した上でエルフが勝つと、一体どうなると思う?」

「それは当然、喜ぶでしょうね。再会の喜び、勝利の喜び、それだけでなく勿論――」

 

 言いかけて、ルチアの言葉が止まった。

 気付いてはいけない不都合を知ったような顔付きで、ミレイユへ顔を向けては凝視してくる。

 ルチアは喘ぐように、途切れ途切れの声音で続けた。

 

「そう、そうですよ……。感謝を向けるだけでなく、窮地に駆けつけ勝利を与えてくれたミレイさんに、それ以上の感情を向けます。一度ならず二度までも助けてくれた、という事実を元に、より強く尊崇の念を向けるでしょう。信奉すらするかも……」

「それってつまりさぁ……、この子が昇神に至る可能性が高まるってコトでしょ? この世界に根ざしてしまえば、もう逃げられない。そして最終的に仲間を削って孤立させる。――これこそが、本当の狙いって思うんだけど、アンタはどう思う?」

 

 ユミルに顔を向けられて、ミレイユは顰めっ面を晒しながら、口の端から息を吐いた。

 流石に見苦しく感じて、帽子を被り直してツバを下げる。そうしながら、またも重い溜息を吐いた。

 

 ユミルの予想は的確だろう。

 そもそも助けられない状況ではなく、手の届く範囲。最初から助けさせる事が目的で、エルフを目標に据えるのは、それが叶えば信仰に良く似た感情を向けると知っているからだ。

 

 万全に育った神の素体は、数多の信仰を向けられる事で昇神し、小神へと至る。実際に同じ事をして神へと至ったオミカゲ様という例があるから、それは間違いのない事実だ。

 神々はミレイユを捕獲する事が目的であると同時に、小神へ至らせる事が目的でもある。神器を用いて自発的に至る筈がないと理解している神々は、周りを利用して昇神させようと考えた訳だ。

 

「それならば……」

 

 アヴェリンが何かを発言しようとして、咄嗟に口を噤んだ。

 何を言いたいのか、言うつもりだったのか理解できる。だがルチアがいる中で、それを口にするのは難しい。

 

 そんなアヴェリンを見て、当のルチアが気にするな、とでも言うように頭を振った。全員を見渡してから毅然とした表情で言う。

 

「私に気遣う必要はありません。神の手の内を読んで、その上で不利が大きいと分かって望むのは馬鹿がする事ですよ。私達は感謝する気持ちで、ミレイさんに毒を投げ付ける形になるところでした。そうなる前に気付かせてくれたのですから、何の問題もありません」

「あぁ、だが……」

「良いんです。エルフ達も……きっと知れば後悔するでしょう。失意のままに亡くなろうとも、毒を投げずに済んだと安堵する筈です。だから……」

 

 ルチアが最後まで言う事を許さず、ミレイユは手を振って止めた。

 怒りと嘆きを綯い交ぜにした感情をルチアへ向ける。その感情はルチアやエルフ達から生まれたものだが、向ける先は彼女たちではない。

 

 ミレイユはルチアの瞳の奥に神々を見た。

 何もかもを利用し、弄ぼうとする者への怒りが湧いてくる。

 

「お前の言いたい事は良く分かった。その献身にも嬉しく思う。だが……だからこそ、私は言いたい。――エルフ達を助ける。それを許してくれ」

 

 ユミルの呆れた溜め息が隣から聞こえる。

 何かを言おうとするのを止めると、批判的な視線がミレイユを射抜く。だが目の前で、ようやく関所の順番が回ってきた。

 そちらが先だ、と視線を返せば、ユミルは苦虫を噛み潰した様な表情で頷いた。

 



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詭計と疑心 その4

 関所から出る場合はチェックが甘い。

 手荷物らしき物もない旅人が相手となれば、そのチェックも更に甘かった。商人が荷馬車などを使って外に出るなら、その荷馬車の中まで確認する事もあるが、旅人が通り抜けるだけとなれば、許可証を見せて金を払い、それで終わりだ。

 

 全員が旅の途中、食料の確保という理由を述べれば、流れ作業で関所の通過を許された。

 関所の出入り口付近は人でごった返していて、秘密話をしようと思えば誤魔化しに使えるものの、込み入った話になると煩わしく思える。

 

 順番待ちしている時と違って、誰もが行き来するのに忙しく、落ち着いて話をできる状況でもない。それでとりあえず南門から離れる事にした。

 しばらく全員が沈黙のまま進み、都市の入り口まで続く石畳が土に変わったところで脇へ抜ける。

 

 都市の入り口は跳ね橋になっていて、その下は深い堀になっている。大きな都市には良くある形で、その堀に合わせて歩けば、人通りも疎らになってきた。

 都市からも離れて堀の途切れ目まで来ると、そこにあった適当な大きさの石に腰掛け、続く者たちが足を止めるのを待つ。

 

 沈黙の時間は長いものではなかったが、しかし考えを纏めるには十分な時間だった。

 ユミルの顔には不理解に対する怒りが浮かんでいて、両手を腰に当てた格好でミレイユの前に立つ。そうして開口一番、怒気を孕ませた声で言い放った。

 

「――それで、どういうつもりでの発言だったか、聞かせてもらえるんでしょうね?」

「そう怖い顔をするな。お前の読みは的確だった。数多の狙いを同時に孕んだ神々の罠、それを読み切ったお前には、称賛したい気持ちだってあるんだ。実際――」

 

 途中で言葉を切って、ミレイユは小さく頭を下げる。

 

「私は感謝しているんだ。お前たちを頼りにして良かった」

「何よ……。そんな殊勝な態度を見せたってね、拒否するんなら相応の理由を貰わないと納得できないってのよ」

 

 ユミルは一瞬、動揺した仕草を見せたが、即座に取り直して、前傾姿勢で顔を突き出す。

 ミレイユは最終的に結論を出したユミルにだけでなく、同じく考えてくれたアヴェリンやルチアにも感謝の視線を向けた。

 

 その二人から柔らかい視線で返事を受けたが、それが気に食わないユミルは、ミレイユの顎に手を添えて、強制的に自分の方へと視線を向けさせる。

 

「いいから早く話しなさい。アンタのコトだから、単に感情に任せた発言じゃないって分かってるわ。だから聞いてあげる。早くなさい」

「相当なオカンムリだな。……まぁ、分かった。お前の読みは実に良かった。単に所在を見つける為の方法としか思っていなかった私と違って、その先にある神々の狙い――昇神についてまで考えを巡らせたのには、素直に感心した」

「それはもう聞いた。どうもアリガトウね。……で、それがアンタの答え? 違うでしょ?」

 

 ユミルは顎を掴んだままの手をゆらゆらと揺らす。それに合わせてミレイユの顔も揺れて、流石に見咎めたアヴェリンが、強制的に手を離させる。

 ユミルは未だに不満げな表情を消さないが、とりあえず最初の腰に手を当てたポーズを取った。

 

「そこまで私に対して不利な材料が揃っているんだ。助けに行くのは、最良の選択ではないと断言できる。ユミルの言う狙い通りなら、エルフを全滅させる事だって無いかもな。次に使う一手として、再利用するため生かす可能性もある」

「そうね、理屈の上ではそうなるわ。だから、わざわざ行く必要なんてない。……その場合でも、半数は死ぬかも知れないけど」

 

 言い難そうに視線を一度外へ逸してから発言して、またすぐに元へ戻す。

 そして、続きを急かす視線がミレイユを射抜いた。

 

「だから看破したなら森から逸れて、別の場所へ移動するとしよう。その場合、神々はどうすると思う」

「だから、森への襲撃を続けるんでしょ? 生かさず殺さず、そして戦力として見るには乏しい数は残す。アンタに味方したとしても、怖くないだけの数まで間引くでしょうよ」

「あぁ、それもそうだが、そうじゃない。その次だ」

 

 次、とユミルは口の中で言葉を転がし、そしてルチアは訝しげに首を傾けながら声を上げた。

 

「本命の狙いが空振りに終わったというなら、当然次の手を打ってくるんでしょうね?」

「そう思う。神々は私を捜し出し手段を取らず……あるいは並行して、炙り出す方法を選んだ。一の矢が失敗すれば、必ず二の矢、三の矢を放つだろう」

 

 あぁ、とユミルは苦渋に塗れた表情をして、苦悶の息を漏らした。

 

「どういう手段かまで分かる筈もないけど、今回と同程度の小賢しさ、悪辣さは秘めた内容であるコトは疑いようがない。それがどこかで行われる、……アンタはそう読んだのね」

「――そうだ。私の為に次は何処が狙われる? 私が無視できない対象である事は間違いなく、そして最後には、世界そのものを巻き込む事態へ発展するだろう。必ず私が、姿を表さねばならない状況に。……それまで一体、どれ程の被害を出せば良い?」

 

 ミレイユは到底ユミルを見たままでいられず、目を伏せる。

 そこへアヴェリンから気遣う声が発せられた。

 

「それは……確かに、有り得そうな事です。ミレイ様への試練の為に、三度も世界の危機を演出した神々です。炙り出すつもりでいるというなら、その手段もきっと用意している事でしょう。しかし……、御身を犠牲にするような……」

「そこは今更だろう。世界を救うような事、自身を犠牲にしなければ成せない事だ」

 

 いっそヤケに見えるような笑みを浮かべ、手首を顔の横でプラプラと振った。

 

「だから、こちらが根負けするまで同じ様な被害は出るし、せずとも最終的には姿を見せざるを得なくなるだろう。――きっと、そうなる」

「そうね……」

 

 ユミルは重い息を吐いて同意した。

 呪詛を煮詰めたかのような重苦しい雰囲気を背中から発し、大いに顔を顰めながら続ける。

 

「アンタの言う通りよ。今回のこれを回避したからと、それで終わる奴らじゃない。最終的にはどう足搔いても、姿を見せなきゃならない決断を迫られる。――えぇ、認めましょう。全く……自分が愚かしい。それぐらい考え付いても良かったでしょうに……!」

「でもですよ、だからここで素直に姿を見せるんですか? 今ここで思う壺に嵌って、それで今後の被害を幾ばくか抑えられるとしてもですよ……。それで決定的な不利や敗北を喫するなら、意味なんて無いですよ」

「……そうです。ここでなくとも、まだ身を伏し、機を読んでからでも良いのではないですか?」

 

 ルチアとアヴェリンから続けて献策を受け取るも、ミレイユはそれに首を横に振る。

 姿を見せて、それで真っ向から罠に掛かり、それで敗北するなら確かに意味など無い。エルフに助力して、それで信仰を得るような事になり、昇神してもやはり意味は無いだろう。

 

「奸計、詭計は奴らの得意とする所だ。機を読むとは言え、読み違える可能性は高く、だから初期から姿を見せ、敗北を回避しながら神々の罠を食い破る必要がある。小細工など無意味だと、奴らに教えてやらねばならない」

「そりゃ……それが出来れば最高だけどさぁ。奴らの鼻を明かせれば、大層気分も良いでしょうよ。今後も罠はあるにしろ、その変化が出て来るかもね。……でもそれ、言うは易しの典型でしょ?」

 

 ユミルは胸の下で腕を組み直し、片手を向けて手首を返しながら指先を向けてくる。

 その仕草と一連の動きが、彼女の心情を表しているようであり、そして暗に不可能だと告げていた。

 

 ミレイユはそれに、素直に首肯する。

 確かに口で言うほど簡単な事ではない。むしろ、現実が見えていない愚か者と評するべきだろう。だが、自分以外の周囲全てに被害を押し付けて逃げ回るしかなくなるなら、早晩為す術もなく敗北を喫するだけだ。

 

 神々に捕らえられぬ事も、ループから抜け出す事も、決して諦めてはいない。

 だが、その二つから過剰に逃げ出そうとした果てが、今まで繋がるループを生み出していたのではないか、とも思うのだ。

 

 それは全くの的外れなのかもしれないが、オミカゲ様はヤケになっていた所為もあって、全てが空振りに終わった、と言うような事を言っていた。

 恐らくは、今回のように神々の(はかりごと)を、ある程度読みもしたのだろう。だから逃げたのだと言う気がする。

 

 アヴェリンを喪っている状態が、それに拍車を掛けていたのではないか。

 敢えて火中の栗を拾うような、無謀な真似は避けたに違いない。それが後手後手を呼び、最終的に逃げ回るしか出来なくなったのでは……と、そう思えてならない。

 

「だが、あるいはだからこそ、やって見せなくてはならない。恐らく、ループを抜け出す大胆な一手――ユミルが言っていたループという保険(にげみち)を捨てる覚悟、それと似たものがこれだろう」

「分かるけどね……。これは相当な賭けよ。それも相当、分の悪い賭け。……とはいえ、元より保険を捨て去るのも、相当分の悪い賭けだったわね」

 

 再び両手を腰に当て、大きく息を吐くとにかりと笑った。

 

「いいわ。それがアンタの見せる覚悟だって言うんなら、アタシもそれに付き合う。……発破かけたアタシが言うのも何だけど、まぁまぁ、随分な覚悟をしてくれたこと……!」

「ミレイ様の見通す長さには感服しました……! このアヴェリン、ミレイ様の覚悟に見合う働きをして見せます!」

「エルフを見捨てる覚悟があったのは本当です。でも、助けられるかもと思えば、やはり嬉しく思います。ありがとうございます、ミレイさん」

 

 アヴェリンからは尊敬の眼差しを、ルチアはからは感謝の眼差しを受け取って、ミレイユは石の上に座りながら小さく頷く。

 だが何も、ミレイユがエルフを助けると決めたのは、情に流された訳ではない。神々へ叛逆する意思からでも、最終的に誘き出される事が分かっているからでもなかった。

 

 そこには一重に、一つの願いが根底にあるからだった。

 

「私は実利を取っただけ、感謝されるのは寝覚めが悪い」

「実利、と言いますと……?」

「私はまだ、現世に帰還する事を投げ捨てたつもりはないからな」

 

 誰かが息を呑む声が、ミレイユの耳にもハッキリと聞こえた。

 



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詭計と疑心 その5

 ユミルは自分の額を数本立てた指先で叩きながら、呆れた調子の声を出しつつ言う。

 

「……アンタの気持ちは分からないでもないけどさぁ、それ……いま言う? やってやるかぁ、って気持ちが一瞬で冷めたんだけど」

「そこは石炭食べてでも再燃させてくれ。別に我儘のつもりで言ったんじゃない」

「そりゃ、アンタにとってはそうでしょうよ。でもさぁ……」

()()()()()()()()。……その言葉で、一つ思い出させてくれたからな」

 

 ミレイユがアヴェリンの方を向いたが、向けられた当人は困惑した表情を向けるだけだった。

 その一言だけで伝わるものではないと思い直し、どう説明するかを考えている間に、アヴェリンの方から質問が飛ぶ。

 

「……しかし、それがどうしてエルフの救援に結びつくのですか? 神々に対し、策謀を巡らせたところで上手く行かないと、それを思い知らせてやる事にこそ、意味があるのではないのですか?」

「無論、それもある。奸計、詭計、謀を巡らせただけで我らが上手く転ぶなどと、勘違いさせない事は重要だ。だが、それと同じくらい、エルフを助ける事には意味があるように思う」

「……思う?」

 

 ルチアがオウム返しに聞いてきて、ミレイユは首肯して、そちらへ顔を向けた。

 

「御身を犠牲に、とアヴェリンの口から聞いた時、真っ先に思い浮かんだのは……オミカゲの事だった」

「それは……!」

 

 ルチアは言葉に詰まり、そしてアヴェリンは忸怩たる思いを押さえつけるように、固く目を閉じた。

 もう終わった事、取り返しの付かない事、既にバトンは託され再びのループに片足を突っ込んでいる。悔やんでもどうにもならない。だからこそ、数多のミレイユが託した想いを、ここで終わらせる事で報いるしかない。

 ――誰もがきっと、そう思っている。

 

「何より己を犠牲にし、己の存在意義を私に託す為と割り切り、全てを犠牲にして生きた。それに報いてやりたい。勿論、オミカゲに付き合ってくれた一千華にもまた、報いてやらねばならない」

「その最期が、神造兵器に蹂躙されて終わりなど、確かにあまりにも哀れです。助けてやりたいと思いますし、報いる事が出来たら、と思います。……ですが、それがどうしてエルフの救援と結び付くんです?」

 

 ルチアが悲しげに目を伏しながら言う。

 確かにそれらは、単純に結び付くものではない。何を言っているか分からなくて当然だし、その方策も最後まで線が繋がっている訳でもなかった。

 しかし、全くの不可能、一縷の希望も無いと分かるまで、可能性の追求を止めるつもりはない。

 

「神造兵器を打倒するには、その鎧甲を突破する必要があって、最も高い可能性が、蓄積できる魔力量を飽和させる事だ。その時に、エルフの助力があれば非情に心強い」

「ちょちょちょ……! 現世への帰還って、アンタあの戦いの最中(さなか)に戻るつもりでいたの?」

 

 そうだ、と短く返事すると、ユミルは頭を抱えた。

 

「アタシはてっきり……。いや、まぁ、それはいいわ。確かに、エルフが数千いるなら、その可能性も見えてくるわね。でも、そもそも世界を渡らせる手段は? こっちにはオミカゲサマみたいに、頼めば孔を開いてくれる神なんて居ないわよ」

「そうだな、そこは今後考える必要があるだろう。とはいえそれは、後回しで良い問題だ。だが、エルフの問題は別だな。もしもここで手放せば、神造兵器の攻略はまず不可能になる」

「かもしれないけど……!」

 

 そう言ったきり、ユミルは頭を抱えたまま押し黙る。

 難しく眉に皺を寄せ、痛みを堪えるように目を瞑っていた。

 そこへアヴェリンがミレイユに聞いてくる。

 

「……その事をずっと考えていたのですか? つまり、最初から?」

「いいや、切欠はお前の一言だ。つまり思い付きだな。エルフを助ける理由がまた一つ増え、そして面倒な事に、助力の見返りを求める必要性も生まれた」

「面倒の一言で片付けないで下さいよ……」

 

 ユミルに引き続き、ルチアも眉に皺を寄せ、そして口元を引き攣らせながら言う。

 

「ミレイさんが助力を求めるなら、別に難しい事なんてありません。ただ信仰を向けさせず、というのが如何にも難しい。救援に行きつつ、正体を悟らせず助け、その上で願い事……? タイミング的に無関係と言い張るのは無理がありますよ」

「その上、神の策略や罠を食い破ってやろうって言うんでしょ? 神であっても不可能でしょ、そんなの」

 

 いつの間にか頭から手を離していたユミルが、げんなりとした顔で言った。

 ミレイユはそれにも素直に頷いて見せる。

 

「そうだな、不可能かもしれない。だが、かもしれないが、絶対無理だと分かるまで捨てるつもりもない。……つまり、努力目標だな。何より優先すべきはループからの脱却であって、それはオミカゲも望んでる。その上で助ける事が出来るなら、なお喜ばしい」

「そして、それを今、捨てるつもりはないワケね……」

「そう言ったろう」

 

 ミレイユのきっぱりとした一言で、ユミルはまたも溜め息を吐き、握り拳で自分の額を小突くように叩き続ける。

 

「慎重論や安全策ありきで方針を決めるな、とは言ったけどさぁ……。何でこういう方向には思い切りがいいのよ……!」

 

 しばらく叩き続けたあと、叩く手を止め、ユミルは顔を上げた。

 

「……まぁ、いいわ。努力目標って事だしね。可能性の芽を摘みたくないって気持ちは、分からないでもないし。神々の思惑を全て蹴って、鼻を明かしてやりながら、こっちの望みを全て叶える。――言ってしまえばこれだけよ。何てことないわ、楽勝よ。……でしょ?」

「……まぁ、そうだが。全てを望んで、全てを失う結果にならなければ良いよな」

「アンタが言うんじゃないわよ!」

 

 無理無謀、そんな事は分かり切って言ったユミルは、遂に堪り兼ねて、ミレイユに向かって掴み掛かった。

 

 ――

 

 単純な格闘技術や体術で、ユミルは到底ミレイユに敵わない。

 だから掴み掛かるとはいえ、じゃれ合いの域を出ず、適当にあしらって終わった。ユミルも実力差は理解しているから、望むまま暴れて息を整える。

 

 最後に大きく息を吐き、両手を腰に当てて空を仰いだ。

 被っていたフードがずり落ちそうになり、それを手直ししながら流れる雲を見つめる。そうする時間がしばらく続いたが、周囲から向けられる無言の圧力に耐え切れなくなって、ようやく顔を向けた。

 

「……なんで黙ってるのよ、早く話を進めなさいな」

「話す事なら、もう終わったろう。後は実際に動く詳細を詰めるだけだ」

「それを話してろ、って言ってるんだけど」

「お前抜きで? 私が積極的に誰かを仲間外れにするなんて有り得ない。お前にも是非話に加わって貰おうと、こうして待っていたというのに」

 

 ハッ、と愉快な冗談を聞いた時のような反応で、ユミルは笑い飛ばす。

 悪意が見えるものではなく、堪り兼ねて笑いだしてしまったような様子だった。

 

「まぁ、いいわよ。……でもねぇ、考えろと言われても、そんな何もかも上手く行く方法なんて、簡単に思いつくワケないでしょ」

「それも分かってる。とりあえず、歩く道々考えよう」

 

 そう言うなり、ミレイユは石の上から立ち上がり、街道に沿って歩き出す。

 一度は森から辿って来た道だ。同じ道を戻るだけで、そこにあるであろう危険も予想できていている。未知の道なら常の警戒が必要になるが、知った道なら苦労は少ない。

 

 普段でも森へ続く道というのは、それほど交通量多くないのだろうが、今日は特に人気(ひとけ)がなかった。幾度も森へ攻撃を仕掛けていたという話に聞くとおり、その道幅や踏み固められた土は、到底人通りが少ないものとは思えない。

 

 道は広く両端にも草原が広がるというのに、誰も農地として活用してなければ、民家の一つも無いのは、戦火に巻き込まれるのを嫌がるせいだろうか。

 これだけの土地が手付かずなのは、それが原因という気がした。

 

 都合の良い場所に農地があれば、軍はそれを徴収しようとする。

 本来ならそうしなくて済むよう軍備を整えるものだし、遊ばせるくらいなら何かを植えるものだと思う。だが、敢えて何も無いというなら、何か理由があるものだ。

 

 しばらく進めば、草や土に埋もれた民家や、崩れたサイロが見えてくる。

 やはりかつては農地として機能していたと思わせ、そして瓦礫跡には破壊痕がある事に気が付いた。

 

 思い衝撃が加わった痕と、そして焼け焦げた痕。それを見るに、あるいは襲撃が原因なのかもしれない、と思い直した。

 敵からしても、絶好の場所にある略奪地だった訳だ。

 

 あるいは、警備が厳しく難しいのだとしても、燃やすだけでも意味はある。

 それが繰り返された結果、誰も農地として活用できなくなったのかもしれない。

 

 遣る瀬ない思いを感じながら道を進む。

 そうしていると、同じ様に周囲を見ていたアヴェリンが声を掛けてきた。

 

「雑草ばかりでその背も低く、身を隠すには不便な場所かもしれませんが、それが逆に好機となるやもしれません」

「というと? ……あぁ、つまり、伏兵は端から警戒していないと。全くの無警戒でもないだろうが、膝丈より少し上、という程度では難しいものな」

「少数の伏兵は可能でしょう。実際匍匐の状態でなら隠れられます。しかし、完全に隠伏しようと思えば距離が必要になるだけでなく、この丈では接近するより前に気付けるでしょう」

 

 アヴェリンの言わんとしている事は分かる。

 だから、もし襲撃を掛けるなら、この場所は利用できるかもしれない、と言っているのだ。

 

「そうだな……。幻術に対する警戒を加味しなければならないが、一度くらいは有効に使えるかもしれない」

「エルフには我らの助力があったと伝えさせぬ事が肝要と、ミレイ様は仰いました。ならば必要なのは、誰に攻撃されたか察知させない方法です。我らが狩人、敵は獲物」

「なるほど……?」

 

 ミレイユは顎の下を擦りながら左右の草原を見渡す。

 隠伏し、どこから受けた攻撃か分からぬままに仕留める。それが可能なら有効な手段だろう。一度受けた攻撃は、次からは目を皿にしたように警戒するものだから、二度目は使えない。

 

 エルフに気付かれず助力をするというのなら、森へ近付く前に仕留めれば良い、という訳か。

 ユミルの幻術で姿を隠す事は出来るだろうし、見つかってからも混乱の只中で仕留める事が出来たなら、それがミレイユ達の攻撃とは分からないだろう。

 

 兵士たちには有効そうな戦術ではあった。

 群として動く必要性がある為、ミレイユ達が知る時代の兵士も、身に付ける術は画一的で多様性がない。多数で圧殺する事が目的なので、兵士が身に付ける魔術も、自然と面制圧できるものに限られてくる。

 

 幻術を見抜くような魔術は持っていない可能性は高かった。

 今は刻印という手軽な入手手段があるので、かつてと同じ様に考えるのは危険だが、しかし全員が警戒に秀でる刻印を身に着けているとは思えない。

 

「憲兵と軍兵を同じ実力と考えるのも危険だろうが、有効そうな方法ではある。お前の献策に感謝しよう」

「ハッ……、勿体ないお言葉です」

 

 アヴェリンが恭しく礼をすると、そこへユミルが口を挟んでくる。

 ケチを付けたいという訳ではなく、懸念を含んだ表情を見せていた。

 何を言ってくるつもりか、身構える気持ちでその顔を見返し、ユミルから続く言葉を待った。

 



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詭計と疑心 その6

「奇襲について、何か文句言うつもりはないんだけどさぁ……」

「では、何が問題だ?」

 

 挑むような目付きでアヴェリンが言って、ユミルはフードの端を弄りながら答える。

 

「軍の全容、かしらね。所謂、潜伏遊撃戦術を取りたい、って言うんでしょ? いいと思うわよ、少数の戦い方として理に適っているし、姿を見せたくない私達にも合うやり方よ。でも、規模によっては嫌がらせ程度にしかならない」

「それもまた然りだな……」

 

 認めるのは癪だと顔に書いていたが、アヴェリンは素直に頷く。

 

「行軍中の軍を攻撃するにしろ、どこから攻撃するか、という問題もある。規模が大きければ、中列なら前後から挟み込まれるだろうし、後列なら他が作戦遂行を優先すべく逃げるかもしれない」

「これまで、数で劣るエルフ達が、遊撃戦術を取らなかったとも思えないのよ。そういった奇襲された場合の対策も、相手側には当然……あるわよね」

 

 ユミルからの指摘で、アヴェリンの眉間に皺が寄っていく。口をへの字に曲げて遠く見える森を見据え、重い唸り声を上げた。

 そこにミレイユも一つ思い付いた懸念を上げる。

 

「更に問題があるんだが、そもそもとして私達が、潜伏や隠密に向いてないという事だな。隔絶された力量差は、それだけで目立つ。力を抑えようにも、数において勝る相手を下すなら、それなり以上に発揮しなくては無理だ」

「それじゃあもう、端から無理ってコトじゃないのよ。あちらが立てば、こちらが立たず。何かを諦めないと何も出来なくなるわよ」

 

 そうだな、と顎の下を擦る手を止め、帽子のつばに手を掛ける。少し持ち上げ森へ目を向けたところで、ルチアから声を出した。

 

「まだ他にも一つ、忘れてますよ。冒険者はどうするんです? 斥候や見張り、森へ集おうとするエルフへの攻撃など、色々手広くやっているようじゃないですか。軍の一部として機能している以上、下手をすると作戦に組み込まれる可能性だってありますよ」

「流石にそれは無いと思うんだが……。実際の戦闘の矢面に立たされれば、ギルドだって黙っていられないだろう」

 

 ミレイユが反論すると、ルチアは(かぶり)を振った。

 

「矢面に立たせるつもりがなくとも、使いようなら幾らでもありますよ。軍事行動が拙いというなら、既に偵察や斥候の時点で加担してるんですから。だから……例えば撤退する時に、何か一つ刻印を使って貰うとか」

「刻印の効果は、私が知る時代より多彩になっていた。それが攻撃を企図するものでないのなら、単なる支援だと強弁させる事も出来るかもしれない、か……」

「んー……、見るに耐えかねて、撤退を手助けするに留めた、とでも言い張るコトも可能そう。……まぁねぇ、現状そのものが本来のギルド運営からは程遠い代物だからねぇ……。だから何をやっても、何を言い出しても不思議じゃないわね」

 

 誰からも不穏な予想が飛び出して、捨て置くという選択肢だけは取れなくなった。

 当初の予定とは少し違うが、冒険者の排除は決定的になった。

 それに、とアヴェリンが疑念を表情に浮かばせながら言う。

 

「単に軍の味方をするから、というだけでなく、正体不明の相手に襲われていると分かれば、魔物が襲っていると推測するかもしれない。冒険者が持つ使命として、魔物の襲撃があれば積極的に救助へ向かう。襲われているのが軍隊だろうが、兵士だろうが、民間人だろうが、その部分だけは変わらない」

「……それがあったわ。となると、私達が姿を上手く隠して襲っていれば、冒険者はむしろ積極的に介入しなければならない、大義名分を持ってるワケね。下手すりゃ姿を隠さないでも、一方的に襲っていたら介入してくるかもしれないけど」

「襲っているのが人間と分かれば、冒険者は介入しないのでは?」

「……例の『魔王ミレイユ』があるでしょ」

 

 ルチアが困った顔で反論らしきものを口にしたが、ユミルは愉快げに顔を歪ませて続けた。

 

「あからさまな格好をした奴が、あからさまに攻撃してんのよ? むしろ魔王討伐とか言って、躍起になって襲って来そうなモンじゃないの」

「あり得るな……」

 

 ミレイユは帽子の下で思案に暮れた。

 魔王討伐の英雄譚など、冒険者からは垂涎の的だ。ドラゴン殺しと双璧を成す、誰もが望む勲だ。それが突然目の前にぶら下がって、果たして静観したままでいられるだろうか。

 

 こうなっては、冒険者を積極的に介入させない為にも、秘密裏に動くしかなくなった。言っても仕方ない事だが、過去の行為がこうして身に跳ね返ってくると、どうにも居た堪れない気持ちになる。

 

「これが下手にギルドへ伝わると、高位冒険者が次々と押し掛けてくるかもよ? エルフと軍隊と冒険者とアタシ達、とんでもない紛争に膨れ上がりそうよね」

「ミレイ様、事ここに至っては、下手に手を出すのは危険ではないでしょうか。事態が複雑になり過ぎます」

 

 真剣な眼差しを向けてくるアヴェリンに、ミレイユは無言で頷く。

 確かに最初の懸念から考えれば、事態の複雑化を招きかねない危険な状況だった。

 

 当初は単にミレイユの屋敷に残した神具を捨て置け無い、という理由から動いたに過ぎなかった。だがそれこそ、神々の罠に繋がると分かったのだが、結果として罠の食い破りを見せる為にも挑むと決めた。

 そればかりではなく、エルフの救援する事は、いずれ神造兵器を倒す手段として役に立つ、という実利的な面も持っている。

 

 罠の一つ、撒き餌の一つとして用意されていたエルフだが、ミレイユ達が介入する事で引き起こす面倒を考えると、それが二の足を踏ませるセーフティーになっている気がしてならない。

 神々はミレイユをエルフ救援に行かせたいものと考えていた。だが現状を鑑みると、むしろ遠ざける事を意図しているように思えてしまう。

 

「……これは偶然か? 神々とて、何もかもを支配し、思い通りに動かせるものでないと理解してるが。ほんの偶然、小さな狂いが全てを台無しにする計画など良くある事だ。……これもそうか?」

「何かが上手くいかなくても、最終的に目的を達する。それが神の得意とするコトでしょ? 小さな狂いだって計算の内……とまでいかなくても、修正案なんて幾らでもあるでしょう。じゃあこれは、と言われたら……どうなのかしらね?」

 

 ミレイユと一緒にユミルまで首を傾げ、呻きを上げつつ歩みだけは止めない。

 魔王と言い始めたのはデルン王国だろうし、それは二百年前に起こしたミレイユの行いからだろう。エルフを助け、かつての王国へ多大な被害を出した。

 

 だからこその魔王呼びだろうが、その悪名を巧妙に今回の作戦へ結び付けられるものだろうか。

 だが冒険者ギルドを懐柔して、軍事行動に参加させているのもデルン王国なのだ。どちらも王国から始まった事ではあるものの、魔王呼びは最近始まった事でもない。

 

 ミレイユにとって不利に働くからと、その二つを安直に結びつけるのは危険な気がした。

 そうであるなら、偶然が重なり面倒事になった、というだけの話なのだが……。

 

「エルフを撒き餌とした罠かと思えば、魔王の悪名と冒険者ギルドが介入の枷となっている。私の所在を炙り出したいだけでなく、昇神させる事が目的だとするなら、この状況は逆効果でしかない。介入よりも隠伏する事が求められるし、それは神々が求める結果ではない筈だ」

「……昇神さえ成せれば、所在なんてどうでも良いのでは? そういう意味なら、エルフを救援させれば良いだけですが」

 

 アヴェリンが言い、ミレイユは首を横へ振る。

 

「だとすれば、尚のこと冒険者が邪魔だ。私が手を引く理由を、積極的に配置する理由がない。……矛盾だな。明らかな矛盾が見えている」

「今とてそうですが、ミレイ様には一応魔王装束と呼ばれる格好は、ユミルによって隠されています。そういう伝聞が浸透していて、いつまでも同じ格好をしていないと考えた、というのは……。つまり、格好が違えば魔王などと認識されない訳で……」

「重箱の隅を突くように粗を探せば、幾らでも理由は捻出できそうなものだが……。その程度の安易な考えだったとは思いたくないな。というより、私が格好をどうするか、などという不透明な部分に期待するなら、最初からギルドへの介入は必要ない」

 

 アヴェリンの恐る恐るという様な不安げな指摘に、やはりミレイユは首を振る。

 ミレイユが格好を気にして変更するか、それとも我を通すかなど、下手なギャンブル要素を加える必要などないのだ。

 

 神々は盤上に遊びを求めるかもしれないが、不特定要素を積極的に採用するタチではない。思うように転ばせたいのであって、こちらの胸先三寸で転がされるのは好まないだろう。

 

「まぁ……、アンタの言う矛盾って言う部分には、アタシも賛成できるのよね。つまり、この件には二つの意志が介在してる。だからアタシ達には矛盾しているように見えるけど、当人達は至極全うなつもりでいるのかも……」

「……それとも、難しく考えすぎてるだけか?」

 

 ミレイユが片眉を上げて、悪戯っぽくユミルを見ると、同意するように笑みを浮かべた。

 

「それもまた、賛成できるわね。何もかも難しく考えすぎているだけ、見えているものを何でも結びつけたがっているだけなのかも。……それじゃ、アンタはどうするのって話になるんだけど」

「まぁ、そうだな。難しく考えないなら、つまりエルフを助力しようって話になる訳だが」

「ならば、そうしましょう」

 

 アヴェリンが短く応えてルチアが笑う。思わず吹き出した、としか形容できない笑いだった。

 それにつられてミレイユも笑い、ユミルも高らかに声を出して笑う。

 そう簡単に考えられれば苦労はないのだが、今はその愉快な気持ちに身を任せたかった。ミレイユにしては珍しく、空に向かって大きな笑い声を飛ばした。

 



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詭計と疑心 その7

 ひとしきり笑った後、話題は冒険者たちの対処に戻る。

 アヴェリンは憮然とした面持ちだったが、ミレイユが大笑した事を詫び、微笑みかけて腕を叩いてやれば、すぐに機嫌も良くなった。

 

「時として、単純化させた方が上手く運ぶ場合もあります」

「そうだな。考えすぎた結果、自ら編んだ糸で雁字搦めにされてしまう事もある。大前提としてエルフの救助があって、それを秘密裏に行えれば尚良いと考えよう」

「で、その秘密裏に軍を攻撃した結果、付近にいる冒険者の積極的な介入を招く可能性がある、となるワケね?」

 

 ユミルが愉快げな表情のまま聞いてきて、ミレイユは頷く。

 

「襲っているのが人間だ、と看破されるまでは良いとして、それで姿格好から魔王呼ばわりされると面倒な事になる」

「いっそ装備を改めれば?」

「駄目だ、適した防具が見つからない。あそこの主人も言っていたろう。私達の様な『古いタイプ』の魔術士に相応しい、素材や加工済の一品を見つけるには苦労する。一から作るとなれば、場所と時間、そのどちらもない」

「まぁ、そうね……。いつ神の横槍が入るか分からない状況で、敢えて貧弱な防具を身に付ける理由がないものねぇ……」

 

 業腹だが、と呟きながら、ミレイユは頷く。

 ミレイユだけではなく、アヴェリンは鍛冶技術を、ルチアは細工と付与術、そしてユミルは錬金術とやはり付与術を扱える。

 

 ユミルは錬金術については達人と言って良いが、付与術についてはルチアに二歩も三歩も譲るレベルだ。ミレイユはそれらから技術を学んでいるのに加え、平均を大幅に上回るレベルで扱えるので、装備を整えようと思えば自力で用意できる。

 

 しかし、素材だけは自ら狩るか、購入するかしなくてはならない。

 そして素材は錬金術によって変化を加え、ミレイユや仲間達が扱うに相応しい一品へ加工してくれるだろう。魔術的属性を多分に含んだ布を作るならルチアに任せれば良いし、今も装備しているようなガントレットやグリーブを作りたいなら、アヴェリン頼りになる。

 

 だが、それらも鍛冶場や錬金器具など、設備あってこそ出来る事だ。

 そして当然、作成には相応の時間を要する。仮に素材を全て露店や商店から買い揃える事が出来たとして、今後の戦いを睨んだ性能を付与した防具となれば、ひと月あっても完成しない。

 

 今は無い物ねだりと割り切って、諦めるしかなかった。

 ユミルも本気での提案ではなかったと見え、素直に意見を引っ込めて、次の話題へと移す。

 

「じゃあまずは、介入を許すコトになる前に、各個撃破していく必要があるわね」

「そうだな。当初、想定していたものとは違うが、やはり冒険者には沈黙を与えてやらねばならない。軍から要請があっても不可能、何が起こっていても身動き取れない、そういう段階まで痛めつけてやる必要がある」

「――いっそ殺しますか?」

 

 アヴェリンが無慈悲と思われる宣言をしたが、ミレイユは首を横に振る。

 実際、それが楽で簡単なのは事実だ。場合によってはミレイユに牙を向く、というのなら、それだけでアヴェリンからすれば、果断になれるだけの根拠となる。

 

「それは最終手段だな。恨みも無いし、本来なら邪魔にもならない奴らなんだ。殺してまで排除する必要はない。だが……」

「魔術をアクセサリーの様に身に着けている彼らは、そう簡単には沈まないと思いますよ」

「あら、誰かさんを思い出させるかのような台詞じゃないの」

「いえいえ、そういう意図で言ったんじゃないですよ。本当です」

 

 ルチアがおっとりと笑ってミレイユを見る。

 ミレイユもそれを理解っているので、特別何も言わない。ただ頷いて、話の続きを促した。

 

「魔術が身近なものって言いたかったんです。昔の冒険者なら、誰もが治癒術を持っているものではありませんでした。適正の問題もあり、身に付けるのにも苦労がある。誰しもパーティに欲しがるものでしたが、実際には居ないのが当然、という実情がありました」

「しかし、この時代では望めば手に入る訳だ。適正ある者が使えば、より効果が引き立つのは同じだろうが、一つのパーティに誰かしら刻んでいる可能性は高い」

「下手な手心で戦闘を長引かせれば、近くに冒険者がいるなら呼び寄せてしまうでしょう。魔王討伐と色めき立とうものなら、軍との戦闘より前に暴れ出すかもしれません」

 

 必要な事は言うだけ言った、と視線で語り、それでルチアは口を閉じた。

 ミレイユもそれには首肯を返し、それでユミルに顔を向ける。

 

「つまり、こちらでもまた隠密か、それに近い事をする必要があるな」

「隠密や隠蔽は得意だけどさぁ……。どれだけいるかも分からないのに、その全てを狩って回るワケ?」

 

 ユミルはげんなりと息を吐いたが、アヴェリンは逆に、肩をぐるりと回して挑戦的な笑みを浮かべた。

 

「隠れて襲うだけが隠密ではないだろう。正面から一瞬で接近し、全員を一撃で昏倒させれば済む話だ。後はお前が鼻薬でも嗅がせて、身体の自由を奪えばいい」

「それホントに大丈夫? 骨の二本や三本は折れてるんじゃないの? 殺すなとは言われた手前、生かしてやるつもりだけど、だからって死なないギリギリまで痛めつけるのも、別にセーフってワケじゃないわよね?」

「その時は死なない程度に回復させてやればいいだろうが。大体、死にかねない傷を負ったぐらいで泣き言を垂れる様な輩は、冒険者とは言わない」

「ま、確かに。それはそうね」

 

 ユミルはあっさりと引いて肩を竦める。

 二人のやり取りを聞きながら、ギルド前で随分と気軽な調子で外へ向かう冒険者たちを思い出していた。

 

「単に楽して金が稼がせる、その程度の気持ちで依頼を受けているように見えた。過激な反撃を想定していないのだろう。……それならそれで、こちらも楽が出来る」

「まぁね、楽にコトが運ぶというなら文句はないわ」

「最悪、軍へ攻撃した時に近くに居なければ良い。積極的に参加を強制されても、まだ渋る段階でもある筈だ。ギルドからの通達であれ、拒否する者とているだろう」

「はい。最も頼りになる高位冒険者こそ、その参加を拒否するでしょう」

 

 アヴェリンからも首肯と共に意見を貰い、自身の発言に確信を持てた。

 実際、高位冒険者は既に多くの財産を所持しているし、端金は勿論、大金を積まれても応じる事は無い。己の腕一本でのし上がって来たという矜持があればこそ、国の尖兵となる事を嫌がる。

 

 自分の武器の振るいどころは自分で決める、と考える者が多く、それは国が相手でなくても、高額報酬を用意された依頼であっても同じ事だ。

 金を持ち、力も得ている冒険者が、次に求めるのは名誉だ。

 

 その名誉に傷付くような真似をしないのが、高位冒険者というものだった。

 だがそこへ、魔王襲撃の一報が入ったなら、彼らは動く可能性は高かった。だからここにミレイユがいると、知られる訳にはいかない。

 

 単に魔王装束を身に着けた者に襲われたからと、それで単純に認定するものではないだろうが、装束を纏って絶大な力を振るう何者か、となれば話は変わる。

 その隙へ付き入れさせる訳にも、させるつもりもなかった。

 

「だがまずは、冒険者たちの居場所を探らないといけないか。森を包囲するようにして、広く配置されているだろうから……。一つでもパーティが見つけられれば、後は芋づる式だろう」

「そんな都合よく見つかる?」

「そこは、お前の尋問次第だろうな」

「あぁ、そういうコト……」

 

 連携を密に取っているかどうかは別にして、どの辺りに他のパーティがいるかは知っている筈だ。競争率が激しい、という話も聞いているので、冒険者の配置場所についても知っている者は多いだろう。

 

 そして捜索の手助けとして、もう一つミレイユは用意するつもりでいた。

 右手に魔力を制御して、それが紫色の燐光を放つ。光が掌へ収縮して、握りしめるように掲げて放つと、次の瞬間には見慣れた精霊が姿を現した。

 

 白い毛皮を持つ、犬によく似た火の精霊、フラットロだった。

 それがミレイユの顔を見て、次いで周囲に視線を巡らせると、すぐに顔の向きを戻す。

 

「……ん? あれ、ここ……こっちに帰って来てたのか?」

「不本意ながらな。お前は……、調子はどうだ」

「調子なんて分かんないよ。いつもとおんなじ。大暴れしてたら、いつの間にやら精霊界に戻ってて、それからずーっと火の中でゴロゴロしてた」

 

 そうか、と精霊らしい返事に笑みを向ける。

 精霊には生も死も無いように、体調の良し悪しなんてものも存在しない。我ながら馬鹿なことを聞いた、と思うのだが、それも一重に今まで放ったらかしにしていたが故だ。

 

 精霊は気紛れで、多くは人間の価値観など理解してくれない。

 へそを曲げられれば、召喚したは良いものの、何一つ言うことを聞かず帰還してしまう事も有り得た。特にフラットロは奥宮で召喚し、その戦闘に参加させたものの、ミレイユがその場から消えて召喚終了、という幕切れで終わってしまった。

 

 フラットロからすれば、突然紐を切られて強制送還されたようなものだろうし、決して面白い目に遭ったと思わない筈なのだ。

 

 そのフラットロが、今にも飛び掛かろうとムズムズしていて、その為に火から身を守る防御術を制御する。左手を使って魔術を行使し、即座に『炎のカーテン』を展開すると、待てを解除された犬さながらに、胸の中へと飛び込んで来た。

 

「寂しがらせて悪かった」

「……別に寂しがってない! ただ、何か嫌だっただけだ! よく分かんないけど、何か変だった!」

 

 口ではそう言いつつも、鼻先をぐりぐりと押し付けてくる仕草は止めようとしない。しばらく好きなようにさせつつ、その背を撫でた。

 防御術があるとはいえ、精霊だけあって高温で、あまり長く腕に抱いていると、熱さで音を上げそうになる。しかし悪いのはミレイユの方なので、歩を進めながら必死にご機嫌取りを続けた。

 

 途中ルチアからも支援を貰えなければ、本気で音を上げ、腕から落としていたかもしれない。

 ひと通り撫で回してやり、またフラットロからも首筋や肩口へ、思う存分鼻面を押し付けられると、それでようやく満足したらしい。

 顔を上げて、遂に本題を尋ねてきた。

 

「それで、なんで呼ばれたんだ? また鉄叩くのか?」

「いいや、そっちじゃない。少し、捜索の手助けをして欲しい」

「誰か捜したいってことか?」

「そうだ。上空から捜して、何者かいたら、それが何であれ教えてくれ」

「うん、……見つけたら襲えばいいのか?」

「いいや、教えるだけだ。襲う必要はない。その都度、思念を送ってくれるだけで助かる」

「なんだ、それだけか」

 

 つまらなそうに顔を背けたが、反故にしたいと思う程ではないらしかった。

 素直に腕の中から浮き上がり、ミレイユの意思を汲み取って、炎の玉へと姿を変えては飛び去っていく。火の精霊は街道など勝手気ままに出没するものではないが、同時に積極的な害を加える存在でもない。

 

 目撃したところで珍しいものを見た、と思う範囲に留まるだろう。

 実際に襲わせるかどうかは、その規模にも依るだろうが、基本的には偵察に徹して貰うつもりだった。

 

 飛び去る火の玉と、その背後には遠かった森が近付いて来るのを確認しながら、戦闘の準備だけは整えるよう、三人へ伝えた。

 



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詭計と疑心 その8

 ミレイユの森は、山を背にして半円形に広がる。

 その森から十分に離れた場所へ、囲むように点在して配置されたのが、デルン王国が作った野営地だった。

 

 先端を尖らせた木柵で囲まれただけの、見張り台も一つしかない簡素な野営地だが、対策としてはこれで十分だった。その野営地に、思い思いの場所でテントを広げ、森に異常がないか見張る。

 

 その森も、入口から最奥までは数キロある上、木々も密集していて見通しは全く利かない。その上、葉が日光を遮ってしまうので常に薄暗く、何が隠れていようと見つけられるものではなかった。

 

 だが、やるべきはそれで良いのだと知っている。

 見つけられないのだとしても問題はない、何者か出て来たりしてないか、それを見る事が重要なのだ。

 

 森に手を出せば、手痛い反撃を受ける。

 その事は良く知られた話で、そして森に住む魔族達もまた、森から出て来る事は殆どない。だから手出しさえしなければ、安全である事も良く解っていた。

 

 本日、ギルドから見張りとしてやって来たトロリオも、その事は熟知している。同じ依頼を受けるのは三回目だし、他にやって来た冒険者たちも、同様に良く理解していた。

 辺りを見回しても見た顔が幾つもある。トロリオと同じ様に、何度も繰り返し受けている奴らだ。

 

 払い渋りも無く、報奨金は良心的。また、内容に比べて危険すぎる事も無い。指定された野営地に、荷物を持っていくのだけは面倒だったが、この仕事で辛いと言えるのはそれぐらいだ。

 敢えて口に出す程の不満でもなかった。

 

 定期的に張り出されるこの依頼は、常に人気があって競争率が激しかった。

 トロリオの様な駆け出しには有り難いばかりの依頼で、碌な資金もない身としては、受けられる時に受けねばならないものだった。

 

 良いパーティと組むには、やはりそれなりの装備があった方が受け入れられ易い。刻印に金を使ってしまって、武具に回せる資金が潰えてしまい、だから何を取っても金が欲しかった。

 この仕事が、冒険者の受ける依頼としては、白眼視を受けるものだという事は知っている。

 

 やってる事は偵察や斥候の類いだろうし、戦争の片棒を担いでいるという自覚もあった。だが、直接戦えと言われた訳でもないし、何よりギルドが認めて張り出した依頼なのだ。

 それを受けて何が悪い、という心境だった。

 

 冒険者は何でも屋だし、傭兵と似た部分もある。だが双方を比べて決定的に違う部分は、国が起こす戦争に加担しない、という事だった。

 

 傭兵はむしろ、そちらが本業で金を稼ぐが、冒険者は魔獣と魔物を対象とする。魔物や魔獣に対し、警戒するため斥候を依頼するものも多々あるのだから、その対象が魔族であっても問題ない筈だ。

 

 トロリオはそのように、自分へ言い聞かせる。

 それが一種の詭弁である事は理解していた。

 森に住む者達を――その種族を、魔族と呼び習わしているのはオズロワーナだけだ。他の何処かにあるギルドなら、この依頼は受け付けず、依頼があった時点で跳ね除けられるのだろう。

 

「でも、稼ぎがなくちゃよ……」

 

 何一つ揃える事が出来ず、それで真っ当に稼ぐことが出来なくなれば、路地裏に転がる破目になるだけだ。

 稼ぎのない冒険者など、ゴロツキと大差がない。大金と名声を求めて冒険者を目指したのだ。最初は躓いたかもしれないが、いつまでも燻っている訳にはいかない。

 そう戒めて、森を見ながら溜め息を吐いた時だった。

 

「おい、あれ……!」

 

 誰から空を指差して、緊張した声を上げた。

 トロリオも指差した方向を見てみれば、見張り台より幾らか高いぐらいの位置に、拳大程度の大きさをした火の玉が浮いていた。

 

 それは野営地の上をゆったりとした動作で二周し、冒険者の一人が慌てて見張り台の上に登った頃には、そのまま何処かへ去って行った。

 

 攻撃して来る訳でもなかったが、さりとてあの動きには意志があった。消え去った方角も森とは反対で、一体何が目的なのか皆目見当が付かない。

 トロリオは近くにいた冒険者に訊いてみた。

 

「おい、あれ……何だったんだ?」

「魔族は精霊を使う事もあるんだ、と聞いた事がある。もしあれがそうなら、火の精霊か何かを使役していたんじゃないか」

「でも、あの火の玉が消えた方は、森とは反対だったぞ?」

「……そういう事もあるんじゃないのか。精霊は森に住んでいる訳じゃないんだから」

 

 そうと聞けば、納得できるだけの説得力があった。

 精霊は自身の属性と親和性の高い場所を好む、と読んだ事があった。刻印として召喚術を修めれば、何かと便利ではないかと調べた事があったのだ。

 

 だが実際は単調な命令しか聞かず、やる事をやったら帰ってしまう。やる事は火の玉を飛ばしたりと、刻印で代替できるものばかりで、敢えて精霊を喚び出してまでやる意味が薄い。

 

 今も古い魔術形態を維持している魔族としては、それも有効的な手段なのかもしれないが、だとすれば、尚更偵察の様な使い方をした意味が分からなかった。

 そう考え、トロリオの動きが固まる。

 

「偵察……? なぁ、あれって俺たちを偵察してたんじゃないのか?」

「軍が駐留してるならまだしも、俺達のこと見てってどうすんだよ」

「けど、奴らからしたら、どっちも敵には変わりないんじゃないのか。野営地を潰したいんならさ、軍が居ない時の方がむしろ――」

 

 トロリオは自分の口から飛び出す言葉が、事実を物語っているような気がして顔を青くさせた。

 トロリオ自身はまだ三回目の参加に過ぎないが、この依頼はもっとずっと以前から張り出されているものだ。

 

 この野営地にいる者の中にも、いわゆる古参と呼べる者はいるが、長く襲撃が無かった事で弛緩した空気が蔓延していた。

 見張り台へ登った者にしても、一応の規則として取り決めどおりに動いただけで、空に向けて警戒していた訳でもない。

 

 誰も武器を取らなかったし、刻印を発動させる素振りさえなかったのだ。

 お題目としては見張りや偵察だが、実際は野営地保全を目的としていると、誰もがそう思っている。楽なばかりの依頼、トロリオも同じ様に思っていた事は否めない。

 だが、身の危険が迫っているかもしれない、と思えば、話は別だった。

 

「なぁ、少し警戒だけでもした方が良くないか? ――おい、見張り台! そっちどうだ!」

 

 トロリオは声を張り上げたが返事は無い。

 それが無視なのか、やる気の無さから来るものか判別できず、苛立たしげに再度声を張り上げた。しかし、やはり返事は無い。

 

「返事くらいしろって! ……くそっ」

 

 悪態ついて唾を吐き、仕方ないと自ら見張り台に登る事に決めた。

 どうせやる事など無い身だ、森を見て安心できると言うなら、ここでやきもきしているより、よほど建設的だった。

 

 隣の冒険者にも、一応警戒を呼びかけようと隣を向き、そしていつの間にか消えていて眉を顰める。トロリオが見張り台へ声を張り上げている間に、どこかへ行ってしまったのだろうか。

 用を足しに行った程度なら可愛いものだが、テントに入って寝るつもりなら、何か一つ文句を言ってやらねば気が済まない。

 

 トロリオは手近なテントに近付こうと足を進めたところで、静か過ぎる事に気が付いた。

 野営地には三つのパーティ、計十一人が滞在していた。それぞれが持ち回りで動く予定で、トロリオもそのパーティの一つに加わって動くよう、都合が付いていたところだ。

 

 野営地の入り口に立つなど、形ばかりでも見張りをする義務があり、それを三交体制で行う必要もある。緊張感も無く、誰かしら雑談しているのが常だったのに、今はそれすらも無い。

 中央付近に設けられた焚き火が、乾いた音を立てて小さく爆ぜる。

 その音が余りに空虚に聞こえ、恐ろしささえ感じる程だった。

 

「みんなは……、どこにいるんだ? おい、誰か居ないのか! 見張りはどうした!?」

 

 精一杯の虚勢を張って、声を上げてみるものの反応は無い。

 左右へ素早く視線を移し、身を屈めて腰から武器を抜いた。安物の長剣だが、刻印と合わせて使えば、そう馬鹿にしたものでもない。

 

 何事も使い様だ。

 刻印に金を使った分、それなりの働きは出来るつもりだった。実戦経験もそれなりにある。冒険者の実力は、見栄えから計れるものばかりではない。

 そう自分に言い聞かせ、いつでも発動できるよう、腕に刻まれた刻印へと意識を集中する。

 

 左右へ正面へ、そして素早く背後へと振り返り、油断なく周囲を警戒した。

 何かが起きているのは間違いない。それが魔族からの攻撃かどうか分からないが、最早何かから襲撃を受けていると考えて良い。

 

 ――逃げるか。

 その判断だけは早かった。

 

 それが何であれ、秘密裏に三つのパーティを無力化できるというのなら、トロリオの出る幕ではない。逃げて、他の野営地に辿り着き、助けを呼んだ方が建設的だ。

 幸い、点在している野営地まで遠くない。全力で走れば五分と掛からないから、体勢を立て直すでも、危機を伝えた後でも、対処できる余裕は作れるだろう。

 

 そこまで頭に思い描くと、未だ静かな野営地を一つ視線を巡らせ、脱兎の如く駆け出した。

 武器はまだ収めない。入り口の脇に、敵が潜んでいるかもしれないからだ。

 だが、三歩進んだところで、トロリオは衝撃と共に頭から地面にぶつかった。

 

「――がはっ!?」

 

 何が起こったか分からず、鼻の奥がツンとする痛みと、額から頭蓋へと走る痛みに混乱する。次の瞬間には鼻血が出ている事に気付き、そして遅れて足に痛みを感じた。

 痛む頭と霞む視界に無理をさせて、肩口から覗き込むように足元へ視線を向ける。

 

 そうすると、明らかにおかしな方向へ右足が曲がっていた。

 折れている。樹に巻き付く蔓のような、捻れた折れ方をしていた。

 

「い、ぎ、ぎ、ぎぎ……!」

 

 直視し、認識してしまうと、次いで痛みが走ってきた。

 膝から腰へ、腰から背骨へと、順に痛みと怖気が走り、トロリオは顔を引き攣らせる。口の奥から悲鳴を上げようとしたところで、唐突に意識が失う。

 

 無造作なところへ、頭を直接蹴り飛ばされた所為なのだが、その蹴った当人は呆れた声を出しながら姿を現す。

 

「最後に残った一人って、大体逃げるか狂うかなのよね。……ま、中でもコイツは、マシな動きが出来た方かしら。だからって、大した意味も無いけど」

 



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一方的な闘争 その1

 ユミルが姿を現した事で、姿を隠して待機していたミレイユ達も、野営地の中へと足を踏み入れて行った。そうしてユミルの近くに立って、同様に姿を現し、辺りを睥睨する。

 

 ユミルが幻術を解いた事で、倒れ伏した冒険者が姿を見せ、その全てが例外なく昏倒している事を確認した。

 ミレイユは満足して頷いたが、アヴェリンは逆に憤慨したように冒険者達を睨み付ける。

 

「しかし、何て有り様だ。冒険者足る者が、ここまで質を落としていたとは……! よくもまぁ、ここまで無能を揃えられたものだ!」

「個人の資質はともかく、攻撃される訳がないって、弛み切ってたのも問題じゃないかしらねぇ。実際エルフ達は森から出て来ないみたいだし、嫌がらせ程度の散発的な攻撃さえ殆ど無いらしいじゃないの」

「不意を突かれれば弱い。それは分かりますけど、こうも簡単だと……」

 

 ルチアからも非難の様な声が上がり始める始末で、それが程度の低さを物語っていた。

 ユミルが本気になった隠密は、早々見抜けるものではない。だが最初はもっと慎重だったし、事には全員で対処していたのだが、二つ目を落とし終わったところで遊びに変わった。

 

 見所のある者が見抜くならば良し、逆撃に走れるようなら見所ありとして、ユミル一人の手に余るようなら助太刀に入る、という作戦の変更があった。

 

 だが結局、蓋を開けてみれば、最後まで碌な相手は出なかった、という顛末だ。

 好んで苦労したい訳ではないので、ミレイユとしては楽なまま終わって堵した位なのだが、アヴェリンにとってはその体たらくを詰るしかないようだ。

 

 いつまでも怒り心頭で居てもらっても困るので、程々にして意識を切り替えさせ、それからユミルに顔を向ける。

 

「とりあえず、これで野営地の無力化は済んだ訳だな。全部で五つ、これで最後。それで間違いないか?」

「尋問した限りじゃ、そうらしいわね。斥候に出ている者も、現在は居ないって話よ。これから軍が来るまでは、森を睨んで待機。そういう手筈になってたみたい」

「うん。しかしまぁ、冒険者の使い道が、偵察でも斥候でもなく、物資の運搬こそ本命だったとはな……」

 

 ミレイユは一番奥にある、一際大きいテントへ視線を向けた。

 これまでと同様、あそこには集積された軍事物資が置かれている筈だった。これまでの野営地にも同様に運び込まれていたもので、軍の動きを察知されない為に行われていたものらしい。

 

「都市の中に、戦争の気配が感じられなかった訳だ。あの中は通常どおり……平時の空気に見えた。戦争が目前に控えているなら、もっと物々しい雰囲気が散見するものだからな……」

「特に物資は値上がりがあったり、水薬の在庫が少なくなったりと、兆候はあるものですからね。商人なんかは機敏に察するものですが……、冒険者が買い付けるとなると、中々分からないものなのかもしれません」

「そうだな。そして、そうまでして隠したかったなら、今度の森攻めは本気という事なんだろう」

 

 いつ軍事行動を起こすつもりなのか、ミレイユにはそれが分からなかった。

 近々起こるという事だけは察していたが、実際にいつ、となると内部から探らないと分からない事だ。戦争は物資が無くては行えないので、その目標を定めた瞬間から準備を始める。

 

 その準備期間で、どれだけの量を集めているかが分かるし、その本気度合いも計れるものだ。そして戦争の気配を感じれば、それは暮らす人々にも敏感に伝わる。

 

 それを抑えつける事は、どのような王であろうと不可能だ。

 だから、戦争はまだ先の事なのだろう、と思っていたのだが、その当てが外れた。

 実は直ぐにでも軍事行動を起こせるだけの物資が野営地には蓄積されており、それが運び終わった今、野営地を軍の到着まで保全するのが現在の目的、と知って行動を早めた。

 

「……何ヶ月も先の事で無くて良かった、と言うべきかもしれないが」

「冒険者の排除は必要ですが、まさか何ヶ月も冒険者と陣取り合戦している訳にもいきませんものね?」

「そうだな。今いる冒険者は追い払える。そいつらは今後、同じ依頼を受けるかは分からないが、しかし他にも受けたい冒険者はゴマンといる。それらといつまで争うのか、という問題までは考えていなかったからな……」

 

 早々に諦める者とそうでない者、仲間の敵討ちに燃える者と、その内容は様々だろう。だが、野営地に行けば依頼を果たせず返り討ちに遭う、という状況が続けば、ギルドも対策を打たねばならなくなる。

 

 そうした時、多勢で冒険者が現れたなら、流石にミレイユ達も逃げる必要に迫られるだろう。結局野営地は取り返され、より強い防御陣地へと変えられていたかもしれない。

 エルフへの助力にしても、前提条件が様々あるミレイユ達にとって、早くに行われる軍事行動には、むしろ助けられた気持ちだった。

 

「それでは、今までと同じように物資は全て回収だ。全員、まだ余裕はあるか?」

「これまでと同じ量なら、ギリギリ行けるんじゃない? 後はやっぱり同じ様に冒険者を放り出して、野営地の取り潰して……で、終了かしらね」

「燃やせれば、アヴェリンも楽できるでしょうに……」

 

 ルチアが憐憫に似た表情を、アヴェリンへ向ける。

 軍に使わせないよう、野営地の無力化をしようと考えたのは良かったが、これらを燃やすのには待ったを掛けた。

 もしもその五つが同時に燃えていたら、作戦が中止になるだろう事は必然と言えた。

 

 敵方が確認した後の話だが、中止命令が出ると思われるし、そうであれば次はいつだ、という話にもなる。一時は諦めても、いつか再び攻撃を仕掛けて来るのは間違いなく、そしてミレイユの目的は戦争を遅らせる事が目的ではない。

 神の指示のもと動いているのなら、予定の先送りをするだけで、諦める事だけは決してしないだろう。

 

 止めさせようと思えば、軍隊力の損失が必要となる。

 デルン王国からの攻撃を止めさせようと思えば、動員兵数を削り取るのが最も有効だという結論に至った。

 

 それで野営地の無力化には人力で取り壊す事にしたのだが、それはつまり力任せに全てを壊す事だった。燃やせない、となれば出来る事は限られていて、下手なやり方だと再利用されてしまうだけだ。

 

 そこでアヴェリンが怒涛の攻撃を加えて完膚無きまでに壊す、という方向で無力化する事になった。ミレイユも参加しようとしたのだが、これには丁重に断られ、それなら自分一人でする、と強弁されてしまった。

 

 ルチアも一応参加するのだが、氷結使いとしては余り有用な術も無く、せめて氷刃で切り裂いたりするのだが、アヴェリンの効率とは天と地の差だった。

 

 アヴェリンが力任せに殴れば、見張りの櫓も一撃で倒れるので、土埃を巻き上げないようフォローはするが、ミレイユがやる事と言えばそれぐらいだ。

 後は解体するまで待ち続け、十分程の時間で粉々に砕かれた木片が周囲に散乱する状態になった。

 

「……五回目だと言うのに、疲れも見せず見事なものだ。いや、これは褒め言葉として贈って良いのか迷ってしまうが」

「どうかお気になさらず。適材適所と申します」

「そうよね。木材を力任せに砕くなら、昔からアンタに頼むのが一番って決まってるもの」

「お前の骨を砕くのも、私に頼むのが一番だろうな。誰か頼む奴はいないか?」

「……ちょっと、こっち見ないで下さいよ。それ頷かなくても、了承取られるパターンじゃないですか」

 

 アヴェリンが熱望するかのような視線を向けて、ルチアは片手で顔を隠ながら背ける。

 周囲は惨憺たる有り様だというのに、ミレイユ達の周囲だけ切り取られたように雰囲気が違う。

 

 外に転がしておいた冒険者たちにも被害は無いようだし、次の行動の為に移動しよう、と思ったところで土を踏む音に気が付いた。

 まだ距離はあるが、明らかに何者かが近付いて来る音がする。

 

 三人に目配せすると、それだけで何を言いたいか悟った。

 身構える、という程ではないが、意識を戦闘状態へ移行する。近付く足取りは一人分で、その歩速も速く、小走りになっているようだ。

 

 向かってくる方向は丁度、木材の瓦礫が積み重なっている場所で、その姿を確認できない。

 目視する前に姿を隠すか、それとも他と同様打ち倒すか。迷う間にアヴェリンと視線を交わし、彼女がやる気になっているので好きにさせた。

 

 斥候はいない、という話だったが、聞いた本人が知らなかっただけの可能性もある。

 あるいはギルドから遅れて派遣された誰かかもしれない。

 

 ミレイユはアヴェリンがやり易いよう場所を譲って、移動したついでに瓦礫の端から近付く何者かの姿を探す。

 そして目に入った者に顔を顰め、溜め息と共に帽子のツバを下げた。

 

「あいつめ……、来させるなと言った筈なんだがな……」

「どうしたのよ。誰か見えたの?」

 

 ミレイユの反応に興味が刺激され、ユミルもまた瓦礫の端から覗き込む。

 そうして意味が深そうな笑みを浮かべ、ミレイユの肩に手を置いた。

 

「まぁ……あー、言ったところで止まる相手じゃなさそうじゃない? 責めるばかりじゃ、ちょっと可愛そうよね」

「……それもそうだな。むしろ止められる理由を聞けば、真っ先に走り出すタイプか……」

 

 これを事故と言うなら、避けられない事故とでも言うべきなのだろう。

 そうして瓦礫の端から姿を見せたのは、アキラとも一騎打ちをしたイルヴィだった。その顔には挑戦的な笑みが浮かんでいて、ミレイユ達の姿を目視するなり速度が増す。

 

 既に木柵も何も無い、打ち捨てられた木材ばかりが広がる平地と、投げ捨てられた冒険者たちが外に並ぶ。その中心に立つ四人を見て、イルヴィが何を思うかなど、想像するまでもなかった。

 互いの武器が届かない位置で彼女は止まると、盾を構えて槍を取り出し、その石突きで地面を叩く。

 

「……さぁて、やってくれたもんだね」

 

 イルヴィは周囲の砕かれた木材と、倒れ伏し、乱雑に転がっている冒険者たちへとわざとらしい視線を送る。それからアヴェリンへと獰猛な笑みを向けた。

 

「三つの野営地を回って、やっと見つけたよ。野営地の破壊、身内への攻撃、どちらを取っても、ギルドとしちゃ放置することの出来ない問題だ。誰に聞こうと目を覚まさないし、かといって死んでもいない。……あれは魔術で眠ってんのかい?」

「私は詳しく知らん。だが薬によるものだ」

「それを聞いて安心したよ。なら解毒剤だって、きっと持ってるんだろうね。よこせと言っても従わなさそうだ。――じゃあ、力付くで奪うしかない、って寸法さね!」

 

 本気ではありそうだが、本音ではなさそうな台詞と共に、石突きを地面から離して身構える。

 その姿を、アヴェリンは冷めた視線で見つめたまま尋ねた。

 

「一応聞いてやるが、ここに近付くのは危険だと、アキラから言われなかったか?」

「言われたし、止められたよ。だが諸手を振って、アンタと槍をぶつけ合える! こんな絶好の機会、逃がすわけないだろうさ!」

「まぁ、そういう答えだろうとは思った」

 

 それに、とイルヴィは挑戦的な笑みを浮かべながら続ける。

 

「あんたの名前はまだ聞いてない。ここは戦場で、戦士の名乗りを上げるとなれば、まさか嘘をつくとは言わないだろうさ……っ!」

「残念ながら、名乗りを上げろと告げられようと、名乗る名前に変わりはない」

 

 アヴェリンが鼻を鳴らし、個人空間から盾とメイスを取り出す。

 二つを構え、その威風堂々たる有り様を見て、イルヴィはぶるりと震えた。恐怖からではない、歓喜から来る震えだ。アヴェリンと同郷の、そして同じ戦士として育った相手だ。

 強敵だと知っているからと、今更臆する姿を見せる筈もなかった。

 

 この場にいたら邪魔になるか、とミレイユは二人を連れて、倒れた冒険者達の傍へ移動した。

 



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一方的な闘争 その2

 アヴェリンは手に馴染む黒壇のメイスを握り締め、同じ素材の盾を半身に構えて腰を落とした。

 盾の上端が顎先に掛かるように持ち上げれば、攻撃できる部位をごく限定的にさせる事が出来る。イルヴィが持つ武器は槍なので、突く攻撃を主体とする相手ならば、より有効な構え方だった。

 

 攻撃を警戒しているように見えるだろうが、アヴェリンのこの構えはむしろ攻撃をする為にある。付与された術は、盾に受ける衝撃を限りなく小さくしてくれる。

 ドラゴンの一撃さえ受け止められる容量を持ち、前衛として、ミレイユの盾として身構えるに、これ以上頼りになる物はない。

 

 アヴェリンは口を盾で隠しながら小さく笑む。

 手の中で転がしたメイスもまた、盾同様ミレイユに作って貰ったもので、これには二つの付与がされている。自らが扱うには木製らしく軽く感じるが、受ける相手からすると巨岩のように重く感じる、という効果がその一つだ。

 

 見せ掛けや錯覚という訳ではなく、実際それだけの重さを付与されている。アヴェリンが握れば軽くなるというだけで、もしも机の上などに置こうものなら即座に割れて、床板まで破壊してしまうだろう。

 

 その質量をぶつけられるというだけでなく、アヴェリンの膂力と魔力制御から繰り出される一撃は、比喩ではなく容易に岩をも打ち砕く。

 どのような鉱石よりも硬いと言われるドラゴンの骨すら、アヴェリンには砕く事が出来る。

 

 無論、その様な攻撃をイルヴィに打ち込めば只では済まない。

 だからアキラと鍛練していた時のように、程々に打たせて、程々に殴り付けて終わりにするつもりでいた。

 

 イルヴィはじりじりと距離を詰めながら、槍の柄を短く持って、間合いを容易に読ませぬよう工夫している。槍の攻撃は、外から見るのと対面して見るのとでは随分違う。

 それも握る者の力量次第だが、見切ったと判断したところから、更に拳一つ分は伸びて来るものだ。その間合いの妙というものを身に付けているからどうかが、槍士としての実力を量る秤となるだろう。

 

 イルヴィとしても、アキラに見せた実力がその全てという訳でもないのは間違いない。

 あのような決闘騒ぎで見せられる技は、誰に見せても構わないと割り切った上で使用する。真の実力や伏せ札は、あんな場所では見せないし、臭わせる事すらしない。

 

 それをこの場で見せるかどうかは分からないが、アヴェリンも一人の戦士として、敵の技を見たいという欲求が湧き上がる。

 見せてみろ、という挑発のつもりで、盾を構えたまま、無造作とも思える動きで接近する。

 

「――シッ!!」

 

 イルヴィが穂先を突き出し来るが、牽制のつもりの攻撃は軽い。

 そもそも急所は隠せているので、打ち込める場所がないのだ。まずは様子見で打つのは正しい判断だが、しかしそれは、明確な格上に対する攻撃としては不合格だった。

 

「フン……っ」

 

 つまらないものを見せられて、鼻を鳴らして穂先を正確に正面から受け止める。

 攻撃を逸らす為、盾は僅かに湾曲しているので、特に槍のような点攻撃を止めるのは難しい。だがアヴェリンは中心で受け止め、まるで平盾を扱うように前へ押し出す。

 槍から動揺する気配を感じるのと同時、腕と足に力を込めて更に押し出した。

 

「――チィッ!?」

 

 イルヴィも衝撃を受け流そうと身を逸したが、盾を更に押し込みながら足を踏み出す。それで一足飛びに接近し、イルヴィが咄嗟に構えた盾ごと殴り付けた。

 

「がっ、ハァ……!」

 

 避けようとしたが、身体をくの字に曲げて吹き飛んで行く。

 その足が地面に触れるより速く追い付き、盾の上から更に殴りつける。それで勢いを何倍にも増して吹き飛び、散乱していた木材へと突っ込んでいった。

 

 轟音を立ててぶつかりながら、木材を巻き込んで吹き飛び、何度も地面を転がりながら遠退いて行く。

 線を引くように土煙を上げ、倒れ伏したイルヴィはぴくりとも動かない。

 数秒黙って見ていると、後ろから実に暢気な声が上がった。

 

「あれはー……、死んだかしらねぇ?」

「死んではいない。ちゃんと手加減した」

「そう言って殺しそうになった奴、アタシ何度も見てるからね。ルチアいなかったら、ほんとに死んでた奴なんて、それこそ幾らでもいたでしょ。尋問する相手すら殺しそうになった事、これまで幾度あったか言ってみなさいな」

「……うるさい。まだ戦闘中だ、黙ってろ」

 

 話を強制的に断ち切ったが、分が悪いと見て終わらせたという訳でもない。

 実際にイルヴィが立ち上がり、その顔に壮絶な笑みを浮かべているのだ。初めから勝てると思って挑んだ戦いではない。その実力を肌で感じたいからと挑んだ戦いだ。

 

 そして今まさに実感している筈だった。

 自分では逆立ちしても勝てない相手と、今の一合で理解した筈だ。その上でどうするか、となるのだが、アヴェリンが良く知る戦士なら答えは一つだった。

 

 イルヴィは穂先を地面に突き刺すと、懐から水薬を取り出して口に含む。一本だけではない、合計三本を立て続けに飲み干した。

 傷を癒やすだけでなく、筋力の増強など、何かしらの強化水薬を飲んだらしい。空き瓶を投げ捨て、槍を握り返すと、まるで煙でも吐き出すように大きく息を吐いた。

 その瞳も爛々と輝き力が入る。

 

 次に足を踏み出した瞬間、一歩で離れた距離の半分まで到達し、次の一歩で槍の届く距離までやって来た。驚くべき速度だが、アヴェリンにとっては遅すぎる。

 速度を乗せて繰り出された一突は凄まじい。だが、それだけだ。アヴェリンは訳もなく捌いた。

 

 盾で下へと穂先を逃して、重心も前に来ていたので簡単に地面を噛んだ。そのまま踏んづけて攻撃を封じ、抜こうしようと体重を後ろに移動しようとしたところに、メイスを振り下ろした。

 

「ぐぅぅ……!?」

 

 流石にこれは読めいたのか、咄嗟に盾を持ち上げ防御したが、武器との衝突で身体が外へ逃げる。地面を踏み締め、踏ん張ろうとするが身体は流れ、その無防備になった腹に蹴りを叩き込んだ。

 

「ゴボハァ……っ!」

 

 口から胃液が飛び出し、吹き飛ぶ流れに合わせて軌跡を描く。

 吹き飛ばされたとはいえ、イルヴィは武器を手放す愚を犯しておらず、ダメージ自体も大きくはないようだ。着地した足取りは確かで、槍を握った手で口元を拭う。

 

 その瞳には未だに闘志が燃えており、その戦意にも衰えは些かも感じられない。それを確認して、小さく首を上下させる。

 ――この程度で参ってしまっては困る。

 アヴェリンは口元に、先程よりも深い笑みを浮かべた。

 

 アキラより力量が上の相手だ。それに比して振るう力は増しているが、そのぐらいのダメージなら、アキラであっても立ち上がって武器を構える。

 同郷、同族の戦士と言うなら、その程度は出来て当然、という認識だった。

 

 アヴェリンは改めてイルヴィの目を見つめる。

 そこには誰よりも自分は強い、という自と、それを自己暗示させる力が籠もっている。それは悪い事ではない。相手が強いと分かっていても、だからと己を下に据えたままでは戦えない。

 

 嘘だろうと己を鼓舞して戦う事は、戦士として必要なことだった。

 そしてそれこそが、アヴェリンの心を締め付ける。遠い昔に見た光景のように感じられたが、何てことはない。それはほんの数年前、よく目にしていたものだった。

 

「そうか、お前は昔の私に良く似ているな……」

 

 元より独り言で、返答は期待していなかった。

 だが耳聡く拾ったイルヴィは、面白そうに口元を歪めた。そこには挑戦的な表情も浮かんでいる。

 

「へぇ、そうかい……。あんたみたいな奴と似てるっていうなら、アタシもそんなに捨てたもんじゃないね。似てるついでに、その強さも似てくれりゃ言う事ないんだけど」

「似るべきじゃないと思うがな。己の腕一つ、克己心一つで生きる事ほど、辛いものはないぞ」

「それが悪い事かね? 力を振るい、それが強く育ち、そして強い力から強い心が生まれる。その心があれば、何処でだって生きて行けるさ」

「そうはならないから、言ってやってるんだ」

 

 アヴェリンから出た言葉が意外だったのか、イルヴィは目を見開く。

 そして何かに気付いたかのように、ミレイユへと顔を向けた。

 

「あんた程の戦士が、誰かに忠誠を尽くすとはね。弱い奴は仕方ない。誰かを頭上に戴かなければ生きていけないもんだ。だが、あんたは違うだろ。誇りを捨ててまで、誰かに頭を垂れて生きていかなきゃならないほど、弱い戦士じゃなかった筈だ」

「ミレイ様は私より余程強いが……、しかし武力のみで伸し上がる領域には限界がある。特に孤独な強さでは限界が早い。お前の強さでは、その強さがある事を永遠に気付けない」

「抽象的で分かり難いったら無いね。あんたが今のアタシより強いのは認めるよ。だがアタシは、これで、このスタンスで強くなったんだ。このまま何処までも突き進んでやる。どこまでも、誰よりも、アンタよりも……! それがアタシには出来る!」

 

 イルヴィの瞳には強さへの渇望が見えた。

 誰よりも強いという自負がある、と見たのは誤りだった。イルヴィは誰より強くなれると信じているから、今はまだ自分より強い者がいる事に耐えられる。むしろ強い奴を飛び越えていく喜びがある、と感じている。

 

 だがある時、唐突に気付く。

 目を覆い、耳を塞いでも、自分の実力に限界がある事に気付くのだ。それは誰かに師事しようと、無理な特訓を重ねようと越えられない壁だ。

 

「あぁ、私も同じだった。誰より強くなれると、信じて疑わなかった。同族にも、外の世界に目を向けても、私より優れた戦士はいなかったからな」

「確かにそれは、アタシと良く似てるみたいだ。……それで、自分の強さは守る強さだとか、思いやりだとか、陳腐なこと言い出さないで欲しいんだがねぇ」

「そうとは言わない。だが強さの下地はそれぞれだ。私より低い武力だろうと、尊敬できる者はいる。単純に武力だけの話でもなく、本当に多くのものがな。それに目を向ける事が出来れば、お前の強さは新たな道を得られる、と忠告してやろう」

「アタシは今のあんたに、その道を感じているがね」

「単に同じ道の遥か先が見えているだけだ。別ではない」

 

 これ以上は自分で気付くべき事だ。

 かつてアヴェリンが挫折したように、イルヴィも似た挫折をするかもしれない。アヴェリンと同じ様になる必要はないし、得られる気付きにも違いはあるだろう。

 

 孤独の強さは脆いものだ。

 今この場に彼女一人しか居ない事からも分かるように、パーティを組んだりはしていないのだろう。臨時に組む事はあっても、心を置ける仲間は居ないに違いない。

 

 ――アヴェリンにはミレイユがいた。

 アヴェリンに挫折を感じさせたのもミレイユなら、別の道を見せてくれたのもミレイユだった。

 ミレイユは間違いなく強者で、誰しも羨むような力量を持ち、そのうえ見たものは大体模倣できる洞察力も備えている。

 

 その才能に、嫉妬しなかったと言えば嘘になる。

 だが彼女が振るう力は、常に誰かの為だった。己の空腹を満たす為、金銭を得ようと仕事をするのは当然だが、その仕事には常に誰かの願いを叶える事を根底にしていた。

 

 例え悪人のような相手でも、浮浪児の様な相手でも、別け隔てなく話を聞く。それは強者故の余裕だったろうが、同時に強者の義務として体現した行いだったように思う。

 力の先に名誉を求める冒険者とは、そこからが違う。

 そして時にはタダ同然で依頼を受ける。ミレイユに利己的な部分は確かにあるが、その根底には思いやりがあった。

 

 他人を見ていて強くなれるか、と自問した事もあった。

 だが同じ姿勢を崩さないミレイユに倣うようになると、己がどれだけ狭い世界で生きていたのかが分かった。そして楽ではなく、苦労の方が多い。

 

 だがアヴェリンが自身ではなく、ミレイユの為に武器を振るいたいと思った時、それまでとは比べ物にならない力が振るえるようになった。自己研鑽で行き着いた先、その壁の横には道があると、そこで初めて知った。

 

 進めないのではなく、進む道に気付けなかっただけだった。

 そしてミレイユの横に立ち、その行いを見るにつけ、尊崇の念が強まっていくのを感じ、自分の為ではなく、認めた相手にはより強い力が振るえるのだと気付いた。

 

 それこそが己の本質だと分かった。

 イルヴィも同じだとは思わないが、己の道に気づけたなら、それが本当の実力を発揮できる力となる。アヴェリンの行動が助けになれば、それに越した事はない。

 

 ――いつもミレイユがそうしているように。

 アヴェリンは横目でミレイユを視界に入れ、ちらりと笑む。ほんの僅かな時間だけそうしていると、次にイルヴィへと向き直った。

 

 今は反発するような目を向けているイルヴィに、本当の実力差を教えてやるべく、アヴェリンはメイスを強く握り直した。

 



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一方的な闘争 その3

 アヴェリンが盾を構えて腰を落とせば、話は終わりだという合図も伝わった様だ。

 イルヴィは派手に吹っ飛んでいたが、派手に見えていたのは外見だけで、ダメージはそれ程でも無かった筈だ。話している間に体力も回復できて、今では問題なく全力を振るえるだろう。

 

 イルヴィも槍と盾を構え直したが、直ぐさま飛びかかる様な真似はして来ない。

 間合いを計りながら円を描くように近付いて来るが、今更その様な消極さを見せていては、一突き入れる事も難しいだろう。

 

 アヴェリンはその動きに合わせて、体向きを変える事すらしない。

 ただ首だけは動かして、相手の攻撃を待った。イルヴィは盾が無い右手側へと回り、更に後ろへ回り込もうと動かしたと同時、一歩戻って急接近して来た。

 

 しかしそれを、あっさりとメイスで逸して顔を近づける。

 

「それで牽制できたつもりか」

「ハン! まぁ、アンタにこの手の陽動、通じる筈ないってのは分かってたさ! けど、力も速度も技術でも負けてるんだ。何か攻め込む隙の一つでも見つかれば良かったんだがねぇ……!」

 

 どんな戦士でも癖があり、得意不得意はあるものだ。

 高い技術で隠したり克服したりするものでもあるが、同時にどう足搔いても消せない癖というのも残す者はいる。

 

 それとどう向き合い付き合って行くかで、戦士としての有り様も分かってくるし、それを見抜けたとなれば、力量以外で勝ち筋も見えてくるものだ。

 アヴェリンにも、勿論クセはある。だが、それを見抜けるような者ならば、そもそも苦戦もしないだろう。

 

 アヴェリンは力業に頼る傾向が強いから、それをいなすか躱すだけの技術力があれば有利を取れる。だが、それだけの事が出来る者は実に少ない。ごくごく限られると言って良い。

 そしてそれが出来るなら、もう既に勝負の決着はついている筈だった。

 

「まぁ、けど……最初から、出し惜しみ出来る相手でも無かったか!」

 

 イルヴィの両太ももに刻まれた刻印が発光を始める。

 顔を寄せ合う程の近距離で、有利なのはアヴェリンに違いないが、イルヴィにも距離を厭わぬ槍を持っている。

 

 素早く畳んで短槍になった武器を、弓弦を引き絞るかのように下げる。背中を捻って力を蓄える様は、槍投げをするようにも見えた。大きな予備動作では躱してくれと言っているようなものだが、直前になって盾を持ち上げ視界を隠し、どこへ攻撃するか特定させない。

 

 その盾を弾いた上で、体勢を崩させるのは容易だった。しかし、アヴェリンは敢えて待つ事にした。アキラに見せた、見せ札としての奥の手がどれ程のものか、実際に体験したい心持ちになっていた。

 

「――フッ!」

 

 鋭い呼気と共に、イルヴィの槍が繰り出され、脇腹を貫こうとした。肋骨の下から抉るような、急所を狙った一撃だった。

 アヴェリンはそれを視界の端で捉えると、武器を手放し柄を握る。個人空間への収納や取り出しは場所も時も選ばないから、こういう芸当が出来た。

 

「ば、かな……!」

 

 イルヴィから驚愕と動揺の気配が、盾越しから伝わって来た。

 槍の穂先はアヴェリンを包む革鎧の直前で停止していて、その先端すら掠めていない。イルヴィも押し込もうと全力を出しているが、その穂先が更に動く事は無かった。

 

「……通じぬ、筈が……ッ!」

 

 歯の隙間から絞り出されたような、微かな声と共に、イルヴィの刻印が更に発光した。重ね掛けをした事で、押し込もうとする圧力が更に増す。

 遂には穂先が震えて、押し込む力と抑えようとする力の拮抗が破れる。

 破れようとした、その瞬間――。

 

「なるほど、重ね掛け。そういうのもあるのか」

 

 酷く気楽な口調でアヴェリンが零すと、力点をずらして外へ向け、足を引っ掛けて持ち上げる。相当な力が入っていたせいで、急激な勢いで体勢が崩れ、そのまま半円形を描いて背中から地面に叩きつけられた。

 

「ゴハッ!!」

 

 肺から空気を抜かれ、イルヴィは痛みの衝撃と合わせて悶絶する。

 それでも視線はアヴェリンを向いたままだし、武器を手放してもいなかった。充血した目と、口の端から溢れる唾液と合わさり、まるで獣のように見える。

 

 手足が千切れでもしない限り、戦意を失わないのがバスキ族の戦士だ。

 だからその反応には些かの動揺も無かったが、あまりこの戦闘に時間を掛けすぎるのも問題だった。ミレイユを退屈させて待たせてしまうのは、アヴェリンの矜持が許さない。

 

 お互いに握ったままでいる槍を持ち上れば、それに続いてイルヴィの腕も持ち上がる。

 何を、と思わせるよりも前に振り上げ、そのまま前後に振り下ろして地面へ叩きつけた。

 

「アガッ!?」

 

 武器を手放さないのは褒めても良いが、敵に握られている状態なら手を打たない方が悪い。

 しかし、武器を手放すのは戦士としての矜持が許さないのだろう。

 好き勝手に身体を槌代わりにされて、地面へ叩き付けられているというのに、それでも手だけは離さなかった。

 

 槍は剣と違って可握部分が多いので、握り返されてしまった場合も当然想定している筈だ。その返し技も持っていて当然、と思ってやった事なのだが、十回を越えた辺りでうめき声すら聞こえなくなってしまった。

 

 アヴェリンが槍を手放せば、イルヴィの腕も力なく地面へと落ちる。

 うつ伏せのままピクリともせず、顔が下を向いているせいで表情も分からないが、意識があるなら立ち上がってくるだろう。

 

 それが無いと言うのなら、つまりはそういう事だった。

 最後の不意討ちを狙うつもりならそれでも良いが、それで一突き出来たとて名誉の勝利には程遠い。戦士としての名誉を重んじるバスキ族が、そんな手段を取る筈もなかった。

 

 主人を守る戦いではなく、一個人の戦士として戦っていたなら尚更である。

 それでも気絶するまで武器を手放さなかった事には、少しばかりの称賛を送りたい気持ちになった。戦士ならば出来て当然と思われがちだが、実際に気絶してまで手放さないというのは、口で言うほど簡単ではない。

 

 決着がついたと見えて、ミレイユを始めユミル達も近付いてくる。

 ミレイユの顔には勝利に対する賞賛のような色は浮かんでいなかった。だが、それを不満とは思わない。むしろ勝って当然と疑っていないからこそ、そういう態度だと理解している。

 

 ユミルは逆に鼻白んでアヴェリンとイルヴィを交互に見つめ、それから憐れむような視線を向けた。

 

「別にどういう勝ち方しようと構わないけどさぁ……。でも、アレってどうなの、って感じよね」

「武器の柄を握った事か?」

「そこもだけど、そうじゃなくて……。同族は地面を叩く為の道具じゃないって、予め教えてなかったのが悪かったのかしら」

「日本で長く暮らしすぎた所為ですよ、きっと。アキラにやってた事なら、ちょっと過激にしてやっても良いと思ってるんです」

 

 ユミルの軽口にルチアも加わって、アヴェリンは腕を組んでむっつりと睨み付ける。

 

「何でそうまで言われなければならないんだ。武器を手放さないなら、どこまで手放さない気でいるつもりなのか、確かめてやっただけだろう」

「それを()()って言うのが可笑しいのよね」

「まぁ……、相手からしても渾身の、自信ある一撃だったんでしょう。死角を突いて攻撃したつもりなんでしょうし、それを躱すでも逸らすでもなく、掴まれたっていうんだから、躍起になってしまったのかもしれません」

 

 ルチアの心わずかなフォローも、ユミルには鼻を鳴らすだけの価値しかないようだった。

 

「そこで動揺して力比べに持ち込んだのが、決定的な敗因よね。こいつ相手に力業でぶつかるのって、一番やっちゃいけない悪手でしょ」

「分かっていても、信じたくなかったんだろうな。通じないと理解していても、真っ向から受け止められるとは思っていなかった。防がれるにしろ、もっと別の何かを想定していたんだろう」

「それはそうでしょうねぇ……。あれじゃ丸っきり、大人と子供の差よ。意地もあったんでしょうしね」

 

 冒険者として名を上げているのなら、同時に自分の腕にも自信があるものだ。

 あの刺突は、その中でも自信を持った一撃だったのかもしれない。それを武技の差でなく、力業で止められたとなれば、平常ではいられない気持ちになるのも理解できた。

 

 力業で止めるというなら、力業で押し切る。意地というなら、あるいはそういう形で意地を発揮したのかもしれない。

 そうは思ったが確かな事とは言えず、聞いたところで答えるものでもないだろう。

 

 途中いらぬ横槍があったとはいえ、やるべき事は終わったので、手早く撤収しなくてはならない。これは前哨戦に過ぎず、これから森へと向かう筈のデルン軍こそが本命なのだ。

 そうと意気込んで、イルヴィもまた、他の冒険者と同様にユミルの薬を嗅がせた。そうして、やはり他の者達と同様の場所へと投げ捨てる。

 

 改めてミレイユへ向き直ると、上空から火の玉が近づいて来た。

 相当な速度が出ていて、鳥の滑空よりもなお速い速度でミレイユへと飛び込んでくる。あれがフラットロだと分かっていても心臓に悪い。

 

 ミレイユは手早く魔術を行使して、炎の防備を固めると、その胸に炎を抱き止めた。

 一時、ミレイユとその周囲を盛大に巻き込む火炎を巻き起こした。爆風の様なものが肌を焼いたが、ルチアが手早く霧散させ、周りの木材への延焼を防いでくれる。同時に、ミレイユを含んだ全員の焼けた肌も、即座に癒やしてくれた。

 

 ルチアには感謝を、フラットロへは恨みがましい視線を向け、偵察の内容へと耳を傾けた。

 

「なんかいっぱい来てた。いっぱい、いっぱいだ!」

「いっぱい? 全員、鎧は身に付けていたか?」

「つけてた。あと、旗もいっぱいあった!」

「……なるほど。ありがとう、フラットロ。またしばらくすれば動いて貰う事になる。それまで少し休んでいてくれ」

 

 優しく語りかけられながら、その背を撫でられ、フラットロは心地よさそうに顎を肩口へと乗せた。それをまたアヴェリンが羨ましそうに眺めながら、代表して尋ねる。

 

「鎧を付けた者が多勢、となれば兵でしょうが……。旗もあったというからには……」

「うん、将が出てきていたりするのかもしれない。つまり、この戦いには国の威信が掛かっている。今回の戦いで趨勢を決定付けたいと思っている証拠だろう」

「……やはり、そうなりますか」

 

 兵数を削らなければならない、という事は決定事項だったが、肝心の動員兵数までは分からなかった。千や二千で済ませるつもりかもしれず、どの程度の規模で攻め込むかまでは、冒険者にも知らされていなかった。

 

 旗が多くあるなら兵数の数も多いだろう、という安直な推測しか出来なかったが、そうとなれば急ぐ必要がある。例の伏撃に使えそうな平原には、予め待機しておかなければならない。

 魔力の制御を行えば、勘の良い者ならそれだけで気付けるものだ。接近しながらの幻術は、あまり多用できない、というのが通説だった。

 

 アヴェリンが考え付く程度の事は、当然ミレイユの考えの内だ。

 彼女はそれぞれに目を合わせると、その視線に意を汲み取って踵を返す。そうして肩で風を切り、いま来た道を戻り始める。

 

「――行くぞ、手早く配置に付きたい。軍の規模次第では作戦変更だ」

 



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一方的な闘争 その4

 ミレイユ達が例の草原まで帰って来た頃には、既に軍の先端が通り過ぎようとしていた。

 その規模は大きく、総勢で二万は超えていると思われた。

 最初から軍の先端を攻撃しようとは考えていない。奇襲を仕掛けるにしろ、一度の攻撃で全てを倒せるものではないからだ。

 

 大規模魔術を使えばその限りではないものの、姿を隠しながら戦うという事は、つまりミレイユが大っぴらに魔術を使えない事を意味する。

 デイアートに帰還した際、大袈裟に魔力を放ったので、その魔力波形はしっかりと記憶された筈だ。大規模な魔術を使うとなれば、練り込む魔力からその波形がどうしても広く伝わってしまう。

 

 ミレイユの関与を知らせたくないのは、神々だけでなく、エルフ達にとっても同様だ。

 彼らの優れた感知能力からすれば、帰還の際にミレイユの魔力波形を感じ取っている筈で、このような近場で波形を大きく広げてしまう魔術を使えば、一発でミレイユの関与が知られてしまう。

 

 軍の派兵とその壊滅に、ミレイユが関わっていないと思われるには、中級以下の魔術の使用に留めなくてはならなかった。

 ルチアやユミルにとってもそれは同様で、やはり当時から生きるエルフが残っていると考えなければならない以上、上級魔術を使わせると、その使い手からミレイユの存在に行き着く可能性は高い。

 

 ミレイユは目の前を通り過ぎていく軍を見据えながら、皮肉げな笑みを浮かべて一人ごちた。

 

「……なんとも酷い枷を付けての戦闘だな」

「ですが、完全な不意打ちならば、三割を削るのは難しくないでしょう」

 

 ミレイユと同じく、幻術で姿を隠したアヴェリンが、横に膝を付きながら言った。それに頷きながら、やはり幻術で姿を消しているフラットロの背を撫でる。

 ルチアとユミルはこの場にいない。立案した作戦が上手く運ぶなら、彼女らには追撃を仕掛けて貰わねばならなかった。その為、ユミル質はこの先で待機させていて、だからここには二人しかいない。

 

「兵たちの士気は高くない。隊列も整然としておらず、歩く姿からもやる気を感じられない」

「――はい。当初の予定どおり、後列への攻撃を決行するべきかと」

 

 アヴェリンからの賛同も得て、ミレイユは頷きを返した。

 やる気の無さだけでなく、そこからは練度の低さも窺える。

 流石に将のいる付近だけは別だったが、中列から後ろの兵たちの中には、欠伸を隠そうとすらしない者までいた。

 

 これは将が纏められていないだけ、という理由もありそうで、軍を率いているのは名将ではなく、お飾り大将の可能性も出てきた。

 そうとなれば、想定していない攻撃には滅法弱いだろう。軍の立て直しを計って反撃に移る技量などなく、それより逃亡を選ぶ公算は高く思えた。

 

「この場所が伏兵に適していない、と分かっているからこその、ああいう態度なのかもしれないが……。仮にいたとしても、斥候が数名いる程度、攻撃はないと高を括っているんだろう」

「そも前提としてエルフの戦い方は、森に立て籠もっての誘引戦術を基本としている、とユミルが聞き取っていました。数に劣るからこそ、地形を使わねば戦えないのでしょう」

 

 群生した木々と深い森は、それだけで人数を活用した戦闘には不向きだ。

 基本的に分断された小隊規模での戦闘を余儀なくされるし、命令の伝達も正確に伝えられない。

 森の中は結界術や幻術を駆使されていて、直進するだけでは最奥には辿り着けない様になっているらしい。

 

 それを思えば、これまでエルフが持ち堪えられて来た事にも納得できてしまう。

 だが同時に、森への焼き討ちも幾度となく試されて来たものの、エルフもその対策を講じていない筈もなく、これまで全て無駄に終わったらしい。

 

「二万という数字は、森を取り囲むには十分な数に思えるが、攻め込むには物足りない気もする。森の攻略への打開策が見つかったのか?」

「そうでなくては進軍しない、と思ってしまいますが……。それこそ、何か良い刻印が行き渡ったのかもしれませんし、少数精鋭の特別な部隊を用意しているやもしれません」

 

 その意見には頷けるものがあった。

 冒険者がそうであるように、一部の飛び抜けた戦力というのは、下位の冒険者を千人束ねたところで勝てるものではない。

 

 個の力量というものは、時として群に勝る。

 それはミレイユ自身が体現している事でもあり、だから隠し玉があるとしても不思議ではなかった。なかったのだが――。

 

「そういう奴は見受けられないな……」

「そうですね。実力者の風格は、隠そうとして隠し通せるものではありません」

 

 素人には隠せても、ミレイユ達ならば見抜けないという事はない。そして他と隔絶した実力者を置くのなら、護衛も兼ねて将の傍に配置している筈だった。

 前列にもそういった者はおらず、敢えて後列に配置するとも考え難かったが、例えばそれが正規兵でなかったり、身分卑しい者という偏向があるのなら話は別だ。

 

「いずれにしろ、最後尾まで見送ってから攻撃を開始する訳にもいかない。最低でも三割の損失を与えたいし、後列は全て排除するつもりでいたい」

「では、始めますか?」

 

 アヴェリンの言葉には、緊張も気負いも無かった。目の前の数万を――引いては七千程の兵を二人で相手する事を、全く問題と捉えていない。

 

 そしてそれは、ミレイユもまた同じだった。

 後列へ攻撃を仕掛けたとして、中列より前の軍がそのまま逃げるとは限らない。反転して攻撃してくるかもしれず、そうとなればユミル達の応援があるまで、二人で一軍を相手に取らなければならないのだ。

 

 そのリスクはある。

 だが、恐怖は感じなかった。この四人なら、一軍を相手にする程度、訳はないと理解しているからだ。幾つも想定できる不安要素さえ、一種の刺激でしかない。

 それは傲慢ではなく、自負だった。これまで数多の死線を潜り抜けてきた、という自負が、その自信の源泉となっている。

 

 腕の中で大人しくしていたフラットロが、開戦の気配を感じて、そわそわと首を巡らす。

 その背を軽く二度叩いて自由にさせると、指先を後列の先頭部分へと向け、一声鋭く声を発した。

 

「――行け、暴れろ」

 

 その一言で、フラットロとアヴェリンが矢のように飛び出す。

 実際には矢どころか銃弾よりも速い速度だったし、アヴェリンなどは地面を蹴りつけた勢いだけで、爆発したように土煙を上げた。

 

 突如草原で起きた爆発に似た衝撃が、陽動の働きをしてくれた。

 後列の兵は勿論、中列以前の兵もがそちらに目を奪われ、そして直後にフラットロが後列へと着弾し大爆発を起こした。

 それだけで軍を乱す混乱が起こる。

 

「何が起きた!!」

「伏兵か!?」

 

 騒ぎ立てているものの、現状の把握は出来ていない。

 普通なら一撃を与えた時点で、他の伏兵全員が身を起こして襲いかかるものだ。しかし未だに敵兵の姿は見えず、火の玉が一つ、自己をアピールするかのように頭上を旋回しているだけだ。

 

 その爆発を何が起こしたのか分からずとも、爆心地から飛び出した火の玉が健在と分かれば、それを攻撃しない訳にもいかない。

 

「あれは何だ! 精霊か!?」

「だが、なぜ精霊が攻撃してくるんだ!!」

「あれは使役されてるんだ、近くにそれをさせてる奴がいる!!」

 

 ミレイユは最初にいた位置から動かず、正しい分析に笑みを浮かべた。

 見破った事に驚きはないが、混乱著しい部隊を宥めるではなく、敵へ視線を集中させてしまっているのはいただけない。

 

 頭上で旋回する精霊に目を向けているせいで、同じく外回りから接近していたアヴェリンに気付くのが遅れた。そして、気付いた時にはもう趨勢は決まっていた。

 

「な、なんだぁ……!?」

「味方が、なんで!?」

「飛んでる……!?」

 

 アヴェリンが薙ぎ払った一撃で、数百の兵が一度に吹き飛び、頭上を飛び越えては落ちていく。それはさながら人が穀物になったかのような粗雑さで、次々と打ち上がっては悲鳴と共に落ちてくる。

 

 それに恐慌を来さない訳がない。

 逃げようと思えば、どこへでも逃げられる場所だが、それより早く後列をすっぽりと囲むように炎が円を描いて囲む。

 

 ミレイユが行使した中級魔術が逃げ道を塞いだ所為だった。

 後列にいた兵たちは更なる混乱で統率を完全に無くしたが、中列以前はどうするつもりか、と窺ってみれば、前進を急がせ逃げようとしている。

 

「逃げる方を選んだか……」

 

 兵の数が多くなれば、それを戦闘運用するにも時間が掛かる。

 単純に反転させれば戦えるものではないし、そもそも敵の正体は未だ不明で、しかも軍が相手ではない。鬨の声を上げて草原からエルフが姿を見せていたら、反攻作戦も取っていたかもしれないが、見える分では火の精霊と人影らしき何かしかいないのだ。

 

 そして重い鎧を装備している兵を、いとも簡単に吹き飛ばす相手が何者なのか、それを確認せねば戦えなかったろう。

 それを見極める為、そしてそれをする将が巻き込まれない為、まず距離を取るのは間違った判断ではない。

 

「その場で戦うつもりなら、尻に火をつけてやるつもりだったが……」

 

 全軍相手を取るには荷が重いという訳ではないが、姿を露呈させずに戦うのは難しくなる。だから、そうなる前に逃げ出す理由を作ってやるつもりだったのだが、その心配をする必要もなくなった。

 

 何者かが――恐らく将が、気炎を上げて付近の兵へ怒鳴りつける声が聞こえてくる。

 元より頼りなかった隊列を、更に乱しながら前進して行くのを見送りつつ、ミレイユも残党狩りに参加しようと腰を上げた。

 

 アヴェリンも未だ稲を刈るような気楽さで人を吹き飛ばしては、逃げようとして逃げ場のない兵たちを薙ぎ払っていく。

 そこへフラットロも加わって、更に爆発を起こして残りの兵たちを蹂躙する。

 

「これは出番がないかもな……」

「――だったら相手して貰おうかい」

 

 おや、とミレイユは声がした方へ顔を向ける。

 そこには冒険者らしき男女が、油断なくこちらへ剣を向けていた。

 何か用意があるのかも、と思っていたのは、この者達らしい。

 

 ミレイユ達が幻術で隠蔽されていたように、この者たちも似た手段で隊列を離れ、そして包囲から逃げ出していた、という事らしい。

 そうでなくては、ミレイユがここまで接近を許す筈もない。

 

 刻印を使う際には、魔術士特有の魔力波形も発せられないから、使用した魔術から何処に敵がいるかも察知できていなかった。

 あって当然、という先入観が招いた失態だろう。

 

 ――しかし。

 

「不意を打てたものを、わざわざ声を掛けてまで注意を向けるとはな。……余裕のつもりか?」

「それはお互い様じゃない? 前衛を失った後衛が、ここまで接近されて何が出来るっていうの? さっさと逃げれば良いのにねぇ」

 

 不敵に笑った二人に対し、ミレイユは鼻で笑って魔術の制御を始めた。

 



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一方的な闘争 その5

「しかし今時、武器も持たずに刻印一本で勝負とはね……。一途と言うべきなのか、それとも禁欲的だとでも言えばいいのか?」

「もっと分かり易いのがあるでしょ。武器を扱う才能が無いってだけ」

「おっと、それがあった!」

 

 二人の表情には余裕の笑みが浮かんでいて、明らかに嘲笑の中に挑発を含んでいた。

 魔術を使うなら刻印ありき、という常識は良しとして、見せ札として刻む筈の刻印が見えるところに無い時点でもう少し慎重になっても良さそうなものだ。

 

 それとも、事前に見せたあの『火円のアギト』が、使える魔術で最大規模のものだと思われたのか。それで底を知ったと看破したつもりなら、余りに早計だと呆れるしかなかった。

 あるいは、この距離まで接近すれば、何を仕掛けようと有利を取れると思っているかもしれない。実際、刻印の使用には蓄えた魔力を使用して発動する、という特性上、刻印の発光がまず目に入る。

 

 中級魔術でも上級魔術でも、その発動時間に差はないが、発動するまでには一瞬の隙は出来るものだ。全くの無反応、寸秒と掛からず発動できるものでもない。

 それならば、反応を見てからでも対処できる、という自信や自負があるのだろう。

 だが、その自信にわざわざ付き合ってやるつもりもなかった。

 

 ミレイユは、それこそ寸秒と掛からず制御を終えると、『念動力』で二人の動きを拘束した。

 刻印が発動する予兆は見えず、しかし手から魔力光が発せられたと思った時には、もう遅かった。

 

「――なっ!?」

「こ、こんな……、何で! いつの間に……!!」

 

 二人の動揺は顕著で、いっそ滑稽だった。

 完全に劣った相手と見下していて、そこからの反撃だった事もさることながら、更に今、身動き一つ出来ない事が信じられないようだ。

 

 顔や首筋に見える刻印が、どのような効果を発揮するかミレイユには分からないが、しかし彼らが自信を持つだけの、効果や威力はあるのだろう。

 イルヴィがそうであるように、腕に自身のある者は、ここぞという時に使ってこその刻印も持っている筈だ。

 

 今もそれを使って拘束から逃れようとしているのかもしれないが、刻印はただ光を発するだけで、拘束から抜け出す助けにはなっていない。

 

「ぬぐぁぁぁあああ!!!!」

 

 力いっぱい腕を広げようと試みているが、震える程度が関の山で、全く拘束から抜け出す気配は見えなかった。歯を剥き出しにして、額には血管が浮かぶほど力を込めているのだが、ミレイユが行っている拘束には、小指の爪ほどの大きさすら広げられていない。

 

「何だ、これは! どうなってるんだ、『念動力』の魔術じゃないのか!?」

「嘘でしょ!? あれって小さな物しか持ち上げられない、チンケな小手先の技じゃなかったの!?」

 

 男の驚愕に、女までつられて叫び出したが、その余興に付き合ってやるほど暇ではなかった。イルヴィを酒場で気絶させた時の様に、今度は逆側の左手で念動力を行使して、女の頭を素早く揺らす。

 それだけで脳震盪を起こし、爬虫類が上げるような泣き声で呻いて気絶してしまった。

 

「……なんだ、何をしたんだ!?」

「ご明察のとおりだ。『念動力』を使っただけだが」

「馬鹿な、そんな筈がない! あんなチンケな魔術で、この俺を拘束し続けられる筈が……!!」

「事実のみを受け止めろ。この場合、私が何の魔術を使ったかは重要か? まず無力化されている事実を見ろ。お前の相棒は既に意識を奪われているし、お前が抵抗すれば、その相棒にも危険が及ぶぞ」

 

 ミレイユが冷ややかな視線を向けると、男は息を詰めて顔を背けた。

 その向けた先には、相棒と見られる女冒険者の姿がある。力なく頭を下げ、脱力された身体が無理に持ち上げられている状態は、操り人形が動き出す直前のようにも見えた。

 

 男は憐憫の眼差しを向けた後、ミレイユへと向き直って敵意を剥き出しに吠える。

 

「――くそっ!! 呪われろ、呪われしまえ、くそったれ!」

「おっと、お行儀の悪い子がいるな。自分の立場を理解しているか? それとも、理解させて欲しいのか? 面倒事は増やさないで欲しいんだがな……」

 

 ミレイユが左手をわざとらしく持ち上げ、分かり易く蛇口を捻るように動かす。

 それと連動して女の右腕が持ち上がり、有り得ない方向へと曲げられ、ボキリという呆気ない音を立てて折れた。

 

「やめろぉぉぉおお!! やめやがれ、くそったれ!! この……ッ、絶対に後悔させてやるからな!!」

「……もう一本、追加だな」

 

 女の折れて垂れ下がった腕とは逆に、今度は左手を持ち上げ、また分かり易いように捻る動きを見せると、男は身体を前後に振ろうとする。

 

 拘束から抜け出そうと必死なのは分かるが、結局首から上が動いただけで、やはり抜け出す事は敵わない。

 男は憤怒の形相を浮かべ、ミレイユを睨みつけながら唾を飛ばした。

 

「やめろ!! この悪魔め! 身動きできない女をいたぶって、そんなに楽しいか! くそったれのくそ女め!!」

「お前の、その口の悪さが事態を悪化させてると理解できないか? お前は女が怪我する事に激高した。お前にとって価値ある存在だと示したんだ。お前が従順になるまで、私はこの悪逆をいつまで続けなきゃならない?」

「ふざけやがって……! ふざけやがって、このクソアマが!!」

「残念だ」

 

 ミレイユが顔色一つ、声音一つ変えずに手を捻って、それで女の腕が歪な方向へと折れた。

 気絶していても痛みは伝わるもので、苦しげな声が上がって、それからは途切れ途切れに呻き声が漏れ出す。

 

「やめろ、やめてくれ……! 何でこんな事されなきゃいけねぇんだ! 俺はお前の仇かよ!? 勝負を挑まれたら、勝つか敗けるかして、それで終わりで良かっただろ!」

「そうはいかない。お前に口を割らせなくてはいけないからな」

「なんだ、何を言ってる……!? 割らせるモンなんて持ってねぇ! 俺たちゃ会った事だってないだろうが!!」

 

 この男に限らず、ミレイユに冒険者の知り合いなど居ない。

 特に人間に関しては、その寿命から考えても有り得る話ではなかった。だからミレイユが聞きたい事は、男個人にではなく、その背景に対してだった。

 

「何で、お前はここにいる?」

「は……?」

「あぁ、今のは聞き方が悪かった。……冒険者のお前が、なぜ軍の中に紛れて行動しているのか聞いているんだ。まさか行く道が一緒だからと、その後ろについて歩いていた訳ではないんだろ?」

「なに言ってんだ……。俺が冒険者だって? 俺達はそんなんじゃないし、それならどこを歩いていようと勝手だろ……」

 

 男の口調は力なく、また動揺が見え隠れしていた。

 切羽詰まった状況で、冷静にもなれなければ、上手い嘘をつけるものではない。こういった場合、有効なのは沈黙を貫く事だが、不興を買えば相棒が傷を負うとなれば、それも難しい。

 

 契約上、受けた依頼の内容を、勝手に話せないのは理解できる。

 だから口を割らせなくてはならないのだとしても、ここにユミルが居ない以上、上手くやって聞き出すしかなかった。

 

「お前、名前は……?」

「……あ、うぅ……!」

 

 男は目を逸らしては、黙して語ろうとしない。

 一般的に自白を引き出そうとする場合、高圧的な態度は良くないという。その様な態度は返って心を閉ざしてしまい、質問すらままならず、更には嘘を吐いて逃れようとすらする。

 

 必要なのは、信頼関係と傾聴姿勢、そして互いの望みの合意を目指す事にある。だから、その前提で尋問しようとした場合、ミレイユのやり口は既に最悪の方向で間違っていた。

 頑なになって口を閉じるのが関の山で、初手で拘束はまだしも攻撃は早計とすら言える。

 

 だが、二人揃って好きに喋らせる状況だと、返って話は長引くし、望む結果を得る事も遅くなったろう。ミレイユにゆっくりと時間を掛けられない事情がある以上、無理にでも吐かせるしか方法はなかった。

 

 名前を聞き取るのが、信頼関係の第一歩、と聞いた事もある。

 だが、それを実践しようとするには遅すぎたし、そもそも間違いだったと今更気付いた。

 

「あぁ、いや、やはり名前は言わなくていい。……ところで、相棒は大事か?」

「……やめてくれ」

「私だってやりたくて、やってるんじゃない。出来るなら即座に二人とも気絶させて、この場を去りたかった」

「だったら、そうしてくれりゃ良かったろう……ッ!」

 

 男の声音には泣き声が混じっていて、懇願しているようですらある。

 だが、そうするつもりなら、初手からそうしているのだ。ミレイユが気になっているのは、軍の行進に冒険者が紛れている事にある。

 

 どこまでギルドが関わっているのか、どれほど国と癒着しているのか、そこを確認できる機会があるなら、逃す訳にはいかない。

 

 本来は独立独歩の姿勢が強いギルドである。

 それが国の下部組織のように動いていて、有望な冒険者を国の尖兵として使うつもりがあるというのなら、作戦を根底から変えなくてはならなくなる。

 鎧袖一触に出来るからと、適当に投げ出す事はできなかった。

 

「冒険者にとって、打撲、骨折、切り傷刺し傷は怪我の内には入らない。……そうだろう?」

「う、うぅ……!」

「傷は簡単に魔術で癒せる。元々傷があったなど、分からなくなるほど綺麗に治るものだ。今の傷だって、適切な処置があれば問題なく癒えるだろう」

「だから、何だ……。だからどれだけ傷付けてもいいだろう、と言いたいのか……!?」

 

 信じられないものを見るような目付きで男は顔を向け、そしてミレイユは首を横へ振る。

 

「綺麗に治すには、適切な治癒をされなくてはならない。このまま、この女に『自然治癒』を掛けたらどうなると思う? 歪な形で治された腕は、以後、身体がそれを正常な状態だと認識する。元の形に治すのは簡単ではなくなるぞ。冒険者は元より、日常生活もままならなくなる」

「馬鹿、馬鹿な……! そんな……、そんなこと……! 正気じゃない! 本気でやるつもりなのか!」

「やるかどうかは、お前の態度次第だ」

「いや、嘘だ……! ハッタリだ! 火炎の使う術、念動力、その二つを持ってて治癒の刻印まで持ってる筈がねぇ!」

 

 それは真実を見抜いたというよりは、そうであって欲しいという願望に思えた。

 実際、それに縋るしか、最早男に残された道はないのだろう。だが、ミレイユはあっさりと手の中に治癒の光を出現させ、見せびらかすように腕を振る。

 

 男の青褪めていた表情が、絶望に凍り付いたのが見えた。

 

「これが本当に『自然治癒』の光なのかどうか、お前には判断つかないだろう。物は試しだ、女に使ってみるか?」

「やめろ! やめて……くれ……」

「素直に話を聞かせるって事で良いんだな?」

 

 男の力なく垂れ下がった頭が、僅かに上下した。

 返事をする気力もなく、また目を合わせたくない、という気持ちの表れだろう。言質が取れたとなれば、ミレイユとしてはそこに文句を付けるつもりはなかった。

 

 実際、ミレイユにそこまでする気は無かったので、これでも強情に否定されたら困る事になっていた。あっさりと前言を翻せば、更に男を調子づかせる事になっていたろうし、自白を引き出すのは更に遅くなっていた筈だ。

 

 だが、そうはならなかった。

 安堵の息が分からないよう、こっそりと息を吐き、ミレイユは制御を解いて、手の中から治癒の光を消す。そうして腕を組み直して、男へ一歩近寄った。

 

 遠くでは相変わらず、フラットロによる爆音が響いていたが、打ち上がる人の数は随分と減った。『火円のアギト』の効果もそろそろ切れる頃だ。手早く済ませてしまわなくてはならない。

 ミレイユは尋問を開始するべく、男へ挑むような目付きで睨みつけた。

 



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一方的な闘争 その6

「……それで、何を知りたいんだ」

 

 力無く言ってから、男は顔を上げて怯えた表情のまま、ミレイユと女冒険者を交互に見る。

 

「けど、約束してくれ。話し終えたら、解放してくれるんだろ? そうなんだよな?」

「それは、お前がどれほど従順かによる。話が早く終われば、それ次第で解放しよう」

「……分かった」

 

 男が青い顔で頷くのを見てから、ミレイユは改めて尋ねた。

 

「私が気になったのはな、お前たち冒険者が軍事行動に関与している事だ」

「いや、違う。俺は冒険者じゃない……」

「事ここに至って、そんな嘘をのたまう胆力は褒めてもいいがな」

「――違う、本当に違うんだ! 俺達はギルドに所属していない!」

 

 ミレイユからしても、まさか本当に嘘を吐いているとは思っていなかった。別の事情があるのだろうと察していたが、しかしこの男女の身体には刻印がある。

 刻印がある者すべてが冒険者である訳でもないし、魔術という技術の敷居が低くなった現在、金さえ払えば誰でも刻印を刻む事ができる。

 

 だから、刻印があるなら即ち冒険者だ、というつもりはなかった。そして冒険者ギルドに所属していない、という発言もまた、事実な気がした。

 しかし、同時に真実を話してもいないだろう。

 

 冒険者に限った話ではないが、その道に通じると、自然とその界隈の貫禄や雰囲気というものが出るものだ。冒険者と接する機会の多かったミレイユからすると、この男女からは確かに冒険者の匂いを発している。

 

 刻印があるからとミレイユの嗅覚が鈍ったのか、それとも他に要因があるのか。詳しく訊かねばならなかった。

 

「ギルドに所属していない。それは事実だとして、例えば足抜けしたばかりとか、そういう話なのか?」

「……あぁ、引退した。引退したばかりだった。俺達ぁ、それなりに歳を取ったし、貯蓄もあったから、腰を落ち着かせようと……」

 

 なるほど、とミレイユは心中で頷く。

 それならば、ミレイユの直感とも矛盾しない。言われて気付いて見てみれば、二人の冒険者は三十の半ば程に見える。男の方は引退を考える年というには若すぎる気がしたが、女性の方は出産もある。この世界の適齢期を考えれば、遅すぎるくらいだ。

 

 これまで冒険者として多く実績を積んで来たのだろうし、荒事から身を引いて、都市内の安全な仕事で暮らして行こうと考えたとしても、別段おかしな話ではない。

 だが、その話を信じるなら、やはり一つおかしく思える部分が出て来る。

 

「引退したんだろう? 荒事を止めたくて――安全に暮らしたくて、冒険者を辞めたんじゃないのか? それで何故、軍と同行する事になるんだ?」

「金払いが良かったからさ。それに危険があるなんて考えちゃいなかった。魔族相手に遅れを取るなんて思ってなかったし……それに所詮、何かあった時の予備軍だ、積極的に投入するつもりも無いと分かってた」

 

 これもまた、嘘という訳ではないようだった。

 実際、心の折れた男に嘘を吐くつもりなどなかっただろう。その話には信憑性が感じられる。

 

「……だが、引退冒険者の利用か……。これも違約ではないだろうが、相当なグレーゾーンだろう。ギルドが知れば良い顔しないだろうし、良識ある者なら、やはり取らない行動だ。頼む方とて良識がない」

「新居に金を使い過ぎて、今後の生活に不安が出てきたんだよ。仕事だって、まだ新しいの決まってねぇし……」

 

 何をやってるんだ、という言葉が喉元まで出掛かり、ミレイユは咄嗟に奥へとしまい込んだ。

 それで傭兵の募集か何かに飛び付いた、という事なのだろう。軍の財布はいつだって紐が固いと思っていたが、野営地で使っていた冒険者を思えば、案外そんな事もないのかもしれない。

 

 あるいは、軍上層部は森の攻略に、それだけの見返りが得られると思っているのだろうか。

 つまり、金程度なら好きなだけ使っても構わず、魔族や森さえどうにかなれば良い、と。

 

 ――ここから完全に憶測になってしまう。

 軍内部の――あるいは王党の考えなど、いま考えて分かるものではない。努めて頭から締め出し、ミレイユは考えを元に戻す。

 

 この男は冒険者ではなかったが、しかし最近までは冒険者でもあった。

 それならばギルド内部の事情についても、全くの無知という訳でもないだろう。

 昨今の、国や軍に対して親密に見える関係についても、何か知っているかもしれなかった。

 

「ところで聞きたい。国はいつからギルドを傘下に置いたんだ?」

「別に置いてねぇ……。ギルドは国から独立してるし、変に融通利かせたりしてねぇ筈だ」

「本当に? 前線基地とも言うべき五つの野営地、その防備を兼任しつつ偵察、斥候を冒険者が担っていただろう? あげく物資の輸送までしている。そして引退したばかりの冒険者まで雇用した。本来なら、いずれもギルドは請け負わないし、許さない仕事だ」

「……そう言われたら確かにそうだが、ギルドの方針なんて俺が知るかよ。別に一級冒険者だった訳でも、ギルドの幹部だった訳でもねぇ。ギルド運営に何か方向転換があろうと知るもんか。付かず離れず……というには近すぎるが、いつからこうだったかなんて、俺だって知らねぇよ……」

 

 男の声音と視線から、嘘は言っていないと判断できた。

 ならば、王国優位の気風は最近できたものなのだろう。違和感を持ちつつも、仕事は張り出されているし、受けても咎められないから良しとしていた。そういう事かもしれない。

 スメラータは他ギルドから移ってきたから正常な認識を持っていたが、オズロワーナで長く冒険者をしていた男が頓着しないというのは、根が深い気もする。

 

 ここ数年という、ごく最近から起こった事らしい、というのなら、ミレイユを睨んでの運用という推測はあり得る。しかし冒険者の運用は、ミレイユを森から遠ざける要因ともなり得るし、そうであれば神々の思惑と矛盾するのだ。

 

 今回ミレイユがエルフを助力する決意と実利があったから、こうして助力する事になったものの、そうでなければ見捨てていたかもしれない。

 ここを逃げても別の矢が放たれるだけ、という結論に至ったとはいえ、しかし実利が考えに無ければ、危険を冒さず一の矢を逃しても良かった。

 

 この矛盾については、まだ少し考える必要がありそうだった。

 いっそ被害妄想と捉えても良さそうな懸念だが、神々を相手にするなら、そのぐらい慎重であった方が良い。

 

 だがやはり、単純に冒険者ギルドの介入は面倒事にしかならないので、付け入る隙を与えない、という方針に変更はなかった。

 ――聞きたい事は聞けた。

 

 ギルドの運営方針が昔ほど、独立維持を考え無くなったからには、戦争への参加も有り得ると分かった。十割の参加もないだろうが、ゼロではない。ギルドは制止せず、むしろ積極的参加を呼び掛ける公算が高い、と見るべきだ。

 

 男から踵を返して離れようとしたところで、ミレイユは最後の質問を放つ。

 

「……軍は本気で、森を攻撃するつもりだと思うか?」

「末端の傭兵が、軍の作戦なんか知るもんか。だが、俺は本気だと聞かされていた」

「それは、誰から?」

「誰からっていうか、兵士達の噂話さ。今回ばかりは本気らしい、っていう……。単なる噂話が聞こえてきたっていうだけで……」

 

 本人が言うとおり、末端の傭兵が知れる情報など、その程度だろう。

 ミレイユもそれはよく知っているから、明確な返答を期待して質問した訳ではなかった。だが、少なくとも兵たちの間では、本気だと噂される程度には本腰を入れてある。

 

 ふぅん、と味気ない返事をして、ミレイユは最後の問いを放った。

 

「もし『魔王ミレイユ』が現れたら、お前は戦おうと思うか?」

「……馬鹿にしてるのか? ありゃ二百年も前の話だろ?」

「だが、中には二百年の時を経て再び現れる、という話を信じてる奴もいた。お前個人の見解が聞きたい」

 

 男は青い顔に訝しげな表情を付け加え、数秒考え込んでから答えを返した。

 

「……いや、俺は信じてないし、例え現れたとしても、出て行こうとは思わねぇ。命が幾つあっても足りねえよ……」

「……そうかもな。他の者も同じ意見だと思うか?」

「大抵はそうだろうが……中には飛び出す命知らずはいるだろうな。特に一級冒険者なんかは、そっちの類いで、頭のネジ外れてる奴が多いし……」

「なるほどな……」

 

 返答に満足して、ミレイユは男へ背を向けた。

 それを合図として拘束を解き、男女共に解放してやる。襲ってくるとは考えていなかった。傭兵に忠誠心など存在しない。このまま見逃せば、ミレイユが軍に仇なすと分かっていても、それで武器を抜くより自身の安全を計るのが傭兵というものだ。

 

 ついでに折った両腕を治してやれば、文句など言うまい。

 弱肉強食は冒険者の不文律だ。弱い方が悪いし、敗ける方が悪いのだ。

 

 アヴェリンと合流しようと思い、今はもう事後処理くらいしか残っていない襲撃はどうなっているか、と首を巡らせたところで、向こうの方からやって来た。

 

「――ご無事ですか」

「あぁ、何事もなかった」

「……アイツらは?」

 

 男が気絶したままの女に寄り添い、その身体で覆うように庇ったのを見て、アヴェリンは剣呑な視線を向けた。

 ミレイユの命令があったから作戦の方を優先させたが、本来なら傍に立っていたかったに違いない。ミレイユを襲う輩なら、何人たりとも許さないアヴェリンだから、今すぐにでも頭をかち割りたい気分だろう。

 

 しかし、質問の内容に下手な嘘を交えるでも、時間稼ぎをしようともしなかった男には、約束した安全を与えてやらねばならなかった。

 

「いい、気にするな。情報も幾らか聞けた。有用な情報もあったから、生かして帰す」

「……然様ですか」

 

 アヴェリンの声音は納得しているようには見えなかったが、ミレイユの意に反してまで抵抗するつもりはないらしい。

 

「部隊の方は壊滅しました。今はフラットロが見張りとして残っていますが、炎に囲まれ戦意喪失しているものが多数であり、向かって来ていた者は全て沈黙させてあります」

「ご苦労、よくやった」

「勿体ないお言葉です」

「こちらの目標は達成できたと言えるだろう。後はユミル達が上手くやってくれれば、後が相当楽になる。そちらは任せて、私達は手筈通りの位置で待機だ」

 

 アヴェリンが実直に礼をして、ミレイユは頷いてから歩き出す。

 そうして手振りの一つで火円を消すと、それに気付いたフラットロも戻って来る。ミレイユの頭上を何度か周回し、ミレイユが魔術で火の防御を整えると、その腕に収まってきた。

 

 そのまま場を離れようとしたところで、後ろの男女へ向かって顔を向ける。

 

「拾った命を大事にしたいなら、これから軍と協力するのは止める事だ。違約金の発生があろうと、すぐにこの件から手を引け」

「な、なん……、何をするつもりなんだ……?」

「それはまだ未定だ。だが、関わり続けるつもりなら、今回のような幸運には恵まれない。拾った命は大事にしろ」

 

 それだけ言って、改めて身を翻す。

 男から身震いするかのような雰囲気が伝わってきたが、それ以上何も言葉を発しなかった。ミレイユもそれきり興味を失くし、予め決めてあった所定の位置へと移動するべく地を蹴った。

 



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一方的な闘争 その7

 ユミルにとって、それは至極簡単な仕事だった。

 逃げ落ちてくる兵どもを、更に待ち伏せて数を減じてやるだけ。それをルチアと共に行うとなれば、尚のこと楽な仕事だった。

 

 ただし、やはり大規模な魔術は使えない。

 特にユミルが扱う魔術の多くは、かつてミレイユと共に旅をしていた時代であっても、目にする事は稀なものだった。

 

 死霊術がまさに顕著で、魔術士ギルドでは使用するのは勿論、学ぶ事すら禁じられた魔術とされていた。だから、これを高度に扱う者がいるとなれば、それを知るエルフからすると、ユミルが近くにいる事を示唆してしまう。

 二百年前の戦争で生き残った者の中には、ユミルが死霊術を使う場面を、数多く目撃しているのだ。

 

 ――何事も扱い方、使い方次第だと思うけどね。

 

 ユミルは遠くで爆音と砂煙が巻き上がるのを見ながら、胸中で一人ごちる。

 死霊術の歴史は古い。それこそ、現在の有史以前より前から存在し、ユミルの一族はそれを上手く利用していた。

 

 対象の魂を利用する事から、禍々しく悪の象徴のように思われがちだが、実際は違う。魂を利用して生まれる存在は、その魂が汚染されてしまうと感じるかもしれない。実際は、全くの事実無根だ。

 

 だが得てして人間は見たものだけを信じてしまいがちだし、その本質まで見極めようともしない。それ以上を必要としていないのだ。

 だから迫害は無くならないし、簡単な印象操作で禁忌とも異端ともされてしまう。

 ――ユミルの一族(ゲルミル)が、そうであったように。

 

 思考が後ろ向きになりそうになって、ユミルは無理にでもミレイユの顔を思い出して、思考を揺り動かす。その印象操作を率先して行っていた神々に対する恨みは深いが、今更ここで邪気を発しても仕方ない。

 

 既に作戦も始まっていて、遠からず敵も逃げてくるだろう。

 下手な考えをしている場合ではなかった。

 

 現在ユミル達がいる場所は、森へと続く一直線の道の傍、打ち捨てられた家屋の影に隠れていた。家屋自体、薄汚れていて苔生しており、その建物に身を寄せているだけで(むせ)るような思いがする。

 

 大人数が隠れられる場所でもなく、ユミルたち二人が身を寄せて、それで何とか直接目視は難しい、という程度でしかない。下生えもあるが、土に栄養がないせいで禄に生え揃わず、だから身を隠すには向いていない場所だった。

 

 しかし幻術を用いていれば、この程度の瓦礫であっても十分な遮蔽効果を生み出せる。

 混乱した部隊へ不意打ちと追撃を打てば良いだけとあって、大袈裟な隠蔽工作は必要ない。どれ程の人数がこちら側へ流れてくるか不明だが、ミレイユが決行を指示したというのなら、この四人で対処できる数だと判断していた。

 

 だから、その部分については不安を抱いていないのだが、すぐ傍で控えていたルチアが心配そうな声で顔を覗き込んで来た。

 

「どうしました、何か怖い顔してましたけど……。まさか、緊張なんてらしくない真似、してる筈ありませんよね? ……何か懸念でも?」

「いやね、アタシはいつだって可愛い顔してるでしょ」

 

 わざとらしくシナを作って笑みを浮かべたが、ルチアの反応は芳しくない。困ったような笑みを浮かべて首を横に振った。

 

「……本当なら、そこでもっとキレのある返しがあると思うんですけどね。らしくないじゃないですか」

「……かしらね? アンタにアタシの何が分かるのよっ、とかヒステリーに喚き散らした方が良い?」

「求めてませんし、よりらしくないので止めて下さい。そんな面倒なこと言い出したら、氷漬けにして放置して行きますからね」

「あら、酷いコト……!」

 

 楽しげに一頻(ひとしき)り笑ってから、ユミルはここで初めてルチアの顔を見返した。

 

「まぁ、やっぱり色々考えちゃうじゃない? こうして、ただ待っているだけだと尚更ね。私たちは神々の思惑を看破している。……している様に見える。でもその為に、自ら多くの枷を嵌めたわ」

「必要な事だと納得したと思ってましたけど。私が言うのも何ですけど、エルフにミレイさんの存在を知られると、絶対面倒な事になりますよ」

「信仰を捧げられる事を抜きにしても、やっぱりそう思う?」

「思います。いっそミレイさんをエルフという事にして、大っぴらに感謝しても良いようにしよう、とか言い出すぐらいなんですから。現在の追い詰められた状況を鑑みても、エルフ族の主軸に置きたいと考える人は、きっと出てきます」

 

 断言するルチアに、ユミルは皮肉げな笑みを向けた。

 

「アンタの父親みたいに?」

「間違いなく、その急先鋒でしょう。今から頭が痛いですよ、きっとリーダーかそれに近い役職に就いているでしょうし、それなら会わないで済む訳ないですから」

「それはまた、ご愁傷さま。まぁ、だからさぁ……どこまでが計略なのか見えなくなっちゃった、っていうのがあるのよねぇ」

「それが怖い顔をしてた理由ですか」

 

 ユミルはあっさり頷いて続ける。

 

「裏の読みすぎ、穿ち過ぎ、そういう部分があったんじゃないか。それを今更ながらに思い返してたのよ。神々は有能だけど、全能じゃない。それは分かってるコトよ。でも、例えどこかで転ぼうと、別のどこかで取り返せるよう手を打ってる」

「それがどこまで及んでいるか分からない、ですか。現在の枷を嵌められた状況も、その手の一つと言いたいんですか?」

「考え始めるとキリがないけどね……。エルフに知られたくないだけじゃなく、ギルド介入の隙を与えたくないからこその枷でしょう? 鍵の掛かってない枷だし、いつだって外せるものだけど……でも、不意打ちを狙うには、狙いをつけてる、その背中を打つコトこそ有効よ」

 

 その言葉に、ハッとして忙しなく周囲を見渡す。

 言った本人のユミルが身動きしないのを見て、既に警戒済みだと理解したらしい。幻術は見抜くに難しい術ではないが、逆に使っていると認識している前提で探さねば見つからないものだ。

 

「私達は狩人と思い込まされてる獲物、と言いたいんですか?」

「いつだって油断はするな、って言いたいの。私達は神々が仕組んだ計略の渦中にある。いつだって不利な状況にいるんだと、肝に銘じておく必要があるわ。それが有利と思える状況であっても尚更ね」

「……心しておきますよ」

 

 ルチアが深妙な顔付きをして言うと、ユミルはちらりと笑う。

 

「だからって、あんまり疑心暗鬼になっても困るんだけどね。挑むべき状況で立ち止まられても困るもの」

「――それじゃ、今はどっちの方ですか? 挑むべきですか、それとも警戒すべきですか?」

 

 ルチアが砂塵を巻き上げながら、地を踏む音を響かせる集団を見据えながら、悪戯を仕掛けようとする子供のような笑みを浮かべた。

 鼻で笑って、ユミルは自身の肩でルチアを小突く。

 

「やる以外、選択肢ないでしょ」

「では、手筈どおりに」

「えぇ、お願いね」

 

 ミレイユから伝えられた作戦は、実に単純だ。

 使用する魔術を中級以下に絞って、逃げてくる兵達を半分に減らす、というものだった。方法については一任するとあって、それ以上の詳しい指示はなかった。

 

 聞くだけだと余りに投げやりな適当なものに聞こえてるが、これはユミル達の実力を信用しての事だ。これが難しい程の大群であったなら、そもそも攻撃は中止していて、ミレイユが合流して別の作戦へ変えるようになっている。

 

 敵軍が逃げてきたというのなら、問題なく作戦は実行できる規模でしかないし、そしてユミル達なら中級以下の使用、という枷を嵌めても結果を出せると思われた。

 それならば、ユミルとしてはその期待に応えるしかない。

 

 そして巻き起こる砂塵の大きさから、その軍隊規模は計る事が出来る。

 ユミルの目測が正しければ一万を超える程度、それより多かったとしても、更に二千を加える程でしかない。

 

 総勢二万程の軍の、約三割を削り取った残りが、こちらへ逃げて来ている。ここから更に半分まで減らすのがユミル達の仕事だった。

 既に森へ攻め込むつもりはないだろう。後続が無事逃げてくるかもしれない事も加味して、一度野営地へ向かいながら後続を待ち、合流できたら部隊の編成なども行おう、などと考えている筈だ。

 

「一度奇襲に遭ったからには、他にもまだ伏撃があるかも、って考えるところだと思うけど……」

「見渡しの良い場所で、ミレイさん達も攻撃した筈ですものね? 他も安全に通り過ぎれる、とは考えていないと思いますが……」

「警戒は強い筈……。少なくとも前列、そして将の周囲は防護の魔術を使っていると見るべき。そうよね?」

「えぇ、そう思います。外側から打ち込むだけでは、効果を得られないでしょう。削れる人数は少数に留まり、その多くを逃がす事になります」

 

 防護の魔術は、術者本人か、あるいはその周囲に展開されるものが多い。そして集団で用いれば、さながら魚鱗のように術同士が組み合い、中央まで効果を及ぼすのが難しくなる。

 中級以下の魔術のみ、という枷がなければ、それを打ち破る方法は幾つもあるのだが、それをここで愚痴っても仕方がない。

 

「兵に直接攻撃するのでは効果が薄い。……なら、する事は一つよね」

「はい、こちらで上手くやりますので、崩れたところをお願いしますよ」

 

 ルチアが気楽に請け負って、それで魔術の制御を始めた。

 迫る軍勢の地響きは強くなり、既に目視するには十分な距離まで近付いて来ている。そして、ユミル達に気付いた素振りは見えない。

 

 もし気付いているのなら、盾として部隊を動かすにしろ、魔術が放たれる前に攻撃を加えるなど、何かしらの動きを見せる筈だ。

 しかし、軍は脇目も振らず前進を続けているように見える。

 

 攻撃を受けてから十分な距離を逃げて、後ろからの追撃もないと安心して来た頃だろうが、将が馬鹿でない限り、ただ逃げるという事はしない筈だ。

 追撃も伏撃も未だなく、畳み掛けてくる戦力も見えない事に、違和感も持っている筈だった。

 

 その緩みと警戒の(はざま)にあって、必死に頭を巡らせているだろう。

 そして、そこへユミル達は攻撃を仕掛ける。

 だが攻撃とは、何も兵たちのみを対象にしたものではない。

 

 ルチアの制御が終了し、いつでも行ける、という合図を受ける

 ユミルはそれに首肯を返し、背を叩いて魔術の発動を指示した。

 



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一方的な闘争 その8

 モデスカルは、オズロワーナ貴族の伯爵家、誉れ高きビストイアの三男だった。贅肉をたっぷりと腹に乗せた三十代で、誰もやりたがらない今回の攻勢作戦の責任を預かる事になった。

 デルン国王のご下命あって森を攻め落とさなければならなかったが、何しろ軍として実績ある将軍の誰もが、失敗に終わってきた相手である。

 

 いつまで森にかかずらっているつもりだ、という叱責に際して、誰もが名を上げられなかったのは当然だった。そして同時に、もしも自分が、と考えた事はある。

 

 態度ばかりで不甲斐ない、軍閥貴族などに任せているからこうなる、と酒の席で大いに煽った事もあった。だが所詮は酒の席の事、軍を率いた経験もないモデスカルに、そのような大任を預けるなど考えもしていなかった。

 

 ビストイア家はオズロワーナの経済、取り分け商権の扱いで成り上がった家だ。

 露店の開業、あるいは見世物の回業で使う土地、場所代を取り扱う事で利益を得てきた。貿易都市だけあって、その利権から得られる富は膨大で、だから何もせずとも生きていけた。

 

 家を継ぐのは長男で、その仕事も既に父から多く受け継いでいて、その代役を務める場合でも次男がいる。幼い頃ならまだしも、既に長男に子も出来ている現在、今更三男の価値など無い。

 本来なら家を出て自分なりの生活基盤を作らねばならないのだろうが、ビストイア家が裕福である事は、果たして幸だったのか不幸だったのか。

 

 働かず食わせるだけの男が一人いたところで、莫大な富の前では一欠片の痛痒も感じなかったのだ。無論、父は元より長男も働くよう言ってはいた。

 しかし母はモデスカルに甘く、働かずとも生きて行けるなら、それで良いでしょう、と庇護する立場だった。そして、モデスカルの生活は質素なものだ。

 

 賭博をする訳でも、交友関係で身を崩すでもなく、単に日がな家で庭木の世話をしながら、食べて飲んでという暮らしをしているだけだ。

 その土いじりという貴族に相応しくない趣味と、腹に蓄えた脂肪が気に食わないのか、常に父はモデスカルを外に出す機会を窺っていた。

 

 基本的に温厚なモデスカルだが、酒が入った時だけは別人の様になる。

 気が大きくなり、普段は胸の内に溜め込んでいる様な事さえ口にしてしまう。今回起きた国王のご下命にて、モデスカルなどという男が、今回の作戦に指名されたのは、一重にそれが理由だった。

 

 幾度と行われた魔族と人間の戦いは、常に人間側が勝利して来たものの、最も忌むべき森を攻略出来ていない。

 いつも代々の王が望み、そして攻勢を仕掛けて来たが、いずれも失敗に終わっていた。

 それはモデスカルよりも、余程有能な将軍が行っていても無理だったのだ。軍の動かし方、基礎の基礎さえ知らないモデスカルに、攻略など到底不可能だと誰もが知っている筈だ。

 

 だから指名された時も、すぐに誰かが話を無かった事にしてくれる、と気にしていなかった。

 ビストイアは確かに名誉ある家柄だが、軍事に関わりは薄い。将軍を排出した事すらない。父は偉大な人物だが、その一声だけで押し通るものではないと楽観していたのだ。

 

 森の攻略、魔族の絶滅は、オズロワーナの悲願だ。

 常に目の上のタンコブであり、膨大な草原地帯を有しながら、それを開拓出来ていないのも、魔族が阻止してくるからだと聞いている。

 

 魔族がいなければ、更に土地を広げ畑を耕す事が出来る。オズロワーナは食料の多くを輸入に頼っているから、森の方面も開拓できれば、食糧事情も改善できる筈だ。常に人口が増え続けているオズロワーナにとって、食料生産は常に頭の痛い問題だった。

 

 なればこそ、将軍に据え、勝利を勝ち取れる人材というのは、然るべき選別を受けて選ばれなければならない。軍を動かすのも当然だが、敗戦となればどれだけの金が溶けるか分からないからだ’。

 決して遊び心一つで、将軍を選ぶものではない筈だ。

 

 ――だと言うのに……。

 

 何故か、モデスカルが軍を率いる事になってしまっている。

 土いじりが趣味なだけ――それも多くは使用人が手伝ってくれる作業――の、戦略のせの字も知らない男を担ぎ上げるのはおかしい。

 

 ――どうして、こんな事に……。

 

 モデスカルは嘆く事しか出来ない。

 周囲は刻印を持った、屈強な騎士に囲まれてしまって逃げられないし、軍の指揮は全て先任将校が行っている。モデスカルは格好だけは立派で、誰が見ても将軍だと思うだろうが、しかし移動手段は歩行(かち)だった。

 

 一人逃げられては困るからだろうか、それとも(いたずら)に無駄に出来る馬などいなかったからだろうか。鎧は重く、歩く事だけでも十分辛い。威風堂々と振る舞う事を強要する癖に、しかし誰も指示を仰いだりしないのだ。

 

 全てはモデスカル以外で完結し、そして運用されている。

 一体ここに居て、何の意味があるのか、と何度も思った。

 だが逃げ出す事は不可能だと理解しているし、直接戦う必要がない事も理解している。結局、ただのお飾り将軍が欲しいだけで、それが誰かなど関係ないのだ。

 

 軍を動かす体裁、その最低限の形を整えるのに、将軍が欲しかっただけ。

 何しろ、誰も手を挙げなかったのだから仕方がない。しかし国王の下命はあるから、軍は動かさなければならない。

 

 しかし有能であるだけで森が攻略できるのなら、既に森は燃やされている。

 数を揃えたところで、どれほど戦略に優れた将がいたところで、攻略できなかった森だ。

 大事なのは群より個、という話はモデスカルとて知っている。

 

 だからこそ数によって劣る魔族に、これ程までに苦しめられている。

 外から森を燃やせず、中に入ろうと数を活かせず、強力な魔力を持つ魔族には、だから決め手が見つからなかった。

 

 冒険者の懐柔は、それが理由で始まった事ではないか、とモデスカルは漠然と考えている。

 ビストイア家も資金の提供においてこの件に関わっており、ギルド長の首を縦に振らせるのに、相当な苦労があったと聞く。どれだけ金を積んでも頷かなかったギルド長が、ある日唐突に呆気なく許可を出した。

 

 不審に思わない筈もなかったが、許可は許可なので、それを利用する運びとなった。

 積み上げた金の数に、ようやく納得がいったのだろう、と思う様にしている。だから今では、冒険者を尖兵として使える程になったのではないか。

 

 結局のところ、いつも魔獣どころか魔物を狩りに行く冒険者の方が兵より強くなりがちだし、そして兵一千を持ってしても勝ち得ない強者というものは、冒険者しかいないものだ。

 

 その協力を取り付けた、という話があったから、兵の中にも今回は勝てると思っている者も多いらしい。彼らにとっては、誰が将かよりも、誰が生かして帰してくれるかが重要なのだ。

 その気持ちは、モデスカルにも良く分かる。

 

 モデスカルは周囲の騎士達に聞こえないよう、ひっそりと息を吐いた。

 早く終わって欲しい、と現実逃避にも似た思いで空を見上げる。

 直接武器を取って戦う必要も、作戦に必要な指示を出す必要もないから、余計にそう思った。

 

 ――帰れるのはいつだろうか。一日や二日で終るものでもないんだろうし……。

 

 既に温かなベッドや、贅を凝らした料理が恋しい、と思っていると、横合いから巨大な爆発音と土煙が舞い上がったのが見えた。

 

「な、なんだぁ!?」

 

 身を隠すところもない、広いばかりの草原に、突如として攻撃を打ち込まれたように見えた。敵襲か、と思うのと同時に、後列の部隊が爆発に巻き込まれる。

 視線を草原に向けた直後に起きた事だった。

 

 戦術の事など知らないが、最初の爆発が陽動だった事は分かる。

 悲鳴を上げて炎と爆発に巻き込まれる兵、そして直後に何事かの攻撃で吹き上がって行く兵、それを呆然と見ていたところに、横合いから肩を掴まれた。

 

「モデスカル様! 敵襲です、魔族の伏撃によるものだと思われます!」

「あ、あぁ! あぁ、そうだ、そうだな……!」

 

 森に向かって、兵を送り込むのが役割だと思っていた。

 それすらも他の誰かが指示をして、そしてモデスカルは横で見ているだけだと疑っていなかった。こんな場所で襲撃に遭うなど想定していない。

 

「に、逃げよう! すぐに逃げて……! そうとも、戦場はまだ先の筈だろう!」

 

 咄嗟に出た言葉にしては、説得力があると思った。

 ここは真の戦場ではなく、戦うべきは森である筈だ。こんな場所で無駄にして良い兵はいない。戦う事を義務付けられ、あるいは死ぬ事すら義務だったとしても、それはここではない筈だ。

 

「よろしいのですか、後列は置いていく事になります。今なら援護に入る事も……」

「私にそれを聞いてどうする!? お前たちが考えて決めることだろう! 最初からそうだったんだ、何故ここで聞いてくるんだ!」

「モデスカル様には軍を預かった責任があります。被害が大きすぎれば、当然その責を負う事にもなります。最終的な決断は、モデスカル様に決めてもらわねば……!」

「分かる訳ないだろう! 逃げて良いなら逃げろ、私は知らん!!」

 

 モデスカルは、涙を目に溜めながら唾を飛ばした。

 責任だと何だと言われても、最初から将軍としての役割を求められていなかった。先任将校は森攻めについて他の隊長と話合わせていたようだが、突発的な不意打ちについては何も考えていないようだった。

 

 しかし、考えが無いというなら、この軍においてモデスカル以上に考えなしは居ない。

 そもそも、求められてもいなかった。

 それを緊急事態だけ求められても、応えられる筈がないのだ。

 

「――撤退! 前方に向かって撤退する!」

 

 先任将校が声を張り上げ、周囲の兵に向かって指示を飛ばした。

 

「防護術を展開! 次の攻撃に備えつつ、安全圏まで退避する! 後に反転、後続の兵の救援を行う!」

 

 その声一つで周囲が纏まりを見せ、駆け足で前進を始めた。

 モデスカルのいる中列が走り出そうにも、前列が走ってくれなければ動けない。そうこうしている内に、後列を囲むように火輪の壁が発生した。

 

 モデスカルは恐怖に顔を引き攣らせながら、次はあれが自分たちを覆う事を想像し、悲鳴を上げる。炎の勢いはまるで地から吹き出しているようであり、とても逃げられそうにない。

 刻印を持つ者の中には、それに適切な対処を出来る者もいるのかもしれないが、モデスカルには到底無理だ。

 

 あの炎がこの中列を囲んでしまえば、成す術もなく焼かれるしかない。

 炎の壁の奥では、爆発と共に兵が打ち上げられていくのが見える。あの炎の中では、別の何かによって蹂躙されているのだ。

 もし炎に囲まれてしまえば、次の同じ目に遭うのは自分たちの番だと思った。

 

「何をしているんだ、急がせろ!!」

 

 声を張り上げても事態は変わらない。

 足踏みを何度したか分からないほど時間が経って、ようやく前列最後尾が走り始めた。その背を追い、あるいは追い越さんと、モデスカルもまた走り始める。

 

 周囲を騎士が固めてあるし、そもそも鎧が重くて禄に速度も出ない。

 だが、あの恐ろしい炎から逃げずにはいられなかった。

 

 息が切れ、肺や横っ腹が傷んでも、死を前にして足は止まらない。

 そうして、息も絶え絶えに足も動かなくなって来た頃、それが起こった。

 

「うわぁぁ!!」

「なんだ、何が起こった!」

「前の連中、何やってんだ!!」

 

 周囲にいる騎士達のせいで、前方で何が起こっているのか分からない。

 だが、軍の行進が止まった事だけは分かった。

 つんのめるように強制的に動きを止め、そして後続の兵たちが、モデスカル達を押し潰さんとばかりにやってくる。押される力が強く、息すら満足に出来ない有り様だった。

 

「何してるんだ、やめさせろ!!」

「無理です、行軍は急に止まれません!」

 

 悪態をついて見えもしない前方を睨みつければ、分からないなりに声だけは聞こえて来た。

 

「何があった!?」

「最前列がコケやがった! それで次々に折れ重なって倒れた!」

「何やってんだ、行軍訓練は受けてねぇのか!?」

 

 切れ切れになって聞こえてくる内容から、凡そどういう事が起きたのか分かった。

 走り出したは良いものの、誰かが転んでそのせいで身動きとれない状態になってしまったのだろう。基本的に列として動く事を訓練されている兵は、その形を維持しようとする。

 

 前列が急に動きを止めたとしても、後続はしばらく動くだろう。

 それこそ最前列にいた人間は、多くの人間の下敷きとなり、死んでしまっているかもしれない。

 苦虫を噛み潰して我慢しているしかない内に、ようやく背後から押し込もうとする力も薄れ、息が楽になってきた。

 

 だが混乱もまだまだ収まらぬ中、動きを止めた軍隊に、雷に似た破裂音と衝撃が襲いかかった。更なる攻撃が仕掛けられたのだと、モデスカルは巻き起こる悲鳴で理解した。

 



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一方的な闘争 その9

 モデスカルに限った話ではなく、この戦場は誰にとっても悪夢に違いなかった。

 混乱ばかりで前にも後ろにも進めない状況で、敵が追撃の手を緩めないなど、分かり切った事だ。魔族は基本、森の中に引き籠もっているものだが、これまで進軍中に攻撃を加えてきた事も皆無ではない。

 

 その時の為の対策もあった筈だが、魔術を主体に戦うエルフ族は森から出てこないので、ここまで大規模な魔術の攻撃は想定していなかったのだ。

 奇襲の多くは狩猟を得意とする獣人が矢を射掛けてきたり、血気盛んな鬼族が武器を振り回してくるような、対処も容易い攻撃が多かった。

 

 当然、それらは姿を隠していたとしても、攻撃の際には姿が見える。

 そもそも刻印からして、その対策を施したものを用意してあった。行軍の外周に位置する兵達は、いずれもその防護を期待して配置されている。

 

 万が一を考えての魔術防壁も展開できるもので、これは森攻めの時も、そして接近する場合も役に立つと期待されていた。

 だが、初手の攻撃は直接魔術をぶつけられたものではなかった。それが混乱を招く、第一矢となった。

 

 気付けば足元に霜が覆っており、冷気が足元から登ってくる。

 指先が凍えるような感覚を覚えれば、背筋まで一気に凍りつくようになるまでは一瞬だった。ろくに足踏みも出来ないような密集した状況では、何かを仕掛けて来たと理解したところで逃げる事も出来ない。

 

 モデスカルはとにかく逃げたい一心で身を捩ったが、腕一本動かせる隙間が出来たくらいで、やはり自由に動くことは出来なかった。

 前方から続く悲鳴は、だんだんと近付いて来ている。

 雷が鉄を撃ち抜く破裂音と、そこから逃げたい者達との怒号が合わさり、阿鼻叫喚の様相を呈していた。

 

「何をしている! 敵はどこだ! 見つけ出して始末しろ!」

「既にやらせています!」

 

 前列の先端が倒れ、それで続く後列の身動きが止まったとはいえ、全ての部隊が身動き出来なくなった訳ではない。道は一直線にしか通っていないが、左右は隔てるもののない草原だ。

 そちらへと逸れた者も多く、隊列を乱したまま、扇状に広がるような形になっていた。

 

 その中から反撃する部隊を抽出したのだろうが、未だに敵発見の報すら届いていない。

 冷気は未だに足元を覆っており、それが容赦なく体温と体力を奪っていく。立ち止まる、という選択は、このまま氷漬けにされてしまう危険を孕んでおり、だからとにかく移動したかった。

 

「今は早く予定どおり野営地まで目指せ! 反撃部隊にはこのまま捜索させて、敵の足止めも兼ねさせればいい! 安全な場所まで行くのが先決だ!」

「見捨てる者も出てきますが……!?」

「助けるにしろ、こうもバラバラで混乱もしてる中、軍を立て直しながら出来るのか!? 出来るというなら、お前が今すぐやってみろ!」

「は、申し訳ありません……!」

 

 モデスカルの発言は居丈高で自分本位に聞こえたが、しかしこの場に留まる事を選ぶのが悪手なのは、誰の目にも明らかだった。

 既に後列の部隊が被害に遭っている中、前列すら見捨てる様では、最早与えられた作戦の遂行すら難しくなるだろう。

 

 それが分かっていても、この場で何もかも上手く好転させる手段が無い以上、徒に被害を増やさない運用をするのは、決して間違いでもなかった。

 モデスカルの指示で、横合いの草原を突っ切り、大きく迂回しながら野営地を目指して進む。

 

 鎧が凍り付き、下履きすら固くなって足を動かすのが辛い。

 進軍速度が鈍いのは、疲れからではなく、身動きが難しいのが原因だった。その遅い動きでは敵の魔手から逃げ切るのも難しい。

 

 蛇のような長列で草原を進む中でも、背後から悲鳴が上がっていて、兵員を削り取られていくのが分かる。モデスカルの周囲では相変わらず屈強な騎士が刻印を光らせて警戒しているし、優秀な兵の多かった中列では、同じ様に刻印で防護している者は多かったが、それ以外の攻撃的な刻印しか持たない兵は成す術なく討ち取られていく。

 

 ――何故、どうしてこんな事に……!

 

 胸中で悪態と呪詛を撒き散らしながら、とにかく前にいる兵の背中を睨みつけては腕を振り上げ、足で地を蹴った。

 重い鎧は邪魔でしかなく、せめて兜を脱ぎ捨て少しでも身軽になろうとする。

 

 将の兜は軍の象徴とも言え、時に兜持ちという専門職すら設ける程に大事な物だ。捨て去る事は軍を投げ捨てるに等しい行為だが、モデスカルに軍を預かる矜持など無い。

 責任よりも命を優先するのは、今のモデスカルにとって当然の事だった。

 

 早くこの地獄から逃げ出したい、敵の攻撃が届かぬ場所まで逃げ出したい、そればかりが頭を巡っていたところに、背後からより大きな悲鳴が上がった。

 それは悲鳴というには余りに恐ろしい、慟哭や悲嘆が含まれた声だった。

 

「な、何があった!?」

 

 単に攻撃されただけでは、あの様な声は上がるまい。

 隣人や友の死は堪える。それは分かるが、ならば後列が攻撃を受けた時、前列が崩れた時とて、同じ悲鳴が上がった筈だ。

 

 明らかに毛色の違う声音は、確かめずにはいられない衝動を孕んでいる。

 誰もが上げる恐怖の声を背にしたまま、逃げ続ける勇気など持っていない。それで振り向いて見た先には、亡霊とも幽霊ともつかない、恐ろしい風貌をした魔物が兵を襲っていた。

 

 特別な暴力を振るう訳ではない。魔術を放つような事もなく、ただ両手を広げ兵たちに触れていく。それだけで兵たちは崩れ落ち、身動ぎ一つしなくなる。

 糸を切られた人形のように、あるいは命の灯火を消されたかのように、唐突に体の力が抜けて倒れ伏していった。

 

「何だ! 何なんだ、あれは!?」

「亡霊系の魔物です! 何故こんなところに!? 死体のある場所に生まれる魔物だとしても、あまりに早すぎる!」

「あれほど悍ましいものを見るのは初めてです! ただの亡霊じゃありません! もっと恐ろしい何かです!」

 

 口々に兵が叫んでは、顔を引き攣らせた。

 遺棄されて放置された死体から生まれるのが、亡霊と呼ばれる魔物という事は知っている。

 死体ならば幾らでもあるとしても、戦場で生まれるなどという話は聞いた事がない。誰かが意図的に生み出したと言われた方が納得できるが、そんな魔術の存在など聞いた事もなかった。

 

 だが、そんな事は、今はどうでも良かった。

 応戦しようと、あるいは近づけさせまいと魔術を放つ兵は多くいたが、その多くが効果を為していない。直撃して怯む様子はあっても消える気配はなく、むしろそちらへ標的を変えて意気揚々と襲い掛かる。

 

 それが分かると誰もが攻撃しなくなり、とにかく逃げ続ける事に専念した。

 長列の後ろから徐々に削られるものだから、同じ場所にはいられないと、兵隊は散り散りになって逃げて行く。

 

 既に軍としての規律も規模も、その(てい)を成していない今、咎める事は出来ない。

 あの様な亡霊に付き纏われるなら、どこへ逃げようと安全ではないだろう。少しでも注意を引かないよう、目立つ集団の後ろに付くより、誰とも重ならない方向へ逃げ出す方が、生存率は高い気がした。

 

 叶うならば、モデスカルも他を振り切って別方向へ逃げ出したかった。

 だが鈍重な身の上では騎士たちを振り切れないし、集団の内側にいる自分なら見逃されるかもしれない、という打算的思いで留まる。

 

 モデスカルは自分が何処を走っていて、何処へ向かっているかなど、まったく分かっていなかった。野営地がある場所など知らないし、どれだけ走れば辿り着くかも知らない。

 だが足を止めれば、あの亡霊に捕まってしまう。

 

 捕まれば死ぬだけだ。

 だから、とにかく逃げ切れる事を祈って、走り続けるしかなかった。

 

 息は切れ、喉は痛み、そしてそれ以上に脇腹が痛かった。

 足も痛ければ何処もかしこも痛み、頭が眩んでくる。それでも足を止める事は出来ない。この苦しみに耐えていれば、いずれ救われ、終わりもある筈だと、その願いに縋るしかないからだった。

 

 そして、終わりは唐突に訪れる。

 背後からの悲鳴はとうに消えていた。逃げ切れたのだ。

 神に感謝していると、モデスカルを取り囲んでいた騎士達が、その動きを止めた。

 

 とうとう辿り着けたのか、と救われた思いで顔を上げ、前方を確認として愕然とした。周りの誰もが辿り着いたから立ち止まったのではない。

 

 眼の前の光景が信じられなくて足を止めたのだ、とは一瞬あとに理解した。

 それでも、いつまでも呆然としておられず、ノロノロとした足取りで近付いてく。

 

「……何なのだ、これは」

 

 モデスカルの零した言葉に、返答する者はいない。

 答えたくないのか、答えられないのか。……むしろ、その両方だろう。

 

 モデスカルの目に映ったのは、野営地が全て打ち壊され、足の踏み場もないほど粉砕された木材が散乱している姿だった。

 テントの類いも引き裂かれ、到底休める場所は確保できそうもない。物資も水も、本来ならそこに用意されている筈だった。

 

 それら全てが無くなってしまっている。

 取り壊され、潰れたテントの中に、何かが残っているようには見えない。本来なら、兵を二万養うのに十分な物資が山と積まれていた筈なのだ。

 

 だが同時に、一箇所に集中させる危険を考え、他の野営地にも細分化させて配置させていた、とも聞いた覚えがある。

 その事を思い出し、先任将校へと唾を飛ばす勢いで尋ねようとしたが、枯れた喉では声も薄く、力無く尋ねる形になってしまった。

 

「他の野営地は……どうなってる」

「分かりません……、確認させます……」

 

 愕然とした思いなのは、モデスカルだけではない、というのは救いに感じた。自分より頼りになる筈の将校でさえこうなら、自分はもっと情けなくても問題ない筈だ、という免罪符を得た気持ちになる。

 

「なぁ……、これは魔族の仕業か? 無人にしてた筈がないだろ? 冒険者を使っていた、という話じゃなかったか?」

「分かりません……」

 

 同じ言葉しか返さない将校に苛立ちが募る。

 分からないという返答だけで済むのが、軍隊である筈がない。口汚く罵ろうとした所に、端材ばかりが転がる所に、複数の冒険者が同じように転がっているのが見えた。

 体中が痛む事など忘れて駆け寄り、未だ意識のない冒険者を乱暴に蹴りつけた。

 

「――おい! これはどうなってる! お前たち、見張りの役目も満足に出来ないのか!!」

 

 意識のない冒険者に返答など出来る筈もない。

 だが怒りの矛先として分かり易い相手を見つければ、そこに暴力を振るわない、などという選択は生まれなかった。

 

「何の為の冒険者だ! この役立たずめ! 誰のせいでこんな目に遭ってると思ってるんだ!!」

 

 それは完全な八つ当たりに過ぎなかった。しかし咎める者もおらず、これまでの鬱憤を晴らせるとなれば、蹴りつける足にも力が入った。

 何度蹴りつけようと冒険者からの反応は皆無だったが、蹴りつける事にも疲れてくると冷静になってくる。

 

 荒い息を整えながら背後を窺い、そしてあまりにも少なすぎる兵を見て血の気が引いた。

 そこには総勢千人程度の兵しか居ない。

 その彼らが、汚物を見るような目でモデスカルを無言で見つめていた。

 

「……なんだ、これはどうなってるんだ……。兵たちはどうした……」

「貴方が置いて来たんですよ。そう、仰りましたね」

「だが……だが、もっと居た筈ではないか! 進軍した時は三万を超える数が――」

「えぇ、ですから、それだけの数を置いて来たのだと言っているのです。今から部隊を整え、救援に向かいます。そういう指示でしたね」

 

 先任将校の目に力がない。

 建前で言っているのは明らかだった。軍の九割を喪い、それで現場に戻って何が出来るというのだろう。あの亡霊が待ち構えていたら、それこそ誰も生きて帰れない。

 

「……だが、だが、他に生き残りが野営地目指して来る筈ではないか? 必死で逃げ延びてきた同胞を、迎えてやる準備もせねば……!」

「その物資がどこにあります? 火を焚く薪はゴマンとあっても、水も、食料も、何もかも無いのですよ。ここまで徹底的に破壊した敵が、他の野営地を見逃しているとは思えません。状況は絶望的です」

「なら、なら帰ろう! もうこんな状況では、作戦を遂行しろとは誰も言わないだろう! もっと兵を補充して……そう、もっと有能な将を用意して貰えばいいんだ! 適任を使わないのが悪い、そうとも、素人を使おうというのがそもそも――」

 

 モデスカルが弁明とも説明ともつかない言葉を並び立て、捲し立てる。

 その言葉を真剣に聞き取ろうとする者はいない。ただ、この惨状をどうするのか、これからどうするつもりなのかを暗澹たる様で見つめていた。

 



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一方的な闘争 その10

 一千名余りの兵達が、一つの野営地に到着するところを、ミレイユ達は離れた場所から見つめていた。そこは小高い丘になっており、傍には樹が一本生えているだけで、他には何もない。

 手筈どおりに事が運ぶのなら、逃げる先も絞られる。どちらの方向に逃げるかも二択の様なもので、この場所なら、そのどちらへ向かおうと確認する事が出来た。

 

 それで後列部隊の処理が終わってから、この場へ先行して辿り着き、アヴェリンと共に待機していたのだが、ミレイユは我知らず重い溜息を吐いて腕を組んだ。

 

「……やってくれたな」

「想定と大分違った結果です。ここまで兵を減らす予定など、ありませんでした……」

 

 アヴェリンも恐縮気味に同意したが、そちらへ顔を向けずに肯定した。

 

「そうだな、数を削る必要はあった。確かにそれが目的だ。今後の攻勢を思い留まらせる必要があり、森のエルフを本気にさせると痛い目を見る、と思い知らせてやる意図もあった」

「王国側にはエルフからの攻撃と思わせつつ、その上でエルフには我々の関与を感じさせない。そういうつもりで攻撃したつもりでしたね」

「そうだ、下手をすると未だに信奉を向けているかもしれないエルフ達だ。ここに至って、都合よく登場した私が、窮地を救ったなどと思われたくない。……信仰によって昇神などしてしまった日には、目も当てられないからな」

「然様ですね……」

 

 ミレイユが顔を顰めると、その横顔を見つめていたアヴェリンも、同じ様な顔をして頷こうとする。そうして唐突に動きを止めた。

 

「……どうした」

「いえ、話を聞いていた時には尤もだと納得していましたが……ふと思えば、どこかおかしくはないかと……」

「何処がだ?」

「いえ、神々の狙いとしては、まさにミレイ様をその救援に出向かせ、信仰を得させようとしていた、という話でしたね?」

「そうだな、私の帰還は神々に知られている。炙り出しを目的とした撒き餌として、エルフを襲撃させる、という一挙両得の狙いがあったと考えていた」

 

 ミレイユは遠く仲間割れでも始めそうな将校どもを見据えながらも、アヴェリンへと意識を向けながら答えた。

 ミレイユがエルフを助けるかどうかは賭けで、そして見捨てたとしても神々は困らない。ミレイユを助力する勢力が一つ減る、という程度にしか思っていない。

 

 ミレイユが神々に抵抗すると思っている以上、その外堀を埋めるように、対抗できるだけの力を付けさせないのが目的でもあるのだろう。

 たった四人の独力で勝てるものなら、既にループは終了している。幾度、幾百、幾千と繰り返されて来た筈がない。

 

「ですが、今ふと思ったのです。ミレイ様は自発的に昇神するつもりがない、それは神々も承知の筈なんですよね?」

「そうだろうな。私が今更、神に至るつもりが無い事など、百も承知じゃないのか」

「ならば、どうやって昇神させるつもりなのです? エルフを生き残らせ、信仰を向けさせるのは、その手段として有力かつ簡単な方法でしょう。殺してしまっては、むしろ遠退いてしまうように思うのですが……」

「それは……」

 

 指摘されて、思わず言葉に詰まる。

 確かにアヴェリンの言うとおりだった。

 

 神々はミレイユを昇神させる事が目的であるのは間違いなく、だからその手段についても所持している筈だ。可能不可能を論じられるほど、その手段について多く知らないが、指先を向けるだけで昇神できるほど簡単なものではないだろう。

 

 神器を用いるか、多くの信仰を向けられる必要がある。それが現在、判明している昇神する為の条件だ。

 信仰しろと言われて、素直に信仰する輩など居ない。それが神の口から出たものでも、対象が人間では難しいだろう。神人や素体という存在が一般的でもない以上、神の卵だと言われたところで半信半疑になるだけだ。

 

 神々も遊んでいるつもりだろうから、最高効率、合理的手段に訴える方法は取らないだけ、と考える事も出来る。だが足元掬われて逃げられるぐらいなら――盤外に飛び出す事は許容しないというのなら、手段を選ばず昇神させてしまえば良いだけだ。

 

 一度目は不意打ちだったから見逃した、という言い訳は通用しても、二度目はないだろう。

 そして神々もまたある種の法則には逆らえず、昇神については踏まねばならない手順が必要というなら、有効な手段をみすみす手放す理由がない。

 

 そこまで考え、眉間に寄せた皺を伸ばすように、指を二本当てて揉んだ。

 

「……下手な考え、休むに似たり、という言葉があったな……」

「ハ……、申し訳ありません」

「いや、今のは自分に言った事だ。むしろ、よく気付いてくれた、と言うべきだろう。神々(あれら)の考えは、深読みし過ぎるとドツボに嵌る。詭計が得意な連中だけにな……つい、どこまでが考えの内なのか、疑心暗鬼になってしまう」

「真に、左様で……」

 

 アヴェリン返答に頷きながら、ミレイユは眉間から指を離して、近付いてくる足音がする方へと目を向ける。

 そこには、まだ距離のある場所で、ユミル達が幻術を解きながら歩んで来ようとしていた。

 その二人――特にユミルを待ちながら、ミレイユは続ける。

 

「お前の指摘は、私にとって思慮の外だった。私達がエルフを見殺しにしたとして、もしかしたら本当に困るのは神々ではないか……その考えは無かった。だとすると、エルフの攻撃には別の理由があるのかもしれない、と考えられるんだが……」

「最低でも、損をしない何かが……?」

「そう思える。……とはいえ、私にはエルフの助力が必要だ。オミカゲの奴を救おうと思えば、彼らの力は必須とも言える。助ける以外に選択肢がないから、そこは別に良い」

 

 だが、確かにアヴェリンの指摘は気になる部分だった。

 神々の意図を読み切ったと思った。十重二十重に張られた罠を看破したとも思った。だが、もしかすると大きな見落としがあったのかもしれない。

 

 ――とはいえ、今更言っても仕方がない。

 既にここまで作戦は進めてしまった。軍を撃退したのなら、次の対応を考えなければならない。このまま大人しく引き下がるのか、それともエルフと抗戦を強めるのか、そればかりは今の段階では分からない。

 

 そして、これだけやって後は知らない、と言う訳にもいかなかった。

 デルン王国の対応次第では、この戦争に大きく関わらなければならないだろう。そうとなれば、姿を隠し続ける事も難しくなってくる。その対応も、これから考えなくてはならなかった。

 

 頭が痛くなるような問題が、次々と累積していくような気がする。

 そして今、また新たに問題を一つ積み上げてくれたユミルを睨み付け、早く来いと腕組の上で手招きした。

 何を言われるか分かっていたのだろう、開口一番に言って来たのは言い訳だった。

 

「まず、あれは私じゃないからね」

「お前じゃないなら誰がいる。随分と勝手に兵を削ってくれたな。私は死霊術が使用された魔力波形を、感知しているんだぞ。他に使い手がいるか?」

「まず聞きなさいよ。聞けば納得するから」

 

 話してみろ、と言うように片方の肩を上げて、ミレイユは口を閉じる。

 すると、ルチアと顔を見合わせた上で語り出した。

 

「まずね、あの呪霊はアタシじゃないから。作戦の内容だって知っているのに、どうして余計なコトすると思うのよ」

「言う必要は無いと思いますが、自然発生したものじゃないですからね」

「それはそうだろう。多くの死があったとはいえ、そんな簡単に呪霊が自然発生して堪るか。大体、死霊術の使用なくして生まれるものじゃない。とすれば、あの場で使えた者はお前しか居ないんだから、当然あれはお前が使った、という事になる」

 

 ミレイユが断言すると、アヴェリンの視線も鋭くなった。

 戦場で不慮の事故は付き物だ。思うように行かない事は多々あり、特に多くの死が関わる問題の上では、素直に殺される者ばかりでもない。

 

 予想以上の抵抗に遭い、想定していた数ほど削れなかった、という事であろうと、あの段階では問題にならなかった。それでは今後の作戦に支障を来たすにしても、野営地襲撃で更に数を減らせる算段でもあったのだ。

 ユミル達の攻撃が著しい失敗でもしなければ、そこで挽回できる。死霊術を使う必要も、更に言うなら呪霊などという目立つものを使う必要もなかった。

 

「あれでは、エルフにユミルの関与を喧伝するようなものだ。必然として、私とも結び付けられる可能性がある。この後、森に行くつもりだったというのに、これでは姿を見せられない」

「だから、そこからして違うんだってば。アタシが使ったんじゃないの、何度言わせるのよ」

「では聞くが、一体どこの誰が使った? もっと言えば、誰なら使える?」

「……まぁね、そこを突かれると辛いんだけど」

 

 ユミルは口を窄めては外へ突き出し、苦り切った表情で頬を掻いた。

 そこへ注釈するようにルチアが口を挟む。

 

「この間ギルドで読んだ、刻印の魔術書の中にも、死霊術は一つもありませんでした。基礎のき、すらです。死霊術は、どうやら禁忌である上に、一般的には存在すら抹消されてるみたいですね」

「アンタそれ、ここで言うなって言ったじゃない」

「いやいや、ミレイさん本気で怒ってるじゃないですか。どちらに味方するかなんて、分かり切った話じゃないですか」

 

 ユミルは嘆息してから腕を組み、そうして開き直って胸を張った。

 

「まぁね、とにかくアレはアタシじゃないから。それだけは伝えておくわね」

「それを信じろというのか。その傲慢さで、殊勝な態度も見せず……」

 

 流石に堪り兼ねたアヴェリンが口を挟むと、ユミルは悪びれもせずに頷いた。つんと顎を上げて、アヴェリンとは目も合わせない。

 それが我慢ならなかったらしい。メイスを取り出し構えようとして、ミレイユは二人の間に手を差し入れて止める。

 

 アヴェリンは不満そうな顔を見せたが、ミレイユが判断した事だ。

 即座に武器を仕舞って、頭を垂れた。

 ミレイユは一度大きく息を吐くと、視線を合わせないようにしているユミルへ問う。

 

「お前の主張は分かった。だが、こっちを見ろ」

「……えぇ」

 

 その重みを伴った言葉には、流石にユミルも従わずにはいられなかった。

 素直に腕組も止めて顔を向けてくる。

 

「あの呪霊は、お前じゃないんだな?」

「そうよ」

「死霊術も使っていない?」

「そう言ったわ」

 

 ユミルの返答は簡潔だった。言うべき事は言ったのだから、それ以上の言い訳は必要ない、と主張しているようですらあった。

 次にミレイユはルチアへ顔を向ける。

 

「作戦は順調だったか?」

「えぇ、中級以下の魔術という指定でしたから、少し時間は掛かりそうでしたけど、でも予定通りの間引きは可能だろうと見ていました」

「なるほど、良く分かった」

 

 ミレイユは改めて、ユミルにも分かるように大きく頷き、腕組を解く。

 

「それならそれで良い」

 

 ミレイユは二人から視線を切って、遠くに見える野営地へ顔を向けた。

 

「――敵軍はもう作戦を遂行できない。撤退するだろうから、まずそれを見届ける」

「ミレイ様! よろしいのですか! ルチアに口裏を合わせるよう言っていた分を考えても、もっと追求しても……!」

 

 アヴェリンが言いたい事も理解できるが、今は過ぎた事よりもこれから事の方が大事だった。

 敵軍も疲労があるだろうし、すぐには動けない。暫く動向を窺う必要もあった。今は余計な議論をする余裕がない。

 それにミレイユには、既に決めていた事がある。他の誰が馬鹿にしようと、自らが自らに定めた律だった。それ故に、ミレイユはそれ以上の追求を止めたのだった。

 



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幕間 その1

 ミレイユの森の深部では、一時大変な騒ぎになった。

 ――デルン王国が、またも森を攻めてくる。

 その凶報がもたらされた為だ。

 

 エルフに限らず、森で暮らす多くの種族は、基本的に森から外に出ない。見張りを行う鬼族以外は、その外縁部付近にすら近付かないものだ。

 

 しかし、外部の情報に無頓着という訳ではなかった。

 特にデルン王国は森を目の敵にしており、いつでも攻め込む機会を狙っている。いつか森を滅ぼす事を悲願としているのは、森に住む者を魔族と呼んで排斥している事からも分かる事だ。

 だから、常にその動向を気に掛けないでいられなかった。

 

 かつて、それを怠って森の一部を燃やされた事実は、苦い教訓として森に刻まれている。

 フロストエルフの長であり、森に住む種族を束ねる者として、纏め役をしているヴァレネオは執務机に座りながら頭を悩ませていた。

 

「捨てなくてはならないか、この森を……。最初から無理な事だった、とは思いたくない。しかし……いや、いま目の前に起こっている事が全てだ」

 

 ――また、戦争が起きる。

 十年から二十年の内に一度はあるのが、この森攻めと呼ばれる一方的な戦争だった。

 エルフに限った話ではなく、森に住む種族は森から打って出る事は出来ない。それは人間との兵数が違いすぎる為で、戦争と呼べるものすら起こせない、という実情があったからだ。

 

 森の外からの挑発により、撃って出て殺されてしまった同胞も多くいる。

 既に森の中で暮らす総数は一万人を切り、エルフ族も千を数える程にまで減んじた。数的有利がどちらにあるかなど論じるまでもなく、この千という数字は非戦闘員も含んでいる。

 

 今度やってくる敵軍は、その数を三万まで数えると報告を受けていた。

 かつてオズロワーナ相手に争った時の数とは比べるべくもないが、今の森攻めには十分な数と言える。森の木々と防備に使っている魔術があればこそ、何とか戦えるものにはなっているが、三万という数は絶望するには十分な数だ。

 

「最早これまで、と逃げられれば良かったが……」

 

 森の周囲には、人間が作った野営地がある。

 死角を作らない形で点在しており、森のどこから現れようと、いずれかの野営地から目に付くようになっていた。一つが発見すれば、合図一つで他の野営地からも飛び出して来る手筈になっているに違いなく、森の兵員数を考えれば、一つを攻め落とす前に合流される。

 

 ならば、森を捨てて逃げようと思っても、それすら簡単ではない。

 子供や老人を含んだ体列は、どうしても進みが遅くなるし、長蛇の列になる。格好の的となって発見されない筈がないし、それを守る為の陽動戦術すら有効ではない。

 

 むしろその戦術では、割けられる兵員の数から鑑み、全滅を早めるだけだろう。

 勝ちを拾おうと思えば、森の中で戦うしかない。

 

 これまでそうして来たように、誘引戦術と遊撃戦術、それを上手く利用して消耗させる。数で勝る相手が、群となって戦うのは脅威だ。

 しかし小隊単位で相手にするなら、まだ戦いようもある。

 

「それも三万という数字を考えなければ、だが……」

 

 人海戦術というのは脅威だ。

 特に神の御名において下される命令は、その命すら軽くさせる。ここが正念場と思いながらも、最早この数は凌ぎ切れない、という諦観の間で揺れていた。

 

「我らには、もう縋るものさえ残されていない……」

 

 それがエルフにとって、罪というなら、そうなのだろう。

 エルフはかつて、神ではなくミレイユという個人を選んだ。縋り、敬い、感謝と信仰を、ミレイユという個人に向けた。

 

 それが神にとって、許せぬ事だったと言いたいのは理解できる。

 信仰とは(すべから)く神に対して行うものであって、一個人に向けられるものではない。拝み奉るべきものを蔑ろにした、それが罪である。

 それも理解できるが、ならば何故エルフを蔑ろにした、と言いたい。そうさせた――選ばせた神にも責任はある。

 

 そう、声高に叫びたかった。

 かつてエルフの迫害は、神の名を持って赦される筈だった。

 マナも魔力も希薄だった時代、それを巧みに扱えるエルフが支配層として君臨するのは当然で、しかし世界の有り様が変わると共に、それさえも変化した。

 

 万物にマナが宿り、人間にも魔力が扱えるとなれば、数によって劣るエルフが追い落とされるのも時間の問題ではあったろう。

 

 その支配が人間へと移る事は、必然ですらあったかもしれない。ならば、そういうものとして一つの歴史に幕を降ろせば良い。生者必滅というなら、それも理解できる。

 

 だが、その敗北は単なる敗北で終わらなかった。追い落とされた後は、エルフを敵と見做す事で、それが人間団結の原動力となった。

 

 それには耐えられた。

 神が赦すと約束したからだ。祈りと感謝と敬意と信仰、それを捧げる限り、いつか神が許し給えと一言下知してくださると約束したからだった。

 

 しかし、神は最後にエルフを見放した。

 ――勝ち取れ、さすれば与えられん。

 

 それは戦争の許可をするものではあったが、勝利を約束したものではなかった。

 人口差は広がるばかり、文明力の差も、また広がるばかり。魔術を巧みに扱える事は誇りであったが、兵力差を覆す程ではなかった。

 

 馬鹿正直に戦い挑めば、現状より酷い事になるのは目に見えている。

 前に進めず、さりとて後退もできない。そうした時に現れたのが、ミレイユだった。

 

 彼女はエルフの窮状を知ると大変悼み、力を貸してくれると約束してくれた。

 ミレイユが持つ魔力量、そして豊富な魔術を知り、そしてそれに付き従う者らを見れば、その勝利も決して夢物語ではないと知った。

 

 だから、エルフはそれに縋った。

 実際に先頭に立ち、魔力を振るい、傷付きながらも共に戦った彼女に感謝した。

 人の領域に非ず、またエルフよりも豊富な魔力は、魔術を誇りとする種族にとって、頭上へ戴くに不遜は無かった。

 

 彼女はそれだけの事を、エルフにしてくれた。

 それまで虐げられ、差別と非難の的であったエルフを、勝ち取る事の出来る舞台まで引き上げてくれたのだ。

 

 一つの勝利を掴む度、味方する仲間が増えていった。

 それは遠い森に住むエルフであったり、同じ様に排斥に苦しむ種族と様々だったが、当初あった敗戦ムードは五つの勝利を上げた頃にはすっかり消えていた。

 

 人間にも人間の都合、そして誇りもある。

 こちらが常勝無敗だからと、素直に負けを認める筈もない。そして最後までその先頭に立って戦ったミレイユは、エルフにとって勝利を授ける神に等しい存在にまで昇華していた。

 一切の見返りを求めず去って行った事からも、それに拍車を掛ける結果となった。

 

 そして元より信仰していた神を蔑ろにした結果、神から声を受け取る事も、意識を向けられる事も無くなった。

 だから現在の衰退がある。

 そう考えている者は、エルフだけでなく森に住む者には多い考えだ。

 

 だがヴァレネオに言わせれば、順番が逆だ。

 神が見捨てたからこそ、ミレイユへ信奉を向け、だから神がへそを曲げたのだ。神への信仰とは、必死であれば必ず助けが降って湧いて来るものではない。

 しかし向けた結果、何か一言でも返答するものがあれば、民は安堵に息するものだ。

 

 かつてのエルフが数千年も堪え忍べたのは、頓にそれがあったからに他ならない。

 この森では病気になろうと癒やして貰えず、だから病気に罹りやすい子供は亡くなりやすい。薬も十分ではなく、森の恵から得られる薬だけでは限界もある。

 

 森の民衰退の原因は、戦争によるものだけではない。

 癒やしを、十分に受けられない事にも原因があった。

 

「逃げるにしろ、戦うにしろ、遅きに失した……」

 

 だが改めて振り返ってみると、遅きというには、その最後のラインは随分と前だったように思う。衰退の原因はデルンに再び森へ追い落とされた事だが、その過程でミレイユの屋敷を見つけなければ、そこを守ろうと森を築こうとはしなかっただろう。

 

 人間の人口回復は予想を上回り、森へ攻撃を仕掛けてくるのは想像以上に早かった。

 森に引き籠もって戦うしか生存の道は無く、そしてそれが原因であると言うのなら、逃げる事が出来るのは百年前に決行していなければ不可能だった。

 

 今より遥かに人口も、そして戦士も多かった時代――。

 その時であれば、遅滞戦闘を繰り返しながら、民を背にして逃がす事も出来ていただろう。今となっては望むべくもない方法だ。

 

「此度の攻勢は防ぎ切れない……。せめて未来ある者は逃してやりたいが……」

 

 先にどこか一つ、野営地を落とすこと叶えば、その目も出てこないだろうか。

 そう思いながら、ヴァレネオは机の上に広げられた地図を睨む。もう既に何十回と見ては苦汁を舐めた地図だ。今更、新しい閃きなど浮かぶとは思えないが、それでも諦める事だけはしたくなかった。

 

 そうして考え込むこと数十分、いつの間にか頭を抱えて俯いていたところで、部屋の扉が叩かれて顔を上げる。

 入室の許可を与えて入って来たのは、村の警備主任だった。

 

「――失礼いたします!」

「どうした、森の外に何か変化でもあったか……?」

 

 現在が喫緊の状況である事は、誰もが理解している。

 未だ敵軍は森近くまで来ていないので、開戦はまだ先の事とも理解しているが、油断できない状況だとも理解している筈だった。

 

 戦の準備を進めている頃合いでもあり、余程の事がなければ例外的な報告など起こらない。

 警備主任は弱りきった顔をして報告を続けた。

 

「ハ……、予め事情は聞いていたのですが、どうにも要領を得ませんもので……。どのように説明すれば良いか……」

「何だ、敵軍が攻めて来た話ではないのか?」

「はい……あぁ、いいえ……いいえ、違います。敵野営地に変化があると……」

「例の冒険者どもを使った、嫌がらせ工作ではないのか?」

「それとも違うようでして……。いえ、もしかしたら何か新しい作戦によるものかもしれませんが……」

「お前の話ではサッパリ分からん。結局どういう事なんだ。……敵野営地はどうなった」

「ハッ、木っ端微塵に消し飛びました……!」

「……は?」

 

 ヴァレネオの顔が疑心に満ちた呆け顔となってしまったのは、誰も咎められないだろう。

 それほど意味不明な報告だった。当然の事だが、森の外に打って出ろという命令を出していない以上、それをやったのは森の民ではない。

 

 ではデルンの兵か冒険者となるのだが、せっかく築いた野営地をゴミに変える意味などない筈だ。あるいは、移転するにおいて邪魔になった、という理由も考えられるかもしれない、と思い直す。

 ヴァレネオは地図の修正が必要だと、羽根ペンとインクを用意した。

 

「つまり、敵野営地は別のどこかに移動したのか? その移動先は突き止めてあるか」

「いえ、そういった説明は受けておりません。……私も話を聞いただけでは、よく分からなく……。確認した当人達を呼んできておりますので、そちらから直接説明させてもよろしいでしょうか」

「何だ、そうなのか。勿論、断る理由はない。通せ」

 

 そうしてやって来たのは、外縁部の警戒をしている鬼族の男と、その報告を受け取りに行っていた、伝令兵として動く虎人族の女の二人だった。

 

「鬼族のフガマイトです」

「虎人族のフィルメです。……これより、見たもの感じたものを、そのままご報告致します」

 



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幕間 その2

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 フガマイトはその日、緊張が高まるばかりの森の中から、野営地の方を睨んでいた。

 木々の間に身を寄せ、大きな身体を縮めるように隠しながら、常と変わらず監視している。冒険者たちが物資を運び入れていく様を憎々しく思いながらも、それをみすみす見逃すしかない、という現状は腹に据えかねた。

 

 実際、打って出た事もある。今は堅牢な野営地も、まだ十分形になっていない時だった。

 挑発するように森から見える範囲に陣地を築き始めた人間に、堪り兼ねた同族が襲い掛かったのだが、双方に被害を出しての痛み分けとなった。

 

 数において圧倒的な差があり、そして圧倒的に少数である森の民が、同じ事を繰り返す事は出来ない。戦闘員を擦り減らすだけで、幾らでも補充の利く相手に取る方法でない事は理解していた。

 

 しかし、目の前で陣地が構築されていくのを、指を咥えて待っていても、やはり森の寿命が擦り減っていく事に変わりないのだ。

 ――忸怩たる思い。

 

 それが外縁部の警備隊が持つ、共通の認識だった。

 そしてその野営地が、ただ一箇所でなく他にも作られていると分かると、とうとう本腰を入れて攻め込むつもりであると察した。

 

 その報告をすると、森の意見は大きく分けて、三つに割れた。

 一つは攻め込み、陣地作成を許さない事。

 あれが完成すれば、それが総攻撃の合図みたいなものだ。それをさせない事が肝要だ、とする意見。

 

 一つは防備に徹し、誘引戦術で仕留める事。

 今まで一度として攻め込まれても、森の奥まで到達できた軍はいない。これまでどおり対処すれば、やはり同じように防ぎ切れるだろう、という意見。

 

 最後の一つは、森を捨てて逃げる事。

 既に、攻めるも守るも難しい。これまで以上の準備を整えているのなら、整えば攻め滅ぼせるだけの戦力がやって来るに違いない。そうなる前に逃げるべき、という意見。

 

 どの意見も激しく対立し、結局何一つ決まらないまま現在に至る。

 敵野営地は完成し、もはや逃げる事も叶わない。常備兵として使われている冒険者が、時に偵察をしながら森の外をうろつき、森から出て来る者があれば襲ってくる。

 

 外からやって来た、森へ逃げ込もうと考える者も同様だった。

 いつでも真面目に偵察をしている訳ではないから、その目を潜ってやって来れる幸運な者はいる。街道沿いに分かり易く目の付く場所に野営地がある訳でもない。

 

 何も知らない、旅疲れでやって来た者でも、森に辿り着く事は珍しい事ではなかった。

 それもまた、総攻撃するなら同じ事だ、と余裕を見せているつもりなのだろう。逃げてくる者の多くは非戦闘員で、戦争が始まる直前での加入はむしろ負担になる。

 

 それでも逃げてくる同胞を見捨てる、という選択肢はないので受け入れるのだが、それが森からの逃亡を難しくさせていた。

 逃げ来てたばかりの者は、やはり相当に疲れ果てている事が多い。

 

 その彼らを引き連れての逃亡劇は、高い確率で失敗するだろう、というのが大方の見解だった。

 ならば攻め込むか、となっても既に遅い。どこか一つを攻め始めれば、他の野営地から増援が来る。そして複数を同時襲撃するような戦力は無いし、例え味方が一人でも欠落すれば、それは大袈裟でもなく大きな被害だった。

 

 最早、生き残るには森を守り抜くしか、道は残されていない。

 それは誰の目にも明らかだった。

 デルン王国は、これまで何度も森を攻めてきたが、しかし野営地の設営などという前準備を整えた事はなかった。

 

 それを意味するところは、あまりにも明らかだ。

 今度こそ、森を焼き払うつもりでいるのだろう。だが、森に生きる民として、そう簡単にやられるつもりはない。これより後がないと分かっていればこそ、必死になった森の戦いを見せつけてやらねばならないだろう。

 

 ――もう二度と、森を攻めるなどと思わせないように。

 

 フガマイトが苦渋の中に、決意を新たにしてから暫く後のこと、いつものように憎々しげに野営地を監視していると、そこで異変が起こった。

 野営地と森の外縁部までは距離があり、実際にその中で何が行われているかまでは分からない。しかし(にわか)に騒がしくなり始めると、そして何か硬く重い物がぶつかる衝撃音と共に、その一画が崩れていく。

 

「……何が起きてる?」

 

 思わず、呆然とした声が口から漏れた。

 衝撃音は一度ではなく、それからも立て続けに何度も起こる。あっと言う間に見るも無惨な形へと野営地は作り変えられ、後には瓦礫と化した木材ばかりが転がるようになった。

 

 粉砕された木材の傍には、冒険者の姿も確認出来て、その彼らはピクリとも動かない。

 それも一人ではなく、おそらく駐屯していたと思われる全員が、折り重ねるように倒れていた。そうとなれば、彼らが自分でやった事ではないのは明白だ。

 あるいは、事故という線も考えられるが、果たしてそう単純に考えて良いものだろうか。

 

「さっぱり意味が分からない。これは陽動だとか、例えば我らを誘い出す為の罠なのか?」

 

 森の民が野営地を壊したいと思っている事など、あちらからすれば当然認識している事だろう。完成するより前には、幾度か仕掛けたこともあるし、こちらが監視し続けている事も、当然承知の上だ。

 

 実際の作戦より前に、油断を誘って森から誘き出すつもりなのだろうか。それで少しでも数が減らせれば良し、と考えているのかもしれない。

 それは大変、有り得る事のように思われた。

 

 森に入っての戦闘が熾烈を極める事は、敵も理解している事だ。その為に戦力を削れるなら、それに越した事はないと考える筈。

 フガマイトは飛び掛かって、倒れた身体に槌を振り下ろしたい衝動を必死に押し殺し、樹の幹を握り締める。

 

 その時、側面から軽快な足音を鳴らして、近付いてくる存在に気が付いた。

 いつも定時報告にやって来る虎人だと分かっているので、そこに警戒はない。よく聞き慣れた足音だけに、視線すら合わせず挨拶を交わした。

 

「おう、いつもご苦労さん」

「挨拶は後! 今どうなってる!?」

「どうした、突然。何があった?」

「聞いてるのはこっち! 野営地は……あぁ、やっぱり!」

 

 虎人のフィルメは信じ難い物を見るように目を見張り、それからフガマイトの腕を掴んだ。

 

「ねぇ、野営地がどうなってあぁなったか、あんた見てた?」

「そりゃ、監視するのが仕事だからな」

「良かった、見てたんだ! 他の奴ら、全然仕事してなくて、見た時にはもう崩れた後とか言い出すからさぁ!」

「……何だって? 他の奴ら? 他の野営地も同じ事になってんのか?」

「そうだよ! だってのに、音に気付いた時には、もうあぁなってたとか言い出すの! あんなでかい野営地が、目を離した瞬間に崩れるかっての!」

 

 フィルメは怒り心頭で下生えを蹴りつけ、空を切るような鋭さは草を見事に舞い上がらせる。

 伝令役と報告役としては、詳細を聞き取る役目があるだろうから、知らないと言われても困るのだ。彼女が伝令役をやっているのは、その種族として持つ俊敏性を買われての事だ。

 

 彼女もその役割の重要性は理解していて、特に今回の様な異変があれば、その報告を詳細に話さなければならない立場にいる。

 だからろくに見てない他の監視役にも、説明できない状況においても、怒りを表さずにはいられないのだろう。

 

 フィルメの怒りは最もだが、フガマイトとしては他の者の言い分も理解できた。

 フガマイトは元より実直な性格だから目を離していなかったが、代わり映えのない風景を見つめるだけ、というのは気が滅入るものだ。

 

 暇つぶしに空に流れる雲を追ったり、意味もなく樹皮や木目を見て時間を潰したりする事は責められない。緊張感の高まる時期とはいえ、一分たりとも目を離さずにいられるか、と言われると難しい。

 

 そして、目の前で起きた粉砕劇は、その一分余りで終わった出来事なのだ。

 何か気付けば崩れてた、という報告も決して嘘ではないだろう。音を聞いてから慌てて目を凝らしたのだとしても、何が起きたか理解できなかったに違いない。

 

「なぁフィルメ、そいつら嘘言ってないぞ。俺は始まりから終わりまで見ていたが、本当にあっと言う間の出来事だった。まるで初めからそう作られていた、と思えるほど端から端まで倒れるように崩れていった」

「……嘘でしょ? 有り得るの、そんなこと? じゃあ、あれって何かの合図とか、そういう?」

「かも、しれないな。だが、その割には冒険者が倒れているだろ? あれが何を意味してるか分からん」

 

 言われて初めて気付いたらしく、フィルメは眉の辺りに手を翳して庇を作って遠くを見つめる。そして、すぐに高い声で驚きを上げた。

 

「本当だ、あれって何!? 何で寝てるの?」

「俺達を誘き寄せる罠じゃないかと思ってるんだが……。奴ら、誰も血を流してないだろ? 他の野営地も崩れたっていうなら事故じゃないだろうし、例え事故でも巻き添えで怪我くらいしそうなもんだ」

「本当だねぇ……。自分たちでやったというなら、油断させようと見せてるんじゃないか、って話? んー……、でも何で野営地壊すの? あそこに軍を呼び込むのに、準備してたんじゃないの?」

 

 フィルメの最もな疑問に、フガマイトは二の句が告げなかった。

 これからの本攻めをする為、軍を待機させ準備する為の野営地だ。多くの物資を運び込んでいた事からも、それが窺える。それを本番前に潰す、合理的な意味を想像できなかった。

 

「そうとしか思ってなかったけどな……。じゃあ、何があったんだ、あれ?」

「もうちょい詳しく、初めから教えてよ。何が起きてああなったの?」

「俺から言える事も多くないけど、なんか硬いものがぶつかる音がした。そう思ったら、あっちの角の方が崩れていった。そうと思えば、順に……小枝を折るかのように崩れて折れた。一分かそこらの話だ」

「嘘でしょ……」

 

 フィルメは頭を抱えて蹲る。

 

「そんなの何て報告すれば良いのよ。嘘かでっち上げだと思われるに決まってる。見てなかったから、適当なこと言ってるんだろうって」

「だが、嘘なんて言ってない」

「そりゃ分かってるけどさ、信じてくれるかな……」

 

 今は誰もがピリピリしていて、それも最初に意見が割れた時から、現在ではそれがそのまま引き継がれて、いがみ合いのような状況が続いている。

 森長のヴァレエオは信じてくれそうだが、他の代表が何て言うか……それを考えれば、フィルメが蹲る気持ちも分かる気がした。

 

 そしてまた、それをネタに、別のいがみ合いが始ならないかと不安にもなる。

 その火種を自分で持ち込むかもしれない、というのがフィルメには耐えられないのだろう。同じ立場ならフガマイトも似た気持ちになる。

 

 これが目に見えて明るい情報なら、持ち帰るのにも不安はないのだが、あの様子では混乱を招くだけ、という気がした。今の森が持つ雰囲気なら、それも十分有り得る。

 フィルメは蹲ったまま動こうとしない。遂には地面を見つめながら身体を前後に揺すり、子供のような真似までし始めた。

 

 気休めを言っても始まらない。

 自分の気持ちに決着が付くまで、フガマイトは黙って見ている事にした。

 ――その時だった。

 

 フィルメは頭の耳を機敏に動かし、そうして唐突に立ち上がる。森の先、野営地よりも更に先へと目を向け耳を向け、身体を向けた。

 

「おい、どうした」

「爆発音、遠くから。戦闘があったのかも」

「戦闘? 森から離れた場所で? 魔物が出たか? 森とは関係ないだろ?」

 

 矢継早に尋ねるも、フィルメから返答はなく、その目は遥か先を注視している。

 この街道で魔物が出る事は稀だが、皆無ではない。

 

 その為に目撃情報をギルドへ持ち帰る者など居て、討伐の依頼などで冒険者が駆り出されるのだろう。この近辺に出るというなら、魔物だって小物の筈だ。注意を向ける程ではない。

 沈黙が続くなか、フガマイトが再び尋ねようとして、その前にフィルメが一歩退いた。

 

 尾はピンと先立ち、その体毛が総毛立っている。

 悍ましいものを見たとでも言うように、その姿が雄弁に語っていた。

 

「どうした、何があった。何が見えた?」

「何も見えちゃいないよ。ただ、ちらっと……本当にちらっと見えただけ。亡霊じゃない……。そんなチャチなもんじゃなくて……、もっと恐ろしい何か……」

「おい、何を見たんだ! 見えたんだろ!?」

 

 呆然と引き攣った声を零す姿には流石に黙っていられず、フガマイトはフィルメの肩を掴んで身を寄せる。触れた肩は冷たく、それどころか冷や汗すら掻いているようで、明らかに異常だった。

 

「お前……どうしたんだ、一体……」

「分かんない……分かんないよ……。でも、逃げてくる」

「逃げて?」

 

 フガマイトがその声につられて森の外へ顔を向けると、確かに道の奥には砂埃が起きていた。砂埃が見えるなら、それは相当な数の人間が地面を蹴っている証拠だ。

 だが、あれを多いと見るべきか、それとも少ないと見るべきか迷った。

 

 砂煙の規模から見て、千人前後と思われる人数が近づいて来ているのだろうが、それが仮に軍だと言うなら少なすぎる。

 だが冒険者なら脅威だろう。一体どちらだ、と見定めるつもりで固まっていると、その姿が徐々に露わになってくる。

 

「……軍隊?」

「多分、そうだと思うよ。最初は体列組んでたから」

「あぁ、そりゃ軍隊っぽいな……。だが待てよ……?」

 

 その僅かばかりの軍勢は、野営地を見つけるなり呆然としているように見えた。

 あるべきものが消えていた、そのような姿に見え、気付いてからは足取りも重くなっている。駆け足を止めた事がその証拠で、野営地に辿り着いてからは指揮官らしき者が、冒険者を見るなり蹴りつけ始めた。

 

 まるで、事の釈明を要求しているような状況だ。

 そして実際、それは間違いではなかったらしい。

 フィルメが耳を動かし声を拾うと、その内容を教えてくれる。

 

「あの男、凄く怒ってる。何が起きてるか分かってないみたい。野営地の現状は、あいつらにとっても不満みたいだね」

「じゃあ、あれは事故でも罠でもなく、誰かの仕業でやられたって事か? ――誰が?」

「森の奴らがやった筈ない。そんな事が出来るなら、こんなに追い詰められてる訳ないもの」

「そりゃそうだ。俺達に出来るだけの力があるなら、もうとっくに打ち壊してる」

 

 フガマイトは樹の幹を握っていた掌に力を込める。

 それで樹皮が割れて樹の中身が露呈しそうになるが、慌てて止めた。人と比べ物にならない力を持つオーガ族だが、しかし刻印の登場で、その力関係にも陰りが出始めている。

 

 かつてのように、一方的な蹂躙など出来なくなっていた。

 それはエルフにとっても同様で、魔術に秀でた一族、という株も奪われて久しい。

 実力ある者から徐々に戦死し、そして今では魔術士に事欠く有り様だ。治癒術を使える者も希少で、それもかつての様な万能性は期待できない。

 

 森の薬草から作られる水薬の方が役立つが、魔術は薬草のように次の採集まで長く待たねばならない、という点がない分秀でている。森の治癒術士には、その程度の治癒力しかなかった。

 だから打って出ることが出来ずにいる、とも言える。

 

 オーガ族に限らず、戦士職が受けた傷は癒やせる事なく死んでいく。

 だから攻め込めないし、傷を受ける確率を減らす、不意打ちで倒せる森で戦うしか、もはや方法は残されていない。

 

「なぁ、とにかくこれ……報告しなきゃ拙くないか」

「そうだよね……、これはもう何が起きてるかなんて見てる側が分かる事じゃない。見たまんま報告するしかないよ」

 

 だからさ、とフィルメは続けた。

 

「あんたも着いてきてよ」

「俺が!? 無理だ、報告なんてした事ねぇって!」

「見たまんま言ってくれればいいし、基本はこっちで言うから! この場合、説得力が絶対必要なんだって!」

「だが、ここに誰もいないってのも……」

「だったら用意すればいいでしょ! すぐ代わり呼んでくるから、それまで待ってて! この辺、巡回してる鬼族、どっかにいるでしょ!?」

 

 言うなりフィルメは、草生えを蹴って駆け出した。

 その背が見えなくなるのは一瞬で、もはや逃れられないと悟る。実際、目の前で見た者の証言がいるというなら、そしてそれが里の軋轢を弱められるというなら、喜んで報告する。

 

 ただ、不安には違いない。

 今も遠く野営地では誰かが喚き散らしているようだが、その声までは聞こえて来ない。だが、ここが最大のチャンスである事も理解できた。

 

 他の野営地でも同じだというなら、敵軍を追い返す最大限の、そして最後の機会という気がした。その攻める口実が得られるとうなら、どんな説明でもしてやろう、と心に熱を灯した。

 



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第九章
森への帰還 その1


 森の方にもデルンにも然したる動きはなかったが、ミレイユは樹木に寄り掛かって、そのまま様子を見続けていた。

 デルンにしても、最早軍事行動は望むべくもなく、都市まで引き返して敗戦を伝えるしかないと思うが、それらしい行動を取ろうとしていない。

 

 茫然自失として座り込む兵達が多く見え、誰もが動きたくないと思っているようだった。

 瓦礫と化した廃材、端材の中で、まだしも使えそうなものを探して椅子代わりに使っている者もいる。薪にする木材には事欠かないので、それで火を焚こうとしているのも窺えた。

 

「しかし、動きが見えないな。あそこで座り込んだところで、どうしようもないだろうに」

「はぐれた者達を待っているのかもしれません。軍とは基本、命令なしで勝手な退却は出来ないものですし、そうであるなら指揮官がいる場所に戻ろうとするものです」

 

 アヴェリンが解説してくれて、なるほど、とミレイユは頷く。

 

「全ての兵が遵守してくれるとは思えないが、しかし逃げてくる兵はいる筈だ。兵を預かる者として、逃げて来る者はもういない、と判断できるまでは待たねばならない、という事か?」

「恐らくは……」

 

 進軍地ぐらいは、各隊の隊長も知っている事だろう。

 野営地が複数あったからには、そこへ分散進撃するつもりだったのかもしれないが、いずれも使い物にならないと分かれば、他の場所へ移動しようとする筈だ。

 

 それなら指揮官がいる筈の野営地を目指すだろうし、最終的には生き残ったり、逃げる間に逸れた兵達も合流するだろう。

 だが、果たしてそう上手くいくものか。

 

「随分と数を減らした。防備も無く、新たに陣地を構築しようともしていても散発的。士気も低迷し、疲れ果てた兵たち……。指揮官の居ない野営地では更に酷い事になっているだろう。……エルフが放っておくか?」

「あれが果たして、どのように見えているものか……。格好の獲物として食い付くやもしれません」

「……うん。今更あれを、罠や陽動と見る事はないだろう。とはいえ、だとしたら何の為の軍事行動だ、とは思っていそうだが」

 

 そのどちらでもないと分かれば、次に疑うのは第三者の介入だ。

 何者か、あるいはどこぞの軍が、デルン軍を攻撃したのだと見做すだろう。問題は、その第三者を味方と見るかどうかと、その味方に心当たりがあるかどうかだった。

 

「予定通りの削り具合なら、敵兵の数が少ない事を訝しんでも、そこに味方する第三勢力までは考えなかったかもしれないが……」

「ユミルの奴が台無しにしましたね」

「――だぁから、違うってば」

 

 それまで黙って話を聞いていたユミルだが、流石にその言葉まで聞き流す事は出来なかったらしい。聞き分けのない子供を叱るように両手を腰へ当て、嘆息しながら続ける。

 

「確かに敵兵を予想以上に削ったし、それを襲ったのは呪霊だわ。でも、私がやった事ではないのよ」

「だが、死霊術はお前の一族のお家芸ではないか。そして、一族はお前を最後に途絶している。だったら一体、誰が使ったのか……考えなくとも分かる事だ」

「そもそも、それが間違いよ。お家芸だったとして、他の誰もが使えなかったワケじゃない」

 

 アヴェリンの言い分は至極真っ当に聞こえるし、そうとなればユミルがもっとも怪しいという指摘は、誰もが納得するところだろう。

 しかしユミルの反論に、アヴェリンは鼻で笑って否定した。

 

「この時代では魔術は刻印へと取って代わられ、そして一般では目にする事も出来なくなったのが、死霊術というものではなかったか? 我らが生きた時代とて、良い目で見られた術ではなかった。使い手も相当限られていたものが、あの場で偶然誰かが使用したと? たまたま第三者があの場にいて、たまたま死霊術を会得していて、それで軍を攻撃したと言うのか? ――馬鹿を言うな」

「死霊術は、この時代では特に希少で、他の魔術ほど簡単に会得できるものではない、というのは同意するわ。万人に一人も持っているものではないでしょうよ。でも、だからって私が唯一無二というワケでもないわ」

「それは詭弁だ。問題は、あの場で攻撃したのが誰か、という話だ。死霊術を使って攻撃できた者が、あの場あの時、あの瞬間にいたか?」

「居たかなんて知るワケないでしょ。使われたからには居たんだ、としか言えないわ」

 

 論点をずらしていた事は、ユミルにも自覚があったのだろう。

 アヴェリンに指摘された点について、上手い言い訳は思い付かなかったらしい。息を吐いて視線を逸したところで、ルチアが弱り顔でミレイユの肩を揺さぶった。

 

「ちょっとミレイさん、これは流石に好きに言い合いさせて良い場面じゃないですよ。下手すると亀裂が入ります、それも修復できないタイプの亀裂が。即座に納得させるのは難しくても、何とか言って上手く纏めて下さいよ」

「……そうだな、アヴェリンのガス抜きをさせている場面でもないか」

 

 ミレイユは野営地に向けたまま視線を、そこで初めて動かしルチアへ向ける。

 

「一番傍で見ていたのは、お前だな。それで実際のところ、どうだったんだ」

「えぇ、名誉に誓って言いますけど、ユミルさんは使っていませんでした。そもそも作戦は順調に推移していたんです。無理する場面でもなかったんですから、明らかに分不相応な呪霊なんか必要としていません」

 

 その推移については、現場に居なかったミレイユ達には判断できない事だ。

 しかしルチアの言い分には説得力があり、そしてこの二人が揃っているのに関わらず、想定外な戦力が居ないでもなければ、そうそう失敗するとも思えなかった。

 

 前列、中列と見送ったミレイユからしても、そこに想定外と思える強者は居なかった。だからこそ、後は二人に任せれば大丈夫だと、作戦の遂行を決めたのだ。

 しかし、そこでも異を唱えたのは、やはりアヴェリンだった。

 

「事実を見ろ、事実だけを。呪霊はいたか? 誰が使えた? 敵軍を攻撃する理由がある者は? この三つ全てに当て嵌まる者が、あの場に偶然いたなど有り得ない。仮にいたとしても、攻撃するだけの理由がなかろう」

「それは、確かにそうですけど……。でも理由がないのは、こっちも同じじゃないですか」

「作戦の意図だって、こっちはちゃあんと理解してんのよ。敵軍を半分程度まで減らせば良いだけ、私達の介入を分かり易く明示しない、それが分かっていて何で死霊術を使うと思ってんのよ」

「事実、そこに呪霊がいたからだ!」

 

 アヴェリンが声を荒らげた事で、場の緊迫が更に上がった。

 ミレイユは落ち着かせようとアヴェリンの隣に立ち、その腕を撫でる。アヴェリンは顔を向けては悔しそうに顔を歪め、それから一礼して一歩下がった。

 

 (たしな)められたと思ったのだろう。

 非がどちらにあるのか、それは明確なのに、というアヴェリンからの強い意志表示を感じた。

 実際、アヴェリンの怒りの根底にあるのは、ミレイユが立てた作戦に反したからではない。不利益を被る勝手をした、と思っているからだ。

 

 エルフを助ける事に異はなく、むしろかつての戦友として助けたいと思っていたぐらいだろうが、同時に信奉を向けられたくない、というミレイユの意もよく理解している。

 殆ど唯一無二と言って良い、死霊術による助力があったなら、あの場に居たのが誰かなど、エルフ達にはすぐ分かる。

 

 ユミルが助力したのなら、その傍にミレイユがいると連想されても可笑しくなく、この戦力の間引きにも関与があったと察するだろう。

 二百年の時の流れをどう捉えるか、という問題はあるが、それこそミレイユを神の様に思っていた彼らである。耳を丸めたエルフと称していた件もあるし、二百年程度、大きな問題として捉えていないかもしれない。

 

 事態の悪転は、想像以上に悪い。

 それが分かるからアヴェリンは怒ったし、それを考えなしに行ったユミルは罰せられるべき、とも考えている。糾弾してくれれば良かったものの、ミレイユはユミルを味方する態度を取った。

 

 しかし実際は、ユミルに無条件な味方するつもりもないし、単に許すつもりで取った行動でもない。それをユミルも理解しているから、外へ向けていた顔を戻して口を開いた。

 

「……アタシ達は、常に後攻なのよ。神々が指す手に対し、常に後出しの対応に迫られる。今回の件だってそうでしょう? そして、裏の手まで読み切ったからこそ、枷を強いての対応に迫られた」

「死霊術さえ、その一環だと? 都合の悪い事が起これば、全て神の仕業か……?」

 

 一度は引いたアヴェリンだが、ユミルの言い分には黙っていられなかったらしい。それは確かに言い訳がましくも聞こえ、だから詰問するような態度になった。

 しかしユミルはそれに腹を立てるでもなく、大いに頷いて続けた。

 

「アタシはね、その枷を嵌められた状態で、そして姿を隠した上で攻撃しようとしていた。ルチアにも言ったものよ……不意打ちを狙うには、狙いをつけてるその背中を打つコトこそ有効だって」

「……確かに、あの死霊術は不意打ちだったな。ここぞという場面、不意打ちと言うには相応しい一手だった」

「そう、姿を見せて欲しい相手に、姿を見せないからとやったコトなんだと思うわ。……いえ、違うわね。姿を見せないからこそ、周囲に気づかせようとした一手なのかも」

 

 アヴェリンは皮肉で返したつもりだったが、ユミルは大真面目に頷く。

 皮肉に皮肉で返すのはユミルの十八番だが、今回はそれに応じず真面目な態度を崩さない。むしろ、その言葉がユミルの推論を後押しするような恰好になって、思考を巡らす材料にすらなった。

 

 ミレイユとしても、その意見には賛成したい気持ちだったが、それでもやはり疑問は残る。

 あの場にミレイユ達が居たのは確かだと、認識していなければ出来ない一手だ。そして分かっているなら、他にやりようは幾らでもあったように思う。

 

 同じ疑問に、アヴェリンも行き当たったようだった。

 挑むような目付きでユミルに問う。

 

「手口が余りにまどろっこしい。死霊術である必要さえない。大規模魔術一つ――それこそ雷霆召喚の方が、ミレイ様がいる事を印象付けられただろう。……なぜ、ユミルが得意とする死霊術なんだ」

「そうだな、そのとおり。私の関与を外部に漏らしたい、広めたいというのなら、別の手の方が有効だ。……しかし、それこそが狙い、となれば……?」

「……ミレイ様?」

 

 ミレイユはアヴェリンの肩を抱き、その肩口に額を当ててから背を離す。

 アヴェリンは決まりが悪そうな顔をしつつ、自分の肩口へ大事そうに手を当てた。

 

「不意打ちというなら、正に今、この不和を招いた状態が不意打ちとは言えないか。――確か、一度言っていたろう。森を見捨てさせる事で不和を煽るつもりがあったんじゃないか、と」

「……あったわね。まぁ、ちゃちな方法だから、本気で狙ってるつもりは無いと思ってたけど」

「だが、案外そう思っていないのかもしれない。神々は我々が団結する事を良しとしておらず、崩せるのなら、いつでもその機会を窺っていると見るべきだ。それが今回、明らかになったと言えないか?」

 

 ミレイユの言い分には素直に賛成できないようで、ルチアは懐疑の表情を顔面に貼り付けて言ってきた。

 

「本気で……? 何かのついで、失敗しても只では転ばない、石を投げる程度の嫌がらせ……それなら分かりますよ。でも、そうではなく、本気で狙ってると思ってるんですか? あまりに穿ち過ぎじゃないでしょうか。疑心暗鬼になり過ぎて、ちょっとナーバスになってるんじゃ……」

「……そうかもしれない。だが、根拠は――いや、違う。そう……」

 

 言いかけようとして一度止め、唐突に閃くものを感じて顔を上げた。

 一度考えはしたものの、すぐさま思考の奥へ仕舞い込んだものがあった。森を攻める、という作戦の裏には、神とは別の意志で動いているものがある、という考えだ。それは単に王国としての利で動いていたのだ、と思っていたのだが、あるいはそれですらないのかもしれない。

 

「これは別物なんだ。矛盾がある、と言ったろう。この件には二つの意志を感じる。そして一方は、明らかに稚拙だ」

「あぁ……」

 

 ユミルも得心した表情で頷き、苛立たしげに足を鳴らす。

 

「今回の動きには、違和感がアタシにもあったわ。本命とは別の動きがあって、一手に幾つもの意味や効果を持たせてるのかと思ったけど……。そもそも、別々に動いた結果、今回の一件が重なったのね」

「……うん。特に冒険者の扱いが蛇足だ。あれは私を森から手を引かせる要因にさえなりかけた。森へ行かせようとする意志と反発するんだ。何故こんな矛盾した手を、と思ったが……」

「それがつまり、死霊術の件とも繋がるワケね……。確かにお粗末、矛盾とまでは言わないけど、他にやりようなんて幾らでもありそうだわ」

「それがどういう神と意図から来るものか、まだ分からない。しかし、二つの意向や意志の介在は勘付く事が出来た」

 

 ミレイユが柔らかくアヴェリンに笑むと、彼女は肩の荷を降ろしたかのように力を抜いた。

 

「然様でしたか。……だから最初、ユミルに確認だけ取って、それで納得されたのですね」

「言葉少なで悪かった。だがまさか、本当にそんな稚拙な罠で、籠絡できるつもりかと、自分自身、半信半疑だったからな……。自身の気付きを整理したくて、二人を止めるのも遅れた」

「まぁね、結局ね……。アンタが先走ったのが悪かったんじゃない」

「調子に乗るなよ、貴様……!」

 

 ユミルが高笑いでも始めそうな仕草でアヴェリンの前に立ち、気の障る口調と仕草を見せつけられて、額に血管を浮かべる。そのまま額をぶつけるような距離まで顔を近づけ、睨み付けた。

 

「大体、貴様がロクな釈明をしないから、あぁなるんだろうが!」

「基本的な釈明はしたわよ。それで十分だったし、だから十分あの子も理解してくれたわ」

「人任せも大概にしろ、それがミレイ様なら尚更だ! 思った事を全てを悟ってくれると思うなよ、現にお前の所為でチームが半壊するところだったのだぞ!」

「仕掛けたのはアンタね、アタシじゃないし」

「馬鹿を言うな、お前が――!」

「アンタが――!」

 

 いつもの馬鹿騒ぎが始まって、ミレイユは改めて樹木に背を預けて腕を組んだ。

 その横、足元にルチアが座り込み、立てた膝に頬杖を付いた。

 

「よくやりますよ、あの二人も」

「止めようとはしないのか?」

「あの状態はは止めなくて良いって、私だって分かります。好きにさせておけば良いんです」

「そうだな。あの二人のいがみ合いを見ていると、心が落ち着く」

「流石にその境地には、至れそうにありません」

 

 ルチアがげんなりと息を吐き、ミレイユは笑った。

 再び野営地を見下ろしても、その敵陣は相変わらず動きがない。森の方を見ても、やはり動きは感じられず、改めて今回の詭計に思考を巡らす。

 

 策謀があるのは間違いない。

 そして関わっているのは一柱でもない。

 ――あるいは……。

 もう一つの稚拙と感じる罠に関わるのは、神では無いからかもしれない、と思い直した。

 



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森への帰還 その2

 いい加減、アヴェリンとユミルのじゃれ合いも終わって、不自然な沈黙が漂うようになった頃、森の方に動きがあった。

 木々が揺られる訳でも、葉がざわめく訳でも、鬨の声が上がった訳でもない。

 ただ剣呑な雰囲気が、森の縁から漂って来るのを感じられる。

 

 それに気付いたのは、森を見ていたミレイユだけではない。

 最も早く気配の変化に気付いたのはアヴェリンで、次に森や樹々に注意を向けていたルチアだった。森の縁から野営地まで、まるで糸が繋がっているかのように、直線的な敵意が結びついている。

 

 ――いや、あれは敵意ではない。

 それは戦意であり、殺意だった。

 それに気付かないでいられる兵達が不思議だった。未だ他の野営地から兵隊が戻って来ていない現状、警戒をせずにはいられないだろうに、森を見ても奥を見ていない。

 

 端材を用いて陣地をマシにしようと涙ぐましい努力の跡も見えるが、さっさと逃げ帰らせる為に、再利用できないよう破損させたのだ。

 即座の撤退を決めなかったのは、完全に失態だろうが、今更言っても仕方ない。

 

「……やはり、こうなったな」

「エルフがこの状況逃がすとは思えないのよね。エルフと言わず、防御側からしたら見逃す理由がないでしょ。あーあ、さっさと逃げれば良いのにねぇ……」

「帰ったところで敗戦の責任は免れないだろう。そういう板挟みで動けなくなっていたのかもな」

 

 ユミルのボヤキに、アヴェリンが律儀に返して鼻を鳴らす。

 

「兵達には気の毒な事だ。上が無能だと、その苦労と皺寄せは常に下が被る……」

「エルフ側にしても、ここで追撃したところで、今後の戦争が有利に働くとは思ってないでしょう。ただ、絶対不利の状況からの今ですから、少しでも今後の有利に貢献したいんですかね。あるいは、勝利を味わいたいだけかもしれませんが」

 

 ルチアが何とも言えない、気不味い視線を森へと投げ掛けてから、野営地へと視線を移す。

 

「眼の前に転がりでた勝利には、食いつきたいでしょう。……そしてミレイさんの後押しがあったと勘違いしてるなら、尚の事この波に乗るべき、という流れが出来ているのかもしれません」

「そうね。それが勘違いとも言い切れないのがねぇ……、実際アタシたちは手出ししてるし。だけど、勘違いさせられているとして、あのままやらせて良いの? 稚拙者は何考えてるんだか分からないわよ?」

 

 ユミルの発言には、ミレイユとしても苦い顔をせずにはいられなかった。

 あれの狙いが何にしろ、ミレイユ達を不利な立場に置きたいという事は分かった。それで何がしたいのか、となると、そこまでは考えも読めない。

 いっそ単なる嫌がらせで動いているかもしれず、そうとなれば何をするつもりか見当も付かなかった。

 

「一応、いつでも介入できるよう準備しておけ。私達への嫌がらせが目的なら、森から出てきたエルフを攻撃し始めるかもしれない。……あぁ、つまりそれが目的か?」

「呪霊を使って見せたのも、つまり見せ札という意図があった訳ですか。このままじゃ、私達がエルフの前に姿を見せないだろうから、見捨てるつもりがないなら出てきて助けろ、と……」

「でもそれじゃ、当初の稚拙さが無くならない? 結局、奴らの掌の上ってコトになるけど」

「……そうだな、どうもチグハグで繋がらない。全く、馬鹿な事を……!」

 

 ミレイユは帽子を脱いで髪を掻き上げ、悪態混じりの息を吐く。

 

「計算ずくで動く相手の方が、まだ相手にしやすい……!」

「まぁ、馬鹿の相手は疲れるだけよねぇ。まともに考えるだけ馬鹿を見るかもよ……?」

「全く……っ、そのとおりかもな。つまり計算してやった事じゃなく、嫌がらせをした結果が、私達にとって歓迎できない事態に繋がるだけなのか……?」

 

 とにかく、と言って、ミレイユはユミルへ顔を向けて、森へ指を向けた。

 

「呪霊が出るようなら、それを無効化してくれ。エルフ達には好きにやらせ、そのまま森へと帰ってもらう。……まさか、調子付いて都市まで向かうなんて事はないよな?」

「それは無いでしょ。まさかそこまで能天気になれるとは思えないし、気が済んだら帰るでしょ。……でもね、呪霊の方は簡単じゃないのよねぇ」

「この場からじゃ、距離もあり過ぎるしな。近付くしかないか……」

 

 ミレイユが帽子を被り直して樹木から背を離すと、アヴェリンは行先を遮るように立ち塞がった。

 

「お待ちを。呪霊の前に出るとなれば、ミレイ様とて危険なのでは。幸い、これまでは敵として相手にする事はありませんでしたが、これからけしかけられるとなれば話は別です。別の手段を講じるべきかと」

「私なら、呪霊を近付けさせない防壁を作ってやる事も出来る。むしろ、それがないお前を前線に送る方が不安だ」

「しかし――」

 

 更に言い募ろうとしたアヴェリンに、手を挙げて止める。

 それ以上の言葉を遮るものではなく、とうとう森から戦士たちが飛び出た為だった。森の外縁、その下生えが揺れたかと思うと、一気呵成の勢いで次々と声を張り上げ駆け出して行く。

 

「始まった。とにかく、見捨てる事だけは出来ない。いつでも対処できるよう、近くまで行く。決してお前より前に出る事はしないから、今はそれで飲み込め」

「……ハッ、畏まりました」

 

 背筋を伸ばしたアヴェリンに頷き、次にミレイユはルチアを見た。

 既に立ち上がって杖を構えるルチアの目には、同族を思う強い色が浮かんでいる。

 

「思うところがあるのは分かるが、あまり派手に動かないように」

「大丈夫です、心得ています。無様な姿は見せませんよ」

「うん、お前は大丈夫そうだ。――ユミル」

 

 最後に声を掛けて、ルチアの隣に立った彼女に顔を向ける。

 

「有効かどうかは不明だが、私達の姿は隠蔽してくれ。……あぁ、いや……あれを見るに希望は薄いが」

「……確かにね」

 

 ミレイユが向けた先をユミルも確認して、互いに苦い顔を浮かべた。

 視線の先には森から飛び出した戦士たちがいて、その中にはエルフのみならず、鬼族や獣人族の姿がある。

 エルフの数が最も少なく、そして最も多いのは獣人だった。獣人は虎や狼、猫など多種多様で、彼らの嗅覚や視力を持ってすれば、隠蔽を続けるのは簡単な事ではない。

 

 それだけの多種多様な種族が、一千を越えて森から飛び出し、野営地を目指していた。当然、野営地で陣地を築こうとしていた兵達は、泡を食って逃げ出そうとしているが、ろくな体列も組んでいない軍というものは脆い。

 

 士気軒昂なエルフ達なら、蹂躙も時間の問題だろう。

 だが、いつでも彼らを助けに入れる距離まで、接近しなければならないとなれば、むしろ隠蔽効果を持ったミレイユ達には攻撃を繰り出してくる可能性すらあった。

 気も立っているなら嗅覚も鋭敏な筈で、その中でいつまで姿を隠し切れるか分からない、というのは神経がすり減るような思いがする。

 

「前門の虎、後門の狼という感じもするが……」

「そりゃあね。あれだけいれば、虎にも狼にも困る事はなさそうだもの」

「言ってる場合か……! 全く……、思い通りにはいかないな」

 

 いつもの調子が戻って来て、ユミルの顔にも嫌らしい笑みが張り付く。その肩を軽く小突いて魔術を急かし、ミレイユは野営地と森の双方を交互に指し示す。

 

「森の方から近付けば、匂いのキツイ樹木を利用して容易に近付けるかもしれない。だが、森の外縁にもまだ控えの部隊がいるかもしれず、結局発見が早まるかも……。野営地の後ろから回り込めば接近は容易だが、遮るものも誤魔化すものもなく、発見は速いだろう。……どちらも危険性は対して代わりないんだが、さて、どちらを選ぶ?」

「呪霊が襲うとしたら、エルフ達の方なんですよね?」

 

 ミレイユの質問には、ルチアが最も早く問い返して来て、それに頷いてから首を傾げた。

 

「エルフ達……に限った話ではないかもしれないが、まぁそうだろう」

「悩ましいですね。接近は容易でも咄嗟に助けに入れない場所を、位置取る意味は無いように思いますし。でも森側は森側で、発見されるのを呑む必要があるように思います」

「……うん、いっそ二手に分かれるか。ルチアとユミルの二人なら、むしろ見つかっても私の関与を否定できる。逆にいない事を明言してくれたら、下手な憶測も消えてくれるだろう」

「それが現実的かもねぇ……。私の関わりは消せないとして、アンタは居ないって思わせるのは良い案よ。寿命的にも妥当な話じゃない? それでルチアの里帰りとでも言えば、そこまで不自然でもないし」

 

 ルチアとユミルが顔を見合わせて頷き、ミレイユも頷いて指を向けた。

 

「それじゃあ、幻術の隠蔽が終わり次第、二手に別れてカバーに動こう。戦端は開かれたが、既に敵軍は逃げようとしているところだ。どこまで追うつもりか、獣人がどう動くかは予想つかない。そこだけ注意して呪霊に対応してくれ」

「了解よ。……にしてもまぁ、面倒な割に秘密裏な対処で涙ぐましいコト」

「嫌になるな……。神々の詭計、恐らくその一つ目でこれだ……。先が思いやられる」

 

 互いに渋面を浮かべた上で肩を叩き、幻術の発動と同時に動き出す。

 アヴェリンを伴って走り出しながら、この化かし合いの様な状況に辟易とした溜め息を吐く。嘆いたところで始まらないが、せめて呪霊を見たらこの手で仕留めてやろうと、目を皿にして意識を向けた。

 



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森への帰還 その3

 呪霊があるなら使用した魔術士も近くにいる、その考えに間違いはない筈だった。

 大量の魂を必要とする魔術だけあって、短時間で作成するには、それこそ戦場のような場所でなければならない。

 

 その作成手順も複雑で、そもそも一時間と掛からず作れるものでもないのだ。

 長い年月を掛けて、徐々に自分の魔力と亡霊を慣らしながら作るもので、そうでなければ容易く束縛から逃れ自律してしまう。

 ユミルはそれに反して出来てしまうが、出来る方が可笑しいと言える。

 

 この世に呪霊という魔物が自然発生する確率は極めて少ないのに、それでも存在が示唆されているのは、過去に術者が作成したものの、御す事が出来ずに逃げられたからだ。

 当然、逃した術者も只では済まず、多くはその命を落とす事になる。

 

 死霊術が嫌われる理由は、そこにこそあった。

 呪霊ほど極端な存在は稀だが、しかし亡霊や、それより少々強力な魔物を生み出す事は難しくない。それを放置するのが百害しかないと分かっていても、用途の終了と共に昇天させず放置する者も多かった。

 

 亡霊はその作成工程からして、魂を不当に扱うから、生まれたと同時に恨み辛みを持っている。生ある者なら区別なく憎み、襲う。

 そのような、本来なら魔物とすらと呼ぶべきでないものが、この世にあって人を襲うのは、その身勝手な振る舞いで亡霊を生み出し、解き放ったからに他ならない。

 

 疎まれ嫌われ、禁術として扱われるのも妥当としか思えないが、だから行使した魔術士の存在は随分と特異だった。

 何しろ、二百年前には既に異端として排斥されていた術だ。

 

 この時代で修めるのは相当な苦労があるだろう。魔術は師なくして修得するのは難しいから、独学で呪霊を作成しようと思えば百年では足りない。

 ではエルフが使ったのか、と思えば、それもあり得なさそうに思える。大地と樹々と精霊を敬う種族が、亡霊に手を出すとは考えられない。

 

 そうすると、やはり疑問は最初に戻る。

 ――いったい誰が、呪霊を作ったのか。

 神々ならば容易い、と思う反面、そんな分かり易い手出しはしてこないだろう、とも思う。神々は盤面の指し手なのであって、駒を動かしても、動く駒にはならない。

 

 そこから下ろすか、自ら上がるかを考えなければならないが、今はそれより目前の死霊術士だ。恐らくは、この術士こそが稚拙な策謀を巡らせた張本人だろうし、そしてこれを捕まえられたなら、神々へと繋がる何かを見つけられるかもしれない。

 

 そして死霊術士と言えば、ミレイユからすると一つのイメージが強く思い浮かぶ。同じ術を修得しているとは限らないが、幻術との併用は相性が良い。

 ミレイユは野営地の裏側へと大きく湾曲しながら接近しつつ、その左斜め前方を走っているアヴェリンへと声を掛けた。

 

「アヴェリン、相手も姿を隠しているか、何かしらの隠蔽をしている可能性がある。よく注意を払え」

「畏まりました。もしもいるなら、絶対に見逃してはやりません……!」

 

 アヴェリンの声にも熱が籠もった。

 敵が死霊術などという面倒な方法を使った為、いらぬいざこざが発生した。これを策謀を呼んでも良いか分からないが、とにかく混乱させられたのは事実だ。

 

 意図的で有ったにしろ無かったにしろ、アヴェリンの怒りは相当なもので、声を掛けた瞬間から目に見えて注意力が上がった。

 ミレイユもまた周囲に注意を向けながら、野営地の方を睨む。

 

 デルン軍は既に潰走(かいそう)していて応戦する意志を見せず、それを足の早い獣人が追いかけていた。獣人の群れが隊列らしいものも無く逃げ出す兵を飲み込み、踏み潰していく様を見ながら、何処から来るかも分からない呪霊を探す。

 

 上手く獣人達の視界からも逃れ、野営地近くの丘まで来ると、そこで一度身を伏せた。

 この場所からは森の方まで良く見えて、ユミル達が見えないかと目を凝らす。しかし、流石に姿を隠蔽している二人を探し出すのは難しい。

 

 そこは素直に諦め、傍らに同じく身を伏せたアヴェリンを伺った。

 

「一応聞くが、ここは風上じゃないよな……?」

「はい、流石に獣人相手に風上に立っては隠蔽どころではありませんから。そこは弁えております」

 

 訊いてみたのは、一応で念の為だ。アヴェリンがその様な単純なミスをするとは思っていなかった。

 野営地周辺には多くの獣人が残っており、取り分けエルフの数が多い。そもそもとして全体を見た時、比率としてエルフの数が少ないのは仕方ないとして、追撃に動かしたのは獣人ばかりであったようだ。

 

 周辺に残された僅かばかりの武具や、砕かれた端材などを見分して、ここで何が起きたか調べようとしている。

 昔ながらの制御術で魔力を扱っているのを見てホッとするのと同時に、探査するように巡らせる魔力を見て、少しずつ身体を後方へ下げていく。

 

 声を出さず、視線と手の動きだけでアヴェリンに示すと、ミレイユに倣って最小の動きで後を付いてくる。十分な距離を離して、上からも下の様子が分からない場所まで来ると、ひっそりと声を出して話し始めた。

 

「……あまり近付き過ぎると気付かれる。追撃部隊も、すぐに帰って来るだろう」

「はい、しかし……呪霊の姿も術士の姿も見えません。こちらではないのでしょうか」

「元より何処を攻撃するつもりか分からない、攻撃の意図があるかどうかも分からない状態だからな……。読みが外れてる可能性もあるし、取り越し苦労というなら、別にそれでも良い」

 

 ミレイユが森の方へと視線を向け、代わりにアヴェリンが周囲を見渡した時だった。森の外縁部が騒がしくなったと思ったら、一部を取り囲むように獣人達が広がる。

 手には槍や剣など持っており、誰も居ない空間を吠え立てていた。

 

 警戒しながら包囲網を少しずつ狭めて行く様は、まるで狩りの様にも見え、そして中心に居る者が誰かなど、敢えて考えるまでもない。

 

「……これで出て来るのが、実は例の死霊術師というなら助かるんだが」

「そう願いますが……えぇ、違うようです」

 

 ユミルが使う幻術と、その隠蔽レベルは高いものだが、しかし獣人の鼻や耳、そしてエルフの感知を抜けるものではない。

 ミレイユも、エルフが使おうとする術に気付けなければ危ないところだった。

 幻術を解いて出てきた二人に獣人達は殺気立ったが、ルチアの姿を認めて困惑もしたようだ。武器を持って威嚇する勢いが減っている。

 

 二人は見つかったが、初めからその時はそれで良いとも伝えているので、ユミルたちは逃げ出さない事を選んだのだろう。

 そして彼女たちの弁が立てば、むしろミレイユの不在証明をでっち上げられるので、発見されるのは悪い事ばかりでもない。

 

「まぁ、むしろ大々的に呪霊の対処が出来るのだから、いざという時は頼りに出来るだろう」

「となれば、敵が狙うとしたら野営地側になるのでは?」

「……かも、しれないな」

 

 ミレイユは森から野営地側へと視線を移す。勿論、角度の都合でその様子までは見えないのだが、少しでもその様子が伺えないかと耳を凝らした。

 その時だった。

 

 左側から地を踏む音がする。

 気配を押し殺し、息遣いすら抑え、足音も最小にしていたが、しかし全くの無には出来ない。それを俊敏に感じ取った二人が視線を向けると、そこには獣人の女性が獣のように身を屈めてこちらの様子を伺っている。

 

 敵兵を追いかけるのとは別に、残存兵が潜伏していないか探しに来た者なのかもしれない。仲間を呼ぼうとしないのは、ここに何かがいると確信が持てない所為だろう。

 アヴェリンへと目配せすれば、心得ている、という表情と共に首肯が返った。

 

 ミレイユ達は野営地の風下に立っていたが、あの獣人からすれば、この距離なら関係なく察知できるだろう。今更移動するのも難しく、何か物でも投げて注意を逸らすべきか悩む。

 獣人の手には小指ほどの大きさをした笛を持っていて、いつでも吹けるよう準備している用意周到さだった。

 

 笛を一つとして鳴らさず無力化できるか、そういう意図を持ってアヴェリンへ目を向けると、これにも首肯が返って来る。

 ユミル達が発見されたとなれば、そちらで様々な対応が迫られるだろうし、何よりルチアの帰還はそれなりの事件である筈だ。

 

 こちらに向ける注意も散漫になる筈で、その間に逃げ切るのは可能だの様に思える。ただ、獣人族一人が気絶している事を、有耶無耶には出来ない。

 一つの証拠は一つの疑問を生み、一つの綻びは一つの穴に繋がる。

 

 そのまま気付かず何処かへ行ってくれるのが、最も安心できる結末だった。

 だが、鼻を動かし、耳を動かすその姿は、明らかに違和感を持って捜査している証拠だ。何も居ないのに何かがいる、と勘付いていなければ、こうもしつこく探さない。

 そして、決して近付いて来ようとしないのも、その警戒度の高さを窺わせた。

 

 ――見逃しを期待するか、それとも無力化するか。

 今すぐ決めなくては発見される。

 発見された後でも無力化は出来るだろうが、それは次なる発見を誘発しかねない。獣人の女性は、鼻の動きを止め、そしてミレイユ達の居る方を見据えて目を細めた。

 

 これはもう駄目だ。

 そう判断し、アヴェリンに動いて貰おうとした次の瞬間、その獣人の後ろから次々と別の獣人が姿を現した。追加で三名の獣人が来て、警戒心も顕に周囲を睥睨する。

 

 ――笛の音など聞こえなかったが。

 そうであったら、即座にミレイユ達も逃げ出している。少なくとも発見されたのが自分達かどうか、その確認は怠らない。

 その音が無かったのだから、発見自体はまだなのだ、と思っていたのだが、それこそが間違いだったのかもしれなかった。

 

 ――小指ほどの筒状をした笛。

 あれはもしかしたら……。

 ミレイユは自分の迂闊さに舌打ちしたい気持ちを、必死で押し殺して歯噛みする。

 

 あれは犬笛だ。

 人間には聞こえない周波数で鳴らす、しかし獣人には伝わる音。おそらく、彼女が姿を見せるより前に、念のため笛を鳴らしてから接近を始めたのだろう。

 そして、警戒は無用だったと判断できたなら、再度笛を鳴らして安全の報告をしていたのかもしれない。

 

 獣人の特性を活かし、そして敵に情報を与えない、見事な方法だった。

 ――感心だけしていられたら楽だったのだが。

 ミレイユはひっそりと息を吐いて、傍らのアヴェリンを見る。

 

 その目には止むを得ない、という感情が上っていて、無力化するつもりでいる事が分かった。

 ミレイユとしてもそのつもりで、もはや完全な隠蔽は不可能だ。気絶した獣人を丘の上に残して行く事になるが、この際完全な発見をされるよりマシだと割り切るしかない。

 

 アヴェリンへ首肯して、ミレイユも自ら立ち上がろうとした瞬間、それが姿を現した。

 低く宙を飛び、地を這う様にして野営地へ突き進んでいるのは、これまで探していた呪霊に違いなかった。今度こそ、我知らず舌打ちが漏れる。

 

 ――こんな時に!

 

 あの呪霊が、野営地にいる者達を目標としているのは明らかだ。

 その存在に気付いたエルフ達も、そして丘の上にいた獣人たちも気付いて、一同場は騒然となった。忌むべき存在として、あれには警戒せずにはいられないし、死を誘う存在として忌避せずにもいられない。

 

 立ち上がり、隠蔽も解いて姿を現したミレイユ達に、獣人達は驚き、警戒も顕に威嚇してくる。直前に呪霊へと意識を奪われていたのも相まって、どちらへ対応するべきか、その反応が遅れた。

 ミレイユはアヴェリンを伴いながら、丘を駆け上がる。

 

 その間に魔力を制御しながら、丘をジャンプ台に見立てて飛び出した。逃げ出そうとするエルフや獣人達と、それを追おうとする呪霊の間に立ち塞がり、次に準備していた魔術を解き放った。

 



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森への帰還 その4

 ミレイユは防壁を展開し、前方二メートルの場所に壁を作った。唐突に出現した壁に激突した呪霊は動きを止め、額や両手を壁に押し当て貫通しようとしてくる。

 ミレイユはもう片方の手で同じ防壁を展開すると、それを二重に重ねて時間を稼いだ。

 

 まずエルフ達を逃さなければ、自由に戦えない。

 ドーム状の防壁で自分たちを覆ってしまわないのもその為で、安全地帯に引きこもれば、呪霊はそれ以外を襲おうとするだろう。

 

 姿を現す事までしたのに、脇を通って逃してしまうのでは、その甲斐もなかった。

 だから防壁を展開しても、左右へ逃げようと思えば逃げられる規模でしか展開していないのだが、巧みに壁を動かして自由な行動を許さないでいた。

 

「ミレイ様、私はどう致しましょう?」

「……そうだな」

 

 いつもなら自分で判断して直接殴りに行くところだが、相手が呪霊だと生身の人間は相性が悪い。というより、生有る者は誰しも相性が悪かった。

 手で触れれば死に至るだけでなく、その全身、どこに触れても死に至る。ほんの偶然、どこかに触れるだけで命を落とすので、無鉄砲に襲い掛かっても死ぬだけだ。

 

 しかしアヴェリンには、気後れも戸惑いもない。

 既に命はミレイユに預けてあるので、それがどのような相手だろうと――触れただけで死ぬ相手だろうと、行けと言われれば即座に従う。

 それが分かっていても、戦えと指示するのは気が引けた。

 

 いずれにしても、被害を出さない為に姿を現したのだ。

 まずは注意を引き付け、他に目移りさせない事が肝要だ。ユミル達も呼びたかったが両手が塞がっていて召喚できない。防壁を突き破ろうとする力が強くて、一枚だけでは心許なく、余力もなかった。

 

「後ろの奴らを、まず逃がすべきか……。とにかく邪魔にならないよう、遠くへ逃がしてくれ」

「畏まりました。蹴ってでも移動させます、暫しお待ちを――!」

 

 言うや否や、アヴェリンは駆け出しエルフ達を追う。

 唐突に現れた旅人が、迫ろうとしている呪霊を受け止めた。そこだけ切り取って見れば味方としか思えないから、足を止めて様子を窺う事にしたのだろうが、呪霊相手ならどれだけ遠くへ逃げても安全と言う事は出来ない。

 

 ユミルが使った死霊術は完璧に制御されていたが、この呪霊にはそういう支配された意志の様なものは感じない。作成してから放置し、好きに暴れさせているような状態だ。

 デルン軍の敵兵が、僅か千人しか生き残らなかったのも頷ける。

 

「全く、どこの馬鹿だ……!」

 

 呪霊は遠くから一方的に魔術を撃ち込んでも倒せるが、生命ではないので、動かくなったからと倒した事にはならない。何度だって復活し、何度だって生命ある者を襲う。

 本当にその活動を停止させるには、死霊術師による呪霊の解放か、あるいは浄化をして魂の昇天が必要になる。作るだけ作って放置するのでは、山に火を放つ行為と変わらない。

 非情に忌むべき行為だ。

 

 ミレイユが動きを止めている間にも、ユミル達は動き出している筈だ。

 呪霊は目立つし、何より同じ死霊術師のユミルが気付かぬ訳がない。二人がやって来てくれれば、防戦一方から攻勢に切り替えられる。

 

「オォオ、オォォォオオ……ッ!」

 

 一向に近付けない呪霊は、言葉にならない言葉を口の奥から叫び、ミレイユを相手する事を諦め、他に移動しようとする。

 だが、そう簡単に向かわせては、アヴェリンに他を逃がすよう指示した意味がなかった。

 

 ミレイユは二つの防壁を巧みに動かし、特に交叉させ、逃げたい方向へ逃さなかった。苛立ちとも悲痛とも取れない叫び声を呪霊が上げ、思わず耳を塞ぎたくなる。

 アヴェリンはどうしてるかと、そちらへチラと視線を向けると、本人の宣言どおり蹴りつけてまで獣人を遠くへ避難させていた。

 

 そのミレイユから向けられた視線に、俊敏な反応を見せ、互いの目が合う。

 それだけでミレイユが何を望んでいるのか伝わった。元より丁寧な手付きではなかったが、ぞんざいとも思える扱いで移動の鈍い幾人かを投げ飛ばし、そして切って返して戻って来る。

 

「――そのまま行け!」

「はっ!」

 

 防壁という壁があろうと、呪霊に武器が通じなかろうと、ミレイユが行けと言えば応じる。それはアヴェリン自身、ミレイユが持つ一振りの武器だという認識にあるのと、無責任な発言はしないという信頼が背景にある為だ。

 

 実際、アヴェリンを無策で突っ込ませて、そのまま失う愚を犯すつもりなどない。

 ミレイユは森側へ視線を転じ二人の姿を確認すると、防壁を一枚に束ねて呪霊を弾き飛ばす。その内一枚を消して、残った一枚をアヴェリンの盾として残しつつ、空いた手で素早く制御を始めた。

 

 呪霊が体勢を立て直すのと、アヴェリンが武器を振り上げ、飛び上がるのは同時だった。

 盾として用いていた防壁を、更に前へ押し出し呪霊の動きを阻害しながら、アヴェリンの振り上げた武器に向けて魔術を放つ。

 

 アヴェリンの武器は特別性だ。

 黒壇のメイスには二つの付与がされており、その更に一つが、魔術を受け止め武器に転じる、というものだった。

 ただし、どの様な魔術でも可能な訳ではない。体全体まで飲み込むような広範囲な魔術は受け止め切れるものでないし、小さな範囲でも着弾と同時に爆発するような物はやはり駄目だ。

 

 敵の魔術を利用する、となると使い勝手も相当限られるが、ミレイユがサポートする分において、その不利も消え利点ばかりとなる。

 これが、アヴェリン自身、ミレイユの武器と自認する要因でもある。

 

 ミレイユが放った魔術は『死者撃退の光』と呼ばれるもので、単純に使用するだけなら、アンデッドが逃げる光を出す、という効果でしかない。

 しかし、それを武器に宿して殴るとなれば、それはアンデッド特攻の爆発的な効果を生み出す。

 

 眩いばかりに輝く武器から、呪霊は怖気のよだつ声を出して逃げ出そうとするが、防壁が自由な逃亡を許さない。

 アヴェリンが武器を振り下ろす直前に防壁を解除し、その一撃が呪霊の胸を深々と抉った。

 

「ギョオオオォォアアアア!!!」

 

 叫び声に合わせて目から口から黒いものが飛び出し、それに合わせて身体が左右に揺れる。

 その骨と皮ばかりに見える細い手も遮二無二動かすが、アヴェリンにはその手を向けようとしない。それどころか、叩き付けたままの姿勢であるにも関わらず、その腕にも触ろうとしなかった。

 

 メイスから溢れる眩い光、その幾条も走る光は呪霊の肌を焼くようで、到底アヴェリンの身体まで手を伸ばせるものではないのだ。

 しかし、暴れるだけの価値はあったようで、押し付けられているにも関わらず、その拘束から逃げ出した。

 

 メイスが深々と刺さった痕と、そこから下部分がごっそりと削られて無くなっている。

 宙に浮かんでしまえば、手出しできないと思ったのだろう。天敵とも言えるアヴェリンは勿論、近付けないと理解しているミレイユには目もくれず、逃げたエルフ達を次の目標にしようと体の向きを変えた。

 

 ――だが、そう簡単にはいかない。

 十分、時間は稼げた。ミレイユが新たな防壁を展開するのと同時に、周囲を包む巨大な結界が展開された。

 

「遅くなりまして、すみませんね」

「いや、丁度良いくらいだ」

「ていうか、何でアンタ姿見せてんのよ。アタシ達の努力が水の泡じゃない」

 

 到着早々、不満も顕に鼻を鳴らす姿を見て、ミレイユは呪霊を指差し教えてやる。

 

「見えるか? あれが目と鼻の先に現れて、私の目の前で襲おうとしていた。周囲は警戒する獣人もいて、隠れたままの対処は不可能だった」

「だからってね、アンタ……。アタシなんてそりゃもう、壮大な嘘をぶっ扱いていた最中だったワケよ。アタシの話の中じゃ、アンタは壮絶な死を迎えたってコトになってんだから、この後ちゃんと死んでおいてよ」

「どういう要求だ、それは」

 

 ユミルと馬鹿な言い合いをしている間も、呪霊は逃げ出そうと四苦八苦している。

 だがルチアの張った結界は強固なもので、呪霊であっても抜け出せるものではない。その上ミレイユが蓋をするように防壁で逃げ道を塞いでしまっている。

 

 半球状の三分の一から上部分に呪霊が閉じ込められ、そこから動けなくさせているのだ。

 ミレイユはそこにわざとらしく指を向けながら、鬱陶しそうな目を向ける。

 

「いいから、さっさとアイツを始末してくれ。アイツの叫び声は耳に刺さるんだよ。さっさと終われば、私もさっさと逃げ隠れる」

「いやぁ、それはどうですかね……」

 

 自分でも今更無理だと分かっていながら口にしたが、ルチアからも聞き咎められて肩が下がった。ルチアが結界を維持しながら指先を向けてきて、そちらへ目を向ければ、滂沱(ぼうだ)の様な涙を流している一人のエルフがいる。

 

 少々老けたようだが間違いない。ミレイユの記憶違いでなければ、ルチアの父であり、エルフの纏め役だったヴァレネオがそこにいた。

 背中まで達する長い銀髪を全て後ろに流した髪型と、厳格そうに見える顔付きも昔のままだ。

 ユミルが制御を開始して、呪霊を解放しようとしているのを横目で止める。

 

「なぁ……、今すぐ呪霊の対処を後にして、何か上手く隠蔽できる方法はないか?」

「無理に決まってんでしょ。もうどうにもならないわ。それとも今すぐ死んでみる?」

「何か壮絶な死に様じゃないなら、頼んでみても良いかもしれない……」

 

 ミレイユは目を逸らして、帽子のつばを摘んだ。

 目線を隠すように深く引き下げても意味はなく、頬に突き刺さる視線は強まるばかりだった。頭上の呪霊が光の粒子となって消え、アヴェリンも武器を収めながら近付いて来る。

 

 結界の役目も終わったが、結界を解くのは待ってくれ、とミレイユは往生際悪く頼んでいた。

 



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森への帰還 その5

「み、ミレイユ様……! まさか、再び……そのご尊顔を拝謁できる栄誉を賜われるとは……!」

「お前、そんな事を言う奴だったか……?」

 

 ルチアが結界を解除した途端、膝を付いたヴァレネオが、涙ながらに仰々しい言葉を口にした。

 今更、実は偽物だ、と言っても通じるものではないだろう。気絶させて逃げ出そうにも、周囲にはエルフも獣人も遠巻きに見ていて、今となっては誤魔化し様もなかった。

 

 仮に全員を気絶させたところで、ここにミレイユがいた事実は変えられないし、ユミルに頼んだところで、都合よく記憶を消せるものでもない。

 止むに止まれずとはいえ、面倒な事になってしまった。

 

 ヴァレネオはルチアの父として、予てより親しい間柄ではあった。

 尊敬に加えて尊崇すらしている、とはルチアから聞いていたものの、ミレイユ個人としては、エルフが人間に向けられる、最上級の敬意以上の態度を取られた記憶がない。

 

 当時は当時の常識があって、ミレイユを耳を丸めたエルフと呼んで、エルフ集落全体に配慮した感謝の仕方をしていたものだ。

 それがこの二百年でどう変わってしまったのか――甚だ疑問だが、とにかくここで右往左往している場合ではなかった。

 

 周囲の目もある。

 追撃から帰って来た獣人の兵達や、呪霊から逃げていた兵達も帰って来ていて、そして呪霊から身を挺して守り、退けた姿を目撃されている。

 直接攻撃したのも、昇天させたのもミレイユではないが、ヴァレネオが人間に膝を付いている姿を見れば、只者でないという事だけはすぐに分かってしまうだろう。

 

「とにかく大袈裟な事にしたくないんだ。ヴァレネオ、立ってくれ」

「しかし……」

「命じてやらねば駄目か?」

「は……、畏まりました」

 

 強く言えば、流石に抵抗してまで膝を付くつもりはないらしい。

 そこにルチアが、気不味い顔を隠しもせず前に出てくる。

 

「あー……、父上……」

「あぁ、先程も言ったが、お前も壮健そうで何よりだ。それにしても、どういう事だ。よりにもよって、ミレイユ様が身罷られたなどと嘘を吐くとは……!」

「いやぁ……、あれ言ったのユミルさんですし……」

「勝手に同罪にしないでよ」

「――ハァッ!? ちょっ……なに言ってるんですか、むしろ私を巻き込まないで下さいよ! 何をサラッと、私を主犯みたいにしてるんですか!?」

 

 ルチアは勢い良く振り返り、ユミルの肩を掴んで揺らす。

 ユミルは悪戯が成功した子供のように屈託ない笑顔で笑っていたが、ミレイユのすぐ傍に控えていたアヴェリンは、そんな二人に苦言を呈した。

 

「そんな気楽な態度でどうする。呪霊を作った犯人は、未だに姿を見せんのだろうが。死体ならば探すまでもなく転がっているんだから、また直ぐにけしかけて来るとも限らん」

「まぁねぇ、その可能性を考えないではないけど……」

「だったら備えろ。私達では、本当の意味で倒す事は出来ん。お前を頼りにせねばならんのだから……」

 

 アヴェリンは言葉を口にする度、その声に熱も入っていったが、ミレイユがそれを止めた。

 

「死霊術士の目的は、私達を表に引き摺り出す事だ。どこまで計算ずくだったか分からないが、いずれにしても、目的は達成したと見ているだろう。私達を攻撃したいなら、もっと別の手段を使う……と思うんだが、ユミルはどう見る」

「そうね、そうだと思うわ」

 

 突然水を向けられたユミルだが、その返答に淀みはない。

 

「呪霊は作成できてたけど、支配までは出来てなかった。……というより、支配を続けられなくなったのね。だから今回の動きは予想外だったけど、事は上手く運んだ。死体があって、活用できる魂があったからと、敢えて呪霊を使うリスクは良く分かっている筈よ。……まぁ、お粗末な術者に似合いの結果、って感じよね」

「支配できなければ、真っ先に襲われるのは術者の方だ。……であれば、そいつは既に死亡していると見て良いのか?」

「……とも、限らないのよね。支配できないにしても、綱引き状態の時間が幾らかある筈なのよ。端から駄目なら死んでるのは間違いない。でも、拮抗できる時間を持てるなら、その間に逃げられるワケで……。術者の力量が分からない限り、断定は出来ないわ」

 

 それならば、とアヴェリンは語気を強めてユミルを睨む。

 

「結局のところ、油断できる状況ではない、という話ではないか。奴の目的が我らを引き摺り出す事であるにしろ、それで本当に終わりとは限らない。術者を仕留めない限り、分かり易い隙を見せるべきではない」

「それはまぁ……、そうかもね」

 

 流石にそこは正論であると認めるらしい。アヴェリンの言う事には敢えて反論するスタイルのユミルも、時と場所を弁えている。

 ミレイユがヴァレネオへと向き直ると、手短に状況を説明した。

 

「――聞いてのとおりだ。この戦争は、私を表舞台に引き摺り出す為に利用された可能性がある。そして、引き摺り出された私は非常に困った事にもなった。ここはまず、他の誰にも周知せず姿を隠したいと思っているんだが……」

「な、なるほど……。事情は飲み込めませんが、ミレイユ様がお困りであるなら、何を言う必要もございません。お手伝いできる事があれば、何なりと申し付け下さい」

 

 有り難い返答に、ミレイユはホッと息を吐く。

 折角の再会、この場ですぐお別れというのも味気ない、と引き止められるかと思ったが、物分りの良い相手で助かった。

 

 事後の説明は上手くして貰うとして、未だ混乱の度合いが強い現場から、動いてしまうのが先決と考えた。

 だが、そこにルチアが待ったをかける。

 

「当初の目的を忘れてませんか。逃げるにしても、どうせなら森の方でなければ。こうまで多くの人に目撃されたっていうなら、不在証明は不可能、知れ渡るのも時間の問題ですよ」

「しかしな……」

「よく考えて見て下さい。最低でも確認だけはしなければ、ここまでやって来た意味もないですし、何より死霊術士の存在が拙いです」

「あぁ……」

 

 ルチアが何を言いたいか分かって、ミレイユは頭を抱えたくなる思いで息を吐く。

 ミレイユはエルフを助けた。見捨てる事は出来ない、と自ら証明してしまったのだ。なぜ助けたいか、その真理までは分からないだろうが、見捨てて良し、とまでは思っていない事は知られてしまった。

 

 ミレイユが姿を隠すなら、同じ様な事を繰り返すだろう。

 アヴェリンが言ったように、死体を探すには困らない。即座に隠遁すれば、再び呪霊を作り出す可能性がある。

 

 ユミルの話では、行使しても自らを危険に晒す程度の力量である様だが、一度はやった事だ。二度目もあると考えねばならない。

 エルフと森を人質に取られたようなものだった。最低でも死霊術士を仕留めるまでは、森から遠く離れる訳にはいかない。

 

 そして実際、現世へ戻り、オミカゲ様を助けようという方針を変えない限り、ミレイユにとってエルフは必要な存在なのだ。

 信仰を向けられる事なく、その協力を取り付けなくてはならない。そしてそれには、今回の戦いにミレイユが関与していない、という前提であれば比較的容易い事だったのだが、今となってはそれも難しい。

 

「だが、いつかは説明しなくてはならない事か……。前倒しになったと思って、他に何か対策も練るしかない」

「まさしく、掌の上って感じがするわねぇ……」

 

 ユミルが顰めっ面でボヤいて、フードの下から恨めしそうに空を睨んだ。

 

「狙いは読み切ったと思った。姿を見せず、エルフの多くに認知されないままでいるのは重要な事だった。でも、結局コレでしょ? 腹が立つわね……。姿を見せない死霊術士、今回はこれが神の手先だってコトだろうし」

「そう思えるが、だとすると少しおかしな事になる。一連の動きは、連携が取れていたとは思えない動きだった。最終的にどう転んでも望む結果を得られるよう、駒を動かしていた神の手腕とも取れるが……。偶然が勝ちすぎていたように見える」

「今回に限っては、どう転んでも良い、っていう状況だった所為もあるでしょ。まだ終わったワケでも、負けたワケでもない。私達の勝ちの目は元より、引き分けの目だって、まだ十分残されてるわよ」

「……それもそうだな」

 

 神々の狙いとしては、まずここでエルフから信仰を向けさせ、ミレイユをこの世界に縫い留める事だ、と思っていた。結果としてミレイユが劇的な救出劇の場面に姿を見せた事で、その狙いも現実のものになりつつある。

 

 だが、冒険者の利用など、粗と思える部分も同時にあった。

 彼らの運用は、ミレイユ達が遠退き、むしろ介入を躊躇わせる原因となる。魔王ミレイユという肩書が、それを邪魔するのだ。

 

 その二つの意志と齟齬が、この件に関して矛盾を生んでいた。

 それが神々とは別に動く者がいるのではないか、と疑わせた原因だ。

 

 そして、それならそれで、まだ猶予はあると考える事が出来る。

 最終的な着地点は同じでも、途中の経過が違うからこそ、齟齬に依る歪みが出来る。ミレイユが姿を隠せれば、その結果から逃げる事も可能かもしれない。

 

 姿も見せず声も聞こえない相手に、強い信仰を向ける事は難しい。かつての戦争で助力があったとはいえ、それは二百年も過去の事。頑なに衆目の前に姿を見せなければ、それはそれで疑念の方が強くなる。全く姿を見せない事が続けば、実在を疑い出すには十分なのだ。

 ミレイユは顰めっ面を浮かべたまま、ヴァレネオへと向き直る。

 

「ところで聞きたいが、私が姿を見せた、というような噂は既に広まっているのか?」

「それは、はい……左様でございます。特に数日前から、そのように……」

「数日前? 先程ではなく?」

「先程、というのは……ルチアに会ってから、という事でしょうか?」

「いや、呪霊を目にしたとか、そういうところから、私の存在に紐付けていったとか……」

 

 数日前という数字に疑問を覚えたが、自身が思い付いていた懸念から聞いてみると、ヴァレネオは首を横に振った。

 

「それで更に勢い付いたのは確かです。もしや、あいつが使ったのでなければ、或いは、と……。ですが森に辿り着いた親子から話を聞いていましたし、それより私がついた嘘により、森にはミレイユ様帰還説が流れておりまして……」

 

 あまりの情報量の多さに、ミレイユは頭痛を感じて手を当てた。

 聞いてみれば、その内一つは非常に納得できるものがある。綺麗さっぱり忘れていたが、何よりの状況証拠を隠蔽する事なく放置していた。

 ユミルも思わず呆れた顔で嘆息した。これはミレイユばかりではなく、自らに対しても向けられたものだ。

 

「あらら……。何で誰も思い付かなかったワケ? 考えてみればそうじゃない。あの親子エルフ、普通に送り届けちゃってるじゃないの」

「……そこからミレイユの名前や容姿が伝わるのは、むしろ必定だったろうな……まったく。それで、お前がついた嘘というのは?」

「ハ……、真に恥ずかしながら話は非常に長くなるのですが……」

「掻い摘んで頼む」

「ミレイユ様は実は少し外に出ているだけで、すぐに帰って来ると、そういう様な話を里の皆に説明しておりました……」

 

 ヴァレネオの表情は非常に申し訳なさそうな鎮痛なもので、聞いた限りで嘘を言っている感じはしないのだが、何故そんな嘘をついたのは理解不能だった。

 

「何故そんな……、いや、それを今ここで言及する意味もないか。とにかくタイミング的には、最悪な状況で言ってくれたという事は分かった」

「ちょっと待って。……一つ聞かせて」

 

 ミレイユが暗澹たる表情で眉間を揉んでいるところに、緊迫した声を出したユミルが口を挟む。

 

「さっき、あいつが使ったのじゃなければ、って言った? 知り合いに、死霊術士がいるっての? 高度に使いこなせる様な奴が?」

「えぇ、はい、おります。ユミル殿と同じく、ゲルミルの一族と名乗る者が、里におるのです」

「――何ですって?」

 

 ユミルが声音も低く問い返す。

 その目は剣呑に細く睨み付けており、嘘は誤魔化しは決して赦さないと告げていた。

 



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森への帰還 その6

 ユミルはヴァレネオに詰め寄り、襟元を掴んで顔を引き寄せる。彼女らしからぬ余裕のない態度に周囲は騒然とした。

 

「半端な言い訳はアタシに通用しないわよ。嘘を吐いたと判断したら、即座に催眠かけて白状させるから、そのつもりで答えなさい」

「お、落ち着かれよ……! 私は決して嘘など申しておりません!」

「それを判断するのは、お前じゃないのよ。ゲルミルの一族? よくもまぁ、そんな嘘を……!」

 

 ユミルの腕に力が籠もり、それに付随して魔力も籠もる。

 明らかに冷静じゃない彼女に、ミレイユがその肩に手を置いてやんわりと窘めた。

 

「お前が感情を昂らせるのも分かるが、ヴァレネオに当たるな。騙されているか、そう思い込まされているかのどちらかだ。冷静になれ」

「……そう、そうよね。ヴァレネオ、悪かったわね。正式に謝罪するわ」

 

 ユミルが肩から力を抜いて、それでヴァレネオも解放される。きつく絞った襟元には皺が出来て簡単には元通りになりそうもないが、ヴァレネオは軽く咳き込みながら鷹揚に応える。

 

「……いえ、どうかお気になさらず。ですが、誓って嘘は言っておりません。今はまだ姿を見せておりませんが、じきやって来るでしょう。その時、ご自身の目でご確認すればよろしいのでは……」

「そうね、そうするわ」

 

 ユミルは周囲を探るように険しく、そして忙しなく目を動かす。ミレイユもつられて捜すが、ヴァレネオが言うような人物は見つける事が出来なかった。

 ユミルと同族であると言うなら、それは例外なく黒髪赤眼である筈だ。周囲から遠巻きに伺っているのはエルフや獣人ばかりだから、それ以外の者が居れば間違いなく目立つ。

 ヴァレネオが言うとおり、この場にはまだ来ていないのだろう。

 

 そうして、唐突に気付く。

 自分達がとんでもなく注目され、そして興味を引かれている事に。年若いエルフや獣人はともかく、かつてミレイユと共に戦った者の目には、驚愕と感動の色が浮かんでいた。

 

「……既に目立ち過ぎていて、もはや隠蔽がどうと言っていられる状況でもないが。とにかくヴァレネオ、私達は自分の屋敷に用がある。案内してくれるか」

「それはもう、勿論でございます。里への帰還は誰もが喜び、迎えてくれる事で御座いましょう」

「……それは、里に入らねば辿り着けないのか?」

「はい、集落の最奥にあり、他の誰もが勝手に侵入できないよう、天然の要害によって、屋敷の周囲は護られておりますので……」

 

 つまり、入り口は一箇所しかなく、そしてその一箇所を通るには隠れて進むのが難しい、という事なのだろう。

 更に頭の痛くなる問題だったが、しかしいつまでもこの場で足踏みしていてもいられない。案内を頼むと、ヴァレネオは後の仕事を近くの者に引き継がせ、意気揚々と歩き出す。

 

 ミレイユはせめて顔だけは見られまい、と帽子を目深に被ってみたが、あまり功を奏してなさそうで、ヴァレネオの後を歩きながらひっそりと息を吐いた。

 

 ――

 

 森の中に入ってみると、予想していたとおり、魔術的仕掛けが多くあった。

 樹木が視界を遮り、そして直進できない工夫もされているが、方向感覚を狂わせるものや、見ている向きを変えてしまうものまである。

 

 その上、変わる前と変わった後の樹木の配置に変更はないから、罠に掛かったと自ら気付く事も難しかった。非常に嫌らしい罠である上、直接的には被害が出ないという点で、後続もまた同じ罠に嵌められる。

 

 伏撃に使う事も出来て、これまで森を守り通して来た理由は、こういう工夫にもあるのだろう、と妙に感心していた。

 

「……しかし、これでは罠の配置を覚えるまでは、ろくに森を歩けないな」

「ええ……。ですが森に住む者は、子供の頃から樹の実を採ったり、あるいは親の後をついて行ったりしますから、そう苦労する訳でもありません」

「森の中全てで完結しなくてはならないんだからな……。苦労も多いだろうが……」

「そうですね、やはり食糧事情は芳しくありません。森の獣もその数をしっかり見極めて狩りますし、農作業できる面積も多く取れませんから……」

 

 ヴァレネオは苦労を滲ませた口調で言った。

 外から見るには森も広く見えるが、実際は要塞化させ防備に回している部分が多い。そういった場所は獣も寄り付かないだろうし、そうなると縄張りの問題で獣すら数が増えない。

 

 樹の実はエルフ達の食料としているようだが、それは獣の食料でもある。彼らも肥えなければ子を産めないので、あればあるだけ採る訳にもいかないのだ。

 森から飛び出した追撃兵は、あまり数がいないと思っていたが、人口の減少もその一因だったのかもしれない。

 

 何ともやれ切れない思いで、ミレイユは息を吐く。

 かつては栄華を迎えようと、実際そこに手を掛けていたエルフたちが、今はかつて森で暮らしていたより貧しい生活をしている。

 

 それは戦争が悪い、と一括りにして良いほど単純な話ではないだろうが、どうにかしてやりたい、という気持ちも湧き出てくる。

 ――悪い癖だ。

 

 ミレイユは独白して帽子のつばに手を掛けた。

 今は他人の助けより、自分への助けこそが必要だ。ユミルも何を考えていたのか見透かすように、意味深げな笑みを向けている。

 そちらから目を逸らして逆側を見ていると、唐突にヴァレネオから声が掛かった。

 

「――ご注意ください。あまり道を逸れると、フラクレプタの樹があります」

「……植えてるのか、あれを?」

「えぇ、已む無く……」

 

 戦時中、それも不利な状況ともなれば手段は選んでいられないだろうが、諸刃の刃でもあるだろう、とミレイユは顔を青くした。

 見てみると、他の皆も同じ様な表情をしている。

 

 フラクレプタとは、別名『破裂毒の樹』とも呼ばれ、その果実は猛毒を持っている。武器に塗るだけで有効なこの毒は、傷口から入ると激しい痙攣と嘔吐を繰り返し、最悪の場合死に至る。

 樹皮にも毒があり、細かな棘が生えていて、迂闊に触れようものなら、そこから同じ毒を受けるという、殺傷能力の強い樹だった。

 

 悪魔の樹とも恐れられる毒樹で、何より恐ろしいのは、その果実が破裂する事だ。

 熟練の弓士にも劣らない速度で種を撒き散らし、接近した状態で回避するのは不可能とされる。その種にも、当然果実の毒が含まされているので、現代で例えると毒入り手榴弾のようなものと言えた。

 

 果実に触れようとしただけで破裂する事もあり、だから迂闊に近寄れない。気付かず樹木に手を当てようものなら、手の平や落下した果実から毒の雨を受ける事になる。

 方向を失わせる罠は、きっとこういう場所へ誘導する事にも用いられているに違いない。

 

「だがまぁ、知らぬ者には実に有効だ。……森の民に被害が出た事はないのか?」

「そこは徹底的に周知させておりますので。現在のこの道も、普段なら通らない道です。集落の正面から入りたくなかろうと思いまして、わざと脇道を使用しております」

「気を遣って貰えて有り難い。先程も言ったが、大袈裟な事にされると、私としては本当に困る事になる。出来れば、集落の……村長? そういった者にも内密にしたいぐらいなんだが……」

「それは難しいかもしれませんよ……」

 

 隣からルチアが申し訳なさそうに声を出すと、やはり親子だけあって、ヴァレネオも似たような顔をして頭を下げた。

 

「ハ……、その里長をしておりますのが、私ですので……。ですが周知させないよう手配できる立場でもありますから、そのお手伝いが出来れば……」

「あぁ、……そうか。いや、そうであれば逆に有り難い。詳しい事情も説明したいが……どう説明したものやら」

 

 森の名前といい、集落の最奥に屋敷を置いて、それを守るように村を配置している事といい、エルフたちがここに住んでいる理由は既に察しが付いている。

 その事に対しても感謝せねばならないだろうし、その誠意に対し、こちらも誠意で返さなければならないだろう。だが、どこまで説明したら良いか――或いはどこから説明したら良いか、それが頭を悩ませるのだった。

 

 難しい顔を見て、ヴァレネオは察するように、寂しげな顔を向け笑う。

 

「何事もミレイユ様の思うようにされると宜しいのです。我らにはそれだけの恩がある。……本音を言えば……いえ、失言でした」

「ミレイさん、変な期待はさせない方が良いです。下手な気遣いや同情は、自らの首を締めるだけで済まないと心得ている筈。同族の一人として、私の方から進言します。構いませんから、見て見ぬ振りをして下さい」

「ルチア……」

 

 辛い発言をさせてしまった、とミレイユは自らを恥じた。

 困窮した森の民を、そして自分の父が長として取り纏めているのを知って、それでなお見捨てろと進言するのが、どれほど辛い事かミレイユにも分かる。

 

 そして現在は、敵の術中にあった。

 決して無理でも不利でもない状況から、最善を導き出したと思った矢先の事だった。ミレイユがオミカゲ様を救いたい、その欲を出した結果とも言える。

 

 だが、死霊術士の介入一つで、ここまで事態が悪くなるとも思っていなかった。

 忸怩たる思いはある。

 下手な弱みを見せる事は、更なる事態の悪転を呼ぶだろう。

 それもまた、よく分かる。

 

 考えが纏まらない中で視線を足元に向けていると、ヴァレネオが殊更明るい声を出して前方を示した。言われるままに目を向けると、そこには森の切れ目、奥には村の姿が見えてきた。

 



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森への帰還 その7

 ヴァレネオが気を利かせてくれたとおり、ミレイユ達が森を抜けて出た場所は、村の東端に位置する様だった。

 

 明らかに歩いた距離と辿り着いた場所の時間が合っておらず、村人のみが知る特別な転移陣でも踏んでいたのだろう、とそれで察しが付いた。

 どこを見ても同じ様な景色なので、それで尚の事、どこに陣があったか分からなくなっている。仮に拷問して聞き出せたとしても、これは手引きが無ければ決して分からないような仕掛けだった。

 

 本来の入り口となる場所には木柱のアーチが建てられていて、そして続き先には大きな広場がある。子供が走り回って遊ぶ姿も見え、その中にいた青い肌の少年は、こちらに気付くなり、不自然な動作で逃げ出す様に走り去ってしまった。

 

 疑問には思ったが、子供のする事だ。

 視線を更に広場へ向けて見れば、本来なら集会や宴会などに使われる場所らしかった。

 小さな村では何事か祝い事があっても、全員を収容できる建物など用意できない。その為、広場を使う事は良くある事でだし、この里でも同様な扱いらしい。

 

 建物といえば、その広場に沿うような形で作られており、その全て木造で、草や葉などで飾り付けていたりする。どれも一階建ての平屋であり、大きな建物はあまりない。鍛冶場は村の西端にあって、その周りには同じ様な職人達が作業をしているようだ。

 

 鍛冶より大きく場所を使っているのは木工職人で、他には強烈な匂いを発する錬金術、そして医療施設らしきものもある。

 戦争で怪我の絶えない者が多いせいなのか、人が多く出入りしていた。術ではなく薬を使って治す事がメインの様で、その手には水薬が握られていたりする。

 

 基本的には牧歌的な田舎村、という事になるのだろうが、武器を携帯していたり、物々しい雰囲気で慌ただしく行き来している兵士達も多い。

 

 今しがた一度戦闘を行った後でもあるし、そうでなくとも敵軍の進軍があったところなのだ。あれだけで終わりと見ていない者がいるのも当然で、何事かを言い争いしている光景も見えた。

 その中にはミレイユなる単語も聞こえてきて、それが白熱する言い合いの原因になっていそうだった。

 

「……あまり、この場で暢気に見ている場合じゃないな」

「その様です。里長の屋敷がこちらにありますので、どうぞ……」

 

 ヴァレネオが指し示す先には、他より大分立派な建物があった。

 屋敷と言うには小さい気もするが、しかし村にある他のどの建物より立派で、装飾も多いようだった。

 入り口には衛兵らしき姿も見え、ヴァレネオが顔を見せるとホッと息を吐く。

 手には槍と盾もあり、全身に防具を身に着けているが、どうにも頼り甲斐がありそうには見えない。

 

「お帰りなさいませ、ヴァレネオ様! それに……まさか、そんな、ルチア様まで! これは一体……、どうしたことでしょう! 夢でも見ているのか!」

「……あまり騒ぎ立てるな。いま見ている事は内密にしろ。私もどこまで話して良いか分からぬ。――いいか、私が良いと言うまで、決して誰も通すな」

「は……、ハッ、畏まりました!」

 

 ヴァレネオが魔力の制御をほんの少し見せながら睨みを利かせると、衛兵は青い顔をして何度も頷く。その横を通り過ぎるヴァレネオを見送り、そしてルチア、ミレイユの順で通った事で口をポカンと空ける。

 

 何事か言いかけようと口を開いたが、それより前にミレイユの背をユミルが押して、睨みを利かせながら通り過ぎていく。

 それで更に口をぱくぱくと開いては閉じるのだが、最後にアヴェリンが前を通り過ぎ、声にならない悲鳴を上げた。

 

 卒倒すらしそうな勢いだったが、とにかく無礼を働く真似だけは出来ないと思ったらしく、一声たりとも声を上げない。とりあえず無駄な混乱を招かずに済んだか、と胸を撫で下ろして室内へと入って行った。

 

 外から見ても思ったが、中へと足を踏み入れても広くはなく、その内装も簡素なものだった。有り体に言ってしまえば貧相で、田舎の村長宅と見るなら妥当というものでしかない。

 

 だがここは、かつては森で一角の文化を形成していた、エルフ達里長の屋敷なのだ。そうして見た場合、種族の衰退を間近で見たようで、非常に心が落ち着かなかった。

 ミレイユの表情を盗み見ていたヴァレネオは、困ったような寂しげな笑みを浮かべる。

 

「……その様なお顔をなさいますな。過去の栄光はミレイユ様のお陰です。その栄華を維持できなかった事、そして現在の衰退を招いたのは、全て我らの不徳と致すところ。気に病む必要はございません」

「そう……なのかもしれないが」

「長い間、お隠れになられていた件については、聞いてみたくありますが……」

 

 丁度、客間らしき部屋の前を通ったが、視線を向けただけで素通りした。

 

「そうだな、色々話してやりたい。ルチアとの家族再会、そして団欒の機会を設けてやりたいとも思う。だが、ここへ訪れたのは、先ずもって私の屋敷に用があったからだ。すまないが……」

「はい、心得ております。いずれ帰って来るやもしれぬと思えばこそ、こうして護り通して参りました。その甲斐あったと、私は自分を褒めてやりたい気分です」

「それについては、素直に感謝するよ。……ありがとう」

「勿体ない、お言葉です……!」

 

 これには感極まって、ヴァレネオは動きを止めて一礼した。その肩は震えていて、歓喜だけでなく、悲喜こもごもが混じった複雑な感情の発露も見えた。

 ミレイユはその腰を曲げた姿を目にした事で、複雑な感情が胸中を占める。

 

 彼らがミレイユの邸宅を守るべく、この地に森を築いた。その感情は素直に嬉しい。だがそれが、彼らの現在――窮状を招いたというのなら、素直に喜べない。

 彼らは下手な義理など捨て去って、すぐにでも逃げ出せば良かったのだ。

 

 かつて暮らした森が、その当時どうなっていたのか、そこまでは知らない。勝利と栄光を謳歌しながら、多くの財産を都市へと運び入れたりしていたのかもしれないし、そうであるなら、以前と同じ暮らしは出来なくなっていたかもしれない。

 だが、敵国の目の前で暮らすよりは、遥かにマシな生活は出来ていただろう。

 

 ミレイユには、それが進んで泥を被ったようにも、貧乏くじを引かされたかのように思えてしまった。義理は大事かもしれないが、ミレイユが帰って来る保障など何処にも無かったのだ。

 今となっては報われた気持ちか、というのも本音には違いない。しかし、失ったものも遥かに多い。

 

 ――労いだけでは足りない。

 褒美か何かを与えられたら、その労苦に報いるだけの何かを与えられたら……、そう思わずにはいられなかった。

 

 とはいえミレイユに与えられるだけの財は無く、今すぐ報いてやれるだけの労も割けない。遣る瀬ない気持ちで背中を見つめていると、サッと姿勢を正して先導に戻った。

 ルチアから困った様な笑みを向けられ、ミレイユの方も困ってしまう。

 

 彼女は見捨てろと言ったし、自身の運命を覆すには、それぐらいの覚悟がなければ為し得ない、という意見には頷けるものがある。しかし、気不味さだけは拭えない。

 自身の気持ちに決着も付けられぬまま、一つの扉の前まで辿り着く。

 

 ヴァレネオが持つ鍵で開くと、そこは離れに続く道があった。

 その離れを経由する事で、ミレイユの邸宅へと辿り着くようになっており、先程言っていたとおり、周囲には天然の要害と言える樹木や草花が繁っていた。

 

 破裂毒(フラクレプタ)の樹の姿も見えるし、明らかに普通と思えない毒を持っていそうな植物も見える。この離れに通じる道を通らなければ、まず要害の餌食となるのが分かった。

 少なくとも、単に悪知恵の働く子供が、怖いもの見たさで侵入する、などという事は起こるまい。

 

 ヴァレネオの先導で離れへと入り、そこは本当に出入りする為だけの部屋で、物置の様な部屋を通過するだけだった。

 そのドアノブに手を触れたヴァレネオは、身体を一時、硬直させる。

 

「……どうした、何かあったか」

「侵入者がおります。この扉に鍵はありませんが、代わりに魔力錠が掛けてあります。解呪した後、掛け直した形跡があり、隠蔽するつもりはあったようですが……」

「先程の扉も、それじゃあ魔術で解錠されていたと見るべきか。そいつは、今も中にいるのか?」

「はい、解呪したタイミングまでは分からぬものですが、掛け直した魔術には真新しい形跡があります。まず間違いなく、まだ中に居ると考えておいた方がよろしいでしょう」

 

 ヴァレネオが断言すると、他の者にも緊張が走る。

 即座に武器を取り出して、身構えるまでに一秒と掛からなかった。何の用意もしておらず、逆に腕組だけで終わらせたのはミレイユだけだが、これは決して驕りではない。

 

 過敏に反応するだけの敵が、扉の奥にいるとは思えなかったからだ。

 魔力や戦力を、上手く隠蔽できる者は実際にいる。ユミルなどがその筆頭だが、しかし上手い隠蔽には、それと気付かせぬ慣れた雰囲気があるものだ。

 

 隠そうとする上手さが、逆に熟練者には力量を伝える指針になる。

 しかし、扉の奥にいる者からは、隠そうと必死になっているのが丸わかりで、素人臭さが窺える。だから警戒するには値しない、と判断した。

 他の三人が注意するだけで十分で、だから誰もミレイユの態度に文句を言わない。

 

「じゃあ、どこの馬鹿が侵入したか、その顔を拝んでやろうじゃないか」

「……開けます」

 

 ヴァレネオが外開きの扉を勢い良く開けると、その間を縫うようにアヴェリンが飛び出す。チームの盾として、まず前面に立つのが彼女の役目だ。

 こういう狭い道であれば、アヴェリンの鉄壁の守りは非常に頼りになる。

 

 ミレイユも続いて中に入り、その両脇を固めるようにルチアとユミルが傍に立つ。既に魔力の制御は始めており、いつでも魔術を放てるようになっていた。

 離れを出てからは、真っ直ぐと見慣れた――しかし懐かしい邸宅まで道が続いており、その周囲を囲むように、やはり危険植物が覆っている。

 

 植物と邸宅までの距離は十分に空いてる為、窮屈さは感じられず、むしろ陽がサンサンと照らされている事で開放感さえあった。

 邸宅入り口前にはアーチがあって、特にその周辺は大きく空間が取られており、それが邸宅周辺をより広さを感じさせる設計になっているようだ。

 

 こちらに生えている植物は見目だけは綺麗に見えるものが多く、神聖なものを守護するという美的配慮も窺えたが、危険性で言えば破裂毒の樹とそう変わらない。

 

 アヴェリンが数歩前に出れば、全体的な景観も良く見えてくる。樹木や植物と関わり合いが深く、またそれを整える為の術も体得しているエルフ達が、敬意を持ってこの空間を整えていた事は伝わって来た。

 

 ミレイユが有り難くも申し訳ない気持ちになっていると、そのアーチの影に誰かが隠れているのが分かる。まだ背は低く、ともすれば子供のようにも思えるが、単に種族に由来するものかもしれず、外見だけで判断する訳にはいかない。

 

 改めて見ると、やはりその実力は低いと判断できて、ミレイユ達を先回りした敵とは思えなかった。だが、それならそれで、正体は気になる。

 ユミルも似たような判断らしく、面倒臭そうな息を吐いて構えを解いた。

 

「……へったくそな隠蔽ね。あれで隠れてるつもり? まさか本当に子供が紛れ込んだだけじゃないでしょうね?」

「流石に、子供の力で突破されるような魔力錠は付けておりませんが……」

 

 ヴァレネオが苦々しい顔で言ったが、しかし現に侵入を許している。背丈からいっても成人はしていない相手に、突破されたのは事実なのだ。

 ヴァレネオが声を張って、アーチ奥に隠れているつもりの何者かへ声を掛けた。

 

「そこにいるのは分かってるから、早く出てきなさい!」

「そうよね、怒ったりもしないわよね。ただまぁ、沈黙は敵対と受け取って、容赦なくそこのアヴェリンが殴りに行くけど」

「何でお前の命で殴りに行かねばならん。……が、ミレイ様が敵と判じれば、子供だろうと一切の慈悲なく頭を砕く」

 

 アヴェリンが言う堂々たる宣言に、アーチ奥の何者かは身震いした後、ようやく観念したようだ。ユミルが言うほど下手な隠蔽ではなかったが、しかし専門家のお眼鏡には敵わない術を解いて、その姿を顕にする。

 

 気不味そうなだけでなく、今にも泣き出しそうな顔をして出てきた少年には、見覚えがあった。

 オズロワーナで奇妙な反応をしては、脱兎の如く逃げ出した青い肌の少年で、思えば村に入ってからも逃げ出した少年と同一人物のようにも見える。

 

「う、うぅ……何故分かったのだ! 灯台下暗しと思ったのに……!」

「何をやってるんだ、テオ……」

 

 ヴァレネオが疲れ果てた顔で額に手を当て、苦労を滲ませた声音で息を吐いた。

 



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森への帰還 その8

 明らかに顔見知りへ向ける態度に、ミレイユは肩の力を抜いて息を吐く。

 村に住む少年の様にも見えるが、しかし同時に都市の中でも姿を見掛けた少年でもある。

 隠蔽の魔術が使えるなら、あるいは森と都市の出入りに融通が利くのかもしれないが、ミレイユの顔を見て逃げ出した事といい、どうにも不信感が拭えない。

 

 ――それに。

 青い肌を持つ、という部分にも引っ掛かりを覚えた。

 多種多様の種族が生きるデイアートだが、青い肌は珍しい。非常に珍しい、と言って良い。オズロワーナの中でも、髪色肌色に多くの違いが見られたが、青い肌だけは居なかった。

 

 そして、その青い肌、という部分に、ミレイユは記憶の端に引っ掛かるものを感じている。

 

「ヴァレネオ、あの……テオと呼ばれた少年は、一体どういう奴なんだ……?」

「ハ……、数年前から森へ逃げ込んで来た者でして。刻印も無く、魔術が使える事から古い知識を受け継ぐ一族の生まれと分かるのですが、それ以上の事を話そうとしません。よく森を抜け出していて、問題行動も多い者なのですが……」

「何とも、それだけでは判断し辛い奴だな。問題行動というのは?」

 

 ミレイユが問うと、ヴァレネオは難しい顔をして考え込む。

 

「なんと言って良いものか……、年相応として見るなら、微笑ましい理想を口にする少年、という感じなのですが……。その為の強硬策に走りがちで、笑って見ているだけも出来ないと申しますか……」

「それだけでは、さっぱり分からん。具体的には?」

「種族を融和を唱え、その為に都市を奪還する必要がある、と主張しておるのです。その為には内部工作と称した都市への侵入、そして要人の洗脳を、などと口にし……」

 

 融和政策そのものについては、かつてよりエルフが掲げた主張でもあるから、この少年が同じ思いを持つのは、不思議でも何でもない。

 数年前から森に来た、というのなら、故郷を追われた少年が、思いを同じくするエルフを頼って来たとして、やはり不思議ではなかった。

 

 ただ、その手法に関しては確かに少々過激派と言わざるを得ない。

 洗脳一つで内部の崩壊を招く事は難しい、という事以外に、そもそも洗脳は万能でも何でもない。時間経過で解けるものだし、その時の記憶も間違いなく残る。

 

 有効に活用できるかは、自分自身、その要人の傍に居続けられる立場を得られるかに掛かって来る。そして、その立場に、青い肌という極めて目立つ容姿の少年が居座る事には、誰もが疑問を抱くだろう。

 

 ひと一人の洗脳は難しくなくとも、それを要人に、となると、その不自然さを隠す事は容易な事ではない。問題はそれ一つでもないだろうし、芋づる式に頻出するものでもある。

 一時の混乱を作るには有効でも、持続は無理だ。

 それを理解しているというのなら救いはあるが、ヴァレネオの口振りからすると……、どうやらそういう事でもないらしい。

 

「……なるほど、問題児か。しかも実際に、都市まで入り込む程の行動派か。思わず頭を抱えたくなる気持ちも、分かる気がする」

「恐れ入ります……」

 

 ヴァレネオは恐縮して頭を下げ、しっかりと三秒姿勢を維持してから顔を上げる。どこまでも臣下の様な態度を崩さない彼に、ミレイユは気不味いものを感じながら、視線を前方に固定した。

 

 少年は里長の折檻を怖がってか、近付いて来ようとはしない。

 顔も俯けたまま、腕を垂直に下げた先で拳を固く握っている。表情も見えないが、しかしどこか既視感もあった。

 その感覚を頼りに記憶を探ってみたが、ミレイユの旅において、少年と関わった機会は多くない。

 

 むしろ殆ど無い、と言っていい。

 だが、不思議と感じる既視感はどうした事だろう。

 

 一向に動きが見えない両者に、痺れを切らしたユミルが、ツカツカと歩み寄って少年の首根っこを捕まえた。十二、三歳にしか見えない少年で、小柄でもある体格から、ひどく軽々とその体を持ち上げてしまう。

 

「な、何をする! 離せ、無礼だぞ!!」

「あらまぁ、一丁前な口を利いちゃって。この子、無礼ですって」

 

 少年――テオは体を揺すり、手も足も振り回して抵抗したが、ユミルは全く意に返さない。そのまま嗜虐的な笑みを浮かべて、戦利品を見せびらかすかのように揺らして見せる。

 

「ほらほら、どうする? 他にはどんな無礼がして欲しい? アタシたちに少しでも危機感を与えてくれた罰を、ここで受けさせてあげましょうか?」

「やめろ、離せ!」

「あら、離せ? 生意気だコト。まぁ、でも子供であるコトに免じて、腹を二つに裂く位で許してあげましょうか」

「ば、馬鹿言うな! 死んでしまうだろうが!」

 

 テオは必死になって体も手足も振り回すが、それが逃げ出す手助けにはなっていなかった。ユミルの腕などは叩けるのだが、嫌がらせ以上の痛痒は与えていない。

 ミレイユはユミルの遊びを見ながら、さてどうしようか、と対応に困っていた。アヴェリンやルチアは何も言わず、白けた空気を出しているし、ヴァレネオは困った顔をしているものの、積極的に止めようともしていない。

 

 まさか本当に腹を引き裂くつもりではないだろうから、適当にからかった後に解放するだろうと思うのだが、しかし確認だけは済ませておかねばならなかった。

 

「ところでお前、……テオ。ここに一人でやって来たのか? つまり、自分で解錠して侵入できるのか」

「い、いや……」

「ほぅーら、素直に答えないと、あの怖〜いお姉さんが、その腹引き裂こうとするわよ」

「は、ハン……! ……み、ミレイユに、話す事なんてない! 俺にもプライドってもんがある!」

「ふぅん……?」

 

 言ってやった、と自慢するかのように、腕を組んで顔を逸らす。それを見て、ユミルの顔から嗜虐的な色が潜み、興味深そうな表情を浮かべた。

 顔の高さまで持ち上げたテオを、しげしげと見つめた後、その息遣いを感じる距離まで顔を近づけた。

 

「ミレイユに、話すコトなんてない? 森に生きる者にあって、その思想って随分過激よね? 恨み辛みでも有るっての?」

「……な、なに、何もっ! 話してやらないからな!」

 

 テオは必死な抵抗を試みているが、それが痩せ我慢である事は一目瞭然だ。顔は逸していても、その顔色は恐怖で染まっているように見えるし、汗は吹き出し、体は小刻みに震えている。

 素直に口を割らないのは、子供らしい反抗期と見て捉えても良いのだが、()()()()に対して頑なというのは腑に落ちなかった。

 そして何より――。

 

「このテオは私の顔を知っていた。都市で会った時にも、一目散に逃げて行った。思い違いや勘違い、この姿格好に驚いたのかと思った。偶像の『魔王ミレイユ』を恐れたのだと。――だが、実際は森の民だった。そして村へ入った私に気付くなり、一目散に逃げ出した……」

 

 ミレイユが自らの記憶を呼び起こしながら言葉に出すと、ユミルの顔付きが変わる。単なる悪戯小僧に対するものではなく、敵に対するような目付きへ変化していく。

 ミレイユは目を細めて、鋭く言い放つ。

 

「――お前、私をミレイユと確信して逃げたな?」

「ふ、――ぐぇっ!」

 

 ミレイユが言葉を放つのと、ユミルがその首を締めるのは同時だった。

 ユミルの嗜虐性は鳴りを潜め、今すぐにでも首の骨を折ろうとしている。即座にしないのは、情報を聞き出そうという目的があるのと、痛めつける事で口を簡単に割るかもしれない、という期待があるからだ。

 

 既にアヴェリンも、テオが単なる悪戯小僧などと思ってはいない。改めて武器を取り出していて、悔やむような顔付きをして睨んでいる。

 

「都市で逃げるのを見送った時、あの場で捕らえておくべきでした。……では、こいつが死霊術士、という事でしょうか?」

「捕らえなかったのは、私の指示だったから仕方ない。子供だから、迂闊そうに見えたから、見逃しても問題ないと判断した。……森の出入りも可能であったという事実と、灯台下暗し、という発言からも、いかにも怪しく思える」

「お、お待ちを、ミレイユ様!」

 

 慌てて口を挟んだヴァレネオに、ミレイユは分かっている、という風に手を振った。

 

「ヴァレネオは死霊術士の事をゲルミルの一族だと言った。この者は肌を見ても違うと断言できるし、何より魔力が低すぎる。呪霊は扱えないだろうし、仮に作成できても、いの一番に餌食になる。――こいつは死霊術士じゃない」

「しかし、だとすると……何者なのです? ミレイ様に向ける反骨心といい、そしてその顔を見て、ミレイ様本人と断定できた事と言い、只者だとは思えません」

 

 アヴェリンの最もな指摘に、ミレイユも頷く。

 だが、そこはどうしても分からない部分だった。このテオがミレイユに反骨心を抱いているのは別に良い。森の民その全てがミレイユの信奉者ではない、と分かって安心したぐらいだ。

 

 しかしエルフでもない少年が、森の外からやって来た上に、ミレイユの顔を知った上で反骨心を持つとなれば、警戒しない訳にもいかない。

 まさか神の手先に使われているとは思わないが、冒険者を利用した手口や、その稚拙と断じたやり方に、この少年は通ずるものがある。

 

「洗脳、という手段を持っているのなら、あるいはギルド長を好きに動かす事が出来たかもしれないしな……。とはいえ、お前が何を思って森に敵対行動を取らせたのか分からないが」

「テオ、お前まさか……まさか、そんな大それた事をやってたのか!? 森に仇なす行いを、お前が!? ……とても信じられん!」

 

 ヴァレネオの顔は驚愕に染まり、そしてワナワナと震えながら拳を握り締めている。

 彼からすると、それが有り得ると考えるより、そんな事は有り得ない、という感情の方が勝るようだ。ミレイユとしては、むしろそれで安心した。

 

 この迂闊な少年に、それほど上手く事を運ぶ手際など持っていまい、と思っていた。

 それでも敢えて口にしたのは、テオに対する正直な評価を、ヴァレネオの口から聞きたかったからだ。

 

 スパイなどと思いたくないが、実際目立たず溶け込み、その上効果的な手段として、子供を使う事はある。未だその容疑が晴れた訳ではないものの、それこそユミルに尋問させれば直ぐにでも分かる事だ。

 

 テオは顔を赤くさせてしばらく暴れていたが、窒息寸前になって動きも散漫になっていく。

 本当に殺すつもりはないので、既のところでユミルは首から手を離した。テオは両手で地面に手を付きつつ、ようやく自由になった口で息を吸う。

 

「げほっ、えほえほっ、……ゲホッ!」

 

 一頻り咳込み、えづき、それから幾らか息を整えた。その呼吸が落ち着いたところで、再びユミルに襟首を掴まれ、持ち上げられる。やはり必死な抵抗をしたものの、為す術もなく宙吊りにされてしまった。

 その顔は恐怖で引き攣って、顔面も涙や涎で汚れて酷いものだったが、何故かその顔にすら既視感が浮かぶ。

 

「はて……?」

 

 同じ感情を抱いたのは、どうやらミレイユだけではなかったらしい。

 ユミルが再び顔を近付け、目を細くして数秒見つめると、ひどくあっけらかんとした声で名前を読んだ。

 

「何よこいつ……、もしかして魔王じゃない?」

 



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ミレイユの邸宅 その1

「……魔王?」

 

 アヴェリンが訝しげな声を出し、不思議な物を見るような目を向ける。何秒かそうして、自身の口から出た単語を吟味するよう沈黙し、疑う視線をテオに向けた。

 その様子を見ながら、ユミル自身も頷きを見せる。

 

「そう……そうだわ、魔王よ。こいつったらまぁ、随分と縮んでしまったコト!」

「ば、馬鹿者っ! 離せっ!」

「妙に尊大な態度だと思いましたが……。てっきり若気の至りか何かかと……」

 

 ルチアが呆れた声を出し、手足を振り回すテオを、やはり呆れた表情で見つめる。

 それでミレイユも、ようやく既視感に納得がいった。当時出会った魔王とは、その年齢があまりに違うのでピンと来なかったが、もしあの青年をこの年齢まで引き落としたなら、確かにこのような姿格好になっている気がする。

 

 アヴェリンはいまいち半信半疑だが、しかしミレイユ達が納得する様子を見せて、ヴァレネオは酷く焦って顔を向けてくる。

 

「ミレイユ様……、つまり、どういう事なのでしょうか? この者は……このテオは、見た目通りの少年でも、孤児ではないと?」

「……そうなる。この者は四百年前に魔王と呼ばれ、そして討伐されたその人だ。そして、『死の呪法』を用いて、自らを転生させるという手段を取った。二百年前、私達の前に姿を見せたが、……そのとき殺した」

「なんと……、にわかに信じ難いですが……」

 

 呆然としたようにヴァレネオは呟き、そして今も宙吊りにされているテオを見る。

 必死に虚勢を張って顔を逸し続けているが、脂汗は先程より更に酷い。首の周りは自分の手で庇っているようだが、所詮は子供の浅知恵と変わりなく、その程度では本気で首を落とそうとされれば防げない。

 

 ヴァレネオが、本当にこれが、と顔を向けてくるのも無理はない。

 しかし、テオ本人が否定しない事こそ、何よりの証拠だろう。本来なら、何よりも先に、知らないと口に出すところだ。そうでなくとも、首を絞められた直後である。変な言いがかりだと、必死に否定するだろう。

 

「……だが、それで納得できる。私を嫌うに十分な理由だ。この顔を見れば、逃げ出したくもなるだろう」

「そうよねぇ、起死回生を願って自分に呪いまで掛けたのに、転生した先で再び殺されちゃうなんてねぇ……? 既視感があったワケだわ。……ところで、あれって転生直後だったの? 何日目に死んだ?」

「う……、うぅ……っ! やめろ、思い出させるな! 悪魔だ、お前たちは!」

「アンタの口からそんな単語聞かされると、この上ない喜劇って感じするわねぇ」

 

 ユミルは敵に向ける目付きから、再び嗜虐的な顔付きに変わると、宙吊りのままテオを揺らし始める。その揺れに抵抗しようと手を振るのだが、やはり何の手助けにもなっていない。

 

「まぁまぁ、ちっこい体になっちゃって。魔力も質も、随分下がったわね。繰り返すたび矮小化するんだっけ……、ご愁傷さま。ここまで変わると可哀想になるわ。……ところでアンタ、名前なんだっけ?」

「ふ、ふん! 貴様らに名乗る名などないわ!」

「そういう態度取るんだ? 今の状況理解してる?」

 

 ユミルがテオを何度か揺すると、悔しげに顔を歪めて手を挙げる。肩の高さまで肘を持ち上げ、珍妙なポーズを取って高らかに声を上げた。

 

「特と聞け、我が誉れ高き名は、テオフラストゥス・フィップロス・アウレオール・ボンスバトス・レォン・ホーエハイム! 全ての者は、この名の元に跪くのだ!」

「あらまぁ、名前まで変わったの」

「変わっとらんわ! 前にも名乗ったろうが!」

「馬鹿ねぇ、覚えてるワケないじゃないの」

 

 名乗る時だけは腕を振り回すのを止め、尊大な態度を取って見せたが、宙吊りにされている上に小さな体では全く迫力に欠けた。

 ユミルのおもちゃにされるのも無理はない、という感想しか上がらない。

 そんな様子をヴァレネオは気の毒に見つめていたが、しかしハッとなって態度を改める。

 

「つまり……、このテオは、どういう事になるのでしょう? 森に対して敵対とか、そういう事はしていないのでしょうか?」

「……まぁ、していないだろうな。全くの不本意で、本人の預かり知らないやらかしでもしているなら、話は別だが」

「しとらんわ! 大体、何でお前達がいるんだ! あれから二百年経ったんじゃないのか! 悪夢だぞ、これは……!」

 

 テオは涙ながらに喚き散らしたが、何故と問われても困る。こちらにも、こちらの事情があったのだ、としか言えない。それに、説明しようと思っても、この場で言う事ではない。

 そもそも、テオが知る必要の無い事だ。

 

「まぁ、逃げたのも、私の顔を知っているのも、矛盾なく理解できたから良しとして……。お前の処遇をどうしたものか……」

「な、なっ!? また殺すというのか! まだ俺は何も成してない! そう簡単に死ぬ訳にはいかんのだ!」

「お前……、そんなナリになっても、まさか……」

「ふん! そう簡単に諦めるものか! 我が誉れ高き名は、それを成す為、そしてそのとき高らかに謳い上げる為にこそあるのだ! たかが一度や二度の失敗で、足を止める俺ではないわ!」

 

 尊大な物言いも宙吊りにされている状態では、全くサマになっていなかったが、しかし言っている事や、その一貫性には少しばかり感動させられるものがある。

 その手段として、相変わらず洗脳を頼りにするのは、あまり褒められたものではないが、やむを得ないと思える部分もある。

 追い詰められ、手下を作るのも容易でないとなれば、取れる手段も限られてくる。

 

「そうか……、ならば勝手にしろ。私は別にお前の歩みを止める為に来た訳じゃないしな。むしろ、こちらが聞かせてくれ。何故お前がここにいるんだ。お陰で余計な混乱をさせられたぞ」

「……殺しますか?」

 

 アヴェリンがメイスを持ち上げると、テオは大仰に体を揺らして否定する。

 

「何故だ! 逃げただけだろうが! まだ何もしてないだろ!」

「……まだ? まだって言った?」

 

 ユミルが手をを揺さぶりながら顔を近付けると、脂汗を滴らせながら首を振る。

 

「いや、違う、言葉のアヤだ! 大体、俺がお前らに突っ掛かって、何か出来る訳ないだろ! 前回だってコテンパンにされてるんだぞ!」

「そうね、前回挑んであの結果じゃ、今回だって更に勝ち目ないわよね。……でも、洗脳ってのが、ちょっと嫌なのよねぇ……。傍にいて安心できる存在じゃないでしょ」

「そういえば、あの時は初手で洗脳を仕掛けて来ていたな……。変な名乗りもなく、全くの不意打ちだったら、確かに危機感を覚える手段だったかもしれない」

「……やはり、殺しますか?」

 

 アヴェリンが再びメイスを持ち出すと、テオは暴れ牛のように体を振るう。逃げ出そうと躍起になっているが、虚弱な体に転生している所為もあって、やはり拘束から逃げられない。

 テオは必死に必死を重ねた、切羽詰まった顔で、唾を飛ばして言ってくる。

 

「やらん、無理だ! 絶対やらん! 今更お前たちと敵対して得なんてあると思うか!? 何より、志を同じくする者同士だろうが! えぇ、そうだろう!?」

「お前の口から同士という言葉を聞かされると、何とも素直に応じられない部分があるが……」

「だが、人間一強の状態はまだしも、他種族弾圧まで黙って見ているつもりはなかったんだろ!? だからエルフに協力したんだろうが! 今だって……そう、そうだとも! 見ぬ振りを止めて手を出すつもりになったから、姿を見せに来たんじゃないのか!?」

 

 テオにしても全くの当てずっぽう、口から出るままに言葉を吐き出したに過ぎないのだろうが、しかしその自論には不思議と説得力があった。

 ミレイユが思わず言葉に詰まった部分を見て、ヴァレネオからも期待に満ちた視線を向けられる。

 

 全くの無頓着でもないが、そのつもりでやって来た訳ではない。

 ミレイユにはミレイユの目的があって、今回もあくまでその一環で手助けせねばならなくなっただけだ。もし戦争がこの局面で起きていなければ、きっと密かに接触するに留めただろう。

 そして、現在の窮状にも積極的な助力はしなかったに違いない。

 

「……悪いが、そういう事じゃないんだ。ともかく、お前については解放しよう。どうやら敵ではないらしいしな」

「敵ではないかもしれませんが、……放置も恐ろしいのではありませんか? 利用されると厄介な事になり兼ねません」

「お前の言い分も理解できる。だが、厄介になり得るというだけで殺していったのでは、どれほど殺せば済むか分からなくなるだろう。出る杭はともかく、出るかもしれない杭まで叩いて回る訳にもいかない」

 

 ミレイユの言い分に、アヴェリンも深妙な顔付きで頷く。しかし、その表情は納得とは程遠いものだった。

 

「仰り様は良く分かります。怪しいという理由だけで、誰彼構わず処断していく訳にも参りません。――しかし、この場合です。洗脳という手段を持つ、かつて敵対した相手。本人ならず、誰彼とけしかける事も出来ましょう。我らに恨みも持っているなら、それをしてもおかしくはない。野放しにしてやる理由がありません」

「ば、馬鹿を言うな!」

 

 吊られたままのテオが、やはり手足を振り回しながら叫んだ。

 

「何度も言ったろうが! 俺は敵対するくらいなら、まず逃げるぞ! 最初から何度もそうしてたろうが! それでも姿を見せて来たのは、お前たちの方だ! 俺は常に逃げの一手を選び続けて来たのだぞ!」

「……ま、アンタの言い分に納得してやっても良いわ。殺すのはアタシも反対だし」

「お前もそうか」

「――えぇ。だって利用できるし」

 

 アヴェリンの顔が疑問で歪む。

 ミレイユが頷いて見せると、殺さないのは慈悲の為ばかりではないと気付いたらしい。ユミルへと詰問するように言葉を飛ばす。

 

「どういう事だ、ユミル。ミレイ様にも何かお考えがあるようだが、お前の賢しらな考えは信用できん。何をさせるつもりか言ってみろ」

「単純な事よ。洗脳が得意というなら、その得意なコトをさせてやろうってだけ。実際、この場合において、役立つんじゃないかと思うのよね」

 

 アヴェリンは胡散臭そうな視線をユミルに向けたが、ミレイユも同意するように頷いて見せると、態度を変える。腕組みして考える素振りを見せた後、すぐに首を傾げて次の疑問を口にした。

 

「洗脳を利用して何をするつもりにしろ……、そもそも言う事を聞くのか? こちらが想定していない、別の何かを命じられたら、それが我らにハッキリと分かる形で伝わるか?」

「それは分からないでしょうね。でも、断らないわ。このテオにとっても、悪い取引にならないから」

「な、何だ……! 命を助けてやる、なんていう理由じゃないだろうな! そ、そん……っ、そんな安い脅しに、く、くくく屈すると思うなよ!」

 

 その小さな体を震わせて、必死の虚勢を見せている事からも分かるが、手足の一本でも落としてやれば、素直に応じてくれそうではある。

 

 だが、ユミルが言ったように、悪意を持って洗脳の中に別の命令を滑り込ませるなどされたら、それを発見する事は難しい。

 命じた瞬間、その傍で見ていたとしても、明後日アレをしろ、という刷り込みまでは見抜けない。ユミルの催眠がそうであるように、口に出さなければ、その命令を認識しないという制約がある訳でもないのだ。

 

 ミレイユはユミルの嗜虐的態度と、テオの虚勢的態度の両方を嗜めるよう手を動かし、それからテオの目を真っ直ぐに見つめて言った。

 

「テオ……、お前の悲願を叶えてやる。もう一度、魔王へと戻り、皆を率いるつもりはないか?」

 



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ミレイユの邸宅 その2

「なに……? 何だと……? 何を言ってる、俺は魔王だ。いつだって魔王として君臨し、皆を背負い、種族の弾圧に逆らってる! 今この時とて、それは変わらない!」

「……うん、その志は知っている。もっと早くに知っていればとすら思った」

 

 ミレイユがユミルへと視線を移し、軽く頷いてやると、ユミルはその手を離した。

 尻から着地する破目になったテオは、小さな叫び声を上げて尻を撫でる。だがそう情けない姿を晒しながらも、挑戦的な視線を向けてくる事だけは止めない。

 それを好意的に受け入れながら、ミレイユは続ける。

 

「……あぁ、お前が魔王と名乗ってるのは知ってる。魔族の王でもなく、悪魔の王でもなく、魔力を扱う一族の王として、その矜持を持って弾圧から弱者を救おうと立ち上がった事もな」

「……魔王とは、そういう意味だったのですか」

 

 アヴェリンが意外そうに言葉を零し、ミレイユはテオを気の毒そうに見つめながら頷く。

 

「かつては魔力制御の時代でもなく、詠唱を朗々と言葉に出して使わなければならなかった。魔力一つで魔術を発動させるのでなく、詠唱とマナを絡める事が魔力の扱いと見做されていた時代があった。それを巧みに扱える事は誉れであると同時に、妬みの対象でもあったようだな」

「……その上、こいつは瞬間記憶とでも言うような、初めて聞いた相手の詠唱を、その場で真似るコトまで出来たのよね」

 

 ユミルは拘束する事こそ止めたが、足の爪先でテオの尻で小突いて虐めている。

 鬱陶しそうに手を払いながらも、しかし全員から警戒されている現状、テオも即座に逃げ出そうとはしない。何より、彼の矜持がミレイユの言い分を糾弾したい、というつもりにさせているのだろう。

 

「そうとも、妬みは侮蔑に変わり、そして迫害へと繋がった。悪意は伝染し、我が一族は魔力の一族ではなく、悪魔の一族と忌み嫌われようなった! 我ら一族は少数だったが、それは同じ別の少数一族の迫害にまで及ぶようになり、それが悲しみの連鎖にもなったのだ……!」

「それで自身の一族はともかく、他の少数民族まで助けようって思ったのが疑問よね。その少数にしろ、アンタらを迫害していたんでしょうに」

「そうせねば、彼らも迫害されると理解していたからだ! 弱者ならば……弱者だから、その流れに逆らえぬのだ。彼らを憐れみこそするが、怒ろうとは思えぬ!」

 

 テオは血を吐く様な思いで当時を語る。

 その表情からも、決して嘘を吐いているのでも、誇張をしている訳でもないのだろう。そこには悲哀と憐憫が見て取れる。

 

「……そして、全てを背負って、彼らを救うと立った訳か。ただ奪われ、ただ泣き崩れるのを見ていられなかったんだな。己の一族だけでなく、似たような他の者まで無駄に背負った」

「無駄ではない! 誰かが立たねばならなかった! 誰も彼もが助けてくれと言うのに、誰もその拳を上げぬというなら、それは俺がやらねばならなかったのだ!」

「……そこまで身を(やつ)してか」

「当時の弾圧とはそれ程までに苛烈だったのだ! 神の後ろ盾があった人間には、それが許された! 我らも救いを求めたが、祈るばかりでは、その庇護は終ぞ落ちて来なかった!」

 

 神の一言が出たところで、誰しも顔を顰めて息を吐き出す。

 その思いはそれぞれだったが、誰もが忸怩たる思いを抱いているのは確かだ。特に、ヴァレネオについては形相まで変わっている。

 

 明確な悪意と怒りを、神々へ向けていると分かった。

 テオは目尻に涙を溜めながら続ける。その声は叫びとなり、最後には慟哭へと変わった。ミレイユを見る目にも、怒りと良く似た感情が向けられている。

 

「――ならば、やるしかなかろうよ! 俺は多くの悲哀を知っている! 動かなくなった小さな子を抱く母親の、涙する光景は未だ忘れぬ! それを思い出せなくなるまで、俺の歩みは決して止まらんのだ!」

「……あぁ、お前は立派だ。それを私が、何の思慮もなく、小枝を払う気安さで手折ってしまった。それについては正直にすまなく思うよ」

「謝る必要はございません」

 

 ミレイユが殊勝な態度で頭を下げようとしたが、それより前にアヴェリンが鋭い口調で止めた。

 

「どのような理由と背景があろうとも、洗脳という手段で我らに牙を剥いたのは事実。相手を誰に選んだかなど何の言い訳にもならず、反撃を受けて死に至るのも自業自得です。奴は挑戦し、失敗した。只それだけの事。この世に幾らでもありふれた顛末です」

「中々に手厳しいな」

「その志に敬意を表するのは吝かではありません。実際、誰も彼も悲嘆に暮れる中、奴一人のみ立ち上がったというのは称賛に値するでしょう」

 

 そう言って、アヴェリンは一度言葉を区切り、それから目に決然とした意志を乗せて続ける。

 

「――ですが、我らを襲った事とは全くの別物です。復活したばかり、手駒を増やすつもり、奴の言い分を信じるなら、当時その様な事を言っていました。それで、本当に我らのいずれかを奪われていたらどうされました」

 

 もしも、という前提で考えてみたが、そんなものは幾らも考えずを必要とせず、結論とて既に出ている。術者を殺しても、その方法次第では解けない可能性がある。だが多くは、それで解決する事でもあるのだ。試さない筈もなく、まず、その命はなかっただろう。

 

「……まぁ、許せなかったろうな。このメンバーの誰が欠けようと、必ず救い出し、やった事以上の報いを受けさせた」

「それだけの事をしようとしたのです、こやつは。知らずにやった、というのなら互いに同じ事。やった事に対する正当な報復があっただけです。詫びる必要はございません」

「あぁ、そうだな。……忠言、大義だった」

 

 ミレイユは腕を組んだまま、いっそ大仰に頷いて見せたが、アヴェリンの満足は非常に高かった。表情を出さないように努めているが、一礼する時には身震いを止める事が出来ていない。

 本人はクールを装いたかったのだろうが、見る者が見ればすぐに分かってしまう。

 

 そんなアヴェリンをヴァレネオは羨ましそうに見ていたし、ルチアは微笑ましいものを見るように目を細めている。

 ユミルはうんざりとした表情をしながらテオを逃さないようにしていて、当のテオは悔しそうに顔を歪めながら涙を拭っていた。

 

 微妙な間と沈黙が邸宅前広場に降り、アヴェリンが曲げた腰を元に戻したところで、テオを見据える。その鋭い眼光から分かるとおり、未だその処分を諦めていない。

 だが、ユミルが指摘した事からも、テオの有用性についてはミレイユも認めるところだ。

 現状において切り札となるかもしれないものを、みすみす捨てるつもりもない。

 

「お前にそこまでの悲喜こもごもがあった事は知らなかったが、だがそれなら、尚の事お互い協力し合えるんじゃないかと思っていた訳だ」

「何がどう繋がるって言うんだ。俺には何を言っているのか、さっぱり分からない!」

 

 確かに、感情を揺さぶられたテオからすると混乱ばかりで、冷静に考える事も出来ないだろう。ここで変に畳み掛けて、後で冷静になった後、騙されたと思うのも困る。

 ここは下手な誤魔化しや、煙に巻くような言動は慎むべきだった。

 

「さっき、神の話をしていたろう。救いを求めても得られず、さりとて暴力や弾圧は推奨する。……お前は、その被害者だった」

「だから何だ……。そんなの当たり前だろ。どこにでもある、……それこそ、ありふれた話だろうが」

「そうだな。……神は何故そんな事を許すと思う。何故、扇動し暴力を許し、戦争を許容するのに、それを救ってくれないと思う?」

「それこそ知るか。それが神ってもんだろう」

 

 テオの口調は吐き捨てるかのようだった。

 実際、ここにいる誰もが吐き捨てる思いを持っているだろう。眼の前に神の顔があれば、そこに唾を吐きかけるつもりに違いない。

 

 ユミルはミレイユが何を言いたいかを悟って、テオを焚き付けるかのように柔らかい口調で告げる。

 

「えぇ、そうね。それが神だわ。信仰を向けさせ、向けるように仕向け、そして得るだけで与えはしない。……何故って? 助けることに興味なんか持ってないからよ」

「はっ、今更そんな事……分からないとでも」

「戦争や迫害、弾圧は、被害者からすれば救いを求める機会となる。その機会がね、神にとっては大事なの。平和なだけの世より、荒んだ世界の方が、救いを求めるでしょ?」

 

 ユミルの一言に、テオは元よりヴァレネオの動きが止まる。

 不都合な真実、とまでは思うまい。何故、と考えた事は幾度もあった筈だ。しかし神の為さる事、きっと人間には理解できない深謀遠慮があったに違いないと思った。

 

 あるいは――。

 そこに利己はなく、已むに已まれぬ事情があるのだ、と自分に言い聞かせたりしていたのかもしれない。

 

 反論しようと口を開いたテオは、しかし声を出せなかった。

 代わりのように口に出したヴァレネオの声も、酷く掠れて聞こえ辛い。

 

「そんな、筈は……。だって……」

「全く救わないワケじゃない? ――そのとおり。完全に救わず放置するだけなら、敬う理由が希薄になり過ぎる。そんなコト、当然考えてるに決まってるでしょ。奴らが大事に思っているのは人間の幸福でも、不自由ない生活でもない。自らに向けられる信仰以上に、大事に思っているコトなんて無いのよ」

「そんな、馬鹿な……ッ。ならば、何故私達は……」

 

 愕然とするヴァレネオは、それ以上言葉を紡げなかった。足元を一点に見つめて、悔しそうに唇を噛んでいる。

 エルフの生活は長らく戦乱の中にあった。毎日が戦争でも無いだろうが、しかしまたいつ襲われるか、というストレスが常に付きまとう生活であったのは想像に難くない。

 

 そしてそれは、何もエルフだけに起こり、エルフのみに向けられた迫害という訳でもない。

 過去の歴史を紐解けば、テオが言っていたように、そこには常に迫害と弾圧があった。人とは愚かなもの、争わずにはいられない、と思っていた部分もあったろう。

 

 だがそれは神の意図したもので、そして自己利益の為であったというなら、嘆くばかりでいられない。

 それを証明するかのように、テオの瞳にあった悲哀は、既に憤怒に燃えている。

 ミレイユはその双眸をひたりと見つめて言った。

 

「許せないと思うか? ――そうだろうとも、私も同じだ。だから私はな、その神々を討ち倒すつもりでいる。その為に、ここへやって来た」

 

 ミレイユが放った端的な言葉に、テオはぶるりと体を震わせた。

 



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ミレイユの邸宅 その3

 テオはまるで信じられないもの見るようにミレイユを見つめ、そしてやはり、ヴァレネオもまた似たような表情で見つめてくる。

 ミレイユは二人から向けられる視線を悠然と受け流し、単調に聞こえる声音で続けた。

 

「……これも巡り合わせだろう。なぁ、テオ。私達は協力し合えると思わないか」

「いや、しかし……神殺し……? 可能だと言うのか? 本気で言ってるのか……?」

 

 その懐疑的な声にミレイユは顔を背け、一度視線を切る。

 大きく息を吸い、それから森を睥睨するかのように顔を巡らせた。

 

「話している内に思った事だが……。エルフを救う、それは良いさ。容易いことだ。この四人で都市へ急襲し、王国を攻め立ててやれば半日で終わる。手段さえ選ばず、余計な横槍が入らないなら、更に容易い」

「しかし、それでは反発も多く……」

「支配層の人間だけ暗殺して終わらせるような形では、暴動を招くだけ、言うほど簡単に終わらないだろう。それは分かる。正しく宣戦布告し、正しく正面から打ち破る段取りが必要だ。かつてエルフが、オズロワーナ戦争でそうしたように」

 

 神々が戦争を是としている事は、この大陸に住む者ならば理解している事だ。

 だからそう簡単に攻め取られぬよう、デルン王国は防備を厚くしているし、エルフが力を付けぬよう、定期的に圧力を掛けている。

 

 戦争に敗北し、支配者層が変わるとなれば、その政策も大きく変わる。その事を、民衆もよく理解している。

 二百年前、エルフが勝利した時にも民衆は納得していた。攻め取られたのでは仕方ない、不甲斐ない奴らめ、といった感情はあったものが、支配者の交代そのものを受け入れる雰囲気はあったのだ。

 

 攻め取られたなら、再び攻め取れば良いだろう、という楽観的な気持ちもあったのかもしれない。民衆には戦争の行方など、生活に影響しなければ気にしない。

 

 だが、事の本質はそこにはなかった。

 一つの支配者層が倒れようと、また次の争いの準備期間に入ったに過ぎない。攻め取る許可が神を与えているのだから、誰憚る事なく攻めれば良い。

 

 一つの王国の終了は、一つの戦争の始まりに過ぎなかった。

 王族は途絶えても、都市は終わらない。税率や法律など、変わることは多々あろうと、都市は生き続け、またそこで生きる人々も生活を続けていく。

 これまでと何も変わらない。そして恐らく、これからも――。

 

「勝利とは終わりではない。そう……、次の戦争の始まりを意味する。攻めた側は、今度は攻められる側だ。しかし……」

 

 言い差して、ミレイユは口の周りを片手で覆った。

 何とは無しに、口にした事だった。当たり前の事を口にしただけだったが、もしそれが間違いない事実だとするなら、それ故に、と考える事は出来る。

 

 ミレイユはヴァレネオの困惑した表情を見つめ、次いでユミルへ視線を移した。

 その動揺した瞳の中から、彼女は正確に意図を汲み、そして悔やむように顔を歪める。彼女としても同じ意見だと分かり、ミレイユ自身、大きな過ちを犯したのだと、今更ながらに気付いた。

 

「エルフは勝利し復権した……。しかし即座に退場させられたのは、その意義として民族の協和を掲げていたからじゃないのか。協和と博愛、平和を説いた支配層は、神々からすると邪魔だ。弾圧でも何でも良いが、とにかく他種族、他部族を虐げて貰わねばならない。何故なら、それこそがオズロワーナの役割だからだ。……そういう事じゃないのか?」

「同意するわ。アンタは真実の限りなく中心に近い部分を突いていると思う。……そう、オズロワーナを支配するのは、神にとって都合の良い尖兵でなくてはならない。必要なのは暴君であり、他種族を攻める悪王であり、救済を願う貧困層を生み出すパーツであるコト……」

 

 ユミルは苦々しく同意し、そして痛ましいものを見るようにヴァレネオへ視線を向けた。

 ヴァレネオの手は震え、非常によく堪えてはいるが、今にも爆発させそうに見える。それでも自制できているのは、ルチアがその手へ己の手を添えたからだろう。

 

 それが最後の最後、暴発するのを防いでくれた。

 そのルチアが、恐る恐るという具合に、ミレイユへと問う。

 

「神々が直接それをしないのは、自分達にその矛を向けられない為なのでしょうか?」

「そうだと思う。神々は畏怖を受け入れる、実際、理不尽と感じる怒りを向ける神々は多い。それについては、矛を向けられるとは感じないようだが」

 

 ユミルはつまらなそうに頷いて、ミレイユの言葉を引き継いだ。

 

「それもまた信仰である事には違いないからでしょ。だから時として、理不尽な怒りを見せる事が、むしろ神々にとって益になる。けど己に怒りは向けられたくないんだわ……叛逆は駄目なのよ、きっと。それは避けようとしている」

「大瀑布を設けたのも、その一環か……?」

「かもしれないわ。絶対手の届かないどこかに身を置き、盤上に一手を指しつつ甘い蜜を吸う。非常に有り得る話よ。むしろ、()()()と言うべきでしょうね」

 

 ミレイユも苦々しく頷いてから、胸の下で腕を組み、未だ地面に手をついたままのテオを見つめる。

 

「弾圧、差別、迫害、圧制……。呼び方は様々だろうし、起こす内容も様々だろうが、それを正したいと思うなら、都市を奪うだけでは到底足りない。その上のシステム――神々を打倒しない限り、この世の不条理は決して消えない」

「なぜなら、その神々こそが元凶だから、というワケね」

「我々は――!」

 

 ユミルが話を締めようとしたところで、とうとう堪り兼ねたヴァレネオが声を出した。

 血を吐くような、という形容以外、思い付かないような有り様で、苦渋に歪められた表情で言葉を吐く。

 

「我々は、この二百年、必死に堪えて参りました。都市から追いやられ、この場へ逃げ延び、ミレイユ様の邸宅を発見してからというもの、ここの守り人として生きようと思った……。神々への信仰も再び始めようという声もありました。実際やったが声は届かなかった。我々が神を裏切った所為だと思った……、そして真実、見捨てられていたのですね……」

「そう思う。そもそも、お前たちに都市を奪還させるつもりなどなかっただろう。融和を唱える様な王族は邪魔だ。落ち延びた後にしても同じ事、神々にとっては邪魔者に過ぎなかったろう」

「何故……! そうと言うなら、遥か昔から是正するような神託でも下ろせば良かったろうに……!」

 

 ヴァレネオの発する感情は、怒りだけではなかった。悲嘆でも悲哀だけでもない。理不尽な暴力に耐える事しか出来ない、幼子の抵抗のようにも見えた。

 

「弱者の戯言、虐げられた者が望む理想、その様にしか見えていなかったのかもしれないな。それが決して叶わぬ夢想とも理解していた。好きに言わせていただけ、夢を見て語るだけなら、別にどうという訳もなかった」

「エルフは長きに渡って許しを請うた。救われると、救ってくれるという神の慈悲に縋った……! それが……!」

「『勝ち取れ、さすれば与えられん』だったっけ? 最後には無理難題を押し付けて、投げ捨てたのかしらね。……面倒にでもなったんじゃない?」

 

 それもまた神らしい、と言わざるを得なかった。

 神々は超常の存在で、人には成し得ない多くのことが出来るものだが、同時にひどく人間味溢れる存在でもある。その背景には、合理的と思えるものだけが有る訳ではない。

 

 ユミルの言った事が正解でないとしても、二百年前――当時の支配者層を引きずり降ろす事にメリットが無かった神々からすれば、適当な事でも言って煙に巻きたかったのだろう。

 

「だけど、そこで例外が起きた。アンタが手を貸した事で、エルフの叛逆が為されてしまった。慌てたんじゃないかしらねぇ……? 大陸中に融和政策なんて広められちゃ困るでしょ」

「それで異例の短期支配で終了か。僅か数年しか保たなかったと聞いている」

「ハ……、二年と三ヶ月でした……。たった一人の戦士に、為す術もなく……」

「辛かったな……」

 

 ミレイユが優しく労うと、ヴァレネオの顔が泣きそうな顔に歪む。

 

「ハ……っ」

「よく民を助け、よく民を纏めた。安心していい、私が助ける。……私が終わらせる」

「ぐっ……! ぅ……っ、ハ……!」

 

 ヴァレネオは嗚咽を必死に押し殺し、無様や泣き顔を見せまいと顔を俯けた。

 次にミレイユが何を言うつもりなのか察したユミルは、手を伸ばして止めようとしたが、それをアヴェリンに止められる。

 ヴァレネオの手に添えるルチアも、困り顔で涙を浮かべていた。

 

「お前はよくやった。お前の荷物は、私が預かる。お前は私を風除けに、私の後ろを歩くといい」

「ふ、ふぐぅ……っ! はっ! しかし、しかし、その様な重荷……! 任せるなどと、気軽に……!」

「いいんだ、私が預かる。気兼ねの必要もないし、これはお前の責任の放棄でもない。私が助ける、これはそういう話だ」

「はっ! ……真に、真に……っ!」

 

 ヴァレネオは泣き崩れて膝をつく。ただ力無く崩れただけでなく、両拳を地面につき、額まで地面につける、臣下が捧げる謝罪のような体勢だった。

 ルチアも同じく膝を付き、ミレイユには泣き笑いの顔を見せ、父の背中に手を当てていた。

 

 彼のそれは実際、謝罪でもあるのだろう。

 感謝と共に、謝罪もせねば気が済まないのだ。ミレイユが預かる荷物とは、森に生きる全ての民に他ならない。その生活までも面倒を見る、と言ったのだから、感謝だけでは到底足りない。

 

 ミレイユもまた膝をつき、その肩に手を軽く置く。

 嗚咽が止まらぬ中、その頭上から優しく声を掛けた。

 

「畏まる必要はない。私が招いたようなものだ。後は全て、私に任せろ。……良いな?」

「ハ……ッ! よろしくお願い致します……! ご厚情、ありがたく……っ!」

 

 それ以上は声にならないようだった。

 地面に額づけたまま、嗚咽が止まらず泣き声が響く。大の男の泣き声など聞きたくないが、それ程の重圧を背負っていたのだと分かるから、ミレイユも何も言わない。

 

 ただ、ユミルから刺さるような視線が向けられていて、それまで堰き止めていたアヴェリンの腕お振り切り、ズカズカと近付いて来ては指を一本突きつけた。

 

「アンタ、何を言ったか本当に理解してる? 何でいらぬ苦労を背負おうとするのよ? これがどんな面倒事を引き起こすか、分からない筈ないでしょうに……!」

「どうやら私の性分らしい。気付けば、考えるより言葉が先に出ていた」

「だからってね……!」

 

 尚も言い募ろうとするユミルを、横からアヴェリンが押し退け、握り拳を胸に当てて一礼する。その表情は実に晴れやかで、誇りに満ち満ちていた。

 

「ミレイ様のご厚情、真に感服いたしました! このアヴェリン、ミレイ様の一振りの武器として、必ずや望む成果を献上いたします。如何様にでもお使いください……ッ!」

「……うん、頼りにしている」

 

 ミレイユが素直に口にすると、アヴェリンが身体がぶるりと震える。歓喜と武者震い、それを抑えきれない様子だった。既にミレイユが何を言うより前に、やる気で溢れているのを感じる。

 だが、それで黙っておられぬ者もいる。その筆頭が押し退けられた体勢から戻って来て、再びミレイユに指を突きつけた。

 

「何か良い話にしてやろう、みたいになってるけどね、現実を見なさいよ。アタシたちは現在、罠に掛かった状態なの。つまり手の内ってコトよ。その上、本来エルフから身を隠すべきところを、助力するだけでなく預かる? 冗談は大概にしなさいな」

「考えなしで言った訳じゃない」

「そうでしょうとも! 考えるより前に言葉が出るより先に、よぉぉく考えていたんでしょうから!」

 

 ユミルの怒りは相当なもので、しかも正当なものだった。

 これでは神々の見えている罠に、自ら飛び込むようなものだ。トラバサミへと考えなしに足を置くようなもので、本来なら避けられるものだった。

 しかし、その正当な怒りに我慢できないのはアヴェリンだ。

 

「お前にはミレイ様の気高い精神が理解できんのか。エルフの窮状を見て、それでなお見捨てる事が出来なかった、と仰っているのだ。いや、これは何もエルフに限った話ではない。世界で弾圧される、そしてこれからもされるであろう全てに対し、その解決を計りたいと意思表示をされたのだ。ミレイ様には考えがあると言うのだから、それを信じれば良いだけだろう」

「……なるほど? 確かにそうだわねぇ。大層、よいお考えをお持ちなのだろうから、それを頼みにすれば何もかも全て、万事解決するんだったわ。それで一気にまるっと解決よ。……そうよね?」

 

 ユミルの目には剣呑な光が宿っていて、下手な誤魔化しは許さないと語っていた。

 勿論、何もかも解決する、良い方策なんてミレイユは持っていない。しかし、神々の用意した今回の罠だけならば、回避できると踏んでいた。

 

 そして、その鍵となるのがテオなのだ。いい加減立ち上がっていたテオだが、話に入っても付いていけず、手持ち無沙汰で立ち尽くしていた。

 遠回りしたし、大いに待たせてしまったが、これでようやく本題に入れる。

 

「話に戻ろう、と言いたいが、この様子だ……。一度落ち着く為にも、邸宅へ入って休まないか」

 



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ミレイユの邸宅 その4

 ミレイユの提案を断る者はいなかった。

 流石に立ちっ放しで話すには時間も経ち過ぎていたし、何よりヴァレネオも放って、話し合いを続けるのも憚られる。

 落ち着ける場所が必要だったし、そもそもの目的がミレイユの邸宅だったのだから、とりあえずは良しとしたのだ。

 

 邸宅内は予想していたとおり、掃除が行き届いていて、埃の一つも積もっていない。当時利用していたまま家具が残っていて、内装もミレイユが持っていた『箱庭』と大きく変わらない。

 思わず懐かしいと思ってしまったが、今となっては箱庭に対して苦く思う部分もあった。

 

 流石に水や食料など、腐る物は持ち込まれていないので、それはミレイユ達側で用意した。離れを通って里長の家まで戻れば、食料も水も用意できるのだろうが、未だ姿を隠していたい、という思いがあって身銭を切る。

 

 とはいえ、これは旅の間に消費する予定の物だから、ここで少々の浪費があっても大した問題にはならない。

 家の間取りも良く似ているので、勝手知ったる様子でルチアが台所を利用して、お茶と保存食を用意してくれる。旅中なので碌な物は用意できず、戦闘糧食の様な物になってしまうのはご愛嬌だ。

 

 この邸宅は客人を招く事を想定していないので、客間というものが無かった。だから談話室を使うか食卓を使うしかないのだが、クッションに座りながら出来る軽い話でもないので、食卓の方を使う。

 

 食卓はそれなりに広いので、ヴァレネオとテオを加えても問題ないが、椅子は足りない。ミレイユはいつものように自分で魔術を使って用意し、その数を補った。

 

 ミレイユが上座に座り、その両脇をアヴェリンとユミルが対面する形で座る。そしてユミルの隣にヴァレネオとテオが並び、残った席にお茶を用意したルチアが、それぞれに配ってから座った。

 全員が一口お茶を含み、幾らか落ち着いたところで、ヴァレネオが改めてミレイユに頭を下げる。

 

「先程は、大変お見苦しいところをお見せしました。どうか、お許しを……」

「気にするな、と言っても、お前は気にしそうだな。だが任せろ、と言ったのは本心だ。お前にも色々と働いてもらう事になる。頼むぞ」

「ハッ! 何なりと、お申し付け下さい……!」

 

 更に深く頭を下げたところに、ユミルが大きく顔を顰めながら口を挟む。

 

「それはもう済んだ話だから良いとしてさぁ……、どうするつもりなのよ? 村に入った時、エルフの数は予想以上に少ないように見えたし、三千いるかどうかは微妙な線よ。でも獣人まで合わさるような事になれば同じコトでしょ? 感謝だけで済むと思ってるなら大間違いよ」

「それについては、同意します」

 

 ルチアがカップから口を離して頷いた。

 

「教化されるって事もあると思いますよ。獣人はかつてのミレイさんを知りませんけど、エルフが神のように敬い、そしてそれを一身に受けるだけでなく、数々の援助までしてくれる存在を見る訳です。頭を下げろと誰かに言われたら、そうしちゃう人だって増えるんじゃないですかね?」

「最初は良いでしょうよ。何か色々助けてくれる、偉そうな人っていう印象だろうから。新しく就任した村長っていう、敬い程度の認識で済むかもしれないわね。村長だから村人を助けるのは当たり前だし、感謝の度合いもその程度で済むって? ……そうだといいわね」

 

 ユミルから更に追撃の指摘が飛ばされて、暗に見通しが悪い、と睨み付けて来た。

 落ち着け、とミレイユは苦笑しながら手を上下に振った。

 

「相談もなく突然、方針転換をしたのは悪かった。何事を決めるにしろ、まず話を持ちかけもしなかった事、それがお前には不満なんだろう?」

「そうよ、当たり前じゃない。これが木っ端依頼を受けるかどうかっていう程度の内容なら、別に文句なんて言わないわ。好きにすればいい。でも、これは違うでしょ? アンタの命運が掛かった上に、たった一つ道を踏み外しただけで全てが瓦解する、そういう道の上に立っての行動だったんだから」

「そうだな、一歩踏み出す事すら慎重でなければならない。それなのに、お前にはまるで、その上で飛び跳ねるような無謀な姿と映ったんだろう」

 

 ユミルは不機嫌そうに頷く。

 何も何一つ相談されなかった事だけが、不満だった訳ではない。ミレイユが取った行動は自殺行為と変わりないように見えたからこそ、怒りを見せたのだろう。

 

 ミレイユが見せた行為はその細い道の上で飛び跳ねて見せたようなものだが、ミレイユの主観としては違う。閃きに頼った部分もあり、それが正解と分かった上で飛び出した訳でもなかったが……。

 

 しかし、ミレイユは道を踏み外したのではなく、隣に見えた道へと飛び移ったのだ。その道の先に光があると、分かったからだ。

 暗い道、先行きの見えない道、それは変わらないが、はるか先で光明が差して見えた。

 

「それについては謝る。後で個人的にも謝罪しよう。――だが、聞け」

 

 ミレイユは鋭く言葉を発した。

 尚も反論しようとしたユミルと、謝罪の必要などない、とユミルに反発しようとしたアヴェリン、その両方に向けて言う。

 

 ミレイユの眼差しに込められた意味を察した二人は、前のめりになっていた身体を戻す。二人とも背もたれに身体を預けたのを見届けてから、次にテオへと顔を向けた。

 

「それで……先程、お前に持ちかけた協力の話に繋がる」

「いや、悪いがサッパリ話が見えん。エルフを助けたいのに、感謝されたくないのか? それに神殺し? そんな事できると思ってるのか?」

「するつもりでいる。そして、私はやると決めたら必ずやる」

 

 ミレイユが眼光に力を込めると、テオは息を呑んで顔を青くさせた。

 周囲に助けを求めるよう顔を動かすが、メンバーは承知の上という顔をしていて、ヴァレネオには意気込みの表情が浮かんでいる。

 

「本気なのか? ……何故? さっき言ってた事だって、別に確証あって言ってるんじゃないんだろ? 憶測ってやつじゃないのか?」

「本気だし、何故と言われたら……殴られたから、かな。殴られたら殴り返す、それは誰であっても同じ事」

「神だぞ!? 神が人間を踏みつけ、殴り付けるなんて当たり前だろ! それを怒る奴がいるか!」

「……何故だ?」

 

 ミレイユが冷静に問い返すと、テオは再び息に詰まる。

 答えを探しているようだが、適切な答えを見つけられない。それは苦悶の表情からも理解する事が出来た。しばらくして、喘ぐように口を開く。

 

「何故って……、神とは理不尽なものだからだろう。強風や豪雨に文句言うようなもんだ。それに殴り付けても仕方ない。……だろ?」

「本当にそれが風であり、雨であるならばな。だが神は実際に手を下すし、恣意的に相手を選ぶ。風も雨も利益を考えないが、神は利己的に利益を求める。そうしなければならない理由があるかもしれないが……、殴られる者には理由があろうと関係ない」

「だから殴り返す? それは……それは……、叛逆というのではないか?」

「そうだ、我々は神を弑逆する」

 

 テオは椅子を蹴って立ち上がり、二歩、三歩と後退る。顔面は蒼白で、汗まで浮いていた。目は泳いで動揺が表に出ているし、震えてもいるようだった。

 そのような姿を見せる事を、不甲斐ないとは思わない。むしろそれが普通で、何事もなく付いてこれるアヴェリンやルチアの方が異常なのだ。

 

 ユミルは言うに及ばず、ヴァレネオにも動揺が見られないのは、その根底に深い恨みがあるからだろう。ミレイユの堂々たる宣言に対し、羨望の眼差しすら向けていた。

 息遣いまで荒くなってきたテオへ、ミレイユは視線を向けながら続ける。

 

「決意は良いが、しかし困った事もある。神々は私が何をするつもりか知っている」

「も、もう……っ、バレているのかッ!?」

「具体的にどうするつもりでいるのか、そこまでは知らないだろうな。だが、所謂叛逆の意がある事は知られているだろうな。それは間違いない」

「お、おまっ、おまえ……!」

 

 テオは指先をぷるぷると震わせて向けて来るが、言葉は形にならず開閉するに留まっている。

 何と言うべきか、何を言ったら適当なのか、自分でも分からないのだろう。それほど現在の状況が、客観視出来る者からすれば狂っているように見える。

 

 神は叛逆を嫌う、というルチアの分析は正しいと思うが、人の噂に戸は建てられないと言うように、叛意を持っただけではどうにもならない。

 

 祭壇に立って祈りと共に、その叛意をぶつけるのでなければ、人間一人一人の悪意など気付けるものではなかった。だから、それが火種として燻っていても、とりわけ手を出して来る、という訳でもなかった。

 

 ヴァレネオが良い例で、間違いなく神から見放され、そして恨みも強かったろうが、それを理由に攻撃されてはいない。本気で煩わしいと思っているなら、この森は既に灰と消えている。

 

 それが成されていないのは、利用価値があった、というだけでなく、何も出来ないと知っていたからだ。それこそ風や雨に殴り付けるようなもので、一切の痛痒を与えられないと知っているからの余裕に過ぎない。

 

「私が本気で殴り掛かれば、神は傷付く事を知っている。殺せる事も、また同様に」

「実際、小神を一柱やっちゃってるしね」

「なに……? やっちゃってる? やっちゃってる、って何だ? ……お前、まさか小神を弑し奉ったのか!?」

 

 表情を変えぬまま頷いてやると、テオは絶望的に顔を歪めて頭を抱えた。この世の終わりだと思っているかのようだが、それとは逆にヴァレネオは感動で打ち震えていた。

 

「二百年ほど前の話だ。オズロワーナとの戦争よりも更に前の事だな。ヴァレネオは知らなかったか」

「ハ……、寡聞にして存じ上げませんでした。ミレイユ様は何事にも、己の功績などを口にされない方でしたので……」

「それはそうだが……、てっきりルチアなどから聞いていたりしたのかと思っていた」

「他の何かはともかく、神殺しはそう簡単に口に出来ませんよ。不敬という感情もゼロではないですけど、そもそも信じてくれません」

 

 ルチアの言い訳に至極納得して、ミレイユは小さく笑った。

 神殺しとは大罪だという認識もあるが、テオが言っていたように、風や雨を殴り付けるようなもので、殺せる存在とは認識していない。

 

 そんな事を声高に言う者は、酒場で酔い潰れた馬鹿の戯言と同列に見られる。

 ミレイユは仄かな笑みを浮かべたまま、テオへと視線を戻した。

 

「だから神々は、私に対して本気で対処を目論でいる。万が一にも自分たちに被害が及ばない様、そして私を上手く利用しようと、色々策を練っている」

「神々を狙うってだけでなく、それを知られた上に対処されてる真最中? 俺を変なことをに巻き込むな!」

「既に巻き込まれている。エルフがこれまで生かされていたのも、そして今回、デルンに攻め込まれたのも、私を誘き寄せる為に利用された事だ。最初から無関係ではいられない」

「なんて、ことだ……っ!」

 

 テオは頭を掻き毟って身を捻り、絶望に打ちひしがれていたが、ヴァレネオの顔付きは変わらない。むしろ直向(ひたむ)きさが増したようでもあり、実直に背筋を伸ばして一礼した。

 

「では、我らは既に運命共同体という事ですね。ミレイユ様がこの里を預かる、と申された事にも納得がいきます。これから、この里と人とを、どうかお願いいたします」

「私が招いたようなものだ、そう言ったろう。後は私の後ろで着いてくれれば、それでいい」

「いえ、どうか後ろと言わず、隣へ置いてください」

 

 ヴァレネオは顔を上げ、その真摯な瞳で続ける。

 

「無力だとて、御身を支えたいという気持ちに一点の曇りもありません。里の者たちまで勝手を言う訳には参りませんが、どうかこの私一人だけでも、お好きなようにお使い下さい……!」

 

 ヴァレネオの瞳には嘘を言わない、情熱的な光が灯る。

 それは明るいばかりでなく、怒りや恨みも含まれるものだが、彼の身の上に起こった事を考えれば当然だった。

 

 神々がした事ならば、と素直に受け入れようとするテオみたいのがいるのと同時に、叛意を抱くヴァレネオの様な者もいる。

 ミレイユはその忠義を有り難く受け取り、同じく真摯な表情で返して頷く。

 

「お前の助けを有り難く借りよう。その時には私を支えてくれ」

「――御意!」

 

 ヴァレネオはまたも深く頭を下げ、それを見つめるルチアと目が合った。

 困ったような笑みが浮かんでいたが、仕方ないと諦めを含んだ笑みのようにも見えた。実際、彼女がヴァレネオに向けた表情は、諦観を多分に含んでいた。

 



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ミレイユの邸宅 その5

「……さて、テオ。お前の返答は聞いていなかったな」

「差別や弾圧を無くす……。あの泣き顔を見ずに済む世界たらんと願った……、俺の願いはそれだけだ……」

「そうだな。お前の願いは正当で、そして叶えようと足掻くに相応しいものだ。だが、神々がそれを阻止する。エルフの時は、もうあと一歩のところまで来ていた筈だ。問題は多かったろうが、その一歩を踏み出せる位置までは来ていた」

 

 ミレイユがヴァレネオを見ると、そのとおりだ、と言うように首肯が返ってきた。

 それを見たテオは苦々しく顔を歪め、それから泣きそうな顔で下を向く。

 

「……俺の野望は、このままじゃ永遠に叶わないか?」

「無理だと言う事を、エルフが実際に示したようなものだ。そして、私達が述べた根拠も、全くの的外れじゃないと分かっているから、その様に落ち込んでいるんじゃないのか?」

「そうだが……、だが俺に何をさせようって言うんだ。言っておくが、俺は神に叛逆できるほど、ご大層な力はないぞ! かつての万全な姿であったとしても、それは同じ事だ!」

 

 テオは俯いたまま、身の丈をぶつけるように言葉を吐く。

 それは誰の目から見ても明らかなので、最初から魔王と呼ばれたその力量を当てにしてはいない。そもそも、隣に立って剣を振るって欲しくて持ちかけた話でもなかった。

 

「お前に望むのは、魔王として返り咲いて貰う事だ。かつて人の上に立ち、導き、敬われた存在。そのように思われる形で表舞台に立って欲しい」

「それは……勿論、いつか立って見せると思っていたが……」

「だが今のままでは難しい、それは百も承知の筈。矮小化した魂の問題もある。人より遥かに短い時間で寿命が尽きる事を考えれば、機会は選り好みしている場合でもないだろう」

「それも分かってる……! 分かってるが……!」

 

 テオの根源的問題は、そこにこそある。

 彼の場合、死んだとしてもそこで終わりではない。まだ次の機会が残されている。しかし、転生を繰り返す度、その魂が矮小化する呪いがある以上、下手な失敗は出来ない。

 

 機会がまだ残されている、と考えるより、機会を与えられる度に失敗の可能性が増える、と考えなければならないのだ。そして、現時点でもそれは簡単ではない。

 神との敵対は――失敗する事は、つまり死を意味する。

 

 悲願は達成したい、しかしこの話に乗るのは厳しすぎる。その様な葛藤が、テオの中で行われている事だろう。

 その葛藤は理解できる。だから、解決を後押しする言葉を投げ掛けた。

 

「お前に望むのは、私の功績を横から奪う事だ。私がやる事なす事を、お前の――魔王の功績と喧伝するでも良い。方法は任せるが、注意と注目を私から逸らせ」

「だが、そんな簡単に……!」

「やって欲しいのは、森の民に対してだ。これから森の問題、その解決に動くが、それで私は感謝される訳にはいかないんだ。お前なら、上手くそれを誘導する事が出来るだろう?」

 

 テオが恐る恐る顔を上げる。ミレイユと目が合うと、その表情が大きく歪んだ。伸るか反るか、そこに葛藤が見える。すぐに出せる答えでもない。ミレイユは、その答えを辛抱強く待った。

 お互いに声を発せずにいると、横からユミルが呆れを含んだ声で口を挟む。

 

「……まぁ、何をしたいか、するつもりなのか、それで分かったけどさぁ。でも、そんな都合よく行くの? 確かに洗脳は催眠とは違う。強制力は強いけど短時間の催眠と、上位互換とも言える、長く続く洗脳。眷属下に置く制約ほど強力じゃないけど、枷なく多人数に施せるのは魅力よね。だからこいつの洗脳が役立つのは分かる、けど……」

 

 ユミルは一度言葉を切って、それから眉根を寄せて首を傾げた。

 

「それでさぁ、アンタがやる事の全てを、肩代わりできる程かしらねぇ……?」

「そこは洗脳の度合いや、ミレイさんが何するのかにもよりますよね。眼の前で見たものを誤解させるのは容易だと思いますけど、上級魔術の行使とか、本人にも出来ない事となると、齟齬の大きさ次第で洗脳が解けますよね?」

 

 ルチアが分かっている範囲で注釈を入れてくれたが、その部分については承知している。

 何も、そう大それた事を要求するつもりはない。あくまで意識を逸らす事さえ出来れば良い。

 

「この里で行う差配や、問題の解決程度だから、その辺りは十分許容範囲だろう。精々、威張り散らして自分がやった事にしていれば良い。私自身も、魔王の素晴らしさを説いても良いしな。誘導は難しくないだろう」

「何でそこまでしたいんだ……?」

 

 テオが唸るように声を出した。その視線には疑念だけでなく、猜疑の色まで浮かんでいる。

 

「感謝を受け取りたくないなんて、そこまで気にする事か? やった事、受けた事に対して、感謝を贈るなんて拒否する事でもないだろ。何でそれを嫌がるんだ。俺にはサッパリ理解できない」

「……まぁ、そうだろうな。普通なら拒否する事じゃない。気にする事なく、言いたい者には言わせていただろうさ。だが、エルフに対しては、そういう訳にはいかない」

「なんで……?」

「彼らは私に対し、感謝だけでなく信奉すら向けて来るからだ。ルチアはその様に分析してたが……ヴァレネオ、実際のところどうなんだ?」

 

 ミレイユが水を向けると、ヴァレネオは粛々と頷く。

 

「ここ二百年で生まれたエルフは然程でもございませんが、やはり過去の戦争を知る者からは、感謝だけでは済みますまい。ミレイユ様こそ神の代わりになる存在として、敬う部分が御座います。神の庇護を失っている現在、救世主として見られ、感謝以上の感情が向けられる可能性は高いと思われます」

「それだって全部じゃないと思うんですけど、やはりそこは教化されると思うんですよね。親と同じ神を信仰しなくちゃならない、って事はないんですけど、只でさえ直前の()()があった訳で……」

 

 ルチアの解説に、ミレイユ自身苦い顔で頷く。

 敵軍が二万の大軍で攻めて来たが、森へ辿り着く前にはその数を大きく減らしていた。そして呪霊から身を挺したように見える救出劇だ。

 

 エルフは当然として、他の種族としても悪感情は向けていまい。

 二人の分析を聞いて、ミレイユは納得して頷いたが、それを聞いてなお疑念を深めたのはテオだ。やはり分からない、と首を振ってミレイユを見る。

 

「それの何が悪い? すんごい感謝されるんだろ? 信奉までするエルフには、正直ちょっと引くけどさ、でも分からないでもない。それが嫌なのか? 嫌でもいいけど、無視すりゃいいだろ。助けたいのはお前の勝手、……だろ?」

「そうもいかない事情があるんだ。そうされたくない、って言うんじゃない。そうされたら非常に困る。エルフを見捨てる事すら視野に入れる、それだけの事情がな」

 

 詳しく説明せず、その輪郭だけ伝えただけでは、やはりテオは納得できないようだった。エルフを見捨てる、と言った時にはヴァレネオもまた、眉根に皺を寄せていた。

 ああ言った手前、今更反故にも出来ないが、しかし詳しい説明なしに納得できない、ヴァレネオの表情はその様に語っている。

 アヴェリンが難しい顔をさせて、重々しい口調で口を挟んだ。

 

「事ここに至っては、細部を誤魔化した説明は難しいかと……。味方に引き込むというのなら、その全てを説明なさっては……」

「そうよねぇ。特にテオはさ、その矢面に立たされるようなもんじゃない。別に宣戦布告させるワケでもないけど、やっぱり目に付くでしょうし。後方に入れば安全ってワケでもないんだから、最低限の義理は通さないと納得しないんじゃない?」

 

 ユミルの言い分にも一理あった。

 エルフにとっても、ミレイユが接触した事で完全な味方、その勢力下に入ったと見做されるだろう。ミレイユを昇神させる事が叶えば用済みとして処理されるかもしれないし、それを阻止する役目を持たせたテオは間違いなく邪魔者だ。

 

 幾ら森に引き籠もっていられても、暗殺などの手段で排除を目論まれても不思議ではない。

 ミレイユが二人へ順に目を向ければ、説明を求める視線が返って来る。

 

 数秒、瞑目して思考を巡らし、そして開いた時には話すと決めた。非常に業腹だが、納得と協力の引き換えならば仕方ない。

 ミレイユは息を一つ吐いてから話し始めた。

 

「まず一つ、これは前提として考えて貰う。この場を乗り切る虚言や冗談の類いじゃない。それを理解して貰う」

「元より進退含めて、全てをお任せすると決めた身。信じない、という選択肢は存在しません」

「ヴァレネオはそれで良いとして、テオはどうだ。……因みに、断るつもりならここで帰って貰う。全てを知った上で、放逐するのは流石に無理だ」

 

 テオは青い顔をして目を泳がす。

 神へ叛逆心を募らすだけでなく、実際行動に移そう、と考える者はいない。それを実際にやりかねない、それどころかやるだろう、と思える者からの提案だ。

 

 生半な覚悟で出来る事ではない。

 だが、テオにしても後が無いのは確かだった。寿命の問題、転生後の問題、そして弾圧を望むシステムの問題。それらを考えれば、そして悲願を達成するというなら、今後これより望みのある展開は起こり得ないと分かっている筈だ。

 

 数秒の沈黙の後、テオは生唾を飲み込んでから頷く。

 青い顔をして、冷や汗も浮いているが、しかし目の奥には覚悟を決めた光がある。

 

「わ、分かった……! 覚悟を決めた。どうせ今まで森にいても、どうしたら良いのか全く展望が見えなかったところだ。お前の言う事が本当なら、正攻法じゃ望めないみたいだしな……!」

「そうだろうと思う。言ったことは憶測の様なものだったが、全くの根拠なしと言う訳でもない。平和な世の中で得られる信仰より、争乱の中で願う救いの方が、余程強い願いだ。神々は信仰……いや、自身へ向けられる願力を求める。だから、平和をお題目に掲げる王は必要ない」

「……そうね。神々が常に求めるもの、それが願力なんでしょ。信仰はその一形態。だから畏怖でも同じくらい意味があるし、信仰を求めても理不尽な行動は矛盾しないんだわ」

 

 ユミルが同意して自身の考えを開陳し、そしてルチアも同意する。

 

「支配者層に貴方が立ったとして、魔王の名の元に人間を迫害するなら神は認めるでしょう。でも、きっと平和を説くなら、即座に玉座から降ろされる。神々の専横を認める限り、きっと貴方の悲願は永遠に叶わない」

「あぁ、分かった。証拠なんて無いけどな、きっとそうなんだろうって気がする。――言っとくけどな、流されたんじゃないぞ! 自分で考えて、ちゃんとちゃんと考えて納得したから……お前に付いた方が望みがありそうだから、そうするんだからな!」

「あぁ、失敗すれば破滅はお互い様だ。精々、上手くやろう」

 

 それで、とヴァレネオが催促するような視線を向けてきて、ミレイユは頷いて二人に告げる。

 

「私はな、謂わば神の卵だ。このままだと、一柱の神として、この世に根を下ろす事になる」

 

 即座の反応は返って来なかった。ただ、二人が息を呑んだ音は、はっきりと聞こえた。

 



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ミレイユの邸宅 その6

 ヴァレネオはわなわなと身体を震わせ、羨望の眼差しを向けるようにミレイユを見た。今までも確かに敬意や尊崇、感謝の視線は向けていたが、今向けてくるそれは、明らかにそれ以上だ。

 

「それは……! それが本当なら、我らエルフにとって朗報以外の何物でもありません! 信仰する対象から捨てられ、罵りつつも求めずにいられなかった――その守護と庇護を与えてくれる新たな神は、我らにとって二百年待ち望んだ存在です……! それがミレイユ様ともなれば、それは……ッ!」

「その興奮が分かるから、私はこれからする助力を知られる訳にはいかない」

「何故です……?」

「私が神へと至る道は現在判明している内容で二つ、その内一つは多数から信仰を向けられる事だ。条件さえ整えば、私へと願力を向ける事で神に至ってしまうものらしい」

「それがご不満だと? ……いえ、そもそも神になりたくない、という口振りかして……」

 

 顎先を摘み、首を傾げるように伺ってきたヴァレネオへ、ミレイユはしっかりと頷いて見せる。

 

「うん、私には目的があって神になる訳にはいかないし、そもそも私が至る先は小神だ。そして小神とは生贄の別名である、という事も判明している」

「生贄……? そんな、馬鹿な……」

 

 声を漏らしたのはテオだったが、ヴァレネオの表情も似た様なものだった。

 信じられない、というのではなく、信じたくない、と言っているように見える。事実そのとおりで、小神は生贄だ、などと突然言われて納得できるものではないだろう。

 

 この世の常識として、神々は決して地上へ住まう命に便宜を図ってくれる、有り難い存在という訳ではない。しかし病毒からの庇護や、時として与える救済などを持って、敬う存在として認識されてはいる。

 子供じみた癇癪で、ひと一人どころか村一つ滅ぼす事もあるとはいえ、しかし畏怖と畏敬を向ける存在であると疑った事はなかっただろう。

 神とはそういうもの、とテオは言ったが、それこそが常識を体現した台詞と言える。

 

「私はな、その生贄にするべく付け狙われている。そんなモノになりたくないから、色々と対策を講じながら弑逆の機会を狙っている、という訳でな……」

「しかし、本当なのですか、その生贄というのは……!」

「ユミルがそれを事実として知っているし、私も直接……まぁ、神にされた奴に聞いた」

「そんな……」

 

 ヴァレネオは愕然として首を振る。

 今後の納得をして貰う為にも、まずその事実は飲み込んで貰わねばならない。ミレイユは語気を強めて続ける。

 

「そして私という存在は、神としても簡単に諦められるものじゃ無いようでな……。逃げ切れず、こうして炙り出される事にもなってしまった」

「では、この二百年お姿が見えなかったのも……?」

 

 それはまた別の話だが、詳しく説明するには長く、また拗れやすい。大筋としては間違っていないので、それに頷いてやる。

 ヴァレネオは途端に、腑に落ちたように表情を落とし、次いで難しそうに顔を顰めた。

 

「なるほど、ミレイユ様ほど優秀な御方、神へ迎え入れようという気持ちも分かろうと言うものですが……。しかし、小神へと召し抱える事は、即ち生贄と同義であるとは……」

「けど、どうしてそんな事してるんだ?」

 

 テオも首を傾げて言った。

 

「優秀な奴を仲間に加えようってんなら分かるさ。でも、実際は真逆な訳だろ? その上、別にすぐさま生贄にするでもない。今の小神は若い奴でも二百年生きてるし、長い奴だと千年を越えて存在してないか? 生贄ってそんなに長く好きにさせた上、傍に置いとくもんかな?」

「そこにどういう意図があるにせよ、世界の存続の為に必要とする贄だとは聞いている。ユミルはまた別の意見だが……、何れにしろ私の様な反抗的な小神は、即座に贄行きだろうな」

 

 なるほど、とヴァレネオは重々しく頷く。

 

「用途については、それが本当に世界の存続に必要なら、我らも知らずに恩恵を受けていたと言えるかもしれません。しかし、それをミレイユが担わなければならないとなれば、是非とも防いでやりたいところです」

「まぁなぁ……。地上で好き勝手やってるのも、いずれ贄になると知ってるからの、目溢しみたいなものかもしれんしなぁ。神にとっちゃ、重要なのは国でも民でもなく世界って言われたら、納得しちまいそうだもん」

「実際、そうなんだろう。だから有能で有力な存在は、そう簡単に逃さないつもりなんだろう。私が拉致同然で、それと知らされず神への階段を歩まされた経緯を踏まえると、贄と教えて合意の元で昇神させたとは思えないが……」

 

 思わず愚痴の様な言葉になってしまったが、それが事実だ。ユミルも顰めっ面で同意するように頷いている。そもそも贄と知れば、いざと言う時逃げ出すかもしれないし、大神にとって不都合が少ないよう、素体には精神調整すら施している。

 

 到底、公平な取引があったとは考えられなかった。

 テオも難しく表情を歪めてから、幾度か頷く。

 

「けど、分かった。エルフは助けてやりてぇけど、それで信仰を向けられたら生贄一直線なんだな。だからその感謝をどうにか逸らさせたい、と……。それには洗脳させるのが好都合だと、そういう訳だな?」

「……どうだ、出来るか?」

「まぁなぁ……、出来るけどなぁ……」

 

 テオは腕組して背中を背もたれへと押し当てる。ギッと軋みを上げて身体を傾け、視線を天井へと向けた。

 嫌がる素振りというより、可能かどうかを詳しく検討しているようだった。

 暫く視線をあちらこちらと動かしてから、姿勢を正してミレイユを見てきた。

 

「別に洗脳って万能じゃないからさ、いずれ解けるぜ? 解けるより前に掛け直そうにも限度があるし、強い思いがあれば打ち破れる。お前に直接向けたいって思う信仰心、それがどれほど強いのか、って話にもなるだろうな……。これって、賭けになるんじゃねぇかなぁ?」

「なるほど、それは仕方ない。しかし、賭けか……」

 

 ミレイユも難しく眉根に皺を寄せ、深く息を吐く。

 洗脳は実に有用だが、確かに強い思い――確固たる意志を向け続ける事で打破する事ができる。そして強い思いとは、信仰心にこそ現れる事も多い。

 エルフがどれ程の思いをミレイユに向けるのか、それは確かに賭けだった。

 

「姿を見せるのは極力控える、それは当然の措置だろうな……。この邸宅や、あるいは里長の屋敷から出ないとか、そういう露出を失くす必要はあるだろう」

「広場まで出て、自由に散策を楽しまれる、というのは難しいのやもしれませんな……」

「流石の俺だって、全員の洗脳なんて無理だぜ。どっかで抜けが出るだろうし、洗脳を使う奴は少ない方が絶対いいって!」

「その理屈も分かる。その上で、お前が前面に出て、自らやったと喧伝すれば良い。アヴェリンやルチアは隠れるより、そちらのサポートに動いた方が、信憑性は増すんじゃないか?」

 

 ミレイユが水を向けると、アヴェリンは明らかに顔を顰めて嫌がる素振りを見せた。ある程度、ミレイユの使いとして外働きするのは仕方ないにしろ、まるで従者の様に振る舞う事には抵抗があるのだろう。

 

 アヴェリンは誓言してまで忠誠を誓った武人だから、例え演技と分かっていても、そう安易に頼める事ではない。

 

 ルチアに抵抗は見られないので、事が事だけに必要とあれば割り切ってくれそうだ。

 ユミルも使えるものなら何でも使え、という方針でもあるので、テオの功績を外からフォローするぐらいはやってくれるだろう。

 目を合わせたユミルは、事も無げに頷く。

 

「まぁねぇ……、実際に何するつもりなのかにもよるけど、意識をずらしてやるのは良いと思うのよ。今ならまだ、直接姿を見たエルフの数は少ないし、洗脳次第じゃ上手く誘導も出来るでしょ。でもねぇ……」

「不満か?」

「別にそこは良いわよ。もう決定事項みたいなものだし、ヴァレネオの積極的な協力もあるなら、不可能な事だとも思わないから。ただ、そこから先をどうするつもりなのかと思って」

 

 さき、とアヴェリンが口の中で言葉を転がし、それから挑むような目付きでユミルを見る。

 

「本来の目的である、弑逆の具体的な方法か?」

「そう。エルフを助ける具合をどうするか、それによっては長い間、足を止められそうじゃない? アンタの所在が奴らにバレた。そしてどうやら、信仰を得て昇神しそうにない。そうなった時、次にどういう手を出してくるか、誰か想像つく?」

 

 ユミルの質問には誰も答えられなかった。

 それも当然で、奸計、詭計に優れる神々が下す一手など、即座に思いつくものではない。

 ミレイユにしても思いつくものはなく、嘆息混じりに呟いた。

 

「何が来るにしろ、何をするにしろ、ロクな事にならない、という事だけは確信が持てるな」

「正にね。アンタの所在が判明した今、既に何の策動があっても不思議じゃない。守る者を増やすと不利になる……、それが分からないアンタでもないでしょうに」

「エルフの協力は、私の目的には必要不可欠だから、そこのところは言いっこ無しだ」

「……我らの、協力ですか?」

 

 ヴァレネオが虚を突かれた様に目を丸くしたが、ミレイユは苦笑して手を振る。

 

「まぁ、それは最終的に理想的な結末を迎えられそうなら、手を貸して欲しいというところでな……。今は殆ど理想どころか夢想みたいなものだから、その時になったら詳しく説明する」

「ハ……、そういう事でしたら……!」

 

 ヴァレネオの顔には困惑も多くあったが、頼りにされるという事は純粋に嬉しいらしい。どこか誇り高い面持ちで一礼したが、そこへ水を差す一言がユミルから放たれた。

 

「それも本当に、色々上手くいった諸々の後でしょ? いざとなれば、アタシは見捨てろって進言するし、何なら攻撃しろって言うからね」

「それをここで言う必要あるか?」

「背後から知らずに刺されるよりマシでしょ。昇神させられる方法の一つに、多くの信仰を向けられるってのがあって、それが現状エルフからしか向けられる可能性がないんだから。下手に昇神する様な事に発展して、しかも事態を制御できなくなれば、最悪の手段だって必要でしょうに」

 

 ユミルは極力淡々と言おうとしているが、その実、不本意だと言いたいのは即座に分かった。ミレイユとしても、最悪の敗北条件は理解している。その為には昇神させられる事は、絶対に受け入れてはならない。

 

 そして、その障害としてエルフの信仰問題が出て来るというのなら、対処せねばならないだろう。それが虐殺となれば他に手段も考えるし、最後まで他の方法を模索するが、他に方法が無いなら取るべき方策も限られてくる。

 

 ヴァレネオはそれに対して沈黙を貫いた。

 賛成は出来ないが、否定をこの場で口にしても意味がない、と理解している。いざその時になればどうなるか分からないが、しかしこの場で荒立てるつもりはないらしい。

 

「ユミルの言い分も分かるが、少々過激だな。敵に対するものじゃないんだ、もう少し柔軟にいけ」

「……そうね。少し焦り過ぎたのは認めるわ。でも、最悪の状況というのは想定しておくものよ」

「それもまた然りだな。だが、まずは一つずつだ。洗脳の効果と運用は、まず試してみなくては分からない。途中から補正や修正が可能かどうか、そこを突き詰めてみるとしよう」

 

 それぞれから了解の意が返って来て、頼りになる仲間も出来た。

 何よりテオと協力関係を結べたのは大きい。本来なら諦めるしかない、と思っていたエルフ問題を解決できる糸口が見つかった。

 

 全てが手の平、神の手の内と悲観してた部分もあったが、決してそうではないのだと確信を持てた場面でもある。

 一つ胸の支えが取れたような気分になったところで、本来の目的について果たそうと意識を切り替えた。

 



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ミレイユの邸宅 その7

 そうして一息ついた時、ミレイユは改めてヴァレネオへ向き直る。

 この森――引いてはミレイユの邸宅にやって来た理由として、神が下賜してきた武具の安否を確認する事がある。

 その様に説明すると、ヴァレネオの顔が途端、渋いものに変わる。

 

「……大変、申し上げ難いのですが……。それは、この邸宅にはもう御座いません」

「畏まる必要はない。実を言うと、その可能性は既に考えていた」

「左様でございましたか……」

 

 ヴァレネオは明らかに安堵した息を吐いたが、続く言葉で動きを止めた。

 

「誰かに下げ渡したりしたのか? 戦争が続けば、その功労者に渡すなり、使い方は様々あったろう。二百年も姿を見せていなかったのだから、その事にケチを付けるつもりはないんだ」

「ハ……、いえ、そういう事ではないのです。確かに、森が攻められる折には、腕に身の覚えのある者に武器を貸し与えた事は御座います。しかしそれは、ミレイユ様が所持されておられるもの。それは姿を隠しておれていた事とは、別問題で御座いますので……」

 

 ヴァレネオは気不味い調子で、その様に弁明した。

 そこまでミレイユ自身に、そして容れ物に過ぎないこの邸宅に対し、敬意を向けてくれた事には感謝したいが……では、どういう事なのかと首を傾げてしまう。

 

 ついルチアへ顔を向けてしまったが、当然彼女にも分かる筈がない。

 意見を求められたのかと思った彼女は、考える仕草を見せたものの、やはりそのままヴァレネオへ問い掛ける。

 

「それでは……、つまりどういう事なのでしょう? この邸宅に無いのは仕方ないとして、この里の中にも無いと、そういう……?」

「うむ、そう。そうなのだ……。ミレイユ様、見て貰った方が早かろうと思いますが、一つだけ誤解がないよう申しておきます」

 

 ヴァレネオが改まって背筋を伸ばしたので、ミレイユもそちらへ顔を向けた。

 

「この邸宅を発見したのは、我らが都市から追いやられてからです。そして、その時既に望みの品は無かったろうと存じます。空き巣……というには不可解な、しかし一部の品に窃盗があったのは間違いありません」

「なるほど……、何が失くなっているにしろ、まず確認してみるのが先決か。行ってみるとしよう」

 

 アヴェリンに目配せすると、即座に立ち上がって先導するように歩き出した。ミレイユとしても迷う事なく辿り着けて当然なのだが、完全に安全を確保できているとも言い切れない状態だ。

 邸宅で休むと言った時に、その地上部分の確認は済んでいるとはいえ、地下までは見ていない。

 

 テオという例もあるので、侵入について全くの無防備で地下へ降りる訳にはいかなかった。

 そのテオは武具について興味を示さず、この場で待つとカップを持ちながら言った。

 

「……どうせ、この身に合う武具なんて無いだろうし、誰も戦力としては求めてないのだから、別にいいだろ」

「あぁ、そういう事なら、好きにすればいい」

 

 ミレイユからも許しがあるとなれば、誰も文句など言わない。

 ここはエルフにとって聖地のような場所かもしれないが、盗む価値のあるものなど皆無だ。そもそも少しでも知恵が回るなら、何か高価そうな物を懐に入れようなど考えるものではない。

 

 ミレイユは一瞥だけして、アヴェリンの先導に任せ地下へと降りる。

 その背に他のメンバーも付いてきて、形ばかりの警戒だけして奥へ進んだ。ルチアが魔術を行使して感知しているし、アヴェリンとユミルの二人が気配を探っているのだから、いつまでも隠れ続けられるものではない。

 

 油断というより、居ないという確信から来る楽観だった。

 そして案の定、何事もなく武具を仕舞ってあったディスプレイルームに辿り着く。普通の一軒家と比べれば、その地下空間は広いものだが、隠れられる場所など幾らもない。

 

 特にこの部屋は、壁面を使って武具を飾り立てる為に用意されたものだから、視線を遮る物さえ置いていなかった。

 ぐるりと見渡してみれば、確かにヴァレネオが言っていたとおり、武具の類は元あったままだ。埃塗れでも不思議ではないのに、床にすら落ちていないというのなら、定期的に掃除をしてくれていたらしい。

 

 そして部屋の入口正面には、ぽっかりと空いたように何も飾られていない空間になっていた。

 かつてそこには、鎧と盾、そして剣があった筈だった。そのデザインが好みに合わない、という理由で使わなかった武具だ。

 

 神から下賜されただけに、付与された効果は他に類を見ないものだったが、それを使わねば倒せない敵がいなかったのも、使用を躊躇わせた原因だ。

 武器にしろ防具にしろ、ミレイユならばその効果を模倣して再現できた、というのも大きい。劣化版に過ぎなかったり、工程が複雑であったりと、明らかに神具と釣り合う出来ではないものの、だからと手を伸ばしたりしない程度には上手く出来た。

 

 デザインというのはミレイユにとって重要で、ゲーマー気質の中にはままある、性能よりもデザイン性重視の悪癖が出た形だ。

 だが同時に、それがあったから救われたと、今更ながらに感じる部分もある。

 

 ミレイユはその何も置かれていないディスプレイの前に立ち、それからヴァレネオに向かって振り返った。彼の表情は曇って眉根を顰めているが、当然ここに無い事を責めるつもりはない。

 

「……確かに無いな。ここにあったのは、どれも神具だ。そして……」

 

 ミレイユは改めて、ぐるりと周囲を見渡す。

 そこにもやはり壁面いっぱいに武具が飾られている。剣立て鎧立てが壁際に整然と並んでいるし、色とりどり、デザイン多種多様の武具もあるが、そこに欠けた物は見つからない。

 

 武器と鎧ばかりでなく、盾も欠る事なく並んでいるし、見ればその全てが付与された一品だと分かる。本当は誤魔化す為に、似た模造品を用意した訳でないのは、そこに込められた魔力量からも計る事が出来る。

 仮に偽物の代わりとして用意するにしても、その武具たちは余りに高価過ぎた。

 

「他の武具には興味無しか。確かに物取りの犯行としては、余りに不自然だな」

「いずれも、ミレイ様のお眼鏡に叶うものでは無かったとはいえ、しかし一級品に名を連ねていた武具です。だからこうして飾られてもいた。盗む事が目的ならば、敢えて見逃す理由もないでしょう」

 

 アヴェリンからの注釈も入り、納得いく説明に誰もが頷いた。

 では当然、この犯人は単に盗む事が目的ではなかったと推測できる。

 

「一目散に神具のみか。それは良いが……、何故ここにあると分かったか、だが……。つまり、それが答えという事か」

「偶然見つけた誰か、という線は、周りを見れば分かるとおり、無いと断言できます。であれば、神々の意志を受け取った誰か、と考えるのが妥当ですかね?」

 

 ルチアがその様に解釈して、ミレイユは頷く。

 むしろ、そうとしか考えられない。問題は、それがいつか、という事だった。ミレイユが留守にしている間のいつか、と考えるより、ミレイユが世界から姿を消してから、と考える方が自然に思える。

 

 いつか使うかもしれない、と思えば、それまではどう扱おうが勝手に思うだろうが、完全に宙に浮いた状態は歓迎できない。そういう事だろう、という気がした。

 

「……そうだろう。使い道もなく、死蔵していられるのを良しとしなかったんじゃないか。だから回収させるのに何者かを遣わしたというなら、他には目もくれなかった事にも納得がいく」

「因みに、お伺いしますが……」

 

 それぞれの推論に納得いくように頷いたところで、横からヴァレネオが声を掛けてきた。

 その顔色は相変わらず芳しくなかったが、しかし瞳には力が感じられる。余裕の無さには違和感を持ったが、とりあえず聞きたい事そのままに言わせる。

 

「その武具の見た目など、覚えておられるのでしたら、お聞かせ願いないかと……」

「うん? 別に良いが、興味あるのか?」

「はい。あるいは、と思うところが御座います」

 

 その声音と迫力からは、武具そのものについて興味あるようには思えなかった。ヴァレネオ本人も武器を手に取って戦うより、エルフらしく魔術を用いて戦う事を好む。

 その言い回しも気になったが、隠す事でもない。ミレイユは乞われるままに、口に出した。

 

「まず武器は、水晶の様に見える剣だな。半透明で角度によっては実際、透明に見える。ただ透明であるだけでなく、物体を透過させる事も出来る剣だ」

 

 ミレイユが召喚術を用いた武器も、これを参考にして作成した。

 単に持ち歩くなら、こちらの方が遥かに利便性は高いのだが、ミレイユはその術へ魔術を封入する、という手段も思い付いた。

 

 神の武具には外からの魔術干渉を許さないので、同じ事は出来ないという理由で、手持ちへ加えられずに終わった。これは単にデザイン性だけで却下された訳ではない、稀有な例だ。

 

「鎧は緑色で……、重武装に見える全身鎧だな。肩周りや首周りに牙やら爪やら生えていて、威圧効果は高いんだが……。見てくれは最悪だった」

「鎧自体は羽の様に軽いだけでなく、牙や爪は武器にもなります。もぎ取っても使用しようとも、次が生えてくるまで時間が掛かりません」

「……そうだった。性能だけで見れば文句を付ける程の物ではないんだが、私には余りに不釣り合いだろう」

「まさしく、仰るとおりかと」

 

 そもそも魔術士として、その力を振るう事の多かったミレイユだ。

 ゴテゴテの重装備に見える鎧など、使おうとする選択肢にすら登らなかった。手に入れたと同時に、一瞥と共に倉庫行きを決定した程だ。

 

 最後の盾を口にしようとしたところで、それより先にヴァレネオが吐き出すように言葉を落とした。

 

「そして盾とはもしや、乳白色をした菱形の物ではありませんでしたか。盾としては不格好な形ながら、構える事で光に包まれ形を変える……」

「そのとおりだ、その盾は魔術に対して有効な壁を前面に張る。実際の見た目より、その有効範囲は意外にも広いのも特徴だ」

「存じております……」

「……というのは?」

 

 ミレイユは怪訝に思いながら、ヴァレネオの顔を窺う。

 先程まであった失意にも似た表情は、その陰りが深くなっていた。地下へ降りるより前から見えていた雰囲気は、これを知る故だったのだ、と今更ながらに理解する。

 次いで、その口から衝撃的な一言が放たれた。

 

「その武具を一式持った戦士が、我らの前に現れました。我らのたった二年の支配時代を終わらせたのは、まさしくその武具を纏った戦士だったのです……」

 



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ミレイユの邸宅 その8

 部屋の中に鎮痛な静けさが広がった。

 ヴァレネオの悔しげに歪んだ顔を見れば、誰もが言葉を発せられない。只でさえ温度の低い地下室が、更に寒々しく感じられた。

 

 ミレイユもまた苦々しく思いながら、溜め息を吐きたいところをグッと堪える。

 何よりも思うところが強いのは、このヴァレネオだろう。もしも、を考えずにはいられまい。その武具を自分が使えていたら、或いは敵の手に渡っていなければ――。

 

 今更の事だと分かっていても、悔やむ気持ちは抑えられないだろう。

 それはミレイユにとっても同じ事だ。

 無防備に、自分には必要ないからと投げ捨てていた。それが誰かの手に渡り、誰かが利用するなど考えもしなかった。

 

 何故なら当時、ミレイユは未だゲームの世界と混同していたからだ。それがこの世界に与える影響など、思慮の端にも上がっていなかった。

 その事を今更ながらに考えてしまえば、今度こそ溜め息を抑える事は出来なかった。

 

 痛いほどの沈黙の中、ミレイユの小さな息を吐く音が響く。

 それに反応したユミルが口を開いた。

 

「……アンタ、自分の所為だとか言い始めないでしょうね」

「全く無しとも言えないだろう。ヴァレネオの話を聞く限り、ここの神具が利用されたのは間違いない」

「そうだとしても、だからと自分を責める必要ある? そもそもが神の意志、ここに武具があるから利用せよ、それから都市を奪還し返せ、とでも指示があったんでしょ? ここに何も無かったとしても、それならそれで直接下賜するなり、何か別の方法が取られていたに違いないんだから」

 

 結果として見るだけなら、都市の奪還は覆らなかっただろう。

 ユミルの言い分に納得は出来る。神々としてはエルフに不法占拠されているような心境だ。神々が望む形か、それに沿う形で支配してくれる王が、その座に座って居て貰わなければならない。

 

 エルフが奪還を成功させた時点で、それを取り上げるのは決定事項だったと思われる。

 そこにミレイユの残した神具があろうとなかろうと、その結末には変わりない。順序立てて考えれば、それも理解できる。

 

 しかし、当事者であるヴァレネオとしては、簡単に割り切れる問題でもないだろう。

 ミレイユが視線を向けると、ルチアもまた気遣わし気な視線を向けて、その背に手を当てていた。ルチアは何も言葉を発しないが、その悔恨を分かち合いたいと思っているのは伝わってくる。

 

 俯いていたヴァレネオは、それからすぐに顔を上げて、ルチアへ優しく微笑みかけた。

 その笑みを受け取って、ルチアの顔にもほのかな笑みが浮かぶ。

 ヴァレネオがミレイユへと向き直り、緩やかに首を横へ振った。

 

「ミレイユ様の不手際などと申せません。全ては我らが不甲斐ない事から起きたもの。かつての栄華を取り戻し、有頂天になっていたのもまた原因。都市を奪ったからと、それで終わりではない。守り通せぬならば奪われると、我らも理解していた事です」

「……それは、確かにそうだ。だが、心情として素直に頷けないのも分かるだろう」

「そのお気持ちだけで十分でございます」

 

 ヴァレネオは頭を下げ、それから話は終わりだと、強制的に打ち切るよう顔を背けた。

 既に終わった事ではある。しかし、それで済ませられる程、これは簡単な話ではばない。単に腹に据えかねる、というだけでなく、神々は迂闊な前例を残した。

 

 ミレイユは背けたばかりの横顔へ、問い詰めるように声を発する。

 

「……ヴァレネオ。たった一人の戦士……、それが都市を奪還したと言ったな?」

「ハ……、そのとおりです。情けない限り……、ミレイユ様の御助力も無に帰すような有り様で……、大変申し訳なく……」

「いや、その事を言いたいんじゃない。むしろ、仮に返り討ちにしても、結果としては大して変わらなかったろうと思う。別の誰か、あるいは集団、軍が攻めてくるだけだったんじゃないか」

「そうね、多分腹いせのつもりもあったろうから、そこに変わりは無かったでしょう」

 

 ユミルが顔を顰めて同意すれば、ヴァレネオはそちらへ驚いた顔を向けた。

 意外思っている事こそ意外に思う顔付きで、ユミルは自論を展開する。

 

「あら……? だってもう、後も無ければ未来もない、どうとでもなれ、と捨てた種族が成功したんでしょ? 面白くないんじゃない? 落ち延びた先でも救いの手を差し伸べていなかった、というなら、あながち間違った考えでもないと思うけど」

「ユミルさんの場合、私怨が入って大抵悪い方向に考えてしまいますからね」

「そう、気に食わない?」

 

 ルチアが控えめな反論を見せると、ユミルはむしろ楽しそうに首を傾げた。

 強く反論しようというつもりもなかったルチアは、苦笑しながら手を振る。

 

「真実は闇の中ですが……、神が利己的に世界を動かしてるなんて、もう分かり切ってる事です。支配者層についても、誰を置くのが望ましいか、それも頷けるものがありました。結局、この結果が変わらなかった事には同意しますよ」

「でも、腹いせについては納得できないのね」

「だってそこは推測できない部分ですし、悪意しかないじゃないですか。心情的には同意したいですけど、変に誘導するのは止めて下さいよ」

 

 自分自身、自覚のある事だった為か、ユミルは肩を竦めるだけで何も言わなかった。

 元より神々へ悪感情を持っていたヴァレネオは、ユミルの意見を支持したそうだったが、娘の一言で我に返ったようだ。だが、燻り続けるものは心の中に残ったようにも見える。

 とにかく、とミレイユは話題を戻すつもりで口を開いた。

 

「神々が過去より世界を支配していたのは分かっていた事だ。自らの操り人形と思わせない範囲で、裏から糸を引いていたりしたんじゃないか。損をしない限り、好きにやらせていたとも言える」

「そうね……。そうでありつつ、時として強引な――或いは大胆な手段でテコ入れもするんだわ」

「そして、ヴァレネオの言う戦士が、その強引な手段に該当するんだが……。こいつから宣戦布告はあったのか?」

 

 ミレイユが訝しげに尋ねると、ヴァレネオは即座に頷く。

 

「はい、それはありました。最低限のルールですし、単なる暗殺で王を殺したところで、交代は神が認めません。……認めない、と思いますが、神がルールである以上、あるいはそれすら信じても良いものやら……」

「最低限のルールは守らせた以上、遵守する部分はあるんだろうさ。だが、これは前提の多くを飛ばした、最低限には違いない。もっと具体的な内容を聞いてい良いか?」

 

 酷な事を尋ねていると自覚しつつも、聞いておかねばならない事だった。

 ヴァレネオは思案するように首を傾け、それから僅かに口籠りながら言う。

 

「そうですね……、最初は冗談の類いだと、誰もが信じませんでした。布告名は個人の名で、国名がありませんでしたから。多くはその両方を記載し、御璽による押印も無くてはなりません。ミレイユが仰ったように、多くの前提を持たず、最低限のものでしかなかったのです」

「やはりか……。そして、そのたった一人が王城まで殴り込み、そして玉座を奪ったんだな……」

「はい。誰も個人で奪いに来るとは思っていなかったのです。よしんば奪えたとしても、国体を維持できるものではなく、それを支える家臣もいない。たった一人の王がいるだけで、それで万事上手く回るものではありません」

「それも然りだな。……だが、実際は違った訳だ」

 

 ヴァレネオは悔しげに頷く。

 ミレイユがエルフに助力しながら、その勢力を増やして戦争などという回りくどい方法を取ったのは、それが理由だ。

 

 たった一つの森に住むエルフ達で、オズロワーナの支配と運用が出来る筈もない。

 奪う事で得られる玉座だとはいえ、その家臣までそっくり得られる訳ではなかった。そうでなくても信用できる家臣がいなければ、専横や横領、多くの不正を許す事にもなるし、支配構造を新たに構築するにも苦労するだろう。

 

 だから戦争という手段でエルフ侮り難し、と見せ、そして多くの虐げられ、弾圧された同胞を取り込み味方としていった。

 当時、圧倒的少数で、弱輩でしかなかったエルフに味方する者は少なかった。だが勝利を通じて、その主張も意義も張りぼてで無いと悟った者らは、その後のエルフにとって心強い味方となった。

 

 だが、その戦士には何もない。

 身一つで出来る事など限られている。武器を振り回して得られるものとて、維持は出来ないと誰もが理解している事だ。

 だが実際、その戦士は上手くやってのけたらしい。

 

「そして、その戦士はデルン王国を作ったんだな……」

「そうです。かつて我々が追いやった貴族などを呼び戻したようです。そんな事で上手くいくものかと思ったものですが……、えぇ神の手引や後ろ盾があったというなら、嘘の様に纏まった事にも納得がいきます」

「夢枕にでも立ったか、元より熱心に祈っていた者がいたのか、それはどうでも良いけど……。もしも一人の戦士が事を成したら協力しろ、とでも言っていたのかもしれないわねぇ」

「追いやられ、逃げ出した貴族達も、今は雌伏の時だと己に言い聞かせるような状態だったろう。そこに神からの啓示やら天啓やらが届いたなら、神の思し召しとして仕えたりしたのかもしれないな……」

 

 重々しくヴァレネオが頷き、そして重々しい息を吐く。

 気の毒、という一言で済ませられる事ではないが、ともかく労うつもりでその肩を撫でる。恐縮したようにヴァレネオは頭を下げ、すぐに離れてユミルたちを見渡した。

 

「この初代デルン王となる戦士は、神の私兵の様なものだったが……。これって何かと重ならないか」

「あぁ……」ユミルは顔を顰めて頷く。「全く同じだとは言わないけど、アタシ達――というかアンタと連想できる部分はあるわね」

「たった一人の戦士が、単に神の武具を手に入れたからと、そこまで勝手が出来るものかと思ったが……」

 

 アヴェリンが握り拳を顎に当て、独白するように呟くと、ミレイユはつまらなそうに頷く。

 

「単に一人の戦士として見ただけでは強すぎる。当時のエルフは精兵だ。油断していたとヴァレネオは言ったが、王城の警備まで油断していたとは思えない。奪取してから二年、多くが足りず内政にも苦労していたと思うが、果たしてたった一人に、思う様やられたかと言われたら……それは疑問に思える」

「でも、そこに神の素体――アンタ流に言えば、神の卵が相手となるなら、それも頷けるってワケね?」

 

 ユミルが手の平を上にしながら指を向けてきて、言われたとおりにミレイユは頷いた。

 当時のエルフは魔力制御全盛の時代で、ルチアを始めとした実力ある魔術士は多くいた。その中で、ルチアは確かに頭一つ抜ける実力者だったが、それに迫ろうとする魔術士は、やはり多くいたのだ。

 

 それらが束になって襲い掛かってくるのだから、例えアヴェリンが挑もうとも簡単に行くものではない。魔術防御の盾は役立ったろうし、エルフは大いに苦戦しただろうが、それだけで突破できると思えないのだ。

 

「それが神の卵としてこの世に生まれた相手なら、十分可能だと思う。私が姿()()()()()二年……、新たに選ばれ実力を手にするには十分な時間だな」

「あぁ、アンタも三年使って、今の力まで磨き上げたんだったわね。誰もが大成するワケじゃないって話だから、複数用意して上手くいったのが、そのデルンなのかもしれないけど……それはまぁ、どうでも良いわね。とにかく色々繋がる部分はある」

「私の代わりに用意された、新たな卵、それがデルンという気がするな。だがそうなると、攻め込まれている森が、今も無事なのは腑に落ちないが……」

 

 ミレイユに対し罠として用意し、この時までご丁寧に生かしておく理由が、果たして当時にあっただろうか。結果として上手く利用されたが、そこまで読めたか疑問だ。

 それにミレイユ自身がそうだったが、進むべき道を、神々はそれと分かり易く引いたりはしない。上手く転がされる、と表現するべきであり、全てが計算づくで動かせるものでもない筈なのだ。

 

 ミレイユが顎に手を添えて、難しい顔をして思案していると、そこにヴァレネオが声を発した。

 ヴァレネオ自身も半信半疑のような、実に自信のない声音だった。

 



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ミレイユの邸宅 その9

「その初代デルン王となる戦士ですが、その後すぐに行方を眩ましておるのです」

「行方を……? どこかへ逃げたと、そういう話か?」

「そこまでは分かりませぬが、初代デルン王の治世というのは存在しません。一年とも半年とも言われるものの、その間だけ在位しており、後の行方を知る者はいない、という話を聞いた事があります」

「それは、つまり……」

 

 ミレイユがユミルへと目配せすると、得心のいった表情で頷く。

 

「そういう事でしょ。本来の目的である……かどうかは、本人にしか分からないけど、昇神するため再び旅に出たとか、そういうコトじゃないかしらね」

「小神は私たちが一柱倒した。その代わりとなる神を、奴らは欲していただろう。その為に旅立った、とするなら疑問でも何でもないな……」

「実際、どうなの? あれから新しく神が生まれたりした?」

 

 ヴァレネオは青い顔をしながら首を縦に振った。

 この世は神々に見守られていると知っていても、基本的に無関心だと思っていたのだろう。かつてはルチアもそう思っていたし、世の誰もが似たような共通認識を持っている。

 

 しかし、実は神の手が縦横無尽に行き渡り、自己都合で動かしていたのだと、今更ながら知った。世界の裏側を垣間見たようで、落ち着かないのだろうし、だからヴァレネオの顔色も優れないのだろう。

 無理もない、と思った。

 

「カリューシーと呼ばれる男神で、楽器や芸術を嗜む、と聞き及びます。人の世に感心を示さず、取り分け粗暴でもないのは、他の神にも珍しくない特徴ですが……。オズロワーナやデルン王国に対し、有利に働き掛ける様を見た事もありません」

「ふぅん……。案外、その線引はしっかりしてるのね。自分が一度は手にした国とはいえ、神になればそんなコトも気にならないのかしら。権能について、何か知ってる?」

「奏楽と創奏のカリューシー、と呼び敬われますな。実際、嗜むばかりでなく、芸事の守護を司るとも言われています。この森にあっては神々と無縁な為、それ以上詳しい事は分かりかねますが……」

 

 ヴァレネオが恐縮して頭を下げて、ミレイユは構わない、という風に手を振った。

 神に見捨てられたと思いつつ、病毒からの守護という庇護があっては、その恩恵を望む心は容易く捨てられない。実際、一縷の望みを掛けられるとすれば、その新神に対してのみだったろう。

 

 ヴァレネオが青い顔をしていたのは、その信仰を願い出た神こそが、自分たちを窮地へ追いやったと理解したからかもしれない。

 眉根をきつく結びながら言ったヴァレネオは、それで口を閉じてしまった。

 

「音楽好きの神ね……、平和そうで結構なコト。まぁ、今までに無いタイプとは言えるかもね」

「まだそれが初代デルンと決まった訳でもないが、しかしまぁ、しっかりと小神の補充は済んでいる様だ。現時点で六神いる事は疑問でもないが、それは私を昇神させても、即座に使う事を加味しているからか……。最初から神の末席に加えるつもりなど、更々ないんだろうな」

 

 ミレイユが鼻を鳴らすと、アヴェリンもまた腕を組んで不快げに息を吐いた。

 加わるつもりもないから別にそこは構わないが、神々としても他の小神同様の扱いをする気がない、という狙いが透けて見える。

 

 世界を越えてでも取り戻そうとするくらいだから、ミレイユの扱いは最初から別格と言えるかもしれないが、その様な特別待遇は求めていなかった。

 

 ミレイユが敵意を抱いている事など承知の上、だから他の小神同様、神に至ったからと好きに遊ばせるつもりなど無いと推察できる。

 いずれにしても、とミレイユは他の面々へ視線を移した。

 

「当初の目的は達した。神具がここに無い事は確認できたし、そしてそれは現在、デルン王国にあると考えた方が良いのか……? 使う者が使えば、それこそ森を攻めるのに有効そうだが……。ヴァレネオ、そこの所はどうなんだ?」

「ハ……、武具の所在については、私も存じ上げません。指揮官や兵士などに、その武具を纏った者が出てきた所を見た事も、また聞いた事もありません」

「それもそうか……。大事に仕舞い込んでいるのか、そのデルンが旅に出る際、身に着けて行ったのか……。後者の方が有力かな」

 

 当時のエルフ攻めは、所謂神の試練の一つに過ぎなかったろう。半年程度は留まったらしいが、結局旅を再開したというなら、有力な武具は手放さず、身に着けて行った方が合理的に思える。

 

「そのまま昇神にまで至った、というなら神の手元に帰ったとも思えるし、それならそれで別に良いんだがな……」

「元より神の持ち物、在るべき所に帰ったと言えるしね。危機感を持ったのだって、それらが宙に浮いた状態で、しかもどう扱われるか分からなかったからでしょ? 所在不明には違いないけど、神がその気なら何処へでも下賜できるもんだし」

「そうだな……」

 

 自分で使うつもりもなく、持て余すばかりで封印するしかない、と思っていたから、最悪の状態でないだけマシだった。

 探し出し封印して隠すのが最良だったろうが、ユミルが以前言ったとおり、神がその気になれば新たに作る事だって出来るのだ。そこであまり気を揉んでも仕方がない。

 

「確認したい事も済んだ。まずは上に戻ろう」

 

 ミレイユがそう提案すれば、異を唱える者はいない。そのまま部屋へ入って来た順とは逆に、それぞれ戻り始める。

 テオの待つテーブルまで戻ると、カップを口に咥えてブラブラと揺らして暇を潰していた。その様な姿を見ていると威厳など欠片もなく、本当に子供のように見える。

 

 これを味方に引き込んで本当に大丈夫なのか、と今更ながらに不安になった。

 カップを上下に揺らすのを止め、ぞんざいにテーブルの上に置きながらテオは小さく手を挙げる。

 

「おぅ、お帰り。そんで、何か見返りでもあったか?」

「あったとも言えるし……いや、あったと見て良いかな。用事は済んだ、それで後の事だが……」

「どうするつもりよ?」

 

 それぞれ元の席に着席しながら、ユミルが挑戦的な視線を向けてくる。

 自分で言い出した事ながら、エルフの里の面倒を見る、というのは、そう簡単なものではない。ノウハウ以前に、この里が抱える問題などを書き起こし、それにどう対処するかを考えなくてはならないだろう。

 

 そしてそれは、ミレイユの秘匿を前提としたものだった。

 難しいのは承知の上だが、ミレイユが望む未来の為には、ここが踏ん張りどころだ。このままその話を進めても良いのだが、それより気掛かりに思っていた事を思い出した。

 

「ヴァレネオ、今までのゴタゴタですっかり後回しになってしまったが、例の死霊術士について詳しく知りたい」

 

 その一言でユミルの目が細くなり、ヴァレネオへと顔が向く。

 腕組みした上で、苛立たしげに指先がその腕を叩き始め、ユミルの機嫌が急降下した事が伺える。

 

「確かにそれは気になっていたわねぇ……。そいつって呼べるの?」

「今も厳戒態勢ですから、奴がどこにいるか所在を掴んでいる者は少ないでしょうが、しかし戻って来ていると考えられます」

「その口振りからすると、里の中には元より居なかったの? 森から飛び出た遊撃隊の中に、それらしい奴も見掛けなかった気がするけど」

 

 ミレイユ自身は途中で野営地方面の警戒をするのに動いたから、その森から飛び出して襲撃した者たち全てを見る事は出来ていない。

 

 ざっと見た限りでは、その八割が獣人たちで、残りはエルフだという認識だった。千人以上にのぼる数だから、そこからたった一人を見つけ出すのは困難だろうから、あの場に居たと言われても分からない。

 

 森の外縁から接近していたユミル達としても、そこは変わらないだろう。

 だがユミルの指摘に、ヴァレネオは頭を振る。

 

「実際にデルン軍が野営地へ来るより前……、数日前だったと思いますが、その時には既に森から発っておりました」

「……何の為に?」

「ミレイユ様をお探しする、そういう名目で森から出て行きました」

 

 ユミルの目が一層細まり、腕を叩いていた指が止まる。

 言外に疑わしい、と告げているに等しかったが、ヴァレネオは言葉を続けた。

 

「森へと落ち延びた、エルフ親子の事は覚えておりましょうか。その親子から伝え聞いた段階の事で、未だ確信を持てぬ中、本人は探しに出ると申し出て、許しを得るより前に飛び出してしまったのです」

「あぁ、あの親子ね……。リネィアとか言ったっけ……?」

「はい、そのエルフです。その時点では、未だ親子から詳しく話も聞けておらず、本当にミレイユ様であったのか不明な状況だったのですが、制止の声も聞かず行ってしまいまして……」

「そんなに向こう見ずな性格なの、そいつ……?」

 

 ユミルの声に苛立ちと不機嫌さが合わさり、視線だけで射殺せそうになる。更に機嫌が下がるより前に、ミレイユが苦笑して声を挟んだ。

 

「ヴァレネオを責めるな。ありのまま報告してるだけだろう」

「そうね……、悪かったわ。ただ、ちょっとアタシにとっても、冷静でいられないコトなのよ。分かるでしょ?」

「それはそうだが、ヴァレネオに当たってどうなるものでもないだろう。敢えて無理して冷静になる必要もないが、話すヴァレネオに敵意を向けるな」

 

 これには素直に納得を示し、そしてヴァレネオにも形ばかりの謝罪をする。

 それで居心地の悪さを感じていたヴァレネオも肩の力を抜き、それから続きを話し始めた。

 

「えぇ、それで……。その時、私としても不審に思ったのです。あまりに強引、性急すぎると。それにどんな手を使っても探し出す、という彼の宣言には不気味さもありました。……ただ、ミレイユ様が本当にいるのだとしたら、見つけ出すのは歓迎できる事でもありますし……」

「明らかに怪しいじゃないのよ……。何でそんなの信用してんのよ」

「この森に落ち延びてから、まもなく加わった古参の一人だからです。それまでの間、外の情報収集も担っていて、だから多少強引に見えても信用して良いか、と思い……」

「なるほどね、古株……。二百年前から……。それから、ソイツの姿は……?」

「一度も見ていません。ただ、呪霊を見た、という獣人の報告が上がりまして。あるいは、その辺りで何か行動を起こしたのか、と勘ぐったりしましたが……」

 

 ふぅん、とやはり不機嫌な態度を崩さず頷いた時だった。

 アヴェリンが咄嗟に壁へと顔を向け、その更に向こう――邸宅の外へと意識を向け、他の誰もが警戒を高める。ヴァレネオは自分とテオの二人以外、ほぼ同時に動いた事に驚いた様だった。

 

「一体、どうされたのです……!?」

「何者かが来た。離れから出て、こちらに近付いてきている」

 

 ミレイユがその様に言うと、アヴェリンが言葉を引き継いだ。

 

「まだアーチ部分には到達していません。急ぎ足ではない。緩やかな歩速で近付いて来ているようです」

「……誰にも近付けさせないよう、衛兵には伝えてありましたよね。これってつまり、侵入者って事ですか?」

 

 問うというより、確信を言葉にしている口振りだった。

 ミレイユが同意すると、即座にアヴェリンが立ち上がる。武器と盾を取り出し、先陣を切って扉へと向かった。

 その背に続いてミレイユもルチアも立ち上がり、最後にユミルがそれに続き、ヴァレネオの隣を通り過ぎるところで問い掛けた。

 

「すぐに分かりそうだけど、一つ聞かせて。……ソイツの名前は?」

「スルーズ、と本人は名乗っていました」

 

 その名を聞くと同時、ユミルは顰めっ面を浮かべると、盛大な舌打ちを響かせた。

 



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ミレイユの邸宅 その10

 完全武装したアヴェリンを先頭に、五歩の間隔を開けてミレイユが続く。

 その両脇をルチアとユミルが固め、その更に後ろ、十分な距離を開けてヴァレネオとテオが付いて来た。

 

 邸宅から出れば、すぐ目の前にアーチがある。

 そのアーチ周辺に広がる広場に、黒髪赤眼の男が黙って待っていた。あまり邸宅へ近付くのは憚られる、と考えている態度ではない。むしろ、この広場で迎え討つ為に待機しているように見えた。

 

 広場の入口でアヴェリンが立ち止まるのを見て、ミレイユもまた足を止める。それとなく周囲へ注意を向けてみたが、伏兵の様な者はいない。

 ルチアは既に感知の魔術を外へ向けていて、そこにも引っ掛かる誰かは居なかった様だ。ミレイユへ顔を向け、左右に振って教えてくれる。

 

 では、攻撃や襲撃の意図があって来た、という訳ではないのだろうか。

 相手の男が、本当にユミルと同じゲルミルの一族だとすると、視線を合わせるだけで催眠状態へと持っていける。ただ、それは相手が誰であれ成功する、というものではない。

 

 警戒している相手には通じ辛いし、実力者相手や魔術耐性が強い者には、やはり通じ辛い。ここにいる誰もが、催眠に対して警戒した状態で通じるものではないから、それを頼りに大胆不敵になっているのなら、大きな勘違いだと言ってやらねばならない。

 

 ――あとは……。

 ミレイユは周囲にある樹木や植物に注意を向ける。

 毒性が高く、そして罠としても有用なそれらは、上手く利用されたなら、とても厄介な事になる。

 

 破裂毒の樹の実は、触れただけで破裂する危険があるから、投げつけようとすれば自分まで被害に遭う。そんな馬鹿な使い方はしないだろうが、武器となる物が溢れている事には気を付けねばならない。

 

 残る手段としては死霊術を使った攻撃、という事になるのだろうが、呪霊を倒された事は理解している筈だ。最も強力な死霊術の一つを潰されたなら、他の術も有効ではないと分かる事だろう。

 何をするつもりで来たのか、出来るつもりでノコノコ姿を見せに来たのか、それが分からず困惑してしまう。

 

 男の姿を目に留めたヴァレネオが、ミレイユの後ろからそっと耳打ちしてくる。

 

「あの男が、先程言っていたスルーズです……」

「なるほど……」

 

 そのスルーズが、感極まったかのように身体を震わせた。目には涙を薄っすらと浮かばせ、ユミルを一心に見つけて腕を広げる。大きいものではない。肘から先を僅かに外へと向ける、自らの姿を良く見せる様な動きに見えた。

 

「ユミル様……! (わたくし)めはやり遂げました……ッ! お望みのまま、望まれるがまま、この地へミレイユを押し込めました! 全てはこの日の為に……!!」

「あら、そうなのね。それで……?」

 

 白熱と言うべきか、熱狂というべきか……。

 スルーズが口にした言葉の意味は分からないが、しかし本人には大変な事を成し遂げたつもりでいるらしい。ユミルは蔑みの視線で、淡白に言葉を返す、その対比も理解が追い付かない。

 

 アヴェリンは目の前の男から、視線も警戒を切らさず、鋭くユミルに問い質す。

 

「……どういう事だ。あれの台詞はどういう意味か、今すぐここで説明しろ」

「無理よ。アタシにだって意味不明だもの」

「だが、奴は明らかにお前を知っている。お前の指示で動いていた、とも言っているんだぞ」

「してないし、知らない。大体、そんなのいつ出来たってのよ。いつも一緒に居たじゃない」

 

 ユミルの顔に動揺は無い。事実を述べているだけだろうし、疚しい事がないからこその態度だろう。声音にも、それが表れている。

 ユミルを疑う訳ではないが、しかし、だとすればスルーズは何を思って、あんな事を口走っていると言うのか。

 

 スルーズの瞳には、狂気にも似た歓喜が見える。

 その様子を見れば、あるいはこの男こそ催眠を受けて動かされたかに思えるが、判断を下すにはいかにも情報が少なかった。

 

「オズロワーナの宿、夜に何処かへ出掛けていたな。私達に知られず接触できない、という言い訳は通用しない」

「そりゃ出てったケドさ、そんなのいつものコトでしょ。あの時だって、酒場に行っただけだし」

「何の証明にもならん。いつ出来た、とお前は言ったが、その時なら出来た、と証言をした様なものだろう」

「全っ然、違うでしょ……!」

 

 ユミルが一歩踏み出し、語気を荒らげる。

 アヴェリンがしつこくユミルに問うのは、そこにミレイユを誘き出す、という文言が、スルーズの口から飛び出して来たからだ。明らかな利敵行為を行った、となればミレイユの忠臣としては黙っていられない。

 追求せずにいられない気持ちは理解できる。

 

 しかしミレイユは、二人のやりとりを聞き流しながら、スルーズの様子を観察していた。

 男の表情には歓喜が浮かんでいるものの、罠に嵌めてやったという、愉悦の様な感情は見えて来ない。やり切った、という感情は滲み出ているが、してやったり、とは思っていない。

 

 まさか神々は、本当に仲違いさせてやる事を、画策していたりするのだろうか。

 そう思ったりもするが、やはり違う、と頭を振った。

 

 もしも本当にパーティの瓦解を狙っているのなら、それこそ言い訳できないだけの状況を作り出す。かつてゲルミルの一族が世界の敵と認定された様に、全ての状況が言い訳を許さない、という形まで持っていくだろう。

 

 対して今の状況は、と言えば――。

 せいぜい、痴話喧嘩の原因程度の状況だ。ユミルとしても自己の潔白を証明できていないが、さりとて一切の言い訳を許されない状況でもない。

 

 チグハグ……、というより稚拙、というべきだろうか。

 やりたい事は分からないでもないが、全てにおいて足りてない。何かしたいのは透けて見えるが、詰めの状況まで持って行けていないのだ。

 

 ミレイユは一つ息を吐いて、傍らに控えるルチアへ視線だけ向けた。

 

「稚拙と言っていいのなら、この稚拙さには覚えがあるな……」

「その稚拙は分かりませんけど、どうにか出来るなら、早くこの状況をどうにかして下さいよ」

 

 ルチアはうんざりと前にいる二人へと視線を移す。

 今ではスルーズをそっちのけで、二人で言い合いを始める始末だった。男の目的が混乱を与える事なら成功と言えるが、そんな事をする為にやって来たとは思っていない。

 そろそろ本題を聞きたいと思えてきた頃だし、二人の諍いは止めねばならなかった。

 

「二人とも、一旦やめろ。どういう結論を下すにしろ、まず話を聞いてみる。敵か味方かも含めてな」

「敵でいいでしょ。というか、なんで話を聞いてやらなきゃいけないワケ? アタシとしては、意味不明な一言を言いだした辺りで、くびり殺してやりたかったけど」

「だが、こいつが神に繋がる可能性がある以上、そういう短慮は出来ないだろ。それでお前の容疑が深まろうと、私は気にしない。いいから、聞いてやれ」

 

 ミレイユが語気を強めて言うと、ユミルは渋々ながらも頷く。

 アヴェリンがミレイユの傍で控える為に戻って来て、視線をスルーズに合わせたまま聞いてきた。

 

「ミレイ様は……、ユミルが(はかりごと)をしていたとは、最初から疑っておらぬのですね」

「そうだな。夜間に断り無く外出するのもいつもの事だし、そこで酒を引っ掛けてくるのも、またいつもの事だ。そこで誰かと密会していたか……それは分からないが、私に牙向くものでない事くらい分かる」

「何故そう言えます」

「私がお前達を頼りすると決めたからだ。信頼する相手を、信用するのは当然だろう。私は――」

 

 言い差して、ミレイユはアヴェリンにもルチアにも、親愛の眼差しを向ける。

 

「例え目の前で裏切る宣言をされたとて、それが敵を惑わす罠だと信じて已まない。何一つ保障も確信も無くても……、それが信じるって事だろう?」

 

 いつだったか、アヴェリンとルチアが言った台詞でもあった。

 ミレイユが薄い微笑を向けると、アヴェリンもそれ以上何も言えなくなってしまった。困ったような笑みを向け、しかし誇りと感動を目一杯向けながら、意志の力で前を向く。

 未だ敵から目を逸らす訳にはいかず、それでルチアが呆れた様な声を出した。

 

「そういう台詞は、もっと心安らげる状況で言って下さいよ」

「それはすまなかったな……」

「後でユミルさんにも言ってあげて下さい」

「……機会があれば」

 

 この二人には素直に言える事でも、ユミル相手には気恥ずかしい。三人に優劣を付ける訳では無いものの、やはり普段の行いから言い易い相手というものはある。

 ミレイユが改めてユミルの背中を見つめると、ユミルが丁度、顎をシャクったところだった。

 

 あくまで嫌々ながら、という感情が全面に押し出された表情で、ユミルは言われたとおり、話を聞いてやるだけ聞いてやるつもりでいるらしい。

 そうすると、男は歓喜した顔に恐悦を浮かべながら口を開く。

 

「私はやり遂げたのです! だから貴女の望むとおり、貴女は人間に成れるのですよ! 我らは共になれるのです……!」

「言ってる意味が全く分からない。アタシがアンタに何を頼んだってのよ。意味不明な妄言にも、限度ってもんがあるでしょ……!」

 

 スルーズが一言口にする度、ユミルの機嫌が急降下していく。

 ミレイユ自身、あの男の顔に覚えはないが、ユミルが毛嫌いする様な仕草を見せる以上、二人はやはり知り合いであるのだろう。

 

 同族の一人なのだとすれば、そこまで毛嫌いする理由も、即座に殺してやりたいと言い出す理由も不明だが、あるいは、と思える部分はある。

 それが事実なら、確かにユミルは一言足りとも発する事を許さず、殺してしまいたいだろう。

 

 酷な事を要求してしまった、と自責するが、スルーズの思惑は気になる。

 追い込んだ、という台詞も無視する訳にもいかず、そして追い込んだからには次の罠がある筈だ。踏めば発動する、というほど分かり易い罠ではないだろうが、ならば次に何が来る、と思案を巡らしながら話へ耳を傾ける。

 

「ですが貴女は仰った……! あの孤島で、あの寒々しい海を見て、その望みを口に出された……!」

「ハァ……? だったとして、それを叶えろと命じたコトも無かったけどね。……ねぇ、ちょっと。もうこいつ殺して良い?」

 

 ユミルが殺意を全身に巡らせて、ミレイユの方へと振り向いて来た。

 その望みは叶えさせてやりたいが、まだ早い。ゆっくりと首を振ると、怨嗟の瞳を男へ向けた。

 

「神は望みを叶えると言った! 望む働きをすれば、願いを叶えると! だから私めは、必死になってやり遂げたのです! 地を這う様な思いをしながら、黴臭く青臭いエルフどもに協力しながら……!」

 

 神という単語一つで、遂にユミルの我慢は限界を越えた。

 呼び止める制止が間に合わず、一足飛びで接近すると同時に、その手で首を捩じ上げる。頭上まで持ち上げたと思えば、身体を捻って地面へ投げ付けつつ圧し付けた。

 

「――ぐほっ!!」

「随分な言い草ね。――それに神ですって? 神が何で言うコト聞くと思ってんのよ! お前が良い働きをしたら、その願いを叶えてくれるって!? そんな馬鹿な言い分信じて、それで一族を裏切ったの!?」

 

 予想は的中していたか、とミレイユは重い溜め息を吐いた。

 同胞最後の生き残り、それが本当ならば、ユミルが歓迎しない筈はない。それで敵対を示していたというのなら、ユミルが言ったとおり、あいつが裏切り者だと分かっていたからだ。

 

 ユミルの一族――ゲルミル族破滅の始まりは、一人の同族が行った魔術行使に端を発する。

 隠れ住むゲルミル族が、その魔術で騒然としたのは間違いないだろう。使われた魔術は孤島で行われ、そしてその頭上で渦巻く闇として現れたからだ。

 

 魔族が世界を闇に閉ざそうとしている、という噂が飛び交ったのは、正にそれからだった。そして例に及ばず、そこへミレイユが参画する事にもなった。

 

 裏切り者として処分されたか、一族全員死亡したと思われた時、その中にいたと思っていたのだろうが、そうではなかったという訳だ。

 そして、本人の言が確かなら――今この時、ミレイユを森へ押し込む事を持って、その悲願を達成したという事らしい。

 

 己が望み、あるいはユミルの望みを叶える、という神の口車に乗せられて――。

 ユミルならずとも、馬鹿が、と吐き捨てたくなる気持ちになる。むしろ、その様な口車に乗せられる様な者が、よくもこれまで生きて来れたものだ、と呆れた気持ちになる。

 

 そんな馬鹿に一族を殺された様なものだ。

 ひと目見るなり、一声発するなり、殺してやりたいと言ったユミルの気持ちも良く理解できた。

 

 そのまま殺せ、と許してやりたい。

 だがこの男は、ミレイユ達が姿を消していた、空白の二百年を過ごしていたのは事実なのだ。この者が何処まで関与して、神の思惑が何かを知るまでは、殺してしまう訳にはいかなかった。

 

 申し訳ないと思いつつ、ミレイユは更に問い質すように指示した。

 



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衝撃的な一言 その1

「ユミル……怒るのも無理はないが、まだ殺すな」

「だから手加減してるでしょ。その気があるなら、とっくに首を切断してる」

 

 ユミルの声はいつになく刺々しく、また余裕もない。到底、普段ミレイユへ向けている声と同じ様には感じられないが、一族の仇敵と言っても差し支えない相手だ。

 神の甘言に逆らえなかったのも情けないが、(そそのか)した神こそ、真の仇敵であるとも言える。その神と今も繋がっており、そしてその名を知っているなら、聞き出さない訳にもいかない。

 

 普段のユミルなら、その程度の計算は出来ていただろう。

 笑顔で接し、歩み寄って油断させながら、しっかりとその背にはナイフを隠し持つ。そういう腹の(うち)を見せない振る舞いを、得意ともしていた。

 

 それを一瞬で剥ぎ取る刺客を寄越したと思えば、ミレイユこそが油断する訳にはいかない。

 ユミルが大袈裟とも思える攻撃を加えた事で、そちらへ意識を集中してしまったと今更ながら気付く。咄嗟に外へ意識を向けながら、ルチアにも目配せして警戒するよう伝える。

 

 前方で背を見せるアヴェリンにも一声掛けたが、こちらにはあくまで一応だった。

 ミレイユが言わない限り、敵と判断できる者が眼の前に居て、油断するアヴェリンではない。

 ユミルは憎々しく睨み付けながら、スルーズの首を更に絞め上げ、地面へと圧し付けていく。

 

「お前の軽率な行動で、我が一族は滅びた。そのお前が! 今までのうのうと生きていたかと思うと、腸が煮えくり返るわ!」

「か、か、かか……っ!」

 

 ゲルミル族は寿命を持たないものの、不死とは違う。痛みにも強く、毒物にも強いが、胸に穴が空いたり首が飛んだりすれば、やはり他の生物同様死に至る。

 窒息についても同様で、そのままでは話を聞けないだけでなく、本当に死んでしまう。

 

「ユミル……」

「分かってるわ、殺しはしないわよ。今はまだ……!」

「あぁ、それで構わない」

 

 ミレイユから静かに窘められて、ユミルは手を離すついでに、乱暴な手付きで放り出す。

 スルーズは激しく咳き込んだが、しばらくすれば直ぐ元通りになり、緩慢な動作で立ち上がっては、喜悦の様な表情を浮かべた。

 

「お怒りは御尤も……。しかし、ゲルミルの滅びは避けられない、と神は仰った。だが、協力すれば生かしてくれると、神が保障したのです! 神が口にした事以上に、信用の置ける言葉などありますか!」

「むしろ神が口にする事以上に、信用できないモンなんてないでしょ。夢見てんじゃないわよ」

「しかし、ユミル様は生き残った! 私もまた生き残った! 神は約束を守ったのです! それが何よりの証拠でしょう!」

 

 ユミルは侮蔑する様に目を細め、顔を顰めた。

 あくまで結果的にユミルは生き残ったのであって、それが神の策略であったとは思えない。そこだけ切り取って見ても、スルーズは都合よく転がされているとしか思えなかった。

 問題は、何故こうも好きに転がされるのか、といったところだが、こればかりは本人が迂闊だからと断ずるしかない。

 

「アタシが生き残ったのは、お父様の機転のお陰。そして、あの子が話を聞いてくれたお陰よ。神々はこれ幸いと滅ぼしに掛かってたし、お前が生きさばらえてるのも、どこかで利用する為でしかないわ。願いを叶えたんじゃない、甘言をチラつかせて、体よく利用されていただけよ!」

 

 神々からすれば、ゲルミルの一族を生かしておく理由がない。それがユミル達と話した時にも出た結論だった。その世界の裏側を知る知識だけでなく、眷属化による支配が恐ろしいからと近付く事すらしていなかった。

 それを覆せる手駒が手に入った事で、滅ぼす手を一気に進めたのだ。

 

 実際、その絶対命令権は使い方を誤らなければ、実に有効に働くだろう。

 神の言葉とて蔑ろにされるものではないが、そもそも信徒にしか通用しない。敵対派閥の信徒に言う事を聞かせようというのは、まず不可能でしかないが、スルーズならばそれも可能になる。

 

 彼が今も生かされていたのは、その為ではないか、という気がした。

 神々に叛意を持っていたゲルミル族は手を付けるのを怖がっても、都合よく転がってくれるゲルミルならば、むしろ利用したいと思っていたのではないか。

 

 ミレイユは我知らず、独白する様に言葉を吐いていた。

 

「ならば当然、最後まで願いを叶えるつもりなど無かっただろうな……」

「そりゃそうでしょ。大体、なんで人間に戻せると思ってるのよ。そんなコト出来るんなら、とっくにやってるでしょ」

「神にとっても、かつて大神が作られたゲルミルに手を付けるのは簡単ではない、という事です! ですが、役目さえ果たせば……私めが労を厭わず働けば、神もまた労してくれると言ったのです」

 

 スルーズは首を振って頑なに認めようとしなかったが、当然認められる事ではないだろう。その為に一族を裏切り、そして二百年をこの森で過ごして来たと言うのだから。

 その労苦を思えば、ミレイユ達の言葉こそ信じられないだろう。というより、信じたくないのだ。

 ミレイユは眉根に皺を寄せて、言葉を放るように問い掛けた。

 

「神はゲルミル族が持つ能力をこそ恐れた……とすれば、只人に出来るならむしろ好都合だ。孤島に百年閉じ込めれば、それで勝手に自滅してくれる。出来るというなら、とうにやっていなければ辻褄が合わない」

「まぁ、そうよね。それが指を振るだけで出来る簡単なコト、なんて言うつもりはないけど、でも可能というなら、何千年も放っておくものかしら。むしろ、あらゆる策を巡らせて達成しようとするでしょうし、それが出来る奴らでもある」

 

 或いは、引き籠もっているなら大した脅威と認識していなかった、と考える事も出来た。

 だが、ミレイユという手駒を見つけた途端、滅ぼそうと即座に舵を切ったのなら、やはり目障りに感じていたには違いないのだ。

 

 次々と二人から指摘されて、スルーズも怯む。

 彼とて神という存在がどういうものか、知らない筈がない。神の手先として動いていたのなら、その策謀に関わる事だってあっただろう。

 

 全貌を知れる立場で無かったとしても、その悪辣さなど垣間見える事はあった筈だ。

 そしてスルーズが言葉を失っている事そのものが、それを証明している様ですらある。

 スルーズは顔を青ざめさせて、震える手をユミルに差し出す。

 

「ならば……ならば、私達が共に、人間となる事は……」

「だから、何でアタシが、お前と人間にならないといけないのよ。人間になりたいと、呟いたコトはあったわね。――でも、お前に言ったコトなんてないし、ましてや共にと願ったコトもない」

「だが、だが……! 私達が新しき始祖となるのです! 新たなゲルミルとして、二人の間に子を成し、一族を復興させて……!」

 

 スルーズが言っている事は支離滅裂に思えたが、彼の中では筋の通った話であるらしかった。

 目も血走り、震える身体は病人のようで、直視するに耐えない。まともな精神状態ではない、という意味では病人かもしれないが、その思いだけで生きてきたというなら、哀れという他なかった。

 

 そんなスルーズを見て、ユミルは小馬鹿にした様に笑い、そして再び瞳に憎悪を燃やした。

 

「馬鹿な夢を見たものね。あぁ、そう……。お前、一族を再興したかったの。最早、同族が増やすコト叶わないから、それなら人間となって生殖で増やして、それでかつての栄華を取り戻そうって? ――馬鹿じゃないのッ!!」

 

 力のあらん限りで盛大に吐き捨て、一足飛びで接近する。

 今度はミレイユも、止める素振りすら見せなかった。

 そのまま個人空間から剣を抜き放つと、縦横無尽に剣先を走らす。ユミルが扱うのは細剣だが、レイピアの様に細いものでもない。

 

 両刃になって良くしなる刀身は、フェイントを加える事で、まるで鞭のように動いて、相手に剣筋を読ませない。実直さとは正反対の武器は、ユミルの気質とも良く合って、時に純粋な武技で勝る相手にも勝てるものだった。

 

 しかし本人は武器を振るう事を好まないので、あまり披露する機会はない。

 今回、その武器を振るったのは、より大きな怒りを発現させたというだけでなく、恐怖を刻んでやる為だろうという気がした。

 

 ユミルの剣筋が燐光を発し、それが収まると共にユミルも武器を仕舞う。

 スルーズは何が起こったか理解できておらず、ユミルの顔を凝視していたが、両腕から何かが落ちた事を悟って視線を下へ移す。

 

 そこには二本の腕が落ちていた。

 二の腕から下の、本人からすると良く見慣れた筈の腕が落ちている。しかし、スルーズはそれが理解できず、次いで自分の肩へと目を移して、そこにあるべき物が無い事に気が付いた。

 

「あ、あぁ? あぁぁぁ……!? うで、うでが……!!」

 

 まるでそれが合図であるかのように、両腕から血が吹き出す。

 顔を青ざめさせて膝を付き、その腕を回収しようとしてか、無い腕で拾おうとする。

 そこにユミルが顎先を蹴り飛ばし、背中を強かに打った。

 

「血は出ても、大して痛くないでしょ? お前はゲルミルなんだから。腕の方もね……治して欲しければ、聞かれた質問にはキリキリ答えなさい。嘘を吐いたと判断したら、一本燃やす。答えられなくても一本燃やす。よく心得ておくコトね」

「なんで、なんでこんな……!?」

「この期に及んで何故とは、恐れ入る……」

 

 ミレイユが呆れて息を吐けば、スルーズは未だに理解が追い付いていない頭で左右に振った。

 ここまで救いようがないからこそ、良いように利用されていたのだろうが、これでは滅ぼされたゲルミルの一族が、あまりに哀れだ。

 

 腕を切り落とされてしまえば、魔術の制御は行えない。練り上げ制御した魔力を掌に集めて解放するものだから、その運用適性状、両腕を失くせば魔術は使えないのだ。

 

 魔術士にとって、両腕をもがれても即座の死を意味しないが、助けの無い孤軍奮闘の状態では何も出来ないだろう。魔力の制御を行う事で、流血を抑える事にも繋がるから、それで急場は凌げる。

 

 だが結局、常人より緩やかだというだけで、死に向かっている事実は変わらない。

 まだ腕が元に戻る機会は失われていないが、燃やされ、灰になってしまえば、もう無理だ。元の状態に戻すには、欠損が酷くても、せめて接続できる状態でなければならない。

 

 その事はスルーズも理解しているだろう。

 ユミルが絶対零度の眼差しで見つめる中で、尋問が開始された。

 



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衝撃的な一言 その2

「……お前は誰の指示で動いていたの? それを聞かせなさい」

「それは……、それは……」

「あらそう、まずは腕一本ね」

「――違うのです!」

 

 言い淀んだスルーズに頓着せず、ユミルは慈悲など見せる事なく腕を向ける。即座に魔術制御が完了し、一息呼吸するより前に魔術を行使しようとした。だが、寸での所でスルーズが追い縋る。

 

 膝を付いた状態のスルーズとユミルの間には、腕二本が転がっているような状態だから、近付こうとして近付けるものでもない。

 それでも身体だけは前のめりになり、必死な形相で顔だけでも近付こうとしていた。そこから余裕は感じられず、それと悟らせず嘘を吐こうとしているようには見えない。

 

 特にこのスルーズは、そういった腹芸が出来るタイプにも見えなかった。彼の必死な形相は演技しているものに見えず、そして腕ならずとも命の危険がある事も理解している。

 この状況で姿を現し、それで歓迎されるとでも思っていた事からも、考えなしで行動できる事を証明しているようなものだ。上手に嘘を吐いて躱すような真似は出来ない、とミレイユも判断した。

 

 スルーズは泣きそうに顔を歪めながら、唾を飛ばす勢いで言う。

 

「最初に話を持ち掛けてきたのは、ラウアイクス様で……! その後はカリューシー様よりお言葉を賜り動いていたのです! 直近としてはカリューシー様であったので、どちらの名前を出したものか迷っただけで……ッ、決して口に蓋をするつもりであった訳では……!」

「水源と流動のラウアイクス……、大神ね。そしてカリューシーと言ったら、さっき聞いたばかりの……奏楽と創器だったかしら」

 

 大神が指示を出していた事に疑問はないが、しかしそこへ小神が加わる事には、僅かばかりの違和感が首をもたげる。ミレイユを現世より取り返し、そして捕獲しようとしていたのは、大神と思って間違いない。

 

 神々、と一括りで呼ぶ様な形を取っていたが、結局小神とは生贄の別名でしかない。実際に権能を持ち、人ならざる力を持つ上、信仰を向けられる存在としては神と見て間違いないが、その二つには大きな隔たりがあった。

 

 当然、主導で動くのは大神であるのは間違いないとして、それを小神が引き継いで動かすものだろうか。神々の間にある取り決めなど知りようもないので、そういう事もある、と言われたらそれまでだ。しかし、自分たちも生贄に過ぎない、と知られるのは大神にとっても避けたい事ではないか。

 

 ミレイユが考え込んでいる間にも、ユミルの尋問は続く。

 

「そのカリューシーの権能は?」

「楽器を自由自在に創り出して、どの楽器だろうと美しく奏でられる、そういった権能なのだと聞いております。いつでも楽器と手放さない方で、お声も大層美しくあられます……」

「別にそこまでの情報はいらなかったけど……。ふぅん、そう。最初の印象どおり、戦闘向きではなさそうね。好きに音を楽しんでいるだけなら、無害と判断しても良かったけどねぇ……」

 

 ユミルが渋い声を出したのも当然だ。

 カリューシーは明らかに、ミレイユ達を陥れる策を講じた。スルーズを用いて裏方の仕事をさせていた、というのなら、稚拙と感じた部分にも納得ができる。

 

 二つの意志を感じられる、と判断したミレイユは正しかった訳だ。

 大神が主導する作戦がまず先にあって、そこをスルーズが掻き回した。結果としてスルーズは目的を達する事が出来たが、偶然を多く味方させた結果であり、むしろ破綻する可能性の方が高かった。

 

 あるいは、それを修正する為に奔走した誰かがいるかもしれないが、かといって神ではないだろう。大神は盤上を見下ろす指し手に違いないが、さりとて小神はどうだろうか、と考えてしまう。

 実際に地上へ降り立ち、その姿を見せる事もあるのが小神だから、何かした可能性はある。

 

 ミレイユが思案に耽ている間にも、ユミルの尋問は続く。

 

「それで、何を命じられていたの? 森にアタシ達を追い込む事が目的らしいけど、どこからどこまでがアンタの仕業?」

「私めがやったのは、呪霊を作り出した事と……」

「そんなコトは分かってるわよ。下手くそな使い方をしていたコトもね……ッ!」

 

 ユミルは不機嫌に舌打ちを鳴らし、その顎先を蹴りつける。条件反射的にスルーズは腕を伸ばして身体を支えようとしたが、その腕が今はないのだと気付くのが遅れた。

 そのまま強かに背中を打ち、うめき声の中に涙声を混ぜながら身を起こそうとする。

 

「その所為で疑われたこっちは、いい迷惑よ。そうさせる狙いでもあった? アタシ一人、パーティから追い出されるコトでも期待してたとか?」

「いえ、決してその様な……! 私めは指示に従い動いただけ、呪霊とて使う事には反対だったのです! 案の定、すぐに支配から逃げ出され、どうする事も出来なくなってしまいましたし……」

「逃げ出したのは、案の定としか言えないわね。未熟者には百年早いなんて言い方あるけど、アンタなんかには一生無理よ。……じゃあ、呪霊の動きは偶然任せだったってコト? そんなコト、あり得るの?」

 

 独白しているような小さな呟きだったが、ユミルの視線はミレイユの方を向いていた。

 野営地に現れた呪霊は、偶然と言うには、恣意的に標的を選び過ぎているように思う。現れた方向から考えても、襲える人間は多くいたろう。それに追撃を掛けていた獣人もいた。

 

 目についた生者を襲うというなら、そちらを優先的に襲うだろう。偶然任せに呪霊を使っていたとは思えない。カリューシーという音の神が指示を出していた、というのなら、あるいはこの神がけしかけた可能性はある。

 

 時として、笛の音などは悪霊祓いに使われる、と聞いた事がある。単なる予想にしかならないが、もし神が笛の音にそういう効果を本当に乗せられるなら、目的の場所へ逃がす位はできるかもしれない。

 

 あるいは、神の権能をもっと大きく見るなら、誘導程度、苦ともしないかもしれない。とはいえ、神が積極的に動くところは想像できないので、神が下賜した笛を使った誰か、など別の方法で当て嵌めても良い。

 

 ミレイユが小さく首を左右に振ると、ユミルからも小さな首肯が返って来る。

 両手を使えないせいで、酷く苦労しながら身体を起こしたスルーズに、ユミルは目を鋭くさせながら、次の問いを放った。

 

「それで、アンタの関わりはどこまで? 呪霊以外にやったコトは? 眷属に置いた奴なんて、それこそ大勢いるんでしょ?」

「大勢と言う程では……。まず歴代のデルン王、それと最近では冒険者ギルドの長くらいで……」

「十分多いじゃないのよ。……歴代の王? 名前のとおり、傀儡政権やらせてたっての?」

 

 驚愕とも呆れともつかない空気が漂い、一時の沈黙が場を支配する。

 元よりオズロワーナを支配し、王として君臨するのは、神にとって都合の良い駒だった。それでも人間には人間の欲があり、神が望む結果や利益外の事をやったりしたろう。

 

 そして国体の維持や運営に限らず、王として大きな間違いを犯す事もあるだろう。だがそれを、本当に駒として使う事にしていたのか。

 デイアートという世界は神の箱庭、そう考えていた事もあった。策謀を巡らせる事はあっても、ここまで直接的な支配をしているとは思ってもいなかった。

 

「……それもこれも、都合の良い駒を手に入れた故か……」

 

 我知らず、ミレイユは声を漏らしていた。小さな声だった筈だが、沈黙の中、それは容易く誰の耳にも届く。吐き気を催すような悪辣さだが、それで納得いく事も多い。

 

「二百年もの間、何故エルフの森を攻め込んでいたのか、疑問に思っていたが……。いや、疑問なのは攻め切れなかった事だ。今回についても三万の兵、少な過ぎるし勝つ気があるのか、と思ったものだが……まさしく勝つ気が無かっただけなのか」

「あの軍には、まともな将すら居なかったのよね。少し小突けば逃げ出す始末で、軍隊の運用法を知らないとしか思えなかった。勝つ気でいるなら、そんな人選はしない」

 

 確かにそうだった、とミレイユ自身もその時の事を思い出す。

 後列へ攻撃を仕掛けたら、即座に逃げの一手を決めた。思い切りが良いとも思ったが、後の事を考えると、単に臆病風に吹かれただけに過ぎなかったのだろう。

 そして、そんな人物を将に選んだと言うなら――。

 

「まやかしの戦争こそが目的か。適度に刺激を与えつつ、睨み合いを続けたかったんだ。だが、そんな事を続けていれば、国家財政も火の車だ。手を引くなり、大軍を用いて攻め滅ぼすなり、早い段階で決着を付けるよう進言もあったろうが……。王は常に握られている」

「でも、森の方だって限界が近かったんでしょ? 遠くへ逃げ出す話も出ていたんじゃなかった?」

「だからこそのスルーズと、冒険者だろう。周囲を警戒して威嚇させたり、実際目立つ様に巡回もさせていた。逃げ出すのは容易じゃないと見せていたし、内部では意見が分裂するよう仕向けたりすれば……まぁ、留めて置けるだろう」

 

 ミレイユがヴァレネオへ顔を向けると、青い顔でスルーズを睨み付けながら頷く。

 

「確かに、いつも意見の対立は避けられませんでした。誰もが真剣だからこそ、意見の対立もあるし、譲れないのだと思っておりました。種族間の価値観の違い、というものもありますし……」

「スルーズが言っている事に嘘が無ければ、その違いがあるからこそ、それとなく吹き込むだけで、その対立を煽れたのかもしれない。古株の言う事は無碍に出来ないだろうし、煽れなくなった時には眷属にするとか、方法は他にもあったろう」

「だけど、変容すると眼の色が変わるでしょ? 分かっちゃうんじゃない?」

 

 ユミルの指摘には頷けるものがある。幾ら迂闊とはいえ、スルーズもそれは悪手と知っていたのだろう。

 

「古くから生きるエルフには、その知識を持つ者もいる。だからこそ、今まで眷属の手札は切って来なかった。だが、人間は別だ。途中から眼の色が変わろうと、代々の王がそうなっていたなら、そういうものだと思い込む。そちらで運用する分に、支障は無かったのだろう」

「まぁ、納得いく話よねぇ。馬鹿みたいに戦争を続ける理由も、それならね」

「しかし、しかし……そんな、何故?」

 

 ヴァレネオは青い顔で信じられないものを見る様に、ミレイユの顔を見つめて来た。森の民を預かってきた者からすれば、当然の疑問だろう。

 森に住む者達にとって、常に脅かされてきた戦争という圧力が、まさか睨み合せるだけに必要とされていたなど、悪夢の様な話だ。

 

「私は……森の中にある、ミレイユ様の武具を求めて攻めてきているとばかり思っておりました。しかし神は……神はそこまで我らを憎く思っているのですか。一息で滅ぼさず、苦しみ生きろと……」

「いいや、単に分散せず一つの森で留まっていて欲しかった、というのが本来の狙いだろう。お前の言う狙いは、人間を焚き付ける方便として使われたかもしれないが、実質的には利益を一切求めていない」

「しかし、それならば神託を下せば良かったのでは……。神を失った我らは、新たな神を欲していた。救いを与えると共に、森から出ないよう伝えれば……」

 

 ヴァレネオは縋る様に言ってきたが、ミレイユは首を左右に振る。

 

「お前達は信じられたか? またも窮地に陥って、その場に留まり今は耐えろ、と言われて。かつての焼き増し、耐えていれば何れ救われると、本気で信じられたか? またも神から捨てられるのではないか、その疑念を持たずにいられたか?」

「それは……」

「現状を鑑みれば、神はお前達が疑念を持つと判断したようだな。だから、より確実な方法を取った。留まる神託を下すより、物理的に留まらせるよう手を打った」

 

 ヴァレネオは頭痛を堪えるかのように頭へ手を当て、震える身体でミレイユを見返す。

 

「一体、何の為に……」

「――私に対する、罠として利用する為だ」

「そんな、そんな事の為に、我らは……?」

「あぁ、たかがそんな事の為にだ。そして、スルーズの言葉のとおりなら、見事してやられたようだな」

 

 唾を吐きたい気持ちで言い終わると、ヴァレネオの顔も憎々しげに歪んだ。

 スルーズを睨み付ける顔にも、殺意と似た感情の発露が見える。スルーズが死ぬ事は誰も止めないだろうが、その役目は既にユミルと決まっている。

 

 落ち着くよう、手を肩に載せようとした、その時だった。

 視界の端にチラと映った影に反応し、ミレイユは咄嗟に魔力制御を始めた。

 



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衝撃的な一言 その3

 それに気付いたのは、ミレイユが一番早かったものの、元より油断などしていなかった面々だ。ミレイユが魔力制御を始めた事で瞬時に反応し、それぞれが一声も上げる事なく対応に動いた。

 

 ミレイユの制御から、ほんの僅か遅れて制御を開始したのがルチアで、周囲を囲む結界を作り上げた。ミレイユを中心として展開された半円形の結界は、そのすぐ傍にいたヴァレネオとテオまでは範囲内だったが、少々離れていたユミルやスルーズまでは含まれていない。

 

 アヴェリンはその範囲内に居たものの、結界が展開されるより早く外へ飛び出し、ミレイユを飛び越えて影へと突っ込む。その間にユミルもまた魔術を行使して、スルーズを拘束していた。不慮の事態とはいえ、その間に逃してしまうという愚は犯さない。

 

 その影は、人の形をしていた。魔物ではない。

 無造作に、無気配で突如として現れた何者だったが、これに誰何(すいか)や確認の必要はない。この場に現れる味方などミレイユには居なかったし、スルーズもまた追い込んだ、という発言をしていたところだったのだ。

 

 敵以外に現れる筈がない、という確信がミレイユにはあった。

 アヴェリンにもそれがあったかどうか分からないが、必要ならばミレイユが止めると疑っていない。そして敵として疑わしいなら、まず殴って確認するのがアヴェリンだし、静止があっても殺しさえしなければ良いと思っているので遠慮がない。

 

 ミレイユとしてもアヴェリンに求めている役割は、速攻の先制攻撃だから、突然の事態であるにも関わらず、目配せ一つなしに動ける彼女を頼もしく思う。

 そのアヴェリンに、片手で強化魔術を施しながら、もう片方の手で念動力を制御する。

 

「――行けッ!」

「お任せを!」

 

 短く返事し、アヴェリンが敵へ跳躍して追いかけ、瞬時に距離を詰めて、その腕を振り下ろした。

 しかし、それより前に、敵が更に背後へ逃げた。大きく距離を取ろうとしたところで、ルチアから放たれた氷結魔術が、着地地点を予想して地面を凍らせる。

 その場に一度でも足底を着ければ、そこから凍り付いて拘束してしまう、という目論見だった。

 

 だが、唐突に動きが変わり、氷面に触れる事なく、滑る様に移動しながら逃げていく。そこを貫くように雷撃が放たれ、次いで二度、三度と線のような雷撃が襲う。

 

「はい、はい、はいっと……!」

 

 ユミルの放った攻勢魔術は初級くらすのものだったが、とにかく連射が利くのが強みだ。これでどの程度ダメージが入るかで、敵の力量を計る事もできる。初手として、ユミルが好んで使う手だった。

 

 ユミルの放った雷撃の一つは敵の腹を撃ち抜いたが、ダメージらしきものが入ったようには見えなかった。うめき声一つすら上げなかったので、些かの痛痒も与えられなかったらしい。

 

「ふん……」

 

 ミレイユが手首を捻るような動きで、強化魔術から変性魔術に切り替えると同時、距離を離されたアヴェリンが自らの武器を投擲した。

 己が振るえば木の様に軽いが、一度離れれば岩より重くなる。ダメージを与えながら、武器そのものが地面に縫い留める重石にもなるので、これもまたアヴェリンが好んで使う手だった。

 

 空中にいては躱せないと踏んでの一撃だったかもしれないが、地面から足が離れていても滑る様な動きをしていたのだ。単に滞空時間を増やしていただけではない、とミレイユは踏んでいた。そしてアヴェリンが武器を投げると予想していたからこそ、予め念動力を使っていたのだ。

 

 敵が再び横へと不自然な曲がり方で避けるのと同時、念動力で武器を捕まえて、その逃げた方向へとぶつける。不規則な直角に曲がる動きにまで対応できなかったらしく、その一撃にはとうとう直撃した。

 

「ぐっほ……!」

 

 岩そのもので殴られた様な衝撃が、メイスの先端から伝わった筈だ。滑らかに逃げていた動きも、その一撃で僅かに鈍った。

 そして、その僅かな動きを見逃すミレイユ達ではない。

 

 ルチアが氷槍を次々と射出しては、直撃と共に氷結させて動きを阻害しようとしているし、ユミルもアヴェリンの後を追うように接近しながら、中級魔術の制御を開始している。

 

 ミレイユは切り替えていた変性魔術の制御を終えていて、その手から『衰弱』の魔術を放つ。直接触れられる様な距離だと尚効果が高いのだが、対象の魔力に干渉し、強制的に耐性を奪う効果を持つ。

 

 魔術の耐性が高いのは分かった。だがそれなら、その耐性を奪うまでだ。この魔術はその発動直後から効果を発揮しない。

 遅効性であり、ほんの僅かに減少させていく効果の低い魔術だが、その継続時間は長く、最終的には耐性を全く取り除く事ができる。

 

 強敵相手には効果が発揮するまで悠長に待っていられない、というデメリットがあるが、その効果を実感させ辛いというメリットもある。

 

 そして人間やエルフの様な、魔術に対して研鑽が高い者ほど効果がある術だった。魔力制御を強制的に掻き乱してやる、という特性上、本能だけで扱う魔獣や魔物には効果が薄いのだ。

 

 本人はまだ実感がないだろうが、いずれジワジワと効いてくる筈だ。

 敵は腹に刺さったメイスを力任せに身動ぎして逃げ出すと、やはり宙を滑って距離を離そうとする。アヴェリンは武器の方へは一瞥もくれず、空の手のまま敵を追った。

 

 ――へぇ……。

 その様子から、敵が只者でないと察する。敵は空中で岩より重いメイスを、あの程度の動きで脱出する事ができるのか。

 

 元よりミレイユ達は()()()()()()()だ。そういう事になっている。

 だから襲撃の手があると予想していたし、そして来るなら実力者以外有り得ない。たった一人とは予想していなかったが、そうである以上、この四人を御せる自信があるのだろう。

 

 周囲の樹木についても良く理解しているらしく、逃げている最中で、そして後ろが見えていない状態でも、木の中に突っ込むような真似はしていない。

 

 ミレイユは念動力でアヴェリンのメイスを掴むと、掌を広げたその手に収めてやる。

 アヴェリンが掴むのと、敵との距離を詰めたのは同時だった。

 

「――ハァァァッ、ダッ!!!」

 

 アヴェリン渾身の一撃が、敵の鳩尾を捉えた。そのまま全力で振り抜くと、まるでボールの様に飛んでいく。家の屋根を飛び越える高さまで打ち上げられ、その身体にルチアとユミルの魔術が容赦なく追撃していく。

 

 氷と雷が織り成す光が幾度も交差し、空の敵を撃ち抜いていく。一つ当たる度、身体が左右へ揺れ、まるでルチアとユミルの魔術でお手玉をしているようだった。

 魔術の衝撃でもって上空へと打ち上げられた敵は、いずれ重力に掴まり一時の制止を見せる。一秒もせずに頭から落下を始めたところで、アヴェリン達が再び構えを取った。

 

 落下している最中でも敵に動きはないが、それで油断や慢心を見せるミレイユ達ではない。

 落下最中も攻撃を加えようと変性から攻勢魔術へ切り替え、魔力を制御し始めたところで、敵の動きが不自然に停止した。

 

 頭を下にしていたところを反転し、足を下に向けて体勢を戻して、緩やかな動きで屋根の上に降り立つ。腹と鳩尾をそれぞれ片手で抑えながら、苦悶に満ちた表情でこちらを見てきた。

 

「何とまぁ、お辛そうな事だ。殴られないとでも思って出てきたのか、馬鹿め」

「でも、頑丈よ。その部分は褒めてやらなきゃ。それだけが取り柄なのかもしれないけど」

 

 敵の姿は男性で、その服飾は豪華な物だが旅芸人の様でも詩人の様にも見え、一般人がする格好とは似ても似つかない。気障な髪型に気障な顔付き、もっと言えば自分が美形だと認識して、それを鼻にかけていそうな風貌だった。

 

 武器らしいものは持っていないが、敵である事には違いない。

 その正体にも当たりが付いている。

 手を抜く理由も、間を与える理由もなかった。そして何より、腹の底から煮え滾る怒りが、攻撃の手を緩めるな、と言っている。

 

 今度は両手で別々の攻勢魔術を制御し、間断なく行使しては解き放つ。基本的に使う事の多い炎系に限らず、雷も使って、ルチアの十八番である氷結も混じえながら撃ち込む。

 それを黙ってみている二人ではないので、ミレイユに続いて得意の魔術を次々と放ち、そうしてアヴェリンもメイスを投げつけたところで、ミレイユは撃ち込むのをやめた。

 

「撃ち込みやめろ。これ以上は駄目だな……」

「あら、そう……?」

 

 ユミルが残念そうな声を上げたが、肩を竦めただけで素直に従う。

 最初に撃ち込んで上がった爆炎や、その後に続いた氷から放電が大きくなり、それに炎が着火して大きな爆発と共に噴煙が上がった事で、視界もすっかり悪くなっている。

 

 アヴェリンが投げつけたメイスが硬質な音を返して来たので、おそらく防壁を張られていると見て良い。ヒビが入るような音はしていなかったので、よほど強固な防壁だろう。

 

 手数が多く撃てる中級魔術よりも、時間を作って練り上げる上級魔術の方が良いだろう。

 屋根の上から落ちてきたメイスを、またも念動力でアヴェリンの手の中に返してやってから、ミレイユは新たな制御に入り始める。

 

 本腰を入れて制御に取り組むと分かったルチアとユミルの二人は、そのサポートに回る事にした様だ。ルチアは結界を更に堅固な物に貼り直し、そしてユミルはミレイユの制御を助けるべく補助魔術を制御し始める。

 

 もうもうと上がっていた煙も風に流されて切れ目が生まれ、そして男の無事な姿も確認できた。やはり防壁を持っていて、それで魔術は防がれてしまったようだ。

 予想通りだったので、それについてはどうでも良い。

 それより、この場で身動き出来ないほど痛めつけて、拘束する方が大事だった。

 

 上級魔術を使うとなれば、ミレイユとしても即座に制御完了できない。ユミルからも呆れられる様な速度で完了できるが、全くの無詠唱とはいかないものだ。

 それが今は、ひどくもどかしく感じる。

 

 煙の多くが晴れ、男の顔から全身まで見えるようになり、そこで男がどういうポーズをしているか目に入った。

 両手を前に突き出し、それを左右に振っているのだが、防壁を維持するのに、そんな意味不明な動きは必要ない。癖なのか、と思ったところで、男が言葉を投げ掛けてきた。

 

「待て待て、まず話を聞け!」

 

 今まで一度として聞いた事のない、たいそう美しい声だった。

 情けないポーズと情けない台詞でなければ、きっと感動しただろうな、とミレイユは場違いな感想を浮かべていた。

 



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衝撃的な一言 その4

 男とミレイユ達までは距離があり、地面と屋根の上では、それなりに声を張らなければ聞こえ辛い。しかし男の声は、澄み渡るように響き渡り、誰の耳にも滑らかに届いた。

 それは魔術的技能でなく、単なる発声技法によるものだと分かったが、しかし不快なものは不快に違いない。

 

 ミレイユは制御していた上級魔術『溶融熱波』を解き放ち、屋根の上の人物を消滅させようと試みたが、残念ながら無駄に終わった。防壁そのものは、マグマの如き融解液で壊してやれたし、そこから迸る熱波で肌を焼いたが、決定打には程遠かった。

 

 家を燃やしたくない、という手加減が威力の減少に繋がったが、同時に螺旋を描くように範囲を絞ったし、それで結果的には熱波も増した筈だ。熱が下へ向かわない様、上昇させたのが悪かったのかもしれない。それで思ったよりも威力が下がり、ろくなダメージを与えられなかったのか、と予測を立てた。

 

「あち、アッチァッ! あっつ、おい!! 馬鹿野郎お前、待てって言ったろうが!」

 

 その声を無視して防壁からずり落ちたマグマを、念動力を使って掬い上げる。それで家を焼くつもりは毛頭ないので、男へ投げ付ける形で被害を防いだ。

 

「――危ねっ! 何なのお前、殺意高すぎだろ! 言葉通じねぇの!?」

 

 身体を大袈裟に曲げてマグマを躱したが、元より念動力で掴んだ物なのだ、通り過ぎれば終わりという訳でもない。急激な方向転換をさせて男にぶつけようとしたが、結局避けられ、それごと消す事で無力化されてしまった。

 

 ミレイユが舌打ちしたところで、男は大きく顔を顰める。

 

「可愛い顔してんのに、えげつねぇこと平気でするのな……。手を出すなって、言われた理由も分かるわ」

「ヴァレネオ、あの爆発だ。何事かと心配してくる者達がいるだろう、その対処に向かえ。誰も近寄らせるな。無理して通ろうとする奴は敵だ。顔見知りだろうと、有無を言わさず無力化しろ」

「は、ハッ……!」

 

 ミレイユは男の声を努めて無視し、視線を逸らさぬままに指示をした。

 ヴァレネオは背筋を伸ばして返事をすると、踵を返して走り去っていく。そこに呆然と見つめ、及び腰になったままでいるテオにも声を掛ける。

 

「お前も行け、邪魔だ。多人数が攻め込み、ヴァレネオで止められないなら、お前も加われ」

「いや、俺に戦闘なんて無理だって……!」

「洗脳で対応しろ。ここで見せたくない札だが、挟撃されるリスクは避けたい」

「お、おぅ。そうか、そうだよな……! 分かった!」

 

 逐一言ってやらないと動けない者に、微かな苛立ちを覚える。

 言葉を発さずとも、それこそ目線一つで意思疎通が出来、そして実行してくれる味方と比べる事は、彼らとしても不本意だろう。しかし、()()()に対し、与える情報は少なければ少ないほど良い。

 

 一つの小さな情報から、意図しない策略を巡らせるのが神というものだ。

 この男から感じられるものは知性や詭計とは程遠いものだが、見せかけで騙されるのは馬鹿のする事だ。最低でも、自分と同程度の事は出来る、と考えていた方が良い。

 

 ミレイユは両手で支援魔術を制御し、まずは自分とルチアに行使する。魔力を伴う攻撃なら、これで多くは無力化できる。ミレイユとルチアが落ちなければ、そこから挽回できるので、優先させるのはいつもこの二人からだった。

 

 その行使が終われば、次に掛けるのはユミルとアヴェリンに対してだ。

 その間にも、ルチアは結界の部分強化をしつつ敵を警戒し、ユミルは死霊術を用いて簡素な亡霊を作り出した。付近に死体がないので使える魂はないが、力ない亡霊なら十分作り出せる。

 

 それを宙に飛ばして、付近の偵察に使った。

 基本的に物体を通り過ぎるし、壁や樹木など、本来なら動くのに邪魔なものさえ、あの亡霊なら関係ない。偵察ぐらいにしか使えないが、罠が張り巡らせられた場所だからこそ、ああいうものが役に立つ。

 

 周囲は触れただけで毒を受ける植物ばかりだが、だから潜伏した誰かが居ないとは限らない。その懸念を潰す為に、使い捨て出来る偵察を動かしたのは流石だった。

 

 近接戦闘に特化したアヴェリンに今出来る事はないが、盾を構えて油断なく敵の動きを注視している。その一連の動作は五秒に満たないものだったが、屋根の上の男はそれを興味深く見据えているだけで、何の行動も示さない。

 

 ――余裕のつもりか。

 ミレイユは吐き捨てる思いで男を睨む。

 そして余裕がないのはミレイユ達の方だ。その自覚はある。油断しないと、油断できないは同一ではないし、そして余裕があるからとて有利とは限らない。

 

 ミレイユも一人でも多く味方を増やそうと思えば、召喚できる者はいるのだが、フラットロは森ごと燃やしてしまいそうなので、この場では却下だ。

 

 それに精霊は異界からの召喚という手段である為、そもそも強制送還できる技術がある。そういった魔術がそもそもあるし、ミレイユにも使える。加えて魔術秘具という手段でも用意できるし、それこそ対策手段は幾らでもあった。

 

 ミレイユならば、どのような見た目、強さであると、召喚された対象は即座に強制送還させる。何をするか予測できない爆弾を目の前に置かれた様なものなので、黙って行動させてやる理由がない。召喚生物とはそういうものなので、それを熟知しているだろう相手に使う意味があるのか、と考えてしまった。

 

 その一秒程度の空白が、敵にとって及び腰に映ったのかもしれない。

 喜色を満面に浮かべて手を広げ、そしておもむろに手を叩いた。パン、パン、と間の抜けた手拍子が耳に届く。

 

 魔術制御を伴わない、単なる振り子のような動きだった。この間に攻撃するか、とユミルから目配せが来て、顎先を動かす様に小さく頷く。余裕を見せる相手に、こちらが乗ってやる必要はない。瞬時に反応したユミルが、中級魔術『雷電球』を放った。

 

 帯電した光球が飛び出すが、その弾速は遅い。雷系魔術は、その速度から回避し辛いのが特徴だが、この速度は戦いの素人でも躱せる程に遅いものだ。

 

 そちらへ注目が集まったところに、ルチアが同じく中級魔術『凍てつく暗刃』を放った。透明度の高い氷を使った、ガラスの様に見えにくい刃だ。それを光球とは別方向から射出し、背後から襲う様な軌道を描く。

 

 二人は互いに相性の良い魔術を良く理解しているので、片方が使った魔術に合わせた戦術を即座に組み上げ戦う事ができる。長年の付き合いから出来る、阿吽の戦闘方法だ。

 

 しかし敵も馬鹿ではない。直撃する寸前、暗刃に気付いて躱し、その瞬間――光球が姿を消した。正確には消えたのではなく、雷撃に相応しい速度で射出したのだ。

 

 『雷電球』は放った後から、その射出速度を変える事の出来る、稀有な魔術だ。接近して使えば、その滞空する光球が邪魔になるし、触れれば当然ダメージを受ける。

 中距離ならば、その遅い弾速が逆に厭らしく感じるもので、そして油断したなら今の様に瞬時に着弾させる事も出来た。

 

「ウゴァ! オゴゴゴ……!?」

 

 そして暗刃を躱したばかりの男に、その光球まで回避する余裕はなかった。直撃し、体中に帯電したエネルギーが襲い、四肢を痺れさせながら硬直させる。

 

「フン……!」

 

 そこへミレイユが念動力で屋根から吹き飛ばし、その先で『火炎旋風』を解き放った。

 火炎の竜巻に身体を攫われ、空中へ巻き上げられながら、灼熱の炎が身を焼く。上下左右へ身体をキリモミ状に回転させつつ、更に上空へと運ばれたが、途中で竜巻から飛び出して逃げた。

 

 だが、竜巻の拘束から逃げ出したくらいで、魔術そのものから逃げられたと思って貰っては困る。ミレイユは竜巻を操って方向転換し、更に敵を竜巻の中へ巻き込もうとする。

 鎌首をもたげて襲い掛かる様は、まるで大蛇に丸呑みされるようにも見えた。しかし敵もさるもので、更に上空へと逃げ出していく。

 

 火炎旋風も逃げ出す最中に魔力をぶつけられ、辺りに火炎の華を咲かせて散っていった。

 敵は空を大きく旋回して飛び回り、ゆっくりとした動作でまたも屋根に着地する。服は所々焼け焦げ、髪や肌に焦げ痕がある。

 

 色々と痛めつけた筈だが、出血を始めとした、傷らしい傷も受けていない。

 魔力耐性は、やはり大したものだった。まずはそこを剥がす所から始めるか、あるいはもっと直接的に攻撃を加えるべきだろう。アヴェリンを上手く使うのが鍵となりそうだ。

 

 その為に、どう距離を詰めるか考えていると、頭上から罵声が飛んでくる。

 

「馬鹿野郎、お前ら! あぁいう場面で、偉そうな奴が手を叩いてたら、その後の台詞にも注目するもんだろうが! 情け容赦ってもんがねぇのか!」

「――ない」

 

 短く言葉を返して、ミレイユが制御を始めると同時、ルチアとユミルも制御を始める。先程と同様、ユミルが『雷電球』を行使したところでアヴェリンが飛び出した。

 距離があるだけでなく、上空へも逃げ出せるとなれば、単に接近するだけでは攻撃が当たらない。敵からしても、武器を振り回すだけの相手は怖くないだろう。

 

 だが、ミレイユがアヴェリンを補助し、その身体を持ち上げる。単なる跳躍ではないと気付いて、敵も魔力塊を飛ばして来た。それより前にルチアが作った氷盾が、それを防いだ。

 氷盾は砕かれる事なく、そのままアヴェリンの背中へ回り込む。盾としての役割を放棄しているように見えたが、次の瞬間、『雷電球』がアヴェリンに直撃した。

 

「はん?」

 

 同士討ちとでも思ってか、間抜けな声を出した嘲笑う様な顔をしたが、実際は違う。

 あれは狙い通りだ。

 ルチアが盾を用いてユミルの攻撃を受け止め、そして『雷電球』をアヴェリンへとぶつける事で、強制的に射出したのだ。ミレイユがどう接近させようと考えている時、ユミル達も同じ様に考え、そして即興で対応して見せたのだ。

 

 アヴェリンはピンボールの様に弾け飛んだが、その急激な速度変化に対応してメイスを振り抜く。男はそれを上空へと回避して逃げたが、ミレイユが更に念動力でアヴェリンを掴み、その逃げた方向へ投げ飛ばした。

 

 上へ横へと忙しく方向転換されるアヴェリンも大変だろうが、そんな様子はおくびにも出さず、自分の仕事をやり遂げる。振り抜いたメイスは、急展開した防御壁を貫いて、今度こそ敵の腹を撃ち抜いた。

 

「ごっはぁぁ!」

 

 吹き飛ばされた敵は、そのまま遥か後方、森の奥へと落ちて行く。

 それを油断なく見つめながら、同じく落下運動を始めたアヴェリンを回収し、結界の中へと戻した。

 

「皆、良くやった」

「恐れ入ります。しかし即興でやるには、あの急制動は中々堪えましたが……」

「直角で曲がる回数、何度あった? 三回くらい? アタシだったら絶対ゴメンね」

「でもまぁ、あれぐらいしないと当たらないでしょう。本人が頑丈なだけでなく、防壁もやっぱり硬かったみたいですね。貫いてこそいましたけど、あれでだいぶ衝撃も緩和されてしまったんじゃないですか?」

 

 ルチアが忌々しそうに指を指した先では、腹を抑えてフラつきながらも、やはり空中を滑るように移動する男の姿がある。

 冗談で言った頑丈さだけが取り柄、という言葉も、こうなって来ると馬鹿に出来たものでもない。

 

 再び屋根に着地するところを、今度こそ静観して待つ。

 これだけ攻撃したのに反撃がないところを見ると、目的が分からなくなってくる。何が言いたいのか、言うつもりなのか、ミレイユはその事に興味を持ち始めていた。

 



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衝撃的な一言 その5

 男は青い顔をさせて腹を抑えて痛そうにしていたが、命に別状ある様には見えなかった。ただし、ユミルの『雷電球』や、ミレイユの『火炎旋風』よりも、明確にダメージを負っている様なので、やはり有効なのは直接攻撃だ。

 

 ミレイユとアヴェリンの二枚で持って、猛攻を加えるのが有効だろう。

 魔力の扱いに長けているのは、魔術を使わず直接塊として使っているところかも理解できる。ルチアとユミルのサポートで、そこを上手く捌いて貰いつつ接近するのが得策と読んだ。

 

 ミレイユが目を細くさせて男の行動を見守っていると、苦悶の表情から一転、怒りの形相で屋根を蹴りつける。二度、三度と蹴り付けているが、破損する気配は見えない。

 破壊行為が目的ではなく、単に怒りを発散させる為の行動だったらしい。

 

 更にもう一度蹴りつけたところで気が済んだらしく、男はこちらを憎々しく睨み付けてきた。

 

「言っとくけど、お前ら本当に最低だからな! 何で、そこまで殺意高いんだ? 話を聞こうって姿勢はないのかよ!?」

「何故と聞きたいのは、むしろこちらの方なんだがな。友好的に接して貰えると思ったか?」

「いや、友好的である必要はねぇよ。敬えと言うつもりもない。だが、様式美ってモンがあるだろうが……!」

「言ってる意味が分からない。お前がそれを気にする理由も、私達がそれに付き合う理由もな」

 

 ミレイユが視線に込める力を増やすと、それを敏感に察知した他の面々も構えに力が入る。まだ露骨に魔力を制御したりしていないが、不快感につられ、意図せず表出してしまった形だった。

 男は自信あり気に、そして自明の理とでも言う様に腕を広げる。

 

「芸事を好み、そして守護する存在だぜ? その俺が、様式美を蔑ろにする訳にもいくまいよ」

「どうせそうだろうと思っていたし、そうでない事も願っていたが、やはりそうであったとはな……」

「どういう意味だ、そりゃ……」

 

 その正体については早い段階で当たりが付いていた。ルチアの魔術や、アヴェリンの攻撃から逃げる時、地面を滑る様に動いた時点で、ある種の可能性は見えていた。

 

 空を飛ぶのは神の権能だが、地面の上を飛ぶのは咎められる事ではないし、そういった魔術もまた存在している。どうしても速度において、内向術士に敵わないので戦闘中に使う事は少ないが、しかし状況としては使っても不思議ではなかった。

 

 単なる魔術士として見るには頑丈過ぎたし、何より屋根より高く飛んで見せるとなれば、最早疑念は確信へと変わった。

 度重なる攻撃があっても、未だ仕留めきれていないのが、その証拠とも言えた。現代において刻印を持っていない事からも、ミレイユの同類か同業程度の推察も付くものだ。

 

 ミレイユは溜め息にも似た吐息を漏らして、男の名を呼ぶ。

 

「カリューシー、奏楽と創奏の神だな……」

「いかにも、そのとおり……!」

 

 高らかに宣言しながら、どこからともなく取り出した、リュートに似た楽器を掻き鳴らす。ジャラン、と一撫でしたに過ぎない音色だが、音楽の神を名乗るだけはある技量を感じさせた。

 音を楽しみ、音に生きる、というのなら、それで良い。自分が納得できる音を探求するのでも、それを聴かせるのでも好きにしていれば良い。

 

 だが、この小神は大神の手先として動いていた。

 小神とは即ちその様な存在かもしれないが、しかし聞き捨てならない台詞も口にしている。行動と言動が一致しているようにも見えず、それがこの神を厄介に思わせているところだった。

 

「お前、スルーズを使って色々やらせていたんだろう? その癖、私には手を出すなと言われていたのか? ……大神に?」

「おぉっと、ようやく話をしてみる気になったかい。まぁ、そうじゃねぇとな。俺が出てきた甲斐もない」

「……出て来る必要があったかも疑問だが。神はそう簡単に姿を見せないと思っていた。……特に、私達にはな」

「そういう反応になるだろうな。まぁ、あいつらが色々企んでいるのは知ってるがよ、俺は俺が楽しければ、それで良いんでね」

 

 そう言って、カリューシーはまたリュートの弦を引っ掻いて、短いメロディーを奏でた。

 その様子から嘘を言っている様には見えないが、しかしそれが事実だとすると、この小神は大神を裏切っている事になるのだろうか。

 

 いや、とミレイユは考え直す。

 裏切りなどと大層な事を考えている訳ではない。単に享楽的な性格なだけで、小難しい事は考えられない性質、というだけなのだ。

 

 だから、必要ないのにも関わらず、こうして姿も見せている。攻撃を受けたというのに逃げもせず、こうして対話を続けようとすらしていた。

 自分が死ぬかもしれないと危惧していたら、決してこんな事はしないだろう。殺されないと判断するだけの何かを、この神は持っているのだろうか。

 

 それとも、本当に考えなしなだけなのか……。

 ミレイユは判断に困って、不機嫌な顔のまま眉間を深くした。

 そんな様子に頓着せず、カリューシーは上機嫌に笑みを浮かべる。

 

「いや、お前らホント凄いよ。俺も本当は、隠れているだけのつもりだったもんよ。でもよ、それを見ていた観客としては、ついつい素晴らしい、と手を叩いて称賛したくなるもんだろうが? よくもまぁ、そんなに色々分かるもんだな。いつもそんな、小難しく考えながら生きてんのか?」

「アンタらが覗き屋ってコトは知ってるわ。この地にあっては、その視界から逃れるのは至難の技よ。だから、お父様も闇で空を覆って、その視界を防ごうとした。でも、そんな馬鹿な理由で姿を見せに来た神も、また居なかったわねぇ……。何なの、アンタ?」

 

 不機嫌さで言えば、ユミルの方がミレイユよりも余程酷かった。

 小馬鹿にされていると感じた為だろう。実際、高みに立っては見下ろし、そして楽器を鳴らして称賛しているつもり、というのは馬鹿にされていると思われても不思議ではない。

 

 だが、カリューシーの上機嫌さは、微かたりとも翳りを見せず、そのまま爪弾きながら続けた。

 

「だから言ったろ、お前も言った。俺は観客で、口を悪くすれば覗き屋だ。……まぁ、確かに不調法だったよな。観客が劇の途中で、手を叩きながら舞台に上がっちまったんだから。許せよ、終劇まで我慢できなかったんだ」

「私達の事も、よくご存知の様ですけれど……」

 

 ルチアが警戒を滲ませながら言うと、これにも素直に頷いて応じる。

 

「そりゃあ、そうさ。お前達にも自覚あるんだろ? 何したんだか、大神に狙われてるんだから」

「……貴方は知らないって事ですか?」

「知らないね。気になったから訊いてみたが、教えちゃくれなかった。それどころか、近付く事を禁止された訳だ。『どうせ俺じゃ敵わない』、色々言われたが……つまり、そういう事らしいな」

「なのに姿を見せたのか」

「むしろ、そう言われたから、ちょっかいを掛けたんだよ。俺が何しようと意味もないし、看破し突破するからだ、という言い方をされた。じゃあどんなものか、ちょいと試してみようっていうのが動機でよ。……そして、実際そのとおりになった!」

 

 それは間違いなく敗北宣言だった。

 大神はミレイユを利用するつもりでいるのと同時に、目的を果たすのは容易では無いと認めてもいた。それはカリューシーの発言から理解できる。

 

 そして、だからこそ接近禁止命令が出ていた訳だ。

 だがこのカリューシーは、自らの欲望に忠実だ。無理と言われたら、本当かどうか試してみたくなった、という実に神らしい子供じみた発想で、こうして姿さえ見せた。

 

 考えなしな上、実際ろくな事をしない。

 命じた側としても頭が痛いだろう。

 

 ミレイユとしても頭が痛くなるような行動だが、敵の実情を知る事の出来る貴重な機会でもある。裏取りが不可能という部分があるものの、今後の行動の指針にはなるだろう。

 どこまで話すつもりがあるにしろ、訊いてみる分には無料(タダ)だ。

 

「それで、手を叩いて現れるつもりだったお前としては、見事に目論見を看破されたと見て良いのか?」

「そう言ったろ? 良くもまぁ、あれこれと考え付くもんだ。俺も結構上手くやってたつもりなんだがなぁ……」

「どこがだ。杜撰の上に稚拙、違和感を持てと言っている様なものだ。お前の所為で、神々の操り人形となっていたデルンは、今日を持って消滅するぞ」

「……え、なんで?」

 

 本当に理解できてない様で、疑問を顔に貼り付かせて聞いてくる。

 これで演技なら大したものだが、と思いながら、その様子を観察しつつ、反応を引き出すつもりで応えてやる。

 

「逆に何故、放置してくれると思ってるんだ? そこで疑問しか思い付かないから、大神は近付くなと言ったんじゃないのか……」

「今のデルンは、俺が作ったようなもんだ。じゃあもう、神の私物みたいなもんじゃねぇか。別に直接的な支配なんてしなくても、言う事きかせる手段はある。穏便か過激かの違いで、だったら別にどっちでも同じだろ」

「信奉者からすると、目を剥くような台詞を平然と言うのねぇ……?」

 

 元よりカリューシーを存分に見下していたユミルは、更に評価を一段下げて、侮蔑の眼差しを向けた。こんな奴に嵌められそうになった、と思えば、その心情も分かろうというものだ。

 

「それで? 結局アンタがしたかったコトって、大神が遊んでる所で、楽しそうだかと横入りしたとか、そういうレベルのコト?」

「おぉ……、そう言われたら身も蓋もねぇな! でも、そういう事だ。アイツらが買ってる人間だ、気にならんと言ったら嘘になるわな」

「協力関係には無いワケ……?」

「何をもって協力と言うかに寄るよなぁ……。好き勝手できるって聞いてたから、こうして小神なんてやってるんだし」

 

 視線を上向きにしながら、奏でるメロディーも楽しげなものへと変わり、思案顔を見せた。

 ミレイユはユミルと目配せする。

 

 このカリューシーは、少なくとも大神を敬ってもおらず、そして大事な存在とは思っていない。今聞いた口振りから言っても、ある種の取引を経て、小神に至ったという事も伺える。

 好き勝手できるのは、贄になる事の引き換え、前払いの報酬みたいなものだ。それを知らなければ、実に魅力的な提案に思えたろうが、真実を知れば瓦解する。

 

 小神を味方に加える予定でいたものだが、しかしコレを味方にするのは不安が募る。

 ミレイユが欲するのは頼りになる味方なのであって、誰でも良い訳ではない。不安材料にしかならないのなら、切り捨てる事も当然考慮しなければならなかった。

 

 そして、この小神は、目の前に魅力的な餌があれば、躊躇なく飛びつくだろう。

 大神もそこのところは理解しているだろうから、カリューシーは何を企んでいるか知らない、などと言っているのだ。

 

 こんな口が軽そうな男に、秘密を話すのは馬鹿のする事だ。

 ミレイユはユミルへ疑念を含ませた視線を向けたまま、呟くように伝える。

 

「勤勉な無能ほど役に立たないものはない。だというのに放置するなら、私達に協力してしまう事すら計算の内なのかもな……」

「そうして、別の大きな餌を用意して釣り返すって? 十分、有り得そうね」

「じゃあ、やはり……」

「えぇ、ないわね」

 

 互いに納得のいく結論を得られて、小さく頷き合う。

 改めてカリューシーに視線を戻すと、掻き鳴らす音が表情と連動するかのように不機嫌なものへと変わっていた。

 



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衝撃的な一言 その6

「いや、聞こえてんだよ。音と付くもので、俺が聞こえないものなんて早々ねぇよ。まして、この距離だ。――だれが勤勉な無能だよ」

「そいつは失礼したな。と言うことは、アレも敢えて無視しているのか?」

 

 ミレイユが親指で後ろを指差すと、両腕を失ったまま拘束されたスルーズが地面に転がっていた。カリューシーが姿を見せた頃から、助けを求めては喚いていたが、ミレイユ達にまでその内容は伝わっていなかった。

 

 距離が程々に離れているのと、何を言っているのか想像が付くから、敢えて注意を向けていなかったからだが、しかしカリューシーには最初から伝わっていた筈だ。

 手駒を助けるつもりはないのか、それとも単に優先する方を選んだだけか……。

 

 享楽的な彼からすると、まず話が終わってからと考えていても不思議ではない。しかし同時に、神なれば用済みとなった存在に甘い顔をしないだろう、とも思うのだ。

 

 また、スルーズの眷属化と絶対命令に価値を見出しているなら、これを助けるべく動く。何より、大神の計画に必要なピースなら、見殺しには出来ない筈でもあるのだ。

 これもまた一つの試金石として、カリューシーを見定める材料となる。どういう反応をするのか、ミレイユは興味深く見守った。

 

「まぁ、そうだなぁ……。勝手に使った手前、無碍にも出来んかもなぁ。でも結局、無意味な気がするんだよな。そっちにもゲルミルが居るんなら、王の傀儡をし続けるのも難しそうだし」

「あぁ、お前の杜撰な扱いで、それも露呈してしまった訳だが。その不始末は誰が付けるんだ?」

「知らないね。どうせ上手くやるんだろ、別に気にしちゃいねぇよ」

「随分と他人任せなんだな。私達はアレを生かしておくつもはないんだが」

「好きにしろよ。俺は満足した。また観客に戻る。そういうもんさ」

 

 遂には視線をミレイユ達にすら向けず、遥か遠くを見ながら楽器を鳴らす。物悲しさを感じる旋律からは、情景を懐かしむような感慨が浮かんでくる。

 

 改めてユミルと目配せして、ほぼ決定していた事を確定させる。

 カリューシーは目的も責任も持たず、その場で楽しいと思うものに流れるだけの性質だ。敵として見た場合でも脅威ではないが、味方に引き込むにはリスクがあり過ぎる。

 

 そうと決まれば、後は聞き出せる限りの情報を聞き出す方向へ、作戦を切り替えるべきだった。

 ただ、これが本当に暇を持て余した神の酔狂であるか、それとも他に狙いがあるか疑いが残る。注意や警戒をして、し過ぎるという事はない。

 

 ユミルに亡霊の事を目配せして聞くと、これには否定の合図が返って来た。

 伏兵はいない、あるいは単に、未だ見つかっていない。いて欲しい訳ではないが、いっそ見つかった方が気持ちが楽だった。

 

 ミレイユはカリューシーへ問いかける。

 

「しかし観客に戻る、か……。それを許してくれるか? これだけ引っ掻き回したんだ。計画にも狂いが出ただろう。黙って見てくれると思うか? 小神の役割すら、お前は知らないんだろう」

「なに言ってんだ、俺に役割なんてねぇよ。俺が何の為に、こんな権能を選んだと思ってるんだ。楽しく音を奏で、楽しく歌う為だ。それが俺の生き甲斐ってやつだからな」

 

 返答を聞きながら、ミレイユは心境が表に出ないよう、無表情を維持しようと耐えた。

 この男が言う事が確かなら、小神へと至る時、その権能を自ら選べるものらしい。あるいは、それだけ強い思い入れのあるものが、それへと昇華されるのかもしれない。

 もしかすると、神々にとって、それこそが狙いの一つであるのかもしれない。

 

 権能とは、強力かつ神を構成する能力だ。

 強いか弱いか、便利か不便か、それも千差万別だ。そして有能、有益であるかも、また多種多様に変わっているだろう。もしも神が、その有益な権能を求めて昇神させているのなら、神を造り続けている事にも納得がいく。

 

 そして何百年と生き続け、すぐに贄とならない神がいる事も、その権能が有益であるから存続が許されている、というのなら辻褄も合う。

 その様に思いながらも、安易に結論付けるべきではない、と自分を戒めた。

 

 辻褄が合うから答えだ、と考えるのは危険だ。

 それは引いては、ミレイユを呼び戻したのは、その権能を欲しての事だと考えられてしまう。しかし権能の決定権がミレイユにある以上、決して神々の望みに沿う形にはならない。

 それは神々にとって百も承知の筈。

 

 モヤモヤと形にならない思考に悩まされながら、更に引き出せる情報は無いかと、問いを投げかけた。

 

「しかし、楽しく歌える時間が長いとは思えない。お前が有益でないと知ったら、神々はお前を贄とするだろう」

「へぇ、お前はそう思うのか?」

 

 演奏を止め、余裕ある表情で見下ろしてきて、ミレイユはおや、と思う。

 てっきり贄の部分に引っ掛かりを覚えるなり、反論をするなりして来ると予想していただけに、この反応には正直戸惑いを覚えた。

 

「無能な者は神々にとっても必要ないだろう。せめて無害である必要がある。しかし、お前がした事を思えば、手元に留めておく必要に乏しい。……無難な対応だと思うがな」

「随分と酷いこと言うねぇ。そんな血も涙もない連中じゃないぜ?」

「そうは見えないがな。だいたい、贄の部分は否定しないのに、よく擁護できるな」

 

 あぁ、とカリューシーは明るい声を出す。

 再び明るい音色を爪弾き、歌い上げる様に答えた。

 

「そりゃ、最初に説明されたからな。俺はいずれ殺される。世界の為に殺される。だからまぁ、贄って言い方は疑問に思っても、別に否定する程の事じゃないしな」

「説明……、されていたのか」

 

 それが何より、この神の口から出た言葉で一番の驚きだった。

 騙し討ちの様に、後ろから刺して贄にする。それが神々のやり口だと思っていた。世界の存続のため、というあやふやな理由で、小神一つの命――魂を犠牲にするのだと。

 

 そして、いずれ死んで貰う事が確定している以上、それを馬鹿正直に伝える事もない、と思っていた。だが、それを知っているからには、どうやら間違いないらしい。

 

「意外かね? 悪い連中じゃないって言っただろ? くだらない理由で殺す奴なんてゴマンといるだろ? だから、納得いく理由なら殺されてやっても良いんじゃないかね……?」

「なに……?」

「だってよ、俺の生前は音楽家だぜ? 楽器を弾いて、歌って、それで生計を立ててた。歌うことは喜びだ。いつまでも歌ってたかったがよ、実際にはそんなの無理なんだよな」

「……それはそうだろう」

 

 永遠には生きられない。そうである以上、歌う時間とて有限だ。そしてそれは、何も歌に限った事でもない。

 ミレイユが胡乱げな目で首肯すると、違う違う、とカリューシーは首を振った。

 

「歌いたい、弦を弾きたい、そうは言っても加齢が許さないぜ? 生きても大体八十年。そして歌えるのは六十までだ。それ以上は声が出ねぇよ。全盛期のパフォーマンスと来たら、それより更に短ぇだろうな。四十か、それぐらいまでが精々だろう。だが俺は、もう二百年もこの歌声を披露できてるんだ」

 

 そして自慢げに――事実自慢気に、音階を刻んで声を出す。

 それから悲しげな目を、ミレイユに向けた。

 

「……なぁ、これまで好きに歌えたんだ。四十年なんて目じゃない長さをよ。俺は十分、満足してる。割の良い取り引きってやつさ。俺は好きにやった、好きにやるだけの時間もくれた。歌えりゃ幸せな俺からすると、まぁ感謝するぐらいの恩があるわな」

「それはまた、随分と屈折した……」

 

 それ以上は、ミレイユも口には出さなかった。

 何を幸せと感じるかは人それぞれだ。他人にとっては、どれ程くだらなく見えても、当人が満足しているなら文句を言えるものではない。

 

 そして、四十年を遥かに超える年月歌えたのなら、カリューシーにとって望外の喜びでしかなかったのだろう。大抵、人の欲には限りがない、というものだが、この神は分を知って満足する事が出来たらしい。

 

 そういう意味では潔く、また好感も持てるが、神としては失格だろう。

 好きな音楽だけ出来れば良い、というのが実践できていたなら、彼としては満足だろうが、しかし神としては無能に近い。それを許されていた彼からすると、大神は確かに血も涙もない部類ではないだろうが、しかし今まで良く生かしていたなと、率直に感じてしまう。

 

 余りに例外的な措置――カリューシーには意外な程の配慮が見える。だがそれに反して、地上で暮らす者に慈悲は無い。文字通りの傀儡政権は、ミレイユを罠へ嵌める為に用意されたものだ。エルフに対しても同様で、まさにその為に生かされていたと言って良い。

 

 ミレイユが何か一つ思い留まれば、無駄に終わる計画だった。

 神々にとっては、それで失敗しても次がある、と思える程度の犠牲なのだ。必須だからと利用したのではない、掛かれば儲けもの、と用意した罠の一つでしかなかった。

 

 エルフの二百年――更に虐げられた二百年を蔑ろにし、唾吐く様な行為だ。

 それを知って、なお血も涙もない連中、と言えるカリューシーが理解できなかった。

 

「お前には……あるいは優しい連中だったのかもな。それで満足しているついでに、今回みたいな馬鹿をしたのか。既に満足、死んだところで何の事がある、と? ……だがお前は、私を昇神させる手段を、一つ潰した事になるんだぞ。その上で優しくして貰えると思っているなら、考えが甘いんじゃないのか」

「……はぁ? 何か勘違いしてないか。昇神させる……? 逆だよ、お前を昇神させない、その為に俺は動いていたんだぜ?」

 

 あまりに意外な一言に、ミレイユの思考が凍りつく。

 それは全ての前提を覆す、衝撃的な一言だった。

 



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衝撃的な一言 その7

「何……? 昇神させない為? ……お前が? お前だけが、その為に動いていたのか?」

「あぁ……? 何だよ、何でもお見通しかと思ってたら、肝心なところでズレてんな。何で俺だけなのよ。そんなの、今更言わなくても分かってると思うけどな」

 

 カリューシーの嘲る様な、小馬鹿な言葉すら今は気にもならない。

 彼が単独で行っていた事ではなく、そしてならば……神々の計画がミレイユの昇神を阻む事ならば、多くの間違いがあった事になる。

 

 ――ボタンの掛け間違い。

 上段の一つを間違えたことで、そこから下全てが違ってしまう。

 ならばどこから……、どの状態から掛け間違えが発生していたというのか。

 

 ミレイユはかリューシーを睨み付ける。

 単に戯言や虚言で、こちらを混乱させているようには見えない。彼は確かに神々の言いつけを破ってミレイユに手を出して来たが、しかし神々の計画を台無しにしようとしていた訳ではないだろう。

 

 彼には神々に対する恩がある。

 今ならもう、いつ死んでも構わない、という満足感を得ている。その恩があるからこそ、考えなしであっても根底から計画を壊す様な事は行わないだろう、と考える事が出来た。

 

 ――ならば。

 ミレイユはユミルに目配せする。彼女もまた混乱の最中にあった。瞳が忙しなく動き、余裕のない様が伺える。そしてカリューシーを無視して地面に視線を向けること数秒、しっかりとした意志ある目付きで、ミレイユを見返してきた。

 

「これが本当なら――昇神させないという前提の元に考えるなら、軍の行動は……。むしろ本気で殺しに来ていた? あんな戦力で? そもそも、どうして胡乱な方法を? 昇神阻止、というなら早い段階でエルフを壊滅させる事だって出来たでしょうに」

「壊滅させては駄目だろう、撒き餌の効果だって失いたくないだろうから。そして、撒き餌を維持するには、睨みあいを維持しておく必要もあった」

「そんなリスク背負う必要ある?」

 

 ユミルの疑問は最もだが、現状を見るとそうと判断するしかなかった。

 納得というには苦しい気がするのは、ミレイユも同意するところだ。しかし、戦争継続させる理由が、撒き餌である森とエルフを存続させる事について、カリューシーも認めていた。

 

 そして、本気で森を攻略するつもりでいたというなら、外に住んでいたエルフを襲い、森へ追い立てていた理由も分かって来る。

 

 戦えない人員ばかりが膨れ上がれば、食料の消費も増えていく。いざ戦争となった時、備蓄の量は重要だ。外から食料輸入を頼れない森の民からすると、非戦闘員だけ増加するのは、相当苦しい筈だろう。

 

 それを見越しての事だったのなら、あの一種理不尽な行動も理解できるのだ。

 ミレイユが唸りつつ考え込んでいると、横からルチアが口を挟んできた。

 

「殺すのはエルフ優先でいいんですよ。信仰を持ってるのはエルフなんですから。森から飛び出した獣人と、エルフとの比率を見てみれば分かるでしょう?」

「八割の数が獣人、だったわね。そして当然、二百年前の感謝やら、信仰やらは持ってない連中……」

「えぇ、だから彼らは信仰を生まない。頭数が多いから勘違いしてしまいましたけど、森に暮らすエルフの数は、きっとずっと少ない。信仰から昇神できない程度には、既に調節されてるんじゃないでしょうか……」

 

 ルチアがその様に結論すると、楽器から手を離したカリューシーが手を叩いて褒める。

 

「いや、凄いね。そんな一瞬で考えを方向転換して、しかも正解できるのか。怖いねぇ……、だから俺は近付くなって言われたのか……。てっきり知ってると思ったから言っちゃったけど、これ失敗だったよなぁ。今更ながら納得しちゃうなぁ」

「ならば、我々の勘違いすら、神々は利用していたという事か……」

「いや、知らないよ。これも本当。そこまで詳しく、俺に説明してると思う?」

 

 知らない、と言った時点で睨み付けたが、その後の理由を言われて納得した。

 そもそも最初から彼は、ろくに説明されていない、という様な事を言っていた。この様な迂闊さを見せるカリューシーなら、勿論大事な話は何一つ教えていたりしないだろう。

 

 だが神々は、ミレイユ達が勘違いする事を見越して計画を練っていた、という考え自体は間違ったものではないと思う。

 それにはルチアも、ユミルも同意するところだった。

 

「勘違いさせたい、昇神させたくない。それを前提にするなら、ミレイさんの価値は何処にあるんでしょう?」

「昇神させないというなら、炉としての価値すら求めていない、という事になるのよね。でも神の素体に、それ意外の価値なんてある?」

「……ある、のだろうな。あるいは、昇神ついでに得る権能にこそ、その価値があるのか、とも思ったりしたのだが……」

 

 むしろ、それこそが目的ではないか、と思った程だった。

 ミレイユが何を望むにしろ、自分と全く無関係で、関連付かない権能を選べるとは思えない。自身の根幹を成すもの――カリューシーなら音楽に関係するものを選んだ様に、一種こだわりを持つものだから権能とする事が出来るのだろう。

 

 ならば自分は、と考えてみても即座に思い付かないが、結局それが狙いでないのだとすれば、いま考える必要もない。

 ミレイユは楽しげに見つめてくる、カリューシーを睨み返す。嘘を言っている様には見えなかったが、果たしてどこまで信用して良いものか迷った。

 

 自分たちの考える前提が崩れてしまった事を認めたくない、というの事ではない。

 しかし、その前提を無くしてしまえば、そもそも神々の動機が不明になってしまう。ミレイユに固執する理由――世界を越えても尚、追いかけ続ける理由が分からない。

 

「いやはや、あれこれと考えて忙しない奴らだね。そういう生き方って、疲れたりしねぇの? もっと気楽に生きられないもんかねぇ……」

「そうさせないのは、神々の方だろう」

 

 楽器を掻き鳴らすカリューシーからは、確かに義務や使命などといった、お硬い雰囲気は感じられない。これまで勝手気ままに生きてきた、その気楽な気質から出た言葉だろうが、ミレイユとてそれが出来るならとうにしている。

 

「……ま、そうだな。面白そうだ、と手を出した俺も同罪だったか。けど俺としちゃ、演奏技芸の大会に、飛び入り参加した位な気持ちだったんだぜ?」

「あぁ、そうか。実に迷惑な飛び入り痛み入る。お前を殺す理由が、また一つ増えたな」

「おいおい、嘘だろ。俺を殺すつもりだったのかよ。しかも、理由が他にもあんの?」

「一々言わないと分からないか? 少しは自分で考えろ」

「考える事が出来る奴の発言だねぇ……。俺は自分が異端だと理解してるが、そういう意味じゃ、お前は神側の人間だよな。神人とは良く言ったもんだ」

 

 ミレイユの眉が、ぴくりと動く。

 カリューシーとしては皮肉のつもりで言ったのかもしれないが、聞き捨てならない台詞だった。

 神の力を持つ人、神の肉体に入れられた人、神と人の間となる存在……。その意味は様々考えられるが、今のカリューシーからは神と同レベルの人、というニュアンスに聞こえた。

 

 ――勝利を前にした舌舐めずり……。

 オミカゲ様はそう表現していて、そしてだからこそ逃げ出せた、とも言っていた。

 だが、ミレイユならば同じ無様は晒さない。完全に拘束した後か、あるいは絶対に逃げられない状況にならないと、そんな真似は絶対にしないだろう。

 

 だが、昇神させるのが目的だと思わせる欺瞞(ブラフ)を、そこで仕込む為だったとしたら――。

 そして、そこからがボタンの掛け間違いが始まっていたとしたら、オミカゲ様が未だデイアートに居た時期から詭計が始まっていた、という事になってしまう。

 

「……これは拙い」

「それはとっくに知ってるコトでしょ。小神なんてのが目の前に出て来た位なんだから。まさか森へ誘い込まれた結果が、たったこれだけとは思えないから、他にも何か隠し種があるんでしょ」

「それもだが、それだけじゃない。……これは、嵌められたな」

「どっちの話?」

 

 ユミルが胡乱げに視線を向けては、直ぐにカリューシーへと戻した。

 勿論、ミレイユのこの一言で察せる訳がないだろう。自分自身、半信半疑の段階だった。

 ルチアが言うところの、敵を巨大に見据えている余り過大評価してしまっている、という現象に陥っているだけかもしれない。

 

 しかし直感と、これまで見てきた情報の断片を繋ぎ合わせると、不都合な真実が見えてくる。

 

「繰り返されるループ、伝言ゲーム、情報の断絶。……これはいつから始まった? いつから狙いどおりだった?」

「ちょっと、アンタ……?」

 

 ユミルの困惑も、今は耳に入らない。

 置いていかれているのはユミルや他の二人のみならず、カリューシーにおいても同様だった。同じく困惑した視線を向けてくるが、それさえミレイユは無視した。

 

 ミレイユ――ひいてはオミカゲ様は、神々から逃げ出したと思っていた。その計画が何であれ、ミレイユという素体を利用するのが目的で、その為に世界を越えて追って来ているのだと。

 神々から逃げおおせ、そして再起を図るつもりで過去の日本へ移動し、そして次に来るミレイユへ希望を託すべく行動していた。

 

 だが、逃げおおせたのではなく、追い立てられたのだとすれば――。

 逃げ切れたのではなく、逃されたのだとすれば……逃がす事すら神々の計画の一つ、という事になる。そして、ループする事が推測できるのなら、それをさせる事こそ目的、という事になるのだろう。

 

 ミレイユは頭を掻き毟りたくなる衝動を堪え、代わりに下唇を噛む。

 妄想だ、全ては思い違いだ、と考えられたらどんなに良いだろう。だが、可能性の一つとして浮かび上がって来た以上、これを無視する訳にはいかない。

 ミレイユはカリューシーを睨み付けていたまま、震えようとする唇を必死に抑えて言葉を出す。

 

「どこまでが計画の内だったか……。だが、ループするのは私達の苦肉の策じゃない。そうするよう仕向けられていた、と考えるべきだ。ループされるのは神々にとって、むしろ望むところだ」

「話がいきなり飛躍し過ぎて、ワケ分かんないけど……。昇神が目的じゃないからって、そういう話になる意味が分からないわ。……けど、説明は後で良いわね」

「可能性の一つとして、と今は考えても良い。だが……、私達は神をどこか過小評価していなかったか。迂闊にもオミカゲを取り逃した、その前提があって成り立った話だったが、本当にそれは迂闊が理由だったのか?」

「あぁ、なるほど……。そこが引っ掛かるワケね。それでアンタは、迂闊で片付く話じゃないと思ったと……」

 

 ミレイユは返事をせずに、ただ頷く。

 何か反応が返って来ないかと、敢えてカリューシーが聞こえる様に話していたが、まるで理解できていないようだ。

 

 大事な事は何も聞かされていない、と言いながら、ミレイユの昇神を目的としていないと暴露した彼だから、何かあるかと期待したのだが……。

 カリューシーの表情は理解不能を示す歪んだもので、返す言葉すら思い付かないようだった。

 

「お前らが何言ってるか、俺には全く分からん……が、話し過ぎたのは確かみたいだな。俺の言葉尻から、一体何を感じ取ったんだかねぇ。あぁ、だから……」

 

 カリューシーの言葉が唐突に途切れる。視線はミレイユから離れ、別の方向を向いていた。

 諦観の笑みを浮かべたが、それは決して絶望めいたものではない。むしろ、来たるべき時を受け入れる、成就した時を迎えるような笑みだった。

 

 拙い、と思った時にはもう襲い。

 何事か行動を起こす前に、その喉元を一筋の光が射し貫く。血を吐きながら後ろに倒れ込むカリューシーを見ながら、光が発射された方へと目を向けると、そこには一人の女が樹上に佇んでいた。

 



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衝撃的な一言 その8

「――ユミル!」

 

 鋭く叫んで、ミレイユは咄嗟にスルーズを念動力で掴み上げた。空いた片手で別の魔術を制御しながらも、樹上の女から視線を切らさない。光が消えた片腕一本を、カリューシーに向けたままの女を睨む。

 

 ミレイユの動きに連動してルチアが結界に穴を開けると、その中へとスルーズを引っ張り込むと同時に、ユミルがその腕を振るった。

 

 ミレイユが掛け声を向けた時に握った細剣は、難なくスルーズの首を落とした。鮮血が飛び散るより先に、ルチアが結界を操作してスルーズだけ別に覆うと、閉じた空間の中で鮮血を撒き散らしながら、結界外へと放り出されてしまった。

 

 それを一瞥すらせず細剣を仕舞い、手の中で制御を始めるユミルへ、それとなく声をかける。

 

「良かったのか」

「苦しませた上で殺してやりたかったけど、そんなコト言ってる暇ないでしょ。何より優先しなきゃならないのは、アタシの感情よりアイツが連れ去られるのを防ぐコトだし」

「……そうだな」

 

 スルーズは神々からすれば都合の良い手駒だ。その手口を知られたとはいえ、倫理観を無視すれば、都合の良い使い方はそれこそ幾らでもある。

 相手の目的はカリューシーの殺害である様だが、同時にスルーズの回収も、その一つとしていた可能性がる。女に注力するあまり、取り逃がす事になれば目も当てられない。

 

 だから、女の警戒をしながらもう片方の手でスルーズを確保したのだが、ユミルとしてはこの場で処断する事にしたようだ。

 前提として、スルーズを殺すのは決定事項だった。

 

 それは覆らない事実で、己の欲を優先した裏切り者の末路としては妥当なものだが、相応しい報いとしては手温い。

 だが結局、相応しい末路を用意してやるにはこの場で護ってやらねばならず、そしてその結果奪われる事になる位なら、この場で確実に始末する方を選んだ、という事だった。

 

 理屈では理解できていても、感情までは納得させられない。

 ユミルから放たれる殺意は、本来スルーズに向けられるものさえ含まれて、実に強烈なものとなっていた。

 

 女の姿は中肉中背、黒髪を首元に掛からない程度に短く切っていて、白い服を来ていた。襦袢の様に膨れたズボンと、飾り気のない上着は平民の様にも見えてしまう。表情の乏しさから言っても、街中に入れば埋没してしまいそうな、没個性的な顔をしていた。

 

 だが、白い服というのは、そう簡単に身に着けられるものではない。

 平民ならば着色した服を着られない者は多いが、素材からいって麻色になってしまうものだ。完全な白、というのも、それはそれで用意し難い。

 

 何よりすぐ汚れる上に目立ってしまうから、平民が着るにはそもそも向かない色だ。

 その様な服を来ている女だから、それがつまり身分の高さを物語っているようなものだった。

 

 その女が自身の手を、不思議そうな顔で見つめている。

 再びカリューシーへ視線を向け、それから幾度か頷いた。

 

「……なるほど、弱体化させていましたか。いつ戦いになっても有利に進められるよう、あういは毒でも仕込んでいたのか……。いや、弱体化……魔力制御に作用する……うん、そういう事ですね」

 

 一人で納得し、それからミレイユの方を楽しげに見つめた。

 

「――中々に抜け目ない。長々と話しているのを不思議に思っていましたが、より効果的な場面で一撃を加える時機を伺っていたのですね。……貴女が認められる理由が、また一つ分かった気がします」

「……殺しますか?」

 

 アヴェリンが鋭く言って、ミレイユはユミルに視線を向けた。

 伏兵はいるのか、という確認だったが、これには難しい顔をして顔を左右に振る。見つけていない、という意思表示だが、今こうして目の前に白い服の女がいるのだ。

 

 その発見を出来ていなかった、というのなら、いま見つけられていない事は何の慰めにもならない。そして今、目の前で神殺しをやってのけた女を、過小評価できる筈もなかった。

 

 確かに弱体化の魔術は仕掛けていた。

 遅効性であり、そして時間を追う毎に効果が増す上、あの女が攻撃していたタイミングなら、ほとんどろくな魔力制御が出来ない筈だった。

 

 その直前の行動を見れば、攻撃を受け入れていたようだから一撃で沈んだ、というのは分かる。だが、意図せず攻撃を防いでしまう、魔力の防護膜はあるのだ。これを魔力耐性とも言い換える事が出来て、仮に防御壁を用いていなかったとしても、ある程度は攻撃を防いでくれる。

 

 腐っても神は神だ、その膜の厚さも並大抵では無かった筈だ。

 そしてその膜は、ミレイユの用いた魔術毒では弱体化できないものなのだ。それを貫ける、というだけで、女の実力が予測できる。

 

 最低でも、ルチアに並ぶ魔術の使い手、と考えて相対しなければならない。

 四人で掛かれば難しい相手でもない、と判断できるのだが、アヴェリンがわざわざ確認を取ってきたのも、女のいる位置が問題だった。

 

 あの樹木は破裂毒の木で、近寄ろうものなら手痛い反撃を受ける。

 振り落とすにしろ、何かしら攻撃を加えると、連鎖的に他の樹木も反応する危険があった。破裂毒の実が落ち、それが破裂したなら、範囲はそれなりに大きくなる。

 

 その実なり種が他の毒植物に当たる事で、どの様な反応を見せるか、今更ながら考えが及んだ。

 スルーズがこの場へ追い込んだ、と言ったのも、あながち全くの勝算なしで取った行動でもなかったのだろう。長年ここに住んでいたのだから、上手く利用する方法もあったのかもしれない。

 

 そして今、ミレイユは攻撃を向けるのに躊躇いを覚えてしまっている。

 ルチアの結界内にいれば、種の攻撃や他の攻撃も無力化できそうだが、女の余裕が気に掛かった。結界は狭く、一時の攻撃を防ぐには便利だが、戦闘しようとすると余りに手狭だ。

 

 戦わない、という選択肢はそもそも無かった。

 現れたタイミング、そして見ていたという発言からも、この件に関わっていたと見るのが妥当だ。生け捕りにするのが理想で、聞き出したい事は山程ある。

 

 しかし、見ていたのにも関わらず姿を見せたのなら、勝算ありと仮定していなければおかしい。この四人に対して勝算ありと見る女。

 迂闊に手を出して良いものか。

 植物という環境と、女の自信、それがミレイユに足踏みさせる。

 最後の確認として、ミレイユはユミルに問い掛けた。

 

「一応、聞いておきたい。あの女は神の使いと見て良いのか?」

「白い服を着てるなら、そうなんだろうと思うけど。どっちの神に仕えてるのか……といえば、まぁ大神だろうとしか思えないから……。それ故の自信なのかしらね?」

「攻撃されないと高を括ってるのか? だとしたら甘く見られたものだ、と言う事になるが」

 

 話しながらも、ミレイユは頭の中で戦闘を組み立てる。

 攻撃方法から見ても、そう難しい相手ではない。問題は、逃げの一手を選ばれたら追うのは難しい、という事だった。

 

 だが、これは千載一遇のチャンスだ。

 大神に繋がる人物を、この手で捕らえる事が出来たなら、そこから食い込んでいける可能性が生まれる。それを無為にしたくない、という欲が首をもたげて、ミレイユに慎重策を選ばせていた。

 

 そんなミレイユの心情を見透かしてか、白い女はクスリと笑う。

 

「そんな恐ろしい顔をしないで下さい。こちらとしても、この様に動かなければならなかったのです。行動で示さねば、信用は得られないものでして。……あぁ、あなた方からの信頼ではありません。そこは誤解なき様に」

「挑発されていると考えてもよろしいのでしょうか、ミレイ様」

「判断に困るが、……違うだろうな」

 

 不快そうな仕草を隠す事もせず、眉間に皺を寄せたアヴェリンと同様、ミレイユもまた難しく眉根を寄せる。

 カリューシーを殺す事が目的なら、即座に逃げ出せば良いだけだ。神使は神の命を受けて動くのだろうから、他に目的がないのなら、ここで無駄話をする理由がない。

 

 ならば用があって留まっている、という事になり、そしてそれは対話を望んでいる、と見る事が出来た。ただその場合、やはりミレイユと対話を望む、という動機が分からない。

 

 大神は全ての原因であり、根源だ。

 常に盤上を見下ろす立場にあって、対話の席には降りてこないだろう、という一種の諦観があった。臨んでくれるなら望外の機会とも言えるが、むしろ罠と考える方が妥当だった。

 

 これまで散々、多くの罠を張っていた相手だから、今更都合の良い嘘に騙されるほど単純になれない。どう対処したものか、と考えている間に、女の方から口を開いてきた。

 

「警戒を解いて、と言っても聞いてくれない事は理解しています。ですから、まずは私の身分を明かしましょう。私の名はナトリア、ルヴァイル様にお仕えする神使です。どうぞ、お見知りおきを」

「そういう事は、高所から言うものではないがな。しかし、ルヴァイル……? 私とは関わり合いが無かったな……」

「歳魂と時量のルヴァイルね……。絶対に姿を見せない大神の、筆頭だと思ってたわ。名前だけなら有名だけど、敬虔な信徒の前にすら現れた事がないらしいじゃないのよ」

「それが神使とはいえ、我々の前にか……? 今日はもうこれ以上、客はお呼びじゃないんだがな」

 

 ミレイユが溜め息を吐きつつ、油断なく構え直したところで、ナトリアは小さく笑む。

 その時、身体を貫かれて倒れたカリューシーの身体から、眩いばかりの光が溢れた。そちらへ視線を向けながら、ナトリアからも視線を切る、などという愚は犯さない。

 

 ナトリアから何の動きも見えない中で、カリューシーの身体は光球へと変化し、光の尾を引いて空の彼方へ飛び去っていった。

 



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虎穴に入らずんば その1

 果たして、あれが何を意味するのか、ミレイユには分からなかった。

 光球は身体を包んだというより、身体が光球そのものに変わっていた様に見えたし、それが飛び去った理由も、その方向にも当たりがない。

 

 精々北方面に飛び去った事が分かるくらいで、それでは何の手掛かりにもならない。

 何より、あれが神の死による結果なのか、それとも実は逃亡を手助けした結果として発生した現象なのか、それすらミレイユには分からなかった。

 

 ナトリアの口振りとカリューシーが見せた最後の表情から、それが命を断つ一撃に見えた。吐血し倒れる様は、致死の一撃の様に見えた。とはいえ、曲がりなりにも神ならば、それぐらいで死ぬものか、と思ってしまう。

 

 ミレイユが警戒を強めた視線を送ると、ナトリアはあっさりと樹上から降りて来てしまった。毒の実を警戒して離れた所に着地したが、それでミレイユたちと相対する距離は、むしろ縮まる。

 近付かれたくない、と思っていたからこそ樹上を立ち位置としていたのだろうに、あっさりの優位を捨て去ったのは不審に思った。

 

 己の力に自信があるのか、それとも何か伏せているものがあるのか……。

 ここに追い込ませたのがカリューシーではなく、ナトリアか、或いはその背後にいる大神ルヴァイルなのだとしたら、予め用意された何かがあると想定するべきだろう。

 

 破裂毒から離れたから、と迂闊に攻撃するのは浅はかだ。

 飛び掛かろうとしたアヴェリンを咄嗟に引き止め、周囲に影響を及ぼし辛い、念動力を持ってナトリアを拘束しようと試みた。

 

 念動力は不可視の力だ。漠然とした雰囲気は感じるものだし、力場の様なものを感じる事も出来る。しかし、それを明確に感じる事は難しく、だからナトリアが回避してみせたのは意表を突かれた。

 

 感心した気持ちが湧き上がると同時に、アヴェリンも動き出す。

 地面を蹴って、ナトリアが回避した先を見越して攻撃を加え、そして今度は呆気なく吹き飛ばされた。あれは躱せて、アヴェリンは無理なのか、と思わないではないが、隙を見せたなら見逃す理由がない。

 

「ルチア!」

 

 ミレイユ自身は念動力で拘束しようと試みつつ、ルチアの肩に手を当てて制御力を補助してやる。そうしてナトリアを拘束すべく、結界で四方を囲もうとするよりも速く、その範囲から逃げ出してしまった。

 

「案外、足掻くわね」

 

 ユミルが軽口を叩きながら紫電を走らせ、逃げた先、そしてまた更に先へと狙い撃つ。

 時に躱し、時に受け止めつつ、ナトリアは上手く直撃を回避しようとしていたが、そこへ肉薄しようとしていたアヴェリンが追い付いた。

 

 武器を掲げるように持って、視線がそちらへ向かうのと同時に、アヴェリンは盾を翳して視界を奪う。そうしながら上段から中段へと咄嗟に切り替え、その腹部目掛けて武器を振り抜いた。

 完璧に捉えた、――ように見えた。

 

 ナトリアは吹き飛んだが、しかし肉を打ち、骨を砕く音は聞こえない。

 防御術に秀でていると見え、今の直撃は回避したらしい。ガラスが砕ける様な音は聞こえたので、またも上手く立ち回ったようだ。

 

 ナトリアが吹き飛んだ方向には、スルーズの死体が落ちていた。

 既に出血も収まり、血の海に沈んでピクリとも動かない身体だった。ミレイユ達から遠く離れた時点で結界は既に解除されており、ただ無惨に打ち捨てられているだけの死体だったが、ナトリアの手がその服を掴む。

 

「……拙い」

「全くもう!」

 

 今日何度目の台詞になるのか、言ってる自分が嫌になりそうだった。立て続けに起きたストレスからか、みぞおち辺りがズキズキと痛む。

 ユミルから叱責とも焦燥ともつかない声を聞きながら、ナトリアを撃ち落とそうと、更なる魔術を放つ。ユミルもそれに参加してくれるが、逃げに徹した魔術士を追う難しさを痛感していた。

 

 特に防御術や治癒術に秀でた者を拘束するのは、非常に難しい。

 防御を捨て一撃を加えて来ようとするアヴェリンを止めるのが難しいように、逃げに徹しようとするその道のプロを仕留めるのは難しいものだ。

 

 ナトリアの目的が何であれ、死体を持ち去ろうとするつもりなら、それを活用する術を心得ているという事だ。

 例えばそれが、アンデッドとして利用するつもりならば良い。

 しかし死者の完全な蘇生も可能となれば、首を落とした事など、何の慰めにもならない。

 

 人の世にあって、死者の蘇生は夢物語だ。

 どれほど魔術が万能に見えても――瞬きの間に傷を癒やすような事が出来ても、死者の蘇生は出来ない。それが通説であり、常識だ。神にとっても不可能とされているが、本当にそうであるのか、誰も真実を知らない。

 

 本当に価値あるものは、秘匿してこそ意味がある。

 それに可能であるなら、切り札として秘しておく方が実利は高いように思える。それこそ、神が持つ権能次第では、実は可能と言われても不思議でもない。

 

 その可能性を思い当たらなかった自分に歯噛みする。

 神は何でもあり、という訳ではない。しかし、その可能性は頭の片隅にでも置いておくべきだった。そうであれば、こんな失態を犯す事もなかった。

 

「チィ……ッ!」

 

 ナトリアの移動速度も馬鹿に出来ない。

 内向術士でもない筈なのに、アヴェリンと等速に近い速度で逃げている。逃げに徹しているからこその速度かもしれないが、アヴェリンでさえ捕まえるのに苦戦していた。

 

 あれを結界内から制するには限界がある。

 ミレイユは自らも飛び出して、アヴェリンと挟み込む形でナトリアを追った。自身に身体強化の魔術を行使しながら、もう片方の手で拘束しようと、念動力で捕まえようとする。

 

 しかし、ナトリアには念動力が見えているかのように躱すと、ミレイユとアヴェリン、そしてユミルへ素早く視線を巡らせる。そして、何を思ったのかミレイユへと突っ込んで来た。

 急制動による急転換とはいえ、その程度で虚を突かれるミレイユではない。

 

 何より頭部と両腕を失くしていても、人体一つ持っての移動は楽ではないのだ。これまで上手く逃げ続けていた事は褒めてやっても、それでミレイユをどうこう出来ると思っているなら、思い上がりと言う他なかった。

 

 ミレイユは迎え撃とうと右手に剣を半召喚させ、左手に攻勢魔術を制御しようとしたところで、違和感に気付く。ナトリアの顔はこちらを向いているものの、その視線はユミルを追っている。

 突然進路をミレイユに変えた割に、注視するのは別人だ。

 

 広く視界を使えている、と言えるかもしれないが、ミレイユとアヴェリンに前後を挟まれて行うには愚策と言う他ない。

 ナトリアへ迫るアヴェリンと、敵越しに目が合う。それだけで、互いに何をしたいか、何をすべきか察した。

 

 ミレイユが一歩踏み出し剣を逆袈裟に、アヴェリンも一瞬遅れて踏み出し袈裟斬りに、それぞれ武器を振るおうとした瞬間、横合いからユミルの雷撃がナトリアを撃ち抜いた。

 どちらにしても、躱せぬタイミングだった。

 

 ミレイユの攻撃を躱そうと、アヴェリンの追撃が来る。

 アヴェリンがミレイユとタイミングをほんの少しずらしたのは、受けても避けても、どちらかの攻撃を対応させない為だった。

 

 そこに来て、ユミルの魔術だ。それとて、防ごうと思えば防げただろう。

 だが、その中でも最もダメージの少ない魔術を、その身に受ける事で吹き飛ばされ、結果前後の攻撃から抜け出してみせた。

 

 ミレイユは吹き飛ばされるナトリアを目で追いながら、大したものだ、と心底で感心する。圧倒的不利な状況での、それを感じさせない立ち回り。

 逃げ延びるには、最小限のダメージを受ける事さえ織り込み済み。あの時、前方のミレイユではなく、ユミルを見ていたのは、むしろ攻撃を誘うためだったのか――。

 

 そう思うと、なお賞賛したい気持ちが湧いてくる。

 吹き飛んだ方向へミレイユも追おうとしたが、ナトリアは勢い余って邸宅の扉を破り、その中へと転がり込む形になってしまった。

 意図せず侵入された事になり、思わず苦い顔を晒す。

 

 邸宅の中で戦う事は出来るが、諸々破壊と破損を振り撒きそうで躊躇われる。

 思わず足を止めてアヴェリンが隣に立つのを待ち、そしてユミルが後ろに立ったのを足音で感じると、渋い顔をしながら見合わせた。

 

「……よくやった、と褒めてやりがたいところだが」

「素直に褒めておきなさいよ、そこは」

「そういう訳にもいかんだろう。吹っ飛んでしまった、先が先だ」

 

 アヴェリンが叱責する様に言えば、そこにルチアが駆け寄ってくる。そのルチアが怪訝そうに扉の奥を見つめ、そして再び結界を貼ろうとして、手で制する。

 即座に貼らせないのは、それが一種の撒き餌とならないかと期待しての事だった。

 

 攻撃の機会があるなら、家から飛び出して来ないかと思ったのだが、あまりに反応がない。ユミルが放った魔術は決して弱いものではなかったが、さりとて一撃で意識を刈り取るようなものでもなかった。

 

「……出て来ませんね?」

「待ち伏せのつもりか?」

「狭い室内の方が、勝機があると思ったと? 確かに多人数と戦うなら四方を囲まれるより有利になるかもしれませんが……、だからって別に室内が有利とはならないと思うんですけどね」

 

 ミレイユはそれに無言で頷く。

 いま戦った事から分かるとおり、一人で四人と戦う事は不利だと判断したのは妥当だ。しかし逃げるつもりでいた筈で、それなら室内に入ってしまえば袋の鼠にしかならない。

 逃げ切る算段が、こうして視線を切った後に出来るというなら――。

 

「ルチア、邸宅を囲んで結界を張れ」

「了解です」

 

 瞬時に要求通り結界を張り、外部へ逃亡出来ないようにする。

 邸宅には裏口があるから、そこを見つけていれば、逃げ出せた可能性はある。それを防ぐと共に、狙いはもう一つあった。

 それを察してユミルが口を開く。

 

「転移防止? 使えるのなら、とっくに使って逃げてると思うケド。死体を持って逃げ帰りたいなら……あぁ、そっか」

「うん。誰もが瞬時に、制御を終了させられるものじゃなしな。特に転移は最上級魔術だ。逃げ回りながら使えるものじゃない」

「つまり、今は袋の鼠? ……と、楽観も出来ないのよね。死体を持って何をしたいかによるし。いっそあの中で、もう戦力として起こしているのかも」

「可能性はあるが――、頭部はまだ無事だ。アンデッド化させたところで、頭部のない死体は知識も理性も保てまい。戦力として見ても、微妙だと思うんだがな……」

 

 そうね、と頷いて、ユミルは落ちた頭部目掛けて魔術を放つ。

 それで炎に包まれ、瞬時に灰と化した。例えアンデッド化させようとも、これで永遠に知性の獲得は不可能になった。ナトリアが何をするつもりにしろ、選択肢を一つでも多く奪うのは意味ある事だ。

 

「それは良いとして、全く動きがないのは気になる。相手からしても『詰み』の状況は理解している筈。観念して出て来てくれると、手間が省けるんだがな」

「既に逃げた可能性は?」

 

 アヴェリンから問い掛けてきて、難しく息を吐く。

 それが音沙汰ない理由として順当なのだと、ミレイユも気付いている。結界を張るまでは、少しばかり猶予があった。その間に何か出来た可能性はあるものの、魔術は使えば魔力波形から分かるものだ。

 それを完全に隠蔽して使う事は難しい。

 

 可能か不可能か、と言われたら不可能、と答えたいのだが、ここまで音沙汰が無いと既に逃げたと疑いたくなる気持ちもある。

 結界は邸宅を囲むように展開されたとはいえ、扉から顔を出せない程ピッタリと展開されている訳でもない。降参するなら、手を挙げながら姿を見せるぐらいは出来るのだ。

 それが無いというなら、ミレイユ達から踏み込んでやらねばならなかった。

 

「やれやれ……、どこまでも楽をさせてくれないな」

 

 ミレイユがボヤくと、アヴェリンが武器を構え、警戒を怠らないまま頷いた。

 それを横目で見ながら、無防備に見える様な歩き方で邸宅に近付いていく。何か飛び出して来る物があれば、即座にアヴェリンが対応するし、多くは結界が防いでくれる筈だった。

 

 そして呆気ないほど簡単に邸宅前まで辿り着き、壊れた扉から奥を窺う。

 光の加減で中の様子は上手く見えない。結界ギリギリまで近付いてみたが、やはり中の様子を窺えず、仕方なく身体が入れる部分だけ小、さく開いて中へと入る。

 

 結界を越えても尚、何の反応も無く、更に邸宅内を見える範囲で見渡したが何の姿もない。そればかりか、音すらも無かった。

 アヴェリンが言ったとおり、既に逃げ出している可能性を強く感じつつ、言った本人を先頭に邸宅内へと踏み入った。

 

 そして見え辛かった邸宅内の様子が分かるにつけ、視界に入ったものに理解が拒む。

 そこには、土下座をしてミレイユ達を待ち受ける、ナトリアの姿があった。

 



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虎穴に入らずんば その2

 どういうつもりだ、と声を出すより前に、ミレイユはナトリアを念動力で拘束し、土下座の姿勢のまま上から押し潰した。そしてルチアへ目配せすると、ナトリアの周囲に結界を展開して身動きさせなくする。

 

 流石にその格好のままでは話も出来ないので、ミレイユが持ち上げて直立する形にすると、結界もそれに合わせて形を変える。

 身動き一つ許さない、四角柱形の牢獄だった。

 ナトリアはその間も、成すがままで抵抗せず、口をきつく結び合わせて一言も喋らなかった。

 

 魔術的抵抗はあったものの、それは念動力に押し潰されそうになれば当然の反射行動で、攻撃や敵対を示す様な動きではなかった。

 ナトリアの身動きを完全に封じてしまえば、ようやく周囲を窺う余裕も出て来る。

 

 散乱した家具こそあるが、それ以外は綺麗なものだ。

 破損した物もなく、片付ければ元通り使えそうではあった。

 

 入り口の影となる場所にはスルーズの死体もあって、これに手を付けた形跡もない。

 持ち出した理由は不明だし、追い込んでからの姿勢も不明だが、警戒を怠る事だけは出来なかった。

 

「ユミル、罠があるかどうか精査しろ」

「もうやってるわ。……けど、無いわね。もっと深く調べようと思ったら、時間貰うけど」

「構わない、続けてやれ」

 

 ユミルは返事の代わりに魔力を強め、邸宅内へ波紋を広げるように精査していく。物体に跳ね返って反応を示すのは、現世にあったソナーと同じで、そこに異変があればユミルが察知する。

 あくまで魔力的な部分に反応するので、物理的な爆弾などが隠してあったら反応できないが、その様な物を用意している魔術士というのは聞いた事がない。

 

 ――だからと、油断できるものではないが。

 何しろ、ミレイユたちはこの森へ追い込まれたのだ。用意があるのは当然と考えるべきだ。

 だが爆弾などがあるなら、地下室へ行った時にでも起爆すれば良かった。千載一遇の機会を逃したのだから、それは無いと考えても良い気がする。

 

 精査の終わったユミルから、反応無しを意味する視線が返って来たので、ついでに一つ聞いてみる事にした。

 

「亡霊の方には、何か反応は?」

「あれから継続して探索させてるけど、そっちの方にも反応なし。……言い訳するつもりはないけど、一体だけじゃ目の届かない場所だってあるからね」

「そうだな、広い森だ。この邸宅付近は広いと言えないが、潜伏するつもりなら、もっと離れた場所にいてやり過ごしていたとしても不思議じゃない」

 

 少し信頼を置きすぎたが、全方位に目がある訳でもない。物体を透過できて、潜伏した者を見つけやすいとはいえ、敵の潜伏レベル次第では見逃す事もある。

 ナトリアが破裂毒の木を一種の盾として利用したように、上手く利用する何かがあれば、亡霊の目を掻い潜る事も不可能ではない。そして実際、ナトリアはミレイユ達に気付かせず接近して見せた。

 

 彼女は直接ミレイユ達に牙を剥いた訳ではないが、しかし大神の遣いと聞けば、敵と判断せねばならない。

 簡単に聞き出せると楽観してないが、何か情報を吐かせられるなら、聞き出したいという欲がある。

 しかし、それについては行動が不可解すぎて、混乱の度合いが強かった。

 罠と言うなら、彼女と接触させる事が罠なのかもしれない、と思えてしまう。

 

 ナトリアは目を瞑り、口を固く引き締めたまま一言も発しない。

 殺すなら殺せ、と言っているようでもあり、そしてそれは何の抵抗もなく大人しく捕まった事からも伺える。何しろ土下座をしながら迎える、という自体が降伏宣言の様なものだ。

 

 ただし、ここデイアートに土下座などという礼式は存在しない。

 何を思って、或いは何を知っていて、あの様な事をしたのか、それは気に掛かる事だった。

 

 一切の反応を示さないナトリアに向かって、ミレイユは念動力を解いて、その前に立つ。結界に囲まれているので何が出来るとは思わないが、念の為、距離を取って相対する。

 ミレイユが声をかけると、ナトリアはそこでようやく目を開いた。

 

「……それで、どういうつもりだ? お前の行動には、実に謎が多い。弁明でもなんでも、言うつもりがあるなら聞いてやる」

「はい、その様に言って下さると判っていたので、あの様な姿でお迎えしました」

「……あの土下座か?」

「そうです。あの様な格好は、降伏や謝意を示すものと理解しております。そして、その姿でお迎えすれば、高い確率で話を聞いて下さると、知っていたのです」

()()()()()、ね……」

 

 ミレイユは息を一つ吐いて、胸の下で腕を組んだ。

 再び、みぞおち辺りに痛みが走る。

 考えを巡らす事、思考を回転させる事は、ミレイユにとって強いストレスだ。出来れば、何も考えず、テレビや映画でも見て過ごしていたい。難問や難題に頭を捻るのは、そもそもからして好みではない。

 

 だから今日一日で、アレコレと考えさせられる事態になり、心底嫌気が差している。

 しかし嫌だ嫌だと駄々をこねる訳にもいかないので、腹にグッと力を込めて更に問うた。

 

「お前が何を知っていて、そして何が目的だったか、是非とも聞いてみたいんだが……。素直には言わないだろうな」

「いいえ、それこそ私がここにいる理由です。此度、私はルヴァイル様の命を持って、それを遂行する為にやって参りました」

「つまり、罠に嵌める為にか? 答えるつもりで、更なる混乱を引き起こす為か? それとも、何か別働隊が来るまでの時間稼ぎする為か?」

「……ご心痛、お察し致します」

 

 その一言で、カッと頭に血が上る思いがした。

 ナトリアの声も表情も、心底労る様に感じられるのが、更にその拍車を掛けた。力任せに殴り付けたくなる衝動を抑え、二の腕を握ってそれに耐える。

 

 挑発の様に受け取ったのは、何もミレイユだけではなかった。

 ユミルもまた冷静さを欠こうとした一人で、魔力が怒りで漏れ出している。アヴェリンもルチアも剣呑な視線と気配を発したが、ミレイユが耐えているのに勝手をしてはいけない、と諌めているようだ。

 

「……ユミル、手を出すなよ」

「分かってるわ、貴重な捕虜であり情報源。そう簡単に、損なうワケにはいかないでしょ。自分から捕まりに来たっていう点を鑑みたら、即座に殺して逃げた方が良いんじゃないか、とも思うけど……」

 

 ミレイユは首肯を返して、重く息を吐いた。

 ナトリアの目的は、時間を稼ぐつもりでいるように見えた。先程発した()()()()()、という発言からも、即座に殺されないと予想していた様だし、時間稼ぎの段取りが決めてあったようにも思える。

 

 それが分かっていても、尋問せずにはいられない。

 それ程に、ミレイユ達が大神へとアプローチする手段は乏しい。本来ならユミルに催眠を掛けて聞き出したい位だが、高い防護術を持つ相手には通じまい。

 

 いよいよとなれば眷属化させる事も候補に入れるが、ユミルの意思を尊重して、あまり取らせたくない手段だった。

 ユミルから滲み出る様な怒りを鎮める為にも、その様な命令はしたくない。

 ミレイユは改めてナトリアと視線を結び、揶揄するように笑みを浮かべた。

 

「お前の目的が何であれ、何を説明するつもりで来たのであれ、それを信じると思うのか? 大神から何を言われて来た? さっきの土下座を見せてやれば、たちどころに信頼を得られると言われたか?」

「いいえ、決してその様な事は。まず歓迎されず、拷問めいた尋問を受けるだろうと申し伝えられておりました。ですが最低でも、話を聞いて貰えるだけの言葉は持ち合わせています。ルヴァイル様は、それを良くご存知です」

「あら素敵。魔法の言葉ってワケね。是非とも、お聞かせ願える?」

 

 ユミルもまた揶揄するように笑い、次いで小馬鹿にするように鼻を鳴らした。

 そんな都合の良いものある筈がない、という思いが、その視線と、刺々しい言葉からも伝わって来る。

 ミレイユとしても全くの同感で、精々困惑させる事しか出来ないと踏んでいた。

 

 腕に入れていた力を抜き、顔を顰めながら顎をしゃくる。

 何を言うもりか、言わせるだけ言わせるつもりだった。

 そして、ナトリアから発せられた言葉は、ミレイユ達に困惑だけでなく衝撃も又もたらす事になる。

 

「――ループを終わらせたいと思っているのは、貴女達だけじゃない」

 



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虎穴に入らずんば その3

 息を呑む音が聞こえ、そして一時の沈黙が場を支配した。

 ミレイユとしても、その言葉の意味を理解するのに時間を擁したし、そして咀嚼し理解するにつれ、困惑の度合いも強くなる。

 

 ミレイユはナトリアから視線を外し、ユミルへと目を向ける。

 そこでもやはり困惑があったが、何より苦虫を噛み潰す様な表情が印象的だった。

 

「……なるほど。なるほど、なるほど? 素敵な言葉アリガトウ、って言えばよろしいのかしらね? そんな台詞聞いただけで、だから話を聞いてくれると思った? 到底、信じられないわね」

「やっぱり困惑させられただけ、といったところだが……。そもそも何一つ、信じるに足る言葉じゃないだろう。お前の行動一つ取っても、辻褄が合わない事ばかりだ」

「――信じられないのは当然ですけど……」

 

 ルチアが口を挟んで、それでミレイユは視線を向けた。

 

「でも私としては、それで今すぐ亡き者にする訳にはいかない、と強く思いましたよ。非常に業腹ですけど、……これってつまり、以前懸念していたアレが、事実かもしれないって期待できるんですから」

「アレ……?」

「大神の中に、利敵行為をしている者がいるかもしれない、という話です」

 

 言われてミレイユも思考を回す。

 確かにそう言う話もあった。しかし情報が足りず、希望的観測が強く出過ぎていた為、流れた話だった。だがもしも、それが事実であるとしたら、それは話を聞くに十分な理由となる。

 

 しかし同時に、それではスルーズが語った、この森へ追い込む、という話と矛盾する。

 そうさせたのがカリューシーにしろ、ルヴァイルであるにしろ、その様に命じたのなら、明確な敵意があっての行動だと予測できるからだ。

 

 ミレイユがナトリアを睨み付けても、彼女には些かの動揺も見えない。

 既に敵の手中にある、という状況であり、そして身動き取れない状態なら、もう少し感情の発露がありそうなものだ。しかし、彼女には自分に危害は加えられない、と確信している様子すら感じられる。

 

 それが彼女の言った、知っていた、という部分に繋がるのだとしたら、ルヴァイルがその様に伝えていた、という事になるのだろう。

 不審に思う気持ちを強めながら、ミレイユは視線をナトリアに合わせながら、ユミルに尋ねる。

 

「実際、ルヴァイルというのはどういう神なんだ」

「それは――」

 

 ナトリアが何かを発言しようとした時、掌を上げてそれを止める。脅し付けるように睨みを利かせ、それから脅す様な低い声で忠告した。

 

「お前は聞かれた時にのみ答えろ」

「……畏まりました」

 

 首だけは動くので、ナトリアは顎を上下させるように頷いた。それから改めてユミルに問う。

 

「……それで、ユミル。どうなんだ?」

「そうね……。歳魂と時量のルヴァイル。一応、善神に分類されるんだと思うわ。そして有難がられる神でもある。人に直接何か危害を加えた過去なんてないから、相対的に善神ってコトになってるだけだけど」

「つまり、無関心……あるいは無関与を貫いている、という?」

「そうとも言えるかもね。神の義務として、病毒治癒の恩恵は与えているけど、それ以外に何かをしたって話も聞かない」

 

 なるほど、と頷きながら、どう判断して良いか悩む。

 人にとって苛烈であったなら、即ちミレイユにとっても敵、とはならない。今回のエルフの様に、縁もゆかりも有る対象なら、当然話は別だ。だがミレイユは何も、人類守護を謳う聖人という訳でもないのだ。

 

 そして同時に、人に危害を加えない神が、即ちミレイユとも敵対しない、とはならない。

 それによって神にどの様な得があるのか知らないが、いずれにしろミレイユを睨んで行っているばかりではないからだ。神の横暴は何千年も前から起きている事で、世の常識でもある。

 

 どう考えて良いか分からず、ミレイユは再びユミルに問うた。

 

「その歳魂、というのは何なんだ? 時量の方は、何となく分かるんだが……」

「そうね……」

 

 ユミルは顎先を摘んで小首を傾げ、考える仕草を見せる。

 

「人が生き、一年経って歳を取る。その一歳を与える権能を、歳魂と言うのよ。だから無事一年を過ごしたコト、一つ歳を取れたコトに対し感謝を捧げられる神でもある。そして時量は名前のとおり、時間を量る権能ね。過去も未来も、この神にとっては量るに難しいってコトは無いんでしょうよ」

「それはつまり……この神がいなければ、人は歳を取らない、というコトか?」

「実際はそんなコトないと思うけど。――いえ、でも待って……」

 

 ユミルの視線が鋭くなり、ナトリアを睨み付ける力も強くなる。

 そこでユミルが何を思い至ったのか、ミレイユにも分かった気がした。

 

「ゲルミル一族の不老ですら、歳を重ねる事を可能にする、というコト……?」

「スルーズも、それで人間になれると勘違いしてたのか? 歳を取れる様になれば、それは人間と変わらない。望みは叶えられる、とか……」

「とんだペテンだわ」

 

 ユミルは吐き捨てる様に言って、顎から手を離し、ナトリアを更に強く睨み付けた。

 

「老衰で死ねるコトと、人間として生きるのは全くの別物でしょ……! アイツも馬鹿には違いないけど、嘘で騙して利用して、次はアタシ達を使って何かするって!? アンタらを信じる理由が、また一つ減ったわ!」

「……落ち着け、ユミル。信じられない気持ちは同じだが、こいつの……ルヴァイルの行動にも矛盾が多い。殺すのはいつでも出来るが、大人しく捕まった事なども含めて、言い訳があるなら聞いてみたい」

「逃げられないと悟ったから、降参したってだけでしょうよ! 哀れな命乞いをしただけだわ!」

 

 今にも殴り掛かりそうなユミルを、背後から諫めるようにルチアが手を置く。

 ユミルは殺意の混じった瞳でルチアを睨んだが、すぐに目を伏せ顔も背ける。それから小さく謝罪して息を吐き、ルチアが手を引くままに任せて後方に下がる。

 

 それを横目で見送って、ミレイユはナトリアに訪ねた。

 

「まず確認だ。あの土下座は、あの様にして迎え入れろ、と指示されてやった事か?」

「はい。そうすれば高い確率で、話し合いに応じる、と伝えられました」

「この状態が話し合いと言えるか? 仲良くテーブル囲んで、とはいかないぞ」

「勿論です。どの様な形であれ、対話は成立する。その様に伺っております」

 

 フン、とミレイユは鼻を鳴らして顔を顰めた。

 事実、あの土下座を見た瞬間、聞き出さねばならない事柄が一気に増えた、と感じている。

 その命乞いに感じ入ってではない。何故それを知っているか、そして何を知っているか、聞き出せるなら聞き出したい、と思ったからだ。

 

「スルーズを使っていたのは、お前達だと思って良いのか?」

「はい、私がルヴァイル様の指示の元、行っていた事です」

「目的は?」

「ルヴァイル様がミレイユと敵対する者、と印象付ける為に行われたものでした」

「印象付ける? 印象も何も、我々は最初から――いや待て、そうか。覗き屋連中の為にか」

 

 ミレイユが先じて答えを言うと、ナトリアは実に嬉しそうに頷いた。

 

「貴女は実に察しが良い。そして冷静で、思考力も高い。ここまでの逸材は、これまで無かったと仰っていたルヴァイル様のお言葉は、間違いではありませんでしたね」

「その上から目線の言い方は、お前の寿命を縮めると思っておけ。私は別に冷静じゃない、押さえつけているだけだ。私の忍耐に多くを期待するな」

「肝に銘じておきます」

 

 殺気と同時に魔力を漏れさせて言うと、ナトリアは殊勝な態度で顎を上下させた。

 ミレイユはそれに不機嫌そうな態度そのままに、長く息を吐いてから尋問を再開する。

 

「ループを止めたい、そう言っていたな。そして、どうやらループの中身さえ知っている。それならば、と私が素直に食い付くと思ったか? むしろ有り得ない、と判断しそうなものだがな」

「勿論です。言葉一つ、態度一つで信じられるものではない、と心得ております。ですが、納得していただける部分もあるのではないかと……」

「つまり?」

「神々は、決して一枚岩ではない、という事実です。貴女を利用したいと思う神がいれば、それに反したい神もいる。ルヴァイル様は、その反したい神々の一柱なのです」

 

 ミレイユは喉の奥で唸りを上げた。

 確かに、その部分は納得できる部分がある。

 一枚岩でないどころか、互いに反目しているのではないか、と言われる程、神同士は仲が悪い。それは信者の取り合いをする事からも分かるし、そしてユミル流に言うならば、シェアの奪い合いから起きる必然でもある。

 

 ミレイユを利用する事で得する誰かがいるのなら、それを妨害しようとする神がいるのも、決しておかしな事ではなかった。

 

「神々の、一柱ね……。つまり、他にも反したい者がいる訳か。因みに、それはあと何柱いるんだ」

「ただ一柱でございます。合計二柱の神が、このループに反したい神々です」

「半数に届く程いるか、と淡い期待を抱いたが……」

「まぁ、そんな都合良くいかないですよね」

 

 背後からルチアの声が聞こえたが、落胆というほど重いものではなかった。

 むしろ、たった一柱で無くて良かった、といったところだろう。勿論、それを信じるつもりならば、という前提ではあるが。

 

「そのループに反したいのが、その二柱しか居ないから、事を起こすのは慎重、というのも分かる。現状、他の神々同様、ループを起こす為に邁進しているように見せたいんだろうさ。最低でも、反目しているとは思わせたくない。――それもまた、分かる話だ」

「ご理解いただき、有り難い事です」

「そして、現在はその目的に沿った内容で推移しているんだろう? 私を昇神させたくない、という事も含めて。デルン王国の支配も、その一環なのか?」

 

 予想した通りなら、色々な都合が付きやすいデルンの傀儡化は必須だったろう。

 信仰を得る足がかり然り、他種族への弾圧然り、そして森へ圧力を掛けつつ維持すること然りだ。だが、その要であるスルーズを死なせてしまった。

 

 カリューシーが横槍を入れた所為もある。

 その挽回に来たのだと思うのに、結局スルーズを奪取すること叶わなかった。彼が死亡したところで眷属化は解けないだろうが、現在の意思は維持し続ける。面倒な事になるだろうし、梃入れも必要そうに思える。

 

 カリューシー殺害の件もあり、その何処に反目する神の意思が介在していたのか分からない。

 予想も付くが……予想は所詮、予想でしかなかった。

 

「そうですね、デルンの支配については、信仰獲得の一助として有効だからと採用されたようです。眷属化ほど強力な支配、というのはあまり無いので、有効活用したつもりのようですね」

「……だがそれも、今回で潰えてしまった訳だが?」

「構わないのです。予定通りですし、貴女が現れるまで維持されているなら、それで良かった。何しろ、ループが再び始まる準備に入った、という事ですので、別に支配が叶わなくなっても問題ないのです」

「私が……? つまり、あくまでその時まで維持堅守できていれば十分だと? 私さえ世界から追い出せば、それで後はどうとでもなると考えているのか?」

「乱暴な言い方をすると、そういう事になるようです。また、単に追い出すだけでなく、ループさせるという目的も叶えば、尚更あとの事は重要じゃないようですね」

 

 ミレイユは、またも長く息を吐いた。

 この時ばかりはナトリアから視線を切り、項垂れるようにして息を吐く。まるで膝に重石が乗ったかのようだった。

 

 一言返事が返って来る度――不都合な真実が顕になる度、その重石が一つ増えていく。果たして最後まで立っていられるのか、ミレイユは今や、その自信が持てない。

 ミレイユの表情は惨憺たるものになっているだろうし、既に尋問を打ち切って地下にでも放り込んでおきたい気分だったが、まさか本当にやる訳にもいかない。

 

 胃痛や頭痛だけでなく、胸痛まで身を蝕むのを感じながら、ミレイユは再び顔を上げて、尋問を再開した。

 



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虎穴に入らずんば その4

「これは実際、大変な事だぞ……。ループでやり直しを計っていた、そう思っていたが……実際はお前たちも、ループに寄る恩恵を受けていたのか?」

「私は多くを知らされている訳ではありません。ルヴァイル様が必要、と感じた情報を知るだけです。その部分については、お答え出来ません」

 

 その返答自体には納得できるが、内容自体に納得は出来なかった。

 当たり散らしたい気持ちをグッと堪え、眉根を寄せながら耐える。だが耐えられない者もいた。

 

 ユミルが前に出てきて、ズカズカと近寄ると、ナトリアと目を合わせて催眠を仕掛ける。

 正確には、仕掛けようとしたのだが、それより前に結界が邪魔になって、その働きを無効化されてしまった。

 

「ルチア! ちょっと結界邪魔だわ! 上手いこと催眠だけ透過させて! 洗いざらい吐かせてやるから!」

「無理ですよ、そんな都合の良い結界ある訳ないじゃないですか。催眠を仕掛けたいなら、結界を解いてからじゃないと……」

「馬鹿を言うな。封じている絶対有利な状況を、自ら放棄するなど有り得ん」

 

 アヴェリンがユミルを睨み付けながら言った。

 

「この女も、自らの死も覚悟して答えを選んでいる筈。下手な脅し程度では、口を割らんだろう。女の発言からその真偽を見出し、納得するまで質疑を繰り返すしかあるまい」

「こいつの味方が、救援に来ようとしていない限りはね」

「だからミレイ様は警戒を命じていたのではないか。亡霊に感知できたものは無いのか」

「……無いわ、今のところね」

「ならば今は、目の前の女から聞き出せるだけの情報を聞き出すしかないだろう。その上でミレイ様が真贋を見極め、然るべき沙汰を執り行ってくれる筈だ」

 

 言い終わって、アヴェリンが伺うような視線を向けてくる。

 ミレイユはそれに無言で首肯し、ナトリアを睨み付けた。

 

 アヴェリンの信頼は有り難いが、聞き出した情報の真贋を、正しく見極められるか自信はない。ナトリアに答えを隠す意図は無いと思っているが、その答えをどこまで信用できるか、という問題がある。

 矛盾がなければ、信用の置ける答えとはならず、また罠に嵌めようとするなら、騙せる答えを用意しているだろう。

 神々とは、どのような悪辣な手段も使う相手と、十分に理解していればこそ、当然の警戒だった。

 

 自ら敵に捕まって、それらしい答えを口にする事すら、こちらの思考を誘導する狙いなのかもしれない。言葉一つをまともに信用できない相手から、情報を聞き出すのは相当に骨の折れる行為だった。

 

「だが、裏付けは取れたような気がしてる。ループに寄る恩恵を受けているのが、私達ではなく、むしろ神々だとしたら……? 私を取り戻すのは、ループさせる事こそ目的だったとしたら? 昇神させたくない、という理由にも納得できる」

「恩恵とは言うけどね、そこにどんな恩恵があるってのよ? アンタはあるっていう前提で理論を組み立ててるけど、そもそも、そんなものがあるとは思えないのよね」

 

 ユミルの懐疑的な視線も理解できる。

 これはカリューシーと対話していた時に閃いた事だった。昇神させたく無い理由とは、つまり世界に根を下ろさせたくない、という事になり、つまり再び世界を越えさせる事が目的ではないのかと。

 

 ――そして、ボタンの掛け間違いである。

 その掛け間違いの発生が、オミカゲになる前のミレイユから発生していたなら、まさしくループを促しているようにも見える。

 

 だが確かに、そのループを起こす事で受け取れる恩恵となると、皆目検討も付かない、というのが正直なところだった。

 已むに已まれずそうなった、というのなら理解できる。だが、明確な意図を持って行う事に、どれほどの意味があるというのだろう。

 ミレイユは一応、ナトリアに目を向けて聞いてみる。

 

「どうせ答えを知らないと思うから聞いてみるが……神々はループを起こす事で明確な利を受け取れる、その前提でいるからカリューシーを殺したのか? 不義を働いたし、活用できる場面もないから用済みだと」

「いいえ、活用する為に弑し奉ったのです。元よりこれまで、と納得しておられました。ですから、ミレイユという話題の者が気になって、手を出してみたりしたのでしょう」

「活用する為……、あの光になって飛んで行った事か。炉として活用する為、贄となった……と見て良いのか?」

 

 ナトリアは困ったように一瞬眉根を寄せたが、しかし頷いて肯定する。

 

「そうですね。炉というものが私は何か知りませんが、神魂とは貴重なエネルギーです。その為に生命を燃やして貰う、という役目があります」

「エネルギーね……。世界の維持に必要、その様に聞いているが……間違いないか?」

「広義の意味では、その様になります。『遺物』を動かすには莫大なエネルギーが必要ですから」

「『遺物』だと……? それを動かす為に?」

「貴女もかつて、それを使って世界を越えた……そうでしょう? そして、用途に付いては様々な思惑があるとはいえ、これからも使う予定がある。ならば、充填させるエネルギーが必要です」

「それが、カリューシーの神魂か……」

 

 ミレイユは苦い顔をして目を逸らした。

 カリューシーに敵対の意思がないのは、既にその死を受け入れていたからだ。そして、本人も変わり種と言っていたとおり、事前に説明すら受けていた。

 

 神魂さえ用意できれば良いので、本来は昇神させるにも選定があるのだろうが、失う目処を最初から付けていたのなら、どのような神でも良かったのかもしれない。

 ただ最低基準を満たした神で、それを神魂として利用できるなら、どれほど義務を放棄する神でも問題はなかった……。

 

「『遺物』の起動と運用には、最低でも神魂か、それと同等の魂が必要です。例えば世界を滅ぼせる程の巨竜であったり、前世界から残った、四千年熟成された数多の魂であったり、とした具合に」

「――お前ッ!!」

 

 ユミルが堪えきれずに武器を取り出し、左手には紫電が掌を纏う。

 雷撃を撃ち出すと同時に刺突で顔面を狙ったが、ルチアの結界がどちらの攻撃も防いでしまった。ユミルはそれでも攻撃を止めなかったが、幾度も繰り返される攻撃でも、全く効果がないと分かると、息を乱して武器を仕舞う。

 

 その間も、ナトリアの表情に変化はない。

 悲しみを共有する訳でも、怒りに身を竦ませるのでもなく、ただ無視するように、ミレイユと視線を合わせていた。

 

 ミレイユはその視線を切ってユミルの肩を抱き、そっと優しく撫でる。

 ユミルもその手に自らの手を重ねながらも、ナトリアを睨み付ける事まではやめない。

 

「お前の気持ちは分かるが、あれに当たっても仕方がない。仕向けたのは全て神だ。そしてアイツは小間使いでしかない。その怒りは、神々にぶつけるまで取っておけ」

「……そうね、そうするわ」

 

 ユミルは最後にナトリアを一瞥して、それで元の位置に帰って行く。

 アヴェリンもルチアも声を掛けなかったが、労るような視線だけは向けていた。ユミルはその二人に目は合わさず、ナトリアだけを見つめて腕を組む。

 改めて尋問を再開する為、ミレイユも元の位置に戻って口を開いた。

 

「……しかし、『遺物』の起動に運用、ね……。最初から私達は履き違えていたのか。神々の利する事に関与していた、とは思っていたが、まさか自らガソリンを給油するような真似をさせられていたとは思わなかった……」

「貴女に『遺物』を使わせるに当たって、膨大な量を補充する必要があったようなので、精々活用する事にしたようです。『遺物』を起動と運用する為というには、大きすぎるエネルギーという気がしますが、それも色々な思惑の一つに当たるようですね」

「神魂一つで賄えない量、か……。堕ちた小神などと言って討伐させたのも、その為だったか。だが同時に、私を昇神させられるほど磨き上げる必要もあった訳で、だから一挙両得のつもりでやらせたのか……?」

「私はそこまで知らされておりませんが、大枠だけ理解している私でも、その様に思えます」

 

 お前の同意などいるか、と吐き捨てたい気持ちを堪え、鼻に皺を寄せるだけに留める。

 一手に複数の意味を持たせるのは、神々が良くやる事だ。それについて今更なにを言うつもりはない。

 

 そしてかつてと今とでは、状況が大きく違う、という点も考慮に入れなければならない。

 思惑についても、やはりかつてと今では狙いが違うだろう。あの当時、ミレイユの昇神を間違いなく狙っていた事だった筈。

 

 だが今は、逆に昇神を阻止し、そして送り帰す事を目的としている。そこに大きな矛盾を感じずにはいられないが、状況を鑑みればそうとしか思えない。

 狙いの転換が必要な何かが、神々の側にもあったのだろう。そして遠ざける事を目的としているなら、世界を飛び越えた先で昇神するのは、むしろ望むところだ。

 

 世界を越えて、そこで神として根差してしまえば、もはや戻りたいと思っても戻れない。報復は決して出来なくなる。遠ざける事を目的とするなら、むしろミレイユには、世界を越えた先で昇神して貰わねばならない。

 

 そしてそれを誘導する場面となるのが、勝利を前に舌舐めずり、とオミカゲ様が言っていた、あの状況になるのではないか。

 ミレイユの思考を誘導し、そうすれば起死回生、やり直す機会を持てる、と思わせる。だが実際は全くの逆で、自ら罠に入り込んだと気付いてすらいないのだ。

 

 なるべくして過去の日本に飛び、そして信仰を得て神となり、別世界に封じられる事となる。だがそれは、同時にループする世界を作り出す事にもなってしまった。

 ――そういう事ではないのか。

 

 矛盾はある。

 連れ戻しておきながら、送り帰す事を目的としているのは意味不明だ。それなら最初から放っておけば良い、と思えるのだが……。

 神々が馬鹿でない事は、既に理解している事だ。

 

 それならば、これにもきっと意味があるのだろう。

 渦中にいながら実情を全く知らないミレイユでは、及びもつかない計画などがあるのではないか。

 

 それ故に、全く意味不明の行動に見えるのだ。

 こればかりは、神々から直接話を聞くでもなければ、知りようのない事だろう。そして、それはミレイユに知られると拙いとも考える筈。全貌が見えない様に、その点も考慮して行動を起こしている、と考えるべきだった。

 ミレイユは歯噛みする思いで天井を睨み付け、腹の底で燃えるような怒りを鎮める為、細く息を吐く。

 

 ――そうして。

 今の考えをユミルたちへ伝えると、ミレイユと同じような顔をして表情を歪めた。

 憤懣やる方ないといったルチアは大人しい方で、アヴェリンとルチアは聞いた途端、その怒りを爆発させていた。

 

 ナトリアに怒りをぶつけても仕方ない、と諭されたばかりなので、暴力を振るってどうこう、という事はしない。しかし、ぶつけようのない怒りを持て余し、平静でいられなくなっている。

 今となっては、ナトリアを結界で封じていた事が逆に功を奏する結果となった。

 

 もしも縄で縛り上げているだけなら、アヴェリンは元よりユミルも、既に原型が留めないままに殴りつけていたに、違いなかった。

 



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虎穴に入らずんば その5

 アヴェリンとユミルが想像以上に怒りを顕にした事で、逆にミレイユは冷静になれた。怒りが消える事はなく、常に腹の底で渦巻いているが、しかし表に出さない努力をする事は出来る。

 ナトリアの目的は挑発ではなく、事実を口にする事だ。

 

 それが結果としてミレイユ達の怒りを買う事も織り込み済みで、それを覚悟して口に出している。そして怒りに任せて殺されてしまっても、それはそれで仕方ない、と思っている節すら見受けられた。

 ナトリアの瞳には小さな可能性に賭けるような、希望を夢見る色は浮かんでいない。

 

 あるがままを受け入れる、覚悟を持っている。

 それが神から下された命令によるものなのか、それとも他に意味があるかまでは分からなかったが、怒りに任せて処断する訳にはいかない。

 

 とはいえ、ミレイユ自身、その怒りを抑えるのには相当な努力を要した。

 結界内に封じているから何が出来る訳でもないとはいえ、常に注意と警戒を解けない状況も、心的負担になっている。

 ミレイユは何度目になるか分からない、長い溜息を吐いてから手を挙げた。

 

「お前達の怒りは分かるが、今は抑えろ」

「でもね……!」

「何もかも奴らの掌の上だった、それは分かっていた事だ。看破したつもりで、出来ていなかったのも初めての事じゃない。……そして何より、神使ごときに怒りをぶつけても意味がない」

 

 盛大に舌打ちをして、ユミルは顔を背けて腕を組んだ。

 意識を邸宅の外に向け、そちらの警戒へ注力する事にしたようだ。平静で感情を露わにしないナトリアを、見るのが嫌になっただけかもしれないが、今は好きにさせる。

 

 アヴェリンも怒りは煮え滾るようだったが、ミレイユが手を挙げた時点ですぐに納めていた。

 表出するものがごく少なくなったというだけで、怒りそのものを消した訳ではない。視線一つで害せるなら、ナトリアが無事で済まないと分かるような気配を発している。

 

 ナトリアはそれを平然と見える態度で受け流し、ミレイユに向けて真摯に頭を下げた。小さな角度でしかなかったが、そもそも拘束の所為で大きな動きが出来ない。

 

「冷静で状況を深く理解したそのご判断に、感謝いたします。ここで私が死ぬだろう確率は、五割を越えていました。そして、この五割を越えたのなら、先行きにも期待が持てます」

「また聞きたい事を増やしてくれたな……。正直なところ、今日はもう帰って欲しいぐらいなんだが」

「日を改めますか?」

「そうもいかないのは、お前が一番良く分かっているだろうが。……全く、仕方ない……」

 

 ミレイユは帽子を脱いで、髪を掻き乱しながら重い息を吐く。ストレスを幾らか緩和できないかと思ったが、全く気休めにもならなかった。

 恨みがましい視線を向けながら帽子を被り直し、改めてミレイユは問う。

 

「……それで? お前は……あるいはお前達は、ループの流れを認識している、と考えて良いのか? つまり、現在が何周目かも知っていると」

「私は存じません。知っている、或いは認識しているのはルヴァイル様のみ。時量の権能とは即ち、時の長さを量る事、それと認知する事に始まります。ですから、余人に分からぬ感覚も、ルヴァイル様には理解できるのです」

「なるほど……、まぁ権能の話だ。あれこれと突っ込んでも仕方ない。一先ずそれで納得するとして、だからこの状況すら過去幾度もあった事、と考えて良いんだな?」

「はい。正確な回数を私は存じませんが、だからこそ五割という数字を、ルヴァイル様から申し伝えられていたのです」

 

 それで良く平静でいられたものだ、とミレイユは目を細める。

 では本当に、伸るか反るかの賭けをしていた事になるのか。そして恐らく、ルヴァイルからすれば、失敗しても次のループに賭ければ良い、というつもりでいたのだろう。

 その繰り返し回数が増える分には、そしてそれを推進しようと振る舞って見える分には、全く問題にならないのだろう。

 

「あぁ、そうか……。つまり、ここまではループさせたい神々の思惑通りという事だな。私がここに姿を現すのも、そしてカリューシーがお前に殺されるのも、そしてこうして捕まる事も」

「細かな違いはあります。私が介入する事なく、カリューシー様が弑し奉られる事もあるそうなので。その場合でも、私はスルーズの死体を回収する役目として、貴女達と敵対する――するように見せる必要がありました」

「死体を回収する目的は?」

「使い道は、それこと色々と……。蘇生させて駒として再利用するか、リッチとして再誕させるか、その様な皮算用を立てているようですね。ただ、この回収は失敗する事が確約されているので、あまり意味はありませんが」

 

 じゃあ何故そんな事を、と口にしようとして、すぐに思い至る。

 ナトリアは――その背後にいるルヴァイルは、少なくともループを破壊できる確約を得られるまで、反旗を翻すつもりだと知られる訳にはいかないのだ。

 

 そして恐らく、反目している事すら知られる訳にはいかないのだろう。

 意外でも何でも無く、裏切りには苛烈な報復が待っている。

 

 だから覗き屋連中にもそれと分からないよう、協力しているように見せつつ、こうして接触を図っている。土下座して待っていたのも、その一貫だろう。

 そして土下座を知っている事が、即ち日本でミレイユがどの様に生きて行くかも知っている、と仄めかす事にもなっている。

 

 それを見せるだけで、まず攻撃するより拘束して尋問するのだと、予想が付いているのだ。

 或いは、それは予想というより、より確実な観測の結果から来るものなのかもしれない。

 

 そう考えると筋は通る。

 ――通っているように見える。

 

 ミレイユは眉間を指二本で叩きながら、ナトリアの目を見つめる。

 嘘を言っている様には見えない。というより、これまで一度も嘘を言ったような形跡はなかった。どこまで信じるべきなのか、迷いながら目を細める。

 その時、ナトリアが思わず、といった風に口を開いた。

 

「やはり貴女は、これまでのミレイユとは違う。短慮でも暴力的でもなく、非常に理知的で先の先まで思考を伸ばせる御方。ルヴァイル様が待ち望んだミレイユの様ですね」

「――貴様、調子に乗るなよ……ッ」

 

 堪りかねたアヴェリンが、語気を荒らげて前に出た。

 

「その理知的だとやらを感じたから調子に乗ったか? ミレイ様は勝手に口を開くな、と仰ったのだ。自分の立場を弁えろ!」

「仰るとおりでした、申し訳ありません」

 

 ナトリアは殊勝に頭を下げて――浅い角度で下げて謝罪した。

 アヴェリンは鼻を一つ鳴らし、元いた位置に戻る。その際ミレイユと視線が合い、勝手な行動を詫びる様に顎を下げた。

 ミレイユはそれに首肯を持って応え、改めてナタリアへ向き直る。

 

「まぁ、なるほど……。成功するまでやり直し、それは何も私が――かつてのミレイユばかりがして来た訳じゃない、という事か。そして恐らく、失敗を重ねて来た理由も、上手く行かない様なら失敗をさせようと、別々の意図を持ってループさせていたからか」

「はい、前提として神々のループ計画があり、そしてルヴァイル様が成功の見込みがないミレイユに対し、ループの輪から逸れぬ様、細かな調整をしていたと聞いております」

「……二つの意志を持って繰り返されていたというなら、今まで一度も脱却できなかったのも当然だな……」

 

 唾吐く様な思いで、ミレイユは固く瞼を閉じる。

 力任せに拳を握り、それでミシリと音を立てた。

 

 誘導する神と、矯正する神、やってる事は同じように見えても、実情は異なる。一つの思いで行われた事なら抜け道もあったかもしれないが、別視点で見た場合、そこに気付く事もある。

 その道すら防がれたなら、正に八方塞がりと言う他ない。

 

 ミレイユは努めて冷静でいようと心掛けながら、目を開いて拳からも力を抜いた。

 

「それで……お前の神もまた、ループを終わらせたいと思っていると。しかし、その為には単に助力するだけでは足りないようだな? 私自身の素質、気質、努力、忍耐、様々な要因なくては成功しないと考えている訳か」

「はい、その様にお考えであると思います。少しのテコ入れ、少しの助力で成功するものではないと……。何より神々への不信心が、この作戦を困難にしているのです」

「不信、ね……。まるでこちらが悪い様な言い方だな。歩み寄る努力が足りていないと? むしろ不信を植え付けた神々こそ、諸悪の根源だと思うがな」

 

 ミレイユが揶揄するように言うと、ナトリアは頷く。

 

「はい、ですから繰り返される事になっています。ルヴァイル様は、その助力を惜しみませんでした。それを振り払い、遠ざけたのは常に貴女方です」

「成功の見込みがあるミレイユに対し、だろう? やけに粗暴な自分というのも想像できないが、……多元宇宙の中には、そういう奴もいるんだろうさ」

 

 あるいは、粗暴にならざるを得ない出来事がその身に降りかかって、結果そうなってしまうのだろう。

 日本に帰還したものの、そこでアヴェリンを喪い、そうして荒れたミレイユなどは、きっと助言を受け付けなかったに違いない。

 

 そういうミレイユには、神が敷いたレールの上を歩いて貰い、そして確実に次のループへ行けるよう、神々の味方をする。

 そして今回の様に、見込みがあるミレイユには、こうして話を持ち掛けてくる、という訳だ。

 

 ループから脱したいのは、どのミレイユでも同じ気持ちだ。

 その気持ちを、取捨選択されていたのは気に食わない。

 だが同時に、成功の見込みなし、と見た者を切り捨てる気持ちも理解できるのだ。感情の問題を置いておけば、理屈の上では理解できる。

 

 再び瞑目し、細く長い息を吐きながら、ミレイユは背後のルチアに向けて声を掛けた。

 



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虎穴に入らずんば その6

「……ルチア、どう思う」

「信用出来るかっていう意味なら、まぁ……出来ませんよね。ここまで赤裸々に明かせば、敵意を向けられて当然ですし。それすら織り込み済みだとしたら、胸襟を開いているようにも見えますけど……。でもそれが、今回もループさせる為の詭計じゃないと、どうやって証明するんです?」

「結局、そういう話になるわよね」

 

 ユミルも会話に参加してきて、それぞれ意見を開陳する。

 

「そっちの口振りじゃあさ、それならどうすればループを脱出できるか、その道筋も理解できてるってコトでしょ? そして、その為にはアタシ達との共同戦線なくして成立しない、と考えてる。でもね、互いに目的は同じと言っても、結局道具としか見てないのよ」

「前回のミレイユ――オミカゲを見捨てて、次周の私へ接触したのも、つまりそういう事だろう? ループの脱出という目的は同じだとして、求める結果は違うんじゃないのか」

「……と、申しますと?」

 

 アヴェリンが顔を向けてきて、ミレイユはそちらには目を向けず、ナトリアを見続けながら答える。

 

「道具としか見ていない、というのは確かだろう。ループを終わらせる為には、最終的に私が犠牲になる必要がある、となれば、それを実行させようとするんじゃないか?」

「その様な事……!!」

 

 アヴェリンが(いき)り立って前へ踏み出そうとするのを、それより先にルチアが制する。

 

「待ってくださいよ。それなら胸襟を開いた説明なんて、必要ないじゃないですか。わざわざ敵意を持たれる情報なんて与えず、それらしい言葉だけ並べますよ。ミレイさんを罠に嵌めて利用したいなら、穏便な接触方法なんて幾らでもあります」

「……そうだな。穏便ですらなく、過激な方法も良しとするなら、ループを終わらせるには、暗殺が最も手っ取り早い」

「ですよね。単に断ち切るだけなら、別に難しくないんですよ。それこそ、スルーズを用いて我々を眷属化させて仲違い、なんて方法もありました。あれを奪って逃げる事が目的なら、段取りが悪すぎますよ」

 

 そうだな、とアヴェリンが頷いて剣呑な眼差しを、打ち捨てられたスルーズの死体へ向けた。

 

「一人だから無理なのであって、複数で事に当たれば持ち出せる。使い捨てられる駒など、それこそ事前にスルーズを用いて準備できた。それらの死亡と引き換えなら、実に割の良い取引だ。周回した記憶を持ち越せるルヴァイルなら、逃がす事も活用する事も可能そうだ」

「そうやって考えると、敵対する意志なし、と判ずる事が出来る訳だな。そしてループの終了も、単に終わらせれば良い、と考えている訳でもない、と推測できる」

「ちょっと、お待ちなさいな」

 

 信用に傾きかけていた推測を、止めるように声を出したのはユミルだった。

 

「それだけで敵意なし、と判断するのは早すぎでしょ。アタシ達がどれだけ簡単に倒せないか、なんて理解してそうなモンでしょ。うちの子から腕や足を一本奪っていくかのように、一人ずつ徐々に削る目的があるのかもしれないじゃない。最終的に仕留める為に、ループへ逃がさない為に、今は味方の振りをしているだけかもよ」

「有り得ない。目的が始末であるなら、これまでの説明の多くは必要なかった。油断させるつもりなら逆効果だし、仕留めるのが目的なら、やはり無駄な行動が多い」

「つまり、そう思考誘導するのが目的かも」

 

 ユミルは指を一本立てて、半円を描く様に外へと向ける。

 大神が憎いユミルには、最初から信じるつもりもないのかもしれない。だが、その単に否定したいだけの発言こそが、自分の望む答えへ誘導しているのではないか、と思った。

 

 ミレイユは少々不機嫌になりつつ、言葉を拾って反論する。

 

「そして信用を得たのち背後から刺す? 私のループを阻止するというなら、カリューシーの死はむしろ回避したいだろう。動力となる神魂を、むざむざ使わせる必要がない」

「神々の敵意を買いたくないからでしょ? 仲間面しながら、他の奴らが望むループを阻止しつつ、自分の目的を達成したい。だから、そういうポーズも必要なんでしょうよ」

 

 その発言は、素直に否定できないものがあった。

 ルチアも視線を斜め上へ向けながら、腕を組みつつ小首を傾げた。

 

「そう言われると……大体、神魂一つじゃ無理ではないかと思えますね。ユミルさんの同胞の魂が約三十、そして竜魂だって使っているようですし」

「そうよね? 世界を焼き尽くすと言われた程の竜、その魂をよ。それらが仮に神魂一つに相当するなら、つまりそれ位ないと無理って話にもなるじゃない。むしろポーズとして見せるなら、神魂一つ程度、十分利となる損失なのよ」

 

 ユミルの意見にも一理あり、単純に神々憎しで言っている訳でもないと分かった。

 ただやはり、決め付けに過ぎない事は留意しなければならない。

 

 相手は嘘を言っていない、誠意を持って真実を語っていると見るか、その逆で罠に嵌める為にやっている事と見るのか。そして、神々が目的を達成しようと思えば、ミレイユ達に気付かせず動かす事も可能だと、今しがた判明したばかりなのだ。

 

 それは単に情報不足から来る認識違いに過ぎなかったが、結局重要な情報がなければ、答えには行き着かないという意味でもある。

 開示している情報が嘘か真か分からない以上、その真贋は自らが見極めなければならない。だが、ここまで良いようにやられて来た事実を前にすると、簡単に可能だと口に出来るものでもなかった。

 

「つまり、伸るか反るか……そういう問題か」

「何ですって?」

「結局のところ、最終的にナトリアの言い分を信じられるか、という問題にしかならないだろう。それを振り払うかどうかも、こちらに委ねられている。ルヴァイルもそういうつもりで、こいつを派遣してきたんじゃないのか」

「……そうね。五割の賭け、そう本人が言ってたわね」

 

 そこばかりは否定できない材料なので、ユミルも不承不承頷いた。

 アヴェリンも言っていたように、スルーズをまだ利用したいと思っているなら、持ち去る事は難しい事ではなかった。

 

 より確実に罠に嵌めよう、という考えにしても同じ事で、姿を見せて事情を(つまび)らかにした上でやる必要はない。例え嘘で塗り固められていた内容であろうと、接触にはリスクが付きまとう。

 

「武器を突き付け協力しろ、と言われているんじゃない。こちらが武器を突き付け、事情を吐かせている側だ。無論、口にすること全て真実であるか、それを確かめる手段はない。だから、信用できないならナトリアを殺す何なり好きにしろ、と言ってきている」

「それもまぁ、……そうかもね。でもこれ、選択権を握らせているように見せて、実質あちら側が握っているパターンじゃないの?」

「いいや、ルヴァイルの目的が相互協力にあるのなら、握っているのは両方と見るべきだ。互いに、どちらもが好きに破棄出来る選択権だな」

 

 ユミルがあからさまに顔を顰めて鼻を鳴らした。

 

「こちらが意図せぬ動きをすれば、最初から反旗の意志なんて持ってませんって面して、他の神々と結託し出すって? そして次のループへ追い立てる? 信用できるとか以前の問題でしょ」

「意図せぬ、というほど窮屈なものじゃないと思うがな。結局のところ、ループ脱却の為に動くなら、その道を逸れる事など無い筈だから」

「そうは言ってもねぇ……。互いにいつでもハシゴを外せると言いたいのかもしれないけど、有利なのはアッチに変わりなくない?」

 

 ミレイユは苦い顔をして頷く。

 こちらもまた不承不承、諸手を挙げて賛成したくて言っている訳ではなかった。

 

「だから五分の賭けと言えるほど、良いものじゃないだろうな。だが元よりこの旅は、五分の勝利が見えていたものじゃなかった。むしろ負けが見えていた戦いで、そこからどう挽回できるか、という戦いだった筈だ」

「……それもまた、そうね」

 

 ユミルは顔を逸して息を吐く。重い、重い溜め息だった。

 ミレイユはその横顔を見つめながら、囁くように口に出す。自らも決して、諸手を上げて提案したいものではないのだ。

 

「……だから、伸るか反るかだ。ナトリアの言葉に嘘は無かったと思った。事実のみを語っていたように見えた。後は、その協力体制を申し出て来たルヴァイルを、信用できるかという問題になる」

「因みに、ミレイさんはどう思っているんですか……?」

 

 ルチアが難しい顔をして尋ねて来て、それで彼女も決めかねているのだと分かった。

 ここが分水嶺だとルチアも理解している。だから安易に答えを出せないのだろう。

 

「私も迷っている。だから聞いてみたかったんだが……」

 

 困った顔で笑うと、ルチアもまた似た表情で笑った。

 アヴェリンにも顔を向けてみたが、彼女からすればミレイユが決めた事に付き従う、というスタンスを崩さない。アヴェリンは元よりそういう気質なので、都合の良い時に答えを求めるのは難しかった。

 

 次いでユミルに顔を向けると、未だ横顔を向けたまま肩を震わせている。

 怒りか悲しみか、それは分からない。ただ、この大神と協力するのが屈辱とさえ思っているのかもしれなかった。

 

「ユミル、お前は気に食わないか」

「……そうね、気に食わない。それが最も今の気持ちを表した言葉かも」

「つまり、感情で否定したいと言っているのか? 理屈ではなく」

 

 ユミルは常に理屈で動くタイプではないが、感情を優先するタイプでもない。損得を自分の命も含めて計算に入れて考えられるタイプの筈だった。それを単に感情で否定寄りの発言をする、というのは意外でしかなかった。

 

 それに、反して考えれば、理屈の上だけの話なら、乗っても良いと考えている事にもなる。あるいは、一考に値すると思っている。では、それだけ大神が気に食わない、という話なのだろうか。

 

「お前自身も言っていたろう。ループから抜け出すつもりなら、保険を捨てる勇気が必要だと。……大胆な一手が必要とも言っていた。これはその大胆の内に入らないか?」

「……入るかどうかって話なら、入るかもね」

「元よりループという保険を捨てるなら、大きな賭けになるのは避けられなかった。それに、大神の中には利敵行為を働いている奴がいるかも、という話も出ていた筈だ」

「それが実際、目の前に現れたというなら動転する気持ちも分かりますよ。でも、一考するには十分な提案じゃないですか。何がそんなに、気に食わないんです?」

「――単に、気に食わないで済まないからよ!」

 

 ルチアが途中で間に入り、何気ないつもりで聞いた言葉には、予想以上に苛烈な答えで返って来た。

 



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虎穴に入らずんば その7

 ユミルが振り返って見せた顔には、怒りだけでなく、悲嘆も同時に表れている。自分でも持て余している感情に振り回され、制御出来ていないように見えた。

 

 ルチアにも意外だったに違いない。

 いつも飄々として、その本音を殆ど表に出さないユミルだから、敵意にも似た感情をぶつけられて、目を大きく見開いてしまっている。

 

 ミレイユはユミルを取り成すように肩を抱き、ゆっくりと撫でて宥める。

 それから、感情の昂りが収まるのを待って問い掛けた。

 

「……どうした、何が気に入らない? これが唯一無二の機会でも、これを逃した先にループを断ち切る手段がないとも言わない。だが、感情だけで否定するなら、それを考慮に入れる訳にはいかない。分かってるだろう?」

「分かるわ、冷徹な思考が必要よ。清濁併せ持つ、それこそが肝要かもね。利用できるものは利用する。それが出来るというならね、アタシの感情なんて考慮の必要すらない」

 

 かつて、それと似たような台詞を、本人の口からも聞いた。

 ユミルと視線が合わされば、言ってる事に嘘がないと分かる。ユミルは本気でその様に思っているし、そうするべきと思っている。

 

 だが、それなら気に食わない、という言葉は出ない筈だ。せめて気に食わないけど乗ってやる、ぐらいの言葉である筈だった。

 矛盾を孕んだ言葉を吐き出している事は、ユミルにも理解できているだろう。だから、その瞳には申し訳なさのような色で揺れていた。

 

「でも、感情的にもなろうってもんでしょ。こいつは――、こいつの主神はオミカゲを追い落としたのよ。今回は使い物にならないからと、選別した上、次周に繋げる捨て石にした……ッ!」

「あぁ……」

 

 ユミルが何を言いたいのか、それでようやく理解した。ミレイユは瞑目して息を吐く。

 それが必死の思いで挑んだ果てで失敗した、というのなら仕方がない。だが、ルヴァイルは確かに使えない――成功の見込みがないミレイユには、声すら掛けなかったに違いない。

 

 もしも接触があったなら、オミカゲ様は必ずそれをミレイユに教えていただろう。

 それを知らない、という事は即ち、ルヴァイルの選定から漏れ、そして次周へと追いやられたという事でもあるのだ。

 

「分かるわよ、それが神ってもんよね? 川底から石を拾い上げては、綺麗な石と汚い石を振り分ける気分で、必要なしとあの子を捨てたんだわ!」

 

 ユミルは吐き捨てるように言って、ミレイユを睨み付けて続ける。

 

「でもね、あの子は泣いてたのよ! 託されたのにごめん、不甲斐なくてごめんって! あの子がどんな思いで千年生きて来たか……! それを知ってて、冷静でいられるアタシじゃないのよッ!!」

 

 ユミルの振り上げた拳が、ミレイユの胸を叩く。

 遣る瀬ない怒りをぶつけた力は強いものだったが、普段の彼女を知っているなら、むしろそれは弱々しく思える。

 

 ミレイユは肩に置いていた手で引き寄せて、ユミルをきつく抱きしめた。

 ユミルは泣いていなかったが、身体は小刻みに震えていた。怒りによる震えもあったかもしれないが、泣くことだけはしまい、と思っているからかもしれない。

 

「あぁ……、ごめんな」

「何でアンタが謝るのよ……。アンタまで謝んないでよ……」

「お前の気持ちが分かっても、それを理由に、この話を流す訳にはいかないからだ」

「分かってるわ。感情抜きでも、信じられるかどうかは五分以下と思っている……。けど、アンタの決定には従うから」

「うん……。ただ、お前が予想以上にオミカゲを想っている事が知れたからには、欲張りにならなければ、という気持ちが強まった」

「それってつまり、乗るってコト? 失敗すればまたループ、そして最悪の場合は謀殺よ?」

「あぁ、そうだな。……だが、上手くやるさ」

 

 オミカゲ様にも言われた事だ。上手くやれと言われたからには、やってやる。

 心中でその様に誓いながら、ミレイユは身体を離して、その肩からも手を離した。

 

 自信あり気な笑みを見せたかったが、ユミルの表情を見るに成功していなかったらしい。困ったような笑みを向け、ユミルは顔が当たっていた辺りを二度叩き、それから元の位置へと戻っていった。

 

 その先では泣き顔を浮かべたルチアが、ユミルを抱きしめに行っている。

 ミレイユも元の位置に戻ると、アヴェリンが腕を広げて待っていた。

 

「……それは何だ?」

「いえ、必要かと思いまして」

「別にいらないが」

「でも絶対に不公平と言いますか、誰しも時にぬくもりが必要と言いますか……」

 

 ――それが本音か。

 隠しているつもりでなっていない言い訳に苦笑して、ミレイユはその腕の中に入って抱きしめた。背中に手を回して二度叩くと、すぐに離れる。

 

 アヴェリンも腕を回していたが、ほんの数秒の出来事に惜しむ目を隠そうともしない。

 だが忘れてはならないのは、未だ敵とも味方とも言えないナトリアが、目前で見ているという事だ。彼女の表情は相変わらず平静としたものだったが、その視線には生暖かいものが感じられる。

 

 ミレイユは帽子のツバを摘んで位置を調整しつつ、彼女の前に向き直った。

 

「……随分、待たせてしまったようだな」

「いえ、決してそのような事は」

 

 ナトリアは殊勝な態度を崩していなかったし、その様に努めてもいたが、視線から感じる優しさのようなものは癪だった。

 ミレイユは大いに顔を顰めたが、それについては何も言わない。

 敵と見定めていた相手を前に、あぁも無防備な姿を見せてしまった負い目もある。

 

「それで……? このパターンに行き着く可能性は何割だった?」

「詳細までは聞いておりません。ただ、この時点で協力を得られる可能性、というお話でしたら、一割も無かったかと……」

「フン……」

 

 ミレイユは更に眉間の皺を増やして、どこまで、何を想定しているのかに思考を移した。

 この時点でなくとも、この先ミレイユが心変わりをするなり、保留にしていた答えに決着を付けるなりするのかもしれないが、協力体制に持っていく展開はあるらしい。

 

 そして、その少ない確率の先にある最善を得られるまで、ルヴァイルは幾度でも繰り返すつもりでいるのだろう。

 他の神々と目的は違えど、何度でもループさせるという意志については同様だ。そして、ルヴァイルなりの勝利条件を満たさない限り、仮にミレイユだけがループから脱却するような展開があろうと、それを認めないに違いない。

 

「つまり、こういう事か。――互いに合意できる勝利条件を満たせていない。それが困難だから、何度もループさせられている」

「なんと、まぁ……!」

 

 ナトリアは目を見開いて感嘆の溜め息を吐いた。

 

「この時点で、その事実に気付いたのは、貴女が初めてかもしれません」

「褒められている気はしないが、……そこは置いておいてやる。ループさせている意志は神々と、お前の主神と別にある。それを今更ケチ付けるつもりはないが……では、どういう理由か教えろ」

「存じ上げません」

 

 ナトリアがきっぱりと断言すると、ユミルが前に出て細剣を取り出し、左手に紫電を纏わす。

 

「ルチア、結界解きなさい。尋問なんて生ぬるいコト言ってるから、調子に乗せるのよ」

「ちょっとちょっと、ユミルさん……」

 

 ルチアの制止を聞かず、ユミルはナトリアの前に立って凄みを利かす。

 

「ほら、アンタ。この時点で拷問受ける可能性は何割よ? 腕を切り落とされる確率は? 目をくり抜き、耳を削がれるコトだって予測済みでしょ? 誰かさんが優しいからって、アタシまで優しくしてくれると思ってるんなら、大間違いだからね」

「それも存じません。私は本当に、必要な事しか知らされていないのです。聞かれた事には全て、正確に答えるよう申し付けられていますが、知らない事には答えられません」

「ふぅん……? 正確に、ね。()()()()、では無いワケか。中には嘘でありつつ、そう答えろ、と言われたコトもあるのかしらね?」

「何一つ、虚言は申しません」

「アンタが口にする分にはね。だってアンタは、嘘を教えられているコトすら知らないんだから。そういうコトでしょ? その全てが嘘だろうと、アンタは真実を話しているつもりだものね?」

 

 ユミルが更に顔を近づけて、紫電を纏った掌をナトリアへ近付ける。

 結界越しに顔面へ向けられているとはいえ、その迫力は凄まじい。いつ結界が解けて、その電撃が顔面に直撃するかも分からない状況だが、ナトリアは平静を崩さなかった。

 

 それがまたユミルの機嫌を損ね、紫電を握った拳でナトリアを殴りつける。

 当然結界に阻まれるが、激しくぶつかる音と光が眼前で爆発し、思わず彼女の顔も揺れた。元より大きな動きを許されないから、それだけの動きしか出来なかったかもしれないが、やはり表情に動きはない。

 

 流石にこれ以上好きにさせると話が進まないので、ミレイユはユミルを下がらせる。

 ユミルの脅しで何か動きを見せるか、と小さな期待を持っていたが、結局反応を示さなかったのも、想定どおりと言えば想定どおりだ。

 

「……では、他に何なら話せる?」

「協力体制が結べるとなれば、ルヴァイル様が直接ご対面なされます。私の言葉が信用できないのは当然、ならば直接お聞きになられれば宜しいかと……」

「――会えるのか」

 

 思わずミレイユの声も僅かに上擦った。

 ユミルは凝視に近い表情でナトリアの顔を伺っているし、アヴェリンもルチアも、驚きの眼差しを向けていた。

 ナトリアは僅かに動く首を、上下に動かし首肯する。

 

「はい、詳しい日時などは、現在お伝え出来かねます。ですが、この場で私が解放される事になれば、ルヴァイル様は対面する機会を設ける事は間違いありません」

「その、お前を生かして帰すことが、対面する条件と言う訳か」

「即座に協力するという確約ではないにしろ、非常に近い段階である、と判断される事の様です。だから身柄の解放にも難色を示されないのだと。大抵の場合は、もっと……」

 

 ナトリアは言葉を濁したが、何を言いたいかは分かった。

 先程ユミルが見せた様に、尋問から拷問に変わったりするのかもしれない。確かに考えてみると、なりふり構っていられないミレイユは、拷問を許可するだろう。

 

 そして前回のミレイユ――オミカゲ様の様に、非常に危うい精神状態なら、拷問されると分かって遣わせる理由もない。オミカゲ様が出す話題にルヴァイルが無かったのも、恐らくそれが理由だろう。

 

 ミレイユの意志は、もう決まっている。

 ユミルにも睨みを利かせて勝手をしないよう言ってから、ルチアの方へ顔を向け、腕を上げて合図した。結界が解除されると同時、ほんの僅かに浮いていたナトリアの足も地面に着く。

 解放された事に安堵する息を吐いて、顔色を青くさせたナトリアが笑みを浮かべた。

 



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虎穴に入らずんば その8

 顔が青い事からも分かるとおり、その笑顔が虚勢だとは直ぐに分かった。

 何しろその足が僅かに震えている。着ている服からも分かり難いが、ミレイユの観察眼を誤魔化せるものでもない。

 

 だが、ナトリアを侮るつもりは無かった。

 むしろ、今まで見せていた平静が演技だと分かって安堵したぐらいだ。五割で失う命、その上で先々の話し合い次第で、更にそのリスクを負い続ける。

 

 喉元に刃を突き付けられた上で行う交渉、彼女にとってはその様なものだ。緊張しない筈がない。そして今、あたかも安全が保障されたように見えるが、むしろ逆だ。

 結界という物理的に身を守るものから解放されれば、殺されないまでも、攻撃を受ける可能性は強まる。

 

 特にユミルが見せた敵意を知っていればこそ、手足一本程度の損失は考慮せざるを得ない。そう思えば、彼女の顔色の悪さも納得がいった。

 このパターンで結界を解除されたなら、攻撃を受ける可能性が非常に高いのではなかろうか。

 何が起こるか不明よりも、知っているからこそ恐ろしい――そういう事も有るかもしれない。

 

 ミレイユはそれぞれに目配せさせて、手出し無用と伝える。

 未だ気を許したつもりもないし、互いの勝利条件を確認し合わなければ信用も出来ないが、そのつもりがある、と示唆するぐらいは、見せておかなければならない。

 

 裏切るつもりがあるのは、お互い様だ。

 現状がルヴァイルにとって都合が良いのだとしても、ミレイユにとってループを抜け出す手段として、気に食わなければ反故にする。

 

 ルヴァイルが何としてもループに落とすつもりでいるというなら、ミレイユも何としても脱却するよう動くだけだ。オミカゲ様が見えていなかった事も、今のミレイユには見えている。

 ――可能性の話はしたくないが……。

 成功の公算は低いにしろ、やってみる他なかった。

 

 ミレイユはナトリアに向けていた視線を切って、ルチアへと向ける。

 ナトリアが何を察したのか、その肩がびくりと震えた。

 

「ルチア、茶を用意してくれ。先程ヴァレネオ達と使ったテーブルで、少し話す」

「大丈夫なんですか、そんな事して?」

「良いかどうかも含めて、そこで考える。いい加減、立っているのも見張っているのも疲れてしまった。……そういう訳だから、ナトリアも付いて来い」

「あ……、う……」

 

 そこで初めてナトリアが動揺を見せた。

 逡巡するのも初めての事で、どうすれば良いのか分からない様に見える。ミレイユが歩き出しても動こうとしないナトリアを見て、ユミルが乱暴にその背中を小突いた。

 

「早く行けっての。アンタに断る選択肢なんてあると思う? ……あぁ、勿論拒否してくれても良いわよ。アタシはアンタを攻撃できる、大義名分ってやつを常に求めてるから」

「そう脅かしてやるな。何もしやしない。お前が何もしない限り、そしてお前の仲間が襲撃に来ない限りは」

「は、は……ぃ」

 

 か細く返事をして、今度こそ大人しくミレイユの後を付いてくる。ミレイユとの間にアヴェリンが素早く身を滑り込ませ、ナトリアの後ろをユミルが刺さるような視線を向けつつ追った。

 

 上座となる席にミレイユが座ると、その両端にアヴェリンとユミルが座る。

 最も遠い、そしてミレイユの正面となる席にナトリアが、おずおずとした仕草で腰を下ろした。その姿を見ていると、これまでの平然とした姿は全く想像できない。

 

 これは果たして、これから攻撃される事を確信しているから見せる姿なのだろうか。

 ユミルを激昂させる何かを言わなければならない、そういう事なら納得できそうなものだ。ミレイユに攻撃する意志も今のところはないが、何を言われたところで我慢できるとは言えない。

 

 その様子をつぶさに確認しつつ、ルチアのお茶を待つ。

 それほど時間が掛からず持って来て、それぞれの前に茶器を置いてから、ルチアはユミルの隣に腰掛けた。

 

 それぞれがお茶に口を付けて、ホッと息を吐いたが、ナトリアは青い顔のまま手を付けない。

 不審にしか思えない行動だが、既に平静を取り繕う努力も放棄しているように見える。何を言うつもりか、何をするつもりか、その一挙手一投足を見逃さぬつもりで声を掛けた。

 

「……さて、私は最低限の配慮を示したつもりだ。ルヴァイルと対面するには、お前を帰す必要があるというなら、そうさせるさ。待っているのは罠かもしれない、それも含めて飲み込んでやる。結局のところ、私達が選べる行動も多くない」

「は……、それについては……」

「毒など入れてない、一口飲めば落ち着くんじゃないか? そんな事で正しく判断を下せるのか?」

「は……、えぇ……そうですね」

 

 ナトリアはカップに手を伸ばし、取っ手を掴むとカチャカチャと耳障りな音を立てた。

 青い顔を大仰に顰め、悔いた表情を見せる。

 

 ユミルが小馬鹿にした様に鼻を鳴らすと、ナトリアの表情は更に暗くなる。

 それでようやく理解した。緊張している事、動揺が大きい事、それを少しでも見せたくなかったのか。確かに弱い姿を見せたくない気持ちは分かるが、緊張している事など既に知れている。

 

 隠せているつもりだったなら、余りにミレイユを甘く見過ぎだった。

 ナトリアは一口だけ口に含むと、やはり耳障りな音を立ててカップを置いた。

 

 ミレイユの目が思わず細くなる。

 何をそこまで彼女を緊張させるのか。五割の死すら飲み込んで、ミレイユの交渉役として臨んだ彼女だ。拷問が恐ろしくない人間などいないだろうし、これまでの虚勢も大したものだったが、ここに来て完全に化けの皮が剥がれるというのも、意外に思える。

 

 確約された痛みが恐ろしいのか、と思っていたいたが、むしろこれは逆かもしれない。

 全く、何も予定になかったから恐ろしいのか。こうなる予想が一つとして立っていなかったから、一切の見通しが立たないから恐ろしいのかもしれない。

 

 つまり、彼女は今、神の権能の庇護から外れているのだ。

 神さえ見通していない例外が、今まさに起こっている。それが恐ろしいのかもしれなかった。

 ミレイユは紅茶で口を湿らせて、視線を合わせまいと、やや下を向いているナトリアに声を掛ける。

 

「こんな事態は予測すらされていなかったか? 未知が恐ろしいか」

「――はっ、あ、いえ……」

「お前にとっては、己の死よりも、確約された拷問よりも、神が見てない未来の方が恐ろしいんだな」

「それは……ッ! ……いえ、仰るとおりです」

 

 ナトリアは弁明しようと口を開いたものの、直ぐに肩を落として首肯した。

 

「随分、素直でしおらしいコト……」

「今まで一度も茶を振る舞う世界など無かったのか、あったが極小確率だから教えていなかったのか、それで話は変わって来そうだが……」

「今更、確率の大小を言っても仕方ないじゃないの。アタシたちにはその数字が正しいかなんて、理解できないんだし」

「それもそうだな」

 

 ミレイユは謝意を示すような頷きを見せて、ナトリアへ向き直る。

 

「どちらにしろ、私にとってはこの道一本しか見えていない。他に有ろうが無かろうが、関係ない事だった。だが、お前にとっては違うようだな」

「ナトリア、というより……ルヴァイルにとって、と言う方が正解な気がしますけどね。――ともかくも、帰す事は決定なんですよね?」

 

 ルチアが小首を傾げて尋ねて来て、ミレイユはカップを口に運びながら頷く。

 

「……そうだ。懸念があるなら聞くぞ」

「懸念と言う程では。これが罠であれ、他の大神の思惑を躱し切れないのであれ、ミレイさんに付いて行く事には変わりないですから。それ以前の問題でして、ここで一緒にお茶を飲む必要ありました? あそこで帰参させれば良かったのでは?」

「最もだが、コイツの様子が気になった。危害を加えられると怯えていたのか、仲間が来る事で逆上して殺されると思っていたのか、それとも他に理由があるのか。それを探りたいと思ったが……。どうやら、どれでも無いようだしな」

 

 ミレイユの答えに納得して、ルチアもナトリアへ顔を向けて頷く。

 

「一応、今のところ……上辺だけとはいえ、協力関係を築く姿勢を見せなければなりませんものね? 簡単な饗し位は、してやらねばなりませんか」

「そうだな。……あぁ、そうだ。一つ……、いや二つ、聞いておかねばならない事が残っていた」

 

 ミレイユが言うと、ピクリと肩を動かして、ナトリアが顔を上げた。

 強い警戒心が伺えるが、むしろそれを持ちたいのはこちらの方だ。

 

「我々を森へ追い込んだ理由は何だった? これは別に、カリューシーが指定した事じゃないんだろ? 大元ではアイツも、ルヴァイルの指示で動いていた筈だ。罠以外で、敢えてここを指定した理由を知りたい」

 

 聞いた内容は、ナトリアにとって既知のものだったらしい。

 瞳を(しばたた)かせてから、明らかに安堵した表情で息を吐き、それから緊張を感じさせない声音で言った。

 

「はい、それはスルーズの死体を確実に処理する為、そして私を偽装殺人する為です。交渉失敗したと思わせる必要があり、本当に失敗したなら、実際死体は捨てられ燃やされます。成功したなら、スルーズに私と同じ服を着せ、それを捨てて燃やして欲しいのです。それで幾らか目を誤魔化す事も出来ますので……、その一石二鳥を狙った、というところで……」

「この森に追い込んで、やる必要があったか……?」

「秘密裏の密会をするには、都合が良かったんでしょ。外敵が忍んで接近するには難しい状況だし、直に確認する事は難しい。でも空から注目されてるんだろうから、交渉結果がどうであれ、失敗したと思わせるに都合が良かったんでしょ」

 

 ユミルが解説してくれて、あぁ、とミレイユは納得した声を出した。そして、その言葉を引き継いで続ける。

 

「ルヴァイルは課せられた仕事を果たそうとした、そう見せたかったんだな。実際カリューシーを殺し、その上でスルーズも回収しようとする。だが失敗した、と見せたい訳だ。そして覗き屋連中には、ルヴァイルは未だ、共通目的の為に邁進している味方だと錯覚させたい、と……」

「では現在、ルヴァイルは疑われている状況なんでしょうかね。でもとりあえず、今回の偽装で確信に近い感情を得られると。それがつまり、スルーズの死体の始末と、貴女を殺して燃やした事と繋がる訳ですか」

 

 ルチアも納得しながら頷いて、ミレイユはあぁ、と小さく声を上げて手を振る。

 

「聞きたいことの二つ目は、それで解決した。スルーズの死体はどうするのか、どう処分したいのか、だったんだが……この外で燃やすのが良いのか。……しかし、首なしの死体では誤解しないんじゃないか?」

「そこまで気にする御歴々ではありません。私が捕らえられ、拷問の果てに首を切られ捨てられた、と誤認します」

「そうなると、お前はもう外を歩けなくなる訳だが?」

「私個人の顔を認識している方々ではありません。ルヴァイル様の神使が一人、拷問の結果捨てられた、その部分だけ理解されるでしょう」

 

 薄情な様だが、その部分については納得できる。

 そもそも、神々からすれば他の大神の神使、その顔まで覚えている方が異常だ。よほど付き合いの深い大神同士でもない限り、付き人の如き神使の顔を覚えるものではないのだろう。

 

 だが、それならそれで別の問題が出て来る筈だ。

 ミレイユはそれを訊いてみた。

 



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虎穴に入らずんば その9

「しかし、そうするとスルーズの死体の所在はどうなる。紛失したと騒ぎになったりしないか?」

「あるいは、アタシ達が確保しているように見えるかも? それってどうなの?」

 

 ユミルもそれに疑問を持って口を挟むと、ナトリアは首を左右に振ってから答えた。

 

「問題はございません。スルーズの死体が室内から出て来なかろうと、因縁有る相手だと既に理解されております。単に燃やす以上の苛烈な処遇をされている、と納得されるのです」

「あら、そう……? まぁ、実際アタシからすると、燃やして即お終いにしたくない気持ちがあるし、間違った推測じゃないかもね」

「それはそれで良いが……、それならお前は、どうやってこの場を脱出する」

 

 ミレイユがナトリアを見ながら問うと、ゆるりと左右へ顔を振って答えた。

 

「長時間の潜伏も必要ありません。表に投げ捨てた死体が灰になる頃には、安全に離れる事が出来ます。その時点で、神々からも注目するに値する出来事は、全て消化された事になるので、ここへ目を向けている事も無いのです」

「なるほど、ならばそれで良いが……直ぐに始めるか? スルーズに着せる服は、お前が持ってるんだろう?」

「はい、お許し頂けるなら」

 

 許すも何もない。

 始めたいというなら、そうさせるだけだ。一瞬、ナトリアが着ている服を使うのかと思ったが、こうなる事を想定しているなら、当然スルーズ用の服も準備している筈だ。

 

 用意したのがナトリアなら、その為の着替えをさせるのもナトリアだろう。

 だが、監視の目は必要だと思っていると、ユミルが立候補して手を挙げた。

 

「やれって言うなら、勿論その役はアタシがやるわよ」

「そうだな。せめて燃やす役は、ユミルの方が良いだろうし。そんな事で溜飲が下がるとも思えないが、他の誰かに譲るものでもない」

「良く分かってくれるじゃない。それに、ナトリアが変な真似したら、即座に手が滑ってしまえるしね」

「うん、一応ルチアも連れていけ。何をするにしろ、目の数は多い方がいい」

「アンタは……?」

「そこまで大人数で見張る必要はないだろう? 任せる。私はここで待つ事にする」

「了解よ。すぐ済ませてくるわ」

 

 言うなり立ち上がって、ナトリアを促して先頭を歩かせる。

 ルチアもそれを見ながら立ち上がり、離れる前に困ったような笑みを浮かべた。面倒な監視役を押し付けられた様なものなので、ちょっとした不満を見せた、といったところだろう。

 

 何かの形で穴埋めが必要だな、と思いながら、ミレイユはカップを持ち上げる。

 アヴェリンと二人、死体の処理が終わるのを雑談しながら待った。

 

 ――

 

 首も腕も無いとはいえ、ひと一人を着替えさせるというのは、手間の掛かる作業だったろうが、三人が帰って来るのは早かった。

 出入り口はここから離れていないので、その物音も聞こえていたが、話し声が一切なかったのは、やはりナトリアがいた所為だろう。

 

 不審な真似をすれば、即座に首を落としてやろう、などとユミルは思っていただろうし、ルチアも同様目を光らせていた筈だ。

 そこで陽気な会話が始まる筈もない。衣擦れの音と、重い物を持ち上げたり落としたりする音が聞こえていたぐらいで、他に音らしい音もしなかった。

 

 最後にユミルが放った魔術の片鱗を感じ取り、何かが燃える音がしたところで、三人は再び食堂に顔を出したのだ。

 最終的に、掛かった時間は十分前後でしかなかっただろう。

 労いの言葉を掛けると、ユミルは肩を竦め、ルチアは得意げに笑みを浮かべて席に座る。

 

「血の跡や破損した扉も修復しておきました。どちらもあのままじゃ、気分の良いものじゃありませんでしたからね」

「あぁ、それは助かる。ありがとう、ルチア」

「どうしたしまして」

 

 ルチアがにっこりと花開く笑顔を向けると、ユミルは不満も顕にミレイユを小突く。

 

「ちょっと、アタシにも何かないの?」

「お前の何に労いをすると言うんだ。……それで、燃え尽きるまで何分くらいだ?」

「三十分程度じゃない? 臭いがしたら嫌だから、離れた所に置いたし、飛び火しないよう結界で囲って貰ったから……長くても一時間は掛からない」

 

 ミレイユは幾度か頷く。

 火や熱が逃げない構造になっているなら、使った魔術にも依るが、確かにその程度で済みそうだった。ミレイユたちはこの家で待機する必要はないが、ナトリアを一人残すのも不安が残る。

 

 事ここに至って邸宅に何か仕掛けるとも思えないが、しかし警戒を疎かにも出来ない。

 彼女が自ら姿を消すまで、見張っていたいと言うのが本音だった。

 

「では、それまでここにいるとして……。そうだ、ナトリア。神々はデルンを使って、まだ何かすると知っているか?」

「はい、スルーズが死のうとデルン王は森への確執を消しませんので、攻め立て続ける事になります」

「森から離れられないって事でしょうか?」

 

 ルチアが不満気に眉根を顰めると、それにナトリアは首を横へ振る。

 

「毎日の様に兵を送ってくる訳ではありませんから、外に出る事は難しくありません。むしろ、遠く離れた時に多数の兵を動かして、森の防備を促そうとするでしょう。だから、この周辺にいる限りにおいて、兵は動きません」

「森を見捨てない、と思われている訳だな。それが泣き所だと認識していて、だから遠方に行けない手を打ってくると……」

「神々はミレイユを森へ貼り付けて置きたいのです。その思惑がある以上、貴女方の助力が必要になる程度は、兵を送り込むことをやめません」

 

 ミレイユは重く息を吐いて、帽子を脱いでは髪を掻き上げる。

 

「それもまた、私を森へ追い込んだ事の一環か? なぜ森にいて欲しいんだ」

「別に森で無くても宜しいのです。仮に今回、貴女が森を見捨てていれば、同じ様に貴女が庇いたいと思う対象を攻撃していただけ。いつかは、いずれは、貴女が足を止めて守ろうとする対象を見つけ、そこに縫い止めようとします」

「だから、それは何故なんだ」

「時間が欲しいからです。現在、神々にとっては詰みに持っていきたい状況で、そして時間は味方だと思っています。稼ぐ程に貴女は不利になっていく。それが狙いです」

 

 ミレイユは掻き上げていた手をそのままに、思案顔で動きを止める。

 時間は常にミレイユの味方をして来なかったが、かといって今回、それが敵になるとも思えない。悠長に時間を掛ける事でもないかもしれないが、明確に時間制限が切られている訳でもない筈だった。

 

 だが、時間が神々の味方をする、というのなら、今回もミレイユにとって時間の浪費は悪手だという事らしい。

 だが、その理由までは、皆目検討も付かなかった。

 

「是非とも、その理由とやらを教えて欲しいんだがな」

「私は存じ上げません」

「またそれか……」

 

 ミレイユは手を戻して溜め息を吐く。

 ユミルからもアヴェリンからも剣呑な視線がナトリアへ向くが、知らない事は教えられないのは道理だ。仕方がない、とここは素直に諦める。

 

 焦らずとも――それが罠でない限り――ルヴァイルとの対面が叶う予定だ。その時に聞けば良いだけだ。結局、今回の交渉役としてナトリアに与えられた情報は、ごく限定的に過ぎないと見ている。その事には余程の自信があった。

 むしろ知らない事の方が多いぐらいだろうし、ここで下手に質問して知らないと答えられるより、ルヴァイルから聞いた方がストレスは少ない。

 

 あちらが正直に全てを開陳するか、という疑問もまた存在するものの、今はそこに期待するしかなかった。

 考えるだに頭の痛くなる問題に息を吐き、二人に向けて手を振る。

 

「……ナトリアを責めるな。私にしても、交渉役に過ぎないナトリアが何もかも知ってるとは思っていない。ユミルという、強制的に情報を吐かせる手段を持っている以上、むしろ現段階で知って欲しくない情報は絶対教えない」

「それも、……そうよね。特にアタシ達が心変わりするかもしれない情報は、例えあったとしても、コイツに教えている筈がない」

 

 その言葉に引っ掛かりを覚えたのはミレイユも同様だったが、それより早くアヴェリンが詰めるように口を挟んだ。

 

「それはつまり、ここに縫い留められる事、時間を稼がれる事が、その()()()()に該当する情報だ、と言いたいのか?」

「分からないけどね、そうかもしれないって思っただけ。だって、別にこの森に拘っているワケじゃないんでしょ? 足止めが出来れば、それはどこだって良いみたいじゃない。じゃあ、それを知ったら、アタシ達は移動を決意するって意味になるもの」

「移動、……移動か。……単に移動と言っても、現状どこかを目指すという目的など無かった筈ではありませんか?」

 

 アヴェリンが疑問を表情に貼り付けて、ミレイユへと顔を向けてくる。

 彼女の疑問にはミレイユも頭を悩ませていて、単に移動させる事が目的とは思えない。むしろ、時間を浪費する事で、移動を余儀なくされるのではないか、という気がした。

 

「……うん、だから切羽詰まって、何かを強いられる……そういう事になるんだろうな。それをする為、移動しなくてはならないのだろう」

「神々の目的……それってミレイさんをループさせる事でしょう? じゃあ大神の誰かが目の前にやって来て、それで転移させるんでしょうか。オミカゲ様がしたみたいに、目前で孔を開いて……」

「有り得ない話じゃないが、イメージし辛い。盤面の指し手が駒として降りて来る事は、まず考えられないだろう。それをするぐらいなら、策を用いて私達をこそ動かそうとする」

 

 ですね、とルチアも一応の納得を見せたが、それなら何故、という思考は止まらない。顎の先を摘んで自らの考えに没頭し始めた。

 

「ループさせたいから、アタシ達を動かそうとする、というのは良い線な気がするわよね。でも、それは今すぐじゃないワケか」呟く様に言って、かくりと首を傾げる「……なんで? 別に早いとか遅いとか、そこ関係なくない?」

「遊びを考慮に入れないなら、そこは早くても問題ない筈だな。だが、時間を稼ぐ、という後ろ向きな行動が答え、という気がする」

 

 ふぅん、とユミルが眉を顰め、ナトリアへと視線を向けた。

 ミレイユもつられるように視線を向けたが、そこに答えを得られそうな感情は浮かんでいなかった。ただ、意外というだけでなく、驚愕に近い表情がそこに貼り付けられていた。

 

「なんだ、どうした……?」

「いえ、その……。あまりに思考の過程が洗練されているな、と感じまして……。ここまで冷徹に、冷静に、俯瞰して物事を見られるのは、神々にしても稀な事かと……」

「……そうなのか? このぐらい当然なんじゃないのか」

 

 そもそも、その思考プロセスにしても、ミレイユ一人で考えている訳でもない。ルチアやユミルが同じ様に考えてくれるからだし、そこへ思考の外にいるアヴェリンが思わぬ一言を加えてくれるから成立しているようなものだ。

 精神性について自覚はないが、神とはその様なもの、と思っている。

 

「考えるのが得意な奴らなんだろう? 神人とは良く言ったもの、とアイツは言っていたけどな」

「確かに魂を素体に入れた存在を、神人と呼称しています。ですが、誰もが高い思考能力を持っている訳ではないと思います。カリューシー様は、接触できた神々の数も少なかった筈ですので……」

 

 意外な気持ちがすると同時に、納得できるものもある。

 その戦闘力にしても大小があるように、知能や思考能力に上下がある事に疑問はない。奸計、詭計が得意な者ばかりでなく、中には力押しが得意な神もいるのだろう。

 

 そこは個性の範疇だから良いとして、しかし漠然と誰もが高い思考能力は持っているのだと思っていた。ナトリアに言われるまで、その全員が自分と同じ事くらいは出来る、と思っていた。そして、そうである筈、という前提で考えてもいたのだ。

 

 意外な発見であると同時に、これはナトリアが意図せず漏らした情報でもあるのだろう。

 ルヴァイルの指示とは別に持っていた知識で、だから信用してもよい内容、だと判断した。

 ――神々とは、決して有能集団の集まり、という訳ではないのかもしれない。

 



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虎穴に入らずんば その10

 予想外に考えさせられる題目が浮き上がって、つい議論にも熱が入った。

 結局、情報が少なすぎて結論に至れなかったが、その部分についてはルヴァイルとの対面を待てば聞ける内容だろう。

 

 素直に教えてくれる、という前提であるものの、協力関係を築くというなら、不利に陥る情報は隠さない筈だ。そしてナトリア曰く、今回のミレイユは()()()の部類だ。ルヴァイルの目的を遂行できそうなミレイユであり、だからこそ足の引っ張り合いや不和は望まない筈だった。

 

 与えられる情報全てを鵜呑みにするのは危険だから、同時進行で推察しておく必要はあるだろうが、考えれば出る答えでもない。

 

 ミレイユは思考に一区切り付けると、息を吐いて眉間を揉む。頭痛が中々、消えてくれなくて不快だった。

 この後はどうする、と声を出そうとして、それより前にユミルが声を上げた。

 片目を瞑った瞼に指先を当てて、遠見をしながら教えてくる。あれは亡霊と視覚を繋げて見る、死霊術の技術だった。

 

「こっちに誰か来るわ。……いや、誰かって言うか、ヴァレネオとお付きっぽい兵士が三名。あちらが一段落ついて、動きを見せないアタシ達に痺れを切らしたんじゃないかしら」

「今どこにいる?」

「離れから出てきたばかりの所。急いではいないわね、周囲への警戒も強い。あいつらからすると、燃える死体が見えてるワケだから、それを気にしない訳にはいかないだろうし」

「うん、ナトリア、お前はどうする」

 

 尋ねてみれば、返答よりも先に立ち上がって一礼した。

 

「ここでお暇させて頂きます。時間も十分に経ちました、私の姿が見られるより前に、立ち去った方が良いでしょう」

「そうか。ルヴァイルには、いつ会える?」

「想定外の状況故、ルヴァイル様にも考える時間が必要かと思われます。今日明日の話で無い事だけは確かかと……。こちらから追って連絡致します」

「……私は森に留まる方が良いのか? 離れる事をトリガーに派兵して来る、というのなら、結局ルヴァイルに会いに行く時、デルンは邪魔だ。軍とは決着を付けておいた方が良い気がするが……」

 

 ミレイユがアヴェリンやユミルに目配せすると、そのとおりだ、という風に首肯が返って来た。

 森を保護するつもりでいる限り、常にデルンが邪魔になる。それなら攻め立て落とした方が話は早そうな気がした。

 

「宣戦布告さえすれば、戦士一人で攻め落としても良い、という悪しき前例を奴らは作った。私が同じ事をしてやっても良い」

「周辺国から非難は出ても、文句までは付けないでしょうが……、当の神々がどう出るものか……」

 

 アヴェリンが唸るように喉奥から声を出して、腕を組んだ。

 デルン王国は神々の駒として利用される存在でしかないが、駒を奪われても座して待たない事は二百年前に証明済みだ。

 だが、それならば、泥沼の戦争に陥りそうではあった。

 

「縫い留める事が目的なのだとすれば、デルンは滅ぶがそれで終わり、という事にはしないだろうな。徹底抗戦、あるいは聖戦の名の元に……。もしも私が神なら、大義名分を与えて周辺各国に突かせるかな」

「あぁ……、時間まで拘束が叶えば、それがどういう手段であれ神々には関係ないんだものね。謂わば詰めろ、の状況なワケ……。あれが駄目ならコレ、それも駄目ならアレ、ってな具合に拘束する手段を講じるでしょ」

「――そこでようやく、森に住む魔族、そして魔王ミレイユという流布が効いてくる、という訳ですか。なるほど、人類対魔王の構図の出来上がり。下手に手を出すと、これ……まんまと時間稼ぎさせられますよ」

 

 ルチアの指摘に、ユミルは鼻で笑って悪意に満ちた笑みを浮かべる。

 

「ハッ、四百年前の焼き直しってワケ。テオの奴が偲ばれるってモンよねぇ……。案外、奴らも引き出しの数が少ないのかしらね」

「成功体験は、そう簡単に捨てられませんよ。前に成功したのなら、今回もとりあえず同じ手で、と使ってみたくなるものじゃないですか?」

 

 二人の悪し様な言い分にミレイユは思わず笑って、二人に感謝するような頷きを見せた。

 個人の思考だけでは見逃す部分を、埋めるように、補助するように口に出してくれる忠言は、いつでもミレイユを助けて来てくれる。

 

「……なるほど、前例に釣られて攻めるは悪手か」

 

 小賢しい奴らめ、と口の中で毒付きながら続ける。

 

「しかし、私が森を離れると派兵して来る、というのなら、常に見張られてもいる訳だろう? ルヴァイルは裏切りを知られたくない、そういう話だったよな? それでどうやって対面する?」

「より正確に言えば、裏切りを早い段階で知られるワケにはいかない、ってコトなんでしょうけど。つまり自分の計画を潰されないよう、立ち回りたいから知られちゃ拙いって考えてるんでしょ? でも見張られてるなら、結局接触は簡単じゃない、ってコトになるわよね?」

「いやぁ……、だから貴女がここにいるのでは? ミレイさんもやってた手ですよ」

 

 ルチアが皮肉げな笑みをナトリアに向け、それで一瞬考え理解した。

 かつて、ミレイユが神宮で暮らしている時、その一室とアキラの部屋を繋げていた。ミレイユがやった事は転移の為のマーキングで、そしてそれは、上級魔術を駆使できる術者なら難しい事ではない。

 

「あぁ……、つまり対面はこの場で行う、と……。確かに罠の警戒をしなくて良いし、むしろこちらが罠を仕掛けておける状況だな。同盟を組みたい、という話を持ち出すなら、そちらからも誠意を見せるつもりだった、と考えて良いのか?」

「いやはや……、説明の必要がないのは助かります。同時に恐ろしくもありますが……。ここまで勝手に話がトントン拍子で進んだ事など、今まで無かったのではないでしょうか。その分だと、勝手に神々の狙いまで突き止めてしまいそうですね……」

 

 そこまでは無理だ、と思ったが、口にはしなかった。

 精々、不敵に見えるように口角を曲げ、甘く見ると怪我をすると印象付けるよう心掛けた。

 

 お前が仕えるルヴァイルの狙いさえ見抜いてみせる、と思わせたなら、今後の対面も有利に持っていける。粗雑な扱いをされずに済み、対等な同盟関係を築ければ、それに越した事はない。

 

 ミレイユについて多くを知る神かもしれないが、同時に今回のミレイユは未知も多く油断ならないと思っている筈だ。それを上手く利用するのが鍵、という気がした。

 ミレイユがナトリアと見つめ合っている間に、ユミルが呆れたような声を出す。

 

「急いだ方が良いんじゃない? 転移する陣を敷くにしろ、マーキングするにしろ、とにかくヴァレネオが近付いているんだから」

「まだ、余裕はありそうか?」

「そうね……。今は結界内の燃える死体を見て、怪訝そうにしているわ。でも、危険は無いと判断するのは早いでしょう。あまり余裕はないかもね」

 

 ユミルが片目を抑えながら教えてくれて、ミレイユが立ち上がるとアヴェリンも立った。

 目配せしてミレイユとナトリアの間に立たせると、ミレイユが先頭に立って歩き出す。そうしながら、転移の手段について訊いた。

 

「どうやって、ルヴァイルをやって来させる?」

「はい、相転移の陣を置かせていただけたらと。予め線を引かせて頂ければ、あちらから転移する際にも目立たないので……」

「お前の魔力で維持できる陣なら、そう長く保たないんじゃないのか?」

 

 ナトリアの魔力は低くないが、ミレイユは元よりルチアにも及ばない。

 陣は最初に込めた魔力で維持する時間が決まるから、例え全力で打ち込もうと二日と維持されない。長い時間維持しようと思うと、都度魔力を補充してやる必要がある。

 

「いえ、直接線を引かせて戴き、あちらで起動した時、初めて陣が発動するように、と考えておりまして……」

「確かにそれなら時間的余裕は随分できるだろうが……、直接か」

 

 床が汚れるのが嫌だと言うつもりはないが、それだと相当長い間、陣が保持できる事になってしまう。ひと月ふた月と待たされる可能性が生まれ、それで難色を示す声が漏れたのだ。

 とはいえ、ここは飲み込むしか選択肢がない。

 

「……分かった、ならば地下にしろ。展示室の床は広い。問題なく描けるだろう。……時間は掛かるか?」

「えぇ、そこはやはり、それなりに……」

 

 ナトリアが済まなそうに頭を下げると、ルチアを残してヴァレネオの対応を指示した。

 

「ルチア、上手いこと言い包めて時間を稼いでくれ。私もあまり長時間、姿を見せねば怪しまれるから、陣の方を手伝ってやる。アヴェリンとユミルは見張ってろ」

「畏まりました」

「……まぁ、いいわよ。下手なコト描き込んでないか、分かる奴が見張る必要もあるものね」

 

 やろうと思えば、陣の一部を上書きし、別の効果を生み出す事も出来る。ユミルはそういった手段が得意で、陣を張って意気軒高とした相手を手玉に取る事も多い。

 かつて現世において、御由緒家と対峙した時、そうやって妨害したと聞いた事があった。

 

 それから僅かな時間で陣を完成させると、ナトリアは陣を使わず、自身の転移魔術で帰って行った。ここで使用してくれれば、その先がどこに繋がっているのか探る事も出来たのだが、流石にその様な初歩的なミスはしないらしい。

 

 ミレイユは二人を引き連れ一階に上がると、ヴァレネオと互いの情報や認識の擦り合わせをするべく、再び食堂へ招くのだった。

 



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ギルド変容 その1

 アキラはギルド横に隣接される酒場で食事を取りながら、物思いに耽っていた。酒場という体裁であっても、頼めば普通の食事も出してくれるのが、この場を多くの冒険者が利用する理由だろう。

 

 朝食の時間とあっては、酒を飲むより普通の食事をしている方が多い。

 朝方に依頼完了して帰って来た冒険者が、そのまま酒盛りをし始める事もあるが、普通はこの時間帯なら、賑やかなばかりの食堂として利用する人が多数だった。

 

 あれから一ヶ月――。

 こうしてギルドで日々、魔物討伐をこなして生活するのにも、大分慣れてきた。

 言語の方については勉強中だが、何かと世話を焼いてくれるスメラータがいるので、その助けもあって随分上達したように思う。

 

 とにかく、どこもかしこもアール語しか聞こえて来ないので、音を聞き分ける事は自然と得意になった。内容の理解もそれにつれて追いつく事が多くなり、ヒアリングだけなら何とか、という状態だ。

 だが、単語を自分で探して組み立てるのは下手くそだった。

 

 発音についてもお粗末なものだが、意思疎通を量るのに問題はない。

 彼女と話す時は、なるべく難しい単語を避けてくれたり、その単語の説明をしてくれながら会話してくれるので、そういった部分でも助かっていた。

 

 これは何も彼女の善性が発揮されている、という事ばかりでもなく、互いにギブアンドテイクの関係が成り立っている事による。

 アキラが師匠より習った制御訓練などを丁寧に教えているからこそ、スメラータもそれに応えようと真摯に教えてくれているのだ。

 

 その上達が早いのか遅いのか、アキラには分からないが、しかし上達して来ているのは確かだ。

 教える事で、また自分を見つめ直す機会にもなり、結果自分も学ぶ事が出来ている。

 ミレイユに発破を掛けられた、というだけでなく、アキラの今後に期待を向けられた言葉は、今もその向上心に火を着けていた。

 

 自らを鍛える事に余念はないが、いつか役立てる日が――ミレイユの役に立てる日が来ると思えば、そのやる気にも一層力が入る。

 そしてミレイユは、オミカゲ様と同一の存在でもあるのだ。

 

 当時のアキラには、難しい話でその内容を十分理解できていたと言えない。しかし辛うじて理解できたところによると、ミレイユはこれから何かが起こって、過去の日本へ時間転移する事になるらしい。

 だが、その未来を防ぐ為に戦うのだと言っていた。

 

 もし、それが成せたなら、日本からオミカゲ様という尊い存在は失われる事になるのだろうか。

 それとも、最後に残ったオミカゲ様がおわす日本、という世界が続く事になるのだろうか。

 

 どちらの存在も損なわれて欲しくないが、アキラの心は決まっている。

 今はアキラがどうなるか分からない未来を憂うのではなく、ミレイユが使える、と思って貰えるだけの戦士となる力量を得る為、己を鍛える事に邁進すれば良い。

 ――いずれ、その声が掛かる時まで。

 

 そして、その別れから一ヶ月だ。

 ひと月単位で帰って来られない、と聞いていたから、未だ何の連絡がなくとも、それは予定通りと言える。しかし、一切の連絡がないのも不安だった。

 

 何しろ、現在のデルン王国は大混乱の真最中であり、そしてその渦中にいると思われるミレイユを、心配せずにいられない。

 ミレイユだけでなく、あの三人も一緒にいるのだから、滅多な事にならないと理解できる。アキラが心配したと知られれば、烏滸がましい、とこれまで何度となく言われた苦言をぶつけられるだろう。

 

 それを分かっていても、不安に感じる心は止められない。

 どうにも落ち着かなくて、しばらくその思いに気持ちを向けていると、横から聞こえた声が耳を叩く。

 

「……どうしたの、アキラ? もう朝食いらないの?」

「アキラは()()()()……あー、何ていうんだ? ……好き嫌いが、多い? それか?」

「別にアキラは出された物、全部食べるけどね。ただ、不満そうな顔はするけど」

 

 同席している二人に声を掛けられて、アキラは物思いから現実に引き戻された。

 完全に手が止まっていた食事を再開させ、ぬるくなり始めたスープを啜る。

 野菜の鮮度もなく、クタクタに煮込まれたスープは旨味もなく、ただ塩で雑に味付けされたそれは、アキラの基準では到底スープと呼べるものではなかった。

 

 当時、日本に居た時、ミレイユから饗されたスープは実に美味だった。だから同程度の水準を想像していたのだが、あれが異常だと知ったのは、オズロワーナで生活を始めて二日目の事だ。

 ここは酒場なのだから、ツマミとなる料理ばかりで、きちんとした食事が無いだけなのだと思っていた。だが、他の食堂へ顔を出してみても、そのラインナップに違いこそあれ、味の違いはあまり無い。

 

 味の不満をスメラータに言ったら、普通の味付けだ、と不思議そうな顔をされたのを、今も鮮明に覚えている。それほど、あの時された反応は、アキラにとって衝撃だった。

 異世界に到着してこちら、野営ばかりで食料となる物も現地で採取できるものばかりだったから、味付けに文句を言う事など出来よう筈もなかった。

 

 だが、街へ来たとしても、その味に大きな差が無いと分かってからというもの、料理を用意してくれたルチアには感謝の念しか浮かばなかった。

 単にルチアが料理上手という以外に、その香辛料の無さ、味付けのバリエーションの無さが原因だろう、とアキラは予想を立てている。

 

 ミレイユが食べさせてくれた料理というのは、もしかしたらミレイユの舌を満足させる為に、多くの試行錯誤の果てに生まれたのかもしれない。

 彼女達ならミレイユを満足させる為、独自にソースや調味料を作成していたとしても、全く不自然ではなかった。

 

 いつだったか、ミレイユは豊かな食事を楽しめるなら、そちらの方が良い、と言っていた。

 一店舗で用意されているレパートリーが少ないので、食事処は多くはあるのだが、現代人の美食感覚を持つアキラからすると、いずれを選んでも不満が出てしまう。

 

 それを見咎められて、スメラータからアキラは美食家、という風に見られていた。

 最初は訂正していたが、不味く思っているのは存外顔に出るらしく、今では隠しようの無い事実として受け入れられいる。

 

「山の中じゃ、そんなに美味いもんがあったのかね。羨ましいことだよ」

「いえ、別に、そういうことでは……」

 

 苦い顔を向けながらパンを千切っては齧り、やはりボソボソとした食感に口の動きが鈍くなって、それを見逃さないイルヴィが苦笑する。

 

「そんな顔で言われてもね。あんたが納得する食事なんて、それこそ貴族が喜ぶ料理じゃないと無理そうだ。実は食った事あるのかい?」

「ないない、ないです」

 

 強さには敬意を払われるものなので、イルヴィ程の一級冒険者になれば、そういう豪華な食事を取る機会は、それなりにあるという。

 だが、それを最上の美味、と思った事もないそうだ。

 

 アキラはミレイユに食べさせてもらったスープや肉は、間違いなく最上ランクの料理だと思っている。それすらイルヴィが食べても満足できないだけのか、それとも料理品目の違いなのかは分からないが、前提となる料理レベルの違いというのが大きそうだと予想した。

 

「……っていうか、何であんたまだいるのさ? こぉんな低級冒険者と一緒にいたら、一級者の品格て奴が失われるんじゃないの?」

「あたしがどこにいようと、あたしの勝手だねぇ……? 大体、実力者同士が同じ席に着くのが、そんなに不思議かい? あぁ、あんたが席を外したいっていうんなら、勿論止めないよ」

「はぁ? アタイ達はチームですけど? 部外者は他所いけって、直接言わなきゃ分からない?」

「おぉ、おぉ。怖いもの知らずってのは恐ろしいねぇ。あんたこそ、アキラを解放してやんなよ。実力の見合った者同士、同じチームを組むのが基本だろ? 言われなきゃ分からんかね?」

 

 また始まった、とアキラは頭痛を堪えるように顔を顰めた。

 この二人は出会った当初こそ意気投合していたが、アキラが誰とチームを組むか、という話になった時、揉めに揉めた。

 

 イルヴィは先も言った様に、実力が似た者程度同士と組むべき、と主張し、スメラータは既に約束を取り付けているから問題なしと主張した。

 特にスメラータはミレイユから直接、言語の修得を任せられている、という明確な名目を持っており、それを持ち出されれば強いことも言えない。

 

 それに実力が似ている者同士でチームを組む、というのも、主張するには名目としては十分な常識なのだ。その差が大きければ大きいほど、強い者の負担も大きくなる。

 報酬は折半といかなくなるし、互いの不満もいずれ溜まっていく。そもそも実力を認め合う間柄なら、その様な問題は発生しない。

 

 不満が溜まれば実力行使に出るのが、冒険者というものだ。

 そんな事態を事前に回避する為にも、親しい間柄であろうと、実力に開きがある者同士がチームを組むのは推奨されない不文律があった。

 

 しかし、スメラータは肩書の上では第二級冒険者でもある。

 現在は刻印を外しているから、その実力は等級に相応しいものでないものの、しかしギルドの基準から認められた実績がある。

 

 その部分で見れば、劣った実力と見られるのはアキラの方で、そして譲って組んでやっているのはスメラータの方、と見られる。

 

 あくまでギルドの制度上ではその様に判断されるので、等級が上の方が納得しているなら、無理して引き剥がす事も出来ない。

 これの立場が逆で、等級が下の方からしがみついているなら、ギルドから警告してもらう事も出来る。しかし、アキラの実力は全員に知れ渡っているから、二級者と組む事に誰も異を唱えない。

 

 むしろ、同じ等級で組ませる方が問題だ、という声すらあった。

 それが事態をここまで緊迫するものに変えている。

 互いに譲らず、そしていつまでも結論は出ない。

 

 アキラが宥める事で、二人はようやく口論を収めた。

 そこへ隣の席でスプーンを咥えた男が、一部始終を見ていて豪快に笑う。

 

「なんでぇ、アキラ。もっとやらせろ。俺の朝の楽しみなんだ」

「勘弁、頼む……。思う、だから……、他人事だと」

「そりゃそうだ、こんなの他人事だから面白く見れるんだろ。しかも相手は、あのイルヴィだ。あいつを求めた男は多かったが、あいつが男を求めた事なんざ、今までいなかった。こんな見世物、注目しない方がおかしいだろ」

「そんな……」

 

 アキラの拙い言語能力は、その実力と同じくらい知れ渡っているので、今更そんな事で突っ込んで来る奴はいない。

 かつては居たが、実力で劣るものが上の者へ侮辱した事が、イルヴィの逆鱗に触れた。激怒した彼女が半殺しにしてしまい、それ以降、同じ様な事をする者はいなくなった。

 

 陰で何か言っている者はいるのだろうが、面と向かって言う勇気のある者はいない。陰口を叩く様な真似は別に珍しくないが、それも相手に寄るという、良い事例だろう。

 何をするにも、相手を選べという事らしい。

 

 アキラは当時の回想から思考を戻して、目の前の男に向き直る。

 この人は見世物と言って笑ったが、その当事者となれば、当然笑ってばかりもいられない。

 

 アキラとしても、最初はこうなるなどと全く予想していなかった。

 単に冒険者として、一人の戦士として、互いに認め合う、高め合うという間柄で落ち着くと思っていたのだ。

 しかしイルヴィが求めるものは、明らかに男女としての仲だった。気付かぬ振りをしようとも、彼女のアプローチは積極的かつ直接的で、他に誤解のしようがない。

 

 ここが異世界であるという事を差し引いても、アキラは恋愛や結婚を考えた事がないので、どうにもやり辛くて困っていた。

 アキラが剣を振るう理由は、ミレイユの役に立つ為だ。アヴェリンがそうしている様に、盾となり矛となれれば最上と思っている。

 

 スメラータにその事を相談してからというもの、彼女も遠ざける手助けをしてくれる様になっていた。

 当然、彼女ばかりに任せるのではなく、アキラなりに気持ちには応えられないと告げている。だが、全く効果はなく、まるで梨の礫だった。

 

「イルヴィさん、僕は強くならなくてはならない、です。一緒になるは、無理です」

「あぁ、だが断られたからといって、諦める理由にはならないねぇ。あんたは一生に一度の男だ。嫌だと言われても、殺されない限り止まる気もないね」

 

 イルヴィの瞳は実直で、嘘を言っていないと分かっている。

 そもそも嘘で言える事でもない。それも分かるから、どうすれば諦めて貰えるのか、アキラはよく頭を悩ませている。

 盛大な溜め息は、イルヴィを心変わりさせる材料にはならず、それが一層アキラを悩ませた。

 



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ギルド変容 その2

 食事が終われば依頼票の確認をする為、掲示板へと赴くのが常なのだが、ここ最近はそういう訳にもいかなくなった。

 デルンとエルフの戦争が本格化するに辺り、ギルドに対する告発も行われたからだった。

 王国とギルドの癒着が表沙汰にされ、本来は独立独歩を謳うギルドが、これまで依頼を引き受けていたのは、一重にギルド長の独断であったと公表された。

 

 それが数日前の出来事で、その所為で受付の仕事も滞り、新たな依頼を受けられない状況が続いている。仕事が無ければ生活できない者もいるので、そこは改善されつつあるが、当時のギルドは酷いものだった。

 

 別にギルドが国から仕事を請け負い、そして正当な報酬のやり取りがあっただけなら問題もなかった。

 しかし、そこに戦争へ冒険者を加担させ、いざとなれば矢面に立たせる作戦を暴露されては、当事者たちも冷静ではいられない。

 

 国家間の戦争は、国と兵士がするものだ。

 冒険者は徴兵されないものだし、国に帰属するものでもない。強行しようものなら、冒険者は他に拠点を移すだけだ。誰にとっても得がない。

 

 貿易都市という立地は、装備を揃えるにも食料を買い付けるにも、依頼を受けるにも困る事がないから、必然的に人が集まる。

 

 冒険者が集まれば、それだけ依頼を解決できるので、依頼人も優先的に仕事を任せようとする。冒険者は確かにその多くが名声を求めるが、兵として戦い、死にたいとは思っていない。

 最初からその気があるなら、最初から兵の選抜試験にでも参加している。

 

 そこに来て国家の冒険者捨て石作戦なのだから、反発が生まれて当然だった。

 現在ギルド長は役職から降ろされ、万全一致で追放されてしまった。ギルドからの追放は、国家に逮捕されるより重い罪だ。

 

 冒険者を始めとした、ギルドに所属している誰もが、そう考える。

 街の中で暮らしていけないので、実質的にこの街からの追放罪であるようなものだ。それが順当であるかどうか、アキラにはまだ判断つかないが、しかし冒険者の怒りを思えば、穏当な方だったようにも思う。

 

 アキラは複雑な顔をさせて、窓の外へ視線を向けた。

 ギルド区画の賑わいは常と変わらない。職人らしき男や、何か用付を言付かった少年など、引っ切り無しに窓の外を横切っていく。

 

 ここから見える光景だけ見れば、窓に切り取られた風景だけ見れば、そこは平和に見えるのだ。そして現在、平和に見えるのも事実で、エルフと戦争が起きたとはいえ、戦火が及ぶ事もない。

 

「何を考えているんだろうなぁ……」

「なんだ、何の話だい?」

 

 思わず零れた言葉に、イルヴィが目ざとく食い付く。

 聞き返されたアキラは、一瞬面食らった顔を向けたが、すぐに窓へ顔を戻して呟く様に言った。

 

「いや……、戦争始まった、かと……思って。でも、攻めても、来ない」

「あぁ、二万だか三万だかの兵を送り込んで全滅したってアレか……。聞いた話じゃ、あれで八割の兵が死んだんだって? 随分と派手にやられたもんだ」

「あれでエルフを、魔族だ何だって責め立てる声も増えたよねぇ。殴りかかって、しこたま殴り返されたからって、そんな言い分ないと思うけどさ」

 

 スメラータの言い分も最もだが、それはどちらかと言えば戦士の理屈だ。

 殺された兵の友人知人、そしてその家族は、到底受け入れられるものではないだろう。それだけの大人数を、一度に殺されてしまったのだ。

 

 そして、それだけの被害を作り出した相手の人数は、千人にも満たなかったという。

 森に辿り着いた時には既に半壊していたとか、そもそも森に辿り着いていないとか、情報は錯綜しているものの、少人数に何万もの兵が良いようにやられたのは事実らしかった。

 

「相手が師匠や、ミレイユ様じゃな……」

「まあ、兵を何万連れて行こうが、数で解決できる問題じゃないだろうさ。あたしだって、あんたの師匠にゃ子供扱いさ。こっちは全力だってのに、遊び半分でしかなかったもんな。勝てないと分かってて挑んだし、どれほど強いか確認するつもりの戦いだったが、ありゃあ戦いとすら呼べない」

「いやぁ、何度聞いても信じられないなぁ。イルヴィで子供扱いだっての? この世に勝てる戦士なんているのかな、それ」

 

 イルヴィは鼻で笑って、小馬鹿にするようにスメラータを見た。

 

「いない。それは断言できる。他の手管を駆使して勝ちを拾うことは出来ても、戦士として戦って勝てる奴はいない。武器を持って挑む相手じゃないと知ったよ」

「……で、それが王国軍とやりあった。そういう話だっけ? 話を総合すると、戦士もいたけど、炎が上がったり精霊がいたり……。とにかく、色々あったらしいじゃん」

「そうだな。どういう理由か分からないが、早い段階で冒険者を、戦争から切り離そうとしていたようだ。向かってくるなら容赦しないだろうが、向かってくる理由を潰そうとしたようにも見えるな」

 

 スメラータは渋い顔をしながら目を瞑り、考える様な仕草を見せたものの、すぐに放り出した。

 

「そういう難しい事は考えたくないわ。でも、それってつまり、冒険者を怖がったって事? 敵にしたくなくて?」

「逆だろ、馬鹿。あたしを子供扱いできるのに、今更冒険者を恐れるもんか。単に相手するのが面倒だとか、敵対する理由は無いとか、そういう理由だろうさ。便宜を図ってくれたと言えるかもね。お陰で、ズルズルと戦争に巻き込まれずに済んだ」

 

 イルヴィの見解に、アキラは数度、頷きを返した。

 ミレイユ達は無用な殺生を拒んだのだ。ギルド長との癒着や暴露は、彼女たちが行った作戦ではないか、とアキラは予想している。

 

 状況として不自然だし、何より唐突だった。

 証拠も次々と出てきたが、段取りが良すぎたように思うし、だがそれもユミルがいるなら可能だろうと思えるのだ。

 

 催眠や脅迫、そして隠伏。

 大っぴらに言えない手段も、彼女なら難なくこなすだろうし、やり遂げるだろうという気がした。

 

 それだけ裏から手を回して、穏当に済ませる事ができるなら、兵士の方にも便宜を図って欲しかった、とも思ってしまう。だが、戦争は綺麗事だけで済まされない。

 ミレイユが必要と判断したなら、その多大な兵の犠牲にも、きっと意味はあったのだ。

 

 実際、とアキラは窓の外遠く、王城があるだろう方向を見つめる。

 抗戦派は随分鳴りを潜めていて、魔族(エルフ)と事を構えるのは得策ではない、という雰囲気が出来上がっていた。

 

 一体何があったにしろ、半日と掛からず数万の軍隊を返り討ちに出来る手段を持つエルフと、戦うべきではない。

 そしてそれは正解だ、とアキラは確信を持って言えるが、軍上層部まで同じ考えであるかは疑問だ。大人しく矛を収めれば、エルフもまた矛を収めるとは限らない。

 

 むしろ攻め込む準備をしていて、手を出される前に攻撃すべき、という案が出ていても不思議ではなかった。

 だが、この数万の犠牲を教訓に出来れば、これ以上の被害は出ないだろう、と思った。その為に行った苛烈な攻撃だと思うのだが、上層部は大人しく矛を収めてくれるかは疑問だ。

 

 このまま戦争が悪化するのだろうか。

 ミレイユは静観しそうであるが、攻められれば苛烈な反撃を繰り出すだろう、という気がした。

 

 その様に思いに耽っていると、スメラータが興味津々の面持ちで話しかけてくる。

 

「そういえば聞きそびれてたけどさ、あの人達ってどのくらい強いの?」

「どのくらい……?」

「そう。イルヴィの話を疑う訳じゃないけど、実際に見た事ある、アキラからも聞かせてよ」

 

 スメラータは子供のように目を輝かせているが、どうやって説明したものか迷ってしまう。

 隠し立てするつもりはないが、アキラも彼女たちの正確な戦闘能力を知らない。何百、何千という魔物を、十把一絡げにして倒していたのは目撃している。

 

 アキラからしても脅威と認識していた魔物たちだったが、名前も知らないので説明は難しい。だが一つ、アヴェリンが口にしていた名前を思い出していた。

 あの巨大な、魔獣でも魔物でもなく、時に聖獣として扱われる地方もある、とユミルからも説明して貰った存在がいた。

 そしてそれを、ミレイユとアヴェリンの二人で打倒したのを知っている。

 

 すぐに名前が思い出されず、視線を斜め上に向けながら、なんとか思い出そうと口に出しながら頭を捻る。

 

「えー……、エル、エクル? エスク……セル? あれ……?」

「エルクセス?」

「――そう、それ!」

 

 喉に引っ掛かっても出てこなかった単語が、スメラータから教えられ、笑みを浮かべながら同意した。しかし、言った当の本人は勿論、イルヴィも疑念を前面に押し出した表情で見つめている。

 

「エルクセスが何だってんだい? そんぐらい強いって言いたいのか?」

「まぁ、あれはねぇ……。倒す倒せないの話じゃないし。そういうの超越した存在だもんね。いや、でも待って。そんぐらい強いっての? あり得なくない?」

「それを、二人で、倒した」

「――は!?」

 

 横に向けていたスメラータの顔が、その一言で即座に正面を向く。

 驚愕を顔に貼り付け、そして冗談であってくれ、という懇願めいた雰囲気も感じられる。イルヴィは、ぽかんと口を開き、何を言っているか理解していない様に見えた。

 

「いや待ってよ。正確に、正確に行きましょ。言葉に慣れてないって、こういう事があるから不便なのよねぇ……!」

「あ、あぁ……。そうか、そうだよね。案外、色々喋れるから勘違いしたけど、まだ間違う事も多いんだった」

「だよね、だよね。……で、エルクセスを、何したって? 倒すに近い単語なんてあったかな……」

 

 スメラータは必死にそれ以外の可能性を模索しようとしているが、アキラは言い間違いなどしていない。ミレイユとアヴェリンは、間違いなく二人で、あの災害と同列に数えられる存在を打倒したのだ。

 

「間違ってない。倒した、エルクセスを。師匠と二人で、間違いなく」

「うっそでしょ……。倒せる存在じゃないでしょ、あれ。大体どうやって……!」

 

 額に右手を当てたスメラータは、アキラの続きの言葉を言おうとする前に、もう左手を伸ばして左右に振る。

 

「やっぱ言わなくていいわ。どうせ理解できないし、説明も上手く出来ないだろうから」

「でもまぁ、あたしは納得するがね」

 

 今も頭痛を堪えるように、片手を当てているスメラータとは対象的に、イルヴィの表情は晴れやかだった。

 

「それ程の存在だと言われれば、直接槍を混じえたあたしとしちゃ、頷いちまえる部分がある。あのアヴェリンと同じ名前を持つ戦士が、それほど強いというなら、あたしも嬉しい。次に一槍くれてやる時にはさ、それが通用するならエルクセスにだって槍が届くって証明されたようなもんさ」

「いやいや、その理屈はどうなのさ」

「別にどんな理屈でも良いんだよ。あの戦士には、それだけの価値がある。理想の体現だ。極めれば、人ってのはそんだけ強くなれるって証明じゃないか。それが何より嬉しい……!」

 

 イルヴィは獰猛に笑って拳を握った。

 

「そして強さの上限を、勝手に決めちまってた自分が愚かしい。エルクセスを倒せる戦士、そんな夢想を抱いた事すらなかった。だが、実際に倒した戦士がいるのなら、目指す価値ある目標だ!」

「いや、分かるけどさ……。流石にそれは高望みしすぎ……」

「高望みなものか! 私は今代のアヴェリンだぞ! かつてのアヴェリンも、きっと出来たに違いない! ならば私も名に恥じぬ戦士として、それぐらい目指さねば面目が立たないってもんさ!」

 

 言っている内に白熱して、握り拳を振り払い、席から立って武具を背負った。

 何か声を掛けるより前に走り去り、そして遠くから雄叫びが聞こえてくる。彼女の琴線を存分に刺激してしまったと見え、アキラもスメラータも、何一つ言えず見送るしかなかった。

 



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ギルド変容 その3

 イルヴィが走り去った後、アキラはスメラータを伴って外へ出る。

 ギルドは混迷していて、受付には人集りが出来ていた。依頼を申し入れたい者、受領したい者が詰め掛けているので、そのせいで更なる混雑を生んでいた。

 

 こういう部分を見ると、とにかく一列に並んで整然としよう、という気質を持っていた日本人との違いを感じてしまう。オミカゲ様に見守られているのだから恥ずかしい真似は出来ない、という自制心があったからこそやっていた事だが、同じ様に神様がいるこの世界で、同じ様に出来ないのは不思議に思った。

 

 面白い発見をした気持ちでギルドから出て、運動場へと向かう。

 ギルドの裏側には、練兵場の様な場所が設けられていて、そこで好きに鍛練する事が許されている。刻印の使用感を確かめたければそれも可能だが、一般的に攻勢魔術の使用は、魔術士ギルドで行う事を推奨されていた。

 

 周囲の素材は防護術によって保護されているので、飛び火や破壊などを恐れる心配がない。

 だから運動場で使う事に問題はないが、それで物品や壁を損壊させる様な事があれば、自己負担で修繕費を払わなければならない。

 

 アキラ達はそうした攻勢魔術の刻印を持っていないので、もっぱら基礎訓練をする場所として活用させて貰っている。最初は、冒険者ともなれば、誰もが訓練を欠かさないものだと思っていたのだが、活用している人はそれ程多くない。

 

 神明学園にあったような、誰もが向上心を持って、空いた時間は訓練しているとばかり思っていたのだが、現実は違った。

 イルヴィが本物の戦士はいない、と嘆いていた気持ちが少し分かる。

 誰もが栄達を求めているのが冒険者とはいえ、そこに努力を重ねられる者は少ない。自分の実力に程々のところで見切りを付け、そして身の丈にあった依頼で日銭を稼ぐ者の方が多かった。

 

 夢を見られるのはいつだって一握りの、選ばれた者だけだ。

 多くは現実を突き付けられ、そしてその現実に屈して折り合いをつける。

 誰だって命は惜しいものだ。安定した――あくまで危険が少なく、食えていけるだけの――生活を送れるなら、それで満足してしまうものなのかもしれない。

 

「……刻印、が……。悪い、かな」

「ん、何……? 何か言った?」

 

 ボヤいただけの独り言を拾われて、アキラは苦笑しながらストレッチを始めた。

 

「いや、人が少ない。皆が弱いのは、努力しないから……かな」

「まぁ、今も酒飲んでクダ巻いてる奴らは、言われて当然としてもさ……」

 

 スメラータは気不味そうに顔を逸して、頬を掻いた。

 

「やり方を知らないだけなんじゃないかな。努力が大事だって知ってても、刻印一つで大体解決するのが現実だしね」

「考えもの、かも。便利すぎるのも……」

 

 スメラータが言うとおり、多くのことは刻印を宿すだけで解決する。

 アキラが知って驚いたのは、剣の扱い、武器の扱い方ですら、刻印で習得できる、という点だった。これは常時発動型の刻印として存在していて、修練の必要なく、一足飛びで扱い方が身に付く。

 

 本当に自分の身体で覚えた様に動けるのだから、戦士としてまず宿すのが鉄板と言われる刻印の一つだ。中級相当、上級相当の刻印となれば、やはりそれに見合った効力を得られる。

 

 だが、外してしまえば、また素人に戻ってしまうのだ。

 ユミルが刻印は成長の前借りに過ぎない、と言っていたのは正鵠を得ていた。だが、この刻印があれば誰しも横並びの実力を得られる、という訳でもない。

 

 個人の才覚による部分は依然としてあるし、武術に適正ある人は、やはりそれだけ高い効力を得られる。そして刻印一つ分の魔力をそちらに持っていかれる事にもなり、結果としてその分、相対的に見て弱体化する。

 

 自分自身で武術を身に付ければ、その代わりに別の刻印を宿せる訳で、例えば防護術など持てば、危険な状況で頼りになるだろう。

 だが、それで自己研鑽に努めよう、と思える人間は多くない。その努力する時間を稼ぐ時間に当てれば、結局強い刻印を宿せる事になる。それなら、楽して強くなれる方を選ぶものらしかった。

 

 その中にあって、自己研鑽を努めるのは自分の最終形が見えていたり、常に努力を怠らない様な者たちばかりだ。それが上級冒険者とそれ以外を分ける形にもなるのだが、分かっていても、茨の道を進める者は多くない、という事なのだろう。

 

「アタイも鎧の下には武術刻印いれてたしね……」

「そうだったね」

 

 それが世の常識なのだから、それを責めるつもりはない。

 自己研鑽をするのにも、武術は師匠がいなければ成立しない。良かれと思った方法も、筋肉は鍛えられても関節を痛めていたり、無茶な方法は慢性的な怪我を生む。

 

 この世界では、特に怪我は甘く見られがちだ。

 すぐに治癒できるからこそ、慢性的な負担は特に軽く見られていた。アキラがストレッチをして筋肉を伸ばし、関節を柔らかくするのも、当初は不思議がって見られたものだ。

 

 武術刻印があれば最適な動きをしてくれるから分からなかったのだろうが、刻印は可動域まで補助してくれない。出来る範囲の動きを最適化してくれるだけであって、出来ない事は出来ない、という部分は刻印なしとも共通している。

 

 いつだったか、門前でアヴェリンに斬り掛かった男も酷いものだった。

 剣速はそれなりにあったし、動きもサマになっていたが、あくまでそれだけの剣でしかなかった。指三本と言わず、人差し指一つで止められていたのではないか、とすら思う。

 

 摘んで見せたのは、万が一にも、滑ってミレイユの方へ流れるのを阻止する為だったろう。

 よくあんな腕で強がれたものだな、と当時は思っていたのだが、この世の実情を知るにつれ、次第に順当だ、という同情めいた気持ちが強くなってきた。

 

 そして、その例外と言えるのが、自己研鑽のみで一級冒険者へと昇り詰めたイルヴィだった。

 戦士としての誇りを強く残す部族の出だから、鍛練方法は心得ていて、武術も刻印なしで身に付けている。内向魔術も(つたな)いながら扱えていて、それでもあれだけ強いのだから、これは才能と言う外ない。

 

 アキラも散々才能が無い、と言われてきたものだが、あれを見るとさもありなん、と思ってしまう。いっそ暴力的といえる乱雑な制御なのに、アキラと同程度の効果を引き出していた。

 彼女はアキラに師事する様な事はしないが、もしも勝つ事になれば、強請られる様になるのかもしれない。

 

 嫌な想像を振り払い、アキラはいつもどおり、丁寧にストレッチを続けていく。

 スメラータもそれに倣い、今ではアキラの見様見真似をせずとも、十分なストレッチが出来るようになった。

 動きが見違える様になり、ストレッチの重要性を理解した今は、アキラが指示する事に疑念を抱くこと無く従っている。

 

 ストレッチが終われば腕立てをしたり、屈伸をしたりと、軽く筋肉に負荷を掛けて温めていく。スタミナを上げるマラソンは寝起きに行っているので、殊更ここで行わない。

 運動場はそれほど広くなく、走るのには向いていない、という現実的な事情もあった。

 

 ここの広さはバスケットコートくらいで、数人が使用するには不便を感じないのだが、武器を振り回す可能性が高い以上、むしろ狭い部類だ。

 それもまた、人が利用しない原因の一つかもしれなかった。

 

「それじゃ、始める、ます」

「あいよ、よろしく!」

 

 準備運動が終われば、次は実際に剣を打ち合わせての訓練になる。

 流石に真剣を使う訳にはいかないので、アヴェリンが使用していた様に、鉄の棒を近くの鍛冶ギルドに依頼して作って貰った。

 

 アキラからすると殴られ慣れているので、最初からこれしかなかったのだが、木の棒で良くないか、というスメラータの提案はすっぱりと無視した。

 アキラの中では、鍛練を行う時には鉄の棒と決まっているのだ。

 

 当たれば痛いし、泣きたくなるし、蹲りたくもなる。

 だが痛みを押して戦わなければならない状況など、幾らでもあるのだ。当たっても大丈夫、大した事はない、という心構えは訓練を甘いものにさせるし、必死さに欠ける。

 

 この先も更なる高みへ登る為にやっている事なのだから、訓練の段階で甘くては意味がないのだ。

 当時語ったアキラの熱弁に、スメラータは明らかに引いていたが、当然変更する意志は無かった。だから今では、スメラータも文句を言う事なく続けている。

 

 彼女が使っていたのは大剣で、アキラは刀だった。

 扱い方に違いは出るが、大まかなところでは似通っている。武器の大きさは互いにそれ程違わないが、重さや重心などでその違いを出していた。

 

「――行くよ!」

 

 数合打ち合うと、本来の技術差によってスメラータが押されがちになる。

 刻印を宿していた経験から、身体はそれとなく覚えているようだが、模倣して動かせる程ではない。だから、基本的にアキラ優位に訓練は展開していく。

 

 そして遂に、アキラの繰り出した胴への一撃が、スメラータの腹を抉った。

 

「――ぐっ、ホ……!」

 

 スメラータの身体が動きを止めようと、アキラは容赦なく打ち据えていく。

 必死に防御しようとするも、一撃受ける毎にその抵抗も少なくなり、そして腕を叩かれて武器を落とす。武器が失くなったとしても、アキラは攻撃を止めない。

 

「ちょ、ちょっと待っ――!」

 

 武器が無いなら、無いなりの防戦をする必要がある。

 敵は武器が無ければ、むしろ喜々として襲ってくるのだ。それを掻い潜って武器を拾うか、あるいは無手で対応する術を学べなければ、生きていけない。

 

 距離を離そうと背後へ飛び退こうとしたスメラータへ、アキラはは一足飛びに接近し、肩や腕を打ち据える。見る間に腫れ上がって青黒い痕が出来るが、一切容赦なく攻撃を加えた。

 

「ちょ、待て待って、待ってって! 降参! 無理、もう駄目!」

 

 降参の一言を引き出したので、アキラの勝利だ。

 そこで一切の攻撃を止めるのがセオリーだが、アキラは師匠から受け継いだ鍛錬法を元に行動する。

 負けを認めたとはいえ、それはそれとして足へ攻撃し、転倒させると同時に追撃として腹を蹴りつけた。

 

「がっ、ハッ……! 待って、って言ったのにぃ、ィヒィィ……!」

 

 スメラータは涙声で声を絞り出しながら、腹を抑えて藻掻き苦しむ。

 抗議の声を上げても批難しないのは、これが初めての事ではないからだ。最初はあった筈だが、アキラが一切聞かないので、そんな無駄な声を張り上げていられないと、いつの間にか止めてしまった。

 

 アキラはそれを冷静に、転がって起き上がって来れないスメラータを見分する。

 声も悲痛で、痛みも嘘ではないだろうが、精根尽き果てたようには見えない。アキラは落胆するように息を吐いて、起き上がるように指示する。

 

「待てで、止まる魔物、いるの? いないでしょ?」

「いないよ、いないけどさぁ……! 何でそうも、手心がってモンがないのよぉぉぉ! 痛いぃィィ……!」

 

 それは勿論、師匠の教えが良かったからだ。

 泣こうと喚こうと、痛みからは解放されない。そして痛みを克服できなければ、武器を手放してしまえば、抵抗する気力がなければ、殺されてしまうだけなのだ。

 

 それをアヴェリンの叱咤と共に乗り越えたからこそ、神宮での大氾濫でもアキラは生き残る事が出来た。その薫陶を受けた身としては、これが正しいものとして、後の者にも教えてやらねばならない。

 

 一切の邪心なく、本気の真心でアキラはそう思っていた。

 



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ギルド変容 その4

 その後、昼食をごく軽く取り、水分も軽く摂るに留めて鍛練を再開し、日が暮れる前になって終了となった。アキラの傍にはボロ雑巾の様になって、顔面も盛大に腫れ上がらせたスメラータが転がっている。

 

 それを強制的に起こして刻印を使わせた。

 彼女が一つだけと許可された刻印は、初級回復魔術になっていて、こうした訓練の時でも役に立つ。アキラもその選択は非常に賢明と見ていて、流石先が見えている先輩冒険者だと感心した程だ。

 

 訓練中、アキラも何度かその身に攻撃を受けたが、スメラータ程の重傷は一つもない。青あざは幾つもあったが、既に自身で刻印を使って回復していた。

 

「ほら、早く、回復。痛みもある、今は辛いだけ」

 

 本当はもっと気の利いた台詞を言ってやりたい。

 回復しないと辛いよ、痛みは引かないだろうけど使わないと辛いだけ、と優しい言葉を掛けてやりたかった。

 

 スメラータはこくん、と頭を小さく上下させると、刻印を使用する。発光色が刻印から出て、それで傷が徐々に回復していく。所詮は初級魔術に過ぎないので、その効果はいかにも少ない。

 使用回数も多くなく、三回使うと最大回数に達して刻印が暗色になってしまった。

 

 だが、傷の方は大分回復していて、見るも無惨としか言えなかった傷も、今では多少の腫れ程度に収まっている。

 アキラが容赦なく殴り付けられるのは、実際この刻印があるお陰とも言えた。

 

 アヴェリンがそうしていたように、回復できる手段があるのなら、容赦なくボロ雑巾にした方が良いのだ。痛みは教訓となり、教訓は力となる。今日が駄目でも、明日は今日よりマシになる。

 そう考えて容赦なく攻めてくれていたのだろうから、だからアキラもまた同じくそうするのだ。

 

「……ねぇ、やっぱオカシイって。こんなバカスカ殴りつけるなんてある? アタイ、嫌われてんのかな……。追い出そうと思って、逃げ出させようとして殴ってない?」

「違う。師匠の教え、そのままやってる。僕も死ぬ数、たくさんあった」

「嘘でしょ、狂ってるわ……! これもう鍛練じゃないわ、拷問でしょ!?」

 

 実際、その場で回復できる手段がなかったら、ここまで苛烈な鍛練など無かっただろう。だが現実として水薬という手段があるし、魔術や刻印といった手段もある。

 効率的、とアヴェリンが判断してやっていたのだから、アキラとしてはそれを模倣して施すしかない。あるいは、それ以外の方法を知らない、とも言える。

 

「ほら、次だよ」

「嫌だよ! アタイ、あれがイッッチバン嫌い!」

 

 泣き言を言おうと、やらない訳にはいかない。アキラはその場で身体を伏して、動くまい、とするスメラータを強制的に起こして座禅させた。

 背筋を伸ばして足を組むよう手振りで指示するが、骨が溶けた様に崩れ落ちようとする。すすり泣きすら聞こえて来るので、本当なら免除させてやりたいが、そういう訳にもいかないのだ。

 

 アキラだって、本音を言うとやりたくない。

 だが、やらねば強くなれない、というのなら、やるしかないのだ。

 アキラは心を鬼にして、掌を鉄棒でペチペチと叩く。この動作をして三秒以内に言う事を聞かないと、言い訳しようと逃げ出そうと必ず殴りつける事にしているので、スメラータは直ぐに背筋を伸ばしてシャンとした。

 

 アキラはうんうん、と満足げに何度も頷く。

 こういうところでも、アヴェリンは正しかったのだと納得した。

 かつてはアキラもスメラータと同じだった。辛い事、痛い事から逃げ出したかった。実際、逃げ出した事もある。だが、その度にアヴェリンは、今みたいに鉄棒で掌を叩いたものだ。

 

 そして、従わなければ、苛烈な打撃が待っている。

 ペチペチと叩いた回数分だけ、絶対に何があっても殴られるので、次第に抵抗する気も失せた。痛いのと、より痛いのとでどちらがマシか、と選択を迫られたなら、より軽い方を率先して選ぶ様になる。

 

 誰だって、痛みは少ない方が嬉しい。

 そしていずれ、自分が確実に強くなったと知れば、その鞭に愛があったと知れるのだ。鍛えようとしてくれる人は、鬼の様だと思われるぐらいで丁度良い。

 きっと、アヴェリンもまた同じ様に思っていた事だろう。

 

 泣きべそを掻きながら座禅を組むスメラータの前に、アキラもまた同じ様に座禅を組む。鉄棒は膝の上に置いて、すぐ握れるようにしておきつつ、マナの吸収を教えてくれた時と同じ呼吸法を繰り返す。

 

 スメラータが嫌がった鍛錬法は、動く必要なく呼吸をするだけのものだが、ジッとしていられない性格の彼女には、相当辛いものらしかった。

 アキラはこの、身体中をズタズタに切り裂かれるような痛みにこそ未だ馴れないが、彼女は嫌う理由をハッキリ告げてくれない。

 

 ただ目を逸らして、もうやりたくない、と口にするだけなので、きっとそういう事なのだろうと思っている。目を瞑って行うものなので、目を盗んで逃げ出そうとするのを止めず、だから武器を手放す事が出来なくなかった。

 今もチラリと片目を開けて、スメラータを窺っても、集中し切れていないのが分かる。

 

「……ほら、ちゃんとやって」

「う、うぅ……っ! こんな辛い修行が、この世にあったなんて……!」

 

 泣き言を垂れ流したところで、やるべき事をやらなければ終わらない。

 そして、やるべきを行っているかどうか、制御の流れを見れば分かるのだ。アキラはこの流れを見るのは苦手だが、流石に膝を突き合わせるような距離だと分かる事もある。

 

 特に力量的に劣る相手に対して、そして制御方法を教えた相手にだからこそ、それなりに分かる様になって来た。

 スメラータの制御を見据えながら、アキラもまた呼吸を繰り返して制御を続ける。

 

 これはユミルがいつか言っていた、魔力総量を上げる為の鍛練法だった。

 骨を折るような痛み、と表現していたのは間違いではなかった。より正確に言うのなら、身体中の骨がバラバラになるのような痛み、とする方が正しい。

 

 いま十全に満たされている魔力に対して、そこへ更にマナを吸収し、無理に過剰供給させるのが、この鍛錬法だ。

 既に十分満たされたものに入れるのだから、本来なら締め出されるか、弾かれるか、という事にしかならない。

 

 だが、訓練を終わった今なら多少なりとも消耗している。

 内向術士は基本的に供給と消費のバランスが取れているものだが、無理な運用をすれば、当然消費も多くなる。鍛錬する上で、無理やりそのような状況を作り、そして供給するのだ。

 

 消耗がどれ程であれ、ほんの少しも入らない、という事は有り得ない。

 その入る隙間に、過剰となる量を供給するのだ。

 本来入らない量を無理やり入れてやる事になるので、身体は当然拒否しようとする。ミレイユに教えられた例えを出すなら、膨らんだボールを更に膨らませようとする行為だ。

 

 過剰分は基本的に抜けてしまうが、肉体はボールとは違う。

 その過剰となる十の内、ほんの一かそれ以下だけ、拡がろうとするのだ。既に十分拡がった部分を更に拡げようとするのだから、それは痛みを伴う。

 

 つまり骨を折るのと等しいだけの痛みが全身に拡がる、という訳だ。

 これがユミルの言っていた、骨を折るような痛みの正体だった。

 アキラにしても、未だにこの痛みには馴れないし、馴れる気もしない。だが、一日に拡がる量はほんの微々たる量でも、それが一年続けば馬鹿にならない量となる。

 

 まだその鍛錬法をしていなかったスメラータなら、その一が二にも三にもなる事だろう。アキラにしても限界はまだ来ていないようで、以前と変わらない負荷を心掛けているが、完全に止まった、と感じる気配はない。

 

 この気配がないなら、まだ続けられるという事だ。

 一度に無理をし過ぎると、本当に身体が破裂して死にかねないので、その見極めは非常に重要だ。アキラが最初に教わったのは、その見極めを完全な形で物にする事だった。

 

 だからアキラも、同じようにスメラータを叱咤する。

 膝の上に置いてあった鉄棒を取り、彼女の肩を強かに打った。

 

「――いっだ!!!」

「違う。もっと細く。大きい。多すぎ」

「う、うぅ……ッ! 死ぬ! アタイこんな訓練で死ぬんだ!」

「死なない。大丈夫。先に僕が死ぬ」

「何でそういうこと言うの!」

 

 これで死ぬようなら、先に自分が死んでいる、と言いたかったのだが、上手く伝わらなくて恐怖だけ伝えるような形になってしまった。

 いいから続けろ、という様に鉄棒を振るえば、スメラータは大粒の涙を流しながら制御に戻る。

 

「あぅ、あう、うぐぅ……! ヒッヒッ、フゥゥゥ……。痛い、いたぃぃぃぃ……!」

「殴るよ。大きい。死ぬよ」

「どっちが死ぬのぉぉぉ!!」

 

 スメラータの悲痛な叫びが運動場に響く。

 今となっては風物詩となってしまった光景だが、最初は泣き声が聞こえる度、男性女性問わず、運動場へ顔を出したものだ。

 

 しかし、それがいつからか常習化すると、誰も興味を示さなくなった。

 特に虐めている訳ではなく、互いに合意の上の訓練だと分かれば、尚更興味を引くような問題でもない。

 

 ただ、前まではそれなりに使用されていた、という運動場が、これまで以上に使われなくなった原因は、この悲鳴にこそあるのかもしれなかった。

 遠巻きに見つめる冒険者の顔には、狂信者を見つめるような、明らかな畏怖の表情が張り付いていた。

 



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ギルド変容 その5

「――いや、絶対にオカシイって!!」

 

 本日の鍛練も終わり、食事も済んでからの事だった。

 たまの飲酒も息抜きに必要だろう、と許可した途端、スメラータは酒瓶を振り回しながら吠えだした。

 まだ飲み始めてから、大して時間も経っていない。しかし、その飲酒ペースは早く、彼女は既に十分出来上がっていた。

 

 あの後、泣き顔を更に歪ませて鍛練を耐え切り、日が沈むより前に終了となった。

 スメラータは未だ慣れない痛みに悲鳴を上げていたが、アキラとて同じように痛みを感じていたのだ。

 だが、痛みは慣れれば耐えられる。当初は三日で音を上げたし、今の彼女の様に、どうにか逃げ出せないかと思ったものだ。

 だからその気持ちも十分分かるのだが、実際に総量の増大を感じられれば、そんな悲鳴も上げなくなる。

 

 成長するに身を任せるより、余程早く総量が上がる事を考えれば、歯を食いしばり、脂汗を浮き上がらせてでもやり遂げる意味がある。

 その労力さえ、いつか誇りに感じられる時が来るだろう。

 アキラがアヴェリンに感謝しているように、いずれスメラータも感謝する日が来る。アキラにはその確信があった。

 

 だから文句を言おうと、泣いて詫びようと、アキラはこの鍛練を続けさせるつもりでいた。

 一人でやり続けるのは辛い。それは実体験として理解している。だから、同じ様に膝を突き合わせて鍛練を行うのは、彼女にとっても心の支えになるだろうと思っていた。

 

 しかし、酔った彼女の顔を見る限り、未だその境地には至っていないらしい。

 誰しも痛い思いをしたくないのは理解できるが、戦いに身を置くのなら、痛みを堪えて戦える様でなくては話にならない。痛みで心が折れ、苦しくて立ち上がれない戦士に価値などない。

 

 だから酔って威勢が良くなった、スメラータの怒りを聞かなかった事にした。

 顔を背けて無視する様な真似はしないものの、意見を受け入れるような事もしない。むしろ、顔を正面から見つめて、怪我の治りが早いことを観察していたくらいだ。

 

 水浴びもしてサッパリとした肌には、擦り傷も消えて、少し赤く腫れているのが見える。魔力が満たされた内向術士は、その怪我の治りも非常に早い。

 初めの頃は翌日まで怪我を引き摺っていたので、この分なら寝る前には全快しそうだった。

 

 満足そうにアキラは頷き、それから食べ終わった食器を片付ける。

 基本的に自分でやる事ではないが、テーブルの上に乱雑に置かれた皿というのは、見ていて落ち着かない。大きい皿を一番下にして、それぞれ重ねて一纏めにしていく。

 

「相変わらず几帳面だねぇ……。そういうの、一体だれに教わったんだい? 山育ちってのは、もっと大雑把なモンだと思ってたけどねぇ」

 

 同じテーブルを囲んでいたイルヴィが、好奇の視線を向けては、小さく笑っていた。

 事情を説明する訳にもいかないアキラは、困ったように笑うしかなくなる。時として、言葉が分からない振りをして――実際、分からない事も多いが――、説明を回避する機会も多かった。

 

 親身になるほど、説明できない、する事の出来ない事柄が増えていく。

 有り体に言って、アキラは育ちが良すぎる、と思われていて、実は貴族の落とし胤と思われてもいた。所作に行き届いた教育が見え隠れしていて、それが根拠の原因となっているらしい。

 

 だが、それだと言語に不自由な理由が分からない。

 会話や筆談もせず、教育など出来ないからだ。それが彼女らの頭を悩ませ、そして訝しむ原因ともなっている。

 

 追求されても答えられず、そして明らかに隠し立てしているのも分かる。

 だから、簡単には言えない事情――つまり、貴族との関わりがあるのではないか、という推論が成り立つのだ。

 

 しかし、冒険者の脛に傷があるのは珍しい事でもない。

 だから個人の過去を根掘り葉掘り聞くのは野暮とされるし、深追いしないのが礼儀とされる。それでもイルヴィが追及の手を止めない様に見えるのは、単純にアキラの事をもっと良く知りたいからだろう。

 

 アキラは何とも返事しづらく、かといって突き放すような事も出来ず困ってしまった。それを見て気分を害したスメラータが、酒臭い息を吐きかけながら、顔を近づけて来た。

 

「何よ、二人して……! アタイの話が聞けないっての!? イルヴィ、あんたも一々こっち来んなって、何度言ったら分かるのよ!」

「何度言っても変わらないねぇ。あたしはあたしで、好きな所に座るのさ。――それよりあんた、何をあんなに吠えてたのさ?」

 

 あからさまな話題転換だったが、酔ったスメラータには、それを判断する能力は残されていなかったらしい。水を向けられた彼女は、大き過ぎる力でテーブルを叩いた。

 

「聞いてよ! アキラが鍛練とか言ってるアレ、絶対おかしいって思うでしょ!?」

「まぁ……、そうだね。おかしいかって言えば、おかしいけど。でも、強くなってるんだろ? 動きが見違えるようになったのは、あたしにだって分かる」

「そうなんだけどさぁ……! 刻印なくても結構動けるようになって来た、それは感謝してる。でもさ、痛いんだよ! めちゃくちゃ殴り付けてくるし、めちゃくちゃ投げられるし! いつも口の中は血の味しかしてないんだよ!」

 

 口にする毎に怒りが収まらないらしく、テーブルを何度となく叩く。

 その度に重ねた皿が、ガチャンと耳障りな音を立てた。

 

「ご愁傷さま。いやぁ、正直あれは、あたしも拷問の類だと思ってるよ。てっきり数日で逃げ出すと思ってたし、逃げた方が都合も良いからって見逃してたが」

「はぁ!? 腹の底までドス黒い奴ね! 思ってたんなら止めなさいよ! 高潔な戦士が聞いて呆れるわ!」

「でも、叩かれるのが痛いって言っても、殴られる方が悪いのさ。痛いと泣き言を口に出来るなら、そうならずに済むよう、頭を使って工夫しなよ。こんなのは、出来ない方が悪いのさ」

「でもさぁ……、だからってさぁ……!」

 

 その事実については、スメラータも何とはなしに理解していたのだろう。

 テーブルを打ち付ける拳は止まり、その首はゆるゆると左右へ揺れる。

 

「でもさぁ、あれさぁ……。武術鍛練の後がさぁ、あれがいっちばん、辛いんだよ!」

「同じ事をアキラだってやってるじゃないさ。馬鹿な真似してると思ってたし、自分の胸元にナイフを刺しているようなもんだと思ってたけど、やらせるだけじゃなくアキラもしてる。それが正しい方法だって、アキラは教わったからじゃないか。それで文句を言うんじゃないよ」

「分かってる、感謝もしてるんだよ……! でも、痛いんだよぉぉぉぉ……!」

 

 ついにはテーブルに突っ伏し、泣き始めてしまった。

 酒瓶は手放さいまま、おいおいと声を上げ始めたが、周囲の誰も気にしていない。酒を飲んで泣き始める酔っ払いなど、冒険者が集う酒の席はでは珍しい光景でもない。

 

 視線に入れるまでもない日常だった。

 イルヴィは気の毒そうな視線を向けたものの、スメラータに声を掛ける事はしない。代わりにアキラへ顔を向け、それから伺うように聞いた。

 

「因みに、あんな事いってるけど、手加減するつもりは?」

「ない。同じだ。前の自分と。僕も泣いた、昔は」

「あぁ、そうなんだねぇ。それで同じ事やらせてるし、いつか克服できると信じて、それをやらせてるって訳かい」

 

 アキラはスメラータを見つめながら、数度頷く。

 アヴェリンに揉まれた回数は数知れず、そしてもう駄目だと思った回数も数知れない。だが、克服できる内容であるのは、身をもって実証済みなのだ。

 

 アヴェリンは出来ない事を、絶対に指示しなかった。

 求められたその瞬間は出来ない事でも、出来る様に根気よく付き合ってくれたし、出来ない状況が続けば殴られる回数も増えていったが、しかし出来ずに投げ出した事は一度もない。

 

 一般に、この世界に生きる女性たちは、誰しもアキラより才能豊かだと思っている。だからアキラに出来るのなら、スメラータに出来ない筈が無い、という論法が成り立つのだ。

 

 イルヴィは今度こそ同情めいた視線を向けて、ジョッキに入ったエールを飲む。

 それから盛大に息を吐いて、アキラの顔を残念そうに見つめた。

 

「その調子じゃ、緩める事もなさそうだね。いや、正直なところ、あんた達の鍛錬には混ぜて貰おうと思った事もあったんだけどさ。やってる事がエグすぎて、あたしでさえ逃げ出したレベルだからねぇ」

 

 そう言って、イルヴィは喉の奥でくつくつと笑った。

 

「ドン引きってやつさ。あんなんで、強くなれるもんかって思ってた。傷ついた肌は、その部分が厚くなって、以前より強靭な肌になる。理屈の上では、確かにそのとおり。でもだからって、全身くまなく傷付けるかい? 有り得ないね。思い付いたからってやるもんじゃないんだよ、そんなこと。……有り得ないんだがねぇ」

「でも、やる。ずっとずっと強くなる」

「真っ当な方法じゃないのは確かだ。そのずっとの意味も、単純な力量だけじゃなく、その練成速度にも掛かってるんだろ?」

 

 隠すことでもないので、アキラは素直に頷いた。

 イルヴィは眩しいものを見るように、目を細める。

 

「それが出来るのも一種の才能だろうが……、あたしにゃ向いてないね。実戦で使う筋肉や魔力は、実戦でしか身に付かないって思ってるんでね。部族でも同じ考えさ。あたし達は魔獣を狩って生活してる。狩れなきゃ生活できないから、自然とそういう力の扱い方と鍛え方になってるんだ。だから性に合ってるし、これを変えるつもりもない。でもまぁ、慣れればまた違うのかもしれないけど……」

 

 好意的に見てくれてはいるものの、アキラの――というより、アキラが習ったやり方を、学ぶつもりはないようだった。

 確かにアキラの鍛錬方法は、その身に付け方に速度を重視している部分がある。

 どこまで鍛えろ、と数字で伝えられるものではないので、ミレイユが合格点と言えるものがどこにあるのか分からない。

 

 いざとなった時、やはりその程度の実力か、と切り捨てられる可能性もあった。だから無理をしてでも鍛えねばならない、と思っているし、依頼が受けられない日は、大抵今日のような鍛錬をして自分を磨いている。

 

 始めて一ヶ月になるが、それまでに自分が納得できるだけの底上げが出来ている、という自負もあった。

 アキラが自分の掌を見つめていると、そこに影が掛かって暗くなる。何かと思って見てみれば、装備を外した巨漢の男が立っていた。

 

 腕には真新しいと思われる刻印が宿っていて、それを見せびらかすように持ち上げる。

 その男が口角を上げて、上げた腕を首に添え、大義そうに骨を鳴らした。

 

「よぉ、アキラ。会いたかったぜぇ……?」

「……ドメニ」

 



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ギルド変容 その6

 アキラはその顔を確認すると、朗らかに笑って手を挙げた。

 気軽な挨拶のつもりだったが、挑戦的な笑みを浮かべるだけで返礼はない。そのままアキラの正面の席へ、確認も取らずに座ってしまった。

 

「おう、今日こそ負けねぇかんな。俺がどんだけ苦労してきたか、おめぇに分からせてやるってもんだ」

「飽きないねぇ、お前も。いい加減、勝てない相手って認めりゃいいのに」

 

 イルヴィがつまらなそうに鼻を鳴らして小馬鹿にしたが、ドメニはそんな態度、何処吹く風だ。むしろニヤリと笑って、欲望丸出しの目をイルヴィに向けた。

 

「こいつに勝てば、おめぇは俺の女になるんだろ? そんな好条件、見逃す手があるかよ」

「勝てないからこそ、そんな条件にしたって分かんないかね。何度挑んだって同じだよ」

 

 イルヴィは目も合わせず手を振って、視線を外に向けた。

 今の会話からも分かるとおり、ドメニに絡まれるのは初めての事ではない。既に片手では足りない数だけ挑戦されている。

 

 イルヴィに惚れていたドメニは、仲良くしている二人に嫉妬し、そしてアキラに挑戦を仕掛けた。既にギルド内では白眼視されていたドメニだが、惚れた女を横から掻っ攫われて、大人しくしている性格ではなかったのだ。

 

 挑まれた以上は、また前回と同じように沈めたのだが、それで諦める男でもなかったのは誤算だった。

 手を変え品を変え、そして刻印も変えて、何かと挑戦を繰り返し、そうしている内に仲良くなった。親近感を抱いた、と言い換えても良いかも知れない。

 

 ドメニは相変わらず敵視しか向けてこないが、アキラにとって敵と見做す程の相手じゃない。すっかり気安い関係の様に思っているのだが、残念ながら相手からも同じ様には思って貰えていなかった。

 

 イルヴィと仲良くしているのが気に食わない所為なのは間違いないが、求婚を繰り返すドメニに嫌気が差して、イルヴィが変な条件を出したことに端を発している。

 

 ――アキラに勝てたら考えてやる。

 考えるだけで、応じるとは言っていないのだが、それでドメニはやる気をみるみる出した。一級冒険者のイルヴィには万が一にも勝ち目はないが、アキラにならば勝てる、と思えたらしい。

 

 そのアキラも、相当な余裕を残して勝利しているので、やはりドメニに勝ち目は無い。それが彼を除く誰もが共通する認識だったが、しかし諦める事だけはしない男だった。

 明らかな格下と思われた新人に、刻印まで使って負けた事で、彼にギルドの居場所など無かったが、この諦めない挑戦で図らずとも株を上げた。

 

 その何度負けてもへこたれない、その一点に置いて認める声も上がるようになり、アキラが紳士的に受け入れているのなら、と他の者も以前と同じ様に受け入れるようになっていった。

 

 アキラも別に、勝てる相手だからと甘く見ている訳ではないのだが、そのどこまでも諦めない性格だけは、どうしても嫌いになれない。

 最初の数回で、どうあっても格闘で勝てないと分かると、今度は腕相撲で勝負、という形になった。戦闘センスを全く必要としない訳ではないが、しかし普通にやるより勝ち目はある。

 

 その平和的解決は周囲の冒険者からブーイングが飛んだが、アキラが受け入れたから成立してた。アキラとしては、むしろ学校の休み時間を彷彿とさせて、逆に有り難かったくらいで、程よい息抜きとして助かっている。

 

 ドメニは腕を掲げて、分かり易い様に刻印を見せて、野太い声で威圧を掛けてきた。

 

「いいか、今回はこれまでみたいにゃ行かねぇぞ。今見えてんのは、腕力上昇の刻印だ。それも右手のみに掛かるという、デメリットありの刻印。……どういう事か分かるか? 他のヤツより、よっぽど強い効果を得られるって事だ!」

「みみっちぃねー! そんなんだから、いつも敗けるんだよ」

「うるっせぇぞ、スメラータ! 今は男同士で話してんだ、お前はすっこんでろ!」

「はいはい……」

 

 流石に耳元でがなり立てられては、スメラータもいつまで泣いていられないらしい。早々に身を起こして、二人の様子を窺っていた。

 基本的にいつもアキラと居るスメラータだから、二人のやり取りも誰より多く見ている。そしてだからこそ、何をやっても敗けるドメニを、誰より多く見てきたのだ。

 

 再びドメニがアキラへ顔を向けたが、それより前に周りの席からも野次が飛ぶ。

 

「ていうか、お前ぇ。刻印変えるの、これで何度目だ!」

「いい加減、負け認めろって!」

「刻印変える金、今日の報奨金使ったのかよ……!? そこまでするかね!? プライドってもんは無いんか!」

「――おめぇらも、うるせぇ! 俺ぁ勝つまで挑むし、心が負けなきゃ負けじゃねぇんだよ!」

「じゃあお前ぇ、アキラが負けてないって言い出したら、どうすんだよ? 言い分通して、今度また違う勝負すんのか?」

 

 何気ない質問だったが、ドメニはそれで一瞬虚を突かれたような顔をした。

 実際、何度も勝負を仕掛けておいて、たった一度勝ちを拾っただけで勝負あり、とするのは公平性に欠ける。諦めなければ負けではない、という論法を持ち出すのなら、アキラにも同様に言う権利がある。

 

 ドメニは、そこまで考えていなかったらしい。

 野次の方へ顔を向け、大袈裟な動作で手を左右に振った。

 

「うるせぇ、うるせぇ! 男は勝った時の事しか考えねぇんだよ!」

「いや、だからお前が勝ったら、アキラが素直に負けを認めるかって話をしてるんだろ?」

「うるせぇ、馬鹿野郎! 面倒事を俺に持ち込むな!」

 

 最早、論理が破綻などと言ってる場合ではなかった。自分の都合良い部分しか見えておらず、公正など頭に無い。

 

 だが、その辺は別に茶化して囃し立てていた冒険者たちは問題にしてなかった。

 結局のところ、誰もアキラが敗けると思っていない。何か新しく刻印を持ってくるのも初めての事でもなく、そして自信あり気な癖して敗けるのも、またいつもの事だ。

 

 仕切り直して、ドメニがアキラに顔を突きつける。

 アキラは困ったような顔で笑い、そして近付いた分だけ身を仰け反らせた。

 

「勝負は勝負だ。逃げねぇよな、アキラ!?」

「うん……、まぁ」

「よっしゃ!それでこそ、俺が見込んだ男だ!」

 

 顔を引っ込めて、自信満々の笑顔で二の腕をむき出しにする。

 周囲からは、都合の良い男の、都合の良い台詞に野次が飛ぶ。

 

「お前ぇに見込まれたって、アキラも困るだろうよ!」

「一度でも勝ってから言え、そういうのは!」

「刻印変えるより前に、自分を鍛えてから来いよ、馬鹿!」

「――だぁぁらぁぁ! うるせぇってんだ!」

 

 相変わらず話が進まない展開に、アキラも思わず笑ってしまう。

 いつまでも見ていたい気分になるが、本当にいつまでもそうしていると、イルヴィの機嫌が悪くなる。彼女は黙って聞いているが、不機嫌な様子を隠そうともしていない。

 

 腕を組んではドメニから目を逸らし、アキラの方へ向けて早く終わらせろ、と訴えかけていた。

 ドメニが机の上に肘を置いたのを見て、アキラもまた腕捲くりして肘を置く。

 アキラも良く鍛えているとはいえ、腕の太さは歴然としていた。そしてドメニの腕にある刻印の大きさからして、中級相当の魔術である事も分かる。

 

 腕力強化、それも刻んだ腕限定、というデメリット持ちなら、それは上級相当の効果を発揮してもおかしくなかった。腕相相撲で使うというなら、確かに有効な手段を見つけて来たようだ。

 腕の太さと刻印の効力、その二つからしてアキラ不利に思えそうだが、誰もその勝利を疑っていない。

 野次の内容もどちらが勝てるか、ではなく、ドメニが何秒持つかが専ら飛び交っていた。

 

「おぉい、誰か賭けしねぇか!」

「馬鹿お前、誰もドメニにゃ賭けやしねぇ! 勝負なんざ成立するか!」

「だから、どれだけ保つかで賭けるんだよ! ぴったり当てた奴の勝ちだ!」

「面白そうだが、どうせなら次でやりゃいいんだよ!」

「次って何よ?」

 

 騒がしい周囲を他所に、アキラとドメニは手を握り合う。

 より有利な持ち方にしようと、ドメニは幾度となく握ったり開いたりを繰り返しているが、アキラは何もせず、されるがままだった。

 

 腕相撲において、その握り方というのは非常に重要だ。

 力の掛け方、圧力の加え方にも、それが影響してしまう。実力伯仲であるなら、そこで結果が決まると言っても過言ではなく、だからされるがままのアキラには、余裕があるように見えるだろう。

 

 ドメニが握りを決めると、アキラはその上へ覆うように小指から順に締めていく。

 互いに手を握りしめたら準備完了なのだが、ドメニは余裕なく未だに丁度良い按配の握りが出来ないかと、往生際悪く動かしていた。

 

 ジャッジ役は常にイルヴィと決まっている。彼女を賞品とした勝負でもあるので、公平性に欠ける様にも思うが、そもそも最初から公平性などない。

 イルヴィがやる、と言えば誰も文句は言わなかった。

 

 彼女の手が二人の手の上に置かれれば、脱力しているか確認が入る。何度か揺らしてそれを終わらせて、イルヴィは両者へそれぞれ視線を向けた。

 アキラは平常心で、ドメニは額に汗を浮かせて睨みつけ、落ち着き無く肩を揺らす。

 

 外野の野次も収まる事なく飛び交い、その間にも幾度か二人の手が揺れた。

 イルヴィの視線が、その手に集中する。脱力の最終確認を終えると同時、飛び交う雑言を物ともしない鋭い掛け声が発せられた。

 

「――始めッ!」

 

 ドォッ、と周囲の観客から声が湧いた。

 それと同時に両者の筋肉に力が入り、引き絞られる。そして一瞬の拮抗の後に、ドメニの手が傾いていった。アキラが押しているのだが、ドメニはまだ刻印を使用していない。

 様子見を出来る相手ではないだろうに、ドメニは刻印の効力を、よほど信頼しているらしかった。

 

 そうかと思えば、腕の傾きも無視できないまでになってきた。すかさずドメニの刻印が発光し、その効果も発揮される。

 周囲の声が湧き、ドメニは傾きを持ち直して、今度は逆に攻めへ転じた。

 じりじりと傾きが大きくなり、その角度が四十五度へ差し掛かった辺りで、野次の声も大きくなる。

 

「おい、まさか! 本当にやっちまうのか、ドメニ!」

「そう簡単に行くか! こんなに簡単なら、もうとっくに一度は勝ってるだろうよ!」

「アキラお前、負けたら承知しねぇぞ!」

 

 そして傾きの角度が四十五度まで動いたところまでは良かったものの、それが唐突にピタリと止まる。ドメニは必死に動かそうと、身体を傾け体重を載せて動かそうとしているが、やはり動きは見られなかった。

 

 顔面を真っ赤にし、歯を剥き出しにしているドメニとは対象的に、アキラの表情は開始と全く変わらないものだった。どこまでも平常心で、変化がない。

 その拮抗が五秒経つと、傾きがまた中央まで戻る。

 

「ぐぅ、ガァァァァ……!!」

 

 歯の隙間からうめき声を上げて、ドメニも踏ん張る。

 だが次の瞬間、呆気なくドメニの手がテーブルにぶつかった。外部から手助けがあったかと疑ってしまう程、実に呆気ない幕切れだった。

 

「おぉぉぉおお!!」

「やっぱりなぁ、あれでも勝てないって分かったんだ!」

「そりゃあな、あれ見て敗けるなんて思う奴ぁ居ねえって!」

 

 誰しもアキラの勝利を祝う声があったが、そうでなかったのが一人だけいた。

 

「うがァァァアアア!! 何で勝てねぇ!?」

 

 失意と同時に雄叫びを上げたのはドメニで、顔は赤いまま、息を切らしながらアキラを睨む。そうしていると非常に凶暴そうで、恐ろしげに見えるのだが、既に幾度も見ているのでとうに見慣れてしまった。

 

 肩を怒らせて近付こうとするドメニを、その前にイルヴィが顎を撃ち抜いて昏倒させる。

 これもまたいつもの事で、気絶したドメニを適当に蹴り転がす所までがセットだった。

 そんな扱いをされているから、彼はこれから始まる腕相撲の事をを知らない。

 

 むしろだからこそ、ドメニは何度でも挑もうとするんだろうな、とアキラは思考を外へ飛ばす。

 今度はイルヴィがアキラの正面に座って、不敵に笑った。

 

「さぁ、今度はあたしが相手だ!」

 



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ギルド変容 その7

 周囲の野次馬の歓声が、いや増しに増した。

 本番が始まったと近付いて来る者、元より居て更に騒ぎ立てる者、騒ぎを聞きつけて酒場に入ってくる者と、雪だるま式に騒ぎが大きくなっていく。

 

 それもまた、ここ最近始まった酒場の名物の様になっていた。

 床に寝転ばされたドメニは、いつの間にやらどこかへ引き摺られて行って、邪魔にならない場所へと移されていく。その手際も慣れたもので、幾度となくやって来た事だと想像させる。

 

 そうして人垣が出来ると、一人の男が進み出て来て仕切り始めた。

 

「おーし、お前はテーブルに防護術を使え。そのままやらせりゃ、ぶっ壊れる。――おい、今日は結界使える奴いねぇのか! 前に使わせずいたら大変な事になったろ、忘れたのか!」

 

 彼は人を手配して、アキラとイルヴィの勝負を成立させようとする、賭けの胴元だった。ドメニの時とは違い、こちらは賭けとして成立する。

 とはいえ、未だにアキラは勝った事がない。

 だが、その実力が上がっている事も考慮されていて、今度こそ勝てるのではないか、という期待感から成立している賭けと言えた。

 

 イルヴィに勝てていないとはいえ、前回は彼女を本気にさせた。その上、顔を真っ赤に染め上げ、咆哮を上げさせた上での勝利だった。ドメニの様な一方的な勝敗ではなく、どちらが勝ってもおかしくない、と思わせるだけの勝負があったのだ。

 

 今度こそイルヴィに土を着けるのか、それとも負けてしまうのか。

 一度勝負する毎に力量を上げて行くように見えるアキラだから、その白熱ぶりにも拍車が掛かる。そしてその努力も、ギルドに居る者なら誰もがその光景を目にしていた。

 

 誰も真似しようとはしないが、しかし力量の上昇だけは本物だ。

 その努力を見ているからこそ、掛ける期待も相応にある。

 イルヴィの挑戦的な笑みは、自身の敗北を期待しているようにも見えて、だから周囲も今日こそは、と囃し立てるのだ。

 

「よぉーし、よしよし! それじゃ、どっちが勝つか、張った張った!」

「やっぱイルヴィだろ! まだ、この勝ちは揺るがねぇよ!」

「馬鹿お前! アキラが普段、どんな事してんのか知らねぇのか! あんな訓練してて、弱ぇままな訳ねぇだろ!」

「でもあれ、自傷行為と変わらないって誰か言ってたぞ。真似しようとした奴も、そりゃあ酷ぇ目に遭ったとか……!」

「だから、そんじょそこらの奴じゃ真似できねぇような、凄い訓練してんだよ! 誰でも真似して強くなれるんなら、とっく他の奴らも真似してんだろ!」

「そういや、お前も真似してたな、どうだった?」

「聞くな、馬鹿!」

 

 好き勝手に言い合い、ゴシップともつかぬ噂話などで盛り上がってるところで、段取りも次々と整っていく。

 さっき言われていたとおり、テーブルには防護術によって強化され、アキラ達周辺には、四角形の結界が張られようとしていた。

 

 現世での任務や、神宮などの結界を見てきたアキラからすと、拍子抜けするほど弱い結界だったが、お遊びで張る結界として見れば十分なのかもしれない。

 前々回から使われるようになったこの結界は、アキラとイルヴィ双方から放たれる威圧などから、他の者を守る為の措置だった。

 

 単に威圧だけなら問題ないのだが、単なる腕相撲からヒートアップすると、周りを巻き込む事になるほど拡大した。だから、こういう大袈裟な対策が必要になってしまった。

 準備を待つだけとなると、アキラもイルヴィも暇なので、勝手に始めてしまいたい気持ちになるのだが、これも一種の付き合いだ。

 馬鹿騒ぎが好きな冒険者だから、こういうイベントにはいつでも飢えている。

 

「さぁさ、これが単なる腕相撲と思っちゃいけねぇ! ちょいとド派手な、しかし他では見れねぇ腕相撲さ! ほら、あんたも見て来な! 次を見て様子見なんていけねぇ、これは今日一回きりだ! 今日を逃すと、次がいつかは分からねぇよ!」

「口の上手いこと言いやがらぁ!」

 

 騒ぎを聞きつけたのは、何も冒険者ギルドの者ばかりではない。

 通りを行き交う他ギルド員も、何事かと顔を出し始めている。賭け金が増えるのは誰もが歓迎するので、見ていけ見ていけ、とそちらの方にも囃し立てていた。

 

「なぁ、ところでコレがさっき言ってた、次ってやつなのか?」

「分かれ、アホ! どう見ても、それ以外ねぇだろうが! 賭けるなら、お前もさっさと賭けるんだよ!」

「でも、どっちが強いか分からねぇしなぁ……」

「分かってたら賭けになんねぇだろ! 今までずっと女の方が勝ってる! でも実力的にはもう、殆ど差はねぇと見た!」

「じゃあ、今日も女の方が勝つんじゃねぇのか?」

「そうじゃないかもしれねぇから、俺は今日、アキラに賭けるんだ! アイツの成長は、ホントに目を見張るんだぜ!?」

「男が成長してるっても、女だって成長してるんじゃねぇのかなぁ。それとも、何もしてないで待ってるんか?」

「む……、あ……うむ。分からん……分からんけど、いい勝負になるのは間違いねぇんだ!」

 

 外野が騒がしいとはいえ、耳に入ってくる音というのはある。

 それらを聞いて、アキラは苦笑した。

 

 確かにアキラとイルヴィは、実力伯仲している様に見える。しかし才能あるイルヴィと凡人でしかないアキラでは、越えようのない壁が存在していた。

 今の野次馬から聞こえてきた様に、イルヴィは自己鍛錬を怠らない戦士だ。

 

 アキラが実力を伸ばしているように、彼女もまた同じように実力を伸ばしているだろう。

 追い付いて見えるのは、単に底力を見抜く力が観衆には無いからだ。というより、それを見抜こうと思えば、直接手合わせしない限り見えない事だろう。

 

 イルヴィの顔には、相変わらず不敵な笑みが浮かんでいる。

 今や遅しと周囲を睥睨し、そして脇に座るスメラータで目が留まった。アキラも自然とそちらへ目向ければ、憮然とした表情が浮かんでいる。

 イルヴィが対戦する時、そのレフェリー役として勝って出ているのが彼女だ。

 

 何故スメラータなのか、と言われたら最初に彼女が担当したから、という理由以外にないだろうと思う。他の者も異論を唱えなかったし、それに開始直後の衝撃に曝されたくない、という感情から、いつの間にやら当然の様に彼女固定となった。

 

 不機嫌そうに見えるのは、何も賭けの対象となっているからではない。

 さっと始めてさっと終わらないのが、気に食わないだけだ。実際、この待ち時間は退屈で、挑戦者となるアキラには緊張が続く時間でもある。

 

 なるべく平静でいようと呼吸も抑えているが、心臓の鼓動まで平静ではいてくれない。

 雑談でもして気を紛らわせようと思っていても、戦意の漲るイルヴィは会話らしい会話をしてくれないし、スメラータも不機嫌を顕にしていては話しかけ辛かった。

 

 ――いい加減始めてくれ。

 その願いが通じたのか、胴元が遂に賭けを締め切った。

 やいのやいのと周囲の歓声も最高潮に達し、アキラたち二人に注目が集まる。

 

「アキラてめぇ、敗けんじゃねぇぞ! 明後日まで水で過ごさなきゃならなくなる!」

「馬鹿だねぇ、堅実に行けってんだ! アキラはこれまで何回負けた? 今日だって連敗記録更新するんだよ。ドメニと同じだ!」

「前回の接戦知ってて、よくそんなこと言えんな! イルヴィの余裕を削ぎ落としたの見てなかったのか!」

「削ぎ落としただけじゃ足りねぇよ! 底力の底の深さってもんを知らな過ぎる! イルヴィは一級冒険者だぞ、てめぇらと同じ物差しで測ってるんじゃねぇよ!」

 

 その野次にアキラは心臓がドキリと跳ねた。それは正に、胸中で燻ぶらせていた核心を突く様な発現だった。

 アキラ自身、もしかしたらを期待してなかったと言えば嘘になる。

 負け続けて来たのも事実だが、その差を徐々に詰めてきた、という自負もある。日々鍛練を積んでいるのは、何も腕相撲で勝利する為ではないが、魔力総量の増加がその差を縮めてきたのは事実だ。

 

 しかし前回、底を見せたように思えたイルヴィにも、更なる底があるのではないか、とも思っていた。全力を出したのは確かでも、アキラと違って、その全てを振り絞ってはいないのかも、と。

 そして恐らく、今日もどこかで何かしら修行めいたことをして来たに違いないのだ。

 

 アキラばかりが成長している訳もない。

 彼女は間違いなくギルドの頂点の一角を占める実力者だが、現状に甘んじている訳でもなかった。追い付いたと思ったら突き放される、その様な事も十分考えられた。

 

 イルヴィが腕を突き出し、そして肘をテーブルに付きながら、不敵に笑う。

 

「どうしたアキラ、今更怖気づいたかい」

「……まさか」

 

 饒舌に何か、上手く言い返したい訳ではないが、自分の心のままに、齟齬なく伝える手段がなくてもどかしい。

 挑戦は成長に欠かせないものだ。そしてイルヴィは、その挑戦を自ら行うという形で、アキラの成長を促してくれている。

 

 それは何も善意ではなく、同じ戦士として高め合える相手を求めての事だと理解しているが、アキラにとっても良いモチベーションとなっていた。

 

 自分より強い――しかし手が届きそうな相手、となると、そう都合よく居るものではない。手を伸ばして届きそう、と思えばこそ、そこへ突き進もうと思える。

 アヴェリンは間違いなく尊敬できる戦士だが、そこへ手を伸ばそうとは思えない。

 

 あの背中を追うだけでは、今のような成長はきっと無かっただろう。

 だからアキラは、感謝と共に、幾らかでもその気持が伝わるように声を出した。

 

「……ありがとう」

「何の感謝だい、それは。もう勝った気でいるんだとしたら、そいつはちぃっと気が早すぎたね。あぁ、それと……」

 

 イルヴィの不敵な笑みは、悪戯めいた茶目っ気あふれる笑みに変わる。

 

「あんたが負けたら、今日は同じベッドで寝る事になるよ」

「……負けない。理由ができた」

「そうかい、だったら気張んな!」

 

 スメラータの視線が射殺すような鋭いもの変わったが、イルヴィは全く気にもしてない。

 アキラもテーブルに肘を付き、互いに手を握って体勢を整える。握り方にも工夫を凝らし、ドメニの様に一方的な受けに回るような事はしない。

 

 スメラータが両者の手の上に、自らの手を重ね、脱力させるように小さく振った。

 野次馬達は怒声とも罵声とも付かない応援を振り撒き、人垣の輪が横にも縦にも増えていく。酒瓶を口元に持っていき、酔いの回った男たちが笑い声を上げていた。

 

 スメラータの脱力を促す動きが止まる。

 アキラとイルヴィ、双方順番に視線を向け、そして一瞬の停止の後、スメラータから鋭く開始の合図が放たれた。

 

「――始め!!」

 



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ギルド変容 その8

 スメラータの鋭い掛け声と同時、アキラが魔力制御を全力で振り回す。威圧感にも似たものが膨張し、筋肉の引き絞りとは別に、肉体を巨大に見せた。

 魔力を練り上げる事で生まれる錯覚が、まるで巨人の様に見せる程だった。

 イルヴィも似たようなもので、同じ様に威圧した力の奔流とも言うべきものが溢れ出す。

 

 互いに向けた力が互いの掌の中で爆発し、それが暴風と衝撃波となって吹き荒れる。

 真近にいたスメラータは咄嗟に防御したが、もんどり打って後ろに倒れた。これが嫌だから、誰もがスメラータにレフェリーをやらせている。

 

 衝撃波は結界に当たって止まったが、外へと押しやろうとする力が拮抗し、ビリビリと揺らした。その迫力あっても無害な衝撃に、観客たちは歓声を上げた。

 

「いいぞぉー! これだ、この迫力よ! 低レベルな奴ら同士の戦いなんざ、この後じゃ見れたもんじゃねぇ!」

「防護術はともかく、なんで結界までと思ったが……! こりゃとんでもねぇな!」

「とんでもねぇのは良いがよ、何で腕相撲一つでこんな事なってんだよ! 誰もおかしいって思わねぇのか!」

「楽しけりゃ良いだろ、そんなこと!」

 

 結局のところ、それがこの酒場に集まった者どもの総意だった。

 楽しいものが見られるのだから、それで良い。それが白熱できて、そして見応えある勝負なら尚良かった。戦闘中であろうと滅多に見られない、一級冒険者の力量を垣間見える瞬間でもあるし、どこまでも成長著しいアキラを見る楽しみもある。

 

「ぐ、く、ぐぅぅ……!」

「そんなもんかい、アキラ! 前回はもうちょっと強かった気もするがねぇ……!?」

 

 二人の実力は拮抗しているように見えたが、アキラの方が若干不利だ。じりじりと、先程のドメニ戦をやり直す様な形で追い込まれていく。

 歯を食いしばって耐えるアキラと、必死な表情でありつつ追い込むイルヴィ。

 敗けるな、追い込め、それぞれを応援する声が交差する。

 

「だありゃぁぁああああ!!!」

 

 アキラが吠えると同時、アキラの身体全体が、更に膨らんだように感じた。勿論それは錯覚でしかないのだが、魔力制御から放たれる威圧が、その様に見せてくる。

 アキラの制御練度は改善の余地が多く、スロースターターなのも相変わらずだった。

 初手から全力を出すことが出来ず、まず最初にエンジンを温めてやらねばならない。

 

 しかしそのお陰あって、戦況は五分に戻った。

 互いに顔を赤くさせ、身体を震わせながら押し込もうと必死になっている。

 

「く、く、くぅぅぅッ! 良いじゃないか! ――良いよッ!」

 

 イルヴィが獰猛に笑い、アキラの目を見つめてくる。

 話せるというなら、それだけ余裕があるという事だ。

 随分と舐めた態度に思えるが、いつだって勝負に勝つ気でいる彼女からすれば、その余裕は見せかけだけではないのだろう。

 

 だが、エンジンが温まった今なら、アキラはもっと大胆に行ける。

 魔術制御は循環だ。それはただ力で振り回せば良いというものではなく、丁寧さも必要になる。

 アヴェリンに、しつこく注意された点だった。

 

「はぁぁぁぁ……っ、だあああぁぁぁ!!」

 

 一瞬背筋を伸ばし、一時()()を作ってから、一気に内側へ捻り込む様に腕を倒す。

 それで形勢は大きく傾き、今度は逆にアキラの方が四十五度まで倒すことが出来た。

 イルヴィと合わさった目には、必死さと同時に勝利への渇望が窺える。ただ望むだけでなく、そこへ向かうという強い意志まで感じられた。

 

「そう……っ、簡単にぃぃぃぃ!!!」

 

 イルヴィが吠えて、威圧の暴風が吹き荒れる。またも結界がビリビリと震えた。

 彼女もまた魔力制御で挽回を計る。それはアキラとは真逆、丁寧さとは無縁の制御だった。本来なら無駄ばかりでロスの多い制御法なのだが、天性の勘と魔力量が、アキラとの拮抗を生んでいた。

 

 再び形勢が中央へ戻り、互いの腕がブルブルと揺れる。しばらくは耐えていたアキラだが、しかし徐々に後ろへと倒れていってしまった。

 悲鳴が上がり、そして同じぐらいの歓声も上がる。

 

 行け、やれという歓声の合間に、敗けるな、巻き返せ、という声も聞こえている。

 だが同時に、最早これは単なる腕相撲と見る事は出来なかった。酒場の席の一興には違いないが、それと言うには本人たちの発する気配が遊びとはかけ離れ過ぎている。

 

「ぐ、ぅ、ぅぁぁぁああああッ!」

「うぉぉぉァァァァア!!」

 

 決闘と見紛うばかりの迫力と、そして放たれる力の奔流は、冒険者たちの冒険者たちの魂に火を着けた。酒瓶片手にしている部分は変わりないが、ある一人の男が声を上がる。

 

「――ソール!」

 

 その一声が呼び水になった。

 ジョッキを掲げ、あるいは串に差した肉を掲げ、その声を上げる者が一人、また一人と増えていく。最後には、誰もが足を踏み鳴らし、二人へ声援を送っていた。

 

「ソール、ソール、ソール!!」

「……ソール、ソール、ソール!!」

 

 戦え、勝て、勝ち取れ。そう言う声援が幾重にも重なる。

 誰もがこれは、単なる賭け事や遊びではなく、一つの真剣勝負と認めた瞬間だった。

 その声援がイルヴィに力を与え、そして声援に背中を押されるようにアキラも力を高めていく。

 

「はぁぁぁぁアアア!!」

「ダァァァァアアア!!」

 

 再びの威風が両者の手を中心に吹き荒れる。

 まるで掌の中で何かがぶつかったかの様な衝撃波が放たれ、スメラータの身体が左右に揺れる。身を引き裂くほど強力なものではないとはいえ、防御一つで手一杯の様子だった。

 

 アキラは制御のギアを、更に一つ上げる。

 制御のセオリーである、供給と生成バランスを崩し、とにかく限界まで力を振るおうと、敢えてバランスを崩した。これをすると、明日一日動けなくなるのでやりたくなかったが、今は勝利に対する欲が勝った。

 

「オォォォォォオオオオッ!!!」

 

 更に抉り込むよう肩から動かし、体重を賭けつつ押し倒そうとする。

 再び拮抗は崩れ、イルヴィ不利になってきた。表情にも焦りが見え始め、喉の奥から吠える声さえ、その動きを止める事が出来ない。

 

 最後に手の甲が僅かに浮くところまで押しやられ、後ほんの少し、ほんの一押し、という状況で踏み止まっていた。

 その腕の震え一つで、テーブルに手の甲が付きそうでもあった。

 

「ぐ、ぐ、うぉあああああああ!!!」

 

 顎を上げ、喉を見せて抵抗し、その手が僅かに浮く。

 更に押し返そうとしたところで、上向いたイルヴィがアキラの目を射抜く。

 

「――カッ!」

 

 目が合わさって見えたのは笑顔だった。獰猛な笑みの中に隠れる歓喜の笑み。

 その一瞬が永遠に引き伸ばされたように感じると共に、唐突に抵抗の力が抜けた。

 叩き付ける力がテーブルを強かに打ち、そして凄まじい衝撃音と共に砕かれる。

 

 防護術を突き抜け、テーブルを粉微塵にし、そして床までイルヴィの手を叩き付け、大きな穴まで開けてしまった。その衝撃はテーブルだけに留まらず、それまでギリギリで耐えていた結界までも吹き飛ばす。

 

 結界の中で留まり続け、集約されていた力が一気に吹き荒れ、周囲の観客を軒並み吹き飛ばすという、珍事が発生した。

 悲鳴と怒号が酒場を満たし、立っている者が誰もいない状況で、数秒間その暴威が吹き続ける。過ぎ去るのを待ち続けるしかなかったが、発した時と同じく収束も一瞬だった。

 

 カラン、という軽い木片が落ちた音が聞こえ、そして誰ともなく顔を上げる。

 アキラ達の様子がどうなったか、窺うようにして見れば、イルヴィの手はしっかりと砕いた床に打ち付けられていた。

 

 互いに倒れ伏せ、手を握ったまま、アキラは俯向き、イルヴィ天井を見ている。

 手首や肘、肩まで複雑に骨折した上で、イルヴィは笑っていた。獰猛な笑みではない、愉快で溜まらない、といった顔だった。

 そのイルヴィが、胸を上下に跳ねさせて笑う。

 

「カッ……、ハッハッハ……! あたしが敗けるのかい……!」

「おいおまぇ、腕がとんでもないことなってんぞ……! ――おい、誰か治癒の刻印持ってる奴、面倒みてやれ!」

「うっへ……、イルヴィ。あんた腕がとんでもない事なってるよ。これは流石に……治すんでしょ?」

 

 いつだか彼女自身が言っていた、決闘で受けた傷は誉れだ、という発言からのものだったが、イルヴィはゆっくりと頷く。

 

「流石にこれで治癒しないって訳にはいかないだろうさ。戦士を捨てるつもりはないからね」

「ごめん、なさい。力が……良くなくて」

 

 アキラも話せる限りの単語で精一杯謝罪したが、イルヴィはそれを蹴飛ばすように笑う。

 

「何であんたが謝るんだい。堂々としてりゃいいんだ。この程度の傷、なんて事ぁないしね」

「はい、えぇ……。でも……」

 

 つい現世の基準を持ち出してしまうが、粉砕骨折程度、この世界では切り傷と変わらない。治癒魔術という手段があって、どのパーティにも誰かが一人は扱えるものだから、怪我に対する認識も軽いのだ。

 

 それこそツバを塗ってれば治る、くらいの感覚でいる方が、この世界では健全なくらいだった。

 だが怪我をさせたのは事実なので、そこに負い目を感じる。特にアキラの感覚だと、どうしても持っていた常識が――女性に怪我をさせた、という事実が負い目にさせるのだ。

 

「勝者は勝者らしく、堂々としてりゃいい! あんたを見込んだあたしの目に、狂いは無かった!」

 

 イルヴィが堂々と負けを認めると、ワッと周囲の観客が沸く。誰もが我先にと立ち上がり、再び人垣を形成して拍手や指笛など、惜しみなく送る。

 勝者を称える声を上げると共に、治癒刻印を持つ冒険者が人垣へと分け入り、傷の治療を施していく。アキラはそれを済まなそうに見つめていたが、胴元が横から入ってきてアキラの腕を取った。

 

「さぁ、栄えある勝者はアキラに決まりだ! 掛けの比率はイルヴィに寄ってたが、大番狂わせは十分有り得ると誰もが思っていた筈だ! それをやり遂げたアキラには、盛大な賞賛をくれてやれ!」

「おぉ! 良くやった! 俺ぁ明日からしばらく飯の心配しなくて良いしな!」

「おめぇは生活費を賭けに使う癖、マジで直した方が良いぞ!」

「やめらんねぇんだ! ほっとけ!」

「――アキラ、アタイも嬉しいよ!」

 

 髪をボサボサに振り乱したスメラータが、傍に寄ってきて手を握る。まだ熱を持っている手に彼女の手は冷たく感じ、その対比として思わずイルヴィへ目を移した。

 

「そんなに気にする事? 確かに腕はグチャグチャになったけど、明日には……いや、明日は一応安静にしておいた方がいいけど、まぁすっかり元通りさ」

「うん、でも……気分が悪い」

「あぁ、アキラは前から変に優しいもんなぁ」

 

 常識の齟齬は簡単には埋まらないし、それを上手く説明できる語彙もない。

 アキラの心情などお構いなしに、周りは囃し立ててくる。元より一目置かれていた事には間違いないが、今回の勝利で、それに拍車が掛かった形だ。

 

 褒めてくれる事、認めてくれる事は嬉しいが、この一敗でイルヴィを軽んじる様な風潮ができないかだけ心配だった。

 実力社会だから、確かな力量を持っているなら、ある程度横暴でも許される。時として悪名さえ力を誇示する道具とする場合もあった。

 

 イルヴィは普段から気風の良い姉御肌だが、これでドメニが敗北した時の様な事態になればやるせない、と思っていた。

 その心配のまま見つめていれば、誰彼と気を配って彼女を立たせたり、奮闘を称えたりとしている。背中を叩いて労った男に、悲鳴を上げて非難の罵詈雑言を上げているのは、逆に笑えたくらいだ。

 

 ドメニと違って、イルヴィにはこれまで積み上げた信頼がある。それが敗者のイルヴィを気遣う姿勢として表れているのだろう。

 杞憂は杞憂に過ぎなかったと胸を撫で下ろし、今は勝者を祝福する声と雰囲気に身を預けた。

 



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ギルド変容 その9

 ――それから更に、二ヶ月が経った。

 

 アキラも順調に昇級を重ね、今では二級冒険者として名を連ねている。一級への昇級には単に実力が高いだけでなく、上げた功績や在籍中の振る舞いなど、様々な要因を吟味した上で試験がある。

 だから、ごく短期間で昇級を繰り返したアキラには、一級冒険者への道は閉ざされたままだった。

 

 とはいえ、アキラからすると求めているのはギルドでの名誉でもなく、大陸で名を轟かせるものでもない。金銭にすら興味がなかった。

 アキラが望むのは唯一つ、ミレイユに欲せられるだけの力を身に付ける事だ。

 

 その為には多くの魔物に対処できる知識と、そして実戦経験が必要になる。

 二級冒険者となれば受けられる依頼も大幅に増え、よほど特殊な依頼でなければ受けられるような仕組みとなっていた。

 

 その受けられない依頼というのは、例えばエルクセスの進路を変えるようなものであったり、普通より遥かに強個体のドラゴン討伐であったりする。

 若い個体のドラゴンであれ、やはり半端な冒険者が挑戦できるものではないし、二級に昇格すれば戦えるというものではないが、あくまで制度の上では可能という話だった。

 

 実際にドラゴンが現れたりしたら、名誉欲に溢れた者だったり、余程自信のある輩でない限りは、その様な依頼を受けるものではない。

 傷の治癒に対する敷居が低いとはいえ、一息で火達磨にされてしまっては救いようもない。良い冒険者は引き際を弁え、そして自分の力量を過信しないものだ。

 

 アキラはその中にあって、二級冒険者であったとしてもドラゴン討伐に文句を言われない稀有な存在だが、討伐依頼が常にある存在でもない。残念ながら、今のところ討伐に参戦できる機会は無かった。

 

 しかし大まかな魔物であれば、オズロワーナに任せられる討伐範囲において、粗方相手に出来たと思っている。

 ギルドでは魔物の生態や習性、毒の有無、主な攻撃手段など、多岐に渡って情報が保管されている。だからスメラータに教えられて勉強し、それを元に実戦を経るため討伐に行くのが、ここ最近のルーティーンとなっていた。

 

 今ではもう、互いの等級が同じになった事もあり、チームを組んでいる事に煩く言う者もいなくなった。鍛練の方も継続して行われていて、実力の伸びも未だ著しい。

 制御技術では明らかに劣っているのに、魔力総量のお陰でアキラと勝負できている。うっかりすると負けてしまう事もあるので、殆ど互角と言って良い程だった。

 

 いつかアヴェリンが教えてくれた、魔力総量による壁、というのをまざまざと実感できた瞬間だった。剣技や制御技術で勝っていても、総量が壁となって相手にならない――。

 それに近い現象がアキラとスメラータの間に起きている。

 

 これで制御の練度まで抜かされたら、最早アキラでは相手にならないかもしれない。

 総量の方には限界値があって、スメラータはもう上限に達した様だから一先ず安心と思える。だが、ここからはむしろ練度の上昇に注力できる、という事を意味するので、やはり安心はできなかった。

 

 この実力上昇に火が着いたのはイルヴィで、元より腕相撲でアキラに負けた時から火が着き、抜かされたままで我慢している彼女ではなかった。

 しかも、強烈に当たりの強いスメラータが肉薄する実力を身に着けつつある、となれば静観できる筈もない。

 

 今ではアキラと共にチームを組み、共に制御を並びながら戦う仲間となっていた。

 チームとなったからには険悪さは一旦鳴りを潜め、表向きは不仲が解消された様に見える。だが水面下で熾烈な争いが繰り広げられるのは防ぎようもなく、知らない所で何かしている雰囲気は感じていた。

 

 なるべく穏当なチームでありたい、というのがアキラの望みなので、彼女たちも努力してくれているが、戦闘での反省会となれば言葉の応酬も激しくなる。

 丁度今が、そんな場面だった。

 

「だから、あそこはアキラが前に出るべきだったんだって!」

「それは分かるが、同時に敵側面に貼り付く機会でもあったろう? 分散すれば、それだけ危険も少なくなる訳じゃないか。危険を犯してでも攻撃する、それを狙う瞬間ってのは確かにあるもんなのさ」

 

 今は討伐依頼も無事終わり、夜空の下、焚き火を囲んでの発言中だ。

 食事も終わり、後は寝るだけとなる状況だが、大抵はこういう時間を使って話し合いをする。道中の私語も禁止ではないが、街から離れた山奥などは周囲に注意を払わねばならない。

 

 常に魔獣への警戒は怠れない訳だから、こういう安全を確保している状況でなければ、込み入った話をするに向いていないのだ。

 キャンプ中なら使い捨ての結界道具なども使用できるので、周囲への警戒は最小限で良い。

 

 アキラは焚き火を消さないよう調節してから、二人の会話に混ざった。

 

「そこは見解の相違って言うより、事前の段取りをしてなかった所為じゃないかな。単に連携の練度不足が原因で、どっちが悪い、どっちが正しいって話じゃないと思うよ」

「……まぁ、そうかも。あの状況は事前に予想できたし、それなら……いや、でもさ!」

「あたしも悪かったとは思うよ。これまでずっと一人だったからさ、他人を使うって事に慣れてないのさ。任せる、と思うより、やれると思えば突っ込まずにはいられなかった」

「僕らは即興のチームと言う程じゃないけど、経験が浅いのは確かだ。いざとなれば以前の癖も顔を出すし、連携練習だって満足にしていない。あれが失敗というなら、必然の失敗だったんじゃないかな」

「アキラも言うよねぇ……」

「言うといえば……」

 

 イルヴィが愉快そうな視線をアキラに向け、ちらりと笑う。

 

「随分と饒舌に喋るようになったもんだ」

「ろく返事もできず、あたふたしていた頃が懐かしいよ」

 

 イルヴィの言い分に便乗して、スメラータも懐かしむ素振りを見せながら、イタズラ好きそうな笑みを浮かべた。

 スメラータの成長も著しいが、一方アキラへ焦点を合わせれば、その言語習得の成長もまた著しかった。発音に関しては怪しいところが多々あるが、しかし会話するに不便という程ではない。

 

 どうやら自分は追い込まれるほど力を発揮するタイプらしい、と今更ながら自覚した。言語の習得は必須事項ではないとはいえ、落胆される要素が一つでもあれば、置いていかれる可能性はある。

 身に付け得るスキルは多いに越した事はなく、それが一つのアピールポイントとなるのなら、捨て置ける事でもなかった。

 

 後ろ向きな考えで及第点を狙って成長するのではなく、ミレイユの方から連れて行きたい、と思わせる能力を身に付ける。それがアキラの目標だった。

 既に一度別れて三ヶ月も経つが、未だに一報すらないのは気に掛かった。

 

 だが、アキラからすると、ただ再会する日を待ち焦がれている訳にもいかないし、再会した際、落胆される様な事にはなりたくない。

 ――あの方に認められる、一角の男でありたい。

 それがアキラの学習意欲になっていた。

 

「そりゃまぁ……、いつまでも言葉遣いが子供レベルじゃ困るし……」

「勿論そうさ。でも、その勤勉さには頭が下がるよ。朝は体力作りから始まって、魔物の生態を学びつつ、依頼を受けては武技を鍛え、帰って来たら基礎鍛練だろ? そして寝る前には言葉の勉強だもんねぇ……」

「誰しもアキラぐらい勤勉なら一級者になれるんだろうけどさ、それが出来る奴、そもそも居ないって話だよね。アタイだって付合わされてるから出来てたけど、一人で計画立てて、なんて無理だもん」

 

 それが本音だと分かっていても、真正面から褒められるのは面映ゆい。

 アキラがやっていた事は、それこそ神明学園に在籍していた事を、そのままこちらでも同じようにしてみただけだ。

 

 あちらのカリキュラムに則っただけだし、鍛練内容もまたアヴェリン考案のものだ。いずれも自分で考え出した方法ではない。

 

「僕だって師匠の教えがあったからだし、何一つ自分だけで考えた方法なんて無いよ。結局、先人の教えに勝るものはない、って事なんじゃないかな」

「こっちじゃ、その先人の教えってのが刻印になってたもんなぁ……」

 

 スメラータは悔いるように顔を顰め、首をかっくりと下げた。

 刻印による自動化は、多くの余分を削ぎ落とした。本来なら手順を踏んで身に付けるものも、刻印を宿すだけで解決する。長い修練を必要としなくなり、結果として現在の刻印主上主義が横行した。

 

 便利に慣れれば、元の不便には戻れない。

 修行をせずとも同じだけの効果を得られるのなら、誰もがそれを望むに違いない。都市部から離れ、今も昔の修行法を実戦しているイルヴィ達の方が異例なのだ。

 

 そして、そんなイルヴィですら、刻印という魅力には抗えなかった。

 己の身体一つ――。

 それで完結しているべき戦士だが、刻印による強化は、強さを求めるものには垂涎の的だ。プライドを取るか、実利を取るかの選択を迫られて、冒険者をやっている者が抗い続けるのは難しい。

 

 そして世の常となるまで浸透しているなら、大義名分を得たようなものだ。

 咎めるどころか推奨される環境なら、それがイルヴィでなくとも刻んでみようと思うものだろう。スメラータもそのパターンで、彼女の場合、冒険者になろうと幼心に決めたところで刻む事になった。

 

 最初からある程度、基礎を磨ける環境にいたイルヴィと違って、基礎鍛練という概念すらなかったスメラータの後悔は深い。

 もしも最初から刻印を使わず、イルヴィの様に鍛えていたのなら……その時は贔屓目ではなく、ギルド頂点の一角に位置していてもおかしくなかった。

 

 ――最短に見えた道こそが、最も遠い回り道だった。

 アキラがその様に評した時の、スメラータの顔は忘れられない。彼女にとっては、それ程の衝撃と悔恨だった。

 それからというもの、イルヴィにも相応の敬意を向けるようになったが、やはり肝心なところで仲良くは出来ないようだ。

 

 誰しも、誰とでも仲良く出来る訳ではない。

 だから無理して仲良くなれ、と言うつもりはないが、気を抜くと喧嘩腰になるのだけは止めてほしい、というのが正直なところだった。

 

 イルヴィが頭を落とすように項垂れるスメラータを見て苦笑し、それからアキラへ目を向ける。

 

「けどまぁ実際、あんた達の目覚ましい活躍ぶりを見て、考えを変えた奴も出て来てる。別に刻印を否定するまでじゃないが、刻印をより使えるように、と刻印頼りにするのは止める動きが出てるね」

「それは……良い事、なのかな?」

「勿論さ。あたしだって、その流れに動いた一人でもあるしね。楽をする事に慣れすぎたってのはあるにしろ、遅きに失した訳でもないだろうさ。強い奴が増えてくれれば、あたしも嬉しい」

 

 そう言って不敵な笑みを浮かべるイルヴィは、やはり単純な戦力の底上げを喜んでいる訳ではなさそうだった。どこまでいっても、彼女は戦士なのだと、アキラは改めて感じ入った。

 



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ギルド変容 その10

 冒険者全体が強くなることで、それだけ死亡事例も減る。それを思えば、アキラが一石を投じた意味も、全くの無意味ではなかった。

 冒険者が依頼を受けて死亡したとしても、それは完全に自己責任として処理される。ギルドからの保障もない。そしてそれを、この世の誰もが理解して戦っているし、だから高額な報奨金を得られる、という考えがあった。

 

 弱肉強食の世界だから、敗ける方が悪い、という考えが根底にある。

 だから保障がなくても誰も文句を言わないし、見返りとしての金額を得られれば納得する。アキラはそれにやるせない思いを抱いていたが、同時に異端な考えでもあるのだ。

 

 今回アキラが見せた特訓で、その死亡事例数が減ってくれるなら、ある意味でアキラが起こした行動で、命を救ったと見る事も出来る。

 アキラは密かな満足感を得ていたが、そこに水を差すような一言が、イルヴィから飛んできた。

 

「だからといって、あんたがやってる鍛錬法は誰も真似しないけどね」

「う……! いや、まぁ、あれは別に真似て欲しいものじゃないから、いいんだけど……」

「アタイが散々、泣き喚いていたのが原因って気がするけどさぁ……。でもアレは、半端な気持ちで手を出す様なモンじゃないからね……。真似しようって奴がいたから、アタイの方から止めたくらいだし」

「そんな事してたのかい」

 

 イルヴィが笑みを向けると、スメラータは当然だ、という具合に強く頷く。

 

「皆からも、あれは拷問だって散々言われたもんだけど、実際本当にそうだから……! アキラは何故か鍛練の間は悪魔みたいに恐ろしいし、それを見に来いと言っておけば、勝手に人が遠ざかってたぐらいだからね」

「いや、でもあれは愛の鞭的なアレだし……」

「違うでしょ。明らかに殺すつもりでやってたでしょ!? 結果死ななかっただけで、あれは下手すりゃ死んでたから!」

 

 そうまで強弁されると、アキラもそうなのかも、と思えてくる。

 アヴェリンほど手加減が上手かった自信もないが、アキラもアヴェリンから指導を受けていた時は何度も死ぬ目に遭っていた。

 鍛練とはその様なものだから、スメラータの言い分にイマイチ頷けない部分がある。

 

「いや、でもどうかな……。僕は多少下手だったかもしれないけど、師匠とかその仲間からも、割とあんな感じで指導されてたし……。おかしいのは、そっちの方なんじゃ?」

「何なの、その謎の信頼感!? どう考えてもおかしいのは、そっちの方でしょ! ギルドの全員がそう言ってるんだから、じゃあどっちが正しいかなんて分かりそうなもんだけどね!?」

「はっは……、いやいや。怖くて逃げ出したのは、別にその内容だけじゃ無かったと思うがね」

 

 白熱し出したスメラータを、諫めるように言ったイルヴィは、アキラへと含み笑いに告げる。

 

「あんたってあの時期、言葉が全然通じて無かったじゃないか。言わんとしてることは、何となく分かるんだけどさ。簡潔すぎるというか、やれとか、駄目、しか言わないし。端から見ていて、あれは無いって思ってたもんさ」

「――そう! 具体的な説明とかないの! 何が駄目か分からないから、延々同じ指摘してきて痛めつけてくるし! そりゃ逃げるってのよ! ……逃げられなかったけど」

 

 自分の言葉に自分で傷付き、またもかっくりと頭を下げた。

 だが、その言い分にはアキラとて反論がある。何もスメラータ憎しでやっていた訳でもないし、悪魔のように恐れられたくてやっていた訳でもないのだ。

 

「でも、師匠だってそんな感じだったよ。詳しい説明や解説をしてくれるのは、それがある程度身に付いて来てからで、基礎の基礎で躓くようじゃ説明のしようも無かったんじゃないかな。自分の勘捌きというか、感覚で行う事に口で説明するのは難しいし」

 

 スメラータは俯けた顔を、ぎりぎり視線が通るだけ上げて、呻くように言った。

 

「いや、だからってさぁ……。それならせめて、逃げ出したんなら逃げたままにさせてよ……。逃げられないから、泣くしかなくなるんじゃん……」

「それは無理だよ。師匠の教えからは逃げられない」

「何なの、その恐ろしい教訓。狂ってるでしょ……」

 

 スメラータは顔を青くして、再び顔を落とした。

 だから、とイルヴィは楽しげにその様子を見つめて笑う。

 

「誰かが参加しようとしていても、結局参加を止めた理由はそこにあるんだろうさ。強くなりたい思いがあっても、だからって拷問訓練を受けたい奴ぁ居ないからねぇ」

「僕が受けた内容を考えれば、あれでも優しくやってたつもりなんですけどね……」

「じゃあやっぱり、狂ってるって事だよ!」

 

 スメラータが顔を上げて絶叫し、イルヴィは声を上げて笑った。喉を見せるように身体を逸し、空を見上げるように笑い飛ばす。

 スメラータは憮然として殴り付けたが、目線すら向けずにいなされてしまった。

 

 アキラもまた、イルヴィが顔を向ける夜空へ、何とはなしに目を向け、それからじっと見つめて動きを止めた。夜空を見つめる事は、決してこれが初めてではない。

 ミレイユ達から離れてからというもの、むしろ夜空を見る機会は増えていった。

 

 哀愁からだと分かっていたが、見る事は止められず、そして星座の形から、この世界が本当に異世界なのだと再確認したぐらいだ。

 今もこうして見つめていると、不思議な感慨が満ちてくる。

 

 現在は夏の頃に差し掛かった季節だが、アキラも良く知る夏の大三角形など無いし、そもそも北極星すらない。何もかも違って見えるが、不思議なのは星の瞬きすら無い事だった。

 

 異世界だから、の一言で片付けられるのは星座までで、瞬きは大気の屈折率が揺らぐ事で起きる現象だ。目に入る光の強さが変化して、まるで瞬くように見えてしまうだけだから、この現象まで無いというのは不自然だった。

 

 単に時間の問題、タイミングの問題だと思った事もあった。

 小一時間も星を見つめていた訳でもなく、そういう偶然もあるだろう、と思っていた。だが一度気付くと瞬くところを見てみたくなり、そして終ぞ今までその瞬間に立ち会えた事がない。

 

 いつの日か見られるだろう、と思って、気付いた時には星を見つめる習慣が付き、そしてやはり今日もまた見つける事は出来なかった。

 どうしても見たい瞬間でもないのだが、今では見る事が出来たなら、ミレイユと再会できるという願掛けの様な扱いにもなっている。

 

 しばらく上空を見つめた所為で、首も痛くなって来た。

 またいつかで良いか、と思いながら元に戻すと、そこでは二人が不思議そうにアキラの顔を見つめているところだった。

 アキラが口を開くより早く、イルヴィが表情そのままに聞いてくる。

 

「どうしたんだい、アキラ? 最初は敵でも警戒してんのか、と思ったけど……」

「何か違うみたいだよね。それに寂しそうだった」

「……え? あぁ、うん……」

 

 恥ずかしいところを見られたな、とアキラは困った顔をして苦笑した。

 今度から夜空を見る時は、他に人が居ない時にしよう、と戒めながら弁明を始める。センチな気持ちになっていた所は仕方ないとして、それをミレイユと結び付けられるのは避けたかった。

 

「いや、故郷から見える空を思い出しちゃって……。えぇと、何て言うんだろう……。そういえば、この単語知らないな……。えぇと星、星って言って分かるかな……それがさ、瞬かないなぁ、とか……」

「ホシ? 瞬くって何?」

 

 スメラータがキョトンとして首を傾げ、イルヴィも訝しむように眉根を顰める。

 アキラは上を指さして、空に見える星について説明する。

 

「ほら、上に幾つも光る点があるでしょ。それが星。で、それが点滅するみたいになるのを、瞬くって言ってたんだよ」

「はいはい、そういう事ね。山育ちで、他に教えてくれる人も居なかったから、空に付いてるアレをホシって呼んでたと……。なるほどねぇ……。それは良いとして、点滅なんてしないでしょ」

「いや、しないだなんて、そんな事は――」

 

 原理的に有り得ない、と言おうとして、アキラは口を噤む。

 アキラは物心つく前から、山で人と接触せずに生きてきた、という設定になっている。

 だから、原理的なんて単語が飛び出すのは不自然だ。変に博識なところがある、と最近は言葉を覚えたからこその違和感を持たれているようだが、ここでボロを重ねる訳にもいかなかった。

 

 どう説明しようか迷っていると、イルヴィは顎に拳を当てて言う。

 

「あんた、山でその……ホシと呼んで見てたのは良いとしてさ。本当に点滅したのを見たのかい?」

「ええ、それは……まぁ。すごく頻繁にビカビカ光るものじゃなくて、偶にゆらっと……一瞬だけの話で……だから瞬きと呼んでいて……」

「へぇ……? でも、そんな風に空痕(くうこん)が点滅するなんて聞いた事ないねぇ。あたしだって見たこと、当然もないしね。あんたが下らない嘘を言う奴じゃない事は知ってるけどさ、それはちっと信じられないね」

 

 イルヴィの発言に、スメラータも追随するように頷く。

 

「そうだねぇ、アタイも聞いた事ないかなぁ。空痕ってのは、そういうモンじゃない筈だし」

「さっきから聞いてた、その空痕って何? こっちではホシの事を、そう呼ぶっていうのは分かるけど……」

「その名のとおりだよ。空にある傷痕、だから空痕。その昔、神様が戦争したんだか喧嘩したんだかやって、空に出来た傷なのさ。壁に空いた穴みたいなものだ、っていう奴もいる。だから点滅するなんて誰も思ってないし、見た事ある奴もいない」

「え、あ……? そう、なんだ……」

 

 返答を聞いて、納得して良いものなかどうか、一瞬迷った。

 それは単に星という存在を誤解しているだけかもしれず、宇宙にある他の天体を、神がつけた傷だと誤認しているだけかもしれなかった。

 

 だが逆に、この世界では神々が実在している。

 オミカゲ様がそうしていたように、病を治す加護をもたらしているし、神は気紛れで人を罰するとも言われる。そういう実在の神々が、過去に実際喧嘩したというのも事実かもしれない。

 そして、その際の出来事を誇張して、星の存在すら神々が作ったもの、と表現しているのかもしれなかった。

 

 だが、ふと思い返してみると、星座というのは当然、空を移動するものだ。

 空というドームに傷を付けたものではないから、自転と公転の関係で一ヵ所に留まらない。昨日と照らし合わせて見たところで分からないが、ひと月……あるいはふた月と見れば、その違いが見えてくる。

 

 だが、アキラの記憶が確かならば、空にある星の位置は、些かの違いもない様に思える。

 星図を作って記入した訳でもなければ、望遠鏡を使って確認した訳でもない。だからアキラの勘違いの可能性があって、実は全くの見当違いなだけかもしれない。

 

 だが奇妙な発見をした思いがあって、今度ミレイユ達にあったら、この事を確認してみよう、と強く思った。彼女か、あるいはユミル辺りなら、詳しいことを知っていそうだ。

 

 アキラは曖昧に自分の不明を謝罪して、そろそろ睡眠を取るよう提案した。

 見張りの番は交代制で、その順番もまたローテーション制を採用している。誰もが最初か或いは最後が良いのだから、クジにするより、いっそ持ち回りのほうが不満はないだろう、と思っての事だった。

 

 アキラの提案に従って、二人はテントの中に入っていく。

 おやすみの挨拶をして、アキラは焚き火の調節を手早く行い、空を見上げた。故郷に対する哀愁は少ないが、ミレイユ達に対する哀愁は深い。

 

 別れてから、とうとう三ヶ月の月日が経った。

 その間も、いつか再会した時に、不満を持たれないだけの鍛練を積んだつもりだった。

 王国とエルフとの緊張状態も続いている。何事かが起きていて、そしてそれは、アキラの与り知らない現象らしい。

 アキラが知らないでいると助かる、というミレイユの言葉を信じたから、あのとき何も聞かなかった。

 

 しかし、ここまで長い沈黙を与えられると、不安が募るばかりになる。

 捨てられたとは思っていない。(てい)の良い言葉を投げかけ、その気にさせた上で置き去りにするなど邪推していなかった。

 だが、不安だけは消えてくれない。

 

 このまま冒険者として、一角の者として扱われ、名声と金銭を得たところで、アキラに何の意味があるだろう。

 スメラータとイルヴィという気安く思える仲間を得られたし、ギルドの仲間たちの中にも、気軽に挨拶を交わせる相手も出来た。

 

 居心地が良い、と思える瞬間もある。

 だが、無性にミレイユ達が恋しくて堪らなかった。

 

 ――星が瞬く瞬間に立ち会えば会える。

 自分で掛けた願掛けだが、今ではそれが疎ましく思えた。

 空に見える星は、どれだけ長く見つめようと、全く瞬いてはくれない。そして交代が来るまで辛抱強く待っていようと、終ぞ最後まで瞬いてくれる事はなかった。

 



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幕間 その1

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 神々によって、住まう神殿には特色があって、それは建築様式にも表される。

 それは自身の感性によって表現された結果となる事もあるし、あるいは何かから着想を得て作られる事もあった。

 

 神は捧げられる願力を持って事を成し、自らをイメージする至聖所として相応しい形を作る。その結果として、それぞれの特色が現れていた。

 ルヴァイルの至聖所も三階層に組み上げられた巨大な聖塔で、過去・現在・未来という時の流れがイメージされている。

 

 第一層の面が一番広く、その上に第二層が重なり、これが最も長い。次に狭く短い第三層が重ねられ、最上段にルヴァイルを祀る神殿が載っていた。

 

 基部となる第一層は長方形をしていて、正面と左右から真っ直ぐに階段が掛かる。左右の階段が二層まで、正面の階段のみ三層まで達していた。

 上面から見ると底面に向かって層が大きくなり、そして側面から見た場合、台形の箱を重ねたように見える建築物だった。

 

 材質は木材とも石材とも見えない不思議なもので、叩けば硬い感触なのに衝撃を逃がす柔性を併せ持つ。武器や防具に加工するには使えないが、見た目が白く艶もあり、神々の建築物に好んで使用される。

 

 壁には『控え』と呼ばれる突出部がついていて、規則的に凹凸が出来ている事によって単調ではなくなり、陰影のある外観となっている。また、底面の各辺や壁体の稜線は中央で膨らみがつけられる事で、視覚的補正効果をねらった表現がなされていた。

 

 総じて荘厳で、神の住まう至聖所として相応しく、神が持つ威厳と尊厳を余すことなく表現されていた。

 ナトリアはその入口に当たる階段下で聖塔を見上げ、誇らしい気持ちを胸いっぱいに感じながら頭を垂れる。

 この聖塔がこの世の何処にあるのか、ナトリアも知らない。

 

 自らが信奉する神に祈りを捧げ、一週間の断食を経て、神の声を聞いた。同じ事をするだけで、神に声を届ける事も、また神から届くものでもないが、厚い信仰を向ける事で届く声というものもある。

 

 そうして認められたナトリアには、神の使いを名乗る者に案内され、今と全く同じ場所へ辿り着いた。

 至聖所とは別に、神使が暮らす建物という物もあり、そこで修行の果てに今の力を身に着けた。

 

 周囲には森があり、そして離れた場所には緩やかな流れの水が見えた。この場所が恐らく湖の上に浮かんだ島であり、住んでいた場所から遠く離れた場所なのだろう、という予想は着いたが、この場所に対する詮索は禁じられている。

 

 どこであろうと、ここが至聖所である事に変わりなく、だからナトリアは申し付けられたとおり、ここが何処かを詮索した事はない。

 神が住まう場所――。

 それを知っているだけで、ナトリアにとっては十分だった。

 

 神々は、時として自分の世話役として、傍に何者かを侍らせる事もあるが、ルヴァイルは多人数を置く事を好まない。元より信仰心を多く向けられる神ではないから、それだけ厚く信奉する者も少ない。

 

 害を為す事のない神として慕われているものの、ルヴァイルが何か恩寵を授けた、という逸話もなく、それが原因なのかもしれなかった。

 存在感の薄い神、という事になるのかもしれなかったが、一年の無事を祈る神でもある。

 

 ナトリアにとって、存在感を顕にし、誇示する様に神罰と畏怖を撒き散らす神よりも、ただ静かに寄り添ってくれる神の方が信奉を向けるに相応しいと感じた。

 神からすれば、何をするにも意味はあるのだろう。人間にとって理不尽と思える事すら、神にとっては必要な事だったに違いない。

 

 神が行う何事かに対し、逐一説明などないし、その必要もない。

 それはそういうものだから、と不満に思ったりもしないが、苦々しく思う事はある。

 そして何より、小神の中には明らかに生命を軽んじる者達がいる事こそ、ナトリアにとっては理解不能だった。

 

 それにすら意味があるのだ、と自分に言い聞かせていたが、ルヴァイルに仕えるようになって、決してそういう事ばかりではないのだと知った。

 この世界の為に存在している神は少ない。実に少ない、と言って良い。

 

 世のため人のため、神とは世界の礎であるべき、などと傲慢な事を言うつもりはないが、ルヴァイルはその数少ない神の一人だ。ナトリアはそう聞いているし、そう信じている。

 そして、そうであるべき神が少ないと知っているからこそ、ナトリアはこれ以上ない尊崇をルヴァイルに向けるのだ。

 

 聖塔に対し下げていた頭を起こし、至聖所に顔を向けて階段に足を掛ける。

 一歩、また一歩と上がる度、信仰心が高まるような気がした。

 特別尊崇を向ける相手とはいえ、他のどの神々より素晴らしいと感じるのは、単なる贔屓でないと思いたい。

 とはいえ、それは純粋な信奉を向ける信者ならば、誰しも同じ感情だろうが。

 

 最上段まで昇り切ると、入り口には見知った顔の衛兵がいる。

 彼らもまたナトリアと同じ神使であり、その玉体守護を仰せつかった信者だ。例え互いが同じ神に仕え、顔見知りであったとて、素通りさせてもらえるものではない。

 

 型通りの審査をその場で受けて、ナトリアも実直に答えを返す。武器の有無も確認された上で、その先に進むことを許された。

 

 室内は明り取り程度の窓が天井近くにあるだけで、火を焚かねばならないほど暗い。

 実際、部屋の四隅には篝火が焚かれ、煙の匂いが充満しないよう工夫もされている。入り口から更に奥へ進むと、ルヴァイルの聖処となる部屋があり、そこで対面できるようになっていた。

 

 当然、そこは私室という訳ではなく、対面の儀を果たす為の場所だ。

 本当の意味での私室があるかどうか、ナトリアは知らないが、訪れた際に直接その玉顔を前に直答を許されるのは、この場所だと決まっていた。

 

 聖処の中にも当然、衛兵がいる。

 もしも謀反を企てようとしたら、あるいは何かが潜伏して侵入していたら、身を挺してルヴァイルを護り、そして天誅を下す為の戦士だ。

 

 彼らは何も言葉を発さない。

 この場に来る事を許されたというなら、ナトリアにはそれだけの信用があると見做されている。表の衛兵同様、彼らとも顔馴染みとなって久しいが、それは聖務とは何の関係もない事だ。

 

 最奥には壇上に神座があって、そこにルヴァイルは座っている。

 ルヴァイルは銀の髪を持つ女神で、背中に届くほど長い。頭に被った宝冠は両端に角があり、それが上向きにそそり立っている。

 

 服装は白のヴェールを重ねたようなもので、華美さは無い。代わりに首飾りや腕輪、足輪など、至るところに装飾品が輝いていた。

 

 椅子ではなく、茣蓙(ござ)の様なものに座って胡座をかき、親愛な者に向ける眼を向けていた。ナトリアは恐縮する思いで所定の位置まで進み、膝を畳んで座り、その上で深々と(こうべ)を垂れた。

 

 両手を拳の形に丸め、肩幅の位置、頭の横となる部分に突いて、敵意も武器もない事を示す。この場に招かれるだけの信用を得ている者だから、こうするまでもなく敵意ない事は理解している筈だが、やはり儀礼というのは神の前でこそ示されるべきものだ。

 

 じっくりと十秒、時間を数えて頭を上げる。

 許しがあるまで視線を合わせてはならない。かといって、あからさまに視線を逸していても無礼に当たる。だから口元辺りに注視して、許しがあるまで背筋を伸ばし、顎を下げた状態で待った。

 

「……大義でした。よくぞ来た。妾の神使、妾のナトリア……」

「ハッ! 恐れ多くも、ナトリア・ベッセレム。玉顔を拝謁致しまして、恐悦至極に存じます! 身命を賭してミレイユなる者と接触し、無事帰参いたしました事、ここにご報告いたします!」

 

 労を褒められ、そして名を呼ばれれば、天にも昇る心持ちになる。

 うっかり気を抜けば倒れてしまいそうなる身体を叱咤して、再びナトリアは頭を下げた。今度は先程より若干短い五秒の礼で顔を上げ、そうして視線を合わせる。

 

 型通りの挨拶を終えれば、多少砕けた話し方も許されるようになり、それがルヴァイルとナトリアの距離の近さを示していた。

 今回ルヴァイルから与えられた聖務は、捨て石と思われても仕方ないものではあった。

 しかし同時に、神ならざる者には過ぎた知識を与えられてもいる。

 

 世界の裏側を垣間見、そして小神を直接手に掛ける、という大役を与えられたのだ。それがルヴァイルにとって、どれほど信用を向けるに相応しいと思われている事か。

 

 ミレイユと対話する際に与えられた情報一つとっても、単なる神使に与えるには過ぎたものだ。ナトリアはそれを授けるに不安ないと信頼された証拠とも言えるから、その対話如何において、死亡してしまおうと厭わなかった。

 

 ――当然、恐怖はある。

 自身の死は恐ろしい。だが主神と崇めた存在から、失望される事の方が恐ろしかった。

 視線を合わせたルヴァイルからは、催促するように顎を上下し聞いてくる。

 

「……して、どうでしたか」

 

 ルヴァイルは時間に関して大きな権能を持っているが、予知する力は持っていない。未来を見通すように見られているが、かつて起きた事を知っているだけだ。

 そこからある程度の察しは付くし、ナトリアが帰参した事で、その可能性を幾つかに絞ってもいるだろう。ルヴァイルは一々、覗き屋の様に様子を観察していない。

 

 何が起これば次に何が起こるか知っているので、わざわざ見る必要がない、とも言えるが、そもそも期待する事を半ば諦めている。

 ルヴァイルは繰り返す時の中で生きているのだ、とかつて直接その口から聞いた。

 

 だから知っている事は多いし、見通しているようにも見えるが、結局のところ確率で物事を見ているに過ぎない。

 繰り返す時は、必ず毎回同じ結果を招くものではないが、同時に偏りはある。

 だから今回、ナトリアに指示を下す際、ある程度なにが起こるか、凡その流れは聞いていた。

 

 ミレイユとはどういう人物で、その周りにはどういう人物がおり、そして誰が欠けているかで、どのような方向へ話が流れるか。ナトリアからすれば未来予知としか思えないが、その知識を持って、どう接触し、どういう会話をすれば望む結果を得られるか、その道筋を与えられた。

 

 ルヴァイルとはそういう神であるので、知識を与えられた事、そしてその流れに沿って動く事に忌避感は無かった。神の意志の下、神の腕に抱かれて世界の流れに身を任せている、と思っただけだ。

 ――だが実際には、多くの事が違っていた。

 



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幕間 その2

 ナトリアは簡潔に報告しようと心掛け、そして帰還の最中にも内容を整理しようと思考をめぐらせていた。

 そうして、まず先に結論を。そして聞かされていた内容の相違を説明するには、最初から順序立てて説明した方が良い、と結論付けた。

 

「接触は成功。ルヴァイル様との対面を約束し、転移陣の設置も済ませました」

「……そう」

 

 ルヴァイルの声音は、平坦なまま変わらない。表情にも変化はなく、むしろ落胆しているようですらあった。望む答えではなかったのだろうし、これから言う報告は更なる落胆を生むようで気が重い。

 

「彼女らのメンバーに、欠員はおりませんでした。カリューシー様を取り決めどおり弑し奉り、スルーズの身柄を確保した様に見せかけ、邸宅の中へ逃げ込み、到着を待ちました」

 

 これに対するルヴァイルの返答はない。小さく息を吐いただけで、反応と言えるのはそれ位だった。カリューシーの神魂は、この時点で回収する手筈になっていて、これは他の大神の総意でもある。これは勝手をやり過ぎた小神への戒めとも見られるが、事情を知る大神からすれば全く別の話だ。

 

 神魂だけに限った話ではないが、高度に精錬された魂というのは、高純度なエネルギーそのものだ。だから『遺物』を動かす事が出来るし、そして神々の狙いを達成するには必要な措置だった。

 これはルヴァイルが当然その狙いを知っていて、その為に邁進していると思わせる必要があってやった事だ。しかもカリューシー当神も、これに納得して魂を捧げている。

 

 この辺り、カリューシーは本当に変わった神で、一切の聖務を担わない代わりに、いつでもその生命を失おうと構わない、という取り決めがされていたという。

 他の小神にその様な話や取り決めは言ってない筈だ。

 そういう意味でも、今回カリューシーが弑された事は、あまり勝手をすればああなる、という教訓として映った事だろう。

 

 そしてスルーズについては、違反行為に近く、失敗した様に見せかけなくてはならなかった。

 大神は彼を欲しているし、あれば助かる、という程度の認識だろうが、ルヴァイルに関して言えば看過できないものらしい。

 

 最低でも他の神々の手へ渡らない様にする必要があり、そして可能ならその場で処分することが求められていた。

 この部分に関しては良い報告が出来る、と声が上擦りそうになるのを堪えながら、ナトリアは声を発する。

 

「スルーズの遺体は始末できました。私の死体と偽装させた上で火葬にしたので、ルヴァイル様の関与があったにしろ、決裂したと見えた事でしょう。この部分については、大変上手く事が運んだかと……」

「……そう」

 

 ルヴァイルの返答はどこまでも素っ気無い。

 この事でスルーズを回収できなかった始末も、ルヴァイルが信頼できる手札を失った事で相殺となる筈だった。他の大神は、ルヴァイルに特別な意図は無かったと印象付ける事ができるし、神使の損失はそれに見合うだけの制裁に相当する。

 

 元より疑念を抱いていようと、神々にとってルヴァイルの存在は完全な盲点、死角になる筈だ。

 この部分について、ルヴァイルは何度もナトリアに念を押す熱の入れようだったから、喜んで頂ける報告だと思っただけに、少々拍子抜けだった。

 

 そう思って、ハッする。

 神にお褒めの言葉を賜りたいと思っても、ねだるような真似は浅ましい事だ。

 ナトリアは自責の念で反省しながら、報告を続けた。

 

「ミレイユは非常に理知的でした。ルヴァイル様がご懸念された、拷問による情報の引き出しもなく、またユミルを使った強制開示もありませんでした」

「それで……?」

 

 ここで初めて、ルヴァイルの興味を引き付けた様だった。

 感情の発露らしきものを感じられ、ナトリアは促されるままに報告を続ける。

 

「ユミルはそれを辞さない構えでしたが、憂さ晴らしの側面が強く、それをミレイユが止めていました。よく先が見えており、私に託して頂いた情報に、求めるものは無いと断言しておりました。そして、それは事実でもあります」

「……えぇ」

「忍耐に期待するな、という発言をしつつ、良く自制できておりました。あれは単に、尋問をやり易くする為の見せかけだった可能性があります。……いえ、これは私情が混じりました。申し訳ありません」

 

 報告は正確に、見たままを伝えなくてはならない。個人的感情からの推測など、報告に交えるべきではなかった。

 だがルヴァイルは、そこにこそ強い反応を示した。

 

「自制できていた……、そして?」

「聞き出せる情報には限りがあり、そして現状では全てが叶わぬ事を理解していました。言の葉に出す事も憚られますが、ルヴァイル様の思考にも考えが及んでいたようです。神々の狙いについても、ある程度察しが付いてる様子でした」

「それは良い……、実に結構なこと……」

「そして……、私を無傷で解放しました。ルヴァイル様から申し伝えられていた内容に、全く無かった行動です。共に茶を饗され、どのように行動するべきか、一瞬我を見失ってしまい……。ルヴァイル様の神使として、見苦しい様を晒してしまいました。――どうか、お許しください!」

 

 言い終わると同時に、ナトリアは頭を下げた。

 拝謁を賜る時と同様、床に額付けるほど深い礼をする。何かしらの叱責があると、覚悟を持って待っていたが、返って来たのは歓喜にも似た高い声だった。

 

「――そう! 遂に、遂に妾が悲願……! 二百年の時を経て出現したなら、あり得ない話ではなかったものの……! 少ない可能性の先……、()()()()()()()が現れた!」

「最初……?」

 

 ナトリアは顔を伏せたまま、口の中で転がすように声を出した。

 その言い方ではまるで、今まで見てきたミレイユが外れだとでも言う様なものに感じられる。当たりを引いた、とも言い換えられる気がしたが、ナトリアに深い事情――それも神の思う先など知りようもない。

 

 それどころか、知る必要すら無かった。

 我らの主神が嬉しそうにしている。それが事実であり、ナトリアにとってもそれ以上大事な事は無かった。久しく見えてなかった本気の歓喜は、ナトリアの気持ちも上向かせてくれる。

 

「それで、ミレイユには、それ以外どの様な印象を受けましたか。理知的、冷静、だからこそ先が見えているのでしょう? その冷徹な思考は鋭く、余裕すら垣間見えたのではないですか?」

「は……、その様に言われてみると、確かに……。ですが冷静なのは、ミレイユだけでもありませんでした」

「へぇ……?」

「仲間たちも同様に鋭い考察を見せ、そしてミレイユは、それを頼りにしているように見えました。ミレイユ一人がというより、彼女ら全員が抜け目なく、それぞれを上手く補い合っているような……。彼女一人というより、彼女ら含めた一つとして機能し、それが神にも届く思考を持つようになったのではないか、と推測いたします」

「――そう!」

 

 ルヴァイルは遂に神座から立ち上がり、それにつられて装飾品がシャラリと音を立てた。

 ナトリアは未だに顔を上げてないから分からないが、その声音が今までにない上機嫌である事だけは理解できる。

 

 忙しなく床を踏み歩いている音も聞こえ、今までにない奇行とも思える行動に、我を忘れて顔を上げた。そこには果たして、顎の下に指を添えて、頬を上気させて感動している主神の姿があった。

 

「遂に……! 遂に……! 待ち望んだミレイユが……! ここより先は慎重を期さなければ……、これ以上の失敗は耐えられない。持ち堪えられないに違いなく……、最後の機会と思うべき!」

「ル、ルヴァイル様……? その様な……立ち上がって歩くなど、お御足が汚れます……!」

 

 掃除が行き届いているから、チリ一つ埃一つ落ちている筈はない。だが、神が見せる行為の一つとして、自らの足を使って歩かない、というものがある。不自然とも禁止ともされていない行為ではあるものの、その威厳を体現するに相応しくない、とはされるものだ。

 

 これが他の大神の前であれば失笑を買うだろうし、信徒を前にした行為ならば失望されてしまうかもしれない。それほど異質な行動なのだが、しかしそれを見せるというなら、ルヴァイルの興奮度合いも推して知れようというものだった。

 

 ナトリアの言葉で我に返ったルヴァイルだが、自らの行為について気付いていないようだった。

 言われて初めて自らの足元へ視線を向け、そして苦笑としか言いようのない表情を見せた。

 

「えぇ、礼を失しました。我を失い、興奮し過ぎてしまったようです」

「しかし、それほど……その、ミレイユに対して期待をされているのですか?」

「期待……、そう。久しく忘れていた感情……、これは期待ね。勿論、期待しています。貴女もよく心得ておく様に。今後何一つ、些細な失敗すら許されません。そう心に刻み込んで行動するように」

「ハッ、勿論です! 御用命いただいた全てに対し、十全な結果をお届けいたしますこと、ここに誓わせていただきます!」

「――結構! 幾度か、こことミレイユとの間を往復して貰う事にもなるでしょう。何かと用向きを伝える役目を与えます。関係は良好に保つ様に。現在不仲であるというなら、これを改善するよう努力なさい」

「畏まりました――!」

 

 ナトリアは平伏しながら、ミレイユ達へと思考を巡らす。

 ミレイユ自身からはそれほど敵意は向けられていないと思うし、関係を良好に転じるのは難しそうでもなかった。

 しかし、アヴェリンやユミルは別だ。

 

 あの二人から強い敵意を感じるし、何よりユミルに対しては不都合な情報を渡し過ぎた。あの状況では仕方なかったとはいえ、あれでナトリア自身も相当嫌われただろう。

 

 神々の行った詭計の中には、ルヴァイルが関わっていたものもある。積極的に関与したものは多くないが、要所要所で関わっている以上、彼女の怒りを買う事をは避けられないだろう。

 今後、あの邸宅へ出入りするに辺り、どこまで良好に持っていけるか……難しいところだった。

 

「ルヴァイル様、その際には……どのように接触するべきか、ご助言を頂ければ心強いのですが……」

「そう……ね。他はともかく、ユミルについては関係の改善を強く求めません。元より彼女は許すつもりがない。取り入ろうとしても、無駄に終わるでしょう」

「な、なるほど……」

 

 それを聞ければ、ナトリアとしても幾らか胸を撫で下ろせる。考える限り、ユミルから好意を向けられるよう動くのは難しいと思っていたのだ。

 これはユミルに限った話ではないが、何かしらの物品を渡したところで好転するような者は、あの中に居ない。実直さと行動でのみ評価するタイプで、しかも見掛けだけだとすぐ見抜く。

 そして神々の側に近いと知っているだけに、一度の失態は取り返しがつかないだろう。

 

「あちらについて、ルヴァイル様が直接ご降臨する事は、既に伝えております。しかし、時機について詳しい説明はしておりませんでした。これについて、どうなされますか?」

「他の大神の油断や、勝利の確信を引き出す為、森で大人しくして貰う事が推奨されます。妾が訪うのは三ヶ月ほど先が良いでしょう。……が、それを正直に伝える必要はありません」

「では、もうしばらく掛かる、とそれとなく回答を先延ばしに……。しかし、ルヴァイル様がご降臨されるというなら、色々と欺瞞工作も必要かと思われます。それについても、こちらが主導で行った方が宜しいでしょうか」

「その程度、こちらで言わなくとも勝手にやります。むしろ口出しは、いらぬ誤解を生むので、何もしていないようなら仄めかす程度で結構」

「畏まりました」

 

 ナトリアは再び頭を下げて了承する。

 ルヴァイルの顔には常にあるような、諦観に似た表情ではなく、明日の朝日を待ち侘びる様な期待感に溢れていた。

 

 それがどういう意味を持つのか、ナトリアは正しく理解していないが、必要ならばルヴァイルは全て申し伝えてくる。それを理解しているから、ナトリアはただ指示に従うのみだ。

 結局のところ、ナトリアが望むものはルヴァイルが期待する成果だけ。

 現在が、その成果に直結する道の上にあるというのなら、ナトリアはその指示を全霊を賭して叶えるまでだった。

 



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第十章
森の中で その1


 ナトリアから再びの接触が来ないまま、既に一ヶ月が経過した。

 その間、ミレイユといえば無為な時間を過ごしている。

 ――いや、決して無為とばかりも言えない。

 

 ヴァレネオからエルフを預かる、と啖呵を切った手前、その救済に動くのは当然の事だった。

 その為には、森に住む人種とその幅、また総数を把握する必要があり、そして知る毎に懸念が的中して頭を抱える破目になった。

 

 予想よりは随分多かったが、エルフの数は千に満たないもので、そして森に住む多くの者達は獣人の方が多かった。これは種族的な生殖問題にも関わる事で、毎年のように赤子を産める獣人と、十年は間を取らなければ埋めないエルフという差があった。

 そういう理由があるから、人口差が拡がるのは必然と言える。

 

 エルフの総数が千にすら届かないなら、やはり最初からミレイユに信仰を向けさせる意図など、神々には無かったのだと証明されたようなものだった。

 無論、一つの懸念として、エルフが崇拝を向ける事で、それに教化される獣人、という構図は有り得る。だから、テオによる洗脳も無意味ではない。

 

 だが、ミレイユを昇神させる事を目的としていない、と言っていたカリューシーの発言に、信憑性が増したのは間違いなかった。

 とはいえ、その目的は何なのか、となると全く読めなくなって来る。

 

 ――そもそも、ボタンの掛け間違い。

 それこそが、目的を読みきれない理由、という気がした。

 

 思考の材料、判断の材料が足りない現状、幾ら考えても仕方ない事ではある。しかし、考えを放棄するのは悪手だ。多角的に物事を見直す事で、見えて来るものもあるだろう。

 それがいずれ対面の叶うルヴァイルから話を聞く時、自らの考えを補強する材料ともなる筈だ。

 

 しかし、一向にルヴァイルとの対面が叶う気配がない。

 ナトリアは幾度か転移陣から姿を見せたし、その度に催促もしているが……現状、未だ対面をすべき時機ではない、という言い分が返って来るだけだった。

 

 神々がミレイユの動向を注意深く見つめている、という理由を教えられてはいる。迂闊な接触は、ルヴァイルとしても出来ない事だろう。

 それは分かるから待ってやりたいが、待たすというには、少々長くなり過ぎている。

 

 既に邸宅は結界で囲ってあるし、神の眼からの捕捉からの逃れられている筈だ。

 結界がなくとも屋内まで見通す事が出来るものでもない、というのはユミルの談だが、念の為を考えての事だった。

 

 これは見た目通り、神々を警戒している事をアピールするものでもあるし、常在化させる事でいざルヴァイルが来た時、欺瞞工作として機能する事を期待してやっている。

 その日にだけ、わざわざ結界を張っていたら、注目してくれと言っているようなものだからだ。

 

 ルヴァイルから色好い返事が返って来ないのは、単にミレイユを監視している事が理由ではなく、神々の方にも動きがある所為だろう。一応は、あちらの計画通りに策は成っている訳で、詰みの段階まで進んでいるという話だった。

 

 神々が今もルヴァイルの裏切りを警戒しているかどうか、そしてミレイユ同様に監視の目が付いているかどうか、それ次第では、確かに今は動きようがないだろう。

 

 いざという時、失敗出来ないと考えているのは、ルヴァイルも同様だ。

 だから接触時機についても、慎重にならざるを得ない、という考えには理解できた。ならば来臨し易いよう、陽動の一つでも手を打ってやるべきか、と考えているのだが――。

 

 目の前の状況が、それを許してくれなかった。

 ミレイユは草で作られた紙を手繰り寄せ、羽根ペンとインクを近くに置き直して溜め息を吐いた。

 現在は邸宅を離れ、里長の屋敷にやって来ていて、そこで里全体の問題と解決を図っている。

 

 嘘を吐いたり、簡単に反故にするような真似を軽々しくしたくないが、ミレイユとしては最早投げたしたいと思うほど、現状を悔いている。

 問題は多岐に渡り、そして一つ一つの数も多い。

 到底一人で捌けるものでもないから、元より業務をこなしていたヴァレネオが手伝ってくれているものの、ストレスは苛立ちを生む。

 

 紙の繊維は荒く、それも手伝って羽根ペンは良く引っ掛かるし、書き方に注意しなければすぐ滲んで読めなくなる。インクの色が青しか無いの文化の違いと受け入れるとして、乾きが遅すぎるのもストレスだった。

 

 書いた書類の上に別の書類を重ねる、などというのは、ミレイユにとって常識の様なものだったが、ここで同じ事をすれば文字が潰れて読めなくなる。

 

 その所為でひたすら場所を食うし、だから片付けるべき量が全く減らない。

 悪夢のような状況だった。

 

 風で仰ごうとも全く凝固せず、それどころか仰ぐ内に文字が変わってしまう危険もあるので、やろうとするだけ無駄だった。

 火を使えば早く乾くという発見をしたが、代わりに変色が起きてしまう。それを嫌がって止めるよう懇願したヴァレネオだったが、これには里長権限で黙らせた。

 

 一つの書類が乾かなければ、終わりと判断する事は出来ない。

 サインするだけで終わる様な物でも、即座に仕舞う事が出来ないので、その迅速さは山と埋もれた書類から解放されるのに必須だった。

 

 今ではフラットロが表に出て来るのも必須になり、彼はご機嫌であるものの、代わりにボヤ騒ぎが絶えなくなった。

 これは果たして楽になっているのか、書類が早く片付けられる代わりに、別の問題を増やしていないか、と頭を悩ますものの、フラットロは鍛冶仕事だって覚えられたのだ。

 

 今を耐え忍べば、いずれ頼りになる相棒となってくれるに違いない。

 そのフラットロは既に渡した書類を乾かし終わって、屋敷の外で空中の自由遊泳を楽しんでいる。時折、子供が構って欲しくてじゃれかかろうとしているが、それを大人に止められていた。

 その様子を窓から見つめていると、叱責とは違う、しかし明らかに注意を促す声を掛けられる。

 

「……ミレイユ様、手が止まっております」

「分かっている……。分かっているが、こんなに激務なのか、里長とは……!」

「は、いえ……。まぁ、そうですな……」

 

 ヴァレネオが自分の分の書類を捌きながら、言葉を濁しながら答えた。

 

「やはりまぁ、問題はそれなりに……。現状、戦時中でもある事ですし」

「だったとして、小さな田舎村程度の規模で、どうしてこうも問題が頻発するんだ!? それも一つ一つは結構下らないし!」

 

 戦時中となれば、確かに普段の生活とは違う問題は起こる。

 怪我人の治療、武器の生産、糧秣の確保など、普段は表に出ないか、影に追いやられている問題が目を出すものだ。それについて、ミレイユは文句を言いたい訳ではない。

 

 問題はむしろ、そことは違う、平時であれば起こるような、平和な諸問題こそにあった。

 ヴァレネオは言葉だけでなく仕事の手も止め、諦観に似た表情で顔を逸した。

 

「あぁ、それは……。恐らく、誰も彼もがミレイユ様に構って欲しいからでしょうな」

「構って!? 馬鹿な問題を持ち出す事で、私が喜ぶと思っているなら大間違いだぞ! むしろそんなの、利敵行為だろうが!」

「あらあら、いつになく余裕のない表情で……。ここまでアンタを追い詰めたのって、いつ以来? 案外これって快挙なんじゃないの?」

 

 仕事には一切関与しないが、自分の居場所だけはしっかり確保しているユミルが笑う。

 かつて執務室にはヴァレネオ一人の机しかなかった。だがミレイユが使う事、そしてヴァレネオが補佐として入る事で、机が全く足りない事に気が付いた。

 

 それで机を増やす事になったのだが、ついでだからと、ユミルも自分の机を欲しがり、しかし仕事は増える一方なので、更に机を増やして更に補佐官も増やしている。

 そこへルチアやアヴェリンが、ミレイユ専属補佐として仕事を受け持つ事になったので、やはり小さいながらも机を用意する事になり、部屋の中が一気に手狭となった。

 

 根本的に書類仕事に向いていないアヴェリンは、色々と里の中を動いてもらう便利遣いとして役に立って貰っているが、ユミルはやはりというか気紛れ程度にしか仕事をしない。

 同じく大人しく書類仕事が出来ないタイプではあるが、ユミルはむしろ気分屋の側面が強すぎて、ろくに仕事をしてくれない事に理由があった。

 

 興味のない仕事には、全くこれっぽっちも手を動かさないのだ。

 今となってはユミルに仕事を回す時間すら惜しく、だから彼女の仕事は、ミレイユが苦慮する姿を楽しむだけになっている。

 ミレイユはそちらへ恨みがましい目を向けながら、書類の一つを手に取った。

 

「そう思うなら、少しは手伝おうという気持ちにならないのか。こちらはいつでも手を欲しているぞ」

「気の向く仕事があるなら、考えてあげてもいいけどねぇ……」

「随分勝手を言うな、お前は」

 

 不遜とも取れる台詞を過敏に拾ったアヴェリンが、鋭く睨み付け物申した。

 

「協力できる事なら進んでやらんか。ご不憫でならんと思わんのか」

「思うわよ。だから楽して苦労なく、楽しそうでアタシ向きなら手伝うって言ってるんじゃないのよ」

 

 あまりにふざけた物言いに、ミレイユも黙っていられなくなって、視線を書類に向けたまま口を挟む。

 

「あるか、そんなもの……! 仕事なんて、どれもこれもやりがいを搾取してやらされるものだ」

「不思議と含蓄を感じられる台詞だコト……」

 

 うるさい、と吐き捨てて、ミレイユは手に取った書類を一読する。

 異世界へやって来て、やる仕事がデスクワークというのが、大いなる理不尽を感じずにはいられなかった。心躍る冒険をしたいなど、今更口にするつもりもないが、しかしこれだけは違うと断言できる。

 

 剣を握り、魔術を使った戦いをしたい訳じゃないと口にした事もあった。だからといって、書類仕事を任されるのは、それもまた違うだろう、と声を大にして叫びたかった。

 

「大体何だ、構って欲しいというのは! 私への思考誘導、テオはしっかりやってるんだろうな!? 信仰を向けたりしないよう、私が起こした功績その他はテオのものにするよう、言った筈だろう!」

「軍隊の襲撃から救ったり、先の邸宅で起きた爆発を伴う事件など、その首謀者を叩き返したのは、テオという事になっておりますな。彼の人気ぶりも、まぁ、やはりそれなりに高いものです」

 

 ヴァレネオが実情を補足して伝えて来て、それでテオは問題なく仕事していると分かったが、それならば何故、と思わずにいられない。

 彼に功績が移ったなら、やった事が事だけに、もっと目移りするものではないか。

 英雄の誕生だと、注意が逸れても良い筈だ。里中の者が信じるなら、実際そうなっている筈なのだ。

 

 ミレイユなど完全に日陰者で、現在はそのテオを補佐する様に見えていなくては可笑しい。

 彼の仕事がやり易い様に、彼が思う存分力を振るえる様に、と雑事を片付けている様に見えているだろう。その様に感じる思考誘導を、実際テオにやらせている。

 

 それは間違いない筈なのに、と臍を噛む思いをしていると、ヴァレネオは首を左右へゆっくりと振った。

 

「ミレイユ様は思い違いをしてなさる。テオが何を成したか、それは確かに大事な事です。里の一大事には違いなく、その危機を救い、そして里の背後――村の最奥から襲い掛かって来た者すら撃退した。森が焼け落ちるかどうかの瀬戸際だったのです。私からも、その様に説明いたしました。――しかし!」

 

 ヴァレネオは一度強く言葉を切って、ミレイユへと視線を合わせる。

 

「しかし、貴女様がここにいる。何も成さず、ただ森の奥に居ただけだったとしても、我らの前に姿を見せ、そして里を救おうという姿勢を見せている。それが何より嬉しいのです。それに感謝しておるのでございます」

「その結果が……、私の仕事を増やす事なのか? 二百年姿を見せなかった事を、実は相当恨んでいるとか、これはそういう話か?」

「滅相もない。ただ、関わりを欲しているのです。何か小さな事であれ、自分の問題を解決して頂きたいと思っているのでしょう。他の誰かの問題を解決され、その者が自慢気に語ったのではないかと推測いたします。それで羨ましくなった他の者も、ならば自分も、と強請(ねだ)って来たという次第で……」

「それはやはり、嫌がらせではないのか!?」

「……滅相もない」

 

 ヴァレネオはにこやかに笑って返答したが、その一瞬の間をミレイユは聞き捨てなかった。

 本意ではないにしろ、ミレイユに迷惑が掛かると知っても、要求を止められなかった……そういう事だとしても――ヴァレネオは、敢えてこれを止めなかった。

 

 熱が収まるまで、その僅かな時間だけは許してやろう、と民に優しさを見せた格好なのかもしれない。

 明らかに有難迷惑だが、ミレイユはこれを強く非難できなかった。

 

 彼らが受けた二百年の迫害という時間は、決して軽いものではないのだ。

 ミレイユにその責があるとは誰も言わないし、思いもしないが、姿を見せた現在、物言わぬ抗議をしたい気持ちはあるだろう。

 そしてミレイユには、その気持ちを受け止めてやる義務がある。

 

 諦めの境地で息を吐いていると、その気持ちを知ってか、ユミルが顔を向けてチラリと笑った。

 それを見て、また新たに息を吐く。

 今は何より、その笑顔が憎らしかった。

 



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森の中で その2

 エルフの諸問題を解決するのは良いとして、現実的な問題も解決しなくてはならなかった。

 神々との抗争もその一つだが、それはルヴァイルと対面を待たない事には進められない。

 そしてナトリアが言っていた様に、ミレイユが動かないだけで、デルン王国からの新たな派兵も今の所なかった。

 

 だが、動きを見せないからといって、対策をしない訳にはいかない。

 あちらの言い分を全て頭から信じる程、ミレイユの頭はお目出度くないし、神々から新たな命令を下されないとしても、やはりデルン王は森を攻め立てる事を止めないだろう。

 

 かつてオミカゲ様に施された命令は、ユミルが死んでも消えなかった。それを考えれば、スルーズが死んだ今でも、デルン国王に刻まれた命令は消えていない。

 家臣が宥めようと、強行してくる可能性は十分にあった。

 

 だから何らかの対策は必須だと言えるが、いざとなれば、ミレイユ達が先頭に立って戦う事で問題は解決する。

 例え十万の兵、あるいはもっと多い――三十万の兵で攻めて来ようと、これらはミレイユ達の敵とはならないだろう。

 

 いつでもミレイユが前に出るのも問題だと思うので、実際には多くを里の民に任せる必要はあると思うが、全滅する心配だけはしなくて良い。

 それは民としても、十分な安心材料だろう。

 

 森の外についての問題は力業で解決できるし、だから何とか出来る。

 だが、大きな問題というのは依然として残っていて、そしてそれは森の中にあった。

 

 ミレイユは手に取った書類の一枚を上から下まで読む。そこには食料に関する問題が書かれていた。狭い森の中での自給自足では、支えられる人口数が決まっている。

 その食料供給は戦時とあって絞られていて、それに対する嘆願だった。

 ミレイユはその書類にサインをして、それをルチアへ念動力を使って投げ渡す。

 

「我々がデルン軍から略奪した食料が、まだ残っている筈だ。今のところはそれで間に合わせろ」

「問題の先送りにしかなりませんけど……?」

「そうだな。改善には時間が掛かる。森を拡大させたとて、罠などの都合や管理の都合で、即座に上手く機能させられない。だが問題は、その拡大させる上で食料の生産者を、他所に使えない事だった。今ならば、その多少の無茶が出来る」

 

 魔術という便利な代物は、その全てが、現象を解決する万能薬の様に機能する訳ではない。

 そもそも使い手を選ぶし、習得したとして上手に扱えるか、という問題もある。

 

 魔術で食糧生産を補佐し、その自給率を上げるよう、植物などを管理している者はいる。しかし、魔術に秀でているエルフ全員が同じ事が出来るか、と言えば、否と答えるしかない。

 

 ルチアは結界術が非常に苦手で、それをモノにするのに大変苦労した。習得する事が出来たのは、一重に彼女が優秀だった事もあるが、苦手を克服するだけの強い意志があったからだ。

 

 誰もが必死になれば習得できる、というのなら良い。

 だが現実は、誰もが必死になれるものではないし、そして必死になるだけで解決するなら、現在の食料自給率はとうに改善されている。

 

 そして改善出来ないのは、その生産者でなければ森の拡大が出来ない、というところにあった。食料生産に使う魔術は、草木に作用する魔術を使うのだが、森の拡大に使えば食料の方に手が回らなくなる。

 

 罠の配置や改善は、他の者にも出来る事だ。

 しかし森を損なわず、樹を切り倒さず、そして新たに畑を作ろうとするなら、それに適した魔術を習得した者を充てねばならない。

 

 しかし、その魔術を習得するのみならず、習熟している者は他にいなかったのだ。

 生産者を森の拡大へ回せば、食料の供給が下がってしまう。一日で終わる事なら大した問題にはならないが、事はそう単純ではない。

 

 単に一日の食料生産が下回るだけでなく、この食料は備蓄にも回される事になる。

 いつでもデルン王国は攻める機会を窺っているのだから、戦時の為にも備蓄は必要だった。単に一日の食料消費量を生産できていれば良い、という問題ではない。

 

 誰にとっても重要な魔術と分かっていても、誰にでも適正あるものではなく、そして戦時であればこそ戦闘に使えるか、あるいは治癒術が求められるケースは多い。

 食料が無くては戦えないが、武器が無くても戦えず、そして怪我から救う為にも治癒術は無くてはならないものだ。

 

 どれが欠けても森が落とされると分かっていて、それなら適正あるものを習得するのは必定だった。元より適性が生まれにくい系統だけあって、使い手が絞られてくるのも、また必定だったろう。

 

 ミレイユは里長の仕事を代行するに辺り、まず現状の理解をするよう努めた。書類を読み込みながら、ヴァレネオから聞き取りをし、そうして問題の優先度、改善案を作り出している。

 

 今回に関しては、まず生産の手を止める事に問題があるので、そう簡単に着手できなかった。

 だが、その間の食料をカバーしてやれば森の拡大を狙う事ができ、それが後の生産率を高めてやる結果になる。

 今までも十分、喫緊の状況で改善はずっと考えられていたが、結局手が出せず追い込まれるがままだった。

 だが、今なら多少の余裕があり、対処ができる。むしろ今やれないなら、今後もずっと無理だ。

 

 ルチアは書類を受け取っては、とりあえず納得して自らのサインも加えた。

 そうして立ち上がっては、書類を手に外へ走っていく。フラットロを呼ぶ声が聞こえ、そして乾かして貰った書類を手に、走り去って行く姿も窓からも見える。

 ユミルも同様に、それを見つめながら口を開く。

 

「でもこれってさ、結局その場しのぎでしか無いんでしょ?」

「そうだな。戦争がある限り、この喫緊の状態は続くだろうし、森の拡大にも限界がある。あまり広げ過ぎればやはり目の届かない場所が出てくるし、焼き討ちされたら対処も遅れる」

「幾らフロストエルフが鎮火させるに長けているとはいえ、いつでも間に合うとは言えないものね。それに何より、領土問題が絡んでくると、やっぱりその侵出は看過されたりしないワケで」

 

 ミレイユはうっそりと頷く。

 今はまだ気付かれないだろう。しかし目端の利く者は必ずいるし、樹木の一本程度ならともかく、森の端が拡大していけば、気付かぬ筈が無い。

 版図の拡大と見られてしまうのは、恐らく避けられないだろう。

 

「戦争終結が最も望ましい関係だが……。和睦したくてもな……、眷属化したままのデルン王がいる限り不可能だ」

「仮に排除しようと動いたなら、それを神々は許さないワケでしょ?」

「妨害は間違いなくあるだろうし、私達が表に出なくともそれは同じだろう。……いや、一応目はある訳か。結局のところ、戦争状態を維持したいのは信仰を得る事が目的だ。祈る神を持たないエルフより、そうでない種族を攻めた方が効率の面で良い筈だ」

 

 ヴァレネオは忌々しく顔面を歪ませながら、呪詛を吐くように言葉を落とした。

 

「そこまで……そこまでするのですか、神々というのは。自己利益の追求……その先が、種族間の争いであり、そして扇動であると……」

「あぁ、それが事実だろうと思ってる。そして、スルーズの出来る眷属化というのは、傀儡政権を作るに最適だったという訳だ。ゲルミルの一族は神々に協力しないだけでなく、逆に眷属化される事を恐れて近付かなかったと思っているが、その点スルーズは神に救いを求めた奴だったからな」

「……愚か者め」

 

 ユミルが吐き捨てる様に言えば、それにヴァレネオも頷く。

 

「では、その眷属化が現在も有効で……そして、だからこそ命令された事を愚直に繰り返してくるだろう、と……。ミレイユ様は、そう仰るのですか?」

「一度された命令は、その最期の時まで遂行しようとする」

 

 ミレイユは一度瞑目して、自分を孔の奥へと送り出した、オミカゲ様の顔を思い出していた。

 単に命令が刻まれていたから千年続けていたとは思わないが、千年続ける助けにはなっていた。解除されない限り、その命令に従い続けるのは間違いないから、デルン国王も下された命令は最期まで継続しようとするだろう。

 

「具体的な命令の内容は知らないが、エルフへの攻撃は間違いない。どの様な好条件で和睦を突きつけようと、デルン王は頷かないと思う」

「そうね、小回りが利くような命じ方はしないものだし。応用が効く命令は、それだけ強制力を弱めるから、ずっとシンプルな内容を命じていると思うのよね」

「だからきっと、何を働き掛けようと、森への攻撃は止めないと……」

「そうだと思うわ。だから和睦は無理ね、残念だけど」

 

 ヴァレネオはむっつりと押し黙り、そして固く目を瞑って息を吐いた。

 その遣る瀬ない思いは、森を預かっていた責任者として、怒りを感じずにいられないだろう。

 人の命を、命とも思わないのは神にとっては良くある事だが、策謀の一つとして軽んじられるのは我慢ならないに違いない。

 

 そしてそれは、ミレイユにとってもまた、同じ気持ちだ。

 ミレイユ自身もその策謀で踊らされ、そして渦中の一人だと知っていればこそ、彼らの怒りを理解できる。お前達の怒りは正当だと、同じ気持ちだと受け取り、それを神々にぶつけてやれる。

 

 ヴァレネオは嘆息した後、目を開いて問い掛けてきた。

 

「和睦が無理なら、いっそ排除するというのは?」

「国王だけを排除するのは可能だ。しかし、それをすると証拠を残さずとも森への攻撃が開始される」

「確かに、現状……暗殺で利益を得るのが我々だけである以上、犯人として決め付ける相手は、他におらぬのでしょうが……」

「いや、もっと悪い」

 

 ミレイユは顔の横で、面倒そうに手を振って否定した。

 

「魔王ミレイユがこの森にいるのだと、神々が自ら喧伝する。デルン貴族を扇動するだけで済めば御の字で、私を森へ縛り付ける為に、あらゆる勢力を森へ攻め込ませるだろう」

「な、何故……? それは、報復というには余りにも……余りにも苛烈過ぎではありませんか!? 大体、人の世の戦争に、そこまで神が肩入れするなど、不自然極まります!」

「勿論だ。神々は私が森で大人しくし続けるなど、全く考えていないだろう。だが、縛り付けてはおきたいらしい。私が森を――エルフを見捨てないと判断したからには、森の民独力で脅威を排除できない戦力を、送り込んで来るのは間違いない」

「森が平和になれば、ミレイユ様は旅立とうとする……。それは……、えぇ、元より一箇所に留まる御方ではありませんから、それも納得しますが……。それの何が、神々は気に食わないのです?」

 

 ミレイユは一瞬、言葉に詰まる。

 何が気に食わないか、と言われたら、その答えに窮してしまう。

 ミレイユが単に動き回る事を、嫌がっている訳ではないだろう。昇神させまいとする癖に、現世からは連れ戻したいと思っていた。

 

 そこに矛盾を感じる。

 だがより不可解に感じるのは、ミレイユを森へ留める目的が、あくまで時間稼ぎを必要としているから、という部分だった。

 

 戦力の集結を待っているからか。

 ――有り得ない。ならば連れ戻す必要こそが無かった。勝手に現世を満喫し、そして寿命で果てるのを待てば良い。ミレイユには最初から、そうする意志があった。

 

 だからきっと、そう単純な事ではないのだろう。

 何か複数の狙いが同時にあるのか、あるいはその一つを狙うのに、気付かせたく事情があるからか……。

 隠したい何かの為に、表向きの理由を用意しているだけなのかもしれない。

 

 だが、確実に困る理由の一つとして、ミレイユの神探しがあるだろう。

 この敵意と殺意を刃として、喉元に突き付けられたくないと思っている筈だ。

 ミレイユの持つ刃は、届きさえすれば、殺傷せしめる。

 

 それを理解しているから動いて欲しくないし、そして、それを防ぐ策が完成するまで、動いて貰いたくないのではないか――。

 それは思うが、まず自己の保全を確保する為、それが理由だ、という気がした。

 

「まぁ、だからきっと……。私が神を殺して回ること、それを阻止したいと思っているから……という事になるんだろうな」

 

 何気なく零した一言だったが、ヴァレネオは口を開いて唖然とした。

 



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森の中で その3

 ヴァレネオは口を戦慄かせ、僅かな間を開けてから口を開く。

 

「……以前にも、仰せでしたね。神々を弑し奉る、と……。その目的を知られてもいると……。では、神々は恐れるが故に、遠ざける為だけに森へ閉じ込めておきたいと……?」

「それだけとは思えない。他にも必ず理由がある。それが何かはまだ分からないが……、何れ突き止めてやる」

 

 ミレイユが語気を強めて言うと、ヴァレネオもまた強く頷く。

 

「人心、人命を軽んじること……、あるいはそれこそ神の特権かもしれません。ですが、ですが……軽んじるだけならまだしも、その為に全てを支配下において虐げるなど……! あまりに……!」

「そうだ、それに甘んじてやる理由がない。全ての神とまで言わないが、計画の首謀者は必ず殺す」

 

 ミレイユが敢えて強く断言すると、ユミルは満足げに笑みを浮かべる。

 

「当然よね? 加担した神、首謀した神、それとゲルミル族を皆殺しにした神には、相応しい報いを受けて貰わないと……ねぇ?」

「世界の存続に神が必要……それは事実かもしれないが、だったとすれば、それを解決した上で報いを受けて貰うだけだ。こちらもこちらで、既に和解できる段階を過ぎている。あちらも止まるつもりはないだろうが……、我を通したいのはこちらも同じだ。だから、もはや死の決着でしか止める方法がない」

「は……!」

 

 ミレイユの決意を聞いて、ヴァレネオの身体がわなわなと震える。

 彼の抱く恨みは相当深く、しかし手が出ぬ相手と忸怩たる思いをしていただろう。いつかミレイユが鉄槌を下す、という希望を胸に抱いて、その時を待っていたに違いない。

 

 その時が遂に来ようとしているのだ、と認識を新たにした事だろう。

 ヴァレネオの顔に浮かんだ紅潮した表情が、それを物語っている。

 

 調子の良い事を言ったが、当然そこには大きな問題が横たわっている。

 それにはこちらから能動的に攻め立ててやらねばならず、居場所も分からぬ現在、刃を持っていても届かせようがない。

 森に閉じ込めていたい神々の思惑を思うに、その問題も解決しない事には、動くに動きようがなかった。

 

 ただ、これについてはルヴァイルとの接触次第で、上手くいく可能性がある。

 ()の神を完全な味方と見ていないし、信用するつもりもないが、しかし神々へ手を届かせる重要なパーツだ。

 問題を一挙に解決できるとはいえ、上手い話には裏があるものと理解している。

 

 果たしてどこまで信用できるのか、そしてルヴァイルは何を伝えるつもりでいるのか考えていると、ヴァレネオは紅潮させた顔のまま、深く頭を下げてから言って来た。

 

「ミレイユ様、今更ながら、その時が近付いて来たのだと理解いたしました! (わたくし)ヴァレネオ、どの様なお手伝いでもさせて頂く所存です。何なりとお申し付けを……!」

「……まだ計画といえる物すら、出来上がっていない段階だからな……。今からそんな様子じゃ身体が持たないだろうが……、その時が来たなら頼もうか」

 

 中途半端な事しか言えていないというのに、期待を寄せた言葉は、どうやら喜ばせる事になったらしい。ヴァレネオは、またも身震いして一礼した。

 

「お任せを! ミレイユ様がそれを成して下さるというのなら、我らエルフがそれに協力する事に、誰が異を挟むと言うでしょうか。あげくその礎となろうとも、迷いなく付き従う事でしょう……!」

「そうよねぇ……。そして神として降誕してくれるって言うんだから、文句なしよね」

「おぉ……!」

 

 今にも膝を折って祈り出しそうなヴァレネオを、念動力で元の姿勢に戻してやりながら、ミレイユは大いに顔を顰めて、ユミルを睨み付けた。

 

「誰もそんなこと言ってないだろ。変な噂を広めようとするのはやめろ」

「何でよ、やってよ。結構適正ありそうじゃない、オミカゲサマもやってたんだしさ。今の感じ見てても、やっぱり出来そうな感じでしょ」

「小さな村での仕事捌きを見てか? 確かにカミサマ適正が大アリって感じだな」

「そんなワケないでしょ。言わなきゃ分からない?」

「そうだな、何を見てどう確信したのか教えてくれ――いや、やっぱり言わなくて良い。聞きたくない。……私にそんなつもりはないし、今後その様な事に、手を出すつもりもないからな」

「あら、そう。ふぅん……?」

 

 意味あり気な笑みを浮かべて、ユミルは自らの頬に手を当てて擦った。

 その余裕をありありと見せる姿は、放っておくには怖すぎる。何か画策しているというなら止めたいし、何かを予想しているというなら、それを潰すべく動きたい。

 

 聞き出すと弱みを見せるような気がしてならないが、しかし聞き捨てたままでいるのも恐ろしい。

 それで結局、聞きたくないというのに、聞くことを止められなかった。

 

「……なんだ、何を言いたい。言ってみろ」

「いえ、別にぃ……? ただほら、アンタが言う『つもりが無い』っていう要件は……大体巻き込まれたり、そうせざるを得なくなったりで、結局関わるコトになるじゃない」

「そんな事――! ない、だろうが……」

 

 キッパリと否定したかったが、よくよく思い返してみるまでもなく、事実だったと思い至る。思わず言葉が尻すぼみになってしまったのを抑えられず、それが更にユミルを喜ばせる結果となった。

 

 この世界での冒険は言うに及ばず、現世に帰ってからも結局静養とは名ばかりの生活を強いられる事になったし、関わりたくないと思っても、向こうの方が放ってくれない。

 それが神の計画と言ってしまえばそれまでだが、それ以外の全ての騒動さえ、ミレイユを放してくれなかった様な気がする。

 

 だが、その神々の頸木を断ち切れば、そんな心配も無用になる。

 そして、ミレイユはその為に今、あらゆる努力を厭わず動いているのだ。それを思えば、小村の書類仕事程度、どうという事はない。

 

 何事かを言いたがっているヴァレネオを視線で黙らせ、ユミルも努めて無視すると、ミレイユは新たな書類を手に取る。

 そして一読なり、眉間に指を当てた。

 

 指を当てたのは、眉間に皺を寄せるのを防ぐ為だ。最近、どうにも顰めっ面ばかりしている様な気がするので、それを未然に防ぐ為、この様な動作をする機会も増えて来た。

 だが、そんな様子が気が気じゃないアヴェリンは、ほんの少し身を寄せて、ミレイユの様子を伺って来る。

 

「……何か難しい事でも?」

「いや、難しいとは別だ。頭が痛い思いをしているのは事実だが……ダフネというのは誰の事だったか、それも知っておきたい」

 

 ミレイユがヴァレネオへ視線を向けると、数秒考え込んだ後に、明確な答えを返してきた。

 

「……あぁ、畑近くに暮らしている老婆ですな。採れた野菜の管理を任せている、ドルドの母です。それがどうされました?」

「……屋根の雨漏りが酷いのだそうだ。……こういうのも、我々の仕事になるのか?」

「嘆願自体は権利の内ですし……良くある事ではありませんが、有り得ることです」

「つまり、普通はしないって意味だな。――こんな物まで回すから、私の仕事がパンクするんだろうが!」

 

 いよいよ堪り兼ねて、ミレイユは書類を机の上に叩き付けた。いっそ燃やしてやりたい気分だったが、一応は正式な書類なので、可否のサインだけでもせねばならない。

 嵩張る書類と、即座に乾かないインクが、只でさえ簡単に終わらない仕事の完了を遅くさせている。それがまた腹立たしい。

 

 さっさとサインを済ませてフラットロを呼ぼうとした時に、外へ出ていたルチアが帰って来た。

 その顔には仕事を完了させた事を報せるのとは別に、微妙な心配事を伺わせるものが浮かんでいる。何も言うなよ、と心の中で念じてみたが、全くの無意味だった。

 ルチアの口から、新たな面倒事を報告する内容が飛び出した。

 

「ミレイさん、喧嘩です。広場近くでやりあっています」

「好きにさせろ、そんなもの……!」

「そういう訳には……。何しろ人数が六、七人いて、その全てが鬼族の戦士です。鎮静するのを待っていると、被害が大きくなり過ぎませんか?」

「全く……っ」

 

 流石に眉間を押さえているだけで、いつまでも防ぐのは不可能で、ミレイユは思いっきり顔を顰めて尋ねた。

 

「原因は? 喧嘩になった理由とか聞いてるか?」

「ミレイさんが里長やってるのが、どうにも腑に落ちないみたいです。というか、戦争に勝ち目が見えてきて、それで攻めに転じない事を詰る内容ですね。攻めれば勝てるのに、それを止めるミレイさんが理解できない……概ね、そのような感じです」

「馬鹿を言いおって! ミレイユ様に、何たる不遜だ!」

 

 ヴァレネオは憤って机を叩いたが、しかし事実を知らない人――それも鬼族ともなれば、その様に思うものだろう。弱腰と映るのは避けられない。

 だが、確かにこれは単に暴れて被害者が出るだけならまだしも、逸って勝手に動き出す事態になりかねない。

 

 ミレイユが指示したものでなくとも、森の民が攻めて来たと認識されれば同じ事だ。

 それは結果として、森にとっても、デルンにとっても面白い事態にはならないだろう。

 森に住む者の一意見として真っ当であっても、周りを扇動する様な事態へ発展されては堪らない。

 

「これまでの鬱憤もあったからこそ、なんだろうが……。直近の戦闘では弱卒ばかりに見えただろうし、私という後ろ盾を得て、勝ちを掴めると思っていた矢先だろう……? だが、オズロワーナを攻め落とそうものなら、むしろもっと大きな厄介事になるなど、彼らは想像もしてないだろうしな」

「――では、どうされます」

 

 理知的な話し合いでの解決は、今更難しいだろう。だが、生来の実力主義である鬼族ならば、ある意味で説得は容易だ。

 ミレイユはアヴェリンの顔を見て、信頼を預けた笑みを向ける。

 

「アヴェリン、行って黙らせて来い。力で抑えつけて言うことを聞かせろ」

「お任せ下さい」

「ん-……、別に文句言いたいワケじゃないけどさ。それって余計な反発生まない? そんな無茶が通じるの、今回だけでしょ?」

 

 ユミルの懸念は最もだった。

 これからも同様の反発が起きて、そして声を上げるだけに留まらなかったら――。

 そして、それをいつもミレイユが指示を出して力付くで黙らせていたら、鬼族だけに留まらず他の種族も不審に思い、連鎖する様にして反発が強まるだろう。

 

「そうだな。……アヴェリン」

「ハッ!」

「怪我はさせても良いが、重症者は出すな。そして単に鎮圧するだけでなく、稽古を付けるつもりでやってやれ。来る者拒まず、お前の力量を知らしめて来い」

「――お任せを!」

 

 返事を聞くと同時に、ミレイユは首肯して退室を促す。

 アヴェリンは意気揚々と部屋を飛び出すと、あっという間に屋敷からも飛び出して行く。窓から見えるアヴェリンの姿も、やはりすぐに見えなくなった。

 ユミルもその後ろ姿を目で追いながら、心配そうに呟く。

 

「いや、大丈夫なの、それ……?」

「単に力で抑えつけるのではなく、力関係を教えてやるのは重要だ。特にアヴェリンに勝てない様なら、都市に行く権利もない、という様な発破を掛けてやれば、それで納得させられると思う」

「いや、そっちじゃなくてさ……」

 

 ユミルが僅かに言い淀んだ隙に、ルチアが言葉を引き継ぐようにして言う。

 

「重症な怪我をさせるな、っていう点は良いとしても、熱の入った鬼族が、また騒ぎを大きくさせるのではないですか? 喧嘩なんていう小さな騒動を止めるつもりが、もっと大きな騒動に発展しませんかね?」

「それは……」

 

 元より躾けられるよりも前から、実力至上主義に染まっている彼らだ。

 冒険者もまた実力至上主義には違いないが、あれらはギルドに所属してから、その思想に染まる。鬼族や獣人族とは、その経緯からして根本的に違った。

 

 その鬼族が、果たしてアヴェリンを前に、転がされた程度、腕一本折れた程度で、動きを止めるなど有り得るだろうか。無力化する為に、多少力が籠もり過ぎるだろうし、それでも止まらないと思わせるのが鬼族だ。

 ミレイユは己の失敗を悟らざるを得なかった。

 

「ルチア……、帰って来たばかりで済まないが、治療の方に回ってくれないか?」

「そうですよね……。そうしなければなりませんか」

 

 ルチアは愉快そうに笑って、手を一振りしてから退室して行く。

 気付いていたなら助言しろ、という不満をありありと示した視線をユミルに送ったが、彼女は実に楽しそうな笑みを返して来るだけだった。

 



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森の中で その4

天の川(・・?)様、、誤字報告ありがとうございます!
 


「えぇい……っ、後で様子を見に行かなければならないか。あまり外に出たくないんだが……」

「あらあら、すっかり出不精になっちゃって」

「あんな様子を見せられたら、そうもなるだろ……!」

 

 ルチアが懸念を示したとおり、エルフ達はミレイユに尊崇の念を向けようとした。それはテオの洗脳を利用する事で、上手く回避する事は出来たが、しかし感謝の念まで奪う事は出来なかった。

 洗脳は多人数に対しても有効に働くが、命令を重ね掛けする事は出来ない。

 

 一方を既に封じているのだから、その念だけは受け取らざるを得なかったのだ。

 それが何とも面映ゆい。

 自分で言うのも烏滸がましいが、ミレイユは実際、それだけの感謝を受け取るだけの助力をしている。だから、当時の事を今も覚えているエルフ達が、その気持ちを伝えたい、という事まで止められなかった。

 

 しかし、それが顔を見せる度、苛烈になるとなれば話は別だった。

 感謝の言葉一つ、態度一つで終わるならば良い。こちらも気持ち良く受け取って、話はそれで終わりだ。しかし彼らは、いつでも感謝の念と態度を前面に表し過ぎる。

 

 まるでここが、第二の奥宮かと錯覚しそうになる程だった。

 あちらほど形式張って厳格なものでも無いが、向けられる敬意は、非常に似たものを感じる。それが窮屈で、そして申し訳ない気持ちになって、表に出る機会を減らす事になった。

 

 現在は里長の屋敷と、ミレイユの邸宅を往復する日々だ。

 窮屈さを感じて、時折ユミルに幻術を掛けて貰った上で、村の中を散策するものの、エルフの強い感知力では見抜いて発見される事もしばしばだった。

 

 ミレイユは吐き捨てるように言った態度のまま、ユミルから視線を切って、再び書類へ向き直る。とにもかくにも、正式な嘆願として提出されたものは、それが何であれ可否のサインだけはしなくてはならない。

 

 ミレイユは大きく溜め息を吐いた。

 それら全て、見る必要も無いと破り捨てたい衝動に駆られる。しかし、目の前に堆く積まれた書類の、いったい何処に潜んでいるかも分からない以上、目を通す事だけはしなくてはならなかった。

 忌々しく思いながら書類の一つを手に取り、そして内容を精査しようとして動きを止める。

 

 直前の内容が内容だっただけに、今回の書類も流し読みするような塩梅だったが、目に入ってくる情報を理解するにつれ、その読み方にも真剣味が増した。

 改めて最初から読み直し、そしてユミルへ顔を戻す。

 

「あら、どうしたの。ちょっと怖い顔してるわよ。アタシの顔見て癒やされるって言うなら、どうぞ好きなだけ見て頂戴」

「何でそんな理由で、私がお前に顔を向けないといけないんだ。……そうじゃない、ギルド関連の問題だ」

 

 頬を挟むように両手を当てて、変なシナを作るユミルへ、大いに顰めっ面を向けてから本題を切り出す。

 

「冒険者ギルドのギルド長も、スルーズに眷属化されていたろう。今も同じく何かしらの命を実行中だと言うなら、これは阻止しておきたい」

「まぁね……、好きにさせる理由なんてないけど。でも、単にデルン国からの依頼を受け入れろ、程度なら可愛いものじゃない?」

「本当にそれだけならな」

「……あら。それじゃあ、アンタは何か他にもあるって考えてるの?」

 

 ユミルが頬に添えていた手を、片方だけ外して首を傾げる。

 ミレイユはそれに対して、明確な答えも予想も立てていなかったが、自由にさせておく不便さを許すつもりは無かった。

 

「別に何かあると思っていないが、デルンと冒険者は切り離しておきたい。健全化させたい、というよりは、いざという時ギルドを勝手に動かす事こそを懸念している。その()()は、魔王討伐という大義名分が働く時、先鋒として使う腹積もりだろうし、そうでなくとも先日までと同様、森への警戒要因として使えるものだ」

「まぁ、単純に戦力として見ても、弱卒の兵より役に立つのよね。可能ならば、これは切り離しておきたいっていうのは納得よ」

 

 ユミルが納得して頷いたが、それに待ったを掛けたのはヴァレネオだった。

 

「――お待ちを。しかし、これはデルンを攻めた場合、神々からの逆撃を受ける、という話に抵触いたしませんか。明確な宣戦布告ではありませんが、相当グレーな部分かと。勘気に触れれば、何をして来るか分からないではありませんか」

「お前の言う事は尤もだ」

 

 ミレイユは首肯してから答える。

 ギルドを既にデルンの手足と考えているなら、それを切り離されるのは攻撃と見做される可能性はある。ミレイユを森へと留めたい、というのなら、その戦力はそれなり以上の役目を果たすだろう。

 

 それを期待しての運用だったかもしれない。

 だが、ヴァレネオがグレーゾーンと言ったように、これを攻撃するのではなく、自発的に離反させるのであれば、その限りではない。

 

「切り離す為に、わざわざ我らの仕業と教えてやる必要はない。――当然、秘密裏にやる。大体、この切り離し工作が成功したとして、その上で魔族の仕業と暴露されても、我々が一方的に指弾されると思うか?」

「……それは、やはり、そうなのではありませんか? 大体、我々を敵と認定させたいという話で、それなら幾らでも指弾して来そうなものですが」

「だが同時に、我々も黙ってはいない。そもそもギルドに癒着があったのだと、問題提起してやる事が出来る。事実としてそうなのだから、そこを突くのは当然だ」

「そうねぇ……。仮に魔族が暴いたと言われたところで、それを持って森を攻め立てろ、という話に持って行くのは難しいでしょ。出来るとするなら、癒着工作そのものが魔族の仕業にした方が賢明でしょうけど……」

 

 ミレイユは一つ頷いてから手を振った。

 

「それをさせない為の秘密工作だ、暴くのは私達じゃない。ギルド員自ら、それを暴いてもらう」

「どうやって?」

「暴ける書類があるのなら、それを目立つ所にでも置いておけ。無いと言うなら作らせろ。――お前なら、それが出来るだろう?」

「……あぁ、だからさっきから、そんな受け止めがたい熱視線で見つめられてたのね」

 

 そう言って、ユミルは頬に手を添えたままウィンクする。

 ハートの形をした何かが飛んで来た様な気がして、気持ち的に何か嫌だったので手を振った。

 

「お前なら出来る、お前好みの仕事だろう? 隠伏して忍び込み、探し出すなり聞き出すなり好きに工作しろ。お前の仕業、あるいは魔族の仕業という逃げ道を作らせない形なら、どんな方法でも良い」

「ふぅん……? ま、それなら良いわよ。楽しそうだし」

 

 ユミルはニヤリと笑って腰に手を当て、自信を顕にするようなポーズを取った。

 神々の鼻を明かせる作戦となれば、ユミルのやる気も桁違いだろう。まず失敗しない相手に任せられる安心感と、そして成功させる意欲の高い彼女なら、ミレイユも気持ちが楽になる。

 

 そう思っていたのだが、ユミルは数秒のあいだ思案顔を浮かばせて、それから思い浮かべた懸念を口に出した。

 

「証拠を残さないのは良いとしてさ、でも……これってアタシ達の仕業として結び付けるわよね?」

「神々が、か?」

「……そう。状況的にそうだろう、というアテは付けると思うのよね。その上で、未来予知に近い権能を持つ神――ルヴァイルだっている。神々が熱心に連絡取り合う様な仲とは思えないけど、怪しい動きに対しては、過敏になっててもおかしくない、とも思うわけよ」

「……そうかもな」

「ギルドが神々にとって、手足になり得るほど貴重な手札とも思えないけどさぁ……。アタシ達が牙を剥いた、と捉えるなら同じコトじゃない? 下手にヤブを突く必要もない気がするんだけど」

 

 ユミルの発言には、ヴァレネオも大いに賛成らしく、大きく首を上下させた。

 二人の懸念は理解できる。

 黙っていれば大人しくしている、というルヴァイルの神使――ナトリアの言を信じるなら、何もしないのが最適解になる。

 

 勿論、ミレイユは疑わしいと思っているし、ユミルに至っては全く信じていないうえ、その思惑には乗りたくないとも思っている。安全を確保するというなら、自分たちが納得した上で、自分たちが安心できる方法を、と考えている筈だ。

 

 だから森の防備を高めるなどの方法に文句はつけないだろうが、今回の件の様なリスクが高いものには難色を浮かべる。

 ユミルの言うとおり、下手な藪をつついて危険を呼び込む必要はない。

 ――だが、だからこそ、とも思うのだ。

 

 神々の思惑は二つあり、そして他方――ルヴァイルはむしろミレイユ寄りの考えであるという。

 どこまで信じられるものか分からないが、森から出ない限りにおいて、神々は静観する筈だ、という話を確認する良い手に思える。

 

「この秘密裏に行う工作、この程度では神々は動かない筈だ。ルヴァイルがそう言っていた。森から出る事なく、デルンを攻める事もしないなら、大人しくしているんだと」

「……それを信じるワケ?」

「いいや、むしろ信じていないからこそ試すんだ。ルヴァイルが言った事が正しいのか、そして証拠が見つからぬ工作であれ、怪しいと判断したら神々は攻撃を踏み切るのか。それを確認する」

「……あぁ、つまりこれ一つで試金石にしようってワケ。これでデルンが動く様なら、ルヴァイルは即座に切り捨てるのね」

 

 ミレイユは苛立たし気に鼻を鳴らして頷く。

 

「信用できるかどうか、これ一つで決めるものでもないが、嘘を伝えたという事実を持って、手を組むことは考え直す。あの地下にある転移陣に罠でも張って、登場と共に拘束だな」

「いいわね、それ」

 

 ユミルが指を一本向けて来て、剣呑に微笑む。

 

「でもま、それなら良いわ。俄然やる気が出るってモンよ」

「しかし、それで本当にデルンが攻めてきたらどうなさいます……!?」

 

 ヴァレネオは慌てて止めに入ろうとしたが、ミレイユは澄ました顔で窓の外に視線を移した。

 

「その時は相手にする。目的は私の抹殺ではないから、下手な事にはならないと思うが……。森に閉じ込め時間稼ぎ……、これさえ嘘ならどうしようもないな」

「その時間稼ぎ自体が意味不明だしね。それで私達が不利になる……。私達っていうより、森やそこに住む命、なのかしらねぇ……。それはそれで確かに困った事になるんだけど……」

「だが昇神させない、という目的に合致しても、ここで私と全面戦争させた上で、となると……少し弱くないか」

「討ち取るでもなく、昇神させるでもなく、でも……」

 

 ユミルは言葉を止めて、呼吸も止める。

 視線を斜め上に向けつつ思考に没頭したが、最後には盛大に息を吐いて首を横に振った。

 結局ここで考えたところで、確かな答えは得られないと悟ったらしい。それにはミレイユもまた同意見だった。

 



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森の中で その5

「ま、ここで考えても分からないわね。それこそ憶測の息が出ないし……」

「……そうだな。あるとすれば、戦闘させての疲弊待ちか? 神宮であったような、連戦に次ぐ連戦を仕掛け、抵抗する力を奪う……とか?」

「奪って、それでどうするの……? 捕獲でもする? でも、昇神させたくないんでしょ?」

「結局、そこに行き着くんだよな……」

 

 ユミルが顰めっ面で吐き捨てると、ミレイユも唸って腕を組んだ。

 現世へ逃げた神の素体を、あれほど苦労してまで取り戻す理由があるとするなら、それこそ小神に出来るだけの存在を、逃したくなかったからとしか思えない。

 

 甚だ信じていないが、世界を存続させる為に必要なパーツとして、ミレイユにそれを求めた。それほど強い動機が無ければ、取り戻そうなどと考えるものではない。

 だが同時に、神々はミレイユを昇神させるつもりがない、とカリューシーは言っていた。

 

 ――お前を昇神させない、その為に俺は動いていたんだぜ?

 あの時の態度を思い出してみても、嘘を言っている様には見えなかった。むしろ、ミレイユを評価する余り、目的が昇神でない事にも、勘付いているかのような口振りだった。

 

 彼は自分の命はここまで、と理解もしていて、それ故の暴挙でもあった。神々が高く評価するミレイユという存在を、試してみたいだけだった、と白状もしている。

 だから、あの場でカリューシーが敢えて嘘を言って、こちらを錯乱させる意図は無かったと推測できるのだ。

 

 そうして、あの時頭の隅で危惧した事――自然とそこにも思考が移った。

 ――ボタンの掛け間違いは、一体どこから始まっていたのか。

 もっと言えば、なぜ掛け間違ってしまったのか。

 

 それは大神が敢えて嘘を伝えていたからだ、とミレイユは予想している。

 オミカゲ様となる前のミレイユを倒した後、勝利を前に舌舐めずりしたのではなく、そして隙を突かれて逃げられたのでもない。そうする意図があって、敢えて逃したのだ。

 

 そして、ミレイユは起死回生の手段として、過去の現世へ飛ぶ事を選んだ。

 これが果たして、神々の狙いだったのかは分からない。逃がす必要があったとして、どのように逃げるか、どういう方法で起死回生を狙うか分かるものでもない、と思うからだ。

 

 手の内で転がすのが神の手口だし、その手に多くの遊びを含ませるかもしれないが、ここ一番で確実性を選ばない理由がない。

 目の前でただ逃がす事が目的ではなく、本質や本音を聞いた、と誤解させた上で逃がす事が重要なのだ。

 

 今となっては、その詳細な内容まで分からないのは悔しいが……。

 どういう確信を持ってミレイユは――オミカゲ様は、過去へ飛ぶ事を決意したのだろう。

 

 自らが強制送還された時、前周ミレイユから失敗した時は過去へ飛べ、という言葉を送られたと言っていた。だが果たして、その言葉をどこまで信じられたものだろう。

 アヴェリンの仇であり、そして唾棄すべき相手とも思っていたのではないか。

 

 ミレイユを名乗っていたとしても、当時急襲された状況、そして送還された異世界で生きるに辺り、その様な助言など頭から飛んでいたのではないか。

 だが、単なる思い付きで過去へ飛ぶ、という判断は突飛すぎると思うし、当時の言葉を思い出しただけでも足りないように思う。

 

 ――その発想と手段を、後押しした誰かが居た筈だ。

 そして、その誰かこそ……。

 ミレイユは腕組して握った二の腕を、我知らず握りしめていた。ミシリ、と骨が軋む音がして、遅れて鈍く痛みが走る。それでようやく、自分が何をやったのか気付いた。

 

 ユミルもいつの間にやら、心配そうな顔をして覗き込んでいて、気まずく思って咄嗟に目を逸らす。

 

「……ちょっとアンタ、どうしたの。おっかない顔してたわよ? 一体なにを考えてたのよ」

「……うん、皆の前で一度話さねばならない事だと思うが。ルヴァイルには、改めて警戒が必要だ」

「勿論、警戒なんて崩すつもりはないわよ。そんなの言われるまでもなく理解してるって、アンタも分かってるでしょ?」

 

 そうだったな、とミレイユは苦笑して腕組を解いた。

 両手を顔に当て、思考とストレスを緩和出来ないかと、マッサージするよう軽く揉む。

 数秒そうしていると、少し気分がマシになった気がして、それで手を離して息を吐いた。

 

「私が警戒するべき、と言ったのはな……神々の目的が、私を過去へ送る事かもしれないからだ」

「あー……。どういう思考で、そんな考えに至ったか聞いても良い?」

「そもそも、どうして失敗した時、過去に飛んでやり直そうとしたのか、その事を考えてみて欲しい。破れたからと簡単に諦める私でもないが、だからと過去へ戻ろうと考えるのは、少々考えが飛躍し過ぎていると思う」

「それは……そうね。やり直したい、と考えて尚、その手段に気づけるか……。また本当に可能なのか、という問題もあるわよね?」

 

 正しい指摘にミレイユは重く頷く。

 特にタイムパラドックスを始めとした諸問題もある。そしてそれは、考えれば答えを導き出せるような問題でもなく、そして賭けと出るには、あまりに問題を軽視し過ぎていた。

 

「どういう理論で、どういう理屈で、それが本当に可能なのかどうか……。考えなしで、ある程度の担保なしで、決行する私でもないだろう。だが、実際に行われた事実を知っている今ではなく、それを最初に行ったミレイユは、一体何を担保に決行したんだ?」

「あぁ……。それがつまり、神の後押しだった、と言いたいのね?」

「味方ヅラして協力を仰ぐ神、とかな。そして実際、信用を得るだけの協力をした筈だ。私が最後の起死回生として、過去への転移を選べるくらいにはな」

 

 ユミルは幾度も深く頷く。

 それは誰が見ても、それ以上ない、と思わせる深い理解だった。

 

「なるほどね、なぁるほど……。確かに、オミカゲサマにしても過去転移について深い知見は持っていなかったのよね。突発的に行ったからでしょうし、自らも飛ばされた実績あればこそでしょうけど……。でも、そうね自身に協力する神からの助言ならば、どうせ負けるぐらいなら、と賭けに出るくらいには信用の置ける言葉だわ」

「ルヴァイルの本音がどちらなのか、それは分からない。使()()()()()()()ならば、本当に協力を惜しまないのか。それとも、この協力を申し出る事さえ、奴らの詭計の一部なのか。そしてもし、それが計画の一部ならば……」

「幾らかの成功を、その助言の下に達成させ、最終的に望み通りの方向へ行くよう誘導するわね。……つまりそれが、アンタを過去へ飛ばしてやり直させる、というコトなの?」

 

 ミレイユは頷くかどうか迷って、顔を横へ向けた。

 何を見たい訳でもなかったが、即答できる答えは持ってない。答える為に、思考の猶予が欲しかった。

 

 失敗をやり直せる、というのは、ミレイユにとって間違いないメリットだ。しかしこれに、神々のメリットがあるかどうか、それが問題だった。

 

 やり直す事により、神々に生まれるメリットなど、果たして本当にあるものだろうか。

 だが結果だけを――事実だけを見るなら、その為に神は行動しているように見える。それが果たして、ミレイユにとっても同様、手段なのか目的なのかで、話は違って来るように思えた。

 

 そしてルヴァイルは、話を聞く限りは手段の方だろう。

 望む結果を運んでくるミレイユでなければ、次周へ望みを託す為、ループをさせるよう動くのだ。

 そして表向き、ルヴァイルも神々と目的を同じくしている、と見せたいらしい。

 他の神々が狙う最終目的までループにあるのかは、この時点で判断できない。だが最低でも、ミレイユのループはその目的に反しない、という事かもしれない。

 

 ――あるいは、という段階ではあるが。

 ミレイユは重苦しく息を吐き、ユミルへと顔をも戻して頷く。

 

「そうだな……。神々の目的が、私を昇神させる事にないと言うのなら……。奴らの目的は、私を過去へ送る事だという気がする。取り戻した上で送り返したい、というのなら、積極的にループさせる腹積もりがあるらしいな」

「アンタをループさせる事こそが目的って? ……何の為に?」

 

 ユミルが首を傾げたが、答える事が出来ない。それこそが難解な問題だった。

 

「そればっかりはな……。大体、時間稼ぎをする事で、その確実性が増す、というのも理解不能だ」

「そうよね? アンタが森で大人しくしているに限り、神々も手を出して来ない。下手な騒ぎを起こさないなら――下手に時間を浪費してくれるなら、敢えて動く理由がない、と……。そういう話だったものね?」

「どうして私が時間を浪費する事で、時間転移に手を出すと思うんだ? 時間制限がある、という事か? ……つまり、その手段が失われる?」

「……『遺物』が、ってコト?」

 

 ミレイユが目を細くさせて窓の外を睨むと、ユミルが意を汲んで答えを言った。

 それが真実正解かどうかはともかく、有り得そうな事に思える。神々が手勢を送り込んでいるのか、それとも天から魔術を撃って破壊でもしようというのか……。

 

「だが、それだと不安を煽ろうとも確実性が無くはないか。単なるブラフだと分かっていても動くしかない、とまでは考えない。使用不能に出来る手段は持っているかもしれないが、……それで我々が、果たして真実と見做すかな」

「ループの手段を奪われるかも、って? だから、そうなる前に使いましょ、ってなるかしらね……? ならない、とも言えないけど……やっぱり想定が甘いわよね?」

 

 そう思う、と頷こうとして、動きを止める。

 眉根を顰め、視線をユミルに戻し、それから思い留まるように、また視線を下に向けた。その忙しない動きに、ユミルも流石に黙っていられない。

 

「どうしたのよ、やけに動揺しちゃって。何を思い付いたのよ。……まぁ、ろくなコトじゃないってだけは良く分かるけど」

「『遺物』の起動には、膨大なエネルギーが必要と言っていたな」

「……まぁ、そうらしいわね」

 

 苦虫を噛み潰すような顔をして、ユミルは頷く。

 魂とは資源だと、オミカゲ様は言っていた。そしてその魂力とでもいうべきエネルギーが必要で、大神は小神というものを量産している。

 

 そして魂というのは人間では小さすぎ弱すぎるが、例えば強大な竜であったり、四千年も永らえた魂を多量に用意しても、小神と似た効果を及ぼす事が出来るようだ。

 果実を得ようと木を切り倒すようなもの、と言っていた意味も、それなら分かる。人の魂がそれほど熟成しなければ使えない、というのなら、確かに小神の様な存在は貴重だろう。

 

 そして『遺物』とは、その魂力で起動し運用できるものだが、神にのみ使用を許されたものでもない。

 その上、神の素体という特別だけでなく、ユミルといった例外はともかく、アヴェリンやルチアも問題なく使えていた。

 そこに危うさがある。

 

「小神の魂に匹敵するエネルギーなど、早々見つかるものではないだろう。それを先に使われる、というのは? 補充は可能であるにしろ、やはり簡単じゃない。敗北を前にした状況で、それすら奪われるというなら、躍起となるには相応しい気がするが」

「……頭が痛くなるわ」

 

 がっくりと項垂れるように肩を落として、ユミルは額に手を当てた。

 同じ思いなのは、ミレイユとて一緒だった。そうかと思えば実際に痛みを感じ始め、大して時間も掛からず鈍痛に変わる。本格的に痛みを自覚するようになって額に手を当てると、ユミルが呆れに似た顔を向けてきた。

 

「なによ、そこまで?」

「あぁ、不思議とな……。こんな痛みは初めてだ」

 

 口にすると一度激しい頭痛が脳天を打ち抜き、そうかと思えば引いていく。ただの頭痛とも違う不思議な痛みだったが、今はもう消えたとなれば意識の外へ追いやられていった。

 



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森の中で その6

「……有効そうな手段とはいえ、予測は予測でしかない。結果として私に使わせたい、ループさせたい思惑が優先されるのなら、あくまで脅しとしてしか使えないだろうしな」

「それも結局、予測でしかないけどね……。『遺物』に対して仄めかすより、もっと他に上等な手段はありそうなものだし」

「勿論だ。今は何より、情報が足りない事こそ問題なんだしな。ルヴァイルと対面したなら、これはまず訊くべきところだろう。その反応次第で、こちらも完全に切るかどうか見定められる」

 

 ミレイユが顔を上げて不敵に笑うと、ユミルも顔を上げていつものように笑みを浮かべる。

 

「良いわね。予想されていた問いなのか、それとも意表を突けるか。その反応で分かる事もありそう」

「ナトリアの反応を見る限り、私は今までの統計からは掛け離れた存在らしい。それを信じるなら、この質問は、それなりの反応を引き出せると思うんだがな」

 

 ユミルは一瞬考える素振りを見せたが、すぐに頷いた。

 

「そうね。そうだと思うわ。端から信用していないのも、信用するつもりがないのも承知の上でしょうよ。アンタの推測が正しいなら、信用を得る為の助言も惜しまない筈。ここで回答に詰まるようじゃ、企みを隠してるって言ってるようなもんじゃない。切り捨てるには十分な理由よ」

「散々()()()()を引っ掻き回してくれたんだ。白状させた上で、相応の報いは受けて貰う」

「良いわね、素敵よ。我が一族について、どこまで関与してるか知りたいところだわ。それ次第じゃ、どうあっても死んで貰うけど」

 

 浮かべていた笑みが、殺意を含んだ禍々しいものへ変貌する。

 子供が見たら泣くやつだな、と他人事の様な感想を浮かべていると、傍らで無言のまま震えてるヴァレネオに気が付いた。その補佐官などは、泡を吹いて卒倒しそうになっている。

 

 ミレイユは念動力を用いてユミルの肩を揺すり、強制的に壮絶な笑顔を止めてやった。

 流石にやり過ぎたと悟って、即座に笑みも気配も元に戻し、改めてミレイユを見やる。

 

「とはいえ、まぁ……別に止めやしないでしょ?」

「あぁ、好きにしろ。私は実感こそないが、()()()()にとっても恨み無しとは言えないしな。それもこれも、裏付けが取れてからになるだろうが」

「そこはお任せよ」

 

 ユミルが再び壮絶な笑みを浮かべそうになり、慌てて頬に片手を添える。

 今更ながらヴァレネオへ片目を瞑って愛想を送るが、全くの逆効果にしかなってなかった。脅しつけるつもりはなかったろうが、結果としてそうなってしまっている。

 ミレイユは場を取り直す様に、敢えて朗らかと感じられる笑みを見せながら話しかけた。

 

「話を逸らしてしまって悪かった。つい、思考が外へ流れてしまって止められなかった」

「いえ、どうかお気になさらず……! ミレイユにとって重要な事だと、よく理解しております」

 

 ヴァレネオは固辞する仕草を見せて、それから背筋を伸ばして顎を引く。

 

「むしろ、そのお考えの一端をお聞かせ頂き、感謝しております。改めて、敵として相手するに厄介な存在だと感じ入りました……!」

「……そうだな、楽な相手じゃない。武器を振り回して、倒すだけで良かった昔が懐かしい」

「……言っとくけどね。それも大概、簡単じゃなかったからね……」

 

 ユミルがじとりと粘着く様な視線で見つめて来て、ミレイユは思わず苦笑する。

 いずれも世界の危機と呼べる様な相手だった。簡単な相手でなかった事は間違いない。比較する相手が策謀を得意とするし、一手間違える事が致命的となるから凶悪に思えるが、世界を炎に飲み込む竜とて、凶悪な相手に違いなかった。

 

 ミレイユは改めて気分を戻し、逸れてしまった話を再開する。

 

「森への襲撃についてだが……。だからつまり、敢えて事を荒立てないと思うんだよな。軍を派兵し、私を拘束するのも時間稼ぎになるには違いないが、微々たるものだ。やるというなら、デルン王国軍だけじゃ足りない。世界の敵として祭り上げた上での大連合を組む必要があるが……現時点で、そんな話は出てないしな」

「祭り上げるにも、相応の理由が必要だものね。神々から直接宣下あった、それだけで十分とも言えるけど……。何を持って、という理由を蔑ろにすると不信を招く。不信は信仰の不和を呼び、別の神への鞍替えも生まれる。――まず、ないでしょ」

「元より襲撃は緊急措置、という位置付けだろう。拘束が叶っている現状、敢えて刺激する必要を考えていない」

 

 その拘束にどういう意味があるかは不明だが、それが目的というなら、甘んじている現状に不満はない筈だった。切り離し工作は、それを覆す程の問題になるとは思えない。

 何しろ、ミレイユ個人にとっては、利になる行為と言えないものだ。森へ積極的な味方している、と見られる事になろうとも、それ自体を問題としない筈だった。

 

 藪を突けば、とは言うものの、切り落とされた手足にそこまで高い価値を付けていない以上、行動を起こすと思えなかった。

 結局のところ、神々の狙いはミレイユの抹殺でも、森を攻め落とす事ではない。ミレイユとしても意図が読めず動けないが、この程度なら問題にならなない、と判断していた。

 

「我らにとっても少なすぎる利益だ。……が、ギルドの存在は目障りにはq違いない。いざという時、デルン側に付くかもしれない事を考えると、ここで切り離しておく意味はある」

「その見込があるかどうかは疑問だけど、全くのなし、というよりは良いかもね。ま、いいわ。別に反対する程の事でもないし」

「……うん、じゃあ頼むぞ」

「……いつから?」

 

 拒むものではない、と言いつつも、即座に動くつもりはないらしい。喫緊の問題ではない、というのも確かだが、いつまでも放置して良いものでもなかった。

 ミレイユは目を細めて、じっとりと睨み付けてから、緩慢な動きで扉を指差す。

 

「……嘘でしょ、今から?」

「暇してるんだから、別にいいだろ」

「じゃあ、日が暮れてからでも良いでしょ? どうせ隠伏して行動するなら、森への出入りは極力見られない方が良いと思うし」

「尤もらしい台詞だが、本音は?」

「アヴェリンが只の喧嘩に、どれほど素晴らしい仲裁をしてるか見ないと。呻き声の合唱とか、聞こえるんじゃないかしらね」

 

 呆れた物言いだが、同時に許容範囲でもある。

 好きにしろ、と肩を竦めて、ミレイユは止まったままだった書類の始末を再開した。

 

 ――

 

 ミレイユが本日分の書類を捌き切り、深い溜め息を吐いた時だった。

 窓の外から一際大きな歓声が上がる。小一時間程前から始まったこの声は、時間を経る毎に大きくなっている気がする。

 

 ユミルといえば、その歓声が耳に届き始めて来てからというもの、サッサと見物に行ってしまった。元より仕事をしていた訳ではないから、裏切り者、という感想は適切と言えない。

 しかし、一人仕事で置いていかれてしまった立場としては、その程度の恨み言、許されて然るべきと思っていた。

 

 ミレイユはようやく終わった仕事に背筋を伸ばし、大きく息を吐いて立ち上がる。

 傍らにヴァレネオへ目配せすると、窓の向こうを見ながら声を掛けた。

 

「お前も、あの歓声の正体を確認して見たいんじゃないか?」

「ミレイユ様におかれましては、外の様子が大層気になっておいででしたからな。私はもう少し仕事を片付けてからにしますので、どうぞお気遣いなく」

「……お前も大概、仕事好きだよな。私は早くも音を上げ始めているぞ」

「培って来た年季が違いますれば」

「含蓄の感じられる台詞だな……」

 

 ミレイユは苦笑しながら席を立つ。

 本来は、普段からこうも忙しいものではない、とヴァレネオから聞いていた。そもそも戦時だからと、色々な仕事が余計に増えているだけで、更に言うとミレイユ景気みたいなもので、余計に仕事が増えているだけだった。

 

 屋根の雨漏りの様な、本来なら自分達で解決してしまう仕事さえ、こちらに回って来ているからの慌ただしさだった。

 預かるなどと大それた事を言った手前、それを反故にしない範囲でやっているが、神々との抗争が本格化すれば、自然とこの様な仕事も出来なくなる。

 

 殆ど雰囲気作り、何かをしているアピールみたいなものだが、それで喜ぶ層も間違いなくいるので、償いみたいなつもりでやっている事だった。

 ミレイユは手を振ってヴァレネオの前を通り過ぎると、壁に掛けていた、いつもの帽子を手に取って頭に被る。

 

 屋敷から外に出ると、精霊に触れようと手を伸ばしている子供と、近付かせまいとするフラットロが、逃げる遊びをしていた。

 てっきり歓声に呼ばれて移動していると思っていただけに、これには意外に思えてしまう。

 

 ミレイユの存在に気付いたフラットロは、逃げる勢いそのままに、胸の中に飛び込もうとして来た。咄嗟に魔力を制御して、『炎のカーテン』を行使する。

 それで炎に対する耐性を身に付けるのと、フラットロが腕に収まるのは殆ど同時だった。

 

「何だ、待っていたのか」

「紙乾かすだけなんて、つまらなかったからだ! つまらないぞ、一人はつまらない!」

「騒がしい催しがあるみたいじゃないか。そっちがあるだろう」

「いやだ! 一人はつまらない!」

「あぁ、一人はって言ったのは、そういう……」

 

 納得しながら背を撫でてやれば、甘えた声を出して鼻面を首筋に擦り付けてくる。好きなようにさせていると、それまでフラットロと戯れていて子供達は不満そうな声を挙げた。

 

「あぁー、ずるいぃー! ぼくたち触れなかったのに!」

「火の精霊は、触れると火傷してしまうぞ。意地悪していたんじゃない」

「でも、今は触ってるよ」

「私は、こいつの主だからいいんだ」

 

 ミレイユはわざと得意げな顔を見せながら、小さく笑む。

 魔術を使っているなどと言えば、自分たちも、となるのが子供というものだ。大人たちを見て、ミレイユがどうやら偉い人だという認識でいるみたいだが、接し方までは知らない。

 不快ではないので構わないが、これを知ると親の方が恐縮する。面倒事となる前に、さっさと移動してしまうのが吉だった。

 

「ほら、何か楽しそうな事をしているみたいだぞ。そっちは見なくていいのか?」

「ううん、行く!」

 

 元より興味は高かったのだろう。

 火の精霊は今だけだとでも思ったのか、構ってもらおうとじゃれついていたが、促してやれば素直に広場へ向かって駆けて行った。

 その背を追う様に、ミレイユもフラットロの背を撫でながら歩いて行った。

 



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森の中で その7

 ミレイユが広場に辿り着くと、そこには大きな人集(ひとだか)りが出来ていた。

 普段は閑散とした、ただ広いというだけの場所で、時折集会を開くのにも用いられる。そこが今は、中心に円を描いて人垣を作っている。

 子供は親の背を借りて、その中心に向けて目を輝かせており、手を叩いては周囲に合わせて歓声を上げていた。

 

 そして中心に何があるかと言えば、ミレイユが申し付けていたように、アヴェリンが里の若者を相手に大立ち回りをしている。

 

 彼女一人に対して鬼族は三人、そのうえ獣人族も二人追加されていて、明らかな不利を突き付けられているが、それを全く苦にしていない。彼らもまた、それぞれ腕に自信のある者なのだろうが、アヴェリンに対して腕を振るうには実力が低すぎた。

 

 誰もがそれぞれの得意武器を手にしているが、アヴェリンはいつもの鉄棒で相手をしている。それで一人が隙を窺って攻撃し、しかし回避されると同時に反撃を喰らった。その攻撃最中にも別の者が背後から猛攻を仕掛けたが、後ろに目があるかのような俊敏さで、これをいなして投げ飛ばす。

 

 武器に手を添え、そして流れるままに手首を掴んだ様にしか見えなかったが、それだけで人垣の足元近くまで吹き飛んでいた。

 アヴェリンが攻防一つ成功させる度、そこに歓声が上がって沸き立つ。

 

「何やってんだ、だらしのない! いつもの力自慢はどうしたんだい!」

「ミレイユ様の側近だぞ! 一流の戦士ってのがどういう意味か、それで少しは分かったんじゃないのか!」

 

 野次の多くはエルフのもので、立ち向かう五人を励ますより、むしろアヴェリン一人を褒め称える声に偏っていた。

 五人は傷を負っていても打撲や擦り傷程度で、訓練中に受けるものとしては易しい部類だ。それぞれ悔しげな表情を浮かべているが、彼我の実力差を認められないほど狭量でもないらしい。

 

 アヴェリンの方には傷らしい傷もなく、それどころか汚れすらない。彼らは地面へ転ばす事すら出来なかったらしい。

 順当と言えば順当だ、と思いながら人垣へと近付いて行くと、自然と割れて招き入れてくれる。率先して動いてくれるのがエルフ達で、その姿を認めた瞬間から、周りを動かしてくれていた。

 

 獣人族や鬼族の中には、それを不満に思う者もいる。

 ミレイユは一応、ヴァレネオの紹介の元、復帰と同時に現在の要職に就く事を紹介された。しかし、ミレイユを伝聞でしか知らない人には、素直に受け入れていない者も多い。

 

 それは自然な事だと思っているから、ミレイユはどうとも思っていない。

 だが、ミレイユを第一に置きたいエルフとの間で、要らぬ諍いや軋轢が生まれつつあるのも確かだった。特に鬼族は、その持てる力で森を護り続けてきた、という自負がある。

 

 森の外縁部を警護し、そして何事かあれば、まず真っ先に戦う事となるのが彼らなのだ。生まれてから一度として助けられた事もなければ、その恩恵を受け取った事もない。

 過去の栄光は過去のものでしかなく、窮地を救って来たのは、いつだって血を流して来た自分達だと思っている。

 

 それは確かに、自負して誇るに相応しい。

 だから自分たちを上に見たいのか、と言えば、そういう訳でもないようだった。

 

 過去の威風を知り、その武威を知り、そして誰もが強大な存在と認めながら、弱腰に見える態度を取るミレイユだから認められないのだ。

 強者には強者の振る舞い、というものがある。

 

 彼らが求めるのはそれで、そして自分達より強いというなら、自分たちを使ってくれと思っている。テオの活躍もあって――あるという事になっていて――、三万もの兵を退ける事が出来た。それならそれで、今までの鬱憤を晴らさせてくれ、と思っている。

 逆襲を願いたいのは、誰もが同じだ。

 

 それは鬼族でも、エルフ族でも変わらない。

 受けた仕打ちと同じか、それ以上の報いを与えてやりたいと思っていて、ミレイユもそれを悪いと思っていない。強者が正しい、というルールが世界の根底にある以上、そして神がそれを推進している以上、暗い熱意を否定する事は出来ない。

 

 だが同時に、森の民が天下を取る事を、神々は決して認めないだろう。

 彼らが平等に、そして弾圧を受ける事なく暮らしていくには、まずこの神々の考えを排除する必要がある。平等と平和を許容されない世界で、彼らは常に虐げられる事になってしまう。

 

 しかし、そんな世界の裏事情など知らない彼らからすれば、今は待て、というミレイユの発言が弱腰にしか映らない。改革には手順が必要、という説明も、あまり効果的ではなかった。

 ――鬱憤は、抑えつけられている間は、決して晴れない。

 

 だからこの現状が、その鬱憤晴らしとして機能する事を期待して、アヴェリンを送り込んだ。強者には従う、という彼らの気質が、鬱憤を押さえてくれたら儲けもの、という打算の元で。

 神々の影響を排した後で、などと言ったところで、彼らには夢物語を語っているとしか思われないだろうし、事実その様なものだ。

 

 だから、その部分は濁して伝えるしかなかったのだが、それが不満を溜めこむ原因ともなってしまった。

 人心を纏める事は、実に難しい。それが人種の違うばかりでなく、異種族が混ざるとなれば尚更だ。

 

 小さく息を吐きながら、エルフ達が整理員の様に作ってくれた道を通っていると、そこから強い想いを知らせる視線を感じた。

 エルフの視線は、決して卑屈ではない。見返りや救済も求めてのものではなく、純粋な感謝を示しているようだ。そして、尊崇が伺えないところを見れば、テオは上手くやっているらしい。

 

 鬼族、獣人族からも同じ様に接して欲しい訳ではないが、しこりを残す真似も避けたい。それはきっと不和になり、暴動の種となる。

 そんな事を考えながら内縁部、人垣が途切れる所まで進んで足を止める。アヴェリンの戦い振りは熟知しているし、見慣れているものだから、いま注目したいのはやられた方だった。

 

 冒険者達と比較して、肉体面ではむしろ有利な彼らだが、魔力の扱いが下手だ。これは鍛練不足というよりは種族的な問題で、人間がエルフに魔力総量や制御で勝てないように、獣人達もまた人間には及ばない。

 

 その魔力的優位を覆すだけの、肉体的優位を持っている種族だが、昨今の刻印によってそれも覆されているという。

 見てみれば確かに、イルヴィと同じレベルで動けている者は多いのだが、あちらが持つ切り札となるものが獣人達、鬼族達にはない。

 

 彼らの内向術士としての完成度は高い、それは確かだ。刻印のない時代なら、一流の戦士と渡り合えるだけのポテンシャルは持っているだろう。だが、この世には既に、刻印無しで戦う冒険者などいないに等しい。

 防御術、治癒術、結界術と、適した才能を持たずとも習得できるというのは、大きな強みだ。森に住む彼らにも、それがあれば、と思わずにはいられない。

 

 そして刻印という発明がなければ、ここまで劣勢に立たされる事も無かっただろう、とも思うのだ。盛者必衰は世の理、技術の発展もまた理の一つであるなら、それを持たない方が負けるのも必然だろうが――。

 森の民へ肩入れしたいミレイユとしては、何とも遣る瀬無い思いになった。

 

 そんな事を考えていると、視界の端に見覚えのある顔が目に入り、自然とそちらへ顔を向ける。

 そこでは、テオが気不味そうな表情をさせつつ、必死にこちらへ視線を向けまいとしていた。

 彼が与えられた仕事を遂行している事は知っている。その内容にも、今のところは満足していた。普段から難癖をつける様な真似もしていないのに、何故そんな態度を取られるのか不思議だった。

 

「どうしたんだ、お前。……何か拾い食いでもしたのか?」

「……お前こそ、何で俺を子供扱いするんだ……! 俺の正体、知ってる筈だろ!」

「それはそうなんだがな……」

 

 見掛けだけで判断するのは愚かな事だが、しかし彼は見た目と中身も大差がない。つい、その様に考えてしまうので、改める気もないミレイユからすると、いつだって子供扱いになる。

 その優しげに接する気持ちで、フラットロの首から背に掛けて撫でてやれば、機嫌良さそうに鳴き声を上げた。

 

「それになんだ……。私が傍に居ると、何か困る事でもあるのか?」

「あるだろ、そりゃ……。下手に話してるところ見られたら、あの馬鹿戦士が俺の頭に武器を振り下ろすぞ。だからやめろ、頼むから。気付かなかった事にしてくれ」

「そうなのか……?」

 

 思い返してみれば、テオと世間話をした記憶が、ミレイユにはない。

 いつもそれとなく、アヴェリンが逸していた様な気すらしてくる。執務室では当然、頼んだ洗脳に関する報告や、そのやりとりもあったが非常に事務的なもので、その時でさえアヴェリンが睨みを利かせていたような気がする。

 

 テオが持つ能力を考えれば、その影響を受ける可能性を万が一でも排しておきたいと考えるのは、アヴェリンにとって当然だろうが、少しやり過ぎな気もした。

 現状は協力関係にあるのだから、近づく事すら禁止する、とアヴェリンが脅し付けているのなら、そこは改めてやらねばならない。

 

「……まぁ、分かった。そういう事なら、今だけは気付かなかった振りをしておこう」

「いや、遅いって。明らかに遅いから」

 

 テオが震える声を出しながら、前方に向かって両手を左右に振っていた。手だけでなく首まで振って、何か否定的なサインを送っている。そちらに目を向けると、アヴェリンが鬼の形相でテオを睨み付けていた。

 

 獣人達の攻撃を全く無視した上で、器用に避け続けながらの行動なので、それが堪らなく恐ろしく思える。テオの必死な振る舞いも良く分かるというものだ、と変な感想を抱いていると、一瞬後にはその全員が吹き飛び地に伏せた。

 

 そして、ゆっくりとした足取りでテオに向かって進んで来るものだから、説得や言い訳を捲し立てるよりも、彼は逃げる事を選んだ。

 小さな身体を生かして人垣に入り込み、あっという間に何処に行ったのか分からなくなる。

 ミレイユが苦笑している間にも、アヴェリンが傍まだやって来て腰を折った。

 

「ご足労お掛けしまして、申し訳ありません。思いの外、こちらの事に時間が掛かってしまいまして……」

「いや、そりゃアンタ、あんなやり方してちゃ、終わるものも終わらないでしょ」

 

 いつの間にやら傍にいたユミルが、呆れた声を出せば、ミレイユにもどういう事か、何となく察しがつく。歓声が上がっていた事を鑑みても、単に黙らせるのでもなく、鍛練の体を成した沈黙を与えたのでもなく、彼らを湧き立たせる方法で戦闘になったのだろう。

 

 その事を指摘してみれば、アヴェリンは汗顔の至り、とでも言うように頭を下げた。

 それは半分ほど予想出来ていた事なので、殊更謝罪して貰う必要はない。むしろ、良いガス抜きになったのではないかと、感謝しているぐらいだった。

 

 改めて労おうとしたところで、ミレイユの名を呼ぶ声があり、それにつられて顔を向けた。

 



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森の中で その8

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 横合いから掛けられた声にミレイユが振り向くと、そこには獣人族の女性が立っていた。灰色の髪を無造作に下ろし、膨らみある髪型が獅子の(たてがみ)の様に見える。

 耳の形から猫科と思われたが、鋭く伸びた黒い爪を見ると、また別の何かなのかもしれなかった。

 

 不躾に思える態度には、アヴェリンが怒りを顕にする。

 彼女の中で既に格付けは済んでいて、配慮の必要はない、と判断しているらしい。今にも掴み掛かりそうになったアヴェリンを手で制し、言いたい事があるなら言ってみろ、と顎をしゃくった。

 

「獅人族のフレンだよ。あんたがミレイユ……、様って事でいいんだよね?」

「そうだ」

 

 短く返事をして首肯する。フレンが言い淀んだのは、アヴェリンが睨みを利かせると同時に殺気を放ったからだ。見ず知らずの第三者からの呼び方にまで、うるさい事を言わない彼女だが、ミレイユを頭上に戴く民となれば、話は別だった。

 

 ミレイユ自身はどうと思う訳でもないが、一応里長に就任しているからには、体面を気にしなくてはならない。

 それで、と続きを促してやると、フレンは一大決心を告げるかのように顔を引き締める。

 

「あたしらと戦ってくれ! あんた……様の実力を知りたいんだ!」

「世迷い言を……! お前達程度の実力で、ミレイ様へ挑むなど百年早い!」

 

 アヴェリンは聞き耳持たずに切り捨てたが、ミレイユとしては一考に値する提案だと思った。フレンの視線を見れば、それが単なる好奇心で挑むのではないと分かる。

 彼女なりの考えあっての事だろうし、何より『あたし個人と』戦ってくれ、とは言ってない。そこに意味があると感じた。

 

 ミレイユはフラットロを撫でながら、アヴェリンへ目配せして控える様に言う。

 それから改めて、フレンへ事情を尋ねてみた。

 

「どういうつもりか、何となく理解できるが、お前の口から聞いておきたい。……その理由は?」

「あ、あぁ……うん。その……、あんたが里の上に立っているのを歓迎してるのは、それほど多くないって知ってる……んだと思います」

「そうだな」

「アヴェリン姐さんの実力は分かった。――いや、見た瞬間から毛が逆立ってたから、もう既に分かってたけど……改めて分からされた」

 

 姐さん、と言う部分にアヴェリンは大いに顔を顰めたが、口は挟んで来なかった。

 ミレイユはうん、と短く返事しながら周囲を伺う。

 すると、誰もがこの会話に聞き耳を立てていると分かった。フレンが何を言うつもりかよりも、ミレイユが何と返事をするかの方に興味を持っているようだ。

 

「肌で感じて理解できる力を、姐さんは改めてこの場で示した。彼女の言葉には、敬意を持って従う奴らが多数になったと思う……ます。でも、あんた様は別だ。別っていうか……、まだ全然だ」

「伝聞ばかりが独り歩きしていて、その実力は未知数、というところに不満があるのか。偉そうにしているだけの奴じゃ信用ならない、という意見には納得出来るが」

「それじゃ……!」

 

 フレンは自分の意見が通ると思って、目を輝かせて拳を握る。

 実際、彼女の提案は、そう悪いものではなかった。実力主義で単純明快を好む種族からすると、上が強ければそれだけで安心する。自らを率いるに不足なし、と仰げる人物であれば尚良い。

 

 彼らはミレイユに対しても、エルフ達の評価ばかりでなく、もっと単純に分かり易く力を示して欲しいのだ。アヴェリンから挑むなど百年早い、などと遠ざけられては、本当は力の底を見られるのが困るからじゃないか、と変な勘ぐりをしてしまう事になる。

 

 ミレイユが闘技場代わりになっていた広場へチラ、と視線を向ければ、やる気になっていると感じられたのだろう。フレンが更に語気を強めて意気込んだ。

 

「不満を持つ奴らを黙らせて欲しいんだよ! 今までだって変に纏まりに欠けてたのは、誰もが強いと認める人が里長をしていなかったからだ。それぞれの代表が、何かとケチをつけてた。でも、今なら森が一つになれるかもしれない。魔力だけ強くても、武器の扱いが上手いだけでも、体格に秀でただけでも駄目なんだ。どれもが強い奴じゃないと、本当の意味でリーダーと認められない」

 

 あぁ、とミレイユは溜め息にも似た感嘆の息を吐いた。

 これは彼女に謝罪しなければならないだろう。

 

 フレンは本当に森の未来を憂いている。ミレイユの実力を知りたい、という野次馬めいた感情で動いていない。

 今までの、森の不備や欠点を彼女なりに理解していて、そしてどうすれば改善するかも理解している。それが間違いなく正解の道で、それしか方法がない訳でもないだろうが、しかし、話が真実なら一番簡単な方法は目の前にあった。

 

 ヴァレネオを不甲斐ない、と思っている訳ではないだろう。

 彼は確かに戦士でもなければ、魔術士としては一流に片足を踏み入れた実力者だが、森そのものを背負うに認められた指導者という訳でなかった。神々の思惑を考えれば、これまで維持してきた事こそを評価できる、とミレイユは思っているが、大半はそう思ってくれないだろう。

 

 そしてそれは、常に意見の対立が起きていた事からも察せる事が出来る。

 何か意見が出る度に、他の誰かが文句を言う。それで結局話が一つも纏まらなかった……その様に聞いていたが、これはヴァレネオばかりが悪い訳ではない。

 

 あれは裏からスルーズが不和を招いていたからもあって、本来は纏まれていたかもしれないのだ。とはいえ、たらればをここで言っても仕方がない。

 彼女や――彼女の意見に賛同する者達は、今度こそ誰もが納得する里長の誕生を望んでいる。

 

 そして、それを示すには、アヴェリンやルチアが代理に立つ訳にはいかない。

 この誰もが集まり、証人となる舞台で、ミレイユの力を知らしめる必要があるだろう。

 フレンの目には、それを期待する輝きが宿っていた。

 ミレイユは小さく顎を引いて頷き、広場に向けて片手を広げる。

 

「いいだろう、挑戦を受ける。誰であろうと掛かってこい」

「――ウォォォオオオオ!!!」

 

 聞き耳を立てて完全に静寂だった広場が、その一言で爆発するかのような歓声に包まれた。

 それを見て、随分と待たせてしまったようだ、と反省する。

 ガス抜きさせておけば良いだろう、と簡単に考えていたが、彼らからすると力を示して欲しくて堪らなかったのだ。

 

 強者というのは、それだけで偉い。

 強さの種類にも色々あるが、ヴァレネオの様な忍耐強さや、間を取り持ち宥めるなどの政治的手腕は、この森では評価され辛いだろう。

 

 そこを汲めるのはエルフ以外では極一部で、森を纏めるには魔力だけ秀でていても無理だ。

 ヴァレネオ自身、忸怩たる思いはあったろう。彼より優れた魔術士、というのはこの森にも存在する。それでも他の者が代わりを務めなかったのは、彼以外では他を繋ぎ止めておく事が出来ない、と理解していたからだ。

 

 先程までアヴェリンに吹き飛ばされ転がっていた者達も、ルチアによる治療も終わって人垣の中へ戻って行く。

 闘技場が空いた事を確認し、ミレイユはアヴェリンへと向き直った。

 

「無駄な事をさせたようで悪かった。お前の実力を知らしめるだけで十分だと思っていたが、どうやら考えが足りなかったようだ」

「足りないなどと……! 私も、もっと肌で森の空気を感じ取っても良い筈でした。その思いを汲み取れなかった事こそ、不明と詫びます!」

 

 アヴェリンが腰を直角に折り、そしてユミルが困ったように頬を掻く。

 

「それは良いけどさ。収拾付くの、これ? アヴェリンの時だって、好き勝手挑戦者出てきて、終ぞアンタが来てアヴェリンがやめるまで、ずっと続いてたんだけど」

「なるべく早く終わらせる。暴れたいんじゃなく、私を知りたいというのが第一だろうしな。それが分からん程しつこく食い下がって来るようなら、その時は意識を刈り取って放り出せば良いだろう。……それでどうだ?」

 

 ミレイユがフレンに目配せすれば、何度も首を縦に振って頷いた。

 不平不満は無いようで、これならどうだ、とユミルに顔を戻してみれば、やはり困った顔のまま肩を竦める。

 

「……ま、そう単純には行かない気がするけど、それはアンタのやり方次第かしらね。いっそ来た奴ら全員昏倒させちゃいなさいな。敗北の味って奴は分からないかもしれないけど、そんなの見ている連中が勝手に決めるでしょ」

「それもアリかもな。あるいは……挑戦者の人数次第か。誰でも来いと言った手前、……まぁ結構な数になりそうだが」

「まぁそこは、認められない奴、認めたい奴が、こぞって来るだろうから諦めるしかないわね。……けど、別に問題にはならないでしょ?」

 

 ユミルが不敵に笑って、ミレイユもまた不敵に笑みを返した。

 ――そう、実質問題にならない。

 先程見せて貰った、アヴェリンと彼らの一戦でそれが分かった。彼らが底ではなく、また平均的力量だったとしても、ミレイユ相手には力不足だ。

 

 アヴェリンは五人を同時に相手していたが、それでも彼女に手傷の一つも付けられなかった。その時点で、ミレイユの勝利は間違いないと言える。

 だからこれは、いかに勝つか、が問題となる戦いだった。

 

 その余裕ぶりに、フレンはやる気を漲らせるだけでなく、挑戦と受け取ったようだ。獰猛な獣の笑みを浮かべ、その魔力を練り込んでいく。

 

「一度に何人まで相手してくれるんだい?」

「好きなだけだ。一度言った事は覆さない」

「へぇ? 五人どころか十人でも良いって?」

「そうだな。実際十人同時に掛かって来たところで、互いが邪魔にしかならないだろうが。しかし、それでもやれると言うつもりなら、敢えて止めたりはしない」

「へぇ、……いいね!」

 

 フレンは口角を更に大きく開いて、鋭い犬歯を見せつける。

 サッと踵を返して、彼女を支持する者達もその背に従って人垣の中へと埋もれて行った。

 どういう作戦で来るか、挑むのかは勝手だ。今の内に決めたい作戦もあるだろう。それを待つ意味でも、ミレイユはフラットロの背を叩きながらルチアを呼ぶ。

 

「お前も今は離れていろ。戦いの邪魔になる」

「ならないよ、邪魔しない!」

「この場合、私が危機の際にお前が手を出すかもしれない、という状況が拙いんだ。全くの私一人で戦い勝った、という証明をしなくてはならない。ケチを付けられる要因を無くしたいんだ」

 

 そうと言えば、渋々ながら納得して、フラットロは腕の中から出ていった。

 ミレイユが行使していた魔術の効果から離れた事で、精霊自身の持つ熱波が一気に広がる。小さな悲鳴が上がる中、フラットロが上昇すれば、それだけで熱の影響が薄れた。

 

 彼は寂しそうに広場の上を遊泳し始める。早く始まれ、或いは早く終われとでも言う様に、恨めしそうに人垣の上を移動していく。

 そうしてミレイユが呼んでいたルチアが傍へやって来て、何かを頼む前に返事をする。

 

「分かりました、結界を張ればいいんですね?」

「理解が早くて助かる。少し本気になる必要があった場合、周りに被害を出さずに済ます自信がない。……小さな子供も居る事だしな」

「ですね。ただ、そうするとちょっと厄介なところでして。出入り自由でかつ内側の攻撃や余波だけ防ぐ、なんて都合の良いものはありません。気絶した人を退場させたり、もしくは新規挑戦者が入場する場合、結界を解除しないとならないですね」

「なるほど、その時は魔術の使用は控えよう。最低でも、攻勢魔術や範囲が広いものについては」

「えぇ、お願いしますね」

 



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森の中で その9

 ルチアの笑みに頷いて、ミレイユはアヴェリンとユミルへ目配せする。

 

「お前にも、これを期に協力して貰うか」

「あー……、挑戦しそうな奴を、秘密裏に寝首でも掻けば良い?」

「そんなもの、する必要もなければ、もしバレようものなら顰蹙しか買わんだろうが」

 

 アヴェリンが即座にユミルを睨め付けて、それからミレイユに向けて小さく腰を折る。

 

「では、我らは退場するべき者など、邪魔になりそうな者は外へ逃がす様に致します」

「頼む。入りたい奴は勝手に結界の解除を期に挑むだろうから、そちらも好きにさせて良い。巻き添えを喰らわせないよう配慮するつもりだが、爆風に煽られる程度の被害は受けるかもしれない」

 

 どういう戦闘になるか分からない以上、やはり不測の事態は有り得る。

 本気の戦闘用魔術を振るう訳ではないので、直撃しても軽い怪我程度で済むだろうが、退場相手を運んでいる時など、不意打ちの様な状況が生まれるかもしれない。

 それら全てを支配しての攻防は不可能だった。

 

「何ほどの事もございません。その程度でしたら、心置きなく力をお振るい下さい」

「やぁね。アタシこれから外で仕事だってのに、焦げた臭いを身体に張り付けなきゃいけないワケ?」

「というより、お前は今すぐ森を発て」

「はぁ? 冗談でしょ、これから面白くなりそうだってのに」

 

 ユミルは不機嫌そうに眉を顰め、抗議のつもりか腕を組んで顔を突き出して来た。

 だがミレイユはそれに取り合わず、無慈悲に要求を突きつける。

 

「これから少し、私は派手に魔術を使う。覗き屋連中には良い目眩ましになるだろう。注目だってするかもな。森の出入りをするのなら、これは絶好の機会だ」

「あぁ、なるほど。……そうかもね。不自然に魔力波形を垂れ流すでもないし、陽動の様には映らないでしょうけど……。折角の機会を見逃すなんてねぇ……」

「どうせミレイ様の勝ちは揺るがん。何を期待しているんだ」

 

 アヴェリンが眉根を寄せて言うと、ユミルは鼻を鳴らして笑った。

 

「分かってるわよ、そんな事。アタシが見たいのは、鼻を明かされた馬鹿者どもの顔よ。誰を相手に喧嘩売ったのか、それを知った時の馬鹿面が見たかったのに」

「……あぁ、そうか。それは災難だったが、ミレイ様の仰せだ。今回は諦めろ」

 

 アヴェリンの言葉にミレイユも頷く。

 どうやら覆らないらしいと悟って、ユミルは肩を竦めて踵を返した。

 

「仕方ないわね。精々派手にやって頂戴。それを合図に森を出るから」

「派手な魔術は必要ないがな。魔力波形を分かり易い形で垂れ流すさ」

 

 これにもユミルは肩を竦めるだけの返事をして、人垣の外へと歩いていく。

 周囲にあった人集りも、丁度挑戦者と観戦者とで別れて行く様だ。それに紛れて、ユミルの姿はすぐに見えなくなった。

 森は本来なら即座に出られるほど狭いものではないが、そこへ仕掛けられた魔術を熟知していれば、大幅な時間短縮をしつつ抜ける事が出来る。

 

 ミレイユは人垣の方に視線を戻すと、獣人族がや鬼族が多数移動しているのが目に入った。挑戦者となる戦士の数は、それなりに多そうだ。そして意外にも、エルフ族の参加者もまた多かった。

 

 だが、よくよく見れば、どれも年若く見え、二百年前の戦争を経験していない者達だと推測できる。実力はそれなりにあるからこそ、伝説の真実を確かめてみたくなったのかもしれない。

 逆に当時のミレイユを知っている古参は、その中には含まれていない。

 少しは痛い目を見れば良い、といった生暖かい視線を向けるに留めていた。

 

 どういう手順で進めて行くか分からないが、ミレイユは挑戦者の立場ではない。数的な話をすれば、明らかに不利なのはミレイユだし、そういう意味では挑む側に見えるかもしれないが、実態としてはむしろ迎え撃つ側だった。

 

 ミレイユはアヴェリンへ顔を向け、段取りの確認を取ろうと訊いてみる。

 

「お前の時と、事の始まりは違うだろうが……これは、私が待ち構えていた方が良いのか?」

「あちらが作戦を組み立てている内は始められないでしょうが、ミレイ様が入場するととなれば、それが開始の合図と周囲に取られかねませんね。……あちらにどれだけ人数が集まったか不明ですが、挑む以上は全力で掛かるつもりでしょう。準備が終わるまで待つべきかと」

「そうか、ならばそうしよう」

 

 ミレイユは素直に頷いて腕を組む。

 フレンの言い分を考えれば、ミレイユの全力を見たいか、或いはその実力を知らしめて欲しい、という事らしかった。その為には、烏合の衆として襲い掛かる訳にはいかず、ある程度手順を決めるなり、相互の強みを活かした運用を求められるだろう。

 

 一度にどれだけ場に出て攻撃を加えるか、という段取りも必要だ。

 その参謀を務めるような者から、今もその説明が成されている筈だった。

 

 観客の移動も終わると、後は待ち侘びるばかりとなる。

 あまり待たせると雰囲気も冷めてしまうのでは、と思っていると、そこへフレンが人垣の内側へと進み出て来て、ミレイユにも進み出てくるよう手を翳した。

 

「ミレイ様、助言などと厚かましい事は申せませんが、彼らは個人で戦うより集団で戦う事を得意としています。一人の力を見て、それで底を見極めたと思いませんよう」

「……あぁ、なるほど。長らく少数の不利で戦って来た結果か。一人の武勇より、複数で攻めて確実な勝利を掴む事こそを求めた故か。……参考にしよう」

 

 ミレイユが小さく手を挙げて謝意を示すと、アヴェリンも腰を折って返礼する。

 そのまま広場の方へと進み出ると、歓声の声が一際大きく上がった。広場の端と端、互いに一人ずつ立っている状況だが、他の者はいないのか、と訝しむ。

 

 だが、そんな心配は杞憂だった。

 即座にフレンを中心とした半円形に参加者が集まり、そしてエルフを中心として人垣の内側へ沿う様に人数を増やしていく。

 フレンを中心とした獣人、鬼グループと、そこから突出して広がるエルフ達、と丁度馬蹄形の様な形になっていた。

 

 見える限りでは、参加した人数は百人程度。

 フレンの背後の人垣には、戦意を漲らせた者達が控えているので、まだまだ残弾数は残しているようだ。それは別に良い。

 

 気になるのは、突出して広がるエルフ達だ。

 彼らは人垣近くにいる所為で、観客の様に見えてしまうが、むしろこれが今回の鍵だろう。

 

 彼らエルフが戦線の最も外側に立ち、魔術の攻防を役目と用意されていて、そしてそれ以外が正面から殴り掛かる、という作戦らしかった。彼らの手には魔術付与された武器も持っており、決して手加減するつもりはない、と言外に伝えている。

 フレンが一歩前に出て、得意げに見えるような笑みを浮かべた。

 

「どれだけ人数が居ても良いって話だったね? まさか今更、怖気付いたりしないだろうね?」

「いいや、私の言葉は軽くない。好きにしろと言った、その言葉に嘘はない」

 

 あくまで余裕を崩さず、腕を組んだままのミレイユに、フレンは満足げに頷いた。

 

「始めの合図はどうしたらいい?」

「ルチアに結界を張らせる。それが合図だ」

「いいね、分かり易い」

 

 ミレイユが視線をルチアに向けると、即座に彼女の制御が開始される。

 フレンが身構え、そして周囲の戦士達も武器を構えた。エルフ達はルチアの制御を見て度肝を抜かれているが、今からそれでは戦闘中も大した役には立つまい。

 

 慌てて自らも制御を開始しようとしているが、制御力の差をまざまざと見せつけられる格好になってしまい、恥晒しの様になってしまっている。

 狙った事ではないとはいえ、古参のエルフに情けない姿を見せる事になってしまった。顔を朱に染めて制御を開始しているが、欠伸が出そうな練度だ。

 

 そうして、結界が展開され、ミレイユ達と観客の間が半円状のドームで仕切られる。

 薄っすらと白く色付いた半透明の結界は、観戦するのに支障は無い。完成度の高い結界に観戦者達――とりわけエルフが感嘆の息を吐き、どよめきにも似た歓声が、開始の合図となった。

 

 ミレイユが一歩踏み出すより早く、フレンを追い越し獣人達が飛び出す。

 それらを迎え撃つ為、ミレイユもまたゆっくりとした足取りで歩き始めた。

 

 ――

 

 最初に飛び出して来た獣人は、作戦に則ったもの、というより単に足が速いから突出しただけに見えた。手に武器を持った者も入れば、鋭く爪を突き出して武器としている者もいる。

 ミレイユは相変わらず腕組をしたまま、獣人達よりエルフの方へ意識を向ける。

 

 左右へ広がる彼らは二十人程と多い数ではないが、それら全員が攻勢魔術を制御している事だけは分かった。そして、獣人達が接敵するより前に、まず一撃を加えてしまおうというつもりらしい。種類も多種多様、一つずつに対応した盾は張れそうもない。

 

 一般に防護術というのは、その属性に見合った盾は効果が高く、そしてそれ以外には無力である事が多い。魔術そのものに対して効果を持つ防壁もあるが、やはり一点特化した術より弱く、そして二十人による波状攻撃は、その盾をあっという間に粉砕してしまう筈だ。

 

 それが彼らの知識であり、そして当然の常識でもあった。

 ミレイユは腕組の下で制御を始め、エルフ達の魔術が放たれると同時に完成させる。そして雑な手の動きでそれを行使して、降り注ぐ魔術の雨から守る盾とした。

 

 ミレイユが行使したのは、その魔術を選ばず防げる初歩的な『魔力の盾』だ。それがミレイユの周囲を覆う膜として現れた。一つ目の魔術が着弾すると同時に、色とりどりの魔術が殺到し、ミレイユの姿を、炎と言わず氷や雷の爆発で埋め尽くしてしまう。

 

 観戦者から、どよめきの声が上がる。

 ミレイユの視界も、それぞれの爆発や砂煙で塞がれてしまうが、獣人達の足音は変わらず聞こえていた。この流れは既定路線で、そしてこの攻撃で仕留められなかった場合の事も、十分に想定していたと見える。

 

 ミレイユが腕を一振りする事で爆発や煙が吹き飛び、そしてその隙を縫うように、跳躍した獣人達が攻撃を振り下ろしてくる。

 それを見据えながら、もう片方の手で制御していた魔術を解き放つ。

 

「――なんだぁ!?」

 

 ガキン、と金属同士がぶつかる様な音が聞こえて、獣人たちの動きが止まる。

 それは物理的に攻撃を堰き止める防護の壁で、飛び掛かろうとしていた獣人達は、その壁に阻まれて前進できない。

 上からも正面からも、その壁で受け止められてしまい、牙や爪を立て、あるいは斬りかかり殴りつけても傷一つ付けられなかった。

 

 困惑して互いに顔を見合わせてしまったのは、これほど強固な防壁など知らなかったからだろう。ミレイユは再び雑な動きで防壁を動かし、まるで箒でゴミを払うかのように、獣人達を吹き飛ばしてしまった。

 

 そのすぐ後続には、第二の攻撃部隊が既に突進を始めている。

 同じ方法では二の舞いだろうが、それでも接近しなければ始まらないとも理解している顔付きだ。彼らが迫るまで掛かる一時(いっとき)の間、ミレイユは制御を解除して『魔力の盾』を消す。

 

 そして次に新たな魔術を制御を始め、エルフ達が二つ目の魔術を完成させる前に、一瞬で完成させた魔術を解き放った。

 



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森の中で その10

 それは破裂と衝撃を生み出す、『衝破の烈風』と呼ばれる中級魔術だった。任意の場所に空気の渦を生み出し、それが弾ける事で衝撃波を生み出す。

 

 威力を込めれば、それだけ裂傷は免れないし、何より強い衝撃波が身体の近くで起きる訳で、立っている事ができず転がる破目になる。

 込めた威力や発生場所次第では、容易に鼓膜も破裂するので使い方に気を付けねばならないが、ミレイユに彼らを傷付ける意図は無い。今のところは軽い裂傷と、盛大な転倒だけで済ます。

 

 魔術行使に伴う制御は、繊細な集中力を必要とする。大きなダメージを与えずとも、この程度で簡単に無力化できてしまう。普段は後方から攻撃だけしているような魔術士では、特にこういった搦手には弱い。

 

 現在の森の戦法では、特に前衛と後衛を切り分けて行動しているだろうから、ここまで混戦状態で戦う事などなかっただろう。

 

 加えて、圧倒的数の優位が、彼らを傲慢にさせていた。

 ミレイユが幾ら凄いと聞いていても、常識的にこの数の魔術は防げないし、同時に飛び掛かる獣戦士からは逃げられない、と思っていたのだろう。

 自分たちは最初の一発を撃ち込めば、実質的にやるべき事は果たした、とでも思っていたのかもしれない。

 

 ――勘違いも甚だしい。

 ミレイユは傲慢だった顔を恐怖に引き攣らせている他のエルフ達へ、同様の魔術を撃ち込んで転倒させていく。

 中にはそのまま昏倒してしまう者もいたが、狙ったのはその事ではない。

 

 フレンが望んだ様に、ミレイユの実力を知らしめてやる事が目的だ。

 単に『衝破の烈風』で退場させるのでは無く、例えその場で戦意を失おうとも、その目で見ていて貰わねばならない。

 

 防壁で吹き飛ばした獣戦士達も、未だ脱落した者はいない。

 それだけの攻撃しかしていないのだから当然なのだが、ミレイユが如何なる存在か、彼らにも分かり易く教えてやる必要がある。

 

 ミレイユは迫りくる後続の戦士達を迎え撃つべく、右手に片手剣を召喚し、左手には袖の中に隠していた短剣を取り出す。これは刃の立っていないパリィング・ダガーと呼ばれるもので、攻撃を受け流す際に使用される。

 

 反撃で傷付けてしまう心配がない分、今はこういう武器の方が望ましかった。

 眼前に迫った獣戦士たちを迎え撃つべく、ミレイユは剣の柄を強く握りしめた。

 

 かつて――。

 二百年前の戦争では、エルフと共に戦った戦士達は、非常に心強い味方だった。生来の魔力総量の少なさを、己の肉体と特性を活かす事で補っていた。

 

 魔力制御の鍛練とて、手を抜いていた訳ではない。

 戦争という節目、そしてこれから得られるかもしれない平等と平穏に、正しく己の命を燃やして戦っていた。目の前の彼らはその子孫なのだろうが、彼らにその熱意は無い。

 

 それを不甲斐ない、と詰りたい訳ではなかった。

 ただ、やはり窮屈な森に押し込められているという現状と、憤懣などの環境が、彼らを弱くしてしまったのだと嘆く気持ちが強かった。

 

 鍛え直してやる、などと傲慢な事を言うつもりもない。

 ただ、お前達の先祖は誰の背中を見て走ったか、その一端でも教えてやりたい、と思った。

 

 最初に吹き飛ばした獣人たちが地面に投げ出されたのと同時、その下を掻い潜るように接近して来た戦士達が、ミレイユの眼前まで肉薄した。

 正面から同時に掛かって来るのは二人までで、他の二人は背後へ回り込もうと横へ逸れる。

 

 ミレイユは敢えてそれを見逃して、正面の二人を相手にする。

 身体の大きな獣人だった。黄色い縞柄の入った毛皮から察するに、虎人の種族だろう。その男女が互いに棍を握りしめ、連携の合った攻撃を繰り出してくる。

 

 一人が鋭い連突を、一人が対応の隙を狙う足払い、互いの長所を知り尽くしたこその動きに見えた。ミレイユはその打突を左右へ避けつつ、足元へ払われた棍を跳ねて躱す。

 空中にある一瞬の静止は、攻撃を加えるには絶好の機会だ。

 

 背後に回っていた他の戦士が、その隙を狙って剣を振るったが、それをミレイユが持つダガーで逸し、もう一人の攻撃も召喚剣で弾いた。

 四人による目まぐるしい攻撃も、どれ一つミレイユに届かない。

 

 更に繰り出される四位一体の攻撃は、ミレイユの的確な判断で処理されていく。

 背後からの攻撃、完全な死角からの足を狙った攻撃も、ミレイユに一撃加える事は出来なかった。その場で留まるのではなく、緩く円を動く様な動きは、さながら一つの演舞のようにすら見える。

 

 四人の誰かから、引き攣るような息遣いが聞こえるのと同時、ミレイユは一瞬の隙を突いて魔術を行使した。初級魔術は一瞬の制御で発動できるものだが、そもそも行使できる筈がない、と高を括っていた四人には効果絶大だった。

 

 自身の周囲に衝撃波を飛ばすもので、殺傷力は低い。

 今回の様に接近された時、強制的に距離を離すのに使われる。本来はその様な用途だが、ミレイユが使えば、それは十分な威力を持つ魔術となって襲い掛かる。

 

「ぐあっ!」

 

 悲鳴を上げて四人は吹き飛び、それらが受け身を取るより早く、追撃の魔術で意識を刈り取る。そのまま結界付近まで吹き飛ばしてやれば、後はアヴェリンやルチアが上手く回収するだろう。

 

 ミレイユが身構え直すと、控えの戦士も波を成すように近付いて来ようとしていた。

 その背後では、制御を始めているエルフ達も見える。

 

 やって来ようとしているのは、今度は鬼族の戦士達で、獣人に比べれば鈍重な彼らは、しかしそれだけ膂力が並外れている。平均的な獣人族より頭二つ分は大きい背丈、筋肉質の彼らがタックルを仕掛けるだけでも十分な脅威だった。

 

 本来なら避けるか逃げるのが最適解なのだが、逃げた方向には魔術の追撃か、或いは他の戦士による攻撃があるだろう。よくよく見れば、逃げやすい箇所がわざと空白地帯になっている。

 そこへ飛び込みたくなる配置だし、目の前の鬼族を避けようと思えば、そこしか回避場所がない。見事な狙いだと褒めてやりたいところだが、そもそもとして、未だミレイユの底を見誤っている。

 

 回避に長ける体術を持っていると見て、そして、それしかしないと思っているなら間違いだ。

 ミレイユは魔力を制御して身体中へ巡らせて、召喚剣を解除すると手を前に突き出す。鬼族と比べれば、小枝の様にしか見えない腕だが、目前まで迫った巨体を衝撃音と共に受け止めてしまった。

 

 まるで巨岩同士がぶつかったかのような音を立て、不自然なまでに鬼族の動きが止まった。肩を突き出す様に突進していた男は、苦悶の声を上げて膝をつく。

 掌から伝わった衝撃が、身体を貫通した所為だった。

 

 虚を突かれて一瞬動きを止めた他の鬼族も、押し退けるように前に出てきたが、その一瞬の隙を作った時点で勝ち目は無い。

 先程より余程強力な衝撃波が飛び交い、鬼族達を蹂躙していく。踏ん張る事も難しいだけの衝撃が、破裂音と共に飛び交い、誰一人例外なく、もんどり打って倒れていった。

 

 後方からエルフ達が魔術を弓なりに放ち、頭上から雨あられと、多種多様な攻勢魔術が降らせてくるが、同じ手は通用しない。

 それどろこか、倒れて動けない鬼族を巻き込む攻撃方法に顔を顰める。

 

 ――間抜けめ。

 最初の手筈どおりの連携のみしか、考えていなかったのだろう。

 何か応手はあるにしろ、鬼族が無力化されるなど考えていなかったからだろうか。だが、だからといって巻き込む攻撃だけは頂けない。

 

 ミレイユは自身だけでなく、倒れた鬼族を守る為、頭上に広がる防膜を築く。本来なら自分の周囲にだけ纏わせるだけの魔術を、基準を遥かに凌駕する規模を見せられ、誰もが唖然と口を開いた。

 

 片手でエルフ全員の魔術を凌ぎ、鬼族の傍らから接近しようとしていた獣人族を、もう片方の手で魔術を行使して堰き止める。

 防壁によって止めた動きだが、それを掻い潜って来る者も少なからずいた。

 

 左右から抜けてくる者たちを躱しながら、防壁を武器に見立てて、堰き止められた者達を吹き飛ばしていく。今度は単に退けるだけでなく、しっかりと戦線離脱者を出す目的で攻撃した。

 

 エルフ達の攻撃は獣人たちと違って、全員がタイミングを見計らって攻撃して来て統率されていると感じる。そこだけなら素直に褒められるが、いつまでも自由に、気持ち良く攻撃させておけない。

 彼らは互いに一定の間隔で、十分な距離を開けて立っている。巻き添えを防ぐ為の措置だと理解できるが、ミレイユに言わせれば十分な対策とは言えなかった。

 

 実力差を考えれば、いざという時、互いに防壁を築いてより強い防御が出来るよう、工夫するべきだった。

 とはいえ、そもそも初手一つで勝てるつもりだった彼らからすれば、ミレイユの指摘は的外れだったかもしれない。

 しかし、ミレイユの実力を垣間見たなら、別の対応を模索するか、指示を乞うていなければならなかったろう。

 この辺り、かつて神宮で見た御由緒家などは、実に巧みな運用を見せていた。

 

 そして今度こそ、不甲斐なさを詰るように、ミレイユは魔術を行使する。

 中級魔術の『連鎖する雷撃』が、一番端のエルフに直撃すると同時、他のエルフへ文字通り連鎖して雷撃で撃ち抜かれ、そのまま気絶するように倒れ込んだ。

 

「フン……っ」

 

 多少荒く鼻息を出しながら、迫り来る多数の獣人の攻撃を捌く。こちらの対応力は素晴らしいもので、上下左右、どこへ攻撃しても通らないと分かりつつ、その動きを修正しながら攻撃してくる。

 多数を同時に相手をせねばならないミレイユからすると、この状況は随分不利で、最終的にその一撃を腹に受ける事になってしまった。

 

「――ッシ!」

 

 そして、それはフレンの一撃だった。

 灰色の髪を振り乱し、数多の仲間の攻撃を隠れ蓑に、或いは囮として成功させた一撃だ。何かを握り締めるように開かれた空掌と、黒く伸ばされた爪による、抉る様な攻撃だった。

 見事、と褒めたいところだが、それでも防具すら身に着けていないミレイユの防御を抜く事はできない。

 

 彼女からすれば、岩そのものを殴り付け、切り付けた様な感覚だっただろう。

 これは魔術士が持つ、魔力を内側に閉じ込める為に生まれる防膜が作る防御だった。膜という単語が使われている事から分かるとおり、これには大した防御力などない。

 

 どのような攻撃であれ、受け止めきれず貫通するのが、この防膜というものだった。

 だがその密度次第では、馬鹿にならない防御手段となり得る。本来は魔術に対して特に有用に働く防御手段だし、それを持って魔術耐性が高い、などと表現するものだが、ミレイユ程の総量と密度があると物理的にも防御力を発揮する。

 

「なんて、インチキな……!」

 

 フレンが顔を歪めて、悪態を吐くのも当然だった。

 振るう攻撃は躱すかいなすかされて当たらない、そのくせ直撃しても通らない、では何をして良いか分からなくなるだろう。

 魔術攻撃に対しても完封され、今となってはそのエルフも沈んでしまっている。

 

 ミレイユがその手を左右に振れば、まるで巨大な手で薙ぎ払われたかの様に吹き飛び、またミレイユとの距離が出来る。

 『念動力』を使って押し出しただけだが、目に見えない力は、彼らにとっては実際巨人の手に等しい脅威と映っただろう。

 

 後方からの攻撃手段を失った今、この距離を詰めるのは簡単ではない。

 ミレイユにその気がなければ、数を頼みにしようと防壁か念動力で近付けさせない事も可能だ。そのどちらも初級に位置する魔術だけに、また発動も早い。

 

 攻めあぐねて、迷いが見えているのは直ぐに分かった。

 やりやすいよう、両手を小さく広げて近付いて行ったのだが、更に大きく怯んで構える。

 

「う……、う……くそっ! うぉぉぉおおお!」

 

 一人が追い詰められた獣の様に唸りを上げ、そして堪りかねて走り出し、一拍遅れて数人が後を追った。

 大きく湾曲して接近して来ようとする獣人に、ミレイユは足を止め、片手を持ち上げ待ち構える。その破れかぶれの攻撃に、何か起死回生の狙いでもあるのかと、小さく警戒しつつ攻撃を待った。

 



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衝動変革 その1

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 獣人の行動は勇猛果敢とは言えない。

 ミレイユに考える隙も、行動させる隙も与えてはならない、と考えたのは良いとして、対抗策を用いなければ同じ事の繰り返しだ。

 

 接近する戦士たちとは別に、控えているメンバーは肩を寄せ合い集まっているので、そこに何かがあるのかもしれない。フレンを中心とした彼らは、こちらを睨み付ける様にしつつも、彼女の一言一句を聞き逃さない様にしている。

 

 ――なるほど。

 迫る戦士は捨て石になると分かっていて、突っ込んで来ている。

 事前の取り決めがあったのか、肌で感じてそうせねばならないと踏み出したのか、そこまでは分からないが、待ち構えているだけなら蹂躙されるだけだと理解したのだ。

 

 戦士達の手には、それぞれ武器が握られている。

 ミレイユは敢えてその策に乗ってやるつもりで、剣を召喚し、袖の中からダガーを取り出した。戦士が吠え、武器を構えて肉薄しようとするのを、悠然と待ち構える。

 

 大上段からの打ち下ろし、それを受け止められるのは予想の範疇だったろう。

 その攻撃の衝撃を逃す為に剣を斜めにして受け止めていたので、そのまま外へと身体が流れて行く。その一瞬の硬直を狙って別方向から戦士が三人殺到し、それをダガーで捌き、あるいは躱す。

 

「ぐ……っ!?」

「はンっ!!」

 

 ここまでは既定路線だ。

 どうせ攻撃は通らないと理解していた筈。一縷の希望を、と攻撃を加えたつもりなら、単なる時間稼ぎだろうと付き合うつもりはない。

 

 ミレイユが見定め、そして切り捨てようと判断した瞬間、大上段から受け止めていた剣の圧力が消える。面白そうに目を細めると同時、戦士は武器を手放していた。

 自らも囮、そして攻撃すら囮、本命は肉薄して、その行動を物理的に封じる事にあったようだ。

 

 戦士は手放した動作そのままに、今度は腕を取って関節を極めようとしてくる。

 一瞬の硬直の後、それすら適わないと悟ると、とにかく身動きだけでも封じようと、必死にしがみついて来た。一人がそうすれば、他の者もそれに続く。

 

 両手両足、とにかく何か一つの動作だけでも防ごうという、強い意志を感じる。

 ――その時だった。

 後方に控えていた筈の一団、その鬼族がクラウチングスタートに良く似たポーズを取っているのが視界に映った。その足部分には、カタパルト役を買って出たと思われる、別の鬼族が複数見える。

 

 特に大柄の巨体をしている鬼族が、肉体砲弾のつもりで突っ込んで来る気のようだ。

 その巨漢の両肩には、獣人族が一人ずつ顔を出していて、身を隠す様に背中に載っているらしかった。何をするつもりか分からないが、単に突っ込むだけでもないだろう。

 

 背中に載ってる獣人はともかくとして、拘束している味方はどうするつもりだ。離れるタイミングを間違えば、ミレイユを逃がすだけになるだろう。そもそも振り解かれないと思っているなら、前提の見込みが甘すぎる。

 

 ミレイユが右腕に力を込め、組み敷こうとしている獣人を体ごと持ち上げようとした時、その男が前方に向かって声を張り上げた。

 

「俺たちごとやれぇぇぇ!!!」

 

 面白い事を聞いたと、眉を持ち上げ鬼族を見れば、その言葉を聞くより早く、既に地面を蹴っている。カタパルト役を買って出た鬼族は吹き飛ばされ、それこそ大砲を撃ったかの様な衝撃音と共に、その巨体が吹き飛んでいく。

 

 ――なるほど、ここまで考えての囮か。

 あの巨体に巻き込まれれば、死ぬことも有り得る。それを飲み込んだ上で、一矢報いる為にそこまでやるのか。

 

 プライドを賭けた戦い――。

 それだけでは無いだろう。何をやっても打ち崩せない、それを周囲に知らしめる為だというなら、その気概には付き合ってやらねばならない。

 

 ミレイユはダガーを仕舞って、制御を始める。

 一瞬の間に完了させて、指先を握り込む動作で防壁を発動させた。瞬きの間に眼前へと迫っていた巨体は、その壁に阻まれて動きを止める。

 だが硬直は一瞬で、罅が入ると同時に砕かた。

 

「――ははっ!」

 

 ミレイユは愉快げに口を綻ばせ、四人を身体に纏わり付かせながら背後へ飛ぶ。そうしながらも、空中で身体を捻り、独楽のように回転させて拘束していた獣人達を弾き飛ばした。

 

 尚も変わらず突進中だった鬼族が眼前まで迫り、受ける衝撃を上手く受け流しながら、その頭を蹴って更に背後へ逃げる。

 力押しで勝てる程、ミレイユは甘くない。

 単に突進するだけなら、どれだけ威力が高かろうと、回避方法は幾らでもある。

 

 だが、それで終わりだとも思っていなかった。

 何故なら背面には二人の獣人がいる。その一人がフレンである以上、それで何もせずに隠れているなど思わない。そう判断したと同時、一人の獣人が飛び出してミレイユへと、自らも弾丸の様に飛び出して来る。

 

 攻撃を一撃与える意図、というより――。

 攻撃を空中で躱すというのは、簡単な事ではない。いなすにしても、その意図が攻撃でないなら、それも難しい。この獣人が試みたのは、空中にいたミレイユへ抱き着き、下に落とす事だった。

 

 その目論見が見事成功し、背面上空方面へ飛んでいたミレイユは、そのまま角度を急変更して斜めに落ちた。そして落下予想地点には、大きく方向転換しつつも、勢いを止めず突進している鬼族がいる。

 自らもその突進に巻き込まれるつもりでの一撃だと悟ったが、咄嗟にミレイユから離れ、上手いこと足の間を潜ってすり抜けてしまった。

 

 やるものだ、と妙な感心を向けたと同時、鬼族の突進がミレイユの身体に突き刺さった。

 咄嗟に出した左手、そして衝撃の緩和と同時に魔術の使用、念動力で強制的に鬼族の方向を変え、自らも衝撃を利用しながら逆側へと逃げる。

 

「――だらっしゃぁぁ!!」

 

 一際大きな声が聞こえ、音の出処に顔を向けると、上空へフレンが跳躍していた。

 恐らく、鬼族の突進が突き刺さった時には、既に飛び出していたのだろう。そして、その手には身の丈を優に超え、鬼族の腕よりも太い大剣を高々と掲げていた。

 

 ――なるほど。鬼の背にくっ付いていたのは、この武器を隠す為でもあったのか。

 彼女が振るうには大き過ぎる気もするが、そんな事は問題ではなかった。重力を利用し、勢いと重さを乗せて、着地より前に空中で一撃を加えよう、という狙いは良く出来ている。

 

 何もかも、最後にこの一撃を与える為の布石だ。

 今まで誰も犠牲になっていないのは、ただ運でしかない。ミレイユが突進から遠ざけてやったのも、その突進する足の間を潜れたのも、何一つ保障あってやった事ではないだろう。

 

 だが、そこまで捨て身でやったから、ここまでミレイユを追い詰める事が出来た。

 これは彼女たちの、意地の一撃だ。

 躱すことも不可能ではないが、その意地に敬意を表し、付き合ってやりたい。

 右手に持った召喚剣を、消さないままにしておいた良かった、と心の隅で思った。

 

「おらぁぁぁ!!!」

 

 フレンから雄々しい掛け声と共に振り下ろされた一撃が、ミレイユへと突き刺さる。その剣の巨大さは、前方の視界が埋まってしまう程だった。

 もはや迫っているのが剣なのか、それとも壁なのか分からない有様だったが、左手を自分の剣先に添え、剣の腹でそれを受け止めた。

 

 耳をつんざく衝撃音は、もはや金属同士がぶつかった音ではなかった。それは火薬を使った爆発音の様にも聞こえ、そして腕にかかる負担も凄まじい。

 衝撃そのままに地面へ打ち下ろされ、まるで杭を打ち付けるかの様だった。

 

 衝撃を逃がす余裕もなく、くるぶしまで地面に埋まる。

 一瞬の硬直の後、更にヒビが入って足が埋まり、ミレイユが突っ張っていた腕も徐々に押されていく。だが、打ち下ろされた一撃に、二の撃は無い。

 そこから体重を掛けるにしろ、腕の力で押し込むにしろ、フレンの身体は武器に対して小さすぎた。

 

 受け止め切ったなら、次は反撃の番だ。

 徐々に押されつつあった大剣を、ぎりぎりの均衡から打ち勝とうとした瞬間、大剣から爆発が起こる。その衝撃を眼前にぶつけられて、ミレイユの顔が横に跳ねた。

 

 ――魔術秘具か……ッ。

 まるで爆発音の様な、と感じていたのは、比喩では無かった訳だ。

 この体勢で耐え続ける限り、この武器をギリギリで受け止めている限り、今のような追撃を受けてしまう、という事だろう。

 

 中々に嫌らしい攻撃方法だし、良くもここまで練ったものだ、と感心した。

 ここまで上手く嵌る確率は、そう高くない。だが、それを成功させる綱渡りを、気概と共にやり切った。

 

 ミレイユが見せた強者の余裕も、それを成功させた一因だろう。

 実力が伯仲する相手なら、逃げの一手をもっと早くに打つだろうし、そうでないから成功した手と言える。

 

 ――ジャイアント・キリングをする為の作戦。

 そうと言い換える事も出来る。

 複数の要因が上手く噛み合ったとはいえ、素直に見事だと賞賛したい気分だった。

 そして、そこまでしてくれたのだから、彼女が求める『ミレイユの実力』を、知らしめてやらねばならない。

 

「――ハァァァッ!!」

 

 ミレイユは腹に力を込め、全力でマナを取り込み制御する。

 身体から青白い光が立ち上り、可視化出来るほどの魔力が奔流として立ち昇る。その制御一つで、身体が持ち上がる程の濃密で膨大な力が溢れていた。

 

 地面が震え、空気が震える。

 樹々の枝で休んでいた鳥たちが、一斉に飛び出し逃げ出した。

 

 本来は抑えておく事すら難しい筈の大剣が、空から糸を引かれているように持ち上がっていく。

 これだけの制御を見せれば、何をやっても勝てないと悟った事だろう。仮に拳を打ち付けようと、元から攻撃が通らなかったミレイユだ。逆に怪我を負うと、容易に想像が付く。

 

 それに、ミレイユがその気になれば、マナを放出して昏倒させる事も出来た。

 エルフの古参が総出で上級魔術を打ち込まない限り、この状況から逆転の目は無い。動けないままでいるフレンの手から大剣を弾き飛ばし、召喚剣を首元に突きつけた。

 

 乾いた笑みを浮かべながら両手を挙げようとしたが、その決着を阻止するかの様に、一人の鬼族が突進してくる。

 先程、横へ逸していた鬼族が、再び突進して戻って来ようとしているのだ。初速の様なスピードは出ていないが、それでもその速度は決して遅いものではない。直撃は避けなければ、フレンともども吹き飛ばされる。

 ミレイユは左手を向けると、そのまま念動力を駆使して衝撃を逃がしつつ、その動きをやんわりと受け止める。

 

 空中に持ち上げて無力化し、それで鬼族が足の動きを止めると、ゆっくりと下ろしてやった。

 常識として、念動力とはそこまで便利な魔術ではない。術者の力量に左右されるとはいえ、大質量を持ち上げる事など不可能だし、突進の勢いを繊細に無力化させる事など、正に夢物語の世界だ。

 

 ここまでされれば、流石にもう攻撃しようなどと思わず、戦士として恥の上塗りになってしまう。鬼族も引き攣った笑みで両手を挙げ、降参を宣言すると、改めてフレンも負けを認めた。

 

「……参った。まったく、ここまで何もかも通じないとは思わなかったさ。じいさま達が言ってた事は本当だった。……改めて、無礼をお詫び致します」

 



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衝動変革 その2

 二人の降参を合図として、勝敗は決した。

 カタパルト役を買って出た鬼族や、吹き飛ばされた獣人族など、戦おうとすれば戦える者は残っている。だが同時に、これ以上続けてどうにか出来るか、という雰囲気も出来上がっていた。

 二人が打つ手なし、と判断したなら他も従う。そういう取り決めも、あったのかもしれない。

 

 ルチアの結界が解除されたのを切っ掛けに、歓声が一際大きく湧いて広場を満たした。

 戦士達の奮闘を称える声や、とにかく興奮して声にならない声なども上がっているが、その中にあって戦士たちを(なじ)る声が強く上がる。

 

「だから言ったろうが! ミレイユ様は数を頼みに挑んで、勝てる御方じゃないんだって!」

「今より強大だったオズロワーナに、実質一人で喧嘩売った様なお人だぞ!」

「魔力の扱い方も、総量も、常識で図れるものじゃないんだって!」

 

 顔を向けてみれば、気炎を上げるように野次を飛ばしていたのは、古参のエルフ達だった。戦士たちを思うさま罵った後で、倒れ伏した同族達に荒んだ視線を向ける。

 

「それでお前らは、あの体たらくかい。二十人で挑んで、まったく歯牙にも掛けらないなんて、全く良い恥晒しだよ!」

「言っただろう? 上級魔術を使えるようになっただけのヒヨッコじゃ、一蹴されてお終いだって!」

「もっと上手く運用できなかったのかねぇ。自分が得意なだけの魔術を撃ち込んで倒せるのは、人間の軍隊だけだってのさ。味方の強化にまわせる戦力が残ってれば、最後だって分からなかったのに……」

 

 それならそれで、ミレイユもまた自己強化の魔術を使うだけなので、やはり意味は無かったろうが、それは言わぬが華だった。

 完膚無きまでに負けた以上、彼らに発言権などないらしい。言われるままに言葉をぶつけられて肩を落としていたが、しかし中には黙っていられない者もいる。

 

「――いや、だって! 信じられる訳ないじゃないか! 剣技も体技も一流で、そのうえ魔術は超一流。敵なし、負けなし、比類なし。そうやって謳ってたけど、絶対そんなの誇張されてるって思うだろ!」

「都合の良い様に、『ミレイユ様像』を作り上げてるだけだと思ってたのに……」

「精々魔術だけは言う事あるってレベルかと思ってたら……! あそこまで酷いなんて聞いてないから!」

 

 若者達の発言は、 既に負けの言い訳というより、ミレイユが持つ実力への非難へ変わりつつある。ミレイユが思わず苦笑していると、年嵩のエルフが鼻で笑って切り捨てた。

 

「口酸っぱくして言ってたろ、馬鹿者が。魔力制御が雑なんだよ、どいつもこいつも。何度も見せられて実感しただろうが。激流に見えて清流、清流の中の激流……それが出来るから後出しで使われる上に、単純な威力で負けるんだよ」

「そんなこと言ったって……爺様だって出来ない癖に……」

「うるっさいわい!」

 

 もはや反省を促すよりも、煽り合いに発展しそうな気配だった。

 好きにさせよう、と視線を周囲へ向けてみれば、ミレイユを中心にも輪が出来ていたものの、誰も一定以上近づこうとしない。

 

 獣人族や鬼族まで称える視線を向けているものの、畏敬の念や恐縮する気持ちが強くて近寄れない様だった。その人波を掻き分け、アヴェリンが近付いて来て一礼する。

 

「お疲れ様でした、ミレイ様。見事、武威を示されましたね」

「スマートに済ませる方法は幾らでもあったろうが……、油断もあったな。少し侮っていた」

「侮った結果がアレでは、彼らの立つ瀬もないでしょうが……」

 

 アヴェリンが困ったような笑みを向けた向こうには、フレンが苦い笑みを浮かべて視線を逸している。嘲る意図など無かったが、結果的にはそうなってしまったかもしれない。

 ミレイユは取り成す様に、顎を上下させるだけの小さな礼を見せた。

 

「いや、すまなかったな。最後の連携と攻撃には、随分驚かされた」

「あぁ、いや、うん……。それも結局、ただ驚かせただけで終わったみたいだけど……」

 

 フレンが気不味そうに笑って、頬を指で掻いた。

 またも皮肉のように映ってしまったかもしれないが、ミレイユとしては純粋に賛辞を向けたつもりだった。恐らくは、相当頭を捻った作戦だろうし、その連携も実に巧みであったのも事実だ。

 

 しかし最後に見せたミレイユの底力を見せられれば、最初から全く本気でなかった事も実感した事だろう。だから、あれを見てしまった以上、何を言っても変な受け取られ方しかしないかも、と思い直した。

 

「そう卑下するな。お前達の実力は見せて貰った。そして、実際大したものだと思ったんだ。直前に見たのが、例の兵隊達だった事もあるかもしれないが……」

「あれと比較されてもね……」

 

 最もだと思ったので、またもミレイユは閉口する破目になった。

 完全な不意打ちでなければ、軍隊はあそこまで脆いものでもないだろうし、そうでなくても軍として連携を取った場合なら、もっと手強い相手だったろう。

 

 比較するなら。むしろ冒険者の方であるべきだった。そちらとフレン達を考えてみても、やはり遜色ある実力とは思えなかった。ミレイユが見た中では、ここまで互いの特性を噛み合わせた作戦立案できる者も滅多におらず、それを踏まえれば実際上等な部類なのだ。

 

「でも、実力を知らしめて欲しいって要望は、見事叶ったようで嬉しいよ。――あぁ、いや、嬉しいです」

 

 アヴェリンからの睨みもあった様だが、口調が元に戻っている事に気付いて、フレンは慌てて背筋を正した。ミレイユとしては砕けた口調の方が助かるので、積極的に歓迎したいくらいなので、頼めば何とかならないだろうか、と思い至る。この里で堅苦しい話し方をするのは、既にヴァレネオだけで十分間に合っているのだ。

 

「そう畏まった話し方は必要ない。普段どおりにしていろ、私もそっちの方が落ち着くしな」

「あー、いや、でも……」

 

 言い淀むフレンの視線は、アヴェリンの方を向いている。そしてアヴェリンはというと、不機嫌さを隠しもせず、そんな無礼は許さない、と言外に告げていた。

 アヴェリンとしては、格付けも済み、そしてミレイユの実力も知って尚、不遜な言葉遣いなど許したくない、といった所だろう。ミレイユは里を治める長、という立場でもある。

 

 だが、ミレイユはやはり、誰からも敬語で話し掛けられる、というのは息が詰まるのだ。それが自分には合わないと、神宮の暮らしで嫌というほど味わってしまっている。

 オミカゲ様みたいな、それが当然という境地には、今のところ至れそうにない。

 ミレイユはアヴェリンに見て見ぬ振りしろ、と申し付けて、改めてフレンに向き直った。

 

「……それで、どうやらこのお披露目で、お前の希望も叶った、という事でいいんだな?」

「あ、あぁ、うん……。私の希望っていうか、ミレイユ……様が、ここで真の里長として認められて嬉しいって話なんだけど。ただでさえ数において劣勢なのに、一枚岩ですらないとか悪夢だし」

「それはそうだな。誰からも一目置かれ、その発言には整然と従う、というのは素直に有り難い。とはいえ、それを望む機会はそう多くなさそうだが……」

「――それですよ」

 

 ミレイユの言葉に食い付いて、フレンが一歩近付く。

 遠巻きに見ているばかりだった観衆や、何やら仲違いを始めそうだったエルフ達など、今では二人の会話を食い入るように見つめている。

 

「あたし達が気になってるのは、まさにそこだ。貴女はあれだけの力を示した。里の力自慢、技自慢、魔力自慢の奴らが束になっても叶わなかった。そして多分、本当の全力だって出してない。あたし達が相当無理して出した全力さえ、結局届かず遊ばれただけだ」

 

 フレンは今しがた起きた内容を、分かり易く噛み砕くように観衆へ聴かせるよう発言し、それから語気を強めて続ける。

 

「そのミレイユ様があたし達の味方だ。この一ヶ月で、食料だけじゃなく色んな支援や気配りも受けた。里の未来は明るい、と誰もがそう言う。けど、デルンとの戦争についちゃ、何一つ解決してない。絶大な力があって、何故終結してくれないんだ、って言う声もあった。本当は嘘だからって疑う声も同じだけ……」

 

 フレンはここで一度言葉を区切り、周囲の顔を見渡す。

 彼らの総意を代弁すると言い聞かせるかのような素振りをし、改めてミレイユと視線を合わせた。

 

「でも、あれを見せられて、疑う奴なんてもういない。貴女は伝説どおりの人だった。オズロワーナに攻め入るのも、デルンを蹴落とすのも自由自在だろう。森に引きこもる必要なんてない筈だ」

「……勝手な事を言う」

 

 アヴェリンが堪り兼ねた様に、フレンを睨み付けながら口を挟む。

 

「ミレイ様が味方をしたからと、雛鳥の様に餌を与えてくれると思うな。口を開けて待つばかりで、全てを用意してくれるとでも? 甘ったれるな」

「そんなこと考えちゃいないよ! でも、デルンにだって相当な被害が出た筈だ。軍を立て直す時間なんて与えずに、攻め込んじまえば良かったんだ。やってくれと言いたいんじゃない、あたしらだけでもヤル気だった! それを止めた理由を知りたいんだ!」

 

 周囲からもフレンに賛同する声が、幾つか上がった。

 多くは既にミレイユを認めていて、そのミレイユが沈黙を保つなら言う時まで待つ、と構えている者もいる。しかし、そこまで出来た態度を取れるのはエルフ達だけで、他は分かり易い回答をこそ求めていた。

 

 その理屈は分かる。

 フレンが言うとおり、軍を潰走させたからにはチャンスだった。三万の損失は軽くなく、それでも常備軍の何割かを削っただけに過ぎないだろうが、攻め込もうというには、それ以上の好機など早々生まれないだろう。

 

 デルンも正念場だと身構えていた可能性は高いが、二百年も森へ押し込まれていた雪辱を果たすには、あの状況以外あり得なかった。

 それを止められた事が不満なのだろう。

 

 数において劣る森の民が、敵の本拠地に乗り込んで無事に済む訳がない。

 とりあえず殴り込んで勝てる程、都市の防備も甘くないし、それを説明しても良いが、それだけで納得させられるものではないだろう。

 

 事実を積み重ねる説得でも納得しそうだが、今は思い留める値するインパクトの方が必要だった。言う必要は無いと思っていたし、伏せていた方が良いと思っていたが、ここに至ってはむしろ公表した方が、説得は容易そうだ。

 

 ミレイユは観衆の中にヴァレネオの姿を認めて、目を細める。

 わざわざ人波を掻き分けて前に出てきたからには、話の内容も理解しているだろう。言うべきかどうか、と問う視線に首肯が返って来て、それならば、と伝える覚悟を決めた。

 

「……では、教えよう。オズロワーナには、神々が味方している。だから、止めた」

 



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衝動変革 その3

 ミレイユの一言は余程衝撃的だったらしく、周囲にはどよめきが走った。フレンは二の句が告げず、口を開け閉めさせていたが、そのうち戦慄く様に身体を震わせ、掴み掛からん勢いで一歩踏み出す。

 

「そんな馬鹿な! どこか一つの勢力に肩入れするなど! 神々は嫌な奴らだけど、ルールはルールだろう! 何処だろうと、どんな思想を持ってようと、攻め落とせたなら大陸の覇者だ! それを是としていたんじゃないのか!?」

「勿論、そうだ。いや……、そうだ、と思わせていただけだ。今回の件についても、デルンを保護してやらねばならない理由はないだろうが……」

「そうだろう!? 神が定めたルールだ、それを神から反故にするとは思えない!」

「それはそうだが、神の中にのみ存在する例外がある。それがつまり、森の民には許可しない、という理由に繋がるんだろうな。だから仮に、今回デルンを蹴落としたとしても、即座に別の勢力が取り返しに来る」

 

 馬鹿な、とフレンは顔を歪めて、身体を震わせる。握った拳がメキリと音を立てた。

 理不尽な事を聞かされて、理解できないせいもあるのだろうか。怒りを何処にぶつけるべきか、迷っているようにも見えた。

 

「でも、何故……!?」

「覇者となるのは誰でも良い。だが、平和主義者だけは駄目だ。もしも、お前達が怒りに染まって人間種を攻め立てよう、やられたからにはやり返そう、という主張を掲げたんなら止めないだろうな。……だが、森の民の主張は、そうじゃないだろう?」

「それが悪いって……? 誰もが戦争なく、奪われる心配なく、平和に暮らしちゃ悪いってのかい!」

「そうだ、神にとっては都合が悪い。戦争は起きていた方が、信仰を集めやすいからだ。虐げられれば救いを求める。弱者というのは、そういうものだろう?」

「ふざけ……ッ!」

 

 とうとう辛抱利かず、掴みかかろうとしたところを、アヴェリンが割って入った。

 フレンの腕を掴み、捻り上げて拘束する。そうかと思えば力を抜いて、すぐに開放した。軽く背中を押されてたたらを踏み、掴み掛かった時とは逆方向へ向く。

 肩越しに振り返ったフレンの顔は、途方に暮れたように見えた。

 

「そんな事ってあるかい……。何の為に、あたしらは……。じゃあ、主張を変えて、人間どもを八つ裂きにしてやるって言えば、神は傍観を決め込むって……?」

「事実かもしれないが、そう簡単にもいかないだろう。一部の神からは、猛烈な反発を食らうかもしれない。大体、虐げられているというなら、現在の森の民は十分虐げられている。しかし今、縋る神もいなければ、捧げる信仰を受け取る神もいない」

「あぁ、そうとも……。それってつまり、貴女が言った事は間違ってたって……」

 

 それこそ、その論調に縋りたいところだろうが、事実は異なる。

 ミレイユはゆっくりと首を左右に振った。

 

「――お前達は見捨てられたんだ。神々にとって不要と判断された。デルンを落とせないのは、そういう理由も含まれる」

「馬鹿な、馬鹿な……!」

 

 フレンは勢い良く振り返り、身振り手振りで否定する。

 その感情は理解できるが、神々はそうとしか思っていないのは明白だった。

 

 何故なら、この森に住む数千の信仰とて、決して捨てて良いものではないからだ。ここまでで十分、それ以上は必要ない、と考えるものでもない限り、神々は常に信仰を欲する。

 

 ここに誰の手にも染まってない、空白の信仰があるのなら誰かしらの神が手を差し出し、そして甘い言葉でも囁いて信仰を自らに向けさせるだろう。

 それをしていない、という事実が、つまり何よりの証拠だった。

 

 願力という思いの強さは個人に差が出るし、より強く虐げられている種族は、それだけ救われたい気持ちが強いだろう。満たされた種族より強い信仰を得られると分かっていて、それを求めない理由が、神々にもない筈なのだ。

 

 それがまさに、一度神を捨てた奴ら、という者に対する仕打ちなのだろう。

 一度捨てたなら二度目もある。そういう感情から来るものに違いない。過去より森に生きるエルフはともかく、新たに生まれた獣人などからすれば、全くの被害者でしかないのだ。

 

 だが神々は、不安要素の大きい信仰はいらないと判断した。

 そうと考えなければ辻褄が合わない。

 

 とはいえ、当時のエルフにも、エルフなりの事情があった。

 信仰を捨てるには、それ相応の大きな理由なくして、起こる事ではない。信仰を捨てたのは、それだけ大きな変革があったからだが、神々からすれば関係ない話だろう。

 

 ここでどの様な論説を垂れ流そうと、それは憶測に過ぎず証拠もないのは確かだ。

 しかし、これまでの長い時間、森の民を見捨てて来た事実は消えたりしない。

 

 周囲で固唾を飲んで見守っていた観衆も、今や最初にあった熱気は消え去り、フレン同様途方に暮れたような顔をしている。

 長い時間を森で生き、そして生まれるよりも前から同様の生活をしていた彼らにとって、現在の不遇というのは実感が薄いものだろう。

 

 しかし、親から聞かされて育ってもいたのだ。

 いつか必ず、オズロワーナを攻め落とし、今の生活を終わらせる、と。彼らの親より上の世代は、それを思い描けど、叶わぬままに世を去った。

 

 その無念を晴らす、とまで大きな思いを抱く者ばかりではないが、いつか自分達は、と思い描くものはあった筈だ。それを頭から否定されたのだから、彼らの消沈ぶりは見るに堪えないものだった。

 

「だが――」

 

 ミレイユは分かり易く両手を広げ、努めて明るい声音で語りかける。

 

「私がそれを許さない。私が森に帰還したのは、それを正す為だ」

「え……?」

 

 沈んで俯向きかけていたフレンの顔が上がる。そこには縋るべきものを見つけた、信者の様な顔付きに見えた。

 

「神々に鉄槌を。神々に報いを。私が必ず、それを与える。そしてやらねば、森の民はいつまでも不遇から抜け出せない。だから、待て。順番こそが重要だ。……まずは神々、それからデルンだ」

「ミレイユ、様……」

「私はやり抜く。もう少しだけ待て。世に平和を、平等を。素晴らしい主義じゃないか。それを捨てて人間を虐げる側に回るなど、先人の奮戦に泥を塗る行為だ。私を信じて今は待て。……今もまだ、信じられるなら」

「ミレイユ様……ッ!!」

 

 フレンは感涙に咽び泣いて、その場に膝を付いた。

 神へ祈りを捧げる時の様に、両手の指を絡めて握り、頭の上へ持ち上げる。

 フレンがそれをやれば、同じ様に後へ続く者が現れる。まずエルフの古参が続き、それから年若いエルフ、そうして獣人族や鬼族も真似る様に膝をつく。

 

 アヴェリンは満足げな笑みを浮かべたが、ミレイユは青い顔をさせて周囲に首を巡らす。

 決してそんなつもりは無かったのに、大衆の前でとんでもない事を口走ってしまった。単に安心させてやるだけのつもりだった。

 

 少しでも反発を和らげようと、勝手に攻め込むような暴発を止められたらと、それだけを考えて説得するつもりで言葉を発したつもりだったのだ。

 

 フレンが向ける瞳は、まるで信者が神に向けるものの様に見えた。

 ミレイユは喉奥で唸る様に声を上がる。しかめっ面だけは、この場で見せないよう、必死に耐えた。

 それをして欲しくないからこそ、テオに洗脳という手段を頼んだというのに、これでは全くの徒労、元の木阿弥だ。

 

 いつの間にやら近くに来ていたルチアが、呆れた声と目を向けてくる。

 

「あーあ……、これどうするんですか」

「いや、違う……。決して、そんなつもりは……そうだ、ユミル。ユミルは……!」

「それなら戦闘前に、ミレイさんが森からの出立を促したんじゃないですか。良い目眩ましになるとか言って……」

 

 そんな事は分かっている。だが、何故言ってくれなかった、止めてくれなかった、と非難したい衝動に駆られた。すぐ傍にいたのなら、きっとミレイユが全てを言い終わる前に、この口を塞いでくれていただろうに。

 

 だが、言っても始まらないし、時間は巻き戻らない。

 ミレイユは忙しなく周囲を見渡し、膝をつく者達の中から目的の人物を探した。左右へ忙しなく首を動かすも、それが中々見つからない。

 もういっそ、ここにいる全員を魔術で圧し潰してやろうか、などと不穏な考えを持ち始めたところで、ようやくその人物を見つけ出した。

 

 念動力を使って身体を掴み、即座に引き寄せ顔を近づけさせると、小声で話しかける。

 

「おい、テオ。頼むぞ、どうにかしてくれ」

「どうにか……? どうにかって?」

「何か出来る事があるだろう! 何の為の同盟だ……!」

「そうは言ってもお前……、滅茶苦茶大変なんだぞ、あれ。簡単に言うけど、古参エルフだけの時だって、すんごい苦労してるからな?」

 

 テオは半眼で見つめながら、面倒くさそうに言い放った。

 宙吊りにされている事については、今更文句を言って来ない。既にあるべき姿といって良いほど、空中で固定される様が基本となっている。

 だからそれに文句を言って来ないが、それ以外の苦言なら幾らでも飛び出して来た。

 

「大体さ、もう別にいいだろ。感謝したいって気持ちにすり替えるのだって、苦労が多いんだから。誰しも思考方法には違いがあるもんだし。それを修正して別方向へ促すってのは、口で言うほど……」

「いいから、やれ。やられないと困るんだよ……!」

「他人の尻拭いの為に、俺が無駄に奔走すんのか?」

「無駄じゃないだろう……! それに拭い甲斐のある尻だろうが……!」

 

 自分でも相当無茶を言っている自覚はあるが、何しろ必死だった。

 本当に今ここで、世界に根を下ろしてしまうなど考えたくない。広場には全員が揃っていた訳ではないし、オミカゲ様が言う三千人の信仰にも届かないだろうが、家に帰った彼らは、間違いなく今の事を口にする。

 

 教化される事を恐れて、という懸念があったから、エルフ達の思考誘導を敢行したのだ。ここで自らの言動と行動で教化している様では、世話はない。

 先程言ったミレイユの単語を拾って、テオがわざとらしく尻に目を向けてきたので、頬を引っ叩いて強制的に目を合わせる。

 

「馬鹿はいいから、さっさとやれ」

「何で俺が悪いみたいになってんだ。何かメリットとかあるか……?」

「デルンを蹴落としたら、魔王として玉座に座れるのは十分なメリットだろうが……!」

「は? お前がやるんじゃないの?」

「やらない。譲る。元からそういう話だったろう」

 

 この提案には、流石に心が揺れ動いたらしい。

 テオはアヴェリンやルチアに顔を向けたが、その二人からもそのつもりであるらしい気配を感じ取ると、露骨に笑顔を浮かべて頷いた。

 

「まぁ、そういう事なら。けどな、洗脳はいずれ解けるからな。一人二人ならまだしも、この人数の長期間維持は本当に無理だ。それは分かってくれ」

「……仕方ないな、それは」

「王位を俺に譲るってのも、ちゃんと周知してくれよ。簒奪とか、洗脳が発覚したりで無理矢理譲られたとか、そういうのナシだからな。いいな?」

「分かった。最悪、私が森から出る時まで持てば……、いや、他にも色々あるし……。とにかく短期決着だな。……いつまで保つ?」

「分からん。が、この人数だろ……? 一年は無理だ。それは絶対無理」

 

 それがつまり、タイムリミットになりかねない、という事か。

 身から出た錆というには無念過ぎるが、とにかく考えなしに言葉を出してしまった自分が悪い。

 

 ――いや、と思い直す。

 戦闘が終わった後ばかりで、自らもまた高揚感に支配されていたのが原因なのかもしれない。

 あるいは、より大きな困難に立ち向かうという、この調整された精神が、それをさせたに違いない。

 ミレイユが現実逃避するかのように、自らへ言い訳していると、半眼のままのテオが口を窄めて言ってくる。

 

「それと、さっきみたいのもう止めろ。強い感情は、時々洗脳をブチ抜くからな……」

「今後十分、気を付けよう。……ユミルにはこの事、絶対に内緒だな」

 

 知られようものなら、叱責だけでは済まないだろう。それは間違いない。皮肉たっぷりの嫌味を、これでもかと聞かされる事になる。

 テオを念動力から開放し、即座に取り掛かるよう促す。

 ミレイユは重い溜め息を吐きながら、処置の終わりを見守った。

 



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衝動変革 その4

 テオに洗脳を施して貰ってから暫し――。

 広場から離れ、森の中をアヴェリンとルチアを伴い歩きながら、未だ納得がいかないミレイユは、珍しく愚痴を繰り返し零していた。

 詮無き事と理解していても、吐き出さねば収まらない気持ち、というものはある。

 

「いや、絶対おかしいだろ。私は悪くないよな?」

「もう何度目ですか、それは。分かりましたけど、悪いのが誰かとかいう問題ですかね? ……だとしても多分、ミレイさんが悪いんだと思いますけど」

「何故だ。あれぐらいなら、感謝一つで済ませばいいじゃないか。何でそれで、信奉なんて気持ちが湧き上がって来るんだ。あぁそう、助かる、ありがとう、ぐらいに思ってれば良いだろうが」

「その程度で済まないから、あんな事になったんじゃないですか。神を持てないっていうのは、それほど強い負担だったんですよ」

 

 ルチアが忌々しく顔を歪め、そして同情する様に広場の方へ斜め見た。

 今はその喧騒から離れてしまったが、ミレイユと行った模擬戦は、確かな興奮として彼らを盛り上げている。

 

 ルチアとてエルフの一員として、かつて苦しい時代を生きていた。

 最終的に見放された様なものだが、しかし常に縋り、身体を預け、心安らかになれる存在というのは有り難い存在だと知っていたものだ。

 

 彼らにはそれすらも無い。

 病毒からの保護、という実利的な恩恵も無く、だから森の民は常に誰かしら病に罹っている様な状態だ。

 

 三千人も一箇所で暮らす者達がいれば、重病という訳でもないにしろ、誰かしら病を患っているのは避けられなかった。

 だが本来、少しでも熱っぽいと思えば、信仰の恩恵から癒やされるのがこの世の常識だ。二百年前までは、エルフもその恩恵を存分に受けていた。

 

 それを突然取り上げられたようなものだから、その恩恵を知っている身からすると、尚更不憫に思えてしまう。

 生まれて年若い者達も、かつてはそうだったとか、森の外では恩恵を受けられると教えられていたかもしれない。そして知る毎に、その格差を羨ましくも、疎ましいものと感じていただろう。

 

 何故、と考えなかった事は無かったに違いない。

 そこにミレイユが答えを示した。そして、その不憫から救い、あるべき姿に正すと宣言した。事前に見せたミレイユの実力を思えば、決して夢物語ではないと感じられた事だろう。

 それが全ての原因と言って良い。

 

「救いにも恵みにも感じられた、という事でしょう。彼らの中で鬱屈と溜まっていた感情が、そこで爆発したんじゃないですか?」

「それは分かる。これから村が良くなる、と嘯かれていた話に、現実味を帯びたのも事実かもな。それを信じたくなるのも、縋りたくもなるのも分かる。だが、どうしてそこで、信奉って発想になるんだよ……!」

「憤っても仕方ないでしょう。それこそ、古参のエルフが伝えてきた、『ミレイユ伝説』が下地にあった所為だと思いますよ。元から里では、いつか蘇る救世主、みたいな扱いをされてたみたいですから」

 

 ミレイユは思わず両手で顔を覆う。駄々を捏ねる子供の様に、顔を左右に揺らした。

 余計な事を、と罵る様な重い声が手の端から漏れ、次いで溜め息を零す。

 かと思えば唐突に顔を上げて、ルチアを見てきた。

 

「これも……、これも神々の奸計という事は……!」

「ある訳ないじゃないですか。単にミレイさんが、ポカしただけでしょう。都合の悪いこと全て、神の仕業というな、ってアヴェリンも言ってました。もぅ……言わせないで下さいよ、こんな事……」

 

 ルチアは呆れた視線も隠さず、辛辣に扱き下ろした。

 ミレイユは胸に刃物を突き立てられた様な衝撃を受け、再び顔を覆ってしまった。

 ――彼女の気持ちも分かる。

 

 それこそ、ミレイユは縋りたくなっただけだ。

 自分は失敗を犯していない、不慮の事故だった、あるいは嵌められたのだ、と責任を別の何かに転嫁したかっただけだろう。

 しかし改めて考えても――カリューシーの言い分を信じるなら――、ミレイユを昇神させるつもりがない神々からすれば、森の民の心の隙に入り込み、ミレイユを嵌める必要など最初からない。

 

 その事実を改めて整理し、そっとミレイユの顔を伺う。

 失敗は事実だ。大きなミスを犯したとも思う。

 この世界に根を下ろす訳にはいかないミレイユとしては、自ら必要の無いタイムリミットを設定したようなものだ。

 

 オミカゲ様と、彼女が作り上げた日本を――引いては、あの世界を蹂躙から救う為には、この世に縫い留められる訳にはいかない。

 神々との対決や、そもそも世界を越える為の方策など、考えなくてはならない事は沢山ある。そして考えただけで解決する訳でもなければ、一足飛びに解決する問題でもない。

 時間は幾らあっても足りないくらいなのに、その枷を自ら嵌めてしまった。

 

 暗い表情を顔に落とすミレイユを見兼ねたのか、アヴェリンがおずおずと言葉を掛けてくる。

 

「ですが、ミレイ様はご立派でした。他の誰かが口にしたなら、一笑に付して終わりだったでしょう。ミレイ様のお言葉だから、彼らの胸に響いたのです。それは誇りとすべき事です」

「……そう、かもしれないが。私は尊敬されたい訳じゃないんだよ……」

「予てより、そうは仰っておりますが……。それがつまり、ミレイ様のご気性という事でしょう。俯向き、蹲る者には手を差し伸べずにはいられない……その様な主君を得て、私は誇らしい……!」

 

 アヴェリンは胸を張って宣言する。

 その様に思えるのは実に彼女らしく、また微笑ましく思えるものだが、今回に限って話は別だ。

 ミレイユがアヴェリンに相応しい主君だと見えるのは確かだが、偉業の数々が――その一つ一つが彼女に対する枷となる。

 何故ミレイユはあんな事を口にしたのか、と思っていたが……今にして思えば、これも『困難に対して立ち向かう意志』が、関係しているのだろうか。

 

 よくよく考えてみると――。

 余りに自然に、そして抑える意志すら芽生える事なく言葉にしていた様に思う。

 それを思えば、これもまた精神調整された素体による仕業、と言えるのかもしれない。

 

 ――それを今更言っても、仕方ない事でしょうけど。

 アヴェリンが励まそうと姿勢を傾け、ミレイユが素直に礼を言って微笑む。そうして表情を真面目な物に切り替えた。

 ミレイユはオミカゲ様に、上手くやれ、と言われていた。そして彼女もやる気でいる。そのやる意志が萎えている訳でもないのなら、きっと成し遂げてくれるだろう。

 

 エルフに対する恩人として、そして彼女を良く知る友人として、ルチアは最後まで共にいるつもりだ。

 それは彼女から、旅の同行を求められた時から変わらない。恩というなら、受けた恩は幾つもあるが、しかしそれで見届けられなかったものもある。

 ルチアは改めて、目的地へと目を向けた。

 

 今こうして歩いている森の先は、墓地になっている。

 戦争を続けて来た森の民は、死者の中に戦死した者も多く、そういう意味でも埋葬地を広く取る必要があった。特にエルフは寿命や病死で亡くなるよりも、戦死者の墓が圧倒的に多い。

 

 ルチアの母も戦没者の一人で、森へ帰って来てからというもの、一日と欠かさず墓参りに来ていた。ミレイユと共に訪れるのは初めての事だが、今日は良い機会だからと、付いて来る事になったのだ。

 

 墓守りがしっかりと管理している墓地なので、その様相は実に綺麗なものだった。

 形としては墓石が地面に埋まっているシンプルな物で、その表面に名前や生年月日、没年月日が刻まれている。本来なら信仰する神のシンボルなども刻まれているか、あるいは墓標として立てられているものだが、森の民には持てないものなので、それらの形は見受けられない。

 

 等間隔に四角形の石だけ地面の上から覗いている様な、実に味気ないものだ。

 これもまた、救いを感じ取った彼らが切望する物の一つなのかもしれない。死した者に安らかな眠りを。それを保障してくれる――その様に信じさせてくれるのも、また神という存在だ。

 

 生きる上でも、そして死した上でも救いがないなど、あまりに惨いと思うのだ。

 彼らの感動は、この無機質さからの脱却を見られたからこそ、だったのかもしれない。

 

 これを知っていれば、或いはあの迂闊な発言もなかったのかも、とルチアは墓前に花を添えながら思う。ミレイユとアヴェリンは横並びでルチアの後ろに立ち、思い思いの形で祈りを捧げた。

 

 ルチアもやはり信仰するもの、それを形にするべき祈りの形を持たないが、つい最近まで良く見ていた形として、オミカゲ様へ祈る形で指を組む。

 しばらく黙祷してから顔を上げれば、ミレイユも同じタイミングで頭を上げていた。

 

「ありがとうございます、ミレイさん。付き合って頂いて……」

「お前の母なら、そう無碍には出来ないだろう。……随分、遅くなってしまったが」

「いえ、そのお気遣いだけで十分です」

 

 そう言って微笑み、ルチアは最後に魔力を制御して氷の結晶を生み出し、ダイヤモンドダストの様にキラキラと注いだ。

 ミレイユは何をしているのだろう、と疑問に思う顔を見せたが、これがエルフ式の弔法なのだ。魔術に誇りを持ち、魔力を貴いものとするからこそ、こうして魔力を形としたものを捧げる。

 

「それにしても……命を奪った相手が、カリューシーだったとはな……」

「知っていれば、その首、お前に獲らせてやっていたものを」

 

 ミレイユに続いて、アヴェリンもまた口惜しげに呻いた。

 父から聞いた話では、エルフが覇者として君臨して間もなく、急襲された時に母は命を落としたのだと言う。

 神の素体を相手にしたというだけでなく、ミレイユの邸宅から奪った武具を使っていた事から考えても、端から勝てる相手ではなかった。

 

 しかし攻めて来た相手に抵抗せず黙っている筈もなく、有能かつ勇猛だった母は、果敢に立ち向かった。だが、魔力を防ぐ盾に完封され、結果……命を落とす事になったという。

 エルフの様な魔術を頼みに戦うスタイルでは、圧倒的に相性が悪く、成す術も無かった事は容易に想像がつく。

 

 その仇が目の前にいたという事実が、ルチアの胸を猛烈に掻き毟る。そして、実際に首を取ろうと思えば、可能な戦力差とタイミングでもあったのだ。

 情報を聞き出す事を優先させていたし、逃げる素振りを見せるまでは殺すつもりも無かったが、ナトリアに奪われるくらいなら、という思いが募る。

 

 ――それもまた、詮無き事ですか。

 情報を吐き出し続ける限りにおいて、殺してしまう訳にはいかないし、ナトリアにしても他の神々へ忠実であると示さない訳にはいかなかった。

 

 あの時、ルチアがトドメを刺せる可能性は、殆ど無かったと言って良い。

 ルチアが小さく息を吐いた時、自分がそうした様に、ミレイユは墓前へ魔力を氷晶として煌き落とす。

 

「何もかも、上手くいっていない様でヤキモキするな。――無論、いい様にやられてやるつもりもないが」

「当然です。ミレイ様は勝利者です。これまで常にそうでした。これからもそうであり続けます」

 

 アヴェリンの自信に満ちた顔付きで断言されると、救われる心持ちになる。

 ミレイユがそれに不敵な笑みを向けると、ルチアも墓前から立ち上がり、挑戦的な笑みを浮かべた。

 

「……ま、そうですね。上手くやっていたつもりかもしれませんが、それもここまでだって事、教えてあげましょう」

 



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衝動変革 その5

 その翌日の事だった。

 昨日の模擬戦では、ミレイユも相当手加減したと思っていたが、それでも怪我人は出た。特に鬼族は、自らが怪我を負う事などお構い無しに突っ込んで来ていた為、特に重傷度が高い。

 

 今は戦争も小康状態でしかなく、戦力が落ちるのは好ましくないという意見が出て、今は治癒に専念すべき、という声が上がっていた。

 では、そうすれば良い、と簡単に考えたミレイユだったが、それも簡単ではないと早々に知った。

 

「……いない? いないってのはどういう意味だ? 治癒術士くらい居るだろう? 誰もが得意でないにしろ、昨日程度の怪我なら癒せる術士はいる筈だ。……それとも、エルフはそれ程、魔術士の数を減らしたのか?」

「ハ……、真に汗顔の至り、申し開きも御座いません。古参の中には使えるものもおりますが、やはり歳に勝てるものではなく……。一日に使える量も、その効果も、芳しくないものがありまして……」

「今の若者に、治癒術士はいないと?」

 

 ヴァレネオは汗を拭いながら頷いた。

 最近では既に当然となりつつある、里長の屋敷、その執務室にミレイユは居た。そのつもりもないのに、詰問する様な形で質問攻めをしてしまう格好となり、ヴァレネオも相当参った顔をしている。

 

 しかし、ミレイユの混乱も正当なものだ。

 魔術と言えばエルフの誇りで、そしてそれを使いこなす事を何よりの誇りとしていた。どの様な種族であろうと、個人の出来不出来はあるから、エルフの全てが上級魔術を会得する訳ではない。

 

 扱える魔術の傾向にも違いは出るだろう。

 しかし、若者に使える者が皆無というのは、ミレイユを混乱させるに十分なものだった。

 

「それで、……えぇ。薬草などから水薬を作り、それで補っております。錬金術についても、それほど高度な能力を持った者がおらず、何とかだましだまし……といった所でして」

「何でそういう事になるんだ? 錬金術については畑違いだからと抗弁できるにしても、魔術については別だろう」

 

 ことの多くを魔術に頼っていたからこそ、錬金術を必要としていなかった、とも言える。それがエルフという種族だった。

 魔術を神聖視し過ぎているというか、誇りに思うあまり、他を下に見てしまっていた。それ故、魔術で解決できる事なら、それ以外には頼らない風潮があった。

 

 治癒などはその筆頭で、それこそ材料が無ければ傷を癒せない錬金術より、治癒術の方が早くコストも掛からない。完全な下位互換として、見下していたものだった。

 

 勿論、錬金術は水薬を作るだけの技術ではない。

 強力な武具を作る際には、その素材が持つ特性を高めたり、希少金属を作り出すのにだって役に立つ。その用途は様々で、使い方によっては魔術よりも有用な技法だ。

 

 しかし今や、エルフの若者に治癒術は使えず、使えていた者の多くは戦争で命を落とし、そして水薬を頼らねば傷の治療もままならない。

 皮肉というなら、これ以上の皮肉はない。

 彼らにも忸怩たる思いがあるだろうが、現実的に頼らねばやって来れなかったのだ。

 

 それはヴァレネオも十分理解している事で、しばらく言葉を吟味するかのように目を瞑り、やや時間を掛けてから口を開いた。

 

「ミレイユ様の御助力により、オズロワーナを奪取してからの事でございます。当然の流れとして居城へ移り、そこで生活する事となりました。必然として、かつて暮らしていた森から、数多くの物品も運び入れていたのです」

「それは、……そうだろうな。美的感覚の違いという以前に、残された家具を使いたくない、という心情も出るだろう」

「そもそもが森暮らし。相容れない部分は多かったのですが、それだけでは無いのです」

 

 ヴァレネオが悔恨に塗れた表情をしたので、余程強い理由があるのだろうと思った。

 彼らにとっては新時代。雌伏の時から、ようやく跳躍の時、と張り切っていた瞬間だろう。森を捨てるつもりはないにしろ、利便性の高いものなどは運び入れていた、と想像するに容易い。

 

 そうして、そこで漸く思い至る。

 貴重品の類や、あるいは重要度の高いものも、やはり同様に運び入れていた可能性が高い。

 それこそ、自らの誇りと同義の魔術書もまた、運び入れていた事だろう。管理も必要だろうし、目の届き難い森の奥地で、放置する理由はない。

 

「……そうか、魔術書もまた奪われた形になっていたのか……。だから若い世代へ伝授できる魔術にも限りがあり、使い手の乏しい魔術は、更に数を減らしていく事になった……」

「……まさしく、仰るとおりでございます」

 

 全ての魔術書を失った訳ではないのだろう。

 後々、再度集められる物とてある。だが、本当に貴重な魔術書というのは金貨数千枚を越える価値がある。魔術の秘奥が書かれている様なものもあり、それはまさしく、エルフ族の至宝と呼んで相応しいものでもあったろう。

 

 魔術とは、書を読み解かなければ習得できないものだ。

 口伝で伝えられる魔術というものにも限界がある。そしてルチアが相当な苦労をして結界術をモノにした様に、向かないものには、とにかく扱えないのが魔術というものだった。

 

 才能あふれるルチアでさえ、使いこなすのに相当な努力を要した。使えていたのは、ミレイユが持つ魔術の転写能力で習得したからであって、無理して習得したからこそ、習熟速度も牛歩の歩みだった。

 

 先達による教えがあるにしろ、その教え方が自分に向かない、という事もある。

 いつだかアキラに、魔術の制御方法をピアノの演奏に例えたが、やはり師弟関係や教え方によって合う合わないは存在する。

 

 全く技術が伸びなかった者も、講師を変えただけで見違えるように実力を伸ばした、という話は枚挙に暇がない。

 そういう意味でも、教える側の人数が少ない事は、本来は伸ばせる技術を封じる結果となっただろう。

 それをヴァレネオが知らない筈もないので、だからこその悔恨だった。

 

「……なるほど、事情は理解した。だが、そういう事であれば、ルチアは非常に心強い存在だろうな」

「えぇ……、その制御技術から見ても、実に稀有な存在ですから。エルフの中では羨望の的でして……。親として鼻は高いのですが、エルフの代表としては、不甲斐無しと溜め息を吐きたい気分でもあります」

「そこは素直に、娘を褒めるだけにしておけ」

 

 ミレイユとヴァレネオの二人から生暖かい視線を向けられ、ルチアは居心地悪そうに肩を揺らした。話を聞いた限りでは、ルチアが持つ治癒魔術の豊富さや、そして素早く行使する制御力の高さは、親の立場でなくとも心強い存在として映る筈だ。

 

 その技術を学びたい、と思うのは自然だが、魔術書が無いものについては教えようがない。

 しかし、それを解消する(すべ)を、ミレイユが持っている。

 

「怪我の治療だけを見据えて言う訳じゃないが、その補佐は私がしよう」

「……ミレイユ様が?」

 

 ヴァレネオが怪訝に首を傾げ、ミレイユは泰然と首肯した。

 

「私には、自らが習得している魔術を、他者に転写する能力がある。適正がある奴には、それで使えるようにしてやれる」

「それは、真ですか!」

「適正を見るついでに、制御技術も見てやれるしな。場合によっては、飛躍的な技術力の向上も見込めるかもしれない」

 

 ミレイユとしては気軽な提案のつもりで言った事だが、ヴァレネオは天地が引っくり返ったかのような驚きを見せつつ、首を横に振った。

 

「その様な……! ミレイユに手解きして頂くなど、その様な無礼、させる訳には参りません!」

「気にするな。私にとっては慣れた事だ。……慣れたくはなかったが、こういう時の為だったと思えば、悪いものでもなかったな」

「まるで、自分に言い聞かせる様な台詞ですね」

 

 ルチアが笑い、アヴェリンが目を逸らし、ミレイユは苦笑した。

 何の気負いもない言動に、ミレイユが本気であると察したらしい。ヴァレネオは恐る恐る、という調子で聞いて来た。

 

「……しかし、本当によろしいのですか? それに、慣れた事、というのは……?」

「そうだな……。掻い摘んで言えば、姿を消している間、私は故郷に帰っていた。そこで教導の真似事をさせられていた訳だ。……だからまぁ、制御技術を教え整える事も、そいつに見合った魔術を転写してやれるのも、自然と慣れたというかな……」

「故郷……。そう……、そうでしたか……。なるほど」

 

 ヴァレネオは一人で何事かを納得するように幾度も頷き、そしてミレイユを見返した。

 

「それにしても、ミレイユ様、教師の真似事をさせたなど……。何とも不遜な者がいたものですね……」

「やはり、そう思うか?」

「当然でございましょう。ミレイユ様がどれだけの偉業を成し遂げたか知れば、その様な不埒な願い、申し出られる筈もございません……!」

 

 ミレイユは心底面白そうに笑みを浮かべ、それから意地悪そうな顔でヴァレネオを見た。

 

「私が起こした偉業とやらと、その価値を、最も知っていたのは間違いなくソイツだったろうな。そして、それを命じたのが、私の母……の様な者だ」

「御母上様……ッ!」

 

 ヴァレネオの目はこれ以上なく見開かれ、そして上げた声はまるで悲鳴の様だった。

 

「では、長らく姿を見せぬまま、こうしてまた戻って来られたのも、御母上様のご意思という事でしょうか……?」

「お前がどういう想像をしているか、非常に気になるところだが……それは置いておこう」

 

 ミレイユは浮かべていた笑みを困ったものに変え、胸の下で腕を組んだ。

 そうして一度視線を切り、窓の外へ顔を向けた。そこには溌剌とした村人たちの姿が見え、誰もが笑みを浮かべている。まるで憑き物が落ちた様にも見え、走り回る子供達にも笑みが絶えない。

 

 ミレイユはオミカゲ様の最後の顔を思い出し、それを努めて思考の外へ追いやりながら、改めてヴァレネオに話し掛けた。

 

「その様なものだ。……とにかく、私には慣れた事だし、今だけの事とはいえ、扱える魔術の数を増やしてやれる。治癒術士の不足も解消できるだろう。制御技術を見直せば、全体的な戦力の底上げも出来るかもしれないし、これからの戦闘で役立つだろう」

「大変有り難いことです……。しかし、本当によろしいのですか? 相当なお手を煩わせる事になりますが……」

「構わない。預かる、と言ったろう? お前の民は、私の庇護下にある。それに何も、お前達の将来を憂うばかりでする事じゃないからな」

 

 ミレイユが意味深そうな事を言うと、ヴァレネオは眉根を寄せた。

 その言葉の真意を悟ったルチアからは、得心の表情が返って来る。

 

「お前達にも、私を助けて欲しい。その為に、鍛えるつもりなんだ」

「無論……、無論の事です! ミレイユ様から、助けて欲しいと頼む必要はございません。命じて下されば、我らはきっと、お助け申し上げるのに力を奮い上げます! いつでも、何なりと、お申し付け下さい!」

「お前の忠誠は嬉しいが、そう簡単でもないんだ。敵は強大で……、言ってしまえば神に挑む様なものだしな」

「それこそ望むところ! 微々たる力でありましょうとも、決して失望させません!」

「お前の気持ちは、有り難く受け取っておこう。だが、昨日手合わせした感じでは、少し物足りなく感じる。その強化も含め、私が受け持つ。時間は潤沢に残ってはいない。……だが、今は待つ事しか出来ないからな」

 

 憂いを含んだ溜め息を落とすと、ヴァレネオは深くを聞かず頭を垂れた。

 

「貴方様に受けた恩は、計り知れません。他の種族の事まで勝手は申せませんが、エルフ族だけは決して貴女を失望させたり致しません。どうか、その際には我らの受けた恩を、返す機会をお与え下さい」

 



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衝動変革 その6

 ヴァレネオの忠誠と恩義に礼を言って、顔を上げさせる。

 アヴェリンはその様子を見て、しきりに満足げな笑みを浮かべて頷いているし、そこで何か発言しようともしない。

 

 ミレイユに対する正しい姿勢だと感じ入っているだけで、この妙になってしまった雰囲気を、払拭する手助けをしてくれそうもなかった。

 

 とにかく、今は怪我人の治療と、魔術の転写を考えなくてはならない。単に転写するだけでは非効率だから、やはり神明学園でやっていた様に、それぞれと対面しながら手を握る必要がある。

 そうする事で、単に魔術が使えるだけでなく、効率良い魔力制御を扱えるようにもなるだろう。

 

 頭の中でソロバンを弾いてみたものの、それは到底今から実施できる事ではない。

 日取りと段取りを付けて、混乱を起こさず終わらせなければ、どの様な騒動になるか想像も付かなかった。

 

 昨日のことを考えれば、強い感情を揺さぶられて、洗脳が解ける者すら表れる可能性がある。

 そんな事になれば、今度こそ目も当てられない。

 

「とりあえず、今日の所はルチアに行って貰うか。一流の治癒術を見る事は、それだけでも学びたい者には勉強になるだろうしな」

「……変に煽てても何も出ませんよ」

「そんなつもりで言ったんじゃない」ミレイユは笑って手を振る。「……とにかく、頼めるか。ついでに、治癒術に関心ある奴や、適正ありそうな奴の絞り込みもしてくれると助かるんだが」

「ほら、やっぱりそういうつもりだったんじゃないですか。……いいですけどね、別に。あまり得意じゃありませんが、見繕っておきますよ」

 

 ミレイユは苦笑しながら礼を言って、出ていくルチアの背中を見送った。

 本当なら付いて行きたいところだが、相変わらず机の上を占有する、書類の山を片付けてやらねばならない。これらの数も減って来てはいるが、逆に日々増えていくものもある。

 

 ある程度解消しない限り、里を離れるのも憚られるし、だから少しでも解決しようと、それなりにやる気を見せなければならなかった。

 

 随分長く手を止めてしまったし、今日は補佐が出来るルチアも他に回してしまった。ユミルは森に居ないし、とにかく手が足りない。

 ミレイユは書類の一枚を引っ張り出して、やる気を絞り出しながら処理をし始めた。

 

 ――

 

 しばらく仕事を続けていて、書類の一枚から魔術書の一文を見つけてから、ふと気になる事が頭を掠めた。書類の内容自体は些細なもので、魔術書の一部が事故で欠損したため修繕したい、というものだった。この村では数少ない魔術書だからこそ、疎かには出来ない。

 了承のサインをして脇にどけ、それで思い付いた事を口に出してみた。

 

「……刻印か。あれも果たして、どうしたものだか」

「あれがどうかされましたか? ミレイユ様も、やはり気に食わないので?」

 

 どこか期待する視線をヴァレネオは向けて来たが、ミレイユは別に悪意を持ったりしていない。単に便利なものだ、という認識でしかないし、必要と思えば身に付けても良いと思っている。

 だから、ミレイユは顔の前で手を左右に振った。

 

「お前達が魔術を誇りに思う故に、刻印が気に入らないのは良く分かる。だが、私からしたら良く発明したものだ、という感想でしか無いんだよな」

「確かに我らは、誇りを思う故に魔術を尊重しますが、それだけではありません。あの技術は、魔術士を堕落させました。何もかも努力することが、正しいとも尊いとも申しません。しかし、ミレイユ様ならば、刻印の危うさはお気づきでしょう?」

 

 そうと言われれば、思い当たるものがある。

 努力をせず、望む結果だけ与えてくれる刻印は、実に便利だ。習得そのものがリスク、そして使うだけでもリスクが付き纏う魔術制御とは、それ自体が欠陥みたいなものだ。

 

 引き金を引いて、弾丸が飛び出さない銃に価値などない。

 暴発する銃であれば誰も使わないし、発射させるだけで十年の修練が必要と言われて、でも使いたいと思う人間は稀だ。その稀な人間が魔術士と呼ばれる存在だった。

 

 だからこそ、畏怖と共に尊敬もされる存在であり、その感情を向けられるに相応しい存在でもある。憧れも多分にあり、だが遠くから見つめているしかない存在だった。

 

 それが今や、誰でも欲しいと思えば手に入る。その技術は素晴らしいが、同時に制御に伴う技術と練度も置き去りにした。

 誰もが便利、誰もが強くなったと思っているが、見せかけの強さでしかないものだ。だが同時に、適正を無視して魔術を使えるのは強みだし、修練期間を必要としないのも強みだ。

 

 特に人間にとって、十年の月日は長すぎる。

 そこを改善できたなら、と思わずにはいられなかったろう。そして実際、刻印の登場によって、それらの欠点を克服するに至った。

 

 魔術の精髄を極めたエルフ達を押し込み、戦力の逆転現象すら起こした。

 長々と綱渡りの様な制御をせず、無詠唱とは言わずとも、それに近いごく短い時間で使用が可能というのは、羨ましい程の強みだ。

 

 しかし結局、内向術士として半人前のアキラに対し、多くの者が惨敗する結果になっていた。

 あれこそが現実だろう。

 ヴァレネオが憂う、堕落した魔術士としての現実が、冒険者ギルドに溢れていた。

 

「確かに遣る瀬無い。魔術士ギルドのギルド長も、お前と似た憂いを抱いていた。本物が居ない、と嘆いていたな。だから、私の姿を見て目の色を変えていた」

「なんと……。人間の中にも、その様な者が……」

 

 ヴァレネオは目を丸くしたが、ミレイユからすれば驚くに値しない。

 魔術への研鑽や熱意は、時としてエルフより強い人間など何処にでもいた。むしろ、エルフではないからと割り切った上で、そこへ近付こう、追い抜こうと躍起になる者までいたもいのだ。

 

 そして、だからこそ、とも思うのだ。

 エルフの敗北によって、城の中へと持ち込まれた魔術書は、その多くが残されたままとなった。追い落とされる事によって、置いて行くしかなかったのだ。

 貴重な魔術書、魔術の真髄が書かれた魔術書も、その中にはあったのだろう。

 そしてだからこそ、それを読み解いた人間が刻印を発明した。

 

「いつだって、新しい物を作り出すのは人間だ。長くを生きるエルフは、古き物を扱う事に長けているし、より深く扱えるよう研鑽も止めないが、新しきを生まない。お前達の研鑽の果てに、その新しき刻印が生まれる結果となった。お前が許せないと言うのは、むしろそっちの方じゃないか?」

「それ、は……っ!」

 

 ヴァレネオの言葉が詰まり、喘ぐように口を開閉した。

 図星を刺されたが、相手がミレイユでは否定も出来ないし、嘘も吐けない……そういう板挟みで苦しんでいる様に見える。

 ミレイユは我ながら意地悪な質問をしたと思って、手を左右に振った。

 

「いや、今のは聞かなかった事にしてくれ。お前も……お前だからこそ、自分自身に強い不満があるだろう。己の敗北が、その刻印を生んだ様なものだと、その様に自責したんじゃないか?」

「は……、全く……仰るとおりで……」

 

 ヴァレネオは力なく項垂れる。

 無力を感じたというなら、城をたった一人の人間に奪い返された事に対してだろうし、その際に多くの戦死者を生んだ事に対してもも同様だろう。己の妻さえ、その時に亡くしている。

 自棄になっても不思議ではなかった。

 

 何もかもを喪い、それでも生きて、抵抗を続けて来たのは、守るべき民がいたからだ。その責任が、彼をここまで戦わせていた。

 

 ミレイユにも、果たして同じ事が出来るかどうか……。

 分裂しそうな部族を纏め、曲がりなりにも縫い留めていたのは、間違いなくヴァレネオの功績だ。そして彼の努力あればこそ、オミカゲ様救援の望みが繋がっている。

 

 改めてその事実に気付いて、ミレイユは頭を垂れたい衝動に駆られた。

 ヴァレネオとしては、ミレイユの感謝など受け取れないだろう。これまでの労苦については、既に労った後だし、だからこうしてミレイユが預かると宣言するに至った。

 

 だがとにかく、今は消沈しているヴァレネオを励ましたい気持ちが強くなる。

 言葉だけで気分が回復するものでもないだろうが、言わなければミレイユの気が済まない。

 

「そう落ち込むな、ヴァレネオ。神の詭計だ何だと言われても、お前は自責の念から抜けられないだろうが……。でも私は、お前を認めてる。お前は良くやったと、胸を張れと言える。……それだけでは足りないか」

「――いえ! いえ、決して! 不甲斐ない所をお見せしました。全く……、私はどこまでも情けない。ミレイユ様にお気を遣わせるなど……!」

 

 ヴァレネオは顔を俯かせ、眉を掻く振りをして涙を拭う。

 また余計な事を言ったかな、と自分の不甲斐なさに呆れつつ、気付かぬ振りをして別の書類に手を伸ばす。

 アヴェリンもミレイユの傍で、何も知らない聞いていない、という素振りで窓の外へ視線を向けていた。

 

 ――外といえば、ユミルは大丈夫だろうか。

 あれが潜入に失敗するとも、頼んだ事を失敗するとも思っていないが、しかし仕事に取り掛かっているかどうか、という部分には不安を感じる。

 

 なるべく早く済ませるに越した事はないが、緊急性のある問題でもない。

 それはユミルも理解しているので、到着初日は酒を飲んで寝よう、ぐらいに考えていても不思議ではないのだ。

 

 彼女は決して、無能ではない。やるべき事を理解して、やる事は果たしてくれると信頼しているから、この仕事を任せた。

 

 ――信じてるぞ。信じてるからな。私だけは信じないと……。

 いつの間にか信頼から期待へ、期待から懇願へ変わっている事に気づき、窓の外を睨む。

 

 一日や二日で、完了できる仕事でない事は理解している。

 一切の痕跡を残さずに完了させる事を思えば、慎重を期さざるを得ないだろう。欲しい情報の何もかも、順調に見つかるものでもない。

 

 だが、出来ないや失敗などと言う報告が返って来たら、その時は覚えていろ、と腹の底で強い感情を巡らせていた。

 



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衝動変革 その7

 それから五日の時間を経て、ユミルは悠々と森へ帰還して来た。

 どこから見ているか分からない覗き屋が、その姿を見咎めるか分からないから、夜闇に乗じての帰還だった。

 

 ユミルはその覗き屋から姿を隠す、魔術秘具のフードを持っているが、最善の警戒をした上でと思えば、深夜の遅くに帰って来た事は問題にならない。

 

 いつ帰って来たかも知らせず、その翌日までミレイユに報告もせず、顔を見せなかった事が問題だった。報連相は基本、などと口酸っぱく言った覚えはないが、世の常識として、帰還と同時に報告すると信じて疑わなかった。

 

 そして現在、ユミルは酒瓶片手にワインを飲んで、全く悪びれもせず、その報告を行っている。

 ミレイユは執務室にやって来たユミルを見て、極寒の様な視線を浴びせていた。それすらも全く無意味、どうして向けられているかも理解せぬまま、とうとう報告が終了した。

 

「……ま、そういうワケでね。与えられたコトは終わらせて来たわよ。息が掛かってないと確実に判断できたギルド職員に、必要書類を発見させるコトは出来た。案の定、眷属にされたギルド長は追放される形で決議が固まってたし、実際に施行されるまで時間がありそうだから帰って来たけど……。そこは別に問題ないでしょ?」

「あぁ、そこまでなら、何ら問題ないな。希望どおりの結果を持ち帰ってくれたし、褒めてやりたいくらいだ」

「だったらアンタ、何でそんな顰めっ面なのよ」

 

 ユミルが不満気に顔を歪め、木製のマグに並々とワインを注ぎなら聞いてきた。

 ミレイユとしては、むしろ何でそこまで悪びれもせずにいられるのか疑問だった。だが、本人が分からないと言うのなら、言ってやらねばならない。

 

「里に帰って来ているのにも関わらず、その報告を後回しにしたからだ。安全な場所だからと気を抜きたいし、息抜きもしたいという理屈は分かる。だがお前は、優先順位を間違わない奴だと思ってたんだがな……」

「あら、そう? どうせ()()()からの動きもなければ、こっちだって何か出来るワケでもないんだから、一日くらいの遅れは誤差じゃないの」

「そこが問題じゃないだろう。報告は素早く行え。飲み歩いて息抜きするよりも、優先される事だと分からないか」

 

 分かるわよ、とユミルは笑みを浮かべてワインに口を付ける。

 その態度に堪り兼ね、アヴェリンが動き出そうとしたところで、ユミルはマグから口を離して、挑発的な笑みに変えた。

 

「一体、どんなミスが生まれるか、方針の転換が必要になるか分からないものねぇ? エルフのみならず、何故か他種族までアンタを信奉し始めて、慌てて洗脳で思考誘導しなきゃならないぐらいのコト、平気で起こるものだし」

「――よし、話は終わりだな。報告は以上だろう、下がっていいぞ」

 

 ミレイユがサッと視線を逸し、机の書類を手に取ると、羽ペンとインク壺を近くに手繰り寄せる。忙しい振りをして煙に巻こうとしたのだが、やはりというか、当然ユミルに通じなかった。

 

「いやいや、下がっていい、じゃないでしょ。何よアレ、どういうコト? アタシが居ない間に、一体何があったらそんなコトになんのよ。エルフの人口も減っていて、教化されるコトに気を付ければ、昇神する心配なしって話じゃなかった?」

「……いや、うん。まぁ、そうなんだが……」

「その歯切れの悪さが全てを物語ってる、って気がするわね。今度はどんな馬鹿したのよ、言ってみなさいな」

「まるで普段から馬鹿してる、みたいな言い方はやめろ……」

 

 ミレイユは溜め息を一つ吐いて、手繰り寄せたばかりのインク壺を遠くに置いた。

 明らかな失敗を自らの口から声に出すのは気鬱だが、しかし言わねばユミルも引いたりしないだろう。今も嗜虐的な色を浮かべた瞳からは、決して言い逃れを許さない、という強い意志を感じる。

 

「……確かに短慮だった、それは認める。自分の言葉の重みに自覚が無かった……」

「あら、それを理解しただけでも、少しは失敗した価値があったかしらね」

 

 ユミルがはんなりと笑って、マグの中のワインを喉の奥に流し込む。

 散々と他に八つ当たりの愚痴を言ったものだが、ルチアに言われて再認識したところによれば、ミレイユという存在は、救世主の様に見えてしまうものらしい。

 

 自分自身は全く自覚がないものの――。

 かつてやった事、見せつけた力、そして先の展望を示した事は、彼らにとって強い衝撃として身体を貫いた。

 

 言葉の重みは立場で変わる。

 里長をやっているとはいえ形だけのものだったし、人心が付いて来なくとも、それはそれで都合が良い、という気持ちすらあった。

 

 誰もが救いを求め、この蟻地獄の様な苦しみから開放して欲しいと願う、その理解が浅かった。平和と平等を謳うのは、大義であると同時に、自分たち自身がその立場に置かれたいからだ。

 自分達も含め全員そうあれというより、何より自分達がそうなりたい、という気持ちの現れでもあっただろう。

 

 そこにミレイユが絶大な力を持って、救い上げてくれる期待感と共に声を上げたのだから、それに縋り付かない訳がなかった。

 古くからエルフ達は、ミレイユがいつか目覚めて救ってくれる、というような伝説を、縋りたい気持ちもあって里内で流していた。それがまた、ミレイユに気持ちを向ける一助となってしまった。

 

 胸の内に納得いかないものが渦巻くのを感じながらも、だからと癇癪起こして否定しても状況は好転しない。

 短慮というより、この身体が勝手をした、と言い訳したい気持ちだったが、ユミルは決して受け入れたりしないだろう。

 

 納得の欠片すら見せそうもなかった。

 そして何より、これは防げる事態であったのも、間違いない事実だった。それが心を重くさせる。

 ミレイユの心情など知らず、ユミルは指を突き付けながら笑った。

 

「アンタはさ、自分の価値を見誤り過ぎなのよ。自分が大したコトない奴だと思ってる。ちょっと色々出来るだけ、強い魔力を持ってるだけ、他人より余力があるから出来るだけ……。どれも正解かもしれないけど、それが他人の目からどう見えるか、その自覚を持ちなさいな」

「自分を客観視するというのは、存外難しいものだぞ……」

「分かるけどね。アンタの場合、やるコトなすコト、色々ぶっとんでるから……。普通はね、世界を三度も救えないし、立ち向かおうとしないし、個人が国家に喧嘩売ろうともしないのよね」

 

 改めて簡潔に並べてみると、それは確かに異常だった。

 これが神々による策謀だと理解していて、そしてやらざるを得ない状況に追い込まれていたとはいえ、世界を三度も危機から救うというのは、間違いない偉業だ。

 

 どの様な背景があってやったか知らない人から見れば、偉業と呼ぶに、これ以上相応しいものはない。

 それも理解できるが、ミレイユとしては、素体が持つ能力あってのものだと理解しているからこそ、思い上がるのは恥だと思っていた。

 だが、確かにユミルが言う通り、他者から見られた場合というものを、もう少し考えていても良かった。

 

「……そうだな、余りに無自覚、余りに無理解だった。そこは今後、改めよう。また同じ過ちを繰り返したくないしな」

「そうね、まったく……要らぬ枷を付けたものだわ。神々の策謀を食い止めるか、昇神してしまうか……。これって、そういうチキンレースになってそうよ」

「神々が待っているもの……それが何かによっては、確かに逃げ帰るしか無くなりそうだな」

「……それ、は……」

 

 何気ない一言がミレイユの口から零れ落ち、ユミルがそれに動きを止め、信じ難いものを見る様な目を向けてくる。

 それでミレイユも、自分が何を口に出したか、それで気付かされる事になった。

 

 何か思慮があっての発言だった訳でもなく、本当に口から滑り落ちた様なものだったが、それが一つの真理を突いている気がする。

 ミレイユがこの世界に長く留まっていられない状態、そしてそれを追い込む状況が、ミレイユにループの判断をさせるのかも……。

 

「でも現実として……現状としては、ループを打破する思いしか無いワケじゃない? オミカゲ様の話から推察できるコトでも、一度は矛を交えてそうだった。……そしてだからこそ、十分な準備が出来なくて敗退する、コトになるのかしら……?」

「準備とは言うがな……。そもそも不意打ちで急襲でもしないと、討ち取れないという話ではなかったか?」

 

 ついに堪り兼ねたアヴェリンが、口を挟んで疑問を呈する。

 ユミルはそれに頷き、ワインの酒瓶とマグを机に置いた。

 

「……だから、向こうから攻めて来るのかしらね? それとも短時間で場所を確定し、乗り込むコトが出来るのかしら? 出来るとするなら、それこそ信用を勝ち取った後のルヴァイルがリークして来る、って考えられるけど……」

「或いは、信用出来ないと知っても尚、それに乗るしかない場合か……」

 

 アヴェリンが呟く様に言って、ミレイユは腕を組んで考え込んだ。

 確かに、時間が無いとなれば、その機会をいつまでも窺っている訳にもいかない。だが同時に、オミカゲ様の時は信仰という足枷は無かっただろう、とも思うのだ。

 

 自暴自棄になっていた彼女は、多くのことに失敗した、と言っていた。全て後手後手になっていたとも言っていたし、だから詭計から抜け出せず、最後には神々の思うまま過去の日本へ逃げ帰った。再起を計り、希望を次に託すしかない、と判断するに至った。

 

 ミレイユは頭を振って、渋い顔をしながら眉間を揉む。

 

「時間か……、時間ね。ここでも思い悩む事になるとはな」

「考えてみれば、気づいた時には、いつも時間が足りないと嘆いている様な気がするわ。……今回のこれは、自業自得でしょうけど」

「それを言うなら、不可抗力と言ってくれ……」

 

 本当に頭痛がして来た様な気がして、ミレイユは眉間を揉む力を強めた。

 とはいえ、手段を選ばないというなら、信仰という枷を取り払う事は出来るのだ。まず取れない手段だが、自らの目的を第一とするなら里の者の命を奪ってしまえば良い。

 

 それは余りに短絡的かつ過激すぎるし、そもそも除外するとして、ユミルによる眷属化、という手段だってある。

 他には――。

 信奉を向けられる事はミレイユを神に押し上げる、それは困る、と素直に言った場合はどうだろう。ミレイユという神を得られる事は、むしろ歓迎できる事でしかなく、ミレイユが困ると言ったところで思いを止められない可能性は強かった。

 

 ミレイユを困らせたくない、と理解しつつ、民の多くはむしろ神を望んでしまうのではないか。

 強い感情や切望の制御は、決して簡単な事でないだろう。

 下手に告白する事は、己の首を絞める事になりかねない。これを公表するのは止めておいた方が良い、という気がした。

 

「……まだ、巻き返すチャンスはある。枷というが、これとていつでも外せる類の枷だろう。追い詰められれば何だってするっていうのは、あちらも理解している筈だ」

「……それも、そうかもね? この枷は、確かに外せないほど強固なものじゃない」

 

 ユミルもまた言わんとする事を理解して、非情に見える顔付きで頷く。

 だが現在の推測としては、神々はミレイユをループさせる事を目的としているし、その為に必要とするのは時間と考えているらしい。

 

 全く理解も納得も出来ない、という部分を除けば、神々の狙いは判明している。

 だが問題は、それをどこまで信用して良いか、という事だった。

 



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衝動変革 その8

「今回ユミルにして貰った裏工作は、結果が出るまで時間が掛かる。ルヴァイルの言葉が信用できるか、その判断も下すまでにも時間が掛かるだろう」

「でもですよ、結果といっても、それだけで判断を下せる訳じゃないですよね。冒険者ギルドに価値を感じてないない可能性は高いですし、それならオズロワーナに手を出したと判断されない事も考えられるんですから」

「ま、それは分かっていたコトよ。一足飛びに答えが得られる、と思ってやったワケでもないんだしね」

「あくまで試金石であって、その結果でもって信用するって意味でもないのは理解してます。でも、時間が掛かるというなら、それこそ私達の拘束を叶うものにさせている、とは考えられませんか」

「ルチアの言い分も分かるが、ルヴァイルの目的として一番始めにあるのは、信頼関係の構築だろう。あれにも目的があって接触して来ているんだから、まず初手からギャンブルを狙わないと思うんだが」

 

 ミレイユの指摘に、ルチアは顎先を摘んで首を傾げた。

 

「つまり、前回渡して来た情報に嘘はない、と……? 今回の様に、物は試しだと手を出して、それで本当に反撃があれば、もう信頼関係は築けませんものね。でもルヴァイルは、過去のループから統計を見て、先読みの行動が出来る……。結果が分かっている事には、強気に出られるんじゃないですかね?」

「先が見えているのは確かだろうな。自分たちの損に繋がる情報は、渡していないと見るべきだ。それで足元を掬われる様な情報もな。だから……まぁ、森で大人しくしている限り手を出して来ない、という発言にも信用が置けるという話になるんだが」

 

 少し諧謔を感じさせる表情で見渡すと、それぞれから苦笑した返事が返って来る。

 

「そう言われると、確かにそんな気がしてきます。何百と繰り返して来たものか知りませんけど、その内に失敗した経験があるなら、逐一修正した行動を取るでしょう。低確率だから構わない、というよりは、ゼロではないから、という理由で敵対する選択を潰していそうな気がします」

「そうよね? むしろ低確率だろうと、一度でもあったのなら逆に出来ないものじゃない? ギャンブルしない、っていうのはそういう意味でしょう?」

 

 ミレイユはユミルの見解に首肯して、それからルチアを見つめる。

 

「ルヴァイルの言い分を信じられるかどうか、そこを疑問に感じるのは当然だ。だから、頭から信じるという意味じゃないし、試せる事は試してやるつもりだが」

「相手も、その事は十分想定の内に入れてるでしょ。でも、端から信用を失う様な真似をしないだろうし、するというなら、もっとアタシ達では判別しようのない手段で行う……と、思うワケ」

「なるほど……、それは分かりました。相手を信じ過ぎず、警戒も十分してると分かりましたし、ミレイさんがそう判断したなら賛同しますよ。ただ……」

 

 言い差して、ルチアは一度口籠り、逡巡する素振りを見せながら続けた。

 

「待つしかないって不安じゃありませんか。神々は恐らく、こうしている間にも手を進めている。不利になると分かっていて――その罠が口を開けようとしていて、ただ待つしか出来ないなんて……」

「……そうだな、お前の気持ちは分かる。私も同じ気持ちだ」

 

 ミレイユは溜め息を一つ吐いて、窓の外へと視線を移した。

 平和そうに見える光景も、薄氷の上に載っているものでしかなく、いつ崩れるかも分からない不安定なものだ。

 

 神々が用意している罠が、ミレイユを移動させない事で確実なものへと変わるというなら、即座に動き出したい衝動に駆られる。

 だがそれは、幸せそうに広場で遊ぶ子供達やその親を、見捨てて逃げる様なものだ。

 

「攻め込まれたとして、一日と保たないという事はないだろう。あるいは、持ち堪える事を期待して、早期決着を挑み、こちらから攻め込むのも良いかもしれない。――だが問題は、その決着を臨もうにも、敵の居場所すら分からないという事だ」

「目星は付いていても、そこへ行く手段も……」

 

 ルチアが苦渋を滲ませる表情を見せ、ミレイユは頷く。

 

「手探りで探す事になるだろう。見つけ出すまで森は保つか? 私が駆けつけないと助からない、と思わせる戦力にどれだけ耐えられる? そもそも本当に見つかるのか? 考え出せば切りがないな……」

「その懸念全てを拭って、目的を果たす事は不可能です」

 

 アヴェリンがハッキリと口にして断言した。

 

「見つけ出せる保障すらありません。森を出て行動する、というのなら、彼らを見捨てる覚悟を決めるしかありません」

「……そうだな」

 

 そして見捨てるというのなら、信仰という枷を捨て去る事にも繋がるのだ。

 あるいはその方が、ループから脱却する道は近付くのかもしれない。神々を討ち果たし、全ての連鎖を断ち切る事に繋がるかもしれない。

 

 だがそれは、森の民全ての命のみならず、現世を生きる全ての命を捨てる事にもなる。

 ミレイユにとって最も大事で、最も果たさねばならない命題こそ、ループの脱却である事は間違いない。

 

 それに邁進するのは正しい事であると分かるのに、オミカゲ様が見せた最後の笑みを思い出す度、何とかしてやりたい、という気持ちが湧き上がるのだ。

 だから、それは絶対に不可能だ、と分かるまで、ミレイユは諦めるつもりがない。

 

「しかし捨て去るつもりも、諦めるつもりもない私は、この森を旅立つ訳にはいかない、という事だな……」

「ミレイユ様……ッ!」

 

 ヴァレネオは感動に打ち震えながらも、ミレイユに無理を敷いていると分かって悔恨を滲ませた顔で頭を下げた。

 

「我らをそこまで思っていただけて……、真に……真に……!」

「感謝も、謝罪も不要だ。お前達を助けたいのは、一重に私のわがままを発端にしているようなものだからな。完全な善意という訳でもない。恐縮されると、むしろ私の肩身が狭い」

「例え、例えそうだとしても……!」

 

 ヴァレネオが見せる表情は、感動ばかりではない。それは懺悔する罪人の様でもあった。

 ミレイユを助け、また邪魔をしたくないと考えているヴァレネオにとって、現在の状況はどう受け取って良いか困るところだろう。

 

「あぁ、分かった……。何を言っても慰めにはならないだろうな。今は受け取っておく」

 

 ミレイユが困ったような笑みで頷いて見せると、ヴァレネオは補佐官ともども深く頭を下げた。

 それをユミルが皮肉げに見つめ、視線そのままミレイユへ顔を向ける。

 

「……ね? アンタの言葉の重みってやつ、少しは理解できて来たんじゃない?」

「あぁ、分かりかけて来たよ……」

 

 茶化すところではないので、ミレイユは素直に頷く。

 今まで顧みて来なかったもの、蓋して見ていたものが彼らの姿だ。そして謝意というものは、この場合、受け取らなければ、拒絶した方が無礼に当たる。

 

 ミレイユにとっても、彼らは別に路傍の石という訳ではない。相変わらず自分への評価はそう変えられそうもないが、だからこそ彼らを大事にしようと思えば、ジレンマが生まれてしまうのだ。

 神々が罠を組み立て、ミレイユに必勝の策を投げつけて来ようとしているのに、その完成を待つしかないというのは、苦渋の決断だった。

 

 ルヴァイルを信じられるものか、と考えると同時に、これを利用しなければ勝ちの目はない、と冷徹に思考する自分がいる。

 ルヴァイルは他の神々と違い、積極的な敵ではないから協力できる部分があるというだけで、その本質は化かし合いだ。

 

 或いは、裏切りの見極め合い、と言い換えても良い。

 根本的な部分で、ミレイユとルヴァイルは互いを信用していない。

 

 ルヴァイルにも己の目的があって、それは神々と合致しない、という部分は信じても良い。

 だが同時に、ミレイユがその目的と合致しない行動を取ったり、明らかに風向きを変えた時点で切り捨てて来るだろう。

 

 そして、それはミレイユにとっても同様だ。

 ルヴァイルが提供する情報、あるいは手段、それに価値あるようなら利用する。足元を掬うつもり、あるいは兆候が見えた時点で離反する。

 

 神々の居場所や、そこへの到達手段を探るのなら、どこにあるかも分からないものを充てなく探すより、ルヴァイルの口から聞いた方が早いし確実だ。

 ミレイユはアヴェリンを始めとして三人の顔を見渡して、挑発的な笑みを向けた。

 

「どこまで信じられるか、という点については、ユミルを始めとして意見を頼りにさせて貰う必要があるな。私一人で見抜けない事でも、この四人でなら見抜ける。四人で立ち向かう事を思えば、罠の口を開かせる事くらい、丁度良いハンデだ」

「――ンハっ! ハンデとは大きく出たわね」

 

 ユミルは吹き出すように息を吐き、愉快そうに表情を緩める。酒瓶を再び手に取ると、マグへ注いで盛大に煽る。

 

「でも、ま! そのぐらいの気概でいるのは好ましいわね。最近は、どうにも暗くって、らしくなかったもの」

「口に出すこと憚られながらも、私も同じ気持ちです。我らは常に挑戦者であったかもしれません。ですが同時に勝利者であり、覇者でもあったのです。それに裏打ちされた自信と自尊心こそ、ミレイ様には相応しい」

「そこまで立派にも、傲慢にもなれる気はしないが、私に相応しいというのなら、お前に相応しい私となる為やってみよう」

 

 ニヤリと笑って見せると、アヴェリンは感動して歪みそうになる表情を引き締めて胸を叩く。

 

「有象無象は必ずや、私が一掃してご覧に入れます! 思うがままにその雄姿を見せて下されば、それで宜しいのです!」

「そうだな」

「神々ですら有象無象ですか。恐れるものを知らないというのも、ここまで来ると恐ろしいですね」

 

 ルチアが引き攣った笑いを浮かべていたが、その彼女にも気負いのようなものは浮かんでいない。どうせなるようにしかならない、という達観に似たものすら感じる。

 

「とはいえ、本当に大人しくしている限りにおいて、何の手出しもして来ないかは疑問だ。森へ縛り付ける為に、何らかの手出しはあるかもしれない。森の民を強化する事は、その点においても安心材料になる」

「それは一理あるわね。明日すぐ始められる事でもないでしょうから、手筈や一連の流れを込みで考えておいて、里の皆には告知だけしておけば良いかも」

「……ヴァレネオ。そういう訳だから、よろしく整えてくれ」

「ハッ! 畏まりました、最優先で取り計らいます! ――おい!」

 

 まだ目の端に熱いものを浮かべていたヴァレネオは、その一言で我に返り、傍の補佐官に何かを言いつけてはテキパキと指示を下していく。

 ミレイユも書類を手早く片付けて、当時やっていた作業の流れを思い出し、草案を纏め上げようと、インク壺を引き寄せた。

 

 森の民が強化されるのは優先されるべき事だが、何もそれ一つが目的という訳でもない。

 ミレイユの中では、一つの懸念を解消する案が浮かんでいた。

 



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衝動変革 その9

 そして森の民強化計画は、ミレイユが想像しているより、遥かに早い形で結実した。

 元よりデルンとは、いつ戦闘が再開されてもおかしくない状態である。傷の治療も、そして治癒術士の確保も大事なことだと理解していたし、里の皆からすれば常に不足し、望んでいたものでもあった。

 

 そこにルチアという、かつて伝説と共に歩んだエルフと、その類稀な制御術を目の前で見せられたとなれば、エルフからすると羨望の的でしかなかった。

 ルチアは鬼族や獣人族を手早く治癒してやりながら、実戦形式で制御方法を見せていく。若いエルフの中には、自分とルチアの差を思い知って落胆する者も散見された。

 

「項垂れている暇はありませんよ。出来ないと思って俯く様な人は、必要としていませんから。高みを知ったのは幸いと知って下さい。ミレイさんが求めるのは、それを修得し、使いこなしたいと強く思える人です」

 

 その様に発破を掛ければ、エルフというのは現金なもので、直ぐ様やる気を見せてくれる。

 これもまた、ミレイユが見せた力や、カリスマから来るものなのかもしれない。

 

 そしてルチア自身が扱う治癒術や、その制御力を見せつけつつ、その力に近づける手助けをミレイユがしてくれる、と教えれば大反響となって里の中を駆け巡った。

 真偽を確かめて屋敷へ突撃する者まで現れ、その為広場に立て札を作り、告知を読んでもらう必要に迫られた。

 

 そうすると、まるで広場に全ての民が集まったのではないかと勘違いするほど賑わいを見せ、その日に向けて誰もが積極的に協力を申し出る様になる。

 里でやる事は基本的に助け合いだから、どういう事をするにしろ、大なり小なり助けの手が入る。多くは十分な人手のある所から借り出して、何とか融通を付ける、という形に落ち着くものなのだが、今回ばかりは勝手が違った。

 

 むしろ、誰もが積極的に関わりたくて仕方がない。

 広場中央に設置された天幕や、そこでミレイユが座る椅子。長蛇の列となる事を想定し、どういう順で並ぶのか、その人員整理は、と持ち上がる問題や必要なものの調達を、我先にと手を挙げていく。

 

 彼らはミレイユがやること成すことに、関わりたくて仕方ないのだ。

 そして出来栄えを気に入ってくれ、そして褒められる言葉の一つでもあれば尚嬉しいと思っている。かつてはエルフばかりが口にするミレイユという名前は、里長という枠を越えて、今やもっと偉大な者という認識になっていた。

 

 ミレイユにとっては悩ましい事でもある。

 エルフ以外からは、人間だから、人間なのに、と排斥される可能性すらあったものを、好意的に受け入れられる事は喜ばしい。

 だが、それも度が過ぎると怖くなる。余りに強い感情は、時として洗脳という頸木を外す切っ掛けとなるものだから、単なる好意で収まらない情動は困るのだ。

 

 だが同時に、ひとの感情を制御し切るなど不可能だと思っているので、これは無い物ねだりみたいなものだった。

 異例の早さで完成した、広場の最奥に作られたテントには、真新しい椅子が用意されていた。背もたれに肘掛けにも、刻み装飾がされていて豪奢さを演出されているし、塗装と装飾も見事なもので、執務室にある椅子より数段豪華だ。

 

 テントへは背面から入ったのだが、今は正面となる入り口は閉められている。ちらりと見た感じでは、既に多くの住人が今や遅しと待ち構えているようだった。

 長蛇の列が何度も折り返して、広場を右往左往していたのは見えていた。中には子供の姿も見えていたが、今回強化を施すのは戦闘要員や、あるいは補助要員に限られる。

 

 子供だからと戦えない事はないだろうが、今回に限って単に幼く見えるだけ、という訳でない限り、強化するのは止めておく。

 この里の基準では戦闘要員として数えられるのかもしれないが、まるで自ら戦場へ背を押す気がして居た堪れない。

 

 それに何より、数が数だ。

 学園の事もあったので、我ながら慣れたものだと思っているが、流石に里の住人全ての面倒は見られなかった。ある程度、除外する者も出さないと、自分の方が先に参ってしまう。

 

 ミレイユは用意された席に腰掛け、事前に声を掛けていたテオへ顔を向ける。

 この場にはアヴェリンやユミル、ヴァレネオとルチアも付き添っているが、敢えてこの場に彼を呼んだ事には、勿論理由があった。

 

「……テオ、頼むぞ。怪しい奴を見掛けたら、容赦なく使ってくれ」

「それは別に良いが、大丈夫なのか? 下手に露見したりすると、厄介な事になるんじゃないか? この前の広場の時とは訳が違うぞ。誰も彼も、お前に頭を下げてたりなんかしない」

「だから良いんだろう。誰も彼も私を見ているなら、お前に意識を向けたりはしない。傍らにべったりと立っている訳でもないんだしな。それに、ユミルの幻術も掛けさせる。それでカバー出来るだろうさ」

 

 住人達が向ける感情に、ミレイユは懸念が拭えなかった。

 だからここで、一挙両得の策として、テオに改めて洗脳を施して貰おうというのだ。広場の時は広場の時で、あの場で施さなければ、信仰心が芽生えそうであった。

 

 だから急遽テオに動いて貰ったのだが、やはり一度に多くの洗脳は雑さが出るし、効果が十分でない者も現れる。そこで、対面する事を良い機会と考えて、強い感情を向ける者には改めて洗脳して貰おうと思い立った。

 

 ミレイユのみならず、力自慢の戦士たちと格付けを行い、その頂点に立ったアヴェリンや、傷の治療で見せ付けた魔力と制御で、エルフ達の注目を集めるルチアもいる。

 目移りする者には事欠かなく、その中でテオを幻術で隠したなら、まず見つからないと踏んでいた。

 

「とにかく、お前が目立つ行動を取らなければ問題ない。頼むぞ」

「まぁ、そりゃ……分かったけどさ。でも、あの人数だろ? うんざりするんだが……」

「それは私も同じ気持ちだから、うんざりするだけなら諦めて腹を括れ」

「言っとくけど、アタシたちの方がやるコトない分、うんざりしてるからね」

 

 ユミルが半眼になって見つめて来て、ルチアも思わず苦笑する。

 アヴェリンやヴァレネオは、臣下として傍に侍る事は当然、と思っているので不満など見せない。だが、ユミルは別だ。ただ退屈な時間が過ぎるだけなのは、我慢ならない、という構えだ。

 

 アヴェリンなどは、今すぐにでも物申してやりたい気持ちでいたようだが、ミレイユが椅子に深く座り直し、手を振った事で動きを止める。

 代わりに椅子の正面へ回り込み、カーテン状に区切られた入口を開く。

 

「――わぁぁぁっ!」

 

 それと同時に歓声が上がった。

 誰も彼もが笑顔と興奮、そして期待をミレイユに向け、惜しみない賛辞を上げていた。森の民全員が来ている、と錯覚したのは間違いではない。こちらへ顔を向ける者の中には、子供と言わず老人の姿まで見受けられた。

 

 今回こうして対面する意図は、戦闘員の強化なのであって、ミレイユと対面する事が主な催しという訳ではない。

 彼らを見ていると、村に初めてのサーカスがやって来たかの様な興奮ぶりだった。

 ミレイユは一瞬で頭痛が沸き起こるような錯覚を感じ、傍らに立つヴァレネオへ問い掛けた。

 

「一応聞くが……。告知板には、どういう意図でこの様な事をするか、きちんと書いていたんだよな?」

「無論です。ミレイユ様の意図を曲解など出来ない、簡潔でありつつ明瞭な文言を載せさせて頂きました」

「……明らかに、戦闘員では無さそうな者までいるが?」

 

 ミレイユが視線を向けた先には、まだ小さな赤子を抱いた母獣人が咲き誇らんばかりの浮かべていた。腕の中でぐずる赤子をあやしながらも幸せそうで、到底戦場へ駆り出される人材には見えない。

 彼女もまた戦力を有してはいるのだろうが、赤子を置いて戦場へ出ろ、などと言われないだろう。それとも獣人とは、その様なものなのだろうか。

 

「いえ、決して、その様な事はございません。しかし、次の機会がいつかも、そしてあるかも不明瞭な為、この機会を逃すまいと出てきた可能性はありますな」

「あぁ、それは……確かに。だがそもそも、その()を失くす為に戦おうとしている訳だが」

「まさしく、そのとおりです。ですが、自分達が生まれる前よりあって、そして生まれてこの方、戦争が継続している里なのです。次がない、と想像するのは難しいところでしょう」

「あぁ、それもまた、分かる話だ……」

 

 彼らからすれば、外敵から脅かされない平和な世、というのは想像し難いだろう。

 ミレイユはこれを最後と考えているが、この里の者にとっては、続いて当然という認識であっても可笑しくない。それこそ森から出て暮らすなど、環境からガラリと変えなければ、実感できないのではないだろうか。

 

「まぁ、分かった。流石に戦闘に適せない年齢は省くが、それ以外は極力見るようにしよう」

「はっ! ミレイユ様のお心遣いに感謝いたします!」

「……うん。それじゃあ、始めようか」

 

 その一言が開催の宣言となり、人垣を止める役割も担っていた整理員が誰かを促す。そうして意気揚々とやって来たのは、灰色の髪を鬣の様に広げたフレンだった。

 以前見た時は毛先も揃わず、身嗜みに気を使わない雰囲気だったが、今は良く梳かして肌も綺麗に磨かれていた。

 

 それだけではなく、戦化粧までされていて、着ている者も戦闘用の革鎧だ。使い込まれ年季の入った一品で、修繕された後が幾つも見受けられる。極力動きを阻害しない作りで、守る場所も最小限、急所を補う形になっていて、より実戦向きという気がした。

 

 手に武器こそ持っていないものの、明らかに戦場へ赴く様な姿格好だった。

 やる気に満ち溢れた気配といい、これから何をするか勘違いしているのではないか、と不安になる。これから改めて、殴り合いでも申し込まれそうで訝しんでいると、フレンはその場に膝を付いて頭を下げた。

 

「ミレイユ様! この度はこの様な場を設けて頂いて、ありがとうございます! より強くなれる可能性があると聞いて、誰もが感動で身を震わせております!」

「あ、あぁ……。それは本人次第だから確実な事とは言えないが……。しかし、どうした。お前、そんな奴だったか?」

「我らが戴く至上の里長に、相応しい敬意を向けているのです! ミレイユ様は、それだけの偉業を成し得た御方!」

 

 随分な豹変ぶりに、ミレイユは思わず目を剥いて凝視する。

 以前は敬語の扱いすら覚束なく、それどころか敬語を使うべきか迷う様な素振りすらあった。ミレイユからも敬語はいらない、と伝えてあった筈だ。

 腕を組んで妙に何度も頷くアヴェリンを見れば、これがその原因ではないか、と疑いを向けてしまう。

 

 何かと執務室の外へ遣いとして出すアヴェリンだから、その際にあれこれと言ったり聞かせたりしたのではないか。

 彼女はミレイユの偉業を広く伝えたい、という欲求を常に抱えている為、どこで何を吹聴して回ったものか分かったものではない。

 

 アヴェリンは決して嘘も誇張も言わないが、里の住人からすると、誇張としか思えない内容を真実として聞かされたのではなかろうか。

 それがこの畏敬の表明、という気がした。

 

 ――こいつは洗脳直し決定だな。

 心の中で決定を下し、テオにだけ分かるよう指示を下す。そうしながら、注意を引き付ける意味でも、少し話題を振る。

 

「それにしても、少し意外だった。お前が一番手なんだな」

「ハッ! 殴り合って勝ち取りましたので!」

「殴って……? 力で黙らせたという事か?」

「お上品な話し合いだけで解決しないのが、我ら獣人族というものですから。言うこと聞かせるには、力の誇示が最も重要です!」

「あぁ、うん。なるほど……、そうか」

 

 誇りを持って瞳を輝かせて言ってくるものだから、彼女たちにとって実際、それが大事なのだろう。これを見ると、よく森を一つに纏めてきたものだと、改めてヴァレネオに敬意の念が湧き上がって来る。

 ミレイユの時みたいに力を誇示する訳でもなく、空中分解させず二百年も維持して来た事は、事実驚嘆に値する。どういう手管を使ってきたのか、少々気になるところだが、今となっては必要ないものでもある。

 

 ミレイユは改めてフレンの手を取り、魔力の制御をするよう促した。

 



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衝動変革 その10

ayuzaka様、誤字報告ありがとうございます!
 


 魔力制御というものは、その扱い方に個性が出るものだ。

 自分にとって最もやりやすい形に変化していくものだし、基本通りの型が全ての人間に適しているとは限らない。だが同時に、その型が明らかに合ってない動きをしている場合もある。

 

 それを正してやるには本来、膨大な時間が掛かるものだ。

 良くない癖だと指摘しても、本人にもどうにならない事だってある。ミレイユはそれを強制的に矯正する事が出来るので、最短距離で見直しが出来た。

 

 フレンから手を離してやると、脂汗を滲ませた顔で、驚愕も顕にした表情を向けてくる。

 握り込む拳に視線を移し、更に力を込めれば制御力とその練度が、比較に出来ないほど良くなっていた。その実感を、今まさに味わっているところだろう。

 

 内向術士にとって、魔力総量の少なさだけで、強さや優劣は測れない。

 一定数より多くなると持て余すので、そもそも扱えないなら、少ない方が良いぐらいだ。

 フレンはそれを力で振り回すタイプだが、力付くで回す事に慣れてスムーズな回転というのを疎かにし過ぎていた。慣れてしまい、それを正す者もいないとなれば、明らかに間違った方法さえ正しい方法だと思い込む。

 

 ミレイユが今回やったのはそれを正しただけだが、フレンにとってはそれで十分だった。

 彼女の表情は驚愕から驚喜へと代わり、力量の上がり幅に我を見失いそうになっている。その手を再び取って、その制御を強制的に止めた。嗜める様な視線を向ければ、即座に謝罪が返って来る。

 

「――申し訳ありません! 突然の事に……あまりの変化に、無礼な真似を……!」

「あぁ、それが自覚できるというなら、見所があるな。口で言っても分からないだろうから、敢えて説明しなかったが……私はお前を強化したんじゃなく、本来出来る筈のものを、出来るようにしてやっただけだ」

「これが、実は最初から出来ていた……」

「それを強化と感じる者もいるかもしれないが、種を明かせば陳腐なものだ。お前の努力の先にあったもの、それが芽を出した」

 

 ミレイユが悪戯めいた笑みを浮かべると、フレンは惚れ惚れとする様な息を吐いて首を横に振る。

 

「その本来の力を引き出せる者が、一体どれ程いるでしょうか。私は自分が完成したものだと思っていました……」

「今の矯正で余力が出来た分、更に伸び代が生まれただろう。完成を見るのは、まさまだ先だな」

「まだまだ、先……!」

 

 フレンは喜びに震えて、ミレイユを見返した。

 武術や体術において、その若さで完成を見ると言うのは傲慢かもしれない。けれども魔力総量や制御において、これ以上の伸び代がない、という意味で完成を見る事はある。

 

 それもまた工夫次第で別の伸び代が生まれたりするものだが、とにかく自分で見切りを付けてしまう部分というものは、確かにあるものだった。

 まだやれると思う反面、自分はこれまで、という落胆もあった事だろう。常に高みを目指す戦士にとって、道半ばで自分に見切りを付けるのは辛い事だ。

 

「余り一人目で時間を掛けてもいられない。これから同じ事を施して行くから、知り合いなんかに良く言い含めておけ」

「は……、ハッ! 新たに道を敷き直して頂き、誠に感謝いたします!」

 

 最後に一礼し、踵を返してフレンは退室していく。

 そのキビキビとした堂々たる振る舞いには、自分に対する自信に満ち溢れていた。あれが傲慢になるというには、アヴェリンという壁があるから大丈夫だと思うが、これから施す者達も同様だとするなら、少し先行き不安にも思ってしまう。

 

 下手に暴走してオズロワーナに殴り込む、なんてしないと思うが、その力を振るう機会を探し求めて、森の外縁を徘徊しそうだ。

 新たな懸念を生んでしまった事に一抹の後悔はあるものの、今はとにかく未だ膨大に残る民たちへ、意識を割く事の方が優先だった。

 

 ミレイユが一つ頷くと、それで順番を待っていた次の者がやって来る。

 なるべく早く終わらせよう、流れ作業だ、と心に言い聞かせながら、跪く獣人の手を取った。

 

 ――

 

 幾らも数をこなしていくと、そこに違和感の様なものに気付く。

 というより、気付かざるを得ないのだ。フレンやその後に何度か続いた戦士ならば、まだ理解出来た。明らかに戦闘に赴く様な装備品を身に着けているのは、ある種、戦場へ赴くような気持ちでいたからだろう。

 

 あるいは尊敬する人物を前に、不埒な格好で行く訳にはいかない、という気持ちが働いたのかもしれない。だが当然、街で持て囃される衣服など無いので、一張羅のつもりで身を飾っていた。

 

 少しでも見栄え良く、格好良い自分を見て貰いたい、と思うのは自然な感情なのかもしれないが、それが羨望の眼差しと共に立たれると、どうして良いか分からなくなる。

 

 今しがた帰って行った者などは、明らかに戦闘員ではないと分かる魔力しかなかった。そのうえ、随分と着飾って手を差し出して来たのだ。

 握られた手を嬉しそうに見つめていたのも、不思議と目に留まった。

 

 未だ人の列は途切れる気配を見せないが、敢えてそれを止めて貰い、肘掛けに体重を預けながら額に手を当てる。

 

「……なぁ、これ何か勘違いされてないか? あきらかに魔力の水準が、一定に達していない者までいるんだが……」

「アタシ、あれに良く似た光景を、あっちの世界で見たコトあるわよ」

 

 ユミルが面白そうに笑みを作って、意味ありげな視線を向けてきた。

 聞かない方が良いと分かっていても、止められなかった。ぶっきらぼうな声で尋ねる。

 

「……何だ」

「アイドルとやらの握手会」

 

 ミレイユは思わず唸りながら額を揉んで、これまでの光景を思い出す。

 そうしてみれば、記憶の中の彼ら彼女らは、戦士としての力量上昇を望む者と、興味本位というには熱が入り過ぎている者たちとで、別れていたように思う。

 

 テントの外では、額に手を当てだしたミレイユを心配する声も上がり始めた。

 心配ないと顔を上げ手を振って、体調の無事をアピールする。実際、体調の問題ではない。ただ、住人達の心情を思って、立ち眩みに似た思いを感じただけだ。

 

 ミレイユはテオへ顔は向けず視線だけ向けて、外には聞こえない様に声を掛けた。

 

「お前、まさか変な真似してないよな?」

「してる訳なかろうよ。何で俺が下手すれば拷問される様な真似、進んですると思うんだ」

「……あぁ、お前の私に対する認識に思うところはあるが、実に説得力のある返答だった」

 

 仮に思考誘導の果てがミレイユのアイドル扱いだったとして、それが裏切り行為かと言えば微妙なところだが、殴り付ける程の事ではない。

 ただ腹いせに、念動力で天井と床へ、交互にキスさせてやりたい気持ちは湧き上がる。

 

 ミレイユの不穏な視線に何かを感じ取ったのか、テオはぶるりと身体を震わせて、必死にこちらを見ない様、顔を正面に向けた。

 ミレイユもいつまでも現実逃避している訳にもいかないので、次を招くよう指示する。

 

 次にやって来たのは赤子を連れた獣人族の母親で、対面できた喜びを表して顔を綻ばせる。そして腕に抱いた赤子を、恭しく差し出して来た。

 

「どうか抱いてやって下さい。強い子に育ちますように」

「あ、あぁ……、うん。だが、赤子というのは抱いた事がないな。……首は据わってるのか?」

 

 言われるままに抱き止めて、壊れてしまわないよう、慎重な手付きで胸に抱く。

 赤子の体温は高く、どこを触れても柔らかい。丸くつぶらな瞳で、ミレイユが何かも理解せず見つめてくる様は、実に愛らしい。

 

 その頭をひと撫でして、頬を親指の腹で優しく撫でる。

 すぐにぐずり出してしまったので、赤子を母親に返すと、彼女は深々とお礼をして立ち去っていく。腕の中の重みと暖かさを物寂しく思いながら見送り、そこでハタ、と思い立つ。

 

「……いや、おかしいだろ。ここはそういう場所じゃないんだよ。アイドル扱いの次は、何扱いだ? 私は一体、何を求められているんだ」

「あらまぁ……、受け取り拒否する仕草すら見せなかったのに、今更その反応? 気付くのが遅過ぎるんじゃなくって?」

 

 ユミルが呆れとも(からか)いとも付かない笑みを浮かべて、テントの外へ指を向ける。

 そこには戦士や魔術士と思われる若者も見えたが、明らかにそれとは異色な存在も目に入った。中には病気に罹っていそうな者、折れた腕を紐で吊っている者までいて、趣旨を理解せずやって来たのは明白だ。

 

「ほら、まだまだ残ってるわよ。色んな何かを求めてやって来たヤツラが。何を求めて来たかといえば……、救いとかじゃない?」

「う……」

 

 辛い時、誰かに寄り掛かりたいと思うのは自然な事だ。

 信仰を持たせないようテオに洗脳させていたというのに、彼らはそれでも、ミレイユにそれを求めた。信仰とは別の、しかし寄り掛かれる何か、彼らにとって有り難い存在に置き換えて、そうしてミレイユとの対面を求めている。

 

 そしてミレイユは、それを受け止められるだけの人だと、里の皆から認められたのだろう。

 里を預かる者として、これを蔑ろには出来ない、と思った。

 ミレイユはテオにこそ縋る様な視線を向けて、本当に頼むぞ、と念を押す。

 

 この際アイドルでも何でも良いが、信奉さえ向けられないならそれで良い。

 次の者が入ってくると、そこには見知った顔がいて、おやと眉を上げる。いつ出会っても可笑しくなかったろうが、振り返ってみれば、終ぞ今日まで出会う機会がなかった。

 

 小さな子どもを従えて、おずおずと目の前までやって来たのは、かつてミレイユが助け、森まで案内したエルフの親子だった。

 名前もその時聞いた筈で、確か――。

 

「リネィア、だったか……。すまないな、すっかり忘れてしまっていた」

「いえ、とんでもない! こちらこそ、ご挨拶に伺うべきでしたところを、失礼しました。里の屋敷にはみだりに近付けませんので、これも良い機会と思いまして……。場にそぐわないと思いつつ、一言お礼をと……」

「あぁ、そうだったか。礼などいい、と言いたいところだが……。そうだな、お前の感謝の気持ちを受け取ろう」

 

 リネィアは嬉しそうに頷き、そして膝の辺りを抱きしめて離そうとしない娘を前に出そうとする。しかし、背後に隠れて頑なに顔を出そうとしないので、リネィアはほとほと参ってしまっていた。

 

「どうやらあの時、相当怯えさせてしまったようだな。……無理もないが」

「いえ、そんな! ほんとにもぅ、この子ったら……」

「無理して顔を出させるのも忍びない。名前は、何だったか……」

「リレーネと申します、ミレイユ様」

「あぁ、リレーネ。お前達が無事で良かった。……またな」

 

 ミレイユが小さく手を振ると、それで足の後ろから顔を半分だけ出して見つめて来た。小さな手をズボンから離して、ぎこちなく横に振る。

 

「……ばいばい」

「そんな言い方がありますか。ほんとうにもう……!」

「いいんだ。幼子なんて、そんなものだろう」

 

 ミレイユが微笑ましいものを見る様に言うと、リネィアは恐縮し切って頭を下げた。それからしつこいくらい頭を下げつつ、リレーネを伴って去っていく。

 

 その二人の背中を見つめ、思いがけない嬉しい再会を思いながら息を吐く。

 まだまだ長蛇の列は終わりそうに見えない。だがとにかく、今は目の前の人の列を捌く事にだけ集中しよう、と心に決めた。

 今まで縋るものを持てなかった彼らに、本来は受け取るべき感情を受け流しているのだ。それを疚しいと思うなら、せめて別のそれを受け取るしかなかった。

 



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待望 その1

 結局、その日一日で長蛇の列を捌き切れなかった。

 座っているだけでも疲れるものだし、途中で食事など休憩も取らねばならない。話し掛けられれば、つい反応して幾らか言葉を交わすこともあり、順調に消化とはいかなかったのだ。

 

 ミレイユとしては、最低でも戦士は全員強化対象と見ていたし、それは誰もが望むところだった。だから、そういう者から優先して調整したいと思っていたのだが、同時にミレイユと対面したい者も多い。

 

 感謝を一言申し上げたい、という者は存外多く、ただ手を握られるチャンスだと、それを目当てに来る者もいた。老若男女問わず、そういう動機で来る者は多かった。

 信奉を歪めた結果なのかは分からないが、それでガス抜きの様な作用が見込めるなら、ミレイユとしても応じない訳にはいかない。

 

 結局、テオの洗脳一つで任せるより有効な手段なので、少しでも危機回避するつもりがあるのなら、彼らにも応じなければならなかった。

 何しろ、こちらは待つ事しか出来ない身だ。時間ならば、たっぷりとあった。

 

 だから三日も掛けて終わらせたのだが、その間にも全く動きは無い。デルン王国は元より神々の動きまで、見えるもの、感じられるもの、何一つ無かった。

 

 何かしたいと思っても、ルヴァイルが好機と思わない限り、こちらからも動き出せない。

 時折、連絡要員としてやって来るナトリアに催促したところで、返答はいつも変わらなかった。

 

 出会う前から信用を失墜したくないルヴァイルとしても、単に返答を濁すだけでは逆効果だと理解している筈だ。

 それでも同じ返答を繰り返すといるのだから、そうせざるを得ない、という事なのだろう。

 

 だが、神々の動向など分からないミレイユからすると、単に焦らしている様にも感じられてしまう。待たされれば、それだけ神々の罠が完成を見る事にもなる。

 それを考えるだけでも、焦燥が胸を締め付ける様な気がした。

 

 ただ待つ事だけ、というのは辛い。忍耐と言っても、限度というものがある。

 

 二ヶ月程経って尚、何の変化もないまま時間が過ぎた。時折ユミルが勝手に森を抜けだす様な事はあるが、都市の様子を伝えてきたり錬金素材を購入して来たりするので、頭ごなしに叱るのも難しい。

 

 森の中でも素材を育成していたりするのだが、植生の問題で手に入らない物も多い。

 そうした不足を補う役割もあるし、効果の高い水薬を作る手助けにもなる。これからの事を考えると、水薬は幾つあっても足りないだろうから、むしろ有難い事だった。

 

 そして今、ミレイユは定例報告となっていたナトリアの到着を、邸宅の談話室で待っていた。

 

 邸宅では常に結界を張っているが、これは実際的な意味合いの他に、外から誰も来ていない、という証拠になると期待してのものだ。だが、果たして転移陣という抜け穴が、神々にも盲点たり得るものだろうか。

 

 当初は名案に思えたが、考える時間が多くなる度、月日が重なる度、ただ不安ばかりが増していった。

 何が正しいか、何が狙いで足元を掬われるのか、それが分からないから不安ばかりが募る。

 

 邸宅の地下から僅かな揺れを感じて、ミレイユはいつもの様にナトリアがやって来たのだと自室で知った。彼女が味方であるという認識は無いので、そうとなれば常に緊張した空気が流れる。

 

 ナトリアの到着と同時にアヴェリンとユミルが地下へと赴き、そして二人に前後を挟まれて食卓のあるダイニングへ通されるのが、いつもの流れだった。

 

 ここで何を聞いても梨の礫で、今しばらく待つよう申告されて終わりなのだが、今日の所は勝手が違った。

 

「ルヴァイル様のご用意が整いましたので、お知らせ致します。明日、そちらのご都合が宜しければ、日暮れより前に供を連れて(おとな)いたい、と申し付かって参りました」

「無論、構わない。随分待たせてくれたんだ、都合なんてとっくに付いてる」

「畏まりました。では、返答はその様に」

 

 ナトリアが立ち上がって一礼する。

 茶の一杯も出さず、そして義務的やり取りで全てが終わる。ナトリアが来た時同様、二人に挟まれて立ち去って行くのを、ミレイユは無言で見送った。

 

 アヴェリンとユミルが、連れ立って地下まで送っていくのには理由がある。目を離した隙に罠を仕掛けられても困るからだが、それ以前に、何をするか分からないのが神というもの、という理由があった。

 

 その意図も含めて、分からないこと、読み切れないことが多い。

 特にミレイユの昇神が目的だと、そう思わされていた事が問題で、想定と大きく異なる事も多い。

 

 事前にオミカゲ様から教えられていた情報は、ミレイユへ伝わる事を前提に欺瞞情報を握らされていたと考えるべきだった。

 今となっては、聞いていた情報のどこからどこまで信じて良いのか、それすら確信が持てない。

 

 事前にそれだけの手を打っておく者が相手となれば、警戒しておいて、し過ぎるという事もないだろう。

 

 ――何を信じるか、それは自分で決めるしか無いにしろ……。

 地下室の方向を睨む様にして見つめていたところで、傍で待機していたルチアが声を掛けて来た。

 

「それで、どうします? 予め、こちらから罠を仕掛けておく、って事で良いんですよね?」

「初手から裏切りは無い、と考えているが、備えておく事は必要だしな。ルヴァイルからしても、この密談は誰に知られてもならないだろうし、だからこそ、その調整に多大な時間を掛けていた」

「ルヴァイルにそのつもりでなくとも、嗅ぎ付けた何者かが転移陣を利用するかもしれませんね?」

「その可能性を、排除できないからこその備えだ。いざとなれば、邸宅ごと爆破し生き埋めに出来る規模の罠は、張っておきたい」

 

 ミレイユが試すような視線をルチアに送ると、得心した様な頷きが返って来る。

 

「その為の準備なら、既に完了しています。あとは、ミレイさんにも手伝って貰えれば万全ですね。ただ、神すら滅する攻撃は不可能ですし、最大限の威力を引き出そうものなら、里ごと吹き飛びかねませんから……。その辺りは、上手く工夫する必要がありそうです」

「地下深くへ突き進む形か、あるいは空に威力を逃すか……。まぁ、その辺りが妥当だろう。使われない事を祈るばかりだが……」

「そうでね……。それもまた、相手次第ですが」

 

 頭の痛い事だ、と互いに苦笑して席を立つ。

 地下から軽い振動が伝わり、ナトリアが出て行った事を察すると、早速罠の準備に取り掛かった。

 

 明日の夕刻まで十分な時間があるし、それまでに完成させれば良いものなので、作業自体は気楽なものだ。

 罠の準備やその威力の調整は、それなりに難事だろうが、これから対面する相手の事を思えば、それより面倒な事などないだろう。

 

 胸中で一人悪態を吐きながらルチアを伴い地下へ赴き、壁にどういう陣を隠し刻むか相談を始めた。

 

 ――

 

 翌日、ミレイユの邸宅は静かな緊張感に包まれていた。

 今日ばかりは早めに仕事を切り上げ、ヴァレネオには誰にも近付けさせないよう良く含めてある。

 

 これまでもミレイユの邸宅に近付こうと思う者は居なかったが、本日ばかりは強く警戒しておいて貰わねばならなかった。

 

 そもそも、この邸宅は天然の要害があって近付くのも簡単ではないし、里長の屋敷を通らなければ訪ねる事もできない。

 そのうえ屋敷にも用事なくして訪ねてはならない、という不文律が出来上がっているので、普段から寄り付く者は皆無だった。

 

 それを知っていても尚、今日は厳戒態勢を努めて欲しい、とヴァレネオには伝えていた。

 それも、外部からは普段と同じ様にしか見えない、という形でだ。難しい事をヴァレネオに頼んでしまったと思うが、普段から訪ねて来る者も少ない邸宅だから、何とかやってくれるだろう。

 

 ミレイユは談話室で他の皆と寛ぎながら、窓の外を時折睨む。

 陽は傾きつつあり、窓に差す光も橙色に変じて来ている。日が暮れるより前、という表現は曖昧だが、そろそろ来るという前提で準備を初めて良い頃合いだった。

 

 形の上では客人という事になるのだろうから、せめて茶の用意くらいはしておかねばならないだろう。腹の底に何を隠していようと、同盟関係を築きたいと申し出て来た相手には、相応の歓迎が必要になる。

 

 そうでなくとも、相手は神だ。

 神を迎え入れる作法も、適した饗しなども知らないが、ユミルに聞いた限りでは必要ない、との事だった。彼女の事を思えば、例え正しい作法があろうとも教えてくれないと思うので、それならそれで来賓ぐらいの扱いであれば良い。

 

 ルチアに茶の準備をして貰おうと思ったところで、地下から振動が伝わって来た。

 互いに目配せして、クッションに埋めていた身体を持ち上げる。ユミルもまた同様に、大義そうに首を巡らせて立ち上がった。

 

「とうとう来たって感じよね」

「……あぁ、待ち詫びたよ。これで取り返しが付かないような事態になったら、容赦しないなんて言葉が生易しく思える攻撃をくれてやる」

 

 不機嫌そうに鼻を鳴らし、アヴェリンとユミルを地下へ行くよう指示した。

 

「アタシも色々想定してみたものだけど、どうすれば良いかなんて、今更考えても仕方ないしね。順番は先にアタシを譲りなさいよ。アンタの後じゃ、やるコト無くなりそうだから」

「いいから行くぞ。曲りなりにも、神を迎え入れようというのだ。ここで揉める様な馬鹿な真似をしたくない」

 

 アヴェリンがせっつくように、ユミルの肩を押した。

 誰にも同じ事が言えるものの、やはり彼女にも緊張の度合いが色濃く表れている。この先、正念場など幾つでもあるだろうが、その最初がここ、というのは全員一致の見解だ。

 

 だからユミルもここで茶化す様な真似はせず、素直に従って地下へ降りて行く。

 

 ルチアには予定通り茶の用意をして貰って、ミレイユはいつもの食卓で、いつもの席に座って待つ。今回ばかりはある程度気を配って、作られたばかりの白いクロスを掛けてあるし、中央には花も生けてある。

 

 椅子にしても上座の対面となる場所に、ミレイユと同等に豪華な椅子を用意した。

 本来なら明らかに格上の相手に対し、その饗しにも相応の格を用意すべきなのだろうが、対等の立場で接する、と見せる必要もある。

 

 ミレイユの事を、駒の一つとして動かそうと思っていないのは、こうして自ら敵地へ足を運ぶ事からも察せられる。だが、それでこちらが譲ったと思われても困るのだ。

 

 これはあくまで対等な関係の、互いに利をもたらす同盟だと、印象付けなければならない。

 最初から(へりくだ)った態度を取るつもりも、譲るつもりもなかった。

 

 改めて決意を胸に秘めていると、アヴェリン達が食堂にやって来た。流石に座ったままでいる訳にはいかず、ミレイユも立ち上がって迎え入れる。

 

 いつもの様にユミルとの間に挟まれやって来て、ルヴァイルらしき者のみならず、見知らぬ誰かも随伴員として付いて来ている。予め、来訪時に共を連れて来る、と知らされていたので、それは構わない。

 

 だが、てっきり神使であるナトリアが、その随伴員だと思っていたので面食らってしまった。彼女より有能な、あるいはより戦闘に長けている神使が、いま共に来た随伴員なのかもしれない。

 

 アヴェリンのすぐ後ろを歩いているのがルヴァイルだろう。以前、ユミルから聞いた特徴と一致している。

 銀の髪は背中に届くほど長く、頭に被った宝冠は両端に角があり、それが上向きにそそり立っていた。

 

 白いヴェールを重ねたような服装に華美さは無いが、代わりに首飾りや腕輪、足輪など、至るところに装飾品が輝いている。

 神として相応しい格好なのかミレイユには分からないが、これが気高い姿形なのだと言われると、納得してしまいそうな迫力があった。

 

 だがそうすると、後ろについて来ている女性の格好もまた、ルヴァイルに負けず劣らず見事なものに見える。薄い青のヴェールを重ね、宝冠ほど華美ではないが、気品のあるサークレットを身に着け、そして両腕に装飾品がある。

 

 ルヴァイルがヴェールを上から垂れ流しているだけに対して、こちらの女性は腰元で宝石を連ねたベルトを締めていた。そのせいで身体のラインが強調して見えてしまっている。

 

 随伴員にも正装をさせて来た、と言われれば納得してしまいそうになるが、互いに着ている物のが似すぎているだけでなく、格調も同じに見えた。

 まるで同格と言わんばかりの格好で、それだけ、この随伴員を高く買っている、という表れなのかもしれない。

 

 ルヴァイルと対象的に、金の髪で短髪。そして、健康的に焼けた小麦色の肌と、とこまでも対称的だった。

 ルヴァイルがおっとりとしてそうな外見に対して、勝ち気そうな目をして、挑むような雰囲気を発していた。この状況を楽しんでいそうですらあり、緊張感とは無縁だった。

 

 ミレイユ達が緊張感を持って迎え入れた事が、まるで馬鹿に見えるかのような気楽さだ。

 興味深そうにミレイユとその周辺、調度品などに目をやり、次に自分が座る位置に対して、疑問を感じるように首を捻る。

 

 案内は済んだ、とアヴェリンがさっとミレイユの傍に立ち、そしてユミルも逆側となる場所に立った。ルヴァイル達とは互いに机を挟んで立つ格好になって、そこへルチアが帰って来る。

 

 テーブルの上にカップが置かれ、それぞれの席の前に並べられていく。給仕も済むと、ルチアもミレイユの傍に立つ。

 互いに無言なまま視線を交わされ、元より高かった緊張感が、更に圧力を増して場に満ちた。

 



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待望 その2

 豪華な椅子と普通の椅子、金髪の女性はその二つを見比べ、それから胡乱げな視線をルヴァイルへ向けた。親しい仲であったとしても、到底神使が神に向ける視線ではない。

 一体、二人はどういう関係なんだ、と問い質そうとするより前に、金髪の方が先に口を開いた。

 

「なぁ、ルヴァイル……。己の事、何て説明した?」

「ともを連れて行く、その様に申し伝えておりましたよ」

 

 あまりにぞんざいな物言い、そして気安く受け取るやり取りを見れば、その正体にも察しが付く。似たような服装をしているのも、それが理由なら納得できるというものだ。

 というより、真っ先に思い付いても良かっただろう。

 

 ルヴァイルが言う『とも』とは、友であって供ではない。

 随伴員ではなく、友人を連れて行く、と言っていたのだ。

 

 だが、これはミレイユが勘違いしただけとはならない。状況を踏まえて考えれば、神が連れて来る『とも』という単語からは、まず友人とは思い至らないものだ。

 伝言を頼まれたナトリアでさえ、この言葉には騙された一人ではないか、という気がした。

 

 ミレイユが苦い顔を見せてしまったのと同様、ユミルもまた苦り切った顔で鼻の頭に皺を寄せていた。

 

「何で神って奴は、そう要らぬ事をせずにいられないのかしらね? 他にも神が付いて来るなんて、こっちはまる……っきり、想定していないのよ」

「当然、何の用意だってしていない。だがまぁ、それが気に食わないというなら……」

 

 ミレイユが制御を完了させて、椅子を一つ召喚する。いつも何かと喚び出す椅子で、その座り心地は気に入っているが、その所為でこの場の誰より立派な椅子になってしまっている。

 金髪はそれを大層気に入り、粗末な椅子を外へ追いやって、早々に自分のものにしてしまった。

 

「助かる。いや、便利だな、お前は。それだけ多芸だと羨ましくなる」

「……皮肉のつもりか?」

「何でだよ。褒めてるだろ」

 

 ハン、と鼻で笑って、座り心地を確かめ、そして手摺り部分を撫で回し始める。

 ルヴァイルは嗜めるような視線を送ったが、それ以上何も言わず、ミレイユへと目礼して着席した。二柱が座ったとなれば、こちらも立ちっぱなしという訳にはいかない。

 

 ミレイユが最初に腰を下ろすと、それぞれが続いて着席する。

 誰もが剣呑な視線を二柱に向けていて、そして二柱はそれを悠然と受け流し、紅茶の入ったカップに手を付けた。

 

 気負いらしきものも見せず、実に自然な動きだったが、紅茶の味はお気に召さなかったらしい。僅かに眉根を寄せて、それからカップをテーブルに置く。

 

 説明も、自己紹介の必要も、彼女らは感じていないかのような振る舞いだった。

 初手から後塵を拝する様な形になってしまったが、向こうから話し掛けて来る様子はない。

 だが、何も言う気がないのなら、こちらから問うまでだ。

 二柱の様子を(つぶさ)に観察しつつ、ミレイユから口火を切った。

 

「……随分と、大それた真似をしてくれたな。これは不意打ちに等しい行為だ。私は、お前が信頼関係を築きたいのだと思っていたんだがな」

「それは間違いない。こいつはそれを願ってるよ」

「まず誰だ、お前は。この会談に混ざりたいなら許可を得ろ。そして先に、名を名乗れ」

 

 金髪は虚を突かれた様な顔をして、ミレイユの顔をまじまじと見つめ――それから大きく口を開けて笑った。隣のルヴァイルの肩を無遠慮に叩き、目尻を指で拭っている。

 

「あーはっはっは! おい、聞いたかルヴァイル。己の名前を知らんとよ! 神に名乗らせる豪胆不敵さ! くっくっく……ミレイユに、こんな一面があるとは知らなかった!」

「貴女はそもそも、彼女に言うほど興味など無かったでしょう。さも知っているような言い方は、止した方がよろしいでしょうね」

「……こいつらに聞いていたんじゃ埒が明かない。ユミル、ルヴァイルと縁深い神なんているのか?」

 

 当然、ユミルならば即座に回答してくれるだろうと期待していたのだが、首を横に振って腕を組んだ。

 

「ルヴァイルってのは、まず表に出ないからね。何してるかも、何をされるかも知らない影の薄い神って印象で、誰と敵対的でも友好的でもない。だから、親しそうってだけじゃ判別できないんだけど……」

 

 そう言って一度言葉を区切り、金髪の顔を顰めた顔をで見つめてから、改めて口に出す。

 

「まぁ……、姿から察するに、インギェムじゃないかと思うのよ。アタシも本性が、こんな性格してるだなんて知らなかったけど」

「そうとも、自己紹介は必要なさそうだね。……ま、己は大神の中じゃ一番()()。気楽にしてくれて構わないよ」

「若い? だから何だと……。それに、インギェム……? 繋属と双々のインギェムか? ――敵じゃないか」

 

 ミレイユがそう言った途端、アヴェリンが椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がり、武器を取って立ち上がった。ルチアが同時に制御を開始して、即座に防壁を張って攻撃に備える。

 ミレイユとユミルは二人と違って動きを見せず、目の前の二柱が見せる反応を伺っていた。特にユミルは顰めっ面を更に歪めて、つまらなそうに腕を組んでいる。

 

「落ち着け、二人とも。攻撃するつもりなら、椅子に着く前に開始してる。油断を誘うというなら、敢えてこの場である必要もない。元よりそのつもりなら、神にはそれが容易く出来る」

「いや、ご明察だね。神人最高傑作は、伊達じゃないってか。それに加え冷静。……ルヴァイルが気に入る訳だ」

 

 インギェムは嬉しそうに笑み、それからルヴァイルへと顔を向けた。

 ミレイユが座る様に手を動かすと、アヴェリンとルチアは渋々と武器と魔術を収めて座る。それでも完全に武装を解除したりしない。隙あらば――あるいは攻撃して来そうな動きがあれば、いつでも殴り掛かろうという意志が伺える。

 

 インギェムは、それすら楽しそうに見つめて、不敬を詰るような言動を見せなかった。

 だが、アヴェリンの行動は、決して過剰な反応ではない。敵意を見せていない、その素振りも見えないからといって、何の企みもないとは考えられないのだ。

 

 相手は神であり、強い戦士や魔術士と同じ様に見て良い存在ではない。

 神々には、その存在故に許される権能というものがある。魔術でも、武技でも到達できない異質な能力。その使い方次第で、戦局など、どうとでも転がってしまう。

 

 特にインギェムと言えば、ミレイユに『箱庭』を下賜した神だ。

 その箱庭にはGPSの様な役割があって、ミレイユの位置を特定する座標と追跡する為に用意された。それを作った張本人が目の前にいて、冷静になれる筈もない。

 

 ――そして、ルヴァイルが()の神を連れて来た。

 その意味は大きい。

 ミレイユは拳を握り締め、自制しろと自分に言い聞かせながら、言葉を投げかける。

 

「一応、何故だ、と聞いておこうか。私がインギェムに敵意無しとは思っていないだろう? 得意の未来予知モドキで知っていたからか? 大事にはならないと確信があったから、そいつを連れて来たと? 冷静にそこまで計算出来るなら、確かにインギェムは敵ではない、と見る事は出来るがな……」

「何の保障もないでしょ、そんなコト」

 

 ユミルが吐き捨てるように言うと、インギェムは皮肉げな笑みを浮かべながら言った。

 

「そもそも、敵だった瞬間なんて無いんだがね。ルヴァイルと一緒さ。他の神々に、それと分からないよう従順さを見せつつ、裏切る機会を虎視眈々と狙ってた」

「お前もか。……だが、自己申告だけで信じてやれるほど、私はお人好しじゃない」

 

 そもそも裏切るつもりのある奴は、自分の旗色が危うくなれば、また裏切る。あるいは仲間を売り渡したりと、保身に走るものだ。

 神の口から出た言の葉だから真実とは限らないし、約束を守ると確約されるものでもない。

 

 それはルヴァイルも、そしてインギェムとて百も承知だろう。

 出来るというなら、その証拠を提示されるまで信じる訳にはいかなかった。

 

「証拠ならあるさ。そもそも、箱庭の役割は知ってるだろう?」

「言われるまでもない」

「じゃあ、何でそんなの用意したかっていうと、神々がお前の位置を常に把握しておきたかったからだ。本来はその為に強力な武具を下賜したのに、見向きもしなかったのはお前だ。だから、別の物を用意する必要が出て来た」

「あぁ、やっぱりそういう目的だったか」

 

 だが、ミレイユは単にデザインが気に食わない、というだけで、それら武具を倉庫の肥やしにした。余程便利で強い武具と分かってたが、それらに頼らねばならない程、追い詰められてはいなかった。

 

 自らが用意した武具では太刀打ちできない、となれば使う事も視野に入れたのだろうが、結果は見ての通りだ。

 何より、能力面が優秀だからと、それだけで採用する程、ミレイユは美的感覚を捨てていなかった。

 

「まぁだから、色々な敵を相手に戦って貰ったんだけどさ、お前は頼りにするより早く成長するもんだから、やっぱりお役御免になった。じゃあ、機能面で優れたものなら持ち歩くだろう、って事で、己に白羽の矢が立った」

「あぁ、確かにあれは便利だったな。手放し難くなるには、十分な機能を持っていた」

 

 その点については、策略どおり手の内に嵌った。

 押して駄目なら、という着眼点だったのだろうし、そして見事に絡め取られた訳だ。

 それを証拠というつもりなら、話は早々に終わらせて、その首を切り落としてやろうと思ったのだが、それより前にルヴァイルが口を挟んだ。

 

「『飛行術』の魔術書と共に、穴の存在を知らせたでしょう? それも加味して貰えませんか」

「あの醜悪な覗き穴の事か? 何をしているか、何をするつもりなのか、そこから見るんだか聞いていたんだかに利用していた訳じゃないか。それで教えるメッセージだった、と言われてもな……」

「間違いではありませんが、そう低俗なものではありませんよ。それに、あの穴は外から内側を見る事は出来ませんしね。発見しただけでは意味が分からず、結局捨て置く事になります」

「じゃあ、どういう意図があったんだ。見つけたところで意味不明、理解不能で終わるなら、意味なんて無いだろう」

 

 かつて、ユミルがそうだった。

 状況が状況だけに、即座に降下する必要があったし、冷静に分析できる状況でもなかったのは確かだ。だが仮に、何の目的も無く飛ばされたとはいえ、やはり穴がある発見より、まず着地の心配をする。

 

 命の危機にあるのだから、謎の穴より優先するのは当然で、そして或いは、あった事すら記憶の端へ追いやられるかもしれない。

 

 だが、同時にそれを敢えてこの場で説明するというのなら、意味が全く無いという事も有り得なかった。意味はあるのだ。それを教えるだけの意味が。

 

 天井に作られた穴。

 外からは分からないもの。

 教える為の魔術書。

 

 全く意味不明だが、意図があるというなら、それそのものが答え、という気がした。

 

「――つまり、そこに穴があると見せる事、それこそが意図であり意味だった、と言いたいのか?」

「おーっ、おーっ! ほっほっほ!」

 

 珍妙な声を上げ、インギェムは興奮気味に顔を輝かせながら、手を叩いて賞賛した。

 

「おいおい、凄いじゃないか! 何で分かった!?」

「何でも何もあるか。それぐらいしか可能性が無いからだ。さっぱり意味が分からないのは、さて置いてな」

「あぁ、それは仕方ない。ここで説明して、初めて意味が生まれるからだ。そこに確かに穴があったと、そう記憶している事が大事なんだ」

 

 そうだろう、とインギェムがルヴァイルへ顔を向けると、複雑な顔をして首肯した。

 その表情の意味が分からず、ミレイユはとりあえず続く言葉を待った。

 



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待望 その3

「ミレイユ、お前は己が敵じゃない証明が欲しいんだろ? 己の神格と神徳を言ってみろよ」

()()()()……。だが、これだけじゃあ何の事だか、サッパリ分からん。お前のそれが、天井に穴を作った、と言いたいのか? だから何だ」

「何だと言われてもな……。つまり、一つ所に繋ぐ事を強要する訳だ。そして、一つを双子の様に増やしてやれる。そういう事でもあるんだな」

 

 その様に解説されても、やはりミレイユにはピンと来ない。

 眉間に皺を寄せ、詳しい解説を要求しようとしたが、それより前にユミルが口を開く。

 

「多分だけど、どこぞの大神が作ってた孔を、コピーしたと言いたいのかしらね。そしてそれを、箱庭に繋いだ……。そういうコト?」

「あぁ……? まぁ、正確じゃあないが、大体そういう事だ」

「だが、それがどうして敵意無しという証拠になる? ――いや、待て。孔のコピー? 天井にあるのは覗き穴だった筈じゃないのか? 孔のコピーというなら、どうして魔物が出て来なかったんだ?」

 

 覗き穴、と言ったのはあくまで例え話で、本当に目を当てて覗き込んでいた訳ではあるまい。しかし、時間と空間を飛び越えて、ミレイユ達の動向を察知するのに使っていた、というのは今までの会話からも確証を得られた。

 

 かつて神宮へ侵入した幻術士エルゲルンから、箱庭を使って察知していた、という話を聞いている。だから、その事実を追認されただけ、と思ったのだが、どうもそれだけという事でもないらしい。事実と異なる何かを示唆され、思考が乱れる。

 

 そもそも孔という存在が曖昧なもので、実際にどういうものか理解していないのもあるが、単にデイアートと地球を繋げるトンネル、というものでもないだろう。

 そこに事実の齟齬があり、だから理解出来ないのかもしれない。

 

 インギェムは一度難しそうな顔をして腕を組み、それから天井を見つめて、助けを求めるようにルヴァイルへと顔を向けた。

 顔を向けられた当の彼女は息を一つ吐いて、インギェムに変わって解説を始める。

 

「自分の事なのに、自分で説明できないとはどういうことですか。……別に不思議ではないでしょう。孔が幾つも作られていたのは承知している筈。その内一つをコピーしていた、という話であって、魔物が送られるのに使われていた孔をコピーしていたものではなく……」

「あくまで魔物が湧き出る孔とは別ものだと、そういう事か……」

「そうです。求められていた用途が別物ですし」

「あぁ、大前提の思惑として、気付かれない事に意味がある。魔物がボトボト落ちてくるなら、そもそもの役目を果たせない。……覗く以前の問題か」

 

 ミレイユが考察から私見を述べると、できの良い生徒を褒めるような視線を向けて頷く。

 

「えぇ。インギェムは求められたから、それを作ったに過ぎませんが、妾の意志をしっかりと汲んでくれています。繋属……一つ所に強制的な繋がりを作る、とはつまり、こちらからその穴へ繋げる事も出来るという意味です」

「それは、まさか……!」

 

 ミレイユは思わず身を乗り出しそうになり、慌てて動きを止めた。

 それから、そろりとした動きで背もたれに身体を戻す。冷静さを取り戻す為に、一度深呼吸をしてからルヴァイルを見つめた。

 

 どうやって現世に戻るのか、それは大きな課題だった。

 ルヴァイルから協力を匂わせる接触があった時、これを利用すれば現世へ帰る手段も得られるのでは、と期待を抱いたのは確かだ。

 

 だが、初めから要望を伝えれば足元を見られる。こちらから要望を出す前に、それを提示して来たのは有り難い。

 そうとなれば、とミレイユはやや顔を険しくさせる。

 

 やはり、ミレイユの望みや目的など、既に知られていると思った方が良いだろう。

 交渉の段階で有利に立つのは理想だったが、それは難しくなったと思うべきだった。

 

「……なるほど。そちらがやる気になれば、その穴へ……引いては現世に置かれた箱庭へ、帰る事が出来るという事か」

「実際の工程は複雑ですが、結果だけで言えばそうなります。あの世界へ帰る手段を、提供できるのはインギェムだけ。なればこそ、敵では無いと納得して貰えると思いますが」

 

 自信満々でそう言われてしまえば、思わず納得してしまいそうになるが、それは間違いだと知っている。唯一無二の手段の様な口振りは、自らを売り込む手口なのだと分かるものの、本当に唯一無二ではないと、ミレイユ達は理解していた。

 ミレイユがそれを指摘するより前に、ユミルが攻撃的な眼差しで口を開く。

 

「それは可笑しいじゃない。一度は『遺物』を使って帰還したのよ。同じ事をもう一度すれば良いだけだわ。その手段が存在している以上、アンタたちに頼らねばならない理由にはならない」

「それもまた可能な方法ではあるものの、やめた方が良いでしょうね」

「あら、何故? 自分達の存在理由がなくなるから?」

「いいえ、確実性に欠けるからです」

 

 それだけでは具体性に欠け、説得力も皆無だった。

 ユミルも攻撃的な視線に疑念の眼差しを加え、考慮に値しないと、切って捨てようとする。だが、それより前にルヴァイルがその具体性を提示してきた。

 

「『遺物』は確かに万能性を秘めていますが、完全無欠な存在でもありません。間違いなく、齟齬無く望む結果を得られるかは、賭けになるでしょう」

「そうかしら? 一度やれたならやれるでしょう。それとも、正確な年月日でも必要なのかしらね。だったら、アタシは記憶してるから問題ないってコトになるけど」

 

 ユミルはしてやったり、と口の端を曲げたが、ルヴァイルの余裕は崩れない。表情を一切変えないまま言葉を続けた。

 

「『遺物』はその万能性を持って、世界が――宇宙が繰り返し複数作られた事を認知しています。貴女が帰りたいと願う宇宙は、果たしてどの宇宙でしょうか? 数字が割り振られているような分かり易いものでもないのに、正確に指定できなければ、確実に望む場所へ帰られる保障もありません」

 

 ユミルは元より、ミレイユもその指摘に息が詰まった。

 多元宇宙論――そんなものが本当にあるとして、最新の宇宙だと言って、果たして伝わるものだろうか。そもそも管理されているものでもなく、『遺物』が認知しているからと、一言で理解し反応してくれるものだろうか。

 

 それは分からない。

 宇宙にしろ、時間にしろ、ミレイユが出来る理解の遥か外だ。理屈や理論など知らないが、そういうものだと言われたら、そうと納得するしかない。

 だが同時に、煙に巻くには丁度良い言い訳とも取れる。

 

 自らを売り込むのに、そして成果を餌にするには、他を利用されては困る。

 その欺瞞として用意したのなら、実に有益だと言わねばならなかった。

 ユミルも同じ考えでいたようで、同じような指摘をする。

 

「なるほど? 繰り返し過去へ飛び、その度に宇宙が作られ、その所為で複数の平行世界が作られたと。望む世界に飛べるかは運? だったらインギェムが繋ぐコトだって同じでしょ。どちらを使おうが変わらない」

「いいえ、インギェムは別の世界を認知していませんから。その様な万能性を持っていないので、繋ぐ世界は常に一つにしかありません。貴女方が別宇宙や別世界と聞いても理解できないように、インギェムにも理解できていないし、そして認知も出来ていない。この認知、というのが大事なのです」

「つまり無色透明なビー玉を複数並べるようなものか。仮に合っても目に見えず、そして色付きの物が一つだけあるのなら、それしか目に付かない、というような……」

 

 ミレイユが持論を述べてみると、ルヴァイルは華やぐ様な笑みで首肯した。

 

「まさしく、仰るとおり。インギェムにはその色付きしか見えていないので、他と間違えようがありません。そして、認知できていないが故、繋げようがありません」

「ふぅん? まぁ、何言われようと確認する手段も方法もない。だから信じるしかないワケだし、その理論については納得してあげても良いけどさぁ……」

 

 ユミルは攻撃的な視線を止めないまま、更なる指摘をしながら指を向けた。

 

「それを理由に、アタシ達を騙してないって、どう証明するのよ? 事前に天井へ穴を作っていたコトだって同じよ。それを持って、だから味方だと言うには杜撰(ずさん)すぎるわ。アタシ達が安心できる材料、何一つ無いじゃないの」

「誰が味方だって言ったよ。敵意なんて無いって言ったんだ。積極的に敵に回る理由が、こっちにだってない。他の神々がどういう思惑であろうとな。だが、協力関係なら築けるだろ?」

 

 悪びれずに言ったインギェムは、それから尊大に腕を組んだ。

 実に神らしい考え方と振る舞いで、ミレイユとしてはそちらの方が納得できる。だがやはり、それでは協力関係を結びたい意図を理解出来なかった。

 敵ではない、という言葉が事実だろうと、それ一つで安心できる――ミレイユ達を納得させる理由になっていない。

 

 その安心できる材料を提示しろ、という話をしていたのに、インギェムはそれを正面から斬った。

 だが、とも思う。

 

 だが、インギェムの言った事を考えてみると、彼女は神々の計画から漏れている事を意味しないか。

 元より一枚岩ではない事は理解しているし、神々は好き嫌いが激しく、仲違いも多い。だから、この計画の中枢にインギェムがいない事は不思議でもないが、ミレイユの件については、神々にとって一大事業のつもりでいた。

 

 全ての神が協力的で無いのは良いとして、箱庭を下賜して来たインギェムは、その計画に携わる中核メンバーだと思っていたのだ。

 

 そして実際、神々から協力を要精されるまま箱庭を作ったように、全くの無関係ではない。

 だが同時に、反逆を企てているルヴァイルには、積極的な協力をしている様に見える。その話し振りから仲の良さも伺え、だから協力するのも吝かではない、という事なのだろうか。

 

 ――だが、仮に。

 インギェムに敵意なしと判断したとしても、そもそもの発端であり主軸はルヴァイルの方だった。この神がどういう意図であるのか、それを見極める方が余程大事だ。

 

 探り一つ入れて分かる事でもないだろうが、しかし聞かない訳にもいかない。

 ミレイユはインギェムへと向けていた視線をルヴァイルへと移し、詰問するように問う。

 

「インギェムに敵意があったかどうか、それは今更どうでも良い。必要なのは、私に現世へ帰る道を示す事。そして味方であると信じさせ、反故にしないと確約する事だ」

「どちらも出来るとは思えないわね。口だけの証明に意味なんてある?」

 

 ユミルが辛辣に吐き捨て、出来る筈がないと断言する。

 だが、それを一蹴するかのような発言が、ルヴァイルの口から飛び出した。

 

「では、妾と貴女の間に繋属を結びましょう」

 



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待望 その4

「何だって……?」

 

 思わず聞き返したミレイユに、ルヴァイルはニコリと微笑む。

 

「口だけでは証明できない、それ故、信用も信頼も出来ない。貴女の言い分としては尤もでしょう」

「それより前に、もっと怒れよ。神に対して向ける言い分じゃないだろが」

 

 隣からインギェムの呆れた様な視線を向けて、それから疑念の表情でルヴァイルを見る。

 

「聞きたいんだが、己を連れて来たのは、それが理由か? 単に箱庭の解説や、あっちへ繋げてやれる事を説明させる為じゃなかったのか」

「えぇ、それがまず一つ。間違いなく、その為に来て貰ったものです」

「――言っておくが」

 

 ミレイユは視線を鋭く細めた上で、腕組したまま指を向ける。

 

「私はそれを、許した覚えはないからな。不意打ちに等しい、と言ったのを覚えているか? 余りに軽率な行動だ。それで信用を失うとは考えなかったのか?」

「――なかった、んでしょうね。先読み故の弊害かしらね? 許されるんだか、あるいは最終的に和解出来るのなら、最効率の手段を選んだ、とかそういう話でしょ」

 

 言葉を窮すように口を閉じたルヴァイルに代わって、ユミルが代弁するかのように指摘する。それでも反論らしいものを口にしないのは、図星だからと見て良いのか。

 

 ユミルの言うとおり、最短距離、最高効率を目指した故なのだとしたら、一定の理解はは出来る。

 その傲慢さは鼻に付き、早くも嫌気がさして来たが、ルヴァイルの表情を読み解いてみると、どうやら違う様にも思えてくる。

 

 ルヴァイルの顔は途方に暮れたように見えた。

 目指すべき方向を見失っているような、足元しか見えない暗闇を手探りで進んでいるような、そんな危うさが見える。それが何とも不思議に思えた。

 

 ルヴァイルは迷い迷いして、意を決した様に顔を上げる。

 その瞳は決然としているものの、抗いがたい恐怖と葛藤しているかのようだった。

 

「本日は、何一つ隠し立てせず、全てを(つまび)らかにすると決めていました。だからこそ、一人で来なかったとも言えるのですが……、これは私にとっても未知数の事なのです」

「未知……、どういう事だ?」

「そのまま、言葉通りの意味です。幾度と繰り返してきた時の中で、この様に対面した経験などない。ようやく、妾達は唯一の正解を引き当てたかもしれない。いま立っているのは、そのような場。これまでの経験から類推する事は出来ても、多くが私の予想や理解を越えた展開になるだろうと思っています」

 

 気になる単語は幾つもあったが、それを口に出すより早く、ユミルが攻撃的に言い放った。

 

「妾達……? アンタの、の間違いでしょ。こちらが好きで繰り返して来たとでも思うの? いつだって、その繰り返しを止める為に動いていた筈じゃないの。それを長引かせていたのはアンタだわ」

「それは違う。貴女方が最も求めるのは、円満な形で終わらせる事でしょう? 何一つ、誰一人犠牲になる事なく、解決へ導く事を求めている。妾にとっても同じ事。最も円満な形で終わらせたい。それが出来るミレイユというのは、実に少ない……」

「だから、その選り好みした結果が今なんでしょ? アタシたちが求めているものと、アンタが求めるものが、同一の物だと思ってるんじゃないわよ」

 

 一言交わす度、二人の間にある温度が下がっていく様な気がした。

 ユミルの怒りは、その当たりを引くまで繰り返されたミレイユ達を思ってのものだ。最適な終わり方というものが、どういうものを指すのか不明だが、そこには間違いなく違いがあるだろう。

 

 神々が――更に言うとルヴァイルが求める先にあるものと、ミレイユが求めるものは、全くの別物だろうという確信がある。

 その一挙両得を狙うから、切り捨てるミレイユが生まれた。

 オミカゲ様がそうであった様に、見事に裏を掻かれ続け敗退し、逃げ延びるしか道がなくなった。

 

 その悲哀や悔恨を知るユミルからすると、その選別は憤らずにはいられない。

 だが同時に、だから今すぐ全てを反故にする事は出来なかった。怒りは正当で、そして飲み込むべきものでもないが、それをいま吐き出す場面ではない。

 

 ミレイユは一度、ユミルを冷静にさせる為、その肩に手を置き首を振る。

 今は黙って聞いていろ、と目で語ると、不満気に顔を顰めて息を吐いた。肩からも力を抜き、背もたれに身を預けると、好きにしろ、とでも言う様に手を向ける。

 

 それでミレイユは、改めてルヴァイルへと向き直った。

 

「まず、聞きたいんだが……。繰り返し行われる私のループ、神々が求めているのは正にこれだな? 私を神にしたいのではなく、時を回す歯車にするのが目的だろう。……だが、何の為に?」

「おいおい、それを一体誰から聞いたんだよ。接触した神はカリューシーだけだろうが、小神が知ってる内容じゃないだろ……」

「そのカリューシーが、私を昇神させるのが目的じゃない、と言った」

「そりゃ……それぐらいなら知ってるが、それだけで目的を見抜いたってのか」

 

 その一言が切っ掛けではあるが、その一言だけで察した訳でもない。

 インギェムは感嘆するように息を吐き、それからここで初めて好意的な笑みをミレイユに向けた。

 

「ははぁ……、ルヴァイルが気に入ったのは、そういう部分もあるのか。――いいじゃないか、どこまで辿り着いた? 答え合わせといこうじゃないか」

「答え合わせも何もない。それ以上の事など知りようがないだろう。敢えて私を繰り返させている事や、その思惑に乗りつつ、ルヴァイルが何を画策しているかなんて、私に知りようがない」

「……ふむ、それもそうか。けど、ループこそが目的だと見抜いた訳だ。何で分かった?」

「繰り返される現象に対し、状況が不可思議だ。過去へ飛ぶ事を決意するに至る、私の思考行動にしてもそうだが、誤認させる情報を渡した上で、過去へと飛ばせていたのが理由かな」

「繰り返す中で、いつかは覆せると思わせるのも重要なんだよな。……さもなくば、滅びる」

 

 またも聞き捨てならない単語が聞こえて、ミレイユは頭痛を堪えるかの様に顔を顰めた。

 一々、会話の流れを止めたくはないが、これは聞いておかねばならないだろう。

 

「滅びる? その滅びとは何だ? それが理由なのか?」

「あぁ、つまり八方塞がりってやつさ。どうしようも失くなった苦肉の策。そして、お前は都合が良い。そういう意味だ」

「全く分からん。何がそういう事だ。分かり易く説明しろ」

 

 インギェムは閉口して、眉間に皺を寄せて目も閉じる。

 既視感のある動きを見守っていると、目を開けたインギェムは助けを求める様に、ルヴァイルへと顔を向けた。

 ルヴァイルは渋い顔を見せて非難する目を向けたが、結局何も言う事なく、その言葉を引き継ぐ。

 

「神人計画についても、色々と知っている事でしょう。その事に、今更説明は入りませんね?」

「どこまでが欺瞞なのか分からない上で、必要かどうかまで分かるものか。ただ、本来の意図としてだけなら、神魂を作る事にこそ意味があるんだろう? そして、その神魂をどうするかまでは……、知った事ではないが」

 

 ルヴァイルは満足そうに頷く。

 

「その理解だけで十分です。神魂は世界の存続の為に使われる。それが最も効率的なやり方だと、そう思われていた」

「いた、ね……。そして世界を存続か? どこまで本当か疑わしい。神々自身の存続にこそ必要だと、ウチの者は推測していたんだが……」

 

 ミレイユが意味深な視線をユミルに向けた後、疑念が強まるばかりの口調を投げ掛ける。

 それに対するルヴァイルの返答は否だった。

 

「それこそ誤解というものです。信仰を求め、願力を確保しようとするのは、確かに神たる存在を確固とする為、自己の存在を高める為です。ですが、それをもって自己利益の為に神魂を求めている、と思われるのは心外ですよ」

「何一つ、神を信じられるものが無かったものでね。……だが、それならどうして、私は昇神させないんだ? 今さっき、インギェムも口を滑らせていただろう。神人の最高傑作……それなら何故、私は素体のまま、昇神させる事すら拒み、繰り返す時の流れに押し込まれた……?」

 

 言葉に出す事で情報が整理され、そしてだからこそ見えて来るものもある。ミレイユは改めてそれを整理する事にした。

 

 ――有能で有力であった筈のミレイユを、使用する事なくループを作る一要素にする。

 

 世界の存続に神魂が必要、というルヴァイルの言い分を信じるのなら、やはりミレイユの神魂は他の誰より有力であった筈だろう。

 

 だが神々は、それを利用しないと決意したのだ。

 昇神させず、捨てる事を選んだ。

 

 ミレイユを時の流れに押し込み、そして繰り返させる事を目的としたのなら――。

 殺すのでもなく、単に捨てるのでもなく、繰り返す時の歯車(パーツ)として利用する事を思い付いたのなら――。

 

 その繰り返しの果てに得られるものこそが、目的となるのだろう。

 あるいは、得る為に繰り返し続けている。

 ルヴァイルが『当たりのミレイユ』と出会うまで、繰り返し続けて来たのと、理屈は同じだ。

 

 神々の全てが賢い訳ではない、それはこれまで話したインギェムからも察する事が出来る。

 しかし、格別に賢い者もいる。一つの手に複数の意味を持たせる策謀家だ。

 

 その神が、果たして本来の使い道とは別にした素体を、単なるパーツ止まりで済ませるものだろうか。そこに別の意味も持たせていたとしたら――。

 

 それこそが答え、という事だろう。

 だが納得いくだけの説得力を持った答えを、ミレイユは導き出せなかった。見つけ出すには情報のパーツが不足している。

 

 何を求めているか分からない限り、到達できない答えとも言えた。

 悔やむような視線を向けて、ルヴァイルを睨み付ける事しか出来なかった。

 

「何か思い付いたような顔ですが……明確な答えまでは出てきませんか。では、答えを言いましょう。――神々は貴女を恐れたのです」

「恐れた……? 神々が、私を……?」

 

 思わず、呆然となった言葉が口から出た。

 それは全く予期していなかった答えだった。ミレイユを利用し、パーツとして使う事で、その先にある何かを得る為に策謀を巡らせていたのだと思っていた。

 

 だが、恐れていた、という事は――。

 単に自ら遠ざける事のみを目指していた、という事になる。

 だが、それでは日本からミレイユを回収した事と矛盾してしまう。

 

 以前にも考えた事のある推測だった。

 目的があるからこそ、手間を掛けてまでミレイユを回収した。捨てるというなら、回収しないだけで解決する問題だ。

 

 思考が堂々巡りしそうになり途方に暮れていると、ルチアが妙な納得を感じさせる声で頷いた。

 

「多分、ループの始まる前と後とで、求める理由が変わったんです。そして、()である現在、ミレイさんは排斥したい。では、()はどうだったか、というと……。これは素直に昇神させるつもりだったと思うんです」

「つまりそれが、繰り返す事の理由になったと言いたいのか? 小神として求めたつもりが、直前になって止めたと? そして止めた結果ループが……ループがそれで何故生まれるんだ」

「そこまでは何とも……。ただ止めた理由は、分かる気がします」

 

 ミレイユにはサッパリ分からない。分からないというより、考えたくもなかった。

 それで答えを促し首を傾けると、ルチアは困った顔をしながら持論を述べ始めた。

 

「汎ゆる困難を跳ね除け、神ならずとも神を討ち果たし、そして信奉すら得る。こんな神が誕生したら、どうなると思います? 神々とて、互いに信仰というシェアを奪い合う商売敵な訳です。一つの突出した人気を持ちかねない神は、きっと邪魔なんじゃないでしょうか」

「そんな理由でか……? だが、大神はいつでも小神を贄と出来る。生まれたばかりの神を、複数で謀殺する事も可能だろう」

 

 小神と大神の戦争は、この世ではありふれたものだ。伝承の中で数多に存在し、人が人と争うように、神もまた争うものだと信じている。

 だから神同士の争いや、仲の悪い神同士が多少派手な喧嘩をしたくらいでは、民達も大きく動じるものではない。

 

 今更それ一つで揺らいだりするほど、大事だとは捉えていないのだ。

 そして、これまで常に大神が勝ちを拾って来た手段を用いて、ミレイユもまた打ち負かして神魂を奪うなりすれば良い。

 そうして欲しいと言いたい訳じゃないが、敢えてリスクを回避する程の事では無く思えた。

 

 ルヴァイルは緩く首を左右へ振り、ルチアへ向けていた視線を外す。それからたっぷりと時間を取って、ミレイユへ困った視線を向けて言った。

 



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待望 その5

「貴女と戦うというのは、それだけのリスクという事です。昇神すれば、やはり素体の時より遥かに強力な存在と成りますし、権能すら得る。それが何かまでは分かりませんが……、神殺しをするに適した権能という予測は捨てきれませんでした。……そしてユミルという、ゲルミルの切り札すら持っている」

「半殺しか、あるいは完全無力化。それをされた上での眷属化をされた日には、勢力バランスがひっくり返る。その事には納得出来るが……、ならば何故、一度は逃したんだ」

「それこそが始まりのミレイユ、貴女に対して誤解していた部分なのです」

 

 言わんとする意味が分からず、ミレイユは首を傾げる。

 だが、始まりの、と言うからには……。

 

「あの時、初めて『遺物』に向き合った時、私が帰還を望む事を考えていなかったと? 見通しが甘すぎないか。本当に思いもよらぬ選択だったと言うのか?」

「そうです。力を得るとはそういう事でしょう? 全能感というのは麻薬に近い。一つ得たから十分とはならない。それが十にも百にも膨れ上がり、また欲するようになる」

 

 言いたい事は、確かに理解できた。

 ミレイユも一つの魔術を得る度、そして戦闘技術を高める度、更なる力を求めたものだ。強くなる事、新術を得られる事は快感だった。本来は長い時間を掛けて体得するもの、簡単に出来る事ではない、と知った時の優越感は抑えがたいものだった。

 

 そして、その様な力さえ、神の前では見劣りする。

 もっと力を、もっと優越感を、その様に考えた時、神へと至る手段があって捨てられるものではないのだろう。

 

 だがミレイユは、力への渇望より、現世の平穏無事で、自堕落な生活こそを求めた。

 その思考は異端に違いなく、だからこそ読み違えたとも言える。

 ルヴァイルはいま麻薬に例えたが、確かに麻薬を覚えた人間が、それを意思の力だけで耐え切る事は難しい。

 

 しかし、ミレイユの場合、己の命と平穏の方が余程魅力的に映った。

 デイアートでの暮らしは、決して忌避するほど嫌いなものではなかったが、常に危険と隣り合わせの生活でもあった。危険があるから力を振るったとも言え、力を保つ事が危険を呼び寄せるのだとも思った。

 

 ミレイユにとって、力を振るう事は至上ではない。

 火の粉を払うではなく、常に火の粉が降り注いで来る環境は、ミレイユにとって魅力的な環境として映らなかったのだ。

 

「あの時点まで、神々は昇神を選ぶと確信に近いものを持っていましたし、そうであるべきという考えだったのです」

「傲慢だな。油断ですらない」

「抗いがたい欲求であると、その時いた神々の総意だったのです。神々もその味を知っている訳ですから、他の選択をするとは思ってもいません」

「神々も……?」

 

 その発言では、まるで大神すら一度は素体と同じ道を辿った様に聞こえる。

 それとも、力の渇望やより強い力を求める事を言っているのだろうか。信仰を求め、願力を求めるのもその一環、という気がするが、どうにも違和感を覚えた。

 ミレイユの葛藤を他所に、ルヴァイルは澄ました顔のまま続ける。

 

「ですから、もう一度選択を突きつければ、今度こそ正しい選択をするだろうと思っていたようです。しかし、現世から奪い返した時には、神々への叛意を滾らせていました」

「そうなるのは当然……いや、待て。……そうか」

 

 ループをするからには、開始地点がある。

 ミレイユが帰還したその最初のタイミングでは、過去からやって来るミレイユと対面できない。その最初の一回目、ミレイユが初めて神々の思惑から連れ戻された時、一体何を思っただろう。

 

 ――自分のことだ。それとなく理解できる。

 二度と同じ事が出来ないよう、神々を攻め落としてから帰還しようとする。だが結局、現世の過去に飛んだからには、失敗に終わった事も理解できた。

 

「今となっては最初の失敗を覚えている神はおりません。正確に言うならば、私以外は覚えていない、と言い換えるべきですが。そしてミレイユ、貴女はその際、神々の三分の一を弑し奉ったのです」

「ほぅ……!」

 

 感嘆の溜め息はインギェムとアヴェリン、その両方から上がった。

 自然と二人の目が会い、アヴェリンは自慢気に胸を張って、挑発的に視線を返す。ミレイユが神殺しを決意したなら、それぐらいは出来て当然、と誇示するかのようだった。

 

 インギェムは楽しげに笑みを深くするだけで、特に何も言わない。

 ただ、興味深げにアヴェリンとミレイユの間に瞳を動かしていた。

 

「冷静、冷徹、研ぎ澄まされた思考……。何よりも目的を遂行しようとする果断な決意と戦闘力は、いずれもが高水準であり、神々であっても止めるのは容易ではなかった」

「本来、神々より劣って当然の素体だからな。それに……、抵抗できないよう精神調整されていた筈……そうだろう?」

 

 ルヴァイルはおっとりと頷いたが、インギェムはこれに、呆れとも賞賛ともつかない表情を浮かべた。

 

「そんな事まで知ってるのか。何で分かった? 疑おうとすれば、意識が逸れるようにもなっていた筈だろ?」

「オミカゲ……、いや前周のミレイユが調整されていると教えてくれた。そのミレイユがどの様に知ったかまでは分からないが、その調整をブチ抜く眷属化を自らに行ったくらいだ。それで勝手に推察したんじゃないのか」

 

 まさしく、とルヴァイルが頷き、そして伏し目がちに続けた。

 

「その抵抗できない筈、という先入観が神々の多くを死に追いやった。本来は協調しない神々も、これには重い腰を上げざるを得ませんでした。本来、神人計画に無関係だった神々も、自らの危機と知れば、これに参画しない訳にはいかない」

「そうだな、それはそうなるだろう……」

 

 対岸の火事は見て見ぬ振りが出来ても、その火が自らを焼こうとするなら話は別だ。

 自らの命が危ういと感じて、それでも身動きしない者などいない。それが神という自尊心の塊みたいな存在ならば、殆ど発狂するような混乱ぶりだったのではないか。

 

「そこで妾も、他の神々と共に参画する事となりました。事態の終息と修復を求められたのですが、神魂の回収は自動的です。死んだ神は、元に戻らない道理でした」

「そこは大神であっても、例外じゃないのか……。いや、高度に練成された魂、という括りで考えねばならないからこそ、例外になれないのか……?」

 

 竜魂一つと四千年を生きた魂三十、そして小神の神魂、それらが殆ど等価であるらしいのは、ナトリアから聞いた事だ。大神の神魂がそれらと比べ、どれ程大きかろうと、一定水準以上を目標とされるなら、むしろ大きいから例外にはなれないのかもしれない。

 

 その様に推察していたのだが、インギェムは露骨に視線を逸して髪の毛先を指先で弄り出した。

 不審に思ってルヴァイルに目を向けてみれば、気不味そうな表情を一転させ、取り繕った笑みを浮かべる。

 更に不信感が増して、その事を問い詰めようとする前に、ルヴァイルはその発言へ被せるように言った。

 

「神々の数が減んじた事は、歓迎されない事態です。早急な解決を求められたのですが、小神とて勝手気ままに作る訳にはいきません」

「そうなのか? 随分と勝手気ままに作って来た様に見えるが」

 

 ミレイユが皮肉げな視線を向けて言うと、眉根に小さく皺を寄せて首を振った。

 

「本当に、何も気にせず昇神させれば、それこそ悪神ばかりが蔓延る事になるでしょう。或いは、カリューシーの様な協力的と言えない輩も増えるやもしれません。神選びというのは、言うほど無作為でも無遠慮でもないのです」

「……まぁ、それは良いさ。無能な馬鹿が神になるなんて、それこそ悪夢でしかないしな。それに素体に入れた魂は、練成してやる必要があるんだろう? それには数年の時間と、相応の試練が必要だ」

「えぇ、まさしく。切羽詰まった状態であったのは事実、だからと不完全な素体を昇神させたとしても意味はない。果実みたいなものですよ。固い上に渋く、栄養価もない果実に、価値が無いのと同様です」

「その言い様には言いたくなる事もあるが……、まぁいい。一々話の腰を折りたい訳じゃない」

 

 助かります、とルヴァイルは目礼し、そしてユミルへ視線を向ける。

 無意識な窘めだったのだろうが、それを敏感に感じ取ったユミルは機嫌を殊更悪くさせた。

 黙っているよう指示された筈だが、よほど腹に据え兼ねたのか、視線鋭く口を挟む。

 

「一々話の腰を折って、申し訳なかったコトね。でも聞いてた限りじゃ、どうも神の数は維持するコトに意味ありそうな感じじゃないの。数が多いばかりで信者とシェアの奪い合い、世界の存続の為……。それってどこまで本当なの? 小神を贄にするのは良くて、自分達は駄目だって?」

「口を慎め、ゲルミルの。あくまで己らが、多めに見てやっているって事実を忘れるな」

 

 インギェムは凄んで見せたが、今更ユミルが神に対して尻込みする筈もない。

 挑発的に鼻を鳴らし、腕を組んだままルヴァイルへ鋭く視線を向けた。

 その態度にインギェムが立ち上がろうとしたものの、それより早くルヴァイルが肩を掴んで座らせる。

 

「良いのです、インギェム。今この場は、友人の様に振る舞いなさい。それを求められている、と伝えていた筈……」

「……あぁ、そうだな。だが、我慢にも限度がある」

「分かっていますよ。……そういう事なので、そちらも挑発は控えてくださいますように。この場で争い事や禍根を残すのは、互いに求めていない筈」

 

 ミレイユは溜め息にも似たものを鼻から吹き出し、ユミルの肩を小さく揺さぶる。

 

「苦労があろうと、今は飲み込め。お前が神と対面して冷静で居続ける労力は大変なものだと分かるが、飲み込めると覚悟したから同席してるんだろう。破談にするかどうかは最後まで話を聞いてからだ、いいな? この場で何もかもぶち壊す事とは、全く話が別の事だ」

「そうね……、悪かったわ。何か言ってやらねば治まらない場合でも、挑発的な言動は慎むわね」

 

 それでいい、と頷いて肩からも手を離す。

 ルヴァイルにも顔を向けると、今度こそ礼を言うような目礼が帰って来た。

 

 ミレイユとしても、今回の会談が愉快なものにならないと予想していた。

 何を聞かされるにしろ、自分達にとって不都合な事実は多く、そして神らしき理不尽な考え方や言い方に、腹を立てる場面もあるだろうと理解していた。

 

 それに一々、腹を立てている様では話も出来ない。

 協力関係を打診して来たからには、こちらの利となるものを提供できると踏んでいるからこそ、話を持ち掛けて来たのだろう。

 

 互いに中立な場所でなく、ルヴァイルからすれば敵地の真ん中へと身体を晒し、護衛の一人も付けていないのは誠意の証だ。

 ユミルという切り札がある事も承知の上で来ているのだから、彼女にしても賭けに違いない。

 

 どういう内容を聞かされるにしろ、逆上するような事を聞かされたとしても、全ての話を聞き終えるまで、冷静に会談を終わらせる必要がある。

 ミレイユはもう一度、それを納得させる指示をユミルに向け、無言の首肯が返って来たところで会話を再開した。

 



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待望 その6

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 それで、とミレイユは会話を再開しながら、中断した話を再開させる。

 

「先程聞いた話の限りでは、神の数は一定に保たれている必要があるように聞こえた。そこの所はどうなんだ?」

「その必要性があるか、という意味なら、必ずしもないと答えます。妾個人としては、大神の数が多すぎると思っていました。貴女方がシェアの奪い合い、と言っていた件についても同じく。だから神の間で諍いも起きる。……全く無意味で、無益な行為。神の数はもっと少なくて良い、というのが妾なりの見解でもあります」

 

 あっさりと肯定するだけでなく、物騒な発言にミレイユは少々戸惑う。

 これは単に肯定する意見ではなく、真相の一端なのではないか、と思った。

 

 何故ルヴァイルが神々への利敵行為を行うか、そして仲の良い者同士とはいえ、インギェムもその陰謀に加担しようとするか、その答えだという気が。

 だが――。

 

「最初の一度目、ことの始まりの段階では、そう思っていなかったのか? 最初のミレイユがやった事は、お前の願望を形にしてやった事に思えるが」

「その最初の一回、それを見過ごすしか出来なかったのが、妾の失態……そう言ってよいでしょう。多くの事実を知るには、妾は若かった」

 

 単純に生きた年月を指して若かった、と言いたい訳ではないのだろう。

 神という立場でありながら、ユミルでさえ何をしているか知らない、と言われるルヴァイルなのだ。この神は俗世に関わらず、そして関わる努力さえ怠った。

 

 若いという事は、得てして大局に無関心なものだ。

 大事なポジションは老獪な誰かに占められている所為もあるかもしれないが、いずれにしろ、その中にルヴァイルは含まれていなかったに違いない。

 

「妾は……自分とごく身近の安全さえ確保できれば、それで良かった。多くに排他的で、自分とその周囲こそが全てだった……。それが間違いであると知ったのは、ループ案をそのまま採用し、それに手を貸してからの事です」

「熱心に信仰を集めようものなら、他の神とぶつかりそうだしねぇ……。アンタみたいな神は珍しい気がするけど、それなら影の薄さも納得いくわ」

「外に興味を持てず殻に閉じこもった結果、そうなってしまったのです。そして時の繰り返しが行われるようになってから、この世の不条理をより深く知る事にもなった……」

「今更でしょ……」

 

 ユミルが呆れた声音を隠そうともせず言うと、瞼をきつく閉じて頷く。

 

「妾は多くの事に無関心が過ぎた。そして神の世界にあってさえ、不条理があると知った。神々は保身で動いている。世界の存続……それは間違いないけれども、存続の為に神が邪魔になっている。それを正したいと思ったのが、妾の動機でもある」

「それだけでは、具体的な内容が何一つ分からないが……」

 

 ルヴァイルが真実を話そうとしている事だけは伝わった。

 その悔恨もまた、彼女なりに深いものだ。人の世の不条理を神が作っているのだが、神の世にあっても、何者かが不条理を生んでいる。

 

 それを正すには、ミレイユの神殺しの実績が必要というなら、それに乗るのも吝かではない。

 その不条理を生んだ神こそが諸悪の根源というのなら、ミレイユが憎み、ルヴァイルが退場願いたい相手は一緒だろう。

 

 その部分については、間違いなく協力し合えるだろう。

 だが、そう単純な話でない事も理解できた。

 万端に、円満に、全てを終わらせたいと願うからこそ、このループは終わっていないのだ。

 

 本当に目的とする神を退場させるだけなら、何度と無く繰り返させて、最適なミレイユを選定する必要などなかった。

 ミレイユは一つ頷き、続きを促す。

 

「その不条理ってやつは、どういうものなんだ?」

「神が世界を存続させようとしているのは事実です。身を粉にするほど精力的でないのも事実ですが、神々の努力によって保たれている。けれども、願力で得られるエネルギー全てを、世界の為に使っている訳ではありません。己の存続……は勿論ですが、蹴落とされない為に力を蓄えている必要があり、その為に願力全てを世界の存続に使う訳にはいかないのです」

「……いがみ合いがある所為か? 互いに足を引っ張るから、対抗する為に力を蓄える必要がある。その為に、全てを維持に費やす訳にはいかない、……と?」

 

 ミレイユは呆れ果てて口にすると、ルヴァイルは慚愧に堪えないといった表情で同意した。

 

「世俗から思われている程、神々の仲は悪くないのですが……概ね、そのとおり。その座から降ろされたくないから、降ろされるかもしれない弱みを見せたくないから、そういう理由になるでしょう。合理的な判断が出来るなら、そんな事に意味はないと分かるのですが」

「神の座を得ていれば、失う事が怖いか……」

「下らない……!」

 

 ユミルは吐き捨てて顔を外へ逸したが、それを咎める者はいない。

 意外な事にインギェムもこれには同意しているようで、ユミルの発言にも噛み付こうとしなかった。同じ意見であるとしても、神としては同意できない部分である気がしたが、彼女もまたカリューシーと同じタイプであるのかもしれない。

 

 神としての立場に満足し、長い時を生きる事に満足し、そして十分な見返りを得たと思う稀有な一柱。むしろ、そうでなければ、現在の神々の体制を壊そうとしているルヴァイルには付き合えまい。

 

「だが、お前は他の神々から言われるままに協力し、そして時の繰り返しを生んだ。その繰り返しの中で、神々の不条理さなり醜悪な部分なりを見る機会が増えたというのも分かったが……。だから義憤に駆られた、と言いたいのか?」

「大神が小神を食い物にしてるってだけでも、十分不条理だったと思うケド。割りと今更すぎない?」

「……そうですね。私はいずれ自分の番だと思っていましたし、誰もがそう思っていると思っていました。神も人と同様、いずれ果てる。ただ、その長さが決定的に違うだけなのだと。そして果てる時には、世界の礎になるのだと、その様に考えていたのです」

 

 ミレイユは思わず眉を顰める。

 それはあまりに物を知らなすぎる、としか思えなかった。神々が何故、闘争めいた争いをするのか、そして大神が常に勝ちを拾うのか、それを知らなかった筈がない。

 

 不条理と言えば、これもまた一つの不条理に違いないだろうが、ルヴァイルが指しているのは、これと別件な気がする。

 小神が贄となるように、自らもいずれ順番が来ると思っていた様な口振りだ。見たところ戦闘が得意なタイプにも見えないから、それを理由とした覚悟だろう。

 

 神々の争いがどういう形で成立するのか分からないが、仮に果たし状の様なものが手渡されたら、素直に従うような類いではあるまい。そして、勝てない相手だからと、そのまま敗北を受け入れるとも思えない。

 大神という身にあれば、その様な潔い結果にはならないと分かっていて良い筈だ。

 

「この世界は危機に瀕しています。それを()()が維持していた。けれど、それを()()()()が掠め取り、それを補う為に小神を利用している。全くの不合理で、かつ不条理です。神々は、過ちを見直し、そしてあるべき姿を取り戻すべきなのです」

「それがつまり、世界を救う事にも繋がるしな」

 

 最後にインギェムが補足して、二柱の言葉が止まった。

 言うべき事は言った、とルヴァイルは澄ました顔で目を閉じたが、ミレイユからすれば、全く話は終わっていない。

 むしろ、一つ話を聞く度に、一つ気になる所が出て来る始末だ。

 

 これは協力を要請する為、同盟関係を築く為、その説明をする場ではないのか。

 ミレイユは頭を抱えたくなる様な思いで、額に指先を数本当てた。手で抑えておかないと、頭ががっくりと落ちていきそうに思える程、暗澹たる気持ちにさせられている。

 

「世界の維持……。それは知ってたが……、つまり何だ? それは維持しなければ、即座に滅ぶ様な、危険な状態なのか?」

「そうですね。いつからか、と言われたら、きっとその時決断した直後から、という事になるのでしょう。そして今まで、必死に繋ぎ止めていた。けれども悪化の位置図を辿り、手を離せば崩れ落ちる、その様な状態まで陥ってしまった」

「はぁ……? 何でそんなコトになってんのよ。自らの首に縄を賭けながら、それでも必死に綱渡りしているとでも言うワケ?」

 

 ユミルの皮肉めいた言い分が、インギェムには相当お気にめしたらしく、快活に笑って手を叩いた。

 

「ハッ、そりゃいいな! ほんと、そのとおりの状況だよ。で、その繋ぎ止めてる役割の中心に据えられてるのが、己って訳だ。今更ってほど最近じゃないがよ、それでも、この己が尻拭いされてんだ。自分の首にも知らずに縄かけられてて、それで働かされてるってんだぜ? まぁ、納得いかんわな」

「それを私に言われても困るが……。つまり、それが利敵行為の動機って事か? 仲間意識の薄い連中だとは思うから、不満が溜まればそんなものかもしれないが……」

 

 維持というからには、やめれば破綻する、という事でもある。

 だから止める訳にもいかず、他の誰かの尻拭いにも甘んじて来たのかもしれないが、いつだって、その不条理には不満に思っていただろう。

 

 繋ぐ事が出来る権能を持つからこその、白羽の矢だったかもしれないが、知らずに首へ縄を括り付けられていたのだとしたら、確かに納得できるものではない。

 それに先程の会話で、明らかに不自然と感じられた部分があった。それを言おうとしたのだが、ミレイユより先にユミルが指摘する。

 

「まぁ、気に食わないコト聞かされたものだけど、それより気になるのは神々の言い方よ。さっきの言い方じゃ、大神とも小神とも別の神がいるように聞こえたんだけど。大神が維持しようとして、それを他の神々が掠め取り、それを補う為に小神を……。そんなコト言ってたでしょ」

「それだと()()()()()()が、別の枠組みの様に聞こえる。それは……大神の中にも、階級や等級があったりするのか?」

「いや、その認識がそもそも間違いだな。大神は最初から四神しかいない。他は全員詐称だ、己らも含めて、本当は大神じゃないんだよ」

 

 あまりにも簡単に、呆気なくインギェムは口にしたが、それは公言して良い秘密なのだろうか。

 元より感じていた頭痛が、ここで更に強まった気がする。

 言葉の意味を理解できず、事の真意を教えろと、敵意にも似た視線をルヴァイルへ送った。

 



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待望 その7

 視線を受け取ったルヴァイルも心得たもので、インギェムを嗜めるように注意してから説明を始めた。

 

「それだけでは理解できないでしょう。余りに唐突で、理解の範疇を越えています」

「お前の言い方も分かり易かったとは言えないだろ。己の間では公然の事柄でも、こいつらは知らないんだから。それをさも知って当然、みたいに言ってたから困惑してたんだろ」

「それは……っ! ……えぇ、反省すべき点でした。この状況まで辿り着いたミレイユはいない。しかし、知っていたミレイユもいたので、それと混同してしまっていた様です」

 

 二柱の神は、互いが互いを弁明するようなやり取りを続けた後、ミレイユに向かって目礼して来た。神としては最上級の謝意の表明だろうから、その態度について文句を言うつもりはないが、聞き捨てならない台詞もあった。

 

 オミカゲ様がそうであったように、ルヴァイルのお眼鏡に適わなかったミレイユは存在する。ミレイユとオミカゲ様が出会った様に、オミカゲ様も前周ミレイユと出会い、そして全く違う道筋を辿っている。

 ならば、デイアートへ送還されてからも、全く違う行動を取って来たと想像できる。

 

 そしてその中には、恐らく惜しいところまで行きつつ、やはり失敗だと見切りを付けられたミレイユもいたのだろう。

 それは良い。悔しくもあるし、腹の底から怒りが煮え滾るような思いもあるが、まだ飲み込める。きっと、今回だけが上手くいったケースではないのだろう。

 

 それもまた、納得は別として理解できるのだ。

 だが、大神に――大神の中に、それと詐称している者が紛れているなど、発想した事すらなかった。ミレイユは思わずユミルへ顔を向けるが、そのユミルもまた困惑した表情で、頭を振って見せた。

 

「いやいや……。それを教えてたら有利にコトが運んでいたとは思わないけど、だからって、敢えて隠してたワケないでしょ。むしろ知ってたら、盛んに口にした上で馬鹿にしてたわ」

「……確かに、それは実に説得力があるな」

 

 元よりユミルが情報を秘匿しているなど、そんな事を考えて向けた視線ではなかったが、予想以上の困惑ぶりを見せたユミルの言葉に、嘘は見受けられない。

 それよりも、どこかのミレイユは、何を持って知る事に至ったのか、その方がよほど気になった。多くの道の違い、多くの変化があった事だろう。

 

 そして本来なら、そういう情報は次周のミレイユへ引き継がれるものではなかったのか。

 その情報の蓄積や累積が、いつかループを抜け出す力になると、それを信じて続けていたものでは無かったのか。

 それを思うと、今は関係ないと思いつつ、訊かずにはいられなくなる。

 

「……なぁ、聞きたいんだが、私は一体、何度くらいループしているんだ? それとも、私が蓄積された情報を持っていないのは、実はループ回数が少ないからだったりするのか?」

「それは、分かりません」

 

 キッパリとした返答が返って来て、ミレイユは鎌首をもたげる。

 

「分からない? お前はその権能を持って、その記憶を持ってるんじゃないのか?」

「えぇ、だからこそ正確なところは分からないのです。ミレイユは確かに繰り返す時の中で、次代へ情報を引き渡し、それを元に改善を試みようとします。ですが、大体八度目くらいに失伝し、その度に同じ周回を繰り返そうとするものです。小さな変化、大きな変化があっても、どこかで躓き失敗した結果、累積した情報を失うのが通例でした」

「あぁ……、くそっ。予想していた事だが……、それで何一つ上手くいかなかったのか……? それとも、お前がそう仕向けていた所為か?」

 

 ミレイユの目が険しく細められる。

 ルヴァイルはミレイユを取捨選択していたのだ。繰り返す時の中で、最善のミレイユを探し出そうとし、その中で情報蓄積が邪魔となったから、リセットする意味で過去へ送り返した事もあったのではないか。

 

 ミレイユの中で疑念が湧き上がる。

 あくまで自分の主観として、何度も繰り返していたという実感はないものの、オミカゲ様から預かった荷物はある。

 その重さを思うほどに、選別の傲慢さに吐き気を覚える程の、強い憎しみを感じた。

 

 だが、ルヴァイルはそれに動じる事なく、首を横に振って見せる。

 

「それは妾が何をするでもなく、決められた時の流れみたいなものです。妾が手を出すまでもなく、神々が貴女を取り戻そうとする様に、あるいは貴女が帰還する結果になるように、情報失伝もまた変えられない結果に過ぎません」

 

 むしろ、とルヴァイルは顔を歪めて吐露する様に言った。

 

「妾は幾度も、それを防げないか試した方です。妾の求めるミレイユには、そうした情報を持っていた方が有利になるだろうと思ったからです。……しかし、失伝するまでの回数は、いつも大きく差異がない」

「そうか……、言い掛かりを言った様で悪かった」

「いえ、繰り返した回数を、素直に伝えなかった妾も悪いのでしょうから。ただ……」

 

 ルヴァイルは悩まし気に眉間を寄せ、記憶を遡るように視線を外に向ける。

 

「確かな事を言えないからこそ、敢えて分からない、と言いましたが……。凡そ繰り返した数で良いのなら」

「あぁ、完全に正確な数字じゃなくても良い」

「それならば……、そうですね……。大体、一億は超えています」

「いち……、おく……!?」

 

 訊かねば良かったと、後悔するような数字だった。

 数十ならば挽回するに十分な数だと思った。あるいは百でも諦めるには早いと思える。しかし億となれば、抜け出せない迷路に囚われていると考えても間違いではない。

 

 顔を横へ向けてみれば、ユミルのみならず、アヴェリンやルチアまで表情を歪めている。

 それだけ繰り返して駄目だったなら、もう何をしても駄目なのではないかと思えてしまう。

 だが、意志の力で腹に力を入れ、腹筋で押し返すようにして背筋を伸ばす。

 

「それだけの数、お前もループに付き合っていたと言うのか……」

「そうですね、そうなります……。妾の望みは、世界をあるべき姿に戻す事。その為には、貴女の助けが無ければならない。他の胃神々にとっては貴女を出られない迷宮へ放逐したぐらいのつもりでしょうが、妾からすると、その傲慢さを利用して、無限に是正する機会を得たと同義」

「何故、そこまで……?」

「システムから覆さねば、世の不条理は無くならないからです。貴女とてそうでしょう? 人の世の不条理、そして故郷に向けられた不条理、それらを見過ごせないから立ち向かうのではないのですか」

 

 キッと挑むような目付きをして、ルヴァイルは決然とした表情で続ける。

 

「それは妾とて同じこと。貴女なしでは成し遂げられぬ。そして貴女が共にあっても、成し遂げる事は簡単ではない。幾千、幾万、幾億の失敗しようとも、いずれ成功してみせる、と思えば目指せるものでした」

「まぁ、その辛抱強さと諦めの悪さだけは認めても良い……」

 

 苦し紛れの発言の様になってしまったが、そればかりは本音だった。

 あるいは、ミレイユだけであれば、ループを脱却する機会はあったかもしれない。だが、その足を掴んで逃さない様にしていたのはルヴァイルだ。

 

 それに恨み言を言いたくなる気持ちはあるが、必ず成し遂げてやるという執念には敬意を抱かずにはいられない。

 そして、その絶対にやり遂げてやるという執念は、ミレイユと似通う部分でもあるのだ。

 手を組む仲間として考えると、確かに心強いと言えるのかもしれない。

 

「……その億回数繰り返し、ようやく巡り会えたのが、この私という事か。それ程までに、他のミレイユは見込みがなかったか」

「惜しい、と思えるものなら幾らでも。しかし、いずれのパターンも最初の一回ほど上手くいかない。何をすれば上手くいくかも分からず、手を出さない方が上手く運ぶ事も多かった。そして結局、思い当たったのです。()()()()()()()こそが最善だったのだと」

 

 その瞳に映る色は、いっそ狂気的だった。

 神なればこそ、常人には計れないものがあるのかもしれないが、ルヴァイルの場合はまさにそれだ。信念すら、貫き通せば狂気になる。

 

「手を加え、ループの迷宮へ落とした事で、それが歪んでしまった。神を追い詰め、心胆寒からしめた存在は、掌で転がされ、尽く躓かされる結果へと追い落とされる事になった。妾はそこから掬い上げようとしていたのです」

「だが、掬い上げても生半可な解決では満足できない、そういう事でもあるんだろう? だから、お前自らループへ突き落とすような真似もしていた。……じゃあ、何をもってお前は円満な解決と考えているんだ?」

 

 今度はミレイユが、挑むような目付きでルヴァイルを見つめた。

 幾度となく、果てが見えない道先ですら、その信念で進んで来られた彼女だ。

 

 ミレイユをループを動かす歯車としたのは許し難い。だが最善を求め、それを得られないのなら意味はないと、繰り返して来た事実だけは認めてやりたかった。

 そして実際、ルヴァイルは相当な覚悟をもって臨んでいる。

 

 自己の望みを叶えるだけでなく、ミレイユに対する配慮も、その発言から窺えていた。

 単に自分が望む結果を引き当てるだけなら、ここまで繰り返す必要も無かったのではないか。ミレイユが望む結果も同時に得られないから、次の機会へ望みを託そうとする。

 

 利己的に徹するなら、そこまで膨大な試行回数は必要ないだろう。

 惜しいと思える場面は幾つもあった、というなら、ミレイユを切り捨てるなり、ベターと思える結果に満足しても良かった。

 

 それをしないのは、ミレイユを利用しているという負い目が原因だろうか。

 あるいは、誠意のつもりでもあるかもしれない。

 

 単に使い捨てとしないのは、ルヴァイルの善性を物語っている気もしたが、それと察せるかといって、絆されてやる事もできない。

 

 聞きたい事、確認せねばならない事は多くある。その質問に応えるつもりがあるのか、それとも口を閉じるのか、上手く躱すか嘘を吐くのか……。

 見極めるのは、ルヴァイルの返答を聞いた後で良い。

 

 黙ったままでいるルヴァイルに、ミレイユが催促するように視線で問うと、小さく頷きを見せて口を開いた。

 

「大神を救い出し、簒奪者を滅し、不条理を払う。その上で、貴女と貴女の故郷も救う。これが妾の求める円満な解決です」

 



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待望 その8

 その宣言を聞き入れて、ミレイユは思わず固まり、即座に二の句を告げないでいた。

 これまでの流れから、凡その内容は想像が付いている。ミレイユの望みを理解していて、その解決を助けるつもりがあるのも理解していた。

 

 だが、まさかと思える言葉が飛び出して、思考が固まってしまった。

 ならば再び、先程は誤魔化された内容を、ここで問い詰めなければならないだろう。

 

 目的が大神を倒す事にあるのは、互いの目的として利害は一致するし、むしろ望む所だ。しかし、その大神の認識に隔たりがあるのは間違いなかった。

 

「この世の不条理を正すのは良いさ。私もエルフ達に約束した。彼らが平穏と平等を主義に掲げる限り、その背を押して手助けするのは義務ですらある。そして、神々がそれを邪魔しているのだから、排除するのも道理だろう」

「えぇ、そうでしょうとも」

「だが、私達は大神というのは十二柱を指して言うのだと思っていた。だが、違うと言うんだろう? 神々の排除とは、どこからどこまでを指してるんだ?」

 

 今こうして姿を見せている二柱――自分たちは例外で、それ以外全てを手に掛けるつもりでいるのか、それとも違う意図を持っているのか確認しなければならない。

 小神は一柱、既に排除されているが、他も同様排除するというなら、口で言うほど簡単にはいかないだろう。だが、大神までの道を遮る手先として立ちはだかるなら、相手にしない訳にもいかない。

 

 ――それに、簒奪者。

 神々を指して言うには、余りに強い蔑称だ。それの意味するところを知りたかった。

 

「そうですね……。まず大神の定義を明確にしましょう。大神とは、この世界を作った創造主。そう言い換えても構わないでしょうね。空、海、大地、生命。この四柱の神こそが、大神と呼ばれる存在です」

「あぁ……、そいつら確かにいるけど……アンタよりよっぽど影薄いわよね? 海の神は四千年以上前からずっと寝てるし……、言われてみれば今言った神、全員そうだわ……」

 

 ユミルが腕組していた右手を持ち上げ、顎の先を摘んで首を捻った。

 それはいつだったか、ミレイユも聞いた事がある。神宮でエルゲルンを問い詰めた時、そしてデイアートに戻って来て、大神に抗うと決めてからの事だった。

 全員倒す必要があるのか、という話になり、寝ているばかりで無害な神だ、と教えられた神でもあった。

 

「そうね……。他にも同じ様に寝てばかりいる神がいたから印象に残り辛かったけど、いま言った四柱は確かに、一度たりとも活動した過去がない。ない、というより知らないだけかもしれないけど……。だから当然、影も薄い」

「そして、その四神こそが、現在の神人システムを作り、現在『遺物』と呼ばれている装置を作った。つまり、今の世界に、大神と呼べる者は活動していません」

「ちょっと待て……!」

 

 予想外な衝撃的発言に、ミレイユは思わず手を挙げて話を遮った。

 ユミルたちも目を丸くして驚いているし、内容の真意までは分からずとも、とんでもない事を聞かされたのは分かった。

 

 ミレイユ自身も混乱は大きく、呼び止めた手を下げながら、頭の中を整理する。

 本来の大神は四柱しかおらず、そして他の八柱が別の存在であり、神人システムは四神によって用意されたというのなら、それはつまり――。

 

「いま大神と呼ばれている神々は……いや神々も、小神でしかないって事か!?」

「そう、我らもまた神によって選ばれ、そして昇神を果たして神の末席と連なる存在。でも、それを良しとしない者達がいた。小神という扱いに不満を持ち、より強い力を、そしてより高い立場を望んだ者達が、反旗を翻して今の立場があります」

 

 そう言って、ルヴァイルは次にユミルへと顔を向けた。

 

「今も眠って起きて来ない大神、と言いましたね。それは間違いではありませんが、正確でもない。封じられているからこそ、起きて来られない。永劫、眠り続けさせられているのです」

「なるほど……。だから簒奪……、という訳ね」

 

 ユミルが吐き気を堪えるように眉根を寄せて言えば、ルヴァイルは無言で頷く。

 その時に何があったのかも、そして何を思っての行動だったのかも、ミレイユには想像つかない。

 

 だが、ルヴァイルは言っていた。全能感を一度味わえば、より強い力を求めずにはいられない、麻薬の様なものだと。

 

 今も大神と呼ばれる者たちが、ミレイユと同様に力を身に着け、そして昇神へと至ったのなら、確かに気持ちは理解できる。同時にそれは、神へ至っても変わらない欲求として、残り続ける事になった……。

 だから、なのだろうか。

 

 そして今現在大神と呼ばれる存在が、小神と同質の存在であるというのなら、両者の力に大きな隔たりがないのも頷ける。

 

 大神と小神との間で行われる闘争が、何故暗殺めいた方法で決着がつくのか、そこから分かろうというものだ。本当に強大な存在なら、正面から叩き潰せて良い筈だった。

 しかし本質として同種でしかないから、個人の力量差で簡単に覆されてしまう。

 

「だが、その本質が小神であるというのなら、本来はそいつらも贄として用意された存在、という事にならないか?」

「無論、そうです。それを認められないから、大神に取って代わって、代わりの小神を用意している。自分達の肩代わりをさせる存在として、別の贄を求めたのです」

 

 言いたい事、吐き捨ててやりたい言葉は幾つもあったが、結局口から出る事なく、唸り声と共に息を吐き出した。

 ユミルは盛大に顔を歪ませ、侮蔑する様な表情を向けている。

 

「それはつまり、アンタたちもその簒奪に加担したってワケよね?」

「えぇ、非常に後悔しています。命があれば、それが惜しい。そう思わずにはいられなかった」

「だから、奪う側に回れば安心って? ご立派な主張ね」

「……ユミル」

 

 ミレイユは小さな声音で窘める。

 攻撃的な発言になってしまうのは当然だが、事を荒立てて会話を止める様な事はするな、と言ったばかりだ。ユミルもそのつもりは無かったろうが、元より染み付いた敵愾心は、容易に収まってはくれない。

 

 ユミルは難しそうな顔で眉根を顰め、暫く思考に没頭していたかと思うと、即座に頭を上げてルヴァイルへ指を向ける。

 

「――ちょっと待ってよ。もしかして、四千年前世界をひっくり返して作り替えたのって、その反旗が原因とか言うんじゃないでしょうね!?」

「手を加えた部分はあれど、作り替えたというのは語弊があります。……むしろ、納める? 収納する……?」

 

 ルヴァイルは小首を傾げて適切な単語を探そうとしていたが、結局思い付かなかったのか、話を飛ばして再開した。

 

「――とにかく、それが原因であるのは間違いありません。大神を封じた事で起きた、副次的災害とでも言うべきでしょう」

「ふざけんじゃないわよ……」

 

 ユミル額に手を当てて俯き、力なく吐き捨てる。

 その結果、ゲルミルの一族は追いやられ、日陰の存在として生きる様になった。そして長い時を世界の片隅で過ごす事にもなった。

 

 ユミルはいつだか、人間になれたら、と零した事があると言っていた。

 今の神々に手出し出来ない存在であり、神に絶対命令権を書き込めるという時点で異例な能力だと思えたが、真の大神が創造した生命というなら、その破格の能力にも納得できる。

 

 大神が今も正しく世界に降臨していたら、もしかしたらユミルの立場も大きく変わっていたかもしれない。

 

 それを思えば、ミレイユとしても唾棄してやりたい気持ちはあるが、今それをここで(なじ)っても仕方ない。

 それに大神への反逆と簒奪は、既に済んだ話だ。憤りは尤もだが、それを自分の溜飲を下げる為に攻撃しても意味はないだろう。

 

 そして、かつて小神として求められた神々が、いま大神を名乗って世界を支配しているというのなら、先程聞いた願力の使い道についても、理解が追い付いてくる。

 現在の大神は、簒奪した事によって、本来なら必要ない工程を踏まざるを得なくなったのだ。

 

「しかし、大神に取って代わった事が、どれ程の問題になるんだ? 下剋上は気持ちの良いものじゃないが、人の世でもまま見られるものだ」

「それが本当に、単なる下剋上に過ぎないならば、その通り。ですが、所詮小神は大神と同じ事は出来ません。そもそも大神と比べ、明確な劣化存在であるのは間違いないのですから、同じことが出来る筈もないのです」

「その理屈も分からなくはない。だが、具体的に――」

 

 言い差して、ミレイユは閃くものを感じて口元を手で覆った。

 ルヴァイルは世界の維持が破綻する、と言った。つまりそれは、現在の大神達が敷く体制では、遠からず世界が破滅するという意味だ。

 

 本来の大神と小神の力関係など推測するしかないが、八柱が注力しても不可能というなら、その隔たりは大きいものだと予想できる。

 そして何より、封じられた神々が持つ、その神格が問題だ。

 

 空と海と大地、そして生命を司る神が封じられて、健全な世界が維持されるものだろうか。

 ある種の確信を持って視線を向けたら、ルヴァイルからは満足げな笑みが返って来た。

 

「我が身可愛さで反逆したまでは良いものの、その後の結果まで深く考えていなかったのでしょうね。……いえ、正直に言いましょう。神の権能を持ってすれば、取って代わるのも容易いと踏んでいました。話を持ち掛けてきたラウアイクスはそう信じていましたし、それぞれの力を持ち寄れば、不可能ではないと思われた」

 

 インギェムが持つ、繋ぐ力などが、その最たる例だろう。

 

「だが、見通しが甘かったと……」

「甘かったのは、神としての力量や権能の方ではありません。むしろ、神々の精神性こそが問題です。世界の維持に四神の力は必要不可欠。けれど封じてしまっては、その信仰とて十分には集まりません。願力とそれを利用する権能の行使、これを八神で肩代わりする必要があったのです」

「あぁ、それは……。自分達の信仰を集めながら、その取り分を上納する必要に迫られたのか」

 

 ルヴァイルは小さく頷く。

 果たして八神の心情は如何なるものだろう。神へ反逆し、その地位へ取って代わったのに、結局は四神が作った世界を維持するのに消費しなくてはならない。

 

 それを不遇とは思わないが、当の神々がどう思うかは想像に難くない。すり減っていく願力を惜しいとすら思ったかもしれない。そして、より多くの願力を欲する異に繋がった。

 常に余計と思える消費が圧迫となるならば、より多くの信仰を欲するのも道理で――。

 

「――だからこそ、神々は紛争を望まずにいられないのか。虐げる者が王座に座れば、それで救いを求める声が増える。単なる横暴、嗜虐趣味じゃないとは思っていたし、その推測も立てていたが、これで確信が持てた」

「仰るとおり。――そう、常に大量の願力が無ければ世界を維持できない。だから神々は、常に信仰を求めずにはいられないし、信仰に翳りがあるなら畏怖させるのに、力を振るう事に躊躇いがない」

「何てコトしてくれてんのよ……」

 

 ユミルが眉間に深い皺を刻み、頭痛を堪えるように額に手を当てた。

 ミレイユにしても全くの同感だが、神は神なりに世界を維持しようとした結果、この不条理な世界を形成する事に至ったらしい。

 

 そもそもが身から出た錆という気もするし、そのしわ寄せを受け続けているのは、今もこの世で生きている民だ。

 憐れと言うだけでは到底足りないが、そうだと言うなら、一つ疑問に思える事がある。

 

「……なぁ、願力の多くを世界の維持に費やしているというのなら、それこそ信徒同士の対立や戦争は不毛だ。貴重な収入源を捨て去る行為に等しい。人心を支配し続けるのは容易じゃないと分かるが……、それにしては諌めていた話など聞いた事もない」

「アタシも知らないわね。むしろ焚き付けているんだと思ってたわ。実際のところ、どうなの?」

「神々の精神性こそが問題……。先程、そう言いましたね? むしろ、それがあればこそ見限るしかないという結論を下しました。本当に維持する為に、自業自得と割り切って奉仕しているなら、話はもっと簡単だったのです」

 

 ルヴァイルの表情には怒りだけでなく、多くの失望が見て取れた。

 彼女が言うように、やった事を後悔して、それこそ歯車の様に世界を維持する役割に徹しているなら、多くの悲劇は避けられただろう。

 

 もっと実直に、信仰を集める手段とてあった筈だ。

 オミカゲ様は実際に、恐怖と圧力で信仰を集める事などしなかったし、ならばこの世界でも穏便な方法で多大な信仰を得る事も出来ただろう。

 

「信徒同士の争いは、足の引っ張り合いの様にしか見えないでしょう。――事実そのとおり。あれは足の引っ張り合いでしかありません。比喩表現でも皮肉でもなく、言葉のまま相手を蹴落とそうとしています」

「何故……? 不毛な争いと分からない筈ないだろうに」

「それは結局……彼ら自身、反旗を翻して今の地位を得たと知っているからですね。新たに自らの役割を肩代わりさせる小神を用意したとて、彼らが同じ様に反旗を翻して来るかも、という疑念は拭えなかったのです」

 

 馬鹿な事を、と口に出して吐き捨ててやりたかったが、それこそ不毛でしかないので、溜め息を盛大に吐く事で代わりとした。

 ――では、きっと……。

 ミレイユは信徒同士の争いが、どういう神々の間で行われたのか知らないが、大神を敬う信徒同士での争いは、起きていないに違いない。

 

 自らの信徒がその戦争で減る事を理解していても、勢力を増し始める小神の信徒を、座して待つ事など出来なかったのだろう。

 神器を複数用意しないのも同じ事。願力を消費して作るというのなら、多く用意するのは嫌だ、という理屈に違いない。

 

 ミレイユはもう一度大きく息を吐き、疲れた表情でルヴァイルを見返した。

 

「……まったく下らない……。足の引っ張り合いで身の破滅なら好きにすれば良いだろうが、それで来るのが世界の破滅か……。馬鹿な神が上にいると苦労するな……」

「本当よねぇ……? ねぇ、ほぉんと、そう思うわよねぇ……?」

 

 ユミルが意味深な視線を向けてくるが、ミレイユは手を払って遠ざける。

 例の神になれ、などとという世迷い言は、こんな時だからこそ聞きたくなかった。

 



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待望 その9

 ミレイユはユミルの言葉を殊更無視して、無理な話題転換だと理解しつつ、ルヴァイルへ話を振った。

 

「だが、あー……、そうすると……。あれだ、小神の存在意義というのは、本当に世界を維持する為に必要な贄としてなのか。神々が保身の為に、している維持ではなく」

「それはどちらとも取れるでしょう。信仰から得られる願力だけでは足りないから、神魂を『遺物』に使う事で延命を果たしているのです」

「ちょっと待て。『遺物』は汎ゆる願いを叶えてくれるんじゃないのか? 万能性を持っている、そう言ってたろう? 悠長に延命などと言ってないで、一足飛びに解決する手段を選ば良いじゃないか」

 

 世界を維持する、破綻が訪れている、その回避に願力を注いで延命している、というのはとりあえず納得しておく。だが、それだけでは足りないから、贄で補うというのも良いだろう。

 だが贄は所詮、手段でしかない。

 

 『遺物』を動かす為に必要なエネルギーとして、神魂を求めた。

 そして『遺物』に何を願うにしろ、小神を何度も作り、磨り潰していく位なら、最初から全てを解決する願いを口にすれば良いだけだ。

 世界を救え、などという大雑把な命令では叶わなそうだが……幸いと言って良いのか、神の中には知恵者がいる。

 

 その神が頭を捻って考えれば、万事解決する願いを特定できそうなものだ。

 神は全てにおいて合理的に動く訳でないとはいえ、ここは合理的であって良い部分だろう。

 

 だが、しないというなら、単に出来ないだけなのか。

 あるいは他に理由があるのか、それによって考えが変わりそうだった。

 

 ミレイユの問いに、ルヴァイルは瞑目して口を閉じる。眉間に僅かな皺が寄ったところを見ると、あまり愉快な返答は期待できそうになかった。

 数秒の沈黙をした後、その口が開く。

 

「これもまた、一つの足の引っ張り合いを原因としています。小神を贄とし叶えられる願いは、厳密に定められています。そしてこの場合、何でも叶えられるというのが問題なのです」

「何となく読めて来たわ……。つまり、その願いで出し抜かれるのを嫌がったのね?」

 

 ユミルが蔑む言葉には十分な棘が含まれていたが、ルヴァイルは気にする事なく頷く。

 

「……そう、最初期の頃は、自身が集める信仰で補える自信もあったのでしょう。贄はあくまで保険、その程度に考えていた時期もある。八神の力を結集して、出来ない事など無いと考えていた」

「だが実際は、結集などしなかったんじゃないのか? 我が強く、一つ所に纏まる事も、協調性も見せなかった」

「えぇ……。そして八神の中には、出し抜いて何れの神より高い力を得よう、と考えた者もいました。それ故、『遺物』による強制をされているのです。神々は、世界の延命以外で神魂を使うべからず、と」

「馬鹿な事を……。じゃあ、神々の間で、仲が悪い間柄というのも……」

 

 誰かが保身の為に先走って、その馬鹿な願いを叶えてしまったからではないか。

 加えて本来なら叶えられた様々な願いを、封印された事から険悪な関係になった、という事であるかもしれない。

 

 その意図を含ませた視線を、ルヴァイルとインギェムの間へ行き来させると、二柱は眉間に皺を深く刻んで首肯した。

 嫌な予想が当たってしまって、ミレイユもまた渋い顔をして息を吐く。

 

 救いようがない、とはこの事か。

 そして、その見通しの甘さには反吐を吐く思いがする。そのうえ神々の間に協調性はなく、あまつさえ出し抜こうとした輩への教訓と罰が合わさり、切り札すら封印する事になった。

 

 当初は持ち堪えられていた世界の維持も、それで一気に難しくなったのではないだろうか。

 そして求めた時には、その万能の『遺物』は神々では万全に使えなくなっていた。

 

 ――延命は、あくまでも延命だ。

 解決するまでの猶予としては有効だが、解決そのものを与えてくれない。

 

 だが、例えそうだとしても、神以外に使わせれば済む話ではないか。

 ルヴァイルにナトリアという神使がいるように、信頼を預けられる信徒は、どの神でも持っているものだろう。

 その者に任せ、叶えさせれば良い。

 

 ミレイユの思い付きは、その場の凌ぎの閃きの様なものだったが、悪くないように思える。だが、ミレイユが思い付く程度の事は、神々にも思い付くだろう。

 そして実現していないというのなら、それが答え、という事だとは思う。

 

「一応、聞いておきたい。神々には不可能だろうと、他の者ならどうだった? それはつまり、それ以外には可能という意味でもあるんだろう?」

「勿論です。ですが、叶えられる力というのは、願う者の力と不可分。より強い願いには、より強い力を持っていなければならない。それを補う為の神器なのですが、それも五つまでしか装填できない仕組みです。万能であれ、願う個人によって限界はある」

「そんな制約があったのか……」

 

 そしてだからこそ、今まで誰も叶える事が出来なかったのだろう。

 神に仕える事を許される程だから、神使の力量は当然高い。ナトリアにしても、間違いなくこの世界においては有数の実力者だった。

 

 だが、そんな彼女であれ、あるいは他の神に仕える何者であれ、神が望む願いを叶えられなかったから今がある。

 しかし、同時に違和感も覚えた。

 

 『遺物』はドワーフによって造られたものだが、それが神の範疇を越える万能性を持たせられるものだろうか。世界の仕組みすら書き換えられる存在が、神でもない一種族が造り上げたとは考え難い。

 

 もし、本当に一種族が造ったに過ぎないというのなら、ルヴァイル達にだって造るか、あるいは手を加える事くらい出来そうなものだった。

 そして、本当にドワーフのみで造ったというのなら、それはもう神と呼んでも差し支えないように思える。

 

「だが、『遺物』は何故そこまでの万能性を有しているんだ? いま聞いた話では、神が用意した神器は、あくまで外付けブースターの様な物だろう? そして神魂は、動力源の様な役目を果たす訳だ。ドワーフという一種族が作ったというには、……余りにも過分に思える」

「そうでしょうね、そもそも『遺物』とは大神が創造せしめた物なのです。それを保全、修復する為に用意されたのがドワーフで、だから神器を外付けさせる事も出来ていたのですが……。彼らは大神の喪失と、自らの種族の重要性を理解していました。そして、その悪用がどのような悲劇を生むのかも知っていたのです」

「そうか……、伝聞の上でしかドワーフが存在しないのは、そういう理由か。つまり、自らを体よく利用される事を恐れて逃げたから、なのか……?」

 

 ルヴァイルは憐憫の眼差しを、遠く外へ向けて頷く。

 

「……そうです。彼らは『遺物』を使い、姿を変え、知識を捨て、認知できない存在へと変貌した。神々にも見つけられず、物理的、魔術的手段でも捜索できない、そういう存在へ作り替えた。霞のように実体を持たないのか、あるいは単に視えないだけなのか、それさえも分かりませんが……とにかくドワーフは、それ故この世から忽然と姿を消す事となりました」

「なるほど……、言うこと聞くと見せかけて、それを強かに利用したという事か」

 

 それについては、素直に褒めてやりたい気持ちだった。

 元より神を相手にして、正攻法で勝てるとは考えなかった訳だ。裏を掻かねば対処できない。

 そして『遺物』の修復や保全を任されていた故に、その構造についても理解していたドワーフは、機構に介入して自らの願いを優先的に叶えた、という事なのだろう。

 

 そして神々は、八方塞がりとなってしまった。

 信頼関係が築けていれば、と思ってしまうが、そもそも大神への反逆を企て実行した者達だ。言うことを素直に聞いていただけで、助命が叶うと思わなかったとしても不思議ではない。

 

 妙に納得する気分で頷いていると、ルヴァイルはひたりと視線を合わせてくる。

 その視線に妙な圧力を感じて、身構える気持ちで何を言うつもりか待った。

 

「――そして、だからこそ貴女だったです。神人計画は、それに転用するには、実に有用なものだった。これまで幾度となく造ってきた素体、それに手を加え調整するのは、決して難しい事ではなかった」

「なに……、私が……?」

 

 何故、と口にしようとして瞬時に悟る。

 ユミルとも目が合って、それで納得の色が浮かんでいた。

 

 ミレイユは強い。余りに強すぎる。単に才能の差、個体の差と思っていたが、神に至るでもなく小神を下してしまうというのは異常だ。

 そして八神もまた小神に過ぎないのだとすれば、神に至らずとも彼らを下した、という()()()()()()()についても納得できてしまう。

 そして何故、そこまで強力な素体を造ったかといえば、先程の話を思い返せば明らかだ。

 

「私に『遺物』を使わせる……その為にか。神々と同レベル、あるいはそれ以上でなければ叶えられない願いを、代わりに叶えさせる為……」

「そう、本来なら神を下せる様な実力を、身に付けさせる訳がないでしょう? 自身を傷つけ得る牙など、最初から抜いておくに限ります。けれど必要だったので、精神の方に多くの枷を付けた」

「あぁ、大神に……より正確に言うなら八神に叛意を抱けないよう、そして挑む気力を失くすよう調整していたんだな」

「えぇ、他にも多くの事を」

 

 なるほど、カリューシーが例外に感じられた筈だ。

 そもそもとして、求められた用途が違う。神人計画というベースがあったから混同するしかなかったが、ミレイユに求められたのは贄というより、むしろ鍵だ。

 

 カリューシーは説明を聞いた上で、昇神を受け入れたと言っていた。八神としても、そういう神の方が扱い易いだろう。考えてみれば、その信徒すら削いで過度な願力を与えまいとする彼らが、最初から反旗を翻すかもしれない者を選定する筈がないのだ。

 

 最初から誰でも良いという、適正を見ずに決めていた訳でもないだろうが、より従順で終わりを受け入れている者の方が、贄として相応しいには違いない。

 

 そしてだからこそ、ミレイユの特異性がより顕著に分かる。例外すぎる実力は勿論、現代日本で育った温厚な性格は、命じてやれば素直に応じるとでも思えたのだろうか。

 

 精神調整して大神へ反骨精神を持たせないようにすれば、それで安全と思ったのだ。

 その上、より困難に立ち向かう意志を植え付けてやれば、途中で日和ったり逃げたりしないと思ったのかもしれない。より強い力を身に着けさせたのも、その保険あればこそだろう。

 

 だが、同時に不思議に思う。

 ミレイユに鍵を望むのなら、最後の最後で逃すような無様を晒すものだろうか。ミレイユには世界を救うという意志は薄かったし、実際に三度も世界を救ったが、それで世界を大事に思う心が育まれたか、と言われたら否と答える。

 

 むしろ、ゲームで学んだ流れを汲んで、神になる事を選んでいた可能性は考えられないか。

 実際、順調にいっていた様に見えただろう。彼らの想定通りに動いたなら、最後に神になる事を選んでいたかもしれない。

 そこで現世へ帰還したのは、神々からすれば完全な予想外で、これで本当に計画通りいっていたのかどうか、甚だ疑問だった。

 

「……なぁ、これは本当に私を狙い撃ちにした計画だったのか? これには明らかに欠陥があって、下手をすると神になる事を選んでいたぞ。これは本当に、想定通りにやれていたのか?」

「……そうですね、誤算も誤解も幾つかあります。……ただ、神が一枚岩でないのは、もうお分かりだと思いますが」

「……そうだな。事実こうして、裏切りの算段をつけようとしている神もいるくらいだ」

 

 ミレイユが皮肉げな笑みを二柱に向けると、苦笑としか言いようのない笑みが返って来た。

 

「……えぇ、まさしく。そして、足の引っ張りはどこであろうと起きていた。そういう事でもあります」

「だが、私については、一種の虎の子となる計画なんじゃないのか? ……それでも?」

「それでも、ですね。推進したい神、邪魔したい神、そしてその二つすら裏から潰そうとする妾たち。邪魔したい神、というのも少し意味合いが違いますね。それだけ強い神魂から得られるものは、どれ程なのか見極めようとしていた、といいますか……。それでより効率的な延命ができるなら、今の体制を維持すれば良いと、そういう考えを持っていた」

 

 どこにでも、保守派というものはいるようだ。

 むしろ、長く生きればこそ、変化を嫌うというものなのかもしれない。

 そして思惑はどちらにせよ、ミレイユが第三の選択肢を選んだから、また話が拗れてしまったという事か。

 それが始まり、という事になるのかもしれない。

 



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待望 その10

「そして逃げ出した私を追って、取り戻したは良いものの、言うこと聞くだけの良い子ちゃんじゃないと、その時初めて知ったんだな」

「えぇ、手酷いしっぺ返しを食らった……そういう事になるでしょう。神々は貴女を抑えきれなかったし、遠ざけようと必死だった。そして貴女は神を殺してしまったが故に、もう一度やり直すという手段を、講じる必要に迫られたのです」

 

 ミレイユは重く息を吐いて、緩やかに首を振った。

 額に手を当て、さらりと髪を撫で付け後ろへ梳く。

 

 自業自得だと言いたいが、とはいえミレイユとしても、だから世界も破滅して当然、とは思わない。ミレイユを良いように利用した神はともかく、この世に住まう全ての住人、獣や魔物、植物に至るまで、全てを道連れにするのはやり過ぎだ。

 

 今ならば、それを回避したくて策を講じた神と、それに協力したルヴァイルの気持ちも理解できる。

 だが結局、それは欺瞞に過ぎないのではないか。

 

 ループすることで別宇宙が生まれるとして、そこで新たな平行世界が生まれるとしても、上書きされるものではなく、他にも重複して存在していく訳だ。

 

 ならば結局、最初の世界は――ミレイユによって破滅した世界は依然として救われていない事にならないか。ミレイユの主観としては、そんな事実を知らないが、ルヴァイルはまた別だろう。

 それを彼女はどう思っているのだろう。

 

「座して視ている訳にはいかないとしても、滅んだ世界があったのは事実じゃないのか? それを救えないのは構わないのか」

「滅ぼした張本人が良く言うねぇ」

 

 インギェムは外へ向けていた顔を戻し、それから愉快そうな視線を向けた。

 褒めているようにも、貶しているようにも見える態度だった。どう受け止めたものか迷ったが、インギェム本人は気を悪くしているようには見えない。

 だから結局、挑発するように顔を傾け、笑みを見せながら腕を組んだ。

 

「自業自得の典型だろう。飼い犬に手を噛まれるってのは、一体どういう気分なんだ? 私はそんな経験ないから、ぜひ教えて欲しいんだが」

「良心の呵責も無いってかい? 世界一つ滅ぼすだけじゃ足りないかね」

「私にとっては、知らぬ存ぜぬ事だからな。大体、責任を追求したいなら、もっと相応しい神々がいそうなものだろうが」

「悪びれもしないってか。いいねぇ、流石『魔王ミレイユ』だ。己もその名を広めさせた甲斐があったよ」

 

 軽口の応酬が熱を帯び始めたところで、ミレイユの動きがぴたりと止まる。

 あれはミレイユが行った、デルン王国への苛烈な攻撃が元になったと思っていたが、もしかすると違うのだろうか。

 

 ミレイユだけじゃなく、ユミルやアヴェリンなども、敵意を目元に集めていく。

 剣呑な雰囲気が広がり始めたところで、ルヴァイルが手を挙げて取り成した。

 

「インギェム、貴女一体……何をしてるんです。そんなこと妾も知りませんでしたよ。……てっきり自然発生したものだとばかり……」

「いや、元はこいつがデルン軍を虐殺する様な、大規模魔術使ったのが原因だろ。それをちょろっと耳元で囁いてやっただけだ。本当に誰も何も思ってなかったら、その程度の事で定着なんかするもんか」

 

 そう言ったインギェムこそ悪びれもせず、豪快に言って笑った。顔には快活な笑みが浮かんでいて、ミレイユがやった事も、自分がやった事も悪い事だと思っていない。

 頭痛がするような思いで側頭部に手を当て、傾けていた顔を元に戻した。 

 

「まぁ、今更というなら今更だ……。済んだ事と頭を切り替えて――あぁ、つまりそう言いたかったのか?」

「はぁん?」

 

 今度はインギェムが首を大きく傾ける。

 

「だから、滅んだ世界があろうと、そこは切り替えて救える世界に目を向けろとか、そういう」

「――いやお前、己が一々そんな難しいこと考えてると思うなよ」

「じゃあ、何で広めた」

「後先、考えてないからじゃねぇかな? 単にやべー奴だなって思ったから、誰かに言いたくなった。……強いて言うなら、それが理由か?」

 

 難しそうに頭を捻って、言い出した答えがそれだった。

 遂には自分で言った事に自分で笑い出して、ルヴァイルの肩を乱暴に叩いた。べしべしと音がなる度、当の彼女は面倒そうな顔をしていたが、止める事はしない。

 付き合いが長そうな二柱だから、何を言っても無意味と知っているのかもしれなかった。

 

 どうやら、インギェムとは真面目に付き合うと馬鹿を見るものらしい。とはいえ、今まで重苦しい話題ばかりが続いて気が滅入り始めていたところでもある。

 それを払拭してくれたと思えば、そう悪いものでもなかったが、突付けば幾らでも爆弾が飛び出して来そうで怖い。

 ミレイユはインギェムを努めて無視して、ルヴァイルへと向き直った。

 

「あー……、それで……。一度は滅びを回避した世界だが、それで満足した訳でもない、と。むしろ、始まりか……」

「えぇ、貴女に付き合わせる形になってしまったのは申し訳なく思いますが、他に手も無かった。犠牲になった世界を知ればこそ、尚諦める訳にはいかなかった。今ここで、改めて謝罪しておきます」

 

 そう言って、ルヴァイルは深々と頭を下げた。

 インギェムから礼は無かったが、本当にやりやがった、という表情だけは伺える。ミレイユは神人であり、人ともいえないが神でも有り得ない。それに頭を下げたという事実は、意味が大きい。

 ミレイユも素直に謝罪を受け入れ、鷹揚に頷いた。

 

「軽い頭じゃないと分かっているが、それ一つで何もかも帳消しに出来るとも思って欲しくない。そして、それ一つで信頼を向けられるとも。これまでの話に齟齬は無いように見えた。だから、その分については信用してやっても良い」

「えぇ、今はそれだけで十分です」

 

 ユミル達にも、それで良いか、と確認するつもりで顔を左右に向ける。

 アヴェリンとルチアは目を向けると同時に頷き、ユミルは躊躇いを見せながらも、とりあえず頷いた。全てを疑っては前に進めないが、疑う事を疎かにも出来ない。

 

 そして神々の奸計とは、どこに罠が潜んでいるか分からないものだ。

 この二柱すら、その策略の一部とは思いたくないが、頭の隅には残しておく必要がある。そしてそれは、ユミルにとっては当然の事だ。

 

 一々、意思疎通を取らなくても、彼女はミレイユが見過ごした穴を見つけてくれる。

 だからミレイユは、自分の勘を信じつつ、仲間を頼りに話を聞くだけだ。

 

「ループの始まりや、その発端については理解した。計画に穴が見えるように思えるのも、結局神々の中でも意志の統一が出来ていなかった故か。……いや、そもそも重大な裏切り者がいる為に、計画自体も遂行できない様になっている」

「えぇ……。昇神させて贄にしたいもの、鍵としての役割を望むもの、ループの牢獄に閉じ込めたいもの、そして妾。多くはループ牢獄が成就するものの、他が成功しそうになれば妾が邪魔をする。そして、妾の計画が遂行できなくてもループする」

「それが、円満な解決を見るまで、際限なく繰り返されて来た……」

 

 息を吐くようにそう締めると、ルヴァイルはゆっくりと頷く。

 正直言って狂気の沙汰だ。

 

 それが億を越える回数繰り返されているというのが、何より常軌を逸している。

 ルヴァイルが言う円満な解決には、大神……本当の意味での大神を助け出す事、世界の崩壊を避ける事、そしてミレイユの望みを叶える事が含まれている。

 

 ミレイユの望みが入っているのは、自発的な協力を仰ぐしかないからだろう。その確約か、あるいは解決を見た後でなければ、ルヴァイルの望みは叶わないと自覚している。

 

 そして、神を弑せねばならないというのに、世界の崩壊を防ぐというのは、難事という言葉だけでは到底足りない。

 ルヴァイルの想定では、果たして何をすれば解決へ導く事になっているのだろう。

 

「まず、聞かせてくれ。私に何をして欲しいんだ?」

「それは当然……、八神の相手を」

「お前達もか?」

 

 ミレイユが片眉を上げて尋ねると、ルヴァイルは苦笑して顔を振った。

 

「えぇ、勿論私達は除外です。気が済むのなら、妾を手に掛けても構いませんが、それは全て終わってからにして下さい」

「おい、ルヴァイル」

 

 インギェムが咎めるように口を挟むも、やんわりと笑みを浮かべて頷いた。

 

「彼女には、その資格がある。恨み辛みもあるでしょう。当然、それをぶつけるべきは計画を講じた神だけでなく、私でもある筈です」

「それにしたってな……」

「それが彼女に協力を取り付ける条件であるなら、願ってもない事です」

 

 ルヴァイルが毅然とした態度で言うと、インギェムはそれ以上何も言わなくなった。

 ただ拗ねたように唇を尖らせ、ルヴァイルとは正反対の方へ顔を向ける。

 

「お前の覚悟は分かった。ところで聞きたいんだが、ゲルミルの一族へはどれほど関与していた?」

「大枠では余り……。ただ、ミレイユを使う事には進言しました。非協力的過ぎると反感を買いますし、その意見はどちらの派閥からも歓迎される意見でしたので」

「ふぅん……。まぁ、それについては良いわ。アタシにとっては、計画立案者の方が大事だから。後で教えなさい」

 

 ユミルの居丈高な発言にも、ルヴァイルは快く請け負う。

 今更隠し立てするものでもないのだろう。ここまで来れば一蓮托生、信頼を得たい上に、裏切りを前提としているルヴァイルからすれば、易い取引でしかないのだろう。

 

 それは実に妥当としか言えないが、だからこそ念を押しておかねばならない。

 言葉一つで牽制にはなる相手でもないだろうが、しかし言っておく事に意味がある。

 

「ルヴァイル、私はお前の計画に乗り気でいる。敢えてその手を叩き落とすメリットが無いからだ。しかし、私を裏切ろうとしているなら注意する事だ。例え失伝する事になろうと、必ずそれを次に繋いでやるからな」

「心配するには及びません。妾に次は無い」

 



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命の使い道 その1

 言っている事が理解出来ず、ミレイユは思わず首を傾げる。

 ルヴァイルの発言は余裕の現れと見る事も出来たが、窺える表情からも違うように思える。

 

 不退転の覚悟、という訳でもなさそうだった。

 決然というよりは、諦観の方が近い顔をしている。だから、問わずにはいられなかった。

 

「……どういう意味だ?」

「そのままの意味です。もう私はループを続けるつもりがないし、成立させる為に裏から手を回す事もありません。もしも今回のループが失敗に終わっても、次を考えないと言っているのです」

「それは……」

 

 ミレイユとしても、同じ気持ちではある。

 失敗しても繰り返せるという保険を捨て去るつもりでなければ、結局は同じ事の繰り返し。捨てる覚悟と、そして実際に捨てて挑まなければ、成功するものではない。

 それはユミルが指摘した内容にも沿うものだった。

 

 しかし、ルヴァイルが言っている事には、それとも違う微細な差異を感じる。

 そのルヴァイルは、自分の胸に手を当てながら言った。

 

「いずれ来る、成功へ導く可能性を持ったミレイユを待つ事は、自分の咎と思えば耐えられました。しかし……、しかしあまりにも長すぎた。想いだけで耐えられたら良かったのですが、魂の摩耗までは抑えきれなかった……」

「それはつまり、寿命の様なものなのか? 他の神はどうなんだ……?」

「他は関係ありません、妾だけのこと……。繰り返す時を自覚できたことからの弊害でしょう。神は不老不変の存在ですが、何事にも例外はある」

 

 確かに、これは例外に違いない。単に何億年と過ごす事も例外的かもしれないが、ループという行為そのものが、何より例外的だ。そして、それが魂の負担になるというのなら理解もできる。

 

「記憶を保持できたのが問題なのでしょう。魂と記憶は密接に結び付いているもの、だから擦り切れる様に摩耗していく……そう、認識しています。本当にあと一回の猶予もないかまでは分かりませんが、『次』を期待するまで保たないのは間違いないでしょう」

「そうだな……。一億回以上繰り返して漸く巡り会えたものが、都合良く次も来るとは期待できない」

 

 ルヴァイルは瞑目して頷く。その姿を、インギェムは泣くまいと堪える顔をして見つめていた。

 そんな様子を見ていると、この二柱は本当に仲が良いのだと分かる。対等な友人関係を育むのが難しい神という関係にあって、互いを心配できる間柄というのは本当に稀有なものだろう。

 

「それがつまり、次がないと言った真意か。……だが、これを最後に、という決意が上っ面だけじゃないと分かったのは収穫だ。私も『次』を起こさない為に動いているつもりだった。協力関係、同盟関係、そして運命共同体か? そうと思えば、心強いがな」

「――でも、そんな言葉だけで信じるワケないのよね」

 

 そうでしょ、とユミルが顔を向けてきて、ミレイユは当然とばかりに首肯する。

 耳障りが良く、同情を引く様な内容だからとて、だからと素直に応じられるものではない。

 言っている事に嘘はないと思えるが、裏付けの取れないものを証拠として出されて信じられるか、という話だ。

 

 神の奸計・詭計には、何度も煮え湯を飲まされてきた。

 自らを危険な場所へ晒し、信用を得ようとする誠意を見せる事で、こちらもまた信用を向けると思ったら大きな間違いだ。

 

 必要と思えば何でもやるのが神だと思うし、そして実際、これまで多くのやらかしをして来たようだ。それらを赤裸々に語った内容に、どれだけ嘘が紛れていたとしても、ミレイユには分からない。

 

「お前の言う摩耗すら、どこまで信じて良いものやら。同情で気を引こうなんて、土台無理な話だ。何度も繰り返し見てきたなら、私がどういう人間か知っているだろう」

「そうですね、そう言われるだろうと分かっていました。だから最初に言ったのです。――繋属を結びましょう、と」

 

 確かに言っていた。

 それの意味するところは良く分からなかったが、一種の契約だろうという事だけは察しが付く。そして恐らく、そこには強制効果が付随してくるのだろう。

 どういう意味かユミルへ問い掛ける様に視線を向けると、憮然とした表情で答えてくれた。

 

「何となく分かるでしょ? 連なり繋げる事が、インギェムの権能なのよ。物理的にも勿論だけど、時空を越えても作用するぐらい、概念的にも縛られる。だから裏切るな、とかそういう契約の元で繋げられたら反故にする事は出来ない、とされているわね」

「されている? 事実とは違うのか?」

「そうじゃなくて」

 

 ユミルはちらりと笑って続けた。

 

「神の名の下に契約を交わす時なんかに、断ち切れない契約とかを、神殿や神像の前で交わされるんだけど、神が実際に結び手をやるワケじゃないからね。それにあやかって、互いに誠意を見せる為に、その権能を持つ神頼みするって感じで……。本当にやってくれる事例は、アタシも聞いたコトないから」

「あぁ……、そういう。だが、そういう事なら、不意打ちで繋属の権能を使って私達を従わせようとしないのは、誠意の証と見て良いのか?」

 

 ミレイユが挑発的な笑みを向けると、インギェムもまた愉快そうに笑った。

 

「己はそれが一番手っ取り早いと思ってたよ。長々と色々話して協力を得ようとしてたが、一発結んでしまえば済む話だ。けど、そういう話を何一つ己に頼まなかったっていうなら、そりゃあ、やっちゃいけねぇって事なんだろうさ」

「……信頼してるんだな?」

「嫌でもする事になるだろう。己から見れば未来が視えているとしか思えない程に、やる事なす事に間違いがない。やって欲しいことがあれば、事前に聞かされてるんだよ。言われた以上の事をしなければ、何であろうと上手くいくんだ」

 

 そう言って自慢気にルヴァイルを見て、次は凄む様に身体を前に出す。

 

「だから、何も言われてないなら、何もしないのが正解って事だ。……けどなぁ、今回ばかりは勝手が違うんだろうな。見えてないから言わなかったんだろうけど……、どうするルヴァイル?」

「やめて下さいね。そんな事をしたら、全てご破産になりますよ」

「けど、見た訳じゃない……だろ? 自分でも分からない、って言ったじゃないか?」

 

 素朴な疑問の様に聞いているが、言ってる事は裏切りの算段だ。

 話が纏まりかけていたところで、よくも堂々と言えるものだと顔を顰めた。

 それに気付いたルヴァイルは慌てた様子で、インギェムがしている前のめりの姿勢を無理矢理正す。

 

「上手くいきそうな話を、勝手に拗らせないで下さい。余計な真似も、口出しも無用と、それだけ約束して欲しいと言いましたよね?」

「聞いたがよ、だが疑問に思える。やっちゃいけないのか?」

「ここではない別のところでやった事があるからこそ、やるなと言ってるんです」

 

 腕を振り払おうとするインギェムは、その一言でピタリと止まった。

 興味深そうな笑みを向けるのも当然、ミレイユもまた興味がある。数えるのが馬鹿らしいくらい繰り返した事だろうから、そういう強硬策に出た事も、きっとあったろう。

 

 だが、止めるというなら、上手くいかなかったのだろうとも想像はついた。

 ルヴァイルは言い訳を聞かせるように、ミレイユの方をチラチラと見ながらインギェムの説得を続ける。

 

「貴女は誤解しています。ミレイユは既に、ゲルミルによる眷属化の影響化にある。抗え、大神を挫け。その絶対命令を実行しようと、貴女の拘束力に抗おうとする」

「確かにそれは……。だが、そもそもだ。なんだって、それを許した。お前なら防げたんじゃないのか?」

「眷属化は成功に結び付く強い要素です。除外できない。加えて、ミレイユに強制できない、という事実は信頼を得る上でも重要です」

「そうかねぇ……?」

 

 インギェムは疑わしそうに視線をミレイユを向けたが、窘めるようにルヴァイルがその腕を揺する。

 

「貴女の権能は確かに強力無比で、強い強制力を持っていますが、それでも上手くいった試しがない。完全抵抗という訳でないにしろ、安易な傀儡には絶対ならない」

「そこまでか。……他の奴は?」

「可能ですが、つまり人質の様にしか扱えません。他の誰を従わせても、それで脅せる事はない」

「ミレイユが素直に頷かないか?」

「えぇ、そして彼女らは、例え誰であろうと、その一人を犠牲にする事を厭わない。その報いを与えようと、必ず敵となって逆襲してきます」

 

 まぁ、良くもそこまで明け透けに物を言えるものだ。

 ミレイユは感心するやら呆れるやら、複雑な心境で二柱の漫才めいたやり取りを見ていた。

 

 アヴェリンなどはすっかり不機嫌になって、獰猛な獣の様な表情で睨みつけているし、ルチアは絶対零度の視線を向けている。ユミルもまた似た様なもので、呆れ果てた故の無表情で視線をぶつけ、無言の抗議をしているようだ。

 

 全員の視線が向けられているのにも関わらず、それでもルヴァイルが話を無理にでも中断しないのは、ここで言い聞かせ、説得しなければインギェムが暴走すると思っているからだろう。

 彼女は直感型で、事前にしっかり考えてから行動を起こすタイプとは無縁に見える。

 

 この程度の相談は事前に済ませておけ、と言いたいが、先が見え過ぎていた事が弊害となったのかもしれない。

 つまり、ルヴァイルにとっても予想外の事だったのだろう。

 

「無理かねぇ? 情に厚いタイプだろ、どう見ても。無視する事はないんじゃないか?」

「短絡的な方法では、妾の望む円満な解決に程遠いと、分かっていると思いましたが。ミレイユ以外の誰を選ぼうと、起死回生の奪い返す手段が――彼女には隠し札がある」

 

 そう言って、ルヴァイルはユミルを盗み見る様に視線を向けた。

 互いに目が合い、どちらもが威嚇するように目を細め、ミレイユはそれを意外に思いながら見つめる。

 ――いや、意外という程でもないのか。

 

 ユミルがどんな札を隠しているのか分からないが、二人の間では理解し合える問題らしい。

 ルヴァイルが知っている事は疑問でもないが、隠しているものを暴かれたユミルからすると、それが大層気に入らないようだ。

 

 ルヴァイルには奥の手すら読まれている、というのは気分の良いものではない。

 ミレイユにも見せていない札はあるが、結局魔術などの攻撃手段になってくるので、知られているからと痛手になる程ではなかった。

 

 事前に知っていればこそ対処できるものもあるのは事実だが、知ったところで防げないもの、というのはある。ミレイユが持つのはそういう手札だから、敵に知られて面倒とは思っても、だからどうしたと開き直ってやれる。

 

 ユミルの様に、仲間すら知らない奥の手を知られているのは間違いない痛手だ。

 切り所を間違わなければ鬼札になる何か。それは、知られていない事にこそ価値がある。

 

 ミレイユすら知らなかったのだから、余程のものに違いない。

 秘匿に意味も価値もあっただろうものを、この場で暴露されて、ユミルが面白く思う筈もなかった。

 



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命の使い道 その2

 ユミルはルヴァイルに向けた顔を逸らさぬまま、無言で睨みつけている。

 だが、これを失言とは取っていないようだった。これまでの低姿勢だった態度から一転し、攻撃的な視線を見せている。

 

 不思議にも不自然にも思うが、睨み合いを終わるまで待っていたら夜が明けてしまう。

 ミレイユは二人の間の視線を、区切るように手を振った。

 

「ユミル、お前も暴露された事が気に食わないのは当然だが、あれに隠し立て出来るものじゃないと分かっていた筈だろう。その内容までは言われていないんだから、今は飲み込め」

「……フン。確かにそうね。馬鹿みたいに同じ失敗を繰り返して来たんだもの、色々知らなくて良いコトまで知ってるんでしょうし。……そうね、隠したままでいられる、と思っていたのが間違いだったわ」

 

 口では殊勝な事を言いつつ、その視線は未だ敵意を消せていない。

 ルヴァイルにしても強硬な姿勢を崩さない当たり、腹に一物抱えているらしい。もしかすると、彼女もまた煮え湯を何度と無く飲まされて来たからこそ、そういう態度を取るのかもしれなかった。

 そして、失敗の多くをユミルから与えられていたのだとしたら、態度の意味も理解できてしまう。

 

「ルヴァイル、お前が知っている事だろうと、それをみだりに口にするな。ユミルは必要だと判断して、それを私にも隠していた。私はその判断を信頼したい。だから、私にも――他の誰にも教えるな」

「ですが、これは……!」

「多くを見てきたお前だからこそ、言える事もあるんだろう。だが、私が信じるのはお前じゃない。いつだって、重きを置くのは仲間の言葉だ。協力関係を求めるなら、まずそこを履き違えるな」

「……えぇ、分かりました。自制できず口を滑らせた事、申し訳なく思います」

 

 そう言って、ルヴァイルはまずミレイユに頭を下げ、それからユミルにも目礼した。

 それでユミルも少々態度を軟化させたが、睨み付ける視線までは変わらない。

 

「ユミル、お前が必要と判断するまで何も聞かない。アヴェリンも、ルチアも、そういう事だから何も聞くな」

「は……」

 

 アヴェリンは少々納得いかない顔付きであったものの、二人から首肯が返って来て、ミレイユはユミルに向き直る。

 

「そういう訳だが……知ってしまった手前、一つだけ言わせてくれ」

「何よ……?」

「流石だ、抜け目ないな」

「当然でしょ」

 

 掛け値のない賞賛を向けられ、ユミルは誇らしげに胸を張り、やはり自慢気な笑みを見せる。

 ミレイユも笑みを返し、二人で拳をコツンとぶつけ合った時、横合いからアヴェリンが口を挟んで来た。

 

「しかしユミル、信用できない者に知られているのに、ミレイ様にも隠し立てする意味はあるのか? 我々にも教えろとまで言わんが、相手が知っている事をミレイ様がご存知でないというのは、それはそれで問題ではないか」

「そうね、だから折を見て話すわ」

「今ではなく?」

「アタシが何かを隠しているのは知られているとして、その内容まで知らない可能性はあるからね。ブラフに引っ掛かる真似なんかしたくないし、だったら後でこっそり教えた方が良いもの」

 

 淀みない返答に納得して、アヴェリンは何度か頷いてから顔を正面に戻す。

 ミレイユとしても、それに異論などない。何もかも知っている様に見せているし、話を信じるならその様に思えるが、ユミルの懸念も尤もなのだ。

 

 そこへ、挑戦的な笑みを浮かべたルヴァイルが、更に笑みを深くして問うた。

 

「では、本当に知っているかどうか、答え合わせをしましょうか?」

「――結構よ。アンタが本当に知ってるんなら、尚のこと簡単に言って欲しくないのよね。アヴェリンやルチアが漏らすなんて考えてないけど、手段を問わなければ聞き出す方法はある。知らせないでいる方が安心なのよ」

 

 それもまた、納得のいく反論だった。テオの持つ洗脳を始め、ある程度意思を奪う方法というものが、この世界には存在している。

 意志の力で跳ね除ける事も出来るものだから、アヴェリンの様な揺るぎない忠誠心を持つ者には通用し辛いものだが、神々が持つ手管が分からない以上、慢心も出来ない。

 

 そこまで言われてしまっては、ルヴァイルも閉口するしかない。その上で強行して言うようであれば、それは即ち利敵行為となる。

 だからアヴェリンたちも、無理に聞き出そうとしない。

 

 ルヴァイルもそれを良く理解しているのだろう。

 自らの行いを恥じる様に目を伏せ、それから小さく頭を下げてから、ミレイユへと向き直った。

 

 またも話は一度脇へ逸れてしまったが、ともかくもルヴァイルは協力的であり、協調性も見せようとしている。失言を悟り、神としてあって異例なほど頭を下げているので、こちらを尊重する姿勢も伺えた。

 

 インギェムの権能があってもやらないのは、それを覆されてしまうと知っての事かもしれないが、ともかく誠意ある対応を崩すつもりは無いらしい。

 となれば、その誠意の見せ方として繋属を提示したのも、単なるポーズではあるまい。

 その話を真剣に進めようと、ミレイユは二柱の顔を交互に見比べた。

 

「……それで、繋属という話だったが。詳しい話を聞いて良いか?」

「えぇ、勿論……ですが、改めて謝罪を。行き過ぎた発言、軽率な発言だったと反省しています。この様な大事な場で、私心を露わにするなど、あってはならない事でした」

 

 そう言ってミレイユに目礼する。

 悔しげな表情は自責の念によるものだろうが、そうすると先程ミレイユの頭に浮かんだ想像も、決して間違いという訳でもないらしい。

 

 神の思惑――洗脳や強制的な隷属を覆す手段を持っているというなら、それは中々に頼もしい。そして恐らく、何度手を変え品を変えても、ユミルはそれを突破し最終的に失敗するよう動いてくれるようだ。

 改めて労う様な視線をユミルへ向けてから、ルヴァイルが口を開くのを待った。

 

「それで、繋属についてですが……。互いに裏切らず、協力関係を維持し、双方の目的完遂に全力を尽くす。それを、契約として結びたいと思っているのです」

「それを聞くだけなら問題ない様に思えるな。抜け道は無いのか?」

「あると感じる様なら、文言を追加しても構いません。ただ、やはり余り冗長なものは推奨されません。一つ一つの契約に拘束力が分散されるので、シンプルな方がより強く繋属する事になります」

「――最初に聞いた時から思ってたんですけど」

 

 一声上げて、ルチアは手首を返すだけの小さな挙手をして会話を止めた。

 それまでは特に口を挟むつもりはなかったから、聞き役に徹していたようだが、思い付いた事を言わずに済めなくなったらしい。

 

「今の話を聞くだに、どうもユミルさんの眷属化と似たような強制力があるようじゃないですか。じゃあ、敢えてそちらが用意した手段でなくとも、ユミルさんを使っても良くないですか?」

「その効力を、身を持って体験した私からすると、それは実際魅力的に感じるが……無理だろうな」

 

 むしろミレイユはその案を採用したいぐらいだが、彼女らは決して認めまい。

 ルチアは小首を傾げて続ける。

 

「それはやはり、神が眷属なんて笑い話にもならないから、でしょうか? 生殺与奪の権利を奪われるのだとしても、己の生命すら担保にするような発言もあったじゃないですか。抜け道を用意してるか判断できない手段を、敢えて利用する意味ありますか?」

「ここぞと言う場面で裏切る為にか? そこまで行くと、何もかも信用できないなら手を組むな、という話になる。不毛でしかないから、それは止めておこう」

 

 ですね、と少々不満な顔を見せたが、これは単に意見を却下されて不満を顔に出したのではない。

 ルチアもまた不安なのだ。信用できないのに、信用するしかないジレンマに苦しんでいる。

 互いに利用する関係と理解していて、そう割り切るつもりでも、最後に梯子を外されるのを恐れているのだ。

 

 それはミレイユも同じだが、そうするつもりはないと、ルヴァイルも誠意を見せている段階だろう。基本的に信用を置ける間柄にはならないと理解しているから、その折衷案とも言えるものを見せているのだ。

 

 それさえ信用できないのなら、今ミレイユが言ったとおり、独力で目的を果たすしかない。

 だが同時に、それが酷く困難なものだと理解もしている。神々の所在も、そこへ行く付く方法も、何一つ確かなものを持たない。

 

 いずれ見つけられる、時間さえ掛ければ、必ず追い詰めてみせる――。

 そう思うのだが、それを許さないのが神というものだ。ミレイユを森に閉じ込める事を目的として何かを画策している、という話もある。

 

 時間を掛ける事がミレイユの害となるなら、悠長に探す旅は出来ないだろう。

 そして、それだけ問題を認識しているなら、一足飛びに超えられる手段を持つルヴァイルからの提案を、そう簡単に蹴られないのだ。

 

 ルヴァイルはそれらを挙げ連ねて、協力しなければ身の破滅だ、と脅す事も出来た。

 だが、如何なる方法でも上手く行かないから、こうして素直に頭を下げる事が有効だと判断したのだろう。誠意を向けて対応する限りにおいて、ミレイユもまたその誠意を返すと理解している。

 

 そして、話を聞く限り、ルヴァイルからしても後がない。

 このままだとデイアート世界の破滅、そして現世の破滅、という共倒れの未来しかない。

 始めたのは神々の方だから、どうなろうと自業自得だと蔑みたい気持ちもあるが、ミレイユが協力する気になっているのは、オミカゲ様の時と同じ理屈だ。

 

 滅びるのが自分だけなら諦めも付くが、それが世界をも巻き込むものなら、仕方ないでは済まされない。

 何の関係もない、無辜の民を犠牲になろうと構わない、とそこまで利己的にも自己中心的にもなれない、という理屈だ。

 ルヴァイルもまた同じ様に、己が身を犠牲にしても世界を救い、そして正そうとしている。

 だから、ミレイユは乗ってやっても良いかもしれない、という前向きな気持ちになっているだけだった。

 



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命の使い道 その3

「それじゃあ……、手を組む事は、もう決定事項と思って良いんですか?」

「あぁ、互いにナイフを隠し持っているのだとしても、そういうものだと割り切って協力するしかないだろうな」

「でもやっぱり、ある種の契約を強制しようというのなら、相手の持ち物よりこちらの物を使う方が、安心できるじゃないですか? 神として、それだけは飲めないと言いたい気持ちも分かりますけど……」

 

 かつて下剋上して大神の地位を奪ったにしろ、実は小神と同じ存在であったにしろ、神は神に違いない。あらゆる人種や命の上に立つ存在だから、それに隷属する形は受け入れられない、という意見には納得できる。

 

 だが、事の本質はそこではないだろう、とミレイユは見ていた。

 下手に出て誠意を見せる姿は、決して見せかけではない。ルヴァイルにはそれだけの覚悟を持って臨んでいる。そしてユミルが持つ能力の事を良く知っている彼女が、それを指定しないと言うなら、考えられる要因は絞られる。

 

「眼の色が変わってしまうのが問題なんだろう。そして、何故変わったのかの説明を迫られた場合、相当厄介な事になる」

「あぁ……。でも、困りますかね? 知られて困る相手なんているんですか?」

 

 ルチアは一瞬納得しそうな素振りで頷いたが、すぐに動きを止めて首を傾げた。

 それに苦笑を返して、ルヴァイルが答える。

 

「無論、他の神々に知られると困ります。隷属したなんて事が判明した暁には、即座に拘束されるでしょう。何を教えたか、どういう情報を流したか、汎ゆる手段で聞き出そうとする」

「あぁ、……やはりか」

「でも、神々ってそれほど密接なやりとりをしているんですか? 個人主義的な部分が目立ちますし、先程の話からも、互いに足を引っ張るような間柄なんでしょう?」

 

 ルチアから素朴な疑問が飛んだが、親密でも綿密でもなかろうと、出会う機会はあるのだろう。何よりミレイユを罠の中へ誘き出し、そして罠の口を閉じようという段階なのだ。

 有事の際にあって顔を合わせるというなら、今がまさにその有事の際中だ。

 

 特に神の動きなど人には伺えないのだから、実は会社勤めの様に出入りしている建物があったとしても、ミレイユは驚かない。

 ルヴァイルはルチアに頷き、ミレイユの予想を補足するような内容を話し出した。

 

「神々に取り、重要な場面というのは正にこれからなのです。ミレイユをこのまま送り返せるか、その際にどの神も犠牲にならずに済むか、昇神させずに済むか、その瀬戸際に立たされています。遠からず、その確認を含めた会議が開かれます。そこに眼を変色させて行く訳にはいきません」

「私達が出会う時期をずらすのは?」

「不可能です。互いに監視する様な間柄とも言ったでしょう? 今後、こうして二柱揃って出向く機会は得られません。そして何より、私には注目されるだけの理由がありますから。……あるいは、それを嫌疑と言い換えても良いかも知れませんが……」

 

 穏やかでない言い方に、ミレイユが眉を顰めていると、ルヴァイルは達観したかの様に笑う。

 

「インギェムの様な考えなしの神がいるのと同様、考え過ぎる神というのもいるのです。貴女が奸計・詭計と呼ぶものを考えたのは、その一柱です。なので当然、私の離反についても疑っています。僅かな隙から察した事も、見せずに察せられた事もある神です。今回の私の動きも、果たしてどこまで理解しているやら……」

「あぁ、これまで散々こき使ってくれて、そして振り回してくれた輩か。是非とも礼の一言も言ってやりたい。そいつの名前はなんという?」

「ラウアイクスです。水源と流動の」

「そいつ、ね……」

 

 ユミルが顔を顰めて嘯くが、詳しいことを聞くより、話の内容の方が気になった。

 インギェムも眉間に皺を寄せて尋ねている。

 

「己達の密会にも、既に知られていると考えた方が良いのか?」

「知られてはいないけれど、嫌疑は深まったと考えた方が良いと思います。そして、知られた前提で行動した方が良い。知らぬ存ぜぬを貫き通すのは当然として、うまい言い訳を考えておく必要があります。それについては、また後で話しましょう」

「あぁ、分かった」

 

 それだけ言うと、インギェムは憤懣を閉じ込めるように大きく息を吸い、顰めっ面のまま腕を組んで、それきり黙った。

 ルヴァイルはちらりと苦笑してから、ミレイユへと向き直る。

 

「そういう訳ですので、眼の色が変わる隷属も、そして会議の後へ時期をずらすのも難しい。手助けを惜しむつもりはありませんが、状況はひどく限られるでしょう」

「あぁ、それについては良いさ。お前たちという札は、隠しておけるならその方が良いだろうしな。……なるほど、そういう事なら、繋属の権能で契約を結んで貰うのも納得しよう」

 

 心から歓迎する訳ではないが、代案を他に提示できないというなら、それを受け入れるしかないだろう。

 

「――すぐに始めるか?」

「えぇ、手早く済ませてしまいましょう。まだ多く、話さねばならない内容は残っています。それで、契約の内容に見直しは?」

 

 ミレイユがユミルへ顔を向けて、次いでルチアにも視線を送った。

 二人は顎先を摘むように考え込んでから、互い顔を見合わせて、片眉を上げて笑む。互いに何かを思い付いた様で、不敵な笑みが浮かんでいた。

 

「まぁ、全面的に考え直しですよね」

「というより、裏切りなんて文言いらないでしょ。何を持って裏切りって定義されるのよ? 自身の倫理観において、というなら、アタシ達の害になろうと裏切りと認識されないものは、通用してしまう理屈じゃないのよ」

「そこのところ、どうなんですか?」

 

 ルチアが問うと、ルヴァイルは虚を突かれた様な表情を見せる。

 それからインギェムを見て、息を呑んでから頷いた。

 

「そうですね、神の倫理において、という話になりますか。貴女の言う理屈が全くの見当違いではない、と認めなければならないようです」

「じゃあ、駄目ね。文面は最初から考え直しにするわ」

「えぇ、構いません」

 

 ルヴァイルの顔に、強がりの様なものは浮かんでいなかった。

 ただ、失意の様なものは感じられる。

 繰り返す時の中で、この状況まで持ってこれた事実があるなら、この様な不手際は見せないだろう。最初からそつのないものを提示するか、あるいはルチアとユミルの思考の死角をついた内容を用意していたに違いない。

 

 その部分だけ見ても、彼女の言の裏取りが出来たようなものだ。

 良くやった、と褒める視線を向けながら、二人が考える文面を待った。

 ルチアが首を傾げなら口を開く。

 

「それじゃ、こちらが裏切りと糾弾する限りにおいて、と置き換えましょうか」

「受け入れられません。それならば、糾弾そのものを制限する、別の契約がなければ成立し得ないでしょう。好きに糾弾されてしまえば、全くの無法となります」

「だからそれはミレイさんの特権として、また糾弾権利を別に付随してください。それこそ、ミレイさんの倫理において、という形に置いても良いではないですか? ミレイさんの精神性について、貴女も認められる部分はあるんじゃないですか?」

 

 ルヴァイルはしばし考える仕草を見せたものの、即座に頷いた。

 

「良いでしょう。それについては別途契約の枠を作るとして、それで……?」

「話を進める前に、まずその契約を済ませて頂戴な。それに不満がないと言うなら、別に構わないでしょ?」

「誠意を見せるというなら、ここは見せ所だと思いますけどね」

 

 ルチアが冷淡な視線で言って、二人の神の間を行き来させる。

 インギェムはお好きにどうぞ、という様に肩を竦め、ルヴァイルが考え込むように視線を下げた。どうにも一々反応が遅い。慣れない状況、先行きが視えない状況は、彼女をとかく尻込みさせてしまうものらしい。

 

 視えていた目を、突然奪われたようなものだろう。頼っていた実感はあっても、それを自覚する機会に恵まれなかった。目を閉じて歩く事に強く意識してしまった結果、躊躇が生まれているのかもしれない。

 

 しばしの熟考の後、ルヴァイルはインギェムへ顔を向け、首肯を見せる。

 そうすると、ぞんざいな手付きで片手を上げ、指一本でミレイユとルヴァイルの間に線を引く。

 

「ルヴァイルを糾弾できる権利を、ミレイユに委ねる。その倫理に従い、無駄な糾弾はしないと誓うか?」

「誓う」

「ルヴァイルは、それを認めるか?」

「認めます」

 

 ミレイユとルヴァイルの間に、可視化された一本の線が生まれ、その両端が二人に結び付く。接触と同時に脈動するように発光し、そして瞬きする間に消えていった。

 

「これで一人と一柱は、契約によって結ばれ繋ぎ止められた。お前は自分の倫理に嘘をつけないし、倫理に従ってのみ糾弾を許される。悪意を持った糾弾、あるいは理屈を伴わない糾弾は、お前の口から決して出ない」

「あぁ、それで問題ない。デメリットという程のものじゃないしな」

 

 ミレイユが頷くと、ルヴァイルもまた同意するように頷いた。

 ある種の首輪として、ミレイユにも遵守させるのは良いとして、ならば今度はルヴァイルが裏切った場合の契約が必要だ。

 そう考えるのと同時、ルチアが先に口を出す。確認というより、念押しに近い言い方だった。

 

「裏切った場合の代償として、その時は貴女の命より大事なものを、自分で奪って頂きます」

「妾の命よりも、ですか。……それを、我が手で奪えと」

 

 神の命より高く値が付くものは多くない。

 それこそ大事にしていると思えるのは、隣に座る友の命となりそうだ。それを自らの手で奪えというなら、裏切りの代償としては効果的に思える。

 ミレイユとしては妥当に思えたが、そこへユミルが待ったを賭けた。

 

「それじゃ物足りないわ。友の命はね、時として目的の為なら捨て去る覚悟の出来るものよ」

「それもそうですね。神の倫理を考えれば、それも有り得る話でした」

 

 自己犠牲とは無縁に見える神だし、かつてはそれが許容できなくて反旗を翻し二柱だ。今となっては後悔していると言っているし、互いの命の使い所すら、既に決めている可能性すらある。

 

 その生命を奪う命令は、あまり意味のないものかもしれない。

 だから、とユミルはにったりとした、嫌らしい笑みを浮かべる。

 

「今も封印されてるとかいう、大神の命を奪いなさい」

「――そんな!」

 

 ルヴァイルは動揺した声を上げて、顔面蒼白に否定する。

 だがユミルは、そんな顔をまさに待ちかねていたかのように、笑みを深くした。

 

「……ご不満? これは楔なの。裏切りを思い留まらせる為に、有効な一手でなくてはならない。大神の死は世界の死、再興の目が潰れる原因かもしれないけど、裏切るつもりがないなら問題ないでしょ?」

「それは、そうですが……。しかし、何も大神の命でなくとも……」

「躊躇うというなら、尚の事アタシ達にとっては有益な担保だわ。ウチの子は、アンタの裏切りを見るか、あるいは察するかすれば、その口から糾弾の声を出せる。アンタは、それを聞いたら大神を滅するべく動かねばならない」

 

 既に分かっている事を、殊更言い聞かせる様に口に出すのは、それが脅しとして有効だと知っているからこそだ。今や完全に、ルヴァイルの首根っこを捕まえた様な状況だった。

 

「ほら、段取りは済んでるわ。あとはアンタの覚悟を見せるだけ」

「その様ですね……」

 

 ルヴァイルは恨みがましい視線をユミルに向け、躊躇う心が揺れるように、その瞳も同じく揺れた。



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命の使い道 その4

 ユミルの顔には、してやったり、という満足げな笑みを浮かんでいた。話を一度中断してまで、あの契約を急がせたのはこの為だったのか。

 

 最初から裏切るつもりなど無かったと思うが、これが楔として有効に働く事は間違いない。

 ルヴァイルが先に提案した内容も、そつなく効果を発揮したと思うし、裏切りの意思がなければこそ問題ないと、軽く考えられるものだった。

 

 しかし、この契約は単に裏切らないだけでなく、協力的であることを求められる。

 あるいはミレイユの睨みに対し、真摯である必要がある。

 

 元より半端な覚悟で決めた離反でないと理解しているが、ミレイユに対しても半端な覚悟でいて貰っては困るのだ。ルチアが抱いていた、最後にハシゴを外される懸念も、これで多くは回避できる。

 

 ルヴァイルの最終的な目的――今も大神を名乗る不届きな輩を滅した後になって、もう用済みだとミレイユを見捨てる事だけは出来ない。

 その大きな担保を手に入れた。――手に入れようとしている。

 

 どうなの、とユミルが凄みを利かせて再度尋ねると、ルヴァイルは覚悟と意志を伴う瞳で首肯を返した。

 

「――良いでしょう。元より裏切るつもりもなく、そして出来うる限りの支援をするつもりでした。どこか甘く考えていた部分は認めましょう。後がないと言いつつ、覚悟が足りていませんでした。……その条件を呑みます」

「良いわね。ようやくアタシも、アンタを好きになれそうよ」

 

 思ってもいない事を、嗜虐的な笑みを浮かべつつ言うと、ルヴァイルは大いに顔を歪めて視線を切った。その反応でユミルは、更に機嫌を良くして笑う。

 

 インギェムも面白くなさそうにやり取りを見ていたが、ルヴァイルが認めた事ならば、と深く追求する事はしなかった。

 面倒そうに耳の後ろを掻いて、自分の仕事を終わらせようと指一本を挙げる。

 

「それじゃ、始めて良いか? ……良いのか、ルヴァイル?」

「えぇ、構いません」

 

 インギェムは未だに何かを言いたげにしていたが、鼻から盛大に息を吐き出し、ミレイユとルヴァイルの間に再び線を引く。

 

「ルヴァイルは裏切りを糾弾された時、持てる力全てで、大神の命を滅するよう、最大限努力しなければならない。誓うか?」

「……誓います」

「ミレイユはこの内容で認めるか?」

「認める」

 

 ミレイユとルヴァイルの間に引いていた一本の線が実体化し、その両端が二人に結び付く。先程同様、接触と同時に脈動するように発光し、そして瞬きする間に消えていった。

 

「これで一人と一柱は、契約によって結ばれ繋ぎ止められた。……しかしまぁ、でっかい楔を打ち込まれたもんだ。そこまで譲ってやる必要あったかね。裏切るつもりもないとは聞いてたけど、こっちこそ大丈夫なのか?」

「裏を掻かれて、何かされるとでも?」

 

 不承不承、渋々、嫌々ながら、その様な思いが声として聞こえてくるようだった。かつてこれ程、神に対して重い制約を求められた事など有っただろうか。

 だが、それでも飲み込んだというなら、ルヴァイルに元より裏切るつもりなどなかった、と証明されたようなものだ。

 

「ミレイユの倫理観ならば良く理解しています。仲間の誰も欠落していない時のミレイユは、大変理知的で、冷静で、頼りになる。味方にするならば、これほど信用できる者も珍しい」

「随分、高く買ってるんだな」

「そうでなければ、協力や同盟を結ぼうなどと考えません」

 

 そう言って、盛大に溜め息を吐いてから、気分を切り替えるように頭を軽く振る。

 

「まさか、こんな事まで課せられるとは思いませんでしたが、彼女の言うとおりです。……裏切るつもりなどないのだから、精々、互いに利用し利用される関係で事を成せば良いでしょう」

「そうよね? 精々、便利使いしてやろう、なんて考えるようじゃ、この先思いやられるってワケよ」

「そんなこと考えてませんが、……どういう事です」

 

 ユミルの顔に浮かぶ嗜虐敵な笑みに不安を抱いたのか、あるいは不穏な台詞を聞き流せなかったのか、表情を暗くしたルヴァイルが尋ねた。

 

「いやねぇ、裏切りと察せられない程度には、アンタも働かないといけないのよ? なんかちょっと動き辛いから、とにかく上手くやってくれ、なんて指示したら、裏切り行為になるかもね?」

「……なる訳ないでしょう。詭計の得意な神がいると言いました。言葉の端から多くを察するミレイユを、傍で見ていた貴女なら分かる筈。こちらにもそういうのがいます。迂闊な行動は私達両方の首を締めるのだと、ミレイユとて理解してくれる事でしょう」

「それは勿論、ウチの子も分別がある。けれど、その理由が一度ならず三度も続いたら……、不審ってやつが首をもたげるかもね? 更に続けば、裏切り行為と言わないまでも、近いものを感じてしまうのが人間ってものよ。……どこまで我慢して貰えるか、大きな賭けになりそうよねぇ……?」

 

 ルヴァイルの息が詰まる。そればかりでなく、うめき声すら漏れた。

 わなわなと震える姿を見て、流石に哀れに思い、流石に黙り続けている訳にもいかなくなった。

 

「そんな顔しなくて良いぞ、ユミルは単に面白がって脅してるだけだ。私の忍耐は良くご存知なんだろう? 手綱の握り方、使い方も理解している筈じゃないか。悲観的になる事ないと思うんだがな」

「貴女は、時に考え過ぎるきらいがあります。自らの推論に取り憑かれることも珍しくありません。視え過ぎる上に理解し過ぎているから、そこに説得力を見つけると、それらを結び付けて考えがちです。その洞察力が、互いの首を締めるのだと理解すべきです」

 

 なるほど、ミレイユを良く知というだけはあって、指摘は適格だ。

 言うこと全て正鵠を得ている。ミレイユ自身、自覚あることだったので、改めて指摘されて身が引き締まる思いがした。

 

「なるほど、良く心掛けよう。程々に適当、そして締める所は締める。そのつもりでいるようにな。……なぁ、同盟者どの」

「えぇ、これを最後に。これで終わらせる。それを互いに思っているんですから、裏切りなんてありません。貴女の方こそ、利用するだけ利用して、後は捨て置こうなどと考えませんように」

「それこそ確認する必要のない事だろう。この世界は、大切な友の故郷だ、投げ捨てるような真似はしない」

 

 互いに頷き、ミレイユの方から手を差し出す。

 ルヴァイルはそれを不思議そうに見つめ、首を傾げた。握手の習慣は知っていても、それを自らへ差し出されるものとは理解できなかったらしい。

 

「ほら、握手だ。互いの合意が得られたなら、人の(あいだ)ではこうするんだよ」

「私は人間ではありませんが……、分かりました」

 

 ルヴァイルはおずおずと手を差し出し、壊れ物に触れるよう、ミレイユの指先を握る。握り方そのものもぎこちなく、握手というより摘むかのようだった。

 仕方ない、と苦笑して、ミレイユの方から形を整えてやって握り返し、軽く上下に振る。

 

 その様子を目を丸くしながら見つめ、されるがままに手を振られた。

 三度の上下を経て手が離れると、自らの掌を見つめ、それから子供のような笑みを浮かべた。

 

 しばらく掌を見つめていたルヴァイルだったが、その後は大事な物のように胸に抱き、満足気に瞼を閉じる。何を思い、何を感じたのかは不明だが、新鮮な体験であったのは確かなようだ。

 満足するまで待ってやっても良かったが、中にはシビレを切らした者もいる。

 

「さて、大変ご満足されたところで、話を進めてもよろしいかしらね?」

「え、えぇ……! はい、どうぞ……!」

 

 ユミルの苛立ちが籠もった言葉に身体を跳ねさせ、手を太ももの上に戻したルヴァイルが、こくこくと首を上下させる。

 それでミレイユの方から、一つ尋ねたい事があるのを思い出した。思い出した、というよりはいつ切り出そうか迷っていたものだ。

 

 もしも裏切るつもりがあり、そして敢えて敵陣の中で上手く踊ってやるつもりでいたのなら、この質問はその試金石となる筈だった。

 その返答次第で、腹の底まで読めるとまで言わないが、察する材料には出来る。淡い期待の一つとして、もしかするとボロを出すかもと思っていたのだが、既にその心配もない。

 

 協調姿勢は最初から見せていたが、今となってはこちらが協力関係を強く握った形で落ち着いている。

 だから、これからする質問は、幾らか気楽な感じで聞くことが出来た。

 

「――私に、まだ言ってない事があるだろう? 隠し事……ではないのかもしれないが。そしてそれは、神々が待ちの姿勢を取っている事と関係している、と見てる。……どうなんだ?」

「えぇ、隠す事ではありません。というよりは、話さなければならない事柄です。この時点で、それに気づけるミレイユは多くありませんが、ほぼ確信としているのは流石ですね」

 

 ルヴァイルが見せる表情に翳りはなく、心からの賞賛だと分かる。頼もしい、と思っている様だし、指摘に対して誤魔化す素振りも見せない。

 どうやら本心らしい、と判断しながら言葉を待った。

 

「神々が待ちの姿勢を取る理由、それはもうお分かりでしょう。手酷い反撃を受ける事を恐れていて、二の舞いになる事を避けようとしている。私の提言から、そうなる未来の確度は高いと理解している者は多いし、ミレイユへの接触禁止令も出ている。だから姿を見せようとしないし、森に留まっていて欲しいと思ってる」

「尤もらしく聞こえるが、それだけでは話が繋がらない。何故、私が時間を浪費する事で、相手の利となるんだ? 森を攻め落とす軍隊を用意すれば、最終的に私が逃げ出し、また『遺物』を使って再起を図ろうとするとでも? むしろ、神々に報復してやろうとする、とは考えないのか?」

 

 その用意する軍隊の質にもよるだろうが、森を攻め落とすのは簡単な事ではない。現世で神宮を襲った程の大軍を再現すれば、確かにそれは可能となるだろう。

 

 しかし、神々がしたいのはミレイユを滅する事ではないし、それにミレイユの目的は森の死守でもない。エルフも獣人も即座に見捨てるほど薄情ではないが、命を張って護り通すものでもないのは、神々も理解している筈だ。

 それがミレイユの頭を悩ませた。

 



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命の使い道 その5

 大体、ミレイユたちを打破し得る、精強な軍隊を用意したところで、まず逃げ出す公算の方が高い。

 あくまで見据えている目的は、エルフや森を救う事ではなく、神々を討ち倒す事だ。最低でも、現世への派兵やミレイユから手を引かせる事を、確約させてやる必要がある。

 

 そして何より大きな目的がループからの脱却で、最悪の事態になろうと、これだけでも完遂しようと考えている。神々が待っているだけでは、ミレイユは決してそれを諦めないし、戦力を集めていようと、逃げて再起を図るだけだ。

 

 神々の目的が、ミレイユをループという時の牢獄に閉じ込めてしまう事であるのなら、ミレイユの時間を浪費させているだけで、それは叶わない筈なのだ。

 ミレイユを昇神させないつもりでいるなら、むしろ長時間の拘束は不利益の方が大きい。

 

 今回は完全にミレイユのミスだが、最低でも一年の間にエルフ達の洗脳が解ける。

 解ける事が、即座の昇神を意味しないものの、あえて放置するには怖い懸念だ。

 

 それを理解していない筈がない。

 だから神々の沈黙が不気味だったし、腑に落ちない。そしてそれは、待たされている時間ずっと考えていた事でもあった。

 ……だが、結局答えは出なかった。

 

 一体何をすれば、ミレイユはループし直す事を選択するのか。

 オミカゲ様とミレイユとでは、辿った流れが全く違うから参考にはならないが、どうすれば神々と対峙し、そして打ち負ける結果になるのだろうか。

 

 今ルヴァイルとインギェムが姿を見せているのは例外的な状況だし、それは全く参考にならない。

 もしかすると、本当の大神を除く、残りの神全てが結集でもして、ミレイユを襲撃するのだろうか。

 

 確かにそれなら敗退しそうではあるが、神々は指し手に違いない。余程の事がなければ、盤上の駒として下りて来ないと見ていた。

 あるとすれば、それこそ最後の仕掛けとして、ミレイユに偽の情報を与える時くらいでなければならないだろう。

 

 だが、神の襲撃にそれほど時間が必要とは思えない。足のみ揃えるだけの事に、何か月も時間が必要だと言われても、腑に落ちないとしか言えなかった。

 

 その表情が顔に出ていたのだろう、ルヴァイルは気遣わしい顔で頷いて口を開く。

 

「森の民に虐殺が起こり……、それを貴女が防げなかったとして、だから逃げ出すだけで終わるとは思っていません。敵意を漲らせ、如何なる手段を持ってしても報復しようとするのは、目に見えています」

「正しい分析が出来ているようで何よりだ。だから、不自然な沈黙と時間稼ぎが、攻撃の準備じゃないと睨んでる。かといって、攻め込まれた場合の為に、防備を厚くする準備をしているとも思えない。神々としては、一度として姿を見せたくない筈だ。あるとすれば、それは()()()()()()()()()()が出来る時だけ」

「貴女もまた、正しい分析が出来ているようで何よりです」

 

 ルヴァイルが俯くようにして頷き、それからミレイユの胸を見た。胸というより、みぞおち辺りを注目しているようでもあり、不思議に思いながらも続きを促す。

 

「はぐらかさないで教えろ」

「えぇ……。神々が求める最上の結末は、不戦勝です。見られず、触れられず、負けを悟って自ら逃げ出す。そういう結末を求めています」

「随分と都合の良い、甘い考えでいることだな。おめでたい頭の奴らしかいないのか? 最初から逃がすつもりでいるのなら、連れ戻さず放っておけと言いたいんだがな」

 

 ルヴァイルは苦く笑って首を振った。

 

「いっそ、そうであったら良かったのですが……。しかし、貴女を贄として消費したい者、鍵として利用したい者とが取り合っているので、そうもいかなかった。本当に強い敵愾心を持つのか、あったとして付け入る隙はあるのか、その確認をせずに、納得する者たちでもありませんでしたので」

「つまりそれが、カリューシーの役割だった、って訳だな」

 

 インギェムが口を挟んで捕捉してきて、ミレイユは唸りながらルヴァイルへ顔を向ける。

 

「あれに、そんな役割があったのか? 自分で好き勝手にやった結果、私達にちょっかいを掛けて反感を買ったのだと思っていた……」

 

 ルヴァイルは当然だ、とでも言うように、鷹揚に頷く。

 

「貴女も良くご存知の筈では? 大神とは、自分の望む様に転がすのが大好きなのです。そして自分の真意は悟らせない。カリューシーが自分の意志で行ったのは事実ですよ。そして、それを軽く焚き付けてやるだけで実行するだろう、という予測は事前にされていたものでした」

「だが、焚き付けたところで勝てる筈ないとも理解してたんじゃないのか? 小神は既に一柱倒した事があったし、それに匹敵する、世界の危機となるドラゴンすら討伐しているんだ。実力の程を理解していない筈がないだろう」

「そうですね。貴女はその様に望まれ、その様に調整された素体です。カリューシーが勝つとは思っていませんでしたし、情報を抜き取られたとしても、その真意にまで辿り着く事はないと思っています。……妾の様な、裏切り者がいない限りは」

 

 ミレイユは小さく頷く。

 実際、彼の言葉に嘘がなかった以上、その言葉を鵜呑みにするしかなかった。

 神々の真意など知らず、そしてカリューシーが飛び込み参加して来たのも、彼が観ているだけでは飽き足らない、と思ったからだ。

 

 だがその実、焚き付けられた小神(カリューシー)は、複数の役割を持たされていた。

 贄として利用するのが一つ、そしてミレイユの敵意の程を調べる、秤としての役割が一つ。

 そして、実際の対応を見て、やはりルヴァイルの提言は正しかったと確認できた事だろう。

 

「まぁ……、神々からすれば敢えて危ない橋を利用する事はない、といったところか。調整素体は実際、それなりの成果を示した。今度はもっと上手くやればいい。奴らからすれば、ルヴァイルの提言の裏付けが取れるし、捨て置くだけは出来なかったものを、確認できたから満足という訳か……」

「そうです。本来は反逆出来ない思考調整をされている筈ですが、ゲルミルの一族が傍にいるなら、抜け道を使ったかもしれない、と理解してますから」

「そこまで正確に推測できるものなのか? それとも、お前が繰り返す時の中では絶対に行う事だから、と提言したから通ったのか?」

 

 ルヴァイルは少し難しそうに考え込んで、それから顔を上げて言った。

 

「貴女がそれを選択する確率は高いものの、絶対ではない。確率的には九割を超えますが、もしも眷属化していないなら、選べる選択肢は増える。それを確認する意味もあります」

「なるほど……。捨て置くには惜しいと考えるなら、そして出来る手段を持つのなら、確認しないで訳にもいかないと」

「はい。なので次の素体に期待しよう……そういう話が、次の会合で出てきます。貴女は素体の最高傑作たらんと造られ、だが同時に試作品でもあった。問題点の洗い出しが出来たのなら、それはそれで有意義です」

 

 盛大な舌打ちが横から聞こえ、見ればアヴェリンが苛立たし気に腕を組んでいた。口出しも極力しないように、と心掛けているが、瞼を閉じた眉間には深いシワが刻まれている。

 組んだ腕にも力が籠もり、二の腕が盛り上がっている。拳の形は見えないが、きっと握り込められているに違いない。

 

 ミレイユはモルモットに過ぎなかった。

 その様に造ったからこそ、神にも引けを取らない存在となったが、都合よく転ばないと分かれば捨てるだけ。ただし、この素体は油断がならないだけでなく、手を出せば指を食い千切るだけでなく、命まで奪う。

 

 理解が進む程に、ミレイユの処理方法に困ったのではないか、という気がする。

 放置する事だけは出来ないが、触るのは怖い。

 

 だから結局、触らぬ神に祟りなし、とでもするつもりだったのか。

 何しろ、素体はミレイユが最後の一体ではなく、それどころか試作品と聞いたばかりだ。試作というからには、正式型を作る予定があるという事だ。

 

「破綻が近くにあり、時間は有限……。そして、次の素体を活用すれば、全てを一足飛びに解決する手段が手に入る訳だな。あらゆる願いを叶える『鍵』。今度こそ、自分達の思惑通りに動く鍵だ。神魂のストックも十分ある。……時間さえ稼げれば、どうにかなるって算段か」

「えぇ……。ですが、神魂を使って延命派もいますし、鍵への執着が捨てられない神もいる。思惑が異なり、勝手に暴走しないよう、上手く取り纏めて同時進行しているのが現状です。その上で、妾が裏切るかもしれない可能性に気付いています」

 

 よくよく周りと先が見えてる神だ。

 カリューシーがミレイユを見て、神らしい奴、と言った台詞には呆れが存分に含まれていたが、今のミレイユも似たような気持ちだった。

 

 そして実際、単に強いというだけでは超えられない壁を、策を弄して十重二十重に築いていた。

 冥土の土産として勝ち誇る場面ですら、そこに欺瞞を混ぜて自ら罠に掛かるよう誘導していた。

 そこにルヴァイルからの思惑も重ねれば、最早ミレイユ一人でどうにかなる問題ではない。

 

 ミレイユは重く溜め息を吐いて、今更ながら何に戦いを挑んでいたかを理解して頭痛がした。

 単に倒せばケリが付く、そういう相手が懐かしい、といつか愚痴った事もあった。その時も実感していたものだったが、今こうして思い返せば、その思いが一層強くなる。

 

 頭痛は鈍痛となって後頭部に重い痛みを残し続けたが、いつまでも痛がっている訳にもいかない。一向に楽にならず、熱さえ感じて来たところで、ルヴァイルからの不自然な視線を感じて顔を上げた。

 

「……どうした?」

「いえ、辛そうだな、と……」

「そんなのね……、あんな話聞かされた後じゃ、無理もないって話でしょ」

 

 ユミルから揶揄する様な視線が飛んできて、ミレイユも頷く。頭を左右に振ろうとしたが、鈍痛が響いて来そうだったので止め、もう一度溜め息を落として再開させる。

 先程、自分で話していて、一つ疑問に思う事があった。

 

「何故、カリューシーだったんだ?」

「……と、言うのは?」

「様子見としてぶつけるのなら、小神である必要はあったのか? 抜き取られて困る情報を持っていないとはいえ、眷属化して味方にするという手はあった。どうにも不安が勝るから利用しない事に決めたが、懸念は残った筈だ」

「理由は……、聞いていたのでは?」

「あぁ、神魂を必要としていたんだろう? 誰かを贄とするのなら、その時白羽の矢が立ったのが、カリューシーだった。眷属化の懸念は拭えなかったし、だからそれより前に仕留める必要もあっただろうが、危ない橋を渡る程か?」

 

 カリューシーは自身の死を受け入れていた。恩がある、とも言っていたし、終わりを長引かせるつもりもなかったようだった。

 しかしそれなら、尚のこと処刑の様に殺してやる必要がない。盛大な見送りやパーティを開け、などと言うつもりはないが、まるで野良犬を殺処分するかのような有様だった。

 

 そこまでしてやる必要があったのか、と思う。

 あれではまるで、見せしめだ。

 そう思って、ハタと思い当たる。

 ――まさか、本当に……?

 

「小神にしても、あの場を見るなり、確認する方法はあった、という事か? 好き勝手やったカリューシー、同じ様な事をすればこうなる、という様な……」

「やっぱり、貴女は実に鋭く油断がならない。よく見えるものですね」

 

 ルヴァイルは喜ぶべきか、迷う様な素振りを見せてから頷いた。

 

「大神と小神が対等の様に見えるのは、下界の中だけで良い。今回は、私と小神に対する有効な一手として、そして貴女への偵察と神魂の確保を目的として、カリューシーがけしかけられました」

「……これだから、神々を相手にするのは疲れる。そして、そのカリューシーの命を奪ったのがお前の手の者だったのは、神々の間では踏み絵として利用されたからか?」

「そうやって即座に理解できる貴女も大概ですよ」

 

 今度こそルヴァイルは困った笑顔を向けて頷いた。

 

「えぇ……。妾からすると大神の意志に沿うつもりがあるという、そのパフォーマンスでしかありませんが。それだけを見れば、裏切りの懸念も少しは和らげる事が出来るでしょう」

「だが実際は、今回の会合を開く為の、橋渡しとして利用したんだな」

「私は実際、奸計などの類は得意でありません。しかし、繰り返し見てきたから、見える穴もあるという訳です。それだけの事をしても、決して油断できない相手ではありますが……」

「まぁ、そうだろうな……」

 

 油断するつもりなどなく、慢心もないと思っていたが、結局今まで手玉に取られていた。

 後の先を取るつもりでいたし、手の内を読み切って反撃するつもりでもいた。簡単ではないが、出来る筈だと思っていた。

 

 だが、相手はその上を行っていたと、今更ながら分かった。

 ――それを、認めない訳にはいかなかった。

 



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命の使い道 その6

「ここに至って、我々は認めなければならない。神々は相当な覚悟を持って挑んでいる。望むとおりに転がす為なら、どの様な手段でも取ってくる」

「そして、こちらの行動を見透かした上で、一つの手に複数の意味と効果を重ねて来るワケね。――結構よ、実に挑みがいがあるってもんだわ。……まさか、ここで腑抜けるなんて言わないわよね?」

 

 ユミルから鋭い視線が向けられて、ミレイユは当然首を縦に振る。

 胸の下で腕を組み、首を小さく傾げて尊大に鼻を鳴らした。

 

「いいや、認めると言っただけだ。頭では理解していたも、どこか侮る部分があった。それを完全に払拭したというだけだ」

「無論です。ミレイ様の行くところ、栄光しかないのだと、そろそろ奴らも理解するべきでしょう。自らが造ったからなどという理由で、それを止められると思っているなら、勘違いも甚だしい……!」

 

 アヴェリンが強い語気でルヴァイルを見据えて言い、それにに興じる様にルチアも不敵に笑う。

 

「自分達が何を生み出したのか、理解させてあげれば良いでしょう。何重の壁を用意しようと、その全てを打ち砕いて進むのが私達ですからね。その喉元に刃が突き付けられた時、どんな顔をするのか楽しみですよ」

「……実に頼もしい」

 

 ルヴァイルが口にした神妙な言葉には、言葉通り頼もしさを感じられている様には思えなかった。ミレイユを見つめた目――正確には、そのみぞおちを見つめた目には、緊迫したものが浮かんでいる。

 

「そこで、逸れてしまった話を戻しましょう。そういう貴女方だと知っているから、神々は待ちの姿勢と……貴女の時間を浪費させる策を選んだのです」

「あぁ、それだ……。話を聞いていると、まるで過ぎ去る嵐を待っているだけに思える。必死に隠れて、固く扉を閉めて入れば、安全が保障されるとでも? 私が勝手に諦め、目の前を過ぎ去るとでも? 新たな鍵が育つまで、そんな悠長が許されていると良いな?」

「そうですね、貴女の指摘は当然です。素体の育成には時間が必要ですから」

 

 ミレイユは我ながら悠長に旅をしていたと思うので、三年の月日が経っていた。

 カリューシーは二年で昇神したという。ならば、上手くやるならそれ未満、という事も可能そうだった。

 

 試作品(ミレイユ)より出来の良い素体というなら、一年でも可能かもしれない。

 だが、どちらにしろ最低一年は、殻に閉じ籠る必要がある。今と大して変わらない生活だろうが、それを果たしてミレイユが許すと、本気で思っているのだろうか。

 

 それを指摘しようとすると、ルヴァイルは心得た表情で頷いて否定して来た。

 

「しかし、良く考えて下さい。素体に対して幾つもの調整を施した神々ですよ。強大な力を得る前提、ともすれば神々と並び立ち、越えるかもしれない存在として、貴女を調整しました」

「それはもう聞いた。鍵としての役割を求めたから、強力な個体を望んだんだろう? その力を自分達に振るわれる事になるのは、皮肉と言う他ないが」

 

 ミレイユが心底軽蔑するかのように口から出せば、やはり神妙な表情を崩さないルヴァイルが頷く。

 

「ですから、多くの調整を施した、と言いました。望む筋書きどおりに動くよう、多くの困難に挑む姿勢を持つ様にしたのも、その一環です。そして、その調整はもっと多岐に渡ります」

「それもまた理解できるが、どうにも片手落ちという気がする。あれこれ考え、謀を巡らせるのが得意なのは良く分かってる。しかし、素体に関しては不手際が多い様に思える。精神についてもそうだ。調整や誘導なんて言わず、あやつり人形にしておけば良かったろうに」

 

 それを実際にされたら困るのはミレイユだが、実際疑問には思うのだ。

 そもそもの前提として、ミレイユは『遺物』の前まで辿り着いていた。大き過ぎる力を得ていたし、『遺物』を起動する動力やエネルギーとする神魂や竜魂、それを補佐する神器も入手していた。

 

 神々としては、遂に訪れた、待ちに待った瞬間だろう。

 ミレイユの使用方法について意見が割れていたというから、昇神するか、あるいは破滅の救済を口にするかはミレイユに任せよう、という考えであったかもしれない。

 

 しかし結局、ミレイユは神になるつもりも、世界を救うなどという考えも口にしなかった。

 全く頭に浮かばなかった訳ではないが、迷いに迷った末の決断、という程でもなく、初めから切って捨てる程度に浮かんだだけだ。

 この点について、神々は明らかに想定抜けをしているとしか思えず、不手際というなら余りにお粗末な結末だった。

 

 ルヴァイルは一度視線を外に向け、自虐的な笑みを浮かべてから顔を戻した。

 

「……そうですね、貴女からすれば当然の疑問でしょう。単なる調整ミスと言うには、余りに粗末だという意見には賛成します。試作段階に過ぎないとはいえ、完璧にも程遠い。何故それを神々が許容したかと言われたら、手探り状態だったから、としか答えられません」

「まぁ、確かに神々は完璧でも全能でもないのは良く分かっているが……。実は小神である事を踏まえれば、不手際が多い事も分からないではない」

「強い肉体を作るのは難しくありません。多大な魔力総量や、その扱いに関する調整も、やはり難しくはない。しかし、記憶や思考は魂頼りで、それを大きく改変する事は、非常に難しい」

 

 ルヴァイルは他人事の様に言ったが、事実彼女の管轄ではないからだろう。繰り返した記憶の事を踏まえても、理解している事は多いだろうが、理論や構造についてまで詳しくなさそうだ。

 

「予め多くの思考誘導や禁忌が設定されているものですが、あまりに多くを縛ると素体に馴染まない。それこそ、ゴーレムの様な単一的な思考しか出来なくなる。それでは到底、望む存在まで昇華されないのです」

「実際のところを知らないアタシ達からすると、そういうものなのか、としか思えないけど……。まぁ、理解できる話ではあるわね」

 

 ユミルがつまらなそうに鼻を鳴らし、顎の下を擦りながら口にした。

 どういう事だ、と問い質す様な視線がアヴェリンから向けられ、ユミルは肩を竦めて声に出す。

 

「それが例え胡乱に見えたとしても、無駄な事だけはしないのが神ってもんでしょ? それは今までのコトからも良く分かるじゃない。だから、今回の件に関しては、それこそ単なる調整不足って奴なんじゃないかと思っただけ」

「しかし、繰り返しているなら、そこを上手く改良していけば良いだろう」

「何でループを防ぎたいルヴァイルが、積極的に素体の改良をしたいのよ」

 

 アヴェリンの素朴な疑問を、ユミルは呆れた表情で切って捨てた。

 言われたアヴェリンも、我ながら馬鹿な質問をしたと理解して、気不味そうに顔を逸らす。

 助け舟を出された格好になるルヴァイルは、柔らかい笑みを浮かべ、それから同意するように首肯してから話を継いだ。

 

「そもそも素体の開発者でもありませんので、自分の都合良い改良をさせる訳にもいきません。意図を隠しつつ、それをさせるのは困難を極めます。……いえ、もっと有り体に無理と言うべきでしょう」

「……それについてはまぁ、別に良いけどね」

「えぇ、それに余りに強い暗示や調整は、魂の汚染に繋がります。神魂へ昇華させるには不純物としかならないので、やはり推奨されない。だから可能な限り、問題ないレベルで調整するに留められたのです」

 

 ミレイユは、フン、と鼻から盛大に息を飛ばして、顔を顰めた。

 実際、その誘導や調整を直に感じた身としては、不愉快で堪らない。何も知らず、聞かされずにいた当初、神々に対して思う事はあっても嫌悪までは抱いていなかった。

 

 神とはそういうものだ、という世界の常識に沿う様に、ミレイユもまたそういうものと認識していた。神器や神具を下賜されていたという、一種の目掛をされる立場だと思っていたのも大きい。

 世に暴力を振るう存在でも、ミレイユにとっては例外――助力してくる存在に見えていたからだ。

 

「誘導というなら、確かにそれは、他で代替できるものでもあるものな。実際に三度も世界を救わせたのも、その一環か? この世に憂いを持たせるだけじゃ、十分とは言えないと思うが」

 

 例えば根本の原因となった『神人創造(ゴッドバース)』のエンディングには、神になる、という選択肢を選ぶ事が求められている。

 ゲームをクリアしようと思っている人間には、それが誘導と同時に罠として作用した筈だ。

 素体に直接調整せず、外から影響を与える手法としては、それなりの効果が望めたと思うが、ミレイユへ望むのはもっと直接的な方法だった。

 

「確かにそれは、素直に下手な部分だったでしょう。もっとやりようはあったろうし、神器の下賜と共に誘導しているつもりだったでしょうが、それよりも貴女の欲が勝った」

「下手な遊び心など入れるからだ、と貶してやりたいが、そうでなくては私が困った事になっていたろうし……何て言って良いか迷うな」

「別に遊び心でもありませんけどね。神々の中で意見が一致しなかった結果、そうなったというだけですから。複数の意見が出て、それらを引っ込める気がない以上、それら全てを採用し、実現的な形に落とし込んだ結果でしかないので……」

 

 ユミルが小馬鹿にした様に笑い、それから額に手を当てて笑い続ける。

 その笑みには明らかに自嘲の笑みも混ざっていた。

 

「あぁ、そう……。矛盾する様な、あるいはどちらに転んでも良い様に見えていたのは、結局そういう理由? 足並み揃えなかった結果でしかないって?」

「誰もが我の強い神々ですからね。出した意見を引っ込める事は稀です。だから、それらを採用する案を作れば、どうしても賭けをする様になってしまう。そして、それらに柔軟な対応が出来るよう、いつでも修正や訂正が出来るように用意しておく、と……」

「はっ……! 何とも苦労が偲ばれる話だコト……!」

 

 ユミルが顔に浮かべた表情は、愉快な様でもあり、嘲るようでもあった。

 腹いせのつもりがあるのも、間違いないだろう。

 

 ミレイユも似たような気持ちだったが、何を言うでもなく笑みを見せるだけに留めておく。

 ルヴァイル自身、何とも言えない顔をして、それを直す様に頬を撫でてからミレイユへ向き直る。やけに真摯な、労る様な視線だった。

 

「そして……その調整は、単なる思考誘導や肉体補強だけではありません。神々が調整した事ですよ。万が一を考え、反逆する意志を持てない様にしていましたが、……本当に、それだけで満足すると思いますか?」

 

 それを聞いたミレイユの心臓が、ドキリと跳ねた。

 



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命の使い道 その7

 その一言を聞いた瞬間、嫌な予感が胸に去来する。

 考えた事もなかったことだ。

 

 多くの調整がされている事は、オミカゲ様からも聞かされていた。それは主に精神面に関しての事だったが、ルヴァイルから肉体面に対しても調整されている、と聞かされて納得しかなかった。

 

 素体というものが神の用意した器である以上、単なる人間のコピーを造った筈がない。

 神人という新たな個を作るにあたり、精神には多くの枷を作ってあるなら、肉体にも強化だけでなく、何か枷があると考えても良い筈だった。

 

 大神に対して攻撃できない、というのは反逆できない意志と結び付ける事で可能そうに思えた。だが、眷属化という抜け道があるなら、それに対処する何かを用意していたとしても不思議ではない。

 

 精神面に何を調整しても、絶対命令の前には無意味だろうから、いっそ物理的に止めてしまう方が効率的だ。スイッチを押して電源を落とす様な、あるいはもっと直接的な――。

 ミレイユは腕組を解いて、挑む様にルヴァイルへ顔を突き出す。

 

「この身体に爆弾を埋め込んでいるとか、そういう話か。待ちの姿勢も、結局は起爆してしまえば終わりだという、余裕の表れなのか?」

「――なッ!?」

 

 アヴェリンは椅子を蹴って立ち上がり、憤怒すら表情に浮かべてルヴァイルを睨み付ける。彼女に限らず、他の二人も驚愕で顔を歪め、不快感も露わに睨んだ。

 だが、ルヴァイルはそれを平然と受け流し、首を横に振る。

 

「早とちりして勘違いしないで下さい。第一それだと、安全と高を括る事ができないし、何より危険を排除し切れません」

「そうか……? 十分、排除し切れると思うが」

「ある程度は、そのとおり。でも、それで満足できなかった。そういう事です」

 

 ルヴァイルは一度言葉を区切り、そして何度目かになる憐憫の眼差しを向けてくる。

 

「最悪の場合、爆弾の存在に気付いた貴女が、なりふり構わず自爆しに来る可能性が残されます。どうにもならないからと、自暴自棄になった結果、玉砕を選ぶ可能性を極力排除したかった。だからという理由もあって、より目的に沿う、別の手段を講じる事になったのです」

 

 とりあえず、爆弾を埋め込まれている訳ではないと知り、ホッと息を吐く。

 他の三人も同様で、アヴェリンは大きく動揺し過ぎた事を恥じる様に、椅子へ座り直した。

 

「しかし、という理由もあって……? また面倒な、他人を陥れる悪辣な何かを思い付いたか」

「方法としては穏当ですが……そうですね、悪辣というのは間違いないかもしれません。単に目的達成へ、最も合理的な方法を選んだ結果、そうなったというだけでしょう」

「神の理屈なんて知ったもんですか。――いいからさっさと言いなさいな、何で神ってやつは、こぅ……物事をスパッと言えないのかしらね」

 

 ユミルが静かな怒りを燃やして、ルヴァイルを睨め付ける。

 アヴェリンの時と違って、彼女は分かり易く激昂したりしない。だが、向ける敵意は明確だった。生半可な答えや、はぐらかすような返答する様なら、敵意ありと進言するだろう。

 

 ルヴァイルもそれを感じ取ったせいか、言い訳するよう、言葉少なに謝罪した。

 

「理解を深めるには必要と思った事でしたが……。では、手早く結論を。貴女の身体に寿命が迫っています」

「寿命……? ――まさか」

 

 ミレイユの脳裏に閃くものがあって、それと同時、みぞおちに痛みが走る。

 それは針で刺す様な痛みで、顔を顰めるほど強い痛みという訳でもなかった。これまでもあった痛みで、短くて数秒、長くて数分で消えていくものだから、特に気に掛けもして来なかった。

 

 かつて御影豊として生きていた時、胃痛を感じた事も多々ある。

 それと良く似たものだったから、深く考えていなかった。

 胸痛、頭痛についても同じ事。大変な事の連続だったし、強いストレス環境下に身を置いているという自覚もあった。

 

 だから、かつて一般人として生きた経験から、そういう事もあるだろう、と軽く考えていた。むしろ状況を考えれば、当然とすらも思った。

 だが実は、そうでなかったとしたら――。

 

「思い当たる部分がありましたか? 神々はもしもの時を考えて、安全措置を素体に組み込んだ。これは別に、貴女だけを睨んだ措置という訳ではありませんが、往々にして強い力と全能感は人格を狂わせる」

「……まぁ、そうだな。八神こそが、それを良く理解し体現している存在だろう。自らを大神と名乗り、小神を抑えつけたいと考えている奴らだ。素体の段階で何か仕込んでいても不思議じゃない」

 

 ルヴァイルは曖昧な表情で明言を避けたが、とりあえず頷いて続ける。

 

「個人の才覚に拠りますが、昇神する前から強い力を発揮する者もいる。神になる事より、神を排して成り代わろうと考える者も、かつてはいた。しかし、それに一々対処するのも煩わしい、と考えた訳です」

「飼い犬に手を噛まれるなど、そもそもからして受け入れられない、というのが本音じゃないのか」

「指一本、噛み傷が付くだけならまだしも、腕一本持って行かれちゃ堪らないものねぇ……?」

 

 ミレイユが揶揄するように言うと、それに乗っかってユミルも皮肉を飛ばした。

 だが、ルヴァイルはそれこそまさに、我が意を得たりと頷いて見せる。

 

「昇神を果たした者と神人、その力の差は大きいものです。しかし、全くの無傷でいられる保証もない。自ら対処する煩わしさも確かだったでしょうが、貴女の言う()()()こそ煩わしく思ったのでしょう」

「それ故の寿命……、そして通常なら考えられない程の短命を、神の素体に課した……。何をしようと、何を企てようと、勝手に死んでしまえば面倒の対処に煩わされる事もないと……」

 

 ミレイユが憎々しげに言い放つと、ルヴァイルは申し訳なさそうに頷く。

 

「素体には数々の才能が与えられ、それを内在させてますが、それを引き出し会得にするには、やはりそれなりの修練が必要です。その上で神魂を形成するに至る成長も促進してやらねばならない。掛かる時間は早くて二年、平均的には三年の月日が必要です」

「あぁ、私の三年は平均的か……。十分に悠長な旅だと思っていたが……」

「貴女を他の平均と同じには計れませんよ」

 

 だがともあれ、悠長にしていようと、それは神々によって誘導された旅路に過ぎなかった。

 ミレイユという素体が予想以上に上手く成長したからこそ、始末屋の様に利用されたのだろう、と思っていたが、実際は最初から計算して行われた成長促進に過ぎなかった訳だ。

 

 多くを一挙両得として利用した側面も多いだろうが、前提として、素体の時点で小神に並び得る力を持たせる事が計画だったので、正に狙い通りといったところだったろう。

 では、寿命というのは最低でも三年は有り得ない。不測の事態が起きた時、目的達成の目前で命が尽きてしまう事になるので、更に一年や二年は多く持たせるだろう。

 

 ミレイユという素体は試験作の意味合いは強かったろうが、成功するならそれで良い、という程度にも考えていた筈。最初から破綻する数字を設定しない、と思われた。

 ――しかし。

 

「あぁ、待ちの姿勢……。そしてお前が待たせた理由……、そういう事か」

 

 神々が時間稼ぎをしたい、ミレイユに時間を浪費させたい、という理由も、ここまで来れば理解できてしまう。

 ミレイユの寿命は、既にカウントダウンに入っているのだ。

 

「はい、神々は既に勝ちを確信しています。そして、その勝ちは揺るがないと思っている。だから色々と緩むところも出てきて、妾もこうして出向ける様になりました。最後の締めが残っているから油断し切る訳にもいかない、と考えているものの、まず覆らないとも思っているのです」

「フン……。それは覆してやるからどうでも良いが……、それで私の寿命は、後どのくらい残ってるんだ?」

()()()で過ごした正確な時間を知りませんから、何とも言えませんが……。素体の寿命は五年に設定されています。仮に三年で完成を見たとして、その倍は生きられない。そう決められました」

「五年か……」

 

 思わず額に手を当てて、ミレイユは重い溜め息を吐いた。

 頭痛も胃痛も湧き上がって来たが、果たしてこれが単なるストレスの影響なのか判断つかない。

 気が重い話には付き物だという気がするから、深く考えたくはないものの、そこへ止めを刺す様な台詞が、ルヴァイルから飛び出した。

 

「素体は胃が荒れたりなどしないので、胃痛を感じたら始まりの兆候です。頭痛や胸痛を感じ始めれば、間違いなく残り一年は切った、といったところで……」

「聞きたくない台詞だったな、それは……」

「では、ミレイ様は……」

 

 ミレイユは返事をしない代わりに首肯すると、アヴェリンが息を呑んで身体を震わせる。

 ルチアとユミルからも信じられないものを見るような視線が送られて来たが、そちらに目は向けなかった。

 

 代わりに思考へ没頭する。

 ミレイユは確かに三年、デイアートで過ごしていたが、正確に丸々三年という訳では無かった。それより多いか少ないかも、自分自身では覚えていないが、現世で約半年、そして帰って来てから約三ヶ月である事を考えれば、まずまず誤差の範囲と言えるだろう。

 

 そして残り一年――。

 いつだか聞いた話に、思わず自嘲の笑みが漏れる。

 長くとも残り一年保たない、という局面にはよくよく縁があるらしい。

 

 残り一年で何が出来る、と自棄にも似た思いで吐き出す。

 今はルヴァイルの助けがある。だから一年という数字は、何もかも手が届かない、と思えるほど絶望的な数字ではない。

 

 だが、ここから神の所在地、そして討伐なりを考えたなら、楽観視できないどころか絶望的な数字だ。

 デイアートへの帰還当初、ミレイユは神々に対して、まず説得を試みるつもりだった。現世への手出しを止めて欲しいと。

 話し合いなり、互いの合意できる点を模索できれば……そして、それで解決できるものなら、それが一番良いと思った。

 

 だが、神々の願いとミレイユの願いは、決して擦り合わせて合意できるものではない。

 現世への派兵は止められるかもしれないが、それだけだ。贄として命を落とすか、鍵としての使命を果たして寿命で死ぬか、そのどちらかでしかなかった。

 

 そしてそれは、仮に上手く神々の前へ辿り着けたら、という前提でもある。

 神々全てを殺し尽くして解決する問題でもなく、それが正当な報復であろうと先がなかった。

 多くの懸念が予想され、それら全てを解決しようと思ったら、まず時間という枷がミレイユを縛り付けるのだ。

 

 あるいはもっと時間があれば、解決まで持っていけたり、妙案を採用できたりしたのかもしれないが――。

 そこまで考え、唐突に思いつくものがある。

 その時間の重要性を何より知っていたからこそ、()()()()は強硬手段に走ったのではないか。

 

 だが同時に、多くの事実を知らなかったから故に、そうせざるを得なかったのだとしたら……その行動も、意味も理解できてしまう。

 ミレイユは額に手を置いたまま、くたびれた溜め息をしつつユミルへ顔を向けた。

 



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命の使い道 その8

「今まで、ずっと引っ掛かってた事がある。オミカゲを強制送還した、前周ミレイユの事だ。何故あそこまでの強硬に、アヴェリンを手に掛けてまで急がなければならなかったのか……。何も知らされず、理解しないままだとしても、神々に連れ戻されるよりマシだと……それを避ける為にやったと思っていた。しかし――」

「えぇ、それも理由の半分以上を締めていたと思うけど、今となっては意味が変わるわ。……きっと、時間の浪費を極力避けたかったのね」

 

 ユミルも即座に理解を示し、話の内容を汲み取って持論を展開する。

 

「今更、知る手段もないけれど……。そのミレイユは、あと数週間でも時間的余裕があれば、解決するところまで行っていたのかも……」

「そして、だからこそ強硬策に走った訳だ。何より忌むべきは、時間の浪費だと。自分の二の舞をさせない為に、寿命をより多く残した状態で、送還したかったんだろう。……そして、あの蹂躙された世界では、いつ連れ去られるか分からない状態に陥っていた」

「それで勝手に言いたい事だけ言って、強制送還? オミカゲサマには、それ幾らも伝わってなかったじゃない。その上で時間的浪費や寿命なんて事、アンタに伝えられてないし……」

「所謂、時間の浪費問題は、()()()()()行った場合でなければ遭遇しない局面なんだろう。だから、尽く失敗したオミカゲ様は寿命問題を知るより前に、逃げ帰る事になったんじゃないのか」

 

 ミレイユがどうなんだ、と詰問するかのような視線をルヴァイルに向けると、気不味そうに頷く。そこに関与している彼女としては、軽薄に見える態度は取れないだろう。

 

 あるかどうかは別として、良心の呵責の様なものを見せない訳にはいかない。

 ミレイユが挑む様な目つきを向けていると、それらを知っている筈のルヴァイルから、詳しい解説が話された。

 

「ご推察のとおりです。多くの問題があるとして、それを解決できなければ、逃げ帰る方へと誘導されます。そして、解決できる目処が立つ、あるいはその剣が届く場所まで進めたところで、立ちはだかるのが寿命という問題です」

「悪辣だな……。それで時間の問題を認識できたとしても、結局どこかで破綻するんだろう」

 

 ルヴァイルは、やはりミレイユを見ないままに頷く。

 

「はい、どこかで無理が祟って、情報の失伝が起きます。最短でも八周目、上手くやれても十周目で、やはりどこで破綻する」

「それが今まで延々と繰り返されてきた原因だって? 聞けば聞くほど、――怒りが治まらなくなる」

 

 冷静になれ、と自分に言い聞かせてようとしても、忍耐にも限界というものがある。

 魔力が漏れ出し、青白い光が身を包んでは吹き出し、炎の様にゆらゆらと揺れた。

 だがそこで、ようやくルヴァイルが顔を戻し、焦った様に手を前に出して、それを止める。

 

「興奮するな、とは言えませんが……! 魔力を使うのは止めた方が良いです。消費した分、貴女は自分のマナ生成でそれを補うとする肉体構造ですが、それが寿命を縮めます」

「――なに?」

「マナ生成は肉体への負担が強いのです。人ならずとも持っているものですが、それを極めて強めた結果、強化を図ると同時に寿命への調整も兼ねる結果となっている訳で……」

 

 そう言われてしまえば、怒りも続けられない。

 冷水をぶつけられたかの様に沈静化し、揺らめくように立ち昇っていた魔力もぴたりと止まった。

 現世へ行ってからは、自堕落に過ごしていたから使う機会は殆どなかったが、どうやら怪我の功名であったらしい。

 

「だがこれじゃあ……、ろくに魔術を使えないだろう」

「癖になっているから難しいでしょうが、常人と同じ様に外から吸収するようにすれば、負担は和らげられるでしょう。それに、まさか本当に戦闘せずに乗り越える訳にもいかない。抑えられる部分は抑えませんと」

「それもそうだが……。突然、口と鼻を使わず呼吸しろと言われたようなものだぞ」

 

 そもそも、意識してやっていた事でもなかった。

 極度に消費した際には、やはり率先してやっていた部分はあるものの、普段から使う分まで考えた事などなかった。

 そこにユミルが珍しく本気で心配そうな顔をして、ミレイユに問いかけてくる。

 

「……けど、大丈夫なの? 普段からマナの生成量が多くて、それで苦労してたじゃない。無駄に無駄な苦労して、いらぬことに魔術を使用したり……。誰しも命のロウソクを燃やして生きてる様なもんだけど、アンタの場合、ロウも太ければ火の勢いも強い、みたいなもんでしょ?」

「だが、魔力を消費しなければ生成量から破裂する。常に温存する訳にはいかない、不自由さを感じていたものだが……あぁ、そういう事だったか」

 

 常人の何十倍も生成できるだけ、と簡単に思っていたが、むしろ強制的に生成させる事で、寿命を削っていたという訳だ。そして戦闘に身を置かざるを得ない素体は、大体平均して五年程度で使い尽くしてしまう、という事なのだろう。

 

 神々へ取って代わりたいとか、何かしら報復を考えるようなら、必然的に戦闘へ身を投じていく機会も出てくるだろうし、そうなると更に寿命を短くしてしまう。

 これは、そういう狙いがあっての事なのだ。

 

「労せずして勝手に自滅してくれる、という訳だな。本来は叛意を抱けない様になってる筈だが、何らかの手段で解決し、その上で狙ってくるなら戦闘に身を置く生活を送る事になる」

「普段から戦闘に身を置く生活だったとしても……、素直に昇神するなら、別に問題ない時間設計でもあるんでしょうね。神は不老不変の存在だから、そうなれば寿命という枷は消失する」

「だが、逆襲しようと思えば、より強い力を求めざるを得ない。より多くの戦闘と共に、寿命が擦り切れていくんだな」

「忌々しいコト……!」

 

 ユミルが鼻を鳴らすと、アヴェリンは焦った様子でミレイユの身体を上下に見渡す。手を差し出そうとしているが、壊れ物に触れるかのように、手をあわあわと動かすに留まっていた。

 

「では、これからミレイ様は戦闘を極力避け、静養しているのが一番という事に……!?」

「安全を考えるなら、そういう事になるんだろうが……。しかし、これから戦う事になる相手に、傍観し続ける事は不可能だろう。生成は抑えられるものではないし、使わなければ魔力が身体に溜まり続けて破裂――身の破滅だ。そうならない範囲内で上手くやれる様、立ち回りは考えなくてはならないな」

「では、つまり……」

「普段からしていた事だ。非戦闘中でも、無駄に念動力を使ったりな。戦闘中だと、大規模魔術や上級魔術は控えなければいけないが……。それだって、使った分の補充に時間が掛かるというだけ。今までの様に、後先考えず好き放題使えないだけだ」

 

 ミレイユは安心できるよう、無理にでもにこやかに笑って見せる。そして、その肩を優しく叩いてやれば、それでようやくアヴェリンも肩の力を抜いた。

 だがそこに、インギェムが空気を読まずに言ってのけた。

 

「だが、神を相手にするなら、そんな事も言ってられないだろ。お前は事実として強いが、手加減して勝てる相手でもないだろ?」

「そうだな。その時は割り切るしかない。苦戦するだろう相手が、神々だけとも限らないしな。魔術を使う度、命を削ってると思うとゾッとしないが……。割り切らなければ、乗り越えられない」

「……なるほど、立派なもんだ。正直、これを聞いた時、お前が自暴自棄になるんじゃないかと心配してたが……、どうやら杞憂だったらしい」

 

 ミレイユはそれには返事せず、ただ肩を竦めただけだった。

 実際のところ、これは強靭な精神を持ち合わせているから、それで乗り越えられたという話ではない。ユミルによる絶対命令『抗え、大神を挫け』という強い意志が、ミレイユを簡単に諦めさせなかった、というだけだ。

 

 それに何より、仲間への信頼がある。

 それらが揃っていれば、必ず成し遂げられると思っているからこそ、ミレイユは動じていない様に見せられる。それを信じて付いて行きたいと思う者達に、その背を見せる事が義務とすら思っていた。

 

 ミレイユはそれと察せられないよう、腕を組んでは余裕のある笑みを浮かべた。些事に過ぎないと見える様、そして実際些事に過ぎないと自分に言い聞かせる。

 切るべき時に、切れない切り札に価値は無い。

 

 そして実際、命を削るしかないのだとしても、最悪を回避するには必要な経費だ。今は全てを円満に解決できる状況にある、というルヴァイルの言葉を信じて進むべきだった。

 ミレイユの表情に満足したのは、便りになる仲間――アヴェリン達だけではなかった。ルヴァイルもまた同じ様に満足そうな笑みを浮かべ、それから会話を再開させる。

 

「神々は――というよりラウアイクスは、付け入る隙があるなら、必ず付け入って来ると想定していました。だから短すぎる寿命を課し、危険が遠ざけられる安全措置としました。であると同時に、寿命という枷が、問題を別方向へ誘引する手段として用いたのです」

「あぁ、つまり……」

 

 ミレイユにはそれが何を意味するのか、ようやく理解した。

 やはり悪辣だ。悪辣と言う他ない。

 顔を顰めて、腹の中から生まれそうな呪詛を、霧散させようと息を吐いた。

 

「残り時間を考えた時、玉砕覚悟……玉砕確定で突っ込むよりも、より可能性を秘めた方を選ぶだろう、と考えた訳か。そして、そうなる様に仕向けてもいる。少しでも損得計算が出来るなら、それは確かに……次へ託す事を選ぶだろうな」

 

 命ある者として、ミレイユもやはり命は惜しい。

 どう足掻いても死ぬのなら玉砕覚悟も悪くないが、他に光照らされた道が見えたら、やはりそちらに希望を見出したくなる。

 

 それが狙いだと知らない時のミレイユにとって、まさに起死回生の手段としか目に映らなかったのではないだろうか。

 そう考えると、その悪辣な計画が、改めて念入りに考えられた悪魔的計画だと分かり、理解が進むにつれ唾吐きたい衝動に駆られる。

 湧き上がり、練り込まれようとする魔力を抑えるのに、ミレイユは相当な努力を強いられる事になった。

 



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命の使い道 その9

 ミレイユの言葉にルヴァイルは首肯をして、それから補足のつもりか言葉を重ねる。

 

「昇神が叶えば、寿命からも開放される訳です。神とは不老不滅の存在ですから、そういう意味での時間制限もなくなる。頭の中で何を考えていたにしろ、それを実行可能にする幅は大きくなった事でしょう。本来なら荒唐無稽と思える計画すら、不老の寿命が可能にするかもしれません」

「そうやって、言葉巧みに誘導したという訳か。他の小神という実例を見れば、素体から昇神できれば寿命の枷が外れると、他のミレイユも予想出来たろう。そこに気付く期待もしてたろうし、しなかったとしても、お前の様な者が味方面して助言すれば、やはり過去への転移に希望を見出す」

 

 魔力の発露を抑えようとする余り、自然と声音が固くなった。

 それを不機嫌の発露と察したアヴェリンが、攻撃の許可を求める様な視線を向けてくる。ミレイユはやんわりと首を左右に振ってから、ルヴァイルの手元に視線を戻した。

 

 魔力が湧き上がろうとするのは、純粋な怒りからだ。

 憤り、不満、悔しさ、思う事は幾つもあるが、それを目の前にいるルヴァイルへぶつけた所で意味もない。

 それは理解している。

 

 そして、それに深く関わり、時に陥れる立場として動いていたのもまた、ルヴァイルなのだ。

 彼女がより円満な解決、という方法を模索しなければ、地球もデイアートも滅びるだけだったろうから、何も悪意のみでやっていた事ではない。

 

 それもまた理解している。

 しかし、感情までは別だった。

 彼女が諸悪の根源、という訳ではない。根源というなら八神全てという事になるだろうし、計画を考え推進していたラウアイクスこそが、正しくそれに該当するだろう。

 

 ルヴァイル自身もミレイユを利用していた事に罪の意識を感じているし、咎めを受けるつもりでいる。

 それだけの事をしてきた、という反省の色が伺えるから、ミレイユは怒りを静かに収める事が出来た。

 

 ――感情を抑制する事は、強いストレスだ。

 ミレイユは今感じている頭痛が、果たしてストレス性のものか、それとも寿命を警告するものか分からなかった。

 だが、固く目を瞑って痛みが過ぎ去るのを待つ。

 

 十秒とせずに痛みは収まり、それと同じく激情も薄れていく。

 思うところはあっても、それは飲み込む。同盟を結ぶと決めた時から、既に覚悟はあった筈だ。それらを飲み込んででも、やり遂げると決めたから、今があるのだ。

 

 ミレイユが不満を露わにする様な姿を見せた事で、アヴェリンやユミルの敵愾心も高まっている。我ながら浅慮だった、と自分の行いを反省しながら、二人を宥める為に手を振って、それからルヴァイルの顔へと目線を戻した。

 

 そして、視線だけで謝罪すると、ルヴァイルからも明らかにホッとした雰囲気が返って来る。

 小さく笑みすら見せながら、彼女の方から口を開いた。

 

「貴女が余りに冷静だから、思い違いをしていました。全てを飲み込んで同盟を組んだとはいえ、全てを許容した訳ではない。配慮の足りない言葉でした、次からは気を付けましょう」

「そうしてくれ。確かに私としては、過去のミレイユに何があったかなど、想像するしかない。だが、オミカゲ様……一周前のミレイユを良く知る身からすると、色々考えてしまう」

 

 特に何かとオミカゲ様を思う言動を見せていたユミルには、強い我慢を強いさせる事になってしまい、申し訳ない気持ちにもなる。

 顔は向けず、視線だけで確認してみても、口出しこそしていないが憮然とした態度は崩していない。

 

 そもそも、神嫌いのユミルだ。

 同じ部屋に長時間いる事すら、苦痛であるかもしれない。

 手早く話も終わらせた方がいいな、と思い直し、ルヴァイルに顔を合わせ口を開いた。

 

「とにかく、分かった。お前が寿命の事を知りつつ、こうして接触時機を遅らせて来たのも、残り一年というのは、色んな意味でボーダーラインだからだな。神々は、その一年で自分達の元まで辿り着けないと思っているし、私が次へ託そうと考えれば……なるほど、確かにギリギリの時間だ」

「『遺物』に辿り着くのは、それほど時間が掛からなかった筈だけど……。でも、次に託す事を考えたら、現世に戻って生活基盤を整えつつ、信者の勧誘にも勤しまなければならない……。間に合うの、これって?」

 

 ユミルが小首を傾げて尋ねて来たが、ループが破綻していない、という事は可能だという裏返しでもある。今回のようなパターンで、寿命の件を知ったのは数あるループの中でも異例だろうが、何かしらの手段を持って、その『制限時間』を伝えられていた時もある。

 

 伝える方法は八神の誰かであったり、ルヴァイルが誘導したりと様々だったろうが、破綻だけはしていない。ならば問題ない、という事だろう。

 それに、ミレイユのうろ覚えの現代知識でも、宣教師のザビエルは一年で五千人の信者を集めたという。

 本物の奇跡を魔術という形で表現できるミレイユならば、その半分以下の速度で信仰を向けられるようになっても不思議ではない。

 

 今までのミレイユも、それと同じ様に考えたろう。

 寺社勢力を筆頭に、何もかも順調といかない可能性を考慮して、やはり一年という時間は見ておきたいところだ。そう考えると、残された時間は絶妙という他なかった。

 

「結果として巡り巡ってしまっているんだから、何とかなってしまうんだろうさ。何もかもが順調に行く筈もない。安全マージンを確保したいと考えれば、一年という数字は、駆け引きに使うには妥当に思える」

「ふぅん……? ま、いいわ。綱渡りだろうと、これまで上手くやっていた事の確認なんて、極論どうでもいいしね。先のコトまで見えているのは結構だけど、そもそも『遺物』を使って転移しようって言うんでしょ? それにだって――、あぁ……」

 

 唐突に言葉を区切り、得心した様に何度も頷く。

 それからルヴァイルへと顔を向け、挑発めいた視線を送った。

 

「なるほど、『遺物』を使うには神魂か、それに互する魂力が必要で、願うもの次第で更に必要数は増える。……それを補佐する為に、神器もまた必要……そうよね? つまり、それについては、そちらでご用意くださるってコトで良いのかしら?」

「……貴女に必要とは思えませんが」

 

 ルヴァイルは短く否定して睨み返し、それから釈明するようにミレイユへ説明を始める。

 

「大体、神器とは簡単に作成できるものではありません。作れば他の神々に知られる事となり、必然的にその説明も求められます。今後必要になる時は来るでしょうが、今ではない。妾達の裏切りが表沙汰になるまでは、安易に用意するべきではない」

「……いずれ知られると思ってるの? それとも、そういう状況に立つ予定があるって意味?」

「現状では知られていないでしょうし、疑いがある……というより、あったと思う状態でしょう。余程の事がない限り、もはや神々の勝ちは揺るがないと思っていますが、妾達の動きで揺らいだ瞬間にそれと気付く」

 

 なるほど、とミレイユは頷く。

 逆説的だが、だからこそ確信を得るのだろう。多くの想定をし、それに蓋をし道を示し、誘導して来た者からすれば、それから逸れる事があるなら即ち裏切りがあったと気付く。

 というより、逸れる事があるのなら、後は裏切り以外で可能性が生まれない、とでも考えているのかもしれなかった。

 

 妙に納得する気持ちで、ルヴァイルとインギェムを交互に見つめる。

 であるならば、それと察知した瞬間から、周りと歩調を合わせている様に見せかける必要もなくなる。不審な行動、利敵行為も先して行う必要があるくらいだろう。

 

「――だが、まだ知られる訳にはいかないんだろう? 私達も、このまま穴熊に籠もっている訳にはいかない。どうして欲しい? このまま神の住処に殴り込めば良いのか?」

「その前に知っておいて貰いたいことが……」

「まだ他に何かあるの?」

 

 ユミルがげんなりと息を吐いて、ミレイユもまた似たような思いで溜め息を飲み込んだ。

 彼女ほどあからさまな態度は見せないが、頭の痛い話ばかり聞かされた身としては、今日はもう勘弁してくれ、と言いたい気分だった。

 

 ルヴァイルからは気遣う素振りを感じられたが、しかし言わないでいる訳にもいかないのだろう。なにしろ、日を改めてまた詳しく話を、と言えるほど彼女たちの移動は簡単ではない。

 彼女の話を信じるなら、ルヴァイルは嫌疑を掛けられている。今日この場にいる事も、それなりのリスクを負って来ている筈だ。

 

 済ませられるなら、一度で、そして短時間で、と考えているに違いない。

 それが分かるから、ミレイユも腹に力を込めて我慢した。どちらにしろ、こちらとあちらの世界、その今後を定める話し合いだ。

 

 もう嫌だ、疲れた、などという泣きごとを言えるものではない。

 それでどうした、と促してやると、ルヴァイルは神妙な顔付きで口を開いた。

 

「貴女達は――いえ、妾達で、神々を弑する。それは決定事項と考えて良いですね?」

「そうだな。むしろ、そのつもりの話し合いだと思っていたが」

「アンタらもその範囲にいるってコト、忘れてないでしょうね?」

 

 ユミルが睨め付けて言うと、やはりルヴァイルは神妙に頷く。

 

「自分の言った事は忘れてはいません。……ですが、忘れて欲しくないのは、この世界を維持しているのは、紛れもなく八神であるという事です。一柱の消滅直後から揺らぐものでないとはいえ、数が増えれば間違いなく――」

「世界が滅ぶ、か……。なるほど、支柱の様なものと考えればいいのか? 一本欠損したところで、即座の崩壊を招くものではないが、しかし二本、三本と失われていけば崩壊を招く、というような……」

「はい、その認識で宜しいかと。現実的な問題として、一つ処に集まった神々を一網打尽にする、というのは難しいでしょう。各個撃破する必要がある」

「そうだろうな。不意打ちで一柱くらいは落としたい、とは考えていたが。当初は、暗殺に近いものを想定していたな」

 

 全ての神が戦闘に秀でているとは言えないとはいえ、攻撃されていると分かれば結託するだろう、というのも予想の範囲だった。

 仲違いする関係であっても、命の危機となれば一時休戦、協力関係を結ぶのは自然な事だろう。人数的にも戦力的にも負けているので、人数を分けて各個撃破は現実的でない。

 

 神々からの集中攻撃を躱す方法は考えつかなかったので、せめてその中で一柱だけは、確実に仕留めたいと考えてのことだった。

 

 それで動揺するにしろ、警戒を強くするにしろ、更に一柱を仕留められたら御の字、という行き当たりばったりの計画しか立てられない。

 そしてそれも、最初は最悪十二柱全てを相手取る事を考えていたので、半分にまで減った今なら、勝ちの可能性も十分に見えてきた。

 

 だがそれも、崩壊までのタイムリミットを考えなければ、の話だ。

 相手にすべき六柱、その全てを弑する前に崩壊が始まってしまうのなら、それは自滅や共倒れと変わらない。これに抜け道がないなら、ルヴァイルはそもそも、この話を持って来ないだろう。

 

 ミレイユがそれを確信する視線を向けると、既に察しがついている事に喜ぶ顔で頷く。

 

「ご明察のとおり、しばらくは持つ筈です。崩壊の兆候は見られるとしても、注いでいた力が少々の猶予を与えてくれる筈。妾達二柱の存在が、最後の防波堤としても機能する事でしょう」

「だから助命しろと、結局そういう話?」

 



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命の使い道 その10

 ユミルが呆れを含んだ視線で睨みつけたが、ルヴァイルは表情を崩す事なく首を左右に振る。

 

「勿論、そういう話ではありません。これは摂理の話です。崩れ去ろうとしているものを、支える柱全てを壊してしまえば元も子もない。やるというなら最後、理想を言うなら建て直した世界の後で。……そういう話をしているのです」

「ふぅん……? まぁ、神魂の数には困らなそうよね。最低でも六魂確保出来るんでしょ? で、アンタら二人からの神器の補助もある。……これでアンタが言う、世界を救うってコトが叶うワケ?」

「恐らく足りないと思いますが、別に八神が作った計画に乗る必要はありません。大神の封印が解けてくれれば、()()()大神があるべき姿に戻してくれるでしょう」

 

 ルヴァイルは自信満々にそう言ったが、それこそ本当に可能かどうかは賭けになりそうだった。

 既に手遅れ、本物の大神ですら手に余る……そういう状況になっていても、ミレイユは驚かない。

 だが、それこそ『遺物』を使えば済む話だ。

 

 本物の神の力、そして『遺物』という禁じ手が合わされば、叶わぬものなどないだろう。その為の神魂も、ユミルが言ったとおり大量にある筈だった。

 ミレイユはそれに頷いて、更に深く追求を始めた。

 

「だが結局、大神の復活を目指す前提として、世界崩壊の危機は免れない、という事でもあるんだな? 今更、話し合いでの解決は不可能とあって、後は戦うしか道がない」

「そりゃそうでしょ。ちょろっと攻め込んでやって、白旗上げる奴なんかいないもの。封印解くから許して、現世にも手出ししないから許して、なんて話になると思う?」

 

 ユミルが揶揄する様に言ってきて、ミレイユも顔を向けて苦笑する。

 

「確かに、それは想像すら出来ないが……。何しろ、やった事の報いを受けてもらう。八神は決して見逃さない。ここで死んでもらう」

「そうよね」

 

 ユミルが満足げに頷き、ミレイユも頷く。

 

「だが、助命しなければならない状況、というのも確かにある」

「どういうコト――あぁ、そうね。アタシ達にとっては、八神を倒して終わりじゃないもの。むしろ、そこからが本番だわ。あちら側に帰らなければならない」

「――そうだ。円満な解決とは、オミカゲ様が築き上げた日本を救って、それで初めて意味がある。そしてその為には、ルヴァイルとインギェムの協力は不可欠だ」

 

 ユミルは不愉快そうに眉根を寄せ、手元を見つめて考え込む。

 それから数秒後には、そのままの表情でルヴァイルに目を向けた。

 

「それって、やろうと思えば足切りが出来るってコトじゃない? もう用済みって、孔を閉じそうなものだけど。先に日本の問題、解決するワケにはいかない?」

「それだとむしろ、貴女方が帰って来る保証がない。送り出す条件としては、先にこちらの問題を片付けてから。そこは譲れません」

「……まぁ、そういう返事になるよな」

 

 ミレイユとしては当然の返答としか思えなかったので、それに文句を言うつもりはない。

 

「それに別段、日本に取り残されるのは、私にとって最悪の状況じゃないからな。是非ともデイアートに帰りたい、と思っている訳でもなし。帰還を待ち望んでいたエルフ達には悪いと思うし、付き合わせるお前達にも……いや、今更か」

「はい、ミレイ様の行く所が、私のいるべき場所ですので」

 

 アヴェリンがゆったりと笑って同意した。

 ミレイユもそれに笑みを返して、ユミルに向き直る。

 

「だから別に、それ事態は構わないんだ。最後の一柱まで、八神の首を落としたいと思っているお前には、申し訳なく思うが」

「……まぁ最悪、ゲルミル一族を陥れた奴だけでも、弑せればいいけどね。……でも、アンタらの殊勝な態度が、最後の最後で自分達の安全は確保している、とかなら許せるものじゃないけど」

「邪推も大概にしろよ……。まぁ、そう言いたい気持ちも分からんでもないから、好きに言わせてやるけどな。一応、こっちの――ルヴァイルの言い分を信じるつもりでいるから、契約だって結んだんだろ。今更グチグチ言うな」

 

 流石に腹に据え兼ねたらしく、インギェムの口調も荒くなる。

 それが図星を刺されたのではなく、本気で不快と思っていると分かるから、ミレイユの方から謝罪をした。ユミルの代わりに小さく頭を下げると、インギェムは鼻を鳴らして顔を背ける。

 

 彼女らが実は裏でその様に計画していたのだとしても、ミレイユが困らないというのは本音だ。

 世界を隔てたとなっては、ミレイユの糾弾など何の意味も為さないだろうが、デイアートに帰れない事を嘆いたりしない。

 

「確かに、信じる為に交わした契約だ。無粋な事は言わないでおこう。神を倒す段取りとしては、時間を掛けず一気呵成が望ましい。――それは分かる。だが、現実問題として、パーティを小分けにするのは難しいだろう。どうしても手が足りない」

「一柱落とした時点で、アタシ達の存在も、アンタらの裏切りも、全て勘付かれると考えるべきよね。その部分についてはどうなの? 一緒に戦うコトになるのかしらね」

「そうして欲しい、というなら拒みませんが、戦力にはなりません。所謂、戦闘に向かない神というのが妾達ですから。それに、命を落とせば貴女を送り出す事が難しくなる。あまり賢明ではないですね」

 

 ユミルも本気で言っていた訳ではなかったのだろう、軽く肩を竦めて沈黙してしまった。

 戦闘に向かないとはいえ、鍛えられた冒険者や兵士より頼りになるのいは間違いない。だが、それで前線に出て来る位なら、後方での撹乱など、身の危険が少ないところで動いて貰った方が良い。

 

「そうなると……やはり、ここでも時間との勝負という話になるのか? 恐らく、一人の首を取って降伏を勧告する様なやり方が、通用する相手じゃないしな」

「今後の世界を統治するのに、今の奴らは絶対邪魔になるじゃない。残せば禍根となるのも間違いない。これを期に一掃するのが正解よ」

「そこについては……、大神に期待するしかないところだが……」

 

 ミレイユは少し考えて首を傾げた。

 大神が復活するというなら、世界の支配構造は様変わりする。一度裏切られた大神は、今の八神を許したりしないだろう。その沙汰を任せる、という手もあると思うのだが、如何なものだろう。

 

 あくまで、ルヴァイルが求めているのは大神の復活だ。そして世界を在るべき姿に戻し、そして世界を崩壊から救って欲しいと思っている。

 彼女らは自らが頂点に立つ事を望んでいないし、ミレイユの手に掛かって死ぬ事も受け入れているのだ。

 

 八神を弑するにしても、あくまでその過程で必要な事なのであって、虐殺が目的でもない筈だった。ルヴァイル達と生き残った神々の間では、禍根も遺恨も残るのは確かだろうから、迂闊に残すのは悪手だと分かる。

 

 だが、それらの沙汰も、本来の支配者である大神の役目だ。

 何も全てを、ミレイユ達が代行してやる必要はない。

 

 一度は足元を掬われた大神だから、あまり大きな期待は寄せたくないのだが、好き勝手弑した結果、取り返しが付かない状況になる事も考えられた。

 簡単に後戻り出来ないからこそ、ここは慎重になる必要がある。

 

「そこのところはどうなんだ? 大神が復活すれば、全てが綺麗に元通りになるものか? 起き上がった大神は、正しく世界を統治してくれるか?」

「一度は裏切り、叛逆した大神を復活させたいって言うくらいだもの。そこにも期待が持てるんじゃないの? 大神の為人なんて知らないけど、凶悪な奴らなら、そも復活させようとはしないでしょ」

 

 ユミルの言は的を射ていたらしく、ルヴァイルは大いに頷く。

 

「童は大神と直接対面した経験が一度しかありません。でも、期待を持てると思っていなければ、円満という言葉を使いません。どちらにしても、裏切り者である妾達の命は無いでしょうから、復活と同時かその前後で、貴女方を送り出す必要はあるでしょう」

「……あぁ、己の命を差し出す事に、躊躇いが見えなかったのは結構な事だがな。さしもの大神も、自分を封印するような者相手に、大らかではいられない、と……」

 

 妙に納得した気持ちで言葉を零すように言うと、ルヴァイル達観した表情で厳かに言う。

 

「神への反逆を謀ったのです。当然の措置でしょう。有無を言わさずか、あるいは叱責を受けてからの事になるかは分かりませんが、お咎めなしだけは有り得ない。例え、再び救い出した功労者だとしても、そもそも加担していた訳ですから」

「……うん、それも納得できる話だ。既に死を覚悟しているというなら、何も言わない。最期の時まで協力するつもり、という言葉も信用しよう」

 

 感謝に変えて、ルヴァイルが小さく頷く様に頭を下げた。

 いま言った事は、紛れもなくミレイユの本音だったが、大神の意向次第では、どう転ぶか分からない。罪を許され、大神の手足となって働く沙汰が下りても文句を言わないが、ユミルが煩く言ってきそうではあった。

 

 それならば、大神の復活より前に、日本へ飛ばして貰った方が色々と面倒が少なそうで良い。

 大神がミレイユという素体相手に、何も思わない保証もないのだから、下手な横やりが入る前に移動を済ませてしまうのが吉だった。

 

 だが、そんな先のことを考えるより、まずは八神について確認する方が先だ。

 

「実際のところ、封印を解くのに全員を倒す必要はないんだろう? 一柱落とした時点で大神の誰か一柱が復活するとか、そういう話はないか?」

「えぇ、それも話さねばならない、と思っていた事です。確かに全員弑する必要はありません。それだと、妾達まで倒さねば話が進まなくなってしまう」

「そうだな。じゃあ、封印担当している者がいる、と考えて良いんだな? 優先すべきは、そいつであると。他は最悪、無視しても良い」

 

 ルヴァイルは小首を傾げる様に動かしてから、小さく頷く。

 

「担当しているのは、不動と持続のオスポリック。その権能を持って封印をしています。それと、調和と衝突のブルーリアも助力をしています。メインとなるのがオスポリックで、ブルーリアが補助なので、優先すべきはオスポリックになります」

「詳しい能力の説明は後でして貰うとして……」

「ブルーリア、ね……」ユミルが鼻に皴を寄せながら言う。「色々と謀が好きな相手じゃなかった? 戦闘一つとっても面倒くさそうな相手よね。一筋縄ではいかない、というのは、こういう奴を相手にする時に言うんでしょうよ」

 

 かもしれません、とルヴァイルは困ったように笑う。

 それからミレイユから向けられる視線の意味を汲み取って、慌てて否定した。

 

「いえ、決して隠したい訳では……。ただ、長く生きているとはいえ、荒事とは無縁で生きてますから。実力を維持しようと普段から鍛練に勤しむ、という事もしていません。神として強いのだとしても、対人戦闘において、果たしてどこまで、というのは妾にも分からない事なのです」

「なるほど、いつだか聞いた話だな。だが、懸念は尽きない。というより、幾らでも噴出して来て気が重いが。他の神々を無視するところについても、……そうだ。挟み込まれでもしたら、むしろこちらが一網打尽だ」

 

 とりあえず頭の中にパッと浮かんだ一つを言ってみると、誰より早くアヴェリンが同意した。

 

「仰るとおりかと。あれだけ色々と策を弄する相手です。自らが攻め込まれた時に際して、何の用意もしていないと思えません。むしろ、していないという方に不安があります」

「神々が敵だと言うなら、小神にも声が掛かるだろう。八神の声を無視できないなど、そういう調整がされているなら、彼らも無関心を貫けない。小神は実質的に敵と見るべきで、立ち塞がるなら相手をしなくてはならないだろう」

 

 ミレイユが指摘すると共に指を向けると、ルチアも同意して更なる懸念を口に出す。

 

「神々の住処だって聞いてませんよ。仮に大瀑布の向こう側だとして、どうやって行くんですか? インギェムの権能で移動する、という事で良いんですか? それとも地下の転移陣で?」

「外のどこで使おうと察知されるものではありませんが、流石に神域で使うとなれば、意識を向けられる筈です。ここに来るのに使った転移陣で神域に飛ぶ事は可能ですが、そこから他の神がいる場所へ移動するのは苦労するでしょう」

 

 既に答えを用意していたらしいルヴァイルは、ルチアの問いにも淀みなく答えた。

 しかしそれでは、移動手段があっても意味はない、という事になってしまう。それとも、多大な苦労をして移動しろ、というつもりで言ったのだろうか。

 

 今更苦労程度どうという事はないが、それを事前に知っているルヴァイルなら、何か考えがあるのではないか、と思った。

 期待を視線に込めて向けると、ルヴァイルは当然の用意と言わんばかりに笑みを浮かべる。

 

「ですから、それらを一挙に解決する手段があります」

 



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気高き決意 その1

 自信満々に言い切ったルヴァイルの表情には、気負いも無ければ自然体なもので、単に事実を口にしているだけに見えた。

 そんな都合の良い方法などあるものか、とついつい疑いの目を向けてしまう。

 

 だが、この場面でわざわざ反感を買う嘘をつく理由もない。

 だからミレイユは挑むような顔付きで、身体を軽く前に出しながら問う。

 

「神の監視を潜り抜けて、不意打ちも可能で、そして他の神々の相手も出来る妙手か……? 実に有り難い方法だが……本当にあるのか、そんな方法が」

「現時点で、この流れは妾に取っても未知の事。確実に成功するとも、可能とも言えません。けれども、行動を起こすとは本来、そういうものでしょう?」

「……そうだな。困難に立ち向かうとは、つまり負けをある程度、見込んで挑むという事でもあるだろう。だから、それについては良い。具体的な方法を聞かせてくれ」

 

 それで良いか、という意味を込めて左右へ視線を向けると、それぞれから了承が返って来た。

 ルヴァイルはそれらの姿を、満足気に見つめてから口を開く。

 

「――ドラゴンを味方に付けるのです。彼らの願いを聞き届け、その代わりに手助けして貰う。それが最も、この困難を打破できる公算が高い、と考えています」

「……冗談でしょ?」

 

 思わず、といった風に声を出したのはユミルだった。

 その気持ちは分かる。ミレイユとて、ユミルが言わなければ自ら口に出していた。それほど、ドラゴンを味方に付ける、というのは荒唐無稽に思える。

 

 ルチアも眉根を顰めて唸りを上げているし、アヴェリンもまた腕組をして難しい顔で瞑目していた。誰一人、それを妙案と思っていないのは明白だ。

 ルヴァイルが自信を持って、口にする事こそが理解出来なかった。

 それが全員の総意だ。

 

「味方にする、なんて簡単に言うけどね……。そもそも言葉が通じる相手なんて居ないでしょ? 知能の高い獣として見るべき奴らで、その願いとやらも何かを知らない……!」

「大体、そのドラゴンどもからしても、我々は敵じゃないのか? 割りと散々、野良ドラゴンなんぞを狩ってきたが……」

 

 アヴェリンが懸念を含ませ首を傾げ、それに同意してルチアも口を出す。

 

「野良よりむしろ、あっちの方が問題でしょう。世界を焼こうとした巨竜……あれも、神々へ反逆しようとしたドラゴンの一体なんでしょう? それを討伐した相手がミレイさんだと知られているなら、絶対仇敵だと思われてます」

「はい、ドヴェルンですね。彼らは最古の五竜、その一体でした。姿を歪められ、知能を奪われたドラゴンですが、雌伏の時だと今も耐え続けています。……つまり、その我慢の限界を迎えて暴走したのが、そのドヴェルンなのですが……」

「歪めた張本人が良く言うわ……」

 

 ユミルが蔑む視線を向けたが、ルヴァイルは困った顔で否定した。

 

「私は反対した側……いえ、無様な言い訳は止しましょう。大神を詐称し世に降臨しておいて、下手な弁解は反感しか買いませんね。とにかく、最古の五竜は元より賢いので、知能を奪ったとはいえ、獣まで落ちていません」

「あぁ……、他のドラゴンより余程、理知的に会話が出来るのかもな。だが、敵対されているのは変わらないだろう。そいつらの目の前に出て行って、説得が可能とは思えない」

「最古の五竜は……今や四竜ですが、その全てが、ドヴェルンを仕留めた貴女に畏怖し、怒りを向けている訳ではありません。そして、彼らの願いを叶える事は、味方へ引き入れられる十分な動機になります」

 

 ユミルは視線を背けて息を吐く。首を傾け、こめかみを指先で掻きながら、嘯く様に言った。

 

「……何を言いたいか分かって来たわ。つまり、歪めた姿を取り戻す……それがドラゴンの願いというワケね。そして、その餌をぶら下げて、今まで利用するなり黙らせて来たってコト? 本当なら、もっと大っぴらに敵対してそうなものだし」

「そうですね。一方的に姿を歪めた神々が、言う事を聞くなら元の姿に戻してやる、と要求を突きつけ恭順を求めたのが発端です。しかし、従わなかったので今があります」

 

 ハッ、とユミルは鼻で笑い、至極馬鹿にした様な目付きで、背けた顔を元に戻した。

 

「それはご愁傷さま。つまり反目されて、反抗する姿勢を崩さないものだから、アンタらも意固地になって放置するに至ったってコトでしょ? じゃあ、そのドヴェルンが暴れ出したのも、神々への怒りが爆発した所為ってコト? 自らの死を理解しつつも、一矢報いるつもりでいたとか?」

「そうだと思われます。実際、道半ばで倒れようとも人口を半分まで減らされたら、願力が不足し、世界の維持が叶わなくなります。ドラゴンも命はありませんが、神々に手が届かない以上、間接的に被害を与える有効な手段でした。その上で、ドラゴンの悲願を叶える要求を突き付けてもいて、神々にも苦渋の決断を迫られていたのです」

「……だが、それを私達が阻止した」

 

 ミレイユは、居た堪れない気持ちで息を吐いた。

 姿を歪められたドラゴンからすると、恭順の強制は納得いく筈もない。話し合いや交渉より前に、まず殴り付けて言う事を聞かせようとした、神々の側に問題がある。

 

 それで素直に従うと思ったからこそ、浅はかな行動を取ったのだろうが、何より悲惨なのはドラゴンの方だ。

 元より生来の気質として、暴れて手が付けられない、というなら、ある意味で理解できなくはない。首輪を嵌めて、被害の拡大を防ぎたい、という事なら。

 

 だが、知性ある存在として生きていたなら、獣の様に暴れる事もなかった様に思える。

 なぜ神々は、恭順を示すよう迫る必要があったのだろうか。姿を歪めた上で、脅迫してまで迫る必要が、何故あったのだろう。

 

 放置して距離を置く事も出来た筈だ。

 そこに矛盾を感じざるを得ない。

 しばし黙考していると、そこにまさか、と閃くものがあった。

 

「小神と互角の魂を持つ事と言い、姿を歪めて恭順を迫った事と言い、色々と歪だ。話し合いをせず、まず姿を歪めて知性を奪った、という部分が何より強引過ぎる。特別な理由があったとしか思えない」

「……またも、ご明察です」

 

 ルヴァイルは目を伏せて首肯する。

 その顔には苦慮する表情が浮かんでいて、何もかも察知してしまう洞察力を疎ましく思うものが浮かんでいた。

 

「最初から反目して当然……最古の五体は、大神によって創造された生物です。それだけではなく、ある理由から、特に目を掛けられた生物でした。だから、その大神に反逆した小神こそを許せないのです。従う理由はなく、むしろ倒して大神を救い出したいと思っているでしょう」

「つまり、そういう事か……? 空を奪って鳥だけが飛ぶ事を許した、というのも、本当はドラゴン対策として用いたものだと……?」

「そうですね……、それがまず一つ。その理由が最初にあり、そして神々へ近付く要素を、極力排除したかった」

「なるほど……、それじゃあ『孔』を通って現れたドラゴンというのも……」

「取引の一つ、ってワケ……。どんなに美味い飴をブラ下げられたんだって思ってたけど、つまりそういうコトだったと……」

 

 ユミルの見解に、妙に納得した気分でミレイユは頷く。

 孔の向こう側にいる神の素体を取り戻して来られたら、元の姿に戻してやるとでも言って唆したのだろう。そして、神々の目的としては『孔』の大きさを押し広げる事にあったので、通ってさえくれれば役目を果たしている。

 

 本当に取り戻せるかはどうでも良く、利用するだけ利用して捨てるつもりだったのだろう。だから、どの様な飴でもぶら下げる事が出来た。

 神々に対して、ドラゴンは更に恨みを募らせただろうが、どのみち手が届かない所にいる。

 

 かつて持っていた翼は奪われ、忸怩たる思いはあっても、いつか喉笛を噛み千切ってやるつもりで、今も堪えているのだろう。

 

 ミレイユ達は確かに数多の野良ドラゴンを殺したし、恐らく彼らにとって大切な存在――ドヴェルンをも殺した。

 神々の尖兵として動いた様に見えるミレイユにも怒りはあるだろうが、その矛先は前提として神々に向いている。

 

 ミレイユ達もまた、神々に弓引く者だ。その様に伝えれば、協力関係を結べる可能性はあった。

 その得心した表情を見たルヴァイルは、更に解説を付け加える。

 

「それに、ドラゴンは単に戦力として期待できるだけでなく、貴女がたの移動を助ける手段となります。神域は基本的に、空を飛べない者には向かない場所です。辿り着くまで、そして辿り着いてからも、移動となる翼は必要となるでしょう」

「まだ具体的な場所について明言されてないぞ。それはつまり、大瀑布の向こう側って事で合ってるのか?」

 

 ルヴァイルは指摘されて、ようやく自分の失念に気付いた様だった。

 小さく謝罪して、焦ったように付け加える。

 

「あぁ、すみません。どのパターンでも、最後には正解に辿り着いていたので、すっかり知っているものと勘違いしていました。――そうです、神々は大瀑布の向こう側で暮らしています。それぞれ一柱に一つの島、一つの神処。水の流れが複雑なので、何らかの手段で瀑布越えが成せたところで、島の行き来は常識的な手段では不可能です」

「なるほど、それで足代わりとしてドラゴンが有効だと。……だが、大瀑布を越えるとなれば、注意を向けられないか? 全くの無警戒とも思えないし、神々への対策として多数引き連れていくなら、目立たず侵入は不可能に思える」

 

 ミレイユの指摘に、ルヴァイルは当然だ、と頷く。

 やはり、その程度の懸念は想定済みらしい。予め用意していたと思われる答えを口にした。

 

「だから、見つかり難いルートを教えておきます。その上で二手で攻め込み、貴女方は特に分かり辛い別ルートで奇襲するのです。対処に動こうとする神々の、その背を刺すことは難しくないでしょう。一柱はそれで落とせれば良し……」

「他にもう一柱くらい、それで落とせれば尚良し、と……。悪くない」

 

 ミレイユは頷いたが、ユミルには不満も、不安も多い作戦だったらしい。

 素直に採用して良いと思ったミレイユとは反対に、ユミルは顔を顰めながら口にした。

 

「それって少し単調過ぎない? 陽動っていうのは確かに有効だし、完全な奇襲となれば尚有効だと思うけど、そんなに馬鹿な奴らばかりじゃないでしょ」

「勿論です。ですが、そんな事態起こる筈がない、と思っている神々に対しては、単純な方が上手く行くと思います。ですが勿論、作戦は攻め込む貴女がたが納得する形にするのが一番です。妾が言った事は、あくまで提案と取って下さい」

「それを聞いて安心したわ。それじゃ、発見され難いルートなんかは、後で教えて貰うとして……」

 

 とうとう話が大詰めとなって来て、より本格的に作戦の内容を詰めていく。

 八神の残り六柱にはどういう権能を持っているか、ドラゴンを説得するにはどうするか、それら細かいところを話し合う。

 

 それぞれの意見が白熱する事も多々あり、想像以上に話し合いは長引く。そしてその全てが終わり、息も絶え絶えになった頃……。

 既にその時には、夜が明けていた。

 



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気高き決意 その2

 全ての話し合いが終わり、ルヴァイル達が邸宅から離れる時がやって来た。

 長く濃密な時間を過ごしたお陰で、身体の倦怠感も強い。過ごした時間以上に疲れを感じるのは、単に濃密というだけでなく、不都合な事実を多く聞いたからだ。

 

 ――いや、とミレイユは思い直す。

 胸の奥を刺す様な痛みは、感情的なものだけではなく、寿命の終わりを告げればこそだ。

 思わず胸に手を置いて考え込む様な仕草を見せると、アヴェリンが気遣わし気にそっと顔を覗いて来た。

 

「お身体の方は、大丈夫ですか……?」

「あぁ、あんな事を聞いた所為で、少し過敏になっているのかもな。特別、体調不良という感じはしない」

「ご無理だけは、なさりませんよう……」

 

 懇願する様に頭を下げられ、ミレイユは困ってしまって笑みを浮かべる。

 ミレイユは一度帰還した時から、むしろ魔術を使ったり敵を前に戦う様な事は控えていた方だ。多くはアヴェリンやユミルが肩代わりしていたし、これ幸いと楽もしていた。

 

 だがこれから先、ドラゴンを相手にしたり、神々を相手にする事を思えば、無理をしないなど不可能だろう。この身体がマナを生成する毎に、命の蝋燭を燃やして行くというのなら、その燃やしどころを考えて使う必要に迫られる。

 

 出し惜しんで負ける事になれば、それこそ本末転倒だった。

 ――だが、アヴェリンが言いたい事は、きっとそういう事ではないのだろう。

 残りの寿命が一年程度と知ったからには、何事に対しても心配せずにはいられないのだろうし、だから下手な事で寿命を余計に磨り減らす様な真似はして欲しくないのだ。

 

 ミレイユはアヴェリンの肩に手を置いて、安心させる様に笑んでから、ルヴァイル達へと向き直った。

 

「これからは、もう連絡は取れないと思った方が良いのか?」

「……そうですね。これよりは下手な接触を控えた方が良いでしょう。僅かな隙でも見せるべきではない。地下にあった転移陣も消しておきます」

「それは良いが、そんな事で連携なんて取れるのか? 見つからず接近するのに適したルートとやらも、この場で聞いて分かる事とも思えないしな」

 

 何しろ、大瀑布を越えようと言うのだ。

 突き出した岩だとか、そういった目印がある様に思えないし、あったとして確実にそれと判断できるほど分かり易い物とも思えない。

 

「それについては、鳥を寄越すので、その案内に従って下さい。目的地まで誘導します」

「……そうか。では、それも良い。……前提として、私達は今も見張られていると思って良いんだよな? お前の言う五竜……今は四竜か。そいつらが居る場所へ移動すれば、目論見を知られてしまうんじゃないか?」

「そうでしょうね」

 

 ルヴァイルは事も無げに頷いて、ミレイユは思わず眉根を顰める。

 秘密裏に動くのが目的で、そしてドラゴンに因る強襲も作戦の内なのだから、それでは全く意味がない。何を思って、と詰め寄ろうとしたところで、一つ思い当たるものがあった。

 

「……つまり、それで転移陣か? それなら悟られずに目的地まで行ける」

「話が早くて助かります。竜の谷の、奥まった場所に陣を敷かせてあるので、そこへ繋がる陣を置いていきます。場所も場所なので危険は大きいですが、そこは監視されてませんから、都合が良いのです」

「なるほど……? しかし、危険? ドラゴンの巣の中なんて言わないよな」

「いえ、単純に断崖絶壁が続く様な、移動に適した場所でない、という理由からです。同様の理由でドラゴンも周囲に居ない筈ですが……遭遇するかは運ですね」

 

 その四竜に会おうというのだから、道中に野良ドラゴンの遭遇があろうと、当然だとしか言えない。それで下手な騒ぎを起こして注目を浴びるのは避けたいところだが、既に腹は括っている。

 だから、その点については特に気にしていなかった。

 

「そして、そのドラゴンの交渉や手段については、こちら任せという事か。……私達が向いているとは思えないが、それを言うならお前達は更に向いてない。……まぁ、仕方ないか」

「その点はお任せする以外ないでしょう。方法も交渉材料も、好きにして貰って結構です」

「……良いのか? 相当な無茶を要求されると思うが」

「即座の自害など、受け入れられないものはありますが、断るものはありません。大神の復活が何より優先されるべき事で、それを為せねば世界の終焉です。もはや出し惜しみするものもない」

 

 ミレイユは皮肉げに眉を顰め、何を言う事もなく頷いた。

 ルヴァイルが持っているのは捨て身の勇気だ。次がない、後がない、それを前提としているから出て来るもので、だから破れかぶれの様に見える。

 

 そしてそれは、恐らく事実なのだろう。

 神に寿命はないが、摩耗はある。摩耗の先に何があるかは知らないが、廃人の様になってしまうのではないか、と予想できた。

 

 ルヴァイルは確かにミレイユにとっても敵だったが、滅びる世界を看過できず、足掻き続けたという部分だけは共通している。

 その心意気だけは認めているので、これを最後に、という熱意も共通している今だけは、多くを尊重するつもりでいた。

 

「それについても了解した。――では最後に、これから神々の何れかが、私の前に出て来る事はあるのか? 打ち負かされる事になると、私はオミカゲ……前のミレイユにそう聞いているんだが」

「さて……? それは流れ次第と思いますが、確率は低いと思います。直ぐに『遺物』へ向かう姿勢を見せたなら、敗北を悟ったと見て行動しない可能性もありますが……誤解を植え付けたい彼らからすれば、やはり接触はあると見るべきですか」

 

 ボタンの掛け間違え、真相を知らせない為の欺瞞、その種を植え付けるのは奴らとしても必要な事だ。精神的にも、肉体的にも万全な状態のミレイユなら、そう簡単に敗北するものではない。

 手を噛まれなくない、と考えている奴らなので、近付くのは危ういと判断されるミレイユなら、何らかのメッセンジャーを送って来る可能性は考えられた。

 

 現世にて神宮襲撃を行った奴の様に、最初から捨て駒として、ミレイユが誤認する情報を与えて死ぬ役目の者を送ってくるなど、やりようはある。

 負ける振りでもしてやれば、神々は油断するだろうか。その上で『遺物』へ逃げ込む様を見せれば、それなりに効果はありそうに思える。

 

 監視している者に、果たして猿芝居が通用するか、という問題はあるが……望む結果に見えているなら油断してくれる期待は持てそうだ。

 

「そういう口振りをするという事は、お前でも確かな見当は付けられないのか? 大まかな予想でも? もっと言えば、お前が話を付ける、という方向に持っていければ話は簡単なんだが」

「妾が口で言った程度では、完全な信用は難しい。むしろ妾の方から行かせてくれと進言すれば、あらぬ誤解を招くだけでしょう。そして予想という意味では、現在の形が既に未知の領域なので、やはり何とも言えません」

「これまでの傾向からもか?」

「これほど安定感を見せるミレイユというのも、妾は知らないですからね……。果たして他の神々が、どういう反応を示すか定かではありません。ただ、近いところを考えると、やはり直接姿を見せない、と考えるべきです。下手な逆撃を受けるのは、避けたいと判断するでしょう」

 

 ミレイユは顎に手を添えて頷く。

 その逆撃を受けたくないと考えるからこそ、寿命切れの不戦勝を狙う様な奴らだ。

 勝てるとしても割に合わない、と言うのなら、やはりミレイユの推測どおり、メッセンジャーで済ますだろう。

 捨て駒ならば、幾らでも用意できるだろうし、これらがどれだけ反感を買おうと、気にしない事は間違いない。

 

「まぁ、それならそれで、上手いこと知らない振りでもするか、あるいは無視してサッサと『遺物』へ向かってやるとしようか。……因みにだが、『遺物』使った場合、外部からそれとすぐに判断できるのか?」

「出来ます。何を願ったか、その場で即断できるものではありませんが。昔貴女が使った時、全く姿を見せず、昇神した事すら感知できないから、可笑しいと騒ぎ始めたくらいですから」

「では、使用するタイミング次第では、都合よく誤認をさせられそうだな。……ふぅん?」

 

 ミレイユが意味深な視線を向けると、ルヴァイルは全て心得ていると語る様に頷く。

 気に食わないものを感じて眉根を寄せ、それから話を別に逸した。

 

「ところで、私達がオズロワーナへ向かう事は、神々を刺激すると思うか?」

「このタイミングであれば、特別な刺激とはならないでしょう。単に旅立つ前の買い物、という段階で留まるならば、という話ですが。王城への攻撃は必ず警戒しているでしょうし、今更貴女を森に拘束する意味はありませんから、今度は追い立てる為に利用する」

「『遺物』を目指そうと動いている限りにおいて、邪魔する必要はないものな。地上に住まう者を使う程度で、私を害せると思っていないだろうが……しかし、試そうともしないものか?」

 

 下手に攻める姿勢を見せれば、周辺国へ呼び掛けて森へ押し留めようと考えていた奴らだ。

 ミレイユが利用されているだけの者達を、虐殺しないだろうと思っての事だったとしても、それならそれで、討ち取る事ができれば御の字と思いそうなものだ。

 そう思って訊いてみたのだが、ルヴァイルの表情は芳しいものではなかった。

 

「人口の激減もまた、神々にとっては好ましくない状況ですからね。それはつまり、得られる筈だった願力の減少を意味する訳ですから。どうせ無理と分かっているものに、自分の血液を積極的に失う様な真似しませんよ」

「なるほど、そう言われたら確かにそうだ。むしろ、慈悲を捨てて、なりふり構わず攻撃してくる事態は避けたい訳か。だから時間を浪費させるのに、森へ押し込むのは良しとしても、積極的に攻め込む兵力として使うつもりはないと……」

「貴女がかつてエルフに助力した時に、それはもう凝りてますからね」

 

 そう言って、ルヴァイルは力なく笑った。

 

「一撃で十万近く失われた時は、本気で立ち眩みがしたのを覚えています。国同士の戦争に加担させるべきではない、と強く進言しなかった事を悔やみましたよ」

「あぁ……、それは……済まなかったな。だがそれを言うなら、もっとエルフを救うなり、当時の王国を操作するなり、上手い方法があっただろう」

「今更、それを蒸し返さないで下さい。どうにもならない部分なんですから……」

 

 ルヴァイルはくたびれた表情で息を吐いた。

 ループが生まれた瞬間は、ミレイユが一番最初、現世へ帰還する時を選択した瞬間だ。

 

 始点となるのはそこからなので、オズロワーナとエルフの戦争など、既に通過してしまった部分は、介入出来ないし修正も出来ない。

 そこからやり直せれば、と忸怩たる思いを抱いたのは、一度や二度ではなかったのかもしれない。そう思わせるだけの哀愁が、今のルヴァイルには漂っている。

 

「だが、分かった。それなら街に行くだけなら、なんら問題は無いんだな?」

「えぇ、そうなります。ただし、オズロワーナへ入るというなら、常に見張られている事も覚えておいて下さい。王城へ向かおうとすれば、何かしら手の者が出てくると思っておいた方がよろしい」

「気を付けよう」

「それと、貴女の魔力波形は記憶されているので、建物内など見えない場所に居ても分かります」

 

 聞き捨てならない台詞が出て来て、ミレイユは顔を歪める。

 

「それは、常に私の動向が確認できている、という意味か?」

「いいえ。でも、貴女は膨大過ぎるマナの生成があるから、どこかで放出しなくてはならない。そのタイミングで探し出す事が可能、という意味です。見失う事はあっても、ある程度定期的な排出があるので、そこから探し出す事が出来ます」

「それは即座に、直ちに、その場で分かる事か?」

「いいえ、見失った地点については分かるので、そこから円周上に探す、という手段ですね。そう遠くに行かないと分かっていれば、探し出すのもそう難しくない事のようです」

 

 ミレイユは喉の奥で唸りを上げて、額に手を当てた。

 まぁ良くも、あれこれと活用してくれる事だ、と暗澹たる気分になる。

 

 だが、それを知る事が出来たのは大きい。ミレイユを目視と魔力から探っているというのなら、それを隠す手段があれば良い、という事だ。

 

 魔力の放出を極力抑えるような事は、結局時間稼ぎにしかならないし、身体への負担も大きい。

 マナの生成を意志の力で抑えられない事を考えれば、それを上手く利用する方法を考えるしかなかった。

 

 ルヴァイルにはぞんざいに頷いて、ミレイユはどうするべきか、次を考え黙考する。

 顎に手を添えたまま、十秒程じっくりと考えると、一つ妙案が浮かんだ。顎から手を離し、再びルヴァイルに目を向けた時には、今後の行動プランが頭の中で出来上がっていた。

 



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気高き決意 その3

 ミレイユの表情を読み取って、ルヴァイルは満足げに頷いて席を立つ。それに倣って、インギェムもまた立ち上がった。

 

「もう話す事だって無いだろ、そろそろ帰るとしようぜ。肩が凝って仕方ねぇ……」

「えぇ、この辺りで退出しなければ……。あまり長く居すぎて、疑念を強めてしまっては元も子もないですからね」

「言っておくが、日が暮れる前から来て、今はもう陽がすっかり登っているからな。これを長くないと言われても、全く信憑性がないんだが」

 

 言いながらミレイユが指先で窓を示すと、既に十分明るい外が目に入った。

 森の中には薄っすらと霧が掛かり、朝露が葉を濡らしている。雲の少ない空には、黄色い光が更に長く明かりを伸ばそうとしていた。

 

 指差されるままにそれを見つめたルヴァイルとインギェムは、目を細めて笑う。

 

「このぐらいならば許容範囲です。そうでなければ、強引にでも話を切り上げるか、もしくはもっと急かしていました。予定通り終わったのですから、文句はありません」

「……それなら良いけどな」

 

 ミレイユも席から立ち上がると、アヴェリンとルチアがそれに続き、最後にユミルが億劫そうに立ち上がる。

 

「では、最後の仕事に取り掛かりましょう。竜の谷へ転移する陣を張ります。構いませんね?」

「勿論だ」

 

 短く返答して、アヴェリンに先行するよう指示する。その後ろにルヴァイル達が付き従い、そしてユミル、ミレイユ、ルチアの順で続いて行った。

 今更ここまで警戒する必要もないと思うが、念を入れるに、入れ過ぎるという事はない。

 

 地下へ辿り着くと、早速ルヴァイルが魔力を制御し、陣を形成していく。それをインギェムが補佐する事で、それなりに手早く完成させた。

 手際自体は確かなものなのは認めるが、神々の二人がかりとしては粗末なものに見えた。

 

 あれならば、ミレイユとルチアとでも同じ事が出来るし、やりようによってはもっと速く出来る。タイムを計る競技のつもりでやった訳でないだろうが、落胆の様な不思議な感情が胸の底から湧き上がった。

 

 そうして唐突に思い至る。

 ミレイユは期待していたのだ。心の何処かで、神ならば出来て当然、有能で当然、自分より遥か高みで当然と。

 

 しかし、ミレイユという素体は、その神々の中でも最高傑作たらんと作成された。

 彼女らが(つたな)いのではなく、ミレイユが規格外だと考えるべきなのかもしれない。

 ミレイユの不躾な視線に気付いたのか、ルヴァイルが苦笑しながら言った。

 

「何を考えているか推測できますが、妾も別段、魔術の扱いに秀でている訳ではありませんからね。だったら何が得意だと言われたら……、困ってしまいますが」

「言っとくけどな、己らを過小評価する前に、自分がオカシイって事実を受け入れろよな。多芸で羨ましいって言ったのは、皮肉でも何でもないんだよ」

 

 インギェムまで睨み付ける様に言ってきて、それで降参するように手を挙げた。

 

「それはすまなかった。それで、いま作成した陣の方は、私が魔力を流すだけでも作用する、と考えて良いのか? 使用期限や回数制限は?」

「今込めた魔力は時間経過と共に減衰して行くので、それまでの間なら何度でも。しかし、七日程度で作動しなくなると考えて下さい」

「七日ね……。それまでの間に、色々と済ませてしまわねばならないか……。了解だ」

 

 ミレイユが頷くと、ルヴァイルは視線を合わせ、決意を込めた表情で口を開く。

 

「次に会うのが神域である事を願います。言ったとおり、戦闘での助力は望めませんが、神々の合流を阻止するか、あるいは遅らせるかして援護しますから」

「何があろうと己らの先は長くないだろうが、終焉だけは阻止する。……頼むな。……本当に、頼むぞ」

 

 インギェムの言葉は切実で、懇願の色が濃く浮き出ていた。

 ミレイユとしても、こちらとあちら、どちらの世界の終焉も受け入れるつもりはない。そして、これが最後だという覚悟と決意の元に動いている。

 これまでもそうだった。そして、これからもそう動くのだ。

 

「分かってるさ。お前達もヘマをするなよ。こちらを救い終わったら、次はあちらだ。それまで死ぬ事なんて許さんからな」

「へっ……、許さないってか。神に言う事じゃないんだよなぁ……、まったくケッサクだ」

 

 目を細めて笑い、それから泣き笑いの様な表情で握った拳を向けてくる。

 

「お前とは違う形で知り合いたかった。そうすりゃ、きっと良い友になれたろうにな。今更お前にやったあれこれを許してくれとは言えねぇが、今回だけは飲み込んでくれ」

「……そうだな、許してやるとは言わない。……だから、今回だけだ」

 

 決して笑みを作るでもなく、嘆くでもなく、平坦な表情を心掛けて、拳をコツンと突き合わせる。インギェムは感謝するように小さく顎を上下させて、視線を振り切るように身体を反転させると、元より用意されていた陣へ入って行く。

 

 それを目で追って消えるの見届けると、次にルヴァイルがミレイユの前に立った。

 

「最後に思いがけない土産を、ありがとうございました。自己満足でしかないと分かっていても、貴女には感謝を。必ず報いは受けますから、どうか必ず成し遂げましょう」

「あぁ、全てを終わらせる。――終わらせてやろう」

 

 ルヴァイルが瞳に涙を溜めて頷き、おずおずと掌を差し出してくる。

 何をしたいか察して、ミレイユはその手を握り、上下に軽く振った。

 ルヴァイルは嬉しそうに笑い、離した手を大事そうに胸へ抱いて一礼した。そうして、インギェムの後に続いて陣を潜り、姿が消える一瞬、振り返った姿に泣き笑いの表情が映る。

 

 それは一瞬の残滓に過ぎなかった筈なのに、ミレイユの瞼には強く焼き付いて残った。

 

 ――

 

 二柱の神が姿を消して、地下室に沈黙が降りる。

 只でさえ物音がせず、寒々しい地下だ。沈黙が残ると、更に寒々しい気配に満ちる。

 自分の感情を整理しきれないまま転移陣を見つめていると、構成していた線がスパークする様に光り、次いで焦げ付き煙が上がる。

 

 それは蝋燭が消える直前に見せるかのような細い煙で、部屋に充満するほど大きなものではなかった。ただ、再使用出来ないよう、あちらから何か働きかけて自壊させたと分かって、物寂しい気持ちになる。

 転移陣があれば何かと便利とは思うが、これはもう二度と来る事はない、という意思表示であると共に、訪れた証拠隠滅も兼ねているのだろう。

 

 ミレイユは右手で魔力を制御して、ごく小さな旋風(つむじかぜ)を行使して煙を霧散させる。そして背後を振り返って、ルチアの目を見ながら、焼き切れた陣へ親指を向けた。

 

「悪いが、あの陣の処理を頼む。そして、その代わりに別の転移陣を敷いてくれ」

「それは構いませんけど……。どこへ繋ぐ陣ですか? ……というか、私はマーキングとかしてないので無理ですよ。まさか二百年前に描いたものが残っているとも思えませんし」

 

 当然の疑問と指摘に、ミレイユは用意していた答えを言った。

 

「最後の仕上げは私も加わる。敷いて欲しいのは、ここへ繋がる転移陣だ。移動時間を短縮するのに使いたい。これから向かう分には仕方ないとして、そこから更に竜の谷まで行くとなれば時間との勝負だ。極力無駄は省きたい」

「それは了解しましたけど……。でも何処へ向かうと言うんです? ――いえ、先程は何やら当然の様に『遺物』の話を口にしてましたけど、つまりそこへ向かいたいと言うんですか?」

 

 そうだ、とミレイユが首肯すると、ルチアは疑問を顔に貼り付かせる。

 理解出来ないのは当然だが、それを説明するより先に、アヴェリンが問いかけて来た。

 

「先程の神々からと話し合っていた事からして、そもそも『遺物』を使う前提でいる様でした。ドラゴンどもと交渉するにしろ、その願いが歪められた姿を戻す事にあるのなら、それは『遺物』を使わなければ無理だという理屈も分かります。しかし、前提として無理が先立つのでは?」

「うん、お前が言いたい事も分かる。私としても、神々に対してはカマをかけたつもりだった。そして、誰も異議を挟まないので、どうやら間違いではないと分かった」

「誰も……。ルヴァイルとインギェムが、という事でしょうか?」

「いや、ユミルもそれに含まれる」

 

 言うと同時に、アヴェリンの剣呑な視線がユミルを射抜く。

 当の本人は飄々とした視線を崩さず、むしろ楽しげにアヴェリンを見返していた。

 何を言うつもりもないと見て、アヴェリンが一歩踏み出そうとしたところで、ミレイユが手首を持ち上げる様な動作で止めた。

 

「あの場で直接的に言葉を出すのは憚られた。本当にあちらが知っているのか、その確信が持てなかったからな。別の何かと勘違いしているなら、それを教えてしまう愚は犯したくないし、仮に知っていようとも、念のため口に出したくなかった」

「では、ミレイ様は何を知ってカマをかけたと言うのですか? ユミルが関わる……隠して……」

 

 ユミルを見つめながら口に出した事で、点と点が繋がったらしい。

 アヴェリンは瞠目しながら、ユミルに指を突きつける。

 

「それがさっき言っていた、伏せ札というやつか? 幾度となく、ルヴァイルに苦汁を舐めさせたと思しきもの……」

「神の思惑を越えて、そのテーブルを引っくり返す様な真似、となると手段は限られてくる。その上で何を隠し持っていたかを考えれば、それは『神器』以外に有り得ない」

 

 ミレイユがアヴェリンの言葉を継いで言うと、ユミルはクイズの解答者を褒めるかのような気安さで手を叩いた。

 間違いなく正解だと、その表情からも伺えるのに、しかしアヴェリンは未だに納得できないらしかった。眉根に皺を寄せ、突き付けた指を上下に振って詰問する。

 

「だが、そんなものいつ手に入れた? ミレイ様と出会うより更に前から、どうにか入手していたと? そして、それを今まで誰に言うでもなく、隠し持っていた……?」

「馬鹿ね。神がアタシに試練なんか課す筈ないじゃない。試練を超えた誰かから奪ったワケでもない。良いコト? 単純な引き算よ」

 

 ユミルは指を一本立てて振り、ミレイユを指差してから、その手を開いて指を広げた。

 

「この子は五つの神器を集めた――集めさせられた、と言うべきかもしれないけど。そして一つ使って現世へ帰還する願いを叶えた。そしてアヴェリン……アンタも、率先してその後に続く願いを口にした。見てるとやっぱり、一つの消費で済むらしい、と……。じゃあ、ルチアとあたしも同じく消費は一つで済むと分かるワケで……。となれば、集めた内の一つは、余る計算よね?」

「宙に浮く一つを、その場に残して行く事を良しとせず、くすねていたという訳か……!」

「言い方ってモンがあるでしょ」

 

 ユミルはジト目でアヴェリンは見つめてから、ミレイユへと顔を向ける。

 

「だから、もしもの保険、使わずに済む鬼札として、懐に仕舞い込むコトにしたのよ。使う事態なんてなれば、それはロクな状況じゃないと分かるし、秘している方が良いと思ったのよ」

「うん、お前の考えは正しい。そしてお前だからこそ、有効に使えるんだろう」

 

 ユミルには、覗き屋連中から姿を隠せるフードがある。

 隠密術にも長けているから、手足となる者を派遣しても逃げ果せるのだろう。そしてきっと、強引な手段でミレイユを拘束したり、契約を強いたりすると、神器を持って覆してしまうのだ。

 

 『遺物』に関与できない契約を、後先考えずに結んでしまった神々としては、臍を噛む思いだろう。そしてだからこそ、ルヴァイルは強引な手段で目的を達成できないと、知っている発言をしたのだ。

 

 ミレイユは改めて労う台詞を口にしようとしたが、それより前にユミルが真摯な表情を向けてくる。いつになく真剣な表情に気圧され、ミレイユは開きかけた口を閉じた。

 

 アヴェリンもルチアも、その雰囲気を感じ取って口を挟まない。

 そしてユミルが懐から『神器』を取り出し、顔の前で掲げて見せた。

 



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気高き決意 その4

 それは紛れもなく『神器』だった。

 かつて自分で手に入れ、そして管理していた事からも、それが偽物ではないと分かる。

 手を出して受け取るべきか、と一瞬の間逡巡したが、そもそもユミルにそのつもりがあって取り出したのではない、とその視線から分かった。

 

 伝えようとしているのは、これを握らせる事ではない。

 覚悟を問おうとしているのだ、とミレイユは察した。

 

「これがあれば、現世に帰還できる。恐らく、これまでのミレイユの多くは、これを使って帰還し、そしてやり直していたんでしょう。アンタが望むなら、何もかもを捨てて元の世界に帰るコトが出来るかもしれない。でも、この先ドラゴンの為に使うつもりでいるなら、そのどちらも叶わなくなる。……いいのね?」

「そうだな……」

 

 ミレイユは自分の過去を振り返る。

 何も知らず、単にゲームで遊んでいただけの御影豊は、数奇な運命を辿るなど全く考えずに遊んでいた。当然だろう。ゲームを遊ぶ事で違う人生観を得られる事はあっても、別人の人生を送る事になるなど、想像もつかない。

 

 そこへ帰りたいと思うか、と問われたら――。

 今のミレイユはいいえ、と答える。

 

 寿命も残り一年を切り、世界の命運を握らされ、そしてオミカゲ様も受け継いできた重荷を受け取り、神々との戦争を控えているとしても――。

 それでも、ミレイユは今の自分を選ぶ。

 

 何も持たず、得る事も求めず、怠惰に過ごしたあの時に戻るくらいなら、痛い思いと辛い思いをしようとも、ミレイユのままでいる事を望む。

 幾度も繰り返し、そして悔恨や絶望のまま死んでいった、同じミレイユの事を思えば、それに報いてやりたいと思う気持ちもある。

 

 そして、この場で自ら帰還して、敢えてループするという選択もあった。

 かつてオミカゲ様は、一つの道を示している。

 

 ミレイユが現世に帰還した瞬間、その時から結界へ移動させ、座標の固定をさせない。そしてルチアに協力して貰って『孔』の縮小を狙う、という方法だ。

 電線を利用した転移で即応体制を形成する、という方法もあった。

 

 次周へ託す事を念頭に置いたオミカゲ様には、ミレイユ達に指摘されるまで気付かなかったアプローチだ。それを今のミレイユなら、上手く準備を整えるなら可能かもしれない。

 残り一年という寿命も昇神すれば開放されるし、オミカゲ様が成せた事なら、ミレイユもまた同じ時代……より良い時代を、形成出来るかもしれない。

 

 もしかしたら今度こそ、次の周回でループから脱却できるかもしれないのだ。

 神々との抗争という、命を擦り減らし、勝てるかどうかも分からない戦いに身を投じる必要もない。

 より確実な脱却を目指すのなら、もしかしたら次に託す事が、最も成功に導く方法になるかもしれない。

 

 ――だが。

 ミレイユはこれを最後にすると決めた。

 自分の世界だけでなく、このデイアートに生きる無辜の民を――神々によって良いように使われた民たちを、救い出すと決めたのだ。

 

「この世から八神を排除し、正しく大神に降臨して貰う。崩壊間近な世界の救済、人民の救済を託す。その上でオミカゲ様が築いたあの世界を救ってやろう。全て解決する。――全て、これで終わらせる」

 

 ミレイユが高らかに宣言すると、ユミルはにこりと笑って神器を手渡して来た。

 

「いいわ。元よりアンタの為に使う神器だもの。その気高い決意の為に、使ってもらいましょう」

「ミレイ様……! やはり、やはり私の目に狂いは無かった! 我があるじ……、気高き御方……! 貴女様の願いを叶える為、このアヴェリン如何なる命であろうと遂行して見せます!」

 

 アヴェリンが感動に打ち震えながら、頭を下げた。

 主従として見慣れた光景だが、アヴェリンから溢れるやる気が違う。忠義を示す事は彼女にとって喜びだが、同時にミレイユが気高き足らんとする姿を何より喜ぶ。

 

 誰よりも高みにあり、誰よりも気高いと信じて已まないアヴェリンだから、ミレイユが言った台詞には、相当心が刺さったらしい。

 ルチアはそこまで強い感情を見せないが、しかし彼女にも彼女なりの真摯な気配が伺える。

 

 受けた恩以上のものを返す、と誓っている様であり、それは単に自分が受けたものだけでなく、この森全体が受けた恩に対してのように見えた。

 アヴェリンほど苛烈でも、ユミルほど執着してもいない。だが、命を振り絞って共に在りたいと思ってくれている。

 

 それらを感じ取って、ミレイユはそれぞれに笑みを浮かべ……そして、その笑みを苦いものに変えながら神器を手に取った。

 

「我ながら無茶を言うと思っているよ。とんでもない事になったとも、とんでもない道を歩いているともな……。しかし、抗うと決めた。乗り越え、覆えし、終わらせると。それに付き合わせるお前達には、済まなく思うが……」

「憂う必要などないのです! 誰しも今更、臆病風に吹かれる者などおりません。貴女と共に歩き、進める事は我が喜び。思うがまま、お好きな様にお使い下さい!」

「あぁ、共に行こう。……お前たち二人も、……頼りにさせて貰っていいか?」

 

 ミレイユが顔を向けると、二人は揃って呆れたように笑う。

 

「聞くまでもないでしょ、それは。アンタはいいから、着いて来いって言ってドンと構えていればいいの」

「そうですよ。むしろ、今更そんなこと聞かれたら、梯子外された気持ちになりますよ。アヴェリンと同じ事を期待されても困りますけど、今更離れ離れで生きていくこと自体、違和感あるんですから」

 

 二人から苦言の様に言われると、ミレイユも我ながら馬鹿なことを聞いたと自省した。

 切っても切れない関係。この四人の事は、恐らくその様に表現するのが相応しい。そして、そんな仲間に囲まれているから――頼りになると思っているから、ミレイユは何でも出来る気持ちになれるのだ。

 

「それじゃあ、お前達にも苦労して貰うとするか」

「いいわよ。神を相手に売る喧嘩だもの、苦労のし甲斐もあるってモンでしょ」

「苦労だけで済むって考えてる辺り、相当おかしいって自覚するべきですよね。勝てて終わると当然の様に思ってるのが、何とも……」

 

 苦笑を滲ませて言うルチアに、ユミルは肩を竦めて答えた。

 

「そうは言うけどアンタ、その位の気持ちでいなくちゃ、やってやろうという気にはならないでしょうよ。――大体、負けてやるつもりもないしね」

「……それは勿論、そうですね。貴女がこういう場面で楽観視するとは思えませんし」

「何を言う、ルチア」

 

 苦い笑みから諦観を浮かべ始めたルチアを、嗜める様に口を挟んだのアヴェリンだった。

 

「元よりミレイ様が進む先には栄光しかない。それは分かっていた事だ。途中躓こうとも、最後には必ずやり遂げる。その決意を、今まさにミレイ様が表明したのではないか」

「躓くというには、少し長い足止めだった気がしますけど……。でも、そうですね。負けるつもりで挑戦する気は、私にもありませんから」

 

 当然だ、とアヴェリンは満足げに頷き、そしてミレイユへと顔を向ける。

 

「それでは、すぐに行動を? まずは竜の谷へ行く、という事になるのでしょうか」

「そうしたいところだが、まずは休息だな。夜通し掛かった話し合いだ。使いたくもない頭を使わされて、流石の私も相当疲れた……」

「真に、左様ですね。気が逸ってしまい、申し訳ありません」

 

 いいや、とミレイユは笑って手を左右に振った。

 

「気持ちは分かる。それに、聞いた話では今日明日で事態が変容するような、急を要する事にはならないだろう。あちらもまだ、私が安穏としていると思っている筈。これから危機感を煽ろうとして襲撃があるにしろ、まだ猶予はある」

「一度眠れば、何か問題に気付いたり、あるいは妙案が思いつくかもしれませんしね」

 

 ルチアがそう言って皮肉げに笑えば、ミレイユも同意して頷く。

 ともかくも、今日は色々と一度に知り過ぎた。途方も無い事、と本来なら頭を抱えていても可笑しくない状況なのだ。

 それを今一度理解すると、更にドッと疲れが肩に圧しかかって来る気がする。

 

「それに、いつまでも寒い地下室にいるのも嫌になってきた。陣の方も明日起きてからで、今は後回しでいい」

「あら、それは助かりますね。時間に追われている気分だったので、早く終わらせなければ、と思ってましたよ」

 

 顔には出さずとも、思う所はあったらしい。嬉しそうな顔を繕おうともせず、胸の前で手を叩いた。

 それに先程、ルチアが言ったとおりだ。

 疲れた身体と頭では、ロクな事を考えないし、考えつかない。一度に多くの情報を教え込まれた所為もあり、ミレイユとしても、とにかく眠ってしまいたかった。

 

「互いの認識の擦り合わせや、今後の方針についても、また明日にしよう」

「その方が良さそうね」

 

 ユミルもまた口元に手を当てて、大きく欠伸をした。

 戦闘をした疲れよりも、こうした疲れの方が負担は大きい。誰からもその気配が伝わって来て、ミレイユを先頭に、地下室を後にする。

 大きく背伸びをしつつ、欠伸を噛み殺しながら階段を上がって行った。

 



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気高き決意 その5

 明くる日の事だった。

 

 ミレイユが眠ったのは、日がすっかり昇り、樹々に休む鳥の囀りが大きくなり始めた頃だ。

 一度目を冷ました時は疲れが取れず、水分だけ取ってまた眠ったのだが、それから更に目を覚ました時、再び日が昇っていた。

 

 寝ぼけた頭には鈍い痛みがあって、正常な思考が纏まらない。自分がいつ寝て、そして起きたのか、それすら理解できずにベッドの上で首をゆらゆらと漕いでいた。

 いっそ受け入れられない、といった気分だったが、とにもかくにも朝には違いない。すっかり固まってしまった身体を解きほぐしながら、ミレイユはベッドから起き上がった。

 

 身だしなみを整えてから食卓へ向かうと、そこには既に全員が揃っている。

 窓の外へ目を向ければ、いつも起き上がる時間とそう変わらないようだった。気まずいものを感じながら、ミレイユは自分の席に座る。

 それを目で追っていたユミルが、ニヤニヤとした嫌らしい笑みを浮かべながら言った。

 

「あらあら、お寝坊さんのお出ましね。あまり長時間寝ると、身体に根が生えるとか言われるもんだけど……ちょっと背中見せてご覧なさいな」

「挨拶の前に言う事がそれか。……寝すぎてしまった私が言える事ではないが」

「少し寝すぎる程度、何程の事がありますか。あの日の苦労を思えば、疲れが多いなど当然というもの。起きたい時に起きて、誰が文句を言いましょうか」

 

 アヴェリンは援護してくれたが、気まずい事には変わりない。

 寝過ぎれたから怒られる、などと言う事もないが、とにかく倦怠感ばかりが募って精神衛生上にも宜しくなかった。

 ミレイユ自身、自己嫌悪する部分があったのだが、それとは別方向の苦言がルチアの口から出て来る。

 

「それは確かに、少し寝たぐらい誰が文句言うものでもないですけど、ミレイさんしか裁決できない書類とかあるじゃないですか。父上が一度心配して様子を見に来ましたけど、とりあえず心配ないと追い返しておきました」

「あぁ……、そうだな。その件についても、少し話しておかねばならないか。暫く……いや、今後里長としての仕事を行えなくなるかもしれないしな」

「アンタね、そんな後ろ向きな……」

 

 ユミルが顔を顰めて注意しようとしたのを、ミレイユは緩く首を振って止める。

 何もこれから来る戦いの結果次第でどうこう、と言いたいのではない。負けるつもりも当然ないが、勝ったからとて同じく里に留まり続けるとは限らない。

 

「そういう事が言いたいんじゃないんだ。ただ、本当に全て円満に解決したのなら、私はきっと現世へ帰還すると思うからだ」

「あぁ……、それは……。まぁ、アンタは元よりそれが望みだったものね。思うトコロが無いワケでもないけど、でも最初から一貫した願いだったし」

「何だ、その思うトコロというのは……」

 

 聞いてしまってから、迂闊な質問だったと自分を責めた。

 何を言いたいか思い当たったが、既に口に出してしまっては仕方ない。どうも、未だに頭が回っていないらしい。

 

「アタシは、まだアンタがこの世の神になって欲しいって気持ち、失ってないのよね。多くの神がいなくなるワケだし、代わりに居てくれると嬉しい限りなんだけど」

「大神が――本当の大神が世に降臨するだろ。本来はその四柱で上手いこと回していくものだろうし、今更私なんて必要ない」

「その四柱ってのが、ちょっと信用ならないっていうか、ねぇ……。ほら、分かるでしょ?」

 

 ユミルの懸念も分からないではない。

 何しろ、贄としての役割を持たせて小神を作ったのは、その大神なのだ。

 つまり、全ての元凶とも言える。

 

 もしも小神の役割が、単に信仰を効率よく集める為だとか、大神の手足となって働く事を前提としているだけなら、反逆など起こさなかった。

 

 我が強く、そして力があったから起きてしまった悲劇とも言えるが、もっと穏便な方法を作れば、ミレイユも今こうして悩む必要などなかったのだ。

 謀略の得意な神がいて、そして大神に比べ小神の数も倍いたとはいえ、あっさり負けて封印されている、というのも不安に拍車を掛けている。

 

 ルヴァイルは大神を復活させ、その権能を十全に発揮されたなら、世界の崩壊も、終焉も全て解決すると思っている。

 大神の実力や権能の程を知らないミレイユからすると、ついつい本当に大丈夫なのかと疑ってしまう。だが、ルヴァイルが信じると言うのだから、ミレイユもまた信じてみても良いだろう。

 

「……何事にも、まず疑ってみるのは大事かもしれないが……。しかし、信じるしかないだろう。世界の終焉を防ぎ、救うとは言ったが、何もかも全ての責任を担ってやる、とは言ってない」

「それも分かるわ。ただ、少し心の片隅で置いておいて欲しいのよ。大神が、封印されるに足る程の外道だったとしたら? それはそれとして、じゃあ崩壊は防いたんだし、後はよろしく、ってなる?」

 

 ミレイユは顔を覆って、テーブルに肘を付いた。

 大きく溜め息を吐いて、もう片方の手をプラプラと左右に振る。

 

「そういう事は考えたくない。大神の封印が解かれれば、全て平穏無事に収まる……それでいいじゃないか。今の八神は反逆の罰を受けるのは致し方ないとして、復活するのは正真正銘の創造神だろ。この世の全てを作った神、何もかも上手くやってくれる。文字通りのデウス・エクス・マキナだ」

「確かにそうよ、何もかも上手くやってくれるかもね。でも同時に、最悪を考えて欲しいの。もし何もしてくれなかったら? この崩壊する世界に見切りを付け、別に創造し直すと言い出したら? 全てを破棄すると言い出したら? 救うと言うなら、その場合も考えて欲しいのよ」

「――考えてどうなる」

 

 そう言って、鋭く非難したのはアヴェリンだった。

 

「確かにミレイ様は、神たらんと戴くに相応しい御方。オミカゲ様の事もある……もしも神として降臨して頂けたなら、必ずや世を平穏に導いて下さるだろう。だが、それはミレイ様の望みではない。既に一度、断られてもいる。私も一度は望んだ事だが……、考え直しては頂けないだろう」

「そうね……、そうだと思うわ。でも、手段があり、方法があり、そして可能であるのなら、考えるだけはして欲しい。これはそう言う話なのよ」

「それは、確かに……考えるだけなら、考えて頂きたいものだが……」

 

 否定しようとしたアヴェリンだったが、ユミルの言葉に絆されて、否定しきれず曖昧に首を振る。それからゆっくりとミレイユへと顔を向け、困ったように眉根を寄せた。

 

「神器……そして『遺物』、その二つが揃っているのなら……」

「なんだ、私に昇神しろと言いたいのか?」

 

 ミレイユが睨む様に言うと、アヴェリンは顔色を悪くして首を振った。

 

「いえ! ただ……少し、可能性として実行できると思っただけでして……!」

「それも良いけど、いっそ全部まるっと上手いコト解決して、って願うのはどう?」

 

 ユミルが冷やかすように笑いながら言うと、それを冷ややかな目でルチアが咎めた。

 

「いやいや、待って下さいよ。いっそ可能なら縋りたくなる気持ちは良く分かりますけど、現実的に不可能じゃないですかね?」

「私とて、何も無責任に縋ったり託したい、と言うつもりはないぞ。決して、お一人で担って欲しいと押し付けるつもりもない。その時は、私も一端を担い、身命を賭してお仕えするつもりだ」

「いやいや、そっちじゃないです。ユミルさんが言った、まるっと解決の方です。手段はあっても、その効果が曖昧だから無理じゃないかって話なのであって……」

 

 言わんとしている事が分からず、アヴェリンは首を傾げる。

 ミレイユもまたどういう事かと一瞬思ったが、すぐにルチアが何を言いたいのか思い当たった。

 

 結局のところ、『遺物』は汎ゆる願いを叶えてくれるものでは無い。それを前提として理解しておかねばならない。そして、願いをかける者もまた、その篩に掛けられている。

 

「ミレイさんは、汎ゆる願いを叶える為の『鍵』として、造られたらしいじゃないですか。でも同時に、下手な願いで世界を混沌で満たしたり出来ないよう、ある種のセーフティが設けられている。例えば、一般的な農夫が叶えられる願いは、やはりそれ相応の微々たるものでしか無いんでしょう」

「それ事態は分かる話だ。『遺物』はそれ自体が、世界を崩壊させる危険性を秘めている。子供の思い付きで壊されては堪らない」

 

 ミレイユが口を挟むと、ルチアは大いに同意して頷いた。

 

「私達が使えたぐらいなので、神である事、その模造品である素体である事は、絶対的な条件じゃないんでしょう。ただ、より大きな願いには、より大きな力を求められる」

「素体を神の領域に押し上げる……魂の昇華などという曖昧な表現が、つまりそれだろうな。そして、私を小神を越える程の位置まで押し上げた事で、それだけ強い願いを叶えさせようとした」

 

 あるいは、その力量や魂の昇華を、レベルと言い換えれば分かりやすいかも知れない。

 十や二十で叶えられるものは個人的な狭い範囲に留まるが、これが百ともなると、世界そのものにアプローチできる権利を得る、という様な。

 それが真実、正しい事かは不明だが、イメージとしてはそれが最も分かり易いし、全くの的外れでもないと思った。

 

「前にミレイさんが願いを叶えた状況って、かなり特殊だったと思うんですよ。神魂に相当する魂が三つも注がれた状態で、更に神器が五つも揃っていた。本来の目的が、ミレイさんに世界を改変させる程の大きな願いだったとすると、それだけの膨大なエネルギーが必要って事ですよね。でも……」

「いま確認できるのは一つの神魂、一つの神器だけ。これでどこまで願いを叶えられるかは不明だが、あらゆる願い、あらゆる現象を引き起こす、と行かないのは明白だろうな」

 

 ミレイユがルチアの言わんとしたい事を先に告げると、またも彼女は大きく頷く。

 

「だからこそ、ドラゴンの姿を取り戻す、という小さな願いを提示したんでしょうしね。相応のエネルギーでは、相応の規模までしか叶えられない、という証左です」

「……そうだな。現状の願いで即座に解決できるなら、ドラゴンを味方に着けろなどと言わない。それよりも、封印の解除を願わせれば済む話だ」

「いっそ、その封印に関係した神々を消せれば、もっと話は早かったわよね」

 

 ユミルが眉根に皺を寄せて、不快気な息を吐いて言った。

 実際、それが出来れば、何もかも話はスムーズに進む。大神は復活するし、それで後は神々同士で争うなり、話し合うなりすれば良い話だ。

 

 ミレイユの預かり知らないところで、世界を終焉から救ってくれれば良い。

 ――だが実際は、そう話は上手く転がらない、という事なのだろう。

 ユミルの結論を聞いたアヴェリンも、不快気に顔を顰めて腕を組む。

 

「それならばそうと、詳しく説明して行けば良いものを。何故あぁも胡乱で、何もかも知っている前提で話を進めるのか……!」

「それが神ってモンだからでしょ。後は、ウチの子を随分買っていたのも原因かしらね。言わずとも、それぐらいは推測出来て当たり前、理解して動いて当然と思われてるんでしょ」

「……何とも、はた迷惑な話だな」

 

 それは事実だと思うので、ミレイユも憮然として頷いた。

 そして勝手に理解して推測し、正解を引き当てると思って疑っていないから、大事な事は言わずに去ったのだろう。口に出さずとも理解してくれる、というのは信頼の表れだが、これに関しては、単なる連絡の不備だとしか思えない。

 

「それに、本当の狙いは……むしろ、ユミルが言った部分にあるんだろうしな」

 



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気高き決意 その6

「……アタシの?」

「どういう事でしょうか……? もう少し、具体的に仰って頂けると……」

「そうだな、今のは言葉が足りなかった」

 

 アヴェリンが腕組を解いて膝の上に置き、前のめりになる様な姿勢で話の続きを待っている。

 改めて情報共有するところだと思うので、同じく首を傾げているユミルたち二人に解説する為にも、ミレイユは話を続けた。

 

「四柱が信用ならないっていう、アレだ」

 

 ミレイユがそう言うと、ユミルは理解を示し、ルチアとアヴェリンは、やはり首を傾げる。

 

「しかしミレイ様、ルヴァイルは大神の四柱を信用できると考えているのでは?」

「復活さえさせれば、どうにかなると考えている節がありましたけど、それも実はブラフだったという話なんでしょうか?」

「いや、そうでなく……。最悪の事態には、私に『遺物』を使わせる事を前提とした作戦だろうと思うからだ。ドラゴンを味方に付けさせたいのは、その一環だろうな」

「移動手段を確保する、ドラゴンも共に戦わせる……それだけが理由ではないと?」

「それが前提ではある。私は今、一つ願いを叶える権利を持っている訳だが、蓄えてあるのは一つの神魂だけ。それと一つの神器、これで一体どれ程の願いを叶えてくれると思う?」

「……推測するしかありませんけど、神を直接消すのは不可能、でしょうね」

「だが、封印の解除だけなら、可能そうに思える」

 

 ミレイユがちらりとユミルへ視線を向けると、同意するような眼差しが返って来る。

 確信にまた一つ信じられる根拠が加わったが、喜ぶ事は出来ない。

 

 ミレイユは額に当てていた手をどけて、髪を掻き上げ、そのまま頭皮を揉み込む様に動かす。どうやら、ようやく自分の脳も働くようになって来たらしい。

 

「では何故、封印の解除だけで良しとしないのか。それを考えると……幾つか思いつくものとして、即座に再封印されるから、というものがあるな」

「封印されている状況も分からないしね。例えば、玉座の間みたいな分かり易い場所にあったら……。あるいは、封印担当の神処の、やっぱりすぐ目に付く場所にあったら……。解かれたら、即座に封印やり直しでしょ。一度の解除は、それ以降の封印も不可能にさせる事を意味しないし」

「大神は一度敗北している、という事実を忘れてはいけない。そこも考えると、仮に封印そのものを防げても、やはり結果は変わらない気がする。起き上がった大神が、即座に戦闘可能か、という問題もあるしな」

 

 ミレイユがそう言うと、ユミルには意外な点だったのか、虚を突かれた様な顔をしたが、しかし即座に納得して首肯する。

 これもまた封印の状況を知らないから何とも言えないが、不老不変の存在だろうと衰弱くらいはしているだろう。万全の状態へ戻るには、長い休息が必要だと言われても、妥当だとしか言いようがない。

 

 アヴェリンも納得を示して、皺を刻んだ眉間を揉んだ。

 

「……なるほど。だから下手な暴発で終わるくらいなら、より確実性の高い方を選ぶのだ、と……」

「それに、大神が封印されているなど、私達が知っている筈のない情報だ。『遺物』を使って解除されたとなれば、内通者の存在を報せる様なものだ。封印の解けた大神が、全てを解決してくれるのであれば有効な手だが、そうとは思えないから、こうした胡乱に思える手段を提案したんだろう」

「でも、それだけじゃないんですよね? 四柱が信用ならない、っていうのは、つまり……」

 

 ルチアからの指摘があって、ミレイユはそちらに顔を向けた。

 実際、ここまで言ったのは予想の一つ、曖昧な憶測に過ぎないが、これから言う推論には自信がある。

 

「ルヴァイルは信用できると思っているか、あるいはそう思いたいんだろう。だが、まだ現実的に考えられる冷静さも持っている。だから、もしもの時の番狂わせ――あるいはテーブルを引っくり返す手段の為、多くの神魂を用意しようとしているんだろう。これを期に大量の神魂を『遺物』に注げれば、もしもの時の備えになる」

「同意するわ。元より神々を排除したいアタシ達からすると、別にそれ自体は歓迎するところよ。オミカゲ様くらい民を想ってくれる神じゃなければ、むしろ願い下げだもの。そして、神魂を注ぐ事が、単なる保険程度と考えているなら、それで良いんだけどね……」

 

 ユミルが皮肉げに笑うところを見ると、そうではないと思っているらしい。

 アヴェリンも同じ事を感じたようで、凄む様に顔を突き出した。

 

「では、ミレイ様に何かをさせようとしている……お前は、そう言いたいのか。つまり最終的に、向こうは裏切るつもりでいると」

「うーん……、そこのところが疑問でねぇ。願いを直接叶えられる『鍵』は、こちらの手にあるワケじゃない。そして、洗脳して言うコトを聞かせる手段も取れない」

「そうだな、お前の絶対命令は抜けない。仮に抜け道があろうと、『抗え』という先行命令がある以上、言う事を聞かせる事は困難だ」

 

 ユミルの発言を補足する形で他の二人に説明すると、それぞれから頷きが返って来た。

 しかし、それならそれで疑問に首を傾げる事になってしまったらしい。互いに顔を見合わせて、困惑する表情を向けてくる。

 

「……そんな顔をされても、私にだって正解まで引き当ててないわよ」

「……叶えたい何かがあるにしろ、叶える為の鍵はこちらにあるんだ。脅された程度で素直に言う事を聞く、なんて思っていないだろうし……だから、私は最悪を想定しての保険だと思ってるんだがな……」

「その、最悪というのは……?」

 

 ミレイユは数秒、考えるような仕草を見せて、それから口を開く。

 

「例えば、大神に世界を救う気がなかった時。あるいは、衰弱していて不可能な時……もしくは、可能であっても時間が掛かり過ぎる所為で、達成が困難な場合、などかな」

「私利私欲の為に用意しているものではない、と……」

「昨日の何もかも、最後に全てをかっさらうつもりでやった演技なら大したものだが……。勝手に推察して正解まで導くと思っているなら、私達が疑念を抱く事だって想定済みだろう。だから最終的な選択権すら、こちらに渡して託そうとしている」

「でもまぁ、そう考えても……やっぱり面白くはないわよね」

 

 ユミルは鼻を鳴らして表情を歪ませ、嘯くように呟く。

 

「最終的な決定権を、こっちに寄越すなってのよ。神なら神で、自分の世界に責任持てって話でしょ。……まぁ、出来ないから、こういうコトになってるんでしょうけど」

「全くだな。一から十まで、自分達でやってくれと言いたくなる……。曲りなりにも、神なんだから。だが、鍵と選択権がこちらにある事すら、アイツらにとっては保険のつもりなのかもしれない」

「と、言いますと……?」

 

 アヴェリンがまたも疑問符を顔に張り付け、問うてくる。

 絶対な自信を持って言う訳ではないが、ミレイユなりの見解を口にした。

 

「『遺物』を使われる状況が、アイツらにとっても不鮮明だ。場合によっては、この段階での使用はあり得ない、と考える神が出るかもしれない。つまり、次に探すのは裏切り者や離反者の存在だ。その時、あの二柱は無事で済むのか?」

「身動き出来ない状況も有り得ると……」

 

 ルヴァイル達は、最初から自分の命を担保に出来たのも、それが理由だろう。

 裏切りがどの段階で判明するか、ミレイユには分からない事だが、奸計を得意とする神をどこまで騙せるか、という問題でもある。

 

 時に謀が得意な者は、仕掛ける事は得意でも、仕掛けられる事に慣れてない故に、対処が遅れる場合もある。それに期待したいところだが、初動が遅れるだけで、放免される事だけはない筈だ。

 その遅れをどれだけ稼げるかによっても変わって来るが……最悪の状況では、命すら無い。

 

「一応は同盟相手でもあるしな。最終的には意を汲んで動いてくれる、という期待も込めているんだろうさ。……ユミルが言うとおり、迷惑な話ではあるが」

「ま、いずれにしても、保険は保険でしかないんでしょ。アンタが悪さや私利私欲で使うとは思ってないもの。その信頼の証と取れるかもね」

 

 ユミルが皮肉げな視線を向けてきて、ミレイユは肩を竦めるだけに留めた。

 言い返してやりたい気持ちもあったが、神の真意など分からない。とにかく不利にはならない手札を用意されていると思えば、そのカードの切り方も慎重になる。

 

 まず何より、切らずに済むのが一番だ。

 そして、全てが順調に進めば良いと思うが、きっとそうはならないだろうと予感がしていた。

 何れにしても、とミレイユはルチアに顔を向けて腹を擦る。

 

「まずは飯にしよう。流石に腹が減ってしまった」

「つい長話しちゃいましたけど、そうですよね。すぐに用意します」

 

 ルチアが笑みを浮かべて立ち上がり、同じ様にお腹を擦って厨房へ向かった。

 アヴェリンとも顔を見合わせ、ぐぅと鳴る音が互いから出れば、思わず顔を背けて笑ってしまう。腹が鳴るのは生きてる証拠だ、と自分に言い聞かせながら、準備が終わるのを待ち遠しく思いながら雑談に花を咲かせた。

 

 ――

 

 腹が満たされれば、やる事は済ませてしまわねばならない。

 特にヴァレネオに対しては詳しい説明が必要で、釈明めいたものも用意せねばならなかった。

 

 食後のお茶を楽しんでいるところに、呼びに行かせたアヴェリンが二人を伴ってやって来た。呼びつけたのはヴァレネオだけだった筈だが、その後ろにはテオも付いて来ている。

 

 おや、と思ったが、テオもまた協力者の一人だ。

 話を聞かせるに問題はないので、そのままにさせて席まで案内させる。二人が着席し、ルチアからお茶が配られると、早速本題に入った。

 

「まず、一日連絡が取れずにいてすまなかった」

「いえ、謝罪など……! ただ、非常にお疲れなのだと聞かされ、少し激務を押し付け過ぎたかと猛省していたところです。これからは負担が少なくなる様、内容を吟味し、必要な裁決だけを担当して頂けるよう、業務を簡略化できないかと考えておりました」

「あれもあれで大変だったが……、しかし執務が原因で寝込んでいた訳じゃない。そして――」

 

 ミレイユは一度言葉を切り、テオを一度ちらりと見てから視線を戻し、会話を再開する。

 

「これから私達は、森を出なければならない。何処へ行くかは教えられないが、……もう戻れない可能性もある」

「それは……それは、一体どのような!?」

 

 ヴァレネオの動揺は大きく、椅子から立ち上がりそうな具合だった。

 テオもまた驚く様子を見せていたが、慌てる仕草は見せない。その変わり、非常に不本意そうな、不機嫌な顔を向けてきた。

 

「それは、お前がこの前言っていた、神との戦いに関係あるのか?」

「つまり、それで……!? これからそれを成そうと……!? ミレイユ様、それは本当ですか?」

「そうだ。神々は私に対して色々と思うところがあるらしい。私が森の中で大人しくしていたのも、その一貫だな」

「はい……、それとなく話は伺っております。全貌まで話す事は出来ないからと、娘から掻い摘んだ内容を……」

 

 ヴァレネオが向けた視線の先では、ルチアから頷きが返している。

 当然、何を話して何を話してはいけないか、その線引を良く理解しているだろうから、独断で話していた部分は問題ない。

 むしろ説明を省いてくれて助かったくらいなので、ミレイユも首肯して感謝の意を伝え、改めてヴァレネオへ向き直った。

 

「互いに確認や準備期間が終わった、今はそういう状況だ。連中は、私を詰みの状態まで持って行ったと思っているらしいが……、これからその傲慢な考えに一撃加えてやらねばならない」

「それは勿論……、はい。それが出来れば何よりでしょうが……。では、帰って来られない、というのも……?」

「十割の成功を約束するものじゃないからな。私が敗れる可能性も、十分残されている」

「なに言ってるんだ。……むしろ、分が悪いと言うべきじゃないのか」

 

 テオが複雑な顔をして言って来たが、ミレイユは不敵な笑みでそれに応えた。

 

「さて、どうかな。それなりに勝ち筋はあると思っているが、やってみなければ分からない事だ。後が無いなら進むしかない、と言い換えてもいいが」

「結局そういう話か……。挑まず逃げる真似はしたくない、というのなら好きにしろとしか言えん……。だから、お別れを先に言っておこうって? 森の民はどうなる? 平穏と平等を掲げた我らの主張を、見届ける事なく後はご勝手に、というのか?」

 

 ミレイユは妙に納得した気持ちで、テオの顔を見返した。

 その瞳には苛烈な決意が宿っている。己の大義を掲げるに相応しいだけの熱量が渦巻いており、途中で梯子を外された様に見える彼には、不機嫌な態度を見せるだけの理由があったのだ。

 

 ミレイユは不敵な笑みのまま、テオに言い聞かせるように口を開いた。

 



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気高き決意 その7

「今更、お前達だけでやり抜けとは言わない。そもそも、やりたいと言っていた者達を、止めるよう指示していたのも私だしな」

「でも、それは神々が阻止するから、という理由でもあった筈じゃない? 仮に成功したところで、神の手先が即座に攻め返すだけ。それは前例からも理解できるでしょうに」

 

 ユミルが口を挟んで、ヴァレネオも大いに頷く。

 ミレイユの助力があって成功しようと、栄光は長く続かない。それを身を持って知っているからこその、重みある肯定だった。

 

「ですが、ミレイユ様が神々へ挑まれるというからには、その前提が無くなるという意味でもあるのですね? 事が成れば、我らの信義はようやく叶う」

「攻め落とすのは簡単じゃないでしょうけど……。でも、そういうコトよね。これ以上のお膳立てなんか無いでしょうに。そこから更に助力を求められても、ねぇ……?」

「う、うむ……」

 

 ユミルから非難を存分に含んだ視線を向けられ、テオも自分が想像以上に、失礼な振る舞いをしていたと気付いたようだ。額に汗を浮かせ、今更ながらに何と謝罪しようか困っている。

 ミレイユはそれに手を振って笑った。

 

「ロクな事情の説明もなく、あんな事を言われたら、梯子を外されたと思われても仕方ない。それに、私は常に監視されているのと変わらない身だ。だから、共に戦場に立つのは難しい、という事情もあるしな……」

「それじゃあ、森の中にばかりいたのも、それが理由なのか?」

「……そうだな。私を自由にさせると何をしでかすか分からないから、引き籠もっている方がありがたかった、そういう思惑もあったろう。小神(カリューシー)相手に苛烈な態度を取った事で、私がどう出るつもりか確信を得たようだし、奴らとしては、私が無為に時間を過ごす事は歓迎したくもあるらしい」

「でも今度は、森を出て行こうとしてるのか? 大丈夫なのか、それ」

 

 テオが首を傾げて腕を組み、疑念の視線を向けてくるが、ミレイユはつまらそうに手を振って答える。

 

「あぁ、むしろ今度は、留まる事で森に被害が及ぶ。直接的な被害より、まず先に、メッセンジャーみたいな者がやって来るのかもしれないが。そして無視する様なら、嘘じゃなかったと思い知らせる手段に出るとか、そういう流れになりそうだ」

「そう……なのか? だから、そうなる前に――森に被害が及ぶ前に、離れないといけないって事なのか?」

「それだけが理由じゃない……が、そうだ。元より打って出るしかなかった身だ。少々予定とは異なるが、結局は同じ事……」

「――ですが、ですが、それなら……!」

 

 ミレイユが、諦観を滲ませる様な言い方をしたのが悪かったのだろうか。

 ヴァレネオがその顔面に苦渋を浮かべ、堪り兼ねた様に身を乗り出す。

 

「それならば、私どもにも何かお手伝い出来る事はないのでしょうか……! 何もかもが我らの為となれば、その御恩をお返しせずにいるなど、到底心の内が許しません!」

「……うん、そうだな。頼みたい事はある」

 

 ミレイユが気軽に言うと、ヴァレネオは表情を和らげる。

 受け取るばかりで何も返せないでいる辛さ、というものは実感こそ持ってないが理解は出来る。

 ヴァレネオからすると、過去から現在まで多くの恩を受けていると思っているから、気にするなという言葉だけでは納得できない。

 

 そうでなくとも、ミレイユとしては詭弁でも何でもなく、協力を仰ぎたい事があったのだ。積極的になってくれるというなら、有り難いばかりだった。

 

「私達が仕掛けるタイミングで、デルンへ攻撃して貰いたい。現状、あそこはそれなりに使える駒だという認識でいる筈だから、少しの間だけでも視線を逸らさせる事が出来る筈だ」

「そうせよ、というのならば是非もない事でございますが……。それだけ、……でしょうか?」

 

 一度は喜悦の浮かんだ表情が、途端に萎んで小さくなる。

 それだけでは到底、受けた分に見合わない、と考えているのだろう。それに、元から城攻めは決定事項みたいなものだった。

 

 その時期を指定された程度では、恩を返せている実感が沸かないのも当然の事だろう。

 しかしミレイユとしては、今行った要望はオマケで、むしろここからが本番だった。

 

「一瞬でも注意が向くなら、それはそれで意味ある事なんだが……。でも、頼みたい本命はそっちじゃない。いつだったか、お前に母の話はしたと思う」

「えぇ、確かに……。長い間、身を隠していたのも、またこの時代に現れたのも、御母君の指示であったと……」

 

 実際の認識の差に大きな隔たりはあるが、今はそれで問題なかった。

 結局のところ、理解して欲しいのは別の部分にある。

 

「私が送り込まれたのは、そちらでちょっとした問題があったからだ」

「そうよね、ちょっとした問題だったわね。……ただ、世界が蹂躙される瀬戸際、っていうだけの」

「は……?」

 

 ユミルの茶々が入って、ヴァレネオは目を丸くした。

 ミレイユは彼女に非難の視線を送って黙らせると、困惑の色が濃いヴァレネオへ視線を戻す。

 

「聞いたとおりだ。空気を読まず冗談を言ったように聞こえたかもしれないが……、私の故郷は危機に瀕している。もう無理だ、対処できない、そう判断されて、私達だけ逃された。――しかし、それを救いたい」

「それは、それは勿論……。我らで助けになるというのであれば、如何様にも……。ですが、ミレイユ様でさえ対処できない問題ですか」

「天変地異の類か? 大地が割れ、海が枯れる様な……。誰であろうも対処できない問題、みたいな……」

 

 そのレベルでなければ対処できないと思われては、それこそミレイユを過大評価している、としか言えない。だが、ミレイユでさえ逃げる事しか出来なかった問題、と聞かされれば、そういう発想になってしまうのかもしれない。

 だが、違う。あれに対処できなかったのは、一重に安全策を取ったからでもある。

 

 もしもあの場に残り対抗しようとしたら、あの場にいた隊士や御由緒家全て、命は無かった。

 ミレイユとオミカゲ様、それにルチアとユミルの魔術士四人だけで、あの鎧甲を突破するには不可能に思えた。仮に可能であったとしても、時間が掛かり過ぎる。

 

 短時間での決着は勿論、負ける見込みの方が大きかった。

 そして勝てたとしても、終わった時には満身創痍だ。そして、その状況ですら神々は全ての手札を切ったか不明だった。

 最低でも、動けなくなったミレイユを、連れ去る手駒ぐらいは送り込めただろう。

 

 そして、それが最も恐ろしく、危惧する事態だった。

 その最悪の事態を回避する為、早々に勝ちを諦め、ミレイユを逃がす事になった。

 

 だが、オミカゲ様も自暴自棄になった訳ではない。最後の最後、一縷の希望は残していた。そうでなければ、ミレイユに『箱庭』について、言及した筈がないのだ。

 

 最後の最後、恐らく叶わぬと理解しながらも、それでも完全に諦める事だけはしなかった。

 ミレイユもまた、簡単に諦めてしまうつもりはない。

 だからこそ、今ここでヴァレネオに願うのだ。

 

「敵は神造兵器の『地均し』だ。魔力を吸収するエルクセスの箆角を装甲に用いている。それを突破するには、魔術の使い手が圧倒的に足りなかった」

「神造兵器……。それに、エルクセスの箆角ですと……?」

「『地均し』か……。名前だけは知ってるな。本当に実在してたのか、それ……」

 

 二人からは、呆然とした台詞が零れた。

 まるで現実味のない、おとぎ話のように聞こえただろう。だがミレイユは、酔狂でこんな話をでっち上げたりしない。

 決然とした表情で、二人を視線で射抜くように見つめて言った。

 

「勝てないと悟ったのは、単純に魔術士の数が足りなかったからだ。私の故郷では、それが余りに少ない。箆角は物理的に砕く事が不可能だから、吸収できる魔力を飽和させて、内部から破壊するしかないと考えていた」

「それは……えぇ、確かに箆角の飽和は、理論上可能とされていたと思いますが……」

「机上の空論だろ?」

 

 だからミレイユの口から出た作戦もまた、机上の空論に過ぎない、と言いたいのだろう。しかし、ミレイユは実際に成し遂げている。

 実戦で、ミレイユとオミカゲ様の二人掛かり、という状況だったが、確かにエルクセスの吸収可能領域を飽和させる事が出来たのだ。

 

「言いたい気持ちは分かるが、可能だ。私は実際に経験しているからな」

「なんと……。まさか」

「だが、箆角より遥かに巨大な神造兵器に対し、飽和するだけの魔力を吸収させようとしても無理だと悟った。吸収した魔力を使用される前に飽和させるには、単純に魔術士の頭数が必要だ。そして魔術を放つ際に、それを護ってやる仲間や、敵を撹乱させる戦士も必要になるだろう。――どうか、その兵を貸して欲しい」

 

 ミレイユが頭を下げると、ヴァレネオは悲鳴の様な声を上げて、取り直してくる。

 

「そのような……! ミレイユ様、頭をお上げ下さい!」

 

 ヴァレネオが慌てて手を突き出し、無理にでも頭を上げさせようとするも、直接触れるのを躊躇って手を引く。そんな事を何度か繰り返している内、ミレイユが頭を上げたのを見て、ヴァレネオはホッと息を吐いた。

 

「元より、我らエルフは一つ命じて下されば、如何様にでも動きます。他の森の民とて、戦える者ならやはり、その多くが動いてくれるでしょう。皆にも周知させておきます」

「城攻めをした当日、疲れを取る前から動いて貰う事になるかもしれない。大変な一日になるだろうが、……頼むぞ」

「ハッ、お任せを。出発の日取りなどは、もうお決まりで?」

 

 ミレイユは少し考える素振りを見せて、アヴェリン達三人に目配せする。

 詳しい日取りなどは決めていなかったが、動くと言うなら早い方が良い。

 神々がいつ、ミレイユに発破をかけてくるか分からないし、その際に森へ余計な攻撃をしないとも限らないからだ。

 

 願力の回収という、目的から除外されている森の民だから、この際一掃してしまおう、と考える可能性すらあった。

 ミレイユが居れば防げるかもしれないが、神々としてはミレイユに無力感を植え付けたいのだ。それには、むしろ周りを襲う方が効果的と考えるかもしれない。

 

 だが、遠く離れてしまえば、ミレイユがそれを知る機会も無い。

 いち早く離れる事が、彼らへの被害を防ぐ手段となる。

 

「そうだな、すぐにでも発とうと思っている。――アヴェリン、今から準備を進めろ」

「畏まりました」

 

 アヴェリンは起立すると、ヴァレネオにもまた一礼して席から離れて行った。

 この場所へ落ち着く予定は最初からなかったので、急な移動が必要となっても大丈夫な様に、旅支度の多くは用意できている。

 

 森の自給率では、ミレイユの旅を支えるだけの食料は用意できないので、それだけは街の方で買い揃える必要があるだろう。

 一言の相談も無かったとはいえ、ルチアとユミルからも反対の意見は出て来ない。

 ヴァレネオは焦りと申し訳なさを綯い交ぜにした表情で声を上げた。

 

「本日から、もう出発ですか? 長い旅になる様でしたら、せめて里の者からも一言……」

「気持ちはありがたいがな……」

「そうよ。大体そんな事したら、また長蛇の列が出来るじゃない。今度は何日掛かりで終わらせろって言うのよ」

 

 ミレイユだけでなく、ユミルからも呆れた声で断りを言われては、ヴァレネオとしても強く言えなかった。

 切ない顔は浮かべたが、最後には頷いて了承を示した。

 



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気高き決意 その8

 そして、その哀愁が漂い始めた雰囲気を、切って捨てるかの様にテオが口を挟んだ。

 

「それで、俺たちはどうしたらいい? お前の行動に合わせる必要があるんだろ? それをどうやって知れば良いんだ? 日取りを決めて仕掛けようとしても、そんなの幾らでも誤差が出るだろ?」

「あぁ……。確かにそれは、考えていなかったな……」

 

 ミレイユが唸って腕を組む。

 スマホや携帯電話という存在を知っていると、遠くの相手と連絡を取ることを難しく考えないが、この世界では当然、そうもいかない。

 

 目の届く範囲なら思念を飛ばす事も出来るが、双方向では働かない。

 あくまで術者の意思を伝達させるだけなので、電話のようにしっかりと言語化された言葉として伝わるものでもなかった。

 

 戦闘中、前に出ろ、盾になれ、などという簡単な指示を行う事には優れているが、日常会話の延長線と考えて使うことは出来ない。

 魔術は確かに優れた技術だが、何もかも便利、といかないのが歯痒いところだった。

 考えあぐねている間に、それなら、と声が上がって、ルチアの小さな手を挙がる。

 

「インギェムの権能から着想を得たんですけどね、工夫次第で似た事が出来る気がするんですよ」

「インギェム……? 双々と繋属の? それで何が出来るとも思えないが……」

「細かい事は、今は置いておいて下さいよ。大事なのは――」

 

 小さく笑って手を振ってから、ルチアは一つの魔術を行使する。

 右掌の上に厚さが一センチもない、五センチ程度の氷刃が生まれた。それを全員が見やすい様、テーブルの中央付近に置いて指先を向ける。

 

「これは魔力を用いて生成された氷なので、常温で放置したぐらいじゃ溶けません。でも、魔力で生成されたからこそ、籠められた魔力が消失するか、次第に抜ける事で霧散してしまいます。最も一般的な方法として、術者が魔術の行使を解く事でも消滅する」

「それがどうしたって言うんだ?」

「とりあえず、最後まで聞いて下さいね。それで、これを……」

 

 ルチアは氷刃の上で結界術を行使する事で、それを二つに割ってしまった。

 結界の境を利用して分断する事で、一方を結界内に閉じ込めた、という事らしい。

 

 そして、もう一方は外に出ている状態だが、それもまた、殆ど誤差なく瞬時に結界内へ閉じ込めてしまう。

 その二つをそれぞれ両手で示し、ヴァレネオとテオへ交互に目を向けてから言った。

 

「魔力で生成したものなので、本来なら破損した時点で消滅します。でも、それを結界内へ閉じ込め、それと同時に魔力も封入した事で、無理に消滅を防いでいます」

「何とも……器用な真似をするな」

「いつも誰かさんがやっている、器用さ振りを真似してみたんですけどね。――本家の無茶苦茶さには、到底及ばない小手技ですが」

 

 おどけて言って、ミレイユにちらりと視線を向けてから顔を戻す。

 

「これに何の意味があるかと言いますと、つまり結界内の魔力が無くならない限り、この状態が保持される、という点です。そして、これは元々一つの存在なので――」

 

 言いながら、ルチアが片方の結界を解くと、片割れとなっていた氷刃は魔力を失って霧散してしまった。

 そして彼女の言うとおり、元々一つの存在である氷刃は、片割れの消滅と共に、結界内の氷刃も霧散して消えた。

 

「あぁ、なるほど……。これはつまり……」

「えぇ、合図の代わりに使えるって事です。結界内の魔力にも限りがあって、時間の経過と共に消費されていくので、いつまでも、とはいきません。でも、七日程度なら保ちますよ。その間に消えたとなれば――例えば、五日後の夜に消えたとれば、それは明確な指示となります」

「いいな、使えるぞ……」

 

 テオは、もはや露ともならず消えていった氷刃跡を見つめながら、喜色の混じった声を出した。

 ミレイユもまた、先程とは違うニュアンスの唸り声を上げてルチアを見つめる。そこには魔術を誇りとするエルフが浮かべる、得意満面な笑顔があった。

 その笑顔を見つめながら、髪を梳く様に頭を撫でる。

 

「確かにこれは、合図として使うに申し分ない。よくやってくれた」

「いえいえ、お役に立てて良かったです。私も少し、出来る奴ってところを見せておきませんと」

「私はいつも、お前に助けられてるって感じてるよ」

 

 尚も撫でれば、ルチアはくすぐったそうに身を捩った。

 本来なら彼女はミレイユより何倍も年上だし、こんな事をされて喜ぶ年齢でもないと分かっているのだが、どうにも見た目相応の対応をしてしまう。

 

 きっぱりと止めてくれ、と言われた事もないので、拒絶されるまではこれからも続けよう、と思っていると、ヴァレネオからも声が掛かった。

 

「確かにこれは良い。こちらも、下手な先走りもせずに済みそうです。しかし、連絡もなく、七日を越えた場合はどうされましょう? その場合は自己判断で? それとも、確実に七日以内に合図は出るものなのでしょうか」

「これからの向かう先は、急げば三日の旅だ。不慮のトラブルがあったとしても、倍は掛からない。そして私の予想どおり旅が進むなら、四日目辺りに合図を出せる筈だ」

「なるほど……」

 

 ヴァレネオがしきりに頷く様子を視界に収めながら、ミレイユは自身の言葉を確認するよう思考に移る。

 移動時間に関しては更なる短縮を見込めるかもしれないが、道中やって来るだろう、どこぞの神使が問題だった。そこにどう対応するかで、掛かる日数に違いが出るだろう。

 

 そして神が直接出向くには厄介な相手という認識をされているなら、小手先ばかりで済まない、厄介な絡め手を用意しているかもしれななかった。

 それを踏まえての七日だが、甘い見積もりだとは考えていない。

 

 実際、これからはスピード勝負だ。

 一度()()を起こせば、神々に察知されるより早く急襲する必要がある。

 

 七日以上掛けないというよりは、それ以上掛ける事は許されない、と言う方が正しい。

 改めて自分の結論を見直していると、ユミルから胡乱げな視線が向けられて来た。

 

「移動……、三日? ()()()先が何処かも分からないのに、三日で済むって考える根拠って何なの?」

「……うん? ……あぁ、そうか。先に向かうのは、その()()()先じゃない。まず先に済ませたい事があるんだが……、ここで話さない方が良いだろうな」

「ミレイユ様がお決めになった事なら、その決定には従いますが……」

 

 不満を滲ませた声音で、そう言ったのはヴァレネオだった。

 ここにいるのは何れも忠誠を誓ったか、忠実であり裏切る心配のない者達だ。特にヴァレネオは自信の忠誠が疑われた様に感じて、それが不満だったのだろう。

 

 だが、ミレイユが心配しているのは、裏切りではなく、情報を抜かれる事だった。

 強い忠誠や自制の心があっても、防ぎ切れない場合はある。

 我ながら偏執的なまでの用心だと思うが、神を相手にするなら、この程度の用心は必要と思っての事だ。

 

 テオはテオで、自分自身が得意としている事だからだろう、無理に聞き出そうと最初から考えてないようだ。

 その懸念についても最初から気付いていたようで、言えない事、言いたくなさそうな事に対して、聞き出そうという心向きすら見えない。

 

 彼なりに弁えるべきは、弁えている、という事なのだろう。

 だが、不満を露わにしているヴァレネオに、何のフォローもないのは拙い。ミレイユは軽く手を横に振って弁明した。

 

「お前の忠誠、信頼を疑う訳じゃないんだ。一人、ウチの若い奴にも言った事なんだが、知らないでいてくれると、私が助かるんだ。これは、絶対成功させなければいけない事だからな」

「若い奴……?」

 

 ヴァレネオは一瞬、怪訝な顔を見せたものの、ミレイユの答えを聞いて大いに頷いた。

 

「そういう事でしたら、このヴァレネオ、一切を聞かぬ事と致します。情報の秘匿をこそ大事にしたいと言う事であれば、尊重せずにもいられません」

「うん、そういう事だ。今生の別れとは考えてないが、一応言っておく。……無事でな」

「弱気な事を、と発破を掛けたいところではありますが、相手が相手です。あまり気軽な調子であっても、参ってしまうというものですな。ミレイユ様におかれましても、武運をお祈りしております!」

 

 ヴァレネオが畏まった礼をして、ミレイユは鷹揚に頷く。

 敵は強大だ。それは間違いない。

 

 八神の内、六柱を相手にせねばならず、それより前にはドラゴンも控えている。

 そのドラゴンを説得するに辺り、道中が安全な筈もなく、更に知恵ある四竜との対峙が、穏やかな会談で終わるなど想像もしていない。

 

 神々と実際に武器を交える抗争だけでなく、その前段階もまた、楽観できない問題だった。

 難しい問題だが、これを制しなければ先には進めない。

 

 改めて事の難しさを痛感していると、ヴァレネオとルチアが見つめ合っていた。親子の情は忠誠を向けるものとはまた違う、厚い情だ。

 

 二人切りで話をさせてやろう、と席を立ち、ユミルとテオを引き連れ、部屋を出て談話室方面へ向かう。

 テオも後ろからついて来つつ、複雑な心境を感じさせる声音で語り掛けてきた。

 

「なぁ、ミレイユ。お前に関しちゃ色々複雑な思いもあるけど、色々と膳立てしてくれた事には感謝してるんだ。想いだけは誰にも負けないつもりだったけど、想いだけじゃ意味ない事を教えてくれて、その上道筋さえ示してくれた」

「別に感謝する必要はないぞ。私としても、ようは神々のやり方が気に食わない、鼻を明かしてやりたい、殴り付けてやりたいだけだしな」

「まぁ、何とも壮絶な言い草だが」テオは流石に小さく笑う。「――そうだとしてもだ。お前はあれだな、感謝を受け取る事に慣れてないんだな。信仰の問題か、じゃなきゃ謙虚かと思ったが、むしろ気恥ずかしくて受け取りたくないのか」

 

 褒められ、感謝される事は、ミレイユとして過ごしていた中で多くあった事だ。

 しかしそれは、ミレイユという素体あればこそ出来た事であって、自身の才覚とは全く関係ない部分に向けられたものだと思っていた。

 だからこそ、受け取る機会があってもどこか他人事だったのだが、それも今となっては昔の事だ。

 

 ミレイユも、その足跡も、また自分だからこそ成せた事と教えられてからは、その感謝などにも向き合えるようになった。

 しかし、そう心構えが出来たところで、受け取るよりも気恥ずかしさが先に出る。

 

 テオが言っている事は正しい。ミレイユは単に気恥ずかしいから、受け取らずに済むような言動を先に見せるのだ。

 意外と鋭いところがあるな、と忌まわしい気持ちで一瞥して前へ向き直った。

 

「何にしろ、掴み取るのはこれからだろう。互いに後はない。私が勝たなければ、お前が成し遂げても意味はなく、その逆もしかりだ」

「でも、負ける気ないんだろ?」

「勿論だ。だから、お前も精々頑張れ。上手く皆をまとめろ。平穏と平等を口にしただけの道化になるな」

 

 テオが強く頷いた時、丁度玄関口へと到着した。

 彼はそのまま玄関から出ていこうとして、一度振り返る。何かを口にしようとしたが、何度か視線を動かす葛藤を見せ、しかし結局口にせず、頷きだけして踵を返した。

 そのまま立ち去ろうとするテオの背に、一応の注意を掛けておく。

 

「早ければ三日後だ。防戦の準備なら、いつでも万端だろうが、攻め込むとなると簡単じゃない。急げよ」

「分かってる。お前もしくじるな」

「勿論だ。『合図』に関しては誰が保管するか知らないが、精々見落とさないようにな」

「分かってら!」

 

 最後に一度だけ泣き笑いの様な笑みを浮かべて、握り拳を肩まで上げた。

 それからは、一瞥することなく大股で歩き去って行く。

 

 それを数秒だけ見送ってから、特にやる事もないので、アヴェリンの手伝いでもしようと邸宅の奥へ進む。

 ユミルからは意味深げな視線を向けられていて、それをひたすら無視していたが、沈黙させておくのも無理と悟って、機先を制すつもりで釘を刺す。

 

「……何も言うなよ」

「言わないわよ。……でもアンタって、無性に可愛いところがあるわよね」

「だから、言うなって……!」

 

 無性に大声を上げて叫びたい気持ちを抑え、しかめっ面を表情に乗せてアヴェリンを探しに向かった。

 



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幕間 その1

 ルヴァイルは現在、神域にある数多く存在する島の一つ、ラウアイクスの神処にやって来ていた。

 神が住まう天上の世界、――神域。

 下々で暮らす者達にはそう思われているし、事実として地上より高い位置で暮らしているが、雲の上で揺られて暮らしているという訳ではない。

 

 水源と流動を司るラウアイクスだからこそ、この神域を創り出せたし、そしてそれ故に八神を束ねるリーダーとして扱われている。

 かつて大神に(おもね)る事を提案したのも彼だが、一癖も二癖もある神々を扱える器量と知恵を持つ者が、他にいなかったからという実際的な面もあった。

 

 神域とは湖面の様でもあり、同時に河の流れの中にある世界でもある。

 常に渦巻き、流れは激しく一定ではない。船で渡れる様な流れになっておらず、泳いで渡るのは更に無謀だ。

 

 その様な環境にあって、神々は点在する島の何れかを、一つの神処として定めて住まっている。ラウアイクスの神処は、それら分散した島々の中心近くにあった。

 だから、どうせ集まるなら近い方が良いと言う事になり、いつの間にか集まる時はフェアな場所として、ラウアイクスの神処というのがお約束になっていた。

 

 ルヴァイルは自身の神処から、空を飛んで島を渡り、そうして今は島の先端へ降り立っている。

 河の流れは早い筈だが、島の付近は凪いだ様に流れが静かで穏やかなのも、神域の特徴だ。

 これは全ての神処における特徴で、やはり勢い強い水の流れは耳に煩い。それを嫌がって、島の付近、目に見える範囲では湖面の様な、緩やかな流れになっている。

 

 ルヴァイルは降り立った場所から歩きつつ、周囲を見渡す。

 どこの島も作りに大きな変化はないが、植生に関しては個性が出た。ルヴァイルは興味がないので荒れ地の様な感じだが、ここでは夏も盛りと言わんばかりに緑が溢れている。

 

 虫や動物などはいないが、目に映る範囲だけ見れば、美しい光景と言えるのだろう。

 ルヴァイルが密かな緊張を紛らわせる為、敢えて周囲を観察していると、その先にインギェムが待ち構えているのが見えた。

 

 最初に出会った人物が、友神であってホッとする。

 本日が和やかに茶を飲むだけで終わるものではない、と理解している身からすると、仲間といえる存在は心強いものだ。

 

 神々は全員共犯者のようなもので、一致団結せねばならない間柄だが、そこはやはり感情持つ存在として仲違いしてしまう事も多い。

 特に我が強く、協調性のない者もいるとなれば、誰もが仲良くという訳にもいかなかった。

 

 そもそも、我を押し殺して協力し合える様な者ばかりなら、反逆しようなどと思わないだろう。

 命があれば、それが惜しい。

 それは虫であろうと、人であろうと変わらぬ真理だ。自己の生に満足できる、カリューシーの様な者は極稀で、ルヴァイルでさえ自分の死は抗わずにいられない。

 

 ――かつては、という但し書きが付くものの。

 今はもう、抗った結果、終わりが迫っていると理解している。

 神々は、その終わりに対して有効な手立てを打てず、リソースを擦り減らし、磨り潰して延命を図る事しか出来ていなかった。

 

 自身の生より大事なものはなく、他の全てはその踏み台であるべき、とも思っている。

 それが神というものだ、という強弁は理解できなくもない。

 

 全ての命より最上に位置する、という考えだから搾取できるのだろうし、だから世界そのものすら擦り減らして、自己を生存させてきた。

 

 だがそれも、無理を通せば、無理が待っている。

 擦り減らして来たものは、決して元には戻らない。維持する努力も、元に戻す努力も無かったとは言わないが、減ったものを戻す迄には至らなかった。

 

 だからこそ、この終焉がある。

 この世の終わり、破滅がこの先にあると確信できるから、ルヴァイルは一度行った反逆を、今度はその仲間たちに向けると決めたのだ。

 

 神人計画――。

 かつての大神が用意したものを、少し調整して行う生贄計画だが、今度はそれで延命を図るつもりでいる。

 

 今日明日で迎える終焉でもなければ、二年や三年先で終わりを迎える訳でもない。

 ミレイユでは失敗したが、そもそも試作品としての運用だった。予想外の成果を上げて、だからこそ欲も出たが、それだけに固執しなくても……次がある。

 

 そう思っている様だが、次などない。

 ミレイユを造り出した時点で、既に敗北は決まっていたと思って良い。怒りに燃えるミレイユは、必ず神々へ反逆し……、そして弑逆を果たす。

 

 弑す数には違いはあれど、一柱足りとて仕留めきれず潰走する事だけはない。

 そして、一柱でも落ちた時点で世界の終わりだ。神々の力を持って、ギリギリの瀬戸際で堪えている最中なので、その一柱の欠損が致命的になってしまう。

 

 ミレイユは止められず、仮に封殺できても、ユミルが神器を用いて起死回生の策を講じて来る。

 それこそ分析の権能でも持っているのではないか、と疑いたくなるくらいの器用さで、あらゆる手に対応して自分の目的を果たす相手だ。

 ユミルの強い執念が、それを可能にしているのだと思う。

 

 その際になれば、眷属化も躊躇ないなく使ってくる。

 多くの人間、多くの信徒が群れとなって反旗を翻す事になり、対応を誤ればやはり世界の破滅だ。その暴動を持ってユミルは雲隠れするし、『遺物』を抑えようにも、陰に隠れて眷属を増やされれば、見張りとして用意した兵でさえユミルの味方になる。

 

 八方塞がりで対処は難しく、結局どういう対応を取ろうとも、敵対する限りにおいて世界は滅びる。

 だからループという対処は、延命という点においては唯一の正解なのかもしれないが、それもルヴァイルの魂に限度が来ている今、続ける事は出来なくなった。

 

 だからこそ、今回が本当に終わらせる事が可能かもしれない最後のループだ。

 最上でもなく、完璧でもないのかもしれないが、辿り着くべき道先は見えた。

 そして、失敗しても次の機会はきっと、もう巡って来ない。

 

 ――これで終わらせる。

 終わらせなければならない。

 ルヴァイルにとっても、ミレイユにとっても、双方の世界の為にとっても。

 

 世界を愛おしい、などと神らしい事を言うつもりはない。ただ、自らが蒔いた種だから、その種から生まれた忌むべきものを始末したいだけだった。

 

 だから、これから向かう会議の場で、全ては計画通りに推移していると見せかけ、だが盛大に転んで貰わねばならないのだ。

 

 八神が行う治世の行末が、汎ゆるものの破滅しか招かないというのであれば、本物の大神に全てを返上し、やり直して貰うしか他に手段はない。

 その為に、贖う必要があるというなら是非もなかった。

 

 カリューシーと同じだ。

 ルヴァイルもかつては命を惜しんだが、今となっては惜しむ程大層な命と思えない。彼の様に満足して果てる命と事情は違うが、命の使い所として打倒なところに思えた。

 そして、それを理解してくれた友神もいる。

 

 ルヴァイルは待ち構えていたインギェムと合流し、歩調を合わせて神処へ向かう。

 本日の会議に際し、必要な打ち合わせは全て済んでいた。何かと迂闊な事や、余計な事を言う彼女だから、その辺りの擦り合わせは必須だった。

 

「しかし、大丈夫なのかね? ラウアイクスは切れモンだし、グヴォーリなんて考える事が趣味みたいな奴だろ。己とは頭のデキが違うと分かってるから、余計に誤魔化しきれるか不安になる」

「言ったとおりにしていれば大丈夫。堂々としていれば良いんです。その殆どはカマかけで、反応を引き出したいだけですから。その反応一つで推論を幾つも展開し、分析をしてくるのでら油断できませんが……」

「大丈夫なんだろうな、本当に……」

「これまでの経験からすると、えぇ……大丈夫」

 

 かつて幾度となく、ルヴァイルの反応から裏を読み取られた経験を知るからこそ、分かる事がある。グヴォーリは分析を得意としているだけあって、ラウアイクスの鋭い質疑と反応から、正答を導き出す事が多い。

 

 だが、それも疑われる反応があればこそだ。

 最初から企みなく、二人の立案に賛成推進して来た様に見せていたのだから、改めて疑われたところで疑心の範囲を出ない。

 彼らの性根として訊くべきは訊かねば気が済まない、という部分があるにしろ、そこでボロを出さなければ、この場を乗り切る事が出来る。

 

 そして乗り切った先に、ミレイユが味方としていてくれる未来があるのだが……そのループは経験した事がないので、何とか上手くやるしかないだろう。

 ルヴァイルは神々を助ける要として、一定の信用を向けられているから、裏から手を回すのも難しい事ではない筈だ。

 

 どういう援護が必要か、そして少しでも目を逸らさせるにはどうしたらいいか、そこに必要な明確な答えを知らないが、状況を正しく判断し行動するしかない。

 

 だが難しく考えるのは、今日の会議を乗り切った後で良いのだ。そして、それをするだけの時間的余裕もある筈だった。

 下界でミレイユがどう動くかまでは分からないが、ドラゴンの説得には相応に時間が必要だ。知性を奪われたとはいえ、人間の幼子まで低下した訳ではない。

 

 最古の四竜であれば成人並みに話は通じるし、だからこそ、その説得は困難を極めるだろう。

 一足飛びで解決する問題でない以上、準備期間も多分にあると考えて良い。今はここを乗り切る事だけに、集中するべきだった。

 

「大丈夫、問題ありません……」

「そうかね? 自分に言い聞かせている様にしか聞こえないけど」

 

 インギェムの呟きは事実で、実際それは、言い聞かせに違いなかった。

 

 ――

 

 神処の入り口を潜れば、護衛の兵が付き添って議場へと案内してくれる。

 既に何度と無く通った場所なので、今更案内など必要ないのだが、これも一種の形式だ。神々の来訪となれば、どうぞ勝手にお進み下さい、という訳にもいかない。

 

 神処の作りも島の外観同様、やはり個性が出る。

 水源と流動を司るだけあって、通路の端には溝があり、常に水が流れている。どこから流れてきているものだか、壁に薄い滝が流れている場所もあり、壁画として用意されているモザイク画が、厚みの薄い滝を透過して映していた。

 

 芸術として優れているのかルヴァイルに分からないが、芸術家気質のある彼らしい造りだとは思った。その思考傾向のみならず、独創的な部分がこういう所にも表れている。

 

 議場の前まで案内されて、ルヴァイルは一度深呼吸してから扉を開けさせた。

 護衛の兵が促されるままに扉を開けると、部屋の様子が視界に入ってくる。

 

 まず目に付いたのは、これまで見てきた様な壁面に造られた滝と、その壁面を伝って流れる川だ。部屋の隅から隅へと流れて行く仕様で、なだらかな水音が沈黙の室内に流れている。

 部屋の中央に用意された大きな円卓は、既に五柱が着席して、不機嫌そうな顔をこちらに向けていた。

 

 平常心を心掛け、ルヴァイルは自分の席へと向かう。

 上座も下座も無い様に、と用意された円卓だが、実際には明確に上下の差がある。壁面の滝を背にしているラウアイクスが、その中心に位置する様なもので、そこから左右へ広がる度に格が一段下がる仕組みだ。

 

 最終的にその彼と対面する形になる席が、実質的な下座となり、時には何か大きな失敗した者が位置する場所ともなる。

 自分が座るべき場所は、その椅子の形、背に刻まれた紋章から分かるので、ルヴァイルはそれらにサッと目を通した。

 

 今回はラウアイクスの対面となる場所に席は無く、そこより少し外へずれた場所に、二つの席が用意されていた。それはまるで、今回は二柱に訊くべき内容あり、と告げているかのようで、そしてそれがルヴァイルとインギェムの席だと分かる。

 

 これは十分に予想していた事なので、今更動揺は無い。

 席の前に立ち、ちらりと周囲へ視線を向ければ、不機嫌な顔をしている理由も分かってくる。

 

 ラウアイクスは常と変わらぬ平静な顔をしているが、青い長髪を鬱陶しそうに掻き上げている仕草が不穏な思いを抱かせた。

 

 視線を左右へ動かせば、誰も彼もが不機嫌という訳ではないのだが、例外もいる。

 ベージュ色をした髪を頭頂部で結び、背後へと流している女神、グヴォーリが殊更不機嫌そうにしていた。

 神――とりわけ女神は肌を見せない様にするものだが、このグヴォーリは例外で、その魅惑的な腰回りとヘソを惜しげもなく晒している。

 

「どうした、座りなよ。始められないだろ?」

 

 今更どうしてこんな扱いを、と惚けて見せても意味はないだろう。

 ルヴァイルはインギェムと顔を見合わせ、緊張を感じ取られない様、静かな動作で椅子を引いた。

 



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幕間 その2

 まず一つ、とラウアイクスが最初に口火を切った。

 

「これは君たち二人を糾弾するものではない、という事を知って貰いたい」

「そうかねぇ? ……だったら、席の位置を戻して構わないかい。こんな場所に置かれたんじゃ、ゆっくり話も出来やしない」

 

 インギェムが言い返して、早速立ち上がろうとしたのを、グヴォーリが止める。

 

「そういう訳にもいかないって、分かってるだろ? ラウアイクスはあぁ言ってるけど、私は違う。しっかりと疑ってる。それを知っときな」

「止めましょうよ、喧嘩腰は。最初からそんな様子では、互いに益もないでしょう」

 

 そう言って口を挟み、やんわりと場を取り直したのはシオルアンだった。

 摩滅と再生を司る黒髪の女神で、内向的ではあるものの、この中で最も協調性のある神だ。

 

 真面目で現実的にものを見られる、神の中では稀有な性格をしていて、こういう会議の場では大抵、そういう損な役回りを率先して引き受ける。

 だが、これで良い神だと断じられるなら、ルヴァイルも率先して味方に付けていた。

 

 彼女には破滅願望の様なものを持っており、磨り減り傷つく様を見るのが大好き、というサディスティックな一面も持っている。

 世界の破滅を忌避していても、それに直面した人間の顔を見たいと思っていて、味方に出来ないと、いち早く断じた一柱だ。

 

「進行役はラウアイクスなんですから、余計な一言を言う前に、まずは話を聞きましょう」

「……フン、まぁいいさ。そういう事なら、さっさと始めとくれ」

 

 やはり不機嫌そうに鼻を鳴らし、グヴォーリはルヴァイルから顔を背けた。

 いよいよか、と腹に力を込めながらラウアイクスを見つめるが、その彼がルヴァイル達ではなく、更に後ろへと目を向けた。

 

 小さな声が背後から聞こえてきて、それでまだ到着していなかった、最後のひと柱が到着したのだと分かった。

 元より居並ぶ面々を見つめて、足りていないのは誰なのか分かっている。

 調和と衝突のブルーリア、その男神がルヴァイルの脇を抜けて、グヴォーリの隣に座った。

 

「いや、遅れてすまないね。でも、時間通りだったろう? 皆、随分早かったんだな」

「既に五分、過ぎてるよ。時間通りだったのは、あっちの方さ」

 

 グヴォーリが顎をしゃくると、ブルーリアは不思議そうに首を傾げ、それに合わせて、ぞんざいに切られた桃色の髪が揺れた。

 彼は調和の権能を持つ割に、それを自らに課す事はしない。どこかズボラで優柔不断であり、しかし他人を煽って衝突させようとする。

 

 神同士を煽る事はご法度故に、今まで戦い合わせる事などしてないが、信徒同士となれば話は別だ。頼まれた場合も、そうでない場合も、宗教戦争が起きる時の多くは彼が動いている故に起こる事だ。

 

 自然偶発的に起こるもの、というよりは、それを行わせているから戦争は起きる。

 だがタイミング的に今は都合が悪い、という場合に限り調和の権能を使うという扱いだ。

 

 彼が十全に力を発揮すれば、きっとこの世はもっとマシになっている。

 願力を集める為、という一種、即物的な理由があるにしろ、上手い運用をしていればと思わずにいられない。

 だが、ラウアイクスにしろグヴォーリにしろ、やってくれと頼む事がないから現状がある。

 

「各々、思う所はあるかもしれないが、ようやく全員揃ったんだ。余り長く居られない者もいる。手早く話を纏めてしまおうじゃないか」

「賛成だ。いつだって、こんな馬鹿みたいな話し合いは、短く済ますに限る」

 

 鼻息荒く言うだけ言って、腕組したのは、射術と自在のタサギルティスだ。

 紺色の髪をした筋骨隆々な男神で、行動的かつ自由奔放な性格をしている。

 

 黙って座るのを嫌がる訳ではないものの、小難しい話は嫌う。必要な事だと諭されているから我慢しているが、いつだって会議の参加は煙たがっている印象だった。

 

 不動と持続のオスポリックも、口には出さないが同じように思っている様子だ。

 赤紫色の髪を顎先辺りで切っており、余り口を開かない女神でもある。同様に感情を顕にする事も珍しく、タサギルティスとは正反対の性格をしていた。

 

 彼女の持つ権能が今も大神を封じ込めているので、排除は決定事項みたいなものだ。

 口で諭そうと、暴力で脅そうと、封印の解除は大神の恨みを一身に受ける事と同義だから、そう安々と応じたりしない。

 

 ラウアイクスが長く居られない、と言ったのもこのオスボリックで、彼女が神処にいる事で、その権能を十全に扱う事が出来る。

 離れた時間が長いだけで解除されるような事は無いものの、彼女やインギェムの繋ぎ止める権能など、近くの方が効率も効力も高く発揮される。

 

 燃費についても同様で、やはり遠くに位置して維持するよりは、近くの方が軽く済む。

 万が一でも封印が解かれる事のないよう、なるべく近くにいるべき、という配慮からだと聞いていた。

 

 ルヴァイルが神々に対して、様々な思いを巡らせていると、ラウアイクスから視線を向けられる。

 座っている位置からしても、彼もまた疑いを持っているのは明白だった。

 先程の台詞は、あくまで警戒を解く為のブラフみたいなものでしかない。

 

 それをルヴァイルは良く知っている。

 質問の内容や嫌疑は毎回同じではないが、裏切りや離反の可能性を持つならこの二人、という当たりを付ける事は多い。

 

 繰り返す時の中で、ルヴァイルが記憶を保持している事がその根拠らしく、その友であるインギェムも、またそれに関わる可能性は高いと判断するようだ。

 

「では、手短に行こうか。君には、きっとこの話も聞き慣れているだろうしね」

「全くの誤解ですよ、それは」

 

 ルヴァイルが澄ました顔で答えると、ラウアイクスは見せ掛けだけの首肯をして見せる。

 対してグヴォーリは、ルヴァイルの反応を見て疑いの眼差しを強めた。

 

 彼女には分析癖があり、そして他人の失敗や欠点を見抜く事に長けている。

 こういう場面では非常にやり難い。

 特に批判的な物言いが彼女には多く、それらを受け止め受け流すのが、この会議を上手く乗り越えるコツだった。

 

「だが、とにかく君の献策により、事なきを得たのは事実だ。今回の調整素体は、やはり失敗と見るべきだね」

「廃棄、という方向で宜しいんですよね?」

「元よりそのつもりの計画だった。これが素直に思い直すか、あるいは強制できれば良かったんだが……どちらも無理だとの結論に変わりはない。その上、我々に対し強い敵意を持っている。ならば、『次』で良かろうと思う」

 

 ルヴァイルが素直に頷くと、シオルアンは小首を傾げた。

 

「折角の『鍵』なのでしょう? 捨てるのは惜しい、そういう話だったのでは? 下手に手出しは危険という話も理解できますけど、本当に、他に使い道はないのでしょうか?」

「無理する程の価値はあった。それだけの力を持つよう調整したからね。でも、それでこちらが痛い目を見るのも馬鹿らしい話だ。設定された寿命は残り一年、瞬きの間だ。死ぬか消えるか、どちらでも構わないが……下手な欲は必要ない」

 

 シオルアンは納得したような、そうでないような複雑な表情で頷き、視線を手元に戻した。

 そこにタサギルティスが腕組したまま、憤慨する様に言ってくる。

 

 彼の考えは単純明快で、いつの周回でもその行動に変化がない。

 扱いやすくもあるが、戦闘向きな彼は、おいそれと手出しするのも怖い相手だ。

 

「本当にそこまで臆病になる必要があるのか? 強いといっても、素体の身で神に追いつく、という程度だろう? だったら複数で囲んでしまえば良い。小神相手には、いつもそうしているじゃねえか」

「小神については、我々には十全に力が振るえぬ様、調整された素体を経ているからに過ぎない。時に強靭な意思で跳ね返す者もいるから、複数で当たる事にしているが、今回の素体はそれを克服している。小神となった暁には、神魂を無駄には出来ないから是が非でも死んで貰いたいが、――これは素体だ。本人も昇神する意志が無く、扱いどころが難しい。勝手に死んで貰うに限る」

 

 そうだろう、とラウアイクスから問われて、ルヴァイルは平静を装ったまま頷いた。

 

「特に仲間が欠損していない状況のミレイユは、手出しすべきではありません。彼女らは互いの有利不利を補い合い、実力以上の戦果を作り出す。わざわざ安全圏から出て行く必要はないかと」

「――だが、君は出て行く訳だろう?」

 

 これは来ると分かっていた質問だ。

 そして、根拠の薄いカマかけである事も知っている。だからルヴァイルは、きょとんと目を丸くして質問の意図が分からない振りをした。

 

「どういう意味でしょう? 出掛ける予定はありませんが」

「無論、そうだろうとも。だが……、神処に居ない日だってあったのではないかね」

「はて……、そうでしたか? 記憶が曖昧です」

「――曖昧?」グヴォーリが口を挟んで来て、剣呑な視線を向ける。「たった五日前の事だよ、無いってハッキリ答えられないもんかね?」

 

 このパターンは初めての事だ。大抵の場合、彼女はラウアイクスの進行を邪魔しない。

 言うべき事を黙っていられない性格ではあるが、それでも今日この場で、声を遮る事などなかった筈だ。

 

 既にここはルヴァイルの知る如何なる世界とも違う、新たな道なのだ。

 その小さな変化が、既に現れていると見るべきだろう。

 僅かの動揺が生まれ、そして、それを目敏く指摘してくる。

 

「言葉に詰まるって事は、何か疚しい事でもあるのかね。あんたは神域の中でさえ、殆ど移動する事もないだろう? 何日前の記憶が曖昧であろうと、外に出てないと答えるのは簡単だろうさ」

「実は、貴女が居なかった事は既に確認済みだ」

 

 ――ハッタリだ。

 神々はそれぞれが監視できないよう、神処の中を見通す事が出来ないようになっている。直接足を運ばなくてはならず、そしてそんな事をする筈がないと理解もしている。

 これまでのパターンからも、それは間違いない。

 

 インギェムが窺う様な視線を向けてくるが、そこでその反応は更なる疑念を呼び起こしてしまう。叱責したい気持ちを抑え、ルヴァイルは朗らかに笑って首を横に振った。

 

「あり得ません。妾は神処に居たのは紛れもない事実で、誰かが訪れた事もないのは理解しています。その様な、悪い冗談は止して下さい」

「……ふむ……なるほど、確かにそうだった。少々意地悪が過ぎたな、許せよ」

「えぇ、今後……留意して下さるなら」

 

 ルヴァイルがにこやかに表情を崩さぬままでいると、ラウアイクスはグヴォーリへと視線を向ける。当の彼女は難しい顔をして数秒沈黙していたが、結局は首を左右に振った。

 乗り切った、と息を吐きたい衝動に駆られるが、まさか本当にする訳にはいかない。

 

 二柱の様子を、無感動を装って見つめる。

 知らぬ展開、知らぬ詰問は動揺を招く。それをいつまで制していられるものか分からない。

 ――果たして、どこまでボロを出さずにいられるものか……。

 

 ミレイユの時は、ただ実直でいれば良く、真摯に向き合えば応えてくれるという期待が強かった。反して、こちらでは上手く追及を躱し、そのうえ騙し切ってやらねばならない。

 ルヴァイルには、グヴォーリとラウアイクス相手に、最後まで騙し切れる自信が持てなかった。

 



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幕間 その3

 ルヴァイルが一抹の不安と決意を胸に秘めている間に、何やら互いで意思の疎通があった様だ。

 ラウアイクスとグヴォーリは頷き合うと、再び何かを質問しようと口を開きかける。

 しかし、それより前に、ブルーリアが緊迫した空気を読まずに口を挟んだ。

 

「何これ、どうなってんの? 何か疑われてるのかい、そこの二柱?」

「お前は知らなくて良いんだけどなぁ……」グヴォーリが面倒くさそうにしながら目を向ける。「どうせ疑心暗鬼になった上、いつまでも結論出せないだけだろ」

「いやぁ、まぁ、そうだけどさぁ……。なんか可愛そうだろ、そういうの。証拠でもあんのかい」

「無いよ。だから、こんな事してるのさ」

「何だい。それなのに、こんな大袈裟な事してんのかい。詳しいこと知らないけど、仕事してたんじゃないの?」

「そうさ。だからだよ」

 

 ブルーリアがあれこれと聞いてくる事そのものが、グヴォーリには煩わしいようだった。

 顔を顰めて舌打ちし、明らかな拒絶を示しているのに、ブルーリアもすぐには引き下がらない。

 だが彼も、別段ルヴァイル達を庇おうとしている訳ではなかった。

 

 単に知りたいだけ――言うなれば、好奇心の赴くままに過ぎないのだが、ルヴァイルの何を問題視しているのかを理解していない。

 

 それが根本にあり、そして他の神々にしても似たようなものだ。

 だから、グヴォーリ達を邪魔する形になっているにも関わらず、誰も止めようとしていなかった。

 

「仕事をしてたのがオカシイのか? 精力的で結構な事じゃないか」

「それが可笑しいって話をしてるんだよ、だから」

 

 グヴォーリは面倒くさそうに手を振って、値踏みするかの様な視線をルヴァイルとインギェムへ向けた。

 

「そもそも、そういうタイプじゃないだろ? 反発もしないが精力的でもない。最低限の仕事はこなすものの、それだけだ。昨今の積極的姿勢には、違和感がある」

「そう言われましても……」

 

 ルヴァイルは殊更困って見える様、頬に手を当てて小首を傾げる。

 

「皆さんの危機感が薄いだけではありませんか? 世界は刻一刻と削られている、という事実をお忘れなく」

「言われなくても分かってる。その部分については共通認識だろう。……イマイチ、怪しい奴がいるのも事実だけどさ」

 

 グヴォーリはそう言って、ブルーリアとタサギルティスへと視線を向けたが、すぐに元へ戻す。

 

「むしろ、だからこその違和感だ。現状を正確に理解しているのは、多くないと思ってた。もっと言うなら、私とラウアイクスだけだったろう。……そこに突然、お前が加わった」

「それがそんなに不思議ですか?」

 

 ルヴァイルは自分が何を言われているか分からない、とアピールする様に首を横へ振った。

 グヴォーリが目を細めたのが見えて、我ながら少しわざとらし過ぎたか、と自責する。

 だが、グヴォーリは何も言わず、隣のインギェムへと視線を移した。

 

「お前にしてもそうだ。五日前は何をしてた?」

「願力を集めてたな。ちょいと下界を突付いて、神の偉大さを教え込んでやっていた」

「ふぅん、確かにそうだったねぇ……? ブルーリア、お前は?」

「はぁん?」

 

 突然水を向けられて、ブルーリアは動きを止めた。

 視線を斜め上に向けて腕を組み、しきりに首を傾げたものの、明確な答えを出してこない。

 

「五日前だろ? 覚えてないねぇ……。多分、俺もそのくらいには何かしてた気がするんだけどね……。悪い、サッパリ覚えてないわ」

「いいや、予想してたとおりの答えだ。問題ないよ」

 

 そう言ってグヴォーリは笑うと、ラウアイクスへと視線を向ける。

 そうすると、視線と共に会話を引き継いだかのように、ラウアイクスは冷ややかな視線をインギェムへ向けた。

 

「以前までは、君もブルーリア側だったと思う。適当に仕事はこなすのは同じ、だが五日前の事を訊かれて、即座に答えられるというのは? ……あぁ、おかしい話だ。予め答えを用意していたとしか思えない。では、何の為に用意してたのか、という話になる訳だが?」

「……別に、おかしかないだろ。偶然、そういう事もあったって……」

「そうだろうか……? こちらでも、その時きみの神使が、下界で大袈裟に騒ぎ立てていたのは知っているよ。珍しい事ではあるが、不審に思う程ではない」

 

 そう言ったものの、一度言葉を切ってから向ける視線は、何よりも雄弁に、不審であると告げていた。

 

「だが、この場合だ。……取って付けた様な理由付けで行われた、願力集めってのが気になってしまう」

「別におかしかないだろ……。誰だって集めているものじゃないか。昔からそれは変わらない」

「勿論、そうとも。だが、それを解決する為の神人計画だろう」

 

 ラウアイクスの指摘に、インギェムが固まり返事をしなくなった。

 咄嗟の言い訳が出なかった様でもあり、意味が分からず思考を回している様でもある。

 そしてこの場合、答えないのが正解だった。

 

 インギェムはルヴァイルを通じて色々な話を聞いたし、それがどういう計画かを知っているが、この場にいる多くの者はそれを知らない。

 

 大雑把な内容は当然知っているが、その為に向けて何をしているか、何をする必要があるのかを、詳しく説明できるほど熟知している者は限られる。

 

 そしてインギェムは詳しい説明を知らず――もっと言えば、知ろうとしなかったタイプだった。

 いつだって、何かを企画・計画するのはグヴォーリだ。

 

 それに対して余計な茶々を入れ出すのがブルーリアやタサギルティスで、簡単には引き下がらない全員が納得する形で纏めるのがラウアイクスの役目だった。

 

 求められたものを拒否する事は無いが、積極的に参加する事は少ない。

 得てして何をして欲しいのか明確に理解していない所為もあり、求められるまま行う事の方が多い。

 率先して何かする、という事が珍しいのは確かだが、行っている()()()()

 

 ルヴァイルは我知らず、口の中で噛みしめる力が強くなった。

 願力集めという言い訳なら、何の問題も無いと思っていた。違和感を持ったとしても、そういう事もあるか、と思う程度だと。

 

 この会議に参加する事は幾度もあったが、インギェムを完全な味方に付けて、となると皆無に近い。だからこそ順当に思える言い訳を用意させていたのだが、それ故に違和感を持たれたのだとしたら、己の失策が招いた結果だ。

 

 ルヴァイルは多少強引になるとしても構わず、二柱の会話に割って入った。

 追求を遮る事は、更なる違和感や嫌疑を深める事になるだろうが、このまま会話させていても、何れ言い包められる可能性は高い。

 リスクを考えた時、その中でマシな方を選ぶしかなかった。

 

「その様な、抽象的な発言では意味が分かりませんよ。もっと分かり易い質問にして下さいね」

「いや、明確だった様に思う。特に、知っているけど知らない振りをせねばならない、という反応を引き出せたのは上々だ」

「あら、早とちりするのは止めて欲しいものです」

 

 我ながら成功しているか疑問だったが、余裕ある態度に見えるよう心掛けつつ、胸に手を当てて微笑う。

 

「疑いの(まなこ)で見れば、何もかも怪しく思えてしまうものです。知らない振り、などと大袈裟な。単に何を言われたか理解できない、という反応に過ぎませんでしょう」

「確かに……、そうかもしれないね。少々、疑う気持ちが強くなってしまったのは否めない。だが、慎重になりたくなる気持ちも分かってくれるだろう?」

「……はて、どうですかしら?」

 

 今の台詞は、正面からルヴァイルを疑っていると宣戦布告した様なものだ。

 グヴォーリが、ルヴァイルから目を離さず分析しているのも、それが理由であるのは理解していた。

 しかし、それは薄皮を剥いでいくかのように、根拠を一つずつ詳らかにしていくのだと思っていたし、あるいは自ら用意された落とし穴に嵌るよう、誘導されていくのだと思っていた。

 

 余りに直接的、余りに恣意的過ぎる行動に、ルヴァイルの方こそ困惑してしまう。

 性急すぎる、という気もしたし、らしくないとも思ってしまった。彼らの余裕を削ぐ様な事態というのは、正直想像しづらい。

 

 それとも、ルヴァイルの裏切りの可能性や、ミレイユの反逆を、その余裕を捨て去るほど大きなものだと思っているのだろうか。

 現状、その喉元に刃を突き刺そうと画策し、それが上手く行きそうなところを思えば、杞憂とも言えない。

 

 だが、違和感というなら、それこそが違和感という気がした。

 だからここは、素直に思った事を吐露してみる。

 

「あまり重く考えても仕方がないのでは? 計画自体は、順調に推移している筈じゃありません?」

「その様に見えるな。君の提言からしても、事は上手く運んだ。後は彼女らに、敗北感を植え付けられたなら完璧だったが……」

「カリューシーへの苛烈な態度からも、得策ではないと察知された筈。捨て惜しくない駒を用意して、警告や指摘程度で済ますべきです。それで全て上手くいきます」

「――結局さぁ」

 

 ルヴァイルが断言した時の事だった。

 グヴォーリが会話の中に混ざって、鋭く視線を向けて来る。

 

 そこには剣呑なものが色濃く出ていて、厳しい追及が来るものと予感させた。

 ルヴァイルは、決して悟られぬよう注意しながら、迎え撃つ覚悟を胸に宿した。

 



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幕間 その4

「……それって、お前の主観の話だろ? 本当に上手く封じ込めておけるのか、それ程までに脅威の相手なのか不明じゃないか。誰だって手を嚙まれたくない……そりゃ当然だが、それで確実に脅威を拭い去れるものかねぇ……」

「贄として、価値ある存在という事実も、忘れられても困るわよ」

 

 それまで黙っていたシオルアンが、小さな声で言って来た。

 元より大声を出さないタイプの女神だが、今回は殊更小さかった。

 ルヴァイルやグヴォーリの主張を、小馬鹿にする態度のせいでもあるかもしれない。

 

 ひと柱の態度を許すと、他の者も同様に我を通そうとするのが神というものだ。

 常に控えめな態度のオスポリック以外が、ここぞとばかりに会話に混ざり始める。

 

「だったらやっぱり、射掛けてやって危機感煽りゃ良いじゃねぇか。強いらしいってのを認めない訳じゃないが、そうは言っても素体でしかないんだろ?」

「じゃあ、それに誰が付き合うと言うんです。指先どころか腕の先まで食い千切られると分かって、穴に手を入れる馬鹿はいませんよ」

「だからやっぱり、『鍵』を捨て去る方が可笑しいんだって。多少危険でも、掴む価値はある。だって、それで全て解決するんだろう? 固執する必要ないって意見も分かるが、だからって惜しまない、という話が正論とも思わない」

「一度は納得したんじゃないのかい。好き勝手言うんじゃないよ」

「誰も納得したなんて言ってない、不満だらけだ。次の素体で成功させれば良いって言うが、それ本当に成功するのか? 今回の素体に辿り着くまで、一体どれだけ失敗した? 都合よく次も上手く転ぶのか? そんな事にはならねぇよ」

 

 ひと柱が勝手をした事で、喧々諤々(けんけんがくがく)とした様相になって来た。

 これもまたいつもの事で、止めようとして止まらないのも、またいつもの事だ。

 途中で遮られると不機嫌さを増す者も多い。

 

 ルヴァイルはインギェムに目配せすると、即座に察知した彼女が面白そうな口調で口を開く。

 

「だったら、それぞれ話を進めりゃ良いじゃないか。いつも通りさ、我らが纏め役が、上手く話を纏めて、次善の策ってやつを作ってくれるだろ?」

「そうですね、いつだってそうして上手く切り抜けて来た方ですから。今回もまた、上手くやってくれるに違いないでしょう」

 

 ルヴァイルもそれに乗っかると、グヴォーリは頭痛を堪える様な顔をして目を向けて来る。

 

「それもお得意の、見て来た光景って訳かい?」

「見て来たところで、話は変わらないでしょう。彼らは己の意見を引っ込めません。下手な争いになる前に、纏めるものを纏めてしまえば宜しいと思います」

「下手に手を出せば、危険だという話だった筈だが?」

「これも放置すれば危険に変わりありません。どちらを取るのか、という話になると思います。逃がす前に挑戦させるも良し、逃がしたところで鍵を奪いに行くも良し、そのまま果てるのを期待するのも良いでしょう」

 

 ルヴァイルが幾つかの献策を告げると、ラウアイクスは大いに顔を顰めた。

 その間にも、彼の頭の中では目まぐるしく計算をしている筈だ。

 そして結果として、全ての者が、そこそこ納得する折衷案を導き出す。

 

 ルヴァイルはホッと息を吐きたくなって、意志の力で押し留めた。

 今もグヴォーリは、細かな動きも見逃すまいと、つぶさに分析しているところだ。

 

 ルヴァイルの良く知る流れに戻って来られたのだから、このまま押し切ってしまうのが得策だった。

 ここから先となると、最早本当に自身の知識は当てにならないが、それは既に覚悟していた事だ。

 

 後は彼らを引っ掻き回しつつ、ミレイユへと攻撃したい者の足止めをするなり、デイアートからの追放を後押しする作業を手助けすれば良い。

 

 既に次のループはない、と考えているし、これを最後とも考えているものの、最後の最後の隠し札を用意していても良い筈だ。

 ミレイユは望まないだろうが、昇神の切り札は用意しておきたかった。

 ここから先が分からないからこそ、彼女の為に、本当の最悪を回避する策は用意しておきたい。

 

 ――その時の事だった。

 慌ただしい足音が聞こえたかと思うと、議場の扉がゆっくりと開かれる。

 急いでいる事は分かっていても、神々が一同に集う場所での狼藉は控えたいらしい。

 

 兵士の一人はその場に片膝を突くと、(こうべ)を垂れて返事を待つ。

 どの様な場であれ、礼儀を失わないのは素晴らしいが、嫌な予感が胸をよぎる。

 一刻の無駄も出来ないから、彼の兵は会議が終わるのを待たずに入室したのだろう。

 

 だが、直答を許される前に発言しないところを見ると、切羽詰まったものではないのかもしれない。

 この様な状況にあって、神々の機嫌を損なう様な振る舞いをするからには、相当な変事である事も窺えた。

 

 それは、今日の議題にも上ったミレイユ関連という気がしたが、それにしては可笑しい。

 ルヴァイルはミレイユと話し合った、その翌日に神鳥を派遣した。

 

 人語を解し、その命令に忠実という神造の鳥だが、そちらからは何の報告も上がっていない。

 もしも何か大事――攻め込む前兆などがあれば、その報告をして欲しい、とも伝えてあるので、まだ作戦決行前と分かる。

 

 だが、報告がまだ無い以上、ミレイユ達ではないと推測できる。

 では一体、何があったのか……。

 ルヴァイルは気が気でないまま、思わず右手を胸に抱き、ラウアイクスが返答をするのを待った。

 

「直答を許す。この様な場にあって、何を理由に押し入って来た。返答次第では容赦せぬ」

「ハ……、ハッ! 予てから申し伝えられておりましたとおり、デルンにて異変ございましたので、そのご報告に参りました!」

「……デルン?」

 

 ルヴァイルが思わず声を出してしまったのも、無理からぬ事だった。

 あの場は監視されている、と伝えていた筈。

 行動を起こすにしろ、それは神々から余計な横槍を招く事になり、益となる部分は少ない、とも伝えていた。

 

 神々の鼻を明かしてやりたい、という意志は透けて見えていたし、機会があるならやるかもしれない、とも思っていた。

 だが、これからドラゴンとの交渉もあるという段階で、その介入を招く様なやり方は、自滅に近い無謀行為だ。

 

 まさか、という思いでルヴァイルは言葉を待つ。

 理性的で、知恵が回り、物事の先々まで見えるミレイユ、と思っていただけに、歯噛みするほど悔しい思いが胸中を駆け巡る。

 

 そして同時に、いいや、と否定する気持ちも駆け巡った。

 ミレイユは、正しく物事を見極める視点を持っている人物だ。

 あの時、言葉を交わし、信頼できる人物という思いを新たにした。

 

 無謀行為などする訳がない、と自分に言い聞かせて、食い入る様に兵を見つめる。

 そして、ラウアイクスから兵に向けて、厳かな声が降りた。

 

「……確かに、デルンにて何事か起きる可能性があり、その為に良く見ておけ、とは言っていたな」

「それ今、起きたってのかい?」

 

 グヴォーリから訝しげな声が上がる。

 そうして兵に目を向けながらも、ルヴァイルとインギェムへの注意は怠っていなかった。

 どこかに関与していると疑っていて、そしてそれがどこに及び、どこまで繋がっているか、まだ分かっていないのだろう。

 

 ルヴァイルにとっても、それが分かったのは収穫だった。

 もしかしたら、自白を引き出すまでもなく、大まかな所まで把握されているのかも、と思っていたのだ。

 

 だが実は、むしろ疑心が強いだけ、という段階なのかもしれない。

 それが分かれば、シラを切り通すのも楽になる。

 事前にインギェムと相談していたとおり、知らぬ存ぜぬで言い逃れる見通しも立ってきた。

 

 グヴォーリは些細な機微からも洞察する分析力を持つので、それが表に出ないよう、極力注意しながら息を吐く。

 兵がもたらす情報に、不自然さや不可思議さを感じているのは本当だから、その疑念を素直に出すのは苦労しない。

 そこへラウアイクスが、兵に向かって重ねて問うた。

 

「異変というのは、どういう事か。森からエルフどもが攻め込んだか」

「ハッ! まさしく、仰るとおりにございます! 一気呵成に攻め込み、そのまま城内へ侵入、守り切る事が困難な状況と察せられます!」

「ふむ……? そこまで深刻な状況になるまで、黙って見ていろ、と言った覚えもないが……。早すぎるな……、ミレイユが手を下したか?」

 

 圧倒的戦力を持っていれば、オズロワーナの城壁など有って無いに等しい。本隊が進軍するより早く、城門を予め落としておく事も可能だろう。

 一人二人が先発したところで簡単に出来る事ではないが、それもミレイユの手勢ならば容易く遂行してのけるだろう。

 

 ――しかし。

 それが意味ある行動かと言われれば、首を傾げざるを得なかった。

 

 これまでの森が受けてきた不遇や、彼らの意義を思えば、それを手助けしてやりたい気持ちは理解できる。

 だが、多くの前提を理解しているミレイユが取る行動としては、あまりに無駄が多い。

 

 神々に対しての嫌がらせや腹いせ、というにも、やはり稚拙だった。

 神々の真意を知っているミレイユからすると、そこに意味がない事も理解している筈だ。

 デルンは便利な駒だったが、スルーズが居なくなった今、固執する存在でもない。

 

 これまでどおり不都合な王であるなら排除して、新たに王族を立たせ、神々の恩寵を感じさせて転がせば良いだけだ。

 その当たりはグヴォーリやラウアイクスが上手くやるだろう。

 

 何千年と繰り返して来た事だから、彼らにしてもお手の物だ。

 ここ数百年、少し楽が出来ていた事実はあったにしろ、喪って痛い損失ではない。

 

 この件を持って、ミレイユを世界の敵に仕立て易くなったので、攻め立てるには便利な構図になっている。これを扇動する事で、この世にミレイユの居場所なし、と思わせる事も出来るだろう。

 

 ルヴァイルはチラリ、とラウアイクスへと目を向ける。

 彼はミレイユを世界から追い落としたいと思っているので、これを上手く利用できないか考えている筈だ。

 どこかのタイミングでタサギルティスと一戦させ、不満の解消を手助けさせてやりつつ、追放できれば良いとソロバンを弾いている。

 

 その後は、『鍵』として使いたい神に、自分で取り戻せれば好きにして良い、とでも言い包めるだろう。

 自分に損がなく、そして周囲にも損がない形に落ち着けば、神々はとりあえず納得してくれる。

 元より完全な形で了承できると思っていないので、現実的な妥協案が提出されれば、それで納得するのが常だった。

 

 現在の流れは、ルヴァイルの知る流れに良く似ている。

 だからきっと、それに近いものとなるだろう。

 



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幕間 その5

 しかし、続いて兵の口から出てきた言葉に、ルヴァイルの困惑は更に増した。

 

「いえ、ミレイユめは、その数日前に都市を訪れ、当日の内に去っております。軍の中に、その姿が無かった事も確認済みでございます」

「確かか……?」

「はい、間違いございません」

「……行き先は?」

 

 ラウアイクスの質問には、少しの間があってから返答があった。

 

「申し訳ありません、途中で見失っております。幻術による目眩ましも警戒しての監視でしたが、暫くのあいだ東へ移動した後、森を通過した辺りで……」

「なるほど……。東進は確実で、そしてそこから姿を隠した……が、再びオズロワーナへ戻った訳ではないのだな?」

「は、間違いございません。周辺にて、転移による魔力波形も確認できず、一足飛びに戻ったとも考えられません」

「ふむ……」

 

 ラウアイクスは息を一つ吐くと、そのまま黙り込んでしまった。

 ミレイユは転移できる術を持っていた筈だし、それを知っている事に今更驚きはない。

 そして高度な魔術ほど、マナに多きな影響を与えるものだ。

 

 転移ほど高度な魔術なら、周囲のマナに何の影響も与えないで行使するのは不可能で、これは早く動く物体が空気の抵抗を無視できない状態と似ている。

 

 だから、森やその周辺で強い魔力波形が観測できなかったというのなら、それは転移が行われなかった、と判断できるのだ。

 だが、忽然と姿を消したというのなら、何かしらの作為があったと見るべきでもあった。

 

 他の神々も怪訝な表情をしていたが、頭脳役として動くのは、常にラウアイクスとグヴォーリだ。

 だから視線も自然と、その二柱に集中する。

 全員の視線を受け取りつつ、グヴォーリはそれらを無視して、兵に質問を投げかけた。

 

「見失ったからと言って、城攻めのエルフ達に合流したって事でもないんだね?」

「ハッ、ございません! まず真っ先にそれを疑いましたので、それについては(しか)と確認いたしました!」

「……あぁ、そうだろうね。だからこそ、東進は欺瞞と見るべきだ。本当の目的は別にある」

 

 ラウアイクスは一つ頷き、ルヴァイルに目を向けながらも兵に問うた。

 

「『遺物』に、何か変化は……? 特別な事情でもない限り、この段階で使うものではないだろうが……足取りを見失ったとはいえ、向かう先は限られてくる」

「申し訳ありません! 森とその周囲の探索、そして都市への潜入を警戒しておりましたあまり、そちらの方面には注視しておりませんでした!」

「あれの監視には、複数人を当てていただろう。それでもか?」

「ハッ! 森まで移動していた速度からしても、それほど速く辿り着けないと見て、周辺や都市内の探索に注力を傾けました。現状でも動きは見られません」

「――移動速度なんて、何のアテにもなるもんか」

 

 グヴォーリが吐き捨てる様に言って、そして実際、兵に向けて蔑む視線で射抜いた。

 

「全く呆れる……。見られている事を自覚しているからこそ、森での隠蔽工作だろう。視線を切って、どこかへ移動するつもりだった。騙すつもりでいたんだから、それまでの移動速度は誤認させる為に、わざと見せた移動だったに決まってる」

「――では、君はどこへ行ったと思うね?」

 

 ラウアイクスが尋ねると、グヴォーリもまた、ルヴァイルをちらりと見てから声を発した。

 

「この段階で、『遺物』に行くというのは道理に合わない。ミレイユは現段階で、使用可能にあると知らない筈だからね。それならむしろ、『ここ』を目指して移動している、と考えている方が理屈に合う」

「確かに、オズロワーナから東進すれば大瀑布が見えてくる。だが、越える手立ても無いだろう。仮に越える事だけ出来たとて、水流の対策とて疎かには出来ない。魚であろうと魔獣だろうと、その背に乗って辿り着けるものではない」

「ミレイユ一人なら、辿り着けるかもしれないでしょう?」

 

 それまで黙して語ろうとしていなかったオスボリックが口を開き、誰にも視線を合わせず、手元に固定したまま続ける。

 

「グヴォーリも、いつか言っていた筈です。自死の危険を悟った時、最後に行うのは自滅覚悟の暗殺だと。ひと柱でも道連れに出来れば上々、という考えの元に攻撃してくる可能性があると……」

「……言ったね。馬鹿でないなら、やらないとも言ったと思うけど」

「君なら分かるのではないか、ルヴァイル。乗り込んでくる無謀を、理解しながら決行しようとするだろうか」

 

 ラウアイクスから水を向けられ、全員の視線が集中する。

 この質問は一種の炙り出しだ。

 ある程度、答えを予測した上で、ルヴァイルがどう答えるか観察している。

 

 彼はグヴォーリの方へ顔色を伺うような事はせず、ひたりとその相貌を向けていた。

 それがどういう心境の表れなのか、向けられる視線から想像がついた。

 

 だが、この程度の質問なら問題はない。

 可能性の一つとして挙げるだけだし、信じようとしない神々が多いのは事実だが、嘘を言うつもりもなかった。

 

 神々はミレイユの設計思想を知っている筈なのに、その結果どれほどの力量を持つかを正しく認識していない。一種の傲慢さの現れでもあるのだろう。

 愚かだと思うが、だからこそ、付け入る隙が生まれている。

 傲慢とは、どれほど肥大しようと限りがあって止まるものではないらしい。

 

「えぇ、ミレイユは攻め込んで来る可能性があります。大抵はタサギルティスが先走って攻撃し、仲間の誰かを損失させた場合に、そうなりますね」

「俺が……? いや、そいつは別に良いが、だったら何だって止め刺してねぇんだ?」

「逃げられるからです。本気で逃げようとするミレイユは、方法も選ばないので捕らえるのは困難を極めます。仲間の内から、必ず逃がそうと身を挺して庇う者も出ますしね」

「それが……仲間を失った怒りが、それの原動力になっていると? 乗り込んでくる、とはにわかには信じられないが……」

 

 ラウアイクスが訝しげに首をひねると、ルヴァイルはしたり顔で頷いた。

 

「あくまで可能性の一つとして起こり得る、という話です」

「そうだろうが……しかし、現段階でも不可思議な動きをしているのは事実だ。森から動き出したのは別に良いとしても、前段階では余りに大人しく森に引きこもり過ぎていた。それは思う壺だから文句もないが、移動と同時に姿を眩ましたのは、由々しき事態だ」

「この段階で、どう動くかは理解してるかい?」

 

 グヴォーリから質問が飛んで、疑念に満ちた視線と合う。

 嘘を言っていない事は分かっていても、それだけで疑いが晴れるものでもないのは、十分理解している。事実を述べるだけで良いとはいえ、あまりに露骨な情報は別の疑念を生む。

 その匙加減が難しいところだった。

 



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幕間 その6

「時期は前後しますが、動き出すのは大抵、タサギルティスかブルーリアが仕掛けた場合です。お二柱が何をしたしたかで、結果は変わりますね」

「ほぅ? ……という事らしいが、何かしたのか?」

「いやいや」

 

 ラウアイクスから顔を向けられ、二柱の神は同時に首を横に振った。

 

「ミレイユについては、色々ゴタ付いているのは知ってるんだ。あんた主導で動かしている計画だ。それを知ってて、勝手に動いたりするかよ」

「先程は、先走りしそうな雰囲気がありましたけどね」

「雰囲気だけだろ、何もしてない。それに、信徒をけしかける程度は、例えそうであろうと物の数には入らねぇだろ?」

「……したんですか?」

 

 オスボリックから蔑むような視線を向けられ、タサギルティスは手の動きまで加えて否定する。

 

「いや、例えだ、物の例え。やろうとしてたし、止められてもやろうとしてたのも事実だけどよ……でも、それぐらいなら許されるだろ?」

「神使を無駄にしたいだけ、というなら止めはしないが……。実際、神使ごときでは、十人揃えたところで太刀打ち出来まいしな。だが、未だ(けしか)けていないというのなら、やはり動きに不自然さは残る」

 

 そう言って何かを疑う仕草で顔を向けてくるが、ルヴァイルは何処吹く風という態度を取った。

 というより、他の反応を見せる訳にはいかない。

 疑われる事を不本意に思いながらも、出せる情報は出す、と思わせなければならなかった。

 

「とはいえ、まずはその動きを捉える事から、始めなくてはならないか。――おい、ミレイユを見失ったのは何日前からだった」

「四日前からでございます!」

「そして、今の今まで再補足できていない……。『箱庭』を持っていない今、場所を特定するのは簡単ではなかろうが……。まだ四日目でもある、それで何を出来る訳でもない。少し腰を落ち着かせてやれば、間もなく見つかるだろう」

「というか、四日も前に見失って、報告なしの方が問題だと思うけどね」

 

 グヴォーリが兵を睨み付けると、恐縮しきって頭を下げる。

 身体が僅かに震えているのは、神の勘気に触れれば、容易く命を落とすと知っているからだ。

 そして、だからこそ、報告がなかったとも言える。

 

 その詳細を尋ねられるより前に再補足してしまえば、見失っていた事実を無かった事にも出来ただろう。

 叱責を恐れるが故の事だと分かるが、そこに同情する神などいない。

 

 ルヴァイルが、そう胸中で考えを整理している時だった。

 先程の焼き増しの様に、慌ただしい足音が響いたかと思うと、開かれた扉に兵が駆け込んでくる。

 

 礼儀を弁えているので、入室するより前に膝を付き頭を下げていたが、その口からは煩わしい程の息切れが聞こえて来ていた。

 

 流石にその様な態度を見せられては、いち兵士の糾弾など後回しだ。

 何事かとラウアイクスが尋ねれば、顔を上げた兵が泡を食った表情で告げた。

 

「ど、ドラゴンです……! ドラゴンが、ここまで!」

「なに……? あの大瀑布を、滝登りして来たと? 有り得ん話だが……」

 

 その報告は、ルヴァイルからしても耳を疑う程のものだった。

 ――早すぎる。

 ミレイユにドラゴンを味方にする事が、打開策の一つだと告げてはいた。

 しかし、出発日時や消息を把握できなくなった日数などから、まだまだ多くの時間が必要だと思っていたのだ。

 

 何をするつもりであるにしろ、それより前に発見できると思っていた事だろう。

 それはルヴァイルからしても同感で、動向の完全隠匿は不可能だと思っていた。

 

 城攻めについてもそうだ。

 短時間で攻略せしめたからこそ、そこにミレイユがいる事を疑う要因になった。

 だから、きっと現場にいる筈だ、と注力するのは当然だったろう。

 

 まさか、その四日間で『遺物』まで辿り着き、そのうえ踏破しただけでなく、竜の谷を越え味方に付けたというのはどういう事か。

 

 ルヴァイルはまさに混乱の極致にあったが、いや、と改めて思い直す。

 まだ、兵の報告全てを聞いていない。

 本当に滝登りをして到達した、何かのドラゴンが出ただけかもしれないのだ。

 

 ルヴァイルが早合点を自省しながら、しかし事実とは異なると半ば予想していた。

 意味不明と頭を混乱させているのは他の神々も同様で、兵の口から出る言葉を待っている。

 

「違います、ドラゴンが……空を、空を飛んでいるのです!」

「馬鹿な!」

 

 発言したのはグヴォーリだったが、誰もが同じ気持ちだったに違いない。

 ルヴァイルもまた同意見で、何が置きているのか見当も付かなかった。

 

 最早、自分が知っている時間の流れにないとはいえ、ここまで何もかも違うと面食らうだけでは済まない。

 何が置きているのか予想しようと頭を働かせたが、結局それは形にならず、単に思考が停止してしまった。

 

「それで……まさか本当に、ドラゴンが飛んでいるだけか? 違うよな、他にも何かあるだろう?」

「ハッ! 目についた神処を手当たり次第に襲っております。数も多く、地上にいる神使達だけでは太刀打ちできません!」

「何を馬鹿な……! 空を飛ぶというなら、『遺物』を使われない限り不可能だ! まだそんな所まで行ってないんじゃないのか? 四日前にはオズロワーナ周辺に居たんだろう!?」

「事実だけを考えなよ。ミレイユの動向を見失っていた上、視線すら外れていたんだ。その間に何かしていたんだとしても不思議じゃないね」

 

 神々の阿鼻叫喚とも言える混乱が、議場に吹き溢れた。

 無理もない。ルヴァイルもインギェムと顔を見合わせ、呆然としてしまっている。

 ルヴァイルは確かに道を示した。最も成算の見込みがある方法は、ドラゴンを活用することだと伝えた。

 

 だが、これほど素早く達成し、これほど鮮やかな奇襲を仕掛けられるなど、夢想だにしていなかった。

 最古の四竜も共に来ている事は想像に容易く、そしてそのアギトで食い潰してやろうと、憎悪を煮え滾らせているのも間違いない。

 

 それが分かるから、戦闘が得意でない神などは顔面を真っ青にさせてしまっている。

 鳥以外から空を奪った過去が、ここにきて兵たちも反抗する手段を奪われているのは皮肉な話だ。

 ラウアイクスにも僅かな動揺が見られて、その彼が傍らのグヴォーリへ声を掛けた。

 

「どう思う、グヴォーリ」

「何があったにしろ、ルヴァイルは違う。インギェムもだね。あれは取り繕った感情でも表情でもない。あいつらも知らなかったのは確かだよ」

「シロと断言できる材料ではないが、何れにしろ――ここで座視している訳にはいかないか」

「アイツらの目的は明白だ。暴れまわりたいだけだね。そして復讐を果たそうしている。神処自体はどうでも良いが、落とされる場所次第じゃ、ちょいと困った事になる」

 

 オスボリックは既に動き出していて、己の神処に引き籠もろうとしているのが分かった。

 彼女の権能は防衛戦に向いているし、何よりグヴォーリが言った、落とされて困る場所の筆頭だろう。

 ルヴァイルとしては、素直に帰らせる事も防ぎたいし、他の神々が協力して戦う状況も防がねばならない状況だった。

 

 インギェム、と声を掛けて、頷きを一つ見せるだけで、彼女も即座に理解を示す。

 それ一つで意思疎通できるほど、ミレイユが攻め込んで来た場合の話合いは済ませてあった。

 現在は予定と違う様相を呈しているものの、その時の作戦は流用できる。

 

「ラウアイクス、これを迎え撃つ形で動く、という事で構いませんね」

「あぁ、そうするしかないだろう。……が、ルヴァイル。ここで君を自由にさせるのは怖いのだがね?」

「言ってる場合ですか? 手が足りる状況とも思えませんが」

 

 ラウアイクスは暫し考える仕草を見せてから、ルヴァイルから顔を背け、別の神へと言葉を投げる。

 

「タサギルティス、ブルーリア、一先ずお前たちが先行してくれ。特に射術と自在の権能を持つタサギルティスには、やりがいある相手だろう」

「その様だな。――勿論だ、任されよう」

 

 獰猛な笑みを見せながら、胸を張って答えたタサギルティスだが、身内の中にある毒の味というものを知らないらしい。

 それをとくと教えてやる、と最後にインギェムと視線を合わせ、ルヴァイルは胸に抱いた右手を握る。

 

 今も掌の中に残る温かな感触が、ルヴァイルに勇気を与えてくれていた。

 

 



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第十一章
再会と別れ その1


 その日、アキラはいつもの様にスメラータとイルヴィを伴い、魔物討伐の依頼を見事果たして、帰路についている所だった。

 

 ランクとしては二級冒険者のアキラだが、実力的に一級冒険者と肩を並べて遜色ないと言われている。

 そして、時にはその一級冒険者が失敗した依頼を持ち込まれる事もある。

 今回の依頼が、正にそのパターンの依頼だった。

 

 失敗したからと咎められる事は無いが、落胆や失望はある。

 依頼主からしても、成功時のみ報奨金を払うものだから、何度失敗されようと懐が痛むものではない。だが、得てして討伐を依頼する場合は、その素材を求めているものだ。

 

 期限を定めているものもあり、一度の失敗はともかく、達成出来なかったとなれば、ギルドの沽券に関わる。

 そうした時、斡旋依頼という形で、ギルドの方から声が掛かる事もあった。

 

 この冒険者なら、このチームならやってくれるだろう、という信頼をギルドから向けられる形なので、頼まれる側としても悪い気はしない。

 更にその場合、報奨金に加えてギルドからの特別加算もあるので、大変美味しい依頼となる。

 

 信頼と共に斡旋される依頼だから、これを断る冒険者は少ない。

 特に、名誉を求める冒険者となれば尚の事だ。だがそれも、やはり時と場合による。

 

 今回、アキラはこれを受諾したが、他二人からの難色は強かった。

 結果として果たせたから良かったものの、成功する可能性は低かったのが原因だ。

 

 討伐が出来たのは、実際のところ運でしかなかった。

 無謀だと散々止められていたのに、それでも強行したのは申し訳なく思う。

 だが、アキラには魔物の生態や習性、攻撃方法を知っているだけでなく、実際に戦えなくてはならない。

 

 実践の場があり、己を鍛える場があるなら、果敢に挑まなくてはならないのだ。

 だが、アキラの主張を理解していても、二人からの抗議は止まらない。

 その主張が気に入らないというのではなく、むしろ彼女らは尊重してくれている立場で、だから原因は別にあった。

 

 未だ身体中に真新しい傷を残しながら、渋い顔をしてスメラータが言う。

 

「だからさ、別に強敵に挑むのを止めたいんじゃないんだよ。今回のマンティコアだってさ、繁殖期にあって凶暴になってる訳じゃない? 敢えて一番危険な時期の魔物を相手にするのは、命が幾つあっても足りないよ。楽な相手ならともかくさ」

「でも、凶暴だからと逃げていたら、いざという時困るんじゃないかな。攻撃方法に差異が生まれるとは思わないけど、やっぱりやりようは変わってくるんだと思うし」

「だからさ、そのいざって時は戦わないのが、普通の冒険者なの。困難に立ち向かうのと、スリルを求める事は全く別物でしょ? 敢えてリスクを飲み込むのと、リスクを無視して向かうのも別! アキラはリスクを過小評価し過ぎる!」

「でも、マンティコアと戦う経験なんて、この先そうあるとは思えない。一級冒険者への昇級は、僕にはまだ一年は先を見ておかないといけないし、この依頼が回ってきたのはチャンスだったんだ」

 

 スメラータの意見は至極真っ当で、冒険者なら当然身に着けておくべき常識だった。

 良く聞く言葉に、勇気と無謀を履き違えるな、というものがあるが、アキラが見せた行動は正にそれだった。

 

 言われるまでもなく、無謀だったという自覚はある。

 マンティコアという、一級冒険者しか相手に出来ない魔物と戦う機会は稀だった。

 

 それを逃がしたくない、という欲求を押し通した形だ。

 書面から魔物の生態は理解できても、実際の戦闘においてどう対応するのが自分の戦闘スタイルと合っているのか、そこまで分析できる人はいない。

 

 アキラが求めているのは正にそれで、名誉欲でも、金銭欲でもなかった。

 戦闘実績と経験を積む事にあり、その機会が目の前にあったなら、受ける以外にあり得なかったのだ。

 二人の言い合いを後ろから見ていたイルヴィが、首を横に振りながら口を挟む。

 

「……なぁ、アキラ。あんた何を焦ってるんだい? これに関しちゃ、絶対的にスメラータの方が正しいよ。あんたの実力は、既に誰もが認めてるじゃないか。単にギルドの制度がそれを許さないってだけで、あと一年も待てば、無事に昇級試験が受けられるさ。今は他にもまだ、討伐依頼は沢山ある。雑魚は除外しても、そっちを優先したって良かったろう」

「そうそう! アキラの実力からしたら、物足りないかもしれないけどさ。未知の敵と戦う機会をもっと持ちたい、って言ってた気持ちは知ってるよ。でも、まだ他にも沢山いるわけだしさ……!」

 

 二人の意見は正しい。

 そして、アキラの気持ちに寄り添って、より現実的な案も出してくれている。

 それは素直に嬉しく思うし、感謝する気持ちも当然強いのだが、それでは駄目なのだ。

 

 より強い敵と戦う必要がある。

 自分より格下を相手にするのではなく、勝てるかどうか分からない相手に挑むから意味がある。

 そして、その強敵相手に、初見で即座に対応できるだけの戦勘を身に着けなくてはならない。

 

 ――何故なら。

 何故なら、そうでなくてはミレイユに着いて行けない。

 腕を磨け、刻印の使い方を学べと言ってくれたのは、単なるお世辞ではなかった。

 

 ミレイユはアキラに期待を向けてくれた。

 恩を返したいという気持ちを汲み取り、それを果たせる場を用意してくれるつもりでいる。

 

 そして、ミレイユの向かう先にいる敵は、いつだって危険な相手に違いない。

 ミレイユが望み、そして何よりアキラが望むのは、ミレイユの役に立つ事だ。

 強敵相手にして、亀の如く防御を固めて立っている事に意味などないのだ。

 

 だが同時に、スメラータ達が言う事もまた分かる。

 アキラが格下と見る相手と戦うのも大事で、そして学べる部分もある。

 

 単に弱いと見るだけでなく、毒を持つならその特性や、避けるべき攻撃など、知っておく必要のある事は多くあるだろう。そちらの経験も、疎かにして良いものではない。

 

 だが、強敵と相手に出来ない方が、きっともっと問題な筈だ。

 ミレイユは、いつ帰って来るか分からない。いつ、共に来いと声が掛かるか分からない。

 

 だからアキラは、いつお呼びが掛かっても良い様に、より困難な相手を率先して相手にし、その知見と力量を高めたいと思っていた。

 

 ――そういえば、とアキラはふと思い立つ。

 その事を、二人に改めて伝えていなかった事を思い出した。

 言葉遣いが拙い時に言ったのは確かだったが、正確に伝わっていなかったのだと、今更ながらに気付く。

 

 その時に何と言っていたか覚えていないが、伝えた事は確かなので、それで理解してくれていると、頭から信じ込んでいた。

 

「そもそもさ、今回の依頼だって、ギルドのメンツが先に立って出た依頼でしょ? この時期のマンティコアなんて、誰も相手にしたがらないしさ。金に目が眩んで受けたは良いものの、失敗したならギルドとしては、一応体裁として斡旋依頼を出したっていう形にしないと拙いんだし」

「ギルドは信用を第一に考えるしね。前ギルド長の不手際もあった……。それを挽回したいからこそ、あちこちに声を掛けた末のアキラだろ? 人が良い事を利用されてんだからさ……、だから断れって言ってやったのに」

「あぁ、何? あんた……だから断れって言ってたの?」

「そりゃそうだろ。誰がこんなハズレ依頼を受けさせるもんかね。アキラの力を頼みに、なんて口先ばかりさ。失敗しても良いから、受けてくれる奴を探してただけだろ、あれは」

「てっきり、この三人じゃアタイが足を引っ張るって理由とか、そういう事だと思ってた」

 

 不満そうな声から一転、スメラータは破顔してイルヴィの肩を叩く。

 アキラとしても、二人の会話は興味深いもので、ついつい話を聞き入ってしまったが、認識の齟齬は埋めなるのを忘れてはならない。

 その話を中断させて、アキラは割って入った。

 

「ごめん、ちょっと良いかな。多分、上手く話が伝わっていなかったと思うけど、単に強敵と戦いたいから挑んだんじゃないんだ」

「そうなの? 強い敵と戦う必要があるとか……そんな事をさ、前に聞いた気がするんだけど」

「それは……うん、間違いじゃないんだけど」

 

 その返答で、やはり正確に伝わっていなかったのだと分かった。

 思わず言い淀んだアキラに、イルヴィが不思議そうに首を傾ける。

 

「強い敵と渡り合えるだけの、強い力量を身に着けたいんだろ? そして、もっと多くの強い敵と戦いたいと思ってる、そうだろ?」

「それは……うん、そうだよ。単に戦うだけじゃなくて、勝てる戦いが出来るように、というのが重要なんだけど」

「そりゃあ、そうだろうさ。だから、魔物図鑑とか読み込んで、自分なりに対策を用意していたんじゃないのか?」

 

 今更なにを、とイルヴィが訝しげに首をひねる。

 その頭から、盛大に疑問符が浮かぶのを幻視した。

 何と言ったらいいか、と前置きしてから、アキラは言葉を選びながら話し始める。

 

「イルヴィは知らなくて当然だと思うけど、元から冒険者になるのが目的じゃなくて、外を旅する為の予備段階として、冒険者ギルドを活用してたんだよ。だから、いざという時、足手纏いにならない様に、力をつけたいって訳で……」

「あー……、つまり何かい? 今回の討伐目標にしたって、倒すの事なんて二の次だったと。踏み台でしかないって?」

「そう言うと、大分言葉が悪いけど……でも、そうだ。気分を悪くさせたならゴメン」

 

 アキラが律儀に頭を下げたが、イルヴィはカラカラと気持ちの良い笑顔で笑った。

 

「謝る事なんてあるもんか。マンティコアを踏み台にするなんて、むしろ痛快じゃないか。……だが、そうか。あれ程の魔物すら踏み台にしかならないっていうなら、あのアヴェリンを名乗る戦士の後を、付いて行く気でいるんだね」

「師匠に、というより、その主人であるミレイユ様の後を、なんだけど……」

「どっちだって良いさ。それならまぁ、焦る気持ちも分からないでもないがね。普通なら、勝てるかどうか分からない魔物に、挑むもんじゃないからさ。とはいえ……」

 

 歩みを止める事なく、イルヴィは周囲への警戒を怠らないまま腕を組んだ。

 

「あの戦士の眼に叶うなんて、あり得るのかい? 三年先を見据えているなら、まぁ理解出来ない話でもないけどさ。その焦りぶりだと、先々を見据えてのものとは思えないじゃないか」

「いつ、と明確に日にちを決められた訳じゃないけど、遠い日ではないと思ってる。今だって少し離れているだけで、伴に連れて行ってくれるとは言って貰えたから……」

「馬鹿にするつもりはないがね……」

 

 イルヴィはそう一言前置きしてから、言葉を続けた。

 

「あんたの実力は良く分かってるつもりだよ。最近、手合わせするようになって、その実力の向上も眼に見張るものがあると思ってる。互いに武器を混じえて分かり合えてるんだ、馬鹿にする奴は許さない」

「――分かってる。でも、師匠の足元にも及ばない、って言いたいんでしょ?」

「ギルドに入って、飛躍的に向上したから勘違いさせたかと思ったが……そうでもないんだな」

 

 感心した様に言うイルヴィだが、アキラこそ身の程は弁えている。

 学園に入る前、入ってから後、そしてギルド所属から、それぞれ環境の変化と共に実力の向上を実感した。

 

 しかし、今になっても師匠の背中は未だ遠い。

 自分が強くなる程、その背中が離れていくようですらある。

 

 それが分かっていて増上慢になれる程、アキラも馬鹿ではなかった。

 そして、そんな勘違いをする様では、動向の許可を取り下げられても可笑しくない。

 

 両者の間には、天と地ほどの開きがある。

 少し強くなった程度で、その差が縮まったなどと初めから考えていなかった。

 



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再会と別れ その2

「……互いの認識が間違ってなかった、っていうのは良しとしてもさ。三年、五年でその背を追いかけるっていうのでもなく、下手すりゃ数ヶ月で後を着いて行こうと言うんだろう? 悪い事ぁ言わない、考え直しな」

「そうだよ! いいじゃない、この三人の連携も板に付いて来たしさ、一級冒険者だって遠くないよ! このまま五年も続けたらさ、もしかしたら大陸中に名前が響き渡る事だって……!」

「スメラータは知ってるでしょ。僕は……あの人に恩を返したいんだ。その為に今、武器を振るって自分を鍛えてる。冒険者としての名声には、大して興味がないんだ」

 

 スメラータも分かってはいたのだろう。

 空元気の様に張っていた声と、殊更笑みを浮かべていた顔も、その一言で枯れる様に萎んだ。

 そしてイルヴィが、唸りながら息を吐く。

 

「恩を返したいか……。分かるよ、大事なことだ。我が部族の女は、受けた恩を三倍にして返すのが礼儀って、いつも言ってるしね。だが、あれは違うだろう……」

「あれ?」

「到底、その後ろに着いて行けるレベルじゃないって話さ。恩を返すつもりで、仇で返す事になりゃしないかい。あくせく後ろを追いかけて、それで何が出来る? あんたの力なんて、誰も求めちゃいないだろ」

 

 イルヴィは気不味い顔をさせて、視線を合わせず言って来た。

 これは悪口でも、悪意ある評価でもなく、ごく順当な感想と言う他ない。全くの善意で忠告してくれていて、本来なら言い難い事を、こうして口にしてくれているのだ。

 

 感謝こそすれ、それで機嫌悪くなったりしないし、何よりアキラが十分それを理解している。

 だが、それを理解していても尚、だから止める、というつもりもなかった。

 

「僕が三人の中で、積極的に盾役を買って出てたのは、その為だ。スメラータのチャンスを作る為じゃないし、僕より上手くやるイルヴィより率先して攻撃を受けていたのは、自分を鍛えたかったからだ」

「戦士としての役割は、初めから期待しちゃいないってか。盾役として使ってくれって……? 死ぬつもりかい、あんた」

「そうだよ、アキラ! あの人たちに着いて行って、何するつもりか知らないけどさ、やってる事のレベルが違うよ。盾役なんて、真っ先に死ぬ係じゃない。そりゃアキラの『年輪』には何度も助けられたし、頼もしく感じたけどさ……!」

 

 二人の気遣いは嬉しい。

 せっかく繋いだ縁だ、そう簡単に切りたいとも思わない。

 だが、ミレイユに受けた恩を思えば、それこそ安易に切り捨てる事は出来なかった。

 

 役に立ちたいと申し出て、ならば役に立ってみろ、と許可して貰った立場でもある。

 そしてそれこそが、アキラの本望であり悲願だ。オミカゲ様が作った孔へ、その姿を追って飛び込んだ瞬間から、アキラの覚悟は決まっている。

 

「最初から決めていた事なんだ。手解きしてやらねば役に立たない、でも手解きしてやる暇はない、そう言われて今がある。ギルドでして来た何もかも、それは少しでも使い勝手の良い盾になる為のものだった」

「あんたは、それで満足なんだね?」

「そうだね。生き様と言うほど格好良いものじゃないけど、それが今、何より大事な目的だ」

「そうかい、それじゃあ止められないね……」

 

 イルヴィは悲しげに笑って、それ以上何も言わなかった。

 言いたい事や、諭したい事はあったのだと思う。それらしき素振りも見せた。

 だが、グッと答えて唇を引き絞り、無理矢理笑みの形を作ったのだ。

 

 それを有り難いと思うと同時に、申し訳なくも思う。

 イルヴィもイルヴィで、アキラに対して強い思いを抱いていた。言葉を飾る事を好まず、また虚言を何より嫌う彼女だから、その想いも嘘じゃないと分かる。

 

 だが、アキラの思いを知ると同時に、身を引く潔さも持っていた。

 アキラは死ぬ気でいる、……その前提で恩を返す。

 それだけの強い思いは、簡単に無碍にさせるものではない、と思う為なのかもしれなかった。

 

 イルヴィが一定の納得を示したように、スメラータもまた渋々ながらも同意しようとしている。

 だが、イルヴィほど素直という訳でもなく、その表情にはありありと不満が表出していた。

 

「ギルドに来た後の全部って言うけどさ……、この三人は良いチームだったじゃん。確かに言葉を教える事も、逆に制御を教えて貰う事も、最初から納得ずくの約束だったよ。でもさ、私達の関係も、必要だからで作られたものだったの……?」

「あ、いや……」

 

 スメラータの不満の正体に、そこでようやく思い至って、アキラはようやく自分が何を口走ったのか理解した。

 確かに、ギルドに所属してからの何もかも、なんて言い方では、協力して依頼をこなしていた事さえ、打算ありきの事になってしまう。

 

「違う。勿論、違うよ。三人の友情は……絆は、僕が最初に掲げた目標とは関係ない。むしろ逆だ。目標とは関係ない部分で、育めた大事なものだった」

「だったなんて言わないで。別に無くなった訳じゃないから」

「あぁ、ごめん……。そういうつもりで言ったんじゃなくて……いや、ごめん」

 

 スメラータは泣いている訳ではなかったが、今にも泣き出してしまいそうに見えた。

 過去形で言ってしまった部分は、本当にそんなつもりで言った訳ではなかったが、下手なごまかしや言い訳は、彼女も望んでいないだろう。

 

「でも、置いて行くんだね。友情も絆も、このチームも」そう言って、スメラータは目を伏せる。「……何でだろうなぁ、いつかこんな日が来ると分かってた筈なんだけど、もっとずっと先の事の様に思ってた」

「詳しい日時まで決められた事じゃないから、本当に先の話になるかもしれない。ただ、ミレイユ様次第の話だから、何とも言えないのが申し訳ないけど」

 

 その一言で、スメラータの口から盛大な溜め息が漏れる。明らかにしゅんと肩を落とし、背筋も曲がって足取りも危なっかしい。

 またも要らぬ失言をしてしまったと悟り、アキラも苦い顔で眉根を顰めた。

 流石にそれは見咎めたイルヴィから、嗜めるような苦言が飛んでくる。

 

「割とそういう……考えよりも先に口が出るっていうの、直した方が良いと思うね。いずれ別れる先を知ってたとしても、改めて言われたら傷つくものじゃないか。あいつにとっちゃ、その育んだ絆ってやつも、相当大きかったんだしね」

「はい、全くそのとおり……申し訳ない」

「あたしに言ってどうすんのさ。まぁ、都市に戻ったら、そん時ゃ美味いモンでも食わしてやりゃ良い。少しは機嫌も良くなるだろうさ」

 

 いつかミレイユが日本のファミレスで語ってくれた様に、アキラにも通と呼べる店は出来た。

 豊かな調味料を知って肥えた舌を満足させるものではないが、その中でもアキラが美味いと認めた店なので、味は確かに良いのだが、それに比例して高価だった。

 

 スメラータも美味いと喜んでいたが、通になれるほど頻繁に行くには躊躇する値段だ。

 アキラは刻印や装備の新調などに金を使わないので、大抵の冒険者より貯蓄がある。

 その店に連れて行けば、少しは機嫌も直してくれるかもしれない。

 

 とはいえ、きっとまだ先だと棚上げしていた問題を、突然眼の前に持って来られたのだ。

 驚きも不満も大きい筈で、そう簡単に払拭してはくれないだろうが、詫び賃と思えば安いものだ。

 

 それからは、会話があっても弾む事はなく、気不味い空気のままオズロワーナへと帰還した。

 往復で五日の旅という破格の短さでの到着だったが、やはり疲れは相応にある。

 当初に比べれば旅慣れたと思うが、野営で十分な休息は難しい。

 

 今日の所はゆっくり出来そうだ、と思ってギルドに入ると、横合いから陽気な声で呼び止められた。

 

「おぅ、アキラ。すまなかったな、ウチの尻拭いさせちまって」

「ん……? あぁ、いや、大丈夫。こういうのは助け合いだしね」

「相変わらず人が好いな。いや、助けられた俺が言うのも何だけどよ」

 

 そう言って、感謝を多分に含んだ笑みと共に手を挙げて来たのは、今回のマンティコア討伐依頼を受けた冒険者チームのリーダーだった。

 元より依頼を受ける権利を持つ一級冒険者だけに、高い実力も実直さもある。

 

 ただやはり、繁殖期の魔物は、相手がどうあれ凶暴なのだ。そこは他の動物と変わりない。

 それを知って尚挑み、そして手に負えないと逃げ出す羽目になった。

 

 魔物のランク付けにしても、あくまで平均値を取って定義しているだけであって、個体によって強弱は出る。

 だから、受領権利を持つ冒険者でも、こういう失敗は珍しくなかった。

 

 ただ、それが一級冒険者のミスとなると、相手にする魔物のレベルも相応で、しかも攻撃を受けた魔物はより凶暴になる傾向がある。

 匂いを覚えて追い掛けて来て、人里近くまで移動した事で被害が拡大する事もあった。

 だから、失敗後の討伐は早急に行われる必要があるのだが、今回は相手が問題になった。

 

 凶暴な手負いのマンティコアを相手にする、という事は、そういう意味でもハズレ依頼と評されても仕方ない。

 イルヴィの進言は、至極真っ当だったと言える。

 だからこそ、誰もこの依頼を引き受けなかったし、それが巡り巡って、最終的にアキラに回ってくる原因ともなった。

 

 何れにしても、この冒険者にとっては尻を拭って貰った形だし、ギルドにしても面子が保たれた。無事に帰って来て、肩の荷が降りた心持ちだろう。

 

「ま、今日の所は飯を奢らせてくれ。今度何かあれば、遠慮なく言ってくれよ。出来る事なら助けになるぜ」

「うん、ありがとう。飯の方はありがたく。酒場の方で、ツケにさせて貰うかな」

 

 こういう時は、遠慮した方が無礼になる。

 あまりに謙虚だと、感謝すら受け取ってくれないと不満を露わにすると学んだので、アキラも物怖じせずに言うようになった。

 

「おう、俺の名前で出しといてくれ。じゃあ、すまねぇけど、仲間の様子見にいかねぇと……」

「あぁ、わざわざ待っていてくれたんだ。大丈夫、行ってあげて」

「あぁ! これで色好い返事を聞かせてやれる、助かったぜホント」

 

 そう言って笑い、もう一度手を振って背を向けた。

 彼の仲間は厄介な毒にやられ、今もベッドの上から起き上がれないのだと言う。

 

 アキラもその背に手を振り返し、スメラータ達に向き直る。

 口を挟まず待っていた二人からは、仕方ない奴だ、と諦めにも似た生温い笑顔を向けられていた。

 



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再会と別れ その3

ルナリア様、誤字報告ありがとうございます!
 


 アキラは二人の視線に苦笑で返す。

 この世界の冒険者を良く知る彼女達には、アキラの対応は譲り過ぎと映るらしい。

 

 本当なら飯などではなく、もっと何かを要求するものらしいが、金銭に興味がないアキラからすると、それだけで十分なのだ。

 

 既に、そういう態度だからこそアキラなんだ、と理解されているから今更何を言うでもないが、しかし二人は軽い抗議として表情に出していた。

 

 ともあれ、アキラが首を傾けて酒場の方を示すと、二人もそちらへ歩を進める。

 特別美味いものが出る場所ではないが、依頼達成をしたなら、とりあえず一杯あげるのが慣例だ。

 アキラはチームリーダーなので、ギルドの窓口に報告義務があり、討伐部位の提示もする必要がある。

 

 個人空間の中に仕舞われている事を、予め確認しながら向かっていると、またも横合いから声を掛けられた。

 

「おう、アキラ! その顔見てると、尻拭いも終わったらしいな」

「うん、何とかね。誰にも大した怪我も、脱落もなくて良かったよ」

「ははっ、良く言うよ。ま、何にしても、これで少しは昇級も早まったんじゃないか?」

 

 どうだろう、と思いながら、アキラは愛想笑いを返す。

 一級への昇格試験には、ギルドへの貢献度も含まれるので、今回の依頼達成は確かにそういう意味ではプラスに働いたろう。

 

 だが、アキラにとって昇級は、目指すべき目標という訳でもない。

 名誉を求める多くの冒険者は、自分の限界を感じない限り、常に上を目指すものだ。ならば、やはりアキラも同じだと思うのは当然だろうが、アキラが見ている先は少し特異だ。

 

 冒険者でいる今の立場も、謂わば仮初めに過ぎない。

 だがそれを、素直に口にするものではないので、曖昧に頷いて立ち去る。

 そしてそのまま、窓口に並ぶ冒険者の最後尾に立った。

 

 力ある冒険者は、ふてぶてしい位が丁度良い。

 ミレイユも言っていた事だし、それは分かっている。だが、アキラの持つ小市民性が、待機列があれば並ぶものだと言っているのだ。

 

 最後尾にいた冒険者は、アキラがその後ろに並んでギョッとしている。

 ある意味で有名人なアキラだが、素直に並ぶ事までは知らなかったらしい。気不味い雰囲気を出しているものの、何か言うつもりは無いようだ。

 

 アキラは何も気付いていない振りをしてやり過ごそうとしていたが、またも横合いから声が掛かる。

 その声の主はドメニで、何かと頼み事を引き受けたりしていた事もあり、今ではすっかり気安い仲になっていた。

 

「おう、アキラ! お前また女に囲まれて討伐して来たのかよ」

「言い方ね、言い方。物には言い方ってもんがあるでしょ」

「そうだよ、馬鹿お前。結果が全ての世界だぜ?」

 

 ドメニの揶揄に、また別の冒険者がアキラの肩を持とうと割って入る。

 

「強けりゃ全てが許される、とまでは言わねぇけどよ。お前もそういう事は、アキラの半分でも依頼達成してから言えよな」

「いや、こいつは討伐ペースが早すぎて、真似してたら死ぬだろ。これはこれで異常だろうがよ」

「……ま、それを言われちまうと、何も言えねぇ。それよりドメニ、お前、ちゃんと礼は言ったのか? いつだったか、ブッキングした依頼片付けて貰ったろ?」

「当たり前ぇだろ。そういう礼儀を忘れる奴ぁ、クズだ」

 

 自信満々に言うドメニは、確かに礼を忘れていなかったが、随分とおざなりで言葉少なだった事も覚えている。

 悪意がある訳ではなく、それが彼の性格なのだと分かってからは気にしてないし、配慮する言い方が出来ない事も、冒険者の中には多いものだ。

 

 そこにドメニの腰巾着となってる小男、イデモイが横合いから顔を突き付けて言ってくる。

 

「今度は何だって? やべぇ奴を相手にしたとか聞いたぜ」

「あぁ……うん、マンティコアだね。手負いで気性も荒かったけど、傷は治ってなかったから割りと楽だったかな」

「手負いほど危険だって、そんなん常識だろ」

 

 イデモイはギルドの鼻つまみ者だ。

 しかしドメニに拾われたお陰で、何とか生活できている。

 ドメニが大きい顔をするので、自分まで偉くなったつもりか、同じく大きな顔をするが、誰もイデモイの実力など認めてない。

 

 ドメニも叱りつける事が多々あるのだが、いつまで経っても調子に乗る所は治らなかった。

 だからこそ、鼻つまみ者とされるのだろう。

 今日もまた、ドメニが一度叱りつけてから、アキラの方へと向き直る。

 

「だぁってろ、イデモイ! ……ったく。なぁ、アキラ……おめぇ、チームを預かってるって自覚足りないんじゃねぇのか? 一人が納得しても、普通は他の意見を押し殺して受けるもんじゃねぇだろが」

 

 単にイチャモンを付けられるだけと思っていただけに、その指摘については、思わず息が詰まった。

 確かに、自分の勝手でチームを危険な目に遭わせたという自覚はある。

 

 彼女らはアキラの意思を尊重してくれたが、止めて来た時点で、アキラも冷静にもっとチームとして動く事を、もっと考えて良かった筈だった。

 

「そうだね……、確かに我を通し過ぎた。イルヴィ達にも苦言を貰ったよ。チームの外からもそう見えるって事は、やっぱり相当ヤバかった?」

「当たりめぇだろうが! 身の程ってやつを知っとけ! 無理して受ける依頼で、傷付くのはお前だけなら誰も文句言わねぇよ!」

「チームの事を考えられないヤツに、チームにいる価値なんてねぇんだよ」

 

 その発言は、イデモイにとっても返って来る言葉だと思うが、間違った事は言ってないので頷いた。

 ドメニは厭味ったらしい顔から、苦虫を嚙み潰したような顔をイデモイに向け、それから押し黙ってしまう。

 

 マンティコアは確かに危険な魔物だ。

 アキラにとって良い経験になると思い、強硬して受けるなら仲間を率先して危険に巻き込むな、という意見は良く分かるのだ。

 

 獅子の体に蠍の尾、そして蝙蝠の羽が生えた魔物だが、この蠍尾には強力な毒がある。

 それが視覚外から襲い掛かってくるし、獅子の強靭な肉体と俊敏性は、対峙するだけでも恐怖だ。

 

 羽はあるものの飛ぶことはなく、俊敏な動きを補佐するのに使われる。

 跳躍して飛び掛かってきたと構え、それに合わせて武器を振るえば、羽を開いて空気を受け止め、タイミングをずらすといった具合だ。

 

 時に樹上で待ち伏せする事もあり、そういう場合は滑空するのに使われたりもする。

 そういう魔物だから、もっとバランスの良いチームで対抗するとか、より高い実力を身に着けてから挑むべきだった。

 

 だが同時に、アキラには刻印がある。視覚外の攻撃はむしろ『年輪』が得意とするところだ。

 特定方向だけ強力な壁を築く防壁術と違い、身体をすっぽりと覆うからこそ、それを気にせず突っ込めるのだ。

 

 盾役として前に出て、囮になるのにも適していて、敵の前面で対峙できれば、それだけ他を楽にさせてやれる。

 そしてアキラのチームには、強力な前衛二人がいて、見事に隙を突いて攻撃した。

 

 今回の戦闘で傷こそ受けなかったが、多くは味方の手際と運があったからに過ぎない。

 今更ながらにドメニの言葉を実感した。

 

 アキラも武器を振るって攻撃したものの、武器品質の都合でダメージはそれほど与えられなかった。

 いつかアヴェリンが言っていた、不壊であるのは便利だが、強敵には通用しなくなる、という現象が出て来ている。

 

 二級冒険者が相手にする魔物相手に、武器の切れ味を嘆いた事などなかったが、とうとうその日がやって来た、という事だ。

 だからアキラは壁役、囮役に徹したとも言える。

 

 自分の刀では表皮を切り裂く事は出来ても、筋肉を貫き、奥深くまで抉る事までは出来なかった。

 眼球など、柔らかい部位を攻撃する事で貢献する事も出来たが、アキラより大きな巨体相手に、それを狙うのは難しい。

 

 結局は威嚇道具として、あるいは攻撃を逸し防ぐ盾代わりとして活用するしかなかった。

 こういう部分では、不壊である事が有利に働く。元よりアヴェリンの攻撃を躱し、逸らす事を強いられて来たアキラだから、それを駆使して逃げ続けるのは難しくなかった。

 

 そして、躱し切れない攻撃があったとしても、『年輪』が上手く防御してくれる。

 アキラとしては、勝利への大部分を他二人に任せたようなものだ。

 

 そうであるなら、やはり自分一人で勝利は無理だったし、多くを委ねておいて彼女らの言い分を聞かない、という態度にも道理が合わない。

 アキラは改めて自分の不明を恥じた。

 

「ごめん、ドメニ……。確かに僕が浅はかだった。僕はもっとチームについて、深く考えなきゃならなかった……」

「あ、お、おぅ……。分かりゃいいんだ! 全くおめぇってヤツぁ、そんなだから危なっかしいってんだ! 駄目なリーダーを持つと、チームが可哀そうってなもんだ!」

「ホントだぜ! ドメニさんみたいな、頼りになる男がチームのリーダーにゃ相応しいんだ!」

 

 アキラが非を認めると、ここぞとばかりに責め立てては、高笑いを上げる。

 周囲からも注目を浴びて、どうにも居心地は悪かったが、実際に自分の非を正確に指摘してくれたのだ。それよりむしろ、感謝の方が勝る。

 

「不甲斐ないところを指摘してくれて、ゴメ……いや、うん。ありがとう」

「お、おぅ……? 何で感謝なんて言われねぇといけねぇんだ?」

「さぁ……、こいついつも、どっかズレてますからね」

 

 高笑いも一転、二人は互いに顔を見合わせ、それからアキラへ胡乱なものを見るような視線を向けて来た。

 アキラはここで変わり者という評価を散々に受けているので、今更二人が向けるような視線も珍しくない。

 

 だから、二人には悠々と礼をしたのだが、やはり困惑と胡乱が合わさった目を向けられ苦笑した。

 一時、それで会話が中断されると、場の空気を換えようとしてか、一緒にいた別の冒険者が殊更元気そうな声を上げる。

 

「それにしても良いよなぁ、アキラは。女は引く手数多(あまた)、選び放題と来たもんだ。この前も、食堂の女給に言い寄られただろ」

「いや、あれはそういうやつじゃないと思うよ」

 

 彼の気遣いというものが、何となく理解できているので、アキラもそれに乗っかり、努めて明るい声で返した。

 

「単に、最近何かと話題にされる事が多かったから、それで物珍しさに話してみたいと思っただけじゃないかな」

「そんな事あるもんか! あれ見て、お前に気がねぇなんて思う奴はいないね!」

「そうだ、おめぇ、調子乗んなよ!」

 

 会話の内容に黙っていられなくなって、ドメニが顔を凄ませながら近づけて来る。

 

「イルヴィを俺から取やがった癖によ、他の女にも現を抜かすたぁ、どういう事だ!?」

「いや、別にドメニのじゃないでしょ……」

「お前の女だった瞬間、一秒だってないだろ」

 

 アキラと冒険者二人から冷めた視線をぶつけられ、ドメニは鼻息荒く否定する。

 

「あぁ、うるせぇうるせぇ! いずれ俺のモンになるんだから、今から俺のモンでもいいんだよ!」

「いや、おかしいでしょ、その理屈」

「大体、お前イルヴィに勝てるのか? 勝てないヤツは、そもそもお呼びじゃないって聞いた事あるぞ」

「そりゃお前!」

 

 くわっと目を見開きながら顔を上げ、力強く腕を振り上げようとして、途中で止まる。

 それから力なく腕を落とし、背中を丸めた。

 

「その内……、やれんだよ……」

「心意気は買うけどな……」

「ドメニさん、あんたなら、いずれやれます! その内、そこのアキラだってボコボコに出来ますよ!」

 

 それはないだろ、と冒険者がアキラに顔を向けて来て、それから苦い顔をさせつつ顔を背けた。

 

「いやぁ、どうなんだ……それ。今だって、よく裏の訓練場で悲鳴上げさせてさ……それでスメラータも、馬鹿みたいに強くなったろ? アキラはそのスメラータより強いんだぜ? あの訓練法は実際、俺は真似したいとは思わないけど、習った奴はやっぱり伸びてたりするしな……」

 

 冒険者が遠い目をしながら言って、それからアキラへ顔を戻す。

 

「あれを魔術士ギルドの連中に、教えたりもしたんだろ?」

「あぁ、うん……。頼まれたから触りだけ。でも彼らにとっては、それで十分だったみたいだけど……」

「はぁん……。いま来てるのも、その連中か? またお前が引っ掛けて来た女どもかと思ったが、魔術士っぽいの多かったもんな」

 

 言われて、アキラは首を傾げる。

 そもそも教導めいた事をしたのは、随分と前だ。

 

 その時だって、別にギルドの女性に色目を使ったりしていない。

 引っ掛けたという言い方にも、一言物申してやろと思ったが、それより先にドメニが割って入った。

 

「何だお前、またか! イルヴィだけじゃ満足できねぇってのか!?」

「いやいや、落ち着いて……! まず、そういう間柄じゃないし!」

「なんでだ、アイツに何の不満があるってんだ!」

「ちょちょ……、なんで怒るの。逆に、そういう関係だったら困るのドメニじゃないか」

 

 そう言われて、ドメニは動きを止める。

 一瞬、思案顔になると、掴み掛かろうとした動きを止め、それから大仰に頷いた。

 

「それもそうだな。お前は、あの変な魔術士連中の尻に敷かれてりゃいい!」

「え、何、どういう事……? 何で敷かれる前提なの? いや、そもそも、そんな人たち心当たりないし……」

 

 アキラが首を振って否定すると、冒険者が訳知り顔で酒場方面へ指を差す。

 

「いやいや、だって前に一緒にいただろ。あれ、アキラんトコの奴だろ?」

「僕のトコロ? スメラータとイルヴィ以外に、そんな人とかいないけど」

「いや、それじゃなくてさ。ギルドの初日、一緒に来てた偉い態度のデカいべっぴんだよ」

「――は!? 来てるの!?」

「あぁ、食堂にいる。さっき来たばかりだったな。小一時間待って、来なければ帰るとか何とか……」

「それ先に言ってよ! 何でこんな馬鹿話してたんだ!!」

 

 最早、順番待ちなどと、小綺麗な事を言っている場合ではなかった。

 他の冒険者を押しのけ窓口に押し入ると、気圧された職員などお構いなしに、依頼達成の証拠と受領をして貰う。

 

 何度も急かして終わらせると、周囲への気遣いもなしに走り去っていく。

 未だ見た事のない、アキラの異常な行動に、後にはポカンと口を開けた冒険者が残された。

 



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再会と別れ その4

 アキラが食堂へ飛び込むように入ると、その一団は早速目に付いた。

 何しろミレイユ達ほど強い魔力の持ち主は、ただそれだけで目立つ。

 かつては良く分からなかった測定力も、最近はそれなりに見られる様になって来た。

 

 少しは彼女たちに追い付いたつもりでいたが、それでも自分と比較すれば霞んでしまう程のものだ。単純に魔力総量が多ければそれだけで強い、というものでもないのは知っているが、彼女たちはそれを十全以上に使いこなす生粋の魔術士だ。

 

 持て余し、刻印に使われるだけの冒険者とは、根本から違う。

 それを再認識し直して、唸る様に感心しながら、華やかな一団へと近付いていった。

 

 そうして、目立つのは何も魔力だけの問題じゃないな、と改めて思う。

 身に着けている装備それ自体も魔力を存分に含んだ魔術秘具ばかりで、それ以外にも彼女たちの容姿が関係している。

 

 男達の中には鼻の下を伸ばして見ている者もいるし、むさ苦しさが目立つ酒場食堂にあって、今だけは特別な花園が生まれていた。

 

 アキラが近付いて行くのに気付いたユミルが、面白そうな玩具を発見した様に笑みを浮かべる。

 何事かを熱心に語り掛けていたスメラータは、アキラに気付くと、苦虫を噛み潰したような顔付きで顔を逸した。

 寸前までしていた白熱っぷりは、まるで冷水を浴びせられた様に沈静化している。

 

 不思議に思いながらテーブルのすぐ傍まで近付いていくと、ミレイユとも視線が合った。

 万感の思いが胸の奥底から湧き上がって来たが、それを表に出さない様に口元を引き締める。

 そうして足を止めて、深々と頭を下げた。

 

「……ミレイユ様、お久しぶりです……!」

「あぁ、お前もそれなり以上に努力して来た様だな。……うん。まぁ、座れ」

 

 失礼します、と空いている一席、スメラータの隣に腰掛けた。ミレイユ達は対面に並び、現状のチームとして、二つに分かれた形だった。

 

 席に座ったものの、何か会話が生まれるでもなく、不穏な気配が感じられる。

 スメラータがまた何か頼み事でもしていたのだろうか、と思いながら、アキラはアヴェリンから順に、他の二人にも頭を下げていく。

 

「師匠も、皆さんも、お久しぶりでした。何も便りが無くて心配してましたけど……、こうしてやって来たという事は、問題も解決したんですか?」

「あぁ、息災の様だな」

 

 アヴェリンが軽く頷く様な仕草で返答し、それから直ぐにスメラータへ顔を向ける。

 

「問題については、そういう訳ではないんだが……。話は終わりって事でいいんだな?」

「それは……」

 

 スメラータは言葉を濁し、顔を背ける。相変わらず苦虫を噛み潰した様な表情は変わる事なく、悔しげな表情を隠そうともしない。

 そこにイルヴィが、呆れた様に言葉を吐いた。

 

「もう諦めなよ。嘘がバレた時点で、続ける意味なんかあるもんか。何も異を唱えなかったあたしも同罪かもしれないが、きっと最初から嘘だって分かってたろうしね」

「……何の話です?」

 

 最初から不穏な雰囲気はしていたものの、それが嘘とか同罪という単語が出てくれば、流石に確認しない訳にはいかなくなる。

 ユミルはニヤニヤと嫌らしい笑みをスメラータに向け、イルヴィが言った内容を無言の肯定としているし、そしてアキラには全く話が見えない。

 

 誰も何も言わない僅かな間があって、更にアキラが訝しんだところで、イルヴィの方から説明をしてくれた。

 

「……別れを惜しんだスメラータが、アキラは居ないって説明してた所さ。少し厄介な依頼を受けていて、ひと月ほど帰らないって説明をね。あちらさんも、居ないなら巡り合わせと思ってアキラを置いて行くつもり、って言ったから……まぁ、魔が差したんだろうね」

「えっ……?」

 

 アキラの思いは予め話して、そして理解してくれていた、と思っていた。

 それを知ってミレイユから引き離す様な真似は、裏切りに等しい行為だ。

 だが、とアキラは思う。

 

 魔が差した、とイルヴィが言った時に、スメラータが悔やむ様な表情をしたのを、アキラは見逃さなかった。

 きっと、それは嘘ではないのだろう。

 そして、咄嗟にそう言ってしまう程、別れを惜しんでくれた、という事でもある。

 

 それを思えば、アキラは責める事など出来なかった。

 何も言えずにスメラータを凝視する形になってしまい、それを見咎める様にミレイユが口を開く。

 

「お前もな、チームとして組んでいたからには、大まかな事情くらいは話しておけ。別れを惜しむ時間だって必要だろう。それに、この環境に愛着が湧いた、というなら残っても良いしな」

「そうなの……!?」

 

 スメラータが両目を大きく広げながら顔を上げたが、逸早くアキラは首を横に振る。

 

「いえ、決してそんな事は……! あぁいや、愛着は当然ありますし、惜しむ気持ちだって十分ありますけど、最初の志は捨ててませんから! 僕はいつかお役に立てる日が来ると思って、それで腕を磨いて来たんです……!」

「あぁ、そういう話だった」

 

 イルヴィが同意する様に首肯すると、ミレイユはイルヴィとスメラータを交互に見やる。

 それからアキラへと視線を戻し、詰問するように尋ねて来た。

 

「事情は説明していたのか?」

「えぇ、元よりそういうつもりだったのは、スメラータも知っていた筈ですから。でも昨日、改めて説明しました。いつかはこのチームともお別れだと。その時が来たら、僕はミレイユ様に着いて行くのだと」

「うん……」

 

 短く返事をして、ミレイユは再びしゅんと肩を落としたスメラータに目を向けた。

 

「そういう事なら、今更くどくど説明する必要はないな。別にお前を説得してやる謂れは無いから、許可など求めてないが……」

 

 そう言って、ちらりとアキラの顔――というより、口元を見る。

 

「随分と熱心に言葉を教えてくれた様だな。たった数ヶ月で問題なく会話できるようになった、というのは本人の努力以外に、お前のサポートがあったからだろう」

「だから……?」

「より強い力を求めてたんだろう? 冒険者らしく、より高い名誉と実力を欲していた。少し見てやっても良いが」

「そんなの……!」

 

 スメラータは激昂しようと肩を怒らせたが、それより前にイルヴィから掴まれ動きを止める。

 どの様な気持ちでいるのか、アキラには分からない。

 だが、震える身体で睨み付ける格好で動かないスメラータが、最後の感情のせめぎ合いをしている事だけは分かった。

 

 そして、しばらくの拮抗を見せた後、糸が切れた様に身体を背もたれに預ける。

 イルヴィも彼女を掴んでいた手を離して、動かないスメラータの代わりに頭を下げた。

 

「いや、すまないね。どうも施しみたいに感じちまったみたいだ。あんたにその気がないのは、十分分かってる筈なんだが……」

「いや、そうだな。私も言葉遣いが、丁寧な方ではないからな。何か要らぬ所を刺激してしまったとしたら、申し訳なかったが」

「――ミレイ様が謝る事などございません」

 

 アヴェリンが強い口調で断定した。

 

「あれが勝手に早とちりしたとか、勝手に挑発の様に受け取っただけでしょう。アキラも――」

 

 そう言って、アヴェリンは強い視線で、非難する様にアキラを射抜く。

 

「お前もチーム内のいざこざを、こんな土壇場になって持ち込むな。長く居れば情も移る。事情を知っている筈だと、それを軽視していたなら、お前の責任だ」

「まぁまぁ……。何もかもアキラが悪い、で結論付けるのはお止めなさいな」

 

 アキラが身を竦ませていると、横合いから相変わらずの笑みのまま、ユミルが口を挟む。

 正直なところ、彼女が助け舟を出してくれるとは思っていなかったので、感謝よりも不審なものを感じる。

 

 これが他の誰かなら、と思っても、そもそもルチアには全く感じ入るものがないらしく、つまらなそうに窓の外を見ていた。

 

「結局のところさ、チーム解散したくないっていう気持ちが強いって話でしょ? じゃあ、解散させなきゃいいんじゃない?」

「アキラを置いて行く、と言いたいのか?」

「それも一つの手かもねぇ……?」

「ちょ、ちょっとユミルさん!」

 

 アキラが慌てて手を伸ばし、そしてスメラータは希望を取り戻して顔を上げる。

 両者の表情は正反対だったが、向ける視線の強さは同じだった。

 そんな二人を見て、ユミルはカラカラと笑う。

 

「そう早とちりするものじゃないわ。生かして帰す保障なんてないけど、帰ったら元の鞘に戻せばいいじゃないの。ここで今生の別れのつもりで解散させなきゃ、それで納得しそうなものじゃない?」

「でも! 生きて帰れない前提なんでしょ!?」

 

 堪り兼ねたスメラータが、声を張り上げて言った。

 周りの客も、剣呑な雰囲気を感じ取って距離を取っていたが、それで一層注目を浴びる。

 

「それが一番大事なんじゃん! 解散したっていいよ、別に! それで生きて帰って来るのなら! でも、無事に帰って来れる保障なんて全然ないし、その可能性はずっと低いんでしょ!? だから嫌だって言ってるのに!」

「それはそうだな」

 

 ミレイユが感情を感じさせない返事をしながら、スメラータを見返した。

 

「そもそも最初から何度も言っている話で、そして、その話は既に決着が付いている。アキラが返したいと言う恩義は、己の命を掛けるに値する、と思っているようだ。私はそうと思えないが……」

 

 ここで一度、アキラに視線を向けたが、そこにはやはり何の感情も見い出せなかった。

 何も思っていないというより、敢えて押し殺した感情があると窺わせる。

 ミレイユもまた、アキラが命を投げ捨てる様な行為を、素直に看過できなかった人だ。

 

 しかし、受け取ると決めてくれた。

 ミレイユの顔を見ても、その表情からはアキラの気持ちを受け取ると言ってくれている様に見える。

 最初は反対だったが、それでもアキラの熱意を受け取る事を決めてくれた。

 それは一種の諦観と共に、受け入れた事だったかもしれない。

 

 だが、受けた恩義を返す機会を与えてくれた。それが何より、アキラにとっては大事な事だった。

 



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再会と別れ その5

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


「お前の仲間を思う気持ちは尊いものだが、……既に終わってる話だ。今更それを第三者に持ち出されても、だから何だ、としか言えない。まだ若い命だし、簡単に投げ捨てる真似をするな、とも言ったんだが……。アキラも生半可な覚悟で、そこまで決意した訳でもなかったしな……」

 

 そう言って向けてきた視線は、今度こそ感情を隠しきれず、アキラの目でも読み取る事が出来た。

 困った奴だ、仕方ない奴だ、と諦観にも似た色が浮かんでいて、しかし同時に感謝めいたものも感じ取れる。

 

 アキラがこの数ヶ月で培い、上昇させて来た技術は、何も魔力制御に限った話ではない。

 言語の学習、刻印の使用方法や効率的運用。

 魔物に対する知識や対応方法、武術の鍛練。

 そして魔力総量の上昇と、数えて挙げれば(いとま)もない。

 

 それら全て、単なる思い付きや、やる気一つで出来る事ではなかった。

 それほど強い思いがあればこそ、腐らず続けて来れた事でもある。

 ミレイユはその成果全てを知っている訳ではないだろうが、しかし敏感に感じ取ってくれていた。

 

「元は何の力もない、非力な少年に過ぎなかった。それが一端の戦士の面構えをして、身命を賭したい、と言ってるんだ。受け取らない方が、非礼に当たるというもの……かもな」

「ミレイユ様……!」

 

 一端の戦士として認めてくれた事に、アキラは身震いする程の感動を覚える。

 アキラはいつまでも、一人前として認められないと思っていた。

 彼我の実力差を思えば、それが当然と諦めに似た気持ちを持っていた。

 だがミレイユは、アキラの意を組み、志を鑑み、帯同を許すと言ってくれたのだ。

 

 ――それが何より嬉しい。

 自分自身の事だ、鍛える事が苦労と思った事はあっても、苦慮と思った事はない。

 いつか届くと夢見た事はなかったが、追い縋る努力だけは止めなかった。

 その労苦全てが、いま報われた様な心地になる。

 

 アキラが感動に打ちひしがられている間に、イルヴィがスメラータの肩を叩く。

 普段は見せない、実に優しい叩き方だった。

 

「まぁ、こう言われちゃ諦めるしかない。そもそもアキラの意志を捻じ曲げてまで連れて行く、って話でもないんだ。一人の男が戦士として決意したもんだよ、他人が止める権利なんてないのさ」

「分かってるよ、分かってるけどさ……!」

「ハッキリ言って、この四人に着いて行くなら、アキラであっても実力不足と言われちゃ納得するしかない。そして、それに見合うだけの危険もあるんだろうさ。この四人には耐えられたとして、アキラにも耐えられるとは限らない。……でも、帰って来るつもりがあるんだろう?」

 

 イルヴィが顔を向けて、期待と確信に満ちた表情を向けてくる。

 アキラはそれに頷いて応えた。

 

「うん、そのつもりだよ。ミレイユ様の盾として動くからには、きっと大怪我は免れないだろうし、死を覚悟して挑む必要はある。でも、死に場所を求めて着いていく訳じゃないから」

「そうかい、それなら安心だ。あんたは約束を破った事ないからね」

 

 そう言って、からりと笑い、イルヴィは顔を逸した。

 アキラ自身も、かつてはミレイユに自殺の同意を求めるな、と言われた事があった。

 決してそのつもりがあった訳ではないが、そうと言われて仕方がない実力しかないのも事実だった。

 

 今も実力十分と思わないし、進んで死ぬ気もないが、アヴェリン同様、その時が来たら厭わないだけの覚悟はある。

 そして同時に、約束したからには生きて帰るという、明確な目標も生まれた。

 相反する目的だが、最後の最後まで生を諦めない。

 アキラは、その覚悟を改めて誓った。

 

 それが見ているミレイユや、スメラータにも伝わったのだろうか。

 互いに睨み付ける様な形だったものが、相好を崩して力を抜く。

 スメラータはいっそ自棄になったように笑い、天上を仰いで息を吐いた。

 

「まぁ、仕方ないかぁ……! 最初からそういう約束だったもんなぁ……! あーあ……、こっちも最初は単に強くなるだけで良かったんだけどねぇ……。長く居れば情も移る……ホントだよ!」

「スメラータ……」

「あんたまでそんな声出さないでよ、アキラ。勝手をしてゴメン。あんたの気持ちを聞いてた筈なのに、自分勝手な振る舞いだった」

 

 謝罪の言葉には、僅かな声の震えが混じっている。

 上を見たままなのは、単に顔向け出来ないという理由だけではない気がした。

 

 何と声を掛けたら良いか分からぬまま、スメラータの様子を伺っていると、不意に顔を戻してアキラを見る。

 にっかりと笑った顔はいつもどおりの彼女に見えたが、やはり無理をしている事は分かってしまう。

 

 基本的に感情をストレートに表現するスメラータだから、隠したいというのなら、気付かぬままの方が良いかと、それを指摘しない。

 スメラータは殊更、上機嫌に聞こえる声音で言う。

 

「突然の事だったから、驚いただけだよ! 何でか、もっとずっと先の事だと思ってたもんね。でも、アキラは帰って来るし、チームも解散しない。……そうなんでしょ?」

「……うん、解散しないし、帰って来る」

 

 スメラータの声は明るいが、同時に縋る様でもあった。

 だからアキラは、イルヴィと約束した様に、その保障もないと分かっていながら頷くしかなかった。

 その返答に気を良くした――あくまで正面情はその様に見える――スメラータは、笑顔で頷き席を立つ。

 

「それじゃ、アタイはそれまで適当に、依頼をこなしながら過ごすとするよ。きっと再会は、遅くならないだろうしさ」

「え、スメラータ……」

「そうだなぁ……、今日の所はちょっとひとっ走りしてくるかな。身体を動かしておかないと、どうにも落ち着かないしね」

 

 最後は視線も合わせぬまま、手を一振りするなり背を向けて歩き出してしまった。

 彼女らしからぬ粗暴な動きで、肩でぶつかった相手に見向きもせず行ってしまう。

 

 アキラもそこまで鈍い訳ではない。

 彼女が今、どんな表情と思いをしているのか、分からない筈がなかった。

 放っておけず、アキラもまた立ち上がり、後を追おうとしたが、それより前にイルヴィがアキラの手首を掴む。

 

「止めときな、座っとけ」

「でも、……放っておけない」

「それであんたが思い留まり、ここに残るってんなら良いさ。でも、違うんだろう? 何て慰めを言うつもりだい」

「それは……」

 

 アキラはただ放っておけない気持ちばかりが空回りして、何かを考えていた訳ではなかった。

 しかし、どうしても放っておく事だけは出来ない。

 スメラータが情を結べば、と口にしたが、アキラにだって当然同じギルド員以上の情を感じている。

 戦友であり、弟子であり、教師でもあった。

 

 だから、このまま別れるのも薄情な気がしてならない。

 そう思ってイルヴィの手を振り切ろうと動かしたが、しかし彼女は更に握る力を強め、決して手を離そうとしなかった。

 

「言ったじゃないか、アキラには何の慰めも出来やしない。さっきの言葉以上に掛けてやる事なんてないだろ? スメラータは自分一人で、その感情に決着つけようとしてるんだ。邪魔するな」

「それで……良いの? 一人にさせて……、薄情じゃないか」

「薄情というなら、ここに残って一緒に続ける以外、解決策はないだろうね。何を言っても謝罪の言葉しか出ないっていうなら、傷に塩塗るようなもんだ」

 

 そう言われては、アキラにも言葉がない。

 そもそも人間関係において、ご立派な経験を持っている訳ではなかった。

 別れと言うなら、かつてクラスメイトとの別れ、そして隊士達との別れがある。

 

 どれも突発的なもので、惜しむ暇も別れを言う時間も無かった。

 今回もまた、突発的には違いないが、別れを惜しむ時間はある。

 かつての後悔を繰り返さない為、何かしたいという気持ちにもなった。

 

 ――いや、とアキラは思い直す。

 何かしたいという気持ちに嘘はない。

 だがむしろ、少しでもましな選択をしたのだと、自分に言い訳したいだけなのだ。

 そんな感情に、スメラータも付き合わされては堪らないだろう。

 

 アキラはやるせない溜め息を吐いて、席に座り直した。

 そうすると、イルヴィも手首から手を離して鼻を鳴らす。

 

「慰めが必要なら、あたしがやるよ。舐め合うんなら、同じ傷を持つ者同士の方が、まだマシだ」

「ごめん……」

「謝るな。アキラは戦士の生き様を、貫く為に動くだけだ……だろう? それに謝られちゃ、同じ戦士の、あたしの立つ瀬がない。……良いから行って、そして帰って来な。そん時に、口付けの一つでもくれりゃあ、それでいい」

「いやー、はは……。口付けは約束できないけど……」

「馬鹿だね。そこは嘘でも言っとくもんだよ」

 

 イルヴィは、チラリと笑いながら顔を向ける。

 椅子から立ち上がり、アキラの隣までやってくると、その頬を両手で掴み、間髪入れず額へ口付けた。

 それから左瞼、右瞼と順に唇を当てて身体を離す。

 

 突然の事に、アキラはフリーズして身動き一つ出来なかった。

 されるがまま顔中に口付けされて、喜びよりも困惑の方が強い。

 何を、と声に出すより早く、イルヴィは悪戯に成功した子供のような笑顔を見せた。

 

「あたしの部族に伝わる、戦勝祈願のまじないだ。額と両目それぞれに行う強い戦士の口付けは、それだけ強い加護が乗る。……無事を祈るよ」

 

 それだけ言うと、目尻を指先で擦る様に動かして背を向ける。

 何も言えず、何も返せず、アキラはその背を呆然と見送るしかなかった。

 

 思考が完全に停止してしまったアキラは、その背が見えなくなるまで動き出せない。

 そこへアヴェリンの声が降ってきた。

 

「……好い女、そして良い戦士だ。男女に限らず、ここぞと戦意を高めた相手に、水を差すのは無粋というもの。余程面倒な事になるようなら、さっさとお前を置いて行く事も進言しようと思っていたが……」

「女のキスで見送られたんなら、そりゃ帰って来るしかないでしょうよ」

 

 ユミルがいつもの三倍増しで嫌らしい笑みを向けてきて、揶揄する様に言ってくる。

 

「アンタも命の使い所ってやつを考えてたでしょうけど、約束を守ろうと思えば力が湧くでしょ? それが最後の一線、ギリギリで耐える力になってくれるかもね。あの女戦士には、感謝しておいても良いかもよ」

「それは……はい、勿論」

 

 イルヴィはアキラとスメラータ、両者の間を取り持ってくれた。

 根底には戦士としての矜持を元にしているものの、スメラータを蔑ろにするつもりはないと言ってくれている。

 彼女の慰めも勝って出てくれ、約束の重さを強めてくれた。

 

 何があってもミレイユを護る、必要とあらば身を盾にする気持ちに翳りはない。

 しかし、生きて帰ろうという意志は、前より数段強くなった。

 

 口付け一つで現金な事だ、と我ながら顔を赤くさせていると、ミレイユが不審な動きをしているのに気が付いた。

 身体を僅かに震わせて、胸を抑えては拳をきつく握り締めている。

 

「ミレイユ様……? どうされたんですか……?」

「……いや」

 

 ミレイユは視線をアヴェリンとユミルへ素早く動かしてから、つまらない冗談を口にした時の様に笑った。

 

「年若いカップルの情事を見せられて、胸に刺さっただけだ。私にも、あぁいう青春があったら良かったが」

「ちょっ、止めてくださいよ、ミレイユ様! そういうのヤツないじゃないですか、あれは……!」

 

 笑みを強めるミレイユだが、反して胸を抑える力は強まった様に見える。

 その不思議なアンバランスさを不審に思っていると、不意にミレイユが立ち上がった。

 何処へ行くつもりにしろ、彼女が立てば他の者も後に続く。

 

 アヴェリンが気遣う様にその背へ庇う仕草は、尚のこと不審に思えた。

 だが、その不審が何かに繋がる事なく、アキラもその後へ続く。

 後には、その場を見守った冒険者の、緊張を伴う音なき溜め息が残された。

 



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再会と別れ その6

 食堂酒場から辞去するミレイユ達の背を追いながら、アキラは不可思議に思う気持ちを抑え切れずにいた。

 彼女たちはまるで、追い立てられるかの如く動いている様に見える。

 それが何かまで分からないが、アキラに隠し立てがある事も、それとなく察する事が出来た。

 

 ミレイユはアキラを認める旨を口にしてくれたものの、それはアヴェリン達と同列に置く事を意味しない。

 だから全てを教えてくれる必要もないが、より傍に近付く為、また役立ちたい為、知りたいと思ってしまう。

 

 かつてミレイユは、アキラの弱さを理由に、秘密を教えてくれなかった。

 そして、理由を聞いて納得もした。

 ミレイユに近しい人物として、彼女を探ろうとする何者かがいるとするなら、アキラは良いカモと映るだろう。

 幻術や催眠といった手段で、情報を抜き取ろうとされたら、きっとアキラは抵抗できない。

 

 それを懸念して、予め与える情報を絞りたい理由も良く分かるのだ。

 しかし、今の彼女たちの行動は、それとはまた違う気がした。

 教えたところで益がない訳でも、教える意味がないと思っているのではなく、ただ知られたくない、という理由の方がより近いように感じる。

 

 それに根拠はない。

 ただの直感から来るものに過ぎなかったが、しかし不思議と確信に近い思いがある。

 

 とはいえ、何か隠している事が、アキラにとって不義理だとは思わない。

 今までアキラに教えない、教えられない事柄は幾つもあったが、そこには常に、納得できるだけの理由があった。

 

 だから、今回もきっとそうだと思うのだが……、胸騒ぎが治まらない。

 知らない事こそが不義理の様に思えて、それが自分でも不思議だった。

 

 アキラはミレイユ達の最後尾に付いて歩いていたが、行き先がどこかは聞いていなかった。

 どこであろうと着いて行くが、どこへ行くかは知っておきたい。

 そう思って口を開いたところで、先にミレイユの方から横顔を見せつつチラリと笑った。

 

「良い仲間を持ったな」

「……え? あ、はいっ。別れを惜しめる友情を築けたのは、素直に嬉しく思います」

 

 突然な率直な感想に面食らいつつ、アキラが素直な気持ちを吐露すると、ユミルがいつもの笑顔を向けてきた。

 

「友情ねぇ……? ホントにそれだけ?」

「いや、何ですか……。答え難い質問やめてくださいよ……」

 

 アキラは言葉を濁す事も、背く事もできず、弱りきった顔で顔を背けた。

 イルヴィからは、実直に求婚を迫られていた。

 無理矢理抱きついて来たり、愛をせがむ様な振る舞いをせず、ただ正面から言葉だけ向けてくる求婚だった。

 

 時に冗談めいてベッドへ誘われる事はあったが、決して本気では無かった様に思う。

 身持ちが固いというか、互いの合意を何より遵守していて、それでいて器用な男女の恋愛というものを互いに知らない為に、あぁいう態度になっていた。

 

 イルヴィは婚姻を望んでいても、愛を求める言葉を言わなかった。

 アキラからすると、愛が先にあって、その先に婚姻があると思っているので、恋愛観がそぐわない。

 彼女の持つ部族の常識では、まず婚姻ありきの様だから、それも合わさって気持ちが擦れ違っていた様な気がした。

 

 何れにしても――。

 ユミルが勘ぐる様な、年頃の男女にありがちな、甘酸っぱいものが無かったのは事実だ。

 武器の手合わせ、体術の手合わせで密着する事はあっても、それ以上の何事もなかった。

 

 特にイルヴィは、武技を磨く、という一点において、他人とは隔絶した意識の強さを持つ。

 鍛練中に肌が密着する様な事があろうと、そこに甘いものを持ち込む事は決して無く、それがまた何かと奥手なアキラと合わさり、前に進まなかった原因ともなっていた。

 

 甘いものといえば、最後に見せた口付けだけで、だからこそアキラは面食らってしまったのだ。

 あれはあれで、彼女の部族に伝わる神聖なまじないなのかもしれないが、不意打ちのように使われるものでもないのではないか、という気がする。

 特に、何かと部族のしきたりに強い誠意を見せる彼女だからこそ、余計にそう思えてしまう。

 

 だが、イルヴィの気持ちはしっかりと伝わった。

 ただ浮かれる事だけ出来れば良かったのだが、イルヴィの気持ちに応える踏ん切りが付かないアキラには、どう考えて良いか参ってしまう。

 

 彼女の言葉に嘘がない事は理解していたが、成人より前に結婚するなど、アキラの常識の中には無い。

 特に十代の結婚など非常識と考えられる面もあり、恋人を作った事もないのに、そこを飛ばしていきなり真剣に考えられない、というものもある。

 

 何よりアキラは、まずミレイユの役に立つ、恩義を返すという目標があって、それより大事なものなどなかった。

 そして、それを達せられないと、次を考える余裕もないのだ。

 

 ミレイユの後を着いて行く事は、自殺に等しい、と本人にも言われている。

 元より、帰って来られない可能性の高い旅路だ。

 

 より先の未来を考える余裕など、なかったと言い換えても良い。

 だが、生きて帰れたら、もう少し真剣に考えてみようかと、思い始めていた。

 

「私はお前が、自暴自棄になっているとは思っていなかったが、目的の為には先行きを諦めても良い、という決心を危ぶんでいた。誰にでも未来はある、などと綺麗事を言うつもりもないが……、しかし捨てるというには早すぎる」

「それ言うなら、アタシはアヴェリンにだって同じコト思ってるけどね。忠義も結構だけど、三十年も生きずに闘争の中で果てる……。それが幸せとは思えないけど、どうやら本人は満足らしいし」

「それは考え方の相違だな。長く生きれば、満足できる生涯とはならん。どう生きるかより、どう死ぬかが問題だ」

 

 アヴェリンは憮然と言ったが、元より理解を得ようと言った訳ではないようだった。

 それこそが戦士の生き様だ、と語気を強めて言いそうなものだが、今回はそれがなかった。

 もしかしたら、アキらが知らないだけで、過去に何度も繰り返された会話なのかもしれない。

 

 ただ、そこのところで言うと、アキラの生き方はアヴェリンに似ている。

 彼女の忠義とは少しずれるが、アキラも恩義の元に戦う。

 

 受けた恩以上のものを返したいから、命を賭ける様な事態になっているが、もっと小さなものを受け取っていたなら、きっとここまで付いて来る事はしなかった。

 

「死生観というものは、簡単に変わるものじゃないしな。部族からして違えば、種族も違う。世界すら違う者同士が、同じ思いになる筈もない。だが――」

 

 そう言って、ミレイユはアキラに向かって満足する様な笑みを見せた。

 

「お前は最後まで生を諦めない、そういうつもりになったのは喜ばしい。死ぬなとは言えないし、むしろ死ぬだろうとしか言えないが、それでも死を前提にして欲しくないしな」

「そういう意味じゃ、確かにあの娘たちは良くやったわ。アタシ達じゃ、ちょっと今更言えないコトだしね」

「元より死に場所を決めた戦士に、生きろなどと言えんものだ。だが、ミレイ様のお望みに適ったのなら喜ばしい。お前がミレイユの御心に沿う事が出来るなど、初めてではないか?」

 

 アヴェリンから揶揄する様に言われたが、思い返して見れば、確かにそうかもしれなかった。

 アキラの戦功に対して満足する日が来るとは思えないから、これが最初で最後の可能性すらある。

 アキラは苦い顔をしながら頷いた。

 

「彼女たちには、もっと感謝しないといけませんね。再会して、直接伝えられる様に努力したいと思います」

「……あぁ、それが良い。この旅路は困難に違いないが、やってやれない事はない筈だ。誰も退場させる事なく終われたら、それが最上だし……私は、そのつもりでいる」

 

 ミレイユの視線から強い感情を読み取れて、アキラは思わず固唾を呑んだ。

 その強い感情には多分に敵意も含まれていて、肝が冷える思いがした。

 アキラに直接向けられたものでないからその程度で済んだが、向けられた相手は、ミレイユに一体何をすれば、そこまで強い敵意を向けられるのだろう。

 

 そして、それがこれから相手ともなるのだ。

 戦々恐々として思いで、今も先頭を進むミレイユの顔を伺いながら聞いた。

 

「あの……、これから何処へ向かうんです? 準備が必要なら……」

「あぁ、そうだったな。お前の方の準備は良いのか? 宿を引き払ったり、そういう手間は?」

「いえ、依頼を果たす為に少し遠出になりましたし、どれくらい掛かるか分からなかったので、その時点で宿代は一度精算しています。荷物に関しては、ミレイユ様たちと事情はそう変わりませんし」

 

 アキラが言うと、ミレイユは満足そうに頷いた。

 この世界の冒険者は刻印で何でも済まそうとするが、手荷物だけは例外だ。

 むしろ、その刻印を最適な形で運用する為、個人空間などという無駄を省いて、その分の魔力を割いている状態だ。

 

 だから基本的に武器は肩に下げたり腰に下げたりしているが、アキラの場合は神明学園で基礎を学んで修得していた為、手荷物は全て空間に仕舞ってある。

 

 アキラが持つ利便性を羨んで、スメラータも同様に修得してからというもの、テントなどの手荷物も彼女が持っていた。

 だから、チーム内の共有物を持ち逃げする様な不名誉も避けられた。

 

「これからは速度が要求される。多くの問題を一挙に、そして息吐く暇もなく攻め立ててやる必要があるからだ。その為の準備も、既に進めていた」

「そうなんですね」

「アンタが帰って来る前日にね、既に手配は済ませてあるの。アヴェリンが使いっ走りしてたものを、今から受け取り……というと語弊があるけど、とにかく受け取りに行くところなのよ」

「あっ、もう昨日には着いていたんですか」

「そうよ。こっちもいつ帰って来るか分からないアンタを、いつまでも待ってる余裕なんてなかったからねぇ……。あちらの準備が終わるまでに帰って来なければ、アンタを置いて行く予定だったわ」

「あっぶなぁ……!」

 

 アキラは重く長い息を吐き出しながら、胸を撫で下ろす。

 かつてミレイユが、アキラを連れて行って良い、と言ったのはあくまで温情の一つに過ぎなかった。

 だからもし、今日帰って来なかったら、本当に置いて行かれていただろう。

 

 危機一髪だったか、と改めて胸を撫で下ろしていると、向かっている先はアキラも良く知る場所のようだった。

 今まで迷う素振りも見せず一直線に突き進んでいた先には、間違いなく魔術士ギルドが建っていた。

 



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再会と別れ その7

 魔術師ギルドの門を潜りながら、アキラは訝しみつつユミルへと尋ねた。

 

「でも、ギルドでどんな物を受け取りに……? あ、何か旅に便利な魔術秘具とか?」

「その手の便利な代物は、既に持ってたり魔術で代用したりするものよ。……説明するのは面倒くさいわ。いいから、黙って見てなさい」

 

 言われるままに頷き、アキラはミレイユの背を目線で追った。

 そこでは片眼鏡をした初老のギルド長が、仰々しく頭を下げては歓待している姿が見え、例の貴賓室へと移動を促している。

 

 アキラにとってはかつて見た光景で、少々感慨深い程度だが、ギルドを利用していた客から向けられる視線は、異質なものを見る目だった。

 

 奇異な視線が集中砲火のように向けられていたが、ミレイユは虫の視線とでも感じているかのようで、一顧だにせず促されるまま歩を向ける。

 

 ミレイユにとって、もはや衆目とはその程度のものなのかもしれない。

 貫禄の様なものを感じさせ、堂々たる振る舞いには惚れ惚れする思いだった。

 

 かつて神宮で御子神様として過ごして居た時よりも、堂に入っていた気がする。

 もしかすると、姿を見せなかったここ数ヶ月の間に、彼女の中で何か心象の変化でもあったのだろうか。

 

 他愛もない事を考えている間に、ミレイユはギルド長先導の元、貴賓室へと入室するところだった。

 アヴェリン達もそれへと続き、アキラも慌てて後に続く。

 部屋の中は数ヶ月前に来た時同様、高級感と清潔感に溢れており、ミレイユは勧められるまま、上座の席へと優雅な足取りで近付き腰を下ろした。

 

 アヴェリンは定位置と言える右斜め後ろで待機して、ルチアは以前と同じ場所へ勝手に座った。

 アキラはそこまで横柄な態度に出られないので、ギルド長の顔色を伺いながら、ルチアの対面となる席へと腰を下ろす。

 

 そしていつもならルチアの隣に座る事の多いユミルが、いつまでもやって来ず不審に思う。

 それどころか先程まですぐ隣にいた筈のユミルが、どこにも見当たらなかった。

 

 彼女がある種、破天荒な性格なのも、時に独断で単独行動をする事も知っているが、何をするか分からないからこそ恐怖を感じる。

 アキラに悪戯を仕掛ける程度なら可愛いものだが、そうでないなら始末が悪い。

 

「あの、ミレイユ様……? ユミルさんは? またどこかで、勝手な迷惑かけてたりするんじゃ……?」

「あいつには一つ、任せていた事がある。お前は気にするな」

 

 堪らずミレイユに聞いてみたが、返答はごくシンプルで、それ以上訊くことを許さないものだった。

 だが、勝手に居なくなったのではなく、ミレイユの指示の下いなくなった、というのならアキラが心配する必要はない。

 ホッと息を吐く思いで胸を撫で下ろしていると、ギルド職員がお茶や茶菓子などを用意してくれる。

 

 ミレイユがそれに一口付けると、ルチアもまた口を付けたので、アキラもカップを手に取った。

 そうしてミレイユが、少々ぎこちなさを感じる笑みをギルド長へ向ける。

 

「先日は、不躾な要求をしてしまい申し訳ない、ガスパロ殿。また、挨拶が遅れてしまった不明を詫びたい」

「殿だなと、仰々しくお呼びいただく必要はございません。このガスパロ、ミレイユ様のお申し付けとあらば、喜んでご用意させて頂きます」

「……感謝するよ。また以前、宿の手配をしてくれた事に対する礼も、機会得られず遅れてしまった。その事についても、重ねて不明を詫びる」

 

 ミレイユが頷くように頭を下げると、ガスパロは恐縮しきって頭を下げた。

 アキラが以前やって来た時は、スメラータが解説役として傍にいた時だった。

 

 言葉の殆どは理解できず、何が起きていたかも理解していなかったが、ガスパロがミレイユに対して並々ならぬ熱意を持って接していたのは、見て分かっていた。

 

 あるいは信奉と呼んでも良い程、その厚遇振りが凄まじかったのを覚えている。

 そして今も、臣下と言われれば信じてしまいそうな態度で、ミレイユを歓待しようとしていた。

 

 頭を上げたガスパロは、緊張した面持ちを残しつつも、片眼鏡の奥で柔和な笑みを浮かべようとしている。

 いつもと変わらぬ態度を取ろうと心掛けた事を察してか、ミレイユは催促する様に口を開いた。

 

「こちらが希望していたものは、用意できたと思って良いのか?」

「はい、勿論でございます。魔術士ギルドで用意するというには、少々毛色の違うものでもあったので、少しの手間もございましたが……問題はございません」

「あぁ、助かる。この都市で信用できそうな相手というのは、あまりアテが無くてな……」

「有難きお言葉でございます!」

 

 ガスパロは頭を上げたばかりだというのに、感涙を上げんばかりに身体を震わせ、再び頭を下げた。

 やはりその様な姿を見ると、信奉者の様にしか見えないな、とアキラは思った。

 

「目立ちたくない……というよりは、隠匿できる事が重要だった。そういう意味では、私達が自分で動くより、他人に任せる方が適切だった。無理を聞いてくれて、感謝する」

「感謝を申して頂くなど……! お役に立てたなら、望外の喜びでございます!」

 

 ガスパロの熱意には、さしものミレイユにもたじろぐ仕草を見せた。

 困ったような笑みを浮かべているのを、アキラは置物の用に見ているしか無かったが、ふと気づけば、用意させたという物品も見当たらない。

 もしかすると、手に収まるような大きさではないのだろうか。

 

 例えば馬車の様な物であったなら、室内に持ち込む訳がないし、ここに無いのも当然だ。

 ガスパロも用意したと言っている事だし、恐らくそういう事なのだろう。

 アキラが一人で納得していると、ミレイユはガスパロの傍らにったる目録へと目を移す。

 

「それと、頼んでいた刻印だが……」

「はい、当ギルド指折りの施術士を用意しております。以前、お目に掛けた事がある者です」

「あぁ、アキラに施術して貰った時か……」

 

 そう言ってアキラへと目を向けてきて、特に意味もなく胸がドキリと跳ねる。

 悪い事をしている訳でもないのに、何故か落ち着かない気持ちになって、手元に視線を落とした。そこへガスパロが相好を崩して、やんわりとした笑みを向けてきた。

 

「こちらにも、アキラ様のご高名は届いておりますよ。流石はミレイユ様の、いえ――」ガスパロはちらりとアヴェリンへ目線を向けてから言い直す。「アヴェリン様のお弟子ですな。あれからというもの、『年輪』を所望する冒険者も増えたのですよ」

「アキラほど堅固なものを作るのは、現代の魔術士には難しいと思っていたが」

「ご慧眼でございます。仰るとおり、期待に沿わぬものだと文句を付けてくるものもおりました。ですが、それは事前に十分な説明をしていた部分ですからな」

 

 ガスパロは一度冷めきった視線を外へ向け、それからアキラには全く正反対の温和な目を向ける。

 

「刻印は、自身を映す鏡とも申します。それを十全に活用なさり、たった二つの刻印で第二級冒険者へと昇り詰めた快挙は、他に類を見ないもの。実に素晴らしい」

「いえっ、はい……。恐縮です……!」

 

 今度はアキラの方がペコペコと頭を下げる。

 確かにギルドで名を挙げたが、アキラ一人の力で伸し上がった訳ではない。

 昇級は個人の力を測った上で行われるものだが、試験へ望むには達成した依頼の数や、その内容が考慮される。

 

 そこまでの実績を鑑みて推挙される形なので、己の腕一本で勝ち取ったと思われるのは肩身が狭かった。それに何より――。

 

 アキラはちらり、とアヴェリンへ視線を向ける。

 そこには第二級と聞かされても、全く動じない師匠が見えた。

 出来て当然、そこまで昇り詰めていて当然、と思っている節がある。

 

 そして、それは事実でもあったろう。

 アキラがそれまで築き上げて来た基礎は、決して嘘をつかなかった。

 ミレイユ達と別れた後も、断じて鍛練は疎かにしていなかったが、学園に入った時と比べ大きく成長も遂げた。

 

 ギルドに残った時点で、既に第二級レベルの実力はあったのだ。

 だから短時間であれ、その領域まで到達出来ていなければ、むしろ手抜きで怠惰に過ごしていたと思われていただろう。

 

 ミレイユの方を盗み見てみても、やはり感慨らしきものは浮かんでいない。

 順当な評価、と感じている様な印象だ。

 分かっていたが、何一つ言葉が掛けられないのは寂しい。

 

 そんな事を思っていると、ミレイユがガスパロへ向けて一つ頷きを見せれば、ガスパロもまた得心した用に頷いて、外へ向かって手を叩く。

 

 そうすると、ほんの少しの間を置いて、淡い紫色のローブを纏った施術士が入室して来た。

 フードは被らず後ろへ下げ、栗色の三つ編みが露わになっている姿には、確かに覚えがある。

 三十歳手前と思われる、落ち着いた雰囲気を持っていそうな女性だったが、しかし今だけは顔に強い緊張が浮かんでいた。

 

「ラエル・パエリソと申します。本日の施術を担当させて頂きます」

「うん、よろしく頼もう」

 

 ミレイユが鷹揚に頷き、ラエルが傍に近寄ろうとしたした時点で、アキラはようやく事態を飲み込み始めた。

 

「え、あれ……? もしかして、ミレイユ様が刻印を……?」

「おかしいか?」

「いえ、決して! そういうつもりで言った訳では!」

 

 ミレイユには珍しく、含み笑いの様なものを向けてきて、アキラは咄嗟に首を横に振る。

 

「……ただ、ミレイユ様はそういったものを、必要とされないんじゃないかと思っただけで……」

「大抵の魔術は修めているから、今更刻印を必要としていないのは事実だ。……だが、刻印だけが持つ魔術というのもあったからな」

「有用だから、刻む事にしたと……」

「私は別に、刻印を下に見ている訳でも、忌避している訳でもない。機会を少し逃していた、という部分があるし……それに何より、欲しているのは刻印が持つ効果だけじゃないからな」

「……新たに魔術が使る事には期待してないって意味ですか? それって、どういう……?」

 

 ミレイユは時々、アキラには理解できない事を口にする。

 それは単にアキラの頭では理解できないだけ、という事もあれば、見据えているものが違う事から来る事もある。

 

 刻印を欲する場合、普通はその刻印が持つ魔術効果を使いたいから刻むものだ。

 治癒術が使えたり、攻勢魔術が使えたり、身体強化が出来たり、というのが基本だろう。

 

 それを望まないのに刻みたい、という状況がアキラには理解できなかった。

 まさかミレイユに限って、ファッション感覚で身に着けるとも思えない。

 

 アキラがそんな事を思っていると、ミレイユが難しそうに顔を顰め、苛立ちを感じる表情で掌を見つめた。

 手持ち無沙汰のラエルが、どうしたものかとミレイユとガスパロの間で、顔を動かしているのに気付いて、小さな謝罪と共に手招きする。

 

「……あぁ、すまなかった。では、早速始めてくれ」

「は、はい……! それでは、失礼したします」

 

 アキラの質問は無視される形になり、ラエルはミレイユの傍らに膝を付いた。

 手招きするのに使った左手を手に取り、緊張した様子を見せている。

 

 その緊張ぶりは、何も特別待遇を受けた客の相手、というだけではないだろう。

 睨みを利かせて一挙一投足見守る、アヴェリンとガスパロにも原因があるに違いない。

 

「では、こちらの左手に施術する、という事でよろしいでしょうか」

「うん、それで構わない」

 

 ラエルも頷いて、その手を包むように両手で捧げ持つ。

 暫く目を閉じて集中していたが、直ぐに顔を青くさせて顔を振った。

 

「これは……駄目です」

「駄目とは? ミレイユ様に宿せない筈がないでしょう。もう一度、今度こそ集中してやりなさい」

 

 ガスパロが叱責に近い強い口調で言ったが、ラエルは再度首を振って拒否した。

 

「違います、そうではないのです。この場合、お客様がお求めになった刻印の方に問題がありまして……」

「……ふむ? 分かるように説明を」

「はい……。お客様が施術を求められた『求血』は、中級下位に位置する刻印です。ですので、刻印としての形態が、そもそも紋章の様な小さな形をしています」

「そういえば……上級刻印は、その規模の大きさから、縄の様に細長い形をしていると聞いていたな。腕や足など、とぐろを巻くように刻むものなのだと」

 

 ミレイユが小首を傾げるように言い、幾らか彼女より詳しいアキラもそれに頷いた。

 逆に初級や中級などは、その術の規模故に、大きさを必要としない。

 

 刻む為には、なるべく凹凸の少ない場所を選ぶのが好ましく、だから手の甲や額に多いのだ。

 魔力の大小によって大きさは変わるとはいえ、それを飛び越える大きさになるなど、初めから想定されていないのだろう。

 

「魔力の練度によって、刻印が大きくなるといっても限度があります。ですが、お客様はその常識を軽々と越えてしまわれているので、手の甲程度では収まりません。ですから、刻む事が出来ないのです」

 



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再会と別れ その8

「なるほど、そういう事か……」

 

 ミレイユは得心がいった表情で頷いた。

 ガスパロにしても、その説明は大いに納得できるものであったらしい。

何度も頷いては、ミレイユに対し、感嘆めいた表情を向けている。

 

「つまり、手の甲に刻もうとしたところで、収まり切らないから無理であると……。因みに、無理にでも施術した場合は?」

「刻印が歪んでしまって正常に作動しなかったり、あるいは魔力の充填が溢れて、予期せぬ発動を見せたりします。魔術が勝手に発動するなら良い方で、下手をすると、その手が吹き飛んでしまう恐れも……」

「……なるほど、無理を押してする事でもないようだ」

 

 確かにそれは、いつ爆発するか不明な爆弾を括り付けておく様なもので、宿す意味が全くない。

 刻印とは、いつでも好きなタイミングで、詠唱を必要せず発動させる事が一番の魅力とされている。

 

 それが単なる不発弾に置き換わるだけなら、宿さない方が賢明だ。

 ミレイユの持つ膨大な魔力が逆に枷となってしまうのは皮肉としか言いようもないが、体質的に向かないとでも思って、諦めた方が良いのかもしれない。

 

 アキラはそう思ったが、ミレイユとしては、そう簡単に諦めるつもりもないようだった。

 沈黙したまま、幾度か視線を動かした後、ラエルへ伺い立てる様に顔を向ける。

 

「どうあっても無理か?」

「……いえ、あまり例はありませんが、問題となるのは、あくまで刻む面積が足りない点です。ですので、魔力に比例した十分な面積を持つ場所を選べば、問題ないという事にもなります」

「なるほど。……そうなると、場所は……」

 

 ミレイユは自分の身体を見回し、肩へ目を向け、腕を持ち上げ、最後に腹へ注目する。

 臍の辺りに目を向けてから動きを止め、それからラエルに目だけ向けた。

 

 確かに凹凸が少なく、面積の広い部位となると、その辺りが妥当に思える。

 だが、ラエルは首を横に振った。

 

「先程受けた感触として、それでもやはり、十分とは思えません。どこであろと十分とは言えないものの、最終候補として、私は背中がよろしいかと提案させて頂きます」

「そうか、背中か……」

 

 直接見る事は出来ないものの、ミレイユは肩口から覗くように背中方面へ目を向けた。

 確かに、凹凸が少なく広い部位として、それ以上の場所はない。

 それにしても、と唸るような気持ちで、アキラは己の手の甲を見つめた。

 

 ここに刻まれた刻印も、初級魔術としては破格の大きさだと褒められたものだった。

 実際それはギルドで幾度か使っていく中で、誰もが同じ様に言っていたものだ。

 しかしミレイユともなると、背中一面使っても尚、十分な面積とはならないらしい。

 

 破格と言うならば、これ以上規格外な人物などいないので、妙に納得してしまう気持ちにもなる。

 アキラが内心で唸り声を上げていると、ラエルが断りを入れて立ち上がるところだった。

 

 そうしてアヴェリンにも断りを入れ、ミレイユの背後に立つ。

 すぐに両肩へ手を当てて、目を閉じ意識を集中させていく。

 

 アキラは自分の時の事を、今となっては鮮明に覚えていないが、ひどくアッサリと終わって、拍子抜けした事だけは覚えていた。

 ちくりと刺さる様な痛みはあったものの、起こった事と言えばその程度で、魔術を身に着ける代償としては軽すぎると思ったものだ。

 

 だが、ミレイユの方はと言うと、比較にならないほど長い時間が掛かっている。

 施術時間というものは、刻印の大きさに比例していくものらしい。

 ミレイユの眉間にも皺が寄っていて、痛みに耐える様な吐息が漏れている事から、単に時間だけ比例するものでないと分かる。

 

 そうして、見ているだけのアキラだと、長すぎる時間が経過した。

 とはいえ、施術に掛かった実時間は五分と少々、と言ったところだろう。

 終了と共にラエルが背を離した時、ミレイユからも安堵の息が漏れたのは印象的だった。

 

 何事にも動じない様に見えて、やはり彼女にも人並みに感じるものがあるらしい。

 あまりに失礼な感想だったな、と思った事を胸に秘め、施術を終えてミレイユから離れていくラエルを目で追う。

 彼女にしても大変な作業だったらしく、たった一度の施術で足元がフラついてしまっている。

 

 このギルドで一番優秀だ、という彼女だからこそ、あそこまで短かい時間で済んだのだろうが、負担もそれ相応にあったようだ。

 ミレイユが強張らせた背中を柔軟させるような動きをさせてから、額の汗を拭っているラエルへと声を掛けた。

 

「施術は無事、成功と見て良いのか?」

「はい、やはり面積が足りなかった為、多少の縮小を施さなければなりませんでしたが、使用や充填に問題はありません。ただその代わり、幾ばくかの違和感だけは免れないかと……。力が足りず、申し訳ありません」

「いや、使用感に問題ないなら大丈夫だ。良くやってくれた」

「恐れ入ります」

 

 ミレイユが小さく笑みを見せると、ラエル大袈裟なほど大きな礼を見せた。

 そしてそこへ、黙って見守っていたルチアが、割って入ってミレイユへ声を掛ける。

 

「それで、どうなんでしょうか……?」

「あぁ、魔力が刻印に流れていく感覚がある。自分で発散させなくて良い分、幾らか楽だな。充填したあと使ってやれば良いだけなら、普段から垂れ流してやる煩わしさもない。()()()()()()()事は、確かな利点だろう」

「それは良かったです。その利点を知っていれば、もっと早くに刻んでおけば良かったと思うんですが……」

「そうはいっても、()()()を知らなかったのだから仕方がない。遅くなったが、遅すぎた訳でもないだろう。それで良しとするさ」

「……ですね」

 

 ミレイユは苦笑しながら頷いていたが、アキラには言わんとする意味を良く理解できなかった。

 ガスパロやラエルにも意味が通じていなかったので、彼女らの中でのみ通じる事らしい。

 本人達が納得してるならそれで良いか、と思い直し、改めてミレイユへ顔を向けると、ラエルに礼を言っている。

 

 ラエルは緊張を滲ませた顔で一礼し、それから不躾でない程度にゆっくりとした足取りで退室して行った。

 ミレイユはガスパロへと向き直り、背中を落ち着き無く動かしてから、改めて頷く様な礼を見せる。

 

「先触れをやったとはいえ、突然の訪問と、刻印のみならず希望を叶えてくれた事、改めて礼を言う。とても、助かった」

「とんでもございません。ミレイユ様の御心に沿う行いが出来たこと、誇らしく思います」

 

 うん、とミレイユは困り笑顔で短く返事をした後、懐から大きめの袋を取り出した。

 掌上だけでは収まらず、零れ出るほど大きいもので、光沢のある高級そうなテーブルに、硬質で重い音を立てて置かれる。

 

「無茶な願いだったから、多めに色を付けてある。味気ないと思うだろうが、他に適切な方法を思い付かなかった。無礼でなければ良いんだが……」

「勿体なく存じます」

 

 ガスパロは一瞬固辞するような仕草を見せたが、ミレイユの表情を見て態度を改める。

 受け取らないと言うつもりだったのかもしれないが、受け取らない方が失礼に当たる、と思い直したのかもしれない。

 

 素直に頭を下げて礼を言ったガスパロを、満足そうに見つめてから、ミレイユは窓の外――空の向こうへと目を向ける。

 

「これから変革が起きようとしている。それがどういう結果を招く事になるかは分からないが……、あまりに大きな変革が」

「それはつまり……、デルンとの本格的な衝突が起きようとしていると……?」

 

 アキラもギルドで、幾度となく聞いた話だ。

 エルフから逆襲を受け、大敗したのを切っ掛けに、戦争が本格化すると言われてきた。

 その渦中にいる筈のミレイユが、その戦争を左右する重要な存在なのだとも思っていた。

 

 長い間の沈黙はオズロワーナから緊張感を削いでいったが、商売の種に敏感な者、戦争を生業にする傭兵など、未だ虎視眈々と機微を狙っている者は多い。

 

 アキラとしては、始まってしまえば直ぐに勝負が着くと思っていたし、それが遂に来たのかと身構える思いだったが、ミレイユは首を横に振っただけだった。

 

「私とデルンは関係ない。もっと別の、……もっと大きな変革がある。備えられるものでないと知っているが、心構えだけはしておくと良い」

「では、戦争は起きないと?」

「それは起きる。だが問題は、それ一つでは留まらないという事だ。デルンとの間で起きる戦争は、それに比べれば些細なものに過ぎないだろう」

 

 ガスパロは口許に手を当てて戦慄している。

 我知らず行っているらしく、その表情にも余裕がない。

 

 アキラもまた、ミレイユが何をするつもりでいるのか聞くのが怖くなってきた。

 一国との間で行われる戦争を、些事と切り捨てるような何かが行われ、その渦中へとミレイユは乗り込んでいくつもりでいる。

 

 ――だが、とアキラは腹に力を込めた。

 一度ならず決めて来た覚悟だ。

 

 戦争以上に恐ろしい事が起きようと、恐ろしい敵を相手にしようと、アキラにはアキラに出来る事を、貢献できる何かをやるだけだ。

 ここで新たに決意を固め、アキラはミレイユの横顔を真剣な眼差しで見つめた。

 

 それから小さく息を吐いて、ミレイユは膝の上に乗せていた魔女帽子を被り直し、椅子から立ち上がる。

 それに続いてルチアも立ち上がり、アキラも慌てて立ち上がった。

 ガスパロもアキラとほぼ同時に立ち上がっては、退去しようとするミレイユを先導するべく動く。

 

 部屋の扉を開け、ミレイユがその横を通る際にも、穴が開くかと思うほど注視していた。

 きっと、根掘り葉掘り聞きたい事もあるのだろうが、配慮や遠慮があって聞き出せないのだろう。

 強く慕う相手だからこそ、不躾に質問を浴びせる事が失礼だと自制しているのだ。

 

 ガスパロは、そこを十分弁えている様に見えた。

 だが、聞きたい衝動までは抑えきれず、表面に出てしまったように思う。

 貴賓室を抜けた後、ギルドの外まで出て、入り口まで付き添いに出てきたガスパロに、ミレイユはそれを察してか声を掛けた。

 

「オズロワーナで起きる戦争で、ギルドはむしろ王侯側に味方しないだろうが……一応言っておく。静観しておけ」

「森軍に味方しろとは仰らないので?」

「そこでの勝利があろうと、他で負けると意味がないからな。自分の利、ギルドの利を考えて中立を保つべきだと思う」

 

 そう言ってから言葉を切り、ミレイユは王城へ視線を向けてから言った。

 

「ここでは大した事は起こらない。起こるとしたら、その後。不安はあるだろうが、耐えろ。私を信じられるなら」

「ハッ……! そのお言葉以上に大事なものはございません。今の言葉を胸に仕舞い、他の者を鼓舞する事と致します!」

「どれほどの大事になるのか、私にも分からない。だが、あまりに大仰にしないようにな。……馬をありがとう」

 

 ミレイユらしい、サッパリとした挨拶だった。

 感極まった様にガスパロが深く頭を下げ、ミレイユはそれを見るなり踵を返す。

 彼女が歩き出したのを皮切りに、他の二人も歩き出し、アキラは一応ガスパロに頭を下げてから、彼女らの背を追って歩き出した。

 



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目眩まし その1

 頭を下げたまま、微動だにせず見送るガスパロを背中に感じつつ、ミレイユは前を向いて道を歩く。ギルド前の大通りは人波もそれなりに多く、道行く人々からも好奇の視線を感じた。

 

 それを努めて無視し、ミレイユはオズロワーナの外へと向かう。

 誰もが黙って付いて来るかと思いきや、アキラが周囲を見渡しながら尋ねて来た。

 

「ミレイユ様、馬は何処にあるんです? 馬車を用意させていたんじゃ?」

「誰がそんな事を言った?」

「え……、だって馬をありがとう、と言っていたじゃないですか。事前に用意をお願いしていたんじゃないんですか?」

「お前は時々、抜けてるな……」

 

 アキラをギルドの食堂酒場で待っている間に、どういった活動をしていたのか、スメラータ達から大まかに聞いている。

 この三ヶ月はアキラにとって激動の連続だったようだが、それは本人の依頼の受け方にも問題があるようだった。

 

 とにかく魔物討伐の依頼は率先して受け、そして矢のように飛び出し、討伐成功させて帰って来る。

 移動は歩行(かち)が原則で、その移動時間の短縮を図るため、一日中走り通しでいた事もあったらしい。

 

 それ事態は珍しくもない。

 馬を所持して移動する冒険者の方が珍しく、維持費の事を考え、持たない人の方が多い。

 そして討伐地点の最寄りの街まで、乗合馬車を利用する事の方が、もっと多かった。

 

 だが、乗合馬車での移動は遅い。とにかく時間が掛かる。

 時間通りに発進しない事、予定時間通りに到着しないのは、むしろ当然だった。

 日本の優れた交通インフラを知っていると、その杜撰さには眩暈を覚える程だったろう。

 

 それを嫌って馬車すら使っていなかったアキラが、今更ミレイユのやる事を理解していないとは思えなかった。

 その説明をわざわざするのも面倒だが、言わないまま置き去りにしてしまう方が面倒臭い。

 仕方ないな、と口を開こうとしたところで、別の所から声が上がった。

 

「おバカさんねぇ、物見遊山に行くんじゃないのよ。馬車を使って、一体どこ行くつもりだって言うのよ」

「あれ、ユミルさん……!? いつの間に?」

「今さっき帰って来たところ。ギルドに入って行くのを見せたなら、出て来る所も見せないとね」

「は……、出て……?」

「アンタは分からなくて良いのよ」

 

 ユミルはそう言って、はんなりと笑った。

 それは決して秘密主義という訳でなく、アキラはこの件に関係しなければ関与もしないから、というのが理由だ。

 

 ユミルにはミレイユの指示で動いて貰ったとはいえ、あくまで外向きのものだ。

 今後の為を思っての裏工作だったが、そこまで丁寧にお膳立てしてやる必要はなかったかもしれない。

 

 念には念を……。

 一度は里を預かると言った身だから、全てを放り出す形になるのは目覚めが悪い。

 だからせめて、労力にすらならない支援はしてやろうと、そういう事だった。

 

 だがそれは、部外者に等しいアキラが知る必要はない。

 ミレイユは改めてユミルへ目を向け、馬について説明するよう指示した。

 視線を受けた彼女は、ヒョイと肩を竦めてから説明を始める。

 

「ま……、遠出をするなら、馬は必須でしょ? 何しろ今は、時間を無駄に出来ないから」

「それは……えぇ、分かります。何というか、前回が普通に馬車に乗って宿まで移動だったので、それに引き摺られてしまったと言いますか……。イメージ的に、ミレイユ様が移動するなら高級馬車、みたいなものが……」

「移動が本当に宿までなら、それでも良いけどね……」

 

 ユミルは呆れた態度で息を吐き、それから峻峰の連なる山々へ視線を向ける。

 

「時間を短縮したいのに、のんびり馬車旅なんて有り得ないでしょ。しかも、途中で乗り捨てて行く事になるんだから」

「乗り捨て……。それってつまり……、どこか橋のない所で崖越えするとか?」

「あら、良い線いってるじゃない。アンタも経験あるの?」

 

 ユミルがニンマリと笑って尋ねると、不承不承といった具合で頷いた。

 

「その時は珍しく馬車だったんですけど、豪雨の影響で橋が落ちていて……。復旧を待つのも、迂回路を探すのも待ってられない、という事で降りて移動を……」

「そうなのねぇ……。まぁ、近い事をしようっていうコトから、勝手に帰ってくれる賢い馬が欲しかったのよ。でも、そんな馬は調教済みでなければ早々いないし、そしてそういう馬はを売ろうとする商人は、買い手を選ぶものなのよ」

「金さえ出せば買えるものばかりじゃない、というのは僕も知ってます」

「そういえば、もう改めて説明する必要もないんだったわね。ここで長いコト暮らしてれば、自然とそういう知識も身に付くものだもの……」

 

 そう言って、ユミルは皮肉げな笑みを浮かべてアキラの頭を軽く小突いた。

 アキラは迷惑そうに顔を顰めたが、抵抗するような素振りは見せない。

 ユミル相手に過剰な反応は、むしろ餌を与えるだけと良く理解していた。

 

 アヴェリンは反骨心から態度を改める事はしないが、アキラなりの処世術が現れていて微笑ましい。

 ミレイユは一つ頷き、ユミルの話を引き継ぐ。

 

「――だからな、この都市で信用の置ける者から、仲介は必須だった。お前を使おうとも考えたが、あまり親しい相手を選ぶと、こちらの意図に気付かれる可能性がある。ガスパロとの個人的な繋がりまでは見えてない筈だから、この線で購入意図が読まれないと判断した」

「それは……、一体? 凄く不穏なものを感じるんですけど……」

 

 アキラが恐々とした仕草で聞いてくる。

 しかし、どこに目があり、耳があるか分からない状況では、流石に何もかも説明してやる気にはなれない。

 

「今はとにかく黙って付いて来い。我ながら神経質になっていると思うが、些細な事から足元を掬われる事もある。今は少しの隙も見せたくないんだ」

「は……、はい!」

 

 視線に少し圧力を込めた所為で、アキラは従順に頷いた。

 実際、そこまで周囲に気を配る必要があるかと言えば、ないと答えて良いだろう。

 だが、不安要素があるのなら、少しでもリスクを減らしたかった。

 

 過敏に考え過ぎているという自覚はあるが、さりとて話す事なら後でも出来る。

 都市から離れ、近辺に人がいない場所を選べた、気兼ねなく話せるようになるだろう。

 それまで辛抱すれば良いだけだ。

 

 オズロワーナへは、普段南口から出入りする。

 そこが最も門が大きく、商用路として秀でているから利用者も多いので、必然としてそれを捌く役人の数も多くなる。

 結果として、人が多くとも最も早く出入りできる門になっているので、余程の理由がなければそちらを使う。

 

 とはいえ、商人が利用する時間帯は混雑した状況になり、煩わしくも感じる事もある。

 だから、それを避ける為に別門を使う者も多かった。

 今回の場合、ミレイユ達が目的地へ向かうには、都合が良いという理由でこちらを使う。

 

 入る時より、出る時の方が手早いのは何処の門も一緒なので、少々の待機しているだけで、都市を抜ける事が出来る。

 ミレイユ達もそうやって外へ出ると、東門外、壁伝いにある馬房が目に入った。

 

 馬の売買は基本的にここで行われるが、ミレイユはその横を素通りする。

 アキラはてっきりそちらへ向かうと思っていたらしく、一行から外れて動いた事に気付いて、慌てて背を追って来る。

 

「あの……、馬を買ったんじゃなかったんですか」

「買ったとは言ったが、あそこにあるとは言ってない。まぁ……色々、理由があるんだ」

「はい、勿論、それは分かります。ただてっきり、東門から出たならそういう事かと思っていて……」

「うん、もしも見ている者がいるのなら、同じ様に勘違いしていただろう。そして関係がなかったとも思った筈だ。それを印象付ける為にやった事だからな」

「何なんですか、それ? まるで化かし合いみたいな感じですけど……誰を相手に?」

 

 ミレイユはこれに答えない。

 アヴェリンから叱責めいた短い恫喝が飛ぶと、アキラは何も聞こうとしなくなった。

 

 しばらく無言で街道を歩き、まばらな土を踏む足音だけが耳に聞こえるようになる。

 まだ都市圏内なので、門へ向かおうとする商人、どこかへ向かおうとする冒険者など、様々な旅人が視界に入った。

 それ自体はオズロワーナに限らず、大きめの街では良く見る光景だ。

 

 とりあえず離れなければ満足に話も出来ないので、今は周囲に注意しながら歩を進める。

 歩調としてはやや早いが、旅慣れた者なら問題としない速度で、特別おかしく映らない筈だ。

 異世界に到着した直後のアキラなら、歩くのが早いと泣き言を言ってたかもしれないが、今では戸惑う声すら上げない。

 

 そして、アヴェリン達と違った理由で索敵にも油断なく、ここ数ヶ月の武者修行は無意味でなかったらしい。

 胴の入った姿に、ついつい感心してしまった。

 

 暫く道沿いに東進していると、人の姿も幾らか疎らになる。

 更に進んで二つの三叉路を越せば、とうとう人の姿は全く見掛けなくなった。

 

 遠くには森が見えていて、陽の光も傾きを見せ始めている。

 二時間後には、稜線の奥に隠れてしまうだろう。

 森の入口へ差し掛かるのも、それと同じくする頃だろうと思った。

 

 周囲に気配も、人影もないとなれば、話す余裕も生まれてくる。

 ミレイユがアキラへと目を向けると、まるで疑問符を浮かべているかのような顔つきで、森を見つめている姿が映った。

 

「……不思議か?」

「あっ……。いえ、まぁ、はい……」

 

 見咎められたと思ったのか、アキラは気不味そうに目を逸らす。

 もう話して大丈夫だ、と手の動きで示唆してやると、困った顔をしながら首肯した。

 

「ほら……また、さっきの早とちりです。あんな森なんかに用がある筈ないですもんね。魔物がいるなんて話は聞いてないですし、いても小物ばかりでしょうから。険しい顔をして挑みに行く場所じゃないに決まってるのに……。単に通過するだけの森だと、今更ながら気付きました」

「あぁ……、そんな風に思ってたのか。とはいえ、あそこが目的地だ。通過するというのも、勿論正解だが」

「んん……? えぇと、つまり?」

 

 ミレイユの言い方も大概分かり難いが、アキラの察し悪さも相変わらずだった。

 至るところに成長要素が見えていただけに、変わらぬ部分も見つけて、叱るべきか安堵すべきか迷う。

 しかし結局、何も言わないまま事情を告げた。

 

「馬の事は言ってあったろう。購入した馬は、あそこにある」

「え、あそこに……!? いや、だって……あんな所に放置してたんじゃ、危険過ぎるのでは!? 魔物がいなかったとしても、魔獣ぐらいは絶対いるじゃないですか」

「そうだな、お前の認識は正しい」

 

 ミレイユがごく自然に頷くと、アキラは更に表情を不審なものに変えた。

 そこへ話を横で聞いていたユミルが、鼻で笑って口を挟む。

 

「森の魔獣に、エサ渡すつもりで放置するワケないじゃないのよ。足が必要で買ったんだから、当然その為に用意してあったに決まってるでしょ?」

「え……でも……、それじゃあ、馬が自衛できると思えないですし……。誰かが守っていたりするんですか?」

「そうね。そういう手筈だけど」

「でも、何の為に……?」

 

 アキラが首を傾げて、しげしげと森を見つめるが、ここから馬が見える筈もない。

 そもそも馬を隠したくて森を選んだのだから、そう簡単に見つけられても困るのだ。

 

「その辺も含めてね……、森に到着したら教えてあげるわ。最初から、予定ではそのつもりだったのよ」

 



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目眩まし その2

 夕暮れとなり、空が茜色に染まり始めた。

 遠く見える山の稜線は紺色掛かっていて、夜の帳が降りる予兆が見えている。

 その頃になれば、予想通り森の入口へと到着しており、鳥の鳴き声も煩くない程度に聞こえて来た。

 

 本来ならば、日も沈みそうという時間帯で森に入るものではない。

 旅の基本として明るい内に通り過ぎるものだし、それが無理なら森の外で野営するものだ。

 

 危険に対処できる実力があろうと、危険は少ない方が好ましい。

 常識としては、この近辺で野営地に適した場所を探すものなのだが、ミレイユは構わず森へ入った。

 

 アキラも今更臆する様子を見せず、気構えはしつつも、しっかりとした足取りで後を付いて来た。

 いつでも武器は取り出せるようにしているところ、そして気配を探る向け方にも変化があった。

 

 それはアヴェリンのやり方と良く似ていて、しっかりと身に着けるべきものは身に着けているのだと、不思議な感慨が浮かぶ。

 

 あぁいう気配の探り方、自身の気配の殺し方を、アヴェリンは教える事なく離れた筈だが、弟子は勝手に師匠に似るものなのだろうか。

 そう考えかけて、思い付く。

 

 アキラのチームには、アヴェリンと同じ部族出身の戦士がいた。

 大方、そちらから教わったのだろう。

 アヴェリンからしても、戦士としての在り方は部族の中で培われた基礎技術から成っている筈だ。

 

 本人にそのつもりがなくとも、戦闘技術から生存技術まで、様々なところで似通う戦士になったようだ。

 いつの日か、アヴェリン二号と呼べる戦士が生まれるかもしれない。

 

 その様に思考を遊ばせて森へと踏み入り、奥へ奥へと進んでいく。

 その間には、会話らしい会話もない。アキラは何かを聞きたい素振りだけは見せたが、誰かが説明を始めるまで、辛抱強く待っている。

 

 外にいた間は光量も十分と感じられたものだが、少し進んだだけで、森の中は光が殆ど届かなくなった。

 鬱蒼と茂る木の葉が、その殆どを遮断してしまった為だ。

 ここまで隠れて後を追ってくる何者も察知できなかったが、改めて顔を向け、専門家に訊いてみる。

 

「ユミル、どうだ。誰か来てるか?」

「いないわね。私には察知できなかった。一応、入り口近くに亡霊でも張らせておく?」

「そうしてくれ」

 

 ミレイユが促すと同時、ユミルはさらりと制御を開始して、死霊術で亡霊を作り出し、手を一振りして入り口付近へと飛ばした。

 樹木を貫通しながら離れていく、半透明の姿を一瞥してから、ミレイユはルチアにも訊いてみた。

 

「そっちはどうだ? 何かいたか?」

「こちらでも感知できませんでした。ただ、ここからもう少し奥側に、二つの魔力反応を確認できます。予想地点で見つけた感知ですから、手筈どおりに事が運んだ証拠だと思います」

「あぁ。ありがとう、ルチア」

 

 ミレイユが頷いて見せると、ルチアはニコリと笑みを返す。

 そこへアキラが、おずおずと問い掛けて来た。

 

「そこまで強く警戒する程、厄介な相手なんですか? ……あ、いや、これもまだ聞いちゃいけませんでしたかね?」

「そろそろ話しても良いと思うが……、そうだな。前にも話していただろう。私達が敵と定めている相手の事を」

「――えっ、その相手って神様ですよね!? 今まさに、狙われているんですか!? 背後から襲って来たり!?」

 

 アキラがギョッとして振り返って、今はもう見えない外の明かりへ目を凝らそうとした。

 ユミルが鼻で笑い、ミレイユは嘆息しながら息を吐く。

 

「神はそう易々と、直接襲って来たりしない。手を出せない程、遥かな高みからこちらを見下ろしている。奴らからすれば、一方的に殴り付けられる状況を崩すつもりはないだろう。手勢を差し向ける位はすると予想しているが、それも未だないのは確認して貰ったばかりだしな」

「な、なるほど……。では、このまま身を隠すのが目的なんでしょうか?」

「いいや、森に来たのは馬の為だ。そう言ったろう? これから行う一部始終を偵察されては困るが、直前までどこにいたかは知って貰いたいんだ」

 

 幾度も首を傾げ、胡乱な表情を浮かべていたアキラは、とにかくミレイユ達がやる事は理解不能、という結論に至ったらしい。

 情けない顔をして頷くだけ頷いて、理解を放棄する事にしたようだ。

 

「前にも言ったが、これには速さが重要だ。安全な高みから、盗み見して上手く転ばせようと考えている奴らに、一泡吹かせなくてはならない」

「そして今、まさにそれを決行中であると……」

 

 言いながら、アキラは顎を突き上げ、頭上へ視線を向けた。

 

「でも、遥かな高みからって言っても、物理的に見ているものなんですか? もっとこう……遠隔的に見ているのではないでしょうか。御由緒家の紫都さんとか、空中にディスプレイを投影してたじゃないですか。あぁいう具合に……」

「勿論、似たような事をしているだろうな。そしてアレは、魔力の目を飛ばして、それを中継して見せている訳だ。お前に分かり易く説明するなら、ステルスドローンを飛ばしていると思えば良い。撮影するには、その目を近付かせなければならない」

「なるほど……。でもそれなら、やっぱり森の中まで入って来たりするのでは?」

 

 アキラが周囲へ身体の向きを変え、木々の間を縫って奥まで見渡そうとした。

 とはいえ、ミレイユとしては、そんな所に居る筈がない、と理解している。

 アキラの懸念は当然だが、相手もそこまで馬鹿じゃない。

 

「私達は今まで、常に警戒を解いた事がない。にも関わらず、ルチアの感知にも引っ掛かった事は一度として無いんだ。どこまで近寄れば捉えられるのか、それをご丁寧に教えてくれるものでもないだろう。感知できれば、現在見ている事を教える事にもなってしまう。そんな愚は犯さない」

「でも、見ていると思うんですか? 一度も感知した事がないのに?」

「出来る以上は、やっていると思うべきだ。奴らも私達が勘付いていると理解しているだろうが、決定的な証拠は出してない。それで十分だと思っているんだろう」

 

 ミレイユは確信を持って頷く。

 かつて現世にて紫都が使った時、ミレイユにはどちらの方向から見られているかすら認識する事が出来た。

 彼女の使う理術が、こちらから持ち込まれた魔術を元にしている以上、やはり効果も同一ないしよく似ていると考えるべきだった。

 

 見られている事が分かれば、ミレイユは気付く。

 余程上手くやって隠せたとしても、ルチアの感知までは誤魔化せない。

 だが、その両方に引っ掛からないというのなら、限界捕捉距離外から見ていると予想できる。

 

「何も口許や表情まで、詳細に映す必要はないんだからな。その動向までしか確認できなくても、位置だけ把握できれば十分だ。それだけの情報があれば、先回りするなり、何か手を打つなり好きにやれる。……だが、今はその視界が隠れている」

「あ……っ!」

 

 一声上げると、アキラは改めて周囲と頭上へ視線を向ける。

 光すら薄っすらとしか見えない、というのなら、何者かが見ているにしろ、現状は姿を捉えられていないと考えて良い筈だ。

 アキラも似たような感想になったのか、至極納得した表情で頷いた。

 

「そして、動向を知られたくないし、これからの行動を見られたくないから、こうした場所を選んだんですね」

「そうだ。だから、事前に馬も運び入れて貰っていた。夜闇が私達の姿を隠してくれるし、徒歩で移動すると考えているから、見失えばその移動距離を見誤るだろう。野営の煙も見えず、森からも出て来ないとなれば、策を講じて探し出すだろう。……が、その時にはもうこの近辺から逃げ出せている」

 

 アキラはようやく理解が追い付いて、何度となく頷いた。

 腕を組んでは顎に手を添え、したり顔で言ってくる。

 

「なるほど……! 監視の目から逃れる為の森、そして振り切る為の馬、という訳ですか。きっと上手く行きますよ!」

「――ところが、話はそう簡単じゃないのよね」

 

 水を差す様なユミルの発言に、アキラは驚いて顔を向ける。

 だったらどうして、こんな事してるんだ、とでも思っている顔だ。

 

 しかしユミルが言っているのは事実で、その程度で監視の目から逃れられるなら苦労はない。

 ミレイユ達がその『目』を既に察知していると、相手側も理解してそうなものだし、ならばその目から逃れようと画策する事も、予想の範囲だと思うからだ。

 

 だから、闇夜に乗じて逃げる程度では、その『目』から逃れること叶わない。

 『目』に掛からなくなった時点で別の何かを用意するのか、それとも一定時間捜索した後で対策するかで話は変わってくるが、ミレイユとしても万難に対する解決策は用意できない。

 

 ここからは、賭けの話になって来る。

 ユミルは指を一本立てて、頭上を差しながら言った。

 

「良いコト、アキラ? そんなお手軽に裏をかけるなら、ここまで面倒なコトにはなってないの。アンタには実感し辛いところでしょうけど、奸計・詭計が得意な奴らなんだから。エルフとデルンの戦争に巻き込まれたのも、その所為と言えるしね」

「唐突に戦争参加した様に見えましたけど、アレってそういう事だったんですか……!?」

「そうよ。そうせざるを得なくなったの。手を読んだつもりで対応して動いたけど、それさえ読んで利用してくる奴らだった。時に単純な手ほど有効、なんて言うけど……」

 

 ユミルは顔を顰めて指を下ろし、それから忌々しく息を吐いた。

 

「まぁ、望み薄ね。だから今は、その中で最善と思える方法を取るしかないし、奴らが別の騒ぎに目を移す機会も作った」

「機会、ですか……? そういえば、魔術師ギルドのギルド長にも、似た様なこと言ってましたよね?」

「えぇ、これから起きるデルンとの戦争ね」

 

 それを聞いて、アキラは自分の発言を悔やむ様な顔をした。

 あるいは、あの場所へ置いていった、チームの二人を思っての顔なのかもしれない。

 

「それって何処まで本当なんですか? ミレイユ様達はエルフ側に付いて戦うんじゃないんですよね? オズロワーナは……都市に住む人達は、巻き込まれたりしないんでしょうか……?」

「それについては難しいな。攻め手はいつだって、都市の中を縦断し、王城へ向かわなかればならない。宣戦布告なしでの奇襲は許されないから、布告と同時に門扉は閉ざされ、平民へ避難勧告が始まるだろう」

「それに従う限り、市民は攻撃されたりしない、と……?」

「あぁ。特にギルドは戦争へ不参加を表明する。よほど愛国心があったり、他に理由がない限り参戦するものじゃないし、攻め手もそういうものだと思って攻撃せず、王城を一直線に目指すだろう」

 

 アキラは納得しかけたが、頷きを見せるより前に動きを止める。

 難しい顔して眉根を顰め、唸りを上げて首を傾けた。

 

「でも、素直に通すものですかね? バリケードを築いたりとか、街中は凄い事になるんじゃ……」

「なるだろうな。門扉を攻略される前に、各種要衝へ防御陣地を構築したり、兵を配置したり、まぁ……色々対応するだろう」

「そこにギルドは不参加ですか? 間違いなく?」

 

 あの都市そのものが攻められる以上、そこで暮らす人々は一丸となって立ち向かうと思っているのかもしれないが、彼らが愛着を持っているのは都市であって国ではない。

 いつでも国替えが発生し得る体制、それが根本にある所為で、王城や国王に対し、強い愛着を向ける者は少なかった。

 

 戦争の取り決めを破った時、罰するのは神なら、取りまとめ正常に戻すのも神だと認識している。彼らは神を信仰していれば、その生活が大きく損なわれないと知っているのだ。

 

 敢えて国を守りたいと思っているのは、その国に甘い汁を吸わせて貰っている者だけで、攻撃しなければ反撃もないと理解している相手に、敢えて立ち向かう理由もない。

 

 その様に説明しても、アキラとしては未だ納得しようとしなかった。

 喉元に何かが引っ掛かった様な顔をさせて、迷う素振りを見せながら、ルチアへ気遣う様な視線を向けてから言う。

 

「でも、エルフ達は魔族と呼ばれているじゃないですか。それは……、一丸となって戦う理由にならないんですか?」

 



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目眩まし その3

 妙に懸念を顕にしていた理由が、ミレイユにもようやく理解出来た。

 確かに魔族憎むべし、という風潮があるのは認める。

かつてデルンで起きた、魔王ミレイユの所業を思えばこそ、その手下の様に思われている魔族は看過できない、と立ち上がる市民もいるかもしれない。

 

 だが、例えそうだとしても、市民の攻撃は考慮に入れる程ではなかった。

 考慮するというのなら、むしろギルドの方だ。

冒険者ギルドに魔術士ギルド、その二大巨頭を敵に回す事の方が、市民を敵に回すよりも余程厄介な事態となる。

 

「だが、それさえ深く考慮しなくて良い。ギルドは現在、国に対して不信感を募らせているからな。そこはお前の方が詳しいんじゃないのか?」

「それは、えぇ……。冒険者を傭兵の様に扱う腹積もりであったとか、捨て石として兵より前に立たせるとか、そういう話が出ていたとか何とか……」

 

 ミレイユは大いに満足して頷く。

 暗い視界でも歩調は緩ませる事なく、器用に倒木を躱しながら進んでいく。

 

「それは事実ではないが、そういう認識が広まっているなら成功だな。お前も苦労したかいがあったろう?」

「苦労という程でもなかったけどね。大体、そうなる様にしたんだから、想定通りの結果だとしか思わないわよ」

「……え?」

 

 ユミルが軽い調子で肩を竦めたのを見て、アキラが疑惑の眼差しを向ける。

 

「もしかして、とは思っていましたけど、やっぱりギルド長追放の件にはユミルさんが関わっていたんですか? それも、ある事ない事でっちあげて?」

「ギルド長が傀儡化していたのは本当よ。余計な被害を防ぐため、下手に戦争介入をさせない為、アタシ達の邪魔にならない為……そういう理由で、切り離す必要があったのよ。ダメ押しとして、まぁ……色々余計なものも足したかもしれないけど」

 

 ユミルは悪怯れる事なく言い切り、むしろ笑って快活に言った。

 アキラは苦い物を飲み込む様に顔を歪ませたが、葛藤の内、咎められるものではないと悟ったらしい。

 そのまま顔をミレイユの方へと向き直って、話の続きを聞こうと思ったようだ。

 

「そういう訳だから、混乱があるのは当然、幾らか飛び火があるのも当然として、大袈裟な事にはならないだろう。戦力差も、今となっては逆転しているしな」

「逆転……? 森の方が強くなった、と……。でも、そんな都合よく強化される事なんて……」

 

 そこまで言って、アキラはハッとした顔を向ける。

 

「まさかミレイユ様、学園でやった事を、森の中でもやったんですか?」

「その、まさかだ。元より使えたものを、より使いやすくしてやっただけだな。……が、効果の程はお前も知ってる筈だ。数の利はどうしようもないとして、長期戦になればいかにも不利だ。短期決戦を狙うしかないから、その為の手助けをしなければ。そこから先は、彼らが自ら勝ち取る所だ。後は祈る他ないが……狼煙には、実に都合が良いと言える」

「そんな、無責任な……」

 

 アキラにしては珍しく、ミレイユを咎める様な台詞と視線で口を出す。

 

「ミレイユ様は、彼らの味方だったんじゃないんですか? 短期で決着を付けなきゃ危ないというなら、ミレイユ様が共に戦う方が良いんじゃ……」

「そうだろうな。私を知る相手なら、きっと同じ事を思うだろう。エルフに対して、情があるとも思われている。見捨てる事はしないだろうとな」

「それじゃあ……」

「だからこそ、陽動として使うに有効だ」

 

 アキラがまたもハッとなって、息を呑む。

 それから悔やむように顔を歪めた。

 

「私という目標を見失った後、デルンが攻められていると見れば、そちらへ注目せずにはいられないだろう。誰が攻め込んだのかと確認し、それが森の勢力と見れば、私がそこへ合流すると見る公算は高い。そうなって欲しいと思ってる」

「……上手くいくかどうかは、やっぱり賭けだけどね」

 

 ユミルもまた苦虫を噛み潰すかの様に顔を歪めて、ミレイユもそれに同意して頷く。

 

「上手く行けば儲けもの、ぐらいなものだ。そして、そうした細い糸を辿る事でしか、裏を掻いてやる方法がない。元よりどういう選択をしようと、勝ち目の薄い戦いだ。手段を選べるほど、上等な立ち位置に私達は居ない……」

「それもねぇ……、そうなのよねぇ……」

 

 ユミルが諦観の籠もった溜め息を吐いて、アキラが改まって頭を下げて来た。

 歩きながらなので多少不格好だが、礼儀を気にする様な場所でもない。

 ミレイユは、それを鷹揚に受け取る。

 

「申し訳ありません、ミレイユ様……! また僕は、考えなしに馬鹿な事を……!」

「うん、謝罪を受け取ろう。成長したと思っていたが、感情任せになるところは相変わらずか? 数ヶ月こちらで暮らして、未だに倫理観を保っているのも大したものだが」

 

 結局のところ、アキラが感情を顕にしたのは、それが原因だろう。

 何を知っている訳でもないだろうに、森の中で共に暮らしておきながら、肝心なところで崖下へ突き出す様に見えたから、苦言を呈する様な言い方になったのだ。

 

 確かに、ミレイユの口から里の民全てに事情説明をした訳ではないが、ヴァレネオを始めとした重要人物から、納得と許しを得てここに来ている。

 彼らとしても、全てを飲み込んだ訳でもないだろうが、道理を聞けばこそ、納得して送り出してくれたのだ。

 

 ミレイユ達の勝利がなくては、エルフが勝利したところで意味はない。

 それはある意味、神々の強大さへの挑戦でもある為、送り出さなければ意味もないと理解してはいた。とはいえ――。

 

 ミレイユは、その時の妙に大人ぶったテオの横顔を思い出し、小さく笑ってしまった。

 それを目敏く見つけたアキラが、困惑とも疑問ともつかない表情を向けてくる。

 言っても伝わらないだろうから、適当に手を振って誤魔化した。

 

「まぁともかく、謝罪するのが遅れず良かったな。あと少しでも遅れていたら、アヴェリンが黙ってなかったぞ」

「え……?」

「いえ、ミレイ様。遅れずとも、黙っているつもりはありませんでした」

 

 ミレイユが顔を向けた方向では、アヴェリンが無表情でアキラの頭部を見つめている。

 殴り付ける場所に狙いを定めているように思え、実際に狙われているアキラは顔を青くさせていた。

 

「少し離れている間に、己の立場というものを見失っているようですから。……どうだ、アキラ。お前は実に、以前から見違えるほど饒舌に言葉を操れるようになった。なればこそ、何を言っても良いと勘違いする様になったのか?」

「いえ、決して! その様な事は! 己の迂闊さに辟易しているところです!」

「するのはお前ではない、私だ。その事を、後でしっかりと教え直してやる」

 

 アキラは言い訳を探すように手をあわあわと動かしたが、思い付くものも、誰からの助け舟もないと分かって肩を落とした。

 その様に騒いでいると、ルチアが軽く手を挙げて、個人空間から両手杖を取り出す。

 

「お楽しみは、そこまでにしておいて下さいね。もうすぐ目的地付近です。魔力反応も依然変わりなし。でも一応、ご注意を」

「そうだな。……反応から、誰がいるかまで分かるか?」

「えぇ、一人は良く知っていますが、もう一方には心当たりがありません。ただ、獣人だろうとは思うので、敵でない可能性は高いです」

「その、良く知る一人というのは……、まさかとは思うが」

「はい、父です」

 

 ミレイユは思わず唸った声を出して、眉間に皺を寄せた。

 この様な状況にあって、里長代理となるものが、危険な場所に身を置くべきではない。

 

 だが、そうは言っても今更どうにも出来ないので、せめて早く終わらせて帰してやろう、と思うしかなかった。

 

 ルチアに言われてアヴェリンやアキラも一応武器を取り出し、ミレイユは無手のままで歩を進める。

 若干駆け足気味になってしまったのはご愛嬌だが、とにかく目的地となる場所には、三頭の馬と、その守役である二人の姿が見えた。

 

 既に日はすっかり落ちていて、一切が闇の中とはいえ、夜目の利く者にはさしたる障害でもない。

 ミレイユ達の登場に気付いた二人は、さっと身体の向きを変え、頭を下げて到着を待とうとしていた。

 

 どうやら間違いなく敵ではないと分かったが、その様な態度で長く待たせるのは落ち着かない。

 歩速を落とす事なく近付いて、手の届く所で足を止める。

 そうすると、二人揃って頭を上げた。

 

 そうして、つい意外に思ってしまい、片眉を持ち上げる事になった。

 一人はヴァレネオであり、先程ルチアに教えて貰っていたから、そちらは問題にはならない。

 だがもう一人は、灰色の髪を鬣の様に広げているのが印象的な、獣人族の女戦士、フレンだった。

 

 年季の入った戦闘用の革鎧に身を包み、戦化粧まで施している。

 ミレイユ達が到着するまでこの森に身を潜め、馬を持って来る者がいたら、符丁を見せて預かる予定だった。

 強い魔物も魔獣もいない、都市から程よく離れた森だから、警備に当てる者も最低限で良い、と言ってあった筈だ。

 

 人数だけ見れば最低限に違いないが、明らかに場違いな戦力を置いてしまっている。

 ヴァレネオは単純に戦力換算するものではないが、フレンは獣人族の中でも有数の実力者で、此度の戦争でも、間違いなく遊撃隊長として任命されている筈だ。

 

 どういうつもりだ、という目を二人に向けると、堂々とした振る舞いで言い訳を返して来た。

 

「里での見送りは禁じられましたが、こちらではするな、と言われておりませんでしたので。誰とも知れぬ者を置いたのでは、不忠と断じられても仕方ありません。ここは里一番の忠臣でなければ、面目立たん、という事になりまして……」

「であるなら、戦士として最も優れた私が来るのが道理というものです! ミレイユ様に心服する一人として、この機会は逃せませんでした!」

「あぁ、うん……。なるほど」

 

 ミレイユは力なく頷き、何と言うべきか迷った。

 明らかに公私混同している様に見えるし、これから始まる戦に際して、その中核を担う二人が留守では拙いだろう、という懸念も上る。

 

 だが同時に、ミレイユは黙って里を出て行った身だ。

 大袈裟にして欲しくないという建前と、神々の目を考慮した結果だったが、何事も正論だけでは成り立たない。

 

 だが、盛大に見送られて旅立つのでは、これから自分は何かしますと喧伝するようなものだ。

 里の衆全員からは無理でも、せめて自分たち代表からは、と思っての結果だろう。

 

 ヴァレネオにだけは事前に説明し、そして賛同していた筈だが、やはり思う所はあった、という事らしい。

 

「とにかく、ここにいるなら何を文句言っても仕方ないな……」

「……いえ、ミレイ様。掛ける言葉を間違えています」

 

 アヴェリンから控えめな指摘が差し込まれて、そこでようやく気付いた。

 確かに、この場で言う台詞でなかった、と改める。

 

 森自体に危険はなくとも、この場に留まる事は危険になる。

 それを理解しながら、待ち続けてくれた二人なのだ。

 

「二人の忠義に感謝しよう。良く馬を預かってくれた」

「勿体ないお言葉……!」

 

 ヴァレネオとフレンが同時に頭を下げる。

 

「本当なら、もう少し労いなどを言ってやりたいが、時間がない。悠長にしていられないんだ、許せよ」

「許すなど、まさか……!」

「そうです。何を憚る事がございましょうか。ご武運を、お祈りしております!」

「あぁ、ありがとう。すまないな」

 

 二人の肩に手を置いて、軽く撫でる様に揺する。

 頭を下げた二人からは、それで身震いするような感動を覚えているようだ。

 

 また神の真似事をしていた時を思い出されて、居た堪れない気持ちになったが、それを二人に見せれば、せっかくの労いも無駄になるだろう。

 

 ミレイユがアヴェリンへ目配せすると、さっさと馬を振り分けてしまう。

 ルチアとユミル、アヴェリンとアキラ、そしてミレイユという組み合わせで、乗り合わせる事になった。

 誰が誰と一緒でも、大した違いはないだろうが、順当な内容だ。

 

 アヴェリンは既に馬へと乗り上げ、上からアキラを引っ張っている。

 ユミル達はどちらが手綱を引くかで揉めているが、どちらも扱いには慣れているから問題ないだろう。

 最後にミレイユが乗り上げると、ヴァレネオたちも顔を上げた。

 

 手綱を取って馬首を廻らし、急な事で興奮する馬を落ち着かせようと首を叩く。

 そうしながら二人へ目を向け、小さく頷いた。

 

「『氷刃』を見逃すな。……お前達にも、武運を祈ってる」

「ハッ、必ずや勝利を上げて見せます!」

 

 少し困ったような笑みを、二人の下げた頭に向け、ミレイユは馬の腹を蹴って走らせた。

 



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目眩まし その4

 馬を走らせると言っても、森の中で速度を出せるものではなかった。

 夜でも目が利く動物とはいえ、日が落ちて完全な暗闇である上、倒木も雑草も生え放題の地面は、足を取られる物が多い。

 

 整地され、道を引かれている訳でもないとなれば、その歩速が緩むのは仕方なかった。

 幸い、この森は背が高く、馬上にあっても枝が進行の邪魔とはならない。

 それで細かく進行方向を変えずに済むのは助かったが、それでも樹々を避けて歩かせなくてはならないのは変わらない。

 

 馬も樹木にぶつかるのを嫌がって走ろうとしないので、自然と常歩(なみあし)での移動となる。

 人の足で歩くより早いのは確かだが、それで満足するくらいなら、手綱を引いて歩いた方が安全面でもマシだった。

 

 今も高みから見下ろしている者には、その移動範囲を考慮した監視をしている筈で、その目から逃れるには速度が必要だ。

 二つの意味で、ミレイユには迅速に移動しなくてはならない理由があり、そしてその為には短縮する方法を模索しなくてはならなかった。

 

 馬一頭歩けるスペースはどこにでもあるが、二頭を横並びにさせるには怖い場所は幾つもある。

 だから基本的には縦一列で動いていて、アヴェリンに先導して貰って移動していた。

 

 その後にミレイユが続き、殿としてユミル達が後方に着いている。

 そこでミレイユは、後ろを振り向きながら話し掛けた。

 

「二人とも、頼むぞ。ルチアは馬に防護を、ユミルは隠蔽してくれ。樹々にぶつかっても、痛みも衝撃もないと分かれば、馬も素直に走ってくれる」

「了解です」

「いいわよ、手筈通りにね」

 

 二人が了承と共に制御を始める。

 二人がそれぞれ使う魔術は初級魔術で効果が低く、この状況で使うには少々心許ないものだった。

 

 しかし、今は魔術を使った痕跡すら知られたくなく、感知対策として選んだのが、その魔術だった。

 魔術は使えば例外なく、その魔力が空間に波形として伝わるが、弱い魔術ならば波は弱く、広がりも少ない。

 ルヴァイルから魔力波形を察知して探していると聞いた以上、こうした初級魔術以外は怖くて使えなかった。

 

 初級魔術の行使など、二人にとっては指を動かす事と変わりないから、即座に制御を完了させると、淡い白光が馬たちを包んだ。

 次いでユミルの幻術で、姿の隠蔽を図る。

 森の中にあって、この魔術はそれほど効果的でないが、森から出るより早く使っておくことに意味がある。

 

 魔術が行き渡ったのを見て取って、アヴェリンは一度、窺いの視線を向けて来た。

 それに頷き返してやると、手綱を打ち付けて腹を蹴る。

 

 とはいっても、馬からしても魔術の恩恵など理解している筈がない。

 速度を出せと指示しただけで、素直に従ってくれなかった。

 

 だがそこは、馬の扱いが巧みなアヴェリンである。

 上手く進行方向を誘導して、走りやすい道を指示してやりつつ速度を上げていく。

 

 そして多少無茶な進路でも身体がぶつからない事、邪魔な木の根も物ともせず進めると分かれば、馬の調子も勢い付いて来た。

 

 最終的には樹の幹を削ぐ様な勢いで走り、障害物など物ともしない速度で森を駆ける。

 アヴェリンの手綱捌きは実に見事で、その後ろを着いて行くだけで良いミレイユは、大変楽が出来ていた。

 

 しかし、アヴェリンの後ろに乗っているアキラは、激しく上下左右に揺さ振られ、相当参っている様子だ。

 

「師匠、これ……ヤバいです! 振り落とされます!」

「だったら、しっかり掴まっておけ! 落ちたところで拾ってやらんぞ!」

「は、はいぃぃい……!」

 

 師匠に対して、また女性に対して抱き付く事に、遠慮があったからこその不安定だった。

 そもそも馬とは、乗り慣れていなければ、乗り続ける事も難しい乗り物だ。

 

 車に慣れている者からすれば、安定感など全く感じられないだろう。

 それは後ろから見ていても、顕著に分かった事だった。

 しかし、年頃の男子が自分から抱きついて良いか、と聞くのも憚れてしまうのも理解できるのだ。

 

 アキラとしては、屈強な女戦士というイメージが先行し過ぎて、魅力的な女性とは映っていなさそうだが、それはそれだ。

 アヴェリンも部族の中で育って、後ろに男性を乗せる事など珍しい事ではなかった。

 

 今更抱きつかれたくらいで、何かを思う事もない。

 アキラ一人が勝手に遠慮した結果と言えるのだが、その辺りの機微を勝手に察しろ、と言うのも酷に違いなかった。

 

 そうして、小一時間も走らせれば、森の切れ間が見えてくる。

 これまで徒歩で歩いていた時は、東進する様に見せていた。

 森の形状は南北に広い長方形型をしているので、抜けて直進すると思っているなら、その周辺を見ている筈だ。

 

 対して、今のミレイユ達は北へ直進して、森を抜けようとしていた。

 徒歩でいるという前提、そして東進する筈だという思い込みが、ミレイユ達を見失わせる仕掛けになる。

 

 そこから再補足しようにも、距離を見誤って難しくさせるだろう。

 いつまでも隠し通せると思っていないが、索敵に時間を浪費させる事は出来ると期待しての行動だった。

 

 今はもう『箱庭』を所持していないし、素体の体質として発散させねばならない魔力も、刻印で誤魔化す事が出来ている。

 

 一定周期で魔力を外へ逃がす行為そのものが、ミレイユの居場所を察知するソナーの様な役割を担っていた筈だから、更に索敵に時間が掛かるだろう。

 今は即座に発見されないと信じるしかなかった。

 

 木々の間から漏れる月明かりで、外縁部となる森の端まで、どの程度距離があるかが分かる。

 そこから察するに、この速度だと五分と掛からず到着できると判断できた。

 

 そして、追手となる何者かの存在も探知できない。

 元より近くに居ないと思っていたから、これはあくまでオマケ程度の懸念だが、ルチア達に視線を送っても、やはり否と返事があった。

 

 森を抜ければ、月から降り注ぐ明かりが大地を照らす。

 薄っすらと雲が掛かるだけの空だから、月明かり程度の光源でも十分に見渡せた。

 

 特に辺りは背の短い草原が広がるばかりで、他には木と岩が疎らに見える程度、他に特徴らしいものもない。

 遠く頂きに雪を頭に載せた峻峰が見えていて、右手側にも遥か遠く、海面らしきものが見え始めていた。

 

 遮る物も、邪魔になる物も無いとなれば、それぞれが馬を寄せて横並びになる。

 馬は駆け足から更に一段上げて疾走らせたが、それぞれ問題なく付いて来ていた。

 移動中に話し合わなければならない事もあって、それを分かっているユミルが、ミレイユの右側で並走させつつ顔を寄せてくる。

 

「それで、このまま『遺物』まで向かうってコトでいいのね?」

「あぁ、それが一番早い方法だと思う」

「早いは早いかもしれないけどさ。ここでも賭けに出るのは、どうかと思うのよね……」

「全てが上手く行く保障は当然ないが、悠長にしている時間こそがない。ルヴァイルが近々、神々同士の会議だか会談だかを行う、と言っていたろう。その時間と重なる形で事を起こせれば最善だ」

「まぁー……、それは望み薄ね……」

 

 ユミルが顔を顰めて言ったが、ミレイユとしても同じ気持ちだ。

 出来たら良い、というだけの話で、全く時期が重ならなくても問題ない。

 あくまで、その時と重なってくれれば、最大限の効果が期待できるというだけで、最初から大して期待もしていなかった。

 

「分かってる。そう上手く行かないだろう、という事は。だから、それは別に良いんだ」

「そうよね。詳しい日時を聞いているなら、それをアテに動く事も出来たけど……今更だし」

「だが、それぐらいは聞いておいても良かったな……」

 

 その情報を、今更出し渋るルヴァイルでも無かっただろう。

 悔やんでも仕方ないが、あの時間だけで全て過不足ない遣り取りを交わすのも不可能だった。

 後になって、あれを聞いておけば、という疑問は、実際幾つも湧いて出たものだ。

 

 だが、転移陣も書き換えられてしまったからには、どうしようもないと諦める他なかったし、密な遣り取りは漏洩が怖い。

 策略を得意とする神がいるからこそ、そこは慎重になるべきだった。

 

 そうとなれば、結局のところ聞きたい事も聞けず、ヤキモキしていただけかもしれない。

 ミレイユがそう結論付けていると、ユミルの後ろに乗っていたルチアもまた、顔を寄せて疑問を差し込んで来る。

 

「既に決定した事に、異議を唱えたくないんですけど……。でもやっぱり、不安には思うんですよ。どうして先に『遺物』なんです? ドラゴンに協力を取り付ける、というなら、交渉材料として持ち込んで、了解を取り付けてからの方が良いのでは?」

「ルチアの言う事は正しい」

「……ドラゴン? ……交渉?」

 

 アヴェリンの後ろで、不安そうな声を上げたアキラは無視して、ミレイユは話を続ける。

 

「知性を奪われている、という部分にも着目しなければならないだろう。最古の竜は例外的だというが、それも動物並の知性しかない他竜に比べれば、という話であった筈だ。果たして論理的な話し合いが出来るのか、そこに疑問を感じている」

「でもですよ、『遺物』へ先に向かうというなら、まず歪められた姿を正して交渉を持ちかける事になるんですよね? その状態で話し合いって成立しますか?」

「実際、そこが問題よねぇ……」

 

 ユミルは悩まし気に息を吐き、首を傾げて視線を遠くに向けた。

 

「最古の竜は知性を下げられたとしても、話し合うだけの知性を保持しているらしいじゃない。とはいえ、その状態でも問題なく話し合いが成立するかも分からないし。結局、どっちに転んでも賭けになるのは避けられないのよね」

「それに、感情の問題を忘れている。利がある、益がある、そういう話を持ち込んで、素直に頷くかどうか……。元の姿に戻してやるから言う事を聞け、なんて言ってみろ。それじゃあ、当時隷属を迫った神の論理と変わらない。反発は強まるだろう」

「あぁ……、それね……。互いに納得できる交渉内容でも、やり方が気に食わないって暴れそう……」

 

 まさしく、それがミレイユの危惧する部分だった。

 神々と敵対するから、奴らの住処に殴り掛かりたいから、その助力を頼みたいと願っても、素直に頷くものだろうか。

 

 元の姿を取り戻す条件をチラつかせた要求は、きっと彼らの神経を逆撫でする。

 それが分かるから、先に『遺物』へ向かう事に決めたのだ。

 

 何故と不思議がっている所に押し掛けた時、そしてそれをしたのがミレイユと分かれば――それなら、要求を聞き届けてくれる可能性も芽生える。

 

 要求し、条件を突き付けるより、マシだという判断だ。

 とはいえ結局のところ、ここでも賭けだ。

 どこまでも賭けに頼るしかないのだと、我ながら淡い期待に寄せる作戦しか浮かばない事を、不甲斐なく思った。

 



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目眩まし その5

 馬は駆け足のまま、一直線に遠く見える峻峰へと向かう。

 現在も神の目から逃れられているか、その確信が持てないのは辛いところだ。

 

 しかし、そうと信じて進むしかなかった。

 ユミルに掛けてもらっている幻術も、一種の願掛けみたいなものだ。

 対象を絞って本気で探そうと思っている目に、隠蔽の幻術はそれほど効果を発揮しない。

 

 遠くに離れれば離れるほど安心出来るか、と言われればそうでもなく、その道中発見される可能性は低まるものの、向かう先で見つかるなら意味はない。

 奴らとしても、姿を消したなら次は何処へ行くか、その予想を立てる筈だ。

 

 そうした時、『遺物』に視点を合わせるのは順当に思えた。

 そもそも、奴らは最終的に、ミレイユをそこへ向かわせたい、とする部分がある。

 

 『鍵』たるミレイユを、どう扱いたいかは神々の中でも割れているらしいが、使わせられるなら使わせたい、と思っている神もいるだろう。

 

 だから姿を消したなら、最優先でないにしろ、注目自体はする筈だ。

 そう予想できるからこそ、その隙を与えず、さっさと使ってしまうのが最善だった。

 

 ミレイユが考え事をしていると、横から刺さる様な視線を向けられている事に気が付いた。

 視線の主はアキラで、馬の背に乗る事にも慣れたのか、一定のリズムで上下する身体を、在るが儘に受け入れている。

 人間の緊張は馬へと敏感に伝わるものなので、その対応は正解だ。

 

 自分で自然と出来たなら大したものだが、思い返すと、アヴェリンから叱責と共に指摘されていた気もする。

 何れにしても、付いて来るのを認めた手前、何も教えずにいるのも偲びない。

 

 視線を向けるだけで詳しく聞こうとして来ないが、いつまでも一人、蚊帳の外にしておく訳にもいかないだろう。

 ミレイユは顔を前方に向けたまま、チラリと目だけアキラへ向けて、簡単な説明を始めた。

 

「これから向かうのはドワーフ遺跡だ。大神によって創られた願望機が、今もそこに残ってる。私達が現世へ渡るのに使用した物でもあるな」

「なるほど……。何でも願いを叶えられる、そういう機械があるんですか?」

「そうだな。クリアしなければならない問題は幾つもあるし、容易じゃないが……望みを言う者の力量によっても、叶えられる内容に上限があるようだ。何と言えば適切なのかは分からないが……、とにかく誰でも望むまま、思うがまま願いを叶えられる、便利な物じゃないのは確からしい」

 

 単に自慢できるだけの腕力や魔力があったところで、『遺物』の機構を満足させる事はないだろう。ルヴァイルから聞いた話は抽象的で分かり辛く、曖昧な部分も多い。

 

 だが、昇神させる事と魂の昇華が同一である、という説明を信じるのなら、より強い魂の力こそが『遺物』にとって重要なのだと推測できた。

 

 それを筋力や魔力の様に、分かり易く測定する手段がないから実感を持てないが、動力を神魂に頼るところを見ても、魂という部分に強く関連する物だという事も想像が付くのだ。

 

「なるほど……。レベル制限みたいなものですかね? 十なら十の、百なら百の、より高ければより良い願いを叶えられる、みたいな……」

「あぁ、それだ」

 

 現代で慣れ親しんだ者には分かり易い例えを出してくれて、ミレイユは内心で手を打ちながら続ける。

 

「動力となるエネルギーの調達も簡単じゃないから、やはり誰でも叶えられるものじゃない。アヴェリン達でさえ、非常に苦労するレベルの難題だ」

「そこまで、ですか……。それを、ミレイユ様はこれから使おうとしているんですか?」

「そうなる。だが、それを神々に勘付かれたくないから、こんな事をしている訳だ」

 

 あぁ、と頷いて、アキラは妙に納得した顔を向けてきた。

 

「その願いで、一網打尽にされたら困るからですか。神々をこの世から消して欲しい、とか。だから、ドワーフ遺跡に向かっている事すら、知られたくないと……」

「そうだな。とはいえ、一網打尽にする為に向かっている訳じゃない。それが出来たら、話はもっと簡単だったんだが……」

「そうよねぇ……。もうちょっと考えて、モノを言いなさいな」

 

 ユミルも会話に参戦して来て、アキラに呆れた表情を向ける。

 

「そんなに分かり易い一発逆転が出来るなら、神々はもっと慎重になるわよ。いつでも自分の首筋にナイフを突き付けられてる状況を、良しとする連中じゃないんだから。元より素体に関しては精神調整していて、そういう願いを考えないよう強制されているでしょうけど……。どちらにしても、昇神に適うだけのエネルギーじゃ、達成できないと見るべきでしょう」

「そう……なんですかね? 試すだけ試してみるのは?」

 

 ユミルは一度首を傾げ、考える素振りをしてから答える。

 

「分を超えた叶えられない願いで、エネルギーが消費されるとは思えないしねぇ……。言うだけなら良いと思うけど、……どうせ意味ないわよ」

「……そうなんですか。でもどうして、そんなこと分かるんです?」

 

 アキラの素朴な疑問に、ユミルは小馬鹿にする様な笑いを返した。

 

「連中は、馬鹿でも愚かでもないからよ。実際にどういう手段を講じているか知らないけど、……例えば、昇神と同時に名前を変えるのはどう? 願いの規模を考えると、神々という一律全てを一気に消すのは不可能だわ。そうすると、個人を指定するしかないんだけど、同姓同名の別人を避けるには、正しい名前を言う必要があると思うのよね」

「それがつまり、偽名を遍く広める事で回避できてしまう、と……」

 

 アキラはそれで納得したようだが、途中で挟んで来た声は懐疑的だった。

 声の主のルチアは、ユミルの後ろで顎を摘みながら言う。

 

「でも、世界的……あるいは世間的には、その偽名と結びついて認知されている訳ですよね。偽名と知らずにいようと、『遺物』の万能性とやらから、適切な方に結び付けませんか?」

「単に一例を上げてみただけだけど、それでも偽名は使ってそうだ、と思うわけよ」

「何故です?」

「カリューシーが名前を変えていたから」

 

 言われて思わず、ミレイユは唸る。それは確かな事だと思われた。

 カリューシーは昇神する前、神々の先兵として活動していた。

 

 素体としての力量を存分に発揮し、ミレイユが邸宅に残した神具を用いて、現在のデルン王国の祖を築いた。

 ――そう。デルン王国、である。

 

 当時を知るヴァレネオからも、初代国王の名前はデルンだと聞いていた。

 しかし、昇神するより前に姿を消し、その後はカリューシーという名前の、奏楽と創奏を権能とした神として顕現している。

 それを考えると、ユミルの主張は正しい事のように聞こえた。

 

「何もそれが絶対の真実だ、と主張するつもりはないわ。ただまぁ、そこに齟齬があるのは確かなワケじゃない? 万能性を持って補正するのか、万能性で真名があると知るから指定できないのか、そういう問題になりそうな気がするけど」

「それは……なるほど。だとすれば、あとは『遺物』が持つ優先順位の話になりますか。誰もがそれと認知していようと、真名でなければいけないというなら、対策として頷けるものがあります。……でも、それって何か根拠とかあるんですか?」

 

 ルチアが背後から覗き込むように問い掛け、ユミルは傾げた首を、今度は逆方向へコテンと向けた。

 

「……さて。でも四千年前、世界を何もかも根底から覆した時に、それをしていたとするなら、万全な対策になっていた、とも思うのよ。昔のこと過ぎて、アタシもどうだったか覚えてないけど、記録を残させないって部分は、案外そこにルーツがあるのかも……」

「文明を過度に発展させない為、というアレですか」

「真実を隠すには、それらしい事実で覆ってしまうのが有効なのよ。特にこれは、その真意を見抜かせない事に意味があるんだから、余計にそう思えてしまうのよね」

 

 だが結局、予想は予想でしかないのだろう。

 ユミルの表情にも核心に迫ろうというよりは、長い道中の時間潰し、思考実験程度にしか思っていない。

 それはルチアも同様だったろう。

 

 対策自体は間違いなく、そしてそれは『遺物』が叶えられない形となっているのは間違いない、とミレイユも考えている。

 十重二十重と策謀を巡らせる奴らが、くだらない安易な盤面返しを許容するとは思えないのだ。

 

「確かに、こんな事で盲点だった、と頭を抱える奴らじゃないのは確かだろうな。言うだけならタダにしろ……、やはり無駄だ」

「そうよねぇ……。ないとは思うけど、叶えようと動力を動かした結果、エネルギー不足になったら笑えないし」

「むしろ、そちらの方を懸念するな。端から無理と切り捨てられるより、叶えようと動いた結果、幾らかのエネルギーロスが発生してしまう事の方が問題だ……。それで本命の願いを叶えられなくなったら、目も当てられない」

 

 ミレイユが顔を顰めて言うと、同意しながらユミルは笑った。

 

「そうよねぇ。だったら、どうせ目のない願いを口にするのは、止めた方が良さそうよ」

「そうみたいですね……。すみません、余計な事を……」

 

 いいや、とミレイユは何でもないと伝えるように手を振った。

 

「何も知らない者からの、無垢な視線は時に新たな気付きを得られるものだ。本当に下らない質問ならともかく、思った事は自由に聞いて良い」

「そのお言葉で、気が楽になります」

「お前にはわざと、そういった情報から遠ざけていた所でもあるしな。もはや隠す意味もない」

「では、あの……僭越ながら、改めて一つ、お聞きしたいんですが」

 

 アキラがおずおずと聞いてきて、卑屈にも見える態度に眉を顰める。

 だが、自由に聞けと言った手前、今更態度が気に食わないから口にするな、とも言えない。

 とりあえず、聞くだけは聞いてみようと思った。

 

「あの……さっきはドラゴンがどうこう、と言ってましたけど、あれってどういう意味なんですか? 交渉とか言ってましたし、戦う訳じゃないんですよね?」

「それは……さて、どうなるかな」

 

 ミレイユは視線を遠くに向けながら思う。

 アキラが卑屈に見えていた理由が、それで分かった。

 

 強大な敵に立ち向かう事は覚悟の上でも、何を相手にするかは明確に知っておきたい、といったところだろう。

 気構え一つで善戦できるものでもないが、あるとなしでは全く違う。

 

 蹴り出された向こうにいるのが、トロールかドラゴンかでは、対応も変わる。

 聞かれた事を誤魔化したい訳ではないが、ミレイユとしても未知数としか答えられない質問だった。

 

 果たして知能を取り戻したドラゴンが、どう動くのかが見えない。

 ミレイユが知っているドラゴンとは、知性の乏しい、粗暴な動物、という印象だ。

 一つの縄張りに一つのドラゴンと決まっていて、複数が集まると獲物より前に、互い同士で争う姿を幾度か見てきた。

 

「これから会いに行くドラゴンは、取り分け……知能の高いドラゴンであるらしい。私が出向いて色良い対応をしてくれるか……、その自信はないな」

「戦う事を、想定しておいた方が良いって事ですね?」

「お前も知っている、蛇によく似たあの姿は、神々によって歪められた姿だ」

「えぇ……、奥宮が襲われていた時に見ましたね。想像と違って驚いたのを覚えています。それを師匠が打倒しているところも……」

 

 アキラがアヴェリンの後頭部へ、畏怖を込めた敬意の視線で見つめる。

 同時に、その中で挑むような感情も見て取れた。

 

 あの時は逃げるか避けるか、その二択しかなかった。

 だが、実力を磨いた今なら、もう少しマシな事が出来るのではないか、そう思っている顔だ。

 

「あの時見たのは、小物から中物といったところで、これから相手にするのはもっと大物だ。かつて、世界を焼き尽くそうとしたドラゴンがいた、という話をしたな」

「えぇ、冒険者も千人いて、その人達と挑んだと……。呆気なくやられたとも聞きましたけど」

「その千人というのは、お前も良く知る一級冒険者だ。二級と比べても隔絶した実力を持つ、一握りの最上級者達。それを千人集めた大連合だった」

 

 アキラがの顔が驚愕で歪む。

 今のアキラなら、第一級の位がどれ程の実力と価値を持つのか、十分に理解できるだろう。

 

 イルヴィの様な戦士は幾らでもいたし、その戦士を十全にサポートできる支援魔術士や、また後方から砲手の様に、魔術を雨と降らせられる攻勢魔術士が何百人も居たのだ。

 

「でも、それだけの人達が、あっと言う間に壊滅したって……」

「そうだな。それ程のドラゴンが四体いる場所に、これから向かう必要がある」

 

 その言葉を聞いた瞬間、小さな悲鳴と共に、アキラの身体がグラリと傾いた。

 



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目眩まし その6

 馬上からずり落ちそうになったアキラを、咄嗟に手を伸ばして肩を掴む。

 実力を付けた様に見えていたのに、肝心なところでは、気が小さいままらしい。

 

 だが少し肩を揺すってやると、すぐに自力で体勢を直した。

 気を取り戻すのは早くなったようだが、その表情には絶望に似たものが浮かんでいる。

 

「戦うんですか……一級冒険者千人が敵わない相手を。それも四体……正気ですか!?」

「必ずそうなる、と言いたいんじゃないしな。どれほど理知的に話せるかで、互いの対応も変わるだろうし……。つまり、行き当たりばったり、という話でもあるんだが」

「それ……、それ、本当に大丈夫なんですか? 今も世界の片隅で、大人しくしているのは、その姿だったり知性の低さを見られたくないから、とは考えられませんか? 下手に藪を突付く事になったりしませんかね?」

「へぇ……?」

 

 誰もがアキラが言った事に興味を示し、とりわけ感心した様子のルチアから声が上がった。

 

「それは確かに思っていなかった視点ですね。高い知能と知性を持っていたからこそ、現状の醜態を晒す真似はしたくない、という訳ですか」

「有り得ない話ではないかもねぇ……。でも、その内の一体が、どういう理由があったにせよ、辛抱堪らず飛び出した訳じゃない。そして、討ち取られもした。それならそれで、敵討ちだの復讐だのと、動き出す可能性もあったワケよね」

「……だが、実際には何も起きなかった」

 

 アヴェリンがそう結んで、ユミルは大いに頷く。

 

「不自然という程でもなし、深く考えた事はなかったけど……。かつての姿を自認しているなら――であればこそ、その姿を見られたくない、と考える事もあるかもしれないわね。最早、地上でかつての威風堂々とした姿を知る者はいないとしても、見られる事を恥と思うかもしれない」

「だからこそ、神々は元に戻す事を、交換条件として突き付ける事が出来た、か……。ならば、恩を売れると考えて良いのか?」

 

 ミレイユの独白にも似た疑問にも、ユミルは大きく頷いた。

 

「そうだと思うわ。とはいえ、仮定に仮定を重ねても仕方ないけどね……。それに、その恩が霞む程のコトも、アタシ達はしちゃってるワケだし?」

「そうだな……。それもそうだ」

「差し引きゼロ、となればマシな部類ですか」

 

 ルチアがそう言って息を吐き、難しそうに眉根を寄せた。

 その討ち取ったドラゴンが、彼らの中でどれほど重要なのかでも、話は変わってくる。

 

 よもや爪弾き者だったから仇討ちが起きなかった、とも思わないが、それならば仕方ない、と考えられる程度なら希望はある。

 結局のところ、頭から脚の爪先まで、賭けで動く場面は多い。

 

 ただ普通のサイコロと違う所は、出目を力業で変えてしまえる所にある。

 今回の件でも、ドラゴンに敵対されようと、一体を倒すことで恭順を迫れるかもしれない。

 

「……ひと当たりする事は、念頭に置いておく必要があるな」

「やっぱり、そうなりますか?」

「最大限回避できるよう、努めるつもりだが……。さて、どうなるものやら」

 

 ミレイユが前方に視線を固定したまま、嘯くように呟くと、アキラから感嘆の溜め息が聞こえてきた。

 

「世界を焼き尽くすと言われたドラゴンと、同格の相手が四人もいるのに、そんな余裕があるんですか……。やっぱり、一度は下した相手だからっていうのが大きいんですか?」

「お前は……」

 

 ミレイユは思わず白けた様な視線を向けてしまい、すぐに前方へと顔を戻した。

 短い草が広がるばかりの荒野には、視線を遮る物がない。

 

 遠くに見える山々へは、馬の健脚からしても近付いている筈なのに、全く全貌が見えなかった。

 ミレイユが見せた態度に、アキラは明らかに狼狽えた仕草を見せる。

 

 敢えて声を出して咎める必要はないと思ったが、小さな誤解は大きな歪みを生むかもしれない。

 アキラ自身、気楽な旅など全く思っていないだろうが、それはミレイユ達も同じなのだと、教えてやらねばならなかった。

 

「お前は私達が強者と見えているから、そんな事を言うんだろうが……」

「違うんでしょうか……?」

「いいや、それは事実だ。だが同時に、思い違いもしている」

 

 アキラが深刻そうな表情で、ミレイユの顔を覗き込むように見つめて来た。

 

「お前からすれば強い存在だが、私達は何も最強という訳ではないからな。さっき言ったドラゴンにしても、何か一つ間違えばやられていた。いつでも余裕の勝利ではなく、むしろ辛勝を拾っていたという方が正しい」

「そう……、だったんですか……」

「だから、今回も同様だ。誰も顔に出さないし、誰も何も言わないが、誰か一人は命を落とすかもしれない。全員、その覚悟で向かっている」

「はい……」

 

 暗闇の中であったも、アキラの顔色が青くなったのが分かった。

 迂闊な事を言った、と悔やんでいるだろう。

 

 辛い思いや苦労、死ぬ眼に遭うのは自分だけ、いつものように誰もが余裕で戦う、などと思っていたに違いない。

 奥宮で起きた死闘のごとく、ミレイユ達が鎧袖一触で猛戦を見せる傍ら、地を這い泥臭く戦うのが自分の役割、などと思っていたのではないか。

 

 それは余りに大きな思い違いだ。

 これより先は、何一つ楽な戦いがなく、そしていつだって死闘になると覚悟している。

 精々、道中の魔獣や魔物は楽が出来ても、いざ決戦が始まれば、そんな余裕が吹き飛んで消えると理解していた。

 

 彼女らは、それら全て織り込み済みの上で付いて来てくれている。

 感謝しようとしたら、それを侮辱と取られる程、互いに無くてはならない存在なのだ。

 

「誰一人、この道行を楽観している奴はいない。お前からすると、いつもと変わらぬ余裕を見せているように映るかもしれないが、単に腹を括っているだけだ。ここから先、勝てて当然、という戦いは存在しない」

「……申し訳ありません。ただ、言い訳するつもりはありませんが、いつだってミレイユ様達は、強者であり勝者でした。そのイメージが拭えなくて……」

 

 そんなところだろうな、とミレイユは独白する。

 アキラからすると文字通りの雲上人だろうし、その背は追うものであって、追い付けるものではないと思っている。

 何やらご大層な敵だろうと、今までと変わらず勝つだろうと思っていたのだろう。

 

「これまで詳しく説明する事もなかった所為だろうから……、それを咎めるつもりはない。だが、意識は改めろ。元よりお前は死も覚悟しているからもしれないが、それは私達も変わらない」

「はい、申し訳ありません。ミレイユ様達なら、どこまでもやれるし、残り越えていくと思っていました。僕は置いて行かれ、その背を見送るだけだと……」

 

 ミレイユはこれに返事する事なく、首を縦に振るだけで応えた。

 この中の誰かが倒れる事はあるかもしれず、そしてその時はきっと、アキラは背を追えない遠い場所に居る訳ではないだろう。

 あるいは、アキラが振り返る様な場所で倒れるかもしれない。

 

 だがそれは、敵と見定める相手を考えれば、決して可笑しな話ではなかった。

 アキラはすっかり萎縮してしまい、頭を下げて謝罪したきり沈黙してしまう。

 

 確かに迂闊な事を言わない限り、と言ったばかりだから、その迂闊さを呪って口を噤む事にしたのかもしれない。

 とはいえ、ミレイユからすれば咎めたい程のものではなかった。

 

 察しの悪いアヴェリンの弟子に、どうにかしてやれ、と視線を向けると、アヴェリンは顔を向けず背後へ向かって声を掛ける。

 

「お前は本当に、いつまで経っても察しの悪さは改善されんな。ミレイ様の御心に沿える様、努力しろ」

「はい、すみません……」

「だが、何も知らないからこその無垢な視点、という部分は評価されていた。迂闊な発言をしたからと口を噤むより、そちら方面で役に立て。次に馬鹿を言ったら、殴って止めてやる。だから何も言わず、案山子の役割で満足しようなどと思うな」

 

 不器用だったが、彼女なりの励ましは微笑ましい。

 右隣に視線を向けると、まずルチアと目が合い、互いに苦笑を漏らす。

 それからユミルへ視線を移すと、微笑ましいものと苦いものを見る、複雑な表情をしていた。

 

「何とも酷い顔をしているな」

「いや、だってあんなの見せられたら、そんな表情にもなるってもんでしょ。……相変わらず、師弟関係としては歪なもんよね。もっと気が利いたコト言えないのかしら」

「アヴェリンらしいだろう。核心も突いてるしな」

「最速、最短で突けば良いのは、武技だけの話でしょ。でも心の機微っていうのは、そういう風に出来てないのよね」

「そうかもしれないが、師弟間の中だけで通じるものもあるんじゃないか。アヴェリン達は、そう言ったところで、無駄を省いた話が出来ない気がする」

 

 ミレイユが勝手な推論を述べていると、左側から実に恐縮とした声音が向けられてくる。

 

「ミレイ様、聞こえているのですが……」

「それは済まなかった。だが、別に悪い事を言っていた訳じゃないだろう」

「そうかもしれませんが……」

 

 アヴェリンは言葉を濁して気不味そうに顔を顰め、アキラもまた何と返せば良いのか困った様な顔をしていた。

 互いにしか分からない部分と言ったが、むしろミレイユは、二人の関係を綺麗に見すぎていたのかもしれない。

 一つ助け舟を出すつもりで、アキラへ声をかける。

 

「だが、とにかく失言を恐れて口を噤む必要はない、と言いたかったんだ。かつてとは少し……、関係も変わったしな」

「それは……っ、恐縮です。ありがとうございます……!」

 

 アキラが顔を綻ばせた瞬間、調子に乗るな、という視線がアヴェリンのみならず、ルチアやユミルからも向けられた。

 それでやはり萎縮する事になってしまい、全員の視線から逃れる為に、わざとらしく顔を背ける。

 

 どこを見ても荒野しかない寂れた風景だし、夜という事もあって、気を紛らわせられるものは幾つもない。

だが、数秒の沈黙の後に、あっと声を上げた。

 

「……どうした?」

「いえ、そういえば、聞いてみたいと思った事を思い出しまして」

「……別に良いが」

「空の星って……あれ、星じゃないんですか?」

「また、ワケ分かんない、馬鹿な質問が飛んできたわね……」

 

 ユミルは呆れた顔に目を細め、溜め息を零す。

 ミレイユにとっては、言うほど馬鹿な質問に思えないが、何を彼女にそう思わせたのか不思議に思った。

 



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目眩まし その7

「あー……。一応聞くけど、敢えて馬鹿な質問をして、場の空気を緩めたかったとか、そういうコトじゃないのよね?」

「えぇ……その、はい。というより、そんな反応が返って来たのは全く予想外で……。そこまで変な質問しましたかね……?」

「したっていうか……」

 

 ユミルは生態を理解し難い何かを、観察する様な目付きで言う。

 

「何で今更、そんなコト聞いて来んのよ。そういうお遊戯的疑問は、もっとギルドにいる時にでもしてなさいよ」

「う……っ、すみません。いえ、一応聞いたんですけどね……」

「だったら話は終わりでしょ」

「待て、ユミル。空のホシとは何の事だ」

 

 ユミルは即座に切り捨てようとしていたが、そこへ珍しく口を挟んだのはアヴェリンだった。

 手綱を左手で握り、右手をだらりと垂れ下げたスタイルで乗馬している彼女は、不可思議なものを見る様に顔を向けている。

 ユミルは他愛もない事だと手を振り、それから上空へ向けて指を立てた。

 

「夜になると見える点の事よ。それをアキラ達がいた世界では、ホシって呼ぶみたいなのよね。何でそう呼ぶのかまでは知らないけど」

「何だ、そんな事か。単なる呼び方の違いだろう? 何をそう不機嫌になる必要がある。こんな場面で、子供レベルの疑問を聞いてきたからか?」

「そういうワケでもないんだけど……、何て言ったら良いのかしらね。まぁ、それで変に肩の力を抜かれて、癪に障ったっていうのもあるけど」

 

 アキラはそれで更に恐縮して肩を窄めたが、逆にミレイユ笑ってしまった。

 

「酷い言われようだな」

「でも、何となく分かるでしょ?」

「分からないでもないが、アキラの発想……というか疑問は、こちらの世界しか知らない人間には分からない事だろう。頭上に見える点は、空に付いた傷痕だと言われて、納得したりしないものだ」

「……何でよ?」

 

 ユミルが大仰に眉を顰めて尋ねて来て、ミレイユは意外に思ってしまった。

 彼女がスマホを持ってからは、現世の知識を貪欲に吸収していた。

 

 しかし、あらゆる知識や常識を身に着けた訳ではない。

 当然、知らない事も多岐に渡るのだろうが、星について何も知らない事は不思議に思った。

 

「ユミルの知識欲に、星の存在は食指が動かなかったか」

「動くもんでもないでしょ、空に付いた傷なんて」

「……あ、やっぱりそういう認識なんだ……」

 

 アキラの納得する独白に、ユミルはどうにも納得いかなかったらしい。

 どういう事かと睨み付けたが、口を噤んでしまったアキラは答えようとしない。

 

 それでお鉢がミレイユへと回って来た。

 視線から受ける催促のまま、ミレイユは説明を始める。

 

「私達、現世で生きた人間の常識だと、空にみえる点は傷痕じゃない。遥か上空に壁などなく、傷付く何かも存在しない。空の果て、その更に果てまで途切れる事なく続き、そして遠大な距離の先にある別の天体が、輝きを放っている。それが光点として夜空に映るんだ」

「まず、その天体ってのが意味不明だけど……。でも、本当に……? そんな事ある……?」

「証明する手段はないから、あるとしか言えない。アキラとしても、今のユミルが感じている様な気持ちになったんじゃないか。空に傷痕が出来ていると言われても、全くピンと来ないだろう」

 

 そう言ってミレイユがアキラへ顔を向けると、理解してくれた事に感謝する眼差しと共に、幾度も首肯が返って来る。

 ミレイユはそれから、ルチアへも話を振ってみた。

 

「ルチアはどうなんだ? 星については知ってたか?」

「いえ、私も知りません。ただ言われてみると、あちらの世界にいた時、空痕(くうこん)について疑問を感じたのは覚えています。配置であったり数であったり……。でも、世界が違うなら、そういう事もあるのだろう、と深く考えませんでしたね。それ以上に大きな違いは、幾らでも目にしてましたから」

「それと同じくらい、興味深いものもね」

 

 ユミルがそう言って笑い、次いで笑みを皮肉げなものへと変える。

 

「土の種類や木の種類が違うのだって、見てればすぐに分かるけど……。だからって、じゃあ何故違うんだ、名前は何というんだ、とはならないのよ。他に見るべき物が沢山あったしね」

「あぁ……、なるほど。その説明は分かり易い。確かに、わざわざ夜空に注目せずとも、見たくなるものは幾らでもあっただろうな……」

 

 ルチアの方にも目を向けると、賛同の色を濃く映した瞳で見つめ返された。

 それでミレイユも納得を深めていると、今度はアキラの方から声が掛かる。

 

「結局、どういう事なんでしょうか。あくまで天文学が発達していないから、誤解してしまっているだけなんですか? 空の上には壁があると」

「その上から目線は癇に障るわね」

「――いえ、決してそんなつもりじゃ……!」

 

 アキラが慌てて手を振ろうとアヴェリンから手を離し、そこで無様にもバランスを崩してしまい、慌てて腰に掴まり直した。

 その間抜けな姿も気に食わなかったのか、ユミルは鼻を鳴らして、諭す様に言う。

 

「……あのね、自分の常識がこちらでも通じる、なんて考えるのは止めなさいな。空の向こうの、更に向こうに何があるか知らないけど、デイアートの上空は透明な壁で覆われているのは事実なんだから」

「そう……なんですか? いえ、別にケチを付けたい訳じゃないんですが……!」

 

 ミレイユもまた、心の中でアキラに同意する。

 前提として、理屈に合わない、と考えてしまうのだ。

 この大地は象が支え、そして巨大な亀が土台になっていないと知っている。

 

 世界とは天体だ、という前提の元に成り立っているものだ。

 球体の形を取っていて、世界に端など存在しないと思っているが、このデイアートでは、そうと思えない部分も事実としてある。

 

 例えば、空に浮かぶ星が、瞬かない事などが挙げられる。

 いま空へ視線を転じてみても、満天の星空に瞬くものは見つけられない。

 そして何より、数が少なすぎた。これが現世の都心部で見られる光景だとしたら、そう不思議に思ったりもしなかったろう。

 

 だが、人工灯など一つもなく、照り返しなどで見辛くしているものもない草原だ。

 星が空を覆い尽くし、隙間すら見えない様に感じるほど、星々の煌めきが見えても不思議ではない。

 

 雲が薄っすらと見える事を除いても、都心部かそれ以上に確認できないのは、地球の常識では不自然なのだ。

 それにこの世界には、大瀑布という世界の端も存在している。

 

 東海の先には地平線全てが、その大瀑布という、地球を知っている身からすると有り得ない光景が広がっているのだ。

 巨大な河にではなく、海にそれがある、という事実が、ユミルの言葉を軽んじられない理由だ。

 

 ミレイユは、納得し辛い表情をしているアキラへ、なるべく柔らかい声音で声を掛ける。

 アキラも別に嘘を言っているとは思っていないのだろうが、日本で受けた教育が、納得を困難にさせているのだろう。

 

「私もかつては、そういうものだと深く考えたりしなかったが……。この世界を自分の常識と照らし合わせると、不思議な部分は幾つもある。その一つが本当に空に壁があるのだとしても、私は驚かないだろうな」

「確かに……、そうですね。魔力と呼べるものが、当然にある世界ですし」

「それを言いたい訳じゃないが、例えば東海の大瀑布。少々大地が隆起したぐらいで、起こる現象じゃない。その水はどこから来ているのか、またどこへ行っているのか、それも知られていない事だ」

「来ている部分はともかく、何処へ行くというなら、そのまま西側へ流れて行ってるんじゃ……?」

 

 アキラとしてはごく当然の答えだったろうが、それに対して答えを持たないのが、この世界だ。

 自然の脅威を神の怒りなどと例えたりするが、この世界では神が実在する。

 禁じられた事は調べられないし、それを遵守しなければならない。

 

 人の好奇心は止められない、という言葉もある。

 だがそれは、実害がない場合に限られる。実際に神がおり、罰が下るというなら止まれるのだ。

 

 同じように、大瀑布から流れた水は、大陸の西へ船を出さねば確認できない事だ。

 しかし、その船を出せない状況が、確認を不可能にさせていた。

 

「理屈の上ではそうだろう。東海に大瀑布があるのなら、西海にはそれとは逆のものがあると考えられる。そして落ちた水はどうなっているのか……? 結局、それも分からない」

「つまり、空の上も同様に分からないって事ですか? 僕は神々が闘争の際に傷付けたって聞いたんですけど……。分からない事だから、それらしい伝説を作った、とか……」

「そういう部分も、皆無ではないでしょうけど……」

 

 二人の会話に堪り兼ねたのか、ユミルが口を出して、眉を顰めた微妙な表情で言った。

 

「アタシは過去、上空で戦闘らしきものが起きて、その後に傷痕が残していったのを知ってるからね。ここから見る分には点でしかないけど、案外近付くと巨大な痕だったりするのかも」

「じゃあ、空の壁についても事実なんですか。おとぎ話や伝説で、そう語られているだけではないと……。それならそうと、言ってくれたら……」

 

 アキラは抗議めいた声を上げたが、ユミルは視線を空に向けて無視した。

 それは都合の悪い事を耳に入れたくない、というものではなく、思考に没頭するが故の無視だ。

 五秒程そうして視線を上向きにしていたかと思えば、不意に顔を戻して眉根を顰める。

 

「……考えてみると、確かに色々歪かもね。大瀑布の発生源は、勝手に神がやっていた事だと思っていたし、空の壁も神がやっているんだと思ってた。神って時々、下々の理解に及ばない事をやったりするから」

「それもまぁ……、事実だろう」

「けど、ルヴァイルの話を聞いた後で考えてみると、ちょっと感想変わるのよね。『世界の維持』って、何処から何処までを指すんだと思う……?」

「む……」

 

 考えてもみない事だった。

 現在、大神と名乗っている内の八柱は、言わば僭称と呼んで差し支えない。

 その地位にあった者を封じ、代わりにその名を奪って名乗った。

 

 しかし、名乗っただけでは同じ事まで出来ない。

 世界を創造した、真の大神の代わりをやろうとしていたと分かるが、どこまで同じ事が出来たものか……。

 

 そして、出来ていないからこそ、世界の終焉を招く事態になっている。

 『世界の維持』とは、その名の通り、天体を正しい形で維持する事を意味するのだろうか。

 

 特にミレイユはゲームという媒体からこの世界を知ったので、ファンタジー物の一種として、そういう世界もあるのだろうと軽く考えていた。

 現実的に存在し得ない地形だろうと、フィクションならば“幻想的”の一言で許される。

 だが、現実として眼の前にあるのなら――。

 

「そうだな、(いびつ)……。文字通りの歪であるかもしれない。この世界にはデイアート大陸しかない、という話もあるが……。海の先が分からないから、という理由ではなく……あるいは、そのままの意味で存在しないだけかもな」

「別に誰が困るって話じゃないから、他の大陸なんてどうでも良かったけど……。物理的に存在しない、って考えても良さそうね。空を奪った理由は、そこにもあったりするのかも。もしかしたら、世界の真の姿を知られたくないから、とか……」

 

 ユミルは懐疑的な声を出しているが、その目は核心に触れたと、主張するものだった。

 そしてそれは、ミレイユ自身もまた同じ気持ちだ。少しばかり、その内容で花を咲かせ、ルチアも巻き込んで議論を始める。

 すっかり話に置いて行かれたアキラは、ぽかんとした目でミレイユ達を見つめていた。

 



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目眩まし その8

ayuzaka様、誤字報告ありがとうございます!
 


「でもですよ、この世界が歪と言われても、具体的にどういう事なんでしょうか? それ一つだけ聞いても、今一ピンと来ないと言いますか……」

 

 ルチアが首を撚って尋ねて来るが、それは実際に確認しないと分からない事だ。

 それこそ、現世では可能世界論として知られていた、地球平面説の様な形であるのかもしれないし、実は全く違う形なのかもしれない。

 

 それがどういった形であるにしろ、ミレイユが知る様な球体ではないだろう。

 だがそれも、所詮、予想は予想でしかない。

 

「それがどういった形かは、今ここで口にしても、単なる予想大会にしかならないだろうな。だが、陸地が永遠に続かないように、海もまた何処かで途切れてしまう……という気はしているが」

「仮にそれが事実として、ですよ……?」

 

 ルチアは更に首を傾け、可愛らしい柳眉に小さく皺を寄せた。

 

「羊皮紙に絵を描いた様に、世界の四方がスッパリと途切れているとしましょう。それを見られたら神々は困るんですか? 大瀑布がある以上、全くの平面じゃないのも分かりますが、結局のところ、世界とはそういうものだと知られて終わりなのでは?」

「……確かに、比較対象がない以上、それが不自然とは思わないだろうな。どういう世界が広がっていようと、不思議と思いこそすれ、可笑しいと感じない気がする」

 

 冒険者が海の先へと船を漕いだとして、真実の姿を持ち帰えって広めようが、神々に不都合があるとは思えない。

 だが技術の発展に対し、監視を行い阻害している事を思えば、自分達にとって不都合になる事、なりそうな事を予め潰していると見る事ができる。

 

 小神の真実を隠し、その上で拝めさせている事を考えても、基本的に真実は別の事実で隠蔽する傾向があるのだ。

 ならば、大瀑布という事実の後ろに、何か別の真実が隠れていると考えて良い気がした。

 

「大瀑布は神々の住処を隠す為、辿り着けない安全地帯構築の為、そう思っていたが……」

「事実ではあるんでしょ。ルヴァイルもそう言ってた。……でも、それ()()じゃなかった、という話なのかもね」

「……意図的に隠したと思うか?」

 

 さて、とユミルは遠く東へと視線を向けた。

 ここからでは僅かに海面らしきものが伺えるだけで、大瀑布があるかどうかまでは見えない。

 しかし彼女の視線は、大瀑布より更に奥を見つめている気がした。

 

「あの時は詰め込む情報も多かったしねぇ……。何もかもを伝えるには時間が足りなかった。それは分かるもの」

「おや、意外に好意的なんだな」

「別に好いように思ってやってるワケじゃないわ。単に効率の問題でしょ。……時間には限りがあった、渡すべき情報は幾つもある。その中で、世界の()()()はそれらを差し置いてまで、伝えるべきものじゃなかった、っていうだけで」

 

 ユミルの言い分には、一定の理解が出来る。

 ルヴァイル達も、己の立場を危険に晒して姿を見せた。

 

 自分の行為が疑いの目で見られる事を承知の上で、敢えて渦中に身を投じた。

 抜け出す隙を見つけたからには、誤魔化す自信もあってやった事だろうが、絶対に安全という保障でやった事でもなかった筈だ。

 

 ミレイユの邸宅に長く留まれば、その時間だけ身を危険に晒す。

 伝えるべき情報には取捨選択があったのは当然で、そして世界の造形など、その場で敢えて伝えるものではなかった、という事なのだろう。

 

「それに、ルヴァイルはドラゴンを使えと言って来たんだ。戦力の一つとして、味方に付ける利を考えてのものだが、何より翼を持って急襲するメリットを考えての事だと思う」

「それを思えば……その気があろうとなかろうと、世界のカタチが見える事になるのかしらね」

「だからこそ、敢えて貴重な時間を割いてまで伝える意味がなかった、というだけの話か……?」

 

 ユミルは何気ない動作で頷いて、皮肉げな笑みを浮かべる。

 

「何より、アタシ達がそこに関心を向けるとは思わなかったんじゃない? あの時そんなコト教えられても、だから何よ、って言ってた自信あるし」

「それもそうだな」

 

 そう言って微かに笑い、ミレイユは小さく周囲を見渡す。

 相変わらず代わり映えのない光景だが、同時に魔獣や魔物の気配もなかった。

 

 幻術を使い夜闇に乗じて走っているとはいえ、馬が三頭、馬蹄で地を蹴り、巻き上がる土やその音までは消せない。

 それを不審に思い、匂いを探って何かが通過しようとしている様を、感じ取る外敵はいる筈だ。

 

 魔獣、魔物問わず、夜行性の生態を持つものは多い。

 今この瞬間も、岩陰に隠れて飛び掛かる隙を窺っていても可笑しくなかった。

 

「……しかし、何とも緊張感のない事だ。お前達が、周囲の警戒を疎かにするとは思ってないが……、一応逃げ隠れしている状況なんだがな」

「ただ緊張させているだけじゃ、疲れるだけだもの。馬を疾走らせているのも飽きるしね。大体、良い暇つぶしになったでしょ?」

 

 緊張感がない、と言った瞬間、アキラだけは背筋を伸ばしたが、それ以外は普段と何も変わらない。

 アヴェリンは言わずもがな、最初から警戒を解いたりしていないし、ルチアも魔力波形を最小限にした上で感知を継続させている。

 

 その上で見せる余裕だとはいえ、一つ躓けば全てご破産という状況で、するべき会話ではなかったかもしれない。

 自分から言い出して思う事ではないが、もう少し、いざという時に備えておく必要がある。

 

「確かに良い暇つぶしにはなった。今はもう、監視網からも抜け出せたと思っているが、再発見は時間の問題だろう。……だとしても、それは可能なだけ遅らせたい」

「その為の本作戦です。誰もが、それを理解しております」

 

 アヴェリンが代表して答えて、ルチアとユミルも続いて頷く。

 それから分かっていないアキラも、とりあえず周りに合わせて首肯していた。

 

「戦闘も極力なしだ。進行方向にいる敵なら、多少遠回りだろうが迂回する。そのつもりで警戒してくれ」

「――お任せを」

 

 アヴェリンが応え、ユミルも同意を示しながら肩を竦めた。

 ルチアも感知により強く意識を向ける為、ユミルの腰に手を回しながら目を閉じる。

 

 アキラも忙しなく顔を動かす様になり、ミレイユもまた前方に意識を向けた。

 樹海の様なものが近くにあれば、それを屋根代わりに姿を隠して移動したかった。

 

 しかし荒野の中に、木々はあっても森などない。

 それに森を移動する事は、荒野で移動するより多くの痕跡を残す事にもなる。

 

 そして何より、移動可能距離の差は歴然としている。

 あちらが立てば、の典型だし、何より選ぶ事さえ出来ないのなら、無い物ねだりと諦める他なかった。

 せめて敵の目が感知できれば、他にやりようもあっただろうに、再捕捉されたかどうかすら分からない状況は心臓に悪い。

 

 だが、ユミルが言うように、常に緊張していても身が持たないのは確かなのだ。

 一度見失ったと仮定するなら、夜明けまでにどれだけ消失地点から離れられるかが鍵だし、探そうと思えば明かりがなければどうにもならない、とも考えるだろう。

 

 どれ程の短時間でドワーフ遺跡まで辿り着けるかが、全ての明暗を分ける。

 その事は、アキラ以外全員が理解していた。

 だが同時に、これまでと纏う空気が切り替わった事は、アキラにも理解出来たようだ。

 

 端から見るとアキラは肩肘張った警戒をしているように感じるが、集中している分に文句はない。

 真剣な目で近付き通り過ぎていく障害物、遮蔽物がありそうな部分へ注視している。

 何かとアヴェリンと比べてしまうから頼りなく感じるが、アキラとてギルドの中で揉まれて確かな実力を付けてきた戦士だ。

 

 今はそれを信じよう、とミレイユも無言で警戒を続けながら馬を疾走らせる。

 暫く走れば、前方に魔物の気配を感じ取った。

 それに逸早く気付いたのがルチアで、それから一拍遅れて、アヴェリンとユミルも同時に気付く。

 

 それぞれから小さく声が上がり、ミレイユが左腕を振り上げ、進行方向から逸らす形で指先を向けた。

 左方向へ進路を大きく湾曲する形で変えると、唸り声を上げた魔獣が横に見える。

 猪形をして、立派な牙を生やした魔獣は、姿を確認できない事を不思議がっていた。

 

 だが、その大きな鼻は獲物を捉えているようで、それを鼻頼りに位置を探ろうとしている。

 頭上へ掲げるように鼻をヒク付かせていたが、その鼻先へとルチアの魔術を飛ばす。

 

「ピギィ!!」

 

 大きく広げていた鼻の穴が凍り付き、悲鳴を上げて仰け反った。

 初級魔術を使った以上、ダメージを与える事は最初から期待したものではなく、目的は別にあると分かる。

 

 魔獣を見れば、その鼻先を必死に地面へ擦り付け、取り除こうとしているし、そのる隙にミレイユ達は悠々と通り過ぎて行った。

 

 アキラも大きく息を吐いて、緊張を解く。

 叱責するつもりで目を向けると、何かを言うより早く意識を切り替え、また索敵へと戻っている。

 やるべき事は分かっていると見え、開きかけた口を閉じて、小さく笑む。

 

 その代わりとして、一応後方を確認する。

 追って来る気配もなく、安全距離まで引き離した事が分かると、再び進路を元に戻した。

 

 そういった事を何度も繰り返し続けていると、空が白み始めて来た。

 夜通し走って来た事になるが、遠くに見える峻峰を思えば、未だ到着は遠いと告げている。

 

 馬に乗り続けるという事は、存外に体力を消耗するものだ。

 実際に感じる疲れより尚、消耗は激しい。

 特に乗り慣れていないアキラは、絶えず続く上下運動に辟易する表情を見せているし、そろそろ休憩が欲しいところだろう。

 だが、ここは心を鬼にして告げねばならない。

 

「途中、小休止を取る事もあるが、基本的に移動を続ける。食事も馬上でだ。最低でも二日は保存食を齧って凌いで貰う」

「それは……! いえ、仰せのとおりにしますけど、僕らはともかく馬が潰れませんか?」

「見た目からして同じ動物だから勘違いしてしまいがちだが、馬とて魔獣の一種だ。現世の馬とは根本からして違う。魔力を扱う馬は、走るだけなら七日続けて行える。体力、スタミナの消耗、睡眠解消などは、魔術や水薬でカバーできるしな」

 

 ミレイユの返答に、アキラは顔を一瞬引き攣らせたが、すぐに表情を引き締めて頷いた。

 

「分かりました。それだけ時間が大事、という事ですね」

「お前も分かって来たじゃないか。ドワーフ遺跡がある峻峰の根本まで、まず大休止は取らない。馬に水を与える時間程度だ。相当な苦労を伴う……が、悪いな。苦労してもらう」

 



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遺跡へ向かって その1

 ドワーフ遺跡が眠る場所は、トラゥズムと呼ばれる峻峰にある。

 北の最果て、世界を隔てる岩の壁、と称される険しい山は、中腹より上は岩肌が目立ち、山頂には雪が積もっている。

 

一年中溶ける事のない万年雪で、どれほど離れていても、この白い山頂だけは目に出来る標高を誇っていた。

 デイアートに住む人々にとって、この山は灯台の様に親しみ深いものだ。

 

 反して中腹より下には草が生い茂り、木々が覆っているのも見える。

 人の手が入っている部分はなく、登山口となるようなものは見当たらない。

 ただ、なだらかに斜面が作られ、辛うじて歩いて行けそうな道なき道があるだけだ。

 

 この場に辿り着くまで、三日が掛かった。

 馬を預かり森を抜け、荒野を駆け抜け、一つ山を越え河を渡り、走り通しで三日の旅だ。

 宣言どおり、休止時間は短く、またその回数も少なかった。

 アキラは馬から降りる度、ガニ股になってぎこちなく歩いていたが、それは今なお継続中だ。

 

 アヴェリンを始めとした面々は、そうした無様は曝さないものの、流石に疲れは見えている。

 水薬でスタミナを回復させ、睡魔を退散させ、魔術で疲れを癒したとしても、無理が祟れば身体に支障を来たす。

 到着したばかりの今だからこそ、ここで一日休憩を取るつもりでいた。

 

 周辺に生えている木々は、背こそ高いが針葉樹林ばかりで、その樹木同士の間隔も広く、姿を隠すのには向いていない。

 しかし、開けた場所でキャンプをする訳にもいかないので、何も無いよりマシと諦めるしかなかった。

 これより先は、キャンプをするのに向いた場所など無い。

 

 かつて箱庭があった状態なら、箱を収めるスペース、どこかへ吹き飛ばされない場所さえ確保できれば、休息するのに困らなかった。

 しかし、ここからは断崖絶壁となる場所も随所にあり、その様な呑気を晒せる機会は存在しないのだ。

 休息できる機会はこれが最後と思って、しっかり疲れを取っておく必要がある。

 

「そういう訳だから、アキラ。馬に飼葉と水をやった後、逃してやれ」

「ここで逃がすんですか……」

 

 既に山の根本、その入り口にいるのだ。

 どうあってもこの先、馬に乗って移動は出来ない。

 

 だから、ここで離すしかないのだが、憂う顔からは何を思っているか想像がつく。

 これまでアヴェリンと共に馬の世話を任せていたので、いざ別れる時になって愛着が湧いてしまった、という事らしい。

 

 だが、馬の運用は辿り着くまでの事だし、到着と共に逃がす事は決定事項だった。

 道中の危険を思えば、魔物や魔獣の牙に掛かる危険は大きい。

 だが、それを踏まえての運用だったので、生きて帰れる保証はないが、時間短縮の為にと割り切って捨てるしかない。

 

「私だって捨てるに惜しくない、と選んだ手段じゃない。他に手段がなかったから、そうしなければならなかったんだ」

「……はい、分かっています」

 

 言葉では納得した台詞を言っているが、感情までは誤魔化せていない。表情にも出していないが、不満はありありと見て取れた。

 アヴェリンがその後頭部を叩くと、小気味よい乾いた音がして、アキラは頭を抑えて蹲る。

 

「ミレイ様が無慈悲でも無感情でもないのは、お前も良く理解しているだろうが。苦肉の中で、最良を選ぶしかなかったのだと理解しろ」

「そうよねぇ……。無慈悲というなら、証拠も後腐れも無くす為、殺したあと灰にして埋めてるわ」

 

 ユミルが残忍そうな笑みを馬へ向けると、アキラが盾になるよう立ち塞がる。

 明確に手を広げて庇う様なものではなかったが、その意図は明白だった。

 ユミルは軽薄そうに笑って、手を横に振る。

 

「何よ、しないってば。この子が逃がすって言ってるんだから、逃してあげるわよ。馬三頭が見つかる場所にも寄るけど、それでアタシ達の現在地が割れるとも思えないしね。……個人的には、確実性を取った方が良い、と思うんだけど」

「利用するだけ利用して、殺すというのは主義に反する。それが悪党ならまだしも、相手は馬だ……。魔物の餌になる可能性はあるし、無事に帰れる保障もないが、それは仕方ない」

 

 何もかもを解決できて、八方丸く収まる方法などなかった。

 見殺しにすると分かっていても、ここで放逐するしかない。

 だが、生き延びさせる可能性を上げる事は出来るかもしれなかった。

 

「……そうだな。せめて今晩、私たちのテント傍で休ませてやろう。飼葉も水も十分に与えて、休息も取らせれば、無事に帰れる可能性も高まるかもしれない」

「はいっ、ではその様に!」

 

 ユミルから反対意見や別案が出る事を危惧して、アキラは真っ先に返事をして馬たちへ向かう。

 元はアヴェリンの個人空間に仕舞ってあった糧食は、今はその半分以上をアキラが預かっていた。

 

 ミレイユはアヴェリンと顔を見合わせ微笑して、テントの張る位置を探す。

 木々の間隔は広いが、何処でも良いという訳にはいかず、馬も一緒となると、それなりの場所を選ばねばならない。

 その辺りは余程アヴェリンが弁えいるので任せるとして、残った三人は手持ち無沙汰になってしまった。

 

「普段なら火を熾す準備とか、まぁ色々あるんだけどねぇ……」

「どうしても火が必要という状況でなければ、許可できないな。こんな所で一本煙が上がる理由なんて他にあると思うか?」

「ま、そうよね。今日も熱い食事はお預けか」

「寒い場所では特に恋しく感じるが、我慢しろ。幸い、初級魔術で暖だけは取れるから、凍える心配だけは無いしな」

「別にそこはどうだって良いけどね、アタシは……」

 

 元より種族として寒さに強いユミルは、確かにそう思うだろう。

 ルチアは氷結使いだけあって寒さに強いが、やはり寒いものは寒いと感じる常識的な部分を残している。

 今もげんなりとした表情をしているが、それは寒さに対してではなく、干し肉を齧るだけの味気ない食事が決定したからだろう。

 

 ルチアの味に対する拘りは、相当に強い。

 ミレイユもそう詳しい方ではないが、少しのヒントで次々と調味料を作り出し、現世と似た味付けを作り出したのは彼女だ。

 何もかも足りない中で、香草を上手く組み合わせ、ミレイユの好む味を作り上げてくれた。

 

 それからというもの、ミレイユを満足させるというより、その味付けを自分で楽しむ為に、様々な料理を提供していた。

 そのルチアからすると、火も使わず携帯食料で凌ぐ日々、というのは相当に堪えるものらしい。

 

「……まぁ、ちょっとした悪夢ですよ。干し肉を細かく削って、口の中に放り込むしかないって言うのは、そんなの食事とは言いません」

「気持ちは良く分かるが……」

 

 ミレイユにとっても、現世の――とりわけ御子神として遇されていた時は、実に贅を尽くした食事を取っていたものだ。

 食材は勿論、調味料、香辛料も最高級、それを調理する料理人も超一流と来て、不味い料理が出来る訳もない。

 

 数ヶ月はそうした生活を送っていたのだから、ミレイユの舌もすっかり肥えていた。

 それもデイアートへ帰還してから、強制的に元に戻されてしまったが――。

 

「とにかく、今日の所は……いや、今日の所も、我慢だな。食事に限界を感じて火を焚き発見、なんて事になれば、泣くに泣けないぞ」

「分かってますよ、ちょっとの我慢です。これが終わるまでの」

 

 ルチアがそう言って力なく微笑み、ミレイユもそれに頷く。

 遠くでは、テントの設営場所を決めたらしいアヴェリンが、手を振って伝えていた。

 

 ――

 

 食事自体が味気ない物のためか、食事中の会話も味気ないものだった。

 これまでの旅疲れもあり、ようやく腰を落ち着けて座れる事で、緊張が外れてしまった部分もある。

 

 もそもそと肉の切れ端を口の中へ運び、食事も終われば、後は寝るばかりだ。

 交代制で見張りをするのも変わりなく、一切の明かりもないまま警戒を続け――そして、夜が明けた。

 

 ミレイユは鳥の鳴き声で目を覚まし、それからこんな所にも鳥はいるんだな、と場違いな感想を浮かべて起き上がる。

 テントから這い出し、冷えた空気を存分に肺へと送り込んで背を伸ばした。

 

「おはようございます、ミレイさん」

「おはよう、ルチア」

 

 そういえば、最後の見張りはルチアだったか、と未だ回らない頭で、ぼんやりとルチアを見つめる。

 一応毛布に包まっているが、テントの周囲はすっぽりと温暖な空気が流れていて、寒さは然程感じない。

 

 だがやはり、流れてくる風に長く当たっていると冷たく感じるので、それを考えての毛布だ。

 今はテントの前にいても冷たい空気が心地よい、と思っているが、更に何歩か前に出れば、そんな呑気な事は言っていられなくなる。

 

「ウッ……、ぐ……!」

 

 ミレイユが肩を回し、もう一度空気を吸い込んだ時、疼痛を感じて胸を抑えた。

 胸の奥から這い上がる痛みと連動する様に頭痛までしてきて、前屈みの格好のまま動きが止まった。

 

「ミレイさん……!」

 

 咄嗟にルチアが駆け寄って肩に手を回してくれるが、大丈夫だ、と小さく返答するだけで精一杯だった。

 呼吸一つの動作さえ痛みを伝えてくる気がして、一切の身動きが取れない。

 そうしている内に脂汗が浮いて来て、痛みに耐えて過ぎ去るのを、ただ待つ事しか出来なかった。

 

 細く呼吸を繰り返していると、次第に痛みも引いていく。

 胸の痛みが無くなると、頭痛も波が引くように消えていった。

 

「……ッ、はぁ……!」

 

 荒く息を吐いて、痛みの有無を確かめる。

 その動きで、一つの痛みも感じられなくなったので、幾らか安堵し息を吐いて、胸から手を離した。

 

「大丈夫なんですか、ミレイさん……」

「どうだろうな……。痛みはどんどん増している」

 

 ルチアに肩を抱かれ、手を引かれながら、ルチアが腰掛けていた倒木に座る。

 二人が座っても十分なスペースがあるので、同じ倒木にルチアも腰を下ろした。

 

「痛みの度合いも増しているんじゃないですか……?」

「そうだな……。少しずつ強まっている気がする。あと一年という時間制限も、果たしてどこまで信じたものやら……」

「汗の量を見れば分かります。貴女がそこまで苦しむ痛みというのは、ちょっと想像できません」

 

 ルチアはハンカチを取り出し額や首筋の汗を拭いながら、労しそうに目を向けた。

 

「私も少し、油断していた……。この身体はマナの生成を止めてくれないが、それでも際限なく絞り出そうとしてくる。生成量が少しずつ落ちているんだろうが、それでも構わず定量を取り出そうとする訳だ。それが痛みとなって伝わるらしい」

「刻印は逆効果でしたか……?」

「いいや、あれは無駄に垂れ流すしかなかった魔力を受け止める皿代わりになるから、有用には違いない。その魔力から、私の位置を検知できる可能性があるなら、対策しない訳にもいかなかったしな」

 

 ミレイユの呼吸も落ち着くと、ルチアもホッと息を吐いた。

 拭う汗もなくなって、それで身体を離していく。

 彼女の顔には相変わらず、心配そうな表情は張り付いているものの、過度な心配はして来ない。

 

「このこと、皆に言いますか?」

「言ったところで始まらない。短期決戦……そうだな、それしかない。元から完全な不意打ちと急襲、即座の決着を求めるものだった。分散して逃げられたら……追い付き、追い詰めるより先に、この身体が根を上げるだろう」

「ルヴァイル達のフォローがあるのでは?」

「勿論、ある筈だ。逃さないよう尽力してくれる筈だし、下手に合流もさせないようにしてくれる手筈だ。しかし、本気で逃げようとされたら、空を飛べる奴らは断然有利だ」

 

 逃してしまえば、奴らはミレイユの寿命が尽きるまで逃げ続ける事も出来るだろう。

 それは阻止しなくてはならない。

 これ程の短時間で、辿り着く事が出来たのだ。

 

 それを上手に使わなければ、これまで無理した甲斐もない。

 現状は、完全な不意打ちが可能な段階にいる筈で、そしてこれを逃せば二度目の機会は決して訪れないだろう。

 

 だから今目指すべきは、これまでそうして来た様に、これからも時間を短縮できる様に動く事だ。

 寿命が尽きるのはまだ先でも、満足に戦闘出来るのは、そう先の事ではないかもしれない。

 その機会を無駄にしない為、少しでも早い『遺物』への到着が必要で、そしてドラゴンとの接触が急務だった。

 



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遺跡へ向かって その2

 ミレイユが目標を固めていると、他の面々も起き上がり、テントから出て来た。

 朝に弱いユミルは未だに辛そうとしているが、それとは逆に起きた瞬間から意識を明瞭にしているアヴェリンは、ミレイユの様子に目敏く気が付いた。

 

「おはようござい――ミレイ様、もしや……?」

「大丈夫、何ともない。ただ少し……」

「おはようございます、ミレイユ様。あれ……、何だか顔色が悪いような……?」

 

 アキラにすら気付かれるというなら、よほど酷い顔色をしていたらしい。

 心の機微には疎い癖に、こういう所ばかりは鋭い。

 ミレイユは何でもない、という風に手を振って、携帯食料を取り出す。

 

「こんな食事ばかりじゃ、鬱屈ぐらいする。……顔に出ていたか?」

「え、えぇ……。まぁ……、そうですよね。食事は身体だけじゃなくて、心の栄養だとも聞きますし」

「あぁ、それは上手い例えだな。食事は時に、心を豊かにしてくれる」

 

 ミレイユは殊更笑みを浮かべたが、アキラはイマイチ納得していない様で首をひねる。

 アヴェリンへも顔を向けるが、当の彼女はその視線を無視して、テント傍に用意された倒木へ腰を下ろしてしまった。

 

 ミレイユの方をちらりと心配そうな顔は向けたものの、アキラに構うつもりはないと明確に示して、同じく保存食と水を口に入れていく。

 それでアキラもそれ以上の追求を諦めて、事前に配られていた食料に手を付けていった。

 

 無言の中、もそもそとした咀嚼音だけが辺りに漂う。

 手元ばかり見ていると滅入ってしまうので、ミレイユは視線を遠くへ伸ばした。

 針葉樹林に囲まれているとはいえ、木々の間から見えるものはある。

 

 視界の中に映るのは、花が殆ど見えない草木ばかりで、それ以外では荒野が遠くまで続くだけだ。

 荒れ果てた土地という訳ではないものの、注目に値する光景でもない。

 

 かつて旅を始めたばかりの頃、見るもの全てが雄大な自然と思ったものだった。

 朝の光で目が冷めて、こうした見るべき物もない光景すら、貴重でかつ美しいと感じられたのは、旅そのものを楽しんでいたからだろう。

 

 夢と希望に満ち溢れていた、というほど呑気な旅でもなかったが、何も知らず背負う物もないあの時は、実に気楽なものだった。

 心の余裕の有る無しは、見るものを別物に感じさせるのだ、と改めて知った。

 

 アヴェリンからの心配そうな視線を感じ、ミレイユは表情を取り繕って笑みを向ける。

 これから行う事を思えば、気弱に見えるリーダーなど不安要素でしかない。

 心配な気持ちは変わらないだろうが、ミレイユの意を汲み取って、アヴェリンもぎこちない笑みを返した。

 

 暫くすると、ユミルの頭も回転し始めて、益体もない会話が始まる。

 すぐ近くから馬の嘶きが聞こえて来て、アキラが断りを入れて離れて行った。

 食事や水の世話もこれで最後、居ても立ってもいられない心境らしい。

 

 僅かな間でしかなかったとはいえ、世話役を任されたとなれば愛着も湧く。

 それも単なる別れではなく、死別である可能性があれば尚の事だった。

 その背を見送り、食事も終わると、様々な片付けを始めねばならない。

 

 とはいえ、テントは一々解体するような手間がないし、やる事と言えば倒木を元あった場所に戻し、人がいた痕跡を消すくらいだ。

 地面を踏んだ跡がふんだんに残されているので、このままでは良い目印になってしまう。

 ユミルへ目配せすると、肩を竦めて最後の一切れを口の中へ放り込んだ。

 

「ま、いいわよ。手早く終わらせましょ」

 

 そうしている間に、アヴェリンは椅子代わりに使っていた倒木を、目立たない場所へ担いで行く。

 ミレイユとルチアは邪魔にならないよう、また新たな痕跡を作らないよう注意しながら、馬の元へ向かった。

 

「あぁ、ミレイユ様。こいつらも、水と食料を十分に貰って休みも取れて、随分元気になりましたよ」

「元より単なる動物とは違うからな。回復力も相応に高い。お前が心配する程、ヤワな生物じゃないぞ」

「それは……えぇ、そうなんでしょうけど」

 

 しかしアキラの心配は、そんな言葉一つで埋まるものではないらしい。

 今は既に轡や鞍が外されていて、縄で木に留めていたりもしていないが、馬たちはアキラの傍近くから離れようとしなかった。

 その懐いている様に見える仕草もまた、アキラが気遣う原因になっているのだろう。

 

「アキラ、馬に限った話じゃないが、牙を持たない魔獣というのは、戦う力が弱い代わりに逃げ足が速い傾向にある。馬については、更に走る事そのものが得意だから、早々捕まったりしない」

「そう……なんでしょうか?」

「確かに、魔物や魔獣を避けようとして、追いつかれそうになっていた事はあった」

 

 ミレイユの指示の下、そしてルチア達の報告から、戦闘を避けようと動いていたが、その全てを回避出来ていた訳ではなかった。

 時に追いつかれ、その度にアヴェリンがメイスで殴り付けて追い返したり、接近させまいと低級魔術で威嚇した事もある。

 また時には、何キロも後を追いかけられ続けた事もあった。

 

 その事実を知っていると、帰りの道中でも同じ事が起きると想像できるし、そして襲撃を受けた場合、退けてくれる者がいない事態を危惧しているのだろう。

 だが、それには根本的な思い違いがある。

 

「いいか、アキラ。そもそもこの馬たちは、大人二人分を優に超える重量を乗せて、走っていたんだぞ」

「あ……っ!」

「休みは少なく、常に疾走らされ、馬自身の好みとそぐわない方法で逃げさせられていた。そもそも長距離移動を目的としていたから、普段から体力を温存させて走らせてもいたんだ。だが、馬の全速力はもっと速い。大抵のものからは逃げ切れる」

「そう……だったんですね」

 

 ここでようやく、アキラの顔に笑みが浮かんだ。

 心配そうな表情は変わらないが、それでも生存の芽があると分かって、大分気持ちを持ち直したように見える。

 

「今はもう、十分な休息を得ているし、そこまで心配する必要はない。道中の危険についても、馬は理解している。同じ道を戻るなら、そうそう危険に近付いたりしない。とはいえ、水や食料の問題は依然としてあるから、安全な水場など知らない馬には、危険が多いのも事実だが」

「やっぱり、そういう部分はありますよね……」

 

 アキラが臍を噛む思いをしているのは、その顔を見て分かった。

 しかし、それは変えられないし、今更言っても詮無いことだ。

 

 アヴェリンが倒木を片付け戻って来たのを視界の端で捉え、ユミルの方も後処理はもう終わりそうだった。

 それでミレイユは、アキラを指で差し、それから馬に向かって弾くように動かした。

 

「ほら、逃してやれ」

「……はい」

 

 アキラは短く返事すると、馬たちを林の外へ誘導し、昨日やって来た方向へと歩かせる。

 道なき道を進んで来たし、草原には分かり易い目印などもない。

 ここから方向だけを頼りに帰るしかなく、馬にとっても良い迷惑だろう。

 

 ミレイユにも申し訳ない気持ちは僅かにあるが、これから行う事に比べれば些事に等しい。

 ミレイユは、馬三頭などと比べ物にならない程の重荷を背負っている。

 

 早くしろ、と手を振れば、アキラは馬の尻を強かに打つ。

 それで驚き悲鳴を上げて走り出し、三頭の姿はあっと言う間に小さくなった。

 

「……最後に馬がいた周辺を隠蔽したら、すぐにでも出発する」

「了解です。こちらも手持ち無沙汰ですし、ちょっと手助けしておきますよ」

 

 ルチアがそう言って杖を掲げると、頼む、と短く返事して山を見上げる。

 前回、現世へ帰還するの際にも通った場所だ。

 その時は急いでいた訳でもなく、また未知の場所とあって警戒しながら進んでいた。

 

 冒険者ギルドにも、この山に関する情報は少なく、どういった危険があるか分からなかった。

 魔物の分布状況は勿論、積雪はどの程度か、天候の乱れについても不明で、全て手探りで進むしかない状況だったのだ。

 

 登山ルートなど開拓されていないので、まずそこから考えて移動しなければならない、という困難も同時にあった。

 

 元はドワーフが住んでいたとはいえ、その姿を消してから久しく、遺跡に至るまでのルートは完全に消失していた。

 洞窟の入り口が無事だったのは奇跡の様なものだったが、神々の計画として『遺物』が必要不可欠である以上、仮に落石などで埋まったとしても直していたのかもしれない。

 

 ミレイユがどういうルートで進もうかと考え込んでいると、隣にアヴェリンが立った。

 

「……本当に、大丈夫なのですか?」

「あぁ、大丈夫だ。普段から痛みが出る訳じゃないからな。今日の痛みも久々だった。……だからあれは、ちょっとした油断だったな」

「それならば宜しいのですが……」

 

 アキラが二人の傍に寄って来て、それで会話が強制的に中断される。

 不自然な会話の途切れに疑問を感じた様だが、しかし自分に聞かせられない内容もあると理解しているから、特に何も言わなかった。

 アヴェリンがミレイユと同じ方向へ視線を向け、それから腕を組んで唸る。

 

「前回もそれなりに苦労させられた山ですが……、どうされます? 今回は箱庭もなく、天候が荒れた時に避難できませんが」

「元より時間を掛けられない旅だ。前回の経験を活かして、突破するしかないだろうな」

「確かに、何もかもが未知だった時とは違います」

「そうだ。今ならば、もう少し大胆に行ける。幸い、いま山の天気は快晴だ。一、二時間は、このまま維持されると期待して良いだろう」

「……もしかして、その二時間程度で山頂まで行くつもりなんですか?」

 

 不穏な会話を聞き取ってか、アキラがおずおずと会話に混ざって来た。

 今の内容を聞けば勘違いしてしまうのも無理はないが、そもそもとして、アキラは思い違いをしている。

 目的は遺跡へ入る事なのであって、登頂が目的なのではない。

 

 雪が掛かり始める中腹より上へ行く必要はあるが、そこからは山の内部へと入って行く事になる。

 そこからも先は長いが、天候の影響からは開放されるので、旅路は楽になる。その入り口まで辿り着ければ良いので、そういう意味で言った二時間だった。

 

 ミレイユはちらりと視線を後ろへ向けると、ユミルと合同で行っていた、隠蔽処理も終わっている。

 最早、ここで待機する理由もなくなった。

 立ち止まっている事は発見のリスクにしかならないので、早々に移動してしまわなければならない。

 

「いいから、お前は黙って後ろを付いて来い。そう酷い事にはならないから」

 



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遺跡へ向かって その3

ささきもり様、誤字報告ありがとうございます!
 


 いざ歩き出そうと足を踏み出して、ミレイユは唐突に動きを止めた。

 アヴェリンが咄嗟に庇う様に動いて来て、ミレイユは苦笑しながら手を振る。

 

「いや、そういう事じゃない。――ルチア」

「何でしょう?」

 

 ミレイユが後ろへ振り返りながら名を呼ぶと、ルチアは小首を傾げて見つめ返す。その手元へ指先を向けて、タクトを振る様に四角形を描いた。

 

「『氷刃』の解除を頼む。ヴァレネオに伝えてやってくれ」

「今からで良いんですか? もっと後でも良いんじゃないでしょうか」

「……そこは悩ましいところだな。だが、遺跡に辿り着いてからじゃ遅いと思う。彼らは森で待機していて、いつでも飛び出せる準備も済ませているだろうが、物理的な距離までは埋められない。行軍していく必要がある以上、半日以上は移動時間に使う事になる」

 

 ルチアは小首を傾げたまま、顎の下に拳を置き、斜め上を見つめながら言う。

 

「これから半日以内に遺跡へ到着して、『遺物』まで行こうって言うんですよね? そして、待機する事なく使用するつもりでいる。でも本来の目的って、『遺物』を使う事じゃなくて、そこから更にドラゴンと接触、交渉する事にあるんですよね?」

「その上、交渉だか説得だかを終わらせた後、神々に急襲するところまで視野に入れてるわよ」

 

 ユミルが横から口を挟み、そうして横目でミレイユを見た。

 

「入れてるんだけど……果たして、神々の目を逸らすタイミングとして、これは最適かしらね?」

 

 今更それを言うのか、という気持ちでミレイユは二人を見る。

 どのタイミングでその札を切るかは、ミレイユに一任されている筈だった。

 勿論、失敗は許されない以上、積極的な意見は歓迎するところだが、それなら言うべきタイミングはもっとあった筈だ。

 

 ミレイユも絶対の自信があって、このタイミングと指示した訳ではない。

 だから、意見そのものは有り難いのだが、移動するタイミングで議論をぶつけられても困る。

 ミレイユは一つ息を吐き出し、眉間に皺が寄るのを防ごうと指先で揉み込んだ。

 

「現状、私達が姿を消してから、未だ見つけられていない、という前提で話をする」

「いいわよ。あちら側が馬鹿しない限り、確認しようもないワケだし」

 

 ルチアも変わらぬ仕草のまま頷いて、ミレイユは続ける。

 

「森で姿を見失ったとはいえ、一夜明けても見失ったままだというなら、もう少し大胆になるものだろう。言葉を飾らずに言うなら、血眼になって探そうとする」

「そうかもねぇ……。神々の計画の中では、アタシ達はそろそろ森から出て、移動して貰いたいみたいじゃないの。目論見は複数あるらしいけど、何れにしても追い立てたいのは確かみたいね」

「だから森から出たは良いものの、そこで足取りを追えなくなると、困る訳ですよね? 躍起になって探そうとするのは確かだと思います」

 

 二人から賛同があって、ここまでは認識に齟齬がないと安心し、そして持論を開陳する。

 

「オミカゲにした様に、欺瞞情報も渡したいと思えば、何らかの形で接触は必須だろうと思う。それが一種の安全装置として働くのを期待している以上、勝手に居なくなって貰っても困るだろうな」

「そうよね……。いずれ『遺物』は使わせるつもりだろうと、そもそも今すぐ転移しようという発想自体がない。理屈を知らないと、現状使える状態にある事すら知ってる筈もないもの」

「でも、見つからないなら網を張ろうとしますよね。ミレイさんが行きそうな場所なんて、想像つくものでしょうか?」

 

 ルチアが身を捩る様にして首を傾け、難しそうに眉根を寄せた。

 当然、神々にミレイユが向かいそうな場所など分からないだろう。

 

 見失った地点から、行きそうな場所を類推するしかないのだが、それだって簡単な事ではない。

 何しろ、ミレイユが現世から帰還してこちら、向かった先はオズロワーナと森ぐらいだ。

 

「想像が付かないから、最悪を避ける為、網を張る事ぐらいはする筈だ。その内一つが、遺跡になるだろう。何も伝えぬまま、誘導出来ぬまま勝手に使われるのが、奴らにとって最悪のシナリオだ」

「あぁ、なるほど……有り得そうですね。でも、見失ってから、まだそれほど時間は経ってませんよ。網を張るにしろ、もっと良く探してからになるのでは?」

「それもそうだ。だが、神の目は一つじゃない事を考慮したい。見失ったなら、援護を求めるなり、何かしら対策を成すだろう。ただ、躍起になって探すだけじゃない筈だ」

 

 あぁ、とルチアは姿勢を直して頷いた。

 

「そうですね。十分、考えられる話です。そして、だからその目を一つ、『遺物』へ張り付けておく、という推測に繋がるんですね。だったら、陽動は早くても良い……」

「『遺物』を使った瞬間を見られないなら、尚ありがたい。そういう意味でも、デルンを攻める軍勢の中に、私が居ないか探してくれれば、良い目眩ましになる」

「なるほどねぇ……」

 

 ユミルが腕を組みながら、大きく息を吸って吐いた。

 

「切り札を使っちゃったら、後の急襲こそ見破られる可能性が出て来るけど……。ここでバレるのと、どっちがマシかって話ではあるわね。ドラゴンの方はともかく、この時点で潰されたら、そっちの方が拙いワケだし……」

「どちらにしろ、どこかで見つかるとは思ってる……が、ここでだけは避けたい。だから、今の内に切っておく」

「了解です」

 

 今度は素直に応じて、ルチアは個人空間から結界の中に封じられ、二つに割られた『氷刃』を取り出した。

 陽動は確実に効果を発揮するものでもなく、呼応されなければ全くの無駄になる。

 だが、今は最善と信じて動くしかなかった。

 

 ルチアが封印されていた結界を解くと、『氷刃』は煙のように消えていく。

 本来、魔術で生成した氷というのは、こういう消え方をせず瞬きの間に消失するものだ。

 それだけ異常な維持をされていた、という事なのだろうし、これならばヴァレネオ達も気付き易いだろう。

 

 アキラの方とちらりと見ると、複雑そうな表情をして、その様子を伺っていた。

 直接的な被害は都市部には出ないと説明しても、実際に戦争は起こるのだ。

 

 状況次第では幾らでも怪我を負う危険はあるし、心配するのは当然と言える。

 あちらとこちらで心配ばかりしていて気苦労が絶えないらしい、とミレイユもまた複雑な心境に陥った。

 

「ともかくも――、賽は投げられた。急ぐぞ」

 

 全員から応答があって、ミレイユは走り出す。

 アヴェリンがそれより前に躍り出て、壁役を兼任する。

 坂道を走るのは体力、筋力ともに負担となるし、登山で行う事ではない。

 

 だがそれは、情人にとっては負担なのであって、ミレイユ達が行う分にはジョギングと大して変わらなかった。

 誰もが当然と、ミレイユの背へ続く中、アキラだけが悲鳴によく似た声を上げる。

 

「は、走って行くんですか……!?」

「お前だって、走るのだけは得意だろう」

「有り難いお言葉ですが、山道を走るなんて想定してませんよ!」

 

 内向術士に限った話ではないが、魔術士は総じて身体能力が高いものの、筋力でそれを実現している訳ではない。

 だが、戦闘を生業としている魔術士なら、決して筋力の基礎訓練を疎かにしたりしないものだ。

 

 アキラも当然、魔力の練度を高めるに当たって筋力を鍛えているだろうから、魔力は扱えるのに体力がない、などという歪な魔術士になっていない。

 だから苦もなく、文句もなく付いて来ると思っていただけに、この反応は少々意外だった。

 

「お前はもう筋力じゃなくて、魔力を使って走れる様になっているんじゃないのか? 昔はともかく、今なら使う力の比重を魔力に偏らせて走れるだろう」

「それも言うほど簡単な事じゃないんですが……、そういう事ではなくてですね……。これ、結構高い山ですし、道中危険もあるんですよね? 目的地まで保つんですか?」

「その為に魔術を駆使するんだ。初級魔術しか使えないという枷があるのだとしても、やりようは幾らでもある」

 

 そう強気に宣言したとおり、ミレイユは全員に支援魔術を掛けていく。

 右手と左手を交互に使い、次々と新たな魔術を重ねがけしていき、身体強化、スタミナ持続を全員に行き渡らせた。

 

 これなら坂道も平地と同等とまではいかないが、それと似た負担にしか感じない筈だ。

 もっと上位の支援魔術が使えるなら、急勾配でさえ羽が生えた様な身軽さで移動できるのだが、それでも今は、これでも十分だった。

 

「身軽になったし、地面を強く蹴り付けても、骨に痛みが走ったりしないだろう?」

「おぉ、本当だ……。ありがとうございます、ミレイユ様! これなら……!」

「――喜んでいるところ悪いが、単に楽をさせてやりたいだけじゃなくてな……」

「え……?」

 

 言うなり、ミレイユはアキラを念動力で掴まえ投げ飛ばす。

 悲鳴を上げて坂道を凄まじい勢いで飛んで行き、それと同時にアヴェリン達も駆け上がる速度を上げた。

 ミレイユもそれに付いていき、殆ど並走するかの勢いで坂を登って、アキラが慣性に従い落ちてくるのを横目で見る。

 

 地面へ無様に落下する事なく、上手いこと着地して見せたが、平地と違って上手く慣性を逃がせない。

 前につんのめるより早く足を踏み出し、駆け出そうとしたところを、またも念動力で掴まえて投げ飛ばす。

 

「あぁぁぁぁ……!?」

 

 先程と全く同じ事の焼き増しで、悲鳴を上げながら飛び続け、今度は先程より余程スマートに着地した。

 今度はつんのめる事なく、むしろ慣性を上手く利用してロケットスタートを決め、ミレイユ達の速度に対抗しようとしている。

 

「あらま。やるわね、アキラも」

「まぁ、そろそろこちらの意図を汲み取れてくれないと困る。何だかんだと、長い付き合いなんだぞ」

「そうね。いつまでも、優しい対応してくれるとは限らないものね?」

 

 何しろミレイユ達は急ぐのだ。

 それなのに、わざわざアキラの速力に合わせてやる理由がない。

 無理させたところで出来ないというなら、相応のやり方で、強制的に同じ結果を生み出すだけだ。

 

 時に内向術士とは、その強い出力に耐え切れず、自身の体を痛めてしまう事がある。

 魔力の扱いが巧みならば、出力も損なう事なく運用するのだが、アキラには不器用さがある。

 

 平地の上ならアキラも上手くやっている様に見えたが、坂を駆け続けるという、非日常的な運用まで上手く出来ていなかった。

 

 だからこその支援魔術で、そして無駄を省く為に使った魔術だった。

 アキラからは抗議めいた視線が向けられていたが、今も必死にミレイユ達の速度に食らいつこうとしている。

 そしてそれは、実に上手くいっていた。

 

 もしも速度を落とすようなら――あるいは付いて来れないようなら、お手玉の様に同じ事を繰り返して持ち運ぶつもりでいた。

 アキラは追い詰められてから本領を発揮するタイプなので、最終的にはどうにかするだろう、と期待していたが、予想よりも早い対応に口角が上がる。

 

 このまま登っていく分には危険も少なく、警戒するべき魔物もいない。

 だが、速さを望むなら、大胆なショートカットも必要だった。

 

 そして、敵の腹の中――魔物の巣も通って行く必要がある。

 アキラを連れて行くにあたり、今なら丁度良く、その実力を確認できそうだと、頭の中で計画を練った。

 



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遺跡へ向かって その4

 登山口も無ければ、整備された登山道も無い山だが、足の踏み場があるという意味において、道はあった。

 単に歩きやすそうな場所を選び、獣道程度に道筋が立っていれば、そこを進む事が出来る。

 そうして、ひたすら上を目指して登って行くと、次第に山が雪化粧に覆われ始めた。

 

「流石に寒くなって来たな……」

 

 白い息を吐きながら、ミレイユは愚痴ではない小言を零す。

 登山用の装備を持たないミレイユ達だが、大抵の事は魔術で代用できるから、大した問題にはならない。

 

 初級魔術に限定して考えても、即興の寒冷地仕様対策は容易だ。

 標高の問題で草木すら見えなくなってくると、次第に山肌は岩と雪ばかりが見えるようになった。

 

 全体的に雪が覆われているとはいえ、ところどころ岩が露出しているものの、もはや道らしきものもない。

 既に岩肌の側面に出来た溝を、歩くようなものになっていた。

 

 左手は壁、右手は崖という、非常にスリリングな光景が目に入る。

 辺りをすっかり一望でき、空は青く、大地はどこまでも広がっている様に見えた。

 

 崖側面の道は大人が三人歩いてなお余裕のある道幅があるものの、強い風が直接肌をなぶり、安定感は皆無だ。

 ここまで歩いて来た道筋は、あまり記憶に残っていなかったが、ようやく覚えのある場所に出て、ミレイユは隠れてホッと息を吐いた。

 

 しかし対照的に、アキラはこの状況に絶句している。

 上空へ投げ飛ばされようと文句も言わずに付いて来た彼だったが、これを誰も文句を挟まない事態には、流石に黙っていられなかったらしい。

 

「この道を進むんですか……?」

「そうだな。以前は通った道だし、それ以外の道を知らない」

「でも、これを道とは呼ばないのでは……?」

 

 ぐずぐずと言い募り、足を前に進めようとしない事に業を煮やし、アヴェリンが背中を叩いて、自ら先に進む。

 

「歩ける以上、そこは道だ。さっさと歩け」

「あっ、し、師匠……!」

 

 我先にと、ずんずんと先へ行った、その時だった。

 頭上の高い部分に、はみ出してくっ付いていた巨大な氷の塊が、グラついたと思った瞬間、アヴェリンの頭上へ落ちようとしている。

 

 岩肌に不安定な状態でくっ付いていたのだろう。

 僅かな振動がそこに伝わり、呆気なく崩れたという事らしい。

 

 アキラは慌てて手を伸ばしたが、それより前にユミルが肩を掴んで後ろへ引っ張る。

 落氷は巨大で、民家程はありそうに見えた。

 それ程の体積を持つ巨大な氷だったが、アヴェリンが気合一閃、呼気と共にメイスを振り上げると、一瞬その落下と拮抗する。

 

 そして、一呼吸の間を置いて、ぴきりという引き攣った音が聞こえ始めた。

 直後に一本の筋が通り、氷の割れる音が鳴り響く。

 

 そうなると、そこからは早かった。

 あっという間に罅が全体へ行き渡り、真っ二つに割れて片割れが崖下へと落ちていく。

 

 もう片方は崖側へ倒れ掛ける様に落ち、その重い落着音は足を震わせる程の振動を伝えて来る。

 見掛け以上の体積があるようだし、また、今の衝撃で別の落氷を誘発しそうであった。

 

 雪崩が起きても不思議ではなく、足を止めていると次なる危険が襲って来るかもしれない。

 それを分かっているから先へ行くよう促すのだが、アキラはアヴェリンを呼び止めようと、手を伸ばしたままの格好で固まっていた。

 

 だが、彼女が何事もなかったかの様にメイスを一振りするのを見て、ようやく、その肩から力を抜く。

 

「流石、師匠……」

「まぁ、アヴェリンにとっては、あんなの障害でも何でもないでしょ。アンタも、その辺よく分かってそうなもんだけど……」

「いや、でも、あれはちょっと心配になる大きさでしたし……」

 

 そう言いたくなるアキラの気持ちも、少しは分かる。

 アキラがこれまで見て来た多くは、対人戦において無類の強さを誇る姿だった。

 身の丈倍以上の巨人や、ドラゴンと戦う姿も見ていた筈だが、民家以上に大きな落氷というのは、その感覚を麻痺させるのに十分なものだ。

 

 アヴェリンは道を塞ぎ掛けている氷塊を、メイスで雑に殴りつけて砕くと、それもまた崖下へと投げ捨ててしまう。

 道上には疎らに氷屑が散らばっているが、通行するのに支障はない。

 

 道は山肌の側面を、ぐるりと周回する様に続いている様に見えた。

 アヴェリンがミレイユに小さく頷いて来ると、ミレイユも先に進むよう指示して後へ続く。

 

 他の面々もそれに続き、そうして暫く進んで行くと、途中完全に道が欠けている部分があった。

 元より崖にできた出っ張りを歩いていた様なものなので、こうした欠損があるのは仕方ない。

 

「ちょっと、これを……、渡るのは……」

「何を怖気づいてるのよ、情けない。アンタこっちで冒険者して、それなりに修羅場潜って来たんでしょ?」

 

 アキラが崖下を覗き込んで、恐々と顔を引きつらせるのを見て、ユミルは呆れて息を吐く。

 ミレイユもついでに見てみたが、崖上から見えるものは、遥か下方にある地面だけだ。それも雪が風に攫われて視界を隠すので、正確な距離までは霞んでしまって分からない。

 

「いや、僕がやってきたのは魔物討伐であって、こんな秘境の地でアスレチックする事じゃないですし……!」

「我らについて来るという事は、危険を伴うと理解していたんじゃなかったのか?」

 

 アヴェリンは全く気に掛ける素振りもなく跳躍し、五メートル程の幅を飛び越える。

 危険の度合いや種類に違いはあっても、こういう類いとは想定していなかったらしく、腹の据わり方が悪い。

 

 凶悪な魔物、恐ろしい攻撃手段に対して度胸は付いても、こういった脅威に免疫がないようだ。

 培う機会がなかった所為だと思ってやる事もできるが、足が竦んで進めないなどと泣き言を聞いてやる暇はない。

 

「え、えぇ! それは勿論、そうなんですけど……!」

「だったら早く行け。行けないというなら、置いて行くしかなくなる」

 

 ミレイユが促すと、アキラは意を決して跳躍した。

 アヴェリンの時と比べると、ひどく危なっかしく見える跳躍だった。

 

 大きく踏み込み過ぎたせいでアヴェリンを大きく飛び越してしまったが、それでも着地は問題ない。

 それを見届けるなり、ミレイユ達も続いて渡る。

 

 邪魔にならないよう、先に着いた二人は崖側へ身を寄せ、そこへ全く危なげなく着地すると、ユミル達も続けて跳んで来る。

 それを見届けると、ミレイユは左肩を持ち上げる様な動作で、二人に先へ進むよう促した。

 

 アヴェリンが先頭に立って移動を再開するが、この様な場では、流石に走り出したりしない。

 それから少し進めば、崖は鉤型(かぎがた)に曲がっており、先が見えない形になっていた。

 

 慎重に道に沿って進んでみれば、今度は極端に道幅が狭くなっている。

 背中を壁に着け、横歩きしなければ進めそうにない。

 ――普通ならば。

 

「まぁ……、お約束だな。とはいえ以前は、こんな道なかった気もするが」

「時間と共に風化したり、或いは先程のように、氷塊が落ちた事で削られたりしたのかもしれません」

「なるほど、確かにそうだ」

 

 アヴェリンの推察に、同意しながら首肯する。

 かつて来た時より二百年の時が過ぎている事を思えば、もっと大きく様変わりしていも良さそうなものだった。

 今までは運が良かっただけで、これから先は道が途切れていたりするかもしれない。

 

 細い道を使わなければ、先程の倍では利かない距離を跳躍しなければならず、また向こう側は隆起していて着地点が高い。

 

 実際の距離以上に高く跳躍する必要があり、素直に壁を背にして行った方が良い様に思えて来る。

 しかし……。

 

「では、ミレイ様」

「うん、行ってこい」

 

 流石のアヴェリンも、今度は二歩の助走をつけ、三歩目で跳んだ。

 全く気後れもなく、何気ない動作で跳躍し、アキラは唖然としてその背を見送った。

 

 彼女が失敗するとは思っていないだろうが、同じ事を自分もすると想像すると、そんな顔になってしまうものらしい。

 だが、急ぐミレイユ達にとって、壁を背にしながらジリジリと移動するのは向いていない。

 

「次は、お前が行け」

「え……っ!? 僕としては側面の道を使いたいな、と……」

 

 ミレイユが促すと、アキラは驚愕する表情と共にこちらを見て来た。

 より安全な道があるのなら、無理してやる必要もない、と主張したいのかもしれないが、既に行動方針は理解している筈だ。

 

 目線で催促し、早く行けと顎を動かせば、顔を歪めて泣きそうな顔で崖へ向き直る。

 

「――だぁっ、らぁぁああ!!」

 

 気合いを入れる為か、それとも恐怖を紛らわせる為か。

 アキラは声を張り上げて飛び出したものの、その軌道では失敗すると、すぐに予想が付いた。

 

 元より、半ばそうなる気がしていたので驚きはない。

 ミレイユは念動力を行使して、落下を始めるより前にアキラを掴まえると、そのまま向こう岸まで投げ飛ばしてやる。

 

 無様な形で着地したものの、前回り受け身を取って事なきを得た……様に見えたが、視角の問題で姿が見えない。

 あちらでは何か喚いていたり、アヴェリンの叱責する様な声が聞こえて来て、思わず含み笑いが漏れた。

 

「どうする? 先に行く?」

 

 ユミルに尋ねられ、ミレイユは先に行くことを選んだ。

 残った者が誰であれ、アキラでないなら大きな問題にはならない。

 

 内向術士でなかろうとも、この二人ならそつなく跳んで来るという信頼感もある。

 ミレイユもまた、何の感慨もない数歩の助走と共に跳躍した。

 

 予想外に距離が伸びず、殆どギリギリとなってしまったが、これは風が原因だった。

 アキラの時も、突風でも吹いて勢いを大きく削がれたのかもしれない。

 

「……だとすると、後の二人も少し厳しいか?」

 

 後ろを振り返ると、丁度ユミルが飛んだ所だった。

 案の定、突風に煽られ失速し、崖より手前で落ちようとしている。

 それをミレイユが念動力で掴み取り、自分の近くへ持ってくる。

 

「ナイスキャッチ」

「そうだろう?」

 

 互いに笑みをかわしている所で、ルチアは魔力を制御しながら跳躍した。

 流石にあの状況を見せられて、何の対策も無しに跳ぼうというつもりになれなかったらしく、そしてその判断は正しかった。

 

 十分に魔力を練って跳躍した筈だが、ルチアは生粋の外向術士だ。

 こういった事には向いておらず、それでやはり強風に勢いを削がれてしまった。

 

 しかし、その時点で、ルチアは既に初級魔術『氷の槍』を作り出した上で、投てきしていた。

 僅かばかりに足りなかった距離は、崖に突き刺さった槍の柄を踏み台にする事でカバーする。

 

 少々危なっかしかったが、初級魔術しか使えない状況ならば、実に上手い対処と言えるだろう。

 満点とは言えないが、失敗してもミレイユが回収していただろうし、それを考えれば、やはり問題はなかった。

 

 ユミルが一歩どけた所にルチアが降りて来て、背後に振り返りざま、腕を一振りして氷の槍を消す。

 

「何と言いますか……。今更ながら、簡単には辿り着かないと実感しましたよ」

「そうだな。誰が整備するでも、登山しやすいルートを通っている訳でもないから、余計にそう感じる」

「……まだまだ、先は長いしね」

 

 同意しながら頷くと、アキラはげんなりする顔しながら、大きく息を吐いた。

 ミレイユがアヴェリンを促すと、アキラの頭を叩いて自らは先導を始める。

 

 この先も、道とも言えない道と、そもそも道ですらない場所を通る必要があるのだ。

 ミレイユも改めて集中し直して、アヴェリンの背を追い歩き始めた。

 



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遺跡へ向かって その5

 崖の道は、それからすぐに終わりを迎えた。

 進んでいた道は、途中で断絶して歩く事が出来なくなっており、その代わり大きな横穴がある。

 穴の中は暗かったが、更に奥では明かりが見えた。

 

 洞窟の中は、どこか天井が空いていて、そこから光が降り注いでいるらしい。

 それが分かるなら、例え行き止まりであったとしても、立ち往生という事にはならない。

 

 普通なら、その天井より上から杭でも打ち付け、ロープを垂らすなどしなければ脱出できないが、ミレイユ達ならばどうとでも対処できる。

 先に穴の中を覗き込んでいたアヴェリンは、一度ミレイユへ顔を向け、それからまた穴の奥へと向き直った。

 

「こちらしか道はありませんが……どこに繋がるのか、また続くものか、ハッキリしません」

「……そうだな。しかし、来た道を戻るにも、一体どこまで戻れば良いか分からない。ここを進んでみたいが……」

「問題は斜面です。非常に分かり難いですが、途中で下へ傾いています。正面に見える光へ、盲目的に進んでいたら足を取られていたでしょう」

 

 言われてよくよく調べてみれば、暗闇の中、確かに道は下へ続く斜面となっている。

 洞窟の奥ではなく、底へ続いているかもしれず、そして滑り落ちる先が、どこへ続いているかも分からない。

 

 正面に見える明かりだけを追えば、途中の斜面に足を取られ、そのままどこかへ運ばれる、という仕組みらしい。

 自然に作られたトラップとはいえ、中々に嫌らしい作りだった。

 

「この坂を無視して、正面の光に行けると思うか?」

「何とも言えません。斜面の更に先が、どうなっているかです。光が見える以上は穴があるのでしょうが、人が通れる程の大きさとは限りませんし……」

「近づいて見分するまで、分かるものでもないか」

 

 アヴェリンから同意の頷きが返って来るのと同時、後ろからユミルの不満を含んだ声がする。

 

「それで、どうするの? 以前使ったルートが、既に役立たずになっているなら、どこを行っても大して変わらないと思うけど」

「とはいえ、無謀に危険へ飛び込むのは、最も忌むべき事ですよ。多分、ここにいる冒険初心者でもそう言います」

 

 ルチアから視線を向けられ、アキラは目を白黒とさせつつも激しく首を上下させる。

 確かに、面白そうだという理由で危険に突っ込むのは、単なる馬鹿であって冒険者ではない。

 そして、危険だと分かって突っ込むのは、馬鹿を通り越して狂人だ。

 

「……無謀と言われようと、進むしかない。引き返した先に安全ルートがある、という保証だってないんだからな」

「それもまた、尤もです。安全に見えるルートが見つかるかどうかは完全に運でしょう。徒労に終わる可能性もありますから……ではまず、斜面に注意しつつ、正面に見える光へ向かえるかどうか、調べてみるとしましょう」

 

 アヴェリンがそう提案すると、ミレイユは頷いて先を促す。

 軽く腰を落としながら、万全の注意をしながら進んで行くと、アヴェリンが手を挙げて静止を促す。

 

「どうした?」

「ここから氷が張っています。鏡の様になっている厄介な氷面ですので、転べば後戻りできないと思われます。どうか、ご注意を」

「あぁ、分かった。……皆、聞いたな?」

 

 それぞれから了解の合図が返って来て、アヴェリンは歩みを再開させる。

 魔力というのは十全に扱える限りにおいて、多くの利便性を生んでくれるものだ。

 

 しかし、やはり出来る事と出来ない事がある。

 個人の特性で覆してしまうものもあるが、概ねはそうでありとされている。

 

 その一つが、こういった表面が滑りやすい場所での移動だった。

 砕いて進もうにも、下手に衝撃を与えれば落盤の危険もある。

 こうした場所での下手な力業は、自分だけでなく仲間まで窮地に落とす。

 

 そろり、と足を忍ばせる様に移動を続けていると、後ろからアキラの叫び声が聞こえた。

 そうかと思えば、ユミルも声を上げ、何事かと後ろを振り返った時には、衝撃と共に転ばされてしまった。

 

「何を……!?」

 

 転んだ時にはもう遅い。

 ユミルと身体が密着されて身動きは取れなかったし、何よりミレイユもまた滑り始めて、アヴェリンを巻き込んでしまっていた。

 

 ミレイユの声に反応したアヴェリンが受け止めようとしてくれたのだが、如何せん、鏡面の様に磨かれた氷の上では、僅かな拮抗だけが限度だった。

 結局全員がひと纏まりになって、坂道を滑り落ちて行く。

 

「何やってんのよ、このお馬鹿!!」

「すみません! 足が滑って……!」

「だから注意しろって言われたんでしょ!!」

 

 ユミルの怒号は止まりそうもなかったが、今はとにかく状況の回復が優先だ。

 滑り落ちる速度は、時が経つほどに増していく。

 

 アヴェリンも足を踏ん張ったり、両手を広げたりと悪戦苦闘してくれているのだが、一つの大きな質量となってしまった集団は、そう簡単に止められない。

 

 ミレイユもどうにかしようと念動力を使ったのだが、この質量を受け止められる程、岩の壁面は頑丈でなかった。

 掴み取って、その部分から動きを止めようとしたのだが、一秒さえ持ち堪えずボロリと崩れた。

 

 斜面はまるで、ジェットスライダーの様に曲がりくねって、下へ下へとミレイユ達を運んで行く。

 誰もが魔術だけでなく、身体中を使ってどうにか止めようとするのだが、今や滑り台となっている道もその幅は広く、掴める場所も見つからない。

 

 焦りばかりが募る中、ミレイユ達の横を、立ったままのルチアが余裕のある表情で並走していた。

 いや、走っているのではない。

 スケートの様に足底で、優雅に氷面を滑っているのだ。

 

 後ろ手に腕を組み、小石を蹴る様な仕草で、片足を上げる余裕すら見せている。

 意外な才能を、今更見せられた気持ちだが、とにかく今はこの状況を何とかするのが先だった。

 

「ルチア、これどうにか止められないか!」

「……止められますけど、止めてどうなるって問題でもありますよ。これからまた、来た道を這い上がるんですか?」

「それは確かに考えるだに億劫だが、このままという訳にも……!」

「いえ、いっそ終点まで行きましょうよ。誰か一人転んで、また底まで滑り落ちたら目も当てられませんし、回収するのも面倒です」

「あぁ、くそっ……!」

 

 ミレイユが悪態を吐いたのを皮切りに、ユミルが後ろを振り返って恫喝する。

 

「アキラ! アンタ、後で覚えてなさいよ!」

「ひぃぃ、すみませんんん……!」

 

 アキラが泣き顔で必死に弁明をしている時でも、ルチアはミレイユの横で見事な滑走を見せていた。

 魔術的というより、単純な身体能力とバランス感覚で為せる業だろう。

 最早どうにでもなれ、という心境だったミレイユは、その見事な滑りを間近で堪能していた。

 

 そうこうしていると、斜面の底にも明かりが見えて来る。

 小さな光がみるみる大きくなってきて、終点の行先も視界に入って来た。

 そこは大きな広場になっており、その地面に光が注いでいるようだった。

 

 この人数で、揉みくちゃにされた状態では受け身などまず不可能だろうな、と達観した気分で待ち構えていると、唐突にアヴェリンがミレイユを自らの胸へ掻き抱く。

 

「ミレイ様、失礼します!」

 

 その言葉を聞き終わるのと、滑り台が終わるのは同時だった。

 空中へと投げ出され、浮遊感を味わうのも束の間、地面へ投げ出されて何度も転がる。

 

 ミレイユはアヴェリンがクッションとなってくれたお陰で衝撃は殆どなく、また転がり続けた時も、その多くをアヴェリンが受け持ってくれてダメージもない。

 

 完全に勢いが消えたところで解放され、非常に疲れた気分で立ち上がろうとした時、その近くにルチアがふわりと着地した。

 フィギュアスケートの選手を、氷上の妖精と評したりする事があるようだが、彼女は正にそれだった。

 

 ユミルにも当然それが見えていて、アキラを蹴飛ばしながら立ち上がると、前髪を掻き上げながら、苛つきを抑えようともせずに吠える。

 

「随分と見事なお点前ですコト。アタシも次からは最後尾にするわ。上手く氷を滑れそうだしね」

「理不尽な怒りをぶつけないで下さいよ。それよりアレ、どうします?」

 

 ルチアが指を向けた方向には、魔物の姿が確認できた。

 全身を毛皮で覆われた人型の魔物で、イエティや雪男の様にも見える。

 

 厚い筋肉と脂肪を持ち、外皮を少々斬りつけただけでは傷にもなりそうになかった。

 そして実際、この魔物に少々の切り傷は全くの無意味だ。

 

 それをミレイユは良く知っている。かつてこの山を登った時にも遭遇した魔物だ。

 ミレイユ達はこの魔物相手に苦戦した記憶はないが、最初の一太刀を浴びせて意外に思った事は記憶していた。

 未だ倒れ込んだままでいるアキラを、ユミルが蹴り付けて顎をしゃくる。

 

「ほら、アンタさっさと行って倒してきなさいよ!」

「は、はいっ! でも、アレ何ですか。僕、知らないんですけど」

「とっても怖い魔物よ」

「もっと具体的に教えてくれても良いじゃないですか!」

 

 アキラが悲鳴を上げながら詰め寄ろうとするが、ユミルは全く取り合おうとしない。

 

「このまま益体も付かない会話を続けるか、魔物を倒しに行くか、どっちがいい? ――あるいは、殴られるでも良いけど」

「分かりました! 行きますよ!」

 

 アキラは半ば自棄になって、刀を抜きながらミレイユの傍を通り過ぎる。

 縋る様な視線を向けて来たが、肩を竦めるだけで何の助言もしなかった。

 

 あの魔物は冒険者ギルドにも登録がない筈だが、強さとしてはそれ程でもない。

 トロールの亜種で、極寒の環境に適応して毛皮を持ったり、より多くの脂肪を蓄えたりした様だが、攻撃方法まで変わったりしていなかった。

 

 北国で棲息する動物ほど、身体も大きく、体重も多くなる。

 それと同じ事は魔物にも適応されるらしく、かつてアキラが相手にしたトロールより強敵だ。

 体格だけでなく、相応に力も強くなっているが、今のアキラなら脅威とはならないだろう。

 

 ただ、脂肪の厚さからダメージは通り難いし、回復速度も通常個体より速い。

 ちまちまと斬り付けているだけでは、一向に倒せない敵だ。

 それを初見で、どのタイミングで看破し、そしてどう対応するのかを見る、良い機会だった。

 

 倒せて当然の敵という認識だから、誰も心配などしてないし、どの程度で倒せるかを注目している。

 

「ヴォォォォオオオ!!」

 

 威嚇の為か、雪トロールが大きく吠えて、アキラが刀を取り出し、抜き身を向ける。

 まだ距離があるから接近を止めてないが、その後ろ姿に気負いはなかった。

 

 それなりに場数を踏んだのは事実らしく、咆哮程度で今更怯んだりしない。

 そして本当の実力者なら、今の咆哮でどの程度の実力を持つのか、ある程度看破できる筈だった。

 

 値踏みする様に見つめていると、アヴェリンがすぐ傍に立つ。

 ミレイユは鷹揚に頷き、小さく手を挙げた。

 

「先程はご苦労だった」

「勿体ないお言葉! お身体の方は大事ありませんか……?」

「いや、そこまで気を使って貰う程じゃない。……これは強がりじゃないぞ」

 

 ミレイユは小さく苦笑する。

 わざわざ庇ってくれたのは有難かったが、そこまでされる状況でもなかった。

 空中で体勢を立て直せる可能性は十分にあったし、着地に失敗したところでダメージは無かったろう。

 

 随分、過保護な対応と思ったが、つまり最近見せ始めた痛みを気遣ってのものだったか。

 妙に腑に落ちた気持ちでアキラへ目を戻すと、アヴェリンも隣で腕を組み、つまらなそうに息を吐く。

 

「まぁ、アキラはあの程度、問題にしないでしょう。どうせなら、もう少し歯応えのある相手をぶつけたいですが……」

「そうだな。しかし……」

 

 ミレイユが考え込む仕草を見せた事で、アヴェリンは心配そうに顔を覗き込んでくる。

 

「……どうされました?」

「いや……。少し思い返していただけだ。ほんの少し前ならば、もっと評価は低かっただろうとな。あんな魔物でも、ミノタウロスよりは強い」

「それは……、然様ですね。確かにアキラはマシになりました。ですが、あれの本質は戦士ではない。最近、そう思う様になりました」

「そうなのか? ……いや、確かにアレは戦士というには、色々足りない部分が多い」

 

 アヴェリンが持つ戦士観とは、つまり自分の部族を中心とした考えだろう。

 それにアキラは当て嵌められない、と言いたいのなら分かる気がする。

 上達する意思はあっても、他を圧倒しようという気概が少ない。

 

 今も雪トロールに向き直っているが、戦う、挑む、という気持ちよりも、どう対処するかに重きを置いているように見えた。

 戦士ならば、まずこれを打ち倒す事に意識を向け、戦意高揚させるところだろう。

 

 アキラに、それがないのは確かだった。

 アヴェリンはアキラを戦士にしようと鍛え上げていたが、再会してからの姿を見て、何らかの心境の変化があったらしい。

 

「まぁ、とりあえずお手並み拝見だな」

 



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遺跡へ向かって その6

 アキラに気負いが無いのは良い事だ、とミレイユは腕を組んで見守りながら、感慨に耽っていた。

 少し前の彼なら、初見の敵にはまず及び腰だったろう。

 

 傷を負うこと、痛みを感じることは誰だって嫌だ。

 本来、生物が忌避することだから、それらの回避に重きを置くのは当然ではある。

 

 だが、戦いに身を置く者は、そこを克服してから始まりだ。

 それはアヴェリンの様な内向術士でも、ルチアの様な外向術士だろうと変わらない。

 特に繊細な魔力制御を必要とする外向術士は、痛みでそれを乱すなどあってはならないと戒めるものだからだ。

 

 アキラに気負いがないのは、その領域に立てるようになったからだろう、というのがミレイユの推察だった。

 内向術士が堅固な練度を身に着ければ、それだけ痛みにも怪我にも強くなる。

 自然治癒力も増すから継戦能力が強まり、泥臭い戦いだろうと、最終的に勝ちを拾える機会も増えてくるものだった。

 

「ヴォォォオオオ!!」

 

 再び、雪トロールが両腕を上げて吠えて来た。

 戦闘するのに十分な広さとはいえ、洞窟内では音が大きく反響する。

 想像以上の音量に、ミレイユが顔を顰めていると、雪トロールの背後から更に一体追加でやって来た。

 

「あぁ、威嚇につられてか、あるいはそれ自体が目的か……。仲間がやって来るのを待っていたのか?」

「上部の穴も気になるところです」

 

 アヴェリンが視線を向けるのにつられ、ミレイユもまた天井部にぽっかりと開いた穴を見つめた。

 ドーム状になっている天井は、反響させた音を外へ逃がす役目があるのかもしれない。

 声が外へ漏れ出る仕組みならば、より多くの仲間へ報せる効果があるだろう。

 

「長期戦は危険だな。元より長く待ってやるつもりもないが、手間取るようならこちらで処理する。お前も、そのつもりでいろ」

「お任せを。アキラの現在の実力を知る良い機会とはいえ、時間を浪費してまでする事ではありません」

 

 正しくミレイユの内心を見抜いて、アヴェリンは大いに頷いた。

 ルチアとユミルの二人は、アキラについては全く関心を寄せておらず、周囲に気配を配っている。

 

 ユミルは壁に手を触れたり、どこか抜け道でもないかと探している様子だが、一見した限りでは雪トロールが出てきた穴以外、それらしいものは見当たらない。

 

 ミレイユが意識を余所へ向けている間に、アキラは攻撃を開始していた。

 一足飛びに接近し、首を落とそうとしている。

 

 焦りすぎ、迂闊すぎ、という様に見えたが、アキラは敵の攻撃を掻い潜り、一体目の首を見事落とした。

 しかし武器を振り下ろし、無防備となった所へ、もう一体が腕を振り下ろす。

 強力な膂力と、爪先の毒はそれなりに厄介で、タイミング的に躱しようがない。

 

 だが、アキラは腕を降ろしたまま、肩を突き出す様に接敵し、そのまま攻撃を受ける事にした様だ。

 どうせ躱せないなら、という判断かもしれないが、その為に肩を差し出すのは、果たして得策だろうか。

 

「――ヴォッ!?」

 

 しかし、腕を弾かれ、逆に体勢を崩したのは雪トロールの方だった。

 硬質な音を立て、その攻撃を防いだのは、アキラの刻印だと一瞬後に気が付いた。

 攻撃を受ける直前のタイミングで使用したらしく、位置の問題で、その瞬間を確認できなかった。

 

 『年輪』は僅か一枚削れただけで、何の造作もなく、再び刀身を首へとめり込ませる。

 一太刀で斬り落とせず、中程で一度動きが止まったが、身体を捻る様に回転させて無理矢理断ち切った。

 

 切断面から血飛沫が上がり、身体に掛かるのを嫌がって距離を取る。

 雪トロールの身体は、重力に身を任せるかのように倒れ、細かな痙攣だけ残した。

 

 二つの首を落としたが、アキラは即座に刃を納めたりしない。

 油断なく死体を見つめ、急に起き上がって来ても対処できるように身構える。

 

 だが何事もなく、痙攣さえも収まると、それでようやく武器をしまった。

 ミレイユは感心したような気持ちで息を吐く。

 

 的確に弱点を見抜き、最短距離、最短手数で倒した。

 無謀で考えなしに見えた捨て身の攻撃も、自身の刻印を信じればこそか。

 

 アキラは拍子抜けした様な顔で戻って来たが、同時に何処か自慢げでもある。

 ミレイユの前に戻って来て、一礼して来たアキラに、ミレイユは疑問に思った事を訊いてみた。

 

「アレの特性を見抜いていたのか? 治癒力が高く、長期戦は不利になると」

「いえ、そういう特性があったとは露知らず……。手っ取り早く、首を落とせば倒せるだろう、と思っただけなんですけど」

「それも勿論、正解だが……。敵の特性を知らないなら、知る為に様子見をするものは、別に臆病じゃないからな。お前なら、まずそこから始めると思ったし、しないというなら知っていたのかと思ったんだが……」

 

 アキラは気不味そうに顔を逸して、それからゆっくりと首を振った。

 

「いえ、そういう訳じゃないんです。ただ、時間の事を仰ってましたし、何かされるより前に、首を落とせば済む話だろうと思いまして……。人型の魔物で、首を落とされても動いた例は聞いた事ないので」

「敵を知らずとも、踏み潰せるだけの実力差があるなら、それも正解だ。彼我の実力差を読み取れたなら、臆する理由がない。――刻印の方も、使い方が上手くなった様だしな」

 

 ミレイユにそのつもりはなかったが、手放しで褒めるような形になってしまった。

 アキラは赤面しながら恐縮し、ペコペコと頭を下げる。

 

 だが、それを黙って見ていられない人物がいた。

 アヴェリンは、アキラが後頭部を晒した時点で平手を落とし、威嚇するように睨み付ける。

 

「何を浮かれておるか。初見の敵だろうと、捻じ伏せる力があるなら、様子見が必要ないのは当然だ。だが、あんな危なっかしい対処方法があるか。爪に毒がある可能性は考慮したか? 『年輪』を破れずとも、粘液が飛び出しこびり付いて、視界が塞がれる可能性は? 肩を突き出すというなら、その要らぬリスクをわざわざ負ったという事だ。攻撃ばかりで他を疎かにし過ぎる。もっと良く考えて――」

「まぁ、その辺は今じゃなくて良いじゃないか。後で時間のある時にでも言ってやれ」

 

 ミレイユが苦笑して割って入り、手を振ってアヴェリンの説教を終わらせた。

 アキラは感謝の念を存分に含んだ視線で一礼し、それからアヴェリンにも謝罪の意味で頭を下げる。

 ミレイユが話を止めたのは、ここで説教に時間を使いたくない、というのも確かだが、まだ訊きたい事があったからだ。

 

「武器の方はどうだ。途中で刃が止まっていただろう? 切れ味に不足が出てきたんじゃないのか」

「それは……、はい。失礼を承知で申しますと、強い魔物に対して刃が立たない事もありました」

「元より切れ味について、強靭にしていなかったのだから当然だ。お前がそこまで強い敵と戦う事を、そもそも想定していない」

 

 アキラが武器を取った当時を思えば、一級冒険者が相手にするような魔物と、戦う機会などないと考えていた。

 良くても中級止まりが精々で、魔力を鍛えたとしてもそれ以上を相手にする機会はない、と思っていた。

 それは当時のアキラを知っている者ならば、誰もが当然の解釈と頷くだろう。

 

 今現在、渡り合えているのは彼の努力が実を結んだからだが、より大きな理由として、刻印の存在が挙げられる。

 実際の戦闘で防御を捨てて殴り掛かる、攻撃一点特化という戦法は普通取らない。

 可能かどうかは別にして、後の続かない攻撃方法は己の首を締める。

 

 だが、アキラは『年輪』を使う事で、本来やらない攻撃一点に集中して魔力を運用したからこそ、魔物を倒す事が出来たのだ。

 それでもやはり、一太刀で何もかも倒せるとはいかない。

 

 先程の雪トロールにしても、一体目は良かったが二体目では勢いの問題もあり、刃が止まった。

 直前に攻撃を受けた事で体勢に乱れが出て、無理して攻撃した結果だろう。

 

 攻撃を受け切れた事で、更に大胆にやれると思って、背中を見せるほど身を捩っていただが、それも本来するべきではない行為なのだ。

 

「アヴェリンはお前を戦士として見なくなったそうだ。私も今回、改めて見て実感した。確かに、……お前は戦士に向いてないのかもしれないな」

 



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遺跡へ向かって その7

「え、それって……」

 

 アキラが顔を曇らせたのを見て、ミレイユは苦笑しながら、ぞんざいに片手を振る。

 

「勘違いするな、戦力外通告をしたくて言ったんじゃないぞ。武器を振るうのを止めろ、と言いたい訳でもないんだ。ただ、お前はその気質からも、攻撃より守りの方が向いている気がした。分かり易く言うと、阿由葉より由衛の攻撃スタイルだな」

「そ、そういう事ですか……」

「元より剣術を習い、アヴェリンからも攻勢のスタイルで仕込まれて来たから、今更すぐに変えろと言われても困るだろうが……。武器にされた付与の事もあるし、もっと防御に寄せて考えても良さそうに思う」

「な、なるほど……」

 

 アキラは今更ながらに自分の両手を見つめて、深刻そうに眉根を寄せる。

 彼からしても納得できる部分はあるのかもしれないが、同時に今更それを言われても、という気持ちも湧いてくるだろう。

 

 だが、かつて期待して渡した訳ではなかったのに、今となってはその武器が、アキラと非常に相性が良い物となっている。

 それを思えば、アキラに求める役割も変わって来る。

 

「武器……うん、そうだな。……刀の事も考えれば……尚更、防御に身を置く方が向いている気がするんだが。どう思う、アヴェリン?」

「確かに、仰るとおりかと。元より攻め手として、私とまでは行かずとも、せめてユミルに比肩する様でなければ使えません。そこまで到達出来ないとなれば、守りとして運用するのが最適かと」

 

 ミレイユに恭しく礼をして、それからアキラへ挑むような目付きで睨み付けた。

 

「お前を攻撃役として使う分には不安しかないが、守護役としてならまだ期待できるものがある。お前の武器は、その頑丈さあってこそだしな」

「……えぇと、褒められてるんですよね?」

 

 アヴェリンは重々しく頷いて、それからアキラの胸元辺りを指差す。

 

「お前に下賜された刀は、二つの付与がされている、という話をしたのを覚えているか」

「はい、勿論です。一つは不壊、もう一つはいずれ、という話でした」

「そのいずれが、いま訪れたと考えろ。今更もう、たかが付与一つで浮かれたりしないだろうからな」

「驕られる立場になんてないと、よく理解してますから。それに、これから立ち向かう相手がどうであれ、油断も慢心も出来ないって誰より分かってますし」

 

 アヴェリンは二度大きく頷いてから続ける。

 

「そこは今更、確認する必要がなかったな。……とにかく、二つ目の付与についてだ。その効果は『魔力収奪』。斬り付けた相手から魔力を奪う」

「それはつまり……」

 

 アキラは眉間に皺を寄せる。

 それの意味するところを、自分なりに考えて発言しようと、必死に考えを巡らせているようだ。

 

「致命傷を与えずとも、魔力を枯渇させてやる事で、戦闘不能に持っていけるという事ですか?」

「そうだ。そもそも、傷を与える必要すらない。産毛一本損なえずとも、武器が当たれば奪ってしまえる。相手の総量次第では、武器を振るうのを止めなければ、勝てる可能性は残される」

 

 魔物にしろ、魔術士にしろ……魔力を全て吐き出した時、例外なく昏倒してしまう。

 それはどれだけ鍛えても覆せない、原理の部分だ。

 

 内向術士はそもそも魔力を外に出すという感覚がない為、実感し辛いだろうが、仮にその半分も消費すれば倦怠感が圧しかかって来る。

 

 体力以上に身体能力の低下も見込めるから、更に追い詰められる可能性は高まるだろう。

 刃が通らなくとも、魔力を奪えるという利点を考えれば、傷付ける以上に意味ある行為だ。

 とはいえ、そう何もかも簡単にはいかない。

 

 何度も斬られてくれる酔狂な者などいないし、接近されるのを嫌がる魔術士は、その対応も良く心得ているものだ。

 何としても近付けまいとする相手へ、上手く接近する技術も必要になる。

 

 アキラは個人空間から刀を取り出し、感動の面持ちで見つめているが、そこへアヴェリンがその懸念を口にしていく。

 そして話を理解するにつけ、アキラの表情も固くなっていった。

 

「最初に一度斬り付けられ、それで即座に気付かない者もいるかもしれない。だが、二度目はないだろう。魔力を奪われると知れば、必ず接近させまいと汎ゆる手を使う。場合によっては、枯渇させられるより前に逃げ出す。お前の刀は、手傷を負わせる以上に価値ある一刀となるかもしれないが、近付くのはより困難になる」

「攻め下手の僕には難しそうです……」

「だが、お前は諦めたりしない、そうだろう? 必要があれば――ミレイ様を守る為とあらば、避けようと躱そうが、敵に食らいついて行く筈だ」

 

 アヴェリンが自然の理を口にする様に言えば、アキラは力強く頷いて言った。

 

「勿論です。自分の一太刀が通じなくとも、諦める事だけは絶対にしません。食らいつくのにも、宿した刻印が大いに役立ってくれる筈です!」

「そうだ、その刻印だ。先ほど言った魔力の収奪とは、奪うだけでなく吸収できる事を意味する。お前が己の死を厭わず、果敢に斬り掛かる限りにおいて、刻印の使用制限を無視して戦えるだろう」

「もしかして……、ミレイユ様が前に言っていたのって……」

 

 アキラが身体を震わせながら見つめて来て、ミレイユは無言で肩を竦めた。

 この付与は手傷を与えたかどうかではなく、付与された物に触れたかどうかで発動するので、切っ先が掠るだけでも問題ない。

 

 敵へ斬り掛かるのではなく、フェンシングの様に当てる事だけ考えても、倒すことが出来てしまう。

 知能の低い魔物相手ならば尚有効で、逃げ回りつつ回避のついでに、小さく斬り付けていれば、いずれ勝ちを拾う事も可能だ。

 

 それも一つの戦術だとは思うが、最初から頼れば癖になる、というアヴェリンの助言の元、二つ目の付与内容は伏せる事になった。

 当時のアキラは魔力を持っていなかったから、吸収効果は全くの無意味だったろうが、奪う方一つだけでも意味は大きかったろう。

 

 トロールの様な魔力の少ない相手ならば、一度触れるだけで、その半分程度は持っていける。

 総量の半分も急激に失えば、貧血と似た症状が起こり、立ち眩みを起こすかもしれない。

 無防備な姿を晒した敵は、その隙に攻撃出来ていただろう。

 

 だが、それで武技が磨かれる事はない。

 苦戦している時こそ、尚のこと頼ろうとするだろう。

 危機的状況を自力で覆す、という対応戦術も磨かれないし、その胆力も身に付かない。

 

 もしも当時、それを教えていたら、今のアキラが形成されていたか、と言われれば疑問な所だ。

 彼の反骨精神は、いつもギリギリの戦い、ギリギリの勝利の末に作られたものだ。

 それを思えば、アヴェリンの審美眼は大したものだった。

 

「ダメージを与えられるかは別として、敵に斬撃が入ったなら、お前は刻印の効果を消失させる事なく、継続させる事ができるだろう。盾役としては、むしろ理想だ。刀で攻撃を受けても、やはり収奪は出来るからな。刻印の効果が残っているなら、捨て身で一撃与える事にも意味があるだろう」

「なるほど……。維持がより簡単になる、と……」

「敵の攻撃をその身で受ける前提なら、一撃加える事も難しくないしな。だが、遠方から魔術を雨の様に降らして来る相手なら、この戦法は全く成り立たない。更に泥臭く、上手くやる必要があるだろう」

 

 そう言って、アヴェリンは付与効果と刻印を組み合わせた戦術を伝授し、口を閉じた。

 アキラは感じ入った様に刀を両手で捧げ、ミレイユに改めて頭を下げる。

 

「今まで、この刀に恥じない剣士でいようと努力を続けて来ました。改めて、貴重な武器を下賜して頂き感謝いたします」

「そう畏まるな。アヴェリンに提案された時、二つ目は死蔵されたまま伝わる事はない、と思っていた。アヴェリンに認められる日はきっと来ない、と……。感謝するなら自分にしろ。自分の努力に、でも良いが」

「いえ、それならやっぱりミレイユに感謝します。僕が努力出来たのは、ミレイユ様がいてこそです。そのお役に立ちたいという目標があったから、努力できました。最初の自分とその狭い範囲だけ守れれば良い、という目標のままなら、絶対無理でした」

 

 その言い分には一理あるように思えたので、とりあえず頷いておく。

 いずれにしても、戦士としての本分を伸ばすより、守衛として活かすべき、というアヴェリンの判断があったから、解禁された付与効果だ。

 

「最後の護りはアヴェリンじゃなく、お前か。……それはそれで面白い」

「こ、光栄です……! 必ず最後に立ちはだかる壁として、お役に立ちます!」

 

 アキラが感極まって一礼した時、近くからユミルのくつくつとした笑い声が聞こえてくる。

 既に周囲の壁を調べるのは終わっていたらしく、ことの成り行きを見守っている様だった。

 早く終われとでも思っていそうな、斜に構えたポーズでアキラを見ている。

 

「それが本当に、単なる壁にしかならないってのが笑えるけどね。けど、頑丈なだけマシかしら。攻撃役は足りてるしね」

「それを言われると……えぇ、でも……はい。でも、ミレイユ様のお役に立てるのが、何より嬉しいです」

「そうみたいね。本人たちが満足してるなら、それでいいわ。アンタはゾンビみたいに、とにかく防御なんて考えず斬り掛かる事を考えなさい。折れず曲がらず、屈せずに、ね。そうすりゃ、他が何とかするわ」

「はい! 必ず、そうしてみせます……!」

 

 ユミルは鼻を鳴らして顔を背け、向けた先にはミレイユがいた。

 そこへ皮肉げな笑みを浮かべて、雪トロールが出てきた穴倉を示す。

 

「良い機会だからと色々話しちゃったのは良いとしてもさ、そろそろ行かないと、結構時間使っちゃったわよ。他に抜け道らしきものも、壁の向こうに空洞らしきものもなかった。行くなら早い方が良さそうよ」

「そうだな、遅れを取り戻さなければならないな……」

「それだけじゃないですよ」

 

 ルチアが口を挟み、穴倉の更に奥、それから横へと視線をずらす。両手に持った杖を胸の前で抱くように掲げ、目を閉じながら言った。

 

「威嚇の咆哮は、遠くの仲間を呼ぶ意味もあったみたいですね。追加の一体だけでなく、より多くの敵が近付いて来ています。この奥がどうなっているか分かりませんが、集まり方が奇妙です。もしかしたら、すぐ近くに外へ続く穴があるのかも……」

「何故、そう思う?」

「集合の仕方が四方から一直線でありつつ、ある地点から接近して来ないからです。細い道を曲がりくねって移動している感じでもありません。そして、位置がこちらより高い。それが左右へ列を為す様に点在しています」

「高所からの待ち伏せ……かしらね?」

 

 ユミルが首を傾げつつ言うと、ルチアは瞳を閉じたまま首肯する。

 

「そうだと思います。使ってる魔術が低級なので、これより詳しい事は分かりませんが、敵は利口で(したた)かです。これらが集合しきる前に移動してしまう方が良いですよ。もしかしたら、数が揃うのを待って、それから攻めに転じるつもりかもしれませんし……」

「なるほど……、良く分かった。遅れを取り戻す以上に、ここから手早く移動してしまおう」

 



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遺跡へ向かって その8

てね様、誤字報告ありがとうございます!
 


 ルチアが言ったとおり、穴倉の奥へ進み、右へ曲がれば外へと続く道があった。

 雪トロールならば屈まないと進めない高さの穴倉も、ミレイユ達ならば余裕を持って走っていける。

 

 洞窟の外では今も魔物が集結している最中かもしれず、時間も魔力も無駄にしたくないとあっては、攻撃の準備が整う前に突破してしまいたい。

 

 洞窟内に魔物の気配はないので、全ての敵が洞窟から出て来るミレイユ達に備えているのかもしれなかった。

 現在見える範囲、そして洞窟内に幾つもある横穴から魔物の姿は確認できないが、ルチアからは外にしか居ない、と強く太鼓判を押された。

 

 魔物が集結していて、その数を今も増やしているのは事実かもしれないが、とはいえ蹴散らす事は容易い。

 そもそもとして、彼らの縄張りと――恐らく、その寝床を荒らしたのはミレイユ達だ。

 

 一方的に非があるのは自分たちで、彼らには襲うだけの理由がある。

 だが、素直に襲われてやるのも、それの対処で更に時間を取られるのも嫌だった。

 

 暫く進めば、洞窟の出口へはすぐに辿り着いた。

 横道があっても、ルチアが警戒してくれているので足を止める必要もなく、たいして時間は掛からない。

 

 暗闇に慣れた後だと、日光の照り返しで輝く雪は目に痛い。

 敵の位置は漠然と理解しているし、実力的に見て奇襲も怖くないとはいえ、わざわざ目が潰れた状態で行くのは嫌だった。

 

「今の内に外を見て、目を慣らしておけ。特にアキラ、お前は他の者より気配を読むのが下手だしな」

「う……っ、了解です。……必ず御身をお守りします!」

「別に今から、そこまで気張らなくて良いぞ。私も守られるだけの、か弱い存在じゃないし……何よアヴェリンという関門を抜けてからが、お前の出番だ」

「あぁ、はい……そうですよね。師匠を倒すのも、回避するのも簡単じゃないですし……」

「大体ね……。アタシ達だって、黙って見ているだけじゃないからね」

 

 ユミルがおどけて言うと、ルチアも肩を小さく竦めて頷いた。

 実際、アキラの出番というのは多くないし、それほど求められてもいない。

 防御については見所があるし、武器との相性もあって期待できる部分はある。

 

 敵が複数でやって来ようと、このチームの牙城を崩すというのは容易でない。

 アキラは役どころを与えられて奮起しているが、そもそもの機会は多くないだろう、というのがミレイユの見解だった。

 だが、それを馬鹿正直に言って戦意を奪う気はない。

 

「……とにかく、雪トロールについては避けて行く方針だ。しかし、取り囲んで襲って来るつもりなら、そうも言ってられない状況もあるだろう。だが、前提として逃げる事に専念しろ」

「了解です」

 

 アキラが意気込んで頷き、他の面々からも同じく頷きが返って来たのを確認して、洞窟の出口へ身を寄せて行く。

 先頭で警戒するアヴェリンが、洞窟の出口から顔だけ出し、問題なしと判断してハンドサインを送って来た。

 

 そのまま、するりと身を滑らす様に外へ出て、ミレイユもまたその後に続く。

 それでようやく外の全貌が分かったのだが、一本道が真っ直ぐと奥へ続き、その両端には目算五メートル程の崖がそそり立っている。

 

 道幅は十メートル程と、二車線道路と同じくらい広さがある。

 ルチアの言う、集合している魔物については確認できないが、この分だと崖の上で身を隠しているのかもしれなかった。

 

「ルチア、敵は崖上に居ると見て良いのか?」

「……その様です。身を隠していますね。どういうつもりであるかは分かりませんが」

「待ち伏せしてるんじゃないの?」

 

 首を傾げ、疑問を声に上げたのはユミルだった。

 ルチアは困った様をさせて、腕に持った杖を抱き、目を瞑って集中する。

 

「そこが判断の難しいところでして……。待ち伏せするなら、ある程度固まっているんだと思うんですよ。私たちが一定のポイントへ進んだところで飛び降り道を塞ぎ、そして後方にも同じ様に降りて来る。そういうつもりであるなら、前方と後方とで、まとまった集団を作ると思うんですよね」

「だがつまり、そうじゃないと……」

「えぇ、崖に沿って点在しています。ある程度、間隔もあいてますね。それぞれが、バラバラになって飛び降りて来るだけとも考えられず……」

 

 その点については、ミレイユは疑問を覚える。

 こうまで段取り出来る、知能ある相手だ。

 

 待ち伏せが有効と理解している相手が、その後の運用を間違えるとは思えない。

 陸に棲むトロールもまた見掛けによらず馬鹿ではなく、油断させて騙し討ちする知能は持ち合わせている。

 

 それを踏まえて考えると、果たして不意打ちする程度を精々と見るか、それとも挟み撃ちを戦術的に展開できないだけと見るべきか迷う。

 深く思考を巡らせようとした瞬間、ユミルの呆れた声で引き戻された。

 

「ちょっと難しく考えすぎじゃない? 別にどういうつもりだろうと、踏み潰して進めば良いじゃないの。現状、時間こそを重視したいんでしょ?」

「そうだな。慎重、安全を優先するほど、大した相手じゃなかったか……。罠があろうと、人間ほど巧みじゃないのは確かだ。対処も容易い」

「冒険者なら絶対取らない方法ですね、それ……」

 

 アキラが引き攣った笑みで、控えめな批判をして来た。

 確かに冒険者は、もっとリスクを勘案した作戦を練る。

 待ち伏せがあると事前に分かったなら、相手がどうあれ足元を掬われないよう、万全を来たすものだ。

 

 完封勝利できたものを、どうせ大丈夫だろう、という慢心で崩す事を嫌う。

 なにより、手傷を負わずに済ませるのは大原則だ。

 街の近場で雑魚退治というならともかく、誰の助けも期待できない山奥での移動となれば、リスクはどこまでも低減しようとする。

 

「潜って来た修羅場の数が違う、と言えばそれまでだが……。お前も慣れろ。私達を、普通と同じように考えるな」

「いや……、そうですね。冒険者の普通を、持ち込むのが間違いでした」

 

 アキラが妙に達観した顔をして頷く。

 一本道を通らず崖上を移動するのも一つの手か、と見上げてみたが、すり鉢状になっていて上手く登るには苦労しそうだった。

 

 更に天辺付近は鼠返しの様に大きく突き出て、登攀を防ぐような作りになっている。クライミング技術が相当に高くなければ不可能に思えた。

 

 地形を破壊して、無理にでも登るのは可能そうだが――。

 崖があって見辛いものの、その更に奥がどうなっているのか分からない。

 

 些細な衝撃で氷塊が落ちて来た事は記憶に新しい。

 雪崩が起きる事も警戒せねばならず、付近の積雪状況も分からないのに、不用意に衝撃を与えたくなかった。

 

 ならば無理を通して、直進した方が良い。

 そうして、警戒しつつ道を走り進めていると、頭上からけたたましい声が上がった。

 

「ヴォォォォオオ!!」

 

 その一声が上がるや否や、身を隠していた雪トロールが一斉に立ち上がる。

 そうして岩だか、氷だか分からないものを投げ付けてきた。

 手の平サイズの岩だが、雪トロール準拠の手の平なので、大きさも相応にある。

 

 人の頭ふた回り以上大きな岩が、次々と投げ込まれてきて、ルチアが素早く対応して結界を展開、上部を保護して防いでくれた。

 自分達の周囲を囲むタイプではなく、壁を作って傘のように使っている。

 移動を阻害せずに防御する為、機転を利かせた魔術行使だ。

 

「あらあら……。勝てないと悟って、遠距離攻撃に絞って投擲しようっていうのは、まぁ賢い選択だと思うわ」

「なるほど、だから点在か。私達を殺したいというより、追い返したいから、あぁいう作戦か」

「それなら乗ってあげましょうよ。皆殺しにしてやる時間だって惜しいんだし?」

 

 ユミルの物騒な言い分を聞き取ったからではないだろうが、投擲攻撃の勢いが更に増した。

 時に角度の問題で傘から逃れて届く岩もあるが、その尽くをアヴェリンが撃ち落としている。

 その背中に、ミレイユはゴーサインを投げかけた。

 

「いいぞ、突っ切れ」

 

 それを合図にアヴェリンが駆け出し、その後をミレイユ達が追う。

 アヴェリンは傘からはみ出る形になるが、全く問題はない。

 

 自分に降りかかる攻撃くらいなら、難なく打ち落とせる。

 それに幾ら勢いのついた投擲とはいえ、魔力を練り込んだ一撃でもないので怖くない。

 

 間違ってもミレイユの方へ弾けない、と注意しているからやり辛そうだが、投擲攻撃それ自体はものともしていなかった。

 数多の投擲を物ともせず、ミレイユ達は風のように一本道を疾駆する。

 

 攻撃も長く続くものではなく、雪トロールたちを置き去りにして奥へ奥へと進んだ。

 切り立つ崖も途切れると、その先は広場の様な空間が広がっていた。

 大きな岩が所々乱立しているせいで、壁のようになっているものの、閉塞された空間という訳ではない。

 

 そしてそこには、青白い肌をした巨人が複数人いた。

 (なめ)してもいない毛皮を適当に並べた簡素な寝床、魔獣か魔物かも判別つかない骨の山、岩壁には飾られた骨細工などが見える。

 長い手足に落ち窪んだ小さな目は、彼らが霜の巨人である事を意味していた。

 

 突然現れたミレイユ達という闖入者に、その内の一人が目を白黒させていた。

 しかし、何かが縄張りを犯した、という認識だけは出来たらしい。

 咆哮を一つ上げ、威嚇する様に腕をがむしゃらに動かした。

 

「バガァァァァ!」

 

 一人が声を上げれば、他の三人も気付いて声を上げる。

 その場で足踏みを始めて暴れようとするのを見て、ユミルが苛立った声を出した。

 

「あー……。あの雪トロールどもに、してやられたってコトでいいの?」

「……どうやら、そういう事らしい。縄張りから追い出すついでに、差し向けられた……のかもしれないな」

「どうされます?」

 

 アヴェリンが横顔を向けて来て、ミレイユは溜め息を一つ零し、首を横へ振った。

 

「流石に巨人とやり合うとなれば、静かに終わらせる事はできない。何より馬鹿らしい。無視だ」

「……させてくれるかしらね?」

 

 目を向けた先では、今にも殴り掛かろうと身構える巨人の姿が見える。

 若い個体のドラゴンなら捕食できるような奴らだから、その相手をするとなれば相応に骨が折れる。

 倒したい理由もなく、時間の無駄でしかなかった。

 

「一体蹴散らしてやれば、奴らも目を覚ますだろう。――このまま行く。アヴェリン、邪魔する者は排除しろ」

 



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遺跡へ向かって その9

 ミレイユの命令を聞くや否や、アヴェリンが飛び出して巨人を蹴り倒した。

 驚愕と悲鳴の入り混じった叫び声が上がり、周囲の巨人に伝播していく。

 

 アヴェリンが倒れた巨人をメイスで殴り付け、それがまるで小石の様に転がると、悲鳴の度合いが更に増した。

 

「ギィィ、ヒィィィ……!?」

 

 襲い掛かろうとしていた他の巨人も、その様子を見て二の足を踏む。

 威嚇していた時の威勢は既になく、互いに顔を見合わせて、どうするんだ、と相談するかの様に見えた。

 

 手には樹の幹を折って作ったと思われる棍棒を握っていたが、振り上げる動作のまま止まっている。

 ミレイユはそれらの間を縫うように走り、駆け抜けた。

 

 途中でアヴェリンも合流し、先導する形で広場を抜けて行く。

 後方からは驚愕とも威嚇とも取れない怒号が聞こえてきたが、それを無視してとにかく走る。

 

 後方から追手の足音も聞こえたが、鈍重な彼らは追い付いてこれない。

 あっという間に置き去りにして、先へ先へと足を進めた。

 凹凸があり滑りやすい地面、雪に足を取られ、満足な速度も出ない。

 

 それでも、時間の浪費を考えれば、巨人と戦うより余程速い。

 テオやヴァレネオは既に動き始めて久しく、士気の高い彼らはオズロワーナへ時間通りに辿り着くだろう。

 

 タイミングを測って合わせられる事ではないから、あまり深く考えても仕方がないが、想定時間より遅れるのは避けたい。

 到着するまで約半日程度と考えると、日暮れまでに遺跡へ到着する必要があった。

 

 とはいえ、それより問題は、現在位置を大きく見失っている事にある。

 当初予定していたルートから大きく逸れ、どちらへ向かうべきかも分からない。

 

 今は道らしき所を通っているが、その先が何処へ続くのか予想すら付かなかった。

 どうしたものかと考えている時、憂いを含んだアキラの声が、後ろから掛かる。

 

「ミレイユ様、こちらの方向で大丈夫なんですか? アテもなく山を歩くのは、遭難するだけだって聞いた覚えが……」

「それは間違いないだろうが、立ち往生はもっと拙い。あの滑り台で、だいぶ落とされて現在地も見失った。果たして、このまま辿り着けるかどうか……」

「う……、申し訳ありません……!」

 

 嫌味を言いたくて言った言葉ではないが、アキラには誤解させてしまったらしい。

 気にするな、と言ったところで意味はないだろう。

 実際、失態だった事は間違いない。

 

「ただ、あそこで滑らなくても、果たして遺跡へ通じていたかは不明だ。結果として近道だった可能性もある。あまり思い詰めるな」

「怪我の功名、って言葉もあるものねぇ。……なかったら、アンタぶっ飛ばすけど」

「そんな……っ!」

 

 アキラが悲鳴に良く似た、悲痛な声を上げた。

 そもそも登山装備どころか、防寒具すら持ってないのだ。足を取られて滑っても、責める事は出来ない。

 それはユミルも分かっているから、言った事も半分以上冗談だ。

 

 ただ現状は最悪でないから、目溢しを貰っているようなものだろう。

 いずれにしても、日が落ちる前に発見してしまいたい。

 暗闇で山を歩くのは無謀でしかなく、気温も下がって身体が凍る。

 

 遺跡内部は蒸気が籠もっているので、肌寒く感じる事はあっても、凍える程ではないのだ。

 そこまで考え、唐突に頭を上げる。

 帽子を取って辺りを見渡すと、そこには雲に紛れる靄めいた何かを見つけた。

 

「どうしたの、アンタ……?」

「蒸気を見つけた。遺跡から漏れ出たやつだと思う」

 

 胡乱な目をして見つめてくるユミルをよそ目に、ミレイユは空の一画を指差した。

 

「分かり難いが、確かにある。あちらの方角へ向かえば、遺跡には着くはずだ」

「そうだろうけど……。でも、どうやって行くかって話でしょ」

 

 指差す方向には、高い峰が聳え立っている。

 迂回して進むしかなく、そして今いる道を進むなら、どんどん遠退いて行ってしまうという事でもあるのだ。

 

 今の道も、岩や溝の影響で歩けようになっているから利用しているものの、本来は道と認識するものですらない。

 悩んでいると、先頭を歩くアヴェリンが振り返って聞いて来た。

 

「どうされますか。……他に道らしいものは無かったように思いましたが、巨人どもがいた広場には、何かあったかもしれません。岩の乱立でよく見えなかっただけで、脇道などがあったやも……」

「再び荒らしに戻るのか? ……今の奴らは、混乱と興奮の坩堝だろう。どちらにしても賭けと変わらないなら、このまま進み、蒸気に向かって移動できる道を探そう」

「畏まりました」

 

 アヴェリンは短く返事して前を向く。

 周囲は相変わらず岩と雪以外、見るべきものがない。

 だが、どこかに割れ目でもあって抜け道があるかもしれないし、また洞窟だって見つかるかもしれなかった。

 

 今はそれに期待する他なく、目を皿にしながら歩を進める。

 しかし、どれほど歩けど何も見つからず、いたずらに距離が遠のくばかりだった。

 失敗だったか、と苦い顔を浮かべ始めた頃、前方に切り立った崖が見えた。

 

 今までも、少し距離がある程度は無理矢理踏破して来たが、今回は遠すぎる。

 一足飛びは不可能で、崖の下は暗く底が見えない。

 落ちたら命はないだろう、と思われた。

 

「行き止まりですね。……引き返しますか?」

「そうだな……仕方がない。無駄足だったが、割り切ろう。巨人の広場に戻れば抜け道があるとは限らないが、今は――」

「ねぇ、ちょっと」

 

 ミレイユの声を遮って、肩を叩きながらユミルは指先を、しきりに崖の奥へと突き差している。

 言われるままに見た先は、右下方、崖の底へと向けられていた。

 そしてそこには、暗がりの中からうっすらと蒸気らしきものが発見出来た。

 

「……見つけたな」

「もっと褒めて良いわよ」

「辿り着ける場所にあれば、だろうが。あれでどうやって行けと言うのだ」

 

 アヴェリンが怒りを表情に滲ませ、呆れ声で言った。

 アキラが崖下を覗き込んでは、無理無理と顔を横に振っている。

 改めて確認する必要もなく、転落すれば無事では済まない。

 

 崖をクライミングで降りていくには、岩の強度に不安があるし、踏み外す危険も高かった。

 無事に済むとは思えず、きっと途中で滑落する事になるだろう。

 悩ましく思えたが、ふと思い立ってユミルの顔を見返した。

 

「少し受け身になって考え過ぎていたな……。昔はもっと大胆だった。ここでも同じ事をすれば良いだけか」

「そうよ。リスクも命も考えず、最短距離を突っ走ってた頃を思い出せばね、こんなのリスクの内に入んないわ。むしろ安全の部類でしょ」

「ユミルさんが安全って言うと、何でこんなに不安になるんだろ……」

 

 アキラがぼそり、と呟くと、ユミルは耳聡く聞き咎めて、蛇のような動きでアキラへ組み付いた。

 肩へ手を回し、凄みながら顔を近付ける。

 まるで細い舌先が、ちろちろと頬を撫でているかのようで、アキラも身を竦めて必死に顔を合わせまいとしていた。

 

「アンタも言う様になったわねぇ……? この子に認められて、調子に乗ったのかしら?」

「い、いえ、決してそんなつもりは……!」

「ほぉん……? でも、ついつい本音が漏れた?」

「はいっ! ――あ、いえ、違う。違います……!」

 

 ユミルが本気でするいたぶり、可愛がりは、慣れない者にはそれだけで拷問に近い。

 放たれる殺意は確かな指向性を持っていて周りに広がらないし、その所為で受ける本人は実際以上の強い気配を覚える。

 寒気とも、怖気とも知れない気配が背中を這い回っている筈で、アキラは生きた心地がしない筈だ。

 

 ミレイユが認める発言をした所為で、ユミルは手心というものを捨て去る事にしたらしい。

 その気配に充てられた所為で、アキラは取り繕う事も出来ず、思わず本音が口から突いて出たようだ。

 そして、それを挽回しようと更に取り繕おうとしているのだが、端から見てもあまり成功している様に見えなかった。

 

「違うんです……! ただ僕は皆さんと、こんな風になれるとは思ってなかったので!」

「全員仲良く、凍り付けになりそうだって?」

「違いますよ! こうして共に、歩かせて貰っている事にです!」

「やっぱり調子に乗ってるわね、こいつ。……突き落として良い?」

 

 ユミルが嗜虐的な笑みを浮かべ、アキラの肩を揺さぶる。

 アキラは必死に顔を横へ振り、助けてくれと懇願する視線を向けて来たが、即答せずに穴の底を見下ろした。

 それでアキラが青い顔をさせ、今度はアヴェリンへと視線を転じる。

 

 ミレイユの行動はアキラを誤解させたが、別に捨ててしまえ、というつもりでやった事ではない。

 説明するより、行動してから理解させた方が早い、と思っての行為だった。

 今やミレイユが、やれと言ってやらない事を探す方が難しいだろうが、問答する時間さえ惜しいのだ。

 

 空は既に中天を過ぎている。

 順調に行けば、もしかしたら到着していたかもしれない時間だ。

 先程は雲が薄っすらとしかなかったが、今はもう濃くなっている。

 荒れるかどうかはまだ判別できないが、悠長にしている時間はなさそうだった。

 

「……落とすか。そっちの方が早い」

「そんな、ミレイユ様! 見捨てないで下さいよ!」

「そういう意味じゃない。遺跡はここから下にある。行こうと思えば、落ちた方が早い」

「え……、でも登山していたじゃないですか。遺跡は上にあるんですよね?」

「入り口はな。そこから最奥へは、地下を何層も降りる必要がある。だから位置的に、大幅なショートカットが見込めるかもしれない」

 

 ミレイユが上機嫌に言うと、アヴェリンも顔を綻ばせて言う。

 

「あるいは、お釣りが来る程の短縮になるかもしれませんね」

「全くだ。良かったな、アキラ。お前の失敗は、怪我の功名で済みそうだぞ」

「それは……はい。いや、有り難いですが、そうではなく――」

 

 実際に降りた先がどうなっているか分からない以上、あまり期待し過ぎてはいけないが、無駄話する時間が惜しいのは変わりない。

 ミレイユが顎をしゃくると、ユミルが肩を組んだ体勢から無理矢理アキラを持ち上げて、崖下へ投げ入れようとした。

 

 しかし、アキラも黙ってやられない気構えが出来ていたらしく、抵抗を試みる。

 ユミルの腕に抱きつき、決して離すまいとするのだが、横合いからアヴェリンに頭を殴られ脱力した。

 

 即座に意識は取り戻したものの、その一瞬があれば十分だった。

 するりとアキラの腕から逃げ出したユミルは、今度は襟首を掴んで投げ飛ばす。

 大きな放物線を描いて、アキラは叫び声を上げて崖下へと落ちていった。

 

「まったく……っ、可愛い気のないコト! 昔はやり易かったってのにねぇ?」

「あまり悠長にしてますと、本当に地面と激突しますよ」

 

 ルチアに指摘されて、ミレイユ達も続々と崖下へと身を躍らせる。

 片手で帽子を掴み、落下に身を任せてアキラを追う。

 

 流石に先行して落とされただけあって、すぐには追い付けそうもなかったが、地面までの正確な距離が分からない以上、あまり気楽に構えていられない。

 ちらりと視線を横に向けると、ユミルは動揺も危険も感じておらず、落下中でも腕を組んで背中から落ちようとしていた。

 

 余裕の表れ、ミレイユへの信頼あっての行為なのだとしても、一人気楽なのは癪に障る思いがした。

 努めて意識を外へ追いやり、身体をなるべく小さく畳んで落下速度を上げる。

 アキラは逆に両手両足を広げて速度を和らげようとしていて、追いつくのも速かった。

 

 崖から落ちるほど、視野は暗くなっていく。

 上から差す光だけは光量が不十分で、あっという間に暗闇の中へと吸い込まれていった。

 

 ここから先、いつ地面にぶつかるとも限らないので、即座に制御を完了させる。

 行使するのは『落葉の陣』、それを地面へ向かって放出すれば、接触と同時に陣が広がった。

 

 陣の魔術は接触と共に展開されるのが特徴だ。

 今回は、その展開まで五秒と掛かっていない。

 予想以上に余裕がなかった事に戦慄しつつ、陣の効果でふわりと、空中で静止する様に動きが止まった。

 

 足を伸ばして地面に触れると、仲間たちも続々と陣の上に着地する。

 それから一拍遅れて、アキラは泣き顔を浮かべながら腹ばいで落着した。

 



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遺跡へ向かって その10

「いやはや、案外ギリギリだったわね。あと数秒遅れていたらと思うと、ゾッとするわ」

「その時は背中を強打して、ちょっと愉快な姿になっていただけじゃないですか。私はちゃんと、足から着地しようとしてましたけど」

「お上品で結構ですコト。アキラなんて、顔面から落ちようとしてたっていうのにねぇ……」

「……僕は投げ入れられたんであって、自分から落ちた訳じゃないんですけどね……!」

 

 うつ伏せの状態から立ち上がろうとしていたアキラは、低い声で恨み言を呟きながら、ユミルに暗い顔を向けていた。

 目の端に涙は浮かべていても、いつかのように泣きじゃくってはいない。

 

 こんなところからでも、彼なりの成長を感じる。

 地面への激突を恐れて、慌てふためいていた頃が懐かしい。

 

 妙な感慨が持ち上がったが、それを即座に投げ捨てて、ミレイユは改めて穴底を見渡す。

 崖上からは分からなかった事が、それでようやくハッキリ見えて来た。

 

 そこは一本道の空洞になっており、雪の一つも積もっていない。足元からじんわりと伝わる熱が溶かしてしまっているらしく、暗い岩肌を晒していた。

 溶けた雪がどこかへ流れ込む仕組みがあるらしく、地面に濡れた痕跡はあっても水溜まりが出来ている個所は見えない。

 

 目が暗闇に慣れて来ると、前方に遺跡の壁が見えた。

 岩肌とは全く別の、石造りとなった壁だった。

 元は乳白色だったものが、汚れて黒ずんでいるものの、壁には傷らしい傷もない。

 

 そして壁の奥からは、ゴゥンゴゥンと重苦しい音が漏れ聞こえてくる。

 歯車を回し、何らかのエネルギーを伝達させる音だった。

 

 壁の一部から突出した管が出ていて、そこから蒸気が細く吹き出している。

 あれがユミルの発見した蒸気の根本だろう。

 

「遺跡である事は間違いないな」

「問題は、入り口となる様なものが、あるかどうかですが……」

 

 アヴェリンが隣で訝しむような視線を壁に向けて、ミレイユも同意して頷いた。

 とりあえず近寄って調べてみるしかなく、全員を伴って壁へと近付く。

 そして近付く程に重低音が大きくなり、吹き出す蒸気の音も耳に届くようになった。

 

 遺跡の壁に使われている石の材質は日本で見た事もなく、地上の如何なる採石場でも手に入る物には見えなかった。

 かつて来た時には気にもしなかったが、かつて大神――本物の大神――が造ったものである、と聞いた今では納得できそうなものだ。

 

「前に使った時は考えもしなかったが……、こうして遺跡全体を歯車と蒸気が巡っているというのなら、この巨大な遺跡が一つの機構なのかもしれない」

「そういえば、通路も小部屋も、どこにいっても歯車とか管が見えておりました。その熱で部屋といわず、遺跡全体を温めているのか、と思っていましたが……」

「それは副次的な効果でしかなかったろうな。最奥にエネルギーを届ける為、そしてエネルギーを循環させたり高めたりするのに、これだけの規模が必要だったんじゃないのか」

 

 それは全くの憶測でしかなかったが、的外れという訳でもなさそうだった。

 最奥に眠る『遺物』も相当巨大なものだったが、使用するエネルギーや、その効果を見ても、それ一つで賄うには小さ過ぎるように思える。

 

 蒸気や歯車、機械的機構が見えている事といい、建物丸ごと一つで『遺物』の動作を補っていると考えた方が自然だ。

 それはともかく、とミレイユは後ろに控える面々に向かって壁を指差した。

 

「入り口らしきものがないか探してくれ。分かり易い扉があれば嬉しいが、そうとも限らないから繋ぎ目だったり、何か出っ張り的な物を……」

「……人の背丈で考えない方が良いかもね。アタシもドワーフを目にした事ないけど、成人していたとしても、子供ぐらいの背丈だって何処かで読んだ記憶あるし」

「あぁ、ドワーフはメンテナンスの為に生まれた種族という話だった。基準にするなら、その位置や大きさに気を配る必要があるか」

 

 ユミルの指摘に、ミレイユもまた自分の見解を述べつつ頷く。

 ルチアもまた得心顔をさせながら、視線を上へ下へと向ける。

 

「……そうなると、身長を気にして下ばかり見るんじゃなく、上の方も確認した方が良いのでは……。この崖が地割れなどで、後年発生した可能性もあります」

「なるほど、もっともだ。――そういう訳だから、皆、調べる時は注意してくれ」

「畏まりました」

 

 アヴェリンが代表して答えて、三々五々散って行く。

 ミレイユも何一つせず見ている訳にもいかないので、三人に付いていこうとしたところで、アキラの声で呼び止められた。

 

「あの……、下はともかく、上の方はどうやって見たら良いんでしょう? ジャンプするのにも、限度があるような……」

「うん……?」

 

 露出しているのは遺跡の一部分とはいえ、ここから見える範囲でも、壁は見上げるほど高い。

 ミレイユ達が飛び越えるのを断念した程なので横幅も相応にあり、調べ上げるのが苦労しそうだった。

 ミレイユが念動力で持ち上げてやる事も出来るが、アヴェリンがそれを反対するだろう。

 

 高い部分はルチアやユミルに任せ、目の届く範囲はアヴェリンとアキラでやって貰うべきかもしれない。

 ルチアなら魔術を上手く運用して、氷を足場にするなりしてくれそうだが、内向術士にそれを求めるのは酷だ。

 

「そうだな、お前には――」

 

 アキラへ個別に指示を出そうとした時、遺跡の方からユミルが声を上がった。

 民家の屋根より高い位置にいて、片手一つで何かに掴まって宙吊りになっている。

 

 何かを捻る動作の後、壁を蹴りつけると外開きに壁が割れた。

 子供ならば十分に通れる大きさで、ユミルはどうやらこの僅かな時間で扉を探し当てた、という事らしい。

 

「また随分と早かったな……。いや、早いに越した事はないんだが」

「なんか……ユミルさんって、探し物とか得意そうですもんね」

「隠密や捜索、追跡なんかは実際得意だ。あぁいうタイプの捜索まで、得意とは知らなかったが……」

 

 それはむしろ、ルチアの領分だ。あるいはアヴェリンが、動物的嗅覚を発揮して見つける。

 大抵はそういったものなので、今回の結果はミレイユとしても意外だった。

 いつも先を越される事を、もしかしたら忸怩たる思いで見ていたのかもしれない。

 

 アキラを引き連れて扉の下までやって来ると、ユミルが一度中を覗き込んでから降りて来る。

 そして、親指を後ろに向け、うんざりとした表情で言った。

 

「アンタが言ったとおり、メンテナンス用の通路みたい。アタシ達じゃ、立って移動するのは無理そうね。胸より高いくらいの高さしかないもの」

「中へ侵入できるなら文句はない。今から正規の入り口を見つける事に比べたらな」

「そりゃあね、そうよね。まぁ……精々、後で腰を労ってあげましょ」

 

 ユミルが老人の様に腰を叩いて笑い、ミレイユも笑みを返して目的の扉を見つめる。

 位置にしてマンションの三階分、といったところだが、入り込む事は問題ない。

 アヴェリンならば一足飛びだろうし、他のメンバーも一度壁を蹴りつけるなり、魔術で補佐して登り切るだろう。

 

 問題はそのポテンシャルを正確に把握していないアキラで、果たして可能なのか、と胡乱げな視線を向けた。

 それを挑戦と受け取ったアキラは、腕まくりでも始めそうな剣幕で意気込む。

 

「――では、一番手は僕で構いませんね」

「別にいいが、大丈夫なのか?」

「素直に、高い高いして貰ったら?」

「いりません!」

 

 ユミルの挑発的な言い方で、アキラは更に躍起となった。

 肩を怒らせ壁から一度離れ、十分な助走をつけて跳躍する。

 

 だが、予想どおり跳躍距離は十分でなく、その半分ほどで一度壁を蹴り上げ、何とか扉の縁に指を掛けた。

 実にギリギリの状態で、腕一本で体重を支えている為足元がフラつき、そのまま落ちそうに見えた。

 

 しかし何とか持ち直し、片手懸垂の要領で身体を持ち上げる。

 そのまま、もう片方の手を縁に掛けると、身体を擦り付ける様に登り切った。

 

「なんともまぁ、危なっかしいコト……」

「現世の基準で考えると、十分凄い事は出来てるんだが……。まぁ、跳躍距離が高いからといって、剣術には関係ないしな」

「とはいえ、アレの制御技術ならば、もう少し上手くやれそうなものですが……」

 

 アヴェリンが不満を滲ませながら顔を顰める。

 内向術士と言っても、鍛え方によって形は変わって来るもので、それは制御技術にも違いが出て来る。

 踏み込む強さが大きければ、それだけ接敵もし易くなるものだが、それだけあっても倒す力がなければ意味もない。

 

 バランスが重要なのであって、現在の跳躍力が低い事が、つまり弱い戦士とはならないが、アヴェリンとしては不満を感じる結果らしい。

 鼻を一つ鳴らしてから、アヴェリンは断りを入れて先に行く。

 

 入り口付近から顔を覗かせていたアキラを、腕を振り払うジェスチャーでどかせながら走る。

 アキラの時の様に全力ではなく、長距離走の様な、ゆったりとした助走だった。

 

 踏み込む力もアキラの時と違い少いものだったが、その身体は軽やかで滞空時間も比べ物にならない。

 壁蹴りからの垂直飛びをする必要もなく、タトンと軽い音を立てて縁に足をつけた。

 

 一度こちらを振り返って安全を示すと、それから中へ滑り込む様に入って行く。

 二人の違いをまざまざと見せ付けられた格好で、ユミルは思わず失笑していた。

 

「そう笑ってやるな。……正直、最後の守役として考えると、少々不安に感じたのも事実だが」

「そうよね? とはいえ、アキラがソツなくこなす姿っていうのも、ちょっと想像し難いけど」

 

 そうかもしれない、と曖昧に頷いて、ミレイユも壁に向かって歩き出す。

 軽い助走をしてから地を蹴り、アヴェリンと同様一息で縁に足を掛ける。

 

 実際に通用口を見ると手狭に感じ、アキラとアヴェリンが奥まった場所で待機しているのが見えた。

 ミレイユも後に来る者の邪魔にならないよう、アヴェリン達へと身を寄せてから、その更に奥がどうなっているかと顔を動かした。

 

「どうだ、ここから内部に入れそうか?」

「問題なかろうと思います。空気の流れを感じますので、我々が通れないほど狭い通路になっていなければ、どこかに出られる筈です」

「そうか、そういう事もあるだろうな……。前提として、人間の背丈に合わせた作りになっていないだろうし……」

 

 ミレイユが鉤形に曲がって奥まで見えない通路を見据えていると、ルチアが軽やかに入って来て、そこから一つテンポが遅れユミルも身を乗り出す様に入って来る。

 その姿を見届けると、ミレイユはアキラへ先に進むよう指示を出した。

 



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遺跡へ向かって その11

 アヴェリンの懸念は杞憂に終わり、遺跡内部へは問題なく出る事が出来た。

 長時間、中腰の状態で通路を歩く事は避けられなかったので、まるで腰に重りでも付けたかの様な感じがする。

 

 通用口から抜け出た先は大きな部屋となっていて、どことなく見覚えもあった。

 とはいえ、遺跡内部は似通った部屋が幾つもあったので、気のせいかもしれないし、だから現在地がどこかまでも分からない。

 

「いやはや、ようやく腰を伸ばして楽できるわね。百年は狭い通路を歩いてた気分よ。アキラぁ……、アンタもっと早く進めなかったの?」

「たった十分の移動で、よくそこまで文句言えますね……」

 

 アキラはげんなりして呻きながら、肩越しに恨めしそうな視線を向ける。

 ミレイユも二人を見ながら、腰を叩きつつ小さく笑った。

 

「その程度の愚痴は、ユミルの挨拶みたいなものだろう。適当に聞き流せ。それより……」

 

 ミレイユは周囲を改めて見渡す。

 遺跡内部は、外の極寒が嘘の様な暖かさだった。

 

 当時来た時にも思った事だが、単に暖かいというだけでなく、少し蒸してもいる。

 部屋の外壁は、一部が剥がれて内部の歯車が見えていて、大小様々のそれらが止まる事なく動いていた。

 

 そしてどこからともなく、蒸気を排出する音も聞こえてくる。

 蒸気音と機械音が止まることなく聞こえて来るし、そのうえ反響までするものだから、どこか落ち着なおい気持ちにさせられた。

 

 ミレイユが見渡したタイミングでアキラも首を巡らせて、慎重そうに警戒を始める。

 音を頼りにする事もできず、薄っすら漂う蒸気が霧のように視界を遮るせいで、遠くまでは見通せない。

 アキラは緊張を滲ませた声で、忙しなく周囲を見ながら尋ねて来た。

 

「ここはどういう所なんでしょう……? どういった魔物がいるんでしょうか?」

「この部屋がどういった意図で作られたものか、という意味なら、……分からないな。魔物にしても、心配する必要はないぞ」

「それは……、取るに足りない魔物しかいないとか? それとも、ここに棲息している魔物はいないって話なんでしょうか?」

「前回来た時は、魔物の姿は見なかった」

 

 近くに雪トロールや巨人が棲息していた事を思えば、遺跡内部――それも温暖な住処を狙う何らかがいても良いと思う。

 だが、そもそも侵入できない事が、棲息していない理由だろう。

 

 本来、正規の方法で遺跡へ入る為には、鍵を解除しなくてはならない。

 こじ開けて入る事も出来なかったから、遺跡内部へ棲み着くことも出来なかったのだろうし、だから内部に入れば安全なのだ。

 

 そして扉は魔力錠で施錠されているので、物理キーを必要としない。

 魔物の中にも強い魔力を持つ者はいるが、解錠できるほど繊細な魔力制御を出来る魔物、となると付近に生息していなかったようだ。

 だから、これまで何らかの魔物の巣窟になる事なく、存在し続けて来られたのだろう。

 

「とはいえ、全く警戒なしで行く訳にもいかないが」

「ですね。ここ二百年で、変化があった可能性はありますし」

 

 ルチアが小さな動作で同意して、部屋の出入り口へ視線を向ける。

 遺跡内部は薄暗いが、全くの暗闇という訳でもなかった。

 高い位置に光る鉱石が埋め込まれていて、それが薄っすらと照らしてくれている。

 

 だが、それだけでは光量が全く足りておらず、暗がりとなっている部分も多い。

 壁に燭台や松明などが取り付けられる器具があるので、本来は別に光源を用意して必要があるようだ。

 

 ミレイユはアヴェリンへ視線を向けて、先へ進むよう指示する。

 武器を抜いているものの、敵の気配どころか、生物の気配もないので、その後ろ姿も気楽なものだ。

 

 部屋を出れば、左右へ続く通路がある。

 アヴェリンはサッと首を動かすと、左へ向かう道を選んだ。

 

 風の流れを感じたのだろう。目的地は地下にある事は分かっているので、向かうべき方向は定めやすい。

 ルチアやユミルからも、アヴェリンの決定に反対意見は出なかった。

 

 アヴェリンが悠々と進んで行く間にも、敵の出現はない。

 魔物などが棲み着いていない事も、歩いている間に判明していた。

 

 魔物に限った話ではないが、生物は生きているだけで、何かしら痕跡を残すものだ。

 それがどこにもないというなら、つまり生物はいない、という事になる。

 

 地下へ向かう途中、立ち寄った部屋の中には、小ぢんまりとした個室の様な物もあった。

 石造りの寝台や、机と椅子など、かつては確かに誰かが生活していたのだと窺わせる。

 どれも子供サイズなのが、ここで暮らしている者の素性を、よく表しているようだ。

 

 残っているのは壁同様の石素材で作られたもののみで、それ以外の寝具であったり、食器であったりした物は見つからない。

 恐らくは、長い時間の果てに、風化してしまったのと思われた。

 

 話を聞いた限りだと、彼らは利用されるのを恐れて逃げ出したので、この状態を栄枯衰退と言うのは違う気がする。

 だが、かつて暮らしていた痕跡を見せられると、どうにも物寂しく感じてしまう。

 

 そうした部屋の前を幾つも通り、そして数々の通路を歩いて地下へと向かって行く。

 すると、かつてやって来た時と同様、障害となる魔物などと遭遇しないまま、遺跡の最奥まで辿り着いてしまった。

 

「……魔物の類はともかく、神々の刺客まで居ないのは拍子抜けだった。何にでも先読み、先回りして来る奴らだと思っていただけに……、特にな」

「そうね……。私達もそうさせない為に動いていたし、裏を搔こうともしていた。それでもやっぱり、待ち受けている者もいるんじゃないかと思ってたけど……」

 

 ユミルも異議なく頷くと、アヴェリンは殊更周囲へ警戒を深めながら言った。

 

「……あるいは、それこそルヴァイルが上手くやった結果、と言えるかもしれんが……。上手く先延ばし、もしくは別へ誘導していた。そもそも、ミレイ様に『遺物』を使わせるのが目的だと言うなら、それぐらいのサポートはしても良さそうなものだ」

「その為の同盟でもあるしね。やるコトやって貰わなきゃ、とも思うけど……」

 

 ユミルも周囲を見渡し、それからルチアへ視線を向けた。

 常に警戒を崩さず探知を続けていた彼女は、難しい顔をさせつつ首を横に振る。

 この場の誰にも気配を感じさせないというのなら、本当に誰もいないと判断して良さそうだ。

 

 今度はミレイユが先頭になって、『遺物』が安置された部屋を縦断する形で進む。

 これまでにないほど広い部屋は、僅かな光量である事も相まって、寒々しく感じさせた。

 今まで同様、歯車の回る音、何かが管を通る音など聞こえてくるが、それが酷く遠くに感じる。

 

 カツコツと石の床を叩く音が響き、それがまた空虚な空気を演出するかのようだった。

 ミレイユは『遺物』の前に立つと、その全容を見つめた。

 

 単純な外観からでは、何に使うものか想像もつかない。

 機械仕掛けの巨大建造物は、現代で生きたミレイユでも、似た物を思い浮かべる事が出来ないほど異質な姿をしている。

 

 だが、その巨大な何かは、製造工場の外観をモニュメントとして圧縮した姿にも見え、最奥に鎮座する姿は泰然としているように見えた。

 

 装置の所々からは歯車がはみ出していて、大小のそれらが複雑に噛み合い、規則的な音を鳴らしている。

 装置の天辺からは、時折、思い出したかのように蒸気が吹き出していた。

 

「……いよいよ、だな」

「もう後戻りは出来ないわよ。……いいのね?」

 

 後ろに立ったユミルが、念押しする様に聞いてきた。

 ミレイユは振り返らぬまま、無言で頷く。

 

 『遺物』へ万全にエネルギーが注入されている場合、叶える願いに限界はない。

 そしてミレイユが使う場合、安全措置として設けられたセーフティも取り払われる。

 

 他者が使う場合とは、設けられる限界に大きく隔たりがあり、そしてミレイユは隔たりを越えて願いを叶える為に用意された存在だ。

 

 だから本来、これから口にする事が、神魂一つと神器一つで叶えられるもので無いとしても、ミレイユならば求める事が出来る。

 どこまで可能かという線引は酷く曖昧だが、それでも『現世へ帰る願い』程度は叶う力を秘めている筈だった。

 

 願うつもりであれば、ミレイユはたった一人で、何もかも捨て、何処か別の世界へ逃げる事も出来る。

 だがミレイユは、そんな事を頭の端でチラリと考えただけで、即座に切って捨てた。

 

 ――全く意味のない妄想だ。

 逃げてどうなる、という思いもある。

 ここまで散々苦しみ抜いて来た、数多のミレイユの思いを投げ捨てられるか、という思いもある。

 

 だが何より、神々へ一泡吹かせたくて堪らない。

 奴らはミレイユを敵に回した。オミカゲ様が受けた屈辱もある。

 

 神宮を襲った神造兵器、そして蹂躙される世界への借りもあった。

 デイアートで行っている、見せ掛けの秩序についても同様だ。

 信仰と願力を求める故に、世を常に乱し、不平等と争いに塗れさせた。

 

 神々は実際に病を治すが、その彼らこそ根元――病巣そのものであり、それを取り除かない限り、いつまでも病に侵され続ける。

 ミレイユも、そして現世も、それに侵されたものの一つだ。

 

 取り除こうと思えば、戦うしかない。

 ミレイユが強い決意を持って振り向くと、順に視線を合わせていく。

 

 後ろで控えていた彼女らには、改めて問うまでもない。

 最後に聞いてきたユミルも、ミレイユの気持ちが揺れているから確認した訳ではなかっただろう。

 

 改めて、気持ちは同じだと、確認したかったから聞いただけだ。

 それぞれと瞳を交わし、全員の覚悟が定まっている事を知ると、ミレイユは『遺物』へと向き直って距離を詰める。

 

 個人空間から神器を取り出せば、それにに反応して『遺物』が大きく動き始めた。

 一度大きく蒸気が噴き出し、一定だった歯車の動きが俄に活発になる。

 

 見守る内に歯車の動きは更に激しさを増し、最後にとりわけ大きな蒸気を、上部から噴き出した。

 辺り一面が霧で覆われてしまったかと思うほど、多量な蒸気だった。

 

 もうもうと立ち込める蒸気を、魔力を制御した腕の一振りで追いやり、『遺物』が見せる最後の動きを待つ。

 全ての蒸気を排出し終えると、目の前の機構がまるでパズルのように上下へスライドした。

 その中から、目前までせり出す、トレイのような受け皿が現れる。

 

 受け皿の数は全部で五つあったが、他の四つは無視して、中央の皿に神器を乗せた。

 しばらく待つと、受け皿はそのまま元の位置へ戻り、機構の中へと神器を収める。

 

 受け皿が現れた時とは逆の手順でパズルが戻り、そうかと思えばまだ機構がスライドし始め、またも大きく蒸気を噴き出す。

 その蒸気が晴れるのを辛抱強く待っていると、機構はパズルの様にその体を割り、そして中から不思議な球体を差し出してくる。

 

 ほのかに青い光を発しながら、支えもなく空中に浮かぶ球体は、ゆっくりと横回転しながら、ミレイユを伺うように明滅していた。

 球体の中には力の奔流を感じる。

 

 これが恐らく、神魂と神器がエネルギーとなって現れたものなのだろう。

 そして球体の明滅は、まるでその力を開放する瞬間を、今か今かと待ち望んでいるかのように見えた。

 

 その機能を発揮しようとしている球体へ、ミレイユは触れない様にしながらも、包み込むように手を添える。

 そうして、球体へハッキリと聞こえる様に願いを口にした。

 

「ドラゴンを元の姿へ。歪められた知恵と雄姿を、元ある形へ戻してくれ」

 

 ミレイユがそう言って結んだ、一拍あとの事だった。

 球体が眩く発光し、咄嗟に顔を庇う。

 次の瞬間に光は弾けて消え、淡い燐光を放っていた球体は、黒ずんで何の光も発しなくなる。

 

 それを確認したかのように、『遺物』は出て来た時と逆戻しの手順で球体を収納し、最後に小さく蒸気を発して、それきり動きを止めた。

 あれだけ煩かった歯車も、管を巡る何かの音もしない。

 

 役目を終えた『遺物』は完全に沈黙し、辺りには痛い程の静寂が満ちた。

 誰も彼もが言葉を発しない中、アキラがおずおずと声を投げかけてくる。

 

「……これで、終わった……んですか?」

「叶えられたかどうか、確認するまでは分からない。蓄えられていた光が消えたんだし、問題なく作用した証明のように思えるが……、この目で見てみない事にはな」

「じゃあ、さっさと戻りましょ。ここからは、これまで以上の強行軍になるわ」

 

 そうだな、と頷いて、ミレイユはこれからの不安や憂いを感じさせない口調で言った。

 

「一度、邸宅に戻る。それがきっと、最後の機会だ。不足している物があるなら整えておけ、準備は万全にしろ。この先も休憩なしだ」

 



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竜の谷 その1

 ミレイユの転移術で邸宅の地下室へと戻って来ると、アヴェリン達は三々五々散って行き、消費した物資などの補充を始めた。

 

 地下にはこの二ヶ月、ユミルが精製した水薬や、森の中で作られた保存食などが納められている。

 遺跡へ向かう分に消費したのは保存食くらいだが、死蔵するのも勿体ないので、個人空間に収納できる分は全て持ち出してしまうつもりだった。

 

 アキラは到着したばかりの地下室を、物珍しそうに見渡している。

 陣を敷いた部屋は夥しい数が揃った武具の展示室なので、冒険者をやっている身としては気になってしまうところなのだろう。

 

 かくいうミレイユも、かつて世界を巡っていた時は、武具の性能や装飾に魅入られて入手していた経緯がある。

 

 ミレイユは生粋の戦士ではないが、かつてファンタジーに憧れを懐いていた身として、仮に高く売れるのだとしても、手放す気にはならなかった。

 これこそまさに、ミレイユが世界を遊びとして見ていた証拠の様なものだが、今では当時の気持ちを戒めるつもりで飾っている。

 

 それらを見渡して、アキラは感嘆とした息を吐いた。

 

「……凄いですね。これがいつか言っていた、一つで家も買える武具のコレクションですか……。どれを見ても、内包されている魔力が凄まじいと分かります……!」

「逸品には違いないが、それでも、これは片落ちというか……二軍落ちになった物ばかりだ。本当に有用なものは、アヴェリン達に持たせている」

「あぁ……、師匠たちの装備も凄いですもんね」

 

 アキラは彼女たちの姿を脳裏に思い浮かべて、何度も頷いた。

 ミレイユはアキラから目を離し、次いで周囲を見渡して言う。

 

「気に入った武器があれば持っていけ。防具については男物がないから、選べるものは少ないと思うが……革鎧とか、ものによっては身に着けられるかもしれない」

「いえ、そんな! 勿体ない!」

「確かにお前は戦力的に頼りないが、最後の守役として考えた時、その防具では少し物足りない。盾は頑丈な方が望ましい。……分かるだろう?」

 

 アキラは少し考える素振りを見せたが、すぐに頷いた。

 自分が身に着けている防具と、周囲にあるものを見比べて、そうした方が良いという結論に至ったらしい。

 

 アキラが身に着けている防具は、最初にミレイユが買い与えた物だ。

 あちらこちら傷が付き、修繕した跡なども見えていて、大事にメンテナンスしていた事が窺える。

 長く使い続けようとしてくれていたのは嬉しいが、神々と戦うにあたって、それでは如何にも不安だった。

 

「分かりました。でも、武器の方はいいです。魅力的な物も多いと思うんですけど……」

 

 アキラが実際に武具へ向ける眼差しは、羨望にも似た色を発している。

 それでも、と言い差し、個人空間から自分の刀を取り出して、両手で捧げ持つようにして掲げた。

 

「僕が持つのは、この刀しかあり得ません」

「今となっては、お前と相性の良い付与がされている事は認める。だが、空間に余裕があるなら、何か一本ぐらい持っていても良いだろう」

 

 アキラはその言葉にも素直に頷いたが、口から出たのは否定だった。

 

「分かります。隠し札や切り札の一つは持っておけ、というお気持ちは。でも、使い慣れない武器を切り札にしたところで、有効に使えるとは思えないんです」

「それも一理あるがな……」

「勿論、それだけじゃありません。これから戦う相手は、確実に僕より格上の相手ばかりです。強力な武器だと見抜かれれば、手傷を恐れて避けるかもしれませんけど、傷付けられない武器と分かれば、敢えて受けてくれるかもしれません。どうせ一撃与えるのが賭けになるなら、まだその方がマシだと思うんです」

 

 ほぅ、とミレイユは感心した気持ちでアキラを見返す。

 未だ甘さは随所にあっても、それだけ考えられるなら、成長した事は間違いないらしい。

 

 二軍落ちした武具とはいえ、それらは神にさえ手傷を与えられるかもしれない攻撃力を秘めている。

 込められた付与次第では、実際の武器の殺傷力以上の効果を出す物もある。

 

 だが、アキラが言うように、それ程の武器だからこそ、受けるないし避ける防御態勢を取るだろう。

 アキラに与えた刀の付与は、敵に手傷を与えたかどうかは関係なく発動する。

 

 そして彼に求められる役目は、刻印を使ってミレイユの壁となり、敵へ立ち塞がり続ける事にあるので、アキラが言い分の方が正しいとさえ思えた。

 

「……確かにそうだ。それに、他の武器は強力で強靭だが、不壊という訳じゃない。盾として使う事を考えても、やはり今の刀の方が有用か……」

「折角の申し出を断るのは、非常に無礼だとは思うのですが……」

「いや、そう畏まるな」

 

 本気で肩身を狭くして恐縮するアキラに、手を振って笑みを浮かべる。

 

「お前は正しい。……そうだな。お前に求めるのは、破れかぶれのまぐれ当たりに期待する事じゃなく、あくまで壁としての立ち続ける事だった。むしろ、弱く見える武器こそ、良い目眩ましになるかもしれない」

「初めから、僕の役目は囮みたいなものです。きっと、盛大に油断してくれるのではないでしょうか」

 

 アキラが決意めいた表情で言ってきて、ミレイユは思わず笑ってしまう。

 本人なりにひどく真面目に言っていると分かるのだが、策とも言えない策に相手が嵌ったらと思うと、愉快に思えて仕方がなかった。

 

「後でアヴェリンを寄越す。その時に防具を見繕って貰え。それまでは待機だ」

 

 不本意そうな顔をしたアキラを残して、ミレイユは返事も聞かず部屋を出た。

 階段を上がって地下から出ると、アヴェリンとルチアが食料の確認をしているところだった。

 長旅になるとは考えていないが、想定外な事態は幾らでも起こるものだ。

 

 ユミルの姿は見えないが、備蓄庫で水薬を補充するなどしているのだろう。

 ミレイユはアヴェリンに声を掛け、手隙になったら地下でアキラの面倒を見るよう、伝えてから外に出た。

 

 空は既に薄暗く、森の中はシン、と音が無かった。

 里の戦える者は全て出払っている筈だから、それ故の沈黙だろう。

 

 普段から活気ある声が邸宅まで聞こえてくる事は少ないが、それでもあまりに静か過ぎた。

 戦争へ行った者の帰りを待つ家族、というものは、得てしてそういうものなのだろう。

 

 その上、彼らは家族の安否を神に祈る事すらできない。

 直接的に何かをしてくれる訳でもないが、縋るものもなく、天に祈る事もできず、辛抱強く不安を押し殺すのは相当つらいだろう。

 

 ミレイユは改めて事の重大さを知り、また彼らを不憫を天に呪った。

 彼らは神の被害者だ。

 被害者といえば、この世に住まう者全てが被害者と言えるかもしれないが、その中でもエルフは特に長く迫害を受けた。

 

 神々は地上に住まう生命に、愛着も愛護もなく、己が掌中で転がし利用する事しか考えていない。

 ――神々に報いを与える。

 

 彼らが正当に生きられる世界を取り戻す。

 そうする為には、神々を弑する以外、方法はないのだ。

 

 最早、とうにこれは自分だけの問題ではなくなっている。

 重荷を背負うのは御免だ、と思っていたのに、今では二つの世界を背負って戦う事になっている。

 ミレイユはその事を思い、苦い苦い笑みが漏らした。

 

「随分、重い物を背負う事になったな……」

 

 我知らず、弱音に塗れた独白が溢れる。

 一度目の現世への帰還も、それはそれで大事だったが、それが何重にも膨れ上がって、ここまで大きくなってしまった。

 

 この様な事態に発展するなど、誰が想像できただろう。

 ミレイユにも当然、不安はある。

 

 かつてオミカゲ様が通った様な、やり直しの道は無い。

 次に希望を託せる、というのは大きな心の拠り所だ。

 だが同時に、それは逃げ道でもあるから、心の隙に繋がる。

 

 最後の最後、もう駄目だと思った時に、逃げ道があるなら……それが、覚悟の妨げにもなってしまうのかもしれない。

 そういう意味では、今のミレイユは覚悟が決まっている。

 

 だが、逃げ道がないから、という後ろ向きな気持ちで決めた覚悟ではない。

 二つの世界を跨ぐ、神々の自己利益に対抗する為、阻止する為に覚悟を決めたのか――。

 

 勿論それもあるが、何より()()の為だ。

 もっとも大きな動機を上げるなら、きっとそれだろう。

 

 数多のミレイユが無念の内に次へ託し、そして恐らく、神造兵器によって蹂躙されていったに違いない。

 オミカゲ様の諦観の籠った困ったような笑顔は、今でもたまに思い出す。

 どれ程の思いがあって、ミレイユを送り出す決意をしたのだろう。

 

 その諦観は、きっと何より辛かった筈だ。

 ――その無念を晴らす。

 

 今がその最大の好機で、そして今後、その機会はもおう訪れないというのなら、その為にどんな事でもする覚悟だった。

 ミレイユにはそれが出来る。

 頼りになる仲間もいる。

 

 だから失敗するとは思えなかった。

 出来ると信じて進む以外、ミレイユに他の道はない。

 

「……そうとも」

 

 邸宅から一歩出て、首を巡らせ周囲を見渡す。

 このタイミングで外に出たのは、何も気分転換をしたい訳ではなかった。

 決意を改めて確認したい訳でもなく、ルヴァイルから送られて来るという、連絡要員を確保する為だった。

 

 ドラゴンと交渉が成功した場合、その背に乗って神々の居る場所へと運んで貰うわけだが、奇襲をするには安全なルートが必要だ。

 そのルートを説明してくれる鳥を寄越す、という話だったのだが、どこにも姿が確認出来なかった。

 

 まず目に入った、邸宅前のアーチにも留まっていないし、他の分かり易い場所にもいなかった。

 視界の中にある無数の木、そのどこかの枝にいるのだろうか。

 

 分かり易い特徴も聞いていなかったし、この世界特有の鳥類にも詳しくない。

 声を掛ければ出て来るのか、それとも未だ寄越していないだけなのか――。

 

 考えあぐねて、どうしたものかと首をひねる。

 アヴェリン達の準備が完了次第、すぐにでも出発しようと思っていたし、転移陣を使った後は、もう邸宅に戻って来る機会はないと思っている。

 

 全てが順調に行った場合、無駄に出来る時間はないと思っての事だったが、鳥を回収しに戻る手間を、計画の中に組み込むべきなのかもしれなかった。

 

 一応、アーチの手前まで歩いて、ぐるりと顔を巡らせてみたが、やはりそれらしい鳥の姿は見えない。

 息を吐いて家に戻ろうとすると、邸宅屋根の上に一匹の鳥が留まっている事に気が付いた。

 その鳥は燕に似ていたものの、ミレイユの知るものとは大分違う。

 

 まず色は白く、体長も大きい。本来は手の平に収まる大きさだろうに、鴉ほど大きさがあった。

 嘴は赤く、また胸のいち部分も赤い。

 シルエットで見れば燕に似た造形だが、様々な部分で違いがあるようだ。

 

 フィー、と奇妙な鳴き声を上げると、羽を広げてミレイユまで滑空して来た。

 敵意は窺えないので身構えるだけにしておくと、細かく翼をはためかせ、その腕に留まった。

 白燕と目が合い、一拍の呼吸の後、腕を上下に振って落とそうとする。

 

 白燕は翼を広げ一時滞空したものの、すぐにまた腕に留まり、何かを自己主張する様に何度も首を傾けて見せた。

 その目を合わせながら、ミレイユは小声で尋ねる。

 

「……お前がルヴァイルの遣いか?」

「フィー」

「……そうだ、と言ってるのか? 何とも気の抜ける声だが……、どうやらそういう事で間違いないな」

 

 白燕は何度か左右に首を傾げるだけで、それ以上、囀る事もしなかった。

 自分の役割を分かっているのかどうかすら危ういが、とにかくルヴァイルは約束を守った。

 後は最低限の意思疎通が出来ればと思うのだが、鳥の頭で理解できるものか不安になる。

 

 しかし、神が遣わした鳥だ。全くの無能を寄越す筈もない。

 今度は落とさないよう、軽く腕を上下させながら、諭す様に声を掛ける。

 

「そこにいられると困るんだ。せめて肩の上に移れないか?」

「フィー」

 

 言葉は理解できるらしい。

 白燕は一鳴きすると腕から離れ、ミレイユの肩に留まる。

 

 何度か跳ねて方向転換まですると、問題ないか、とでも言うように、また一鳴きした。

 ミレイユはそれに小さく返事して頷くと、邸宅の中へと戻った。

 



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竜の谷 その2

 中へ入って、まず顔を合わせたのはルチアだった。

 準備万端整っているらしく、作業の手は止まっている。

 

 アヴェリンの姿は既になく、言い渡していたとおり、アキラの面倒を見るため地下へ向かったのだろう。

 ルチアはミレイユの肩に目を留めると、訝しげな視線を向ける。

 

「それが、例の案内役なんですか? ホワソウとはまた、珍しいものを見ました」

「私なんて鳥に注目してきた事がないから、珍しいという感慨すらないが……。賢い鳥ではあるようだ」

「そうですね、人語の全てを理解しているとは思いませんけど、理解している節がある鳥です。主に高山地帯に棲息する鳥なので、余計に目撃し辛いって意味で、珍しい鳥でもありますけど」

 

 ふぅん、とミレイユは右肩に乗ったホワソウへ顔を向けた。

 何を考えているか分からない目で見つめ返して来て、思わず目を合わせたまま固まってしまう。

 だが、大人しく肩の上に乗ったままでいるところは、確かに賢さの片鱗が窺えた。

 

「それ、連れて行くんですか? 邪魔になりません?」

「なるとは思うが、往復する手間を省きたい。谷へ行くのも、戻って来るのも一瞬で済むが、陣から目的地まで歩くは事になりそうだ。実際の行程は不明だが、もしも数日掛かるなら、馬鹿にならないタイムロスだ」

「それならいっそ、竜の背に乗って帰った方が早……あぁ、奇襲が意味を為さなくなりますね。邸宅付近に姿を見せて、ミレイさんと無関係と思う筈ないですし……」

 

 ルチアが迂闊な発言を、陳謝する様に表情を歪めた。

 ミレイユは気にするな、という風に手を振って、ルチアを伴い地下へと降りる。

 

 ルチアが言う事も勿論だが、何よりかつての姿を取り戻したドラゴンなど、注目してくれと言っている様なものだろう。

 そもそもの巨体だから目立たない訳ないだろうが、低地を飛行して神の目から逃れようとしても、今度は地上で暮らす者の目に留まる。

 

 ドラゴンとの交渉が上手くいき、そして、その背に乗って移動できる様になろうと、目立たない場所を飛んで貰う必要がある。

 そして、それを補う役目を持つのが、このホワソウだ。

 

 これ無しで飛ぶ事が出来ない以上、やはり事前に連れて行くしかない。

 階段を降りて展示室へ戻ると、アキラが丁度着替え終わったところだった。

 着心地を確かめると共に、アヴェリンに胸の辺りを平手で叩かれて咳き込んでいたりする。

 

 アキラが身に付けたのは革製鎧だったが、これは以前から身に着けているものと大きく変わる物を選ばなかった、アヴェリンなりの配慮だろう。

 盾役、壁役としてなら、より高い防御力を持つ防具は幾つもある。

 

 だが、アキラはその場でどっしりと構えて待ち構えるタイプではなく、むしろ果敢に攻め立て、相手の動きを止めていくタイプだ。

 その為には身動き易い防具の方が好ましい。

 

 革製といっても、以前アキラに買い与えた魔獣との合皮で作られたものとは訳が違う。

 あれも頑丈には違いないが、新しい防具は竜の外皮を使用している。

 灰色の鱗や外殻を利用した防具は、フロストドラゴンの素材である事を示していて、特に冷気に対して強い抵抗を持つ。

 

 動きを鈍らせられると何も出来なくなるアキラには、特に相性の良い装備だった。

 単純に防御力が高いのも竜素材の特徴だが、込められる付与量も他の素材と違う。

 同じ魔術を込めてもより強い効果を発揮するのが竜素材で、しかもそれを錬金術的補強で増加させている。

 

 魔術全般に対する抵抗を強める効果は、受ける魔術の五割を軽減してくれる筈だ。

 強大な魔術士は自身の能力でその抵抗を強める事ができるが、内向術士には難しい。

 それを補強する効果を、その防具が肩代わりしてくれる。

 

 また、軽量化の付与もされている筈で、だから鎧の筈なのに衣類の様な軽さを感じている筈だ。

 アキラが不思議そうに肩を回したり、跳ねたりして感触を確かめているのは、それが理由だろう。

 

「アキラ、防具の説明は受けたか?」

「はい、身に着けている間に説明してくれました」

 

 そうか、と一つ頷いて、ミレイユは陣に乗ろうとしたが、その前に一応の補足をいれておく。

 

「その防具についている付与は、私達と一緒にいる間は問題ないだろうが、もし他の誰かと組む事になるなら、注意しておくべき点がある」

「誰かを傷付けてしまう、とかでしょうか?」

「いいや、そうじゃない。誰かから支援術を受ける際、その場合でも効果を半減させてしまうからだ」

 

 えっ、と眉根を寄せて、アキラは自分の胸元辺りを見つめる。

 

「敵と味方を選別して、受ける魔術効果を和らげてくれる訳じゃないからな。魔術の抵抗とは、汎ゆる外的効果に対して発生する。他者から受ける魔術は、攻撃だろうとなかろうと半減する」

「それは……、なるほど。何事も上手い話ばかりではない、という訳ですか」

「お前の鎧効果を知っているなら、それに合わせてより強い魔術を使ってやれば良いだけだ。だが、大抵は一個人に対して、一々切り替えたりしないしな」

「強い魔力抵抗の恩恵の代わりに、支援効果が少ない、というデメリットもあると……」

 

 ミレイユは頷いてから、もう一つ指摘を加えた。

 

「身体強化などの支援だけじゃなく、治癒術などでも同じ事が起きる。本来は傷が塞がる魔術を使った筈なのに、全く効果が見られない、という事も起こり得る」

「それは……、厳しいですね」

 

 これには流石にアキラも渋い顔をした。

 支援効果が半分になるのは受け入れられても、傷の治療まで半分となると抵抗がある様だ。

 しかし、魔力に対する抵抗とは、メリット・デメリットが表裏一体となるものでもある。

 

 外向魔術士などは、最初からそのデメリットを受け入れてやっている様なものだから、アキラの感想には今更感が否めない。

 

「強大な外向術士は、そもそも自前で抵抗が強いものだからな。防膜が外へ漏れ出る魔力を抑えると同時に、外から受ける魔力も低減してしまう。強力な魔術を使える事と、魔術効果が少ない事は表裏一体だ」

「な、なるほど……」

「ルチアは氷結魔術士だが、同時に治癒と支援も高いレベルで心得ている。だが、それを私に使った事はないだろう……?」

「言われてみると……。あ、いや、どうでしょう? そもそも、ミレイユ様の戦う姿って、余り見ないので……」

 

 アキラが腕を組んで首を傾げる。

 言われてみると、確かにそんな気がした。

 ミレイユとしては何度か戦場を共にしたから見せていたつもりでいたが、アキラに戦う姿を見せたのは、神宮で起きた戦いだけだ。

 

「とにかく、私が率先して支援魔術を使っているのは、それが最も高い強化効率を望めるからだ」

「えぇと……、ルチアさんとかだって、受けた効果が半減されてたりするんですよね? それなのに?」

「それなのに、よ。……ズルいわよねぇ」

 

 いつの間にやら展示室へとやって来ていたユミルが、軽快に笑って続ける。

 

「つまり、それだけ魔力の隔たりがありってコトなんだけど。アタシも使えなくないけど、自分よりも良い効果を受けられるとなれば、まぁ任せちゃうわよね。常に傍で戦う訳でも、常に頼れる状況にある訳でもないから、使う時は使うけど」

「だから、ミレイさんを治癒する時は大変です」

 

 ユミルに続いてルチアが口を挟んできたが、こちらの表情は対象的で、苦いものを堪える様な顔になっている。

 

「治癒術にはそれなりに自信がある私ですが、もしもミレイさんを全快させようとしたら、きっと途方にくれますよ。木っ端魔術士の攻撃なら、そもそも防御する必要さえない程ですけど、だから治癒術だって弾いちゃうんですから」

「まぁ、敵からしても味方からしても、悪夢みたいな存在よ」

「何たる言い草だ……!」

 

 流石に今の軽口まで看過できなかったアヴェリンが、眉を逆立ててユミルを睨む。

 

「ミレイ様を侮辱しようなどと! 何たる無礼だ! 貴様、最近の言動は目に余るぞ!」

「いやぁ……。でも、治癒術が効かないとか、状況によっては普通に悪夢でしょ」

 

 ユミルも言にも一理あって、ミレイユからは何も言えなくなる。

 幸い、これまで戦闘中に、ルチアの助けを必要とする場面はなかった。

 だがそれは、単に状況が許しただけであって、いつミレイユが先に膝を付き、治癒を求める事になるか分からない。

 

 ルチアも優秀な魔術士であり、治癒術士でもあるので、その魔術効果を完全に遮る事は起きないだろう。

 ただ、ミレイユの魔術抵抗を突破するのは相当な骨だ。

 突破できるだけ大したものだが、要らぬ苦労の様に感じてしまうのは否めない。

 

 それに瀕死の重傷なのに、治癒が遅々として進まず、という事態もあり得る。

 ルチアはともかく、これが他の誰かなら、悪夢と言われても確かに仕方なかった。

 

 ユミルが歯に衣着せぬ物言いをするのは今更だが、口先ひとつ詫びた所でアヴェリンも納得しないだろう。

 その上で謝罪も何もない訳だから、アヴェリンは肩を怒らせ、ユミルを掴み掛かろうと動いた。

 流石に今回は、黙って見ていると乱闘に発展するかもしれず、ミレイユが間に立って二人を止める。

 

「今は互いの意見をぶつけ合ってる場合じゃない。アヴェリン、アキラの装備は問題ないな?」

「ございません」

「ユミル、準備は済んでるな? 水薬は持ち出したか?」

「えぇ、問題ないわよ」

「では、出発だ。今は小さないざこざで、時間を浪費できない。陣に乗って出発だ」

 

 ミレイユが率先して動くと、ユミルへ不満そうな表情を見せつつ、アヴェリンもそれに続く。

 そうなれば全員が陣に乗り、最後に乗ったアキラは、不安そうに足元を矯めつ眇めつしながら呟く。

 

「……これで転移するんですか? いつもミレイユ様が、してくれるみたいに」

「そうだ。私はマーキングした所にしか飛べないが、陣ならそれは関係ないからな」

「えぇと、行き先は……」

「着けば分かる」

 

 短く答えて、ミレイユは陣に魔力を送り込んだ。

 最初に陣の中心が淡く発光し、それから外へ向かって描かれた文様に沿って光が流れた。

 

 その陣全てに光が行き渡ると、一際大きく発光し、次の瞬間には足元が抜けて落ちる間隔が身体を通り抜ける。

 その次の瞬間、浮遊感と共に視界が黒く染まり、陣の効果が発揮されて転移した。

 



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竜の谷 その3

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 浮遊感は一秒にも満たなかったが、その感覚が消えても視界は依然、暗いままだった。

 しかし、付近にアヴェリン達がいる事は気配で分かる。

 

 陣に乗ったままの配置で彼女らがいる事は分かるから、どうやら単に光が一切差さない場所にいるだけのようだ。

 何かの偶然で陣が発見されないよう、手を打った結果だろう。

 

 とはいえ、あまりに何も見えないのなら、この場所は完全に密閉された空間という事になる。空気の淀みも心配になるところだった。

 ――罠だったか?

 

 一瞬、その様な考えも浮かぶが、謀殺したいだけなら、もっと別の機会もあったろうし、何より迂遠だ。

 自らを危険に晒し、壮大な嘘をぶち撒けて、更にドラゴンを味方に付けるよう助言した上で、陣に乗せる必要はない。

 

 ミレイユが冷静になろうと努めている間にも、ユミルは既に動いていたらしい。

 何やら衣擦れの音が聞こえたかと思うと、しばらくしてコンコンと何かを叩く音がする。

 拳を軽く握って壁を叩いている様でもあり、そして、その音から材質が石である事も分かった。

 

「あの……?」

「いいから、今は黙ってろ」

 

 アキラから周囲を伺う声がしたが、有無を言わさず黙らせる。

 何度となく、コンコンと叩く音が続いていたが、ある地点でその音が変わる。

 今までとは少し甲高いものに代わり、そしてペチペチと手の平で叩く音が響いた。

 

「アヴェリン、ここよ。ここ、叩いて。でも加減してね、外がどうなっているかまでは分からないから。まずは小さな穴でも開けて、様子見て」

「いいだろう」

 

 直前まで諍いがあったとはいえ、ここでそれを持ち出す程、互いに狭量ではない。

 アヴェリンは素直に応じて動き、自分でも改めて場所を確認しようと岩壁を叩く。

 ユミルの時より幾らか重い音が響いたと思うと、次にはドゴン、という破壊音が響いた。

 

 パラパラと細かな石が落ちる音と共に、壁の一部がヒビ割れ、一条の光が差す。

 夕方から宵闇が降りようとしている橙色の光が洞窟内に入った事で、ミレイユ達がどこにいるかを教えてくれた。

 

 そこは自然窟を利用した一室のようだった。

 周囲は五メートル四方と狭いもので、床に敷かれた陣以外、他に見るべきものはない。

 室内には埃も溜まっていて、長い間だれも入っていない事が分かり、そして出入り口は後から魔術的に塞いだ事も分かった。

 

 土や石を寄せ集め、それらを固めた上で、入り口に蓋をしたものらしい。

 周囲の岩と色の違いがあったからこそ分かった事だが、その差異も僅かなもので、遠目からでは何かが塞がれているとまで気付けないだろう。

 

 アヴェリンが更に拳を打ち付けると、更に穴が拡がっていく。

 最終的には、釘でも打ち付けるかのような気楽さで、ひと一人が十分通れる大きさまでに拡がった。

 最後まで見届け、さて出ようと思ったところで、ユミルから呆れた声が漏れる。

 

「せめて武器使いなさいよ、武器を。なんで素手なのよ」

「繊細な力加減で穴を開けるなら、素手の方が良いからだ。なにか文句でもあるのか」

「いえ、別に……」

 

 何とも言えない表情で顔を逸し、それから思い付いたかのようにアキラへ顔を向け、今しがた作られた出口へ指を向ける。

 

「アンタも、もうあれ出来るの?」

「無理に決まってるじゃないですか……」

 

 いつか聞いた様なやり取りを聞き流しながら、ミレイユは二人の間を縫って外に出る。

 そうして、まず正面に見えたのは、どこまでも広がる様に見える雲海だった。

 雲がうねる様に左から右へと流れ、厚い雲が折り重なる様は、まるで絹のようにも見える。

 

 そこに茜色の空が柔らかい光を当てていて、見事なグラデーションを描いていた。

 思わず魅入って、少しでも前で見られないかと歩を進めれば、地面に幾らも余裕がない事に気付く。

 

 足元は、人間が二人なんとか並んで歩けるだけのスペースしかなく、それが左右へ続いている。

 数歩、前に進んだだけで崖になり、当然落下予防の柵などない。

 

 髪と帽子を大きくなぶる風は、時として勢いを増して吹き荒び、直立しているだけでも苦労がある。

 いつまでも入り口を塞いでいる訳にもいかず、ミレイユは横へ逸れてアヴェリン達を待った。

 

 既に幾つもの冒険を共に潜り抜けてきた者達だから、出てきた所で感嘆めいた息を吐くものの、場を弁えて直ぐに脇へどいて行く。

 

 最後に出てきたアキラは、流石にその境地に達していないらしく、呆然と雲海を見つめていた。

 言葉にならない感動が巡っている様で、うっすらと涙さえ浮かんでいる。

 

 実際にミレイユも、この光景を見た瞬間、一瞬我を忘れるところだった。

 それほどの絶景だから、楽しませてやりたい気持ちは山々だが、時間は待ってくれない。

 

 ミレイユが何か言い掛けようとした瞬間、突風が吹き荒れ身体を傾けた事で、アキラは我に返った。

 思わずたたらを踏み、そして自分がどういう場所に立っているかも認識し始めた。

 感動に身を震わせていた時とは打って変わって、青い顔で壁際に背中を張り付く。

 

「こ、こんな場所に繋がってたんですか……!」

「そうだな。だからこそ、陣を隠して置けると思ったんだろうが……。それにしても、よくよく山に縁がある」

「雪がないだけ、まだましかもね。足を取られる心配もないし」

 

 ユミルがあっけらかんと笑って、周囲を見渡した。

 ここがどこかは分からないが、遺跡のあった山より、もっとずっと南の方、というのは間違いないだろう。

 

 ミレイユも竜の谷について詳しく知らないが、北にトラゥズムと呼ばれる峻峰があったように、南にはドラゴンの巣窟である、ソモジューナという険山がある事だけは知っている。

 

 時折、野にドラゴンが現れるのは、その多くが竜の谷から漏れ出るからだ、と聞いた事があった。

 中にはそのまま別の山に居着いたりと、別の生態系へ組み込まれる事があり、討伐依頼が出されるのも、そういったドラゴンが多い。

 

 竜の谷へ進んで入る者はいない。

 それは自殺と何ら変わらない行為で、ドラゴンスレイを夢見ても、竜の谷へ討伐に赴く事だけはしないものだ。

 その末路が、いつの世も凄惨な結果である事は、誰もが知っている。

 

 この山では、小物の魔獣代わりにドラゴンと遭遇するのだから、十分な腕前がある、というだけでは到底足りないのだ。

 当然、一級冒険者というだけでも全く足りない。

 

 アキラも当然、そのくらいの伝聞は聞いているだろう。

 ひとたび冒険者としてギルドに身を置けば、気にするつもりがなくとも、その手の情報は入って来るものだ。

 

 アキラの方を見てみると、ブルブルと震えていた。

 風は強く、幾らでも体温を奪っていきそうだが、そればかりが原因でもないだろう。

 ミレイユは挑むような目付きで尋ねる。

 

「……怖いか?」

「怖いです! でも、逃げたい怖さじゃありません! 遂に来たのか、っていう気がします!」

「ふぅん……?」

 

 口にした事は曖昧だが、怖さを自覚できているなら、危ういという訳でもないだろう。

 冒険者は勇猛で、時に蛮勇も振るうが、恐怖を感じなくなったものから死んでいく。

 

 危機意識というものは、その土台に恐怖なくして有り得ない。

 それを麻痺させるという事は、挑むべき敵と、挑める敵との境を曖昧にさせる。

 

 だが、今のアキラなら大丈夫そうだった。

 その目には緊張も見えるが、自棄は見えない。やる気は見えても、及び腰ではない。

 

 この様な状況にあって余裕を見せられるのは、一級を超えた逸脱者以外許されないものだが、アヴェリン達でさえ、緊張感と警戒心を解いていない。

 

 心の片隅に恐怖を残し、それを制御しているから危機感と余裕を両立させる事が出来ている。

 彼女たちは恐怖を感じていないのではなく、それを御する力と見せない努力が身に付いているだけなのだ。

 

「……まぁ、いいだろう」

 

 ミレイユが頷くと、ユミルが好意的な笑みを浮かべてアキラの肩を叩く。

 それでバランスを崩して恨めしそうな目を向けたが、ユミルとしては、むしろその態度を好ましく思っているようだった。

 

 ミレイユはどちらに進んだものか、迷いながら顔を左右へ向け、左側の雲の中で何かが動くのを見つけた。

 更によくよく注視してみると、雲海の中で何かが泳いでいる。

 

 距離の都合と影しか分からない事もあって正確ではないが、巨大であるという事だけは推測できた。

 ただ影の大きさや動きが不規則に乱れるので、泳ぐというより溺れているようにも見える。

 アヴェリンも目敏くそれを見つけて、目を鋭く細めた。

 

「雲海の中を泳ぐ生物など、聞いた事がありませんが……。魔獣、魔物の類と考えるのも、どうにも……」

「そうだな。あれほど巨大な鳥がいると聞いた事もないし、とすれば……」

 

 ミレイユが知る鳥の大きさは鷹程度のものだ。

 未だ大人しく肩の上に乗るホワソウとて、大きい鳥に分類される。

 目測で家屋より大きそうな鳥というのは、観測史上存在しないと考えて良い。

 

「あれはドラゴンと見て良いのかな……」

「かつての姿を取り戻したドラゴンですか……。それにしては、動きが妙なのは何なのでしょう」

「……つまり、今まで空など飛んだ事がなかった訳だ。普通は幼体の状態で親から習ったりするものだろうが、教える親すら知らないのだから、手探りで飛んでいる状態……と考えれば、しっくり来そうなものだが」

「なるほど。そう考えて見てみると、あの溺れているかに見える様子も、納得できそうなものです」

 

 アヴェリンの納得と同時に、ルチアも首を傾げながら雲海の奥を見つめる。

 

「外を悠々と飛び回らないのは、神の目を意識していると考えて良いんでしょうか。つまり、どういう意図で姿が戻ったにしろ、リスクを考えて未だ隠れる事を選んでいる、と……」

「長く生きたドラゴンは、人間並の知能を持っていると言うじゃないか。そうであればこそ、リスクを天秤に掛けて考えられるのかもしれない。意味不明な状況では、慎重にもなるだろうさ」

 

 それもあるけど、とユミルも雲海の奥と、その動きを見つめながら言った。

 

「まず前提として、姿を元に戻したのは、神の仕業だと考えるんじゃないかしらね。単純に、そんなこと出来そうな存在って他にいないし。かつてはその提案を脅しにも使われてる。だから、神々からの接触があれば対応できる様、待ち構えているんじゃないかしら」

「……そう考えていても可笑しくないな。翼という武器を取り戻して、それで何の備えもしないとは考えられない。攻め込む事だって視野に入れてる、強硬派もいそうだしな」

「そうよね。……つまり、アレって現在、練習中って見て良いのかも」

 

 ユミルが指差した向こうでは、一つの影しか見えないが、進むに連れてもっと姿を確認できるようになるのかもしれない。

 そして、堂々と爪を研いでいる所を見せず、雲海の中で隠れるように磨いているのは、敵愾心を表に出さない計算高さがある故か。

 

「人間並に考えられるドラゴンが、かつての知恵を取り戻したのなら、人間以上にものを考えてもおかしくない。どこまで考え、何を考えているかも不明だが、何しろ今はまだ、姿を取り戻して間もない状況……。混乱も大きい筈だ」

「そうね……。最古の四竜が、どう出るつもりかも不明なワケだし……。交渉は想像以上に、厄介なものになりそうね」

「あぁ、力付くで言うこと聞かせるなんていうのは、最悪の選択だろうしな……」

 

 何より神の居場所へ辿り着くには、その背と翼を借りるしかない以上、敵対するような態度は取れなかった。

 下手に出る必要はあるだろうが、下に見られるのも駄目だ。

 難しい綱渡りをする必要があるだろう。

 

 ミレイユは雲海の上を一通り見渡してから、右側に雲海の中を泳ぐ影がない事に気が付いた。

 もしかすると、左の方にこそドラゴンが集中しているかもしれず、ならばきっと古参のドラゴンもその奥地にいる。

 

 偶然かもしれないが、今は手掛かりも他にない以上、踏み出す切っ掛けとしては十分だった。

 ミレイユが腕を振ってアヴェリンを先行させると、それに続いて歩き出した。

 



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竜の谷 その4

 竜の谷の道行きは厳しい。

 そもそも、人が歩けそうな道、というものが存在していなかった。

 稜線の上を歩く事が前提みたいなもので、しかも途中で明確な行き止まりがあり、断崖絶壁を飛び越えなくてはならない場所も多い。

 

 ルヴァイル達の、見つからない場所に陣を敷かなくては意味がない、という考えは分かる。

 だが、目的地までの行程を考えると、嫌がらせの為にあの場所を選んだのではないか、と邪推したくなった。

 

 ミレイユは改めて崖の先に立って、谷と谷の間を見た。

 高さは計るまでもなく、雲が下にある時点で落ちれば命がない。そして次の谷まで、優に三十メートルは超えている。

 

 周囲を見渡しても迂回して行ける道もなく、山頂から山頂へ飛び移る様なものだった。

 今は無風に近いほど風は柔らかだが、またいつ風が吹き荒れるか分からない。

 それに――。

 

 既に空は藍色へ染まり、日が落ちようとしていた。

 暗くなってからの移動は自殺行為だが、同時に留まって休息するには、絶望的に向いていない場所しか周囲にはない。

 一度下に降りて、どこか平地を探す方が賢明だろうか。

 

 崖越えのリスクも、それなりにある。

 降りること自体もリスクだが、崖下までどれほど距離があるか分からないのも、またリスクだった。

 降るというなら、次は隣の崖まで移動し、そして今度はまた登らねばならない。

 

 雲海より下に竜の巣があるなら、そちらを転移先として選ぶだろう。

 そうでない、という事は、尾根を伝った先にこそ、目的地があると考えるべきだった。

 ――あるいは、そもそも道を間違えたか。

 

 その可能性を、考えない訳にはいかない。

 遺跡への道もまた、道なき道を行くに等しかったから違和感もなかったが、道が途切れている時点で、違う道を進んでいたと気付くべきだったろうか。

 ミレイユが崖下を見つめながら思い悩んでいると、後ろからユミルが声を掛けてきた。

 

「何かおかしな事でもあった? ドラゴンでも襲って来そう?」

「いや、そういう事じゃない」

 

 実際、当初雲海の中に見えていた影も、今ではすっかり姿を消した。

 気配も感じ取れないので、どこか別の場所へ移動したと見るべきだろう。

 

「単に、この道が正解なのかと疑い始めただけだ。この崖を越えて行くのが正解と考えるより、来た道を引き返した方がマシに思える」

「それはまぁ、確かに思って当然だけど……」

「険しい道とも聞いていたし、人が歩ける様な場所じゃない、とも言ってた気はするが……これは普通、死ぬ道だろう」

 

 ミレイユは崖下を見つめながら、腕を組んでムッツリと口を閉じた。

 眼下に広がる、どこまでも続くかに見える雲海と、所々山頂が突き出して見える光景は、掛け値なしに美しい。

 藍色と茜色のコントラストが雲に描く光のグラデーションは、いつまでも見ていたいと思えるものだ。

 

 しかし、だからこそ崖下がどうなっているかが分からない。

 実は雲海の下に、すぐ歩ける開けた道などがあるかもしれず、それを考えるならこの道で問題はない。

 そして、雲のない日ならば、迷う事もなく道を見つけられたかもしれない。

 

 そう考えてしまうと、一概にルヴァイルを責める事ばかりも出来なかった。

 雲がない日を前提として考えていたのだとしても不思議ではないし、そして無理ならば、一度引き換えして晴れを待つだろう、という常識的な考えでいたとして不思議ではない。

 

 だが、そうしたミレイユの予想を投げ捨てる意見を、ユミルはあっけらかんと笑いながら言った。

 

「いやアンタ、そうは言うけど、こんな事で死ぬなんて、割と想像できないわよ。崖から足を滑らせたとしても、どうせ何とか対処するでしょ?」

「それは……、そうだが。こんな事で死んでやるつもりないしな」

「多分だけど、それってルヴァイル側としても共通認識だと思うのよね。そもそも頑丈だし、あの手この手で生き残る。この程度なら、人にとっての登山道ぐらいにしか見てないんじゃないかしら?」

「それはそれで忌々しいな。……納得出来ないが、理解はした。じゃあユミルは、このまま進むべきだと思うか? 一応、雲海の下には歩き易い道があるかもしれない、という可能性も残されてる訳だが」

 

 ユミルもまた、崖下を見つめながら、悩ましげに息を吐いた。

 

「……難しいところね。尾根伝いで行ける様にはなってるとは思うけど、賭けになるのは間違いないし。ちょっと見てくる、が出来る状況でもないしね。暗くて見えないっていうのもあるし、それなら一度引き返して、邸宅で夜が明けるのを待った方が良さそうよ?」

「……ルチアは、どう思う?」

 

 後ろで感知を使って警戒していたルチアは、問われて首を傾げ、顎先を掴む。

 

「危険だ、という意味では間違いなくそう思うんですけど……。でも、『遺物』の起動を察知されていたら、時間的余裕がどれ程あるのか予測つきませんし……。オズロワーナを使った陽動も、どれほど有効に働いているか、予想付かない状況です。足踏みしている暇はない気がしますね」

「結局、そこなんだよな。私の姿を今なお探している最中なら、尚のこと悠長にしてられない。ドラゴンの異変も早晩知れる。そこに注目すれば、私の存在にも気付くと見るべきだ」

「……では、やはり強行しますか?」

 

 そもそも、明かり欲しさに一夜明かすのも、雲が消えるのを待つのも、選べる選択肢ではなかった。

 安全を考えるなら、と思うが、安全を考えていられる余裕はない。

 ミレイユは、目線を崖下からルチアに戻して問う。

 

「ドラゴン達の気配は何処にある? この先にいるのは間違いないか?」

「ちょっと待ってくださいね」

 

 そう言って、ルチアは杖を両手に持って集中を始めた。

 初級魔術という縛りがなければ、ルチアの感知から逃れられる者は早々いない。

 

 広範囲に感知の波を撒き散らすゴリ押しでも、同じ事が言えるだろう。

 しかし、初級魔術での感知となれば、細く脆い糸を伸ばす様にしなくてはならない。

 

 一定方向しか向けられず、伸ばすにしても時間が掛かった。

 ルチアの腕前は信頼していても、使用する術によって効率はどうしても落ちるのだ。

 だから、ただ辛抱強く結果を待っていると、やがてルチアが目を開いて断言した。

 

「居ます。この先で複数のドラゴンを確認しました。更に奥にいるかまでは分からなかったですし、巣があるかどうかも分かりません」

「それだけ分かれば十分だ。今のドラゴンは、若い個体であっても話が通じると思うしな。獣の様に、考えなしに突っ込む事だけはしないだろう」

「……ですかね」

 

 その獣の知能と変わりないドラゴンばかり見てきたルチアからすると、素直に頷けないところらしい。

 それも理解できるが、仮に話が通じなくとも、他にもドラゴンはいるだろう。

 最古の四竜へ案内して貰えたら、それが最も簡単で有り難いが、きっとそうはならないとも理解している。

 

「そういう訳だ。強行するぞ」

 

 ミレイユがアヴェリンとアキラにも目配せすると、両者から首肯が返って来る。

 正面に向き直ろうと顔を動かした時、視線の先で陽の光が雲海の中へ沈んでいくのが見えた。

 夜の帳は完全に降りつつあり、崖の先も視認が難しくなる。

 

 渡るというなら、完全に陽が落ちるより早く渡り切ってしまいたかった。

 ミレイユが顎先を突き出す様に崖を示すと、まずアヴェリンが走り出し、数歩遅れてアキラも走る。十分な助走を付けて跳躍し、遥か先の崖へ身体を投げ出した。

 

 空中にいて、かつ距離があるとなれば、少しの風で着地点がずれる。

 ミレイユはそれを補助修正する為に念動力を駆使し、目標どおりの場所へと着地させてやる。

 二人が成功させたとなれば、向こう側の安全は確保された様なものだ。

 

 ルチアとユミルもそれに続き、ミレイユもまた、自らを支援魔術を使い、補強した上で跳躍した。

 二人の後ろを一拍遅れて付いていく形になり、風で逸れる事があれば修正しようと思っていたのだが、彼女たちは問題なく着地する。

 

 ユミルが横に動いて着地点を空けてくれて待ち構え、ミレイユもそこへ着地しようとしたのだが――その瞬間、強い風が吹いて、ミレイユの勢いを止めてしまった。

 

「……おっ、と……?」

 

 咄嗟に念動力を駆使し、崖の先端を掴んで自らを引き上げようとしたのだが、石質は脆く、引っ張る力に耐えられず崩れてしまった。

 あとたった数歩の距離が足りず、目の前で壁が降ろされたかのように落下方向が変わる。

 

 ――どうする。

 咄嗟に視線を巡らせて利用できるもの、掴めるものはないかと探したが、雲海の上には突き出た岩以外なにもない。どこを掴もうと先程の二の舞いだろうから、今更打てる手もなかった。

 

 せめて復帰し易い場所に落ちられれば良いのだが、と諦めの境地に至った瞬間、ユミルが身体を投げ出しながら手を伸ばしてきた。

 咄嗟にその手を掴むと、今度はユミルの足をアヴェリンが掴む。

 

「――はぁい、よっと! 掴まえた」

「あ……っ。あぁ、助かった」

「でしょ、これっきりよ?」

 

 ユミルが悪戯好きそうな笑みを浮かべ、ウィンクをして笑う。

 アヴェリンは足を踏ん張ろうと力を入れていたが、その踏ん張る力が原因で、先からヒビ割れが生じ、崖先そのものが落ちようとしている。

 

 アキラもアヴェリンの腰を掴んで、綱引きの要領で引き留めようとしたが、石質の都合で崩れそうになっている足場はどうしようもない。

 

 それをルチアが咄嗟に魔術を行使して、アヴェリンの足ごと周囲の岩場を凍結させる。

 足の周りだけでなく、広範囲を巻き込む事で安定化させ、アヴェリンも足元を気にする必要がなくなった。

 大胆に力を振るい、腕を振り上げユミルを一本釣りの要領で引き寄せる。

 

 それにつられてミレイユも浮き上がり、動きに逆らう事なく、持ち上げられるままに身を任せた。

 丁度よい高さまで帰って来たところで手を離すと、慣性の動きを利用し、軽やかな身のこなしで着地を果たす。

 それから一拍の間を置いて、ちゃっかり退避していたホワソウが、再びミレイユの肩へと降り立った。

 



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竜の谷 その5

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 アヴェリンの腰から手を離したアキラが、顔面を蒼白にしながら、詰め掛けるように手を伸ばす。

 その手はわなわなと震え、眦には涙が浮いていた。

 

「み、ミレイユ様、ご無事で何よりでした! 落ちる瞬間を見た時、もうどうしたら良いかと!」

「あぁ、我ながらまさか、と思ったが……。アヴェリン、大儀だった」

「ハッ、勿体ないお言葉……! しかし、あの風はご不運でした」

 

 アヴェリンが一礼したのち、手に掴んだままだったユミルの足を離す。

 ユミルは片手一本で凍った岩場に手を着くと、足を伸ばした綺麗な倒立をしながら立ち上がった。

 

 その目には若干の不満が浮かんでおり、そしてそれは、アヴェリンのぞんざいな態度だけでなく、ミレイユにも向けられているようだ。

 何か言いたげな瞳を向けるだけで、何かを口にする気配がない。

 ミレイユからの言葉を待っていると分かって、少し考え込んだ後に声をかける。

 

「ユミルも、良くやってくれた。咄嗟の動きは流石だったな」

「そうよね? まず真っ先に、アタシにお礼言うべきでしょ」

「言いたい気持ちは分かりますけど……。でもミレイさんなら、きっと独力でどうにかしてましたよね」

 

 ルチアが茶化す様に言って、地面を凍らせた魔術を解除する。

 ミレイユは敢えて何も言う気はなかったが、ルチアの言う事も正鵠を得ていた。

 

 初級魔術しか使えない、という条件が課せられているので、使える手札は非常に少ない。

 しかし、どうしようもない、為す術もない、という状況でもなかった。

 

 落ちたとしても、時間は掛かるが戻ってくる事は出来ただろう。

 だが、それで時間が浪費された事は間違いなく、また戻るまでに莫大な時間が掛かった可能性は否めない。

 

 それを防げただけでも、素直に礼を言う価値はあった。

 だが、誰もが尽力したという意味では同じだし、ユミル一人を特別褒める訳にはいかない。

 ルチアの機転がなければ、アヴェリンは踏ん張る事も出来ず共倒れの可能性もあった。

 

「ルチアも、良くやってくれた。一見地味だが、痒い所に手が届く、良いフォローだったな」

「いえいえ。縁の下の力持ちとしての役割が、私に求められているものだと分かってますので」

 

 ルチアはにこやかに笑って、手に持った杖を仕舞う。

 その返答を聞いたアキラは何とも言えない顔で、まごつくように顔を逸した。

 

 確かにアキラは目立った手助けが出来ていない。

 アヴェリンの腰を掴んでいたものの、それが有効に働いていたかと思うと疑問だった。

 

 座して見ていた訳でもないし、何とかしようという気概だけは伝わっていたが、結局ほかの者ほど意味ある行動だったかと考えると疑問が残る。

 当然、ミレイユはそれを責めようと思わないが、アキラは自分自身、不甲斐なく思っているのが伝わって来た。

 

「あぁ、まぁ……アキラも……」

「いえ、大丈夫です。無理にお言葉を頂かなくても……。下手をすると、師匠の邪魔しかしてませんでしたし……」

「そう卑下する事もないだろう。このチームには、これまで培って来た阿吽の呼吸がある。何を言わずとも、それぞれに適した動きや役割を瞬時に悟って動く。お前の入り込む余地が、初めから無かったとも言えるから……」

 

 まさしく年季が違う、というやつだ。

 立ち位置によっては、ユミルの代わりにアキラが身を投げ出していた可能性もある……が、もしもを考えても仕方ない。

 ユミルもそれはよく理解しているらしく、アキラの頭を気軽な仕草で叩きながら言った。

 

「アンタの役割は、小器用に振る舞うコトじゃなくて、もっと無骨に盾になるコトよ。この子の為に、命投げ出しても盾になりたいんでしょ? だったら、そういう状況になったら躊躇わず動きなさい。それが役目ってもんよ」

「ですね……」アキラは気を取り直して頷く。「そうします」

「全く世話の焼けるコト……」

 

 ユミルがこちらを振り返って曖昧に笑い、ミレイユも苦笑を返して道なき道の先を見る。

 一つ山場を超えても、続く先は未だ険しく尾根が連なっていた。

 それも、雲海から尾根の頭を僅かに出している程度のものだから、まるで剣山の上を歩いて行くかのように錯覚してしまう。

 

 本当に地面がないのか、それとも単に隠れているだけなのか分からないので、それぞれ針の頭に足を乗せるかのいように、移動する必要がある。

 暗い視界のせいで状況が分かり辛かったが、アキラもようやく事態を飲み込めてきて顔を青くさせている。

 

「ここ……ここ、行くんですか……」

「他にないからな。童心に帰って、ケン、ケン、パッと行けば大丈夫だろう」

「童心に帰って、やる事が命がけの遊びですか……」

 

 アキラは相変わらずの青い顔を、左右に振って抗議して来たが、何しろ他に道がないなら、行くしかないのだ。

 そんな事を言っている間にも、アヴェリンは早々に先導役として剣山を次々と渡っていく。

 

 気軽な調子でホイホイと渡って行くが、脆い石質なので、それだけで崩れる場所もある。

 その後にルチアやユミルも付いて行った事で、二人目が通った時点で大きく崩れ、雲海の中に頭を隠す場所も出てきた。

 

 あまり悠長にしていては、取れる選択肢が狭まっていってしまうようだ。

 場合によっては一息で飛び越せない足場も出て来て、待つ毎に難易度が上がっていく事になってしまう。

 

「ほら、行け。今更、命を惜しんだりしないんだろう?」

「惜しまないにも、状況ってものがあるでしょう? ミレイユ様の為ならまだしも、足を滑らせて失う命なら、惜しんで当然じゃないですか……!」

 

 その理屈もよく分かるが、進まないというなら、結局同じ事だ。

 さっさと進め、と面倒そうに顎先を突き出すと、アキラは意を決して足を踏み出す。

 

 一度跳べば、不安定な足場に長く留まってる事は出来ない。

 バランスを崩す事にもなるし、次々と移った方が、むしろ安全だ。

 

 だが、それが分かっていても、崩れた足場がある以上、下手な所で孤立しないように先読みして動く必要もあった。

 こうなる事が分かっていれば、一番にいアキラを先行させていたのだが、と悔やむも気持ちも沸いて来る。

 

 だが、道の先を行く者には、露払いの役も兼ねている。

 進んだ先に何が待ち構えているか不明、という状況で、先に到着した者は危険があれば安全を確保しなくてはならない。

 

 だから、それはそれで危険である事は変わりない。

 先行した者は単独で戦わなくてはならないし、その間にやられてしまっては元も子もない。

 

 実力者しか先行できない事実を考えれば、アキラを先に任せる事は、やはり出来なかったろう。

 となると、アキラには後発で苦労して貰うしかなかったのだ。

 

 ミレイユはその様に締めくくって、アキラの後ろ姿をぼんやりと眺めつつ、その後に続いてを移動を始めた。

 そのアキラは魔力制御が乱れている所為で、足裏へ上手く魔力を集中させられていない様だ。

 

 その所為もあっての事だろう。

 アヴェリン達三人が通った後と比較して、足場の崩れ方に明らかな違いがあった。

 

 あの異常な脆さは、魔力の反発を受けて生じていたとしたら……。

 この辺りの岩は、特別魔力に弱い石質を持っているのかもしれない。

 

 それが念動力で掴んだ際にも、影響を及ぼす事になっていたのだろう。

 そう考えると、意外なほど脆い石質にも納得できる。

 

 ミレイユは試しに、足裏へ伝える魔力を極力少なくして足場を蹴ってみると、脆いとばかり感じていた足場は、しっかりと反発を返して跳ばせてくれる。

 豆腐の上で跳ねる様な、繊細で気を使う制御をしなくても良くなり、気楽な気持ちで足場を移れる様になった。

 

 アキラは相変わらず危なっかしい跳び方をしているが、体幹はよく鍛えられているからか、その都度なんとか持ち直す事に成功している。

 今のアキラに、後ろから魔力制御の助言をしても、あまり良い結果を生みそうになかった。

 返って混乱してドツボに嵌りそうなので、横目でその姿を見守る事にした。

 

 選んだ足場の都合で、今や後ろではなく離れた右側へ――並走するように移動する事になり、そうしながらミレイユも次々と足場を移っていく。

 他の三人はどうだろうと、視線を移せば、題なく進んでいるのが見えた。

 

 アヴェリンに至っては既に剣山地帯を終え、広場の様になった足場で待っているようだし、他の二人も程なく行き着く事になりそうだ。

 一頻(ひとしき)り安心してアキラへ視線を戻すと、今まさに体勢を崩して、足場から落ちようとしているところだった。

 

「あっ、あっ……!」

 

 腕を大きく振ってバランスを整えようとしているが、あの様子では遅からず落ちる。

 ミレイユが念動力で補助してやろうと制御を始めたが、そのとき突風が吹いて、アキラは至極アッサリとを足場から落ちてしまった。

 

「あぁぁぁ……!」

「ば……かっ!」

 

 呻くような声が、ミレイユの口から漏れる。

 アキラの姿は一瞬で消え去り、魔術を行使するより早く、雲海の下へと消えてしまった。

 

 顔を顰めて歯の隙間から息を吐き出し、とにかくアキラが消えた足場まで移動しようとした時、雲海の中から手が生えてきた。

 

「……ぁぁぁっ……あれ? ……全然、低い。これ、足着きますよ」

「なんだよ……!」

 

 ミレイユは盛大に息を吐きながら肩を落とした。

 身体を固くしていた緊張が、それで一気に抜けていく。

 

 今もアキラは手を上に挙げて振っていて、自分の無事をアピールしている。

 とにかく、何事もなく無事だったのは喜ばしい事だ。

 

 とはいえ、注意しなければならない事もある。

 雲海の下で起き上がり、そのまま雲海の中を進もうとしているアキラには、少し諌めてやらねばならななかった。

 

「アキラ、そのまま進むのは止めろ。上に登れ」

「……どうしてです? このまま師匠の所まで行こうかと……」

「その雲海のどこかで、大きく口を開けた崖が待っているかもしれないからだ。その上で生還する自信がないなら、素直に上がって足場を移って移動しろ」

「あっ、は、はい! 了解です!」

 

 アキラの足場周辺が安全だからといって、他に危険はないと思い至らなかったらしい。

 素直に手近な足場へよじ登ると、再び同じ要領で飛び跳ねて移動していく。

 しかし、先程までの身体中に力が入った固さはなく、気軽な調子で移動していた。

 

 落ちた所で死なない、と分かったからの大胆さだが、アヴェリン達が待つゴール付近は、地上まで真っ逆さまに落ちる崖になっている可能性だってあるのだ。

 その可能性を示唆した筈なのだが、至って気楽な調子のままアヴェリンの傍へ辿り着き、そして到着した途端、アヴェリンに頭を叩かれていた。

 

 ユミルも同じ様に頭を叩いているところを見ると、心配させるな、とでも小言をぶつけているらしい。

 アキラに遅れる事しばし、ミレイユも問題なく踏破して、改めて振り返り剣山アスレチックを眺めた。

 

 これが夜でなければ、そして雲がなければ、変な苦労をしない場所だったのかもしれない。

 皮肉げな視線を剣山に向けてから、ミレイユは改めて尾根の移動を再開した。

 



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竜の谷 その6

 すっかり陽は落ち夜になったものの、一切の暗闇に支配される訳ではない。

 光源には月明かりがあり、雲で遮られる事のない光は、足元を照らすには十分な光量がある。

 夜目が利く者からすると、それだけで歩行するには問題ない。

 

 だが、それはあくまで稜線を歩き、障害物が周囲にない場合に限っての話だ。

 稜線を歩き続ければ、今度はなだらかに道が下り始め、それに沿って進むと雲海の中を進む事になる。

 視界は一気に隠され、手を伸ばした先すら霞んでしまう。

 

 しかし、地が続いているのは確かで、一歩踏み出せば間違いなく道が見えてくる。

 急に崖へ行き当たって滑落する事を考えると、足元を警戒しない訳にはいかず、自然と歩行速度は下がった。

 その最初の犠牲者となるのはアヴェリンだから、ミレイユは念の為、いつでもフォロー出来るよう、念動力で腰を掴んでいる。

 

 そうして歩くこと暫し――。

 雲海を抜けて、唐突に視界が開けた。

 

 気付けば両端は三メートルを超える壁に寄って挟まれていて、まるで囲い込まれた様に感じられる。

 両手を横へ広げても十分な幅はあるが、細く長い道は人工的に作られた物の様に見えた。

 いや、とミレイユは思い直す。

 

 よくよく見れば、地面にも壁にも、何か擦れた跡が幾つも残っている。

 まるで巨大な木の棒を前後に引いて削ったかの様にも見えて、長い間、幾度となく何かが擦れて出来た道だという事が分かった。そうであるなら、これはきっとドラゴンが造った道に違いない。

 

 蛇の様な巨体が通った事で、自然とこの様な形になったのだろう。

 ミレイユがルチアへ目配せすると、ルチアは感知を開始する。

 幾らもしない内に顔を上げ、それから小声で報告して来た。

 

「――います。強い魔力反応と巨大な何か。蛇の形ではありません。もっと別の……他に似た形が思い浮かばないので何とも言えませんが、とにかくそれが、三体いますね」

「三体? この先は広場の様になっているのか? それが待ち構えている……?」

「いえ、そういう訳ではなさそうです。開けた場所がこの先にあるのは間違いないですが、我々を待っているのとは違うでしょうね。外への警戒心は薄く、そして何か争っている様な……。内輪揉め、ですかね……?」

「何かに襲撃されている訳ではないのか?」

「そう思えます。三体以外に感じられる魔力反応がありません。侵入者と戦っている訳ではなさそうですね」

 

 ふぅん、と呟き、アヴェリンから向けられる、窺う様な視線に頷く。

 構わず進め、という合図に、アヴェリンも首肯を返して前進を始めた。

 

 神々がドラゴンの異変に勘付いて、尖兵を送り込むなりしていても不思議ではないし、だから争っているのかとも思ったのだが、そうでないなら確認してみる他ない。

 迂回できる道がある訳でもなく、そして竜の巣がこの先にあるのなら、進んでみるしかなかった。

 

 ミレイユ達が近付けば、当然それは相手にも伝わる。

 ルチアが言っていた通り、互いに争う姿を見せていたドラゴン達は、ミレイユ達の存在に気付くとピタリと動きを止めた。

 首へ喰らいついたりしていた口を離し、警戒心も顕に睨み付けて、叫び声を上げた。

 

「ギャオオオウウウ!!」

「あら、素敵な姿だコト。若い個体なのかしら。……あぁ、でも姿が変わったコトだし、声音で判断するのは危険かしらね?」

 

 かつてのドラゴンならば、姿形、そして声からでも識別できたものだが、今でも同じように判別して良いのか不明だ。

 長く生きたドラゴンは人間同様声が低く、重みも増してくるものなので、甲高い声はまだ若い個体だと判別したものだが、今では生物としての形が全く違う。

 

 ユミルが言う通り、姿形が元に戻ったからには、その常識も当て嵌まらないかもしれない。

 そのドラゴン達の姿は、かつてミレイユが現世で想像されていた姿と良く似ていた。

 

 デイアートで常識となっている蛇に良く似た不格好な姿ではなく、爬虫類的外見でありつつも哺乳類的骨格を持ち、長い尻尾と蝙蝠に似た翼を持っている。

 

 体表面は鱗に覆われつつ肩などに硬い外殻を持ち、筋肉質な両手両足には鋭い爪が生えていて、これまで見て来た姿とはまるで違う。

 しかし唯一、変化のない部分が頭部で、見慣れた部分と組み合わせて見れば、ドラゴンとしては相応しい姿ではある。

 

 そう思えるものの、今までの慣れ親しんだ姿で覚えていると、違和感の方が先んじてしまう。

 今は剣呑に細められた目と、喉元で唸り声を上げる様子が、警戒を一段階上げたと教えていた。

 

 そんな様子を見ながらも、アキラは興奮する様に、鼻息荒くドラゴンを見つめている。

 ファンタジー世界の定番、あるいは目玉とも言える存在に出会えたからかもしれないが、どこか抜けた奴だな、と今更ながらに思った。

 

「『遺物』は問題なく願いを叶えた。そう思って良さそうだな」

「だと思うわ。後は最古の四竜も、同じ様に戻っていれば文句なしね」

「変わってない可能性があるのか?」

「強大な存在に根本から変化を与えるのって、簡単じゃないと思うのよね。ドラゴンにも個体によって実力差があって、若い個体と古い個体を比べたら、そりゃあ天と地ほどの差があるんだから」

 

 言われて、ミレイユも納得する。

 願いの内容は曖昧でないにしろ、その規模について詳細に願った訳ではなかった。

 蓄えたエネルギーから使用されるのだから、一体のみと百体全てに影響を及ぼす場合だけでも、その差は生まれて来るだろう。

 

 それを思えば、弱個体と強個体と比べた時、強個体の方へ影響を与える方が、より大きいエネルギーを使うと言われても驚かない。

 結果として、最古の四竜が除外される結果となった可能性もある。

 

「願いの規模も大きい……百体までは変化させても、それ以降は息切れで打ち止め……。そういう事もあるかもしれない」

「そうね。だから、まず確認を済ませないと。それにはまず、あの三体が邪魔なのよね。……奥に行けば会えるのかしら? どうなの、僕ちゃん達?」

 

 ユミルが気さくに話し掛けて、三体のドラゴンは互いに目を合わせた。

 アキラなどは今更ながらに感動から現実に帰って来て、眼の前の状況にどう対処すべきなのか、思い悩む顔をしている。

 

 あのドラゴンが若い個体であるかどうか、それはミレイユにも分からないが、やるべき事は決まっていた。

 ミレイユは腕を組んで、指先をアキラに向けながらドラゴンへ顔を向ける。

 

「アキラ、とりあえずお前は前に出ろ」

「えっ……!? あの三体、僕が相手するんですか!?」

「倒して来いと言いたいんじゃない。避けられない戦闘なら、お前の使い勝手を見ておく機会かと思っただけだ。雪トロールでは、お前の『盾』として能力を見られなかったし、巨人には逃げの一手だったからな」

「えぇ……、はい、なるほど……。じゃあ、無理して倒さなくても問題ないと……?」

 

 ミレイユはうっそりと頷いて、アキラに向けていた指先をドラゴンへ向けた。

 

「お前がどれほど使えるのか分からなければ、運用方法にも障りが出る。盾としての本分を見せてみろ」

「わ、分かりました……! ドラゴンにだって、僕の刻印は通用するって所、見ていてください!」

 

 アキラが一度大きく息を吸って気合を込めると、脂汗を浮かせながらも決意した表情で前へ出て行く。

 ユミルが激励する様に背中を叩き、アヴェリンは道を譲って睨み付ける。

 不甲斐ない真似を見せるな、と言外に語っている様に見え、アキラは生唾を飲み込んだ。

 

 アキラに任せると言ったとはいえ、ミレイユ達が細い道の中で隠れる様に見守るのは情けない。

 アヴェリンが先導してアキラの背に付いていき、入り口付近で待機する事にした。

 

 そこで改めて周囲を見てみると、中は円形に広がった岩場のようだった。

 草や木が生えている訳でもなく、苔らしきものが端々に見えるが、それ以外は岩と壁しか見られない。

 

 寝床のような場所なのか、それとも広場として用意されたものなのか、あるいは正面入口となるこの場を、守る為に用意されたものなのか……。

 どれもが当て嵌まりそうであり、そして、その何れもが正解の様な気もする。

 

 アキラが一人進み出ると、三体の内の一体、中央のドラゴンが物珍しそうに顔を近付け、しげしげと眺めている。

 敵に向けた目つき、というより、珍しい動物を見るような仕草だった。

 そして、そのドラゴン達が、口を開いては好き勝手に物を言い始める。

 

「何だ、コイツ……。初めて見るな」

「それがアレじゃない? 来るかもって言ってた、神とかセンペーとかって奴だよ」

「コイツがか? この弱っちそうなのが?」

「じゃなかったら、ニンゲンって奴とか? ニンゲンってのは、小さくて弱いらしいけど、よく似た別物もいるらしいぞ」

「じゃ、あっちがセンペーって奴か?」

 

 ドラゴンが三体、口々に言い合って、アキラからミレイユ達に目を向ける。

 その目は明らかに威嚇している様であり、同時に警戒心が色濃く表れている。

 その対応を見る限り、実力差を見抜く力量はあるらしい。

 ミレイユは場にそぐわない、緊張感のない声で呟く。

 

「というか、喋れるんだな……」

「頭は悪そうだけどね。かつては知恵を奪われた上でも、強力な個体は人間並みの知恵は残ってたとか言うし……。それが今や、弱個体でも喋るっていうんだから、奥にいる奴らは期待できそうよね」

「いる上で、『遺物』が適用されていたら、の話ですよね」

 

 ルチアが補足する様に言い差すと、ご明察、とでも言うようにユミルは笑みを深くする。

 ドラゴンは、ミレイユ達が何を言っているか理解できていない様子だが、馬鹿にされているとだけは理解できたようだ。

 

 中央の一体が喉奥で唸ると、口内を明るく照らしたと同時に火が漏れ出る。

 鼻息を荒く吐き出すと、そこからも火炎放射の様に火が吹き出す。

 

 ミレイユはそれに頓着せず、指先でコメカミ辺りを掻いた。

 その歯牙にも掛けない仕草が気に食わなかったのか、ドラゴン達はアキラを気にせず襲い掛かろうとした。

 

「――邪魔だ、ニンゲンっ!」

 

 その長い尻尾を一振りして、アキラを弾き飛ばそうとしたが、そのアキラは両手を交差させて踏ん張る。

 呆気なく吹っ飛ぶかと思っていただろうに、踏み留まったアキラを見て、鼻面に皺を寄せた。

 

「なんだぁ……?」

 

 あっさりと受け止められた事を受け入れられず、今度は腕を振り上げ、ハエでも叩き潰すかの様に振り下ろす。

 硬質な音と共にアキラが叩き潰され、地面がクモの巣状に割れた。

 

 ドラゴンは満足げに鼻を鳴らして腕を上げたが、そこには果たして、腕を交差したまま立つアキラがいて、ドラゴンのみならずミレイユもまた眉を上げる。

 

「何だ、以外に頑丈じゃないか」

「最初の尻尾にしても、以前ならダメージを防げても吹き飛ばされていた筈。あれも刻印を使いこなす様になったからこそ、出来る様になった事やもしれません」

 

 アヴェリンは我が事の様に褒める口調で分析し、状況を見つめて頷いている。

 あれで何層の年輪が削れたかでも評価は変わるが、そうとはいえ、現状でも十分頑丈だと評価できる出来栄えだ。

 あまり大きく期待できないと思っていただけに、これは素直に嬉しい誤算だった。

 

 ドラゴンは埒が明かないと思ったのか、大きく息を吸い込み胸を膨らませる。

 それを見れば、次に何をするつもりかなど一目瞭然だった。

 

 アキラが再び腕を交差し直し、アヴェリンも念の為ミレイユの前に出て盾を構える。

 次の瞬間、岩の広場を明るく照らす程の盛大な炎が巻き起こった。

 



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竜の谷 その7

 ドラゴンは直下にいるアキラへ、息を吹き付けるように口先を突き出す。

 そのお陰でミレイユまで飛び火する心配はなかったが、吹き付けられる炎で、アキラの身体は完全に埋もれてしまった。

 

 吹き付ける炎の奔流は凄まじく、範囲も広くて逃げ場がない。

 アキラは絶体絶命のピンチに見えるが、吹き付ける炎の中から硬質な音が断続的に聞こえてくる。

 年輪が削られている音だろうから、それが続く限りは存命だという事だ。

 

 互いの根比べが続くかと思えた矢先、ドラゴンはあっさりと身を引いた。

 音の意味が分からず不気味だった事もあるのだろうが、炎がそれほど有効ではないと気付いたからかもしれない。

 

 岩場へ吹き付けられた炎は、周囲を焦がして変色させていたが、アキラは相変わらずの格好で立っていた。

 それを見て、思わず口の端から笑みが漏れる。

 

「呆れた頑丈さだな。魔術を防げるのは以前見たから知っていたが、ドラゴンの炎まで有効なのか。あの炎は別に、魔力が含まれたものじゃなかったと思うが」

「しかし、やはりあぁいう継続してぶつけられる攻撃には弱い様ですね。聞こえていた音から察するに、削られた年輪も相当多かったと予想しますよ」

 

 ルチアと互いにアキラの盾を分析していると、三体のドラゴンより遥か後方から衝撃波が飛んで来た。

 敵か味方か、援護か攻撃か、と見守っていると――その衝撃波はドラゴンを吹き飛ばし、その延長線上にいたアキラも吹き飛ばした。

 まず先に三体が四方に弾かれ、次いでアキラも一瞬の均衡の(のち)弾かれる。

 そして、衝撃波はアヴェリンの元まで届いた。

 

 しかし、ドラゴン三体の時点で衝撃力が吸収されていた事と、アキラもクッション役となった事で、大きく弱体化していた様だ。

 アヴェリンが一歩踏み込み、呼気と共にメイスを振り上げると、たったそれだけで衝撃波は霧散してしまった。

 

 アキラはドラゴンよりも早く起き上がり、再び腕を交差して刻印を発動させながら、第二射に備えて射線上へ身を晒す。

 再び来た時には梃子でも動かない、と示すかの様な気迫だが、いつまで経っても追撃はやって来なかった。

 

 ドラゴン三体も遅まきながら身を起こしたのだが、何が起きたか理解しておらず、目を白黒させて何かを探すように首を動かしている。

 まるで新手を警戒しているかの様子だったが、本当に別の敵がいて攻撃をして来たのなら、既に奥地まで入り込まれている事になってしまう。

 

 この三体は神々の尖兵を警戒している様でもあったし、番兵の役割を持ってこの場で待機させられていた筈だ。

 しかし、この迂闊さ加減を見るに、満足に仕事を果たせていたか疑問が残る。

 

 ここより奥地に敵がいる訳ない、とミレイユは思っていたが、今の様子を見せられると、早計な判断は危険かもしれなかった。

 何者の姿も確認できない広場の奥を睨みながら、周囲に聞こえるよう声を上げる。

 

「……先手を打たれたか?」

「ドラゴンと協力関係を結ばせない為に、誰かが侵入を果たしていたって言いたいの? アンタがどんな願いをするか分からないってのに、妨害するつもりなら『遺物』の方を先に網を張るでしょ」

「そちらに気付けず、たまたまドラゴンの様子が目に入った場合は?」

「侵入するより先に攻撃……かしらね? 幾度となく奸計に利用し、互いに犬猿の仲、翼を取り戻せば、まず逆襲してくると考えるでしょうよ……。先手を打てるなら、もっと大規模な攻撃してるんじゃないかしら」

 

 ルヴァイルにナトリアがいた様に、即座に動かせる兵隊くらい、他の神々も持っているだろう。

 だが同時に、神々の傲慢さを考えると、これまで同様、ドラゴンを利用しようと考えそうでもあった。

 単に処理するより、何かのついでに使ったうえで処理をする。

 

 ドラゴンの処分は決定事項であれ、単に虐殺して終わりにするとは考られなかった。

 その様に思いながら、敵の影が見えないかと暗闇の奥を注視していると、そこへ厳かな声が響いて来た。

 

 老齢というほど嗄れてもいないが、若い声にも聞こえない。

 齢五十を過ぎた女性の、威厳に満ちた声が広場に満ちる。

 

「お前たち、そいつらは私の客だ。通してやんな」

「……客? こんな小さい奴らが?」

 

 首をもたげて胡乱げな視線を向けてくるが、ミレイユ達にだって言っている意味が分からない。

 無論、単語の意味だけなら分かる。

 しかし、会ったことも名前すら知らない相手から、客と紹介される謂れはなかった。

 

 ドラゴン達は既に衝撃波で吹き飛ばされた事など、露ほども気にしていないようで、先程見せていた怒りや敵愾心はすっかり鳴りを潜め、素直に道を開けている。

 

 視線から感じるものは敵意から好奇へと変わっていて、上から下まで舐めるように這う。

 只でさえ物珍しい人間が、更に珍客として遇せと言われれば、そうもなるだろう。

 

 ドラゴンの横を通り過ぎようとしたところで、アキラとも合流する。

 肩の辺りをさすっているが、怪我らしい怪我もない。

 焦げ臭い気はするが、ぱっと見た限りでは火傷痕もないようだった。

 

「見事な頑丈さだったな。正直、見直した。使い方次第では、もっと激しい攻撃でも耐えられそうだった」

「あ、ありがとうございます……! ミレイユ様に刻印を鍛えろと助言頂いてから、習熟する事に邁進して来ました!」

「今の防御で、合計何枚の年輪を失った?」

「十二枚です」

 

 確かアキラは、刻印一つで八枚の年輪を作っていたと記憶している。

 尻尾と叩き潰し、そして炎のブレス攻撃を受けた事を考えれば、消費した枚数も悪くない数字に思えた。

 

「刻印一回プラス、半分の消費か。その刻印は、最大何回使える?」

「三回です。――少ない様に聞こえるかもしれませんが、一回の使用で十枚まで張れるようになりましたので、最大防御回数も増えましたよ。これは刻印の理論上、最高回数になるようです」

「なるほど……。合計三十枚の年輪か。武器で魔力の補充も出来るし、場合によっては、その最高回数とやらも更に増えるな……」

 

 実際は相手によって、そう簡単にはいかない状況も多々あるだろう。

 だが、年輪一枚の強度と、合計三十層の多さは馬鹿に出来たものではない。

 

 ドラゴン三体から受ける好奇の視線を受け流しながら、ドラゴン達が指し示す方向へと足を踏み入れる。

 入り口となっていた道の倍ほどは広い通路を通り、今はただ前を向いて進む。

 

 しかし、確認しておきたい事もあった。

 ミレイユは、ユミルへと顔を向けながら問う。

 

「一応聞くんだが、客人というのはお前の事ではないんだよな?」

「何でアタシなのよ。幾ら古くから生きてるからって、ドラゴンに知り合いなんていないわよ」

「……そうだよな」

「まぁ、当て擦りみたいなもんじゃないの? どういう理由であれ、多くのドラゴン狩って来たのは事実だし、中でも最古の竜の一つを落としてるんだから」

「そうだな……」

 

 神々に踊らされるまま狩った命だが、当のドラゴン達からすると、そこに対した違いはないだろう。

 仇討ちのつもり――仇敵を指して客と呼ぶのなら、そちらの方がしっくり来る。

 

 元より簡単に行くとは思っていなかったが、予想以上に面倒な交渉になりそうだった。

 いや、交渉できるかどうかすら危うい。

 四竜と同時に戦う事も予想されて、今から頭が痛む思いだ。

 

 特に、この山にある岩の石質は魔力に対し非常に脆い。

 魔力制御に長けた者ほど、一々地面に足を取られて、戦闘どころではなくなるのではないか。

 

 それは同時に、大規模魔術であっさりと山を切り崩せるという意味でもあるのだが、今や空を取り戻したドラゴンと、足場が不安定な魔術士ではどちらが有利かなど言うまでもない。

 

「中々、面倒な戦いになりそうだ……」

「端から戦う想定っていうのも、どうなんですか……」

「そして、当然の様に勝つつもりでいるわよ、この子。やっぱり、無自覚に勝利者気分なのよね」

「そんなつもりはなかったが……そうだな、確かに負ける事は頭に全くなかったな」

 

 かつて同格のドラゴンを下しているからといって、四体同時に戦うとなれば、当然苦戦は免れない。

 だが不思議と、ミレイユはここで負ける未来が全く見えなかった。

 それが余裕や侮りと映るのかもしれないが、そのつもりも全くない。

 

 ただ漠然とした、悪い事にはならない、という確信だけがあった。

 それからは会話もなく道を進んでいると、不意にアヴェリンが立ち止まる。

 何事かと前方に目を向けてみれば、大岩が落ちていて道を塞いでしまっていた。

 

「どういう事だ、通行止め……? 私達に来て欲しいんじゃなかったか?」

「痕跡からして、今しがた置いたばかりの物でしょう。いえ、地面のヒビ割れの状況からして、高い位置から落ちてきた、と見るべきです。と、すると……」

 

 アヴェリンが視線を上に上げて、つられるようにミレイユもまた上を見る。

 暗くて見え辛いが、切り立った崖の一部が欠けているのが見えた。

 あそこから落ちてきたというのなら、アヴェリンの推測とも一致する。

 

「ドラゴンどもを吹き飛ばした時の衝撃で、落ちてきた岩が道を塞いだ、というのが真相なのかもしれません」

「なるほど……、わざとではなく事故か。じゃあ、どかしてくれ」

「畏まりました」

 

 アヴェリンが肩をぐるりと動かしたのを見て、ルチアが声を上げて止めた。

 

「……一応、聞いておきたいんですけど。今回って、交渉しに来てるんですよね? そういう前提で動いていると見ても?」

「相手の出方次第で幾らでも変わるが、前提という意味ならそうだ。話し合いで済むなら、それが一番早いし楽だしな」

「なるほど、そういう事なら……。別に戦うのは良いんですけど、最初からそのつもりなら罠など張りたいと思ったものでして。この岩をどけたら、幾らの距離もなく、ご対面になりますからね」

 

 温和な態度を取る事が多いから誤解されがちだが、ルチアも十分好戦的で、やるとなれば自分有利で進めたがるタイプだ。

 アキラが何とも言えない顔をしてルチアを見ていたが、彼女は目すら合わせようとしない。

 

 交渉が前提になるなら、分かり易く魔術を使っておく事は悪手だろう。

 いらぬ警戒を起こしてまうだけだから、自重した方が良い。

 そうして、会話が途切れた瞬間を見計らって、アヴェリンがミレイユに尋ねてくる。

 

「では、始めても?」

「あぁ、そうしてくれ。丁寧に、横にでもずらせ。ドラゴンと交渉するに辺り、友好的だと分かるように」

「お任せください。この岩を、ドラゴンの頭と思って丁重に扱います」

 

 言うや否や、アヴェリンは岩を持ち上げようと両手を広げ、その両端を掴んだ。

 僅かな拮抗を見せたあと、岩が持ち上がるかと思いきや、その腕が交差するように振り切れてしまう。

 当然、岩は上下に引き裂かれ、余波でヒビが入って砕けて落ちた。

 

 そういえば、と今更ながらにミレイユは思う。

 ここ一帯の石質は魔力に弱い、と誰にも言っていなかった。

 ミレイユが気付いた事なら、他の誰もが気付いていると思い込んでの事だったが、今の場面を見るに全くの勘違いだった様だ。

 

「ちょっと師匠……。ドラゴンの頭、砕いちゃってますけど」

「実に丁重で、友好的って感じよね」

 

 ユミルが鼻で笑い、アヴェリンが苛立ちを全面に出しつつ顔を向ける。

 この向こうには四竜がいる筈だというのに、ここで馬鹿騒ぎを許す訳にはいかない。

 

 それを見た彼らに、一体何を思われることか……。

 ミレイユは勝手をしようとする二人を諌め、石質について説明しながら、アヴェリンに岩の撤去を頼んだ。

 

 今はとりあえず、人が通れる隙間だけあれば良いので、道は簡単に完成した。

 その間にミレイユが気付いた事の説明をし、全員がアヴェリンの所業に納得がいったところで、ようやく四竜と対面する事になった。

 



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竜の谷 その8

 岩の残骸の間を縫う様に通り過ぎても、すぐに対面というほど、近くに最古の竜がいる訳でもなかった。

 相変わらず両端に高い壁が聳えて圧迫感を作っているのは変わりなく、そしてその上には多数のドラゴンが姿を見せている事で、更なる圧迫感が作られていた。

 

 道程そのものが曲がりくねっている事も手伝って、道が続いていると分かっていても、道の先々まで見通す事が出来ない。

 

 所々、足場が途切れて崖となっている場所などがあって、剣山の時ほど酷くはないが、苦労を重なければ進めなかった。

 その度に崖の上から睨む竜や、興味はあっても近づこうとしない竜を見る事になる。

 

 すぐに対面というルチアの報告を聞いていたが、強力なドラゴンがこれほど複数いるのなら、それと勘違いしてしまったのかもしれない。

 渦巻くような敵意が魔力と混ざり、判断を曇らす原因になっている。

 

 若い個体ばかりでなく、十分に歳を重ねたと思える竜も見受けられたが、そのどれもが戦闘を仕掛ける事はせず、ただ黙ってミレイユ達が通行するのを見送っていた。

 ただし、その視線の尽くに敵意を感じられ、友好的に思っていない事は感じ取れる。

 

 最古の四竜が待機するよう命じたから、今は見逃しているに過ぎないのだろう。

 もしも号令が下れば、嬉々として噛み付き、ブレスを吐き出して来るに違いない。

 

 さしものミレイユ達も、百体を超えると思しきドラゴンたちと、最古の四竜を纏めて相手にする事は出来ない。

 いざとなれば転移で逃げられるので、全滅する事だけはないと分かっているが、相応の緊張はある。

 

 アキラは既に身を固くして、いつでも防御できるよう身構えているが、そこまで警戒心を顕にしていると逆に反感を買うだろう。

 アヴェリン達がそうしているように、もっと気軽に構えていろと思うのだが、まだ経験の浅いアキラには難しい注文のようだった。

 

 そうして、いよいよ最奥に辿り着き、四竜との対面となった。

 最初にドラゴンと出会った場所の様に、広くゆとりのある空間になっていたが、周囲を完全に壁で囲まれている事と、四体の巨大なドラゴンが正面に鎮座している事が違っている。

 

 その四体は、ミレイユがいつか討伐したドラゴンの様に、他のドラゴンとは隔絶した巨体さを誇っていた。

 そのどれも色が違い、左から順に苔を思わせる濃緑、深い海を感じさせる瑠璃色、冬の訪れを感じさせる紅緋色と続く。

 そして一番右側に、くすんだ焦土を思わせる茶色のドラゴンが居て、ゆったりと犬の伏せを思わせる体勢で座っていた。

 

 周囲は単に壁であるだけでなく、階段状の起伏があって、そこにも様々なドラゴンが身体を休め、値踏みするような視線を向けている。

 ここのドラゴンは敵意を見せていないが、好奇とも違う意識を向けていて、何とも不思議な気持ちがした。

 

 その中にあって、四竜の内三竜は、好意とも敵意とも言えない気配を発している。

 どちらかと言えば好意的だが、最終的な決断を保留しているようでもあるようだ。

 

 だが、中央にて鎮座する紅緋色のドラゴンからは、友好的に思える気配を感じた。

 両手を重ねたその上に顎を乗せては、こちらを睥睨していて、どこか面白がるような視線を向けている。

 ドラゴンの表情は分からなくとも、何を思っているかは、その瞳から察っせられる気がした。

 

 互いの鼻先が十メートルほど離れた位置で、ミレイユは足を止める。

 この距離ではドラゴンの吐く息の射程範囲だろうが、それはこちらとしても同じ事。

 ルチアも即座に結界を張れる様に準備しているし、ミレイユが放つ魔術も、息を吐かせるより早く行使できる。

 

 痛いほどの沈黙が辺りを支配する中、どう話し掛けるのが正解か、ミレイユは頭を悩ませた。

 まず一礼するのが礼儀という気もするのだが、ドラゴンの様式を知らない身でする事は、何が失礼に当たるか分からない。

 

 頭を下げるくらいで逆鱗に触れるとは思えないが、何を不快と思うかが分からないのでは、迂闊に動く事が出来なかった。

 

 ドラゴンは言葉を理解している。

 その上で高い知識を持っていると期待できる相手なら、低姿勢で接すれば大きな問題にはならない、という期待は持てるのだが――。

 

 だが、これから交渉を有利に進めたいミレイユとしては、あまり弱腰を見せたくない。

 単身――本当の意味で一人ではないが――乗り込んだ人間を、こうして迎えているからには、それなりに思うところはあると分かる。

 だが、どう対処すべきか悩むところではあった。

 

 それとなく周囲へ視線を向けても、階段に座るどの竜も、身を伏せている事は共通している。

 すぐにでも飛び掛かろうとしていたり、息を吹きかけてやろうと臨戦態勢を取っているドラゴンはいない。

 

 最初に聞いた、()という言葉は、文字通りの意味だった可能性が強まってきた。

 意を決してミレイユが口を開こうとした時、紅緋色のドラゴンが先に口火を切った。

 

「何も取って食いやしないよ。あたしらを元に戻したのは、あんたらだろう? もっと言えば、中央にいる神人がやったんじゃないのかい」

「その通りだが……、私が神人だと分かるのか」

「分かるとも。……あぁ、来るとするなら神の遣いか、神人か、そのどちらかだと思っていたよ。『遺物』を使わず、姿を取り戻させる事なんて出来やしないんだから。それなら、やって来るのだって、そのどちらかしかないだろうさ」

 

 その嗄れた声は、衝撃波を放って来た時の声と同じに聞こえた。

 他の三竜は姿形から性別が分からないし、色以外はどれも同じに見えるから、声を聞くまでそれが本当かは分からない。

 だが直感として、この紅緋色のドラゴンがやった事、そして言った事、という気がした。

 

「こんな格好ですまないね。我らドラゴンとしては、尾を身体に巻いて首を持ち上げるのが、対話するに相応しい格好なんだが、人間と話すには距離が開き過ぎる」

「あぁ、こちらも作法については分からず困っていたところだ。……格好はどうか、そのままで。私も首を痛めなくて済むなら、そちらの方がありがたい」

「心配するのが、首を痛める事だけかい。そりゃあ、いい」

 

 喉奥でくつくつと笑い、そのドラゴンは、ワニを思わせる瞳を薄く細めた。

 口の端が大きく引き裂かれ、そこから鋭い牙が見える。

 人の背丈程もある巨大な牙は、鉄すら容易に引き裂くように見えたし、そしてきっと、それは事実だろう。

 

「まずは、自己紹介が必要かね。わたしがドーワ、纏め役の様な事をしてるよ。それから……」

 

 ドーワと名乗った紅緋色のドラゴンは、次に右側へ顔を向け、瑠璃色の頭を尻尾で叩いた。

 

「こいつがトワラス、その隣がドライグだ」

 

 瑠璃色に続いて、苔色のドラゴンの頭にも尻尾で撫でる様に叩くと、今度は逆側へ顔を向け、茶色の頭を尻尾で撫でる。

 

「そして、ドスラームだ。……まぁ、紹介だけはしたがね、こいつらは話に参加しない。他の奴らにも、黙って見てろと言ってある。敵なら容赦するな、だが客なら受け入れろとね」

「私が敵ではない、と判断した理由は?」

「それ以外に考えられないからだ。姿と知恵と取り戻したドラゴンに接触しようする者が、その直後にやって来るなら、それは戻した奴しか有り得ない。……そうじゃないか? そして神じゃないなら、つまり敵じゃないって事だからね」

 

 当然の理の様に言ったドーワだったが、その理屈は飛躍し過ぎている様に見える。

 ドラゴンスレイは、いつだって冒険者が夢見る偉業だ。

 

 悪意あって接触するつもりでなかったとしても、ハンティングトロフィーの様にドラゴンの首を求める事だってあるだろう。

 ミレイユ達が、そうでない可能性は排除できなかった筈だ。

 

 なのに、何故そこまで自信を持って言えるのか疑問だった。

 だが楽観とは違う確信が、そこにはある。

 それは声音からも察せられる事で、実にそれが不思議だった。

 

「私は敵にならないか? 神人と知っていて? 神人が何を意味するか、知らない訳じゃないんだろう? 神々の手先とは思わなかったのか?」

「思うもんかい。どうして、神々がドラゴンの復活を許すんだい? それだけは絶対にやらない奴らだよ。けど、我が身に起こった事を思えば、事実は余りにも明らかだ。都合が悪いものを、わざわざ掘り起こしに来る筈ないんだから、じゃあ神と敵対する意思があってやった事だと分かるんだよ」

「それだけで? 神人であろうと、神に敵対する者だと予想したから、それで信用すると決めたのか?」

 

 これには一瞬の間があって、それから再び喉奥で笑う音を出しながら言ってくる。

 

「勿論、それだけじゃない。他にも幾つか理由はある。あるが……そうだね、まず一つだけ言おうか」

「他の理由も気になるが、まぁいいさ。……それは?」

「裏をかく、寝首をかく……そういう輩だ、神ってのは。けど、あんたは曇りがない。一本の信念がハッキリ見えるのさ。付き従ってる者共も、一分の隙もなくあんたを信頼してる。わたしにはそれが分かる。ひと目見た瞬間にそれが分かったから……、これじゃ理由にならんかね?」

 

 自信ありげに言ってくるドーワだが、ミレイユとしてはどう反応して良いか迷う。

 

「……何とも、面映ゆい返答で困るな。まさかドラゴンから、世辞を聞かされるとは思わなかった」

「何だい、褒めてるんだろ。素直に受け取っておきな」

「つまり、自分の目や勘を頼りに、信じる事にしたって事で良いのか?」

「そうとも」

 

 言っている事は理解できるが、どうにも上手くはぐらかされた様な気もする。

 初対面でそこまで言われると、逆に罠を疑ってしまいそうになるし、それが本音であるかどうかも分からない。

 もっと判別しやすい証拠の様なものを聞かされると思っただけに、続く言葉が出て来ない。

 

 友好的な姿勢は、素直に嬉しい。

 交渉など無理で、まず戦闘になるだろう、と思っていたミレイユからすると、話し合いが成立しそうなのは嬉しい誤算だ。

 

 だが、彼らの友を奪った張本人からすると、今の賞賛にも何か裏があるように感じてならない。

 世界を炎で飲み込もうとしたドラゴン――ドヴェルンの命を奪われた事を、彼らはどう思っているのだろう。

 友好的に見えるのは、誰がやったかまでを知らないだけで、ミレイユがその仇敵と知れば、態度も豹変するのではないだろうか。

 

 ミレイユは何も、自分も被害者ぶるつもりはないが、あのドラゴンを放置する事は出来なかった。

 勲を求めて戦った訳ではないし、世界を救うという大義名分あってのものだが、殺された身内としては関係ないだろう。

 

 正直に告白すべきか、と頭の隅をよぎったが、何もかも正直に話す事だけが美徳でもない、と思い直す。

 清廉潔白を旨に生きている訳でもないし、必要とあらば何者をも斬り捨てる。

 切り捨てなければならない、と判断すれば、躊躇いなく捨てられる信念が、ミレイユにはある。

 

 ドーワは己の直感を信じるタイプかもしれないが、同時に理知に富み、計算高さも持っているようだ。

 一つの隙を見せれば、そこから芋づる式に、勘も交えて多くの事を察知していくだろう。

 

 多くの不都合を隠して交渉を結ぶのは、後の禍根を生みそうではある。

 交渉が成立しようと、それを理由に決裂を言ってくるかもしれない。

 そうなるぐらいなら、事前に白状するのも手、という気もする。

 

 ――結局、なる様にしかならないか。

 

 どうするべきか迷いつつ、ミレイユは結局、隠しておく事に決めた。

 ドーワから向けられる好奇の視線を受け取りながら、その目を見つめて返して口を開く。

 

「……既に十分、推察できている様だが、そのとおり。私達は敵じゃない。此度は、頼み事があって尋ねて来た」

「――いいとも。乗った」

 



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真実と新事実 その1

ささきもり様、誤字報告ありがとうございます!
 


 流石にミレイユも、即座の返答には面食らってしまい、思わず言葉に窮した。

 

「……まだ、何も言ってないんだが」

「言わなくとも分かるもんさ。神の手先でないと分かる神人が、ドラゴンを復活させた上で頼み事をしたいって言うんだろ? まさか世界を焼き尽くせ、なんて頼むとは思えない。だったらもう、内容は決まったようなもんじゃないか」

「随分と考えが飛躍している様にも思えるが……。でも、事実だしな」

 

 話が早くて助かるのは事実だ。しかし、察しが良すぎるのも考えものだ。

 ドラゴンは知恵を奪われたというが、これだけ思考が冴え渡るなら、神々も姿だけ歪めて安心しなかったのも頷ける。

 他のドラゴンが獣同様の知恵まで落としても尚、人間並の知恵を残していたというなら、元々の知能の高さも推測できようというものだった。

 

 そして実際、ドーワが言った事は正鵠を得ていて、ミレイユの提案は渡りに船でもある。

 ドーワは一体、どの段階からこうなる事態を想定していたのだろう。

 姿と知恵を取り戻した瞬間からか、それとも以前からそうなる可能性を思い描いていたりしたのだろうか。

 

 どちらにしろ、ある種の賭けを持ってミレイユの様な誰かを待ち構えていたのだろうし、だからドーワは『客』という言葉を使ったのかもしれない。

 どれだけ先を見通していたかは不明だが、現段階で互いに認識の齟齬はあるかもしれない。

 なので今一度、声に出して確認する必要はあった。

 

「改めて、確認の意味もかねて頼みたい。私達を神々の住処に連れて行ってくれ」

「いいともさ。元より他に取れる選択肢もない。この世界には後がないし、そこに成功例が現れたのも、何かの導きだろう」

 

 聞き捨てならない台詞が聞こえて、ミレイユは動きを止める。目を鋭く細め、睨み付けるような視線でドーワを見据えた。

 ミレイユは敵意を向けるつもりなどなかったが、低い声音は自然と、そう思わせてしまう威圧を含んでしまう。

 

「世界に後が無い……、それはドラゴンだから知ってる事実なのか? それとも世界を飛んだ結果、知り得た事実なのか?」

「そう、怖い顔するもんじゃないよ、嬢ちゃん。世界に後が無いなんて、最初から知っていた事さ。今更、騒ぎ立てる程の事じゃない」

「最初……? 最初というのは?」

「最初は最初だ。うんと昔から、わたしらが生まれた時から、後が無かった事だからね」

「サッパリ分からん……」

 

 ここに来て、降って湧いた新事実に、ミレイユは暗澹たる思いがした。

 世界に終焉が迫っているのは聞かされている。

 それは大神が維持するべき世界を、小神が取って代わろうとしたから起きた事であり、そして大神の代わりを務められなかったから、終焉を招いたのだと聞いていた。

 

 それをドラゴンが最初から理解していた、というなら問題はない。

 どうせ代わりなど出来ないと、小神が無理したところで破綻する、と理解していたのならば、疑問でも何でもないのだ。

 

 だが、ドーワが言う事には、それとは違うニュアンスが感じられた。

 それが恐ろしく思う。

 

 何か大きな不都合が隠されている様な気がして、ミレイユは追求するのを止めたくなった。

 しかし、決戦を前にして不安材料を抱えている事もまた怖い。

 ミレイユは顔が歪むのを抑えられず、そのまま意を決して口を開いた。

 

「その……生まれた時から決まっていた、とはどういう意味だ? 今の大神を名乗る奴らが、その地位を簒奪してから、という意味じゃないのか?」

「勿論、そうさ。……そして、何事にも終わりがある。そうだろう?」

 

 突然の話題転換に不愉快なものを感じながら、ミレイユはとりあえず頷く。

 何を言いたいのか判然としなかったが、それを遮ってまで質問をぶつけたい程ではなかった。

 

「生命に終わりがあるなら、石や土とて同じ事さ。いつか終わりが来る。自分たちが住まう大地にも、海にも……そして神にもね」

「大地はともかく、神は不老不滅の存在だろう? 命が終わる事に異論はないが、……ならば、神も生命の一つと数えて良いのか?」

「……さて。これはわたしが言ったんじゃないからね。始まりの神々が言った言葉だ。何事にも終りがあるのだと。そして、神もまた、同じように終わりを免れないのだと」

 

 ミレイユはとりあえず、曖昧に頷いた。

 その理屈自体は良く分かる話だ。

 

 正真正銘――と言って良いか分からないが――真なる大神も、生ある存在ならば死もまた存在する、という部分に異論はなかった。

 

 本来、生と死は表裏一体で、どちらか一方を切り離す事は出来ないものだ。

 遥かに長命だから人間の尺度では永遠に見えるが、例えば惑星の命とて永遠ではいられない。

 

「だが、それがどう繋がるんだ? 己の死期が近い事を悟っていた、と言いたいのか? ……だから、世界が終わろうとしていた?」

「神の消滅が世界の消滅、それは同義じゃないが、似たようなものさ。維持できないなら、遠からず破滅する。神の存在が、世界の存続を確定させる。だから、自分の代わりを立てて、その大任を果たして貰おうとしていた……筈なんだがね」

「願力を求めて、ということか?」

「そうさねぇ……。願力が必要なしという事じゃない……が、そういう意味でもない」

 

 ドーワが言う事は曖昧で、ミレイユには良く理解できなかった。

 互いに理解している、知っている知識に齟齬があって、ドーワが伝わって当然という内容を、ミレイユは全く理解できていなかった。

 

 今の大神――八神は、世界維持する為に願力を求めていた。

 本当の大神が行っていた事の肩代わりをする為、それを実現しようとしていたが、結局のところ大神がして来た事に及ぶものではなかった。

 その差が徐々に無理として出始め、それが積み重なった結果、今では破綻を目前にする事となった。

 

 代わりを立てるつもりがあったというなら、それは今の八神とは違うのだろうか。

 彼らも大神に求められた存在ではあった筈だ。

 それでも力不足だから、想定した力を発揮しなかったから今があるのかもしれず、それならば誤算の上に成り立つ話なのだろうか。

 

「意味が分からない……が、()()()が大任を果たせていないのは確かだ。ならば、大神を封印から解けば、世界の存続は確定されると思うか? 世界は破滅から救われるか?」

「さて、どうだろうねぇ……? わたしは怪しいと思ってるけどね」

 

 大儀そうに頭を持ち上げ、それから左右のドラゴンへ視線を向けたが、どのドラゴンからも返答はない。

 ただ、彼らにはそれだけで通じる部分があったようだ。

 

 ドーワもそれ以上何も言わず、鼻息を長く吐いてから元に戻った。

 ミレイユは訝しげに眉根を潜めて、低い声音のまま尋ねる。

 

「結局、寿命の問題には違いないからか? 仮に破滅を免れても、その死が迫っている現状、結局世界は長く続かない、と……」

「そういう意味じゃないんだが……まぁ、そう思ってくれて良いかもね。これは謂わば、世継ぎ騒動に端を発した問題さ。大神は、動物のように子を成せないから、別の手段で作るしかなかった」

「作れない……? まさか、だって小神は――」

「そう、小神は子を成せる。そうあれと、大神が創られた。だが、大神そのものは違う。それを問題と考えたから、新たな世継ぎには子を成せるようにしたんだろう。そうして創られたのが――」

「簒奪を成功させた八神、という事か……。いや、待てよ」

 

 彼らが世継ぎたらんと創られたのであれば、簒奪する必要などなかった。

 彼らは小神として作られたものの、贄とされる事を知ったが故に、反旗を翻すに至った、と聞いている。

 初めから後継者だと知らせていれば、そんな事にはならなかったのではないか。

 

 八柱いる神の中から、相応しい者を選ぶという話だとしても、だから大神に歯向かおう、という発想になるだろうか。

 席の数が決まっているのなら、むしろ小神同士で争い、そこから勝者を見出しはしないか。

 

 今は不仲が目立つ彼らだが、もしかすると最初は互いを信頼し合う仲間だったりしたのだろうか。

 互いの命を賭けて決闘し、勝者が神の位を継ぐと言われて、誰も犠牲にしない道を選んだ、という話があったのかもしれない。

 

 敗北者を贄にする、と聞かされたのだとしたら、その可能性もあるように思えた。

 誰も犠牲にしない為、だから反旗を翻した……そういう事なら、心境もだいぶ変わってくる。

 

「結果だけ見ると、大神は封じられ、小神は誰一人、正当な後継者として立たなかった。そういう風に見えるんだが、それほど小神同士は仲が良かったのか?」

「仲が良いという意味では、色々な意味でそうなるだろうね。……奴らは全員、失敗作だから。大神の後を継ぐに相応しくないと、そう烙印を押された。そして、その処分係として用意されていたのが、わたしらドラゴンさ」

 

 そういう事か、とミレイユは思わず、顔を顰めて息を吐く。

 今は何事も口を出さないとしていたユミル達からも、溜め息ばかりは止めようがなかったようだ。

 口々から漏れる思い息を背後に聞きながら、ぼやく様に胸中でごちた。

 

 ――それは反旗を決意しても仕方がない。

 正当な世継ぎが作られていたら、きっと他を蹴落とし大神となった者もいただろう。

 だが、誰一人として合格せず、贄行きというなら話は変わる。

 

 ルヴァイルは命があればそれが惜しい、と言った。

 それは生命ある者ならば当然の感情だ。

 力の大小、権能の有無に関わらず、自己の死を許容できる者は少ない。――非常に少ない、と言って良い。

 

 彼らは唯々諾々と殺されるか、反旗を翻すかの選択を迫られたのだ。

 それが神に対する大逆として知っていても、受容するより抗う事を選んだ。

 

「ドラゴンと神が不仲というのも、それを知れば当然か……。処分係と贄という関係が最初にあって、仲良くなれる筈もない。そして、だからこそ……その姿を歪めた、という訳か」

「その辺は事情が複雑だね。わたしらだって、同じ贄には違いなかった。順番の問題さ。小神が終わって役目が終われば、次は竜の番だった。同じく気持ちを分かち合えると思ったんだろうが、わたしらは神に付き従う事を選んだから、自分達に牙を向ける存在を捨て置けなかった」

「死を受け入れていたのか」

「そういう生物として作られたからこそさ。生に執着がない」

 

 だが、ドラゴンたるドーワは酷く人間臭く、神々もまた同様に人間くさい部分がある。

 狩る側として創られたというのは良いとして、だから生にも執着しない、というのは不思議に思った。

 最初からそう創れるのなら、小神もまたその様に作れば良かったのだ。

 

 だが結局、真なる神などといっても、完璧でも全知全能でもない、という事なのかもしれない。

 完璧ならば失敗などしない筈で、そうであるなら、そもそも封じされる事などなかっただろうから。

 

「しかし、それならどうして姿を歪める、などという中途半端な事を? 天敵……と言うと語弊があるかもしれないが、それと近い存在なら、抹消してしまう方が安心だ」

「そこは失敗作だから、という部分が大きいのだと思う。ドラゴンは処分係として、小神より強い存在として創られた。存在として明確に上であるから、『遺物』に対する影響力も限られてくる」

「抹消しなかったのではなく、出来なかったのか……。だから、せめて自分達にその牙が届かないよう、手を売った」

 

 ドーワはまた、大儀そうに首を持ち上げ頷いた。

 それから、ひたりとミレイユの目を見つめて来る。

 

 それは重い視線だった。

 まるで物理的な圧力を持っているようにも感じられたのだが、しかしそれは敵意ではない。

 期待、希望、念願、そうした好意的な感情を感じ取れた。

 

「お前は、そうして創られた小神の中で、唯一の成功例。大神を継ぐに相応しい者」

「成功例……? 待て、私はその簒奪者たちに創られたんだぞ? それも手を出すと危険だから、という理由で時の螺旋へ放り出された。奴らからすれば、失敗作としての烙印を押したようなものだろう。それなのに……?」

「そりゃあ、あいつらからすれば、失敗作に見えても仕方ない。既に神々を凌駕する程の力量を持ち、天敵である筈のドヴェルンすら下した。あんたに希望が見えただろうが、その牙が自分達に向かうとなれば、話は別だろうからね」

 

 ドーワは喉の奥でグッグッと笑い、眦を細くして見つめて来た。

 愉快で堪らない、という表情に見え、やはりそこには人間味を強く感じさせる。

 ミレイユは何と返したものか迷い、眉間を指で押さえて溜息を吐いた。

 



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真実と新事実 その2

「かつて大神が計画したもの、それを小神が止めた上で反旗を翻し……。しかし、それを当の小神が完成させるなんてね。これ以上の皮肉はない」

「いいじゃない、それ。実に結構なコトよ」

 

 ユミルが喜悦を隠し切れない声音で言う。

 彼女が何を言いたいか分かって、ミレイユは黙らせようと睨みつける。

 だが、それを敢えて無視した上で、喜悦以上の悦びを表情に乗せつつ、ミレイユを見つめ返して来た。

 

「正当なる後継者ってワケね。他の神々どもではなく、他ならぬアンタが」

「……黙ってろ。今はドーワと話してる」

 

 低い声音で言うと、ユミルは素直に頷き、笑みを浮かべたまま口を閉じた。

 正面に向き直ったが、未だにどういう表情でミレイユの背中を見つめているか、容易に想像できる。

 今となっては、いつものニヤけた笑みを浮かべているに違いない。

 ドーワはミレイユに向き直り、話の続きを再開する。

 

「けれども、疑問に思うのは、神を創る際に外から魂を持って来ていた事だ。ある種の融合……新たな反応、それを作り出す為だったと思ってたが……、必要な事だったのかねぇ?」

「融合と……反応? 新たな……、別の……。権能か?」

「わたしらを無から創れるくらいだ。自分の似姿を創るくらい、難しくなかったろう。しかし、魂という、ある種の不純物を求めて小神を創っていた。そうしたからには、目的があっての事だと分かるけど、それが理由で失敗したというなら……何ともやるせない話さ」

 

 小神を殺せる存在としてドラゴンを創ったのだから、単に強大な力を持つ何かを創る事は難しくなかったろう。

 だが、外の世界から魂を持ってくる、というプロセスを挟んだからには、そこにこそ意味を求めたのではないか。

 融合と反応を引き出す、という部分と、神はそれぞれ違う権能を持つ、という部分が答えの様な気がした。

 

 大神は己のコピーを創ること自体は、例え難しくとも可能だったのではないだろうか。

 だが、欲したのは自分と違う存在で――それは例えば、人間の親と子の関係に似たものだったのかもしれない。

 

 子が全て親より優れた存在へ成長するとは限らないが、違う存在として求めたからこそ、外から魂を引っ張って来たのではないか。

 そうして違う神――違う権能を持つ、より有能な神を求めた。

 つい、その様に考えてしまう。

 

「真意が何処にあったか、それはわたしにゃ分からん事だが、いずれにしろ……新たな神を欲していたのは事実だ。そしてそれを神人という名で定めた。当然、『遺物』を十全に扱う為にも、その力量は大神と同等か、あるいは超えている存在でなければならない」

「八神たちは、『遺物』を好きに使える『鍵』としての役割を、私に求めていたようだが……」

「同じ事さ。あいつらじゃ、『遺物』を扱えはしても、大神と同じ様に使うことは出来ない。だから、自分たちに忠実な大神を作ろうとした。……そういう事だろう?」

 

 皮肉げに笑うと、ドーワは表情と気配を一変させ、佇まいを正すように首を持ち上げた。

 両腕を肩幅まで広げて拳を地面に付ける様は、まるで人間社会でも見られる礼式かのようだ。

 

「そして、今ここに、かつて大神が求めた、次世代の大神が現れた。そこへ、わたしたちの姿を正し、共に戦えと言って来たんだ」

 

 厳かに言うと、他のドラゴンもドーワがやっているのと同様の姿を取った。

 それぞれ両腕を肩幅まで広げ、拳を作って地面に立てる。

 

 持ち上げた頭を、ゆっくりと下ろし、その顎先を地面に付けた。

 人のする様式と若干違うが、それはまさしくドラゴンが見せる敬礼の類に違いなかった。

 

「――神人よ、お前が谷に足を踏み入れた時より、既に我らの心は決まっていた。どのような願いでも聞くつもりでいた。大瀑布の向こうにて、居を構える偽神を、弑してやるというなら是非もない事。我らが翼、好きに使っておくれ」

「最古の四竜だと言うのに、妙に敵愾心がないと思って不思議に思っていたが……、そういう事か。八神は謀らずも、大神が求めた後継たる神人を創り出す事に成功し、だからお前達は私の命令に従おうとするんだな……」

「そのとおり。奴らはそんなつもりなかったと思うがね……。だけど、世界の終焉を前にして、求めるものが重なっちまった訳だ。色々策を弄したみたいだが、結局、こうなる事は決まってたようなもんさ。……随分、かかっちまったがね」

 

 ドーワの言う()()()()には色々な意味が含まれている気がしたが、深く追求する気はしなかった。

 彼らドラゴンが待ち構えつつ、友好的である理由は、今の話で理解した。

 

 難航すると思われた交渉が、思わぬ形でアッサリと解決したのは僥倖だろう。

 他の四竜も恭順を示す様に頭を下げているから、既に彼らの中で纏まり納得した話である事も分かる。

 だが、だからこそ、いま確認しておかなければならない、と思った。

 

 ドーワから聞いた内容からも、彼らはミレイユが仲間殺しをしたと理解している。

 それを口にしない事を、不実や不徳と取ったりしないだろうか。

 あるいは、表立って批難せずとも、不満をひた隠しにしていたりするかもしれない。

 

 本当に彼女らが信頼を預けるつもりというなら、ミレイユが不都合を隠し続ける事は、その信頼へ背く事になってしまう。

 協力し、翼を預けるとまで言ってくれたのなら、ミレイユとしても信頼には誠実さを持って応えなければならなかった。

 

「一つ、訊きたいんだが……」

「まだ、何かあるのかい?」

「さっきも口にした、ドラゴンの事だ。地上で暴れた最古の竜、その一つを倒したのは私だ。……恨みも、あるんじゃないかと」

「あぁ……」

 

 幾ばくか緊張を伴ってした質問だったが、ドーワは全く気にした素振りもなく、憐れむ視線を向けて言った。

 

「いや、面倒かけたね。始末をそっちでさせちまって、申し訳なかったくらいさ。我慢しろって言ってたのにさ……四千年続いた我慢も、これ以上はもう無理だ、となっちまったらしい」

「……まぁ、分からない話じゃないけどな……。雌伏の時、と言い聞かせるには、長すぎる時間だ」

 

 そうだね、とドーワはミレイユにも分かる様な笑みを浮かべる。

 

「タイミングも良すぎたね。……悪すぎた、と言えるかもしれないが。神人の完成は期待してたが、ここまで早く実現するとも思ってなかった。終焉の訪れと同時期か、あるいは寸前で間に合わない時期と思っていたんだよ。それならそれで仕方ない。この牙届かぬ場所にいられては、どうする事もできないと、諦めの境地にいたものさ」

「大神を取り戻そうとか、そういう気持ちはなかったのか?」

「あの頃のわたしも、ちょいと馬鹿になってたからね。じゃあどうするってところまで、思考が追い付かなかったのさ。何が起きようと我関せず、でいる限り、あいつらもわざわざ尻尾を踏みに来たりしないし」

 

 それはユミルの――ゲルミルの一族にしても同じ事だった。

 下手に手を出して噛まれるくらいなら、放置しておくのが最良、と思っていた節がある。

 ただし、それは利用価値が見当たらない限りにおいてだ。

 

 一族の青年スルーズを言葉巧みに騙し、利用する為に(そそのか)した。

 実際に彼の望みを叶えるつもりはあったかもしれないが、都合の良い駒として二百年もの間、好きに使っていた。

 

 神々は目的の為なら手段は選ばないし、達成の為なら幾重にも罠を張り、奸計を巡らす。

 その奸計にドラゴンも利用される事はあったが、ドヴェリンについては勝手な暴走で、それを上手く利用した形だったろう。

 

 ドーワを始めとした最古の竜に、手を伸ばして噛まれるくらいなら、神々は精々若い個体の――獣並みの知能しかないドラゴンの方を使う。

 ミレイユが思考に耽ってしまって、場に沈黙が降りる。

 考え込む仕草を見せるミレイユに、四竜も伺うように待っているだけだったが、そこへユミルの声が割って入った。

 

「いずれにしても、ウチの子は今のさばってる八神より、神として降臨するに相応しい存在ってコトで良いのよね?」

「そうだねぇ……、大神が認めるかという問題はあるものの……。世界の維持という役割を担えない神が、上に立てる道理がないからねぇ。……大神が求めていたものが何か、それを考えちまうとさ……。人寄り添う存在として、神人を創ろうとしていたんじゃないか、そう思っちまうのさ。傲慢でなく、虐げるでもなく、人の気持ちが分かる神をさ。そうじゃなきゃ、感情なんて邪魔なだけだろう」

「随分と大神を買っているんだな……。それは大神が言ってた事なのか? 勝手に期待してるんじゃなく?」

「そうさね……、大神はわたしらに何も語っちゃくれなかった。だから、勝手な想像さ。人の心が分からぬ大神だから、分かる心を外から持ってきたんじゃないか。……まぁ、あんたの言う通り。これは勝手な期待で言ってるがね」

「いいわねぇ、人心に寄り添う神様。そういう意味じゃ、この子には実績多いもの。期待が持てるってもんよねぇ」

 

 物騒な会話を繰り広げられそうな気配を感じ、横から口を挟んで来たユミルを、咄嗟に手を挙げて遮る。

 

「やめろ、ユミル。混ぜっ返すな。大神が封印から解き放たれた後、破滅を退けて、それからゆっくり後継を創ればいい。また失敗作を量産されても困るが……そこのところを言うと、私は、失敗作お手製の神人だ。下手をすると、私を処分対象にしかねないぞ」

「んー……、武器が憎いと柄まで難い、とか言うものねぇ。それも考えられるかも……」

「大体、私は現世への手出しを止めさせたいだけだ。その為に、八神は容赦しない。お前も恨みがあるだろう、晴らせば良い。その後の事は、この世界の神が決める事だ。――私じゃない」

 

 ミレイユはきっぱりと否定して、首を横に振った。

 世界を担うなどという大役を、押し付けられては堪らなかった。

 この場の口先だけの約束や取り決めなどで、ミレイユの進退が決まる程、これは簡単な話ではない。

 

 かといって、余計な種火も残したくなかった。

 思わぬところで、デイアートで神として降臨する後押しを貰ってしまたが、世界の維持などという面倒くさい事を、進んでやりたいとは思わない。

 

 愛着も好意もあるが、それとこれとは全く別の話だ。

 ユミルはとりあえず、見た目だけなら素直に引いてみせたが、ドーワからは不穏な表情で見つめられた。

 

「さて、そうだと良いが。わたしは……いや、その時が来るまでは分からないしね」

「どういう意味だ? 八神が作ったとしても、望んだものがあるなら頓着しないか?」

「そうかもしれないが、そういう事でもなくてね……」

 

 ドーワは一度言葉を切り、言葉を探すように視線を動かす。

 

「大神はこれ以上、世界を維持できないと、滅びは免れないと思ったから、後継を望んだんだよ」

「何事にも永遠はないと、そういう話だったな」

「だから、封印から解放されたとしてだ……それをするだけの時間が残されていると思うかい? 維持するだけでなく、今では破綻寸前の世界を復活する事まで求められる。やる気はともかく、可能かどうかという話にもなるんじゃないか。……そう考えてしまうのさ」

「そもそも、それが難しいから後継を求めた、とも言える訳だしな……。そうか、寿命か……」

 

 ミレイユは苦い顔をして頭を振った。

 同質のものとは思えないが、ミレイユもまた、今その寿命に苦しめられている。

 警告の様に至る所を打つ痛みは、魔術制御はおろか、単純な動きすら挫けたくなるほど厳しいものだ。

 

 もしも、似たような事が大神にも起きるなら、他人任せにしていられない状況もあるかもしれない。

 

「だがそれを、こんな所で危惧しても仕方ないだろう。あるかどうかを考えるより、救出する方法を考えるべきだ」

「そうかしらねぇ……?」

 

 ユミルが視線どころか顔すら向けないまま、独り言の様に呟く。

 

「問題から目を逸らしているだけに見えるけど。その時になって、どう決断するか……。今から考え備える事は、決して無駄とは思えないけど。荒唐無稽な空想をするんじゃないんだから」

「うるさいぞ、ユミル。問題をややこしくするな。八神を倒す、大神を救う。そして現世も救う。話はこれだけだ」

「シンプルに考えるなら、確かにね。でも、そんな単純にいくかしら」

「そうありたいと思う限りは、そうなる様に努めればいいんだよ。悲観的にものを見るのは、今の私達に似つかわしくない」

 

 ミレイユが断言して言うと、ユミルはここでようやく顔を向け、チラリと笑った。

 

「それもまた然りね。でも、頭の隅に置いておくべきよ。アンタにしか出来ない、アンタなら出来る、アンタになら託せる事があるんだから。……えぇ、そう。円満な解決とやらが本当に出来るなら、それに越したコトはないわよね。現世に留まるなり何なり、好きになさいな。でも――」

「分かったから、それ以上言うな。私にしか出来ない事と言うなら、その時は覚悟を決める。だが、必要ない事にまで今から気を使いたくないんだよ。そこまで余裕のある相手じゃないんだから……」

「今日のアンタは正論しか言わないわね」

「まるで普段は正論を言わない、みたいな言い方はやめろ」

 

 ミレイユは頭痛がして来たように感じる頭に手を当て、大きく息を吐いてからドーワへ顔を戻した。

 

「無駄話が長くなって済まない。可能なら、出来るだけ早く移動したい。いつから動ける?」

「すぐにでも」

 



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真実と新事実 その3

 ドーワが力強く宣言してくれたとおり、一声上げるなり他のドラゴンも(いき)り立って咆哮を上げた。

ミレイユは促されるままドーラの頭に足を掛け、そのまま首を伝って背中へ回る。

 

 アヴェリン達もそれに続き翼の付け根、人にとっては肩甲骨に当たる部分で立ち止まり、その間に座らせて貰った。

 ドーラが長い首をもたげて、肩越しにこちらへ顔を向ける。

 

「このまま向かえば良いのかい? あいつらだって馬鹿じゃない。すぐに見つかっちまうよ」

「……そうだな。ところで、ドラゴンが姿を取り戻した事は、既に知られていると思うか?」

「さぁて……、まだ半日と経ってないんだからね。『遺物』を使った事は察知できたとして、その効果まで確認する事は難しい。何をしたか、どう変化したのか、傍目で見てちゃ分からないもんだ。わたしらドラゴンを、常に監視してるとも思えないしねぇ……」

「そうなのか?」

 

 ドラゴンは小神にとって天敵だ。それを知っているなら、監視の目は緩められないように思う。

 しかし、ドーワの瞳には自信に満ちた輝きが放っていた。

 

「何の為に大人しくしてたと思うんだい。何千年もわたしらが動きを見せなかったのは、時機が訪れた時、奴らに慢心を抱かせておく為だ。いずれは気付くだろうが、いま暫く猶予がある」

「なるほど……。じゃあ、その猶予の間に済ませてしまうとしよう。神々の目を潜って行くには、こちらにも用意があって……」

 

 言いながら、ミレイユは今も大人しく肩に留まる鳥、ホワソウに目を向けた。

 夜ならば鳥目で飛べないのではないかと思うのだが、日がすっかり暮れた今となっても、眠ることなくミレイユを見返してくる。

 光る眼からは理性すら感じられ、問題なく使命を果たせる、と告げているようですらあった。

 

「フィーフィッ」

「こいつが案内役を務める。監視の薄い場所や死角を先導してくれる手筈になっているから、神々の住処への急襲を容易にさせてくれるだろう」

「そうなのかい……。しかし、何でまたそんなものを? まるで神々の中に、裏切り者がいるかのようだが……」

「そうだ、裏切り者がいる。世界の終焉に抗う方法は、神々の間でも割れたらしく、その一つとして選んだのが大神の復活だ。当然、自らの命はないと理解しつつも、大神に全ての解決を託すつもりらしい」

 

 ドーワは鼻で笑い、それから大きく首を巡らせて、他のドラゴンと視線を合わせる。

 思う事は様々なようだが、どれも嘲笑が混じっている事は共通していた。

 

「今更、自分達の不手際を棚に上げて、全てを任せようなんてねぇ。そんなの大神だって納得しないだろうが……、救出の功を持って助命嘆願するつもりじゃないって言うなら、まぁ良いかね」

「だから、ルヴァイルとインギェムの二柱は殺すな。そいつらには、大神の封印を解く手助けだけじゃなく、他の役割も担ってる。見つけたからといって、早々に食い殺されても困るんだ」

「……そうかい、その二柱だけで良いんだね?」

「あぁ、そうだ。他の神々と戦う時にも、合流して共闘できないよう、バラつかせるつもりでいるようだが……。こればかりは不特定要素が大きすぎて、絶対可能と保障できない。状況次第だが……各個撃破を狙おうと思ってる」

 

 ふむ、とドーワは頷き、それから顔を正面に戻して、翼を何度か羽ばたかせた。

 彼女が飛び立つ姿勢を見せると、他のドラゴンも続いて竜翼を動かし始める。

 それは最古の四竜だけに留まらず、周囲でミレイユ達の様子を見守っていたドラゴンも同様だった。

 

 ドーワが一際大きく翼をはためかすと、颶風が巻き起こって巨体が浮き上がる。

 ドラゴンがどれ程重いのかは知らないが、鳥のように翼を動かせば飛べるものではないらしく、その動きには微細な魔力制御が感じられた。

 

 翼はあくまで補助的役割で、魔力を伴い飛ぶのがドラゴン流らしい。

 一度浮き上がると、後はするすると重力を感じさせない動きで上昇し、もう一度翼をはためかせて横移動を開始した。

 

 雲海の上を徐々に速度を上げながら飛び、竜の谷があっという間に後方へ流れて見えなくなる。

 雲海が後ろに流れていく速さを見れば、どれ程の速度が出ているのか分かろうというものだが、不思議と風の抵抗は感じなかった。

 

 風が髪を揺らさないほど無風ではないが、乗用車に乗って窓を開けている程度で済んでいる。

 飛行速度を考えれば異常な事態だが、これも魔力を使って飛行している事の恩恵であるかもしれない。

 

「こんなにも空が近い……。竜の谷へ降り立った時、雲海を下に見た際にも思いましたが、これはその時以上の感動です」

「そうね……。荘厳で、美しいわ。世界の終焉が近いとは、これを見てると全く感じないわね」

 

 ルチアとユミルが共に笑みを交わし合い、後ろへ流れていく雲や、遠く見える空孔を眺めては微笑む。

 月明かりが雲を照らし、風の流れる音以外耳に入らない世界は、確かに美しい。

 

 空が近いせいで空孔もよりハッキリと視認でき、だからそれが確かに傷の類だと確認できた。

 実際に間近で見るからこそ、よく分かる。

 これは確かに傷に違いなく、そして“世界”に付いた傷だ。

 

 例えばミレイユが所持していた『箱庭』の世界には、これ以上進めない、という透明な壁が存在している。

 どこまでも続く世界の様に思えるが、実際には見せかけの()()()世界だった。

 

 それと同じ事が起きていて、その壁に傷がついているのだ。

 星が瞬かない本当の理由――。

 それは、この世界が”巨大な箱庭だから”に他ならない。

 それがアキラも疑問に感じていた、星のように見える、星とは違う空孔の正体だった。

 

「そういう事か……。歪な世界、維持する為の世界……。世界を惑星と考えていたから、色々と矛盾を感じていたが、そもそも惑星ではなかったんだ……」

「なるほど、箱庭……。世界を箱庭に見立てて好きにしてると思ってたけど、まさしく箱庭なんだから、そりゃ傲慢不遜にもなろうってもんよね」

 

 ユミルが機嫌悪く顔を顰め、吐き捨てる様に言う。

 だが、その感想も彼女の心情を思えば、まだ生易しい表現だろう。

 

 似た感情――唾棄する気持ちは、ミレイユにもある。

 アキラもそれに気付き、不安と恐怖を感じる表情で、ミレイユ達と空を見ていた。

 

 箱庭を作る技術があるのなら、それを使って自らを隠しているのではないか。

 いつだったか、その様に予想した事がある。ある意味で、それは事実だった訳だ。

 

 完全な虚構世界ではないにしろ、ミレイユが良く知る惑星をこそ世界と言うなら、これとて虚構みたいななものだろう。

 アキラは前方に雲の切れ間を発見すると、身を乗り出して下を見ようとしている。

 

「地球との違いから世界が違うんだと思ってましたけど、もっと根本的に違っていたんですね」

「そうだな……。惑星の維持といわれたら首を傾げるが、これを見ると理解できる」

「この世界で暮らす人は、それら一切を知らずに、今も生きているんですね。……そのうえ、世界の終焉が近付いている事も知らずに」

 

 今まで幾度となく、小神という贄を使って継続されて来た世界の筈だが、それも神ならぬ身には分からぬ事だ。

 むしろ世界が終ろうとする事など、知らぬ方が幸せには違いない。

 眼下を見下ろしながら思慮を巡らせていると、ドーワが含み笑いを隠そうともせず、首を大きく曲げて顔を向けてきた。

 

「ほら……。これから世界の歪さってヤツの、その一端が見えて来るよ。八神の傲慢さ、自己保身を体現した姿をね」

「傲慢、保身の体現……?」

 

 ミレイユの疑問にドーワは答えを返さぬまま、顔を正面に向ける。

 言うだけ言って黙りか、と不満にも思ったが、返答を拒否したからではない、とすぐに分かった。雲海が途切れ、地表の姿が見えると同時に、大瀑布の全貌も見えてくる。

 

 そこで目にしたのは、地球という惑星の形を知っていれば、到底理解できない光景だった。

 

「これは……」

「ちょっと、ちょっと……」

「え、何がどうなってるんです、これ!」

 

 誰もが唖然と歪な世界を凝視する。

 前知識がないルチアやユミルなどは、単に不可思議な形だという意味で驚愕していたが、アキラは到底信じる事が出来ずに驚嘆していた。

 

 それほど常軌を逸した光景が、目の前に広がっている。

 デイアート大陸については特に言及する箇所はない。

 南北に長く、東西はそれと比べて半分程の長さしかないが、特筆するほどおかしな部分ではなかった。

 

 ミレイユも思わず大きく顔を歪めたのは、大瀑布を含めた時の光景だ。

 大瀑布とは、地表からその滝口が見えないとされていた。

 あまりに高い位置にある所為でもあるし、滝壺へと打ち付ける水が常に吹き上がり、水蒸気の層が遮蔽効果を生み出していたからでもある。

 それが視界を遮って、上空の様子を隠していた。

 

 果たして、どれほど高い位置に滝口があるものか。

 それも不明な時点で、相当な高所にあるのだと誰もが想像していたが、実像は誰も確認できないでいた。

 だがこうしてドーワの背にいる今、見紛うことなく、それを確認できる。

 大瀑布の滝口は、見えなくて当然、雲の上にあったのだ。

 

 水の流れ落ちる先が、まるで雲海の上と錯覚してしまう程、その滝口は高所にある。

 元より常識の外にあった大瀑布だが、余りの巨大さに遠近感が狂う程だった。

 それだけでも驚嘆するには十分だが、アキラも驚いた本命はそこではなかった。

 

 いつかルチアが予想していたように、大陸の東側に大瀑布があるなら、西側にも同じく滝口があって、そこへ水が落ちて行っているのではないか、という予想は正解だった。

 この世界には端がある。

 

 今しがた確認できたように、世界は箱庭であり、明確な境界線があり、水の流れさえ不自然に遮られている。

 水の落ちる先が何処に消えているかは不明だが、それもまた、どこか異界へ通じているのかもしれない。

 

 そこから見えて来るこの世界は、例えるなら二段重ねのホールケーキみたいなものだ。

 大瀑布が二段目ケーキの壁であり、その上に神の住まう世界がある。そして、人々の世界は一段目のケーキだ。

 

 その世界が縦半分に割られ、箱の中に閉じ込められている。他に大陸はなく、滝上にも――二段目のケーキの世界にもまた、大陸の様な大きな陸地は存在しない。

 点々と島らしきものは確認できるが、多くの民が暮らせる地表というものは存在していなかった。

 

 この世界にデイアート大陸以外は存在しない、という部分については、どうやら真実だったようだが、それより他は全て秘匿されて来た。

 

 そして、同時に思う。

 この姿を隠したいからこそ、神々は空を奪い、飛ぶ事を禁じたのではないか。

 歪な世界、窮地にあり終わりを迎える世界、真実を覆うため用意された禁忌――。

 

 ミレイユは、その疑念を強く抱かずにはいられなかった。

 



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真実と新事実 その4

「これが……、これが世界の真実か。破綻というのは、もっと漠然としたものかと思っていたが、もっと物理的な危機が訪れている……?」

「世界って、もっと広いのかと思ってたわ。アンタ達の驚愕ぶりを見てると、相当意外な形だったみたいだけど……。まぁ、アタシから見ても十分おかしな形してるわよね」

 

 ユミルが呆れ半分、諦め半分といった表情で嘲笑う。

 アヴェリンもルチアも、眉を顰めて同意していた。

 

 そして、世界の終焉だ。

 どういう現象が起きていて、何が起きて終焉を迎えるのか。それは分からぬ事だったが、もっと分かりやすいものを想像してはいたものだ。

 

 世界の終焉という漠然とした現象に対して、天に雷鳴が轟き、大地が震え罅割れる様な……この世の終わりを実感させる、天変地異が起きるものだと思っていた。

 

 だが、違う。こうして俯瞰して見ると、実に分かり易い。

 それは例えば虫食いの様に、端から徐々に失われていく、物理的損失だった。

 

 あるいは、やすりで削られて行くかのような消失。

 世界が削られ、それを隠す為に箱庭が狭まり、実際の損失を認識する前に隠してしまう。

 はるか上空にいなければ、決して判明しない事実だろう。

 

 箱庭が見せる偽の風景が、更に発見を困難にさせている。

 ひた隠しにするには、ある意味で相当な用意周到さだった。

 

 ――もしかすると。

 最初は地球と同じ様に、球体の惑星であったかもしれない。

 それが崩れた事で、その一部を箱庭の中に匿った事が始まりであったのではないか。

 

 だが、世界の一部を切り取るだけで、完全な保全は出来なかった。

 無理な形での維持は、結局その場しのぎにしかならず、今の形で維持に維持を重ねた結果、今の状態があるのだろう。

 

 この歪な世界を見て、ミレイユはそこまで想像を膨らませたが、どうやらそれは事実らしいと、ドーワの言葉で知った。

 

「なんとまぁ、随分小さい世界になったもんだ。昔はまだ色々あったと思うがね。維持をするにも限界があって、それで見るも無残な光景になったようだね」

「じゃあ元々は、もっと広い世界だったのか? 箱庭と分からない程の……?」

「いつ、どの段階で、そうなったかは知らないね。だが、大神が後継を作ろうとした時には、もっと大きな球形だったさ。世界に端はなく、どこへでも、どこまでも飛んで行けると思ったもんだ」

「あぁ、そうなんだな」

 

 ではやはり、かつては地球と同じ惑星であったのかもしれない。

 だが今の形を見れば、どれほど無理をして対処して来たのか分かる。

 

 滅ぶに任せず、抗って来た姿こそが今の世界の形でもあるのだろう。

 そこに住む世界の命を救っていた、それも嘘ではないだろうが、それは同時に、自らの縄に首を掛けゆっくりと絞っていくのと似た行為にも思える。

 

 求めるのは縄を切る手段だったろうに、絞る速度を緩める事しか出来ていなかった。

 だから、今の歪な世界がある。

 

「神々は、民の願力を得て、大神の代わりに世界を維持しようとしていた。私はそう聞いている。完全な嘘でも、間違いでもないんだろうが、手段については相当なゴリ押しだ。滅ぶに任せるのではなく、抗った結果であろうと、これではあまりに……」

「他にも大陸はあった筈だがね……。消えるのが抑えられなかったなら、消えた命も多いだろう。そして、その為に願力も足りなくなる」

「それで争いを作り、悲嘆を生み、縋る気持ちを利用して、無理にでも願力を回収する事にしたか……」

 

 力が足りず、あるいは及ばず、世界を縮小させているのだから、願力を生み出す人民を終焉と共に失わせるのは断固阻止したい筈だ。

 それは終焉という世界の癌を、加速させてしまう結果に繋がる。

 

 だから、蜂の巣から蜂蜜を採る様に、巣も蜂も減らす事なく、蜜だけ啜る事を望んでいたに違いない。

 だが世界の終焉は遠ざけられず、維持も出来ず、縮小を重ねる状況に陥っている。

 ミレイユは遣る瀬無い溜め息を吐くと共に、大陸へ目を向けた。

 

「最も割りを食っているのは、この世界に住む民たちだ。八神も馬鹿な真似をした。我が身かわいいのは理解するが、ここまで世界を食い潰して、どうやって生きていくつもりだ」

「そうさね。だから起死回生のつもりで、大神の神人計画を再始動するしかなかったのだろうさ。当然、始めた時期はもっと早かったろうし、それまで多くの小神が贄にされて来たんだろう。しかし、間に合った……と思いきや、その意志から外れる神人が生まれたと来たもんだ」

 

 ドーワは愉快そうに笑い、鎌首をもたげてミレイユへ顔を向けてくる。

 

「大神の代役を全うさせる、自分達に忠実な神人の誕生を夢見てたんだろうが、アテが外れたねぇ。散々、好きにやって来たツケを、今日ようやく支払う事になるのさ」

「そうだな。私個人としても、数多のミレイユとしても、奴らには多くの貸しがある。その貸しを返して貰う」

 

 ドーワは一瞬、不可思議そうに目を見開いたが、多くを追求して来なかった。

 数多のミレイユと言われても、彼女にとっては全く意味不明だったろう。

 だからこそ、深く聞くまいと追求するのを止めたのかもしれない。

 

 だが、聞いておかねばならない事はあるようだ。

 ドーワは振り返らぬまま、大瀑布へと顔を傾けながら尋ねて来る。

 

「大瀑布の上にある、半円状の水ばかりの世界……あそこに神々がいる事は分かってる。島が点々と見えるから、そこの何処かに住んでるか、あるいは分散して住んでるんだろう。けど、このまま近付く訳にゃいかないだろう? これ以上無用心に近付くと、すぐに見つかっちまうと思うがね」

「そうだな」

 

 ミレイユもまた、大瀑布の向こう側――神々が住まうと思われる島々へと、目を向けながら頷く。

 水がどこから湧き出ているか不明だが、それこそ水源と流動を権能にしている、ラウアイクスがやっているなら難しい事はないだろう。

 

 ルヴァイルが言っていたのも嘘ではなかった。

 水流が所々、激しく渦巻き、正常な流れを作っていない。

 仮に船を用いて移動しようとしても無理だろうし、空を飛べる神々でなければ、島から島への移動は不可能の様に思われた。

 

 ドラゴンという戦力と移動手段は、この戦いには絶対必要な札だったと、ミレイユは改めて実感する。

 肩に乗って大人しくしていたホワソウへ顔を向けつつ、その嘴の付け根を撫でるように指先を動かすと、小さく鳴いて翼を広げた。

 

 ドラゴンと鳥では、出せる速度が全く違う。

 ホワソウが風を捕まえた瞬間、その身体が後ろへ流されて行ってしまった。

 

「ドーワ、スピードを落としてくれ。ここから先導させるから、あいつに付いて行ってくれ」

「相分かった」

 

 ドーワは一度翼を大きく広げ空気を打つと、背後を振り返って今度は二度打つ。

 それで後続のドラゴンも速度を合わせて飛ぶようになり、一時は置いて行かれたホワソウを再捕捉した。

 

 後はホワソウが先頭となって飛び、ドーワがその二番手としてドラゴンを引き連れて飛ぶ。

 鳥は小さく見辛いが、白い羽毛が月明かりに反射し、良い目印となっているので、見失う事だけはなさそうだ。

 

 とはいえ、ドラゴンの飛行速度に慣れてしまうと、鳥の速さは酷く緩慢に感じる。

 姿を見られたくない、という思いと、急襲を成功させたい、という思いが混ざって、酷く焦れったい。

 大瀑布の近くを飛行する、というだけで、今にも発見されてしまうかもしれないのだ。

 

 そのリスクを回避する手段として、目眩ましに仕掛けたオズロワーナ戦だが、それもどこまで欺瞞効果があるものか。

 神々の奸計・詭計に悩まされてきた身としては、既に発見されていてもおかしくない、と焦りばかりが生まれて来る。

 

 その気持ちを敏感に感じ取ったのか、それとも分かり易い気配を発し過ぎていたのか、ドーワが苦笑と共に振り返ってきた。

 

「気に揉んでも仕方ないよ。それに、遅い速度の方が、返って見つかり難い事もあるからねぇ。特にわたしらは大所帯だ。片手の爪で収まる数ならともかく、百を超えるとなると隠しようがない。あの鳥が、それを知ってるかどうかはともかくとしてね」

「あぁ、そうか……すまない。奴らには何度も煮え湯を飲まされて来た。今回は大丈夫と思うより、今回も読まれている思えてしまって……」

「まぁ、そうだね。楽観になるのは考えものだ。疑うくらいで丁度良い、と思うけど、ねぇ……」

 

 不意にドーワが言葉を濁して言うのを止め、首を大瀑布と島々へ交互に動かす。

 何拍かの間を置いて、ドーワは顔を横に向けて尋ねて来た。

 

「ここは二手に別れた方が良くないかい。本命の襲撃班と、別動の陽動班に分けるのさ。仮に動きを読まれているにせよ、これに対応しない訳にはいかない。引っ掛かってくれれば御の字だ」

「いいな、それで行こう。だったら、陽動班は数を多くした方が良いか。精々、派手に目立って貰いたいんだが」

 

 陽動としては既にエルフを用いた策があるが、二重に使えれば更に有効だ。

 戦力の分散は得策ではないが、そもそも最古の竜とは小神を始末する為に用意された存在だ。

 

 今の八神は願力を得て力を増している筈で、易々とやられるほど簡単ではないと思うが、脅威となるのは間違いない。

 ドラゴン復活がまだ判明していないとすれば、その存在自体が大きな動揺を招くだろう。

 

 ホワソウの先導の元で接近するミレイユ達は、完全に隠れて接近も可能かもしれない。

 そこへ背後から愉快そうな声音が聞こえて、振り返って見てみると、ユミルがこちらに目を向けて、アキラの肩に手を置いた。

 悪戯好きな顔付きでニヤニヤと笑い、ミレイユに話し掛けつつも、アキラにも顔を向けている。

 

「いいじゃない。ただでさえ誤魔化せていた目を、ここで更に眩ませてやるコトが出来るかもよ。ちょっとした、サプライズパーティってところよね。――ほら、アンタも好きでしょ、サプライズ」

「いえ、全く。僕は嫌な思い出しかありませんし……!」

 

 上機嫌に笑顔を振りまくユミルだったが、対するアキラの表情は真逆で芳しくない。

 ミレイユも当時を思い出してみれば、散々な思いをしていたな、という感想しか浮かばなかった。

 

 帰宅と同時に爆発じみた閃光と音で脅かされ、更にアヴェリンの手首から血が噴出して驚かされる、という失態を見せているのだ。

 

 幻術など知らなかったアキラからすると、まさに仰天する光景だったのは当然だ。

 その姿を見て、楽しませて貰ったのも事実だが、アキラとしては業腹だろう。

 思わず笑ってしまって、アキラはしゅんと肩を落とした。

 

「ひどいですよ、ミレイユ様まで……」

「いや……、まぁ。お前も随分遠くまで来たものだと思ったんだ。トロール相手に尻尾を巻いて逃げ出した奴が、今では竜の背に乗って、神々に喧嘩売ろうというんだからな」

「そう言われると、確かに……。とても、とても遠くまで来ました」

 

 アキラが言うその遠くは物理的にも、心情的にも、そして実力的にも掛かってると思えた。

 もしかすると最期の時になるかもしれず、だから想いを馳せずにはいられない。

 神妙な空気が流れ始めたところで、ユミルが再びアキラを指差して笑う。

 

「驚かされて、カエルみたいに引っくり返っていたのが嘘の様よねぇ」

「ブフォッ……!」

 

 それまで耐えていたルチアがついに吹き出し、顔を真赤にさせてプルプルと震えていた。

 視界の端で、何やら耐えていたのは見えていたが、ユミルの言葉で当時の事を思い出してしまったらしい。

 

「そういえば、アンタにはもう一度仕掛けるって約束、まだしてなかったわね。覚悟しときなさい」

「いや、それユミルさんが勝手に言ってるだけで、別に約束でも何でもないじゃないですか。他人に迷惑かけるの、止めてくださいよ……!」

「かけられても、迷惑と思わないならセーフよね」

「思いますからね、僕は絶対思います!」

 

 ユミルはカラカラと笑って、アキラの抗議には取り合わない。

 懇願する様に伸ばした手をぞんざいに叩き、そうしてミレイユと目が合う。

 楽しげに笑っていた目が、その瞬間だけ細められる。

 

 こういう仕草を見せる時の彼女は、腹に一物隠している証拠だ。

 何かするつもりで、そしてそれを隠しておきたいと思っているのだ。

 この場で情報が漏洩するとも思えないが、言うつもりがないというなら、ミレイユはそれを尊重してやりたい。

 

 ユミルが何かを隠すのは信頼故だ。その信頼を、今ユミルは垣間見せてきた。

 ならばミレイユは、それを信じて任せるだけだった。

 

 その時、水平だったドラゴンが大きく傾く。

 どうやら大瀑布近くまで接近すると見て、ミレイユもその傾きに身を任せながら、振り落とされないよう、竜の背中に生えた突起に掴まった。

 



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真実と真事実 その5

 ホワソウ先導の元、滝口の近く、水飛沫が盛大に降り掛かるような距離まで接近して飛んでいく。

 鳥の多くは水に弱く、濡れてしまえば飛べないというが、それを気にする素振りも見せない。

 だが、普段からこの様な場所に生息しているなら、濡れて跳べない生態なら生きていけまい。

 

 だが気にするところはそこではなく、水までの距離を見るべきだった。

 水流の勢いは凄まじく、もしも翼の一部でも触れたら、弾かれて落下してしまうかもしれない。

 

 ここまで接近するからこそ欺瞞効果もあるのだろうが、無駄な緊張を強いられて、ミレイユは落ち着かない気持ちにさせられる。

 また膨大な量の水が落下する音は、ドラゴンの羽ばたき音を隠してくれると同時に、その会話も困難にさせられた。

 

 思わず耳を塞ぎたくなる様な大音量だが、百体を越えるドラゴンの羽ばたき音は、それなりに目立つ。

 これも必要な事と割り切って、今は仲間たちへの指示や懸念確認など、諦める他なかった。

 

 ホワソウが――というより、ルヴァイルが指定した道だけあって、死角として有用な場所なのは理解できた。

 しかし、滝口から上に姿を現す瞬間こそ怖い気がする。

 

 何しろドラゴンの色形は非常に目立つ。

 カモフラージュとは全く無縁な色合いをしていて、それを百のドラゴンが合わさる事で、それぞれ違う色の斑模様を作っているのだ。

 

 少し注意を向ければ、即座に気付かれると思った方が良い。

 飛び出すタイミングはホワソウが心得ているだろうから、そこは信じるしかないとして、問題は陽動の方だった。

 

 見切り発車で決めてしまったミレイユも悪いが、現状、十分な役割分担も出来ていない。

 会話し辛いからと先延ばしにしてしまっていたが、そうも言ってられない状況に差し迫って来た。

 

 お互いのすべき事、目標についても考えを共有しておく必要がある。

 ミレイユは聞こえるかどうか不明な大声を張り上げて、ドーワへと呼びかけた。

 

「おい、ドーワ! もう少し詳細を詰めて話せないか! 四竜が意見を一致させないと、作戦の続行は不可能だろう!」

「そこは別に、人間ほど不便じゃないから問題ないと思うがね」

 

 隣の轟音で声はすぐに掻き消されていた筈なのに、ドーワは訳もなく聞き分けて、横顔だけを向けて来た。

 次にその口から放たれた言葉も、大きな声量で言った訳でもないに関わらず、まるで染み渡るように伝わって来る。

 

「ドラゴンが使う意思伝達ってやつは、言葉だけに頼らない。だから、作戦内容の伝達や擦り合わせなんかも問題ないね」

「それは心強い事だが! 敵は八神の内、六柱だけとは限らない! 小神が駆け付けてくる可能性がある!」

「その為に百竜を選りすぐって来た。そいつらの対処なら、十分こなせる。絶対に勝てると保障するものじゃないが、成す術なく敗北という事だけにはならんだろうさ。大神に対して忠誠心を高く持っているとも思えないし、脅かせば近付いて来ないかもしれないねぇ」

 

 小神もまた、被害者と言って良い存在だ。

 カリューシーの様に、対等な取引と納得して死を受け入れている者ばかりとは思えない。

 ミレイユがそうであった様に、騙し討ちが如く拉致されて、有耶無耶の内に順応し、昇神したケースの方が多い筈だった。

 

 彼らが八神の命令に逆らえないだろう事を考えれば、戦闘自体は避けられないだろう。

 だが、八神同様、積極的に弑する相手ではなかった。

 それは同時に小神の命を保障するという意味でもなかったが、明確な敵とならないのであれば、対処も柔らかくなる。

 

「今は小神も残り五柱まで減っている! それが素直に命令を聞くのか、隠れてやり過ごすつもりかでも話は違ってくるが……! それら全て任せて良いのか!?」

「あんたらだって、それに割ける戦力なんてないんだろう? こっちで受け持つしかないだろうさ」

「ありがたいが……。しかし八神も、その内どのくらいドラゴンの対処に回るつもりかも分からない! 分けるというなら、せめて陽動には少し多めに割いた方が良いか!?」

「そうさねぇ……。連れて来た百竜は、七割を陽動、残りの一割を索敵に、残り二割は即応待機。小神の動きも分からず、大神の居場所も正確に分からないんじゃ、何が起こるか分かったもんじゃない」

 

 それは確かに、堅実な部隊運用と言えるのかもしれなかった。

 神々の配置が分かっていないなら、まずその確認は必要だろうし、どこから襲って来るかも不明な状態だ。

 

 それをまず明らかにするのは重要だろう。

 そして小神がどう動くかも不明なら、その対処にも、大神と苦戦するならそのフォローにと、自由に動かせる戦力を残しておくのは重要に思える。

 

「手堅い運用だな。そして柔軟性があって対応幅もある! 中々やるものだ!」

「お褒めに預かり光栄だね」

 

 ドーワは口の端を上げて、ニヤリと笑って話を続けた。

 

「一度に対処する数が減ったのは業腹だが、偽神は小神と変わらぬ存在だ。集めてきた願力から生まれる力量差、というものはあるものの、その多くは世界の維持に使っていた筈だ。強化度合いにも限りがあって、その差は倍程も大きくなるものじゃない筈だ」

「そういうものか……。その具体的な数字まで、私には分からないが……」

「まぁ、そこはこっちも同じだ。当てずっぽうではある。けど、自身の強化に回す分は、絶対に確保しているだろうからね。小神と同等程度に留まっていられる理由がない」

「そうだな、確かに! 下剋上を恐れる奴らが、そこを怠るとは思えない!」

 

 いつかユミルも言っていた事だった。

 神々は信仰を集める存在で、ここまで集まったなら良し、とは思わないのだと。

 

 今となってはそれも納得だ。

 集めた内の幾つかは、確実に世界の維持へ回さねばならないのだから、ここまで十分、とは絶対に考えない。

 

 そして彼らの成り立ちからして、下剋上を意識しない訳にはいかないから、力の差に開きを持ちたいと考えるだろう。

 もしかすると、その為の願力すら維持に回していれば、世界はもっとマシな状況だったかもしれないが、それを今更言っても始まらない。

 

「八神からルヴァイルとインギェムを差し引いて、残り六柱か……。そして、小神には近付かせないよう、牽制する奴らを置いとく必要もあると……。誰もが好戦的に、参画したいヤツばかりじゃないだろうし、そっちに割く竜は少なめで大丈夫だろうかね」

「戦闘狂の神でもない限り、積極的に参加はしたくないだろう! 八神がこの状況まで想定していたとは思えないから、参戦を強制する精神調整は無かったと思いたいが……。こればかりは蓋を開けてみるまで分からない!」

「小神がドラゴンについて何処まで知ってるか疑問だ。が、偽神は別だ。あたしらを積極的に狙ってくる事を考えりゃ、同時に相手取る数も三柱が限界かね」

「三柱も良いのか! ……とはいえ、それもまた、状況次第だがな! 陽動に引っ掛かる者、掛からず引き籠もる者、……その辺は様々だろう!」

「下手すると、全員引き籠もって、対処を私兵と小神に任せるかもねぇ? ……ま、そん時ぁ建物でも燃やして炙り出してみるか」

 

 それで、とりあえずの方針は決まった。

 綿密に組めばその通り動く訳でもなく、ある程度、場当たり的になってしまうのは避けられない。

 

 それを柔軟性と言うのかもしれないが、実際の場で柔軟に対処する事は難しい。

 何しろミレイユ達は、神々が大瀑布の上にいると分かっても、どこに住んでいて、どこを攻め立てるのが一番有効かも知らないのだ。

 

 好戦的な偽神は誘き出せる可能性が高いが、好戦的ゆえ実力も折り紙付きで油断ならない。

 ミレイユが優先すべきは、大神の封印を担う誰かを探し出し、そして解除して貰う事だ。

 脅したところで言う事を聞く筈がないので、実力行使になるだろう。

 

 その神が何処にいるか、対処するにどう動くべきかは、ルヴァイル達と接触できれば解決する。

 後は陽動で釣れた神が何処から現れるか、それを掻い潜ってどこへ向かうべきかを考えなければならなかった。

 

 そこまで考えていると、ドーワが急上昇を始める。

 先導するホワソウに従って、向きを変える事にしたようだ。

 滝口を昇ると、そのままごく低空を飛行し、点在する島々を遮蔽物として利用するように移動する。

 

 未だ目立った騒ぎなどが起こっていないので、ホワソウの先導は実に上手く行っているらしい。

 ホワソウはとある木々の生い茂る島へと降り立つと、一際大きな岩の上へ降り立ち、遠くに見える建物を向いて激しく鳴いた。

 

「フィーッ、フィフィー!」

「目的地は、あそこだと言いいたいようだな」

 

 見てみれば、そこには雄大と感じられる建物がある。

 神が住まうに相応しく思え、あそこに神々のいずれかが居ても不思議ではないが、問題は誰がいるかという点だ。

 

 まさか自分を遣わせた主がいる、と指しているなら襲撃する意味がないし、無駄骨になる。

 まさかないとは思いたいが、出会い頭に斬り付けて殺してしまう可能性もあった。

 

 それを考えると迂闊に攻め込めないと思うが、ルヴァイルとの接触手段も、連絡手段もない以上、ある程度は勘働きで動くしかない。

 

 現在、ドーワ以外のドラゴンは狭く乱立する木々の間に、身体を小さくさせて隠れているが、ミレイユから見ても偽装効果は高くない。

 ないよりマシとも言えるが、発見は時間の問題だろう。

 

 既にこの時点で、何の動きも見えないのが奇跡と言える。

 この状況を無駄にしない為には、このホワソウの主張を信じて動くしかなかった。

 

「それじゃあ、陽動は任せるって事で良いのか?」

「受け持とう。まずは適当に建物を見つけて、手当り次第に攻撃するのが良いだろうかね。それこそ、火の付いたような騒ぎになるだろうさ」

 

 そう言って、喉の奥でくっくっく、と笑った。

 ドラゴンらしからぬ、実に人間らしい笑みがその顔に張り付いている。

 

「それ次第で、次の動きを決めようじゃないか。移動用に使うドラゴンは、百竜の中から用意する。あの建物を攻め落とせば終わるような話じゃないだろうし、わたしはわたしで戦力として動いた方が良いだろうしね」

「そうだな、助かる。……私達は一応、ホワソウの事を信じて、あの建物を攻略目標とする。何がいるにしろ、ルヴァイルだけじゃない事を祈ろう。あの建物自体を攻撃するより、他を重点的に狙ってくれ」

「あんたが攻め込むつもりだっていう、その建物には攻撃しなくて良いのかい?」

 

 ミレイユは腕を組んで考え込む。

 何を思ってホワソウが目標地点と教えているのか分からない以上、あまりに過激な事はしたくなかった。

 ルヴァイルから遣わされた鳥である以上、攻撃目標を指しているのだと思いたいが、意思疎通が出来ない鳥では不安が残る。

 

 過失でルヴァイルを弑してしまっていたら、作戦自体は成功しても、ミレイユの望みは敵わない。それを思えば、今は少し慎重になっても良い筈だ。

 

「あぁ、あくまでアレ以外、どこか別の場所を攻撃してくれ。それでお前達の動きと、神側の対応を見てから、私達が侵入……不意打ちする」

「なるほど、構わないよ。精々、派手に暴れて注意を引くとしよう。……あぁ、そうだ」

 

 今更、思い付いたかのように顔を上げ、それから試すような視線でドーワは見てきた。

 

「偽神は弑する。小神も、必須じゃないが弑する。――それで良いんだね? 同胞たちの怒りは相当なものだ。なるべく生かせ、と言われても、獲物を前にお預けは無理だよ。弑せる機会あらば、必ず喉笛噛み千切るだろう」

「勿論、構わない。お前たちの報復も正当なものだ。それを止めるつもりなんて無い。ただ、さっき言った様に、ルヴァイルとインギェムは駄目だ。私の目的を達成するには、二柱の協力なくして不可能だからだ。見つけても、そいつらだけは見逃せ」

「……ま、そこは妥協しても良いか。大神の復活次第の話だしね……。大神、ねぇ……」

 

 またも意味深そうな言い方と眼差しに、ミレイユは胸の奥で不安を感じた。

 ドーワからは、創造主たる存在の安否や、無事を祈っていないように思える。

 まるで、復活しない方が良いと思っているようにすら感じた。

 

「どうした、大神に何かあるのか」

「何かある、とは違うね。何かあったんじゃないか、と思うのさ」

「それは……?」

「ただの憶測だよ。例え冗談でも口に出すべきでない類のね。だから言わないでおくとするよ。――それより今は、まず陽動の成功を考えるべきだろうさ。これの成功の可否で、今後が大きく変わる……そうじゃないか?」

「あぁ……」

 

 それは事実だが、同時に強引な話題転換だと思った。

 だが実際、突拍子もない事にまで意識を割いている余裕はない。

 それが何であれ、今は一柱でも多くの神を落とす事に集中しなければならなかった。

 

 ミレイユが合図を出すと、ドーワは大儀そうに頷き、周囲へ首を巡らす。

 吠える事も、声を出すこともなく、ただ微弱な魔力の流れだけがクモの巣状に広がっていく。

 それだけで、何が必要か、なにをするべきか、彼らは十全に理解できたようだ。

 

 その瞳の中には強い決意のみがあり、迷いや逡巡というものが見当たらない。

 ドーワは一度ミレイユに目配せした後、翼で大きく地面を叩くと、颶風を巻き起こし空へと飛び立って行った。

 



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真実と真事実 その6

「あれってどういう意味……? ドーワは何を察していたのかしらね」

「さて、何だろうな……。今ここで考えても、仕方ない事ではあるが……」

 

 ユミルの呟きを傍で聞きながら、多くの竜を従えて、飛び去る姿を見送る。

 ドーワの口から聞かされた大神とは、次代へ役目を託す為、後継を創ろうとしたらしい。

 そして、それが全ての始まりだった。

 

 真なる神さえ永劫ではない、という事実は諸行無常を感じさせるが、それもまた一つの真理だというなら納得もする。

 

 そして、その神が己の末期を悟っていたという事実が、八神の反旗を許した原因でもあった、という気がする。

 力を十全に発揮できていたら、倍の数で襲い掛かられようと、撃退できていたのかもしれない。

 

 力の差はあれど、小神も神である事には違いない。

 大神は四柱いる筈だが、そもそも倍の数に対して、抗えられるものではなかったのだろう。

 

 そして、末期故に力を発揮できていなかった可能性もあった。

 もしもそうなら、ドーワの懸念はそこにあったように思う。

 

 それこそが、口に出すのも憚られる、という事に繋がるのなら……大神が沈黙しているのは、封印されているばかりが理由でないのかもしれない。

 

「ちょっと……?」

 

 思いの外、長く黙考してしまった所為で、ユミルから怪訝な視線を向けられてしまった。

 アヴェリンからも心配そうな視線を向けられてしまい、片手を振って苦笑する。

 

「いや、結局ドーワの言うとおりだ。下手に意識を割く程の事じゃない。それを確認できるのも、これから次第だしな。――今は待つ」

「畏まりました。ではその間、少し詳しく段取りについてお伺いしても?」

「行き当たりばったりになるのは仕方ないとしても、ある程度、考えておく必要はあると思うわ。八神に対して、どう対処するか。一柱相手に一人で当たるのは無理だから、当然袋叩きにするのが効果的だと思うんだけど……」

 

 ユミルの指摘は順当だ。

 敗北を許されず、確実な勝利を重ねるには、総員で掛かる以外、方法がない。

 だが同時に、それでは別の問題も発生する。

 ミレイユが口を開くより前に、ルチアが指を向けながら、それを指摘した。

 

「勿論、一柱ずつ確実に削るべきだと思いますけど、肝心な部分を忘れてますよ。……不利な状況だと悟ったら、逃げ出す神が現れますよね? それはどうするんです」

「あぁ、そうよね……。生き汚いから反旗を翻し、そして世界を削ってでも、生き恥晒してる様な奴らよ。形勢が不利と悟った瞬間、逃げ出しても不思議じゃないのよね」

 

 ユミルが大いに顔を顰めて悪態をついた時、アキラからおずおずと声が上がった。

 

「あの……、逃しちゃ拙いんですか? 目的は大神の――大神様の救出なんですよね? 最悪、その封印が解ければ良いんじゃないですか?」

「最悪、ね。……そう、まさに最悪のケースよ、それは」

 

 あまりに強い反論に、アキラは目を剥いて驚く。

 大神の救出という、その一点に於いて目的は達成できる。

 他に目もくれず、封印を担うという不動と持続のオスポリックを倒せれば、それで解決の様に思えた。

 

 だが、違うのだ。

 ユミルはアキラだけでなく、周囲へ言い聞かせる様に言葉を並べる。

 

「それが人間社会に於ける将軍や、あるいは王という立場において考えみなさいな。そいつらを、みすみす逃がす事で生まれる懸念や禍根が、どれほど大きな問題を生むか想像できる?」

「えぇと……、どうなんでしょう? 神を逃がすと、別に軍隊を組織して反抗して来たりするんですか……? 亡命政府を組織したりとか、なんかそういう抵抗するとか想像できないんですけど……」

「別に政府を樹立とかはしないわよ。……つまりね、神はその両方と近い事をやろうと思えば出来る上に、権能を用いて好き放題やるワケよ。信仰ってのは厄介なもんで、信者を抱き込んで徹底抗戦とか出来ちゃうの。信仰や信徒は色んな所にいるもんだから、雨後の筍の如く、どこからでも襲って来る事になるわよ」

 

 アキラは顔を青くさせて首を振った。

 

「めちゃくちゃ拙いじゃないですか……!」

「アタシたちを殺せないと分かってるなら、森を攻撃させたっていいしね。嫌がらせにやり方を変えてきたら、それこそやり方は無数にあるのよ。やられたまんまで引き下がらない、我の強い神が、黙って敗北を認めるもんですか。だから馬鹿をさせない為にはね、今日ここで、必ず全員仕留める必要があるの」

 

 ユミルの言い分は苛烈で、神々を悪し様に捉えた結果だとも言えるが、全くの根拠なしとも言えなかった。

 ミレイユを取り戻す為に、現世に対し、あれだけの所業を行った連中だ。

 

 それを理由に反撃されようと、逆怨みという自覚すらなく、悪意の全てを濁らせぶつけるような真似をして来る、という確信めいた予感があった。

 

 それを思えば、汎ゆる禍根はここで断っておきたい。

 元より和解の道など何処にもないが、攻撃を開始する事で、その道は決定的に破断される。

 後はもう、互いにどちらが滅ぶか、という生存戦争となるだろう。

 

 中途半端な対処が最も危険で、命乞い程度で許せば後々絶対に後悔する。

 それが分かるから、ユミルもここまで強く、アキラの意見を否定したのだ。

 

「でも、逃がしたくないからと、神を複数同時に相手をするのも愚策だわ。引き離した上で、各個撃破が理想……って思うんだけど、アンタはどう思う?」

「うん……。理想的かつ現実的だろうな、それが」

 

 ユミルの意見には強く賛同するが、引き離す事は可能か、という問題があった。

 どこまでも傲慢不遜であれば、一柱だけで相手する事もあるだろう。

 だが、こちらの戦力を理解している神々が、不利になるかもしれない戦いを選ぶとも思えなかった。

 

 よほど腕前に自信があるか、戦闘狂でなければ、まず選ばない選択だろう。

 そして選ぶというなら、必勝を携えてやってくる。

 罠を用いるか、あるいは策を講じて、負けない勝負を挑んでくるのではないか。

 

「ドラゴンが受け持てると言ったのは三柱までだった。小神を加味した上での数字だし、持ち堪える事に専念した場合、という条件付きの話でもあるが」

「残りの三柱……相手にもよる、という話になるでしょうが……。ここにいる五人で弑するには、チームを分けないと無理ですよね」

 

 ルチアが全員の顔を見渡して、それから困ったように眉根を下げた。

 顎先を摘むように持って、悩まし気な息を吐く。

 

「ミレイさん一人で誰か一柱相手して貰うとしたら、アキラを含めた四人で二柱ですか? この四人を二つに割るとして、どこに入れても不満が出るじゃないですか。」

「というか、どう分けても二人で倒せる相手なんかいないでしょ……」

「う……っ、申し訳ありません……」

 

 アキラの実力不足は、最初から分かっていた事だ。

 だから盾としての役割を求めた。

 攻撃はしてもダメージを与えられない事を鑑みても、初めから戦力として期待できない。

 ただ敵の前に立ち続ける事のみを求めた場合、アキラの価値は別物に変わる。

 

 制御を完了させるまでの壁として役に立てば良い、と割り切った場合、使い所もあると思うのだが……。仮にルチアと組ませた場合を考えても、やはり不安は大きい。

 

 ルチアも黙って立っていないと制御できない、というボンクラ魔術士ではないが、神々は強い魔力抵抗も持っている筈で、魔術それ一つで突破するには難しい相手だ。

 

 魔術は支援、撹乱、補助として用いるのが最適解で、魔術それ一つで倒そうと思えば相当な工夫がいる。

 単純な高威力な魔術をぶつければ勝てる程、神は甘い相手ではないだろう。

 アキラとルチアの組み合わせは、あまり望ましくない。

 

 では、アヴェリンと組ませるのはどうだ、と考えてみる。

 二人は互いに癖も知っていて、連携も組みやすい相手だろうが、前衛ばかりでも、やはり倒すのは難しい。

 

 そうなると、ユミルと組ませるのが一番マシな選択に思えるが、ユミルはそもそもサポートタイプだ。

 アキラを上手く使ってくれる期待感こそあるが、火力不足は否めない。

 この二人で神を落とせるか、と考えると、ルチア同様難しい、という結論になる。

 

 誰と組んでも問題で、そもそもアキラと組まない方のチームでも、やはり戦力不足は否めなかった。

 アヴェリン達は事実として強い。ミレイユと共に小神、最古の竜を打倒して来た実力者だ。

 その彼女らが簡単に負けるとは思っていないが、ペアで挑むとなれば、どうあっても厳しいと判断するしかない。

 

 それがミレイユの下した結論だった。

 そうであるなら、ここはもう一つしか選択肢が残らない。

 

「アキラは私と共に行く。お前達は三人で動け」

「アキラと……? しかし、それは……!」

 

 アヴェリンが否定しようと声を上げたが、それより前にミレイユが手を挙げて黙らせた。

 

「現実として、どの様な組み合わせだろうと、二人で一柱の相手は無理だ。仮に勝てても誰かを失う。それならば、最初からこの組み合わせの方が勝率も高く、希望が持てる」

「そうかもしれませんが、しかし……!」

「二手にしか分かれられないとなれば、一柱を完全にフリーにしてしまう。そこに怖さがあるのは確かだ。逃げるかもしれないし、それより前に……どこぞへ加勢するかもしれないが。……来るとしたら私のところ、という気はするな」

「ならば、尚の事……!」

 

 いつもはミレイユの下す命令には忠実なアヴェリンだが、今回ばかりは黙っていられないらしい。

 これが自分自身ならば、それが如何に不利な状況でも文句など言わなかった。

 だが、それが戦力的に不安しかないアキラだからこそ、ここまで頑強に否定してくる。

 

「総合的な戦力を考慮した結果だ。これならば安心、と楽観できるものじゃないが、現有戦力で最も高い戦果を上げるなら、この形しかないと思う」

「それは……、そうかもしれませんが……!」

 

 アヴェリンの表情は苦渋に満ちている。

 間違いなく激戦と予想される戦闘があって、その傍に自分が居ない事に耐えられないのだ。

 ミレイユにもアヴェリンの心情をよく理解できるが、ここは飲み込んで貰うしかない。

 

「仮に神々を倒せても、相打ちでは意味がない。お前たち三人なら、きっと上手くやれるだろう。精々、手早く倒して私を助けに来てくれ」

「は……勿論、即座に討ち倒し、助けに参りますが……」

「アヴェリン、ここはもう諦めなさいな」

 

 ユミルに説得されるまでもなく、彼女自身もミレイユの言い分に理解できていたろう。

 だが、それでも納得するのには、多大な覚悟が必要なようだった。

 それを汲み取ったからではないだろうが、ユミルが更に補足的説得を続ける。

 

「戦力を均等に分配なんて、所詮無理な話よ。ペアで挑んだところで、良くて同士討ちしか狙えない。でもアタシ達三人でなら、重傷者だらけになろうと倒せる希望が持てる。犠牲も出すかもしれないけど……、それだって計算の内よね?」

「です、ね……。初めから無傷で勝利なんて、あり得ない想定です。仮に負けても手傷は与えてやれる。あとで戦うミレイさんは、それだけ有利になるでしょう」

 

 ルチアも賛同する様に口添えし、それでようやくアヴェリンも折れた。

 苦渋に満ちた表情は変わらないが、渋々ながら納得しようという気配は見える。

 その時だった。

 

 遠くで轟音と爆炎が、轟々と巻き起こるのが見えた。

 月明かりしかない闇の中、赤々とした炎は実に目立つ。

 

 距離がある所為で具体的な事は分からないが、上空を旋回しては炎を吐き出す、勇猛なドラゴンの姿は複数確認できた。

 

 ミレイユ達のいる島とは正反対、陽動としては完璧な位置取りに思え、暗闇に潜んで移動するミレイユ達には良い後押しとなるだろう。

 無事に潜入出来る可能性が、これで更に高まった。

 

「……始まったか。議論している暇はなくなった。すぐに動くぞ」

 



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真実と新事実 その7

 ミレイユが赤々と燃える島を見ている間に、周囲が騒然と騒がしくなった。

 神が住まう島だからこそ、そこで侍らされている人間もまた、厳選している筈だという予測はあった。

 そして、それは事実だったようだ。

 

 兵士らしき者の姿は見えるのに、明らかにその姿が少ない。

 攻め込まれる事を考えていないからこそ、用意している数が少ない、という側面があるのだろう。

 

 そうであれば、ミレイユの方もやり易くなる。

 木陰へ隠れるようにして立っていた身体を、幹から離して振り返る。

 

 ――今が好機だ。

 行動する前に何か一声掛けるべきかと迷っていると、アヴェリンがアキラへ詰め寄る姿を見て、言葉が引っ込んだ。

 アヴェリンは胸倉を掴む程の剣幕で顔を寄せ、声を張り上げる事なく脅し付ける。

 

「――いいか、アキラ。何としても、何があろうと、ミレイ様の御身をお守りしろ。お前が今まで生きて来たのも、その力を得たのも、今この瞬間の為だったと理解しろ!」

「はい、勿論です! この身に代えても、ミレイユ様をお守りします!」

「馬鹿者、お前は盾だ! その身を持って壁になるなど、今更、口に出す事か!」

「はいッ、申し訳ありません!」

 

 アキラは背筋を伸ばし、アヴェリンに引き締まった顔で頷く。

 ただその表情は、以前に見られた情けなく眉を下げたものではなく、決意の中に精悍さが見られる頼もしいものだ。

 いつまでも情けない姿を晒している、頼りないアキラではないらしい。

 

「ミレイ様に害なす攻撃は、全てその身で受けると思え! お前はここへ死にに来た、今日がお前の命日だと思って前に出ろ! 死人(しびと)は明日の事など考えない! 今も自分も、全てを投げ捨て盾となれ!」

「はいッ! 指一本動かなくなるまで、決して自分の役目を投げ出したりしません!」

 

 アキラは決然とした表情と気迫で宣言したが、それだけでアヴェリンは満足しなかったらしい。

 怒りにも似た、苛烈な表情で顔を近づけ、指をアキラの胸元に差し向けながら凄む。

 

「もしもミレイ様の身に何かあり、お前だけが無事であってみろ。その時は、私が、お前に、事の道理というものを教え込んでやるからな……!」

「僕がここにいるのは、全てミレイユ様のお役に立ちたい為です! 我が身可愛さで避ける事も、逃げる事も絶対にしません!」

 

 アヴェリンの脅しに全く屈さず、堂々と宣言したアキラに、それでようやく満足したようだった。

 褒める言葉も激励もなく、睨み付ける表情も変えないままだったが、それでも納得するように二度頷き踵を返す。

 

 随分と不器用なやり方だが、アヴェリンなりに発破を掛けようというつもりらしい。

 アキラは未だ硬い表情であるものの、少しは緊張を解してやろうと、ミレイユはその肩を数度叩いて苦笑した。

 

「そこまで物騒に考える必要はないぞ。勝負は時の運とも言うしな……。己の失態を、お前の責任にするつもりもない。もっと肩の力を抜け。今からそんな様子じゃ、実力だって発揮できないだろう」

「ミレイ様、あまりアキラを甘やかされては困ります」

 

 ミレイユとしては、あくまで緊張を解してやるぐらいのつもりで言ったのだが、アヴェリンからは困った顔で苦言を呈された。

 師弟間のやりとりに、水を差したように思われたのかもしれない。

 

「アレは追い詰められれば、追い詰められる程、実力を発揮するタイプです。理不尽な要求を突き付けてやるぐらいで丁度よろしいのです」

「なるほど……、よく見ているな」

 

 優しくするだけが結果を生む訳ではない、という事だろう。

 厳しさだけでもやっていけるものではないが、締め付ける事で生まれるやる気、というものもある。

 

 思い返してみれば、確かにアキラは安穏としているよりも、追い込まれてから本領を発揮するタイプだった。

 なるほど、確かにこれは、ミレイユの失言だったかもしれない。

 

 詫びるべきか、と思いつつ、ここで謝罪を口にしたところで、アキラのやる気が燃え上がるとも思えなかった。

 仕方ないか、という諦めの境地でいたところ、建物の入口から飛び出していく影が見える。

 

 月明かりだけで十分な姿を確認する事は難しいが、兵士でない事はすぐに分かった。

 何しろ、その人影は空を飛んでいる。

 

 つまり、騒ぎの内容を理解して、神自ら出向く事にしたのだろう。

 ドラゴンが相手となれば、彼らの神使を派遣しても焼け石に水だ。

 神使の命を慮った、というよりは単純に戦力外と考えて、自ら出向くしかない、と考えたのかもしれない。

 

「とはいえ、ドラゴンは神としても相手にしたくない部類だと思うが……、被害の拡大を恐れたのか?」

「まぁ、放置できないって思うのは当然として……。自ら出向くってコトは、つまり……こちらの動きが読まれてなかった証明と言えるかもね」

「『遺物』の使用、そしてドラゴンの復活を察知していたなら、早い段階で対策や対抗を講じていた筈、ですか。……ですね、十分あり得ると思います」

 

 ユミルが分析し、ルチアが納得を示して、ミレイユも頷く。

 

「これこそ、ルヴァイルが意識を逸らすなり、撹乱させた結果かもしれない。獅子身中の虫という程、ルヴァイルやインギェムも敵意を向けられていないなら、可能だという気もするしな」

「そこまで甘く考えてやる必要もない気がするけどね……」

 

 ユミルが顔を顰めながら、建物の方へと視線を移す。

 神嫌いの彼女らしい発言だが、功績があるなら、そこは素直に認めなくてはならない。

 とはいえ、ミレイユが言った事も憶測に過ぎないので、ユミルの発言も厳しすぎる訳ではなかった。

 

 そうして、ミレイユも神殿の方へ目を向けていると、そこから更に飛び立って行く二つの人影がある。

 一つはドラゴンの襲撃場所へ、もう一つは、それと全く別方向へ飛んで行った。

 

 その光景が少し意外に思えて眉を上げる。

 あの神殿らしき場所では、複数の神が同時に住んでいたりするのだろうか。

 

 一つ目の影は加勢に行ったと見て良いとして、二つ目はどういう意図だろうか。懸念したとおり、あれは逃げたか、自分の城にでも引き籠もるつもりでいるのか、そのどちらかだろう。

 早々に一人取り逃がす事になるのだが、あれを追うべきかどうか迷った。

 

「あれが逃亡というなら、踏ん切りが早すぎる、と思うんだが……どうしたものかな。ドラゴンが小神の処理役と知っているなら、理解できない話でもないが」

「戦闘が苦手な神じゃ、そもそも加勢に行く意味もないしね。逃げ出すよりは、事が終結するまで、安全な場所で身を固めてるつもりなのかも……」

「私もそう思います。ドラゴンの復活と襲撃は予想外でしたでしょうけど、どの神も弑されていない状況で、逃げの手を打つには思い切りが良すぎませんか」

 

 ユミルの指摘とルチアの意見、そのどちらも正鵠を得ている様に思えた。

 ルヴァイル達がそうであった様に、神だからといって戦える存在ばかりではない。

 ドラゴンの相手など出来ないから、初手から逃亡を選ぶのは、むしろ堅実な手と言えるだろう。

 

「それならそれで、逃げた先を知っておきたいところだが……もう無理だな。ルヴァイルが知っている事に期待しておこう」

「それが良かろうと思います。手を広げられる程こちらにも余裕はありませんし、ドラゴンを使って追跡するとなれば、発見されるリスクも上がります。不意打ち出来る機会を、みすみす逃がす事になりかねません」

 

 アヴェリンにも諭され、複数に目標を定める危険を考え直す。

 どっち付かずが最も愚かだ。一つこれと決めたら、それに向けて邁進すべきだった。

 ミレイユはアヴェリンに感謝を示して目礼し、それから神殿へ顔を戻す。

 

「当初の目的通り、目前の建物に侵入して襲撃を仕掛ける」

「了解よ。じゃあ、それは良いとして……」

 

 ユミルは気負いなく頷いてから、ミレイユと同じく視線を合わせて睨み付けた。

 

「あれってどういう建物なのかしら。神殿らしき場所、っていうのは理解できるんだけど、それにしては神が居すぎじゃない? いま飛び出したのが全てなのか、それともまだ他にいるものなのか、判断に困るわよ」

「確かにな……。基本的に一枚岩にならない、という話だったし、仲の悪い間柄も多い、という話だったろう? 最初から、一箇所には集まっていないものだと思っていたが」

 

 ミレイユは腕を組んで黙考する。

 そうでないのだとすれば、最初からルヴァイルも、その様に伝えていた筈だ。

 まさか一箇所に集まって暮らしているとは思えないし、ならば、この状態が突発的なものだとしたら――。

 思い当たる事が一つあった。

 

「ルヴァイルは近く、一同に集まって会議みたいなものを開く、と言っていたな」

「それがアレだって……? あり得ない話じゃないわね。それなら、あぁも一つの建物から神が出て来る説明も付くもの。……ほら、上空から見た時、島が点々とあったじゃない? あの数が、意味もなく用意されたものじゃないと思うのよね」

「つまり、それら一つ一つを神が所有していて、そこに神殿なり何なりを築いて暮らしている。そう考えたいのか?」

「考えたいっていうか、それが自然だって言いたいだけ。ルヴァイルの話を聞く限り、互いが互いを牽制したり、邪魔してたりするらしいじゃない。そんな奴らが一箇所に纏まって、生活できるもんですか。離れていた方が、互いに安心でしょ」

 

 そう言われると、確かにそういう気がしてくる。

 神という存在が、シェアハウスをして暮らしている、というのも奇妙な話だ。

 複数の島があるのなら、やはり複数に分散して暮らすものだろう。

 

 信徒が訪れるような場所でないとはいえ、神には見栄も誇りもあるものだ。

 思考が横へ逸れている事に気付き、ミレイユは意識してもとに戻す。

 

「とにかく、あの場所ではミレイユ対策の会議が開かれていた。だから、あぁして飛び出して来た、という考えで行くとして、じゃあ残り五柱の神が残っている事になるな」

「そこからルヴァイルとインギェムを除けば、残り三柱ですよね。……待っていれば、更に外へ出て来たりするものですかね。全員に出てこられても、それはそれで困るんですけど」

 

 ルチアは顎に手を添えたまま、思案顔で神殿を見つめる。

 その全てがドラゴン対策に向かわれたら、それこそ奇襲は難しくなりそうだ。

 空にいる相手に対して、完全な隠匿をして接近は難しいし、攻撃手段も限られてくる。

 

 そうして、決めあぐねて頭を悩ませていると、また一つ、別の影が神殿から出てきた。

 乏しい明かりで分かり難いが、その人影には見覚えがある。

 

「……あれは、……インギェムじゃないか? すぐに飛び立つ気配もない。……うん? 誰かを探している?」

「周囲にドラゴンが隠れていないか確認しているだけなのか、それとも……。ってところで話が変わって来るけど」

「ドラゴンが復活する事だけなら、あの二人は知っていた事だ。それをやったのが誰なのかもな。詳しい段取りを説明している暇こそなかったが、ドラゴンがいるなら私達も来ていると理解してるだろう」

「……じゃあ、探してるのは私達、なんでしょうか? 出て行って平気なんですか?」

 

 ルチアが疑わしい視線で見つめる先には、今も顔を左右や上空へ向けているインギェムがいる。

 ミレイユは彼女を疑う気持ちが薄いものの、何を意図しているのか分からないから、迂闊に近寄るのが怖い。

 それに、他の神々と鉢合わせる可能性だってある。

 

 インギェムは深く考える性格ではないので、尚更それに拍車を掛けていた。

 ミレイユが迷っている間にも、アヴェリンがインギェムを見据えながら言ってくる。

 

「私達をここから遠ざけたいのか、それとも侵入を助けたいのかで話は変わって来ます。……いずれにしても、ここで待つばかりでは勝機も逃がす事になるかと」

「……そうだな。思い切りが必要か。あまり効果的ではないだろうが、念の為だ。ユミル、幻術で私達とドラゴンの姿を隠せ」

 



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真実と新事実 その8

 予想していた通りだから特別驚くに値しないが、ミレイユ達がドラゴンに乗って接近すると、インギェムはすぐに気付いて顔を向けて来た。

 視線が明らかに合わさっているので、勘違いでは有り得ない。

 

 いま乗っているドラゴンも、ドーラより一回り以上小さいとはいえ、全員が乗ってもその背にはまだ十分余裕がある。

 それだけの巨体が近付いて来るのだから、何かを探している相手に対して、幻術は何の意味も無かったようだ。

 

 空中でホバリングするドラゴンの首を叩き、ミレイユの方へ顔を向けさせると、これからも足として使わせて貰う為、簡潔に命じておく。

 

「口笛を吹いたらすぐに来てくれ。それまで近くに潜伏していろ」

「分かった……!」

 

 ドーワに言う事を聞くように命じられていただけに、ミレイユの言う事にも素直に応じてくれる。

 ドラゴンが了承して頭を下げるのを見届けると、ミレイユが率先して飛び降りる。

 高さ的にも三階程しかなかったので、わざわざ魔術を用いたりしない。

 

 ミレイユが降り立つと、他の面々も同時に降りて来て、足音を重ねてインギェムの近くまで近付いていく。

 彼女の後ろには立派な門構えの扉が大きく開いていて、ちらりと窺った限りでは兵士達の姿は見えなかった。

 

 しかし、非常に騒然とした気配は感じる。

 それを考えると、今すぐにでも何者かが飛び出して来ても、不思議ではなかった。

 

「おう、ミレイユ。来たか……というか、何なんだよアレ。来るの早すぎるだろ。こっちだって、もっと時間が掛かると思ってたんだから……。準備ってものがな……」

「遅いより良いだろう。大体、互いに連携取れる訳でもないのに、足並みなんて揃えられるか」

 

 そんな事より、と更に文句を垂れそうなインギェムを遮って、話を続ける。

 

「ここから突っ込めば良いのか? 敵は中に残っているのか?」

「あぁ、まぁ……そうか、知らなかったか。元から全ての神がここに集まってた。それで、今こん中には、三柱が残ってて、ドラゴン討伐の報を待ってるってところだ」

「その三柱について、具体的には?」

「ラウアイクス、シオルアン、グヴォイルだ。奴らは今も、最奥の蹄卓の間で様子を窺ってる。他の奴らが鎮圧できるか、もし出来ないならどう対応すべきか、その辺を話し合ってる筈だ」

「お前は……、いや、ルヴァイルはどうした? 一緒じゃないのか?」

 

 ミレイユが指摘すると、インギェムは困った顔をして眉の辺りを掻いた。

 

「己はサッサと逃げ出して来た。案の定、疑いが掛けられていたんでね。この騒ぎに便乗して、()()()()()()()ってやつをしに来たわけだ」

「なるほど、それがつまり、裏切りの手引って事か?」

「抜け目ないお前の事だ。ドラゴンに乗って来るなら、共闘するより囮に使うと思ってたよ。で、自分達は近くに潜伏してるんじゃないかと思ったが……。まぁ、予感的中って感じだろ?」

 

 元より一柱は暗殺できたら御の字、という話もしていた。

 そこからミレイユがどう動くつもりだったのか、ある程度察せられて当然だったろう。

 

「それは良いが、秘密裏に接近する事は可能なのか? 今この瞬間も、奴らに見られているって事はないのか?」

「見てるのは別の奴……うーん、何て言えばいいんだ? 実際に神が遠見してるんじゃないんだよ。それを任せている神使がいて、そいつから報告が返って来る。つまり観測役って奴らなんだが……。ほら、神が四六時中、水盆を眺めているってのも馬鹿らしい話だろ?」

「あぁ、つまり魔術秘具を使うなりして、その任務を受けている奴がいるのか。それはむしろ意外だったが……となれば、この瞬間も見られている事には変わりないんじゃないのか」

 

 どういう仕組で動いているのであれ、観測手が一人では到底手が足りない筈だ。

 神の権能を持って行っている訳ではなく、()()を眺めて行える事なら、数を複数用意して多角的に物を見ようとするだろう。

 

 そして一人で見ている訳でないのなら、汎ゆる場所に目を飛ばす。

 監視カメラの様に定点観測して見ているとも思えないので、怪しい場所は全て見張るだろう。

 インギェムが疑われていたというなら、彼女も監視対象になっていても不思議ではない。

 

「今はドラゴンの襲撃に掛かりっきりさ。その状況をこそ、いま求めていて、被害報告なんかを待っている感じだから。とはいえ、抜け目ないのはラウアイクスも同じだな。己らに知らせない形で、何らかの監視はしてるかもな」

「だったら悠長にしている暇はない。私達の存在が明らかになる前に、一撃加えてやる必要がある」

「勿論だ。その為に己が来た」

 

 自信有りげな笑みを浮かべるインギェムだが、ミレイユはむしろ危機感を覚えた。

 普段の言動も相まって、本当に信用して大丈夫なのか心配になる。

 

 彼女からすれば自信のある行動でも、敵に筒抜けだったり、全く見当違いな事をやりかねない。

 不審そうな表情が顔に出ていたらしく、それを見たインギェムは、愉快そうに唇を曲げて胸を叩いた。

 

「大丈夫だ、任せとけって。というより、こいつは知られていようと関係ないんだ。観測役はまだ最奥の間には辿り着いていない筈だからな。その前に掻っ攫う」

「……どういう意味だ? 伝令が行き着かないよう、妨害するのか? それだって限界はあるだろう。目撃されれば、お前の裏切りは確定的になる。それは良いのか?」

「そういう意味じゃないし、権能を使えばバレるのなんて織り込み済みだ。元より後が無いって分かってやってるんだ、こっちも。裏切りが疑念から確定に変わったからって、今更構いやしないよ」

 

 それは紛れもなく、インギェムの本音であったろう。

 その覚悟が既に決まっているなら、ミレイユとしても異論はない。

 

 だがやはり、そういう意味じゃない、という部分が気になった。

 インギェムは、こちらが何もかも察していると思って言葉を口にするが、当然そんな筈はないのだ。

 知らない事、見た事ないものにまで考えが及ばないのは当然だった。

 

「……分かった。それで、掻っ攫うの意味は? 私達が何かすれば良いのか?」

「いや、己の権能で、ちょいと繋げちまおうって話だよ。これから潜入しようとも、三柱は部屋から移動しないだろうし、そこで不意打ちも何もないだろ? 入り口は一つしかないし、己らが注意を逸したって限度がある。結局、一撃で仕留められないなら、奴らを同時に相手する事になるんだろうしさ」

「勿論だ。個別に撃破するのが、こっちにとっても都合が良い。じゃあつまり、これからお前が選んだどこかへ……例えば狭い部屋とかに、それぞれを繋げようとか、そういう話か?」

 

 インギェムは我が意を得たり、と満足そうに頷いた。

 

「孔が生まれたのと同じ原理さ。この神処には、使ってない部屋はごまんとある。戦闘するなら広めが良いだろうから、簡単には合流できない離れた部屋に、それぞれ送る。奴らを送った後に、お前らをその頭上の死角にでも送ってやるよ。完全な不意打ちが出来るかは……まぁ、運次第だが」

「悪くないように思いますね」

 

 そう言って、真っ先に首肯したのはルチアだった。やはり顎先を摘むようにして、何度か頷いて見せる。

 

「もう既に、結構な時間掛かってるじゃないですか。初期の混乱は収まっている筈です。気持ちの余裕も出てきたところに、強制転移されたなら不意を突くのは期待できます。その後の一撃に関しては……、神々のセンス次第ですか」

「そのセンスってのは、何とも言えないね。ただ、そこに自信ある奴は真っ先に外出て行ったから……まぁ、大丈夫なんじゃないか」

 

 インギェムは首をひねって自信なさげに言うが、そこが駄目なら、神々の分断という目的が初手から頓挫する。

 成功率が低いというなら、その方法に固執する必要はない。

 別の方策を練った方がマシだった。

 

「おい、大丈夫なんだろうな。余計な警戒心だけ煽るだけで終わったら、それこそ目も充てられないぞ」

「まぁ、平気だろ。よく考えてみろよ。己らは事実として人間より遥かに強大な存在だが、日頃から剣を握ったり、槍を突き出している訳じゃないんだぞ?」

 

 そう言われてみると、日頃から武技を鍛え、戦いに備えて努力しているとは思えない。

 願力を集めた内の幾つかを、力に変換しているというのは確かだろうから、間違いなく強大な存在ではる。

 しかし、戦術眼や戦勘が養われているとは思えなかった。

 

「神は天上から力を振るう事もあるが、武器を持って手合わせする機会なんてない。……まぁ、それをやってる変わり者が、さっきドラゴンへ挑みに行った奴らだが……、普通はそうじゃないんだ。だから、いま最奥の間に居る奴らには、まず成功すると思うね」

「なるほど、納得できる話だった。じゃあ、それで行こう」

 

 問題ないか、と目配せすれば、全員から決意の漲る首肯が返って来る。

 ミレイユもそれに頷きを返すと、インギェムへ向き直った。

 

「一応聞くが、お前達は戦えないのか? 時間稼ぎだけでも良いが」

「馬鹿、お前。見りゃ分かるだろう? 戦いなんてもの、やろうとした瞬間に負けちまうよ。己もルヴァイルも、そういうのには、とんと向いてないんだ」

「あぁ、まぁ、そうだな……」

 

 魔力の扱い自体は上手い方だろう。

 だが、戦闘とは制御の良し悪しだけで決まるものではない。

 ミレイユの見る所によれば、後方で支援としては使えそうでも、敵の前に立って戦える様には見えなかった。

 

 人間に例えると、中級冒険者クラスの戦闘センスはありそうだが、その程度の実力で立ち向かえ、と言う方が怖い。

 振るう力はそれとは比較にならないほど膨大だろうし、同ランクの冒険者なら何人束になっても勝てないだろうが、神と戦うには明らかに多くが不足している。

 

「最奥の部屋に残った、という神々も、お前と同じレベルと思って良いのか?」

「いや、そりゃ流石に舐めすぎだろ。己と同じ様に見てると、痛い目みるぞ」

「何とも、情けない台詞を堂々と言うものだな……」

 

 ミレイユのぼやきにも、インギェムは皮肉げな笑みを見せるばかりで、気にした素振りも見せなかった。

 



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神々との戦い その1

 戦闘が不得手であっても、それはインギェムにとって、神の栄誉を損なう事にはならないらしい。

 確かに戦闘に寄与出来ない事は恥ではないし、権能という強力な能力を持っていれば、そこは無視できる事なのかもしれない。

 それらを上手く使って、立ち回る事を得意とすればこそ、彼女も卑屈になったりしないのかもしれなかった。

 

 後方支援でこそ輝くタイプで、使い方次第では、自らへの危害を最小限に抑えられる。

 その手管を知ってる八神に通じるかどうか、それがまさに不安なところだ。

 しかし、有利な場所へ強引に連れ出せる事が出来るなら、それは大変魅力的だ。

 

 本当に大丈夫か、という疑念が胸の奥に沸く。

 多くを知り、そして対策を持ち、万全以上の用意をして罠に落とすのが神々のやり口だ。

 インギェムの権能にも、同じように対応してくるのではないか、という気もする。

 

 ――だが、とミレイユは思い直す。

 

 神々とて、先々まで何もかも見えている訳ではない。

 互いの安全を確保する為、『遺物』の使用に関して下手な契約を結んだ結果、首を絞める結果となったのが、その良い証拠だ。

 

 彼らは有能ではあるかもしれないが、完璧とは程遠い。

 失敗作の烙印を押された者達でもある。付け入る隙はきっとある筈だ。

 

 そう自分に言い聞かせてから、ミレイユは改めてインギェムへ視線を合わせた。

 彼女の戦闘能力に期待できないのは理解できるが、それでも対処すべき神が建物内に三柱いる事を思うと、どうしても一柱は自由にさせてしまう。

 

 ミレイユたちは二つのチームにしか別ける事が出来ないのだから、その残った一柱をインギェムに頼る必要があった。

 

「私達はチームを分ける予定でいた。残りの一柱に、私達のチームでは対応できない。そっちでどうにか出来ないか?」

「……うぅん、そうだな……。戦闘で貢献できない以上、そっちで挽回しなきゃな。……協力する約束もしてる事だし」

「残った一柱は、どうあっても逃さず繋ぎ止めておきたい。任せられないか」

「ま、それこそ己の得意分野だ。抵抗次第だが、それなりの時間、逃さず留めておけるだろうよ」

 

 インギェムは心強く請け負って見せたものの、直後に動きを止めたかと思うと、表情を歪めてアヴェリンやユミル達へと順に顔を巡らす。

 

「それより、問題はお前らだ。……ミレイユ抜きでやれんのか? 返り討ちに合おうもんなら、今後の展望は持てないし。話はそこで終わりだろ?」

「やってくれるさ、アヴェリン達を信じよう。だが……、お前の権能で留めておけるというなら、他の神も同じように拘束しておけないか?」

 

 大して期待もせずに聞いてみたが、やはりインギェムは首を横に振った。

 それはそうだろうな、とミレイユは内心一人で納得する。

 出来るものなら初めからそう言うだろうし、有利に事を進められるなら、隠す理由がない。

 

「同時に向けられる力は限定的だ。己の権能に捕まったからと、それで逃げ出さない訳ないだろ? 一つだけでも大変なのに、二つに増やそうものなら幾らもせず突破されるね。とても現実的じゃない」

「仕方ないな。そう上手い話はないか……」

 

 ではやはり、戦闘は現行メンバーで挑むしかない。

 しかし、それが分かっても、今更落胆はなかった。

 

 最初から腹が決まっていた話だ。

 それが改めて決定しただけだから、皆の顔にも動揺は見られない。

 それで、とミレイユはインギェムへ顔を近付けながら言った。

 

「ラウアイクス、シオルアン、グヴォーリが居ると言ったな。どういう奴らか、詳しく教えろ。それで誰を充てるか決める」

「あぁ、まずラウアイクス。こいつは最後にしとけ。己らの元締めみたいな奴だ。頭も切れるし、厄介な奴だ」

「水源と流動の、か……。奴が死んだら、周りの水流も消えて無くなるか?」

「即時じゃないが、間違いないだろうな。単純に強い奴だから全員で当たれって意味もあるが、もしも手早く弑した場合に、だ。他の決着が長引けば、それより前に島ごと落下しかねない」

 

 それは確かに厄介な話だった。

 この大瀑布を始めとした、幾つもの不自然な状況は、神々がその力を使って作ったからに違いない。

 彼らの死亡は崩壊の兆しを生み、そして幾らも待たず加速度的に早まる事になるだろう。

 

 その時間的猶予は分からないが、この天上世界の土台となっているラウアイクスを、最初に倒してしまうのは悪手、と言いたい気持ちは分かる。

 

「分かった。じゃあ、そいつの隔離は任せる。そうすると、他はシオルアンとグヴォーリか……。権能は何だったか……」

「グヴォーリが分析と精査、磨滅と再生がシオルアンね。どちらも戦闘向きじゃないって感じだけど……それよりも、ちょっと聞いておきたいコトがあるのよ」

 

 会話を遮る様にして口を挟んだユミルが、目を鋭く細めながらインギェムに問う。

 

「ゲルミルの一族の滅亡に関わった奴は誰? それは当然、アタシが相手するべき敵なのよね」

「まぁ、そうだな……そうなるか。関わった、という話なら己ら全員って話になるんだろうが、より直接的なとなれば……、グヴォーリとラウアイクスって事になるんじゃねぇかな。計画の中核にいるのは、いつだってあの二柱だ」

「ふぅん……」

 

 ユミルは更に目を細め、満足気に笑む。

 その瞳には、隠し切れない敵意と凄惨さが浮かんでいた。

 それに気付いてない訳がないだろうに、インギェムは構わず続ける。

 

「ラウアイクスが集めた情報をグヴォーリが分析し、そして、それを元に細部を詰めて立案するのが、ブルーリアとラウアイクスだ。意見の違いや食い違いがあっても、上手く纏めて柔軟に組み合わせるんだな。実行するのはその時々で違う神だが……。己らは同列でいるように見えて、実際は序列がある。その最上位にいるのが、ラウアイクスとグヴォーリだ。……どっちかというと、ラウアイクスのが上かな」

「なるほど、あれこれと考えるのが得意な奴か……。確かに敵に回すと厄介な相手だった。お前達の離反がなければ、きっと私もこれまでのミレイユ同様、ループを始めていたろうな」

 

 何しろ、手の内を読んだ、突破したと思った先にも罠を張る様な奴だ。

 互いに盤面を挟んで睨み合って、勝てる相手でないと既に理解している。

 

 ラウアイクスの強さは、指し手の強さだ。

 遥かな高みから見下ろし、そこから繰り出される一手に抵抗する事は難しい。

 

 実際、虚しく破れた続けても来たのだろうが、同じ土場に立てば話は別だ。

 剣の届く距離で戦のであれば、十分に勝機はある。

 

 そもそも攻め込まれる事を考えていない筈だし、準備もなかったろう。

 それを思えば有利と考える事も出来るのだが、これまで煮え湯を飲まされ続けて来た事もある。

 

 たかが攻め入る立場に立てたからといって、油断など出来ない。

 実は備えをしてあった、と言われても不思議ではなかった。

 

 同じ盤面に立たせただけでは、有利とも不利とも言えず、これまでの戦って来た強敵と、同じようにも行かないと考えるべきだった。

 だからインギェムの忠告には素直に従って、ラウアイクスには全員で掛かるつもりだ。

 

「……いいだろう。グヴォーリはユミル達が相手をしろ。私はシオルアンをやる。何か気をつける事はあるか?」

「そんなこと言われてもね……」

 

 インギェムは考え込む仕草を見せたが、すぐに顔を上げて首を振った。

 

「戦ってる所なんて見てないもんなぁ。ずっと昔に見たような気もするけど、ありゃ戦いっていうより複数で囲っての制裁だったしな……。悪いけど、有益な助言は無理だ」

「まぁ、そもそも武器を持って戦う事がないからこそ、神というものなんだろうしな。……分かった、それならそれで良い」

 

 ミレイユがインギェムの傍から身体を離した後、彼女はパッと顔を上げて、得意げな笑みを浮かべて言う。

 

「そうそう、シオルアンはサディストだ。苦しむ姿や苦痛で歪む表情を好む。調子付かせたくなかったら、そこは注意しとくと良いかもな」

「そんな情報聞かされて、どうしろって言うんだ……。見るのが大好きと言うなら、今日の所は鏡を用意してやる」

 

 ミレイユは吐き捨てる様に言ったが、インギェムはその返事が大層お気に召して笑い声を上げた。

 あまり大声で笑えば気付かれるので、口元を抑えての大笑だった。

 

 ひとしきり馬鹿笑いを続けた後、目尻を拭って涙を落とすと、首を傾け腕を回す。

 それから、ミレイユとユミルの二人へ交互に目を向けた。

 

「それじゃ、準備は良いのか? これから送るぞ。……あぁ、いや、まずは奴らからだが。二柱を送って隔離したら、即座にお前らも送る。残されたラウアイクスは、そこに繋ぎ止めて置くから、早めに最奥の間へ行ってくれ」

「そこがどこかも分からんのに、どこが奥か分かると思うか?」

「まぁまぁ、とにかく奥まで行ってくれりゃいい。なに、すぐに分かる」

 

 最後の確認を済ましそうとしている所に、横からルチアが口を挟む。

 

「戦いの決着が付いたら、そちらから送って貰う事は出来ないんですか? そうすれば、合流も早まりますよ」

「見えてないのに、どうやって決着付けたか分かるんだ」

「……分からないので?」

 

 ルチアの目には落胆の色がありありと浮かんでいたが、やはりインギェムは気にした風もない。

 

「穴は閉じちまうんだ、分からんね。大体、こっちはラウアイクスを食い止めようってんだぞ。作ったばかりの孔を維持しながら、片手間で抑えておける相手じゃない。見えてる場所にいようと、やっぱり無理だ」

「……ですか」

「同じ理由で、私も無理だな」

 

 ルチアは落胆から蔑み視線に変えてインギェムを見ていたが、そこにミレイユから声をかける。

 召喚契約をそれぞれと結んでいるから、喚び出す事は可能だが、喚び出すタイミングが問題だ。

 

 仮に大きな魔力反応を感知できても、それを理由に止めを刺したと判断できない。

 むしろ、その一撃で敵を瀕死にしていた瞬間かも知れず、早合点して喚び出せば、決定的な瞬間を邪魔するだけになってしまう。

 

 それを思うと、やはり合流は、それぞれ勝手に行う必要があった。

 

「互いの位置は魔力反応でそれとなく分かるだろうから、片方が終わり次第、もう片方の救援に行く。そういう事にしておくか」

「――いや、ちょっと待て」

 

 了解をの声を返そうといていたアヴェリン達を遮り、インギェムが小さく手を挙げる。

 

「己がどれだけ食い止められるか分からないし、終わったら、すぐこっちに来てくれねぇかな。それに、己は他にも仕事があるんだ」

「ラウアイクスを食い止める事以上に、大事な仕事とやらがあるのか?」

「お前らも見なかったか? ドラゴンの対処とは別に、この神処から飛び立った奴がいたろ?」

 

 確かにいた。

 逃げたか、あるいは自分の神殿にでも引き篭もりに行ったのかと思ったものだ。

 あれが本当に逃げたのだとすれば、見つけ出すのは非常に困難だろう。

 ミレイユが頷き返すと、インギェムは眉根に皺を寄せて言葉を吐き出す。

 

「あいつはオスボリックって言うんだが、そいつが大神の封印を担ってる。引き籠もられると、権能も相まって手出しできなくなっちまう。それより前に、何とか手を打たにゃならん」

「それは、確かに……重要だな」

「オスポリックにしても、倒す必要がないからこそ、対処の仕様もあると思う。あいつは今も大神を封じている場所に行った筈だし、ルヴァイルが先行してるだろうから、二柱掛かりなら、まぁ……なんとかなるだろうと思う。……思いたいな」

「分かった、いいだろう。どちらかのチームが手早く弑殺できたとしても、合流せずに最奥の間だ。インギェムにはオスボリックを追ってもらう」

「了解よ」

 

 ユミルが短く答えれば、それぞれからも首肯が返ってくる。

 インギェムも一度頷くと、腕を一度大きく動かしてから両手を前に突き出した。

 

「いいか、まず二柱を送る。そこへ次いで、すかさずお前らだ。なるべく近寄って一塊になっとけ。そっちの方がやり易い」

「全く……仕方ないわね」

 

 ミレイユはアキラとのペアだから、それ程近寄らなくても問題ないが、ユミル達は互いを抱き合える様な距離まで近付く。

 

「すぐ頭上へ送るからな。一撃、上手く決めてやれ。そんで、ケリがついたら、すぐに来いよ。己も最奥の間近くにいるから、それを目印にしろ」

「近く……? 部屋の前って事か? ……何故?」

「近い方が、繋ぎ止めとくのにやり易いからだよ」

 

 至極単純な返答が返って来て、ミレイユは思わず苦笑した。

 神の力なら何でもありという気がするが、やはりそういうところは魔術と近しいものがあるらしい。

 

 ミレイユが場違いな感想を抱いている間にも、インギェムは腕を複雑に動かしては何らかの力を発揮していた。

 魔術とは違うので魔力の感知はないが、それでも何らかの力の奔流だけは感じられる。

 

 そうして一度、区切りを付ける様に腕の動きを止めた後、次にはミレイユ達へ、片手ずつそれぞれのチームへ掌を向けた。

 

「――よっしゃ、行って来い!」

 



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神々との戦い その2

 インギェムの掛け声が聞こえたと同時、足元の接地感が消え、視界が暗く染まった。

 次いでやって来たのが浮遊感で、それもすぐに落下へと変わる。

 左右どちらへ視線を向けても何も見えなかったが、すぐ近くにアキラがいるのは気配で分かった。

 

 落下時間も、そう長く続くものではなく、体感的に五秒ほどに過ぎなかったが、本当はもっと短かったかもしれない。

 足元の遥か先に見えた光の点は、確認したと同時に急速にその大きさを拡大させた。

 

 あるいは、ミレイユが高速落下した所為でそう見えただけかもしれないが、その先に何者かの頭頂部が見える。

 インギェムが言った様に、目標の頭上へミレイユ達を繋げたらしい。

 

 シオルアンは何が起こったのか理解していないようだ。

 黒髪の女神は動揺して、忙しなく周囲を見渡しており、頭上に注意は払っていない。

 

 ミレイユが魔力を制御して、いつもの様に剣を半召喚すると、自身の魔力でコーティングする。

 コンマ一秒程のごく短い洗練された制御だったが、それがシオルアンに感知される原因となり、そして直後、己の失策を悟った。

 

 完全な不意打ちを狙うなら、初めから武器は用意しておくべきだった。

 アヴェリンやアキラの様に、個人空間から取り出す程度なら、きっと気付かられる事もなかっただろう。

 奥歯を強く噛み締めながら、ミレイユは武器を振り下ろす。

 

 刃の切っ先はシオルアンの肩から背中を斬り裂いたが、咄嗟に避けられた所為で傷は浅い。

 

「――チィッ!」

 

 大きく舌打ちしながら着地する。

 その時にはもう、シオルアンは大きく飛び退いてミレイユを凝視していた。

 まるで信じ難いもの、幽霊でも見たかのような顔をしているが、彼女の心情を思えば当然だろう。

 

 完全な不意打ちのお膳立てが出来ていたのに、自分の戦闘スタイルがそれを台無しにした。

 一撃で仕留められなかったのは、あまりに悔しい。

 迂闊だったと臍を噛む思いだが、今は切り替えが必要だった。

 

 シオルアンの権能は、摩滅と再生だ。

 それを聞いた瞬間から、小さな傷は意味がないと理解していた。

 上級魔術と同等か、あるいはそれ以上の治癒速度で傷を治してしまうだろう。

 

 これはシオルアンに限った話ではないが、神は誰もが厄介な権能を有している。

 一番効果的なのは、それを使わせる前に始末してしまう事だった。

 

 一刀の元に首を落とせれば、それが一番簡単だ。

 だからインギェムも、頭上からの不意打ちを提案したのだろう。

 

 シオルアンは驚愕した表情のまま、左右に忙しなく視線を向ける。

 ミレイユもざっと確認したが、部屋の中は倉庫にすら使っていない、完全な空き部屋だった。

 遮る物、邪魔になる物が一切なく、窓すらもない。

 出入り口はミレイユの背後にあるらしく、逃がす事だけは許さずに済みそうだった。

 

「な、何故……いや、あれはインギェム……? ――裏切ったかッ!」

「ご明察だな。――アキラ、前に出ろ!」

「ハイッ!」

 

 戦闘が得意ではない、という話だが、神という存在は馬鹿に出来ない。

 アキラをアヴェリン同様に運用したところで効果的ではないだろうが、前に出す以外使用法もない。

 攻め立てる事で見えてくるものもあるだろうから、傷が塞がり切る前に、次なる一撃を与えたかった。

 

 シオルアンが飛び退いた分、ミレイユが一歩踏み出し接近する。

 アキラも左側から回り込み、挟み撃ちの形になった。

 

 シオルアンは怒りの形相で黒髪を振り乱し、アキラの方へ身体を向ける。

 相手にするなら、まず弱い方を、と思ったのかもしれない。

 たった一人の差だろうと、数の有利というのは馬鹿にならない。だから、まず数を減らそうと考えるのは当然だ。

 

 そしてだからこそ、それはミレイユにも読めている。

 空いている左手で魔力を制御し、魔術を行使する。

 初級魔術は即座に発動し、細い雷が指先から一直線に飛んで行った。

 

 発動と共に着弾するのが、雷系魔術の利点だ。

 低級魔術故にダメージこそ与えられないが、邪魔が出来ればそれで良い。

 特に眼球付近を狙って撃ったので、目眩ましには丁度良い筈だった。

 

「あぁ……っ!?」

 

 光速で襲いかかる魔術を、発動後に防ぐ事は難しい。

 事前に魔術内容を察知して、相手の発動より早く躱すか、防護術で守っているしか方法はなかった。

 そして、それを出来ないというのなら、戦闘慣れしていない事を証明したようなものだ。

 

 ならば、もう少し大胆にやっていける。

 顔を反らして動きを止めたシオルアンに、その隙を見逃さないアキラが斬り掛かった。

 

「ハァッ!!」

「――うっ!?」

 

 アキラの刃はシオルアンが身に付けていたトーガの様な服を斬り裂き、その肌も斬り裂いたが、絶好の一撃だったにも関わらず、表面までしか刃が通っていない。

 

 皮下脂肪程度は斬れた様だが、筋肉まで到達していないのは見て分かった。

 元より神々に対して致命傷は期待していなかったが、それでも、肌を少しでも斬り付けられると分かったのは朗報だ。

 

 傷を受けるなら、それを嫌がって避ける事も多くなる。

 付け入る隙が増えるのは喜ばしい事だ。

 

 アキラの一撃で動きが止まったシオルアンに、背後からミレイユも召喚剣を振り下ろした時、魔力とは違う力の奔流がその動きを止めた。

 

 剣の切っ先に圧力が掛かり、最後まで振り切れない。

 だが、均衡していたのは一瞬で、異変に気付いたミレイユは、咄嗟に剣から手を離した。

 

 何かの圧力を受け止めていた剣先が、摩り切れる様に削られている。

 半召喚した剣故に実体は無く、また魔力を変性させて作った仮初めの刃は、物理的な損傷を受けない。

 その筈なのに、シオルアンは容易く傷付けてみせた。

 

 ――摩滅の権能、それ故か。

 摩耗、摩り切れ、消滅する。

 それを物理的にも、魔力的にも関係なく引き起こすというなら、なるほど確かに厄介だった。

 

「アキラ、気をつけろ。奴の力に触れると、あっという間に削られる。武器で受けるな。不壊の付与も、権能の前ではどれだけ有効か分からない」

「分かりました! ……けど、目にも見えないし、どうしたら」

「お前とは相性が悪い。……というより、武器を使う奴で相性の良い奴なんていないだろうが。とにかく、上手く避けつつ隙を突け」

「は、はい……ッ!」

 

 アキラが難しい顔で首肯するが、自分でも無茶を言っていると分かっている。

 アヴェリンならば野生の勘で避けそうだが、あれは彼女だから出来るのであって、他の誰にも同じ真似は出来ないだろう。

 

 だが、元より不利な戦いと覚悟していたアキラだ。

 すぐに顔を引き締め、シオルアンの動きから、その兆候が窺えないかと様子見に入った。

 

 今はそれで良い。

 闇雲に攻撃を仕掛ける事が出来たのは、最初の一時だけだった。

 シオルアンにも心構え出来るだけの時間を与えてしまったなら、ここからは簡単にいかないだろう。

 

 ミレイユは目を細め、口を小さく開けて細く息を吐く。

 攻撃的な権能でありつつ、回復も出来る権能を持つ。

 再生がどの程度の効果があるか分からないが、アキラが付けた傷は既に消えていて、ならばミレイユが付けた傷も、既に消えていると見るべきだ。

 

 シオルアンがいれば、神々は幾らでも損傷を気にせず戦えるだろう。

 それを思えば、絶対にここで落としておきたい相手だった。

 間違っても、ドラゴンと相対する神々への救援に、行かせる訳にはいかない。

 

 ミレイユが胸中で決意していると、シオルアンは不意に不敵な笑みを浮かべた。

 今も床の上に放り出された召喚剣へ、チラリと目を向けてから、嘲る様に言った。

 

「お前も武器を投げ捨てて、それでどう戦うつもりです? 離れて魔術で攻撃すれば良い、と思っているなら、浅はかという他ありませんが」

「……なるほど。真摯な忠告、実に痛み入るな」

 

 今の一言で、シオルアンが不勉強だと言う事は分かった。

 ミレイユが持つ魔術や戦術について、彼女は知らないのかもしれない。

 調べ上げていて当然と思っていたが、自分は無関係だと思っていたからこそ、ミレイユの戦術を知らないのだとしても不思議はなかった。

 

 直接対決など、まるで想像していなかったろう。

 あるいは、ルヴァイルが上手く欺瞞情報を流していたお陰かもしれないが、今も自分が有利だと思っているならやり易い。

 

 そして実際、遠距離からの魔術攻撃は浅はかに違いなかった。

 シオルアンが意図して言ったかは分からないが、彼女を傷付けられる程の魔術となれば、下級魔術では力不足だ。

 

 最低でも上級魔術は使用する必要があり、そしてそれは、魔力の損耗が大きい事を意味する。

 ミレイユの場合、消費した分は自力生成されるマナで補給できるが、今はそれこそが怖い。

 遥か格下ならともかく、神を相手にあの激痛は大きなハンデだ。

 

 初級ないし下級クラスの魔術の使用が最も望ましく、そしてそれで傷付けられるとなれば、召喚剣を用いるのが現実的だった。

 少ない消耗とはいえ、何度も作り直せばやはり負担だが、武器を破壊される事そのものは痛手にならない。

 

 まだ倒すべき敵が残っている状況では、最初からペースを上げて戦うと、後の息切れを呼ぶ。

 そしてミレイユの息切れとは、再び立ち上がれない事を意味するかもしれなかった。

 

 一度鋭く息を吐くと、手の中に再び剣を召喚しながら、地を這う様に身を低くしつつ接近する。

 

 ――まずは、シオルアンの限界を見極める。

 再び同じ武器を手にした事で、シオルアンは侮る様な目をして来たが、ミレイユは構わず斬り付けた。

 

「――シィッ!」

 

 目標は膝から下だったが、それも残り一メートルの距離で受け止められた。

 手を翳すだけで、他に何かした様には見えなかったが、硬いとも柔らかいとも言えない感触に阻まれてしまった。

 

 先程と同じで、剣先がそれ以上進まず拮抗し、そして触れたと思われる場所から崩れていく。

 刃を離して、逆角度から斬り付けても同じだった。やはり同じ距離で受け止められてしまう。

 

 刃が完全に摩滅するまで同じ事を繰り返し続ける事で、シオルアンを中心に、歪な円形で膜が作られているのだと分かった。

 恐らく、防膜と同じ要領で自身を保護しているのだろう。

 ただ、武器の接近を嫌がる所為か、その距離は一メートルと遠い。

 

 そこで思う。シオルアンと防膜の間には、距離があり過ぎる。

 通常の魔術士ではあり得ない防膜の厚さだ。

 これが膜ならば、その中までみっちりと防御の力が働いていると分かる。

 

 それとも、単に防膜の位置を外まで広げただけで、その中は空洞になっているのか。

 触れると同時に刃が止まってしまうから、それを確認する事は難しいが……。

 

 ミレイユは新たに剣を召喚しながら、剣召喚の時に合わせて良く使う戦法を使おうと、魔力の制御を始めた。

 



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神々との戦い その3

「あぁ、妙に同じ剣ばかりと思ったら、それ……召喚したものですか。召喚剣は脆いと相場が決まっているものですが、……なるほど。それでは壊した所でつまらない」

「そうか。じゃあ、精々楽しんでくれ」

 

 ミレイユは剣を召喚すると同時、左手で魔術を行使し封入する。

 自身の魔力でコーティングして、今にも爆発せんとする魔術を無理やり剣の中に封じ込めた。

 

 そうしつつも、ミレイユは先程何度か斬り付けた感触から、頭の中で幾つか推測を組み立てていた。

 切っ先が一瞬沈み込む瞬間があり、それが摩滅の結界内に入り込んだ事を意味するなら――。

 あれに厚みがなく、あくまでシャボン玉の様に広がっているだけなら――。

 

 推測に根拠はないが、一撃加える毎に得られる情報はある。

 確度の薄い情報であろうと、積み重ねれば厚くなるだろう。

 そこから導き出せるものがあるなら、無駄に思える一撃にも意味がある。

 

 ――結果として、一撃与えてやれれば勝ちなのだ。

 

「フッ……!」

 

 ミレイユが再び床を蹴り、一メートルの距離まで接近しようとしたところで、嫌な気配がして横っ飛びに避けた。

 その際、剣の腹に何かが当たり、体勢が大きく崩れる。

 

「――ミレイユ様!?」

「私を見るより、相手を見てろ!」

 

 駆け出そうとするアキラを視線で縫い止め、ミレイユもまたシオルアンの挙動に注目する。

 見せた動きは指先を持ち上げる程度のものだったが――、つまりそれで攻撃して来た、といったところだろう。

 

 ミレイユには攻撃した感触から、シャボン玉に入っている様な姿を想像していたが、実は全く違う形の物を動かして、それで受け止めていたなのかもしれない。

 

「あるいは可変式……、もっと小さく単純な形か? 眼に映らないというのは厄介だが……」

 

 シオルアンは含み笑いを浮かべるだけで、ミレイユの言葉には何も応えない。

 だが、視線の動きから不吉なものを感じ、更に横っ飛びに避けて、着地した瞬間、更に大きく後ろへ飛ぶ。

 

 その直後、ミレイユが蹴ったばかりの床が擦り切れた跡を残した。

 それはまるで、掌で表面を削り取ったかの様に見える。

 

 ――まさか。

 

 それで閃くものがあったものの、見えないままでは確証も持てない。

 だがすぐに、簡単な魔術で見抜く方法がある事に思い当たった。

 ミレイユは空いていた左手で、即座に制御を始めて、完了と共に魔術を放つ。

 

 光弾が飛び出し、シオルアンを掠めて離れた場所に着弾した。

 魔術は接触と同時に消えていくだけで、火花一つ起こさない。

 

 だがこれは、最初からシオルアンに当てる事を目的としたものではなかった。

 そもそも、目的からして攻撃ではない。

 シオルアンは最初こそ眼で光を追っていたものの、自身を傷つけるものではないと分かれば、すぐに興味を失くした。

 

「何がしたい……?」

 

 今度はミレイユが、その問いに応えない。

 ただ、その双眸を見つめ、斬り掛かる瞬間を狙うだけだった。

 

 シオルアンが不快げに鼻を鳴らすと、指先を痙攣させるように動かす。

 ミレイユはシオルアンの背後、未だ隙や癖を見抜こうと、悪戦苦闘していたアキラに向かって声を張り上げた。

 

「アキラ! お前、気配は読めるな!?」

「は、はい! それぐらいは!」

 

 返事を聞くと共に、目を見て頷く。

 アヴェリンならそれ一つで全てを察してくれるが、共闘するのも初めてのアキラに、同じ事を求めるのは酷だと気付いた。

 アキラの困惑する表情を見て、それにようやく思い立ったのだが、とにかく見ていれば何をしたいか分かるだろう。

 

 直後、シオルアンが操った不可視の力場が、横へ躱したミレイユの右腕を掠る。

 痛みを呻き声に変えながら躱し続けていると、シオルアンにも怒りと焦りが浮かび上がってきた。

 不可視の攻撃が、こうも見切られるのが悔しくもあり、烏滸がましいと思っているのだ。

 

 戦闘センスがない、と言っていたインギェムは正しかった。

 かつて何者かと対峙した経験があったにしろ、その攻撃で幾人も仕留めて来たのだろう。

 自分の力に、自信もあったに違いない。

 だから、表情を怒りに歪めている。

 

「フン……ッ!」

 

 シオルアンは憎々しくミレイユを睨み付けた後、攻撃目標をアキラに変えた。

 取るに足らないと判じた相手、後回しにするつもりだった相手を、ここで仕留めるつもりになったというなら、見せしめの意図も含んでいるだろう。

 

 あるいは、ミレイユが庇うような動きを期待しての事かもしれない。

 だが、もう問題はない。

 既に仕込みは済ませてある。

 

「よく見ろ! 見れば躱せる!」

「えっ、えぇ……!?」

 

 ミレイユの忠告も、アキラ自身よく分かっていない。

 不可視のものを、よく見ろと言われても確かに困惑しかないのだが、しかし言った通りの意味なのだ。

 

 先程、シオルアンを大きく避けて着弾した光弾は、種を蒔く役割を持っていた。

 あの魔術は着弾した場所を中心に、霧を作り出す。

 込めた魔力の量次第で霧の濃度にも変化が生じ、少ない魔力でも複数人で当たれば濃霧を生成できる術だった。

 

 いつだったか、神明学園での演習中、漣が生徒達と共にミレイユに使った術でもある。

 あの時はミレイユの視界を封じ、その間に土壁で四方を囲んだ上で魔術を放って来た。

 

 視界を完全に封じてしまう濃霧だが、これは敵味方双方に作用する。

 慣れればどうとでも対処できるチンケな戦術だが、戦闘経験のない者には大きなハンデとして働くだろう。

 

 そして、ミレイユの召喚剣を弾いた時の様に、魔力で生成されたものにも接触するというのなら、この霧に対しても接触せずにはいられない筈だ。

 

 シオルアンがアキラに目標を変えた時には、室内という事も相まって、あっという間に広がった。

 

 アキラからしても一寸先は闇、といった状況だろうが、シオルアンの周囲は明確に違いが生まれていた。

 彼女が持つ不可視の物体は、霧を払おうと大きく左右に振られている。

 それが霧に触れる度、ぽっかりと穴が空いたように空白地帯が出来るせいで、その動きから形までハッキリと分かる。

 

 シオルアンが使う不可視の力は、巨大な手の様に見えた。

 手首から先の掌、それが右手と左手、一対がある。

 片手はシオルアンを包むように護り、もう片方の手が攻撃を担当しているようだ。

 

 なるほど、ミレイユにあっさり背を向けたのも頷ける。

 攻撃と防御がはっきり分かれていて、防御は滅多な事で外さない、という訳だ。

 あれならば安全地帯から攻撃できているつもりだろう。

 だが、魔術を使用して攻撃しない辺り、内からも外からも全て遮断してしまう性質なのかもしれない。

 

 ミレイユがその様に考えを巡らせている間にも、敵の攻撃が可視化出来るようになったアキラは、その巨大な掌を器用に躱していた。

 掌は確かに巨大で素早くもあるが、動きさえ分かれば躱せないという程でもない。

 

 可視化された攻撃の回避は容易、そして気配も読めるというなら、逃げ回っている間にミレイユと接触、という無様も晒す事はないだろう。

 

 ミレイユはそちらに注意を向けられている間に接近し、指の間となる隙間に剣を差し込んだ。

 手その物が巨大である為、ギリギリまで差し込んでも顔面付近までしか到達しなかったが、それでも問題はない。

 

「は……っ!」

 

 顔面付近まで攻撃が届いた事で、シオルアンは明らかに怯んだ様子を見せたものの、途中で止まった刃を見て、安堵の息を吐いて笑う。

 結果として刺さりはしなかったが、顔面直撃も有り得る話だった。

 しかし、シオルアンは露とも感じていないような余裕を見せている。

 

 ミレイユは今にも摩滅しそうな刃を、更に奥へと押しやろうと――そう見えるように――しながら、挑発的な笑みを浮かべた。

 

「神の見えざる手、とでも言いたいのか? 皮肉が効いてるな」

「そうでしょう? いつだって、神の手が世界を作ってきたのです。従うのなら優しく撫でて上げましょう。ですが、敵対するというのなら叩き潰すのみ」

 

 それもまた文字通りの意味で、叩くつもりでいるようだ。

 ミレイユは鼻で笑って、頭上から急襲して来た手を躱す。

 背後へ跳躍するついでに、剣を更に押し込めないかと蹴りつけてみたが、あまり効果は見られなかった。

 

 だが、問題はない。

 シオルアンの意識は役立たずの召喚剣ではなく、既にミレイユを目で追っている。

 今にも摩滅すると思っている剣は、ミレイユの魔力によって呼応して発動する。

 

「――起爆!」

 

 ミレイユが拳を掲げて握るポーズと、爆発が起きたのは同時だった。

 あの『手』が身を護る為に作られた防壁として作用していた筈だが、それこそが逃げ場のない空間を作り出した。

 爆炎と爆風が、あの狭い空間で暴れまわり、シオルアンを焼き尽くした筈だ。

 

 大きく跳躍して逃げたので、濃霧が邪魔して詳細は分からないが、くぐもった音を出した爆発は、ミレイユの想定を裏付けるものであると思えた。

 

 ミレイユはホッと息を吐いてから。腕を一振りして濃霧を掻き消す。

 すると、それと同時に側面からの衝撃が身体を震わせ、吹き飛ばされた。

 

「ぐっ……、ガハッ!」

 

 身体をくの字に曲げて、ミレイユは真横へと叩き飛ばされていく。

 あまりの痛みで意識を失いそうになるが、アキラの叫び声が意識を引き戻してくれた。

 近付いて来ようとするアキラを、視線一つで黙らせて、顔を歪めながらシオルアンを睨む。

 

 そこには、身体中に火傷痕を作りつつ、それでも五体満足の姿があった。

 焼け爛れた肌は見ていて痛々しい程だが、しかしそれもすぐに塞がる。

 出血が止まると、みるみる内に筋肉を修復し、表皮を作り直して元に戻ってしまう。

 その再生速度は、傷付けた映像の逆再生を見ているかのようだった。

 

「そうか……、再生の権能……っ。それほどか……!」

 

 焼けて消し炭になってしまった服さえも、元に戻って清潔そうなトーガを身に纏っている。

 一撃で仕留めるか、意識を刈り取って使わせないかしない限り、あれ程の爆発の渦中に居ようと関係ないものらしい。

 

 シオルアンが見せた余裕は、それ故か。

 一見完璧に見える不可視の壁に、不可視の掌……。

 そして傷を受けても、瞬時に再生してしまう治癒能力。

 ――なるほど、無用心に背後を見せられる筈だ。

 

 攻撃を受けようとも、死にはしない。

 その自信が、戦闘において不利と知りつつ、余裕を見せた理由だろう。

 

 ミレイユは痛みを押して背筋を伸ばし、臨戦態勢を取ろうとした。

 直撃した脇腹を庇いながら、顔を歪めて何とか体勢を戻したが、あまりの痛みに目が眩みそうになる。

 

 今まで感じた事のない痛みに、ミレイユは悪態を吐きたい気持ちをグッと抑えながら、シオルアンを睨み付けた。

 そして、当の彼女は愉快げに笑みを見せ、勝ち誇るように両手を広げる。

 

「痛いでしょう? 肉体の急激な摩耗って、特別な痛みがあるものなんですよ。……特に素体ってものは、強いが故に、痛みにも強いと勘違いしがちです。本来はね、痛みって泣き叫ぶ程のものなのですよ」

「ハッ……! そうかい……」

 

 ミレイユは脂汗を浮かせた顔で笑い飛ばしたが、実際は苦渋で歪みそうだった。

 シオルアンの表情は愉悦に満ちた上に満足げで、ミレイユの見せている表情が満足させるものだと証明しているかのようだ。

 

「痛みに屈する事は、恥ずべき事ではありません。――摂理です。痛みで顔を歪ませ、涙で顔面を濡らすのも、つまり摂理と言う事になりますね」

 

 歯を食いしばって顎を上げた時、不意に気配を感じて横へ飛ぶ。

 しかし、シオルアンが言う様に、摩滅の権能で与えられた痛みは想像を絶した。

 

 足元が崩れ、躱そうとした一撃を、躱しきれずに肩を叩かれる。

 それは強い衝撃では無かったが、ミレイユには骨の先まで響く強烈な痛みとなって襲った。

 

「ァァアアアッ……!!」

「ミレイユ様ッ!」

 

 駆け寄ろうとするアキラに掌を向け、来るなと指示する。

 その突き出す動作で魔術を行使し、即座に霧を生み出した。

 先程のように、機会を窺いながらの展開ではないので、濃霧はあっと言う間に部屋中に満たされる。

 

「お前も隙を窺い、ぐっ……、うぅ! いっ、一撃加えろ……っ! 見えざる手を、奴から引き剥がせ!」

 



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神々との戦い その4

 濃霧のお陰で敵の攻撃は視え易くなり、そしてシオルアンからは姿を隠せている状態になった。

 実際、アキラは指示通り接近して武器をちらつかせては、霧の動きで察知して攻撃を躱している。

 攻撃を交わせても、肝心の攻撃手段で乏しいアキラには、嫌がらせ程度が精々だろう。

 

 ミレイユが主軸に動かなければならない場面だ。

 だが、敵の残した爪痕は大きい。

 

 忌々しく思いながら接触した患部を見てみれば、ドス黒く変色してしまっている。

 内出血を更に酷くした見た目をしていて、まるで果実が腐った様にも見えた。

 

 幸い、治癒術を使えば傷は消えてくれたものの、凝りのように残った痛みまでは消えてくれない。

 そればかりではなく、胸元からも締め付けるような痛みまでが湧いてくる。

 マナの生成が起きる時に伴う痛みだ。

 

 今はまだ、じわじわとした痛みに過ぎないが、酷くなると立っている事すら辛くなる。

 勝負は早急に着けてしまわねばならなかった。

 

「まったく……!」

 

 ミレイユは息を細く吐いて、右手に剣を召喚する。

 魔術を封入した剣は、それなりに有効だったが決定打にはならない。

 痛みを感じる素振りは見せていたが、それとて再生が始まった時点で無くなっていた様に思う。

 

 ――どうすれば仕留められる?

 ミレイユは霧の奥にいる、今は姿が隠れたシオルアンを睨み付けながら考える。

 

 過去、神と対峙した経験は二度ある。

 堕ちた小神と呼ばれ討伐させられた神と、直近ではカリューシーがそれだ。

 

 どちらも斬り付ければ勝てる相手で、ダメージの蓄積は有効だった。そして、カリューシーは胸元を貫かれて絶命していた。

 心臓の破壊は、神に対しても有効という証明だろう。

 

 八神とて小神と変わらぬ存在ならば、その弱点もまた同じくしている筈だ。

 再生という権能を持つ相手と、一緒くたに考えられる事ではないだろうが、可能性は十分にあったし、それ以外に狙える事もない。

 

 まず首を切断、破壊する事で思考能力を奪う事は出来ないだろうか。

 再生しようとするより前に心臓を貫き、身体を燃やしてやれば、再生を始める前に倒せるかもしれない。

 

 それに、とミレイユは思考を更に深める。

 権能の使用というのは、自動的でなく、明らかに主動性があるものだ。

 

 使おうと思って使うのは、魔術と変わらない部分だ。

 だが再生という権能が、首を切断しただけでは終わらない可能性を秘めている。

 だから、それだけで仕留めたつもりで満足せず、肉体の徹底破壊をする必要があった。

 

「とはいえ、その為に剣をどう届かせるか、という問題はあるな……」

 

 『見えざる手』の一方は、必ず防御に回している。

 これを引き剥がせなければ剣は届かないし、防御を捨ててでも攻撃しよう、という気にさせなければ、勝機は掴めないだろう。

 ――何か無いか……。

 

 ミレイユは自身が修得している膨大な魔術の中から、使えそうな手を探す。

 今はアキラが嫌がらせを繰り返し、敵の攻撃を受け持ってくれているが、それも長くは続かない。

 摩滅による接触は、立ち上がる意志を砕く程の壮絶な痛みだ。

 

 一度の接触も許されない、という状況は、アキラの気力体力を容易く奪うだろう。

 悠長に考え込んでいる暇はなく、そして攻撃の矛先が、唐突に変わる事も考慮に入れなければならなかった。

 結局のところ、アキラに有効な攻撃手段がない、と分かった時点で対処は後回しにされる。

 

 いま執拗に攻撃しているのは、アキラの持つ武器が、ミレイユ同様隠し種があるかもしれない懸念を捨てきれないからだろう。

 だから、より弱い相手から潰そうとしている。

 

 考える時間は長く取れない。

 だが、有効と思える魔術は、そうそう思い付かなかった。

 先程封入に使った『爆炎球』とて、決して弱い魔術ではない。

 閉じられた狭い空間での爆発だった事を思えば、それだけで木っ端微塵になっていてもおかしくなかった。

 

 だが、一瞬の爆発が有効打にならなかったというのなら、違うアプローチが必要だ。

 ――モノは試し。

 

 ミレイユは召喚剣に『炎の牙』と呼ばれる中級魔術を封入する。

 これは派手な爆発こそ起きないが、生み出された炎が長時間残って消えない。

 魔力抵抗で無効化するか、何らかの魔術で消滅させなければ、再生と燃焼が延々続く魔術だ。

 再生速度がそれより上回って、痛みすら感じないというなら意味もないが……。

 

 もし通用するなら、それをより有効に活用する為、もう一つ別の手を用意してやる必要がある。

 ミレイユは左手で『流水弾』を制御しつつ、シオルアンへと飛び掛かった。

 

「――ハァッ!」

 

 そうして、シオルアンの背面へ大上段から斬り付ける。

 霧さえ二つに斬り裂く鋭い一撃は、彼女には全く効果がなかった。

 斬り裂けない事、傷付かない事は百も承知で、注意を向けさせたいが故の一撃だった。

 

 案の定、より警戒度の高いミレイユが接近した事で、シオルアンの目標はこちらに変わる。

 見えざる手が霧を掻き分けやって来て、タイミングを測って後ろへ逃げた。

 更に平手打ちする様に『手』が左右に動いたが、それも器用に躱して側面へ回る。

 

 痛みがミレイユの動きを鈍くしているとはいえ、見え易く、躱し易い攻撃まで喰らうほど耄碌していない。

 攻撃が一度、二度と、角度や手の形を変えて襲って来るが、その悉くを躱す。

 濃い霧の中でも、シオルアンが憎々しく睨んで来るのが、その気配から分かった。

 

 そうしながらも、ミレイユは左手で制御していた『流水弾』を行使する。

 まるで巨大な水鉄砲の様に射出された流水は、シオルアンの身を護る『手』によって防がれた。

 

 本来なら圧倒的水量と激流で、踏ん張る事も出来ず押し流されてしまうのだが、全く意に介した様子はない。

 むしろ、怒りを燃やしている様に感じる。

 冷や水を投げ掛けられた気持ちにでも、なったのかもしれない。

 

「全く、よく動けますね。痛みで悶絶しているでしょうに」

「……お陰様でな。痛いと泣いて蹲ってちゃ、お前を斬り殺せない。――誰に喧嘩を売ったか教えてやる」

「あらあら、勇ましい。素体で育つと、誰もが傲慢になるのでしょうか。泣いて許しを請えば、許してくれるかもしれませんよ? 今なら簡単に泣けるでしょう?」

「同じセリフを返してやる。泣いて許しを請うんだな。――もっとも、私は許してやらん」

 

 その台詞が、シオルアンの逆鱗に触れたらしい。

 濃密な殺気が膨れ上がり、それが部屋中に充満した。

 並の人間なら、それだけで腰を抜かす程の密度だろうが、ここではアキラにさえ動揺は見られない。

 

 ミレイユが身構えた瞬間、死角となる直上から平手が降って来た。

 面こそ広いが躱せない程ではない。視界から切れる様に横へ逃げようとしたところ、眼前に別の『手』が現れた。

 

「――なにッ!?」

 

 咄嗟のことで躱しきれず、直撃だけは避けようと横回転しつつ急転換したが、全ては躱し切れず、脇腹を擦るように抉っていく。

 

「ああァァァ……ッ!!」

「ミレイユ様!?」

 

 痛みのあまり、脇腹を庇いながら膝をつく。手に持っていた召喚剣も、思わず手放してしまった。

 脂汗が額に浮かび、痛みを耐えようと歯ぎしりした奥歯が、口内で砕ける音がした。

 

 動けない所に更なる追撃が飛んできたが、躱せるような余裕は既になかった。

 只でさえ重く感じる制御が、痛みも合わさり魔術の行使を困難にさせる。

 

 ――これは躱せない。

 ミレイユが、眼前に迫る不可視の手に覚悟を決めた、その時だった。

 

「ご無礼を!」

 

 横合いからアキラがミレイユを突き飛ばし、代わりに『手』の一撃を受け止めている。

 突き出した格好のまま、肩から脇腹にかけて接触しているというのに、ガラスが砕ける様な音しか聞こえてこない。

 

 

 アキラに痛みを感じている様子はないく、『年輪』という複数の層に分かれた防御能力があるからこそ、対抗できているようだった。

 一枚一枚は即座に摩滅し消えているのだろうが、全ての層を破壊し切るまでアキラはダメージを負わない。

 

 だから全ての層を破壊されるより前に、『年輪』を重ね掛けする事で、突破される時間を稼いでいるようだ。

 

「――アキラ!」

 

 『年輪』の最大値は、今となっては十層ある、とアキラは言っていた。

 だが一秒と掛からず次々と破壊されている様を見ていると、そう長くは保たないだろう。

 

 痛みで乱れる制御に鞭打ちながら、ミレイユは念動力を行使する。

 複雑で高度な魔術は無理でも、簡単なものなら今の状態でも行使できた。

 アキラの身体を掴まえて逃がそうとした時、霧の向こうでアキラが屈むのを、辛うじて視界に捉える。

 

 ミレイユの落とした召喚剣を敵に渡すまいと、足元にあったそれを拾ったのだ。

 ミレイユの意志一つで消せる剣だから、敵に奪われたところで意味はないが――と、そこまで考え、即座にプランの変更を思い付く。

 

 今、シオルアンの身を護る『手』は無い筈だ。

 無防備な状態なら、あるいは――。

 

「使え……ッ!」

 

 言葉短く指示を出し、『手』を避ける軌道で、アキラを念動力でシオルアンへと突撃させる。

 意味を深く理解せずとも、何をさせたいか、自分に何が出来るか、そのフォローで理解したようだ。

 

 直接ぶつけるように投げ飛ばすと、アキラは召喚剣を腰溜めにして突貫する。

 そうして霧の向こうで、何かに突き刺さる音を耳が拾うと同時、すかさず右手を握りしめる。

 

「――起爆!」

 

 今度は、これまでの様な派手な爆発は起きなかった。

 くぐもった音だけは聞こえたが、それだけだ。

 

「……ん?」

 

 シオルアンから困惑する様な声が聞こえるのと同時、アキラを剣から引き抜くように、念動力で掴んだままだった身体を引っ張り出す。

 

 シオルアンにしても、起死回生のつもりで向けられた攻撃だと思った事だろう。

 実際、タイミングを間違えなければ、首を斬り落とせていたかもしれない。

 視認性が悪い中、打ち合わせもしていないところで、アキラが首を斬り落とす可能性は低かったが、もし可能ならそれで終わっていた。

 

 だが、ミレイユに落胆はない。

 咄嗟の事なら、体の中心――腹部か胸部を狙うだろうと思っていたし、そして事実そうなった。

 先程の爆発を思えば、似たような攻撃があるとおもっただろう。

 

 大したダメージも無く、不発とでも思ったのかもしれない。

 だが、既に魔術は発動している。

 今度は鼻で笑う声が聞こえた時、その直後に、嘲りは悲鳴へと変わった。

 

「あ、あぁ……? アァァァアアア!?」

 

 ミレイユが封入していた魔術『炎の牙』は、シオルアンの腹部、その内蔵を焦がし焼いていた。

 再生はされるだろうが、腹の(うち)に突き刺さった()までは抜けない。

 

 炎の牙は時間の経過によっても消えるものだが、込めた魔力によっても延焼時間に変動がある。

 だから、この戦闘中はまず消える事は無いだろう。

 そして、そうなるよりも前に、ミレイユは決着を付けるつもりだった。

 



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神々との戦い その5

 今もシオルアンは濃霧の向こうで、叫び声を上げていた。

 炎を消す為だろう、服や肌を叩く様な音が聞こえてくる。

 魔術で作られた火、それも体内で燃える火は、叩いたところでどうにもならない。

 

 魔術に対抗するには魔術を使うしかないが、シオルアンにはその手段がないらしい。

 あればとっくに消火あるいは消滅させる為、何らかの魔術を使っている。

 

 有効な魔術を修得していないのは、強力な権能に頼り過ぎた弊害だろうか。

 再生という強力な回復手段があるからこそ、今となっては他の手段に頼らないのかもしれないし、だから終わらない痛みに苦しむ事となっている。

 

 消えない炎は遂に傷口から吹き上がり、更に内側だけでなく体の外まで燃やし始めた。

 そこまで被害が拡大しても、なお魔術を使って抵抗しようとしない。

 こうなれば、シオルアンに対抗手段がないのは明らかだった。

 

 ミレイユはそれを認めると腕を振るい、充満させていた濃霧を解除する。

 すると、火達磨になりながらも、必死に鎮火させようとしている姿が明らかになった。

 

「あぁ、ぁぁあ……! アァァァアアア……ッ!」

 

 シオルアンの身体は上から下まで完全に炎で覆われており、頭を振り乱し、腕を遮二無二振るっているが、加勢は衰えないどころか逆に増す。

 制御を失った『手』が壁や床を叩くが、目標は定まっておらず、アキラにもミレイユにも届かなかった。

 

 だが、その『手』が水を叩くと、シオルアンの動きが明らかに変わった。

 濃霧が晴れた室内では、その水溜まりが何処にあるか、実に分かり易く感じられただろう。

 

 ミレイユが魔術を解いたのは、何も自分が敵の現状を確認したかったからだけではない。

 シオルアンが水を発見し易いように、という理由も含んでいる。

 

 魔術で作られた水である事は、彼女も即座に理解できた筈だ。

 身体が燃えていれば、それに飛び付かずにはいられない。

 

「あぁ、あぁ……っ!」

 

 ミレイユの想定通り、シオルアンは頭から突っ込む様にして水溜まりに浸かり、身体を左右に振って鎮火させようとしていた。

 そして、ミレイユが『水流弾』を使っておいたのは、この瞬間を狙ってのものでもあった。

 

 痛む身体はいつもの様な軽快な動きをしてくれないが、それでも走って接近する事は出来る。

 火を消そうと躍起になったせいで、シオルアンは『手』の制御を完全に手放している。

 霧が消える直前まで『手』のあった場所を回避して進めば、簡単にシオルアンまで近付く事が出来た。

 右手に剣を召喚し、転がるシオルアンの肩を踏みつける。

 

「あ、あっ、ま……っ!」

 

 自分の状況を理解したシオルアンは、身動ぎし、逃げ出そうとする。

 だが、それより早く、ミレイユは間髪入れずにその首を斬り落とした。

 盛大に血が吹き出し、首がゴロリと転がる。

 炎に包まれて分かり辛いが、目と口らしきものが炎の中でも判別できた。

 

 それに向かってダメ押しに、重く感じる剣を持ち上げ、渾身の力で貫く。

 引き抜く動作で勢いを付け、更に心臓までを貫いた。

 

 深々と剣は背中まで打ち抜き、一度抜こうとして踏ん張りが利かず、それでも歯を食いしばって腕を上げる。

 そうしてもう一度、刃を心臓に突き刺して、それでようやくトドメを刺したと実感できた。

 

「ハァ、ハァ……!」

 

 重く息を吐きつつ、油断なく見据えていると、シオルアンの身体から眩いばかりの光が溢れた。

 光は次第にシオルアン全体を包み、炎さえも消してしまう。

 

 そこから再生できるのか、と身構えていると、その輪郭が人の姿から光球へと変化する。

 そして、一瞬の停滞の後、天井を貫いて空の彼方へ飛び去っていった。

 

 ミレイユは思わず茫然と見送り、天井の空いた穴から見える夜空を茫然と見つめる。

 いま起きた現象には、つい最近、見覚えがあった。

 

 カリューシーをナトリアが仕留めた時にも起きた現象だ。

 神の死亡と同時に、神魂となって『遺物』へ吸収される事で見られる光景が、あの光球となって飛ぶ姿だった。

 では、欺瞞でも幻術でもなく、シオルアンは――。

 

「倒せた、か……」

 

 ミレイユは剣を放り出す様に手放し、召喚を解除して消滅させる。

 そして、そのまま地面へ引っ張られるかのように、膝を落とした。

 

 そこへアキラが慌てて近寄って来る。

 触れて良いものか、助け起こすべきなのか、迷った末に手を出せず、あわあわと手を動かすだけになっていた。

 

「まだ警戒を続けろ……っ。ぐ、うぅ……! 騒ぎを聞きつけて、敵兵が来るかもしれない……」

「は、はい! 申し訳ありません!」

 

 ミレイユが脇腹を抑えながら忠告すると、即座に立ち上がって腰を落とし、刀を構える。

 幸い敵の気配はミレイユにも感じられないが、大きな音や衝撃は建物内に響いた筈だ。

 これに気付かないと思えないし、ならば誰が来ようと不思議ではなかった。

 

 だが、アキラが息を潜めて出口へ注意を向けようと、騒がしい音も、何かが駆け付けてくる音も聞こえない。

 ミレイユも傷口に治癒術を使いながら、扉の奥へ気配を探っていたが、何かが接近しようとする気配の一つも感じられなかった。

 

 震える身体を抑えながら、ミレイユは治癒術を使い続ける。

 だが、荒い呼吸と脂汗は収まらなかった。

 むしろ、酷い。

 

 魔術を使えば、ミレイユの肉体は――この素体は、マナを供給しようとする。

 その生成量も落ちているというのに、全盛期と変わらぬ量を作り出そうするから、身体が悲鳴を上げるのだ。

 それは胸痛や頭痛という形で、ミレイユの身体を痛めつける。

 

 傷は治っても、この痛みは簡単に収まってくれない。

 荒い息を吐きながら、この苦しみに耐えていなければならなかった。

 

「ハァ、ハァ、ハァ……っ!」

「だ、大丈夫なんですか、ミレイユ様……!? 凄い汗ですよ!」

「大丈夫じゃないが……っ! 耐えていれば、いずれ、収まる……っ」

「収まる? 耐えれば……? まるで、いつも我慢してるかのような口振りですよ? さっきの攻撃とは違うんですか……!?」

 

 妙な所で鋭い奴だ、と心中で悪態吐きつつ、ミレイユはそれに返答しない。

 アキラは出口を気にしつつも、ミレイユの傍にやって来て膝を付いた。

 

「水薬は僕も幾らか持ってます。使いますか?」

「どうせ効果がない。……いや」

 

 魔力が満たされるまで、この痛みが続くというのなら、それを補ってやれば早く終るかもしれない。今更それに思い付いて、ミレイユは一つの水薬を取り出した。

 

 魔力の水薬(マナ・ポーション)は素材が貴重で数も少ないから、ミレイユはあまり数を持っていない。

 そもそも、ミレイユには不要なものという認識だったので、補充すらしていないかった。

 

 水薬はその効果を徐々に発揮するもので、治癒術の様に即座には回復してくれない。

 だから多くは期待できないが、願掛けの様なつもりで使うつもりだった。

 

 たまたま以前から捨てずに仕舞い込んでいた、下級水薬が残っていたのは幸いだ。

 効果は微々たるものだが、今のミレイユには何より助けになる。

 

 コルクを親指で弾くように抜き取ると、それを口の中に流し込んだ。

 そうすると、身体に魔力が染み渡るような錯覚を覚え、予想よりも早く痛みも引いていく感覚がした。

 

 ミレイユが安堵らしい息を吐くと、それを横目で見守っていたアキラも、胸に手を当てて大きく息を吐いた。

 

「良かった……、大丈夫そうですね。でも、そんなに酷かったんですか、あの攻撃は……」

「あぁ、よく身を呈してくれた……。あれが無ければ、正直危なかった」

「いえ、盾となるのは僕の役目です! 今回は刻印が上手いこと嵌りましたし……、相性が良かったのだと思います」

「そうだな……。一撃で大きなダメージ、というタイプだったら、一気に貫かれて十層の膜も意味を為さなかったかもしれない」

 

 イルヴィとの戦闘が、そのタイプに近いだろう。

 かつて見た時は、槍の一突きが十枚以上の層を破っていた筈だ。

 アキラも刻印の重ね掛けで防いでいたが、あれと似たような事をする戦闘スタイルだったら、アキラの盾も有効に働かなかった可能性は高い。

 

 そのような事を考えている内に、痛みが次第に和らいで来た。

 顎まで伝っていた汗を拭い、額に浮いていた汗もぞんざいに払う。

 震える息を一つ吐いてから立ち上がると、アキラも立ち上がって身体を支える為に手を伸ばしてきた。

 

「本当に大丈夫なんですか? 少し休んでからでも良いのでは……」

「そうもいかない。インギェムが、いつまで繋ぎ止めておけるか不明だしな……うっ!」

 

 胸に唐突な痛みが走り、手を当てて動きを止める。

 それを見て、アキラは心配そうな顔を更にに歪めて言ってくる。

 

「やっぱり、少し休みましょう。そんな身体で他の神々と戦おうなんて無茶ですよ。さっきの傷が原因だというなら、もう少し治癒術を使ってからでも……」

「これはそれと関係ない。単に寿命の問題だ……」

 

 あの言語を絶するような痛みも、それが原因だという気がする。

 急激な摩耗、とシオルアンは言った。

 本来は緩やかに、時間と共に進行する肉体の摩耗が、一秒に満たない速度で発生した時、圧縮されたものが痛みとして伝わったのかも知れない。

 

 だが、制御の流れとして魔力も感知していたミレイユからすると、それだけが原因じゃないと思った。

 急激に失った魔力を十全な形に戻そうと、マナを生成したのも原因の一つだ。

 

 急激に摩耗した皮膚や筋肉は魔術で癒せても、それと同時に失われた魔力までは戻せない。

 その唐突な欠落を埋める為に急激な生成をした結果、それに伴う激痛を呼んだ。

 急激にマナを生成する行為は、ミレイユにとってはナイフで内側から切り刻まれる行為に等しい。

 

 この素体という肉体、そして寿命間近だからこそ生まれる、特異な痛み。

 それが予想以上にミレイユを痛めつけた、という事だろう。

 今は耐え、そして慣れるしかない痛みに、歯噛みしながら出口を見据える。

 

 そうして胸に手を当てたまま、出口へと向かおうとしていると、アキラが青い顔をしてミレイユを凝視していた。

 

「寿命……? 寿命ってどういう意味ですか? ミレイユ様、まさか……でも、どうして!?」

「あぁ、口が滑ったな……。全く、痛みというのは、どうしてこう……」

 

 症状は軽くなったが、未だ胸の奥で蝕むような痛みがある。

 そちらに気を取られて、口から出るものに注意が散漫だった。

 どうしようもない失言という訳でもなかったが、説明するのは面倒だった。

 

「そういえば、ミレイユ様……。時々、様子がおかしかったような……。胸を押さえてた事だって……」

「どうしても隠したかった訳じゃないが……。そうだな、言っておく。私の寿命はあと一年足らず、といったところだ」

「なぜ……!?」

「今更それを蒸し返すな。最初から決まっていた事だ……事、だったらしい。私が異様に強いのは、命の蝋燭の炎を、他人よりずっと強い勢いで燃やしていたから――そういう部分も、あったようだな」

「そんな……」

 

 アキラは顔色を青くさせたまま、力なく左右へ振り、今にも泣き出しそうに表情を歪めた。

 ミレイユはそれに、努めて笑って言ってやる。

 我ながら、酷い笑顔だろうな、と思った。

 

「今は余計な事を考えるな。今日明日の命という訳じゃないんだ。だが、ここで神を弑せなければ、明日の命はない」

「はい……っ。そして、世界をあるべき姿に戻す為、ですね……!」

「そうだ。それに私は、自分の先行きを諦めている訳じゃないからな。その為に奴らは邪魔だ。絶対に相容れない。今日、ここで終わらせる」

「勿論です。この身で盾となり、その一助とさせて頂けるなら、これほど光栄な事はありません!」

 

 顔が青ざめているのは変わらないが、すっかりやる気を見せている。

 アヴェリンの弟子だからと、アヴェリンと同じ様にはなって欲しくないと思っていた。

 だが、今だけはその前向きな姿勢に乗っかかるのが、精神的にも良いだろう。

 

 話している間にも、痛みは鈍痛を残して引いていく。

 ミレイユは首を傾けるように出口を指し示すと、アキラに先導させて部屋を出て行った。

 



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幕間 その1

 テオは現在、己の住処とする森の外縁部にて、今や遅しと連絡を待っていた。

 外を睨み付けていても敵がいる訳でもなく、人は疎か獣の姿さえない。

 殺気立った森の民達は、必死に気配を押し殺しているものの、気配が漏れ出るものは抑え切れずにいた。

 

 鳥でさえ森に近付こうとしないのは、その所為だろう。

 森の民が、外縁部で常に外を警戒している事は、特別珍しい事ではない。

 鬼族がその任を担っているし、偶然通り掛かった旅商だろうと、その一挙手一投足は見逃さないものだ。

 

 しかし現在、テオ達がここにいるのは、単に見張りの交代をしているからではない。

 そもそも控えている種族も、またその規模さえも違う。

 普段は鬼族か、伝令役の獣人族しか近付かない外縁部も、今はエルフも含む千を超える人数でひしめいていた。

 

 彼らは外縁部分で待機しつつも、多くは集団の中心――テオに顔を向けている。

 そのテオもまた、傍らに立つヴァレネオへと顔を向けていた。

 そしてヴァレネオは、というと、手元の箱に目を向けているのだった。

 

 だがそれは、単なる箱というには語弊がある。

 ほんの少し白く色付いた、半透明の四角形は結界術によって作成された、即興の警告装置だ。

 ルチアが機転を利かせて作ったもので、魔術によって生み出された氷刃は、真っ二つに割れて結界の中で浮いている。

 

 本来なら、魔力によって生み出された物は、それが何であれ、質量の半分も失われれば自動的に消滅してしまう。

 それを結界内に充満させた魔力で、無理やり維持しているのだ。

 非常に高度で、洗練された魔力制御なくして出来ない代物だった。

 

 これを森の民に見せる時のヴァレネオは実に自慢げで、娘を誇りに思っている顔を隠し切れていなかったものだ。

 テオを始めとする部外者からすると――特に獣人族や鬼族は――、単なる綺麗な置物程度の感想でしかなかったのだが、同族のエルフ達からは羨望にも似た眼差しを向けられ、満面の笑みを浮かべていた。

 

 実際、その制御力だけを見るなら、テオも舌を巻く思いだったが……とはいえ、それだけだ。

 娘を誇りに思うヴァレネオは理解できるが、羨望とまでいかない。

 魔力や魔術に対して、並々ならぬ思いを持つエルフだからこその感想だろう。

 

 ともかく、これはもう片方――ルチアが持っている片割れの氷刃が解除された時点で、こちらの氷刃もまた消滅する。

 あるいは時間の経過で魔力が抜けてしまう事で自然消滅してしまうが、それにはまだ猶予があった。

 だから、それがいま消えたなら合図として機能するし、確認次第、これから作戦を決行する予定だった。

 

 それで誰もが必死に、殺気を押し殺した視線を箱に向け、そして開始の合図をする予定のテオに、熱い視線を向けている。

 とはいえ――。

 

 いつ合図が来るかも分からない状態だ。

 ミレイユの準備が整ったら来る合図なので、そちらが万端整うまで来ないと理解している。

 しかし、誰もが待ちきれず、こうして即座に出立できるよう、外縁部で待機している。

 

 テオは物理的な圧力を感じる視線を顔面中に受けながら、こっそりと息を吐いた。

 まだ涼しい時間帯なのに加え、森の中だというのに、じっとりと汗が浮く。それほどの静かなる熱気が、テオを中心として巻き起こっていた。

 

 オズロワーナとの正面からの戦争、そして王城に対する攻撃は、森の民にとって悲願だった。

 これまでは、保有戦力の差が邪魔して、やりたくとも出来ない事だった。

 

 元より刻印の登場から境に、魔術という絶対な戦力差を覆されて久しい。

 獣人族、鬼族の肉体的種族差も、刻印によって縮められてしまった。

 

 多くの有利を奪われ、互いに均等な能力まで落とされたとあっては、圧倒的人数差を持つ人間に勝てる道理がなかったのだ。

 しかし、森の中という、罠を張り巡らせた防御陣地で戦うのなら、まだしも引き分けには持っていく事ができる。

 

 だからこそ、敵の居城へ攻め込むとなれば、絶望的という他なかった。

 それは種族全体の絶滅を意味するし、かといって森に引き籠もっていれば安全ともいかない。

 休止期間はあっても小規模な小競り合いは発生して、その度に森の民は数を減らしていく。

 

 もはや、緩やかに滅亡を待つしかない状態だった。

 真綿で首を締められるような困窮や辛苦、多くの憂き目を見て来た者達からすると、今回の戦争は今までの感情を、鬱憤と共に晴らす機会とも言える。

 

 特にエルフは、ミレイユの後押しもあって、やる気に満ち溢れている。

 いつやって来るかも分からない合図を待って、こうして外縁部に陣取っているのが良い証拠だ。

 テオはこの戦争において、リーダー的立ち位置を任されているので、そのリーダーが誰より後方にいる訳にはいかない。

 

 特に、獣人族や鬼族は、強いリーダーを求める。

 人間の様に、後方で指示だけする者を決して認めない。

 全体の動きを見て陣頭で指揮を取るか、せめて近い位置に居る事を必要と考える。

 彼らは理屈よりも自己の信条こそを大事にするので、道理を解いても無意味なのだ。

 

 テオはその傍らで、ジッと氷刃を見つめるヴァレネオの顔を盗み見る。

 今更ながら、この男の非凡さを垣間見た気がした。

 ――よく、こんなバラバラの集団を纏め上げてきたな。

 

 胸中の吐露が漏れたのだろうか。

 ヴァレネオが顔を上げて、テオを見返して来た。

 

「……どうされました」

「いや、まぁ……。何だ……」

 

 何と言って返して良いか分からず、テオは言葉を濁しつつ、意味もなく首を回す。

 ヴァレネオはその忠誠をミレイユに捧げているし、元から里長という立場にあった所為で、多くの民に敬語を使わない。

 

 だが、リーダーとして据えている手前、民の前では言葉を選んで発する。

 使いたくもない敬語を使っているので、口調が硬いのはご愛嬌だが……いま気にするのはそこではないな、とテオは思い直した。

 

「こんなに早くから待機している必要は無かったんじゃないか。ここで根を詰めても、連絡が早まる訳じゃあるまい」

「勿論、そうですが……。誰もが抑え付けられていたものが噴出してしまい、我慢できなくなったのです。どうせ待機してるなら、いち早く動ける場所が良い、と誰もが率先して動いた結果、という訳で……」

 

 理屈に合わないが、理屈だけでも人は動かない、という事なのだろう。

 特に言う事を聞き辛い鬼族は、率先して動いてしまう。一つが留まらないなら、他の種族も留まるまい。

 

 テオなどは、同じくヤキモキして待つだけでも、部屋の中の方が良いと思ってしまう。

 里から森の外縁部までは、転移を繰り返してショートカット出来るので、時間差もそれほど生まれない。

 

 大人数での移動は陣に乗る関係上、どうしても詰まってしまう事になるから、やはり進行の遅れは出る。

 だからといって、見るべき物もない森の中、固唾を呑んで待ち続けるだけでは、肩が凝って仕方がなかった。

 

 叶うなら、直ぐにでも自宅へ帰って休んでいたいが、リーダーとして立っている以上、それは許されない。

 それに、デルンを引きずり降ろした後は、テオが引き続き先頭に立ち、皆を率いる事になるのだ。

 ここに至って、気弱で怠惰な姿は見せられなかった。

 

 そして、彼らが奮っていられるのは、テオが強いリーダーだと信じているからでもある。

 ミレイユが森にやって来た時から、彼女が見せた戦果はテオのもの、という事になっている。

 

 二万の兵を壊滅まで追いやったのも、森の奥で起こった強大な魔力反応も、全てテオがやった事になっている。

 彼らの大胆さは、その力に対する信頼を根底にしている部分もあった。

 

 これで勝てないなら、今後変わる事なく虐げられると思っている。

 それを打ち崩そうと気炎を上げていられるのは、彼ら自身がミレイユに強化された事ばかりでなく、ミレイユの口からテオを頼りしろと言われたからでもあった。

 

 だが、実際のところ――。

 テオにそんな力などない。

 

 かつてはそれに近い事も出来た。

 しかし、魂の矮小化と共に、繊細な制御を必要とする強力な魔術の行使などは出来なくなった。

 

 だから、その事を悟らせずに戦うしかない。

 これは勝利を勝ち取り、長らくの不遇を払う戦いであると同時に、テオが彼らをどれだけ騙せるかの戦いでもあった。

 

 自分の行動如何で、作戦が失敗するかと思うと胃が痛い。

 ヴァレネオが上手くサポートしてくれる事にはなっているが、不安は増すばかりだった。

 

 ミレイユに馬を引き渡して来たヴァレネオが言うには、既にそれから三日の時間が経っている。

 彼女らは自分たちが行う目眩ましとして、戦争を利用するつもりだと聞いていた。

 

 ――神々への弑逆。

 その為の大事な布石として、森の民を使うつもりでいるらしい。

 (てい)よく担がれただけなのか、信頼の証と見て良いのか、テオはミレイユが分からなくなる。

 

 だが、ヴァレネオは信頼と見ているようだった。

 ミレイユとその仲間たちが攻撃に加わってくれれば、デルンへの攻撃は、成功を約束された様なものだ。被害も抑えられ、より短時間で決着も付くだろう。

 

 だが、それでは全ての功績がミレイユに集中してしまう。

 そこでテオが王として皆を牽引する、などと言っても、誰も納得しないに決まっていた。

 だから、ここはテオとしても踏ん張りどころだ。

 

 ミレイユに引っ張り上げて貰うのではなく、自らの足で到達するから意味がある。

 それはテオにも良く理解(わか)っているのだ。

 

 かつて目指した理想をこの手で掴むにあたり、全てを任せきりにする事は出来ない。

 テオの理想に賛同し、そして散っていった同胞(はらから)の為にも、自分自身で踏ん張らなければならないのだ。

 

 だが、その成功と達成も、ミレイユ次第で瓦解する。

 彼女らが敗北し、神の支配を終わらせるようでなければ、テオ達の勝利は三年を待たず消えるだろう。テオ達の努力以上に、ミレイユ達の成功にも掛かっている。

 

 頼ってばかりでは駄目だと思っていたが、結局のところ、ミレイユ任せである事は変わらないのかもしれない。

 テオが自嘲の笑みを浮かべていると、それに目敏く気付いたヴァレネオが尋ねて来た。

 

「どうしました。戦いの前にしては、似つかわしくない笑みでしたが……」

「いや……、我らの努力も大事だが、結局はミレイユの勝利頼みになってしまっていると思ってな。我らの勝利以上に、彼女たちの勝利は厳しい。……だが、これはその勝利を土台とした作戦だ。頼り切るのは恥と思ったが、結局……頼りにするのと変わりない」

「それはそうかもしれませんが……」

 

 そう言ってから、ヴァレネオは一度言葉を切り、言葉を探すように視線を動かす。

 ほんの一時(いっとき)、静寂が降りて、虫の音だけを耳が拾う。

 その一時を長いと感じるより早く、ヴァレネオは再び言葉を発した。

 

「背を押されるのと、背に乗って任せるのとは全く違います。あるいは、我らはその背に乗っているのかもしれませんが、乗せられている訳ではない。任せきりではなく、我らの手で掴むという心構えがあればこそ、皆が立ち上がり拳を握っている」

「そうだな、……そのとおりだ」

「ミレイユ様は多くを助け、その為の力を与えてくれましたが、あくまで背を押して下さっただけです。その力に乗って走り出せるかは、我らの気持ちと力量次第。――成し遂げて見せましょう」

「そうだな」

 

 テオは腹に力を入れて頷く。

 彼女の勝利なくして、テオ達の勝利に意味はない。確かに、それは間違いではない。

 

 だが同時に、全てはテオ達が勝利してこそ、でもあるのだ。

 ミレイユの敗北によって覆ってしまうかもしれないが、彼女の勝利なしで諦めるという事にはならない。

 

 何が悪いというのなら、神々の謀を覆せない、自分たちの弱さが悪いのだろう。

 ミレイユ達を頼り切る弱さをこそ、恥じなければならないのだった。

 

 やってやろう、とテオが改めて決意したところで、見守っていた森の民たちからざわめきが起こった。

 それはヴァレネオを中心として巻き起こり、それが伝播して更に大きくなっていく。

 

 テオも同じく皆が注視している場所を見ると、ヴァレネオの掌の上、結界内に封じられていた氷刃が消滅したところだった。

 ――合図だ。

 

 それは紛れもなく、誰もが待望していた合図だった。

 これよりオズロワーナを――デルンを攻めろ、という指示に違いなかった。

 



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幕間 その2

 森の民が動員できる戦力は、三千人と決して多くない。

 デルン王国が、その一部を動員して二万という数を派遣して来た所から見ても、その戦力差は圧倒的だった。

 

 刻印という、魔術の敷居を下げた発明もある。

 不利な条件ばかりが重なり、攻めに転じるのは悪手でしかなかった。

 たかだか三千人の兵で落とせるものでもなく、感情は抜きにしても、城門さえ突破出来ないと誰もが理解していた。

 

 だが、魔力とその制御技術は、そこまで浅いものではない、とミレイユが証明してくれた。

 森の危機、そして自分たち一族存亡の危機を、常に感じていた森の民だ。

 常から訓練の度合いも、その強度も決して疎かにしてはいなかった。

 

 誰もが自分に出来る精一杯をしていたと自覚していたし、自覚の薄い者には発破を掛けてもいたものだ。

 しかし、それでも制御技術の本質――その表面しか、なぞっていなかったのだと知った。

 

 魔力と魔力総量も大事な一要素だが、それが全てではない。

 制御技術がなくては十分な運用が出来ず、そして総量は多いだけでも持て余す。

 獣人族のような、種族的特徴として元から少なくとも、その制御技術が、むしろ少ない総量を有利にしてくれた。

 

 人間は最早、刻印頼りで制御技術を磨こうとはしていない。

 そして全てを刻印が最適化してくれる、と思い込んでいる。

 実際に何度も戦ってきた森の民だから、それを事実として認識していた。

 

 しかし、本質を知った今となっては違う。

 あれは上辺だけの強さで、本質を理解して使っている訳ではない。

 刻印を使用し続ける事で、より強い刻印が使えるようになったから、強さの種類を勘違いしているだけなのだ。

 

 強い武器を持っている剣士が、即ち優れた戦士とは限らないのと、同じ理屈だ。

 刻印は、その戦士としての技術すらも与えてくれるから、強い戦士として認識していたが、本当に強い戦士とはアヴェリンやフレンの様な者を言う。

 

 小手先の技術だけでは、何をしても無意味と思える、存在からして別格の存在。

 アヴェリンとフレンの間でも、大きな隔たりはあるものだが、そのフレンでさえ、正しい制御を学んでからは別格の戦士に成長した。

 

 魔術は確かに脅威だ。戦える魔術士を揃えるのは、容易な事ではない。

 刻印がそれを可能とした今、数の猛威には最早耐えられない――と、思っていたのは、既に過去の事だ。

 

 戦士が一様に正しい制御を身に着けた今では、慢心でも傲慢でもなく、必ず勝てる、と誰もが思っている。

 それは、彼らの外側から見ていたテオからしても同感だった。

 

 何度も城壁内に入り込み、敵兵の戦力を把握しているからこそ言える。

 数で圧殺できると思っている兵たちは、一人一人の練度が高くない。

 強く侮れない兵がいるのも確かだが、今までと比べ物にならない森の戦士たちには、遠く及ばないと見ている。

 

 その頼れる戦士たちが、テオと共に進軍していた。

 勿論、そこには戦士たちばかりでなく、同じく制御技術と魔術を与えられたエルフ達もいる。

 ルチアと並ぶ実力と言える者は居ないが、それでもやはり以前とは雲泥の力を身に着けた者達だ。

 

 しかし、その全てがテオ達と共に移動している訳ではなかった。

 オズロワーナの程近く、背の低い草ばかりが生い茂る草原にて、身を潜めて待機している者達もいる。

 

 あまりに大人数で移動すると目立つから、という理由もその一つだが、待ちきれない者達が先行し始め、仕方なく前方待機を命じた為に起こった事だ。

 

 テオは纏め役として、頼れる戦力として数えられているものの、纏め上げるカリスマについては微妙なところだ。

 慕われていない訳ではないし、侮られている訳でもない。

 

 だが、誰もがミレイユを強く認めている為に、テオが一段も二段も低く見られてしまうのだ。

 それについては仕方ない。

 これからテオの努力次第、率いられるに足る人物と、自ら示していけば良いことだ。

 

 今はミレイユの要望もあって、その功績を横取りしているような形になっているが、この度の戦働きでテオ侮りがたし、と認められたい。

 

 非力な自分には難行だろうが、やり遂げるつもりでいる。

 既に何度も胸中で決意していた事を(あらた)にしているところに、隣を歩くヴァレネオが声を掛けてきた。

 

「緊張してますかな」

「む……」

 

 考えているところに、唐突な声を掛けられ、テオは一瞬言葉に詰まる。

 すぐに返すべき言葉が見つからず、眉を寄せたのも不味かった。

 ヴァレネオは気遣わしい言葉を向けつつ、叱咤するように言って来た。

 

「あなたは大将なのです。皆を率いるに足るところを見せなければ。誰もがその背を追いかける……そうしたい、と思わせる様でなければならない。実際のところはどうであれ、他の者に不安を見せるべきではない」

「無論、分かっておる! 大きな戦を経験するのは、これが初めてという訳でもないのだからな!」

「……あぁ、そういえば、そうでしたな。その見た目であると、どうにも忘れてしまうようで」

 

 ヴァレネオは口で謝罪はしたものの、その声音からは形ばかりのものだと分かる。

 侮り、というほど酷いものでないにしろ、落胆めいたものは感じた。

 

 実際、外見が頼りなく思えてしまうのは事実なのだ。

 ならば、高慢に見えるぐらいの方が、返って皆を安心させられる。

 リーダーとは、自信アリ気にほくそ笑んでいるくらいで丁度良い、というのは、自己体験からも得た知識だ。

 

「無論、俺とて不甲斐ない真似は見せるべきでないと思ってる。だが、緊張だけはどうにもならん……!」

「あなたはミレイユ様に託されたのです。その思いに応えなくてどうします」

「託されたというより、譲られたっていう気がするが……」

「そこは別に、どちらでもよろしい。あなたには我らの主義に賛同し――いや、その考え自体は我々より先でしたね。ともかくも、平和と平穏の主義を掲げるに足らん、と立ち上がったのでしょう。その大義を背負う者が、不安を見せてどうします」

「う、うむ。そうだな……!」

 

 ヴァレネオの言葉は、あまりに重い。

 テオがその主義を抱えて戦ったのは遥か昔の事だが、実際の活動時間となると逆に短い。

 ヴァレネオは二百年以上もの間、その主義と共に戦って来たので、そういう意味ではテオの方が新参といえる。

 

 だが、己に呪いを掛けてでも、その主義を成そうとした心意気だけはヴァレネオからも認められていた。

 前にミレイユが謝罪と共に称賛した時から、ヴァレネオのテオに向ける態度は改まった。

 ミレイユが言う事ならば、という背景があるからかもしれないが、とにかくそういう理由でヴァレネオからの当たりは弱い。

 

 弱い……筈なのだが、テオの態度には思うところがあるようだ。

 空元気を出すように去勢を張ったのが悪かったのか、ヴァレネオは目を鋭くして忠告してくる。

 

「単に見せかけだけの去勢に意味がありますか。騙すというなら、自分自身も騙すべきです。自分以外全てが不安に沈んでいても、自分だけは大丈夫だと、安心させる態度を取るのです。それが如何に味方を鼓舞するものであるか……!」

 

 ヴァレネオは虚空に向かって熱意のあり過ぎる視線で見つめて、次第に身体がワナワナと震わせた。

 そうして数秒経った後、ストンと表情を落とし、無機質な瞳で見返して来る。

 

「――私はそれを知っている。それを為せるリーダーがいればこそ、他の誰もが勇気付けられるのです。だから、それを求めています」

「それはミレイユの事を言ってるのか。あいつはいつも、どこか遠くを見ているような奴だったが……。心ここにあらず、という意味じゃなく……何と言って良いか分からないが」

「そうですな。ミレイユ様は、いつも泰然としておられた。十万の大軍を相手にした時も同様、取るに足らないと感じさせる態度をしていたものだ……。圧倒的少数で、非力な我らが、それでも折れずに戦えたのは、一重に……あれがあればこそだった」

 

 そう言って、ヴァレネオは睨み付ける様に視線を向ける。

 つまりテオにも、同じ事をしろと、出来るべきだと求めているのだ。

 

 だが、それは強者だけが許される態度だ。

 自信に裏付けされる実力、それがなければ単なる道化となる。

 そしてテオがやるのなら、道化よりも更に酷いものとなるだろう。

 

「真似したところで滑稽になるだけだ。精々、去勢を張るのが精一杯だろう。俺は、あいつの代わりは出来そうもない。でも、せめてリーダーの名に恥じない鼓舞は出来るようにする」

「えぇ、今はそれでよろしい。何より自信ない態度、自信の見えない言葉というのが拙い。そこに注意していれば大丈夫でしょう」

 

 そして、後はテオがどれほど鼓舞し、率いられるかに掛かっている。

 多くの力を失った今となっては、それも簡単な事ではない。

 だが、神々の傀儡となっているデルンを排し、また恣意的に行われていた戦争や差別を失くす――。

 その為に出来る限りの事をする、その決意だけは本物だった。

 



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幕間 その3

 ルチアからの合図を知らされ、後続で控えていた森の戦士が更に一千人加わり、合計四千人で草原の街道へ足を踏み入れていた。

 そして、先行していた部隊は草原に身を隠しており、テオ達が到着した時には片膝を立てて待機している状態だった。

 

 草の丈が低いので、そもそも潜伏しておく場所として向いていない。

 それでも獣人の身のこなしならば、遠方からであれば辛うじて姿を隠す事が出来ている。

 ミレイユが教えてくれた、草を全身に張り付ける擬装も役に立っていた。

 

 元より人通りの少ない街道だけあって、そうしていれば偶然通り掛かった旅人などは騙せていただろう。

 だが、今やテオ達を今や遅しと待機しているとなれば、目立たない訳がない。

 とはいえ、この段階で見つかったとしても、作戦の遂行に殆ど支障がなかった。

 

 草原の街道は、かつてオズロワーナの農作地帯としていただけあって、街からは目と鼻の先だ。

 巡回兵が通りかかったならば、襲撃して情報を持ち帰らせなければ良いし、旅人が通報したとしても、その真偽を確かめる為には兵を派遣しなければならない。

 

 例え千という数を対処するために、軍を動かすとなれば簡単な事ではない。

 即応待機していればその限りではないのだが、二万の兵を返り討ちした時から時間も多く過ぎている。

 これまで沈黙を保ち続けていたので、デルンの緊張も緩んでいる筈で、通常警戒に移行している事は、既に確認済みだった。

 

 そもそも、ここ何十年も森から出て攻勢に移らなかったエルフ達である。

 兵が潜伏している、という情報を最初から鵜呑みにするか、という問題もあった。

 

 攻撃の企図があったなら、二万の兵を返り討ちにした時こそ、好機と捉える筈だ。

 それを逃して準備時間を与える意味は、普通であれば無い。

 攻勢に不利なエルフ達が、わざわざ準備万端迎撃態勢の整うまで待ってから、攻勢に移る合理的理由はない、と判断する筈なのだ。

 

 だからまず誤報を疑うだろう、というのがヴァレネオの考えだった。

 そして実際、準備だけは疎かにしていないデルンに、エルフ達が攻め込むのは大いに不利だ。

 

 これまでの沈黙を、デルン側がどう捉えているか……それで対応も大きく変わる。

 二万を迎撃できるだけの戦力を持つようになった、と考えるか、それとも玉砕覚悟と考えるか……。

 

 敵とする相手は、戦争ばかりして来た国だ。

 これまでの戦果を考えると、エルフを侮っていても不思議ではない。

 だが同時に、だから無能であるとも考えられなかった。

 

 これまでデルンは、常に攻める側だった。

 だが、防衛について経験が浅くとも、防御が脆弱であるとは考えられない。

 

 テオは改めて、膝立ちの状態から立ち上がった兵たちを見る。

 誰より早く立ち上がり、そして先頭にいたのはフレンだった。

 テオの視線に気が付くと、素早く近寄って肩を並べる。

 

 共に行軍しながら、待機させていた兵も同時に前進する様、指示を出した。

 待機部隊が前列となり、テオ達後発組がその後に続く形となったのだが、規律正しい行軍訓練などした事がないので、縦横の隊列距離も酷いものだ。

 

 歩行速度も疎らになるのは種族的、身体的特徴もあって仕方ない部分がある。

 それでも、著しい遅延や隊列の乱れが出ていないのは、彼らなりのやる気があるからだろうか。

 

 フレンがテオとヴァレネオを見比べる様に、視線を順に向ける。

 どちらに話し掛けるか迷った末、結局テオに向かって口を開いた。

 

「そんだけ雁首揃えて来たってんなら、ミレイユ様の指示があったと見て良いんだね?」

「そうだ。俺たちは精々、派手に暴れて注意を向けさせなきゃならん」

「暴れるのは良いさ、何の文句もない。けど、速攻でカタを付けても問題あるんだろ?」

「自信があるのは結構だけどな。それで足元掬われるなよ、ホント……」

 

 テオとしては精一杯の注意をしたつもりだったが、フレンは全くの馬耳東風で、小馬鹿にした様に鼻を鳴らした。

 

「油断なんてモンはね、強い奴だから出来るんだよ」

「だからお前は油断を見せちまうんだろ? 違うのか……?」

 

 フレンは獣人族で一番の戦士だ。

 元より肉体的な能力は人間より上の獣人族だから、今の隔絶した制御力を身に着けたフレンなら、デルンの兵など恐るるに足らないだろう。

 鎧袖一触で打ち払う様子が、テオでさえまざまざと想像出来るのに、当の彼女は全くそう思っていないようだった。

 

「アヴェリン師に稽古付けて貰った獣人が、ちょっと強いくらいで人間を侮る真似するかよ。あの人は……というか、ミレイユ様の周り全員が規格外だと知ってるけどさ、あれを知ってて警戒せずにいられるか」

「あぁ、なるほど、強い人間は他に幾らでもいる筈だって……? だから油断しないって言いたい気持ちも分かるけど、だから淡々と、順調に制圧されても困るわけだ。戦況推移次第では、手を緩めて貰わなきゃならん」

「そういう話は聞いてたけどさ……」

 

 フレンは悩まし気に息を吐き、腕を組んでは顔を反らした。

 

「それって言うほど簡単じゃないだろ。勝機を逸して負けたんじゃ、何しに行ったか分からない。これを逃したら次なんか無い、そんなの誰だって分かってる事だ」

「それは同感だ。手を抜いても勝てる、なんて言いたいんじゃないんだ。けど、決着が早すぎても困るんだよ。……それは分かってくれるだろ?」

 

 フレンは直情型で武力を重んじるが、馬鹿という訳ではない。十分に考える頭を持っている。

 この作戦の成否は武力的解決を主としているが、同時にミレイユ達の姿を隠す欺瞞工作も兼ねている。

 混戦が継続すればするほど、彼女達を助け支援する事に繋がるし、それをフレンもまた、十分に理解している筈だ。

 

「分かるけどさ。でも、暴れたい奴らを止めるのは、簡単じゃないってことも分かって欲しいんだよ。敵が予想外に弱卒だった場合を、考慮に入れるとしてもさぁ……。長引かせる事は仲間の死を招くのと同義じゃないか。心情的には受け入れ難いね」

「……だな。だから、一番良いのは、敵の防御陣地を奪った上での睨み合いだ。敵の増援が見込めない状況であるなら、尚のこと良いが……」

「馬鹿、そんな都合の良い展開があるもんか。……けど、こっちだってミレイユ様の思惑を滅茶苦茶にしたいわけじゃないからね……。状況次第としか言えないけど、長引かせる方向で動く」

「あぁ、助かる」

 

 テオはホッと息を吐いたが、フレンは反らしていた顔を戻すと、凄みながら顔を近付けて来た。

 

「具体的な時間は?」

「とりあえず、半日……」

「半日だぁ……!?」

 

 フレンの目付きが鋭く細められ、威嚇するように口の端を曲げる。美しい歯並びと犬歯が顕になり、そのきつく閉じられた歯は、今にも獲物を求めてアギトを開こうとしている様に見えた。

 

 テオに近付いていた顔は更に距離が縮まり、それから逃げようと更に身体を仰け反らせる。

 フレンは更に近付こうとしたが、動きを止めると唐突に顔を戻して鼻を鳴らした。

 

「……フン。それなら、まぁ……何とかするか。鬼族は硬い連中が多いから、上手く活用するのが鍵になるかね?」

「お、おぉ……」

 

 テオも仰け反った身体を戻して頷くと、隣で見ているばかりだったヴァレネオが口を挟む。

 

「実際、それが鍵になるでしょうな。何より種族間の連携が物を言う。奴らに勝てる所があるとするなら、一律規定の戦力ではなく、その多様性でしょう。しかし活用できなければ、ただ乱雑で散逸する戦力でしかない。同時にそれこそが、課題となりそうです」

「その上、要所を見極めて勝ち過ぎるな、ってな。……ま、森の民の未来の為だ。ウチの奴らも気張るだろうさ」

「そして何より、長引かせ、欺瞞が上手く働けば、それだけミレイユ様の利として差し上げる事が出来る。直接的な手助けは無理としても、これが大きな一助となると知れば、誰もが励む事だろう」

 

 ヴァレネオにそう言われては、フレンも頷くしかないらしい。

 大いに決意を固めた表情を取り、興奮を吐き出す代わりに息を吐いた。

 

「それを言われるとね……。何しろ、こっちだけが成功したって意味はないんだ。むしろ、ミレイユ様が失敗しようものなら、全て元通りだ。……いや、もっと酷いか」

「間違いなく、更なる悲劇が繰り広げられるだろう。単に同じ事が継続して起こるだけ、とは考えられない」

 

 ヴァレネオが断言して、辺りに沈痛な雰囲気が流れる。

 ミレイユに心酔している二人からすれば、これが単なる国盗りの失敗とは考えていない。

 何しろ、過去にない神々への弑逆である。

 

 単なる死で済まない罰が下される事は間違いなく、そして、見せしめも兼ねた凄惨な処刑が行われるだろう。

 その際でも、黙って見ている二人ではないだろうが……、結果は変わらないと思う。

 更にその責任は、森の民全てに波及する事となる、と見て間違いない。

 

 元より神々から捨てられた民だ。

 今更、神の慈悲など縋るつもりはないが、最後まで負けっぱなしなど性に合わなかった。

 そして、敗北程度で簡単に諦められるなら、テオとてこんな事にはなっていない。

 

 ここにいるのは、諦めの悪い者達ばかりだ。

 テオは改めてヴァレネオとフレンの顔を、それぞれ見つめた。

 相変わらず度胸の据わっている二人から緊張は感じられないが、自信ばかり満ちるという訳でもないようだ。

 

 現状の不確かさをしっかりと理解し、最善を尽くそうという気概に溢れている。

 二人の姿勢に励まされ、テオも腹の底に力を入れた。

 

 遠くにはもう、オズロワーナの姿が見えて来ている。特徴的な見張り台が見える城郭は、遠くからでもよく分かった。

 そして、こちらから見えているというのなら、相手からも見えているという事だ。

 

 にわかに都市の方から、騒ぎらしいものが発生し始める。

 勝ち過ぎてもいけないが、負けが込みそうな戦いをするのも許されなかった。

 

 まずは先手を取り、相手の首根っこを抑える事こそが先決だ。

 テオは胸いっぱいに空気を吸い込み、魔術を介して声を広げる。

 

「者共、駆け足! 閉扉するより早く入城するのだ! 相手に有利を与えるな!」

『オオォォォッ……!』

 

 即座に返事があって、まず前列の獣人部隊が走り始めた。

 やはり行軍として纏まった走行は無理だったが、どちらにしてもエルフは追いつけないし、鬼族は更に遅れてしまう。

 

 オズロワーナを攻める場合の定石として、門扉を閉ざさせる事を許さず、その上で開閉機構を壊す、というものがある。

 オズロワーナには日々多くの商人が出入りするだけあって、巨大な門扉が用意されている。

 巨大故に閉じるのも、開くのもまた簡単ではないから、ここを抑えられるかどうかが鍵なのだ。

 

 普段は開かれたままで、衛兵が見張りをしているのだが、今日の様に敵軍が押し寄せてくるとなれば、泡を食って閉めようとする。

 しかし、商人の行列、都市への入城を考える人は基本的に後を絶たない。

 彼らを排除するなり、締め出すなりしなければ、門扉を閉じられないのだが、彼らだって外に残されるのは断固として嫌がる。

 

 そこで互いに足を引っ張り合ってくれるのが理想と思いつつも、脅威に思える敵が近付いて来るなら、今後の商取引に禍根を残すと理解しつつ締め出すだろう。

 だが、中には冒険者も居て、こちらに利するつもりが無くとも抵抗しようとする者もいる。

 このタイミングでそういった者がいる保障は、必ずしもないが、もしもを考えられる程度には希望が持てた。

 そして何より――。

 

「ユミルはちゃんと、本当にやってくれたんだろうな!?」

「ミレイユ様の側近だ。約束した事は守るだろうさ」

 

 神々の相手を請け負ったミレイユだが、デルン相手に何も手助けしない、という訳でもなかった。

 その一つが、南門を開閉不可能にさせる、というもので、ユミルが開閉機構を壊してくれる手筈となっていたのだ。

 

 ただ、普段のぐうたらな性分を見ていると、本当に出来るのか、出来たとして本当に完全な無効化は可能なのか、という疑念を捨てきれなかった。

 だが、近付いていく程に分かる。

 

 門扉の上にある開閉機構周辺で兵たちが群がり、必死に何かを動かそうとして、それでも悪戦苦闘が未だに終わらない姿を晒していた。

 

「ハッ、いい気味だ! 何をやったかまでは分からんが、とにかくやってはくれたみたいだな!」

「敵軍としても、攻め込まれたらまずそこを塞いで時間を稼ぎ、防備を固めようと考えるでしょう。まずは進めるだけ、奥まで進軍してしまうがよろしいかと」

「そうだな! 皆の者、都市部に手を出すなよ! 攻めるべきはデルン、向かう先は王城だ! 他は無視して突っ走れ!」

 

 既に門扉の入り口付近にいた旅人は、蜘蛛の子を蹴散らすように逃げていて、動きの遅い商人達も、巻き込まれまいと馬車を引きずる勢いで逃げようとしている。

 それらを無視して入城を果たせば、行商や露天商も必死に商品をかき集め、道を開けて両端ギリギリまで寄っているところだった。

 

 古くから都市に住まう者達は良く心得たもので、家の扉を固く閉じ、飛び火を避ける落とし戸を閉め、固く沈黙を保っている。

 攻め込む側としては、非常にやり易い対応だった。

 テオはデルンとは直接関係ない人々へも、言い聞かせるつもりで声を発する。

 

「進め、進め! 他のものには一切、手を出すな! 前進せよ、足を止める事なく前進せよ! 王城を目指すのだ!」

 

 怒号を上げて疾走り行く戦士達に負けない声を張り上げ、テオは腕を振り上げ一直線の先に見える王城を指差した。

 王城の目前には、刻印を用いたと思われる防御陣地が、着々と作られようとしている。

 今ここに、森の民とデルンとの、壮絶な戦争が始まろうとしていた。

 



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第十二章
しばしの別れ その1


がんだるふ様、誤字報告ありがとうございます!
 


 目の前でミレイユとアキラが孔の中へ消え、次いでアヴェリンの視界も、インギェムの掛け声と共に黒く染まる。

 足元から接地感が消え、それが浮遊感へと一瞬で変わった。

 

 心構えは既に終わっていた。だが、突然の変貌に困惑の方が勝る。

 すぐ傍にルチアとユミルも居た筈だが、果たして間違いなく近くにいるのか確信が持てない。

 それ程、自分と世界が隔絶されてしまったのだと感じられた。

 

 しかし、困惑は長く続かない。その直後、足元に点と等しい程の小さな穴が生まれた。

 孔は次第に大きくなる。それが口を開いた所為なのか、それとも孔の出口へ近付いた所為なのか。

 

 どちらか判然としないまま、アヴェリンは流れに任せて武器を握る。

 事ここに至って、大事にすべきは敵に対する強い意志だ。

 

 アヴェリンは自分の出来る事――眼の前に現れるであろう敵の、頭を砕く事に専念すれば良い。

 雑念を抱えたまま、集中せずして勝てる相手ではないと理解していた。

 

 足元の点は急速にその大きさを変え、みるみる内に拡大されていった。人が潜るに十分な大きさまで拡がると、穴の奥には人影が見えた。

 何者かの直上に繋がっていると分かり、そしてインギェムの言葉が嘘ではないと分かった。

 

 近付く程に対象の姿形がハッキリと見えて来て、その体格から相手は女性だと判断できた。

 ベージュ色の髪をした頭頂部が、素早く顔を左右に向けて警戒しているのが分かる。

 慌てふためく事なく、自身の置かれた状況を瞬時に判断しようとする姿勢は厄介に思えた。

 

 アヴェリンはメイスを握り締めて、落下速度を乗せて一撃加えようと、武器を振り上げる。

 そうしながらも、痒い所に手が届かない転送に、アヴェリンは大きく顔を顰めていた。

 

 ――どうせなら、もっと高所から落とせば良いものを!

 速度を打撃力へ変換するには高さが足りない。

 中途半端な場所へ放り出された、というのがアヴェリンの素直な感想だった。

 

 インギェムが自分の事を戦闘に向いていない、と言っていたのは、どうやら事実だったらしい。

 頭上から一撃加えてやれば良い、という発想が出来るなら、どうして落下速度を乗せる事に頭が回らないのか。

 

 アヴェリンは舌打ちを抑えるのに苦労しながら、強くメイスを握り込み、そしてタイミングを測って全力で振り下ろした。

 

「――チィッ!」

 

 だが初撃を外し、今度は抑えきれず盛大に舌打ちをする。

 敵は頭頂部に触れる直前で何かに気付き、上を振り向く事なく身体を前に投げ出して回避してのけたのだ。

 アヴェリンが出来た事と言えば、髪の毛を数本千切り飛ばしたぐらいで、敵は受け身を取って床を転がり、十分に間合いを離した上で身構える。

 

 だが、その時にはアヴェリンも、着地と同時に床を蹴り出していた。

 初撃を外し、そして逃げられたからと諦め、様子見に徹するアヴェリンではない。

 察知されたのも、躱されてしまったのも事実だが、それでことらの全貌を理解した訳ではないだろう。

 

 未だ混乱の最中にあり、適切な対応など出来ない筈だった。

 そこに猛攻を仕掛けてれば、対処できず()し崩しに攻撃をぶつける事が出来るだろう。

 

 そして、何よりアヴェリンは、一人きりで攻撃する訳でもなかった。

 後方で次々と床に着地する音を聞きながら、アヴェリンは仲間の援護を信頼して、更に一歩、大きく踏み出す。

 

 敵対する神――グヴォーリもまた、戦闘に長けた神ではないと聞いているが、それでも人の身で神に挑むというのは大事だ。

 その上、ミレイユというリーダーを欠いての戦闘なのだから、苦戦は免れないと分かる。

 

 未だ現状を把握できず、混乱しているこの時間は、万金を払っても得られないチャンスだ。

 そのチャンスをアヴェリンが最大限に活かすには、嵐のような攻撃を加え続ける事だった。

 

「ハァァァア……ッ!」

 

 アヴェリンはメイスを振り下ろし、そして返す動きで逆袈裟に打ち払い、一歩踏み出す動きで更に追撃を加えた。

 メイスという打撃武器が剣に勝る点があるとするなら、それは刃を立てずとも有効打になる、というところだ。

 

 どのような角度、どのような振り回し方をしても、当たりさえすれば大きなダメージを与えられる。アヴェリンに技術がない訳ではないが、力任せに振るうには適した武器だ。

 そして、アヴェリンは自身の性として、武器を振り回し、叩きつける方が好みだった。

 その乱撃を、グヴォーリは手に武器も、盾も持たずに受けていく。

 

「ぐっ!? この……っ! 馬鹿力……ッ!」

「何だ、神が泣き言か……? 笑い話にもならん!」

 

 アヴェリンの一撃は、ドラゴンの頭蓋にさえ罅を入れる。

 かつては一撃で砕けていた事を思えば非力になったと思うが、それでも巨岩程度ならば容易く砕く威力を持つ。

 

 だが、それを素手で捌けている時点で、グヴォーリもやはり神を名乗るだけはあるのだ。

 初撃を受けた手の甲は、赤黒く腫れて変色しているが、それ以降の打撃は上手く避けて致命傷から逃れている。

 

 アヴェリンが一撃加え、そして一撃受け、避けられる毎に、防御精度を上げている。

 一つの体験、一つの攻撃、一つの攻防で、恐ろしく早く学習しているのだ、とその数瞬後に分かった。

 早期決着が出来なければ、グヴォーリはアヴェリンへの対策を万全にしてしまう危険すらある。

 

「こいつ……!?」

「少し馬鹿にし過ぎだよ、神ってもんを」

 

 グヴォーリが皮肉めいた笑みを浮かべ、魔術を行使し腕の周りを防壁で囲んだ。

 一つ攻撃を防げば、一つの対応を学び、そして同じ攻撃は二度と通じない。

 

 アヴェリンは再び胸中で舌打ちした。

 今はグヴォーリから攻撃して来ないから、外から見れば有利な状況に映るが、その実追い込まれているのはアヴェリンの方だ。

 

「そのまま! 縫い付けて!」

 

 短く声が聞こえて、それでユミルが何かを仕掛けるつもりだと悟った。

 あれのやる事はいつも面倒で、迷惑を被るようなものばかりだが、それが敵に向けられるとなれば、今だけは頼りたい気持ちになる。

 

 そうとなれば言われた通り、自らの攻撃を対応される事も飲み込んで、アヴェリンは猛攻を繰り返し続けた。

 最初はぎこちなく、受けたとしても衝撃を逃がせず身体が泳いでいたのに、今では完全に対応して勢いを殺されてしまっている。

 

 ――今はまだ良い。

 だがグヴォーリが学習し、アヴェリンの攻撃を見切り、最早敵ではないと判断されたら、その瞬間から反撃が始まるのだろう。

 無論、アヴェリンの攻撃全てが、最初から見切られている訳ではない。

 

 虚実入り交じった攻撃をする事で、初見の攻撃は、まず対応できずダメージを負う。

 だが、カリューシーがそうであったように、神というのは存在からして、とにかく頑丈だ。

 

 並大抵の人間なら、既に複雑骨折して身動き出来なくなっている。

 それほど打ち込んでいるのだが、肌には殴打痕が残るばかりで、致命傷になっていそうなものは見当たらなかった。

 これが元より殴打という攻撃に対して滅法強いだけなのか、それとも何か対策されている結果なのかは分からない。

 

 戦闘が得意でなくとも、防御ぐらいは気に掛けている、という事なのかもしれなかった。

 身に着ける物へ付呪するだけで、得られる効果というものは多い。

 ならば、神だとしても、それらを活用していると考えるべきだった。

 

 むしろ、武術を活用し、普段から鍛えていないからこそ、強力な魔術秘具に頼ろうと思うものだろう。

 アヴェリンの攻撃がまた一つ防がれ、のみならず攻撃へ転化しようとした時、足元からヒヤリとした冷気が流れて行った。

 

 瞬時に何をするつもりか悟って、アヴェリンは大きく跳躍する。

 その直後、ルチアが放ったと思われる魔術がグヴォーリを包んだ。

 微細な氷は吸着すると同時に膨れ上がり、次々と体積が増大させていく。

 アヴェリンが再び床を踏む時には、グヴォーリは足首から膝上まで氷で固められていた。

 

「……ほぅ?」

「――余裕ぶった声だしてんじゃないわよ!」

 

 そして、側面に回り込んでいたユミルが、両手で制御していた魔術をグヴォーリへ撃ち込んだ。

 一直線に飛んだ光弾は、脇腹に当たって小さな火花を上げたが、それだけだった。

 ダメージらしきものを受けておらず、続いて何かが起きる気配もない。

 

 命中した部位からは、帯電してパチパチとショートさせる様な音が鳴っているものの、それが何等かの痛痒を与えている様には見えなかった。

 アヴェリンは口汚く罵りながら、地面を蹴って殴り掛かる。

 

「でかい口きいておいて、結局不発か!」

「アタシが使える、対個人に使える最大級の魔術だからねぇ……」

 

 だから失敗した、とでも言いたいのか。

 腹の中から燃え上がるような怒りを力に変えて、アヴェリンはグヴォーリに殴り掛かる。

 

 グヴォーリもまた拍子抜けした様に脇腹を撫でていたが、即座にアヴェリンの動きに反応を示して、足元の氷を砕いて構えた。

 迎撃体制も万全と見えて、またも胸中で舌を打つ。

 

 最初から、ユミルに期待したのが間違いだった。

 何か強烈な一撃でも撃つのだろうと、アヴェリン自身、大きく距離を離したのも手痛いミスだ。

 ルチアの補佐もあり、動きを封じてからユミルの攻撃だったので、てっきり連携した何かがあると思ったのだ。

 

 ルチアが敵の行動を氷を封じる事は、直後の攻撃を補佐する時に好む手法で、そして拘束された相手に決定打を加える貴重な一助となって来た。

 強敵相手に効果は長続きせず、早くて一秒で解かれてしまう拘束だが、アヴェリンやミレイユになると、その一秒の拘束が決定的なチャンスを生む。

 

 ユミルの攻撃に期待などしなければ、そのチャンスを活かして、アヴェリン自身が致命的な一撃をぶつけられたかもしれない。

 ――それこそ、状況を打破する決定的な一撃を。

 

 収まらぬ怒り、幾らでも湧き上がるかに思える怒りを、グヴォーリ目掛けて殴り付けた。

 だが、もはやアヴェリンの攻撃は、単純に正面から殴り付けるだけでは有効打にならない。

 

 一つの打撃を受け、二つの打撃をいなし、そして外へ流される。

 だが、アヴェリンもやられっ放しでいられず、外へ流される動きを筋肉で無理やり推し止めて、空いた脇腹――帯電している場所目掛けて殴り付けた。

 その次の瞬間、目を覆う様な閃光と共に爆発が起こる。

 

「――ぐあっ!?」

 

 アヴェリンも衝撃と共に、殴りかかった時とは逆方向に吹き飛ばされた。

 咄嗟に受け身を取ろうとしたが、身体が痺れて動かない。

 メイスを握っていた手から腕は特に強く、握り込んだ手は固まって、逆の意味で動いてくれなかった。

 

 背中から床に落ち、そのままゴロゴロと回転して床の上を滑って行く。

 そのまま一回転ごとに勢いが削がれ、最後には壁まで押し戻されて、ようやく止まった。

 

 その時には偶然にも傍にルチアがいて、声を掛けられるより早く、治癒術が飛んでくる。

 痛みも痺れも瞬時に消えて、それで目の前へ注意を向ける余裕が出来た。

 そうして、にわかに理解する。

 

 アヴェリンが爆発と思っていたのは、ある意味で間違いではなかったが、火炎などによる爆発ではなかった。雷が眼の前で局所的に発生した事による誤認だったのだ。

 では、何故そんな閃光の爆発が起こったのかと思えば、直前にユミルの使った魔術に原因があると見て間違いないようだ。

 

「あぁぁぁ!! あぁぁぁぁ……ッ!!」

 

 グヴォーリは今や、攻撃を受けた腕を中心に、雷を全身に纏わせて痛みに苦しんでいた。

 身動き一つ、叫び声一つ上げる度に、そこへ反応して雷が内側から発生しているようにも見える。

 そして、それが次なる身動きを呼び、そこから更なる苦痛を呼び起こすのだ。

 

 アヴェリンは、未だ痺れている気がする右腕を上下に振りながら、得意満面で笑みを浮かべるユミルへ、威嚇する様な目を向けた。

 



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しばしの別れ その2

「――ユミル。何だったんだ、アレは」

「見た通りよ、一発かましてやっただけ。『大電刃』って魔術で、掛けた対象に継続した雷撃を与えるんだけど……、一つ特徴があってね。術の効果中に与えた攻撃によって、威力も性質も変化する。雷耐性を低減する効果もあるから、続けて高威力の魔術をぶつけるのも効果的なんだけど……」

 

 そこまで説明して、ユミルはおどけるように両手を上げてから、ニヤついた笑みを浮かべる。

 

「アンタみたいな馬鹿力で殴り付けるのも、また効果的なのよね」

「それが私を吹き飛ばした原因か。魔術の失敗かと思ったが……」

「アタシが幻術使いなの忘れてない? 格上を相手にした戦いで、本当のコト、有益になるコト、口にすると思う?」

「それで、私を利用した騙し討ちか」

「別に死にやしないでしょ、アンタなら」

 

 アヴェリンは不満も顕に言葉を投げたが、ユミルは頓着した素振りすら見せなかった。

 そして死にはせず、大した傷を受けなかったのが事実だとしても、仲間から背を刺されたような気がして気分は悪い。

 

 ユミルの行いは、信頼というには粗暴すぎ、期待というには手荒すぎた。

 ミレイユがこの場にいたならば、仲間を道具の様に利用する戦い方は、決してさせなかっただろう。

 

 アヴェリンは目元を更に険しくさせて睨み付けたが、いつまでも不毛な事はしていられない、とすぐにグヴォーリへと視線を移す。

 今も電撃が弾け、衝撃を伴って打ち据えている最中であり、その度に身体が左右に揺れていた。

 内側から発生する雷撃が、防御も許さず殴り飛ばしていて、為す術なく振り舞わされているように見える。

 

「今の内に追撃すべきか?」

「巻き込まれるから、アンタは止めときなさい。ルチア、やるわよ」

「ええ。でも、それより一言くらい、謝罪があって良いんじゃないですかね?」

 

 ルチアが困ったように笑いながら制御を開始し、そしてユミルも既に始めていた制御を完了させる。そのユミルは肩を竦めるだけで、何を言うつもりもないようだ。

 

 手を出すな、という忠告まで無視するつもりはないので、アヴェリンは鼻だけ鳴らして盾を持ち上げる。

 脇を締め、顎先を盾の端に乗せるような構えで深く腰を落とし、いつでも仕掛けられる準備だけはしておいた。

 

 そうして、制御を完了した順に、グヴォーリへと魔術を放つ。

 未だ、自分の意志とは関係なしに雷撃で殴られる身体を持て余し、対応できないところへ、次々と新たな雷撃や氷刃がぶつけられた。

 

 激しい氷と電気の接触が、更なる火花を誘発し、激しい明滅と衝撃が巻き起こる。

 爆発の様な激しさはないが、代わりに起こる超電導がスパークを起こして、更に接近を難しくさせた。

 

「あああああぁァァァ、ァ……!」

 

 そうして、遂に事切れた様にグヴォーリが崩れ落ちる。

 ブスブスと、体表面のみならず、口からも煙を吐き出し倒れる様は、呆気ない決着を思わせた。が……相手は神だ。

 人間なら死んでいる攻撃だろうと、それを持って勝利を確信する訳にはいかない。

 

 油断せず観察していたが、倒れ伏してからはピクリとも動きが無かった。

 しかし確認もせず、ただ待っていても埒が明かない。

 アヴェリンはメイスを握り締め、慎重に接近する。

 僅かな動きも見逃さないつもりで警戒し、更に近付いたところで、ユミルから静止の声が届いた。

 

「待ちなさい。……可笑しいわ」

「可笑しかろうと、頭を潰してしまえば勝利は決定的になる。ミレイ様は既に決着して、次なる神へ挑んでいる最中かもしれない。早く合流せねば」

「お馬鹿。こんな簡単に神を弑せるなら、苦労しないわよ。――曲がりなりにも神よ。アンタだって、その一端を知ったばかりでしょ? 慎重さが必要だわ」

「……分からん話ではないが」

 

 しかし、決定的なチャンスである事には変わりない。

 無防備な姿を晒しているように見えるし、それは間違いではないだろう。

 そして、今こうしている間にも、実は虫の息は見せ掛けに過ぎず、回復に専念しているかもしれないのだ。

 

 動きを見せないのは正にその為だとすれば、ユミルの言う慎重さの所為で、みすみす止めの機会を逃す事になる。

 それを認める訳にはいかなかった。

 

 アヴェリンはユミルの静止を無視し、足を強く踏み込み、一足飛びに接近した。

 メイスを持ち上げ、速度と体重移動を合わせた渾身の一撃を加えようとした時、その動きが強制的に止められた。

 まるで巨大な手で身体を包まれているように感じ、次の瞬間には、吹き飛ばされるように後ろへ引き戻される。

 

「あぁ、くそ……っ!」

 

 やったのはルチアだと分かったが、悪態は彼女に対するものではなかった。

 アヴェリンの進行上、その頭部を目掛けた延長線上に岩の槍が突き出ている。

 足元からの死角に加え、タイミング的にも躱しようがなく、下手をすれば即死だった。

 

 ルチアに謝意を示す目礼だけして、アヴェリンは元の位置に立ってグヴォーリを睨む。

 今し方、床から突き出たばかりの岩槍は、制御の終了と共に塵となって消えていくところだった。

 グヴォーリは大儀そうに身を起こしながら、やれやれと息を吐く。

 

「全く……、もう少しのところだったのに。お前の呼吸と力量は、完全に分析できていたと思ってたけど……横から掻っ攫わられるとはね」

「……神ともあろう者が、姑息な手を……!」

「数の利ってやつは、そう馬鹿にしたものじゃないから。プライドよりも、実利を取ったまでだよ。……が、それも上手く回避されてしまった訳だけど」

 

 肩を回しながら愉快そうな笑みを浮かべる顔には、既に余裕がありありと浮かんでいる。

 肌の焼け爛れ、焦げ痕なども見えるが、痛みを感じているようには見えない。

 

 可笑しいと言ったユミルの観察眼は正しく、そしてグヴォーリはやられた振り、死んだ振りをしていたに過ぎなかったのだ。

 神を冠する者がプライドを取らない、というのは敗北を認めるようなものだ。

 ミレイユならば、決してやらない戦法だろう。

 

 ここでまた、一つミレイユへの尊敬と、神への侮蔑を増やしたところで、アヴェリンはメイスを握り直す。

 今まで防戦一方だったグヴォーリが、とうとう攻撃に転じて来た。

 

 これからは、その頻度も増していく事だろう。

 アヴェリンは視線をグヴォーリに固定させたまま、難しい顔をさせているユミルへ声を放つ。

 

「おい、作戦担当。どうすべきだ? どうして欲しいか、簡潔に言え」

「どうしたものかと、困ってるトコロよ。分析が非常にお得意の様だから、同じ手を使うコトは勿論、新手だって見せたくないのよね。だからこそ、初手で倒し切るのが理想だと思ってたし、そうするつもりだったんだけど……」

「私としても、殺傷力だけなら高い魔術を使ったつもりだったんですけどね」

 

 ユミルは眉間の皺を更に深くさせ、ルチアも困った顔を深刻なものに変える。

 戦闘が得意でないという神が、即ち戦闘で勝てない事はイコールでない。

 

 相手は神だ。

 人なら倒せる魔術であり、致命傷を約束するような攻撃でも、神にも同じ傷を与えられるとは限らない。

 

 その肉体的性能差が、互いにある実力差を埋めてしまう。

 アヴェリンの自慢の一撃でさえ、グヴォーリの骨を砕くまでには至らなかった。

 その上で、傷を癒やさないのは余裕のつもりか、それとも出来ないだけなのか。

 

 付け入る隙があるとすれば、そこしか無いように思えた。

 インギェムがミレイユを指して多芸で羨ましい、と言ったのは世辞ではなかった。ならば、グヴォーリに回復手段がないのだと、期待しても良いのかもしれない。

 

 全くの奇襲であった事、そして普段から荒事に関わらないところを考えても、水薬を持ち運んでいるとは思えない。

 長期戦は、普通ならアヴェリン達の有利に働く筈だが、ここではグヴォーリの権能が壁となる。

 

 分析と精査は、こちらの思考や動き、他様々なものを計算して答えを導くのに役立つ。

 アヴェリンの攻撃を次々と防ぎ、対応できるのもその為だ。

 

 グヴォーリは戦闘に不向きなのではなく、単に戦闘を好まないから戦わないだけなのだろう。

 権能から見ても、学者的な思考に没頭したり、そういう研究に勤しむ事を普段からしているのかもしれない。

 

 普段から剣を握り、槍を振るわなくとも、一度見たものになら同じことを出来てしまうから、必要ないのだと見る事も出来る。

 では、やはり長期戦は考えてはいけない。

 

 ユミルが言う通り、初手で倒し切る必要があった。

 しかし――。

 

 アヴェリンは、しきりに腕を動かして、調子を確かめているグヴォーリを観察する。

 電撃の麻痺が残っているのか、体調は万全でなさそうだった。

 さっきの死んだ振りも、その体調を回復させる為にやっていたのであれば、攻め立てる機会として、これ以上の好条件はもう望めないだろう。

 

 グヴォーリが武器を持って戦う事を得意としていないのは、打ち合った経験から分かる。

 肉体が持っている頑丈さ、器用さに任せた対応であって、武技を修得した動きではなかった。

 

 アヴェリンとて、自分の全てを晒して攻撃した訳ではない。

 これまで戦って来た敵の多くは、直線的攻撃で決着してしまうので、使う機会は確かに少なかった。

 必要としなかっただけで、多くの戦技を持っている。

 

 やり方次第でグヴォーリの防御と対応をすり抜け、攻撃する事は可能だろう。しかし、問題はその頑強さだ。

 これまで集めた願力を、全て自分の為に使えていなかったとはいえ、長年の間に蓄積されてきたもので強化されている。

 

 アヴェリンであっても、突き崩すのは容易でなかった。

 だから、作戦がいる。力任せで倒せないというなら、敵の裏をかく戦術が必要だ。

 

 そしてそれは、普段から他人の裏をかくのが好きなユミルならば、容易く思い付いてくれるだろう、という信頼がある。

 だから、どうして欲しいか、簡潔に言えと求めた。

 

 アヴェリンは、その期待を向けて返事を待つ。

 元より一人で倒せる相手ではないと理解していて、協調せねば倒せない敵とも理解している。

 相談もなく利用されたのは腹が立つが、それで倒せるというなら、今更文句を言うつもりもなかった。

 

 いつまでも言葉を返さないユミルに、我慢できず催促したい気持ちが湧き上がって来た。

 焦らせたところで、妙案が出る訳でもないだろう。しかし、グヴォーリが調子を確かめ終わるまで待ちたくもなかった。

 

 アヴェリンが口を開きかけたその時、ユミルから堅い口調で言葉が放られる。

 

「……聞きなさい。正攻法では勝てない。捨て身の覚悟が必要よ。――言うなれば、相打ちの覚悟が」

「必要か、そこまでの覚悟が」

「長期戦が無理となれば、破れかぶれと言わずとも、近いコトは必要になる。それだけの実力差があるって、まずそれを受け入れなさい」

 

 ユミルに言われて、はいそうですか、と言えないところではあった。

 しかし、勝つ為に必要というのなら、アヴェリンもそのつもりで武器を振るう。

 

「相手は神だ。ミレイ様抜きで勝つつもりなら、確かにそれぐらいの覚悟は必要だろう」

「ここにいる全員が、意識を共有しましょう。捨て身で行く、そして庇う事もしない。勝つ為には、それだけ攻撃に一極集中しなければ不可能よ」

「……分かりました。分析も、対応もさせる前に決着を、ですね。私も回復のフォローより、攻撃を優先させます」

「それで良いわ。アンタも、前に出たら攻撃を防ぐ癖があるかもしれないけど、今は忘れなさい。誰も庇う必要はないわよ」

「安心しろ。言われなくとも、お前は最初から庇わん」

「いいわね。アタシも心置きなく、アンタを見捨てられそうよ」

 

 表情は分からないが、いつもの嫌らしい笑みを浮かべているのだろうと思った。

 グヴォーリは小馬鹿にする様な表情を向け、肩の動きも止めている。

 

 大っぴらに聞かせる事か、と思っていそうな顔つきだ。

 だが、全力で猛攻を仕掛けるからこそ、分かっていてもその対応は簡単でないのだ。

 

 分かっていても、躱せぬ攻撃、防ぎ切れない攻撃というものはある。それを仕掛けてやるつもりなのだから、アヴェリンとしても知られていようが構わなかった。

 ユミルとしても、当然そういうつもりで聞かせたに違いない。

 

 警戒したところで無意味だ。

 それを分からせてやるつもりで、アヴェリンは大きく一歩踏み出し――そして、次の一歩で強く踏み抜き、一足飛びに駆け出した。

 



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しばしの別れ その3

 アヴェリンは一瞬の速度で肉薄し、メイスを力の限り振り下ろす。

 それまでの速度とは一線を画す疾さで、今までの動きに対応出来ていたからこそ、これにはグヴォーリも数瞬、反応が遅れた。

 

「ハァァッ!!」

「――ぐっ、この……!」

 

 例え分析が得意であろうと、対応できない疾さというものはある。目で見て反応して、それからの対応では遅い。

 一流の戦士と呼べる者には、経験と勝負勘から対応できるものだ。

 

 幾千の戦闘を潜り抜け、そして幾万の手合わせがあるからこそ、身体と勘がどういう攻撃をしてくるか教えてくれる。

 考えるよりも早く身体が動く、という現象は、その積み重ねがあればこそ出来る事だ。

 

 そして、それはアヴェリンの動きを分析したとしても、技の引き出しが多ければ多い程、その対応に追われている内は反撃に移れない事を意味する。

 

 アヴェリンも舐めていた訳ではないが、対応力の高さに度肝を抜かれたのは確かだ。

 一つの動きから他の動きを類推する事も出来るらしく、初見の動きでも対応を見せる事もあった。

 だから何をすれば良いのか、どうすれば出し抜いてやれるのか迷い、その結果……葛藤が生まれた。

 

 だが、アヴェリン達はチームだ。

 自分の力で押し切れるならそれが最も理想的だが、それに耽溺(たんでき)する必要はない。

 そして、ユミルの言う通り、下手な拘りを貫くだけで勝てる相手でもないのだ。捨て身の覚悟を持ってさえ、倒せる事を保障するものではない。

 

 ――だが。

 それでも思うのだ。自分が捨て身の攻撃を繰り出し、敵の隙を生み出す事が出来たなら、絶対に他の二人がそのチャンスを逃さないだろう。

 

 そして、その二人が更に隙を広げてくれたなら、アヴェリンもそこへ全力を打ち込んでやれる。

 防御を考えない、捨て身の攻撃であればこそ、神でも無事では済まない一撃を与えてやれる。

 

 アヴェリンは二人を信頼して、ただ武器を振るう。

 最初は疾さについて行けず、必至の形相だったグヴォーリも、三手も見せれば対応の兆しを見せた。

 六手も見せれば、次の対応、反撃まで見せ始め、表情から余裕が生まれた。

 アヴェリンの口から、思わず苦悶の声が漏れる。

 

「……ぐっ!」

「底が見えてきたな」

 

 グヴォーリからは余裕だけでなく、楽観の感情さえ浮かんでいた。

 この程度で一体何を理解したつもりだ、と怒りと共に疾さを上げて、下から武器を振り上げる。

 しかし、それまで躱すか逸らすしか出来ていなかった攻撃を、このとき初めて受け止められた。

 

 接近している都合上、武器を受けきった事で互いの顔面が近くなる。

 何度も打ち据えた事に加え、雷撃もあったからこそ、アヴェリンの眼には多くの傷が映った。

 口の端から血も流れていたが、出血は既に止まり痛みも感じていないように思える。

 

 メイスの槌頭を握ったグヴォーリは、そのまま柄へと手を滑らせ、武器を奪おうとした。

 本来なら、そこで突き飛ばすなり、奪われまいと武器を庇おうとするのだろうが、アヴェリンはそれ幸いと手放す。

 

「ハン……!」

 

 グヴォーリから勝ち誇った様な声が漏れる。

 武器を奪った優越、武器を見捨てた戦士を侮る視線だった。

 しかし、生憎とアヴェリンの武器は特別性だ。

 

 単なるメイスに見えようとも、その質量は巨岩のそれと変わらない。

 アヴェリンが持っている限りにおいて、まるで重さを感じない武器だが、一度手放せば本来の重みが復活する。

 

「ん、ガ……ッ!?」

 

 メイスの重さなど高が知れてる。軽々と振るうところを見ても、現実的な範疇に収まると思っていた事だろう。

 だが、あまりの重さに持っている事すら出来ず、ずるりとメイスが床に落ちて大きくヒビ割れを起こした。

 

 落とす瞬間には、腕を強制的に持っていかれた所為で体勢も崩れている。

 アヴェリンは抉るように足を伸ばし、その鳩尾へ爪先を突き刺すように蹴り飛ばした。

 

「グホ……ッ!」

 

 アヴェリンに限った話ではないが、ミレイユが用意してくれた防具もまた、特別性だ。

 ブーツもそれに含まれ、爪先部分を覆うように補強されているから、そこで蹴りつけるだけでも下手な武器より強度で勝る。

 

 グヴォーリは防具も付けず、腹さえ露出させていたので、突き刺さった爪先には確かな手応えがあった。

 くの字に身体を折れ曲がって吹き飛ぶグヴォーリを見定めながら、アヴェリンは武器を拾い上げる。

 

 そうして、隙を見逃さない二人は、吹き飛んでいる最中のグヴォーリに、落下よりも早く魔術を放った。

 ルチアが『黒き冬への誘い』を放つと、部屋の中で暴風雪が吹き荒れる。本来なら大規模魔術として使われる魔術だから、室内で使用される事を想定されていない。

 

 敵どころか味方までも巻き込む魔術だが、ルチアが使える魔術で、抜群の高威力である事も知っている。

 捨て身というなら、味方を巻き込む魔術を使うのも許容すべきだろう。

 

「とはいえ、これでは……!」

 

 しかし、この魔術は雪と嵐で目を開けていられないというだけでなく、極小の結晶が眼球を傷付けてくるから、『黒き冬』と呼ばれるのだ。

 本質的に失明を狙う魔術だから、それを知っていると尚更目を開けていたくない。

 これでは味方の攻撃以上のものを妨害してしまう事になるので、上手い方法とは思えなかった。

 

 普段はフォローに回る事の多いルチアだから、攻撃だけに振り切った場合の対処を誤ったのか。

 らしくない失態だ、と思いながら魔術に耐えていると、アヴェリンの身体に防護術が掛かって、すぐに暴風雪の圧力から解放された。

 

 ――仲間のフォローはしない、という話にしてあった筈だろうに。

 ルチアの優しさが出てしまった感じか、と思ったが、同時に違うと思い直す。

 グヴォーリが魔術に対して強い耐性を持つのは、先のユミルがやって見せた事からも分かっていた事実だ。

 対個人で使うなら最も強力、と言っていたのは嘘ではない、と分かる威力を持つ魔術だった。

 

 それでも、グヴォーリに対して有効とはいかなかった。

 ルチアが使った魔術も強力であるのは確かだが、範囲攻撃だけあって、先の魔術より威力に於いて勝るとは言い難い。

 それでも敢えて使ったのは、目眩ましとして使う意図が強かったからだろう。

 

 上級魔術には違いないので、これを捨て身の攻撃と、グヴォーリも見たかもしれない。

 しかし、それを隠れ蓑にして、ルチアはアヴェリンの強化をするつもりでいるらしい。

 

 ユミルが敵へわざと作戦内容を聞かせた事を、逆手に取ろうというのだろう。

 魔術が途切れた時、その欺瞞工作が成っていれば、グヴォーリに手酷い反撃を与えてやれる。

 

 結局のところ、魔術に対して強い耐性を持つのなら、最初からルチアとユミルは有効打を与えられない、という事にもなるのだ。

 ダメージを全く与えられない訳でないにしろ、鍵を握るのはアヴェリンだと認めていた、という事になる。

 その為の魔術として、今の二つを使ったのだ。

 

 二人の間に、それを話し合う時間などなかった。

 素振りすら見せていなかったので、グヴォーリも得意の分析で予想し対応するのは不可能だろう。

 何かと二人で強力し合う機会の多い二人だからこそ、可能にさせる阿吽の呼吸だった。

 

 一縷の希望を見出して、アヴェリンはメイスの柄を強く握る。

 ルチアの『黒き冬の誘い』が終わるまで待つべきか、それとも強引にでも殴り付けに行くべきか。一瞬の迷いをしてる間に、グヴォーリから叫び声が上がった。

 

「アァァァアアアアッ!」

 

 強い絶叫だった。

 ユミルもまた、この白い暗闇に乗じて、何か仕掛けた、という事らしい。

 バチバチと放電音が聞こえてきたので、何らかの雷系魔術を使った事だけは分かったが、目を開けられる様になっても、詳細までは判別できない。

 

 ただ、放電が未だに聞こえているという事は、迂闊に飛び込むと巻き添えを喰らう可能性が強いという事だろう。

 せめて、その音が途切れるまでは、待った方が良い。

 

 アヴェリンはいつでも飛び込める姿勢で待機し、音を頼りに方向を定める。

 グヴォーリは倒れ、床を転がった様だが、未だ雷撃による攻撃は続いているようだ。

 しばらく待っても、放電音は止まないというのに、叫び声が聞こえなくなった。

 

 ――おかしい。

 アヴェリンは違和感に首を傾げる。まさか、その程度で仕留められた筈がない。

 先程、顔面を近付けて分かった範囲では、まだまだ余裕がありそうに思えた。

 虚勢で隠している訳でもなく、まだまだ体力も残っているように見えたし、ユミルがどういう魔術を使おうとも、それ一つで仕留められたとは思えない。

 

 では、またもブラフだろうか。

 同じ手を使う間抜けと思いたくないが、そう思わせて利用するつもりなら、確かに効果はありそうだ。

 グヴォーリもまた、視界が隠れている事を利用して、叫び声だけは盛大に聞かせてやった可能性もある。

 

 分析が得意というなら、そういった事にも知恵を働かせて来ても、不思議ではなかった。

 迷った末に、アヴェリンは突撃すると決めた。

 元より捨て身の作戦だった。

 放電に巻き込まれようとも、素直に攻撃しておけば良かったのだ。

 

「――フッ!」

 

 鋭く息を吐いて、アヴェリンは白い暗闇の中を突っ切る。

 音と気配を頼りに暴風雪を切り裂くように接近し、そして、グヴォーリがいるであろう場所へメイスを振り下ろした。

 

「なっ……!?」

 

 だが、それは硬い壁に阻まれ防がれた。ただ硬質な音が響き、それは掌に痺れる感触を返して来る。

 面前には岩のような壁があり――いや、のような、ではない。岩そのものが壁となって、グヴォーリとの間に立ち塞がっている。

 

 アヴェリンは思わず歯噛みして、岩の壁を再度殴り付けた。

 岩槍を伸ばして攻撃していたところから、石や土を使う何かを持つ、と予想して然るべきだった。

 接近戦を嫌がらず、魔術戦をしようとしなかった事から、魔術を多用しないタイプかと思ったが、そうではない。

 

 単に使い所を――上手い使い方を、考えていただけだったのだろう。

 そして見えない事を良い事に、一撃受けてからは壁の中に引き籠もっていた、という事らしい。

 もしもアヴェリンが、躊躇わず攻撃を仕掛けていたなら、こんな気休めを許す事もなかった。

 

「ルチア、止めろ! 意味がない!」

 

 雪と風の勢いで、声が届かないかと思いきや、あっさりと魔術が停止する。

 そして、僅かな間で雪まみれになった、岩壁だけが後に残った。

 アヴェリンが再度殴り付けると、大きく罅は入ったが、それを合図としたかのように壁から幾つもの槍が生えてくる。

 

「チィ……ッ!?」

 

 それを躱し、盾で防ぎながら後退すると、追い縋るように地面からも槍が突き出した。

 一本の槍が突き出せば、その穂先から更に槍が突き出て来る。

 

 一瞬、虚を突かれたが、それさえ盾を使い身体を捻って躱し、防ぎ切る。

 だがその代わり、岩壁から大きく距離を離す事になってしまった。

 

 槍が生えた場所は即席のバリケードとなり、接近するルートを絞られてしまう。

 そして、そのバリケードもまた、接近すれば蛇のように槍を伸ばして攻撃して来るだろう。

 それは予想に過ぎなかったが、接近を黙って見守る易しい相手でないのは間違いない。

 

 壁の中に引き籠もっているとはいえ、こちらの動きが察知できないと考えるのは危険だ。

 大きく後退したお陰でルチアの傍までやって来たアヴェリンは、顔を正面に向けたまま、何か的確な助言は貰えないか、と期待して声を掛けた。

 



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しばしの別れ その4

「奴が岩壁の中に引き籠もった。どうにか引き摺り出す方法はないか?」

「……難しいですね。私は物体の破壊に向いた魔術、というのは余り持たないので。氷刃を飛ばしたくらいじゃ、意味はなさそうです」

「ならば、私が壊すしかないか。あと何度か殴りつければ、破壊自体は難しくないが……」

「でも、それには骨が折れそうですよ」

 

 ルチアが呟くように言って、アヴェリンも無言で頷いた。

 捨て身で突っ込むだけで突破できる程、岩の槍は易しくないだろう。一つ回避行動を取る度、それに合わせた攻撃をして来る筈だ。

 

 グヴォーリは部屋の後方に陣取っているから、回り込んで攻撃するのも難しい。

 仮に可能だとしても、この部屋は戦闘を十分にできるほど広大でもなかった。結果として、グヴォーリは前面だけに集中すれば良く、それが攻略の難しさを高めている。

 

 今は足の踏み場もあるものの、槍は床から不意打ちのように生えて来る。

 逃げ回っていれば、その踏み場すら失くしてしまうだろう。

 

 今アヴェリン達が立っている、出入り口付近までは攻撃して来ないので、魔力の伝達範囲がそこまで、という事なのかもしれない。

 

 そして範囲に入ったなら、どの様な角度からでも攻撃してくるつもりだ。

 アヴェリンは岩槍と床面の境目に注視しながら、ルチアへ窺うように話し掛ける。

 

「だが、境界線が分かり易いのはありがたい。呼吸を合わせて攻撃を仕掛けるのに、声掛けが必要ないからな」

「ちょっと、しっかりして下さいよ」

 

 ルチアは軽く息を吐き出してから続ける。

 

「あんなのブラフに決まってるじゃないですか。部屋中全を掌握してて、床と言わず壁や天井からだって槍が突き出して来ますよ。有効範囲を誤認させるなんて、常套手段じゃないですか。私だって良くしますし」

「あぁ……そうだな、すまなかった。この手の判断は、いつもミレイ様が的確かつ素早く見極めていたから……。少し弛んでいた様だ」

「まぁ……、貴女は命じられるまま、殴り付けるだけで良かったですものね」

 

 ルチアの声には呆れは含まれておらず、ただ知ってる事を口にしているだけに聞こえた。

 そして、それは事実だった。

 

 攻撃を仕掛けるタイミングまで全てを命じられていた訳ではないし、多くは自由裁量を与えられていたが、何をすべきかは簡潔に指定されていた。

 

 そして、それで不都合が起きた事もない。

 かつて、呪霊に殴りかかった時と同じだ。

 忠誠を誓っているから、という理由だけでなく、その的確な判断を信頼するから、己の死すら考えず攻撃出来る。

 

 仮に死ぬと分かっていても、犬死にだけはさせないと理解しているから、アヴェリンはミレイユの為に武器を振るえるのだ。

 本当にそれで死んでしまっても、それを代償にミレイユは勝利を掴むだろう。

 それならば、アヴェリンの勝利と変わらない。己の生を全うしたと、誇り高く死んでいける。

 

 ルチアは杖を両手に抱え、魔力を制御しながら言葉を続けた。

 

「いや、今になって実感しますよ。私たちは実際に幾つも死線を乗り越え、そしてそれを独力でなく連携で勝ち取って来たと思ってましたが……、それも巧みに組み合わされればこそです。私も案外、ミレイさんに寄り掛かっていたようで……」

「あぁ……。私も今、まさにそれを思っていたところだ」

 

 中核となり司令塔として全員に目を配り、そして的確な指示があったからこそ、連携が取れるのだ。ミレイユなくして戦う事は、烏合の衆とはいかなくとも、ぎこちないものとなる。

 

 互いの特徴も、力量も理解していると自覚はあるが、それを巧みに運用するとなれば勝手は違う。

 

 長いこと互いに背を預けて戦って来たので、分かる事、出来る事は多い。

 だが、全幅の信頼と、援護や補助の確信を持って戦う事は出来ない。

 

 大きな差ではないが、確かに生まれる僅かな差――。

 そして、その差は強敵であるほど大きいものになる。

 

「だが、泣きごとばかり言っていても仕方あるまい。様子見のつもりか、攻撃して来ない今が最後の機会かもしれん。潜り抜けて壁を砕かねば、いつまでもミレイ様をお一人で戦わせる事になる」

「アキラも居る筈ですけどね……。でも、言いたい事は分かりますよ。とはいえ……」

 

 どうしたものか、という言葉は飲み込まれて聞こえなかったが、アヴェリンとしても頭悩ます問題だった。

 捨て身で壁を砕きに行くのは良いとして、砕いた後の有効打の事を考えると頭が痛かった。

 グヴォーリには、魔術による攻撃は有効でないのだ。

 

 アヴェリンが捨て石になることで、二人が止めを刺してくれるのならば問題ない。

 無傷で勝利を得られるなど端から考えていないのだから、喜んで犠牲になるつもりだった。しかし、同じ捨て石でも、結果が伴わないなら意味もない。

 

 その時、ルチアが身動(みじろ)ぎして杖を構え直したのを、気配で感じた。

 魔力の制御と魔術の行使を同時に察知し、そして足元から冷気が流れていくのを目で追う。広範囲へ霧のように広がった冷気は、岩槍に触れると同時に霜として張り付いた。

 

 可能かどうかは別として、穂先から槍が生えないように、防御策を取ってみた、という事らしい。

 人間相手に使えば、鎧の隙間から入り込み、防具の内側から凍らせてしまう魔術だが、それでどこまで封殺できるかは疑問だ。

 

 同じ事はユミルも思ったらしい。苦言にも似た声音で、離れた場所から言って来る。

 

「やらないよりマシ、これで一瞬でも発生を遅らせられたら……そう思っての手でしょうけど。あまり効果はない気がするわね」

「それでも、一応やれる事はやっておきませんと」

「分かるけどね。アタシも一応、火炎や爆炎を放つ魔術は持ってるけど……」

 

 そう言って、ユミルは苦々しく顔を歪めて、岩壁を睨み付けた。

 

「アヴェリンの打撃より強い一撃ってのは、ちょっと無理だわ。岩を融解させる程の高温は、アタシじゃ作り出せないのよね。せめて長時間、魔術を当て続ければ可能かもしれないんだけど……」

「まぁ、のうのうと、それを許す相手じゃないのは分かります」

「……あげく、壊せば勝利って話じゃないしね。でも、壊した後なら、叩き込んでやれる魔術もある。穴が開いて、僅かな隙間でも出来れば、ルチアの魔術はむしろ密閉された空間では有利に働く。何かに付けて姿を隠すコトが大好きな神でも、音を上げて出て来るでしょうよ」

 

 一応のプランがユミルの中にある事は分かったし、殊更ケチを付ける内容でもなかった。

 しかし、それも全て、まずアヴェリンが接近できてこそ意味がある。

 そこに辿り着くまでにある岩槍に対する問題は、依然として残っていた。

 

「初手から上手く対応できないのは、お互いに同じコトよ。アヴェリン一人なら難しいでしょうけど、アタシも一緒に前に出るから、それで撹乱してやりましょ」

「撹乱……。だが、脅威になるのは私と認識してるなら、お前の対処はおざなりになるだろう。最悪、無視される。それについては?」

「無視だけはされない。それで良しとしときなさいな」

 

 確かに、何をするか不明な相手を野放しにはしないだろう。

 ユミルと直接武器を交えていないのだから、どういう動きをするのかも知らない筈だ。

 全くの無視を心情的にもし辛いだろうし、意識を二つに向けるなら、切り込むチャンスは生まれるかもしれない。

 

 そのように考えていると、ユミルがやおら魔術を使ったと思しき右手で、肩を叩いてくる。

 痛みもなく、そして支援効果も感じられないそれを不審に思って睨め付けた。

 

「何をした」

「いいから。アンタは突っ込むだけを考えなさい」

「――良いだろう。どうせ、他に良い案もない。私は捨て身で喰らいつき、壁を破壊する。後は上手くやれ」

「えぇ、()()()()()()()()()から、アンタも上手くやりなさい」

「未だに、捨て身作戦は継続中ですか。……了解です。私も支援より、攻撃に制御を集中させますよ」

 

 言うなりルチアは制御を始め、それを合図にアヴェリンはユミルと視線を合わせる。

 互いに頷き合うと、弾かれたように左右へ跳んで、グヴォーリの岩壁に向かって走り出した。

 

 岩槍の境界線まで後三歩、というところに足を踏み入れた途端、足裏を貫こうと突き出てくる物の感触を察知した。

 予め、ルチアが予想していたとおり事が起きた。

 

 予想が出来ていれば、対処も容易い。

 アヴェリンは咄嗟に横へと躱し、更に着地した場所で(むしろ)の様に槍が突き出てくる。

 

 流石に全てを躱せないので、そのぶん高く跳躍した。しかし、床だけでなく壁も、そして天井も術の範囲内なら、その対処は悪手だった。

 

「――チィッ!」

 

 そして、またもルチアの予想とおり、天井からも岩槍が降ってくる。

 それを盾で防ぎながら、グヴォーリまでの距離を目算で計った。

 

 果たして、岩槍の突き出す反動を利用する事で、そこまで辿り着けるだろうか。捨て身は良いが、届くと確信を得るには微妙な距離だった。

 

 視界の端ではユミルが映り、自然とそちらに視線が寄る。

 ちらっと見えた感触では、全く攻撃を受けていなかった。まるで無人の荒野を行くが如しで、妨害など全く見えない。

 

 ――何が無視だけはされないだ、馬鹿め!

 アヴェリンは胸中で盛大に毒づきながら、天井からの岩槍を振り払う。

 その際、壁に足を付け、更に壁からの変調を予期して事前に跳ぶ。

 

 その一瞬後に岩槍が突き出し、肌をごく軽く掠って過ぎ去っていく。

 悪態は次々と湧き出て来るが、それより今は着地点に良い場所を探すのが先決だった。

 とはいえ、空中で出来るのは身動ぎする事だけ、取れる選択肢は多くない。

 

 そう思っていると、唐突に頭を揺さぶられる感覚と共に視界が切り替わる。

 何が、と思うのと同時、自分が地に足を着けている事に気が付いた。

 

 空中にいる筈だった自分が床の上にいて、そして目と鼻の先には岩壁がある。

 何がと思った瞬間、理解が追い付き、唐突に思い付いた。

 直前にユミルが肩に魔術を当てていたのは、これだったのだ。

 

 アヴェリンが更に一歩踏み出した時、更に頭が揺さぶられて視界が変わる。

 また場所が移り変わって、アヴェリンが着地点にしようと、落ちる直前に定めた場所に立っていた。

 ――また、すぐに転移させられたか?

 

 何の為に、と思ったが、とにかく足を動かし筵から脱出し、接近しようと試みる。

 ユミルとアヴェリンは、互いに逆方向からグヴォーリへ接近しようとした。

 

 ――下から来る!

 

 床から攻撃の兆候を感じると同時、またも互いの位置が入れ替わる。

 強制転移は、事前の行動目標を無茶苦茶にされてしまう。

 

 どういうルートで接近しようかという目算も、転移と同時に捨て、また即座に考え直す必要があるので、それはそれで不愉快だった。

 事前に打ち合わせがあれば、また違ったのだろうが……。

 

 ――ともあれ、無視されない、と言っていた正体は分かった。

 今や、アヴェリンを送り込もうとするユミルと、それを防ぎたいグヴォーリとの争いになっている。

 

 アヴェリンはただ真っ直ぐに走るだけで良く、そして岩槍が出て来るなら、それを防ぎながら前進すれば良いのだ。

 無理そうであれば、安全地帯を確保したユミルが場所を入れ替えて来るので、果敢に攻めて問題ない。

 

 この場合、脅威と感じるのはアヴェリンだろうか。それともユミルだろうか。

 先に潰したいと思うのは、撹乱させようとするユミルだという気がした。

 だが、対処をどちらかに絞り、ユミルを優先させるなら、アヴェリンを到達させる事になる。アヴェリンを優先しようとするなら、ユミルが位置を変えて突撃させるだろう。

 

 そして、それはアヴェリンが出来る移動距離からして、あと一回でも転移を許せば到達できると思われた。

 二人同時か、それとも片方に絞るのか。

 絞るとして、どちらの攻撃を優先させるのか、そういう初見では困る判断を強要させたのだ。

 

「行ける――!」

 

 アヴェリンが確信して、一声上げた時だった。

 グヴォーリはユミルを優先する事にしたようだ。

 

 ユミルの足を踏み出す先に、岩槍の穂先が出現するのを、アヴェリンは視界の端で捉える。

 そして次の瞬間、視界が揺れて切り替わり、そして一瞬あとに、位置を切り替えられたのだと理解した。

 

 安全地帯、あるいは接近チャンスのある場所へ――。

 そう思っていたのだが、岩の穂先が足元から生えてくるのが目に入る。

 その光景が、アヴェリンの目には、やけにゆっくりと見えた。

 



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しばしの別れ その5

 ――これは躱せない。

 アヴェリンは自分の腹が岩槍で貫かれるのを幻視し、そして同時に、自分を身代わりとしたユミルを呪った。

 

 誰もが捨て身で攻撃するべき、と提案したのはユミルだ。

 そして、それを誰もが納得し、飲み込んだ上での攻撃だった。

 自己保身でアヴェリンを身代わりに使ったのであれば許せるものではないし、ブラフとして利用するにも、もっと上手い活用がユミルには出来た筈だ。

 

 大体、これで後の攻撃はどうするつもりだ、と一瞬の内に思考が回って、次の瞬間には穂先が腹部に当たっていた。

 そして自らの踏み込む疾さと相まって、深々と突き刺さる――。

 

「グッ……!」

 

 ――と思いきや、穂先は防具に食い込んだまま、それ以上突き進む気配がない。

 それどころか、砕けて折れ、床に落ちていく始末だ。

 

 そうして、唐突に思い付く。

 アヴェリンは『黒き冬の誘い』の最中、ルチアから支援を受けていた。

 一つと言わず複数掛けられた支援の中には、防護の魔術も含まれていて、それがアヴェリンの危機を救ってくれた。

 

 そして、それはアヴェリンとルチア以外、誰も知らない事と思っていたが、決してそうではなかったのだ。

 ユミルもそれを知っていて――あるいは何かした筈と期待して――、深手を負う事はないと考え、入れ替わりを計ったのかもしれない。

 アヴェリンならば無事で済むと、確信に似た思いを抱いていた。

 

 ――だったとしても、アヴェリンの怒りは簡単に治まらない。

 憤懣(ふんまん)が腹の底から湧き上がって来るのを感じながら、氷の砕けるような音が自身の身体から聞こえた。

 

 ルチアの防護術は敵の攻撃を無効化したが、代わりにそれ一度きりの魔術でもあったらしい。

 自身の身体から、防護の魔術が抜け落ちていくのを感じる。

 

 ともかく、ルチアの魔術で最悪の危険からは逃れられた。

 ルチアに心の底で感謝しつつ、アヴェリンは顔をグヴォーリの岩壁へと向けた。

 そこには、既に肉薄するほど接近しているユミルが、アヴェリンに向かって掌を向け握り込もうとしている。

 

「幻術士の言うコトをね、信じてるんじゃないわよ!」

 

 最もだ、と毒づくのと同時、ユミルが拳を握り込むのを視界に捉えて、次の瞬間にアヴェリンの移動は完了していた。

 

 そうして入れ替わった場所で、床を踏み抜く勢いで一歩踏み出し、メイスを振り上げる。

 メイスを肩越し――振り子の頂点まで持って来たところで、心に思う。

 

 アヴェリンとしては、聞かれずに作戦など出来ないからと割り切っていたから、あの場で相談を口にしていた。

 だが、ユミルは話し合いという場を利用して、相手を出し抜く方法を考えていた、という事なのだろう。

 

 またしても、と言いたいのはアヴェリンも同様だったが、同時に良くやった、と言いたい気分にもなる。

 ――アレの一挙手一投足がブラフ。

 

 分析できる力があろうと、まず相手の手口を知らねば、それも出来ない。

 何一つユミルの事を知らなかったからこそ、通じた戦法だろうし、知っているならユミルはそれを利用して、上手く騙すぐらいはしていたろう。

 

 考える頭を持つ者ほど、ドツボに嵌る。

 いい気味だ、と思いながら、アヴェリンは意識を現実に戻した。

 

「ハァッ!」

 

 アヴェリンが呼気と共にメイスを振り下ろすと、その一撃で岩壁に大穴が出来上がる。

 そこへすかさず、ルチアが用意していた魔術が解き放たれた。

 ユミルが言っていたように、狭い密室の中で使用されたルチアの魔術は、暴挙に等しい攻撃を咲かせたようだ。

 

 拳大の氷結晶が咲き乱れ、暴れ回ってはグヴォーリの身体を切り刻んでいる。

 それ程の威力で絶え間なく攻撃されていては、流石に引き篭もり続けるつもりになれなかったらしい。

 

「あぁぁ、あぁああギィィ……!」

 

 不愉快な叫び声を上げ、岩壁が塵のように砕けて消える。

 グヴォーリは床に転げるように氷結晶から逃れようとし、それでも付き纏うそれらから逃れようと、必死に腕を動かしていた。

 

 そこへ一足飛びに接近したアヴェリンが、渾身の力を込めて殴り付ける。

 

「ハァァァッ、――ダァッ!」

「ゴボホォッ!」

 

 どういう付与魔術が為されているか分からない服部分より、大胆に臍を見せている腹を殴った方が面倒は少ない。

 アヴェリンが振り下ろしたメイスは、その腹部に深々と突き刺さり、グヴォーリはくの字に身体を曲げて、口から盛大に胃液を撒き散らした。

 

 更に二撃目を与えようと、足で頭を抑え付け、大きくメイスを振りかぶった時、悪寒が走って咄嗟に飛び退く。

 すると、その直前までいた場所に、側面から岩槍が飛び出していた。

 

 痛みもあり、衝撃も相当であったろうに、反撃に関して正確性が群を抜いている。

 警戒していたつもりだったし、見くびるつもりもなかったが、有利な状況が心に油断を招いた。

 

 加えて、壁からも一定の距離があった事から、問題ないと判断したという理由もある。

 見てみれば、そこには今までの長さからは考えられないほど、長大な槍が伸びている。

 

 今までの岩槍は、どれも長さに大きな違いがなかったので、それが限界と思っていた。

 しかし、それも一つの伏せ札に過ぎず、槍は長さも太さも自在に変更できるらしい。

 

 上手く躱せたのは全くの運だったが、今はその幸運に感謝した。

 グヴォーリは腹に手を当て、血走った目を向けながら、呪詛のような声を出す。

 

「神に歯向かう愚か者共が……! 調子に乗るのも……、いい加減にしろッ!!」

 

 殺気と同時に、膨れ上がるものがある。

 それは床や壁を占めていた岩槍で、それらが一度塵まで砕け、ヴォーリの周囲をたゆたっていた。

 

 それは時間と共にゆっくりと回転し、次第に勢いを増していく。一定以上の勢いを越えてからは、遠心力によって弾かれ分散し始めた。

 

 ――拙い。

 そう思った時には、既に遅い。

 

「躱せッ!!」

 

 一声叫ぶと同時にアヴェリンは跳躍し、背後へ逃げる。

 だが、周囲の至るところから塵が結集して岩となり、そして鋭く尖ると、(やじり)となって襲ってきた。

 

 身を捩り、盾で防ぎ、メイスで砕くが、もはや部屋そのものが武器みたいなものだ。

 敵の腹の中にでも飲み込まれたかのようで、どちらに視線を向けても鏃しか見えない。

 

「あぁぁぁッ!?」

「あっ、ぐッ、うぅ……っ!」

 

 ルチアやユミルからも悲鳴が上がる。

 どれほど上手く防ごうと、あまりに数が多すぎる。彼女らもまた、それらを躱し切れず、その攻撃を受けていると分かった。

 

 助けに行ってやりたいが、アヴェリンの周囲にも常に鏃が突き出されていて、そんな余裕もない。

 アヴェリンには一度きりの防護術以外にも、各種支援があったお陰で、己の武技による防御もあって、何とか砕き続ける事は出来ている。

 しかし、他の二人に同じ事は不可能だろう。

 

 助けてやりたい気持ちはあっても、自分の攻防だけで精一杯だった。

 そうして、幾らその内の多数を防げていても、その全てまで防ぎ切る事は出来ない。

 

 一つの攻防の度、必ずどこかに傷を負い、そして攻撃が続く限り傷は増えていく。

 グヴォーリが使ったのは、大規模な魔術の様に思えた。それならば、必ずいつか終わりはある。

 分析が得意でも、戦巧者でないのは確かなのだ。

 

 怒りに任せて使った魔術は、そう長く続かないのが常識だ。

 アヴェリンは、起死回生のチャンスを待って、必死に鏃を捌き、躱し――そして凌いだ。

 最後に繰り出せる一撃分だけ、力を残していれば勝機はある。

 

「だが……、いつまで……ッ!」

 

 終わりを待ち遠しく思うから、その時間を長く感じてしまうのだろうか。

 全方位から襲って来る鏃は、躱し、防げば塵に戻り、そして再び鏃となって襲い掛かって来る。

 無限に続くかと錯覚するほどの時間――。

 終わらないと思えば、いつまでも続くように思えた。

 

 岩の鏃は勢いを維持し続け、衰える様子がない。

 歯を食いしばり、幾つも傷を増やしながら、とにかく耐える。

 それでも、終わりは一向に訪れなかった。

 

 そうして、腹部や足、腕など幾つも傷を作り、中には貫通する裂傷を作りながらも……。

 アヴェリンはとうとう、術の効果が終わるまで耐え切った。

 

「ハァ、ハァ、ハァ……ッ!」

 

 今では、立ち尽くしているのはアヴェリンしかいない。

 肩を落とし、腰も折れ、膝も崩れそうになっていた。しかし、アヴェリンは立っている。

 

 倒さねばならない敵、ミレイユの敵だと思えばこそ、アヴェリンは膝を屈せず立ち続ける事が出来た。

 羽のように軽いはずのメイスも、今となっては鉛よりも重い。

 

 しかし、命失われようとも、武器を手放す事だけは出来なかった。

 アヴェリンは戦士だ。そして戦士の矜持が、武器を手放す事を許さない。

 

 しかし、他の二人までそうはいかないようだった。

 ルチアは治癒術が使えるので回復に専念しているし、それで持ちこたえる事も出来るだろうが、ユミルは既に虫の息に見える。

 

 体中に空いた穴はアヴェリンの比ではなく、息しているのが不思議なくらいだ。

 口の端から血が流れ、呼吸も浅いが、しかしその目だけはやる気を失っていない。

 

 それはルチアも同様だった。

 治癒術あればこその余裕かもしれないが、自分の治療が終われば、ユミルの傷も癒せるだろう。

 

 だが、それをグヴォーリが悠長に待ってくれると思えない。

 今は大魔術を使ったばかりで、すぐに同じ術を使えないだけかもしれない。

 だが、こちらが身体を休めている間に、あちらだって魔力を整えてしまう。

 

 追撃をすぐには出せないというのなら、今が最後のチャンスかもしれなかった。

 アヴェリンは腹に力を込め、膝に力を入れ、上体を持ち上げる。

 

「く、ぐぅぅ……、ぅぅぉおおお!」

 

 メイスを強く握り締め、決死の想いで顔を上げた。

 ――ミレイユは任せる、と言ったのだ。

 アヴェリンに、このひと柱を弑せよ、と命じて来た。

 

 アヴェリンは、誇りと共にそれを成し遂げる義務がある。

 他の二人が動けないというのなら、何としても、アヴェリンこそがやるしかなかった。

 

 少しでも身体を動かせば、そのままバラバラに崩れてしまいそうな錯覚を感じながら、重い足を持ち上げ踏み込み、一歩動く。

 その一歩が、どれだけ重く、辛い事か。

 

 グヴォーリまでの距離は遠く、接近を察知するのは容易。牛歩の歩みでは、迎え撃ってくれと言うようなものだろう。

 だが、それでも――。

 

 己が身が標的となるのなら、その間に治療だって進むだろう。

 恐れるのは、全員がやられてしまう事、目的を果たせない事だ。

 

 誰かが捨て石になる必要があるというなら、喜んでやってやる。

 それでグヴォーリの首を落とせるというなら――捨て石を求められる瞬間が今なら、幾らでもやってやる。

 

「こういう時でなければ……。きっと、言えないだろう……。だから、言う……」

 

 一声出す度に、余計な体力を使うなと、身体から警告が出ている気がした。

 失われる体力が多ければ、最後の一撃すら出せる余力がなくなる。それが分かっていても、最期と思えば湧き出るものがあった。

 

「お前達には感謝している……。お前達に出会えたから、きっと今の私があった……」

「……アヴェリンが、何か……っ、良いこと言おうとしてますよ……ごほっ! これって……、いよいよ、拙いですか……」

「ハッ……。言わせて――ゴブッ! ごぼぁっ! おけない……っ、わよね……!」

 

 ルチアは咳き込んだだけだが、ユミルは盛大に吐血し顔を汚した。

 お前はもう喋るな、と言いたかったが、もはや声も出なかった。

 

 今はとにかく標的を自分に向ける為、そして上手くいくなら、その一撃を加えてやる為、未だ倒れ伏しているグヴォーリへ歩を進める。

 

 そのグヴォーリも、顔だけはこちらに向けて、憤怒の形相を浮かべていた。

 そうとなれば、いつ攻撃が来てもおかしくない。

 

 グヴォーリが腕を持ち上げ、掌を向けて握り込む動きを見せた。

 それに合わせて、周囲に落ちていた塵が持ち上がり、またも槍の形を創ろうとしている。

 だが、その動きは散漫で、到底今までと同じ魔術には思えないが、それでも武器が形成されつつあるのは確かだった。

 

 そして、完成した時がアヴェリンの最期、なのだろう。

 それまでに辿り着けるか、辿り着いて一撃食らわせられるか、という問題だが――槍の完成の方が、きっと早い。

 

 だからと絶望し、投げ捨てる訳にはいかなかった。

 立ち止まらず、プレッシャーを与え続ける事が、次の勝利に繋がるかもしれない。

 そこにアヴェリンはいないかもしれないが、勝利の礎となるなら満足できる。

 

 確実に死ぬと分かるまで、アヴェリンは決して諦めない。投げ出す事も、絶望もしない。

 ミレイユの行先には、栄光しかないと信じるからだった。

 

「その首……っ、いただくぞ……ッ!」

 

 決意を声に乗せて、アヴェリンは呟く。

 それで明確にグヴォーリの顔が歪んだ。

 それは恐怖だった。己が死をあり得ると予期して、恐怖で歪んでいる。

 息が乱れ、制御も乱れるが、術の行使だけは止めなかった。

 

 止めてしまえば、制御に失敗すれば、そのメイスが振り下ろされると理解しているからだ。

 だが、同時にアヴェリンもまた、決して足を止めない。

 決死の表情で、足を引き摺るような格好のまま、それでも歩みだけは決して止める事はなかった。

 



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しばしの別れ その6

 アヴェリンは殺意と戦意を漲らせて、一歩……また一歩と足を進める。

 目に見えてグヴォーリの精神に揺らぎが表れ、制御にも乱れが生じている。

 

 それが視界に映って、アヴェリンは更に怒りを燃やした。

 ――死が怖いか。

 ――それだけ生きて。

 ――命を弄んで。

 ――神の如く振舞ってッ!

 

 アヴェリンの腹から怒りが煮えたぎり、口の端から息が漏れる。

 オミカゲ様は、その最期の瞬間まで、誇り高く生きた。己を殺し、ミレイユの為に、世界の為にと身を粉にして捧げた。

 

 自身の死を受け入れ、その上で力を使うことを躊躇わなかった。

 腹や胸を光線で貫かれ、血を吐き出しながらも、決して恐怖も見せず誇りを失わなかった。

 

 ――それに比べ!

 これが自分達の世界に戴く神の姿か、とアヴェリンは唾棄する気持ちで吐き捨てる。

 

 土壇場になって死の恐怖に屈するなど、あってはならない事だ。

 友の死を恐れようとも、己の死は恐れない。戦いに身を投じるとは、そういう事だ。

 

 神ならば当然弁えて然るべき事を、この場で粗を出したのは、アヴェリンにとって許せない侮辱だった。

 ――必ず、この手で。

 

 アヴェリンはメイスに込めた力を、更に強めて握り締める。

 怒りから湧き上がる力が、今は痛みを遠くしていた。

 ふらつく身体までは抑え切れないものの、前進だけは決して止めない。

 

 ――しかし。

 しかし、グヴォーリの放つ魔術の方が先になるだろう事実は、変えようもなかった。

 痛みは遠退いても、身体まで自由になってくれない。呆れるまでに遅い歩みでは、術の完成より早く辿り着くのは不可能そうに見えた。

 

 ――せめて、一撃……!

 心の奥でそう強く願うのと、自身の身体が白い光に包まれたのは同時だった。

 背中に何か温かいものが着弾し、軽い衝撃と共に身体に力が戻ってくる。十全には程遠いが、一足飛びに接近できるだけの力は得た。

 

 それで、ルチアがやってくれたのだ、と直ぐに分かった。

 自分の治療が終わったか、あるいは後回しにして術を使ってくれたのだろう。

 感謝と共に、足に力を入れ、勝利の確信と共に床を踏み抜く。

 

 ――その時だった。

 岩槍が完成し、突き殺そうとその穂先を伸びて来る。

 この場合、アヴェリンが足を踏み出したのが拙い。千載一遇の好機と分かって、気が逸った。

 

 岩槍を避けて踏み出したつもりだったが、その動きすらも分析されていた、という事だろう。

 穂先は躱したと思う先にも生まれていて、そこへ自ら突き刺さりに行こうとしている。

 

 ――馬鹿をやった……!

 悔恨のまま顔を歪め、ゆっくりと流れる光景の中……突き刺さろうとする穂先を、目を逸らせずに見つめる。

 

 アヴェリンの胸中を占めるのは、勝機に飛び付いた己の浅はかさ、その愚劣さに対する怒りだった。

 そして、仲間への謝罪が次に浮かぶ。

 

 ルチアにも魔術の無駄打ちをさせてしまった。

 既に虫の息だったユミルに使っていれば、まだしも有効に戦局を動かしてくれていただろうに。

 

 そして、プツリ、と穂先が肌に食い込む感触がした瞬間――。

 視界が揺れて、全く別の場所に立っていた。

 

 何がと思わずとも、何が起こったのか理解してしまう。

 アヴェリンが居た場所と入れ替わり、ユミルがその場に移っているのだ。元の体勢の問題か、肩口を貫かれて、宙吊りの格好になっているのが見える。

 

「――ユミルッ!!」

 

 駆け寄ろうと一歩踏み出し、岩槍を砕こうと二歩目を蹴った。

 その瞬間、互いの視線がガッチリと合う。

 眼光を失っていない、強い目をした視線だった。

 

 その視線が言う。

 誰もが捨て身で挑むのだと。お前はそのまま敵を砕けと。

 

「ぐぅゥゥゥ……ッ!!」

 

 アヴェリンは歯を砕く程の力で噛み締め、三歩目で進行方向を変え、四歩目でグヴォーリの眼前まで肉薄する。

 グヴォーリは信じ難いものを見たような表情で、振り上げるメイスの動きを追っていた。

 

「――ッ、ダァァァアアッ!!!」

 

 アヴェリンが全体重を乗せた一撃は、逸れる事なくグヴォーリの頭へと吸い込まれていき、直撃と共に部屋全体を揺らした。

 ドグォン、と成竜同士が頭突きをしたかの様な音と衝撃が響き渡り、グヴォーリの身体が縦に揺れる。

 

「あぁぁ! あぁぁ! アァッ!!」

 

 二度目で手足が放り出され、三度目で完全に抵抗を失くし、四度目で頭が砕けた。

 鮮血が飛び散り、それでも飽き足らずもう一撃加えようとして、その身体が光に包まれた。

 

 飛び散った血液は、床に触れるよりも前に、時間が止まったかのように動きを止める。

 そうして、血液は光の中に螺旋を描きながら吸い込まれていく。まるで、血一滴すら神の肉体であると示すかのように。

 

 全てが光の中に包まれると、次第に球形を取って拳大の大きさまで縮む。そうすると、天井を突き破って、どこか遠くへ飛んで行ってしまった。

 カリューシーの時にも見た光景だった。神が死ぬ時というのは、誰もがあの様な変化を見せるのかもしれない。

 

 アヴェリンは目の端でそれを追うのと同時、今し方、倒れ伏したユミルへ駆け寄る。

 既に岩槍は塵に変わって消えており、支える物もなくなったユミルは、頭から床へと落ちてしまった。

 そこへ覆い被さるように近付き、うつ伏せになった身体をゆっくりと戻してやる。

 

「ユミル……っ」

「……なんて、こえ……だすのよ……」

 

 ユミルの顔には、先程まであった激情の意志がない。

 まるで抜け殻のように正気がなかった。体中に穴が空き、とりわけ肩口の傷が深く、今も血が流れ出している。

 

 わなわなと震える手で、出血を少しでも抑えようと傷口を押さえ、そして掌に返って来る感触に違和感を覚えた。

 不思議に思って掌をどけると、やはり止めどなく溢れる血と、抉られた傷が見える。

 

 理解が追い付かず眉を顰めたが、疑問を答えに返る余裕などない。

 何よりもまず、出血を止める方が先だった。

 首を巡らせてルチアを探す。

 

 やはり傷の治療はアヴェリンを優先したらしく、ルチアの傷は殆ど癒えていない。肩を抑え、足を引き摺りながら近寄ろうとしていた。

 出来る限りの速度で近付いていると分かるが、その歩速には思わず顔を顰めてしまう。

 

「ルチア、早くしろ! 傷が深すぎる!」

 

 不慮の事態に備えて、水薬は誰もが持っている。

 だが、広く知られた水薬の弱点として、即効性が薄いという問題があった。

 簡単な切り傷、擦り傷なら即効性があるような癒し方を見せるが、深い傷となれば簡単にはいかない。

 

 深すぎる傷には効果が及ばない事も多く、特に臓器の欠損などある場合には、使わない事を推奨されている。

 表面の傷ばかりが治って内蔵がそのままであったり、癒えてる様に見えても表面的でしかない場合もあった。

 

 とりあえず出血を抑える事だけは可能とはいえ、それも傷の種類によって変わって来る。

 ここまでの深手に対して水薬を使った経験もなく、そしていつも魔術の治療に頼っていた事が災いした。

 この手の深手に対し、とりあえず水薬を使う事が有効なのか、アヴェリンには判断できない。

 

 アヴェリンは肩の傷を強く押し込みながら、ユミルの顔を覗き込む。

 すると、焦点の合わない目が無機質に見返して来て、背筋が凍る思いで、必死に呼びかけた。

 

「気をしっかり持て! すぐにルチアが来る!」

「……まったく。ざまぁみろだわ……」

 

 ユミルの声は、か細く小さい。

 ルチアの足を引き摺る音さえ響いて聞こえるというのに、ユミルの声は耳を近付かねば聞こえない程だった。

 

「なんだ、何を言ってる……!? いいから、今は喋るな!」

「いまも……あるいは……。かみのいずれか、ぬすみ見てるの、かしらね……」

「そうかもな! いいから、そんなこと後で幾らでも聞いてやる! だから……!」

 

 ユミルが一声漏らす度、命が漏れ出ていくような気がした。

 そして生気の感じられない目は、全てを諦めてしまっているような気がする。

 

 ユミルは自分の命も含めて、損得を考え行動できる奴だ。

 あのタイミングでは動けない自分より、アヴェリンを優先するのは当然であったかもしれない。

 実際に、助けられた、という実感もある。

 

 見捨てる、という事前の話し合いすら、ブラフとして使ったからこそ有効な手だったろう。

 あの時見せたグヴォーリの驚嘆と悔恨は、それに騙され自分の死を悟ったから見せたものだったに違いない。

 

 ユミルは己の死を軽く見たりしないが、同時にここぞという時に躊躇いもしなかった。

 そして、己の死を正しく見据えていたからこそ、今の諦観がある。

 

 自分の役目は果たしたと、(せい)を諦めようとしていた。

 アヴェリンはそれを吹き飛ばしてやりたくて、とにかく必死に声を掛ける。恐らく遠くなって来ている耳に、少しでも届けばと思って声を大にした。

 

 そして、その声に耳を傾ければ、生への執着を取り戻すかもしれない。

 そう考えて、アヴェリンは必死に頭を働かせて、渇望を取り戻せる単語がないかと探す。

 気ばかりが焦り、ろくに考えが纏まらない中、それでも一つの事が思い当たった。

 

「――そうだ、神々が見ているぞ! お前の死に様を! 一族の仇を討つんだろうが! 本命はまだ残っている! ミレイ様も戦っているだろう! 加勢に行かなくて良いのか!」

「……ざまぁみろだわ……」

 

 アヴェリンは必死に声を張り上げるが、いまいち会話が噛み合っていない。

 吐き出す息が震え、目尻に涙が溜まる。声を掛けながら、首を動かし、ルチアはまだかと祈りながら睨み付けた。

 

「ルチア、駄目だ! 早くしてくれ!!」

「……分かって、います……ッ!」

 

 ルチアも嫌がらせで、歩みを遅くしている訳ではない。

 彼女も必死で、歯を食いしばりながら、杖に体重を乗せながら近付いて来ている。

 

 そうしてようやく辿り着いた時には、アヴェリンの声に反応すら示さなくなっていた。

 だが、ルチアが制御を始めた時には機敏に反応し、差し伸ばしていた手を握って止める。どこにそんな力が残っていたのか、と驚愕する程、力強い動きだった。

 

「……まりょくが、()()()()()。とっておきなさい……」

「そんなの、そんな事……分からないじゃないですか!」

「構うな、早く使え!」

「ざまぁみろよ……」

 

 アヴェリンが声を張り上げても、ユミルは手を離さず、掴む力も変わらない。

 そして先程から繰り返す、ユミルの言葉の意味が分からず、アヴェリンは困惑する。

 ルチアへ急かすように顔を向ければ、ルチアも無視して制御を再開した。

 

 それでもユミルは変わらず繰り返し、そうして合うか合わないかの焦点でアヴェリンを見て来る。

 その様子を見せられれば、もはや吐き出す言葉を止める気がないと分かった。

 だから、話させるのは拙いと分かっていても、つい聞き返してしまった。

 

「なんだ、何が言いたい……!」

「アンタって……。アタシに……、たすけられるの、ぜったい……イヤでしょ……」

「そうだ、そうだな! 借りが出来た! 返すぞ! 必ず返す! だから――」

「まったく……、ざまぁみろだわ……」

 

 息を吐くようにそう言うと、ルチアを掴んでいた手が落ちた。

 ユミルの目は、空虚に一点を見つめるだけで、もはや一切の動きを見せない。

 

 「ぐ、う、うぅぅ……、ぅぅぅ……っ!」

 

 嗚咽を漏らすまいと、必死に歯を噛みしめているのに、その隙間から漏れ出る声を止められなかった。

 ルチアもまた、強張らせていた肩が落ち、纏まりかけていた制御を止める。

 息が徐々に荒くなり、次いで身体が震え、膝から崩れ落ちた。

 

 後にはただ、二人の嗚咽が部屋に満ちた。

 



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しばしの別れ その7

 アヴェリンは腕で乱暴に涙を拭い、それからユミルの腕を優しく取る。

 次から次へと涙が溢れて止まらないが、いつまでも足踏みしている事は許されなかった。

 

 今もきっと、ミレイユは戦っている筈だ。

 ひと柱を既に弑した後かどうか、それはアヴェリンにも分からない。だが何れにしても、今も奮戦している事は疑いようがなかった。

 

 アヴェリン達が歩みを止めた分だけ、彼女の不利が続き、そしてそれが敗北に繋がる。

 苦渋の決断ではある。

 だが、その所為でミレイユまで失う事になれば、アヴェリンは決して己を許せない。

 自分の身代わりとなったユミルの為にも、その死に報いるだけの事を成さねばならなかった。

 

 アヴェリンは、ユミルの両手を鳩尾の上に乗せて、重ね合わせる。

 彼女に相応しい埋葬様式を知らないが、どちらにしても暫く、この場に置いて行くだけだ。まさかこの場で埋葬する訳にいかない以上、他にやりようもない。

 

 アヴェリンは今も空虚に見つめるユミルの目に手を翳し、瞼の上を優しく擦るようにして閉じてやった。

 

「……しばしの別れだ。友よ、安らかに眠れ」

「……きっと、待っているのは得意ですよ。永く生きてきた……っ、人ですからね……!」

「そうだな……」

 

 涙で顔を濡らしながら、ルチアは髪を梳くように頭を撫で、乱れた髪型を戻していた。

 そうして、唐突にその動きが止まる。

 悲しげに伏せられていた表情も不自然に固まり、それは死を悼むというよりも、まるで思案するかのように見えた。

 

「……どうした、ルチア」

「いえ……。ユミルさんの為にも、私たちは進まないと。それが、神を穿つ一矢になるかもしれないんですから」

「正しく、その通りだな。ユミルの仇と、あいつの代わりにゲルミル一族の仇も取ってやらねばならん。必ず、相応の報いをくれてやる……ッ!」

 

 アヴェリンは腹に力を入れて立ち上がり、溢れる涙を乱暴に涙を拭って顔を上げた。

 その死を悼み涙を流すのもこれまで、悲哀は戦場に持ち込んだところで意味がない。

 全てが終わった後、酒と共に送り出してやるべきで、そしてその為には、余計な感情は邪魔だった。

 

 ルチアも最後に一撫でしてから手を離し、視線を切って立ち上がる。

 放り出すように地面へ落としていた杖を取り、水薬を取り出しては、コルクを抜いて口へ運んだ。

 

 それを見て、アヴェリンもまた同じ様に水薬を口に含む。

 喫緊の状態で癒して貰うならルチアに頼むべきだが、ルチアも無尽蔵に魔力を持つ訳ではない。攻撃や支援、結界や治癒と扱う魔術の幅も広いからこそ、頼りにされる場面も多かった。

 

 これから何戦するかも分からない状況だから、節約できる部分は節約しなければ保たない。

 水薬は時間と共に効果を継続して発揮するものだから、こういう余裕のある時、口にしておかねばならないのだ。

 

 また、貴重な材料を使った高級水薬を所持していない、という理由も大きかった。

 無い物ねだりをしても仕方ないが、『箱庭』があったら、と思わずにいられない。そうすれば、遥かに効力の高い水薬で癒す時間も短縮できただろうに。

 

「急いで向かいたいところだが、現在位置も分からんのではな……。奥へ行けば良い、という話だったが、その『奥』が何処だという話でもあるぞ」

「仮に分かったところで、近場であるなら、やっぱりすぐ駆け付けるべきでもないと思います。……せめて、今の水薬が効果を発揮し切るまで待つべきです」

「そうだな……、我らは手負いだ。完全に回復するまで待てないまでも、戦闘に参加するなら、足手まといになる状態で飛び込む訳にはいくまい。戦闘続行に支障がない状態まで戻すのは、義務とすら言える」

 

 互いに頷き合い、まずは部屋から出ようと踵を返す。

 どちらにしても、現在位置を把握しておかねば話にならない。

 状況次第では回復を待つなどと、悠長な事を言っていられないかもしれないし、何より敵は神だけではないだろう。

 

 何らかの兵を擁しているのは間違いなく、それはインギェムの口からも聞いている。

 彼女が言っていた兵は直接戦闘するタイプのものではないようだが、しかし神の手足として働く者がいるのなら、武力を持つ兵もやはりいる筈だった。

 

 それらが今の今まで攻め込んで来なかった事は不審に思うが、単に部屋の位置が問題だったのかもしれない。あまりに辺鄙な場所にあるのなら、合流もやはり遅くなる。

 

 アヴェリンは最後にユミルを一瞥し、眉根に深く皺を刻んでから、断ち切るように身体ごと正面を向いた。

 ルチアもまた、同じ様に視線を向けていたが、悔恨とも憐憫とも違う、悼むものとも違う目をしていて不思議に思う。

 

 そのまま暫く見つめていたが、アヴェリンの視線に気付き、慌てて顔を下に戻した。

 どうにも取り繕ったものを感じ、不審に思って声を掛ける。

 

「どうした、何かあるのか……?」

「あぁ、いえ……。ユミルさんが敵兵に見つかると厄介な事にならないか、と少し考えてしまっただけで……」

「それは……うむ。敵兵からしても、神を弑した仇敵だ。腹いせに何かする可能性はあるか」

 

 言われて初めて、アヴェリンもその可能性に思い至った。

 死体の損壊だけでなく、首を晒すなどの辱めを受けるかもしれない。アヴェリンとしては、決して認められない事態だった。

 

「どうにか防げないか? 未だにその敵兵が姿を見せないのは気になるが、派手な戦闘音は響いただろう。確認に来る事くらいはする筈だ」

「未だにこちらへ来ていないのは、それこそ先にラウアイクスの方へ行った所為かもしれませんけど」

 

 それもまた、十分考えられる事だった。

 ルヴァイルにナトリアがいたように、ラウアイクスにも神使がいる筈だ。だから、その兵が動くのだろうと思ったが、これは逆かもしれない。

 

 その数は多くないだろうが、今回の異変に際して、主神を護ろうと動く事は当然考えられる。

 敵に攻め込まれる事を想定しないからこそ、あちこちへ回す兵力など無いだろうし、だからこそ遠方の様子を見に行く余裕などないのかもしれなかった。

 

 忠誠と信仰を向けているのは自身の神だけなのであって、その安全の為ならば、極論――他の神など、どうでも良いのだ。

 

「だが、そうなると少し困った事になるな……。インギェムがラウアイクスの拘束を担っていた筈だったろう? 戦闘に向かないと言う神が、その神使に対応し続けられるものか?」

「そこは確かに、疑問な所です。最悪を回避するか、傷を無視するかの選択を迫られますね」

 

 そう言って、ルチアはむっつりと押し黙った。

 戦闘を始めて随分と時間が経っているから、救出か救援かに駆け付けるつもりなら、当に到着している頃だろう。

 

 各個撃破が理想、という話だったのに、その前提が崩れるなら、いかにも拙かった。

 今もミレイユがシオルアンを凌いでいる状況かもしれず、そこへ合流される事態となれば、悠長に回復を待ってもいられない。

 そして最悪の事態とは、ミレイユを喪ってしまう事だ。

 

 それを回避する為ならば、戦力として十全な役に立てない、という理由さえ些事だった。

 アヴェリンはルチアへ向き直ると、力強く頷く。

 

「最悪を回避する事が優先される。温存などと言っている場合ではないぞ。まずラウアイクスの確認をせねばならない」

「了解です。でも念の為、扉の方は魔術錠を施しましょうか。潜入、隠密が得意なユミルさんクラスでなければ、解けないものを使っておきます」

「それで良いだろう。ユミルほど得意な奴というのも、そうは居ない筈だ。戦闘音もしない部屋となれば、後回しにする可能性も高いのではないか? ――それでやってくれ」

 

 またも了解です、とルチアが短く返事して、締めた扉に魔術を掛けていく。

 ごく短い時間でそれを済ますと、一応しっかりと機能しているか取っ手を動かし、満足気に頷いて扉から離れた。

 

「では、急ぎましょう」

「そうだな。とはいえ、……『奥』とはどっちだ」

 

 アヴェリンは部屋の通路の前で、左右へ忙しなく顔を動かした。

 道は広く、その両端には小川の様な水が流れていて、正面は壁だ。途中いくつも扉が見えるものの、今し方出てきた扉と造形に違いがない。

 

 部屋の中に違いはあるのだろうが、だからこそ、その先が目的地に繋がっているとは思えなかった。

 通路は長く、その先は直角に曲がっていて、どちらへ顔を向けても先を見通せない。

 まずは勘で動くか、と足を踏み出した時、隣からルチアが声を上げた。

 

「まぁ、そうですね……。『奥』というからには、水流を逆上れば良い、という事ですかね?」

「水流……。この道の端に流れているヤツか?」

「目印となって、見れば分かるという発言から考えると、他にめぼしいものも見当たりませんし……」

「なるほど、今はそれを目安にするしかなさそうだ。――では、こちらか」

 

 アヴェリンは顔を左に向けて走り出す。

 ルチアを置き去りにする訳にはいかないので、抑え気味に走っているが、今にも置いて走り出したい衝動に駆られていた。

 走る程にその感情が高まりだして、抑え続ける事は相当な労力を要する。

 

 何とか自制して体中に籠る力を抜いて、噴き出す様に、荒く息を吐く。

 そうして走りながら、不意に思う。

 

 確信もなく、多分そうだろうというつもりで走り出したが、実は全く逆の方向へ走り出しているかもしれなかった。

 ミレイユならば、こうした場合、何かしらの保険というか、同時に行える手は使っていたものだと思い直す。

 

「ルチア! 探知を使って、より詳しい場所を探り出せないか? 漠然と走るより、そちらの方が早い気がするんだが!」

「既にやってみましたけど、難しいです……! 多分、他から盗み見られないような対策がされているんだと思います!」

「他……? 人が魔術で、場所を探したり出来ないようにか?」

 

 実際、神の住処が今まで不明だったのは、その所為もあったのではないか。

 神の実在を事実として知っていて、何処に居るのか、という疑問を疑問のままにしておける者ばかりではないだろう。

 魔術という手段も持っていて、過去試みる事さえしなかったとは思えなかった。

 

 しかし、ルチアはそれに、同意しつつも否定する。

 そして、より確度の高い答えを口にしてくれた。

 

「それも有り得る話ですけど、話はもっと単純でしょう。互いに監視し合う関係だから、むしろそっち対策で、見えなくしてるんじゃないですか? 表向きは協力的姿勢を見せつつ、裏では……なんて事よくありそうですし」

「それもまた、実に納得できそうな話だ」

 

 だが、ルチアの探知が難しい、というのなら、今は推測で動くしかなかった。

 そして見れば分かる、とインギェムが言っていた事を考えても、分かり辛い方法で道を示しているとは考えられなかった。

 

 案内板ほど分かり易いものがあるとは思えないが、道順が分かるようになっている何かがあるなら、それは道の両端に流れる水しかないと思う。

 

 もどかしい気持ちで走っていると、次第に遠くから、何らかの戦闘音が聞こえて来た。

 金属同士を打ち付ける様な音や爆破音など、それらがくぐもった音で伝わって来る。

 

 思わず、ルチアと互いに顔を向け合った。

 無言で頷き合うと、更に足へ力を込め、一秒惜しむように走り出した。

 



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生死急転 その1

 シオルアンを打倒し、アキラを先導させ部屋から出た後、ミレイユは異常な静けさに眉を顰めていた。

 元より戦闘にお誂え向きな場所へ移動させられたとはいえ、騒ぎを聞きつけた兵士なり神使なりが来ても良さそうなものだ。

 

 神の本拠地にあって、その無能を期待するのは愚かな事だった。

 ならば、罠――あるいは待ち伏せ、それを警戒すべきだろう。

 

「アキラ、注意しろ。敵の待ち伏せがあるかもしれない」

「は、はいっ! でも、何処に……? 僕は相変わらず、魔力の感知が下手くそでして……!」

 

 アキラは慌てたように顔を左右へ向けた。しかし、敵の姿も、気配すらどこにもない。

 視界の先は通路以外に何もなく、道の両端を通った小川が特徴で、単に無人であるばかりでなく、がらんどうな雰囲気を醸している。

 

「私も確信して言ってるんじゃないんだ。ただ、あまりに静かすぎる。……妙だ」

「それは……、言われてみると……」

 

 出てきた部屋が、物置にすら使われていなかった事からして、普段使いから離れた場所にあるのだろうと分かる。

 埃臭くも黴臭くも無かったから、掃除だけはしてあるのだろうが、あれほど派手な戦闘音がして注意を引かないとは考えられない。

 

 理由があるとするなら、別の戦闘に駆り出されていて、こちらまで手を回す余裕がない、などだが……想像で決めつけるのは避けたかった。

 

「分からないなら、待ち伏せがある前提で動く。曲がり角には特に注意しろ。相手が不意を打つつもりでいるなら、ユミルがやるように、幻術で隠伏する方法を併用するだろう」

「う……! は、はい! ユミルさんが本気で隠れたら、僕なんかが見つけられるとは思えないんですけど……?」

「お前では難しい。……だが、最初の一撃を凌げればチャンスはある。いつでも防御の気構えを、崩さないようにしていろ」

「りょ、了解です……!」

 

 少し脅しつけ過ぎたが、アキラは大袈裟なほど警戒させている位で丁度良い。

 そして実際、一撃でも耐えたなら、その隙にミレイユが応戦するなり、フォローなりをしてやれる。

 後の問題としては、ラウアイクスの居場所が分からないという致命的な点があった。

 

 インギェムはとにかく奥へ進めとしか言っていなかったから、『奥』と思える方向へ進むしかない。

 だというのに、いま見える範囲では奥も手前もないのだ。

 しかし、足を止めている訳にもいかないし、今の所は歩いている内に判別が付く事を期待するしかなかった。

 

 そうしてアキラに指示を出して歩かせた後、通路の合流地点で小川の流れに気が付いた。

 一定方向から流れてくる水が、最奥から流れてくる仕組みになっているとするなら、『奥』へ行く事は容易い。

 

 ――あるいは、それは『手前』へと繋がるものかもしれないが……。

 どちらにしても、道標となるものがあるのなら、まずはそれに沿って動いた方が賢明だ。

 

「アキラ、曲がり角で迷ったら、水が流れて来る方向へ進め。一先ず、それで行ってみる」

「了解です……!」

 

 忙しなく周囲を警戒しながら頷いて、アキラは刀の柄に片手を添えながら進む。

 しかし、どこまで行っても伏撃はなかった。

 拍子抜け、気の抜けた瞬間、それを狙っての事かと思ったのだが、最後の丁字路を曲がった時、インギェムの姿を確認して、どうやら最奥まで辿り着いたのだと悟った。

 

 そのインギェムは、固く閉まった巨大な扉に両手を向けて、苦渋に顔を歪めていた。

 通路から顔を覗かせ、次いで身体まで出せば、流石にインギェムもこちらに気付く。

 眼の前に集中していた様だが、汗を垂らした顔を向け、ミレイユの顔を見るなり安堵の溜め息を吐いた。

 

「……遅いって。こっちはギリギリだ……! だが、間に合ったな!」

「言っておくが、別に楽な相手じゃなかったからな。何が戦闘向きじゃないだ。大体な、ここまで来る間も、伏兵を警戒せずには進めないし、時間は掛かって当然だ」

「いる訳ないだろ。そんなの真っ先に、こっちに向かって来てたんだから。そんで、来た奴全員、己の神処に繋げてやって閉じ込めた。だから、弑したってんなら、形振り構わず来りゃ良かったんだ」

 

 インギェムは不満も大きくそんな事を言ってのけたが、そうならそうと最初に言っておけ、という話だ。

 その辺りの手順や作戦など、全く話し合いもなしに上手くやれ、というのは虫が良すぎる。

 

 流石に文句の一つでも言ってやろうと一歩踏み出したが、それより先に、インギェムが根負けするように顔を仰け反らせた。

 

「何でも良いから、早くラウアイクスの相手してくれ! 抑え付けとくのも限界なんだ!」

「あぁ、分かった。――少し待て」

 

 ミレイユはアキラへ顔を向け、扉の前に立つように示す。

 そうすると、ミレイユの盾となれる位置まで移動しつつ、刻印を発動させた。

 ミレイユもそれに合わせて、各種支援魔術を自分とアキラの両方に使う。

 

 魔力を消費する毎に鈍痛が走るものの、ここは惜しむ所ではなかった。

 先程と違って、事前準備をする時間が取れるなら、有効に使わない手はない。

 全ての支援を掛け終わり、ミレイユがインギェムへと目配せすると、食い縛った歯を見せながらにこやかに笑う。

 

「それじゃ、頼むぞ。ラウアイクスによろしく言っといてくれ。己はルヴァイルと合流して、オスボリックを止めなきゃいけねぇ。……結構時間経ってるからな、ルヴァイルがどれほど足止め出来てたか不明だが……。とにかく、上手くやれる事を願っといてやるよ」

「あぁ、互いにな。ヘマするなよ」

「全くよ……、だから神に言うセリフじゃないんだよなぁ……。でもま、お前なら仕方ない」

 

 インギェムは脂汗を浮かせた顔でニカリと笑うと、すぐに顔を引き締める。

 

「――おら、繋ぎ止めとくのも限界だ! 行くぞ!」

「あぁ、やれ!」

 

 ミレイユの掛け声と同時、それまで僅かに振動していた扉が、凄まじい勢いで開け放たれる。

 拮抗していた力が、それで暴風となって駆け回り、ミレイユは思わず目を細めて片手で顔を庇った。

 

 直接的な衝撃で殴り付けて来るようなものではなかったものの、その威風がラウアイクスの怒りを顕にしていると、嫌でも分かる。

 

「アキラ、行け!」

「はいっ!」

 

 ミレイユが一声掛けると、アキラは弾かれた様に飛び出した。

 室内には馬蹄形をしたテーブルがあり、その中心部分に座った青髪の男神が、顔を顰めてこちらを見ていた。

 

 しかし苛立ったり、焦ったりといった様子は見られない。

 想定以上であっても、想定外ではない、と言っているかの様だった。

 

 アキラを前面に立たせて突撃させていると、ラウアイクスは腕を払う様な動きで迎撃してきた。

 その一振りで部屋の最奥、そして端に流れている水が、幾つも鎌首をもたげて、一斉に襲い掛かってくる。

 

 蛇のような形を取って襲って来るだけあって、まるで水流そのものが意志を持っているかのように錯覚してしまう。それが視界いっぱいに、四方八方から貫こうとしていた。

 

 相手は水源と流動を権能に持つ神だ。

 当然、水を使って攻撃して来る事は予想済みだ。だから、ミレイユも事前準備として、制御していた魔術を行使する。

 

 『破滅の氷晶』と呼ばれる上級魔術は、部屋の中央で大きな氷の塊を出現させた。

 そこから立ち上る冷気が波紋の様に広がると、一瞬で周囲の水を凍らせる。

 この氷晶が存在する限り、周囲の水は氷漬けにする事が出来、水流を武器とするラウアイクスには非常に都合の悪い魔術となる筈だった。

 

 もう一度行使すれば、氷は爆発して砕け、対象へ散弾のようにぶつけてやる事の出来る魔術だ

 ただし、今はただ維持を続けるだけで、ラウアイクスの攻撃を防ぎ続けられるという効果になる。

 本来の使い方ではないのだが、この時ばかりは維持し続ける事が正解だった。

 

 とはいえ、相手の持つ水源の権能を持ってすれば、魔術の許容を超える量の水も作り出せるだろうし、神処の外には膨大な水が存在している。

 

 それらも好きに動かせるというのなら、この部屋の水を凍らせただけは全く意味がない。

 氷晶が放つ波紋の効果範囲も、部屋の中だけと言わず、大きなホールでさえ飲み込める範囲なのだが、周囲の水量を考えれば心許ないと言う他なかった。

 

 それでも一時、敵の攻撃を無力化できた。

 ――その間に、決着を付ければ済むことだ。

 

 アキラを左側面へ移動させ、ミレイユは右側から回り込んで、右手に剣を召喚する。

 氷漬けの水流を躱し、時に斬り付け進路を確保すると、ようやくラウアイクスも立ち上がって応戦の構えを見せた。

 

「はァァァッ!」

 

 アキラが下から、ミレイユが上から、それぞれ袈裟懸けに斬り付けると、ラウアイクスは背後へ跳躍して逃げる。

 その際、一振りした腕から水が渦巻くようにして発生したが、氷晶からの断続的に放たれる波紋に触れると、瞬時に凍り付いて固着した。

 

 アキラとミレイユが同時に床を蹴って方向転換し、ラウアイクスを追いつつ武器を振るう。

 最初に接近したのはミレイユの方で、わざと凍せた水を盾として使って来たが、直前で咄嗟に動きを変えて腹部を蹴りつけた。

 

「――グッ!?」

 

 それで一瞬、動きが止まったところで、改めて武器を振り下ろす。

 これには転がるように逃げ、まんまと躱された。

 だが、結果的に時間差攻撃となったアキラの一振りが、ラウアイクスの首めがけて打ち下ろされる。

 

 これにも水を生み出し防御とし、高速で流れる水勢によって、刀の軌道を無理やり捻じ曲げた。

 氷晶の波紋で凍り付くとはいえ、そのタイミング次第では水も即座には凍らない。狙ってやったか分からないが、中々上手い逃げ方だった。

 

 床へうつ伏せの状態で倒れたラウアイクスは、水とその流れを上手く利用して距離を稼ぎ、更に流れを利用して立ち上がる。

 すぐに凍り付いてしまうとはいえ、それすらも見越して水流そのものを、身体から弾き飛ばすという器用さを見せた。

 

 シオルアンの時と同様、戦闘向きではないという話は、一端忘れた方が良さそうだった。

 結局のところ、魔術の使い方と同じ事が言える。魔力が大きい、大魔術を使える……だから、強い魔術士とは限らない。

 

 少ない手札であろうと、油断ならない戦い方をする者は幾らでもいた。

 何事も使いようだから、頭の回転の早い奴は、周囲の環境を利用するのも上手い。

 ラウアイクスも正にそのパターンで、その戦闘センスが脅威足り得た。

 

 ――あまり手札を見せる前に、倒してしまいたいが……。

 下手に対応され始めると、厄介というだけでは済まないだろう。

 ミレイユは念動力で、斬り落とした氷を飛礫として目眩ましに使いながら突貫する。

 

「フン……!」

 

 だが、ラウアイクスと飛礫の間に滝が生まれ、更に凍り付くことで壁にしてしまい無効化されてしまった。

 同時にミレイユも、迂回するか破壊するかの選択を迫られる。

 壁の向こうで、ラウアイクスが次なる一手を備えている事を思えば、視覚が切れてる所へ、無防備に突っ込むのも避けたい。

 

「全く……ッ! 忌々しい真似を!」

 

 ミレイユは魔術で氷塊を作り出すと、それをぶつけて壁を破壊し、そのまま自身もまた剣を構えて突っ込んだ。

 



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生死急転 その2

 接近戦なら分があると思ったのは間違いではなかったが、そう簡単に有利を取らせてくれる程、易しい相手でもなかった。

 ミレイユが剣を振るう度、水流を生み出して妨害して来て、それが一々凍り付いてしまい、即興の盾として機能してしまっている。

 

 実に忌々しい事だが、ミレイユの魔術が敵に利用される形となっていた。

 しかし、『破滅の氷晶』を解いてしまえば、ラウアイクスの独壇場を許す事になってしまう。

 権能を自由に使われる脅威は、さきほど存分に味わったばかりだ。

 同じ轍を踏む訳にはいかない。

 

 ――とはいえ、やり難いッ!

 ミレイユは胸中で歯噛みする。

 

 水の形は変幻自在だ。時に盾として、時に槍として生み出し、凍り付く事まで活用して攻撃して来る。初めての事態でもあるだろうに、柔軟な対応を見せて来るのは実に厄介だった。

 

 だが所詮、どれも単に凍っただけの水だから、防御力も攻撃力も皆無に等しい。

 だが、妨害するだけに徹したやり方は、ミレイユとアキラの行動を阻害するのに十分役に立っている。

 

 一度に生み出す水量も自由自在だから、時に全くの巨壁として使われる事もあり、上手く攻め立てる事が出来ない。

 相手が逃げに徹している事を加味しても、ミレイユの猛攻を涼しい顔で凌いでくるのは、実に癪だった。

 

 そしてミレイユからしても、左手を『破滅の氷晶』の維持に割いているので、新たに別の魔術を使う事が出来ないでいる。

 放棄するか、本来の用途である爆散させるかすれば、もっと多岐に渡る攻撃方法を取れるのだが、それは相手にしても同じ事。

 ミレイユの使った魔術が有利にも、不利にもなっているのは、ラウアイクスの戦闘運びが上手いからだ。

 

 ――だが、ミレイユには仲間がいる。

 何も時間に追われて倒す事などせずとも、アヴェリン達が勝利して合流すれば、現在の拮抗も崩れるだろう。

 ミレイユとしては、手傷を負う事なく現状を維持するだけでも勝利に近付くのだ。

 

 ならば、とミレイユは方針を切り替えた。

 どうせなら時間稼ぎに集中した方が、勝機が見えるかもしれない。

 ミレイユはアキラへ目配せして、ハンドサインで後ろへ下がるように指示する。

 

 アキラが素直に従うのを見届けると、ミレイユも大きく後へ跳躍して距離を離した。

 だが、アキラは盾としての役目があるので、下がれという指示があっても、すぐに傍へとやって来る。

 警戒を滲ませながら、刀の切っ先はラウアイクスから逸らさずに構えた。

 

 いつでも迎え撃つ準備はしつつ、ここで初めて攻め込む姿勢を崩したミレイユに、ラウアイクスも興味深そうな視線を向けて来た。

 

「ほぅ……、対話する姿勢などあったのか。お前は一言たりとも、私に喋らせる気がないと思っていたのだがね……。『武器を下ろして投降しろ』……あぁ、やはり駄目か」

「その口振りからすると、無意味とも理解していたようだな」

「一言でも口にさせれば負けると察知してるからこそ、あの猛攻だろうと思っていたのも事実だが……。でもまぁ、これでルヴァイルは虚実入り交えて報告していた、という確証は得られたか」

「今更知ったところで、もう遅い」

 

 その会話の節々から、余裕を感じ取れる事に違和感を持ちながらも、話を引き延ばそうと続けていた。

 ミレイユに時間稼ぎをする利があるように、ラウアイクスも同様にあるのなら、その様子にも納得がいってしまうのだ。

 

 そして、それはきっと、事実でもあるのだろう。

 外に飛び出した他の二柱の神々、それらがドラゴンを仕留めて帰って来る事を期待してない筈がない。

 

 ドラゴンは小神の処理役との話だったが、それだって願力を集めて強化される前だからこそ、天敵足り得たのではないか、と今更ながらに思う。

 ドーワが請け負ってくれたとおり、他の二柱を仕留める可能性は、勿論残されている。

 

 だが、現在の力関係がどうなっているかまで、ミレイユに推し測れるものではなかった。

 ただ思う事は、かつての様に、ドラゴン絶対有利の状況でないのは確かだろう。

 ではやはり、これは賭けだ。

 

 アヴェリン達が先に援軍として駆け付けるか、それとも……。

 ミレイユが問題とするべきは、まず目の前のラウアイクスだ。

 互いに決め手が欠ける状況、そしてラウアイクスが逃げに徹する状況では、どうにも責めきれない実情がある。

 

 だから結局、ミレイユはこちらの腹を探られない範囲で、時間稼ぎを試みる事は間違いではない。

 ――それもまた、見抜かれていそうではあるのだが。

 

「一応、訊いておきたい。……お前が全ての首謀者、という事で良いのか……?」

「何を持って首謀者と呼ぶのか、という話になるが、大抵のことには関わりがある。音頭を取っていたのも私だな。纏まりに欠ける連中だからね」

「私を拉致したのも……?」

「別にお前を狙い撃ちにした事実はないが……。まぁ、そうなる」

 

 ラウアイクスから、嘘を言っている気配は窺えなかった。

 そもそも、嘘を言うつもりなど無いのだろう。隠す必要は無いと思っていて、今更知られたところで意味もない、と思っているから言えるのだ。

 

 それが意味するところは明らかだった。

 ラウアイクスは、ここが決着の場だと思っていて、そしてミレイユ達の敗北は当然と思っている。

 

 圧倒的不利な立場にいるなど、まるで思っていない口振りだった。

 何か起死回生の手段を持っているのか、あるとしてどういう方法を用いて来るのか、それはミレイユにも分からない。

 

 おそらく、ルヴァイル達も知らないだろう。知っているなら、事前に説明ぐらいは出来たはずだ。

 ミレイユは、より警戒を強めて会話を続けた。

 

「では、お前だけは絶対に見逃せなくなったな」

「元より神ならば、誰であろうと見逃すつもりもなかった癖に、良くも言う。……とはいえ、こちらからも一応訊いておこう。今から恭順を示し、私の為に働く気はないか? 我が片腕として、迎え入れてやっても良い」

 

 アキラが息を呑んで不快感を示し、そして窺う様にミレイユを見てきた。

 その様な目をせずとも、最初から受け入れるつもりはない。仮にミレイユが圧倒的不利な場面であったとしても、やはり頷いたりはしなかったろう。

 

「……馬鹿にしているのか? 今更そんな勧誘に乗るほど、耄碌しちゃいない」

「勿論、思っていないよ。だから一応、と言っただろう。――だが、そうすると、少々面倒な事になるね……。洗脳の類も無理そうだ。大事なものと秤に掛けてやれば、揺らぐだろうかね……うん? どうなんだ?」

「無駄だ。今更、安い脅しに屈するような、生温い覚悟でやって来てると思うのか……!」

 

 これにはラウアイクスも表情を崩し、虚を突かれたような顔をした。

 ほんの一時、考え込む仕草を見せて同意を示す。

 

「そうだった。……手引があったにしろ、神域まで踏み入ろうとするのは、並大抵の覚悟で出来る事ではない。お前は穏便に済ませるつもりなどなかったのだろうが、お前一人が最初から恭順を示していれば、こんな面倒にはなっていなかったんだがね……」

「その穏便とは、お前たち神にとって都合が良いというだけの理由だろう。全て自分たちの為だ。自分以外は、全て食い物にしか見てない奴の発言だ」

「そうだな。だが、それの何が悪いかね?」

 

 ラウアイクスは悪びれる様子もなく、自明の理を解くように両手を広げた。

 

「誰だって、自分の利を第一に動くものじゃないか。後に返って来ると分かっていれば、事前の不利益にも目を瞑るが、損ばかりを受け入れる奴は愚か者と呼ぶのだよ。そして弱者はいつだって、損を被る側だ。私は違う、強者の頂点に立つ者……利のみが齎されるべき存在なのだ」

「だから後ろを顧みず、全てを奪って良いと言うのか。大神から地位を奪い、人民の命と権利を奪い、地球に危機を持ち込み、自分の世界すら削ってでも生きる。それが正しいと――それがお前の、神としての在り方か!」

「私もそこまで強欲ではなかったが……、結果としてそうなった。済まないとは思っているが……、大神の求めに応じた結果が、アレではね……」

 

 そう言って、肩を竦めて広げていた手を戻した。

 言う事から動作まで、何から何まで癪に障る奴だ、と唾吐く思いで睨み付ける。

 

「もう用済みと断じられ、破棄される者の気持ちも汲んで欲しいものだ。唯々諾々と死を受け入れるか、それとも反抗するか、あれはそういう選択だった」

「その部分だけ聞けば、同情の余地は十分あるがな」

 

 ミレイユとしても、似た理由で反抗を決意したようなものだ。

 だから、その気持ちは理解できる。ならば、自分たちも同じように反抗される、と考えなかったのがラウアイクスの傲慢さだ。

 

 ――いや、とミレイユは思い直す。

 それを理解しているからこそ、素体には安全装置として、精神調整を施し、肉体には短命という寿命を科した。

 

 自分たちと同じ様に反抗できないよう、予め手は打っていた。

 詰めが甘いとは言うまいが、それをミレイユが悉く脱して来たのは想定外であったろう。

 

「だが、勝手が過ぎるぞ。幾度となく小神を作っては、それを贄として来たから慣れたか? 汎ゆるものを犠牲にするのが当然となって、感覚が麻痺していたか? 恨みを買う行為は、いずれ必ず自分に返って来るものだぞ……!」

「あぁ、それを今更ながら実感しているところだ。想定外というものは、何処にでも転がっているものだ。ルヴァイルの裏切りも考えられない事じゃなかったが、まさかここまで段取りを付けて来るとは思っていなかったしね……」

 

 忌々しいものを見るように、ラウアイクスは眉を顰め、そのまま鋭い視線を向けてくる。

 

「お前も余計な事をしてくれたものだ。お前のその抵抗が、どういう結果を招いたか、本当に分かっているのだろうかね? 素直に捕まっていれば、『地均し』を持ち出させる事態になどならなかったろうに。――分かるか、世界の破滅だぞ」

「お前が始めた事だろう。この世界を磨り潰し、歪な形で持ち堪えさせていたツケが、いま形となって襲い掛かって来たんだ。(なじ)るというなら、自分の行いに詰るんだな」

「いいや、やはりお前は何も分かっていない。破滅というのは、こちらだけの話じゃない。お前の世界も同様だ」

 

 その一言には虚を突かれて、思わず言葉に詰まった。

 どういう事だと問い質す前に、ラウアイクスの方から説明して来た。

 

「お前は既にシオルアンを弑した。その神魂は『遺物』へ吸い込まれた。エネルギー源として取り込まれた以上、『遺物』に願って復活させる事も無理な話だ。これの意味するところが分かるか?」

「ギリギリで持ち堪えていた世界が、破滅に向かうと言うんだろう? だが、大神が復活すれば、全て解決してくれると聞いてるぞ。だが、それでどうして地球の話に……」

「そうか、それを知らなかったのだな……。孔は自動的であるものの、自動的足らしめん装置というものがある。これが中々クセモノでね……、言うことを聞いてくれぬのだ。上手く誘導する事で、とりあえず一つ所に集中する事にはなったのだが……」

 

 そこで一度、皮肉げに口の端を持ち上げ、視線もほんの数瞬、横へ逸れる。

 

「……まぁ、それを言っても意味不明だろうな。とはいえ、忌まわしくも手を付けられず、そのうえ勝手に動こうとするから、身動きを封じておくしかなかった。破壊も出来ない素材だから、丁度良い機会と、異世界に逃げたお前を痛めつける事を期待して捨てた訳だが……。ご愁傷様だな」

 

 言っている事の真意が掴めず、ミレイユは眉根に深い皴を刻んだまま困惑する。

 大神と地球、孔の開閉を自動的に行っていたという装置……。その関連性が見えない。

 

「確かにあれは、巨大な兵器だった。あの時は逃げ出すしか無かったが、逃げて終わりにすると思ったか。あれは必ず破壊してやる」

「……あぁ、なるほど。知らん訳か。ならば、まぁ……」

 

 納得と嘲笑、それをラウアイクスから浴びせられる事が我慢ならなかった。

 ルヴァイル達が意図的に隠していたのか、とも思ったが、ルヴァイルとしてもループの間に知り得る情報は限られる。

 特にループを維持する関係以上、自らの死や行動が著しく制限されるような言動は慎まなければならない。

 ラウアイクスが隠しているような内容その全てまで、何もかもループの間に知り得る事にはならないのだ。

 

 『地均し』には秘密がある。

 単なる兵器として――ミレイユを追い込む最後の一手として利用した部分は、確かにあっただろう。痛めつけ、半死半生の状態に出来れば、拉致も容易いという想定もあったかもしれない。

 だが、どうやらそういう事ばかりでもないらしい。

 訊いてやりたいが、素直に答えてはくれないだろう。

 

 だが、一つ分かった事はある。

 既にルヴァイルの想定から離れたところに、事は運んでいるのだ。

 全てを大神任せにする危険性は早くから気付いていたが、ルヴァイルがそれに賭けるしかないと判断したのなら、そこを信じるしか道はなかった。

 

 そして同時に、こうしてラウアイクスと対面し、対話して分かった事がある。

 ルヴァイルの計画に穴があったにしろ、ラウアイクスに世界を任せておけない。――おける筈がない。

 

「大神が復活したからと、全ての問題が解決する訳じゃないだろう。こちらが望む形と、多くが沿わない可能性も高い。……それでも、お前が世の上に立つよりマシだ」

「……ほぉ、下らん思い違いだ。そこからして間違っているのだな」

 



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生死急転 その3

 ラウアイクスは憐憫を感じさせる表情で、ミレイユよりも遥か遠く……もしかすると、ルヴァイル達へと視線を向けながら言った。

 

「後悔する事になるだろう。……だが、そうか。ルヴァイルも知らずにいたというなら、私の――私たちの欺瞞は、中々上手くやってくれていたらしい」

「何だ、何を言ってる……?」

 

 眉を顰めながらミレイユは言ったが、これには薄い笑みが返って来るだけだった。

 

「ふふ……。何もかも、問われた質問に答えるとは思わない事だ。だが、それに頼っての事となれば、こちらとしても、是が非でも『鍵』を利用せざるを得なくなった。使わせて貰うぞ、お前はその為に生まれたのだから……!」

「神々の身勝手は、うんざりなんだよ!」

 

 ラウアイクスが右手を突き出す構えを見せ、ミレイユもそれに応じて構えを変えた。

 その掌から指先程の大きさをした水弾が次々と射出され、ミレイユに届くより早く凍り付き、氷礫となって襲い掛かる。

 

 それを持ってる剣で振り払い、あるいは躱している所に、アキラが射線上に飛び出して盾となった。

 ミレイユの様に、小器用な剣捌きで全てを迎撃できている訳ではないものの、代わりに『年輪』が打ち漏らしを防いでいる。

 

 ミレイユはその脇を抜けてラウアイクスへと接近し、剣を振るう――が、逃げられた。

 水の激流は、当たる角度によっては容易に剣筋を鈍らせるし、その途中で凍り付き絡め取られてしまう事もあり、厄介さが増している。

 

 ミレイユの魔術が裏目に出ていると実感するが、これはラウアイクスが一枚上手と言えた。

 だが、凍り付いたものは動かせていない、そこは目論見どおりにいっている。

 行動の多くを潰せている筈で、全く無意味でもないのだが、先程の様に水弾は一度発射してしまえば、制御が聞かない事は問題にならなかった。

 

 盾のように使う水流も、床から壁の様にせり立ったところで、本来は邪魔になるだけの障害物にしかならない。

 無理にでも斬り裂くか、あるいは強制突破するだけだが、それも凍ってしまうから面倒な事になっている。

 

 無論、どれほど厚みがあろうと、単なる氷を砕くのは容易い。

 だが、その一瞬の硬直があるだけで、神からすれば距離を取るのに十分な時間なのだ。

 

 だから、ミレイユも詰め切れずにいる。

 ミレイユが剣を召喚する時、他の魔術を封入していたので、今も『爆炎』が込められていた。

 突き刺す事が出来れば、急所を外れていようとも内部から破壊でき、それは絶命させるだけの致命傷を与えられるだろう。

 

 ミレイユが扱う召喚法は、実体を喚ばない半召喚という技術なので、どれほど魔力耐性があろうと透過しまう。

 そこに魔力を変性させてコーティングし、切れ味を生み出しているので、その変性を一瞬解き、改めてコーティングし直す事で汎ゆる物体へ突き刺す事も可能という性質を持っている。

 

 だから、ミレイユの持つ召喚剣は、完全な魔力耐性さなければ、当たれば倒せる必殺の剣でもある。

 とはいえ、これまでの冒険で多用して来た戦法だからこそ、この特性はラウアイクスも知るところだろう。

 執拗に避ける事、逃げる事に徹しているのも、恐らくはそれが理由だ。

 

 ――警戒している相手に、その一撃をぶつける事は難しい。

 距離を取ろうとするばかりではなく、水弾をぶつけて来たり、足元に水流を生み出して行動を阻害しようとして来る。

 足首まで浸れば、たちまち凍り付いて拘束されてしまい、またも動作が一拍遅れてしまう。

 

 無理に動かし砕く事は容易いが、とにかくやり方が陰湿でやり辛かった。

 何が有効か、何を嫌がるか、それを自分の権能と組み合わせて使うのが抜群に上手い。

 

 ――たった一人で攻め切るのは無理だ。

 敵が使う妨害の手管が増え始めた段階で、ミレイユは早々に見切りを付けていたのだが、改めて実感せざるを得なかった。

 

 アキラも盾役として上手くやろうとしているが、やはり互いの呼吸というものが合っていない。

 互いが持つ力量の差、協力しての戦闘経験の無さが、ここに現れている。

 

「まったく……!」

 

 悪態をついたものの、アキラに対してのものではない。

 ラウアイクスが防戦一方である事に対する悪態だった。

 

 奴は明らかに何かを待っている。

 水を存分に使える状況でないから、という理由があるにしろ、攻め方が消極的すぎた。

 ミレイユの間合いに入りたくないのは分かるとしても、やろうと思えばもっと苛烈な攻撃も出来る筈なのだ。

 

 ――その時だった。

 神処を震わす衝撃が、ミレイユにも伝わる。

 

「今のは、一体……!?」

 

 アキラは敵から目を離さず、だが困惑した声で動揺する仕草を見せる。衝撃は大きかったものの、建物自体が倒壊するような、大きなものではなかった。

 そして、それと良く似た衝撃は、直近でミレイユも体験している。

 

 この部屋には窓がないから外の様子を確認できないが、もしかしたら、アヴェリン達がやってくれたのか、という期待感が募った。

 この膠着状態を崩すには、彼女たちの助けが必要だ。

 待ち侘びた瞬間だった。――しかし、それを待っていたのはミレイユだけではなかったようだ。

 

「決着が付いたか……。さて……?」

「さて、だと? どちらが勝ったかなど明らかだ。今あった衝撃は、神魂が外壁を突き破り、飛び出した時のものだろう。お前の不利が、また一つ増えたな」

「そうとは限らんよ」

 

 ラウアイクスが見せてくるのは、余裕の笑みだ。

 そこには虚勢も欺瞞もなく、本音から言っているのだと分かる。

 だが、味方が一人減るというだけでなく、神という世界の支柱を失った事に対して、大きな衝撃を受けていないように見えた。

 

 ここに来て、破滅願望が強まったという訳でもあるまい。

 ミレイユという『鍵』があれば、全てを引っくり返せると思っているなら、余りにも浅はかだし、そこまで蒙昧でもない筈だ。

 

 ――では、何が……?

 警戒を強めていると、ラウアイクスは遠い目をして視線を上に向ける。そうしてすぐに目を細め、口角が弧を描いた。

 

 感知や監視を妨害された空間とはいえ、ここが彼の神処である、という事実を忘れてはならない。

 妨害が可能というなら、それを解除する事もまた出来るのだろう。

 遠い目をしているのは、物思いに耽っているのではなく、実際に遠くの光景を目にしているというのなら、その態度も当然だ。

 

 ――だが、そんな余裕を見せて良いのか。

 今の内に斬り込むべきか、ミレイユは一瞬迷う。

 視線は上向きとはいえ、視界からミレイユを外すような愚を犯していない。攻撃は今まで通り、徒労に終わるだろうか。

 

 もっと自由に魔術が使えれば、と歯噛みする。

 魔術の行使は、両手で扱う方が、より制御が容易い。上級魔術を戦闘中に使うなら、まず片手で使う事は推奨されなかった。

 安全地帯から砲撃の様に撃つならまだしも、神ほど強敵相手に片手というのは、自爆に繋がりかねない危険な行為だ。

 

 剣を消して魔術に集中すれば、と考えてしまうが、どちらにしても有効打になり得る魔術を放つのは難しいだろう。

 特にミレイユの場合、左手で牽制の魔術を使い右手の剣で仕留める、という戦闘スタイルが確立されているから、魔術のみに頼った攻撃という事そのものが得意でなかった。

 

 魔術を上手く組み合わせて敵を翻弄し、あまつさえ倒してしまうのは、ユミルが得意とする領分だ。

 彼女が中級魔術を中心に使うのも、制御と威力、効果をバランスよく発揮するから、そうした戦闘スタイルが出来上がった。

 

 改めて、ミレイユは思う。

 自分達はチームだった。

 ミレイユは実際何でも出来るが、一人で何でもやるにはキャパが足りない。

 だから仲間がいるし、その存在をありがたく利用する。

 

 その味方が来るまで、現状を維持できれば、勝機は見えたようなものだ。

 ラウアイクスが何を企んでいようと、皆が集結すれば、圧殺して乗り切る自信が、ミレイユにはあった。

 その彼が見せる余裕の笑みに、唾吐きたい思いで睨み付けていると、不意に視線を戻して言う。

 

「実に僥倖だ。グヴォーリは見事、役目を果たしてくれた」

「私には分からないからと、言いたい放題か? 安いブラフが通じると思うなよ」

「そうかね? 確かにグヴォーリは弑されたかもしれないな。あれらも良く健闘したと言えるだろう。――だが、全くの被害なし、と考えるのは浅はかではないか?」

 

 そう言われて、ミレイユは一瞬息が詰まる。

 アヴェリンを始め、あの三人はこの世の冒険者と比較して、頂点に立つ者より更に上いく者達だ。

 その三人が連携を取って戦うなら、大抵の脅威は排除できる、と断言できる。

 

 だが、相手は曲がりなりにも神だ。

 彼らもまた造られた神であるものの、神へと昇華した存在には違いなく、戦闘タイプじゃないとしても、簡単に打ち倒せるほど簡単な相手ではない。

 

 勝てて当然、と気楽に構える事が出来ない相手だ。

 まして、手傷を負わないなど考えられず、重傷を負った上での辛勝であったとして不思議でなかった。

 戦闘が一つ終わったからといって、即座の戦線復帰は難しいと納得もしてしまう。

 

 アヴェリン達は勝った。だが、援軍として駆け付ける事は期待出来ない。

 ミレイユはそれを理解して、ラウアイクスが見せた笑みの理由を悟った。

 

「アキラ、気を引き締めろ。三人が来るまでには、まだ時間がいるだろう。盾役としての役目は分かるが、敵も浪費を狙ってる。誘いに乗りすぎるな」

「承知しました!」

「……ふむ、何か勘違いしているな」

 

 ラウアイクスは訝しげでありつつも、口の端に笑みを貼り付けたまま言う。

 

「お前はあれらの勝利を信じているようだが、残念だな。死んだよ」

「――あり得ない」

 

 ミレイユは即座に断言し、発言を切って捨てたが、ラウアイクスの笑みは崩れなかった。

 

「あれらが三人揃った時、あるいは神にも迫るかもしれない実力を持つ事は認めよう。グヴォーリにも油断があった……己が神である事実、人より遥かに優れた存在、その驕りが敗因に繋がったとも言える」

 

 そこまで言って、ラウアイクスは一度言葉を切り、笑みを潜めて鋭く見てきた。

 

「――だが、死力を振り絞り、それでようやく勝ちを拾える……、そういう実力差でもあった。その部分も、また認めて欲しいものだな」

「フン……!」

 

 確かにその指摘は、無視できるものではない。

 アヴェリン達は数多く傷を負ったかもしれない。だが、血塗れになりながら勝利を掴んだだろう。

 死地を何度も経験し、そして共に乗り切ってきたからこそ、その信頼に陰りはなかった。

 

 ラウアイクスのつまらないブラフに動揺されるほど、彼女らの信頼は薄くない。

 だが、それを切って捨てる発言が、ラウアイクスの口から飛び出した。

 

「だから、言った事も嘘ではない。犠牲者は一人だけだが……、ユミルは死んだ」

 



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生死急転 その4

 ミレイユは何を言っているのか理解できず、睨み付けた格好のまま固まり、アキラから息を呑む気配が伝わった。

 その動揺はミレイユの比でない事から、聞き間違いをした訳でもないと、その反応で分かってしまう。

 

 彼女らが薄氷の上で勝利を握った事は、容易に想像できる。

 野良ドラゴンを一匹退治する事とは、文字通り格の違う戦いに挑ませたのだ。死ぬ目に遭う事もまた、想定した上で相手するように命じた。

 

 理解し、想定し、その上で挑ませた。死ぬ目に遭う事は前提だった。

 だとしても――。

 それでも、彼女が死んだと受け入れられなかった。

 

「……あり得ない」

「おや、先程とは声の質が違うな。断言するというには、声の力が全く違うな。それはつまり、心から信じていない、という事ではないかね」

「――黙れ! くだらん嘘を!」

 

 ミレイユは剣を振るって果敢に攻めたが、それまでの焼き増しを見せられるだけで、有効な一撃は何一つ通らなかった。

 動揺も一つの原因だろう。

 力任せに振るっても届かないと理解していても、荒れ狂う激情を制御できない。

 

 ラウアイクスといえば変わらぬ態度で、ミレイユの攻撃に対し的確な対応で凌いでいく。

 あと一歩で届くという攻撃を繰り出すも、その一歩があまりに遠い。

 

 歯噛みしながら手を変え、体勢を変え、虚実入れ交えて攻撃するが、それでも何一つ通らなかった。

 ラウアイクスは、その顔に薄い笑みを貼り付け、煽るように言う。

 

「僥倖だ。――あれが死んでくれたのは実に助かる。グヴォーリはその役目を、間違いなく、十全に果たしてくれた……!」

「ベラベラと、よく口の動く奴だ。私がお前の言葉を、他人を転がすのを好きと知ってて、鵜呑みにすると思うのか……!?」

「そうかね? 言うべき言葉は選ぶ、それは確かだ。しかし、嘘を言った事はないのだがね」

 

 ラウアイクスは、他人を利用する事に長けている。

 それは多くの物事を盤面に置いて動かす事を指すが、戦闘中においても変わらない。

 自分に出来る事、他人に出来る事を理解して、それをどう動かせば自分の利となるか、冷静に考えて行動できる相手だ。

 

 当然、その方法は水流を使った権能や体捌きだけでなく、言葉を使った動揺も含まれるだろう。

 精神的揺さぶりは神でなくとも使う、常套手段だ。

 それに一々、反応してやるほど、ミレイユも初心(うぶ)ではなかった。

 

 ミレイユは紙一重で届かない攻撃に歯痒いものを感じながら、それでも猛攻を止めない。

 一太刀入れねば気が済まないという思いもあったし、戦闘センスなら自分の方が上だという自負もあった。

 天上で盤面を見て、駒だけ動かしていた様な奴に、自分の攻撃が届かない筈ない、という意地もある。

 

 攻撃に慣れ、次々と対応する手を変え、品を変えてくるラウアイクスだが、ミレイユもやられてばかりという訳ではなかった。

 ミレイユもまた、その対応から学習している。

 

 届かないというのなら、これで失敗したというのなら、それに対応されるというのなら、ミレイユもまたそれらに対策した攻撃を繰り出すだけだ。

 

「フン……!」

 

 互いに攻撃と防御の手札を晒し、互いにそれを読み合い、そして将棋の指し手の様に詰めていく。

 応手の掛け合い、騙し合い、それらをアキラが割って入れない程の速度で繰り出し続ける。

 

 そして遂に、応手の読み合いから単純な技量の差にステージが移ると、そこからはミレイユの独壇場となった。

 肉薄するほど接近し、水流で押し流すのにも、自分が押し流されて逃げるのにも、僅かに足りない距離――。

 

 ミレイユは足をラウアイクスの内側に入れ、肩からぶつかる序に肘打ちを当てると、吹き飛ばす威力そのままに肘を伸ばして剣で裂く。

 

「ぐ……っ!?」

 

 ラウアイクスの身体は真一文字に切り裂かれて吹き飛んでいったが、咄嗟に腹部を覆った水流でで、真っ二つに出来た筈の斬撃を防がれてしまった。

 刃は筋肉の表面を裂いた程度でしかなく、致命傷には程遠い。

 

「チィ……っ!」

 

 あれは間違いなく、千載一遇のチャンスだった。

 ラウアイクス相手に、一度見せた攻撃は通じないだろう。

 戦闘の組み立ても、また一から考え直す必要がある。

 気が遠くなりそうな作業に辟易していると、吹き飛ばされたばかりのラウアイクスが、水流を切り離して立ち上がった。

 

 腹部から流れ出そうとしている血液も、『氷晶』から広がる波紋に触れると、立ち所に凍り付いてしまい、出血も促せない。

 あれを見てしまうと、果たして自分が取った手は、本当に自分有利になっているのかと疑う気持ちが溢れて来る。

 

 ――だが、水流を自由にさせるよりマシな筈だ。

 ミレイユは、そうと信じて続行するしかない。

 ラウアイクスは凍り付いた腹を撫でながら、皮肉げな笑みを浮かべた。

 

「あぁ、私もすっかり失念していたよ。そうか、或いは致命傷であっても、傷口が凍り付いて出血は防げるかもしれなかったか。刺し傷ならどうなんだ? 刃ごと凍り付いてしまうのかな」

「知った事か。試してみたいと言うなら、喜んで手伝ってやるが」

「いいや、結構だ。腹から生える剣という光景は、実に滑稽で面白そうだが、どうせなら誰か別の誰かで試すとするよ」

 

 そう言って軽薄に笑み、次いで小馬鹿にするような視線を向けた。

 

「こうなる事を予期していれば、あそこまで臆病になる必要もなかったか……」

「まるで、傷を負う事を考えなければ、私に勝てると言うような口振りだな」

「さて……、どう取って貰っても構わないかな。私が恐れたのは、傷を作る事より、血が流れる事だ。とりわけ、ゲルミルの一族に舐め取られるのが最悪の事態だ。眷属化など、最も忌避し避けるべき事だ」

 

 その手もあったか、と臍を噛む思いで睨み付ける。

 血を口に含んだ瞬間から、眷属化が進行を始めるはずだ。

 

 どの段階で命令を刻めるか、それはミレイユの時に見誤っていたぐらいだから、正確な所は分からない。

 しかし、初期段階の兆候として体調不良が出て来る筈だ。

 そうとなれば戦闘続行は難しくなるし、遅くとも三日後には自死を命じる事も可能となる。

 忌避するには十分な理由だった。

 

「そして、それが出来るユミルが死んだとなれば、臆する必要もない。――今度は、こちらから攻めるとしよう」

「――ッ!?」

 

 突然、眼の前に現れた水槍を、ミレイユはそれと認識せず勘頼りに右へ避けた。

 いつも掌を通じて生じていた水弾や水流だったから、てっきりそれしか出来ないと頭から信じていたが、消してそうではなかったのだ。

 

 単に、防御一辺倒の状態で、見せる必要が無かっただけ。

 そして、攻撃に転じた時、不意を打つ為に隠していたに過ぎなかった。

 

 ミレイユとしても躱せた事は偶然に等しく、何かを考えて避けた訳ではない。

 もしも、運命の糸というものが本当にあるのなら、それを女神が引っ張ったとしか思えない偶然だった。

 

 射出された水槍は、ミレイユの横を通過した時には、もう凍り付いて後方へ飛んで行っている。

 それがどこかの壁に当たり、乾いた音を立てて砕け散った。

 

「――ミレイユ様ッ!」

 

 アキラから切迫した声が聞こえたが、ここで盾として立たせても意味がない。

 回り込むよう手を動かすと、アキラは逡巡するような動きを見せ、しかし指示した通り背後へ回った。

 幾度かアキラの実力を見ていた所為か、全く歯牙にも掛けず無視している。視線すら向けていない。

 

 それ自体は順当な評価と言えるが、一人で攻めきれないというなら、数の利を使うしかなかった。

 実力的には満足できるものでなくとも、煩わしく思わせる事で隙の一つも見出だせるかもしれない。

 

 盾として使わないアキラに期待できるのは、その程度だ。

 ――だが今は、それが有り難い……!

 

 背後に何者かがいて武器を携えていれば、それがどれだけ弱者であろうと警戒する。

 意識を割かずにいられず、ミレイユにも意識全てを割けられない。

 それは一体、何割だろう。八割か、九割か……だが、十割ではない。

 

 ほんの一歩が足りない、紙一重で逃げられる。

 それが今の現状ならば、手が届く様になり、紙一重の差で斬り付けられるようにもなる。

 

 防御に集中している訳でないから――、そういう言い分もあるだろう。

 だが、言い分が立つ前に、ミレイユはこの一撃で決めてしまうつもりだった。

 

「やり辛いか。お前の威勢はそんなものか……!」

「神人……ッ、ごときが!」

 

 それまでの軽薄な表情から一転、怒りに染まって攻撃を繰り出す。

 ミレイユはそれを右へ左へと体重移動と体捌きで躱し、更に剣も使って押し返す。

 アキラからも袈裟斬りの一刀が背中に入り、それで尚更怒りを燃やした。

 

「矮小で、下らない人間が! 神に対して!」

「何が神だ……!」

 

 アキラから唾棄するような声が返って来たが、彼の場合、少しばかり言葉の意味合いが複雑だ。

 彼の中には今もオミカゲ様が生きていて、神とその規範はそれが中心となっている。

 奪うばかりの神を見て、決して認められない気持ちになっていた事だろう。

 

 だが、ラウアイクスからすると、こざかしく歯向かった人間にしか映っていない。

 それが例え、糸を一本引いた程度の傷であろうと、プライドの高い神からすると許せる事ではなかった。

 

 ラウアイクスは一時、ミレイユから視線を外し、アキラへと標的を変える。

 少し小突いてやれば終わり、ミレイユとの実力差を考えても、赤子を捻るも同然と思った事だろう。

 その認識は正しい。

 だが――。

 

 ラウアイクスが放った水槍は、斬り伏せようと振るった切っ先を突き破り、そのままアキラの胸元へ深々と突き刺さった。

 凍り付く事も考え、深々と穴を開け、臓器を抉ろうとでも考えたのかもしれないが、アキラの持つ防壁に攻撃が防がれる。

 

「――何!?」

「何だ、神の攻撃ってのも、案外大した事ないんだな……!」

 

 アキラがわざと、嘲るように笑った。

 水槍が突き刺さった瞬間、『年輪』が敗れる音は同時に三回しか聞こえなかった。

 それだけでも威力は大きくないと分かるが、アキラに対する侮りが、その威力で十分と判断したのだろう。

 その判断は正しいのだろうが、正確に力量を判断できたからこそ、『年輪一枚』と肉体を貫くだけの、必要十分な威力しか出さなかった。

 それこそが原因だろう。

 

 自分の攻撃が無効化されるなど、全く思慮の外だったラウアイクスは、アキラに怒りを向け過ぎる余り、一瞬だけミレイユの存在を忘れた。

 

「――良くやった、アキラ」

 

 呟くような声だったが、アキラの耳にはしっかりと届いたらしい。

 その口の端が弧を描くのと同時に、ミレイユの召喚剣が、ラウアイクスの背中に深々と突き刺さった。

 



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生死急転 その5

「な、に……!?」

 

 しかし、驚愕の声が漏れたのは、突き刺した方のミレイユからだった。

 剣は乱回転する水流に絡め取られ、背中を僅かに突き刺しただけで止まっている。

 取り戻す事も難しいと判断したミレイユは、即座に手放して大きく後ろへ跳躍した。

 

 その直後には、ミレイユの立っていた場所に、幾つもの線状をした水流が突き立っては消えて行く。

 槍よりも、水弾よりも、なお細い水の線は、まるでピアノ線のように見える。

 当たりどころによっては致命的だったろうし、そして致命的といえる瞬間を狙って、使ったものでもあるのだろう。

 

 あれは武器というより、暗器というべき攻撃だった。

 あぁなると、怒りを顕にした事、背中を見せた事まで、計算ずくだったような気がしてくる。

 格好の餌に食いついたと思ったが、むしろ食いついたのはこちらの方だったようだ。

 

「くそ……っ!」

 

 ラウアイクスが向けて来る視線は、今や冷徹に観察するものに変わっている。

 ミレイユの懸念は正解だと、今更になって分かった。

 

 ラウアイクスは、その観察も済むとつまらなそうに表情を変え、奪い取った召喚剣を持ち上げた。

 直接手に取って、持ち重りなどを調べるように軽く剣を振るう。

 

 ――余りに迂闊な、軽率な行為。

 ミレイユは今度こそ、内心で盛大にほくそ笑んで、拳を持ち上げ握り締めた。

 僅かな魔力を送り込み、召喚剣に封入された魔術を解き放つ。

 

「――起爆!」

 

 その瞬間、爆発と共に、周囲に暴風が吹き荒れる。

 アキラも吹き飛ばされたが、受け身はしっかり取っていた。

 ミレイユの方は身動ぎせずに、爆炎に飲まれたラウアイクスを油断なく見つめていた。

 

 ミレイユがアヴェリン達の様に、自前で武器を持たないのは、こういう時の為だ。

 召喚剣は奪われようと利用される前に消滅させれば良いし、再召喚すれば手元に返って来る。

 今回のように、武器を奪ったと油断した相手には、トラップ代わりとして利用も出来た。

 

 本来なら強度が低く、強者ほど武器として不満の出る召喚剣だが、何事も使い方次第で化けるものだ。

 とはいえ、同じ使い方は他の誰にも出来ない、とユミルから呆れられたのも忘れていない。

 ――だから、という理由もあるのだろう。

 

 武器の中に魔術を仕込んでいるとは、ラウアイクスも予想していなかったのではないか。

 ミレイユの事は多く調べていた筈で、その攻撃方法や使用魔術まで知っていたと思っていても不思議でないから、この手法もまた知られていたと思っていた。

 単に、調べ方が甘かったのか、或いは――。

 

 ミレイユがその様に考えていると、次第にラウアイクスを覆っていた煙も晴れる。

 爆発の余波により、周囲の氷も溶けかけていたが、それも再び凍り付いた。

 ラウアイクスを中心として、津波のように盛り上がった氷の模様は、花弁を連ねた広がりを見せ、一種異様な芸術作品かのように見える。

 

「……だが、やはりか」

 

 至近距離で発動した『爆炎』の上級魔術だが、大した痛痒を与えられていない。

 それは晴れた煙の奥に見える、ラウアイクスの姿からも確認する事が出来た。

 

 多少、髪の毛先がチリついていたり、肌に軽い火傷があるだけだ。

 起爆されても困らない、ダメージを受けないと分かっていたからこそ、無防備に召喚剣を拾ったに過ぎなかった、という事だ。

 

 ミレイユでさえ、防壁術が間に合わなくとも、咄嗟に防膜へ防御を集中すれば、似たような事が出来る。

 しかし、不意を打たれたなら、その咄嗟も出ないかもしれない、と期待していたのだが……そう甘い相手ではなかったようだ。

 

 戦闘慣れしていないのは事実でも、咄嗟の判断力が高く、応用力も高い。

 戦っていて、非常にやり辛い相手だった。

 ミレイユは再度、剣を召喚しようと魔力の制御を始め、そして唐突に動きが止まる。

 

「ぐ……っ!」

 

 いつもはスムーズな制御が千々に乱れ、胸の奥に幾つもの針で刺されるかのような激痛が走った。

 到底、制御に集中できず、脂汗を垂らしながら胸を押さえる。

 今にも血を吐き出しそうな痛みを堪えつつ、ラウアイクスを睨み付けた。

 

「おやおや……、随分苦しそうだな。戦闘中は魔力の消費が激しい……そうだろう? 命を削りながら戦っていれば、遠からずそうなる未来は見えていた。……私は待っているだけで、有利を取れると分かっていたからな」

「こんな、時に……ッ!」

 

 ミレイユは血を吐く思いで、喘ぎ喘ぎして口に出す。

 それをラウアイクスは、面白そうに観察していた。

 

「残りの寿命について、どの程度理解しているかは不明だが……。その口振りと、ルヴァイルの裏切りから見ても、全てを知っていると考えて良さそうだ。その上で殴り込んできた事には……まぁ、称賛してやっても良いが、最初から無謀な戦いだったな」

「……ハッ!」

 

 汗は大粒となって顎先へ伝い、ミレイユは鼻で笑って、軽薄な笑みを浮かべる顔を睨み付けた。

 では、最初から待っていたのは援軍ではなく、ミレイユの『ガス欠』だったという訳だ。

 

 ミレイユは出し惜しみして勝てる相手ではない、と分かっているからこそ最初から全力だった。

 制限時間はあると分かっていたが、ここまで早いとも思っていなかった。

 それを見誤ったのは決して楽観ではなかったが、まだ来る筈がない、という懇願が強く出ていたからだろうと思う。

 

 だが、これで風前の灯火だと悲観するほど、ミレイユは諦め良くもない。

 ガス欠だろうと、まだ全て尽きた訳でも、尽きる寸前でもない。

 

 具体的な数字で分かれば計算も立て易いのだが、こればかりはそうもいかなかった。

 まるでミレイユの悲観を代弁するかのように、『破滅の氷晶』が制御から離れ、勝手に自壊して消滅してしまう。

 それと連鎖して凍り付いていたもの全てが元の水に戻り、当たり一面の床を濡らした。

 

「虫の息だな。……だが、本当に死んで貰う訳にもいかん。『鍵』の役目を果たして貰うまではな」

「――ミレイユ様に触るな!」

 

 無造作に近付き、手を伸ばそうとしたラウアイクスを、横合いからアキラが斬り付けた。

 蒼白な顔に怒りを乗せて、精一杯の力で刀を振るうが、一瞬視線を向けただけで、気に留めもせず更に手を伸ばす。

 

 アキラは完全に無視された形で、そこに水弾が雨あられと撃ち込まれる。

 先程までとは、その量も、威力までも違う。

 凍ってしまえば制御から離れてしまうこれまでと違って、阻むものが存在しない水流は、好きなように扱う事が出来るようになった。

 

 部屋の奥で流れ落ちる緩やかな滝、そこから部屋の四隅へ溝を流れる水、そういったところから、縦横無尽に水という水が飛礫となって襲い掛かるのだ。

 アキラも刀を振るい、躱そうと努力したが、数の圧殺によって幾つか当たる。

 

 当たったからとて『年輪』が防いでくれるが、何しろ数が多すぎた。

 次第に躱せる数も減り、遂には四方八方からの攻撃で『年輪』も割られ、そうして近付ける事なく吹き飛ばされてしまった。

 

「あぁぁあ……ッ!!」

 

 水とはいっても、圧縮された水の塊は鉛にも引けを取らない硬さになる。

 アキラは身体中に穴を開けながら吹き飛ばされ、床の上に無防備な姿で転がった。

 それからはピクリとも身体を動かさない。

 

「アキラ……ッ!」

 

 食い縛った歯の隙間から声が漏れたが、あまりにか細い声で、その耳に届いたとは思えなかった。

 何かしようと思っても、痛みで頭ばかりでなく制御まで上手く働かない。

 目前までラウアイクスが迫り、その手がミレイユに触れようとした時――。

 

「ミレイ様ッ!!」

 

 アヴェリンの声が聞こえるのと、その一撃がラウアイクスを吹き飛ばすのは同時だった。

 凄まじい衝撃音と共に部屋の奥まで吹き飛び、壁の中に埋もれる。ラウアイクスを中心にクモの巣状の罅が入って、ガラガラと瓦礫も床に落ちては水音を立てた。

 

「ご無事ですか……!?」

「あぁ……、怪我は……大した事ない……! だが、寿命がな……っ。落ち着けば、収まると思うが……!」

 

 アヴェリンに肩を支えられたものの、それでも立っていられず膝を付いた。

 脂汗が額を濡らし、それが顎先へと流れていく。苦痛に顔を歪めながらも、ラウアイクスへと目を向けた。

 

 そこでは既に、彼が瓦礫を押し退けて立ち上がろうとしている所で、ミレイユは震える指先を前に向ける。

 それだけで何を言いたいか察したアヴェリンは、ミレイユの前に立ちはだかって武器を構え、横顔だけ向けて吠える様に声を上げた。

 

「ルチア、早く診て差し上げろ!」

「分かってますよ。でもですね……!」

「大丈夫だ、怪我じゃない……。魔術を使われた、ところで……っ! ぐっ!」

 

 ミレイユは胸を押さえて身体を丸める。

 今はただ、この痛みが治まるまで耐えるしかなく、この身体が無理にでも捻出しようとするマナを待つしかなかった。

 

 だが、頼りになる壁役が来てくれたところで、安心して水薬を口へ運べる。

 震える手で口許まで持っていったところで、指が震えて上手く飲めない。ルチアの手助けがあって、それでようやく嚥下した。

 

 全て飲み干してすぐ効果が出るものではないが、気持ちはずっと楽になるる。

 吐く息すら震える始末だが、それでも幾らか余裕も出て来た。

 その余裕のお陰か、そこでようやく一名足りない事に気が付く。

 

「ユミルは、どうした……。遅れてるのか」

「それは……」

 

 ルチアは顔を背けて口を噤んだ。

 如何にも気まずそうな表情からは、今は何も言いたくない、と明言しているようでもある。

 

 後ろ姿で表情の見えないアヴェリンからも、その表情が不思議と読み取れる気がした。

 それほど、彼女は分かり易い雰囲気を発している。

 ミレイユは再び顔を戻し、ルチアの顔を覗き込んで聞いた。

 

「……死んだか」

「いえ、その……」

 

 ルチアは顔を背けたまま、決してこちらを見ようとしない。

 言葉を濁しているが、つまりそれが答え、という事だろう。

 口の端から言葉にならない音が漏れ、痛みに震えていた息が、別の意味で震え出す。

 

 ただでさえ千切れそうな身体が、心までも掻き乱し、到底冷静でいられない。

 怒りと悲しみが綯い交ぜになり、体の奥底から生まれる感情とマナが入り乱れて、内臓を焼き尽くすかと思う程だった。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」

「落ち着いて、落ち着いて下さい、ミレイさん……! 大丈夫です、大丈夫ですから……!」

「何が、何が大丈夫だ……? 私の、はぁッ……身体の事か? それとも別の? はぁ、はぁ……ッ! 大丈夫なものか……!」

「落ち着いて下さい! 心を落ち着かせて、マナの生成を抑えなくては、無駄に浪費する事になりますよ……!」

「そんな事は、……く、くぐ……っ!」

 

 分かってる、と言いかけた時、息すら出来なくなって、口を半開きにしたまま身体が倒れた。

 ルチアが叫んで身体に手を添え、そっと横たえさせてくれたが、興奮させた身体に無理なマナ生成が祟って、指一本動かせない。

 

 麻痺したように胸を抑えた格好で固まり、息ばかりが荒かった。

 そこへ、ラウアイクスの声が降り掛かる。

 

「抵抗すると苦しむだけだぞ。最早、『鍵』を使って創り直さなければ、この世界はどうにもならんのだよ。本来なら、まだしも残されていた猶予も、お前たちが消し去った。ここにいる限り分かり難いが、地上では既に、その兆しは見えているだろう」

「何を勝手な……! 世界をあそこまで小さく削り続けたのは、我々ではない!」

 

 アヴェリンが、吐き捨てるかのように言ってのけた。

 言っても始まらないと分かっていても、言わずにはいられなかったようだ。

 

「可能性はあった。まだ十分、猶予もあった。それを奪ったのはお前達だ。――地上が崩れてしまえば、『遺物』を使うどころの話ではない。即座に己の首を撥ね、道を譲るがいい。そうであれば神に対する不敬、特に許す」

「馬鹿を言うな! 貴様のような、貴様のような者どもに……!」

 

 アヴェリンの声が、怒りで震えるのが分かった。

 表情が見えずとも、どういう表情をしているのか、つぶさに理解できる気がした。

 これまで戦って来たような相手なら、その怒りに任せて暴れるだけで、大抵の相手は潰してこれたろう。

 

 だが、ラウアイクスの尊大な物言いは、そもそも挑発する事が狙いだと分かる。アヴェリンから冷静さを奪うのが狙いだ。

 アヴェリンを止めるよう、ルチアに声が出ぬまま手を伸ばせば、その手をしっかりと握って、泣きそうな顔で見つめてくる。

 

 ――違う、そういう意味じゃない。

 そう言いたかったが、やはりうめき声ばかりが漏れる。

 その瞬間、アヴェリンは床板を踏み抜き、ラウアイクスに向かって突貫した。

 



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生死急転 その6

「ば、か……! アヴェリンの援護、しろ……!」

「でも……っ! ――いえ、分かりました」

 

 ミレイユの強い視線に当てられて、ルチアはミレイユから手を離して立ち上がる。

 両手に杖を持って制御を開始した時には、既にアヴェリンは肉薄して、その一撃を叩き込んだところだった。

 

 近接戦闘では、アヴェリンもミレイユに全く引けを取らない。

 それどころか、場合によってはミレイユすら上回る。

 

 そのやりようとは、自傷も他殺も気にせず攻撃できる場合だ。

 傷を負う事を恐れず、殺さないよう手加減する必要もない時こそ、アヴェリンの本領が発揮される時だった。

 

「ハァァァ……!!」

 

 アヴェリンがその剛腕を振るう度、空を切り裂き、余波で部屋全体が揺れるようだった。

 しかし、水流を自由に扱えるようになったラウアイクスは、一癖も二癖も厄介になっている。

 点で攻撃するメイスだから、という武器の相性もあるのだろう。

 

 攻撃が当たる直前には、水のクッションによって受け止められ、ラウアイクスに攻撃が届いていない。

 衝撃の多くはまずそこで受け止められてしまい、肝心の一撃が届いた時には、その半分の威力にもなっていなかった。

 

 水飛沫は爆発するかのように巻き起こるのだが、それが更にアヴェリンを苦しませる事になった。

 水滴程度の大きさだとしても、それを神が権能を持って動かすとなれば、無視できない攻撃になる。

 まるでショットガンで撃たれているようでもあり、アヴェリンは攻撃の度に何度も吹き飛ばされてしまった。

 

「だったら……!」

 

 ルチアは氷結に特化した魔術士だ。だから、ラウアイクス相手に何が有効なのか、ミレイユ同様すぐ察した。

 しかし、一度やられた手を、そう易々とやらせるつもりもないらしい。

 

「それは嫌だな」

 

 攻撃の標的がアヴェリンからルチアへ代わり、水弾が次々と襲う。

 制御が完了するの先か、それとも着弾が先か――といったところで、ルチアの背中を水刃が斬り付ける。

 

「な、ん……!?」

 

 一歩、二歩、とたたらを踏んで、ルチアは背後へ目を向ける。

 そこには、床から鎌首をもたげるように持ち上がった、水の刃が立っていた。

 

 ラウアイクスは水ならば何でも操る。床を濡らした水も、また例外ではない。

 前面に意識を集中させて、背後にあった水溜まりを利用した、という事なのだろう。

 そして、水刃に気を取られたところへ、ルチアに水弾の集中豪雨が襲う。

 

「アァァああッ!!」

「ルチ、ア……!」

 

 咄嗟に顔を庇ったものの、身体中を穴だらけにしてルチアが倒れる。

 痛む身体に鞭打って、ミレイユは必死に腕を伸ばす……が、全く届かない。

 身体をどこか動かす度、まるで全て糸で繋がっているかのように痛みが走った。

 

 それでも、手を伸ばさずにはいられない。

 治癒術を行使できる訳ではない、その口に水薬を流し込んでやれる訳でもない。

 それでも、倒れて動かないルチアに、何かしてやらねばという気持ちを抑え切れなかった。

 

「ルチア!? ――くそッ!」

 

 助けに入ろうとしたアヴェリンだったが、そこへ鉄砲水の様な水弾に押し出されてしまう。

 一発放たれ、直撃する度、アヴェリンの身体が揺れ、そして吹き飛ばされる。

 助けようと動けば、それを狙って撃ち込まれ、だからその場から身動きとれなかった。

 

 ラウアイクスは敢えて指先を向け、まるで銃口の様に狙いを付けていたが、別に指先から出している訳ではない。

 敢えて言うなら水のある場所が銃口で、そしてそれは、この部屋中どこにでもある。

 

 そしてアヴェリンは、自分がその向けられた銃口の中心にいることも、また悟ってしまった。動きを見せれば撃ち込まれる。

 そして、動かなくとも撃ち込まれるのだ。

 

「あぁぁぁ!!」

 

 止まる事のない水弾の雨は、堅いアヴェリンの防御も抜いていく。

 腕の振り一つ、体捌き一つで、雨の全てを躱すのは不可能だった。

 

 アヴェリンは、それら水弾を受けても簡単に膝を屈したりしない。

 それでも、大量の水、その物量を前に為すすべもなく、ついに膝を付いてしまった。

 

「ハァ、ハァ、ハァ……!」

 

 身体中から血を流し、身体を真っ赤に染めていても――。

 腕を上げられず、体力が尽きようとしていても――。

 それでも、アヴェリンの戦意まで奪う事はできない。

 

 鋭く、視線一つで切れるような眼光には、些かの衰えもなかった。

 隙あらば、いつでもその喉元を食い千切ってやる、と明確に語っていた。

 

 今も震える膝を必死に持ち上げようと、歯を食いしばっている。

 ラウアイクスは、それに余裕を持った表情でおどけて見せた。

 

「実に怖いな。何を仕出かすか分からない奴には……、こうしておくとするか」

 

 言うなり、ラウアイクスは水の槍を作り出し、やおら放り投げる。

 大して力を入れているように見えなかったが、それは凄まじい速さでアヴェリンに突き刺さると、ドリルのように回転し抉り進んでいく。

 

「ぐぁぁぁああ!!!」

 

 堅固な防具も、強固な肉体も、あっさりと貫通して縫い留めた。

 柄の部分を握って抜き取ろうとしたが、水という特性故か、素通りしてしまって全く掴めない。

 しかし、物体としては確かな質量を持っていて、アヴェリンを床へ縫い止め起き上がらせてくれなかった。

 

「これで良い。さて、後は……」

 

 あっという間に二人を無力化させてしまうと、ラウアイクスは悠々とミレイユへ近付く。

 アヴェリンも行かせまいと必死に身体を捩るが、水槍は強固に床へ縫い止めて、全く身動き取れていなかった。

 

 最早ラウアイクスの歩みを、止められる者はいない。

 再び、その手がミレイユに伸ばされたその時、横合いから風切音が聞こえて、咄嗟に腕を引く。

 

 何が、あるいは誰が、と思ったのはミレイユも同じだった。

 床を滑る音に誘われるまま視線を向けると、そこにはアキラが立っていた。

 身体中から血を流しているのは他の者と同じだが、しかし今もまた、見る間に傷が塞がっていく。

 

「ミレイユ様を、必ずや、お護りします……!」

「ぐぅぅぅぅ……!? ――アキラ……ッ、命を賭して止めろ!」

「はい!」

 

 アヴェリンの叱咤が、アキラに飛ぶ。

 彼女の口の端からは血が流れ、腕を引き千切ぎろうとでもするかのように――そして実際、そのつもりで――、身を捩りながらの発言だった。

 それでも水槍は、アヴェリンを拘束して逃がしてくれない。

 

 アキラはゆっくりとした足取りで近付きながら、眼光鋭く刀を構える。

 その姿を見て、ミレイユはアキラの持つ刻印の事を思い出していた。

 

 『追い風の祝福』の効果は、動く限りにおいて自己を回復してくれるものだった筈だ。

 動けるだけの傷であるなら、根性さえあれば回復効果を受けられる。

 

 しかしこれは、神相手に戦うには遅すぎる回復速度だった。

 やはりというか、当然ラウアイクスは、アキラを全く脅威と思っていない。

 

 アヴェリンやルチアの時には、しっかりと相手を見定め攻撃していたが、今は全くの無警戒だ。

 一度攻撃を見たことで実力を悟り、相手にするまでもないと思ったようだ。

 

 そしてそれは事実で、アキラに隠し玉などない。

 何か強い技を持っているわけでもないし、刀に秘めた力など隠されていない。

 

 まともに相手するような敵ではない、という判断は妥当だった。

 だからラウアイクスは、おざなりに水弾を放って、それで終わりにした。

 アキラも躱す事が出来ず吹き飛び、そして、またもあっさりと決着が付いた。

 ――付いたかに思われた。

 

「ハァァ……、――ダァッ!!」

 

 しかし、床への激突と同時に受け身を取り、そして間髪入れずに踏み込んで、返す刀で斬りつける。

 躱しきれずに腕を掠ったが、さしたる斬り傷にもなっていない。

 手傷と言うにも烏滸がましい、ほんの小さな傷が付く。だが、ラウアイクスからすると酷い侮辱のようだ。

 

「一度ならず二度までも、か……。煩わしい小蝿が……!」

「そうとも、僕は虫同然だ! でも、僕が時間を稼げば! ミレイユ様が回復されれば! その時、必ずお前を倒す! それまで、一秒でも! 喰らい続けるのが僕の役目だ!」

 

 ラウアイクスは鼻の頭に皺を寄せて、汚物を見るかのような目を向けた。

 そしてやはり、ハエでも払うかの様な仕草で水弾を放つ。

 

 アキラはそれを躱そうとしたものの、結局、数発避けた時点で他に着弾し、そして為す術なく吹き飛ばされた。

 ラウアイクスは鼻で笑って、改めてミレイユに向き直る。

 

「一秒か、フン……! 一秒で満足なら、確かに役目は果たしたな」

 

 アキラほどの実力しかなければ、それは間違いない致命傷だったろう。

 ラウアイクスは見誤る事なく、致死の一撃を加えたつもりだ。

 

 だが、アキラには刻印がある。

 幾層にも重なった『年輪』は、全て打ち破るまでダメージを負わない。

 その上――。

 

「ハァァァ!!」

「――なにぃぃ!?」

 

 動くほどに回復する『祝福』は、その『年輪』を突破しない限り、回復し続けるという意味でもあるのだ。

 傷だらけだったアキラの身体は、今や血すら洗い流されて綺麗なものだ。

 ここに来て、ようやくラウアイクスもアキラの厄介さに気付いたらしい。

 振り下ろして来る刀を手刀で止めると、一瞬停滞した隙に水槍を打ち込んだ。

 

 ドリルの様に回転する槍は、アキラを容易に貫通する筈だったが、硬質な物を砕く音を響かせながらも留まり続ける。

 

「なんだと……!?」

 

 そうしている隙に、アキラは身を捩って逃げ出した。

 その間際、翳していたラウアイクスの手刀を、もう一度斬り付けてから距離を取る。

 間違ってもミレイユを攻撃の射線上に乗せないよう、着地してからは脇の方へと移動した。

 

 ――まだ、やれる。

 ――まだ、いける。

 

 アキラの瞳は、戦意と怒りに満ちていた。

 



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生死急転 その7

「不可解だな……。お前如きが、この私の攻撃に、一度ならず……だと? そして、その武器……」

 

 ラウアイクスは目敏く、アキラが持つ武器の特性に気付いたようだ。

 斬り付けられた手刀部分をつぶさに見つめた後、蔑むような視線を向けた。

 

「なるほど、魔力の吸収か……。そして、刻印。吸収した魔力を刻印が利用し、制限以上の回数を使用可能としている……という事らしいな。取るに足らん攻撃だと受けてやったのが、そもそも失敗だったか」

「く……っ!」

 

 神の身として持つ優位性は、肉体的にも、精神的にも上である。

 侮って当然だから、アヴェリンに向けた程の攻撃をアキラにはしなかったし、そしてアキラからの攻撃も、虫を払う様な気楽さで受けてやっていた。

 

 そして、吸収した魔力あればこそ、あそこまでの粘り強さを見せたと看破した。

 アキラの粘りは、その刀が届く限り、という条件付きだ。

 元より中距離、遠距離を得意とする戦い方をするラウアイクスだから、それを不意打ち以外で掻い潜るのは難関なのだ。

 

 特に警戒を顕にした相手となると、アキラの実力では難しい。

 接近しようと思えば、何としても、味方の援護が必要だった。

 

 アヴェリンも努力しているが、未だ肩口を縫い付けられていて、脱出できていない。

 回転し、肉を抉りながら縫い留める水槍は、力業で抜けられるほど簡単な代物ではなかった。

 

 そして、ルチアの容態もまた心配だ。

 先程からピクリとも動かないのは、氷結魔術を恐れるからこそ、過剰な攻撃で一番に沈黙させたからだろう。

 

 ――ルチアに治癒を、アキラに援護を……ッ!

 頭ではそう思うのに、身体が言う事を聞いてくれない。

 

 痛みはまだ我慢できる。

 しかし、乱れ暴れる制御の方は、我慢したところで落ち着くものではなかった。

 

 それは例えば、ハンドルが無闇やたらと暴れる自動車を、真っ直ぐ走らせる事と似ている。

 何とか立て直そうとしたところで、ハンドルは暴れて黙っていてくれない。

 アクセルは固定された上で止まってくれない様なものだし、ブレーキまでも利かない。

 

 到底、制御できる状態でなかった。

 今のミレイユに出来る事と言えば、時間の経過で勝手に治まるのを辛抱強く待つだけだ。

 だが、この状況で待っているだけなど有り得なかった。

 

「ぐ、ぐ、ぐぅぅぅぅッ……!」

 

 ミレイユは痛みを堪えつつ、立ち上がろうとする。

 身動き一つする度に、全身から激痛が跳ね返ってくるかのようだが、意志の力で捻じ伏せる。

 

 横たえていた身体を持ち上げ、ようやく膝立ちになった時、痛みは激しさを増し意識は朦朧とした。

 だが、制御に関しては、少し融通が利くようになった気がする。

 

 霞む目でアキラを見ると、今まさに水弾を雨あられとぶつけられ、前進も出来ず、その場に縫い付けられている状況だった。

 強行突破しようとして、無駄に『年輪』を擦り減らし、無理だと判断して横へと逃げる。

 

 だが、この部屋の中にあって逃げ場など殆どない。

 最終的には四方全てを囲まれ、刻印全てを使い切ったようだ。

 

 絶望に歪もうとする顔を、克己心でねじ伏せ、そして、自滅覚悟で突撃しようとする。

 が、結局――水弾を全身に打ち込まれ、身体中を穴だらけにして崩れ落ちてしまった。

 

「申しわ……、ありま、せ……。ミレイ……さ……!」

「アキラ……! くそ……ッ!」

 

 手の中で始めていた制御が、これで無駄になった。

 まるで魔術を覚えたての魔術士の様に、遅々とした制御はアキラの助けに間に合わず――。

 そして、その努力に報いてやる事も出来ず、ミレイユは荒い息を吐きながら、憎々しい敵を睨み付けた。

 

 既に互いを阻む者もなくなり、床には倒れ伏した者しかいない。

 意識があるのはアヴェリンだけだが、肩口の水槍が抜けず、拘束から抜け出せずにいた。

 歯を食いしばって抜け出そうと藻掻いているが、歯の隙間から苦悶が漏れるだけだった。

 

 ラウアイクスは余裕を取り戻し、それらに鼻で笑って、改めてミレイユへと向き直る。

 どうやら脅威にならないと判断し、ミレイユを優先する事にしたらしい。

 

 一歩、また一歩と近付くラウアイクスを睨み付け、ミレイユは歯を食いしばって制御を始める。

 だが、その手が届くまでの距離は、僅かしかない。

 

 そして、ミレイユの制御は遅々として進まず、歯痒さと焦りで上手くいかなかった。

 それでも、あと僅か、というところまで来た瞬間に、ラウアイクスは指を一本向けて言って来た。

 

「実に、反抗的な目だな」

 

 その発言が言い終わるより前、紙のように薄い水がミレイユの横を通り過ぎる。

 薄いだけでなく、瞬きするより速く通過した水は、ミレイユの横というより、耳元近くを通過していった。

 耳の一つでも切り落とされたか、と思ったが、それらしい感触もない。

 

 まるで糸が一本、肩口に触れた程度の感触しかなく、攻撃されたという実感すらなかった。

 だが、その一瞬あと、何かが落ちる音と共に、床の水を叩く音がした。

 

 何だ、と思って視線を向けると、そこに見慣れたモノがあって戸惑う。

 ――それは左腕だった。

 女性らしい肉付きであると同時、筋肉もしっかり付いた腕で、運動をしっかりしている者の腕に見えた。

 

 鈍色をしたガントレットに、藍色をした魔術士的な姫袖も付いている。

 実に見慣れた、自分の腕としか思えないものが、そこに落ちていた。

 落ちている物が自分の腕で間違いない、と自覚した途端、痛みが傷口から湧き上がってくる。

 

「あ、あ、あがぁァァァ……!」

 

 冷たいようで燃えているようでもあり、只でさえ脂汗を浮かべていた額から、冷や汗も遅れてやって来た。

 痛みは頭痛を伴い襲ってきて、只でさえ危うかった目の焦点が失われ、視界は白一色に染まってしまう。

 口を半開きにし、激痛で身悶えすら出来ず、見えない視界の中で痛みに耐える。

 

「『鍵』を使うだけなら、四肢は余分だ。お前は道具として生きていれば良い」

「糞食らえ……だッ!」

「まだ口から声を出す余裕があるのか。……激痛で話すどころじゃないだろうに、そこまで強がれるのは大したものだ。いや、これは本当にそう思う。神の肉体は、脆弱な素体とは違う。少しばかりの事では痛みなど感じないものでな、私も久しく……痛みというものを忘れてしまった」

 

 勝利の確信があるからか、ラウアイクスは饒舌だった。

 ミレイユは傷口を手で抑えようとしたが、これだけ切断面が広いと、直接触るのも憚られる。

 止血しようと思えば、脇の下を圧迫するのが良いと分かっていても、それでは右腕が塞がり攻撃する手段を失う。

 

 倒れた仲間を助ける為にも、ミレイユが踏ん張らねばならない状況だった。

 ミレイユは再び搔き乱され、制御を失った魔術を再行使する。

 痛いなどと、泣きごとを言っていられない。自らが奮起しなければならない状況だった。

 

「……他の奴らも不甲斐ない。長く戦闘から離れていたツケだろうが……。神は強いという当然の思い込みが、ここまで覆される原因となったか」

「ハッ……、強いか。強くある意味を、……ッ! 履き違えたせいだろう……ッ」

「ふむ……?」

 

 少しでも制御の時間を稼げれば、と思っての事だった。

 乗ってこなければそれで終わり、そう思っての発言だったが、ラウアイクスは興味深げに眉を上げる。

 攻撃して来ないところからして、それで催促しているつもりらしい。

 

「強くなれば痛みを感じない……、鈍感になったのが問題だ。自分の痛みに鈍感なら、他人の痛みにも鈍感になる……ッ。力を振るう事に躊躇いがなくなる、お前達が傲慢な理由だ……ッ! は……くそっ、はぁ……っ!」

「それの何が悪いね? 強さとは力だ。いつだって、力あるものが世界を動かし、そして世界を作ってきた。神ならば、文字通りの意味で世界を動かして当然。痛みを一々感じていたら、何事も成せまい」

「その果てにあるのが、この世界だ……! 痛みを感じぬ傲慢が、この結果を招いた……ッ」

 

 口を動かしながら、魔力を練り込み、制御を動かす。

 痛みで目尻から涙が溢れ、汗と共に流れていった。

 本当なら崩れて倒れてしまいたかったが、自分自身と仲間の為に、決して諦める事だけはしたくない。

 ミレイユはそれを強く強く、痛む胸の奥でそう思った。

 

「私が痛みを感じる、弱い存在で良かった……。弱さを知れるから、私は……ッ。仲間を頼りにする、協力する……! 仲間に対して心を預ける……! ハァッ、ハァッ……!」

「勘違いするな。お前は強いと錯覚する、弱い存在として造られただけだ。お前が成した何事も、与えられたものの上で成り立っている。お前自身の力など、そこには何一つ寄与していない。与えられたもので粋がるなよ、滑稽だぞ」

「それはっ、……お前らも、同じだろうが……ッ! ――ぐホッ!?」

 

 喉奥から絞り出す様に言うのと同時、ミレイユの腹部に水刃が貫いた。

 針金よりは太い厚みの刃が、背中へ向かって突き出している。

 数秒の静止の後、それが抜け出て身体が傾いた。

 

「少しその痛みというものを、味わっておくか? 従順になるかもしれないし……、弱さに屈するところも見られるやもしれん」

「ぐふっ、グホ……ッ!」

 

 更に二度、三度と腹部に痛みが生じた。

 肩の痛みと違って、焼け付く痛みと、悪寒の走るような痛みが襲う。

 

 既にこの場は、ラウアイクスを楽しませる拷問場と化していた。

 助けに動ける仲間はなく、ミレイユ自身も、攻撃はおろか防御も出来ない有り様だ。

 

 ――しかし、それでも。

 ミレイユは未だ、諦めていない。

 切断された肩が焼け付くように痛くても、腹部を貫かれる度、吐き気を催す痛みが走っても、ラウアイクスを前にして戦意が衰える事だけは決してしない。

 

 ――抗え、と心の内から声がする。

 ――抗え、大神を挫け……!

 胸の奥から湧き出る情動が、そう叫び続ける。

 

 その声が聞こえる限り、ミレイユは決して諦めたりしない。

 弱いままで構わない。その痛み(よわさ)を大事にしたい。

 何よりそれが、ミレイユの奥底から湧き起こる本心だった。

 

 ミレイユは右手を握り込み、遅々として進んでいなかった制御を、ようやく完成せる。

 その手の中に、燐光と共に『爆炎』が封入された、一振りの剣が召喚された。

 

「怯む……ッ、と、思うのか! この程度でェェェエ!!!」

 

 口から血を吐き出しながら、渾身の力で膝を伸ばした。

 その動きは、普段の俊敏さからは考えられない遅さだ。

 

 それでもミレイユは、諦める事なく剣を振るう。

 だが、一歩踏み出したところで膝が笑い、動きが止まった所を、水刃で膝の腱を切られ転倒する。

 

「ぐぁ……ッ!?」

 

 片腕だけで立ち上がるのは不可能に等しく、握った剣も邪魔となって、更にそれを難しくさせている。

 それでも、ミレイユは戦意を満たしたまま立ち上がろうとした。

 だが、近寄って来たラウアイクスに顎を蹴り飛ばされて、背中から地面に倒れを強かに打った。

 

「――ごホッ!」

 

 それでも剣は手放さい。

 再びラウアイクスから剣の届く範囲に入ったなら、一太刀食らわせてやれるチャンスがあると思うからだ。

 

 ミレイユは朦朧として来た視界の中で、剣を振ろうと持ち上げた。

 だが、それも背後から襲ってきた水刃が手の甲を弾いて、剣はラウアイクスの背後へと滑っていってしまった。

 

 遠くまでは行かなかった。本来ならば、歩いて五歩の距離――。

 しかしミレイユには、あまりに遠い距離だった。

 

 ラウアイクスは、どこまでも諦めないミレイユに感嘆めいた息を吐いたが、それだけだ。

 面白い芸事を見せられた、という感慨が浮かんでいるだけで、脅威とも思っていなかったのが窺える。

 

「……まぁ、中々楽しめたか。これ以上やると殺してしまうからな。それでは意味もない。お前には役立って貰う必要があるしな」

「……もぅ、勝った気でいる、のか……馬鹿め……」

 

 ミレイユは焦点の合わない目で、ラウアイクスの背後を見つめながら、呟く様に罵倒する。

 未だ制御は途切れていない。召喚剣は健在なのだ。

 斬り付ける事さえ出来れば、勝利は逆転する。

 

「その負けん気ばかりは、素直に負けを認めてやっても良いか。……この場での四肢切断は、本当に死にかねんな。回復してやらねばならんが……、その前に拘束か。オスボリックが居てくれたら楽に済むのだが……」

「お前は……、先のこと……、自分のことしか考えてない……」

 

 ラウアイクスは、だからどうした、という目を向けてきたものの、最早会話をするつもりはないようだ。

 既に勝利を得、次をどうするかに思考を移している。

 

 だがミレイユは、ラウアイクスの背後へと、変わらず視線を向けていた。

 そこにいる誰かが、落ちた召喚剣を音もなく拾ったからだった。

 

「おまえは、うしろを……かえりみない。――だから、負けるんだ……ッ!」

「なに……?」

 

 最後に放った、ミレイユの力強い言葉に、流石のラウアイクスも気を引かれた。

 単なる戯言と聴き逃がさなかったところに、ミレイユへの警戒心の強さを感じさせる。

 ならば、ミレイユの誘導は功を奏した。

 

「……ごプッ!」

 

 ラウアイクスが顎先を下げてミレイユを見つめた時、その腹から一本の刃が突き出す。

 半透明の刃が血で濡れて、歪なグラデーションを作っていた。

 ラウアイクスはそれを信じ難いものを見るように目を見開き、そして身体を震わせながら、背後を窺おうと身を捻る。

 しかし、それが誰なのかを確認する前に、怨嗟に満ちた声が地を這うように響いて来た。

 

「サプラァ〜イズ……ッ!」

 



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生死急転 その8

「き、貴様……ッ。何故……!?」

「見たいものだけ見たいのは、神であろうと同じだからよ、この間抜け! ――今よ!」

 

 ユミルと視線がかち合って、ミレイユは震える腕を持ち上げ掌を向ける。

 何をするつもりか、何が起こるか、ラウアイクスもそれで瞬時に悟った。

 防ごうと身体を捻ったが、ユミルが剣を動かし肉を抉る。

 

「か……、ぐッ……! ま、待……! 大神の真実――」

「起爆!」

 

 ミレイユが拳を握り込むのと同時、僅かな魔力が導火線の様に、ユミルの持つ召喚剣へと繋がった。

 その中に封入された『爆炎』の魔術が解き放たれ、ラウアイクスの内側から大爆発を起こす。

 

「――ァアア!?」

「う、ぐぅ……!?」

 

 効果を知っていて、心構えが出来ていた筈のユミルでさえ、その爆発を至近で受けて吹き飛ばされた。

 ミレイユもまた、爆発の余波で吹き飛ばされ、倒れていたルチアにぶつかり、互いに折り重なる形で倒れ伏す。

 

 爆炎は一瞬で収まり、煙すらろくに発生させずに消えたお陰で、ラウアイクスの姿が良く見える。

 その身体は腹から下半身を残して消えており、上半身は爆散してしまって原型を留めていない。

 力を失って崩れ落ちるより早く、遺体や血液が中心近くに凝縮し、それらが光球へと姿を変えた。

 

 そして、他の神同様、天井を突き破って何処かへと飛んで行ってしまった。

 その余波で瓦礫が落ちて、部屋の中に幾つも衝撃が走る。

 音と衝撃で気が付いたルチアが、自分の上に力なく乗っているミレイユを、困惑した眼差しで見つめていた。

 

「う、ぅぅ……! 一体、何が……。ミレイさん……?」

「あぁ……、よか……た。ぶじ……」

 

 血が流れすぎて意識は朦朧としているし、視界が暗い。

 それでも、重なり合う体温の温かさから、互いに命を繋ぎ止めているのだと分かった。

 ルチアもまた傷は多く、出血(おびただ)しいが、ミレイユは今やろくに魔力を扱えないので、彼女に頼るしかない。

 

「酷い傷……! すぐに治療します。でも、ちょっと……退いてと言っても無理ですね。誰か、手を貸して下さい!」

「ほら、これで良い?」

 

 ユミルがすぐ傍に立って、切り落とされたミレイユの腕を差し出した。

 ルチアはそれを受け取らずに、自身に覆い被さったミレイユを、どうにか刺激を与えず動かせないかと四苦八苦していた。

 

「そっちの手じゃないんですよ! 遊んでないで、早く助けて下さいよ!?」

「分かってるけどやっておかないと、と思って」

 

 ユミルは相変わらず片腕を差し出して来るだけなので、ルチアは受け取るだけ受け取って、大仰に顔を顰めた。

 それから威嚇するように睨み付ける。

 

「見て分からないんですか、酷い傷なんです! 一刻も早く治療しないと!」

「だからやってるでしょ?」

 

 言いながらも、手に持っている水薬をミレイユの身体に掛けていた。

 水薬は治癒術より治りは遅いし、効果も低いが、持続して効果が出続ける事、そして魔力の必要が無いところが優れている。

 

 ただ重傷者相手に使う事は推奨されておらず、下手に使うと傷が変な形で塞がってしまう事もある。

 この状況ならば、今すぐ必要なのは治癒術なのだが、ミレイユ程の瀕死であれば、むしろ一命を取り留めるのに有効な手段でもあった。

 

「他の奴らも治療済みよ。……見てご覧なさいな」

 

 言われるままに、ミレイユも辛うじて動かせる視線だけ移すと、死霊が手に幾つも水薬を持って、アキラやアヴェリンへと頭から注ぎ落としている。

 水薬は飲めば効果が高いが、気絶している様な相手には、肌に当てるだけでも効果がある。

 

 ただ、それだと皮膚や筋肉といった、表面的な傷ばかりが塞がり、損傷した内蔵が傷付いたまま、という事もあった。

 推奨されないやり方だが、すぐに治癒術士からの治療が受けられる場合なら、止血するにも有効な手段だ。

 

「死霊に治療されるなんて、笑い話にもなりませんよ。いいから早く……」

「――ミレイ様!」

 

 ルチアが何かを言うより早く、血相を変えたアヴェリンが肩を抑えながらやって来た。

 水薬は傷の治りが遅い。だから未だに穴が空いたままだが、そんな事は彼女にとって些事に過ぎなかったらしい。

 

「お役に立てず、御身の危険に盾にもなれず、不甲斐ない所をお見せしました……! どうか、お許しを……!」

「謝罪の前に、早く退かして下さいよ。こんな体勢じゃ治癒なんて出来ないんですよ……!」

「あ、あぁ、すまない……! ミレイ様、申し訳ありません! すぐに――もうしばらく、ご辛抱を……!」

 

 言うや否や、丁寧な手付きでミレイユを持ち上げ、ルチアの近くにそっと下ろす。

 水浸しの床に寝かせる事に障りはあるが、少しの辛抱でもあるので、手早く治癒をルチアに頼んだ。

 そのルチアも、口に水薬を含みながら治癒術を行使する。

 

 まずは切り落とされた腕が最優先で、渡された腕を丁寧に切断面へと近付けながら、魔術の白い燐光を当てる。

 刃以上に綺麗な切断面である事、切断されて時間の経過もない事が幸いして、一分と経たずに再生できた。

 

「相変わらず、大した腕だ……」

「それ、どっちの意味――いえ、不謹慎でした。忘れて下さい。……それより、今は無理して喋らない方が良いです。傷や体力だけでなく、身体の方も辛いでしょう?」

「……そうだな、……っ!」

 

 傷の治療は、ルチアに任せておけば問題ない。

 体力も水薬で回復できる。だが、素体に設けられた寿命の方までは、どうにもならなかった。

 

 魔力を使う程に、この身体はマナの生成を行おうとする。

 戦闘となれば、その消費も大きい。今回やった二柱の戦いで、果たしてどれほど寿命を擦り減らした事だろう。

 それはミレイユにも見えない事だが、そうするだけの価値はあった。

 

 後どれくらい、寿命が残っているか分からない。

 だが、全ての決着を終えるまで、この命を終わらせるつもりもなかった。

 

 ルチアの尽力によって傷もすっかり塞がったので、自分の手で水薬を口の中に流し込む。

 そうしていながら、次に傷の深いアヴェリンの治癒に取り掛かる様子を眺めていた。

 

 アヴェリンはミレイユを護れなかった事を深く悔やんでいたが、格上の相手である事に加え、相性の良い相手でもなかった。

 これまでの経験を踏まえても、アヴェリンは常にミレイユを護るべく奮戦していた事を知っている。

 今回、少し結果が伴わなかったからといって、ミレイユのアヴェリンに対する信頼は些かも衰えない。

 

 その事を口にしたのだが、アヴェリンの気は晴れないようだった。

 ミレイユにどう思われるかより、自分が何も出来なかった事こそが許せないのだろう。

 

 その気持ちは分かるので、今はそれ以上、何も声を掛けない事にした。

 それより、とアキラを起こして連れて来たユミルを見る。

 何食わぬ顔をして近付いて来たユミルに、ミレイユは皮肉げな笑みを向けながら言った。

 

「さっきまで死んでた奴は、私に何か言う事があるんじゃないのか」

「えぇ……? 幻術士が自分の死すら利用するなんて、そんなの分かり切った事でしょ? 騙されたんだとしたら、それは掛かる方こそ、ざまぁみろって感じよね。実際、ルチアは気付いてたし」

「――そうなのか?」

 

 ミレイユがルチアに顔を向けて尋ねると、気不味そうにしながらも首肯する。

 

「えぇ……、私も最初死んだと思いましたけど、乱れた髪を整えようとした時、魔力が変わらず流れていたのに気付いたので……。幻術を駆使して上手く偽装してましたが、直接触れば、分かってしまうものですから」

「だったとしたら……、もっと早く来れたんじゃないのか。死に掛けた事の愚痴くらいは、言っても良いんだろうな?」

 

 言っている内容は辛辣のようでいて、お互いの顔は笑っている。

 この程度のやり取りはいつもの事だから、別に本気で責め立てるつもりはなかった。

 ミレイユが疲れた顔に笑みを深めて言うと、それにユミルは肩を竦めて返した。

 

「それは何処かのルチアさんに言って頂戴よ。厳重に魔術錠仕掛けられて、あれ解くのにもう相当、時間掛かったんだから。それがなかったら……いや、どうかしらね? チャンスを狙ってたら、やっぱりあのタイミングになった気がするし……ねぇ、そう思わない? 何でさっきからこっち見ないのよ、アンタ。友でしょ、アタシ達?」

「誰が友だ。貴様など知らん。ユミルなら、私の眼の前で息絶えた」

「あらヤダわ、すっかりヘソ曲げちゃって……。アンタだって分かってる筈でしょ、あんな奴相手に正攻法で挑むなんて、アタシじゃ荷が勝ちすぎるの。全員で相手しても似たようなものよ。だったら、背後から刺してやるのが、賢い選択ってものだわ」

「だから、仲間も騙すのか」

「必要とあらばね。そして実際、必要だった」

 

 どちらの言い分も、分かる内容だった。

 ユミルは神と自分たちの実力を正確に把握し、全力で挑んだところで勝てるか分からないと判断した。

 だから騙し討ちする事を考えたのだろう。

 

 そして、それは仲間に相談した時点で瓦解する。

 ラウアイクスは飛ばされた他の神々に動向を向けているかもしれず、そしてユミルが『覗き屋』と揶揄していたように、勝敗の結果や傷の具合を調べるかもしれないと考えた。

 見られているなら、騙せるかもしれないと、ユミルはそれに賭けてみたのだろう。

 

 だが、アヴェリンからすれば、神々へ挑まんとするに命を預け合った仲、という気持ちがある。

 口では何と言おうとミレイユを中心とした仲間であり、信頼し合える友の筈だった。

 それをミレイユさえ餌にして、そのトドメを奪ったように見えるから、納得いかなく感じるのだろう。

 

 これはアヴェリンの、戦士としての矜持が先にあるから起こるすれ違いなのだが、勝ちさえ拾えば過程はどうでも良い、というユミルとは絶対的に相容れない問題だった。

 そして今回に関しては、何にもまして勝利の方が大切だった。

 

 ミレイユとしては、ユミルに良くやったと言ってやりたいところだが、ここで軋轢を深める事もやりたくない。

 それで結局、言葉を濁して、アキラの方へ顔を向ける事にした。

 

「お前も、良くやってくれたな。絶望的な力の差を前にしても、引き下がらなかったのは見事だった」

「いえ、僕なんて! お役に立てたかどうか……!」

「それがあったから、ユミルも間に合った。私は良いトコなしで、不甲斐ないところを見せたがな……」

「そんな……そんな、まさか……! 神に言い放ったお言葉、胸に沁みました!」

 

 アキラは悲鳴を上げて顔を横に振ったが、今回ミレイユが出来た事は多くない。

 戦闘向きじゃないとしても、しっかり願力を溜め込んでいた神に、良いようにやられた、というのが実情だった。

 

 だが、八神のリーダーは倒せた。

 その結果が全てで、そしてその功績は凄まじく大きい。

 

 だから今は、一時の勝利の余韻を感じながら、皆に笑みを向けていた。

 そこにアキラが、おずおずとした態度で言って来る。

 

「とんでもない相手に挑むのは分かってましたけど、それでも意外でした。皆さんが苦戦するところなんて、僕は想像できませんでしたから」

「そうは言うが、私が戦って来た相手なら、辛勝した回数の方が多いくらいだ。今回の様な、首の皮一枚つながる勝利は、別に珍しくない」

「そうだったんですか……」

「……逃げたくなる気持ちも分かるだろう?」

 

 ミレイユとしては場を和ますジョークのつもりで言ったのだが、アキラは口の端を不器用に動かすだけで、何の返答もしてくれなかった。

 その時、部屋の入口付近に『孔』が出現し、そこからインギェムが(まろ)び出て来る。

 

「大変だ、お前ら! 大変な事になった!」

 



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幕間 その1

 ルヴァイルがオスボリックの後を追い、彼女の神処に乗り込んだ時には、既に結界を張って待ち構えている場面だった。

 権能を使って作られたものだから、突破する手段がルヴァイルには無い。

 

 こうなる前に追い付きたかったし、出来れば使う前に話が出来れば最善だった。

 とはいえ、元よりルヴァイルとオスボリックは親しい間柄でもなく、特にオスボリックは感情を表に出さず無口なタイプだ。

 問われるまで口を開かない事も多く、挨拶以外の会話を交わした記憶も遥か彼方だ。

 

 その女神が、赤紫色の髪の奥で、怯えた視線をルヴァイルに向けていた。

 ドラゴンに攻め込まれた危機的状況は、戦闘能力のない彼女にとって、さぞ恐ろしく感じる事だろう。

 ドラゴンとは神々にとって天敵のようなものだから、怯える気持ちは理解できる。

 

 しかし、その怯えた表情は、ドラゴンというより、ルヴァイルに対して向けられている気がする。

 彼女の表情には、それが顕著に表れていた。

 オスボリックは何かを知っている――あるいは、何かに勘付いている。

 恐らくは、ルヴァイルが裏切りや策謀を巡らせて動いているのだと、既に分かっているのではないか。

 

 そして、この状況にあってオスボリックを追って来た事が、その証明と受け取ったのかもしれない。

 状況が状況だけに、神処に引き籠もって結界を使用するのは不自然と言えないが、ルヴァイルに向ける視線は不自然に思えた。

 

 ルヴァイルは一歩踏み出し、結界で隔てられているとはいえ、可能な限り彼女へ近付く。

 オスボリックの背後には一本の通路があるのみで、そこで警戒心も露わに立ち尽くしていた。

 恐らく、その先にあるのが、大神を封じている間だ。

 

 通路の奥には扉の付いていない、大きいと予想できる部屋があり、唯一の出入り口には黄金色に煌めく輝きで封じられている。

 その輝きがあればこそ、部屋の内容は窺い知れない。

 だが逆に、見えないからこそ、そこに大神が封じられているのだろうと思った。

 

 ルヴァイルもまた権能は戦闘向きでないし、戦闘経験自体ひどく昔のことになってしまっていて、武器を持って戦える自信がない。

 それでも、反旗を翻した瞬間から、戦う意志は持っていた。

 ミレイユから気高い決意を聞いた時から、そしてその手を交わしてから、ルヴァイルの掌には常に熱が灯っている。

 

 ミレイユ達が戦っている横で、何も出来ない不甲斐なさを見せる訳にはいかない。

 そして、ろくな戦力にならない身とはいえ、出来ることはある。

 

 ここで大神を開放できたら、彼女達への、この上ない援護になるだろう。

 そのつもりで、ルヴァイルは結界の境い目まで近寄り、半透明の壁に手を置いた。

 言葉が通る結界かは分からない。しかし、とにかく声を投げかけてみる。

 

「オスボリック……、分かるでしょう? 終わりの時が来たのです」

 

 彼女からの返答はない。

 それが単に聞こえないだけなのか、それとも返答するつもりがないのか分からなかった。

 それでもルヴァイルは、届くと信じて言葉を重ねる。

 

「貴女も、この世の歪みは良くご存知でしょう? 遠い世界から魂を呼び込み、世界を存続させる為、自分達の安全の為に利用していた……そのツケを払う時が来たんです。元より道理から外れ、邪な考えから生まれたもの……。どうにもならない手詰まりが来るまでに、それを正さねば……! 分かるでしょう?」

 

 ルヴァイルとしては、必死に説得を試みているつもりなのだが、オスボリックの不審感は増すばかりのようだった。

 怯えるだけだった瞳が、今では敵意を見せるようになっている。

 眉根に寄った皺は更に本数を増やし、敵意はその数に比例するかのようだ。

 

「神人計画は失敗に終わります。ミレイユを使った時点で、もう『次』など訪れない。一柱でも損失すれば、世界の維持は不可能……急速に破滅へ近付いていく。それを覆すには、もう大神に頼るしか方法がないのです……!」

「……それが、貴女の結論?」

 

 それまで決して口を開こうとして来なかったオスボリックが、ここでようやく反応を示した。

 眉間に刻まれた皺の数は変わらないが、声に敵意は含まれていない。

 ただ純粋に、疑問を呈しているように見えた。

 

「ラウアイクスが言っていた、()()()()()()()()()()()()()というのが、それ? 何をしようと、破滅は免れないと?」

「そうです、八神で行える事に限界があるのは、貴女も良く知っている筈……! 世界を削って無理してまで、という歪んだ形でしか維持できなった事が、その限界を如実に表している。今まで、必死に目を逸らしていた事を、直視する日が来たに過ぎません……!」

「それは出来ない。認められない……!」

 

 オスボリックが声を荒らげて否定する。

 普段から無口な所しか知らないので、突然の激昂に、ルヴァイルは思わず面食らってしまった。

 

「認められない……? 何故、そこまで頑なになるのです……? このまま、ラウアイクスに付いて行けば、すべてを解決してくれると思いますか?」

「彼は努力しているわ。今まで、彼の努力がここまで世界を存続させていた。それまで協力的とは言えなかった貴女が、それを今更持ち出さないで」

 

 オスボリックの主張には一定の正論があって、ルヴァイルは思わず息が詰まる。

 ラウアイクスの方針とは、つまり下界の生命を食い物とする事にあった。

 崩れ落ちようとする世界の維持に神が力を割いているのだから、その恩恵に預かる生命は、神の為に利用されて当然、という主張だ。

 

 ルヴァイルはそれに賛同する事は出来なかった。

 神は偉大かもしれない。

 しかし、だからと生命を、人間を、肥料の様な扱いに落とす事は納得できなかったのだ。

 しかし代案もなく、ただやめろとも言えない。

 

 そしてルヴァイルに、より良い代案を思い付ける頭脳はなかった。

 だから、唯々諾々でないものの、その方針には従う素振りを見せていた。

 確かにそれは、最初から協力的姿勢を見せていたオスボリックからすると、怠惰な姿勢に見えただろう。

 

 表立って否定こそしないものの、さりとて恭順でもない。

 それを今更、声高に否定するのだから、裏切り行為と見られても当然としか言えなかった。

 そして実際、ルヴァイルは彼らを裏切ったのだ。

 

「全てを大神に、返す時が来たのです。我らは不当に奪って来た。それを返すだけ……正しい、あるべき姿のところへ」

「……無理よ。無理だわ」

「何故です……。確かに、返上したなら、我々も裁きを受けるでしょう。それは避けられません。でも、その為に何もかもを道連れにするつもりですか。この世界のみならず、ミレイユの住む世界にまで破滅を呼び込んで……! 一体、どれほど犠牲を出せば気が済むのです!?」

 

 ルヴァイルは情で訴えたが、今更そんな事で絆されたりしないようだった。

 すっかり表情を落として、無機質な視線を向けて来る。

 

「貴女は……、そうか。最初から立ち位置が違ったものね。戦えないから大神と対峙していないし、後方支援、そして覇権を奪った後の役割しか求められていなかった。だから、大神という存在を、偉大な創造神としての側面しか知らない」

「単に偉大な存在と、盲目に信じている訳ではありませんよ。小神を作り、世界にテコ入れする方法を考えたのは、大神の方です。真に偉大な存在なら、そんな小手先の方法など……まして、残酷な方法など取らないでしょう。特別優れた、慈愛に溢れた人格性を持っているなど思っていません」

 

 ラウアイクスとグヴォーリが推し進めた神人計画とは、つまり大神が作り出した計画の焼き直しに過ぎない。

 大神の失敗と、その対策を練って生まれた新たな計画、という内容だとは知っていた。

 しかし、ルヴァイルは言われたままに協力しただけだから、その深いところまでは知らない。

 

 現在の八神も、贄という前提で生み出したのが大神だ。

 そうである以上、何もかもに慈愛を注ぐような存在でないことは想像がついてしまう。

 自分自身の命も含めて、先行きがないと諦めているのは、それが理由だ。

 

 オスボリックは黙ってルヴァイルの意見を聞いていたが、緩く首を横に振ってから口を開く。

 その見つめてくる瞳には、諦観が満ちていた。

 

「貴女は事の半分も分かっていない。あまりに主観的過ぎる。それで良くも……」

「どういう事です……? 何を隠し立てしていたと言うんですか? 貴女は何を知っているんです」

「貴女も分かっているんじゃないの……? それとも、無意識に目を背けてしまっているだけかしら。そもそも、大神は最初から世界に先を見ていなかった。維持の必要すら、考えていたかどうか……」

「どんなものにも永遠はない……と、そういう話ではなく?」

 

 オスボリックは少し考える仕草を見せたが、結局は首を横に振った。

 

「えぇ、先を見ていなかったというより……、そもそも世界に見切りを付けていた、というべきかも。だけど、『次』の目処が立つまでは維持しておきたい。そういう意味での存続は考えていたと思う」

「……『次』? どういう意味です?」

「次代の大神、そういう意味合いもあったけど、それだけじゃなく……。貴女、『地均し』は知っているわよね」

「それは……、勿論」

 

 これもまた、大神が造った兵器だった。

 ミレイユなどは、八神が造った上で送り込んだと思っていたようだが、全くの誤解だ。

 小神である現在の八神を造ったように、神造兵器と呼ばれる『地均し』もまた、大神の手によって造られたものだった。

 

 ミレイユは『地均し』の停止を求めていたが、出来ない理由とは、そういう事だ。

 そもそも制作にも関わっていない。

 完全な門外漢なのだから、止める方法など最初から知らない、というのが真相だ。

 

「それが……?」

「何故あの兵器が『地均し』と呼ぶか分かる?」

「……巨大で、歩くだけで地面が均されてしまうから、だと思ってましたが……」

「表面的には、それで間違いない。……でも、どうして『地均し』する必要があるか、それを考えた事は?」

 

 思わぬ事を言われて、ルヴァイルは眉根に皴を寄せて困惑する。

 敢えて巨体の兵器を造ったくらいだから、踏み潰す事が目的なのだと思っていた。

 何かを虐殺したいなら、もっと小さく数を揃えたら良い。

 

 威圧目的だとしても、あそこまで巨大にする必要があると思えず、あまりに非効率的に思えた。

 だからきっと、通行した後が平らになっている事を目的に造られたのではないか、という推論を疑問にも思わず信じ切っていた。

 

「あれは『地面を均す』事を、目的として造られたと思っていました。攻撃兵器ではなく、むしろ土木目的として」

「分かってるじゃない。つまり、今そこにある文明を破壊し、一度まっ更な大地を造る。あれはその為の物」

「でも、それだとつまり……」

 

 まるで最初から、その地を開拓する為にあるかのようだ。

 ミレイユの世界がそうであるように、元から生命がいて、文化があって、文明を持つ。

 そういう世界から魂を拉致し、利用する計画さえ、そこに何か作為的なものを感じてしまう。

 そして拉致計画は、大神が先に始めていた事だった。

 

 ルヴァイルの表情を見て、何かを悟った事にオスボリックも気付いたようだ。

 一つ頷きを見せると、やはり平坦な口調で言った。

 

「文明を破壊し、文化の形跡を消し去り、そこに新たな世界を造る。これは最初から、移住を念頭に置いた計画だった」

 



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幕間 その2

「ちょっと待ってください……!」

 

 ルヴァイルは言われた事を即座に理解できず、咀嚼するのに時間が掛かった。

 最初から移住を念頭に置いていた、というのなら、世界をあるべき姿に戻すなど不可能なのではないか。

 創造神すら匙を投げ、新天地を目指すというのなら、そういう事になりはしないか。

 

「この……この世界は、滅びるしかないのだと、そう言うんですか」

「……そうね、そう思うわ。でも、まだ分からない」

「どういう事です……? まだ他に、何か知っているのですか?」

「知ってるのは私じゃないわ、ラウアイクスよ。本当に大事な事、重要な事は、彼の頭の中にしかない。最も近しいグヴォーリでさえ、恐らく全ては知らされていない」

 

 立て続けに知らされる新事実で、ルヴァイルは目眩がする思いだった。

 繰り返す時の中で、ルヴァイルは多くを知ったつもりでいた。

 実際それは事実で、どうせまた繰り返すのだからと、大胆に情報を探った事もあった。

 

 それが次周の自分に役立つと信じて、そして『円満な解決』があると信じればこそ、大胆な背水の陣を張れたのだった。

 だが次第に、何百、何千と繰り返して行けば、引き出せる情報も乏しくなる。

 

 これ以上何も出てこない、何を探ろうと新発見はない、と思ってからは積極的な情報収集をしなくなった。

 だからこそ、ルヴァイルは全てを知ったつもりになっていた。

 

 だが、違うのだ。

 何があっても秘匿しようと考えているラウアイクスから、その全てを聞き出す事、調べ上げる事は不可能だったに違いない。

 だからこそ、今になって知らない事実が顔を出して来た。

 

 ルヴァイルは我知らず、奥歯を強く噛み締める。

 ――元より世界を救えないのだとしたら、一体、何の為に……!

 

 ルヴァイルが知る前提として、ここまでミレイユを信頼できる味方として手を組み、そして勝算を持って神々に挑める事など無かった。

 惜しいと思える事はあったものの、今回の様な形まで持っていけた事は皆無と言って良い。

 

 だから、そこより先へ踏み込んだ情報など知らなかったし、より深い事実など知りようもなかった。

 それこそが、ルヴァイルの失態だろう。

 

 一億を超える試行回数の中で、知らない事、知り得ない事など無いと高を括っていた。

 自責の念に捕らわれているところに、オスボリックの平坦な声が落ちる。

 

「でもラウアイクスは、移住なんてを考えていなかったと思う。彼は何より神々が――自分が大事だから、地上で暮らす無辜の民を思って、身を(やつ)すつもりなんて毛頭なかった」

「それは……えぇ、分かる気がします」

「ラウアイクスはどう考えていたか分からないけど、創造神である本当の大神もまた、似た考えだったと思う。無辜の民より、自分達の保全を優先しようとしていた」

 

 大神は完全なる善として存在ではない。

 それは理解していた事だ。

 しかし、大神もまたラウアイクスと同じ考えをする神であるというなら、ルヴァイルは一体何を頼みにすれば良いというのか。

 

 足元から全てが瓦解して行くような錯覚を覚え、それを認めたくなくて必死に言葉を紡ぐ。

 

「しかし、しかし……! それは根拠ある意見なのですか? 単なる予想ではなく」

「汎ゆるものの根源――その理として、永遠は無い。創造神であってさえ、それは例外でなかった。でも、抗おうとした……のだと思う」

「思う? 真実は違うと? ならば――!」

「早とちりしないで欲しい」

 

 オスポリックは首をゆるりと左右に振ってから、言葉を続ける。

 

「小神を贄に使う延命措置、それを作ったのは本当の大神が先でしょう。ラウアイクスはそれを模倣する事を思い付き、他の神と共同して改良したに過ぎないわ」

「それは……、えぇ。でも、それを言うなら元になった計画も、大神と世界の維持を兼ねたものだった筈ではないのですか?」

 

 生贄延命計画、と言い換えても良いかもしれない。

 存続や維持に、より強いエネルギーを欲した結果、神魂を利用するしかない、という結論に至った事を始まりとしているのではないか。

 

 そして、生贄として小神が幾体も用意され、ルヴァイルもそうして作られた。

 いや、と思い直す。

 

 多く繰り返して来た事で、記憶の齟齬が生まれて曖昧だが、それだけが――単に延命が理由で小神を作った訳ではなかった筈だ。

 ――そう、生贄にするのは、あくまで副次的効果でしかない。

 

 失敗作だから捨てるのではなく、再利用する為に贄とするのだ。贄が先にあって、エネルギー変換に用いるのではない。

 そこは八神が協同した、神人計画と事を同じくしている。

 

「……いえ、でも、そう……。ラウアイクスは『鍵』を作ろうとしていた……のだし、大神の計画を沿っていた筈だから……。大神もまた、『鍵』を作ろうとしていた……? いや、でも大神は『遺物』を最初から十全に使えた筈……。『鍵』など必要としていない。ならば、何故……」

「さぁね……。より優れた、より特別な存在を欲していたのではないか、と思っているけれど……。永遠の生など無い、というなら、次を考えての行動かしらね」

「次……? 次代へ繋ぐ為……? 己で子を成すのではなく?」

 

 ルヴァイル達にその気がないから子はいないが、生殖機能それ自体は持っている。

 誰かに強く焦がれる事は無かったし、だから子を欲しいと思った事もないが、どちらにしても相手がいなければ作れない。

 そして、その相手をどうするか、という問題があった。

 

 欲しいなら地上の誰か適当な人間でも使えば、と短絡的に考えてしまうが、そうも出来ない事情がある。

 子を成せるとしても、その持ち得る魔力に隔たりがあり過ぎて、神の基準からすると凡愚と思える子しか生まれないのだ。

 

 大神にも同じ事が言えるのだとしたら、それが理由なのかもしれない。

 自分と同じか、せめて納得できるだけの力量なくして、次代を任せられない、という事だとすれば一定の理解は出来る。

 

「それで、わざわざ外から魂を連れ来る、などという遠回りな方法を選んでいた訳ですか」

「それだけが理由じゃないわ。移住先の選定も兼ねていた、という話よ。魂の成熟具合は、文明の成熟具合と比例するものらしいの」

「成熟……? つまり、石器文明のような文化形成しかない魂は、未だ不完全だと。そこから持ち出すより、より高度な文明を築いた世界なら、魂もそれなりの成長が期待できる、そういう話ですか……」

「それが事実なのか私は知らないけれど、そういう基準を設けて、選定していたのは間違いないみたいね。そして、だからこそ、先史文明が邪魔になるとも考えていた。『地均し』を必要としていた理由は、そこにあるのでしょう」

 

 ルヴァイルは、今更ながらその悪辣さに身震いする思いを抱いた。

 大神にも寿命と呼べるものがあり、そして、いつか死を迎えてしまうというのも仕方がない。

 

 それと同時に世界の死も招くというのなら、それを偲びないとして、対抗措置を講じたところに文句などなかった。

 

 世界そのものが消えてしまうなら、無辜の民を逃がす為に、別世界を移住先と考える事は自然に思える。

 しかし、それは同時に侵略でもあった。

 

 特に後継者とする神の為に、魂を現地から収集し利用するところが、悪辣さを感じずにいられない。

 効率的ではあるのだろう。しかし、あまりに他を蔑ろにし過ぎる。

 

 そして、スムーズな移住を助ける為の『地均し』という土木兵器の運用が、何より悪辣に思えた。

 恐らくは――。

 

 その選定元になる世界は、魔力を持たない世界なのではないか。

 選べるというなら、きっとそうなる。

 

 魔力を持たない相手に、神造兵器は無類の強さを発揮するだろう。

 仮に持っている世界を引き当てたとしても、やはり神造兵器が持つ、エルクセスの鎧甲が魔力を吸収して利用する。

 

 そして、全てが更地となった世界を、新天地として恵み授けるつもりだったのかもしれない。

 どの道、神は世界を超えられないが、『未完成』の素体状態なら問題なく移動できる。

 渡った先で奇跡の様に見える何かを見せてやり、信仰心を生み出せば、そこで昇神できるという目論見があるのかもしれない。

 

「悪辣です……。あまりにも、利己的に過ぎる計画ではないですか」

「魂を拉致するだけなら、まだマシだわ。『鍵』の一つで解決しようという、ラウアイクスの方がまだ恩情がある。元より世界を超えられないから、そうするしかなかった、とも言えるけど……」

「でも結局、神造兵器を持ち出して攻撃しました」

「仕方ないわ、ミレイユは逃げ出したんだから。『鍵』を取り戻そうと思ったら、それぐらい使わなければ不可能だと思うもの。神々と同レベルで戦える奴を、神を使わずどうやって取り戻せっていうの?」

「でも、それは――!」

 

 それは傲慢な神の理屈だ。

 話し合いの使者を送るなど、穏当な手段は他にもあっただろう。

 ミレイユに『遺物』を使わせたからと、彼女の身命に被害がある訳でもない。

 

 交渉、報酬次第で上手くやる道もあった筈だ。

 結果として、それがミレイユを徹底抗戦させる動機となり、決定的な破滅を招いた。

 

 自由に『遺物』を使われるなど、神々からすれば悪夢だろうから、何かしらの枷は必要だったろう。

 しかし、エネルギーがなければ使えないのは変わらないのだし、互いの合意の上で契約を結ぶなど、上手くやる方法はあった筈だ。

 

 そこまで考えて、だとしても神々は決して認めない、とルヴァイルは考え直す。

 使うかどうかではなく、使える者が自分たちの意志に反する可能性、それ自体が問題なのだ。

 

 契約で縛れると言っても、相手も唯々諾々と従うとは限らないし、所謂法の抜け穴を使って対抗して来るかもしれない。

 それは勝手な憶測に過ぎなかったが、自分を殺せるナイフを握らせたままに出来るか、という問題でもあった。

 

 神々は、自分たちの出自からして反旗というものに敏感だ。

 だから、常に警戒する。

 

 単純に願い、交渉する、という程度で安心できないし、許容できない。

 そもそも求めているのは『鍵』としての役割であって、鍵を自由に使える責任者ではない。

 

 仮に交渉して連れ戻したとしても、その意志や自由すら剥奪して、好きに使えるよう工夫をしていた筈だ。

 ならば最初から、衝突は避けられなかったという事になる。

 

 ルヴァイルは深く溜め息を吐いた。

 身から出た錆――、そう表現すべきなのだろう。

 ともかくも、考える程にどこかで綻びが見え、そして破滅に繋がるようにしか思えない。

 

 その時だった。

 ルヴァイルの背後に孔が空き、そこからインギェムが飛び出してくる。

 

「良かった、間に合ったか……! お前じゃ戦闘になった時、相当心配だったからな!」

「あちらもその気がなかった以上、戦闘など起こりようがありません。興味深い話も聞けました。……引き籠もっているしかない彼女の、時間稼ぎという手段に付き合わされただけかもしれませんが……。それで、どうなりました?」

「己がここにいる時点で、もう察しはついてるだろ? ミレイユはシオルアンを討った。今はラウアイクスと戦ってる最中だ。だから繋ぎ止める必要がなくなったんで、こっち来たんだよ」

 

 ルヴァイルは深く頷いて、オスボリックの平坦な表情を見つめる。

 今もそれは変わらない。その、表面的な部分については。

 

 しかし、動揺の気配までは隠せていなかった。心なしか青褪めてもいるようにも見える。

 彼女からすると、待っていれば事態が好転すると思っていたのかもしれない。

 

 しかし、それは全くの逆で、神々は今、岐路に立たされている。

 既に一柱落ちたというのなら、世界の維持は破綻を意味し、そして急速に傾く事になるだろう。

 こうして話している時間すら、惜しい程だった。

 

「大神に寄る世界の復活や維持について期待できない、……それは分かりました。けれど、足元が崩れている状態なら、まずその足場を固めようとはしてくれるでしょう。諸共死ぬつもりなど無い、とは考える筈……。今はそれに賭けませんか」

「そして、世界がとりあえず安定した状態になれば、対話する余裕も生まれる? より良い改善策が生まれるかも? ――あり得ないわ」

 

 そう言って、オスボリックは天を仰ぎ、そして大きく息を吐いた。

 

「……これで終りね、何もかも。破滅は既に始まっていたかもしれないけれど……、これから真の破滅が始まるのよ」

「そう悲観的になるな。ミレイユには見所がある。あいつなら……」

「そういう意味じゃないわ。大神はこの奥に居ない。……もう死んだ」

「なんですって……?」

 

 オスボリックの表情は変わりない。しかし、嘘を言っている様にも見えなかった。

 背後に光る黄金色の壁を横目で一瞥し、それから腕を振るって解除する。

 その目にはありありとした、諦観が浮かんでいた。

 

「私が封じていたのは、大神の死骸よ。腐り果て、泥になってしまった毒素……あらゆるものを侵す毒、大神の瘴気を封じていた。終わりというなら、私が幕を下ろすまで」

「ばっ……! 待て、早まるな!」

 

 インギェムが焦った声を出して手を伸ばしたものの、それ以上は結界に阻まれ近付けない。

 

「私が死ねば、数秒と保たずに結界が消える。逃げるなら早くする事ね。……とはいえ、それも少しの猶予が、生まれるだけに過ぎないでしょうけど」

 

 そう言って目を閉じると、背後から毒々しい色をした、粘性の液体が流れ出てきた。

 それは確かに泥の様に見えたが、単なる泥にも見えない。

 

 液体の表面には気泡が作られ、弾いて消える度、その代わりに毒性と思われるガスが吹き出る。

 それに触れたオスボリックの肌は、みるみる内に爛れて、肉が腐り落ちていった。

 

「オスボリック……! 待って、最後に……!」

「駄目だ、もう遅い!」

 

 追い縋るように結界へ近付いたルヴァイルの手を、逆に離れようとしたインギェムが握って引き離す。

 オスボリックは既に自立している事すら出来ないらしく、膝から力なく崩れ落ちた。

 今も指先から腐り、骨すら見え始めた両手を、皮肉げな笑みを浮かべながら見ていた。

 

「オスボリック、貴女の『不動』を使って、神造兵器を留めていたのでしょう? 止める手立てを知っているのではないですか!? それを、それを最後に……!」

「知らないわ……。そういうの、大事な事……。全て……ラウ、アイクスが……」

 

 ガスに触れても爛れるのは早かったが、泥に触れれば更に早かった。

 直接触れたと思うや否や、瞬きする間にオスボリックの身体が腐り落ちていく。

 

 そして、力なく身体が倒れたと同時、その身体は光球へと姿を変えた。

 流石に光球まで泥で侵せるものではないらしく、そのまま天井を突き破り飛んで行ってしまった。

 

 ルヴァイルはそれを呆然と見つめていたが、インギェムの強く引っ張る力で我に返る。

 インギェムが指し示す方向には、既に孔が開いて待っていた。

 

「急げ、逃げるぞ!」

 

 オスボリックが言ったとおり、その発言と同時に結界が砕かれ消える。

 抑え付けていた瘴気が襲い掛かってくるようにも見え、慌てて孔の中へと身を投じた。

 



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一つの決着 その1

 ミレイユの傷も癒え、体力もまた取り戻しつつあるものの、万全には未だ遠かった。

 そればかりでなく、胸を締め付ける痛みは未だ引いてくれない。

 最も酷い時よりマシになり、今も痛みは少しずつ和らいで来ているが、正直な所を言えばベッドの上で寝ていたいぐらいだ。

 

 しかし、今はまだ神々へ抗う戦いの最中だった。

 泣きごとを言っても始まらないとはいえ、恨み言の一つぐらい言いたくなる。

 孔から飛び出して来たインギェムは、更なる厄介事を持って来たようだし、ついつい言葉遣いも荒くなった。

 

「……やめろよ、インギェム。全員、満身創痍の状態だぞ。これ以上の厄介事は、お呼びじゃないんだがな」

「あぁ、クソっ! 今はお前の優秀さが恨めしいぐらいだよ! ラウアイクスのこと、弑しちまったのか!」

「最初から、その予定だったろう。殺らなければ殺られていた。チャンスがあれば、それを逃したりしないし、逃せない状況だった。命乞いらしきものも聞こえていたが、勝利の前に舌舐めずりする馬鹿じゃないんだよ、こっちは」

「勝ったのも弑したのも文句ないよ、そこじゃないんだ。その前に聞きたい事があった……!」

 

 インギェムの表情は必死で、余裕が欠片も見当たらない。

 神が一柱でも欠失すれば、世界の維持は急速に損なわれて行くというから、余裕がない事についても理解できる。

 そして、同じ神々の中にあって彼女たちが知らず、ラウアイクスしか知らない事情が、問題の根元らしい事も何となく察した。

 

 しかし、聞き出したいと嘆いたところで、今更聞ける事ではないだろう。

 ミレイユにしてやれる事などない、と心の中で次の事へと方針を定めようとしていると、孔の中からルヴァイルもまた飛び出して来た。

 

 その孔からは、何か異質な空気の様なものを感じる。

 だが、何だと思うより先に閉じてしまい、結局分からず仕舞いだった。

 まるでそれを見られまいと、インギェムが慌てて閉じたようにも感じられ、ミレイユは不審を強める。

 

「それで、聞きたい事……? 例え瀕死の生け捕りに出来ていたとして、素直に何か教える奴には見えなかったが……」

「それは、そうだとしても……。あぁ、くそっ……! こうなりゃ、行き当たりばったりにならざるを得ないか……!」

「一体、何をそんなに焦ってるんだ。詳しく話せ」

 

 ミレイユが催促しても、インギェムは眉間に皺を寄せて顔を逸らすだけで、何も言おうとしない。

 ユミルもまた不審感を強め、治療を受けている最中のアヴェリンも、目を鋭くさせて睨み付けた。

 臨戦態勢に移ろうとする二人を見て、仲違いを防ごうとルヴァイルが間に入る。

 

「いえ、隠し事をしようという訳ではないのです。こちらとしても、随分混乱してしまって……。ラウアイクスは大神について、何か言っていませんでしたか?」

「死の間際に、気を逸らそうとでも言うのか、何か言い掛けてはいたな……。アイツしか知らない何かを材料に、私の手を止めようとしていたようだが……」

 

 ミレイユはそう口にしながら、つい先程の事を反駁したが、あの場でトドメを刺さなければ、きっと後悔していたと断言出来ただけだった。

 

 騙し、出し抜く事に長けた相手だ。

 もしも言葉に釣られて手を止めたとしても、言う事は言ったかもしれないが、逃げるか逆転されるかされていた。

 

 腹の探り合いになり、出し抜こうと画策した事は間違いなく、だからこそ重要な事は、きっと聞き出せなかったと思う。

 だが、それより以前、戦闘中にも気を逸らすつもりで話しかけた事もあった。

 その時の事を思い返していると、ふと思い当たる事があって顔を上げる。

 

「……大神と関わりある事かは分からないが、地上では崩壊が始まっているとか言っていたか。ここにいる限り、実感がないとも言っていた。急がなければ、『遺物』を使うどころではなくなると……」

「それだけ、ですか?」

「そうだな、他に大した事は――」

 

 言い差して、ミレイユは動きを止める。

 確かラウアイクスは、大神について、一つだけ言及していた事があった。

 

「後悔する事になる、とも言っていたな……。大神に対して、解放する事を指しているのかと思ったが。……お前達の態度を見ると、それも正しく思えて来る。いい加減、はっきり教えろ」

「えぇ、勿論……。申し訳ありません、こちらも混乱していて……」

「それは見れば分かる。――で、何があった」

 

 ルヴァイルは一瞬、躊躇うような仕草を見せ、それから意志の籠もった視線で見つめてきた。

 

「……大神は、封じられていませんでした」

「何だって? そいつを救い出せば、多くは解決する筈だったろう? そう考えて、計画を立てていたんじゃなかったか?」

「……全くの誤算でした。神々がギリギリの瀬戸際で持ち堪えている世界の維持……、それも大神が解き放たれれば解決すると、それに確信にも似た思いを抱いていたのです」

「だが、居なかった? 封じられていないなら、どこに居るんだ……!?」

「どこにも居やしないよ」

 

 横合いから差し込まれた、情緒を感じないインギェムの言葉に、ミレイユは一瞬意味が分からず思考も固まる。

 固まった思考は直ぐに動き出してくれず、いつまでも停止したままだった。

 

 ミレイユも今は十分な休息を取りたい気分で、難しい事など考えたくない。

 それでも、ミレイユは訊かねばならなかった。

 

「……どういう意味だ? この世界から、もう出て行ったとか、そういう話か? ――いや、神は世界に根差すんだったか。だが、それなら大神の封印は欺瞞だったと……」

「いいや、封じられていた。――封じていたのは、大神たちの死骸だ。つまり、とっくの昔に大神たちは死んでいた」

「なんだって……?」

 

 いま言った事が本当だとしたら……大神がとうの昔に死んでいるとしたら、世界の再生など、最初から不可能だったという事になる。

 ――だが、それは可笑しい。

 

「何でお前達は、そんな大変な事実を知らなかったんだ。すべての計画が、根本から瓦解するぞ。インギェムはともかく、ルヴァイルまで知らないのは可笑しくないか?」

「妾達も、ラウアイクスの計画全てを知らされていた訳ではありませんし、知り得ない情報もまた多かった……。いえ、もっと悪い。積極的に、蚊帳の外へ置かれていたので、自力で得られる情報にも限りがあったのです」

 

 特に、と後悔の交じる表情で俯いたルヴァイルは、声を落として続ける。

 

「ラウアイクスは、グヴォーリと結託して何かを行う事が多かった。その二柱の間では取り交わされていた話も、他には回らない事は多かったのです……」

「そして、その一つが大神死亡の秘匿か……。自死なのか、それとも殺害なのか、今となっては知る由もないが……。だからなのか……。さっき、大神について何か聞いてないかと言ったのは……」

 

 ルヴァイルは静かに首肯する。

 俯けていた顔を上げた時には、僅かばかりの期待と謝罪が浮かんでいた。

 

「ラウアイクスは神があるべき姿として、非常に傲慢な性格をしています。その彼だからこそ、勝利を確信した時に、何か零さなかったかと期待したのですが……」

「いや、悪いが……さっき言ったとおりだ。だが、後悔と言ったアレは……、どういう意味だ? 大神を弑していた事について言っていたのか?」

「どうでしょうか……。死んだ後も封じ続けていた事こそを、言っていたのかもしれませんし……」

 

 憂い顔で顔を振るルヴァイルに、ミレイユも胸を抑えながら溜め息を吐きいた。

 そして、ふと思う。

 

 ルヴァイルは、そのオスボリックが自身の神処で引き籠もらないように、と先行していた筈だ。

 そしてインギェムも、分散工作と拘束に奮闘した後、ルヴァイルに合流したところを見ている。

 

 だが、二人も戦闘向きの神ではなく、また戦闘向きの権能を持たない。

 本神の自己申告だけでは信じられないところではあるが、その二人でオスボリックを打倒して来た、というのには違和感があった。

 

 ミレイユ達が相手をした神々も、戦闘向きじゃないと言いつつ、相当な苦戦を強いられた。

 だから、二人掛かりで挑んで勝てたと言われても納得するのが難しく、無傷にしか見えないところからも猜疑心が増す。

 

「それよりお前達、相手にしていた神はどうした。今は野放しになっているとかじゃないだろうな?」

「何だよ、疑われてるのか、己ら? オスボリックなら死んだ。自ら封を解いた時にな」

「死んだ……? 封を解いて? お前達がやったのか?」

 

 インギェムは首を左右に振って、忌々しく顔を歪め、舌打ちしてから答えた。

 

「ありゃあ、自殺っていうのが正解だと思う。もうどうにもならんと、匙を投げた格好だろうさ。八神による維持も、もはや不可能。維持といいつつ、実際にはヤスリで削るように世界を失っていたんだが――まぁ、そこは置いとくさ。ともかく、挽回も不可能と思って、巻き込まれて死ぬ前提で封を解いたんだ」

「それがつまり、お前が血相を変えて転がり込んで来た理由か?」

「そうとも。封じていたのは大神の死骸に違いない……けど、それが泥みたいになって瘴気を生み出していた。あれは世界そのものに作用する毒だ。神ですら一瞬で腐り落とし、建物も大地も、草木も水も、全て関係なく腐らせる毒だ」

 

 それを聞いた瞬間、ミレイユは本気で目眩がして、額を抑えて苦悶に喘いだ。

 いま言った事が本当だとするなら、インギェムが孔の奥を隠すかのように塞いだ事にも納得がいく。

 つまり、その瘴気が孔を通じて流れ込んで来ないよう、咄嗟に塞いだからそう見えた、という事だったのだろう。

 

 だが、そうすると、非常に拙い事になる。

 ミレイユが思わずユミルに目を向けると、忌々しく思う顔を隠そうともせず、頷き返して来た。

 

「元より破滅へのカウントダウンが始まっていた様なもんだけど、それが急激に速まった……そういうコトよね。規模は不明だけど、今も下界は崩れ始め、そして天界からも腐り始めてるって? まさにこの世の終わりって感じだわ……」

「全くな……」

 

 ミレイユは大きく溜め息を吐いて、顔を顰めた。

 面倒事はご免だと言っていたが、ここに来て最大級の面倒事がやって来た。

 嘆いて傍観しているだけで沈静化するなら、幾らでも嘆いているのだが、毒の蔓延で滅ぶ世界を傍観して待っている事は出来ない。

 

「誰か何とかしてくれ、助けてくれ、と言っていられたら楽なんだが……。私達の立場で、それは許されないんだろうな」

 

 ミレイユが顰めっ面のままそう言うと、ユミルは嬉しそうに笑う。

 

「あら、アンタもまぁ神らしいコト言うようになったじゃないの。自覚ってやつが芽生えたのかしらね」

「そういう意味じゃないし、茶化している場合でもない。……さて、どうするべきだと思う?」

「そりゃ……『鍵』を使うのが、一番現実的ってやつかもしれないわね。元より、起死回生の手段として、想定に入っていたワケだし?」

「そうだな……」

 

 顰めた顔を変えないまま、ミレイユはルヴァイル達へ視線を戻す。

 本来は大神を助ければ解決する、それだけの簡単な話だった。

 

 ならば、封印を受け持つオスボリックだけを暗殺するなり排除すれば、後は大神に任せて解決するだろう。――そういう話でもあった。

 実際にはそれで何もかも解決、というほど簡単な話にはならないだろう、という予想もついていたし、何かしら別の面倒は起こるとも予想していた事だった。

 

 それらを吞み込んでの、救出劇と思っていたのだが……。

 だが、ここまで酷い予想はしていない。

 

 本来はオスポリックさえ排除できれば、それで多くの問題が解決する――その前提でいたのに、敢えて他の神も相手にしたのは、保険の意味合いもあったからだ。

 今後の世界に今の八神は必要ない、というのも理由の一つだが、あるいは、こうしたどうにもならない事態を予想しての事でもあった。

 

 ドーワと別れる寸前、そのときの話が思い出される。

 ――ただの憶測だよ。例え冗談でも口に出すべきでない上、突拍子もない類のね。

 

 彼女は明らかに、何か勘付いている様子だった。

 それが現在の事態を、予測していての事の様に思えてならない。

 

「オスボリックは腐り落ちたというが、神魂は飛んで行ったか?」

「行ったよ、それは間違いない」

「現状の神魂の数で、全てを賄う事が出来ると思うか?」

「それも分からない。でも、一か八かで賭けに出るには、ちょいと怖い数字だな……」

 

 インギェムの表情も苦渋に満ちている。

 残された時間は如何ほどだろうか。

 残り時間次第で、未だドラゴンと対峙している神々を相手にするか、それともインギェムの言う賭けに乗って『遺物』に向かうか、それを決めなければならない。

 

 どこか遠くで、建物が崩れ、次いで大地すらも崩れるような音が聞こえた。

 今の音が神々と戦うドラゴンが起こしたものでないとしたら、例の瘴気が猛威を振るっているという事になる。

 

 ミレイユは顰めていた顔を更に歪めて、大いに眉間に皺を寄せた。

 あまり多く、時間は残されていなさそうだった。

 



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一つの決着 その2

「インギェム、私たちを残りの神々の所まで送れるか」

「ちょっと、お待ちなさいな。もしかして、このうえ更に神々と戦おうって言うの?」

 

 ミレイユの問いは、身体ごと前に出て来たユミルに遮られた。

 非常に業腹だし、避けられるものなら避けたいが、挑まねばならないだろう。

 ミレイユはそれに、渋々と頷いて見せる。

 

「私だって身体が悲鳴を上げてる。やりたくないが、神魂が足りるか分からないなら、やるしかない。やっぱり足りませんでした、でトンボ返りする時間が残されるかも分からないしな」

「それも分かるけどさ……。戦闘を不得意とする神でさえ、あの苦戦だったのよ。残った二柱を、万全でもないアタシ達で相手するのは、溶岩の中に身投げするようなもんよ。正気とは思えない」

「そう、だが……。とはいえ、な……」

 

 ミレイユは痛む胸を抑えながら立ち上がる。

 ゆっくりと呼吸をしてみると、意外に調子も戻って来ていた。

 身体中に魔力が満たされたからだろうが、消費すればまた同じ痛みを味わう事になる。

 

 それを思えば気持ちも萎え、逃げ出したい気持ちが去来する。

 だが、やらねならない、というのなら、やるしかないのだ。

 

「ドーワ達ドラゴンが、どれほど奮戦したかは分からないが、奴らとて無傷ではないだろう。付け入る隙ぐらい、きっとある」

「そりゃそうでしょうけど、タサギルティスの権能は、射術と自在よ。空飛ぶ相手に対しては、むしろ有利に戦える筈だわ。奮戦とは言うけど、既に壊滅してたっておかしくない」

「……そうだろうな。だとしたら、尚更助太刀しにいかねば勝機を逃すだろう。ルヴァイル達が言っていた毒というのも、何処まで迫っているのか不明だしな。それ次第では……」

「――それだわ」

 

 ユミルが指先を向けて来て、次いでインギェムへも指先を向ける。

 全員が訳もわからず指の動きを追う事になり、やはり意味不明で首を傾げる事になった。

 

「それ……?」

「だから、まともに戦うのが無謀なんだから、毒に蹴落としてやりましょうよ。神すら殺せる毒なんでしょ? 聞く限り、即死に近い感じじゃないの。勝てるかどうかも怪しい相手なら、寝首を掻くか、不意打ちで倒すのが常套手段ってもんでしょ」

「その理屈も良く分かるが……」

 

 ふと周りを見渡せば、渋い顔をして否定的なのはアヴェリンだけで、他の全員は賛同するように頷いている。

 アヴェリンにしても、敗北するのはもっての(ほか)と理解していたところで、名誉なき戦いを忌避したい気持ちはあるらしい。

 

 しかし我儘を言う状況ではないとも理解しているので、否定の声は上げていなかった。

 ルヴァイルもまた、周りの同調に賛同し、至極真面目な顔つきで言う。

 

「誰一人失う事なく、三柱の神を破った……。これ以上は、望むべくもない展開です。むしろ、出来すぎなくらいでしょう。誰もが満身創痍で挑むなら、全滅も有り得る。……何を憂う必要がありますか?」

「別に手段を問題にしてるんじゃないんだ。私たちが望むのは、神魂を『遺物』必要としているだけで、神と戦う事じゃないからな」

「じゃあ、何が問題?」

 

 ユミルが首を傾げて問うて来て、ミレイユは肩を回して調子を確かめながら答えた。

 

「どうやって、空を飛べる神を毒に突き落とすんだ? 不意打ちは結構だが、殴り飛ばす程度でいけるとは思えない」

「アタシは元から、インギェムの権能頼りに考えていたんだけど……」

 

 そう言って、ユミルはチラリと視線を向けて話を続ける。

 

「孔に毒素までの直通回廊を作って貰うとか、そういうね。いきなり傍に開いた孔に入るほど間抜けじゃないだろうけど、押し込むくらいなら危険も少なく、成功率も高いと思うのよね」

「……確かに、可能そうに思えるな。インギェム、どうだ?」

 

 話を振ると、当のインギェムは腕を組んで難しい顔で、考え込み始めた。

 自分ひとりの考えでは自信がないのか、ルヴァイルへ目配せするように窺っている。

 そうすると、ルヴァイルも暫し考えてから頷いてきた。

 

「可能だと思います。タサギルティスの権能は、接近戦に向かない。毒素と逆方向へ殴り付ければ、危機感も薄く反撃を試みようとするでしょう。孔を出現させるタイミングは計る必要があるでしょうが、不意打ちに不意打ちを重ねられたなら、成功の公算も高いと思います」

「他にも、もう一柱いた筈だな。そちらは?」

「調和と衝突のブルーリア、この衝突の権能は精神的にも、物理的にも有効に働きます。ですから、殴り付けるような事をすると、無効化してくる可能性は高いかと……」

 

 衝突、と一言で言っても、その内容は様々だ。

 口論をぶつけ合う事も衝突というし、文字通り、勢いよくぶつかる事を衝突という。

 ブルーリアはそれを利用する事が出来るのだろう。

 

 扇動なども得意そうだが、今この状況だけに照らし合わせると、例えばアヴェリンに殴らせたところで微動だにしない、という事になりかねない。

 逆に殴った方が吹き飛ばされる事すら、あり得そうだった。

 

 そういった形で権能を使うなら、不意打ちにすら息吐くように対応してくるかもしれない。

 殴り付け、吹き飛ばして孔へ押し込む、というタサギルティスとは、別のアプローチが必要となるだろう。

 

 物理的な方法が駄目というなら、魔術的方法が求められるのだろうが、その妙案までは思い浮かばなかった。

 ミレイユは唸りながら、ルチアに意見を求める。

 

「衝突させずに吹き飛ばすか、押し込もうとするなら魔術の出番、という気がするんだが……何か案はないか?」

「そうですね……」

 

 アヴェリンの治療を終わらせたルチアは、今はもうすっかり塞がり分からなくなった傷口を、ペチリと叩いて顔を向けた。

 

「あくまで、ですけど……。運動している物体が、接触する事で発生する衝撃力、それを完璧に制御可能な権能……という事であるなら、接触それ事態は問題ないと思いますね。それなら多分、『念動力』で掴んで投げ飛ばす、そんな荒業でも大丈夫って思うんですけど」

「……なるほど。だが問題は、その程度の拘束、即座に抜け出すだろうって事だな。拘束用の魔術でもなし、本来は軽い物を動かす為だけの魔術だ。熟練の魔術士だって、自分の体重の半分も持ち上げられないのが普通の代物だ」

 

 ミレイユがそれを拘束に使ったり、アヴェリンを空中で掴んで補佐したり出来るのは、一重にその莫大な魔力で振り回すからだ。

 そして同時に、強い魔力があれば、それだけ簡単に抵抗できる。

 ギルドに所属する冒険者程度ならまだしも、戦闘向きの神相手に出来る事ではない。

 

「それならそれで、何らかの魔術で拘束してから投げ付けてしまいましょう。氷の中に閉じ込めてしまうとか」

「でもさ、それも結局、すぐに抜け出されると思うんだけど――あぁ、そういうコト?」

 

 口を挟んで来たユミルが、やおら納得して数度頷く。

 

「つまり、ものの数秒、拘束できればそれで目的は達成してると……。周囲を氷で閉ざすコト事態は、別に衝突でも何でも無いから。その氷を掴んで投げ飛ばそうとも、衝突を緩和したところで、あくまで内側の問題でしかないワケね」

「えぇ。私も全力で氷の凝固に魔力を割きますけど、甘く見積もって十秒といったところでしょう。仮に半分しか保たなかったとしても、孔へ投げ入れるには十分な時間だと思いませんか?」

「……イケるな、やれるぞ」

 

 ミレイユも自信を持って頷くと、ルチアも嬉しそうに微笑む。

 それに笑顔で返してやると、横合いからアキラが何とも言えない顔をして言葉を零した。

 

「それにしても、ラスボスというか四天王みたいな相手を、戦いを回避しながら勝ちと取る、というのは何とも……」

「気に食わないか?」

「いえ、別に! そういう事ではなく!」

 

 やはり武人として育てられたからには、アヴェリンよりの考えなのかと訊いてみたのだが、予想よりも大きな反応で首を振る。

 

「一大決戦みたいなつもりでいたので、さぞ壮絶な戦いが繰り広げられるんだろうなぁ、と思っていた訳でして……! もっとずっと大変な戦いが始まるぞ、と自分を奮い立たせていた手前、少し肩透かしを喰らってしまったというか……!」

「……気持ちは分かる」

 

 それこそ、アキラからすると、天界に来た時点で、ラストダンジョンに入り込んだような心持ちだったろう。

 自分では太刀打ちできない強敵、少しでもミレイユ達が有利になるよう、一秒の時間を稼ぐのに命を削るような……そういう、激しい戦闘を想定していた事は想像に難くない。

 

 より戦闘に長けた神との戦闘を前にして、今度こそ死を覚悟して挑むつもりだったのではないか。

 しかし、ユミルが提案し採用した作戦は、不意打ちからの毒殺みたいなものだ。

 ミレイユ達の治療が完了していくに連れ、その戦意や覚悟を高めていただろうに、そこへ水を差す様な対策が講じられてしまった。

 

 少々、肩透かしを喰らうのも当然というものかもしれない。

 そこへユミルが、誂う表情の中に、呆れを含ませた声音でアキラに言う。

 

「アンタは自分の仕事をやり切った上で死のうと、それはそれで満足なのかもしれないけど、こっちはそういうワケにはいかないの。先行きを諦めてない、っていう意味じゃないわよ? 八神を落とそうと、まだ戦闘は終わらないから温存した上で勝ちましょうって話をしてるの」

「まだ他に、敵が残ってるって意味ですか……?」

 

 アキラが不安そうな、また不審そうな視線をルヴァイル達へ向けたのを見て、ミレイユは苦笑しながら手を小さく振る。

 

「そっちじゃない。そして、未だ出会っていない小神の事でもないな。盛大にやってくれた置き土産を、どうにか対処してやらねばならないからだ」

「置き土産……?」

 

 アキラが首を捻って、ぽかんと口を開いた時、ルヴァイルが素早く視線を壁へと動かした。

 その形の良い柳眉が、きつく眉根に皺を寄せる。

 壁に何か異変があったからではない。その奥にある、外の光景を見たか察知したから見せた反応だった。

 

「お喋りはそこまでに。急ぐ必要があります」

「分かった。インギェム、まずは外に出してくれ」

「この神処の? 戦場じゃなくて良いのか?」

「どういう戦況も分からないで、その近くに出るのは危険だ。不意打ちの機会も失うかもしれない。まずは外に出て、待たせているドラゴンに乗って接近する。その方が、色々手立てを考え易い」

 

 それに、とユミルが悪戯めいた視線の中に、不審を混ぜた色を浮かべて、インギェムへ顔を向けた。

 

「毒とやらがどういうものか、どれ程の進行速度を持ってるか……それも確認しなくちゃね?」

 



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一つの決着 その3

 インギェムの権能により、ミレイユは神処の出入り口脇、最初送り出されたその場所に戻っていた。

 ドラゴンが暴れている場所は遠く、神処を守る衛兵なども見えないせいで、この周辺は比較的静かなものだ。

 ただ、遠くで何かが光ったり爆発が起こっていて、衝撃音が耳を震わせる感覚から、大規模な戦闘が巻き起こっているのは分かる。

 

 未だ激戦が続いているのは確かな様だった。

 それを遠くに見つめながら、ユミルは嘯くように言う。

 

「ドラゴン達は良くやっているようね」

「その様だ。神殺しとして用意された生物だけはある。……ただ、流石にその数は減らしているようだな」

 

 最初は百匹いた筈のドラゴンも、飛んでいる数は多く見受けられない。

 光源といえば、月明かりと地面を燃やす炎の照り返しぐらいだから、鮮明に見えている訳ではないものの、数を多く減らした事だけは判別できる。

 

 あの百匹も精鋭には違いなかったのだろうが、戦闘向きの神と戦うとなれば、討ち取られてしまった数も多いのだろう。

 今の状態が拮抗しているのか、それとも決壊しているのかも、ここからでは分からない。

 

 タサギルティスとブルーリアに手傷を与えられるとすれば、それはきっと最古の四竜くらいだろうし、その彼らが敗れていないからこその、爆発や衝撃音でもあるのだろう。

 

「不意打ちを食らわせるなら、彼らが存命の内にやりたいな」

「あるいは、待ち伏せという方法もありますが?」

 

 アヴェリンが控えめに提言して来て、ミレイユは少しの間考え込む。

 向こうの戦闘が終われば、当然彼らも報告の為に帰って来る。

 ミレイユ達との戦闘を察知しているなら、その応援に駆けつけようともするだろう。

 

 その時、例えば最奥の間への途中で待ち構えていれば……。

 待ち構えている者がユミルの用意した幻像で、その隙を突く形であれば……。

 可能性はありそうに思えたが、静まり返った神処や、兵達が姿を消している事、違和感の元は多くある筈だ。

 

 警戒せずに入って来るとは思えず、それならば未だドラゴンとの戦闘中、隠伏しての不意打ちの方が、成功する公算が高いように思える。

 ミレイユは首を横に振って、アヴェリンの案を却下した。

 

「状況によっては上手くいく可能性はあるが、不自然な状況や痕跡を消すことが難しい以上、あまり成功は見込めないと思う。ドラゴンとの戦闘が終わった後、気を抜いて帰って来るとも思えないしな……」

「まぁ、そうだな……」

 

 それに同意したのがインギェムで、続いてルヴァイルも頷いて補足する。

 

「色々と舐めた態度や傲慢さが目立つ二柱ですけど、そこまで間の抜けた行動は期待できません。全くなしと言い切れない程に、彼らの傲慢さは筋金入りですけど……やはり、確実性は劣るでしょう」

「お前達からそう言われたら、やはり戦闘中の急襲で仕留めるしかないな。――インギェム、お前のタイミングが肝だ。抜かるなよ」

「プレッシャーだね、どうにも」

 

 口では難しそうに言いつつも、その表情は笑っている。

 まるで、成功を疑っていないかのような口振りだった。

 

 実際、より難しい仕事をするのはミレイユ達だ。そこで失敗するようなら、孔を開くタイミングなど、どうであろうと関係ない。

 

 ミレイユは念押しするように一つ頷いてから、顎を上げて神処の屋根へと視線を向けた。

 そこには待機するよう指示していたドラゴンが、こちらを窺うように首を下ろしている。

 そちらへ大きく手を振ってやれば、大きく一度羽ばたきし、小さめの旋回で接近すると、颶風を伴って着地した。

 

 元々は戦闘要員として連れて来られたドラゴンだから、その体躯も立派で背中をも広い。

 全員が乗っても問題ない大きさだったが、神を乗せるのだけは嫌がった。

 

「ま、仕方ないさ。不倶戴天の敵を、背中に乗せちゃ気が気じゃないだろ。自前で飛ぶよ」

「そうだな、そうしてくれ。……というか、飛べるならドラゴンに乗ろうとするな。素直に飛べ」

「そう言うな。楽できるんなら、楽したいんだよ、己は」

 

 肩を竦めるインギェムに白い目を向けて、ミレイユ達はドラゴンに乗り込む。

 背骨から突き出すように出ている棘が、唯一掴まれる場所だった。

 快適な空の旅など期待してないが、座り心地の悪い竜の背は、何も掴まずに体勢を保持する事は難しい。

 

 飛び立つと更に揺れが増すので、ただ座る事さえ困難だった。

 ドーワの時は、これより更に背が広く、更に安定性も段違いだったので、ここまでの苦労はなかった。

 だが、一回り以上小さいサイズとなると、乗り心地にも大きく差が出て来るものらしい。

 

 無駄な知見が増えたところで、ドラゴンは大きく旋回しながら宙を舞う。

 未だ深い闇の中、見えるものは多くない。

 

 ただ、既に川の流れは途切れ、島と島を行き来できない大量の渦も消えていた。

 ラウアイクスの権能によって生み出されていた現象だったので、その死と同時に作用しなくなった様だ。

 そうとなれば、この水もいつまで存在するか分からず、そして浮島も長く存続できるものではないだろう。

 

 そして何より、この流れが失われた事により、戦闘中の神々がラウアイクスの死に勘付くかもしれない懸念が強まった。

 いくら暗く、月明かり程度しか光源がないとはいえ、遮るもののない月明かりは、川の流れを確認するには十分だ。

 

 激しい戦闘中なら、他に視線を向ける余裕はないかもしれないだろうから、今はそれに賭けて、いち早く不意打ちを成功させる必要があった。

 

 しかし、飛び上がって分かった事もある。

 爆発と発光する地域とは逆方向、水源と水流の元へ目を向けると、一つの島が完全に黒い何かに覆われていた。

 

 元から島があったと思えない有り様で、まるで泥の海に呑まれてしまっているかのように見える。

 所々で気泡が立って、弾けて消えては代わりに紫色のガスを吹き出していた。

 

 黒く変色している泥は粘性が強そうにも見え、蠢く様に、じくりじくりと範囲を拡大させて行っている。

 一つの浮島に辿り着いたと思うと、あっという間に範囲を広げ、汎ゆる物を腐らせ飲み込んでしまう。

 拡大速度は異常なほど速く、一つの島を飲み込むのに十分と掛かっていない。

 

 今ミレイユが飛び立ったラウアイクスの神処までは距離があるし、ドラゴン達が戦う舞台となっている浮島まで、更に距離がある。

 しかし、侵食速度を思えば、そう呑気に構えている事は出来そうになかった。

 

 恐らく、一時間と経たずにこの神域――天上世界は失われる。

 そして全てを飲み込めば、次は地上に落ちるだろう。

 崩れ落ちる世界と、黒泥に飲み込まれ腐らす世界、一体どちらが早いだろうか。

 

 予想以上の暗澹(あんたん)たる有り様に、ミレイユは顔を顰めずにいられない。

 隣に座って様子を窺っていたユミルも、大仰に溜め息を尽きながら言った。

 

「これはまた何とも……。世界の終わりって言われたら、素直に信じてしまいそうな光景ね」

「間違いではないだろう。あれが瘴気とやらを生み出し続けるなら、朝日を拝めず世界が終わる。神の多くを喪失した皺寄せは世界を瓦解させるだろうから、どちらが速いか、という話でもあるだろうが」

「恐ろしいコト、サラッと言わないでよ」

 

 ユミルが緊張を感じさせない笑みを向け、ミレイユも不敵に笑んで返した。

 

「そうさせない為に、悪あがきしてやろうって言うんだ。下界の様子はともかく、あれが落ちて襲う様なら結果は同じだ」

「目算ですが、一時間と掛からず滝口へ到着するでしょう。戦いに気を取られていたとしても、神々がそれまで気付かないなどあり得ません」

 

 横から口を挟んでアヴェリンが進言して来て、ミレイユは鷹揚な首肯で応える。

 

「そのとおりだな。正直、ここまで酷いとは予想していなかった。うかうかしていると、私たちまで巻き込まれる。チャンスは元より一度きりと思っていたが、これで絶対に失敗できなくなった」

「左様ですね、二度目のチャンスは訪れない。奴らも必死の抵抗を見せるでしょう。どれほど事態を正確に把握しているかはともかく、逃げ切る事に全力を傾けられたら……」

「ドラゴンの翼があっても、追い詰めるのは容易じゃないな。その時は、奴らを無視して『遺物』へ向かうしか無くなるが……」

「――その時は、神魂不足の懸念が拭えないのよね。『遺物』に辿り着けさえすれば勝利、とならないのが……全く、ままならないわ」

 

 ユミルがまたも大きく息を吐きながら、瘴気と戦闘を交互に見やる。

 そこへルチアが、小さく手を挙げて口を開いた。

 

「大事なのは連携でしょう。片方を上手くやれたとしても、片割れが逃げ出したのでは意味がありません。孔に投げ込まれたと分かれば、次から警戒も増すでしょうし、失敗確率も飛躍的に上昇する……。二柱を同時に、完全な不意打ちで仕留める必要があります」

「その為には……」

 

 ミレイユはチラリと、離れて並行して飛ぶインギェムへ目を向ける。

 ドラゴンの翼に当たらないだけ距離を離しているので、当然これまでの会話は聞こえていない。

 

 しかし、こちらに話し合いの意図がある、というメッセージは、その視線で気付いた様だ。

 ルヴァイルを伴って滑るように近付いて来ると、背には降りずに、会話には申し分ない距離で滞空した。

 

「呼んだか? 手順の確認か?」

「お察しのとおりだ。お前は孔は、あの泥の中にも生み出せるのか?」

「そうさなぁ……」

 

 インギェムは難しく眉間を歪ませ、ちらりと泥に向けて顔を向ける。

 暫く思案顔を見せたが、その反応は芳しくなかった。

 ミレイユは改めて、泥に指先を突き付けて言う。

 

「あの瘴気を生み出している泥、あの中に神どもを投げ入れるのは決定事項だ。なら、最初から孔の出口をあの中にしたい。――難しいか?」

「出来るかと思って、既にさっき試してみたんだが、止めておいた方がいいな」

「問題でもあったか」

「ありゃ、何でも腐らせる。単なる毒というより、呪いに近い性質かもしれない。孔まで侵食しようとしやがった。直ぐに閉じて孔そのものを消したから問題なかったが、あのまま続けていたら、ちょっと怖い事になってたかもしれない。……直上とかで我慢してくれんかね」

 

 インギェムの顔は深刻で、おぞましい物に身を震わせるような表情をしていた。

 孔から出た瞬間、機転を利かしたところで、逃げられない状態にしたかったので提案したに過ぎなかったので、強く望むものではない。

 

 ただ、相手によっては勢いよく殴り飛ばす事も出来ないから、提案してみたに過ぎなかった。

 最悪押し込む形になった場合でも、その全身を浸ける事が理想と思っていたのだが、確実に接触できる距離で孔を展開できるなら問題ない。

 

「分かった、それで良い。その瘴気は、触れるだけで即死する代物か?」

「触れる、の度合いにも寄るね。でも、全身どっぷり浸かれば、仮にすぐ飛び出したとしても、生き延びる時間が数秒伸びる程度だろう。それほど、深刻な腐敗だった」

「……なるほど。再生を使えるシオルアンが居ない今、問題にはならなそうだな。じゃあ、確実に瘴気の沼へ落とせる距離、そこに孔の出口を作ってくれ」

 

 新たな提案には、インギェムも臆する態度を見せず、気安い態度で頷いた。

 



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一つの決着 その4

 やる事は単純(シンプル)だが、必ず成功させようと考えた場合、簡単には行きそうもなかった。

 まず、孔へ落とすという作戦上、全てはインギェムの見極めるタイミングが鍵となる。

 

 全体を俯瞰でき、その上で見つからない場所を確保する事が好ましい。

 とはいえ、空中戦をしている彼らを見渡せる場所など存在しなかった。

 

 ドラゴン達は、とある一つの島に目をつけ、そこに攻撃を仕掛ける事にした。

 選んだ場所に意味はない。ミレイユ達が潜入するにあたり、邪魔にならなくて、かつ程々に離れている場所を攻撃しただけだ。

 

 既に島中は火の海で、足の踏み場もなかった。

 炎を無効化できる魔術はミレイユが扱えるから、それを隠れ蓑に使えるかもしれなかったが、炎と煙で見通しは最悪だ。

 

 地上には高台らしきものもないし、建物も多くは焼け落ちてしまっている。

 ならば空中でなくてはならないのだが、何しろ雲の上に位置する神域だ。身を隠せるものなど何もない。

 

 遠く離れすぎていては目算も誤るし、激しく動く戦闘中の動きに応じて、そこにピンポイントで孔を開く事も難しい。

 不意打ちをするのも簡単ではなく、その上で孔へ突き落としてやるのは、更に困難だった。

 

 最古の四竜が奮戦しているお陰もあって、ミレイユが来ている事は未だ気付かれてはいない様だ。

 しかし、接近すれば嫌でも気付かれる。

 今もミレイユ達は、乗っているドラゴンも含め、ユミルの幻術で姿を隠しているが、いつまで保つか分からない。

 

 距離を取るとはいっても、やはり限度があるだろう。

 だから接近する必要があった。

 そして、眼の前の敵に集中している間なら、その接近も容易いだろう。

 

 ――しかし、周囲には飛び回るドラゴン達がいる。

 数は既に二十未満まで減らしていたが、攻撃する機会を窺い、隙があれば喰らいつこうとしているし、ブレスも頻繁に吐く。

 

 これで神々が、周囲の警戒を怠らない訳がなかった。

 ドラゴン達が包囲網の様に取り囲んでいる距離より、少しでも内側に入れば勘付かれる、と見るべきだった。

 

 既に十分、空気の薄い上空だから、更なる上層へ飛び上がる事も出来ない。

 何もなく、どこまでも行けそうに思えるが、見た目以上に空は狭いのだ。

 死角となる更なる上空から、という手段も取る事は難しい。

 

「どうにも、八方塞がりって感じよね。もう少し、考える時間があれば違うのかもしれないけど……。瘴気(アレ)が迫っている状況で、悠長に作戦会議は無理でしょ」

「全くな……。ロクな案もないが、じっくり練る時間もないから、余計に及び腰になる」

 

 風でなぶられる髪を押さえながら、ユミルは頭痛を堪える様な顔で言い、ミレイユもそれに同意する。

 ミレイユもまた、同じく堪える様な顔をしていたが、これは本当に頭痛が治まらないからだった。

 

 胸の痛みが収まっても、頭痛や胃痛など、身体の汎ゆる場所が痛み出す。

 一つ治まればまた別の場所が、と際限なく繰り返し痛みが襲って来るようだった。

 

 体調の明らかな悪化は、ミレイユの寿命が尽きかけている事を意味するのだろう。

 それでも、ミレイユはぐっと息を呑み込み、痛みで震えそうになる拳を力強く握って言った。

 

「発見が避けられないなら、それを前提にするしかない。こちらは一撃叩き込んでやれば勝てる。だが敵は、その勝利条件を知らない」

「それならば、と思えてしまいますが……。見て下さい」

 

 アヴェリンが指差した方向には、数多の傷と火傷を負った男神の姿があった。

 弓を持って戦っているところからして、タサギルティスで間違いないだろう。

 

 矢筒を背負っているが、矢は無限に湧き出て来るかの様で、間断なく射続けているというのに尽きる気配がない。

 

 そして、傷があっても重傷ではなさそうで、射掛ける勢いも衰えていなかった。

 だが、血だらけの身体は、それだけ多くの傷を負った証拠でもある。

 ミレイユは、アヴェリンが何を言いたいか察し、苦い顔で頷いた。

 

「今となっては、余裕を見せた態度も期待できない、か……。躱せそうだと思えば、素直に避ける。奴らは傲慢という話だったが、今は万が一を考えずにはいられない状況だ」

「左様です。見ていると、動きも回避に念を置いているように感じます。攻撃主体ではなく、回避の合間に攻撃している、という形です。ドラゴンの数も減り、勝利も見え始めた今、確実性を取ろうとしているのかもしれません」

「傲慢さを捨てた戦神か……、厄介だ。ならば古典的方法として、囮を使うという方法があるが……」

「それなら、僕が!」

 

 それまで会話に混ざれなかったアキラが、意を決して前に出てきた。

 単なる自己犠牲精神ではなく、それが最も効率的だと思っているから、提言したのだと分かった。

 

 神に一撃加える事は疎か、かりに直撃させても押し込む事は出来ないと、アキラは自分で理解している。

 だから、せめて役に立てる場面で立候補しようと声を上げた。

 その決意と献身は好ましく思う。しかし――。

 

「この場合、お前に囮としての価値がない。食い付く意味のある餌だと、相手に認識されなければならないからな」

「う……ッ! 僕は、僕じゃ確かに……、放置しても問題ないって思われてしまいますか……!」

「だから、私が出る」

「――そんな!」

 

 誰よりも早く、そして苛烈に声を出したのはアヴェリンだった。

 その表情は大きく歪んで、決してやらせる訳にはいかないと物語っていたが、何かを口にするより前に、ミレイユは首を振って口を開いた。

 

「誰が最も注目を浴びるか、と考えたら、それは私以外にあり得ない。他の神々が弑されたのは、神魂が飛び去った瞬間を目撃したなら、察知できてると思う。敵討ちのつもりで、怒りを向けるかもしれないな」

「だからと言って……!」

「それだけ視野狭窄に陥ってくれれば、不意打ちの成功も高まるだろう。単に背後から攻撃すれば成功する程、甘い相手じゃないのは分かってる筈だ」

「そうですが……!」

 

 アヴェリンは頑強に否定しようとしたが、説得の声は言葉になっていなかった。

 一理あるという事実、そして他に良い代案など浮かばない事が原因だった。

 それに、とミレイユは目を伏せて、震えの止まらない拳へ視線を移した。

 

「魔力の制御が狂っている。上手く魔力を練り込めない。戦力としては、あまり役に立てないだろう」

「そこまで……、そこまで悪化しているのですか!?」

「あまり大袈裟に考えるな。誰もが、今日の一戦の為に命を削る戦いをしているだろう。あるいは、ここを死地と考え、己を奮い立たせて戦っている筈だ。……そこに私も加わっている、それだけだ」

「そうかも……しれませんが」

 

 なおも表情を暗くさせているアヴェリンに、ミレイユは安心させるよう微笑みかける。

 

「考えようによっては、むしろ一番安全な位置かもしれないんだ。――何故なら、お前達は必ず成功させるだろう?」

「勿論です! 元より成功しか見ておりません!」

「だったら、安心だ。疲れた身体を休める為、楽なポジションで高みの見物をさせてくれ」

「そうまで仰られるのでしたら……分かりました、お任せ下さい! 何一つミレイ様へ攻撃を届かせないと、ここに誓います!」

「……頼むぞ」

 

 胸の前で拳を握って、力強く宣言したアヴェリンに、ミレイユは柔らかい笑みを浮かべた。

 ルチアやユミルに目配せすると、そちらからも同様の決然とした笑みが返って来る。

 

 すると、それまで黙って静観していたインギェムが、するりと空中を滑って近付いて、皮肉げな笑みで伺ってきた。

 

「さて、話も纏まって来たところで、ちょいと本格的な話をするって事でいいか?」

「そうだな。孔の展開とタイミングは、全てお前任せだから、負担も大きいが……」

「まぁ、そこは何とかするしかないだろうさ。それより、お前は空飛べないんだし、囮になるっていうなら、ドラゴンに乗って近くまで移動するんだろ? 他の奴らはどうする?」

 

 言われて確かに、と思い直す。

 まさか、敵視を浴びてるミレイユの後ろで、悠々と孔へ潜るアヴェリン達の姿を見せる訳にはいかない。

 ならばアヴェリン達をドラゴンに乗せよう、と考えてみても、ミレイユの移動が出来なくなる。

 

 飛行術を修得しているものの、あれは自在に空を飛べる術ではないし、制御の方にも不安があった。

 ドラゴンから降りて接近は、現実的と言えない。

 

 ならば、空を飛べるインギェム達に抱えて貰うか、と思いきや、彼女たちが目撃されるのも拙い。

 そこにいる事実が、多くの思考材料を与えてしまうからだ。

 

 特にインギェムの権能から、何をするつもりなのか類推されるのは避けたい。

 そこまで考え、それであれば、と二柱の神へ交互に視線を向けた。

 

「……お前達に運んで貰うか。ドラゴンを私が使うのなら、他に手も無い」

「己らに、荷運び人の真似事をしろと言うのか?」

 

 インギェムは大いに顔を顰めたが、ミレイユは気に留める事なく頷く。

 

「他に手がない。ドーワに話を通せば、ドラゴンの一匹ぐらい融通を利かせてくれそうだが、そんな事してる暇もないしな」

「……今は受け入れましょう」

 

 ルヴァイルがインギェムの肩に手を置いて諭す。

 

「この程度はサラリと流して受け入れるべきです。瘴気を目撃されたら、警戒しない訳がありませんし、そうなる前に落とせれば、それが一番最善なんですから」

「……仕方ないか」

 

 不承不承に頷いて、インギェムは続きを詳しく話せ、と顎を動かす。

 

「それぞれに、アヴェリンとルチアを連れて行って貰う。私の接近に気付いたところで、作戦開始だ」

「僕は……?」

「お前は最初から私の盾役だ。遠距離攻撃を持つタサギルティスは、視認と同時に、まず射掛けて来る可能性が高い。守護役は必要だ」

「は、はい! お任せ下さい!」

「……アタシは?」

 

 意気揚々と頷くアキラとは反対に、ユミルは不満を滲ませた口調で尋ねてくる。

 これまでも、せいぜい幻術で撹乱させるぐらいしか任せていなかったので、何か役目を欲しているようだ。

 

 やって欲しい時には動かないのに、やらなくて良い時には動きたがる。

 仕方のない奴だ、と首を振って、軽い調子で言い放った。

 

「何かちょっといい感じに、何とか上手くやってくれ」

「だから、アタシの指示はどうしてそうも、適当でいい加減なのよ!」

 



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一つの決着 その5

ささきもり様、誤字報告ありがとうございます!
 


 予め決めた作戦に則り、ユミルとミレイユ、その盾のアキラはドラゴンの上に居た。

 アヴェリンとルチアは神々に抱えられ、二手に分かれて戦域へと近付いていく。

 

 空中で繰り広げられている激戦は、神々にとって有利という訳ではなかった。

 何しろ、ドラゴンには恨み骨髄という、積年の怒りと憎しみがある。

 

 その果てに討ち取られたドラゴンの数は、既に八割を超えたが、それでも最古の四竜は未だに健在だった。

 随伴の百竜は他の凡百と隔絶した強さを持っていたろうが、それでも四竜には敵わない。

 

 その四竜が未だ健在である事、そして一竜落とす事に怒りと恨みが増す事、それが神々に対する圧力となって襲い掛かっている。

 数を減らした分だけ、四竜の力が増しているかのような威圧さえを感じられた。

 

 近付く程に増す、ドラゴンからの殺意をその身に受けると、そのように思ってしまう。

 さしものミレイユも表情が強張るのを抑え切れず、ユミルでさえ普段の飄々とした態度を見せられずにいた。

 

 アキラの顔は蒼白になっていたが、それでもミレイユの右斜め前に膝立ちとなり、壁役としての責務を投げ出すつもりはないと気を張っていた。

 以前のアキラなら、この時点で震えて戦意喪失していたとしてもおかしくない。

 だが今は、顔色自体は悪くとも、精神的には負けていなかった。何かしらの攻撃があろうと、呑まれる事なく動けるだろう。

 

 頼もしくなった、と改めて感じ入ってると、神々を包囲しているドラゴンの方が先に気付いた。

 次いで四竜の中で最も近い位置に居たドーワが気付き、攻撃の手を強める。

 ミレイユが何をするつもりか分からずとも、ここが攻勢の肝だと理解したらしい。

 

「……とはいえ、私は囮でしかないんだがな。共に攻め立てれば勝てると思ったのなら……、神々もまた本気になるだろう」

「今は本気じゃないんですか?」

「本気には違いない。だが、このまま対処できれば凌げる、という余裕を残していた筈だ。私の登場は、その余裕を剥ぎ取る。このままでは勝てないと思うだろうな」

「――優先的に排除しようとするかも、しれませんか?」

「そう、()()()()()()。だが敢えて、私をドラゴンの後に回す可能性も残されている。予定にないから、対処は後回し。勝ち筋をなぞった後に相手しよう、とな」

 

 でも、とユミルは、憤然と息を吐いて首を振った。

 

「それじゃ困るのよね。こっちを無視できないと思うけど、万が一、ドラゴンを優先的に処理されたら、不意打ちなんて上手く行くとは思えないし。奴らにはミレイユが居ると、脅威が近付いている、と思わせなきゃ」

「だが、敵の数が多いなら、まず減らそうとするのは常套手段だ。脅威に思わせろと言っても、魔力を使わずには難しいと思うし……大体、今は使いたくないんだが」

「いらないわよ。立ち上がって、威風堂々、その姿を現しなさい。奴らにとっちゃ、具体的な戦闘内容なんて知りようがないんだから。神の三柱を弑して、今度は自分たちを標的にしようとしている、凶悪な相手として映るでしょう。奴らの心情を思うとね……、まず近づけたくないし、真っ先に排除したいと考えると思うのよね」

 

 ユミルの推測には多分に願望が含まれていたが、同時に納得できる説得力があった。

 本来なら攻め込んで来たのはドラゴンのみ、という認識だったが、後背を突く形で次々と神が弑されていた。

 神魂が飛び去って行ったのは全部で四つ。一つ二つは見逃しても、その全てに気付かなかったとは思えない。

 

 何者かにやられた、と思った時、浮かぶ顔の候補は多くないだろう。

 そこへミレイユが現れたとしたら、危機感を抱くには十分だ。

 

 とはいえ、やはりそこでどちらを優先するかは、賭けになるのは間違いなかった。

 どちらを優先しても間違いではないし、そうとなれば、後は性格の問題だろう。

 

「……損にならない手なら、打っておくべきか。食い付けば良し、付かない時は……」

「その時は、アタシの方からチクチク撃ち込んでやるわ。その程度で、アンタの不調を見抜けるとは思えないし」

「そう願おう。――それじゃあ、頼むぞ」

 

 ドラゴンの背を一撫でして、背棘から手を離して立ち上がる。風の抵抗が増して、身体を後ろに持って行かれそうになるが、重心を落として踏ん張る。

 帽子のつばを摘みながら前方を睨み、タサギルティスを遠くに見た、その時だった。

 

 まるで合図したかのように、両者の視線がかち合う。

 タサギルティスは表情を引き攣つらせたかと思うと、歯を食いしばって顔を引き締め直した。

 そうして、身体ごと向きを変えて弓に矢を(つが)える。

 

 他のドラゴンからの猛攻など、まるで無視した危険な行動だった。

 何しろ、そうしている間も、今や好機とドラゴンがブレスを放っている。

 だが、それよりも何よりも、今はミレイユという脅威を、積極的排除する事に決めたようだ。

 

 タサギルティスは視線をそのままに、顔だけ横を向いて何かを叫んでいる。

 ミレイユには聞こえないが、程よく離れたブルーリアに、警戒を呼び掛けているのかもしれない。

 距離の都合でタサギルティスの方が先に気付いたが、同様に注意を向けてくれるのは有り難い。

 それこそ、正に望んだ展開だった。

 

 タサギルティスは、横を向きながらも矢を放つ。

 一つ放ったかと思えば、矢筒へ手を伸ばし、一秒と満たず立て続けに矢を射った。

 まさしく神速の矢番え動作で、その矢速も常人とは比べ物にならないものだ。

 

 銃弾より速いと錯覚させる程だったが、ミレイユは微動だにしなかった。

 アキラが盾として、十分に働いてくれると信じているからだ。ミレイユはただ、威風が見えるように立っているだけで良い。

 

 一つは斬り落とし、二つは手の甲で弾き、最後の一つは身体で受け止めた。

 どれも通常の一矢からは考えられない軌道を描いて飛んで来たが、アキラは己の技量と刻印で、完全に防ぎ切ってしまう。

 

「ぐっ! ……チィッ!?」

 

 だが、その代償は決して軽くない。

 一つの矢で五層の『年輪』が削られて、一度の効果がそれで消えた。

 ラウアイクス戦での消耗も回復していない今、受けられる回数は後一度か二度が精々だろう。

 

 身体で受け止める戦法は、敵から魔力を吸収できる状況において意味がある。

 肉を切らせて骨を断つ、というほど綺麗な戦法ではないが、とにかく攻撃し続ける事で防御の最大回数も伸びるのだ。

 

 一方的に攻撃を受けるだけでは、アキラの魔力総量からいって、長く保たない事は最初から分かり切っていた。

 だが、アキラの役目は既に終わっている。

 敵が注意を向けたなら、攻撃があって当然だ。

 

 そして攻撃を仕掛けた瞬間こそが、最大の隙でもあった。

 アヴェリン達は大きく迂回し、既にミレイユ達とは逆方向へ到達していた筈だ。

 そして、絶好の機会を見出したなら、彼女らは決してそれを無駄にしない。

 

「――来た」

 

 ミレイユの呟きと同時、タサギルティスが矢筒から矢を取り出し、矢番え動作を見せた。

 その瞬間、直上に生まれた孔からアヴェリンが飛び出し、弓なりのように身体を反らした体勢から、思い切りメイスを振り下ろす。

 

 直撃するその直前、凄まじい反応速度でそれに気づくと、タサギルティスは咄嗟に弓で受け止めた。しかし、既に十分勢いの乗った一撃は、簡単に捌けるものではない。

 

 致命傷を避ける事を意識した受け方、そして空中の只中であり、何かにぶつかる心配がなかった事、それが彼の油断を招いた。

 

 衝撃を逃すつもりで、わざと吹き飛ばされて行ったのだろうが、次の瞬間には孔の中へ呑まれている。

 何が起きた、と思う暇もなかっただろう。

 衝撃音がミレイユの耳に届く頃には、既にタサギルティスの姿は完全に消えている。

 

「さて……、残る方だが」

「大丈夫でしょ。ルチアだって上手くやるわよ」

 

 顎を引くように小さく頷いた瞬間と、ルチアが空中で両手杖を突き付け、魔術を解き放つのは同時だった。

 ブルーリアも相応に注意を張っていたのだろうが、タサギルティスへの不意打ちは衝撃だったらしい。

 

 自分の注意を疎かにしたところへ、ルチアの魔術だ。

 それも攻撃の為の魔術ではなく、拘束の為の魔術を使われたのでは、その無効化も簡単ではない。

 

 ルチアが行使したのは、『極寒の檻』と呼ばれる上級魔術だ。

 その名の通り、氷によって閉じ込める事を目的とする。

 

 マグマを浴びせても溶ける事のない氷は、物理的、魔術的手段で破壊しようとしても、簡単にはいかない。

 綺麗に整った正方形の密封系で、対象を完全に閉じ込めてしまう。

 

 受けた本人には、直接的に氷と接触しないので、高い魔術抵抗を持っていても拘束自体からは逃れられない。

 直接接触しないといっても中は狭く、自由に腕を振り回せる程ではないから、下手な魔術の使用は自分を傷付けてしまう恐れもあった。

 

 ただ、より強い魔力を持っていたり、何らかの対抗手段を持っているなら、その限りではない。

 特に神ともなれば、ルチアの魔力を持ってしても、長時間の拘束は不可能だろう。

 

 だから、ルチアは二重三重と、同じ魔術で重ね掛けしていく。

 最初は二メートル四方だったものが、倍々に増えていき、そうすると質量も増す。

 すっかり閉じ込めに成功したルチアは、『極寒の檻』の上に降り立って、ホッと息を吐いた。

 

 とはいえ、『極寒の檻』に浮遊能力などない。

 ルチアが着地した事を切っ掛けとしたかのように、重力に引かれ落下を始めた。

 その落下から逃れるように蹴り上がると同時に、氷に薄っすらと罅が入る。

 既に二層分の氷檻を突破したのは流石と言えるが、最後の層を突破するより前に、直下に生まれた孔へ吸い込まれて消えて行った。

 

「やったな……」

 

 ミレイユが力んだ肩から力を抜くと、ルチアが僅かな滞空時間から落下に切り替わるタイミングで、再び開いた孔へ入って行く。

 すっぽりと収まるように消えて行ったかと思うと、次の瞬間には、ミレイユの背後にルチアが降って帰って来た。

 それと一拍と遅れずアヴェリンも帰って来たのを見て、ミレイユは二人の背を叩いて労う。

 

「二人共、よくやってくれた」

「これぐらい、何程のこともありません。ですが、あまりに呆気なく感じたのも気になります」

「こっちは罅が入った時、肝を冷やしましたけど。……それに、安心するには早すぎますよ」

 

 インギェムも自分の役目を実に上手く果たしてくれたが、タサギルティス達が孔の向こうで、どう対処したかまでは分からない。

 瘴気の泥の直上へ落とす手筈となっていて、孔から抜け落ちた途端、瘴気を浴びる事を想定している。

 だが、それでも上手く乗り切る可能性が、まだ残されていた。

 

 抜け落ちた直後、身体を上手く静止させる事も出来たかもしれない。

 相当危険な毒だとしても、あの二柱にまで有効かどうかまで分からないのだ。

 しかし――。

 

「あぁ、大丈夫そうね。見事、やってくれたみたいよ」

「……そのようだ」

 

 ユミルが言った通り、遠い瘴気の沼から、光球が飛び去って行くのが見えた。

 その数は二つ、これまでに見た神魂と姿形も変わりなく、だからあれが二柱の死亡と判断できた。

 

「呆気ない幕引きだったが……、勝利だな」

「困難であれば良い、ってものでもないでしょ。勝利の価値は、その時の人が決めるものよ。――それに、これで全て解決ってワケでもない」

「そうだな。……まだ、大仕事が残ってる」

 

 ミレイユは瘴気を見据え、目を厳しく細めながら呟いた。

 黒く粘つく瘴気の沼は、既に神域の半分を飲み込もうとしている。

 

 予想よりも侵食速度は勢いが強く、更に速度を上げているように見えた。

 迫る瘴気は、残り時間が少ないのだと、如実に告げているかのようだった。

 



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一つの決着 その6

「おう、見事やり遂げたな」

「……あぁ、お前も良くやってくれた」

「だからそれ、神に言うセリフじゃねぇんだよなぁ……」

 

 苦言を呈する形だが、その表情は決して嫌がってはいなかった。

 むしろ軽快に笑い声さえ上げて、ルヴァイルを伴い傍へやって来る。

 そのルヴァイルが困ったような笑みを浮かべつつ、勝利を言祝(ことほ)ぐ。

 

「何にせよ、文句のない大勝であるのは間違いありません。皆に最大限の賛辞を。……特に役立てられなかった妾が言うと、嫌味に聞こえてしまうかもしれませんが」

「お前の場合、ここまで手筈を整えていた事が、貢献みたいなものだろう。この後も、役に立って貰わないといけないしな」

「分かっています。でも、まずは――」

 

 ルヴァイルが何かを言い掛け、途中で言葉が止まる。

 颶風を巻き起こし、ドーワが近付いて来たからだった。

 他にも十数匹のドラゴンを引き連れており、そのドラゴンもミレイユ達を取り囲みながら口々に叫び声を上げている。

 

 何かを抗議しているようにも、威嚇しているようにも見え、そしてそれは事実でもあるのだろう。

 彼らにとって、神とは許されざる敵であって、談笑し合える仲ではない。

 

 ミレイユの傍にいるから手出しできないが、そうでなければ、とうにブレスの一つでも吹きかけている。

 ドラゴンたちが敵意を顕にする中、ドーワが代表して口を開く。

 

「ミレイユ、良くやってくれたね」

「横から獲物を、掻っ攫ったようで悪かった」

「気にしちゃいないよ。元からこっちは、足止めのつもりでいたんだ。この牙で直接、噛み砕いてやれたら、それが一番良かったんだがね。奴ら、決して近付けさせないよう腐心していた節がある。手傷こそ与えられたが、それ以上は無理だったし……。決め手に欠けて、どうしようもなかったところさ。だから、あれで良かった」

「そうか。それなら……」

 

 元より手柄を取り合う様な戦いではない為、誰がどれほど倒そうが構わない。

 神々も、ドラゴンによる神殺しを意識しなかった筈はないから、特に最古の四竜を近寄らせる事はしたくなかっただろう。

 

 忸怩たるものは感じていた筈で、それを一挙に仕留めて見せたミレイユ達に、悪感情を抱きやしないかと危惧したが、その心配も杞憂だったようだ。

 しかし、ミレイユに向けられていた穏やかな視線から一転、ルヴァイル達に向けられたものは、敵意がありありと込められた視線だった。

 

「だが、そいつは? 事が終われば、命を捧げるって話じゃなかったかい?」

「まだ、その()が終わってないからだ。それと一つ……」

 

 ミレイユは軽く息を吐いて、指を一本立てて、帽子のつばを押し上げる。

 それでよりよくドーワの顔が見えるようになった。

 

「大神が死んでいた。……お前、これを予期していたか?」

「あくまで、可能性の一つとしてね。何故こうまで沈黙しているのか、それを考えずにいられると思うかい? 封じられたのは本当だったとして、全力で取り掛かって抜け出せないとは思えなかったのさ」

「……うん、確かにそう思うものだろうな」

「それが仮に百年掛かるものだとしても、百年で済むなら抜け出そうとするだろう。千年だろうと同じ事。……そして我らを開放して、反撃に出るくらいはするだろう、とね」

「だが、そうはなっていないなら、最悪の事態もあり得る、と……」

 

 ドーワはゆっくりと首肯する。

 確か、例え冗談でも口に出すべきでない類の、というような事も言っていた。

 彼らにとっては直接の造物主でもある。

 あくまで可能性の一つとして考えるに留めて、本当に死んでいるとは思いたくなかったのだろう。

 

 その気持ちは理解できる。

 とはいえ、ドーワは同時に予期してもいたので、ショックを受けているようには見受けられなかった。

 

 受け入れ難いとも違う、遣る瀬無い気持ちは窺う事が出来る。

 しかし、いつまでもそうしている事は、迫る瘴気が許してはくれなかった。

 

「だが現実として、大神は死に……結果残されたのが、あの黒泥と毒だ。どういうモノか分かるか? ルヴァイルなんかは……、瘴気と呼んでいたが」

「何と呼ぶのが正しいのかは知らない。ただ、汎ゆる命にとって良くないもの、という事が分かるだけだ。……燃やしたところで意味はないだろうね。もっと早い段階ならあるいは、と思うが、今や規模が大き過ぎる」

「それがハッキリしただけでも良い。それに、大神が頼りにならない時の計画(プラン)も、考えていた訳だしな」

 

 そう言って、ミレイユはルヴァイルへ視線を向けると、堅い顔をして頷き、やはり堅い口調で声を発した。

 

「はい、その為の八神排除です。『遺物』による万能的解決を期待しての事でした。しかし……」

「しかし、何だ? 懸念でもあるのか?」

「万全な結果を齎すのに、十分なエネルギーが注がれているかは、疑問が残ります」

「足りないと言うのか? 今まさに六つの神魂が、追加で充填された状況だろう? その上で?」

 

 ミレイユとしては、必要以上のエネルギーが集まった、という認識だった。

 だが、改めて考えてみると、ドラゴンを元の姿に戻すのに使ったエネルギーは、神魂一つと神器一つだ。素体を昇神させるには、神魂相当が三つと神器が五つ必要だった。

 

 神魂と神器のエネルギー量がイコールでない事は分かるとしても、それを数字換算するとどうなるか、そこまでは分からない。

 だが印象として、昇神に至るエネルギーと、世界を救済するエネルギー、どちらがより必要かと考えた場合……。

 確かに、不足を感じざるを得なかった。

 

 より大きな願いには、より大きなエネルギーが必要となる。

 その理屈は分かるものの、どれ程までに必要なのかは不明瞭だ。

 

 足りないというなら、足した後で再度願えば良いのかもしれない。

 だが、そんな悠長な事をする時間もなく、更に言うなら供給元にも覚えがない。

 

 小神は結局、戦場に姿を現さなかった。

 その小神にしても、八神による被害者には違いない。

 明確な敵対をした訳でもない相手を狩り出して、その命を使う事には抵抗がある。

 

 とはいえ、座して死ぬ事だけは断じて受け入れられなかった。

 ――どうするべきか。

 思わずミレイユも表情を堅くさせつつ、ドーワへと顔を戻して問い質す。

 

「どう思う? 足りないと思うか?」

「願う規模に寄るだろうさ。あの瘴気を消すだけなら、今のエネルギーだけで十分だろうね」

「それでは結局、世界は破滅から逃れられない。今も下界は崩壊の兆しを見せているんだろう? 六つも柱が崩されて、いつ崩れ去ってもおかしくない状況の筈だ」

 

 ラウアイクスも言っていた事だ。

 ここにいる限りは実感が湧かない、しかし下界では既に影響が出始めている筈だと。

 

「世界の救済、それが希望かい。そっちの神が、ミレイユに協力しているのも、その為なのかい?」

「――そうです。妾たち八神が始めた負債です。そのツケを払う為にやった事でした」

「大神がいた頃の世界に戻す為、か……」

 

 ドーワは遠くを見据えて、何かを思い返しているようだった。

 数秒だけそうしていたかと思うと、やおら首を巡らせて、周囲から窺うように飛んでいた他の四竜へ目を向ける。

 

「構わないかね?」

「……是非もなかろう」

「大神の御方々も、最終的にはそれを見越して用意していた筈だ」

「……そのとおりだ」

 

 四竜の間だけで分かる会話が遣り取りされたと思うと、一声吠えた。

 それは辺りに響く朗々とした吠声で、それにつられて周りのドラゴンも叫び出す。

 互いを鼓舞しているようにも、あるいはドラゴンの間だけで伝わる歌の様にも感じられた。

 

 そうして一通り吠声が収まると、ドーワが隣のドラゴンの首に噛み付く。

 それは友愛を示すというには荒々しく、鱗が砕け、皮膚を裂き、牙が深々と刺さる苛烈なものだった。

 

「――なッ!?」

 

 ミレイユは辛うじて声を抑えたが、アキラは素直に反応を示して驚愕する。

 事前に示し合わせていた事、そして互いの同意があったように見えた事から、唐突な裏切りという線は考えられなかった。

 

 襲われた四竜の一体も、抵抗すらせず素直に噛み付かれるままになっている。

 そして万力を締めるかのようにアギトが食い込み、ボキリと音がすると骨が折れて首がだらりと落ちた。

 

 それと同時、神々が光球に包まれて飛び去って行ったように、ドラゴンもまた同じ現象を起こして飛び去って行く。

 止めようと伸ばし掛けた手は、それで意味する所が分かって力なく落ちた。

 見守っている間にも、ドーワは二匹目に取り掛かり、それが終われば最後の竜も噛み砕く。

 

「神魂と同等である、四竜の魂を捧げようというのか」

「別に気にする事ぁないよ。ドラゴンに死の忌避感なんぞない……そう、言ったろう? 神の処理役として使った後、きっと我らも処理し利用するつもりだった筈だ。その為に忌避感を持たせなかった」

「黙って見ていた手前、何を言う権利もないと思うが……。それで良いのか」

「是非もない。そう言った竜がいたね、それが全てさ。これで追加の三魂で足りなければ、この魂も使いな。予想じゃ足りると見てるんだが……、今の状況は酷いもんだからね。『遺物』がどう判断するかだ」

 

 そう言って、大した感慨も見せず、光球が飛び去った方向を見据える。

 ミレイユもつられて同じ方を見たが、暗い中では流れが非常に緩やかになった水と、点在する島くらいしか目に入らない。

 光球は大瀑布の下へと隠れ、この位置からは見えなくなってしまた。

 

 それで背後を振り返ってみると、勢いを増したように見える瘴気がある。

 予想より速まった黒泥の毒は、今は神域の半分を越し、その七割を飲み込もうとしていた。

 

 これが地上に落ちるより早く解決したい。

 ミレイユはインギェムへと手招きし、近付くように頼むと声を荒らげて言う。

 

「とにかく、今すぐ『遺物』へ向かいたい。孔を出してくれ」

「無理だな」

「無理? どういう意味で?」

 

 ドラゴンの背の上で、剣呑な空気が一瞬の内に広がった。

 



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一つの決着 その7

天の川(・・?)様、誤字報告ありがとうございます!
 


 ここで裏切るつもりか、とアヴェリンなどは真っ先に身構えたのだが、インギェムは返って来たその態度にこそ、驚いていた。

 そして、自分の発言を思い返すように視線を上げ、しばらくすると必死に手と顔を横に振る。

 そこへ横から割って入ったルヴァイルが、謝罪とともに釈明した。

 

「言葉が足りず申し訳ありません。ですが、何事にも限界というものはあります。筋力しかり、体力しかり、魔力しかり。そして、神力もまたしかりなのです」

「権能を使うにも限りがあり、だから孔を作る数にも限りがあると?」

「はい。ですが、それはもちろん、体力、魔力同様、時間の経過で回復するものです。でも、悠長に待つ事が許されない状況でしょう? 最後の一仕事が残っていますし、それに何より……」

 

 論より証拠、と言わんばかりに、両手を胸の前で組み合わせ、指を伸ばして菱形のように合わせる。

 目を閉じ、その手元に力を集中しているようで、力の奔流とも言うものが菱形の中に圧縮されていった。

 

 一際大きく輝くと、そこにはミレイユにとっても見慣れた神器が生まれている。

 ルヴァイルがインギェムに目配せすると、同様の手順を踏み、そしてやはり手の中に神器を生み出した。

 

 終わった後の二人は肩で息をしていて、額には汗も浮いている。

 そして、それまで変わらず感じていた威風の様なものが、幾らか削がれているようにも感じられた。

 

「これもまた、必要となるでしょう。ドーワが言っていた、()()()という計算には、これも含まれているでしょうから」

「分かるだろ? そうなると……孔を作れる回数も、これでガクンと落ちた訳だ。これから後、何回使えばいい? 一回で済むなら、それでも良いさ。でも、残り回数にも余裕は持たせたいもんじゃないか? だが、いらないと断言するなら、今から『遺物』へ送ってやれる」

「具体的に、あと何回だ?」

「ここまで疲弊した状況で、使った事なんてないからな……」

 

 それはそうだろうな、と他人事のようにミレイユは思った。

 そもそも、真面目な戦闘など、神へ至ってからした事もないだろう。

 

 残り使用回数が逼迫するまで消耗した事も、また同様に無かった筈だ。

 インギェムは疲れを滲ませた顔で思案し、眉間に皺を幾つも刻んでから答えた。

 

「二回……、あるいは三回ってところだ。確実と約束できるのは二回までだな」

「……なるほど。じゃあ、残して貰っていた方が良いようだ」

 

 最低でも一度は現世へ渡るのに使いたいし、他にも何かで使用するかもしれない事を考えると、貴重な一回をここで使ってしまうのは気が引けた。

 

「では、急ぐしかない。ここから『遺物』までは、結構距離がある筈だから……」

 

 ミレイユがちらりと瘴気へ目を向ければ、もう幾らも時間は残されておらず、三十分と経たず滝口へと到達するように思われた。

 滝口へ落下したとしても、更にそこから陸まで距離があるとはいえ、楽観は出来ない。

 そこへドーワから首をもたげて声が掛かる。

 

「ならば、移動はこちらで受け持とうかい。どのドラゴンよりも、早く到着できるだろう。わたしが残った理由は、それを見越していたものだしね」

「それは有り難い。……だが、神々はどうする?」

「飛べるのだから、勝手について来いと言いたいけどねぇ……。こっちと同じ速度は出せないだろうさ」

 

 ドーワは大きな眼球をギョロリと動かし、二柱を見定めるように強く見つめる。

 

「何かあった時の為の事を考えると、置いておく訳にもいかないね。それに、目を離したところで何をするつもりか気が気じゃない。連れて行くしか無いだろうね」

「事ここに至って、裏切るつもりなど無いのですが……」

「それを判断するのは、お前じゃないんだよ」

 

 一際強く視線を向けられて、ルヴァイルは眉間に皺を寄せ、身を固くする。

 不快と思っている様子ではなかった。

 ただ、悔やむような気配は伝わって来る。

 信頼関係を築くには、既に互いの間柄に亀裂が入り過ぎていた。

 

 ミレイユが仲裁したところで、この場の諍いを沈める事は出来ても、根本的解決は不可能だ。

 だが、私情は抜きにして、ドーワは背中に乗せても良いと言っているのだから、一つ譲っているような気持ちだろう。

 

 だから、ミレイユも敢えて口にする事なく、アヴェリン達に目配せする。

 乗り変える準備をしろ、という合図を送ると、それまで乗せてくれていたドラゴンが機敏に察知し、ドーワの背中直上へと移動してくれた。

 

 元より大きな姿だと理解していたが、こうして見るとやはり最古の竜とは他と隔絶するのだと実感する。

 このドラゴンもミレイユ達全員を乗せてもまだ余裕のある背中だが、ドーワはそれより更に三周りは大きかった。

 

 ドラゴン自体がドーワの背に降り立ってくれたので、ミレイユ達も降りるのに苦労はない。

 風の抵抗自体弱まったように感じるのは、その巨体に遮られているからではなく、持つ魔力量による違いなのかもしれない。

 より大きい魔力が、そういった抵抗を、より弱めてくれるのだろう。

 

 速く飛べる理由の一端を知った気がしつつ、ミレイユは首の根部分に降り立った。

 当初乗せてくれた部分と同じ場所に立つと、背棘を握って背後を窺う。

 そこにはアヴェリンを始め、次々と乗り換えては背棘を握る姿を確認でき、体勢を戻して顔を上げるとドーワとも目が合った。

 

 鎌首をもたげて確認していたドーワは、全員が乗り代わった事を確認すると前を向く。

 一度大きく翼で空気を叩くと、追い出されるようにドラゴンも離れて行った。

 いや、あれは事実追い出されたのだろう。スピードを出すのに――そして風に巻き込まれないよう、遠ざけたのだ。

 

「しっかり掴まっておいで。風より速く連れてってやるよ」

「――う、ぉ……ッ!」

 

 言うや否や、物理法則を無視した急加速が巻き起こり、身体が背後に持っていかれそうになる。

 たたらを踏みそうになり、慌てて両手で背棘を握って、振り落とされた者はいないかと確認した。

 アキラが必死の形相で掴まっている事以外問題はなく、それでミレイユも周囲に目を向ける余裕が出来た。

 

 言うだけあって、ドーラが本気で飛ぶ速度というのは、ミレイユの知るどの乗り物よりも速かった。

 恐らく、音速は超えていると思われるのに、頬に当たる風の強さは強くない。

 これも全て、ドーラが纏う魔力による恩恵だろう。

 

 神域から一度飛び立てば、遠く眼下に大陸が見える。

 だから歪な世界もまた、良く見えた。

 二段重ねのホールケーキを半分に縦割りした様な、もはや惑星としての姿すら保っていない世界。

 

 古代――、天体と宇宙を想像の中で思い描くしかなかった時代では、世界は平面だと信じられていた。

 神によって切り取られたその平面世界が、神の損失、神力の喪失を経て、維持が不可能になっている。

 ケーキの端から虫食いのように穴が空き、ボロボロと崩れては消えていくのが見えた。

 

「これが……無理に維持して来た世界、その終焉の姿か……」

「もしも、を考えても仕方ないけどさぁ……。こんな瀬戸際になる前に、もっと上手いコト出来なかったワケ?」

 

 ユミルが多いに皮肉を含んだ笑みを向けると、ルヴァイルは苦り切った顔で目を背けた。

 

「そうするつもりではあったのですが……」

「そりゃ、アンタはね。でも、ここ二百年の短い間隔での話でしょ。神を失っただけで、綿菓子の様に崩れ去る世界なんて、全く健全じゃないわよね」

「ですが、その崩壊を止めていたのも、また神々だったのですよ」

「アンタらが大神を裏切ったからでしょ? 自由を許さず、狭い空間に封じて、世界から切り離して……。いや、ちょっと待って。これって、そういうコト?」

 

 ユミルは自分で自分の言った事が信じられないようで、その僅かな気付きが、真相を言い当てたのではないか、と混乱している。

 そしてミレイユも、それが一つの真実ではないかと頷ける思いだった。

 

「神は世界に根差すもの、という話だったか……。それが創造神ともなると、世界の維持そのものと不可分だ、と言う話でも当然という気がする」

「そして創造神は既に死んでいたから、必要な分だけ削って閉じ込め、延命を図った結果が今ってワケ……。上手いコトするっていうなら、そもそも、どう足掻いても無理だった……って話になりそうだけど」

 

 ユミルから向けられる視線に、ルヴァイルは目を合わせようとしない。

 インギェムもまた同様で、険しい顔のまま外を向いている。

 ミレイユ同様、かつて拉致された上で昇神した者たちだ。

 

 その役目が贄と知り、抵抗したくなる気持ちは分かる。

 まず自らの命が優先で、その後の事、世界の理まで目が行かなかったのは当然だと思った。

 

 ミレイユにしても同じようなものだ。

 ループから脱却する目的が第一だった。

 何の助けも、知識もなしに成功したとして、そこから世界の崩壊が始まるなど、果たして想像できただろうか。

 

 ルヴァイルの助けも、ドーラから真相も知らされず、ただ神々を殺して回るという、当初の発想どおり事を為していたとしたら……。

 その後に待つのは世界の崩壊だったに違いない。

 

 巻き込まれて諸共死ぬか、『遺物』を使った回避を選ぶ事になるだろう。

 そしてそれが、その場しのぎにしかならず、継続して『遺物』による回避をし続ける必要があるのだとしたら……小神を作っては薪のように焚べる以外に、方法などあっただろうか。

 

「ユミル、あまりそう責めるな。やった事は許せないし、私の怒りも正当なものだとも思ってるが、他に方法があったかと思えば、ちょっと思い付かない」

「そりゃ神々にだって、事情は様々あったでしょうよ。自分の行いが、ふとした事で他人の迷惑になってた、なんて良くある話だわ。でも、これはちょっと擁護できない規模の大きさじゃないのよ。犠牲の数も含めてね」

「あぁ、私が生まれた世界、そしてお前の一族、エルフを始めとした他種族を、思う様利用してきた。だから、その怒りは正当だ。だが同時に、自己の終焉に抵抗するのは、生命としての(サガ)だろう」

「だから許せって?」

「そうは言わない。犠牲にして来たものが大き過ぎるし、多すぎる。だが、犠牲を出さずに生きる生命というのも、また無いものじゃないか」

 

 ユミルは自分の興奮を抑える為に、固く目を瞑って息を吐く。

 ルヴァイル達は、そうして話し合うミレイユ達の様子を、固唾を呑んで見守っていた。

 

「その理屈も分かるわよ。でも、どうしてそんなコト言うのよ。怒りが正当っていうなら、許せって話でもないみたいだし……」

「そもそもの原因を考えると、大神が諸悪の根元に思えてならなかったからだ。悪事を為した事の根本を、どこまでも遡るものじゃないが、これに関しては大神に全くの咎なしと見るのも不可能だ」

「まぁ、上手くやれって話なら……。そもそも大神こそが、もっと上手くやっとけ、と思わないではないわね……」

 

 仕方ない、と言わんばかりに首を振り、ユミルはもう一度大きく息を吐いてから目を開ける。

 そこには諦観のようなものが感じられたし、ルヴァイル達へ向ける目には、一抹の憐憫も浮いていた。

 ルヴァイルはそれを受け止めながら、殊勝そうな態度で、傾ける程度の礼をする。

 

「妾たちも、ラウアイクスに付いて行くしか無かった身……。それを今更、言い訳にするつもりはありませんが――」

「いいわよ、別に謝罪めいたものは。別にこれは、許すって話じゃないんだから」

「……そうですね。最初は命が惜しいという、それだけの動機でした。それがここまで肥大した大きな問題になるとは……思わなかったのも事実ですが、謝罪の一つで済む問題でもないと、理解しています」

「当然でしょ」

 

 ユミルの返答には、にべも無かったが当然の返答でもあった。

 だからルヴァイルが悲しげな笑みを見せても、ミレイユからは何も口を出さなかった。

 



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一つの決着 その8

 言い訳をしたところで、犯した罪は変わらない。

 そして、ループを利用した解決策で、更なる罪を重ねて来た。

 それを十分承知しているルヴァイルは、ゆっくりとした動作で頷いてみせる。

 

「えぇ、償いはいずれ……。そういう話でもありました。ですが一つ、気になった事があったのです」

「何よ……?」

「オスボリックから聞いていた話です。封印の間の前で、自身の終わりを悟ったからこそ漏らした話だと思いますが、大神について、少し……。その時は、大して疑問に思わなかったのですが……」

「だから、それは何なのよ」

 

 ユミルの声に棘が混じり始めて、催促する声にも遠慮がない。

 ミレイユは腕を擦って落ち着くように言うと、ルヴァイルから謝意のような視線を向けられつつ、詳しい説明を待った。

 

「前提として、神は世界を越えられない。それは能力や権能とは別の問題で、摂理がそれを拒むのです」

「あぁ、それについては良く知ってる」

「ですが、大神は超えるつもりであったようです」

「何だって……?」

「この世の摂理として、永遠はない。それは世界も、そして神にも通じる摂理であるのかもしれません。そしてだからこそ、この世界が永遠に続かないことも理解していた。……そういう話を聞きました」

 

 ミレイユはユミルの腕から手を離し、帽子のつばを摘んで頷く。

 

「ドーラからも、それと良く似た話を聞いたな……。死を免れないからこそ後継者を望み、そして生み出せないから、他の手段で造り出そうとした。……その失敗例が、お前たちの様な神だろう?」

「えぇ、そのとおり。しかし、移住計画もまた、同時にあったようなのです。いざとなれば、この世界を離れる意志があった」

「それはつまり、次善の策を用意していた、という話じゃないのか? 後継者を生み出そうとして、多くの失敗があった訳だ。これは大神を持ってしても、望む存在を造る事は簡単じゃない事を意味しないか。だからこそ、全てを道連れにしない手段を講じていた……と、考える事も出来そうだが」

 

 特に深く考える事なく、思い付くまま口に出したに過ぎなかったが、中々に的を得ている様な気がした。

 ドーワの言葉を信じるなら、大神は自身の死を予期してから、後継者を欲する様になった筈だ。

 

 大神が完璧な存在なら、多く失敗例を造るとは思えない。

 一度の失敗すら起こり得ない、と言うつもりはないが、それでも最低でも八度の数は多過ぎる様に思う。

 

 創造神の死と世界の死が不可分で、そこに暮らす無垢な生命まで道連れにするつもりがないから、せめてこれだけでも逃がそう、と策を講じる事に不自然はない。

 それが世界を跨ぐ移住計画というなら、むしろ納得しかなかった。

 これから沈むと分かっている船に乗った客を、今も無事な船に移し替えようという訳だ。

 

「何か可笑しい事があるか? 私は大神を直接見た事もないし、今となっては完全な善神と見る事も出来ないが……、やろうとしてる事は真っ当に思える」

「余所から魂を拉致して、神を造ろうって辺り、まさにそう言う感じあるし……。手段というか、倫理かしらね。そこは私達と明確に、異にしているって感じするわよね」

 

 ユミルも自分なりの見解を述べつつ、ミレイユの意見に同意して頷く。

 ルヴァイル達の方を見つめて、今更それが何だ、と挑戦的な視線を向けた。

 インギェムはその視線を、物理的に払うかの如く手を振り、鬱陶しそうに顔を顰める。

 

「そう邪険にするなよ。今となっては色々悔やまれるんだ。ラウアイクスに言われるがまま、特に考える事なく協力してた事に。己は難しく考えるのに向いてないんだ。向いてるヤツに任せりゃいいって、そう思ってたんだが……」

「その考えは理解できるがな……」

 

 ミレイユが小さく頷くと、インギェムは肩を竦めて続けた。

 

「何も知らない方が幸せってのは、神になっても同じなんだろう……。己はそれを敢えて知らずに、楽と思える方に逃げていた。大神との直接的な関わりなんて、殆ど無かったしな」

「それはつまり、昇神してからも、って事か?」

「あちらさんも、失敗作に積極的感心が無かったせいだろうな。己ら八神も、小神相手に関わったりしない。それと似たようなもんだろ。だから、大神がどういう性格、考え方をしていたかも知らない」

「……ルヴァイルもか?」

 

 ミレイユが視線を向けると、彼女は気不味げに頷く。

 

「そうですね、関わりがあったとするなら、ラウアイクスぐらいだったでしょう。グヴォーリも、その次ぐらいには関わりがあったかもしれません。しかし、妾は……」

「あぁ……まぁ、大体予想できる。言わなくて良い。それに今となっては、詳しく話を聞ける相手は残ってないしな……。だが仮に、大神が善神でないどころか悪神寄りだったとして、それの何が問題だ?」

「まぁ、そうよね。移住計画にケチを付ける程の理由にはならない気がするけど」

 

 ユミルが同じく同意して、二柱の神へ交互に視線を向ける。

 邪険にされているからと、懸念の一つを胸にしまい込むのではなく、話題に上げてくれた事は評価できた。

 時として、その何でもないと思った懸念が問題に発展する事もある。

 

 だが、話を聞くだに、そしてミレイユなりに想像するなり、そこに問題があるようには思えなかった。

 ルヴァイル達は、これに関して何を感じ取ったのだろう。

 そこにインギェムが、眉根に皺を寄せながら口を開く。

 

「己はオスボリックの最期、大神の話を聞いて、まるでラウアイクスみたいな奴だと思った。他人の口から登った話の印象から感じ取った事だから、勘違いしてる可能性は高いし、それならそれで別に良い。頭の足りない奴が、無い知恵でもって勘違いしたってだけの話だ。――でもよ、ルヴァイル。お前どう思う?」

「そうですね、大神に感じた印象は確かにラウアイクスと似ている。その彼が、己の死期を悟ったら……果たして何を考えるか?」

「あぁ……。目的は違えど、小神計画を持ち出して世界の延命を図るよう、立案したのもラウアイクスだろう? 自己の破滅を受け入れられなかった、だから大神への反逆だって持ちかけた奴だ。世界の破滅が免れないからって、他の生命だけでも逃がそうなんて考えると思うか?」

 

 ルヴァイルは思わず瞠目して息を呑み、虚を突かれた様な顔をした。

 話を聞いていたミレイユも、また同じ気持ちだ。

 

 ラウアイクスは傲慢だった。

 自己愛が強く、何者にも優先されるべき存在と疑っていなかった。

 あれは神として長く生きて来たからかもしれないが、ならば尚の事、最期に良い事をしよう、と考えるようには思えない。

 

 自身の死が抗えないなら、他も道連れにしようと考えそうなものだし、可能な手段があるなら、他を見捨てても自分だけは助かろうとするのではないか。

 

 ミレイユはラウアイクスの表面部分しか知らない。

 敵対関係でもあったし、その心底がどういうものかなど、心許した相手にはどう接するかなど知らない。

 しかし、インギェムとルヴァイルの反応からしても、ミレイユの印象とそう違いがありそうに見えなかった。

 

「それは確かに……、あまり有り得そうな話じゃありませんが……」

「だろう? そこに来て、移住計画だ。これは本当に、世界に住まう者達を逃がす為の計画だったのか? ……ふと、そう思っちまったんだよ」

「……中々、面白い考えだったが……」ミレイユはそれに口を挟んで首を傾げる。「でも、既に死んでるだろう? 何か知ってたらしい、ラウアイクスもまた同じく……」

 

 口にしながら、今際の際に言っていたセリフが思い出される。

 ――後悔する事になるだろう。

 ――そこからして間違っているのだな。

 

「あのセリフは何だったんだろうな……。挑発か、そうでなければ皮肉程度に思っていたが……、何か別の意味があったのか?」

「何て言ってたの?」

「私は後悔するんだそうだ。大神を救おうとする事を、非難するような言い方だった」

 

 ふぅん、と難しく眉根を寄せながら考え込み、ユミルはそれきり動かなくなった。

 思考に没頭する時には、ままある事だ。

 今は放って置いて、インギェムに顔を向ける。

 

「どういう意味だと思う?」

「そりゃ分からん。分からん……が、大神は本当に死んだのか?」

「お前達が言った事だろう? あの瘴気は、大神の死骸から発生した、毒だか呪いだと」

「あぁ、そう聞いたな。だが、ラウアイクスが言ったという、今のセリフが気に掛かる。これがその後悔か? ――何を間違ってたんだ?」

 

 言われてみると、妙な話だった。

 その時は気にもしなかったし、対話はあっても互いに挑発や時間稼ぎを主にしていたもので、中身まで良く考えていなかった。

 

 しかし、ラウアイクスの言葉に嘘がなかったと仮定した場合、不可解な部分が出て来る。

 そしてインギェムが言ったとおり、何をすれば間違う事になるかと言えば、大神を救った後で気付く事になる、と捉える事が出来た。

 

「私が瘴気を開放する事になるから、後悔すると言いたかったのか?」

「イマイチ納得できない感じはしますけど、後悔するのも間違いないって気がします……」

 

 ルチアが首を捻りながらそう言い、その見解には一定の理解が出来る。

 元は毒の泥――瘴気を塞いでいた封印だ。

 それが漏れ出せば世界の破滅、それを知っていた身からすると、発言の意味も通る気がする。

 

 勝利を勝ち取ろうとも、その結果として世界の破滅が免れないと知れば、後悔するに違いない。

 しかし――。

 

「『遺物』を使って解消する事を、ラウアイクスが予想していないとは思えない。願って消せないというならお手上げだが……、そういう意味でもない気がする」

「――そこで思う訳だ」

 

 インギェムが腕を組んで顔を歪める。

 その表情は苦渋に顰められており、不都合なものを直視したくない、と言っているようにも見えた。

 

「己は死骸を、直接確認した訳じゃない。あの泥と瘴気も、本当に死骸から生まれたものか、やっぱり確認した訳じゃない。……大神は本当に死んでいるのか?」

「そうだろう、と思うしかないが……。しかし、どれも神々の口から出た情報か……」

「死の間際、嘘を言うとは思えない……そういう状況で伝えられた言葉ではある。……その上で聞きたいんだが、信じるに値すると思うか?」

「そう言われるとな……」

 

 ミレイユは思わず鼻白む。策謀は、神々が得意とするところだ。

 インギェムの様な考える事が得意でない神もいるし、戦闘好きで傲慢な神だって居た。

 

 策謀を得意とする神は、むしろ少ないという情報から、自ら都合の良いように考えてはいた節はある。

 ラウアイクスが主導して纏め上げ、策謀の中心にいたからといって、他の神が何もしないと言えるだろうか。

 オスポリックは今わの際に、嘘を言って死ぬ可能性は全く無かったか――。

 

 ない、と断言できるほど、ミレイユは神々を知らなかった。

 伝聞を知るから多くを知ったつもりになっていたが、個人としての神を知らない。

 あまりに多くを知らずにいた、と言わざるを得なかった。

 



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一つの決着 その9

「大体、お前達はどうなんだ? 私なんかより、よほど詳しく知っている筈だろう。逆に聞かせてくれ。オスボリックはどういう神だ、策謀を巡らすタイプなのか?」

「物静かで、ろくに口を開かんし、何を考えているか分からんタイプだ。だから、あぁして聞いてたんだろ?」

「……ちょっと待て。何でお前が知らない事を、私が分かると思うんだ」

 

 呆れ果てた顔を隠そうともせず息を吐くと、インギェムは苦渋に満ちた顔のまま、当然の理を口にするように言う。

 

「だって、お前は何でも簡単に正解を導き出すじゃないか? ちょっとした言葉尻から、こっちが驚く様な洞察をしてくる。だったら、これだってちょっと考えれば分かるだろ?」

「……何を言ってるんだ。私がいつから全知全能になった? 分かる事は多いかも知れないが、分からない事の方が多いに決まってるだろ」

「だとしても、己らにも分からない事だろうと、お前なら分かると期待するから聞くんだよ」

 

 インギェムの理屈は無茶苦茶で、単なる願望を口にしているに過ぎない。

 無から有を作り出せる訳がないし、少ない情報から幾らでも正当を導き出せる程、有能になったつもりもない。

 

 そして、いつだって己一人で導き出して来た答えは多くなかった。

 ミレイユがルチアへ目配せすると、何を期待されているか察知して、捻った首をそのままに口を開く。

 

「まぁ……、オスポリックの性格云々を推量するのは、不毛なだけなので止めましょう」

「そうだな……」

「でも、生存説については、有り得ない話ではないと思います。いつだって、死亡を確定させるのは、その死体を見つけた時です。その理屈で言うと、大神は死んだと断定できない訳で……」

「聞いた時は思わず納得してしまったが、死骸から泥が生み出て、毒染みた呪いが発生する、というのも不可解な話だ。それとも、神の死体は長年放置すると、腐るだけじゃ済まないのか?」

「でもですよ、本当の意味での神は、今のところ見てないじゃないですか。全て素体を元にしている、謂わば偽神である訳で……。そして死亡すると、神魂という形で『遺物』に吸収されるまでがプロセスな訳ですよ。『神の死骸』が観測された前例はないと思うので、やはり確証は得られないと思います」

 

 ルチアから理路整然とした反論が得られて、ミレイユは唸って言葉を飲み込んだ。

 ルヴァイル達に目を向けると、気不味そうに目を逸らすばかりで、ろくな返答は期待できそうにない。

 そして、その反応から察するに、そこまで深く考える事なく、言われるままに信じてしまった、という事らしい。

 

「一応聞くが、魔力の強い死体などから、呪いが発生した前例は? 例えば、エルクセスとかそういう、他に類を見ない類いの……」

「知らないですね。私の知る限りにおいて、死体が腐る事で周りに実害が出る事はあっても、呪いという形で振り撒かれる事は無かった筈です」

「その辺は普通の動物と一緒な訳か……。ならば素体も、と同じ様に考える事は早計だとして……。では、神の遺骸も……と考えたところで、やはり結論は出ない訳だな」

 

 えぇ、とルチアは悔しげな顔をして頷く。

 

「確かな証拠とは、その事実を確定させた時のみ得られるものです。神の素体が神の肉体と酷似していると仮定できても、死体を確認できない以上、憶測以上の答えは出ませんし……。であるなら、やはり憶測で決めるしかないと思います」

「あの瘴気は、大神の死体から発生したものかどうか、か……?」

「はい。生物の理屈としては有り得ない話なんですよ。魔力ある肉体が腐る事で呪いが振り撒かれるなら、今頃エルフの森は呪いで充満してる事になりますし」

「だが、死体を放置する事、強い恨みを持つ場合、それが呪霊として生まれる事もある……そうだろう?」

「ですね。でも、瘴気なんてものが発生した事例は知りません。その辺りは、神々の方がより良く知っているのでは?」

 

 ルチアがルヴァイルへ水を向けると、一瞬戸惑った顔を見せつつも、毅然として見えるよう佇まいを正して頷く。

 

「え、えぇ……。呪霊発生の原因は、供養なく放置される事、強い魔力が強い恨みと結び付く事で生まれます。その際に周囲の生命を奪う事はありますが、瘴気の様な、毒とも呪いともつかないものが発生した事はありません」

「じゃあ、あの瘴気――瘴気と呼んでいるモノは何なのよ、って話になると思うんだけど」

 

 深い思考の没頭から帰って来たと思われるユミルが、指を一本突き付けながら言った。

 その指を突き付けられたルヴァイルは、困った顔をしてミレイユを見つめて来る。

 

「そんな顔されても困るんだが……。だが、私としては、瘴気という名で呼んだだけの、別物と見るべきだと思う。その本質と目的……となると、やはり分からないが」

「ラウアイクスの置き土産? 死ぬとなったら、全てを巻き込む為の……?」

 

 ううん、とユミルは自らの発言を、自分で否定して首を振る。

 

「違うわね。封じていたんですもの、制御できてない証拠だわ。だとしても、そんな厄物、身近に置きたいものかしら……?」

「ないと思うな……」

 

 ユミルの独り言の様な発言を拾い、インギェムもまた首を振った。

 

「オスボリックが自分の神処を離れたがらないのは、封印を堅持する為だった。大神を封じ続けるには必要な事と思ってたが、実際は違った。じゃあ、初めから瘴気を封じる為だったとして、()()という時の為に、そこまでして用意するものか……?」

「ちょおっと、考えられないわよねぇ……? じゃあ、瘴気は大神の置き土産って考えるとしっくり来るんだけど……」

「やはり、死んでいたと見るべき……そういう事か?」

 

 ミレイユが問うと、やはりユミルは首を横に振る。

 

「そうとは限らない。インギェムが言ったわね。()()()()()()()()()()()。……ねぇ、死んでないとしたら、大神はどこにいるの?」

「存命であり、逃げ(おお)せているなら、反撃してそうなものだ。ドーワも言っていたろう。封印を破るのに時間は掛かろうとも、百年掛けようと抜け出して、ドラゴンの姿を元に戻して逆襲するだろうと。……だが、現実にはそうなってない」

「でも、事実としてダンマリなのも確かなワケよね。だから、身内の筈のアンタらでさえ、大神は生きて封じられていると信じ込んでいた」

 

 ユミルが冷めた視線を向けると、二柱は痛いものを堪えるように顔を歪め、ややしてから頷いた。

 溜飲を下げる為にやった事ではないにしろ、ユミルそれで気を良くしたように笑み、それから続ける。

 

「アタシとしては、既に世界の何処にもいない、って説を推したいんだけど」

「死んだ訳でもないのに……? 文字通り、世界の外へ飛び出した、と言いたいのか? しかし、神だぞ。世界を超えられない、という理はどうした」

「……そうね。大神が死んで、代わりに瘴気が溢れた……そう考えると、実際説得力はあるのよね。でも、同時に言ってもいたじゃない。『移住計画』……、これがどうしても気になるのよ」

「大神もまた、ラウアイクスの様な性格をしていたとしたら、己の命を助ける為にこそ計画した筈……か。地上に住まう全ての命を無視するかどうか、そこまで分かった事ではないが……自己犠牲と献身が根底にある筈はない、と……」

「暴論かしらね?」

 

 その大神を、一度でも目にした事のないミレイユには分からぬ事だ。

 仮に似通った性格をしていたのだとしても、同一ではないだろう。

 

 世界を想像した神として、世界に住まう命に対して責任を持っていたかも知れず、そうとなれば己の身だけ助かれば良い、という暴論は破綻する。

 

 しかし、それは推測するしかない部分だった。

 会う事も出来ず、それを知ってた神々も死んだ。

 

 ()の神らは、ミレイユ達の目的を思えば捕虜として生け捕りにする訳にもいかず、生かしておく危険を考えると殺すしかなかった。

 

 仮に情報を聞き出す為に拘束したとしても、抜け出す危険性の方が高く、御し切る自信もないとなれば、下手な欲を出さない方が正解だ。

 生け捕りは大きな実力差があって成立するものでもあるから、ミレイユ達には荷が勝ちすぎた、という理由もある。

 

 ルヴァイル達は大神と出会った事はあるにしろ、接触回数が極端に少なく、だから記憶にもない上、印象すら残っていない。

 大神にとっても興味の対象外だったのか、失敗作に用は無い、という判断からか、とにかく二柱に訊いても実のある話は聞けそうもなかった。

 

 そこまで考えて、大神を良く知る者が、すぐ近くにいる事を思い出す。

 前方に集中して速度を出しているドーワへ、ミレイユは大きく声を張り上げた。

 

「――おい、ドーワ! 少し話を聞かせてくれ! 大神はどういう奴だった!」

「……なんだい。急ぐとなると、あまり後ろ向けないんだがね」

「そこはすまないが、少しだけだ。大神とはどういう奴らだった? もしかしたら、未だ存命の可能性もあるんだが!」

「有り得ない、って言いたいがねぇ。……何をどう考えたら、そんな発想になるんだい……」

 

 ドーワが鎌首をもたげて後ろを振り返り、呆れ果てた目と声を向けて来た。

 顔を後ろに向けた事で若干速度が落ちたが、話の内容もまた重要だ。

 

 聞いてくれる余力があるというなら、今の内に済ませておきたかった。

 ドーワは少し考える仕草を見せたが、すぐに口を開く。

 

「大神の御方々が、その御身一つで逃げ出すだろうか、と言われたら、ないと答えるね。そもそも、摂理の問題で不可能、という話だよ」

「それは分かってるが……。そうか、大神でもそれは変わらないか。偽神だから無理ではなく、同様に大神もまた不可能だと……」

「それに、御身一つで世界を飛び越えてどうする。神である以上、願力が無くては存在できない。神を拝み奉る信者なくして、神としての存在を維持できるもんか」

 

 それは新しい視点だった。

 神として存在する――昇神する時に必要なのも、信仰という願力だ。

 

 そして、神はそれを力の源とする。

 ならば、それが全くなければ存在として維持できない、という理屈も理解できる気がした。

 

「じゃあ、やはり既に世界を飛び出している、という説は否定して良さそうだな。ならば、何処かに隠れているのか? 世界の破滅を目前にしても、沈黙を守っているのは不自然さしか感じないんだが……」

「あるいは、沈黙する事しか出来ない可能性もあるねぇ」

 

 ドーワが思案するように目を細め、どういう事かと言葉を待つ。

 

「もしかしたら、封印自体を自ら行っていたのかもしれないよ。肉体を捨て去り、魂すらも何処かへ閉じ込もっているとしたら……それもまた、一種の封印だろうさ」

「そんな事が出来るのか? いや、創造神なら、何が出来ても不思議じゃないが……」

 

 封じられたのではなく、自らを封じて最悪を避ける。

 それは有り得る事なのかもしれなかった。

 

 ミレイユは少し考えてみる。

 叛逆され、打倒されたとして、その場で拘束されたものの、封印自体は後回しにされたとしたら――。

 ドーワが口にした、肉体を捨て去るという事が本当に可能であるなら、実行していても不思議ではない。

 

「もはや逃げ切れない、封じられるしかない、という状況なら……? 物理的に逃げられなくとも、神魂だけ逃げ出す事が可能な状況なら……? やるかもしれない。……さながら、蜥蜴の尻尾切りのように、肉体を捨てて逃げた……、かも」

「可能性の話さね。無論、神魂は『遺物』へ吸収されてしまう事になるだろうから、何か手は打っていたと思うがね」

「逃れる手段があるというのか……。本当にそんな手段があるなら、八神としても真似したと思うが」

「全く同じものを、同じ精度で用意できなかっただけじゃないかね。神を名乗るとはいえ、得意不得意があり、そのうえ出来る事は限られる。大体、その()()を知っていたとも限らない……」

 

 確かに、ミレイユは一度ならず、その多才を神の口から褒められた。

 神々は強力な権能を持ち、頑丈さも折り紙付きだが、何でも出来る存在ではない。

 方法如何によっては真似できない、という指摘は正しいように思う。

 

 だが、それならば、どういう方法なら可能だと言うのか。

 ドーワがそれを知っているというなら、聞いておかねばならなかった。

 



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一つの決着 その10

「実際に、どういう方法なら可能なのか、ドーワは知っているのか?」

 

 ルヴァイルもインギェムも他人事ではないし、非常に関心があるようだ。

 ミレイユにも、その期待が籠もった視線も感じられたくらいだから、ドーワにも分かった事だろう。

 不快そうに目を細めたが、それでも結局、嫌な気配を出しつつも口にした。

 

「具体的な方法なんか知らないよ。ただ、可能そうなものなら、という思い付きみたいなもんさ。正解だっていう保障もない。……それでも聞くかい?」

「あぁ、懸念を晴らせる材料になるなら」

「……ふん。別に理屈の上では難しい事じゃない。単純に魔力を完全に吸収できる素材で、がっちりと周囲を塞いでやりゃあいい。なぜ魂が引っ張られるかと言えば、大気中のマナに魂が触れる事で反応する様になってるからだ。つまり、その魔力反応を利用してるんだね。だから、それを完全に遮断する物体ですっぽりと囲んでやれば、引っ張られないという理屈さ」

 

 ミレイユは喉奥で唸りを上げて、腕を組んだ。

 神々だけに留まらず、ドラゴンやゲルミル一族三十の魂など、その対象が神魂だけに限った事でないのは分かっていた。

 

 一定数以上の力を持つ魂が、その対象として自動化されているのだろう。

 同じゲルミルのスルーズが死んだ時は発生しなかった事から、一定範囲に一定数以上の魂を基準として設定していると思われる。

 

 マナがない場所など存在しないから、それと触れる事で生まれる反応を利用すれば漏れる事なく回収できると考え、設計したのだろう。

 だからこそ、抜け道もまた知っていたと考えられる。

 とはいえ――。

 

「仮にそんな物を用意できたとして、()の中に閉じ籠もっていられるものか? 肉体を捨て去ったタイミングがいつか……。それを考えると、膨大な時間をその中で過ごしていた事になる。……堪えられないだろう、普通」

「元より膨大な時間を生きる神だから、人間と同じ尺度で考えていけないとしても……。数千年は長いと思うのよね、やっぱり。その()の大きさ次第にしろ、家ほど大きなものには出来ないでしょうし、それも四つ分でしょ? ……その部分だけ見ても、現実的じゃないっていうか……」

 

 ユミルの腹から絞り出すような声音は、全体的に否定的な意見だった。

 ミレイユとしても同じ様なもので、可能不可能を論じれば、可能であろうと思っても、やりたいとは思わないだろう。

 

 自身の終焉に抵抗するのは生命の(サガ)、とは言ったが、そこまで形振り構わずいられるとまで考えていない。

 人間と同じ尺度で考えるものではない、と言われたばかりだが、生きる為に拷問を受け続けたいとも思えないのだ。

 

 それとも、神の精神とはそういうものなのだろうか。

 ならば何故、後継者を造ろうとしていたのだろう。

 

 後を託す為に欲したのではなかったのだろうか。

 ミレイユが思考に没頭していると、頭上から喉を鳴らす笑い声が降って来た。

 

「だから、言ったじゃないかい。可能かもしれない、というだけの思い付きさ。実現性に乏しい、という意見も良く分かるしね」

「大神の性格的に、あり得ると思うか?」

「さて……、御方々は我らの事を可愛がってくれていて、そのお優しい気質を見せていたものだがねぇ……。それと同時に、必要とあらば、手段を選ばぬ苛烈なものを持っていた。自身の生に、どこまで執着を持っていたか、そこを知る機会はなかった。……何とも言えない」

「そうか……」

 

 結局、何一つ確証らしき物は得られず、ただ懐疑だけが残る事になった。

 状況だけ見れば、大神の死を確定付けるものはない、という話であるものの、生きている事実も考えられるものではないのだ。

 

 魂だけなら逃げられる可能性はあったかもしれない……。

 とは言っても、神魂は『遺物』に吸収される。

 実際に大神が免れた事実をラウアイクスが知っていたなら、やはり、それを模倣しようと試みるだろう。

 

 同じ物を用意できなかっただけ……そういう話も出たが、ならば大神は、今も何処かで()の中に隠れているのだろうか。

 自身の安全が確保されたと、確信が得られるその時まで。

 

「なぁ、ドーワ。最後に一つ聞きたい。お前にとっては、非常に不快な事だと思うんだが……」

「何だい……今更、殊勝になる事かね。好きに聞くと良い」

「お前達が姿を歪められて、長く雌伏を強いられていた時の事だ。実際、その内の一竜は辛抱が出来ず飛び出してしまった、という話だったが、お前にしても長く苦しい時間だったろう。耐えられた理由は何なんだ?」

「あぁ、その事かい……」

 

 ドーワはつまらなそうに鼻を鳴らしたが、無視する事はせず、一拍の間を置いて話してくれた。

 

「大抵は寝ていたよ。寝る以外、やる事もないからね。その気になれば、百年でも二百年でも眠ったままでいられた。危険なんてモンも、殆どなかったしね」

「寝て……、百年も……。魂だけになっても、同じ事が出来ると思うか?」

「肉体がないのだから、寝る必要もないだろうさ。意識を自発的に遮断して、寝ている様な状態にする事は……さて、可能なんだろうかね? 魂だけの存在になんなきゃ、分からん事だろうさ。ただ……」

 

 ドーワは一瞬、考えるような仕草を見せてから、ルヴァイル達へ視線を向けた。

 

「そっちも一応は神だ。出来るかどうか、聞いてみちゃどうだね」

「それもそうだな」

 

 ミレイユはその助言へ素直に同意して、ルヴァイルの顔を見る。

 

「どうなんだ? お前達もまた、長く生きる存在だろう。意識の遮断とか、可能なのか?」

「八神の中で、それをする者はあまり居ないと思いますが、可能です。……特に私は、繰り返す時の中で、行動する必要がない長い時間というのを知っていたので、そういう時には積極的に遮断していました」

「なるほどな……。お前たちに出来る事なら、大神にも出来ると考えて良さそうだ」

「だからこれまで、発狂せずに済んでいた、とも言えますが……。でも、それを聞くと言うなら、大神は何処かに隠れていると、そう貴女は考えているのですか? 今も姿を見せないのは、その意識を遮断しているからだと……」

 

 ミレイユは自信を持って断言するつもりなど無かったが、それがどうやら可能らしい、と分かった時点で、未だ存命という可能性を捨てられなくなった。

 魂だけの存在となりつつ、今も()の中に閉じ籠り、意識を遮断している状態……。

 それを存命と表現するのなら、そういう事になる。

 

「大神が、この世界に見切りを付けていたのは、話を聞く限り事実らしい。だが、自己の生存を諦めていたか、それとも抗おうとしていたのか。……そこまでは断定できる事でないと思う。だが、再起が可能と思えばこそ、取りそうな行動とも思える……」

「肉体を捨て、毒を撒いたとしても?」

「再起には時間が掛かる。それを理解していたからこそ、なのかもしれない。だとすれば、肉体はむしろ枷だ。代替可能なのか、創造可能なのか知らないが、とにかくそこが問題とならないのであれば、捨てることに躊躇もないだろう」

 

 その意見にはユミルも賛成だったらしく、何度も頷きながら補足するように言葉を続ける。

 

「創造神だものね……。生命を権能としてる奴もいる。……そうよ、肉体を得る事は難しくないんだわ。でも、寿命については避けられない、という話でもあった筈……。世界の終焉は自己の終焉と直結する筈でしょ? 結果として八神が維持していたけど、そうならない可能性もあったんじゃない?」

「そうだろうな。だから、生存を目的としているなら、それを可能とする狙いがあった筈だ。そこで思い付くのが――」

 

 ミレイユが一度言葉を切り、インギェムへと目を向け、指先も向ける。

 二度、三度と指を振ると、話に付いて行けてないインギェムは、目を白黒させて自分自身を指差した。

 

「己が……何だ? 何もしちゃいないぞ」

「そうじゃない。お前が言い出した『移住計画』だ。世界を越える算段があったなら、それも現実味を帯びて来る」

「神は世界を越えられない――その理屈は、どう考えます?」

 

 ルチアが顎先を掴んだまま言って、怪訝な視線を向けて来た。

 無論、問題となるのはその部分だ。

 理というものは、神でさえ従い、避ける事の出来ないものだろう。

 

 理に屈すると書くから理屈なのだ。

 それは神さえ退けられない道理である、という指摘も当然だと思う。

 しかし――。

 

「大神が生存の望みを捨てられず、移住計画が自身の為だったという仮定において、可能であると考えるべきだ。――つまり、抜け道がある」

「いや、でもさぁ……。その仮定においては、あると考えなければ辻褄が合わない、と言いたいだけじゃない? 大体、そんなコト本当に出来るの? 無理でしょ」

 

 ユミルが大いに疑念を含んだ視線を向け、そしてルヴァイルにも念を押すかの様に顔を向ける。

 ルヴァイルもまた困惑した様子を隠そうともせず、弱り切った顔で頬に手を当てた。

 

「……ない、と思いますが。それが出来るようなら、ミレイユを取り戻すのに、胡乱な手段は必要ありません。神々のいずれか、もしくは複数で世界を越えて取り戻せば良かったのですから。……いえ、世界の維持は自己保身の為でもあった訳で、それならば世界を越えて逃げていれば、話はもっと簡単でした」

「そうよね……。ラウアイクスは、だからこそウチの子に、手を出さずにはいられなかったんだもの」

 

 ユミルが頷き、ルチアも顎に手を添えたままで、同様に頷いた。

 

「時間は掛かっても、最終的に可能という手段を取らざるを得なかった訳です。『地均し』についても……、そうですね。遊びというには手が込み過ぎてますから、あれについては、ミレイさんを瀕死に追い込める戦力が他になかったから、仕方なく取った手段なんでしょう?」

「そうですね。……そう、聞いています。より確実性のある手段で……、『地均し』は封じていなければ勝手に動こうとするうえ、制御もできないので、都合が良かったから利用した……その様に」

 

 これを口にするのは、ルヴァイルとしても気不味いものがあったらしい。

 ルチアやユミルからの刺すような視線が向けられていたのも、その原因だろう。

 

 怒りも強いが、それと同時に、ミレイユ達は望む結果を得られつつある。

 それを考えると、邪険にばかりもできない。

 ともあれ、ラウアイクスを始めとした八神にも、世界を越える事は出来ない、という共通認識を持っていたのは確認できた。

 

「普通であれば無理だろう。だから、抜け道なんだ」

「そりゃそうでしょうけど……。じゃあ、アンタにはもう、その目処が立ってるの?」

「まぁ、それらしい推論は既に浮かんでいるんだが……。だが、ラウアイクス達には取れない手段だ。そもそも、似た事が出来るなら、今の今まで放置してる筈はない」

「それは、えぇ……。間違いないと思います」

 

 ルヴァイルも同意し、その隣でインギェムも頷いてみせた。

 

「世界を越えられないからこそ、世界を削り落としても維持していた訳だろ。アイツらにゃ、この世界に執着する理由だってないものな。沈もうとしてる泥船を、必死こいて維持するくらいなら、別の船に乗り換えたいのが本音だろうさ」

「それにですよ、仮に大神が魂だけの存在になって、どこかで身を隠すとしても、世界が維持される事だって賭けだったんじゃないですか? 本神は意識を遮断しているから分からないという理屈だとしても、その間に世界が破滅したらどうするんです。そのまま一緒に、消えるつもりなんですか?」

 

 ルチアの疑問は、実に的を射ていた。

 生存を何より優先して肉体すら捨てたのに、その部分については計画性が乏しい。

 オスボリックが瘴気を封じていなければ、その時点で多くの生命が死滅していた。

 

 多くと言わず、恐らく全てが……。

 これでは単に、自分が死ぬなら諸共道連れ、と考えた方がしっくり来る。

 裏切り者への制裁と同時に、破れた事で一矢報いるつもりだったと考えれば。

 

 では結局、移住計画とは、構想段階で潰えた計画でしかなかったのだろうか。

 そうと考え、ミレイユは心の中で(かぶり)を振る。

 

 ――そうとは思えない。

 先程聞いた、ルヴァイルの一言が気になっている。

 『地均し』は、勝手に動いて制御できない。

 似た事は、ラウアイクスも言っていた。ならば、それは事実だろう。

 

 では、最初から……八神の手元にあった時点から、周囲を破壊する様に動こうとしていたのだろうか。

 有用な戦力だとしても、制御できないなら兵器としては失格だ。

 敵も味方も吹き飛ばす爆弾など、誰も喜ばない。

 

 『地均し』を戦場に投入したのは、兵器として運用するというより、手あたり次第に暴れた結果、利になれば良いという期待からだった。

 ラウアイクスが言うには、丁度良い機会だから捨て去ったという感覚だった様だ。

 

 そうまでした厄種であり、制御すら出来ていなかった事実から、『地均し』を造ったのは大神だと考えるべきだった。

 八神からすれば、そもそも取っておく必要がない。制御不可能なら破壊すれば良いだけだ。

 

 では何故、邪魔になるばかりの物を破壊しなかったのか。

 策謀を巡らせる指し手としては、単に破壊してしまうより、何処かで活用するつもりだったからか。それは一つの利として、考える事は出来る。

 

 戦場に投入すれば、それだけで破壊を巻き散らす事が出来るから。それもあるだろう。

 権能を使う装置が、勝手に孔を開き続けてくれる利を考えたからか。それもまた、あるだろう。

 

 だが一番の理由は、そもそも破壊できないから、ではないか。

 『地均し』の破壊を試みなかったとは思えない。

 だがその鎧甲が魔力を吸収してしまうだけでなく、糧とする事を理解して手を出すのを止めたのではないか。

 

 インギェムやルヴァイルを基準と考えるのも危険だが、これら八柱、それと神使を集めて、鎧甲を突破するだけの威力を捻出できるだろうか。

 ミレイユが神宮で『地均し』と遭遇した感触からして、その程度では無理だろうと思うしかなかった。

 

「大神は既に、手段を手に入れていた、としたら……。魂も()の中に保護し、移住するつもりの段階まで来ていた、と考えたなら……。そして、それをラウアイクスも理解していたとしたら……?」

 

 情報を仲間内で共有しない奴だった。

 あるいは、有能と認めた者にしか、相談を持ち掛けなかっただけかもしれない。

 何れにしても、その事実を知っていた者は少なかったに違いない。

 

「根本的にその野望を挫く事は不可能、と悟っていたんじゃないか……。留める事は可能でも、そもそも止める事は不可能だと。だから、利用するだけ利用してやるつもりだったのかもしれない。せめて自分の役に立て、という意趣返しか? ……まぁ、それも考えそうな奴ではある」

「意趣返し? ラウアイクスが、大神に? ……アイツは所在を掴んでいたの?」

 

 ユミルの疑問にルチアも追随して頷く。

 

「つまり、あの瘴気は欺瞞でしかないと理解していた、それは尤もです。ラウアイクスが理解していなかったとは思えません。でも、それなら大元となる()を放置したりしますか? 役に立たせると言っても、何をしでかすか分からない相手です。封じておくのが精々では……」

「そうだな。だから身動きできないよう、封じる事だけはしていたんだろう。あるいは、動かさないでいる事が、奴なりの意趣返しだった可能性もあるか……」

 

 ユミルは疑惑を顔面に張り付けて、胡乱な視線を向けて来る。

 

「まぁ、移住したいと思ってる奴を縫い付けておけるなら、そりゃ確かに意趣返しって感じもするけど。でも、最終的には抜け出すとも考えていたワケ? いつまでも留めておけないって? ……それがつまり、あの置き土産の瘴気?」

「蔓延してしまえば、封印どころではない、という理屈も分かりますけどね……。瘴気の溢れようは異常でした。それを一つ所に留めていたのは、流石の権能という感じですが……」

「もしかしたら、大神からしてもここまで完全に封じ込められたのは、誤算だった可能性あるわよね。トカゲの尻尾切りとして残した死骸が、毒となるよう創るのは可能だったと思うのよ。だから、その対処に追われる事までが、計画されていた事だったのかも……」

「けれど、完璧に封印されてしまって、そんな事態は起きなかったと……。大地が朽ちれば人も死に、願力が無くなり対処できないか、そもそも世界が削られ破滅するか、どちらが先かの破滅レースを強要するつもりだったのかもしれません」

 

 ルチアが思う最悪の予想は、否定する材料が見つからなかった。

 それをユミルが鼻で笑い、蔑む視線を空に向ける。

 

「それについては、まぁ、ざまぁみろって感じよ。そうして盛大に、立つ鳥跡を濁しまくって世界を去るつもりだったんでしょうけど、それは八神のファインプレーで防いでいたのね」

「でも、過程は違えど、瘴気は溢れ出してしまった……。世界が破滅する瀬戸際で、もはや封じるものもない。大神の目的を考えますと、少しの猶予さえあれば良く、それで十分転移できてしまう」

「……孔を拡げる苦労はあるのかしらね。魔力の大きさが関係するから……、あぁそう。魔力を遮断する箱の中に居る事で、その問題も解消しようっていうのかしらね……」

「そもそも魔力があるのでしょうか」

 

 そう言って小首を傾げたのはルヴァイルだった。

 どういう事だ、と視線を向けると、恐縮するように肩を窄めて言う。

 

「今更、一つ思い出した事がありまして……。大神は魔力を持っていなかったように思います。膨大な神力があるから必要としていなかった気がしますし、そもそも創造神たる存在だから、魔力を持たなかった可能性もありますけど……。造られた神と違う大きな部分は、そこかもしれません」

「創造神だからこそ、魔力を必要としていないという理屈も、分からないではないけどね。でも、そう……。魔力と神力の違いなんて分からないけど、仮に魔力同様、孔の通過に必要な大きさが関わるとしても、やっぱり箱の中にいるなら解消できる問題ではあるわよね」

「結局、そういう話になりますか。どちらにしても、転移に対して枷となる事は無いと」

「でもじゃあ、今まさに大神は目的を完遂しようと、動き出してるってワケ?」

 

 ルチアの指摘に、ユミルは忌々しく思う表情を隠さず周囲を見渡した。

 しかし今は、音速で移動する竜の背の上だ。

 

 封印が解除された事で動き出す何かがあったにしろ、その気配の尾すら掴む事は出来ない。

 しかし、そのような気配は最初から見える筈がない、とミレイユは既に判断していた。

 

「今はもう、警戒する必要はない。奴らは既に、世界を越えている」

「何でそう思うの? 奴らの移住は、既に完了してる? そんな気配なかったけど……でも戦闘中、生死の狭間で何もかも、察知できたと豪語できないし……」

「そもそも、これまでの仮定は全て、箱が実在する前提での話ですよね? でも、今までそんなもの見ていません。あるならば可能、という話はつまり、無ければ杞憂って話にもなります」

「そうよね? でも、アンタはそれを見たとか、感じたとかしたワケ?」

「そうだな……、見たと思う。そして、だから、()()と考えると理解できてしまうから、嫌な気持ちになっている……」

 

 ミレイユは苦虫を噛み潰す顔をして、眉間に刻まれた皺を揉んだ。

 指先二本でゆっくりと揉み解し、そうしつつも単なる杞憂であってくれ、と願っている。

 単なる取り越し苦労、思い過ごし、無駄な懸念、そうであってくれたらと思った。

 

 だが、材料を繋ぎ合わせると、不都合な真実が顔を出す。

 ドーワが言った、魔力を完全に吸収する物質。

 

 魂を、その中にすっぽりと覆い隠せる物。

 同じ物が四つ、ないし四つ全てが、収まるだけの大きさを持つ事。

 

 制御も出来ないから、封じておくしか出来なかったのだという事実は……或いは、何か明確な目的があって動こうとしていたと考えられないか。

 自動的に孔を開こうとするから、それに指向性を持たせて利用していた、とも聞いている。

 

 孔とはどういう性質か。転移の為に、世界と世界を繋げる道だ。

 ドーワは何と言っていた。

 ――それが仮に百年掛かるものだとしても、百年で済むなら抜け出そうとするだろう。千年だろうと同じ事。

 

 この仮説が事実で、単なる杞憂や思い過ごしでないのなら、他の可能性を探す方が難しい。

 そして、ラウアイクスは明らかに、大神の性格を知っていた。

 どういう意志と目的を持つか、それを知っている様子を見せていた。

 

 『地均し』と大神の関連性について、その時点で仄めかしてもいて、破滅を呼び込んだ事を嘲笑うようでもあった。

 ――知れば後悔するだろう。

 ラウアイクスが言っていた本当の意味は、知らずにいた方が幸福だった、という意味の裏返しだ。

 

 考える程に不都合な真実が露出して来て、ミレイユは大仰に顔を顰めて歯噛みする。

 そこへ、ユミル達から急かすような視線を受け、大仰に溜息を吐き、考え付いた真相を口にした。

 

「神造兵器『地均し』こそが、その()だと思う。――大神は既に、世界を越えていた」

 



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『遺物』と願い その1

 誰からの言葉もなく、啞然とした視線で全員から凝視される事になり、予想と反した反応に、ミレイユは居心地悪く肩を揺らした。

 

 信じられない、信じたくない、そういう気持ちで揺れているのがアキラで、どう反応して良いのか迷っているのがアヴェリンだ。

 

 ルチアとユミルは、それが事実であるかどうか、正誤を判断しようと思考を巡らせているし、ルヴァイル達は喘ぐように口を開閉しているだけだった。

 風を切る音ばかりが場を支配し、居た堪れなくなったミレイユは、首を上げてドーワへ声を掛ける。

 

「どう見る。あり得ると思うか? 私としては、むしろ外れていて欲しい予想なんだが」

「『地均し』か、そうだね……。あれの鎧甲は魔力を完全に吸収する筈だし、あれの内側は完全に遮断されると考えて良さそうだ。魂を保護するには使えるんじゃないかと思うね。そして、あれは八神に模倣できないモノでもある」

「ルヴァイル、『地均し』は長らく封印されていて、表に出た事は無かったか?」

「無かったと思います。勝手に動き出そうとするので、オスボリックが『不動』による封印を担っていたと聞いています」

 

 その部分については、ミレイユもラウアイクスが聞いていた事だ。

 これで整合と確認は取れた。

 

 最初の考えでは、現世へやって来た『地均し』を止めるか、或いは破壊する程度のつもりでいた。

 だが、ラウアイクスの手にも余り、利用する事も難しいからと、適当に暴れさせる意図も兼ねて、体良く別世界に捨てられた形だ。

 

 それこそ、大神が望むものと知らずに。

 忸怩たる思いでいると、思考の渦から帰って来たユミルが、指を立てて疑問を放つ。

 

「世界を越えるにしろ、行き先は何処でも良いってワケじゃないでしょ。依然として、神の在り方ってモンが枷としてあるわ。信徒の居ない神は脆い。その身一つで世界を越えたところで意味がない、そういう話を聞いたばかりじゃないの」

「だから、魔力もマナも無い世界を選んでいるんだろう。飛ぶ世界の候補地は、元からマナのない世界だ。魔術の使用は、夢物語の奇跡と同じに映るような世界をな。力を振るえば神の顕現、奇跡の体現と、持て囃される事になるだろう。信徒の獲得は容易と見るべきだ」

 

 ユミルは頷こうと僅かに首を動かしたが、すぐに止まって見返してくる。

 

「それはこの際、納得するとしても……。マナが全く無くても困るじゃない。最初は『地均し』の鎧甲に溜め込んだ魔力が使えても、それが尽きれば木偶の坊になる。目減りするだけで、補充が利かない。これでは困る筈よ」

「……そうだな」

 

 言われてミレイユも言葉が詰まる。

 マナと魔力が無い世界は、人間に置き換えると、酸素の無い世界へ赴くのと変わらない。

 仮にボンベを用意してあったとしても、目減りするだけと分かっていて、尽きれば死ぬだけと分かっているのに向かえるものだろうか。

 

 そして、それを大神に当て嵌めてみると、マナの確保に当てが有ると考えなければ出来ない行為だ。

 マナの確保――、マナの用意――。あるいは、マナの生成――。

 そう考えて、一つ閃くものがある。

 

「デイアートの神話にあったろう。この世界だって、最初はマナなど無かった。しかし徐々に増えていき、そして最後にはマナが溢れる世界になった。これは自然に発生したものか? それとも、大神が作り変えていったものか? もしも大神が行った事というなら、行った先でも同じ事が出来るだろう」

 

 思わず唸って沈黙したユミルを余所に、ミレイユはルヴァイルとインギェムへ視線を向ける。

 

「お前達も、大神によって拉致されたパターンだろう? 元いた世界に、マナはあったか? 魔術に類する、奇跡を体現する手段は?」

「ありません……。ええ、それこそ夢物語にしかなかった代物です……」

「己も同じだ……」

 

 青い顔をして頷く二柱に、ミレイユも自分の胸に手を当てて頷く。

 

「そして、当然、私の世界も。大神は、渡った世界でマナを作り出すつもりでいる。だから、一時凌ぎになるだけのエネルギーがあれば十分なんだろう」

「そういう世界なら、神として降臨……顕現するように見せるのも、また容易で……。信仰の獲得、願力を得るのもまた、容易であると……」

 

 ルヴァイルが唸るように頷くのを見て、ミレイユも頷く。

 

「……だから、大神の計画を模倣したという『神人計画』でも、やはりマナのない世界を対象に拉致がされていた。魂の拉致は移住先の選定も兼ねていて、だからその先で魔力と神など存在しない筈だった。だが、意外な事に、そこにはオミカゲの存在があった。奴らからすると、実に邪魔で不都合な存在として映ったに違いない」

 

 あぁ、とアヴェリンが感慨と恨みを綯い交ぜにした様な声を上げる。

 

「あの時、執拗にオミカゲ様を狙っていましたね……。ミレイ様を拉致するのに邪魔だから、攻撃していると思っていましたが……」

「今の今まで、私もそう思っていた。だが、『地均し』は――大神は、私の拉致計画とは無関係なんだ。どこへ落ち延びようと関係なく、むしろ邪魔者が一人減ったくらいの感想だろう。それを積極的に邪魔する意味があったか……?」

「どこへ逃がすつもりか不明であるなら、とりあえず潰しておこう、とした可能性もあるのでは?」

「……そうだな、確かに。それもまた考えられる」

 

 誰かに意見を貰おうというより、自分の考えを整理するつもりで口に出す。

 眉間に皺を寄せつつ、握った拳を顎先に当てた。

 

「『地均し』があくまで恣意的に敵を選ばないなら、単に邪魔者を排除しようと攻撃したに過ぎない可能性はある。オミカゲは穴を作るのではなく、あくまで便乗する様な形で利用したに過ぎないから、自ら生成する事は出来ない筈だが、相手からすればそこまでは分からない」

「孔を作れる事は、世界から弾き出せる事を意味するものね?」

 

 ユミルがそう言って小首を傾げた。

 

「だから、まず攻撃するのは妥当に思えるわね。……でも、もしそうじゃなかったら……。最初から眼中にあったのはオミカゲサマ……というか先住神で、それを排除する事が目的だったとしたら……」

「あるいは、単に皆殺しが目的で、最も危険と思われた者から率先して攻撃しただけ、とも取れるがな……」

 

 アヴェリンからユミルへの反論があって、ルチアもそれに同意する。

 

「神だからという理由でなくとも……、ほら、『地均し』は孔を生成できる訳じゃないですか。それを邪魔される事を懸念して、率先して潰しに掛かったとも考えられます。あるいは、生成しても即座に閉じられる事を嫌がったとか……。それを危険と判断して攻撃しただけ、とも取れますが?」

「それもまた然りだな……。ここで結論を出す事は出来ないか……」

 

 その意見を認めない訳にはいかなかった。

 『地均し』は依然として神造のゴーレムで、単に命じられた内容に沿って動いていただけに過ぎないかもしれない。

 

 自らの発想が突飛である事は理解している。

 だから、自分が欲しい結論の為に、辻褄合わせで考えては意味がない。

 

 ただ、どうしても、もしもを考えてしまうのだ。

 『地均し』は八神の手先であったかもしれないが、その意思を明確に理解して行動していた訳ではない。

 むしろ、八神でも手に負えないからと、放逐されたゴーレムだ。

 

 それが暴れる事を期待して、そしてミレイユが手傷を負うなり、打ち倒される事を期待して投入されたに過ぎなかった。

 気絶でもすれば、そこから拉致する事は容易い。

 だがそれは、『地均し』自身に、ミレイユを拉致する意図が全くない事を意味する。

 

 オミカゲ様を邪魔する意図は持っておらず、単に隙だらけの脅威に対して、攻撃しただけ、と見る事は出来た。

 しかし、同時に神を積極的に排したいなら、絶好の機会でもあった。

 それがまた、一層ミレイユの推測を裏付けるように感じてしまう。

 

「……私の考え過ぎか? 穿ち過ぎ、被害妄想、単なる間違いであるなら問題ない。むしろ、そちらの方が嬉しいんだが」

「いや、まぁ、うぅん……」

「そうですね……。現時点で、キッパリと間違いだと断言する事は出来ないようです」

 

 ユミルは口ごもって目を逸らし、顎先を摘んだままだったルチアは、その手を離して息を吐いた。

 長い長い溜め息で、相当な苦労を偲ばせる。

 

 そのあと鋭い視線で二柱を見つめたものの、そちらからは困惑と気不味そうな表情が返って来るだけだ。

 直接関与してないのに、そんな事言われても困る、という態度に見える。

 

「考える程に、不都合な真実ってものが顔を出すかのようですよ。今のところ、ミレイさんの仮説を否定する事が出来ません。……でも、一つ思い付いた疑問がありまして」

「聞かせてくれ」

「一先ず『地均し』は置いといて、この場合、後継者とやらの入る隙間がなくありませんか? 何の為に用意しようとしていたんでしょう?」

 

 それは確かに、不可解な疑問だ。

 大神の計画に、八神――或いはもっと多く――の存在は不必要に思える。

 後継者を造る前に、失敗作が出来た事は仕方がない。そういう事もあるのだろう。

 

 だが、反逆を受けずに真の後継者を造り出せたとして、その者が担う役割とは何なのだろう。

 大神はやろうと思えばその時点で、『地均し』を使い、移動する事だって出来たのだ。

 

「滅びかけた世界を、次代に再生と守護を託して自分は旅立つ、というのなら理解できる。しかし、それなら世界を越える必要も無くならないか。それとも、それこそが目的なのか? ……つまり、新たに大神を世界に据えて、自分は次なる世界へ旅立つ、という様な……」

「滅びを待ってからやる必要ある? むしろこれって、樹の実を食い尽くしたから、次の樹に移るって感じじゃない? 剥げた樹に子を残して、親は他の樹に移るって? 嫌がらせでしょ、そんなの」

 

 ユミルの意見は敵意を存分に含んでいたが、それが中々に的を射ていた。

 自分で言った事ながら、その線は薄いと思って、嘆息しながらそれに頷く。

 

 大体それだと、わざわざ後継者たる存在を用意する必要がない。

 再生を願って、あるいは事後の後始末を押し付ける意図があったにしろ、やはり嫌がらせという、ユミルの指摘が妥当の様に思える。

 

 この線で考えるのは無理がありそうだ。

 ならば、他に考えられる事としては、前提からして間違っている、という点だ。

 ここまでの推論をまとめると、どうにも大神は殊勝な性格をしているようには思えない。

 

 その大神が、小神を作っていたのは事実として、何を目的として必要としたのだろう。

 ――そもそも、本当に大神は後継を求めていたのか?

 ミレイユは、またしても顎を大きく反らしてドーラに声を掛ける。

 

「なぁ、ドーワ。大神は後継を求めていたというが、それは間違いなく、その口から出た言葉だったのか?」

「ふぅむ……。これまでの話を聞いていると、どうにも皆と我らの知る大神には、大きな隔たりがあるようだねぇ……。思い返してみると……後継、という言葉は使ってなかった気もする」

「おい、頼むぞ……。じゃあ、何と言っていた?」

「必要だから、という言葉だった気がするね。……あぁ、そうだ。必要……と言っていた。後継だと思っていたのは、勝手な思い込みだったか」

「ちょっと待て……。思い込み? お前の……お前が見て、勝手にそう思った、って事か?」

 

 もしかしたら、前提に何か齟齬があるかもしれない、と軽い気持ちで聞いてみたのだが、まさか本当に根底から違うなど思っていなかった。

 ドーワは一時、眦を閉じて過去に思いを馳せ、それからゆっくりと鎌首をもたげて申し訳なさそに言った。

 

「うぅむ……、やはり後継者、とは言ってなかったね。だが、自分を模した存在、権能なんて能力を持つ小神なんてものを作っていたんだ。それなら、後継者を望んでると思うだろう?」

「……なるほど。まぁそうだな……、お前もまた外野から見ていただけの存在だったな。無理もないと思える。必要だから、という言葉からも、死期が迫りかけていたという事実からも、そう受け取っても仕方がない」

 

 ドーワは申し訳なさそうにしつつも、ミレイユの返答へ満足そうに頷くと、首を戻して飛行に集中する。

 その動きを見守ってから、ミレイユはゆっくりとルヴァイル達へ、順に視線を向けた。

 

「さて……、こうなって来ると、お前達の前言にも撤回する部分が出てきそうなんだが……」

「いや、己らは何も嘘言ってないぞ! ちゃんと感じるままに……!」

「その感じるままってのが、いかにも危うい。さっきのドーワを見ただろう。客観的に見て、そうとしか感じなかったから、そうだと決め付けていたものが、お前達にもあるかもしれないだけだ」

 

 ミレイユが厳しい視線で言うと、一理あると思ってか、それ以上の反論はして来なかった。

 しかし、そう言われても、と苦り切った顔で、ルヴァイルと互いに顔を見合わせている。

 

 嘘を言っていないのは確かだろう。

 彼女らとしても協力を惜しむつもりはなく、意図せぬ方向に誘導しよう、という画策はないと理解している。

 

 だが、やはりドーワの件を考えると、何かしらの誤解があったかも、という懸念を拭い切れないのだ。

 しかし、嘘を言っていないつもりの相手に、何か嘘を言ったか、と詰問しても意味がない。

 

 そこでミレイユは、誤解があると困る部分を想像してみた。

 頭の片隅に浮かんだものを膨らませていくと、嫌な方向に想像が膨らみ、みるみる眉間に皺が寄っていく。

 

 小神は大神の後継たるを望まれて作られ、そして失敗作の烙印を押された存在だ。

 ミレイユはそう聞いているし、ルヴァイルの口から直接話された内容でもある。

 だが、事の本質を良く知っているラウアイクスから、その単語を聞いていない事を思い出した。

 

 彼は用済みと、言っていた。

 戦闘の最中、時間稼ぎのつもりで問い掛けた時に聞いた話だ。

 ――もう用済みと断じられ、破棄される者の気持ちも汲んで欲しいものだ。

 

 ミレイユはその時の一言一句全てを思い出し、眉間にしわを寄せる。

 その下手な想像が外れていてくれと思いながら、ムッツリとした不機嫌な顔で二人に問うた。

 

「私が一番何の誤解を恐れているのか……、それが何か分かるか?」

「分からん。だから……、聞くのは怖いが、是非とも教えて欲しいね」

「――お前達が失敗作で無かったパターンだ」

「は……?」

「勝手に失敗作と思い込み、それで反旗を翻した……んじゃないかと思うんだが。……お前達は直接、その言葉を聞いてるか?」

 

 そう尋ねると、明らかに狼狽した様子で、ルヴァイルとインギェムは互いに顔を見合わせる。

 互いに言葉無く、どうなんだ、というジェスチャーで指を差したり、違うと手を振ったりで、何を言わないでも何を言い合ってるのかは理解できた。

 

「その様子だと、聞いていないようだな……」

「そもそも、直接的関与が多かったのは、ラウアイクスだと話した筈です。私は詳しく聞いてませんし……でも、彼がそんな聞き間違いで反逆すると思いますか?」

「アイツは頭がキレる。だから、下手な間違いはしないと思う。だが、そもそも聞き間違えじゃなく、明確に処断される理由を聞いた時、反逆を企てたんじゃないか」

 

 それだけ言っても、二人は全くピンと来ていないようだ。

 確かに少し抽象的過ぎて分かり難かった。

 自省しながら、ミレイユは少し考えて言葉を改めた。

 

「例えば、もう用済み、といった発言をされた場合だ。自分以外にも多くいる小神、そして先の台詞を聞かされたら、大神にどういう意図があるかは明白だ」

「それは……えぇ、状況と言い方次第で、ラウアイクスがどう判断するか分かって来ますが……。しかし、どうしてそう思うのです?」

 

 ミレイユはそれに答えず、無視するように問いを重ねる。

 

「もう一つ。『地均し』に、お前達の権能を使える機構があるって本当か?」

「それもラウアイクスから聞いたのですか? ……えぇ、だから貴女を追うのに自動化出来ていたのです。労が余りに大きいなら、ミレイユという素体が惜しくとも、途中で諦めていたのではないでしょうか」

 

 ミレイユは天を仰いで瞑目した。

 固く閉じた目と、きつく結ばれた口から、何を思っているかは察せられるだろう。

 

 また一つ、不都合な真実が見つかり、仮説を強める結果になってしまった。

 ミレイユは息を吐いて顔を戻すと、自分を落ち着かせる事もかねて、ゆっくり目を開きルヴァイルを見つめた。

 



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『遺物』と願い その2

「私はな……以前ユミル達と、なぜ自分が狙われるんだ、という内容で話し合った事がある」

 

 それはデイアートに帰って来たばかりの頃、森の中で神々の狙いを考えている時だった。

 結果的に、ミレイユは炉の役割を持っていて、そこから得られる莫大なエネルギーを求めて狙われているのではないか、という仮説を立てるに至った。

 

 結果として、それは全くの間違いという訳ではないにしろ、外れていた仮説でもあったのだが、言いたい事はそこではない。

 

 それと同時にもう一つ、昇神させると得られる()()を目的として、狙われているのではないか、という仮説も立てていたのだ。

 俗な言い方をするのなら、権能ガチャとでも言い換えれば良い。

 

 何かしら役立つ権能を欲していて、それで小神を複数作っているのではないか、などと思っていた訳だ。

 八神はその様な意図で、小神を作っていなかったのは間違いない。

 しかし、大神は違ったかもしれない。

 

「大神が欲していたのは、まさしくその権能だったんじゃないかと思えてしまう。『地均し』の機構に搭載する為、移住するに役立つ権能を求めて、小神を造ったんじゃないか。だから複数の神が造られたし、コピーが終われば用済みとなる。その用済みを聞いたからこそ、ラウアイクスは反旗を翻す事にしたんじゃないか」

「プライドの高い男だったが……、処分も時間の問題と分かれば……有り得ると思うか?」

「……思います。何故なら、ドラゴンの存在は明らかに、小神の処理役として置かれていました。用が済んだらどうなるか……、仮に捨て置いて行くつもりだったとしても、これでは反逆を企てても無理ないでしょう」

「ドラゴンは大神の護衛役って訳じゃないもんな……」

「最初から処理役として紹介していた訳ではありませんが、本当の役割を知る機会がどこかにあったら……」

 

 ルヴァイルが苦い顔で言葉を零すのを見て、インギェムも苦い顔で小刻みに頷く。

 そしてインギェムは苦い顔をさせたまま、眉間の皺を増やしながら尋ねる。

 

「確かにな……。想像できちまう部分もあるけど……でも、全部憶測だろ? 勿論、お前の事は信頼してる。けど、これは根拠や証拠も無い、今となっては確認しようもない話だ。ラウアイクスの奴に聞ければ、また違ったかもしれないけど、それすらもう叶わないしな……」

「そうだな……」

 

 ミレイユもまた、それに首肯して同意を示し、そして続ける。

 

「確かに、妄想と言われても仕方ない。だが、今更ラウアイクスの動機についてはどうでも良いんだ。むしろ私が言いたい事は、昇神する際、そのとき権能を得られるという部分だ」

「それこそが狙い? 大神が多く小神を作っていたのは、成功例を作る為に失敗を繰り返していたんじゃなく、むしろ……」

「使い勝手の良い権能を得る為じゃないか。『地均し』はコピーした権能を使える機能は、正にその為だろう」

 

 うぅむ、とインギェムは唸って腕を組み、ルヴァイルも難しい顔をして押し黙った。

 

「本来なら、そんなもの破壊してしまうに限るんだろうが……。出来ない事も手伝って、利用価値ありと見たからこそ、完全封印されなかったんじゃないか。私という『鍵』を奪取するのに、都合が良いから使ってたんだろう?」

「そこまで詳しい事情までは知らないけど、そうなんだろうな。『鍵』を追うには便利だったのは間違いないし……あぁ、そうだな。ラウアイクスは使えないと判断すれば執着しないし、傍に置くような事もしないしな」

 

 そして事実、ラウアイクスはもうこれで十分と、自分達の為に役立ててから現世へ投げ捨てた。

 ミレイユはその返答に頷くと、ユミルの方へと顔を移す。

 

「お前なら分かるだろう。新天地へ移るに辺り、あれらの権能が色々と役立んじゃないかと」

「あー、そうね……。『水源』は生きて行くに欠かせないし、『流動』で川を弄ってやれば、信仰心なんて湧いて出るでしょうよ。河川工事は大事業だし、それを神が行うと分かれば、それだけでお釣りが来そう」

「インギェムの双々と繋属も、孔を作って移動するには欠かせないし、まずこれがあったからこそ、移動を開始する目処を立てたんじゃないかと思う」

「『射術』と『自在』……それはあの攻撃で、イヤという程見せつけられたし、使う武器次第で幾らでも化ける権能だわ。他の『再生』や『持続』も使い所は多そうよね。『不動』や『磨滅』は、ちょっと何を目的にしたか分からないけど、まぁ何事も使いようよね」

 

 元より、大神自身も、海や大地、空や生命といった権能を持っているのだ。

 ミレイユとしては、世界渡りを実現させる、双々と繋属こそが、何よりの当たりだったのではないかと予想している。

 

 他は全てオマケで、ユミルが言った様に使いようを求めて、とりあえず持っておく事にしたのだとしても、転移に類する権能だけは絶対に確保したかった筈だ。

 

「インギェム……お前、初めて会った時にも言ってたな? 最も若い神だって? つまり、最後に造られた神なんだろう?」

「……さっき、ルヴァイルもそう言ってたろ」

「つまり、お前は最後のアタリだ。そのアタリを引いた時点で、実際に移住を可能とする目処が立ったんじゃないか。だから、それ以上の神は創造されなかった」

 

 インギェムは唸る様に声を出し、腕を組んで黙り込む。

 ミレイユも思考に没頭し、自らの推論に肉付けしていると、ユミルが疑念というより確証に近い口調で言い放つ。

 

「私としてはね、むしろ小神に対する扱いによって、反旗を翻す決意をしたんじゃないかと思うのよ。考えてもご覧なさいな。小神は……というか、その神魂は、『遺物』を動かすのに使うエネルギーとして使用できるんでしょ? 大神が小神を作っている間、一度も使われなかったなんてあると思う?」

「……そうか。本当のハズレは、『遺物』のエネルギーとして再利用されていたのかもしれない。外から魂を引っ張って来るのに使ってたのか? ……まぁ、その用途は想像するしかないが、とにかくエネルギーの還元なり補充は出来る訳だ。そういう部分を、ラウアイクスは見た事があったのかも……」

「それなら、反旗を翻すには十分な理由だし、権能をコピーされた後なら、自分達も同じ目に遭うと考えても不思議じゃない。むしろ、積極的な理由になる」

 

 ミレイユは腑に落ちた感じがして嘆息し、遣る瀬ない気持ちになった。

 用済みとなった小神は、最後に『遺物』のエネルギーとして食われ、何かの願いに使われていたかもしれない。

 それが何を目的としていたか、については選択肢が多すぎて想像すら出来ないが、立つ鳥跡を濁さずの、ろくでもない内容である気はした。

 

「……何よ。今更、神たちに同情した?」

「全くしない、と言ったら嘘にもなる。何より、そんな事も知らず、ラウアイクスに使われるだけで、何もして来なかった神がいる事に同情してるよ」

 

 ミレイユが流し目を作って二柱を見ると、いかにも気不味そうな表情をして、顔を反らした。

 今日はいつになく、顔を反らしてばかりの二柱は、やはり顔を向けないまま、言い訳がましい事を口にし始める。

 

「そうは言っても、誰も望んで神になりたいと言った訳ではないのですから……。訳も分からぬまま、巻き込まれたという様なもので……。その当初、やる気がなかったのは、仕方のない事ではありませんか」

「そうだ、己は有能だから神になったんじゃないんだよ。お前は有能であるべく造られたから、そんな風に思えるんだ。ラウアイクスみたく素で賢い訳でもなければ、グヴォーリみたいに賢くなれる権能があった訳でもない。賢い奴に言われるまま、従う事の何が悪いってんだ」

 

 それは神の口から出る言い訳としては見苦しかったが、一人の拉致被害者として見た場合、それもまた仕方ない事かと思える。

 既に多くの神を名乗る同輩がいて、リーダーの素質十分と認めた相手がいたのなら、全て任せてしまいたい、と考えてしまうのも仕方ないのかもしれない。

 

 自分より安心して任せられる、と判断できる相手がいるのなら、それに従って生きる方が断然楽だ。

 それは人であっても、神であっても変わらぬ真実なのだろう。

 

「だが結局のところ、同情できる部分があろうと、私と相容れぬ存在だったのは変わりない。大神の悪逆に反旗を翻したのだとして、やってる事がその大神と変わらないなら世話はない。同じく反逆されて文句言えるか」

「そうよねぇ、結局そういう話になるわよね。迷惑かけず、人を助け、慎ましく信仰を受ける身として生きてれば、こんな事にはなってないのよ」

「つまり、完全な自業自得ですよね。下界を食い物としか見てない時点で、救いようがないですよ。エルフにした事なんて、その最たるものじゃないですか」

 

 その慎ましい信仰では、大神の居ない世界を維持する事が出来なかったから、手段を選ばず搾取する方法へと切り替えていったのだとは思う。

 真相は闇の中だが、どちらにせよ下界で暮らす者に、恨みを抱かれる手段を採用した時点で、同情を買う資格は消えてしまう。

 

 神々は常に搾取する側であるから、民の叫びも虫の羽音だと気にしていなかったのだろう。

 その舵切りをしていたのは、きっとこの二柱ではないのだろうが、それでもルチアから向けられる視線は絶対零度の鋭いものだ。

 

 ユミルにしてもエルフ族と似たようなもので、常に虐げられ、救われなかった一族だった。

 その上で、虐殺される事を求められていたので、その恨みも更に深い。

 ルヴァイル達は世界の破滅を見過ごせず、このまま朽ち果てるよりは、と行動を起こしたが、だからと許された訳ではなかった。

 

 彼女らは八神が行う多くの事に加担していなかったが、同時に直前まで下界を気に掛ける事もなかった。

 いわゆる事なかれ主義だったのだろうが、ミレイユからの反撃を受け、その挽回を図った結果、これまで見てなかったものを直視する結果になっただけだ。

 

 その怠慢を罪とするなら、やはり許せるものではないだろう。

 神とはいっても、全知全能でもないし、……何より創造された存在だ。

 

 仮に有能であっても、全てを救える存在にはなれない。それもまた理解できる。

 しかし、神という位に居たのは確かで、その上で何もして来なかったのは、やはり罪であったに違いなかった。

 

 王族と似たようなものだ。

 その位に位置する者は、その権威に相応しいだけの働きを求められる。

 

 ミレイユとしては、同じ魂魄拉致被害者という共通点があるから、少し優しい目で見てしまう。

 だが、この世界で暮らしていたルチア達を思うと、優しくなるばかりでもいられなかった。

 

 ルヴァイルは肩を落として下を向き、殊勝な態度を見せたが、インギェムはその逆で、むしろ晴れ晴れとした笑みを見せる。

 

「まぁ、過ぎた事は仕方ない。己らだって反省してない訳じゃないんだ。今はそれで納得しろ」

「こんな時でも、そんな態度か」

「染み付いたものだ、そういう風に出来ちまってる。――それにしても、やっぱりミレイユに聞いて正解だったな。……なぁ、ルヴァイル?」

「今、そんな挑発と取られそうな発言をするのは、やめておいた方が良いのでは?」

「でも、事実は事実だろ。聞くだけ聞いてみるか、と思った『移住計画』だったけど、やっぱり正解を引き当てたみたいじゃないか。――ほらな? 全く、頼りになるよ」

 

 そう言って、インギェムはルヴァイルの肩を叩いて再び笑った。

 ミレイユは多いに顔を顰めてため息をつく。

 

「まだ確定じゃないぞ。可能性が高い、という話でしかない。実は本当に、既に死んでいるかもしれないんだ」

「だが、そうじゃないかもって、思ってもいる訳だ? 全く堪らないね。これからも、頼りにしてるよ」

「神が人間に頼るな。神ならもっと、頼りがいになる事をしろ」

 

 突き放す様に言い放つと、インギェムは虚を突かれたような顔をして、キョトンと目を見張る。

 

「何でお前、人間側みたいな台詞吐いてんだ? どっちかっていうと、神側だろ? 神人ってのは、そういうもんの筈だしな。その上、実際に神たちを弑して回ってもいる。これってもう、殆ど神以上みたいなもんじゃないか」

「うるさい。そんな詭弁、聞きたくない。だいたい――」

 

 更に言い募ろうとした時、頭上からドーワの声が聞こえて動きを止める。

 

「ほら、小難しい話は終わったかい。もう『遺物』に到着するよ。そろそろ、降りる準備をしておくんだね」

 



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『遺物』と願い その3

 ドーワから降り立ったミレイユ達は、遺跡の最奥を目指す。

 近道が出来る場所へ行ければ良かったのだが、上空からではどこも同じに見え、正門前に降りるしかなかった。

 

 面倒とはいえ、二百年前、既に一度通った道だ。

 魔物が棲息していない事は、やはり間違いないので、矢の様に走り抜け最奥の扉に辿り着く。

 

 そうして感慨すらなく扉を潜ると、それぞれが『遺物』の前に立ち並んだ。

 ミレイユは一応、その動作状況を確認しようと歩み寄った。

 

 既に多くの神魂を蓄えている『遺物』は、これまでと違って大きく輝いている様に見える。

 機械的フォルムの端々に、循環しているエネルギーが見える事こそが、その理由だろう。

 それ程までに莫大なエネルギーが、『遺物』に集束されているのだ。

 

 その循環する動きに合わせて明滅するので、まるで『遺物』が鼓動を刻んでいるようにも見える。

 ミレイユはその光景に圧倒されるものを感じつつ、一歩ずつ近付いていく。

 後ろには先ずアヴェリンが付き従い、その隣にアキラが、そして次にルチアとユミルが居て、最後尾にルヴァイル達が付いている。

 

 『遺物』の前に辿り着くと、一度大きく蒸気を噴き出した。

 それが晴れると、目の前の機構がパズルのように上下へスライドし、トレイのような受け皿が迫り出る。

 

 ミレイユは取り出した神器二つをそこに置くと、その置いた順に受け皿は元あった位置へと戻り、順次蒸気を噴き出しながら機構の中へと神器を仕舞い込んでいく。

 

 全ての神器をその中に取り込んだ『遺物』は、殊更大きな蒸気を噴き出した。

 次いで甲高い音立て、歯車が回る音を聞きいていると、その機構が左右に割れた。

 中から仄に光る、青い光球が出てきて、それが支えもなく空中に浮かんでいる。

 

 その球体はゆっくりと横回転しながら、こちらを伺うように明滅していた。

 取り込んだ力を今にも開放してしまいそうな、莫大な力を内包している事は肌で感じられる。

 その明滅する光に肌を照らされつつ、ミレイユは背後へ振り返った。

 

「……さて、いよいよだ」

「そうね、いよいよだわ。予定とは大分違ったけど、とにかく、これで世界を破滅から救う。……可能と思って良いのよね?」

 

 ユミルも背後にいるルヴァイル達へと振り向くと、難しい顔をさせつつ頷く二柱が見えた。

 

「そうだと思います。エネルギーは限界まで溜め込まれているように感じますし、これで駄目な願いなど、あり得ないと思える程です」

「……なるほど。その最大限のエネルギーを運用できるというなら、期待は持てそうだ」

「咄嗟に横取りしようとすんじゃないわよ」

 

 ユミルが二柱に釘を刺すように鋭い視線を向けると、インギェムは肩を竦めて鼻を鳴らした。

 

「神々は好き勝手に『遺物』を使えないんだよ。だから頼んでいたんじゃないか、忘れたのか」

「そういえば、そうだったわね。ごめんなさいね、最後の最後、実はこの時の為に、とか裏切り出すんじゃないかと思ったものだから」

「思うのは勝手だが、下手な疑惑を向けるぐらいなら、さっさと叶えちまってくれよ」

 

 インギェムから皮肉げな視線を向けられて、ミレイユは頷く。

 そうして『遺物』へ向き直ろうとしたところで、動きを止めて全員を見渡した。

 

「ところで相談だが、どういう願いを口にすれば良いと思う?」

「は……? そんなの今更聞くコト? とっくに考えついてたんじゃないの?」

「考えてはいたが、それが最善か自信を持てなかった。もしもそれで、八神の復活までされたら? 状況は混乱の坩堝になるぞ」

「願う内容次第では、という懸念は良く分かりますけど……」

 

 ルチアが眉間あたりを撫で付けながら、困った顔をして言う。

 

「八神の復活だけは無いんじゃないですかね? 肉体だけなら可能性はありますけど、魂をエネルギーとしているのに、それを消費した上で復活なんて、それじゃ永久機関が完成しちゃうじゃないですか」

「それもそうだな……。元に戻せ、という類いの願いだと、対象を選ばず全てを元に戻すだろうから、八神も戻るのではないかと思ってしまった……」

「確かに、そういう願いだと有り得そうです。でも、やっぱり根本的復活は無いと思った方が良いです。そこは間違いないと思います」

 

 それについては、確かラウアイクスも似た様な事を言っていた。

 ルチアの推論からも、それの裏付けを取れたと考えれば、信用しても良いらしい。

 

 ルヴァイルとインギェムへ顔を向けると、二人は首を傾げていたものの、ルチアの意見に同意した。

 詳しく理屈や法則を理解していないまでも、理があるとは思ったようだ。

 

「大丈夫なんだな?」

「『遺物』について、詳しい知識を持ってませんので、多分そうだろう、としか言えません。ですが非常に理屈に合うものです。間違いないでしょう」

「……お前達は、あれだな……。神として長く生きて来たんだろうが、色々とものを知らないな……」

「ご期待に添えず申し訳ないね」

 

 インギェムは鼻に皺を寄せ、威嚇するように顔を突き出し睨んで来た。

 今更そんな顔をされても子供騙しにも感じないが、悪びれもしない神の開き直りは厄介だ。

 

 これまでラウアイクスが中心となり、グヴォーリがその補佐をする形で取り纏めていたというから、元より多くに興味を持っていなかったルヴァイル達は蚊帳の外だったのかもしれない。

 

 世界の裏側から支配する存在だろうに、大神の真実を知らなかった事が、それを裏付けているようでもある。

 

 ミレイユは息を一つ吐いて気を取り直し、二柱から視線を外す。

 今こうしている間にも、大地は端から崩れ始め、そして瘴気が空から襲い掛かって来ているかもしれないのだ。

 無駄にして良い時間はない。

 

「……さて、私はこの世界を元の形に戻してくれ、と願うつもりでいた。だが、少し抽象的過ぎるように思う。……それについては?」

「ある程度、補完して融通利かせてくれそうにも思うけど……。どうかしらね?」

「では、正しい姿に戻してくれ、と願うのはどうです?」

「悪くないと思う。……それなら、世界をあるべき姿に、と願おうか。瘴気はあるべきものではないだろうし、本来の世界は天体で、それが削られ無理して維持した結果が、今の形だろうから」

「……良いと思います。というか、何が正しいのかを考えていくと、これはキリが無いですよ。あれこれと細かく指定して行けば懸念は減らせるでしょうけど、それだってどこまで指定するのか、という問題になりますし……」

 

 ルチアが嗜めるように言うと、ユミルも頷き言葉を添える。

 

「これが対価を払って叶える契約、というコトなら、簡潔な方が好ましい筈よ。アタシの命令しかり、インギェムの契約しかりね。より短く簡潔な方が、より強い力を生む」

「一つ意見を許されるなら、言いたい事があります」

 

 ルヴァイルが声を上げて、不審に思いながらも続きを促す。

 

「今までは、大神が不在である故の無理な維持でした。そこを解決してくれなければ、結局同じ事の繰り返しです。長い時を経て、やはり世界は破綻していく……。神の居ない世界では、その兆候が見えた瞬間からは更に速いでしょう。単なる一時しのぎにして欲しくないのです」

「分かる話だがな……。しかし、それ自体はどうしようも……。永遠の存続など有り得ないのは、別にこの世界に限った話でもないだろう」

 

 極端な話、地球だってそうだ。

 数十億年後には、人類が住めない星になっている。

 

 デイアートはそれより遥かに速く星が滅ぶのかもしれないが、その行く末にまで責任を持てない。

 ミレイユは背後の明滅する機構へ、目を向けながら呟く様に言った。

 

「あるべき姿と願った時、『遺物』はどう判断するものか……。私はこの世界が大神によって作り変えられた、と仮説を立てたが、ならばそれより前の世界に戻るのか? それとも、魔力もマナも、あるべきものとして存続する事になるのか?」

「そればっかりは……、願ってみるまで分からないわね」

 

 ユミルが苦い顔をして腕を組んだ。

 

「確かに、アンタが言っていたみたいに、マナを後付けで作り変えたというなら、それは異質とも言えるわ。……でも、魔力とマナで成り立つ世界でもあるワケよ。それを取り上げられて、正常に世界が運用されると思う? 食物連鎖だって根本から変わるわよ。ドーワみたいな巨体な魔物なんて、魔力が消えた途端、その自重で死ぬんじゃない?」

「空を飛ぶなんて有り得ない骨格と体重をしてるしな。ドラゴンに限った話じゃなく、多くの生態系に変化がある。その余波は、汎ゆる所に波及するだろうな」

「それがあるべき姿というなら、受け入れるべき? 世界の破滅は免れても、今ある生態系と人類は死滅するかも」

 

 ユミルの指摘に、苦い沈黙が場を支配する。

 ルヴァイルにしても、絶望する様な暗い顔をしていた。

 足元を一点に見つめる目には力が籠もっておらず、顔は青く染まっている。

 

 彼女も決して、人類を至上の優先されるべき生命と見ている訳でないだろうが、信仰エネルギーという一点において、価値ある存在として見ていた筈だ。

 世界の維持には必要不可欠だから、それを生み出す人類は贔屓目にしている部分はあったろう。

 

 世界の破滅を救う事は、それらを救う事にも繋がると思っていたに違いない。

 そして元々を考えれば、大神が全て上手く取り計らってくれると信じていた。

 彼らの復活が世界の復活、引いては万全な条理を生み出すと信じていた。

 

 だが、事実は違い、今は『遺物』に頼るしか無くなっている。

 大神の生死は未だ不明で、『地均し』の中に潜み既に世界を渡った、という推論も仮説に過ぎない。

 願う内容次第では、瘴気が晴れた先で大神が復活する可能性も残っている。

 

 それならば、今度こそ世界は破滅から逃れられるのだろうか。

 大神について知ったつもりになっているが、実際は憶測ばかりが行き交っていた状況だった。

 

 本当は信頼に値する神であるかもしれないのだ。

 ドーワが思慕を抱いていたように、実際の大神を見れば考えが変わる可能性もある。

 

 詭弁だな、とミレイユは首を横に振る。

 可能性がある、のではない。

 

 そうである可能性に縋りたいのだ。

 それが事実なら、思い悩む必要もなくなる。

 全ては善良な神が、看過無く万事を、万全に執り行ってくれるだろう。

 

 だが、実際はそうならない、とミレイユは既に結論を下してしまっている。

 恐らくは、同じ事を繰り返して欲しくない、というルヴァイルの願いは叶えられないだろう。

 その様に考えていると、ユミルが腕組みを解いてミレイユを見てきた。

 

「何するつもりか、何を考えているか分からない神に、縋るのはやめましょうよ。私が縋り、頼みにするものがあるとしたら、それはアンタよ。……アンタだけが、他の誰より縋れる相手だわ」

「……縋られても困るぞ」

「困りはするけど、捨てたりしないのがアンタじゃないの。口では何と言おうとね、アンタはやり遂げて来たわ。だからアタシは、心から尊敬してるの」

「率直な言葉は嬉しく思うがな……」

 

 それとこれとは、と言おうとして、それより前に止められる。

 

「まぁ、聞きなさい。マナや魔力は正しく運用しなければ、世界を蝕み破滅させるのかもしれない。目に見えないところで、虫食いの様に蝕んでいくものなのかも」

「だったら尚更、そんな原理も良く理解していない事を、私が上手く出来るとは思わない」

 

 だから、とユミルは笑って指を一本立てて来た。

 

「まず、話を聞きなさいってば。……いいコト? でもね、アタシ達は一度、それを正しく運用されてる世界を見ているのよ」

()()……? お前が、ではなく?」

「そう。遥か昔、アタシが小娘だった時代の事を言いたいんじゃないの。もっと最近の話よ」

 

 ミレイユが怪訝に眉を潜めていると、その後ろから、あっというルチアの声が上がった。

 



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『遺物』と願い その4

「ミレイさんの故郷……! もっといえば、オミカゲ様がやっていた事ですね!」

「――そう。霊脈を抑え、マナを生み出し、魔力を循環させて、上手く運用していたわ。これってさぁ……、つまり世界を作り変えていた、ってコトじゃない?」

「大神と似た事をやっていた……。そして、ミレイさんは大神と変わらぬ能力を持つべく、作られた素体でしたね」

「えぇ。そして、昇神した先で……実際大神として、相応しいだけの実績を作り上げていたわね」

 

 ユミルがしたり顔で言うと、それと入れ替わるように、アヴェリンが熱に浮かされた様な顔で語気を荒らげた。

 

「そう、日本は実に素晴らしい世界だと……! 畏れからではなく、思慕から信仰し、それを喜びとする信徒を、羨ましいと思ったものだ……!」

「日本人は、その誰もがオミカゲ様を神として相応しく、頭上に戴くに相応しい存在として認め、そして崇めていたわ。――そうよね、アキラ?」

 

 突如水を向けられたものの、話の内容がオミカゲ様となれば、俄然アキラも熱がこもる。

 

「えぇ、勿論です! オミカゲ様は単にいて下さるだけでも素晴らしい神様ですが、怪我や病気を癒やして下さいますし、見守って下さると分かるから、心を寄せて自らもお助けしたいと思えるんです。比喩ではなく、オミカゲ様の為なら死ねます!」

「――ね? コイツが、割と熱狂的な信徒の姿とは認めるわ。普遍的な信者よりは強い信仰心ではあるかもね。でも、狂信者ってほどの強い信仰でもないからね」

 

 ルヴァイルとインギェムへ顔を向けると、二柱からは奇異なものを見つめるような視線が飛んだ。

 熱に浮かされる様にミレイユへ向ける視線に、空恐ろしいものを感じているようだ。

 

「こんなのが何人もいるのか、普通に?」

「しかも、何千とかじゃないわよ、何十万とか普通にいるんじゃない?」

「な、ん、じゅう……!?」

 

 ルヴァイルとインギェムが向ける目は、既に奇異というより、畏怖の視線に変わっていた。

 

「だから、あちらは石や木からマナは生まれない癖に、霊地では非常に安定した供給がされていた。そうよね、ルチア?」

「ですね。孔と魔物の対策に多くを割いていたからこそ、それに特化した作りになってましたけど……。そのつもりがあるなら、この世界と変わらぬ形に出来るんじゃないでしょうか」

「……ね? 出来るかどうか分からない、っていう話は通じないのよ。アンタは出来る。――間違いなく、それが可能な下地がある」

 

 ユミルがしたり顔のままそう結ぶと、ルチアも力強く頷き、アヴェリンはそれより一層力強く頷いた。

 ミレイユが苦虫を噛み潰す様な顔をして、その小憎たらしいニヤケ面から目を逸らす。

 

 出来ると言われても、やはり困るとしか言えない。

 むしろ、出来るから何だ、と言いたい気分だった。

 

「誰かを助けるだけの力があって、それを使わないでいるのは不実、と言いたい気持ちは分かる。持てる者は、より多くの義務を負う……それもまた事実だろう。だがな、表面的な部分しか見てないぞ。オミカゲは千年しか生きていない。その先に歪の皺寄せがあったとしても、分かり様がない」

「それはそうでしょうねぇ……。でも、それはつまり、千年の維持と安寧を約束するものでもあるじゃない? 何もね、未来永劫、変わらぬ繁栄を享受させろ、と言いたいんじゃないの。……正直、アンタならそれに近いコト出来るんじゃないか、って思ったりするけど、それはまぁ置いときましょ」

 

 ユミルは一度言葉を切って、自身の興奮も抑える様に息を吐く。

 ミレイユは変わらず視線を合わせぬようにしているが、逃げ場もない現状、聞くことからは逃げられない。

 

「別に千と一年で破綻が来たからって、それを責めるコトなんか出来ないわ。努力を怠ったり、そこに住む民を裏切って起きたコトじゃないと信じられるから。それで結局、実は裏で蝕みが進行していたんだとしても、それが世界の寿命ってモンでしょ」

「ですね……。永遠は無い。それが真理であるなら、世界だっていずれ滅ぶ事は避けられないんです。余りに早すぎるとガッカリするのが人情でしょうけど、理には反せませんからね」

 

 ユミルに続きルチアが沿える様な言葉を発し、困り顔で笑った。

 それでも、ミレイユの顔色は芳しくない。

 未だ推測の域を出ない現状、という理由もある。

 出来るのならばやるべきだ、と言いたい気持ちも理解できる。

 

 だが、その必要もないのに、言質を取られるような真似はしたくなかった。

 顔を反らしたまま、返答らしい返答をしないミレイユに業を煮やしたのか、インギェムが歯に衣着せぬ物言いでユミルに問う。

 

「お前、ミレイユを眷属にしてるんだろ? 命令すれば、素直に言うこと聞くんじゃないのか?」

「やらないわよ。アタシはあの子と友人でいたいの。対等でいたいのよ。命の危機が迫っているならまだしも、利己的な願いで命じたくないわ。一度でもそれをすれば、二度と友とは呼べなくなる」

「分からん理屈じゃないが……」

「だったら黙ってなさい。アタシ達には、アタシ達に相応しい関係というのがある。場合によっては、世界よりも大事なものよ。だから、本当に嫌だというなら尊重するわ」

「世界と天秤に掛けて選ぶ友情か……。ま、確かに分かる」

 

 そう言って、インギェムはルヴァイルを見て小さく笑った。

 インギェムもまた、彼女の意志に賛同し、その命を共に賭けようとしている。

 事が成せれば、その命で償う、というルヴァイルに付き合うつもりだ。

 

 インギェムにもそれほど大事な友がいるから、ユミルに強く言う事が出来ないのだろう。

 美しい友情と言えるかもしれないが、今のミレイユには、その美談に付き合ってやる余裕がなかった。

 

 そこへユミルが、更に言葉を重ねようと口を開く。

 それはまるで、子供を諭すような口調だった。

 

「別にさ、アンタがどうしても嫌だって言うなら、それを強制したりしない。それに一人で全てやれ、と言うつもりはないもの」

「そうです、このアヴェリンがおります! 身命を賭し、必ずや御身をお支えすると誓います!」

「それを疑っている訳じゃないが……。お前たちがいると心強いしな。ただ……」

「心許ないって言うなら、そこに在任期間だけはご立派な神もいるわよ。好きに使えば?」

 

 ユミルがそちらには顔を向けないまま指だけ向けると、向けられた当神たちは困惑した顔を晒した。

 

「妾たち、ですか……? やれと言うなら否やはありませんが……許せない、と言われたばかりだったのでは……?」

「そうね。そして、それで命を奪ってやれば、さぞ溜飲が下がるでしょうよ。――でもさ、後はよろしく自分は死にます、っていうのも、すんごい癪に障ると思わない?」

「そうですねぇ……。それなら、これから多くの苦労や責務を負うミレイさんの、手となり足となって働けって思えちゃいますね。神の苦労を支えられるのも、同じ神だという気がしますし……」

 

 ルチアはユミルに顔を向けたまま、皮肉げに笑う。

 将来の展望を勝手に押し広げているのは結構だが、ミレイユ一人を置いて未来の話に花を咲かせるのも如何なものか。

 最も大事な部分を隅に追いやり、話し合う事ではないだろう。

 

「既に決定事項、みたいな話をするな。やらなくて良い、と言った傍からそれか」

「いやいや、やらなくて良いっていうのは本音よ。アンタが頷くまで、同じ話題を繰り返すつもりも無いしね。ただ、思うのよ。――いい? これは真面目な話よ」

 

 ユミルの口調と表情が引き締まり、雰囲気が変わった事でミレイユも顔を戻す。

 真剣な双眸は、ミレイユに対する真摯な憂慮が浮かんでいた。

 

「アンタの体調、今どうなってる? 八神との戦いで、どれだけ寿命が削られた? 具体的な数字が分からないのは当然でしょうけど……、どちらにしても、死期が速まったのは事実でしょうよ。このままじゃ、……本当に死ぬわよ」

「それで昇神か……」

「手っ取り早く開放される方法だわ。そして、その手段も目の前にある。今やアンタを利用しようって奴もいないし、ループの脱却だって八割以上成功した様なもんよ。我が身可愛さで昇神しようと、それの何が悪いのよ?」

「悪いとは思ってない」

 

 それこそ、全ての命は自己の終焉に抵抗する、というものだろう。

 ミレイユとて、自分の命は惜しい。

 天寿を全うする位は生きたいと思っていたし、平凡だが幸せな家庭、というものに憧れてもいた。

 

 ――今となっては、想定していたものと大分、違う形でしか実現できないだろうが……。

 どちらにしても、平凡な幸せを求める気持ちは最初から一貫して変わらない。

 しかし、例え手段があろうと昇神する訳にはいかなかった。

 

「いま溜め込んでいるエネルギーは、まず世界を救うのに使う」

「分かってるわ。もしも余れば使えばいいし、余らないなら、補充してから使えばいいの」

「だが、それで昇神しては、私は現世を救いに世界を超えられなくなる。ここで脱落する訳にはいかない。それとも、全てをお前達に任せ、ただ待っていろとでも言うつもりか?」

「そう言うつもりだけど。だから一言、頼むと告げれば良いのよ。それで問題なくアタシ達は動くわ。――でしょ、アヴェリン?」

 

 唐突に振られた話でも、アヴェリンは淀みなく頷く。

 その顔には決然とした表情が浮かんでいた。

 

「勿論だ。――ミレイ様、そうせよ、とお命じ下さい。必ずや、吉報を持って帰参いたします!」

「アキラだって生まれ故郷のコトだし、命じなくても行くでしょうよ。ルチアだって、アタシと同じ。頼まれたら散歩気分で出立するわよね?」

「いやいや、戦場に向けて散歩気分で行ける程、エルフやめてないですから。……でも勿論、ミレイさんの頼みというなら、喜んで引き受けますよ」

 

 ルチアは胸を叩き、安心させるように笑顔を返したが、ミレイユの心は平穏でいられない。

 友を死地に追いやって、自分だけ安全地帯で待つのに耐えられない、という気持ちもある。

 

 だが何より、間違いなく八神と戦った時と同等以上の苦戦をすると分かって、送り出す事は出来なかった。

 戦うというのなら、そこにミレイユがいるかどうかは、勝率に大きな変動がある筈だ。

 

 自分だけが安全な場所で待つだけ、というのは性に合わないだけでなく、その窮地があると分かって助けられない事が我慢できない。

 我が身は誰だって可愛いものだが、その為に友を犠牲にするのは、どうしても受け入れられなかった。

 

「駄目だ。行かせるというなら、私も行く。これは(オミカゲ)の事でもあるんだ。尚更、他人任せには出来ない。大体、なぜ今になって引き止める様な事を言うんだ。これまで共に戦って来ただろう。これからだってそうだ。相手は確かに強敵だろうが、そんなものは今までだって――」

「アンタを死なせたくないからよ!」

 

 ミレイユの説得めいた言葉を遮り、ユミルが放った言葉には、強い決意が伴っていた。

 敢えてミレイユが目を逸らしていた部分……。それを、その言葉は的確に貫いていた。

 



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『遺物』と願い その5

 ミレイユにも全く自覚なし、だった訳ではない。

 つい先程も、寿命について指摘されたばかりだ。

 元より一年未満の寿命しか残されていない、と告げられ、戦闘で魔力を消費する度、寿命を削っていると実感していた。

 

 未だ現実感を持って寿命を理解している訳ではないが、『死』の足音が聞こえて来るようでもある。

 今まで、死ぬ目には何度も遭ってきた。

 しかし、その時でさえ、自分の死を予感こそすれ、その『死』を背後に感じる程ではなかった。

 

 だが今は、それを指摘されてしまえば感じずにはいられない。

 現世を助けに行く事、そして戦闘の渦中に身を投げ出す事は、燃えたぎる炎の中に身を投じる事と変わらない。

 生きて帰れぬ保障はない、というレベルではなく、自殺しようと身を投げ入れるに等しい行為だ。

 

 ミレイユの体調が万全で、寿命という楔がないのであれば、その様な心配は要らなかった。

 またいつものように、苦戦を免れない強敵を相手に奮戦すれば良いだけだ。

 だが、この戦いでは、そうはならない。

 

 八神との戦闘前に立っていた蝋燭は、今や残り寿命を自覚してからの三割まで擦り減ってしまった。

 感覚的なものだから絶対ではないが、五割より低い。

 それは間違いのない感触だった。

 

 ミレイユは己の胸に手を置いて、その心拍を掌で感じ取る。

 早鐘のように打ち鳴らす鼓動は、単に緊張や興奮から来るものではなかった。

 ――風前の灯火。

 

 その風に掻き消されないよう、ミレイユの火は必死に燃やしているだけだ。

 戦闘前には安静にしていれば一年保つだけだったものが、今や安静にしていても三ヶ月と保たない程に摩耗してしまっている。

 

 このうえ戦闘を続ければ、どれほど寿命が削られるか分からない。

 温存して戦える相手でもなく、そして下手な温存は、返って戦闘を長引かせる事になるだろう。

 

 短期に集中して魔力を運用しなければならず、急激な消耗を強いられてしまう。

 だが、それをせねば勝利を手繰り寄せる事も出来ない。

 

 そしてそれは、いつもの四人が揃ってこそ、実現できる事でもあった。

 現世でアヴェリン達を戦わせるというのなら、そこにミレイユもいなくてはならない。

 それがミレイユの下した結論だった。

 

「――気遣いは有り難いが、行くと言うなら私もだ。結果的に、そっちの方が全員の生還が叶う。誰も死なせたくないのは、私も一緒だからな。私だけが残り、お前たちだけに行けと命じる事は、絶対にない」

「……ま、そんな反応だろうとは思ってたわ」

 

 ユミルは呆れた顔をして息を吐いたものの、落胆するような素振りは見せなかった。

 

「……案外、素直に受け入れるんだな」

「昇神を受け入れる言葉は聞き出せたしね。アタシとしては、それだけでも満足だし。あっちが全て片付いたら、こっちに帰って大神やってくれるんでしょ?」

「……なに? 馬鹿を言うな。大神をやるとは言ってない」

「あぁ、まぁ……言葉の綾よ。でもさ、帰って来ないと……」

 

 言い差して、ユミルは背後のルヴァイル達へと流し目を送った。

 

「この二柱が一切の償いもないまま、のうのうと生き続けるコトになるワケよ。それどころか、新たに世界を支配する二柱神として君臨するかも……。それって、かなり癪じゃない?」

「い、いえ! 妾達にその様な意志は微塵も……!」

「……当たり前だろ。今更どのツラ下げて、神の続きをしろってんだ?」

 

 ルヴァイルとインギェムは焦り顔で首を振ったが、この際、この二柱がどう思っているかは重要ではない。

 それが可能である事と、ミレイユ達が定住先を現世と定めれば、似たような形になるのは避けられない、という事だ。

 

 大神を名乗っていた神は、最早この二柱しか生き残っていない。

 今はまだ弑し奉られたと地上の民は知らないだろうが、それでもいつかは嫌でも気付く事になるだろう。

 その時、全くの無反応を貫けるかどうか、という問題もある。

 

「数千万の信者を得られる神っていうのも、己らにとっては雲の上の話だしな。誰がそれに相応しいか、なんて議論の余地もないだろ」

「いや、あれは憶測で、正しい数字でも無くてだな……」

「だが、全くの当てずっぽうって訳でもないんだろ? さっきは否定しなかったもんな? 近い数字が見込めるってだけで、格の差ってのを思い知らされた気分だよ。一番信者の数が多かったラウアイクスだって、その一割も居なかった筈だしな」

 

 それは神の数の違いから分散されている事と、そもそもの人口の差が関係しているだろうし、更に言うならそれはオミカゲ様の功績であって、ミレイユのものではない。

 大体、あれはより熱心な信者を現した数字であって、もっと程度の低い信者なら更に数は増すだろう。

 

 思考が横滑りしているのを実感して、ミレイユは慌てて直前の問題に目を向ける。

 だがそもそもとして、神の今後に対し、ここで議論するのは時間の無駄でしかなかった。

 

 ――何しろ、既に十分時間を浪費してしまっている。

 何も、これまでの会話が無駄だったと言いたい訳ではない。

 むしろ、何も相談せずに、事前に考えていた願いを口にしていたら、この世からマナも魔力も取り上げられる所だった。

 

 そこから生まれる混乱と生態系の乱れは、生物の死滅すら招きかねない危険な願いだ。

 このまま生きて帰らなければ、ルヴァイルとインギェムの総取りとなってしまうような形なので、それを許すのはどうなのか、という是非の問題もある。

 

 ミレイユとしてはルヴァイル達を信頼し始めているが、神として問題なく任せられるか、という部分については疑問だった。

 

 ともあれ、昇神はまだしも、この世界に根差すかどうかは、もっとじっくり考えたい問題だった。

 ミレイユは改めて全員を見渡し、最後にルチアとユミルに目を向ける。

 

「とにかく、今まさに世界崩壊の危機だ。これを解消するのが先だろう。――そして、『遺物』に言う願いは、『世界をあるべき姿へ』だけでは更なる破滅を招きかねない、という認識で良いんだな?」

「そうね、……そうだと思うわ。だから、そこは変更して貰わなきゃいけないでしょ。最早、マナも魔力もない世界の方が健全じゃないと思うんだけど、あるべき姿という単語は危険だわ」

「では、健全な世界、と願えば良いんでしょうか? ……とはいえそれも、何を持って健全とするものやら……。明確にならない文言は怖いですね……」

 

 ユミルの言葉を聞いて、ルチアも困り顔になって顎先を摘む。

 判断基準を『遺物』頼りにするしかない上に、それが人類本位ではない、というところに危険があった。

 願う者の希望を、ある程度汲み取ってくれる事は、ミレイユが使った時からも理解できる。

 

 ただし、必ず願う者の望む形にならない事もまた、理解できている事だった。

 ある種の法則、大極を見据えて判断を下すと思われ、そしてそれは自分の周囲しか見て判断できない人間には持てない視点だ。

 

 あまり真剣に考えても馬鹿を見るかもしれないが、考えずにものを言って、破滅を招く結果となるのは避けねばならない。

 だから、何と願えば良いのか躊躇わせる。

 

「何を持って判断するか。それが全てにとって都合の良い形にできないのは確かだし、ある種の公平性を持って行われるのも確かだろう。そう考えた時、瘴気の消失、崩れ去る世界の危機から救うには、どうすればいい?」

「今まさに危機の最中なんだから、その危機から救え、じゃ駄目なのか?」

 

 何気ない口調でインギェムが問うと、それをユミルがゴミを見るような目で返す。

 

「それなら、目の前の危機だけしか取り除かれないでしょ。瘴気も消えるし、崩壊は止まっても、あくまでそれだけで、世界を維持する方法がないままなんだから、すぐに崩壊がまた始まるわよ」

「あぁ、だから健全とか、元に戻すとか言ってたのか……」

「そのぐらい分かっとけ、って話でしょ。――で、カミサマやってた身としては、何か良い案とかないワケ?」

「散々、無能呼ばわりしておいて、そんな都合良く妙案が出るかよ。言っとくが、己は考えなしで生きて来た身だぜ? 『遺物』に対してロクに関心もなかったのに、都合の良い答えなんて捻り出せるかよ」

 

 ひたすら尊大な開き直りだったが、インギェムらしいと思わず苦笑してしまった。

 ユミルはゴミを見る目から蔑む目に変えて一瞥し、すぐに目を離す。

 隣のルヴァイルに視線を移したものの、その目は余りに冷ややかで、期待していないと言っているも同然だった。

 

「アンタは、なんか良案ある?」

「申し訳ないのですが……。すぐに思い付くものも、『遺物』に対する知識もなく……」

「まぁ、そうだろうとは思ったわ……」

「――もっと単純で良いのではないか?」

 

 その時、横合いから口を挟んだのはアヴェリンだった。

 全員が難しい顔をして悩んでいる中、彼女がただ一人、自然体のままユミルを見据えている。

 

 頭脳労働は別の者、と割り切っているからこその余裕に見えたし、結論も妙案を出すのも自分じゃないと分かっているからこその余裕だった。

 

「魔力もマナも無くては困るというなら、魔力もマナも残して元に戻せ、と願えば良いではないか」

「いやアンタね、前提となる話を聞いてた? より単純で短い願いは、より強い結果を生み出すのよ。それじゃ冗長だもの」

「そうか? 十分、単純に聞こえるがな」

「そりゃ、アンタにはそう聞こえるでしょうけど……」

「いや、待て」

 

 言い合いが始まろうとしている二人を、ミレイユが手を挙げて止める。

 より簡潔に、より単純に、より短い文言で……それを考えていたから、言うべき言葉が見つからなかった。

 しかし、その単純さを紐解けば、少し希望が見えてくる。

 

「アヴェリンの言うとおりだ。単純というなら、確かにそれでも単純だろう。一言で済む内容でなければ駄目、という法則があるでもない。全てを求めるのは無理としても、求める結果を考えると、悪い文章でもないと思う。……お前はどう思う、ルチア?」

「そうですね……」

 

 ルチアは顎先を摘んだまま、首をコテンと傾けた。

 

「良いんじゃないでしょうか。その結果を求めるのに、それ以上に単純化するのは無理ですよ。下手に短縮すると、それこそ意味を履き違えて解釈されちゃいそうですし……単純というなら、確かにこれは単純かつ明快です」

「――決まりだな。アヴェリン、良くやった」

「勿体ないお言葉です」

 

 アヴェリンは慇懃に礼をした後、勝ち誇った笑みをユミルに向ける。

 そのユミルは鼻の頭に皺を寄せる程に顔を顰めていたが、何を言っても言い訳にならないと悟っているらしい。

 表情でのみ意趣返しとして、それ以上は何もしなかった。

 

「では、願いを言う」

 

 ミレイユは全員に背を向け、それから『遺物』の機構部分に向き直る。

 緩やかに回転する青く光る球体に向かって、朗々と声を張り上げた。

 

「魔力とマナを残し、世界をあるべき姿へ戻してくれ!」

 



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『遺物』と願い その6

 ミレイユの願いに呼応し、『遺物』から眩い光が巻き起こった。

 咄嗟に腕で目を庇い、エネルギーの奔流が収まるのを待つ。

 

 内側に蓄えていたエネルギーが、光の奔流となって部屋を包み、そしてその脇を通って過ぎ去っていく。

 その光はまるで体積を持っているかのような圧力を掛かて来るものの、殴り付けられるような重たいものではなく、むしろ包み込むような優しさがあった。

 

 その奔流は実に三十秒近く続いていたが、『遺物』に溜め込んでいたエネルギーを消費し尽くすと、次第に光も収まっていく。

 そして、それも完全に途絶えると、忙しなく歯車を動かしていた『遺物』も、最後に部屋を充満させる程の蒸気を吐き出し停止した。

 

 『遺物』の中にあったエネルギーは全て使ってしまったらしく、機構の溝を走っていた光は一筋すら見受けられない。

 何の光も発しない『遺物』は、まるで火の消えたカンテラの様な物寂しさを感じられた。

 

「……叶った、と見て良いんだろうな」

「蓄えたエネルギーで賄えたのか、それとも叶えられる範囲で行ったに過ぎないのか……。それは確認するまで分からないけどね」

「でもとりあえず、私は魔力を失ったようには感じませんし、皆もそうでしょう? 上手くいったんじゃないかと思うんですけどね」

「……そうだな。だが、確認してみない事には始まらない。すぐに戻るぞ」

 

 ルチアが自身の身体を見下ろし、以前と寸分違わぬ魔力制御をしてみせる事で、その確信を強めた。

 しかし、個人の保有魔力などは良しとして、もっとも大事な瘴気の消失や、『世界のあるべき姿』に関して、ここでは確認のしようのない事だ。

 

 ミレイユは全員を引き連れ、急いで入り口まで戻ると、開けた場所で待っていたドーワへと近付いて行く。

 そのドーワも、ミレイユが姿を見せた瞬間から、不安げな視線を向けていた。

 

「どうやら、『遺物』の稼働は出来たようだねぇ。……しかし、どうもおかしい」

「……どういう意味だ?」

「さぁて……、初めての感覚で良く分からないね。ただ、何かが違うと、肌で感じる。それだけは分かるのさ」

 

 それだけでは、やはり何を言いたいのか分からない。

 ただ、同じ様な違和感は、ミレイユも感じていた。

 

 それはドワーフ遺跡から外に出て、風が肌を撫でた時から感じたものだ。

 同時に既視感の様なものも感じたが、それよりまずは、世界の様子を確認する事の方が重要だった。

 

「世界を元の世界に戻すよう、『遺物』に願った所為だろう。世界の形が変わったと思うし、それで色々勝手が変わった可能性もある。だが、まずは瘴気の有無を確認したい」

「そうだね、まずはそっちが優先だ。――早く乗りな。もしも残ったままだったら、対処の必要もあるだろう」

 

 あれに出来る対処というのも思い浮かばないが、残っているなら座視して放置する訳にはいかない。

 そして何より、蓄えたエネルギーで叶えられた願いの範囲が、どれ程のものか確認したい気持ちが強かった。

 

 全員がドーワの背中に乗り込むと、翼を一度、強く打ち付け浮き上がる。

 重力を感じさせない力で舞い上がると、更に高度を上げつつ遺跡から離れて行った。

 その際にも、肌を撫で髪をなぞる風に違和感を覚え、だがやはり、不思議と既視感も覚える。

 

 その違和と既視を感じたのはルチアも同様だったらしく、困惑した視線を向けて来た。

 何かを言おうと口を開けた時、飛行角度が直角に近い形に持ち上がる。

 咄嗟に背棘へしがみつき、何のつもりだと抗議のつもりで顔を上げた。

 

 しかし、それに合わせるように角度も戻り、何かあったのかと周囲に視線を向けた時、それに気付いた。

 頭上からも、興奮したドーワの声が響く。

 

「――ご覧! 世界が……!」

 

 言われるまでもなく、それが視界に映っていた。

 二段重ねのホールケーキを、半分に削ったような歪な姿――それが、このデイアートという世界だった。

 

 しかし今は、ミレイユも知る球形の世界が広がっている。

 勿論、空高い位置にいるからといって、それが完全な惑星としての形を目視できる訳ではない。

 

 しかし、大瀑布は姿を消しているし、見渡す限りに世界は続いているように見える。

 地平線、そして水平線の境までハッキリと確認でき、そしてその稜線が僅かに曲線を描いている事も確認できた。

 

 本来の姿を取り戻した世界は、どこまでも雄大に続いているように見えたし、広がる海の先には別の大陸と思しき陸地も見える。

 ――あるべき姿を。

 それが今、目の前いっぱいに広がっている。

 

「美しいねぇ……。遮る何物も存在せず、そして空には……」

 

 ドーワが殊更大きく首を巡らせると、そこには以前とは比べ物にならない程、視界いっぱいに埋め尽くされた星々が見えた。

 壁に付いた無数の傷ではない。大小様々な点の光が、彩りと共に空を飾っていた。

 

 稜線の向こうからは太陽が顔を出し始めていて、夜を払暁(ふつぎょう)しようとしている。

 夜の空と星々が西の空に残り、東から空が白んでいく光景は実に美しい。

 インギェムが恍惚とした表情を浮かべ、誰にともなく呟く。

 

「これが夜空……、そして朝陽か。あるべき姿の、空なのか……」

「感動するのも分かるが、瘴気についても確認してくれ」

「え、えぇ……そう、そうでした……」

 

 呆けた様に見つめていたのはインギェムだけでなく、ルヴァイルもまた同様だった。

 二柱はミレイユの一言で我に返り、そして眼下へと視線を移す。

 

 アヴェリン達も夜空を見つめていたが、同じ様にドーワの背中で左右に分かれて、瘴気の痕跡を探していく。

 遺跡へ移動する際には、神域を覆うほどに肥大化した瘴気が広がっていた。

 

 発声から肥大化するまでの時間は僅かで、大瀑布から下界に落ちるまで一時間と掛かっていなかった筈だ。

 そしてミレイユ達は、それらを置き去りにする速度で遺跡まで辿り着いた。

 

 だが、それでも瘴気の広がる時間を考えれば、大陸の端に魔の手を伸ばしていたとしても不思議ではない。

 それが消滅する事なく存続しているなら、発見自体はそう難しいものでもない筈だ。

 だというのに――。

 

「……ありませんね」

 

 しかし、目を皿のようにして探しても、どこにも瘴気の痕跡は発見できない。

 『遺物』により、これ程の変貌が世界に起こったのだ。

 

 その世界に、あるべきものではない、と判断されたのなら、どこを探しても見つからないのは道理だった。

 胸の奥から安堵と喜びが持ち上がり、大きな息として吐き出される。

 

「……どうやら、大丈夫と考えて良さそうだな」

「えぇ、やったんですよ、ミレイさん!」

 

 ルチアも破顔して喜んでくれたが、ミレイユはそこまで喜びに浸れなかった。

 世界が無事なのは喜ばしい。瘴気も消えた事実に、喝采を上げたい気持ちは本当だ。

 だが、まだ喜びに没頭する事は許されなかった。

 

「ありがとう、ルチア。だが、まだ考えなければならない事がある。肝心の部分が……」

「大神がどうなっているか……そして、どう出て来るか、という問題ね」

 

 ユミルが言葉を引き継ぎ、難しそうに眉を顰めて周囲を窺う。

 

「この世界は、あるべき姿を取り戻した。それは喫緊の破滅から免れ、そして恐らく、今後の破滅からも救ってくれるとも思う。だけど、()()()()姿()の中に大神の存在も含まれるなら、厄介なコトになる……」

「実際のところは、『遺物』がどう判断したかだから、私達には分からない。居ない事を証明するのは、至難の業だしな……」

 

 ミレイユまで難しい顔をして腕を組むと、ドーワから気楽な口調が落ちてきた。

 

「分かると思うけどね。……そこの二柱は、特にそうだろうさ」

「……どうなんだ?」

 

 ミレイユが顔を向けると、二柱は曖昧に頷き、そしてインギェムの方から口を開いた。

 

「まぁ、一度あの気配を感じれば、そうそう忘れられないってのはあるな……。あんまり、感じの良いものじゃないしな、あれ」

「酷く独特な気配の御方々ですから……。人にとっては不快に感じる類いかもしれません」

 

 言いたい事の内容は分かり難いが、しかし、何を言いたいかは漠然と理解できた。

 とにかく、この二柱は一度経験している気配だから、もしも察知できたなら、決して間違えないと言いたいのだろう。

 大神に隠す意図がないなら、二柱は容易に発見できる、という事でもあるようだ。

 

「で、どうなんだ。それはどこまで離れていたら、分かるなくなる?」

「どこまで……、か。この膨大な世界を前にすると霞んじまうが、かつては何処に居ても分かったもんだったな」

「つまり、封印されるより前は、という事ですが……」

 

 ふむ、とミレイユは首を傾げる。

 かつて世界を創り変え、この世界をマナの溢れる世界にしたというのなら、その根元と大神は全く無関係ではなかっただろう。

 

 特に持っていた権能からして、世界と密接に関わる筈だ。

 それ故に、彼ら大神の存在は、どこにいても感じられるものだったのかもしれない。

 ミレイユの推論を裏付けるように、ユミルは幾度か頷いてルチアへと顔を向ける。

 

「なるほど、権能ね……。それ故の改変というなら、分かる気がするわ。一瞬でガラリと置き換える事は出来ず、染み込むように変容させていったからこそ、その力が乗っていたんじゃないかと推測するんだけど……アンタ、どう思う?」

「どう考えても、推論の幅を越える答えは出そうにありませんけど……」

 

 そう一言断ってから、ルチアは持論を展開する。

 

「大神の権能で何が出来るかまで、詳しく知らないのがちょっとマズいですが……。ただ、徐々に世界を変えていったという部分が、個人的に引っ掛かりを覚えているんですよ。そして、変貌させたのが大神で間違いないのなら、その余波というか残り香みたいなものを、どこに居ても感じ取れて……い、たら……」

 

 持論を展開しつつ、流暢に話していた言葉が、油が切れたゼンマイの様に、ぎこちなく止まる。

 その顔は青褪め、不都合な真実を突いてしまったかの様で、気付いてしまって後悔しているようにも見えた。

 ルチアは下唇を噛んで、必死に自分を自制しながら、ゆっくりとルヴァイル達へ顔を向ける。

 

「先程、大神の気配は分かる、と言いました……。今はどうですか?」

「……いや、感じない」

「そちらも……?」

「えぇ、感じません……けど」

 

 ルチアが放つ気配に圧倒され、二柱は戸惑いながらも言葉短げに否定した。

 それを聞いたルチアは、きつく瞼を閉じて、同じくきつく唇も閉じる。

 震える身体から絞り出すかのように、細く息を吐き、それからミレイユに向き直った。

 

「感じていた違和と、既知の正体が分かりました。ここ、ミレイさんの世界と同じ空気です。分かりますか? この空気に、マナが含まれていないんです……!」

 



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『遺物』と願い その7

 ルチアから聞かされた衝撃の発言に、ミレイユは苦々しく顔を歪めた。

 唯一、この事態を重く受け止めていないアキラ以外、誰もが深刻な表情で曇らせている。

 特に二柱の神は、暗澹たる、と言って良い表情で顔を青くさせていた。

 

()()()()姿()を取り戻した世界に、大神は含まれていなかった……。だから、つまり……そういう事か」

「はい、そうだと思います。必然として、彼らが行った改変も消えてしまった」

「しかし、待って下さい。魔力とマナは残す、そういう願いでもあったのでは?」

 

 アヴェリンが焦った顔で口を挟み、ミレイユへと懇願するかのような顔を向ける。

 自分の意見が採用された結果がこれ、となれば、責任を感じずにいられないだろう。

 しかし、実際にそれを良しとしたのはミレイユだ。

 

 だから、もしもそこに責任を追求するとしたら、それはミレイユでなければならない。

 そして、この場合、全ての想定を理解した上で、願いを口にするのは不可能だった。

 避けられたものを避けずに当たった、というのなら誹られて仕方ないが、この展開を予想できた者などいなかった。

 

「実際に魔力とマナは残ってる。それはドーワが空を飛んでいる事、魔力制御が出来ている事が証明しているし、願う前から存在した……既に宿していたものに関しては、取り除かれていないんだろう」

「でも、()()()()姿()の中に魔力やマナは必要ない、そう判断したんだわ。願った内容をどちらも正しく採用しようとした結果、その折衷案として、新たに創造し直したものには、それらが含まれていないんじゃないかしら」

 

 最終的な結論を下すには、もっと詳しい調査が必要だろう。

 だが、遺跡から出た時に覚えた違和感と既知感は、マナの有無と考えると、じつにしっくり来るのだ。

 そして、そこに誰も異議を唱えない、という事態が、真実を物語っている気がした。

 

「……参ったな」

「まぁ、そうね……。即座に今の形態が崩壊する事はないでしょう。でも、歪みは生じると思うわ。そこに適応できるか、出来るとしてどれ程の混乱が生まれるか、それはその時になってみるまで分からないけど……」

「私の責任だ……」

「いいや、違うぞ、アヴェリン。それを採用した、私が担う責だ」

「誰の責任でもないでしょ。放っておけば、世界は滅んだ。それは確かだわ。その滅びを回避する、最善を選んだ結果だもの。……全か一か、そういう極端な結果しか認めない、って話でもないでしょ」

 

 暗い顔をさせたミレイユに、ユミルが肩を叩いて励まし、そこにルチアも隣に立って擁護する。

 

「そうですよ。完全で完璧で、ケチの付けようもない結果なんて、物語の中でしか生まれません。それを考えたら、取り得る手段の中で、よほど上等な結果を手に入れたと思いますけどね。他の誰であろうとも、これより更に良い状況を作り出せたとは思えませんもの」

「ルチアの言うとおりよ。神々は『遺物』を使えなかった、そして他の誰であろうと、アンタと同じ規模で『遺物』に願いを通す事は出来なかった。もっと他に良い文言は無かったのか、それを考えずにいられないけど……。でも、アンタが悔やむ事じゃないのよね」

 

 ユミルがキッパリと断言し、力強く頷く。

 それにつられて顔を上げると、他の誰からも同じ様にミレイユを肯定する視線を向けていた。

 

 ――実際に。

 選び取れる手段の中で、最善を選べたと胸を張って言える。それは事実だ。

 

 掌で掬い取った水を、一滴も零さずにいる事は出来ない。

 ミレイユはその多くを掬い、一時を維持する事が出来たが、これから指の隙間から漏れ出す物を止める事は出来ない。

 

 元より穴だらけの器に、薄い紙を使って何とか塞ぎ、無理に維持していたようなもので、しかも罅だらけで自壊する寸前だった。

 そこに留めて置くより遥かにマシなのは確かだが、同時に指の隙間から零れ出るものを、許容する結果にもなってしまった。

 

 今はまだ変化の直後、デイアート大陸にいた人々にも実感は薄いだろう。

 だが、その綻びはいずれ兆しを見せる筈だ。

 それがいつ訪れるのか、それはミレイユにも分からない事だった。

 しかし、いつか必ず訪れるものでもある。

 

 それが分かってしまうから、ミレイユは大きく溜め息を零すのを止められなかった。

 堪らず見兼ねたのか、インギェムからも声が掛かる。

 

「実際、上等な結果だろ。今までは世界を維持する為……っていうと聞こえは良いが、神々だって死にたくないから、その土台を維持していた訳だ。そして、その為に願力がどうしても必要だった。願い、請い、祈る力を求め、それをどうあっても民に捻り出させなきゃならなかった。――でも、今となっては、それも必要なくなった」

「……そうですね。畏怖を植え付け、畏敬を受け取り、その為に世の動乱を扇動する必要はない。オズロワーナを支配する者が全てを支配する、という常識も消せるでしょう。平穏を享受できる世界は作られる。そこから本当に平穏を作られるかは、そこに住む人々に掛かっています」

 

 平和の維持には、努力が必要だ。

 ただ口を開いていれば、投げ込まれていくものではない。

 平和が叶うとしても、紛争が起きる理由は一つではないし、原因が一つ消えても他の原因は残るだろう。

 

 そして、新たに生まれる原因もある。

 確かにそこは、住む人々の努力が必要になるところだ。

 海にマナはなく、空気中のマナは霧散し流れた事で希薄になり過ぎたて感じ取れないが、元よりあった大陸には存在しているだろう。

 

 木々や石、草の一本に至るまで、元からあったマナは取り除かれていないとしたら、確かに混乱は即座に起こるものではない。

 しかし、新たに生まれる物に関して、どうなるかまで予想が付かなかった。

 

 人は本来魔力を母の半分を受け継いで生まれるものだが、これも同じ様に考えて良いのか。

 草木にしても、同じ様に新たな生命もマナを含むのか。動植物や魔獣、魔物に関しては、一体どうなるのだろう。

 

 だが、そこまで将来を見据えて考えるのは、まさに神の思考だ。

 ミレイユは頭を振って、その思考を振り払った。

 

「少し考えれば、問題は幾つも噴出しそうなではあるが、それは別の者に任せよう。何もかも、一つの問題さえ起こさず解決するなんて、それこそ神の所業だ。私には無理だった……そう、思う事にしよう」

「それぐらいの考えしてる方が健康的かしらね。ただでさえ、問題なんて人間に限らず他種族たちが、勝手に作り出すもんでしょ。一々、それに首を突っ込んで解決する? 有り得ないわよ、そんなの」

 

 ユミルがうんざりした顔で顔を背け、眼下に広がる世界を見据える。

 確かに、同じ民族同士でも問題は起きる。他種族も同じく暮らすというなら、更に多くの問題が起こるものだろう。

 

 これまでは神々の畏怖や、実際に起こす神罰が一種のセーフティを担っていたが、それが消えるとなれば、相応に別の問題は起きそうなものだ。

 

 神の畏怖が堰き止めていた問題にまで対処を決めたら、それこそ体が幾つあっても足りない。

 里長として預かる民の問題解決程度ならまだしも、それ以上手を広げて解決に乗り出すなど、ミレイユとしても考えたい事ではなかった。

 

「新たな問題は、当人同士で解決して貰うとしてだ……。生態系に生まれるかもしれない問題も……、一々考えて分かるものでもないな」

「そりゃ、アンタが神として降臨するってモンでもなければね」

 

 言外に大きく含むものを感じさせながら、ユミルは視線を向けて来る。

 ミレイユはそれに返事せず、改めて眼下へと視線を向けようとして、そこにアキラから声が掛かった。

 

「あの……、マナがないって話だと、それって遠からず魔力を失うって事ですか?」

「今あるものは残された筈だから、即座にどうこう、という話にはならないと思う……。ただ、大気のマナが希薄すぎるから、吸収効率は下がるかもしれないな。それでも、土や石など、含まれる物質は多く残ってる筈で、そこから受け取る事は出来るだろう」

「だから、攻勢的にしろ治癒的にしろ、使う分には問題ないと思いますね。でも、刻印魔術に頼っていた人は、うまく魔力を練り込めないでしょうから、その回復により多く時間掛かりそうですけど」

 

 ルチアがその様に補足し、ミレイユとしても妥当な分析だと頷く。

 それでアキラの懸念も晴れると思いきや、更に顔を険しくさせていた。

 むしろ、悪い予感が的中した、とでも言いたそうな顔をしている。

 

「……何か問題か? 冒険者稼業は少し辛いものになりそうだし、魔物や魔獣の在り方次第では、廃業の可能性もありそうだが……」

「アタシはそこ、あまり問題とは感じてないのよね。結局、食物連鎖の頂点にいる様な奴らなんだし、それよりずっと下にいる様な草食魔獣なんかは、結局マナを含有する植物食べるんだから。そこから取り込んだものを食べて力にしていたのが魔物なら、種の絶滅までは考えられないのよね。戦闘中の弱体化っていうなら、それは冒険者連中も同じな気がするし」

「世代を経る毎に、マナ薄弱になる可能性は?」

「ないとは言えないけど、それって結局遺伝の問題でしょ? 人間だって外から取り込んだマナで成長するっていうんじゃなく、元は母体から受け継いだ魔力を源にしてるんだから。取り込める魔力量は成長速度に影響を及ぼすかもしれないけど、より多く吸収できたからって、限界を越えて成長できるものじゃないからね」

 

 確かに、とルチアはアキラに視線を移してから、興味深そうに上から下まで見つめた。

 

「日本にいた時より、更に成長したと思いましたけど、マナの影響というのは考えられますよね。あちらでは基本的にないものでしたし、場所を選ばないとマナの吸収が出来ませんでした。学園にいる最中には、その影響は強いものだったでしょうけど、こちらと同じ濃度であったかは疑問です」

「隔たれた空間を作ろうとも、やっぱり漏れ出て、霧散していくのは止められないと思うのよ。それが、こっちではその心配はなかったワケでしょ? 限界を越えられるものでないとしても、限界まで到達する速度は上がった。そういうコトだと思うのよね」

 

 ユミルは自身の推測に納得し、実にご満悦な顔をさせたが、話が大きく脱線していた。

 結局のところ、遺伝に頼る部分が大きいというなら、人から魔力は失われないだろうし、魔獣や魔物についても同じ様に考える事が出来そうだ。

 

 その根幹となる植物にまで同じ事を言えるか分からないが、生態系の破綻からの生命の破滅という、最悪の想定にはならないかもしれない。

 生命というのは、実に強い。

 特に植物は、その環境に合わせて柔軟に変容、進化していくものだ。

 あっさりと枯れてしまう事も多いものだが、悲観的に考える必要もないだろう。

 

 しかし、アキラは自分の評価など全く思慮の外で、話を聞くだに不都合な事を聞いた様な顔をしている。

 むしろ、懸念は更に強まったとでも言いたそうだ。

 それを素早く感じ取ったアヴェリンが、語調を強めながら問い質した。

 

「……どうした、難しく考えるのはお前の役目ではないぞ」

「分かってます。僕の考えぐらい、きっとミレイユ様が考え付きます。頭脳労働は僕以外の方の役目です。でも、ミレイユ様。……この元々あった魔力やマナは残ったまま、というのが拙いかもしれません」

 



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『遺物』と願い その8

 アキラにそう指摘されても、ミレイユには何が問題となるのか、即座に理解できなかった。

 むしろ、生態系に大きな影響は及ばないだろう、という結論が出かかって安堵したくらいだ。

 勿論、これが百年、二百年と経った時にどういう変化が起きるかは分からない。

 

 その懸念は確かにある。

 だがそれは、魔力やマナがあろうとも、常に付き纏う不安だ。

 強大な魔物に踏み潰されて、村一つが滅びる事は決して珍しい事ではない。

 それを防ぐ為に冒険者達が活躍しているし、それをさせない為に、危険な魔物が集落近くに巣を作れば、討伐依頼が出る様な仕組みになっている。

 

「では、何が問題だ? 将来的な人類の魔力衰退は、起き得る問題かもしれないが……」

「いえ、そうではないんです。()を見て下さい」

 

 元より幾度か見た光景を、改めて見る必要もないと思うものの、逼迫した顔つきで言われたら、とりあえず見てみようという気になる。

 そうして眼下に広がる光景は、航空機の上に乗って見下ろせば、こういう風に見えるかもしれない、という世界が広がっていた。

 

 大陸の形や、そこにある山々の連なり、樹々の植生について地球と大きく違いがある。

 遠く水平線の向こうには、別大陸の切れ端が見えていて、この世界が惑星としての形を取り戻したのだと、よく分かる光景が広がっていた。

 

「これがどうした……?」

「見て欲しいのはデイアート大陸です。その大陸の端っこ……大瀑布があった方向なんですけど」

「……まるで、線を引いたように植生が違っているな。雑草らしきものの色合いもそうだし、土からして違っている気がする」

 

 実際の形など覚えていないが、それより少し大きくなっている様な気はした。

 ミレイユ達が『遺物』を使おうと突き進んでいる間、瘴気がそこまで到達していたのだろう。

 そして、削られて消えた部分が、願いによって復活した――そういう事の様に思えた。

 

 これがもし、単に復活しただけでなく、土地が広がったのだとしたら、それはそれで問題だ。

 誰も手付かずの土地など実際は有り得ないが、唐突に増えたとなれば、新たな線引は必要になる。

 

 大陸の端にあった土地だし、貴重な資源が眠っていたとは思えないが、何も資源だけが理由で領土問題は起こらない。

 この領土問題が新たな火種になる、という懸念を持ってアキラが見ていたのなら、それは確かに的を射ているかもしれなかった。

 

「新たに別の紛争理由を作ってしまった。……そう言いたいのか?」

「はい、ですけど僕が言いたいのは、むしろ資源の問題です。あの土地には資源がありません」

「ない……か、どうか何故わかる……? そして、無いというなら、誰も欲しがったりしないだろう。海の傍だし、放牧に適した草なんかも無さそうだ」

 

 そう口に出しながら眼下を見下ろし、そして陸と海の境界を視線でなぞっていくと、自分の記憶と随分大陸の形に違いがあると気が付いた。

 

 『遺物』があるべき姿を、どう捉えていたのかは分からない。

 だが、それによって復元された大陸は、()()()()姿()として復活した姿ではあるのだ。

 

「……おい、まさか」

 

 そうして、唐突に気が付く。

 ()()()()()()()()()()には、魔力もマナもない、という事ならば――。

 

「あの新しく生まれた土地……それだけじゃない。遠くに見える別大陸には、一切のマナが含有されていない」

「はい、そういう話になりませんか? 新たに生まれた大陸に無いのはともかく、オズロワーナを中心として多くの部分では、まだマナはあるとして……。でも、復活した端部分には、きっとマナが無いんじゃないかと……」

「そうだな……。だから()()()()()、か……。これまでは当然だった石一つにすら含まれるマナ、それは今となっては資源の一つだ。砂一粒だって、ただで渡す理由がなくなる……」

 

 ミレイユは思わず、額に手を当てて呻いた。

 そして、植物はともかく石を始めとした無機物は、限り有るものなのだ。

 適当な植物でも植えて増やせば良いだろう、という手法が通じるかどうか……。

 

 そして植物が広がった時ですら、マナの含有量という格差によって価値が生じる。

 大陸の中央と端とで、唐突に生まれた格差は、必ず諍いの原因となるだろう。

 資源を理由にした紛争など、現世では余りにありふれた戦争原因だった。

 

 更に――。

 ミレイユは遠くに見える、別大陸の切れ端を見つめた。

 復活を遂げたばかりの大地だ。動植物がいるかも不明で、人間程の高度な生命が居るかどうかも分からない。

 

 広大な土地であると同時に、マナもなければ魔力もない大陸だ。

 そして見えない地表裏には、更に多くの土地が存在している事だろう。

 そんな中デイアート大陸は、この惑星で唯一、魔力とマナがある土地……。

 

 地球人類が長い年月を経て大陸の端々へと散って行ったように、この世界でも、やはり同じ様に人類は足を伸ばして行くだろう。

 何百年という年月の果て、その人口も増やしていくに違いない。

 

 だがその時には、魔力とマナを持つ聖地、というものがオズロワーナ周辺に出来上がっている事も、また予想できるのだ。

 かつて、テオが所属していた魔力を扱える一族を、魔族と称して排斥した様な事が、またここでも起こるだろうか。

 それとも、魔力と刻印という特権を利用して、世界に覇を唱えるのだろうか。

 

「いや、流石に考えすぎ、飛躍し過ぎだ……」

 

 ミレイユは頭を振って、頭痛がし始めた頭を緩慢に止める。

 この痛みはストレスから来るものか、それとも寿命が由来だろうか。

 ミレイユ自身も見分けがつかず、盛大に顔を顰めながらアキラを見返す。

 

「そうだな……あるいは、火種が一つ出来てしまったかもしれない。マナのない土地を捨てろと言われて、素直に応じる筈もなし。仮に応じても、移ってくる者達を気に食わないと思う者もいるだろう。排斥しようとする者も出るかもしれない。芋づる式に問題は頻出するだろうが……」

「そうして、雪だるま式に問題は大きくなりそうよね」

 

 ユミルが眼下を見下ろしながら皮肉げに笑い、ミレイユはそれに睨みつけてから、アキラへ視線を移した。

 

「指摘としては中々面白いし、思わず口にした気持ちも分からないではないが……。それをここで言ってどうする。私にどうにか救ってくれ、と言いたいのか?」

「いえ、そんな大それたこと言うつもりじゃ……。ただ、ミレイユ様なら、その火種を消す事も出来るんじゃないかと……そういう話をさっき聞きましたし」

「言ってるじゃないのよ」

 

 ユミルがまたしても横から口を挟み、皮肉げな顔のまま笑う。

 しかし、茶化すだけで、何かを主張するつもりはないようだった。

 口角を上げ、二人の間に視線を行き来させるだけだ。その顛末がどうなるか、見届けたいだけらしい。

 

「私が大神の真似事をする事で、解決する問題ではあるかもな。ユミル達が言っていた様に、オミカゲが現世でやっていた事を、同じようにやれば良いかもしれない。あちらとは勝手も、そして状況も違うだろうが……。孔への対抗や対処もないし、問題はまだしも簡単かもな」

「ですか……!」

「何を喜んでいるんだ……。それじゃあ、私に神をやれと言ってるようなものじゃないか。……お前、本当は私の事キライだろ」

「いえ、いえいえいえ! まさか、そんな事!」

 

 アキラは両手をブンブンと横に振り、必死の弁明を開始する。

 

「勿論、ミレイユ様がお決めになる事で、僕から何か言える事じゃないです! それは勿論です! でも、現世の歴史を知ってるなら、資源紛争の行き先が、ロクな事にならないって分かると言いますか……!」

 

 苦し紛れの言い分の様であったものの、その言には一定の理があった。

 ミレイユは勤勉な方でも、国際情勢に注目していた事もないから、ふんわりとした知識しか持っていない。

 だが、大抵は泥沼の展開になり、そして下手をすると虐殺なども起きる根深い問題という認識だけはあった。

 

 アキラにしてもニュースで知る程度の知識しかないと思うが、それでも持ち前の正義感が懸念を前に、陳情という形で出たのかもしれない。

 ミレイユは今日、何度目か分からない溜め息を吐く。

 

「私が神になれば、何一つ問題が起こらない訳でも、これから起こり得る問題全てを解決してやれる訳でもないぞ。確かに、デイアート大陸で起こる資源紛争の一つは防げるかもな。だが、それだけだ。……その為に、身を捧げろと?」

「いえ、違うんです。そんなつもりで言った訳じゃ……!」

 

 アキラはひたすら手を振り続けていたが、アキラの主張はそう言ったも同然だった。

 神ならぬ身で解決できず、そしてミレイユならば未然に防げる。

 だから、期待してしまったのだろう。

 

 とはいえ、ミレイユからすると、そこまで期待されても困る、というのが正直な感想だった。

 一時の沈黙が流れると、それ以上会話が続きそうにないと見たユミルが、改めて口を挟んで来た。

 

「まぁ……、何をしろって、こっちから言うつもりもないけどさぁ……。これからの展望とか考えてるの?」

「全てが終わった後か?」

「そう、死なない為には昇神するしか無いから、終わった後は神になるワケでしょ。……そうした後よ」

「寿命云々は、『遺物』を使って解消できないか」

「世界の再創造に比べたら微々たる願いだし、きっと可能でしょ。使用する為にはエネルギー補充が必要だし、そこを先に解決しなきゃいけないけど。……で、それが望み?」

 

 ミレイユは一時、考え込む。

 神として生きる事は、変わらず分不相応という気持ちがあった。

 その様な大それた存在にはなれないし、なったとして上手くやれる自信がない。

 

 有り体に言うと、責任が重すぎるのだ。

 例えば会社において、精々課長程度が身の丈に合っていると思っているのに、社長の椅子を用意されるよう気持ちだ。

 今まで平社員だった人間に、突然務まる筈がないと思ってしまう。

 

 自分の能力を越えた職務を与えられるのだから、困惑ばかりが先立つ。

 そして会社を傾ければ、全社員を路頭に迷わせてしまうのだ。

 

 ミレイユが間違える事なく、正しく会社を運営できるとは思えなかった。

 だから、ミレイユが望む事と言えば、非常に素朴で他愛ないものだ。

 

「まぁ、望みというなら……。安楽椅子を揺らして座りながら、茶の一つでも飲みつつ本を読むとか……」

「その年で、隠居考えるには早すぎでしょ……」

 

 ユミルが呆れた視線と蔑む視線を同時に向けて来て、ミレイユは居た堪れなくなって目を逸らした。

 そこではルチアも似たような視線を向けていて、そちらからも顔を逸らすと、二柱の神までそれらと似た表情で見つめていた。

 

「な、なんだ……、いいだろ。望みを口にするくらい……!」

「そりゃ、こっちから聞いたんだし、口にするのは良いけどさ……。本気でそんなコト考えてるの? 枯れ過ぎじゃない……?」

「私も流石に、それはどうかと思いますよ。ちょっと骨休め程度ならまだしも……」

「己らが言う事じゃないかもしれないけど、それだけの能力をただ腐らせるのか? 有り得ないだろ……」

 

 ついには神からも苦言を呈され、ミレイユはむっつりと口を閉じた。

 これまでの苦労を思えば、それぐらいの報酬があっても良いだろう、と思うのだが、確かに枯れていると言われても仕方ない望みだった。

 

「うるさいな。いいだろ、先々を真剣に考えるには、まだ大きな問題が残ってるんだから」

「そうね、こっちの問題が片付いたからには、次はオミカゲ様の問題に取り掛かれるわ。アタシとしては、行かせたくないんだけどねぇ……」

「それはもう終わった話だ。ループからの脱却が叶って、オミカゲを救えたとしても、その時お前たちが傍に居ない未来なんてご免だからな」

「そう言ってくれるのは、素直に嬉しいんですけどね……」

 

 ルチアが浮かべる笑みには、困ったものに照れたものも混ざり、言葉に嘘がないと分かる。

 しかし歓迎できない、と思っている部分については、ユミルと同意見のようだった。

 

「いつも通りにやれば、上手くいく。これまでだっそうだったろう? 楽観的でいる方が、我らの流儀に沿う。それでいつも通り、勝利してやればいい」

「そうは言ってもね……」

「私の弱点は何だ? 何がある? ……強すぎる事か?」

「その謙虚すぎるところじゃない?」

 

 ユミルが一欠片も笑わず、能面の様な顔で言って来たが、ミレイユはそれを無視して肩を叩く。

 

「調子が出てきたじゃないか。いつも通りだ。難しい事を考えるのは、それからで良い」

「少しは先のコト考えとけって言いたいけどね……。リスクも織り込んだ上で」

 

 ユミルの苦言は無視して、ミレイユは頭上へと顔を向けた。

 ずっと黙って見守っていたドーラの目にも、呆れた調子が浮かんでいたが、努めて無視して声を張り上げる。

 

「オズロワーナへ向かってくれ! そこで合流したい奴らがいる! 王城に居る筈だ!」

 



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幕間 その1

 テオは今、ヴァレネオやフレンを中心とする精鋭部隊の中心に立っていた。

 王城の最奥、玉座の間でデルン王を引き摺り下ろされる瞬間を、緊張と興奮が入り混じりつつ見つめている。

 

 オズロワーナの城攻めは、呆気ないほど上手くいった。

 事前にユミルが城門の落とし格子と、その巻き上げ機に細工を施してくれたお陰でもある。

 

 無力化された落とし格子は、デルン側からしても為す術なく、テオ達は簡単に入城できた。

 格子が無意味なら身体で止めるしかないのだが、ミレイユによって実力を底上げされた戦士達は、刻印をものともしない精強振りで圧し通ったのだ。

 

 刻印は一般人と魔術士の垣根を取り払い、軽々と魔術を行使できる画期的技術だ。

 何より容易に数を揃えられるのが強みで、以前までなら鍛えていた筈の森の民でさえ、容易に突破できない筈のものだった。

 

 しかしそれでも、今となっては無理に押し通れるだけの実力差が生まれていた。

 無論、そこを無傷で突破できたわけではない。

 

 致命傷を負い、戦線を離脱した戦士は数多い。

 しかし、圧倒的に数で劣る森軍が、常に先手を取り、そして突破できたのは正しい制御力を身に着けた恩恵によるものだ。

 

 少数の兵を運用する事は、それだけ小回りが利く事を意味する。

 迎え撃つ為の防衛準備が整っていたなら、例え精鋭部隊であっても突破は不可能だったろう。

 大人数での運用ならば、纏まった数を指揮せねばならず、当然大通りを使わなければ王城へ到達できない。

 

 だが、少数であれば裏道を通り、細道を通り、敵の裏を搔いて移動が出来る。

 とはいえ基本的に、防衛側となる城側は有利な立場だ。

 まず神が定めたルールとして、宣戦布告なしに攻める事は出来ないし、宣戦同時攻撃を仕掛けようにも軍隊の存在はとにかく目立つ。

 

 近くに隠そうとしても、全てを隠し切れるものではないし、食事の準備など火を焚く必要があれば、その人数分を賄う煙は隠しようがない。

 行軍を誤魔化す為に距離を離し隠れていたとして、全くの隠蔽を成功させる事は非常に難しい。

 

 だから、突撃されるより前に城側は城門を閉めてしまえるし、その間に防備を整える事が出来た。

 そして準備を整えさせてしまえば、これを攻略するのは至難を極める。

 長い年月と共に増改築を繰り返されてきた城郭都市は、容易な攻略を許してくれない。

 

 苦戦は必至で、被害も甚大になると予想できるから、現体制に不満があっても軍を興そうと安易に思えない仕組みにもなっている。

 

 だが、森軍は例外だった。

 そもそもとして、オズロワーナから一日の距離にある森を所在地としているし、少数故に隠れて移動する事も得意としている。

 

 デイアート大陸で、唯一不意を打てる勢力でありつつ、相対的戦力の低下により、城攻めが不可能な勢力でもあった。

 魔族どもが城攻めなど、その戦力的に実質不可能、と高を括っていたのは過去の事だ。

 二万の軍勢を打ち破った事実は記憶に新しい。

 

 だから、入念な準備をして迎え撃つ構えは出来ていたのだ。

 だがそれは、城門や落とし格子が万全に機能する事を、前提とした作戦でもあった。

 大通りを使い、王城へ攻め入るルートを使うという前提の元に作られた防御機能あってのものでもある。

 

 格子自体も魔術付与された一品だから、魔術が得意なエルフでも攻勢魔術の飽和攻撃であろうと、突破できないと予測されていた。

 そして、しっかりと機能していれば、それは事実となっていただろう。

 

 だが、行軍速度の違い、城内に入ってからは、獣人の俊敏性をこれでもかと活かした縦横無尽な機動、それら全てがデルン軍の想定を上回った。

 本来なら王城に辿り着くまでに幾つもある城門は機能していないし、挟み込むように軍を展開しても、それを軽々と壁を駆け上がって迂回してしまう。

 

 鬼族の膂力は元より人間の比ではなかったが、刻印の登場で数人の兵を用意すれば拮抗できる程、その力量差は埋まった筈だった。

 しかし、それすらも押し留められず、更に十人も束になってやって来ると、防衛として用意した馬防柵さえ全くの無力だった。

 

 破城槌が、意思を持って動いているようなものだ。

 鬼族の十数からなる突撃は、柵を重ねてどうにかなるものではなかった。

 

 そうして辿り着いた王城にも、当然精兵が用意されていた。

 幾ら破竹の勢いでやって来るとはいえ、王城の防備を固める時間はある。

 

 だが、それまで温存されていたエルフの魔術は圧倒的で、特に氷雪を中心とした魔術は、あっという間に兵達を凍り付かせてしまった。

 

 誰もが意気込み、刻印を用意して、魔術合戦で決着を付けようとしていた。

 刻印はその構造上、まず先手が取れるようになっている。

 無詠唱で使える魔術というのは、それだけで圧倒的有利だ。

 

 しかし、先手で撃った魔術の効果が芳しくないだけでなく、後出しで使われた魔術の威力は圧倒的だった。

 複数人による重ね合わせられた魔術は、一切の抵抗を許さず兵達を圧倒した。

 

 後はもう、無人の荒野を行くが如しだった。

 玉座の間、その入口を任された騎士達、そして玉座に座る王を直接守護する騎士達は残っていた。

 だが、それらをフレン率いる獣人部隊が圧倒し、それでデルン王の首に剣を突きつけた。

 

 ――それが決着だった。

 通常なら最低でも数日、長くて十日は掛かると言われた攻城戦が、半日と経たずに決着したのだ。

 大剣を突き付けるフレン、そして魔術士部隊を統括していたヴァレネオは、その興奮にギラギラと目を輝かせている。

 

 テオは前に進み出て、王冠を被った壮年の男の前に立つ。

 着ている服も立派で、威厳のある髭を蓄えていたが、その目に生気は感じられなかった。

 そしてそれは、この敗戦による失意から、というだけではないように思える。

 

 この男からは、生きる気力を感じられない。

 言われるまま、命じられるままに生きて来たのなら、この様になるかもしれないと思える男だった。

 テオはデルン王の目をひたりと見据え、部屋中に響き渡るような声を上げる。

 

「決着だ! 異存あるまいな!」

「……あぁ、決着だ。デルンの終焉だな」

「この日を持って、デルンは滅びる。それを王の名を持って認めるか!」

「……認めよう。攻め、攻められは王都の定め。事ここに至って、無様は晒さぬ」

 

 テオはゆっくりと頷く。

 物分りが良すぎるように思えるが、言ってる事が本音なら、確かにこの状況を否定したところで何も事態は好転しないのだ。

 

 王が頑なに認めなくとも、護る兵もいない今、何を言っても負け犬の遠吠えにしかならない。

 仮に後詰めの兵が駆け付けたとしても、王の首を落とせば、有無を言わさぬ決着となる。

 

 玉座の間に駆け込み、仮に全てを蹴散らせる強者が来ようとも、それより早く首は落とせるだろう。

 ならば、やはり状況は覆らない。

 

 それが分かっているから、諾々と受け入れているようにも見えるが、それでも違和感は拭えない。

 取り乱す様子も、現状に落胆する様子も見せないのは、いかにも不自然なのだ。

 

 それは実際に対峙するフレンこそが顕著に感じ取れたらしく、疑念を何重にも貼り付けた表情で言った。

 

「こいつが本当に王なのか? こんな腑抜けに、これまで良い様にやられて来たって? デルンを率いる王が、これ程まで覇気に欠けるってのは信じ難い。……替え玉じゃないのか?」

「疑いたくなる気持ちは分かるが、本物だろう。目の色を見てみろ」

「はぁ……?」

 

 デルン王の目色は赤い。

 そして、ゲルミル一族による眷属化によって変色した色でもあった筈だ。

 

 眷属化による制約は、洗脳や催眠の様に、術者の死亡によって解除されない。

 下された命令を、自分が死ぬまで決して止めない、と聞かされていた。

 

 もし、攻め込まれ決着がついても、頑なに降伏を受け入れないなら、そう命令されている可能性があるとも聞いていた。

 そうなれば、首を落としてやる以外、決着を付ける方法がない。

 だからテオは、デルン王に問いかけた時、素直に応じた事に安堵していた。

 

 テオは森に所属していた時間が短いだけに、デルンに対する恨みも希薄だ。

 それどろか、スルーズの――ひいては神々の傀儡でしかなかったデルン王を、哀れんですらいる。

 

 もしも王が望んでいれば、早期の講和、あるいは何らかの条約締結で戦争を終わらせられただろう。

 だが、それをさせなかったのは神々の方だ。

 

 都合の良い存在として、代々のデルンが使われて来た事を思えば、彼個人に恨みを向ける事は難しい。

 平和を臨もうと、それを叶えさせまいとした神々をこそ、恨むべきだった。

 

 そして、その恨みは今、ミレイユ達が晴らそうとしてくれている。

 元より物理的にも、実力的にも手の届かない相手だ。

 精々、彼女らが上手くやる事を祈ろう。

 

 そう思っていると、やはり納得が行かない顔をしていたフレンが、ヴァレネオからも目色を根拠とした説得があると、それでようやく納得した。

 

「とにかくも……ヴァレネオ、王城の旗を変えさせてくれ。戦勝を民に知らせ、安心させてやらねば」

「そうですな。オズロワーナの民も、いつまで続くのかと気が気でないでしょうし……。今も森で不安に耐えている民にも、分かり易いよう魔術を打ち上げてやる必要があるでしょう」

「これほど早く決着するなんて、こっちも考えちゃいなかったしね。まだ城下じゃ戦ってる奴らもいる筈だ。下手な犠牲が出る前に、さっさと知らせてやらないと」

 

 うむ、とテオは大仰に頷き、デルン王へと手を差し出す。

 その動作で何を欲しているのか分かった王は、頭の上から王冠を外した。

 

 だがそれは、普段使いする為の王冠で、レプリカだという事は分かっている。

 本物は宝物庫など、どこかに安置されているだろうが、今はデルン敗北を知らせるには十分だった。

 

 苛烈な恨みを抱かれた王は、その首ごと晒される事も過去にあった筈なので、穏当に運んで良かったと思う。

 デルン王は王冠を名残惜しそうに一撫でし、それを片手で手渡しながら口を開く。

 

「王として、誰より命じ、そして誰より命じられて来た。良い様に使われる、王という名の小間使いよ。その終わりと思えば、そう悪いものでもない」

「お前も神々の被害者だったろうから……、穏当な処遇を約束しよう」

「実に優しい申し出だ。しかし、余は森とエルフを攻め立てるよう、頑強に主張せねばならない。そして、その為の段取りを組むよう、強く命令する主張を曲げない。それは王でなくなろうと変えられぬだろうから……、放置しておくと非常に目障りな存在となろう。殺しておくべきだな」

「そうすべきかどうか、決めるのは後でも良い」

 

 テオは両手で王冠を受け取りながら、それだけ言って踵を返した。

 玉座の間の側面にはテラスがあり、そこから王の言葉を姿と共に、直接民へ伝えられるようになっている。

 テオは王から離れて一直線へ向かい、未だ戦闘を繰り広げている兵達、戦士たちの前に姿を見せた。

 

「皆の者、聞けぃ!」

 

 戦闘中の怒号や金属同士が打ち合わさる音、それらが城下に満ちていても、テオの声はハッキリと彼らの耳に届いた。

 そして、デルン王ではない何者かが姿を見せ、その手に王冠が握られているとなれば、意味する事は一つだ。

 

 一人が動きを止め、二人が力なく剣を落とすと、さざ波の様に理解が広がっていく。

 膝から崩れ落ちる者もおり、誰かがその様な姿を見せると、敗北を悟った兵は次々と武器を投げ捨て、兜を脱ぎ捨てた。

 

「我ら森の民が! デルンを打ち破り、この手に王冠を握った! 森の民の勝利である! これにて戦争は終わり、完全に終結したと、ここに宣言する!」

『うぉぉぉぉおおおッ!!』

 



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幕間 その2

 デルン王国の兵とは反対に、多種多様の獣人族、鬼族は両手を掲げて喜びと喝采を挙げる。

 隣り合った者同士で、肩を叩き、抱き合っている姿がそこかしこで見られた。

 そこへ王城の最も高い位置にある尖塔の旗が降ろされ、代わりに別の旗へと差し替えられる。

 

 それは今の宣言よりも尚、戦争の勝利を雄弁に語っており、誰もがそれを見上げて勝鬨を上げた。

 涙ながらに見上げる者達の勝利の雄叫びが、森の葉を揺らすように城内にこだまする。

 

 城内の様子は分からぬとも、戦闘音が止み、旗の差し替えがあった事は、都市内の者にも分かる事だ。

 そこから更に波及して、雨戸を締め切り、閉じ籠もっていた者達も窓を開けて顔を出し始める。

 

 あまりに早い決着に、戸惑っている者も散見されるが、それも嘘ではないと、すぐさま伝わる事になるだろう。

 テオは兵達の興奮と感涙を受け、自らの興奮も増大させて声を張り上げる。

 

「特と聞け! 我が誉れ高き名は、テオフラストゥス・フィップロス・アウレオール・ボンスバトス・レォン・ホルエイハム! これから全ての弾圧と差別を失くし、平和の世を約束する者の名だ!」

 

 テオは万感の思いで空を見上げ、王冠を掲げた。

 諦めなくて良かった、折れずに進んで来て良かった、と胸の奥を熱くさせる。

 

 かつて頭の中で思い描いた、実現不可能、空想とも思った夢物語。

 それが今、この手の中にある。

 

 動かくなった幼い子供を、その胸の中に抱き留め涙する母親――。

 不当に虐げられ、屍を晒す戦友――。

 

 理不尽な暴力で奪われずに済むかもしれない世界を、これから作れるかもしれない。

 ――ここからが、スタートなんだ。

 

 テオはその機会を……機会となり得る位置に、立っただけに過ぎない。

 そこから本当に平和な世界を作っていけるかどうかは、これからの治世に掛かっている。

 

 テオが決意を新たにしていると、見つめる空の一点から、暗雲が立ち込めようとしているのが見えた。

 空はそれまで快晴で、雲の一つも見えていなかったというのに、この戦勝にケチを付けられたみたいで気分が悪くなる。

 

 だが、よくよく見ると、それは暗雲ではなかった。

 それどころか、雲ですらない。

 

 何かヘドロ状の物が、空から落ちて来ようとしているのだ。

 そして、それは方向からして大瀑布だと分かる。まるで流水が、別の何かにすり変わってしまったようにも見えた。

 

「何だ、あれは……?」

 

 呟くような声は、誰の耳にも届かなかっただろうが、そのすぐ側で控えていたらしいヴァレネオには聞こえていたようだ。

 テオの横に立って、同じ様に空を見つめる。

 そうしている内に、眉間に皺を寄せ、その形相を困惑と共に激しくさせていく。

 

「……よくない物が迫っている。それだけは理解できますな」

「同感だ。これが、もしかしてミレイユから聞いていた、大きな変革ってヤツなのか?」

「……その一部、という気はしますが……あれが迫って来るというなら、対策は必要でしょう」

「とはいえ、どうする? この場合、結界を張って様子を見る位しか出来なくないか?」

「空から……大瀑布の向こうからやって来る、というのが如何にも拙い。ミレイユ様の方で何かあったのやも……」

 

 テオの提案を無視して、ヴァレネオは空の向こうにいる、ミレイユの身を心配して視線を向けた。

 その気持ちは分からなくも無い。

 

 テオはヴァレネオの様に信奉している訳ではないが、彼女らの失敗は、こちらと無関係でいられないのだ。

 ミレイユと結託していたからこそ、神に歯向かう者として断罪されるかしれないし、仮に表立ったものがなくても、やはり玉座を取り上げる尖兵を送って来るだろう。

 

 そういう意味ではテオも心配するのだが、まずは目先の脅威に対策するのが先決だ。

 それを促していると、玉座の方からフレンがやって来て、同じ様に異変に気付いては険しい顔を向ける。

 

「何か小難しく言い合いしてると思って来てみれば……、あれは何だ? 危険なのか?」

「分からん。何も分からん……が、危険と分かってから対策するんじゃ遅いだろ」

「ミレイユ様から、何か聞いてないのか?」

「いや……」

 

 テオは一時口籠り、それから忙しなく首と視線を動かして、再び口を開く。

 

「神を弑する事で、異変が起きる事は知らされていた。それが何なのか、具体的な事までは本人も分からなかった様だが……」

「ミレイユ様にも予想外な事が起きてるっていうなら、警戒しない訳にもいかないだろうさ」

 

 ヴァレネオをフレンも、強くミレイユを慕っているが、そこに万能性を求めているのは危うい、と思う。

 超常の存在であるのは事実で、そして神の卵でもあるらしいが、テオが話して感じた事は、案外普通の人という印象だった。

 

 居丈高で、言う事も考える事も鋭いものを持っているが、考え方に超常性はない。

 神の視点を持って何かを語る姿を見た事がなく、そして常に不安を感じていて、それを常に胸の内に抱え耐えていた。

 それを跳ね除け進める強さがあるのも事実だが、この二人は、その強さを拡大解釈している気がする。

 

 何れにせよ、対処に関して誰も異論はないのだから、そこは進めておくべきだった。

 単なる暗雲で、害がないというなら笑い話にすれば良い。

 そう指示しようと声を上げる寸前、足元が大きく揺れて、たたらを踏む。

 

「まだ反抗してくるヤツがいたか……!?」

「攻撃? 城を揺らす程の……?」

 

 フレンが武器を構えて警戒したが、それが単に一度、城を揺らすものではなく、もっと長く続くものだと、すぐに分かった。

 揺れは継続的で、そして城だけを揺らすものではない。

 

 この震動は、オズロワーナ全体に及んでいるものらしかった。

 ――あるいは、もっと遠大に、広い範囲で。

 

「警戒すべきは、あの黒い何かだけじゃ足りない! この揺れ、何とか抑えられないか!」

「無理です! エルフが束になったところで、収められる範囲を越えている!」

 

 戦闘中も、微細な揺れは感じ取っていた。

 しかしそれは、戦士たちが地を踏みしめ、怒号を打ち鳴らし、そうしたものが震動として伝わって来ているのだと思っていた。

 

 それまで感じた断続的な震動とは、その程度でしかなかったのだ。

 しかし、今では既に、立ち上がって歩く事すら困難な程、強い振動になっている。

 

 その大地を震わす動きは恐怖呼び、城下に居る者は、軒並み混乱して悲鳴も上がっていた。

 テラス下にいる兵達はまだそうでもないが、城下町となれば、それは更に顕著だった。

 

 城壁や、区画を仕切る壁は付与されたものでもあるので頑丈だが、民家などはそうもいかない。

 石造りの壁は震動に弱く、貧しい故に粗末な家しか建てていなかったところから、既に崩壊は始まっている。

 それが混乱と恐怖、恐慌の引き金となっていた。

 

「どうされます。まずは結界を張らせますか。エルフが総出で行使しようとも、扱える人数は少なく、城を護る程度が精々でしょう。建物を守るというなら、即興の防護魔術で固める事も出来るかと思いますが……やはり、全ては不可能です」

「勝利宣言した王が、いきなり民を見捨てる命令をする訳にもいくまいよ」

「では、民家を優先する事に? 商人の大店など、文句を付けてくる者もいそうですが」

「好きに言わせろ。今は弱者を守る、決して見捨てないと見せる事の方が重要だ」

「……その様に」

 

 ヴァレネオが大きく頷いて踵を返す。

 エルフ達の指揮を取りに行き、早速目に付いたエルフ兵へ、何かを指示し始めた。

 それを見たフレンが、挑発するような笑みで、大剣を肩に担ぎ直して尋ねる。

 

「いきなり王の風格、見せるじゃないか。戦闘じゃあ、まるで役に立たなかったが……。ふぅん? ミレイユ様が任せただけはあるのかもね」

「王冠を握った瞬間から、俺は王だ。即席の王とて、王になった瞬間から責任が生まれる。不甲斐ない所は見せられまい」

「ハン……! いいじゃないか。こっちはどうして欲しい?」

 

 挑発的な笑みのまま、フレンは背後に自らが率いていた兵達を見つめる。

 戦闘には大層頼らせてもらった精兵だが、こうした状況では、余りやって貰いたい事はない。

 いや、とテオは思い直す。

 

「兵を率いて、崩れた民家に取り残された者がいないか確認してきてくれ。状況次第だが、瓦礫をどかしたりするのに力自慢が必要だ。鬼族は数が少ないし、上手く使ってくれ。後からデルンの兵も寄越す」

「……言うこと聞くかね?」

「今だけ限定なら。エルフが瓦礫に埋もれても助けないだろうが、都市の住人なら話は別だろう。命令には従わずとも、目の前の危機には助けてくれると思いたい。それを焚き付けるつもりだし、無理なら洗脳してでも動かす」

「了解だ。こっから見て、被害が大きそうなところに向かえば良いかね? その後は……、適当に探して対処するか?」

 

 フレンはテラスから見える崩れた家屋を見ながら言い、テオも同じく見つめ、とりあえず頷いてから背後を見渡す。

 

「ここに臨時の指揮所を作る。獣人達に駆けずり回ってもらって、被害状況を逐一報告して貰おう。指示は追って出すから、それまでは好きに動いて救出してくれ」

「何だい、いきなり頼もしくなっちゃって。まぁ、頼りがいがあるってとこに、文句はないがね」

「兵士は当然だが、民衆からも必ず歓迎されると思うなよ。石を投げられながら救うとでも思ってれば、気も楽だぞ」

「あぁ、そりゃキツいね。獣人達も、何で助けなきゃならないって言いそうなもんだ。恨みはデルンに向いてるが、都市に住む全員と混同してるヤツもいるしね」

「今だけは助け合いに徹して貰わねば。助けを求める者を見捨てて、何が融和と共生だ。何とか飲み込ませてくれ」

「あいよ」

 

 気軽に返事し、腕を一振りして踵を返す。

 テオもそれに続いて玉座の間に戻り、何でもいいから机と椅子を持ち込ませるよう指示した。

 

 どうせなら、伝令の行き来しやすい場所を選び直すか、とヴァレネオに相談する。

 一度この城を所持した事があるからこそ、そうした場合に適した部屋など知っているだろう。

 

 今は震動が一度収まったが、未だに地面が揺れている感じはするし、何よりあれ一つだけで終わるとも思えない。

 神々との戦闘ともなれば、それほど激しい衝突が起きていると考える事も出来た。

 

 テオは一度テラスの方を振り返り、大瀑布の向こう、今は黒い何かに覆われた天界を思う。

 ――無事に帰って来い。

 

 それ一つだけ強く念じると、改めてヴァレネオへ向かい歩を進める。

 これからは、テオにとって武器を取って戦う争いよりも、更に険しい戦闘が始まろうとしていた。

 



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そして、決戦の舞台へ その1

 ドーワの背に乗って、オズロワーナの上空まで到達した時、石造りの町並みには破損や倒壊が多く見られていた。

 大地が端から崩れ落ちる様な事態だ。

 震動も相応にあった筈で、そして地震に対して警戒した家造りなどしていない街は、その被害を大きく被っていたとしても不思議ではない。

 

 『遺物』はその万能性を持って大地を復活させ、海を作り直し、惑星としての姿を取り戻させたが、家々の破壊まではフォローの対象外だったようだ。

 

 瓦礫を退かし、互いが手を取り合って協力している姿が、空からでも窺う事が出来る。

 そこには人やエルフ、鬼や獣人達も関係なく、救える命を救う為、必死の救助作業が行われていた。

 また、獣人達と一緒に、冒険者らしき者達が駆けずり回っている姿も見える。

 

 この火急の時にあって、日頃の恨み辛みなど関係ない、という事らしい。

 融和と共生を説いた森の民、その第一歩がここだとするなら、地震による被害も悪い事ばかりでもなかったのかもしれない。

 

 怪我の功名と言えるかもしれないし、これもまた、()()()()姿()として相応しい光景なのかもしれない。

 

 どこか広い場所を探して降りようとしていたが、そういった場所は怪我人を治療する場所として使われているようだ。

 ドーワの様な巨体が降りられる場所はない。

 冒険者らしき者達が、指差しては警戒を呼び掛けているし、無理に降下するのは、彼らを刺激する事にしかならないだろう。

 

 ただでさえ、被災して心身ともに余裕のない時だ。

 ここに来て魔物の襲来だと勘違いして、先制攻撃しようとする彼らは責められない。

 こちらとしては着陸場所を探して旋回しているだけだが、城下に居る者からすると、まるで獲物を探しているようにも見えるだろう。

 

「これでは、いらん刺激をするだけだな……。ドーワ、ありがとう。ここまででいい。後は自力で行く」

「人間ってのは、高所から落ちただけで死ぬと思ったが……。まぁ、お前さん達なら平気かね」

「いや、落ちて死ぬのは変わらないが、死なないように手を尽くすだけだ」

「……まぁ、なるほど。神ってヤツは、全員どこか頭おかしいってのは間違いないらしい」

 

 ドーワは楽しそうに笑って、翼を大きく広げ、空を叩く。

 それで一度大きく上昇すると、降りやすいように身体を斜めに傾けてくれた。

 

「降りる場所は王城って話だったね。中央のデカい建物で良いのかい?」

「あぁ、そこで良い。……世話になった」

「それはこっちの台詞さね。世界を救ってくれた、礼の一言では足りない。それに、まだ世話するつもりだよ、こっちは」

「なに……?」

 

 ミレイユが訝しげに顔を上げると、鎌首をもたげたドーワは、やはり楽しそうな表情で言った。

 

「帰って来るんだろう? 新たな創造神、新たな大神……、その後継者だって認めてるのは変わってないんだ。是非とも、この世を安寧に導いて欲しいんだがね」

「……それは、何とも答え辛い質問だな」

「これまでの世界を見ているとね、あんたみたいな神がいなけりゃ、今後が不安で仕方ない。此度の戦乱で、八神は小神を招集する余裕がなかった。……あったかもしれないし、事実したかもしれないが、それより前に決着が付いた」

 

 小神と言えども、その戦力は馬鹿にしたものではない。

 カリューシーの様に、戦闘に全く寄与しない権能を持つ神も珍しいが、何かしら転用できるものは多い。

 そして、八神によって精神調整された素体を元にしているからには、その命令にも服従してしまう筈だった。

 

 ラウアイクスと対峙した時、一応、という形でミレイユも命令を下された。

 本来なら、それで問題なく好きにする事が出来るのだろう。そういった傲慢さは、その時の行動にも表れていた。

 ならば、神々が襲撃に遭った状況で、戦力を欲して招集しないとは思えなかった。

 

「あぁ……。姿が見えないのは、少々不審に思っていた。確かに、大瀑布はそこを登るだけでも結構な時間を食らうしな……。あるいは、竜が退治したのかと思ったりもしたが……」

「戦場の全てを把握していた訳じゃないから、そういう奴も、あるいはいたかもしれない。けど、全てじゃない。それは断言できる」

「室内に居た私達には、その言葉を信じるしかないが……」

「あぁ……だから、未だに残った小神、そしてそこにいる二柱、そいつらに世界を任せるのは……不安としか言いようがないんだよ」

 

 誰も彼もが、ミレイユに期待する。

 それだけの事をした、それだけの事が出来ると示した……そう取る事も出来るが、素直に応じるには心構えが足りていない。

 ミレイユはドーワから顔を逸しながら答える。

 

「私は未だ、神という訳じゃないぞ。素体のままだし、神人でしかない。神でも人でもない奴に、寄せる期待としては重すぎないか」

「遅いか早いかの違いだろう? 今ここで神だと宣言したとして、誰がそれを否定するもんかい」

 

 そうかもしれないが、そういう問題でもなかった。

 ちらりと視線を向けてみれば、アヴェリン達は勿論、ルヴァイル達もまた、ごく当然という風に頷いている。

 

 寿命の問題がある以上、遅いか早いかの違いでしかないのは事実だ。

 だが、どちらの世界に根付くか、と言われたら、ミレイユとしては生まれ故郷を選びたい気持ちが強い。

 ドーワの言う創造神、という言葉は荷が重いだけでなく、全くの別問題だと思っていた。

 

 ミレイユは『遺物』を使っただけで、『遺物』を造り出した訳でも、『遺物』と同じだけの能力を持っている訳でもない。

 電子レンジのスイッチを押すと、温かく美味しい料理が出来るからと言って、スイッチを押した人が偉いとはならない。

 レンジを作った人、そして温める料理を作った人こそが偉人だ。

 

 誰もがスイッチを押せる訳ではないし、高い位置にあるスイッチを押せるのはミレイユだけかもしれないが、だからと祭り上げられるのは、非常に居心地が悪かった。

 

 ミレイユは、この戦いが終わるまで昇神するつもりがないし、その時になってから改めて、じっく

りと考えるつもりでいた。

 ――考える余裕を、与えてくれるならば。

 

 これは二者択一の問題で、神は一度世界に根付くと、もう移動する事が出来ない。

 だから、その場限りの勢いで決める訳にはいかないのだが――。

 抜け道を作り、世界を越えた神もいる。

 

 とはいえ、それは今のところ、タチの悪い推論に過ぎない。

 それが間違いない事実なのか、それは確かめてみなければ分からない事だった。

 仮に取り越し苦労で、実は大神が既に死んでいたのだとしても、単なる『地均し』を破壊する事にも十分意味がある。

 

 そして、その為にエルフの助力は必須だった。

 戦闘前には互いに成功した場合、王城で落ち合う約束もしていた。しかし、この混乱では果たして一箇所に集まれるものだろうか。

 

 治療をするのに、治癒術を使えるエルフは各所に分散しているだろうし、集めるのにも苦労を伴う。

 まさか傷の治療を中断しろ、助けを待つ重傷者を置いて来いとは言えない。

 そうした懸念でミレイユが眼下を見下ろしていると、横合いからユミルが声を掛けて来た。

 

「……ちょっとは真剣に考えて良いんじゃない?」

「昇神についてか? まだ、いいだろう」

「そう簡単に考えられるコトじゃないし、先送りにしたい気持ちも分かるけどさ……。エルフを連れて行くって時点で、考えないワケにはいかないでしょ」

「……昇神を? 必要数には達しないんじゃないか?」

 

 厳密な数字はオミカゲ様も知らない、と言っていたが、当時昇神に至った際には三千人程度の願力が向けられた状態だと言っていた。

 幾らか前後するのは当然だし、願う力というのは筋力と同じで個人に差が出る。

 それ次第で変動する事を考えると、安全と思っていた人数も絶対とは言えない。

 

 テオによる洗脳で想いを封じ込めている事を考えると、いざそれが開放された時、思いの丈をぶつけるように、本来より強い願力が生まれる可能性はあった。

 だとしても、二倍、三倍まで膨れ上がるかは疑問だ。

 それこそ個々の資質に寄るところだろうし、深く考えても無意味のように思う。

 

 だが、ここで予想を言い合うより、よほど詳しそうな者達がここに居る。

 ミレイユはルヴァイルへと目を向け、実際にどうなるか訊いてみた。

 

「素体が願力を受け取って、それで昇神するには三千人程度が目安と聞いていた。それは事実か?」

「そうですね。凡その目安として、間違っていないでしょう。……それが?」

「エルフが私に信仰や信奉めいた気持ちを向けたとして、それで昇神すると思うか?」

 

 ルヴァイルは暫しの間、考え込む仕草を見せ、それから同じく眼下へ目を向けてから答えた。

 

「……なかろうと思います。エルフの数は、そうならいよう間引きされていた筈。貴女が帰還するまでの間に、安全と思える人数まで削っていた訳なので、個人の願力が多少増えたところで、やはり安全と考えた範囲を超えないでしょう」

「そうか……、それを聞いて安心した」

「これまで森の中で見せた貴女の行動で信仰心を強めたとしても、二倍までは届かない。それならば、差し引き千人分程度、足りない計算となるでしょう」

 

 ミレイユは安心して頷き、それからユミルにも安心させようと顔を向けたところで、大きく顔を歪めている事に気付いた。

 大きな懸念、そして不都合な事実に思い立ったような顔をして、ミレイユを見返している。

 何を思い付いたのか聞こうとしたが、問い掛けるより早くユミルの方が先に口を開いた。

 

「千人()()()()んじゃない、逆だわ。あちらに行けば、千人程度すぐに集まる。アンタはあっちじゃ、『御子神』なのよ。窮地を救いに現れ、力を示す神に向かって、あちらの人間は何を思うかしら。信奉を向けずに済むと思う?」

「それを言われると……、確かに」ミレイユは苦い顔で頷く。「信仰心というなら、エルフよりも強いかもしれない。それだけの下地を、オミカゲが作っていた。こちらの一人分と換算するのも難しいかも……」

「でしょう? あちらへ行くコト、エルフを連れて行くコト、……それは昇神も前提に考えなければいけないんだわ」

 

 胸の奥で堪えていた溜め息は、その指摘で押し出されるように、ミレイユの肺から盛大に漏れた。

 



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そして、決戦の舞台へ その2

「あちらに行くというなら、昇神は免れないか……」

「というより……エルフを連れて行くなら、まず免れない、と見るべきね。あちらの結界内にいる人間は少なかった筈で、その多くの信仰はオミカゲ様に向かってたと思う。……単に、その場に立っていた御子神というだけじゃ、昇神するほど強い信仰を向けられていなかったかもしれない。でも、この先その保障は無いわよ」

 

 それも結局、確かな事は何一つ言えない部分だろう。

 だが、現世で十分な信仰を向けられていたとしたら、既にミレイユは昇神していた筈だった。

 

 そして、あの決戦の地で百鬼夜行を退け、エルクセスという強大な災害すら退ける瞬間を目撃された時、オミカゲ様の元に戻った時には歓呼を持って迎えられていた。

 それでも尚、ミレイユは昇神していない。

 

 あの場にいた人間の願力だけでは不十分だった、という証明ともいえる。

 だが、そこにエルフが加わるなら、その限りではないだろう。

 あの場へ舞い戻り、そして十分以上の戦力として活躍した時、更に信仰心を強める可能性はある。

 

 流石オミカゲ様の御子だ、と思いを新たにする者もいるかもしれない。

 その時、果たして昇神せずにいられるか、となると……可能性は低いと考えざるを得なかった。

 

「……人数を絞って連れて行くしかないか」

「それは最低限の措置でしょうね。眼下を見てると、治療が出来る魔術士は連れて行くコトは難しいでしょうし、他にも必要とされる場面は多い筈……。当初の予定より人員が少なくなるのは間違いないと思うけど、それで回避できるとは思わないコトよ」

「世界を渡って戦う事は、こちらの世界を捨てる事と同じか……」

 

 昇神を回避できないというなら、そういう事になってしまう。

 だが、どちらにせよ見捨てるつもりはないし、そしてアヴェリン達だけで行けと言うつもりもなかった。

 それで仮に『地均し』を破壊できたとて、誰か一人でも欠けて帰還したら、ミレイユはきっと後悔するし、いつまでも引き摺る事になるだろう。

 

 無事を祈って心にストレスを溜めながら待つくらいなら、皆と一緒に戦いたい。

 それは結果として、この世界を見捨てる事にもなるのだが……、それでも思ってしまうのだ。

 

 ――この世界に対し、もう十分貢献したではないか。

 世界は姿を取り戻した。

 そのままで滅ぶ未来は回避できたし、神々による不当な支配からも開放した。

 義理以上の貢献は果たしている。これ以上が必要なのか――。

 

 ミレイユが居る事で、防げる紛争、解決する問題は多いかもしれない。

 全くのゼロには出来ないが、減らす事は出来る、という指摘は真っ当だと思う。

 蔑ろにしたい訳ではないが、そこまで責任を負う必要があるのか、と思わずにいられないのだ。

 

 自分の一生を左右する重要な分岐だと分かるから、安易には決められない。

 ミレイユは、その場から身動き出来なくなった。

 

 今は王城上空付近を飛んでいるし、降りやすいよう、ドーワも気を使って旋回を続けてくれている。

 だが、降りれば作戦を開始しなくてはならない。

 

 既に幾らの猶予もなく、行くかどうかを今すぐ決定しなくてはならなかった。

 そして、進むというなら、この世界を置いて行く事になる。

 

 愛着で言うなら、現世の方が余程強い。

 そもそも、あの世界に帰りたくて始まった事でもある。

 だが同時に、捨てたいと思う程、この世界を無頓着に思ってもいないのだ。

 

 固まってしまったミレイユを、ユミルは心配そうに見つめ、その後ろでアヴェリンも同様に視線を向けて来る。

 見えていないだけで、きっとルチアやアキラも同じように見ているだろう。

 その時、その場にそぐわない明るい声音で、インギェムがのほほんと言い出した。

 

「でもさ、昇神するとしたら、どっちの神になるんだ?」

「どう言う意味です、インギェム。あちらに行けば、あちらの神で固定される。だから、彼女は悩んでいるのではないですか?」

「いや、だってエルフ連れて行くんだろ? その願力で神に至るんだろ? だったら、こっちの世界の願力だ。こっちに引っ張られるんじゃないのか?」

 

 インギェムは素朴な疑問を、ただ思い付くまま口に出しただけのようだ。

 何か深い思慮や根拠があって言った訳ではないだろう。それは理解る。

 しかし、どうにも聞き逃がせない気がして、ミレイユはルヴァイルへ顔を向けて詰問した。

 

「あいつが言ったのは、どういう意味だ? 信仰心……願力という一種のエネルギーが、素体を神という存在に押し上げるんじゃないのか?」

「そうですね……、妾も思ってもいなかったのですが……。でも、考えてみると、確かにインギェムが言う事にも一理あるのかな、と……。人の心が願力を生む。そして、その人が果たして何処にいるのか……」

「この場合……当然、日本という事になるんじゃないのか?」

 

 そもそも、そういう話をしていた筈だ。

 世界を渡り、その世界で願うなら、エルフかどうか――異世界の住人であるかどうかは関係ないだろう。

 

 信仰心という願いのエネルギーに、貴賤があるとも思えなかった。

 そう指摘しようとしたのだが、それより前にルヴァイルが小さく頭を下げて訂正してきた。

 

「えぇ、すみません。より正確に言うと、どちらの世界の住人か、という事です。神が押し上げられるのは、その世界の人間の願いによってです。デイアート世界を根とする人間の願い。それが世界を越えて願った時、果たしてどちらに根付く事になるのか……? それは妾にも分からない」

「つまり……、どういう事だ。エルフの願力で昇神すると、デイアートに引き戻される、という事か?」

 

 そう考えてみても、やはり納得には程遠い。

 何処の世界から来たかという事と、どの世界で願うのかは重要だろうか。

 あくまで、昇神可能とする願力が、どこに向けられたか、の方を考えるべきではないのか。

 しかし、ルヴァイルは思案顔で続ける。

 

「こちらの世界で生まれ育ち、こちらの世界に欲して願う力ですよ。根差すというのは、つまり世界に欲せられるという事で、その欲する願いはエルフから発せられるのですから……」

「いや、待て待て……。混乱して来た。私はあちらに行っても、エルフの願いで昇神したら、こっちに送還されてしまうのか? 根差すべきはデイアートだから?」

 

 世界を越えたところで、エルフ達は地球にいるという認識など無いだろう。

 突然、離れた所に転移した、と思うのが精々だ。

 

 ましてや異世界などという考えなど、根底からして無いに違いない。

 その上で、ミレイユを神に欲する、と願うなら、当然それは自分の世界に欲して願っているつもりだろう。

 

 それが世界に根差す事を意味するなら、デイアートに根差す事を求められていると思うが、それは同時に地球で願われる事でもあるのだ。

 ならばそれは、地球という世界に欲せられる、という形で実現するのではないだろうか。

 

 あえて考えるなら、こちらの方が自然に思える。

 そのつもりで聞いてみたが、ルヴァイルは不安な表情を滲ませて首を左右に振った。

 

「……分かりません。願力というものの原理を考えると、そうなるかもしれない、という話です。……当然ですが、この世界の住人を数多く別世界へ転移させた上で、その地で昇神させたケースなど無いもので……」

「そうかもしれないが、もっと単純に考える事も出来る訳だ。当初の想定通り、その場に集った願力で神となり、そのままその地である世界に根差す、と……」

「そうですね。その方が自然に思えますが……何しろ、前例がないもので。世界に根差すのは、その世界に住む者が、その世界に欲する願い、我が元へと欲する力そのものです。それを世界を渡ってまで行った事などありませんので、単純に渡った世界で根ざしてしまうのか、それとも欲した世界に引っ張られて根差すのか、答えを出せません」

 

 ミレイユは思わず唸って、額に手を当てる。

 オミカゲ様は世界を渡って昇神していたし、元は地球という世界の住人だし、それならば、ミレイユも当然オミカゲ様と同じ様になると思って疑わなかった。

 

 だが、願う者のエネルギーこそが重要で、それが異世界人から向けられるとなれば、そう単純に考える事も出来ないようだ。

 昇神へ至る為の願力が揃う事だけが重要ならば、こうまで悩む必要がなかった。

 

 しかし願う者が、自分の世界に欲する力、という話なら、確かにインギェムの疑問も一考せねばならない。

 世界を越えて自分の世界に欲する、など巫山戯た状況は、普通ならば有り得ない。

 

 だから考える余地もなかったが、この特殊な局面が、状況をややこしくさせていた。

 そこにユミルからの指摘も追撃してくる。

 

「願う者の欲する力っていうならさァ……、当然あっちも同じように願うワケじゃない。これって、どちらも欲しいと願って、綱引き状態になったりしない? この場合、より強い願力――欲する力に引っ張られるコトになるの?」

「さぁなぁ……? どちらにも求められる……けど、世界を越えられない原理ってモンがある訳だし。……じゃあ、デイアートに引っ張られつつ、留まる事になるのか? 常に身体を引き裂かれる思いをしそうだな……」

 

 ミレイユは呻きだけでは足りず、盛大に声を漏らして目を固く瞑る。

 何故こうも、事が単純に運ばないのか。

 どちらか一方で不都合なら、どちらからも平等に根差す、などという都合の良い解決例を見せて欲しいものだ。

 

 あるいは想いの強さで根差す世界が決まるというなら、下手をすると敵を撃破する目前に、デイアートへ戻される事にもなり兼ねない。

 そんな事態になられても困るのだ。

 前例がない故の勝手な予想だと分かっているが、最悪の状況を想定すると、インギェムの言った事も全くあり得ないとは判断できない。

 

「くそっ……!」

 

 ミレイユは握り拳で額を数度叩き、自分に発破を掛けて目を開ける。

 いま感じる頭痛も胃痛も、この時だけはストレス由来のものだと信じたい。

 

 だが、オミカゲ様を救う、『地均し』を破壊する、と決めた以上、乗り込む以外の選択肢はなかった。

 昇神するだけの願力が揃った時、その瞬間より強い願力を持つ世界の方へ引かれていくというのなら、強制的に敵前逃亡させられる可能性がある。

 

 アヴェリン達だけで戦わせる事をしたくなくて、誰も失わずに勝利を掴みたいが為に乗り込むのに、肝心な場面で強制退場させられてしまう可能性が浮上した。

 それを思うと頭が痛い。

 

 しかし、可能性は可能性でしか無い筈だ。

 可能性の話を持ち出すなら、日本――地球という世界で根差す可能性の方が、よほど高い筈だった。

 

 ミレイユは一度、彼女達だけで行かせないと決めた。

 共に行き、共に戦うと決意した。そしてミレイユは、やると決めたら必ずやる。

 

 アヴェリン達は、心配そうにも、哀れみの様にも見える視線を向けていたが、それへ順に見返すと決意した事が分かる表情で頷いた。

 

「降下の準備をしろ。――『地均し』を破壊する。今はそれだけ考えよう」

 



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そして、決戦の舞台へ その3

 ミレイユが号令を下すと、それぞれが眼下へ――王城の噴水が見える中庭へと、視点を合わせた。

 そこが丁度、現在地の直下であり、そして降下するのに適した場所だった。

 

 他にも広い敷地はあるのだが、大抵は野戦病院の様な使い方をされている。

 怪我人が多くいる場所に、空から落ちて来ては驚かせるだろうし、怪我を増やしてしまう可能性もあっては、そんな所を選べない。

 ミレイユは飛び降りようと身を屈めて、それから改めて最後にドーワへ顔を向けた。

 

「世話になった。仲間のドラゴンについても……、色々と」

「世界の礎となったなら、奴らも本望だろうさ。とはいえ、後悔もある。……外から見ているだけじゃ、本当は何をしたかったのか分かりゃしないって事かもしれないが……。大神の行動には謎が多い」

「お前の目には、世界の維持や後継を望むように見えていたんだったか……」

「説明された訳じゃないからね。見えたものを、自分の都合よく見ていただけ。そうかもしれないが……、裏切られた気持ちにはなる」

 

 そう言って、ドーワは重たい息を吐いた。喉奥に燃える炎が、吐息に紛れて小さく漏れ出る。

 彼女の気持ちも良く分かった。

 八神から本来の姿を奪われていた時も、大神の復活を待っていたからこそ耐えられた、という部分もあっただろう。

 

 しかし、大神にそのつもりが最初からなかったというなら、裏切られたと思えても当然だ。

 ドラゴンに寿命があるのか知らないが、だからといって待ち望んだ数千年が、全くの徒労と分かれば、暗澹たる気持ちになるというものだろう。

 

「もしも、あちらに大神がいたら、何か言ってやりたい事はあるか?」

「勝手をするのは造物主の特権、そんな風にも思ってしまうからねぇ……。残念とは思っても、無念とは思わない。……それに、わたしにとっては優しい主人だった」

「そういえば、そんな風に言っていた事もあったか……」

 

 彼女らドラゴンの役目を考えれば、辛く当たる必要もなく、そして事実ペット扱いでしかなかったのかもしれない。

 大神が最終的に見据えていた目的は、決して良いものではなかったろう、というのがミレイユの考えだ。

 

 しかし、傍で見ているだけだったドラゴンからすると、優しいばかりの主人は、善なる目的の為に動く存在と見えたのだろう。

 何しろ、創造神を名乗る神々である。

 その行いに悪しきものがあるとは、考えないのが普通だ。

 

「これからどうする。……竜の谷に帰るか?」

「二柱の監視役は必要だろうさ。いざとなれば、噛み付く事のできる脅し役がね。あんたの意志を無視して締め出すつもりなら、その命が対価だと教えてやんなきゃならんだろう」

「償いは受けるって言ったろ。その言葉を今更、反故にするつもりなんて無いんだがねぇ……」

 

 ドーワの挑発するような視線に、インギェムが顰めっ面で返した。

 ミレイユとしても、その言葉に嘘はないだろうと思っている。

 ここまで上手く事が運ぶと思っていなかったろうが、実際にこういう状況になって、今更命を惜しむとは思えない。

 

 彼女らの行動には、信頼できるだけの誠実さが見えた。

 締め出してしまえば自分の安全は確保できる、と安易な行動に走るとは思えなかった。

 

 だが、どちらにせよ、手放しの信頼をする事は難しい。

 そこで睨みを利かせてくれる天敵(ドラゴン)がいるなら、孔の維持は保障されると見る事も出来た。

 ドーワはその挑発的な笑みを、悪戯っぽく歪めてミレイユを見つめる。

 

「新しい創造神が帰って来るのを、首を長くして待ってるよ。なに……数千年ぐらいは、慣れたものさ」

「何とも、応えづらいな……」

「好きにすれば良いさ。神っていうのは、そういうもんだ」

「私は神じゃないけどな……」

「だったら、尚のこと好きにしな」

 

 困り顔で頷いて、ミレイユはアヴェリンへ降下するよう、ハンドサインを送る。

 アヴェリンが飛び降りれば、それに続いてユミルが、その後にアキラとルチアが続いた。

 ミレイユが最後に手を振ってドーワから飛び降り、『落葉の陣』を行使する。

 

 最早アキラまでもが慣れたもので、中庭に問題なく着地している姿が見えた。

 最後にミレイユが中庭に降り立つと、その背を追ってルヴァイル達もやって来た。

 

 彼女たちは普通に飛べるので、陣の作用を受けていない。陣の周りを旋回するようにして、ミレイユの後ろに着地した。

 ミレイユはそれらを見渡し、問題ない事を確認して王城へ顔を向ける。

 

「テオかヴァレネオは、あの中にいると見て良いのかな……。周りの様子から森軍が勝ったものだと考えていたが、もしかすると決着の前に被災して、一時休戦しているだけかもしれない……」

「いえ、ミレイ様。王城頂上付近にある尖塔をご覧ください。森の民を示す旗が掲げられています。戦争には勝利したと見て良いでしょう」

 

 アヴェリンが指差すままに顔を上げると、確かに言ったとおり、デルン軍とは違う旗がはためいていた。

 デルン王国の旗は森攻め行軍の際に見ていたし、あの時と違う旗を掲げてあるというなら、戦勝したのは間違いないだろう。

 

「なるほど、確かにそうだ。じゃあ、勝利した後、この惨状に見舞われたか……。不運と一言で切り捨てるには、我々も無関係でないしな……」

「神を一柱でも失うと、そこから維持が困難になるコトも知ってたしね。……とはいえ、都市だけでこれなら、地方も結構被害出てそうね。森も厄介なコトになってるかも」

 

 責任の一端を、ミレイユに担わせるつもりで言った台詞ではないだろうが、直前に話していた事を思い出すと、どうにも素直に聞き流せない。

 思わず恨みがましい視線を送る事になり、ユミルは小さく笑って手を振った。

 

「いやね、何て顔してるのよ。ともかくも、まずはヴァレネオでしょ。あっちに連れて行くエルフ達を、選んで貰わなきゃ」

「……そうだな。自分で言ったばかりだ。何を決めるにしろ、まずは『地均し』が先決だ」

 

 一歩踏み出したところで、胸の奥に痛みが走った。

 ドーワの背に乗って移動している間に、十分な休息と魔力の回復はする事が出来ていた。

 だから、簡単な魔術を一つ使う程度は問題ないと思っていたのだが、どうやら、そう簡単に考えて良いものではないらしい。

 

 周りの皆――特にアヴェリンに気付かれないよう、口を固く絞って食いしばり、不自然に思われないよう歩み続ける。

 そうして、勝手に王城内へ踏み込むと、そこは戦場さながらの忙しさを見せていた。

 

 行き交う人々は誰も歩いていないし、近くの部屋へはひっきり無しに出入りしている。

 兵や文官らしき者も多いが、獣人の姿も、それに次いで多かった。

 書類を用意していたり、何かを報告する声が上がってたりと、見える範囲だけでも蜂の巣を突付いたような騒ぎになっている。

 

 それもこれも、被災へ対応する為に行われている事かもしれず、そこにズカズカと押し入り人員を割いてくれ、と勝手な要求するのは気が引けた。

 だがとにかく、あの部屋に指揮する誰かがいるのは間違い筈なので、気を重たくさせながら歩いて行く。

 

 入り口前に立つと、そこから一人の獣人が飛び出して来て、危うくぶつかるところだった。

 相手の方から回避してくれたので、掠りもしなかったが、驚いた顔でミレイユを見返している。

 

「これはミレイユ様! 来て下さったんですね!」

「あー……、いや……」

「テオもヴァレネオさんも、中にいますよ。――あ! すみません、急ぎますので失礼します!」

「あ、あぁ……」

 

 しっかりと頭を下げてから、丸めた書類を握って風の様に走り去っていく。

 獣人が持つ俊敏性の面目躍如といったところで、人波の間をすいすいとすり抜けては消えて行った。

 二人の居場所もハッキリしたところで、申し訳ないと思いつつ、部屋の中を窺いながら入室する。

 

 すると、部屋の中にはコの字型に形成された机と、その机に山と積まれた書類、その書類に向き合う文官が見えた。

 そしてその中心にいるのがテオとヴァレネオで、リレーの様にやって来る報告に対応しながら目を回している。

 

 寝ていない事がひと目で分かる充血した目と疲れた顔で、それでも次々とやってくる報告に目を通し、指示を出して対応していた。

 多くはヴァレネオの補助があって出来ている事だろうが、何しろ決裁印を押す役割をテオが担っている。

 報告内容を知らずに押印だけしている訳にもいかず、必死に内容を読み取ろうとしていた。

 

 かつて、森の屋敷で見た事のあるような光景だった。

 そして、だからこそヴァレネオの補助が良く活きているとも言える。彼からすると、慣れたもの、といったところだろう。

 

 だから、テオが必死に書類と格闘している間にも、ミレイユ達の入室には逸早く気付くことが出来たようだ。

 声を掛けて良いものか迷っていたところで、ヴァレネオは仕事を放り出して自ら歩み寄って来る。

 

「これはミレイユ様……! ご無事の帰還、何よりでございます!」

「あぁ、何やら大事になっているみたいだな……。状況としては良く分かるが、人間が手を貸してくれている事を、素直に驚いている」

「今だけは、という話でしょう。何しろ、被害に遭っているのは都市部の人間です。石造りの町並みその物が、被害を大きくしたようですな」

「という事は、森の方は……?」

 

 懸念としてあった森の被害を尋ねると、ヴァレネオは安心させるように微笑みを浮かべる。

 

「樹木の柔軟性が活きた様です。室内の水瓶など、割れて壊れた物は多数ありましたが、建物の倒壊などは殆ど見られません。それは既に、人をやって確認させています」

「そうか。それは良かった……、と言ってもよいものか」

 

 都市が大変な時なのに、他方の無事を手放しに喜ぶのは憚られる。

 特に被害が甚大である程、喜びを表に出すのは下品と映るだろう。

 アキラなどは、知人の無事を確認したいだろうし、実際気掛かりでもあるようだ。

 

 見てこいと言ってやりたいが、ミレイユにも()()()()()()()()

 或いは猶予、と言い換えても良かった。

 今でさえ、必死になって平静を装っているが、もしも休んでしまえば、再び立ち上がれるだけの自信がない。

 

 未だ緊張が続いているから、身体も限界を無視して繋ぎ止めているとも言えた。

 ルヴァイルの権能を用いるのだから、一日程度、世界転移を遅らせたとしても問題にならない。

 だが、一日の遅れは、ミレイユの身体にどのような悪影響を及ぼすか分からなかった。

 

 それを思えば、酷な事を言うようでも、都市への影響が出る事を踏まえて要求を伝えるしかない。

 ミレイユがまず謝罪を口にしようとしたところで、先にヴァレネオが小さく手を挙げ、首を振った。

 

「皆まで仰られますな。この様な不測の事態、予期せぬ出来事とあっても、準備だけは整えております。治癒術士についてはご配慮戴く事になりますが、他の魔術士については、いつでもミレイユ様と共に行けます」

「……そうなのか、すまないな」

「我々は既に多くの恩恵、多くの援助を頂いております。そういった言葉は、御無用に願います」

「……あぁ、そうか。……うん、ありがとう」

「勿体ないお言葉」

 

 ヴァレネオはその顔に笑みを浮かべて、慇懃に礼をした。

 完全に手が止まっている状態で、事情を知らない文官たちからは厳しい視線を向けられたが、ヴァレネオは全く気にしていない。

 

 上体を戻したヴァレネオが向ける手の方へ顔を向けると、隣の部屋には、やる気に満ちたエルフ達の姿が見え、いつでも戦闘可能という臨戦態勢で迎えていた。

 



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そして、決戦の舞台へ その4

 ミレイユの前に揃い、この場に集ったエルフの数は五百に満たない。

 しかし、現世の基準に合わせた戦力として考えた時、実に頼れる援軍として映る。

 

 『地均し』が纏う鎧甲は魔力を吸収するが、同時に飽和量も存在する。

 ミレイユ、ルチア、ユミル、そしてオミカゲ様や隊士達を含めても不可能と思えたその量も、この五百が加わるなら可能となるだろう。

 

 隊士達を脆弱と言うつもりはないが、生まれ育った環境も、生物として種族としての差異も大きい。

 隊士達は決して諦めないという、所謂大和魂とでもいうべきものを持っているが、それだけで勝てる相手なら、オミカゲ様もミレイユを逃がす一手など選ばなかった。

 

 隊士達の実力を良く知るオミカゲ様が、ミレイユ達と共に戦おうとしなかった事実が、それを如実に物語っている。

 ミレイユは未だに、オミカゲ様が最後に見せた諦観の笑みを思い出せる。

 全てを諦め後に託し、自らの悲嘆を押し隠して謝罪を述べるかのような、あの表情は絶対に覆してやりたいと思っていた。

 

 オミカゲ様本来の望み――ループからの脱却という事なら、それは既に叶った。

 八神を討ち倒し、ミレイユを狙う魔の手を切った。

 ここで終わるなら、それはそれで、一つの解決として見る事が出来る。

 

 オミカゲ様を、現世を、地球を見捨てる決断をするなら解決だ。

 だが、それを認められないから、ここにこうして立っている。

 ミレイユは心の中で燃える、強い衝動に突き動かされていた。

 

 ――抗え、大神を挫け。

 当時は思いもしていなかったが、本当の意味での大神とは、『地均し』の中に隠れているかもしれない奴らの事だ。

 それとて確認してみるまで分からない事だが、ミレイユはきっとそこにいる、と認めてしまっている。

 

 そこにいないと確認できるまで、この強い情動は消えてくれないだろう。

 居ないと確認出来ても、トンボ返りするほど薄情にはなれないから、結局戦う事には変わりない。

 

 だが、オミカゲ様の諦観を覆せるなら、それはそれで意味のある事だった。

 自分の決意に意味を見出していると、後ろからインギェムから声が掛かる。

 

「……そいつらを送れば良いのか?」

「あぁ、そうだ。……だが、待てよ……」

 

 インギェムが孔を繋げられるのは『箱庭』に対してだ。

 そして今、箱庭はアキラが住んでいたアパートにある。

 そこから武装した兵がゾロゾロと出て来るのも問題だろうし、何より神宮までの距離をどうするか、という問題もあった。

 

 見慣れぬ土地、見慣れぬ町並みは戸惑うだけでは済まないだろうし、車道を避けて通るにも限界があり、車との衝突は避けられないように思えた。

 何より、アパートから行くとなれば、結構な距離がある故に、落伍する者は必ず出てくる。

 

 そして、箱庭の中にある、孔の場所にも問題があった。

 いくら事前に説明したといっても、地上から何百メートルも上空にある孔だ。

 落下地点に落葉の陣を張るとはいえ、数が数だけに、ここだけで傷を負う者は頻出するだろう。

 

 当然だが、誰しも落下経験がある訳でなく、ただ落下するだけでも、その距離故に必ずズレる。

 その補正を全員にしてやる事は不可能だった。

 それならば、もし可能なら箱庭の外へ、直接出して貰った方がありがたい。

 少しは融通が利くなら良いのだが、と思いながら、ミレイユはインギェムに訊く。

 

「ところで提案なんだが、孔の出現位置は変えられないのか? 箱庭に開いた孔へ直接繋げるのではなく」

「あれは目印みたいなものだからな。直接そこに繋げる方が楽だが……まぁ、別でも可能だ。ただ、そう離れた所は無理だな」

「そういえば、いつだったかオミカゲ様から、箱庭が一度でもビーコンとしての役割を果たしたら、破壊したところで孔は出来ると言ってたが……」

「誰だよ、そんな適当なこと言った奴……。そりゃ権能を『装置』に組み込まれた場合の話だろ。己が自分でやるとなりゃ、箱庭みたいな目印ないとゼッタイ無理だね。基点となる場所を勝手に計算して再設定なんざ、やれたとしても頭が爆発しちまう」

「あ、あぁ……。それはすまなかった」

 

 その権能に深い造詣がないから確かな事は言えないが、何となくニュアンスで難しい計算が必要になりそうだ、という事だけは分かった。

 

「とにかく、箱庭があるんなら、そこを基点として多少ずらすのは難しくない。ただ、あまり離れると途端に制御が難しくなるからな……」

「具体的には、どの程度可能だ?」

「あの箱から両手を広げた範囲くらい、か……?」

 

 腕を組み、首を傾げながら言って来て、ミレイユは渋い顔で頷いた。

 

「大して変わらないじゃないか……という愚痴はともかく、箱庭の外に出せるのなら及第点だ。そこは間違いないんだな?」

「あぁ、違いない。孔に繋げるっていうのは、孔の位置を正確に把握するって事でもある。そして箱の場所が分かってるから、そこから多少ズラす位はやってやれる」

「それを聞いて安心した」

 

 依然として神宮まで距離がある、という問題は解決できていないが、何もないより遥かな進歩だ。

 そう考えて、神宮内にあった巨大な孔について思い至った。

 『地均し』を通す為に拡げた孔は、あの時あの瞬間は、まだ閉じていなかった筈だ。

 

 そこから出られるなら、話は早い。

 そう思って訊いてみたのだが、返って来たの否定の言葉だった。

 

「あれは己が開けた孔じゃないからな。己の権能を原理としているだけで、己そのものが作ったものじゃない。やってみた事がないから可能かどうかも分からんし、やったところで賭けになる上、失敗の可能性は凄く高い。……それに、回数制限がある事を忘れるなよ。無駄撃ちしたら、単純に損だ」

「そうだった、それもあったな……」

 

 魔力と同様、権能を使うにも制限は存在する。

 だが、それと同様に、時間と共に回復するものだ、とも言っていた。

 ミレイユ達が移動中に身体を休ませ、その八割程まで回復させたのだから、インギェムも同程度回復していると思い込んでいた。

 ……いたのだが、インギェムが言うには違うものらしい。

 

「そう簡単じゃないんだ、信心によって蓄える力だからな。ただ寝てるだけで回復するのは同じでも、その過程には大きく違いがある。……まぁ、魔力と違って時間が掛かるとでも思っておけ」

「……なるほど」

 

 信心に寄る、というのなら、つまり自らに向かって祈られる必要があるのだろう。

 信徒が朝の祈りをした時など、要所要所で蓄えられて行くものだとしたら、確かに体力の回復と同じように考える事は出来ない。

 

 信徒頼りになるのなら、信徒の数次第で常に回復するような状態を作れる気はするが、普段から熱心な活動をしてなかった二柱には、荷が重い話だろう。

 

 では、前回申告してきた二回までは使える、という約束と、三回目は確約できない、という話が今も継続されている事になる。

 ミレイユは難しく眉根を寄せて、息を吐いた。

 

 最初の想定では、まずミレイユ達だけ孔を通ってアパートに出現し、箱庭を手に持って神宮まで移動、そこで再び孔を開いて援軍を呼び入れる、という手順を考えていた。

 落伍者を出さずに、全ての援軍を間違いなく神宮へ運び入れるには、このプロセスで行くのが確実だ。

 

 参戦したエルフ達は戦勝後、元の世界に返してやらねばならないし、それを考えれば本当にギリギリの回数しか残されていない。

 余裕が欲しいと思えば、アパートの出現一つで済ませてしまいたいが……、やはり道中の不安は拭えなかった。

 

 神宮に辿り着く前から、多くの困難やトラブルを抱えるリスクがあり、それを権能一回で排除できると考えれば、割の良い取り引きと考えるべきなのかもしれない。

 

「どこで切るべきか、と漠然と考えていたが……、いきなり切る破目になったか……」

「つまり? どうして欲しい?」

「まず私達を送って貰う。そして箱庭を別の場所へ移した後、改めてエルフを送って貰いたい。……とすると、合図はどうしたものかな」

「箱の中にお前が何か魔力を撃ち込んでくれれば、それを感知できる。……できるが、これからお前が通るのと同じだけの時間差で感知するから、そこは気を付けろ」

 

 なるほど、とミレイユは頷く。

 かつて通った時にも、一瞬で通り抜けた訳ではなかった。短い時間だったものの、そのタイムラグは大きい。時間は、よくよく数えておく必要があるだろう。

 

「……ちなみに、孔は箱の傍に開けられる、という話だったが、箱を持ち運べば孔も一緒に動かせたり……」

「そんなバカみたいな話あるかよ。開けてるのは空間に対してなんだから。箱を移す事が空間ごと移動してる事になるか? それがなるっていう事なら、可能って話になるが」

「あぁ、いや……悪かった。訊いてみただけだ」

 

 ミレイユにしてもどうせ無理、聞くだけなら損にならない、という軽い気持ちでの質問だった。

 返答にしても予想していた範疇で、まぁそうだろうな、という感慨しか浮かばない。

 そこへ、後ろから躊躇いがちにヴァレネオが声を掛けてくる。

 

「ミレイユ様、時を弁えず失礼を承知でお聞きしますが……。そちらの、見慣れぬ御二方は?」

「あぁ……、何といったものか」

 

 説明しないのも不義理だが、同時にそれを説明すると、非常に面倒な話になる。

 エルフと神々の確執は根が深い。

 ここに味方を残す事なく、二柱を置いて行く事は、厄介な事態を引き起こし兼ねなかった。

 だからミレイユは苦渋の決断として、今は伏せておくことに決めた。

 

「ヴァレネオ、今は何も聞くな。後で必ず説明する。だから、今は――今だけは、何かに気付いても、胸の奥に仕舞っておけ」

「ハッ……! ミレイユ様が、そう仰るなら……」

「うん、すまないな。――早速、頼んでいいか」

 

 ヴァレネオには一言の謝罪で済まし、それから改めてインギェムに目配せして、ルヴァイルにも協力を頼む。

 この作戦の肝には、彼女の権能と協力も必須だ。

 彼女が持つ『時量』の権能なしに孔を繋げるだけでは、破壊し尽くされた世界に降り立つだけになってしまう。

 

 インギェムが隣の部屋との境い目に、ひと一人が十分通れる孔を作り出すと、ルヴァイルがそれに手を添えて、何かを念じるように目を閉じる。

 ヴァレネオは驚愕した顔を見せると同時に、インギェム達が何者かの推測が立ったようだ。

 

 しかし、ミレイユの言い付けがあったので、それ以上の反応は見せない。

 胸の中に怒りや恨みが渦巻こうとも、それを表に出さない努力をしていた。

 

 孔が完全に開き切ると、ルヴァイルもどうぞ、と言うように掌を孔へ向ける。

 それで頷きと共に入ろうとしたのだが、その背に呼び止める声があった。

 振り返ってみると、そこには書類の山の間から、テオが顔を覗かせている。

 

「救援が必要なら直ぐに呼べ。フレンなんかは、声を掛ければ尻尾を振って駆け付けるだろうさ」

「ありがたいが……、そっちも大変じゃないのか」

「そりゃ大変だ。こっちの混乱だって収まってないんだ。手を貸せる余裕なんかない」

「だったら――」

「でも、お前には必要なんだろ? たった五百で足りるのか? 夢想の果ての最終目的、それが今なんじゃないのか?」

「お前、それをどこで……」

 

 ミレイユの声を遮って言った台詞には、テオの知り得ない情報が含まれていた。

 しかし、知っているというなら、それはヴァレネオから聞いたとしか考えられない。

 

 そして、顔を向けてみれば案の定、力強い首肯が返って来た。

 彼からすれば、森の民なら誰もが協力して当然、というつもりかもしれない。

 だが、苦労すると分かって人員を引き抜きたくないし、何より魔術士以外は盾役としか使いようがない。

 

 それも勝利には必要かもしれないが、死に役だ。素直に頼むのは気が引ける。

 だから、とにかくその場では曖昧に頷いておくしかなかった。

 

「気持ちはありがたく。……必要になったら呼ぶ」

「あぁ、そうしろ。そろそろ、一段落する奴らも出て来るだろう。元気が有り余ってる奴は抑えとく」

「何やら急に貫禄が出てきたな」

「元からあったわ!」

 

 揶揄してやれば、あっという間に元の顔が曝け出される。

 周りの文官からも驚いた表情が向けられて、意外な一面を見たかの様な反応を見せた。

 

 もしかしたら、テオは必死に王たらんと、己の出来る事に邁進し、その為に仮面を被っていただけなのかもしれない。

 悪いことをしたか、と眉尻を掻きながら苦笑し、ミレイユは孔の前で改めて、アヴェリン達に向き直った。

 



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そして、決戦の舞台へ その5

 一声だけでも言葉を掛けようとし、動きを止める。

 ここよりは決戦の舞台で、そして決死の舞台でもあった。

 生きて帰れる保障はなく、生き残っても五体満足でいられる保障もない。

 

 こういう時、良い上官は士気を高める言葉などを投げかけるのだろうが、生憎、ミレイユは口が上手いとお世辞にも言えなかった。

 

「こういう時、何か気の利いた事を言うべきなんだろうが……」

「別にいいわよ、そんなの。覚悟なんて既に済ませてるし」

 

 そうだな、と困ったように笑って頷いて、ミレイユは誰より一歩引いた位置に立つ、アキラへと目を移した。

 その立ち位置こそが、彼の思うパーティの位置付けで、誰より頼りないと思っている心の現れの様に見えた。

 

 緊張の度合いも誰より高く、意気込みも強すぎるように思う。

 こういう兵は戦場で何度も見てきたが、大抵が実力を発揮できないか、発揮するまでに手痛い傷を負ったりもする。

 デイアートの戦場において、手傷程度は授業料代わりだが、あの敵に対して同じ理屈が通じるとは思えない。

 

「アキラ、あまり構えるな。今からそれだと、実戦まで保たないぞ」

「は、はいっ! 分かってるんですが……、これからオミカゲ様と、仲間たちを助けに行くんだと思うと! どうにも落ち着かないと言いますか……!」

「そうだな……。お前にとっては、仲間も気掛かりだったろうな」

 

 ミレイユにとってはオミカゲ様と、彼女が守って来た世界を救ってやりたい、という気持ちが強く、そこの生きる人々にまで視野に入れていなかった。

 しかしアキラからすると、共に同じ釜の飯を食った仲間たちが居て、そして奴らに対し奮闘していると知っているのだ。

 

 その彼らを見捨てたような形になっていたし、そこへ戻って力を振るう事は、様々な思いが去来してしまうものだろう。

 個人的に親しい人物が、あちらの世界にミレイユは持たない。

 だから同じ気持ちを共有できないが、御子神の生活を通じて顔見知りになった者達を思えば、それらを救ってやりたいと思う気持ちはあった。

 

「じゃあ、早いところ、その気掛かりを解消させてやらないとな」

 

 そう言ってアキラに笑みを向け、次いでヴァレネオとテオに向けて、一度だけ手を振ると、孔に向かって身を投じる。

 奥に向かって引っ張られる感覚があり、それに身を任せると、呆気なく孔の中へと侵入してしまう。

 そうして改めて観察すると、かつてオミカゲ様によって押し込まれた時と同様、孔の中は暗く、何も見えない空間が広がっている。

 

 ただ遥か向こう側に、針を刺した様な小さな白い点が見えるだけだ。

 後ろを振り返れば、アヴェリンがすぐ後ろに着いて来ていて、間にルチアとユミル、最後尾にはアキラがいた。

 

 それを確認してから、心の中で数を数える。

 最初は小さな光点に過ぎなかった向こう側の孔も、一つ数える毎に大きさを増していった。

 浮遊感に身を任せる以外、何もできない時間だったが、数をしっかりと覚えておく必要があると思えば、暇と感じていられない。

 

 ミレイユが六十を数えた時、目前に見えていた孔が急速に拡大したかのように感じた。

 実際には、それだけ高速で動いていただけに過ぎないのだろうが、視界が白一色に染まった瞬間、浮遊感を失い身を投げ出される。

 

 慌てて体勢を立て直し、床をけたたましく蹴って転倒を防いだ。

 すぐにやって来るアヴェリン達を思い、横にどけながら素早く周囲を観察する。

 すると、そこには見慣れた――そして酷く懐かしい、アキラの部屋の中だと分かった。

 ソファーやテーブル、冷蔵庫に台所……それら一つ一つに目をやって、改めて間違いないと実感する。

 

 そうやって一度気付いてしまえば、空気も質感も、何もかも違う気がして来た。

 そして実際、何もかも違うのだろう。

 ミレイユが感慨に耽っている間に、アヴェリン達がやって来た。

 

 それぞれ突然の接地感に戸惑いつつ、それでも転ぶような無様を晒さず、上手く着地する。

 アキラまでそれは例外ではなく、見慣れた景色に感動の面持ちを見せていた。

 

 窓の外は明るく、まだ朝方だと分かる陽の位置だった。

 室内の時計は午前八時を指しており、ルヴァイルに指示したとおりなら、『地均し』が出現した時間付近を目標地点としてやって来た筈だ。

 

 やろうと思えば、どの時間、タイミングでも可能な帰還だったが、オミカゲ様がミレイユをデイアートへ送還しようとするより前に、介入する事は出来ない。

 そうしてしまえば歴史を変えてしまう事になり、時間の破綻が生まれてしまうかもしれなかった。

 

 だから、それより前に到着したところで、歴史を歪める様な出来事は起こしてはならない。

 例えば、ミレイユが送還されるより前に結界内へ入る、などがそれに当たる。

 

 現在の状況を頭の中で整理したのは、窓の外の光景と、現実のすり合わせをしたかったからだ。

 まだ暗い時間に辿り着くと思っていたのに、窓の外が明るいなど想像していなかった。

 だが、結界内で戦っていた時間は長く、それこそ夜通しと言って良いほど長い間、常に戦闘続きだった。

 

 戦う事に集中し過ぎていたミレイユは気付かなかったが、その間に夜が明け、とうに朝を迎えていたという事らしい。

 意外に思ったが、それと同時に納得もしている。

 あの日は本当に、長い一日だった。そして本当に長い時間、戦ってもいたのだ。

 

 溜め息を吐くつもりで息を吸い、そこで空気感が違うと気付いた。

 だが、その違いは異世界との違いを顕著に感じたというだけでなく、空気の冷たさも同時に感じたからだった。マナの滞留を感じられない、というだけの理由ではない。

 

 ドーワの背に乗っていた時と良く似た空気感でありつつも、やはり基本としてマナが存在しない世界は感じられるものが随分違う。

 ともあれ、帰って来た事には違いない。

 

 あるいは、二度とこの地を踏めない、と覚悟していただけに、その感慨もひとしおだ。

 同様の感慨は、その表情からアキラも浮かべていると分かったが、いつまでも感激させておく事は出来なかった。

 

 ミレイユはアヴェリン達の間を縫って入り、箱庭を手に取って個人空間へ仕舞い込む。

 今もエルフ兵達は、ミレイユの合図を待って待機している筈だ。

 戦場へ送られると自覚している彼らにも、長く待つだけの緊張をさせているのは忍びない。

 

「ユミル、幻術を。ルチア、支援を頼めるか。ここから神宮まで一気に行く」

「了解よ」

「お任せです」

 

 二人からの返事に首肯して、アヴェリンに先行するよう首を動かす。

 その後にミレイユも続き、アキラを伴い部屋を出ようと踵を返した。

 そこでふと気が付いて足元へ視線を移す。床は土まみれの汚れまみれで、思わず気不味い気持ちにさせられた。

 

 だが、そこに文句を言う状況でないのはアキラも承知の上で、だから苦笑する反応だけ見せて、先を促すように掌を外へと向ける。

 それに頷き返して、ミレイユは無言のまま外へ出た。

 

 アパートの二階から見えるのは、隣の住宅の壁や屋根だったが、その上に乗る雪を見て今の季節を思い出した。

 冬の日差しは優し気だが、風は冷たい。

 

 まだ冬は始まったばかり、年末近いクリスマスシーズンに起きたのが、あの氾濫だった。

 雲は薄く拡がり、暗雲とまで言わずとも灰色の空に見える。

 寒さについては散々、標高の高い山を越えて来たから慣れたものだが、不意打ちで食らわされた寒さには、思わず面食らってしまう。

 

 階段を降りて雪と水溜まりが半分ずつのアスファルトを見て、ミレイユはうんざりした気持ちになった。

 汚れる事は覚悟しなくてはならないし、今は急ぐべき時だ。

 アキラの方を見ると、どうやら故郷の見慣れた風景に感じ入っているらしく、泣き笑いのような表情を浮かべている。

 

 しかし、ミレイユの視線に気付くと顔を引き締め、魔力の制御を始めた。

 それを見ながら、ミレイユはまた別の感慨を浮かべていた。

 ――かつて、これと良く似た状況があった。

 

 その時のアキラは全くの素人で、魔物が出たと思しき目標地点へ、走って行く事すら困難だった。

 ただの凡人で、ミレイユ達に付いて行く事も出来ず、荷物の様に運ばれるしかなかった。

 だが今は……今となっては、それに置いて行かれまいと魔力を強い制御で練り込む始末だ。

 

 当初、思い描いていたものとは、まるで違う事になってしまったが――。

 アキラは誰かを守れるだけの強さを、身に付ける事が出来たようだ。

 ミレイユが口角を僅かに持ち上げ、アキラの姿を見つめていると、本人は居心地悪そうに身体を揺らした。

 

「あの……、ミレイユ様。僕の制御、何か悪かったですかね……」

「いいや、見違えたと思っていただけだ。どうやら、担いで運ばなくても済みそうだな」

「――ブフォ!」

 

 ルチアが思わず吹き出して、笑いながら支援魔術を全員に掛けていく。

 ユミルも笑いつつも呆れた様子で、同様に幻術で姿を隠していった。

 

「余裕があるのは結構ですコト。アキラの緊張も、少しは解れたかしらね……?」

「あ……。ミレイユ様……、その為に……?」

 

 情けない顔で抗議しようとしていた顔が、ユミルの一言で感激したものに変わる。

 気に掛けてくれた事を喜ぶ顔でもあったが、それを後ろからアヴェリンが叩く。

 手首のスナップが聞いていた所為なのか、実に小気味よい音を耳が拾った。

 

「お前の緊張ぶりを、ただ見ていられなくなっただけだろう。気負い過ぎるな、と言われたろうに、全く改善が見られないから、ミレイ様が気を使う事になる。戦場に向かうのも初めてではなかろうに、魔力だけに囚われず、もう少し自分自身を制御しろ」

「う、うぅ……。すみません、師匠」

 

 これもまたいつもの光景に頬を綻ばせていると、ルチア達の魔術も掛け終わった様だ。

 ユミルが早く行け、と手を振っているので、アヴェリンに目配せして先行させる。

 そうしてアキラを自分の後ろに立たせると、ミレイユもアヴェリンを追って走り出した。

 

 後ろに立たせたのは、一応護衛の為と、もしも付いて来られなくとも、ユミルがフォローしてくれるのを期待してだ。

 だが実際は、そんな心配は必要なかった。

 

 後ろからユミルが怒声を上げたり、揶揄する声は聞こえないという事は、それはつまりアキラも上手くやれているという事だった。

 直前に見せた魔力制御、そして走る事については以前から一定の評価をされていたアキラだ。

 今更、心配する必要はなさそうだった。

 

 車道を走り、車を追い越し、時に飛び越え突き進むのも、今更驚嘆するに値しない。

 途中、何度かアヴェリンがアキラを気にして背後を振り返る場面もあったが、問題ないと見る度に速度を上げていき、最終的にはスポーツカーも顔負けの速度を出すまでになっていた。

 

 車であれば曲がりきれない直角カーブも、魔力を駆使する走りなら問題ない。

 時にユミルが防護壁を築いて足場代わりにしたりと、上手くフォローしてくれるので、一度も立ち止まることなく疾駆できた。

 

 本来ならバスと電車で一時間は掛かる道程を、このメンバーが能力を駆使すると、十五分未満というごく短時間で到着してしまった。

 外から見る御影神宮は、参拝に向かうには早い時間だというのに、鳥居をくぐる者達の姿がチラホラと見える。

 

 この時間は朝参りには遅すぎ、観光を含め、行動するには早すぎる時間だ。

 それでも参道には、疎らな人で溢れている。その顔には笑顔が溢れ、オミカゲ様に対する信奉の強さが窺えた。

 

 この先の奥宮では、今も奮闘が続けられている筈だし、結界の破壊も遠からず起きようとしていた。

 彼らの笑顔を見たミレイユは、果たしてこのまま捨て置いて、結界内へ侵入して良いものか迷う。

 

「……まずいな」

「おっ、と! ……どうされました?」

 

 参道を前にした大鳥居を前にして、ミレイユは緩やかに動きを止めた。

 それにつられて、すぐ後ろを付いて来ていたアキラ達も足を緩めて止まる。

 アヴェリンは一拍遅れてその動きに気付き、すぐに引き換えしては、ミレイユの横で立ち止まった。

 

 ミレイユは大鳥居の向こうと、そしてそれより手前に広がる商店などを順に見渡してから、参拝者を目で追いながら言う。

 

「……あの時、『地均し』の巨体や攻撃で、結界は破壊寸前まで追い込まれているように見えた。結界術士も良く堪えてくれたろうが、やはり時間の問題だろう。これから戦闘が本格化する事、そしてエルフ兵五百を招き入れて戦闘する事を考えると、結界の維持は不可能と考えるべきだ」

「それは……、そうかもしれません。でも、危険と判断してるなら、既に本庁から警戒を呼び掛けているのではないでしょうか」

 

 アキラが当然の反論を出して来て、ミレイユもそれに頷く。

 本当に危機感を持っているなら、無駄に終わると分かっていても、警戒警報など発するだろう。

 

 オミカゲ様が直接戦闘に関わっている事といい、火急の事態だと認識している筈だ。

 ミレイユが頭の端でそう考えていると、アキラが憂いた顔で憂い声を出す。

 

「あるいは、ですけど……。もしかすると、結界神話を今も信じているから、かもしれません」

「あぁ……。あの日までは一度として魔物を取り逃した事も、破られた事もないというアレか」

「はい。その上で、オミカゲ様のお出ましです。何もかも、無事に終わると思っているのではないでしょうか。或いは、それに縋りたいのかもしれませんけど……」

「何にしても、オミカゲへの信頼が最悪の事態は起こらない、と思わせてしまっている、か……」

 

 往々にして、神宮の人間には良くある事だった。

 オミカゲ様という神格を、あまりに強く思い過ぎて、その思いが行き過ぎる、という事が。

 奥宮の中に電化製品を持ち込ませないのもその一つで、神に相応しくないものは排除する傾向があった。

 

 夜間に敵が忍び込んで来る、それを警戒するのに用意したのも篝火だけだ。

 理力や理術があるのだから、他に用意すべきものなどない、という理屈かもしれないが、万全の準備とは言い難い。

 

 現代の進んだ科学技術なら、それ以外にも多く警戒に役立つものはある。

 それさえも、神の住まう場所に相応しくないという理由で、使う事を許さなかった。

 

 下手に肥大化させたプライドが、神宮内には蔓延っているのだ。

 忌々しく思いながら、ミレイユは今も通り過ぎていく一組の参拝者を、忸怩たる思いをさせつつ目で追った。

 



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そして、決戦の舞台へ その6

ささきもり様、誤字報告ありがとうございます!
 


「私のこの顔は、参拝者達に言う事を聞かせるのに役立つだろうが、混乱の方が大きいかもしれない。何より、呼びかける程度では非効率で心許ない。……神宮の拝殿にも、誰かしら詰めている奴らがいる筈だから、そいつらにやってもらうか」

「警報を、ですか?」

「そうだな、出来るのならば周囲全域の住民に。仮にここでは無理でも、本庁へ連絡する手段くらいあるだろう。……出来る奴に発令してもらう」

 

 アキラは少し考え込んでから、何度も首を上下させる。

 

「現在、本庁でも火の車の様な忙しさだと思うので、即時発令も即座には難しいかもしれませんが……。でも、今の状況を把握している筈ですし、ミレイユ様の言葉なら従うと思いますよ!」

「……そうだといいが」

 

 アキラに頷き返して、アヴェリンへ先行する様に伝えた。

 参拝者の間を縫うように走り抜け、参道を越えて拝殿前に辿り着く。

 そこにはやはり多くの参拝者が詰め掛けており、各々祈りを捧げているようだ。そしてやはり、それらを見守る巫女の姿も見える。

 

 その腕を引っ張り、アヴェリンに持ち上げさせると、流石の巫女も目を白黒させてながら手足をバタつかせる。

 悲鳴を上げようとする彼女の口を塞ぎ、素早く拝殿の後ろまで連れて来て、他から隠れている事を確認した上で開放した。

 

 目を白黒させているのは相変わらずだが、神宮お付きの巫女ともなれば、当然制御技術は持っている。

 そこにいるのが何者か、というのもすぐに分かった様だ。

 

「お、な、何が……!? 御子神様、一体これはどうした事でしょうか!」

「いいか、良く聞け。奥宮に危機が迫っている。ここも危険だ。参拝者を今すぐ逃がせ」

「に、逃がせ……!? しかし、それは……」

「頼んでいるんじゃない。勅命だ」

「ちょ、勅……!」

 

 何を言われているか理解も出来ぬまま、更に混乱させられる事を言われ、巫女は助けを求めるように視線を彷徨わせる。

 だがそこにいるのは、全てミレイユの味方であり腹心だ。

 そして、事態を正確に把握している者達でもあるので、誰も口を挟まない。

 

「すぐに逃がせ。もうすぐ、ここは戦場になる。本庁にも連絡して、緊急避難警報とか、そういうものがあるのなら、すぐに発令してもらえ。私からの命令だと、勅があったと……!」

「し、しかし、お言葉ではございますが、勅の発令には正式な手順と文書にした勅令が必要で……」

「そんなもの、用意している暇がないから言ってるんだ。――いいか、急げ。一刻の猶予もない!」

 

 言うだけ言って肩を叩き、ミレイユはその場を後にする。

 すぐ後ろで悲鳴が上がるのを無視して、奥宮を遮る塀まで一足飛びに走り抜けた。

 そうしている間にも、個人空間の中から箱庭を取り出す。

 

 塀を仕切りとして結界が展開されている筈なので、そこを乗り越えればすぐに戦場だ。

 ならば『地均し』と相対するのも直ぐだろうし、そして、まずその鎧甲を破壊する事が最初の目標となる。

 吸収できる限界以上の魔力を打ち込み、飽和させ、破壊してやらねば、他には何も出来なかった。

 

 その手順を踏むにはエルフの存在は必須だったが、同時に『地均し』が行う攻撃も怖い。

 時間を多く掛けるだけ、兵の数も損ない、勝機は遠のくだろう。

 速戦即決が求められる場面だった。

 ミレイユは後ろを振り返り、ルチアへ尋ねる。

 

「結界の一部を割いて侵入するのに、どれくらい掛かる?」

「慣れた術式です。強固に展開しているとはいえ、三十秒と掛かりませんよ」

 

 それに頷くと、先行して解除しろ、とハンドサインを送る。

 ミレイユを追い抜いて行くのを横目で見ながら、ミレイユは箱庭の上蓋を開けて、中に向かって雑に魔力を解き放つ。

 

 破壊が目的ではないので、威力は抑えて、あくまで匂いを散布するようなイメージだった。

 これを感知したインギェムは、即座に孔を展開してくれる筈だ。

 幾らの猶予もないが、繰り返し結界に対しアプローチしていたルチアが言う事だ。疑う気持ちは皆無だった。

 

 そして宣言通り、三十秒と掛からず、ひと一人が通れる程の隙間を塀の上に作ると、こちらを振り返って手招きする。

 

 先にアヴェリンが入るのは、どんな時でも彼女の役目だ。

 それに続いてミレイユが入ると同時、手の中の箱庭が明滅を始めた。

 タイミング的に、孔が展開されるという合図だろう。

 

 狭い場所で出て来られても拙いし、『地均し』から遠い場所を選んでも、狙い撃ちにされて壊滅させられる恐れがある。

 それならば、いっそ近過ぎるぐらいの場所の方がマシかもしれない。

 

 手の中の明滅が強くなって、いよいよ持ち続けるのも怖くなった時、結界の中の惨状が顕になった。

 あの日、あの時、あのままの光景が目の前に広がっている。

 

 焼けて落ち窪んだ地面が晒され、綺麗に整えられていた庭は見る影もなく、魔物の死骸や残骸で溢れている。

 どこもかしも血臭がしていて、この世の地獄が顕現したかのようだった。

 そうして、遠くに向けた目の先には、オミカゲ様を守り、盾にならんと奮闘する隊士達の姿も見えた。

 

 ミレイユ達が侵入した地点は、幾条もの光線を放つ『地均し』と、それを守る隊士達の間だった。

 今まさにミレイユを送還し終わったところで、閉じようとしている孔の中へ、身を投じるアキラの姿も見える。

 

「間に合ったな、いいタイミングだ。――そして、全ては、ここからだ」

 

 ミレイユは光の収まった箱庭を、『地均し』とオミカゲ様の中間地点に投げ飛ばす。

 地面にぶつかり音を立てるかと思いきや、それを隠すかのように孔が展開し、みるみる内に拡がった。

 それなりに大人数を通す必要がある為か、ミレイユ達が使った時より幾分大きい。

 

 その孔の奥から、戦意を漲らせた魔力の奔流が発せられた。

 誰も彼もがやる気を溢れさせ、臆する者など誰一人いない、と主張するかのように昇り立つ。

 

 大変頼もしいが、孔から出て来るのは敵である、という先入観を持つ隊士達からすると、非常に恐ろしい存在として映るのではないだろうか。

 それが人と殆ど変わらない姿だとしても、戦意を漲らせた敵として、まず認識する危険がある。

 

「ミレイ様、事情を知らない隊士達は、あれを見て先制攻撃を仕掛けようとするやもしれません」

「……そうだな、確かに。敵の増援と判断する、か。事情の説明が必要だ。――アキラ、隊士達に味方だと説明してこい」

「了解です!」

 

 返事と同時に走り出し、オミカゲ様の盾となっている者達へと一直線に近付いていく。

 アキラと旧知の仲も居る筈だし、あれでとりあえず事情は理解するだろうが、それだけで十分とは言えなかった。

 ミレイユは次いで、アヴェリン達に視線を移す。

 

「お前たちは一応、孔かエルフ兵に攻撃が来ないか警戒だ。攻撃されてしまえば、エルフもやはり反撃するだろう。その事情を説明と、防御役も兼ねてな」

「良いけど、アンタは?」

「オミカゲへの説明も必要だ。愚痴めいた言いがかりの一つでも、言ってやらないと気が済まないしな」

「あら、そう。感動のご対面ってワケね。好きになさいな。けど、防ぎ切れる自信はないから、早く帰って来なさいね」

「そんな余裕もないのは、私が一番良く知ってる」

 

 ユミルと互いに笑みを交わし、傍を離れた。

 『地均し』と新たに出現した孔へ睨み付けるオミカゲ様へと近付いて行く。

 憎々しく、また忌々しく孔を見つめ、下唇を噛む姿は、これ以上は無理だと諦める寸前の様に見えた。

 

 そこへ隊士達が張っている防壁を回避する為、跳躍しつつ大回りし、それからオミカゲ様のすぐ傍で着地した。

 エルフが姿を見せ始めた孔を注視していたオミカゲ様は、ミレイユの接近にはまるで気付いていなかったらしい。

 すぐ傍で地を叩く音に、警戒心も顕に顔を上げ、そしてポカンと口を開ける。

 

「そ、そなた……? 何が、どうして……?」

「帰ったぞ」

 

 口の端を曲げて帽子を脱ぐと、今し方、閉じたばかりの孔とミレイユを交互に見返す。

 傍で治癒を施している隊士や、見知った顔の女官も、何が起きたか理解できない顔をして、二人の顔を見つめていた。

 

 流石のオミカゲ様も、この事態は想定していなかったらしく、まるで状況を把握できていない。

 血に濡れた腹は何箇所も穴が開いていて、口からも血を流しているから、その所為で頭の回りも悪いのだろうか。

 

「……何でいるのか、分からないのか?」

「分からぬ……、我は何を失敗した? 送還すら、満足に行えなかったか……?」

 

 オミカゲ様の顔は絶望に染まり、わなわなと震えて膝を付いた。

 その直前に、腹に穴を開けた攻撃を思っての事だろう。

 自らの胸と血に染まった両手を見て、全身を震わせ絶望している。

 

 なるほど、そういう勘違いをしても仕方がない。

 オミカゲ様にしても、横槍となる攻撃を胸に受け、腹に穴を開けられた状態で、絶対に失敗しない保障などなかっただろうから。

 

「われは、われは……っ! ゴホ! ゴボァ!」

 

 急に咳き込み、胸を押さえながら吐血する。

 その目は既に生を諦め、全てを放棄しようとしている様に見えた。

 最後の希望、己の全てを託した筈が、最後の最後、受けた傷で失敗したと思っている。

 

 下手な勘違いを、いつまでもさせておけない。

 ミレイユもまた、オミカゲ様の傍にしゃがみ込みながら、治癒術をその胸に当てながら言う。

 

「そうじゃない、やり遂げたんだ。ループを断ち切り、全てを救った」

「ループを断ち切り……? やり遂げ……、真か?」

 

 オミカゲ様の顔はみるみる歪んで、縋るように血に濡れた手を差し出して来る。

 ミレイユはその手を力強く握り、そしてそれ以上に強く頷いて見せる。

 

「本当だ。私はやり遂げた。――だが、全てというなら、この世界こそ放っておけない。私は……、お前もまた救いに、ここへ還って来た」

「お、おぉ……」

 

 オミカゲ様はその手をぶるぶると震わせ、もう片方の手ものろのろと伸ばし、希望に縋るような視線を向ける。

 それはまるで、幼子が母を求めて手を伸ばすかのようだった。

 放っておけず、その手もまた握って見つめ返し、安心させるよう、真実だと伝わるように微笑む。

 

 そうすると、オミカゲ様の両目に、みるみる内に涙が溜まった。

 ミレイユの手を引き込み、額に当て、祈るように頭を下げた。

 

「おぉ、オぉぉぉ……ッ!」

 

 それは嗚咽だった。

 感情の決壊、千年の労苦が報われたと理解した故の決壊だった。

 流れた涙が手に掛かり、それがまるで熱湯の様に熱い。

 

 ミレイユの手を握る力は強く、ともすれば握り潰されるかと思う程だったが、オミカゲ様の悲嘆を思えば、その程度どうという事はない。

 

 しかし、敵の攻撃も続き、そしてエルフ兵も全て孔から出てた事を確認したからには、いつまでも待っていてやる訳にはいかなかった。

 ミレイユは治癒術の制御を止めて、オミカゲ様の肩を叩く。

 

「帰って来たのは、あのデカブツに思い知らせてやる為だ。だから、エルフの兵も連れて来た」

「あぁ……、あぁ……! ……では、先の孔は……」

「私が開けさせた孔だ。鎧甲を破るには、飽和させるだけの魔力が必要……だろう?」

 

 オミカゲ様は、これには無言で何度も行う首肯で答えた。

 何かを言いたいが、それが言葉に出来ないのだ。その出せない気持ちは良く分かる。

 だから、ミレイユは改めて力強く宣言した。

 

「立て。構えろ。誰を敵に回したか教えてやれ。――反撃開始だ!」

 



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そして、決戦の舞台へ その7

 オミカゲ様は血の混じった唾を吐くと、口元を拭って『地均し』を睨み上げた。

 野趣溢れた仕草だというのに、そこにも気品の様なものが漂っている。

 身に付けた教養の差、生きた年月の差を感じて、やはり自分とは別人だなと思い直した。

 

 絶望に顔を歪ませ蒼白だった顔色も、今では興奮で朱く火照っている。

 胸に当てた治癒術の光は強く輝き、身体を支えていた隊士達を退かして立ち上がった。

 同じくオミカゲ様を支えていた女官の一人は、ミレイユのお付きだった咲桜だと分かり、思わず懐かしさが募る。

 

 だが、感慨に耽る事はいつでも出来るのだ。

 ミレイユもまた『地均し』を睨み付けながら、隣に立つオミカゲ様へ、作戦の概要を説明し始めた。

 

「まず、やりたい事は魔術を撃ち込む事だが、一つ仕掛けが要る」

「五百のエルフと我が隊士ら、それらを含めても……飽和が可能かは賭けになるであろうな。失敗すれば破滅と同義よ。仕掛けが必要なのは理解できる……が、更なる援軍の当てでもあるのか?」

 

 オミカゲ様はエルフが全員出揃っても残っている孔へ、視線を移しながら言う。

 そういう事じゃない、とミレイユは首を振りながら答えた。

 

「刻印魔術の事は覚えてるか? あれを使う」

「だがあれは……、魔術士未満を魔術士へと押し上げるものでしかなかったろう。実力ある者が身に付けたとて、むしろ枷である思うていたが……」

「その認識は正しい。しかし、今回はそれが役に立つ」

 

 ミレイユは自分の背中を親指で差しながら言った。

 不審な目付きは当然で、当時のオミカゲ様が価値なしと判断したなら、深く興味を示さなかったとしても仕方ない。

 

 多くの場合、無詠唱で使える魔術という意味で効果的な刻印だが、同等以上の事が出来たオミカゲ様からすると、魅力的には映らなかった事は否めない。

 以降、それ以上深く知ろうとせずにいたからこそ、今の様な発現なのだろうが、刻印には刻印でしか扱えない魔術というものもあった。

 そしてだからこそ、有用な刻印がある事も知らなかったのだろう。

 

 既存の兵力で確実な飽和が出来なくとも、『求血』の刻印を用いる事で、それが可能になる筈だ、とミレイユは見ていた。

 ただし、これには発動までに時間が掛かり、そして全てが自動化されている刻印だからこそ、自分で最適な調整をする事ができない。

 

 刻印へ籠められた魔力に応じて、『求血』は溜め込む魔力容量を最大化させる。

 これが溜まり切る事で爆発し、溜め込んだ魔力以上の威力をぶつける、という効果なのだ。

 非常にリスクを伴うが、爆発すれば間違いなく飽和させる事が出来るだろう。

 

「とにかく、私を信じろ。これから使う刻印は、敵にダメージを与えない。それどころか、それ以降、敵に放つ魔術を吸収して、傷の一つも与られなくなる」

「駄目ではないか」

「いいや、この場合は不利になるばかりとも限らない。魔術を打ち込もうと、飽和させるだけの魔力を溜め込めなければ、無為に帰すからな。それは同時に、鎧甲に吸収される魔力は生まれない事を意味する」

 

 オミカゲ様は一応の納得を見せたが、だからどうした、という表情を向けて来る。

 ミレイユはそれに頷きながら続けた。

 

「敵に利を与えない、という効果だけでも意味があるだろう? そして、飽和させる事が出来たなら、その倍以上の威力を与えてやれる。謂わば、負けの無いギャンブルだ」

「なるほど……、それは良い。そして溜め込んだ分の、倍の威力か……。これから我らが放つ術、その全てを集約させた威力、それが倍にしてやれると……」

 

 得心した顔で頷くオミカゲ様に、ミレイユは尚も頷いてやる。

 

「元より鎧甲が持つ吸収効果を飽和させられなければ、ダメージが通らないのは同じ事だ。仮に『求血』の方が失敗しても、失うのは自分たちの魔力だけで済む」

「なるほど、飽和するまで溜め込む事は骨であろうが、利は大きい。……その為に必要な時間や魔力量は?」

「分からない」

「……は?」

 

 オミカゲ様の口から呆けた声が聞こえて、ミレイユは申し訳なく思いつつ渋面を浮かべる。

 それを試す機会を、ここまでの道中で一度でも使っていればと思っていたのだが、あの刻印は十全な味方のサポートがあって初めて出来る事だ。

 

 アキラという壁役がいたとしても、神々相手は基本的に不利な戦いの連続だった。

 起死回生の手段と使えるものではあったが、同時に自分をより不利な状況へ追い込む手段でもある。

 窮地にあって使うには、リスクばかりが高くて、これまでは使う機会がなかったのだ。

 

「試すつもりはあったし、やるとするなら最古の四竜を相手に、と考えていたんだが……。その機会も消えてしまったからな……」

「そなたがあちらで何をして来たのか、非常に興味が湧いてきた……が、今は置いておこう。ともあれ、運頼みの神頼みで挑むしかない、という事か」

「運はともかく。神ならここに、頼りになるのがいる。何とかなるだろうさ」

 

 オミカゲ様は意外そうな顔を向けると、次いで照れくさそうな、或いは誇り高そうな顔付きで笑った。

 何とも忙しない百面相を見せている間に、隊士達の中でも突如現れた見慣れぬ者(エルフ)達が、味方であると理解したようだ。

 動揺は見られるが、戦闘続行に問題はない様に思える。

 

 『地均し』の攻勢は、現在一時、鳴りを潜めていた。

 しかし、それはエネルギーを溜め込む時間であったり、何かインターバルが必要な攻撃であったのかもしれない。

 

 攻撃された者は普通、自衛ばかりでなく反撃にも転じるのが基本で、巨体に対してはまず遠距離攻撃を仕掛けようとする。

 そして、その場合、多くが魔力を伴う攻撃を選ぶのだ。

 

 かつてユミルが推察したように、攻撃される事、魔力を吸収する事を前提とした運用が『地均し』であるのなら、攻撃の合間が長い事にも説明がつく。

 ならば、大人しくしている今が態勢を立て直すチャンスだった。

 

「……大丈夫か、走って動けるか?」

「老人扱いするでない」

「老人でなくとも、怪我人だろう」

 

 オミカゲ様は、ミレイユの気遣いに鼻を鳴らす。

 今ではすっかり出血の止まった胸を、さらりと撫でた。

 

 最早、心配される謂れはない、と誇示したからには、ミレイユも余り過度に気に掛けるのを止める。

 直前に見たオミカゲ様の弱々しい姿を見て、つい出した優しさだったが、あるいは不遜であったかもしれない。

 ミレイユは意識を切り替え、改めて『地均し』を本格的に見据えた。

 

「じゃあ、その他諸々、総指揮は任せていいな? 私が連れて来たからには、エルフの面倒は自分で見るが、多分それ以上の余裕はない」

「構わぬが……、それほど刻印の扱いは難しいのか? そなたともあろう者が、たかがその程度の余裕しかないなどと……」

 

 ミレイユはこれには答えず、曖昧に頷くに留めた。

 自分と同程度の事は出来ると思っているオミカゲ様には分からないだろうが、今のミレイユは魔力の扱いに難がある。

 

 素直に伝えても良かったかもしれないが、どうにもオミカゲ様の前だと強がりたい気持ちが勝ってしまう。

 弱みを見せたくないと思ってしまい、だから答える事なく刻印に魔力を通した。

 

 慣れるまで扱いが難しい、という話は聞いていたが、それは魔力制御を得意とする者には当て嵌まらない。

 刻印に対して、一本の糸を引くように、僅かな魔力を流してやれば良いだけだ。

 

 それで自動化された魔術が発動する。

 後は正しい指向性を制御してやるだけで問題なかった。

 

 ミレイユは、隊士達が築く防壁を迂回し、エルフとアヴェリン達が待つ前線へと戻りながら、刻印の魔術を放つ。

 それは拳大の大きさの光球となって飛んで行くと、『地均し』と触れるより前に拡散して消えた。

 

 ――失敗したか……?

 あるいは、この魔術効果すら鎧甲に吸収されたか……。

 やはり、一度くらい事前に動作確認をしておくべきだった。

 

 そこまで入念な準備をしていなかった自分に歯噛みして、作戦に大幅な修正が必要だと思考を回転させていると、光球はただ消えた訳ではないと、『地均し』の異変で気付いた。

 

 正確には、『地均し』の周辺に光の粒子が渦巻くように揺蕩(たゆた)っている。

 質量が巨大過ぎる余り、術の適応範囲を作るのに時間が掛かっているのかもしれない。

 術が使われる想定として、あそこまでの大質量を考慮に入れられていないのは納得で、掛ける対象の分析などを、あの粒子が成しているのだろう。

 

 全体を覆う事は出来ているものの、あまりに希薄になり過ぎている所為で、術が正常に発動していないかに思えてしまう。

 だが、その光球が広く散布しているからこそ、見えないだけだったようだ。

 ミレイユはエルフ達の傍らに立つと、大きく声を張り上げた。

 

「――皆、よく来てくれた! 見ての通りだ、敵は巨大! そして強大だ! あのゴーレムに対し、持てる限りの魔術を放つ事こそ、諸君の役目だ! 効果が無くとも打ち込み続けろ! 私が望むのはそれだけだ!」

「オォ! オォ! オォォォォ!」

 

 強大な敵を前にしても、見知らぬ世界に投げ出されても、尚エルフ達の戦意は高かった。

 中には年若い者も多かったが、中年に見える者もまた多い。

 

 それらはヴァレネオと同年代で、そういう者達は例外なく、二百年前共に戦った者達だ。

 再び戦場を共に出来る興奮に溢れていて、臆する気配は微塵もなかった。

 

「防護についてはこちらでやる! ただ攻撃せよ! 敵の鎧が剥がれるまで、ひたすら攻撃を続けろ!」

「オォォォォッ!」

「制御始めろ! ――打ち方始め!」

 

 ミレイユの号令を元に、エルフ達が制御を始めた。

 それぞれが得意の魔術を使用するので、その手に集まる燐光の色はそれぞれ違う。

 

 彼らの魔術だけでは、限界まで振り絞ったところで、おそらく飽和まで持っていけない。

 しかし、エルフらと隊士達――そして隙が許すなら、ミレイユ達が力を合わせる魔術は、必ず鎧甲を打ち砕く筈だ。

 

 これもまた確証あってやる事ではない。

 だが、これで駄目だというのなら、何をしても無理だと思う。

 ミレイユはエルフ達、隊士達、そして最も頼りなる仲間たちを見つめた。

 

 ――これで駄目というのなら、返って諦めが付く。

 ミレイユは自嘲にも似た笑みを浮かべたが、同時に彼らの表情を見て、大丈夫だという確信が持てた。

 何の根拠もない確信だが、今はその気持ちに身を委ねたかった。

 

 エルフ達の攻撃が始まるのと同時、『地均し』からも攻撃が放たれた。

 目の部分に相当する、巨大なレンズから放たれる極太の光線だったが、それをルチアと共に防護壁を築いてエルフ達を守る。

 

 防護壁と光線が接触すると、まるで鉄同士をぶつけあったかのような重厚な音が鳴り響いた。

 かつて、オミカゲ様一人で受け切った事もある攻撃だから、二人がかりなら平気と思った。

 しかし、どこかオミカゲ様を甘く見ていたのか、予想に反して想像以上に重い。

 

「く……ぁっ、これ、ほど……っ!」

「ミレイさん!」

 

 楽な攻撃と侮るつもりはなかったが、余りの威力に身体が押された。

 腕を突っぱり続ける事も難しく、ルチアも同じく防護壁を苦しそうな顔で張っている。

 顔を向け、声を掛ける程度の余裕はある。だが結局、その程度が限界らしかった。

 

 互いに顔を歪め、歯を食いしばって耐えていると、横合いから隊士達の理術が飛んで行く。

 今はとにかく、一撃でも多くの魔術をぶつけるのが優先だ。

 それをありがたく思いながら、全く足りていないとも思ってしまう。

 

 エルフ兵は攻勢魔術士ばかりで構成されているし、他を用意できる余裕がなかったとはいえ、今は無い物ねだりをしたくなる。

 ――いつまで耐えられるか。

 

 それが問題だった。

 寿命の問題もある。

 

 防御ばかりに魔力を使いすぎても、攻撃へ転じる際に(カラ)となっていては意味がない。

 支援術を使える隊士は、結界術士の方に持っていかれた筈だし、そこから再度引っ張って来させるのも難しいだろう。

 

 光線の圧力が増し、更に押し込まれそうなった時、ミレイユの頭上を飛び越えて、一つの魔術が『地均し』へと突き刺さった。

 特大の光球は接触と同時に吸収されてしまったので、爆発などの影響が出る事こそなかったが、それでも大きさ相応の衝撃は与えられたようだ。

 

 『地均し』の身体が押された事で僅かに傾き、光線もミレイユ達をそれ、地面を抉った。

 目標から外れた為か、光線も一度放出が止まる。

 一拍の間を置いて、『地均し』の両脇付近が機械的に開くと、盛大に蒸気を発して元に戻る。

 

 忌々しい気持ちで睨み付けていると、ミレイユ達の直上から、オミカゲ様が宙に浮いて滑る様に近付いてきた。

 先程の特大の光球も、きっとオミカゲ様がやった事だろう。

 

 それほどの術者は、そもそも彼女以外にいない。

 ミレイユは防護壁を維持しながら、見える範囲へ勝手に近付いてきたオミカゲ様へと、倦怠感で重く感じる口を開いた。

 



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そして、決戦の舞台へ その8

ささきもり様、誤字報告ありがとうございます!
 


「……お前が前線に出てきてどうする。全体の指揮を取るんだろう?」

「それは阿由葉に任せた。今なにより欲するのは、魔力を敵にぶつける事であろう。玉体守護などと後方へ追いやられては、出来る事も限られる」

 

 確かに今は、どのような手であろうと借りたい場面だった。

 護られる立場であるのも確かだが、現状、オミカゲ様より頼れる味方も存在しないのだ。

 

 それに、護られねば戦えない程、か弱い存在でもない。

 今はその提案に有り難く頷いていると、オミカゲ様は『地均し』を見据えつつ、揶揄する様に言って来る。

 

「それにしても、らしくないではないか。重い攻撃であるのは事実だったが、そこまで押される程か?」

「……こっちは神々の頭を、潰して回って来た直後なもんでね……。疲れも相応にある」

「休んで来れば良かったろう。時間的制約は、この場合関係しないであろうに」

「そうも言ってられない事情が、こっちにもある」

 

 ふむ、とオミカゲ様は思案顔で息を吐いたが、それ以上詳しく追求しようとはしなかった。

 チラリと視線を向けた先では、アヴェリンが何か言いたげにしていて、その表情を見るなり淡く笑む。

 その笑みに誘われるようにして、アヴェリンが戦闘態勢を崩さぬままに頭を下げた。

 

「お久しぶりです、オミカゲ様。ご無事で何よりでした……!」

「我にとっては瞬きの間だったが……、そうか。久しぶりと言える時間を、あちらで過ごしたか」

「――まぁね、話してやりたいコトも色々あるんだけど、まずはアッチでしょ」

 

 ユミルが横から口を挟み、笑みを向けながら制御し終えた魔術を放った。

 幾条も連なる紫電が『地均し』へ突き刺さり、そして、その全てが『求血』によって生み出された光の膜に吸収されていく。

 

 確かに今は歓談するより、攻撃をぶつけ、反撃に対応する事の方が優先だった。

 アヴェリンは現状、ミレイユの壁役として備えて構える事しか出来ない。しかし、だからと会話を弾ませる訳にもいかなかった。

 

 『地均し』の攻撃も、単に力押しの光線ばかりでない事は学習済みだ。

 その巨体故、満足に立ち上がる事も出来ず、今は四つん這いの格好だが、その背は結界に触れて今にも飛び出してしまいそうな不安感がある。

 

 背の形に沿って結界が(たわ)んでしまっており、それでも維持できているのは、今も結界術士が必死の思いで留めているからだ。

 だが、その努力も、いつまで保つか分からない。

 

 『地均し』の鎧甲を剥ぎ取る事は、最低限の勝利条件でしかないのだ。

 それで結界への負担が減るとは限らないが、結界術士たちが耐えきれなくなる前に、倒してしまうのが最善だった。

 

 今のミレイユには防護壁を展開するだけでもそれなりに負担で、両手で別々の魔術を使う余裕などない。

 とにかく魔力の巡りが悪く、まるで重しを付けたかのように制御が上手くいかなかった。

 それでも、今だけは攻撃に参加したものかどうか迷う。

 

 アヴェリンは物理的な盾と考えると非常に頼りになるが、魔術に対しても同様に頼る事は出来ない。

 全く無力ではないし、下手な盾より頑丈な役目を果たしてくれるだろうが、正しく()()()()()守ってくれるだけだ。

 

 その損耗を取り戻せる余裕はなく、使い潰しの様な形になるだろう。

 アヴェリンをその様な形で失うのは避けたかった。

 

 今まではミレイユ自身と、ルチアの魔術もあるから今まで気にしてなかったが、現状は防御の数が足りていない。

 忸怩たる思いで『地均し』を睨む。

 

 だがそこに、駆け足で背後が迫って来る気配があった。

 誰だと思っている間に、ミレイユの傍までやって来て、『地均し』とミレイユの間、射線を切るように身体を滑り込ませながら謝罪の言葉が飛んで来た。

 

「申し訳ありません、遅れました!」

 

 それはアキラだった。

 刀を構えて『年輪』を発動させつつ、オミカゲ様にも敬意の籠もった礼をした。

 

 戦闘中である事も加味して略式だが、そこに向ける信仰の厚さは相変わらずのようだ。

 だが、丁度求めていた防御役が来てくれた事で、ミレイユも攻撃に参加できる目処が立った。

 

「アヴェリン、アキラを上手く使って守ってくれ。少し……攻撃に専念する」

「ハッ、お任せ下さい!」

「はいッ! その為の刻印です!」

 

 二人が同時に返事した事、それが引き金かの様だった。

 『地均し』のレンズが収縮と拡大を繰り返し、目標を見定め終わったかと思うと、今度は幾条にも枝分かれした光線を吐き出して来る。

 

 直前にレンズで見られていた事からも、目標はミレイユだと知れている。

 放物線を描いて迫る攻撃は、ルチアが展開する防御壁を回避しようとしているが、一度見た攻撃(モノ)なら同じ手は通用しない。

 光線の動きは曲線だからこそ、どうしても速度は直線より遅くなる。

 

 極太の光線をそのまま細分化したようなものだから、細い分だけ数も多いが、二つの盾があって回避できない程ではなかった。

 アヴェリンの盾は魔術に対して効果的でないにしろ、無力でもない。

 

 そしてアキラが持つ不壊の付呪は、光線を受け止めるのにも役立っていた。

 アヴェリン程、技巧を駆使して防げる訳ではないが、その代わりに身体で受け止めるという無茶が出来る。

 結果としてミレイユには一つも直撃させず、そしてミレイユは魔術の制御に集中して練り込む事が出来ていた。

 

「防げん事はないが……!」

「ぐっ! ぐぎ!」

 

 『地均し』の光線は、使う規模によって、連射力も継続量も違ってくるらしい。

 極太の光線は短時間の放出で止めていたが、今度はいつまでも続くかのように細かい攻撃が続き、終わりが見えない。

 

 敵の攻撃も、専ら狙うのはミレイユかオミカゲ様で、他のエルフや隊士達へは目もくれない。

 その程度の攻撃は放って置いて問題ないという判断か、まず最も厄介な相手から始末するつもりなのか……。

 その両方、という気がした。

 

 オミカゲ様もあの時と違い、ミレイユを守り、そして送り出すという制約がない為、自由に空を飛び回避か防御をして凌ぐ事が出来ている。

 また、その手から撃ち込まれる魔術は、エルフたち五百人と比べても遜色ない規模だ。

 上級魔術を、初級魔術と同じような気軽さで扱っている。

 

 流石に『雷霆召喚』の様な大規模魔術を使う事はしていないが、十分強力な魔術を軽々と扱う様は、流石の一言に尽きた。

 かつて、ミレイユたち四人を相手取ってでも、強制送還してやると大口叩いていた事を思い出す。

 あれを見ると、今となっては全くの嘘という訳でもなかったな、と納得してしまった。

 

 攻撃の手はそれで良しとしても、敵の攻撃を防ぐ事に関しては、まだまだ不安が大きい。

 何とか防ぎ続けているものの、アキラから悲鳴の様な声が上がる。

 

「……全くキリがない!」

「泣き言を垂れるな! 一つでもミレイ様に届かせてみろ! 戦士の恥だぞ!」

 

 二人が身を挺して守ってくれているお陰で、ミレイユも攻撃に専念できている。

 今もまた上級魔術を撃ち込み、その魔力が『求血』が吸収していく様子を観察していた。

 

 『地均し』にしても魔術を撃ち込まれる事、それでダメージを負わない事は予想どおりだろうが、自身の動力へ転換されない事は不思議がっている頃だろう。

 敵にダメージを与えずとも、次々と打ち込まれ続けている魔術は、刻印効果で『求血』の方に吸収されている。

 その魔力は、その吸収量に応じて『地均し』を覆う膜――光球の数と大きさを増やしていた。

 

 最初は靄のように薄い膜に過ぎなかったが、吸収するにつれその靄一つ一つが点の大きさに肥大して、更に吸収を続ける事で、今では爪ほどの大きさまで成長していた。

 

 前に受けた説明では、蓄えられたエネルギーは光球に集まり、それが限界まで膨らんで破裂するものだと認識していた。

 だが対象が巨大すぎる余り、想定とは違う形で術が形成された結果、いま目の前で起きている現象となったらしい。

 

 蓄えた魔力を倍にした上で爆発するという効果を発揮する為に、今はあの光球一つ一つが蓄えている最中なのだろう。

 『地均し』を覆う光球は凄まじい数で、隙間なくびっしりと囲んでいる。

 到底、目で数えられるものではないが、それらの大きさにはバラ付きがあった。

 

 それらが全て同じ大きさになるまで、続ける必要があるだろう。

 その上、光球の大きさは、まだ肥大化を続けそうでもある。一体どこまで溜め込めば良いのか、ミレイユにも全く想像がつかない。

 

 そして『地均し』を覆う変化、その異変はミレイユ達ならずとも、受けた『本人』にも当然察知できる頃だろう。

 先程からして来る攻撃は、機械的な動きと反応しか見せないが、『その中』に何かがいる筈だ、とミレイユは疑っている。

 想定とは違う事、思うように倒せない事、そろそろ業を煮やしていてもおかしくない。

 

 先程までのオミカゲ様は勝てない事を悟って、早々にミレイユを送還する事に決めた。

 一方的に通る攻撃は、なおさら『地均し』にとって楽勝のように見えていただろう。

 

 だが、勝利の筋道が見え始めた状態から、オミカゲ様も出来る限りの猛反撃へと切り替えている。

 作戦開始当初は、エルフを守る盾はルチアぐらい張れていなかったが、今では隊士達との連携も取れ始め、協力して光線を受け止めるようになっている。

 

 オミカゲ様から逸れたものだったり、ついでのつもりの攻撃だったりしたものでも、未だに光線による被害は出ていなかった。

 何一つ、『地均し』に対して事態が好転していない状況……、()に何かがいるのなら、冷静さも失われる頃だ。

 

 何か新しい事を始める前に、押し切ってしまいたい、という気持ちが湧く。

 果たしてこのまま鎧甲を剥ぎ取れるかどうか――、そう思った矢先の事だった。

 

 『地均し』が地面に着けていた手を持ち上げ、腹の当たりを両手で抑える。

 見ようによっては腹痛を堪えているようだが、勿論そんな筈はない。

 何かを取り出す為か、あるいはそこにあるものを見せたくなくて、隠してやっている事だろう。

 

 『地均し』は鎧甲によって身を守っている為、排熱機関にも蓋をしてしまっている状態だ。

 だから脇の下という攻撃し辛い場所に、スライド開閉式の排熱機構を持っている。

 

 ならば、今している動作も、それに近い何かしらの行動であるのかもしれない。

 明確に弱点を晒す事になるのを嫌がって、あぁして隠していると考える事も出来た。

 

 問題は、仮に弱点だとしても魔術攻撃は『求血』効果によって吸収されてしまう事で、物理攻撃を仕掛けようにも距離があり過ぎて難しい、という事だった。

 

 巨大な掌に隠されている為、その中で何が行われているのかも分からない。

 魔術を放ちつつも警戒しながら身構えていると、『地均し』とミレイユ達の間、その中間地点に『孔』が出現した。

 

 それも一つではなく、二つ、三つと数を増やし、最終的に五つの孔が作られる。

 アヴェリンが訝しげながらも口を開いた。

 

「ここに来て、孔を再出現させる……?」

「『地均し』にはその装置があるから、使う事そのものは意外ではないが、この場面でか……?」

 

 必要というなら、奴が通って来た孔がある。

 とはいえ、それは通過と同時に消失していったので、一度消したからには再度使い直す必要があるのかもしれないが、どうにも段取りが悪い。

 

 もう必要なし、と判断したからこその消失だったのだろうし、それだけ『地均し』の性能に余裕や自信があったのだろう。

 だが、ミレイユ達が見せる猛反撃までは予想外だった……、そういう事かもしれない。

 

 再度開かれた孔は小さく、警戒する程の敵は出て来そうもなかった。

 だが、五つも孔があるだけに、出現しようとする数も多い。

 

 だが、その中にはミレイユにとって見慣れた敵もいれば、全く見たことがない魔物もいる。

 それどころか、生態系からして全く別の、触手を生やした宇宙生物の様な魔物までいた。

 

「ところ構わず、選ぶ先さえ考えず、手当たり次第に繋げたか」

「……何たる事か。あれは止めたかった」

 

 オミカゲ様の零した一言は、この場全員の総意に違いなかった。

 



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最終章
奮戦 その1


長らく続いて来た拙作ですが、遂に最終章へと入りました。
完結までもう少し、お付き合い頂ければ幸いです!
 


 ミレイユもまた、オミカゲ様に同意しながら『地均し』を睨み付ける。

 そこへ、オミカゲ様が訝し気に穴を見つめながら、言葉を零した。

 

「そなた先程……、()()()()がある、と申したか? 『地均し』には孔を作る装置が備わっている、という意味か?」

「いや、そういう意味じゃなく、権能そのものを使う装置だ。あちらの世界で神を名乗っていた奴ら、その権能を、どうやらそのまま使って来るようだ」

「よう、とはまた……。不確かな事を申すものよ。確度の高い情報か?」

「高いと思っていたし、きっとそうだろう、という推論を立てていた。そして、今しがた見せられたものから、その推論が確信に変わったようなものだ。全く……ッ!」

 

 悪態と共に吐き捨てて言ったミレイユだったが、事情を飲み込めていないオミカゲ様は更に表情を険しくさせる。

 また一つ、新たに魔術を撃ち込み、近付きながら尋ねて来た。

 

「だが、ゴーレムに権能が使えるとは思えぬ。魔術秘具で魔術を再現できるからと、権能まで再現できるとは思わぬ事だ。やろうとしている事は似てようと、原理は全く別物であるのだぞ」

「あぁ、つまり『地均し』を作り、装置を作ったのが大神だから、可能となった事なんだろうさ。八神の権能をコピーするなんて、そもそも大神でなくば不可能だろうし、中に大神が居るからこそ使用出来てる、という気もするしな」

「何……、大神が? それに、八神……? 何がどう違う?」

 

 そこからか、とミレイユは思わず顔を顰めた。

 オミカゲ様にとって大神とは、十二柱の事を指すのだろうし、八という数字に耳馴染みがないのは仕方ない。

 

 しかし、細かいところまで説明すると時間が掛かり過ぎるし、そんな事をしている余裕はなかった。

 その上、細かい部分は戦闘に関係ない部分でもある。

 

「とにかく、あの『地均し』には神々の権能を利用できる機能が備わっている。いつだったか、孔が継続して作られているのは自動的だからこそ、という話をしていたろう。――どうやら、()()がやっていた事らしい」

「にわかには信じがたいが……、今は目の前の事実を受け止めるしかあるまいな。では、使える権能とは、その孔を生成する事のみ、と考えて良いのか? ――いや、八神……つまり、その数に見合うだけの権能があると想定すべきか」

 

 長く生きるだけあって、それ相応に思慮深くあるのは頼もしい。

 詳しい説明の必要なく、即座に理解して貰えるのは有り難かった。

 

「そして、神は世界を越えられない、という理の抜け道を作って、この世界へやって来た神がいる。――つまりそれが、あの中で隠れているんじゃないか、と私は疑っている」

「それがお前の言う大神か。……しかし、可能なのか、そんな事が……? 前提を覆す抜け道など、早々……」

 

 オミカゲ様の瞳は、懐疑的に『地均し』へと向いている。

 実際、それは口で言うほど簡単な事ではないだろうし、可能だからと実行できる事でもないのだろう。

 

「肉体を捨てる事が前提だから、だろうな。本来なら魂だけになっても、『遺物』が強制的に収奪する筈だが……大神が造ったものなら、例外を設ける事も可能だったのかも……」

「仮にそうだとして、本当に出来るなら、話はもっと簡単だったろう。何故ミレイユを取り戻すのに、あんなまどろっこしい真似を……」

「目的を全く異にしているから、だろうな。あの中に隠れている神は、ミレイユ奪還に全く価値を感じていない。あの中に隠れている神にとって、デイアートは終わった世界だ。端から見捨てるつもりだったから、その計画には関与してない」

 

 ミレイユは憎々しく『地均し』を睨み付ける。

 己の命と安全を少しでも長く維持する為、神人計画に邁進した八神も憎らしいが、大神はそれ以上に憎らしい。

 全ての元凶と言ってよく、そしてその姿を見定めたと思った時には、とうに逃げられた後だった。

 

 そして逃げた先で破壊と混乱を撒き散らす、悪魔の様な存在として好き勝手する癖に、その後には創造神を名乗って降臨するつもりでいるのだ。

 その唾棄すべき計画には腸が煮えくり返る思いだし、絶対に阻止してやる、という気持ちが心の奥から湧き上がってくる。

 

 それは決して、ユミルに刻まれた命令だけが理由ではない。

 ミレイユがそれを絶対許せない、という思いから生まれる決意だった。

 オミカゲ様はミレイユからの返答を聞いて、更に険しく顔を顰める。

 

「それが事実なら、孔を作る事に協力的だった理由は? お前の言う隠れた神――大神というのは、八神の小間使いなのか?」

「いいや、あの中に隠れているのは、本当の意味での大神だ……と言っても伝わらないだろうが。ともかく、あの中に隠れていたから手出し出来なかったんだと思うし、勝手に動こうとしていた『地均し』を封じてもいた」

 

 オミカゲ様は顰めた顔のまま、また一つの魔術を『地均し』へ、一つを孔から出てきた魔物へ放ちながら頷く。

 一度ではなく、幾度も頷く、細かい首肯だった。

 

「なるほど、読めてきた。前提として、『地均し』は逃げ出そうとして、孔を作っていたのではあるまいか。ミレイユを連れ戻すには孔が必要、しかし必ず我が潰す故、自動的な孔作りを欲していた。そこに利用価値があったから乗っただけで、孔を開く理由は別にあったか……」

「あぁ、そこまでは考えていなかったが、言われてみると納得する。どのみち八神にとっては厄介で厄物には違いないから、私さえ取り戻せれば『地均し』の行方など、どうなろうと構わないんだろう。どうしたって、私を通す為の巨大孔は必要なんだから、その為に利用しようと……」

「ふむ、兵器としても有用であるのも事実であろうしな。ミレイユを半死の状態にでも持っていければ、回収も容易い……。だがそうなると、隠れていた神は、こうなる未来を予期していた、という事になるのだろうか?」

「さて、そこまでは分からないが……」

 

 思うに、兵器としての価値を見出され、どこかで運用されるのを待っていただけではないか、とミレイユは予想していた。

 封印されたままで忸怩たる思いはしていても、肉体を手放し、死すらも遠い存在となった神には、待っているだけで目的が叶うと考えただろう。

 

 どこかのタイミングで利用できると封印を解けば、そのまま孔を開いて逃げてしまえば良く、封印を解かれなくとも世界が滅ぶついでに開放される。

 あるいは、その滅びを招く為、瘴気とは用意されたものだったかもしれない。

 

 世界の滅びと、神々の消滅は本来、不可分だ。

 しかし、『地均し』が持つ鎧甲ならば耐えられる、という計算の上に成り立つのなら、十分考えられる事だ。

 

 ミレイユは世界が滅びかけている最中の時を思い出す。

 それは緩やかな消滅だった。世界の端からヤスリを掛けられているかの様な、徐々に訪れる消滅だ。

 最後の一欠片まで消滅するより早く、オスボリックは封印の維持を放棄するだろうし、そうであれば、やはり逃げ出す時間くらいは出来ただろう。

 

 そして瘴気の存在は、それをより早めるだけでなく、我が身可愛さで真っ先に逃げ出す機会すら生む筈だ。

 実際には上手く封じ込められてしまい、その狙いは御破算となったが、手っ取り早い手段が潰えただけで、世界の破滅は免れなかった。

 

 リスクが全くないとは思わないし、随分辛抱強い作戦とも思うが、最後に勝つのは自分だと思っているからこそ、堪え忍べた作戦だろう。

 ミレイユは湧き上がるドス黒い気持ちを抑え込まず、それを魔力に込めて『地均し』へと撃ち出す。

 

 相変わらず魔力は吸収されるばかりで、爆発の兆しは見せない。

 光球一つ一つが更に大きくなったものの、どこまで打ち込めば『求血』の容量に限界が来るのか、それも未だに分からなかった。

 どちらにしても、とミレイユはオミカゲ様へ、視線を移して言う。

 

「どの様な理由があろうと、何があろうと関係ない。敵である事だけは確実、ならば叩き潰すだけだ」

「然に有ろう。あの『地均し』……、ゴーレム故の自動行動、防衛反応という理由であろうと、破壊は免れぬ。中に何かが隠れているなら、やはりその行動で、敵と判断しなくてはならぬ」

 

 ミレイユはオミカゲ様の声に頷いた。

 元より大神の目的は、移住した世界の片隅で、ひっそりと暮らす事ではない。

 破壊と蹂躙の果てに、綺麗に地均しされた世界で、また一から自分に都合の良い世界を作り直す事だ。

 

 ――神とは利己的なもの。

 デイアートの住人は、誰もがそれと認識していたし、誰もが顔を俯けて受け入れていた事でもあった。

 

 だが、世界の存亡を前にして、それを受け入れる者はいない。

 まして、それが故郷の蹂躙であり、ループが作られる元凶となれば、抵抗しない訳がなかった。

 

 ミレイユは憎悪に似た思いと、抗いの精神を持って、決死の魔力を練り上げた。

 だが、思いとは裏腹に、身体の方は正直だった。

 本日、何発目か分からない上級魔術の使用に、既に音を上げ始めている。

 

「まったく……ッ、ポンコツが……!」

 

 分かってはいた事だが、悪態を吐いても、身体は調子を取り戻してくれない。

 呼吸は荒くなり、額からは汗が滲み出る。

 胸痛が激しくなり始め、湧き上がる様な頭痛は、警笛を鳴らしているかの様だった。

 

 その様な異常な反応を見せれば、オミカゲ様もすぐに気付く。

 魔術を一つ放ちながらも、傍らに寄って気遣う様に手を伸ばした。

 

「そなた……、どうした。酷く顔色が悪いぞ。それ程までに過酷な戦いだったのか……? いや……」

 

 言い差して、オミカゲ様はルチアとユミルの顔色を見て、首を横に振る。

 神々との戦いが壮絶なものだったとして、それならこの二人も、ミレイユと同じく疲弊していなければ可笑しい、と気付いたようだ。

 

 そして、腕に触れるや否や愕然とする。

 戦闘中でなければ――他に意識を逸らされる要因がなければ、きっとより早い段階で気付けただろう。

 普段から観察していたなら、その違いが歴然として分かった筈だ。

 

 それ程、今のミレイユがしている魔力制御は酷いものだった。

 真っ直ぐ進めば良いだけの道を、無駄に右往左往して進むような……あるいは千鳥足の覚束ない足取りで進むような、安定感に欠ける進み方をしている。

 

 その上、遅々として進まないものを、無理に押し込んで進ませるようなものだから、更に安定感を失っていた。

 オミカゲ様は愕然とした表情のまま、敵への対処も忘れ、掠れた声で尋ねる。

 

「何だ、これは……。何があれば、こんな事になる……? そなた、一体向こうでなにをして来た……!」

「……うるさい。私を気遣う暇があるなら、敵に一発でも魔術をぶつけてやれ……ッ。構うな!」

「馬鹿な事を……! 自分がどういう状況か分かってないのか!? 立っているだけで奇跡だ! ――魔力制御を今すぐやめよ、死にたいのか!?」

「死ぬつもりがあって、こんな事が……! ハァ……ッ、――出来るかっ!」

「言っても聞かぬか、愚か者め! ――誰ぞおる!」

 

 オミカゲ様は周囲へ顔を巡らせたが、ここは最前線だ。

 誰も彼もが魔術や理術を『地均し』に放っているし、敵からの反撃を受け止める隊士達に余力はない。

 その上、孔から出現した新たな魔物に対処する為、内向術士達も壁になるように展開されていた。

 

 オミカゲ様の一言に反応しても、誰もが自分の役割に手一杯で、応じられる者はいなかった。

 それを怠慢とは思わない。誰もが必死で、目の前の対処に懸命なだけだった。

 

 だからミレイユも、鎧甲を引き剥がす為に全力を傾ける。

 あれがなくなれば、アヴェリンの攻撃だって届く様になる筈だ。

 

 そして、結界の破綻も間近、という問題もある。

 辛いから、苦しいから、と膝を屈して、後を任せる訳にはいかなかった。

 だからミレイユは、やめろと言われて、制御を止めるつもりも、目の前の敵から逃げるつもりもない。

 

 オミカゲ様の呼び声に誰も反応を示さない――示せないまま、それを当然と受け止め、ミレイユが制御に集中しようとすると、横合いから返事と共に駆けてくる何者かがいる。

 

 思わずつられてそちらを見ると、そこには先程もオミカゲ様の傍にいた咲桜が、不躾にならない距離を置いて膝を付いていた。

 

「遅参いたしまして、申し訳ありません! 御用を承ります!」

「箱詰め理力を持って参れ。結界術士に使う分であろうとも、それが例え最後の一つであろうとも、此度は優先して貰わねばならぬ。――急ぎ蔵から用意せよ!」

「は……、ハハッ!」

 

 咲桜は一礼した後、即座に踵を返して走り去っていく。

 魔力が回復すれば、この状態もマシになると思っての事だろう。

 しかし、それでどうにかなると、ミレイユには思えなかった。

 

 楽にはなるかもしれないが、同時に解決もしない。

 今のミレイユにとって、魔力を使う事は、命の蝋燭を燃やす事に等しい。

 免れるには昇神するしか手はないと知りつつ、同時に取れない手段でもあった。

 

 この世界に根差す事に踏ん切りが付かないから、ではない。

 エルフという別世界に根差した信仰により、この世界から弾かれてしまう事に懸念している訳でもない。

 そもそもの前提として、この場に三千名もの人間がいない事こそ問題だった。

 

 もしも居たなら、流石のミレイユも形振り構っていられなかった。

 しかし、無い袖は振れないとも言う。それは一つの真理だ。

 ミレイユは歯噛みしながら、長い時間を掛けてようやく完成した中級魔術を――今はそれが限界の中級魔術を、『地均し』に向かって撃ち込んだ。

 



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奮戦 その2

ささきもり様、誤字報告ありがとうございます!
 


 『地均し』が権能を利用し、孔を作って魔物を呼び込んで来る事は、相当厄介な問題だった。

 敷地を無断で踏み荒らされている、という不快感は勿論だが、未知の敵と戦う事そのものが、対応を厄介にさせる。

 それに比べれば、暫しの間、光線攻撃が止む程度、何の慰めにもならなかった。

 

 ミノタウロスやトロールといった、見慣れた――そのうえ弱い――敵がいるのなら、他の見覚えない敵も、同程度の実力と見ても良いと思える。

 とはいえ、実力的に劣る魔物でも、中にはその不利を補う為に、毒などを隠し持っている事も多々あるものだ。

 爪に持っているとか、尻尾に針を隠していたりとかで、立ち回り方も変わって来るだろうし、慎重な対応では幾らでも魔物の数を増やさせてしまう。

 

 増える以上に倒していかねば、対応できる許容量を超えてしまうし、越えた状態でようやく対応できる様になってからでは遅すぎる。

 どう戦うべきか、難しい判断をさせねばならないが、それより気に掛かる事が一つあった。

 

 あれほど無造作、無差別に魔物を呼んだところで、果たして戦力になるのか、という問題だ。

 同じ世界の魔物の中にもヒエラルキーは存在しているし、天敵と呼べる相手もいる。

 実力の高い方が捕食者として襲い掛かるものだし、逆に非捕食者は逃げ出そうとするだろう。

 

 一つの世界ですらそれなのに、他の世界から呼び出して、一つの軍団として運用できるとは思えなかった。

 先程、作成された孔の数は、五つ。

 あれから数は増えていないが、消えてもいない。

 

 孔が残されているのは、維持を続けて更なる魔物を呼び込むつもりだからに違いない。

 それ自体は理屈として理解できるが、何を目的としているのかまで、理解できなかった。

 

 あれを軍団として運用するのは無理だ。

 無秩序に暴れるしか出来ない筈で、だから目眩まし程度にしか利用できない。

 むしろ、それを目的としているならば、裏に潜む真意は何を考えているのか。

 

 ミレイユが考え込んでいる間にも、オミカゲ様は気遣いをやめようとせず、魔力制御をどうにか止めようとしていた。

 腕に当てていた手から、ミレイユの制御を奪おうとするのだが、それより前に腕を振り払って逃れる。

 

「下手な気遣いはやめろ。そんな事をしている暇があったら、『地均し』の鎧甲を引き剥がせ。一発でも多く魔術を撃ち込めば、それだけ後が楽になる」

「それで? その後はどうする。引き剥がして終わりなら、それも一つの手ではあろうさ。躍起になって達成するだけの価値がある。だが、今も増えている魔物の対処は? 『地均し』その物の撃破は? ……何をそんなに焦っておる」

 

 焦りもするさ、という言葉は(すんで)のところで飲み込んだ。

 確かにオミカゲ様の言うとおり、これは短期決戦で終わる戦いではない。

 

 むしろ、引き剥がしてからが長いだろうと予想できるだけに、ここで全てを出し切る訳にはいかなかった。

 それもまた理解できる。

 ミレイユに残された時間は少ないが、それに追われる余り、躍起となり過ぎていた過ちは認めなければならなかった。

 だから、息を吐いて肩から力を抜き、そうして小さく謝罪した。

 

「……あぁ、悪かった。確かに焦りすぎていた……」

「やけに素直なのは気に掛かるが、まぁ良い……。魔力が回復すれば、今よりずっと楽に、マシになるだろう。今の異常から回復したなら止めはせぬ。しかし、そなたには無尽蔵とは言わぬまでも、それに近い魔力生成がある筈だろうに……」

 

 詰問のようなオミカゲ様の問いに、ミレイユは何も答えず視線をも合わせない。

 そんなミレイユを見て、ルチアやユミルに視線を移したが、彼女ら二人も気不味そうに目を逸らすだけで、その質問には答えなかった。

 

 オミカゲ様の目が鋭く狭まり、更なる追及の手が伸びようとしたところで、それより早くミレイユが口を開く。

 目の前の魔物という、喫緊の問題の前にはオミカゲ様も乗るしかないだろう、という目論見だった。

 

「奴め、どういうつもりだと思う? 自分の光線が通じないから、別の手段を用いたという所は理解できる。例えば腕を振り回したくとも、奴自体は結界があって自由に動けないからな……」

「露骨な話題逸しだが……良い、乗ってやる。……見た限りでは、その考えは十分、有り得る話であろうな。先程までの焼き直し……大量の敵で埋め尽くし、蹂躙するつもりなのであろうよ」

「だが、それは余り有効でない、と先の戦いは証明したようなものじゃないか。……いや、もう一度同じ猛攻は耐えきれないだろう、という考えも……まぁ、間違いではないか」

 

 オミカゲ様はそれに無言で同意し、顔を顰めて鼻を鳴らした。

 

「ならば、『地均し』を叩かない限り、何度でもこれが繰り返される、と考えるべきか……」

「そう……かもしれないが、権能の使用はあくまで装置を使って動かしている筈だ。装置である以上エネルギーが必要だろうし、無限にというのは考え辛い」

「装置で……。相違ないか?」

「あぁ。特にいま使ってる権能は、インギェムのものだ。奴は間違いなく、あの中にいない。ならば装置が、それを実現させているんだろう」

 

 ふむ、とオミカゲ様は頷いて、次いで『地均し』へと視線を移す。

 

「しかし、装置か……。権能再現装置? あるいは……もっと違う原理かもしれぬが、そんな事が本当に可能であろうか?」

「目の前の『地均し』や『遺物』を作った奴らだ。権能をコピーして再現する装置ぐらい、出来ても不思議じゃないと思う」

「そう聞くと確かに……、『遺物』を作れた者どもなら、それぐらいは何ともない……。うむ、確かに……」

 

 同意しつつも顔を歪ませて頷き、オミカゲ様はそこから更なる疑義を投じた。

 

「しかし、エネルギー問題があるというなら、それ程多く呼び出せないと考えて良いと思うか……?」

「事前に蓄えられていた量次第だろうな。本来の想定では、撃ち込まれた魔術を吸収し、エネルギーとして転用するつもりだった。それがないのに、権能装置の使用に踏み切った」

「あの光線とて、そのエネルギーを消費して使っていたであろうにな。エネルギー残量が分かるなら、増えてもいないのに消費ばかりしている現状、そう大胆に使えないように思うが……」

「どこまで、そして何を考えているかによるな……。あの魔物どもを呼び込むだけで、全て解決すると考えてるとは、とても……」

 

 それだけ強力な魔物を用意するつもりなら、ミノタウロスなど喚ばないだろう。

 だが、隊士達や魔術を撃ち込む事に専念しているエルフなら、その戦力でも十分脅威となる。

 そして戦力の比率で見ると、あれら魔物に苦戦する人間の方が、この場には多い。

 

 現状のミレイユを見ても、魔力についてはボロボロで、身体についても同様だから、激しく動きを強要されると厳しい。

 あの程度の魔物でも、負けはしないが苦戦は免れなかった。

 

 だが、その為にアヴェリンとアキラがいるから、ミレイユは直接戦う事をしなくて済む。

 とはいえ、弱い部分を突くつもりの戦力投入なら、そう間違った対応ではないかもしれなかった。

 

 エルフ達や隊士達からしても、目に見えて増えていく魔物どもは視界に捉えている。

 脅威を感じない筈もなく、直前に猛攻を退けた隊士達からすると、またも同じ事を繰り返すのか、という不安は耐え難いものだろう。

 

 オミカゲ様が共にいるから、恐慌状態に陥ったりしていないが、下手をすると暴走する可能性はある。

 目の前の動かない巨大なゴーレムより、襲い掛かろうとして来る魔物に対処したい、と思う方が、戦術的にも妥当なのだ。

 

 実際、エルフ達にはまだ動揺は見られないが、隊士達の動きに不安が見え隠れしている。

 敵の数が更に増えれば、エルフ達も変わらぬ平常心ではいられまい。

 早期に鎧甲を攻略できないなら、目標の変更も必要となりそうだった。

 

 ミレイユは観察の目を味方から敵へと移し、そして目を鋭くさせて観察する。

 孔から出て来た魔物は、即座に動き出すかと思いきや、それも無い。

 勝手に動いて襲撃する素振りを見せないし、最も手近な敵を目視できている筈なのに動かなかった。

 

 それが何より疑問に感じる。

 目に付いたものを襲うのが魔物で、そして直ぐ側に見知らぬ――魔物ですらおぞましく見える生物がいて、攻撃せずにいられるものだろうか。

 

 襲い易くも遠方に獲物がおり、そして脅威に思える魔物が近辺にいて、思考停止で動きを止めるなど有り得ない。

 考えるより、まず襲おうと考えるのが、魔物というものだ。

 しかし、どちらの魔物も互いに認識していないかのように、争い始める事がない。

 

 始めから制御を諦めて喚び出していると思っていたのだが、あるいは洗脳が済んでいる魔物だけが呼び出されているのだろうか。

 あの大人しい様子を見ると、その考えも想定する必要がありそうだが――。

 ミレイユは傍に居るユミルへ――今も魔術を撃ち込んだユミルの背中へ声を掛ける。

 

「ユミル、呼び出された魔物が妙に大人しい。出現と共に襲って来ても当然というのに、それもない。見知らぬ魔物も含めて、これは全て調整された個体と見るべきか?」

「奴らの手口や手管まで、詳しく知らないけどね……」

 

 そう一言断って、また新たに魔術を制御しながら続ける。

 

「孔を繋げた先が何処か、分かり様がないから、確かにアンタの主張も有り得ると思うわ。いつから準備していたか、その準備する余裕があったのか……。でも、封印されていた間に出来たとは思えないから、やっぱり違う気はするけどね」

「では、妙に大人しいのはどうしてだと思う? 先程まで孔から出現した魔物は、視認するなり私達に、一目散と駆け出していただろう。……余りに大人し過ぎる。ならば、洗脳などの手段で、調整された個体と思えるんだが……」

「……それって、手間が掛かり過ぎるわ。だから多分、違うでしょうね」

 

 一瞬考え込んでから、ユミルは首を横に振って、また魔術を一つ撃ち放った。

 

「もっと単純に、権能を使ってるからでしょ。インギェムのを使って拉致同然で呼び込んだんなら、ブルーリアの権能を使って大人しくさせてる、と考えると筋が通るし」

「ブルーリア……? 何だったか……」

 

 ミレイユは、その神と対決もしていないので印象に薄い。

 ドラゴンの襲撃と同時に対応へ飛び出し、そして最後、アヴェリンとルチアの手に寄って瘴気の中へ叩き込まれた二柱のどちらか、とまでは分かる。

 その権能を使用された場面も見ていないので、名前だけでは全く連想できない。

 

「調和と衝突、それがヤツの権能。この衝突っていうのが、物理的にも精神的にも、作用するって話もしたじゃない」

「……そうだった気もするな」

「だから、あの魔物どもの姿を見ると、まさしく影響下って感じしない? 『地均し』が今もしてるポーズが権能を使っている間に見せるもの、って言うならさ。今も継続して使ってるって話になるんでしょうし」

 

 確かに、それなら今も大人しくしている事に説明がつく。

 そして、戦力の逐次投入は愚かだと知っているから、あぁして数が揃うまで待機させているのかもしれなかった。

 

 では何としても、『地均し』の想定する数が揃うまでに、鎧甲を剥がしてしまわねばならなかった。

 そして、オミカゲ様が言う通り――ミレイユも十分理解している通り、剥がして終わりという話にはならない。

 鎧甲を喪えば、『地均し』とて形振り構わなくなるだろう。

 

 魔物と『地均し』、二つの脅威を同時に相手取らねばならなかった。

 ――悠長にやってる暇は、一時たりとて無い。

 

 咲桜が帰って来れば、幾らか身体の状態もマシになるかもしれず、魔力が満ちれば、激痛は確かに和らぐ。

 だが、刻一刻と失われていく()()までは、回復してくれないのだ。

 その焦りばかりが募り、制止されていたものを無視して、魔術を制御しようとする。

 

「――ぐっ!?」

 

 しかし、僅かな制御に激痛が走り、思わず胸を抑えて身体を屈める。

 これまで散々頼りにし、寄り掛かって使って来たこの身体だが、今は自由にならないこの身体が、酷く恨めしかった。

 



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奮戦 その3

 目の前で次々と魔物の数は増えていくというのに、攻撃は『地均し』に向けるしかない、というのも大きなストレスだった。

 攻撃する側にとって、何の効果も無いように見えるのに、それを続けなければならない事に不毛さも感じているだろう。

 

 魔物が出現するのは目と鼻の先という程近くはないが、それでも安心できる距離ではない。

 襲い掛かってくる事になれば、まず魔術を一つ制御完了するだけの余裕しかなかった。

 このまま続けて大丈夫なのか、信じて『地均し』を攻撃し続けて大丈夫なのか、その不安が生まれるのは止めようがなかった。

 

 そして、その懸念は正当なものでもある。

 魔術士は『地均し』の鎧甲を剥がす為だけに用意したものだが、決して捨て駒のつもりはない。

 剥がす事に成功すれば、後はどうなっても良い、などと割り切って使っている訳ではなかった。

 

 それを考えれば、増え続ける魔物には今から対処せねばならないだろう。もう無理だ、と判断してから動くのでは遅すぎる。

 ――とはいえ……。

 

 ミレイユは忌々しく顔を歪めながら、周囲を睥睨するかのように顔を動かした。

 今のミレイユ達に、使える戦力は少ない。

 それこそが問題だった。

 

 隊士達はこの大戦に際し総動員されている筈だし、既に一戦を退いて長い老兵までもが参戦している。使える戦力は底の底まで攫って使っている状態だろう。

 これ以上、神宮勢力からの増援は期待できなかった。

 

 かといって、エルフ達に更なる助力を頼むべきか迷う。

 テオは力を貸すと言っていたが、あちらも地震の被害で猫の手も借りたい状況だろう。

 用意されたエルフも攻勢魔術士に偏っていたのは、まさにその余力が足りなかったからだ。

 

 支援にしろ治癒にしろ、被災した現場と状況では重宝される。

 それを自分たちが大変だから人員を回せ、と頼む事は、あちらの世界を蔑ろにする、傲慢な要求としか思えなかった。

 

 ミレイユは苦渋に歪んだ顔で息を吐き、オミカゲ様へ一縷の希望を込めた視線を向けると、丁度そちらからも目線だけ向けられたところだった。

 

「あの魔物ども……、放置するには数が増えすぎてる。そちらで、どうにか出来ないか?」

「……同じ事をな、そなたに頼もうと思っていたところよ。そなたらが出現した時に出来た孔、それが今も維持されている事を思えば、増員の予定が全くない訳でもないのであろう?」

「……確かに、その予定が皆無とは言わないが……」

 

 『地均し』が出現した時に通って来た巨大な孔は、既に縮小し切って消えてしまっている。

 だが、その後追いの様に生まれた、エルフ達を通した孔は未だ健在で、その呼び声を待っているかのように維持されている。

 

「でも、やはり躊躇う。あちらは地震に見舞われて、方々で手が足りない状況なんだ。恩があるから手を貸すと言ってくれたが、捻出できるものなら、最初から用意してくれていたろうしな」

「……あの、五百人の様にか」

「対応状況、進捗次第で、余力は生まれるという話だったが……すぐではないな」

「あの五百人でも、十分助けになっておるのは確か。これ以上、我儘は言えぬ……か」

 

 重苦しく頷いて、今は遊軍となっているアヴェリンとアキラへ視線を移した。

 

「ならば、手勢でどうにかするしかない。――アヴェリン、頼めるか」

「頼めるか、などと聞く必要はありません。そうする必要があるのなら、そうせよ、とお命じ下さい。――ただし、御身をお守りする盾は必要です」

「アキラは残せと言いたいのか? しかし、お前一人で……」

 

 危険は大きく、単独では行かせたくない、と言うつもりでアヴェリンを見ると、意志の籠もった瞳で見返された。

 アヴェリンは間違いなくミレイユの知る中で最高の戦士だが、数を頼みにぶつかってくる相手では、対処に遅れが出るだろう。

 

 どれほど強くても、一度に相手出来る数には限りがある。

 全方位を囲まれている状態で、背中を守る誰かがいるかどうかは、その戦力に圧倒的な隔たりも生まれるものだ。

 それをアヴェリンが分からぬ筈もない。

 

 だが、アヴェリンは敢えてそれを命じろ、と言っているのだ。

 ミレイユの盾を失くす位なら、自らの被害を飲み込むという覚悟を見せている。

 それを命じなくてはならない事を苦々しく思いつつ、ミレイユはそれを表に出さないよう、意志の力を動員して口を開いた。

 

「分かった……、お前に任せる。苦労を掛けるが、やって貰うしかない。――頼むぞ、アヴェリン」

「ハッ! 戦士の本懐、安心してお任せ下さい! 必ずや、お望みの結果をお見せいたします!」

 

 言うや否や、アヴェリンは一礼して踵を返す。

 武器を振り上げ盾を構え、今も数を増やしている敵団の中へ突進して行く。

 それを見送るしかない自分に不甲斐なく思っていると、同じ様な気持ちで視線を向けているアキラに気が付いた。

 

 心配そうでもあり、同時に羨ましそうでもある。

 頼りを一心に受けるアヴェリンを、羨望と共に憂慮するかの様に見えた。

 いつか自分もその信頼を向けられたい、と思っているのかもしれないが、今は盾として役割を全うして貰わなければならない。

 

 『地均し』にしても、今は権能の制御に行動を割いているのだろうが、いつそれを止めて攻撃してくるか不明な状態だ。

 鎧甲を剥がし落とす事が叶ったならば、きっと戦況も一変する。

 

 その時、全員の役割が変わって来るだろう。

 そこに意識が向いていないというなら、戒めてやらねばならなかった。

 

「アキラ、今が暇だからと気を抜くな。アヴェリンはあぁ言ったが、場合によってはお前にも言ってもらう。あの数は……、流石にアヴェリン一人では手に余る」

「えっ、でも……! 御身の守りも大事です……!」

「だとしても、命令には従え」

 

 納得し難い表情をしていたが、それでもアキラは頷いて恭順を示した。

 命令で押さえつけるだけでは納得しないと見え、補足するように言葉を続ける。

 

「いいか。アヴェリンだけが、覚悟を持って挑んでるんじゃない。ここで死ぬかもしれない、と誰もが納得してここに来た。私も例外じゃない」

「でも……、しかし、ミレイユ様は特別です!」

「命の価値は平等ではない、それも当然だ。だが、守りが必要だとしても、それに固執して負けたら意味がない。守りを捨てて攻撃に移らねばならないなら、躊躇うつもりはないからな」

「分かります。分かりますが……」

 

 納得を口にしつつ、その表情は到底受け入れられないと言っていた。

 アキラからすると、現世の破滅は許せないとしても、ミレイユの死も同等以上に許せない事らしい。

 ミレイユが即ちオミカゲ様だと、知っているからこその気遣いかもしれないが、護られるだけの立場に甘んじるつもりはなかった。

 

 それは、体調の不良を差し引いても受け入れられない事柄だ。

 戦う為にやってきた。

 大神に抗い、その意志を挫く為にやって来たのだ。後方で護られ、戦況を見守る為にやって来たのではない。

 

「いいから、お前も前を向け。今は大人しくしていてやるから、お前も今は自分の役目をしっかり果たせ」

「はい、分かりました……」

 

 アキラを強制的に黙らせ、ミレイユは魔物の群れに飛び込んだアヴェリンを眺めた。

 大抵の敵にはまず打ち勝つと分かっているから安心して送り込んだが、やはり未知の魔物は恐ろしいものだ。

 攻撃手段が分からない相手となると、まず警戒して手が出ない。

 

 しかし、アヴェリンは考えるより行動する、を体現する様な戦士なので、目に付いたものからメイスを振り下ろして敵を粉砕していた。

 死角から攻撃された触手の一撃も、野生じみた直感で避け、避けた勢いそのままに反転し、メイスを振り回して命を断つ。

 

 敵としても悪夢の様な光景だろうが、その奮闘ぶりを間近で見せられたエルフや隊士達は、それで奮起したようだ。

 不安そうな雰囲気は鳴りを潜め、今は自分の役目を果たそう、と思いを新たにしていた。

 

 それだけでも、アヴェリンを送り込んだ意味があった。

 だが、アヴェリンがどれほど強かろうと、打ち倒す数より、孔から増える数の方が多い。

 三体、四体を同時に相手取り、そして勝利し確実に絶命させて行くのだが、その後ろで五体ずつ魔物が増えていくのだ。

 

 どれほど手際良く倒していても、差し引き一匹は確実に増えていく計算だ。

 そして、いつでも最速、最効率で敵を倒していける訳でもない。

 手傷を負うことを避ける為、どうしても防御に専念する時間というのはあるし、そうした時は敵が増える一方となる。

 それが分かっていても、彼女に任せる以外、選択肢がない。

 

 だが、そこへ八房が横合いから殴り掛かり、魔物の群れへ牙を突き立て、尾を振り回し蹂躙し始めた。

 今まで何処に居たのか、と思っていたが、来た方向を思えば、どうやら結界術士達の守護に付いていたらしい。

 

 彼女らの守護も重要事には違いないから、そこを今まで堅守していたのは当然だろうが、今となっては優先事項を変えた、という事だろう。

 

「……いいのか?」

「この際だ、仕方あるまい。結界術士達の盾は消えるが、あちらが立てばこちらが立たぬ」

「そうだな……」

 

 そうとなれば、ミレイユもフラットロを召喚せねばならないだろう。

 少ない魔力で召喚できるのは魅力だし、彼ら精霊に毒など効かない。

 死ぬ事もないのだから、初見の敵に向かわせるのも有効なのだ。

 

 少ない魔力であろうとも、今のミレイユには辛い制御だ。

 苦労して何とか行使すると、既に心配そうな顔をしているフラットロが顔を覗き込んで来た。

 

「平気か……? すごい……なんかすごい変だぞ!」

「あぁ、分かってる。でも、お前に頼まなければならない。何して欲しいかは分かるだろう? 頼むぞ」

「分かるけど……。でも、分かった! 任せろ、任せて待ってろ!」

 

 召喚主と精霊とは、意識の伝達が殊のほか強い。

 思念を飛ばせば、口にしなくても何をして欲しいか、いま何を望むか理解してくれる。

 

 フラットロはミレイユの期待に応えようと、いじらしく頷き、空を駆けた。

 そうして八房と並び、アヴェリンをフォローするように攻撃を仕掛け、時に爆炎を巻き起こしながら敵を攻撃していく。

 

「とりあえずは、マシになったか。しかし……」

「うむ。我の内向術士を、同じく守りから外して共闘させるべきであろうな」

「それが良いかもな……。私の時より強い反発が生まれそうだが、……出来るのか?」

「いよいよとなるまで、我の傍を離れたがらないであろうが……。やって貰う他あるまいよ。光線があった時は彼らにも身を削って守る役目があったが、今は備えているだけだ。備えている事が仕事とも言えるが……」

「それこそ、お前から護りを外したいから、それを狙っての状況かもしれないしな。そして守りが外れれば、攻撃を光線に戻すかもしれない……」

 

 ミレイユは自分から口にした指摘に、思わず唸り声を上げて胸を押さえる。

 結局のところ、戦力不足が露呈した結果だった。

 もっと十分な準備が出来れば、デイアートから戦力を多く持ってこれれば、地震による被害がなければ――。

 

 多くの『たられば』を考えてしまうが、何より最も大きな問題はミレイユの寿命が近い事だ。

 それを考えれば、結局入念な準備をする時間は許されなかった。

 まだ動ける内に行動する必要があったし、一度寝てしまえば、次は起き上がれるか分からないという、漠然とした不安があった。

 

 ミレイユは自分の胸に当てた手から、鼓動を感じ取ろうと強く押し付ける。

 だが、鼓動を一つ鳴らす毎に――鼓動による動き一つに、身体が悲鳴を上げているかのようだった。

 

 コメカミから汗を垂らしながら、ミレイユは歯を食いしばる。

 オミカゲ様に察せられないよう、細く息を吐きながら、今も懸命に魔術を撃ち込む兵達へ目を向けた。

 

 そこで奮闘する彼らの必死さは、ここからでも良く伝わってくる。

 魔術の使用というのは、決して簡単な事ではない。常に失敗するリスクを背負いながら、必死の制御で完成させるものだ。

 

 だから常に安全マージンを取って使用するし、自分が行使できる最大級の魔術など、こうした場面では使わない。

 リスクは緊張を生み、緊張は失敗を招く。

 魔術士はそれを良く理解しているから、無茶な運用はしないものだ。

 

 だというのに、彼らがその安全マージンを取り払って魔術を放っている。

 一向に破裂しない『求血』に焦れたのかもしれないし、増える魔物に危機感を持ったからかもしれない。

 彼らは必死以上の決死を持って、魔術の行使に専念してくれている。

 

 『地均し』を包む光球が、大きくなっていのは間違いない。

 それは目で見て確認できる功績に違いなかったが、同時に、その功績がいつまで経っても実らない現実を、突き付けるものでもあった。

 

 ミレイユはそれに歯噛みしながらも、魔術を放つオミカゲ様を横目でみながら、耐えて待つ。

 今は、耐えて待つ事しか許されなかった。

 



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奮戦 その4

 刻印による魔術効果は、自動化されているからこそ誰もが便利に使える、というメリットがある。

 本来は複雑な制御を行い、魔力を練り込み発動させる魔術は、発動までに時間が掛かる。

 だから、短時間で発動する刻印は、それだけでも大きな恩恵として受け取られていた。

 

 だが、自動化されるという事は、発動に際して術者の意志が反映されない、という意味でもある。

 細かな調整をした上で発動させる事が出来ないだけでなく、魔力に応じた最大威力が常に発揮される、という構成になってもいる。

 

 火炎球を前方に撃ち出す魔術でも、ミレイユが最大威力で使ったら人体など爆散して塵と消える。

 無力化したい程度にして撃ち出す、という加減が出来ないのだ。

 同じ事がミレイユの使った『求血』にも起きていて、本来なら飽和して破裂する基準が大幅に引き上げられてしまっていた。

 

 蓄積した魔力を二倍の威力にして爆発させる、という効果を持つ刻印だが、時間内に飽和させられなければ消滅する、というデメリットもある。

 

 規格外の規模になってしまった刻印だから、その内包規模もまた予測が付かない。

 既に結構な魔術を撃ち込み、五百人のエルフとほぼ同数の隊士達がいて、それでも未だに飽和させられていない、というのは異常だった。

 

 それこそまさに、ミレイユが持つ魔力の異常性を示すものかもしれないが、いずれにしてもこの局面では気ばかりが焦る。

 オミカゲ様に止められ、ミレイユが魔術の手を休めている事も、その理由としてあったろう。

 

 ――自分が参加していれば、既に飽和させられていたかもしれない。

 だが同時に、オミカゲ様が言った事も正しくはあるのだ。

 

 鎧甲を破って終わりではなく、新たに魔物という脅威も増えた。

 ドラゴンや巨人、エルクセスのような分かり易い強敵がいないのは慰めになっているが、それもいつまで続くか分からない。

 

 アヴェリンだけでは数の増加を緩やかにする事しか出来ず、精霊二体の参戦は、そこに一定の余力を生んだ。

 しかし、十分というには程遠い。まず間違いなく助けになっているし、アヴェリンもやり易くなったろうが、火に対する抵抗を持った相手には無力だ。

 

 そうした相手はアヴェリンが優先して相手するのだが、必ず上手いこと相手に出来る状況を作れる訳でもない。

 そうした時は、魔物の数を減らす速度が落ち、その数を増やしていく事になる。

 

 最初は調和と衝突の権能で抑えつけられていた魔物も、今ではすっかりその本能を解き放ち、アヴェリンや精霊二体に飛び掛かる様になっている。

 その殺意の暴風に晒されて、攻防を続ける緊張は、慣れていたとしても精神的、体力的に削られていくものだ。

 

 今の戦力では足りず、更に追加が必要だ。

 それを思えば、アキラを参戦した方が良いのではないか。

 何もせず、ただ見ている事しか出来ず、一人の戦士を遊兵化させるぐらいなら、その方が遥かにマシだ。

 

 ミレイユは顎先から汗を落としながら、胸を押さえていた手に力を込めた。

 ――今だけは大人しく……、言う事を聞いてくれ。

 そう願っても、胸痛や頭痛はむしろ激しさを増すだけだ。

 

 更に顔を顰めた時、背後から何者かが走ってくる足音が聞こえた。

 顔を向ける余裕さえないミレイユは、ただ前方を睨みながら耳をそば立てていると、少し離れた所で足を止め、膝を付く音がした。

 

「阿由葉より、意見具申いたします!」

「――申せ」

 

 聞き覚えのある声と名前に、見ずともそれが、結希乃だと察しが付いた。

 オミカゲ様の返事は簡潔で、それ故に不機嫌そうに聞こえてしまう。

 実際は違うとミレイユは分かるが、その返答で結希乃は緊張を増した様だ。

 

「鬼がこれ以上増える事を許しては、今後の展開に支障を来します。今の内に叩かねば、対処許容量を越えるでしょう。巨大な人型よりも、優先して攻撃すべきです!」

「その意見は正しい。あちらの狙いとしても、数さえ揃えば、それを持って圧殺するつもりであろうから。今はアヴェリンへ反撃が集中しているが、その内あぶれたモノどもが標的を変えてくるやもしれぬ。一度溢れたら、もう止まらないと見るべきであろう」

「でしたら――!」

「だが、戦力をどう抽出する。いつあぶれるか分からぬものだからこそ、攻勢理術士の傍から内向術士を外せられぬ。巨大な人型を『地均し』と呼称するが、あれの対処は最優先事項である。理術の矛先を鬼共へ向けること、(まか)りならぬ」

 

 オミカゲ様が強い口調で言い渡すと、結希乃から了承の意と共に頭を下げる気配が伝わる。

 奏上する相手が神となれば、意見が通らなくても不本意を表に出すものではないのだろうが、結希乃は一礼して去るのではなく、更に意見を重ねてきた。

 

「お許しを。既に戦力の抽出、部隊の再編成は済ませております」

「ふむ……?」

「攻勢理術士を最低限護れる数は残し、一部戦力を遊撃隊として運用します。鬼が後方を襲う事になれば、戦力を戻し防護に集中させるつもりです」

「……ならば、良かろう。遊撃部隊を差し向けよ。……が、生半な戦力では手に余ろう。御由緒家を中心とするしかなかろうが、そうとなれば、防護部隊に不安が残る」

 

 許可はしたものの、懸念の追求をすれば、これにも結希乃は淀みない答えを返した。

 

「そこは、既に引退したお歴々へと、お任せしております。斬り込む体力はなくとも、短時間の防衛ならば十分任に耐える、という保障の言葉を頂戴しておりますれば。鬼が矛先を変えようとも、そこが崩れるより前に、遊撃部隊も合流し防護を固める事で、難を乗り切れる公算が高いと考えております」

「うむ……、よくぞ見てくれた。その様に致せ」

「ハハッ!」

 

 返答の声が思わず上擦ってしまったのは、予期しなかった褒めの言葉があったからだろう。

 結希乃は今度こそ一礼し、踵を返して去って行く。

 それから幾らもせずに、斬り込み隊とでも言うべき遊撃部隊が、視界の端を通って行った。

 

 御由緒家を中心にした部隊だから、当然ミレイユにも覚えのある面子ばかりだった。

 結希乃の他に、七生、凱人の姿も見え、後は現役の隊士から選りすぐりのメンバーを十名ほど揃えたようだ。

 

 彼らはまだ若いが、魔物を相手に多くの実戦経験を積んだ猛者でもある。

 初見の敵も多かろうと、洗練されたチームワークを持つ者たちなら、凌げる可能性は十分あった。

 ミレイユの前で護衛を任されたアキラが、その彼らを心配そうに眼で追っている。

 

 アキラにとっては学友で、同じ釜の飯を食った仲でもあるから、遊撃隊として斬り込む彼らへの心配は一層強いだろう。

 自分も共に戦えれば――、そう思っている表情(かお)に見えた。

 

 その時、先程結希乃がやって来た時の繰り返しの様に、駆け足の音が聞こえ、やはり同様の位置で足を止め膝を付く音がした。

 ただ、今度来た者は激しく息を切らしていて、明らかに余裕がない様に思える。

 

 誰かと思ったが、この場面で息を切らすほど急ぎで来る者は限られる。

 それとなく気配を探ってみれば、それが咲桜だと分かった。

 

 本来なら女官として、神の御前で弁えなければならない礼儀が幾つもあるのだろう。

 荒い呼吸のまま対面する事も非礼に当たるのだろうが、今だけはそれを無視するつもりのようだ。

 必死に取り繕いつつ、あまり功を奏さない様子で声を上げた。

 

「お、遅っ――ゴホ、ゴホ! 遅くなりまして申し訳ございません! はぁっはぁっ……、ご所望の箱詰め理力を、ここにお持ち致しました!」

「その物、御子神へと渡せ」

「ハッ! ただ、その……。既に蔵は空になっており、結界術士の方々から分けて頂いて来たのですが……、一つしか余裕がなく……!」

「一つ……。そうか、致し方なかろう。まずは渡せ」

「ハッ……、ハハッ!」

 

 オミカゲ様の言葉に不機嫌さを感じ取ってか、やはり恐縮して頭を下げ、おずおずとミレイユの方へ近寄って来る。

 だが別に、オミカゲ様は不機嫌な訳でないし、魔術を制御しながら話している所為で、やはり余裕がないだけだ。

 

 今も放った魔術は、これで数えて十を越える筈だ。

 一つ二つなら余裕を崩さないだろうが、これを連続で十を越えるとなれば、その余裕も剥がれ落ちて来る。

 

 休み無く魔術を使い続けるというのは、心身ともに負担が掛かるものだし、オミカゲ様にとっては相当なブランクもあった筈なのだ。

 だからと、ヘマをするオミカゲ様でもないだろうが、鷹揚とした態度を取る事までは出来ないらしい。

 

 ミレイユは咲桜から受け取った箱詰め理力を掌に乗せ、それからどうすれば良いのかと、問い掛ける様な視線を向けた。

 その視線を受け取った咲桜は、説明するより前に愕然とした表情をする。

 

 まるで幽霊やゾンビでも見たかの様な顔だった。

 それで自分の状態が、他者から見ても分かり易く酷いのだと理解した。

 

「……そんなに酷い顔をしているか、私は?」

「は……、いえ……、その……!」

「即答できないのが、返事みたいなものだな。大丈夫、自覚はある。……お前は防護術が使えるんだったか。私の事は良いから、必要な所へ助けに行け」

「しかし、御子神様の事も大事でございます!」

「そうだとしても、いま大事なのは、この大局を乗り越える事だ。後方に下がって指示を受けろ」

「はい……、畏まりました」

 

 言いたい事はあっても、神からの命令だ。

 どれほど意にそぐわない命令でも、お付きの女官として、これに従わない訳にはいかない。それこそ、オミカゲ様の命令でもなければ、ミレイユに従わなければならなかった。

 

 それを期待しての事か、咲桜は縋る様な視線をオミカゲ様に向ける。

 だが、その視線を受け取っても、彼女が欲する言葉をオミカゲ様は口にしなかった。

 代わりに、ミレイユの手の中で溶ける様に消えていく箱詰めを、睨む様に見ながら言う。

 

「既に蔵の中身は全て放出……。その上、我の命でも一つしか融通できなかった事を思うに、結界の維持は限界と見るべきであろうな」

「むしろ、よく保った方だと褒めてやるべきだな……」

「一千華の努力あっての事であろうな。歯を食いしばって耐えている様が、目に浮かぶようだ……」

 

 オミカゲ様は後悔と憐憫を混ぜたかのような息を細く吐き、それから更に強い練度で魔術制御を始める。

 今までも決して手を抜いていた訳ではないだろうが、それでもまだ戦闘は続くと分かっていたからこそ、制限を設けて行使していた。

 

 それを取り払って制御を始めたという事で、結界が()れる前に決着を急ぐつもりになったという決意表明だ。

 ミレイユにしても、魔力が戻った事で、少し余力を取り戻した。

 

 とはいえ、それは魔力総量の一割程度の回復でしかなく、満たされた感じも全くしない。

 だが、それでも楽になった様な気がしている。プラシーボ効果かもしれないが、今はそれが慰めになった。

 ミレイユもまた制御しようとしたところで、オミカゲ様から制止の声が刺さる。

 

「――止めよ。『地均し』の鎧甲は、我が何としても剥ぎ落とす。そなたは次に備えておれ。その時になれば、少ない魔力で幾らでもやりようはあるだろう。その時まで――!」

 

 最後まで言い終わるより前に、オミカゲ様の制御した魔術が解き放たれた。

 両手で制御された、身の幅程に膨れ上がった雷電球が、『地均し』向かって突き進み、瞬きの間で接触する。

 

 それもまた『地均し』を包み込む光球の群れに吸収され、……しかし何も起こらない。

 一拍の間を置いて光球一つ一つが更に膨れ上がったかと思うと、次の瞬間には脈動を始めた。

 ――まさか、という期待が胸の奥で踊る。

 

「遂に、来たか……?」

 

 その独白は、ミレイユとオミカゲ様、果たしてどちらのものだったか。

 その声を引き金として、『地均し』を包み込んでいた膜が一層大きく光り輝く。

 次の瞬間には、視界を白一色で塗り潰す、激しい爆発が巻き起こった。

 



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奮戦 その5

 威力を底上げする事、そして魔術を撃ち込む事ばかり考えていて、爆発規模については完全に失念していた。

 今更ながらその重大さに気付き、己の迂闊さを呪う。

 蓄積した魔力が開放された時、それがどういった規模で、どういった内容で発揮するかまで、ミレイユは想定していなかった。

 

 いや、説明自体は受けている。

 刻印を宿してからも、カタログを読んでいたルチアとユミルの両方から、具体的な内容の聞き取りもしていた。

 しかし、それは常識的な運用をした場合の説明であって、規格外の刻印による、規格外の魔力を詰め込んだ場合の説明ではなかった。

 

 それを今更ながらに思い至った。

 その上、使う相手も規格外に巨大という、どこまでも例外を積み重ねた状況だ。

 

 その上で常識的な反応が起きると、考える方が異常だ。

 想定を超えた結果が起きて当然なのに、それを考えていなかった自分を、今更ながらに殴り付けたい衝動に駆られる。

 

 威力が二倍になるという説明に間違いはないが、蓄えた魔力を開放するに辺り、それぞれ使った魔術が単に二倍威力で再発動されるとは思えなかった。

 もしも、解放されるエネルギーが爆発となって起きた時、それがどれ程の規模になるものか――。

 

 ミレイユは視界が真っ白に染まる中で、アキラが密着するほど近くで、盾となるよう身構えるのを感じた。

 次いで来るであろう爆発と衝撃波に備えて、アキラ共々身を守る為、防護壁を展開する。

 

 他の者は大丈夫なのか、その思いが脳裏をよぎった。

 連れて来たエルフ達に防護壁を張れる者が多いとは思えず、このままでは巻き込まれて全滅だ。

 

 そうは思っても、このタイミングでは何をするにも遅すぎる。

 それどころか、自分の身の安全すら保障できていなかった。

 

 彼らの身を案じたところで、自分の身すら守れない。

 果たして今の自分に耐えられるのか、耐えたとして他の者達をどうやって救うか、悔やみながら爆発を待っていたのだが――。

 

 いつまで経っても、その衝撃波はやって来なかった。

 爆発音すら聞こえてこず、どうした事かと思っていると、次第に視界も慣れ始め、目の前の状況に理解が追い付いてくる。

 

 それは、魔力と爆光の連鎖だった。

 それまで撃ち込まれ続けて来た、幾百、幾千という魔力が、形成されていた光の膜内で炸裂していた。

 

 爆発の指向性を完全に膜の内側へ閉じ込め、破壊力を集中させている。

 『地均し』へ全方位から加え続けられる魔力攻撃は、次々と爆光を変色させながら、その鎧甲に圧力を掛けていた。

 

 始めは吸収していたように思える鎧甲も、時間と共に吸収が追い付かず飽和していく様が、すぐに分かった。

 その全身は焦茶色で覆われていたが、そこに赤色の斑点模様が生まれるようになり、それが次々と増殖、拡大していく。

 

 そしてそれが遂に全体まで行き渡ると、赤熱したかのように変色し始めた。

 その赤いものが白にまで色が変化すると、卵の割れるような音がして、胸の中心に罅が入る。

 

 一つの罅が入れば、後は一瞬だった。

 縦に割るかの様に大きな罅が入ると、それを中心として全体に行き渡り、遂には全身の鎧甲が砕けると、今も続く魔術の放射に弾かれ、また別の魔術に飲み込まれて消えていく。

 

 その様子を固唾を飲んで見守っていたエルフと隊士達は、遂に喝采を上げた。

 

「うぉぉぉおおおお!!」

「うわぁぁぁああああ!!」

 

 今までの苦労が報われた瞬間だった。

 彼らはこの瞬間の為に、いつ終わるとも知れない魔術を制御していたのだ。

 

 その喜びに感情を爆発させるのも当然で、一部の隣り合って立つエルフと隊士は、握手を交わす者までいる。

 だが、それでも、まだ爆発は終わっていない。

 

 蓄積された魔力全てを吐き出すまで、この『求血』は効果を止めないのだ。鎧甲の下から現れた黄土色の肌へと、変わらぬ攻撃を続けていく。

 そして不気味な事に、その間も『地均し』は身動ぎ一つしていなかった。

 

 鎧甲があった時は、どうせ吸収すると高を括っていたのだろう。

 だから、待ちの姿勢で耐えていたのも分かるが、それが引き剥がされた今、守る物は何もない。

 

 防護壁を張るなり、何かしらの対処があって当然だろうに、それでも不動を貫く様は異常だった。

 しかし、疑問に思っても今は見守り続けるしかない。

 その間にも魔力攻撃は、止めどなく『地均し』を攻撃し続けた。

 

 鎧甲が砕けてから一分間は優に続いた攻撃は、始まった時と同様、唐突に終わりを告げた。

 『地均し』を覆っていた膜が弾けるように消え去ると、それまで激しく飛び交っていた爆光も一緒に消え去った。

 

 後には、静寂のみが残された。

 そして、鎧甲全てが消し飛んでも、なお身動き一つ見せない『地均し』が残される。

 

 今も四つん這いから腹を抑えるようなポーズで固まり、その背中を結界へ押し付けたままで、やはり動きを見せない。

 何の反応もないものだから、更に追撃するべきか迷った。

 

 既に全エネルギーを使い切ったから、その機能を停止しただけ……。そういう事であるなら、今は放置して魔物の対処に注力すべきだ。

 再起動しても、また動き出す危険を考慮するなら、あるいは先じて破壊してしまった方が良いとも思う。

 

 懸念を抱えて、いつまでも注意がそちらに移ってしまうというなら、その方が良い。

 だが、そうして迷っている間に、『地均し』の頭が落ちた。

 

 とはいえ、実際に頭といえる部分がない身体なので、より正確に言うなら人間でいう肩部分から落ちた、と表現する方が正しいのだろう。

 とにかく『地均し』は反応を示さぬままに、力尽き倒れたかのように見えた。

 

 結界と接触していた為、背中部分に残っていた鎧甲も、今の衝撃で崩れ去り、そのまま地面へボロボロと落ちていく。

 大きな地響きを鳴らして突っ伏した『地均し』を見て、隊士たちは再び喝采に沸いた。

 

『ウォォオオオオ!!』

 

 先程とは段違いの更に大きな喝采に、誰もが腕を空へ突き上げ、あるいは涙して喜び合っている。

 今だけは、異世界人と知った間柄だろうと、共に戦った友として、互いに健闘を称賛し合っていた。

 

 未だに魔物は残っているし、増え続けている。

 それを思えば即座に対処へ移るべきだ。しかし、一時の勝利を讃えるのに、相応しい戦果を上げたのも事実だった。

 勝利と勝鬨は切っても切れず、そして、それは一種の儀式でもある。

 

 仲間の士気高揚にもなるし、一時で済むならやらせるべきだった。

 しかし、彼らの喜びをよそに、ミレイユは険しい顔を崩さない。

 

 今も動かなくなった『地均し』を睨みながら、やめ時を失って継続させていた防護壁を、今更ながらに解除する。

 そうしてミレイユは、小さな呟きをポツリと落とした。

 

「……簡単すぎる」

「そなたもそう思うか?」

「あぁ、あれで倒したとは思えない。鎧甲が剥がれてからも魔力攻撃は続いていた。ダメージは相応に入ったかもしれない。……だが、それなら何故、『地均し』は五体満足なんだ?」

 

 ミレイユが警戒を緩められない理由は、そこにあった。

 鎧を剥がされ素肌を晒したゴーレムだが、焦げ跡や一部の欠損は見られても、それはあくまで表面的な傷に過ぎなかった。

 人間で言うなら、表皮一枚に傷が付いた程度で、筋肉まで到達した損傷は無い、という状態だ。

 

 頭から落ちた様な動き、それは動作の停止を意味する、そう考える事は出来る。

 その身に晒された攻撃も、十分以上に苛烈なものだった。

 

 それらを理由に、勝利に縋りたくなる。

 だが、動きを見せない事が、即ち『地均し』の死とはならない。

 相手はゴーレムなのだ。

 

 機械的動きは、これまで幾つも散見された。

 それならば、単に今、少しばかり動きを見せないだけで、機能が完全停止したと見られる筈がない。

 それに、と視線をずらし、別の懸念を口に出そうとしたところで、同じ考えをしていたオミカゲ様が言葉を落とした。

 

「完全に機能停止しているなら、孔もそろそろ消え始める筈であろう。他神の権能が使えていたのは装置のお陰……。それが事実であるなら、連動して孔も閉じて良さそうなものだ」

「即座に閉じるものではない、と考えられるにしろ、今まさに目の前で閉じていくなら、安心材料も増えるんだが……。しかし、消えないな」

 

 ミレイユは険しい顔のまま、孔と『地均し』へ交互に視線を移す。

 相変わらず動きは見せないが、腕の位置は相変わらず腹を庇うように置かれていて、それは体勢を崩してからも変わらない。

 

 あの位置に権能を使う装置があるからこそ――露出させた場面を見せたくないからこそ、腕を使って隠す必要があったと見ているが、未だ肝心な部分は見えていないのだ。

 安易に結論は下せない。

 

 近付いて腕を攻撃、切断。あるいは破壊すれば、その判断も確定させられるだろうが、死んだ振りをしているのなら、迂闊な接近も躊躇われる。

 

「だが、いつまでも様子見、という訳にはいかないな。残敵掃討は必要だし、その手が足りてないなら……手を貸してやらねば」

「そこで自ら動こうとするのが、如何にも人使いを知らぬ者の考えよな。我らが自ら動くより、後方で構えている方が安心させてやれる。最低限の安全だけ確保して、他を動かせ」

「だが……、私達が動けば、それだけ早く済むだろう」

「攻勢魔術士という余力が出来たのだ。陣形や態勢の変更は必要になるが、それさえ済めば、あれらを使って対処できる。我らが必須でないなら、動くべきではない」

「しかし……」

「少しは自分を労われ。そして、誰かに任せる事を覚えよ。その方が他も安心するし、任せられた方も喜ぶ」

 

 そうまで強く言われては、ミレイユも反論の言葉を失くした。

 何しろミレイユ達は神だ。そういう事になっている。

 

 オミカゲ様は事実として神だし、本来は動くべきでない存在でもあった。

 これは単に軍の最高司令官が、前線で武器を取る事以上にインパクトが大きい。

 

 人の世であれば、一番偉い事が即ち一番強いとはならないから、前線に出す意義は士気高揚を狙うぐらいしかない。

 だが、オミカゲ様ならば両立する。

 前線に押し出す意義が大きいからこうして出張っているが、実際は高みから奮戦を見守るぐらいが、隊士達からしても安心出来るの事態なのだ。

 

 そしてオミカゲ様の御子神と知られるミレイユも、同様に後方で待機していて欲しい、と思う気持ちも理解できる。

 戦場に立たせる事、武器を持たせる事などあってはならないと考えるのが、彼ら隊士たちだ。

 

 ――だが。

 ミレイユは視線を魔物共の更に後方、孔が五つ並ぶ場所へ視線を向け、更に険しく眉根を寄せた。

 そこでは更に一つ、また一つと、孔の数を増やしていく光景が見える。

 ミレイユはそれらを忸怩たる思いで、また忌々しく睨みつけた。

 



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奮戦 その6

「権能装置は止まっていない。それどころか、呼び込む魔物の数を増やすつもりだ」

「自ら動けないからこそ、か……? 光線も有効でないと知ったから、数による圧殺が最も有効だと判断した、と見るべきか……」

「鎧甲が剥がれた以上、魔力の吸収は不可能、補給も出来ないと悟った筈だ。孔の数を増やそうと、やはり消費はする筈だ。得策じゃないと思うんだがな……」

「しかし、手が届く範囲には誰も近寄らず、そして光線も有効でないのなら、打つ手も限られて来るであろうよ」

「他の権能を使えば良いだけ――いや、燃費の問題、か……?」

 

 どの権能を使おうと変わらぬ消費をするのだと仮定しても、継続的に魔物を呼び込めるのは魅力的だ。

 今は無駄に思えても、最終的に地に溢れさせれば勝てると思っているのかもしれない。

 ミレイユは只でさえ険しい顔を歪め、眉間に深い皺を作って唸る。

 

「孔を増やせば、それだけ多くの魔物を呼び込める。孔同士が繋がって、より強力、より巨大な魔物も呼べるだろう。それらに頼る方が、現状ならまだ有益、かもしれない……」

「とはいえ、本体が無防備というのはどういう事か。攻撃を受ける危険を考慮しておらん。それも魔物を、壁として使う事で解決するというには、少し考えが足りないと思うが……?」

「だが、こちらの手が足りない事もまた、見抜かれてるだろう。攻撃させない事こそ、防御になると考えているのかもしれない。……どちらにしろ、これは傍観を決め込むには早過ぎるな」

 

 攻勢魔術士を投入せねば決壊すると思わせ、戦力移動を強要するつもりの一手なのかもしれない。

 実際、魔物の波に呑まれるぐらいなら、そちらへ注力する事は余儀なくされるだろう。

 

 忌々しい事だが、それは実際有効と認めない訳にはいかなかった。

 そうして『地均し』の……というより、その全体像――鎧甲の剥がれた黄土色の身体を見る。

 

「魔力攻撃が鎧の下には、それほど有効でなかったのも、一つの理由かもな。表面が焦げた程度、少し欠けた程度じゃ、ダメージを与えたとは言えない。術の数こそ多く、二倍の威力になっていても、鎧の下にダメージを与える程じゃなかった」

「ではあの部分は、魔力に対する耐性を持つ、と見るべきか。鎧甲の許容量を飽和させるだけなら、多量の魔力さえあれば良く、威力は二の次でも良かったが……」

 

 オミカゲ様の意見に、ミレイユは重々しく頷いて同意する。

 元より戦場慣れしているエルフであろうと、戦場で上級魔術を使うものではない。

 一つのミスが味方にも被害を与えると知っているからこそ、順当に使える中級以下に絞って使っていた。

 

 それは戦術として真っ当で、そして二倍の威力になる、という前提から問題なしと思っていた戦法でもあった。

 鎧甲を剥がす事を第一と考えていたのだし、実際にそれは成功して実を結んだ。

 

「だが、蓋を開けてみると、その下にあった地肌に傷こそ付いても、全てを吹き飛ばせなかった。中級魔術を二倍威力にした程度では、奴の持つ質量的にも不可能だったんだな……」

「焦げたり、欠損した部分は少ないものの、確かにある。有効には違いなかろうし、多くの魔術は鎧甲排除に使われた所為でもあろうが……さりとて、本体へはあの程度よ」

 

 あるいは、むしろ物理攻撃の方が有効かもしれない。

 だが、そう思ったところで、あの巨体が壁となる。

 

 魔術で攻撃するべきだろうが、中級魔術では、どこを攻撃しても蟻の一噛みにしかならない。

 一人で攻撃する事に意味がないなら、やはり多数で攻撃するべきだ。

 しかし、それも今や魔物の対処に縛り付けられてしまっている。

 

 今度は逆に、攻勢魔術士を魔物の群れへと向けなければ全滅だが、このような乱戦において、壁のない状態で魔術の行使は出来ない。

 

 支援術士による防護壁、それが無理なら内向術士による物理的な壁、どちらがなくては集中して魔術を使えない。

 八房などの戦力も十分助けになっているが、先程より増えた魔物の対処には、全兵力を注力しなければ決壊は免れないだろう。

 

 だが、まだ絶望するほど酷い状況ではない。

 不利ではある。魔物の飽和攻撃は厄介だ。

 しかし、未だ力の底を見せていないのは、お互い様だった。

 

 ミレイユは不快げに鼻を鳴らして、『地均し』の背後にいるだろう大神を睨む。

 『求血』を用いた魔術飽和攻撃は、脅威と映った筈だ。

 鎧甲を剥がされた事は、意外だったに違いない。

 

 しかし、その下を傷付けられるものではなかった、と見切りを付けたのだとしたら、あまりにも浅慮だと思い知らせてやらねばならなかった。

 

 ミレイユも、そしてオミカゲ様も、まだ全力の魔力攻撃を仕掛けていない。

 それに、召喚剣で接近して攻撃するという手段もある。

 

 エルクセスより巨大な敵だが、立ち上がっていない今なら顔面付近への攻撃も、腹への一撃も比較的容易だ。

 それこそ、エルクセスと同じように、内側へ埋め込んだ召喚剣を起爆した時、有効かどうかを試してやりたい。

 

 それには腕による妨害をどう避けるか、破壊して取り除けるのか、その部分は試してみないと分からないが……万策尽きたと諦めるには早い状況だった。

 

 ミレイユは自分の胸に当てていた手を握り締め、痛みを抑えようと試みる。

 痛みには波があって、常に激痛を呼び起こす訳ではなく、しかし早く治まれという願掛けのつもりで、今の動作を行う事が多い。

 拳を握ること、胸を抑えることで和らぐものでもないと経験から知っていても、それが今では癖の様なものになっている。

 

「……オミカゲ。一応聞くが、何か秘策は?」

「その様な都合の良いもの、あるなら既に使っておる」

「……うん、そうだろうな。じゃあ、状況を打破できそうな何かは?」

「……何もかもが手探りな状況故、『地均し』をどう攻撃すべきか迷っておるでな。魔力に対して完全耐性を持っていないのは、欠けた表面からも分かる事よ。……が、どの程度の威力から有効と言えるものか分からぬし、あるいは殴った方が早いかろうか、と思っておった」

 

 既に同じ事を考えていたので、ミレイユはそれにただ頷く。

 現段階での消耗も、相当大きい。

 

 魔力は魔術士にとって最大の生命線だ。

 戦闘中ならどの様な状況でも、空になるまで使う事は滅多にしないし、単に逃げ回るだけだろうと、魔力を残しておかねば出来ない事だ。

 

 今の余力がない状態で、無駄撃ちになるような使い方は避けたかった。

 それでも使うというなら、初手から最大魔術を使うべきだ。

 

 だが、それは本当に最後の切り札だ。

 それを切るしかないと判断する前に、物理攻撃を試してみたい。

 しかし、それには魔物の群れが邪魔をするのだ。

 

「アヴェリンを使うのが、この場合もっとも期待した結果を出してくれるであろうな。だがアレの場合、たかが一人戦力を借り受けるだけ、ともならないのが困ったところよ……。前線の者達からも恨まれよう」

「アヴェリン一人が引き抜かれる事は、十人足しても足りない戦力を奪われる事と同じだ。……そして今は、十人と言わず、むしろその三倍は追加で欲しい状況だろう」

 

 ミレイユが苦々しく言いながら、そこから更に増えた孔をツバ吐く思いで見つめた。

 追加された孔の数はこれで三個目。

 『地均し』をこれ以上好きにさせる事は、戦線の悪化だけでなく、最悪の場合……決壊も有り得る。

 

 更なる追加を、これ以上許す事は出来なかった。

 最早、ここで長々と議論している時間すら惜しい。

 

 惜しむというなら、魔力よりも時間こそ惜しむべきで、『地均し』を早期に黙らせてやれば、魔物の出現も停止するだろう。

 『地均し』を倒せても残敵の掃討は必要で、結界が破綻し外に溢れてしまえば、これまで留めていた苦労も水の泡になる。

 

 ――必要なのは、決断だった。

 神が武器を手に取って戦うべきではない、などという常識は捨て去るべきだし、魔術による二次被害も、このさい許容すべき段階に来ている。

 

「オミカゲが使う、威力が倍増された上級魔術でも、表面を焦がすだけ……。それなら、最大級の威力を持つ魔術を使うべき、という話になるんだろうが……」

「使えるものか。ここにいるもの、全ての命が吹き飛ぶ。我らも無事では済むまい」

「結界を一端解いて、『地均し』と魔物だけに出来ないか……?」

「それならば、隊士達を全員外に出す方が早い。それには統率ある撤退をせねば被害が甚大であるし、殿(しんがり)は死に役だ。必要と説けば志願する者もいようが、……認められぬ」

「気持ちは分かるが、決死の覚悟で来た奴らだろう。最小の被害で済ませられる、最後の機会だ。彼らも覚悟あってここにいるんだろうから――」

「そなた、同じ事をアヴェリンにもやれと言えるか?」

 

 厳しい視線で問われて、ミレイユは言葉に詰まる。

 確かに、他を逃がす為にお前一人残って戦え、と命じる事は抵抗があった。

 ミレイユが頼めば、アヴェリンは断らない。むしろ、喜んで頷くだろう。

 

 だが、その様な残酷な命令、この期に及んでも尚、ミレイユは口にしたくなかった。

 いや、この期に及ぶことが出来たからこそ、だろう。

 円満な解決を目前に控え、それを手放す決断は難しい。

 

 そしてまた、オミカゲ様が命じるとなれば、隊士の誰もが、アヴェリン同様応じる事は間違いない。

 

 だがやはり、ミレイユにアヴェリンを例に出して来た様に、オミカゲ様にとって、彼らを捨て駒にしたくない気持ちは高いのだ。

 最後の最後、苦渋の決断を下す時にならなければ、決してそれを口にしないだろう。

 

「……そうだな。彼らは私にとって一人の兵士に過ぎないが、お前にとっては大事に思う一人の人間か。無事に帰してやりたいと思うなら……じゃあ、私達が踏ん張るしかないだろう」

「然様……。まずは我らで『地均し』へ斬り込み、様子を見ようぞ。そなたとて、魔力が補充されて、少しはマシになったであろう?」

「……そうだな」

 

 実際は少しもマシになっていないし、体調は決して元に戻ってくれたりしない。

 痛みは決して消えてくれないし、泣き出したいくらいだった。

 

 もう嫌だ、もうやめたいと心の奥底でよぎっても、ユミルに刻まれた命令が背筋を伸ばしてくれる。

 泣き言も強制的に胸奥へと押し込まれ、やるしかないという気持ちが沸き上がって来た。

 

 互いが示し合わせて頷いた時、ガラスが割れた時のような、つんざく大きな罅割れの音が耳朶を打つ。

 嫌な予感がして顔を上げると、結界全体へ縦横無尽な罅が入り始めたのが見えた。

 まずい、と思った時にはもう遅い。

 

 次の瞬間、結界は音を立てて砕け散り、神宮を覆っていた壁が取り払われた。

 そうして、結界が作り出されたその瞬間――夜闇を切り取って固定されていた空が消え、ただ長閑に見える、雲がまばらにある綺麗な青空が露わになった。

 

 恐れていた瞬間が、遂に訪れた。

 ミレイユはオミカゲ様と共に、大きく顔を歪めて周囲を振り仰いだ。

 



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奮戦 その7

「破られた……!」

「――結界、再展開を急がせよ! 『地均し』を外に逃がすなッ!」

 

 オミカゲ様が背面へ向き直ると共に腕を一振りし、誰にとも無く指示を出す。

 傍に控えたままだった咲桜は、緊急の伝令役として残っていたので、その言葉で即座に反応する。

 彼女の顔は状況を理解して蒼白になっていたが、しかしそれだけが理由ではないのだと、続く言葉で理解した。

 

「お言葉ですがオミカゲ様、到底不可能と思われます! わたくしが皆様方の様子を見た時には、既に疲弊著しく、大半の者が理力を使い切って倒れておりました! 再度の展開は絶望的です!」

「ぐ……っ!」

 

 咲桜の反論は、オミカゲ様にも想定されていた事だったろう。

 だから言葉に窮しても、激高まではしていない。咲桜の指摘を正しいと理解しているから、一振りした腕の先で拳を握って震わせるだけだった。

 

 だが、このまま対策せずに傍観している事だけは出来ない。

 『地均し』はあれだけの巨体だから、周囲からの目撃を隠せるものではないし、そして高層建築が無い神宮の周りでは視線がよく通る。

 

 神宮周辺の土地では五階建てまでの建物しか存在しない為、あれが背筋を伸ばすだけで、さぞ目立つ事になるだろう。

 直立した高さは五百メートルを越えると予測できるし、どれほど遠くの者から見られるか想像も付かない。隠蔽は最早、不可能と考えるしかないだろう。

 

 被害も甚大になる筈だ。

 結界が解けた事で、見るも無惨だった奥宮の中庭は、以前の整った風景に戻ってしまっている。

 塀が破壊されようと、中庭がどれだけ抉れ、焼かれて損壊しようと、結界内で決着するなら戦闘後を考慮する必要がなかった。

 

 威厳もあり威儀もあり、歴史ある建物が破壊される事は、その歴史を侮辱されるに等しい行為だ。

 好きにさせる訳にはいかない、という気持ちが沸き上がるのは当然だが、それよりも重大な事がある。

 

 それは溢れ返った魔物どもが、周辺に飛び散る事だった。

 『地均し』の攻撃で生まれる被害も大変だが、それで神宮の塀が破壊されてしまう事も防がねばならない。

 

 魔物相手にどれ程高い塀も気休め程度にしかならないが、安易に出られる状況こそ作らせる訳にいかなかった。

 魔物が氾濫し、外の平和を蹂躙する事こそ、考慮せねばならなかった。

 

 だから、孔の数があれから増えていない事は、その中にあって歓迎できる材料だった。

 魔物も襲い掛かるアヴェリンや隊士達、そして精霊へ場当たり的に反撃しているだけで、統率されてはいない。

 

 付け入る隙は十分にあり、そして場当たり的に対応しているのは隊士達も同じだが、魔物と違ってより効率的な形へ修正しようという意志が見える。

 

 単に火の粉を払うだけに耽溺せず、より最適な運用へと切り替えようとしているのは、長年魔物と戦って来たからこそ出来る芸当だろう。

 それがこの絶望的な状況の中で、唯一救いになる材料だった。

 ミレイユは胸に手を当てながら、オミカゲ様へ窺う。

 

「どうする、魔物については、任せておいても良さそうだ。……二人でこのまま、『地均し』相手か……!?」

「……他に、あるまい……! 緊急事態故、近隣と言わず遠方の神社からも結界術士を要請しておった筈だから、その合流次第では結界の再展開もあり得るが……!」

「不確定要素に期待している場合じゃないだろ! 今ある戦力で――」

 

 そこまで言い掛け、ミレイユは戦場の一点、頼りになる味方の背中に目を留めた。

 被害を拡大させない為にも、結界の再展開、そして堅持は急務だ。

 

 あそこまでの長時間、維持できていたのは間違いなく一千華の奮闘あってのもので、そして近いレベルの事がルチアには出来る。

 頼みの綱を探すというなら、今ここに彼女を置いて他にいなかった。

 

「ルチア! お前は結界を再展開する為、奥へ入ってくれ!」

「ちょっと待ってください!」

 

 いつもなら即座に頷いて動くだろうルチアが、意に反して攻撃の手を止めて詰め寄って来た。

 

「私を貴女の傍から離すんですか? この場、この状況、孔から湧き出る魔物の対処もあって、私を貴女から離すと……!?」

「そうだ、そうして貰うしかない。現段階で、どちらに重きを置くかを考えると……そして誰に可能か考えると、他に手がないと思う。……分かってくれ』

「……分かります。分かりますけど、心配です」

 

 ルチアが言ったとおり、実に案じる表情でミレイユを見つめてきて、思わず苦笑して頬を擦る。

 

「そんなに酷い顔をしているか?」

「顔というより、身体の方です。私が傍を離れたら、誰が怪我した時の貴女を助けられますか。自分で高度な治癒術を、今も問題なく使えますか?」

 

 咄嗟に返事をする事が出来ず、ミレイユは一瞬言葉に詰まる。

 今のミレイユに、治癒術に限らず高度な魔術の使用は困難だった。時間を掛けて使うなら、可能だと断言できる。

 戦闘中でも黙って立ってる場合に限っては、問題なく使えるだろう。

 

 だが、傷を負えば集中力も乱れるし、それを継続する事も難しくなる。

 ミレイユが持つ魔力耐性は、攻勢魔術と治癒魔術を分け隔てなく遮断するから、敵の攻撃にだけ都合良く耐性が働く、という事にはならない。

 

 だから傷を受けた時、自分で治癒できなければ他人に頼るしないのだが、隊士の能力では力不足だった。

 ルチア並の魔力がなければ治癒出来るものではないのだが、それを傍から離すというなら、ミレイユの命が脅かされるという事だ。

 

 だから、普段なら一もなく頷くルチアが、ここで頑強に否定している。

 誰もが死ぬ覚悟を持ってやって来たのは間違いないが、みすみす不安の種を作るのも嫌だ、という主張も理解できる。

 

 だが、覚悟を見せるというなら、ミレイユもまた別け隔てなく見せるしかないのだ。

 ミレイユはルチアの目を、じっと見つめて切なく笑ってやる。

 困ったような笑いには、ルチアも困ったような笑みを浮かべ、根負けしたように頷いた。

 

「……分かりました。行きます。でも、自分で何ともならないと思ったら、素直に助けを求めて下さいね。貴女って、我慢すればするだけ偉いと思ってる(ふし)ありますから……」

「……そんなつもりはないが、分かった。自分の身に余る時は、素直に助けを求める」

「それと……」

 

 まだあるのか、と困った顔で、眉根を更に八の字をさせると、ルチアは首を横に振って笑った。

 

「結界の再展開は分かりました。でも、流石に一人では無理ですよ。可能であったとしても、紙と変わらない耐久力しか作れません。展開させるのに使用する魔力の無駄にしかなりませんから、補助要員は絶対に必要です」

「それは、今も来ている……かもしれない、って話だが……」

「でも、アテに出来ないんですよね? 例の回復させる箱詰め、あれってもう無いんですか?」

 

 残念ながら、と首を横に振って否定する。

 

「それは先程、最後の一つを私が使った。ユミルの水薬が残っているなら、それを使うのも……いや、時間が掛かり過ぎるか」

「えぇ、どうしても即効性に欠けますし……。それだけ待つ時間が、果たしてあるものか……。それなら、いつ来るか分からない増援を待つのと、殆ど変わりませんよ。箱詰めを全て使ってしまったのは、あの激戦を思えば当然ですが……」

「――あっ!」

 

 ルチアが憂う表情で沈んだ声を出した時、咲桜から素っ頓狂な声が上がった。

 そこに全員の視線が集中し、口元へ上品に手を当てていた咲桜が、恐縮した素振りで首を横に振る。

 些細な思い付きに過ぎないと、忘れて欲しいとでも言うように頭を下げた。

 

 本当に些細な何かであるにしろ、希望があるなら訊いておきたい。

 本人にとっては些細と思えるものでも、あるいはミレイユ達ならそれを上手く利用してやれるかもしれなかった。

 だから、それを聞き出そうとしたのだが、ミレイユより早くオミカゲ様が問う。

 

「何か思い付いたか。――良い。些細な事でも申してみよ」

「は、承知しました、オミカゲ様!」咲桜はオミカゲ様に一礼して続ける。「もしかしたら、という話でしかありませんが、箱詰め理力が残されている可能性があります」

「……真か? それは幾つ?」

「籠に入るだけの数ですから、十は下らないかと……」

「つまり、手付かずの籠が残されているかもしれないと、そう言いたいのか?」

「然様でございます!」

 

 咲桜は更に一礼――先程より深い角度の礼――をして、引き攣った声音で弁明を始めた。

 

「先程、蔵まで取りに戻るよう言われた時、言葉どおりにしか捉えて行動できず、申し訳ございません! 今も手付かず籠が残されていた可能性があり、それならば真っ先に確認へ向かうべきでした!」

「なるほど……、あい分かった。戦場を経験しておらぬ者に、常に冷静で一切の不備なしを求められるものではなかろう。……して、その籠は何処ぞにある」

「時間は掛かりません。直ちに確認し、もしも残っていれば持参いたします!」

「良かろう。急げよ」

「はいっ! 御前失礼いたします!」

 

 一礼するや否や、咲桜は矢の様な速さで走り去って行く。

 神宮お付きの女官として理力制御を修めているから、本気で走れば相応に速かった。思わず目で追ってしまったが、その様な場合ではない。

 

 ミレイユは改めてルチアへ向き直り、今は咲桜の反応待ちだと目配せする。

 やけに静かなユミルはどうしているかと目で探すと、既に前線へ飛び出してアヴェリンの背後に付き、互いをフォローしながら戦っていた。

 

 状況を俯瞰して見る事が出来、何を言わずとも最も適した動きをしてくれる彼女だから、それが非常に頼もしい。

 ユミルに命じる時、適当に上手くやれと言う事が多いのは、まさにああして現状に合わせて最適な行動を勝手に取ってくれるからだ。

 

 自分の攻撃が通じるかどうか不明な『地均し』には早々に見切りを付け、確実に貢献できる魔物の掃討に参加したようだ。

 

 そして実際、アヴェリンと背中合わせに戦える戦士というのは、この場では見つけられない。

 単純にそれだけの力量が足りない、というのではなく、アヴェリンの行動を阻害する事なくフォローするには年季が足りないのだ。

 

 戦士としての能力なら、アヴェリンに全く敵わないユミルだが、長いこと一緒にいたからこそ癖もまた良く知っている。

 数を相手にする以上、ユミルのフォローは助かる筈だ。

 

 しかし、当然ながらユミル一人が参戦したからと、それだけで状況は好転しない。

 お陰でアヴェリンはより攻撃的に動くことが出来るようになったし、それ故に更なる戦力増強となったが、劣勢には依然変わりなかった。

 



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奮戦 その8

ささきもり様、誤字報告ありがとうございます!
 


 孔は物理的にも、魔術的にも破壊できるものでない以上、魔物の侵出を止める事は出来ない。

 もしを言っても仕方ないが、ここにインギェムがいれば無効化できただろう。あるいは、それを無効化できる権能があれば、可能であるかもしれない。

 しかし、無いものを強請っても仕方なく、これを消滅させるには、『地均し』を沈黙させる以外、今は有効な手立てがない。

 

 それに、魔物の数は増える一方なのだ。

 魔術士を使えば対処可能となる目はあるが、攻撃すれば敵の目は当然そちらに向く。

 今は内向術士が暴れているから、より近い脅威へ盲目的に攻撃しているが、それもいつまで続くか分からない。

 

 考え知らずに魔術を撃ち込ませる事は、敵を引き寄せてしまうだけでなく、神宮の外へ飛び出させてしまう危険性を生む。

 活用するには部隊を再構成する必要があるのだが、整える間に前線を維持する兵力などない。

 

 それこそミレイユ達が出れば解決する問題だが、それだと『地均し』を自由にしてしまう。

 今まさに動き出した『地均し』を放置する事が、どれ程の被害を出すものか想像も付かない。

 ミレイユかオミカゲ様、最低でもどちらか、欲を言えば――やはりその両方で、対処しなければならない問題だった。

 

 ――結局のところ、兵力、兵力、兵力が足りない。

 臍を噛む思いで、ミレイユは顔を歪ませた。

 どうすれば良い、という焦りばかりが思考を空回りさせる。

 

 そこへ走り去ったばかりの咲桜が、一つの籠を携えて帰って来た。

 その顔には、オミカゲ様を失望させないと確信するだけの、高揚した表情が浮かんでいた。

 オミカゲ様から不躾でない程まで近付いて膝を折ると、持っていた籠を捧げ持って、その中身が分かり易いように見せる。

 

「お待たせいたしました、オミカゲ様! こちらにご所望の品、手付かずのまま残っておりましたこと、ご報告いたします!」

「大儀であった」

 

 オミカゲ様は頷く動作で咲桜を労い、それからルチアへと顔を向けた。

 

「奥御殿は結界神殿まで赴き、結界の再展開に備えよ。力ある者へも箱詰めを渡し、一千華と協力した上で再びアレを閉じ込めて貰う」

「それは……、了解しましたけど……」

 

 ルチアは物憂げな――あるいは、悲嘆に暮れるような顔で『地均し』を見つめた。

 そこでは、今まさに地面へ押し当てていた上体部が徐々に起き上がろうとしており、両手も地面について立ち上がろうとしている。

 

 巨体故か鈍重で、その動きは早くないものの、既に結界が展開していた範囲から身体は侵出してしまっていた。

 それを忌々しくも鋭く見ていた視線を、オミカゲ様へと戻して更に言う。

 

「『地均し』が完全に立ち上がるまでもなく、既に結界内へ閉じ込めるのは不可能です。神宮から出て行かれてしまうなら、より近い地点の神社から結界を張り直した方が良いと思います」

「疲労困憊している術士達を移動させるのは、現実的ではなかろう。――ならば、何としても移動を食い止めなくてはなるまい」

「その上で、転倒でもして貰う必要があるんですけど……」

「――然様。自ら蹲るつもりがない限り、こちらでどうにか倒してやらねばならぬだろうな」

 

 それが文字通りの転倒であろうとも、外へ被害を出させない為には……そして、被害の拡大を防ぐ為には、結界内で戦うしか方法がない。

 

 だが、あれだけの巨体を転倒させるのは、あまりに非現実的だった。

 それは誰の目にも明らかだったが、ミレイユの方から指摘する。

 

「その方法が無い以上、立ち上がる前に攻撃し、転倒させるしかない。……とはいえ、封じ込められたとしても、やはり再び起き上がろうとするだろう。その時、結界に掛かる負担は更に大きい筈だ」

「……ですね」ルチアが首肯して顔を向ける。「五分も保てば奇跡と思って下さい。実際には三分、あるいにはそれ以下かもしれません。どちらにしろ、結界の展開と同時に倒すくらいの気持ちでいて欲しいですが……」

「努力はするが、保障は無理だ。――何しろ、一筋縄ではいかない事など分かり切ってる」

 

 ミレイユは細く息を吐き、未だ心配そうな顔を向けて来るルチアへ微笑みかけた。

 

「だが、何とかする。必ず、再び、結界内へ閉じ込めてやる。――だからルチア、頼むぞ」

「はい、頼まれました。どうか無事で……。共に戦場に立てないのは悔しいですが、結界を頼みたいという気持ちも、よく分かりますから」

「うん、お前の気持ちを無下にするんだ、それだけの意味があったと安心させてやる」

 

 ミレイユが頷くと、ルチアも毅然とした態度で頷く。

 互いの気持ちが通じ合った事を理解すると、ミレイユの脇をすり抜け、咲桜から籠を受け取って奥宮へと駆けて行く。

 多くの時間を大社の方で暮らしていたルチアだから、正確な場所など分からないだろうが、彼女の感知魔術は一流だ。

 

 一千華の所在地を掴めば、勝手に行き着くだろう。

 その様に思っていると、オミカゲ様が咲桜へと顔を向ける。

 

「これよりは、我らの守りはいらぬ。術士の守りへ入り、攻勢理術の支援へ向かえ。今の指揮官は先代の阿由葉だ。詳しくはそちらで指示を受けよ」

「畏まりました!」

 

 咲桜が立ち去るのと入れ替わりに、ミレイユもアキラへと顔を向けた。

 

「聞いたとおりだ。お前も前線に出て、魔物の掃討に参加しろ。盾の役目を負っていても、動きについて来られないなら邪魔だ。――何せ、あの巨体だしな」

「は、はい! しかし、僕は師匠に……!」

「分かってる。だが、これ以上は話している時間が惜しい。最後の盾としての任があろうと、お前は私の動きに付いてこれない。それが事実だ」

 

 『地均し』に接近攻撃を仕掛けるとなれば、まずあの巨体に張り付く必要があるし、その際に攻撃もあるだろう。

 起き上がる事を許せば、頭付近まで駆け上がる必要だって出て来る。

 

 守りたいと言う気概があろうと、ミレイユと同じ速度で付いて来られないなら、アキラの存在は全くの無意味だ。

 それならば、自身の能力を活かせる戦場で武器を振るっていた方が良かった。

 

 アキラは悔しそうに顔を歪ませたが、事実なのは間違いないので頷くしかない。

 当然、アキラも粛々と指示に従うと思ったのに、即座の返事をしなかった。

 顔を俯けたままで視線や表情は見えないが、単に悔しさに苛まれてるという様には見えない。

 

 しかし、一刻を争う状況で、素直に従わないのは不愉快だった。

 さっさと行け、と指を動かすと、アキラは勢いよく頭を下げ、腰を深く曲げた状態で声を上げる。

 

「ミレイユ様! どうかお側を離れる事、お許し頂けないでしょうか!」

「……話を聞いてたか? そう言ったろう、早く前線に行け」

「違います、そうじゃありません!」

 

 一層声を張り上げて、アキラは顔を上げる。そこには一大決心を口にする、緊張した表情が浮かんでいた。

 

「兵数が足りてないのは明らかです! ですから、その、援軍を呼んだら如何かと、思った次第です!」

「お前から、そういう進言を受けたのは初めてだな……」

 

 自分の立場や周りの有能さを見れば、一歩引くしかなかった、という部分はあったろう。

 誰もアキラの助言など必要としない、と低く見ていた訳でなく、大抵はミレイユが自分で判断するし、ユミルが微に入り細を穿つといった指摘もするものだ。

 

 殊更、アキラの意見を必要としていなかった、というものもあるだろう。

 そもそも知能派といえる程、賢い訳でもない。

 何気ない疑問を口にする事はあっても、戦闘や作戦に寄与する進言をする事はなかったのだ。

 

 だが、アキラが口にした援軍、というものに、ミレイユが全く当たりをつけなかった訳ではない。

 テオも必要なら呼べ、と言っていた。

 借りを返すだけだから、と――。

 

 だが、彼らも今は苦境の時で、一人として余分な人員はない筈だった。

 そこから引き抜き、援助を頼む事に遠慮がある。

 

 だが現在、危機的状況なのは確かで、ミレイユがやった事を思えば、多少の我儘は許されるかもしれなかった。

 そこへオミカゲ様が一縷の希望を見出した視線を向けつつ、口を挟んでくる。

 

「つまり、エルフの兵を、まだ呼べると言う事で良いのか?」

「……そうとばかりも限らないが。なにしろ、彼らも今は救助作業している筈で、相応の疲労もあるだろう。万全な戦力とは言えないし、数も多く用意できない筈だ」

「しかし、十や二十であろうと、とにかく数が増えれば……。エルフに戦士はおらんだろうから、あまり前線への負担は軽くしてやれんだろうが……」

「いや、森の民はエルフだけじゃない。獣人族など、前線向きの奴らだっている。……だが、高い身体能力を持つ彼らは、あの状況では便利使いされていた筈だ。疲労は、やはり多いだろう」

 

 オミカゲ様は、ふむ、と頷いて前線へ視線を飛ばした。だが数秒と見つめる事なく、ミレイユへ視線を戻す。

 

「この際だ。呼べるというなら、呼んで欲しいものだな。例え十の増援であろうとも」

「ミレイユ様、呼べるというなら、人間も数に入れられると思います」

「オズロワーナは確かに攻め落とした。だがテオはまだ、その戦力や民意を掌握した訳ではないだろう。……望みは薄い」

 

 重ねて否定しようとしたところに、アキラがまたも否定の声を上げた。

 そして決意を込めた視線で、ミレイユの目を射抜く。

 

「確かに兵は無理かもしれません。でも、冒険者がいます。そちらに声を掛ければ……あるいは、助けに来てくれる人もいるだろう、と……!」

「かも、しれないな……」

「最低でも二人は動いてくれます。きっと、僕が誠心誠意頼めば! ……多分、ですけど」

 

 全く当てに出来ないという気持ちで返事していたミレイユだが、アキラとチームを組んでいた二人の顔を思い出す。

 アキラに対して強い執着を見せていた二人だから、確かにこれには希望が持てる。

 だが、喧嘩別れとまでは言わないものの、気不味い別れ方をしていた筈だ。

 

 謝り方一つ、要請の仕方一つで更に拗れてしまいそうだが、ここはアキラに頼んでみるしかない。

 一人の戦力でも欲しいところで、アキラと同格の相手が援軍となるなら、それは確かに願ってもない。

 

「テオに援軍を頼む事を考慮しても、お前なら顔も知られているだろうから……。そうか、適任か」

「では……!」

「うん、お前に一任する。打って損のない手だ。テオや、……今も救助を待つ住人には済まないが、こちらの都合で助けてもらう」

「はい、その大任! 見事やり遂げて見せます!」

「頼むぞ」

 

 ミレイユがそう声を掛ければ、アキラは俄然やる気を出して頭を下げた。

 一礼した後、オミカゲ様にも深々と一礼した後、踵を返して颯爽と走り出す。

 そうして、今もまだ開いたままの、エルフ兵が出て来た孔へと飛び込ん行った。

 

 苦慮の場所へ更なる苦慮を押し付ける様な真似は出来ないと、遠慮心から援軍を思考から外していたが、こちらも世界の破滅に片足が入っている状態だ。

 

 本来なら、もっと早く形振り構わず援助を頼んでも良い筈だった。

 自分に出来る範囲を越えても、自分で事を成そうとする――。

 ミレイユの悪い癖だ。

 

「だがこれで、もしかしたらという希望は繋がった。前線は彼らに任せ、援軍の到来に少しは期待しておこう」

「うむ。……では、我らは、あのデカブツをどうにかするとしようぞ」

 

 言うや否や、オミカゲ様はミレイユの脇に腕を差し込んで持ち上げる。

 そのまま自身も飛び上がると、今まさに腰を浮かそうとしている『地均し』へ、一直線に突っ込んで行った。

 



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誠実の恩返し その1

ささきもり様、誤字報告ありがとうございます!
 


 アキラは強い使命感を持って、ミレイユの傍を飛び出した。

 盾となってその身を護ると誓った上で、傍を離れるのは辛い。

 

 だが、日本が、故郷が、神宮が蹂躙されようとする様を見れば、自分にも何か貢献できる事がある筈だと、居ても立っても居られなくなってしまった。

 

 ミレイユの気持ちは分かる。

 オズロワーナの人々も、今まさに苦境の時だ。助けを待つ人も、きっと多いのだろう。

 

 地震対策をしていない家屋は脆い。

 家財も食料も突如失い、途方に暮れている人は多かった。

 

 他の誰かを救助しようと、動く人も皆無ではなかったが、その手助けとして主体で動いていたのは森の民だ。突如として家財など多くを失った人が、それでも精力的に動くのは難しい。

 森の民が中心に動いていたのは、そういう理由もあった。

 そして、その人達を奪って行く事になるのだから、ミレイユとしては心中穏やかでいられなかっただろう。

 

 だが、ミレイユには助けて欲しい、と声を上げる権利がある。

 確かに被害は出た。それはミレイユが『遺物』を使った事に原因があるかもしれない。

 それを心苦しく思うからこそかもしれないが、ミレイユが決断しなければ世界は終わっていた。

 

 大地が消滅し、全ての命が失われただろう。

 それを救った代償があの被害だと思えば、むしろ破格というべきで、お釣りが出るくらいだと思うのだ。

 やってる事は救世主――いや、それ以上の創造神でなければ不可能な偉業だ。

 

 だから多少の我儘は許される。

 ……そう思うのは、果たして傲慢だろうか。

 しかも、『地均し』による侵攻は、単なる神宮の破壊だけで被害は収まらない。

 あの巨体が暴れ回れば、神宮周辺だけに留まらず、もっと広い範囲に破壊が拡がるだろう。

 

 被災というなら、日本の住人もデイアートの地震とは、比較にならない被害を受ける事になる。

 そして何より、嫌がらせの様に作り出された孔の件もあった。

 あれが再び百、鬼夜行を生み出そうとしているのだ。

 疲弊の大きい隊士達では、また同じ規模を繰り返されたら、きっと耐えられない。

 

「く……ッ!」

 

 アキラは孔の中に広がる暗い世界で、身体を運ばれながら歯噛みした。

 いま神宮で起きている事を思えば、共に戦った隊士達の顔が脳裏に浮かぶ。

 

 一度目の百鬼夜行でも、本当にギリギリの薄氷を踏みつつの勝利だった。

 前線へ躍り出た結希乃や七生、凱人が浮かべた必死の形相は、己の死を覚悟してのものに見えた。

 

 ――それを救いたい。

 だが、そこに自分一人の奮戦が加わった程度で、到底覆せないものだとも分かっていた。

 

 それこそオミカゲ様やミレイユの助力なくして押し返せるものではないのだろうが、彼の神達には、それよりもっと厄介で強大な敵と戦う使命がある。

 

 ――ならば。

 自分一人で駄目ならば、もっと多くの助けがあれば良い。

 そう単純に考えて閃いたのが、外に援軍を頼む、という事だった。

 

 アキラはそれが誰かは知らないが、恐らく森の王様と思しき――テオと呼ばれた青い肌の少年は言っていた。

 助けが欲しいなら遠慮するな、という旨を口にしていたのだ。

 無理やり奪う形で連れ去るのは問題だろう。

 だが、差し伸ばされた手に縋る事は、決して浅ましい行為ではない筈だ。

 

「ミレイユ様は、誰かを頼る事が苦手だから……」

 

 特に自分より弱い相手を頼るのが、苦手なのだと思う。

 強者は弱者を守るべき、とは言わないが、弱者に頼るのは恥と思っているのかもしれない。

 しかし、それを言ったらミレイユより強い者などまず居ない。

 

 ミレイユは心許せる仲間以外、何一つ頼れる者なく、戦う事になってしまう。

 彼女を助けたい、と思う人は多い筈だ。頼りにしてくれ、と思う人も、同じだけ多い筈だった。

 一声上げれば、きっと手助けしてくれる人がいる筈だ、という確信めいた期待があるから、アキラはミレイユに進言したのだ。

 

 あの時、一緒に連れ立って孔を潜った森の民は、エルフしかいなかった。

 だから、新たにエルフの追加は望めなくても、獣人族など頼みに出来る森の民はきっといる筈だ。

 

 アキラは必死に祈りながら孔の中を進む。

 一人でも多く――可能であれば十人くらい借りられれば、魔物の対処に希望が見える。

 そこに冒険者からの力も借りられるなら心強い。

 

 スメラータとイルヴィに会う事は、やはり気不味い思いがある。

 まだ別れて五日程度という短い時間で、再び顔を合わせる事になるし、そのうえ助けを乞うのは何を都合の良い事を、と激怒される可能性すらあった。

 

 だが、アキラは平身低頭、頼み込むつもりだ。

 殴られても、詰られても、この身一つで済むのなら、自分の頭など幾らでも下げる決意がある。

 一つそれを決心すると、胸の鼓動がドクリと跳ねた。

 

 覚悟を決めたつもりでも、緊張だけは強まった。

 孔の奥に見える光点が大きくなるに連れ、鼓動は更に早くなっていく。

 ――覚悟は決めた筈なのに。

 

 援軍を頼む事より……顔だけしか知らない相手に頼み込む事より、彼女らに会う事の方が緊張している。

 その事実に、アキラは自分の不甲斐なさを感じた。

 

 思わず自嘲の笑みが漏れた時、光点が一気に拡大して、アキラは城の一角に身を投げ出される。

 体勢が前のめりに崩れ、咄嗟に前回り受身を取って、勢いそのままに立ち上がった。

 

 即座に状況を確認してみれば、そこはミレイユ達を送り出す為に孔を作り出した部屋で、そしてその近くには手持ち無沙汰で所在無さげにしている二人の女性がいる。

 

 アキラが飛び出して来たことで、一瞬身体をビクリと震わせたが、すぐに何者かを確認して肩から力を抜く。

 ため息混じりに息を吐き、それから金髪の女性――確かインギェムという名の神――が、アキラに声を掛けてきた。

 

「何かと思えば、お前か。ミレイユのとこの……あー、名前は知らんが。状況はそれとなく分かってる。援軍が欲しいんだろ?」

「えぇ、はい。そうなんですが……、分かるんですか?」

「そりゃそうだろ。孔は己の――あー、アレだ。魔術……だからな。状況ぐらいは掴めてる」

「そうだったんですね。それじゃあ、既にテオという方にも、話は通ってたりするんでしょうか……?」

「あぁ、その筈だ。結構な危機だと話してあるから、状況が許す限りの人数を、既に掻き集めてるんじゃないのか。己はそっちに顔出してないから、詳しい事までは知らんが」

「それを聞いて救われた気分です! じゃあ、僕はちょっと聞いてきます……!」

 

 一礼してから出口の方へ身体を向けると、その先から慌ただしい雰囲気が伝わって来た。

 引っ切り無しに人が行き交い、人間、エルフ、獣人の区別なく何らかの役目を果たそうと奔走している。

 それが地震と被害に対処する仕事だと分かるから、この場で援軍を頼む事に対する緊張も浮かんでくる。

 

 話は通っているとの事だし、大丈夫な筈だと思っても、やはりそれを直接口にするのは度胸がいる。

 王様の様な偉い人と話す機会を持った事がないのも、それに拍車を掛けていた。

 

 部屋を出れば、すぐにテオのいる仮指令室になっていて、部屋の奥ではやはり書類に埋もれた少年と、それを補佐する壮年の男性エルフがいた。

 その二人が中心に事態へ対処しているのは、前回チラリと見て分かっていたが、今はその時よりも更に人が増え、怒鳴り散らす様に指示を出している。

 

「そうだ! 東区画はギルドが受け持ってる、元より自分たちの庭だ! そっちは勝手にやってくれる! それより西の商業区画だ! 金に物を言わせて人手を攫って行きやがる! 勝手をさせるな! まずは居住区が先だ!」

「でも、金で動く奴らは、それで止める事が出来ません。優先させたいなら、こちらも金を出さねば動かない。危機があるなら、更に値を吊り上げようとする奴らですよ」

 

 テオは書類が満載の机を、苛立たしく叩いて気炎を上げる。

 小さな手でも力はそれなりらしく、それで書類が幾つか舞った。

 

「くそっ! 足元見て商売する奴らはこれだから……! 同じ人間、少しは助け合おうって気はないのか!」

「まずは自分の安全や保障が優先という事でしょう。自分の利益を最優先という輩は、森の外ならむしろ当然。そうであるならば、捨て置きましょう。こちらはこちらで、棲み分けが出来たと割り切るべきです」

「そのフォローをするのが森の民か……! えぇい、忌々しい!」

 

 顔を多いに歪めるテオと、涼しい顔をしたエルフとの対比は凄まじい。

 だが、そうして意見をぶつけ合っている間にも、次々と人がやって来て報告なり書類を置いて行ったりしている。

 到底声を掛けられる雰囲気ではなく、そのうえ援軍らしき者たちが用意されている気配もなかった。

 

 いま聞いた話から考えると、使える人手を横から奪う商人達がいるせいで、余計に人手が足りなくなっているようだ。

 集めた援軍も、あるいはその穴埋めとして回してしまったのかもしれない。

 

 アキラがまごついて声を掛けられずにいると、エルフの方が気付いてくれて立ち上がる。

 手招きするので素直に近付くと、エルフの方が申し訳なさそうに眉尻を落とした。

 

「あちらの状況は伺っている。大変な時だろうと分かっているし、我々も協力は惜しまないつもりだ。その為の人員も掻き集めている最中だが、少々時間を要する」

「はい、分かっています。こちらも大変だって事は……。でも、一人でも多く、こちらから援軍を連れて行くとミレイユに約束しました。あちらの状況は、きっと思っているより悪いです」

「……そうだろうな。そして、我々が大事に思うのは、何よりミレイユ様だ。その方の御心に背く事はしたくない。だから今も取り急ぎ、部隊を作っている最中だ」

 

 話している間にも、兵士らしき人や伝令役らしき獣人が、幾人もテオへ報告していた。

 それを横目で窺う限り、事態は深刻でありつつも、改善の方向へ向かっているようだ。

 

 つまり、正念場、といったところだろう。

 アキラはそこから視線を戻して頷いた。

 

「分かっています。こちらも相当な無茶をお願いしている事は。でも、時間がありません。少しでも多く援軍を持ち帰らなければ、魔物が外に逃げ出してしまいます。――僕は冒険者にも、声を掛けるつもりでいました。そちらはどうなのでしょう?」

「元よりギルド同士は連携が強い。こういう事態であれば、やはりそこは頼もしい事のようだ。刻印を宿している者ばかりである所為か、彼らの協力の元に行われる対処も順調だと、報告には聞いてある」

「そうなんですね。それじゃあ……!」

 

 アキラが明るい声を出してホッと息を吐こうとした時、やはり申し訳なさそうに見据えられて動きが止まる。

 壮年のエルフは重々しく首を振り、それから小さく頭を下げた。

 

「あちらが順調であるのは確かだが、人命救助の部分についてに限っての話だ。その分、傾いた家屋や、崩れた荷など、それらの復旧に人手を使っているらしい。それもまた、力自慢が多いお陰で順調であるようだが……、危険物も多かった為、作業は慎重に行われ、また多くの人員を割いた。即座に割ける人員は少ないと見るべきだろう」

「う……! そう、ですか……っ」

 

 助け合いの精神が強い、相互互助の取り決めがあるギルドだ。

 自分のところで安全が確保できたら、他のギルドを助けに行くだろう。

 そういう意味では、こういう場合、冒険者は頼りになるものだし、実際頼りにされそうだと思った。

 

 そして、冒険者だからこそ、金銭で動く者も多いだろう。

 商人の金で釣られて、優先的に手を貸している者もいる筈だ。

 だがこの状況、商品を掘り起こす手伝いをするくらいなら、せめてこちらにやって来てくれ、と思ってしまう。

 

「分かりました。でも、確認だけはしてきます。一人か二人は、もしかしたら手を貸してくれるかもしれませんから」

「すまない。だが、こちらからも急がせる。実際、人命救助については、もう片付いている分は多い。戦闘要員として回せる者との調整させ済めば、すぐにでも派遣できる」

「はい、無理を言ってるのはこちらですから。……どうか、よろしくお願いします!」

 

 アキラはそれだけ言って頭を下げると踵を返し、城の出口を目指して走る。

 行き交う人が多いので、速度を上げて走る事はできなかった。

 焦れる気持ちは強くなるが、まさか弾き飛ばして走る訳にもいかないから、せめて掻き分けるように前へ出ながら出口を目指す。

 

 そこへ灰色の髪をした、獅子の様な女性がまさしく人を弾きながら迫って来る。

 その後ろには幾人か引き連れた獣人がおり、なにやら血相を変えて走って行った。

 何事かと気になったが、とにかくアキラはそれらを躱し、自分の役目を果たそうと、出口に向かって駆け出した。

 



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誠実の恩返し その2

 城から飛び出して街の様子を確認しながら、アキラは東区画へ向かってひた走る。

 城内の様子から、外は大きく混乱しているかと思いきや、実際はそうでもなかった。

 倒壊した建物自体も多くなく、想像していた悲観さはない。

 しかし罅など入っている建物は多かった。

 

 そのまま使い続けるのは怖いから外へ非難している人は多いし、道の端で力なく項垂れる者も目に付いたが、誰も彼もが力なく項垂れている訳ではない。

 瓦礫の撤去などしている姿も散見されて、多くは兵士達が主導で動いているが、獣人族や鬼族の姿も多く見られた。

 

 特に体格に優れた鬼族は瓦礫撤去などに対して非常に心強い存在だろうし、協力して助け合う姿は、こんな時だというのに眩しく映った。

 誰かを探して彷徨う者、家族ごとに身を寄せ合っている者など、普段なら目にしない悲惨な光景があるのは確かだ。

 しかし、復興に向けて努力し奮起する、力強い光景も存在している。

 

 悲惨な目に遭って、なお立ち上がれる者は少ない。

 だが、項垂れる者ばかりではなく、立ち上がれる者もまたいるのだと、教えてくれる光景だった。

 

 場所によっては、既に炊き出しも始まっているらしく、東区画へ近付くほどに良い香りが漂って来ていた。

 それに釣られて、足を踏み出す者も多いようだ。

 遠目にその横を通り過ぎて行くと、そこではやはり獣人族を中心として、大鍋で食材を煮込んでいた。

 

 近くには仮設テントらしきものもあり、怪我人の治療などが行われている。

 テオ達が指揮を取り、そして多くの人が忙しく駆け回っていた成果は、こういう所で表れているのだろう。

 そう思うと、彼らの努力に畏敬の念が浮かんでくる。

 

 アキラとしても何か手伝いたい気持ちはあるが、今は優先事項を間違えられない。

 東区画へ踏み込むと、そこでは救助活動と並行して、復興作業までもが既に始められていた。

 

 傷つき倒れた者の姿は殆ど見えず、職人同士が怒鳴り合ったり、駆けずり回っている風景はいつもと変わらない。

 傷ついた建物などが無ければ、アキラはきっと何事もなかったと錯覚したに違いない。

 

 余裕がある様に見えるのは、単純に目で見える範囲に限った話で、決して余力がある訳ではないのだろう。

 そこから人員を引き抜こうというのは、申し訳なさと後ろめたさがある。

 

 被災で破損し、損壊して使えなくなったものも多数あるだろうし、そして破損については、都市部全体の方が当然多い。

 復興が始まっているというより、まずこのギルド区画を復興させなければ、他の場所へ復興資材を回す事も出来ないのだ。

 新しく支柱が欲しくても、木工ギルドが機能していなければ用意できない、という理屈だろう。

 

 だから、ギルドの面々は救助に割ける人員を最低限にして、自分たちの仕事をいち早く再開できるようにしているのかもしれない。

 ――だったら、冒険者ギルドの皆は、全て出払っているのかも……。

 

 その懸念が浮かび上がる。

 だが、まさかここまで来て確認せず帰る訳にもいかない。

 他の区画より乱雑に物が散らばる道を走り、アキラは一路冒険者ギルドへと急いだ。

 

 見慣れた建物が視界に入ると、アキラは更に速度を上げた。

 気が逸って速度を出しすぎてしまい、止まれなくなって入り口の柱を掴んで急停止する。

 

「――おっと!?」

 

 丁度ギルドから出て行こうとした人と鉢合わせになり、名前までは知らない冒険者に簡単な謝罪をしてギルドへ入った。

 そして、予感が的中している事を知る。

 

 予想はしていたが、顔が歪んでしまうのを抑えられない。

 恐らく救助作業などに人を取られているのだろう。

 商人から高値で引き抜かれた、という話も聞いていた。

 

 ――やっぱりか……!

 ギルドホールの中はカウンターに受付嬢の姿すらなく、ほんの一人か二人が残っているだけだった。

 いつもの賑わいを知っているだけに、そのガランとした空気に気持ちまで重くなる。

 依頼票を睨んではあれこれと相談し合う姿もなく、だから当然喧噪も、鎧同士がぶつかる音もしない。

 

 隣接している酒場に誰かいるだろうか、と一瞬考えたが、確認するだけ無駄だと分かった。

 こんな時に酒盛りなどしている筈もないし、仮にしているなら無音である筈がない。

 

 あるいは、階上の会議室には誰かいたりするのだろうか。

 ギルド長などを始めとした幹部はいそうだったが、引き抜ける人員がいるとは思えないし、何よりアキラの事情を知れば阻止されるかもしれない。

 

 それならいっそ、知らせないまま誘致した方が……と、暗い感情を湧き上がらせた時、その階上から降りて来る足音が聞こえてきた。

 荒々しく踏み鳴らす音は、急ぎというより怒りを顕にしているようであり、そしてそれは事実だとすぐに分かった。

 

「何が正式な依頼だから受けろだ! 救助は一段落したから余力を回せだ!? だったら商業区画より、優先するところなんざ幾らでもあるだろ! 高級武具や装飾品を引き上げて、それで誰を助けられる!?」

「まぁ、直談判なんて無意味だったね。正直ガッカリだよ。金に釣られた冒険者を、呼び戻してくれると思ったのにさ」

 

 聞き覚えのある声に、アキラの鼓動がドキリと跳ねた。

 そうして階段へ目を向けると、そこには予想どおり、イルヴィとスメラータが怒りと呆れを垂れ流して降りて来るところだった。

 

 二人の視線がアキラに留まり、一瞬の硬直の後、真顔になって勢いよく降りて来て、迫力そのままに詰め寄ってくる。

 肩を叩いたり腹に手を当てたりと、幻かどうか確認する動作で問い掛けて来た。

 

「どうしたのさ、アキラ! 生きてる!? ――無事だったんだ!」

「そりゃ、あたしが見込んだ男だ、そう簡単にくたばるか……! 五体満足で帰って来たのは喜ばしいが、どうしてこんな早く……? この地震で心配して帰って来たかい?」

 

 スメラータとイルヴィ、それぞれ順に抱き締められ、アキラもそれに順次抱き返してから離れた。

 そうして、左右から挟まれての問いに、アキラはどう返事して良いか困ってしまう。

 だがとりあえず、先に言うべき台詞として、アキラは困った顔のまま笑みを浮かべて言った。

 

「……ただいま」

「うん、お帰り! なんだよ、もぉ……! そっか、帰って来たんだ!」

「待ってたよ。いつもアキラの帰りと無事を祈ってた。……けど、随分と早いお帰りじゃないか」

「もう全部済んだの? アイツらはどうしたのさ。その顔見ると、どうもそんな感じじゃないんだけど?」

「あぁ、うん。そう、そうなんだ……」

 

 頷きながら二人から身を離し、三歩下がって頭を下げた。謝罪も含め、深々と頭を下げて二人に頼んだ。

 

「二人に力を貸して欲しい! 虫の良いこと言ってるのは分かってる。でも今、どうしても助けがいるんだ!」

「……はぁ?」

「何言ってんのさ、アキラ。あんたね――」

「まぁ、待ちな、スメラータ。まずは話を聞いてからだ」

 

 離れた分だけ詰め寄ろうと、スメラータが動こうとするのをイルヴィが腕を差し出し止めた。

 アキラは頭を下げたまま、声を張り上げて続ける。

 

「二人が納得できないのは良く分かる。勝手を言うな、って言う気持ちも良く分かる! でも、大変な事が起こってて……! それには、少しでも多くの助けが必要なんだ!」

「ふぅん……? どうにも腑に落ちないが……それは街の何処かで埋もれてる、その誰かを助けたいって意味じゃないんだろうね」

「うん、違う。全くの別の場所で……」

「そして、あたしらが出向くって言うなら、今この街が欲している手助けを奪う形になるって、分かってて言ってるんだね?」

「……うん、済まないと思う。でも、それでも僕は、助けを乞うしかないんだ……! 勝手にチームから離れたのに、すぐトンボ返りしてこんなこと言う資格はないと分かってる! でも――」

「違うだろ」

 

 イルヴィが深々と溜息を吐いて、ツカツカと歩み寄る。

 それに続いてスメラータも近付いて来て、下げていたアキラの頭を無理やり上げさせた。

 

「アキラは一時チームを抜けた。そうだよ、でも一時だ……そうでしょ? まだチームだし……そして、ずっとチームだった。だから、乞う必要なんてないんだよ」

「そうさ、あんたは思い違いをしているよ。スメラータが全部言っちまったが……」

 

 そう言って、イルヴィは白い歯を見せてニカリと笑った。

 

「あたしらの助けがいるなら、ついて来いって言えばいいのさ。アキラが現状の被害を知って尚、助けが欲しいって言うんだものね。あんたなら、こんな惨状、放っておいたりしない。真っ先に助けようとする筈だ。それでも、あたしらを他に引っ張って行きたいって言う訳だ」

「それって、相当な事だよ! だからアタイ達も、今更変に誤解したりしないよ。いい加減、長い付き合いなんだから。見下げ果てた願いなんて、アキラの口から出る筈ないもんね!」

「二人とも……!」

 

 アキラが感動で瞳を潤ませていると、憤懣(ふんまん)を露わに階上へ目を向けた。

 

「さっきだってさ、冒険者を上手く使えって直談判しに行ったところだったんだよ。経営がどうの、全体をどうのと言い訳ばっかりしてさ! 街の復興より、商人の依頼を優先なんかして! 全体がどうのって言うなら、魔族がいま何してるか良く見ろっての!」

「スメラータ、いま魔族って言うのは拙いよ。ちゃんと森の民とか、エルフとか、そういう風に言うべきだね」

「……あ! そうだね、ごめん。今やそのエルフの誰かが、我らの王様だった」

 

 後頭部を掻きつつ、スメラータは明るく笑う。

 とにかく、と悪びれた様子もなく言葉を続けた。

 

「何処に行けばいい? 元から準備は万端整ってるよ。すぐにでも動ける」

「うん、助かる。ほんと、助かるよ……!」

 

 スメラータの笑みにつられて、アキラも笑みを浮かべてその手を握って上下に振る。

 その時、傍らからヌゥ、と大きな影がアキラを覆った。

 

 覚えのある気配に顔を向けると、そこには予想どおり、ドメニが小男を一人引き連れ、こちらを愉快そうに見ているところだった。

 

「よぉ、アキラ。見てたぜぇ、オメェの滑稽な姿をよォ……?」

 



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誠実の恩返し その3

 ドメニは殊更分かり易いように嘲笑う顔を見せつつ、首に手を当てて骨を鳴らした。

 そこにイルヴィが不快そうに眉を寄せて、虫を払う様に手を揺らす。

 

「悪いけどね、ドメニ。こっちはあんたに構うほど暇じゃないんだ。どうせお前も、お高い報奨金に釣られて稼ぐクチだろ? だったら、さっさと行けばいい」

「いや、そういう訳にゃいかねぇ。何やら、アキラから聞き捨てならねぇ台詞が聞こえたからな」

 

 そう言ってニヤリと笑って首から手を離すと、後ろに立っていた小男、イデモイまでもがニヤリと笑う。

 彼も冒険者ではあったが小物らしく爪弾き者で、どこのパーティに居ても長続きしない男と聞いた覚えがあった。

 

 稼ぐ能力がないなら向いていないという事なので、それなら素直に辞めるしかないのだが、境遇を憐れに思ったのか、ドメニが拾った形だ。

 

 かつて苦境に立たされたドメニが、底辺の苦難を知った事で、共感めいたり同情心が湧き上がったのではないかと予想している。

 とにかく、ドメニは小男の世話をする事になり、そして今になってもその関係は継続していたらしい。

 

 唯我独尊の利己主義だったドメニが、太鼓持ちにしかならない男でも気に掛ける事が出来るようになったのは、ある種の成長であるかもしれない。

 能力だけを見ず為人(ひととなり)で判断するのも、チームに組み込む大事な要素だが、小男の場合はどちらも眉を顰めるものだ。

 

 だが、本人同士が満足しているなら、そこに口を挟む事ではないのだろう。

 当時から小男からは粘ついた嫉妬の視線を感じたが、今は優越的なものも含まれている。

 

 何か憂さ晴らしついでの、良い口実を見つけたかのような視線だった。

 ドメニは一歩近付くと、挑発的な笑みを浮かべてアキラに問う。

 

「なぁ、今ちょいと聞こえて来たんだがよ? ……あぁ、勿論俺の聞き間違いなら、素直にそう言ってくれや。二人を何処ぞへ連れてくって?」

「……そうだよ。連れてくつもり」

「街の惨状を知って、手助けが欲しい奴らが待ってるの知っててか? 冒険者は力自慢が売りだ、きっと役に立つだろうにな?」

「……それでも、僕の勝手、僕の我儘で連れて行く。……助けが、必要なんだ」

「ほっほぉ……!」

 

 ドメニは実に面白い事を聞いたと分かるように、わざとらしく目を開き、眉を上げて腕を組む。

 スメラータが眉を顰め、威嚇するように睨み付けてながら、二人の間に割って入った。

 

「あんたにゃ関係ないじゃん! これはチームの問題だし、既に話はついてるんだ! どうしようと勝手だろ!」

「だぁってろ、スメラータ! 今は男同士で話してんだ!」

 

 ドメニも負けじと威嚇して、凶相に睨みを利かせて顔を戻す。

 イデモイも調子に乗って下品な笑みを浮かべた。

 

「そうだそうだ、黙ってろ。今はうちのドメニさんが話してんだろうが!」

「おめぇもだ、黙ってろ! 俺がアキラと話してんだろが!」

「ぇ、はい……すんません……」

 

 イデモイにしっかりと脅しを付ける当たり、余人を交えたくない、というつもりで言った事は間違いないようだ。

 時間がないのに、と焦る気持ちを押さえながら、アキラは早くドメニをあしらってしまいたい気持ちで口を開く。

 

「悪いけど、時間が無いのは本当なんだ。冒険者に人がいないなら、せめて二人だけでも救援に連れて行かないといけない。話してる時間が惜しいんだよ……!」

「そう、つれないこと言うなや。()()()()()()()()()()……。俺にゃあさっき、そう言ってた様に聞こえたんだが……?」

「なに言ってんのさ! あんたなんか、どうせ付いて来る気もない癖に! 変な質問でこっちの時間奪わないでよ!」

「だぁら、うるせぇって言ってんだろ! お前ぇにゃ聞いてねぇ!」

 

 再びいがみ合いが始まりそうになり、そこへイルヴィが二人の前に手を出して、強制的に中断させた。

 実力は既に抜かれていても、スメラータには常に強気のドメニも、イルヴィ相手では下手に出ざるを得ない。

 イルヴィは眼光鋭く、ドメニに問うた。

 

「なぁ、ドメニ。こっちゃ急いでるって、もう聞いたろ? 構って欲しいって言うんなら、ここで一発その顎にくれてやっても良いんだがねぇ?」

「いやいや、ちょっと待ってくれ、イルヴィ。話があるんだ、大事な話だ。――頼む。男同士、ここは話させちゃくれねぇか」

 

 額に汗を浮かべつつ、肩を狭めて説得する姿は、単にその場の言い逃れをしている様には見えなかった。

 それを見て、イルヴィは訝し気に眉を顰めたが、即座に沈黙させるつもりはなくしたらしい。

 持ち上げていた拳を降ろして、話してみろ、と促すように顎を動かす。

 

 それがどういう意味か、十分ドメニにも分かった事だろう。

 単に足止めをしたいだけで絡むなら、即座にイルヴィの拳が飛ぶ。

 

 イチャモンを付けたいだけなら、まったく成果が見合っていない。

 イルヴィは納得した訳でないものの、とにかく早く済ませろ、と脅し付けて元の位置に戻って行った。

 

 ドメニは顎まで滴った汗を拭い、改めてアキラへ向き直る。

 

「全くよ……。余計な茶々入れられちゃ、話も出来ずに困るわなぁ、アキラ?」

「へへっ、女にばかり言い訳させて、恥ずかしくねぇのかよ」

「お前もうるせぇんだ、バカ!」

 

 遂にイデモイの頭に拳が落ち、鈍い音を立てて転がった。

 そのまま頭を抱えて小さな呻きを上げている。

 恨みがましい目を向けたが、ドメニの凶相に睨まれ返され、腕で顔を隠して背けた。

 

 いい加減、アキラも焦れ始めて苛立ちが募り始めた頃、ドメニが表情を改め、真面目な顔付きで見つめて来る。

 何かと突っ掛かられる事が多いアキラだが、この様な表情は初めて見た。

 

「……なぁ、アキラ。そんなにヤベェのか? 助けが必要か?」

「うん、必要だ。本当なら、ここで十人くらい見繕えないかと期待してた。でも、こんな状況だ。ちょっと無理らしい」

「十人……、十人か……」

 

 ドメニが顔を顰めて腕を組み直し、鼻に皺を寄せて考え込み始めた。

 スメラータが業を煮やして突き飛ばそうと動き、しかし、それより前にアキラが止める。

 視線だけで待てと言って首を振ると、不満そうな顔をしつつも素直に引き下がった。

 

「街の状況分かってんだよな? 別に嫌味を言いたい訳じゃねぇ、どこも手一杯だ。さっきまではよ、ちょいと手隙になったって言うんで、結構な人数いたんだぜ? だがよ……、知ってるだろ?」

「あぁ、高額で引き抜かれたって……」

「おう、そいつらが受ける前に来てりゃあな……。また違ったかもしれねぇが……」

 

 息を吐くと一時沈黙が降り、それから挑む目付きでアキラを射抜いてきた。

 

「なぁ、アキラ。おめぇ、俺が手伝うって言ったらどうする。受け入れるか? ……頭下げられるかよ、この俺に!」

「なぁに言ってんの、あんたなんか何の役にも立たない、口だけ大きい――!」

 

 スメラータが咄嗟に否定しようとしたのを、アキラは止めた。

 手を横に伸ばして詰め寄ろうとしたスメラータを止め、それから両手を太ももの横で揃えて頭を下げる。

 

「助けてくれるというなら、お願いしたい! 今の僕には、一人でも多く援軍を連れて行く役目がある! 僕の頭一つで済むなら……! ドメニ、どうか助けて欲しい!」

「……へっ!」

 

 鼻を鳴らして虚空を睨み、そうかと思えばイデモイに向けて手を向ける。

 掌を上にして指先を動かす様は、手招きしているようにも、何かを差し出せと言っているようにも見えた。

 

 しかし、イデモイは何を言いたいのか理解しておらず、目を白黒させるだけだ。

 それに業を煮やしたドメニが怒鳴りつけ、その声に驚いて、アキラも顔を上げた。

 

「さっさと依頼票ださねぇか! まだ未受領だろうが!」

「う……は、はいっ!」

 

 懐から慌てて取り出した紙片を、ドメニはたがつすがめつしてから破り捨てた。

 

「あっ!? ドメニさん、せっかく楽して金になるのに!」

「うるせぇってんだ! アキラが困ってんだろ!!」

「えぇ!? でもドメニさん、アキラ嫌いだったんじゃないんスか?!」

「嫌いに決まってんだろ!」

 

 ドメニはいっそ清々しいまでにハッキリ言い放ち、イデモイに睨み付ける圧を強める。

 

「だが、俺の認めた男だ! その男がだ、俺に頭下げたんだぞ! この俺に! それで応えねぇ奴ぁ、クズだ! 男が廃るってもんだろうが!」

「でも……!」

「うるせぇ! いいからおめぇは商業区画いった奴ら、連れ戻して来い! アキラが呼んでるって言って、誰彼構わず声かけろ!」

「いや、でもですね……」

「アキラの世話になった奴ぁ、一人や二人じゃ足りねぇ筈だ。お人好しだからよ、大抵の奴のケツ、一度くらいは拭いてる馬鹿だ!」

 

 確かに、そういう事は多数あった。

 スメラータにさえ、人が好すぎると呆れられたものだ。

 

 だが、困っている他人ならともかく、同じギルドメンバーでもある。

 ミレイユならば、きっと無視だけはしないと思っていると、その彼女の恥になるかもしれない事は出来なかったのだ。

 

 もしもミレイユの従者になれたなら、無碍にする者はきっと傍に置かないと思うからやった事でもある。

 打算と言えば打算だが、助かる人がいるならいいじゃないか、という心境だった。

 

 アキラが胸中で思い返している間にも、ドメニの怒声は更に声量を上げて続く。

 

「いいから、さっさと連れて来い! アキラが待ってる!」

「けど、違約金だって発生するんですよ! 嫌がる奴は絶対いますよ!」

「だったら払えば良いだけだろうが! 金で解決するってんなら、それですりゃいいんだよ! 商人なら金で満足しとけって言っとけ!」

「いや、言ってる事が無茶苦茶ですよ!」

「あーっはっはっは!」

 

 そこで軽快な笑い声がホールに響いた。

 声の主はイルヴィで、面食らって話を聞いている内に、状況を理解して笑いが止まらなくなったらしい。

 目尻についた涙を人差し指で拭いながら、茶目っ気たっぷりにアキラを見てくる。

 

「違約金の発生で難色示すってんなら、こっちで受け持てば文句も出ないだろうさ。――ほら、そう言ってやんな。アキラは金なんか、ロクに使ってなかったろ?」

「あ……あぁ、うん。確かに。違約金はこっちでも持つよ。全員分、こっちで持つ。だから、そう伝えてくれないか」

「本気かよ。どんだけ金持ってても、絶対足りやしねぇだろ……」

 

 イデモイは顔を顰めてボヤいたが、スメラータはそれに鼻で笑う。

 

「あんたみたいな小物には分からないだろうけど、厄介な魔物退治って高額報酬が約束されてるからね。その厄介な奴を、優先的に狩って来たのがアタイ達。報酬は三等分してたけど、そっから生活費以外、使ってなかったのがアキラだからね」

「別に武具には困ってなかったから……」

 

 ミレイユから贈られたもの以外使うつもりがなかった、というのも大きな理由の一つだが、自らの鍛錬以上に必要なものはなかった、という現実的な面もある。

 時に贅沢をしようと思っても、美味い食事というのがアキラにはなかったし、酒も飲まない。

 

 だから外から禁欲的に見えようと、アキラには十分満足だったのだ。

 それに、ミレイユの傍に戻れば通貨は使う機会がなくなる、と思っていた部分もあった。

 それをここで使えるというなら、これまで貯めて来た意味もあるというものだ。

 

「とにかく、費用は工面できると思うから、呼んでくれると嬉しい」

「オラ、アキラもそう言ってんだろうが! お前ぇはさっさと、あいつら呼んでくりゃいいんだよ!」

 

 再び頭を殴ろうと拳を挙げれば、流石にまた叩かれては溜まらないと、機敏な動作で駆けて行く。

 小男らしく機敏、という一言で片付かない速度を出していて、単に小間使いとして使いたくて命令した訳じゃないのだと、この時始めて理解した。

 

 ともかく、二人だけでも援軍を、と思っていたところで、思わぬ増員が見込る様になった。

 望外の展開に頬がほころび、安堵の息が漏れる。

 スメラータとイルヴィからも肩を叩かれて喜びを顕にすると、アキラも大きく顔を緩めて笑い合った。

 



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誠実の恩返し その4

「ドメニも、ありがとう。助かった」

「まだ助けてねぇだろが。感謝は後に取っとけや」

 

 ぶっきらぼうに顔を逸らすが、その表情は緩みそうになるのを必死に押さえて、ムニムニと不格好に揺れている。

 気付かれたくも、指摘されたくもないだろうとも主ので、今は気付かない振りをして、出口の方へと顔を向けた。

 

 待つ事しか出来ないが、今はそれを時間の浪費とは思わない。

 焦る気持ちはあるものの、アキラが飛び出して解決する問題でもないのだ。

 呼びつけた側が、あっちへこっちへと移動していては、集まるものも集まらない。

 

 それで仕方なくホール内を左右へ動いていたのだが、幾らもせずに地を蹴りつける音が聞こえてきた。

 呼びに行ったにしては早すぎるので、誰か別の目的で来た人だろう、と思いつつ顔を向ける。

 そうして見ていると、額に汗を浮かせた冒険者が、滑り込む様に入ってきた。

 

「――おう! アキラが呼んでるって!?」

「えぇ!? もう来たの!?」

「……事情、知ってんのかねぇ?」

 

 疑問に思うのも当然で、イデモイが飛び出してから、まだ一分程度しか経っていない。

 それにアキラ自身、自分が求心力を持っているなど思っておらず、助けを呼んだからと直ぐに手が伸ばされるとは、全く予想していなかった。

 

 だから、スメラータやイルヴィも首を傾げた事も不思議に思っていないし、彼女が言ったとおり、事情を知らないどころか盛大な勘違いをして来たのだろう、と思っていた。

 

 目的の人達が来るまでにはまだ掛かるだろうし、説明する時間は十分ありそうだ、と暇つぶしのつもりで口を開こうとした時、そこへまた別の冒険者が走り込んで来た。

 

「アキラが助け欲しいって、本当か!?」

「えっ、今度は本当に? 早すぎない……!?」

「助けはともかく、どういう内容かまで知らないんじゃないかねぇ。……いや、そういやあたし達も知らなかったか」

 

 そう言って、イルヴィはあっけからかんと笑う。

 とはいえ彼女達の場合、アキラの為なら一肌脱ぐ事に躊躇いはないから良いとして、他の人達まで何も知らないのは問題だった。

 

 助けて欲しい内容が、魔物討伐なのだ。

 冒険者は大抵魔物討伐などお手の物だが、この救助活動で刻印を使い切っている場合、手助けどころか命を捨てるだけになり兼ねない。

 

 しかし、どう説明すれば良いか考えている間に、次々と冒険者がホールに入り込んでくる。

 

「アキラが呼んでるって本当か!」

「おい、アキラが困ってるって!?」

「――助けを欲しがってると聞いて!」

「アキラが助けてと泣いてる!?」

「――アキラが泣くほど酷い怪我だって!?」

「おら、奇跡だ! 治癒刻印残ってる奴つれてきたぞ!」

 

 あれよあれよと言う間に人が増え、十人程度、あっという間に集まった。

 しかも、どこかで伝言がねじくれて伝わったらしく、いつの間にやらアキラが重体で助けを呼んでいる、という事になってしまっている。

 

「皆……、どうして……!」

「どうしてもこうしてもあるか。助けがいるんだろ?」

「――なんだ、怪我してないじゃないか」

「別にいいだろ、無事だったんだから」

「まぁ、そうだな。無事で良かった! ……じゃあ、これはどういう集まりだ?」

 

 自分は案外、大事に思われていたんだな、と目頭が熱くなり始めたところで、ハタと思い至る。

 流石に事態を収拾しないと拙いし、具体的にどうして欲しいかの説明も必要だ。

 集まってくれた面々には、真摯に内容を伝えて、魔物討伐の助けを欲していると伝えた。

 

 しかも、単に一体倒せば終わりではなく、次々と湧き出る魔物と戦い続ける必要がある。

 この世界の基準で見ても、相当な異常事態だった。

 

 別世界で戦って貰う事は説明してないが、詳しく説明しても理解は得られなそうだから、そこは割愛しても良いだろう。

 重要な点は、遠く離れた場所にて、死を厭わず戦って貰う必要がある、という部分だった。

 

「なるほど、事情は分かった! 大変な事が起きてるらしいな! だったらそれは、まさしく冒険者の役目って訳だ!」

「ミノタウロスとか易しい部類の魔物もいるけど……」

「おい、聞いたな! 二級冒険者以上のみ参加だ! それ以外は持ち場に戻れ!」

「大丈夫だ、アキラの助けって時点で半端者は尻込みしてらぁ!」

 

 そこで一頻り笑いが起こり、次いで真面目な声がホールに響く。

 

「とはいえだ、だったら数は必要だ。三級以下の奴は、今もどこかで救助や復旧作業してる奴と変わってこい。もしくは、もっと広い範囲で仲間を集めろ。話を聞く限りじゃ、これじゃ全然足りねぇよ!」

「おっし、じゃあ俺行ってくる。刻印が空じゃ、役に立つのも難しいだろ」

「――だな。刻印の使用回数が怪しい奴も、今は遠慮しとく方が良さそうだぞ! 魔物が湧いて止まらねぇんだと!」

 

 今し方、来たばかりの冒険者にも分かるように声を張り、それから戦闘に参加する者、あるいは補助に回る者、仕事を変わって別の誰かを呼び出す者と振り分けて行く。

 

「えっと、でも本当に良いの? 危険だけど……」

「危険が怖くて冒険者がやれるか! そんなの今更だろうが! いいんだよ、お前には世話になってんだ!」

「そうだ! いつ借りを返せるのか、こっちはずっと探してたんだぞ!」

「皆……!」

 

 目頭が更に熱くなって来たところで、大事な事を言い忘れていたと、アキラもまた声を張る。

 

「今回、依頼を途中で破棄した人は、こっちで違約金持ちますので! 遠慮なく声かけて下さい!」

「いらねぇよ、馬鹿! なんの為に借り返すと思ってんだ! お前はもちっと、その辺の機微ってもん勉強しろよな!」

 

 そうだそうだ、と笑いが起きた。

 そして、アキラの肩を鼓舞するように叩く者が現れる。

 そうすると一人、また一人とアキラの肩や背を叩き始め、アキラは張り手の嵐に見舞われる事になった。

 

 その仕草は荒っぽいが、実に冒険者らしいもので、誰もが純粋に労ってくれていると分かる。

 集まった人数は既に三十人を優に超える上に、受ける衝撃も三十人分では利かない。

 それでも、アキラはその衝撃を笑顔と共に受け取った。

 

 全員の意志は確認できたし、納得も得られたとなれば、後は移動するだけだ。

 しかし、何処か別の場所とは知っていても、詳しい場所までは誰も知らない。

 それでドメニが代表して問いかけて来た。

 

「――で? 俺達ゃ、何処に行けば良いんだ? 遠い場所なら食料の調達やら何やら必要なんだが、今の都市にそんな余裕あるのか? おう、誰か分かるか?」

「露店にあるのは全滅だ。この騒動で駄目になったヤツも多いし、そうじゃなきゃ買い占められてたりするからな」

「遠征できるだけの量は、ちょっと無理だろ」

 

 それぞれが調達に際して意見を述べ合ったり、人数が膨れ上がっているから旅団を結成すべき、など様々な意見が飛び出して、アキラは慌てて手を振り声を張り上げた。

 

「あぁ、……っと! 大丈夫、目的地へは転移して行きます! 城の中にありますので、食料の調達や移動時間については問題ありません!」

「おぉ、何だよ。そうなのか。……しかし、城の中だぁ? 今あそこん中は、魔族たちが支配してんだろ? 行って大丈夫なのか?」

「いや、魔族じゃないから。エルフだから。それを言ったら獣人族だって魔族だし、あの人達は街の人、見捨たりとかしなかったじゃん」

 

 スメラータがドメニの怪訝とした表情に注意して、その様に釈明すると、口々に同意する声が上がる。

 

「そうだよな……。まぁ、敗戦直後に兵達が動けたかって言われたら、命令系統の問題もあって難しかったろうと思うけど……。でも、獣人なんかの初動は早かったし、活発だったな。助けられた奴も多いだろ」

「国取りしたんだから、当然だろ」

「当然だとして、終戦直後で大変な時だったろ。他の誰でも、同じ事が出来たかって言われたら、話はまた別だ」

「それに、二百年も続いてた戦争だぞ。森の民からしたら、助けたくない気持ちも、少なからずあった筈じゃないのか」

 

 恨み骨髄と感じるのはあくまで都市を支配するデルンだったとは思うが、その皺寄せとでも言うのか、一緒くたに敵意を向けてしまうのは仕方ない。

 それでも、勝者となり覇者となった森の民は、その覇者として相応しい対応を、その行動で示した。

 支配下にあるからには決して見捨てない、とその積極的な救助という活動で示したのだ。

 

「まぁ、だから行ったからって襲われるような事はないだろ。……ただ、邪魔しないかだけ心配だな」

「あぁ、相当忙しく人が出入りしてるって聞いたぜ。まぁ、当然だな……。街中で混乱してるのに、それを取り纏めたり対応したりで動いてるんだろ? それを俺たちが下手する訳にゃいかねぇよ」

「その辺りは大丈夫」

 

 アキラが胸を張って太鼓判を押した。

 

「この救援は、そのエルフ側からも協力を得られてます。森の民からも協力者が捻出できれば、協力して貰う事になってます」

「そうなのかよ。……にしても、城から転移するとして、そっから何処行くんだよ? ――というか、エルフも了承してる救援ってなんだ?」

「一言で説明すると難しいんだけど……。僕の故郷を救う、その手助けを……」

「お前の故郷!? なんだよ、お前。エルフが協力するほど仲が良かったのか?」

 

 ホールにざわめきが走り、どういう事かと勝手な憶測が走り始めた。

 色々と説明したいのは山々だが、今も決死の思いで隊士達が魔物を抑え込んでいるのだ。

 そこで時間を使うより、今はとにかく急ぎたかった。

 

 これまでの時間を浪費というつもりはないが、それでも多くを消費してしまった。

 動揺らしきものが拡がり始めた時、イルヴィが一喝して周りを黙らせる。

 

「アキラの故郷か! そりゃ救ってやらなきゃならないね! 生まれ故郷を守る! 必死になるには十分な理由じゃないか。――えぇ、お前たちはどうだ!?」

「おう、そりゃそうだ! 生まれた場所を守りたいのは当然だ!」

「いずれ骨を埋める場所だ! 守りたいに決まってる!」

「だったら行こう! 助けてやろうじゃないか! お前ら、アキラに借りを返すんだろ!?」

「おうとも、これで倍返しする事になるか!?」

「そりゃ戦働き次第だ!」

 

 そこで再び笑いが起きて、腕を振り上げ戦勝を願う掛け声が上がる。

 

「ソール、ソール、ソール!」

「……ソール、ソール、ソール!」

 

 掛け声のボルテージが高まると共に、そこへ足踏みも加わり、大音響でホールに響いた。

 イルヴィが槍を取り出し、その石突きで床を叩く。

 同じ様に柄の長い武器を持つ者はイルヴィに倣い、ない者は盾を叩いたりと、とにかく音に合わせて音を合わせる。

 

 声と足踏み、武具のかち合う音が重り、冒険者の戦意も増しに増した。

 高揚が頂点に達した時、イルヴィが殊更大きく音を立て、それで全員の声と音が止まる。

 

「――行くぞ! 魔物どもを蹴散らせ!」

「ッォォオオオオ!!!!」

 



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誠実の恩返し その5

ささきもり様、誤字報告ありがとうございます!
 


 旧デルン城へ辿り着くと、そこでは来た時と変わらぬ様相で、慌ただしく人が行き来していた。

 アキラが冒険者を引き連れて入城すると、三十人を超える集団に誰もギョッとして道を譲った。

 

 申し訳ない気持ちがありつつも、大所帯だとどうしてもそういう事になってしまう。

 お上品とは掛け離れている冒険者だから、一列ないし二列で整然と行進、など望むべくもない。

 

 思わず威圧する様になってしまったが、勿論アキラにそんなつもりはないので、道を譲ってくれた人にはペコペコと頭を下げて通り過ぎて行った。

 

 だがここは、たった一度通っただけの場所で土地勘もなく、人が行く場所を追っているだけでは、テオ達の居る部屋に辿り着けなかった。

 右往左往しつつ、何とか目的の部屋に入ると、そこにはアキラが連れて来た冒険者と、勝るとも劣らない数の獣人族が待ち構えていた。

 

 冒険者の中には、癖なのかつい戦闘態勢を取ろうとした者もいたが、対して獣人族は冷静そのものだった。

 特に中心にいた灰色の髪が獅子の(たてがみ)の様に見える女戦士は、冷静沈着そのもので、冒険者を睥睨して満足そうな顔を向けた。

 

「へぇ、いいじゃないか。一人か二人しか連れて来ないって話だったが、いやはやどうして、居る所には居るもんだ。烏合の衆だろうと、盾代わりにはなるもんな」

「それはこっちの台詞でもあるんだがね。そいつら全員、戦場に向かうのかい? 一日中、寝る事もなく、駆けずり回っていた筈じゃないか。戦力になるのかね?」

 

 売り言葉に買い言葉、イルヴィが尊大に言い返して、一瞬で緊迫した雰囲気が出来上がる。

 獣人族の女戦士が、鼻で笑って背後へと横顔を向けた。

 

「あぁ、最高の状態さ。森の民は一日寝ないぐらいで、へこたれる程ヤワじゃない。街暮らしのお上品な奴らには、分からんだろうから無理もないがね」

「あぁ、土の上で寝てる奴は言う事が違うねぇ。気勢の張り方だけは立派なもんだ。森の――」

 

 更に何か挑発めいたものを口にしようとしたイルヴィを、スメラータが肩を掴んで止めた。

 

「ちょっとちょっと、待って。――イルヴィ、あんた何言ってるの」

「落ち着け、フレン。喧嘩がしたいなら任を外す。向こうでは協力した戦闘が求められるのだぞ、そんな事でどうする」

 

 同じく壮年のエルフが、獣人の女戦士――フレンを窘めていた。

 両者ともに悔恨の表情が見えていたが、何やらシンパシーを感じて止められなかったらしい。

 

 アキラの目から見ても似た者同士に思えるので、同族嫌悪の様なものを直感的に感じ、あぁした台詞が口から出たのかもしれない。

 だがいずれにしても、エルフの言うとおりだった。

 

 向こうに付けば、一致団結して挑んで貰わねばならない。

 ここでいらぬ諍いをして貰う訳にはいかなかった。

 アキラの方からも苦言を呈し、しっかりと言い含めると、これには素直に謝罪があった。

 

「あぁ、すまない……。どうにも……言い返してやらないと気が済まなくなって……」

「知り合い?」

「いや、知らん。見た事もないが、あれは戦士だ。……本物のね。それが気に食わなかったのかもしれない」

 

 言われてアキラも探ってみると、そこには確かに洗練された魔力制御が見て取れた。

 スメラータとの鍛錬で、他者の実力が見抜けるようになってきたアキラだから、フレンの実力も注力すれば表面的な部分は読み取れる。

 

 確かに、フレンの実力は一級冒険者と遜色ないものだ。刻印を持たないだろう事を考えれば、イルヴィの言う本物の戦士という評価にも納得する。

 

 だがそれに、頼もしく感じても疎ましく感じる事はない。

 これからは味方なのだから、頼りがいのある味方が出来たと喜ぶべきだった。

 アキラ達がイルヴィを宥め、窘めている間に、向こう側でも同じ事が起きていた。

 

「フレン、今の軽率な行動が向こう側でどういう不利をもたらすか、良く考えろ。向かう先では、ミレイユ様のお助けとなる戦力として求められる。諍いを生む輩が、それを十全にこなせるか、それを今一度考えろ」

「あぁ、すまなかった……。奴の様な冒険者は、今までまず敵として戦う事が多かったからな……。つい戦意が漏れて、敵を相手する様な気持ちになっちまってた……」

「よく気をつけろ。ミレイユ様がお待ちだ。その助けとなるべく、お前たちを送り込むのだからな。今一度、その意義をよく胸に刻んでおけ」

「分かった、悪かった」

 

 フレンが両手を上げた事で、話し合い――あるいは説教――が終わったようだった。

 その会話の中断したところを目掛け、アキラは近寄って一礼する。

 

「うちの者が失礼しました。共に戦場に立てる事を光栄に思います」

「あぁ、こちらこそ、うちの者が大変な無礼を……。こんな事で、戦う前から仲違いなど、ミレイユ様に顔向けが出来ん」

「ですね。それにしても、良く……」

 

 アキラは、三十人は下らない獣人族の戦士達を、一通り見回してから感嘆の息を吐いた。

 

「これ程の人数、集められましたね」

「それはこちらの台詞でもあるんだがね」

 

 そう言って壮年のエルフは、にやりと笑った。

 

「援軍は多い方が好ましい。……互いに無茶をしたものだな?」

「いや、はは……」

 

 何と返して良いか分からず、曖昧に笑って誤魔化していると、準備作業を終えたらしい獣人族が一方向へ身体の向きを変える。

 そちらは孔が用意された部屋の方向であり、それで早速向かうつもりなのだと察しが付いた。

 

 実際、要らぬ諍いで時間を浪費したのは事実なのだ。

 いち早く助けに向かうべきなので、彼らの行動は当然に思えた。

 しかしそこで、ふと場違いな存在がいる事に気が付く。

 

 まだ十二、三歳程度の少年で、執務机で必死に書類を捌いていた者だった。

 戦闘に長けているように見えないしが、しかしルチアという例もある。

 単純な外見だけで戦力を見る訳にはいかないと分かっているが、とはいえ彼には、責務があるのではないだろうか。

 

 多分、王として立っている筈で、その様な人が戦場に行くのは拙い気がする。

 アキラは思わずその背とエルフを見比べて、大丈夫なのかと声を掛けたのだが、これには双方から肯定の頷きが返って来た。

 

「そういう話に決まったのでね。それに合理的でもある」

「そうなんですか……?」

「そうともよ。戦力としては無力だが……」テオは尊大に頷いて腕を組む。「抑え込んだものを、開放してやる必要があるかもしれない。今も割りとギリギリだから、状況によっては勝手に溢れるかもしれんが、確実性を取るなら俺が必要だ」

「はぁ……」

 

 アキラには言ってる事が意味不明だが、エルフの方も力強く頷いているところを見るに、彼が重要な存在であるのは間違いないらしい。

 尊大な態度を取れるだけの役目が、彼にはあるようだ。

 

 そういう事であれば、アキラから言える事はない。

 とはいえ、元より勝手に紛れ込んだ子供という訳でなければ、アキラに何かを言う資格はないのだが。

 

 問題ないと言うなら、アキラ達も孔へ向かうべきだった。

 イルヴィ達に顔を向けると、獣人達の後に付いていくよう指示する。

 だが、共同戦線はともかく、後塵を拝する事は気に食わない者達がいた。

 

 イルヴィを始めとした、血の気の多い輩が、我先へと向かって獣人達を追い抜こうとする。

 イルヴィが我先に、となればドメニも黙っていられない性格だからその背を追い、またそれらを見過ごせない者達が更に追う。

 

 そうとなればフレン達も黙っていられない訳で、整然として列を作っていた彼らもあっという間に隊列が崩れ、我先にと泳ぐように腕で掻き分けて進んで行った。

 

「何してんだよ、もう……!」

「プライドの問題、なのかなぁ……?」

 

 アキラは思わず目に手を当てて嘆いたが、スメラータだけは傍に残って呆れた声で見送っていた。

 しかし、こうなってはもう止まらないだろうし、止めようともない。

 

 アキラは騒がせた事を詫びる意味でも、部屋の中にいる文官らしき者達にも丁寧に頭を下げ、それから彼らの後を追った。

 入った部屋の中では、目を丸くさせたインギェムとルヴァイルがおり、人の群れに轢かれない様に部屋の端に寄っていた。

 

 そこにも詫びの意味で頭を下げ、アキラも孔へと身を投じる。

 既に一往復しているし、過去には一度通った事もあるので慣れたものだが、スメラータは手足をバタつかせてバランスを取ろうしていた。

 

 そんな事をしなくても、身体はどこかへ飛ばされたりしないのだが、前方を見てみれば大概誰もが同じような反応をしている。

 考えてみれば、手足が地面に付かない状態など経験ないだろうから、何か掴める物はないかと動かしてしまうのは当然なのかもしれない。

 

「大丈夫、すぐに着くから。流れに身を任せておくと良いよ」

「お、う、うん……! 確かに、何もしてない方が楽、かも……」

「到着と同時に戦闘開始だから、身構えておく必要はあるかもね」

 

 そう言って、アキラは前方に見える集団へも声を張り上げて忠告する。

 

「多分、あと幾らもせずに到着する! 目の前にはすぐに魔物がいる筈だ! 後続の事も考えて、前進し続けるのを心がけて!」

 

 返事と共に腕を振り上げ、了解を示すと同時に、武器を手に持つ者が増え始めた。

 足踏みしたところで、踏み抜く床も大地もない。しかし、慣れた動作は例え音が鳴らずとも行ってしまうものらしかった。

 腕を突き上げる度、彼らから戦意を漲らせる掛け声が上がる。

 

「ソール、ソール、ソール!」

「――ソール、ソール、ソール!」

 

 魔物の群れに立ち向かうと理解していても、なお戦意を漲らせ、ぶつかりに行ける彼らの勇姿は頼もしい。

 その背を見つめていると、アキラまで勇気付けられ声を張り上げたくなる。

 すぐ後ろでスメラータもソールの掛け声を叫ぶと、アキラも自分の情動は止められなかった。

 

「ソール、ソール、ソール!」

 

 アキラもスメラータも武器を抜き、高々と掲げて互いに笑みを交わす。

 そうして再び声を張り上げようとした時、視界が一瞬で切り替わって、神宮の中に魔物の蔓延る姿が目に入った。

 

 先に到着していたエルフ五百人、それから攻勢理術士の隊士達、それらが前線に援護射撃を行っていた。

 打ち倒せる魔物も多数いるが、それ一発で倒せない敵もいる。

 そうした魔物は攻撃に対して素直な反撃の姿勢を見せ、後方へ飛びかかろうとしていた。

 

 元より群れているだけで、戦略的な攻防など考えていない魔物どもだ。

 持ち場という概念もなく、ただ手近な相手に攻撃し、そして攻撃に対して反撃していただけだった。

 

 しかし、同時に数は力だ。

 前線だけでは押し留められず、魔術攻撃で堰き止めていた魔物の一部が、最後の一線を突破するのを許してしまった。

 

 前線の隊士達が魔物共を追おうにも、他に相手すべき魔物は幾らでもいる。

 悔しさに顔を歪め見送るしかないところで、その顔が驚愕に染まるのが見えた。

 その視線を受け取る先には、アキラが――共に連れてきた冒険者と獣人族がいる。

 

「ソール、ソール、ソール!」

「――ソール、ソール、ソール!」

 

 意味不明な掛け声と共にやって来た彼らは、異常に映っただろう。

 だが、最後の一声と共に動きを止め、全員が武器を構えた所は、前線から漏れ出た魔物どもの正面だった。

 

 偶然にも後方を守る壁として機能する事になり、何をすべきか、戦闘慣れした彼らは瞬時に悟って横に広がる。

 自然とリーダー的立場に収まったイルヴィと、そもそもリーダーだったフレンが先頭に立ち、すぐ後ろに立つ味方へ声を張り上げた。

 

「敵だ! よりどりみどり、好きに狩れ!」

「未知の敵もいるよ! 一人で立ち向かうな、最低でも三人で挑むように心がけろ!」

「臆するな! 血が流れる奴なら必ず殺せる! ――侮られるな、目にもの見せてやれ!」

『ウォォォォオオオオ!!』

 

 急造の戦士団が、一丸となって魔物に向かっていく。

 アキラも先頭付近で武器を取り、迫りくる魔物に次々と刃を斬り付けて行った。

 



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誠実の恩返し その6

 戦線は、本当にギリギリの所で持ち堪えていたらしい。

 アキラも急いだつもりだったが、何もかも上手く事が運んでいた訳ではない。焦れる思いも多くさせられた。

 

 しかし、間に合った。間に合わせる事が出来た。

 それがアキラの心を、熱く燃え上がらせる。

 

 それが刀を振るう力、魔物を押し返す力に変えた。

 魔力の制御にも影響を与え、常より鋭い練度を見せる。体捌き、体重移動にも俊敏さが加わり、魔物の攻撃を寄せ付けない。

 

 返す刀で魔物を斬り伏せ、次々と目標を変えては屠ってゆく。

 魔物は多いが、強くはない。弱敵ばかりという意味でもなかったが、アキラの刃が通らない程、手に負えない敵はいなかった。

 

 だがそれは、今はまだ、という段階でしかない。

 孔同士は繋げる事が出来るし、孔が大きくなればそれだけ巨体の敵も出現する様になる。

 そうなった時、果たしてここに居る者達で対処できるかどうか――。

 

 アキラはちら、と視界の端に映る超大な人型に目を向ける。

 仮に刃が通る相手であろうと、単に巨体だという理由で武器は通用しないだろう。

 

 しかも、敵は明らかに人工的で、生命ですらない。

 痛みがあるなら、蟻の一噛みだろうとそこから打ち崩す事も出来るだろうが、全く頓着しない相手に、針先で突くような攻撃が通用するとは思えなかった。

 

 ――だから、何とか出来る状態の内に、決着を付けるしかない。

 アキラは目の前の敵に集中すべく、視線を戻した。

 

 これは総力戦だ。

 日本の隊士と、デイアートの戦士が合わさった戦力は、これ以上なく頼もしく感じるが、同時にこれ以上の援軍は期待できない。

 

 見て見れば、戦闘に参加しているのは人間だけでなく、巨大な獣の姿も見える。炎を身体に纏い、全身全てを武器にしている神狼だった。

 そのすぐ傍では、いつかミレイユが見せてくれた犬型の精霊も見える。

 

 八房様やフラットロという精霊の助力を受けている現状、何とか今は押し返す事が出来ている。

 孔はこれ以上増えないと思いたいが、そんな保障はどこにもない。

 だが、今はとにかく、目の前の敵を打ち倒す事に専念するしかなかった。

 

 戦力差が翻った事で、魔物が増える速度と処理速度も逆転した。

 だが、隊士達には疲れが見える。

 当然だろう。これまで凌ぎ続けて来た事こそ奇跡だ。

 

 彼らの意地、退魔鎮守、そして護国堅持の精神が、これまで魔物の暴挙を許さなかった。

 結界が破れた事で、なお必死になっていた面もあるだろう。

 精神だけは負けるつもりがなくとも、体力まで同じ様にはいかない。

 

 アキラ達は外へ漏れ出ようとした魔物達を討ち倒し終わると、前線へ合流した。

 近付けば近付くほど群れの圧力は増していき、先程までと同様に次々と斬り伏せるとは行かなくなった。

 

 しかし、合流した事により、隊士達の負担は軽くなった筈だ。

 その中にあって、無限の体力と対応力を見せるアヴェリンとユミルは、流石と言わざるを得なかった。

 

 頼もしいと思いつつ、呆れるような気持ちも沸き起こる中、一人の隊士がアキラの目に付く。

 ――それは、アキラが良く知る人物だ。

 側面の魔物を斬り付け、突き刺さった刀を抜こうとした隙を、別の魔物に狙われている。

 

「阿由葉さんッ!」

 

 その隙は決定的なものに見えた。

 刀を抜こうと、抜かずに避けようと、躱し切れない攻撃に見えた。

 獣型の魔物は、その大きく開けた牙で噛みつこうとしている。

 

「――させるかッ!!」

 

 アキラはこれまでに類を見えない集中力を見せ、全くの無駄なく完璧な魔力制御をし、爆発的な瞬発力で接近した。

 その接近する勢いそのままに、魔物を斬り付け突き飛ばす。

 

 それで空中で分断されながら吹き飛んで行き、後には呆然と見える七生が顔を向けていた。

 彼女としても、躱せないと覚悟を決めた直後の事だったからだろう。

 最初は理解が追い付いていなかったようだが、アキラの顔を認めるにつれ、その顔が綻んでいく。

 

「アキラくん……!」

「平気?」

 

 問いながらも、接近して来た別の魔物を斬り倒す。

 七生は今度こそ顔に笑みを浮かべ、それから力強く頷いた。

 

「えぇ! ありがとう、助かったわ」

「阿由葉さんがピンチの時、今度は僕が助けるって約束したからね」

 

 そう言って、顔を向けつつ小さく笑う。

 アキラにとって、神宮での乱戦は既に遠い過去の事だが、あの時、七生が助けてくれた恩は忘れていない。

 そして、そのとき自分が何を言ったかも、同様に忘れていなかった。

 

「う……っ!」

 

 七生が見つめる目が潤む。

 赤面し始めた顔を見て、我ながらキザな事を言ったな、と自分まで恥ずかしくなった。

 そうして、そんな事を言い合ってる場合じゃないな、と意識を切り替えようとした時、死角から魔物が襲い掛かってきた。

 

 しまった、と思う暇も無い。

 咄嗟に刻印を発動させても間に合わない。刻印は確かに短時間で魔術を行使してくれるが、その発動には僅かな時間が必要だ。

 

 せめて致命傷だけは、と身を翻すと同時、横合いから突き出された槍に貫かれ、魔物は吹き飛んでいく。

 まるで、さっき自分がした事の焼き直しだ。

 苦い思いをしていると、やおら側面から声が掛かった。

 

「誰かを助けるつもりで、自分が助けられちゃ世話ないね」

 

 誰からの声か、武器を見た瞬間から気付いている。

 苦い顔をさせながら顔を向けると、そこにはやはり、イルヴィが突き出した槍を懐に戻している最中だった。

 

「……全くだ。すまない、イルヴィ」

「良いって事さ。互いに庇い合うのがチームなんだ。だから、あんまり一人で突出すんじゃないよ」

「そうそう!」

 

 苦言を呈されている間に、もう一人のチームメンバー、スメラータも追い付いたようだ。

 困った顔をしつつも笑みを隠しきれず、手に持った大剣を周囲にチラつかせながら言う。

 

「アキラは人が()すぎなんだよ。一人の損失を防ぎたいのも分かるけど、まずは自分の心配を考えなって!」

「……どちら様?」

 

 七生から信じられないほど低い声が聞こえた。

 先程までの潤んだ瞳はどこへやら、底冷えするような視線がイルヴィ達に向いている。

 その視線を悠然と受け止めて、イルヴィは胸を張りながら答えた。

 

「アキラを婿にする女だ」

「――はぁ!?」

 

 驚愕の声はアキラと七生、双方から上がり、そこへスメラータが冷めた視線を向けつつ言い添える。

 

「いや、それアンタが勝手に言ってるだけじゃん。単なるチームの一員でしかないし」

「今だけの話だろ。アキラは一生に一度の男だ。他を考えてないんだから、婿になるのは決定みたいなもんだ」

「んな訳ないじゃん、――ねッ!」

 

 呆れた視線を向けつつも、魔物についてはしっかり把握していたスメラータが、大剣を振り回して一刀両断に斬り裂いた。

 吹き出す血を避ける為に、死体を剣の腹でぞんざいに突き飛ばし、次なる敵に備える。

 

 悠長に歓談している暇はなく、まず魔物に対するのが急務だった。

 それは七生も良く理解しているので、刀を手にして魔物へ体ごと向ける。

 そうして殺気を漲らせて睨む様は、まるで百年込めた恨みを向けるかのようだった。

 

 背中をゾクリを震わせていると、辺りに一際大きな声が響いた。

 顔を向けると、七生の姉にして隊士達の指揮官、結希乃が重なり合って倒れた魔物の上に立ち、刀を掲げている。

 

「戦力に余裕の出来た、今がチャンスだ! この間に体勢を立て直し、鬼どもに対処できる強固な陣を形成する! 援軍部隊、前に出て圧力を掛けろ! 隊士達は入れ替わり、後方の壁となれ!」

 

 イルヴィが興味深そうに結希乃へ顔を向け、それからアキラとスメラータへ向き直る。

 顎をシャクって指示通りに前へ出ようと示した。

 

 孔から出てくる魔物は、流水の様に一定の量で出て来る訳ではない。

 そこには必ず波があり、侵出の間があった。

 

 魔物の数は未だ溢れる数がいて、襲い掛かって来ている敵もいる。

 だが立て直すには、この隙を利用する他ないと、アキラでさえ判断できた。

 

 援軍組と隊士組は連携が取れていると言えないし、下手をすると獣人族は敵とも受け取られかねないが、聡明な結希乃なら見誤らないし上手くやってくれると思った。

 アキラはイルヴィとスメラータへ目配せして、口に出して鼓舞する。

 

「後方からの魔術攻撃が出来るなら、上手く分断して孔の魔物を封殺できるかもしれない! ここが踏ん張りどころだ!」

「ま、確かにそれ以外、勝ち筋が見えなさそうだ。それに、あの湧き出る変なヤツは何なんだ。あれ壊すのが先じゃないのかい」

「壊せないから困ってるんだ。あの巨体がやってるから、そっちを倒さないとどうにも……!」

「あれか……」

 

 結希乃の指示通り、隊士達と入れ替わって前面に出ながら、イルヴィは吐き捨てる様に言った。

 目に付かない筈のない、巨大な人型兵器。

 武器の一つ、魔術の一つでどうにかなる存在ではないと、視界に入った瞬間、彼女にも分かった筈だ。

 

 そして、それは事実でもある。

 あれに対処できる存在がいるとしたら、それは神様以外有り得ない。

 しかし、問題はない。神であるオミカゲ様とミレイユ、この二人が対処に動いているのだ。

 ならば、二人に任せておけば万事問題ないという事だ。

 

 魔物を相手にしながらも、視界の端では壮絶な戦いが繰り広げられている。

 一つの人影が飛び回り、もう一つの影も人形兵器の周囲を飛び回っては攪乱し、攻撃を繰り返していた。

 

「あれの相手は、凄く頼りになる方々がやってくれてる。だから、僕たちは僕たちに出来る事をしよう!」

「それがつまり、場当たり的に魔物を削り続けるって事かい! こっちの精神まで削れるね、そりゃ……!」

「今まで耐え続けてくれた人がいるんだ! 僕らだって同じ事やれないと申し訳が立たないよ!」

「それもまたどうだかね……! 消極的すぎないか、――っと!」

 

 また一匹、魔物を槍で突き刺し、イルヴィは不満げな声を上げた。

 攻撃的な彼女には、そもそも防衛戦自体が向いていないのかもしれないが、あの巨体に対し、ひと一人が何か出来るとは思えない。

 

 出来るとするなら、それはミレイユを始めとして、アヴェリンなどの超越者しか無理なのではないか、と思える。

 それは決して卑屈ではなく、純然たる事実を基にした推論だ。

 

 そして本来なら、有象無象の雑魚を相手にさせるより、強敵に充てるのが正しい運用だとも思うのだ。

 何事にも、適材適所というものがある。

 数は力と言うが、やはり例外はある。真に強大な相手には、同様に強大な者しか相対できない。

 

 ――その直後、アキラの考えが事実であると分かった。

 突然、巨大な爆発と衝撃がアキラ達を襲い、思わず転びそうになって踏ん張った。

 

「な、なん、だ……ッ!?」

 

 到底、力加減一つで留まれる規模ではなく、その熱波と衝撃波は、咄嗟に刻印を使わせる程のものだった。

 イルヴィとスメラータを近くに引き寄せ、二人の盾となる。

 爆光も激しく目を開けていられない程で、腕を庇代わりに庇いながら様子を窺う。

 

 そして遠くでは、隊士や魔術士が一丸となって、防御膜を構築しているところだった。

 上空で発生した巨大な爆発は、まるで小さな太陽のようでもあり、その衝撃力は何十トンもの爆薬を起爆させたものより大きく思えた。

 

 ここから薄っすら見える限りでは、その衝撃力を上空へ逃している様だが、つまり余波だけでそれだけの威力なのに、踏ん張るだけで精一杯という有様だ。

 

 到底、市街地上空で発生させて良い爆発ではなく、現代の基準でも小型核を起爆させたかのような衝撃だった。

 どういう判断で使用したのか、アキラには分からない。

 だが、そこまでしなくては倒せないと思ったからこそ、使用に踏み切ったのだろう。

 何しろ、オミカゲ様が人的被害を考慮せず、そんな攻撃を許可したと思えないのだ。

 

 周辺の建物の被害は甚大だろうと思うが、あれを自由にさせた方が被害は大きい。

 それを思えば、英断だったと言う気がする。

 

 そうして次第に光が収まるにつれ、その思いは確信へと変わった。

 巨大な人型をしていた兵器は、鳩尾辺りから上が、スプーンで切り取られたかのように、すっぱりと無くなっている。

 

 巨大な両腕も肘から上が消滅していて、重量に従って落下し、地を震わせる震動と共に倒れていった。

 これで光線を出していたレンズ部分、そして抵抗する為の腕部分が失くなった。

 勝利も近い、という確信が強まる。

 

 これで孔も消失するかもしれない。

 胸の奥にじわじわと希望が湧いて来る。

 だが、生まれたばかりの希望すら打ち砕く、衝撃の光景が目の前に飛び込んできた。

 

「――ミレイユ様ッ!?」

 

 傷だらけ、火傷だらけのミレイユが、凄まじい勢いで落下して来る。

 力なく四肢を伸ばし、頭からそのまま地面にぶつかると、衝撃と共に土煙を巻き上げた。

 

 受け身も何も、取る余裕がなかったように思える。

 大丈夫なのか、無事なのか、心配して駆け寄りたいが、目の前の魔物がそれを許してくれない。

 

 今のアキラは軍として動いているのだ。

 勝手な行動は許されないし、何よりアヴェリンこそ一番に駆け寄りたいと思っているだろうに、自分の役割に専念している。

 それなのに、彼女を差し置いてアキラが勝手をする訳にはいかなかった。

 

 歯噛みして目の前の魔物に対処していると、そこへ更なる衝撃が目の前に飛び込んで来る。

 ミレイユの時と似ているが、落下する時の勢いは随分と緩やかだ。

 しかし、オミカゲ様も力なく四肢を放り出して、落下している部分は共通している。

 

「……オミカゲ様!!」

 

 その声を上げたのは、一体誰だったのか。

 隊士の一人が上げた声は、隊士達をオミカゲ様に視線を集中させる事になり、そして後方の動きが止まる。

 衝撃的な光景に、誰も理解を拒絶させた。

 

 そこに鋭い女性の声が響く。それがユミルの声だったと、数秒後に理解できた。

 

「テオ! アンタこの時の為に来たんでしょ! さっさとやりなさい!」

「分かってる! もうやった!」

 

 声は分かっても、内容はアキラに理解できない。

 だが、何らかの秘策を用意してあって、それを実行したのだと言う事だけは分かった。

 とはいえ、それがこの局面でどう作用するか不明だ。

 

 ただ、アキラはミレイユに駆け寄りたい衝動を、必死に目の間の魔物にぶつけるしか出来なかった。

 



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真の敵 その1

 アキラの一念発起とした提案を受け入れ、送り出した直後の事――。

 オミカゲ様に脇の下から持ち上げられながら、ミレイユは『地均し』へと突貫していた。

 そんな事をされずとも自分の足で行ける、と思いつつも、今は速さが大事だった。

 

 『地均し』は今まさに立ち上がろうとしているが、それを許せば神宮から出て行く事も考えられる。

 まずミレイユ達を攻撃しようとしても、攻撃を躱せば市街地にも被害が出るだろう。

 

 結界に再び押し込める必要を考えれば、まだ不安定な体勢の内に転倒させてしまいたい。

 立ち上がらせる事は、こちらの不利にしかならないので、断固阻止するべきだった。

 

 しかし、問題もある。

 まず、『地均し』に生半可な魔術を使っても、さしたる傷を付けられないだろう事。

 そして、ミレイユには何度も大魔術は使えないだろう事。

 更に言うなら、寿命の残りが少ない事などが挙げられる。

 

 ミレイユに残された命の蝋燭は、もう残り少ない。

 尽きてしまうより前に、決着を付けてしまわなければならなかった。

 

「……オミカゲ。奴の体勢を崩すなり、いっそ転倒させるなり、何か上手い方法はあるか?」

「まぁ、一足飛びにやるのは難しかろうな。威力の高すぎる魔術は、周囲への影響も強かろう。上手く加減せねばならぬだろうに、それでは奴に通用せぬ」

「つまり、言ってる場合じゃないって事だな。周囲への被害が最小限なら、それで良しとすべきだ」

「……そうなろうな」

 

 達観するような息を吐き、オミカゲ様も頷く。

 そして、その達観する視線を一瞬だけミレイユに向け、すぐに『地均し』へと戻す。

 

「そなた……相当、酷い事になっておるな。戦いの影響か」

「その様なものだ。――だから、悠長に戦略を練る時間はない。出来るなら、お前が都合よく奴を壊せる魔術でも使って終わらせて欲しいくらいだ」

「無論だが、そんな都合の良いものは存在しない」

 

 だろうな、と口の中で呟いて、目前へと迫った『地均し』を睨む。

 ミレイユが知る中でも、その様な魔術は存在しない。

 それでも、ミレイユより長く生きたオミカゲ様なら、何かあっても良いだろう、という期待はあった。

 

 いや、と心の中で頭を振る。

 ミレイユとオミカゲ様は同質の存在だが、決定的に違う部分もある。

 オミカゲ様には、ミレイユが持たない、しかしオミカゲ様しか持ち得ないものがある筈だ。

 

「なぁ、お前の権能は何なんだ。願力が必要で、祈りがなければ回復しないとも聞いているが、お前なら使い放題みたいなものだろう」

「間違いではないが、戦闘で有利になるものなら、既に使って圧倒しておる。そこから察して欲しいものだが……」

「頭の端では考えていたがな……、やはりか……」

 

 何しろ出し惜しみする場面ではない。

 使うべきと考えた時点で、使っていて当然だろう。

 ルヴァイルやインギェムと違って、オミカゲ様ならば好きに使えるポテンシャルがあるだろうし、何より信徒は日本中にいる。

 

 一声上げるまでもなく、常に供給され続けているようなものだ。

 今日も神宮には多くの参拝者が詰め掛けていた。時間を問わず、全国の神社で――規模の大小はあっても――似たような光景が見られる事だろう。

 

「因みに、何の権能だ?」

「集約と守護である。マナを一箇所の土地に集めたり、箱詰めの様に固めたり、とまぁ……色々だが。守護は……、言わずとも分かろうよ」

「鬼の被害から守る為か……」

「それを動機として発現したものであろう。我が呼び込むようなものだから、護ってやらねばならぬ故な。全国に拡げている故、一人の効果が微弱になってしまっているものの……、戦闘中であるなら、こちら一つに注力してやれる」

 

 思い返してみると、隊士達は強さの割に妙にしぶといと思った事がある。

 アキラが特別頑丈なだけかと思ったし、アヴェリンの教えが良かったからかだろう、と思っていた。

 無傷ではないし、重傷を負うことも珍しくないが、致命傷であっても命は繋いでいたように思う。

 

 御由緒家の若い連中が、四腕鬼(サイクロプス)と遭遇した時もそうだ。

 彼らは自力で助かっても不思議ではないが、それらと共に戦っていた隊士達の中でも、戦死者は出ていなかったと記憶している。

 

 誰か一人を守護する為に使っていないからこそ、その効果が分散して、ミレイユの目からしても何かの力が働いているように見えなかった。

 しかし、その守護の効果が、首の皮一枚繋がる役目を果たしていたのだろう。

 

 妙に納得した気持ちになったが、それならやはり、この局面で『地均し』を便利に転がす事は出来なさそうだ。

 せめてもう少し攻撃的な権能であれば、無制限とも思える願力を使って、有利に立ち回る事も出来ただろうに、と詮無き事を考えてしまう。

 

「弱気な事を……」

 

 余りに他人任せな考えをしてしまい、乾いた笑みが漏れる。

 オミカゲ様は自分自身だから、という甘えが原因だろうか。あるいは、この身体で全力を出す怖さが、無意識に誰かを頼ろうと思わせたのかもしれない。

 

 ミレイユは意識を切り替え、『地均し』を真下に見る。

 その動きは緩慢としたものだが、既にその姿勢は中腰まで起き上がろうとしており、完全に身体を起こすまで幾らも猶予がないように見えた。

 

「もはや小突くだけの攻撃では止まらぬだろうが、揺さぶりのつもりで撃ってみるか……。手を離すが、良いか?」

「……ぶっつけ本番、やってみるさ。いいぞ、離せ」

 

 ミレイユが返答するのと同時、脇の下に通されていた腕が離れ、ミレイユも落下を始める。

 オミカゲ様が頭上で制御を始めるのを感じながら、ミレイユは『地均し』の肩へ着地した。

 

 まだ直立する前の段階なので、肩というより肩甲骨の位置に近いが、ゴーレムの身体に骨のような分かり易い突起はない。

 どこまでものっぺりとした表面で、見渡す限り身を隠せる様な場所もなかった。

 

 悠長なことをしていると、オミカゲ様から攻撃が来る。

 だが、体勢を崩す事を第一に考えているなら、側面から衝撃を加えようとするだろう。

 身体上の構造から、直上から押されても踏ん張りやすいが、横からは弱い。

 

 人と良く似た構造をしている『地均し』だから、似た反応が期待できるだろう。

 だから、ミレイユの直上から魔術を放とうとはしないだろうが、衝撃で飛ばされないよう対策しておかねば、結局は同じ事だ。

 

 ミレイユは『念動力』で何処かに掴まろうかとしたが、どこものっぺりとした体表面では、それも無理だと思い直した。

 右手で剣を召喚して手に持つと、切断できるかどうか試すつもりで、切っ先を軽く斬り付ける。

 

 すると、意外なほどアッサリ剣先が表面に沈み、そのまま力を籠めれば、訳なく根本まで突き刺った。

 そこから上空にいる筈のオミカゲ様へと目を向けると、ミレイユの予想通り、『地均し』の側面へ回っていく途中だ。

 

 ――やはり、互いの考え方は良く似ているものらしい。

 ミレイユがどうやってしがみ付くつもりかも、向こうには察しが付いているようだ。

 安全や準備を促す掛け声もなく、オミカゲ様は制御していた魔術を解き放った。

 

「――くっ!!」

 

 行使した魔術は二つ。

 『爆炎球』と、もう一つの何かまでは分からなかったが、爆発の衝撃を最大化させる為に使ったものらしい。

 まずは転倒させる事を考えてのものなので、威力より衝撃力を優先したのだと察知できた。

 

 しかし、振り落とされないよう、しがみ付くのは実に大変な作業だった。

 なにしろ、オミカゲ様に容赦はなく、立て続けに魔術を撃ち込んでくる。一発で無理なら何発でも、という発想だろう。

 使った魔術の衝撃力は確かに強かったが、それでも『地均し』が倒れる気配は一向に訪れない。

 

「……駄目か!」

 

 衝撃力が足りないのではない。

 『地均し』は衝撃に対し既に身体を傾け、その体勢を防御に適したものへ変えてしまっている。

 腕を持ち上げ脇を締め、肩を突き出す前傾姿勢を取られては、もはや転倒は無理だと考えるしかない。

 

 元より駄目で元々のつもりでやった事だ。

 それならば、別の手段を講じるまでだった。

 

 『地均し』の体表面は魔術に強くはあっても、無効化できない事は確認できた。

 オミカゲ様の爆炎球で表面に小さな穴を穿ち、欠片が舞っているから、魔術耐性を持っていても堅固でないのも間違いないようだ。

 

 小さいとはいっても、『地均し』の体面積から見れば小さい穴というだけで、実際の大きさは馬鹿に出来たものではない。

 ミレイユの召喚剣が難なく突き刺さった事を考えても、攻撃自体は有効だが、効果的とは言い難い。

 

 同様に、手に持った剣をどれだけ深く突き刺そうと、敵にとっては全く取るに足らない傷だろう。

 ミレイユが苛立ちと共に剣を振り抜き、縦一直線の傷を付ける。

 

 試しに何度か斬り付け、傷を抉ってみたが、他と変わらぬ黄土色の穴が出来たに過ぎなかった。

 例えば筋肉や骨のようなものが表出してくれたら、またやり方は変わって来るのだが、どこまで深く抉れば表出するかも分からない。

 

 そして、それに意味があるかどうかも分からなかった。

 人が作ったゴーレムでさえ、土や石から出来ているのだ。

 

 神が造ったものでも、やはり同じと言われても驚かない。

 だが、単なるゴーレムと違う部分は確かにある。それが前面部、鎖骨の間に設けられた、巨大なレンズだ。

 

 頭部がなく――あるいは頭部を胸部に埋め込んだかのように見えるデザインは異質で、そして首がないからこそ、光線の発射に対しても反動が少ない構造になっている。

 

 そこを破壊できれば、明確な攻撃手段を一つ奪ってやれる事になるだろう。

 もし、あのレンズが攻撃だけでなく、見た目どおりカメラの役割を果たしているなら、その視界を奪う事も出来る。

 

 攻撃目標として、まず目指すべき場所だった。

 あるいは脇付近も有効かもしれない。光線をしばらく撃った後、排熱の為に表面部がスライドして蒸気らしきものを出していた。

 

 それが出来なくなれば、実質的に光線は封じたようなものだろう。

 ただしその場合、その排熱機構にまで攻撃を届かせる事が出来るか、という問題はあった。

 

「私だけが考える事でもないか……!」

 

 何しろ自分(ミレイユ)は、もう一人いる。

 それも千年生きた、経験豊富な自分だ。逆に、あれこれと考えずとも、有力なアドバイスをしてくれそうだった。

 ――それに。

 

 今のミレイユの身体状況を考えると、間違いなく頼りに出来るのはオミカゲ様の方だ。

 魔力を練り込む事に、歯噛みする思いで必死にやってるぐらいだから、元より危うかった制御能力にも難が出て来ている。

 

「叩いたら直らないか、このポンコツ……!」

 

 ミレイユは空いた左手で胸元を叩き、そしてその痛みで顔を顰めながら、レンズに向かって地を蹴った。

 



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真の敵 その2

 既に『地均し』は防御姿勢を取り、崩す気配も見せないというのに、オミカゲ様の攻撃は続いていた。

 衝撃に備えているといっても、その上に乗るミレイユへは大きな衝撃として伝わる。

 移動するにも難儀する事になり、いい加減やめてくれと叫びたい気分だった。

 

 ――無駄と分かって続ける意味はあるのか。

 そう思ったものの、直後、目的は別にあるのだと理解した。

 オミカゲ様はミレイユが妨害されないよう、意識を逸らす為に攻撃しているのだ。

 

 有効でないのも、それで傷付かないのも百も承知で、敢えて目立つ攻撃を続ける事で、攻撃の矛先を自分に向けようとしている。

 

 それが分かって、ミレイユは素早くレンズへ移動しようと、更に歩を速めた。

 だが、表面は突起物が極端に少なく、足を滑らせやすい。

 材質としては岩の様な鉱物だと分かるのだが、激しく揺れる上での歩行は氷の上を歩く以上に不安定だった。

 

 いつもの念動力を使った補助も、掴める場所があってこそ意味がある。

 肩の接合部など、関節のある場所ならその限りではないだろうが、ミレイユの今いる場所で使っても余り効果的ではない。

 

 ミレイユは左手に斧を召喚し、それで登山ピッケル代わりの補助道具にして疾走する。

 時に斧を使って、振り落とされそうになる震動を突き刺し耐えて、時に剣を使って方向転換しながら、レンズ部分に向かってひた走った。

 

 そうして到着した時、オミカゲ様は宙を舞い『地均し』を挑発する様に、視界の外へ外へと移動しながら、魔術を放っている所が目に入った。

 その反面、『地均し』の良い様にやられていて、攻撃手段は多くないのか、オミカゲ様を捉える事が出来ていないように見える。

 

 腕を振り回したくとも、その距離には寄ろうとしないし、何より衝撃に特化させた攻撃は近付く事も許してくれない。

 だからレンズを向けて光線を放とうとするのだが、常に背中と肩の中間地点を位置取るという、絶妙に攻撃し辛い地点を保持していた。

 

 『地均し』の光線は自在に曲がると思っていたが、大きく湾曲させてオミカゲ様の背中を狙う攻撃は、躱されてしまうと自傷攻撃にしかならない。

 それを理解しているから、迂闊な攻撃を避けているのだろう。

 

 ――攻撃し(あぐ)ねているなら、今がチャンスだ。

 ミレイユは衝撃の間隙、『地均し』の動きの隙を突いて、地肌を蹴りつけ一足飛びにレンズ外縁部へ取り付く。

 

 その歯車の様なデザインをした部分に、斧の刃元部分で上手く引っ掛け、そこから身体を持ち上げレンズの頭頂部へと到達した。

 

 『地均し』は既に立ち上がった状態と言っても過言ではなく、見下ろす地面は遥かに遠い。

 視線を前方に向けてみれば、これに類する高さの物は一つとして見えなかった。

 

 ミレイユの視力ですら薄っすらとしか見えない遠い場所に、高層ビルが建っているのが見えたが、話に聞いていたとおり、小高い山の上に建つ神宮より背の高い建物は一切ないようだ。

 

 では、この理解を越えた人型ゴーレムは、その周辺全ての目に映ってしまっているという事になる。

 今更隠せるものではないが、早期の決着は付けてしまいたい。

 

 この高さだから詳しい事までは分からないが、市街は相当な混乱振りを見せているようだ。

 念の為と思って避難勧告はさせていたが、元より神宮か本庁が率先して発令させていた筈だし、ミレイユが御子神としての立場を利用して、無理やり命令を最優先とさせた筈だ。

 

 畑違いなところから伝わった命令だろうから、伝達までに時間が掛かるのも理解出来るが、今の状況を思うと、実に歯痒い。

 元より一切の犠牲なし、という夢物語を考えていた訳ではなかったが、これで建物ばかりでなく、市民への被害まで視野に入れなければならなくなった。

 

「最大限、防いでやるつもりだが……ッ!」

 

 自分を鼓舞するつもりで声を出し、ミレイユは鈍い身体で力一杯、剣を振り下ろす。

 しかし、どういう材質であるものか、レンズへ加えた一撃は、硬質な音を立てて弾かれてしまった。

 

「何だこれは……、クソッ!」

 

 見た目はガラス製の様に見えるのに、その手応えは、まるでドラゴンの骨を斬り付けたかの様だ。

 ドラゴンの鱗や骨などは、鋼鉄より余程強固で、生半な武器では刃すら立たない。

 そういう物体が存在するので、弾かれた事を不遜とは思わないが、未知の材質に困惑だけはしてしまう。

 

 デイアート世界でそれなりに長く生活して来たものだが、ミレイユの召喚剣を真っ向から弾いた物質は初めての事だ。

 余りに硬すぎる物質でも、僅かな傷くらいは付くものだった。

 しかし、これにはそれすらもない。

 

 レンズには髪の毛より細い傷すら付かず、全く損傷を受けていない様に見える。

 体全体を覆っていた鎧甲とはまた別に、魔力に対して強い耐性を持つ物質なのだろう。

 それならば、ミレイユの召喚剣を弾いた理由も理解できる。

 

 元より半召喚した物体を、ミレイユの魔力を変性させてコーティングしたという、特殊な武器だ。

 召喚した剣自体に殺傷力は微塵もないが、実体を持たない故に、どのような物体も透過する。

 

 突き刺した後にコーティングすれば、どのような堅固な物体であれ、物体同士の繋ぎを破壊できるという武器でもあるのだ。

 単に斬り付けるだけでは無理であれば、そうやって破壊してやるつもりだった。

 そうしてコーティングを外した召喚剣を突き刺し、次に魔力を流して顔が歪んだ。

 

「――馬鹿な!?」

 

 ミレイユの思惑は通じなかった。

 コーティングを解いた召喚剣は問題なく貫通した。

 だが、そこから魔力を変性させようとした瞬間、まるでゴムで押し出されるように弾かれた。

 

「何で出来てるんだ。初めてだぞ、こんな物……」

 

 思わず呻く様に零した時、『地均し』の片手が持ち上げられており、ミレイユを叩き潰そうと迫っているところだった。

 唐突に日差しを遮る影が出来て、そちらの視線を向けると巨大な手が視界を覆っている。

 

 その手、その指は余りに巨大過ぎ、ミレイユ一人を潰すには全く向いていなかったが、大質量が迫って来る光景は単純に恐怖だ。

 指を綺麗に揃えているつもりでも、指と指の間には隙間がある。

 

 そこに潜り込んで凌ぎ、逃れようとした手が、もう一度同じ場所を叩いて大きく揺れる。

 人間でもまま見る行動で、丁度虫を払うつもりで叩く動作と良く似ていた。

 

 二回目の攻撃も隙間を上手く利用して回避したが、動作はそれで終わりではなかった。

 そのまま横へスライドし、外へ弾こうとする。

 

 叩き潰せれば良し、無理でもその動作で削ぎ落とされるだろう、と思っての事だろう。

 ミレイユの居る場所なら擦り潰される事もないが、そのまま外へ放り出されるのは、如何にも拙かった。

 

「ぐ、くそ……ッ!?」

 

 しかし指の側面に張り付く事になってしまい、抜け出そうとしつつも、振り払う動作に伴い重力が掛かり、ミレイユを自由にさせてくれない。

 結局、逃れる事なく手を振るう動作で指の間から射出される形になり、飛べないミレイユはそのまま吹き飛ばされた。

 何とか逃れようと、腕を振り回してみても全くの無力で、成す術なく高速で突き放されていく。

 

 ――どこまで飛ばされる!?

 せめて地面方向に射出されていれば、戻る時に苦労も少ないだろうに。

 方向のズレた悪態をついていると、その直後にミレイユの身体が、衝撃と共に空中で静止する。

 

 急制動で止められて、頭がフラ付く思いをしたが、見ればオミカゲ様が傍に居る。

 飛ばされたミレイユを察知して、咄嗟に追い付き……あるいは、事前に察知して受け止めた、という事らしい。

 それに感謝してから、改めて『地均し』を睨み付ける。

 

「悪かった、助かる。――今、あのレンズを攻撃してみたが、物理的にも、魔術的にも効果がなかった。破壊は諦めた方が良さそうだ」

「ふむ……? そなたの剣でも無理というなら、正攻法での破壊は無理と判断すべきであろうな」

「そういう言い方をするからには、何か他に手があるのか?」

 

 ミレイユは『地均し』を見ながら問うと、視界の端で頷く動作が見えた。

 

「邪法という程ではないが。精々、小手先と言えるぐらいであろう手段だ。――レンズが駄目というなら、外堀から攻めるのよ」

「それは分かるが……。しかし、外堀……?」

「文字通り、レンズの外縁部、その付け根を狙うのだ。魔術を封入した召喚剣でな……」

「確かに、切り裂く事は難しくなかった。埋め込む事も難しくないだろう」

 

 ミレイユは眉根に深い皺を刻んで首を振る。

 

「だが、深く差し込まなくては、起爆しても効果は薄いだろう……。まさかアヴェリンを呼んで、柄先を叩きつけて貰う訳にもいかない。大体、一つや二つ起爆させたところで、それが何だと――」

「誰も一つや二つとは言うておらぬだろう。足りぬというなら、更に増やせば良い話……。レンズ全周を囲い起爆させれば、それなりに効果は見込めると睨んでおるが……。そなたは、どう思う」

「行ける……だろうな。あぁ、確かに行けるかもしれない。試してみる価値もあるだろうが、それ何本の剣が必要になるんだ。言っとくがな、私は――」

 

 大量に作り出すのは無理だ、と言おうとした時、『地均し』の手が動いた。

 それまで手を払った動作で視界を遮られていた事もあり、隠れた向こうの動きが見えていなかった。

 しかし、その腕が鈍重な動きで外側にズレて行くに連れ、身体がこちらへ向いている事に気付く。

 

 レンズの中央には光が集中していて、今にもそれを解き放たんと輝きを増していた。

 オミカゲ様が焦ったような声を出す。

 

「拙いッ!」

 

 咄嗟に回避行動を取って横へ逸れ、その直後に光線が飛んでくる。

 その後は空を切り裂き飛び上がり、左右へ身体を揺らしながら、『地均し』の身体を中心に旋回して行く。

 

 体験した事はないものの、それはまるで戦闘機に乗っているかのようだった。

 高速の空中機動は重力や物理法則を無視したものでなく、空気力学に沿った動きで躱しているように見える。

 

 しかし、光線は追尾を止めず、どこまでもオミカゲ様を執拗に追いかけて来た。

 ミレイユを抱えている所為か、光線の方が足は速い。

 

 だが、オミカゲ様も然るものだった。

 時に上下が反転するように回転し、時に直角に近い急旋回をしながら、オミカゲ様は上手く光線を回避していく。

 そして、躱し切れないものには防壁を張って防ぎ……と、目まぐるしい空中戦が繰り広げられた。

 

 最早ミレイユには、その速度について行けるだけの反応速度で魔術を制御できない。

 見ている事しか出来ない歯痒さを感じながら、何か出来る事はないかと探していると、旋回した時の遠心力を利用して投げ捨てられた。

 

「――行け!」

 

 それ一言で全てを理解できる筈もない。だが、やる事は既に決まっている。

 空中を横向きに飛びながら、ミレイユは周囲の状況を観察した。

 

 ミレイユが投げ捨てられた方向は『地均し』に対してであり、そしてレンズ付近を目掛けた事である事も分かる。

 その射出速度は人を殺せるだけのものだが、ミレイユならこの程度、どうとでも対処するという、ある種の信頼感からやった事だろう。

 

 いや、と思い直す。

 ミレイユがレンズ付近に直撃して、その考えを改めた。

 速度に違わぬ衝撃が地肌に走り、ミレイユが蹴り付けた部分を中心として、小さなクレーターが出来上がる。

 

「ばっ、……か、野郎……ッ! 私を使って物理耐性を計るな……!」

 

 足の底から膝、そして背骨に掛けて、痺れや痛みと共に寒気に似た怖気が走る。

 衝撃を完全に殺し切れず、ダメージがミレイユの身体にも返って来たのだ。

 

 ミレイユの制御技術に難あり、と分かっていたオミカゲ様なら、その程度の事は理解できても良かっただろうに。

 痛みとオミカゲ様の所業に悪態を吐きながら、突き刺さった地面から足を抜く。

 地というより壁なので、剣を突き刺し直して滑落するのを防いだ。

 

 あの状況では、投げて着地させるのが一番効率の良い方法だったのだろうが、もう少し労われ、と思わずにはいられない。

 だが、それより問題なのは、ここからどうするか、という事だった。

 

 何しろ、今のミレイユには一本や二本しか召喚剣を作り出せない。

 それでどうやって有効打に変えるか、と頭を捻る。

 その時、ミレイユを呼ぶ声と共に剣が飛んで来て、程近い場所にそれが突き刺さる。

 視線を移して確認すると、それはオミカゲ様が作った召喚剣に違いなかった。

 



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真の敵 その3

 その召喚剣の中には、魔術が封入されていると分かる魔力の揺らぎが見える。

 しかし、先程の作戦では、外縁部の縁に差し込むという話だった筈だ。

 

 だが、刺さった剣は全く違う方向にあって、何をしたいのか、何をさせたいのか見失い、それで更に首を捻る事になった。

 足の痛みは既に引いていたが、今度は逆に胸の痛みが増し始めた。

 そんな中で難しい事を考えるのは相当なストレスで、声を荒らげて問い質したくなる。

 

 事前に綿密な打ち合わせが出来る状況で無かったとしても、どうして欲しいか、何が狙いか分かり易くやってくれ、と八つ当たりしたい気持ちが沸き上がった。

 とはいえ、ここで直接訊いてやろうとしても、声はそもそも聞こえないだろう。

 幾分残った冷静な部分でその様に考えていると、オミカゲ様の二本目が傍に突き刺さった。

 

 それは更に外縁部から遠かったが、ミレイユからは近い。

 ――狙いが外れているだけか?

 

 ふと、そんな事を思ってしまう。

 オミカゲ様は今も光線の猛攻を凌いで、上下左右と移動が忙しい。

 回避するのに急制動をかけつつ、全方位からやってくる攻撃には防壁で防ぎながら、それでも遠くへ逃げて距離を取ろうとしない。

 

 ――自ら、囮役を買って出ているのか。

 そう気付いて見てみると、オミカゲ様の動きは、より派手に動いて敵の注意をミレイユから逸しているように感じられた。

 

 時折、隙を突いて召喚剣を投げ飛ばしてくるが、余裕のある体勢で投げられていないのが原因だろう。

 狙いが大きく逸れてしまうのも当然といえる。

 そして、囮役だけでなく剣の召喚役も兼ねているのは、ミレイユの身体を気遣ってのものか。

 

 そう思っている間に、三本目の剣が突き刺さって、疑念が確信に変わった。

 ならば、ミレイユのやる事は一つだ。

 

 一度大きく息を吸って呼吸を整えると、鋭く息を吐いて壁を蹴る。

 握っていた剣の柄を支点に身体を持ち上げ、柄の上に足を乗せると、それを踏み台にして跳んだ。

 

 オミカゲ様の投げた剣を掴み、回収がてら次の剣へ更に跳ぶ。

 そうして両手に剣を握ってレンズの外縁部に到着すると、地肌との境い目に剣を突き刺した。

 

 しかし、突き刺しただけでは十分と言えない事は、既に承知している。

 封入された魔術を最大限発揮するには、深く刺し込んでやらねばならなかった。

 アヴェリンがやったように強く叩き付ける事も一つの方法だが、ミレイユに同じ真似は出来ない。

 

 どうするべきか、と悩んでいる間に、オミカゲ様の召喚剣が飛んで来た。

 狙いが大きく逸れようとしているので、念動力を使って空中で掴み取り、それを手元に引き寄せる。

 

 いったい何本、投げ付けて来るつもりか知らないが、目標の数にはまだまだ足りないだろう。

 封入剣の威力がどうであれ、レンズのサイズに対して剣が小さすぎる。バスケットボールに対する爪楊枝みたいなものだ。

 

 仮に同時爆破させても、レンズに直接傷を付ける事は出来ないだろう。

 しかし、このレンズが機械的な役割を持っているからには、エネルギーを伝達させる管の様なものがあっても可笑しくない。

 それを破壊できても無力化は叶うだろうし、仮にそこまでは無理でも、地肌を削り、中を露出させられれば破壊の目も見えてくる。

 

 そして、その為に何がしたいか――。

 オミカゲ様は自分自身だ。その思考回路は良く似ている。だから、何をしたいか――するつもりか、すぐに見当が付いた。

 

 封入された魔術で指向性のある爆轟を起こし、爆切するつもりなのだ。

 その為には連鎖的爆発が必要で、たかだか数本の召喚剣では全く足りない。

 

 更に敵の光線を避けながらの投擲だ。数を揃える事も簡単では無いとすぐに分かる。

 ミレイユもまた、剣の作成に協力する必要があるだろう。

 胸を押さえながら苦い表情で顔を歪ませていると、そこへ更なる剣が投げ飛ばされて来た。

 

 今度は一本ではなく、三本、五本、と急激に数を増やして地肌に突き刺さる。

 とはいえ、やはりその場所はレンズ外縁部から大きくズレていた。

 

「こっちの考えも、お見通しか……!」

 

 ミレイユに読めるなら、オミカゲ様からも読めるのは道理だった。

 直接ミレイユに触れて、魔力の乱れ、制御状態を察していたオミカゲ様なら、ミレイユがどれだけ無理を許されるかも理解していただろう。

 

 念動力、剣の召喚程度の低級魔術なら負担は少ない。

 しかし、封入となると高等技術だ。そこに込める魔術も問題になる。

 だから、数を揃える役目は任せろ、と表明したのが、つまり先程の連続投擲なのだろう。

 

 そうとなれば、まずは手元の封入剣を、奥まで押し込んでやらねばならない。

 ――力業では無理というなら、小手先の技術でどうにかするか。

 

 いつもやって来た事、そして、得意でやって来た事だ。

 ミレイユは剣の柄を念動力で掴み、手指を鉤爪の様に大きく開く。そして掌を向けて、時計回りに捻り込むように回転させた。

 

 別にそうする必要は無いのだが、思い浮かんだイメージを形にするには、実際に動かしてみる方が実現させ易い。

 そしてイメージと動作に念動力も連動するように回転し、ミレイユが更に捻り込むようにして手を突き出すと、やはり念動力も同じ――そしてより激しい動きを見せた。

 

 封入剣は高速回転しながら地肌の中へ潜り込み、目に見えない奥深くまで埋没していく。

 予想通りの結果に満足して、左手に持っていた剣を少し離れた場所に突き刺す。

 

「魔力の消費は最小限、これなら何とかなりそうだ……」

 

 口に出して言ったのは、自分に言い聞かせる為だ。

 消費は確かに少ないが、それだけでも幾らか、息の乱れが出て来ている。

 

 概算として、最低でも五十本は埋め込まねばならないだろうし、『地均し』がオミカゲ様を追いかけて動く所為で揺れもする。

 時折、光線も打ち出されるので、その間近にいる身としては、その衝撃と光量で動きが止まってしまう。

 

 その間は、しがみ付いている事しか出来ない。

 ミレイユのやってる事を知られると、先程の様に張り手を見舞われるだろう。

 それを思えば悠長にやっている暇は無いのだが、こういう場合、楽観的になるのが成功の秘訣だ。

 

「……やってやるさ」

 

 今度は口の中で転がすような、小さな声で発する。

 ミレイユも大変だが、それより更に大変なのは、間違いなくオミカゲ様だ。

 

 敵の注意を一身に受け止めながら、召喚剣を射出する事は、決して誰もが出来る事ではない。

 そのような時に、泣き言を垂れる様な真似は許されなかった。

 

 ミレイユは二本目も手早く終わらせると、程よく離れた場所にある封入剣を念動力で回収していく。

 そうして移動と回収を繰り返しながら、剣の埋め込み作業を続けていった。

 

 回数をこなせば最適化も進むもので、三十を超える辺りではすっかり手慣れた。

 その埋め込む手付きはまるで、職人のようだった。

 そうして、埋め込み数が六十を数えた時、ようやくレンズの外周を一回りし終わった。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」

 

 やってる事はオミカゲ様と比べ物にならないとはいえ、それでも負担は激しい。

 振り落とされないよう、ピッケルの役割で残す召喚剣は必要だから、それを維持しておかねばならないのも、また大きな負担だった。

 

「ともあれ……、はぁッ……、準備は、整った……!」

 

 オミカゲ様へと目を向けると、こちらの様子は逐一確認していたらしく、よくやったとでも言うように手を挙げた。

 その間にも攻撃を避け続けていたが、しかし決して余裕があるようには見えない。

 

 攻撃を受けた神御衣は裾が破れて焼けているし、穴が空いている場所も多い。

 躱し切れない攻撃は防御壁で守っていた筈だが、それでも手傷は負っていた。

 オミカゲ様もさっさと逃げ出したいところだろうが、ミレイユの脱出という問題も残っている。

 

 だが、光線を掻い潜って回収しに来いとは言えないし、単に離脱するだけなら落下した方が早い。

 とはいえ、敵の足元に着地するのは、ふとした拍子に踏まれようものなら、逃げ出せるかどうか分からない。

 なるべくなら、取りたくない手段だった。

 

 ――とすれば。

 ミレイユは上空を見上げる。下が嫌なら上しかない。

 幸いと言って良いのか、上空に射出される魔術なら持っている。その後の回収はオミカゲ様任せとなるし、ならなかったとしても、風に流されてどこかに落着するだけだ。

 

 どちらにしても、そう酷い事にはならない。

 ミレイユは一応、何をするつもりかオミカゲ様に知らせようと、指を一本立てて上を示す。

 

 オミカゲ様は攻撃を避けながら時折こちらを見ていたが、それだけで果たして伝わったかどうか……。

 だが、とりあえず目視はされたと思うので、魔術を行使して直上へと飛び上がった。

 

「――ぐぅッ!?」

 

 一度体験した事と言えど、前回とでは身体への負担が大きく違う。

 射出速度は凄まじく、掛かる重力もそれだけ大きい。疲弊して、ボロボロの身体には相当堪えた。

 使う事そのものともかく、使った後の負担まで考えられなかったのは、完全な失敗だった。

 

 だが、その場から逃れたミレイユを見て、準備が終了した事、起爆体勢が整った事は伝わったようだ。

 それまで挑発するかの様な小刻みな回避は止め、大きく旋回する様に逃げていく。

 螺旋を描くように上昇しつつ、オミカゲ様が掌を『地均し』に向けたのが視界に入った。

 

 そして一瞬あとに握り込み、次いでレンズ外縁部から連鎖爆発が巻き起こる。

 それは閃光を伴う派手な爆発ではなかったが、しかし内部で起こった爆轟は、間違いなく『地均し』を内側からの破壊を起こした。

 

 反時計回りで順次に、そして五秒と経たずに全てが起爆すると、『地均し』は胸を抱えるように腕を回して動きを止める。

 レンズ周辺からごっそりと地肌を奪われた『地均し』は、その爆発の衝撃で倒れるかに思えた。

 

「ざまぁみろ……!」

 

 しかし、傾き始めた『地均し』は、不自然なまでに動きを止める。

 まるで宙から一本、糸でも引いて、持ち上げられているかのようだ。

 

 倒れてしまえば神宮や奥宮の建物にも被害は免れないから、誰か何かをしたのだろうか。

 そうは思ったが、オミカゲ様でさえあの大質量を受け止めるのは不可能だ。

 

 では、誰が――。

 では、どうやって――。

 

 そう考えて、直後に閃くものがある。

 『地均し』が使える権能は、他にも様々ある筈なのだ。

 そして、八神の中には『不動』の権能を持つ者がいた。

 

 そうであるなら、納得するしかない。

 権能であれば、むしろ納得できるというものだ。

 直前の、胸を覆うかのような腕の動きも、つまりそういう事だろう。

 

 ミレイユの直上射出も、それを見守っている内に終わりを告げ、重力に捕まり落下を始めようとしていた。

 オミカゲ様も追い付こうと飛んで来ていたが、ミレイユが落下し始めたのを見て、待ち構える事にしたようだ。

 

 そう思った直後、オミカゲ様の顔が驚愕に染まったのを見て、違うと悟った。

 『地均し』へ目を向ければ、その上半身がしっかりとこちらに向けられている。

 

 ただし地肌を大幅に削られた『地均し』は、レンズの位置がズレてしまい、視線が外側を向く斜視の様な形になっている。

 見つめる先はオミカゲ様で、手を伸ばそうとした体勢のまま、今はピクリとも動かない。

 単に待ち構えていると見るには不自然な格好をしていて、それで驚愕した表情の、本当の意味を知った。

 

「お前も、権能で……!」

 

 『不動』を掛けられ、動けなくさせられているのだ。

 オミカゲ様は逃げる事も出来ず、ミレイユも落下する事しか出来ず、『地均し』が悠長に体勢を立て直すのを見守る事しか出来ない。

 

 そしてついに、『地均し』から光線が解き放たれる。

 無防備な二人に対して複数の光線が交差する様に飛んで来た。

 



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真の敵 その4

「く、ぐぅぅ……ッ!?」

 

 光線を撃つ度、レンズが跳ねて目標を定められていない。

 固定されていた外縁部をごっそり無くした為、出力の高い攻撃に『地均し』自身が耐えられないのだ。

 

 顔は上空に向けられていた為、大幅に光線がズレたとしても、その被害に遭う人や建物が無かった事だけは幸いだった。

 しかし、それならばと小さく細い光線を、小刻みに撃ち込んでくる。

 

 ミレイユよりもオミカゲ様を狙い撃ちにした攻撃を、何とか守れないかと手を伸ばしす。

 しかし、防壁を作ろうにも距離があり過ぎ、その光線がオミカゲ様を貫く方が速かった。

 直前になって動けるようになったオミカゲ様だったが、回避しようとしても時すでに遅く、そのうち数本の光線に貫かれてしまう。

 

「オミカゲッ!!」

 

 叫んだものの、伸ばす手は絶望的に遠く、念動力も届かない。

 血を流しながら落ちていくオミカゲ様を見ているしかなく、何も出来なかった事を悔やんだ。

 

 だが、直前に躱そうとしていたのは見えた。それぐらいの身動きが取れたなら、致命傷ぐらいは避けられただろう。

 神とは頑丈なものだし、治癒術も使えるから、そう簡単に死にはしない。

 

 とはいえ、安穏と構えている訳にはいかなかった。

 『地均し』は追撃として、力なく落ちていくオミカゲ様へ光線を放った後、レンズの向きをミレイユへと変えている。

 

 威力の低い光線が放たれ、使う度に微細な震動でレンズが跳ねた。

 その所為で正確な狙いは付けられていないのだが、曲線を描いて追尾してくる光線だから、距離があれば命中させようと迫って来る。

 

「躱したいが――ッ!」

 

 飛べないミレイユが出来る抵抗といえば、防御壁を展開するくらいしかない。

 それぞれが違う軌道で迫り来る光線は、まるで泡立て器の形状に良く似ていた。

 元より躱せる手段など多くないが、その全てを受け切るとなれば、魔力の消費も馬鹿にならない。

 

「地面の上なら、まだしも方法はあったが……!」

 

 落下中の身だからこそ、躱せる手段が極めて限定される。

 一つ光線が迫り、それを受け止め弾いてやれば、その威力で身体が横に跳ねた。

 更に一つ、また一つと攻撃を受け止める度、ミレイユの身体が乱回転する。

 

 天地も左右分からぬ有様で、これ以上馬鹿正直に攻撃を受けていたら、間違いなく対応出来なくなるだろう。

 その前に、光線の包囲網から抜け出す必要があった。

 

 ――直上に飛ぶしか無いか。

 空中で軌道を変えられる手段といえば、ミレイユにはその飛行術しかない。

 今や直上がどこかも分からないから、使う事で状況を整理できるという目論見もあった。

 

 ただし問題もあって、地上から更に遠退いてしまえば、対抗する手段も遠退いてしまう。

 アウトレンジで一方的に攻撃されては、ミレイユには反撃も出来ない。

 身動きの取れない空中というのが如何にも拙く、防戦一方にさせられてしまうのだ。

 

 躱す事が結果として不利になるなら、取るべき選択ではなかった。

 ミレイユの中に生まれた一瞬の逡巡――。

 その隙を掻い潜るようにして、複数の光線がミレイユの直上から迫って来た。

 

「――しまった!!」

 

 湾曲して来る攻撃だから、死角を突いてくる事は想定済みの筈だった。

 だが、慣れない空中戦、乱回転する身体、威力のある光線に対抗する為、一方向に作った防壁――。

 それらが悪く噛み合い、ミレイユの対応が一瞬遅れた。

 

「ぐ、ぐぁ……!」

 

 一発は肩の表面を抉り、もう一発は腹部を掠めた。

 更なる追撃を受ける前に防壁の向きを変え、光線を受け止める。

 だが、その威力は強く、一発で防壁に罅が入った。これまでの光線とは威力が違う。

 

「拙い……ッ!」

 

 ミレイユも魔力を振り絞って防御力を高めた時、横から迫る光線が見えて、顔を顰めて奥歯を強く噛んだ。

 ――どちらか一方は躱せない。

 ――ならば!

 

 ミレイユは防壁そのものを自ら蹴りつけ、真後ろへ跳んだ。

 その方向が上なのか下なのか、それすら考える余裕はない。

 

 自らの脚力で、防壁に入った罅が拡大し、砕ける様を見つめながら後方へ跳んだ。

 そうして光線から逃げつつ、新たに防壁を展開しようと制御を始める。

 ミレイユからすると遅すぎる制御の果て、ようやく前面に壁が生まれ、防御壁は僅差で二発の光線を防いだ。

 

 今の攻撃は防げたが、先程受けた傷の箇所は燃えるように熱い。

 そのうえ自分の立ち位置を未だ判断し切れておらず、ひどく混乱させられていた。

 そして、痛みを痛いと認識するより早く、更なる光線の追撃がミレイユを襲う。

 

 一条ずつではなく、追尾して来る事で束になろうとしている光線がミレイユの防壁へ迫り、到達する頃には今までよりも遥かに太い攻撃となって直撃した。

 

「ぐっ、お……重いッ!」

 

 支え切れない――そう思った直後、光線は防壁を貫いた。

 引き攣った顔をさせて、せめて直撃は避けようと防膜を前面に集中させる。

 そして光線が身体に接触した瞬間、身体を大きく捻って躱そうと試みた。

 

 ミレイユの魔力耐性なら、防膜を一極集中させる事で、一瞬の接触ならば耐えられる筈だ。

 

 高速回転する事で、上手く弾かれ直撃を避ける――。

 出来るかどうかは賭けだった。そもそも防膜で防ぎ切れず、貫かれてしまう可能性とてある。

 

 ミレイユは致命の重傷を負うだろう。身体の半分、それで削られるかもしれない。

 だが、やるしかなかった。

 

「ぐ、ぐぅぅぅ……ッ!」

 

 防壁の一部を念動力で掴み、そこを起点に回転させる。

 接触を感じるかどうか、その一瞬を狙っての高速回転だった。

 

 バチィッ、と耳を弾く様な音が聞こえ、腹部がごっそりと消えた感触を覚える。

 だが、ミレイユの狙い通り、光線で弾き飛ばされる事には成功した。

 

 まるで弾丸の様に飛んだミレイユは、自分がどこに向かって飛んでいるかも分からぬまま、そっと下腹部へ目を向ける。

 

 最悪の事態を想定したものの、赤く血に染まっていただけで、表皮を持っていかれるだけで済んでいた。

 あの状況を考えれば、十分軽傷といえる損傷だった。

 

 傷の具合が分かれば現金なもので、気分も軽くなって来る。

 ミレイユが弾れた速度は凄まじいものらしく、光線すらも追って来れていない。キーンというジェット音が、ミレイユの耳にも聞こえていた。

 

 空中を飛んでいる間は、ミレイユも待つ事しか出来ない。

 せめて掴める場所でもなければ、速度を落とす手段すらないのだ。

 

 それでミレイユは傷の治療をしようと腹部に手に当てていたのだが、ふと頭上に目を向けて、自分が市街地へ突貫する直前だと気付いた。

 

「拙い……ッ!」

 

 一体どこに飛ばされていたものか、四十五度より浅い角度で落ちていたらしく、建物はすぐ目前までやって来ていた。

 防壁を張ろうものなら、それに潰されて殺してしまう者も出て来るだろう。

 ミレイユの出来る事は、なるべく直撃する面積を小さくして、ミレイユという弾丸に当たる者が出ないよう、祈るだけだった。

 

 いや、神宮周辺は避難警報が出ている筈だ。人は居ないと期待しても良い筈……。

 ともあれ、高い建物がないと言われていても、五階建てのビル程度はあるものだ。

 

 ミレイユはそこへ頭から突っ込み、ガラスを割り、壁を砕き、部屋を突っ切り、またビルの外へ飛び出して行く。

 オフィスビルとして使われていたらしいその部屋は、砲弾が通過したかのような無惨な破壊痕が残された。

 

 散らばった書類、破壊されたパソコン、そして応接室の調度品やソファーなど、惨憺たる有様にさせてしまった。

 

 それだけ色々巻き込んで通過したというのに、そのかいも無くミレイユの勢いは全く衰えていない。

 そこから更に二つのビルを巻き込んで、その内一つに人がいるのを見つけ驚愕した。

 

 ――十割の避難は無理だと分かっているが……!

 何故いるんだ、と理不尽な怒りが湧き上がってくる。

 そして、一人見かけたとなれば、更なる人数がいるだろう、と予想しなければならなくなかった。

 

 これまで通過したビルに、たまたま人が居なかっただけなのか、それとも多くの人が残っていて、偶然人がいないビルを通過しただけだったのか。

 単なる偶然であるなら、悠長に止まるのを待っていられない。

 

 ミレイユは何か掴めないかと片腕を広げたが、コンクリートを消し飛ばすだけで止まる助けにならなかった。

 むしろ被害を拡大させるだけになっていて、申し訳なさの方が募る。

 

 丁度また、ビルの側面を通過しようとしている、と気付いて手を伸ばす。

 指を広げてビル壁を掴み、それで減速しようとしたのだが、四本分の爪痕を残しただけで、何の助けにもならない。

 

「コンクリートを脆いと思う日が来るとは……ッ!」

 

 マナを伴わない物体に、マナを持つ者を害する事は出来ない。

 だから、ミレイユもビルを何棟貫通していようと、痛みは全く感じていなかった。

 

 しかし、害せない事はともかく、減速に対して全く効果的でないのは困りものだ。

 これでは大量の破壊を残す、悪魔の砲弾のように見られてしまう。

 

 結局、ミレイユは数々のビルと民家を貫通し、最後はアスファルトを削り噴煙を巻き上げながら、それでようやく動きを止めた。

 大量の砂埃と瓦礫を巻き上げ、ミレイユはそれに咳き込みながら立ち上がろうとする。

 

「ごほっ、えほっ! ……まっ、たく……!」

 

 だが、魔力を多大に使ったミレイユの身体は、余りに鈍重で自由に動いてはくれなかった。

 膝が笑って転んでしまい、尻もちを付いて倒れる。辛うじて肘を立てての体勢を維持できたが、それだけでも相当な苦労を強いられる。

 

 すぐにでも神宮に戻りたいし、『地均し』の対処も急がなければならないが、今は到底無理そうだ。

 その上この身体は、失った魔力を生成しようと、更なる痛みも与えてくる。

 

 実際の状態以上に、身体が与える痛みは大きい。

 汗を垂らして息も荒く、顔を歪めて魔力の回復に専念していると、そこに足音が聞こえて来た。

 

 もうもうと吹き上がっていた砂埃も風に攫われて消えていくと、足音の正体も見えてくる。

 そこに居たのは、一般人の二人組に見えた。

 今時風の若者で、姿形、立ち振舞いからしても戦闘経験があるとは思えない。

 

 更に言うならこの二人は、戦闘には一切関りのない、単なるカップルの様にしか見えなかった。

 この騒ぎを見て、何が落ちて来たのか確認しに来た野次馬みたいなものなのだろう。

 だが、それでミレイユは理解した。

 

 ――避難勧告は、ろくに機能していない。

 もしかすると、強制避難させるような強い勧告ではなく、あくまで警告程度のものしか発令されなかったのかもしれなかった。

 

「……何してるんだ、本庁は……! ゴホッ!」

「え、人……? 人がいるの?」

「巻き込まれたのか? 怪我……してる?」

 

 二人は恐る恐る、という風に近付いてくる。

 どこか面白がるような、警戒心も薄く、砂埃の中に隠れたものを探そうとしているだ。

 

 何かが降ってくるにしろ、砲弾とか現実的なものを想像していただけに、その正体が人とは全く想像していなかったのだろう。

 だがそれは、今は非常に煩わしい。

 

 被害を出さないように戦っていようと、近くに人がいて被害を出さずにいられる筈がない。

 怖いもの見たさで近付くより、砲弾が爆発するかも、ぐらいの警戒心で逃げていれば良いものを……。

 

 ミレイユは、それでも近付いて来ようとする二人に、怒りにも似た表情で睨み付けた。

 



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真の敵 その5

 その二人からは好奇心と警戒心、それらを綯い交ぜにしつつ、怖いもの見たさでいる近付いているのだと分かった。

 平和ボケしているが故だろう。危険が身近にあると考えていない。

 あるとしても、オミカゲ様が万難を排してくれると信じている。

 

 だから、何が危険かも分からず、落ちて来たミレイユにも近付いて来る。

 ――安心や安全を、求めるままに与えるのも問題だ。

 

 ミレイユは苦々しく思いながら、立ち上がろうと腰を上げた。しかし、力が入らず膝が砕けて、そのまま落ちてしまう。

 自由にならない身体を、忌々しく思いながら懐から取り出した水薬を口に含む。

 効果が出るのまで時間が掛かる事は分かっていても、今は苛立ちが募り、思わず苦悶の声が漏れた。

 

「……やっぱり、人だよ。ほら!」

「おい、マジか……」

 

 馬鹿が、と吐き出してやりたかったが、声を出すのも億劫だった。

 肘を突いて上体を起こそうとするが、それすらも辛い。

 だが『地均し』の状況が分からない現状、いつまでも横になっている訳にもいかなかった。

 

 反撃を見せないミレイユと、落ちたオミカゲ様へ、いつ追撃があってもおかしくない。

 一般人に被害は出したくない、と思いつつ、何が危険かも分からず出て来た一般人など放っておけ、と思う心で鬩ぎ合う。

 

 危険から身を遠ざける最低限の努力をせずして、危険から守ってやる事は出来ない。

 だが、結界内に押し留められなかった事も、ミレイユ達の落ち度であるのは事実だった。

 それを思えば、勝手にしろとばかりも言えない。

 

 砂埃も晴れ、ミレイユからも二人の顔がハッキリと見えるようになり、そして目が合った。

 二人からは驚愕した目で見られる事になり、とりわけ男の方が恐縮した顔で背筋を正す。

 

「お、オミカゲ様!? ……じゃあ、本当に!?」

「じゃあ、って何よ? 大体、オミカゲ様のワケないじゃ……」

「――馬鹿お前、知らねぇのか! オミカゲ様の鬼退治、なんで知らねぇんだ。有名な話だろ!」

 

 ミレイユはそれが民間の中で、どれほど有名な逸話なのか知らないが、アキラの口からも聞いた事ある話ではある。

 もしかしたら、熱心な信者ほど、それが正しいと思い込んでいるのかもしれない。

 

「でも、髪の長さも色も違うけど……?」

「お前ほんと馬鹿だな! じゃあ、普通の人間が、こんなコトなってて無事だと思うのか!?」

 

 男の方が手を広げて惨状を示す。

 ミレイユが落下した地点からアスファルトは長らく削られ、更に深々と土まで露出している。

 そこに怪我をしつつも五体満足な人間がいるというのは、確かに異常という他ない。

 

 だが、ミレイユとしてはそんな事に感動するより、まず逃げろと言いたかった。

 髪の事を指摘され、いつもの癖で帽子のつばを撮もうとして、頭の上に何も乗っていない事に気付いた。

 

 あの空中戦のどこかで、あるいは落下した時の衝撃で飛んで行ってしまったらしい。

 ミレイユが震える息を吐いて、少しでも体調を戻そうとしていると、何を誤解したものか、男が深く頭を下げた。

 

「申し訳ありません、オミカゲ様! こいつ何も知らない奴で……!」

「……あぁ」

 

 返す言葉もなく――何と返して良いか分からず、加えて身体の変調と痛みから、思わずぶっきらぼうな返事になった。

 それを見た男は、ミレイユが不愉快を示したと受け取ったらしい。

 恐縮そうに頭を下げていた男が、隣の女性の頭を無理やり掴んで一緒になって頭を下げさせた。

 

「ほら、お前も頭を下げるんだよ! 頭が高いんだ!」

「分かったから! 頭やめて!」

 

 何やら痴話喧嘩が始まりそうな気配を感じ、思わず呆れて息を吐く。

 黙っていたままだと、何が始まるか分かったものではない。

 

 こちらから何か言い付けでもしないと、逃げようという発想すらしないだろう。

 だから、素直に逃げろと命令しようと思ったのだが、それより一つ気になる事を聞こうと思った。

 

「お前達……、何でここにいる?」

「は……、えーと……?」

「避難勧告は……、はぁっ……、受けなかったのか?」

「いや、ありました……けど。でも、神宮にあんなの出たら、何かと思います……し」

 

 神宮か本庁は、仕事をするだけはしたらしい。

 男は咎められたと思ったのか、言葉を尻すぼみに小さくさせていく。

 危険と言われ、逃げろと勧告されようと、素直に動く者ばかりではない。

 

 特に一般人からすると、人型をした巨大な何かが突如として出現したのを目撃したのだ。

 あるいは、もっと醜悪な化け物なら、率先して逃げたかもしれない。

 だが、あれは何だ、と足を止める者が出て来る事は避けられない。

 

 それもまた分からない話ではないが、あの攻防を見たなら逃げろ、と吐き捨てずにはいられなかった。

 それとも、遠目からでは光が点滅しているぐらいにしか見えていなかったのだろうか。

 

 ――有り得る話だ、とミレイユは思い直す。

 市街地に爆撃でも落ちていれば逃げ出していたのだろうが、幸か不幸か、攻撃は神宮上空内でのみ留まっていた。

 

 ミレイユが思い悩んでいる間に、男の方が意を決したように声を上げる。

 

「そ、それに! 神宮に何か起きてて、オミカゲ様が戦ってるなら、俺らだけ逃げられねぇっスから!」

「そんな……」

 

 そんな理由でか、という言葉は、咄嗟に飲み込んだ。

 彼らからすると、信仰の対象が攻撃されている事は、単に逃げ出す事を許さないらしい。

 それだけ慕われているオミカゲ様だから、本庁から勧告があろうと、簡単に逃げ出せるものではないのかもしれない。

 

「何が出来るワケじゃないですけど、近くで祈りを捧げようとか、自分だけ逃げられねぇって奴、やっぱ多いですから!」

「そうだな……、はぁ……っ! 神にとって……、祈りは、力になる……」

「やっぱり、そうなんスね! 俺、祈りますよ! 皆、皆祈ってますから!」

 

 それだけ強い信仰心を向けられているなら、撃墜されたように見えたオミカゲ様は、きっと無事だろう。

 危機だからこそ、オミカゲ様を置いて逃げられない、という信仰心には頭が下がるような思いだが、当のオミカゲ様からすると素直に逃げてくれと言いたいだろう。

 

「まだ……、周辺には……、人が残ってるのか……?」

「多分……、そうです。素直に移動した人も居ると思うんスけど……」

 

 ミレイユは眉根に深く皺を寄せて瞑目する。

 神宮から発生した脅威とは、『地均し』だけではない。魔物に関しても依然、脅威として残っている。

 

 アキラが援軍を予想以上に連れて来てくれたお陰で持ち返していたし、封殺する事も可能そうに思えた。

 だが、魔物の中には逃げ出そうとする輩もいるかもしれない。

 

 そして四方八方に逃げられた時、神宮の壁など全く役に立たないだろう。

 あの場に揃った隊士達は精鋭中の精鋭だ。組織的な対処、軍略的優位の対処で魔物は倒していけるだろう。

 だが、魔物はいつまで排出されるのか、という問題もあった。

 

 一時的優位は取れても、疲労はいつまでも誤魔化せない。

 戦闘の長期化は、いつかその綻びを生むだろう。

 

 ――だったら……!

 ミレイユもまた、いつまでも休んでいる訳にはいかない。

 

 事前に飲んでいた水薬が、徐々に魔力を回復させてくれているが、取り込めるマナが近くにない所為で、そのぶん回復も遅い。

 これならば、神宮内に戻る事を優先した方が良さそうだった。

 

 幾らか休めて、立ち上がれるだけの力は回復した。

 だから、身体中に力を込めて立ち上がろうとしたのだが、その時こちらを見ている女性が、その手に持った物を向けている事に気が付いた。

 それはミレイユもよく知るスマホで、そのレンズがこちらを向いている。

 

「……それ、撮ってるのか?」

「え? ――あ、馬鹿お前! 何やってんだ! 不敬だぞ!」

 

 男の方が、咄嗟にその手から力ずくでスマホを奪い、頭を下げる。

 女は不満そうな顔で男を睨んでいたが、ミレイユとしては、咎めたくて聞いた訳でなかった。

 

「お前たちは、あれか……? 配信者とか、そういうのをやってるのか。……有名か?」

「え、いえっ! あのー、やっている事はやってますけど……、いや意外です。オミカゲ様もそういうの知ってるんスね」

「まぁな……。だが、……スマホは持たせて貰えてないな」

 

 その時のオミカゲ様の顔を思い出し、思わず苦い笑みを浮かべた。

 ミレイユの笑みをどう解釈したものだが、不憫そうな表情を向けて来て、眉根を寄せたまま首を振る。

 

「そんな事はいいんだ、配信できるというなら……あぁ、録画を拡散でも良いが。とにかく、逃げるよう伝えてやりたい」

「い、いいんですか……! オミカゲ様が、勝手にカメラ映ったりしたら、拙いんじゃ……!?」

「緊急事態だ……、言ってる場合か……。お前、名前は」

「う、お……、海沢、博光です! オミカゲ様!」

 

 今にも居感涙に咽び泣きそうになりながら、必死に堪えつつ返答する。

 信者からすると、その名を直接、誰何される事は誉れなのかもしれない。だが、その感動に付き合う余裕も、今のミレイユになかった。

 

「そうか、ヒロミツ。……お前に命じる。少しでも多く、はぁ……っ、周辺から人を逃がせ」

「う、う……ッ! でも、そんなこと言われても、俺にそんな影響とか、ないですし……!」

「お前一人で出来る分でいい。逃げろと誰かに伝えろ、私に言われたと喧伝しろ。走れない子供がいたらおぶってやれ。……お前に出来る事だけ、すればいい」

「うぅ……っ! は、はい……っ! 逃げろと皆に伝えます! きちんと伝えます!」

 

 何度も上下に首を振り、手に握り締めたスマホも上下に揺れる。

 それに釣られるように、ミレイユもゆっくりと顔を上下させた。

 

「うん。じゃあ、――く……っ、はぁ、はぁ……!」

「だ、大丈夫ですか! 何か、水とか飲みますか……!」

 

 ミレイユは息を整えながら、首を横に振る。

 水分の補給も必要かもしれないが、足りないものは水ではなかった。何より内側から無理に生成されるマナの所為で発する痛みが原因だ。

 好意だけは受け取って、差し出してきたペットボトルもやんわりと押し返す。

 

「それより、伝えてくれ。――いいか?」

「え、えぇ。これまでの撮ってた奴でも十分だとは思いますけど……いえ! 勿論異論なんて! ――は、はい、どうぞ!」

 

 スマホを向けて来たので、そのレンズに向けて、なるべく平静な姿を装って口を開いた。

 

「……今、神宮周辺は大変危険な状況にある。その勧告も届いた筈だ。それでも傍を離れたくないという気持ち、有り難く思う。……だが、何より大事に思うのは人命だ。……だから、逃げろ。これを見て聞いた、神宮近くにいる者は、直ちに避難を開始するように。規律を守り、隣の者を助ける事を忘れるな。……私に、お前たちを守らせてくれ」

 

 思い付くままにオミカゲ様が言いそうな事を口に出してみたが、本人の口調は真似られていないし、威厳も表に出ていないだろう。

 偽物だ、悪戯の撮影だと思われても、それで避難してくれる者が、一人でも出ればと思っての事だった。

 

 言いたい事は終わりだ、と視線を送れば、ヒロミツはスマホを掲げてレンズで姿を捉えたまま、何やら操作しながら頷いた。

 両目には涙が浮かんで、堪え切れずにこぼれ落ちていく。

 

 それを横目で見ながら、ミレイユは今更ようやく立ち上がった。

 身体は重く、そして痛みは激しさを増すばかりだが、最低限、動けるようにはなった。

 無理やりマナを捻出されるようとも、痛みと交換で戦えるようになると思えば、今だけは我慢できた。

 

「お前たちも、急げよ。いつまで安全か分からない」

「お、オミカゲ様! ありがとうございます! 俺……、俺……!」

「いいさ、……こちらの落ち度だ。だが、ただ逃げるだけじゃなく、隣の誰かも助けてやれ」

「はい……はいっ! わ、分かりました!」

 

 もはや滂沱の涙を流して頷く博光に、ミレイユは一つ頷いて足を踏み出す。

 ふらつくかと思ったが、予想以上に力が戻っていて、更に力を込めても震える心配もなかった。

 

 ミレイユは更に一歩踏み出し、膝を深く沈み込めると、高く跳躍して民家を追い越す。

 尻もちを付いた二人が呆然と見上げるのを肩越しで見つつ、更に屋根の一つを蹴って神宮へと急いだ。

 



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真の敵 その6

 ミレイユが神宮に戻った時、社殿や参道はおろか、どこにも人は残っていなかった。

 流石にそこは、よくよく言い含める事が出来ていたらしく、巫女などの神職以外の姿は見かけない。

 

 無人の参道を一直線に走り抜け、神宮の塀を飛び越える。

 そこでは結希乃が指揮する元、隊士やエルフ、冒険者などを規律よく運用して、魔物の封じ込めを完成させていた。

 

 今では隊士達より魔物の数の方が少ないぐらいで、出現と同時に攻撃を仕掛け討伐しているようだ。

 後衛がまず魔術で法撃し、そこに前衛が突撃する。撃滅すると左右へ散開して帰投し、治癒や支援を受けているようだが、注目するのは前衛の厚さで、三段構えになっている。

 

 一列目が攻撃に向かっている時、二列目が後衛を守る役目を担っており、三列目は身体を休めるというローテーションが組まれていた。

 それは後衛にも同じ事が言え、必ず同じ者が毎回法撃している訳ではないようだ。

 防壁を築いて敵を逃さないだけでなく、拡がって攻撃できないよう、攻め口も作って窄めている。

 上手く陣形を組めているようだった。

 

 とはいえ、怪我の頻度や重軽傷によっても違いは出るようで、それを結希乃が上手く指示を出して、破綻なく運用しているらしい。

 そして、攻めきれなくなれば、アヴェリンやユミルという強力な札で穴埋めし、その間に回復期間を多く持つようにしている。

 

 よくもまぁ、と舌を巻く思いで、その運用を通り過ぎざま感心しながら見ていた。

 即興で種類も性格も違う部隊を、一つに纏めるだけでなく、運用までさせてみた手腕には、素直に称賛する気持ちが湧き上がる。

 

 だがそれも、オミカゲ様が事前に作っていた翻訳魔術があってこそだろう。

 そうでなければ、どれだけ有能な指示も、異世界人には伝わる事はなかった。

 烏合の衆とまで言わないが、相当な苦労が今も続いていただろう事は、想像に難くない。

 

 それを考えると、思わぬところでオミカゲ様のファインプレーに助けられた、と言ったところだろう。

 結希乃に伝える機会があれば、いつか必ず称えようと思いつつ、オミカゲ様本人からの言葉の方が喜びそうだ、と苦笑する。

 

 アヴェリン達には労いの視線を向けて、更に奥へと走り続けた。

 そして、そこでは今更確認するまでもなく、オミカゲ様と『地均し』が空中戦を行っていた。

 

 オミカゲ様もやられるばかりでなく、反撃も十分に行っていたらしく、斜視の様に傾いていただけのレンズが、今は突出して零れ落ちようとしている。

 

 もはや狙いを付けて光線を撃つ事も出来ず、反撃で放たれる光線も、大きく外曲がりで飛んで来るものだから、回避に十分な時間をもって対応できていた。

 その隙を突いて、更に一撃加えようとしているのだから、オミカゲ様有利に動いているように思える。

 

 だが、レンズは未だに健在だし、レンズと繋がっているケーブルらしきものは破壊できず仕舞いでもある。分かり易い弱点があって、オミカゲ様が見逃す筈もない。

 当然、攻撃を加えただろうに今も健在という事なら、……つまり、そういう事なのだろう。

 

 ミレイユは、自分がどう動くべきか、接近しながら考える。

 あのレンズと繋がる管を切断できるなら、それは確かに有効だ。

 

 攻撃手段を一つ奪う事になるし、あれで敵を捕捉するような動きも見せていた。

 ならば、その目を奪う事は、間違いなく有効な筈なのだ。

 

 だが、それを自分に出来るのか、とも考えてしまう。

 オミカゲ様が出来なかった事だ。万全な状態だったならまだしも、と弱気な気持ちが去来する。

 ――だが、考えるよりまずやってみろの精神か……!

 

 管を露出させる事までは出来たものの、まだ攻撃できていないだけの可能性はある。

 オミカゲ様が注意を率先して逸しているというのなら、その隙にミレイユが攻撃してみれば良いだろう。

 

 ミレイユは外回りに『地均し』へと近付き、方向を見定めながら『飛行術』を行使する。

 その直後、直上へと射出され、『地均し』の肩口近くまで到達した時点で、斧を召喚して地肌に突き刺した。

 

 使い慣れている剣より、この場合、刃を食い込ませて支点に動ける方が役に立つ。

 落下の勢いで肩の側面を縦に引き割いたが、その巨大さから比べると糸くずが付いた様なものだ。

 地肌を蹴りつけてそのまま肩に登ると、巨体を横断する様に走り続けて、レンズの直上へとやって来た。

 

 そこまで来れば、オミカゲ様にもミレイユの姿が発見される。

 安堵の息を吐いたようにも見え、そして更に注意を向けようと、縦横無尽に空を翔けた。

 

 レンズもその動きを追おうとするが、やはり管に繋がって落ちた状態では、その視点を上手く合わせる事が出来ないらしい。

 忙しなく動かしては、ろくに目標を定める事なく光線を放つ。

 

 湾曲し、追尾するからこそ出来る芸当だろうが、他に攻撃手段を持つなら、とっくにそれを使用している状況だろう。

 それでも頑なに使わないところを見ると、他の手段はないと見るべきか。

 

 そう考えつつ、やはり疑問には感じる。

 ――本当にそれだけか?

 

 あの光線に対しても、違和感は拭えない。

 ゴーレムに搭載された、単なる一機能――攻撃手段と考えていた。

 レンズから射出されている事からも、そう推察するのが当然だ。極太の光線を使った時には、排熱も行っていた。

 

 だから違和感は今までずっと、鳴りを潜めていたのだ。

 だが、管が露出したことで疑念は増した。管の線は細い。それこそ、眼球に対する視神経ほどの太さしかない。

 

 それだけではエネルギーの転送にも支障が出るのではないか……。

 そう思ってしまうが、魔術や魔力というエネルギーは、単に物理的側面からでは理解できないところがある。

 そこから思考を回し、疑念の一部が何らかの形を作ろうとしたのだが、結局上手く形にならぬまま、霧散して消えていく。

 

「考えるより、まず奪ってやる方が先決か……!」

 

 いよいよ考えるのが億劫になった、というのもある。

 光線はオミカゲ様を優先的に狙うし、これまで攻撃が市街地へ向かわなかったのは、その攻撃が向かないよう努力していたオミカゲ様のお陰でもある。

 

 時に躱せそうな攻撃でも、防壁を用いて防いでいたのは、単にそのまま避けると市街地への被害を免れなかったからだろう。

 そして、偶然が重なった結果でもある。だが、幸運はいつまでも続かない。外れた攻撃で、いつ被害が出てもおかしくない筈だ。

 

 それならば、とにかく攻撃してみる事が先決だった。

 切断できれば良し、出来なければ次を考える。

 

「まずは試すか……ッ!」

 

 ミレイユはレンズの直上から飛び降りながら、管を目掛けて斧を振り下ろした。

 しかし、硬質な音を立てて、斧は弾かれる。

 それに合わせ、レンズが裏返るようにしてギョロリと動いた。

 

 ――見つかった!

 斧を引き上げてみれば、そこには薄っすらと傷が入っている。傷というより線でしかない僅かなものだが、損傷が可能という事は分かった。

 

 頑丈だ。それは間違いない。

 非常に頑丈だが、それさえ分かれば、やりようはある。

 ミレイユは斧のコーティングを外し、半召喚された斧を管に突き刺す。

 

 そして透過した斧へ、再びその輪郭に這わせると、魔力に質量を与える変性を行う。

 それだけで、バキリという音と共にあっさりと割れた。

 同じ手順を三度も繰り返せば、管は綺麗に切断され、混乱を示すようにレンズは乱回転しながら落ちていく。

 

 管からは血にも似た、どろりとした液体が漏れると共に、火花が散って放電し始める。

 管そのものが上下に揺れて暴れるので、落下して逃げつつ地肌を蹴って距離を取った。

 落ちたレンズはやはり頑丈で、割れることなく地面に埋まり、それ以降はピクリとも動かない。

 

 空中を落下しながらオミカゲ様を空に探すと、すかさずミレイユの身体を受け止め、空中で制止し持ち上げてくれた。

 

「ようやってくれた」

「あぁ……。だが、どうして逃げ回っていた? 切断できるなら、やれていただろうに」

「やりたくとも、距離を縮められなんだ。召喚剣は投擲するだけでは、到底同じ事は出来ぬしな」

「……それもそうだ」

 

 一度手から離れた召喚剣のコーティングを、外す事は可能でも、逆は無理だ。

 半召喚された武器に手を添えて、自らの魔力を沿わせ纏わせる作業が必要になる。

 それを遠隔的に行うことは不可能で、そして近付けないから、あぁして接近できる機会を伺っていた、という事なのだろう。

 

 無理をすれば可能だった、という気もするが――。

 その疑問を口にする前に、オミカゲ様が口を開いた。

 

「あまり無理をするとな、金縛りが来るのでな。どうも、その金縛りと光線は同時に使えぬようであったが、あまり接近した状態で受けると光線を躱しきれぬ。防御も間に合わぬタイミングも、ままあったでな……。攻め倦ねて、ほとほと参っていたところよ」

「あぁ、なるほど……。そういう理由か。だが、良い囮役をしてくれたお陰で、こっちは難なく近付けた」

 

 横にある顔に頷きながら、ミレイユはまた思う。

 オミカゲ様の言う金縛りとは、権能が持つ不動の能力だろう。それが光線と同時に使われなかったのは、ミレイユもまた見ていた事だ。

 

 これが光線と同時に使用されなかった、というのはミレイユの違和感に拍車を掛けた。

 単なる装置の一部なら、あれは権能とは無関係だ。同時に使える方がむしろ道理だろう。

 

 しかし、使えないというのなら、逆説的にどちらも権能だった、という事にならないか。

 どちらも同じ権能だから、同時に使えなかっただけ、というなら辻褄が合う。

 だが、権能を使う時には、腹部の辺りを腕で隠す動作が事前にあった。

 

 排熱していた時のように、そこで何かが開いて権能装置みたいなものを露出していたのではないか、と予想していたのだが……違ったのだろうか。

 長く沈黙が続いたせいか、オミカゲ様から訝しげな視線が向けられる。

 

「どうした、何を考えておる」

「いや、権能は例のポーズが無ければ使えないと思っていた。色々と辻褄が合わなくて、困っていたところだ」

「それが分からぬ所で困った事にはならなかろうが、そもそも必要なく使っておったろう」

「なに……?」

「権能はあくまで、装置かそれに類似したもので利用されていたもの。……そうなのであろう?」

 

 言わんとする事が理解できず、それでもミレイユはとりあえず頷く。

 

「そうだ。そして、同時には使えない」

「それは可笑しい。ならば、孔はどう説明する。あれも権能で作られたものではないのか」

 

 そう指摘されて、ハッとする。

 ――そうだ。

 まず始めに、孔の作成があった。そして、その時点で腹部を覆う動きをしていない。

 

 だが、穴の数を増やしたり、不動を使った時は、その動きをしていた筈だ。

 その差異は、一体何だったのだろう。

 

「……だが、そう。あの光線も権能、そう考えた事もあったのではないか?」

「有り得ない話ではないと思っていた。……仮にそうなら、射術と自在の権能を、何度となく使っていた事になる……」

「であれば、同時に使える権能の数が限られている、と見るべきであろうな」

「じゃあ……、あのレンズは……射術の力を増幅する為、か……? 使う為に必須という訳でなく」

「実際に『眼』としての役割があったのも、間違いない部分であろうな。だが、そうであるなら、腹部を覆う動きは……、それとは関係のない別の何かだったと見るべき……か」

 

 それが事実なら、権能とは別の何かをする為に、とった行動と考えられるだろう。

 ――そうした時、脳裏に一つ、閃くものがあった。

 

 最初から睨んでいた事だ。

 『地均し』がゴーレムとして自律した考えを持っておらず、それを操作している奴がいるのなら――。

 

 権能の利用もまた、最初から中に居た者が行い、操作していたと考える事が出来る。

 ――ならば、そうであるなら。

 腹部を覆う、あの動作を見せたまさにその時、奴らがその姿を見せていたのかもしれない。

 

「大神が、あそこにいるのか……!」

 



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真の敵 その7

 ミレイユは視線鋭く、その腹部を睨み付けた。

 オミカゲ様もそれに続いて、目を鋭く細める。

 同じように睨む目付きであるものの、二人の視線に含まれた意味は異なった。

 

 ミレイユは憎々しく睨み付けるものだが、オミカゲ様は品定め、見定めるかのような目付きだ。その違いは、事の真相に当たりが付いているかどうか、という視点の違いでもある。

 ミレイユにとっても、オミカゲ様にとっても大神は憎むべき敵だった。

 

 しかし、ミレイユにとっての大神とは最初の四柱を指し、オミカゲ様にとっては十二柱を指す言葉だろう。ごく簡単な説明をオミカゲ様にしたものの、それで全て理解できた筈もない。

 

 今は一時の膠着状態、『地均し』も主に行っていた攻撃手段を失った事もあって、随分大人しい。

 新たな攻撃手段を模索しているのか、あるいは準備している最中なのか不明だが、とりあえず動きは見せていなかった。

 だからという理由もあって、相談するには好機と、オミカゲ様から訝しげな声で呟かれた。

 

「大神が、あの中におるという話は聞いておったが……具体的なところが分からぬ。敵であるのは、間違いないのであろうが」

「今はそれ以上、知る必要もないと思うがな。とはいえ、対話が出来る相手でもない。『地均し』という箱の中に引き籠もって、何をするつもりなのかなんて、今更知った事か」

「無論、これだけの事をして来た相手、敵と断じて間違いない。だが、殴り掛かられた身としては、殴られた理由ぐらいは知っておきたいものよ」

 

 それもまた当然の欲求だろうが、大神に対話するつもりなど無いだろう。

 肉体を失って魂だけの状態、という予測が正しいのなら、そもそも会話する口を持たない、という推測も出来る。

 

 会話する気があろうとも出来ないだけ、と見る方が正しいのかもしれない。

 だとすれば、やはり己の我を通すつもりなら、ミレイユやオミカゲ様を攻撃し、排除しようとする。

 そう考えるからこそ、『地均し』の見せる沈黙が、また不気味だった。

 

「私が知った限り……そして、そこから推測する限り、大した理由じゃない。限りあるものを永遠に留める……。簡単に言えば、そういう事だろう」

「その言葉だけ聞くと、そう悪く思えぬものだが……。そこまでそなたが悪意滾らせるというのなら、ろくでもない考えであるようだな」

 

 オミカゲ様はいっそ皮肉たらしく笑ったが、ミレイユは大真面目に頷く。

 

「つまり、神らしい神、という事なんだろうさ。まず己の確固たる存続、保持、それだけを求めてる。この世に永遠はなく、神でさえ、星でさえ、宇宙でさえも、永遠でない……その真理の外側を求めた結果が、今なんだろう」

「それがそなたの推測か? その外側に出た結果、こうして攻撃をしていると?」

「最も邪魔なのがお前――というか、先住神の存在なんだろうな。だから、優先的に攻撃していたんだと思う。新たな門出、再出発、再始動……言い方はどうでも良いが、新天地でまた神をやるつもりなんだ。だからまず、出現するや否や、お前が狙われていた」

 

 その時の事を思い返してか、数秒の沈黙が降りた。

 眉根を寄せ、鼻の頭に小さく皺を寄せて息を吐く。そこには納得とは程遠い、苦慮の顔があった。

 

「だが、それでは長く続いていた孔と、鬼の氾濫が繋がらぬ。そなたを回収するという、大目標が関係ない事になってしまう」

「そうだろうな。何故なら、私の回収とは関係ない。ループさせたい思惑とは別に、真の大神はデイアートの外側へ行く事こそを目的としていた」

「何故……」

「言ったろう。永遠に続く世界など無いからだ。終わろうとしていた世界を見限り、別世界へ飛ぶ。そしてまた新たに神として降臨し、ここからやり直す。()()の目的は、まさにそれだ」

 

 元より苦慮に歪んでいたオミカゲ様の表情が、更に歪む。

 

「では、最初から……。そなたと共にあってさえ、『地均し』の侵攻は防ぎ切れぬと諦め、逃がす事にしたが……。そも、アレに連れ戻す意志などなかったのか……」

「なかったろうが、残ったところで叩き潰される結末までは変わらなかったろうな。連れ戻したいと思っているのは、孔の向こう側にいた神々だ。『地均し』も孔の向こう側から来た存在には違いないが、目的は全く別だ」

「ならば何故、最後の局面で『地均し』を……」

 

 オミカゲ様の中では未だに敵が十二柱で、そして統率の取れた集まりで、そして一つの目標に邁進していると思っているから、ミレイユの言葉一つで繋がらない。

 ミレイユが当初、その様に勘違いしていたように、全てが纏まり計算づくで動いている訳ではないのだ。

 

 計算……謀略だけは大したものだが、全てが掌の上、計画通りに運行していたものでもなかった。

 特に『地均し』については、正確に望む結果を得られると考えていなかった筈だ。

 ()()()()()を狙った結果だし、神々に匹敵するミレイユを相手するには、他に都合の良い手駒がなかった結果とも言える。

 

「実際に送り込んだ神から聞いた話だが、『地均し』は言う事を聞かない兵器だったんだそうだ。勝手に動き出そうとする……だから、不動の権能を持つ神によって身動きを封じ、孔だけ作らせていたらしい。元より孔を繋げる神がいたから、そこを上手く利用するのは難しくなかった。そして、都合が良かったから続けさせていた事で、最終的には厄介払いのつもりで捨てたと聞いている」

「厄介払い……、言う事を聞かず……、孔だけ開く……。最初から『地均し』は、デイアートの外へ転移する事だけを考えていた……?」

 

 ミレイユはうっそりと頷く。

 ラウアイクスは間違いなく『地均し』を利用していたが、破壊出来ない事も良く心得ていた。そこに潜む者を察知しつつ、手を出す事が出来なかった。

 

 権能を使って封じていたからには、常に願力をそちらに割かなくてはならない。

 願力不足に頭を悩ませていた神々としては、無駄に監禁し続けるより、捨て去りたいと思うのは自然な事だったろう。

 

 しかし、単に捨て去るよりも、使い潰してから捨てる事に決めた。

 その結果が、自動的に孔を作らせる事であり、最終的にミレイユを追い詰める役目を負う兵器としての立場だった。

 

 しかし大神は、幾ら時間が掛かろうと、外の世界に出られるなら構わなかった節がある。

 大神もまた多くの画策をし、最終的には世界の外へ出られるだけの準備をしていた。

 

 神の死骸などが、その最たるものだろう。

 世界を汚染し破滅させる促進剤として、嫌がらせの様に残された。

 大神としては悠々と、『地均し』という揺り籠の中で、新天地へ転移する予定だったに違いない。

 

「世界の存続より己の存在……。新天地でも同じ事を繰り返すというなら、やはり使い捨てて、また世界を渡るんだろう。八神も……人の命を塵程も考慮しない奴らばかりだったが、この大神はそれより遥かにタチが悪い」

「……なるほど、己を至上と考える傲慢な輩らしい考えよ。事実とあらば捨て置けぬ。そして現在(いま)、この世に仇なす存在として、……やはり捨て置けぬ」

 

 互いに目を合わさず頷き合った時、話し声が響いた。

 男性でもあり、女性でもあり、老齢でもあり、幼齢でもあるようだった。それが周囲から、迫るように聞こえて来る。

 

 内容自体は意味不明で、四人の声が同時に発せられている所為もあって、なおさら聞き取りづらい。

 四つの声が同時に互いの意見をぶつけているだけで、議論という内容でもない気がした。

 

 声の発生と同時に、吹き出す不快な気配がある。

 それは口では言い表せない、かつて感じた事のない気配だった。それに顔を顰めていると、かつてインギェムが、一度知ったら決して忘れない気配、と言っていた事を思い出した。

 この事を言っているのだとしたら、なるほど確かに忘れられそうもない。

 

 それで互いに目を見合わせ、それからミレイユが左側上下、オミカゲ様が右側上下を警戒して視線を彷徨わせたが、何者の姿もない。

 ならば、と見据えた先――『地均し』の腹部が、パズルを解すかの様に複雑な動きを見せて開いた。その動きは、『遺物』のトレイが出て来る動きに良く似ていて、それを見れば制作者が同じであると察せられる。

 

 腹部が開いて出て来た物は、一見して用途不明の物体に見えた。

 見たままを口にするなら、それは銀色の皿だった。そして球形の何かが四つ、その皿の上に乗っている。

 

 白い半透明状の球は既視感があり、つい最近、目にしたものだと感じた。

 そう思ってから、ハッとした。

 

 これは神々が死亡した時、魂となって飛んで行ったものと良く似ているのだ。

 では、この更に乗った球体が、大神の魂という事になるのだろう。良く見れば、球体は何かの台座の上に鎮座しているようにも見えた。

 

 立派な刻み文様は目を奪われるものの、魔術的効果を発揮している様には見えず、単なる飾りであるのは明白だ。

 あるいは、魔術的ではなく神力的効果なのかもしれないが、それはここからでは分からない。

 だが魂の固定、あるいはそれに類似した効果が、台座にあると考えて良い気がする。

 

 ミレイユの中でそう結論付けていると、球体の一つが明滅して声が響いた。

 それは明朗な上に美声、思わず聞き惚れる音だったが、そこに感情の一切は汲み取れなかった。

 

「まず、見事なものだと褒め称えよう。全ての外に身を置きながら、よくぞそこまで理解した」

「そこまで考える頭があるなら、己等の無力も理解できましょう。抵抗には、如何ほど意味も有りはせぬ」

 

 また別の球体が明滅し、今度は女性の声がする。

 この声もまた透き通った美声で、まるでハープを奏でたかのように錯覚する程だったが、やはり感情は伺えない。

 そこへ老齢の声と、幼齢の声、更に二つの声が加わって、ミレイユ達に投降を促す発言が下された。

 

「我らの存在、我らの意義を理解し、疾く道を開けるが良い。力量の差、よもや理解できぬ筈もあるまいて」

「じがいするなら、そのあいだ、まってあげてもいいわ。でも、そたいはよいできよ。すてるぐらいならほしいわ」

「新たな肉体は造らねばと思っていた。……ふむ、それならば当面の内、有効活用してやるのも悪くないか」

 

 ミレイユの機嫌は急降下し、悪意と殺意が混ざって獣の様な目つきで睨み付ける事になった。

 これが大神というのなら、心底からヘドが出そうになる。

 どこまでも傲慢、何もかも下に見て、好き勝手が許されると思っている。

 

 ドーワは自分にとっては優しい神だった、と言っていたし、ルヴァイルは信用できる神と思いたかったようだ。

 しかし、ミレイユとしては、彼らの一言を聞いただけで既に滅する存在と決めた。

 

 ――あれは害にしかならない。

 再びオミカゲ様と顔を見合わせると、そこには同じ事を思っていたと分かる顰めっ面が浮いていた。

 容赦の必要なしという、無言の首肯が返って来て、ミレイユも心の中で大いに同意した。

 



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真の敵 その8

「良くも大口叩けたものだな。大体、自害だと? ……余裕のつもりか? おめおめと姿を見せて、言う事がそれか」

「姿……まぁ、姿を見せたからには、降参のつもりではなかったか? 自害するというなら好きにせよ。それぐらいは待つのも吝かではない」

 

 ミレイユもオミカゲ様も、呆れ切った口調で煽るように言う。

 ドーワの話では、大神は感情を持たないという話だった。

 挑発で何かしら引き出せるものはないかと思っての事だったが、返って来た答えに感情はなく、また気分を害した様子も感じられなかった。

 

「姿を見せたのは、我らなりの誠意だ。良くやったと、褒め言葉ぐらい与えてやらねば余りに無体」

「気遣いと言い換えても良いでしょう。幾度も表面を開いたり閉じたりと、忙しなく観察する目を向けるぐらいならば、こうして姿を晒した方が早い」

 

 では、幾度も腹を覆うように動かしていたのは、こちらの姿を直接目にしたかったから、という子供じみた理由からだったらしい。

 

 レンズを通して姿は映っていた筈だが、それだけでは不十分だったのだろうか。

 カメラ越しより直接見たい、という気持ちを否定する訳ではないが、どうにも片手落ちという気がする。

 

「勝利の確信を得て、こうして姿を見せたと? 逆じゃないのか。お前たちの攻撃手段を――少なくとも、その一つを奪ったばかりだぞ」

「勝利を前に舌舐めずりか? 神というのは、とんとそういう事が好きらしい」

 

 オミカゲ様の一言で、ミレイユはふと違和感を覚えて表情を怪訝に顰める。

 ラウアイクス達の奸計では、その舌舐めずりも一つの謀略として機能していた。驕りの演出であると同時に、真の狙いを逸らす為という理由もあった。

 

 神らしい神と認めるラウアイクスがやっていた事なら、ここにいる大神とて単なる驕りを見せる為にやった事とは思えない。

 そこには裏の理屈があるのではないか、という疑念が拭えなかった。

 

「攻撃手段……あれ一つ失ったところで何程の事があろうか。我らがどれだけ権能を有しておるか、理解してない筈もなかろうて」

「あれは、あそびどうぐなのよ。つゆはらいにつかうだけ。ほんきになれば、そんなのかんけいないもの」

 

 忌々しい、と胸中で毒付きながら円盤を見つめた。

 それぞれの球体は、それぞれが話す時に明滅するので、一応個別の意識は持っている様だ。

 それぞれに上下の関係はなく、同列の存在らしいが、権能を使う役目を持つなど、分担などを設けているのかもしれない。

 

 潰すにしても、優先順位を決めたい。

 一柱が担当してるのか、そもそも分担しているのか。しているとしたら、誰がどの権能を動かすのか、それが分かってから攻撃するのが理想だ。

 

 オミカゲ様から、逸るなよ、という小さな呟きが聞こえる。

 攻撃したい気持ちは、ミレイユよりもオミカゲ様の方が断然強い筈だ。

 

 不意打ちで一撃加える事は可能だろうし、それで一つを落とせたからといって、他も都合よく攻撃できるとは思えない。

 可能というなら、権能の担当、あるいは防御担当を崩した時だ。

 

 そして、今までの会話において、それを特定できる内容は見つからなかった。

 ここまで余裕を見せるのは、単に攻撃を受けて呆気なく撃沈するとは思っていないからだろう。

 傲慢ではなく、そう考えるだけの根拠があるのだ。

 

 権能を使った防御を既に展開しているとか、既に対策はしてある筈で、それは生半な手段では突破できない。

 これまで見せたミレイユ達の攻撃手段で、突破は不可能と見たから、こうして姿を見せている。

 だが、それが本当に驕りでないか否かは、攻撃してみるまで分からない。

 

 傲慢を見せている現在は、情報を得るチャンスだ。

 だから歯痒い思いをしつつ、そうと知られないよう気を遣いながら、ミレイユは言葉を重ねる。

 

「神として、未練や後悔はない訳か。かつて創造した世界、そして生命(いのち)だろう。終焉に対抗するでも、維持するでもなく、見捨てて去るのが神の務めか?」

「永遠は無い……、それが真理であるからな。星の生命にも終わりがある、それに付き合うしかないというなら……正しく抗うべきだろう」

「しかし、我々は有限の先を行く手段を手に入れたかもしれない。永遠への到達は不可能でも、途絶える事なく、永遠を追いかけ続けられるなら、それは永遠である事にも等しい。可能というなら、試すべきではありませんか」

「……その為に、全てを捨て石にするのか」

 

 我知らず、低い声が漏れた。

 神の傲慢というものを、改めて知った気がする。

 

 傲慢というなら、小神もまたそうだった。ラウアイクスを始めとして、自己保存、自己存続という利己の為に、地上の命を蔑ろにしていた。

 

 そしてこの大神は、その小神と世界を全て蔑ろにし、捨て去る事で次の世界へ旅立つ事にした。

 己の命は己のもの、という理屈は間違いでない。

 己の命より大事なものはない、と主張するのも、やはり間違いでない。

 

 だがそれは、他に責任を持たない一個人が主張できるもので、創造した世界に対して責任を持つ神が言うべき台詞ではない。

 ミレイユが憤然と気持ちを押し込めていると、老齢の声が泰然とした口調で言う。

 

「捨てる神あれば、拾う神ありとも言う。それで良いではないか」

「では、用済みとなった残りの小神が、その拾う神か? 馬鹿な事を……。瘴気を残しておいて、良くそんな事が言えたな。対応を誤れば、世界の終焉は程なく訪れていた。お前たちがした事は、井戸に毒を撒いたに等しい行為だ」

「うらぎったのだから、とうぜんでしょ。かみにはむかうことは、ゆるされないことなのよ」

「そもそも処分される身からすると、反撃しようとするのは当然だろうが」

 

 ミレイユが吐き捨てるように言うと、若い男の声が否定の声を上げた。

 

「言ったばかりだろう。拾う神……、その為に残してやった者共だ。我らは去り、あれらが残る。元よりそういうつもりであった」

「では……、反逆なんてしなくても、命を奪われる事は無かったのか」

「然り。どうせ消え去る世界、捨て去る世界だ。準備が整ったとなれば、そこに残る悉くなど興味がない。大人しくしていれば、大人しく去っただけであろうにな」

 

 ラウアイクスの早合点……あるいは、見切りが早すぎた、とでも言うべきか。

 大神も理由を事細かに説明しなかったから起きた事かもしれないが、それが事態を複雑化させた原因とも言える。

 しかし、今はもしも、を考えたところで始まらない。

 

 事は既に起こり、そして全ての原因を作った元凶が、目の前にいる。

 その事実は変わらない。

 そして、大神がデイアートを捨て、地球へ侵略しに来た、という事実もまた――。

 

「……どうあれ、お前は別世界へとやって来た。満足か? 努力が実ったと、喜びでもしているか」

「感慨という感情があるのなら、感慨深いとでも言うべきなのだろうな。だが、違う。神として、為すべき事をするだけよ」

「何……?」

 

 思わず聞き返してしまったが、何を言いたいつもりなのか、ミレイユには察しが付いていた。

 そのおぞましい考えを口にするより早く、男の声がそれを言い放つ。

 

「この新しき世界、それを拾ってやると言うのだ。新しき神の降誕、新しき世界に、新しき論理が生まれるのだ。我らの為の、我らの為による世界がな。それには、古きものを一掃してやる必要があり……、お前達は邪魔だ」

「あぁ、そうか。御高説賜り光栄だな。――何が何でもお前らを滅してやる、という気持ちが湧き上がってきた。怒りは力になるのだと、お前たちに教えてやる」

 

 ミレイユが怒気も顕に睨み付けると、オミカゲ様もまた同様に怒りを発する。

 好きな様に喋らせ、情報を抜き取るつもりでいたが、吐き気を催す邪悪な神に、堪えられぬものが滲み出す。

 

 姿を見せたのは余裕の表れで、何をしても無意味と思っているのは確かだろうが、本当に無意味か確かめてやらねばならなかった。

 やってやるか、という視線をオミカゲ様に送ると、憎々しい表情をしつつも、その目の光はまだだ、と伝えていた。

 

 悠長に事を構え過ぎると、対応が送れると思うのだが、オミカゲ様は間違いなくこの世に降臨した神でもある。

 その彼女が堪えるつもりなら、ミレイユだけが突出して暴走する訳にもいかなかった。

 そのオミカゲ様が、平静に――平静になろうと、努力を感じさせる声音で問う。

 

「つまりそれが、お前たちが使っている『地均し』なのか。それで我を滅し、文明を滅し、世界を滅し、新たに一から作り直そうと?」

「然様。新たな神が作る世界に、古きものは不要。適当に()()()から、水源と流動の権能を持って、洗い流すのが良かろうと考えている」

「……さて、満足しましたか」

 

 あまりにも傲慢な老齢の声がした後、女性の声が軽やかに語りかけて来た。

 いずれの声も感情を感じさせないからこそ、傲慢さが輪を掛けて鼻に付く。

 

 ミレイユは今にも殴り付けたい気持ちだったが、横で肩へ手を回すオミカゲ様が強く握ってきた。

 自制を促したつもりなのか、単に力んでしまったのか、判別が付かない。

 そこへ女性の声は続く。

 

「自害を促したのは、面倒を省く為です。惨たらしい死を与えないのは、我らの慈悲。奮戦と推論に対する、我らからの褒賞と言っても宜しいでしょう」

「勝手な事を、よくもそこまで傲慢に言えるもの。死と終焉に目を背けただけの神が、創造神気取りとは片腹痛い。己の終点を見定める事も、認める事も出来ない子供の稚気よ。己の歩みと意義を見定めれば、その死さえ迎え入れられるのだと、知らぬと見える」

「なるほど……」

 

 どこまでも平坦な老齢の声が呟く。

 

「では、もう十分満足しただろう。己の歩みと意義とやらを見定めつつ、ここで死を迎えるが良い」

「せっかくきかいをあげたのに、ばかね。むごたらしく、――しんじゃえ」

 

 その言葉が合図だった。

 オミカゲ様が弾かれたように動き、円盤に向けてミレイユの身体を投げ飛ばす。

 攻撃するなら機先を制す、それが戦術上の基本ではある。とはいえ、他にやり方は無かったのか、と胸中で悪態を吐いた。

 

 事前動作すら殆ど感じさせない瞬速の投げ飛ばしは、大神にとっても十分不意打ちとなったようだ。

 瞬きの間に接近した時、ミレイユの手の中には、既に召喚剣が握られていた。

 

 それを光球に向かって振り抜き、台座に対しても攻撃してみた。

 しかし、どちらに対しても同様に効果は見られない。

 

「――チィッ!」

 

 再度、二度、三度と台座や円盤を斬り付けてみるが、やはり薄い傷すら付けられなかった。

 レンズと繋がっていた管の様に、ただ頑丈なだけではないようだ。

 

 やはり、わざわざ姿を見せたのは、迂闊な余裕というだけではないらしい。

 だが、それは事前に予測できていた事、分かってやった事だ。

 

 即座に離脱しようとしたのだが、そう思うのと裏腹に、身体が金縛りの様に動かない。

 目も口も、指先一本すら自由にならず、何一つ自由にならない事で思い至る。

 ――『不動』の権能!

 

 何一つ自由にならない今、どの神が権能を使ったのか、それを確認する(すべ)がない。

 動きを強制的に止めたというのなら、次に来るのは攻撃だ。

 

 ミレイユの動かせない視点では、どこから攻撃が来るかも分からない。

 やるなら死角からだと思うし、どうやって攻撃するつもりかも不明だが、攻撃に使用できる権能は限られる。

 

 とりわけ、その攻撃を受けた事のある身としては、『磨滅』は絶対に避けたかった。

 あれは単に痛いとか(つら)いではなく、寿命を急激に損なう、ミレイユにとって致死の一撃だ。

 この肉体独自の欠陥から来る弱点とも言え、急激に失われた魔力を再生成しようとする反射行動が、激痛と共に命のロウソクを磨り減らす。

 

 歯を食いしばる事すら出来ず、焦りばかりが募る中、攻撃を待ち構えるしかなかった。

 すると、その直後、大きな掌で身体を包まれるような感覚がした。

 ――神の見えざる手!

 シオルアンがどのように権能を使っていたかは、未だ鮮明に覚えている。

 

 今にも襲い掛かる激痛に、覚悟を決めて待っていると、次の瞬間には大きく後ろへ持ち運ばれた。

 いや、運ばれた、というのは適切でない。

 無理やり後ろへ、強引に引っ張られた、とでもいうものだった。

 

 固まった動きのまま、為すすべもなく事態を見守っていると、唐突に身体の自由が戻って息を吐く。

 そして改めて首を動かすと、オミカゲ様が空中に浮いた状態で、掌をこちらに向けていた。

 

 大きな掌、という感覚は間違いではなかった。

 状況が状況だけに、まず悲観的な想像をしてしまったが、オミカゲ様が黙って見ている筈がない。

 ミレイユもまた良く使う、念動力でその身柄を助けてくれたのだ、とそれでようやく理解した。

 



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真の敵 その9

ささきもり様、誤字報告ありがとうございます!
 


「まったく……ッ!」

 

 オミカゲ様が、ミレイユに――そして敵に対し、何をしようとしたかは明らかだ。

 あの状態で、敵がどういう攻防をするか、見極めようとした。

 

 どの光球が権能を使用するか。使用するとして、同時に使えるものなのか。

 どういう手段を取って迎撃するのか、台座や円盤の防御性能は――。

 それらを一挙に見極めるつもりで、ミレイユを投げ飛ばしたのだ。

 

 有効な手段だったかもしれないが、危機一髪でもあった。

 もう少し労れ、と思うのと同時、ミレイユもオミカゲ様に対しては労る気持ちなど全くないので、お互い様であるかもしれない。

 

 利用できると思えば――最善の行動と思えば、容赦なく使う。

 これが他人であれば絶対やらないと思うが、自分自身に対して行う事なのだ。

 だから互いに対する遠慮など、遥か雲の彼方まで探しても見つからない。

 

 それに、ミレイユは自由に空中を駆ける事は出来ず、全くのお荷物だ。

 直上に射出する事は出来ても、自由な移動は出来ない。

 念動力の魔術でどこかを掴まえて、そこから引き寄せる反動で移動は可能だが、掴む物が何もない空中ではそれも難しい。

 

 今こうして浮いていられるのも、あくまでオミカゲ様から念動力で掴まえられているからだ。

 またいつ投げられるかと思えば落ち着かないが、抱き上げられているより気分的には良い。

 

 だからこの状態に不満はなかった。

 それで、とミレイユはオミカゲ様に問う。

 

「……何か分かったか。こっちは召喚剣で、一切の傷を付けられないと判明したぐらいだ。魔術的アプローチは避けるべきだな」

「そうだろうと思っておった。こちらで分かったのは、担当する権能が違うという事。あるいは、一つの光球が使用できる権能は、同時に一つまで……といったところか」

 

 根拠は、と言いたかったが、それは多くが見えていなかったミレイユにも想像が付く。

 権能を複数使ったにしては、どうにも行動に粗があった。

 動きを強制的に止められる『不動』の権能、それを防ぐ手段が、こちらにないと分かっていた筈だ。

 

 そうであるなら、攻撃するのに間を置き過ぎている。

 拘束と同時、あるいは瞬く程度の間を置いて、次の攻撃をして来て良い筈だった。

 

「あまりに連携が拙い。もっと言うと、下手くそだ。戦闘慣れしていない所為か? 遊びという前提なら分かるが、本気であるなら目を覆いたくなるものだ。……それともまだ、遊びの最中だと思うか?」

「あり得まい。堂々たる処刑宣言をした後で、尚も遊ぶのか?」

 

 感情は伺えないが、自尊心と傲慢さについて、比類ない存在という事は話していて分かった。

 それならば、死ねと言っておいて、猶予を持たせる意味はないだろう。

 

「目標が我とそなた、二つに分かれた後の対応も下手だ。まず、そなたである意味がないのだ。今までそなたが見せて来た攻撃手段を鑑みれば、その攻撃を無力化できるなど、分かっていて然るべき事。円盤に魔術は通じぬのだからな。ならば、権能を持つ我を――何の権能を持つか分からぬ我をこそ、先に仕留めるべきであった」

「それなのに、目先の脅威――武器を持った私を拘束した。あぁ、確かに下手だな」

 

 悠長に睨み合いを続けている、今にしてもそうだ。

 ミレイユとオミカゲ様が相談事をしていると分かっていて、行動を起こして来ない。

 使える権能、有利に状況を動かせる権能を、大神は持っている筈なのに……。

 

 そして、相談しているミレイユ達を再び拘束しようともして来ない。

 これを余裕と見る事は出来なかった。

 

 依然と沈黙を保つ大神だが、一つ一つの指摘を些事と切り捨てているだけだろうか。

 油断を誘う為、誤解をさせる為、そして誤解を膨らませる為、その為の沈黙というなら理解できる。

 ――だが、それは違うと、ミレイユの勘は言っていた。

 

「権能で同時に止められる対象も、一つと考えるべきだろうな。今この瞬間、たかが距離を離した程度で再拘束して来ないのも、それが理由か。片方を自由にする事を恐れている」

「それで一つ権能は消費してしまうより、二人重なっている状態が、再び来ないか狙っているのであろう。拘束と攻撃、一つの光球で一つの権能……。連携が取れない所を見ても、分担制であるのは間違いあるまいな」

「だが、それなら、まだ二つ残ってる。一つ一つの連携が甘くても、四つ同時ならもう少しマシになりそうなものだ」

「なっていない事実を考えれば、それは出来ない、と見るべきであろうよ」

 

 その発言が切っ掛けになったかのようだった。

 二つの光球が明滅し、不穏な気配が迫って来る。

 それは無色透明の気配だったが、一度ならずそれを対峙した経験を持つミレイユからすると、『磨滅』の権能だと察しが付いた。

 

 それが迫り、接触するよりも早く、オミカゲ様が空中を弾けるように飛び上がり、それにつられてミレイユも動く。

 迫りくる気配は感じられたが、こちらの動きについて来られていないようだった。

 それを見ても戦い方、権能の扱い方に、不慣れな事が窺える。

 

 シオルアンなど、もっと巧みな運用を見せていたものだった。

 他人からコピーしただけの能力だ。本人より上手く使える道理もないが、こうも下手だと欺瞞工作を疑いたくなってしまう。

 

 例えば、釣り野伏のような。

 油断を誘い、懐へ飛び込ませる事を理由でやっているのかもしれない。

 そう思いたくなる程、大神が使う権能には問題しか感じられなかった。

 

 大きく距離を離しつつ、周囲を遊会するように飛びながら、オミカゲ様はミレイユに語りかけてくる。

 

「さて、今ので分かった事だが、攻撃役は変わらず一つの光球であるようだ。明滅するのが攻撃の前兆なのか、それとも意識を強く動かした時の反応に過ぎぬのか……。それは分からぬが、権能にも担当というものがあるらしい」

 

「……なるほど? だが、残り二つはまだ沈黙している。迂闊に飛び込むのは止めた方がいいだろうな」

「いや、一つは既に使用中であるからな。残り一つにしても……、防御に回した権能がないとは思えぬ」

「あぁ……、余裕を見せて前に出て来れたのも、単に頑丈な素材だからという理由じゃなかったか。納得できる話だが……、一つは使用中?」

 

 口に出して言ってから、即座に思い付く。

 最初から、『地均し』の行動と共に孔が新たに開き始めたのだ。

 それも当然、権能の使用であるので、孔を閉じない限り、常に同時使用は三つまでという事になる。

 

 そして、一つは常に防御に回しているというのなら、同時使用は二つまでだ。

 その使い方も下手に見せかけているだけでなければ、付け入る隙は多くある。

 

「うむ、孔の使用に割いておる。始めから権能の使用枠は、既に一つ埋まっていた」

「あぁ……」

 

 ストンと腑に落ちて、ミレイユは首肯した。

 確かにいち早く使われた権能であり、そして今も使われ続けている権能でもある。

 

「……しかし、今も孔を継続している理由は分かるか。本体が襲撃を受けているのなら、止めてしまって構わないだろう。当初はともかく、今は完全に封殺されている。続ける意味がない」

「本当に意味がないなら、止めておろうよ。――さっきと同じ理屈だ。続けているのが事実なら、続けるだけの理由があるのだ」

 

 権能を使うのが下手、戦闘慣れしていない――。

 それだけでも十分理由として挙げられると思うが、創造神でもある大神が、そこまで無能とは思いたくない。

 

 そもそも、権能の扱いに対して、疑問に思う事はある。

 それは単に戦術眼がない、という理由だけでは無く、もっと別の部分にある気がした。

 

 大神は策略が出来ない訳でもなく、何なれば四柱で一つの神みたいなものだ。

 相談している気配は先程もあった。三人寄れば……と言う様に、考える知恵はある筈なのだ。

 それなのに、無能と断じて足元を掬われる様な真似などしたくなかった。

 

「思うんだが……。何故やつら、『再生』の権能を使わなかった? 鎧甲を纏っている限り、奴らは無敵に近い存在だ。崩れた、突破されたというなら、再生すれば良い話だ。持久戦となれば、不利になるのはこちらだった」

「……が、してないというなら、つまりそういう事なのであろうよ。――出来ないのだ」

 

 事実としてやっていないのだから、そう思うしかない。

 ミレイユも同時にその事へ思い当たり、そして思い付く事がある。

 かつて、ユミル達と共に、一つの推論を立てた。

 

 『地均し』がゴーレムである以上、その動作にはエネルギーが必要なのは確かな事だろう。

 それは光線にも同じ事が言え、そして権能を装置で実現させている以上、使用するにはエネルギーが必要になるという事だ。

 

 そして、そのエネルギーは鎧甲による魔力の吸収に頼るつもりだった。

 その時にも話したものだ。

 

 あれだけの巨体、まずは魔術で攻撃して様子見をする筈だと。

 そうして、様子見であるつもりがエネルギーの供給となり、敵の利となる事も知らず、吸収させ続ける事になるのだと。

 

 では、あの『地均し』は今――。

 

「エネルギーが殆どない、そう見るべきなんだ。一切の吸収も出来ず、鎧甲を破壊されたのは予想外だったろう。権能がどれも一律で同じ消費とも思えないし……『再生』にはきっと、多大な消費を強いられるんだ」

「……で、あろうな。手詰まりになっているのは、むしろ大神の方だ。だから、余裕を見せ、慈悲を授けると言いつつ、自害を迫った。その様な危険な賭けに出なければならない程、奴らは追い詰められているのやもしれぬ」

 

 大神が姿を見せる少し前、口論の様な話し声が聞こえていた。

 それぞれが話し合うのではなく、同時に四人が言葉をぶつけ合う様な内容で、だから詳細までは分からなかった。

 しかし、余裕があるのなら、もっと穏やかな話し合いで結論を出せただろう。

 

「今もこうして、積極的に攻勢に出ないのも、つまりそれだな。『不動』にしても、距離を離し途端に使用を止めていた。拘束し続ける事、距離の離れた対象を止める事は、消費が激しくなるんだろう。……近くにいる方がやり易い、とインギェムも言っていた。より効力と効率、消耗を考えると、距離を離した相手に使いたくないんだ」

「だから、我らがまた一つに重なるタイミングを狙うのであろうし、少ない消費で収めたいというなら、使う機会も慎重にならざるを得ないのであろうな」

 

 何しろ、大神の狙いはミレイユやオミカゲ様を殺す事だけではない。

 その後には、地面を均し、全てを洗い流して一から世界を作り直す、という大事業が待っている。

 

 この戦闘で全てのエネルギーを使い果たす訳にはいかず、一定以上は絶対に残しておかねばならないのだ。

 ミレイユ達を無視して神宮から離れないのも、孔の維持があるからだろう。

 離れて使うと燃費が悪い。だから、まずはここを片付ける事を優先している。

 

「そして、孔を今も残しているのは……もしかすると、戦士達をその場に縫い留める為か。魔物を次から次へと呼び寄せるているのは、建物の破壊や、生命の間引き狙う尖兵的な役割も持っているからと思っていたが……」

「全く無しとはならずとも、副次的な効果と見るべきであろうな。むしろ戦士達を排除したいと思っているからこそ、孔は残しておるのだろう」

「根競べ、と言う訳か? 確かに、隊士達は戦い通しで疲労は激しい。あまり長くは()たないだろう」

「孔を作るのはともかく、維持だけなら消耗は少なくとも済むのやもしれぬ。そして、消費具合から隊士達の方が崩れるのは早いと見ている……」

「つまり、私達を相手にしていようと、戦士達を攻めるのは止めたくないんだな。むしろ、積極的に排除したい、のか……?」

 

 考える事をそのまま口に出して整理していて、途端に閃くものがあって声を張る。

 

「そうか。まず、武器を持って戦う者を潰したいのか!」

 



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真の敵 その10

 うむ、と大義そうにオミカゲ様は頷いた。

 しかし、全面的に納得はしかねるようで、小さく首を傾ける。

 

「『地均し』の身体も鎧甲が無ければ、やはり物理的攻撃は有効だったから、それ対策と見ても良いが……」

「あの巨体に剣の一撃が有効とは言えない。そもそも、鎧甲を突破される前提を考えなければ、そこまで用意周到に対策しないだろう。では、何が目的だったか、という事になるんだが……」

 

 最初から苦戦を見越していたとは思えない……それが、ミレイユの見解だった。

 大神はマナの無い世界を選んだ上で移動して来た、という推論が正しいなら、そもそも汎ゆる攻撃は意に介さない前提だ。

 

 どれほど鋭い一撃だろうと、マナの含有していない物質はダメージが通らない。

 魔法攻撃を所持していたとしても、やはり鎧甲によって吸収されてしまう。

 そういう鉄壁の守りを得た上で、世界を渡ったつもりだろう。

 

 魔物達は尖兵として使うに都合が良かったにしろ、一掃するなら光線でも良かった筈だ。

 あれだけ連発していたのは、最も燃費が良く、使い勝手も良いという理由があったからだろう。

 

 ――だが、同時に誤算も多かった。

 まずオミカゲ様がいて、その光線を受け止めた。

 

 隊士達も一人の力で張る力は微々たるものだったが、複数人が重ね掛けする事で、何とか防ぐものを作れていた。

 即座に対応されてしまい、有効な一撃とは言えなくなっていた。

 

 簡単に一掃できると思っていた大神からすれば、これらの戦力は全くの想定外だった筈だ。

 最初は多く見せていた極太の光線も、オミカゲ様が完封してからは見ていない。

 

 それが通じないだけの強大な神だ、という認識が、既に生まれていたのだろう。

 そして、マナがあり、理術士がおり、隊士という前衛を預かる戦士達がいた。

 

 その手には例外なく付与された武器さえ握られていたのだ。

 迎撃態勢が整っていた事、それが何より意外だったに違いない。

 

「大神にとっても、多くの例外……予想外の事態だった。だから、もしもを考えずにはいられなくなったんだ」

「一つの手を打つにも臆病になり、慎重を期さずにはいられなくなった、のであろうか……」

「一太刀交えて分かった事として、奴らは戦闘下手だ」

「うむ……。その場しのぎ、場当たり的対処……。先程、そなたを投げ付けた時の対応を見ても、その予想は妥当であろうな」

「では、あの孔や魔物にしても、場当たりに対処した結果、と見るのが妥当なのか?」

 

 うむ、とオミカゲ様はやはり大儀そうに頷き、ふと思い付いて視線を上げた。

 

「孔が必要と最初から考えていたなら、奴が出て来たものが既にあった。なのに、新たに孔を作り、増やしていっておった」

「『地均し』の出現と共に、孔が閉じ始めたのは確認してる。用済みとして、制御を手放したな……。だが、改めて必要だと思った時には遅かった。だから、改めて孔を作り直す必要に迫られた」

「孔の作成に、どれほど消費するか分からぬが、その時点では供給される目論見もあった。実に大盤振る舞いであったな」

 

 ミレイユも頷いて、足元の奮戦にちらりとだけ視線を向けた。

 今は攻守が逆転し、出現する魔物を一方的に打ち倒す展開になっている。

 

 孔からは常に雪崩のように魔物が溢れる訳ではないので、対処できるだけの布陣を構築できた時点で、今では余裕をもって処理できている有様だった。

 

「――しかし、追加で孔を作った時もあったというのに、デイアートからの援軍があった時にはしなかった。その時点で、孔の数を増やさねば逆転されると分かっていただろうに……」

「その時は見えておらんでも、今なお封殺されてる現状は見えておろう。孔を増やさば話になるまい。……が、してこんかった訳だ。隊士達を縫い付けてる現状で満足しておるのか? ……それもまた、有り得る話ではある」

 

 オミカゲ様の指摘は、正鵠を射ている様に感じた。

 その場に縫い止め、自分に攻撃を向けさせない。それで目的を果たしているとしたら――。

 大神は武器を恐れている。

 

「自らに届く、届き得る武器を、傍に寄せたくない。その為に、隊士達を圧殺しようとした」

「光線は防がれておったからな。初手をしくじり、小回りの利く光線も、複数の術士によって届かぬ攻撃となっておった。やりようは他にもあったろうが……別段、魔物を呼び込むのは悪手でもなかったのは事実」

「実際、援軍が無ければ押し切られていたかもしれない。我ら二人が孔の対処に加わってしまえば、『地均し』を自由にさせてしまうから、やはり取れない選択だったしな」

「自らの弱点を自覚するからこそ、先を見越しつつ取った手段だったろうが……。戦術眼の(つたな)さを露呈させただけであったな」

 

 ミレイユは盛大に嘲笑して口元を歪める。

 そうしながら、細く息を吐いて胸を押さえた。

 

 まだ大丈夫、と自分に言い聞かせる。

 もう少し、あと一歩のところまで来ているのだ。

 大神は今なお静観している。

 

 大神が大胆な動きを見せないのは、追いかけようとしても、オミカゲ様に追いつけないと分かったからだ。

 そして、遠距離の攻撃手段を持たないから、ミレイユ達に悠長な話し合いを許す事にもなっている。

 

 忸怩たる思いをしているのは、お互い様だ。

 そして行き着いた結論として、武器攻撃が有効というところまで予想を付けたが、その武器がミレイユの手元にはない。

 

 魔力そのもので攻撃したと言って良い、ミレイユの召喚剣で効果がなかったのなら、属性付与をした武器ではむしろ効果が低いだろう。

 

 ならば普通に召喚した剣を使えば良い、という話になるのだが、一般的に召喚できる剣は弱く脆いのだ。

 鋼より頑丈なのだが、鋼より優れた鉱石というものは溢れているので、どうしても弱い武器という認識を拭えない。

 

 元々ミレイユが半召喚などとして使っているのも、自身の魔力を薄く変性させた方が剛性、柔性ともに優れていたからだ。

 あの円盤が属性を伴わない武器攻撃に弱いとして、ミレイユが単純に召喚した剣では役不足だろうと予想は付く。

 

「……だが、試してみないと分からないか」

「召喚剣を使うくらいなら、我の武器を与えよう」

 

 何、と顔を向けると同時、オミカゲ様の手には、個人空間から取り出したと見られる刀が握られていた。

 白鞘に入れられたもので、飾りなどもないごくシンプルな造りをしている。

 

 しかし、当然柄まで白木で出来ているので、滑りやすく実戦向きにはなっていない。

 そもそも白鞘自体、保存用として刀を収めるものなので、本気で戦うには向かない形態だ。

 

 これを使うのか、という視線を向けると、返答代わりに鞘から抜いて刀を投げてくる。

 それを片手で受け取って、刀身にさっと目を通した。

 

 オミカゲ様が所持する刀だけあって、その出来栄えに文句はない。

 刀の反りや刃先、波紋一つに至るまで、ミレイユをして素晴らしい逸品と分かるが、大事なのは何が付与されているかだ。

 

 直接手に取れば、それにどういう内容か分かるから確認してみたところ、単に鋭さを上げるだけのものらしい。

 属性が付与されていないなら、確かにこの場では有効そうな武器だった。

 武器攻撃が有効か、それを確認するには十分な代物だろう。

 

「……とりあえずやるが、突っ込む役は、私なのか?」

「そも前提として、掴む役がおらねば、そなたは空を動けぬのだから、役割分担としては妥当であろう」

「そうだとしても――」

 

 言い訳とも愚痴ともつかない呟きは、移動の開始と共に無視された。

 先程よりも尚速く接近し、円盤の光球の明滅と共に横へ避ける。

 

 ミレイユは成すがまま連れ動かされるしかなく、ただ激流に身を任せるよう、体勢を維持する事だけ考えた。

 大神もこちらの動く先を予想し、当たりを付け攻撃して来るので、避け方、逃げ方に急制動が掛かる。

 

 時にミレイユを投げ飛ばし、そして途中で掴み直しつつ、空中を縦横無尽に掛けて接近した。

 そうして、射程圏内に捉えた、とミレイユもまた確信に至った時、高速で投げ飛ばされる。

 

 円盤の直上を通る軌道で、通り過ぎざま刀を振るう。

 大きな抵抗を感じ、また刃先が通っていない事を実感しつつ、それでも刀を振り抜いた。

 

 硬質な音が響き、刀が真っ二つに折れる。

 折れた刀身は綺麗に回転しながら、円盤から遠く離れた場所へ落ちて行った。

 

 ミレイユも落下し始めそうになったところで、オミカゲ様が追い付き、再び念動力で掴まえられる。

 大神から大きく円を描きながら離れていくのを確認しながら、ミレイユは折れた刀身に目を這わせていた。

 

「……脆すぎるぞ。もっと頑丈に造れなかったのか」

「あんな使い方をすれば、折れてしまうのが道理であろうよ。そなたはもう少し、刀の扱いを知ってると思ったが」

「知ってはいるが、ボールの様に投げ付けられての振るい方など、経験した事なかったんでね。地に足を付けない状態で、というのは意外に難しいものだぞ」

 

 武器を振るうに辺り、全ての支点は足から始まる。

 力の加減も何もかも、地に足を付けてこそだ。

 

 空を飛ぶようになれば――そして、それに慣れるようになれば、また話は違うのかもしれないが、他人に投げ飛ばされて出来る事は限られる。

 

 内心の憤慨など露知らず、オミカゲ様は大神の周囲を飛びながら、そこへ冷静な声音を放った。

 

「刀は折れてしもうたが、傷は付いた。浅い傷だが、魔力を無効化するのと同じ様にはいかぬらしい」

「では、推論は正しかった? 傷はどれ程だ?」

「ごく浅く……表面を薄く傷付けたに過ぎぬ。……まぁ、頑丈であるな」

「お前の用意した武器も、粗末な物ではなかったが……」

 

 付与されていた内容も、武器としての鋭さを増すもので、それを持ってようやく傷を付けられたのだ。

 そうであれば、他の武器を用意したとて、どれほど意味があるものか分からない。

 

 大神としても、傷付けられる恐れはあった。

 だから警戒し、寄せ付けなくした。それは確かだろう。

 だがそれは、簡単に傷付く事を意味しない。

 

「どうしたものか……」

「まぁ、もう少し試してみるしかあるまいよ。一度で結論を出すには早すぎよう」

 

 そう言うと、新たに刀を取り出して投げ渡すと、またも速度を上げて大神へと接近を試みた。

 今度は単に距離やタイミングを計るだけでなく、魔術も同時に撃ち込んでいる。

 

 ミレイユの所感として、魔術は通じないと思っていたが、そこに間違いや、新たな気付きを得られる可能性もある。

 試すというなら、確かにやっておいて損は無かった。

 

 数々の、それぞれ性質の違う魔術を撃ち込んでやれば、嫌がる素振りを見せる事もあるかもしれない。

 問題があるとするなら、ミレイユと自分、双方の安全を確保しつつ、攻撃しなければならない事か。

 

 それも陽動も兼ねた動きをさせながら、ミレイユを念動力で動かし、魔術も放つという離れ業をやらねばならない。

 それらの制御も簡単ではなく、本来なら発狂するような曲芸をやっているのだが、オミカゲ様の顔には苦慮するものすら見当たらない。

 

 大したものだと思ったが、あれは長年の鉄面皮を無理やり被っているだけだろう。

 本当は相当に参っていると想像が付く。

 

 致命的なミスが出る前に、突破口を見つけてしまいたかった。

 縦横無尽に駆け回り、攻防の駆け引きを全て任せてしまっているミレイユとしては、すぐにでも見つけてやりたいと強く思う。

 

 そして、また一つ大神が決定的な隙を見せた時、ミレイユの身体は豪速となって飛び出した。

 



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叛逆の意思 その1

 更に刀が三本折れ、魔術も粗方撃ち終わっても、結果は然程変わらなかった。

 ミレイユ達は一度大きく距離を取り、再び大神の周囲を警戒しながら飛ぶ。

 オミカゲ様が念動力で掴んでいるのも相変わらずで、そして円盤には、一定以上の距離を離して決して近付かない。

 

 大神の円盤も、ただ黙って待ち受けるだけではなく、それに合わせて動きを変え、ミレイユ達同様に警戒を強くしている事が窺える。

 

 オミカゲ様が見せる大神への警戒は強く、決して油断や慢心は見せなかった。

 一つ一つを堅実に、そして確実に魔術を撃ち込んでいたのだが、その全ては徒労に終わっていた。

 

 ミレイユの剣撃についても似たようなものだ。

 表面に薄く傷は付ける事は出来ても、それと引き換えに刀が折れていた。

 

 最初の様に、一度で折ってしまうような愚は犯していないが、とはいえ結果は散々なものだ。

 刀の種類も付与も変えて、より攻撃的なもの、斬撃が増えるものなど試していたのだが、やはり効果的ではなかった。

 

 魔術に対しても同様で、いずれも効果が見られない。

 だが、完全耐性を持っていると思われるのに、刀傷が増えていくにつれ、魔術を嫌がる素振りを見せる回数が増えてきた。

 

 最初はミレイユかオミカゲ様にのみ向けられていた『神の見えざる手』だが、今では魔術を撃ち落とす為にも使われている。

 本当に無意味なら、無視しても良い筈だった。

 

 だがとりわけ、爆炎に対して『手』を動かすのは、その煙を嫌っての事かもしれない。

 少しでも傷を避けたいなら、確かに煙は邪魔でしかないのだ。

 

 ――とはいえ。

 ミレイユの中には一つ、浮かび上がった疑問があった。

 

「奴らは何故、逃げようとしないんだ?」

「……逃げる?」

「刀傷は付けられる。だが実際、それは表面上の傷でしかない。深く斬り込もうにも刀身が先に折れるし、悠長に乗っかって攻撃しようものなら『不動』に掴まる。だから今まで、決定的な隙を縫っては、一撃離脱を繰り返してきた」

「そうさな。……そして、それを散々、良いようにやられておった。有効な反撃は無かった様に思う。……であれば、決め手を隠しておるのか? 手傷程度は捨て置いて、防戦一方であろうと、今は我慢の時だと?」

 

 ミレイユは訝しげな視線を円盤に向けつつ、小さく頷く。

 

「再び『地均し』の中に引き籠もるでも良いだろう。今は忍耐の時? 狙いがあるならそれも分かるが……姿を晒し続ける事に、意味はあるのか?」

「出し惜しみしている場合でもなかろうにな……。それに、権能の一つは防御に回すだろう、という推論も今や怪しく思えてきた。それらしい動作が確認できない」

 

 ミレイユは基本的に攻撃役で、直接斬り込まなくてはならない関係上、そこまで詳しく判別できなかった。

 だから、ミレイユの攻撃に対し、何らかの権能で防御していたとばかり思っていたし、対抗する何かをしていたと思い込んでいた。

 しかし、外から見ていたオミカゲ様が言うには、そういう事でもないらしい。

 

 そして、オミカゲ様の魔術攻撃にも、その多くを『手』で対応していた。

 それもまた防御性能を発揮する権能ではあるが、片手の存在しか確認できてないのだ。

 

 いつかシオルアンに使用された時のように、片手ずつ攻撃と防御を分けていた訳でもなかった。

 単に権能慣れしていないだけで、元々の神と同じ水準で扱う事が出来ないだけなのか。

 それとも、片手だけしか使えないと思わせる事が目的なのか、判断に迷う。

 

 仮に『磨滅』を防御の為に使う余裕がないだけならば、別の権能で補っていると考える方が妥当だった。

 だが、その防御に権能を使っているように見えない、というのなら……。

 それこそが、起死回生の一手――反撃の一手の為に、今も隠しているだけなのだろうか。

 

 そして、それは近距離でなければ効果が薄く、あるいは必中を狙って中遠距離で使いたがらない……。

 そう考える事も出来るのだが、ミレイユとしては疑問に思えた。

 

 確かに、伏せ札は隠している事に意味がある。

 一度でも見られれば、次からはもう有効に使えない。

 そう考えるのも当然で、必中と確信できるタイミングで使うのが最適だ。

 

 しかし、攻撃を仕掛けていたミレイユからすると、そのタイミングは幾度かあったように思えた。

 出し惜しみ、戦勘がない、それで片付く問題という気もするが……それだけとも思えなかった。

 

 とはいえ、警戒して、し過ぎるという事はない。

 大神にしても、留まっているからには理由があり、だから逃げ出していないのだ。

 逃げないという事は、勝ち筋を残しているという意味でもある。

 

 では、それは一体、何なのか――。

 それを暫し考えてみたが、やはり答えは見つからない。

 ミレイユは横目で、オミカゲ様を伺いながら問い掛けた。

 

「何か隠し種があると思うか?」

「うむ、……何かを隠しておる。それは間違いあるまい。消極的過ぎる所をみると、或いは攻撃でないのやもしれぬな」

「大神から積極的な動きが無い、というなら……援軍待ちか? ……複数用意した孔が、連なるのを待ってるとか?」

 

 ミレイユは、ちらりと足元を見ながら呟いた。

 強大な魔物の登場は、隊士と冒険者、そしてエルフの混合部隊による封殺を打破し得る。

 

 それこそ、エルクセスの様な災害に例えられる魔物の登場は、現状をひっくり返すだろう。

 その登場を待っているのだ、という仮説には一定の説得力があった。

 

 円盤が非常に頑丈で、かつ攻撃性に乏しい、というところを考えても、それを狙っての事に思えてしまう。

 円盤の頑丈さを頼みにしての事というなら、ある種、籠城作戦と言い換える事も出来るかもしれない。

 

 待ち続ける事が勝利へ繋がる、という理屈も分からぬではなかった。

 だが、その考えには、オミカゲ様から否定の言葉で返って来た。

 

「そなた……あれだけの啖呵を切られて、あの程度かと思わなんだか? 大神たるものが、本当に、あの程度で終わると思うか」

「それを言われると、……そうだな。何かあると思ってしまうが……」

 

 だが現状、膠着状態に陥っている。

 大神から一定距離外にいる限り、攻撃は来ない。最初こそはあったが、距離があれば躱されると分かってからは、その攻撃も止めた。

 

 そして頑丈な円盤は、魔術攻撃は勿論、物理攻撃であってさえ有効ではなかった。

 あるいは刀という鋭利な刃物が悪いのかもしれない。

 防刃性能が高いだけで、他の武器――例えば鈍器などは有効かもしれないのだが、試してみようにも、その為の武器がなかった。

 

 膠着状態が続いてしまっているが、そこに持って行くのが目的ではない。それがオミカゲ様の考えだ。

 時間稼ぎで孔の拡大を待つのは、有効そうでも、本命ではないという。

 だが、待ちの姿勢なのは確かなのだ。

 

 権能を一つが空いている状態で、未だそれを見せていない。

 それは確かだ。孔に一つ、摩滅に一つ、不動に一つ。

 では、残り一つの権能を、一体何に使っているのだろう。

 

 ミレイユは、今となっては単なる木偶の坊になっている、『地均し』へと目を向けた。

 あれは大神にとって、乗り物であり、兵器であり、そして鎧でもあった。

 

 そこから抜け出し、表へ出る事にしたのは、手を振り回した程度では、もう攻撃が当たらないと理解しているからだ。

 だが、無意味というなら、今の状態も無意味には違いない。

 

 どのみち攻撃が通じる範囲は狭く、そして、今のところ命中もなかった。

 感情を伺えないせいで、そこに焦りがあるかも確認出来ないのがもどかしい。

 現在の状況が、不本意なのかどうかも気配で察せない、というのは中々に厄介だった。

 

「戦闘下手だったとしても、相手も馬鹿じゃない。あの程度ではないだろう、という意見には賛成する。……他に狙いがある事も、また同様に。じゃあ、何か……と考えた時、私はアレが怪しく思えるんだがな」

「あれ……?」

「奴らが脱ぎ捨てた『地均し』だ。武装を落とされた今、私達には有効的じゃない、という理由で使わないだけかもしれないが……」

「加えて、頑丈でもない。巨体である故に、解体するのは非常に面倒だが、地肌は柔らかい。円盤を相手にするより、遥かに楽であろうな」

「――つまり、それを嫌がったとは思えないか」

 

 ふむ、とオミカゲ様は眉根を寄せ、『地均し』へと目を向けた。

 円盤を挟み、その奥に見える『地均し』は、否が応でも視界に入ってくる。

 

 巨体過ぎてその全貌は視界に収まらないが、オミカゲ様が回り込もうと動けば、それに合わせて円盤も動く。

 今まで意に介していなかったが、円盤は必ず、ミレイユ達と『地均し』の間を位置取って、それを維持している様だった。

 

「……なるほど、嫌がる……。確かに、攻撃を自分に向けさせているように見えよう。敢えて挑発的な台詞も……更に言えば、姿を見せた事自体、撒き餌のつもりであったのか?」

「疑念を確信に変える、一つ手っ取り早い方法があるんだが」

「――やってみようぞ」

 

 言うや否や、オミカゲ様は右手で上級魔術を制御し始めた。

 瞬きの間に『爆炎球』を手の中に作ると、円盤を避けて、背後の『地均し』へと撃ち出す。

 

 すると、円盤が俊敏に動いて、摩滅の『手』で爆炎を受け止めた。

 それは身を挺して『地均し』を庇ったようにしか見えず、オミカゲ様が次々と魔術を別方向へ放っても、円盤がその体で魔術を受け止め、あるいは権能の『手』で無力化した。

 

 それだけ見せられれば、ミレイユの推測も現実味を帯びて来る。

 迂闊な行動だったとは思うが、易々と攻撃させられない事情があったのなら、隠すよりも庇う事を選んだという事なのだろう。

 

「……フン、なるほど。一杯食わされておったという事か。あれ程の過剰な防衛……、我らを滅した後、使う予定であるから守っただけとは思えぬ」

「むしろ、あの中に本体が居ると考えられないか? それらしい発言と、光球の明滅で権能が使われているから、大神はあの円盤にいると勘違いしていたが……」

「大胆に姿を見せたのも頷ける。文字通りの撒き餌であったのだ。そして、まんまと釣られたという事らしい」

 

 しかしまだ、それが真実かどうかまで分からない。

 あの円盤があくまで『権能装置』であり、本体の大神はそこにおらず、頑丈だから囮に使える、という理屈で表に出して来た……。

 

 そう理屈の上では合うのだが、単に頑丈であるというだけで、安心して敵の前に姿を晒せるものだろうか。

 何しろ、あの装置は奴らの肝だ。

 

 戦闘手段であり、防衛手段であり、そして新世界創造に欠かせない手段でもある。

 破壊されるリスクを天秤に掛けられるか、という問題があった。

 しかし、自信に裏打ちされる理由が奴らにあるのなら、やるかもしれないとも思う。

 

 それに、本体そのものを表に出すよりは、囮とするに躊躇はないとも思えるのだ。

 『地均し』の腹に穴が空き、そこから姿を見せたと同時に濃密な気配が溢れ出した事、それが更なる勘違いを誘発させたのも原因だろう。

 

 そして、ミレイユ達は円盤から声がしたという理由だけで、本体と思い込み攻撃を加え続けていた。

 考える程に、円盤こそ囮である理由が増えていくかのようだ。

 

「まぁ、実に私達は、滑稽な姿に映った事だろうな。コケにしてくれた借りは返してやるが……、権能が一つ隠されている危険は変わりない」

「うむ、それこそ本体を守る為に使用されているやもしれぬが。いずれにしても、やる事は変わらぬ。――さて、少々乱暴になろうぞ、そなたも気を付けよ」

「乱暴じゃない扱いが、これまで一度でもあったか?」

 

 ミレイユが眉根に皺を寄せて言うと、小さく笑みを浮かべてオミカゲ様が飛び出し、それに引っ張られてミレイユも飛び出した。

 



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叛逆の意思 その2

 オミカゲ様が急制動を掛け、虚実入り交じった動きで翻弄しては、円盤の横をすり抜けて行く。

 その度にミレイユも左右上下へ揺られる事になり、天地も逆転して自分が何処にいるのかすら分からなくなった。

 

 乱暴になる、とは聞いていたが、仮にシェイカーの中へ放り込まれたとしても、こうはなるまい。

 意識が失いそうになるのを懸命に堪えつつ、『地均し』まで肉薄するのを待つしかなかった。

 

 そうしながらも、ミレイユの視線は円盤へ食らい付こうと必死だ。

 狙いが『地均し』へ移ったからには、円盤の抵抗も苛烈を極めるだろう事は目に見えていた。

 そして、見えない攻撃だろうと、明滅してから行うものでもあるので、そこで判断できる部分もある。

 

 だが実際には、余りに乱暴な乱下降や上昇で、目で追うどころではなかった。

 そうして、遂には円盤を振り切ると、一気呵成に突っ込んで『爆炎球』の一撃を放つと同時、ミレイユもそれに合わせて魔術を放つ。

 

 咄嗟のタイミングで上級魔術を行使するのは、今のミレイユに荷が重く、ランクを下げて中級魔術となってしまった。

 だが、二つの魔術は『地均し』の腹部で接触すると、より大きな爆発を轟かせた。

 

 一撃だけ食らわせると、腹の横を通り過ぎ、背後に回って同じく魔術を放つ。

 これにミレイユは対応できず、仕方なく見送る事になってしまったが、オミカゲ様の魔術だけでも十分な威力で地肌を抉った。

 

 腹部の周囲を飛んでいれば、流石に『地均し』も腕を動かし、妨害しようとする。

 オミカゲ様やミレイユの動きを阻害しようと、そして魔術を受け止めようと動かすのだが、鈍重な『地均し』で、二人の妨害はままならない。

 

 オミカゲ様の魔術が何度となく『地均し』の腹部に命中し、そして地肌を削り取っていく。

 爆散する度、鉱物とも金属ともいえない物質が地面へ落下していったが、未だその中に隠れているものは見つけられなかった。

 

 攻撃している間にも、円盤は二人を追って攻撃して来る。

 不可視の『手』は確かに厄介だったが、オミカゲ様にとって、その気配を読み取って躱すのは難しくないようだ。

 

 ミレイユには見えないのに、頻繁に急制動を掛けて回避しているのは、つまりそういう事だからだろう。

 ここに至って、ミレイユは完全にお荷物で、言葉どおり手に持って運ばれてるのに、身を任せるしかない状態だ。

 

 頻繁に視点がブレ、円盤もまた裏を取ろうと動くので、標的が全く合わない。

 牽制程度の魔術を撃てれば、それはそれで援護になったかもしれないが、常に揺さぶられていては、それも難しい状況だ。

 

 素直に『地均し』へ攻撃を加えるか、と目まぐるしく動く視界の中で思っていると、迫りくる巨腕が目前に迫って来る。

 それを真横へ引っ張られて躱すと、オミカゲ様は大きく周囲を飛んで距離を離した。

 

 一定距離まで離れれば、円盤は無理して追ってこない。

 やはり円盤は、『地均し』の防衛装置として役割を担っているのだ。

 

 『地均し』本体の腹部へ目を向けると、幾つも魔術を撃ち込まれた事で穴が空き、地肌の下にある機構も目に付き始めた。

 中には歯車がぎっしりと詰め込まれており、大小様々の形が見え、クランクピストンで動いている部分も見える。

 遺物を製作しただけあって、この『地均し』もまた設計思想というか、基礎設計が同じであるらしい。

 

 だがこの時、何より注目したのは歯車の奥、複雑に組み合わさった歯車の中にある空洞だった。

 そこには明らかに機械とは別種の、異質な何かが見えていた。

 

 液体らしきものに見え、むしろ粘液に近いものに思え、それから、より近い物が脳裏に浮かぶ。

 ――泥だ。

 

 あれは天界で見た泥と良く似ている。

 色合いが全く異なっていたが、それでも良く似たものに思えた。

 地肌が抉れ、その機構――あるいは弱点が露出した事で見えた物……。

 

 あの泥の向こうに、大神が居るのだろうか。それとも、あれも動力として使うものなのだろうか。

 そう考えていた時、目の前で起こり始めた事に舌打ちした。

 

「そうか、『再生』……。使っていなんじゃない、使う場所を選んでいただけか」

 

 ミレイユが今更、悔恨するように顔を歪め、呻くように独白する。

 大きく抉れた箇所は、時間を巻き戻すかのように元に戻り、地肌も再生して元に戻ってしまった。

 ただし、あくまでも深層部分を隠す程度に留まり、その全てを再生した訳ではない。

 大きく抉れた他部分は依然残されていて、深層部分さえ隠せればそれで良い、という杜撰な工事に見えた。

 

「歯車を保護したいから……それも分かるが、あの深層部分の奥に大神がいると仮定しておこう。抉り出して、その姿を晒してやりたいが……、決め手に欠ける」

「上級魔術を連発して、突破できないか」

「やってみても良いが、『再生』を見せたからには、爆破した端から使ってこような。となれば、単に連発すれば解決する、という単純なものではなかろう」

「厄介な……」

 

 どこまでも面倒事を用意してる奴らだ、と唾吐く思いで睨み付ける。

 だが、弱点が露呈したにしては、大神の動きに変化はなかった。

 こちらが距離を取っている限り、積極的な攻撃は仕掛けて来ない。

 

 足元へ視線を向けても、孔が連結するような兆候は、未だ見られなかった。

 まだしばらくは大丈夫そうだが、大神が待ちの姿勢を見せているなら、そこを期待してない筈がないだろう。悠長にしていられる時間は少ない。

 

 だが同時に、待ちの姿勢を取るだけで勝てるとは、大神も思っていない筈だ。

 オミカゲ様の動きは捉えられていなかったが、『分析』の権能を甘く見るのも怖い。

 戦闘の長期化は、いずれ追い詰められる事にも繋がるだろう。

 

 しかし――。

 ミレイユは我知らず、胸の辺りを握りしめる。

 魔術の使用は最低限だった筈だが、それでも痛みは増し始めていた。再び激痛が襲って来るより前に、決着を付けてしまいたい。

 

 しばらく魔術の使用を控えられていた事と、水薬のお陰もあり、今は魔力にも多少の余裕が出来ている。

 大きな一撃をぶつける事が出来たら、と思うのだが、果たしてそれは可能だろうか。

 

「感触として聞きたいんだが、あの深層部分に魔術は有効だと思うか?」

「地肌は脆いが、その奥の歯車には傷を付けられなんだ……。つまり、材質は円盤と同じであろうと予想する。であるならば、物理攻撃こそ有効かもしれぬが……」

「少ない手傷では、『再生』を使って治すのも容易、か……」

 

 ミレイユは忌々しく息を吐きながら、円盤と『地均し』の下腹部を見ながら呟く。

 

「残りエネルギーは多くないだろう、という推測に賭けて、攻撃を繰り返すという手もあるが……」

「互いの根比べか? 悠長にやれる事ではなかろう」

「大規模魔術を使うのは?」

「可能ではある。だがそれも、片手だけでは……、そう大胆な事は出来ぬでな……」

「そうだな……。大規模魔術を、片手でやるのは狂気の沙汰だ」

 

 魔術の制御は片手でやるより、両手でやる方が安定する。

 制御が完了する速度や正確さ、そして威力にも関わるので、中級魔術でも両手を使って行使する方が一般的なのだ。

 

 ミレイユが使う分にはまだしも、オミカゲ様の魔術を封じる形になってしまっている現状も、非常に都合が悪かった。

 それに、他にも問題はある。

 

「大規模魔術は威力もそうだが、範囲も広いものが多い。周囲の市街地は割りを食うだろうな」

「こんな所で『雷霆召喚』などするものではなかろうな。限られた範囲にのみ攻撃を加えられるものなど無いし、威力を絞れば本末転倒……。結界内に押し入れる事なくば、使えるものではない」

 

 だが、周囲の影響が少ない魔術は、やはり威力もそれ相応になる。

 オミカゲ様からすれば、市民を――無辜の民を守る為の戦いでもあるので、それを蔑ろにする戦法を取る訳にはいかないだろう。

 

 だからミレイユからも、言ってる場合か構わずやれ、と言えなかった。

 オミカゲ様は民に対して強い慈しみを持っている。自らの目的の為なら、幾らでも蔑ろにできるデイアートの神々とは根本的に違う。

 

 それ自体は好ましい事だが、現状において求められるのは力業だ。

 建物の損壊程度、人命に被害が出ない程度なら、已むを得ない犠牲と割り切るべきだった。

 ミレイユがオミカゲ様に顔を向けると、苦い顔をしながら彼女の方から口を開く。

 

「可能性は一つあるが、賭けになる。挙げ句、我らもタダでは済むまい。試して駄目なら、相当に追い込まれよう」

「このままジリジリと追い込まれる位なら、試してみる価値もあると思うがな」

 

 ミレイユは、荒くなり始めた呼吸を、必死に抑えながら答えた。

 大神は、果たしてミレイユの様子や寿命を理解しているのだろうか。

 

 待ちの姿勢は不自然だ、と思っていたが、ミレイユの寿命を見抜いていたとしたら、待つことの意味も十分あるのだ。

 ラウアイクスの時と同じだ。見抜かれたなら……そして、厄介な相手と認めているなら、待つ意味は大きい。

 

 元より神人計画は大神の発案で、素体造りの原案も大神にあったという。

 ミレイユを見た直後、素体であると見抜いた事と言い、更に詳しく深い部分まで、見抜かれていたという事もあるかもしれない。

 

 そしてミレイユ自身、自分が相当無茶をやって来た、という自覚がある。

 元より一年を切っていた寿命が、激しい戦闘を潜り抜けてきた事で、相当擦り減った事も理解しているのだ。

 健全からかけ離れた姿は、見る者が見れば分かってしまうものかもしれない。

 

 ミレイユの命の蝋燭は、まさに風前の灯火だった。

 本来なら悠長に睨み合いなどしている場合などではなく、すぐにでも昇神すべく段取りを決めるべき状況まで追い込まれている。

 

 ミレイユは胸を握った手を、更にきつく握り込んだ。

 ――まだ保ってくれ。

 ――もう少しだけ、保ってくれ。

 

 身体に言い聞かせるよう握り込んでも……。それでも、胸の奥から来る痛みは、静かに忍び寄ってくるのを止めてくれない。

 呼吸を細くさせ、下唇を噛んで耐えていると、これまで沈黙を保っていた円盤から、男性の声が発せられた。

 

「随分と好き勝手暴れてくれたものだが、いい加減……もう良いのではないか」

「なんだ、飽きずに降伏勧告か。そんな安い脅しに屈すると思うか……!」

「するべきだろうな」

 

 その一声の次に、音は女性のものへと切り替わる。

 

「何をそこまで抵抗させるのでしょう。痛みを押し殺し、苦しみを飲み込み、そこまで抵抗する意味はありますか」

「そもそも、お前らが侵攻して来たからだろう……! 大人しくデイアートの再生でもしていれば、こんな事にはなってない!」

 

 ミレイユが吐き捨てて言うと、声は老齢のものに替わった。

 

「再生とはまた異な事を言う。出来ることなら、とうにしておるわ。だが、あの星は絞り滓、直すほどの価値がない」

「大神には馬鹿しかいないのか? 可能な手段なら自ら造ってあったろう。実際、私が世界を復活させている。お前らにだって同じ事が出来た。逃げ出す計画を立てる前に、神なら神らしく、世界を保護しておけば良かったんだ……ッ!」

「ほんしつが、みえてないのね。それって、みせかけだわ。ほんとうはなおってなんか、いないのよ」

 

 幼齢の声が無感情に言い放った。

 もしも感情が乗っているなら、小馬鹿に嘲笑しているだろうような台詞だ。

 

 欺瞞、揺さぶり……幾つもの猜疑が、ミレイユの頭を駆け巡る。

 『遺物』は万能で、そして注がれたエネルギーに応じた願いを叶えてくれる機構だ。

 

 どこまでか可能か、それは『遺物』を作った大神の方が良く理解している事だろう。

 そして実際、ミレイユはドーワの背の上で、世界のあるべき姿を取り戻した光景を、この目で見てきた。

 

 侮るというなら、大神の浅慮をこそ侮ろうとしたところで、男性の声がそれを遮った。

 



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叛逆の意思 その3

「下らん……。感情に左右され、冷静に物事を見られぬというのは、明らかな欠陥だ。そして……復活だったか。願望機を使った再創造でもしたか? そうであったら、やはり徒労でしかない」

「世界とそこに生きる、生きとし生きるもの全て、お前にとって無価値だろうと……! 生まれたものには、これからも生きる権利がある! 世界はお前の為の砂場じゃない!」

「いいえ、まさに砂場であるのです。そして、その砂場へと、お前が変えたも同然」

 

 また女性の声と変わって、冷淡に断じる。

 言ってる内容の不穏、そして責任の一旦さえ押し付けられて、ミレイユの顔が険しく歪んだ。

 

「世界は神の為にあるものです。そうであるものと、我らが定めた。泥をこねる様に、空と海と大地を整え、そして数多の新しい生命体を創り上げた……」

「まさに、神の御業だな……」

「創ったからには、それ以上のものを返して貰わねば。神力を使って創ったのなら、使った以上に得ようとするのが道理」

 

 当然の理の様に言ってのけたが、ミレイユには同意できない。

 確かに消費に対して供給というバランスは、必要になるのかもしれない。

 失うばかりで得るものがなければ、神とて消滅してしまうというなら、返して貰う部分があるのも致し方ないだろう。

 

 それこそ、創ったものに神力を注がなければ維持できない、というのなら、供給を望む事は決して悪ではない。

 だから信仰を望む、というなら、正しく世に降臨し、そして崇め奉れていれば良い話だ。

 

 だが、今の口ぶりだと、最初から得ることを目的として世界を創ったかのように聞こえる。

 果実を食べる為に育てたような、最初から苦労に見合う以上の見返りを求めて、行った事に思えるのだ。

 

 そしてどうやら、それは事実だったらしい。

 老齢の声が、ミレイユの推測を肯定した。

 

「得ようと考え、先に与えた。そして、実った後に吸い上げた。結果として世にマナが溢れたが……、つまりあれは、神力を搾り取った後に生まれた不純物に過ぎぬ」

「不純……、絞り滓……? まさか……?」

「神の奇跡に似た力を発揮できるのも、それを利用する故であるからだ。それはそれで面白いと、体系付け、少し形にしてやったりもしたが……、余計な事であったと反省しておる。次の世では必要ない」

 

 傲慢不遜……、どこまでも神らしい発言と言えるが、それよりミレイユが気になったのは、大神の口から出た絞り滓という言葉だった。

 

 創造神が、その神力で持って世界に手を加えた。

 かつてはデイアートに、マナは存在しなかったという。

 それがある時から、少しずつマナの含有する物体が増えていき、最終的には世に溢れるようになった。

 

 これはエルフも知る、古い古い創世の記録だ。

 デイアート古代の歴史と言い換えても良いかもしれない。

 

 そのマナの発生と増殖が自然発生的なものではなく、神が世界に溢れていた神力を吸い出した反応結果であるのなら、マナが溢れた世界とは即ち――破滅に向かう世界を意味しないか。

 

 八神は世界の滅亡を止められず、少しずつ削れていく世界を忸怩たる思いで縫い止めていた。

 最終的に、世界の一部を箱庭世界に隔離し、その中でさえ維持できていなかった。

 

 櫛の歯が欠けるように欠けていく世界だったが、神力で作られた世界で神力を抜かれたのならば……、小神の力では維持する事すら困難だったに違いない。

 

 そして神として生まれた彼らは、元の世界に帰る事もできず、だから強引な手段を取ってでもその維持と、起死回生の手段として神人計画を再開させた。

 やり方に多くの問題があったから逆襲される事になったが、どうしようもない流砂から抜け出そうと、必死に藻掻いた結果でもあった。

 

 そして、その根本原因を創ったのが、この大神であるという。

 ミレイユの腸は煮えくり返り、胸の奥から怒りが湧き上がる。

 

 育てた果実を食べる事は、生産者の権利だ。

 苦労した分の見返りを得る事も、当然の権利だろう。

 

 だが、大神はその全てを根こそぎ持っていった。

 果実だけでなく、実らせる樹も、土も、水も……何もかも。

 得られる当然のもの以上を、全て持ち去ったから、あのデイアートがあった。

 

 泥から創ったように、と神は言った――。

 だからだろう、世界とそこで生きる生命に、砂粒程度の価値しか感じていない。

 

 この大神は己の為に――己が得られる最大幸福の為に存在している。

 その為なら、全てを踏み台どころか、踏みにじって当然と思っている。

 

 ――そして、今。

 大神は地球に降り立ち、ここを新たに創り直すと言った。

 与えた以上の見返りを得る為、地球を創り変え、そして奪い――また別の世界へ旅立つのだろう。

 

 ミレイユは胸の内で爆発した怒りを、声に出してぶつけた。

 

「どこまで身勝手なんだッ! 食い散らかしては去るだけの、獣にも劣る下劣な存在だ! ここで終わらせる。地球の為、デイアートの為……そして、この先に生まれる悲劇を防ぐ為にも!」

「自分勝手で功利主義の神か……。救いがないとは、この事よな」

 

 そう言って、オミカゲ様は蔑む視線を隠さずに続けた。

 

「創造神、か……。全てを創り変えてきたからこそ、そう名乗っておるのか? 馬鹿を申すな、我がお前を定義し直してやろう。――強欲の権化。それがお前、お前達の本質だ。そして、そういう輩はいつだって嫌われるのよ」

「悪びれもないのが始末に終えない。ただ腹を満たす為だけに全てを奪う輩に、身の程ってものを教えてやる……!」

 

 ミレイユは痛む胸から手を離し、裂帛の気合と共に構えを取る。

 オミカゲ様も、それに続いて険しい顔をさせつつ構えを取り直した。

 

 今は胸の痛みも寿命の事も、頭の隅に追いやる。

 この神は――この悪しき俗物は、必ず、この場で滅してやらねばならない。

 

 その為には、身体の痛みや寿命さえ、些事に過ぎなかった。

 ミレイユが怒りを力に変えようとしたところで、老齢の声が無感動なまま投げ付けられる。

 

「悪びれぬとは良く言えたものよ。お前も世界を作り直したつもりでいて、何一つ救えてないと気付いておらぬ。それが何より救えぬわな」

「いったでしょ、かんがえがあさいの」

 

 幼齢の声音に決して感情は乗っていないのだが、嘲るような雰囲気は感じられた。

 だからこそ、それが挑発だと分かる。

 

 聞く耳を持たず攻撃を仕掛けるのが一番だと、頭では理解しているのに、どうしても身動きが取れなかった。

 聞かずにいると後悔する、ミレイユの勘がそう囁いた所為かもしれない。

 円盤の声は、そこで男性のものに切り替わる。

 

「聞いていた筈ではないか? 泥で出来ていたものを、お前は砂で作り直したようなものだ。酷く脆く、いつ崩れ去ってもおかしくない。留める為には、世界に神力を注いでやらねばならぬ……。例えるならそれは、砂漠の砂全てが泥になるまで、水を注ぐが如しの難事だぞ?」

「繰り返し使えるものならば、我々も安易に捨てたりしないのだと、分かりそうなものでしょう。だから、浅はかだと言うのです」

 

 ミレイユの怒りは決して沈静化したりしなかったが、それでも血の気が引くような思いはした。

 それが事実であるのなら、つまりそれは砂上の楼閣……。

 今のデイアート世界を客観的に例えるなら、そういう事になるだろう。

 

 世界は姿を取り戻したと思った。

 問題は山程あるし、これから幾つでも生まれる問題だろうが、それも生きている者がいるなら、無くならない問題だ。

 

 それは神の問題ではなく、人の問題で、世を良くしていけるかは人の気概に掛かっている。

 ――そう、思っていた。

 

 神の手から離れた世界の方が、むしろ健全で、人が自由に生きて行けば良い。

 そうも、思っていた。

 

 だが、今にも崩れ去る世界の上に立っているというなら……。

 それをミレイユが作り直した世界だというなら、これを座視して見ている訳にもいかなくなった。

 

 この場で、ミレイユを混乱させるか、動揺させる為に放った虚言ではないか――。

 そう思いたくもなる。

 動揺を誘う為、戦闘を有利に運ぶ為のブラフなど、戦術の中では基礎中の基礎だ。

 

 それを仕掛けられただけではないか。

 言ったことの説得力はあっても、確証など無い内容だ。

 

 そう思いたいのは、とにかく自分にとって不都合だからだ。

 そうであって欲しくない、という気持ちが先行するから否定したくなる。

 ミレイユが身動き取れず固まっていると、離れた場所のオミカゲ様から声が飛んだ。

 

「聞くな、今は捨て置け。事実であろうと、今はどうにもならぬ。後の事は、倒した後で考えれば良い」

「そうだな……。どのみち、それ以外、道もない……!」

 

 ミレイユが気を取り直して構え直すと、女性の声音が平坦に言い放つ。

 感情はそこに乗っていないのに、困惑とも哀れみとも取れない雰囲気を、ミレイユは感じ取った。

 

「痛みも苦しみも、これから増すばかりだというのに……。意味がないと分かっていても、苦しむと分かっていても尚、正しい判断が取れぬのは、神ならぬ者では致し方ない事。……では、無駄と知りつつ足掻きなさい」

 

 そう言い切った時だった。

 『地均し』の身体、ヘソより上部分が直上に向かって割れ、パズルを組み合わせるように開かれていく。

 

 それは円盤が出て来た時と同じ状況で、また何か――もしかすると本体が出て来るのかと思ったが……、それは全くの別物だった。

 それは青黒く、光の反射によって紫にも見える光球で、ヘソ部分から上昇していく程に、『地均し』の身体が大きく割れていく。

 

 身体が組み替えられ、直上へ向けた二股の矛にも似た姿は、まるで発射砲台の様に見えた。

 そして青黒い球体は、その矛の間を通りながら、矛からエネルギーを受け取って巨大に成長しながら上昇していく。

 

 上昇速度その物は、目で追える程ゆっくりしたものだ。

 あれが何かは分からないし、矛の先に達した時、何が起きるかも分からない。

 だが、あれを自由にしてはならない事だけは理解できた。

 

「オミカゲッ!」

「分かっておる!」

 

 弾かれるように動き出し、即座に『地均し』より上の位置を取ろうと宙を飛ぶ。

 だがそこに、円盤が割って入って妨害し、権能を用いてその場に縫い止めようとして来た。

 

「時間稼ぎは十分、叶うた。何故、あの状況で話しかけると思う。何故、防戦に徹していたと思う。準備する時間が欲しかったからだわい」

「く……っ! どけ!」

 

 オミカゲ様も緩急や虚実を入れ混じった動きで通り過ぎようとするのだが、一度見せた動きには対応して、簡単には行かせてくれない。

 『分析』を使って様子見していたかも、という考えは、決して間違いではなかったようだ。

 そして、この時の為に、決定的な勝敗を付ける為の防戦だったと思えば、歯軋りしたくなるような焦燥感にかられる。

 

「この状況で使う事は無駄が多い。全てを破壊し、過去を洗い流し、その上で創り変えるべきと思うが……やむを得まいな。再創造が成った暁には、真っ先に貴様らを滅してくれよう」

 

 その言葉を聞き終わるかどうか、というタイミングだった。

 オミカゲ様が横をすり抜け、追いすがろうとする円盤に、ミレイユが魔術を放って円盤を弾く。

 体勢を少し崩した程度だが、置き去りにして飛び去るには、それで十分だった。

 

 青黒い光は、既に矛の中腹まで上昇している。

 それの上昇に伴い放電するかの様に、異質な光が四方へ伸びた。

 

 再創造する――創造神としての力、その本質そのものが解き放たれ様としている。

 権能装置から発せられる、借り物の力ではない、彼ら四柱が持つ力だ。

 大神はこれを準備していたからこそ動きが鈍かったし、権能の使用にも粗が出ていたのかもしれない。

 

 片手で準備、もう片方で権能に寄る牽制、そういう事なら、呆れる程の稚拙さにも納得できる部分がある。

 だがどうであれ、あれを許してしまったら、この世界がどうなってしまうか想像も付かない。

 

 ミレイユが目配せすると、オミカゲ様は持てる力を振り絞り、矛先に向かって急上昇を開始した。

 



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叛逆の意思 その4

 円盤を撒いて上昇し、矛先よりも上の位置へ到着したとはいえ、何をすれば止められるか、それが問題だった。

 あの光は、純粋なエネルギーに見える。

 それも権能を使う時の様な、マナや魔力とは違う、また別のエネルギー塊だ。

 

 権能について――もっというなら神力について、ミレイユが知っている事は少ない。

 ただ、魔力と性質は似ているもので、それなくして権能も使えない、という部分は似通っている。

 

 だが、関係性は良く似ていても、その性質まで似ているのか、そこまでは分からなかった。

 インギェムから聞いた話だと、信仰を向けられる事で蓄えられるエネルギーでもあるらしい。

 

 信徒の祈りの力――願力によって使用できる力だから、今の大神には乱発できない力の筈だ。

 何しろ、新たに創造神――あるいは破壊神――と人間から認知されない限り、自らに祈りを向けられる事はない。

 

 信仰か、あるいは慈悲や赦しを求められて、初めて補充できるエネルギーだから、それを獲得する前に使う事がリスクになる。

 残存エネルギー全てを使用した訳でもないのだろうが、大神にとっても後が無い。

 

 あの光が大神の有す、創造改変の力そのものというなら、切り札を使ったという事に間違いないだろう。

 それはつまり、追い詰められ、使わざるを得なくなったという事実でもあった。

 

 ――あれを止められれば、勝利に近付く!

 

 それはミレイユとオミカゲ様の、共通する見解だった。

 だが、同時にどうやれば止められるか、という問題もある。

 

「――フッ!」

 

 今もオミカゲ様が中級魔術を立て続けに二発、矛先と球体それぞれにぶつけたが、何か影響を与えた形跡は見られない。

 球体はともかく、矛先にも影響が見られないのは、不思議なエネルギーを注いでいるからこそなのか。

 そして、その力を注がれ、激しく光を発しながら、青黒い光はゆっくりと確実に上昇していく。

 

 吸収されたり、衝撃で誘爆めいたものが起こるリスクはあったろうが、完成よりも前に暴発するなら、それも意味ある事だった。

 様子見だからこそ、敢えて控えめな威力の魔術を使ったのだろうが、これが単なる威力不足によるものか、そもそも外から影響を受けないからなのかの判別が付かない。

 

「チィ……ッ!」

 

 オミカゲ様の口からも舌打ちが漏れる。

 ミレイユも何か撃ち込むべきか、と思うのだが、今の反応を見ても生半可な威力では、魔力の無駄にしかならない。

 無駄に出来る魔力など、今のミレイユには念動力一回分とて無かった。

 

 しかし、直接斬り掛かる様な真似も、危険すぎて出来ない。

 ――何が出来る。今の自分に、何が……!

 

 タイムリミットは、そう長くは残されていない。

 矛先の形は、まるで竜のアギトの様に開かれたようにも見える。

 その口からあの力が射出されてしまえば、もう止められないだろう。

 それまでの間に無力化ないし、破壊する必要がある。

 

 ミレイユに打つ手が見えないが、同じ神として神力を扱うオミカゲ様なら、違うものが見えているかもしれない。

 本来は目に見えない『手』でさえ的確に躱していたオミカゲ様だから、あの創造改変の力に対しても、何か違って見えているのではないか――。

 

 そこに一縷の望みを賭け、オミカゲ様に向かって声を張り上げた。

 

「どうだ、何か見えたか! どうすれば止められる……!?」

「そうさな……!」

 

 円盤からの追撃は、未だ止まない。

 だが、攻撃自体は控えめで、妨害しようという意思は感じるものの、その手数は少なくなっていた。

 

 そこからも、やはり大神もまた追い詰められていると感じられる。

 オミカゲ様は攻撃を回避し、また『地均し』から距離を離して逃げながら続けた。

 

「まず、あの力は純粋な力の塊であるのは事実だが、権能の力である事も分かった。これまで使われていなかった権能の最後の枠、それがあれだったのであろうな」

「いや、むしろあれは大神が本来持っている権能の力だろう。借り物の力ではなく。どの権能を使っても片手落ちの様に感じていたのは、むしろ裏であの力を練っていた所為じゃないのか」

「……かもしれん。どちらにしろ、まず魔術を少し撃ち込んでみて分かった事であるが……恐らく、より強い力をぶつける事で止められる」

 

 オミカゲ様は思案顔でそう言ったが、その口調には確信めいた色を感じられた。

 外から見ていたミレイユには、単に無効化、あるいは無駄な一撃に見えたものだが、撃ち込んだ当の本人からすると違うらしい。

 

「全く効果がないように見えたのは、まさしくそのとおりであろうな。だが、全く無意味でもない。先の一撃で削ってやれた部分は、微細なれど確かにあった」

「撃ち込んだのは中級魔術、それが全くの無駄でなかったとしても、上級魔術で何発撃ち込めば良い? 十発では足りないだろう、だったら百発か? どちらにしても、削り切るより撃ち出される方が早い」

 

 『地均し』のヘソ辺りから上昇を始めた改変の力は、矛先までの距離が残り二割を切っている。

 上昇する程に速度を落としているようだが、最後まで到達すれば、大砲の様に撃ち出されるだろう事は想像に難くない。

 

 それまでに掛かる時間はどれ程だろう。

 一分か、三分か……上昇するほど速度は低下しているとはいえ、五分は有り得ない。

 

 その僅かな時間で、一体どれほどの魔術を撃てるというのか。

 ミレイユは足元にいる隊士たち、エルフ達魔術士部隊へ目を移す。

 

 今になって魔物の猛威は増え、より強力な魔物の出現も始まり出したようだ。

 それが何より、歯噛みするほど苛立たしい。

 今になって、と思ってしまうが、大神からすれば今を狙ってやった事でもあるのだろう。

 

 あそこから後方支援、法撃部隊となっている彼らを引き抜くことは、前衛の崩壊を意味してしまう。

 ほんの三分、こちらに手を貸せ、と命じたとして……。

 果たして持ち堪えるものだろうか。

 

 だが、こちらを止められなくては、戦士達を見捨てるどころの話ではない。

 ミレイユとオミカゲ様の敗北は、世界の改変を許す事になり、引いては全生命の敗北にまで繋がる。

 

 ――心を鬼にして命じる他ない。

 ミレイユがそう決意した時、オミカゲ様から射抜くような視線を感じて、そちらへ目を向けた。

 

 オミカゲ様の視線に余裕はなく、切羽詰まったものに見える。

 そして、自分が思い付いた事を、言うか言うまいか、迷っているようにも見えた。

 

 その様な表情を見せられれば、オミカゲ様が何を言うつもりか想像できてしまう。

 自爆に近い事を求めようとしているのだ。

 

 残り少ない時間、その中で上級魔術以上の威力……そうして考えていくと、合致する条件など限られてくる。

 そして、今ミレイユが思い付いた事と同じ考えが浮かんでいるのなら、それは死ねと言っているに等しい行為だ。

 

 今も魔物と対峙する魔術士、理術士をこちら側に参加させたとして、止まるかどうかは賭けになる。

 だが、ミレイユが予想する()()ならば、彼らを参戦させるより、更に高い確率で阻止できるだろう。

 ならば、やる事など決まっていた。

 

「そんな目で見るな。私も、やるなら()()以外ないと思う」

「……すまぬ。そなたの献身あって、この状況まで持ち込めたというのに……」

「謝るな。互いに全力を尽くした。――だから、今がある。奴に好き勝手させたくない、という気持ちは同じだろう。憎む気持ちは……、お前の方が上かもしれないが」

 

 実際に踏み荒らされているのは、自分の庭だ。

 そして自分の子に等しい隊士達が、その命を削って戦っている。

 

 ミレイユが茶目っ気を見せて笑うと、オミカゲ様はすまなそうに目を伏せて、泣き笑いのような表情を見せた。

 ミレイユがやる事、それ自体は構わない。

 やるべき事は、――大規模魔術の行使。

 

 それも、単に広範囲殲滅が可能というだけでなく、一発の威力に秀でる魔術を選ばなくてはならない。

 権能の力を打ち消すだけでなく突き破り、更に大神まで消し飛ばせるかもしれない大魔術だ。

 

 魔術に対して強い抵抗を持つとしても、その許容範囲に限界はある筈だった。

 そして、その許容限界を超えるだけの威力を、これから放つ魔術は持ち得ている。

 

 だが、高威力の大規模魔術は、本体とそれ以外にも被害が出るだろう。

 その対策が出来なければ、結局、敵味方諸共吹き飛ばす事にしかならない。

 

「大丈夫なのか。アレを使うとなると、市街や無辜の民に被害が出る。半径十キロは跡形もなく消し飛ぶぞ」

「我が持つ『守護』の権能で、『地均し』を綺麗に囲む事で防ごうと思うとおる。完全に閉じ込める形だと、術の威力で破られる事になろうから、上空へ威力を逃す形が望ましかろう」

「いつだったか、似た話を聞かせてやった気がするな」

「似た事をやろうと言うのだ、そうもなろうさ」

「……そうだな」

 

 ミレイユ達が何をするつもりか。

 それは、かつてエルフと共に戦争に参加した時、敵兵十万を一発で壊滅させた魔術、それを使おうとしているのだ。

 

 今のミレイユの身体状況は、正しくオミカゲ様も分かっている。

 高威力、高難度、高精度を要求される魔術は、この状態で使おうものなら不安が大きい。

 

 残った魔力を根こそぎ持っていかれる事になるだろうし、その上でも成功するかは五分の賭けになる。

 だが、使い手を逆にする訳にはいかなかった。

 

 ミレイユには、この魔術を受け止め切るだけの力がない。

 自分一人を守る事は可能でも、他に被害を出さない形で受け止めるのは不可能だった。

 だから、この攻防役を逆にする事は出来ない。

 

 ミレイユは一つ息を吸い、大きく胸を上下させ、痛みで思わず顔が引き攣った。

 ――正念場。

 ――命の使い道。

 ――大事な者の命。

 

 アヴェリン、ユミル、ルチア。

 大事に思う人の顔が、次々と現れては消えていく。

 

 そして何も、その三人ばかりではない。

 アキラや御由緒家、帰還してから出会った人々、神宮で世話になった女官や巫女たち。

 それからデイアートで知った顔、新たに出会った人たち、それからルヴァイル達の事を思った。

 

 大事と思えるものが増えた。

 我が身の命を天秤に掛けても、守りたいと思える人々だった。

 決して失いたくない、この先の悲喜こもごもを当たり前に享受するべき、愛す者たちだ。

 

 ミレイユは痛みを外へ逃がす様に、細く息を吐く。

 その、たった一つの深呼吸を終えた時、覚悟は既に決まっていた。

 

「――やるぞ」

「あぁ、やってやろうぞ。そなたの制御が終わったと同時、我の念動力も解除する。片手で抑えきれるものではない故にな。後の事は、すまぬが自力で対処しておくれ」

「……訊いておきたいんだが、お前の権能で護るのは良い。だが問題なく被害を外に出さない程、そんなに強固なものなのか?」

「今も戦う隊士達にも使っておるからな……、だから全てを使えぬのが歯痒いところではある……。まぁ、足りぬ分は我の身体で受け止めねばならぬだろうな。決して無事では済まぬだろうよ」

「なるほど、痛み分けか……」

 

 ミレイユは小さく笑う。いっそ自棄に思える笑みだった。

 それにオミカゲ様も笑みを見せ、鏡移しのような表情になった。

 オミカゲ様が大きく旋回して、再び『地均し』へ接近すると、円盤の妨害を掻い潜りながら上昇する。

 

「さぁ、始めよ!」

 

 ミレイユは返事の代わりに制御を始めた。

 それは『禁忌の太陽』と呼ばれる大規模魔術で、これまで一度しか使った事がない。

 

 その一度も成功したと言えず、危うく自爆しかけた。

 威力が高すぎ、リスクばかりが先立つから、それ以降使った事がない。

 だが、今はそのぶっつけ本番で成功させてやらなければならなかった。

 加減も制限も分からぬ中で、ミレイユは必死で暴れ狂おうとする魔力を制御する。

 

 只でさえ困難な、最高等魔術。

 痛む身体、自由の利かない制御、ごっそりと消費する魔力――。

 一つ魔力を練り込む度に、意識が遠退こうとするのを、必死で堪える。

 

「ぐ、ぐぅぅぅ……ッ!」

 

 額に脂汗を浮かせ、吐く息そのものに血が混じるかのようだった。

 喉奥から血の臭いがして、鼻梁にも血の匂いが乗る。

 ついには鼻からも口の端からも血が流れ、目も血走り、両手の中で形を成そうとする魔術が、複雑な形となって暴れた。

 

 今ここで、暴発させようものなら全てが消し炭になる。

 それが分かっていて、自らを奮起させるのだが、現実はいつだって上手くいってくれない。

 ――無理か。

 

 両手の間に生まれた赤い燐光を発する魔術は、完全な形を成す前に開放されようとしている。

 暴れ出す魔力は、次々と色を変え、形を変え、制御から外れようと暴れていた。

 

 ミレイユはそれを必死で押し留める。

 呼吸をする余裕すらなく、とにかく暴発だけは食い止めようと両手を動かす。

 

 魔力が十全な状態なら、制御力がもっとスムーズなら、寿命が尽きそうでなければ――。

 言い訳なら幾らでも浮かんでくる。

 失敗の要因なら幾らでもあった。命と引換えにする賭けだった。

 

 それは最初から分かっていた事だ。

 その賭けに、いま敗れようとしている。

 

「ぐ、ぎ、ぐぐ……ッ!!」

 

 暴れる魔力は制御をより困難にし、身体の内側から破壊しようとするかのようだ。

 『禁忌の太陽』には、それだけの莫大な威力が秘められている。

 所詮、手負いの身体でやる事ではなかったのだ。

 

 そう、諦めが脳裏を掠めたその時、暗くなり始めた視界に、円盤が映り込んできた。

 大神が操る、大神が力を振るう円盤だった。

 

 その姿を認めた瞬間、ミレイユ視界が一気に明るくなり、力が籠もる。

 暴れて言う事を利かない制御が、この瞬間だけスムーズに流れた。

 

 ――抗え!

 ――大神を挫け!

 

 内なる声が、諦めかけたミレイユの心を叱咤する。

 それと同時に、消えかけていた心の炎が再熱した。

 

 ロウソクは燃え尽きる前こそ、最も輝くと言う。

 一気に振り絞った力で、魔術の制御が完了する。

 手の中で暴れていた魔力の塊も、安定した形と色を取り戻していた。

 

 その瞬間、ミレイユはオミカゲ様の念動力から開放され、投げ飛ばされる。

 円盤を飛び越え、創造改変の青黒い光が、矛先の出口まで到達しているのが見えた。

 

「お前が要らぬと切り捨てた……、魔術の極致を思い知れッ!」

 

 それを矛の奥まで押し返すように、人の頭程に膨れ上がった魔力を投球フォームに似た形で投げ飛ばす。

 腕を振り切り、ギリギリの制御で完成させた魔術が高速で飛んで行く。

 

 ――やり切った……。

 腕を投げ出し、全身から力を抜けていくのを感じる。そして、重力に流されるまま落ちていった。

 

 最早、身体に感覚はなく、視界には何も映らず、耳まで何も聞こえなかった。

 その筈なのに、次の瞬間、大爆光と爆発音を確かに捉えた。

 爆発の余波を全身に受けた筈だが、その衝撃を知覚するより前に、ミレイユは完全に意識を失った。

 



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叛逆の意思 その5

 その光景は、誰にとっても悪夢だった。

 ミレイユは凄まじい勢いで地面に落下して来たし、その時の衝撃で地面を大きく抉り、クレーターさえ出来ている。

 

 巨大な爆光は天を衝き、大気を震わせ、地上にもう一つの太陽が出来たかのようだった。

 恐ろしいほど膨大なエネルギーが吹き荒れていると分かるのに、地上への影響が少ないのは、その爆発が納まるまでオミカゲ様が何かしていたからだと、すぐに察せた。

 

 その光と爆発、衝撃力全てを上方へ逃した事で、最後の力を振り絞ったのだろう。

 オミカゲ様まで程なく、全身を弛緩させて落下した。

 

 爆光と煙が晴れた時、五百メートルは超えると思われる『地均し』の姿は、およそ半分が消し飛んでいた。

 そのヘソ部分より上が、まるでスプーンで削り取ったかのように、綺麗な断面で消失しているのだ。

 

 そうして、それまで微動だにしていなかった『地均し』が、まるでそよ風の手で押されるようにして、その身体を揺らした。

 一度、小さく傾くと、その傾斜が徐々に大きくなっていく。

 大質量の半分が消し飛んだとはいえ、未だ十分な巨体を有している『地均し』は、単に倒れ込むだけでも十分な被害を生み出すだろう。

 

 しかも、倒れる方向には奥御殿――オミカゲ様の神処がある。

 全体を俯瞰して見ていた結希乃には、その事態にいち早く気付く事が出来た。

 そして、倒れ込む事で結界の有効射程範囲に入り込むのだと、同時に察する。

 

「――伝令! 即時、一千華様に結界の展開を要請しろ! ――治癒術士! 一班はオミカゲ様へ、二班は御子神様の救助に行け!」

 

 腕を振って指示を飛ばすと、それぞれの隊士達はザッと音を立てて走り出す。

 そうすると、次に結希乃は浮足立った前衛へ向き直り、凛とした気合を乗せて怒声を上げた。

 

「動揺するな! オミカゲ様がたは、見事大任を果たされた! 我らがその御前で不甲斐ない真似を見せる訳にはいかないッ! 気合を入れろ! 鬼を倒せ! 勝利は目前だッ!」

「ォォオオオッ!!」

「状況は安定している! 敵首魁は倒れた! ならば孔も長くは続くまい! 押し切れば勝てる! オミカゲ様に勝利を捧げるのだッ!」

「ウォオオオオッ!」

 

 結希乃の鼓舞が隊士達の動揺を消し飛ばし、更なる気合に燃え上がる。

 オミカゲ様が力尽きたかの様に落下した。

 心配し、動揺するのは、隊士ならば当然だ。

 

 そしてそれは、尊い御身であるにも関わらず、それを惜しむ事なく奮戦した結果でもある。

 ならばオミカゲ様の矛であり盾である隊士が、これに滾らない訳がない。

 

 オミカゲ様は強い神だ。戦神、武神としての側面を持ちつつ、何より慈悲深い神でもある。

 なればこそ、その無事を祈って勝利を捧げる。それ以上の報いる手段を持ち得ない。

 

 一つの気合が二つになり、それが伝播して隊士全員の力を底上げする。

 いつまでも続く、いつまで戦えば済む、と気持ちが後ろ向きになり始めていたのは確かだった。

 だが、そこに一条の光が差したならば、そこへ邁進するのに躊躇いはない。

 

 アキラもまた、右隣の七生と肩を並べ、互いの意志を確認するように頷く。

 少し離れた所には凱人もいて、顔を向ければやる気を滾らせた笑みを浮かべてきた。

 

 左隣にはイルヴィとスメラータがいたのだが、冒険者組に結希乃の演説は心に届いていなかった。

 ただ、目前の勝利が近付いている、という部分にのみ共感し、己を鼓舞して声を上げている。

 

 そして、エルフ部隊と言えば、全くそれどころでは無かった。

 その直前に、テオによる洗脳が解けたという事もある。

 溢れ出す信仰心と思慕、ミレイユという存在の大きさ、その安否を思うあまり、制御への集中が全く出来ていない。

 

「ミレイユ様……!」

「ミレイユ様はご無事なのか! 他の者では安心出来ん! 我らからも人を出すべきでは……!」

「ミレイユ様は強大な魔術士なだけじゃない! 我らの里長というだけでもない! もっと遥かに偉大な存在だぞ!」

 

 放って置けば、誰かが逸って飛び出しそうな危うさがあった。

 そして一人の勝手を許せば、その後に続く者も現れ、制御不能の事態に陥るだろう。

 

 それを危惧した者が、その中に複数いた。

 ユミルは声を張り上げ、アヴェリンに顔を向ける。

 

「ここ、任せるから。ちょっとの間、凌いでて」

「何……? ミレイ様の事を思うのは、お前よりも余程強い。駆け付けたい気持ちは、お前より上だ! それを勝手に――」

「いいから! この場合、どっちの声が届くかの方が問題なのよ」

「私の声が、ミレイ様のお心に届かないと言うのか!」

「違うわよ! ()()()()だわ。眷属はね、命じる私の声を、決して無視出来ないって点に意味があるの!」

 

 ミレイユは今まさに、全ての魔力を使い果たした筈だ。

 足りない分を急遽マナ生成して補い、僅かな命さえ燃やし、魔術の行使に注ぎ込んだに違いなかった。

 瀕死どころか死の間際であっても不思議ではなく、殆ど耳が聞こえていない状態だろうと推測できた。

 

 だが、それでも、主が命じる声ならば届く。

 本当に死んでいない限り、その声は届く筈だった。

 

「だから、良いコト? アンタは必死で祈りなさい。今ここで、あの子を救える手段があるとすれば、この場で昇神させる以外にない!」

「それは……確かに、何よりの枷は寿命だろうと思うが……! だが、ここに三千もの人はいない!」

「必要なのは願力よ。一人で作れる量に限界はあっても、一人の作る量には差異がある筈。人数が少なかろうと、それに類する願力があれば……」

「本当なのか! 確かなんだろうな!」

「――アタシにだって分からないわよ!」

 

 ユミルは声を張り上げて、注目を浴びてる事など気にせず顔を振り乱した。

 その表情はアヴェリン以上に必死で、取り繕うところがない。

 

「今はもう、それに縋るしかない! 可能かどうか、確かかどうか? 分からなくてもやるしかないでしょう! 傷を癒したぐらいじゃねぇ、あの子は起き上がって来ないのよッ!」

「――分かった、祈る。祈って、ご帰還を願う。我らを救い給えと、ミレイユ様が必要だと! 我らが戴く主上の神よ、と!」

 

 アヴェリンが声を張り上げると、エルフ達は動き出そうとした身体を止め、その場に留まる。

 そして両手の指を絡め、頭上で掲げて祈り始めた。

 

「祈るのも良いけど、魔物もしっかり相手してよね!」

 

 アヴェリンへと顔を向け、次いでエルフ達にも注意しながら魔物へ指差し、それから踵を返す。

 ミレイユに向かって駆け出したが、その前にテオにも声を掛ける。

 

「テオ! アンタ、今度は逆をやんなさい!」

「あ、は……? 逆? なん……?」

「だから、信仰を向けさせろって言ってんの! 興味も意味も分かってない奴らを、強制的に祈らせなさい!」

「お、おう! ……分かった!」

 

 だが、洗脳して無理に向けさせる信仰は、大きな願力とはならないだろう。

 それを分かっていても、少しでも足しになるのなら……、その少しで昇神まで届く希望が持てるなら、打っておける手は打つべきだった。

 

 ミレイユの事を知る隊士達は、むしろオミカゲ様への心配に気持ちが寄っているだろうから、その心配や祈りを、ミレイユに回すだけでも意味はある。

 

 願力は神にとって、あくまで自身の力を高めたり、権能を使う為のエネルギーだ。

 集まったからといって、それが傷を癒やすような性質は持っていない。

 

 力が漲る事と、傷が癒える事は別物だ。それが軽傷ならばともかく、過度な重傷ともなれば、むしろ逆効果でしかないだろう。

 オミカゲ様は癒しの権能など持っていないので、それならば、その願力をミレイユに向けさせた方が、この場合は一挙両得となる。

 

 ――だが、それでも。

 三千人に達する程の願力が集まるかどうか……。

 後はミレイユを強く思う一人一人が、常人の二倍も三倍もある願力を向けて祈る事に期待するしかなかった。

 

 ユミルは必死に駆けて、寸分の間でミレイユが落ちたクレーターの縁へ立ち、そして思わず呆然とした。

 大きく抉れた土の上に、力なく埋もれているミレイユには、生気というものがまるで無かった。

 

 それだけでなく、普段なら幾らでも感じ取れていた魔力の反応までがない。

 力なく放り出された傷だらけの四肢、薄く開いた空虚な目、半開きの口から垂れた血は既に止まり、汎ゆる動きというものが止まっていた。

 

「は、はぁ、は……ぁ、……っ!」

 

 ユミルの動悸が不自然に跳ね、口から漏れる息が震える。

 一歩、足を踏み出す毎に膝が震えた。

 

 ユミルにとって最も恐ろしく、忌避するものは、己の死ではない。

 認め、受け入れ、共に生きると言ってくれた、ミレイユが死んでしまう事だ。

 

 かつてゲルミルの一族が世界の敵となった時、ミレイユだけが話を聞いてくれた。

 そして協力関係を結ぶことも出来た。事件の首謀者――ユミルの父を討つまでの協力関係だけだと思っていたし、事態を納める理由として、落とし所となる首謀者の死は絶対だった。

 

 それまでの協力関係だと思っていた。それで、ユミルの死は免れる。

 そしてそれは、せめてそれだけでも叶うなら、という父の願いでもあった。

 

 だが、終わってからも関係は途切れなかった。

 全てが終わった後、傍から離れた方が良いだろうかと訊いた時、ミレイユは言った。

 

 ――好きにしろ。

 それは彼女からすれば何気ない、あるいは投げやりな気持ちだったのかもしれないが、ユミルはその言葉に救われた。

 

 一緒にいても良いのかと、共に行っても良いのかと訊いて、それでも同じように頷いた。

 ――居たら助かる。

 ぶっきらぼうな台詞だったが、受け入れられたのだと、その時改めて実感した。

 

 助かったのはユミルの方だ。

 それからは、望んで得られなかった友を作れた。

 生涯の友、無二の友だ。

 その友が今、目の前で潰えようとして、ユミルの目頭がカッと熱くなる。

 

 震えそうになる足と膝を叱咤して、ユミルは抉れた穴へ身を投じた。

 髪に掛かった土を払い、両頬を掴んで顔を向けさせる。その瞳にはどこまでも意志がなく、空虚な視線が下を向いていた。

 

 既に肌が冷たいのは、上空を猛スピードで飛んでいたからだろうか。

 肌からは健康的な弾力が返って来るのに、ミレイユの反応はどこまでも無かった。

 

 最悪の状況を想定させ、口から嗚咽めいた息が漏れる。

 そこにようやく駆け付けた隊士達三名が、クレーターの縁を崩しながら近付いて来る。

 だが、ユミルは敵意すら見せつつ制止した。

 

「来るんじゃないわよ! この子に近づくな!」

「は……し、しかし、早急に治癒を……!」

 

 命じられてやって来た隊士としては当然の行動で、しかも瀕死の重体となれば一秒を争う。

 制止を無視して近づこうとする隊士に、ユミルは威嚇するかのように睨みつけた。

 それは例えば、幼子を取られまいと、必死に抗う母親の様にも見える。

 

「アンタら程度じゃ癒せないから言ってるの! たかが数人、束になったところで……! それならもっと数、集めて来なさい! 出来ないならせめて、オミカゲサマを助けに行きなさいよ!」

「今でもギリギリです! どこからも引っ張って来れる治癒術士などいません! とにかく治癒を――」

「意味が無いから言ってんの! 時間が無いんだから邪魔するな! アンタらは自分の大事な神を救ってなさい!」

 

 拒絶と共に膨大な魔力で圧し飛ばされ、隊士達はもんどり打って倒れる。

 どうあっても近付けさせない、とする意思を確認させられ、隊士達はお互いに顔を見合わせた。

 ユミルが更に威嚇と敵意を綯い交ぜにした視線を向けると、言われるまま踵を返して走り去って行った。

 

 彼らも治癒術士として無能ではないのだろうが、今のミレイユに傷の治療は意味がない。

 それこそルチアを三人連れて来れば期待感も持てるが、それが無理となれば、一縷の希望をオミカゲ様へと向けた方が賢い。

 

 ミレイユに触れた、今だからこそ分かる。

 今の彼女に必要なのは傷の治療ではない。見た目ほどに肉体の損傷は酷くないのだ。

 ならば必要なのは、生きようとする意志と――。

 

 ユミルが焦りの中で考えを整理していると、そこへ突然、上から熱の塊が飛んで来た。

 ユミルは攻撃と勘違いして、咄嗟にその身を盾にミレイユを庇ったが、直後に勘違いだと察する。

 その熱塊の正体は、フラットロだった。

 

「ミレイユ! 駄目だ、そんなの駄目だ!」

「アンタ、やめなさい! 近付いたら焼けるわ! 何の防護もないの、火傷じゃ済まないのよ!」

「そしたら飛び起きるだろ! 熱かったらきっと飛び上がる! 人間って、皆そうなんだろ!?」

「今は逆効果だから、下がって……いえ、アンタの熱で温めてやんなさい。身体が冷え切ってるの」

 

 フラットロは精霊として珍しい、個として召喚契約を結んだ間柄だ。

 単なる主従契約以上のこだわりもあり、心配する気持ちは、ユミルやアヴェリンとも変わりない。

 

「う、うん……! 温めるだけ、少しだけ……!」

「そうよ、いつもみたいのは止して頂戴。この子を助けるの、いいわね?」

「分かった! 分かってる!」

 

 その時、クレーターの中から見えていた空、その雲の動きが唐突に止まる。

 辺りから聞こえて来る音は、魔物の叫び声や仲間たちの掛け声、魔術や理術による爆音ばかりだったが、そこへ静謐に似た雰囲気が唐突に生まれた。

 結界の再展開がされたのだと、その直後に理解した。

 



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叛逆の意思 その6

 それは正に、間一髪だった。

 巨大な落下物でもあったのかと思う轟音と、地面を振るわす衝撃が身体を貫く。

 建物の幾つかは今の衝撃で壊れたろうし、実際に多くの建材が砕ける音が聞こえていた。

 

 だがそれらの損壊も、結界内に封じたお陰で実際の損壊は免れた筈だ。

 そう思うのも束の間、遅れて瓦礫混じりの砂埃が襲ってきて、それらからミレイユを護るため、ユミルは再び自分の身体を盾にする。

 

 『地均し』を再び、結界内へ閉じ込めた。

 それは喜ばしい。何かと空を飛び回り、ミレイユ達を妨害していた円盤も、その動きに制限を掛けられるのは僥倖だ。

 

 しかし、今のユミルにそれら一切合切どうでもよかった。それより遥かに大事で危急の事態に直面している。

 土煙が収まった時、フラットロが叫び声を上げた。

 

「あぁ……!? 駄目……駄目だ、ミレイユ! いっちゃ駄目だ!」

「――しっかりしなさい、アンタ! こんな所で終わるつもり!?」

 

 フラットロの言葉の意味を、正確に読み取って、ユミルも声を上げる。

 相変わらずミレイユの顔に生気は無く、一切の反応を返さない。

 

 それどころか、尚も何かが抜け落ちていくように感じられる。

 最後の最後、僅かに残った命の一滴、それが流れて消えようとしていた。

 

「あぁ、あぁぁぁ……!?」

 

 フラットロが自分の身体を前足を見て、そして身体へ顔を向けて、恐ろしいものを見たような声を上げる。

 驚愕と忌避、悲壮感に溢れた顔で、自分とミレイユを見比べ、縋るような声を上げた。

 

「消える……繋がりが……、契約が消える! 駄目だ、ミレイユ! いかないで! いやだ、そんなのいやだぁぁぁ!!」

「聞きなさい! 聞こえているでしょ、アタシの声が! ――命じる! 今すぐ目を開け、応じなさい!」

 

 ユミルもフラットロの様子を見ては、引き攣った顔で必死に呼びかけた。

 眷属に対する絶対命令、それは命ある限り、反する事が出来ないものだ。

 本人の意思とは関係なく、抗えない命令である。

 

 だが、当然ながら遂行できない命令には、応じる事が出来ない。

 あくまで本人に実行可能な命令でなければ、どれほど単純な命令でも従ってくれない。

 

 だが、幼子さえ実行可能なユミルの命令に、ミレイユは一切の反応を示さなかった。

 目を開けるだけ、応じるだけ。

 

 それほど単純な命令さえ受け付けないというのなら……、つまりはそういう事になる。

 ユミルはミレイユの何も映さない目を射抜くように見つめながら、必死に声を上げた。

 

「まだ大神は死んでない! 生きてるわよ! だから抗って! 大神を挫いてよ! アンタにしか……アンタしか……!」

 

 本当に大神が生きているか、それはユミルにも分からない。

 だが、あれ程の大魔術の大威力ならば、大神とて無事で済んだ筈はない、という期待があるだけだ。

 

 それでも、ユミルにあと一つ、縋る事が出来るものがあるとするなら、それは最初に下した命令を喚起するだけだった。

 

 眷属に刻む命令の、最初の一つは特別だ。

 最も強力で、最も拒否できない命令になる。

 単純な命令で応じないとしても、この命令にだけは反応を示すかもしれなかった。

 

「ミレイユ……っ!」

 

 だが、その原初命令すらも、ミレイユは一切の反応を示さない。

 力なく放り出した四肢はそのまま、指先一つ、瞼の一つすら微かにも動かない。

 

「アタシを置いて行かないで……」

 

 常にユミルの内で押し込めていた、浅ましい想いが口に出る。

 彼女が最も忌むべき事は、ミレイユの死を看取る事だった。

 心を許した無二の友、生涯の友、その死を受け入れたくない。

 

 ミレイユに神となる事を勧めたのは、世界を思っての事ではなかった。

 寿命が無くなれば、ずっと傍にいられると思った。

 

 本音を口にせず、名前で呼ぶ事も極力せず、付かず離れずの位置を維持しているのは、本心を知られると離れてくと思っていたからだ。

 

 その上、人間の寿命は短く、長くても百年程度しか生きられない。

 その死を悼む事になるのなら、自らが先に死を望む。それほど、ユミルが思うミレイユの執着は強い。

 

 だからきっと、オミカゲ様となるミレイユを逃がすため、自らが囮となったユミルに躊躇いはなかっただろう。

 本人の死を前にして、そのユミルを羨ましくさえ思う。

 

「お願い、お願いよ……っ!」

 

 ユミルはついに涙して、隣へ寄り添う様に肩を抱き、ミレイユの額に頬を乗せた。

 涙は頬を伝い、それがミレイユの額に落ちる。

 

 肩を撫でる様に揺すっても、やはり何の反応も示さない。

 それでもミレイユは何一つ、一切の反応を返してくれはしなかった。

 

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

 

 それとほぼ、同時刻の事だった。

 神宮に突如として現れた、巨大な人の形に似た何か。

 それが暴れているのは、遠く離れた場所にいても見る事が出来た。

 

 そして、それこそが避難勧告を出された理由であり、それから護る為にオミカゲ様は戦っているのだと、誰もがそう思った。

 ――自分に出来る事をやってやれ。

 

 海沢博光は、その言葉を直接掛けられた人間として、実直にこなそうと躍起になって動いていた。

 神宮周辺は既に避難も終わり、その補助として神宮関係者や警察も動いている。

 

 車がある人はそれで逃げられるが、誰もが持っている訳ではなく、電車を利用して逃げようとする人も多い。

 それで階段の登り下りが辛い老人や、あるいは迷子になってしまった子供を助けたりとしている。

 

 こういう未曾有の事態に置いて、誰もが率先して我先にと逃げ出そうとしそうなものだが、決してそうはなっていない。

 誰もがオミカゲ様の声を聞き、その御言葉どおりの行動と規範を示そうとしていたからだった。

 

 博光が撮った動画は、SNSの波に乗り、あっという間に拡散した。

 登録者が三千人もいない底辺配信者だ。

 だが、この生放送が終わった後のアーカイブは、一秒を重ねる毎に視聴者が急増し、未だ一時間と経っていないにも関わらず、更にその数を増やし十万再生を越えようとしていた。

 

 普段の再生数が百前後である事を考えると以上な数字だが、それも被写体がオミカゲ様となれば当然と言える。

 それも、傷つき倒れそうなオミカゲ様である。

 

 スマホの狭い範囲でしか映らないカメラに、その全てをフレームに収められていた訳ではないが、何かがキーンという音を立ててビルを幾つも貫通し、それでも止まらずアスファルトを削って落ちて来た所は捉えていた。

 そして、もうもうと煙を上げて出て来たのが、普段とは装いも髪型も、髪色まで違うオミカゲ様だった。

 

 どうしてそんな事態になったのか、そんなものは神宮で巨大なナニカが暴れている時点で想像が付く。

 オミカゲ様に次いで、神宮の方にカメラを向ければ、振るった腕を元に戻した光景が映っている。

 

 そして、動画の中のオミカゲ様が言うのだ。

 早く逃げろ、弱者には手を伸ばせ、お前たちを助けさせてくれ、と――。

 

 これで動かない日本人は居ない。

 神宮周辺に居て暢気に様子を窺っていた者、危険だとしても動くかどうか躊躇っていた者など、素早く動いた。

 

 渋滞なども起きやすくなっていた為、電車での移動も推奨、そういった警告を動画で上げた者もいたぐらいだ。

 しかし、これには見かけだけ似ている、オミカゲ様とは別の誰かだ、と主張する者もいた。

 

 何しろ様子が違い過ぎるし、多くの人にとってオミカゲ様とは白髪赤眼の御姿なのだ。

 声まで聞いた人は多くないが、洋式の――それも見慣れぬ防具ともなると、別人説が出るのは当然だった。

 

 オミカゲ様の鬼退治、という逸話を知る人などは、これが世を偲び鬼を退治している時の姿だ、という具合に声を上げた。

 あるいは、オミカゲ様には御子がいるのだ、という話すら持ち上がった。

 

 どちらが正しいのか不明でも、オミカゲ様かそれに近しい御方、という認識に誤りは無かった。

 だから、彼らは祈る。

 

 オミカゲ様に戦勝を祈り、ご無事を祈り、そして感謝を捧げた。

 もう一柱、オミカゲ様でないかもしれないが、オミカゲ様と良く似た御方に祈る。

 その戦勝と、ご無事と、感謝を捧げた。

 

 その祈りは正しく信仰であり、信奉であり、信心だった。

 動画を見た十万人の内、オミカゲ様でないと思ったのは……祈りを向けたのは、果たして何人であったろう。

 

 ――そして、神宮の上空を貫く爆光と衝撃波、爆音が轟いた時、彼らは強く強く一心に念じた。

 我らを救い給え、万難を退け給え、そして御身がご無事であれ、と。

 

 それと呼応するように、超大な爆発によって巨大なナニカは上半身が消し飛び、倒れ伏せる。

 ゆっくりと倒れ、それが地面に衝突するより早く、音もなく消え去った。

 その瞬間を目撃した者達は、オミカゲ様の勝利を確信し、そして喝采を上げたのだった。

 



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叛逆の意思 その7

 気が付くと、ミレイユは一面、白色で満たされた部屋の中にいた。

 いや、部屋というのも正確ではない。

 

 白で満たされた空間には影がなく、奥行きもその幅も、計れる物差しとなる一切がない。

 ただ、どこまでも続く空間、どこまでも広がる空間に見えるのに、ミレイユには不思議と大きな部屋の中にいるのだと思えた。

 

 白の部屋に音は無く、空気の揺らぎまでも感じない。

 何もかもが制止していて、また何物も存在していない。

 

 ミレイユは部屋の奥――奥と思われる、正面方向へ歩き出した。

 行きたいという気持ちからではなく、行かなければならない、という使命感からでもなく、ただ漠然とした気持ちから動いたものだった。

 

 だが、歩き出して数歩、ミレイユの足が鈍る。

 ――何か恐ろしいものが、この先にある。

 

 その予感が、胸の鼓動を早くさせ、足の動きを遅くさせた。

 予感を得てからは、近付きたくないと思う気持ちが溢れて来る。

 それなのに、足の歩みは止まらない。止めようと思っても、意思と反して止まらなかった。

 

 一歩踏み出す毎、一歩近付く毎に、母親に強く言い含められる様な居た堪れなさが去来する。

 幼子が母に頭上から怒鳴られるような、萎縮し、俯くような気持ちにさせられるのに、それでも足を進めてしまう。

 

 ――あの先にあるものは、恐ろしいものだ。

 それが一歩進む毎、何かが警告してくれている。必死の呼び掛けだから、その様に感じてしまうのだろう。

 

 ここに音は無く、誰からの声も聞こえないが、それでも必死な呼び声が発せられている、という感覚はある。

 ただ必死に呼び止め、この場に縫い止めようとしている声が、音ではなく感覚として伝わって来るのだ。

 

 後ろを振り返っても、やはり何者の姿もない。

 正面と同じ白い空間が、ただ広がるばかりだ。

 

 それでも足の歩みは止まらず、引っ張られるようにして、強制的に正面を向かされる。

 更に一歩進めば、今度は直接身体を萎縮させてしまう様な、強い咎めを感じた。

 大喝を受けたような強い衝撃で、ミレイユは前に進むのが恐ろしくて堪らなくなる。

 

 行きたくない、()()に近付きたくない……。

 その気持ちは強まるばかりなのに、この身体は、歩みを止める事だけは決してしなかった。

 既にミレイユは、涙を流したく思えるほど恐怖を感じ、とにかく心が落ち着かなくて顔を左右に向ける。

 

 何もない、白い部屋の中では縋るものも、何かに掴まる事も出来なくて、恐ろしい気持ちが募っていくまま進むしかなかった。

 そうして、歩き続ける事しばし、視線の先に何かがあると気付いた。

 

 白い空間に、白く発色する巨大な光球。

 それが遠くにある。遠近感が掴めないので、それが本当に遥か遠くなのか、それとも案外近いのか、それも判然としない。

 

 だが、ミレイユが思う恐れ、そして近付く事を恐れるモノの正体が、()()だという確信は得られた。

 ――あれは良くないものだ。あれこそが、良くないものだ。

 

 その確信だけはある。

 あれに近づけば、あるいは触れるような事があれば、己の死を確約する事になる。

 それは単なる予感に過ぎなかったが、確信にも似た思いを抱いていた。

 

 後ろから聞こえていた、咎める様な思い。

 大喝されるような引き止め、それはこれに近付けさせたくないからだと、改めて気付いた。

 

 ミレイユもまた、身が竦み、近付く事に恐怖を覚えている。

 もう嫌だ、帰りたい、その気持ちが胸を占めた。

 ――その時だった。

 

 白い空間の中にあって、色とりどりの光が後方からやって来ては、ミレイユの身体を包むかのように囲む。

 ミレイユの周囲を旋回する光の大きさは様々で、また形までが違う。

 だが、それら一つ一つが、ミレイユを慕う気持ちである事は理解できた。

 

 あるいは、それを信奉と呼ぶのかもしれないが、詳しい事は分からない。

 ただ、それまで怯えていた気持ちは鳴りを潜め、薄まったその分だけ温かな気持ちが溢れて来る。

 

 色とりどりの光はミレイユを押し留める様に動いていたが、足の動きが鈍るだけで、足の動きそのものは止まらない。

 そうして気づけば、ミレイユは白い光の前に立っていた。

 光の球は巨大で見上げる程もある。それが一メートル程、地面から距離を離して浮いており、そしてこれが球ではなく孔だと分かった。

 

 ――これは岐路だ。

 その岐路に立つ事で、ミレイユはようやく足が止まった。

 そうして思う。

 

 もしも三途の川というものがあるとしたら、これがそうなのだという気がした。

 潜れば死ぬ、あるいは触れれば死ぬ。そういう類いのモノなのだと、直感で理解する。

 

 その孔の前にあって、ミレイユは一人の女性の声を聞く。

 それは泣き声だった。嗚咽に塗れた、ミレイユを呼ぶ声だ。

 ――帰りたい。あの声の元へ。

 

 そう思った時、ミレイユの許へ先程とは比べ物にならない光が殺到した。

 先程の光よりも小粒に思える。しかし、その数が尋常ではない。

 あっという間にミレイユの視界は、色とりどりの光で埋まってしまった。

 

 到底、目を開けていられず、目元に手を翳して庇う。

 その瞬間、不思議な浮遊感が身を包み、身体が後ろへ引っ張られ始める。

 

 引っ張る強さは更に増し、光から離れる毎に勢いが増した。

 来た道をそのまま逆行し、光の孔はみるみる内に小さくなった。

 安堵感が胸の内を支配し、遠退く光の孔を、色とりどりの隙間から見る。

 

 そうすると、急激に光の孔が小さくなった。

 ミレイユが後ろへ引っ張られているからと思っていたが、もしかすると、孔の方から遠ざかった所為かもしれない。

 

 

 ◇◆◇◆◇◆

 

 

 ミレイユの意識が暗闇から薄っすらと戻った時、聞こえてきたのはフラットロの悲痛な叫び声と、女性のすすり泣く声だった。

 

「あぁ、いやだ、消える! どんどん……、ミレイユ! いやだぁぁぁ!」

「うっうっう……っ!」

 

 胸の奥から抉るような激痛、それが鎮まっている間でも、常に付き纏っていた鈍痛……。

 それらが治まっている間であろうと、頭痛か胃痛が警笛の様に蝕んでいた筈なのに、今ではすっかり綺麗に消えていた。

 

 健康な身体とは、これ程までに快適なものだったか。

 一切に枷なく動かせる身体とは、どれほど偉大なものなのか、改めて実感した。これが俗に言う、失ってから気付く大切さ、というものなのかもしれない。

 

「消える……っ、体が……体が……? 消えない? ――戻ってる! ミレイユ!」

「うっう……、ミレイユ……っ?」

「……聞こえてる。そうか……。あの泣き声は、お前だったか……」

 

 うっそりと目を開き、顔を見ようとしたのだが、抱き込むような格好をしていた所為で、ユミルの顔が良く見えない。

 

 顔を上げようとして、額にユミルの顔が乗っている事に気付いた。

 ユミルが涙声に怒声を含ませて、肩を殴りながら言って来る。

 

「起きてるんなら、早く目ぇ開けなさいよ! 何度呼んだと思ってるの!!」

「すまなかったが……。多分、一度死んでいた」

「馬鹿よ! 何でそんな無茶するの! 大神の鼻を明かすより、殴り付けてやるより、もっと自分を大事にしなさいよ!」

「あぁ、これからは精々、大事にするさ……」

 

 結構な力で何度も肩を殴られるが、痛みは全く感じなかった。

 揺すられている感触自体はあるので、無痛症になった訳ではないらしい。

 

 そこでフラットロが、そわそわと目の前を右往左往している光景が目に入った。

 ミレイユはある種の確信を持って、フラットロを手招きしてから腕を拡げた。

 

「……ほら、来い」

「――ミレイユ!」

 

 それこそ犬と変わらぬ仕草で腕の中に飛び込んで来て、鼻面をぐりぐりと胸や首筋に押し当てる。

 高熱である筈のフラットロを腕に抱いているというのに、魔術の防護も無くして難なく受け止める事が出来ていた。

 

 神の肉体とは、相当に頑丈であるか、あるいは鈍いものらしい。

 ミレイユはその背を優しく撫でてやりながら、気遣わしげに声を掛ける。

 

「心配かけたな」

「そんなのしてない! ただ、嫌だっただけだ! すごくすごく嫌だっただけだ!」

「……あぁ、ありがとう」

 

 更に優しく撫でてると、頭上から憮然とした溜め息と雰囲気が伝わって来た。

 

「何よ、アタシにも何かもっとあるんじゃないの!? ズル……まぁ、いいわ。今はね! それで、身体の方は大丈夫なの?」

「……うん、昇神しても分かり易い変化がない、と言っていたオミカゲは正しかったな……」

 

 その一言でユミルはハッと息を呑み、探るような目を向けて来る。

 その目を見返しながら、ミレイユは優しく問うた。

 

「……お前から見て、どうだった?」

「確かに……分かり易く光ったりとか、そういうのは無かったわね……」

「素体の時でも十分、痛みに強い身体と思ったものだが、神の身体はまた違うな。素体の時とは根本的に違う。鈍感になり過ぎて、痛みを忘れないようにしないと……」

「大丈夫でしょ、アンタなら。忘れそうになっても、アタシが傍で殴ってやるしね」

「そうか。それなら……、安心だな」

 

 それはきっとミレイユの身体には痛みを与えないだろうが、何より心に響く痛みだろう。

 その痛みを、すぐ傍で見守るユミルが伝えようとしてくれるなら、きっとミレイユは傲慢にはならない。

 ミレイユはそう自分で納得して、次いで悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 

「ところで、もう名前で呼ぶのは止めにしたのか?」

「――うるさいっ!」

 

 ユミルは抱き留めていた身体を乱暴に離し、土を払って立ち上がる。

 

「寝てる場合じゃないわよ! 大神を本当に弑したかどうか、確認しないと!」

「……そうだな。手応えを確認する前に意識を失ったから……、待て。オミカゲはどうなった?」

「見てないけど、頑丈らしいというなら、大丈夫……とも言えないわよね。あの爆発規模は、ちょっと異常だったし」

 

 フラットロを抱いたまま、ミレイユは軽い調子で立ち上がる。

 寸前まであった不調など全く感じず、それどころか全盛の時より尚、身体が軽い。

 

 魔力については使い切ってしまったので、その部分は変わらない。

 初級魔術さえも今は扱えないかもしれないが、自らが生成するマナで魔力の回復が行われている。

 即座には無理でも、時間さえ置けば、再度の使用に問題はなさそうだった。

 

 自らの身体を確認している間に、ふと違和感を覚えて、頭上へ視線を向ける。

 そうすると、既に結界が張り直された後なのだと分かった。

 しかし結界術士とて、箱詰め理力で回復したものは多くないだろう。乏しい理力では、この展開も長くは保持できまい。

 

 『地均し』の身体や魔物の死骸も含め、これらは現世の中で残しておきたくないものだ。

 結界が時間切れと共に解除される前に、いつものように結界封印と共に消滅させる事が最も望ましい。

 

 無いとは思うが、それらを研究用などと持ち帰る者がいては、いらぬ争いの種になる。

 ミレイユの見立てでは、結界は五分と保たない。

 それまでに、全ての決着を付けてしまうのが最善だった。

 

 その為には、オミカゲ様の手助けは必ずいる。

 『禁忌の太陽』の爆発規模は想像を絶する。それは原爆にも匹敵する、凄まじいものだ。

 

 それを権能も用いて防ぐつもりだったのだろうが、一点に集中すればともかく、余計な護りに多くを割いたままだった。

 オミカゲ様は非情になり切れず、足りない分は、自らの防膜で補うつもりだった。

 実際の結果を見る前に気絶したから、どうなったのか分からないが……到底、無事で済んでいるとは思えなかった。

 

 ミレイユはその手からフラットロを離し、歩き出そうとして空気を踏む。

 そのつもりはなかったのだが、自然と宙へ留まる形になってしまった。

 

 更に一歩踏み出すつもりで動かせば、滑るように浮かび上がる。

 フラットロをが嬉しそうに駆け回り、ミレイユの周りを飛ぶ姿は、まるで犬の習性そのものだ。

 ミレイユが困ったように笑っていると、足元からユミルが皮肉げな笑みを向けて来た。

 

「それじゃ、行きましょうか。ミレイユ……神?」

「やめろ、馬鹿」

 



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叛逆の意思 その8

 オミカゲ様は荒く息を吐きながら、霞む視界で虚空を見つめていた。

 元より『禁忌の太陽』を、己の権能で受け止めきれる自信など、最初からなかった。

 

 しかし、膨大なエネルギーを押し返す方法、あるいは対消滅させる方法など、他にない事もまた理解していた。

 神宮内全ての命を犠牲にする、最悪の想定を持って、事に挑んだ。

 

 だが、幸いというべきなのか――。

 ミレイユは万全と程遠く、制御力にも難が出ていて、魔力も残り少なかった。

 

 悪条件が幾重にも重なった状態で放たれた大魔術、それだけでも大したものだが、放たれた威力は想定よりも弱くなった。

 それに救われた。

 

 とはいえ、周囲一体十キロに及び、全てを瓦礫に変える威力があったのは間違いない。

 『守護』の権能だけでは抑えきれない、その判断と見切りを付けるまでは早かった。

 自身の魔力全てを防膜に回し、即席の盾として覆い、威力を抑え込もうと試みた。

 

 しかし、それは到底一人でどうにかなるものでなく、被害が出る事を織り込んで上で、上空へ威力を逃した。

 外へ広がらないように、逃げないように、指向性を上方へ――そう試みたが、果たしてどれほど上手くいったものか……。

 

 全身全霊を持って取り組み、威力を変じさせる事なく空へ逃がす。

 『地均し』を中心とした爆発は、正確にあの想像改変の力を押し戻し、または消滅させただろうか。

 

 オミカゲ様には、それを確認する力さえ残っていない。

 汎ゆる力が、身体から抜け落ちていくような感じがした。

 指一本動かせない身体で、覆っていた雲が不自然にぽっかりと開いた空を、力ない眼で見つめる事しか出来なかった。

 

 空に浮いていた雲は、破壊の奔流が通過した事で消し飛び、消え去っていた。

 直後に結界を展開した所為もあって、その時の光景が切り取られて固まっている。

 だから、空にはまるで巨大なドーナツが浮いているようにも見えていた。

 

 いっそ笑ってやりたかったが、オミカゲ様には、その力さえ残されていなかった。

 そこへ、おっとり刀で駆け付けた治癒術士が、オミカゲ様の傍らに膝を付く。

 

「おっ……、オミカゲ様! ご無事で御座いますかッ!!」

 

 足音から三人の術士が居ると分かったが、そちらへ顔を向けるだけの気力、体力共にない。

 しかし、そうとあっても、オミカゲ様には確認しておかなければならない事があった。

 

「みな、は……。ぶじか……」

「は、はいっ! オミカゲ様の御神徳を持ちまして、爆発による被害はありません! 市街地の方までは……確認できておりませんが!」

「そう、か……」

 

 オミカゲ様がその身を盾にして護った事は、酷い火傷の痕からも分かる。

 駆け寄った隊士は、神が人の為に身を投げ出す献身に涙を堪えきれない。

 

 だから、即座に全員が身体を震わせつつも治癒術を使い始めたのだが、傷は一向に癒えていかなかった。

 オミカゲ様の救助に向かわせられる位だから、彼女達は隊士の中でも優れた治癒能力を持っている。

 

 扱える理術についても、非常に高いレベルで扱えるのだ。

 だというのに、全く傷が癒えていかない。

 治癒術士達は、焦りに焦った。

 

「な、なぜ……!? まだ私の理力は十分に……!」

「言ってる暇があるなら、もっと力を振り絞れ! オミカゲ様が御不憫と思わないのか!」

「だが、三人掛かりだぞ! どうして、こうも……ッ!」

 

 術士達の焦りに、もしもの考えが浮かび上がる。

 どの様な大きな傷だろうと、この三人ならば癒せる、自信と自負があった。

 

 生きている相手なら、どんな傷でも癒して見せる、と……。

 ――生きている相手なら。

 

 最低最悪の想定、不遜不敬としか言えない発想、三人は自らの考えを恥じ、懸命に理力を振り絞る。

 翳した手から溢れる光は、更に眩く輝いたが、それでも傷が癒えていく様子がない。

 

 喉の奥から引き攣るような嗚咽が漏れた。

 まさか、いやだ、認められない――。

 その気持ちを無理に封して、理力を高める。

 

 そこへ、オミカゲ様の静かな声が漏れた。

 

「てきは……、どうなった」

「は、はっ……! あれ程の爆発を受けたのです、倒せたに違いありません! 現在も一切の動きなく、沈黙中です!」

「そう、か……」

 

 その報告を聞いて、オミカゲ様は細く息を吐く。

 力なく吐かれた息の後、虚ろに見ていた瞼も閉じる。

 

「われは……われのやくめを、やりとげた……。かなうまいとおもっていた……、だが……」

「いいえ! いいえ、オミカゲ様! やり遂げたなどと! その様なこと……ッ!」

 

 オミカゲ様の安らかな顔を見て、術士は悟ってしまった。

 ――満足の果てに、逝こうとしている。

 

 多くの事を知らず、『地均し』に対してどういう因縁があったかも知らないが、その打倒を果たして安らかな顔を見せるとなれば、そうとしか考えられなかった。

 

 だから、必死に否定する。

 逝っては駄目だと。逝かないでくれと懇願するのだ。

 

「オミカゲ様がおられなくては駄目なのです! 民を慈しみ、護って頂ける……いえ、見守ってただけるだけで良いのです! そこに居て下さるだけで! どうか、我々を置いて逝かないで下さいませ!」

「おにも……、そうばんきえる……。おにのない、へいわなよだ……。われはいらぬ……」

「いいえ! 考え違いをされておいでです! オミカゲ様は我らの神、我らの母! 母を要らぬという子がおりましょうか! どうか! オミカゲ様!」

「こに、みとられてゆくのも、ははというものであろうが……。あぁ……。われはながく、とどまりすぎた……」

 

 オミカゲ様の呼吸は浅く、その声もまたか細い。

 このままでは本当に逝ってしまう。高天ヶ原の神の国、そちらへ帰る事になるのだろう。

 

 神が迎える現世の死とは、きっとそういう事に違いない。

 人の死とは違う。肉体の死が起きたとしても、本当の意味での死とは違う。そうに違いないのだ。

 

 だが、だからといって、この世に繋ぎ止める事を諦めたくなかった。

 止めどなく溢れる涙は頬を濡らし、一向に回復しない原因は他の術士にあると、声を荒らげる。

 

「何をしてる! オミカゲ様をお労しいと思うのなら! もっと気を張れ! 全ての力を注ぎ込むんだよ!」

「やってます! 既にやってますし、オミカゲ様をお救いしたい! 私だって……! なのに、どうして……ッ!?」

 

 八つ当たりと分かっていても、改善しない状況に、何処かへ怒りをぶつけずにはいられなかったのだろう。

 それが分かるし、自分たちの不甲斐なさを悪く思うのは、三人の誰もが同じだ。

 

 だから涙を流しつつ、不甲斐ないと罵られつつも、目眩がするような出力で治癒術を行使している。

 だが、それでも――それだけの力を注いでも、回復の兆候は見られなかった。

 

 そこに追加の治癒術士が駆け込んで来た。

 御子神様へと遣わされた二班の術士達だった。

 では、そちらの治療が終わったから、次にこちらの応援に来たのだろう。

 

「御子神様は、ご無事だったか……!」

「いや……。だが、こちらの手助けに行けと……」

「いや? いやとはどういう……」

 

 首を傾げたい気持ちが溢れたものの、何にもまして、オミカゲ様の治癒を優先すべきだった。

 疑問も詰問も、今は外に置いて、傷の治療に専念するしかない。

 三人では不可能だった治療も、更に三人追加されたなら、必ず成功するに違いなかった。

 

 だが……、だというのに……。

 六人掛かりの治癒術でさえ、オミカゲ様の傷を癒す事が出来ない。

 己の不甲斐なさに涙が出る。

 

「なんで、どうしてなのよ……ッ!」

「よい……。われも、つかれた……。しょうしょう、つかれてしまった……」

「いえ、いけません! オミカゲ様、どうか目を! 目を開けて下さい! 諦めないで下さいませ! どうか、どうか今しばらく、我らの元にお留まり下さいませ!」

 

 これにオミカゲ様の返事はない。

 ただ、安らかな寝顔に小さく口を開け、何事かを発しようとしたところで、唐突な影が差す。

 術士が見上げたそこには、オミカゲ様と良く似た、しかし別人と分かる雰囲気を発する者が浮いていた。

 

「諦めるなど、らしくない。お前のユミルが聞いたら、きっと嘆くぞ」

「――御子神様!?」

「どいてろ。死にかけてるが、まだ無事だ。お前たちのまりょ――理力が弱すぎるから、癒やしの力が届いていない」

「は、はいっ! どうかオミカゲ様を、オミカゲ様を……!」

 

 言葉にならない声に、ミレイユが小さく手を挙げて、その思いに応えるか如く魔力が練られる。

 人の身では決して有り得ぬ制御術、そして練度を持って、一瞬で上級治癒術を完了させた。

 

 息を呑み、舌を巻く思いで見ていると、その術がオミカゲ様の身体目掛けて解き放たれる。

 白い燐光が触れると同時に、時間を巻き戻すかのように火傷が消え、傷が消え、そして綺麗な肌を取り戻した。

 

「あぁっ、オミカゲ様……!」

「良かった、ご無事で……! オミカゲ様!」

 

 治癒術士達全員が涙を流して歓声を上がる。

 既に多くの涙が頬を流れていたが、それでも尚留まる事なく流しつつ、手を取り合って喜んだ。

 

 間もなくオミカゲ様の目も開き、そして宙に浮いてるミレイユを見て、目を見開く。

 震える手を差し出して来て、ミレイユも手を伸ばそうとしたが、思案顔になって手を握る事まではしなかった。

 

 オミカゲ様は驚愕するという程、露骨な表情を見せていなかったが、それでも呆気に取られていたのは誰から見ても分かる。

 差し出した手を握り締め、それから自分自身起き上がろうとして、術士たちが咄嗟にした介添して起き上がった。

 

「そなた……、そうか。そうなのだな……。良かったのか?」

「どういう意味で? 死ぬよりマシという事なら、確かにそうだ。それに……」

 

 ミレイユは宙に浮く自分の身体を見て、それからユミルへ視線を移してから言う。

 

「どうにも妙な感じだ。世界に根差すという感覚がない。むしろ別世界から引っ張ろうとするものと、綱引きしている感じがする。インギェムの言ってた懸念が的中したかもな」

「それは……?」

「異なる世界に生きる者から、信仰を受け取った場合だ。その者達は、事実として()()()()の住人ではなく、自世界へ神を求める願力だった。結果として……」

「即座に、この世界に結び付くものではなかったと……」

 

 ミレイユは曖昧に頷いた。

 真実の(ことわり)は、誰にも分からない事だ。

 

 だが、抜けようと思えば孔を通じて異世界に渡れそうだと思うし、事実として可能な事でもあるだろう。

 それこそ植物がそうであるように、長く留まる事で根が伸び、その土地――世界へ根差してしまう事でもあるのかもしれない。

 

 だが、重要なのは今この時、ミレイユにはまだ猶予が残されているという事だった。

 選択する時間的猶予を得た――そう、考える事も出来る。

 あるいは、交互に世界を移動する事で、そもそも根差さない、という選択も有り得るかもしれなかった。

 

 とはいえ、とミレイユは首を振って、横倒しとなった『地均し』の下半身を睨み付けた。

 

「何もかも分からない状況だが、ともかく大神の行方は気になるところだ。結界によって封じられた今、どこかへ逃げ出したと思っていないが、この沈黙は気になる」

「もう、倒したとは考えていないのか?」

 

 オミカゲ様の問いに、苛立ちを隠そうともしないミレイユが頷く。

 

「こっちも死ぬ目に遭ったんだ。向こうとて同じかもしれないし、既に消し炭になったかもしれない。だが、確かめない訳にはいかないだろう。確信を得られない限り、結界も解けない」

「そうさな……。結界を消滅させると共に、あの巨体も消してしまいたい。維持出来る時間も僅か……、既に消し飛んでいるなら、その確認も容易ではあるまいが……」

 

 オミカゲ様が手を借りていた術士達から離れ、自らも宙に浮く。

 隣り合って肩を並べると、神格や威風に違いはあっても、やはり良く似ていた。

 

 更に大きな違いとして、ミレイユの肩にはフラットロが乗っているところを挙げられる。

 片時も離れないと主張しているようであり、そして、それは言っても止めるつもりはないようだ。

 

 視線に気付いたミレイユが困ったように笑うと、オミカゲ様も似た笑いを浮かべて、背丈の倍程の高さに飛び上がる。

 そうすると、すぐに顔を顰めて手招きした。

 オミカゲ様が睨み付ける方向へ、飛び上がりながら見てみると、そこには変わらず孔から魔物が出て来ている。

 

 あれは装置を使って作り出した孔とはいえ、大神が死亡したとなれば、やはり程なく消えるだろう。

 自動的に消えるものか、それとも消すつもりがなければ、暫く維持するものなのかまでは分からない。

 

 だが、残っている以上、未だ存命だと考えておくべきだ。

 それについては、二柱の意見が一致するところだった。

 



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螺旋の果て その1

 ミレイユは警戒を強めて周囲を伺う。

 まず真っ先に探したのが円盤で、こちらの無事を知れば、間違いなく警戒も露わに本体を守ると思ったからだった。

 しかし、分かり易い様、宙に浮いた姿を見せているというのに、一向に動きを見せない。

 

 倒れ伏した『地均し』、その下腹部に今も本体が隠れているのだろうか。

 もしそうなら、傷も癒えて姿を現したミレイユ達は脅威に思う筈だ。

 

 これまで幾度でも、ミレイユ達を邪魔して来た者ども……。

 円盤というブラフを用意し、本体から目を逸らす為に小細工も要していた。

 生き汚いばかりの奴らが、これで終わるとも思えない。

 仕掛けるタイミングを狙っているだけなのか、それとも――。

 

 贅沢に時間を使う余裕がないとはいえ、無防備に近付く愚は犯したくない。

 ミレイユは足元付近にいる、ユミルへ顔を向けた。

 

「『地均し』方面に、何か怪しい気配が無いか、探ってくれ。あるいは、円盤の居場所でも良い」

「やれと言うなら。……でも、ルチアほど精度の高い探知は無理よ」

「構わないさ。動きがあれば教えてくれ」

「了解よ」

 

 ユミルが制御の動作に入ったのを見て、次いでオミカゲ様へと顔を向ける。

 その頭から爪先まで視線をなぞり、傷はともかく魔力が殆ど残されていない事に気付いた。

 

 それはミレイユも同じで、少しは回復した魔力を、先程の治療で使い果たしてしまった。

 神の戦いは魔力が無くとも可能とはいえ、オミカゲ様の権能を思うと不安になる。

 

 権能を使う神力さえ、今では使い果たしてしまっている筈だ。

 魔力と違って、ミレイユはそれを察知する(すべ)を持たない。

 あるいは単に慣れの問題かもしれないが、他人の魔力を察知する能力も、磨かなければ身に付かない。

 

 神として成熟すると、その辺りも見えて来たりするのだろうか。

 疑問に思うばかりでは仕方ないので、ミレイユはオミカゲ様へと直接訊いてみる事にした。

 

「神力……の方は、大丈夫なのか。何も出来ないというなら、下がっていてもいい」

「我の場合は瞬間的枯渇があっても、尽きるという事がない故な、そこは心配いらぬ。今も……、見よ」

 

 言われるままに手を向けた方向へ目を向けると、そこには感動の面持ちで信奉の目を向けている隊士達がいた。

 その多くは攻勢理術士で、制御はしつつ感謝の念の様なものを送っている。

 

 前衛を任される内向術士などは顔こそ向けてないものの、だからこそ、より強い念を送っているように見えた。

 それに、何も願力は彼らだけが送るものではない。

 

 今に限らず常日頃、全国の神社から欠かす事なく信奉を向けられるオミカゲ様だ。

 確かに、彼女に限って神力の枯渇は考えなくて良さそうだった。

 本人の口から言われた様に、使い切ろうともその端から回復していくような有様だろう。

 

 そして、ミレイユにもまたエルフを始めとした者達から、願力を送られていると感じていた。

 受け取る量の大小について、ミレイユはまだ感覚を掴めていないが、人数に反して多過ぎるようには感じる。

 

 それだけ、彼らの信奉が強かったという事だろうか。

 見てみる限り、どうやらテオが冒険者たちを洗脳して信奉を向けさせているらしいが、それだけでは説明の付かない多さは感じる。

 

 まぁいいか、と見切りを付け、ミレイユは最前線――孔と湧き出る魔物に目を向けた。

 その先では、魔物が強力になった事で前線から離れられず、戦い続けるアヴェリンが見える。

 

 彼女が勇猛果敢に躍り出て、道を切り開き、道を指し示し、そこへ隊士や冒険者が斬り込んでいた。

 そこで数を減らして余裕が出て来たところで、混合グループは退避していくのだが、アヴェリンだけは残り、敵の注意や悪意を引き受けているようだ。

 

 魔物としても、まず目に付いた者を襲おうとする。

 自らを囮として使う事で、他の安全を確保しつつ反撃までして、かつ手傷を負わずに済ませているのは、流石としか言いようがなかった。

 

 ――とはいえ、何事にも限界というものがある。

 どのような強敵、どのような物量にも怯まないアヴェリンだが、気力だけでも戦えない。

 その助力……ないし、孔の対処は必要だった。

 

 ミレイユは再び足元へ視線を向け、ユミルから何の報告も無いことを確認すると、オミカゲ様に断りを入れる。

 

「少しの間、離れる。護りは任せて構わないか」

「無論の事。……しかし、どうする」

「――試したい事がある」

 

 それだけ言ってミレイユは、今や八つまで増えた孔の直上まで飛んで来た。

 孔は当初より大きさを増し、そしてその分だけ巨体の魔物、強力な魔物が出現している。

 

 隣接する孔と接合し、より巨大な孔が作成されるまで、あまり時間も残されていないようだ。

 アヴェリンの焦りもそこにある。

 だからペース配分を崩してまで、自らが前線に立ち続け、少しでも有利な状況を維持しようとしていた。

 

 そして、孔に対する知識が豊富な、結希乃や隊士達の焦りも強かった。

 一度は巻き返した状況だが、これを維持するだけでも先は無いと理解している。

 次なる一手を欲しているのは、誰の目にも明らかだった。

 

 ミレイユは両腕を小さく開いて、左右の手を何度か開いては握り締める。

 オミカゲ様が言っていた様に、そしてミレイユ自身感じていたように、神へと変じた時、分かり易い変化というものはなかった。

 

 だが、神の自覚を持ち、願力が注がれるにつれ、身体の中へ魔力とは違う……別の力が満たされていくのは感じていた。

 それがつまり神力なのだろうが、この神力は神としての強さを高めてくれるだけでなく、権能を使う事にも必要な力だ。

 

 では、ミレイユが持つ権能とは何なのか――。

 昇神の直前、強く思うもの、強く願うものが形になるもの、なのだろうか。

 あるいはその人格、思想が色濃く出るものなのだろうか。

 

 オミカゲ様に顕現した権能、『集約』と『守護』を考えると、願いや思想が表出しているようにも思える。

 

 オミカゲ様は信仰を集め、昇神しなければならないと強く考えていた筈だ。

 そして孔を日本に呼び込んだ事から、その脅威から護らなくてはならない、とも考えていた筈だ。

 

 それこそが、オミカゲ様が得るに至った権能の正体、という気がする。

 とはいえ、それが事実かどうかは、神の身であっても予想するしかない部分だった。

 

 ――しかし、それならば、ミレイユの権能は……。

 握り締めていた右手を開き、神力を右手に集める。

 

 それは魔力の様に分かり易く燐光を発するものではなかったが、その力の奔流めいたものは、ミレイユ自身の目にもハッキリと映った。

 

 いざ権能を行使しようとすると、それがどういった力を持ち、どういった効果を発揮するのか、頭の中でハッキリとした形として浮かび上がる。

 

 ミレイユはある種の確信を持って、掌を孔の一つへと翳し、直接握り締めるように指を閉じる。

 軟球を握り込むかのような僅かな抵抗を感じるのを最後に、トマトを潰したかのような感触と共に、孔が砕けて消失した。

 

 それを見た隊士達と冒険者達から、ざわめきが起こる。

 ミレイユは立て続けに同じ事をやって、次々と孔を破壊して行けば、ざわめきは歓声に変わった。

 

「おおおおぉぉぉぉ!!」

 

 一つ孔を潰す度――権能を使う度、強い喪失感と共に力が抜けていく。

 だが、それと同じだけのものが、同時に注がれているのも感じていた。

 得るものより消費するものの方が多いが、それでも彼らが同じ思いを向け続けてくれる限り、ミレイユはこの力と共に戦う事が出来るだろう。

 

 神の力とは、あるいは人と共にあり、人と協調して使うべきものなのかもしれない。

 例えば、人の身だけではどうしようもない天災、そういった時に守ってやる為、人の努力を越える範囲の時、助けてやる為の力――。

 神が利己的に力を振るわず、人を甘やかす為に使うものでもなく、人事を尽くした後に手助けするのが、神の正しい在り方、という気がした。

 

 ミレイユは自分の在り方について考えを巡らせながら、休む事なく権能を振るえば、遂に全ての孔は消滅した。

 また新たに孔が生まれる兆候もなく、後は残った魔物を処理すれば完了だ。

 彼らの士気も、否が応でも増す。

 

「勝利だ! 勝利が目の前にある!」

「――焦るな! 確実に一体、処理する事を考えろ! 後方支援が来る前に、血気逸って飛び出すな! 足並みを揃えろ!」

 

 最後の最後、結希乃からも激が飛び、それに応じて声が上がった。

 慢心もなく、気を引き締めた彼らの確実な攻撃と連携を持って、遂に最後の一体まで追い詰める。

 

 その一体を相手にしているのは、七生とアキラ達がいるグループで、それも今まさにトドメを刺そうという場面だった。

 誰もが血だらけの奮戦で、特にアキラの傷は多い。

 

 常に皆の盾となって動いていたから、あの様な姿になっているに違いなかった。

 魔力を吸収する武器、そして護りと回復の刻印があって無茶した結果だが、流れ出した血まで刻印は拭ってくれない。

 

 最後の一体は、獅子を巨大にして二足歩行する様な奴だった。

 骨格としては熊に近いのかもしれない。

 まさに両手を広げて威嚇する様子は、それを彷彿とさせる。

 

 咆哮と共に右前足を振り下ろし、その爪を刀で受け止めながら『年輪』で防ぐ。

 横合いから七生が斬り付けたものの、厚い毛皮と筋肉が、深手まで負わせていなかった。

 

「――くっ!?」

 

 そこへ左前足を振り下ろしてところを、イルヴィが盾で受け止め弾く。

 懐が空いたところに槍を突き刺すと共に、その背を踏み台にしたスメラータが跳躍し、首に大剣を叩きつけた。

 

 だが、少し食い込んだだけで、深手には至らない。

 獅子熊は大きく口を開いて叫び声を上げると、口腔から炎を吐き出し、振り乱した。

 

「やっば!」

 

 スメラータは器用に空中で身を捩って躱し、肩口を蹴りつけて大剣を引き抜く。

 くるくると回転してアキラの後ろに着地すると、猫のようなしなやかさで着地し、身を低くして炎から守って貰う。

 そうして魔物を睨み付けつつ、次の攻撃タイミングを見計らっていた。

 

 だが、それより前に、七生が地面すれすれに走り込む。

 まるで顔が地面に付くような低さで接近し、炎を掻い潜って足首を斬り付けた。

 

 毛皮も薄く、筋肉も薄い地点は、七生の技量と神刀を持ってすれば、両断するのは容易かった。

 踏み付けようとしてか、足を持ち上げようとした魔物は、身体が横滑りするように倒れる。

 

 その決定的な隙を、イルヴィは見逃さなかった。

 背中を見せるかのような格好で身体を引き絞り、一拍の間を置いて、捻りを加えた一撃をその胸元へと槍を突き刺した。

 

「――オッ、ラァァ!!」

 

 最後には、やり投げのような格好で前のめりになり、手放した槍は魔物を地面へ縫い付ける。

 その時には、アキラの背中を借りて跳躍していたスメラータが、魔物の首に再び大剣を振り下ろしたところだった。

 

「いただきっ!」

 

 一度切り傷を付けた部分を目印として、再び全体重を掛けた一撃が振り下ろさる。

 地面までがっちりと食い込んだ刃は、その首に深々と突き刺さった。

 だが刃は、半分ほど斬り裂いたところで止まってしまう。

 首の骨の頚椎、そこに上手く挟まってしまい、動かなくなったのだろう。

 

 軽い体重のスメラータでは、それ以上動かす事できそうにもなく、一度引き抜くか、という一瞬の逡巡を見せる。

 そこへ別のチームからの声が掛かった。

 

「――どいてなッ!」

 

 誰の声だ、と確認する素振りもなく、素直に応じて大剣から飛び退く。

 その直後、スメラータより更に大きな大剣を掲げ、フレンが振り下ろしながら降って来た。

 

「だらっしゃぁぁああ!!」

 

 刃の上へ、自らの大剣を振り下ろし、大きな衝撃音が響く。

 まるで鎚と金床の様だ。途中で止まっていた刃は、それで一気に傾いて、魔物の首が両断された。

 スメラータの大剣は地面を深々と噛み、衝撃で飛んだ首が地面を点々と転がった。

 首から吹き出す血液は、大剣が盾になって周囲に撒き散らさなかったが、スメラータは不満そうな顔をする。

 

「いや、悪い。最後に手柄とったようになっちまって」

 

 巨大な大剣を肩に担ぎ直し、フレンは快活に笑う。

 アキラ達チームは苦笑いを浮かべたが、嫌だとは思っていない。

 もはや何体の魔物を屠って来たか分からない所為もあるだろう。

 

 誰が倒したかよりも、全てを倒したという事実の方が大事なのだ。

 それが誰の顔からも理解できた。

 

 そして、それを見守っていた隊士達、戦士達が喝采を上げる。

 ――勝利だ。

 誰が欠けても不可能だった、苦難の果ての勝利を、遂に手に入れた。

 そこへ、どこからともなく、一つの声が上がる。

 

「――勝鬨(かちどき)を上げろぉぉぉ!!」

『ウォォォォオオオオ!!』

 

 長く長く続いた、戦士たちと孔の戦いは、ここに終結した。

 



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螺旋の果て その2

ささきもり様、誤字報告ありがとうございます!
 


 ミレイユが喝采の中心へ降り立つと、アキラを始めとした戦士達が輪を作って集う。

 そこへ一際早く駆け付けたフレンが、荒い息を弾ませて晴れやかな顔を向けた。

 

「ミレイユ様! 御覧いただけましたかっ!」

 

 汗と返り血で汚れたフレンの顔には、隠し切れない歓喜と優越が浮かんでいる。

 それを見せられては、果たして最後の一撃も、見るに見かねてというより、狙ってやったように思えてしまう。

 

 とはいえ、勝利への貢献は、ここにいる全員が共有するものだ。

 この場全員の努力と献身なくして、あり得ない勝利だった。

 

「うん、見事だった。お前たち森の民――、そして冒険者達の助力に感謝する。……心から、感謝する」

「勿体ないお言葉!」

 

 そう言って、フレンはその場に膝を付き、頭を垂れる。

 彼女がそういう仕草を見せると、同じ森の民全員が同じ様に膝を付いた。

 

 隊士達も一拍遅れて続くのだが、取り残された三十名程の冒険者は困惑した様子で見守っていた。

 冒険者は己の腕一本で生きている、という誇りが強い為、基本的に恭順の意を示したがらない。

 

 だが、アキラが率先して膝を付いた事で、イルヴィはスメラータなどは、とりあえず形の上だけでもそれに倣う。

 あくまでアキラの顔を立てただけ、というのは挑戦的な視線からも見受けられた。

 

 だが、それに従わぬ者もいる。

 己の誇りを大事に思う者、単に権力者に媚びたくない者、その気持ちは様々だ。

 

 彼らとしては克己心を現しただけなのだろうが、それに我慢できない者達もいた。

 その筆頭がアヴェリンであり、フレンであり、そしてエルフの一族だった。

 

「頭が高いぞ、貴様ら! どなたの御前だと思ってる! 神の一柱を前にして、敬意というものも見せられんのか!」

「そうだ、我ら森の民の神となられる御方だ! 我らの頭上に戴く、偉大な御方だぞ!」

 

 

 彼らの熱の種類、その向け方には様々ある。

 エルフを始めとした森の民が、気遣う台詞よりも歓迎する台詞を口にしたのは、ミレイユが死ぬ光景など、最初から全く想定してなかった為だろう。

 

「ミレイ様! まず何よりも、ご無事で何よりでした!」

 

 アヴェリンもまた真っ先に膝を付いた一人で、感極まった表情で無事を言祝いだ。

 森の民は既に偶像を抱いていて、自らが戴く神と疑わない心中を吐露し、信仰心を爆発させているが、アヴェリンはその熱気に付き合うつもりはないようだ。

 

 だがそれは、これまで抑圧されていた信仰心が溢れた所為でもあり、そして空を飛んで現れたミレイユを認めた瞬間、全てを悟った所為でもあるのだ。

 その中にテオの姿も認めて、彼は周囲に合わせてしっかりと膝を付いている。

 良く来てくれた、良くやってくれた、という視線を向けると、それに気づいたテオが小さく笑って肩を竦めた。

 

 そうしている間にも、エルフ達は冒険者へと圧を高める。

 どう対応するのが正解か、ミレイユが思い悩んでいると、それを向けられた凶相の冒険者は、弱った様な顔を向けた。

 それでも、彼らなりの矜持故か、素直に従うのを良しとしなかったようだ。

 

「いや、そりゃあ……飛んでんだし、多分神だろうと思うけどよ……。でも、別に信仰してねぇ神だしな……」

「大体、ミレイなんて名前の神、これまでいたか?」

 

 胡乱げに顔を見せ合う冒険者達だったが、ミレイユとしてはむしろ彼らの対応は好ましい。

 とはいえ、これからはそうも言っていられなくなるのだろう。

 これからは、神の権威というものが嫌でも付随してくる。

 

 彼らが言うとおり、無名の神なのは事実なのだから、そういう態度も当然だろうと思う。

 だが放置すれば、それを快く思わない者の暴走を招く事態も有り得る。

 

 単に強いだけで偉そうだった魔術士時代と、同じ対応は許されないだろう。

 そこまで考え、無礼な、とエルフが吐き捨てる声で我に返る。

 今はこの場を取り直すのが先決だ。

 

「まず、皆の者、ご苦労だった。森の民も、今は一戦友として彼らを遇せ。つまらない諍いなど、この場で起こすものじゃない」

「はっ……!」

「……今は休めと言ってやりたいが、どうもそう言ってやる訳にはいかないようだ。結界が解かれるまで、警戒を怠るな」

「あれ程の爆発を受け、未だ倒し切れていないとお考えですか」

 

 アヴェリンはミレイユの懸念を、大袈裟と切り捨てるつもりがない事は分かる。

 そして、彼女の疑念も理解できるのだ。

 

 『禁忌の太陽』は、神であろうと滅すると思える程には、他に類を見ないほど強大で超大な爆発だった。

 アヴェリンの言葉で、他の者も『地均し』へと顔を向ける。

 上半身を消失して倒れ伏した姿は、誰の目にも打倒したと思えた事だろう。

 

 人型をしている所為もあり、身体の大半を喪失して倒していない筈がない、という常識的部分もその判断に加わる。

 あれが命のないゴーレムであると考えても、どちらにしろ質量の大半を失えば稼働しない。

 

 その観点で言うなら、確かに過剰な不安と映るのは当然だった。

 だが、『地均し』は大神の容れ物であり、鎧であり、乗り物でしかない。

 

 腹の底に隠れた本体を打倒した、間違いなく滅したと確認できるまでは、安心する事など出来ないのだ。

 そしてミレイユは、大神と呼ばれた創造神が、この程度で終わると考えていない。

 

 もしも、本当に滅びているというなら、それで良い。

 『禁忌の太陽』の爆発と衝撃力を、上空へ逃がしつつもぶつけられたのだ。

 無事である筈がない、あれで死なぬ筈がない、と思える。

 調べた結果、消滅を確認できたというだけなら、ただ不安に踊らされただけ、と笑って済ませられる。

 

 だがこの油断で負ける事になれば、笑えない話では済まされない。

 だからミレイユは、念の為以上の心構えで対処するつもりだった。

 

「まだ大神を倒せたという実感が、私に無い。実感を得られるまでは、死んでいないと見做す。……だが、孔への対処と奮戦は、壮絶なものだった。力の全てを使い切った者は、素直に退避し、休め」

 

 そう言ってから、念の為と思い、口添えしておく。

 隊士達は特に、理力が底をついていても、生身の盾として動こうとするから、釘刺しも兼ねて言い渡した。

 

「言っておくが、ここで離脱する者を詰る事は、私が決して許さない。そして、己の引き際を弁えない者を、私は軽蔑する。申告は素直にし、そして部隊を再編成しろ」

「――ハッ! 直ちに確認し、選別します!」

 

 代表して答えた結希乃に、ミレイユは顔を向けて頷く。

 

「急げよ。他の者は結界の外へ逃がせ。ここまで奮戦した勇士達を、無駄に死なせるな」

「御恩情、有り難く存じます! 即座に取り掛かります!」

 

 見事な姿勢で一礼した後、結希乃は隊士達を中心に、テキパキと何かを言い渡し始めた。

 それを横目で見ながら、ミレイユは次にアヴェリンへ向き直る。

 

「お前にも、随分と無理を言い渡したが……、良くやってくれた」

「ミレイ様の望む事を成すのが我が務め! 何程の事もございません」

「……うん。真に、大儀だった」

 

 アヴェリンが好む形で労ってやると、身体を震わせ頭を下げる。

 だが、言ったとおり、大神はまだ生きているという前提で、その対処に動かなければならない。

 

 今もこうして沈黙を保っているのは、そこに何か理由があると考えている。

 そして、こちらが勝手に死んだと判断して、このまま息を潜め、身を隠している可能性も考慮していた。

 

 神だけあってプライドは高いが、同時に生き汚くあるのは、既に証明済みだ。

 最終的に勝てれば良く、その為に『地均し』の中で何千年も隠れ続けるぐらいの事は平気でする。

 

 ならば、今この状況も、一時の危機から逃げ出す為に沈黙しているだけ、と考える事も出来るのだ。

 だが、鎧を失い露出している状態で、それを続ける事は難しいだろう。

 

 神には信仰が必要で、そして願力を受けられない神は脆い。

 その存続も危ぶまれると聞いている。

 

 最初は『地均し』の中で引き篭もり、蓄えていたエネルギーで活動するつもりだったろうし、地均しが完了した後、新たに神と立つつもりだったに違いない。

 そして、信仰を得るまで十分な余力と時間がある、という計算を元に考えていた筈だ。

 

 しかし、今やその計算は狂い、誤算に誤算を重ねた状況だ。

 信仰の獲得が成されなければ、大神とて消滅するしかなくなる。

 ただ逃げ延び、隠伏しているだけでは、いずれ本当の消滅を招くだろう。

 

 だから、ここでオミカゲ様やミレイユを排除し、新たな神として君臨しなければ、大神としても後がない。

 ここが勝負所だと、大神も理解している筈だ。

 

 ミレイユは『地均し』へと顔を向け、表情を険しくさせる。

 どこに居るか、隠れているか、と考えれば、やはりあの下腹部としか思えない。

 

 元より怪しいと思える部分を発見していたし、何より『禁忌の太陽』による威力が、そこで止まってしまっている。

 本来なら足の爪先まで全て、その爆発に飲み込まれて消滅していても可笑しくないのだ。

 

 下腹部が残った、というよりは、そこで受け止められたから残った、と考えるべきだった。

 ならば、直後に逃げ出していたり、引き籠もるのを止めていない限り、未だにそこにいる可能性は高かった。

 

 ――何故、ここまで無反応を貫くのかは分からないが……。

 勝負所と理解しているなら、起死回生の何かを仕掛けて来る為の準備をしている……そう考えるべきだろう。

 

 ミレイユ達が近付くまで……つまり、奇襲を仕掛ける最適なタイミングまで、ただ待ち構えているという可能性も拭えない。

 接近は慎重であるべきだった。

 

 ならばこそ、確認しておきたい事がある。

 ミレイユは再び、アヴェリンへと向き直り、右手を翳す。そして権能を使ってみた。

 

「アヴェリン、魔力制御をしてみろ」

「は……? ハッ、畏まりました!」

 

 一瞬の疑問も、ミレイユの命令なら否やはない。

 即座に見事な制御を繰り出し、周りの戦士達が感嘆とも、畏怖とも取れない溜め息を零す。

 大きく損耗しているアヴェリンだが、それでも周りの戦士達を唸らせる程の力は残っていた。

 

 ミレイユは手を翳したまま権能を振るい、そしてアヴェリンは次の指示を険しい顔をして待っている。

 自分に戦う力が残っているのか、それを見定められている、と思ったのかもしれない。

 だが、ミレイユが確認したい事は別だし、そしてそれは既に終わっていた。

 

 ミレイユは権能を確かに使い、そしてアヴェリンには、全く何の効果も発揮しなかった。

 期待していた結果と違ったが、自分の権能に対する理解は深められた。

 

 暫しの沈黙がおり、近くにいたアキラも、その行動に疑問符を顔に貼り付けていた。

 丁度良いと思い、アキラにも手を翳しつつ尋ねる。

 

「お前は今も刻印の影響下にあるか?」

「え、……あ、はい! 『年輪』は今も効果を発揮しています!」

 

 その返答に満足気な顔で頷くと、同じ要領で権能を使う。

 だが、やはり何の効果も発揮せず、アキラも自分が何をされたのかと、肩や腹部へ目を向けた。

 

 ミレイユの権能が、彼らに一切の影響を与えない――。

 それを確認し、そして納得して手を下ろす。

 

 自分の権能がどういうものか、それは殆ど本能的に理解していたが、それが事実としてどう働くのか、その確認を済ませておきたかった。

 

 そして、思い描いていたものと多少違いつつ、その効果の確信を得られた。

 ――ならば、ミレイユは大神に勝てる。

 

「アヴェリン、私の一振りの武器よ。お前も共に来い。大神の鼻っ面を殴り飛ばせ」

「ハッ! 必ずや、お望みの結果を献上致します!」

 

 アヴェリンの興奮と熱意、そして戦意に溢れる返答を受け取る。

 また別の場所からは、アヴェリンと良く似た熱意が向けられていて、そちらへもチラリと視線を向けて命じる。

 

「――アキラ、お前は別にいらないが……」

「え、えぇ……? そんな、最後まで盾として役目を果たさせて下さい!」

「私の予想じゃ、もう……。いや、そうだな――お前は盾だった。いいだろう、ついて来い」

「は、はいっ! 勿論です!」

 



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螺旋の果て その3

 ミレイユがアヴェリンとアキラを伴って、オミカゲ様の元へ戻ろうとした時、二人以外にも随伴したいと申し出る者は居た。

 

 フレンはその筆頭だったし、イルヴィやスメラータなどは、チームとして動くべきという主張から願い出たものだったが、素気なく却下した。

 チームで、という話なら、ミレイユ達もまたチームとして動くつもりでいる。

 

 ただでさえ即席のチームとしての側面は免れないが、一つを許せば他も許しを求めるだろう。

 纏まりの無い集団を形成したところで、運用できなければ意味がない。

 

 それに、ミレイユはもしもを考えて彼女らを残した。

 結希乃に部隊の再編成を命じたのも、その為だ。

 

 戦いはまだ決着してないし、どういう事態になるか予想が付かない。

 だから、もしもの備えを用意しておかねばならなかった。

 

「今の内に水薬を飲んで、スタミナなどの回復を計っておけ」

 

 二人が頷いて水薬を口にする傍ら、ミレイユもまた魔力回復の水薬を口に含む。

 もっと早くに思い付いていても良かった、と後悔しながら二人から離れ、膝丈ほどの低い位置で、滑るように飛びながらオミカゲ様の隣で制止した。

 

 彼女もまた同じ高さで浮いては、『地均し』を睨み付けるように警戒していたので、自然と肩を並べる格好になる。

 ミレイユの接近に気付いたオミカゲ様は、視線は『地均し』に固定したまま、悪戯好きそうな笑みを浮かべた。

 

「……ふむ。そうして浮いているという事は、神として意識する部分があるという表明か?」

「馬鹿を言うな。加減や勝手が分からなければ、空中戦など出来ないだろ。今は慣らし運転しているところだ」

「あぁ、然様……。足を動かすほど自然に出来る事とはいえ、巧みに動かすとなれば勝手が違う。今の内に、少しでも慣れておくのは必要であろうな」

 

 走る、という動作はごく自然にやっている事だが、速く走る為には、そのメカニズムを知る事が大切だという。

 単にがむしゃらに速く足を動かせば良いのではなく、その姿勢から膝の上げ方、腕の振りまで、多くの部分を気にする必要がある。

 

 神が宙に浮く、そして空を飛ぶ事についても、走る事と似たような部分があるのだと、ミレイユは早々に感じていた。

 浮くことは難しくない。滑るように飛ぶ事もまた、本能的に理解できた。

 

 しかし、『地均し』戦でオミカゲ様が見せた空中機動や回避などは、今すぐやってみせろと言われても不可能に思えた。

 出来ない事を、命を秤にかけて行うくらいなら、素直に盾を張るか、護って貰う方が賢明だ。

 

 しかし、備えておく事は重要と思うから、出来るかどうか別にして、今は準備運動ぐらいのつもりで浮いている。

 その必要さえ無ければ良いのだが、と思いながら、同じく『地均し』を睨み付け、オミカゲ様へ尋ねた。

 

「……それで、動きは?」

「無い。我とて案山子に非ず、出来る事はやっていた。調べた限りでそれらしい動きもなく、また円盤の所在も不明であるな」

「破壊できていたら良いんだが……」

「期待は出来る。『地均し』を構成していた歯車、それらと円盤は同じ素材で出来ていたように見えた。魔術や魔力に対して強い耐性を持っていたのは疑いようも無く、そしてそれらの大半は『禁忌の太陽』で消し飛ばせた。そうであれば……うむ、破壊できたと考えられる。だが、そこまで都合良く考えるのも不健全であろう」

 

 ミレイユも同じ事を考えていて、苦い顔をしながら頷く。

 

「あれに巻き込まれていたとしたら、破壊されて欠片すら残らないだろう……が、今も残っていると考えて動くべきだな。もう無いと考えて、不意を打たれる方が余程マヌケだ」

「うむ……。ユミル、そちらから何か感ずるものは?」

 

 オミカゲ様が横顔を向けると、それまで魔術を行使していたユミルが、解除と共に肩を竦める。

 

「無し。何も無しよ。反応も無ければ、動きも無し。何かが稼働するような音も無いしね。円盤の事はアタシには良く分からないけど、()()()()()も見つけられなかった、と報告しておくわね」

「……然様か、ご苦労。だが逆に、何も感知出来なかったというのなら、『地均し』こそが怪しい、という話になろうな」

 

 ミレイユもユミルに労うつもりで片手を挙げ、それから顔は向けずにオミカゲ様へ問う。

 

「やはり、そう思うか? 私も、沈黙こそが不自然と思っていた。『地均し』の下腹部に隠されていたアレ。そこが本体を格納している場所で、だからこそ『禁忌の太陽』の威力すら止められていた、と考えているんだが……」

「あの爆発から身を守れる手段があったのだ。それが権能にしろ、他の何かにしろ、円盤を守ろうとしたのなら今も何処かで残存しておるだろう」

「魔術を無効化しているように見えて、高い耐性でそう見えていただけ、というのは良くある話だ。私にも生半な魔術なら、同じ事が出来るしな」

「無効化とは、つまりそういうものであるしな。本当の意味で、どの様な高威力であろうと弾ける、とはいかぬもの。……とはいえ、あの頑丈さは、実際大した物であったが」

 

 だからこそ、早々に物理攻撃を試す事に意識を切り替えたのだ。

 だが、オミカゲ様が鍛えた神刀、そして攻撃に特化した付与がされた逸品でも、表面に傷を付ける事しか出来ていなかった。

 

 魔術攻撃に比べ、物理攻撃はまだしも通用する。

 どの様な攻撃も満遍なく防ぐのか、それとも斬撃に対して特に強いのか、そこの見極めは出来ていない。

 

 だが、物理攻撃がとりわけ有効であるのなら、アヴェリンほど頼りになる()()もない。

 ミレイユが信頼と共に視線を向けたその時、地響きが起こった。

 

「む……!」

 

 震動が僅かに起こり、身を震わせる。

 それは地面から起こるものでなく、大気を――或いはマナを震わせるものだった。

 何だ、と思っても、事ここに至って、未知の動きがあるのなら、考えられる候補は多くない。

 

 震源は『地均し』にあるのだと、すぐに分かった。

 まるで大気そのものが慄く様に、恐怖に身を竦ませるかの如く震えている。

 その震動が大きくなると、注目を向けていた『地均し』の下腹部から、どろりとした黒い液体が漏れ出てきた。

 

 ――嫌な予感がする。

 泥に良く似た黒い液体には、非常に見覚えがあった。

 

 デイアートで世界を覆い尽くさんばかりに溢れた、黒泥……それとよく似たものを感じた。

 だが、目の前にあるものには違いもあって、色味が赤黒く見える点、気泡を発していない点が挙げられる。

 毒ガスを噴出する気配も、今のところはない。

 

 しかし、それが単なる性質の違いなのか、それともこれから変化を起こすのかまでは分からない。

 同じように険しい視線で睨んでいたアヴェリンからも、緊張した声が発せられる。

 

「ミレイ様……!」

「分かってる。あれは触れるもの全てを溶かす毒……。その筈だが、どこか様子も違う」

「何を知っておる? あちらの世界で見て来たものか? 我は見た事もないが……」

 

 そうだろうな、と思いながらミレイユは頷く。

 あれは神域へ辿り着き、神処を攻め込み、オスボリックが封印を解除しない限り、世界に溢れ出て来ないものだ。

 オミカゲ様が知らないのは無理もない。

 

「あちらでは、神が権能を持って封じていたものだ。大神の死骸とも言っていた、が……。いや、待て。つまり、そういう事か……?」

「大神が持つ権能の一つに『生命』ってのが、あったわねぇ……」

 

 ユミルがミレイユの推測に、一つの推測を重ねて顔を顰める。

 不満をありありと浮かべた表情で、腕を組んでは溢れてくる黒い粘体を睨んだ。

 

「あれは権能を使って、今まさに作られている最中の生命なんでしょうよ」

「泥を捏ねる様に、という発言……奴らの口から吐かれていたな。単なる比喩表現と思っていたが……、見たまま起こしたままの事を口にしていただけだったのか……」

「自身の権能を持って、己の肉体すら創っていた……のかも。そして、脱ぎ捨てたその肉体が、あの黒い泥に戻った……。そう考える事が出来そうだけど」

「そして、それが腐る事で、あらゆるものを犯す毒になったと? あるいは、脱ぎ捨てた時に、そうなるように創り換えたのかもしれないが……」

 

 そこからは憶測にしかならないので想像する意味もないが、大神が作り出せる事は、目の前の光景からして明らかだ。

 あれが最初から全てを犯す毒として生んでいる最中なら、地面に触れた途端、腐らせていなければ道理に合わない。

 

 表面的な色、毒ガスを吹き出していないところを見ても、形振り構わず全てを破滅させる毒でない事だけは確かに思えた。

 それに大神の目的は、世界を破壊させる事でも、毒で腐らす事でもない。

 

 世界を作り直し、そこから得られるエネルギーを取り込む事だ。

 謂わば捕食活動こそが目的であり、そして、そうする前に破滅させてしまえば、得られる信仰も同時に消える。

 

 信仰を得られない神は脆い。それは大神とて例外ではないから、今も起死回生のつもりで行動している筈だ。

 ミレイユ達を殺す為に世界も破滅させると、それは自らの破滅も呼び込む事になる。

 

 もう駄目だ、と死を覚悟した時には、何をし出すか分からないが、今この時はミレイユ達を打倒する為に動いている筈だった。

 ミレイユはつまらなそうに荒々しく息を吐き、そうして腕を組んで顎を上げた。

 

「あれは神処で見た毒とは違う。私達を殺す為に作られた、新しい命だろう。……やけに静かだと思っていたが、これを創っていたからこそか」

「あるいは、あれこそが大神の新たな身体なのかもね。それが形作るところを、見せられているのかも」

「新たな神の誕生を、しかとその目に焼き付けよ、という訳か。……まぁ、暢気に待ってやる義理もないな」

 

 攻撃を仕掛けてやりたい、と思いつつ、ミレイユの魔力は未だ回復からは程遠い。

 上級魔術の一つ、消耗の少ないものなら撃てそうだが、それでまた空になるのも嫌だった。

 

 オミカゲ様はどうだろう、と思っても、やはり全てを損耗したばかりでは、回復量もミレイユと大きく変わらない筈だ。

 だが、完成するまで待つ事が悪手だと、この場の誰もが分かっている。

 

 かといって、あの泥を殴り付けて効果があるか、と思うと疑問に思えた。

 毒はないと予想したが、それが確かである保障もない今、とりあえず殴って来いとも言えない。

 

 どうするべきか、と迷っている間に、ユミルが『雷撃』の魔術を完成させた。

 とりあえず様子見する時に、彼女が好んで使うものだ。

 それを両手にそれぞれ紫色の燐光を纏わせて、窺う様に顔を向けている。

 

「様子見なら、とりあえず撃ち込んでしまえば良いでしょ」

「……うん、流石に吸収はないだろうしな。……ないと思いたいが、やってみないと分からん事か」

「だから、損の少ない初級魔術使ってんでしょ?」

「そうだな。――いいぞ、やれ」

 

 ミレイユが顎を動かすと同時、ユミルが右手を突き出し魔術を放つ。

 紫色の雷光は、一直線に泥へ突き刺さり、そして周囲に帯電が広がった。

 バチリと音を立てて発光し、波が広がる様に全体へ伝わったが、それは吸収している様にも、また弾いているようにも見えなかった。

 

 敢えていうなら、全く効いていない、と見るべきだった。

 もう一つの手にあった雷撃を放っても、やはり同様の効果で、意に介していないように見える。

 

 電撃は命中と共に広がっていたので、無効化はされていない。

 そして、吸収もされていない、という事だけはわかった。

 ただ、威力が低すぎるからの結果なのか、高威力でも変わらないのかは、更に攻撃しなくては分からない事だ。

 

「まぁ……、無駄じゃなかったわね。吸収されないと分かっただけでも有用よ。属性による違いも、今の内に知っておきたいわね」

「負け惜しみにしては、良い言い訳だったな」

 

 アヴェリンが小馬鹿にした様な笑いを浮かべ、ユミルが額に青筋を作る。

 アキラが頭痛を堪えるように顔を歪ませた時、泥の方に大きな変化があった。

 

 表面がブツブツと泡立ち、次の瞬間には膨れ上がる。

 まるで風船に空気が吹き込まれたかのような、急激な変化だった。

 

 一度大きく膨らむと、そこからは粘土を捏ねるかのように姿が形成されていく。

 魔術攻撃の一つを受け、尻尾に火がついたのだろうか。

 急速に形作られていく生命を横目に、ミレイユも出し惜しみする状況じゃないと、魔術の制御を迅速に始めた。

 



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螺旋の果て その4

 赤黒い泥は急速に形を変え、なんらかの動物の姿を取ろうとしているように見えた。

 身の丈は民家より大きい程度で、八房より頭一つ分高く、横幅もそれに応じて広い。

 

 いつの間にかオミカゲ様の傍までやって来た八房と見比べれば、やはりその感想に間違いなかったのだと実感した。

 

 オミカゲ様は威嚇しようと身を屈めた八房を、小さく手を挙げて抑えている。

 ミレイユの肩にいるフラットロも、それに釣られてか、あるいは真似してか……同じ様に威嚇を始めた。

 その鼻筋を撫でて諫めながら、ミレイユは八房へと横目を向ける。

 

 魔術が無効化されるとしたら、精霊の力はそれほど効果的でないと分かるが、噛み付く拘束力は役立つかもしれない。

 だがそれも、吸収されないと分かってから試すべき事だ。

 

 先程の魔術は吸収されていなかったが、大陸一つを飲み込める程の泥を一度見ている身の上としては、全く安全材料になっていない。

 何が出来るか、何をするか、それを見極めるまでは、軽々しく八房やアヴェリンを突撃させたくなかった。

 

 ――それもまた、状況次第だろうが。

 ミレイユは、苦々しく思いながら泥を見つめる。

 

 誰もが消耗激しく、余裕のある者は誰一人としていない。

 戦闘続きで体力、魔力だけでなく、気力まで疲弊している。

 

 気力の消耗は分かりづらく、そしてもう駄目だ、と思う時には昏倒する時だ。

 ここにいる誰もが――、今も残っている隊士達や戦士達も、更に多くの時間、戦える訳ではないだろう。

 

 結界維持のタイムリミットを五分と考えているが、それより長い時間は、彼らも戦えないと思っておくべきだった。

 ミレイユが考えを纏めていると、横合いからユミルが確認してくる。

 

「――どうする? もう少し、大きめの魔術でも撃っておく?」

「お前の方に、余裕はどれ程ある?」

「……まぁ、それとなく分かるでしょ? 中級魔術でも、あと数発ってトコ……」

「そうだな、そうなるか……」

 

 ミレイユは小刻みに頷いて、小さく手首を上下させる動きで、無駄撃ちは控えるよう指示する。

 自力でマナ生成できるような反則的な存在でなければ、戦闘中に実用レベルで魔力の回復など見込めない。

 

 同じ無駄撃ちでも、ミレイユならばまだしも取り返しが付くだろう。

 そう思って、とりあえず『爆炎球』を撃ち込むと、着弾と共に大爆発を起こした。

 自分自身でさえ驚く破壊力に、その爆風から身を護る為に手を翳す。

 

「ちょっ……と! 何てモン撃つのよ! 手加減しろとは言わないけど……っ! こんな近距離で使うもの!?」

「あぁ、いや……」

 

 アヴェリンはしっかり腰を落とし、盾で爆風から身を守っていたが、アキラは刀を地面に突き刺し、吹き飛ばされないよう踏ん張っていた。

 

 アキラも戦士としてはそれなり以上の実力だが、たたらを踏むだけでは済まないところに、魔術の威力を物語っている。

 

 ミレイユが使ったのは、普段から良く見せる魔術に過ぎなかったのに、それと気付かない程、高威力の魔術となっていた。

 昇神する前と後では別物、という様な話は聞いていたものの、ここまでとは思わなかった。

 

 単に頑丈になるだけでなく、様々なところまで強力になるものらしい。

 全く実感がなくて分からなかったが、魔力もまた相当に底上げされているようだ。

 

 神々は、己の権能に自信があるからか、あるいは誇りとしているからか、魔術を使わない戦闘ばかりだった。

 だが、むしろミレイユの戦闘経験から考えると、権能を使う事の方に違和感がある。

 

 魔力の回復力は早いとはいえ、短期決戦の間に使える回数は多くない。

 一度か二度、それぐらいが限界だろう。

 

 まさか味方を巻き込む魔術を使う訳にはいかないから、その内容にも気を配る必要がある。

 接近戦が出来るなら、少しは楽なのだが――。

 

 そう思いながら爆炎で発生した煙が、風で流れていくのを睨んでいると、その下から肩口を大きく抉られた獣が姿を現した。

 

 粘性を持っている故か、抉れて取れた部分の肉が、やはり粘り気のある線で繋がっては足元で揺れている。

 四足歩行をしているから獣の様に思っていたが、煙が完全に晴れると、それは全く獣の様には見えなかった。

 

 まず、でっぷりと腹が膨れて、頭へ近付く程に細くなり、全体のバランスが取れていない。

 そのうえ手足は細く、歩くのにも、何かを掴むのにも苦労がありそうだ。

 何より顔の作りが奇妙で、牛さえ丸呑みに出来そうな大きな口と、その上には四対八個の眼を持っていた。

 その目全てが憎々しく歪み、ミレイユの事を睨み付けていた。

 

 そして胸元には見覚えのある光球が四つ、泥を透過して見えている。

 あの中に、円盤が埋め込まれていると考えて良さそうだった。

 

「……醜い。何て醜悪な姿だ。その姿こそ、お前の本質か? 汎ゆるものを喰われずにはいられないか」

「強欲の権化……。あるいは、その様に定義された所為なのかしらねぇ……? 作ろうと思えば、見栄えの良い身体ぐらい作れたでしょうに。……それとも、自棄のつもりなのかしら」

 

 ユミルも呆れた声を聞かせるつもりで言い放ち、それから侮蔑の視線を向ける。

 そこへ、オミカゲ様が鋭い声で断じた。

 

「どちらでも良い。この世に仇を成す存在は、我が決して許しはせぬ」

「そうだな。全ての元凶、数多のミレイユ、数多の悲劇を作った元凶だ。――ここで終わらせる」

 

 ミレイユの宣言が、嚆矢となったかの様だった。

 大神は大きく口を開けると、唾を飛ばして咆哮する。

 

『ぎぃぃぃああああああ!!』

「……言葉すら失くしたか?」

 

 その咆哮は、恫喝というより悲鳴の声に近かった。

 その声が、老若男女全ての声が合わさり、不協和音を奏でている。

 

 単に怒りで我を失っただけかもしれないし、だからこそ成形された肉体も、考えなしで作られたもなのかもしれない。

 だが、だからこそ、考えなしで暴れられるのは怖かった。

 

 損得も失敗も、危険すら考慮に入れず、暴れる事のみ考えられては手が付けられなくなる。

 野生の獣程度には考える頭を残して欲しいと思っても、今も抉れた肩が望み薄と告げていた。

 

 痛みがあるなら、躊躇もあるだろう。

 だが今も、地面に接触しない上で肉塊が揺れているのだから、肉体の損壊にすら興味がないのかもしれない。

 

 遂には肉塊と体と繋がっていた線が切れて、べちゃりと音を立てて地面で潰れる。

 本体に戻すつもりか、あるいは消滅するか、どちらだと見守っていると、泥は暴れるように形を乱暴に変えた。

 

 そして、そこから虫とも魚とも、獣とも取れない奇妙な生き物が生まれる。

 およそ生命への侮辱としか思えない造形をした、おぞましい化け物が、大口を開けて飛び出して来た。

 魚類の様な大きな目は殺意を漲らせ、明らかに目標をミレイユと定めている。

 

 ミレイユは宙に浮いているとはいえ、膝丈程の高さでしかなく、逃げようと思えばもっと高くへ逃げられる。

 だが、それより前にアキラがミレイユの前へ躍り出て、刀を構えて迎え撃とうとした。

 その心構えは嬉しいが、アキラより早く動いたアヴェリンが、奇妙な化け物をそのメイスで叩き潰す。

 

 頭を損なえば動きも止めてしまうらしく、更に体躯へ一撃を叩き付けると、体も潰れて泥へと変じた。

 そして、そのまま地面へ染み込むように消えていく。

 

 頭を潰した際に、辺りへ飛び散った体液や肉片も、同様に泥へと形を変えて掻き消えていった。

 どうやら前提として、デイアートの神処で封じられていた泥とは、別物と考えて良いらしい。

 

「……見たか、ユミル。どう思う」

「そうね……。『生命』の権能を用いて作られたからには、あの泥が生命そのものと見て良いのかも……。腕から生まれた敵は雑魚だったけど、下手に切り崩すと厄介なコトになるかもね」

「毒にならないと思うか?」

「そこまでは分からないけど……」

 

 そう言って、難しそうに首を捻り、腕を組む。

 

「毒に出来るというのなら、化け物がやられた時、毒に変じさせたんじゃないかしら。あれが本体に戻るというならまだしも、単に消滅しただけに見えるし……」

「そうだな、肩の抉れた傷跡は、未だそのままだ。治すつもりがないのか、治せないのか……。あるいは、化け物が喰らったものを吸収する事で、己に還元できるのかもしれないが……」

 

 ミレイユの予想に、ユミルは鼻を鳴らして同意する。

 

「それって十分、有り得そうよ。そうやって、どんどん強大に……巨大になって行くつもりかもね」

「面倒な……。『地均し』を脱ぎ捨てたとも思ったら、今度は泥の鎧で身を固めるか……」

「――ですが、ミレイ様」

 

 そこへ前方への警戒を怠らないまま、アヴェリンが口を挟んで来た。

 進言の許可を求める視線を向けて来たので、それに首肯して促す。

 

「泥から生まれた怪物は、非常に脆いものでした。動きは素早く、力も強いかもしれませんが、身の守りは脆弱です。対処は容易でしょう」

「なるほど……」

 

 ミレイユは、攻勢に移るつもりか、動き出した大神に目を留める。

 それは余りに遅い、のそりとした蛙の様な動きだったが、何をするつもりか分からなくて怖い。

 動きそのものが鈍重ならば、こちらから攻める方が良さそうだった。

 

 そう思いつつも、戦士達へと視線を移す。

 彼らの目にも、あれはおぞましいモノとして映っているらしい。顔を引き攣らせる者もいたが、その多くは冒険者で、それ以外の者達は物ともしていない。

 

 エルフは元より森の民は、ミレイユと共に戦えると思い、奮起している。

 隊士達は言わずもがなで、醜悪なだけ化け物など、オミカゲ様を前にして無様は晒せないと、士気を高めていた。

 体力、気力共に余裕はないだろうに、それを感じさせないだけの英気に溢れている。

 

 残存戦力を整理させておいて良かった、と今更ながら思う。

 余力も多く残ってはいないだろうが、アヴェリンがそう言うならば、彼らにも協力して貰おう。

 だがその為には、やっておかねばならない事がある。

 

「まず、あの鎧を引き剥がす。小さく、少しずつな。――フラットロ」

「何だ! 何すればいい?」

 

 頬や首筋に鼻面を押し当てながら、手伝いたくて仕方ない、とアピールするフラットロの背中を撫でる。

 

「炎をやつにぶつけてくれ。効果がないなら、少しずつ威力を上げていくんだ。八房――隣のデカイ方とも、上手く強力してな。どういう威力が最適か、自分で上手く調節してくれ」

「難しいな。でも分かった! それ続けてればいいのか?」

「あぁ、私が止めろと言うまで」

「任せろ!」

 

 返事するや否や、肩から飛び出し八房の頭の上を旋回し始める。

 その姿を物珍しそうに見つめていたが、八房は鬱陶しそうに鼻息を出しただけで、構う様な真似はしない。

 

 ミレイユはオミカゲ様へと窺う様に顔を向ける。

 

「勝手に言ってしまったが、構わないか」

「問題なかろう。炎に弱い事は、先の一撃からも知れようと言うもの。問題は、削り落ちた肉片の対処だが……」

「アヴェリンが上手くやる。だが、隊士達へも流してやれないか。もしもの為に再編成させておいたんだしな」

「状況によってだな……。上手く防壁を張って、数の整理をしよう。こちらの意図が通ずれば、あとは阿由葉が上手くやろうよ」

「……なるほど、それもそうだな」

 

 結希乃は優秀な内向術士であると同時に、良き指揮官でもある。

 手早く部隊を再編成させた手腕といい、任せて不安のない人材だった。

 

 その彼女に目を向けてみれば、戦意を漲らせて、他の者達を鼓舞している最中だ。

 ここが最後の正念場、最後の戦い。それは誰もが実感として理解している事だ。

 ミレイユもまた戦意を漲らせ、右手を構えた。

 



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螺旋の果て その5

 ミレイユがフラットロに思念を飛ばし、接近する事なく攻撃するよう指示を出す。

 精霊は魔術を使う事はないが、火球を作り出して飛ばしたり、炎を爪などに纏って攻撃するなど、それと近しい事は出来る。

 

 その中で、フラットロは自分の身体そのものを火球にして、敵陣に突っ込むというような、直接的な戦法を好む。

 死の概念を持たない、精霊らしい攻撃方法なのだが、今回の様な敵には、用心して用心し過ぎるという事がなかった。

 

 喰らう事しか頭にない強欲の塊、という推測が合っているなら、精霊すら喰らい取り込む可能性がある。

 だから縦横無尽な移動砲台として動いて貰い、それで敵の体を少しずつでも削ってくれるように頼んだ。

 

 そしてそれは、八房と協力する事で、実際に少しずつ着実にダメージを与える事が出来ていた。

 おそらく、フラットロだけでも、八房だけでも威力に不足があったろう。

 

 だが、元は同じ精霊だから息の合った連携と、同じ箇所を寸分違わぬ精度で攻撃する事で、肉を抉る攻撃が出来ている。

 

 敢えて威力を抑えている訳でもないのだろうが、それで抉れた肉塊は、ミレイユがやったものより随分小振りだった。

 

 そして、それはこの場において正解でもあった。

 何しろ、その体から落ちた肉塊の大きさによって、生まれてくる怪物もまた違う。

 小型故に動きの素早い個体が生まれたが、強靭な牙や爪、外皮すらも持たない敵だ。

 処理する方としては、こちらの方がやり易いに違いなかった。

 

「次々に削れ! そして奴を、こちらに近付けさせるな!」

 

 細い手足を振り回し、時に骨格を無視して伸ばされる手だが、フラットロ達は捕まる様な愚を犯さない。

 常に飛び回り、だから捕まえる事も難しいとなれば、次の目標をミレイユ達に据えるのは必然だった。

 

 四対八個の目は、それぞれが別の動きをさせて敵を見定めているようだが、攻撃手段そのものを持たないように見える。

 牛を丸呑み出来るほど大きい口は、歯は生え揃っていても牙は無く、手足に爪は勿論、身体に針や棘の様なものさえない。

 

 直接的な攻撃手段を持たないのは、その外観から見て取れた。

 魔術を行使する様子を見せないのは、果たして使えないだけなのかどうか――。

 

『ぎぃぃぃああああああ!!』

 

 一際大きく、四重奏の不協和音で大神が叫ぶ。

 大きく開かれた口からは、唾だけでなく泥も混じっている様だ。

 色が近しい所為で、まるで血を吐くかのようだが、地面に付着するより前に姿を与えられ、より醜悪な怪物となって襲いかかって来る。

 

 フラットロ達が削る肉片より遥かに巨大な怪物で、最初に腕から生み出されたものより、更に大きく醜悪だ。

 牙や爪、至る所に生やした棘は、全身が凶器みたいなものだった。

 

 一直線にミレイユ達へ突き進み、防壁をものともせずに突進し、僅かな拮抗を見せた後、突破する。

 その突破力は大したものだが、防壁よりも巨大な壁が、ミレイユの前には控えているのだ。

 

「――フンッ!」

 

 アヴェリンが怪物の前に躍り出て、左の盾で容易に動きを食い止める。

 鼻面に押し当てた盾一つで、その突進を完璧に受け止め、左へいなすと同時に横面を殴り付けた。

 

 それ一つで凄まじい衝撃音が鳴り響き、一点突破の打撃と共に首が落ちる。

 怪物の身体が弛緩して崩れ落ちそうになり、それより前に体躯へ追撃し殴り付けると、その身体が二つに割れた。

 剣も使わず一刀両断にするのは、流石だと思った瞬間――怪物の身体に異変が起きた。

 

 割れた二つの身体は、それぞれが新たな怪物として生まれ変わり、アヴェリンを避けて左右からミレイユ目掛けて疾駆して来る。

 

「お任せをッ!」

 

 アキラが右から来る一体の前に、刀を構えて受け持ち、その攻撃を捌いて止めた。

 予想外の方向から伸びてくる棘も、アキラの刻印の前に無力化される。

 大口を開けて牙で喰らいつこうとしても、やはり刻印を貫く事が出来ず、その隙に刀を振るって両断した。

 

 そこから更に怪物が生まれるか、とアキラは警戒も顕に崩れ落ちた体躯へ刀を振るうと、どうやら杞憂であったらしく、そのまま土に溶けるように消えていく。

 分裂する事は可能であっても、何度も繰り返せる訳ではないらしい。

 

 もう一体の方へ目を向ければ、ユミルが四肢を削ぐ様にレイピアを煌めかせたところだった。

 四つの足すべて斬り落とされ、身動きできず蠢いている頭に魔術を撃ち込む。

 

 『炎の槍』と呼ばれる中級魔術だった。

 貫通した魔術が体を十二分に蹂躙すると、焦げ臭い煙を上げながら溶けて消えていった。

 

 一定以上の威力があれば、魔術も十分有効であるのは分かっていた事だ。

 だから、どの程度の威力が必要かを見ていたのだろう。そして、ユミルからすれば十分満足できる結果を得られたようだ。

 

「……ふぅん?」

 

 口角を上げて、満足気に消えていった怪物を見つめている。

 泥の塊であった時とは違い、まるで別物の存在である事は間違いなく、その時と比べれば、実にやり易い手合と感じるだろう。

 

 しかし、注意も必要だ。

 斬り伏せられ、容易に叩き潰せる脆弱な怪物だが、そこには喰らいつこうとする強い意志を感じる。

 

 時に魔物や魔獣は、攻撃のいち動作として咬撃して来る事は珍しくない。

 しかし、この怪物が見せるものは、その意図が異なるように感じるのだ。

 

 大神の体から切り離された肉塊、そこから生まれて来た存在だ。

 その怪物が喰らう事に強い執着を見せているからには、それには最大限、警戒すべきだった。

 

 そうしている間にも、八房とフラットロの攻勢は容赦がなく、次々とその体躯を削っていく。

 直接言葉として伝えた事でなくとも、この醜悪な怪物が、ミレイユ達を苦しませた仇敵――そして忌むべき敵と理解しているからだろう。

 

 直前に、死の淵まで追い詰められた事実もある。

 倒れ伏したミレイユ、力なく横たわるオミカゲ様の姿は、彼らにとっても許せぬものだったに違いない。

 

 それが苛烈な攻撃の原因だろう。

 次々と泥の鎧が肉塊となって、大神から零れ落ちるのは良いのだが、そこから変じた怪物の数が多くなり過ぎるのも拙い。

 

 オミカゲ様や隊士達が設ける防壁によって、ある程度向かう先を分散させる事が出来ているものの、捌ける数にも限りがある。

 戦士と隊士の前衛部へ突き進むには、まず距離があり蛇行するよう壁を設けられているので、そこに撃ち込まれる理術で数を減らされていた。

 

 だがやはり、小物ばかりといえど、疲れも見える彼らには難なく捌ける、というほど容易くはいってなかった。

 攻勢を少し抑えて欲しいと思うのだが、その苛烈な攻撃があってこそ、大神の行動を大きく削ぐ事も出来ている。

 

 体躯の体積が減れば減るほど、出来る事も少なくなるだろう。

 体積の減少は、勝利を知らせるパロメーターでもあった。

 

 しかし、勝利への渇望、仇敵への執念が、足元を救う原因になると、ミレイユは良く知っていた。

 今は受け持つ事が出来ていても、崩れるとなれば一気だ。

 実際に()()()()()()()その時、奴の体積が回復するような事になれば、目も当てられない。

 

 長期戦は奴に有利というならば、そこからが崩れる原因となるだろう。

 ミレイユは思念を飛ばして控えめな攻撃をするよう、指示を出す。

 隣を見れば、オミカゲ様も同じように指示を出したところだったようだ。

 

「攻勢が上手くいっている事は好ましい。……が、この勢いに付いてこれる者ばかりではない。慎重に事を進めて行ければ、それで良かろう」

「そうだな。勢いのまま走って、転んで痛い目を見る必要もない。……が、それだと奴に攻撃を許す隙が出来るな」

 

 ミレイユが見た先には、泥の身体の胸元で、見覚えるのある光が四つ明滅していた。

 既に体積の半分は失って、どこもかしこも穴が空き、歪な体型を晒している。

 

 だが、血が流れたりなどしない、泥の(からだ)だ。

 どれほど歪で、枯れ枝が風に吹かれるような虚弱な姿を晒していても、奴にはまだ奥の手が残されている。

 

 手足に武器を持たずとも、神の権能はそれ一つで、必殺の武器たり得る。

 円盤を動かしていた時も、ここぞとばかりに使っていたのだ。

 ここに来て使わない、もう使えない、という線は考えていなかった。

 しかし――。

 

「随分と出し渋るな。……これは、やはりエネルギー不足と考えて良いんだろうか」

「うむ、良かろうと思う。あの肉体の生成、『生命』の権能を使った事も、起死回生のつもりであったのは間違いなかろう。……醜悪に見える形である事も含めて」

「強欲の権化、その様にお前が定義したからじゃないのか」

 

 さて、とオミカゲ様は軽い調子で首を傾けた。

 オミカゲ様もまた、大神として十全な力を振るう為に作られた素体だ。

 そしてこの世界に根差す神でもあり、一つ先んじた神として、その口から出る言葉は重いのだと思っていた。

 

 だから、その口から出た言の葉で、その様に定義されたからと思ったのだが、オミカゲ様の考えでは違うようだった。

 

「そうであれば、もっと弱体化させる言の葉でもぶつけてやりたいが……、違うであろうな。あの姿は畏怖を呼び出す為にある。おぞましく、恐ろしい、嫌悪を露わにする形だが……それによって畏怖されれば、それとて一つの強い思いを向けられる事には変わりない」

「つまり、願力を欲した、と見てるんだな。純粋な信仰に比べたら劣るものでも、それを欲し、縋りたくなる程には、奴らは底が見えている……」

 

 何も思いを向けられないより、向けられた方が良い。

 そして強制的に向けさせるには、畏怖が最も手っ取り早い、という訳だ。

 デイアートの神々が、とにかく信仰を欲して取った行動と同じ理屈だ。

 

 うむ、とオミカゲ様は頷いて見せた。

 そうして、顎を上げ、蔑むような視線を大神に向ける。

 

「追い詰められておっても、まるで権能を使わぬ理由がそれだろう。我らと刺し違える事など考えておらぬなら、その後の事を考えて、エネルギーは温存せねばならん」

「強引に改変できる力も残されておらず、『地均し』も失い、全くの一から始めなければならない状況……。だが、まだその希望を残しているという訳だな」

「されど、我の愛しい隊士達は、あれを見た程度で竦んだりせぬ。強い敵意と、我と共に戦う強い意志でもって、必ず滅すると強く思う事だろう。畏怖が入り込む隙間は無い」

 

 オミカゲ様の言葉が只の願望でない事は、隊士達の顔付きを見てみれば、一目瞭然だった。

 そしてオミカゲ様が言うとおり、誰の顔にも戦意が漲っている。

 

 それと同様の事が、森の民にも起こっていた。

 ミレイユを神と崇められる喜びと、その神と戦列を共にできる栄誉を噛み締めている。

 

 そのどちらでもない冒険者からは、そうした強い熱意は感じ取れないが、魔物と戦う事が常である彼らかしても、そうした畏怖は感じ取れない。

 ――いや、と考え直す。

 

 魔物は見慣れていても、見るもおぞましい、嫌悪の塊みたいな生物には免疫がない様だ。

 イルヴィやスメラータなどは、変わらぬ戦意を維持しているが、そうした者ばかりでもなかった。

 

 実力的に彼女らに追い付いていない様な者には、その傾向が確かにあった。

 表情から見て取れる範囲では、一人か二人……五人にも届かない。

 

 それだけ少なくとも願力には変わりなく、微々たるものでも全くのゼロでもない。

 その僅かな畏怖で、大神の力としている可能性はあった。

 そのように頭の片隅で計算していた時、大神の方から動きが見えた。

 

 胸元の光球が激しく点滅し始める。

 それまで淡く明滅していた四つの光は、泥に遮られていた所為もあって、淡い光の点に過ぎなかった。

 それが今や、明らかにそれと分かる程、激しい光を発している。

 

「……使うつもりか」

「大それた事は出来ぬだろうし、盤を引っくり返すには遅すぎるという気もするが……」

 

 それでも、後が無いというなら、使うしかないのだろう。

 このままでは詰みの状況まで一直線だ。全てを削り取られる前に行動しなければならない局面だった。

 

 溜め込む事の出来たエネルギーがどれ程だろうと、挽回には必要というなら使うしかないのだ。

 だが、奴が権能に頼って攻撃する限り、我々の敗北は絶対に無い、という確信をミレイユは胸に秘めていた。

 



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螺旋の果て その6

 以前は見えなかった権能の力も、神となってからはその目にハッキリと映るものになった。

 『見えざる手』が右掌一つのみ出現し、それが外から大きく迂回して近付いて来る。

 

 何故、大きく外からなのかを考えれば、囮としての効果を期待してのものだろう。

 代わり映えのしない戦法――。

 

 掌に意識を向けた直後、『不動』の権能によって、ミレイユの身体は自由を奪い取られていた。

 掌の軌道はオミカゲ様を狙うものだが、回避する事はミレイユへの直撃を意味する。

 

 オミカゲ様の権能ならば、受け止める事も可能だろうが、そうすると切り離された肉塊が喰らいつこうと動くのだろう。

 

 フラットロ達の攻撃とは別に、自ら切り離して生まれた怪物が、オミカゲ様へと迫っている。

 回避するなら、そのままミレイユへと食いつかせるつもりなのだろうし、そうした場合、厄介な事になりそうだ。

 

 オミカゲ様は顔を向けて来て、どうして欲しい、と窺う様な視線を向けて来た。

 ミレイユは不敵に笑って返し、左手を挙げようとする。

 

 『不動』によって動けない筈の身体は、しかし、水の中を動くような緩慢な動きで実現する。

 そうして、そのまま振り上げた腕を一閃すると、拘束その物から開放された。

 

 次いで『手』に向かって右手を向けると、未だ距離がある中、握り込もうとする動作を取る。

 掌の中に生まれた弾力を無理やり握りしめると、僅かな間を置いて『手』まで無惨に潰れて消えた。

 

「な……、は……?」

 

 その様子を、オミカゲ様はポカンと見つめて動きを止める。そうして、キッチリ一秒後に再起動を果たした。

 だがその時には、アギトを見せて口を開けた怪物が迫っている。

 とにかく逃げようと身体を翻し、空中へ飛んで躱そうとしたところに、その上から『左手』が急襲して来た。

 

「――拙っ!?」

 

 今までは必ず片手しか見せていなかった事で、『手』は潰れたと思い込まされたのが原因だった。

 どちらかを避けようと思えば、どちらかには直撃する。そうしたタイミングの攻撃だった。

 だがせめて、とオミカゲ様は怪物から逃れて、自ら『手』に当たりに行ったのだが、触れる直前に、それすらミレイユが潰して消し去った。

 

「なんと……」

 

 オミカゲ様の呆れた様な独白は、この際無視する。

 怪物は獲物が追えない所まで逃げた時点で、その目標をミレイユに切り替えていた。

 しかし、その盾となるべく、いち早く動いたアキラが怪物の突進を受けとめ、次の瞬間には横っ腹をアヴェリンが殴り付けていた。

 

 二つに割れた身体から、やはりまた怪物が発生したものの、二人にとって敵でなく、問題なく処理して大神への警戒に戻る。

 そこにオミカゲ様が戻って来て、どういう事かと顔を近付けて来た。

 

「――つまり、それがそなたの権能なのだな?」

「そうだ。汎ゆる権能は、私を無力化できない。必ず『反抗』して突き破る。汎ゆる権能は、私に対して牙を向けない。必ず『挫滅』させて無力化する」

 

 ミレイユは大神に向けて、宣言するように朗々と言葉を並べた。

 

「『反抗』と『挫滅』、それが私の権能。そして、権能に対してのみ作用する権能でもある。――神殺しの権能だ」

「なんと、まぁ……」

 

 オミカゲ様から呆れたような声が漏れたが、次いでからりと笑って、大神へ顔を向ける。

 二柱の神に睨まれた大神は、ぶるりと震えたように見えた。

 

 四対八個の眼は忙しなく動き、新たな一手を模索しているようだが、動くのは眼ばかりで他には何も出来ていない。

 その間にも、フラットロと八房がその体躯を削り取っている。

 

「何ともお誂え向きな事よ。そして、恐ろしい神が誕生したものよな……」

「そう手放しに褒められるものでもないけどな。まだ向けられる信仰が少ない為か、余りに燃費が悪い。それに、権能とはもっと幅の大きいものと思っていたが……」

 

 言葉尻を落として、アヴェリンやアキラに右手を向けた時の事を思い出す。

 あの時にも権能を使っていたが、二人の魔術制御、そして刻印効果さえ無力化する事は出来なかった。

 

「あくまで権能に対するカウンターだ。大神に対して、抗え、挫け、と強く向けていた意志が、権能として顕現したからだと思う。神と敵対しない限り、余り意味がない力だな」

「だが、全てに決着を付けようとする今、これほど頼れる権能もあるまい。あの泥までは取り除けないのか?」

「燃費が悪いと言ったろ。反撃に使ってくるだろう権能を捌きつつ、泥まで排除は無理だ」

 

 オミカゲ様ほどの信徒を得られたなら、それこそ息する様に使って、それで決着と出来ただろう。

 だが、生まれたばかりの神でもあるのだ。

 向けられる信仰は、森の民から多数あり、そして不思議と日本人から向けられるものも多い。

 神宮にいる者達だけではなく、それより遥か遠くから向けられていると感じるものがある。

 

 ふむ、と一つ頷いて、アヴェリンやユミル、そして隊士達へ目を向ける。

 一通り眺め、そして現在、完封している様に見える光景に目を細めた。

 

「まぁ、良かろう。着々と削りつつある今、無理する必要もあるまいな。彼ら、彼女らに任せ、後ろで待つのが良かろう」

「彼らの活躍を奪い、神があくせく働くのも問題か?」

「然様。信頼でき、任せるに足る人材がおるのなら、それを使うのも上に立つ者の役目よ」

 

 確かに、そういうものかもしれなかった。

 アヴェリンなどは、ミレイユが万が一にも害されないと知って、怪物の処理に一層力を入れているようだ。

 

 アキラは盾としての役目を果たそうと、決して前のめりに出る事はなかったが、それでもアヴェリンの隙を突破した怪物を、決してミレイユまで届かせまいとしている。

 

 そして、今やこの二人を突破して、怪物がミレイユの元までやって来れないのは確実だった。

 ミレイユは右手を顎先に沿えて構えながら、大神の焦った様子を観察する。

 

 勝利は目前、詰みが見えた状況。反撃があろうと、覆せはしない。

 ここに至って恐ろしいものがあるとするなら、それはミレイユの油断だった。

 

 相手は長くを生きた神であり、創造神でもある。

 そして、たった一柱の傲慢な神ではなく、四柱で動く複合神でもあった。

 

 協力して目的を達しようとした時、信じられない爆発力を生む事は、ミレイユ自身が良く知っている。

 何か手の内を隠している、あるいは自爆覚悟の特攻も……可能性としては残されていた。

 最後まで気を緩める訳にはいかない。

 

 途中、何をするつもりか、大神から力の奔流を感じ取った。

 それが権能であると分かった瞬間、ミレイユは右手を突き出して握り潰し、形になる前に無力化した。

 

『――っ、ギィィィイイイイイ!!!』

 

 それが最後の反転攻勢だったらしく、悲痛な叫びを上げてのた打ち回り、癇癪を上げるかの様に暴れ回る。

 だがそれは、子供が手を振り回す程度の抵抗でしかなく、最早成すがまま体を削られていくだけだった。

 

 最後の最後、削られた肉体から生まれた怪物が消滅した時、水溜まりの様な薄く少ない泥と、その表面に浮かぶ四対八個の目だけだった。

 それぞれが違う動きでギョロギョロと視線を彷徨わせて、そしてそれを守ろうと、例の円盤が攻撃から庇う為に右往左往と動いている。

 

「ユル……シテ……、ユル……」

 

 男とも女とも、もはやどういう声かも分からぬ、か細い声だけが聞こえる。

 憐憫を乞う様な、実に慎ましくも悲しげな声だったが、ミレイユは一刀の元に斬り捨てた。

 

「そんな都合の良い話があると思うのか? お前は敵だ、お前を滅ぶすと決めた。そして私は、――やると決めたら必ずやる」

「殴り付けておいて、殴られてから、そのザマか。もはや願力も底を尽き、向けられる信仰もなく、放っておいても朽ちて消えていく定めであろうが……」

 

 そう言って、オミカゲ様は流し目を向けて来た。

 それを受け取り、ミレイユはユミルへ顔を向ける。彼女の顔にも当然、拒否が浮かんでおり、首を横に振っていた。

 ミレイユとしても同じ気持ちで、だからその返答を、アヴェリンに僅かな全魔力を支援魔術と変換して、叩き付ける事で答えとした。

 

「我が臣、我が一振りの武器よ! ――構え!」

「ハッ!」

 

 ミレイユの突然の支援魔術に目を白黒させていたものの、一つ命じれば即座に応じる。

 そして念動力を用いて、アヴェリンを遥か頭上へ持ち上げると、一瞬の滞空の後、落下速度に念動力の力を加算して、その()()を円盤に向けて叩き落とした。

 

「――砕け!」

「ハァァァァァアアア!!」

 

 裂帛の気合と共に、アヴェリンという武器が振り下ろされる。

 メイスが円盤に接触すると同時、耳をつんざく衝撃音が周囲に響いた。

 

 一拍の間を置いて、ピキリと何かが割れる音がする。

 次の瞬間には視界を覆う程の激しい閃光と爆発が巻き起こり、ミレイユは即座にアヴェリンを引き戻す。

 

 オミカゲ様が、その権能を用いて守護し、防壁も用いて爆発から身を護ってくれた。

 そのお陰でミレイユにも、アヴェリンにも怪我はない。

 肌が少々焼けたようだが、かすり傷と変わらない程度だった。

 

 オミカゲ様に続いて、隊士達も防壁を張ってくれたお陰で、それ以上周囲への被害もなく、そしてそれが彼らたち最後の力だった。

 

 隊士たちはその場で力なく膝を付いたが、未だに戦意に衰えはない。

 その中には、高齢の御由緒家前当主まで居て、老いたとはいえ、その実力を若者達へまざまざと見せつけていた。

 

 爆光と煙が晴れた後には、焼け焦げ二つに割れた円盤が残された。

 それの他には何も無く、泥の一片さえ確認出来ない。

 誰もが一息つこうとした瞬間、オミカゲ様から緊張を残した鋭い声が飛ぶ。

 

「結界! 即座に抹消終決!」

「ハッ! ――伝令! 即時、結界終決を! 結界の消滅と共に他も抹消する!」

 

 結希乃が復唱し、伝令に目的を伝える。

 誰かが踵を返して走り去るのと、オミカゲ様が改めて守護の権能を皆に使うのは同時だった。

 

「それは良いんだが……、私達は巻き込まれないんだよな?」

「普通ならされてしまう程、乱暴な結界解除の方法ではある。……が、そうさせない為、いま守護しておる」

 

 その言葉が嘘でない事は、身を包む権能から感じ取る事が出来る。

 そして、幾らもせず結界に動きが見えた。

 

 結界が割れるのではなく、縮小を始め一度始まると、急速な勢いで四方が迫って来る。

 不安な気持ちを隠しきれずにいたが、それを周りに見せる事もできず、ただ泰然と見えるように待った。

 

 そして壁が迫り、接触すると思うのと同時、風が通り過ぎるような軽さで結界が去って行く。

 次の瞬間には外の音が帰って来て、雲の流れや鳥の声などが耳に入ってきた。

 

 住人は避難しているから、街の喧騒が全く聞こえない事は不自然に感じるが、どちらにしても結界外へと出て来た事は間違いなかった。

 そして、結界の中心地と思しき部分、大神の円盤が残っていた部分にも何の反応もない。

 

「結界の消滅と共に、他も消滅させた……という事で良いのか?」

「普段からやっている様に、うむ……消滅した筈だ。此度は手動であるが故、そして術士達も万全でない為、どうしても粗がある。もし力ある者が残っているなら、突き破って出て来よう」

 

 それを聞けば、万が一を考えない訳にはいかなかった。

 ミレイユもまた円盤があった辺りを注視し、右手をそちらに向けて警戒する。

 痛いほどの沈黙が、十秒を過ぎた頃、オミカゲ様がようやく息を吐いて肩を落とした。

 

「……が、終わりだ。出て来ぬ。勝った……」

「勝った、か……。終わったか……」

 

 ミレイユもオミカゲ様の言葉につられて息を吐き、腕を下ろす。

 実感は湧かない。本当に終わったのか、と疑いたい気持ちも残っている。

 

 しかし、空の上には何者の気配もなく、ただ雲が流れていた。

 『地均し』の下半身も結界の消滅と共に消え、少々荒れてしまった庭が目に付くだけだ。

 神宮の一部は倒壊している部分もあるが、被害は少ないように見える。

 

 遠くから、鳥の囀りが聞こえた。

 あまりに平和な……、平和を呼び起こす囀りだった。

 

「終わったか……」

 

 ミレイユが顔を上げて、万感の思いを乗せて息を吐く。

 吐いた息は白く、それが緩やかな風と共に横へ流れた。

 一瞬の沈黙が漂った後、次の瞬間には爆発的な喝采が沸き起こった。

 



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螺旋の果て その7

『ウワァァァァア!!!』

 

 背後で起こった爆発的歓声で、ミレイユはようやく感慨が湧いて来た。

 自分の零した言葉だけで実感は湧かなくとも、彼らの笑顔や勝ち鬨で、現実感が増してくる。

 

 エルフと獣人達が肩を組んで喜び合い、隊士と冒険者が抱き合い、それぞれがそれぞれ、達成感と勝利の美酒に酔いしれていた。

 誰も彼も疲れ果て、精も根も尽きていていようと、喜びを顕にするとなれば、どこからか元気が湧き上がってくるようだ。

 

 大の字になって倒れ込んでいる者も多く見えるが、その顔には紛れもない笑顔が浮かんでいる。

 そんな中、傍らに立っていたアヴェリンが、ミレイユの前で膝を付く。

 栄光や尊崇、他にも様々な感情を綯い交ぜにして、ひたりとその相貌を向けてくる。

 

「ミレイ様、見事大望を果たされましたね。大量の敵、巨大な敵、そして強大な敵に対し、一歩も怯まず……。オミカゲ様から預かった想いを、こうも見事に果たした貴女様を、心から誇らしく思います……!」

「あぁ、アヴェリン……」

 

 ミレイユは溜め息を吐くかの様な、か細い吐息混じりにその名を呼ぶ。

 彼女は御大層に捉えて、ミレイユに美麗字句を送ってくれるが、そこまで大袈裟な理念を抱いて戦っていた訳ではなかった。

 

 何が原動力になっていたかというと、それは心の底から沸き起こる怒りだった。

 やられっ放しじゃいられない、殴られたから殴り返す――根底にあったのは、その程度の取るに足らない思いだった。

 

 現世の破壊と蹂躙、オミカゲ様の諦観……。

 それらを見逃せなかった、という点もある。

 そして何より、思いの根底にあったのは、神々の身勝手さと傲慢に対する怒りだったに違いない。

 

 ミレイユは、その真摯な相貌から視線を逸しそうになって、グッと堪えた。

 アヴェリンから向けられる手放しの称賛や、礼讃を受け取る事には気不味い思いがある。

 でも、この場で返す言葉と対応として、何が相応しいかはミレイユも良く理解していた。

 

 だから、言い訳染みた言葉を言うより、その瞳をひたりと見つめて大仰に頷いて見せる。

 尊大ではなく真摯に、その働きに対し、真摯な対応として神らしく振る舞うのだ。

 

「アヴェリン、我が臣。私が信頼する一振りの武器……。今回の働き、真に大儀だった。お前という臣を持てた事、それこそが誇らしい」

「み、ミレイ様……ッ!」

 

 アヴェリンの瞳にはみるみる内に涙が溜まり、泣き顔を見せまいとしてか、深く頭を下げて礼を取る。

 それに感化されたのかどうか、森の民もまた、アヴェリンの後ろに立って膝を付いた。

 羨望の眼差しであったり、尊崇、崇拝、向ける思いはそれぞれ違う。

 しかし、誰もがミレイユを神としてけ入れ、そして望んでいる事だけは共通していた。

 

 森の民が跪いた事で、冒険者もそれに倣う。

 ただこれは、形ばかり真似たというだけであって、敬意を向けるべき相手と状況だから周りに合わせたものだと分かる。

 

 そして隊士達もまた、オミカゲ様の前に立ち並び、それから膝を付いて頭を垂れるた。

 彼らは一様に整然として並び、そして跪礼を取る姿も美しい。

 

 長く神を崇拝して来た事、その礼式を尊んで来た歴史を伺わせる、堂に入ったものだった。

 それを一通り見渡したオミカゲ様は、ゆっくりと頷き、上品な笑みを浮かべて労う。

 

「我が隊士、我が子ら……我が矛と盾よ。真に大儀だった。此度の危難、惨事に対し、一歩も引かず戦った勇姿、我はしかと目に焼き付けた。そなたらの奮戦、子々孫々へ語り継がれるべき偉業。我の口からも、感謝を言祝ぐ」

 

 オミカゲ様の言葉で、隊士達が一斉に頭を下げる。

 中には感涙の余り、嗚咽を漏らす者までいた。

 そこへ最前列に並んだ、一際高齢の者や隊長格の者達へと目を向ける。

 

「御由緒家の者達よ、見事……その大任を果たしたな。長きに渡る忠労、大儀であった」

「ハッ! オミカゲ様が御出ましになる程の災禍の折、御心を乱す万難を排する事こそ我らの務め!」

「鬼を呼び込む災禍の大元は、ここに滅した。千年に渡る我らの戦いも、これで終わった……」

「ぉぉ……!」

 

 隊士達から、感嘆とも労苦の開放とも取れない、小さな感慨が起こる。

 だが即座に、許し無く声を上げた事を恥じる様に頭を下げた。

 その場に降りる一瞬の沈黙の後、深く……そして大きな溜め息が降りる。

 

「終わったな……。終わって……、終えてくれたか……」

 

 オミカゲ様がその視線を隊士達から逸し、次いでミレイユへと向ける。

 そこには感謝以外にも、重圧からの開放、全ての労苦からの開放、あらゆる喜びが混ざっているように見えた。

 

「そなたのお陰だ……。見事……、我の予想すら……期待すら飛び越えて、全ての決着を付けてくれた……。この感謝と喜びを、どう表すべきか、我にも分からぬ……っ!」

()()の為にした事だ。まぁ、色々と――」

 

 ミレイユは言い差して、両手を広げて自分の胸元を辺りを見つめる。

 それから、目尻に涙を溜めているオミカゲ様向かって、自嘲にも似た笑みを見せた。

 

「予想と違うものにはなってしまったが……」

「うむ……。しかし、感謝ぐらい素直に受け取って欲しいものよ。無論、それだけで済ますつもりも、毛頭ないが……」

 

 オミカゲ様が困り顔で笑った時、視界の端から、緩やかな歩調で近付いて来る一団がいる事に気が付いた。

 それは結界を維持していた巫女達、結界術士達で、赤袴の一団はそれだけで十分目立つ。

 

 そのうえ先頭には、紫袴を着用した一千華がいて、それを支えて歩くルチアもいた。

 隊士達の最後尾に跪礼しようとする巫女達だったが、そこから一千華とルチアだけは呼び寄せて、オミカゲ様の傍まで近寄らせる。

 

 隊士も巫女も、その礼式に違いはあっても跪く形だが、一千華はそれらとは全く違う対応で、手を握られなから直接言葉を受け取った。

 

「隊士達、そして異世界からの戦士たちも言うに及ばず……。だが、その中でも、本日の功労者達に違いない。よく耐え、よく維持してくれた」

「勿体ない御言葉です、オミカゲ様。直接、血を流して戦う訳では参りませんものの、共に戦う気持ちは変わりなく……。皆さんの奮闘を支えると思えばこそ、耐えられました」

「よく……、よくやって……。よく無事で……っ」

 

 只でさえ涙目だったオミカゲ様は、更に声にも嗚咽が籠もった。

 一千華は只でさえ高齢で、心身に掛かる負担は、辛いという言葉一つでは表わせないものだ。

 オミカゲ様はきっと、結界を託すと同時に、その死をも覚悟していたのだろう。

 

 残りの寿命が少ないことも察していたのだから、そうなる事態も当然考えられた。

 だが、一千華は皺だらけ、疲労の溜まった顔に、老人特有の柔和な笑みを浮かべて頷く。

 

「オミカゲ様の不撓不屈の精神と、そして散っていった仲間の為にも、一番良い所は見逃せませんもの。良い土産話を持っていきませんと……」

「そう、そうさな……。良い報告をしてやれる……。一千華……、そなたは特に良くやってくれた。特別に、褒めて取らす」

「勿体ない御言葉です」

 

 一千華がもう一度微笑むと、感極まったオミカゲ様が涙を隠す為か、その肩に顔を埋める。

 背中に手を回し抱き着いて、一千華もオミカゲ様の震える背中を優しく撫でた。

 

 抱擁は十秒と経たず短いものだったが、互いの気持ちを伝えるには十分な時間だった様だ。

 オミカゲ様が肩から顔を起こし、恥ずかしそうに微笑むと身体を離した。

 隊士達は頭を下げたままだから、その様子が見えた訳ではないにしろ、雰囲気から何があったかは予想してそうだった。

 

 オミカゲ様は一歩、一千華から離れると、次にミレイユへと身体を向ける。

 これまで厳格な表情を崩さなかった彼女にしては珍しく、はにかむ様な笑みを見せた。

 

「さて、憂いも失くなったとなれば、祝勝会を開かねばならぬ。奮闘を労い、共に勝利を分かち合わねば……! 隊士も戦士も、エルフも関係なく、一つの勝利を祝おうぞ」

「歓迎したいところだが……、いいのか? 緊急避難させた住民を家に帰すとか、片付ける問題はあるんじゃないのか。それに、『禁忌の太陽』による余波は、きっと付近の建物を破損させたぞ」

 

 決して万全の状態で放てた魔術とは言えずとも……そして、オミカゲ様が権能と魔力でもって防いでいたとしても、その爆発と衝撃力は広く伝わった筈だ。

 

 高い塀のお陰で外の様子は分からないが、窓の罅割れや住居の亀裂ぐらいで済んだとは思えない。

 オミカゲ様は既に予期していたらしく、動じる事なくそれに答える。

 

「無論、付近の住人は呼び戻さねばならぬし、あの爆発による被害があるなら補填せねばならぬ。しかし、それはそれよ。そこに大戦(おおいくさ)があり、そして勝者として立つ者がいるのなら、これを祝わねば始まらぬ。そうであろう……?」

「その理屈は最もなんだが……」

 

 ミレイユは周囲を見渡した流れで、そのまま一点を見つめて止まる。

 結界を消滅させるに辺り、多くのものを巻き込んでいった。

 

 『地均し』の下半身などはその筆頭で、それによって倒壊した建物や、その時抉れた地面なども、元通りになっていた。

 ただし、結界が破られていた間に起きた損壊については、そのまま残ってしまっている。

 

 庭の復旧は大変そうだが、魔物の死骸などは消えているので、その清掃作業がないだけ、まだマシというものかもしれない。

 しかし、結界に巻き込まれて消えたのは、何もミレイユの敵となるものばかりではなかった。

 

 デイアートからエルフたち森の民、そして冒険者などを引っ張ってきた、あの孔までが消えている。

 勝利を共に分かち合い、喜びたい気持ちに嘘はないが、彼らをどうやって帰すか、という問題があった。

 

 彼らからすると、少し遠い場所まで転移で飛んだ、という印象だろう。

 まるで文化の違う武具や建物を見れば、単に遠い場所ではないとも思っているかもしれないが、異世界という発想まではない筈だ。

 

 どうやって帰してやれば良いだろう、とミレイユは途方に暮れたい気分だった。

 彼らの奮戦や、労をねぎらうのは勿論だが、家に帰してやる事もまた、同じだけ重要なのだ。

 その懸念が解決しない限り、素直に喜び祝杯を上げる気分になれなかった。

 



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螺旋の果て その8

 ミレイユが視線を巡らせた方向で、オミカゲ様にも何が言いたいか、正確に伝わったらしい。

 そのまま口に出してしまえば、森の民と謂えど混乱するか絶望させるかしてしまう。

 

 互いにどうしよう、と顔を見て数秒、視線を巡らせたある地点に、キラリと光る物を見つけた。

 まさか、と思って念動力を使って引き寄せると、それは間違いなくミレイユの『箱庭』だった。

 どうやら戦闘のどさくさで、遠くに吹き飛んでしまっていたらしい。

 

「残っていてくれたか……。これがあるなら、孔が繋がる希望は持てるが……」

 

 まるでそれが、合図かの様だった。

 手を伸ばせば届く様な地点に孔が生まれ、そうかと思えば誰かが飛び出してくる。

 よく見知った魔力を感知したので、身構えるより前に声を掛けた。

 

「――ヴァレネオ、お前か。……いや、しかし、その慌てぶりはどうした」

 

 ミレイユが指摘したとおり、額には汗が浮いて、息も少し切れているようだ。

 表情には焦燥感が溢れ、居ても立っても居られない様に見える。

 

「あぁ、良かった……! ミレイユ様、慌てるのも当然です! 孔が強制的に切断されたのですぞ! インギェムは原因不明と言うし、ルヴァイルは涙して心配する始末! どうしたものかと、とにかく様子を窺う為に、こうしてやって来たのです!」

「それで、お前が……? 下手すれば死に役だ。よく来れた……いや、よく他の者が許したな……」

「ハ……、自制出来なかった己を恥じております。しかし、それほど心配だったという事です!」

 

 予想以上にミレイユが余裕を見せ、そして実際、周囲に脅威が無い事を確認した事で、ヴァレネオはようやく落ち着きを取り戻した。

 ルチアやエルフ達の姿を目に留め相好を崩すと、ミレイユに向き直り、肩を落として息を吐く。

 

「とにかく、ご無事で何よりでした……!」

「あぁ、心配を掛けた。こっちもな、帰還の手段をどうしたものかと困っていた所だ。そちらから来てくれたのは、素直に助かった」

「――では、お急ぎを。あまり長く維持出来ぬ様です」

「何……? そうなのか? 今すぐ……?」

 

 あまりに性急過ぎる提案に、ミレイユも流石に眉根を顰めた。

 戦勝と祝杯は、切っても切り離せない問題と言った、オミカゲ様の言葉は正しいと思う。

 本来は出会う筈のない者達が、手を取り合って勝利に導いた。

 

 オミカゲ様側としても、直接的な縁もなく援軍として駆け付けてくれた彼らに、礼を失する訳にはいかない。

 それだけでなく、相応以上の歓待をしなくては示しが付かない。

 

 そして体面以上に感謝の気持ちが強いから、それを形として現さねば、済まない問題でもあるだろう。

 ミレイユは少し考える仕草を見せ、それからヴァレネオへと尋ねた。

 

「因みに、即座の帰還をしない場合はどうなる? 二度と孔を開けない、という話にはならないと思うんだが……」

「そちらについて、詳しい事は何とも……。ただ、現状は無理して開いた孔であり、そして長時間繋ぎ続ける事が難しい状態であるのは確かな様です」

 

 インギェムは孔を開く時、三回目の使用は期待するな、と言っていた。

 現在がその三回目に当たる以上、相当無理して使ってくれた事は理解できる。

 

 熱心に信仰される神ではないから、神力の回復には時間が掛かるだろう。

 ミレイユが向けられる信仰の感覚からしても、インギェムの再行使まで、大きく時間が掛かるとは思わないが――。

 

 ミレイユは森の民や冒険者を見回し、それから不安定に揺らぎ始めた孔を見つめた。

 労をねぎらう必要はある。

 それは間違いない。

 

 だが同時に、今はオズロワーナも混乱の真っ最中の筈だった。

 混乱の只中にあり、被災者たちを救助する者達さえ、横から奪い取った形だ。

 本来ならば彼らの人力(マンパワー)や時間は、その世界の救助の為に使われる為のものだった。

 

 それを今も奪い続けているのだ。

 早く帰してやりたいし、帰って即座に働けなどと言うつもりはないが、彼らの助けは必要とされている。

 祝勝は大事だが、今も救出に勤しむ者、救出されず途方に暮れている者を、差し置いて楽しむ事は正しいのか、そこに躊躇いがあった。

 

 思いついてしまった以上、酒を飲んでいても頭の隅に、その苦労を思い出してしまう。

 それならば、全ての憂いを取り払い、彼らの慰労も兼ねた祝勝会を開いた方が良いかもしれない。

 

「……そうだな、問題は多い。彼らには十分な食料と休息は与えてやりたいが……。あちらの様子を考えれば、素直に馬鹿騒ぎ出来る状態では無かったな……」

「ハ……、一時の混乱は治まりましたが、現状では色々と問題も多く……。解決と言えるまでには、まだ時間が掛かるでしょう」

 

 ヴァレネオが苦渋に満ちた表情で言うと、ミレイユも肩に手を置いて労う。

 

「良く保たせてくれた。……業腹だが、仕方ないな。祝勝会は向こうでやるか」

「ハッ、その様に……」

 

 ヴァレネオが感極まった様に頭を下げるのと、それを遮る様に手を伸ばされたのは同時だった。

 顔を向ければ、オミカゲ様が切ない表情で引き留めようとしている。

 ミレイユはヴァレネオの肩から手を離すと、オミカゲ様が伸ばした指先を握った。

 

「そういう訳だから、すまないが……」

「しかし、その様な急がずとも……」

「あぁ、急ぎたい訳じゃないんだが、あちらは今、被災の真っ最中なんだ。地面が崩れたり、その修復で大きく揺れた事が原因で、石造りの街は倒壊した建物も多い。彼らには……」

 

 言い差して、ミレイユは冒険者や獣人達に目を向けた。

 

「無理して参戦して貰った形だ。本来なら、救助を待つ者達の為に振るわれる力だった。少数の援軍しか持ってこれなかった理由は、まさにそれだ。……そして、一夜で解決する問題でもない筈なんだ」

「そちらも大変な中、来てくれたのか……。であれば尚のこと感謝しかなく、そして是非とも、その労苦に報いたいものだが……」

「彼らも、自分達の仲間が苦労してる横で、暢気に祝い酒を飲む訳にはいかないだろう。孔はまた繋げられる。次の機会は、きっとある」

 

 そう言って、ミレイユは孔へと視線を向け、それから箱庭を胸の前で小さく掲げた。

 

「これが座標としての役割を持っている限り、あちらの神が苦労して孔を開けてくれるだろうさ。いつでも好きに、となるかどうかは……別かもしれないが」

「うむ、そう……か。そなたは神を味方に付けておるのか……」

「いまのところ、相当曖昧な部分だが。そこのところも、上手く決着を付けねばならないな」

 

 ともかく、とミレイユはオミカゲ様の指先から手を離し、改めて箱庭を両手に持って差し出した。

 

「繋がる可能性を残したいなら、保管するも良いだろうし、災いを招くと思うなら破壊しろ。それは任せる」

「そなたは……、そなたはどうする? こちらに残るのか?」

 

 その一言は、アヴェリン達は勿論、森の民の関心を大いに買った。

 これまでの会話に無関心という訳ではないだろうが、ミレイユの選択は彼ら一同、一生の関心事だろう。

 熱意が視線に乗っているようでもあり、ミレイユは思わず苦笑してオミカゲ様に答えた。

 

「……あちらに行くよ。どうも、そうするしか他にないみたいだしな」

「他に……?」

「あぁ、大神が言ってた事だ。どうやら私は、中途半端な再生と創造しかしてなかったらしい」

「砂でそれらしく形を整えただけ、というアレか……」

 

 オミカゲ様も苦々しく顔を歪めて言った。

 マナとは本来、あって良いものでは無いらしい。あくまで副次的に生まれるものであり、そして、神力を注いで取り返した結果、生まれる絞り滓の様なものでもあるようだ。

 

 現在のデイアートは、その絞り滓を集めたものに過ぎず、遠からず崩壊の兆しを見せるだろう。

 大神があの場で適当な嘘を言ったとは思えないので、これについては事実と考えるしかない。

 だが同時に、そこには希望もある。

 

 大神は苦労ばかりが多いから、やらないと言っただけだ。

 あれらは育てる苦労と厭い、単に奪う事だけを考えていた。だからこそ、破滅や崩壊を招いたと思っている。

 その方が楽だから、他に楽を出来る手段があったから、そうして口に入れる事だけを求めた結果、起きた事だった。

 

 オミカゲ様もその時の言葉を思い出してか、顔色を悪くさせて俯く。

 

「我もまた……、知らずに同じ事をしていたようさな。マナがある世界というのは、つまりそういう事であろう……?」

「私はそうとは思わない」

 

 だが、ミレイユは暗い顔を一蹴する様に、キッパリと否定した。

 真実の事は分からない。真理を突いているとも思わない。

 単に破綻の先を見たくない、という稚気染みた発想であるのかもしれない。

 

 ただミレイユは、その先に希望があると思いたいだけかもしれなかった。

 でも、希望があると思えるからこそ、断言した上でそれを口にした。

 

「お前は樹を育て、実を多く作った。もぎ取り口にするではなく、他人に分け与え、その実を植えて更に育てた。それに反して、実を喰らい、樹まで食らったのが大神だ。前提となるものが全く違う」

「それは……、そうであろうが」

「お前は奪う事だけをしなかった。実を一つ受け取り、他は回し、循環させる流れを作った。これが破綻しているというなら、この千年でとっくに兆しは見えている筈だ。……しかし、そんな片鱗はどこにもない」

 

 今が奇跡的バランスで成り立っているだけなのかもしれないし、もしかすると何かが綻ぶと一気に傾く事なのかもしれない。

 だが、オミカゲ様はマナを作りつつ、それを上手く利用し、世界を運営している様に見える。

 

 マナを集約し、溜め込んでもいたが、決して略取したものではなく、受け取った幾つから割いたものに過ぎなかった。

 だから、この世の信徒は誰の顔にも笑顔が溢れていたし、その尊崇を向けるのに些かも躊躇がない。

 

 そういう光景を知っているから……だから、ミレイユは希望が持てた。

 デイアートはマナの溢れた世界で、もはや切り捨てられない程に浸透している世界だ。

 それ無しでは生きていけない環境になり、そうした生命で溢れている。

 

 マナが悪しき物、本来あってはならぬ物と定め、排斥する事は現生物の死滅すら意味する。

 だから、それと上手く付き合い、運用できる世界を創らねばならない。

 そして、そのテストモデルとして成功した世界が、ここにある。

 

「だから私は希望が持てる。デイアートは死に瀕していた。解決したと思った矢先、それが砂上の楼閣でしかないと知った。マナを全て排除しなければ、あるいは世界そのものが危ういのかもしれない、と思った」

 

 だが、決してそうではないのだと……そうでないのかもしれないと、この世界が示してくれた。

 ミレイユは一度視線を切り、それから希望を大いに混ぜた微笑を向けた。

 



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螺旋の果て その9

「……だが、お前の創った世界が無事というなら、そこに希望は持てる。あちらの場合、日本という小さな範囲ではなく、惑星という巨大な規模で考えないといけないのが辛いところだが……。私のやった事だ、その責任取らないとな」

「……既に、覚悟を決めておるのか」

「そうだな。やらなくて済むなら、というのも本音なんだが……」

 

 だがあの時、傲慢に世界を身捨てた大神を、怒りに任せて詰ったものだ。

 何かを捨てるにしろ、それは他に責任を持たない一個人が主張できるもので、創造した世界に対して責任を持つ神が言うべき台詞ではない――。

 

 ミレイユは自身の力のみで行った事でないとはいえ、世界を元の形に創造し直した。

 今更それを投げ捨てるという言い分は、大神の横暴を詰った自分の言い分まで、投げ捨てる行為になってしまう。

 

 その時はまだ神人という立場でしかなかったのも確かだが、今となっては違う。

 創造した世界に対して責任を持ち得る存在として、安易に投げ出すべき事ではなかった。

 ミレイユは逸していた目を戻して、苦味を含む小さな笑みを見せた。

 

「……神だからな。それに私は……、やると決めたら必ずやる」

「うむ……。そなたならば、やり遂げられよう。如何なる困難も、いかなる艱難(かんなん)も、そなたの前では平伏すであろうよ。苦労は多かろうが、いつでもそなたを応援しておる」

「まぁ……何とかなるし、何とかするさ。いつだって楽観的にやって来た。それに……」

 

 ミレイユは一度言葉を切り、傍に侍る仲間たちを顎で示した。

 

「一人じゃないからな。頼りに出来る、信頼している仲間がいる」

 

 ミレイユが目を向けた先には、アヴェリンが誇り高い眼差しで見つめ返しており、ルチアもまたくすぐったそうな笑みを浮かべていた。

 アキラもまたアヴェリンと同じ様子で、身体を震わせて見つめている。

 

 そして最も意外な事に、ユミルは感涙に顔を歪ませていて、ミレイユの視線に気付いて咄嗟に顔を逸した。

 彼女が望んだとおり、ミレイユは神となったのだ。

 だからてっきり、にんまりとした嫌らしい笑みを浮かべていると思っただけに、虚を突かれた感じがした。

 

 何か声を掛けたい衝動に駆られたが、とにかく今は済ませるべき事を終わらせる方が優先だ。

 ミレイユはヴァレネオに顔を向け、森の民や冒険者達を孔へ通すよう命じる。

 

 彼らとしても唐突な出会いとはいえ、共に死地を駆け、助け合った仲だ。

 一つの礼も無しとは出来ず、森の民はそれぞれの部族にあったやり方で、冒険者も冒険者らしい武骨な礼を隊士達に向けた。

 

 それぞれ形も違えば、洗練さも違う。

 凸凹とした見栄えの悪い物ではあったが、隊士達は結希乃号令の元、起立して彼らに向き直り、見事な返礼を見せた。

 

「危急の際に、見事な救援として駆け付けた彼らの勇義を称え、――敬礼!」

 

 森の民、冒険者とは違う一糸乱れぬ敬礼だった。

 踵を打ち鳴らし、背筋を伸ばして見せる整然とした姿は、ミレイユからしても惚れ惚れするほど美しい。

 互いが敬礼のまま数秒が過ぎ、ヴァレネオが腕を下ろすことで森の民も敬礼を崩す。

 

 そうしてヴァレネオが先頭で一列になって孔へ進み、そして孔の面前で脇にどけると、後続の者たちを誘導する係として残った。

 通り過ぎる者達を労いながら、次々と列を捌いていく。

 そうしている間にも、隊士達は姿勢を崩す事なく、敬礼したまま見送っていた。

 

 最後に残ったのは冒険者達だ。

 彼らにとって、助ける事、助けられる事は日常に等しい。

 だから今回も、少々毛色の違う救援要請に応えた程度の気持ちだろう。

 

 ただ、隊士達から向けられる敬意はまんざらでもなかったらしく、自慢げな素振りを隠そうともせず孔へと入って行く。

 最後に残ったイルヴィとスメラータは、孔へ入ろうとせず、アキラへ物言いたげな視線を向けていた。

 

 しかし、この儀礼めいた空気の中、和を乱す程の常識知らずではなかったらしい。

 今すぐにでも駆け寄りたいという表情を見せるのは、アキラとこのまま離れ離れになる危惧を捨て切れないからだろう。

 

 アキラがどこまで自分の事情を話していたのか、それはミレイユにも分からない事だ。

 しかし、アキラが異世界まで付いて来たのは、一重に恩返しをしたいという一心からだった。

 そして、それを返せたかと言えば、ミレイユは十分以上に返して貰った、と答える事が出来る。

 

 アキラは神々を前にしても怯まず、盾としての役割を十全に担った。

 再び現世へ帰還してからも、孔から溢れる魔物を抑え切れないと悟り、冒険者達を連れて帰って来た。

 

 それらの功績を考えると、ミレイユが与えたもの以上に、アキラはやり遂げたと言ってやれる。

 だからミレイユは、アヴェリンの傍で控えるアキラへと目配せし、立つ様に言う。

 

「……行ってやれ」

「え……?」

「孔を今から一緒に潜れと言いたい訳じゃないが、私を理由に何かを決める必要はない。お前の言う恩は、既に十分返して貰った。だから、私という理由を挟まず、自分の好きなように決めればいい。それに……」

 

 ミレイユは孔に一度目を向けて、それからオミカゲ様へと視線を移す。

 

「今生の別れになるかは、まだ決まっていないしな。今は少し余裕がないし、次にいつ開けるかはインギェム次第だが、これを最後にはしない。……そう、願っても良いか?」

「そうさな……。そなたが、あちらに帰る必要があろうとも、我が門戸はいつでも開いていると思って貰いたい。これも……」

 

 言い掛けて、オミカゲ様は手の中にある『箱庭』を胸の前で小さく掲げた。

 

「そういう事であれば、しっかりと安心できる場所に安置する必要があろう。孔に対する忌避感を持つ者は多い故、そこは何か工夫や説得を求められるやもしれぬが……。何、救国の英雄神と繋がると思えば難しくなかろう」

「安易に信用してくれるなよ。悪用するつもりも、させるつもりもないが、安全を保障する事は出来ない。孔があれば鬼が出るという常識は、そう簡単に崩せるものじゃないだろう」

「うむ……。しかし、そなたがそう考えてくれている内は、我も安心できるというものだ。いずれにせよ、これを最後に孔を封ずるつもりはない。それは約束しよう」

 

 ミレイユが一つ頷き、アキラにも頷いて見せる。

 そうしてようやく、アキラは孔の傍で控えたままの二人に目を向けた。それから一礼し、断りを入れてから駆け出していく。

 二人を前にどういう話をしているのか、ここから聞き取る事は出来ないが、これが最後の別れにならない事は約束できたろう。

 

 このまま現世に残るのも、あるいはデイアートで生きるのも、アキラの人生だ。

 アキラの好きに生きれば良い。

 その後ろ姿から視線を切り、ミレイユは改めてオミカゲ様へと向き直ると、小さく肩を竦めて微笑む。

 

「さて……、余り待たせてしまうと、孔の持続が危うい。私達も行くとするよ……」

「大丈夫なのか? あちらが大変という事は理解したが、そもそも世界を渡るなど……」

「神の身をして渡れる道理がない、と言いたいのは分かる。でも、今の感覚として、可能だろうという気はしてるんだ。一度限りの事なのか、それとも根差すまで猶予があるから可能なだけなのか……。そこまで分かる事じゃないが……」

「うむ、そうか……。然様か……」

「そう寂しそうな顔をするな」

 

 しゅん、と肩を落としたオミカゲ様に、ミレイユは思わず笑みを浮かべた。

 オミカゲ様は摂理として、神は世界を越えられない事を知っている。

 そしてそれは、自ら試した事でもあるのだろう。だから、ミレイユとの別れが、きっと今生の別れになると思っている。

 

 ミレイユも、その可能性を考えずにはいられない。

 むしろ、一度でも世界を越えられる事は奇跡だと思っている。

 ――しかし、それでも。

 

「互いに顔を合わせられなくても、手紙のやり取りは出来るし……。それこそ、アヴェリン達の行き来は可能な訳だしな」

「そうだが……!」

「それに、一つの世界に二人のミレイユがいる事も、あまり健全じゃないだろう。収まるところに収まった……そう、思えたりもするしな」

「そんな事は……」

 

 顔を輝かせたり、再び肩を落としたりと、オミカゲ様の反応は忙しく、そして著しい。

 だが、それだけミレイユとの別れを惜しんでくれていると思えば、その反応も嬉しく思える。

 

 もう一つの自分、有り得たかもしれない自分かと思えば、実際のところ心中は複雑だ。

 しかし、オミカゲ様という存在そのものが、ミレイユに勇気を分けてくれる。

 

「神としての自覚はまだ無いが……、お前という手本があるからやっていける気がする。ここまで見事にやり遂げたお前だ。千年の時間が掛かろうとも、デイアートを正して見せる。砂漠の水を泥に変える難行……との事だが、だから何だって感じだしな」

「うむ、大変な苦労だろうが――」

「だから、お前も少し気を楽にして良いんじゃないのか」

 

 オミカゲ様の言葉を遮って、ミレイユは微笑む。

 決して孤独な戦いという訳ではなかった。一千華という心許せる友、御由緒家という子とも孫とも言える存在、オミカゲ様を慕う多くの人々。

 

 多くの助けがあってこそ、今のオミカゲ様があると分かっている。

 だが同時に、それら多くを背負い込む事にもなっていた。

 

 神という存在そのものが、枷となってしまった部分もあるだろう。

 自由な外出、自由な娯楽、あらゆる行動が、神の規範にそぐわないものとして排斥されていた。

 信仰と願力というものを捨てられないオミカゲ様からすると、そこは決して疎かに出来ない部分でもあったろう。

 

 己を殺しすぎ、自制しすぎという印象だった。しかし今ならば、もっと自由に生きられる筈だ。

 

「千年の努力が実った。それは確かで、誇るべきものだ。神のあるべき姿、神に相応しきもの、格式高いもの、そういったものに拘る必要だってなくなるんじゃないか?」

「そうかも……、しれぬな。とはいえ、神の威厳とやらも、今更投げ捨てるのは難しいが……。これまで良く支えてくれた者達の、誇りに関わる部分故……」

「じゃあまずは、スマホの一つでも持ってみろ。少しは楽しみを持っても許されるだろ」

 

 その言葉で、オミカゲ様の顔にもようやく笑顔が浮かんできた。

 箱庭を軽く振って、スマホのように耳を当てる。

 

「神がスマホを持って通話か。想像するだに愉快だ。……そうさな、少しずつ変えていこう」

「お前の人生は、これからようやく始まるんだ。そう思ってみるのも、良いんじゃないか」

「ここからオミカゲとして、第二の人生(セカンドスタート)の始まりか。……それも、良い」

 

 オミカゲ様がはんなりと笑い、ミレイユも笑みを返して頷く。

 それからアヴェリン達へと顔を向け、大きく頷いて見せる。

 別れを済ませろ、という合図だった。

 すると、その意を汲んだアヴェリンが最初に立ち上がり、まずオミカゲ様の前で一礼した。

 

「オミカゲ様の執念、そして覚悟を見せて頂きました。貴女様と、この世界を救う助力が出来たのは、我が誇りとする事です。そして貴女の笑顔を、再び見られた事も、また同様に……」

「あぁ、お前に喜びの一つを与えてやれた事、それもまた我が喜びである。……ミレイユを頼む」

「身命を賭しまして」

 

 アヴェリンが一礼すると、それと入れ替わりにルチアが前に出る。

 そうしてオミカゲ様に一礼すると、その隣に立つ一千華にも小さな礼をした。

 

「貴女がオミカゲ様を支えたように、私もミレイさんを支えますよ。その気概を、最後の結界の展開で見せて貰ったような気がしてます」

「えぇ、千年の間、支えて差し上げなさい。……なに、苦も無く過ぎる千年です。あっと言う間ですよ」

「そなたが言うと、不思議な圧力を感じるものよな」

 

 オミカゲ様が悲しげに笑うと、一千華も柔和な笑みを浮かべて、口元を袂で隠す。

 

「私達が過ごした千年とは大いに違う時間になりましょうけど、でも退屈だけはしない時間だと、そう申し伝えておきましょうか」

「そうですね。きっと……、そうなるでしょう」

 

 ルチアも儚く感じさせる笑みを浮かべ、改めてオミカゲ様に一礼した。

 

「どうか壮健で……、と貴女に言うと、冗談にしかなりませんか」

「気持ちの問題故な。ありがたく受け取っておこう」

「そして一千華さんには、お別れを。きっと、もう……」

「そうですね。貴女に会う事は、きっともう無いでしょう。元気で暮らしなさい」

 

 そう言って微笑んでは、一千華は視線を遠くに向ける。

 見ている先は孔――というより、その傍らに立つヴァレネオで、切ない顔をしてルチアに目を戻す。

 

「お父様にも、良くして差し上げて……」

「ですね……。貴女の分まで」

 

 最後に、互いに抱擁を交わすと、その後ろを縫うようにユミルが前に出て来た。

 一千華の方にはちらりと視線を向けたものの、特に言うべき事はないようだ。

 オミカゲ様の前で、一応の礼だけは見せて微笑む。

 

「アンタはよくやったわ。多分、誰に聞いてもそう言うでしょ。後は、自分の人生楽しみなさいな。楽しんでこその人生よ」

「そなたが言うと、不思議な含蓄があるな」

「アタシはこれからも楽しむつもりだし、楽しくなりそうだもの。だから別れも言わないわ。……だって、これからは孔を使って行き来できるんでしょ?」

「そうなるかどうかは、今後の運用次第ではある。が、これを最後にしたくないし、続けていければと思うておる」

 

 改めて聞いた答えに、ユミルは大いに満足して頷いた。

 今度はユミルの方から抱き着いて、熱い抱擁を交わす。

 

「アンタは不甲斐なくない。謝る必要なんてない。やり遂げた自分を、誇りに思いなさい」

「誇るというなら、そなたらこそを誇りたいが……。うむ、少しは……前向きになってみよう」

「それでいいわ。……別れは言わないからね。また会う事になるんですもの……でしょ?」

 

 最後に強めの抱擁をして、ユミルはオミカゲ様から身体を離す。

 オミカゲ様の白い髪の頭頂部、そこについていた砂埃を優しく払って、にっこりと笑みを浮かべて離れて行った。

 

 それぞれの挨拶が終わったところで、アヴェリンを先頭にして孔へと向かう。

 ミレイユがその最後尾として付いて行き、孔付近へ到達した時には、イルヴィ達が別れを済ませて入って行ったところだった。

 

 アキラもまた別れを惜しんでいたが、現世の事に対して、何もかも捨てて行けば不義理と思ったのだろうか。

 恩に対して強い思いがあるアキラからすると、仮に定住地をデイアートに変更するとしても、多くを片付けてからでないと行けないだろう。

 

 今現在、学園に在籍している身の上でもある筈だ。

 その片付け諸々が終わるまで、勝手は出来ないという正常な判断から決めた事かもしれない。

 

 アキラはミレイユ達がやって来た所を見て、咄嗟に孔から身を引いた。

 その後ろに付いて来ているオミカゲ様を見て、ぎょっとして更に身を引く。

 

 その更に後ろには隊士総出で着いて来ていて、物々しい雰囲気が漂っていた。

 最後にアヴェリンが一礼し、そうして孔を潜ろうとしたときには、やはり隊士達からの厳しい敬礼が捧げられる。

 

「我々の窮地を救って下さった御子神様と、その神使の方々に対し、最大限の敬意を持って、――敬礼ッ!」

 

 踵を打ち鳴らす一糸乱れぬ敬礼に対し、アヴェリンも彼女なりに示せる最大限の礼を見せ、数秒その姿を固辞してから孔を潜った。

 次にはルチアが潜る段になって、やはり返礼した後、ヴァレネオも同じく返礼して共に入って行く。

 

 ユミルは礼ではなく、掌を見せてヒラヒラと振るだけだったが、軽薄であろうとも実に彼女らしい態度で、つい笑ってしまう。

 そして最後にミレイユの番になり、孔の中へ手を差し出してみる。

 確信はあったが、やはり問題なく通過できると分かった。

 

 弾かれたり、押しのけられたりする感覚はなく、これまで孔を使った時と変わらぬ反応を手の先から感じられる。

 確認が済むと、ミレイユは最後にオミカゲ様へと振り返った。

 一千華と共に立つ姿には物寂しさを感じるも、それこそがオミカゲ様の生きて来た道なのだ。

 

 そしてこれから、ミレイユにはミレイユの、新たな――オミカゲ様とは別の道がある。

 成り行き……と言えば語弊はあるが、解決を図ろうと思えば、他に手段もなかった。

 創造神の真似事をする様な事態になってしまい……、そしてだからこそ、今のミレイユには責任がある。

 

「神人如きが創造した世界で、今度は神様をやる第二の人生(セカンドスタート)か……」

「我とは真逆。何もかも真逆の展開か。……それはそれで面白い」

「面白いだけで済めば良かったが……」

 

 ミレイユは苦笑を浮かべ、オミカゲ様へ小さく頭を下げてから、歪みが大きくなり始めた孔へと手を伸ばす。

 あまり長時間保たない、と聞いていたとおり、今にも孔の維持は、限界を迎えようとしているらしい。

 

 どこまでも時間に急かされるな、と自嘲めいた笑みを浮かべる。

 最後――オミカゲ様へと軽く手を振り、後ろの隊士達へ形だけ真似た敬礼をして、それから孔を潜った。

 

 孔の中へ身を投じ、身体を強制的に引っ張られる感覚に身を任せながら、孔の口が閉じる瞬間を見つめる。

 孔が実際に閉じる間際、背後を見返したミレイユの瞼には、その最後の光景が目に焼き付く。

 

 丸く切り取られた孔の向こうには、明るい日差しを浴びて手を伸ばすオミカゲ様と、そこに寄り添う一千華の姿が見えた。

 そして背後には、結希乃を先頭とした見事な敬礼を見せる隊士達――。

 それこそオミカゲ様が築き上げたもの、そして象徴する姿そのものだった。

 

 ミレイユは孔の流れに身を任せながら、最早閉じて見えなくなった孔の先を想う。

 ただ一つ、満足げな息を吐き、そうして瞼を閉じて笑みを浮かべた。

 



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エピローグ その1

 ――それから、約半年の時が過ぎた。

 アキラは今も日本で暮らしていて、神明学園の寮で生活している。

 

 とはいえ、それも今だけの話で、既に退寮と退学の手続きも済ませていた。

 随分と長引いてしまったのは、引き止めてくれた友人や、実家関係の事もある。

 だが一番の理由は、身辺整理の為だった。

 

 二度と日本の土を踏まないというつもりもないので、色々と残しておくもの、片付けるものを整理しておく必要がある。

 即時退学は考えていなかったので、学生としての本分を真っ当していたら、準備も遅々として進まず、多くの時間が掛かってしまった。

 

 だが、時間が掛かるのは別に問題ではなかった。

 なにしろ、デイアートという異世界への扉は、原則として一年に二度しか開かない。

 それもデイアート側から開ける事になる性質上、取り決め以外で開く事は推奨されない、という約定が組み交わされていた。

 

 火急の用事や、危機的状況を報せる訳でない限り、それが最善として、気ままに孔を開く事はしないと決めたらしい。

 それはやはり、孔に対する国民感情というものに配慮した結果でもある。

 そして万が一、鬼による侵略などがあったなら――取り決め日以外に孔の気配があったなら、それが悪意あって開かれたものと構える事も出来る。

 

 そういった、謂わば防衛措置的な役割を持たせる意味でも、孔を開く日は厳粛に決定されたのだ。

 そしてアキラは、その日に向けて準備していたし、その日から生活の基盤をデイアートに移すつもりでいた。

 

 今日は一年に二度しか無い孔の開く日――開孔日であり、そして同時に孔の向こうから来る客人を迎える日でもある。

 その為に持て成す準備が、今や順調に進められている筈だった。

 

 戦勝記念日は別にあり、その時改めて祝われる予定だが、いずれにしても正式な形で開かれる孔だ。

 この際に、当時共に戦った勇士たちを招けないか、という発案が実った形だった。

 

 だから誰もが敬意ある客人として遇するつもりだし、この際に楽しんで貰いたいと思っている。

 だが、それはそれとして、オミカゲ様の千年に渡る戦い、その終止符を打った戦いは国民の知るところになった。

 

 無論、詳しく一部始終を知られた訳ではない。

 一時の間、結界が破れた事によってオミカゲ様の戦う姿が明らかになった事で、それが知られると共に憶測も多く広がった。

 

 動画も多種多様に出回ったし、ミレイユによる――それをオミカゲ様と誤認する人もまた多いが――無辜の民を助けたい、という言葉は衝撃の光景と共に、全世界へ知れ渡ったのだ。

 

 巨人の出現、大規模な爆発も目撃されており、そこに神による戦いがあったのは明らかだった。

 しかし、神宮や御影本庁はカバーストーリーを仕立て、それらしい説明をしていたので、実際の真相は闇の中だ。

 

 オミカゲ様の鬼退治、それに乗っかった形なのだが、詳しい事は結局何一つ伝えていない。

 ただ、そこに壮絶な何かがあった事だけは理解していて、オミカゲ様が奮戦していた事実だけは共通している認識だった。

 

 実は日本が侵略を受けていて、それを陰ながら護っていた事など知らずにいた方が良い、というのがオミカゲ様の方針だった。

 御由緒家や神宮もそれを受け入れ、だから誰もが口を閉ざす。

 

 噂話ばかりが先行し、都市伝説まで生まれる始末だが、好きにさせるつもりのようだ。

 アキラもまた、知らずにいるのが最善だと思っている。

 

 その様に物思いに耽っていると、自室の扉を叩く音がして開けると、そこには凱人が立っていた。

 少し視線をずらせば、そこには漣の姿も見える。

 

「あぁ、もう準備済んでるみたいだな。すぐに行けるか?」

「うん、大丈夫。行こうか」

 

 部屋から出ながら、アキラは頷く。

 既に正装へ着替えていて、いつでも出発できる準備が万端整っていた。

 

 異世界からの客人とはアキラも縁が深く、そして御由緒家の末席に連なる者として、この歓迎パーティに参加しない訳にはいかない。

 本格的な式典はまた別の日になる予定だが、かの勇士達を饗す為の食事会は本日行われる。

 

 式典当日となると、あちら側の権力者なども来賓として招かれるらしい。

 そちらには参加しない、いち兵士として戦ってくれた者達を歓迎する食事会であり、こちらは礼儀などを気にしない気楽なものだ。

 

 粗野な冒険者などは式典に参加したくないし、美味しい食べ物や酒を飲んで、ただ楽しんで貰う為のものだから、参加する彼らはむしろ喜んでくれるだろう。

 

 車に乗り込み、神宮まで行く傍ら、既に何度か交わされた会話を繰り返す。

 二人としては、アキラの意志を尊重していても、簡単に割り切れないようだ。

 それに、式典が終わればアキラは出立する。それまでのタイムリミットと思えば、言わずにはいられなかったのだろう。

 

「なぁ、どうしても行くのか? いや、あちらを決して悪く思うものじゃないんだが……。二つの世界を知っているアキラなら、どちらが過ごし易いとか知ってるんだろ?」

「そうだね、文明レベルで言えば、こっちの世界の方が、ずっと高いし過ごし易いよ。でも、あちらにはミレイユ様が御わすからね……」

「御子神様か……。そりゃあ、お仕えしたい気持ちは分からないでもないけどな……」

 

 漣が唸るように同意して、それから重く溜め息を吐く。

 

「それに、鬼はもうあれから一度も出てないでしょ。警戒だけは今も続けてるけど、平穏がずっと続けば隊士達のお役は御免になる筈だ」

「別に隊士の仕事は、鬼退治ばかりでもないけどな……」

「でも、大部分はそうだった。そりゃあ、頭を使ったりする仕事も、沢山あるんだろうと思うけど……」

 

 凱人も腕を組んだまま、大いに頷いて同意する。

 

「あぁ、結希乃さんとかな。……とはいえ、あの人はまぁ、その中でも選りすぐりのエリートだから、同じ様に考える事も出来ないが。犯罪捜査の協力に駆け付けたりする事もあるようだ……」

「それに御由緒家は、それぞれオミカゲ様から預かった仕事ってのがあるからな。一戦から身を引いた当主は、必ずその家業を引き継ぐもんだし、俺も今からそれ学んでるんだよな……。鬼退治がめっきり無くなっちまったから。全くよ、もっと後で済むと思ってたのに……」

 

 漣は元々、身体を動かす方が得意で、勉学に対して熱心ではない。

 鬼退治は丁度よい逃げ口上、逃避先ですらあったのだろう。それを突然奪われて、どうにも参っているらしい。

 

 漣がむっつりと眉間に皺を寄せると、同じように凱人も眉間に皺を刻んだ。

 

「ウチも似た様なものだ。外交は由衛の取り仕切るところ……。神宮勢力より外との折衷という役割があるんだ。海の外という意味だけでなく、神宮の外、という意味合いも込みでの外交だな。昨今は更に面会希望が増えている」

「あー、やっぱり、それって……」

 

 オミカゲ様は本物の神だ。

 それは日本国内では真の事だと信じられて来たが、鬼退治については懐疑的な部分が多かった。

 その昔、何かの教訓めいた逸話が、そうした形で現れただけだろう、と思っていた者は少なくなかったのだ。

 

「メディアからの接触も多いし、これらを上手く制御することを求められる。……いっそ、鬼と戦う方が遥かに楽だぞ。オミカゲ様の御威光を損なわず、しかし蜜を吸いたいだけの者どもを、上手く捌いてやらねばならない」

「あぁ、それは……大変だ」

「だから、掛け値なしに信用できる、お前の様な者がいてくれると有り難い。中にはオミカゲ様を暴こうとか、貶めようとする不遜な輩だっている。これもまた、あるい意味で邪な鬼と変わらん連中だ。そういう鬼から、共にオミカゲ様をお護り出来ないか」

 

 凱人の真摯な瞳、真摯な熱意を聞かされると、それに頷きたくなる衝動に駆られる。

 アキラもまた、オミカゲ様に対する尊崇の念を持っていて、今も消えた訳ではいない。

 かつて抱いていた信仰に陰りはなかった。

 

 ――しかし、それでも、なのだ。

 オミカゲ様には千年の間に築いた信頼と、そしてオミカゲ様からも信頼できる家臣がいる。

 ミレイユにも信頼できる仲間と、これまでに築いた信頼はいるだろう。

 だが、双方を見比べて、よりどちらへ助力したいかとなれば、盤石とは程遠いミレイユを助けたく思ってしまう。

 

「申し訳ないけど、僕の気持ちは変わらないよ。僕は僕で、御子神様を……ミレイユ様をお助けしたいと思う」

「……そうか」

 

 小さく頷いて息を吐き、それから凱人はカラリと笑った。

 

「ま、何度止めても駄目だったんだ。この土壇場でも、やはり駄目だったとなれば尊重するしかないな。……あちらでは苦労もきっと多いんだろうが、応援するよ」

「……だな。寂しくなるがよ、男が決めた道だもんな。応援しない訳にはいかねぇよ。アキラは俺らと違って、しがらみなんかもないしな……」

 

 もしもアキラの父が順当に当主として収まっていて、そしてアキラも次期当主として目されていたなら、このような自由は許されなかっただろう。

 ある意味で、父が残した置き土産として捨てた地位が生きていて、今だけはそれに感謝したい気分だった。

 

 アキラは一度頷いて、それから窓の外へと目を向ける。

 そこには見慣れた――ごくごく見慣れた、日常の風景があった。

 

 アスファルトの地面、規則正しく並ぶ電柱と、そしてビルや家屋……。

 どれも有り触れた、しかし今後は見る事が出来なくなるかもしれない光景だった。

 

 アキラはそれをしっかりと目に留め、故郷である自覚と、ありふれた光景を胸に刻み込もうと眺め続けた。

 



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エピローグ その2

 イルヴィがスメラータと共に孔を潜り終えた時、そこに広がるのは豪奢な部屋だった。

 見た事もない木造の建築様式だが、洗練された美しさを感じずにはいられず、思わず感嘆の息を吐く。

 

 室内には歓迎の意を示して待っていた神官らしき者がいて、開け放たれた扉の奥には、道の端に人が列を成して頭を下げている。

 女性ばかりが白い上着と赤い幅広をズボンを穿いていて、どうやらそれが彼女らの帰属を表す服装らしい。

 

 特別な格好は必要ない、と聞いていたので武具は身に着けず、動きやすい格好で来た。

 しかし、彼女らに使われた布を見ると、非常に高価なもので仕立てられたのだと分かる。

 見栄を張るのは好きでないが、こうも落差を見せつけられると、もう少しマシな格好をしてくれば良かったと後悔したくなる。

 

 単なる戦勝を祝う食事会、功労者を労う饗宴、ただ飲み食らう為だけの会、と聞いていた。

 だから仕事終わりに酒場へ繰り出す様な気楽さで来たのだが、もう少し格好に気を付けなければならなかったらしい。

 

 何しろ今日は、久々にアキラと会える。

 神同士の取り決めを行う為に、アキラは書簡を届ける役目などを担っていたから、その都度会う機会はあった。

 

 しかし、忙しく動いていたのは最初のひと月くらいで、それからは全く姿を見せなくなった。

 苛立ちが最高潮に達していた時、今度はこちら側から行けるのだと、テオ王の遣いから連絡が来た。

 

 自由に行けないほど遠い場所にあるから、と我慢していたが、行けるとなれば、自ら動く方が性に合ってる。

 そして、あの戦に参加した者全てを招待するとなれば、当然スメラータも共に行くと言い出すのは当然だった。

 

 そのスメラータは、今更後悔した様な顔をして、イルヴィを見つめて来ている。

 恐らくは、イルヴィも同じ様な表情をスメラータに向けているだろう。

 

 アキラは見栄えや格好など気にしないと知っているが、あからさまに品の高いものと見比べられるのは気分が悪い。

 普段は気にしなくても、並べて見る事で気が付く事はあるものだ。

 

「それでは、ご来場された方から順次、会場の方へご案内させて頂きます。……あちらの者が先導致しますので、その後に付いて、ご移動願います」

 

 そう言って、室内で一人待ち構えていた神官らしき者が言う。

 本当に神官なのかは知らないが、神の住まう近くで偉そうにしているなら、きっと神官なのだろうという、勝手な推測で思っただけだった。

 

 手をゆっくりと向けた先で、一人の女官が進み出て、見事な一礼で迎える。

 今ここに居るのはイルヴィとスメラータ以外には数人の冒険者達だけだが、これから獣人族やエルフ達も来る予定だし、ずらりと並ぶ彼女らは、その為に用意された人員なのかもしれない。

 

 スメラータと互いに顔を見合わせ、それから意を決した様に頷く。

 先導役の後ろに付いて歩けば、程なくして庭などが見える回廊に出た。

 周囲は静かで物音が無く、鳥の囀りが聞こえるだけだ。

 

 神が住まう場所に相応しく、庭木は綺麗に整えられ、イルヴィの知らない草花が目を楽しませてくれる。

 樹木や花だけではなく、芝の高さまで一律に保たれていて、どこまで見渡しても不揃いなものがない。

 

 緑の絨毯を敷いているだけと言われても納得してしまいそうで、いっそ偏執的といえるほどの整え方には、神への敬意以上に己の仕事に対する誇りを感じさせた。

 

 これ程の庭を作るのは、並大抵な庭師では不可能だろう。

 王城への出入りは一度のみならずあるが、ここまで見事な庭など見たことがない。

 

 感嘆するのは庭だけではないし、むしろ何を見ようと感嘆の息しか出てこないが、金さえ掛ければ出来るものでない事だけは分かる。

 彼女らが慕う神は、それだけの仕事をしたいと思わせる神なのだ。

 

 デイアートの神々、そして常識からは考えられない神だという話は、それとなく聞いていた。

 改めて、その一端を垣間見て羨ましくなる。

 

 いや、デイアートもまた、神々が大きく入れ替わり、大変な変革が起きたばかりだ。

 ――あの日、オズロワーナで起きた政変は、同時に神々の世界でも起きた事らしい。

 

 あれからというもの、神々が村を焼き払ったり、理不尽な暴挙を喰らわせた、という話は聞かない。

 これからどうなるか、この先も神の理不尽な怒りは下されないのか、そこまでは分からない。

 だが、人の世にあっては平穏を――。

 そう、オズロワーナが宣言したものを、神が追随したのは事実だった。

 

 世界は上手く回り始めていて、より良い世界が広がろうとしている。

 そうした希望感を誰もが抱いているのも、また事実だ。

 

 いずれは、この庭の様に整然とした美しいばかりの世界が創られるかもしれない。

 それは夢物語に過ぎなかったが、そうと思わせる期待感に満ちていた。

 

 静謐の中、互いに声を出す事も出来なくて、だから目を楽しませて移動を続けていると、にわかに騒がしさが耳につくようになって来た。

 どうやら宴会会場へ近付いているらしく、それに合わせて活気も見えて来るかのようだった。

 

 そしていざ会場の中に入ると、見た事もない料理がテーブルの上にズラリと並び、色とりどりの酒類やグラスが、壁際に所狭しと並んでいる。

 会場の中止にには幾つもの丸テーブルが置かれており、匂いも芳しく食欲をそそるものばかりが、これまた所狭しと並んでいた。

 食べた事のない料理ばかりだというのに、既に美味が約束されているかのようで、思わず涎が垂れる。

 

 椅子の類は無く、立食形式のようで、どこに立ってどこで飲んでも構わないらしい。

 お上品に座って食べるなど、出来ないというのが冒険者だ。

 その辺りはよくよく理解しているらしく、歓迎の意に関しても良く練られていると感じられた。

 

 今日何度目かに分からない唸りと感嘆の息を吐いていると、イルヴィ達が通って来た入り口から、また別の一団がやって来た。

 目を向けると、見た事のないご立派な服装を身に着けた若い連中が目に入る。

 

 多分、この国の貴族か何かだろう、と思った瞬間、見知った顔を見つけて眉を上げた。

 今更知らない格好をしているからと、見間違えないのはスメラータも同様だった。

 食欲をそそる料理の数々などすっかり捨て置いて、一目散に駆け寄っていく。

 

「――アキラ! 久しぶりだよ! ほんとぉぉに、久しぶり!」

「うん、久しぶり。元気そうで良かった」

「そりゃ元気だけどさ、もう全っ然、会えなかったからさぁ……!」

 

 スメラータは昨日まで散々言っていた不満をどこかへ蹴飛ばし、顔に満面の笑顔を向けて、喜びを体全体で表している。

 イルヴィとしても同じ気持ちだったが、スメラータの勢いが早すぎて出遅れてしまった。

 それとなく肩に触れ、ニコリと微笑みかけつつ、イルヴィも再開の挨拶を交わす。

 

「アキラ、本当に久しぶりだ。逢えない時間が長すぎて、一日が千日に感じる程だったよ」

「あ、あぁ、いや……!」

 

 アキラは素直な言葉を恥ずかしがるが、逆にイルヴィは真っ直ぐな言葉は美徳とされて育ってきた。

 今更それを変えられないが、アキラが好まないというなら、自分を曲げる事も考え始めて良いかもしれない。

 

 アキラの傍には他に数人いて、誰もがあの戦いで一緒にいた筈の者達だった。

 何しろ激戦だったので全員の顔に覚えはないが、知っている顔も幾つかいる。

 

 その一人が、ツカツカと歩み寄って来て、アキラの肩に乗せた手を優しく()()()()()()払った。

 他の誰かはともかく、直接握られたイルヴィには、痛烈な痛みが掌と甲に走っている。

 つまりこれは、宣戦布告という奴だ。

 

 手を払ったのは、見事な服飾で着飾った女性で、輝く黒髪をさらりと流して嗤う。

 

「お名前はご存知だったかしら? 自己紹介させて下さいね、阿由葉七生です。アキラくんとは親密にさせて頂いているの」

「そうかい。その親密ってのは、手を握る程度の事を言うんだろうね。うちの婿が世話になっているようで有り難いよ」

「あら、婿だなんて……。それはあまりに、気が早すぎる話じゃありません? 互いの合意というものが、婚姻には必要なのですよ。見たところ聞いたところ……、お二人にはそういう事実は一切ないとの事……」

「いやいや、遅かれ早かれの問題さ。――そうとも、アキラ。今度、我が部族の集落を案内しよう。是非とも、我が族長に顔見せしておきたい」

 

 そう言って誘ったのに、当のアキラは口をもごもごとさせて、顔を必死に背けていた。

 そして助けを乞うた先にいる男性陣は、決して巻き込まれまいと壁際に直立不動で立っている。

 七生の背後から立ち昇る気配に当てられて、すっかり顔を青褪めさせて無関係を装っていた。

 

「あら、アキラくんのご実家をご理解でない? こう見えて立派な貴族の一員です。勝手な面通しなど、御家にご迷惑と分かりません?」

「あぁ、そうなのかい。貴族……けどまぁ、関係ない。これはあたしが惚れたっていう話であって、欲しいと思えば決して諦めないって話だから」

「そんな勝手は通りません。御由緒家が、それを許可しませんからね」

 

 末に互いの鼻先をぶつけあい、一歩も引かぬ構えになっている。

 笑顔を浮かべてはいるが、互いに笑ってはいなかった。

 熾烈なぶつかり合いを見せている最中、その横からスメラータがアキラの手を取ってブンブンと上下に振った。

 

「あんなの置いといてさ、さっさと冒険行っちゃえばいいんだよ。知ってる? 消えた大瀑布の向こう側、その先に新大陸発見だって! これはもう、絶対行くしかないよね! ね!」

「い、いや、うん……どうだろう」

「スメラータ! 横から男を掻っ攫おうとするんじゃないよ! お前はそんな女だったか!?」

「馬鹿やってる方が悪いんじゃん」

 

 スメラータは悪びれもせず、しまいには舌を出して挑発した。

 それに我慢ならなくなったのは七生だ。

 

「なんですか、その接触は! そんな、羨ま――じゃない、ふしだらな! アキラくんは新大陸なんて行きません! そっちの世界にだってね!」

「……いや、行くけど……」

「――行くの!?」

 

 頑強に否定していた七生こそが、その発言に驚いていた。

 アキラが口にした事が本当で、そしてそれを知らなかったというなら、互いに親しい間柄ではないようだ。

 

 つまり、勝手に周囲を嗅ぎ回るだけの雌犬という事になる。

 ならば捨て置いて問題ないか、と意識を外へ向けたところで、七生は壁際に並んだ男たちへ気炎を上げた。

 

「ちょっと! 説得するって話はどうなったの!?」

「いや、した事は間違いない……ちゃんとした。ただ、アキラの意志は止められないと思っただけで……」

「そうそう。一度や二度じゃないんだぞ、何度も説得した。それでもアキラの意志は固かった。アキラには自分が望む未来ってモンもあるんだから……、それを応援してやるのも友達ってもんだろ?」

 

 中々道理を弁えている発言で、イルヴィは男たちの言葉に深く納得した。

 未来を決めるのはいつだって己の意志だ。

 そして、アキラはその未来を、生まれ育った地ではなく、異国で掴もうと手を伸ばしたのだ。

 

 スメラータも改めてアキラの意志を知って、胸を温かくしているようだ。

 感動した面持ちで、アキラの横顔を見つめている。

 

 アキラの進退については、イルヴィ達も知らない事だった。

 かつて頻繁に会えていた時は、定住先をデイアートに、という話は幾度もしていた。

 

 その時の反応も決して悪いものではなかったし、掴もうとするとスルリと抜け出るような返答しか貰えていなかった。

 それでも、とうとう決意してくれた、という事らしい。

 

 イルヴィの心にも満足と期待感で気持ちが溢れて出して来る。

 これからの未来に明るいものを感じ始めた時、七生が剣呑な目付きで堂々と宣言した。

 

「そう、分かった。……それなら、私も行くわ」

「――は?」

「はぁ!?」

 

 疑義を呈する声は、全員からのものだ。

 壁際の男たちからも、目を丸くして開いた口を塞げていない。

 何を馬鹿な、と言っているのが目に見えるようであり、そしてそれは、硬直から立ち直った男の一人から口に出された。

 

「いや、そんな簡単に言うがよ……。それこそ阿由葉家が許すかどうか……」

「許しは頂くわ、必ず」

 

 そう言った七生の表情には、頑健な決意に満ちていた。

 あれを説得して止めるのは、それこそ不可能だろう。武器を持って脅そうと、決して思いを変えたりすまい。

 

 詰め寄って止めようとしていたスメラータだったが、その肩を掴んで止めて首を振る。

 ここでイルヴィ達が前に出るのは、逆効果にしかならないだろう。

 そうしている間に、硬直から回復したアキラの方から口を挟む。

 

「いや、でも……そう簡単にはいかないんじゃ……。僕が勝手をするほど素直に行くとは思えないし……、それこそ他家が許してくれないんじゃないかな」

「貴方が意志を曲げないというなら、私だって曲げないわ。これは女の意地の問題なの」

「いや、それにしたって……」

 

 アキラは説得しようと試みているが、その意志を変える事はきっと出来ないだろう。

 達観した気分でグラスの一つを適当に取り、そして薄いガラス製なのに見事な装飾をされた逸品に舌を巻く。

 

 どこを取っても驚きと感動しかないな、と思いながら中の酒を口に含み、それから味わった事のない美酒に頬が緩む。

 アキラが帰ってくれば退屈とは無縁になる。

 

 そう疑っていなかったが、更に賑やかな事になりそうだった。

 決して歓迎できる展開になりそうではなかったが、それはそれで面白い、と思い直す。

 イルヴィは更に酒を口に含んで嚥下すると、アキラ達の様子と、その彼を取り巻く未来を垣間見て、大きく笑い声を響かせた。

 



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エピローグ その3

 結希乃は御影本庁にある自分のデスクへ、不機嫌に踵を鳴らして近付くと、手に持った書類を叩くように投げ付けた。

 

「たったこれだけの書類を用意するのに、どれほど時間を掛ければ気が済むのか! 全く……っ! 無能の警察庁め!」

「結希乃様、余り外聞の悪い言い様は、その……」

「構わないわ、他に誰もいないもの」

 

 自分の部下である、佐守(さもり)千歳(ちとせ)へと冷たい声で返事して、慌てて表情を取り繕って微笑みかける。

 苛立ちがあろうとも、それを部下にぶつけるべきではない。

 千歳も笑みを向けられると、ホッとした様な表情を浮かべて、机の上の書類に目を向けた。

 

「……ともかくも、結希乃様。それが、例の……?」

「えぇ、去年にあった神刀奪回、生霧会幹部の捕縛についてね。警察の動員もあったし、拘留や後々の裁判の事もあるから、勿論無関係じゃないけれど……」

「やけに出し渋ってましたよね。……何かあるんですか?」

 

 捜査や取り調べ、そういった部分は主に警察の管轄の為、そちら主導で動くのは当然といえた。

 だが、神刀に関する部分、その関わりが強い部分については御影本庁の管轄だ。

 麻薬取引を行った事件でもあるので、そちらについては譲らねばならず、二つの事件が庁を跨いで行われるのが問題となり、そして事態を複雑化させる原因になった。

 

「要は手柄の問題ね。管轄であったり職分だったりは二の次よ。自分たちが幅を利かせられないの、それが気に食わないんだわ」

「……下らない」

「本当よ。だから麻薬取引に、どこのマフィアと関わりがあったか、それを教えるだけで馬鹿みたいな時間を掛けては、体面と体裁を取り繕った……!」

 

 結希乃は憎々しく書類を睨み付け、再び叩きつけてやりたい衝動を必死に抑える。

 

「神刀は既に一つ、海外へ運ばれてしまっていたのよ! それについて詳しく調べ、奪還すべく動mくのは我々の仕事! だってのに……!」

「先にあちらの仕事を優先された、という訳ですか……」

「別にいいわよ、自分達の管轄の仕事と職分に沿って動く分には! 麻薬の取引先、卸先を取り調べるのは当然だわ! でも、後回しにするのは別でしょ! 並行させなさいよ!」

 

 当然、御影本庁としても、神刀をいつまでも海外に置かれている状況は望ましくない。

 その事実を知った時でさえ、取引から既に多くの時間が経過していた。

 

 マフィアの手の中に収まったままなのか、そこから更に取引されて移動したのか、それも調べなくてはならない。

 だというのに、自分たちの捜査権を盾にされ、後回しにされたのだ。

 

 無論、幾度となく抗議と是正を求めて進言した。

 要求を全く無視される事はなかったが、神刀の行方についても、複数の尋問内容の中に含まれているのでお待ち下さい、という返答だった。

 

 そして、仮に聞き出せたとしても、その裏付けは必要になる。

 その尋問内容についても、やはり管轄の違いなどを盾に逃げられていた。

 だが、麻薬捜査に進展があり、解決まで道筋が通ったので、ようやくこちらにも情報が渡ってきたのだ。

 

「全く……、足を引っ張る事だけは有能な連中ね! でもこれで、こちらとしてもようやく、大っぴらに動く事が出来るわ。……準備は?」

「えぇ、形式は完璧に整えていますが……。でも、前から先行して進めてましたよね。大丈夫なんですか?」

「形式さえ整っていれば、後はどうとでも誤魔化しが利くわ。――勿論、蔑ろにして良いものじゃないけど、明らかに邪魔されてるというなら、こちらだって黙っていてやる必要がないもの」

 

 好き勝手やられては警察の面子が立たない、という言い分にも理解できる。

 だが、それで神刀の行方が完全に霞と消えてしまっては意味もない。

 

 彼らからすると、オミカゲ様の名を借りて好き勝手、大きな顔をしているとでも思っているのかもしれないが、全くいい迷惑だった。

 時として、御影本庁が捜査の横槍を入れる事があるので、その意趣返しのつもりなのかもしれない。

 

 苛つきがまた腹の底から煮え滾ろうとしたが、オミカゲ様のご尊顔を思い出して鎮静させる。

 感情の発露は自然なものだとしても、あまりに行き過ぎると下品になる。

 御影本庁に属する者として、また御由緒家の末席に連なる者として、部下の前で無様な姿を見せるものではなかった。

 

 最近、オミカゲ様は憑き物が取れたように穏やかな顔で過ごしている、という話は実しやかに結希乃の耳にも届いていた。

 女官の口は固いものだが、オミカゲ様の喜ぶ事となると、その口も若干軽いものとなる。

 

 オミカゲ様が心安らかに過ごしているのは、喜ばしい事だ。

 その御心を悩ます事がないよう、そして神刀の海外流出を即座に解決してみせるのが、結希乃の仕事と理解している。

 

 懸念や不安の報告を、オミカゲ様へせずに済むよう、全力を尽くさねばならない。

 結希乃は改めて心を落ち着かせ、自分は冷静だと心の中で呟いてから、千歳へと声をかける。

 

「飛行機の手配をお願い。整い次第、直ぐに出るわよ」

「え!? で、でも……式典は五日後ですよ!? 結希乃様も出席なさるんですよね!?」

「勿論よ。戦線に立った者としても、御由緒家としても、欠席する事は許されない。食事会は諦めるしか無いでしょうけど……だから、三日で済ませるわよ」

「そんな無茶な……! まだ詳しい所在だって掴めてませんし、マフィアを締め上げたぐらいで、即座の解決なんて出来ませんよ!」

「だから急ぐのよ。――いいから、手配!」

「は、はいぃぃ……!」

 

 結希乃が睨みを利かせると、背筋を伸ばして一礼し、部屋から駆け足で出て行く。

 その背後を見つめながら静かに息を吐いて、次いで書類へと顔を向けた。

 

 そこに記された情報程度では、到底神刀まで行き着く事は出来ないだろう。

 少しの聞き込み、少しの脅し程度で見つかる筈もない。

 

 海外での理力を使った捜査は推奨されず、それは回復手段がない事を理由としているが、短期に絞った捜査なら、それも可能と結希乃は思っている。

 捜査や探知、観察に優れた理術を使いこなせる者が一緒なら、即座に済ませる事も出来る筈なのだ。

 

 捜査権を行使しない奪回は、略奪と取られても仕方ない事だ。

 そもそも日本国の捜査権が、国外で通用する筈もない。

 警察の協力もなく、御影本庁だけで不可能と思っているなら、勘違いも甚だしい。

 

 秘密裏にやるのだ。

 相手が犯罪組織であろうとも勝手を許されないのは当然だし、時に権力とは足かせにもなる。

 好き勝手に力を振るう事は、公僕として許される事ではない。

 

 だが、オミカゲ様に関わる場合だけ、時として条理を破る事もある。

 特に今回は、その行方を完全に喪失している、というのが如何にも拙かった。調査には数年を要する事になるのだろうが、それであっても常套手段では見つけられない。

 

 オミカゲ様の――神刀や理術について研究される事は、非常に不都合な問題でもある。

 理力を科学で解明できるとは思えないが、もしも可能とした時、核兵器よりも恐ろしいものが生まれてしまうかもしれない。

 

 それを未然に防ぐ為には、多少の無茶も許容範囲と認められている。

 ただ、見つかったら大事なのは間違いない。それならば、見つからなければ良いだけだ。

 

 その為には、優れた術士が必要だ。

 そして、由喜門にはそうした事を代々得意としており、今代の術士も例外なく得意にしている。

 

「……紫都にも力を借りられないかしら」

 

 表沙汰に出来る事でも、決して褒められる事ではない。

 それを加味すると、果たして彼女が頷いてくれるかどうかが問題だった。

 何か上手い誘い文句はないものか……。

 結希乃は思案顔で頬に手を添え、溜息を吐いた。

 



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エピローグ その4

ささきもり様、誤字報告ありがとうございます!
 


 オズロワーナの中心に位置する居城、三階にある執務室で、テオは大きな机を占める書類と格闘していた。

 広い室内は飾り気がなく、精々花瓶に花が活けてあるくらいで、絵画の一つも置かれていない。

 

 質実剛健と聞けば印象も良いが、実際には金が無いから部屋を装飾する余裕もないだけだった。

 本当なら花瓶すらいらないぐらいだったが、流石にそれは寂しすぎるという事で、泣けなしに用意されたものだ。

 

 部屋の中にはテオの使う執務机だけでなく、他の文官が四名、同じく机で書類仕事に取り掛かり、それぞれに補佐官が二名付いて粛々と紙にペンを走らせている。

 テオにもヴァレネオという補佐官がいるが、今は少し出払っていた。

 

 王様は玉座で踏ん反り返っていれば良い仕事、などと思っていた訳ではなかったが、こうも変わらず文官に混じって仕事をするのも違うのではないか、と最近思ってきた。

 

 決済された書類の確認、決議だけする状態、あるいは御璽押印など、王様にしか出来ない仕事だけ回されるものだと思っていたのだ。

 それなのに、まるでいち文官と変わらぬ仕事を与えられている。

 

 決して楽をしたくて、王を目指していた訳ではない。

 理想を追うからこそ、それを実現する立場が欲しくて王を目指したのだ。

 現状も、正しく理想を実現する為の仕事ではある。

 だが、ここまであくせく仕事をせねばならないのか、と愚痴を吐きたい気持ちに駆られた。

 

 その時、執務室の扉が開いて、ヴァレネオが入室して来る。

 テオは恨みがましい視線を隠そうともせず、自席へと座る彼を目で追い、唇を突き出しながら不満を垂らした。

 

「遅いぞ。仕事は幾らでも山積しているというのに、お前一人抜けた穴がどれだけデカイか、今から説明してやろうか?」

「いりませんよ。大体、遊びに出掛けていた訳でないと、理解している筈では?」

「それでもだ! そもそも、何故この王たる俺が、文官混じり働いておるのだ! もっとこう……、なんかこう……違うのではないか!?」

「まぁ……、なまじ仕事が出来ると発揮して見せたからでは? 遊ばせておく人員などおらんのですから、当然……適材適所を考えると、そうならざるを得ないという……」

 

 ヴァレネオの指摘に、テオは歯噛みしながら文官達に目を向けた。

 今より約半年前、オズロワーナが被災によって上へ下への大混乱の折、テオは陣頭に立って必要な物資の計算や、必要な人員をどこに配置するか指示を出した。

 

 ただ指示を出すだけではなく、必要な書類の作成まで手伝っていたので、それがすっかりテオの仕事として定着してしまった。

 これまでの王がどういう仕事を知らずにいたテオは、そうして任されるまま、自分に出来る範囲の事を必死にこなしていたのだが……。

 

 いつの間にやら、文官の王という立場に収まっていた。

 ただ決裁書類が出来るまで待つ王より、その書類内容に精通し、自ら考える事も出来る王の方が、文官の方も有り難いと思ったらしい。

 

 だから、文句が出るまで体勢を維持しようとした結果、半年以上も現体制が維持され、そしてなし崩しに続けられる事となってしまった。

 

 お陰で必要な物資の集積や、現時点で求められる政策など、実にスムーズに事が運ぶので、テオは文官から絶賛されている。

 前王は働かず、とにかく戦費を掻き集める事に腐心するばかりで碌な指示もせず、とにかく無茶に振り回されていたという事実が、今のテオを絶賛させる要因にもなっていた。

 

「えぇい、人手……人手か! 一朝一夕には揃わん事だし、嘆いた所で仕方ないが……!」

「デルンが陥落した事で多くの穴が抜けたものですが、貴方の努力が都市の復興を助け、その復興の功績を持って、戻って来ようとしている者もいます。一人の王として、認められようとしておるのです。それは口だけ言っても意味はなく、どれほど大きく言ったところで響かぬもの。今を続ける事が、何よりの近道でしょう」

 

 その言い分には理解もするし、掲げた理想を理想のままにするつもりもない。

 努力はこれまで以上に必要となる事は分かっていたし、覚悟もしている。

 しかし、一人の努力に縋り続ける世の中、というのも間違っていると思うのだ。

 

「いずれは王制も廃止する。今は必要だからこの地位に甘んじるが、誰もが平等な世の中、その礎を作る事こそ俺の役目だ。より良い世界を目指す先は、一人の意思決定で行うべきものではない!」

「大変、結構な事かと。ミレイユ様も奨励されておりました。そのミレイユ様も、神の気まぐれで人の世が乱されてはならぬと、神の横暴を取り除いて下さいました」

「人には人の、世の在り方を決める権利がある……だったか」

 

 神が人に手出ししない、という世界の在り方は、テオにとって青天の霹靂でもあった。

 種類は違えど、神からの干渉はあって当然、と思っていた。

 それは天の頂にミレイユが就く事でも変わらないと、考えるまでもなく、そう受け止めていた事でもあった。

 

 ミレイユを信頼してなかった訳ではないが、しかし神ならば当然、と思っていたのだ。

 王を始めとした権利者は、その特権や利権を守ろうとする。

 それと同じで、神からしても当然、それと似たものを振り翳すものだと疑っていなかった。

 

 神は一切、人の世に干渉しない。

 人は人の持つ責任において、自由に向きを変える権利を持つ。

 神に反感を抱くも、信奉を向けるのも、それは人が持つ自由であるという発言には、テオでなくとも耳を疑うに十分だった。

 

 しかし、今までと同じ病毒・怪我の加護はそのままに、ミレイユは見事神々を統率し、余計な手出しをさせなかった。

 神々の多くを失った事、それらが大地震の折に失われたのだと、世間は後に知った。

 

 ご機嫌取りだと、あるいは人の世から逃れる口実だと、口さがなく言う者もいた事を知っている。

 だが、信奉した神々がいなくなる事を悲劇と思っても、実害が消える事の方が遥かに大事だった。

 

 何故なら、それまで当然にあった、ご機嫌取りのような信奉を向ける必要がない。

 敬わなければ罰せられる。神のいずれかを信奉しなければ、災いが落ちる。

 敬う限りにおいて、従順に信奉する限りにおいて、民は自由を許されていたのだ。

 

 これまでの半年、悪態や暴言を吐いた程度で罰せられた民は存在しない。

 癇癪を起こした神が人に暴力を振るおうとして、それをミレイユが殴り飛ばして止めた場面なら見た事はあった。

 

 挑発するような人間の方が悪いと思うのだが、安易に挑発に乗る神こそが悪い、という論法らしい。

 ありがたいと思うし、その沙汰と実行についても、人は安心できる材料になったろうと思う。

 それを悪く思う事はないものの、しかし、どうしても思ってしまう事もある。

 

「干渉しない、というのは結構な事だと思う。今まではどうしても、頭を押さえつけられた窮屈さから抜け出せなかった。それがないからこそ、自由な思想、自由な発想で世界を良くしていけるんだろうが……」

「……だというのに、何か不満があるので?」

 

 ヴァレネオは間違いなく敬虔なミレイユ信者で、ミレイユを悪く言うと機嫌を悪くする。

 神が許している事といえど、それを自分が我慢する事は別だと思っていた。

 だから、ミレイユの話題を出す時は、いつも気を配る。

 

「いや、悪いとは言ってない。ただ、干渉しないのは、自らが干渉されるのを遠ざける為じゃないのか。神は何もしない、だから最初から求めるな、余計な面倒を持ってくるな、と言うような……」

「それが悪いとは思えません。人の世の事です。人の問題は、人の間で解決するのが道理でしょう。困った時だけ頼るというのも、些か品性に欠けるのでは……?」

「まぁ、そうだが……」

 

 それは事実だとしても、自らが動かなくて良い大義名分を得たいから、そうした取り決めを作ったのではないか……。テオには、そう思えてならなかった。

 

「人がやる事だから、人が決める事だから時間は掛かる。それは仕方がない。神様の言うとおり、とは行かないでしょう。……が、貴方には最早、猶予を気にする必要もない。そこは素直に感謝して、ミレイユ様がそう望むのであれば、その望みの為に動くべきかと思いますがね」

「う、む……。それなぁ……。いや、勿論感謝しているが、だからといって、それを理由に信奉とかそういうのは……」

「えぇ、ミレイユ様も別段、望んでおられますまい。その為にやった事でもなかろうと思います。……いわば、働きに対する正当な報酬。あるいは、その働きを十全にこなす為に必要と下賜されたもの、そういう事だと思いますがね」

 

 何ともヴァレネオの盲信ぶりが分かる発言だった。

 テオには人の寿命の半分ほども、時間が残されていなかった。

 そして自らに掛けた呪いの為、更なる矮小な存在として生まれ変わる事を余儀なくされていた。

 

 それを払ってくれたのはミレイユだ。

 どうやったものか見当もつかないが、ユミル主導の元、ルチアと三人掛かりで色々され、その結果呪いは解かれる事になった。

 普通の寿命を取り戻し、そして普通に死んでいけるようにもなった。

 

 それについては素直に感謝している。

 理想を叶えられる段階まで、そして現在の位置まで、その背中を押してくれた彼女には、確かに感謝以外の気持ちを表しようがないのだ。

 

 ヴァレネオとしては、それだけ恩があるのなら、素直に神と認めて信奉しろ、というところに落ち着かせたいのだろう。

 だが、昔のミレイユを知っている身だと、どうにも素直になれないところがある。

 

 その当人に殺された身としては、最初に身構えてしまう癖が抜けてくれない。

 襲い掛かった自分も悪いと思うが、その時の苛烈な反撃はテオの心に恐怖を刻み込んだのだ。

 風向きを悪く感じて、テオは無理やりだろうと構わず、話題を転換した。

 

「そういえば、どうだったんだ。急な呼び出しだったんだろ? 何があったんだ?」

「……まぁ、よろしいでしょう。いえ、最近恒例となりつつある、神の悪戯について、少し……」

「あれか……」

 

 テオは顔を顰めて、こめかみに握り拳を当てた。

 神と言っても、ミレイユが何かする訳ではない。むしろその逆で、何か問題行動を起こそうとする小神を、ミレイユが取り締まろうとしているのだ。

 

 起こる問題行動も人的被害が起きる程ではなく、ミレイユに構って欲しいから起こす悪事と予想している。

 だから悪戯の範囲を超えていない。

 しかし、神にとっては悪戯でも、人にとっては笑い話で済まない事もあった。

 その対処に、少し駆り出されていた、といったところなのだろう。

 

「まぁ、我々の方に問題はありません。あったのは、むしろあちらの方でして……。それでも一応、建物に被害が出ましたので、その確認と今後の詫びなど相談させて頂いた、といったところで……」

「ちょっと待て。……詫び? 誰が、誰に?」

「神が、人にです」

 

 テオは頭痛を覚えてしまい、思わずこめかみに沿えていた拳を強く押し付けた。

 全くの前代未聞、驚天動地とはこの事だった。

 人が許しを乞う事があっても、その逆は無いのが神というものだ。

 

「無償労働でもさせて、コキ使って修復の手伝いでもさせろ、というお言葉を頂きましたが……丁重にお断りを。代わりに信徒の貸し出しや、寄進などをして頂こうという話で落ち着きました」

「それが良いだろうな。神が混じって働いてみろ。大混乱になるだろ」

「意識を変えさせたい一貫なのやもしれませんな」

「大体……何だったか。アルケスだったか、その神。そいつなんて、明らかにミレイユに構って欲しいだけだろ。それを律儀に……」

「神の横暴を、無力化して止められるのは、ミレイユ様しかおりませんからな。とはいえ、それを逆手に取られている風なのも事実。何か厳罰を課す様でなければ、これからも続くかもしれません」

「いっそ放っておか……れても困るか。実害が大きくなっても、なぁ……。それでまた、神々の闘争なんか起きても困るしな」

 

 あの日、天変地異が起きたのも、それが理由だと多くの人は思っている。

 神々同士の熾烈な争いは、大地すら割るのだと、そう認識させられた。

 それは事実と異なると、テオやヴァレネオは教えられていたが、庶民からすればそう考える方が自然なのだ。

 

「ともかく、神々の頭を押さえているのがミレイユで助かる。お陰で馬鹿をするのはアルケスだけで、他は大人しいもんだ。ある意味で、それが良い教訓として神々の間で広まっているのかもしれないな……」

「それもまた、あり得ますな。悪戯の域を越えれば弑される可能性も、十分あるのだと認識している筈です。命懸けの遊びなど、誰もやろうとせぬでしょう」

 

 話している間に熱がこもり、手を止める時間も長くなっていた。

 目の前の書類は全く減っておらず、むしろ増えている有様だ。手を止めていた分、これを片付けなければ酷く恨まれる事になるだろう。

 

 こちらを見つめる文官たちからの視線も、段々と鋭いものになっている。

 テオは大きく溜め息を吐いて、作業を再開する。

 せめて式典の時は、羽目を外して酒でも飲もう、と心に誓った。

 



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エピローグ その5

 奥御殿の中庭にて、オミカゲ様は一千華を伴って歩いていた。

 最近の一千華は特に細くなり、寝たきりになる事もしばしばだった。

 

 深い皺と皮、骨ばかりになるのは、年老いた者ならば当然ではあるが、親しい友が弱っていく姿を見るのは耐え難い。

 一千華の体力は筋力と共に衰え、それに準じるように魔力も低下していった。

 

 本来ならば車椅子でなければ身動き出来ない身体の筈だが、曲がりなりにも歩行できているのは、その魔力による補助があるからだ。

 それでも一人での歩行は危なっかしいからと、一千華には付添い人が居たのだが、今日ばかりはオミカゲ様自ら申し出て、その手を引いて歩いている。

 

 触れる事で他者の制御を奪い、より効率的に動かしてやれる、というのも一つの理由だが、何より一千華の為に何かをしてやりたかったというのが理由だ。

 細い――細すぎる手首に触れる度に思う。

 

 既に一千華は己の死期を悟っている。

 背後から忍び寄る影を認識し、それが実際いつ自分の肩に手を掛けるか、それを正確に把握している様な気がするのだ。

 

 だから、ここのところ寝ている時間が増えるに当たり、オミカゲ様も覚悟を決めていた。

 つい最近も、二日の間、昏々と眠っていたばかりだ。

 

 ようやく目を覚まし、そして意識が鮮明になるにつけ、オミカゲ様との面談を希望した時は、遂に来たかと思ったものだ。

 しかし、一千華の口から出た言葉は、共にお茶を飲む事を希望するものだった。

 

 周囲から安静にしているべき、と諭されても、頑強に己を曲げない。

 一千華が望む事は何なりと叶えてやりたい。

 だから、オミカゲ様は中庭に野点(のだて)の準備を整えさせ、今はそちらに移動している最中だった。

 

 今日は日差しも良く、それに合わせて二人も夏に向いた着物だった。

 単衣(ひとえ)に仕立てた着物の中でも、薄くて透け感のある薄物(うすもの)と呼ばれる物を着こなし、()と呼ばれる染め着物の下生地を用いていた。

 

 オミカゲ様は薄い桃色で、子どもの成長を願う竹と、邪気を払う菊の柄が入っている。

 一千華はそれより随分と大人しめで、薄緑と水色の色使いがヒンヤリとした感じを演出してくれる縦絽だった。

 さりげない花の刺繍が、ひそかな豪華さを添えている。

 

 今は夏の盛りも迫ろうとする時期で、気温も高い。

 空の陽は高く、空は薄い水色で、雲がぽかりと浮いていた。

 風の流れは穏やかに、さわさわと遠くの木の葉を揺らしていて、涼やかな風は肌を撫でる度に一瞬、暑さを忘れさせてくれる。

 

 二人が同じものを目で追い、そして視線を戻すと自然に目が合う。

 互いに微笑を向け合い、止めていた足を再開する。

 

 そうして歩を進めてややしばらく、目的地へと到着した。

 中庭の中にあって人工的に作られた小川が傍を流れ、綺麗に整えられた芝の絨毯の上に、綺麗な赤い毛氈(もうせん)が正四角形に切り取っていた。

 

 近くに植えられた梅の木が木陰を作り出しているものの、そこへ一本、本式と呼ばれる野点傘が刺されている。

 趣ある赤の色合いと『直の端』と呼ばれる、傘の端まで直線の美しいシルエットを持ち、『段張り』と呼ばれる技法で、赤白の二色張りにされてあるのが特徴の傘だ。

 格式高い伝統工芸でもあり、晴れやかな日に相応しい用意だった。

 

 一段高くなっている毛氈の端で草履(ぞうり)を脱ぎ、茶道具の前まで案内する。

 本来ならば互いに茶人が淹れたお茶を飲む立場だが、今日ばかりはオミカゲ様その手ずから点てて供する予定だ。

 

 夏の日差しは暑くとも、二人にはそれを制する魔術がある。

 オミカゲ様がそのフォローをしているとなれば、二人の間には朗らかで涼やかな空気しか流れない。

 

 オミカゲ様は釜の横に座り、対面には正客として一千華を招く。

 一から点てるとなれば、実際に茶を口に含むまで、結構な時間を要する。

 釜に火は入り、湯の準備はされてあるが、最低限の準備だけだ。インスタントコーヒーの様に、ただお湯を淹れて混ぜて終わり、という話にはならない。

 

 茶碗に予めお湯だけ注いでおき、茶筅も共に温めておく必要があり、その間にも必要なものを用意する。

 一つ一つの所作は緩やかに、優雅であるべきで、その段取りや順番においても、不躾な真似は許されない。

 

 気安い仲とはいえ、だからこそ敬意を見せる相手には、その段取りと所作が重要になる。

 そして、実際にお茶を点てる段階になっても、互いに会話はない。

 一千華は背中を伸ばして正座しているが、その瞼は閉じられており、互いの間に流れる音は、茶筅で茶碗を掻く音だけだ。

 

 そして時折、虫の音や風が木の葉を揺らす音、鳥の囀りが耳を楽しませる。

 互いの会話は無粋というより、それ以上を必要としないから無いものだった。

 こうして対面しているだけで、何より雄弁に対話しているとも言えた。

 オミカゲ様が茶碗を差し出すと、一千華はそれを膝の前に置いて、頭を下げて挨拶する。

 

「お点前、頂戴いたします」

 

 それが今日、この場で始めて発せられた声だった。

 必死に正常を取り繕うとしていたが、その声は震え、必死の我慢をしていると分かる。

 茶碗を左手に乗せ、右手を添えて押し抱き、二度回してから口元へとそっと運んだ。

 

 静かに嚥下し、最後の一口を啜って音を点てるのが、感謝を表す作法だ。

 形式ばかりではない、真心の感謝が一千華から伝わって来る。

 

 茶碗で隠れていた顔が、飲み干した事で明らかになる。

 ほぅ、と細く息を吐き、皺を深く刻んで笑顔を向けた。

 

「あぁ……、満足です。何もかも、恵まれた人生です……。貴女と共に在れて、光栄でした……」

「こちらこそ、光栄だった」

 

 呟く様に発する一千華に、笑顔で返礼と共に言うと、その手の内から茶碗が落ちた。

 腕も力なく垂れ、身体が傾くより前に、茶席を蹴って受け止める。

 ひどく細く、そして軽い身体を、胸の内にそっと抱き留めた。

 

 その表情は実に満足げで、満ち足りたまま旅立ったと分かる。

 一千華もまた、全てにおいて遅きに失した、全てが手遅れだったと、共に絶望した間柄だ。

 それをミレイユが覆し、今の安寧の世で余生を過ごせた事は、確かに幸福だったに違いない。

 

 日毎痩せ衰え、寿命が迫っていたも、そこに苦慮はなかった。

 オミカゲ様を残す事についても、既に話し合いは終わっていた事だった。

 

 一つの命として、終わるべき時はある。

 一千華はオミカゲ様の知る、他の誰より長かったが、やはり同様に終わりは来た。

 そしてそれを、穏やかな心で見送る、と決めていた事でもあった。

 

 布団の上の老衰ではなく、こうした場を選んだのも、一千華に出来る最期の気遣いでもあったろう。

 覚悟を決めていても、目覚めないまま手を握って別れるような場面を作りたくなかったから、こうして無理をした。

 

 もしも寝たままだったら、あるいはあと三日……もしくは五日、幾らかの延命は出来たろうと思う。

 最期に出来る、一千華なりの気遣いに、改めてオミカゲ様の涙腺が緩む。

 

「そなたは逝った……。だから良かろう。もう、泣き顔を見せても……」

 

 一千華の細い身体を抱き、その頭を優しく撫でながら、オミカゲ様は涙を零す。

 頬を濡らし、顎から落ちるのを気にせず、ただ自然の音に身を委ねた。

 

 木の葉が揺れ、虫の音は遠く、空は青い。

 そこに小さな嗚咽が加わり、風がそれを攫っていった。

 



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エピローグ その6

天の川(・・?)様、ささきもり様、誤字報告ありがとうございます!
 


 かつて『ミレイユの森』と呼ばれたその地は、多くの罠が張り巡らせた天然の要害だった。

 しかし、戦争が終結した後、それらは全て取り払われ、単に深い森となっている。

 その森も今では商業路が作られ、馬車が三台横並びになれるほど太い道が、里まで貫いていた。

 

 デルン王国は滅び、その代わりに森の民が大陸の支配者へと収まった。

 しかし、これは現在形式的なものに過ぎず、オズロワーナを支配する者が世界を制する者ではないと、公に周知されている。

 

 今はまだ時期が早く、その体制も整っていない。

 未だ準備期間という形で、それを実現させる為、今も王城にてテオが辣腕を振るっていた。

 

 共生と共和、平穏と平和、誰もが不当に虐げられない世界――。

 それは目指すに相応しい志だが、神の横槍が無くとも簡単に実現できる事ではない。

 しかし、テオと周囲の努力が実を結べば、支配構造の終焉も決して遠い夢物語ではなくなるだろう。

 

 そして現在、王城は慣例に従い森の民の専有地となっているが、森の民しか出入りしていない、とはなっていなかった。

 かつてエルフが居を移し、そこを拠点として生きるようになったように、やはり森の民全てが移居したかと思えば、実際そうはならなかった。

 

 多くの民が、森の中で生きる事を選んでいる。

 森の中に閉じこもり、森の中だけで完結して生きているわけではないし、今となっては都市へ遊びに行くことも、決して珍しい事ではない。

 

 だが全てではなく、官吏としての能力がある者は残り、あるいはテオの熱意に賛同した者が、王城で執務を手伝ったりしているのだ。

 希望者は移り住む事も出来、その為の新たな住宅地を作ろうという案も浮かんでいた。

 だが手筈は整えても、実際に移り住むとなればハードルも高い。

 だから拒否する者が多かったのか、といえば、実際の理由はそうでなかった。

 

 この森には、神が御わす。

 人の目に触れず、地上に居を持たないとされていた筈の神が、この森にだけは起居しているのだ。

 だから彼らは誇りを持って、そして玉体守護の使命を持って、森の中で生活し続ける事を選んだ。

 

 今はまだ畏れの方が強く、参拝という程、遠方から通う信者は少ない。

 だが、神は心穏やかに過ごす事を望んでいるので、その意を尊重する為にも、森に残る事を選んだ者は多かったのだ。

 今も森の民は、誇り高く森の最奥を眺め、感謝と敬意を持って頭を下げた。

 

 そこへ、森を覆う程の巨大な影が頭上を()ぎる。

 雲とは明らかに違う異質な影は、太陽の明かりを浴びて、颶風(ぐふう)を巻き起こしながら降りて来た。

 

 これもまた、この森にあって最近見慣れた光景だった。

 見上げる程の赤い巨大なドラゴンが、神処へ訪れる事は珍しくない。

 その為に、今ではすっかり森の一部が剥げてしまった。

 

 ドラゴンが収まる場所などなく、神処の近くを勝手に使った結果、樹々はなぎ倒され、その巨体がすっぽりと収まる空白地帯が生まれたというのが理由だ。

 

 本来ならば、ドラゴンという存在は恐ろしいものだ。

 只でさえ街一つ、国一つを滅ぼす事も簡単な魔物でもあった。

 だが、森に御わす神は、それをまるで犬のように手懐けていて、心従させている。

 森に限らず、その周囲で被害が出たという話も聞かなかった。

 

 ドラゴンさえ、正しき神の前では従順である事を選ぶのだろう。

 それ程の信頼を寄せられている神であるのだから、信奉出来る事を喜びとも思うのだ。

 

 それがまた、森の民にとって誇らしい。

 だから、畏怖こそすれど、森の民はドラゴンの存在をいつしか当然のものと受け入れていた。

 

 ――

 

 そして、その神処――ミレイユの邸宅にて、その主は億劫そうにテラス席へと移動していた。

 ドラゴンが……ドーワがやって来たとなれば、顔を出さない訳にはいかなかった。

 なにしろ、家の中に閉じ籠もったままだと、彼女は何かと口喧しい。

 

 それで仕方無しに、いつもと同じ場所、用意された椅子へと腰を下ろせば、後を付いて来たアヴェリン達も席に座る。

 いつのも指定席に着くと、今となっては召喚するまでもなく現れるフラットロが、ミレイユの肩に止まる。

 両前足と顎を乗せ、特等席と言わんばかりに、我が物顔で縋りついて来た。

 

 それに微笑を返して鼻先を撫で、そうして、当然の様に空いている椅子へ座っているルヴァイルへと、冷たい視線を送った。

 自分で用意したお茶を、綺麗な所作で口へ運び、その隣では粗野な所作でインギェムが音を立てて茶を啜っていた。

 

「……おい、なんでお前達までいるんだ。ドーワが来たからにはお前達も呼ぶ予定だったが、呼んでもいないのに既に居るな」

「良いではないですか、無駄が無くなったとでも思えば。それに、来てはいけないとも言われてませんでしたしね」

 

 目を合わせる事もなく、しれっとルヴァイルが答えた。

 ここ半年で、随分と面の皮が厚くなったもので、最近では遠慮というものが全く見られない。

 

 それどころか、何かと理由を付けて接触を図ろうとしており、今では理由さえ適当に誂えてやって来る始末だった。

 天上の神処は当然無くなったが、新たに所在地を定めて、予め逃がしていた神使達とそこで共に暮らしていると聞いている。

 

 彼女らも神として願力を受け取り、それを振るう理由があって、だから以前より精力的な信仰活動をしているという話だった。

 信仰を得る事は、今後の事を踏まえれば大事な事だ。

 

 ミレイユもまた、精力的な活動というものを始めなければならないだろう。

 それこそ、オミカゲ様の様に全国へ伝わるネットワークの様な、信仰と循環システムを作る事は必要と考えている。

 だが、それはそれとして、無作法な珍客を持て成してやるのは癪に触った。

 

「アヴェリン、つまみ出せ」

「ハッ!」

 

 常と変わらぬミレイユの守護者の立場を大いに発揮し、神相手であろうと遠慮せず二柱を掴む。

 乱暴な手付きで引き摺って行き、その姿が見えなくなるまで見届けると、ミレイユも改めて茶器を手に取り――そして、面前に出来た孔を見て息を吐いた。

 

 次の瞬間にはインギェムとルヴァイルが現れ、素知らぬ顔で再びお茶を飲み始めている。

 それを見て、ミレイユの横に座ったルチアが鼻白み、その逆側に座ったユミルは大いに顔を顰めた。

 

「アンタら、ほんと遠慮ってモンがないわね」

「大体、神がそんなフットワーク軽めに、お茶飲みに来るものじゃないと思うんですけど……」

「まぁ、よろしいではないですか。共に世界を再生しようという仲間。……そう、仲間なのですから」

 

 そう言って、ルヴァイルは熱意の有りすぎる視線をミレイユに向ける。

 決して間違いではないので、ミレイユが否定せずにいると、受け入れられたと思ったルヴァイルの顔が花咲く様に華やぐ。

 

 両手を伸ばしてミレイユの片手を握り、その感触と温かさを確認しようと撫で回そうとした。

 そして、即座にユミルが叩き落す。この一連の流れは既に出来上がっていた。

 そこへアヴェリンが走ってやって来て、実直に頭を下げる。

 

「申し訳ございません、ミレイ様! 奴ら……ッ!」

 

 ギリィ、と奥歯を噛みしめる音に目を向けると、怨嗟が見えるかのような目付きでルヴァイルを睨んでいる。

 当の本人はそよ風を受け流すかの様に、アヴェリンの方を見向きもしない。

 

「いや、いいんだ、アヴェリン。本気で逃げようとする神を、拘束し続けることは私でないと無理だ。……私も、とりあえず言ってみた程度の気持ちだったしな」

「物事を正確に把握するのは良い事です。大神として唯一顕現する神として、実に素晴らしい素質です」

「何が素質よ。当たり前のコトを口にしただけじゃない」

 

 ユミルが虫でも払うかのように手を振るが、これにもルヴァイルは無反応だ。

 去年まではいつものメンバーで暮らしていたのだが、今はそこに、ルヴァイルたち二柱が加わる事も多くなった。

 

 半年前に起きた、あの大戦――。

 あの時、大神から言われた、この世が砂上の楼閣であるという言は真実だった。

 

 本当に砂のように崩れ去るという訳ではなかったが、その放置は世界の終焉を招く。

 それにただ絶望し、足を止めるなど、初めから考えていなかった事だ。

 

 これを修復し、あるべき姿に戻すのはミレイユの使命――新たな命題だ。

 滅びを迎えるといっても、惑星が割れて崩壊するような、手を出せない問題でないのは救いだった。

 

 それはまるで虫食いのように現れ、一部地域をまるで灰の様に崩していく。

 同時にそれは予兆の様なものに過ぎなかったが、その時点で食い止める事が出来れば延命が可能だと、既に判明していた。

 

 そして、これには神力を当てる事で改善する事は、既に幾度も行ってきた結果として知っているのだ。

 だが、それは場当たり的対処に過ぎず、根本的解決には程遠い。

 

 虫食いが発生する場所も決まっている訳ではなく、予め何処で発生するかも予想がつかない。

 まるで、かつてオミカゲ様が、孔の侵攻を食い止めていた時の焼き直しの様だった。

 

 ――何処かに現れ、そして後出しで対処する。

 だが、彼女がやれていた事だ。不毛に思えても続ける意味はある。

 そして、いずれ半自動的な対処法も、構築できると考えていた。

 

 そこもやはり、オミカゲ様が作り出した結界のシステムを構築すれば、可能だろうと見ている。

 この問題には、解となる前例がある。全く同じではないものの、応用で対処可能、という心構えが出来ていた。

 

 ミレイユがその自信を全面に出した態度を見せているからこそ、真相を知ったルヴァイル達も絶望せずに済み、それどころかよりミレイユへ信頼を寄せるようになった。

 

 今は場当たり的対処しか出来ない。

 しかし、神力で解決する問題でもあり、いずれ解決する目途が付いている問題でもある。

 そして大地に水を注ぐかのように、少しずつ改善していく問題でもあるのだから、長い目で見れば良いだけだ。

 

 未だミレイユは、神として受ける信仰は少ない。

 だが、他にも頼りに出来る神がおり、それらと協力するのなら、虫食いを止める事は難しくないのだ。

 

 そして、ミレイユが神として成長し、より広く信仰を集め、より深く神力を扱えるようになったなら――。

 そこでようやく、改善へと乗り出していける。

 今は焦る時ではなく、その成長を考える時だ。

 

 そして、ドーワが現れたというのなら、一つの問題を発見し、報告しに来たという事になる。

 

「それで、見つけたのか?」

「あったよ、今回は虫食いが三箇所だ」

「それはまた……、長丁場になりそうですね」

 

 ルチアが同情するように言って来て、ミレイユは元より、ルヴァイルまでもがげんなりと息を吐いた。

 指先を向けてチョイとやって終わりではなく、虫食いを鎮めるには長い時間が必要になる。

 

 その間には魔物の襲撃も皆無とは言えず、だからアヴェリンを始めとした護衛の存在は必要だった。

 今更魔物ごときに遅れを取るミレイユではないが、虫食い一つに集中できる方が、やり易いのは言うまでもない。

 

 当然、そうなればルチアやユミルも同行する。

 だから彼女らにとっても他人事ではないのだが、掛かる労力が段違いなので、そういう言い方になってしまうのだ。

 ミレイユはドーワに労うつもりで手を挙げ、思わず大きなため息を吐く。

 

「何にしても、報告ご苦労だった。その三つは固まってあったか?」

「いいや、全然別だね。結構離れてるよ」

 

 辟易した気持ちを抑えきれず、またも大きく息を吐く。

 ドーワには虫食いの発見を任せ、世界中を飛び回らせているから、苦労というなら彼女の方が苦労には違いない。

 

 だが、大神の手足として、その目として動ける事が嬉しいらしく、その事で文句を言って来た事は一度もなかった。

 それどころか、発見した後はその背に乗って移動する事になるので、大神唯一の翼として己の在り方に誇りを持ってしまっている。

 

「苦労が無いとは思ってなかったし、苦労するつもりで帰って来たが……。私としては、もう少し……こう、違うものを想像していた。こんなにあくせくと、世界中を飛び回って汗を掻く真似をするとは……」

「何だっけ? 木陰で茶を飲んだり、無為に過ごす時間を望んでたんだっけか?」

 

 インギェムが揶揄するように言うと、ルヴァイルは肩を竦めて言葉を返す。

 

「現状、それと似たようなものにはなってます。つまり、妾はそれを上手に提供できているという事ではありませんか」

「……恣意的に事実を曲解し過ぎでは?」

 

 ルチアが半眼で見つめて口をむっつりとへの字に曲げた抗議も、ルヴァイルには些かの動揺を誘えなかったらしい。

 ユミルが努めて無視して、ミレイユへと指を向ける。

 

「まぁ、それもカミサマの仕事と思って、アタシ達の為に頑張ってよ。……ねぇ、ミレイユ神?」

 

 悪戯が成功した子供の様な笑みを浮かべ、次いでユミルは片目を瞑った。

 再び溜め息を吐きたい衝動に駆られたが、それをグッと飲み込む代わりに紅茶を飲み干す。

 

「その呼び名は止めろ言ってるだろ。……何かこう、しっくり来ない」

「あら。じゃあいっそ、新しく名前でも付ける? 神は真名を隠すものらしいし?」

 

 ユミルがルヴァイル達へと流し目を送ると、はぐらかす様に肩を竦めた。

 単なる冗談として口にしたものかもしれないが、それも案外悪くない事の様に思われた。

 まるで他人事の様に感じるというなら、いっそ違う名前で呼ばれるというのも、アリなのかもしれない。

 

「まぁ、良いのがあったら考えてみても良いな……」

「じゃあアタシ、張り切って考えちゃうわよ。ホベンベとテペロベ、どっちがいい?」

「……お前に名付けのセンスがないのは理解した。もう二度と考えるな」

「やぁね、冗談よ」

 

 ミレイユが盛大に顔を顰めたのを見て、ユミルは満面の笑みを浮かべた。

 そこへ、我慢し切れなくなったアヴェリンが口を挟む。

 

「ミレイ様の御名というならば、当然お前一人の案が採用されるなど有り得ない! もっと気高き、美しい名でなければ!」

「単に美しい響きってだけじゃダメですよ。名前そのものに、最低二つは意味が含まれてませんと、箔ってものが付きません」

「なるほど、もっともだ」

 

 そこへルチアまでもが参戦し、場は一気に喧々たる様相を呈して来た。

 更にルヴァイルまで参加を表明し出し、最早まとめるのは不可能と悟って強制的に中断させる。

 

「話題を横道に逸らした私が言うのも何だが、お前たち、その辺にしておけ」

「そうとも。虫食いの対処に赴くって話、してた筈じゃないかい」

 

 ドーワからも苦言が飛んで来て、アヴェリン達はとりあえず矛を収める事で同意した。

 

「確かにそうでした。一分一秒を争うほど切迫したものでないにしろ、対処が早いに越した事はありません」

「そうよね、まず準備よ。それこそ空の旅の間、丁度良い暇つぶしになると思えば良いでしょ」

「暇つぶしで、私の名前をオモチャにするな」

 

 ミレイユが渋い顔をすると、ユミルまたも笑みを浮かべた。

 今度は何も口にしなかったが、指先を向けて、二度指す様なポーズを取る。

 最近は、何かとミレイユの嫌がる顔をさせると喜び、何が楽しいのか機嫌が良くなる傾向にあった。

 彼女なりの愛情表現なのかもしれないが、もっと別の形にしろと言いたい。

 

「ともかく、手早く準備をしろ。終わり次第、即座に出発だ」

「了解よ」

 

 アヴェリン、ルチア、ユミルが席を立ち、言われるがままに装備を取りに邸宅へ戻る。

 準備の必要がないミレイユやルヴァイル、インギェムは準備が終わるまで待機だ。

 

 ミレイユは待っている間、椅子から立ち上がり、テラスから出て顔を上げた。

 そして、空の向こうに故郷を思う。

 

 結局、忙しくてあれから一度も故郷の土は踏んでいない。

 神の理として世界を越えられないのではなく、この虫食いへの対処方法などを確立するまで、安心出来なかったから行けなかった、という実情がある。

 

 どうやら、二つの異なる世界から、別々に願力を得た事により、どっち付かずの神が誕生したらしい。

 他の神とは違い、デイアートと地球という異なる世界に対して、ミレイユは行き来する事が出来る。

 

 だから、地球と――日本と隔絶される事なく、今となっては孔を継続的に繋げられ、そして危急の問題があれば繋げる事も許される。

 それが一種の拠り所で、だからミレイユはこの世界で、腐る事なくやって来れた。

 

 ミレイユは、この世界で神として生きる。

 それは誓いでもある。

 この世界を助けると、一度決めた事だから、それを最後まで貫く。

 何年、何百年、何千年掛かろうと、オミカゲ様がやり遂げたように、ミレイユもまたやり抜く所存だった。

 

 それを辛いとは思わない。

 何しろ頼りになる仲間がいる。

 

 今も振り返れば、装備の点検をしながら戻ってくる顔ぶれが見えた。

 彼女らが共にあるから、ミレイユはどこの世界だろうとやっていける自信がある。

 

 その彼女らが、席から立ったルヴァイル達とも合流し、気安い態度で接しながら歩いて来る。

 嫌な顔、煩わしい顔、それを意に介さぬ顔に、むしろ面白がる顔――。

 

 ミレイユには仲間がいる。

 ミレイユという新たな生で得た、最高の友だ。

 

 それを思うと、何故だか無性に笑いが込み上げて来て、それを隠したくて空を見つめた。

 不意な笑顔を見せるのが気恥ずかしくてやった事だが、上向くだけでは到底足りない。

 

 両手を重ね上に顎を乗せる姿勢で待つドーワへ近付き、その頬に手を当てる。

 その恰好で隠せないか試みたが、当のドーワにはしっかり見られた。

 微笑ましいものを見るように瞳孔が細くなるものの、ドーワは何も口にしない。

 

 ミレイユは改めて顔を上げ、その視線の先には、透き通るような空が見える。

 白々とした雲が流れ、それを突っ切る様に鳥が羽ばたいた。

 

 空の色は、どこまでも優しさをたたえていて、どうにも感傷的にさせられる。

 ミレイユは優しい水色から視線を切って、やる気万端のアヴェリン達へ向き直った。

 結局、笑顔は隠し切れなかったが、彼女達から驚きつつも受け入れる笑顔を返されて、一つ頷く。

 

「さぁ、出発だ!」

 

 

                 神人創造 ~無限螺旋のセカンドスタート~

                                終

 




これにて完結です!
ご愛読ありがとうございました!
正式なあとがきは、活動報告の方に書かせて頂いて、こちらでは簡単に……。
ここまでお読み頂いた皆様、最後までお付き下さった皆様、本当にありがとうございました!


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