転生チートトレーナーvs転生チートウマ娘 (アリマリア)
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出会いと始まりと転生チートの季節
ホシノウィルム登場!


1話なので長め。


 

 

 

 結論から言おう。

 俺は、転生した。それも昔遊んでたソシャゲの世界に。

 

 ……いや、わかる。わかるぞ。イカれてんのかコイツ、と誰もが思うだろう。

 ソシャゲの世界に転生って何だよ、どうやってデータの集合の中に入るんだよ、というか輪廻転生ってホントにあんのかよ、と。

 馬鹿にする気持ちは、すごくよくわかる。何なら俺も未だに夢なんじゃないかと疑うことがあるくらいだ。

 でもとにかく、あった。あったんだよ。輪廻転生は実在した! ソースは俺。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 今から20年以上前のこと。この世界にある堀野という家に、1人の男が生まれた。

 ソイツは子供の頃から前世の記憶をハッキリ覚えていて、それどころか価値観とか人格までそっくり前世のままだった。

 ま、それが俺だったわけだ。

 

 当時はバリバリに混乱し、現状を把握するために家の外に出ようとしたり、夢だと思って自決しようとした。

 まだ1歳の子供が、だ。

 ……思い出すと、ホントに申し訳ない。両親や兄には大いに心配と迷惑をかけてしまった。

 ごめんね、そしてありがとう。これから頑張って孝行するので許してほしい。

 

 で、どうやらこれは転生っぽいぞと確信し、なーんだ来世ってあったんだとほっとするのも束の間。

 ようやく立てるようになって視線が上がり、家に飾ってあった写真立てが目に入った。

 それは、若かりし頃の我が父と、美少女の写真だった。

 美少女は、獣耳と尻尾を生やしていた。

 

 ……いや、え? そういう趣味あったの父さん? 男として理解できなくはないけども。

 あったとしても写真にして飾るものじゃなくない? めちゃくちゃ母さんの視界に入るよこれ。

 い、いや、落ち着け。今はこれが何かじゃなくて、これをどうするか考えよう。 

 これまでたくさん迷惑をかけたんだ、我が父の間違いを正すのも子供の役目だろう。

 たとえそれで、この家から追い出されるとしても……悔いはない。

 

 しかし、そんな悲壮な覚悟は大いに空ぶることになる。

 写真を持って父の書斎の扉を叩いた俺に、あろうことか父は、顎に手を当てこう言い放ったのだ。

 

 

 

「もうウマ娘に興味が出たのか。血は争えないな」

 

 

 

 ウマ娘。

 俺はその名前を憶えていた。憶えていたっていうか、あの時代にソシャゲをやってた人間は誰でも知ってる。

 

 ウマ娘プリティーダービー。とんでもないおバズり方をした、2020年代のキングオブソーシャルゲームだ。

 内容を簡単に言うと、馬を擬人化した美少女を育成するゲーム。プレイヤーはトレーナーとしてウマ娘に指示を出し、二人三脚で3年間を走り抜ける。

 

 かく言う俺も、サービス開始からしばらくの間トレーナーとして奮闘していた。

 具体的に言うと水着マルゼンスキーが来たくらいまで。リアルの忙しさがピークになったこと、そして自慢のセイウンスカイがボコボコにされて涙目になったことにより距離を置いたけど。

 いやー、面白かったな。ウマ娘によってストーリーの毛色は大きく違うが、青春全開スポコン物語って感じが感情移入を誘うのだ。

 初めてURA決勝に勝った時は、不覚にも涙腺が緩んじゃったな。全てが報われたように感じるんだわ。

 

 ……いや、いやいやいや、そうじゃなく。

 ウマ娘? この写真の彼女が? いや、確かにそう思って見ればウマ娘でしかないけど、えー?

 俺の脳裏に、一瞬で色々な可能性がよぎる。

 ドッキリ? それにしては大がかりすぎる。

 夢? いや、そうじゃないことは実感のある年月が証明している。

 父は俺を騙そうとしてる? そんなことにメリットなどないだろう。

 一度瞼を閉じて、深呼吸。

 落ち着け。わからんことがあれば落ち着いて、わかる人に聞く。社会人だった時に身に着けた、大事なスキルだ。

 

「父様。ウマ娘、とは何でしょうか」

「ふむ……そうだな、そろそろ教える頃合いか」

 

 父から教えられた事は全て、俺が本当にウマ娘の世界に転生したことを示していた。

 異なる世界から名と魂を受け継ぐ、人より遥かにスペックの高い少女たち。彼女らはレースを通して覇を競い、人々はその狂騒に酔いしれる。

 それは俺の知るウマ娘、そしてウマ娘がいる世界と相違ない。

 

 ……マジで転生しちゃった。ゲームの世界に。

 俺も男だ、そういう妄想をしないわけではなかった。ゲームの中に入って魔物と戦ったり仲間とかがり火を囲んだりしたい。漫画みたいな肉食べたり、街づくりしたり、牧場経営したり、何でもいいからやってみたい。

 叶うことのないこの願いは、現代に生まれた者の宿痾の1つだろう。

 

 が、なんと。俺はそれを叶えてしまえる立場に来たのだ! いえーい!

 更に、その上。

 

「我が家は、代々ウマ娘のトレーナーを務めている。お前も殊に異存がないならば、中央トレセン学園でトレーナーを務めることになるだろう」

 

 なんと堀野家は、トレーナーの名門一家だったらしい。

 東条とか桐生院のような超一流というわけではないらしいが、それでも全体で数えても両手の指に入る、と。

 俺はそんな家に生まれた次男で、歳の離れた長男はトレーナー以外の道を選んだらしい。

 だから堀野の家は、俺がトレーナーとしてのハウツーを引き継ぐことを望んでいる。

 

 

 

 これはもう、導かれているだろ。

 なんでこの世界に転生したのか。

 なんでトレーナーの名家に生まれたのか。

 なんで俺はウマ娘の知識を持っているのか。

 それらが繋がる答えは、ただ1つ。

 

 

 

 これはもう、どう考えても、世界が俺にトレーナーになれと言ってるだろ!

 

 

 

 そんなわけで、俺はトレーナーになるために、それはもうめっちゃ頑張った。

 アプリではそんなに語られなかったが、中央トレセンはドチャクソな名門学校だ。

 ウマ娘が入ろうとしても、トレーナーとして入ろうとしても、とんでもなく倍率が高い。

 俺がいかに前世の記憶を持っていたとしても、この倍率を突破するのは決して容易ではない。

 ……というかぶっちゃけ俺は馬鹿だ。前世でも、記憶力も頭の回りも良い方ではなかったと思う。

 全力で挑まなければ、家や世界の期待を裏切ることになりかねない。

 

 そもそも。

 前世の記憶は、社会に出てから5年程で途切れている。つまるところ、俺は大学時代もプラスすれば、少なくとも10年以上高校レベルの勉強から離れていたわけで。

 今や高校時代どころか中学時代の事すら忘れてる。都道府県だって正しく言えるかわからない状態だ。

 あちらの世界とこちらの世界の違いも含めて、しっかり学びなおさなければなるまい。

 

 うむ。自分で言うのもなんだが、俺はこういうところでストイックだ。

 一度目的さえ持てれば一直線。馬鹿だから一歩一歩は小さいが、それでも走り続けることを大して苦にしないタチ。

 

 なので。

 その場で父に「必ずトレーナーになる」と宣言してから、実に20年強。

 俺はひたすら自分磨きを続けて。

 

 

 そして、ついに野望を叶えたのだ。

 

 

 時は3月。そろそろ桜が咲こうとしている中、俺はその学園の門を潜った。

 そう、ここは中央トレセン学園。

 俺は今年から、新人トレーナーとなる。

 

 よーし、ここから頑張るぞ!

 

 

 * * *

 

 

 

 トレセン学園に勤めだして数ヵ月。

 新人研修は終わった。普通に成績優秀でストレートだ。

 さて、本来何の実績もない新人トレーナーは、サブトレーナーとか教官として経験を積んでから、改めて担当を持つことを許されるのだが……。

 どうやら俺の能力は高く評価されたらしく、すぐに担当を持つことを許された。

 ……正直、ちょっと作為を感じなくもない。もしかしたら家の誰かが学園にちょっかいかけたかな。兄さんとか俺に過保護だし、変なことしてないといいけども。

 

 まあとにかく、担当を持つことを許されたということは、いよいよ俺のトレーナーライフが始まるってことだ。

 グラウンドで自主練するウマ娘たちを見て、ぼんやりとした感慨に浸る。

 長かったけど、いよいよここまで来たんだなぁ。

 そしてここが終わりじゃない。ここから全てが始まるんだなぁ、と。

 

 そして、ふと目に入ってきた情報で、現実へと引き戻される。

 

「……ふむ」

 

 あの子、すごいな。めちゃくちゃ距離適性が広い。短距離以外は全部本領じゃん。

 対してあっちの子は仕上がりというか、ぶっちゃけステータスがすごい。スピードなんかDだよD。……ああいや、クラシック級の子かな。ジュニアであのスピードなら、まず間違いなく噂されるだろうし。

 

「…………」

 

 人と違うものが見えるというのは、何とも気味の悪いものだ。

 見えるというかなんというか、なんとなく理解できるって感じだけども。

 

 

 

 そう、俺には見えている。

 ウマ娘のステータス、適性、脚質、スキルは勿論、やる気コンディション体力に事故率と、つまるところアプリで見ることのできたデータは全て覗くことができるのだ。

 この謎の力もまた、俺を大いに困惑させた。

 この現実、ⅤRとかじゃないんだよね? そうじゃないならなんでアプリの情報が見えるの? ホントに意味わかんないんだが。

 ま、それは今までいくら考えてもわからなかったし、ひとまず置いておこう。

 

 ウマ娘の情報が見える。これは地味なようで、本当にとんでもない力だ。

 本来結果としてしか出力されない数字を、事前に知ることができる。……それはつまり、次のレースで勝つウマ娘をほぼ正確に言い当てられることを意味するのだから。

 実家では兄や妹に驚かれたものだ。なんかズルしてるとまで言われた。

 まぁ、いくら数字が高くても、負ける時は負けるのがウマ娘世界の残酷さなんだけどね。予想が外れることもあったので、その時は盛大に煽られたものだ。

 

 俺はこの力を、便宜上「アプリ転生」と呼んでいる。

 アプリの能力を引き継いで転生したからだ。ネーミングセンスがないのは前世譲り。

 

 

 

 そんなわけで、俺はズルと呼んで差し支えない超能力を持ち、更にはトレーナー家系の名門エリート。

 知識に関してはトレセンでも上位に立つ自信があるし、サボらずトレーニングを続けてきた結果、身体能力もかなり高い。

 唯一足りないのは経験だけど、新人だしそれは仕方ないとして。

 手前味噌な話だが、トレーナーとしてはかなりの優良物件のはずだ。

 故に、担当が見つかることは疑いもしなかった。

 

 理想としては、やっぱり強いウマ娘がいいな。

 無敗三冠とまでは言わないが、史実で一冠でも達成していれば十分にトップクラスのウマ娘と言えるだろう。担当できれば光栄の至りというところ。

 一番望ましいのは、やっぱりセイウンスカイ。アプリでの俺の推しであり相棒……いや、愛バだった。

 最終コーナーで圧倒的な加速を見せ、ぐんぐんと後続を引き離すセイウンスカイに何度救われたことか。

 この世界でもウンスもといスカイを担当できれば、はちゃめちゃに嬉しいんだけど。

 

 ……まぁ、そんな甘い現実はないだろうな。

 何せセイウンスカイは黄金時代を担う一角。まず間違いなく、有力で経験もあるトレーナーがスカウトするに違いない。

 その上、ウマ娘には世代という概念がある。

 スカイは俺がここに来るより早くデビューしたかもしれないし、あるいは来年以降にデビューすることになるかもしれない。

 今この瞬間に、新入生として入学しているとは限らないのだ。

 更に言えば、スカイにも選ぶ権利がある。気ままな彼女が俺を気に入らなかった場合、その時点で担当になることはありえなくなるだろう。

 

 なので、うん。正直俺としちゃ、誰でもいい。

 この誰でもいいってのは、決して悪いニュアンスの意味じゃなく、むしろ真逆だ。

 そのウマ娘の能力がどうあれ、俺は3年間を添い遂げ、全力で支えると決めている。

 そりゃ勿論原石を磨いてみたいという欲求はある。だが、もし縁があって誰かを担当することになれば、俺はその子に尽くそうと思う。

 それが、俺の憧れたトレーナーというものだから。

 

 そんなスタンスで模擬レースを眺め、きらりと光る一芸持ちを見つけてはスカウトをする毎日。

 それがしばらく過ぎていった。

 

 

 

「……馬鹿な」

 

 どうも、数週間前まで「できれば強いウマ娘がいいなぁ」とかのたまってた雑魚です。

 俺は今、スカウトしては振られ、スカウトしては振られを繰り返しています。

 いつの間にか、同期のトレーナーからは笑われるのを通り越して真面目に慰められるようになりました。

 

 ……あー、これまで培ってきた自信がどんどんなくなるのがわかる。

 なんでなんですかね。俺、結構優良物件だと思うんですけど。

 スペックも高いし、顔もまぁ悪くないと思うよ? なんでみんな「うわぁ……ちょっと……」みたいな顔するの?

 

 あれかな、ウマ娘しか嗅ぎ取れないイヤな匂いとかしてるのかな。香水とか付けた方がいいの?

 それとも、ウマ娘は美醜についての価値観が人と違って、俺みたいな顔をとんでもなく醜悪に感じるとか?

 あー、何が問題なのかすらわからん……。改善のしようがないんですけど。

 いやほんとどうしよう、ちびっこ理事長からは1人担当を持つよう仰せつかってるんだよなぁ。

 スカウトに失敗し続けたら職務怠慢ってことになるんだろうか。1年目からそれは、育ててくれた家族たちに申し訳が立たない。

 

「どうしたものか……」

 

 どうにかして担当を見つけたい。これはかなり危急の事態だ。

 しかし、だからといって自己中に無関係のウマ娘を巻き込むのは論外。

 なんとかして「俺がトレーナーでいい」と認めてくれるウマ娘を探す……?

 いや、違うな。俺自身がウマ娘に認めてもらえるようにならなければ!

 

 

 

 ……運命とは果たして、どう巡るのかわからないもので。

 そんなことを思い黄昏ていた次の日、俺はとんでもないものを目にする。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 新入生模擬レース。新入生を実戦形式で走らせ切磋琢磨の場を用意すると同時に、トレーナーにその能力の一端を観察させる、非公式でこそあるがトレーナーウマ娘両方にとって大事なレースで。

 一人のウマ娘が、走っていた。

 鹿毛の髪が風に流され宙を踊る。一房の黒色はまるで残像のように。そう大きくない総身には、しかしそのレースを走る誰よりも力が籠っていた。

 

 正直なところ、俺は彼女の名前すら把握していなかった。

 トレーナー間での情報共有で、今年の有望なウマ娘の名前は全て把握している。つまるところ、鹿毛の彼女はそこに含まれていない、本命にはなり得ない存在。

 ブラッドスポーツと呼ばれるこの業界で、G1を取るには素養の足りない、寒門の出。

 そうである、はずだった。

 

「……何がブラッドスポーツだよ」

 

 知らず、普段から意識して封じていたはずの口の悪さが出るほどに、彼女は俺の目を惹いて離さない。

 

 ゴールラインをウマ娘たちが走り抜ける。

 鹿毛の彼女の着順は、2着。1着との着差は1バ身。

 つまるところ、彼女はそこそこの余裕を持って負けていた。1着の子は確かに強かったが、流石に今年の目玉だったトウカイテイオー程目を惹くものはない。

 故に、レースを見ていたトレーナーたちは見逃してしまうだろう。

 ……なら、俺がそれを拾っても問題ないはずだ。

 

「君。鹿毛の君」

 

 模擬とはいえレースに負けたというのに、表情を変えることもなくストレッチを始める鹿毛のウマ娘。

 俺は彼女が他のトレーナーに囲まれていないことを確認してから、声をかけた。

 

「……はい」

 

 冷たく青白い光が俺を貫く。強烈な意思のこもった視線だ。

 ……なるほど、感情が表に出ないからわかりにくいが、負けん気はむしろ強いのかもしれない。

 

 中央トレセンは、日本一のトレセン。日本各地にいるウマ娘の、とびっきりの上澄みだけがここに入学できる。

 故に、地元では負け知らずだった子が入学してからは一度も入着できず、酷く落ち込んだり荒れたりする、といったことは頻繁に起こるらしい。

 

 だが、少なくともこの子は、自分の感情を乗りこなしているようだ。

 レースで得た怒りや悔しさを、トレーニングへの熱意に昇華する。それはウマ娘が大成するための条件の1つだ。

 もちろん簡単なことじゃない。入学時点でそれができているというのは、かなりのアドバンテージだと思う。

 ……まぁ、瞳に込められた感情までは隠せないあたり、年相応な幼さを感じなくもないけどね。

 僅かな微笑みを仮面の下にしまい込み、改めて口を開く。

 

「名前を聞いてもいいか」

 

「……はい。ホシノウィルムです」

 

 ?

 ホシノウィルム? 聞いたことないな。

 てっきり俺すら知ってるようなドチャクソ人気のある馬が元になってるのかと思ったけど、そんなこともないのか。

 いや、俺は史実の競馬に詳しくない。多分俺の耳にまで届かなかっただけで、とんでもない功績を残した馬だったことは疑いようがない。

 というのも……。

 

 この鹿毛、もといホシノウィルム。

 とてつもない強さだ。

 

 ステータス。

 スピードはクラシックG1で戦える程に高い。

 賢さはそれに少し劣るが、それでもめちゃくちゃだ。この時点で300を超えてるのはちょっとどうかしてるよ。

 スタミナと根性なんて、菊花どころか春天も十分走り切れる程。

 ……パワーに関しては比較的低いが、それも他の高すぎるステータスと比べるからだ。ジュニアの入学したてで200を超えているのは十分というか、なお高すぎると言えるだろう。

 こんなに初期ステータスが高いってどういうこと? 確か多少は上げることはできても、ここまでぶっ飛んだ数値にはならなかったと思うんだけど。

 

 次に、距離と脚質の適性。

 こっちはステータスに比べればだいぶマイルドというか、一般的なものに見える。……うん、これも「比べれば」、だ。

 芝SダートC、短距離DマイルC中距離A長距離S、逃げS先行B差しD追込G。

 ……えーと、まずはかなり適性が広いことを指摘するべきか。まぁでもそういうウマ娘が他にいないわけではないから、ひとまずそこはいいとして。

 一番ヤバいのは、この時点で適性Sがあること。

 アプリでは、適性を伸ばすには因子継承する必要があった。更に適性Sを作るには、3年間で2回しかない想いの継承で、上げたい適性を引き当てなければいけなかった。

 ……うん、当時はチャンミに出すためにめっちゃ苦労した覚えがある。どれだけステータスが高くても、適性がSに伸びなかった時点でダメだったなあ。

 

 スキル……は、覚えてないっぽいな。

 この世界のスキルは、整った環境でトレーナーの導きの元、その習得に集中してようやく覚えられる代物っぽい。スキルっていうか、特殊な技術と捉えるのがいいかな。

 トレーナーの付かない自主練を繰り返しても覚えられるものじゃない。

 流石にこの子も、そこまで常識外れじゃなかったらしい。……いや、これまでで十分に常識外れではあるんだけども。

 

 最後にコンディション。

 切れ者、愛嬌×、そして……命がけ。

 まず、切れ者は……確か、スキルを得るために必要なスキルポイントが10%減少、だったっけ。これはかなり強いコンディションだった気がする。なんで入学時点で覚えてるの? ……今更か、うん。

 愛嬌×。×は見たことない。もしかしたら俺が離れていた間に追加されたのかな。〇はサポートカードのウマ娘との絆が上がりやすくなる効果だったから、×はその逆かな。この化け物みたいな子にも短所があるのは、ちょっとホッとする。

 そして、命がけ。……こんなコンディションあったか? 俺が覚えてないだけか? 字面からして、あまり良い感じがしないな。効果までは見ることができないのが残念だ。

 

 ……うん。

 総じて、ホシノウィルムは化け物だ。

 高すぎるステータス、広く強い脚質、入学時点で習得しているコンディション。

 はっきり言って、全てのステータスがGからFの新入生たちと走れば、負けようがないと言える。

 

 しかし、直前の模擬レースでの着順は、2着。

 だからこそ、結果しか数値を見ることのできない他のトレーナーは、彼女の超抜的な能力に気付くことができない。

 では何故、模擬レースに負けたのか。

 俺には、というか俺にだけは、その理由がわかる。

 

「ホシノウィルム。何故マイルで、それも差しで走った」

 

 そう、この鹿毛。

 よりにもよってマイルのレースに出て、差しで走ったのだ。

 ホシノウィルムのマイル適性はC、差し適性はD。

 その上、彼女には唯一、パワーが欠けている。後方から追い上げるための末脚、その加速を担う部分が足りていない。

 ただでさえ短距離からマイルは、差しや追い込みが十全に力を発揮するには距離が短すぎるのだ。

 その上後半からスパートをかけようにも加速力が足りず、囲まれたバ群を抜け出すだけのパワーもない。これ以上ない程に負け戦だ。

 それでもなおステータスの暴力で抜け出して、何人ものウマ娘を追い抜いて。

 適性外の距離と脚質で、この鹿毛は、2着までのし上がったのである。

 

 ……いやなんだその負け筋だらけの作戦!?

 

 模擬レースは、非常に大事なイベントだ。

 現に今、1着を取ったウマ娘は何人かのトレーナーにスカウトを受けている。3着の子にも1人トレーナーが付いているようだ。

 一方ホシノウィルムは、差しで走ってステータスのごり押しで入着。早熟ではあるものの、末脚に光るものがないと判断されたのだろう、俺以外のトレーナーは近寄って来なかった。

 トレーナーが付かなければ、基本的に公式のレースには出走できない。名前だけ借りるといった抜け道もあるが、それはそれとして。

 ウマ娘にとって、トレーナーからスカウトを受けるというのは、それはもうスーパーデカデカアドバンテージなのだ。

 彼女は、ホシノウィルムはそれをなげうった。苦手な距離、苦手な脚質で走ることによって、負けて。

 

 何故だ? レースで勝ちたい、というのはウマ娘共通の本能だろう。彼女はその衝動が薄いのだろうか。

 

 興味深く思い観察する俺に対し、彼女は臆することもなく冷たい視線を投げ返してくる。

 そして、少しだけ黙り込んだ後、答えた。

 

「マイルの時間が、一番近かったので」

 

 …………??

 時間が一番近い? ってなんだ?

 いや、解釈しようと思えばできなくはないよ?

 今日の模擬レースは、芝の短距離から中距離に、順番に開かれている。

 午前は短距離、正午あたりにマイル、そして昼下がりに中距離といった具合。

 コースの調整とか整備を行う必要があるので、何時間か間隔があるわけだ。

 

 つまるところ、彼女の言葉を素直に解釈するとすれば、こういうことになる。

 「正直どの距離に出るとかどうでもよかったけど、マイルレースの時間が一番都合が良かったので出た」。

 ……えっと、そんな雑に決めることある?

 一応ウマ娘としての将来をかけた最初の一歩だよ?

 

 いや……あるいは。

 もしかしたら、彼女は負けることを想定していなかったのかもしれない。

 彼女ほどの力を持つウマ娘だ、きっと地元では負けなしだっただろう。

 だから自分が敗北することなど想定もせず、てきとうな距離を選んだ、とか。

 だとすれば、井の中の蛙だ。……それも、だいぶ無知な。

 

 この天賦の才を持つウマ娘、どうにも測りかねるな。

 むむ、と考え込んでいた俺に、彼女は更に告げた。

 

「作戦は、これ以外、したことがなかったので」

 

 いやそんなことある???

 こんな純正の逃げウマ娘が、差ししかしたことない?

 確か、ウマ娘は自身に宿ったウマソウルなるものに基づいて、自然と最適な走り方を身に付けるという話じゃなかったか。いや、あれは走法の話だったか?

 そうじゃなくても、後方からでは足が伸びないと気付けなかったのか?

 個人差……? 例外……? どういうことなんだ?

 

 いや、待て。何のために彼女に声をかけたんだ俺は。

 困惑は、今は置いておこう。後で解決すればいいんだそんなもの。

 この学園のトレーナーである俺が、将来有望なウマ娘に対して、今やるべきことは1つだ。

 そして模擬レースに出た以上、彼女が望むこともただ1つ。

 

 ある意味。

 全ては運命だったのかもしれない。

 ウマ娘のステータスを覗くことのできる「アプリ転生」を持つ俺と、自分の真価を理解していない大輪の蕾。

 これ以上完璧な組み合わせもない。

 俺とホシノウィルムは、出会うべくして出会い、そしてこれから、トゥウィンクルシリーズを駆け抜けるのだ。

 

 

 

「ホシノウィルム。俺をトレーナーにしてみないか。俺が君を、トゥインクルの舞台へ連れて行こう」

「すみません、お断りします」

 

 なんで?????????

 

 

 

 * * *

 

 

 

 その日の夜。

 俺は一人で散歩しながら、肩を落としていた。

 ……なんでこんなにスカウト失敗するんだろうか。やっぱりなんか、ウマ娘から見て嫌すぎる何かがあるのだろうか。

 取り敢えず制汗剤と香水は買ったから、届き次第使ってみよう。それでもフラれたら、ちょっと立ち直れないかもしれないけども。

 

「……経験、か」

 

 あるいは、経験不足をウマ娘たちに悟られているのかもしれない。

 俺には担当を持った経験がない。それどころか、サブトレーナーや教官としての経験もない。

 やはり、しっかりとそこを踏んでから来るべきだったか。

 

 

 

 ……俺が落ち込んでいるのは、理想と現実に落差があったから。

 早く担当を持ちたい、というか早く持って父を安心させたいという想いと……ぶっちゃけ「アプリ転生」があればどうとでもなるという慢心があったのだ。

 

 「アプリ転生」はとんでもない力だ。

 並みの経験あるトレーナーより、あるいは俺の方が上手くウマ娘を導けるかもしれない程に。

 けれど、それは万能というわけじゃない。現にこうして、育成すら始められずに詰まってしまっている。

 今一度、気を引き締めないとな。

 

 

 

「……ん?」

 

 この世界の道は、歩道と車道、それからウマ娘専用レーンに分けられている。

 俺の目は、向かいのウマ娘レーンから走って来る人影を捉えた。

 思わず眉をひそめる。

 もう夜は更けつつある。とてもじゃないが、学生が出歩く時間帯ではない。

 もしかすると特別に許可を取っている可能性はあるが、一応教職員として声をかけた方がいいか。

 

「おい、君……君ッ、止まれ!」

 

 声が荒れるのがわかった。

 でも、それも仕方がないと思う。

 何故なら、彼女が近づくにつれ、俺の目には1つの情報が映ったからだ。

 

 【失敗率:59%】

 

 それは、彼女がこれからアクシデントを起こし、あるいは……故障するかもしれない可能性を示している。

 

 

 

 俺には、尊敬する父が2人いる。

 前世の、豪放磊落でどんな間違いも拳骨1発で許してくれた父。

 そして今世の、質実剛健でトレーナーとしての道を示してくれた父。

 

『いいか、G1で勝てとは言わん。重賞で勝てとも言わん。

 お前はただ、ウマ娘に寄り添う人間であれ。

 そして同時、彼女を導く灯であれ。

 それが堀野家の、理想とするトレーナーである』

 

 今世の父の言葉は、今でも俺の心に焼き付いている。

 

『勝てなくてもいい。ただ担当の思うように走れればそれでいい。

 名誉も金銭も不要。ただいつの日か、担当が現役時代を思い出して笑えるようにあれ。

 ……そして同時に、それらを最優先にしながら、勝たせろ』

 

 俺のトレーナーとしての基礎を築いた、いくつもの金言。

 人生2回目だからわかる。あの人がどれだけすごい人で、どれだけ俺に期待を寄せてくれているのか。

 そしてそれらが、どれだけ得難いものであるか。

 

 だから、俺は堀野の家に恥じないトレーナーであり続ける。

 

 

 

「君、トレーナーは付いているのか! 自主練とすれば度が過ぎているぞ! 今すぐ走るのをやめて寮に戻れ!」

 

 怒鳴るように言って、夜の暗闇の中で立ち止まったウマ娘に駆け寄る。

 

 ……正直なところ。

 俺が彼女の正体に気付かなかったのは、夜の視認性の悪さもあるが、何より不注意だった。

 自分のことばかり考えて、前すらよく見れていなかった。

 担当も付かないようじゃ父を不安にするだけだ、とか。そんな自分の都合ばかりに振り回される俺は、やはりまだ未熟なのだろう。

 

 ……そして、今、目の前に。

 もう一人の未熟者がいる。

 

 びっしょりと汗に濡れて垂れ下がった鹿毛。一房だけの、涙を流すかのような黒鹿毛。小さな体からは、立ち止まった今もなお、汗と湯気が止まらない。

 その姿は、今日の午前中に見たそれと同じとは思えないほど、憔悴していた。

 

「……ホシノウィルム」

「…………」

 

 名前を呼んでも、答えない。

 肩が上下する。足が震えている。そして視線は縫い付けられたように足元に。

 ……今日の午前中は、はっきりと俺を見つめ返してきたのに。

 

 彼女は、明らかに平静ではない。

 今日の結果がショックだったのだろうか。あるいはその後何かあったか。

 いや、違う。今考えるべきはそこではない。

 深呼吸しろ。正しい堀野のトレーナーであれ。

 まだ担当トレーナーのいない落ち込んだウマ娘に、トレーナーとしてかけるべき言葉は。

 

「ホシノウィルム、既に寮の門限は過ぎている。更に言えば、学生がこの時間に出歩くことは風紀的な問題もある。

 何より、今、君は既に限界を超えている。これ以上は事故の危険性もある。

 寮まで送るので、付いて来るように。処罰は寮長に任せるとしよう」

 

 理路整然。あるいは人の心を考慮しない冷たい言い方。

 今はとにかく、彼女の中の熱を冷まさなければならない。それが俺への怒気という形で発散されたとしても、それならそれでいい。

 怒れ、ホシノウィルム。大事な事情を見ない大人に、怒りをぶつけろ。

 怒りは隙でもある。心を閉ざした状態よりも、よほど説得は楽になる。

 

 しかし。

 俺の予想に反して、彼女は怒らなかった。

 

「……ごめんなさい、帰ることは、できません。まだ、私、速くならなきゃ、いけないので」

 

 自分が悪いことをしているという自覚はあるな。そして感情のままに当たり散らさない分別もあるらしい。

 けれど、そこには理屈が通っていない。

 

「今の君が走っても、徒に体力と健康を害するだけだ。

 速くなりたいのなら、君の走り方を見つけろ。そして何より、君の真価を理解できるトレーナーを見つけろ」

 

 事故率59%。

 勿論、成功すれば……つまり何も事故が起こらなければ、それでいい。

 けれどそんなものは結果論だ。彼女の足は10回に6回の確率で事故を起こし、下手をすれば選手生命を縮めることになる。

 

 アプリで、ゲームとしてなら、もしかしたら59%を踏むこともあったかもしれない。

 友情トレーニングが3つとか発生するのなら、41%で引ける上振れを目指すこともあるかもしれない。

 

 でも、ここはもう、俺にとっての現実だ。

 尊敬できる父と、信頼できる母。少し過保護だが親しくしてくれた兄と、ぶっきらぼうながら後を追うと言ってくれた妹。

 俺は大事な家族のいるこの世界に根付いて、確かに生きている。

 そんな世界の中の、俺の手の届く範囲で、故障して絶望するウマ娘なんてものはあってはならない。

 

「行くぞ、ホシノウィルム」

 

 彼女に背を向けて歩き出す。

 ……けれど、続く足音がない。

 彼女は逃げることもしないけれど、付いて来ることもない。

 ひとまず逃げられるという最悪の未来は来なかったことに安堵しつつ、少し怖い顔を作って振り向いた。

 

「どうした」

「……私は、勝たなきゃいけないんです」

「理解している。その上で、君を担当しているわけではないとしても、トレーナーとして言おう。

 勝ちたいのなら、帰れ」

 

 彼女は一瞬、視線を下に落とす。

 そして再び見えた彼女の色素の薄い目は、強い意思を宿していた。

 

「言って、いましたよね。私を連れていく、と。

 あなたなら、私を勝たせてくれますか」

「勝たせる。君にはそれだけの力がある」

 

 即答。

 疑うべくもない。彼女には重賞どころかG1、あるいはクラシック三冠を取るだけの……いいや、それよりもなお、遥かに余りある素養がある。

 迷いなく逃げを選ばせる俺なら、彼女を勝たせることは簡単だろう。

 ……もちろん、彼女が担当になっていれば、の話なのだが。

 

 彼女は、視線を俺から離さず、ゆっくりとその右手を胸に当てた。

 

「私は、勝つためなら命を懸けます。私の命を使う覚悟は、あなたにありますか」

 

 それが、「命がけ」か。

 彼女の体力は、ほぼ完全に削れ切っている。午前中に会った時にはそう減ってもいなかったのに。

 あれからずっと自主トレを続けていたのだろう。

 ……舐めていたな。彼女の負けん気は想定以上だ。

 自分を苛め抜く克己心と、敗北を次に繋げる根性。

 その飛びぬけた素養も合わせ、やはり彼女は頂点に立つべきウマ娘だ。

 

 そして俺は、相手がどのようなウマ娘であれ、変わらない。

 堀野のトレーナーとして、自らを全うするのみ。

 

「君の望みなら。

 ……勿論、浪費させはしないが」

 

 それを聞いて、彼女は一歩踏み出し、手を差し出す。

 

 白く大きな月が見降ろす中。

 見上げてくる瞳を、俺は一生忘れることができないだろう。

 

 

 

「あなたに私の命を差し上げます。

 ……よろしくお願いします、私の、トレーナー」

 

 

 

 冷たい瞳は、今、確かな熱を帯びていた。

 

 

 

 

 

 

 ……め、めっちゃカッコいい……!

 それは思わずシリアスが吹っ飛ぶほどの衝撃だった。

 『あなたに私の命を差し上げます』……なんてカッコいい言葉なんだ……!

 ホシノウィルムは比較的小柄でありながら、温度の低い反応や表情が変わらないこともあり、どこか幻想的な美しさを保っている。

 そんな美少女が、『あなたに私の命を差し上げます』……!

 くうぅ、シビれるぜオイ!

 

「……トレーナー?」

「あ、あぁ、悪い。どうにも話の流れが読めないものだから、少し驚いてしまった」

 

 危ない危ない、思わず素が出てしまうところだった。

 俺は生来抜けているところがあり、父や兄にもよく指摘されていた。妹には馬鹿にされていた。

 堀野のトレーナーとして相応しくないから、いつもは仮面を被っているのだが……彼女のカッコいい台詞を前に、剝がれかけてしまった。

 仮面が剥げかけたのは、先週クレープを食べて衝撃を受けた時以来だ。あれ、めっちゃ美味しかったなぁ。

 

 よし、俺も何か言い返さなければ!

 こんなカッコいい言葉をもらったからには、こちらもお返しするのが礼儀というもの。

 雰囲気を壊さない、そして同時に彼女への返答になる、何よりカッコいい言葉……!

 考える時間はない。必死に頭を回しながら口を開いた。

 

 

 

「……いいだろう。君の魂を、誰よりも速く、誰よりも輝かしく導こう。

 よろしく頼む、俺の、担当ウマ娘」

 

 

 

 ……うーん、やっぱ俺、こういうセンスないんだよな。

 『命を差し上げます』ほどの、短くまとまりながらパワーのある言葉は作れなかった。

 だから精一杯、頑張って支えるという想いを込めて。

 

 

 

 差し出された手を握る。

 冷たく、けれどその芯は熱く、何より小さい子供の手だった。

 

 

 




堀野君は元々かなりライトなオタクなので、転生とか信じられないって感じ。

3、4日くらいで次話投稿予定。
次回はホシノウィルム視点になります。


(追記)
 誤字報告をいただきました。ありがとうございます!


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クソボケカツカツ転生者

 べっ、別に、想像以上の人に読んでもらえて嬉しかったから、頑張って急いで執筆したわけじゃないんだからね!
 これはただ、この2話目で本当の1話が完結するから書いただけなんだから!
 勘違いしないでよね!





 

 

 

 焦っていた。

 どうしようもなく、心が痛かった。

 気付けば足は動き出して、どこまでも止まらなかった。

 

 私はその日、初めての敗北を経験した。

 マイル距離の模擬レース。後方から駆け出した私の足は、1着にまで届かなかった。

 

 気付けば、私は駆け出していた。

 ただひたすら走る。走り続ける。

 

「勝てない」

 

 ただその言葉だけが、脳の中でリフレインする。

 勝たなきゃ。勝たなきゃ誰も認めてくれない。

 

 怖い。

 …………寒い。

 

「勝つ。勝つ。次は勝つ」

 

 

 

 

「……君ッ、止まれ!」

 

 誰かに止められた。集中が、途切れる。

 ガクンと、崩れ落ちかけてなんとか踏みとどまった。

 ……あぁ、限界が近いな。体に感覚がない。ないくせに寒気ばかりが背筋を伝う。

 でも、止まれない。私は勝つために、速くならなきゃ。

 

 負けちゃいけない。

 勝たなきゃ、意味がない。

 私はただその想いだけで、頭がいっぱいで。

 

 何か言われている。怖い顔で、必死に。

 訊かれた? ……えっと、どう答えればいいんだろう。思考が上手くまとまらない。

 

 ……あれ、私、何言ってるんだろ。

 少しだけ、脳に籠った熱が冷えて、自分の言葉が耳に入り始める。

 なんか、こう、ちょっとズレてない? 命をかけるとか、何言ってんだろ、私。

 速くなるためにトレーナーが必要だと言うのなら、それは欲しいとは思う。

 そしてこの人が私を導いてくれるのなら、あるいはそれでもいいと思うけど。

 私、こんなポエミーなこと言うタイプだったっけ?

 

 コントロールを失った私はそのまま、いつしか彼に手を差し出して。

 

 

 

「あなたに私の命を差し上げます。

 ……よろしくお願いします、私の、トレーナー」

 

 

 

 ふと熱が冷め切り、現実に戻ってくる。

 

 な……な、な。

 何言ってるの私ぃ!?

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 異世界転生って本当にあるんだ!?

 

 私が生まれて、最初に思ったのがそれだった。

 赤ん坊は脳が未熟で、複雑なことは考えられないらしい。

 じゃあなんで赤ちゃんの私は、こうやって理論的な思考ができるのか?

 

 そう、私は転生者なのである!

 それも人格と記憶をばっちり受け継ぐタイプのヤツ!

 

 ん? あれ? でもどっちにしろ脳が発達してないなら、思考なんてできないのでは?

 えっ、じゃあなんでこうして色々思考できるんだ?

 ……ちょっとこれについて考えるのはやめておこうか。なんか怖い真実を暴いてしまいそうだ。

 

 さて、こうして私は来世というものを得たわけだが。

 更にはもう1つ、すっごく嬉しいことがある。

 

「やっあああああ!」

「あぁ、元気に泣いてますね。この子は健康に育ちますよ」

 

 いやお医者さん、泣いてるんじゃないんですよ。これは歓喜の雄たけびなんです!

 

「よかった……元気に産んであげられて」

 

 ベッドに横たわる女性が、私の小さな頭を撫でる。

 彼女の頭には馬の耳が、そしてお尻あたりには尻尾が生えていた。

 

「私みたいなウマ娘でも……未来を、産めてよかった」

 

 

 

 そう、彼女はウマ娘。

 異世界の競走馬の名を引き継ぐ、人智を超えた不思議存在だ。

 

 ウマ娘。あるいはウマ娘プリティーダービー。元の世界でも、知る人ぞ知る名前だろう。

 それはかつて私がいた世界で放送されていた、二期で合計25話程度のアニメだ。

 作画とか演出も段違いで良かったわけではなく、コンテンツ自体に極めて力があったわけでもない。

 けれど、しっかりと史実競馬へのリスペクトを持ち、ロマンのある展開をストーリーに落とし込んだ、私が大好きなアニメだった。

 いやぁ懐かしい、ダブルジェット師匠の「これが諦めないってことだあああ!!」が好きすぎて何回も見てしまったなぁ。

 不調の主人公に対して、それまであんまり活躍のなかったキャラが立ち上がり方を見せる展開、王道だけどアツくて好きなんだよね。

 

 ……ちょっと話が逸れちゃった、本題に戻ろう。

 私はどうやら、そのアニメの世界へと転生したらしい。

 というか、頭の上の耳とか腰から生えた尻尾を見るに、私もウマ娘みたいだ。

 自分のウマソウルって奴の名前も聞き覚えないし、モブとして転生したっぽいね。

 

 さて、異世界転生と言ったらやはり文化の違いが気になるところだが……。

 幸い言語は伝わる。というか多分これ、ウマ関係以外前世と一緒だね。ことわざとか普通に使われてたし。

 文化圏もほぼ一緒。ウマ娘がいるおかげで歴史や道徳感が多少違うかなーくらい。前世に比べるとだいぶ善性な人間が多い感じはする。良いことだ。

 地理も前世と同じ。……あーでも、出身地は千葉から北海道に移っちゃったから、土地勘とかはないけども。

 つまるところ、殆ど前世と同じ現代日本だ。楽して生きられる時代で本当によかった。

 

 

 

 ……しかし、せっかく転生するんだったら、もっと競馬知識付ければよかったなぁ。自分がどれくらい強いウマ娘なのか、元になった史実さえ知っていればわかっただろうに。

 というか、アニメ2周したくらいの知識しかないんだけど、大丈夫かなぁ私。

 

 

 

 ウマ娘でもある私のお母さんは、どうやらあまり体が強くないらしい。

 いつもベッドに横になっているけれど、時々私を抱き上げてくれた。

 

「ウマ娘、よ。ウマ娘」

「うまむすめ!」

「あら良い発音。天才かな?」

 

 そりゃあ人生2周目だからね、日本語の発音は慣れたもんですよ。

 ……まぁ、文字通り舌足らずで活舌は良くないけども。

 

「良い子ね。あなたは将来、強いウマ娘になるのよ」

「はい!」

 

 ……正直、前世のあれこれを引きずってないわけじゃない。

 続きが見たいアニメとか漫画はあったし、やりたいこととか目標もあった。

 でもまぁ、死んだし。覆水盆に返らず、死人前世に戻らずだ。

 そんなことより、今目の前にある今世を楽しもう。

 せっかくウマ娘に転生したんだ。

 私も、スペシャルウィークちゃんとかトウカイテイオーちゃんみたいに、レースしてみたい!

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そう。最初は、そんな理由だった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 成長していく度、私は自分の力を実感できた。

 普通の人間よりも力が強い。特に足。かけっこすれば、ウマ娘含めて私に勝てる子はいなかった。

 本格化前にこれか、成長速度が図抜けてるね。偶然会った地方トレセン所属のトレーナーにはそう言われた。

 早熟な才能なのだろう。もしかしたら中央でも活躍できるかもしれない、とも。

 

 ……転生特典も本当にあるんだ!?

 なんでもあるじゃんこの世界、事実は小説よりも奇なり過ぎない?

 いやまぁ、異世界転生があるなら転生特典があっても不思議ではない……かな?

 

 転生特典。

 異世界転生系の小説とかアニメに出てくる、主人公特有のすごい能力だ。

 大体は物語をひっくり返せるくらいに強いことが多い。そう考えると、私のそれはチートって程ではないかもしれない。ただ体が強いだけだし。

 いやしかし……転生特典か。正直半信半疑だったけど、本当にあるんだこれ!

 異世界転生もすごかったけど、そういう文化に親しんでた人間としては、なんかこう、アガるね!

 よーし、ここから私の無双伝説が始まる! ……の、かな?

 いやでも、変に無双して原作のウマ娘ちゃんたちに勝っちゃうのも微妙な気持ちになるな……。普通にファンなので……。

 

 せっかくだし能力名とか決めちゃうか。どうせ他人に伝えることなんてないだろうけど、こういうのはやっぱり名前があった方がいい。そういうもんだ。

 「強化体質」……ダサい。「転生体」……悪くないけど能力っぽくない。「スーパーランナー」……なんか据わりが悪い。

 うーん、「アニメ転生」とか? せっかくアニメの世界に来たんだし、ちょっとシンプルにも感じるけど、こんなもんかな。

 

 しかし、中央トレセンかぁ。確かスぺちゃんとかテイオーちゃんが入学してた学校だよね。

 こっちの世界に来てから知ったんだけど、どうやら中央トレセンは名門校だったらしい。受験の倍率はかなり高くて、入学できた時点で優秀なことの証明なんだとか。

 スぺちゃんって自覚はないけど超優秀だったみたいだね。お母ちゃんさんもスペちゃんなら受かるって信じてたんだろう。うぅ……良い信頼関係だぁ。

 

 ……しかし、私の場合はどうだろうなぁ。競馬の知識とか全然ないし、こっち来てからも全然勉強してなかったし、受かるかなぁ。

 まぁ、いい。やれる分だけやってみるか。

 速くなるためには、やれることをやるしかないし。

 

 

 

 * * *

 

 

「祝福! 入学おめでとう、今日から君たちはトレセン学園の生徒だ!

 我が校に恥じない、スポーツマンシップに基づく活躍と、勉学への鋭意努力を期待する!」

 

 届いちゃった。

 え、普通に届いちゃったな? なんかぬるっと入学できたよ?

 

 いやまぁ、考えてみれば当たり前というか。

 「アニメ転生」のおかげで身体面は万全。小さく細い体ながら脚力はすごいことになっている。

 学力も、前世は大学まで進んだこともあり、ウマ知識を除けば中等部程度の試験は難しいとも感じない。忘れてることも多いけどね。

 ……これ、転生特典も強いけど、やっぱり前世の記憶があるのも同じくらい強いよね。殊に現代社会への転生では。

 みんなも転生に備えてしっかり勉強しておこうね! ……みんなってなんだ? 何言ってんだ私は。

 

 

 

 さて、中央トレセンに所属するウマ娘は、まずはトレーナーとの契約を目指すことになる。

 専属契約でもいいし、複数人を担当するチームに入ってもいい。

 とにかくどういう形であれ、トレーナーと契約できなければ、トゥインクルシリーズに出走することもできないとのこと。

 恐ろしいことに、契約してくれるトレーナーが見つからず何年も出走できない、なんてことすらある。

 それだけは、避けたいところだ。

 

 そんなわけで、私は契約トレーナーを探すことにした。

 狙い目はもちろん1つ。アニメ本編で主人公たちの所属した〈チームスピカ〉、その担当トレーナーである沖野Tだ。

 ……いや、正確には沖野って苗字じゃないらしいけどね。本編で名前が出なかったから声優さんの苗字で呼ぶっていう、昔ながらのヤツ。

 まぁ、シンボルマークは非常に多い人だ。見かければ人違いということもないだろう。

 後はとにかく、学園中を歩いて探し回るだけだね。

 

 〈チームリギル〉のおハナさんも、トレーナーとしての技量は高いっぽかったし、一応候補には入ってたんだけど……。

 あの人、スズカさんを先行で走らせたり、ちょっと当たりが強かったりして怖いので……うん。色々考えた結果、主人公陣営に入るのが一番良いんじゃないかという結論に至った。

 

 何より、スぺちゃんやスズカさん、スカーレットちゃんにウオッカちゃん、テイオーちゃんとマックイーンちゃんにゴールドシップ。

 憧れ、応援し、泣いて笑って活躍を見守った彼女たちと共に走れる。転生者として、そこにロマンを感じないわけがないでしょ!

 

 

 

 だが、無情にも、私の目論見は外れることになる。

 

「……いない?」

「ええ、そのようなトレーナーは、現在この学校には所属していません。

 探し人ですか? ホシノウィルムさんさえ良ければ、理事長にお伝えしましょうか」

「いえ……不要です。ありがとうございました」

 

 駿川たづなさん。

 緑の制服と黄色いネクタイがとってもお似合いの美人な職員さんである。

 アニメでもちょくちょく出てきた理事長秘書。……秘書さんって脱走したウマ娘を捕まえるのも職務の内なの? 足も力も強すぎない?

 

 どうにも沖野Tが見つからないので、偶然出くわしたたづなさんに聞いてみたところ、いつもキャンディーを咥えた、後ろで髪を束ねている30歳くらいの男性トレーナーは、現在トレセン学園にいないらしい。

 不思議そうな顔をしているあたり、過去にいたってわけでもないのかな。

 

 ……え、なんで?

 

 いや……えぇ?

 スピカなかったら、スぺちゃんどこに所属するのよ。スズカさんも先行のまま走ることになるってこと? ゴールドシップはどこにいるの?

 いや、あるいは……。

 

「パラレルワールド……?」

 

 考えられるとしたらそれか?

 ここはアニメを基にした世界。それはもう疑いようがないだろう。

 けど、完全に同じじゃない。アニメを基にした並行世界……とか?

 

 ここに来た時、私は神様に会ったりはしなかった。

 死ぬのは滅茶苦茶苦しくて、ようやく楽になったと思ったら、気付けば赤ちゃんになっていた感じだ。

 今となっては、前世でオタク文化に親しんでいてよかったと思う。普通なら転生なんてあり得ないってなってたと思うし、酷く混乱しただろう。

 ……いや、正直今でもちょっと信じられないところはあるんだけど。現実は現実として受け入れるしかないって無理に飲み込んでいる感じです。

 

 でも、会わなかっただけで神様がいるのだとすれば……運命の神様が、原作とは違う何かを書こうとしている、とか?

 たとえば私が二次創作のオリ主だったとすれば、作者は何が書きたいんだろう。

 ……いや、ここまでいくともう妄想の領域だな。やめとこうか。

 私が二次創作筆者を覗いている時、読者もまたこちらを覗いているのだ。

 

 

 

「しかし、困ったな」

 

 頼りにしていた沖野Tと〈チームスピカ〉はこの学園には存在していない。

 実力があるのが確定しているのは、あとはおハナさんくらいだけど……そっちは存在するかなぁ。

 あーいや、でもなぁ。スズカさんを先行で走らせ続けたことを見るに、おハナさんって定石重視の堅物っぽかったし、ちょっと怖いよね。

 私は転生者で、変に丈夫で強い体をしているみたいだし、色々と普通のウマ娘とは違う部分があると思う。だから定石だけで育てられるのは怖いなぁ。

 

 であれば……うん、仕方ない。

 受けるか、スカウト。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 寮で同室になった、ほわほわした先輩に教えてもらったこと。

 基本的に、ウマ娘はトレーナーと契約することが第一目標となる。

 そしてそれを為すための手段は、実はいくつかあるらしい。

 

 1つ目。模擬レースや選抜レースに出走し、トレーナーからスカウトを貰う。

 これは強いウマ娘の王道コースだ。レースに勝ったり強烈な持ち味を見せれば、契約までは秒読み。場合によってはえり好みだってできる。

 

 2つ目。トレーナーが課すテストやレース試験を受ける。

 テストを乗り越えるか、1位だったり入着だったりの条件を満たせば確実に契約が可能。ただしテストを設けているトレーナーは大抵が多数のウマ娘を受け持つため、集中的に見てもらうことは難しいかも。

 

 3つ目。これはもう裏技みたいなものだけど、トレーナーを探して自由時間にアプローチをかける。

 過度にやることは禁止されているけど、適度ならオッケー。……適度ってどのくらいなんだろう。

 

 私が目指しているのはもちろん1つ目。

 

 はっきり言おう。

 私、ホシノウィルムは強い。

 地元北海道の野良レースでは負け知らず。どころか大体は大差を付けて勝っていた。

 ま、全ては「アニメ転生」の力だけどね。知識もなければ熱意も足りない私が勝てるのは、ただただ身体能力が高いから。

 でも、レースにおいて足の速さは絶対的。逆に言えば、私に足りないものを補って余りある程「アニメ転生」は強かったってことだ。

 

 故に、私は勝てることを疑ってなどいなかった。

 走り出し、当然のように勝つ。それだけが私にとってのレースだったから。

 

「よし……勝つか」

 

 掲示板に貼ってあった予定表によると、今週は今日と明日、それから明々後日に模擬レースがあるらしい。

 出走登録、間に合うかな。事前予約制だし、模擬レースは結構人気出るって話だったけど。

 ま、いいや。取り敢えず受付に直行。できなかったら次に出られるレースに出ればいいや。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 …………寒い。

 

 

 

「確かに速いか」

 

 口の中で呟く。土を踏みしめ蹴り上げる音が響く中では、とてもじゃないけど誰にも聞こえないだろう。

 内ラチに沿ってインコースで駆ける。駆けると言っても、周りに合わせたペースだけども。

 

 模擬レース、芝の左回り1600メートル、バ場状態は良バ場。

 レースも中盤を迎えようとする頃、私は後方のバ群の中で走っていた。

 北海道の野良レースに比べれば、そのペースは確かに速い。速いけど、それでもまだ遅く感じる。私の全速力なら、問題なく抜け出せるだろう。

 ただし、問題は……。

 

 右方2、前方3、後方1。

 

 囲まれた。バ群は明確に私を敵視し、閉じ込めにかかってきた。

 前方を走っていた鹿毛がちらりとこちらを覗く。その瞳には、どうしようもない敵意と怯えが宿っている。

 共に走れば理解できるのかもしれない。私が力を抑えて走っていることを。

 

 ……まぁ、抑えてるっていうか、スぺちゃんの走り方を真似ているだけなんだけど。

 

 私には史実の競馬についての知識はない。アニメで専門用語が出た時もなんとなく聞き流してたくらいだ。

 そしてこっちの世界に来てからも……正直、あまりレースに興味を持ってはいなかった。

 怠慢と言われれば言い訳しようもないけど、仕方ない部分もあると思う。

 毎回毎回大差で独走するのは、一人で走ってるのとそう変わらない。競う楽しさも何もないわけで、とてもじゃないけど好きにはなれなかった。

 だから私は、多分競争についての知識が不足している。走り方とか距離とか、耳を通り抜けていくばかりだ。

 

 

 

 それでも、勝てればいいんだよ。

 勝利だけが正義だ。

 

 

 

「邪魔」

 

 一瞬足を緩めれば、私の右を抑えていたウマ娘たちが前へと駆け、壁が壊れ去る。

 後はただ、そこを抜けるだけだ。

 

 加速。加速する。全力で、全速力へ。

 殆ど真横へスライドするように走り、バ群を抜け出してから方向転換。

 さあ、いつも通り、前へ。

 前へ。前へ。……前へ!

 

 何人ものウマ娘たちが視界から消えていく。

 風圧が体を止めるのが煩わしい。走るという一点において、人の形が非効率であることを思い知る。

 まだ遅い。もっと速く。誰より速く、速く。

 私は、勝たなきゃいけないんだから。

 

「あと、2人」

 

 残すところ、直線1つと葦毛、栗毛。

 全てに追いついて、追い抜かせば、それで終わりだ。

 足を回せ。もっと、もっと回せ。

 もっと回せなければ……。

 

「……ッ」

 

 不穏な気配に、心が凍る。

 短い。短すぎる。あの先頭を抜かすために、この直線はあまりに短い。

 加速が間に合わない。速度が出ない。何より……。

 

「あの栗毛……速い」

 

 地方のそれとは格が違う。

 私が全力を出せば、一瞬で誰もいなくなるのがこれまでの「普通」だったのに。

 今、私の視界には、まだ1人の背中が、ある。

 

 

 

 ……負ける?

 

 

 

 私が?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「君。鹿毛の君」

 

 え?

 鹿毛……途中で抜かした子? いや、でも声は私の方に向いてた。

 私、呼ばれた?

 レース、は。今はレース中じゃ。

 ……なんで私、ストレッチしてるの?

 

「……はい」

 

 取り敢えず、返事をする。

 振り向くと、そこにいたのは……。

 

 ああ、知ってる、この人。新入生の中で悪い噂が立ってた新人トレーナーさんだ。

 

 

 

 私たちウマ娘は、良いトレーナーが付くかで大きく未来が変わる。

 だからどのトレーナーは放任主義とか、どのトレーナーは管理主義とか、そういった噂は自然と広がっていく。

 その中でも、このトレーナーさんの噂はかなり……インパクトがあった。

 いつも隙なくスーツを身にまとった、整った顔の新人男性トレーナー。

 曰く、いつも無表情で無愛想、多分人の心がない。

 曰く、新人研修でウマ娘を故障寸前まで追い詰めた。

 曰く、裏口から就職した、太い実家の権威を借るキツネ。

 

 ……そのすべてが事実とは思い難い。恐らくは誇張や、根も葉もない噂だって混じっている。

 人伝の噂なんて評価に入れるべきでないことは、前世で十分理解していた。

 だから、私が把握すべきは1つ。

 彼は名門出身の、有力なトレーナーだ。

 

 

 

「名前を聞いてもいいか」

 

 名前。今? まだレース中なのに。

 でも、私、そうだ。トレーナーが欲しくてレースに出たんだっけ。

 なら、応答した方がいいのかな。

 

「……はい。ホシノウィルムです」

 

 私のウマソウルとやらの名前。

 前世や幼少期はそれぞれ別の名前を持っていたけど、気付けばもうこれが馴染んでいる。

 ウマ娘としての、私の名前。

 ……正直に言って、あまり好きではないけれど。

 それを聞いたトレーナーさんはパチパチと瞬きし、少し間を空けてから、改めて口を開いた。

 

「ホシノウィルム。何故マイルで、それも差しで走った」

 

 ……? 急に話題が変わった。

 なんで走った……走った? 走っている、じゃなくて。

 聞かれて困ることもない。息を整えながら、言うべきことを整理して答える。

 マイルを選んだのは、単純に一番時間が近かったから。

 差しを選んだのは……いいや、選んだ、じゃないかな。私はアニメで見たスぺちゃんを真似て、後半に思い切り走っているだけだから。

 

 トレーナーさんは、またパチパチと瞬きしている。

 ……本当に表情が変わらない。顔も整っているし、まるでよくできた人形と話しているみたい。

 正直、少し不気味に感じる。そういう部分から悪い噂が立ったのかもしれない。

 

 今度は先程よりも更に時間が空いて、再びその重い口が開く。

 

「ホシノウィルム。俺をトレーナーにしてみないか。俺が君を、トゥインクルの舞台へ連れて行こう」

 

 ……え?

 スカウト? 何故?

 私はまだ走り切って、ない。まだ先頭でゴールしてない。勝ってない。

 勝ってない……

 

 じゃ、ない。

 

 

 

 私は、勝てない。

 

 

 

「すみません、お断りします」

 

 

 

 勝てない私に価値はない。

 勝つために、もっと速くならなきゃ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そして霜が降りるような夢心地の中、夜まで走り続けて。

 

 

 

「あなたに私の命を差し上げます。

 ……よろしくお願いします、私の、トレーナー」

 

 

 

 夢が覚める。

 

 

 

 ……頬あっつ!!

 いや、いやいやいや! 何言ってんの私!?

 トレーナーが付くことは嬉しいよ? 何せ強くなるための方法の1つだし、トゥインクルシリーズへの参加も確定できるし。

 でもちょちょっと待って、命を差し上げますって何!? プロポーズじゃんこんなの!

 しかも昼間、一回スカウト断ってるんだよ!? 感情のままにぴしゃっと拒否してるんだよ!? ヤバいヤツじゃんこれじゃ!

 ほら見ろ、トレーナーもポカンとしてるって! 絶対変人だと思われた! あー終わった、完全に終わった。最悪この場で「やっぱなしで」になっちゃう!

 

 ……と、脳内がぐちゃぐちゃになるのを感じながら。

 感情を押し殺し、努めて無表情で口を開く。

 

「……トレーナー?」

「あ、あぁ、悪い。どうにも話の流れが読めないものだから、少し驚いてしまった」

 

 自分の素の感情は、誰にも見せたくない。

 だって、感情は迷惑にしかならないから。自分の中で殺すべきものであって、外に出すわけにはいかない。

 人生を2回も経験した結論、私なりの処世術だ。

 ……いや、昼にあんな暴走しといて、説得力ないけどさ。

 

 しかし、「驚いた」かぁ……。やっぱり引かれただろうなぁ。

 人は……いや、人じゃなくてウマ娘だけど、追い詰められた時に本性が見えるって話があった。

 そうなると、私は自己中かつマイペース、更にはポエミーってことになるな。

 あー……もう、自己嫌悪すごい。

 せっかく二度もスカウトしてくれたのに、これもう完全に終わったよぉ……。

 

「……いいだろう。君の魂を、誰よりも速く、誰よりも輝かしく導こう。

 よろしく頼む、俺の、担当ウマ娘」

 

 いや勝った! 勝ったわこれ! マジか度量広すぎでしょこの人! しかもなんか超かっこいいこと言ってる! 映画か何かかな?

 

 思わず、ぎゅっと握られた手を視線で辿ると。

 私を勝ちに導いてくれると、そう言ってくれた人の……。

 鋼のように揺るがなかった端正な顔が、ほんの少しだけ、緩んでいた。

 

 ……う、わ。

 いや、何ちょっとキュンと来てんの、チョロすぎでしょ私。

 

 瞼を閉じて、一度呼吸を置く。

 夜の寒気が体を冷やす。ついでに心も冷やしてくれ……、と。

 

「う」

 

 がくん、と視線が下がる。

 やば、姿勢崩れた、立て直さないと。

 ……あれ、えと、どうやって立つんだっけ。

 

「おいおい」

 

 倒れこむ体を、誰かが支えてくれる。

 大きい。温かい。それと……男の人の匂い?

 

「……お父さん?」

「む?」

 

 なんでお父さんがいるんだろう? なんで私を支えてくれるんだろう?

 ああ、でも、そう。まずは……報告しないと。

 

「お父さん、ごめんなさい……私……負けまし、た」

 

 意識が沈んでいく。自分が何を言っているのかもわからない。

 最後に。

 

「……おやすみ」

 

 何か、温かいものを、もらった気がした。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 夢を見た。

 よく見る、寒い夢だ。

 

 拒絶された。

 評価された。

 排斥された。

 

 それだけだ。ただそれだけの、嫌な夢。

 起きたら涙を拭って、午前中には忘れられるくらいのつまらない夢。

 

 

 

 でも、その中に、いつもと違うものが1つ。

 

『君の望みなら。

 ……勿論、浪費させはしないが』

 

 あの時は頭に入らなかった、けれど耳に焼き付いた言葉。

 

 

 

 ああ、今日は少しだけ、温かい。

 

 

 




 自分は強いとイキってたくせに1話で負けたチートオリ主(笑)がいるらしい。



 この時点での相互評価

トレ→ウマ:極めて優秀だが、何を考えているのかよくわからない、情緒不安定な癖ウマ。でも言葉が通じる時点でゴルシよりマシ。クールでカッコいい。

ウマ→トレ:自分をスカウトしてくれた恩人だが、何を考えているのかよくわからない、無愛想なトレーナー。悪い噂が本当なのか気になっている。悔しいがちょっとときめいてる。



 次回は3、4日後。トレーナー視点でコミュニケーションを取ろうの回。


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全くわからない、私は感覚でレースをしている。

 皆さまの反応のおかげで、我ながら驚異的なペースで書いてます。本当にありがとうございます!
 でも自分は大逃げを持っていないので、いつ逆噴射してもおかしくありません。
 その時は3、4日に1本のペースに戻ると思うので、よろしくお願いします。


 

 

 

「改めて、自己紹介をしようか」

 

 時は夕方、割り当てられたトレーナー室にて。

 俺は改めて、自分が担当することになるウマ娘、ホシノウィルムと対面していた。

 

 ……改めて観察すると、ホント美少女だな。

 セミロングに伸ばされた柔らかい淡めの栗毛。前髪には一筋だけ、長い黒鹿毛が垂れている。

 勿論、ウマ娘特有の耳と尻尾も持っているが……あまり動かない。感情が淡白な子なのかもしれないな。

 顔のパーツは……これに関してはウマ娘共通だけど、綺麗に纏まってるな。伏し目がちな青みがかった白色の瞳、引き締められた薄い唇が、彼女の物静かな雰囲気を引き立てる。

 そして小柄で細身であるという体格。それは怜悧な美貌に反し、彼女が未だ成長しきっていない子供であることを主張していた。

 

 

 総じて、ホシノウィルムというウマ娘は、幼い少女の可愛らしさと大人の女性の美しさを併せ持つ、どこかアンバランスなようで複雑に組みあがった魅力を持っている。

 もし元の世界でこのビジュアルだったら、芸能界が放っておかないだろうな。

 

 とはいえ、この世界におけるウマ娘はアスリートだ。

 アイドル性を兼ねているとはいっても、あくまで主眼はレース。そこを忘れてはならないだろう。

 俺は彼女のファンでもなく、友人でもなく、トレーナーだ。公私混同は控えねば。

 

「俺は堀野。トレーナー、あるいは堀野と呼んでくれればいい。

 今日から君を担当することになったトレーナーだ。

 まだ新人で経験も足りず、迷惑をかけることもあるかもしれない。そこも含めて、君と二人三脚で走っていきたいと思っている。よろしく頼む」

 

 うむ、我ながらなんと完璧な自己紹介。

 面白味がないと言えば否定できないが、やはりまずは真面目に行くべきだろう。

 何せ新人だ。経験も実力もない奴が軽口を叩くと、俺ならちょっとイラっとくるからな。

 

 ああいや、せっかくの自己紹介だ、何か趣味とか言うべきだったか? やはり情報を開示して相互理解を深めるべきだったかも……。

 でも俺、趣味とかないしなー。

 ここまで20年、ひたすら自分磨きしかしてこなかった。どちらかと言えば仕事感覚でやっていたので、趣味って感じはないのだ。

 ……あー、前世も趣味なくて話題に困ったりしたんだよな。これからはウマ娘とのコミュニケーションのためにも、何かしら趣味を持った方がいいだろうか。

 

 いや、仕事のために趣味を得るって、それホントに趣味か? 仕事のためにするっていうのなら自分磨きだってそうなんだが。

 仕事に一切関係ないところで、自分の好きなものを見つける……? お、俺にそんなことができるだろうか……。前世も今世も仕事人間だったこの俺に……。

 

「……トレーナー?」

「いや、すまん。以上だ。よければ、君も自己紹介してくれるか」

 

 聞くと、彼女はすべて予想していたと言わんばかりに頷き、すらすらと言葉を紡いだ。

 

「中等部1年、ホシノウィルム。北海道出身です。

 好きな食べ物はにんじんのグラッセ、趣味は自己研鑽。特技は集中力を途切れさせないこと。

 地元では、正式なコースではありませんが2400メートルまで走っていました。ダートはあまり肌に合いませんでしたが、走れないわけではないと思います。

 改めて、よろしくお願いします」

 

 あ、あ……待って待って、そんな完璧な自己紹介しないで、めちゃくちゃ恥ずかしいんだけど。

 一応社会人経験もある、しかも人生2回目の俺が、10代の女の子に自己紹介で負けていいんか? 人生経験4倍近くあるんだぞ?

 ……あー、なんか途端に自分が精神的おじさんっぽく感じて死にたくなってきたな。同年代と価値観が乖離してるようなことはないと思うけど。

 あれなのか、やっぱり史実つよつよウマ娘はステータスに表示されないところもスペック高いの? ルドルフもダジャレの発想力以外はスペック高いもんね。

 

 しかし……ふむ。

 自己紹介からしても、彼女のレースへの、そして勝利への姿勢が伺えるな。

 趣味の自己研鑽は自主トレのことだろうし、集中力を切らさないというのは連続したトレーニングが可能というアピールだろう。

 つまるところ、自己紹介の内70%くらいは自分の走りについての情報提供だ。

 どれだけストイックなのかが伺える。似たもの同士、上手くやっていけるといいな。

 

 彼女の中の闘争本能は本物だ。

 体力が削れた状態で自主練なんて、普通はしない。トレーナーに言われて初めて取り組むものだ。

 実際、俺の新人研修中に体力を7割残してるのに、限界だ無理だと言っていたウマ娘を見かけたこともあった。

 あの時は懇々と自分の限界に挑む意義を説き、1人のウマ娘をトレーニングジャンキーに目覚めさせてしまった。

 後日自主トレのし過ぎで事故を起こしかけたと聞いた時には、顔を青くしたものだ。

 きちんと休養の大事さを語って方向修正はしておいたが、彼女は今も楽しく走っているだろうか。今度トレーナーが付いたか確認しに行ってもいいかもしれない。

 

 や、話が逸れたな。

 そんなウマ娘も決して珍しくない中、ホシノウィルムは自分の体力をほぼ使い切るまで、一日中走り続けていた。

 その勝利への貪欲さ、より速くなることへの執念は本物だ。

 ……同時に、少しばかり不安定さを感じることもあるのだが。

 

「さて、君のことだから、より速くなる方法を聞きたがるのではないかと思」

「はい、是非教えてください」

「……うむ。熱意があって非常に結構」

 

 いや少しばかりというか、この前向きすぎる姿勢は不安定どころではない気もするが。

 想像してみてほしい。直前まではクールで物静かな印象だった子が、いきなり胸倉掴み上げるような勢いで詰めてくる姿を。

 正直本当にビビるし、仮面が剝がれかけるので勘弁してください。

 

「とはいえ、難しいことはない。

 君もウマ娘、距離や脚質の違い、適性は理解できていると思うが、」

「すみません、私には殆ど知識がありません。教えていただけると嬉しく思います」

「…………うむ。了解した」

 

 わざとか!? わざとやってないかこの子!?

 噓でしょ、ウマ娘って闘争本能すごいから、基本的に勝つためには勉強を欠かさないって話だったじゃん!

 距離とか脚質の区別はそう専門的な話じゃない。野球におけるピッチャーキャッチャーの区別と同じレベルだ。それに携わる人間であれば、知っていて当然の知識。

 流石にそんな基礎的な部分知らないとは思わないんだけど!?

 

 ああいや、待て待て。何を担当に不満を持っているんだ俺は。

 俺は堀野家のトレーナーだ。ウマ娘を導く者だぞ。

 ウマ娘が船を出せば舵を取る、コンパスを忘れたなら俺が用意する。

 そうやって全ての不安要素を取り除き、彼女の旅路を照らすのが正しい在り方だ。

 

 とはいえ……うーん、この癖ウマを導くことが、果たして俺にできるだろうか。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、適性の話をしようと思う。

 少し遠回りになってしまうので、難しいと思ったら要点だけかいつまんで聞いてほしい。

 

 まず、中央トレセンなど日本のウマ娘に関係する大体を取り仕切っている、URAという組織がある。

 そのURAが主催している、トゥインクルシリーズと総称されるレース群。これがホシノウィルム、君が走る場所だ。

 ……もしかして、これも知らなかったのか? 名前は知っているが詳しくは知らなかった?

 そうか。……そうかぁ。

 ああいや、問題はない。そういう生徒もいるだろう。

 

 さて、君はトゥインクルシリーズのレースを走ることになるのだが、これには様々な区別がある。

 まずはその話からだな。

 

 最初に、レーンに芝が生えているか、砂が詰められているか。前者は芝、後者はダートと呼ぶ。

 君は芝を得意としているようだが、少なくとも日本において、それは非常に有利に働く。トゥインクルシリーズの重賞は芝が多いからな。

 

 ……重賞というのもよくわかっていない?

 ……あー、なんだ、正直で結構。相互理解を図るためにも、これからもわからない部分があれば気軽に言ってくれ。

 とはいえ、今回は重賞の話は置いておこう。君に関わるのは、しばらく後になるだろうしな。

 

 

 

 さて、芝とダートで分かれた後、次は距離で区別される。

 まず1400メートル以下の、短距離。瞬発力にものを言わせるスプリンターの独壇場だ。

 次に1401から1800メートルの、マイル。殆どスタミナが関係しない短距離と違い、上手く使い切る戦略性が求められる。ここを主戦場にする者をマイラーと呼ぶ。

 その先は1801から2400メートルの、中距離。スタミナやスピード、パワーをバランス良く持つウマ娘が勝つ距離だな。トゥインクルシリーズで活気がある距離はマイルと中距離の2つだ。君も挑むことになるだろう。

 最後に2401メートル以上の、長距離。高いスタミナを求められる長期戦だ。驚異的なガッツを持つステイヤーたちの巣窟だな。

 

 ……頭に入らなかったか? まぁ、教科書なりで字で読んだ方が覚えやすいだろう。そう待つこともなく授業で習うことになるから安心しなさい。

 とにかく要点を言うと、芝、ダートで分かれた後は、短距離、マイル、中距離、長距離と種類が分かれる。

 とりあえずこれを覚えておいてくれ。

 

 む、質問か。構わない、どうぞ。

 中距離を走るウマ娘は何と呼ぶのか?

 ……何というか、気になるのはそこなのか? まあ構わないが。

 他に比べ、これといった通称はない。精々がミドルディスタンスホースだな。中距離は最も一般的な距離であり、他の名称はこれと差別化するために定着した、などの説がある。

 

 

 

 さて、レースの区別の話はここまで。

 次は脚質の話に入る。そう長く続けないので、得意の集中力でしっかり聞くように。

 

 脚質は、主に4つの区別がある。

 レース序盤から速度を出してリードを広げ、その貯金で最後まで首位をキープする、逃げ。

 逃げに続いて前方を走り、隙あらば追い抜いて先頭を狙う、先行。

 少し後方で足を溜め、最後に先行と逃げを一気に追い抜かす、差し。

 最後方からレースを俯瞰し、ラストスパートで全てを抜き去る、追込。

 

 君が前回のレースで取った作戦は差し。それは認識……できているようだな。良し。

 

 

 

 さて、長々と話してきたが、いよいよここから適性の話だ。ここが一番大事で、すぐに終わるから集中して聞いてほしい。

 芝、ダート。短距離、マイル、中距離、長距離。そして逃げ、先行、差し、追込。

 これらはウマ娘によって、向く向かないがある。

 例えば、芝の短距離、かつ逃げに特化したウマ娘もいたり。

 芝もダートも走れ、距離もマイル中距離長距離と範囲が広く、更には先行差しの両方が可能と、なんでもできる万能なウマ娘もいる、など。

 ここにおける、向いていることを「適性がある」、向いていないことを「適性がない」、と言うのだ。

 

 この適性に関しては……あまり言いたくないことだが、いわゆる血筋と才能が大部分を決める。

 付けようとしても簡単に付けられるものではない。

 並々ならぬ努力があれば壁を超えることもできるかもしれないが、基本的には適性がある部分を伸ばすのが王道と言えるだろう。

 

 

 

 ……さて、ここまで語れば、何故この話を君にしているのか、わかるのではないか?

 

 …………。

 

 いや、わからないならわからないと言いなさい。きちんと解説するのがトレーナーの役目なんだから。

 

 

 

 簡単な話だ。

 君は模擬レースにおいて、マイルの距離を差しで走っていたが、それは君に向いていない。

 君の持つ多分な持久力とスピードは、中距離や長距離でこそ輝く。

 そして、その末脚の伸び悩み方から考えて、適性のある脚質は逃げだろう。

 

 

 

 あー、つまるところ、非常に簡潔に述べるなら、だな。

 君は非常に不利な戦いをしていた、ということだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 長々と話して、少し頭が痛くなる。

 堀野のトレーナーとしての仮面を被るのは、馬鹿な俺には骨が折れるんだ。

 面白くもない話を真面目に聞き続けていたホシノウィルムと違い、俺は集中力がない。少し気を抜けば簡単に仮面が剥げてしまう。

 だからあまり話さないようにしているのだが、こういう時は仕方ないよな。

 むしろ、これからはインタビューに答える機会もあるだろうし、こっち方面も鍛えていかねば。

 

「理解できたか、ホシノウィルム」

「はい」

 

 素直にこくりと頷く彼女に、内心胸を撫でおろす。高い賢さは飾りではなかったか。

 ……うん、やけに知識はない気がするが、幼少期の環境次第ではそういうこともあるのかもしれない。

 地頭は悪くないようだし、これから俺が支えていけば軌道に乗るはずだ。

 

「つまり、中距離から長距離を逃げで走れば、勝てるのですね」

「……まぁ、確実に勝てるとまでは言い切れないがな。君は優秀だが、不足している部分もある。それはこれから、トレーニングで伸ばしていこう」

「はい!」

 

 気持ちの良い答えが返ってきたが、なんとも不安になる。

 俺の脳裏には、どことなくホシノウィルムに似た反応をする、1人の大逃げウマ娘の顔が浮かんでいた。

 普段はクールで何を考えているか分かりづらいところとか。

 常識外れな程、長時間走り続けていたところとか。

 どこまでも勝ちに拘って、話を聞いているのか判別しかねるところとか。

 似ている。すごく似ている。よりにもよって残念なところだけが。

 もしかして才能のある逃げウマ娘は、こうなってしまう宿命にあるのだろうか。

 ……あぁ、セイウンスカイが恋しい。あの何も聞いていないようでしっかり聞いてる、油断も隙もない性格、すごく育てやすかったんだよなぁ……。アプリの中の話だけども。

 

 

 

 さて、ひとまず適性の話は終わりだ。

 中距離長距離のペース配分や逃げの走り方は、これからデビュー戦までにきちんと教え込んでいけばいい。ああ、焦る必要がないって素晴らしい。

 次にする話は……そうだな。彼女の高すぎるステータスについて、か。

 

 

 

「さて、次にもう1つ、非常に重要な話をするが。……その前に、1つ尋ねてもいいか」

「私に答えられることならば」

 

 うーん、キリッとしてかっこかわいいんだけど、こんな知的そうな雰囲気で全然レースのこと知らないんだよなぁ。

 人を見た眼で判断してはいけない。ウマ娘も同じく。

 

「では尋ねるが。君は自らの異常性に気付いているか」

 

 

 

「…………、それは、どういう意味でしょうか」

 

 

 

 空気が張り詰める。彼女の瞳がより鋭く引き絞られ、もはや睨まれているようにすら感じた。

 

 ま、それも当然だろうな。

 何せ彼女の圧倒的な身体能力は、これまではっきりと披露されたことがない。

 昨日の模擬レースでは本領と異なる脚質と距離で走ったために、並みのそれにしか見えなかった。

 そして彼女がそれ以前の模擬レースに出走していなかったことは確認済みである。

 

 つまるところ、彼女の視点からすると、俺が彼女の飛びぬけた身体能力を知っているはずがないのだ。

 

 彼女が警戒しているのは、俺がストーカーであると疑がっているためで違いないだろう。

 出身地である北海道にいた頃の自分を追っかけてたのか、それはキモいぞお前、と。

 

 ……ふ、我ながら名探偵。

 そしてその反応も予想していたからこそ、言い訳は考えてある。

 

「無論、君の力のことだ。それだけの力に、まさか自分で気づいていないわけではあるまい」

「……どこでそれを知ったのですか」

「簡単だ」

 

 が、正直、これを言って納得してくれるかは怪しい。

 だが、現時点で「アプリ転生」によるアドバンテージを活用でき、なおかつウマ娘が納得してくれそうな説得方法など他に思いつかなかった。

 ここで関係が悪化することは避けたい。下手をすれば、今後何か月にも及ぶ時間が無駄になる可能性すらある。

 ……だが。彼女の望む勝利を確実にもたらすには、「アプリ転生」の情報を使うことは必須条件。

 

 頼む、ホシノウィルム。

 ここで、この瞬間だけでいい。

 類まれなる鈍感力を発揮してくれ……!

 

 

 

「君がとてつもなく仕上がった体を持っていることはわかっている。

 何故なら、俺はウマ娘の足を見れば、その仕上がり具合が完璧にわかるからだ……!」

 

「なるほど、そういうことでしたか。納得しました」

 

 

 

 ……ん? んん?

 あれ、え、そんなストンと納得するの? 結構無理筋な説明じゃない?

 困惑を押し殺して彼女の様子を伺うが、どうやら本気で腑に落ちたようで、どこか安心したような雰囲気まで出ている。

 これは、もしや……。

 

 

 ……通った!?

 恐るべし、類まれなる鈍感ウマ娘、ホシノウィルム……!

 

 

 

 実のところ、これは危険な賭けだった。

 明確な説明ができず、なおかつもしも欠片程度でも疑われれば、俺は言い訳しようがないからだ。

 

 まず、正直に都合を打ち明けたとしよう。その場合、何が待っているか。

 簡単だ。狂人扱いで信頼関係完全崩壊である。

 「実は俺は異世界から転生してきて、ここはゲームの世界だから俺には君のステータスが見えてるんだ!」

 すごい、頭から足まで完全に狂人だ。こんなこと言ってるヤツを信頼する人がいるとすれば、多分苦労性だと思う。強く生きてほしい。

 

 では逆に誤魔化すとすれば?

 「偶然北海道に行った時に君の野良レースを見ていたんだ。その時偶然君は中距離を走っていて、差しではあったけどなんかこうすごい強そうだった!」

 うん、これも無理だ。そもそも彼女はずっと差し、つまりは本領を発揮せずに走ってきている。潜在的な能力を見抜くのならば明確な説明が必要だろうが、俺にはそれを示すだけの論理的根拠がない。

 更には、この先彼女の体力や事故率、トレーニングを管理する際に、「アプリ転生」の力を使おうとするなら、再び誤魔化しが必要になる。流石に非効率的に過ぎるわ。

 

 故に、俺は「よくわかんないけどトレーナーは不思議な力を持っているらしい」というなんともガバガバな認識を持ってくれることに賭けたのだ。

 これに成功すれば、以降「アプリ転生」を使う際に再度の説明は不要になる。

 問題があるとすれば、幼気な子供くらいしか信じてくれなそうってコトだ。

 なので、ひたすら空気作りとか言い方などを模索した。

 昨日の夜は「ウマソウルとかその辺もぼんやりとしていてよくわからないし、そういう空気に乗っかればなんとかいけるか……いやしかし俺普通の人間だし……」などと3時間考えていたくらいだ。

 

 

 

 そしてその模索は、完全に結実した。

 ああ……これが努力が報われるという感覚か。勝利の美酒、久しく味わっていなかった気がする。

 まぁこんなことで味わいたくはなかったけども。

 

 

 

「ふむ、納得してもらえたなら問題ない。ありがとう」

「? 何故感謝するのですか?」

「感謝は大事だからな。俺は隙あらば感謝するようにしている。感謝感謝」

 

 ヤバい、テンションが高くなって仮面剝げて、てきとうなことを口走ってる。

 チャックチャック。こういうとこが妹にからかわれる原因だったんだよなぁ。

 

「ん、ん。とにかく、俺は君のコンディションやステータスを知ることができる。恐らくは他のトレーナーよりもかなり正確だろう。

 故に、少し変わった育成方針を打ち出すこともあるかもしれない。

 変わった判断だと思ったら迷わず訊くように。きちんと理由は伝える」

「はい、頼らせていただきます」

 

 あ、あれ。なんか視線に……僅かながら、信頼? 尊敬? そんな色が混じったような。

 えーっと、えー……なんでだ?

 俺、明らかに胡散臭いこと言ってるよね? 自分の将来のことなんだから、もっと疑ってもいいのよ?

 

 

 

 ……いや、待て。

 俺の脳に、一筋の光が駆け抜ける。

 彼女の今までの態度。反応。言葉。高いステータスと素養。

 まさか。

 ……いいや、これは、ひょっとしてそうなのか!?

 

 彼女は、ホシノウィルムは……!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ひょっとして、メチャクチャに騙されやすいのでは……!?

 

 

 

 察するに、高い能力が災いしたのだろう。わざわざ人を疑わなくても、筋肉でなんでも解決できた彼女は、面倒くさくなって疑うことをやめたのでは。

 いいや、あるいは疑わず、騙されたと確信した時点で反撃を開始し、詐欺を働いた無法者に「勝利」してしまうつもりなのでは……!?

 だが、物理的手段で解決できるのは初歩的な詐欺だけだ。本物の詐欺師は、騙されたことにすら気付かせないという。

 どうしよう。

 この子、ちょっと良い効果があるって言われただけで壺とか買っちゃうかもしれない。

 1人サクラが混じっただけで羽毛布団たくさん買って帰ってくるかも。

 

 

 

 ……いいや!

 

 

 

 パンッ!

 

「?!」

 

 両の手を思い切り頬に打ち付ける。

 何を甘えているんだ、俺はッ!

 

 どうしよう、じゃない!

 俺は誰だ? 堀野家のトレーナーだぞ!

 担当ウマ娘に寄り添い、その思いを遂げさせるためにここにいる!

 彼女が騙されることがあれば、地獄の底まで追い回して相応の対価を払わせる!

 そしてそもそも騙されないように常に注意する!

 それが、俺の役割だろうが!!

 

 駄目だな。やはり俺は、まだまだ至らない。

 理想のトレーナー……父に近づく日は遠そうだ。

 

「あ、あの……大丈夫ですか」

 

 恐る恐るといった感じで、ホシノウィルムが声をかけてくる。

 しまった、心配させてしまったか。

 

「大丈夫だ、ホシノウィルム」

「そうですか、それなら良いのですが」

「何があっても、俺が君を守る!」

「……ええと?」

 

 心配する必要はない。いいや、彼女が心配する必要も感じない程、俺が努めなければならない。

 彼女が何の憂いもなく走れるように。レースに勝利できるように。

 俺が……彼女を守護(まも)らねば……ッ!

 

 

 

「トレーナー」

「なんだ、ホシノウィルム!」

 

 勢いよく顔を向けた、その先で。

 俺の担当ウマ娘は、両手で口を押さえ、小さく小さく、控えめに笑っていた。

 

「よく、ふふっ……少し抜けてるって、言われませんか?」

「な?! ホシノウィルム、どこでそれを知ったんだ!」

 

 そう尋ねると、ホシノウィルムは更に楽しそうにクスクスと笑って。

 

 

 

 ……思えばそれは、初めて見た彼女の笑顔だったのだろう。

 俺は無性に嬉しくて、彼女が恥ずかしそうに黙り込むまで、それを止めることもなく見守っていた。

 

 

 




 堀野君は気にしていますが、精神は環境に大きく影響されるため、彼の精神年齢はむしろ前世より下がっています。ホシノウィルムも普通に中等部の女の子です。
 実は50歳以上だけど、精神年齢は20歳程度。なんかファンタジー世界のエルフみたいですね。

 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、今後の予定の話。


(追記)
 誤字報告をいただき、色々と訂正させていただきました。
 半角全角の問題や、敢えてそういう言い回しをしている部分もあり、そのまま全てを使わせていただくわけにはいきませんが、これからも1つ1つ確認してきちんと修正していきます。
 作者の知識不足や認識の齟齬、言い回しの伝わりにくさ、そして単純なガバが多く、ご迷惑をおかけします。
 何かお気付きの点があれば、是非お気軽に指摘いただけると嬉しいです。すごく助かります。


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無敗三冠を無礼るなよ

 ウェーイwww オタクくん見てるー?
 オタクくんの大好きなネームドウマ娘、本編に出しちゃいま~~す!www
 我ながら可愛く書けたと思うから、楽しんでね~~!





 

 

 

 問題です。

 昼間にスカウトを断ったトレーナーに出くわし、オーバーワークを厳しく叱責されて。

 更には急に自分のトレーナーだと言い出し、その後ぶっ倒れ。

 気付けば寮の自室で寝ていたウマ娘がいたとします。

 その子は今、どんな気分だと思いますか。

 

 答え。

 ……あーもう、最悪なんですけどっ!!

 

「う、う……」

 

 事件のあった次の日の朝、寮の自室。そこには布団の中で悶える私がいた。

 私、暴走しすぎ! こんなことにならないよう普段から感情を抑えるようにしてるのに!

 なんでこうなっちゃうのかなぁ! 元はトレーナー契約が欲しくて模擬レースに出ただけなんだどなぁ!

 

 ……いや、わかってる。何が悪いかは明白だ。

 

 

 

『…………寒い』

 

 

 

 あの感覚。私の平静を奪い、ただ勝利だけしか見えなくなる冷たい感じ。

 いつからか、レースを走るたびに感じるようになったそれは、恐らく私の精神かウマソウル、そのどちらかに起因するものだろう。

 そのどちらなのか、そして何故そうなってしまうのかは、私にもよくわからないんだけど。

 

 ああなってしまうと、私は自分の勝利に向けて暴走してしまう。他の全てがどうでもよくなってしまう。

 ……いや、いつだって勝ちたいという気持ちはあるんだけど、それが極端に強くなるのだ。

 そうなってしまえば、私はもう止まれない。暴走と呼んで差し支えない状態になってしまう。

 

 でもその暴走も、悪いことだけじゃない。

 勝利しか頭になくなるってのは、つまりは勝利のみに集中できるってこと。

 レース中の私は一切集中を乱さず、冷静に冷徹に前を目指す。

 並大抵のアクシデントでは動じなくなるし、いつも以上に頭も体もキレが良くなるんだ。

 何より、昨日以外はこの感覚、レースが終わればじきに引っ込んでたんだよね。

 自分の考え方が歪んじゃうのはちょっと怖いんだけど、それ以外はメリットだらけ。だから、私はこれと上手く付き合ってきた。

 

 この感覚が何なのか。それは私自身にもよくわからない。

 これまでは上手く使ってきたつもりだったけど、そうもいかなくなったかもしれない。

 今回の模擬レースで理解できたこととして、北海道とここではレースの格が違う。あの感覚と私の全力をもってしても、勝てないウマ娘がいる。

 そしてもう1つ。昨日、レースに敗北した後。徐々に戻ってくるはずの熱が入らず、私は勝つために走り出し、止まらなかった。

 レース中に限るはずだった暴走が終わらず、あそこでトレーナーと会えなければ……最悪、私の足は……。

 

 あの寒さ。私の中の何か。

 それが何なのかをきちんと解明し、なんとかしないと。

 最悪、また負けた時に暴走を起こすかもしれない……。

 

 

 

「いやまぁ、それはそれでいいか」

 

 

 

 冷静に考えると、負けなければいいのだ。

 勝てば官軍負ければ賊軍、私が速く走って速くゴールすれば万事解決である。

 つまり「寒い」感覚を何とかするよりも、より速く走れるように特訓する方がいいってこと。

 そもそも負ける私に価値はない。その時は粛々と運命を受け入れるか。

 

 

 

「……ウィルちゃん、起きてますか」

 

 どこかふわふわした、聞きなれた声がする。

 続いてぴょこんと飛び出る頭。うーん、先輩今日も可愛いな。

 

「何か御用ですか、ミーク先輩」

 

 珍しい白毛の髪に、眠たそうな淡いピンクの垂れ目。

 いつもぼんやりほわほわしているこのウマ娘は、私の同室の先輩、ハッピーミークさん。

 4年以上もトレセン学園で走り続け、更には色んなレースにも勝利している、偉大な大先輩である。

 ……でも同時、マイペースですっごく可愛らしい先輩でもあった。

 部屋の窓からぽやーっと幸せそうに空見上げてる姿とか、見てるだけで幸せをおすそ分けされる。

 

 

 

 去年の4月。

 新たな生活、友達作り、そしてこれからの競争人生。

 色々な不安を抱えてこの学園に入学し、寮に荷物を運びこんでいた最中、ミーク先輩は唐突に現れた。

 いや現れたっていうか、私が知らなかっただけで同室だったんだけども。

 段ボールを置いた私は、唐突に部屋に入ってきたミーク先輩を見て固まった。自分の部屋に不審バが入ってくるという突然の事態にどう対処すればいいのかわからず、処理落ちしたのである。

 ミーク先輩も足を止めて、ぼんやりと私を見つめてきた。今思うと、多分何も考えてなかったんだと思う。

 

 そして、無言の時間が1分くらい続いただろうか。

 とりあえず私は、両手を上げることにした。もし不審者だったら怖いもん。

 ……うん、今考えると、なんで同室の子だって思わなかったんだろうね。混乱してたからかなぁ。

 で、そうしてガクブルホールドアップした私に対し、ミーク先輩はくすっと笑い、言った。

 

「……ふふ……カニさんみたい」

 

 それが私たちの、なんともシュールな出会いなのであった。

 

 最初こそグダグダだったけど、半年以上一緒に生活している内、ミーク先輩とは自然に仲良くなっていった。もちろん仮面を外すようなことはないけどね。

 ミーク先輩になら色々相談できるくらいには、私はこのほわほわした先輩を信頼している。悩みを相談すると、顔を赤くするくらい必死になってくれるので、とてもかわいい。

 ミーク先輩の方は……うーん、どうだろう。いつもぽやーっとしてるから、どれくらい親しく感じてくれてるのかわからない。

 大好きなトレーナーさんとの惚気話をしてくれるので、ある程度は仲良く思ってくれてる……と、嬉しいな。

 

 

 

 で、そんな癒し系ウマ娘、ミーク先輩。

 彼女はふにょんと頷くと、こちらに便せんを差し出してきた。

 

「これ……ウィルちゃんのトレーナーさんから、預かりました」

「私のトレーナー……」

 

 うぅ……今日日見ないようなしっかりしたお手紙だ。何が書いてるんだろう、開けるのが怖い……。

 ミーク先輩は黒ヤギさんではないので、きちんと渡してくれたわけだ。どうせなら食べてくれてもよかったのに。

 ……お手紙むしゃむしゃする先輩、めっちゃかわいいだろうなぁ。ちょっと見てみたい。

 

 …………。現実逃避はここまでにするか。

 

「ありがとうございます、ミーク先輩」

「……ぶい」

 

 超絶可愛い先輩は、どや顔でブイサインを作ると、てくてくと部屋を出ていった。

 はー、ほんと可愛いなぁミーク先輩。

 先輩相手に失礼かもだけど、気ままな子猫を見るようで癒されるよ。

 

 

 

 ……あー、うん。やっぱり手紙、読まなきゃ駄目だよね。

 怒られるんだろうなぁ。昼間の失礼な態度、夜の過度な自主トレ、そして直後の気絶と、あのトレーナーさんには迷惑かけっぱなし。

 手紙の中身を想像すると本当に気が滅入るよ。

 でも、私のトレーナーになってくれた人だもんな。見なきゃいけないよな。……うぅ。

 せめてそんなに怒ってないといいな。顔文字とか絵とか描いてたら和むんだけど。

 

 ぺらり。

 

『放課後、俺のトレーナー室に来るように。

                   堀野』

 

 

 …………。

 私、殺されるの?

 

 

 * * *

 

 

 

 お叱りはなかった。

 というか謝ったら、いつも通りの無表情で「気にするな」と言われてしまった。

 うぅ、それでも端正な真顔は威圧感がすごい。実は怒ってない? 大丈夫?

 すみません、反省してます。後悔もしてます。次はもっと早く加速して絶対に勝ちます。

 

 その後、トレーナーは何やらコクコクと頷いたり、小首を傾げたりしていた。

 思わずトレーナーと同じように小首を傾げる私。

 ……何考えてるんだろ、この人。なんか一人芝居を見ているようで面白いんだけど、同時にこの人にトレーナー任せて大丈夫かなって不安にもなる。

 とか考えてたら、いきなりトレーナーはこっちに向き直った。

 

「改めて、自己紹介をしようか」

 

 いや急だね!?

 昨日もそうだったけど、このトレーナー、話題の転換が急というか……多分自分の思考と相手の認識のすり合わせが上手くいってないんじゃないか。

 ……あーいや、どうかな。私の理解力不足かも。

 私は前世も今世も、あまり明るい人生を歩いてこなかった。友達とか少なかったし……いやちょっと見栄張った。今世はミーク先輩がいるけど、前世は友達一人もいなかったね。ハハハ。

 なので、当然と言うべきか、私はコミュニケーション能力が欠如している。いわゆるコミュ障だ。

 普通のウマ娘なら、このトレーナーの話し方にもついて行けるのかな。

 そう思うと……ちょっと悲しいな。

 

 

 

 自己紹介はつつがなく終わった。

 トレーナーのは、まさしく隙のない大人という感じ。

 不要な自分は見せない、自分は君にとってトレーナーであり、それ以上でもそれ以下でもないと、そう主張するものだった。

 多分、生真面目なんだろうなと思う。自分の職務に忠実で、そこに神経を注いでいるようだった。

 少し寂しいと言えば寂しいけど、こういうキャラこそ攻略する熱意が湧くよね。乙女ゲーの話だけどさ。

 

 一方私の自己紹介は、前から考えてた奴だ。

 私はかしこいので、友達とかトレーナーができた時にすぐ自己紹介できるよう、トレセンに来る前からしっかりと作りこんでおいたのである。もちろんミーク先輩にもぶつけた。ぽやーっとした反応しか返ってこなかったけど。

 自分の名前、出身地、好きな食べ物、趣味、特技。対トレーナー相手には、これまでどう走ってきたか、どう走れると思うかを付け加える。

 実は、昔読んだ『バ鹿でもわかる友達の作り方』に載ってた自己紹介の方法をそのまま流用している。

 でも、ハウツー本に載っていたってことは、それはもう間違いない方法のはずだ。

 きっとトレーナーも、ぐっと私を親密に感じてくれたに違いない。無表情のままだからわかんないけど。

 

 

 

 自己紹介が終わると、またトレーナーは少し間を開けて口を開いた。

 

「さて、君のことだから、より速くなる方法を聞きたがるのではないかと思」

「はい、是非教えてください」

「……うむ。熱意があって非常に結構」

 

 当たり前だ。この学園に入学した生徒で、それに興味を持たないウマ娘はいないだろう。

 殊に、私はここに、速くなるために……誰にも負けないために来たのだから。

 

「とはいえ、難しいことはない。

 君もウマ娘、距離や脚質の違い、適性は理解できていると思うが、」

「すみません、私には殆ど知識がありません。教えていただけると嬉しく思います」

「…………うむ。了解した」

 

 いや本当ごめんなさい。やっぱりちゃんと競馬の知識付けてくればよかった。

 

 ちなみに殆どとは言ったが、全くないというわけではない。ウマ娘として生きてるだけでも耳にする機会が多いしね。

 流石にマイルとか中距離、長距離という単語は知ってる。あと大逃げとか。超逃げ、爆逃げ? みたいな単語もあったはず。

 言われればニュアンスで理解もできるしね。私はそうやってのらりくらりと生きてきた。

 なので私は、ある程度は話にもついて行けるだろうと高をくくって、トレーナーさんの口が動くのを見守った。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ヤバい、知らないことしかない。そんないっぱい区別あるんだ!?

 えーと、芝、ダート。短距離、マイル、中距離、長距離。それに逃げ、……せ、先行、差し、追込。

 うん、一部怪しかったけど、ちゃんと全部覚えてるよ。

 

 ウマ娘はこれらに合う、合わないがあって、私にはマイル距離とか差し脚質は合わないんだって。

 合うのは中距離長距離、そして逃げ。言及がなかったってことは、多分芝はそのままでオーケー。

 つまり私は、これから芝、中から長距離のレースに、逃げの脚質で出ていくことになるんだろう。

 

 いやー、見事に知らないことばっかりだ。もうこれ教えてもらえただけでトレーナーさんと契約した価値があったんじゃないだろうか。

 しかし、私に合う距離とか脚質を一瞬で見抜くあたり、このトレーナーさんってひょっとしてすごい人なんじゃないの? 新人トレーナーって話だったけど、やっぱり名門は違うんだろうか。

 

「さて、次にもう1つ、非常に重要な話をするが。……その前に、1つ尋ねてもいいか」

「私に答えられることならば」

 

 もう何でも聞いてほしい。何でも答えちゃうよ。

 私は既に、堀野トレーナーに全幅に近い信頼を寄せている。私を唯一スカウトしてくれたし、昨日すごい迷惑かけたのに許してくれてるし、その上有能で、ついでにイケメンだし。

 

 ……あれ、もしかして私、チョロい? 

 いやいや、でも契約したトレーナーであるこの人を信頼するのは多分正しいことだと思うし。

 チョロくない、チョロくない。

 

 とにかく、トレーナーが訊くってことは私が速くなるために必要なことなんだろうし、答えない理由なんてないわけで。

 さぁ、何でもどんとこい!

 

 

 

「では尋ねるが。君は自らの異常性に気付いているか」

 

 

 

 

 

 

 思考が、凍り付いた。

 

 

 

 気付かれた? 私が転生者だってこと。前世から記憶を引き継いでるって。異常だって。

 

 嫌だ。怖がられる。のけ者にされる。怖い。……寒い。

 

 なんで? なんでばれたの? 私、何も、おかしなこと言ってないはず。

 

「…………、それは、どういう意味でしょうか」

 

 お願い。私の勘違いであって。気付かないで。

 

「無論、君の力のことだ。それだけの力に、まさか自分で気づいていないわけではあるまい」

 

 

 

 おねがい。

 やめて。

 

 

 

「……どこでそれを知ったのですか」

 

 

 

 たすけて、おとうさん。

 

 

 

「簡単だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「君がとてつもなく仕上がった体を持っていることはわかっている。

 何故なら、俺はウマ娘の足を見れば、その仕上がり具合が完璧にわかるからだ……!」

 

 

 

 …………。

 え、あ、……う?

 何、えっと、違った? 気付かれて、ない?

 私の体が仕上がっている? って、それだけ?

 

 「アニメ転生」。私の得た転生特典は、この体を極めて頑健にした。少なくとも地元では負け知らずだったくらいには。

 トレーナーの言葉を信じるなら、今までの私は不利な戦場で不利な戦い方をしていたらしいし、あるいはもっと強くなれるのかもしれないけど。

 

 ただ私が強いことに気付いただけ。

 それだけ。それだけなんだ。

 

 ……良かった。

 

 それにしても、足。足を見れば、仕上がり具合がわかる、か。

 なんか聞き覚えがあるような……? ちょっと条件は違ったような気がする……もうちょっとヘンタイっぽかった気がするけど……。

 

 

 

 ……え!? いやそれ、沖野Tじゃん!!

 

 

 

 その瞬間、私は全てを理解した。

 沖野と堀野という、なんとなく似た名前。その有能っぷりと懐の広さ。そして何より、トモを見れば仕上がり具合がわかるという能力。

 

 堀野トレーナー、沖野Tの代わりなんだ……!!

 

 

 

 元の世界の私は、オタク文化に親しんだ人間だった。

 ラノベもアニメもゲームも漫画も、自分の興味に従って節操なしに手を出していた。

 その中には当然、当時流行っていたジャンルの二次創作も入っている。

 だから、理解できたのだ。

 ……あっ、これオリ主モノゼミでやったとこだ! と。

 

 オリ主モノ。つまりは、二次創作におけるオリジナル主人公モノ。

 それは大抵の場合、非業に終わった結末をオリ主が塗り替えたり、ストーリーにオリ主が介入して無双したりする内容になる。

 とはいってももちろんその実千差万別。いわゆるアンチ・ヘイトだったり原作再構成だったり、方向性は多岐に渡るのだが。

 原作厨には嫌われがちなジャンルだが、実は原作の魅力を飾り立てるようなオリ主モノも存在し……。

 ああいや、長くなるからこの辺にしとこうか。

 

 そんなオリ主モノの中に、時々あるタイプのヤツ。

 原作であと一歩足りなかったり不満点があるキャラを、作者が考えたオリキャラやオリ主で上書きしちゃうという荒業。

 私はこれを、置き換え形式と勝手に呼んでいる。何かちゃんと名称とかあるのかもしれないけど、いちいち調べる気にもなれないし、どうでもいいや。

 当然、置き換えられたキャラのファンには鬼のように叩かれたりするものだが、まぁそれはそれとして。

 

 もしこの世界が、置き換え形式のオリ主モノなのだとすれば、もしかしたら、と思うことがある。

 私の出身地は北海道の片田舎。……そして記憶に間違いがなければ、アニメ1期主人公のスペちゃんも、北海道出身だったはずだ。

 これが指し示す仮定は、即ち。

 

 もしかして私、スペちゃんの代わりだったりする……?!

 

 つまるところ、この世界におけるオリキャラは2人。

 沖野Tの代わりに配置された、チートトレーナーである堀野トレーナー。

 そして……スペちゃんの代わりに配置された可能性のある、転生チートウマ娘のホシノウィルム!

 うおお、マジか! これ1期のオリ主モノだったの!? 私、最終的にはあの怖い海外のウマ娘と争わないといけないのか!?

 

 ……などと。

 正直内心はめちゃくちゃに荒れ狂っているのだが、それを表情には出さない程度の分別はある。

  

「なるほど、そういうことでしたか。納得しました」

 

 すまし顔で頷いておく。

 納得はした。多分、トレーナーが思っているのとは違う納得だけど。

 ……いや、理解はしたけど、納得しているかと言えば微妙か? せっかくウマ娘世界に転生したってのに、沖野Tにもスぺちゃんにも会えないのはなぁ……。

 

 ……? しかし待てよ?

 私は既にトレセン学園に入学している。クラスも振り分けられ、毎日授業を受けている状態だ。

 でもそのクラスメイトの中に、スカイちゃんがいないんだよね。

 アニメを見たのも結構昔のことになる。時々思い出したり書き出しているけど、その記憶も万全とは言えない状態。

 しかし、スペちゃんのクラスにスカイちゃんがいたことは覚えている。間違いないはずだ。

 とすると、スカイちゃんまで誰か他のウマ娘に置き換えられてる?

 うーん、そこまでいくと改ざんし過ぎだと思うんだけど……そういうのもあるのかなぁ。

 

 更に言えば、同室もスズカさんじゃなくてミーク先輩だ。

 先輩ってとこでは一致してるけど、あまりにも雰囲気が違いすぎる。ミーク先輩、確か逃げはしないって言ってた気がするし。

 

 どういうことなんだろう。なんか逆によくわからなくなってきたな……。

 

 

 

 ん、トレーナーが口を開く気配。一旦思考を中断しよう。

 

「ふむ、納得してもらえたなら問題ない。ありがとう」

「? 何故感謝するのですか?」

「感謝は大事だからな。俺は隙あらば感謝するようにしている。感謝感謝」

 

 …………???

 感謝感謝て。堀野トレーナー、そういうこと言うタイプだったっけ?

 

「ん、ん。とにかく、俺は君のコンディションやステータスを知ることができる。恐らくは他のトレーナーよりも、かなり正確に。

 故に、少し変わった育成方針を打ち出すこともあるかもしれない。

 変わった判断だと思ったら迷わず訊くように。きちんと理由は伝える」

「はい、頼らせていただきます」

 

 いやもう、今度こそ全幅の信頼ですよ。

 沖野Tの代わりに用意されたってことは、少なくともコンディションを見抜く力は十全のはず。

 昨日の夜の対応を見るに、こちらの意思を尊重してくれる姿勢は間違いないと思う。

 これはもう完璧なトレーナーと呼んで差し支えないでしょう。

 不安だらけで始まったけど、私はとんだSSR出走チケットを引き当てたみたい……!

 

 ……ん? SSR?

 何かが頭に引っかかった、その瞬間。

 トレーナーの顔が僅かに白くなり、そしてすぐに赤みを増して。

 

 パンッ!

 

「!?」

 

 堀野トレーナーが、急に両手で頬を挟んだ。それも結構な勢いで。

 

 え、何!? どうしたのいきなり!?

 わ、わ、何、どうしたのこれ? どうすればいいの私?

 なんかトレーナーは決意を秘めたような瞳してるけど、全然意味わかんないんだけど!?

 

「あ、あの……大丈夫ですか」

 

 いや本当に大丈夫? ちょっとおかしくなってない?

 ちょっと引き気味に聞く私に、トレーナーはぎゅっと振り向き。

 

「大丈夫だ、ホシノウィルム」

「そうですか、それなら良いのですが」

「何があっても、俺が君を守る!」

「……ええと?」

 

 あの、えーっと、その。

 そんなやる気マックスみたいな表情をされましても、意味がわかんなくて。

 何がどうしてそういう結論に行き着いたんだろう。トレーナーの脳内を覗いてみたいんだけど。

 

 ……いや、待って、もしかして。

 

 

 

 実は、この仏頂面のトレーナーについて、私には1つ憶測があった。

 

 もしかしてトレーナー、自分の中で色々考えるだけで他人に伝えない、いわゆる言葉足らずなタイプなのでは、と。

 

 昨日の模擬レースの後。明らかに私と彼で話のテンポがズレていた。

 会話というより、一問一答というか……トレーナーから一方的に投げられた言葉を、私が打ち返していたような感じ。

 彼の言葉は最低限。むしろ必要なパーツが足りないから、かみ合っていないように感じるんだろう。

 自己紹介の時も、無駄な情報なんて何もなくて、ただトレーナーとしての責務を果たすようで。

 

 ひょっとして、人に自分のこと話すの、苦手なのかな。

 ……私と同じように。

 

 ああ、でも、そう考えるといろんなことに納得がいく。

 例えば昨日の会話。名前を聞く、何故この距離と脚質で走ったのか聞く、そして即スカウトと、あまりにも会話のペースが速いと感じていたけど。

 そもそも話しかけてきたってことは、スカウトをする前提だったんだろう。そして沖野Tに近い能力を持つトレーナーは、模擬レースの距離と私の脚質が適切じゃないことを理解していた。

 その辺りから考えるに。

 まず会話を円滑にするために名前を聞いて、遊びで模擬レースに出たわけではなく、本当にスカウトを受ける気があるかの確認に質問をし、その上で私が大丈夫そうだからスカウトした。

 こう考えれば、納得がいく。

 

 当然と言えば当然なんだけど、ミーク先輩と同じように、トレーナーも色々と考えて発言しているんだ。……先輩は時々、本当に何も考えてないけど。

 本当に言葉足らずだなぁ。もうちょっと自分の考えを話してほしいとは思う。困惑しちゃうので。

 

 さて、ではさっきの「君を守る」発言はどういう意図だったのか。

 直前に話していたのは、自分の育成方針が他トレーナーとは少し異なる、ってことだった。

 トレーナー視点になって、この発言へのウマ娘の反応を考えると……。

 なるほど、読めた。

 

 トレーナー、私が不安になったと思って、気を使ってくれたんだ。

 

 すとんと、色々腑に落ちる。

 昨日から感じていた違和感。トレーナーの測りかねていた感情が、一気に理解できた気がした。

 自分の走り方を理解していないウマ娘をスカウトし、オーバーワークを見かねて止めて、無理やり担当を決められたのに受け入れて、倒れたウマ娘を不平も言わず寮に運んで。

 迷惑をかけられたのに怒りもしないし、何も知らない私にたくさんのことを教えてくれて、そうして不安にさせたかもと気を使って。

 

 

 

 ……この人、ただわかりにくいだけで、すっごく優しい人なんだ。

 

 

 

 まぁ、別に私は不安を感じてないし、勘違いでいきなり自分の頬を叩くとか、なんとも間抜けな感じだけどさ。

 

「トレーナー」

「なんだ、ホシノウィルム!」

 

 あぁ、やっぱり。

 少しでも不安を感じさせまいと、そんなにハキハキと答えて。

 無表情で無愛想なのも、不器用なだけなのかな。

 それだから悪い噂なんて流れるんだよ、トレーナー。

 そういう気遣いを見せれば、みんなすぐにわかってくれるだろうに、さ。

 

 

 

 ……あぁ、温かいな。

 

 

 

「よく、ふふっ……少し抜けてるって、言われませんか?」

「な?! ホシノウィルム、どこでそれを知ったんだ!」

 

 おかしかった。何がおかしいのか、自分でもよくわからなかったけど。

 仮面で感情を抑えようという自制も忘れ、私はしばらくの間、笑みを漏らしてしまった。

 

 

 

 

 

 

 いや、はっず!

 ひ、久々に笑った顔他人に見られた……。うぅ、もうお嫁に行けない……。

 しおしおと枯れて小さくなる私に、トレーナーさんは相変わらずの無表情で話しかけてくる。

 

「さて、改めて話を続けよう。今日中に決めておきたいことがある」

 

 もう、そんな淡々として。恥ずかしがってるレディに何か言うことはないんですか?

 ……まぁ、今の私は何を言われても反発しそうではある。

 だから何も言わず、見なかったことにする……ってのは正解なのかもしれないけどさ。

 

 あー……このままじゃまともに話もできないか。

 心を落ち着けよう。

 私はホシノウィルム。勝つためにここにいる。

 ……よし。

 

「承りました。要件は何でしょうか」

「うむ。……とはいえ、今の君には想像しづらいことかもしれないが。

 簡単に言うと、君の今後。どのように進んで、どのようなレースに出たいか。

 君に展望や夢があるなら聞いておきたい」

 

 なるほど、展望や夢ときたか。

 お恥ずかしい話だが、ホシノウィルムにそんなものはない。ただ勝ちたい。勝たなきゃいけない。それだけだ。

 だからこそ、どう答えたものか迷う。

 何もありませんと言えば、トレーナーは私にとって最適なスケジュールを組んでくれるだろう。

 ……けれど多分、それは体の安全と、確実な勝利に配慮したものになる。

 

 それじゃ、私の目標を1つ果たせなくなるかもしれない。

 

 勝てればどんなレースでも構わない。……それは、あくまで「ホシノウィルム」の話だ。

 「転生者としての私」には、果たしてみたい目標がある。

 

 

 

「では、ひとまず無敗三冠を」

 

 

 

 無敗の三冠ウマ娘。

 アニメ2期で、トウカイテイオーちゃんが非業の怪我により成しえなかった、彼女の夢。

 それは決して私の夢ではない。私が果たしたところで、何の意味も持たない。

 ……でもさ。やっぱり、オリ主としては果たしたくなっちゃうんだよ。

 仇討ち……ではないけど。代わりに夢を背負うなんて、そんなご大層なものでもないけど。

 

 私に課された役目が、スペちゃんの代替だとしたら……これはもしかすると、本題から離れた行為になっちゃうのかもしれない。

 私というオリ主の冒険を読む読者がいれば、「キャラが暴走するとかつまんね」って言って、ブラウザを閉じちゃうかもしれない。

 それでも。

 

 あんなに頑張って叶わないなんて、悲しすぎるから。

 

 

 

 「私」は、無敗の三冠ウマ娘を目指す。

 たとえそこで、誰が立ちふさがろうと、勝ってみせる。

 

 

 

 

 

 

 数日後。

 私は全然理解してなかった三冠のヤバさを授業で知り、顔を真っ青にしたのだった。

 

 

 







 トレーナーも無敗三冠という言葉に色んな意味で顔を真っ青にしてます。



 次は3、4日後。一気に飛んでメイクデビューの話。



(追記)
 堀野トレーナーの黒い噂についてなど、本編にそこまで関係しない小ネタや設定などを活動報告にて掲載しています。
 もしも興味がある場合は是非ご一読ください!

(追記2)
 誤字報告をいただき、修正させていただきました。ありがとうございました!


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そして でんせつが はじまった?

 先に申しておきますが、拙作のレース描写はちょっと「重い」展開になります。多分アニメ2期が大丈夫だった人なら楽しめるくらいの重さです。
 その分普段はギャグマシマシすれ違い多めの展開です。
 グッピーが死ぬくらいの温度差をお楽しみいただけたらと思います。

 「シリアスもやる」、「ギャグもやる」。「両方」やらなくっちゃあならないってのが「二次創作」のつらいところだな。





 

 

 

 ウマ娘にとって第一の関門がトレーナーとの契約だとするなら、それは第二の関門と呼べるだろう。

 

 デビュー戦。あるいは、メイクデビュー。

 

 ウマ娘はこれ、あるいはこれに敗退した際に出走することになる未勝利戦のどちらかで1着を取らなければ、他の公式レースに出走登録することができない。

 

 1着。

 出走でも入着でもなく、1着だ。

 

 幸いと言うべきか、デビュー戦は10人以下という比較的少ない人数で行われるため、フルゲート18人のレースに比べれば1着を狙いやすいと言えるだろう。

 しかしそれでも、10人のウマ娘の中で頂点に立たなくては、夢の入り口にすら立てない。

 

 この世界に来て、競争の世界は優しくないことを痛感した。

 輝く才能のあるウマ娘は、メイクデビューで簡単にスタートラインに立てる。

 鈍い才能のあるウマ娘は、その後の未勝利戦で勝利をもぎ取り、勝負の舞台にたどり着く。

 ……では、才能のないウマ娘は。

 

 …………。

 

 残酷なものだ。

 しかし、それこそが勝負。優劣を決めるものである以上、頂点を決めるものである以上、勝者と敗者は生まれ、その2つの間には決定的な壁が生まれる。

 

 勝者には歓声と栄光が与えられ……。

 敗者は知られることもなく花を散らす。

 

 それがウマ娘たちの世界。それがトゥインクルシリーズ。

 

 俺はその残酷さを、何度も何度も繰り返し、父に諭されてきた。

 

『勝者の一滴の汗と、敗者の海の如き涙。それを受けて輝くのがトゥインクルシリーズだ』

 

 父さん。

 今日、俺は、その言葉の意味を理解することになる。

 

 

 

 * * *

 

 

 

『新たなる才能たちが現れる阪神レース場。芝2000メートル、バ場状態は稍重の発表となりました。梅雨の時期の中、彼女たちの門出を祝福するかのような晴れ間が見えています。新進気鋭の顔触れの中で、トゥインクルの舞台へ足を踏み入れるのは誰だ!』

『さぁ、ウマ娘たちがターフの上に出揃いました』

『1番人気はこの子を置いて他にいない。選抜レースで群を抜いた逃げ足を見せた、ホシノウィルム!』

『作戦を差しから逃げに変えて以来、彼女は調子を落としていないようです。その仕上がりは誰もが認めるところ。今日も余裕のポーカーフェイスを維持していますね』

 

 ターフに現れたウマ娘たちが各々準備を整える中、実況解説の声が聞こえてくる。

 真っ先に歩き出したのは、俺の担当ウマ娘、ホシノウィルムだった。

 彼女の表情に動揺はない。いつも通りの無表情で、何の感慨もなく、淡々とゲートへ入り。

 

 ガチャンと、後方でゲートが閉まった瞬間。

 彼女の顔つきが変わる。

 

 それはささやかな、彼女と長期間に渡って接した人間でないと気付けない程度の変化。

 元々の無表情はその軸をブラさず、けれどより色をなくして……。

 そこに現れるのは、冷徹で冷酷な、ホシノウィルムのもう1つの顔。

 彼女がレースの時……より正確に言えば、誰かと足の速さを競う時にのみ見せる、もう1つの面。

 

「ホシノウィルム……」

 

 俺は手を合わせて祈ることも、手すりを握りしめることもなく、ただ唇を歪めた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 それに気が付いたのは、同期のトレーナーの担当逃げウマ娘に併走してもらった時。

 レース勘を培うために組んだその一戦は、結果として得られるものがなかった。

 というのも、ホシノウィルムはこちらの指示に従わなかったからだ。

 

 開始の合図であるフラッグが振り下ろされると同時、彼女は、爆ぜた。

 

「……序盤から突き放すイメージ、とは伝えたがな……」

「あはは……まぁ初めての作戦でペースを掴めず掛かるのはよくあることだよ」

 

 正しく、圧倒的な速度。クラシックの重賞で走っても十分に通用する程のスピードで、相手を引き離す鹿毛のウマ娘。

 けれどそれは、自分の作戦を貫くことができず、暴走してしまっているだけ、と。

 人当たりの良い同期のトレーナーは、ホシノウィルムをそう評した。

 

 ……けれど、俺はそうでないことを知っている。

 ハイ、ミドル、ロー。ペースをその3つに分けるとすれば、今の彼女はミドルペース。

 ただ、彼女のミドルは他のデビュー前ウマ娘のハイ。彼女にとっての普通が、他者にとっては異常なのだ。

 そこにはこれ以上ない程、無情な性能差が表れていた。

 

「大逃げか……。しかし驚いた、まだ落ちないとはね。彼女、長距離専門にする気かい?」

「いや、中長距離だ。……単純に、彼女の素養が高すぎる」

 

 

 

 速度は高めれば高める程、加速度的にスタミナを消耗するようになる。その上呼吸で酸素を得にくく、体幹はブレやすくなり、更には冷静にレースの状態を見ることだってできない。

 ウマ娘にだって限界はある。各々の最適速度の上限を超えれば、そこから先はレース全体のタイムを落とすだけの非効率な結果に終わる。これがいわゆる掛かりってヤツだ。

 

 故にウマ娘たちは、自分の最高速度とスタミナ、周りのバ群状況や距離感、そしてバ場状態にレース全体のペース。

 その全てを考慮し、最適な速度とそれを出すタイミングを算出する必要がある。

 

 同期のトレーナーの言ったように、ホシノウィルムの走り方は「大逃げ」に分類される。

 これはレース序盤にバ群を可能な限り引き離し、その圧倒的なリードを以て先頭を維持するという、いわば追込の真逆をする作戦だ。

 ……だが、最初に速度を出しすぎれば、脳に回る酸素が減り、ペース配分を考えることすら難しくなってしまう。勿論後方のバ群とも離れるから、レースの状況を把握することもできないだろう。

 だから、最初にスタミナを消耗して速度を出す大逃げは難しい。勝ちの王道にはなり得ない。

 

 

 

 ……だが、その問題は、ホシノウィルムの強靭なスタミナと肺活量によって解決されている。

 

 

 

 流れる鹿毛は減速しない。突き放した相手を気にすることもなく、直線では常に一定の速度を維持。

 長期間高い速度を出し続ければ、足が重くなり思考が鈍くなる。だからこそウマ娘は息を入れ、足を溜めるのだ。

 だと言うのに、彼女はその常識を覆している。

 強いて言えば、ミホノブルボンのそれに近い等速の疾走。

 才能がどうあれ、血の滲むトレーニングを積めば、かろうじて可能になる秀才の技だ。

 

 しかしそれは、常識的に考えて、ジュニア級の2月に出せるはずのものではない。

 

「……どういう育成をしてるんだ。コーナーでこそ速度を落とすが、直線になれば再び戻る。彼女の体力は無尽蔵なのかい?」

「さてな。俺からしても、未だ彼女の底は見えん」

「天性のステイヤーだと?」

「えっ転生?」

「ん? どうした?」

「あっいや、すまん。……あぁ、まさしく天から与えられた才能だよ」

 

 いやホントにな。

 彼女が何故こんなにも強いのかは、恥ずかしながら俺にもわからない。

 才能という側面は確かにあると思う。けれど、それだけではない。

 本来、本格化を始める前のウマ娘が、身体的能力をここまで伸ばすはずがない。だからこそ「最初の三年間」は重要視されるのだ。

 それなのに、彼女は最初からクラシック……スタミナや根性に至ってはシニア並みのステータスを持っていた。

 

 その理由として考えられるのは……彼女のコンディションの1つ、「命がけ」か。

 それが一体どんなコンディションなのか、俺は未だ、正確に把握できていない。

 だが、強いて言うなら。

 これまでトレーニングを付けた1か月間。彼女のステータスの伸びは、高かったように思う。

 いや、正直アプリ版で一人でトレーニングした時どれくらい伸びるとか覚えてないけど。

 

 そこで、俺は1つ仮説を立てた。

 「命がけ」は、少なくともトレーニングの効果を上げる効果があるのではないか、と。

 それも倍率を乗算するのではなく、固定値を加算する、という形式で。

 

 それならば、本来ステータスの伸びないはずの本格化前に強くなったことも頷ける。

 頷ける、が……。

 

 

 

 そんなコンディション、あまりに強すぎる。

 

 名前が「命がけ」で、その上こんなに強い効果を持つとなれば……代償があるのは想像に難くない。

 

 それは、一体……。

 

 

 

「おい、まだ伸びるのか!? 彼女は大丈夫なのか!?」

 

 同期の声で思考が停止。ぼんやりと眺めていたレースに目を向けなおす。

 ホシノウィルムはラスト200メートルで更に速度を上げた。

 正真正銘彼女のハイペース、クラシックのスパートレベルに。

 

「あのバカ……!」

 

 使うなって言ったよね! 今日この後トレーニングだからミドルまでって言ったよね俺! というか相手に並べって言ったんだけどね!

 

 思わず立ち上がりかけ、少し考えて、座りなおす。

 止めようとしたところで、ウマ娘である彼女を止めることはできない。

 たとえ大声を出したところで、こちらの指令を無視してまでスパートした彼女は止まるまい。

 

「……もしかして、気性難なの?」

「まあな。……本当、困ったことだ」

 

 同期のトレーナーは自分のウマ娘の方を見ながらも、気づかわしげに声をかけてくる。

 出来た人だ。自分の担当のウマ娘の併走機会を台無しにされたのに怒ることもなく、こちらを気遣うとは。

 俺は幸運だな。こんな近くにも、尊敬できるトレーナーがいる。

 堀野のトレーナーは日進月歩だ。彼と付き合う内に、得られるものは多いだろう。

 

 ……が、それはそれとして。

 ゴールラインを越え、俺たちの見守る前でようやく減速し始めた鹿毛のおバ鹿は、もう併走には出せないだろうな。

 

「ホシノウィルム」

 

 外ラチを乗り越え、立ち止まったホシノウィルムに駆け寄る。

 彼女はこちらの声にも反応せず、肩を上下させていた。

 だらだらと汗を流し、足なんて軽く痙攣している。

 ……今日はトレーニング中止だな。明日からも足の状態を見てしばらく禁止か。

 

 伝えたはずなんだけどな。

 今日の併走は、ウマ娘と競う感覚を知るためのもの。競争ではなく併走、つまりは基本的に横に並んで走るんだ、と。

 勿論、多少速度を乗せてもいい。けど、振り切ったりせず、きちんと並んで2000メートル走りきるように、と。

 あまり言いたくないが、おそらく相手のウマ娘は、君よりも遅い可能性が高い。それでも我慢して合わせるんだ、と。

 おい聞いてるか、この後もトレーニングはあるからな。体力を使いすぎるなよ、と。

 いいか、絶対ハイペースは出すなよ。絶対だぞ! と。

 ……伝えたはずなんだけどなぁ。

 

「ホシノウィルム。おい、聞こえているか」

 

 肩に手を置くと、彼女は初めてこちらを向く。

 

 そして、俺は。

 

 

 

「……っ」

 

 向けられた敵意に、思わずその手を放してしまった。

 

 彼女の視線は、この1か月俺に向けられていた、ほんの僅かながら信頼が込められたものではない。

 勝負と勝利に固執し、その邪魔をする者は全て敵とみなす、研ぎ澄まされた針のような冷たさと鋭さ。

 この目は……見たことがある。

 模擬レース後、ストレッチをしていた時。強烈な意思を宿していた彼女の瞳だ。

 あの時よりもなお鋭く、もはや殺意に近いものまで感じるが……間違いない。

 実に1か月ぶりに見たことになる、彼女の側面の1つ。

 

「ホシノウィルム、君は……」

 

 だが、すぐに。

 その瞳の、隔絶を感じる冷たさはなくなっていく。

 瞬きをするたびに、呼吸をするたびに、彼女はいつの間にか、俺の知っているホシノウィルムへと戻っていく。

 

「……すみません、トレーナー、少し……気持ちが乗りすぎました」

「…………。少しではないぞ、ホシノウィルム。君のせいで今回付き合ってくれたウマ娘の時間と、これからしばらくの君の時間が無駄になった」

「申し訳、ありません」

 

 ぺこりと下げられた頭が戻った頃には、痕跡すら残っていない。

 そこにあったのは、元通りのホシノウィルムの表情だった。

 

「……君が謝るべき対象は俺ではなく、彼と彼の担当だ。行くぞ」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 あの時、確信した。

 ホシノウィルムには2つの顔がある。

 

 1つは、俺のよく知る顔。少し読めないところはあるが、勝利と理想を追い求める真面目で不器用な少女のそれだ。

 トレーニングを真面目にこなし、更には追加の自主トレを申請してきたり。

 自主トレのしすぎで軽い炎症を起こして、無表情ながら落ち込んだ様子で謝ってきたり。

 スクワットをしているように言って席を外したら、脂汗を流しながら何時間も続けていたり。

 一日体を休めるように言ったのに黙って筋トレしていたり。

 コミュニケーションを取ろうと最近あったことを聞いたら、フリーズしてしまって動かなくなったり。

 歌の練習にカラオケに行ったら、どうやら俺の前で歌うのが恥ずかしかったらしく、ほんの少しだけ頬を赤くしたり。

 時々、本当に時々だが、よくわからないタイミングでくすくすと控えめに笑ったり。

 

 ストイックで不器用、だが等身大の少女。これがホシノウィルムのメインの顔だ。

 

 

 

 けれど、レース……公式非公式関係なく、他のウマ娘と速度を競う戦いが始まれば、彼女のもう1つの顔が表に出てくる。

 

 何度か他のウマ娘と走らせて、わかったこと。

 彼女は基本的に無表情だから、よく観察しなければ、違いもわからないだろうが……。

 その伏せがちだった目が開かれ、青白く鋭い視線が眼前のターフを睨みつける。

 重心が僅かに前に傾き、歩幅をより広く取ろうとする。

 ただでさえ少なかった感情の変化が更に減り、何が起ころうと心を揺らさなくなる。

 そして何より、勝利のために、その全力を費やすようになる。

 

 彼女の普段の顔が、勝利への渇望という「熱」の表情だとすれば。

 レースの時のそれは、機械のようにゴールへと突き進む「冷」の表情。

 

 そして。

 

 

 

『ゲートイン完了。出走の準備が整いました』

『……スタート!』

 

 

 

 「冷」のホシノウィルムに、敗北の二文字は似合わない。

 

 

 

『各ウマ娘、綺麗なスタートを切りました! ハナを切るのはやはりホシノウィルム! ジュニア級とは思えない脚力でぐんぐんと後続を引き離していきます!』

『かなりのハイペースですが、掛かっているとも言い切れないのがこの子の怖いところです』

 

 

 

 アプリをやっていた上、この世界で堀野の歴史とハウツーを学んだ俺は、逃げウマの敗北条件を知っている。

 まず最も多い、スタミナ切れと配分の失敗。自分のスタミナのやりくりに失敗したウマ娘はリードを維持できず、バ群の中に沈む。

 そして、後方からの圧力。ウマ娘はああ見えて繊細な生き物だ。後方から追い立てられることにストレスを感じ、掛かったり沈んだりするウマ娘も珍しくはない。

 末脚の甘さと最高速度の不足。後続のウマ娘の末脚で真正面からリードを埋められる……最初から勝ち目のなかったパターン。

 

 つまるところ。

 スタミナが十全以上にあり、圧力にも動揺しない精神を持ち、根本的な最高速度が他のウマ娘に負けないのなら……。

 その逃げウマ娘は、理論上負けることはない。

 

 

 

『すごい、すごいぞホシノウィルム! 昇り坂の勾配を物ともせず減速しないまま1000を通過! ギミーワンラブ食い下がるがその差は埋まらない! 現在一体何バ身開いているのか!』

『後方で足を溜めている子もいます。最後まで勝負はわかりませんよ』

 

 

 

 いいや、勝負はもう付いてるよ。

 ホシノウィルムに引きずられて、全体のペースが速くなりすぎている。ジュニア級の子たちが……いいや、俺の目に見えているあの子たちでは、終盤までにスパートに必要なスタミナを維持できない。

 

 残酷なことに、戦いは始まる前に終わっていた。

 まだ未熟なジュニア級のウマ娘たちは、ホシノウィルムのスタートダッシュを止める方法も、焦らせる方法も、疲れさせる方法も、追いつく方法も持たない。

 ゲートインが完了した時点で……いいや、このメイクデビューに出走登録してしまった時点で、彼女たちの最初の挑戦が失敗に終わることは決定的なものになってしまった。

 

 

 

『さぁ400を切りました、ここからの最終直線で勝負が決まるぞ! 待機していたコードオブハートバ群を抜け出し前を目指す!』

『前をひた走るホシノウィルムはまだ動く様子を見せません、詰め寄ることができるでしょうか』

 

 

 

 自分の担当ウマ娘が圧倒的な勝利を収めようとしているのに、俺はといえば、素直に喜ぶ気にもなれなかった。

 この世界に来てから、その残酷さを何度も何度も諭されたとはいえ、実際に見ると、やはり感じるものはある。

 ……圧倒的な実力によって、若い才能が摘み取られていく瞬間は。

 

 無理だ、と。何人ものウマ娘の表情がそう告げている。

 レースの途中で、既に勝負を諦めてしまっている。明確な格付けによって、その闘争本能を根本からポキリと折られてしまっている。

 このレースの後、何人が立ち上がれるだろう。何人が絶望するだろう。

 1人のウマ娘が勝利するために、6人のウマ娘が心を折られる。その後、彼女たちが再起できるかは誰にもわからない。

 

『勝者の一滴の汗と、敗者の海の如き涙。それを受けて輝くのがトゥインクルシリーズだ』

 

 あぁ、父さん。まさしくその通りだ。

 

 

 

『残り200、ホシノウィルムスパートをかけた! 最後の坂を軽快に駆け上がり、速い速い完全に独走状態! 何が彼女をここまで走らせるのか、もはや勝利は揺るがない! 先頭の景色はホシノウィルムが手にした、1着でゴールイン!』

『1着はホシノウィルム、2着との間に埋められない大差を付けての完全勝利! 新時代のニューホープが今、産声を上げました!』

 

 

 

 大きな歓声とどよめき。

 ありえないと思いながらも、心のどこかでその姿を期待していた観客たちは、自らの夢を思い出して快哉を叫ぶ。

 

「異次元の逃亡者……」

 

 誰かの呟きが聞こえた。

 あぁ、そうだろうな。思い出してしまうだろう。

 ……既にトゥインクルから姿を消した、最速の逃げウマ娘の姿を。

 

 

 

 今から2年前、トゥインクルシリーズには最強の逃げウマ娘がいた。

 異次元の逃亡者、サイレンススズカ。

 逃げに転向してからは当然のように勝ち続けた彼女は、残念ながら天皇賞(秋)で骨をやり、療養の後、現在は海外の芝を荒らして回っているという。

 シニア3年目にして未だに連勝続き。彼女はどこまで現役を貫くんだろうな。

 ……ま、俺の世界の彼女の結末を考えたら、どこまでも伸び続けてほしいとさえ思うけどさ。

 

 サイレンススズカの作戦は、圧倒的な速度で他者の追随を許さない、典型的な大逃げだ。

 ただし彼女に限っては、終盤に入っても大して減速しないというとんでもスペックだったが。

 調子次第では終盤で更に加速していたという、半ば生きる伝説と化したウマ娘だ。

 

 ホシノウィルムが見せた走りは、日本中を魅了した最速を思い出させた。

 彼女との別れを惜しんだ全てのファンが、ホシノウィルムの背中にサイレンススズカの影を見ているのだ。

 

 確かに、今回ホシノウィルムが見せた……というか、彼女の走り方として定着しつつある逃げ方は、サイレンススズカのそれと同じように見える。

 

 見えるだけだが。

 

 実際のところ、当然だが、彼女の走りはまだサイレンススズカに届かない。

 ラップタイムを見ればわかるだろうが、全ての数字がサイレンススズカに劣っている。

 現段階では、シニア級のウマ娘の中に入れば埋もれる程度の速度でしかないのだ。

 このレースがジュニア級のメイクデビューだったからこそ圧倒的に見えただけの、今のホシノウィルムの限界出力。

 故に、所詮は似ているだけの下位互換に過ぎないのだが。

 

 ……それでも、逃亡者の速さに焦がれた者たちは、ホシノウィルムに彼女を重ねてしまうのだろう。

 

 

 

「……はぁ」

 

 見事にスタンディングオベーション状態になった観客たちの中で、俺は1人頭を抱えた。

 これは、えらいことになってしまったぞ。

 

 

 







 スズカさんは色々あって事故を乗り越え、リハビリを終え、今は海外で活躍しています。活躍というか無双してます。
 担当トレーナーも一緒に行って、楽しそうに振り回されてます。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、初めてのウイニングライブの後の話。



(追記)
 すみません、意図せず規約違反をしていたようです……。
 既に該当部分は削除しています。感想の件を読んだ方は忘れていただけると助かります。


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Everything is going to be cold.

 今までと違って、今回のホシノウィルム視点はトレーナー視点より後の話です。
 何故かと言うと、ホシノウィルムにとってメイクデビューは、そんなに印象に残らない普段通りのレースだったからです。





 

 

 

 私、ホシノウィルムのメイクデビューは終わった。

 結果は1着。大きな問題もなく勝利できたと言えるだろう。

 これで私は、晴れてトゥインクルシリーズの各レースへ出走する権利を得たことになる。

 

「すー……ふぅ、すー……ふぅ」

 

 ターフを去って観客の目から逃れて、未だに荒れてる息を整える。

 あー、つら。レースを走り終わったら毎回これだ。疲労感がすごくて、僅かなめまいも感じる。

 結局、今回もこうなっちゃったなぁ。

 

 私はレースを走る時、「寒い」っていうおかしな感覚を覚える。

 それが背筋を冷やしたが最後、状況や相手に関わらず、私は全力で走ってしまう暴走状態になってしまうのだ。

 いくらトレーナーに抑えろと言われても、絶対に負けられないという想いが爆発して、命令を無視し……。

 今までに自分が培った経験、知識、能力や技術。その全てを大盤振る舞いし、「絶対に負けない走り」をしてしまう。

 それが今回の、大差を付けての1着という結果を生んだわけだ。

 

 ……トレーナーには「手の内がバレるからデビュー戦では全力は出さないでほしい」って言われたんだけどね。本当にごめんなさい。

 やっぱりあの感覚をコントロールすることはできないみたいだ。今まで通り、上手く使っていくしかないだろう。

 トレーナーにこれをどう伝えるべきかは……ちょっと難しいものがあるけども。

 ……き、訊かれたら答える、でいいかな。うん。

 

 

 

 あの日、堀野トレーナーと契約を結んでから、半年以上の時間が経過した。

 トレーニングばかりだったので早く過ぎたように感じるけど、1年の半分って考えると結構長い付き合いになってきたと言える。

 で、流石にそれだけ付き合えば、色んなことがわかってくるわけで。

 

 端的に言えば、堀野トレーナーは本当にチートキャラだった。

 

 底抜けに真っすぐな善人で、いつもウマ娘、特に担当である私のことを考えてくれていること。

 どんな理由かはわからないけど、そういった善性を仮面で隠している……が、割と簡単に素が出ること。

 本人は隠せてると思っているみたいだけど、ぶっちゃけ周りの人間やウマ娘は大半が気付いてると思う。私は知っているのだ、そういうとこが可愛いって一部ウマ娘の間で話題になってることを。

 あとは、やっぱり観察眼がすさまじい。私がまだ感じないレベルの疲労を見抜いたり、逆に過剰に感じた疲労を申告しても「まだいけるだろう」と言ってきたり。今のところその判断は1度も間違っていなかった。

 

 より速くなるために中央に来た私からすると、堀野トレーナーは最高のパートナーだと思う。

 自分の疲労や体調を完全にコントロールしてもらうのは、案外気持ちがいい。

 私はひたすら彼の言う通りにトレーニングを重ねれば強くなれるわけだ。ここらでやめるとかコンディションの調整とかを自分で考えなくていいの、めっちゃ楽なんだよね。

 ……まぁ、それはそれとして追加で自主トレはするけども。もう習慣みたいなものだし。

 

 トレーニング以外の話だと、スタートの方法やコーナーの曲がり方なんかは、トレーナーがいなかったらここまでのものにはならなかったと思う。

 今日のレースでもスタートは好調に切れたし、遠心力を逃がしてコーナーの減速をだいぶ抑えられるようになってきた。

 自分が強くなっていくのがわかるのは、良いものだ。次回のレースに勝ちやすくなると考えれば、自然とトレーニングにも気合が入る。ついでに黙って自主トレもやる。

 

 あとはそうだなぁ、同世代のウマ娘たちと併走や競争を組むのも、トレーナーがいなかったら叶わなかったと思う。

 やはり実戦形式の中でしか掴めないものはあるし、何気にありがたい。……ほとんど独走でしかないけども。

 

 

 

 そして今日。私たち新人コンビは、記念すべき1勝目を刻んだわけだ。

 出会いはこう、アレだったけど、なんだかんだ言って全てが順調。

 トレーナーとの二人三脚は成功しつつあると言っていいだろう。

 いや、もはや名バディだと言ってもいいんじゃない? なんならベストタッグ……は言い過ぎか?

 

 

 

「ふぅ…………。よし」

 

 ようやく息が整った。

 

 勝った。

 まずは1勝だ。

 

 私は負けられない。いや、模擬レースで負けたけど……だからこそ、今後は絶対負けられない。

 

 今回のレースの出走人数は7人。その中で私は1番にゴールに駆け込んで、勝った。

 この調子で勝ち続けよう。

 ホシノウィルムは、負けられないのだから。

 

 

 

「ホシノウィルム」

 

 地下バ道を歩く私に、遠くから声がかかる。

 地声はもう少し高いのに、努めて低く抑えている……私をここまで導いてくれた人の、聞きなれた声だ。

 バ道の先にいたその人は、いつも通りのスーツ姿と仏頂面で、腕を組んで私を待っていた。

 

「トレーナー」

「走るな。ゆっくりでいい」

 

 ありゃ、私走っていた? 初めての公式レースで勝って、思いの外興奮してるのかな。

 いや、あの観客の大歓声に当てられたのかも。ただのデビュー戦なのに、あんなにすごい歓声するんだね。結構びっくりしちゃった。

 ……よし、落ち着いて、歩いて向かおう。トレーナーは逃げはしないだろうし。

 

 

 

 そういえば、と。歩きながらぼんやり考える。

 ウマ娘は耳が良い。私は転生前が人間だったからその違いがわかるけど、人に比べて本当に小さい音まで耳が拾ってしまう。

 だからあの歓声の中の声が、私には聞こえてしまった。

 「サイレンススズカ」。

 あの中の誰かが、間違いなくスズカさんの名前を呼んでいた。

 

 確かに私は、逃げ作戦で最後に加速するっていうスズカさんに近い走り方をした。

 流石にあんな強い走りはできてないと思うけど、まぁそれを思い出させる程度の走りではあったってことかな。

 とはいえ、そこは問題ではなく。

 スズカさんの名前を、観客の誰かが知っていたということは……。

 つまりこの世界には、確かにスズカさんが存在するってことだろう。

 

 ということは、寮のルームメイトであるほわほわウマ娘ハッピーミーク先輩は、スズカさんの代替キャラなんかじゃなかったってことだ。

 それを知った時、私に押し寄せた感情は……安堵だった。

 いやなんというかさ、私ミーク先輩のこと好きだしさ。

 顔も名前も知らない作者のご都合で作られたキャラじゃなくて、しっかり血が通った1人のウマ娘なんだなって思うと、なんか、良かったぁってなる。

 

 ……堀野トレーナーも、そうだったらなぁ。

 流石に沖野Tの置き換えで確定だろうけど……うーん。

 せっかく好きになれた人が、キャラクターだって思うのは、ちょっとやだな。

 

 しかし、これでまた1つわからなくなった。

 私はスペちゃんの代替ではなかった……のかな。あるいは置き換え式っていう前提に何か間違いがある?

 いや前者はともかく、後者はほぼ確定だと思うんだけどなぁ。

 

 

 

 仮面の下でむんむんと唸っていると、気付けばトレーナーの目の前まで来ていた。

 彼は1つ頷き、ゴホンゴホンとあり得ないくらい下手な咳払いの後、言う。

 

「……うむ。おかえり、ホシノウィルム」

「おかえり、ですか?」

「ああ。堀野のトレーナーは、公式レースを無事に終えたウマ娘にこの言葉をかける。

 ……よく事故を起こさず、レースを完走したな。偉いぞ」

 

 う、その。

 真正面からそんな、澄んだ目で見つめられるのは……恥ずかしい。

 というかその、私、全力は出すなっていう命令破っちゃったし、責められるかなって思ってたんだけど……。

 怒ってないのかな、トレーナー。私が自主練しすぎて炎症起こした時は鬼のように怒ったのに。

 

「よく頑張ったな。すごい。ベリーグッド。……いや、言葉だけでは信賞必罰として軽すぎるか?」

 

 ……うーん、なんというか。トレーナーって仮面被るくせ、すっごい簡単に素顔見せるよね。大丈夫なのそれで?

 お堅い男性トレーナーはベリーグッドとか言わないと思うよ。あと自分の悩みを思わず口に出して言っちゃうこともないんじゃないかな。

 仮面被りの技術力は私の方がいくらか高いね、どやぁ。

 ……まぁそれ以外で勝てる部分見当たらないけど。この人超善性だし仕事もできるしイケメンだもん。

 

 私が内心ニヤニヤと意地の悪い優越感を感じている中、トレーナーはうんうんと首を傾けていた。

 で、しばらくしてその動きが止まる。どうやら何か思いついたらしい。自信ありげな顔で1つ頷き、こちらに目を向けてくる。

 

「ホシノウィルム。ここまで頑張ったご褒美だ。何か要望があれば訊こう」

「要望……ですか?」

「あぁ、何でもいいぞ。何日か完全な休暇を取ってもいいし……いや、君はそんなことを望まないか。

 では、多少リスクを冒すことにはなるが、数日ガッツリとトレーニング漬けにしてもいい。

 勿論どこかに遠出するとか、甘いものを食べたいでもいいぞ。

 俺が叶えられることなら大抵は何とかしよう。言ってみなさい」

 

 なんでもご褒美、かぁ。

 私、欲しいものなんて何もないんだよなぁ。強いて言えば勝利と鍛錬だけど、それは自分で勝ち取ったり自分に課したりするものであって、ご褒美でもらうものじゃないと思うんだ。

 他には、これと言って思いつかないなぁ。

 

 あ、いや、1つだけあった。

 でも、だからってなぁ……うーん。

 一応欲しいものというか、やってほしいことがあるにはある。

 ホシノウィルムとして転生してから、無性に好きになったこと。

 ただ、男性に自分から求めるにはだいぶキモいことなんだよな……。

 

 正直、私は堀野トレーナーと結構仲が良いと自負している。

 何せ6か月もの間、ほとんど生活を共にしているのだ。もうこれは友達越えて親友、いや家族と言っても過言じゃないのでは?

 

 ……でも、トレーナーが私をどう思っているのかは話が別だ。普通に担当ウマ娘としてしか見られていない可能性もある。

 もしそうだったら、この要望を伝えるのはすごくデンジャーゾーン。最悪キモがられて引かれて契約解除まである。

 もう少し仲良くなってから……うん、そうしよう。

 これは決してビビってるとかそういうんじゃなく、トレーナーとの信頼関係を疑っているとかでもなく、非常に論理的な思考の元に導かれた現状の最適解であると主張しておく。

 

「ホシノウィルム?」

「……いえ、なんでもありません。

 今のところ、これといった要望はありません。よろしければ、保留という形で保持しても良いでしょうか」

「あぁ、構わない。今日は一時間後にウイニングライブをやったら、後はホテルに帰るだけだ。一晩ぐっすり寝ながら考えておきなさい」

 

 ……あ、そっか、完全に忘れてた。

 ウイニングライブあるんだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ウマ娘は、美少女である。

 多分、どの子が一番好きかは人によって分かれる。そこはもう宗教戦争だ。

 スズカさんが好きって人もいれば、スぺちゃん可愛いって人もいると思うし、スカーレットちゃんの負けん気に惹かれる人、ウオッカちゃんのカッコいいに同調する人、テイオーちゃんの子供っぽさを愛する人、マックイーンちゃんの気高さに感じ入る人、ゴールドシップの破天荒さを面白がる人。

 性癖は みんな違って みんな良い。

 ホシノウィルム、心の俳句。

 

 とはいえ、それはタイプが違うだけだ。全員、顔面偏差値が高いことに変わりはない。

 これは別に、ウマ娘が必ずしも自分の容姿を磨くからってわけじゃない。むしろ、より多くトレーニングをするために切り詰めている人の方が多いと思う。

 それなのに美少女しかいないのは、多分私たちの体質によるものだ。

 

 転生して痛感した。ウマ娘の体はすごい。

 輪郭から顔のパーツ、髪の質とか、手なんて入れなくても勝手に整う。後はニキビや枝毛もできにくいし、よっぽど食べない限り太ったりもしない。

 こういうとこ、自分が人に似てるけど人じゃない不思議な生き物だってことを思い出すよ。

 

 そんなウマ娘の一員たる私も……まぁ、うん。手前味噌な話、顔はかなりのクール美少女。声も高く澄んでて、聞いてて気持ちいいと思う。

 ただその、なんというか、お子様体型なんだよね。

 身長は145センチになってからピタリと止まって伸びなくなったし、胸なんてあってないようなものだ。

 本格化で伸びるかも大きくなるかもと期待したけどそんなこともなく、どうやら私の超えられない限界がそこにあるようだった。

 せっかく異世界転生したんだから『ある』側の人間になってみたかった……。全ては遠い夢か……。

 

 まぁその、女性として見るのは難しいかもしれない体型ではあるけど、それでも私もウマ娘の例に漏れず、しっかり美少女だと思う。

 同じく、今日のレースを走った他の6人も全員が美少女。

 ウマ娘の競争は、必然的に顔面偏差値の高い子たちが覇を競うものとなる。

 

 で、そんなレースが開催されれば、そこにアイドル性とかストーリー性を求める人もたくさんいる。

 ……つまりは、そういう需要があるってことだ。

 

 なので競争ウマ娘には、競争以外にもう1つのお仕事がある。

 それが、レース後のウイニングライブである。

 

 直前のレースで1着を取った子がセンターになって、舞台の上で歌って踊る舞台。アイドルのライブみたいなもの、って言えば伝わりやすいかな。

 いつも応援してくれるファンへのお返し、ファンサービスの一環である。

 

 いや、ファンサービスのためとはいえ、なんでアスリートが何十時間も歌って踊る練習するんだって思わなくもないけども。

 まぁこれだけの美少女集団だ。アイドルしてほしいって気持ちはわかんなくもないよ、うん。もし前世の私が見たら、間違いなくウイニングライブ賛成派だっただろうし。

 あと何気に物販の売れ行きがすごいらしい。もし私が勝ちじゃなくてファンとかお金に拘るウマ娘だったら、もうちょっとライブへの見方も変わったかもね。

 

 

 

 で、そんなウイニングライブをしなければいけない公式レースで、私は1着を取ったわけで。

 

 

 

 

「「「I believe, 夢の先までー!」」」

 

 

 

 

 はい、しっかりとセンターで踊ってきました。

 正直に申しますとバカみたいに恥ずかしかったわけですが、そういう感情は全部仮面の下で押し殺して。

 にっこりにっこり笑顔! いえーい!

 

 私は最後の決めポーズを取り、しばらく停止する。ウマ娘の体幹が良くて助かった、前世なら絶対ずるっといってた。

 わあああああ、と大歓声。いやーすごいね、レースの時のそれに勝るとも劣らない大きさだ。これなら確かに、ウイニングライブが重要視される気持ちはわかるかも。

 で、報道陣から放たれるフラッシュがいい感じに収まったら、一旦ポーズを崩して、他のウマ娘たちと整列して。

 

『ありがとうございましたー!』

 

 一斉に頭を下げる。

 これで全体のパフォーマンスは終了。後は端の方にいるウマ娘から舞台袖へはけていく。

 最後は1着を取った私が身振り手振りで軽くアピールして、ここを去る流れなのだが……。

 

 うぅ、キラキラした視線の数がエグい。明らかに良い感じのアピールを期待されてるよ。

 てきとうに笑顔で手を振って帰ろうと思ってたんだけど、この期待の量はちょっとそれじゃ済まされないか?

 うーん、どうしよう。ここまで来て興ざめな結果になるのは、私の横で踊ってくれてた子たちに申し訳ないし。

 なんかこう、ライブの延長の演出的なので締めとくか。

 

 タンタンタタンと、その場で身軽に踊るようにステップ。

 くるんと一度回って。

 片手を腰に、もう片方の手はぴっと上に人差し指を伸ばし、意識してにやっと笑う。

 

 一瞬の静寂の後。

 

 

 わあああああああああああああ!!

 

 

 今までで一番大きな声援をいただいた。

 よかった、とりあえず役目は果たせたみたいだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「お疲れ様、ホシノウィルム」

「ありがとうございます」

 

 トレーナーが渡してくれたタオルを受け取り、更衣室を兼ねた控室へ向かう。

 G2以下のレースでは、レースそのものは体操着で走り、ウイニングライブでは割とヒラヒラしてるのに謎に通気性の良い専用の衣装を着て踊ることになる。

 私としてはこの服、結構好きなんだけど……今はそれ以上に汗がべたついて気持ち悪い。

 ウマ娘とはいえ、歌って踊るのって案外体力を使うし汗が出るものなのだ。

 

 トレーナーを置いて控室に入り、ぱぱっと衣装を脱いでタオルで体を拭く。

 ……あ、タオルの中に冷感タオル挟んである。トレーナー、気遣いのできる良い大人だ。愛してるぜ……。

 ひんやりとした感触を楽しんでいると、外からトレーナーの声。

 

「初めてのウイニングライブはどうだった」

 

 相変わらず唐突に話題振ってくるなぁ。まぁ慣れたからいいけどさ。

 

「そうですね……。私としては、練習の結果を出せたのではないかと思います。

 トレーナーから見て、私はどうでしたか」

「振付けと歌は及第点を十分に超えているから安心しなさい。

 それと……正直に言えば、少し意外だった。振付師の方から話は聞いていたが、君があそこまで表情を作れるとは思わなかった」

 

 へへ、この有能トレーナーをびっくりさせたことに僅かな優越感。

 実際のところ、私は表情を作るのが上手い方だと思う。こういうのって、慣れればそんなに難しくないのだ。

 まず自分が経験した感情の欠片を思い出して、それを胸の中でぐぐっと拡大すれば、自然な感情は造れる。

 あとは普段から被っている仮面の上にそれを貼りつけるだけで、外から見るとけっこうちゃんとした表情になるんだ。

 前世からの自己流ライフハック、まさかこんなところに活きるとは思わなかったね。

 

「……俺としては、普段からあれくらい感情を見せてくれた方がやりやすいのだがな」

「私のモチベーションを維持しやすいからですか?」

「君の心に寄り添いやすくなるからだ」

 

 ……もー、このトレーナー、こういうこと普通に言っちゃうからなぁ。

 トレーナーだからかろうじて誤解せずに済むけど、その端正な顔で女の子に言っちゃダメなセリフだからね、それ。勘違いされて粘着されるから。

 頬にタオルを当てる。ふー、あつ。

 

「……あれは作った表情ですから。本当の私はこちらです」

 

 嘘だ。中身はこんなのである。

 まぁでも、トレーナーに私の本性を晒すことはないだろうし、バレないなら嘘にはならないでしょ。

 

 私は転生者。この世界にとって唯一の仲間外れだ。バレれば気持ち悪がられることは想像に難くない。

 そんな愚は犯さないよ。万が一にでもバレないために、わざわざ仮面まで被っているのだから。

 

「なるほど、ならばそのままでいい。君を誤解したくはないからな」

 

 ……ごめんね、堀野トレーナー。

 でもある意味、それもそれで本当の私。「転生者としての私」ではない「ホシノウィルム」は、きっとそういう子なんだ。

 

 よし、ジャージを着て、体の各所をチェック。おかしな部分はなし、と。

 

 ドアを開けて、向こうで待ってくれていたトレーナーに。

 

「お待たせしました、行きましょう」

 

 いつものホシノウィルムの声音で、そう言った。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 もう日も沈んで、街が暗がりに落ちた中。

 宿泊先のホテルへと向かう車内で、私は意味もなく、窓の外を流れていく街頭を目で追っていた。

 私もトレーナーも……いや、トレーナーの素は多弁な方かもしれないけど、少なくともお互い仮面を被った状態だと、そんなに話す方じゃない。

 トレーニングの予定を話したり、これからの方針を話したり、あと極まれにしりとりとかする時以外、私たちは黙っていることが多い。

 

 でも私、この時間が嫌いじゃないんだよね。

 私は大体、トレーニングとかレースのことを考えている。

 トレーナーは多分、これから私をどう伸ばしていくか、どのレースに出すかを考えてくれてる。

 静かに思慮に沈む時間は、私とトレーナーが同じところを目指しているのだと実感させてくれる。それはなかなか得られない、幸せなことだと思うのだ。

 ……あはは。自分のことを考えてくれるのが嬉しいとか、私ちょっとメンヘラっぽいな。

 

「ホシノウィルム」

「何でしょう」

 

 沈黙を破るのは大抵の場合、こんな感じでいきなりかかるトレーナーの声。

 話したり黙ったりが定期的に繰り返されるこの感じ、知らない人が見たらギスギスしてるように見えるんだろうなぁ。

 

 さて、トレーナーさんの話はなんだろう。

 まぁ大方明日の予定とかの話だろうと、私はいつもの調子で応えたんだけど。

 ……続いたトレーナーの声は、思ったよりずっと真剣なものだった。

 

「今日のレースのことだ。俺は1つ、君に聞かねばならないことがある。

 これに関してだけは、どうか本音で答えてほしい」

「……構いませんが」

 

 流石にここまで引っ張られると身構える。

 どうしよ、いきなり変なこと……を訊くような人ではないけど。

 後部座席からルームミラーを覗くと、一瞬だけトレーナーと視線が合う。

 ……? なんでそんな目を?

 

 

 

「今日のレースは、楽しかったか?」

 

 

 

 いやなんだ、そんなことか。

 ……え、なんでそんなこと訊くんだろ? 堀野トレーナーのことだし、何かトレーニングに関係のあることなのかな。

 まぁいいや、私としては別に言いたくないことでもないし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「レースを楽しいと感じたことはありません。私は、勝つために走っているのですから」

 

 

 







 本作における1章、終了です! あとはおまけを1話投稿し、2章へと進みます。

 そんなわけでメイクデビューが終わり、いよいよホシノウィルムは無敗のクラシック三冠に向けて走り出すことになります。
 ここからはアプリに登場するネームドウマ娘もよく出るようになりますし、お話もゆっくりと動き出します。
 お楽しみに!



 この時点での相互評価

トレ→ウマ:強烈な勝利への渇望以外、あまり感情の起伏のない子。トレーニングジャンキーの気があり、勝手に自主トレを行うので体力管理に注意が必要。元の能力も高く、伸びも悪くない。切れ者らしくスキルも覚えが早いし、レースではあの顔になるので本気で強い。彼女が負けたとしたら、それは自分のミスによるものだろう。

ウマ→トレ:クールな仮面を被っているが、超善人で超有能、ちょっとポンコツなところもあるのがギャップになって魅力まである。ぼくがかんがえたさいきょうのとれーなー。このトレーナーに契約してもらえたことは、間違いなく中央に来て最大のラッキーだった。



 次回は3、4日後。堀野Tと同期の、とある差しウマを担当するトレーナー視点のお話。






(おまけパートについて)
 前回、掲示板形式についてのご意見をたくさんいただきました。ありがとうございました!
 色々と悩んだのですが、結論として、掲示板形式はせず、彼と彼女の近くにいる人たち視点のお話をしようと思いました。
 掲示板形式をご期待いただいた皆様、本当に申し訳ありません。
 その分今回のおまけパートは、明るくて笑える話を目指そうと思うので、是非お楽しみください!
 また、おまけパートはあくまでおまけなので、堀野トレーナーとホシノウィルムのお話に直接関係してくることはありません。ノイズになると感じる人は、読み飛ばしていただいても問題ないと思います。


(追記)
 誤字報告を頂き、わざとでない部分は修正を行いました。
 ご報告ありがとうございます!


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おまけ リボントレーナーはかく語りき

ホシノウィルムのヒミツ①
 実は、アニメ2期の推しはテイオー、ターボ、ネイチャ。
 でも一番好きな勝負服はブルボン。理由はかっこいいから。


 今回はおまけの別視点回です。
 読まなくても意味はわかるようにしますが、読めば本編をもっと楽しめると思います。





 

 

 

「すまない、明日協力を頼めるか。どうにも一人では厳しくてな、力を貸してほしい」

 

 その日、僕は事務処理の最中にかかってきた電話に大層驚かされた。

 

「ほっ、堀野君が人を頼ってる……!?」

「おいお前。俺を何だと思っている?」

 

 

 

 僕は中央トレセンに勤める新人トレーナーだ。

 3年程前に免許を取り、しばらくの間チームのサブトレーナーとして経験を積んだ後、今年から担当を持つことを許された。

 ……思えば、僕を説明する言葉なんて、これだけで終わるんだな。自分がどれだけ没個性な人間か思い知るよ。

 

 そして、堀野君というのは僕の同期──専属トレーナーとして認められた時期と言う意味での──である。

 堀野家というトレーナーの名家出身で、それに胡坐をかかない努力家。暑い中でもぴちっとスーツを身に纏う若手トレーナーだ。

 

 彼は色々とすごい人だ。

 最初の頃こそ家のパイプを使って入ったとか何だとか陰口を叩かれていたが、既にそんなことを言う者は少なくなっている。

 何故なら、トレーナーになってから1年足らずという短い時間で……。

 彼はその才能と実力を、現実に叩きつけたからだ。

 

 ホシノウィルム、というウマ娘がいる。小柄で鹿毛の、伏し目がちな子だ。

 彼女は僕も見た模擬レースで、マイルの距離を差しで走っていた。

 ……正直に言って、僕はその時の彼女に、光るものを見出せなかった。

 

 確かにレースの着順は2着だが、あの末脚ではこれから先沈んでいくばかりだろう。

 そこまで順位が上がったのは、単純に早熟な才能が故だ。けれど晩成な伸びしろは少ない。

 

 それが僕たちトレーナーの……いや、堀野君以外のトレーナーの総意だった。

 けれど、堀野君だけは彼女に声をかけた。

 恐らくホシノウィルムの才能を、彼だけは見抜いていたのだろう。

 

 そこからの流れは、僕にはよくわからない。

 けれどとにかく、ホシノウィルムは堀野君が預かることになったらしい。

 

 そして。

 ウマ娘たちの才能を開花させる選抜レースで、ホシノウィルムは大差で1着。

 新たな門出を飾るメイクデビューでも、同じく大差で1着。

 今では「異次元の後継者」とか「蛇」なんてあだ名で呼ばれ、彼女はこの世代を引っ張っていく1人だという見方が広がっている。

 

 

 

 うん。もうこの時点ですごいよね。

 トレーナーとしてはやっぱり、初めて見たウマ娘の才能と実力を見抜く目は重要だ。彼はそれが飛びぬけてる。

 その上差しで走っていたウマ娘を、悩むことなく逃げに転向させるのも胆力がすごい。差しと逃げはかなり離れた作戦だ。普通はこう、もうちょっと悩むものだと思う。

 

 観察眼と判断力という、トレーナーに最も必要な素質と言っても過言じゃない2つ。彼はその両方を持っている。

 僕はそんな彼を尊敬し、同時にひそかにライバル視していた。

 ホシノウィルムは確実に、世代最強の1人だろう。僕の担当バのためにも、マークしておいて損はない。

 

 

 

 さて、そんな堀野君だが、彼が超人なのは何も担当バに関する話だけじゃない。

 まず体は引き締まってるし力も強い。お酒の席で腕相撲した時は真顔で瞬殺された。

 顔もかなり端正。街を歩いていると、通りすがりの人からよく見られている。彼自身は気付いてないみたいだけど。

 知識もすごい。名門出身ということもあり、ウマ娘の精神的動揺の兆候や育成論について、彼は新人とは思えない程の膨大な知識を持っていた。そしてそれを他人に教えることに少しの抵抗もない。

 

 はっきり言って、彼は「完璧なトレーナー」だ。

 先輩たちには悪いけど、経験不足というたった1点に目をつぶれば、彼以上のトレーナーはこの世界に存在しないと思う。

 だから僕は、彼からかかってきた電話にショックを受けていたのだ。

 

 

 

「堀野君が人を頼ってる!?!?」

「だからお前は俺を何だと思っているんだ?」

 

 いやだって堀野君だよ!? 大体のことは何でも1人で解決できるでしょ!?

 彼が一人じゃ厳しい!? 力を貸してほしい!? 何事だ!?

 彼が解決できないことが僕にどうにかできると!? というかなんで数いる同期の中でも平凡な僕なんだ!?

 

 ……と。

 大きな不安や困惑と共に、しかし僕は、これを好機だとも感じていた。

 彼は超人だ。故に恩を売る機会なんてそうはない。

 堀野君とは友達だが、僕だって担当を持つ1人のトレーナー。

 彼女のためなら、多少ダーティな手だって惜しまないさ。

 

「……ひとまず、力を貸すことに異存はないよ。それが僕の裁量を超えるものじゃなくて、かつウチのウマ娘に悪影響がないならね」

「問題はない。明日の朝、トレーナー寮の俺の部屋に来れるか」

「うん、わかった。……見返りは期待していいのかな?」

「ああ。同じく、俺の裁量を超えず、俺の担当に悪影響がないならば」

 

 よし、その言葉を引き出せた。

 

 

 

「なら、君のホシノウィルムと、模擬レースのセッティングをお願いしてもいいかな。

 あの子の良い刺激になると思うんだ。……ウマ娘の、キラキラした姿は」

 

 

 

 ちなみに彼のお願いは、彼の部屋で段ボール詰めにされていた大量の瓦の運び出しだった。

 ……いや、うん、まぁ。確かに彼一人だと、運び出すのにめちゃくちゃ時間がかかっただろうね。

 しかし、瓦か。500個以上はあるように思うけど、何に使うんだろうか。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「いやー待ちなってトレーナーさん! 正気!? あのホシノウィルムと模擬レースって……!

 今のうちに冗談ってことにしときなって!」

「正気も正気だよ。君がこれからクラシック路線を走るのなら、彼女は必ず君の前に立ち塞がるんだ。

 実際に一緒に走って、その力を知っておくことは有益だ」

 

 僕はごねる担当を連れて、現在堀野君が使っているグラウンドの一角へ向かった。

 

 僕の担当は確かな素養を持っているけれど、どうにも自己評価が低い。

 どうにも勝負所の一気呵成に弱いのか、あるいは運が悪いのか、1着にまでは届かないことも多いが、それでも模擬レースでは必ず3着以内に入っている。

 メイクデビューではバ群に揉まれた結果惜しくも2着だったが、その直後の未勝利戦で問題なく1着を取ってデビューした。

 

 本人は「なんとなく惜しい、あと1歩足りないウマ娘」なんて自称しているが、その安定感はそう見るものじゃない。

 そもそも差しウマ娘はレース展開によって大きく順位が揺らぐ。それなのに3着以内が安定しているのは、彼女の利発さと能力の高さ故だ。

 後はこれからたくさん1着を取って、自己肯定感さえ上がれば言うことがないんだけど……。

 

 その前に、彼女には壁を見てほしかった。

 トレーナーなら誰もが知っていることだ。

 自分の前に立ちはだかる、大いなる困難。それこそが、ウマ娘にとって最大の発破になるのだと。

 

 極論、ここで負けてもいいんだ。挫けず立ち上がり、心の中の熱をたぎらせてくれれば、それでいい。

 諦めず困難に挑み続ければ、いつか彼女はホシノウィルムにも届く逸材になると、僕はそう信じているから。

 

「さ、行くよ。挑むべき壁の高さを知りに、ね」

「ちょっ、あーもう! わかったわかったわかりました! 行きますよ行けばいーんでしょ!」

 

 そうして、僕たちが意気軒昂に乗り込んだ先にいたのは……。

 

 

 

「6枚しか割れてないぞ! もう1回!」

「っ、はい!」

 

 バキーン。ガラガラ。

 

「気合を入れろ! まだまだもう1回!」

「はい!」

 

 バキーン。ガラガラ。

 

 

 

「……えーっと、トレーナーさん。あれは何をしてるのか、ご存じで?」

「瓦を……割ってるんじゃないかな」

 

 堀野君とホシノウィルムは、何故か瓦割りに挑戦していた。

 

 

 

 ……なんで?

 

 

 

「ん? ……あぁ、来たか」

 

 堀野君の目がこちらを捉える。

 背後の担当バが、一瞬怯えた気配を出したのがわかった。

 ……うん、今年の新入生の間で広がっていた噂は知ってる。その上彼の視線は相当鋭いから、怯えてしまうのも無理はないかな。

 

「大丈夫、堀野君はウマ娘のことをよく考える人だ。無体なことは絶対にしないよ」

「……いや、なんか瓦割りさせてますケド」

「うーん……何か考えがあるんじゃないかな」

 

 瓦を割ることで、レースに繋がりそうなのは……精神統一とか?

 すさまじい数の破片が転がっているところを見るに、多分1時間くらいは続けたんじゃないかと思うんだけど、それで精神統一できるのかな。

 あるいは堀野の家に伝わる、伝統の精神統一法だったりとか?

 

「ふむ、伸びないな。想定通りなら、これでパワーがぐっと上がるはずだったんだが」

「ふぅ……。トレーナー、やはり腕の筋肉と脚力は関係性が薄いのではないでしょうか。それと手が痛いです」

「ほら、氷水だ。大事はないと思うが、念のため模擬レースまで冷やしておきなさい。……うーん、おかしいなぁ」

「了解しました。片付けは」

「あぁ、悪いが頼めるか?」

「はい、了解しました」

 

 堀野君はホシノウィルムと小声で何かを話してから、こちらに向かってくる。

 

「ちょっ、トレーナーさん! あの人担当に片付け押し付けてない!?」

「い、いや、話し合わなきゃいけないから担当に任せたんだと思うよ。多分」

「多分!? 本当に大丈夫なんですよねぇ!?」

 

 ……うん、正直僕も、今日の堀野君は大丈夫なのかなと思いつつある。

 なかなか奇抜な育成をする印象はあったけど、流石に瓦割りに有用性があるとは思いづらいし。

 

 

 

 ……いや、待てよ?

 もしかしてこれは、ミスディレクションか?

 

 あの堀野君が、瓦割りなんて無駄で非効率的なことを担当ウマ娘にさせるとは思えない。

 もしかして僕たちが来るとわかっていたから、本当のトレーニングを隠すために、偽の情報を撒いているのか……?

 

 堀野君は、基本的に自分の知識を隠さない。

 相談すれば答えてくれるし、情報が欲しいと言えば無償で渡してくれるという気前の良さを持っている。

 けれど、彼だってトレーナーだ。自分の担当ウマ娘に課しているトレーニングは秘したいのではないか。

 大量の瓦を購入していたことは、この目で見たから間違いない。

 けれど冷静に考えれば、その用途が瓦割りとかいうよくわからない行為であるはずがない。

 彼は何か、瓦を使った効率の良いトレーニングを思い付いたんだ。

 そしてそれを秘匿するために、瓦割りなんていうわけのわからないことをしているように見せかけている……!

 

 自分が情報を隠されていると知り、僕が感じたのは悲嘆や憤怒などではない。

 ただただ、尊敬の念が深まるばかりだった。

 自分のスタンスを曲げてまで担当ウマ娘のためを想う姿。そのためなら瓦割りをさせる理解不能トレーナーという汚名を背負う覚悟。

 流石は堀野君だ。僕ももっと精進しなければ……!

 

 

 

「改めて、先日は迷惑をかけた」

「いや、いいよ。今回のレースでその分はチャラだ」

「感謝する。……条件は模擬レース1回、ということで良かったな」

「ああ。模擬とはいえレースだ、全力で走ってもらってかまわない」

「……あぁ、そうだな、全力で行かせてもらう」

 

 勿論、これは口だけだ。この場で全力など出すわけがないことはわかりきっている。

 模擬レースは非公式。自分のウマ娘の育成方法すら秘匿する男が、その手の内を晒すわけがない。

 だが、それでも透けて見える部分はあるはずだ。

 スタートダッシュ、走法、コーナリング、息の入れ方。格上の彼女から学べることは少なくないと思う。

 

 ……そして何より、真の目的はそちらではない。

 今、僕の背中に隠れようとしている担当ウマ娘。彼女の中の負けん気を呼び覚ますことこそ主眼なんだ。

 

「それで、そちらが君の担当か?」

「ああ、そういえば顔を合わせるのは初めてだったっけ。ほら、自己紹介して」

「う、うい……」

 

 彼女は恐る恐るといった感じで、僕の背中から顔を出す。

 

 

 

「ど、どもぉ、ナイスネイチャで~す……」

 

「ヒョウッ」

 

 

 

 え、あ、あれ!?

 黒板に爪を立てた音みたいな声を吐いて、堀野君が固まってしまった。その顔には珍しく驚愕の表情をありありと浮かべ、目を見開いてネイチャを見ている。

 

 どうしたんだろうと困惑したけど、堀野君はすぐに動き出した。

 

「い、いや、すまない。ちょっとこう、あれだ、セイウチの断末魔の真似の練習だ」

「せ、セイウチの断末魔の真似の練習か、そうか……」

「うん。一発芸にしようかな、と」

 

 嘘だ。あからさますぎる嘘だ。むしろなんでこんなわかりやすい嘘吐いたんだ。

 彼はネイチャを見て、何か衝撃を覚えたんだ。何だ? 一体何に驚いた?

 

 

 

 ……僕の思考に、電流が走る。

 まさか?

 

 彼の観察眼はすさまじい。

 眠れる獅子であったホシノウィルムの才能を、たった1回の模擬レースで見抜いたのは、正しく天才的な目と言わざるを得ない。

 その彼が、ネイチャを見て驚いたとすれば、そこに生じる意味はただ1つ。

 

 やはりネイチャには、名前通り素晴らしい素質があるのだ。

 それこそ、ホシノウィルムが負ける可能性を考慮し、悲鳴が漏れるほどに。

 

 

 

 あの時。

 選抜レースで彼女の走りを見て、一目惚れした。

 1着を睨んで走る負けん気に満ちた表情。それに応じて伸びる末脚。

 レース後の彼女は諦めたような表情をしていたが、間違いなく光るものはある。

 だから僕は、ナイスネイチャをスカウトした。

 彼女となら、重賞でも勝てる。G1にだって通用すると、そう信じることができた。

 

 

 

 その判断も、ナイスネイチャの素質も。

 全て、間違っていなかったんだ。

 

 

 

「……っ」

「お、おい、どうした。泣くな泣くな、よくわからんが悪かった。飴とか食べるか?」

「うわっトレーナーさん、どしたどした?」

 

 堀野君とネイチャに2人して慰められる。……あぁ、ほんとダメだな、僕。

 

「ごめん、大丈夫。……堀野君、ネイチャはホシノウィルムと直接会ったことがないらしいから、そちらも紹介してくれる?」

「え、ああ。本当に大丈夫か? 飴あるぞ?」

 

 堀野君は心配してくれたけど、今は瓦の片付けをするホシノウィルムの方に向かってもらった。

 よかった。これ以上、彼に無様な姿は見せたくはない。……担当バにも見せたくはなかったけどね。

 

「大丈夫かい、トレーナーさん? ネイチャさんのハンカチ使いな」

「ありがとう、ネイチャ。……ほら、ホシノウィルムが来るよ」

「うん。……うわ、改めて見るとやっぱ威圧感すご……」

 

 堀野君の後ろを、ある程度片付けを済ませたホシノウィルムが付いてきているのが見える。

 小さく引き締まった体。ゆらりと揺れる鹿毛。その微動だにしない耳と尻尾、無表情と俯いた青白い目線は、ターフ以外の全てに興味がないとでも言うようで。

 こうして見ると、その存在感に恐れ入る。

 これが今世代二強の片割れと謳われるウマ娘、ホシノウィルム。

 

「改めて自己紹介だ、ホシノウィルム」

「はい、トレーナー」

 

 この2人はいつも無表情で、それでも通じ合っているかのように円滑なコミュニケーションをしている。

 流石は名門のトレーナーと世代最強の一角と言うべきか、既に2人は完全な相互理解を得ているに違いない。

 少しばかり、うらやましいな。ネイチャは僕に信頼を寄せてくれてはいけるけど、それでもすれ違いやディスコミュニケーションは残ってしまう。

 もっと僕にコミュニケーション能力があれば、彼らのような関係になれるだろうか。

 

 ホシノウィルムが、トレーナーの横から一歩足を進める。その視線がゆっくりと、僕たちの方に向けられて。

 

 

 

「エオッ」

 

 

 

 …………、なるほど。

 堀野君は自分のウマ娘にもその観察眼を伝授していたのだろう。

 今この瞬間のナイスネイチャは、まだ極めて強いとは言えない。

 けれどホシノウィルムのピンと張った耳と尻尾から見ても、素質の段階では自身に並び得るほどだと感じてくれたに違いない。

 ネイチャ、そんなに不安そうにしなくて大丈夫だ。この人たちは、君のことを高く評価してくれているんだよ。

 

「えっと……あーその、大丈夫?」

「ゴホッ、ゲホッ……ん、んん。すみません、大丈夫です。少しび……驚いて、気管に唾液が入ってしまっただけです」

「あ、そうなんだ。……えっと、アタシ、ナイスネイチャ。今日はよろしくね?」

「ホシノウィルムです、……よろしくお願いします」

 

 ネイチャが出した手を、ホシノウィルムは少し迷ったような気配の後、握り返す。

 そして。

 

「ナイスネイチャちゃん」

「ん、何々?」

「友達になりましょう」

「はにゃっ!? い、いや、いきなりだねぇ。でもその、なんていうかさ」

「駄目ですか」

「いや駄目じゃないって! アタシとしては全然いいよ? でもほら、アタシでいいのかなーってさ? ホシノウィルムちゃん、あんまり……友達とかって」

「ウィルでいいです。気軽にウィルと呼んでください」

「えっ、あー、えっと、……ウィルちゃん?」

「ウィルで。ちゃんはいりません」

「うぇー……いやその、いきなり呼び捨てはハードル高いかなーってネイチャさん思うんだけどなー?」

 

 ……強いウマ娘はマイペースな子が多いって言うけど、この子もなかなか癖のある子のようだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「それでは、模擬レースを始める。このフラッグを振り下ろしきったらスタート。ゴールは2000メートル先、このグラウンドを2周しての白線。いいな」

「了解しました」

「いつでもどうぞー」

 

 堀野君に仕切ってもらい、僕は外ラチに寄りかかって2人を見つめる。

 

 ホシノウィルムは、いつも通りのポーカーフェイスで調子は伺えない。けれどその気迫は、やはりトップウマ娘の卵の風格を醸し出している。

 

 対してネイチャ。調子は今日のために整えてきた。

 ホシノウィルムから圧力を感じてはいるが、それでも屈さず、果敢に立ち向かう気概を見せている。

 しっかりと体を仕上げてきたこともあり、彼女の中には多少なりとも自信があるのだろう。

 

 とはいえ、ホシノウィルムが本気を出すことがないとしても、今日この瞬間にネイチャが勝つ確率は……良く見て1割か。

 それほどに、ホシノウィルムは仕上がっている。

 新人トレーナーの僕から見ても明白なくらいだ、彼女は間違いなくこの時代に生まれついた主人公に違いない。

 だが、主人公が1人とは限らない。自らを「脇役」だと卑下する少女が主人公への道を駆け上がるなんて、この世界じゃ珍しい話じゃない。

 

 勝て、ネイチャ。

 

 君ならこの状況をひっくり返せる。現実的な数字がどれほど非情な結果を示唆していても、君なら大番狂わせを起こせると。

 僕は自分の担当ウマ娘を信じていた。

 

 

 

「位置について」

 

 

 

 ……そう、その時までは。

 

 

 

 ホシノウィルムの圧力が、爆発的に増加する。

 それまでの彼女をパチパチと燃え盛る火だったとすれば、今は全てを飲み込む猛吹雪か。

 近くにいれば吞み込まれ、その体を動かせなくなるほどの殺意がここまで届いている。

 この威圧感、まさか……!

 

「本気か……!?」

「用意」

 

 堀野君の持つフラッグが上がる。

 ネイチャは明らかに怯え、当惑しきっていた。

 ついさっきマイペースに詰め寄ってきたウマ娘と、今横から明確な敵意を向けてくるウマ娘が、同一の存在とは思えないのだろう。

 そして何よりその威圧感は、今まで彼女の味わったどれよりも、強い。

 

 けれどネイチャは、その全てを振り払うようにキッと前を向き直す。

 ……いいぞ。頑張れ、ネイチャ!

 

「スタート!」

 

 出遅れることなく両者が駆け出す。どちらかと言えばホシノウィルムがより完璧なスタートを切ったか。

 逃げるホシノウィルムをネイチャが追う形。

 ……だが、その差は広がっていくばかり。

 あの2人は地力が違う。それぞれの「抑えた速さ」にそれだけの差がある、ということか。

 

「……やはり、ナイスネイチャは速いな。他のジュニアより一歩も二歩も先んじている」

「堀野君」

 

 役目を果たした彼は外ラチを乗り越え、僕の隣でレースを眺める。

 その表情はこれから先に起こることを理解しているような無表情。何の期待もなく、何の恐れもない。

 

 ナイスネイチャは速い。それは皮肉でも何でもなく、確固たる事実だ。

 相対的に見て、ネイチャがジュニア級の中でもトップクラスであることは間違いない。

 ただ、ホシノウィルムはジュニア級には留まらない速さだということだ。

 ……それこそ、クラシック級か、それ以上の。

 

「堀野君、あれが……ホシノウィルムの、本気?」

「ああ。お前の言う通り、彼女は本気でこのレースに臨んでいる。公式レースと同じペースだ」

 

 まさか。

 まさかこんなレースに、公式レース並みのペースを持ち出してくるなんて。

 堀野君は、ホシノウィルムは何を考えている? 下手をすればその脚に負傷を残しかねない判断をするなんて。

 

 ……まさか、それだけネイチャを重く見ている?

 いいや、本気を出さなくても、今のネイチャから逃げ切ることはできるはずだ。それなのにわざわざ本気を出す意味なんてない。

 では、何故……。

 

「ナイスネイチャを大事にしろよ。……彼女は、すごいウマ娘なんだから」

 

 …………、それは。

 まさか、ネイチャのために? ネイチャを世代最強と戦わせるために?

 確かに、現時点での力の差と、何より自分が目指すべき速さを知ることは、これ以上ないほど大きなアドバンテージとなる。

 けれど……いくらその才能を認めたとはいえ、他人の担当ウマ娘に、そこまでするのか?

 

「堀野君、君は……」

「おい、ナイスネイチャが動くぞ!」

 

 堀野君が叫ぶ。普段から冷静沈着な彼が声を上げるということは、彼にとって想定外の事態が起こったことを意味していた。

 レースはまだ中盤に至る直前、第一コーナーを曲がり切った直後。差しを作戦とするネイチャが足を使うには早すぎるタイミング。

 それなのに、彼女は明らかにペースを上げた。

 掛かっている。あまりにも早いタイミングでの暴走。

 いつも冷静にレースを眺め、隙あらば勝利を目指そうとする彼女らしくない……。

 ……いや、あるいは。

 

「あれは作戦か?」

「いいや……どうやらネイチャの負けん気に火が付いたみたいだ」

 

 遠くから見えたネイチャの瞳は死んじゃいない。

 自分の敗北は、彼女自身予感しているだろう。これ以上離されれば、一度として追いつくことができなくなることも。

 だから、せめて一矢報いてやろうと……追いつける内に末脚を使った。

 

 広がっていくばかりだった距離が、少しずつ縮まり始める。

 今なら縮めることができる。詰め切ることができる。このペースなら恐らく、終盤に差し掛かる直前に、ナイスネイチャはホシノウィルムへと至る。

 

 ……もちろん、これはレース展開を無視した暴走だ。

 ネイチャにはスパートするスタミナなんて残らない。どころか、ホシノウィルムを抜き切ることすら怪しいほど。

 対してホシノウィルムは、まだまだスタミナに余裕を持っている。たとえ一時ネイチャに抜かれたところで、簡単に抜き返すことができるだろう。

 

 つまるところ、ネイチャは勝負を諦めてしまった。

 ただ一瞬でも、ホシノウィルムに追いつくことを選んだのだ。

 

「…………」

「……ッ!」

 

 遠くからでも、2人の表情が伺える。

 ホシノウィルムは、何の感情もない完全な無表情。

 ネイチャはただ前を、ホシノウィルムの背中だけを、強烈な意思を持って睨みつけている。

 

 差は縮まる。1000メートルを過ぎる頃には半分以下にまで。

 

「これは……まずいかもしれんな」

「え?」

 

 1200。1300。……1400。

 いよいよネイチャがホシノウィルムの背後に近づく。その差は4バ身、3バ身体と減っていき……。

 

 

 

 2バ身程にまで縮まった時、変化が起きた。

 

 

 

 これまで一度たりとも、目の前のターフから目を逸らさなかったホシノウィルムが、僅かに振り向く。

 その青白い瞳が、ネイチャの姿を捉え。

 そして……。

 

 

 

 ホシノウィルムが、暴走した。

 

 

 

「なっ……」

 

 絶句した。

 残り距離はまだ600メートル、レース全体の3分の1近い。

 この距離からスパートをかけてスタミナはもつのか? いいや、それ以上にあのペースで逃げていたウマ娘が、600メートルものロングスパートをかけられるのか?

 

 縮まりかけた距離が、すさまじい速度で再び開いていく。

 もはやその差は、どうしたって埋められない。

 ネイチャは今度こそ、少しだけ絶望したような表情をして、けれどすぐに気合を入れなおし。

 ……力及ばず垂れていく。

 

「あれは……これが、公式レースのホシノウィルム?」

「いいや、公式レースでだって、ここまではしない」

 

 堀野君は首を振り、言った。

 今、ホシノウィルムは本番以上の本気を出しているのだ、と。

 

 

 

 

 

 

 結局ホシノウィルムは、恐ろしいことに減速しないままゴールした。

 ……けれどその後、彼女はその場に倒れ伏し、堀野君によって保健室へと送り届けられることになる。

 走り切り、スピードを落とした直後に気絶するように倒れる……ホシノウィルムのそんな姿は、初めて見た。

 堀野君の言葉通り、彼女はこれまでにない、限界以上の本気を出したのだろう。

 

「……容体は? ホシノウィルムは大丈夫だった?」

「瞬間的な過労と酸素不足で動けなくなっただけだ。コンディションは……状態は悪くない」

「そうか。……ごめん、ここまで無理をさせるつもりじゃなかった。ホシノウィルムにもそう伝えてほしい」

「心得た。すまんが、そちらの片付けは頼めるか」

「うん、それくらいはさせてほしい」

 

 電話で話した彼の声は、いつもと比べてだいぶ落ち込んでいる。

 そりゃあそうだ。自分の担当バが過労で倒れたなんて、僕だったら慌ててどうしていいかわからないところだろう。

 ホシノウィルムを抱え上げ、こちらにいくつか言伝てからすぐに保健室へと駆け出した彼は、やはりトレーナーとして一歩も二歩も僕の先を行っている……本当に尊敬すべきトレーナーだ。

 

 

 

「トレーナー、さん」

「ん……どうした、ネイチャ」

 

 僕の担当バは、膝に手をついて息を切らしている。

 中盤からスパートをかけて垂れたネイチャは、スタミナを切らしてローペースになりながらも、2000メートルを完走した。

 ……その頃には、既にホシノウィルムも堀野君も、その場にいなかったが。

 

「ごめんなさい……アタシ」

「大丈夫だ、ネイチャ。君の気持ちはわかるし、彼らも君を責めたりなんかしない」

「…………」

 

 彼女は勝負を投げ出した。

 模擬とはいえレースはレース、それはある意味、競争相手であるホシノウィルムを侮辱したようにも見えるだろう。

 けど、そうじゃないことは全員が理解している。

 ナイスネイチャは壁に挑んだ。高すぎる壁を越えようと、彼女なりに走ったのだと。

 

 ホシノウィルムが倒れたことは、誰にも責任のない……強いて言うなら、暴走したホシノウィルム自身が責任を負うべき話。

 だから、後は彼女の問題。

 暴走したナイスネイチャ自身の、心の問題だ。

 

「……アタシさ、…………悔しかったよ。

 最初に突き放された時さ……安心しちゃったんだ。こんなに速いんだもん、追いつけなくても仕方ない。アタシは悪くないって……。

 頑張っても届かないものはある。手を伸ばしたってキラキラした星は掴めない。……アタシみたいな凡人が勝てる相手じゃなかったんだって」

 

 ぽつりぽつりと、雨が降り始めるように、彼女の本音が吐き出される。

 

「一瞬あの子がこっちを振り向いた時さ、嬉しかったんだよ。

 アタシみたいな凡人でも、この子を振り向かせることくらいはできたって。

 彼女の本当の本気を出させるくらいはできたって。

 ……アタシじゃ、その辺が限界なんだろうなーってさ。

 はは、そんなこと考えてさ……そんなのさ」

 

 ネイチャの耳は、絞られている。

 彼女は今、俺の前では初めて、その感情を爆発させようとしていた。

 

「そんなの、そんなの感じたってことが一番悔しいっ!

 同じウマ娘なんだよ!? アタシだってあの子と同じウマ娘で、一緒に走ってた!

 なのにあの子は、アタシのことは見えないみたいに、ずっとずっと先にいるんだ!

 アタシは……!」

 

 血が出かねないほど両手を握りしめ、ネイチャは今までに見たことのない表情をしていた。

 諦めと保身の多い彼女が、それら全てをかなぐり捨てて激している。

 傲慢な覇者と、そして何より、歯牙にもかけられない自分の不甲斐なさに。

 

 

 

「アタシだって、勝ちたい!

 レースでも、あの子にも!」

 

 

 

 ……ああ。

 その言葉が聞きたかったんだ、ネイチャ。

 

「菊花賞だ」

 

「……え?」

 

「ホシノウィルムの一番の強さは、スタミナだよ。

 中距離までの距離じゃ、あのハイペースとスパートで追いつけない。

 でもどうしたってスタミナの削られる長距離の舞台でなら、そのレース中に今日みたいに折り合いを欠けば……ホシノウィルムはスパートできず垂れていく、普通の逃げウマ娘でしかなくなる」

 

「トレーナーさん……それって」

 

 動けない彼女に、手を差し伸べる。奇しくも、スカウトした時と同じ状況。

 よかった、やっぱり僕の判断は間違ってなかった。

 この子となら、僕は上を目指せる。キラキラした星を掴みに行ける。

 

「ホシノウィルムに勝とう、ネイチャ。彼女の三冠を止めるのは、君だ」

 

「……っ、うん!」

 

 手が握られた。

 熱くたぎった、ネイチャの本気が伝わってくる。

 

 

 

 あるいはそれが、僕とネイチャの二度目の走り出し。

 キラキラを追い求めるウマ娘の、物語の始まりだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 余談だけど、翌日。

 

「ネイチャちゃん、一緒にトレーニングしませんか」

 

 決意とか覚悟とか知るかと言わんばかりに僕のトレーナー室のドアを叩いたホシノウィルムに、僕たちは思わず顔を合わせた。

 まだ敵だと認識されていないと思うべきなのか、それともネイチャが特別視されていると思うべきなのか。

 ……ホシノウィルムの精神構造は、やはり堀野君くらいでないと理解できないのかもしれない。

 

 

 







 転生コンビがギャグやったりシリアスやってる時、彼らの周りでは真っ当なスポコンが展開されています。



 続きは3、4日後。トレーナー視点で、ホシノウィルムのこれからを考える話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分を訂正、描写を変更しました。ご報告ありがとうございます!


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キラキラとステップと転生チートの季節
転生しても社畜だった件


 新章ということで、ちょっと真面目な地固め回です。





 

 

 

 例えばの話だけど。

 自分に娘がいるとするじゃん。

 で、自分なりに、その子が真っ当に生きられるように手を尽くしてきたとするじゃん。

 でもある時、娘がこう言ってくる。

 

「お父さん、私生きるの楽しくない」

 

 この時、父親はどう思うだろうか。

 

 

 

 

 

 

 答え。

 

「はぁ……」

 

 脳が停止するので、何も考えられない。

 

 ……耳の中にリフレインする、あの言葉。

 

 

 

『レースを楽しいと感じたことはありません。私は、勝つために走っているのですから』

 

 

 

 メイクデビューの後に告げられた真実は、既に3か月が経過したというのに、今もなお俺に重くのしかかっていた。

 

 

 

 * * *

 

 

 根本的に、ウマ娘は走ることを楽しむ生物である。

 ……少なくとも、転生前のアプリでは皆楽しんでいたと思うし、堀野の家でも例外は聞かなかった。

 

 考えるに、ウマ娘は人間よりも強く本能を宿している。

 走ること。誰よりも速く駆けること。

 それは本来、自分よりも強い捕食者から逃げるための、遥か昔からの動物的本能。

 ウマ娘たちは恐らく、その本能を悦楽へと昇華している。

 捕食者から逃げるという目的を失った疾走は、単純に快楽を摂取する手段になったのだ。

 人間が食べること、寝ること、交わること。それらに快楽を得るのと同レベルの話で、ウマ娘たちは走ることを楽しんでいる。

 

 ……と、これが中央トレセン学園に来るまでの、俺の持論だった。

 だが、現実はどうだ。俺の担当ウマ娘は走ることを楽しんでいない。

 ただ「勝たなければいけない」という強迫観念を満たすための手段として走っているだけだ。

 

 

 

 では。

 この時、「彼女の心に寄り添う」とは、どうすることを指すのか。

 

 

 

 彼女は別に、走りたいと望んではいない。

 更に言えば、「勝ちたい」という衝動だって、彼女の中で理屈が通っているようには見えない。

 ただ「自分はそうしなければいけない」と思い込んでいるだけ……という可能性も高い。

 

 彼女の心はどこにある?

 ホシノウィルムという少女が本当にやりたいことは、何だ?

 

 

 

 俺の中には、まだはっきりとした答えが出ない。

 答えが出るまでは、悔しいが、現状維持しかない……と、思う。

 

 あぁ、本当に不甲斐ない。

 俺がしっかりとしたトレーナーなら、彼女の望むことなんてすぐに見抜いて、彼女を適切に支えることもできたかもしれないのに。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「ちょいちょい、堀野トレーナーさん?」

「んう、あ?」

 

 声がかかって、思索の世界から抜け出す。

 ……不覚にも、注意が疎かになっていたらしい。目の前にいるウマ娘にも気付かなかった。

 

「ナイスネイチャ? 君がいるということは……そうか、そろそろ合同トレーニングの時間か」

「そーですけど……堀野トレーナーさん、お疲れですかい? こっちからアタシのトレーナーに伝えとこうか?」

「不要だ。俺が見ていなかったから君が事故を起こした、などとあっては死んでも詫びきれん」

「死んでもって、相変わらずおおげさですねぇ」

 

 まったくまったく、と両手の平を上にして呆れるウマ娘。

 彼女の名前は、ナイスネイチャ。

 ……ウマ娘のアプリにも登場した、いわゆるネームドウマ娘である。

 

 

 ナイスネイチャ。

 言わずと知れた、庶民派平熱ウマ娘。明るく快活だが、自分に自信がなくて時々卑屈になるのが玉に瑕。

 親しみやすく面倒見の良い、多くの人に愛される子だ。トレセン近くの商店街ではアイドルもかくやという人気を誇り、ネイチャの出走する非公式レースは結構人気があったりする。

 実力はと言えば、有記念で3年連続3着というある意味とんでもない伝説を残し、ブロンズコレクターとまで呼ばれた程。実力は折り紙付きである。折り紙トロフィーだけに。

 ……もちろん、それは前世のアプリで史実競馬を反映した結果。

 この世界で1つの命として生きるナイスネイチャがどこに行き着くのかは未知数だ。アプリじゃ無敗三冠だって目指せるしね。

 

 

 

 俺は新人トレーナーで、持つことのできる担当は1人まで。

 そしてその枠はホシノウィルムで埋まっているわけで、当然ながらナイスネイチャは俺の担当というわけではない。

 

 彼女は、俺の同期トレーナーの担当ウマ娘だ。

 そしてホシノウィルムと同世代であり、同じレースで競う可能性のあるライバルでもある。

 

 そんな子が俺のトレーナー室にいる理由は簡単で、同期繋がりで模擬レースを組んだ縁から、ここ3か月でネイチャ陣営と合同トレーニングをするようになったからだ。

 ……ホシノウィルムめ。メイクデビュー完走のご褒美をこんなことに使うとは、よほどネイチャのことを気に入ったらしい。でも気持ちはわかる、ネイチャ良いよね……。

 まぁネイチャ陣営としても願ったり叶ったりだったらしく、話はとんとん拍子に進んだから問題はなかったのだが……。

 

「……ふむ。やはり踏み込むならば、そこからか?」

「ん? どしたー、堀野トレーナー?」

「いや、何でもない。行こうか」

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ホシノウィルムというウマ娘は、非常に扱いにくい癖ウマだ。

 トレーニングは粛々とこなしてくれるし、基本的に言うことは聞く。

 ……のだが、やめろと言っても勝手に自主トレするわ、速くなる方法や展望以外の話は興味を持たないわ、果てにはレースで手加減ができず、最悪過労でぶっ倒れてしまうわ。

 ゴルシとはまた違うベクトルで厄介というか、かなり繊細に気を遣う必要があるウマ娘なのである。

 

 多分俺以外の、アプリ転生を持ってないトレーナーが担当すれば、その管理は困難を極めるだろう。

 ちなみに管理が難しいからと言って、放任することもできない。何故なら放置していると勝手に過重なトレーニングを積むし、下手をすれば勝手にレースをして勝手に壊れるからだ。

 ……この子、これまでどうやって生きてきたんだろうな。

 

 一応、攻略法はある。俺が1年弱という時間をかけて見出した、とっておきのやり方だ。

 それは、自主トレをする余裕もないくらいにカッチカチにスケジュールを固めることで、強制的に思い通りの行動を取らせる、というものだ。

 睡眠、食事、勉強など日常生活に必須な行動以外の時間を、トレーニングと休憩に割り振る。

 なおここで注意しなきゃいけないのは、休憩が30分以上続くと、彼女が我慢できずに自主トレを始めてしまうってこと。

 20分休憩、1時間トレーニング、20分休憩……という感じで完全にスケジュールを組んで差し上げることにより、彼女の不自然な体力減少は大幅に抑制できる。

 とはいえ、そんなスケジュールではジリジリと体力が削れていくばかりだ。

 1週間に1日くらいは全休にして、無理やりにでも休ませよう。縄で縛っても無理に破ってくるので、車の中に突っ込んでドライブに付き合わせたり、ネイチャに押し付けたりするのが有効だ。物理よりは人情の方が拘束力が高い。

 

 ……うん、なんというか、トレーナーと言うより介護をしている気分だ。

 やはりウマ娘に寄り添うのは大変なのだなぁと実感する。

 

 しかし逆に言えば、きちんとスケジュールさえ組めば、彼女は勝手にトレーニングを行ってくれる。

 つまるところ、彼女を放置して他の仕事ができるのだ。

 勿論、放置するのは失敗率が0%の時に限るし、1時間に1度は様子を見に行くようにしているが、この特徴のおかげで事務処理や研究に使える時間が大幅に増えたのは僥倖だった。

 

 そんなわけで、今日も今日とて彼女のスケジュールノートを更新した後、定期的に見に行きながらトレーニング室に引きこもっていた。

 そしてこれからを考えている内、思索の海に沈んでしまい……。

 結果として、ネイチャがトレーナー室に来たことにすら気付かなかったわけだ。

 

 

 

「堀野トレーナーさん、今日は何すんの?」

「今日は坂路だ。ひたすら坂路」

「うげー! ネイチャさん、坂路よりプールがいいなぁ」

「プールはもう十分。今は坂路に集中してくれ」

 

 ネイチャとも気軽に会話できるようになったもんだね。

 最初の内、彼女には何故か避けられがちだったんだけど、ある時期から気安く接してくれるようになった。

 元アプリ勢からすると、ちょっと引き気味で苦笑いするネイチャに心をズタズタのグチャグチャにされていたので、こうして仲良くなれたことはシンプルに嬉しい。

 

 それにネイチャがいると、雰囲気が明るくなるんだよね。ここ最近は悩んだり困ったりと雰囲気が沈みがちだったから、彼女は今や、俺にとっての一服の清涼剤となっている。

 勿論、自分の担当ではないし、距離感とかやり方に一線は引くけど……。

 それでもアプリで好きだった彼女と会話できるのは、やっぱり嬉しいものがあるよね。

 

「で、ホシノウィルムは?」

「あー……一応誘ったんだけど、『トレーナーにスクワットを続けるようにと言われています』ってさ」

「なるほど。勝算のない賭けとはいえ、気を使ってくれてありがとう、ナイスネイチャ」

「あはは……ほんとストイックだよね、ウィルちゃん」

 

 

 

 俺と同期のトレーナーがネイチャを担当していると知った時には、思わずセイウチの断末魔の真似をするくらい驚いてしまったものだが……。

 もう1つ驚いたのは、ホシノウィルムがネイチャに強い興味を持ったことだ。

 

 彼女はこれまで、他のウマ娘にあまり興味を持たなかった。

 例外は時々話に出てくる同室の先輩くらいのもので、それもずっと一緒にいたが故に仲良くなっただけ。最初から興味を持っていたわけではない。

 そんな彼女が、ネイチャには「友達になりましょう」と詰め寄ったのである。

 どこを気に入ったのだろうか。やっぱりあれか、めちゃつよウマ娘としてのレーダーが、ネイチャのとんでもない潜在能力を捉えたのか。天才と天才は引かれ合うのかなぁ。

 

 とにかく、ホシノウィルムはネイチャと急速に友好を深め、3か月経った今ではすっかり友人といった空気感を漂わせている。

 ……まぁ俺の見た限りでは、ネイチャはホシノウィルムをライバル視したいのにベタベタされて戸惑っていたようだったけど。

 今では諦めたというか吹っ切れたというか、公私ともに親しくしているようだ。よきかなよきかな。

 

 

 

 そんなことを考えている内に、学園内部のジムスペースにたどり着く。

 ここにはたくさんのトレーニング器具があり、特に予約したりせずとも空いているものを勝手に利用できる。

 契約トレーナーを持たない未デビューのウマ娘や、外でトレーニングを行うことを嫌うウマ娘たちに人気のスポット。

 ……なのだが、今はそこに、少し異様な空気が漂っていた。

 

「はぁ……くっ、ふぅっ……!」

 

 ジムの隅から、聞きなれた声。そして他のウマ娘たちは、声の発信源から少し距離を置いてトレーニングに勤しんでいる。

 ……ネイチャを気に入ったとはいえ、相変わらず他のウマ娘に対しては無関心というか、仲良くはしないままなんだよな。

 アプリ知識を持つ俺としては、できれば多くのウマ娘たちと触れ合ってほしいと思うのだが、これがホシノウィルムの気性だとすれば……それは仕方ないし、受け入れよう。

 彼女の性質を否定するのではなく、可能な限り伸ばすのが俺の仕事なのだから。

 

 ……いやまぁ、保護者としては、友達が少ないのはちょっと心配だけどね。

 

 取り合えず、汗をぽたぽた落としながら未だにスクワットを続ける彼女に声をかけた。

 

「ホシノウィルム」

「トレー、ナー……っ」

「スクワット停止。10分の休憩の後、ネイチャとの合同トレーニングだ」

「了解、しました……」

 

 ずるんと倒れるように、ホシノウィルムは座り込む。

 ……うん、体力はまだ余裕があるな。失敗率は1%になる直前くらいで、休めばすぐに回復するだろう。

 

「ウィルちゃん、ほらお水持ってきたから飲みな。無理しちゃだめだぞー?」

「ありがとう、ございます、ネイチャちゃん……。まだ無理ではありません、トレーナーが……トレーニング禁止と、言っていないので」

 

 実際、今彼女が感じているのは短期的な疲労なので、休憩を挟めば問題なくトレーニングできるだろう。

 今後のトレーニングをどれくらい続けさせるか目算を立てながら、俺はホシノウィルムにタオルを手渡した。

 

 ウマ娘の体はすごいもので、疲労があっても10分から20分程度休憩すればほとんど吹っ飛んでしまう。

 ほとんどに含まれない長期的な疲労も、それこそ1日しっかり休めばけろっと完治。

 まさしく鍛えるための体と言った感じで、やろうとすればかなりハードにトレーニングを積むことが出来る。

 

 ……まぁ、選手生命的な意味での脚へのダメージは、これらと全く別の計算式で動いているっぽいのが怖いところだけど。

 流石のアプリ転生とはいえ、ウマ娘の脚の耐久値を見ることはできない。

 定期的な診断と検診から推し量っていくしかないのだ。

 

 まとめると、短期的と長期的な疲労、そして脚への負担。

 この3つと上手く向き合いながら、その限界を突き詰めていくのがトレーナーの仕事なのである。

 

「ナイスネイチャ。他人事のように言っているが、君もこれから同じくらいに追い込まれることを忘れないように」

「うげーっ、そうだった……。あんまり酷いことしたら、アタシのトレーナーに泣きついちゃいますからね!」

「アイツはやけに俺に甘いし、むしろしごいて来てもらえとでも言いそうなものだが」

「……堀野トレーナー、もしかしてエスパーだったりします?」

 

 

 

 俺の同期でもあるネイチャのトレーナーを一言で表すと、穏やかな策士だ。

 本人は平凡な人間だなんて言ってるが、あれはあくまで謙遜だろうな。

 自分のウマ娘のため、使えるものは親でも使うタイプ。体は貧弱だが頭はかなり回り、自分の立場やアドバンテージを上手く使って、いつも器用に立ち回ってネイチャを支えていた。

 その貪欲さと容赦のなさ、そしてウマ娘へ向ける熱意は俺も舌を巻くし兜を脱ぐ。

 俺の数少ない友人の中でも特に尊敬に値するトレーナーの1人であり、俺も日々、彼から色々なことを勉強させてもらっている。

 

 ……のだが。

 よくわかんないんだけど、何故か彼は俺に信頼? 尊敬? そんな感じの目線を向けてきており、よく相談を持ちかけられたり飲みに誘われる。

 ぶっちゃけなんでこんなに懐かれたのかわからなくて、ちょっと据わりが悪いくらいだ。

 今回の合同トレーニングの件も、話を持ち込んだら5分くらいで了承のメールが返ってきた。

 どころか「そちらのトレーニング方針に合わせたい。僕に内容の相談をする必要はないし、その日やったことも事後報告でいいよ」だって。

 正気か? 俺がおかしな調整をするとは考えないのか? と返信すると、「君はそんなことをしない人間だと、僕は知っているからね」と。

 いやまぁもちろんしないけどさ……。なんとも買いかぶられているな、って感じ。

 ただの新人トレーナーを、よくもまぁそこまで信じられるわ。感謝を通り越して、少し呆れてしまった。

 

 

 

「しかし、ネイチャさんが天下のホシノウィルムと合同トレーニングとは……。今でも現実感が湧きませんなぁ。私なんかとやったって、ペースを引っ張られるだけで面白くもないでしょうに」

「私は……ネイチャちゃんと一緒に、トレーニングできて、楽しいです」

「ナイスネイチャ、君は自分を過小評価しているようだが、ホシノウィルムと同等の負荷をかけたトレーニングに付いて来られるガッツを持つウマ娘は少ない。誇っても良いと思うぞ」

「う、そっすか……。そりゃなんというか、ありがとうございます……」

 

 軽口にマジレスで返されて恥ずかしそうに縮こまるナイスネイチャ。

 今はいないが、こういう時にそうだそうだと話を盛り上げる策士、ネイチャトレーナー。

 相変わらず無表情だが、ネイチャとトレーニングする時は心なしか調子が良いホシノウィルム。

 

 少しだけ騒がしくなった俺のトレーナー生活は、大体こういう環境で回っていた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 一般論として、トレーナーたれば担当ウマ娘のトレーニングは見守るべきである。

 担当の調子を伺ったり、その伸び方を見たり、事故を起こさないかを警戒したり。

 その後ろ姿を見ながら考えることや考察すること、学ぶことは非常に多い。

 故にトレーナーは、いつだって担当ウマ娘たちに付き添って彼女たちを見守るのである。

 

 ……まぁ、俺にはその必要もないが。

 「アプリ転生」の力でそれらを管理できる俺からすると、あまり彼女たちを見ている意味はないのだ。

 それこそ1時間に1度、ステータスの上がり方や体力の減り方、失敗率の管理をするだけでいい。

 が、だからと言って担当でもないウマ娘を放り出すのも外聞が悪い。

 もしもちびっこ理事長に見つかりでもすれば「叱責!!」されることは想像に難くないしね。

 

 なので俺は今、ちらちらと坂路を走る2人を見ながら、バインダーにこれからの計画を書き出したりしている。

 授業中に隠れて漫画を読んでいた学生時代を思い出すなぁ。

 

 

 

 ……さて。改めて、俺の担当ウマ娘の話をしよう。

 

 ホシノウィルム。とんでもないステータスを持つ逃げウマ娘。

 入学した時点でとんでもなく高いステータスを持っていたが、クラシック級が迫って来た今、それらは更に上がっている。

 

 不足しがちだったパワーは、ようやくクラシックG1基準に至った。皐月・ダービー・菊花を走るのならもう少し欲しいところだが、これから鍛えていけば十分に間に合うはずだ。

 スピードスタミナ根性の3つは、他2つに比べて控えめ。元の値が高かったから、そのままでもある程度戦っていけるだろう。

 賢さはほとんど触れてない。現時点の彼女のレース展開を考えれば、そこまで必要にならないという判断である。……ああいや、大幅な出遅れは怖いから、もちろん将来的には伸ばしていくけどね。

 

 

 ……とは言っても、実のところホシノウィルムは、入学してからそこまでステータスを伸ばしていない。

 というのも、俺がトレーニング時間の半分程度をスキルの習得に使わせているからだ。

 

 この世界のスキル習得には、アプリ版と違ってスキルポイントという概念がない。

 シンプルにひたすら反復練習・実践演習で身に染み込ませていく感じだ。

 例えば出遅れせず綺麗なスタートを切るスキル「集中力」が欲しいなら、ひたすらスタートの練習をさせ、その状態で模擬レースなどに出してしっかり定着させるといった感じ。

 

 ホシノウィルムはこれまでに、「大逃げ」「集中力」「先駆け」「コーナー巧者○」「末脚」「逃げのコツ○」を習得している。

 ……いやぁ、実装されたんだなぁ、大逃げ。俺がアプリから離れた段階だとなかったから、ちょっと嬉しい。というか逃げのやり方を教えて選抜レースに出したら本番で習得して帰ってきたからビビる。切れ者すぎない?

 他のスキルの内、集中力、先駆け、末脚、逃げのコツ○は、アプリをやっていた時代に強かった覚えがあるので習得させた。殊に集中力は、逃げの敗北原因の1つである出遅れが発生する可能性を大きく減らせる有能スキル。三冠を取るため、皐月賞までには上位スキルであるコンセントレーションに育て上げたいところだ。

 一方コーナー巧者○は、前世ではあまり強そうには感じなかったが、堀野の家の歴史を読み解くに、コーナーで速度を落とさないための練習がかなり肝要そうだったので採用。実際これも安定に貢献してくれていると思う。

 今後取っていくスキルの予定としては、長距離である菊花賞を見据えて大正義円弧のマエストロ……の下位スキルである「コーナー回復○」。コーナーで少しだけ足を緩め、息を入れる練習って感じになるな。

 他にもいくつか案はあるが、そこはホシノウィルムのレースを見ながら臨機応変に決めていこう。

 

 

 

 さて。

 出てもスキルポイントがもらえないのなら、レースは何のためにあるのか。

 ……いや、何のためって言うか、レースこそが本番なんだけど、一応ちゃんとメリットはある。

 レースに出ると、後方作戦のウマ娘であれば、他のウマを観察して走り方を盗む……つまりはスキルのヒントを得ることができるっぽい。

 昔はレースに出まくって、とんでもない成長をし続けた追込バなんてのもいたようだ。残念なことに選手生命は短かったらしいが。

 

 ……うん、誰より前を行く大逃げウマ娘には関係のない話ですね!

 ホシノウィルムにとってレースに出走することは、スキルの実践演習とファン数を獲得するくらいの意味しか持たないのだ。残念。

 

 

 

 だが、レースに出さないわけにもいかないのが悩ましいところである。

 

 ウマ娘は、速力が全てじゃない。レースで新たなファンを獲得していくのも重要な要素になる。

 というのも、格式の高いレースへの参加は、基本的に人気のあるウマ娘が優先されるからだ。

 故にトレーナーは、最終的な目標レースを見据え、担当をこれからどのレースに出すのか、その道筋……いわゆるローテーションを組む必要がある。

 

 

 

 ホシノウィルムの最終目標は、クラシック三冠……つまりは皐月賞、日本ダービー、そして菊花賞。

 皐月賞に勝てば優先出走権が与えられるから日本ダービーに出られるし、同じくダービーに勝てば菊花賞に出られる。

 つまるところ、あくまで勝利前提の話ではあるけど、皐月賞にさえ出走できればクラシック三冠の全レースに参加できる、ということになる。

 つまるところ、今考えるべきは……皐月賞に確実に出走する方法。

 

 その場合、中核となる方法は2つだ。

 

 弥生賞か、G1……ホープフルステークスか。

 

 弥生賞とは、皐月賞の1か月前に開催されるレースで、皐月賞のトライアルレースとして認識されている。

 ここで勝てれば皐月賞の優先出走権が与えられ、まず間違いなく出走が可能。

 

 一方G1……つまりは国内で最もグレードの高いレース。これで1着を取ることができれば、皐月賞への出走はほとんど間違いのないものとなるだろう。

 そして、皐月賞までに開催される唯一の中距離以上のG1レースが、ホープフルステークスだった。

 

 しかし、ホープフルステークスか……。

 アプリを嗜んでいた者としては、非常に懐かしく、同時に苦々しい名前である。

 それはジュニア級の12月後半に開催される、中長距離を走るウマ娘にとっての試金石となるレースだ。

 可能な限り出走するレースを厳選しなければいけなかった前世アプリでは、このホープフルに勝てず育成失敗するウマ娘をたくさん生んでしまった。今となっては何と残酷なことをしていたのだろうと心が痛いよ。

 

 

 

 さて、ホープフルステークスにホシノウィルムを出す……ここまでは確定としていいだろう。

 では次に、ホープフルステークスに確実に出走できるよう、プレオープンからG3程度のレースに出ておきたい……。

 

 が。ここが少し難しい。

 そもそも、ジュニア級には中距離以上を走ることのできるウマ娘が少ない。それだけのスタミナがないからだ。

 ホシノウィルムやナイスネイチャのようなしっかりとした素質を持つ子でなければ、十全に走ることはできないだろう。

 なので当然、ジュニア級の間は中距離以上のレースが少ないのだった。

 

 万全を期すために弥生賞に出走することを前提に考えれば、1か月間隔でレースを行う状態に慣れた方がいい。

 ……となると、ホープフルから1か月前くらいにある中距離のレース……。

 

「葉牡丹か」

 

 葉牡丹賞。プレオープン、中山の芝2000メートル。

 アプリをプレイしていた時は名前すら覚えていなかったが、今回はこのレースが適切か。

 

 

 

 よし、これである程度ローテーションは決まった。

 

 まず11月後半、プレオープン葉牡丹賞。まぁここは勝てるだろう。こんなこと言うのはなんだけど、負ける道理がないし。

 次に12月後半、G1ホープフルステークス。ここでG1のレベルをホシノウィルムに実感させる。

 年が変わってクラシック3月前半、念には念を入れ、G2弥生賞に出て、確実に皐月賞の出走枠を確保。

 そして本番、4月前半、G1皐月賞。ここで三冠の1つ目を取る。

 

 ……もしかしたら、「十分人気なんだから、優先出走権を譲るために弥生は出走回避しろ」とか言われるかもしれない。

 気持ちはわかる。自分の好きなウマ娘が出走できるチャンスを、強者がかっさらってくる……これは大きな脅威だろう。非難したくなる気持ちはよくわかる。

 だけど、そんなことは知らん。

 どうしても皐月賞に出たいなら、他レースでファンを集めるか、ホシノウィルムを破ればいいのだ。……どちらにしろ、強いウマ娘だけが夢を掴める世界なのだから。

 感情的なクレームと担当バの夢、どちらを優先するかと言われれば悩む必要などない。

 

 ……うん、結構堅い、しっかりと地に足の着いたローテーションだと思う。

 ホシノウィルムにも要相談だが、多分彼女はどこのレースに出るとか興味ないだろうなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 …………さて、しかし。

 皐月賞に出られたとして、その勝利までの間には、まだ問題があるのだが。

 

 

 

『「帝王」対「蛇」! クラシックの冠を取るのはどっちだ!!』

 

 

 

「……どうしたものかな」

 

 俺はバインダーに張り付けた週刊誌の記事を見て、再び頭を悩ませ始めた。

 

 

 







 トレーナー君、ホシノウィルムが絡まない時はまともです。気苦労が絶えませんね。

 ナイスネイチャと「帝王」が、物語に新しい風を運びます。転生コンビのクラシック路線は、果たしてどこへ向かうのか……。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、初めてのG1と勝負の話。



(追記)
 そろそろメンタルとフィジカル共に失敗率が付きそうな予感がするので、3、4日間隔の投稿に切り替えます。正常化しただけとも言う。
 その分クオリティを保てるように頑張ります!

(追記2)
 次回予告がめちゃくちゃ嘘予告になっちゃってました。ごめんなさい……。
 修正しておきました。


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はじめてのじいわん 真冬の大逃亡スペシャル

 最後の……マイニチ・トウコウ…
 ジー…ワン……で…す…
 これが…せい…いっぱい…です
 ドークシャー…さん 受け取って…ください…
 楽しんで……… ください……

  毎日投稿院典明  ─死亡─






 

 

 

 最近、周りの環境の変化が激しい。

 

 

 

 例えば、やけにインタビューとか記者会見が増えたこと。

 

 『メイクデビュー、葉牡丹賞と、2連続で大差勝ちを飾ったことについて何か思うことはありますか』、とか。

 『現在注目しているウマ娘はいますか』、とか。

 『初のG1であるホープフルステークスへの意気込みは』、とか。

 『クラシック三冠を目指すとのことですが、手応えはどうでしょう』、とか。

 ……そんなこと訊かれたって私、まともに回答できないんだけど。

 

 なんせ前世は一介のオタクである。こんな公の場、たくさんのフラッシュとマイクを向けられた状態で喋る経験なんてなかった。

 で、前世の記憶が使えない場所では、私はただの中等部1年である。

 当然と言うか恥ずかしながらと言うか、緊張しまくってまともに考えられず、口が動くままに答えてしまった。

 

「ありません。トレーニングを積んできた結果であり、当然の帰結です」

「いません。誰も私より前にいませんので」

「特には。走り出し、走り続け、勝つ。それだけです」

「三冠ではなく、無敗の三冠です。出るからには勝ちます」

 

 ……いや、わかってる。わかってるよ。めちゃくちゃ感じの悪い答えになってしまったのは、よーく理解してる。

 日本人は謙虚を好む国民性を持っている。もうちょっと周りに慮った表現の方が絶対良かったよね。

 特にトレーナーは口を挟まなかったけど、記者たちは呆然としているようだったし、多分記事は酷いことになってると思う。

 

 あまりに怖くて、最近は雑誌から離れている。自分が叩かれているかもしれない記事は読みたくない……。

 有名人がナーバスになる気持ち、人生2周目で理解できたよ。

 

 

 

 それに、ネイチャちゃんとの関係。

 

 そう、ナイスネイチャちゃん! ナイスネイチャちゃんだ!

 アニメ2期でテイオーちゃんをライバル視し、自らの非力を認めながらも諦めず、必死に顔を歪めて走り続けた最高のスポ根ウマ娘!

 結果的にテイオーちゃんに勝つことはできなかったけど、それはテイオーちゃんが最強すぎるが故。

 ネイチャちゃんの流した血と汗と涙は、決して誰にも否定できない尊いものだ。

 

 私はその頑張り続ける姿に深く感服し、彼女のことを好きになってしまった。

 奇跡の最強主人公トウカイテイオーちゃん、実力は極端に高いわけでなくともテイオーちゃんを復帰へ導いたダブルジェット師匠、そして努力とスポ根の象徴ナイスネイチャちゃん。

 アニメ2期から推しを選ぶなら、この3人になるだろう。

 

 そしてそんな前世の推しが、今世では友達になったのである!

 

 あの日、トレーナーが模擬レースを組んだと聞いて、「またかぁ」と思わないでもなかった。

 レースの後はめちゃくちゃ疲労するし、自主トレもほとんどできなくなる。得るものもあんまり多くない。

 なので私は、模擬レースというものにあまり良い印象を持っていなかったのだ。

 でも、いざ模擬レース当日、そこに現れたのは超絶かわいい私の推しだった!

 思わず前世で得意だったオットセイの断末魔のモノマネが出てしまったくらいには驚いたし、思わず仮面が吹っ飛ぶところだった。

 それでも恥ずかしさより緊張と嬉しさが勝るんだから、推しへの感情というのはすごいものだ。

 

 その上、更に更に!

 ネイチャちゃんは、あろうことかその柔らかいおててを、私に差し出してきたのだ……!

 

 ……そこには、大きな葛藤があった。

 ホシノウィルム。お前は元とはいえオタクだろう。推しに……触れても良いのか? と。

 でも、考えてみてほしい。

 今や彼女はキャラクターではなく、私と同じ、この世界に生きる1つの命。

 握手を求められて無視することが、正しい行為なのか……!?

 

 この間、コンマ3秒。私は結論を出した。

 ──イエスネイチャ、ゴータッチ。

 

 これはウマ娘にとっては小さな1歩かもしれないが、ホシノウィルムにとっては偉大な1歩だった。

 

 その後、勢いそのまま無理やりに友達になってもらったり。

 模擬レースでネイチャちゃんに詰め寄られて、ビビって全力ダッシュかましたり。

 無茶しすぎて保健室送りになったり、と。

 色々あったんだけど……。

 

 大事なことは、1つ。

 前世で推しだったネイチャちゃんに会えて、その上今世で3人目の友達になったことだ……!

 しかもメイクデビューのご褒美権を使って、トレーナーを介して合同トレーニングまで取り付けてもらった!

 機を見るに敏とは私のことだな。ふふん。

 

 

 

 あと、……そうだな。これはとても大変なことだと思う。

 トレーナー……私の契約トレーナーである、堀野トレーナーのことだ。

 

 彼はここ最近、何かを悩んでいるようだった。

 いつもは……というか、メイクデビューまでの期間だったら、私をじっと観察していたようなタイミングで、手元のバインダーを見てぼんやりしている。

 トレーナーは何を考えているんだろう。正直な話、私にはよくわからない。

 いや……心当たりはあるけど。

 

「迷惑を……かけていますからね」

 

 我ながら、手のかかるウマ娘だと思う。

 転生者ということもあって色々特殊だし、自主トレしてないと落ち着かないし、レースをすれば全力出して疲労困憊。

 この世界に来てから学んだけど、トレーナーとウマ娘は二人三脚の関係。どちらの歩幅が広すぎても狭すぎても立ち行かない。

 そういう意味では、私は酷く育成しにくいウマ娘だろう。

 超級のトレーナーである堀野トレーナーに拾われたから何とかなっただけだし、それにしたって迷惑をかけ続けている。

 

 そんなトレーナーに私が何かを返せるとすれば、それこそ勝利だけだと思う。

 

「うん、今日も勝つ」

 

 小さな小さな独り言が、寒々しい控室に響いた。

 

 

 

「ホシノウィルム。そろそろ出走準備だ」

「はい、了解しました」

 

 外からトレーナーの声。

 立ち上がり、改めて向かいの鏡で自分の服装を見る。

 

 黒一色の中に白のラインが入った、体に張り付くタイプのショートパンツとインナー。

 その上から羽織った、深紅を基調に金の縁取りと薄灰の装飾が入ったショート丈のジャケット。

 そしてジャケットの襟の部分から……なんだろうねこれ、よくわかんないホログラムか粒子みたいなもので、キラキラ光る灰色のマントが出てる。

 胸元にブローチのように縫い付けられた星型ボタンでしまったりもできるけど、そもそも触ってもすり抜けるから、邪魔にならない便利構造だ。

 母が遺した、両耳の左右対称な耳飾りとよく合うデザイン。

 注文通りの……いや、注文より遥かにかっこいい出来上がりになった。ちょっと目立ちすぎるけどね。

 

 ……これが、私の勝負服。

 国内最高基準であるG1のレースに出るための、私専用の制服だ。

 

 

 

 そう、今日は私が初めて挑むG1、ホープフルステークスの開催日である。

 

 

 

 * * *

 

 

 

『さぁ、ウマ娘たちが12月の寒気を切り裂き、続々とターフに現れます。

 中山レース場、右回り、芝2000メートル。ジュニア級唯一の中距離レース、未来のステイヤーたちがここから生まれるのでしょうか』

『天気は生憎の曇りですが、バ場状態は良馬場の発表です。気持ちの良い走りに期待したいですね』

 

 

『各々ウマ娘たちが準備を終え、ゲートに入っていきます』

 

 

 

 ガチャン。

 

 

 

 ……あぁ、寒い。

 

 

 

『1番人気を紹介しましょう。世代最強とも噂される異次元の後継者、3枠6番ホシノウィルム!』

『いつも通りのポーカーフェイス、耳と尻尾も落ち着いています。素晴らしい逃げ足とスタミナを持つウマ娘、G1というこれまでに経験のない大舞台で普段通りの大逃げペースが維持できるのか、注目したいですね』

 

『2番人気はこの子、7枠15番パンパグランデ!』

『大器と目されるこの子は、直近2つの公式レースで連続1着を取っています。惜しくも1番人気を逃してしまいましたが、パドックで見る限り仕上がりも調子も非常に良好。今回もその末脚が冴え渡るのか?』

 

 

 

 実況解説の人たちには悪いけど、うるさいなぁ、と思ってしまう。

 私たちウマ娘は、ただ自分たちの全力を尽くして走り、勝利を目指すだけだ。

 そこでいちいち評価とか偏見を持たれるのは面倒だし、それをまるで公式見解かのように語られると困る。

 そして何より、集中力を乱されるし。

 

「勝つ……」

 

 焦点を、目の前のレーンに集中させる。ただ勝利のことしか考えられなくなるように。

 

 

 

『ゲートイン完了。出走の準備が整いました』

 

 

 

 待っている内に、音が止む。

 レースが始まる気配が、冷え切った心を完全に止める気がして。

 

 

 

『……スタート!』

 

 

 

 ゲートが開く。

 

「ッ!」

 

 スタートダッシュは完璧。

 右方の逃げウマ娘は私の前に立とうとしてたようだけど、あちらが出遅れた時点であり得ない未来になった。

 差は、冷酷に開く。あの子の速さじゃ、もう追い付けない。

 

 

 

『各ウマ娘スタートを切ります。おおっと4枠7番ソワソワ出遅れてしまった! 他のウマ娘を気にしすぎたか!?』

『初のG1の舞台、ウマ娘たちも緊張しているでしょうからね。果たしてどこまで平常心を維持できるでしょうか』

『レースのハナを切るのはやはりホシノウィルム! 再び葉牡丹賞のような独走を見せるのか?』

『他のウマ娘たちも今日のために仕上げてきています。上り坂の多いこのコース、何が起こるのかわかりませんよ?』

 

 

 

 走る。走る。走りながら、後ろの気配を探る。

 私に付いて来ているのは1人きり。足音からして、慣れない作戦で無理に追いすがろうとしてる……いや、掛かっているのか。

 その差は……3バ身よりは遠いだろう。更に開き続けているから気にする必要はなし。

 

 

 

『第一コーナーを越えてレースは中盤に差し掛かります。普段通りの大逃げを見せるホシノウィルムに引きずられたか、例年よりも早い展開。各ウマ娘たちのスタミナはもつのか』

『前と後ろで綺麗に分かれていますね。先行までの子たちはホシノウィルムを追っていますが、差しと追込の子たちは自分たちのペースを保っていますよ。彼女たちの末脚はこの大差を差し切ることができるでしょうか』

 

 

 

 トレーナー曰く、このコースは、大きく分けて5つのパートに分かれるらしい。

 400メートル程度の直線、450メートル程度のコーナー、350メートル程度の直線、500メートル程度のコーナー、そして300メートル程度の最終直線。

 累計すれば、直線とコーナーの距離はほとんど同じくらい。1つ1つの区間だとコーナーの方が長い。

 そしてレース中、3か所の上り坂と1か所の下り坂が挟まる。

 

 ……あぁ、だからトレーナーは、コーナリングと坂路を繰り返させたんだな。

 今の私なら、このコースも問題なく走ることができる。

 

 

 

『ホシノウィルム、綺麗に下り坂を駆け下りていきました! ペースコントロールは完璧と言ったところか!』

『続くキーボードリズムは一度足を溜めるためか、慎重に降りていきます。この判断が吉と出るか凶と出るか』

『後方待機していたウマ娘たちは冷静にレースを観察しています。おっとここでパンパグランデ綺麗に躱してバ群を脱出! 仕掛け準備に入ったか!』

 

 

 

 これが国内最高峰のレースか。

 日本にいるスタミナ自慢のジュニア級ウマ娘たち18人。

 その1人1人全てが、オープンやG3なら簡単に勝てる主人公だ。

 全員が速く、鋭く、重い。

 

 

 

『直線を越えて最終コーナー、ここからの展開で勝負が決まります! 中山の直線は短いぞ、後ろの娘たちは間に合うか?!』

『キーボードリズムたまらず垂れていく、代わりにパンパグランデが位置を上げていますよ!』

『パンパグランデ、ここからロングスパートをかけるつもりだ! 距離はまだ700以上あるぞ、スタミナはもつのか!?』

 

 

 

 後ろから、わずかな威圧感が届く。

 ……今になって、トレーナーの言葉の意味を理解した。

 今日のパンパグランデは絶好調を超え、鬼が宿っている。想定以上の力を使ってくるだろうと、そう言っていた意味が。

 警戒するならその一点。彼女に詰め寄られ、私が暴走してしまうという一点のみだ。

 

 ホシノウィルムは、掛からないわけではない。

 勝ちたいという想いが強すぎるが故に、後ろから距離を詰められることに弱い。ネイチャちゃんとの模擬レースで発覚した事実だった。

 大逃げで走る私の後方、2バ身。そこまで他のウマ娘が迫った時点で、私は動揺し、ペースを上げすぎてしまう。

 模擬レースではそもそもスピードを抑えていたからマシだったけど、ある程度ペースを上げる必要のあるG1レースで、この掛かりは命取りになる可能性がある。

 

 

 

『パンパグランデ伸びる伸びる! ここまで抑えていた足を十全に使った疾走に、先頭までの距離が縮まっていくぞ!』

『他の差しウマ娘たちも抜け出そうとしていますが、垂れてしまった先行の子たちが壁になってしまいましたね。これを見越して先に抜け出したパンパグランデの作戦勝ちと言っていいでしょう』

 

 

 

 迫ってくるのがわかる。

 今の差が何バ身か正確にはわからないけど……多分、音からして7くらいか。

 今もなお、差はどんどん縮まる。その殺意までも感じられるほど、彼女は近くにいる。

 

 これがG1レース。

 決して油断のできない、日本における最強を決めるレースか。

 確かに、これは少し怖いな。偶然が重なれば、負けていたかもしれない。

 

 

 

 ……私のトレーナーが、堀野トレーナーでなければ。

 

 

 

 歩幅を縮め、回転数を上げる。足は、少し重いだけで問題ない。

 

 

 

「行くぞ」

 

 

 

 スパート、開始。

 

 

 

『これは詰め切れるかパンパグランデ、先頭ホシノウィルムとの距離は今や5バ身、4バ身と……いや、ここでホシノウィルムがスパートをかけた!!』

 

 

 

 体に吹き付ける風の抵抗が強まる。

 人の体であることが恨めしい、もっと走ることに特化した姿なら、こんな邪魔なものを受けずに済むものを。

 

 

 

『残り200、ですがこの坂を上りながら加速は……いいえ、これは加速できている! しっかりと加速出来てますよ!』

『ホシノウィルム、キツい勾配を物ともせず加速! スタミナだけでなくパワーも見せつけたホシノウィルム、その差を再び広げていきます!』

 

 

 

 私は、別に頭が良いわけではない。

 レース全体のペースメイクなんて、できはしない。

 トレーナーに教えてもらったこのペースでずっと走り抜けて、残り200メートルで余ったスタミナを全部使ってスパートをかける。

 それがホシノウィルムの走り方だ。

 たとえ残り200メートルの時点で上り坂があろうが、後方からウマ娘が迫って来ていようが、そんなものは関係ない。

 私はただ、確実に勝つために、堀野トレーナーに教えられた走りをするだけ。

 

 

 

『もはやその差が縮まることはない、ホシノウィルム、ホシノウィルムだ! 今世代4人目のG1ウマ娘はこの子で決まりだ、ホシノウィルム今ゴールインッ!

 G1レースにおいてもスパートは健在、いつも通りの大差で実力を証明しました!』

『3戦3勝、G1含め全て大差勝ち。恐るべき蛇がクラシックの王座へ狙いを付けましたね!』

 

 

 

 ゴール板を越えた。

 足を緩める。勝った以上、これ以上走る必要はない。……ゆっくりと、言われた通りに徐々にペースダウン。

 少しずつ、体と心に熱が戻る感覚。

 ……ふぅ、ようやく、終わった。

 

 そして私は、そこでようやく、大歓声が私を包んでいることに気付いた。

 

 

 

「ホシノウィルムー!!」「かっこよかったぞー!」「負けるなー!」

「ライブ楽しみにしてるぞー!」「勝てよー!」「皐月賞頑張れー!」

 

 

 ……なんか、すっごい褒められてるみたいだ。

 いや、前からレースに勝って褒められることはあったんだけど、なんというか……こう、濃度が違う。

 ものすごい量の熱に当てられて、少しびっくりしてしまった。

 

 あ、トレーナー、いた。

 少し探して、関係者用の最前列にいるトレーナーを発見。あちらも私を見ていたらしく、目が合うと「うむ」と言った感じで頷かれる。

 

 ……良かった。少しは、トレーナーのためになれたかな。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 その後、トレーナーに「おかえり」をもらったり、ウイニングライブをやり遂げたり、パンパグランデ? というウマ娘から挑戦状を叩きつけられたり、色々あって……。

 全部終わったら、トレセン学園に直帰することになった。

 中山レース場、そこまでトレセンと離れてないのがいいよね。阪神レース場は移動だけで1日潰れてしまい、全然トレーニングできなくてとても困ったし。

 

 で、トレセンに戻った後はトレーナー室に行って反省会といういつもの流れ。

 ……まぁ反省会とは名ばかりで、今回ここが至らなかった、次回はここを鍛えねばならない、なのでこれからはこういうトレーニングをする、という情報共有がメインなんだけど。

 

 正直な話、少し疲れてはいるんだけど、走った日の内に所感は伝えておきたい。

 感覚は時間が経つと風化して、頼りにならなくなるしね。

 

 

 

 トレーナー室の前まで来て、先導してくれてたトレーナーが立ち止まる。

 

「ん、すまん、ホシノウィルム。電話だ。先に入っていてくれ」

「? はい」

 

 電話が来たからトレーナー室に入れない、ってのは微妙によくわかんないけど、とりあえず私はドアを開けて。

 

 

 

 

 

 

 パンパン!

 

「ホシノウィルム、G1勝利おめでとう!」

「おっめでとー!」

 

 

 

 ……ネイチャちゃんと、そのトレーナーさんに、盛大にクラッカーを鳴らされた。

 

「…………???」

「あ、固まっちゃった……トレーナーさん、どーしよ」

「僕に聞かれても困るな。堀野君?」

「ただの処理落ちだ、問題ない。十秒程待てば動き出すだろう」

 

 ……えっと。

 ここは堀野トレーナーのトレーナー室……だよね?

 なんかクリスマスツリーが置いてたり、壁にリースがかかってたり、全体的に装飾されてたり……。

 それと、でっかい横断幕に「祝! ホシノウィルムG1勝利!」と書かれていたり……。

 色々と変化はあるけど、私とトレーナーのトレーナー室……のはずだ。

 

「……お2人はどうしてここに?」

「あ、戻った」

「堀野君、首謀者として君が説明するべきなんじゃない?」

「む……ふむ。確かにそれも道理か」

 

 トレーナーが私の隣を横切り、先に室内に入る。

 そして、私に向かって手を差し出し、言った。

 

「サプライズパーティ、というヤツだ。

 少し早めのメリークリスマス。……そして、改めてG1勝利おめでとう、ホシノウィルム」

「えっと……私のために?」

「勿論だ。……それと、2人に声をかけたら、喜んで協力してくれた。感謝だな」

「……はい、感謝です、ね」

 

 ちょっとまだ、びっくりが抜けないけど。

 私はトレーナーの手を取り、トレーナー室に入った。

 

「気にしないで。僕としても、縁のあるウマ娘の勝利を祝いたい気持ちはあるからね」

「おめでと、ウィルちゃん! 後でG1どんな感じだったか聞かせてね! 中継は見てたけど、やっぱ1着の子に聞ける機会はめったにないし!」

「取り敢えず、料理は……デリバリー中心で申し訳ないが、揃えてある。お腹が減っただろう、好きなものを好きなだけ食べなさい」

 

 笑って、いる。

 笑いかけられている。

 ……はは、慣れないな。

 

 

 

 温かい。部屋も、料理も、みんなも。

 

 

 

「……ありがとう、みんな」

 

 誰にも聞こえないくらいの小さな声で。

 「私」は、呟いた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 パーティは夜遅くまで続いた。

 

 ネイチャちゃんにG1の様子を聞かれたので「いつも通りのレースだった」って言ったら、何とも言えない微妙な顔をされた後「天才ってみんなこうなのかねー……」と落ち込まれたり。

 お酒を呑んだらしいネイチャちゃんのトレーナーさんが、泣きながらネイチャちゃんの良さを叫んで、当人が真っ赤になって止めたり。

 トレーナーがそれに同調して、「だからお前は折り紙でトロフィーを折れ」と謎の主張を始めたり。

 

 

 

 まぁ本当に色々あって。

 解散する時には、なんだかやり切ったような、でも惜しいような、不思議な心地だった。

 

 

 

 

「んじゃ、ネイチャさんはトレーナーさん送っていくから」

「ごめんなネイチャ……好きだ……」

「あーもう黙ってな、この酔っ払い! ……じゃあね、ウィルちゃん、堀野トレーナーさん」

 

 そう言って、ネイチャちゃんは自分のトレーナーさんに肩を貸して帰っていく。

 

「……さて、こちらも君を送っていこう。寮は敷地内とはいえ、もう暗いからな」

「重ね重ね、ありがとうございます」

「感謝の必要はない、トレーナーとして当然の行為だ」

 

 一見冷たい言い方だけど、堀野トレーナーのこれは、そういう仮面だ。

 トレーナーとして、正しくあろうという仮面。

 彼はそれを被ることで、自分を封印している。

 本当に損なことだと思う。彼の素の顔は、人好きのするものだろうに。

 

 

 

 ……あれ、そういえば。

 歩いている後ろ姿を見て、ふと思い出した。

 

「トレーナー、今回は無事に完走したご褒美はないのでしょうか」

「いいや、ある。今日はパーティもあるので、明日伝えようと思っていたが。

 ……もう決めたのか?」

「…………ある、と言えば、あります」

「ほう? 君にしては珍しく言い淀むな。

 言ってみなさい、俺にできる範囲のことなら叶えよう」

 

 ……なんだか未だに、非日常のお祭り感覚に浮かされている。

 だからこんな恥ずかしいことを、口からぽろりと漏らしてしまうんだろう。

 

 

 

「頭を……撫でてもらえませんか」

 

 

 

「頭? ……ふむ、女性は頭を触られることに忌避感を持つと話に聞いたが。

 まぁ構わない。むしろそれくらいでいいのか?」

 

「はい。ご褒美は、それで」

 

 トレーナーは振り返り、こちらに歩んでくる。

 その姿が、何かに重なるような気がして……。

 

 ぽすんと、頭に置かれた熱源。

 

「良く頑張った。偉いぞ、ホシノウィルム」

 

 ……あぁ。

 自然と瞼が降りた。

 温かな感覚に、心の中で何かが跳ねる。

 

「トレーナー」

「なんだ?」

「これからも、私が勝ったら、こうして……撫でてもらえるでしょうか」

「何を言っている」

 

 瞼を開く。

 そこにいたのは、当然、私の契約トレーナーだ。

 

「君が勝とうが負けようが、望むのなら撫でてやる。

 俺が褒めているのは勝利という結果ではなく、君がここまで頑張ってトレーニングを続け、無事故で帰ってきたことなんだから」

 

 ……そう。それが、トレーナーの答えなんだ。

 

 

 

 やっぱり、お父さんとは違う。

 この人はお父さんじゃない、この世界でただ1人の、私の契約トレーナーだ。

 

 

 

「…………ホシノウィルム。その代わりというわけではないが、1つ、俺からも求めていいか」

 

「はい、何でしょう?」

 

 彼の顔が、悲痛に歪む。

 自分が間違いを犯していると自覚しながら、それでもやるしかないと思っているような……そんな表情。

 今は自分を隠す余裕もないのか、無表情の仮面は外れてしまっていた。

 

「君にはまだ、わからないかもしれない。でも、きっとわかる日が来る。俺がその瞬間を作ってみせる。

 だから、お願いだ。

 いつか、走ることを楽しんでくれ。……俺は、君が楽しそうにレースを走る姿が…………、見たい」

 

 思えば、堀野トレーナーが私に何かを求めたのは、これが初めてだった気がする。

 私の能力を伸ばすために契約を提案したり、トレーニングを課してくることはあった。

 けれど、彼が「自分が見たいから」なんて理由で、何かを求めてきたことはなかった。

 

 ……おかしいかな。

 こんなことに、嬉しさを覚えるなんて。

 

 

 

「……お約束はできません。私には走る楽しさが、理解できませんから。

 でもいつか、あなたの言うその時が来たら……」

 

 言いかけて、ふと思いつく。

 

「……その時は、トレーナーの勝ちですね」

「勝ち?」

 

 こんなの、子供のお遊びかもしれないけど……。

 この時の私は、なんとなく、トレーナーとの間に「契約トレーナーと担当ウマ娘」以外の関係性が欲しいと思っていた。

 

「勝負、ということにしましょう。それなら、敗者は言うことを聞くしかありませんから。

 トレーナーの勝利条件は、私に走りを楽しませること。その時は私、楽しんできます。

 私の勝利条件は……そうですね。それより先に、無敗で三冠を取ること。どうでしょう」

「つまり、君が勝ち続けるなら、菊花賞まで……タイムリミットはあと10か月か」

「はい。その時は……何をしてもらうかは、その時に考えます。乗りますか?」

 

 あぁ、本当に浮かれている。浮かされている。

 お祝いと、欲望と、頭の上の温かさに。

 

「……ふ、くくっ。いいだろう。

 勝負だ、ホシノウィルム」

 

 トレーナーは、ニヤリと笑う。

 底意地の悪い……「堀野トレーナー」らしくない笑顔。

 

 私は案外、その顔が好きかもしれない。

 

 

 







 ようやくタイトル回収できました。長かった……!

 前回のあとがき追記にも書きましたが、そろそろ限界なので、今回が最後の毎日投稿になります。
 以後は本当に3、4日間隔の投稿になります。
 ……まぁ、良いものができたら衝動のままにぽんぽん上げることもあるかもしれませんが。その時はよろしくお願いします!



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、新年あけましておめでとうな話。



(お詫び)
 前回の次回予告、めちゃくちゃ嘘予告になっちゃいました。ごめんなさい!
 訂正しておきます……。


(追記)
 誤字報告を頂き、わざとでない部分は修正しました。ありがとうございました!


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新春わんこそば大食い大会

 本編にわんこそばは出てきません。





 

 

 

 ある日の昼下がり。

 トレセン学園のトレーナー室には、俺がキーボードを叩く音が響いていた。

 今やっているのはデータ収集である。

 次回に出走する弥生賞と、その先の皐月賞。この2つに出走する可能性のあるウマ娘たちのラップタイムや上がり3ハロン、撮影された動画などのデータを引っ張ってきて纏める作業。

 ……ちなみに今日はもろに祝日だし給料も出ないから、いわゆるサービス残業だ。いや残業じゃないし、正確にはサービス休日出勤? あはは、どうでもいい。

 たづなさんには怒られたけど、休日返上で働くトレーナーは多いらしくて、割と簡単に鍵を渡してもらえた。諦めたような表情が印象的だったな。

 

 とはいえ、ひたすら数字を集めて打ち込む作業はちょっとばかり面倒だ。

 強力なウマ娘のデータを集めるだけなら簡単だけど、その程度では足をすくわれるだろう。

 一見してそう強くもないウマ娘が下剋上を見せることは珍しくもないし、そうでなくともバ群の状況が変わればレースの展開は大きく変動するのだ。

 だから、現時点で皐月賞に出走する可能性のあるウマ娘の情報は全て集める。公式レースの動画は全て保存する。何なら噂話だって重要だ。

 それくらいしなければ、トレーナーは自分の担当ウマ娘を勝利へ導けはしないのだ。

 ……ま、俺にできるのはそれくらいって面もありますケド。

 

「ん、んー……」

 

 あー、目がしょぼしょぼする。エアコン付けてるから室内は暖かくて、思わずあくびが漏れそうになるくらいだ。

 今清潔でふわふわのベッドに倒れこんだら、そりゃあもう気持ちいいだろうなぁ……。叶わない願いだけども……。

 

 ……あー、駄目。流石に集中力切れたなこりゃ。

 気分転換に、纏め終わったデータの上に目を滑らせる。

 皐月賞への出走を予定したウマ娘たちの名前。その中でも、俺の目に留まるのは……。

 

「やっぱり、警戒すべきは……テイオーだろうなぁ」

 

 

 

 トウカイテイオー。

 アプリをやった……というか、ネイチャの育成をやったことのある人間なら、その恐ろしさを理解しているだろう。

 育成開始からそう間もなく強制エンカウントする、高いステータスとスキルを備えた負けイベントみたいな存在。

 強いサポートカードを揃えて育成に慣れてくれば勝利を拾えはするけど……それでも安定しない。

 その脚の柔軟さを活かしてするっとバ群を抜け出し、すさまじい猛追を見せる彼女には、恐怖すら感じるほどだった。

 確か固有もいわゆる「速度すごく」系で、発動さえできればかなり強かったはず。……多分。うろ覚えだけど。

 

 

 

 前世でも強力だったトウカイテイオーだが、この世界でもそりゃあ強い。

 むしろ前世アプリはゲームとして成立するようバランス調整されてたんだなって安心するくらい強い。

 彼女の戦績は今のところ、2戦2勝。

 メイクデビューに4バ身差1着、オープン戦に2バ身差1着。

 その数字だけ見れば、ある意味ホシノウィルムの下位互換だが……。

 

 問題は、それらのレースにおいて、テイオーは「本気」ではなかったこと。

 彼女の動向は逐次調べているが、どうにもトレーニングに熱が入っていない。

 今まで自分がレースで一度も負けていないことに慢心している……というか、「自分が出たレースは自分が勝つ」と思い込んでいる節があった。

 地方から来た地元じゃ負け知らず系ウマ娘にはよくあるヤツなのだが、彼女の場合はそれが事実になるくらいに素質が飛びぬけている。

 

 恵まれた血、環境、そして才能。

 その全てを持ったトウカイテイオーは、デビュー前からそりゃあもう大人気で。

 模擬レースに出るたびにトレーナーに囲まれまくっており、そしてほとんどをすげなくフった。

 「自分はどうせ勝つのだから、どんなトレーナーが付いたところで変わらない」。

 これが大言壮語にはならないだけの力が、彼女にはあったのだ。

 

 なので、当然と言うべきか。

 トレーナー間では、この世代はトウカイテイオーの一強であるという説が主流だった。

 彼女の目標とするクラシック三冠も、そう難しいものではないとさえ言われる程に。

 

 

 

 ……が、時はジュニア級6月、状況が変わる。

 ホシノウィルムという唐突に現れたダークホースが、この世代のバランスを一強から二強に塗り替えた。

 そして極めつけは、メイクデビューの舞台が終わった後に見せたアピール。

 その場でステップを踏み、挑発的な目線で上を指すそれ。

 ……本人曰く「その場で思い付いたアピール」らしいが、世間からは見事にテイオーへの挑戦状と見なされたらしい。

 

 で、最初は気にもしていなかったテイオー陣営だが、その後ホシノウィルムがG1で大差勝ちしたことで、本格的にこちらをライバル視し始めたっぽい。

 皐月賞まで、あと4か月。ようやく自分と競り合えるライバルを得たトウカイテイオーは、飛躍的に伸びてくるかもしれない。

 才能の蕾である彼女には申し訳ないけど、是非ともそのまま眠っていてほしいんだけどな。

 

 

 

 ……というか、俺の個人的な想いにはなるけど、テイオーとはあんまりぶつかりたくない。

 アプリでの生意気なガキっぷりは見ていて楽しかったし、結構お気に入りのウマ娘だったんだよ。引けなかったけど。

 でも彼女が皐月賞に出れば、ホシノウィルムか彼女、そのどちらかは地に膝を突くことになる。

 それを想像すると、何とも嫌な気分だ。

 

 勿論俺も契約トレーナーである以上、担当を鍛えるし応援する。

 ……けど、やっぱりテイオーのことは好きだ。人格も能力も。

 だから負けてほしくない。……どちらにも。

 こんな想い、わがままでしかないのはわかってるんだけどな……。

 

 

 

「トレーナー、こちらは準備できました」

 

 トレーナー室の外から聞こえてきた担当バの声に、ふいと顔を上げる。

 壁の時計を見ると、もう昼下がり。彼女との約束の時間だった。

 

「了解、それでは行くか。少し待ってくれ」

 

 こちらとしてもひたすらデータを集める作業に限界を感じていたし、ちょうどいい。

 保存して終了……っと。

 思わずくあっと欠伸が出かけ、とっさに嚙み殺す。

 ……おいおい、俺。油断しすぎなんじゃないか? 仮にも担当ウマ娘が扉の向こうにいるんだぞ?

 

 どうにも最近、ホシノウィルムの前で気が抜ける。

 G1を突破した安心感からか、1年が始まったという実感のなさ故か、あるいは……。

 

 あの日、ホープフルステークスを突破した夜。

 彼女の頭を撫でた時、何かを感じてしまったからか。

 

 ホシノウィルムはいつも無表情で耳も尻尾も動きにくい、感情の起伏の少ない少女。時々笑う顔を見せるのは、あくまで衝動的なもの……。

 それが俺の見立てだった。

 けれど、あの時の彼女は……なんというか……。

 幼気な子供のような、あるいは成熟した女性のような、何とも言えない表情を浮かべてたんだ。

 

 多分……あくまで多分だけど。

 ホシノウィルムは、感情がないわけではないんだと思う。

 ただ、それが表に出ないのか、出さないのか……。

 出さないとしたら、俺と同じように仮面を被っているのだとしたら、それは何故なのか……。

 最近になって、その下を少しだけ見せてくれるようになったのは何故なのか……。

 

 俺にはまだわからない。

 ホシノウィルムという少女は複雑怪奇だ。そうすぐに理解できるものじゃないのだと思う。

 

 ……だが。いつか必ず、理解してみせる。

 俺は彼女の、トレーナーなのだから。

 

 

 

 と、それはそれとして。

 ぴしゃっと頬を叩いて気合を入れなおし、口を開いた。

 

「よし、終わり。行こうか」

 

 パソコンの電源を落とし、立ち上がる。

 

 

 

 今日は1月3日。

 ホシノウィルムと初詣に行く日だった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 こんなことを今更語る必要もないだろうけど……。

 初詣とは、正月に行われる神事。

 日本において神を宿す神社や寺院に赴き、去年1年間を無事に過ごせた感謝を捧げ、今年1年間を無事に過ごせるように祈願する、国民的な儀式である。

 

 人事を尽くして天命を待つという言葉もある通り、運が絡む仕事に携わっている者にとって、こういったイベントはシャレにならない。

 よって、トレセン学園において初詣というイベントは、非常にメジャーなものとなっている。

 一般的に言って、信心深いウマ娘やトレーナーでなくとも取り敢えず初詣には行くし、勝利を祈願しておくものだ。

 俺も例に漏れず、これでホシノウィルムが無事に走り抜ける可能性が1%でも増えるのならと、去年からこの手のイベントには欠かさず参加している。

 

 で、1月1日。

 ホシノウィルムと新年のあいさつを終えた後、「俺は明後日に初詣に行くが、君はどうする」と聞いた結果、彼女は答えたのだ。

 私も同行してもよろしいでしょうか、と。

 ……あれ、一緒に初詣って、シニア級のイベントじゃなかったっけ?

 

 

 

「よし、寒さ対策はしたな。風邪を引かないよう注意して行くぞ」

「私としては、このようなことにトレーナーの少ない自由時間を使っていただくのは、少し申し訳ないのですが」

「構わない、これもトレーナーの仕事だ」

「……そうなのですか? 本当に?」

 

 担当の初詣に付き添うのは、日々のトレーニングと等しく、トレーナーの大事な仕事である。

 ソースはアプリ版トレーナー。どのウマ娘を担当しても必ず初詣には行っていたので間違いない。

 何故かトレーナーの契約書類やマニュアルにそういった記述はないが、恐らくは暗黙の了解というヤツだろう。

 それを察せない程、俺も馬鹿ではないつもりだ。

 

「しかし思いの外、こうして神社へ向かう人は多いのですね」

「ああ、特にトレセンの周辺は多いな。皆が推し……好きなウマ娘の勝利を願って参拝するらしい」

「なるほど、推しのためでしたか。理解しました」

「お、君も推しという概念を理解しているのだな。少しばかり意外だ」

「…………この前、私が推しだという人に会いましたので」

「早朝ランニングの際か? ふむ、応援してくれる地域の方々に感謝だな」

 

 そんな会話を交わしながら、冬の曇り空の下、近くの神社に向かう。

 

 昼下がりに中等部の女子と大人の男が並んで歩く光景は、他所だと事案モノかもしれないが、トレセン周辺では珍しいものじゃない。

 すれ違う人々も、ホシノウィルムの耳と俺のトレーナーバッジを見て事情を察し、過度に見すぎないようにしてくれる、理解のある方ばかりだ。

 ……それでも少しばかり見られているのは、やはりホシノウィルムの知名度の高さ故だろうが。

 

 ウマ娘によるレース興行は、国民的どころか人類的にメジャーなエンターテインメント。

 勿論日本でも非常に高い人気を誇り、クラシック三冠などは全国民が注目すると言っても差し支えない。

 そんな中で彼女の名前は、世代二強……つまりは、今年の飛び抜けて強い2人として広まっている。

 濃い紺色のコートに身を包み、伊達メガネと穴開きキャスケットで軽い変装をしているはいえ、彼女は現在日本で最も有名と言っても過言ではない存在だ。

 そりゃあバレるし、見られる。

 そこばかりは有名税ってヤツで、俺たちがそれだけのことをした以上、受け入れるべきものだろう。

 

 ……いやまぁ、俺ばかり気にしていて、ホシノウィルムは全然意識してないっぽいけどさ。

 前世では普通の会社勤めだったし、こういう視線が気になっちゃうんだよなぁ……。

 

 

 

 この世界には、日本の八百万の神様たちの他に、3柱の神様がいる。

 いわゆる三女神。ウマ娘たちを導く、彼女たちの始祖と言われる謎の存在である。

 元アプリユーザーとしては因子継承を行ってくれるイベントというイメージが強いが、実のところ、この世界で三女神はなかなかに信仰を集めている。

 イメージとしては、良縁と息災、そして勝利を授けてくれる神様という感じで、ウマ娘やトレーナー、一部の熱心なファンたちに拝み倒されているようだ。

 

 学園内にも像があり、そこで祈るとたまに不思議な力が宿ったりするという中央トレセン七不思議もある。

 いやそれ因子継承のことでは……? 中距離もS目指せるかこれ? そう思い、一度ホシノウィルムを向かわせてみたが、残念ながら何も起こらなかった。

 発生には時期が限定されるのか、あるいは何か条件があるのか、現在調査中である。

 

 ……話を戻そう。

 俺はトレーナーであり、ホシノウィルムはウマ娘。

 勿論祈るべき対象は決まっているので、三女神が祀られたトレセン近くの神社に向かったのだが……。

 

「……想像以上に混んでいますね」

「あぁ、俺もここまでとは思わなかった。」

 

 1月3日、三が日の最終日ともなれば多少は人影が減るかとも思ったが、どうやらそんなことはなかったらしい。

 そこは、数えきれない人とウマ娘でゴッチャゴチャにごった返していた。

 流石はトレセンの最寄り。そりゃあ参拝客は多いよな。……ちょっと舐めてたかなー。

 

「……並ぶのですよね、これに」

「並ぶ。……まぁ、耐えろ。これも根性のトレーニングということで」

 

 ホシノウィルムの耳が、ほんの少しだけへなりと垂れる。

 トレーニングジャンキーである彼女からすると、こんな長蛇の列に並ぶことは苦痛なのだろう。

 何せ人でごった返しているということは、それだけパーソナルスペースが狭いということで、即ちスクワットや腹筋などをする余裕がないということだから。

 ……逆に言えば、スペースさえあれば人目も気にせずそれらを始めてしまうのが、この子の恐ろしいところだ。主に外聞的な意味で。

 

「何もレースを走ることだけが君の人生ではない。気の長い話ではあるが、その退屈には慣れていた方が良いぞ」

「……そうかもしれませんが」

 

 納得はいっていないご様子。

 忘れがちだが、彼女も中等部1年の女の子だ。理屈だけで感情を抑えるのにも限界があるかな。

 

 ……いや、以前までの彼女なら、こんな不満すら見せなかったか。

 無表情で言うことを聞いてくれたよな。聞いた上で無視することも多かったけど。

 一応でも「不満を持ってます」というアピールをしてきたのは、何気に珍しい気がする。何なら初めて見たか?

 少しは気を許してくれたってことなのか。だとすれば、トレーナー冥利に尽きるというものだが。

 

「では、この時間は休憩として数える。帰ったらその分きっちりトレーニングを課すので、しっかり休むように」

「了解しました、休みます」

 

 ……実は現金な子なんだなぁ、ホシノウィルム。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 1時間程しりとりをして時間を潰していたら、ようやく賽銭箱の前まで進めた。

 俺は待つのに慣れていたので平気だったが、ホシノウィルムは自主トレ欲を抑えたのと、人混みに揉まれたので、少しげんなりしている。

 いやげんなりって言っても無表情のままなんだけど、やる気が絶好調から好調に落ちている。

 もしかすると、彼女は人混みの中にいるのが得意ではないのかもしれないな。これから気を付けなければ。

 

「……ええと、順序は」

「賽銭を入れる、鐘を鳴らす、二礼二拍手一礼だ」

「詳しいのですね」

「先程調べた」

 

 現代ウマ娘ともなると、あまり初詣に行かない子も珍しくないか。未デビューの子に限るけど。

 俺はというと、堀野がちょっとばかり古い家だったので毎年通っていたが、神や仏なんて信じない不信心者だったので、形だけ祈っていた感じ。

 ……が、いざホシノウィルムを担当するとなると、縁起物に頼りたくなる気持ちも生まれてくる。

 そんなわけで、俺は今年、しっかりと参拝を行うつもりだったわけだ。

 

「お賽銭は、いくらが良いのでしょうか」

「基本的に5円でいい。ご縁がありますように、ということでな」

「了解しました。……トレーナーも5円なのですね」

「何かおかしいか?」

「……これもトレーナーの仕事だからと、千円1万円を平然と投げ入れるイメージがありました」

「賽銭箱にお札を入れるのはマナー違反だからな。流石の俺もそんなことは……。

 ……ん? ああ、そういう意味か。安心しなさい、既に祈祷料として50万円を別に納付している。君の今年の安全は、三女神が守ってくれるはずだ」

「…………ごじゅうまんえん」

 

 ぼんやりと呟くホシノウィルム。

 彼女は案外吝嗇家というか、寒門の出な上に既に両親がいないせいか、かなり財布の紐が固い。

 効力があるかもわからないお祈りに50万円を放り投げる姿は、カルチャーショックの対象なのかもしれないな。

 俺としては、三女神がホシノウィルムに授けてくれたもので得た金銭の一部を返納しているという認識なのだが。

 

 レース自体に金銭は発生しないが、レースの観戦料や物販の売れ行きの一部はウマ娘側に戻ってくる。そして更にその一部がトレーナーに流れてくるのだが……。

 担当がG1に勝ったりすれば、当然ながら人気はすごいことになり、グッズが飛ぶように売れる。

 結果として、トレーナーにも不定期のボーナスという形ですごい金額が入ってきたりするのだ。

 

 はっきり言って、俺たちトレーナーは担当に稼がせてもらっているようなものだ。

 だと言うのにお祈りでけちけちしていたら、それこそ三女神の不評を買うわ。

 

 

 

 さて、鐘を鳴らして二礼二拍手一礼。瞼を閉じて、去年を無事に過ごせた感謝を捧げ、今年も無事に過ごせるよう祈る。

 ホシノウィルムが勝てますように、とは願わない。ただ彼女が無事故で、悔いなくこのクラシック級を走り抜けられますように。

 それと、彼女がいつか……無敗の三冠を取って絶対的存在となる前に、走ることを楽しめるようになりますように。

 

「……終わりました」

「うむ、こちらも終わった。願い事は他人に言うと伝わらないという話もあるので、黙秘するように。

 さ、行こうか。せっかくだからおみくじも引いて帰ろう」

「はい。……おみくじでも、負けません」

 

 そう言って、彼女はくすりと笑う。

 

 最近のホシノウィルムは、何かとこうして勝負事を持ちかけてくる。

 レースでも垣間見える元来の負けず嫌いが、ついに俺にまで発動し始めたのだろうか。

 正直あの冷たい殺意を向けられたらと思うと、ちょっと怖いんだけど……。

 やはりあの「冷」の表情はウマ娘と速さを競わなければ現れないらしく、今のところ俺の平穏は守られている。

 

 ……事務的な会話ばかりだった去年に比べて、彼女との距離が近くなった気がして嬉しいのは、秘密にしておこう。

 これは堀野のトレーナーとしては、出すべきでない感情だから。

 

 

 

 おみくじの結果は、ホシノウィルムが大吉、俺が小吉。

 ……うん、まぁ、今ノリにノってるホシノウィルムに勝てるわけがなかったか。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「それでは、トレーニングを行ってきます」

「手帳の内容を守るように。それから違和感を感じた時点で連絡だ。破ったら3日自主トレ禁止」

「了解しました、失礼します」

 

 いよいよ限界が来たようで、ホシノウィルムは神社の境内から飛び跳ねるように走り出した。

 あとはお守りを買って帰るだけなんだけど、お守りを売っている社務所に結構人が並んでいるのを見てちょっとだけ耳が絞られたので、解放することにしたのだ。

 一応トレーニングのルールとスケジュールを手帳に書き込んで渡しておいたので、無茶はしないだろう。

 しないはずだ。

 ……多分。

 …………大丈夫だよね?

 

「……早く帰ろう。危険だ」

 

 さて、何のお守りを買うべきか。

 勝利祈願は当然だろうけど、あとは無病息災、厄除け、長寿祈願、それに遠出の際の安全を考慮して交通安全……。

 まぁ、金銭で買える縁起物は買っておこう。それで少しでもホシノウィルムの幸先が明るくなるなら安いものだ。

 

「……ん?」

 

 列に並んでいる内、何か騒がしいことに気付く。

 この神社は表口の他に裏口もあるんだけど、そこで何か騒ぎが起きているのが見えた。

 それも生半可なものじゃない。野次馬が密集して、中が覗けない程だ。

 

 喧嘩騒ぎというには人が多すぎる気もするな。第一、こんなめでたい日に喧嘩が起きる程、この辺りの治安は終わってないと思うし。

 だとすれば、事故か事件、あるいは浮かれたアホ……にしては明るい声が多いな。

 何かイベントか? 神社……いや、境内より外だから、屋台が何かやってる?

 そんなことを思っていた俺の思考は、聞こえてきた声によって吹っ飛んだ。

 

 

 

 

 

 

「流石は日本総大将、スペシャルウィーク! すさまじい追い上げだ!」

 

 

 

 ……なんでスペちゃんがここにいる!?

 

 

 







 大食い大会司会「流石は日本総大将(からかい半分)、スペシャルウィーク! すさまじい追い上げだ!(空になったお椀を積み上げるペース)」

 残念ながら、スぺちゃんはあまり本編に絡んで来ません。強すぎるので。
 シニア3年目の大先輩であるスぺちゃんに勝てる可能性のあるウマ娘は、トゥインクルシリーズには3人しかいません。
 今のホシノウィルムじゃ勝てません。主人公末脚で差し切られます。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、迫る弥生と最強の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、修正させていただきました! ありがとうございました!

(追記その2)
 結構大きめの設定ガバが見つかってしまったので、一部表現を変更させていただきました。申し訳ありません……。


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ウマッタラーホシ

 ブレワイ続編の発売日決定に乾杯!





 

 

 

 ウマ娘と生まれたからには、誰でも一生のうち一度は夢見る「地上最強のウマ娘」。

 

 ……いや、地上最強ってどういうウマ娘だよとか、最強の定義は何だよとか。

 ツッコミどころはあるけど、とにかく「最強のウマ娘」というのは憧れの対象だ。

 日本で二番目に高い山は北岳だけどそれはそれとして、やはり誰しも1番には焦がれるものだろう。

 

 何を以て「最強」とするのかは難しいけど、その基準の候補として、クラシック三冠は挙がると思う。

 最も速いウマ娘が勝つと言われる2000メートル、皐月賞。

 最も運の良いウマ娘が勝つと言われる2400メートル、日本ダービー。

 最も強いウマ娘が勝つと言われる3000メートル、菊花賞。

 生涯で1度きり、クラシック級のタイミングにだけ参加できるこれらのレースで、一度も取りこぼさずに1着を取り続けること……。

 これをクラシック三冠と呼び、ウマ娘たちはその強すぎる光に目を焼かれるのだ。

 

 全てが国内最高水準のG1で、距離も1000メートル上下するこれらのレースを欠かさず勝つことは非常に困難。

 故にこそ、三冠を取ったウマ娘は半ば「伝説」のように語られる。

 例えば、もはや幻の存在と謳われる、セントライト。

 例えば、その身で伝説を体現した戦士、シンザン。

 例えば、タブーを破壊した非常識な才能、ミスターシービー。

 例えば、レースに絶対をもたらす永遠の皇帝、シンボリルドルフ。

 ……私、競馬は詳しくなかったんだけど、流石にこの辺は覚えちゃった。授業とか噂話で死ぬほど聞いたし。

 これらの三冠を取ったウマ娘、いわゆる三冠バはやはり最強と名高い。特に最新の伝説であるシンボリルドルフさんなんて、勝利が「絶対」と言われる程だ。

 

 しかしながら、当然こんな疑問も上がってくるわけだ。

 三冠を取れなかったウマ娘や、そもそも回避したウマ娘は、果たして最強とは呼べないのか。

 ただの一度も負けることなく逃げ抜けたマルゼンスキーさんなんてその典型例で、三冠を取っていないウマ娘にだって十分強い子がいたはずだ。

 何を以て最強とするのか、何を以て速いと決めるのか。そのあたりがなかなか難しい問題になってくる。

 

 ……らしいよ。ほぼ全部受け売り。昨日、歴史の先生がアツく語ってたんだ。

 

 

 

 

 

 

「……そうですね。最強ですかー……」

 

 その日の就寝前の数十分、私はハッピーミーク先輩とおしゃべりをしていた。

 話題は、最強のウマ娘についてだ。

 私も無敗三冠を目指すウマ娘、お年頃ってのもあって最強というものを視野に入れ始めた……というわけではなく、単に時間を潰すための雑多な話題である。

 最強とかそんなに興味ないんだよね。私は勝ちたいのであって、勝つための力を周囲に誇示しようとかはあんまり思わないのだ。

 

「……確かに、昔のウマ娘たちはいっぱいいますし、難しそうです。

 ……うーん…………むーん……?」

「いえ、すみません。直接戦えない以上、正確に最強を決めるという前提自体が不可能だと思います。そこまで難しく考えていただかなくてもいいのです」

 

 ……ああいや、実際2人程、ドリームトロフィーリーグで走っている三冠ウマ娘がいるわけで、一部は戦えるんだけど。

 でも、他の2人は既に現役を退いて久しいし、全盛期の彼女たちと戦力差を比べることは決してできない。 

 そしてこれはただの暇つぶしで、そんな厳格に知りたいってわけでもないのだ。

 

「では、現役で最強ではどうでしょう。現在トゥインクルシリーズに残っている現役ウマ娘での最強」

「……おー、それならわかります」

 

 相変わらずおっとりとしたテンポで生きているミーク先輩は、ほんわかと両手を握りしめ、口を栗みたいな形にして……ええと、可愛すぎてよくわかんないけど、多分力説してる? 様子。

 

「……私と同じ世代に、すごく強い5人のウマ娘がいました。

 ……その内の2人は、まだ残ってます」

「そうなのですね。では、その2人が強いと?」

「……いいえ。

 その2人と、メジロマックイーンさんと、それから私が、現役でも強いと思います。ぶい」

 

 ミーク先輩は、激かわどや顔ダブルピースでそう言った。

 

 ……実際のところ、ミーク先輩はめちゃくちゃに強い。

 本格化が終わるはずの4年目以降も伸び続けたという、変わった大器晩成ウマ娘。

 いや変わったで言えば、芝だろうがダートだろうが、短距離だろうがマイルだろうが中距離だろうが長距離だろうが、全く関係なく好走できるという適性の広さが一番だろうけど。

 現在20戦12勝。三冠や連覇といった目立つ記録こそ残っていないが、G1という国内最高峰のレースに4度も勝利している。

 ハッピーミークというウマ娘は、間違いなく強いウマ娘……優駿の1人なのだ。

 

 私がこれを知ったのは、ホープフルステークスの勝利後。

 先輩が得意そうなどや顔で「……ウィルちゃん、お話があります」なんて言い出すから、まーたトレーナーと水族館に行った話かそれ7回目だよと思ったら、とんでもない暴露が降ってきた。

 ただのかわいいモブ先輩だと侮っていた私はひっくり返るレベルで驚いた。というかひっくり返った。ウマ娘の体が頑丈で良かったよ本当。

 

 ……ちなみに。

 そのあまりの適性の広さと強さから、もしかして私と同じ転生者なのではと疑ったけど、どうやら違うっぽい。

 彼女は単純に高い素質を持ち、そして今もなお自分を伸ばすための努力を怠らない、この世界に生きる普通のウマ娘だ。

 あはは。……私みたいなズルで力を手に入れたウマ娘からすると、だいぶ眩しいよ。

 

 ……しかし。

 

「メジロマックイーン……先輩」

 

 マックイーンちゃん、やっぱり最強格なんだなぁ。

 

 

 

 メジロマックイーンちゃんがこの世界にいるって知ったのは、去年の秋。

 菊花賞をマックイーンが獲ったという話を聞いた時だった。

 当時は「確定! マックイーンちゃん存在確定!!」と喜んだものだったが、冷静になって考えると、去年菊花賞に出たってことは私より1年先輩だ。

 直接対決がないことを喜ぶべきか、あるいは接点が少ないことを悲しむべきか、微妙なところだね。

 

 ていうか、マックイーンちゃんが1つ上だとすると、彼女とよく一緒にいたテイオーちゃんも1つ上の可能性が高いんだよね。

 マックイーンちゃんとテイオーちゃんが同年齢だった確証はない。けど、同じ教室にいるシーンあった気がするし、多分そうだと思う。

 となると、テイオーちゃんが怪我をしてなかったら、菊花賞でテイオーちゃんとマックイーンちゃんのレースが見れたのかな。その辺の描写は、正直もうあんまり覚えてないんだけど。

 

 ちなみにマックイーンちゃんと同じく、テイオーちゃんも実在が確定している。

 以前、インタビューの際に「トウカイテイオーをどう思いますか?」と訊かれたことがあったのだ。

 でもそれは、マックイーンちゃんが菊花賞を取って実在が確定した後。

 ……つまり、マックイーンちゃんと同期のはずのテイオーちゃんが、骨折によって最後の一冠を取り逃してしまった後だった。

 なので、「たとえ三冠を取れないとしても、素晴らしいウマ娘だと思います」と答えておいたのだけど……。

 今になって考えると、まだ一冠も取っていないウマ娘が言うには、だいぶ上から目線なセリフだったなと反省してる。メディアの人たちもどよめいてたし。

 あの時はアニメ2期の最推しの実在確定にテンション上がってたからなぁ……。

 

 

 

 さて、ミーク先輩が首をかしげていらっしゃる。そろそろマックイーン先輩の話に戻ろう。

 

「メジロマックイーンち……先輩、ですか」

「……はい。……葦毛の、こう……エイみたいなウマ娘です」

「ミーク先輩は、その方と親しいのですか?」

「……いいえ。レースの前に話すくらいです。……互いに激励し合ったりとか」

「そうなのですか。やはりマックイーンちゃんはかっこ良いのでしょうね……」

「……ちゃん?」

 

 マックイーンちゃんと言えば、やはりあの気高さだろう。

 最初こそテイオーちゃんとの勝負に目が行っていたが、あの……あの人なんだろう、多分メジロ家のおばあ様みたいな人に一喝されて以来、彼女は鬼メンタルになった。

 何を言われようと動じず、ただレースに集中してテイオーちゃんに競り勝つあの姿……! あれを気高いと呼ばずして何と呼ぶのか!

 更には終盤、運命の残酷さに翻弄されるテイオーを傍で支え、最後は涙を流しながら奇跡を見送る展開!

 彼女が再びターフに立った時は、「あぁ、奇跡は起こるんじゃなくて起こすんだ……!」と涙まで流したほどだった。

 

 メジロマックイーン、イズ、最高にかっこ良い。

 きっと今は悩みなんて持たない、最強メンタルのウマ娘として活躍しているのだろう。

 

 ……このトレセンに来てから、ウマ娘は肌荒れとか夜ふかし気味とか太り気味とか、そんな割と普通の悩みを抱えていることを知った。

 でもマックイーンちゃんはそんなこととは無縁に違いない!

 むしろ「体重コントロールもできなくては良いウマ娘足り得ません」とか「余計な趣味を持つ前に、目の前のトレーニングに集中しなくては」とか鬼ストイックなこと言っちゃうような子なんだろうなぁ……!

 仮にケーキを落としたりしても、「あらあら、床さんもモンブランを食べたかったのですね」とか笑っちゃって。……いやそれはだいぶ頭おかしいか。甘いものを食べたがるのはズボンだけで十分だ。

 

「……あー、……うーん、そうですね。レースの前のマックイーンさんは、かっこ良い……ことが多いですね」

「やはりそうですか。欲を言うなら、一度お話してみたいものです」

「……むん」

 

 ミーク先輩はなんか変な表情をしているが、私はマックイーンちゃんの気高い姿の妄想に浸り、それを問いただすタイミングを失ってしまった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 最強の話をしてから三日、合同トレーニングの合間の休憩時間。

 暇を持て余した私は、気まぐれにネイチャちゃんにも同じ話を振ってみた。

 

「ネイチャちゃん、最強のウマ娘って誰だと思いますか?」

「うぉう、いきなり難しいこと聞きますねぇ。まぁウィルちゃんじゃない?」

「いえ世代最強ではなく、現役最強という意味で」

「……この無意識に溢れる自信、今日もキラキラしてんねぇ」

 

 冗談のつもりだったらしく、私の友人は微妙な顔で髪をくしくしといじる。

 ……むぅ、難しい。最近おだてられすぎて、自分が最強と言われることに違和感を覚えなくなってたな。そのせいで、ネイチャちゃん渾身のギャグをスルーしてしまった。

 これはよろしくない。ただでさえ低い私のコミュ力が更に下降してしまう。

 今度言われたら、こう、「いや誰が最強やねーん」と……。いやこれはホシノウィルムのキャラに合わないな。

 「いいえ誰が最強ですかー」……うーん、お笑いに敬語を持ち込むのは難しいよね。

 だからって「私は最強ではありません」とかマジレスしても面白くないしな……。

 

 そんな風に私が頭を捻る一方、ネイチャちゃんも考え込んでいた。

 

「現役最強ねぇ……うーん、どこでも活躍できるってなら、やっぱりハッピーミーク先輩とか?」

「あ、私、ミーク先輩と同室です」

「えっマジで!? うわー羨ましい、色々聞きたい放題じゃん!」

「ミーク先輩はかなりの感覚派なので、参考にするのは難しいかと」

「あっそうなんだ……。やっぱりツワモノは感覚派が多いのかねぇ」

「理論派が大成しにくいわけではありませんが、理論が必要ない程の才能があれば、やはり自然と感覚派になるのかもしれませんね」

「お、自己紹介かな? 羨ましい話ですなぁ」

 

 たははと笑うネイチャちゃん。

 ……うーん、客観的に見れば、ネイチャちゃんだってかなりとんでもない才能あると思うんだけどな。

 

 私だって学生なわけで、日中はクラスで授業を受けたりしてる。……休み時間はいつも気まずくて、ぼっちあるあるの机に顔伏せ作戦で乗り越えてるけど。

 そこで噂話を盗み聞く感じ、この時期でも未勝利戦に勝てないとか、本格化が来ないとか、そういう話はよくあるんだ。

 ……っていうか、今の段階で中央の未勝利戦に勝てるウマ娘は優秀な方なんだってさ。

 メイクデビューは逃したとはいえ、未勝利戦1回目ですぐにデビューして、格上が混じることも珍しくない模擬レースではいつも3着までに収まり続け、この前は2バ身差でオープン戦に勝利したネイチャちゃんは、十分才気に溢れていると思う。……絶対的に見れば。

 

 私? 私はほら、転生チートだし……。チートまで持たされて負けたらそりゃもう恥だって。

 ん? 最初の模擬レースで負けてるだろって? そういえばそうだったねあはは! ……はぁ。

 

 とはいえ、ネイチャちゃんは常に上を見上げる主人公気質のウマ娘。君より下はたくさんいるなんて言っても何の意味もない。

 そんなわけで、私は「どやぁ」と口で言いながらスポーツドリンクを口にするのだった。

 

「うわ、むかつくー。……あと最強と言えば、まぁ、スペシャルウィーク先輩とか?」

「ぐえっゲホっゴホっ」

「えっ何々どした!?」

 

 先に弁解しておくと、流石に私だってバカじゃない。

 アニメに出てた子が他にもいる可能性は予想してた。

 ここが置き換え形式のオリ主モノ世界だとして、置き換えられていないキャラがいるかもしれないってことはわかってるんだ。

 ただ、スペちゃんは私の置き換え対象説があって、私の中では慎重に取り扱わなきゃいけない話題だった。

 それが急に出てきたからびっくりしたのである。

 ……断じて、最近はトレーナーとの関係とか自主トレに浮かれてしまって、この世界の置き換えルールについて考察を忘れてたとか、そんなことはない。ないったらない。

 

「いえ、んんっ! ……すみません、気道に入ってしまって。

 スペシャルウィーク先輩についても、私はあまり詳しく知りません。ネイチャちゃんさえ良ければ教えていただけますか?」

「ほら、ハンカチ。まぁいいけど……って言っても、アタシもあんま知らないんだよねぇ。何せ先輩、ここ1年レース出てないらしいし」

「そうなのですか?」

「ん。噂じゃドリームトロフィーリーグに移籍予定なんだとか。今はそのための調整に時間を使ってるとか、後進に道を譲るために出走を避けてるとか、色々言われてるね。インタビューとかの表舞台にもあんまり出てこないってさ」

「ドリームトロフィーリーグ、ですか……」

 

 トレセンでの暮らしも1年を超えて、結構授業も受けてきた。当然ながら私も、それについて知らないわけじゃない。

 ドリームトロフィーリーグとは、トゥインクルシリーズで成績を上げたウマ娘たちによる、言うならば1つ上のグレードのレース群のことだ。

 新入生はトゥインクルシリーズに集中すべしとのことで詳しくは習わないけど、そこは文字通り夢のレースみたいな感じになってるらしい。前世のゲームで言えばスパロボみたいな感じかな。

 正直あんまり覚えてないけど、確か1期の最後の方にも……何とかドリームみたいな、そういう名前のレースがあった。今思うと、あれはドリームトロフィーリーグのレースだったんだろうな。

 

「あっちはシニア3年目の古豪だからねぇ。じきに私たちじゃ手の届かない天上人になるってわけですよ。……あぁいや、ウィルちゃんならいつか届くだろうけど」

「ネイチャちゃんも届くでしょう」

「いやいやいや、アタシみたいな凡才には気の遠い話ですなー」

 

 そう言いながらも、彼女の目からは微かな闘争本能が垣間見える。

 つまるところ、保険や卑下の言葉を吐いても、それに食らいつこうという意思を捨てていない。いつかはそこに行けるようなウマ娘になるのだという野心と根性に燃えている。

 ネイチャちゃんのそういう前向きさは、非常に私好みだ。主に推し的な意味で。

 

「話戻すと、スペシャルウィーク先輩はめちゃくちゃ強いらしいよ。黄金世代って言われた強豪揃いのヤバい世代で、17戦10勝、G1に4勝だったかな。1回だけ7着になったことを除けば、他16戦は全部3着以内だって」

「詳しいですね」

「……まあね。同じ差しウマ娘として、何か参考になるかなーって思って、トレーナーさんに調べてもらったんだ」

「結果はどうでした?」

「いやぁ無理無理。ありゃもうギフテッドですよ」

「ギフテッド」

「うん、間違いないね。凡百のウマ娘からすると再現のしようがないかなーってさ」

 

 ギフテッド。神に与えられた、人智に及ばぬ才能のことだ。

 前世じゃもっぱら知能を指す言葉だったけど、ウマ娘の多いこの世界じゃ肉体的素質を示すこともある。

 偶然最初から持っていた、覆し得ない差。

 ……そういう意味では、私の「アニメ転生」もギフテッドと呼べるのかもしれない。

 いや、普通の才能と転生特典並べんなよって話だけどね。

 

「あとはそうだなぁ、ウィルちゃんと同じ逃げウマ娘で言うと……」

 

 ネイチャちゃんが言葉を続けようとした時。

 

 

 

「ホシノウィルム」

 

 

 

 ぞっと、総毛立つような声がした。

 

 ……トレーナーの声だけど。

 

 私のトレーナー、堀野トレーナーはそう簡単には怒らない。

 怒るのは、私が自主トレしすぎて事故を起こしたり、ルールや約束を破った時だけ。

 ……では何故今、トレーナーは鋭い眼光で私を睨んでいるのか。

 

「ちょちょ、ウィルちゃん? 何かやっちゃった?」

 

 ネイチャちゃんは焦ったように小声で訊いてくる。

 おぉ、ついにネイチャちゃんもトレーナーの感情の機微がわかるようになったんだね。

 

 トレーナーは無表情の仮面を被ってるけど、ある程度感情が強くなると、それが仮面の縁から溢れ出てくる。

 逆に言うと、溢れ出てない時は感情を荒立てていないというサインだ。わざと怒ったフリする時とか、ここに注目すれば見破れる。

 この辺がわかってくると、堀野トレーナー検定3級に合格できるぞ! やったね!

 ちなみに2級になってくると、無表情な時の間の取り方や言葉のイントネーションから感情を察する必要がある。私は最近、ようやくこの境地に至った。

 

「……どうでしょう、やったことの心当たりはあるのですが、多すぎて」

「もうちょっと私生活どうにかした方がいいねぇそれは! アタシ堀野トレーナーさんの方がかわいそうになってきた!」

 

 ネイチャちゃんと小声で相談している間にも、トレーナーはずんずんと歩み寄ってくる。

 ……あー、怒ってる。結構怒ってるよこの足音。こんな怒ってるの久々だよ。

 無用にネイチャちゃんを巻き込む必要はない。私は断頭台に進むような気持ちで一歩前へ進み出た。

 

「ホシノウィルム。訊きたいことがある」

 

 いやその顔面を努めて無表情で固定してる感じ怖いって!

 いつもは簡単に仮面が剥がれるからこそ、しっかりと張り付いてるのがすっごい怖い!

 

「何でしょう」

 

 トレーナーは私の前で立ち止まると、スマホの画面を見せてくる。

 ……私のウマッター?

 

「認識のすり合わせから始めようか。

 俺は君に、『ファンの方々のためにウマッターを始めろ』と言ったな」

「はい、確かに。なので始めました」

 

 つい一昨日のことだ。

 ウマッターってのは、この世界でメジャーなSNS。前世における青い鳥に近い。

 ウマ娘はアスリートだけど、同時にアイドル性も併せ持つ。

 なので、こうした場所で情報を拡散することも珍しくないのだ。

 

「『ファンが喜ぶような投稿をしろ』とも言ったな」

「確かに聞きました」

「……では何故、君はウマッターをメモ帳代わりにしている?」

「メモ帳代わりにしているつもりはありませんが」

 

 そう言うと、トレーナーは私のウマッターの投稿履歴を見せてくる。

 ……うん、乗っ取られたりしてない。確かに私の呟きだ。

 

 

 

『ホシノウィルムです。ウマッターを始めます』

『6時、起床。体操後、早朝ランニングに向かいます』

『13時、室内ランニング開始。疲労感なし、調子良好。15時になったらトレーナーに指示を仰ぎます』

『アクシデント発生。ランニングマシンが破損、停止。事務室に問い合わせをし、他の機器で再開』

『15時、トレーニング中断。疲労を取り、トレーナー室に向かいます』

『18時まで坂路です』

『19時、学園の施設が使えなくなるまで、レッグプレスなど無酸素運動』

『21時、適宜休憩を挟みながらランニングを行います』

『0時、疲労を確認。ストレッチでクールダウンします。おやすみなさい』

 

 

 

「こりゃ酷い……」

 

 一緒に見ていたネイチャちゃんが呟く。えぇ、そんな酷いかな……。

 

「言い換えようか。誰がウマッターをトレーニング記録帳にしろと言った?」

「ファンの方は、こういったスケジュールの公開を喜ぶのではないのですか?」

 

 前世の私には、アイドルの追っかけをやってた時期もあった。

 その時は推しが何時に何をやっているのか、供給を元に想像してぐへへと楽しんでいたものだ。

 それにアスリート性を兼ね持つウマ娘は、やはりトレーニングのスケジュールもある程度開示するのがいいかなと思ったのだ。

 なので、そういう感じで投稿してみたんだけど。

 

「……まぁ、そういう面は確かにある。だが、例外というものもある」

 

 トレーナーは苦々しい顔で、今度は私の呟きへの反応を見せてきた。

 リプライじゃなく、メンションなども付けずに呟かれたものだ。

 

 

 

『蛇、マジで機械かもしれん』

『この子もしかして、丸一日トレーニングしかしてない?』

『こんなイカれたスケジュール組むトレーナーヤバいでしょ。闇深すぎ』

『「おやすみなさい」から感じる人間性の片鱗。なお他』

『普通にかわいそう。もっと休んでほしい』

『ア、ァ……(これまでに過重トレーニングで事故を起こしたウマ娘たちの顔がフラッシュバック)』

『三冠取る前に壊れそう。それだけ三冠が欲しいのか、トレーナーがやらかしてるのか』

 

 

 

「……私のウマッターの投稿には殆どリプライが来ないので、てっきり人気がないものだと思っていました」

「あれだけ拡散されて、そんなわけがないだろう。ずっとトレーニングの内容しか書かない君に、ファンの方々が引いてしまっているだけだ」

 

 おかしい、こんなはずではなかった。

 前世ではアイドルの「これからボイトレ!」とか「今日はリハーサルだよ!」みたいな呟きに、私含め数えきれないオタクが食いついていたんだが……。

 なんで引かれるんだろ。内容がトレーニングばかりだから? でも私が興味あるのトレーニングだしな。それ以外何を呟けばいいんだ?

 愛嬌か? 愛嬌が足りないのか? 「今日は100キロダンベルを持ち上げるつもりが、間違ってランニングマシンを持ち上げちゃいました!w」とか書けばいいのか?

 ……うーん、実際にやってみると難しい。何書けばいいんだSNSって。インフルエンサーってやっぱりすごいんだなぁ。

 

「どう改善すれば良いでしょうか」

「……ナイスネイチャ、どう思う?」

「え、アタシ? うーん、そうですねぇ……。ストイック路線は変えないとして、数を半分に減らして、1日1から2件くらい日常生活のネタを入れる、とか?」

「よしホシノウィルム、これからはナイスネイチャに運用の仕方を教えてもらうように」

「えっ今アタシ押し付けられた?」

 

 ネイチャちゃんはちょっと呆然としてるけど、私としては友達に教わる以上のことは……。

 ん、ピピピっとアラーム。休憩時間終わりだ。

 

「了解しました、ではトレーニングに……」

「待て、まだ本題は始まっていない」

 

 ……あれ、トレーナーの怒りが解けていないような。

 おかしいな、ウマッターの使い方について怒ってたんじゃ……。

 

「ホシノウィルム。

 先程見たのは、昨日の書き込みだな」

「はい、そうです」

 

「俺は昨日、19時以降の自主トレを許可した覚えはないが」

 

 あっ。

 

「……いえ、」

「どうやら5時間近く、勝手に動いていたようだな?」

「…………その、」

「それも視界の狭い夜間に、勝手に敷地内を抜けて外にランニングに行ったようだな?」

「…………寮長に許可は、」

「取っていないことの裏取りは済んでいる」

「…………、すみませんでした」

 

 逃げ場はなかった。というかこの有能トレーナーが逃げ場なんて見逃すわけがなかった。

 平謝りする私を見て、トレーナーはため息1つ。

 

「すぐにバレる嘘を吐くな。最初から謝れば少しは考えたものを……。

 罰として、3日間自主トレ禁止」

「そんな、無体な……。せめて、1日になりませんか?」

 

 私がごねていると、ネイチャちゃんは呆れたように呟いた。

 

「……アタシ、何見せられてるのかなぁ」

 

 いや本当申し訳ない。ネイチャちゃんもさっさとトレーニング始めたいよね。

 

 

 

 余談。

 後日、ネイチャちゃんに教わった通りにウマッターの使い方を変えてみた。

 朝食の写真をできるだけ映えるように撮って載せたり、友人関係についてちょっとだけ話したり。

 甲斐甲斐しい努力の結果、その反応がこちら。

 

 リプライ量、以前とほぼ変わらず。

 メンションなしの呟きは以下の通り。

 

『人格システム導入されてんじゃん』

『中のウマ娘変わったでしょこれ』

『火消しに必死で草』

『俺たちの蛇がトレーニング以外の呟きなんてするわけないだろ!』

 

 ……おかしい。私、頑張ったのに。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、年が明けてからしばらく経って。

 いよいよ弥生賞という言葉が耳の周りをちらつき始めた頃。

 私とトレーナーの下に、1人の客人が現れる。

 

 

 

「ね、ね、いいでしょー? 模擬レースしようよー!

 そっちも皐月賞出るんでしょ? その試運転ってことで!

 このテイオー様と模擬レースできるなんて、滅多にないことなんだからさー!」

 

 

 

 彼女の名は、トウカイテイオー。

 もしかしたらいるかもしれないと思い、会うことを望んで……。

 そして、共に走りたくはなかった、私の最推しのウマ娘だ。

 

 

 







 ついに無敵の帝王様と邂逅します。
 ホシノウィルムにとって、2期の最推しであり、勝手に夢を借りた大元であり、そして未来のライバル。
 彼女と交わった運命は、果たしてどう転んでいくのか……。



 次回は3、4日後。トウカイテイオーと邂逅する話。



(お知らせ)
 ちょっと久しぶりに、活動報告に載せた小ネタを更新しました。
 今回のお品書きは以下の通りです。
 「(7話)瓦割りについて」 おまけ編の瓦割りの裏話。
 「(9話)なんでこんな大差取れるの?」 ホープフルのちょっとした解説。
 感想返信で触れたこともある内容ですが、気になっていた読者様は、ご確認いただければと思います。


(お詫び)
 読者様にご指摘いただいて、時系列の設定が一部おかしくなっていたことに気付きました。
 そのため、本編にはそこまで関係のないことですが、前回の最後の描写を一部変更させていただきました。
 変更点は、「堀野トレーナーがスぺちゃんを知らない」→「知っていて、ここにいることに驚いている」となります。
 一部読者様におかれましては、困惑させてしまったようで申し訳ありません。
 謹んでお詫び申し上げます。


(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は修正させていただきました。ありがとうございました!


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ガキが……舐めてると足が速くなるぞ

 原作キャラを書く時は必ずアプリのストーリーを読み直してるんですけど、毎回「くそっ可愛いなコイツら……」となってます。





 

 

 

 この世界は、最終的には勝つか負けるかだ。

 レースで競えば、必ず1着と1着以外が生まれる。

 おててを繋いで仲良くゴールなんてのが許されるのは初等部までであり、中等部以上しか入学できないトレセン学園において、そんな八百長は許されないのだ。

 観客が、そして誰より選手自身が求めているのは、互いの技術と肉体を完膚なきまでに使い潰す、血湧き肉躍る死闘なのだから。

 

 ただし、それを見て傷つく者がいないわけではない。

 例えば、それこそ俺のような軟弱者とか。

 全くもって最悪なことに、トレーナーの名家に生まれたくせして、どうやら俺の性格はトレーナーに向いていないらしい。

 

 …………けれど。

 それでも、割り切るべき一線はある。

 俺が堀野のトレーナーに適さないことなど、とうの昔に承知している。

 その弱さを押し殺すためにこそ、俺は仮面を被るのだ。

 

「勝ってこい、ホシノウィルム」

「はい、必ず」

 

 そう言って、俺の担当は外ラチを乗り越え、白線に並ぶ。

 きっと彼女も、彼女自身の感情を押し殺して。

 

 ……俺と彼女は似ているのかもしれない。

 ふと、そんなことを思った。

 

 

「ふーんだ、今日もボクが勝っちゃうもんねー!」

「こうなったからには、やるっきゃないし……!」

「…………寒い」

 

 

 

 そうして、舞台は整った。

 何十人どころか何百人という見物客が見守る中。

 3人の模擬レースが、始まる。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 時は少々遡る。

 

 

 

 そろそろ弥生賞が迫ってきた頃。

 その日の俺は珍しく、ホシノウィルムのトレーニング風景を眺めていた。

 手を付けなければいけない書類は全部処理したし、研究も有用なものは終わっている。

 他にやることもないし、無駄に時間を過ごすくらいなら担当ウマ娘のトレーニングでも観察しておくか、と思っての行動である。

 

 ……とは言っても、トレーニングの観察なんて「アプリ転生」を持つ俺からすればあまり意味のないこと。

 現に今も、ホシノウィルムの残り体力や失敗率、ステータスの上昇具合も見えているわけで。

 コーナーを曲がる彼女を眺めるのは、半ば仕事してますアピールでしかないのだった。

 

 鹿毛を目で追う一方、頭の中ではぼんやりと、これからのことを考える。

 弥生賞、そしてその先にある皐月賞。

 この2つは、去年の年末に出走したホープフルステークスと同じコースを走ることになる。

 ホシノウィルムは既に、出走しなかった者よりも経験を積んでいると言っても差し支えない。

 故に、考えるべきは更なる安定化と……奇策。

 

「……ふむ」

 

 ホシノウィルムは世代二強の片割れ。その注目度は、テイオー以外の誰よりも高い。

 弥生賞皐月賞共に、そこに出走する他のウマ娘たちは、彼女の走りと弱点を研究し尽くして来るだろう。

 G2である弥生賞はともかく、国内で最も注目されるG1レースの1つである皐月賞では、彼女の走りを潰しにくるウマ娘が出てくる可能性が高い。

 

 ホシノウィルムは今まで公式レースで全戦全勝、かつ大差勝ちを続けている。その上今のところは出遅れたことも掛かったこともない。

 一見して隙のないウマ娘。……けれどその実、彼女にも弱点と呼べるものはある。

 

 かつて1度だけ、ホシノウィルムは暴走したことがある。

 ……いや、模擬レースでも抑えることなく走るのはある意味暴走なんだけど、それは置いておくとして。

 ナイスネイチャとの模擬レースで詰め寄られた時、彼女は明らかに無茶なスパートをかけた。

 つまるところ、ホシノウィルムは後方からの圧力に弱く、掛かりやすいのだ。

 そろそろ、その情報を掴んだ陣営が出てきてもおかしくない。そもそもネイチャのトレーナーに口止めもしていないしな。

 

 

 

 ……しかし、詰められた時に焦る、か。

 俺は最初、それをホシノウィルムの勝利への執着故の暴走だと思っていたが……。

 最近になって、それは違うのだと感じ始めた。

 

 ホシノウィルムが勝利に執着しているというのなら、レースに勝てば多少なりとも喜ぶはずなのだ。

 それなのに、彼女は勝った時にも特段喜ぶ様子がない。まるでそれが当然のことであるというように、表情すら変えはしない。

 つまるところ、恐らく彼女は勝利を求めているわけではないのだろう。

 そう仮定すれば、あの狂気的なまでの勝利への渇望に見えるモノが何なのか、予想も付くというもの。

 

 

 

 俺の担当する、鹿毛の小さなウマ娘。

 ……ホシノウィルムは、極端に「敗北を恐れている」のだ。

 

 

 

 勝利を求める。敗北を恐れる。

 この2つは、近いようで全然違う。

 勝利をプラスのモチベーションにしているのではない。敗北をマイナスのモチベーションにしている。

 楽しいから走って勝つのではなく、負けたくないから仕方なく走っているのだ。

 そりゃあレースを楽しく思ったことがない、なんて答えるわけだ。

 彼女にとって、レースとは楽しむものではなく、敗北を避けるために仕方なくやるもの。

 人で例えるなら、皆が面白いから勉強してテストに挑む中、1人だけ成績を下げないためにやりたくもない勉強をやっている、とでも言えばいいか。

 

 しかし、それならテストなんて受けなければいい、という思考になりそうなものだが……。

 彼女がそうしていない以上、何かしら、レースに出走する理由があるんだろうな。

 もしかしたら、テストは受けなければ0点になるように、レースに出ないことは論外だと考えているのかもしれない。

 ……今のところ、この辺は憶測の話でしかないが。

 

 堀野の歴史に、そんな精神状態のウマ娘のデータはなかった。

 彼女の情緒発達の最中に何があったかはわからないが、相当に珍しいケースなのだと思う。

 ……だからこそ、難しい。

 

 敗北を恐れること自体は、いい。それが彼女の個性だと受け入れてもいいと思う。

 だが、走りを楽しめないのは、駄目だ。そんなウマ娘は長続き……いや、最悪の言い方をすれば、「長持ち」しない。

 

 何かしら、彼女が走りを楽しめるようになるきっかけが作れればいいのだが……。

 これがなかなかに難しい。少なくとも、俺のトレーナーとしての立場からでは、彼女の深層に手を伸ばすことができない。

 精々、その可能性のある瞬間を作り出すことで精いっぱいだ。

 

 

 

「……また、主題から逸れたか」

「え?」

 

 この話に関しては、既に考え尽くした。現状では打開できないと、結論を出していたんだけどな。

 

 話を戻して、迫りつつある皐月賞の話だ。

 走り方を潰しに来る、弱点を突かれる……そうは言ったが、恐らく今回の皐月賞において、それができるウマ娘は多くないと思う。

 この時期ならば、まだゲームメーカーならぬレースメーカーを警戒する必要はないだろうし。

 今警戒すべきはむしろ、ワンマンアーミー……。

 

「トウカイテイオー……」

「ん、何?」

「いや、独り言だ」

 

 トウカイテイオー。恐るべき相手だ。

 つい先日も偵察に行ったが、やはり以前に比べてステータスの上がり方が良くなっていた。

 まぁ、わからない話じゃないよね。

 今までは自分より弱い相手しかいなくてやる気が出なかったが、ついに自分に比肩する相手が現れた、と。

 そりゃあトレーニングへ臨む気合いも入るという話だ。

 

「えー何だよぅ、突然名前なんて呼んじゃってさ」

「ただ皐月賞のことを考えていただけだ。気にするな」

 

 トウカイテイオーの恐ろしさは、その安定性だ。

 彼女の現在の戦績は、3戦3勝。1月のオープン戦では2バ身以上の差を付けての勝利を飾った。

 常勝無敗。白星の数だけなら、ホシノウィルムに並んだ形である。

 

 アプリ版では露骨だったが、この世界においても、先行や差し、追込のウマ娘は戦績が安定しにくい。

 バ群に周りを塞がれれば、どうしたって前に出ることができないからだ。

 逃げウマ娘のように、ステータスが高ければほぼ確実に勝利できる方が珍しいとも言えるだろう。

 逃げ以外のウマ娘がその不安定性を解決するためには、囲まれた際にバ群の中から脱出する必要がある。

 ……だが、それを実行するのがどれほど難しいことか。

 

 バ群を抜ける方法は2つ。

 1つ目は、最初にホシノウィルムが走った模擬レースで彼女が行っていたように、敢えてレーンの外側に抜けてバ群を脱出し、大外から一気に捲ること。

 が、この方法はデメリットが非常に多い。一時的とはいえ走る方向が変わることで前方との距離は開くし、そもそも大外は走る距離自体が伸びてしまう。

 いちいち説明しなくてもわかる通り、こんなのはステータスの高さに任せたゴリ押しだ。

 ホシノウィルムのように周りから卓越したステータスを持っていない限り、この方法を取ることはできないだろう。

 ……まぁ実のところ、そういうウマ娘も過去にそこそこいたりするのが怖いところだが。

 

 2つ目。こちらがメインの方法……バ群の中に偶発的に生まれる細い細い合間を通り、一瞬の隙を見逃さず前へ脱出すること。

 自分を取り囲むバ群の状況を把握し、常に時速70キロメートル弱で動くそれらの、次の瞬間を思い描く。

 更にはその中から針に糸を通すような隙間を見つけ、一瞬で方向転換と加速を済ませ、そこに飛び込む……。

 1つ目はもはや困難と呼んでもいいレベルだったが、だからと言ってこちらが簡単というわけでもない。

 状況把握と想像力、判断力、加速力に体の柔軟さ。そのすべてを使って行う、芸術と呼んで差し支えない技術だ。

 

 だからこそ。

 ウマ娘は、マークされると弱い。

 矛盾しているようだが、飛び抜けて強いウマ娘ほど、レースでは苦戦を強いられるのだ。

 特に先行から後方の作戦を取る子は、どうしたって前に出ることができず、バ群に沈んでしまう。

 まさしく、最初の模擬レースのホシノウィルムのように。

 

「皐月賞? あー、やっぱりボクのこと意識してるんだ?」

「ん? ああいや、トウカイテイオーがな」

 

 しかし、マークされると弱いというのは、所詮は常識に過ぎない。

 飛びぬけた才能は、時に常識を破壊することがある。

 トウカイテイオーの才能は、まさしくそれだ。

 無意味な仮定にはなるものの、ホシノウィルムがおらず怪我がなければ、彼女は無敗の三冠を取ることだって難しくなかった優駿なのだ。

 

 おこちゃまな言動からは想像もできない、直感的なレースセンス。

 自分の判断を疑わず、それを迷いなく実行できる自信。

 そして何より、彼女のあらゆる無茶を叶える、天性の柔軟さ。

 まさしく才能の怪物。たとえどれだけバ群に囲まれようと、彼女は当たり前という顔でそこを抜けてくる。

 

 

 

 ……そんな彼女だからこそ、ホシノウィルムには勝てないのだが。

 

 レースの面白いところは、相性だ。

 例えば、トウカイテイオーは、他のウマ娘を操るようなレースメーカーに強い。

 いかに他のウマ娘が動こうと、彼女の才能はその突破を容易にするし、自信の高さから他のウマ娘の動向によって掛かることが少ないからだ。

 

 そしてレースメーカーは、ホシノウィルムに強い。

 追いつかれるだけで掛かってしまうホシノウィルムは、他のウマ娘の動向次第では簡単に潰れてしまうからだ。

 今はステータスに差があるから勝てるだけで、いずれホシノウィルムはこういった手合いに苦しむことになると思う。

 ……いや、そうならないようにトレーニングはしていくけどね。

 

 最後に、ホシノウィルムは……残酷な話だが、トウカイテイオーに強い。

 どれだけ才能があるテイオーでも、ホシノウィルムの圧倒的なステータスには勝てない。何の小細工も必要もなく、ただ純粋な速さだけで、蛇は帝王の先を行く。

 故に。

 

「ホシノウィルムがトウカイテイオーに負けることは、そう起こり得ない。

 けれど、やはり警戒するなら彼女だろうからな」

「…………。ふーん、そーなんだ。このボクにそういうこと言っちゃうんだ」

 

 ……ん?

 あれ、ネイチャってこんな声だっけ?

 なんかいつの間にか隣にいるから普通に話しちゃったけど……そもそも今日って、合同トレーニングないよね。

 なんか喋り方もガキっぽいというか、なんかこう、どこかで聞いたような自信満々感が。

 

 ……ははは、いや、まさかなぁ。

 そんなギャグ漫画みたいなことを俺がやるわけがないだろう。

 いくら手持無沙汰でぼんやりしていたとはいえ、そんなまさか。

 俺はこれでも真面目な方で、ギャグが似合うようなキャラでもないし。

 いつの間にか隣にいたトウカイテイオーに、それとも気付かずに話しかけていたなんて、そんなこと。

 

 恐る恐る横を見る。

 こちらを睨む、不満げな青い瞳。

 リボンで結んだ、ホシノウィルムより明るい鹿毛に、一房だけ垂れた白色。

 その体躯は俺の担当より僅かに大きいくらいで、細く、けれど引き締まっていて。

 子供のように、ぷくっと頬を膨らませている、見覚えのありすぎる顔。

 

「……トウカイテイオー!? 何故ここにいる!?」

「え、気付いてなかったの? うわ、そんな人ホントにいるんだ……」

 

 ……ホシノウィルムにとっては恐らく最大のライバルとなる、因縁の相手だというのに。

 俺と彼女の出会いは、そんな締まらないものだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……恥ずかしい動揺を晒しはしたが、それはそれ、これはこれ。

 切り替えよう、うん。彼女もあんまり面白がってる風じゃないし。

 何より、俺がホシノウィルムの契約トレーナーである以上、突然現れたテイオーに聞くことがあるし。

 別にテイオーに引かれるのが思いの外キツくて、ちょっと涙目になったから話題を逸らそうとしたわけではない。断じて。

 

「ん、ん。それで、何をしに来た、トウカイテイオー。視察か?」

「いいや? ボクは帝王だもん、他のウマ娘を視察なんてしないよ。そういうのはトレーナーに任せてるし」

 

 溢れ出る自信。自分というウマ娘の前には、誰もが平民に過ぎないという最強の自負。

 ……なるほど。どうやらテイオーは、今でもホシノウィルムをライバル視していないらしい。

 意識はしているし、こうして見に来たことからも、面白がっているのは間違いない。……けど、同格、あるいは自分以上だとは認めてない、と。

 

 これは良い情報を得た。

 

 今のトウカイテイオーになら、ホシノウィルムは負けない。

 

「今日はオフだから遊びに来たんだよ。僕に挑戦状を叩きつけてくる、身の程知らずのウマ娘がいるって聞いたからね!」

「ほう、オフだから遊びに。それは羨ましいことだな……」

「でしょー! ふふん、テイオー様は一日オフを許されるくらい、メリハリをしっかり付けるウマ娘なのだ!」

 

 いや、羨ましいのはオフの日にしっかり休養してくれるところだが。

 ウチの担当ウマ娘は1日オフって言ってもいつも通り、っていうかいつも以上にトレーニングに精を出しちゃうからなぁ。

 明日はお休みだからしっかり体を休めるように、って言って別れた2日後、俺の前には体力が更に減ったホシノウィルムがいるわけよ。わかる? この気持ち。

 

「それで、あれがホシノウィルム? ……ふーん、確かに強そうじゃん」

 

 テイオーは、今もなおひたすら走り続けるホシノウィルムを見て、腕を組んで言った。

 今のホシノウィルムは、練習ということで大して速度を出していない。……ウマ娘基準の話だけど。

 それなのに強いって判断ができるんだな。

 やはり強いウマ娘は、ある程度相手の強さを伺えるものなのか。なんかこう、オーラというか、そういうのがあるのかね。

 それとも、とんでも動体視力でトモを見たとか? だったらすごいな、ある意味。

 

「よし、じゃあ模擬レースしようよ模擬レース! テイオー様はいつだって挑戦を受けるのだ!」

「どうしてそうなる。無理だ」

「えーっ何で!? そっちからケンカ売ってきたんじゃん!」

 

 あーこのキンキンきて癖になる声、前世から変わんないなー。

 やはりトウカイテイオーはトウカイテイオー、彼女は俺の知る通りのウマ娘なのだろう。

 

 ……だからこそ、彼女を破らなければならないことが辛いんけどさ。

 

「喧嘩を売ったことは……まぁ、否定はしない。

 だが、今のホシノウィルムに必要なのはレースではなく練習だ。残念だが、皐月賞まで待ってくれ」

「えーっやだやだやだー! 君あの子のトレーナーでしょ? お願いだからさー!」

「諦めてくれ、トウカイテイオー」

 

 テイオーはこんな感じの子だ。

 歳はホシノウィルムと変わらない中等部2年でありながら、甘え上手というかなんというか、こういう時に駄々をこねたり、話を聞かなかったり、精神的に幼い部分がある。

 そして中等部2年のウマ娘にこんな感じに泣きつかれると、当然、世間体が悪い。テイオーのトレーナーは大変だろうな……。

 

 さて、どう説得したものか。何か物で釣るのが楽かな……と、そう思っていたが。

 続くテイオーの言葉を聞いて、俺は少し考えこむことになる。

 

「やだよ、久しぶりに楽しめそうな子見つけたんだもん!

 ね、ね、いいでしょー? 模擬レースしようよー!

 そっちも皐月賞出るんでしょ? その試運転ってことで!

 このテイオー様と模擬レースできるなんて、滅多にないことなんだからさー!」

「む……」

 

 ……楽しそう、か。

 

 

 

 テイオーの挑戦……いや、彼女の視点だとホシノウィルムが挑戦した形だろうが。

 とにかく、彼女との模擬レースを受け入れない理由はいくつかある。

 その中でも一番大きいのは、「テイオーの覚醒が怖い」ってこと。

 

 ウマ娘は稀に、その精神が肉体を超える。ライスで言うところの、鬼が宿った状態だ。

 鬼が宿るだとちょっと長いし、俺はこれを「覚醒」と呼んでいた。

 この状態になると、ウマ娘はステータスを大幅に超えたヤバい走りを見せる。不可能と思うようなことすら起こったりする。

 隠しパラメータとして、やる気が絶好調の上にもう一段階あるようなイメージって言えば伝わりやすいか。

 

 堀野のこれまでの歩みを見るに、これは滅多になる状態じゃない。多くのウマ娘が体験せず現役を終えるくらいだ。

 ただし、一度覚醒してしまったウマ娘は、これ以上ない程の脅威となる。

 

 この前のパンパグランデが良い例だ。

 ステータスはそう飛びぬけていないのに、序盤から明らかにペースキープと位置の調整が頭1つ抜けていた。

 更にバ群を早めに抜け出して仕掛け準備に入る判断力、ホシノウィルムに勝つためにはロングスパートをかけて潰すしかないという理解力、そしてもちろん、それを叶えるのに必要な走力。

 その全てが、パンパグランデの本来のステータスを超えたものだった。

 

 ……ステータスを数値化して見ることのできる俺が言うのは何だが、やはりウマ娘というのは数値では測れないものがあるのだろう。

 幸いなことがあるとすれば、覚醒したウマ娘は明らかにそれとわかることだ。なんかもう、明らかに強そうな雰囲気出てるんだよね。

 

 あれをテイオーに出されたら、下手すりゃ勝てない可能性が生じる。

 それは困る。超絶困る。

 ホシノウィルムが敗北するのは、彼女の目標とか「命がけ」とか、どの側面で見ても避けるべき事態だろうし。

 

 つまるところ、ホシノウィルムの勝率を上げるための道は2つ。

 1つ、ホシノウィルム自体の足りないステータスやスキルを補完する。

 2つ、テイオーのステータス上昇と覚醒を観察し、可能な限り防ぐ。

 ……後者はあんまり取りたくない手段だけどね。フェアとは言い辛いし。

 

 

 

 で、だ。

 覚醒がどんな条件で起こるのかは、正直判然としない。

 でも……多分、事前に限界ギリギリにトレーニングを積んでおくこと、精神をレースただ1点に集中すること、この2点は必須だと思う。

 

 トウカイテイオーは現在、この2つのどちらも満たせていない。

 壊れるギリギリのトレーニングなんてしなくても、彼女はレースに勝てる。

 他のことを考えられない程目の前のレースに集中しなくても、彼女はレースに勝てる。

 あまりにも才能があるが故に、彼女は自分に相応しいライバルを得られず、覚醒できないのだ。

 

 ……そう。これは、彼女がホシノウィルムと正しく向き合うことがなければ、の話だ。

 

 トウカイテイオーのライバルは何かと訊けば、恐らくはメジロマックイーンと答える人が多いだろう。

 だが俺は、テイオーの最大のライバルは別にあると思う。

 それは、彼女自身の怪我だ。

 ……まぁ俺はテイオー引けなかったから、アプリの彼女がどういうストーリーを描くのかはわかんないんだけど。

 ちょっと調べた史実を見るに、トウカイテイオーは何度も骨折し、その度に再起してきたんだろう。

 そして毎度の怪我による成長の停滞と衰退で、周りのウマ娘との差が埋まり、結果としてテイオーは疑似的にライバルを得ていった……。

 というのが、俺の見立てだ。

 正しいとは限らないけど、少なくともウマ娘としてのトウカイテイオーは、今のところその底力を振るうことも鍛えることもしていないからな。一部は当たってるんじゃないか。

 

 ……再起すら難しい骨折を何度も経験して、それでようやく他の名馬といい勝負するあたり、前世史実のトウカイテイオーはとんでもない最強の馬だったんだろうな。

 そしてそのとんでもなさは、目の前のガキもといウマ娘にも引き継がれているわけで。

 だからこそ、彼女が最初に骨折をするレース……確か、日本ダービー。少なくともそこまでは、彼女が覚醒することはないはずだった。

 だがどうだ、今彼女の目の前には、帝王を超えるかもしれない蛇がいる。

 下手にその実力を認識されては、テイオーが覚醒してしまいかねないのだ。

 

 と、そんなことを馬鹿真面目にテイオーに語るわけにもいかないので、無理、と言ったのだが……。

 

 

 

「楽しそう。……トウカイテイオー、君はホシノウィルムとのレースを楽しそうだと思うか?」

「え、そりゃあ楽しそうじゃない? だってあの子速いんでしょ? 速いウマ娘よりもっと速くゴールしてみんなに褒めてもらうの、すっごく気持ち良いし!」

 

 まぁ、褒めてもらう……承認欲求を満たすことが、果たして「楽しい」なのかはわからんが。

 そうか、確かに……自分に近い力を持つ子と戦うことは、ウマ娘の根本にある闘争本能を満たす。

 それなら、あるいは……。

 

 ……だが。どうなんだ。どうする。俺はどうすればいい。ホシノウィルムの勝率が下がってもいいのか。彼女のトレーナーとしてそれでいいのか。信頼を裏切る行為では。

 俺は、一体……。

 

 

『いいか、G1で勝てとは言わん。重賞で勝てとも言わん。

 お前はただ、ウマ娘に寄り添う人間であれ。

 そして同時、彼女を導く灯であれ。

 それが堀野家の、理想とするトレーナーである』

 

 

 

 ……あぁ、そうだ。

 悩む必要はなかったな。

 

 ホシノウィルムがどうあれ、トウカイテイオーがどうあれ。

 俺は堀野に相応しいトレーナーであり続ける。

 それだけだ。

 

「……ふむ。こちらは模擬レースを受けてもいい」

「ホント!? よーし、やるぞー!」

「待て、ただし条件が2つある。

 1つは、一度きりということだ。ホシノウィルムの現状の負荷を考えても、2回以上走らせることは許可できない。

 そしてもう1つは……トウカイテイオー、お前のトレーナーに許可を取ってからだ。どうせ何も言わず来たんだろう」

「げっ、なんでわかるのさ……」

「そりゃあ、俺はお前のことをよく知っているからな」

 

 あ、ヤベ。変なこと言っちゃった。

 

「ふーん、君もボクのファンなの? ま、無敵のテイオー様に憧れる気持ちはわかるけど、君は君の担当を見てあげなよ?」

 

 ちょっと気を使われてしまった……このガキめ、なんだかんだ優しいのが最高に良いキャラしてるぜ……。

 テイオーが自意識過剰で助かった。……いや、ファンってのは一面の真実ではあるんだけども。

 どうかこれからも、そんな感じのお調子者でいてくれよな。

 ……間違ってもスポ根全開で覚醒したりしないでね?

 

「それじゃ、トレーナーに許可取ってくればいいんだね! もうダメって言っても聞かないからね!」

「熟考の末の結論だ、今更覆しはしないさ」

「わかった、じゃあすぐ許可取ってくるから、また後でね~!」

 

 テイオーは走り去った。

 いやまぁ急いだとしても、グラウンドの貸し出しとか体のセッティングとか色々あるし、今日中にはまずできないんだが。

 ……あの楽しそうな笑顔を見れば、野暮なことは言えなくなるな。

 

「さて、ホシノウィルムは……」

 

 振り向いた先、俺の担当バは……。

 いつの間にか、走ることをやめて、ターフの上からこちらを見ていた。

 その表情は、いつも通りの無表情……ではない。

 驚きと、呆然と、恐怖と、焦りの混ざった……マイナスの表情。

 

 

 

 ……え、なんでそんなびっくりしてるの?

 

 

 

 * * *

 

 

 

 流石にあんな顔をされれば「大丈夫か?」と訊いてしまうんだけど……。

 「大丈夫です」と返されれば、それ以上の追及はできなくなる。

 ホシノウィルムがテイオーの何にあそこまで感情を動かしたのかはわからないけど、とにかく。

 

 話は纏まった。

 ベテランであるあちらの主導で模擬レースが組まれることになった。

 勝負の日は3日後。

 ホシノウィルムと、トウカイテイオーと、俺の友人によって「貸しがあるよね?」と怖い笑顔でねじ込まれたナイスネイチャの、3人による模擬レース。

 コースは右回りの2000メートル。

 つまりは、皐月賞に近い条件で、皐月賞に出る世代二強が走る。

 

 ……そんなわけで、観客の数がエグいことになってしまった。

 クラシック三冠を目指すウマ娘たちは勿論、学校に所属するトレーナーも半数以上いるのではないかという量だ。

 

 

 

 あー、この数のウマ娘やトレーナーを前に、手札を晒してしまうんだなぁと。

 俺は内心で頭を抱えるのだった。

 

 

 







 ホシノウィルムは走るのを楽しまないビビリだし、堀野君は勝利より楽しむことを優先させるエンジョイ勢。
 こんなでいいのか主人公ズ。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、恐るべき敵との戦い。



(お知らせ)
 感想で疑問をいただき、活動報告の小ネタに以下追記を行いました。
「(11話)なんでホシノウィルムは「蛇」って呼ばれてるの?」
 ホシノウィルムのあだ名がどこから来たのか、なんで付けられたのか。それと彼女が世間からどう見られているのか、について書いてます。
 もしご興味があれば、ご一読ください。


(お詫び)
 また操作ミスで間違った時間に投稿しちゃいました。ごめんなさい。
 次話からはまた18時投稿になりますので、よろしくお願いします!


(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正しました! ありがとうございました!


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朱に交われば熱くなる

 3行でわかる前回のあらすじ
 ・トウカイテイオーはほのおタイプ
 ・ホシノウィルムはみずタイプ
 ・策謀家のレースメーカーはくさタイプ





 

 

 

 トウカイテイオー。

 無敗の3冠ウマ娘という大きな夢を抱いて、日本ダービーでの怪我さえなければそれを叶えていた、最強のウマ娘。

 何度も繰り返す骨折によりへし折られかけ、それでも多くの人に支えられて立ち上がり、あり得ないと思われた奇跡を起こした主人公。

 

 

 

 私は、彼女が大好きだった。

 

 

 

 昔から創作の消費活動が盛んなオタクだった私は、理屈もなく無双するオリ主モノを嫌と言う程見てきた。

 別にそれらを悪と断ずる気はない。元の世界ではありふれた娯楽だったし。

 ……でも、そういうのってさ、ドラマ性がないと思うんだ。

 最強って、よろしくない。努力や苦悩というフラストレーションのない勝利には、大きなカタルシスが生まれ得ないからだ。

 単に暇つぶしとして消費するのならいいけれど、本当にファンになるためには足りない。そんな完全超人を好きになることは難しい。

 ……いや、まぁ。今や私がその立場なんだけどね。一応私なりに努力も苦悩もしてるので、ひとまず今は流してほしい。

 

 何が言いたいかっていうと、テイオーちゃんはギフテッドな主人公としてはこれ以上ない、色んな努力や苦労をしてきたってこと。

 誰かに負けるんじゃなく、彼女自身の体がその力に耐えきれずに自壊し……。

 それによって今まで培ってきた自信とか目標が崩れていき、進むべき道を見失う。

 そして多くの人に助けられ、困難の中でも必死に立ち上がり、自分の中で見つけたゴールへと突き進む。

 努力も苦悩もモリモリの、これぞまさしく主人公という物語。

 

 ヘイトコントロールとか物語全体の構成とか、小難しいことを論ずる気はないんだけど……。

 とにかくさ。

 トウカイテイオーというキャラクターは、当時の捻くれた私をして、涙を流して応援したくなる健気さとかっこ良さを持っていたんだ。

 

 

 

 だから転生した私は、傲慢にも彼女の無念を晴らそうとした。

 テイオーちゃんが本来果たすはずだった夢を、代わりに叶えようと。

 

 ……今思えば、なんと愚かなことだろう。

 当時は色々と忙しくて、精神的な余裕もなかったとはいえ……。

 せめて、テイオーちゃんがこの世界にいないのか、しっかりと確認してから宣言すべきだった。

 

 

 

「もう知っていると思うが、皐月賞にはあのトウカイテイオーが出る。

 恐らくは君の最大の敵となる存在だ。

 彼女から皐月の冠を奪い取ることが、君の無敗三冠の第一歩となる」

 

 

 

 …………本当、最悪だ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ある日。何の予兆もなく、彼女は現れた。

 ひたすらコーナリングの練習をしていた私の耳に、どこか聞き覚えがあるような声が聞こえたんだ。

 

「ね、ね、いいでしょー? 模擬レースしようよー!

 そっちも皐月賞出るんでしょ? その試運転ってことで!

 このテイオー様と模擬レースできるなんて、滅多にないことなんだからさー!」

 

 ちょっと子供っぽくてクセになる、半角カタカナで表記されそうな声。

 それはどうにも、私の最推しのものにしか聞こえなかった。

 

 でも、どういうこと?

 そっちも皐月賞出る、って何? テイオーちゃんの後輩が出るって話?

 テイオーちゃん、私の1つ上……だよね?

 だってさ、マックイーンちゃんと同期なんだよ……ね? そうじゃないの?

 

 ……あれ、待って。

 確か前世アニメのネイチャちゃん、菊花賞で「トウカイテイオーがいればなんて言わせない!」って言ってた……よね。

 菊花賞に出ることができるのは、クラシック級の時だけだ。

 ……つまり、ネイチャちゃんがクラシック級だった時、テイオーちゃんもクラシック級だった。2人は同期ってことにならない?

 それで、えっと、それでネイチャちゃんは私と同期だから……。

 

 

 

 …………私は、テイオーちゃんと、同期で。

 …………私が勝てば、無敗三冠という彼女の夢は、破れる?

 

 

 

 いつの間にか、足は止まっていた。

 ただわかったのは、私が皐月賞でテイオーちゃんと戦う、ってことだけ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 どうしよう。

 

 私は、レースの中じゃ手を抜けない。あの冷たい感覚に凍えた瞬間、本気で勝ちに行ってしまう。

 皐月賞に出走したら、私は……テイオーちゃんに、勝ってしまうかもしれない。

 私は、ホシノウィルムは、強い。そりゃあ転生チートウマ娘だもの、強いに決まってるんだ。

 

 一緒に話したこともないし、テイオーちゃんに勝てるのかはわからないけど……。

 ……いや。

 ホシノウィルムは負けられない。

 皐月賞に出るのなら、私はテイオーちゃんに……勝つ。

 

 でも、私が勝ったら。

 テイオーちゃんの夢は、そこで破れてしまう。

 

 

 

 テイオーちゃんの叶わなかった夢を叶えようと、無敗三冠なんて言い出して……。

 それなのにこの手で、テイオーちゃんの夢を……潰す?

 そんなの……そうなってしまったら、とんだ間抜けだ。何のためにここまで走ってきたんだ。

 

 

 

 どうしよう。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。

 

 私はどうすればいい?

 

 出走回避する? でも、そんなことをしてしまえば、どうなる。

 堀野トレーナーにとんだ悪評が付く。それだけはダメだ。

 あの人に迷惑はかけられない。ここまでずっと迷惑をかけて、こんなに助けてもらってるんだぞ。

 

 自分で骨を……折る、とか?

 自分で足の骨を折れば、私は絶対に出走できなくなる。事故ってことにすれば、悪評も少なくなるか。

 ……でも、悲しむ、よね。

 スズカさんやテイオーちゃんの怪我は、覚えてる。あの時の沖野Tの狼狽も。 

 トレーナーに、あんな顔をさせたくはない。

 私の選択であの人を悲しませるなんてことは、あってはならない。

 

 ……でも、じゃあ、だからって、テイオーちゃんの夢を破る?

 そんなの……。

 

 

 

 どうしよう。

 

 お父さん。……トレーナー。

 

 私は、どうすればいいの?

 

 

 

 * * *

 

 

 

「もう知っていると思うが、皐月賞にはあのトウカイテイオーが出る。

 恐らくは君の最大の敵となる存在だ。

 彼女から皐月の冠を奪い取ることが、君の無敗三冠の第一歩となる。

 ひいては2日後、トウカイテイオーとの模擬レースを組んである。備えるように」

 

「あの、トレーナー」

 

「何だ、ホシノウィルム」

 

「……いえ、すみません」

 

 何も言えない。言いようがない。

 

 今更皐月賞を回避したい?

 そんなことを言い出せば、まず間違いなくトレーナーさんの名に瑕がつくだろう。

 こんなに有能で、仕事もできて、ついでにイケメンで、考え得る限り最高のトレーナーだというのに、何故かおかしな悪評ばかり広がっている堀野トレーナー。

 この上、私のせいで「過重なトレーニングを積ませた結果、目標である皐月賞を回避させたトレーナー」なんて悪評が流れることは絶対に許されない。

 

 じゃあどうするの? 他にテイオーちゃんと戦わなくていい方法は?

 

 トレーナーの名に瑕を付けず、悲しませず、皐月賞を回避する方法は?

 

 

 

 ……いくら考えても、出てこない。

 

 

 

「ホシノウィルム。今日はもう休みなさい。……ああいや、外出を許可する。好きな場所で遊んでくるように」

「……はい、すみません」

 

 

 

 2日間、ベッドの上でどうすべきか考え続けたけど……。

 結論は、出なかった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ついに模擬レースの日が来た。

 だと言うのに、私の精神状態は酷いまま。

 目の前のことに集中できない。思考はすぐに停滞して、どうすればいいかってとこに戻ってくる。

 文字通りの絶不調。こんな状態でレースを走るなんて、最悪の状況だ。

 

 アスリートは自分の体調も管理してこそ、だ。1人の競走ウマ娘として恥ずかしいわ。

 その上、私には専属のトレーナーが付いてるんだぞ。普通のアスリートよりも遥かに管理しやすいはずなのに。

 ……あーもう、これでも元大学生だぞ! 他の中等部と同じレベルで落ち込んでてどうするよ!

 

「すぅ……ふぅ」

 

 大きく深呼吸。

 切り替えろ。悩みは後に回せ。

 今は……勝つことを考えよう。私は負けるわけにはいかないんだから。

 

「おりょ、ウィルちゃんどうしたの。なんか顔色悪いね」

「ネイチャちゃん……いえ、気にしないでください」

 

 1人で深呼吸する私に声をかけてくれたのは、友達のナイスネイチャちゃん。

 ネイチャちゃんのトレーナーさんの計らいで、彼女も今日の模擬レースに参加することになったらしい。

 

「んー……わかった、そう言うなら。

 改めて、今日はよろしくね。アタシなりに健闘させてもらうからさ」

 

 その瞳には、ギラリと鈍い光。

 私に向けられたそれは……思わずレースの瞬間を思い出させる、敵意だ。

 

 ……あぁ、背筋が冷える。

 

 ちょっとだけ、冷たい感覚。

 レースの時のそれと比べれば僅かなものでしかないけれど、おかげで思考が凍てついた。

 

 そうだ、何を考えていたんだ、私は。

 ホシノウィルムに敗北は許されない。

 目の前にいるのは、ライバル……競走相手だ。

 油断するな。他に思考を割くな。

 

 瞼を閉じ、しばらくして、開く。

 荒れていた思考が軌道に乗る。余計なものが抜け落ちていく。

 あくまで一時的な平静でしかないけど、今この瞬間にはありがたい。

 

「はい、よろしくお願いします。私も全力で臨みます」

「うん、お互い頑張ろ。…………駄目かぁ」

 

 握手を交わした後、ネイチャちゃんがボソリと何か呟いていたのは、よく聞き取れなかったけど。

 

 ありがとう、ネイチャちゃん。

 その威圧感のおかげで、万全の状態で……テイオーちゃんとのレースに臨めるよ。

 

 

 

 ……言葉を濁さず言えば、ネイチャちゃんは今回のレースにおいて、ちょっとばかり実力不足だ。

 私とテイオーちゃんに比べれば仕上がりに欠けるし、これといった一芸も持っていない。

 勝てる可能性は……ないだろうな。私は負けないし、仮に私が負けるとしてもテイオーちゃんが勝つと思う。

 

 ネイチャちゃんのトレーナーさんにとっても、今回のネイチャちゃんの参加は、いわば限界への挑戦なのだろう。

 私とテイオーちゃんという双璧を相手に、どこまで走ることができるか。

 それを見て、これからのネイチャちゃんのローテーションを調整する、といったところかな。

 

 ネイチャちゃんは私から見るに、G1に出走するだけの力は十分備えていると思う。

 けれど、G1に勝てるかとなると、わからない。

 G1級ウマ娘ではあるけど、G1ウマ娘になれるかは……微妙なところかな。

 

 ……まぁ、あれ以来模擬レースとかしてないから、一緒にトレーニングしてる時の調子を元にした判断になるけどね。

 そういう意味では、私は今の彼女の実力を正確に知ってるわけじゃないんだよな……。

 

 

 

「しかし、ついにウィルちゃんとテイオーの模擬レースが実現しちゃったかぁ。

 見物客も多いし、こりゃあ緊張するな~。他人事じゃないけどさ」

「……そんなに注目度があるでしょうか」

「はへ? ……えと、ウィルちゃん、周り見えてる?」

 

 周り?

 軽く視界を動かす、と……。

 

 人。ウマ娘。人人ウマ娘人ウマ娘ウマ娘ウマ娘人。

 ウマ娘人ウマ娘ウマ娘人ウマ娘人ウマ娘ウマ娘ウマ娘人人人ウマ娘人ウマ娘ウマ娘人ウマ娘人ウマ娘ウマ娘ウマ娘人人ウマ娘人ウマ娘ウマ娘人ウマ娘人ウマ娘ウマ娘ウマ娘人。

 

 私たちの走るコースの周りは、多くの人とウマ娘たちに囲まれていた。

 ……は? なにこれ?

 

「……ええと」

「あー、やっぱ見えてなかったか。なんかウィルちゃん、心ここにあらずな感じだったしね」

「そう、見えましたか?」

「ん、ぼーっとしてたって言うか、何か考えてるのかなーって」

 

 ……それは、マズいな。

 私の仮面から、隠すべき感情が漏れ出てたか。

 あれだけ頑張って培ってきたポーカーフェイスが保てていなかったなんて、不覚にも程があるぞ。

 転生者とかそういう類の情報は漏れていない……と思いたいけど。

 あーもう、ホントに恥ずかしい。私としたことが……。

 

「んで、ありゃ観客だよ。みーんなウィルちゃんとテイオーを見に来てる。

 何せ世代二強が、皐月賞に近い条件でぶつかるんだもん。まだ2か月あるとはいえ、皐月賞の結果が見れるようなものだもんねー」

「あぁ、そういう……」

 

 なるほど、観客か。

 模擬レースの開催は、大体の場合どこからともなく噂で広がる。

 そしてその参加者の人気に応じて、野次馬……もとい、観客たちがレースを見に来るのだ。

 確かに、私とテイオーちゃんのレースとなれば注目度は高いか。

 

 ……あー、しかし。

 年末のG1レースである程度振り切れたけど、やっぱり視線には慣れないな。前世オタクの身としては、たくさんの人に見られるのは、ちょっと怖い。

 思考を集中させる「寒い」感覚がなければ、気が動転して調子が狂っていたかもしれないな。

 

「問題はありません。誰が見ていようと、私は全力で走るだけです」

「……うーん、そっか。そうだね~」

 

 ……? 今日のネイチャちゃん、なんか反応が鈍いような?

 

 

 

 それからいくつか話している内、私たちに近づく人影があった。

 

「おはよー! 今日は良い天気だし、走りやすそうだねー!」

「っ……おはよう、ございます。初めまして、トウカイテイオーちゃん」

「おはよう、テイオー。相変わらず元気だねー」

 

 振り返った先にいたのは、小柄な鹿毛のウマ娘、トウカイテイオー。

 私の、最推しの少女だ。

 

 思わず言葉に詰まってしまった。

 推しに突然声をかけられると心臓に悪い。しかも彼女は……。

 ……いや、今は、余計なことを考えちゃ駄目だ。

 今日の彼女は、私の競走相手。

 それ以上でも、それ以下でも、ない。

 

「今日はよろしくお願いします、テイオーちゃん」

「うんうん、礼儀正しくて結構結構! よろしく、蛇ちゃん!」

「蛇ちゃん……」

 

 なんか私が蛇って呼ばれてるのは知ってたけど、まさかテイオーちゃんにまでそう呼ばれるとは。

 蛇、蛇か……。特別嫌いってわけではないけど、良いイメージのない名前だな。

 まぁ、そう呼ばれてる以上覆しようもない。受け入れるしかないだろうけど。

 

 ちょっと落ち込んで黙り込んだ私をしり目に、テイオーちゃんとネイチャちゃんは話し始めた。

 

「てかネイチャ、ホントに参加するの? ボクと蛇ちゃんの走りに付いて来れるの~?」

「まぁ、アタシなりに頑張らせてもらいますよ。そっちこそウィルちゃんのペースに付いて行けるの? 遅れてたら追いつけなくなるよ?」

「ふふーん、無敵のテイオー様に不可能はないのだ!」

 

 ……2人は元から知り合いだったみたいで、テイオーちゃんの言葉は挑発的でありながら、どことなく親し気だった。

 一方でネイチャちゃんの方は、飄々と受け流して返す感じ。

 

 ……うーん、なんか今日のネイチャちゃん、温度感が微妙にいつもと違うような。

 こう、なんだろう、いつも平熱なネイチャちゃんなのに、今日は……表面が冷たい、みたいな。

 本人が言うように、緊張してるのかな。わかんないけど。

 

 

 

 それから間もなく、私たちはそれぞれのトレーナーに呼ばれた。

 どうやら今日の打ち合わせが終わったようで、これから各陣営で作戦会議だ。

 グラウンドの片隅でトレーナーと2人、誰にも聞かれないようにこそこそと話し合った。

 今日のコース、相手、気を付けるべきこと、そして作戦。

 

 そして。

 

「ホシノウィルム。当然のことを言うようだが、トウカイテイオーに気を付けろ。

 そしてトウカイテイオーの向こうにいる、ナイスネイチャにも」

「……? はい、了解しております」

 

 よくわからないことを言われて。

 最後に。

 

「勝ってこい、ホシノウィルム」

 

 勝ってこい、か。

 勝つ。テイオーちゃん、悪いけど私は勝つよ。

 ……少なくとも、今日、この時は。

 

「はい、必ず」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 スタートラインには、既に2人のウマ娘たちが並んでいる。

 

「ふーんだ、今日もボクが勝っちゃうもんねー!」

「こうなったからには、やるっきゃないし……!」

 

 2人は既に闘志を漲らせている。

 ついに抱え込んだものが爆発したのか、明らかに緊張しているネイチャちゃんに対して、テイオーちゃんはどことなく余裕の表情。

 テイオーちゃんにとっては今日のこれも、いつも通りの模擬レースなんだろうね。

 共に走るのが私であろうと、他のウマ娘であろうと変わらない。

 いつだって全力で走れば自分が勝つのだという、不遜な余裕がチラチラ漏れている。

 すごいな、その自信。やっぱりこの子は、怪我さえしなければとんでもないウマ娘だったんだろう。

 

 それでも、私が勝つけど。

 

 スタートラインに並ぶと、ぞっと、冷たい感触。

 ……あぁ、始まるんだ、レースが。

 

「…………寒い」

 

 寒い。冷たい。心が凍り付く。

 浮ついた考えは全てなくなって、意識は細く鋭く、目の前のレーンへと集中していく。

 私は、負けられない。ホシノウィルムは負けてはならない。だから……。

 

「勝つ」

 

 待っている内に、スターターの役を買ったテイオーちゃんのトレーナーがフラッグを持ち上げた。

 

 ……。

 …………。

 

 振り下ろされた、今っ!

 

 誰よりも早く駆け出す。

 スタートダッシュは、今の私からすれば完璧なものだった。

 勢いそのまま加速。全力とまでは言えないまでも、ある程度のハイペースだ。

 

 まずは、このままテイオーちゃんを引き剝がす。

 

 

 

 トウカイテイオーちゃんは、強い。

 これまでと同じペースで逃げては、スタミナを保たれて最後に差し切られる……ことはないまでも、接戦になる可能性がある、らしい。

 だから、最初からハイペースで飛ばす。

 私ですら終盤にスタミナの底が見えてくるくらいの超大逃げだ。

 そうすれば、負けん気の強いテイオーちゃんは同じくペースを上げてくる……らしい。

 そうしてレース全体のペースを速めてしまえば、全員のスタミナが削られて、最後にスパートをかけることができなくなる。

 ……結果として、テイオーちゃんの末脚を潰すことができるのだ。

 

 ホシノウィルムとトウカイテイオーを比べた時、前者が圧倒的に勝っている点は、スタミナだ。

 だからこうしてペースを速め、テイオーちゃんに末脚を使わせない。消耗させきる。

 今回トレーナーさんが教えてくれた、これまでになく緻密な「確実な勝ち方」の一部だ。

 

 

 

「この辺りか」

 

 第1コーナー、離れ切る前に後方2人の足音を聞く。

 

 実は、これも転生特典なのか、私はウマ娘の中でも特別耳が良いらしい。

 ……というか、レースになると遠くの音まで聞き取れるようになるのだ。

 理屈は知らないけど、これも「寒い」感覚と同じ、「そういうもの」だ。深く考えても答えは出ないだろう。

 

 地味な能力だなとは思うけど、これがなかなかレースで有用。

 ある程度全力で走りながらでも、背後10バ身程度までのウマ娘の足音が聞き取れる。

 その調子とかテンポ、踏み込む音で、誰の足音なのか区別することも可能だ。

 ……とはいえ、正確にわかるのは5バ身程度までで、それ以上となると最大1バ身くらいズレが生じることもあるし、あまりにバ群が固まってると勿論わかりづらくなるんだけど。

 前を走りながら、振り返ることなく後方の状態を確認できるのは、実のところ、かなり便利だ。

 

「さて」

 

 現在の、位置関係は。

 5バ身程度後方に……テイオーちゃん。小気味良く無駄のない、綺麗な音だ。

 そして……ん?

 テイオーちゃんの足音のすぐ後ろに、もう1つ足音。こちらは少し無理をしているのか、どことなく荒れた足取りだ。

 6バ身後方……いや、ほとんどテイオーちゃんの背後ピッタリに、ネイチャちゃんがいる?

 

 おかしいな。基本的にテイオーちゃんは先行、ネイチャちゃんは差しの作戦を取るという話だった。

 今のネイチャちゃんの位置は、あまりに前のめりだ。掛かった……にしては、テイオーちゃんに張り付きすぎてる。マークする作戦か?

 ……まぁいいか、気にする必要はない。どっちにしろ、彼女たちのペースが速くなればなる程私は有利になる。このまま潰れてくれれば一番楽だ。

 

 そんな2人に対して私は、スタミナ配分を前半に寄せた……つまるところ、今までと違って普通の大逃げウマ娘のような走り方をしている。

 このまま自由に走れれば、減速なくゴールできる予定。

 他の2人もまともなスパートはかけられないので、順調にいけば何事もなく勝てる……ハズ。

 

 すぐさま、背後の足音が聞こえなくなった。

 自分の立てる足音が邪魔で、10バ身離れるとどうにも判別できないんだよな。

 ……逆に言えば、もう背後10バ身以内には競走相手がいないということで、安心するんだけど。

 

 

 

 レースはつつがなく進む。

 何の支障もなく、背後から詰め寄る足音もない。ただ一定のペースを守って走るだけの独走。

 徐々に痛くなる肺や重くなる脚に活を入れ、ひたすら前を目指す。

 600、800、1000。

 ……変化があったのは、1200メートル地点。

 

 来た。……来た?

 

 背中に威圧感を感じる。今から詰め寄るっていう敵意だ。

 しかし、早すぎる。

 まだ800メートル残っているのに。ロングスパートをかける気? それとも掛かっているのか?

 少し重たくなっているけど、それでも地を滑るような軽やかな足取り。

 これは間違いなく、テイオーちゃんの足音だ。

 

「馬鹿な」

 

 おかしい、違和感しかない。

 トレーナー曰く、テイオーちゃんのスタミナは現状驚異的なものではない。むしろネイチャちゃんの方が高い、という話だったのに。

 当然の話だが、ハイペースでの疾走はそれだけスタミナを消耗する。トレーナーのレースプランだと、この模擬レースでトウカイテイオーは100メートル前後しかスパートできない設計だった。

 たとえ後先考えず、公式レース並みの本気を出しても300メートル。それがトレーナーの言っていた上限。

 それが、800メートルのロングスパート?

 何が起こってる?

 

 残りの距離と、そしてテイオーちゃんとの距離が、縮んでいく。

 700、600……500の時点で、4バ身。

 マズいな。どうする? こちらも暴走する前にスパートをかけるか?

 この距離関係を維持する、つまりテイオーちゃんと同速ならば、500メートルは……。

 ……いや、悩む暇はない。

 スパート開始。

 

「……くっ」

 

 後方からテイオーちゃんの声。

 距離は一定に保たれ、開きも縮まりもしない。そのことに気付いたのだろう。

 

 残り300。問題ない、これなら問題なく逃げ切れ、る……?

 

 

 

「足音?」

 

 

 

 聞こえた。10バ身後方から迫ってくる、誰かの……ネイチャちゃんの足音。

 嘘、なんで?!

 なんでネイチャちゃんが、テイオーちゃんだって詰め切ることのできないこのスピードより速いの?!

 9バ身、8バ身……どんどん縮まる。

 でも残りは250、この距離なら問題なく……!?

 

「負ける、かぁー!」

 

 テイオーちゃんが更に加速する。

 まさしく根性のスパート、そこまで速度は速くならないけど……それでも、少しずつ私との差は縮まっていく。

 マズい、2バ身まで詰められるわけにはいかない。

 勝利の最低条件を破ることになる……!

 

 考えろ、考えろ、考えろ。

 ゴールとテイオーちゃんとの距離、それぞれの縮まり方、足の具合……。

 打開策は、他にないか。

 

 ……ああ、駄目だ。

 ……どうしようも、ない。

 

 

 

 このレースが始まる前に、トレーナーさんから聞いた、確実に勝つ作戦は3つ。

 

『テイオーを潰せ。完全にスタミナを切らすため、序盤からハイペースで走ること』

『いざとなれば、後方2バ身まで詰められる前にスパートをかけろ。その際、距離を離すのではなく、維持するように意識しろ』

 

 そして、最後に。

 

『……もしもどうしようもなくなり、2バ身差まで詰められると思った時は、使い切ることを許可する』

 

 ……本当に、どうしようもなくなった。トレーナーの想定通りに。

 このレースで、後方で何が起こったのかはわからない。けれど、トレーナーはこの事態を警戒していた。

 ……つまりは、あくまで想定の内だった。

 ならば、問題ない。その上で、トレーナーは言ったんだ。

 

『言ったアドバイスを守りさえすれば、君は……必ず勝てる。

 俺を信じて走ってくれ、ホシノウィルム』

 

 もちろん信じます。

 私が、この命を託した相手だもの。

 

 

 

 足音を聞く。

 テイオーちゃんは3バ身。その差はなお縮まっている。このまま根性で走り切るつもりか。

 そしてネイチャちゃんは……6バ身。勢いが止まらない。テイオーちゃんよりもなお速く、私に迫ってくる。

 

 どうしようもなくなった。

 このままスタミナをセーブしていては、勝てない。

 

 だから、本当に使い切る。

 

 脚に、僅かに残していた力を入れる。

 本当はこの場で見せるべきじゃなかった、私の伏せていた札の1つ。

 でも、ここで勝つにはこれしかない!

 地に足を付け、渾身の力で、蹴るッ!

 

「うそっ!?」

「……くっ」

 

 一気に差を広げる。

 悪いけど、これで、……終わり!

 

 

 

「……ッ!」

 

 

 

 ゴールラインを、1着で走り切る。

 

 なんとか……本当になんとか、勝てた。

 

 

 

 すぐさま足を緩め、50メートルも行かない内に立ち止まった。

 膝に手を付いて、ゆっくりと熱が戻って来るのを感じながら、必死に息を整える。

 

「はぁーっ、はぁーっ……く、ごほっ……」

 

 キツい。疲れた。視界が歪む。胸が痛い。脚もなんかグチグチと、嫌な感じの脈動をしてる。

 ネイチャちゃんとの模擬レースの時程じゃないけど、全部出し切ってしまった。

 ……いや、あれは130%出してぶっ倒れたわけで、今日のこれこそがホシノウィルムの本当の限界なんだけど。

 

「はーっ、はーっ……くそーっ、あーっ、もうっ! このっ、ボクが、負ける、なんてぇ……!」

「かはっ……く、うぅ……」

 

 続いて、後ろから2人の足音。

 テイオーちゃんとネイチャちゃんもゴールして、今は息を整えているのだろう。

 ……模擬レースとは思えない全力疾走だったもんな。そりゃあ全員が疲労困憊だよ。

 

「ホシノウィルム、タオルだ」

「ありがとう、ございます……」

 

 走り寄ってきたトレーナーさんに冷えタオルを貰って、顔から溢れる熱を抑える。

 トレーナーのこういう時の気遣いは、本当にありがたい。

 熱されすぎた体に冷える感覚が気持ち良くて、思わずほっと息を吐いてしまう。

 

「本当に、……言う通りに、なりましたね。……あそこまで、詰められる、なんて」

「最悪の形でな。まったく、ウマ娘たちは常に予想の上を行く」

 

 ……今までになく、厳しいレースだった。

 テイオーちゃんが迫ってくるのはわかっていた。

 それでもまさか……ネイチャちゃんがここまでやって来るなんて、思ってもなかったよ。

 第1コーナーで息を入れてよかった、あそこで温存したスタミナがなければ、最後のスパートはできなかっただろう。

 

 1月前にそれを聞かされた時は、正直、トレーナーの判断を疑った。

 弥生賞も皐月賞も、前回のG1と同じ2000メートル。それどころかコースだって同じなんだ。

 それなのに、コーナーで息を入れる練習をする、なんて言うんだもん。

 けど結果としては、やっぱり正解だったな。あれがなければ、私はこのレースに勝てなかったかもしれない。

 ……この模擬レースが行われることまで全て計算済みだったとしたら、すごい先読みだと思う。

 相変わらず、底知れないチートトレーナーだ。

 

「結果は、どうでしたか」

「君がゴールする直前辺りから、2人は限界が来たのだろうな。最後は垂れていたよ。

 2着はトウカイテイオー、8バ身差。3着ナイスネイチャはクビ差だ。

 ついに大差を越えられたな。これが今年のクラシックのレベルということだろう」

「ふぅ、……構いません、負けなかったの、なら」

 

 そう。今回も負けなかった。だから大丈夫だ。

 その、はずだ。

 ……なのに、何故今も、動悸が止まらないんだろう。

 

「話は変わるが、ホシノウィルム」

「……何でしょう?」

 

 見上げた先で、トレーナーは、……無表情の隅から、なんとも言えない複雑な感情が漏れていた。

 

「……今回のレースは、楽しかったか?」

「楽しかった?」

 

 楽しい、とは、思わなかった。

 ただちょっとばかり、限界を出しすぎたのか……まだ動悸が収まらない。

 ドキドキと、心臓が高鳴って、落ち着かない。

 

「楽しく……は、ありません」

「そうか」

 

 トレーナーが、それに続いて何かを言おうとした瞬間。

 

 

 

「また、また! 勝てなかったっ……!」

 

 いつも飄々として、余裕ありげだったはずの、誰かの言葉が聞こえた。

 

「勝てる、はずだったのに……トレーナーさんが、皆があんなに……っ!!

 足が……足がもっと、動けば……! アタシはっ、結局!! 1人も……!!」

 

 ネイチャちゃんが、叫んでいた。

 いつもの余裕も自虐もなく、血が出るほどにこぶしを握り締めて嘆いていた。

 自分の非力を。足りなかった実力を。心の底から悔しんでいた。

 

「ネイ、」

「ホシノウィルム」

 

 彼女に声をかけようとした私を、トレーナーは手で制した。

 

「彼女は3着だった。けれど、それでも君たちと互角に……いや、それ以上に全力を尽くした。

 その上で負けたんだ……今は、放っておいてやれ」

「私たち……以上に?」

 

 確かに、ネイチャちゃんは予想以上に追い上げてきた。結果としてテイオーちゃんとクビ差まで行ったんだ。大健闘と言えるだろう。

 ……でも、それで私たち以上?

 私もテイオーちゃんも、必死に走った。それこそゴールした後、疲労で動けなくなる程に。

 ネイチャちゃんが、それより上?

 

「……さすがの君も、全てがわかっているわけではないか。

 彼女が落ち着くまで、少し、話をしよう……今回のレースを支配した、恐るべきレースメーカーの話を」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 トレーナーさん曰く。

 ナイスネイチャは、誰よりも戦力差を理解していたのだと思われる。

 特に私、ホシノウィルムとの戦力差を。

 

 ホシノウィルムの最大の強みは、高すぎるスタミナだ。

 スタミナがあるからこそ、序盤から大きくリードできる大逃げが可能。そして大逃げができるからこそ、掛かることなく安全に走ることができる。

 また、スタミナ以外の能力も総じて高い。最高速度はトウカイテイオーより少し、ナイスネイチャよりそこそこ高い。

 だから単純な末脚勝負になれば、差を詰めることができない。

 

 そんな相手に勝つにはどうすればいいか。

 その答えはただ1つ。

 ……不調を起こさせる、ただそれだけだ。

 出遅れ、掛かり、暴走、あるいは……事故。

 それらによってホシノウィルムを「正常に走れない状態」にしない限り、自分に勝ち目はないのだと……ナイスネイチャは、正しく理解していた。

 

 だから、「そういうレース」を作った。

 開始前、私に威圧をかけ、観客を意識させ、少しでも戦力を削ごうとしたり。

 トウカイテイオーに発破をかけ、自分は緊張しているように見せかける、盤外戦術も怠らず。

 始まれば、私がハイペースで走ることを予見していたように冷静に対処。

 焦って付いて行こうとするトウカイテイオーの後ろにぴたりと張り付いて、執拗に威圧感をかけ続けた。

 中盤に入ってその威圧に耐えかね、トウカイテイオーがロングスパートをかけた瞬間に足を緩め、息を入れる。

 

 ナイスネイチャは、ホシノウィルムの弱点を知ってる。

 詰め寄られた瞬間に暴走してしまうという弱点を。

 けれど、ナイスネイチャの能力では、私を追い詰めた上で差し切ることはできない。

 だから、トウカイテイオーを使った。

 まるで駒のようにトウカイテイオーを操り、私に詰め寄らせた。その状況を作った。

 ……全ては、私のスタミナを削り切り、ラストスパートをさせないために。

 

 そして、終盤。

 トウカイテイオーだけではホシノウィルムを追い詰めきれないと悟ったナイスネイチャは、自身もスパートをかけてトウカイテイオーを煽る。

 既にスタミナを切らしたトウカイテイオーは、それでもナイスネイチャの存在を感じて根性で前へと走り出す。

 ……そうしてもちろん、そんなことをすれば、トウカイテイオーは限界を迎えた時、更に減速する。

 ホシノウィルムも、トウカイテイオーが迫り暴走すれば、残り50メートルで垂れるかもしれない。

 一方、ナイスネイチャは中盤に温存したスタミナを以て、万全な状態でその末脚を披露することができる……。

 

 

 

 今回のレース、その全てが、ナイスネイチャの支配下にあった。

 ありとあらゆる状況を、可能な限りの全てを、彼女は作り上げた。

 

 ……その上で、それでも、想定外が3つ。

 1つ目は、ホシノウィルムの調子が安定していたこと。

 明らかに不調だった私は、しかしナイスネイチャの圧力に屈することなく、レースの直前には調子を立て直した。

 

 2つ目は、ホシノウィルムが第1コーナーで人知れず僅かに減速し、息を入れていたこと。

 あれがなければ私は確実に暴走し、最悪の場合、最後の最後で垂れていただろう。

 

 最後の1つは……ナイスネイチャのスペックは、それだけ策を巡らせてもなお、足りなかったこと。

 前半でハイペースのトウカイテイオーをマークした際の無理が祟って、最後までスパートを保つだけの余力が残らなかった。

 

 その3つが致命的な欠陥を生み、ナイスネイチャは敗北したのだ。

 

 

 

 ……それが、トレーナーが私に告げた、今回のレースの顛末だった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「全部……手の平の上、だったと?」

「あぁ。彼女は、完全にレースを支配していたよ。クラシック2月までにここまでの勘とセンス、判断力を培うのに、果たしてどこまでの修練を積んだというのか。

 ……末恐ろしいよ。菊花の舞台ではどうなることか」

 

 堀野トレーナーは、眉をひそめてナイスネイチャちゃんを眺める。

 彼は今まで、私以外のウマ娘にその顔を向けることがなかった。

 これまで1度も、テイオーちゃんを見る時にだって、その表情をしたことがなかった。

 自分の想定を遥かに飛び越えていく者への……恐れと敬いの表情。

 それだけ、想像よりも遥かにナイスネイチャは健闘した、ということ?

 

 ……いや、健闘、じゃないか。

 注目されない状態。ナイスネイチャが力不足だという、全ての人が持っていた認識。観客の数。テイオーちゃんの自信。私の侮り。今までの経験。その才能。

 ここにあった全てを使って、ネイチャちゃんは私を喰らおうとした。

 実際その牙は、私の喉元まで届きかけた。

 

 彼女はその全身全霊を以て、素晴らしい素質を見せつけたんだ。

 

 ……私を倒し得る、恐るべき素質を。

 

「やはり数字では測れない。恐ろしいことだ。

 ……しかし、賢さが高いとは言っても、ここまで万全に運べるものなのか……? アイツの入れ知恵か、実は覚醒したとか……?」

 

 ……私はもう、トレーナーさんの声も聞こえなかった。

 

 気付けば、私の足は動いていた。

 なんだ、この感情は。私は何をしている。私は何をしようとしてる?

 自分で自分がわからない。コントロールできない。

 レースの時とは真逆の、熱に浮かされたような、地に足が付かない不思議な感覚。

 

 今にも倒れこむ直前のネイチャちゃんの前にまで走り寄って。

 この煮え立つような想いが何なのかすらわからず、私はいつの間にか口を開いていた。

 

「ネイチャちゃん、ネイチャちゃん」

 

 私の目には、テイオーちゃんではなく、ネイチャちゃんだけが映っていた。

 未だ肩で息をして、悔しさを吐き捨て続けている彼女は……これ以上なく、私の目を惹く。

 

 

 

 これまでは、重なって見えていたんだ。

 前世でモニター越しに見たキャラクター、ナイスネイチャちゃんと。

 今目の前で生きているウマ娘、ナイスネイチャちゃんが。

 

 でも、今、はっきり分かった気がする。

 

 彼女は、今、ここに生きている。

 私の命に手を伸ばし、懸命に生きようとしている。

 

 

 

 この子は、推しのキャラクターなんかじゃない。

 私の仲の良い友達で、警戒すべきライバルで、倒すべき敵で、そして大好きなウマ娘。

 ナイスネイチャだ。

 

 

 

「ネイチャちゃん……いいえ、ネイチャ」

 

 肩を掴む。怠そうに顔を持ち上げたネイチャと、目を合わせて。

 この溢れる心を、そのまま吐き出した。

 

「ネイチャ、お願いします。また一緒に走りましょう。……私は、また、あなたと走りたい」

 

 勝ちたい。ネイチャに勝ちたい。

 糸で絡め取るような謀略の末、この首に牙を伸ばす彼女に……再び勝利したい。

 

 この衝動が何なのか、私にはわからない。

 いつもの勝利への執着とは、どこか少しだけ違う……ような気がする、けど。

 でも、そんなことはどうでもいい。

 私はとにかく、目の前の少女と再び走って、そして勝ちたいのだ。

 

 ネイチャは、一瞬呆気に取られたような表情をした後、その瞳に熱を宿す。

 

「当然……今度は勝つからね、ウィル!」

 

 

 

 ……ああ、熱い。

 心の中の熱が、全く冷えてくれないよ。

 

 

 







 曇らせ展開を期待していた方、申し訳ありません。
 ネイチャがすごく頑張った結果、ホシノウィルムの何かに火が付いてしまいました。

 ホシノウィルムのメンタルは冷たくなったり熱くなったりで大変なことになっていますが、この章は今回で終了となります。
 次回更新でこの2人以外の誰かの視点でおまけを書いた後、新章突入です。
 次章は皐月賞。いよいよクラシック三冠の戦いが始まります。



 この時点での相互評価

 トレ→ウマ:自主トレとかウマッターなどから、ちょっと抜けた部分がある子だと思い始めた。まだまだわからない部分が多いが、段々と理解が進んでいる。思っていたより普通の女の子かもしれない。

 ウマ→トレ:スパダリとまでは言わないが、自分にとって理想のパートナーと感じている。信頼と親愛を抱く。もっと頭撫でてほしい。



 次回は3、4日後。誰かの視点で、素質と星の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正しました。ありがとうございました!


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おまけ The sight of the stars makes me dream.

 nice nurtune.

 今回はおまけの別視点回です。
 読まなくても意味はわかるようにしますが、読めば本編をもっと楽しめると思います。





 

 

 

 ホシノウィルムというウマ娘は、アタシにとって天上の星みたいなものだ。

 どれだけ手を伸ばしたって届きはしない、テイオーと同じ「本当の天才」。

 アタシみたいな半端者は、その光に目を焼かれるばかり。

 ……ホント、うらやましいことですよ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 その名が体を表すことは、ある。

 帝王と名の付いた天才のウマ娘とか、まさにその典型例だ。

 クラシック三冠という奇跡じみたことさえあり得るって言われるくらい、あの子の才能はずば抜けてた。

 

 でも一方、表さないことだって、ある。

 素晴らしい素質という名前を持って生まれたくせに、そんなでもないアタシとか。

 ……一応、故郷じゃ滅多に負けなかったんだけどね。所詮は井の中の蛙、中央に来てしまえば埋没する程度の「中途半端な素質」だったわけだ。

 

 

 

 じゃあ、あの子は?

 

 トウカイテイオーの一強と言われていた風説を覆し、今や彼女こそが真の強者とまで謳われるウマ娘。

 輝くような鹿毛。一房垂れた黒鹿毛。いつもクールで、表情を殆ど動かさない小柄な女の子。

 ホシノウィルム。

 世間ではまるで悪者扱い、蛇だ何だと言われ放題だ。

 けど、そんな彼女は、アタシにとっては……。

 

「キラキラ眩しい、星だよねぇ……」

 

 

 

 

 

 

 最初。中央トレセン学園に入学してから、1週間くらいの間。

 アタシは、彼女について殆ど何も知らなかった。

 何やら校舎をウロウロする、いつも俯いてる陰気な子がいる……って話は、友達から聞いてたけどさ。

 結局彼女もアタシと同じ、フツーのウマ娘なんだろうなって思ってた。

 

 その頃は、どうあがいたってこの世代はトウカイテイオーのものだって認識があったんだよね。

 血筋、才能、センス、その全てが図抜けた天才。模擬レースを走る前から中央のトレーナーに誘われまくれば、自然と噂になるってもので。

 アタシとは段違いの、本当の天才。本当の……素質。

 腐る気持ちがなかったわけじゃなかったけど……ま、アタシは昔から諦めが早い方だったからね。

 頂点なんてモノはさっさと諦めて、自分の器量に合ったトコを目指そうって切り替えたわけですよ。

 

 でも、その認識は、あの子の選抜レースとメイクデビューで吹き飛んだ。

 大差勝ち。その力が群を抜いてないと決してできない、最強の証明。

 ホシノウィルムは、その圧倒的な実力を世界に見せつけたんだ。

 今じゃトウカイテイオーと肩を並べて世代二強って呼ばれてる。

 ……すごいよね、ホント。

 

 アタシ? アタシはまぁ……メイクデビューは2着でした。たはは。

 まあ、そんなものだよ。アタシ程度の素質なんてそこら中に転がっている。埋もれちゃうのも当然だ。

 

 話を戻して、トウカイテイオーとホシノウィルムね。 

 ホシノウィルムがトウカイテイオーを挑発したこともあって、すぐに2人はライバルだって認識された。

 明るく社交的で自信家のトウカイテイオーと、俯きがちで底の知れないホシノウィルム。

 後半で一気に捲り上げるトウカイテイオーと、前半で逃げて差を広げるホシノウィルム。

 2人は色んな面で対極的だ。対決するとなればさぞ映えることでしょう。

 今年のクラシックレースは盛り上がるだろうねー、なんて……他人事みたいに、アタシは友達と笑い合っていた。

 

 ……燻る思いを、胸の底で押し殺しながら。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 状況が変わったのは、アタシが無事に未勝利戦でデビューした後。

 唐突に、アタシのトレーナーが言ってきた。

 

「ネイチャ、朗報だ! ホシノウィルムとの模擬レースを取り付けたよ!」

 

「…………はえ?」

 

 全く以て青天の霹靂。

 アタシの怠惰な競走人生は、その日を境にがらりと色を変えたんだ。

 

 

 

 アタシのトレーナーの話をしよう。

 トレーナーとしては若手……というか、ホシノウィルムのトレーナーさんを除けば最年少。

 特に名門の出ということもない、普通の新人トレーナーだ。

 

 彼と出会ったのは、選抜レースの前。色々と迷惑をかけた、今思えば恥ずかしい出会い方だった。

 過剰な応援が恥ずかしく、そして怖くなって逃げたっていう……あーもう、これは忘れよう。そんな過去はなかった、うん。

 

 で、その選抜レースで3着という平凡な結果を出したアタシを、トレーナーさんは何故かスカウトしてくれたんだ。

 何でも、その末脚に惚れ込んだ、是非自分と一緒に走って欲しい、命を懸けて支えてみせる……ってさ。

 恥ずかしいことを言うもんだって、思わず赤くなっちゃったくらいだよ。

 ……後から聞けば、ホシノウィルムを担当する堀野トレーナーさんのアドバイスを受けてのスカウトで、その文句も受け売りだったらしい。

 意外なところにキューピッドがいたものだよね。……あの仏頂面がそんなセリフ言うかなって、少し疑問だけど。

 

 その人間性と言えば、ちょっとばかり思い込みが激しくて、アタシなんかが主人公になれるって信じてくれる変人だ。

 生活力も低いし、身だしなみも……うん、正直あんまりパっとしない感じ。

 いや、悪口になっちゃったけど、勿論アタシはトレーナーさんに感謝してるよ。

 アタシなんかを拾って、支えてくれた大恩人。最近はちょっとでも恩返ししようと、時々ご飯作りに行ってるくらいだし。

 ……それで一緒に買い出しに行った時、アタシを気に入ってくれてる商店街の皆さまに見られて、すっごい恥ずかしい思いをしたこともあったけどさ。「僕の誇れる愛バです!」じゃないんだよ、ホント。

 

 で、そんな人間だから……たまに、こうして突飛な行動もしちゃうんだよね。

 

 

 

「ほっ、ホシノウィルムと模擬レース!? 嘘でしょトレーナーさん!?」

「勿論嘘じゃない。いやぁ僥倖だね、本当にラッキーだよ!」

「だ、駄目だこのトレーナーさん、興奮してら……」

 

 アタシがここまでビビってるのには、ちゃんと訳がある。

 選抜レース以来、ホシノウィルムは世代の強者かもしれないっていう噂が持ち上がっていた。

 それで気になって、アタシはこの目で見てしまったんだ。……彼女のメイクデビューを。

 

 そして、諦めた。

 

 トウカイテイオーを「強者」とするなら、ホシノウィルムは「唯一」。

 他のウマ娘なんて目に入っていない。ただ速くゴールするだけの、ある意味単調な走り。

 言われていた通り、確かにテレビで見たサイレンススズカ先輩の走りに似ていた。それだけ圧倒的で、見ただけで絶望するような走りだった。

 彼女と同じレースに出ても、一緒に走れる気がしない。

 最初から勝利が確定している彼女に続く、2着争いにしかならない。

 主人公と言うよりは魔王。ヒーローと言うよりはヒール。

 

 だから「蛇」なんていう、悪者みたいなあだ名が付いたんだよ。多分ね。

 

 そんなホシノウィルムに挑む?

 冗談でしょ。アタシはそんな大したウマ娘じゃない。

 そりゃあ地元じゃ滅多に負けないくらいだったし、多少は自信があった。

 でもここ、中央じゃ、良いとこまで行けても1着は取れない程度のジリ脚だ。

 そんなアタシが、あの台風に挑むとか、身の程知らずにも程があるって。

 

 ……なんて。いくら説得しても、決定しちゃったものは覆らなかった。

 トレーナーさん、こういう時だけ強情だからなー……。

 

 

 

 実際に会ったホシノウィルム……ウィルちゃんは、やっぱり謎な女の子だった。

 無表情で、耳も尻尾も滅多に動かない。それなのに、アタシを見た瞬間だけはピーンって固まっちゃったりして。

 他人に全然興味を持たないって話だったのに、いきなり友達になりましょうとか、呼び捨てで結構です、なんて言ってさ。

 その上、アタシなんかにキラキラした目を向けてくるんだもん。

 

 ……すっごくダサいけど、その時、アタシは舞い上がっちゃった。

 とんでもない天才である彼女に特別扱いされる優越感を感じて……アタシだってちょっとしたウマ娘なんじゃないかって、調子に乗って思い上がった。

 

 

 

 ま、そんな勘違いは、10分かそこらで崩れ去ることになるんだけどね。

 

 模擬レースが始まる直前、明らかに彼女の雰囲気が変わった。

 今まで静かで穏やかだった空気が、冷たく鋭くなっていく。

 明るかった家への帰路が、急に獣が潜む夜の森になったような不安と恐怖と緊張感。

 どうしようもなく、怖い……それこそが、「ウィルちゃん」じゃない「ホシノウィルム」の、ウマ娘としての本性。

 

 

「えっと……」

「寒い」

 

 自分の思考に集中し切って、アタシの言葉なんて気にしない。

 視線はターフに落とされて、アタシのことなんて見もしない。

 

 そこで、ようやく気付いた。

 

 

 

 ……この子が興味を持ったのは、「ナイスネイチャというウマ娘」じゃないんだ。

 

 

 

 レースが始まってすぐ、アタシは彼女との差を直視することになった。

 確かに、作戦の違いはある。逃げと差しじゃ、ペース配分が大きく異なることはわかってる。

 ……それでも、彼我の距離が開き続ける光景は、あまりにも絶望的なものだった。

 

 まぁ、そりゃそうだよね。逆に安心するよ。

 アタシとあの子じゃ、土台が違う。才能が違う。……素質が違う。

 ナイスネイチャは決して、ホシノウィルムに勝てない。

 そこには次元と呼んでいいくらいの断絶がある。

 だからさ、追い付けなくたって仕方ないんだってば。

 

 彼女は圧倒的だ。おおよそ平凡なアタシが太刀打ちできる存在じゃない。

 そもそも彼女は、アタシを見てない。一緒に走っていると、認識すらしてないと思う。

 …………いいや。

 

 同じウマ娘として見られてすら、いないかな。

 

 不意に。

 それを……柄にもなく、悔しく思った。

 ふざけんなって叫びたくなるくらいに。歯噛みして、両手を握りしめるくらいに。

 

 気付けば、地面を蹴ってた。

 どうせ最初から勝ち目のないレースだ。今のアタシがどうしたって、彼女を超えてゴールすることはできない。

 ならせめて、こっちを見させてやる。無視できないくらいに追い詰めてやる。

 そう思って、本気で、全力で走った。

 

 ……まぁ、結果から言うと、追いつくことすらできなかったんだけどさ。

 

 後方2バ身まで迫った時、彼女はちらりと、こちらを見た。

 温度のない瞳だった。冷たい、敵意しか感じない瞳だった。

 それは路傍に転がる石を見るように、一瞬だけアタシを認識して……。

 

 次の瞬間には、彼女は目を逸らし、遥か彼方へと走り去って行った。

 

 正直さ。

 アタシは嬉しかった。

 だって一瞬でも、その瞳にアタシが映ったんだ。

 天才に、ほんの少しだけ、認められた。

 アタシがここにいるってことを……認めて、…………。

 

 …………そんなの。

 

 そんなのを喜んだことが、一番悔しいよ。

 

 

 

 その日はもう、散々だったね。

 まだ身の丈に合わないレースして、ヘトヘトになってゴールして、トレーナーさんにダサいとこ晒して……。

 

 ……でも多分、この日が始まりだった。

 アタシとトレーナーさんが本当の意味で走り出した、始まり。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 模擬レースが終わった後、アタシとウィルちゃんは合同トレーニングをするようになった。

 何でもウィルちゃんから堀野トレーナーさんに頼み込んだらしい。

 ……アタシはどうやら、本気でこの子に好かれたみたいだ。悔しいことに、ウマ娘としての脚以外の何かしらを、だろうけどね。

 

 堀野トレーナーさんはとんでもないスパルタトレーナーで、毎回毎回限界直前まで追い込まれる。

 ……まぁ鍛えられるからありがたいと言えばありがたいんだけどさ。

 ネイチャさん、終わる頃には脚ガクガクで立てなくなるのはヤバいと思うんだけどなぁ。

 アタシたち、頑丈なウマ娘だよ? それが立てなくなるって、本当に大丈夫なの?

 

 お休みの日が被れば、堀野トレーナーさんにウィルちゃんを押し付けられたりもした。

 彼女は酷いトレーニングジャンキーらしい。……いやトレーニングジャンキーって何? それってもうシンプルにマゾなんじゃないの?

 まぁとにかく自主トレの鬼であるらしくて、アタシに任せるくらいしかそれを封じる方法がないんだってさ。友達だから、それくらいは全然いいんだけど……。

 とんでもなくストイックであることは知ってたけど、まさかここまでとは思わなくて、ちょっと苦笑しちゃうくらいだ。

 

 多分、この学園で堀野トレーナーの次にウィルちゃんに親しいのは、アタシなんだろうね。

 彼女が他のウマ娘と絡んでいるところ、あんまり見ないし。

 あ、でも寮の同室の先輩、ハッピーミーク先輩とはかなり親しいみたい。

 時々、ちょっとだけ尻尾を揺らめかせて、先輩の可愛いところを話してくれる。

 こういう時、耳や尻尾に注意しなきゃわかんないくらいのほんのわずかな感情が出るのが、この子の可愛いところだと思う。

 ま、表情は真顔のままなんだけど。

 

 

 

 ……そしてアタシは。

 そんな中で、ひたすら、ホシノウィルムを観察し続けた。

 

 アタシには、素晴らしい素質なんてない。

 アタシは強くない。普通に走ったら、万が一どころか億が一にも、ホシノウィルムに勝てはしない。

 だから、トレーナーさんに言われた通りに。

 

『勝ちたいのなら、まずは情報を集めよう。

 ホシノウィルムはどういうウマ娘で、どういう考え方をして、どういう走り方をするのか。

 彼を知り己を知れば百戦殆からず、だよ』

 

 癖。思考方法。判断の傾向。走法。姿勢。嗜好。利き足。食事のタイミング。

 

 つまらないことから大事なことまで、ひたすらウィルちゃんを観察し、知っていく。

 その情報の全てを纏め上げて、頭の中に「想定上のホシノウィルム」を作り上げる。

 

 レースでこういう展開になった時、彼女はどうする?

 レースでこういうミスをした時、彼女はどうする?

 レースでアタシがこういうことをした時、彼女はどうする?

 

 考える。

 考える。考える。考える。ひたすらに考える。

 

 体で勝てないなら、頭も使う。頭が動かなくなれば、体を鍛える。その繰り返しだ。

 あの模擬レース以来、アタシはアタシの全てを使って、ホシノウィルムに追いつくことを考えていた。

 

「次は……アタシが勝つからね、ウィルちゃん」

 

 本当、柄にもないことだけどさ。

 アタシは、これまでにないくらいに燃えていたんだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 リベンジの機会は、思ったより早く訪れた。

 

 テイオーと知り合ったり、若駒ステークスで2バ身差で負けたり、他のオープン戦では勝ったり、レース中に相手を威圧する方法を学んだりする内に、あっという間に半年の時間が経って。

 アタシのトレーナーは、またウィルちゃんとの模擬レースをセッティングしてくれた。

 

「芝2000メートル? 中距離までだと勝てないって話じゃありませんでした?」

「うん、勝機は薄い。でも今のネイチャなら、きっと掴めるよ」

 

 ……まったく、このトレーナーさんは。

 こんなダメダメネイチャさんを健気に支えてくれる上、こうして信じてくれちゃって。

 アタシが心の中に温かなものを感じている間に、彼は足元に置いていた段ボールを机に乗せる。

 

「ん、これは?」

「開けてみて」

 

 果たして、中に入っていたのは……これ、手紙?

 誰の……って。

 

「故郷の皆……それに、商店街の」

「ああ。最近届いた、君への応援の手紙だ」

 

 すごい。束になって、これ……50枚くらいあるんじゃないの?

 どれを見ても、応援してるとか、頑張れとか、信じてるとか、たくさんの言葉が並んでて……。

 

「僕だけじゃない。君を信じてくれている人は、たくさんいる。

 だから、君も君自身を信じてあげてほしい。頑張ってみてほしいんだ」

 

 

 

 アタシのトレーナーさんは、思い込みが激しくて、生活力もなくて、身だしなみも微妙で。

 けれどいつだって、アタシを見てくれてる。

 だから、こうして……アタシを焚き付ける最高の方法を知ってるんだろうね。

 

 アタシは素質には恵まれなかったかもしれない。

 でも、良いトレーナーさんに恵まれたことは……多分、間違いない。

 

 

 

「……あー、もう、こんなのちょっとズルいじゃん。

 悪いけど、トレーナーさん、ちょっとあっち向いててよ」

 

 トレーナーさんには、もう散々ダサイとこ見られちゃったけどさ。

 それでも、ぐしゃぐしゃになった顔なんて見られたくないから。

 

 きっと……今度は、かっこ良いとこを見せるよ。

 トウカイテイオーとホシノウィルム。アタシと同じ時代に生まれた、2人の本当の天才。

 あの2人に勝つとこを、さ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 2回目の模擬レースの状況は、その全てがアタシに味方していた。

 テイオーもウィルちゃんも、アタシを見ていない。互いが互いを警戒していて、アタシにまで気を配れていなかった。

 ……つまりアタシはノーマーク。これならやりたい放題だ。

 

 観戦客たちも、殆ど2人を見ている。テイオーを応援している人、ウィルちゃんを応援している人、そしてレースの結果を見たがっている人ばかり。

 アタシに注目している人なんて、物好きな1人くらいだろう。

 ……うん、それでも問題ない。何せアタシは、前日にパワーを貰ってますからね。

 トレーナーさんや皆が信じてくれるだけで、十分ホームグラウンドってもんですよ。

 

 状況は完璧。調子も絶好調と呼んで差し支えない。

 その上テイオーは好調ってわけじゃなさそうだし、ウィルちゃんに至っては珍しく調子を崩していた。

 全てが追い風だ。

 

 行ける。

 

 今日こそは勝つ。勝ちたい。

 アタシだってこの子たちと同じウマ娘で、同じレースを走ってるんだ。

 追い付く。追い抜く。絶対に、このキラキラした天才たちに。

 

「アタシは、アタシなりに……勝つ」

 

 そうして、レースが始まった。

 

 

 

『多分、ホシノウィルムはトウカイテイオーを潰すために、ペースを上げてくる。 

 ……いや、ホシノウィルムがそう判断するかはわからないけど、堀野君なら間違いなくそうさせる。

 それが一番確実で、完璧な勝利方法だからね』

 

 トレーナーさんの推論は当たって、ウィルちゃんが引っ張るハイペースな展開でレースは始まった。

 それに対してテイオーは、事前に吹き込んでいた通りに、ウィルちゃんに追いすがってくれた。

 ……テイオーは、確かにすごい自信を持ってる。他の子がどう走ったとしても、自分の走りを貫くだけの堅い自信を。

 けれど自信があるってことは、翻って言えば、自分の感覚に強く依存してるってことでもある。

 後ろからひたすら威圧感をかけ続けて、「なんか居心地が悪い、早く先に行った方が良い」と思わせてしまえば、彼女は自分の感覚に従って、素直に前へと急ぐ。

 これも、トレーナーさんの読み通り。

 そうして、テイオーをロングスパートさせる試みは成功した。

 

 ……けど、新たな問題が発生する。

 テイオーだけでは、ウィルちゃんを追い詰めきれなかったんだ。

 

 実のところ、アタシもトレーナーさんも、テイオーとウィルちゃんがどれだけ走れるのか、正確には知らない。

 彼女たちの間にどれだけの差があるのか。どれだけスペックが違うのか。

 外野のアタシたちは、それを知ることができない。予想を元にレースを設計するしかない。

 

 そして、彼女はその予想の上を行ったんだ。

 まさかウィルちゃんが、後続との距離を綺麗に保つなんていう、曲芸みたいなペースアップができるなんて。

 テイオーがあそこまで追いすがっても、それでもなお逃げ切れる程に実力差があったなんて。

 

 歯嚙みする。

 本当はあと少し、脚を溜めたかった。万全にウィルちゃんを追い抜くためには、もっとスピードが必要だから。

 でも、このままじゃウィルちゃんは「彼女の想定通り」に走り切っちゃう。

 ……それじゃ駄目なんだ。それじゃ勝てない!

 

 芝を踏みしめて、思い切り、蹴り跳ばす!

 こうなったら仕方ない。アタシもスパートをかけて、後ろからテイオーを威圧する。

 それでテイオーに後方2バ身まで詰めてもらおう。

 それで暴走して垂れたウィルちゃんとテイオーを、後ろから一気に抜く……これしかない!

 

 走る。走る。思い切り、この脚を振り回す。

 アタシの脚は、大して強いわけじゃない。そんなことはわかってる。

 だからこうして状況を作った。2人の脚をアタシと同レベルにまで引き落とした。

 この状況なら、アタシは……。

 

 1着に、なれる!

 

 

 

 

 

 

 ……でも。

 本当の天才は、何度でも想定を超える。

 

 ごっ、と。

 音がした、気がした。

 ウィルちゃんが、地面を蹴った音。加速した音。……更なるスパートをした、音。

 この時点で追い詰め切って、これ以上スパートするスタミナはない計算だったのに。

 ……彼女はまだ、底の底に、力を隠し持っていた。

 

「うそっ!?」

「……くっ」

 

 テイオーとアタシが、同時に呻く。

 今までの圧倒的なレース展開ですら、彼女の本気ではなかった。

 こうして差が開いていく現状こそが、ウィルちゃんとアタシの素質の違いを示している。

 

 

 

 ……はは。

 やっぱり届かないんだ。

 空の星はとっても高い。手を伸ばしたくらいじゃ届きはしない。

 凡人なりに努力したって、不可能ってものがそこにある。

 いつものように、すっぱりと諦めよう。

 アタシじゃ、ホシノウィルムには、絶対に勝てないんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……なんて、ね。

 今更諦められるわけないでしょうが!

 

 

 

 歯を食いしばる。既に限界だって言ってる体に鞭を打つ。

 不可能? 無理? そんなの終わってからいくらでも言い訳できるでしょ。

 アタシはここに、ウィルちゃんとテイオーに勝つために来たんだ。

 今更、諦めない。そのキラキラを諦められない!

 

 アタシは今日、ここで、勝つんだッ!

 

 

 

 その時。

 パキ、と。

 疾走する視界に、ヒビが入る。

 

 

 

 ……ついにおかしくなっちゃったかな。アタシの目、どうなってるんだろ。

 どこか冷静な思考が、他人事のように頭の片隅で呟いた。

 でも、そんなの知ったことか。アタシは前に行かなきゃいけない。あの子たちを追い抜かなきゃいけない。

 邪魔だ、このヒビも……アタシの限界も。

 

 

 

 パキ、パキ。ヒビが広がっていく。

 流れる視界の外側に、割れた欠片が飛んでいく。

 

 

 

 土台、限界なんてものがあるからいけないんだ。

 もっと、もっと速く。もっともっともっと、もっと速く!

 テイオーも、ウィルちゃんも、自分の限界さえも追い抜いて。

 

 

 

 ……きっと、その先へ!

 

 

 

 バキン。

 何かが割れた音がして。

 

 

 

 ……視界の先、割れかけたヒビの向こう側に。

 キラキラした破片を纏い、ゴールラインを踏みしめるホシノウィルムが、映った。

 

 

 

「あ」

 

 認めたくない現実が、そこにはあって。

 アタシの視界は、一瞬で正常に戻る。

 

 ここは……そう、模擬レース中だ。

 頑張って2人の背中に追いすがったけど、アタシはそれでも届かなくて……。

 また、ホシノウィルムに、負けた。

 

 急に、脚が重くなった。

 全身の節々が痛い。視界が明滅する。体の先端の感覚がない。

 

 駄目だ、これ以上は走れない。

 走りたくても、どれだけそう望んでも……脚が、どうしても動かない。

 

 

 

 

 

 

 そうして、また、アタシは負けたんだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 あと一歩……ですら、なかった。

 テイオーとの着差はクビ差。……だけど、ウィルちゃんとの差は、8バ身以上。

 アタシはずっとウィルちゃんの情報を集めてきたのに、それでもまだ、彼女の限界を知らなかったんだ。

 だから……こうして、無様に負けた。

 

 

 

 悔しい。

 

 悔しい、悔しい、悔しい!!

 行けるはずだった、行けると思った! 状況は全部味方してくれて、これ以上ないくらい条件は整ってた!

 レースも殆ど上手くいって、あのテイオーを好き勝手に振り回して……!

 それで……それなのに負けた!!

 

 トレーナーさんも、故郷の皆も、商店街の人たちも、みんなみんなアタシに期待してくれた!

 アタシは勝つはずだった、勝たなきゃいけなかった!

 それなのに……この、脚が、もっと動けば……!!

 

 

 

 なんで。なんで……ッ!

 ヒビ割れの向こうに見えた、輝く鹿毛と、小さな背中。

 

 アタシは、あの星を掴めない……!!

 

 

 

「ネイチャちゃん……いいえ、ネイチャ」

 

 肩に、手が置かれる。トレーナーさんのじゃない、もっと細くて熱のこもった手。

 見上げると、今までに見たことのない表情をしたホシノウィルムがそこにいた。

 興奮、してるのかな。目を見開いている。喜びとも怒りともわからない、情動が漏れ出したような微妙な表情。

 耳はピンとこちらに向かって立って、尻尾まで振り回して。

 

「ネイチャ、お願いします。また一緒に走りましょう。……私は、また、あなたと走りたい」

 

 キラキラと燃える瞳をアタシに向けて、そう言ってきた。

 

 

 

 ……あぁ、つまりは、そういうこと。

 あの時と同じだ。

 1回目の模擬レースで、一瞬だけ振り向かせて、警戒させた時。

 あの時アタシは初めて、彼女の視界に入れた。そこにいるのだと認識された。

 

 そして今回、アタシはやっと、彼女にライバルだと……同じレースを走るウマ娘だと、認められたんだ。

 

 ようやく、本当にようやく。

 ナイスネイチャは、ホシノウィルムと同じ舞台に立つことを許された。

 

 その傲慢に腹が立つような、単純に評価されて嬉しいような気もした。

 けど、それ以上に……。

 

 アタシの中の、強い風に消えかけた闘志が……。

 再び、音を立てて燃え盛る。

 

「当然……今度は勝つからね、ウィル!」

 

 駄目だった。確かに、今回は負けた。完敗だよ。

 

 でも、「今回は」、だ。

 共演者になった以上、彼女との舞台は続く。

 何度でも、何度でも、その喉元に喰らいついて……。

 

 

 

 いつかはアタシが、勝つ!

 

 アタシは……、アタシだって、ウマ娘なんだから!

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ホシノウィルムは、アタシにとって天井の星飾りになった。

 今はまだ手が届かなくても、いつか必ず掴んでみせる。

 ……覚悟してよね、ウィル。

 アンタの三冠を止めるのは、このアタシだ。

 

 

 







 ナイスネイチャ
 『きっとその先へ…!』 未収得
 レース終盤で3番手の時に負けそうになると秘めた闘志に火が付き速度が上がる



 そんな訳でネイチャさん視点でした。
 彼女だってこの世界に生きるウマ娘であり主人公。彼女なりの物語があります。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、駄々っ子ウィルちゃんとご両親へのご挨拶の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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過去と皐月と転生チートの季節
これもすべてナイスネイチャって子の仕業なんだ


 3章開幕。

 だが……信頼できないのはナイスネイチャ(のステータス)だ。
 彼女はただレースを楽しんでいる。
 ホシノウィルムを倒す(つもりで挑む)ことで……自分の素質を試しているんだ。

 テイオーの出番はもうちょっと後です。ファンの方は、もうちょっとお待ちください。





 

 

 

 ホシノウィルムがクラシック級に入って、おおよそ2か月が経過した。

 そろそろ3月上旬に開催される弥生賞が迫ってきた……が、そこに関しては特に心配していない。 

 理由は、慢心したような言い方になるが、今更G2レースでどうこうなる実力じゃないからだ。

 いや、前世史実的にはどれだけ強くても警戒はすべきなんだろうだけど……。

 何せここはアプリゲームの世界。ステータスが飛びぬけて高ければ、基本的に負けることはない。

 

 ……基本的に、だけどね。

 

 1週間前の模擬レースでのナイスネイチャを見ていれば、とてもじゃないけどステータスが全てだなんて言えない。

 あれも覚醒の一種なのか、強そうな雰囲気さえ感じなかった。

 あるいはそうした気配を感じさせない、潜伏型とでも言うべき覚醒だったのだろうか。

 だとしたら、それは策士のネイチャらしい覚醒と言えるだろう。

 情報とスペックで勝利を掴みに行くウチの陣営からすると、非常に恐ろしい相手だ。

 

 俺の見立てでは、彼女は絶好調だろうとテイオーに3バ身以上は差を付けられるはずだった。

 それなのに、その差をクビ差まで縮める、ステータス以上の大健闘を見せたのだ。

 念のため3つ目の策を用意しておかなければ、ホシノウィルムは敗北を喫していたかもしれない。

 いやまぁ、逆に言えばそこで手札が1枚透けたとも言えるんだけど……彼女の勝利に比べれば安いもんだよ。

 

 ……数字で見れば格下の相手だとしても、警戒は怠るべきじゃないよな。

 父もよく言っていた、ウマ娘は常に予想を超えてくるものだ、と。

 やはり弥生賞、そして皐月賞には、万全の備えをして挑むことにしよう。

 幸い、試せる策はあるしな。

 

「しかし、ナイスネイチャか……」

「レースですか」

「違う」

 

 実のところ、ネイチャがもたらした被害というか影響は、俺の意識改革だけに留まらなかった。

 ……というか、彼女は無意識に、そりゃもうとんでもなく甚大な影響を与えてくださったのだ。

 

「トレーナー、やはりネイチャと模擬レースしましょう」

「しない」

「しましょう」

「しない」

「1回だけ。いえ、先っちょだけでいいので」

「先っちょだけのレースって何だ……」

「では、明日の合同トレーニングは併走にしましょう」

「模擬レースと何が違うんだ君にとって」

「では…………かけっこでは」

「説得が雑なんだよな全体的に」

 

 問題です。今こうやって、俺と話しているのは誰でしょう。

 ヒントはですね。つい一週間前までは無口でクール系だった、小柄な鹿毛の逃げウマ娘です。

 

 ……そう、認めたくないことに、俺の担当ウマ娘、ホシノウィルムその人なのであった。

 

 俺にとってホシノウィルムは、手のかからないようでアホほど手のかかるウマ娘だった。

 基本的に言ったことはやってくれるけど、言ったことしかやってくれない。何なら言ったことを破ることも間々ある。

 でもちゃんと信頼関係を築き、判断の説明をして、絶対に自主トレをするなとしっかり諭せば、流石に聞いてくれる。やる気は下がるけども。

 最近はレース中の作戦も細かく聞いてくれるようになり、やる気が下がることも少なくなって、いよいよ彼女との付き合い方がわかってきたところだった。

 

 ちょっと、いやごめん鯖読んだ、めちゃくちゃトレーニングジャンキーだけど、真面目で真っすぐで良い子の、敗北を恐れるウマ娘。

 それが俺から見たホシノウィルムだったのだ。

 

 ……のだ、が。

 

「では、いつネイチャと走れるのですか?」

「……菊花賞かな」

「あと8か月ありますが?」

「そうだな」

「…………???」

「いやそんなクエスチョンな顔をされてもな」

「8か月もご飯を食べなければ、流石のウマ娘も死にますよ?」

「模擬レースを食事だと思ってる?」

 

 何と言うか、何だろう……いや、本当に何なんだろうな。

 あの模擬レース以来、ホシノウィルムは壊れちゃったのだ。

 

 

 

 ホシノウィルムは、あのレースで何かを感じた。

 俺にとって都合の良い解釈をするなら、それはウマ娘に本来あるべき闘争本能。

 強いウマ娘と競い合い、超えることに、この上ない悦を感じるというもの。

 ……であれば、すごく嬉しいんだけど。

 結局のところ、それが何なのかはわかってない。流石に直接聞くのもアレだしな。

 

 とにかく確実なことは、彼女はあの模擬レースで、ナイスネイチャに対してこれまで感じたことのないものを覚え、それに大いに、本当に大いに影響されたってことだ。

 

「では、こうしましょう。勝負です、トレーナー。

 私は今からその辺りのてきとうな野良レースで走ってきます。勝ったらネイチャと走らせてください」

「いや駄目だが。乗らないぞそんな勝負」

「な、何故ですか。私のことが嫌いになりましたか」

「嫌いにはなっていないが、ある意味君のことをわからなかった頃まで関係性は後退しているかもしれない」

「そんな……私はただ、ネイチャと走りたいだけなのに……」

 

 まずこのように、ネイチャとの競走を、自主トレと同じかそれ以上に求めるようになった。

 トレーニングジャンキーの次はネイチャレースジャンキーである。

 前から一極集中の気があるとは思っていたが、やはり1つのものに夢中になると周りが見えなくなるタイプだな、この子。

 

 よそのウマ娘との模擬レースは、勿論自主トレとは違う。

 あちらの都合とか貸し借りとか色々あるので、やりたいタイミングでやる、なんてことはできないのだ。

 その上ここまで盛り上がっていると、万一ネイチャが事故でも起こして走れなくなったりすれば、調子が絶不調で固定されかねない。

 そんなわけで、ネイチャに依存してしまっているのは色々マズい。どうにかならないものかなぁとため息を吐く毎日だ。

 

 そしてこの変化に伴って、彼女は少し多弁になった。

 これまでは必要最低限の会話で済ませることが多かったというのもあるけど……。

 それにしたって、「君ちょっと性格変わってない?」と思うくらいに、彼女は喋るようになったのだ。

 なお増えた会話の9割はネイチャとのレースの要求である。

 

「嫌われたくはありません……でもネイチャとレースはしたいです。

 どうすればいいのでしょうか」

「我慢すればいいんじゃないか」

「不可能です。このネイチャとレースしたい欲望を抑えられません」

「無理やり抑えればいいのでは?」

「そんなことをしたら……」

「したら?」

「代わりにめちゃくちゃ自主トレします」

「脅迫かな?」

 

 ……あと、幼児退行と言う程でもないが、精神的に幼くなったんじゃないかとも思う。

 ホシノウィルムはどことなく「大人っぽさ」のある子だった。

 中等部1年にしてあれだけストイックな自制心を持ち、理を説けば納得してくれる子は希少だったと思う。

 でも今はこんな……うーん。

 

「とにかくネイチャとレースしたいんです。お願いします」

「いやレースは駄目だって」

「したいんです」

「駄目」

「したいんです!」

「駄目!」

 

 ホントに駄々っ子みたいになっちゃったなぁ。

 これを退行と見るべきか、一時的な衝動と見るべきか、その辺りが難しい。

 ウマ娘の精神構造に詳しい兄に尋ねてみるべきか。……いつもお世話になってるし、次に帰省する時は菓子折り、いや、ホシノウィルムのデータでも提げていかないとな。

 その時に、彼女に表れるようになった幼児性について……。

 

「……ん、いや、違うか?」

「明日の合同トレーニング内容ですか? やはり併走にしますか?」

 

 彼女が幼くなったというのは、違うかもしれない。

 元々、彼女の持っていた大人っぽさ、つまりは精神的堅固こそが歪だった可能性もある。

 

 彼女の心に、何らかの瑕疵があることは明らかだ。

 彼女の精神的衛生を損なう、何か。

 

 それ、あるいはその元となった現実的問題に対し、彼女が大人になり切ることで心を守ろうとしたのであれば……。

 ある意味で、今の中等部の女の子らしい甘えた態度こそが、彼女のあるべき姿なのかもしれない。

 

 ……というか、普通の中等部の女の子は一日中トレーニングなんかしないし、辛ければ文句の1つでも吐き捨てるものだ。それを平然と行っている時点でおかしかったのかもしれない。

 何も普通でなければいけないわけではないが、異常な成長は危うい結果をもたらすこともある。

 彼女の健全な成長に不必要ならば、それは排するべき欠陥でしかないわけで。

 

 そう考えると、彼女はもっと、俺や他の大人に甘えてもいいのかもしれないな。

 そして俺は、彼女が甘えても問題ない、立派で頼れる大人を演じなければ。

 

「……仕方ない。弥生賞が終わったら、一度有力なクラシック級ウマ娘を募って模擬レースを開くか」

「ネイチャは参加しますか?」

「いやそれは知らんが……君から伝えたら参加してくれるんじゃないか? 友達なのだろう?」

「なるほど、至極道理です。ではネイチャに伝えてきます」

「いや、そろそろトレーニングの時間だ。グラウンドに出てダートダッシュ。行くぞ」

「了解。トレーニング後にネイチャに伝えます」

 

 ……まぁ、なんだ。

 熱に浮かされているようで少し不安にはなるが、ひとまず彼女が持ち直してよかったよ。

 模擬レース直前の数日は酷い有様だったからなぁ。

 話しかけても気付かない、トレーニングに集中しない、果てには自主トレもせず自室のベッドで横になっていたという、これまでにないホシノウィルムの絶不調。

 

 何が彼女をそうまで落ち込ませたのか、俺にはわからない。

 落ち込んでいる、あるいはその反動とでも言うように興奮している今の彼女に、わざわざその理由を訊く程愚かではないつもりだが……。

 ……俺、馬鹿だし。聞かなきゃわかんないんだよな、これが。

 

 ネイチャの時のあれを見るに、彼女は恐らく、見ただけでそのウマ娘の強さを測ることができるのだと思う。

 だから、テイオーを見て衝撃を受けたんだと思うんだけど……。

 ただ強いウマ娘だと思っただけなら、ネイチャの時のように喜んでも良いと思うんだけどなぁ。

 

 

 

 ホシノウィルムが自分の中で折り合いを付けたのか、あるいは無理をして振り切っているのか。

 それはわからない。彼女の心情を推し測ることはできても、確実に知ることはできないのだから。

 だからこそ、まず考えるべきは、原因の抜本的解決だ。

 

 今回の件は、トウカイテイオーの存在がもたらしたもので間違いない。

 あの瞬間に彼女がトウカイテイオーを見たこと……正確に言えば、その存在を視認し、認識してしまったことによって、ホシノウィルムは絶不調に陥った。

 

 これは、ネイチャに初めて会った時に起こったものと非常に似た現象だ。

 ネイチャの時は興奮し、友達になろうと迫り、俺に合同トレーニングの話をもちかけてきたように。

 テイオーの時は呆然とし、懊悩し、寝込むくらいに調子が悪化したのだ。

 

 ネイチャとテイオー。ホシノウィルムの中で、何が彼女たちへのリアクションにおける正と負を分けたのかはわからないが……。

 1つ確かなのは、ホシノウィルムは一部のウマ娘に対し、ポジティブネガティブを問わず強く反応する、ということだ。

 これから先もあんなにやる気が揺れては、彼女のローテーションに支障が出る。 

 なので一昨日、俺はその解決を図ることにした。

 具体的には、現在トレセンにいる有力なウマ娘について、彼女と情報を共有したのだった。

 

 ……いやまぁ、強いって言うか、主にネームドウマ娘の紹介だね。

 アプリじゃ名前を聞かなかった、いわゆるモブウマ娘の名前もいくつか挙げたけど、彼女は反応しなかった。

 状況から考えるに、彼女が反応するのはネームドに限られるようだ。

 勿論、いくら知っていても、いざ会ったら反応があるかもしれないが……。

 それでも、何もしないよりはずっとマシな予防になるはずだ。

 

 

 

 さて、ネームドなんだけど……。

 俺が確認できている、トゥインクルシリーズに登録されている現役のウマ娘は、ホシノウィルムを除いて18人だ。

 

 まず、G1ウマ娘では唯一のシニア4年目相当、サイレンススズカ。

 ただし今、彼女はトゥインクルシリーズへの出走を中断し、海外で活躍中。

 十中八九、そのままドリームトロフィーリーグに行くことになるだろう。一応挙げておいたって感じだ。

 ホシノウィルムは少しだけ、ぴくりと反応した程度だった。あれだけ後継者だと叫ばれれば、流石に彼女の存在は知っていたかな。

 

 次にシニア3年目、現役は3人。スペシャルウィークとハッピーミーク、そして……セイウンスカイ。

 いやぁ、ウンス……いたんだよなぁ。

 俺にとっての前世の愛バ。最終コーナーで爆発したように駆け出す、策略家な芦毛の逃げウマ娘。

 彼女は俺がトレーナーになった年には、とっくの昔にデビュー済みだったらしい。

 恥ずかしながら、俺が彼女の存在に気付いたのは、ホシノウィルムの選抜レースが終わって生活が落ち着いた頃だった。

 免許を取る前の1、2年は……自分磨きに集中し過ぎたりナーバスになったりして、中央のレースから離れてたからなぁ。

 まったく、そんなことでスカイの菊花賞を見逃すとは、頭を抱えたくなるやらかしだ。今世の大失敗の1つである。

 

 話を戻すと、スペちゃん、ウンス、ミークの3人の内、ミーク以外の2人は既に半移籍といった感じで、スぺちゃんなんかシニア1年目の有記念を最後に公式レースに出走していない。

 一方、ミークは1年に5~6本程度、主に重賞に出走している。入着も安定しており、シニア2年目以降の連対率は90%を超えているとのこと。

 ……いやー、この世界の桐生院トレーナー、ヤバいね。

 まだ5年目の新鋭トレーナーなのにチームを持つことを許されてるし、堅実で隙のない育成でG1級ウマ娘ポンポン量産してるし、ついでに皆鋼の意志持ってるし。

 忘年会でゴリゴリに酔っぱらってうまぴょい伝説熱唱しだした人と同一人物とは思えないよ。

 

 で、シニア2年目にはネームドがいないっぽいので飛ばすとして。

 

 シニア1年目の注目株に、去年の菊花賞ウマ娘、メジロマックイーン。彼女はこれまでのウマ娘たちと違い、明確に現役だ。

 言わずと知れたパクパクですわステイヤー。野球場で見かけられたり体重のコントロールに苦しんだりと色々アレなところもあるが、総じて優秀なメジロのウマ娘である。

 シニア級に入った今年からは、やはり天皇賞を狙っていく指針らしい。確か来月はG2の阪神大賞典に出走予定だったはず。

 ……ホシノウィルムも、近く彼女と争う日が来るだろう。ぶっちゃけ今年の宝塚記念あたりで。

 

 やはり注目はマックイーンだが、シニア1年には他にも5人いる。かなり層が厚いね。

 メジロライアン、メジロパーマーにダイタクヘリオス、イクノディクタスにアイネスフウジン。

 うーん、ネームドの魔窟だ。メジロなんか3人も集まっている。

 しかも、俺がやっていた頃にはマックイーンとライアン以外は育成ウマ娘として実装されていなかったから、彼女たちの走り方とか固有には詳しくない。

 クラシック・シニアの混合レースの際には注意しないとな。ライアンあたりも怖いし。

 

 さて、クラシック。つまりはホシノウィルムと同期に、トウカイテイオーとナイスネイチャ、そして本格化が遅れて未デビューではあるが、ツインターボの3人。

 テイオーとネイチャはホシノウィルムも既に知っていたわけだが、ツインターボの名前を出した瞬間、座っていた椅子からひっくり返ったのはどういう感情だったのだろう。

 

 最後にジュニアだが、ここも層が厚い。

 勿論全員未デビューだが、ミホノブルボンとライスシャワー、マチカネタンホイザ、サクラバクシンオー、ニシノフラワーが確認できている。

 いやぁ、ここもすごいよね。短距離の覇者バクちゃん、菊花賞でデッドヒートするブルボンとライス。

 フラワーは育成ウマ娘として実装されてなかったから詳しくないけど、ウララ枠ではなかったと思う。何せマイルにおけるバクちゃんのライバルだったと思うし。

 

 ……前世で世代概念を殆ど理解しないまま離れちゃったのが悔やまれるな。

 この世界の世代が、前世のそれと同じなのかはわからない。

 ただ、黄金世代の5人、テイオーとネイチャ、ブルボンとライスはそれぞれ同じ世代だったはずだし、多分大筋は間違ってない……のかな。

 

 

 

 さて、これらの存在をホシノウィルムに告げてみた反応だが。

 まず、スズカ、スペちゃん、ミーク、マックイーン、テイオー、ネイチャ辺りのメンツに関しては、どうやら既に知っていたようで、ピクリと反応することはあれど、大きな動揺は見せなかった。

 次に、スカイ、イクノ、マチタン、ブルボンにライスの5人には、耳と尻尾がピンと伸びたりした。表情こそ変わっていないが、あれだけ露骨に動くとなると、結構反応があるなぁこりゃ。言っておいてよかったかもしれない。

 で、逆にバクちゃんとフラワー、ライアン、パーマー、ヘリオス、アイネスフウジン。これらに対しては無反応に見えた。

 ……どうでもいいけど、アイネスフウジンって何って略すんだろう。サポカでも触れ合う機会なかったからわかんない。アイネス? フウジン? フウジンだとかっこ良くていいな。つよそう。

 話を戻して、最後に、ターボに関しては名前を出しただけで椅子をひっくり返して倒れてしまった、と。

 

 …………。

 何を基準に反応してるんだこれ。

 うーん……このホシノウィルムのことだ、もしかしたら名前や概要だけでも、何か運命的なものを感じたりするのかもしれない、と仮定して。

 しかし、強さを基準として反応するのなら、バクちゃん委員長に反応しないわけないんだよね。何せあの子、短距離における最強の一角なわけで。

 逆に反応のあったターボやマチタンは、戦績だけで見るとそんなに飛びぬけて良いわけでもなかったと思う。

 となると、脚質か? ……いや、ライスは逃げじゃないし、逃げウマに反応しているわけではないな。

 マチタンとフラワーは当時未実装だったからわからんけど、全体的な適性の広さと考えても違和感は残るし……。

 史実におけるG1か重賞の勝利数……あるいは血統の関係? 困ったことに、その辺はホントに知らないんだよなぁ。

 

 いや、ホントにわかんないな。

 ホシノウィルムは何を基準に反応して、何がそのポジティブネガティブを分けるのだろうか。

 ……うん、ここに関しては他の側面から考察すべきかもしれない。

 

 

 

 などと考えていると、ホシノウィルムに声をかけられた。

 

「トレーナー、行かないのですか?」

「……いや、悪い。行こうか」

 

 やべ、黙って長考してたっぽい。

 ダートだダート。せっかくグラウンド借りたんだから有効に活用しないとな。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 「芝が走れる」「ダートが走れる」ってのをどれくらいの基準で「走れる」と言うのかは、割とトレーナーによって違うと思う。

 例えば、本調子が出せる方を指して、そちらが走れると言うトレーナーもいる。片方が若干苦手でも絶望的でないなら、どちらも走れると言うトレーナーもいる。

 ……前者の場合、適性が芝CダートDで、実は芝もそこまで走れなかったりする場合もある。後者の場合、芝AダートCで、ダートはそこまで走れない場合もある。

 

 ウマ娘の走りは、言葉で表すことができない。

 結局のところ、ウマ娘がどれだけ走れるかは、実際に見てみなければわからないのだ。

 ……俺以外のトレーナーにとってはね。

 

 それでも敢えてホシノウィルムの「走れる」評価をするなら、俺は「芝は走れる。ダートは走れない」って評価を付ける。

 ダート適性はC。十分健闘できるラインだが、だからってダートも走れるなんて言えば、俺の担当は勇んでダートに乗り込みかねないからだ。

 そうなれば、いくらスペックが高いと言っても、万が一が起こる可能性が生まれてしまう。まさしく最初の模擬レースの時のようにね。

 それは何としても避けるべきだろう、彼女のトレーナーとして。

 

 ……第一、ダートに出す必要性などない。芝で戦えばいいのだ。

 彼女の芝適性はS。本来あり得ないはずの、純粋な才能を超越した領域なのだから。

 

「ダートの野良レースで勝ったらネイチャと模擬レースならどうでしょう」

「良いと答えると思うか?」

「奇跡は起こるものではなく、起こすものだと思います」

「奇跡は稀にしか起こらないから奇跡なのだ。どうせ模擬レースは開くのだから、あと1、2週間待ちなさい。

 ほら、トレーニング開始」

「了解。ダート走、開始します」

 

 ……さて、何故ホシノウィルムと軽口を叩きながらこんなことを考えていたかと言えば、だ。

 

 

 

 そろそろ、はっきりさせようと思うのだ。

 ホシノウィルムというウマ娘が、何者なのか。

 

 

 

 材料はこの1年で相当に集まったと思う。

 あとはそれを、脳内で組み上げるだけだ。

 

 第一に、彼女が何らかの特異な存在であること。これは間違いないだろう。

 ダートも走れなくはない広い適性で、更にS持ち。初期から高いステータスやコンディションを取得している。

 今年のジュニア級のネームドたちも偵察したが、こんな特殊なことは起こっていなかった。

 やはり彼女はネームドウマ娘で、その上で他ネームドたちをも超える、何らかの特異な存在なのだろう。

 

 第二に、ネームドウマ娘に強い反応を示す。

 一番反応が大きかったのは、テイオー、ネイチャ、ターボ。つまりは同世代のウマ娘たちだ。

 スズカにスペ、スカイと、そしてブルボンやライス。この辺りも比較的強い反応があったと思う。

 

 第三に、ウマ娘らしくないことだ。

 担当してから暫くの間、彼女にはえらく知識が欠損していた。そしておそらくそれは、レースや競走そのものへの熱意のなさから来ているのだろう。

 彼女はレースを楽しめない。……この前の模擬レースで、少しは変わったかもしれないけども。

 この前兄に確認したが、やはりこの状態はウマ娘としては異常……いや、異常という言い方は良くないな。異端な状態らしい。

 

 強すぎる力。ネームドへの反応。ウマ娘としての異端さ。

 

 

 

 以上から導かれる結論は……そう。

 

 

 

 

 

 

 ホシノウィルムは、俺と同じような転生者なのだ。

 

 

 

 

 

 

 ……などと、そんな失笑ものの妄想はさておいて。

 

 ま、転生者という説も一時は考慮したんだけど、これはありえないかなー。

 まず、ネームドに反応すると言っても、初期から実装されていたわけではないフラワーたちはともかく、アプリを遊んだ元トレーナーなら誰もが反応するだろうバクちゃんに反応してないわけだし。

 その精神状態に関しても、最近になって露出した幼児性の欠片などから見るに、彼女の成長過程での何かしらが影響している可能性が高い。

 

 ……正直に言うと。

 この世界で恐らくたった1人しかいない転生者であることに、寂しさを感じないわけでもないんだよね。

 だからこれは、俺の欲望が組み上げてしまった妄想でしかないのだろう。

 

 前世の記憶がある、ってさ。そんなこと言ったって、まあ信じられないわけよ。

 実際父や兄に打ち明けたことはあるけど、どっちも精神異常や冗談として扱われたし。

 信じてくれたのは……いや、あれを信じたと呼ぶべきかもわからないけど、あの妹くらいだ。

 『……まぁ、兄さんが嘘を吐く理由はないし。私くらいは信じてあげる』。これを慈悲と捉えるべきか、憐憫と捉えるべきかは微妙なとこだね。

 

 妹の言葉は嬉しかったけど、多分世間一般から見てまっとうなのは父や兄の方だ。

 前世の記憶があるなんて言う人間は、胡散臭い。自分が持っていないものを信じられる人間はとても希少なのである。

 

 そして……だからこそ。

 俺はトレーナーとして、ホシノウィルムに「前世の記憶があるんじゃないか?」なんて確認はできない。

 もし彼女が転生者じゃなかったら、不安や猜疑心と共に「何故そう思うのですか?」と訊いて来るだろう。

 それに対して俺は、理路整然とした返しができない。「俺がそうだからだ」なんて言えば、狂人か宗教勧誘と思われて関係性にヒビが入る可能性があるし。

 

 ……いや、まぁ、これでも1年以上の付き合いだ。

 多少変なことを言っても壊れない程度には信頼を築いてきた、と思う。

 

 だが、そもそもこのリスクを踏む必要性はないわけで。

 自分の寂しさなどより、ホシノウィルムとの関係性を優先すべきだ。

 俺は、堀野家のトレーナーなんだから。

 

 

 

 さて、転生者説はあり得ないとして、ではホシノウィルムは何なのか。

 俺には1つ、かなり有力な仮説がある。

 

 それは、「ホシノウィルムはライバルウマ娘なのではないか」というものだ。

 

 ネイチャシナリオの序盤テイオー。あるいは、メインストーリーライスの章の中盤あたりのミホノブルボン。

 半ば負けイベとして用意された、ビビるくらいに強いライバルウマ娘。

 ホシノウィルムは、誰かにとってのそれではないかと思うのだ。

 

 とは言っても、その対象が誰なのかまでは絞り込めないけども。

 テイオーは史実では快勝で2冠を取っていた雰囲気だったし、ネイチャのシナリオではテイオー以上の強敵と絡んだ覚えはない。

 つまり全く別の、ネームドではないウマ娘のライバルな可能性があるわけだ。

 

 ……いや、それにしてはあまりに強すぎるけど。

 彼女の性能を考えるに、それこそ無敵のはずだったテイオーの前に立ちはだかる強敵……みたいな存在感なんだよな。

 

 とすれば、考えられる可能性は2つ。

 この世界の世代が前世アプリのそれと異なっているか……。

 アプリのミークみたいな感じで、完全オリジナルウマ娘なのか、だ。

 ここはゲームの中の世界。俺が知らないだけで、あの後アプリにホシノウィルムが追加されていた可能性は十分にある。

 ミークはそうでもなかったが、あれ以降インフレと共にアホ強いオリジナルライバルウマ娘が登場した可能性は、決して否定できるものじゃないだろう。

 

 仮にホシノウィルムがライバルウマ娘だと仮定すれば、ある程度頷けることがあるしな。

 その能力が高いのは、負けイベントのボスだから。

 ネームドに反応するのは……もしかして、強く反応したウマ娘のライバルになる可能性がある、とか? ここはまだちょっと無理筋かもしれないけども。

 で、ウマ娘っぽくないのは、言ってしまえばキャラ付けだろう。やっぱライバルはキャラ濃い方が映えるもんね。

 

 ふむ……現状考えられる中では、やっぱりこれが一番的を射ている気がする。

 当面は、ホシノウィルムは誰かにとってのライバルウマ娘であるという前提で考えていこう。

 

 

 

「トレーナー、すみません。少しよろしいですか?」

「む、何だ、どうした」

 

 バインダーから目を上げると、ホシノウィルムが目の前で止まっていた。

 時間はまだたっぷりある。トレーニングが嫌になって雑談をしかけてくるようなウマ娘ではないはずだけど……。

 

「先程お伝えし忘れていました。恐らくトレーニング後は疲労困憊で再び忘れてしまうので、今のうちに。

 ……もしもトレーナーがよろしければ、皐月賞に出走する前に、私の両親にご挨拶をしていただけませんか」

「……君のご両親というと」

「はい」

 

 彼女は1つ頷き、いつも通りの無表情で言った。

 

 

 

「既に他界しています。

 墓前で、無事三冠に挑めると報告したいのです。

 クラシックレースに出走するのは、亡き母の、叶わなかった夢でしたから」

 

 

 







 両親を亡くしているホシノウィルムは、親戚に借金をしてトレセン学園に入学しています。
 更に練習用の蹄鉄付きシューズなども数えきれないほど使い潰しているので、かなりとんでもない額になっています。
 そのため、彼女がレースを通して得た金銭は殆どが返済に充てられます。
 ホシノウィルムが吝嗇家なのは、この辺りの事情に起因しているのでした。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、お墓参りとつまらない話。



(追記)
 誤字報告をいただき、修正させていただきました。ありがとうございました!


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親の冷茶が毒となる。

 前回と今回の間にあった話
『ホシノウィルム、今ゴールイン! いつも通りの大差で弥生賞を制しました!
 もはや蛇を止めることは誰にもできない、皐月の冠に顎が迫る!』



 好感度と信頼度が一定を超えると起きるイベント的なやつ。

 今回、重い話があります。
 気を強く持ってお読みください。

 



 

 

 

 やっぱり、寒いな。

 

 私が久々の帰省で最初に抱いたのは、そんな面白みのない感想だった。

 

 私の出身地、北海道は寒い。

 ……いや、何を当たり前のことをと思うかもしれないけど、多分関東住みの人の想像の5倍くらいは寒い。

 3月になっても最高気温は2度とかだし、当たり前に雪も積もってる。というか溶けない。

 舐めたら死ぬほどじゃなくなってくるけど、それにしたってちゃんと防寒着を着ないと、体の先端が壊死くらいはするかもしれないね。

 勿論外で野宿なんてしようものなら凍死しかねない。まだまだ雪降ることもあるし。

 それが北海道という土地の厳しさなんだわ。間違っても薄着で来たりしないでね。

 

 で、時は3月10日。

 私たちは、そんな大地に降り立ったのだった。

 

「……うお、想像以上に冷えるな。同じ日本でもここまで違うか」

「東京とは気温が10度程度違います。北海道の3月は、東京の1月よりも5度以上寒いですよ。体感温度であれば、更に下がるでしょうか」

「聞いてはいたが、やはり防寒着を持ってきて正解だったな。忠告ありがとう、ホシノウィルム」

 

 トレーナーはそう言って、ゆっくりと私の頭に手を置いて、少しだけ髪を撫でた。

 ……あぁ、温かい。

 気持ちいいというか、落ち着くというか……認められている、感覚。

 私はそれが、すごく好きだ。何なら、ずっとこうされたいとさえ思うくらいに。

 

「えへ……へへ」

 

 最近、トレーナーの前では、あんまり表情が取り繕えてる気がしない。

 トレーナーがちょっと抜けてる時とか、こうして頭を撫でられている時は、どうしても仮面の隙間から笑みが漏れちゃうし。

 こういうちょっとした会話の際も、ほんの少し素に近くなってる自覚があるし。

 ……そもそも、取り繕う必要もないかもしれないけどね。

 

 

 

『君が勝とうが負けようが、望むのなら撫でてやる。

 俺が褒めているのは勝利という結果ではなく、君がここまで頑張ってトレーニングを続け、無事故で帰ってきたことなんだから』

 

 

 

 あの冬の夜にかけてもらった言葉。

 思い出すだけで、胸のあたりが……くしくしする。

 

 トレーナーは、きっと私がどんなウマ娘であれ、全力で支えてくれるだろう。

 それこそ、もしかしたら、転生者だって言ったとしても……。

 疑いながらも、今までの関係を続けてくれる……と、思う。

 だからある意味で、これ以上仮面を被る必要はない。

 彼の前でだけは、ホシノウィルムは「私」でいられるのかもしれない。

 

 それでもまだ、仮面を被っているのは……。

 単に私に、素顔をさらけ出す勇気がないから。

 

 トレーナーはすごい人だ。

 まさしくチートトレーナー、能力の高さもさることながら、あの考え方とか生き方は聖人君子のそれと呼んで差し支えないものだ。

 けれど、それでも。……いや、だからこそ、か。

 

 もしも彼から、おかしなものを見るような目を向けられたら。

 嫌悪感を持たれたら、トレーナー契約を解約されたら、二度と撫でてもらえなくなったら。

 ……私は、今度こそ耐えられないかもしれない。

 

 まったく、我ながらチョロいと思うんだけどさ。

 出会ってから、1年とちょっと。色んなことを一緒に経験して、笑ったり、怒られたりする内に……。

 いつの間にか、トレーナーの存在は、私の心の深い部分を占めてしまっていた。

 信頼。親愛。好感。彼に対するその全てを、私は持っている。

 私にとって、トレーナーは……この世界に生きている誰よりも、大事な人になってたんだ。

 

 

 

 だから、今日、ここに来てもらった。

 知ってほしい。あるいは、共に背負ってほしい。

 私の過去は私のもので、誰かに話したところで軽くなったりはしないけど。

 むしろ、トレーナーに無駄な重みを背負わせてしまうことになるかもしれないけど……。

 

 それでも。

 好きな人くらいには、自分のことを知ってほしい。

 そう願うのは、おかしなことだろうか。

 

「終わったら、何か食べて帰りますか?」

「そうだな。料金はこちらで持つから、美味しいものを食べよう。元地元民として、何かおすすめはあるか?」

「……そう言えば私、美味しいお店なんて知りませんでした」

「あー、まぁ、君はそうだろうな……では、てきとうなところで」

 

 そんな言葉を交わしながら、私は努めて、嫌な鼓動を鎮めようとしていた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 街から離れ、車で行くこと20分程。

 そこには誰の所有地かもわからない、だだっ広い空間が広がっている。

 そこまで手入れされていない、木が何本か生えているだけの草原。

 昔私が使っていたトレーニング場でもあるそこの、外れに。

 

 外と違い、柵に囲まれ、石畳で整備された広場。

 いくつも石が並ぶ、集団墓地。

 私の両親が眠っている場所が、ある。

 

「すぅ……」

 

 息を、大きく吸い込んで……。

 心を落ち着かせる。なんてことないって自分に言い聞かせて、理屈で心をねじ伏せる。

 そうしなきゃ、この場の雰囲気に吞まれかねないから。

 

 何の変哲もない墓地だ。

 掃除は行き届いて清潔。墓石の並びは均等で、そう大したズレもない。

 周りはそこまで手入れされていないとはいえ、定期的に草刈りされている草原。

 これといった危険な野生生物もおらず、心地よい風がまばらに生えた木を揺らして。

 踏まれたこともない新雪が一面を覆い、静謐な白と緑の世界が広がっている。

 

 きっと殆どの人々は、ここを綺麗で良い場所だと思うのだろう。

 

 ……それでも、私にとって、ここはどうしようもなく辛い場所だった。

 

 息苦しい。足が重い。眩暈がする。吐きそうだ。

 毎度毎度、ここに来るたび、その感覚に打ちのめされる。

 お父さん。お母さん。

 今世で私を生み、育ててくれた2人。

 あの人たちがもういないことを、実感してしまうから。

 

 ……けれど、今回は。

 

「大丈夫か、ホシノウィルム」

 

 横に、彼がいてくれる。

 堀野トレーナー。いつも私のことを考えて、私のために動いて……私を、温めてくれる人。

 いつも通りの無表情のように見えて、その瞳には、突然立ち止まった私への心配の色が映っていた。

 

 ……人生二回目で、新しい発見だ。

 隣に信頼できる人がいれば、精神的苦痛というものは、大きく減ずるものらしい。

 

「……問題ありません。行きましょう、トレーナー」

 

 これ以上、彼に無様な姿は見せられない。

 行こう。

 ……両親に、そしてトレーナーに、話したいことがたくさんある。

 

 

 

 それは、当然のことだけど、他の墓石と何も変わらないものだった。

 私の両親の名前が刻まれた、端でも真ん中でもない、中途半端な位置にあるお墓。

 

「久しぶり、お父さん、お母さん」

 

 一言、声をかける。

 ……もう2人はいない。口に出したって、それを聞く人はどこにもいないっていうのにな。

 それでも声に出してしまうのは、果たしてどういう心理なんだろう。

 私はまだ、2人の影を追い求めてしまっているんだろうか。

 あるいは、故人を偲ぶ行為としては、おかしくないものなんだろうか。

 

 近くの水道で水を汲んで、お墓周りの掃除をして、打ち水した後。

 水とお米を供えて、お線香を焚いて、花を生けて。

 

 改めて、瞼を閉じ、お墓の前で手を合わせる。

 

 

 

 今更どうしたって、2人と話をすることはできない。

 だからこれは、ただの思考でしかない。

 

 お父さん、お母さん、改めて久しぶり。

 2人の子供のホシノウィルムだよ。まだ覚えててくれてるかな。

 今日は、報告に来たんだ。

 私、無事に中央トレセンに入学して、トレーナーを得たよ。

 信頼できる、良いトレーナーだと思う。

 私を甘やかしすぎることなく、けれどいつでも心を慮ってくれる、素晴らしい人と巡り合えたよ。

 

 ちゃんとデビューして、この前弥生賞にも勝って、皐月賞への出走は確実になった。

 そう、クラシック路線の最初の1歩、皐月賞。お母さんの夢のレース。

 結果として、お母さんの夢を代わりに叶える形になったね。

 ……お母さん、私はこれで良かったのかな。

 

 皐月賞で、私はテイオーちゃんと戦う。

 テイオーちゃん。私の前世の推しで、すごく強いウマ娘。

 最初は混乱しちゃったけど、もう迷いはない。

 ホシノウィルムは勝たなきゃいけない。わかってる。大丈夫。

 必ず、勝つよ。

 だから、私のことをまだ覚えていてくれるのなら、そこから見ていてね。

 

 

 

 ……当然だけど。

 内心で行った報告に、返って来る声なんてなかった。

 

 今、私の言葉に応えてくれるのは、ただ1人だけ。

 

「トレーナー」

「どうした」

 

 気遣わし気な声。普段よりも、ずっと柔らかい声色。

 何も知らなくても、私の状態を察して、支えてくれようとするあなたに。

 

「聞いてほしいことがあります。

 ……私の、過去についてです」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ホシノウィルムというウマ娘が生まれたのは、ありふれた普通の家庭だった。

 家は北海道の片田舎、コンビニに行くだけでも20分近く走らなきゃいけないくらいのところ。

 そこに割と広めの、2階建ての一軒家を建てて、両親と私の3人で暮らしていた。

 ……まぁそこは、トレセン学園に入る時に売却したので、既に私の居場所ではなくなったんだけど。

 

 お父さんは……何の仕事をしていたかは知らないけど、かなりの高給取りらしくて、いつも仕事に飛び回っていた。

 けれど母への愛はすごくて、空いた時間があれば、母の寝るベッドに添えられた椅子に座って、たわいない話をしていたのを覚えている。

 

 お母さんは、ウマ娘。けれどウマ娘にしては珍しく、病弱でまともに走れない体だった。

 幼い頃はそうでもなかったらしくて、夢は中央に行ってクラシックレースに出ることだった、と一度だけ聞いたことがある。

 10代に入った頃から本格的に体が衰弱して、それ以降、一年あればその半分はベッドに横たわらなきゃいけない生活になったらしい。

 結局地方のトレセンに入学することもできず、競走とは縁のない一生になってしまったようだ。

 そういう人生を、母は悔やんでいた。よく「自分はウマ娘としてはどうしようもない欠陥品」だと自嘲気味に笑っていたっけ。

 ……まだ赤ん坊の私が、その愚痴を理解できるとは思わなかったんだろうね。

 

 そんな2人から生まれた私は……まぁ、転生者だということを除けば、割と普通のウマ娘。

 前世の記憶や人格を引き継いでいるとはいえ、幼い頃は普通の子供レベルの精神性だったし、相応に迷惑もかけたかな。

 お医者さんに健康に育つと予言された通り、私は母の病弱さを継ぐこともなく、両親の愛を受けてすくすくと成長していった。

 

 

 

 要は、本当に普通の家庭だった。

 多分この世界にもありふれてる、探せばいくらだって出てくるような家庭。

 

 

 

 そして、この世界にもありふれてる、探せばいくらだって出てくるような悲劇が起きる。

 

 

 

 至極当然の話だけど、人は自分の持っていないものを羨む。隣の芝は青いものだ。

 私も、自分に前世の記憶があることを煩わしく思った……それを持っていない「普通」をこそ羨んだことがあったし。

 

 で、それは如何に母親だろうと例に漏れないわけで。

 私が立ち上がってまともに走れるようになり、「早くウマ娘とレースがしたい」なんて言い出すと……。

 

 お母さんの視線と愛は、段々と歪み始めて、1年程でへし折られた。

 それからは私は、ネグレクトされたというか……お母さんの視界にはあんまり入ってなかったかな。

 

 でも、勘違いしないでほしいんだけど、私はお母さんのことが嫌いじゃなかったよ。

 悲しいし辛いとは思ったけど、これでも元大学生。

 お母さんの気持ちを推しはかることは難しくなかったし……他者のどうしようもない才能に嫉妬する気持ちは、前世でよく知ってたからね。

 理解も共感も、納得もできた。それに何より、それまで注がれてた愛は本物だった。

 だから私は、お母さんを憎むことはなかった。

 強いて言えば、かわいそうだなって思ってたかな。

 かわいそうな人だから、憎むことがなかったのかもしれない。

 

 で、お父さんはお母さんが大好きな人だったから、お母さんにかかりっきりになってしまって。

 家庭に居場所をなくした私は……恥ずかしながら、ちょっとばかし荒れた。

 

 これ、私自身誤解してたことなんだけど。

 いくら前世の知識とか人格があろうと、精神的な防御力とか感情の奔流の激しさは、年齢とか環境に依存するっぽくてさ。

 お父さんにもお母さんにも見てもらえなくなった私は、感情的な衝動のままに……今思うと、最低なことをやらかした。

 下手に知識があるからこそ、自分が責められないような小賢しい方法で、色々とやってしまった。

 今更具体的に何をやったかは語ろうとも思わないけど……幼稚園で完全に孤立して、職員さんにも嫌われたくらいのことだ。

 前世の記憶があるとか、人前で言うもんじゃないんだよ、ホントさ。私を助けようとしてくれた職員さんとは、それで完全に袂を分かってしまったし。

 

 ……結局、その原因だったお母さんは、私が小学校に入るくらいのタイミングで病死してしまったんだけどね。

 無視され始めた辺りから、ちょっとずつ体調は悪化してたし、私の存在が精神的に重荷になったんだと思う。

 遺ったのは、叶わなかった夢と、誕生日に贈られるはずだった耳飾りだけ。

 本当に申し訳ない。お母さんが不幸のままに逝去したのは、言い訳のしようもなく、私が生まれたせいだ。

 

 

 

 お母さんがいなくなって、小学校に入った私が明るくなったかと言えば、そんなこともなかった。

 田舎というのは閉じたコミュニティだ。噂が出回るのも早ければ定着するのも容易で、そしてそれは身内間で共有され続けて、ずっとずっと長続きする。

 私が最悪な子供だってことは、小学校に入った時点で全校生徒に知られていた。

 初めて登校した時にも、先生を含めて全ての人から白い目で見られた。

 完全に自業自得なんだけど、そんな中で明るくなるなんてできるわけもなく、私は前世の理性が「どうにかしないとマズい」と叫ぶのも無視して、不良街道まっしぐら。

 

 一方父は、2年間ほど、失意に沈んだ。

 父は母を支えるために平然と7桁の数字を動かしてたような人だし、そりゃあ若くして死別なんてすれば絶望するのは道理だ。

 立ち直るのには長い時間を要した。長すぎて、もう戻らないんじゃないかって思った程に。

 

 けど、ある日。

 戯れに乱入した、ウマ娘だけでやるかけっこで、私が1着を取った日。

 お父さんは急に明るくなって、私の頭を撫でてくれたんだ。

 

 その急激すぎる変化に、正直ちょっと戸惑った。

 自分の感情をコントロールできなかったり、小さなことでもショックを受けたりするけど、思考能力自体は前世譲り。

 あれだけ落ち込んでいた人間が急に明るくなったというのは、少しばかり違和感があった。

 

 けど、それ以上に。

 慰められるのが、嬉しかったんだ。

 ようやく私にも、ちゃんとした家族ができた気がしたから。

 

 お父さんは、ウマ娘とのレースに勝つたび、頭を撫でてくれた。

 その手からは熱を感じられなかったけど、それでも私は心が安らいで。

 勝てば勝つだけ、お父さんの愛情を分けてもらえる。

 だから私は……。

 ホシノウィルムは、勝たなきゃいけないんだ。

 

 

 

 

 

 

 父は、死んだ。

 交通事故だった。……とは言っても、別に轢かれたとか当て逃げされたとか、そういうドラマチックなものじゃない。

 前のトラックのこぼれた積み荷を避けようとして、死角にあった電柱に正面衝突するなんていう、どうしようもない事故。

 誰かを責めることもできず、お父さんという唯一の拠り所を失った私は……。

 

 走ることに、専念するようになった。

 

 お父さんが教えてくれたんだ。

 勝てば、認められる。勝てば、幸せになれる。

 実際、勝てば勝つほど、私に向けられた露骨な悪意は減っていった。

 隔絶した世界にいる存在に手を出そうとするヤツはいない。

 私が孤立したバ鹿から孤高のウマ娘に近づくたびに、私の周りは静かに、そして冷たくなっていった。

 

 幸せにはなれないかもしれない。それは何となく、途中で悟った。

 けれど、少なくとも、苦しみからは解放される。

 

「もっと、速くならなきゃ」

 

 そのためには、中央に行くべきだ。

 正直、前世でファンだったウマ娘たちと争うことになる可能性があるのは、少しばかり憂鬱だったけど……。

 やるしかない。

 負けないためなら、あの子たちでも、倒さなきゃ。

 

 

 

 勝てないホシノウィルムに、価値なんてないのだから。

 

 

 

 結局のところ。

 この想いこそが、ホシノウィルムの原点。

 

 ただ誰かに褒めてほしいがために、他の全てのウマ娘の夢を破る。

 ……なんともエゴイスティックで幼稚な目的だ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 両親のお墓の前で、語り終える。

 勿論、前世とか転生とか、そういう言っちゃダメなところは言わなかったけどね。

 

 本当、暗くて憂鬱で、つまらない話だ。

 隠すべきこととは思わないけど、語っても負しか生まない過去。

 

 今思い返すと、トレーナーと出会うまでの私は、だいぶ追い詰められてたんだと思う。

 自分は転生者だって強調して、能力に名前なんて付けて、現実感を自分から奪って……。

 どこか夢心地というか、地に足が付いていなかった……いや、付けていなかったような気がする。

 まるで、これは現実じゃないから辛くないとでも言うように……今世を、私が生きているこの世界を、架空のものに落とし込もうとしていた。

 

 お父さんも、お母さんも、誰も悪くなかった。自分のことで手一杯だった。

 運悪く、どうしようもなく嚙み合わなくて、私たち家族は破滅した。

 ただそれだけの話と言えば、間違いない。

 けれど、ただそれだけの話が、私にとっては……認めがたい程の傷として残っていた。

 

 ……だから、今まで誰にも、1人にさえも話したことはなかった。

 下手に触れて、傷痕を開かないように。あの時の孤独を思い出さないように。

 

 それなのに今更、こうやって話しているのは……。

 それだけ私が、トレーナーを信じて、頼りにしているってことだろう。

 この人なら、私の隣にいてくれる。頑張れば必ず褒めてくれる、って。

 

 自分の幼さに、思わず仮面の下で笑ってしまう。

 やっぱり私、この世界じゃただの中等部の女の子なんだなぁ。

 

「すみません、長々とつまらない話をしました。

 感想や同情は、結構です。ただ……トレーナーに、聞いてほしかっただけですので」

 

「そうか。……すまない、今は何を、どのような感情で言うべきかわからない」

 

 そりゃあそうでしょう。

 何となく暗い話だな、とかそういうレベルじゃないし。

 私としても、何か言われても、何て返せばいいかわかんない。

 言ったって何か変わるわけじゃない。大した反応を求めているわけでもない。

 つまるところ、これは愚痴みたいなものだ。

 聞いてもらっただけでも感謝すべきもので、それ以上を求めちゃいけない。

 

「……ただ、まぁ、そうだな」

 

 ぽすんと、頭に手が置かれる。

 お父さんとは違う、温かい手。それが、私の髪を軽く梳いた。

 

「今まで、よく頑張ってきた。

 俺は君に出会えて良かった。君から多くのことを学び、多くのものをもらった。

 俺のトレーナーとしての能力は、君以外の者ではここまで活かせなかった。

 だから、ありがとう、ホシノウィルム」

 

「っ、……ふふ。トレーナー、そういうこと、あまり他の女の子に言わない方が良いですよ」

 

 一瞬だけツンと痛んだ瞳の奥を懸命に押さえつけて、頑張って笑う。

 まったくさ、そういうセリフは気軽に言うもんじゃないっての。

 

 勘違いしちゃダメだ。

 堀野トレーナーのことはよく知ってる。

 彼は、極めて真面目な人だ。

 今この瞬間にも、口説くだとか好感度だとか、そういった浮ついたことではなく、私との関係と精神状態のことだけを考えてくれてるんだ。

 決して、決して私を惚れさせようとしてるわけじゃない。強いて言えば私が勝手にそうなりそうなだけ。

 こちとら花の中等部、そんなイケメンフェイスで甘いことを囁かれれば、勘違いの1つもしちゃいますって。

 ……いつもこうなんだから困ったものだよ。この魔性のトレーナーめ。

 

 

 

「それじゃ行くよ、お父さん、お母さん。

 次は三冠を取って、報告に来るから。……もしトレーナーがよければ、また一緒に」

 

 私がお墓の前から離れると、入れ替わるようにトレーナーが墓前で膝を折る。

 

「現在ホシノウィルムさんをお預かりしています、トレーナーの堀野です。

 お約束することはできませんが、ご息女の栄光への道を全力で支えさせていただきます。

 どうか心安らかに、ホシノウィルムさんの走りを天上よりご覧ください。

 ……それでは、次は、来年の春に」

 

 誠実にそれだけ告げて、彼は立ち上がった。

 全力で支えてくれるとか、当然のように次も付き合ってくれるつもりだとか、そういうところで少しだけ体温が上がったような気もするけど……。

 気になるのは、最後のフレーズだ。

 

「来年の春というのは、どういう意味でしょう? 菊花賞は10月ですよね?」

「おい、まさか菊花賞で全て終わるとでも思っているのか君は。

 ……あぁいや、違うか。きちんとローテーションを告げなかった俺が悪いなこれは。クラシックレースが終わってから、と思っていたが……。

 君はこれから、4月に皐月賞、5月に日本ダービー、6月に宝塚記念。そこから休養兼仕上げ直しの後、10月に菊花賞、11月にジャパンカップ、12月に有記念に出走予定だ。

 そんなわけで菊花賞を取った後、しばらくここに来る余裕はない。報告は、どれだけ早くても年明けだろう」

 

 し、知らないとこでなかなかに過密なスケジュールが組まれてる……。

 いやまぁどのレースに出るとか、私はあまりこだわりがないんだけども。

 無敗三冠以外は興味がないので、そういうのはお任せしますって最初の頃言っちゃったのも私なんだけども!

 

 ……てか、見事に有名なG1レースばっかりだな。

 真顔で淡々と告げる様からは、「君ならば当然全て勝てるだろう」みたいな信頼が見える。

 トレーナー、どんだけ私の力を信じてくれてるんだ……。ちょっと怖くなったまであるぞ。

 

 ま、いいや。

 私は、その信頼に応えよう。

 勝つために。

 ……そして、ただ1人の、私のトレーナーのために。

 

「行こうか、ホシノウィルム」

「はい」

 

 私たちは立ち上がって、そのまま自然と横並びで歩き出す。

 墓地を出て、白い雪に足跡を付け始めたところで、私は何となく口を開いた。

 

「……ところで、帰ってからの模擬レースのことなんですけど」

「もう何回も伝えたはずだが、募集結果は帰ってからしか見ることはできない。これ以上何も話せることはないぞ」

「なるほど。ではその次の模擬レースのことですが」

「俺の言語野がおかしくなっているのか、さも次回の予定が決まっているかのように聞こえるが」

「そう言っていますので」

「…………まずい、上手い返しが思いつかん」

 

 そんな軽口を叩きながら、私たちは一緒に歩いていく。

 

 不意に、楽しいな、と思った。

 契約を結んだ頃は、トレーナーと軽口を叩き合える関係になるとは思ってなかった。

 最初は仮面を覗かせないことに専念していたし、彼が割とポンコツだとわかってからも、殊更に交わされる言葉が増えることはなかった。

 だから、ネイチャとの模擬レースは……言い方は悪いけど、すごく良い口実なんだ。

 

 私だって、これでも大学生になったことのある頭を持ってる。こういう駄々が、何の生産性もないことくらいはわかってるよ。

 でも、ネイチャとレースしたいって気持ちに嘘はないし……。

 ……ついでに、それを話題にトレーナーと親しく言葉を交わせるのは、楽しい。

 だからつい、そう口に出してしまうんだ。

 

 こんなの、だる絡みでしかない。

 私は不器用なもので、そういった形でしか、トレーナーとコミュニケーションを取れないんだ。

 でも、トレーナーはいつだってそれに真正面から応えてくれる。

 面倒くさくても、馬鹿真面目に向き合ってくれる。

 

 それが、楽しいし、嬉しい。

 

 こういう時間を、幸せって言うのかな。

 だとすれば、それは思っていたより、ずいぶんと温かい。

 

 

 

 最後にちらりと、後方を振り返る。

 ざあっと、吹き抜けた風が雪に覆われた草原を揺らす。

 静かな墓地……私の心をいつも重くした光景。

 それを今日に限って、少しだけ、綺麗に感じた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 旅先から帰ってきたら、日を改めて、トレーナーと一緒にたづなさんから渡された書類をチェックする。

 公募していた、念願の模擬レースの参加者希望リストである。

 そこにはネイチャを含めて、結構な数のウマ娘の名前が並んでいた。

 

「……多いですね」

「ああ、まさかここまでとはな。選考していかねば」

 

 実のところ、今は模擬レースを行うには時期が悪いらしい。

 クラシックレースの最初の1つである皐月賞の直前だからだ。

 三冠を目指すウマ娘なら、この時期に無理に出たいとは思わないだろう。

 模擬とはいえレースはレース、手札はバレるし、脚を消耗させてしまうし、それで調子を崩すこともあるのだから。

 

 それなのにここまで参加者が集まったのは……。

 あ、ネイチャの人徳かな。ネイチャ、めちゃくちゃコミュ力あるから友達多いんだよね。

 私みたいなコミュ障は人望がないわけで、ネイチャが友達を誘ってくれた説は濃厚だ。

 

 しかしこの人数、フルゲート想定の18人で走るとしても、結構落選出ちゃうなぁ。

 ネイチャは必須として、やはり有力なウマ娘たちとレースしたいって気持ちはある。

 誰を選ぶべきか。というか選んでいいのか。

 やっぱりここはリサーチを欠かさないトレーナーと相談して……。

 

 ……ん? 今なんか、見覚えがある名前が見えたような?

 えっと、この辺りに……。

 

 は!?

 

 

 

「ツ、ツインターボ!?」

 

 

 

 ……その時点で、参加者の内の1人は決定した。

 

 

 







 しんみりした余韻をぶち壊す、大逃げウマ娘のエントリー!
 初の大逃げウマ娘同士の勝負、果たして行方はどうなるのか……。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、これからの指針と模擬レースの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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*こおりのなかにいる*

 すごく唐突なんですけど、評価、お気に入り、感想、何よりご愛読ありがとうございます!
 いつも励みになってます。皆さまのおかげで楽しく書けてます!





 

 

 

 やはり北海道に比べると、関東はだいぶ暖かい。

 3月中旬になると少しずつ気温が上がり始めて、換気の度に身を震わせることも少なくなってきた。

 いやまだ普通に寒いけどね。ホシノウィルムなんて、トレーナー室の窓に手をかけただけでちょっと嫌そうな顔するし。

 

 で、そんな徐々に暖かくなってきた春先。

 俺はトレーナー寮の自室で、とある人間に電話をかけている。

 

「俺の同僚の話だ。……詳しくは話せないから要約になるけど、いい?」

『構わないよ』

「ありがと」

 

 耳に当てたスマホから、聞きなれた男の声が聞こえる。

 俺のそれとは違い、穏やかで柔らかい口調。

 人の心を開くことに長けた、専門家の……いや、これはただクセで出ているだけか。

 今日ばかりはただ親愛の情が込められた、家族に向けられた温かな声音。

 

 電話の相手は、俺の兄だった。

 

 

 

 俺の兄、堀野家の長男は、一言で表せば頭脳派超人だ。

 身体能力こそ平均以下だけど、その頭脳と精神性は飛びぬけて優れている。

 

 俺もトレーナーになるためにかなり勉強してきたが、兄の知識量には敵わない。

 職務上医学、心理学の方面に強く、その上で俺と同程度にはトレーナーとしての知識も蓄えている。

 それなのに頭でっかちにもならず、フィールドワークも怠らない。この辺俺に足りない部分なので、見習っていきたいところだ。

 

 その上、ドの付く聖人。情けは人のためならずを地で行き、困った人がいれば東奔西走。聞き上手で話し上手、いつでも笑顔を絶やさない。

 普通こういうのって表面上だけの八方美人だと思うんだけど……。

 15年近く同居してた俺が断言する。兄さんは素であの性格だ。だからこそめっちゃ尊敬できるわけなんだが。

 

 さて、そんな兄さんは堀野家の特性には従わず、トレーナー以外の道を選んだ。

 『俺はウマ娘を鍛えるんじゃなく、人とウマ娘の両方を治す仕事がしたい』と、医療従事者の道を取ったのだ。

 両親はその言葉を聞いた時、兄さんに色々と言っていたが、決意が固いと知ると背中を押して応援していたようだ。

 

 ウチは割と聖人揃いの家族なんだよな。

 父はちょっと頑固だけど尊敬できるトレーナーだし、母はマジで子供への理解度が高い。兄は先程言った通りだ。

 ……例外は俺と妹。俺は堀野家の者にしてはこの通りポンコツだし、妹は10歳くらいの頃から少しやさぐれてしまったから。

 

 その後、夢を抱いてから10年くらいか。

 兄は必死に勉強し、当然の帰結として、その夢を叶えた。

 今は地方のトレセンで保険医として勤めているらしい。頼れる先生としてそりゃあ大人気だそうな。

 ……弟としては、その内兄の魅力にウマ娘が掛かって、いわゆる「うまぴょい案件」が起こったりしないか心配なくらいですが。兄さん虚弱だし、押し倒されたら抵抗できないぞ多分。

 

 

 

 とにかく、兄さんは精神肉体共に、トレーナーとウマ娘、その両方を支えている。

 立派に夢を叶え続けているわけだ。本当に自慢の兄だよ。

 

 で、俺はそんな兄に、割と頻繁に相談を持ち掛けている。

 俺が学んできたのはウマ娘の身体とトレーニング方法が主で、精神や医療にはついてはそこまで詳しくない。

 生兵法は大怪我の基だ、やはり専門家がいるのなら頼った方がいいよね。

 

 そんなわけで、今日も兄に相談に乗ってもらっていた。

 ……まぁ、今日のは少しばかり、込み入った話になるわけだが。

 

 話題は勿論、ホシノウィルムについて。……より正確には、彼女の過去について。

 ただ、あれは俺を信頼してくれるが故に明かしてくれたものだろう。彼女のためとはいえ、簡単に人に話すべき内容でもない。

 なので、可能な限り彼女から話題を離し、架空の人物の物語として、オブラートに包んで話さなきゃいけない。

 そんなわけで、同僚には犠牲になってもらった。

 

「彼は少しばかり、特殊な家庭環境だったらしい。

 それで聞きたいんだけど。親が子を愛さない……いや、自分の配偶者への愛が大きすぎて、子に向けることがない。これは状況としてあり得るかな」

『……稀ではあるが、あり得るね。

 人間は本能的に、我が子を愛する傾向にある。

 けれど、例えば望まない子供だから憎んでしまったり、あるいは親の自己愛が強すぎて自分の方が優先度が高くなったり、もしくは君の言った通り、自分の妻や夫への愛が強すぎる場合、例外になり得る。

 親は子を守る、というのは絶対じゃないんだ。あくまで傾向に過ぎない』

 

 返ってきた答えに、やはり、と納得がいく。

 

 

 

 ……あの時。

 綺麗な墓地で、ホシノウィルムがぽつぽつと語った、彼女の過去。

 

 俺はそこに、強烈な違和感を感じた。

 

 前半は、おかしくなかった。……いや、そこで起こったおかしなことを、彼女の視線を通して正しく語っていたと思う。

 けれど後半。父親の死……いや、その少し前、父親が明るくなったという話。

 そこから先は、どうにも要領を得なかった。

 

 レースに勝つたび頭を撫でてくれた。

 勝てば勝つだけ、愛情を分けてもらえる。

 だから、勝たなきゃいけない。

 

 意味が通じてない。……その中に通っているべき芯、語るべき行間が欠けている。

 

 嘘をついていたわけじゃない。彼女は恐らく、自分の本音を話してくれていた。

 ……単純な話。

 ただ彼女は、その現実を未だに認められないのだろう。

 

 レースに勝つたび頭を撫でてくれた。……じゃあ、負けたら撫でてもらえない?

 勝てば勝つだけ、愛情を分けてもらえる。……負ければ、愛をもらえないということ?

 だから、勝たなきゃいけない。……それは、何故?

 

 何故その強迫観念を持っている? 何故そこまで敗北を怖がる?

 

 考えられる可能性は、1つ。

 ……敗北を喫し、あるいは勝利を放棄して、何かしらが起こったことがあるのではないか?

 頭を撫でてもらえず、愛を貰えなかった。貰えなくなった。

 彼女の言葉を借りれば、父が再び暗くなった、のか。

 

「……次の質問。仮に愛していた妻と死に別れ、子に対して無関心になったとして。

 その後、子供が成功を収めると、急に褒めたたえるようになった。

 この時、父親にはどんな心理が働いてるのかな」

『それは……うん、その情報だけで推察すれば、だけど。

 その父親は、子供を愛していない。

 ただ、いなくなった配偶者の片鱗、その人が生み出したもの、遺したもの、あるいはその能力か何か。

 それらを通して、いなくなった配偶者を愛していると見るべきだろう。いわゆる代償行為だね』

 

 想像する。シミュレートする。その人生と感情を脳に落とし込む。

 

 自分に最愛の妻がいたとする。

 その人は病弱で、少し油断すれば簡単に天に召されてしまいそうな儚さを持っていた。

 けれど自分はその人に確かな愛情を抱いており、それこそ何百万という金銭を注いで彼女を支えることも厭わない程。

 その妻との間に、愛の結晶が生まれた。

 その子は最愛の人と違い、明らかなギフテッド。病弱な彼女から生まれた、天賦の才を持つ突然変異体。

 ……最愛の人は、その子を憎むようになった。

 

 最愛の人が死ぬ。

 絶望。恐怖。失意。

 ……その時、我が子に何を思う?

 

 その後、子供が天賦の才を証明した。

 それを評価した。頭を撫でた。慰めた。

 代償行為。その子の何かを通して、いなくなった配偶者を愛している。

 何を通して?

 

 

 

 ……才能、か。

 亡き妻が遺した、フィジカルギフテッド。

 ホシノウィルムの父親は、彼女を愛した。

 彼女の、才能だけを。

 それを通して、ホシノウィルムではなく、それを生み出した今は亡き妻を愛していたのか。

 

 

 

「……なるほど、掴めた。兄さん、ありがとう」

『少しでも君の力になれたら嬉しいよ。

 ……あ、それより、ちゃんとご飯食べてる? 君は昔から何かに熱中しちゃうと寝食忘れちゃう悪癖があったけど、最近は改善したかな? 駄目だよ、ちゃんと食べないと身体的にも精神的にも追い詰められるんだから。担当ウマ娘を支えるためにも、まずは自分の健康を気遣わないと。君のことだから運動はしっかりしてると思うんだけど、それだって適切以上に行うのは体の負担になる。体調の保全のためにも食事と運動、睡眠はバランス良く取らないと。あ、睡眠は取ってるかな? 君昔勉強し過ぎて一日3時間しか寝てなかったことあっただろ、あれは本当に体に良くないよ。ちゃんと一日6時間、できれば7時間半の睡眠を取って、休日には9時間くらいしっかりと眠ること。いい? 最近論文が上がってたんだけど、君がしてた分割睡眠に関してなんだけどさ、あれってあん』

 

 通話切った。

 

「変わらないのはそっちなんだよなぁ……」

 

 俺の兄は、基本的には完全超人。

 ウマ娘の体についての知識量は俺と同じかそれ以上で、その他に関しては圧倒的に兄の方が上。

 身体的にはそこまで強くなかったけど、精神的には頑健かつ柔軟。顔もイケメンで死ぬほどモテる。

 

 ……そんな人なのに、俺が絡む時はポンコツというか、残念な過保護お兄ちゃんになっちゃうんだよなぁ。

 なんかよくわかんないけど、すごい気に入られてるんだよね。兄特有の博愛主義よりもなお深い親愛を向けてくる。

 ただ、マジでその理由がわからんのよな。そんな大したことした覚えないし。

 あれか? 3歳くらいの時に庭で花冠作ったヤツか?

 それまで死ぬほど世話になったから、せめてもの恩返しとして5時間くらいかけて作ったんだけど。あれ以降だよな、妙に世話を焼いて来るようになったの。

 でも、その程度であんな気に入られないよな……? マジで何なの……怖……。

 

 

 

 と、兄のことは一旦さておいて。

 今はホシノウィルムが最優先だ。

 

 

 

「……これで、はっきりしたな」

 

 何故ホシノウィルムは、敗北を恐れるのか。

 彼女の「冷」の表情は、どこから来ているのか。

 

 父に愛されなかった。

 ……いいや、一度は与えられた、念願の愛がもらえなくなったからだ。

 

 彼女がレースに敗北したのか、それとも出走を放棄したのかはわからない。

 とにかく、レースで勝って才能を証明するという行為が途切れた瞬間、愛の供給は絶たれた。

 故に彼女は、愛されるために、レースに勝たなくてはいけなくなったんだ。 

 定期的に勝つことで、父に愛される……自分が愛されるに足る存在であると、証明しなくてはならなかった。

 

 そうして、パブロフの犬のような条件付けが行われたのだろう。

 レースに勝てば、愛を貰える。これを何度も何度も繰り返して……。

 餌を貰えなくても、ベルが鳴れば食事を取るべく涎が垂れるように……愛が貰えなくても、レースに勝てるよう努力するようになった。

 

 それが彼女の、あの必死さの理由だ。

 

 愛されるだけの価値があるという証明。

 ……愛を求めた、自己の存在証明。

 

「『命がけ』。命を懸けて、愛されることを望む、か。

 命を差し上げるという言葉も、そういう……」

 

 あり得る話だ。

 確たる証拠はないが、状況証拠はそれこそが彼女の精神的欠陥であることを示している。

 

 素質と、努力。

 当然の話だが、その両面が揃えば、ウマ娘は成長する。

 だが多くの場合、素質を持った者は努力を怠る。

 何故ならその素質を以てすれば、大して努力することもなく勝ててしまうからだ。

 逆に、素質を一切持たない者は、勝つために極限の努力をする必要がある。

 二律背反とは言わないが、これらが同時に成り立つことは少ないんだ。

 

 そう考えれば、ホシノウィルムが強いのは当然だ。

 その有り余る素質と、「命がけ」で続けた努力。

 そのどちらも、彼女に勝てる者など、どこにもいない。

 

 問題は、彼女がそうして自己を証明したところで、今はもう……何の意味も持たないことだろうが。

 

 

 

 彼女の世界には救いがない。

 愛してくれるはずだった親は、彼女を拒絶し、あるいは評価するだけ。周りにいた人間は、異端な彼女を排斥するばかり。

 ようやくもらえたはずの愛も、他に向けられた偽物で。

 中途半端に条件付けだけして、それを与えていた者も消えた。

 

 救いがない。どうしようもない。徹頭徹尾、彼女には理解者がいない。

 

 だから。

 

『いいか、G1で勝てとは言わん。重賞で勝てとも言わん。

 お前はただ、ウマ娘に寄り添う人間であれ。

 そして同時、彼女を導く灯であれ。

 それが堀野家の、理想とするトレーナーである』

 

 俺が、堀野のトレーナーがすべきことは決まっている。

 最初から、最後まで……決まっているんだ。

 

 冷たい渇望の世界を切り開き、父親によって条件づけられた呪縛を解いて。

 心の中に宿る熱を。ウマ娘が得るべき悦楽を、彼女の中に取り戻す。

 

 そして……。

 

 

 

 自分の意思で、走りたいと思わせて。

 思わず笑顔が溢れるくらいに、レースを楽しませること。

 それが、ホシノウィルムの育成の、最終目標だ。

 

 

 

 そのためには。

 周りにいる人間やウマ娘が、彼女と親しく接し、彼女に愛情を注ぐこと。勝てなくたって自分には価値がある、ここにいていいんだと思わせること。

 そして同時に……「最高のレース」をさせること。レース中の凍り付いた彼女が、心の底から勝利を願う程の、熱いレースを用意すること。

 

 

 

「……やはり、あの子しかいない」

 

 

 

 宝塚記念、というレースがある。

 

 その年の最強決定戦とも言われる、年末に開催される有記念。

 それに対し、上半期の最強決定戦と言われるのが宝塚記念だ。

 前世のアプリでは、夏合宿前にスキルポイントを稼げる美味しいレースという認識だったが……。

 この世界における宝塚記念は、そんな甘いものじゃない。

 

 クラシックとシニアの合同G1レース。

 クラシック級のウマ娘が参加できる、初めてシニア級と戦えるG1中距離レースだ。

 力自慢のウマ娘は、クラシック級でこのレースに挑み……。

 例外なく、散る。

 

 宝塚記念で、クラシック級のウマ娘が勝利した記録は、残っていない。

 

 何故かと言えば、そんなのは簡単だ。

 ウマ娘は本来、本格化してからステータスが大きく伸びるようになる。

 クラシック級のウマ娘が宝塚記念に出ようと考えれば、最速で本格化したとしても、そこまで1年半しかない。

 一方シニア級は、2年半という長い時間をトレーニングに使える。

 

 時間にして、2倍弱。体を育てる時間が、そんなにも違う。

 ゲームで言えば、レベル50でレベル100の敵たちに挑むようなものだ。

 しかも10人以上によるバトルロイヤル。勝てる方が不自然というものだろう。

 

「しかし、そこしか予定が合わないと言われてしまえば、仕方がない」

 

 この世代において飛び抜けた実力を持つホシノウィルムは、クラシック級のウマ娘と戦っても、最高のレースを得られないかもしれない。

 望みがあるとすれば、トウカイテイオーとナイスネイチャ。

 けれど、トウカイテイオーの覚醒は確実性に欠けるし……。

 ナイスネイチャと戦うのは菊花賞で、事故でも起こして出走回避されたらどうしようもない。

 

 故に、格上に挑むしかない。

 

 ホシノウィルムは、今までその圧倒的なステータスで堅実な勝利を収めてきた。

 しかし、今回ばかりはそうもいかない。宝塚記念に出るなら、むしろステータス的には不利な戦いになるだろう。

 有利なのは恐らくスタミナと根性くらいで、他は優駿たちに比べれば見劣りを避けられないはず。

 

 現状、ネームドの内宝塚記念に出る意思を見せているのは、マックイーンとライアン。

 どちらもこの上なく有力なウマ娘だ。

 殊にマックイーンは天皇賞を走る生粋のステイヤー。作戦こそ違うが、ホシノウィルムの上位互換と言っても差し支えない。

 

 ……そして、そこに、彼女が来る。

 俺の知る、最高で最強のウマ娘が。

 

 

 

 ホシノウィルムの勝率は……低い。どれだけ多く見ても、5%くらいか。

 

 しかし、たとえそれで負けるとしても、俺は彼女に、その世界を見せる責任がある。

 

 そして、どんなに不利な戦いになるとしても、自分の担当ウマ娘の勝利を信じるのがトレーナーの仕事だ。

 

 ……まったく。

 無理なレースを押し付けて、その上勝手に信じるとは、とんでもない大悪党。

 トレーナーとは……いや、俺は、本当にエゴイスティックなクソ野郎だ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、3月は中旬を過ぎた。

 今日はついに、ホシノウィルムの待ち望んだ模擬レースの日である。

 

 ……しかし、おかしいなぁ。

 どうせこの時期に模擬レースなんか開いても10人も集まらない予定だったのに、気付けば出走人数18人。どうしてこうなった。

 いや、理由はわかりきってるんだけどね。ホシノウィルム、色んな意味で有名になりすぎたからなぁ……。

 しかも本人にはイマイチその自覚がないのが本当に厄介だ。

 インタビューや取材のたびに、頼むから不用意な発言はしないでくれと横でお祈りしてる。大体叶わないけど。

 

 

 

「や、堀野君」

「あぁ……ネイチャの調子はどうだ」

 

 それぞれのウマ娘たちがスタートラインに並ぶ中、俺は歩み寄ってきた同期のトレーナーと言葉を交わす。

 ……やつれてるな。こりゃ結構無茶してるっぽい。目もしぱしぱしてるし、徹夜明けか?

 持ってきていた缶コーヒーを放ると、彼は「ありがとう」と笑い、すぐに栓を開けた。

 

「ネイチャは絶好調だよ。今日のためにしっかりと仕上げてきた」

「……まったく、非公式だぞ。公式レースか何かだと勘違いしていないか」

「ホシノウィルムが出走するなら、そこがネイチャにとっての主戦場なのさ」

 

 恐ろしいことに、ネイチャ陣営はホシノウィルムを徹底マークしている。

 

 この世代で、少なくともクラシック三冠を目標にした場合、恐れるべきは1人だけ。

 天賦の才を以てターフを駆ける若い優駿、トウカイテイオーただ1人。

 ……であったのは、昔の話。

 

 その素質が最高のものでなくとも勝てる。レースに絶対はない……。

 それを証明するかのように現れた、世代3つ目の星。

 ナイスネイチャは、今では立派にホシノウィルムのライバルとなっている。

 

 そんなウマ娘にここまでマークを食らうのは、ちょっとばかり怖いな。

 ……ま、今日のレースに限っては、そこまで問題にもならないが。

 

「ホシノウィルムの方はどう?」

「そちらと同じく絶好調。いつも通りの泰然自若と言ったところだ」

「なるほど、お互い良いレースができそうだ」

 

 というか、ホシノウィルムはレースで調子を落とすことがない。

 この前の弥生賞でわかったことだ。

 彼女はレース前に好調の状態でも、いざ出走する直前になると絶好調に変化する。

 

 恐らくこれも、コンディション「命がけ」の効果だろう。

 余計な思考や精神的な変化を切り捨て、レースに集中する。自分の全てをそこに注ぐ。

 結果として、自分を不調に追いやっていた原因がなくなり、絶好調になる。

 テイオーとネイチャとの模擬レースでも、そうやって調子を持ち直したんだろうな。

 

 これを知れたのはかなり大きい。

 仮にレース直前に絶不調にまで落ちてもなんとかなるってのは、俺の精神衛生に優しい事実だ。

 流石に怪我とか身体方面の不調は防げないだろうが、そこは俺がカバーするので問題ないし。

 

「今日のレースの展開、どうなると思う?」

「ホシノウィルムとナイスネイチャに注目と言ったところだな。

 周りがその2人に対してどのように対応できるか、そして2人がどこまで周りを引き離せるか。

 これが今回の模擬レースの要点になる」

「……ホシノウィルムは、ツインターボを気にしていたようだったけど。やはり同じ大逃げウマ娘だからかな?」

「あぁ……そうだな」

 

 ツインターボ。

 輝くような長い青髪に綺麗なオッドアイ、そして幼げな性格と喋り方が特徴的なウマ娘だ。

 ネームドではあったけど、俺がやっていた時代には育成ウマ娘として実装されなかった。あれから実装されたんだろうか。

 ……あぁ、でも大逃げは実装されてるし、多分ターボも来てるだろう。結構人気あるキャラだったし、実装されないわけないか。

 

 さて、ウマ娘としてのツインターボの最大の特徴は、その圧倒的な逃げ脚だろう。

 本格化が遅れてしまったために出遅れたが、3月頭にようやくメイクデビューを迎え、この時期まで残ったレース勘のあるメンツを相手に、初めての公式レースで3バ身差の1着。

 最初からハナに立ち、ひたすらそのリードを守り続ける大逃げを見せつけた。

 

 ……世間的には、ホシノウィルムの栄光にあやかろうとしてるだとか、戦術を真似ているだとか、クソくだらん妄言も流れているが、勿論そんなことはない。

 ツインターボといえば大逃げウマ娘。彼女は自身のウマソウルに向き合って、立派にデビューを飾ったのだ。

 

 ……と、ここまでは良いんだけど。

 正直なところ、彼女のステータスに、ホシノウィルムやネイチャの勝負に割って入るだけのものはない。

 デビュー直後でスピード300強というのはかなり高いが、スタミナがあんまり育っていないのが致命的。それと賢さが初期値なので、出遅れと掛かりが怖すぎる。

 あとはスキルなんだけど、「大逃げ」と「先駆け」、「空回り」だけだ。空回りは初めて見たけど、多分デバフスキルなんだろうなぁ……。

 

 というわけで。

 ツインターボは、その素質はともかく、現状脅威になるものを持っていない。本格化が遅れるってのは本当に怖いものだね。

 いや、ある意味でホシノウィルムにのみ脅威になるかもしれないけど、その対策もバッチリ済ませてるし。

 

 よって、ツインターボがレース全体に大きな影響を与えることはないだろう。

 

 ……まぁ、そんなウマ娘に対して、ホシノウィルムはかなり動転してたけどね。

 そりゃあもう、表情こそ動かさないけど、ネイチャと話しながらもそわそわと周りを見回し、ターボが走り寄ってきたら少し目を見開いて硬直、それから何かを話している間もカチコチになっていた。

 

 僅かな変化ではあるけど、1年以上彼女と付き合ってきた俺には手に取るようにわかる。

 めっちゃ緊張している。あのホシノウィルムが。何だかんだレースには絶対的な自信を持つ彼女が。

 正直結構びっくりしたけど、トウカイテイオーの時ほどネガティブな反応ではないから一安心だ。

 ……しかし結局、何が彼女の反応を分けるかはわからないままなんだよなぁ。

 多分彼女本人の精神性とかじゃなく、ウマ娘としての運命とかそっち寄りなんじゃないかと思うんだけど。

 

「ツインターボがこのレースを取ることは、ないだろう。

 ただ、彼女の大逃げで全体的なペースが上がる可能性は高い。他のウマ娘がどこまで対応できるかが、勝負の分け目になると思う」

「うん、僕も大体は同意見だ。ちなみに、1着と2着の予想も訊いていい?」

「1着はホシノウィルム。2着は8……いや、9割でナイスネイチャ」

「ふふ、それはどうかな。今回こそ、ネイチャが勝利を頂くよ」

 

 ……うん。

 やはりコイツは、良いトレーナーだ。

 

 今回に限っては、ネイチャに勝ち目は殆どない。何故なら、状況が悪いからだ。

 

 ネイチャがホシノウィルムに勝利する条件は、前回と変わらない。ホシノウィルムを暴走させ、垂れさせること。

 だが、前回いたトウカイテイオーのような、ホシノウィルムを追い詰めることのできるウマ娘が、今回は参加していない。

 ネイチャが銃という飛び道具を使えたとしても、ホシノウィルムにまで届く弾丸がないのだ。

 

 せめてホープフルステークスで彼女に迫ったパンパグランデでもいれば話も違うんだが……。

 あと他だと、葉牡丹で2着だったスイートキャビンとか、弥生賞で大接戦を演じた2着から4着までの子たちとかいればなぁ……。

 実際には、残念ながら皆皐月賞へ出走登録してるし、今回のレースには不参加だ。

 この場には、ネイチャがホシノウィルムへ詰め寄るために必要なものが、どうしても足りていない。

 

 更に、今回は昨日降った雨の影響で、バ場状態が重バ場。

 ステータス上パワーに欠けるネイチャには厳しい環境と言える。

 前世のアプリと違い、この世界では当然、走る際に泥が飛んだりもする。差しであるネイチャは、前のバ群に進路をふさがれるだけでなく、最悪無意識に妨害される可能性まであるわけだ。

 

 だから、前回にも増して、ネイチャには勝ち目がない。

 それでもなお、やけくそでも何でもなく、ネイチャならひっくり返せると心の底から信じている。

 ……本当、良いトレーナーだ。

 だからこそ、俺は、全力で応えるべきだろう。

 

「勝つのはホシノウィルムだ。これは、決して揺るがない」

「……ふふ、挑ませてもらうさ」

 

 

 

 そうして、俺たちが見守る中で、ウマ娘たちが走り出した。

 

 

 

 綺麗にスタートしハナを切ったのは、やはりホシノウィルム。

 続いて良いスタートを切ったのはネイチャで、他のウマ娘たちがそれぞれ追う形。

 ……一方、ツインターボは。

 

「……うーん、見事に出遅れたね」

「ああ。外枠で良かったな。少なくともバ群に囲まれて前に出られないことはない」

 

 最後方の追込ウマ娘たちに交じる、逃げウマ娘。

 前世アプリ……シニアまで無敗……URA決勝で超出遅れ……うっトラウマが……。

 

 ……しかし、URA決勝。懐かしい響きだ。

 いや懐かしいって程でもないわ。2か月前に聞いた言葉だし。

 

 目覚まし時計のないこの世界でも、URAファイナルズは開催されている。

 「どのウマ娘にも平等に機会が与えられるレース」という初志は貫徹され、今でも芝ダート問わずあらゆる距離のレースが用意されるという、とんでもない規模の催しである。

 開催時期は1月から3月の間。参加条件はトゥインクルシリーズのシニア2年目であることで、他には一切なし。

 自分が最も得意なレースに参加し、腕自慢……いや、脚自慢の同期と走るわけだ。

 

 流石にクラシック三冠程ではないけど、こちらも結構人気がある。

 ちょうどウマ娘の本格化が終わる頃に開催されるので、その距離やバ場の条件における世代最強を決める……みたいな趣旨になっているみたい。

 俺も今年の1月、ホシノウィルムを連れて長距離のヤツを見に行った。ネームドこそいなかったが、それでも激アツレースで思わず興奮してしまったなぁ。

 

 ……と、その話は後にしよう。今は模擬レースだ。

 

「先頭との距離からして、勝利は不可能だろうが……」

 

 ターボは大幅に出遅れたというのに気にする様子もなく、如何にも楽しそうな表情で、何かを叫んで駆けだす。

 ……あ、加速が速い。先駆けだこれ。

 

「……掛かっているね。いや、大逃げウマ娘としてはこれが適切なのかな」

「さて。ホシノウィルムは単純な大逃げというわけでもないから、あるいはあれこそが大逃げなのかもしれないな。

 ……かと言って、序盤に最後尾から全力疾走はどうかと思うが」

 

 ツインターボの思考は、非常に単純だ。

 全力で走って、全力で勝つ、ただそれだけ。

 故に出遅れようが何だろうが関係ない。序盤から、ひたすらに全力で前を目指す。

 そしてその走り方こそが、ある意味ホシノウィルムにとって最も脅威になる……はずだった。

 

 差が縮む。差しウマ娘たちを追い抜き、先行ウマ娘たちを追い抜き、ついには逃げウマ娘たちも越えて、ホシノウィルムの背中が見える。

 残り1200メートル。このままのペースが保てれば、ホシノウィルムを差し切ることはできるだろうが……。

 

 まぁ、そんな無茶苦茶なことは起こせない。

 ホシノウィルムの後方8バ身程にまで迫った後、ターボの足取りが乱れる。

 表情からしてへろへろだし、スタミナが切れたな。

 闘争本能こそ折れていないが、これ以上前には行けないだろう。

 

「出遅れがなければ、ホシノウィルムとの先頭争いでスタミナを削られていたかもしれないが」

「ま、前回はかなりネイチャに有利だったからね。こういうこともあるさ」

「レースに絶対はない、か……。ホシノウィルムにこれが起こったらと思うと背筋が凍る」

 

 ターボはそのままバ群に沈み、大番狂わせの可能性は途絶えた。

 いよいよホシノウィルムの、いつものレースが始まる。

 

 

 

 結果。

 1着はホシノウィルム、2着にはやはりナイスネイチャ。着差は前回より開いて9バ身差。

 ……やるな、ナイスネイチャ。これだけ不利な状態でなお、大差を取らせないとは。

 これはいよいよ、テイオーと同レベルで警戒する必要があるぞ。

 

 ちなみに、ターボは14着。

 あれだけの出遅れから始まったことを考えれば、かなり健闘した方だろう。

 

「今回は負けたけど、改善点は色々見えた。やっぱり、もっと瞬間的な脚力が必要か」

「今回のようなバ場状態では肝要になるな。ただ、根本的なスタミナも不足しているように感じた」

「そうだね、ありがとう。……今度こそは勝つよ」

 

 負けても禍根を残さず、不敵な笑顔を浮かべた友人と別れ、それぞれの担当ウマ娘の元へ向かう。

 

 ホシノウィルムは……うん、いつも通りに肩を上下させている。もう少し落ち着いたら、勝手にストレッチを始めるだろう。

 少し遠くから声をかけながら駆け寄り、いつも通りに冷感タオルを渡す。

 

「お疲れ様、ホシノウィルム」

「トレーナー」

「今日のレースは楽しかったか?」

「……いえ、楽しいとは」

「そうか」

 

 ……ま、そりゃそうだな。

 

 彼女の心の氷は、少しずつ溶けてきている。

 ただ、それはあくまで日常生活の中でのもの。

 レース中に彼女の心を閉ざすのは、より冷たく大きな氷だ。

 父親により条件づけられたそれは、そう簡単に溶けるものじゃない。

 

 たとえレースが終わった後に「楽しかった」ような感覚を覚えても……。

 レース中に「楽しい」と感じることがないんだ。

 

 故に、終わった直後に「楽しかったか」と聞かれれば、レース中を思い返して、「楽しくはなかった」という返答になる。

 自分の感覚を裏切っているわけではない。ただ「楽しくなかったのに楽しかったと感じた」という矛盾から、それを楽しさだと思えないんだ。

 

 だが、その大きな氷もいつか必ず……俺が溶かす。溶かしてみせる。

 

「ツインターボを気にしているようだったが、どうだった」

「デュアルジェット師匠……途中でようやく後ろに来たようでしたが、何かあったのですか?」

「デュアルジェット師匠? ……ツインターボは盛大に出遅れていた。追込ウマ娘たちより更に後方からのスタートだったよ。よくも諦めず走れたものだ」

「師匠の最高の特徴は、諦めないところ、ですからね……。そんな後方から、あそこまで上がってくるなんて……流石は私の、師匠です……!」

 

 ツインターボが出遅れてまともに走れなかったことを残念がるかな、と思って訊いたんだけど……。

 え、何、有識者? 君彼女と面識なかったよね? なんかオタクみたいになってない?

 

「それと、今回もネイチャちゃんがすごかったです。途中で9バ身くらいまで詰められた後、しっかりと付いて来てですね……。やはり彼女はすごいです」

 

 ……ま、いいや。

 目の前の少女の、キラキラとした瞳。

 それに比べれば、全てがどうでもいいことだ。

 

 

 

 うん、この調子だ。

 この調子で、ホシノウィルムがレースを楽しめるように、俺は手を尽くそう。

 

 ……いや、違うか。

 これは勝負だったな。

 

 負けないぞ、ホシノウィルム。

 君には必ず、レースを楽しんでもらう。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ちなみに後日、こういう矢文が届いた。

 

『決当! 青葉賞で決着を付けるよ!  ターボ』

 

 ……決当じゃなくて決闘だね。

 あとホシノウィルムは皐月賞に出るから、青葉賞に出る余裕はないんだよ。

 ごめんね、ターボ……。

 

 

 







 模擬レース開始前の時点で、ネイチャはターボと何回か話したことがある程度。
 ホシノウィルムとターボは初対面です。

 模擬レース前にあったやり取り(ターボ合流前)
「ウィル、めっちゃそわそわしてんじゃん。そんなにターボのこと気になるの?」
「当然です、師匠ですから」
「!?」
「師匠はある意味、私がレースを始めるきっかけ……憧れでしたし」
「!?」
「師匠程輝くウマ娘なんてそういません。
 それこそネイチャとテイオーちゃんくらいでしょう」
「!?!?」

 ターボ合流後の会話は、ご想像にお任せします。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、皐月賞前夜の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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先輩風の春一番

 本作では未実装馬はモブウマ娘で代用させていただいております。
 雰囲気程度の元ネタがいる、くらいに思っていただければ。
 勿論、史実をご存じなくても楽しめるようにしますのでご安心を。





 

 

 

 

 クラシック三冠は、あらゆるウマ娘たちの憧れだという。

 

 皐月賞、日本ダービー、菊花賞。

 中距離から長距離にて開催される、ウマ娘としてのありとあらゆる力を試される3つのレース。

 この全てを、1つたりとも欠けることなく勝利するのは……非常に難しい。ほとんど不可能と言ってもいいだろう。

 

 そもそも競走ウマ娘としての力を持つ者しか入学できない、地方も含めたトレセン学園。

 更にその選りすぐりたちが全国より集まった、中央トレセン学園。

 そこに属する2000人のウマ娘たちの内でもほんの一握りの、G1級ウマ娘たち。

 そのG1級ウマ娘の内でも最高水準の世代最強18人が集まり、覇を競う。

 これがクラシックレースだ。

 

 改めて考えると、上澄みも上澄み。

 最強たちによる、本当の最強を決める夢の舞台なんだよね。

 

 当然、そんなレースで安定して1着を取れるわけがない。

 そもそも実力が同じ18人が出走すると考えれば、勝率は18分の1。

 ここに天候とか相手のコンディション、読み合いに事故の危険性も関わって来るんだ。

 確実に1着を取る、なんて約束はきっと誰にもできない。

 

 そんな中で3連勝を決めるというのは、速さ、運、そして強さ、その全てが飛び抜けていなければできるものじゃない。

 

 故に。

 セントライト。シンザン。ミスターシービー。シンボリルドルフ。

 長い歴史の中で、三冠を取ったウマ娘の名は4つしか残っていない。

 そりゃあ最強の定義の1つに数えられるわけだよね。

 

 

 

 ……で。

 つまるところ、明日行われるのは、そんなクラシックロードの出発点なわけだ。

 

 

 

 皐月賞前夜。

 私とトレーナーは、明日のレースへの対策を話し合っていた。

 ……いや話し合うというか、トレーナーが話して私が聞くってのが実情だけどね。

 

「さて次に、君のライバルを挙げていこうか」

 

 皐月賞に出走するのは18人。

 勿論その全員が強者ではあるけど、その内でトレーナーが挙げた、特に強力と思われるウマ娘は6人だった。

 

 葉牡丹賞2着、黒鹿毛の追込ウマ娘、スイートキャビン。

 

 阪神ジュベナイルフィリーズの覇者、栗毛の追込ウマ娘、ハートブロウアップ。

 

 ホープフルステークス2着、栗毛の差しウマ娘、パンパグランデ。

 

 とんでもないペースで出走を繰り返す共同通信杯勝者、鹿毛の差しウマ娘、チアーリズム。

 

 ついこの前スプリングステークスに勝った、鹿毛の逃げウマ娘、ホリデーハイク。

 

 そしてやはり、ここまで無敗の4戦4勝でその名を轟かす、鹿毛の先行ウマ娘、トウカイテイオー。

 

 明日、この内で誰が勝つのかは、三女神のみぞ知る。

 この世代における最強たちの集うレースだ。誰が勝ったっておかしくない。

 

 おかしくない……はず、なんだけどね。

 

 

 

「ただし。君は先程告げた中で、トウカイテイオー以外に注目する必要はない。

 何故なら、トウカイテイオーはこの優駿たちの中でも、更に2回り上を行っているからだ。

 仮にこのレースを君抜きで100回繰り返したとすれば、その内90回はトウカイテイオーが勝つ」

 

 トウカイテイオーちゃんは、私みたいに目立った勝ち方をしているわけじゃない。

 メイクデビューから順に、4バ身差、2バ身差、2と2分の1バ身差、2バ身差。

 全て大差で勝ち続けた私と比べれば、戦果としては地味なもの。

 ……でもそれは、テイオーちゃんが弱いということを意味しない。

 

 トレーナー曰く。

 テイオーちゃんは私に比べて、勝利への渇望が薄いらしい。

 より正確には、勝つことが当然になりすぎて、そこに感情を抱いていない。

 故に、彼女はレース中でも限界まで力を出すことがない。特に、前に誰もいない時には。

 彼女が大差を取らないのは、取る必要がないから。そんなに無理をしなくても、レースで負けることがないからだ。

 

 つまり……悪い言い方をすれば、テイオーちゃんは舐めプしてるわけだ。

 勝つのに必要なだけの力しか出してない。まだ底の底を見せつけていない。

 

「トウカイテイオーは負けそうになって、初めて本気を出して来る。

 そしてその本気を超えられるのは、皐月賞出走者の中には君しかいない。

 先程言った彼女が敗北する10回の内9回は、トウカイテイオーが土壇場で力の出しどころを見誤った場合の話。

 逆に言えば、彼女が力を出し切れば……ほぼ必ず、トウカイテイオーが勝つ」

 

「つまり……格上である私がいるレースでは、テイオーちゃんは必ず本気を出して来る。

 だから、注目するのはテイオーちゃんだけでいい、と」

「そういうこと。飲み込みが早くて助かる」

 

 私は前々回の模擬レースで、テイオーちゃんに8バ身の差を付けて勝った。

 勿論、あれは単純な実力差ってわけじゃない。

 あそこには、ネイチャがいた。テイオーちゃんはネイチャに良いように操られて、自由に走ることができなかった。

 ……けれど、数字として表れた差は確かにそこにある。

 テイオーちゃんはともかく、そのトレーナーは確実に私を格上として見てくるだろう。

 そんな私と共に走るG1レースで、テイオーちゃんが油断し、仕掛けどころを間違える可能性は低い。

 もしもそうなればラッキーだけど、それを中心にレースの設計を組むべきではないだろう。

 

「つまるところ、今回の必勝法は非常に簡単なものだ。

 トウカイテイオーから逃げ切れ。それだけで、このレースはほぼ確実に1着でゴールできる」

 

 何と簡単でわかりやすい作戦だろう。

 ウマ娘の足音を聞き分けられる私からすれば、テイオーちゃんとの距離感は常時掴み続けられる。

 後は、その足音との距離感を一定に保ち続けるか、それすら聞こえない程に逃げるだけで良い。

 幸い皐月賞は2000メートル、私の親しんだ距離だ。今更この距離である程度ペースを上げたところで、スタミナを切らすことはあり得ないし。

 うーん、わかりやすい必勝戦術。こういう時、自分がスタミナ自慢で良かったなって思うね。

 

「君はホープフルステークス、弥生賞と、これまでに同じコースを2回走っている。誰よりも経験値の面で上を行っているわけだ。

 ……故にこそ、トウカイテイオーを含めた全てのウマ娘は君に注目してくる。

 これまでラップタイムを意識して他のウマ娘に惑わされなかった、コースの経験豊富な大逃げウマ娘を、ペースの基準にしてくる。

 だから……うん。先程言ったように走ればいい」

「了解しました」

 

 既に、トレーナーから全ての作戦は聞いている。

 それを守って走れば……私は、勝てるんだ。

 信じる。信じられる。

 あの「寒い」感覚の中でも、それを思い出して頼りにできるくらいには、私はトレーナーに全幅の信頼を置いている。

 

 

 

 だから、明日。

 私は皐月賞に……。

 テイオーちゃんに、勝つ。

 

 

 

「良し。それじゃ今日は明日に向けて、作戦を反芻しながら就寝。

 今、君の体力はギリギリに詰めている。間違っても自主トレなんかしないように」

「流石にわかっています。今日は速やかに就寝することをお約束します。

 ……その代わり、レースが終わってからは」

「わかっているさ。頭を撫でる程度では、ご褒美にならないからな」

 

 私たちはにやりと笑い合って、別れた。

 

「おやすみ、ホシノウィルム」

「はい、おやすみなさい、トレーナー」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 私が帰り着いた時、栗東寮にはどことなく浮ついた空気が漂っていた。

 下駄箱で何か話してる子がいたり、食堂で何人かがなんかでかい紙を囲んでたり、事務室に何かを申請してるっぽい子がいたり。

 誰も彼もが興奮している。まるで遠足の前日みたい。

 こんな状態になったのは、3か月前のURAファイナルズ開催中以来だね。

 

 その浮き足立つ気持ち、わかんなくもないよ。

 何せ明日は皐月賞、ついに今年のクラシックレースが始まるのだ。

 今世代「最速」のウマ娘が決まり、もしかしたら未来の三冠ウマ娘が生まれるかもしれない。

 私は当事者だから騒いでる暇はないけど、そりゃあ外野からすれば盛り上がっちゃよね。

 

 ウマ娘とはいえ、あるいはウマ娘だからこそ。

 最速という言葉に憧れるんだ。心が揺れて仕方ないんだ。

 ……殊に、それに挑める見込みのない者たちにとっては。

 

 だから、もしかすると、彼女もそうだったのかもしれない。

 

 

 

 自室に戻ろうとする私の前に、2本の足が生える。

 横に避けようとするけど、相手がずいと道を塞いだ。

 なんだコイツとちょっと困惑していると、上から声が降って来る。

 

「ホシノウィルム先輩、不躾とは承知の上でのお願いがあります。10分間、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」

「……はい?」

「皐月賞直前で忙しいものと推測しますが、三冠を有力視されるあなたにお話を伺いたいと思い、声をおかけしました」

 

 誰じゃこんなタイミングで声かけてくるの。そもそも私に声かけてくるって何、罰ゲームとかさせられてる?

 そこでようやく私は視線を上げ、前に立ったウマ娘を見た。

 

 身長は、私より1回り大きい。あと胸もでかい。先輩ってことはこの子後輩のくせに……ズルいぞ。

 豊かな栗毛が揺れる。右耳に付いた耳飾りと、髪に付いた……なんかよくわからんでっかい髪飾り? が特徴的。どういう仕組みで引っ付いてんのそれ?

 その顔は私に近い無表情で……綺麗な青色が、私を見て……いた、って。

 

 

 

「ミホノ、ブルボンちゃん?」

 

 

 

 いや、いやいやいや!

 アニメ2期で出てきた、超絶かっこ良い勝負服の逃げウマ娘じゃん!!

 

「……ステータス『驚き』を検知。まさかホシノウィルム先輩に知っていただけていたとは。

 初めまして、ミホノブルボンです。よろしくお願いします」

 

 すっ……すごい特殊な喋り方だね!? 抑揚もないし、アンドロイドっぽいというか何というか。

 しかし彼女、アニメでもこんなだったかな? もっとこう、クールかつ熱血系な印象が強かったけど。

 

「……えっと、よろしくお願いします」

 

 丁寧にペコリと頭を下げられたので、こちらも慌てて下げ返す。

 

 いや、しかし、ブルボンちゃんが後輩にいるってことは知ってたけど……。

 お、同じ寮だったんだ……。普通に知らんかった。

 いや、寮は2つしかないんだし、もっとちゃんと考えてれば予想は付いたかもな。浅はかだったわ……。

 

 てかちょっと、好きだったキャラ……いやキャラじゃないか、好きなウマ娘が急に出てくると心臓に悪いって。

 イメージとしては、テレビで見てた好きな芸能人がいきなり現れて声をかけてくるみたいな。

 しかも私の……後輩! わお、そういえば後輩と喋るのって今世で初めてかもだ。

 しかし後輩と話すとなると、さすがに敬語は不自然かな? 人とタメ口で喋るの、何年ぶりだろ……。

 

「ええと……それで、何か用かな?」

「先程申し上げた通り、少しお話を伺いたいと思い、お声をかけさせていただきました。

 ご迷惑なようでしたら、日を改めて再び伺います」

 

 いやーご迷惑っていうか、かなり非常識だとは思うけどね。

 ウマ娘にとって、レース前日はめちゃくちゃにピリピリする瞬間だ。人間にとっての受験前日みたいなものである。

 契約トレーナーによる徹底的な追い切り。レースへの不安、緊張。それらで張り詰めてナーバスになることだって多い。

 殊にそれが三冠やURAファイナルズのものともなれば、もうそれは火薬庫みたいなもの。触らぬ神に祟りなしである。

 レース直前のウマ娘、触れるべからず。これは私たち、トレセン学園生の不文律なのだ。

 

 それを無視して接触してくるってのは、大体の場合、3パターンに分かれる。

 1。友達がいなくてそのルールを知らなかったパターン。つまるところ、過去の私である。

 2。バ鹿やらかした。滅多にいないけど、単純に忘れることもあるよねってヤツ。

 3。ルールを知った上でガン無視するメンタル強者。あるいは何か重い理由があるとか。

 

 ブルボンちゃんはどれだろうな。

 うーん、可能性が高いのは1番か?

 何せ、無表情のウマ娘は友達ができにくいしね。ソースは私。

 

 この1年以上の時間をかけて、友達らしい友達はネイチャしかできなかった。

 ……なんで同期のみんな、ウマッターフォローはするのに現実では声かけてくれないんだろうね。

 いつも遠巻きに内緒話されるの、結構辛いんだよ? もっと気軽に絡んでいいんだよ?

 

「……ふむ」

 

 さて、ブルボンちゃんの理由はともかくして。

 この誘いに乗るべきか、少し迷う。

 

 私とて1人のウマ娘。皐月賞を明日に控えた状態で、不用意なことをするのはちょっと怖い。

 

『ウマ娘は人とそう変わらない。特にその心は人に近く、そしてそれよりずっと繊細だ。

 ちょっとしたことで不調、あるいは絶不調の状態にまで転げ落ちることもある。君がトウカイテイオーと会った時のようにな。

 だからレース前は、自主トレも勝手な外出も禁止。きちんと言った通りに行動すること。

 いいか、絶対自主トレするなよ、おい聞いてるかホシノウィルム、絶対だぞ!』

 

 ……って、トレーナーに口を酸っぱくして言われてるんだよなぁ。

 弥生賞の時、フリかと思って軽く自主トレしたらめちゃくちゃ怒られたから、以後気を付けている。

 

 つまり何が言いたいかというと、目の前のブルボンちゃんに悪意があれば、変なことを吹き込まれたり、調子を下げられることもあり得るのだ。

 そういう意味でも、レースを直前に控えたウマ娘には接触するべきじゃないんだ。無用な疑いを招くからね。

 

 そう、常識的に考えれば、この瞬間の正解は断ることだろう。

 リスクを踏む必要はないんだし、「悪いけど、またの機会でいいかな」って言うのが最も賢い選択。

 

 ……しかし、だ。

 確か、三冠を目指していたブルボンちゃんは、菊花賞をライスちゃんに取られた後……。

 彼女に八つ当たりとかすることもなく、むしろ落ち込んでいるライスちゃんをなんとか慰めようとした。

 ブルボンちゃんは自分の夢を叩き折った相手に対して、悪意や敵意じゃなくて友愛と尊敬を覚えるような、とんでもなく良い子なウマ娘なのだ。

 

 彼女の心はとても真っすぐだ。変なことはしてこないはず。

 むしろ、契約トレーナーとの関係以外では自己完結してるイメージだったブルボンちゃんが、このタイミングで私に接触してきたことへの違和感がある。

 

 ブルボンちゃんは、前世で推しとまでは言わないにしても、かなり好きだった子だ。

 できることなら……力になりたいな。

 

 ……話を聞くだけならいいよね、トレーナー。

 もし駄目だったら自主トレ禁止令が下りそうだけど……まぁ、困った子がいれば助けるのも、先輩の仕事だと思うし。

 うん。

 

「構わないよ。談話室でいい?」

 

 ざわりと、なんか雑音が聞こえた。

 周りを見回して、初めて気付く。

 私とブルボンちゃんはいつの間にか、軽い人混み……ウマ混み? に囲まれていた。

 え、何これ。

 リンチ……って感じじゃないな。野次ウマ? なんで野次ウマが集まってんの?

 あ、もしかして私がカツアゲしたとか勘違いされてる? ぷるぷる、私は悪いウマ娘じゃないよ……。

 

 私が周囲を見回してどうしたものかと困惑していると、ブルボンちゃんはぺこりとまた頭を下げた。

 

「感謝します。……ただ、あまり人に聞かれたくない話です。私の部屋に来ていただけますか」

「部屋か……」

 

 え、部屋?

 うそ、ブルボンちゃんの部屋? え、入っていいの?

 わ、わ、待って待って、ホントに? ブルボンちゃんのお部屋? え、すごい良い匂いしそう……ってのは流石に冗談だけど。

 好きな子の部屋に招かれるの、なんかちょっと緊張する……!

 い、いいよね? ただ後輩の部屋に行って話を聞くだけだし、いいんだよね?

 

「……わかった、部屋番号を教えて。10分後に行くよ」

「お忙しい中申し訳ありません。よろしくお願いします」

 

 ブルボンちゃんはペコリと頭を下げて、部屋の番号を告げて去っていった。

 ……話ってなんだろうな。まぁ行ってみればわかることか。

 

 

 

 ちなみに、私たちを囲んでいたウマ混みなんだけど、私が通ろうとすると、なんかすすすっと道を開けてくれた。

 おぉ……モーゼみたいでかっこ良い。なんかすごいウマ娘になった気分だ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 自室に荷物を置いて、教えてもらったとこに向かった。

 ……あー、後輩の部屋に遊びに行くとか、前世含めて初めてかも。緊張と好奇心が抑えられないね。

 

 お部屋のドアをノックするや否や、すぐにブルボンちゃんの顔が出てきて部屋に招かれた。

 

「ホシノウィルム先輩、いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」

「うん、お邪魔します」

 

 お部屋は……おお、ブルボンちゃん側らしき半分はすごく片付いているっていうか、トレーニング用品以外は全然私物がない。私もこのタイプなのでちょっと共感だ。

 一方反対側は、几帳面さと可愛らしさが同居した、実に女の子らしい彩り。同室の子には席を外してもらってるみたいだけど、誰なんだろうな。知ってる子だとちょっと嬉しい。

 

 いや、あんまりきょろきょろするのもキモいな。

 素直にブルボンちゃんに勧められた椅子に座って、ベッドの前で立ったブルボンちゃんの話を待つ。

 ……え、そっちは座らないの? 無表情の仁王立ち、ちょっと怖いんだけど。

 

「今日はお伺いしたいことがありまして、お時間をいただきました」

「訊きたいこと。……ああ、逃げ方? 私のは、あまり参考にならないと思うけど」

「いえ、そうではなく」

 

 そうじゃないのか。よかった、正直私に走り方訊かれても答えにくいしな。

 私が勝ててるのは、直感的な走り方と暴力的な転生特典スペック、それからトレーナーに教えてもらった技術と作戦によるものが大きい。

 実のところ、その辺を言葉で出力するのは……うーん、ちょっと難しい。強いて言えば才能と人の運だからなあ。私の努力なんて微々たるものだし。

 

 それ以外のことなら答えられるかも、とブルボンちゃんを見上げると、彼女は少しだけ間を空けて口を開いた。

 

「私が提起する疑問は、クラシック三冠についてです。

 ……ホシノウィルム先輩は、何故三冠を目指すのですか」

 

 ……あー、そう来たかー。

 まぁ皐月賞前夜に訊いて来るんだ、三冠に関係することってのは想定の範囲内だけど……。

 

 しかし、三冠を目指す理由なぁ。

 最初はテイオーちゃんの夢を勝手に背負い込んで始まったこの目標。

 それが失われた今、実のところ私に三冠を目指す理由は、1つしかない。

 

 それは、トレーナーとの勝負だ。

 

 ホープフルステークスが終わった日の夜に始まった勝負。

 トレーナーが私に走りを楽しませるか、あるいは私が無敗で三冠を取るか。

 本当にどうでもいい、くだらない子供じみたやり取りなんだけど、それでも私にとっては、大事なトレーナーとの繋がりなんだ。

 たとえすぐに壊れるようなものでも、それを縁に……トレーナーの隣にいたい。

 私が三冠を目指す理由なんて、結局はそんな幼稚なものなのである。

 

 ……なんて、そんなこと言うわけにもいかないよなぁ。

 色々と経緯が複雑だし、この勝負は私たちだけの思い出だから、他人に話したくないし。

 

 となると、誤魔化すしかないか。

 わざわざ訊きに来てもらって悪いけど、取材を受けた時のと同じ、テンプレの返答を返そう。

 

「……そうだね。正直、特に深い理由はないよ。私は長距離まで走れるし、それならやっぱり目指すか、って」

「……やはり、自身の素質で目標地点を決定した、と」

「うん。あまり格好の付かない理由で申し訳ないけど」

「そう、ですか……」

 

 あ、あれ、ちょっと待った。ブルボンちゃんの視線が少し下がって……これ、落ち込んでる?

 え、なんで? なんでなんで? 待ってよ、私基本雑食なんだけど無意味な曇らせは苦手なんだって。

 

 よし一旦落ち着け、なんで落ち込んでるか考えろ私。

 そもそも最初、話の始まりは『何故三冠を走ろうと思ったのか』。

 んでそこから『やはり素質で目標を決めたのか』に流れて、肯定したら落ち込む。

 ……あー、もしかして、そういうこと?

 

「もしかしてブルボンちゃん、自分には芝、中距離や長距離の素質がないって思ってる?」

「っ、いえ……確かに、私の能力はスプリンターに向くものであると認識しています。

 けれど、私は……『クラシック三冠を獲得』。このオーダーを達成する必要が、あるのです」

 

 ブルボンちゃんは、少しだけ顔をしかめて俯いてしまった。

 

 

 

 ……ん?

 

 は? 今スプリンターって言った?

 

 スプリンターってあれだよね、短距離をメインに走るウマ娘だよね?

 

 何、え、どういうこと? ブルボンちゃんがスプリンター?

 アニメ二期で見たブルボンちゃんは、三冠に挑んでた。というか圧勝してた。

 皐月賞、日本ダービーまでを無敗で乗り越え、しかし菊花賞でライスちゃんに敗れた……という流れだったはずだ。

 ……改めて考えると、この子もめちゃくちゃ強いんだよなぁ。まだジュニア級だから、強くなるのは今からだろうけど。

 

 それが、スプリンター? 何言ってんだこの子。

 何をどう誤解すれば、菊花賞の3000メートルを走れるウマ娘がスプリンターってことになるの?

 どう考えてもステイヤーでしょ。よしんばそれがわかんないとしても、スプリンターではなくない?

 

 周りの教官とか、見ればわかるものじゃないの? 教えてあげれば……。

 ……あぁいや、そうか、あれはやっぱりすごいことなんだ。

 しかしそうなると、本人にはどう伝えたもんかな……。

 

「うーん……」

「確かに、私の血は、この身がスプリンターであることを表しています。

 それでも、私は……!」

 

 あぁもう、そんな顔しないでよ。

 よく考えれば、私は別に口が上手い方じゃない。何ならコミュ障の口下手だ。

 どう伝えたもんかな、じゃないんだよな。

 伝えるなら、ハッキリ伝えるべきだ。

 

「いや、違う。別に否定してないよ。

 君には十分、三冠を取れる素質があると思う」

「…………、三冠、を」

 

 まったく、なんて顔してんの。

 君は真面目な顔でトレーニングしてる方が素敵だって。

 あ、でも怒りの表情も好きだよ。ライスを一喝した時のアレ、普段が無表情だからこそ映えるよね。

 

「驚くようなことじゃないさ。血が全てだと言うのなら、私が生まれるはずがない。

 私の母は、病弱でまともに走れないウマ娘だった。いつもベッドの上で、自分の体の虚弱さを嘆いていたよ。

 家系図を辿っても、重賞どころか地方のオープンレースにだって勝った記録はほとんどない。

 私に流れているのは、そういう血なんだ。

 

 ……それでも、今。私は世代最強だ。

 

 血は、覆せる。素質と努力で、捻じ曲げることができる。

 もちろん、ブルボンちゃん。君もね」

「…………、『衝撃』を、感知」

 

 え、あれ? なんだその反応。

 私が突然変異ってことを知ってるから勇気をもらいたかったとか、そういう感じじゃないの?

 

 

 

 母は病弱だった。それについて私は、取材で答えたことがある。

 記者さんがどこからかそれを聞きつけて来たから、肯定したってだけなんだけど。

 

 ブラッドスポーツとまで言われるほどに、血の繋がりが重視されるウマ娘たちのレース。

 そんな中で、血統にそぐわず素晴らしい結果を残したウマ娘を、突然変異と呼ぶことがある。

 有名なところだと、今はドリームトロフィーリーグに在籍してる芦毛の怪物、オグリキャップさんとかがこれにあたる。

 

 非情な現実において、これはとても夢のある話だ。

 何せ、今は地方でも活躍できないようなウマ娘の子供に、とんでもないアイドルウマ娘が生まれることもある、って話になるもんね。

 メディアさんとしては、やはりそんな大きいニュースは世に出したいわけで。

 そんな訳で、私が突然変異だってことは割と早々に暴かれてしまい、私自身それを認めている。

 

 ……勿論、その先は、トレーナーにしか話してないけど。

 

 

 

 てっきりブルボンちゃんはその記事を読んで、私に声をかけてきたと思ったんだけど……。

 反応を見るに、これ知らなかったか? 私の早とちりだったかな。

 

 まぁそれでも、彼女に告げるべき言葉は変わらない。

 

 私が血を覆したのは、転生特典って部分が大きい。

 けれど、私以外にだってできないことじゃないはずだ。

 トレーナーも言っていた。基本は適性のある部分を伸ばすのが定石だけど、努力次第では適性のない部分を伸ばすこともできるかもしれない、と。

 あの人の言う「伸ばすこともできるかもしれない」ってのは、ウマ娘側の努力次第ではできるってことだ。

 じゃなきゃキッパリ、できないって言ってるはず。確信がないことで希望を持たせるような人じゃない。

 

「何より、君は間違いなくクラシックレースに出るよ。私のトレーナーが言っていたから」

「トレーナー……噂の、スーツの」

 

 え、噂になってるのトレーナー。

 ああいや、気になるけど、今は鋼の自制心でスルーしよう。

 

「トレーナーが言っていたの。ミホノブルボンは伸びてくる。クラシックレースに出て結果を残すだろうって。

 それと、彼女は逃げウマ娘だから、将来私のライバルになるかもしれない、とも言っていたね」

「私、が……?」

「私のトレーナーはすごい人だから、わかるんだよ。

 あなたは正しく努力さえすれば伸びるって。それこそ、私の背中に手が届くかもしれないくらいに」

 

 堀野トレーナーは、ウマ娘の脚を見れば、その素質とか調子がわかるっていうトンデモ能力を持っている。

 正直な話、最初は精度に欠けるんじゃないかって、その能力を疑ったこともあった。

 でも、彼の観察眼はいつだって正しかった。

 私は何度も、数えきれないくらいそれに助けられてきたんだ。

 

 そのトレーナーが「ミホノブルボンはクラシックレースに出る」と言ったんだ。

 間違いなく、ブルボンちゃんは来る。

 1年後、中山レース場に立つ18人の内の1人になるんだろう。

 

「ホシノウィルム先輩の……トレーナー」

「うん。すごい人。私の自慢のトレーナーだよ。

 ……待ってるよ。君が三冠を取って、私に挑んでくるのを。

 そして……私を熱くしてくれるのを」

 

 

 

 どうやらブルボンちゃんの話はそれだけだったらしく、「今日はお忙しい中、ありがとうございました」と深々と頭を下げられた。

 これくらいの話だったら全然かまわない。むしろ頼ってもらって嬉しいくらいだ。

 ひらひらと手を振って、そのまま彼女の部屋を後にした。

 

 ……しかし、ブルボンちゃんがスプリンターとして評価されてるとは。

 本当にどうなってるんだろう、この世界。前世アニメと違う部分があまりにも多いよね。

 もう前世のアニメとは完全に切り離して、活かせる知識だけ活かすくらいが適切なのかもなぁ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 これは、皐月賞が終わった後の話になるんだけど……。

 

 この一件以来、私は何故かジュニア級の子たちによく話しかけられるようになった。

 その内容は、レースに勝てないとか、トレーナーとの関係に悩んでるとかの真面目な相談もあれば……。

 

「ウィル先輩、これ食べてください!」

「あ、私もこれこれ! 買って来たんです!」

「ええと……うん、ありがとう」

 

 なんかお菓子とかジュースで餌付けされたりすることもある。

 ……お、このグミ美味しい。今度コンビニにあったら買おうかな。

 

「わ、へへ、貰ってもらっちゃった!」

「私ちょっと手が当たった……!」

 

 ……うーん。

 なんで急に話しかけられだしたんだろ。あとなんで色々くれるんだろ。

 やっぱり罰ゲーム? でもそれにしては、やけに嬉しそうな顔するのが謎なんだよな。

 最近の若いウマ娘が考えることはわかんないや。私も中等部2年なんだけどさ。

 

 

 







 人は幼少期に愛される体験をしないと、自分が愛されている状況を理解できないことがあるそうですね。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、皐月賞前編の話。



(お知らせ)
 久しぶりに活動報告の小ネタ・設定を更新しました。
 18話以降は文字数制限で入らなかったため、その2を作っています。

 今回のお品書きはこちら。
・(17話)堀野兄について 堀野兄にトレーナーが好かれてる理由とか。ちょっと重いかも。
・(18話)ブルボンの来襲 なんでこのタイミングでブルボンが押しかけて来たのか。
・(18話)ジュニア級の子の噂話 ジュニア級の子たちから、ホシノウィルムはどう思われてるの?

 勿論読まなくても本編は楽しめますし、想像で楽しみたい方は見なくても大丈夫です。
 ご興味があれば覗いてみてください。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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とある堀野の反省記録

 レース周りの話はどうしても独自解釈が多くなっちゃいますね。
 二次創作として楽しんでいただけたら幸いです。





 

 

 

 ……おかしなことに。

 その日が来ることはわかっていたし、その重さも理解していたはずだった。

 それなのに、いざ当日になった今、全く現実感がない。

 

「改めて、調子はどうだ、ホシノウィルム」

「万全です。昨日はしっかりと7時間半睡眠を取りましたし、これ以上ないコンディションであると自認しています」

「……うむ。俺の目にも、君は絶好調に映っている。仕上がりも上々。

 後は、パドック入りまでしっかりと体を伸ばしておけ。だいぶ待つことになるからな」

「了解しました」

 

 控室でホシノウィルムと言葉を交わす。

 彼女は全く以て正常。いつも通りのホシノウィルムだ。

 対して俺は……果たして、きちんと仮面を被れているだろうか。

 

 

 

 クラシックロードの出発点、G1、皐月賞。

 それが今日、俺の担当が出走するレースだ。

 

 ウマ娘たちの体が仕上がってきたクラシック級4月に開催される、中山レース場、右回り芝2000メートルのレース。

 「最も速いウマ娘が勝つ」という言葉通り、このレースでは直接的な速度こそが重視される。

 

 ここに来るまでに参加できる中距離のG1レースは、ジュニア級年末のホープフルステークスのみ。

 よって、そこに参加できなかった中距離から長距離を主戦場とするウマ娘たちにとっては、これが初めてのG1レースとなる。

 

 経験から来る慣れというものは、勝負事において非常に大きなウェイトを占める。

 殊にただ力を比べ合うだけではなく、高度な戦術や技術、策略を使う場合には、それに思考を割くためにどうしても慣れが必要となるだろう。

 

 ……つまり、G1初参加のウマ娘たちは、複雑な手管を使う余裕なんかないってことだ。

 2000メートルという距離は、長いようで短い。この時期のウマ娘たちなら2分程度で駆け抜けてしまう距離なのだ。

 経験もなければ時間もないこの環境下でものを言うのは、本人たちのスペック……そう、「速さ」。

 

 皐月賞に、難しい要素はない。

 最も理想的に、最も美しく、そして最も速く走ったウマ娘が勝つ。

 それこそが、皐月賞というG1レースなのだ。

 

 ……よほど素質が高ければ、この限りではないだろうけどな。

 

 

 

 とはいえ、そのレースは蠱毒の末に磨き上げられた最強たちによるもの。

 単に速さを比べるだけでも、とんでもないデッドヒートになることは避けられない。

 

 クラシックレースは、優駿の証明の1つ。

 当然の話だが、適性のあるウマ娘の大半は、このレースへの出走を望むだろう。

 しかし残念ながら、そのほとんどは叶わず夢と消える。

 

 それもむべなるかな。皐月賞の出走枠は18人分しかない。

 400人近く……地方まで含めれば、それこそ1000人以上いる同期のウマ娘の中で、その頂点の18人にしか、この舞台に立つことは許されないのだから。

 

 

 

 ……さて、ここからが本題になる。

 

 至極当然の話になるが、そんなウマ娘を担当するのは、名門の知識と長年の経験を持つベテラントレーナーの役割だ。

 

 いくら名門出身だろうと、中央の新人トレーナーがまず目指すべきは、担当をトゥインクルシリーズの重賞……G3で勝利させること。

 担当との二人三脚に慣れ、徐々にそのハウツーを自身の中に蓄積していき、それがしっかりと形になって初めて、G1を目に入れる。それが普通なんだ。

 むしろ一度でも担当にG1勝利を与えられた時点で、優秀なトレーナーである証明と言ってもいい。

 それくらい、G1レースに勝利するという栄光には、重い価値がある。

 

 前世アプリの影響とホシノウィルムのおかげで、俺の感覚はおかしくなっているが……。

 はっきり言えば、G1の勝利というのはまさしく「夢」だ。

 誰よりも優れたトレーナーであった俺の父でさえ、その生涯において担当に取らせたG1は5つのみ。

 G1ウマ娘を担当するというのは、それだけ珍しく、そして重責を負うべきものなのだ。

 

 だからこそ……現実感がない。

 

 ホシノウィルム。突然変異的に発生した、最高の素質を持つウマ娘。

 彼女を俺が担当し……G1どころか、皐月の舞台に立たせる、だなんて。

 

 不釣り合いじゃないか?

 

 

 俺は、ホシノウィルムを担当するトレーナーとして、相応しいのだろうか。

 

 

 

 新人で経験もなく、今もこうして緊張で竦んでしまっている。

 ホシノウィルムの勝利を信じたいのに、何かが起きて負けてしまうんじゃないかって……。

 皐月賞の格を前に、彼女の勝利を信じる心が揺らいでしまっている。

 

 ホープフルステークスの時はこうじゃなかった。

 あの時は、出走するウマ娘のステータスや天候、バ場状態や距離などを考えて、冷静に、どこか他人事のようにレースを見ていた。

 

 今思えば、半ばゲーム感覚だったのかもしれない。

 ウマ娘を育成すること。ホープフルステークスに出走すること。

 俺は前世のアプリで、それを何度も何度も経験してきた。

 だから今世のあれも、その延長線上だと感じていたんだろう。

 

 しかし、2つの出来事が俺の心を揺らした。

 1つは、あのネイチャの大健闘。

 圧倒的な格上であったはずのトウカイテイオーを振り回し、完全にレースを支配して……そしてホシノウィルムに迫った。

 そしてもう1つは……ホシノウィルムが、過去を聞かせてくれたこと。

 彼女には彼女の人生があり、苦しみがあり、そして俺を信頼してそれを打ち明けてくれたのだ。

 

 その2つで、俺は実感した。

 

 ウマ娘は、生きている。

 ゲームのデータじゃない。彼女たちはこの世界に生き、この世界で走っている。

 

 ゲームとしての感覚が、現実と剥離した。重ねて見ることができなくなった。

 ……ようやく目の前の現実を、正しく認識できた。

 

 皐月賞に担当を出走させるという、これまで何度も繰り返してきたはずの行為は……。

 今や俺にとって初めての、この身に余る挑戦になってしまった。

 

 

 

 知識はある。

 堀野の歴史が紡いできた膨大な知識を、俺は受け継いだ。

 この世界でも有数の名家である堀野家には、至宝と呼んで差し支えのない圧倒的な量のデータと、それに裏付けられた叡智が収められていた。

 

 能力もある。

 「アプリ転生」というわけのわからないこの観察力は、とてつもないアドバンテージだ。

 ウマ娘の管理という側面において、俺は並のベテラントレーナーよりも上手くやれている自負がある。

 

 だが、経験がない。

 俺はこれまでただの1度も、ウマ娘を担当したことがなかった。

 本来経由するはずだったサブトレーナーや教官も何故か回避してしまったから、その経験すらもないのだ。

 

 そして何より、覚悟がない。

 俺はまだ、他のウマ娘の夢が散ることも、自分の担当が負けることも、覚悟できていない。

 仮にホシノウィルムが勝ったとしても、それを心の底から喜ぶことができないかもしれない。

 

 

 

 そんな俺は、ホシノウィルムの契約トレーナーに相応しいのか?

 この最強のウマ娘の横に……彼女の隣に、いていいのか?

 

 

 

「トレーナー?」

「……ん、何だ、ホシノウィルム」

「トレーナーの番ですよ。さ、です。さ」

 

 担当の声で、ようやく思考が現実に戻って来る。

 さ。……さ?

 ああ、しりとりか。そう言えば、時間を潰すためにしりとりしてたっけ。

 

「さ……さ、か。いざ考えるとなかなか思いつかないな。散布」

「また、ぷ……。ぷ、ぷ……プロフェッショナル」

「ループ」

「ぷ…………。プリンセス」

「スープ」

「トレーナー、大人げなさすぎませんか」

「カップ」

「いや、今のは違うんですけど」

「ドープ」

「あ、聞いてませんねこれは」

「ワイプ」

 

 しりとり、か。だいぶ久々にした気がするな。

 1年と少し前、まだホシノウィルムとどうコミュニケーションを取ればいいかわからなかった頃……。

 重い沈黙に耐えかねて、俺が始めたのがしりとりだった。

 

 それからは、少し時間が空けば取り敢えずしりとりをしていた記憶がある。

 今はネイチャやターボ、そして模擬レースの話題に席巻されてしまったが……そういう時期もあったな、と懐かしく思った。

 

 まだ俺が、ある程度はちゃんとトレーナーの仮面を被れていた頃。

 ……ゲーム感覚で、ホシノウィルムの運命を眺めていた頃。

 あの頃の俺なら、この皐月賞も、何の動揺もなく迎えられただろうか……?

 

 ……いや。

 あの時とは、何もかもが違う。

 スカウトすらまともにできなかった頃に比べれば、今の方がずっとマシなトレーナーになれているはずなのに。

 

 なんて、情けない。

 あの日のことを羨む程、俺は追い詰められているのか。

 

 

 

「あの、トレーナー? ……トレーナー!」

「ん……どうした、ホシノウィルム」

「トレーナー、体調が悪いのですか? 心ここにあらず、という感じですが」

 

 ふと見れば、そこには……いつもの無表情を破り、心配そうに少し眉を寄せた担当の顔があった。

 

 ……あークソ、ホントに情けないな俺。

 よりにもよって、レース前の担当ウマ娘に気を遣われるとか……ホシノウィルムどうこう以前に、トレーナーとして論外。

 何のために仮面を被ってんだ、俺は。

 

 ホシノウィルムを見ろ。

 皐月賞という人生の岐路に立ちながらも、気丈に振る舞い、俺なんかを気遣っている。

 レース直前の自分のことよりも、誰かのことを優先しているんだ。

 

 お前はそんな担当ウマ娘に対して、何をしている?

 くだらない悩みを抱えて、彼女の存在を無視するのが、俺にとっての正しいトレーナーなのか?

 

「そんな訳がない」

 

 初心、忘るべからず。

 堀野のトレーナーとして、担当を支える。

 今は、それだけを考えろ。

 そのために、そのためだけに、俺はここにいるんだから。

 

「……悪かった、ホシノウィルム。今日のレースのことを考えていたんだ。

 大丈夫、1000回走ったら1000回、必ず君が勝つ」

「はい、トレーナーの作戦で、必ず勝って来ます」

 

 ホシノウィルムは心配そうな表情を消し、どことなく真剣な表情で頷いた。

 その瞳には、はっきりとした信頼が伺えて……。

 

 

 

 本当、ダメだな、俺は。

 

 いつの間にか、大切なことを忘れていた。

 相応しいとか相応しくないとか、契約トレーナーと担当ウマ娘は、そういう関係じゃない。

 

 ホシノウィルムは、俺を信じてくれる。俺をトレーナーとして認め、指示を聞いてくれる。

 俺は、ホシノウィルムを信じる。彼女のウマ娘としての力を認め、完璧なプランと作戦を指示する。

 

 トレーナーとウマ娘、その両者の間にあるのは、才能とか能力とは関係のない……。

 相互が認め合う、信頼関係でなくてはならない。

 

 俺がすべきは、うじうじ悩むことじゃない。

 彼女の信頼に応えるために、自分を変えていくことだ。

 

 そのための第一歩は……。

 

 ……うん。

 今日レースから帰って来る担当ウマ娘を、心の底から祝うことから始めよう。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、URAの職員が彼女を呼びに来たタイミングで、俺はホシノウィルムと別れる。

 この後、出走するウマ娘のトレーナーは、関係者用のスタンド指定席に入ってレースを待つのだが……。

 

 まだレースまで時間がある。

 俺は地下通路を抜けて、一般入場者の中に交じることにした。

 その理由は、ファンの方々の生の声を聞くため、というのが1つ。

 観客視点でパドックに立つウマ娘を観察するため、というのが1つだ。

 

 ……しかし、改めて。

 

「お前誰推しなん?」「ハートブロウアップ! 大番狂わせもあり得るぜ」「ひえー、テイオーの推しTシャツ完売だってよ」「どうせ帝王と蛇の戦いになるんでしょ?」「ホットダンス頑張ってくれぇ」「お前ホシノウィルムのグッズ買えたの?」「おお、見てよこれ、ウィルムぬい!」「めっちゃ無表情じゃん……」「スイートキャビン、実力あるのに人気なさすぎでしょ」「最近テイオーかなり気合入ってるよな」「チアーリズムって結局どうなの?」

 

 すごい人だかりだ。

 今年の皐月賞の事前入場者予想は前年の2倍近くに膨らみ、10万人を超えるものと見られている。

 それだけの人数が、今から始まるレースに期待を寄せているんだ。

 

 特に、やはりと言うか、物販は死ぬ程混んでるね。

 ……ほんとに死者出るんじゃないかこれ。とんでもないことになってるけど。

 ちらっと覗いた感じ、グッズは……やはりと言うべきか、ホシノウィルムとテイオーの売れ行きがすごいね。残酷なくらい差が出ちゃってる。

 

 ちなみに、自慢じゃないが俺はホシノウィルムのグッズを全部持ってる。トレーナーには確認のために送られてくるんだよね。

 結果として、俺のトレーナー寮の自室は半分くらいグッズの倉庫と化している。処分するのも申し訳なくて、どうしたものかと悩んでいるところである。

 

 ……しかし、ファンの方々はすごくマナーが良いな。

 この世界は、前世に比べてだいぶ民度が良いというか、善性の人間が多い。

 こうして列に並んでいる時も、基本的に割り込みとか諍いが起きないし、むしろ初めて会った人と推しのウマ娘の話題で盛り上がっているようなことさえ珍しくはない。

 

 俺もウマ娘を愛する人間の1人、立場さえ許せば彼ら彼女らと語り合いたい気持ちはあるんだけど……。

 何度か顔出しで取材に答えたりしたし、俺の正体が知られている可能性はなきにしもあらず。一応マスクはしてるけど、バレる可能性は否定できない。

 流石に今日の主役級ウマ娘のトレーナーがそんなことしてたら、馬鹿みたいに目立っちゃうだろう。

 

 というわけで、悲しいけど我慢だ。

 せめてその話をこっそりと盗み聞きながら、パドックへ向かうことにしよう。

 

「帝王と蛇の戦いはどうなるかな」

「ホシノウィルムは去年のホープフルステークス、1か月前の弥生賞と、二度に渡って中山の2000メートルを経験している」

「どうした急に」

「対してトウカイテイオーは、若葉ステークスで阪神レース場に改修工事が入った際、代わりに中山で走った1回のみ。経験値という点では、去年と直近という長期・短期記憶両方を獲得したウィルムが有利と言えるだろうな」

「なるほどな。しかしテイオーと言えばその天才的レースセンスだ、1回走っただけでも十分にモノにした可能性はあるんじゃないか?」

「天才はいる。悔しいが。もしもテイオーがその能力を遺憾なく発揮すれば、ウィルムは迫られるかもしれないが……」

「ああ……」

「「中山の直線は短い」」

「最後の上り坂を越えた先は80メートル前後。どうしても前方のウマ娘程有利になりやすいと言えるだろうな」

「テイオーが最終コーナーを抜けた後、上り坂までにウィルムのセーフティリードをどこまで削り取れるかが勝負所か」

 

 ……すっごい詳しいファンいるな!?

 思わず足を止めて聞いてしまった。

 

 ウマ娘は、アスリート性とアイドル性を併せ持つ。

 アイドル的な部分に惹かれる人も多い印象はあるが、こうしてアスリート性を愛してくれる人たちもいるわけだ。

 

 個人的には、ホシノウィルムの努力の結果を評価してくれるファンがいるのは、とても嬉しい。思わずニコニコしちゃうくらいには。

 ……いや、良い歳した成人男性がいきなり笑うのは怖いわ。

 さっさとパドックに向かおう。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 トゥインクルシリーズの公式レースでは、ファンの方々が出走ウマ娘たちの調子を窺えるように、パドックでのアピールタイムが設けられる。

 準備運動しているウマ娘たちが順番にランウェイに歩み出て、身振り手振りでアピールする、というものだ。

 レースへの気概、体のバランス、何よりその精神の整い具合。

 そういったものを見たり解説を聞いたりして、どのウマ娘がこのレースで活躍するかを予想するわけだ。

 

 ウマ娘たちは呼ばれるまで、パドックの中で軽く歩いて、改めてターフに足を慣らす。

 その中で呼ばれたウマ娘からランウェイに上がり、アピールすることになる。

 その順番は基本的に枠番とウマ番に従い、出走位置が内側のウマ娘から順に呼ばれるんだけど……。

 アクシデントがあったり、人気に大きな差があれば後に回されたりもする。……今回みたいにね。

 

 俺がパドックにたどり着いた時、そこではちょうど今日の出走ウマ娘たちが姿を現し、アピールを始めたところだった。

 

 

 

 1枠2番、17番人気、スイートキャビン。絶好調。

 デビュー戦以外ではなかなか1着を取れていないために評価は低いが、今日は見事に気合が入っている。これといった強力なスキルはないが、ステータスの均整が取れており、テイオーに次いで危険か。

 

 4枠9番、4番人気、ホリデーハイク。絶不調。

 初めてのG1レースを前に興奮している……いわゆる入れ込んでる様子だ。レースまでに落ち着きを取り戻すのは無理かもしれない。

 

 5枠11番、3番人気、ハートブロウアップ。普通。

 良くもなく悪くもない、普通のコンディションだな。彼女の素質はかなりのものだし、場合によっては入着もあるだろう。

 

 6枠13番、6番人気、チアーリズム。絶好調。

 強い。強いが、スイートキャビンに比べると誤差レベルで見劣りするか。スピードがそこまで高くないのが足を引っ張るかもしれない。

 

 6枠14番、5番人気、パンパグランデ。不調。

 ステータスはかなり高いが、左右の耳の動きが乱れており、抑えようとしても抑えきれない不調っぷりが表れている。皐月での活躍は難しいか。

 

 

 

 テイオー以外で一番警戒してたホリデーハイクが絶不調となると、いよいよ彼女たちのことは視界の外に置いてもいいだろうか?

 

 ……いいや、そんなことはない。

 ホリデーハイクが掛かれば、それだけホシノウィルムは追い詰められやすくなるわけで、むしろ彼女が入れ込んでいる状態はホシノウィルムからすると不利な可能性がある。

 やる気の上下は本人の勝率に大きく関わるが、同時に他のウマ娘への影響がどう働くかは未知数。

 むしろ冷静な好調の時より、掛かった不調の方が恐ろしい、なんてことも間々あるのだ。

 

 故に、彼女たちも脅威になる。

 ……残る1人に比べれば、小さな脅威でしかないのも事実だが。

 

 

 

 さて、16人の紹介が終わり、いよいよ彼女が現れる。

 ファンたちの熱い期待を受けて、実況が高らかにその名を唱えた。

 

『8枠18番、2番人気、トウカイテイオー』

 

 白と青を基調としたヒロイックな勝負服に身を包み、軽快にステップを踏んでランウェイを歩くテイオーは……絶好調。

 

 ……うん、これで2着までは確定したな。

 テイオーが絶好調になっている時点で、どちらが1着かはさておいて、ホシノウィルムとテイオーの2人がワンツーだ。

 確かに他の子も強いよ。特にスイートキャビン、チアーリズム。調子も整っている彼女たちの入着は固いだろう。

 でも、テイオーに勝てる程でもない。

 

 トウカイテイオーは勝利を約束されたウマ娘。

 その血も、才能も、そして実力も。周りからは1回りも2回りも隔絶している。

 故にこそ彼女は絶対の自信を持って、この皐月の舞台に立っているんだ。

 

『僅差で2番人気となりましたが、その実力は折り紙付き。

 柔軟さとレースセンスに関しては随一と言って良いでしょう。

 皇帝に次ぐ無敗の皐月賞制覇を成し得るのか。調子も体も整った彼女に注目です』

 

 スピードはホシノウィルムよりそこそこ下、スタミナと根性はかなり低い。賢さとパワーは同じ程度。

 ステータスだけだと、ホシノウィルムが有利だ。

 

 問題は、スキルだな。

 上手くコース取りし、より良い位置に付く「ポジションセンス」。

 好位置で息を入れて脚を溜める「好位追走」。

 スパート直前にバ群から脱出する「抜け出し準備」。

 ……そして、直線でグッと加速する「一陣の風」。

 実に隙が無い、あのトレーナーの担当ウマ娘らしいスキル構成だ。

 

 特に、最終直線でスパート開始と共に一陣の風が発動すれば、少しばかり……いや、かなり恐ろしい結果を生む。

 前世のアプリと違い、この世界ではスパートする位置や、スキル……つまり技術を活かすタイミングは、ウマ娘と作戦を出すトレーナーによって自由に決められる。

 故に、ちょっと死にスキル気味だった一陣の風も、場合によっては恐ろしいものとなるんだ。

 

 一方、賢さ不足によるスキル不発は、アプリと同じように起こる。

 思考が追い付かず、常に動き続けるレースの状況に合わせて咄嗟に技術を使えなかった、ということになるわけだ。

 

 ……無論、それらスキルを考慮してもなお、俺の目から見てテイオーはホシノウィルムに届かない。

 けど、何があるかわからないのがウマ娘のレースだ。

 警戒するに越したことはないだろう。

 

 

 

 トウカイテイオーはランウェイを去る前、天に向けて指を1本突き立てた。

 

 テイオーが信奉する中央トレセン学園生徒会長、無敗の三冠ウマ娘、シンボリルドルフ。

 彼女は皐月賞に勝った時、「まず1冠目」と、指を1本立てたという。

 それをリスペクトした勝利宣言に、当然ながらファンたちは沸き立った。

 

 ……けれどそのざわめきは、思ったよりずっと控えめだ。

 何故なら、今日ここに皐月賞を見に来た者たちは、その全てが知っている。

 

 もはやこの世代は、トウカイテイオーの一強ではなくなっていることを。

 

 トウカイテイオーが小気味良い軽快な走りでランウェイを去り……。

 

 

 

 代わりに、もう1人の最強が現れた。

 

 

 

 モノクロの軽装の上に深紅のジャケット。左の胸には両耳の耳飾りと同色の薄灰色、星型ブローチが鈍く輝く。

 吹き抜けた風が、鹿毛と一房の黒鹿毛を揺らした。

 小柄な体から放たれるのは冷たい威圧感。

 青ざめた瞳は真っすぐ正面に向けられ、観客たちすらも視界に入っていない。

 

 その歩みはテイオーと対極に、遅く重厚。

 コトリ、コトリと、蹄鉄が床を叩く音に、観客たちは自然と静まり返った。

 

『2枠3番、1番人気、ホシノウィルム』

 

 彼女はいつも通りのポーカーフェイスでゆったりと歩を進め、ランウェイの先へ辿り着く。

 そしてゆっくりと右手を伸ばし、胸のブローチを指で弾いた。

 

 瞬間、ジャケットの襟部分から、灰色の光が噴出する。

 キラキラと空中を散った灰はすぐに消え、新たに排出された光がすぐに形を成して纏まり、彼女が背に負うマントになった。

 

 呆れる程に幻想的な、美しい光景。

 初めて見たのであろう観客の、息を呑む音が聞こえた。

 

 ……まるで灰被り姫の魔法のように。

 埋もれた血統のウマ娘が、けれど今、中山レース場のパドックに立っているのだ。

 誰もがそこに夢を見る。

 あり得べからざる幻想を見る。

 

 恵まれない少女が下剋上を果たしてハッピーエンドを迎えるという、ありふれた絵本の結末。

 彼女ならばそれを為せるのではないかと、期待してしまうのだ。

 

 

 

 ……けれど、同時。

 彼女は幸せが来るのを待つことしかできないような、か弱い乙女ではない。

 

 ホシノウィルムは腕を組み、ただ真っすぐに前を見据える。

 目線が合わない。どこを見ているのかわからない。……土台、視座が違いすぎる。

 その風格はまさしく、異次元の存在。

 今まで見てきたウマ娘のような、親しみやすい少女とは別の何かだ。

 

 無邪気で可愛らしいテイオーに対して、泰然とした恐ろしさを醸し出すホシノウィルム。

 それを見た者は皆、今回のレースにファンタジーを重ねた。

 

 灰被りの姫が、敗北という運命に挑む。

 

 あるいは、我らの帝王が、恐るべき蛇に挑む。

 

 その決戦が、これから始まるのだと。

 それこそが、今回の皐月賞なのだと。

 

 ……どちらがヒーローで、どちらがヒールなのか。

 それはもはや、誰にもわからない。

 

『逃亡者を思い出させる逃げ脚で、ここまで全戦全勝全大差。

 当たり前のようにレコードを更新し続ける彼女は、まさしく「最速」に最も近いウマ娘です。

 果たして彼女はヒールか、あるいは今を生きる伝説なのか。

 中山レース場は今、恐るべき灰色の蛇に睨まれています』

 

 解説が語り終わると、ホシノウィルムは腕を崩し、ふいと向き直って去っていく。

 見ていた者たちは、その後ろ姿に絶対強者の影を見た……。

 

 

 

 ……かもしれない、が。

 

 忘れてはならない。

 いくらカッコつけようと、彼女はホシノウィルム。

 自主トレと模擬レースをねだりまくり、時には勝手に自主トレし、最近は甘えたり拗ねたりすることで譲歩を引き出す技術まで使い始めた……。

 そんな、ダメダメなところのあるウマ娘だ。

 

 このパドックでのアピールは、俺と彼女で考えたものだ。

 彼女は「顔の横でダブルピース」とか「大きく腕を振る」とか、そういったアピールを提案してきたんだけど……残念ながら、彼女のパブリックイメージには合わないからな。

 2時間に及ぶ協議の結果、俺の提案した「一周回ってアピールなどせず、威風堂々と仁王立ち」が選ばれた。

 ちなみに参考イメージは前世アプリのナリタブライアン。めっちゃカッコ良いからなナリブ。

 

 なんかファンの方々には、騙しているようで申し訳ないんだけど……。

 こうも綺麗にキャラが立ったホシノウィルムが、今更ニコニコ笑顔でダブルピースなんかしたら、色んな意味で混乱を呼びそうだからな。

 アイドル性も持つウマ娘なんだし、こういうところを取り繕うくらいは許してほしい。

 

 

 

 ホシノウィルムは、結局のところ、どこまで行ったってホシノウィルム。

 辛い過去を持ち、それでも曲がることのない優しい心を持った、等身大の女の子。

 蛇でも、灰被り姫でも、世代最強でもない、この世界にただ1人の、俺の担当ウマ娘。

 誰もがその実像を見失ったとしても、俺だけはそれを探さなきゃいけないんだ。

 ある意味、それこそがトレーナーの最も大事な仕事なんだから。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「……さて」

 

 パドックが終われば、いよいよウマ娘たちの本バ場入場。

 スタンドの、関係者用のゴールに近い指定席からターフを見下ろす。

 

 ゲートインの時間まで、ウマ娘たちはターフの上で自由にウォーミングアップをする。

 その間に他のウマ娘に話しかけたり、互いに健闘を誓ったりすることもできる。

 ちょっとズルい気もするが、この時間で他ウマ娘に何か吹き込んだり、精神的に圧をかけたりするのも戦術の1つだ。

 ネイチャなんかはまさに、こういう盤外戦術をガンガン使っていくタイプである。

 

 しかし今、ストレッチをするホシノウィルムの周辺には、他のウマ娘の姿がない。

 レースが近づくと、ホシノウィルムは「冷」の表情になって威圧感を放つからな。それで調子を落としたくない、といったところだろう。

 皐月賞は策を弄するより、自分らしく完璧に走る方が有利という考え方もあるしな。

 今回はどうやら、ホシノウィルムにちょっかいをかけるウマ娘はいないらしい……。

 

 あ、いや、いたわ1人。

 よりにもよって世代最強の片割れ、トウカイテイオーが彼女に突撃した。

 

 テイオーはホシノウィルムに近寄り、何かを話している。

 ホシノウィルムが何を返したのかはわからないけど……その返答に対してテイオーが軽く地団駄を踏んでいるところを見るに、満足いく回答は得られなかったらしい。

 ……すまん、テイオー。

 今のホシノウィルムは、ゲートイン後程ではないにしても、レースの気配を感じてしまってる。ちょっと話は通じないかもしれない。

 

 心の中で謝っていると、いよいよ実況解説によるアナウンスが聞こえ始めた。

 

 

 

『晴天に恵まれた中山レース場、右回り、芝2000メートル。バ場状態は良バ場の発表となりました。

 クラシックロードの出発点、皐月賞。最も「はやい」ウマ娘が勝つというこのレースを制し、成長を見せつけるのは誰だ!』

 

 

 

 ウマ娘たちがそれぞれ、ゲートインを始める。

 トウカイテイオーは楽しそうに、ホシノウィルムは無表情で。

 どこまでも対極な2人は、やはり目を引くな。

 

 

 

『3番人気を紹介しましょう。5枠11番ハートブロウアップ!』

『仕上がり良好、素晴らしい末脚を持つウマ娘です。今日でG1レース2勝目を刻み、三冠への足掛かりとすることができるか』

 

『この評価は少し不満か、2番人気はここまで無敗、8枠18番トウカイテイオー!』

『外枠という不運を自慢の脚で撥ね除けられるか。皇帝の背中を目指す小さな帝王の挑戦が始まります』

 

『1番人気は譲れない。ここまで無敗のジュニア王者、2枠3番ホシノウィルム!』

『遅咲きだった異次元は、今年クラシックに再誕するのか。突然変異の蛇の瞳は虎視眈々と三冠の玉座を狙っているぞ』

 

『……ゲートイン完了。出走の準備が整いました』

 

 

 

 始まる。

 俺の担当ウマ娘の、生涯で一度きりのクラシックレースが。

 

 ……神様。どうか彼女に幸運を。

 

 

 

『スタート!』

 

 

 







 いよいよ皐月賞、そしてクラシックロードが始まります。
 ここまで長かったような、短かったような……。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、皐月の冠の話。



(追加)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!
 今回は特に誤字が多かったです……。なんか推敲したものを上書きできなかったみたい。反省です。


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オリ主は強くなくっちゃね

 ペールーセーウースー





 

 

 

 レースが始まる直前。

 僅かにざわめきが届くターフの上で、我こそは最強という自信を持ったウマ娘たちが、各々決戦に向けた準備をする。

 ある者は体を伸ばし、ある者は詐術をしかけ、ある者は瞑想し、ある者はただ心を弾ませている……。

 

 私はこの時間があまり好きじゃない。

 レース直前はちょっと寒さを感じるからね。いつも早く始まってくれないかなぁって思う。

 さっさとレースを終わらせて、帰って暖房の効いた部屋で布団に包まりたい。

 お恥ずかしながら、これがホシノウィルムの偽らざる本音である。

 

 が、だからといってサボって負けたら本末転倒。

 なので私はこの間、時間の許す限り体を伸ばし、関節を解しておくようにしてる。

 

 

 

 さて、そんな皐月賞のゲートイン前。

 念入りにストレッチしていた私に、テイオーちゃんが話しかけてきた。

 

「蛇ちゃーん、久しぶり! 元気だった?」

「……テイオーちゃん。お久しぶりです」

 

 テイオーちゃんと会うのはあの模擬レース以来。かなりご無沙汰なんだけど、どうも彼女は気にしていないようで、自然体で話してくる。

 これがコミュ力。私に足りないもの、か……。

 正直羨ましくないと言えば嘘になるね。

 

 それはさておき、この大事な時間に話すのがただの世間話なわけがない。

 彼女は挑発的にニヤリと笑い、口を開く。

 

「悪いけど今回はボクが勝たせてもらうからね!

 なにせボク、カイチョーを超えなきゃいけないから。こんなとこで立ち止まってらんないんだ!」

 

 宣戦布告。

 それは表面的には、闘志に燃えた言葉だった。

 ……けれど、その実、中身のない言葉でもある。

 

 わかる。わかってしまう。

 ウマ娘の熱を、あのネイチャちゃんの慟哭を直に浴びた私には……。

 その言葉の中に「本気さ」みたいなものがないって、わかるんだ。

 

 彼女は私を見ていない。目の前のレースを見ていない。

 遥か彼方の目標だけを見ているから、この皐月賞に本気になれてない。

 

 少しだけ、がっくりだ。

 どうやら今は、本気になったテイオーちゃんと戦えないらしい。

 

 だから、私は……。

 

「いいえ、勝つのは私です。

 ……ネイチャならともかく、今のあなたに負ける道理はない」

 

 はっきりと、テイオーちゃんに勝利宣言をした。

 

 

 

 正直に言おう。

 私の中に、テイオーちゃんに気兼ねする気持ちは、残っていない。

 

 確かに私は、テイオーちゃんの夢を叶わないものと思い込み、勝手に引き継いで、無敗の三冠ウマ娘を目指し始めた。

 それなのにこの手でテイオーちゃんの三冠を阻止するなんて本末転倒である、と思ったのも事実。

 

 ……でもさ、冷静に考えると、これってクソみたいに思いあがった言葉だよね。

 だってこれ、私がテイオーちゃんに勝つことが前提にあるし。

 そもそも「勝たせてあげなきゃ」って態度が上から目線で、同じウマ娘という土俵に立ってないし。

 神様ぶって、どこまでも彼女を見下した態度で「夢を叶えさせてあげよう」なんてさ。

 過去の自分に辟易するよ。思い上がんな馬鹿が、って感じ。

 

 確かに私は転生者だ。持つべきでないものを持っている、この世界の異端。

 ……でも、同時に、この世界に生まれたウマ娘、ホシノウィルムでもある。

 トレーナーと二人三脚で走る、競走ウマ娘の1人なのだ。

 

 そんな私が、テイオーちゃんにきちんと向き合うためには……。

 持てる力の全てで、彼女とぶつかるしかない。

 平等に、レースで雌雄を決するしかないんだ。

 

 

 

 ……なんてね。

 こんなのは、ただの大義名分に過ぎない。

 

 この1年で、私はすごくわがままになった。

 トレーナーの手の温かさ。柔らかな言葉。安堵する微笑み。

 レースで得られる熱。ネイチャと競り合う時のような満ち足りた感覚。

 私は、それらが欲しくなってしまった。心が求めるようになってしまった。

 その衝動は、今や勝利への渇望と同じか、もしかしたらそれ以上のものになりつつあるのだ。

 

 だから……テイオーちゃん。

 私、テイオーちゃんにも本気になってほしいんだよ。

 あなたとのレースでも熱くなりたい。

 追い詰められて、その上で勝って、あの心躍るような熱を感じたいんだ。

 

 故に、私は。

 その身勝手な欲求を満たすために、皐月賞を取る。

 テイオーちゃんに本気を出してもらうために……。

 あるいはその胸に、焼け付くような熱を持ってもらうために。

 

 

 

 かつての推しへの裏切り行為だっていうのに、不心得な私の心は高鳴ってしまっている。

 ……なにせ、本気でないとはいえ、推しと走れるんだ。それも、あのトウカイテイオーちゃんと。

 推しと、勝負できる。

 元オタクとして、これが嬉しくないわけがない。

 

 勝つ。

 あのトウカイテイオーに。

 触るだけで火傷しそうな程に燃え上がる、不死鳥のごときウマ娘に。

 それができれば、果たしてどれだけ熱くなれるんだろうか。

 

 その上で、終わった後にトレーナーに頭を撫でてもらったら、更に大満足だ。

 これ以上言うことはないね。

 

 あ、いや、待てよ。

 今回のレースは皐月賞。私たちの目標のレースの1つだ。

 トレーナー、勝ったら褒めてくれたり……しない、かな。

 いつもよりもっと撫でてもらえたりして。「よく頑張った」とか言ってくれたり?

 ……よし、頑張ろう。絶対1着取るぞ。

 

 

 

 なんて、内心気合を入れる私に対して、テイオーちゃんは不満げに頬を膨らませている。

 まぁ、そりゃそうだよね。

 なにせ私、お前なんか敵にもならないって言ってるわけだし。

 

「ボクよりネイチャの方が強いって言いたいの!?

 ふーん、そんなこと言っちゃうんだ? ふーん……! へーっ!」

「テイオーちゃん」

 

 軽く地団太を踏んでいるテイオーちゃんに、静かに語りかける。

 

「今のあなたは、来るかもしれない未来のあなた程、恐ろしくない」

「んえ? それってどういう……」

「そして私はホシノウィルムだ。

 ホシノウィルムは、負けない」

 

 ちょうどよく、時が来る。

 ウマ娘たちのゲートイン開始を告げる、実況のアナウンス。

 ストレッチを切り上げて、私はゲートに向かって歩き出す。

 

「ちょっと、蛇ちゃん!」

 

 語るべきことは語った。

 後は……レースで見せればいい。

 

 

 

 テイオーちゃん。

 この世界であなたがぶつかる壁は、怪我じゃない。

 

 この私、ホシノウィルムだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

『3番人気を紹介しましょう。5枠11番ハートブロウアップ!』

『仕上がり良好、素晴らしい末脚を持つウマ娘です。今日でG1レース2勝目を刻み、三冠への足掛かりとすることができるか』

 

『この評価は少し不満か、2番人気はここまで無敗、8枠18番トウカイテイオー!』

『外枠という不運を自慢の脚で撥ね除けられるか。皇帝の背中を目指す小さな帝王の挑戦が始まります』

 

『1番人気は譲れない。ここまで無敗のジュニア王者、2枠3番ホシノウィルム!』

『遅咲きだった異次元は、今年クラシックに再誕するのか。突然変異の蛇の瞳は虎視眈々と三冠の玉座を狙っているぞ』

 

 

 

 ガタン、と後ろでゲートが閉まる。

 

「…………寒い」

 

 冷めていく。冷えていく。胸に抱いていたはずの想いが、消えていく。

 今はただ、勝つために。負けないために。

 

 トレーナーに捧げた命を、使ってもらうんだ。

 

 

 

『……ゲートイン完了。出走の準備が整いました』

 

 

 

 視界が狭まる。

 ノイズが遠のく。

 意識が凍り付いていく。

 

 ホシノウィルムの存在の全てが、ただ勝利のために費やされる。

 

 ああ、寒い。寒いのは嫌だ。

 ……だから、早く勝って、トレーナーの元に帰らないと。

 

 

 

『スタート!』

 

 

 

 その瞬間。

 トレーナーが言っていた言葉を思い出す。

 

『ゲートが開くと同時に駆け出すのは、多大な集中力を要する。1つのスキルと呼んでいいだろう。

 これは逃げウマ娘には必須級の技術だ。誰よりも早く駆けだし、誰に邪魔されることなく前に出るために。

 ……そして君には、この『集中力』の1つ上のスキルを身に付けてもらう。安心しなさい、極めて君に向いたスキルだから。

 自分の全てを目の前のレースに集中させ、完璧に近い……あるいはそれすら超えるスタートダッシュを決める技術。

 このスキルを、俺はこう呼んでいる』

 

 

 

「『コンセントレーション』」

 

 

 

 ガタンという音を認識するより、なお早く駆け出す。

 ずっと練習し続けたスタートダッシュは、本番でこれ以上ないくらいに成功した。

 

 そして勢いそのまま……。

 

「行くぞ」

 

 脚に渾身の力を込める。芝が抉れるほど強く踏みつけ、思い切り蹴り飛ばした。

 

 一気に背後の足音が遠ざかる。

 ……いくつか乱れる足音。よし、多少の動揺は誘えたか。

 

 

 

『ホシノウィルム、抜群の好スタート! トウカイテイオー、ハートブロウアップがそれに続く。

 ホシノウィルム、ぐんぐん差を広げています。正しく異次元の大逃げ、既に後続と4バ身以上離れているぞ!』

『これまでにない程の超ハイペース、もしや彼女の全力かもしれません。大舞台に緊張して掛かってしまったのか?』

 

 

 

 もっと、もっと速く。

 思考を脚の動きに集中させる。

 より小刻みに、歩幅は狭く。回転率を重視するピッチ走法。

 それを以て、ひたすらに後続との距離を突き放し続ける。

 ……ああもう、体を叩く風が本当に鬱陶しい。空気抵抗がなければ、私はもっと速く走れるのに。

 

 トレーナーからもらった最初の指示は、第一コーナーまでに後続との距離を大差まで広げること。

 けれど、スタート地点からその第一コーナーまでは400メートル程度しかないし、途中にどうしても減速する上り坂もある。

 普通に走っていては、とてもじゃないけど不可能だ。初っ端から全力疾走するしかない。

 

 かなり無茶なオーダーだけど、これこそトレーナーが私に示した確実な勝利への道。

 故に、ここで体力を使い切ることになろうが、私はその指示に従う。

 

「……っ」

 

 ……脚の動きが僅かに乱れかけ、立て直す。

 この速度で走り続けることは、私にだってできない。

 距離を離すのが遅れれば遅れる程に、私は消耗してしまう。

 

 だから、そのタイムリミットは第一コーナーなんだ。

 

 

 

『オータムマウンテン必死に食らいつきますがその差は開くばかり。先頭に引きずられるように全体のペースが速まっています。果たしてウマ娘たちのスタミナはもつのか?』

『トウカイテイオー、ホリデーハイクは中段から展開を窺っています。一方チアーリズムとハートブロウアップは後方で脚を溜めている。

 このハイペースに乗るか、それとも自分のペースを維持するか。ウマ娘たちの判断力が問われます』

 

 

 

 一般的に、レースの全体的ペースを決めるのは逃げウマ娘だと言われている。

 ウマ娘とはいえ、体感時間の正確さは人間とそう変わらない。レース中に色んなことに思考を割きながら、正確に秒数を数えることは困難だ。

 故に逃げ以外の策を取るウマ娘は、自分の曖昧な体感速度と前のウマ娘との相対距離を元に、現在のペースを割り出す。

 

 トレーナーも言っていたように、私はこのコースを過去に2回走っている。その上、1回はG1だ。

 自分がどのペースでどう走ればより速くゴールできるのか、私程に考察材料を持つウマ娘はいないだろう。

 

 ……故に、他の出走ウマ娘たちはこう考えるはずだ。

 ホシノウィルムは、このコースにおける最適解を出して来る。

 その私を追い抜かなければ、このレースに勝つことはできない。

 

 だから皆、私の存在を無視することができない。

 どれだけ視線を外そうとしたって、先頭をひた走るホシノウィルムから目を背けられない。

 

 逃げウマ娘たちは、私に追いつかなければと焦る。

 先行ウマ娘たちは、距離を離され過ぎないようにと付いて来る。

 差しウマ娘たちは、展開を窺いながらも速いペースに引きずられる。

 追込ウマ娘たちは、自分と前方の距離感を見誤り仕掛け所を見失う。

 

 そして、全員のペースをコントロールできる私は……。

 それらを聴覚の範囲外に叩き出すために、誰よりも速く駆け抜ける!

 

 

 

『大逃げのホシノウィルム、後続と既に8バ身、9バ身と、序盤とは思えない差が開いています。

 現在先頭から最後尾まで、実に20バ身弱! とても開いた縦長の展開です』

『懸命に後を追うアクアリバー、オータムマウンテン、アイタンリ。ホリデーハイクはジリジリと内から距離を詰めている。2番人気トウカイテイオー、じっくりとレース展開を見ています』

 

 

 上り坂を登り切り、少ししたところで……。

 ようやく、粘っていたウマ娘の足音が聞こえなくなった。

 

 よし、まず第一段階、完遂。

 少しずつ足を緩めながら、ここからの展開を想像する。

 

 まず最も望ましいのは、終盤まで誰も迫ってこないこと。

 だけど、テイオーちゃんがこんな簡単な罠に気付かないとは思えない。

 問題は、どこで気付かれるか、だけど……。

 

 

 

『先頭が400メートルを通過し、第一コーナーに入ります。ここまでのタイムは……21秒9!?

 スプリンターもかくやという破滅的なハイペースです!』

『まさかこのまま駆け抜ける気かホシノウィルム。彼女の走りに、もはや常識は付いて来れない!』

 

 

 

「すぅー……」

 

 第一コーナーを曲がりながら、上がった息を落ち着けて、大きく吸い込む。

 予想以上に体力の消費が激しい。最高速度に近い、無理なスピードを出してしまった代償か。

 息を吸うだけで気道が痛むし、脚の先の感覚も徐々に薄れつつある。

 まだ限界ではないけど……半分くらいは出し切ったかもしれない。

 

 それでも、この距離は必要だった。

 今までの走り方じゃ勝利は確定しない。

 揺さぶり、焦らせ、迷わせる。

 他のウマ娘たちを惑わせることで、ホシノウィルムの勝利はようやく揺るぎないものになる。

 

 トレーナーが、そう言っていたんだ。

 だから私は……彼を信じて、それを実行するだけ。

 

 

 

『先頭はそのままホシノウィルム、第二コーナー抜けて悠々自適な一人旅! レースは更に縦長に開き、もはや最後尾まで何バ身あるのかはわからない!』

『後方のウマ娘たちはどこで仕掛けるのか。この差を埋めない限り皐月の冠は遠のくばかりだぞ!』

 

 

 今考えるべきことは、2つ。

 私のペースの管理と、後方から迫る足音だ。

 

 私は今、徐々にペースを落としているが……。

 これを他のウマ娘に気取られるわけにはいかない。

 それが、この作戦における最も肝要な点の1つだから。

 

 

 

 まず大前提として、これまでの公式レース、私は自身のスペックに任せて思考停止の走りをすることが多かった。

 だからどの陣営も「ホシノウィルムはいつも通りのごり押しで来る」というイメージを持っているはずだ。

 

 そして、スタート直後。

 ラストスパートと同じくらいの全力ダッシュで、一気に後続との距離を離す。

 マークしていたであろう私がそんなことをすれば、ウマ娘たちは困惑し、引きずられるようにペースを上げざるを得ない。

 まずはここで、無駄に体力を消耗させる。

 

 更に、第一コーナー。

 「ホシノウィルムは圧倒的な速度で走り出した。その差は彼女以上の速さで走らなければ埋まらない」。

 この認識を強く植え付けたことで、他のウマ娘たちは自然と「自分たちとホシノウィルムの間に大差が開いているのが正しいペースだ。まだ無理に距離を詰める必要はない」と感じるようになる。

 だから私がペースを落としても、そこにある大差を崩そうとしない。それどころか、無意識にハイペースからミドルペースに落としてしまう。

 そうして他の子の足並みを乱している間に、私はペースダウンして脚を溜める。

 

 最後に、最終直線。

 恐らく他のウマ娘たちもスパートをかけるだろうけど……ここまでにペースを崩された影響で、脚を余して詰め切れないか、スタミナ切れで垂れていく。

 一方私は、溜めた脚を使い、スパートで逃げ切るってわけだ。

 

 ……トレーナーに映像で見せてもらった、3年前の菊花賞。

 そこでとある芦毛のウマ娘が見せたレースメイクの、自己流アレンジ。

 

 それが、皐月賞に勝つためにトレーナーが用意してくれた作戦だった。

 

 まったく。

 長距離向きの作戦を中距離、しかも2000メートルでやろうとか、トレーナーは私を何でもできるスーパーウマ娘か何かだと思ってない?

 ……ま、その期待には応えてみせるけどね。

 

 

 

 多分、普通のウマ娘はこの作戦を見抜けないと思う。

 そもそも大差というのは、それ以上は測っても無駄だから大差なんだ。

 いくら目で見ても、それがどれだけ開いているかわからない。

 自分たちが普段使う距離感とあまりにも離れているため、それがどれほどのものか直感的にわからない。

 測る必要性すらない、とても大きな差。これを大差と呼ぶのだ。

 

 故に、一度大差まで距離を広げてしまえば、後続のウマ娘たちは私との距離を掴めなくなる。

 何となく目で見て「これくらい離れてたかな」くらいの甘い目測しか立てられなくなるわけだ。

 そうなれば、私が少しずつペースを落とすにつれて、「多分このくらいの距離感で走ってたはず」と無意識にペースダウンしてしまうわけだ。

 

 ジワジワ効いてくる毒みたいなもので、彼女たちは何故自分が思うままに走れないのかもわからないだろう。

 ウマ娘たちが私の策謀に引っかかったと気付くのは、レースが終わった後、その映像を客観的に見た時になる。

 

 

 

 ……はず、だったんだけど。

 トレーナーもそうだけど、天才というのはやっぱり、直感的に正しい答えを導き出すものだ。

 

 

 

『ここでトウカイテイオー、トウカイテイオー抜け出した! ペースを上げてホシノウィルムとの差を詰めに出た! 3人の逃げウマ娘たちはここまでか?』

『スタミナ自慢で知られるホシノウィルムにロングスパート勝負を挑むつもりかトウカイテイオー! 果たしてその判断はどう出るのか!?』

 

 

 

 やっぱり聞こえ始めた。綺麗で小気味良い……そして少しだけ焦ってる、テイオーちゃんの足音。

 なんとか下り坂まではバレずに済んだけど、そこでのペースダウンで気付かれたのかな。

 疲労した状態で下り坂を駆け降りるのは危険だから、ここで完全にペースを落とし切ったんだけど……判断が裏目に出たか。

 

 とはいえ、1000メートル近く騙せた。テイオーちゃんのペースは、普段よりも確実に落ちていた。

 ここからテイオーちゃんは、配分を間違えて余らせた脚を使い切るために、そして何より私に迫るために、緩いロングスパートをかけなきゃいけない。

 勿論、彼女はそんなことに慣れていないはずだ。更に言えば、策略に引っかかった彼女は今慌てている。

 故にこそ、そこにミスが生まれる。

 スタミナの配分を適切にこなすことができず、最終直線で垂れる……はず。

 

「……落ち着け、私」

 

 声に出して呟く。

 大丈夫。ここまでは……トレーナーの想定通り。

 この後も、私がしっかりと作戦をこなせば……敗北の可能性は、ない。

 

 

 

『トウカイテイオー速い! 最速と思われたホシノウィルムとの差をぐんぐん縮めていきます! これがクラシックに現れた帝王の姿なのか!』

『ホシノウィルムは序盤で消耗した分息を入れているようですね。彼女の頭の中ではどのようなレースプランが構築されているのでしょうか』

 

 

 

 「8」と書かれたハロン棒の横を走り抜け、ここから第三コーナー。

 ペースはそのまま、迫って来るテイオーちゃんの足音を聞く。

 後方9バ身……8バ身……いや、もう6バ身か。

 

 思った通り、テイオーちゃんのペースはかなり緩い。

 かなり遅めのハイペース、謂わばハイのローペースってところかな。

 それでも、今の私よりは十分速い。差は縮まり続けるばかり。

 

 「6」……レースは残り600メートル。

 200メートルで4バ身詰められた計算。もしここからテイオーちゃんが加速してくれば……。

 

 スパート開始地点である最終直線まで、私は逃げ切れない。

 テイオーちゃんは、私の後方2バ身以内に、間違いなく入って来るだろう。

 だからと言って、早めにスパートをかけるわけにもいかない。

 ……それは、トレーナーの組んでくれた必勝パターンを崩す行為だから。

 

 

 

『トウカイテイオー走る! トウカイテイオー、やはりトウカイテイオーなのか!

 後続のウマ娘も粘っているが、その差が縮まることはない!

 もはや2人だけのマッチレース! 帝王と蛇の本当の戦いが始まった!』

『ホシノウィルムはここまでか、序盤のハイペースが祟ってしまったのか!

 トウカイテイオー足並み乱れない! このまま最終直線までに追い抜いてやると言わんばかり!』

 

 

 

 5、4……3。

 縮まる。縮まり続ける。私とテイオーちゃんの間にあったはずの大きな差は、今や10メートルもない。

 それでも、無心で……ただ、ペースを維持する。

 

 このまま行くんだ。勝つために。

 トレーナーを信じろ。

 私は……あの人に、命を渡してるんだから。

 

 

 

 そうして、私とテイオーちゃんの差は、あっさりと2バ身を切った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「テイオーちゃん」

 

 差は、更に縮まる。

 2バ身が、1バ身と2分の1に。

 1バ身と2分の1が、1バ身と4分の1に。

 ……そして、ついには1バ身差へと。

 

 それでも、私はただ、ペースを守って走り続ける。

 

 ためらいの足音。

 ここまで詰め寄れば暴走するはずの私が、心を乱すことなく走っている……。

 テイオーちゃんは、それに驚いてるんだろう。

 

 悪いけど……。

 

 

 

「私にはもう、弱点なんてないんですよ」

 

 

 

 私が暴走していたのは、敗北への恐怖からだ。

 ならば、トレーナーを信じ切り、どれだけ詰められても負けることはないと、強く強く心に刻めば……。

 

 ホシノウィルムはもう、暴走することはない。

 

 

 

 コーナーが終わる。

 視界が開ける。

 私が駆け抜けるべきゴールが、この目に映る。

 

 

 

「さようなら」

 

 

 

 スパート、開始。

 

 

 

『なっ……ホシノウィルム、加速!! まだ余力を残していたのかこのウマ娘は!

 縮んでいたトウカイテイオーとの差が止ま、らない! 開く、開く開く! 3バ身4バ身、どこまで開いてしまうんだこの差は!

 逃げて差す! いや、もはや大逃げして追い込むとでも言うべき破天荒ぶり!!

 これが新たな異次元! 新たな最速なのか!!』

『トウカイテイオー懸命に追いすがる! 追いすがるが、もうこれは誰にも止められない!

 後続の子たちも精一杯に駆けるが、揺るがない、揺らぐはずがない!』

『圧倒的な「はやさ」を現実に叩きつけ、今……!

 

 ホシノウィルム、1着でゴール! 8バ身を付けた、堂々の圧勝!

 

 タイムは……えっ、3!?

 れっ、レコードです! 皇帝シンボリルドルフの2分1秒1を3秒弱縮めた、1分58秒2!!』

『ホシノウィルム、ここに圧倒的な成長と異次元の速度を示しました!

 無敗三冠を目指す灰色の蛇は、多くのファンの夢を背負ってダービーへ!』

 

 

 

「はっ、はっ、はっ……はぁっ」

 

 ペースダウン。無理をしない程度に慣性を殺し、ターフの上に立ち止まる。

 

 ……終わった。今回のレースは、終わった。

 ゆっくりと満ちる実感と共に、私の心は温かさを取り戻す。

 

「勝った……。勝てちゃった、な」

 

 はは、安心したような、残念なような、複雑な心境だ。

 

 レースで差を見せつければ、本気を出してくれるかなって思ったんだけど……。

 結局、テイオーちゃんは本気になってくれなかった。

 ……私は彼女を本気にするには、まだ足りないってことなのかな。

 

 

 

 そんなことを考えていると、ふと気付く。

 

 私は、いつの間にか、大歓声の中にいた。

 

 スタンドから、とんでもない数の声が浴びせられる。

 驚嘆。祝福。狂喜。興奮。期待。好意。

 そのどれもどれもが私に向けられた、熱い感情の籠った言葉。

 まだ鋭利なままの聴覚が、彼ら彼女らの叫びを聞き取る。

 

「うおおおお!」「レコード3秒縮めたってマジかよ!?」「ホシノウィルム、最高だったぞー!!」「蛇ー!!」「8バ身差っていつぶりだよ!」「皐月賞ウマ娘ぇー!」「ダービーも頑張れぇー!!」「次も勝ってくれー!」「ウイニングライブ楽しみにしてるぞー!」「ホシノウィルムー!!」「こんなの三冠確定だろ!」「やべぇー!」「このまま伝説作ってくれー!」「血筋より努力だって証明してくれー!!」

 

 ……はは。

 いや、すごいな、この熱量。

 なんだろうこの気持ち、マズい、意識しないと口角が上がっちゃう。

 

 こうまで応援されると、何かを返したいと思っちゃうけど……。

 この歓声の中じゃ、言葉は届かないもんな。

 せめて少しでも感謝が伝わるように、軽く手を振り返す。

 

 再び、すさまじい歓声が私に降り注いだ。

 

 

 

 8バ身差、レコード勝ち。

 私の皐月賞は、その結果を残して終わったのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 息を整え、その場でストレッチをしてる間に、結果が確定していた。

 

「約40年ぶりの8バ身差、か……」

 

 今回は、トレーナーに渡された作戦をこれ以上なく完璧にこなせた自負がある。

 それなのに大差じゃなく、8バ身差。

 ……やっぱり、テイオーちゃんはすごいね。

 これだけ全力で走ったのに、大差が付けられないんだもん。

 「アニメ転生」というチートを持った私でも大差が取れないのは、今のところネイチャとテイオーちゃんだけだ。

 

 

 

 ……でも。

 そんな彼女とのレースを制したというのに、私は……。

 熱を、得られなかった。

 

 

 

 違う。

 違うんだよ。

 トウカイテイオーは、こんなものじゃない。

 

 私の知ってるトウカイテイオーは……。

 有記念で奇跡を見せつけたトウカイテイオーは、こんなものじゃないんだ。

 

 私が如何に強かろうと関係ない。

 トウカイテイオーは「絶対」だ。

 超えられない壁はない。抜き去れないウマ娘はいない。

 奇跡が起きるのを待つんじゃなく、自分の力で奇跡を起こす、そんな最高のウマ娘。

 

 私なんかが簡単に8バ身差を付けられるようなテイオーちゃんは……。

 私の憧れたトウカイテイオーではない。

 

 

 

「テイオーちゃん」

 

 彼女は、レースが終わってしばらく経った今も、ターフにへたり込んでいる。

 少し迷ったけど、控室に戻る前に声をかけることにした。

 

「うっ……なんだっ、よぉ……笑いに、来たの?」

 

 その返事は震え、うわずっている。

 

 テイオーちゃん……そっか、へたり込んでたんじゃなくて、泣いてたのか。

 せめてその顔を見せないように、下を向いていたんだ。

 

 ……そりゃ、そうか。

 皇帝に憧れ、無敗の三冠を目指し……それなのに、最初の一歩でつまずいた。

 いや、つまずいたどころか、思い切り転んだと言っていいだろう。

 

 クラシックレースに挑めるのは、生涯一度きり。

 彼女はもう、これから何をどうしたって、三冠を取ることはできなくなったのだから。

 

 ぶっちゃけ、私みたいな路傍の石に負けるなんて想像もできなかったんだろうね。

 ホシノウィルムのことは、自分の次に速いかもしれないウマ娘としてしか見ていなかった。

 あの3人でやった模擬レースでは、ただネイチャにペースを崩されただけ。

 ちゃんと全力で走れば、自分が負けるわけがないって自信があったんだろう。

 

 とてつもない才能に裏付けられた、絶対的自信。

 それが今日、正々堂々と捻じ伏せられたことで、叩き折られたんだ。

 中等部の女の子が体験するには、重すぎる体験なのかもしれない。

 

 そんな彼女を、私は慰めるべきだろうか。何を言って、どうやって慰める?

 

 …………いや。

 慰めなんて、勝者の驕りに過ぎない。変に気を使っても気分を害するだけだろう。

 全力を尽くした相手を死体蹴りするのは、私のポリシーに反するし。

 

 何より、私の心は、彼女のことを慰めたいだなんて言っていない。

 

「笑いません。ただ……」

「ただ、何?」

 

 ただ、私は……。

 

「私は、トウカイテイオーと戦いたかった。

 私の全身全霊をも捻じ伏せてくる、最高のウマ娘と戦いたかった。

 ……残念です」

 

 残念。

 本当、それに尽きる。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 地下バ道を歩く。

 今日は大きなG1ってのもあり、ウイニングライブ以外に、勝利者インタビューにも答えなきゃいけない。

 ……うぅ、憂鬱だ。

 ただでさえ今日のレースで本気のトウカイテイオーとは走れなかったし、いつも通り全力を出したから疲れたし、私にとっては丸損みたいなレースだったのに、何を答えろって言うんだろう。

 

 またテイオーちゃんはどうでしたとか聞かれるのかな。私死体蹴りは趣味じゃないんだけど。

 その他のウマ娘なんて、私の周囲10バ身にいた期間は十数秒だぞ? そんな彼女たちに何を言えっていうんだよ。

 次の出走予定についても、既に無敗の三冠を目指すって言ってんだから日本ダービーに決まってるし。強いて言えばその後宝塚記念に出るってことくらい?

 目標とか訊かれたって、私に無敗三冠以外の目標は特にない。強いて言うならレースの熱を味わうことだけど、そんなの何て言えば伝わるかわかんないし。

 

 ……インタビュー、なんとか回避できないもんかなぁ。

 

「はぁ……」

 

 こういうとこ、自分がコミュ障だってことを痛感するわ。

 人と話すことも……相手がトレーナーの場合を除けば、そんなに好きじゃないし。

 更に、その話が不特定多数の人たちに公開されるとか地獄だよ地獄。マジでキツい。

 

 あーどうしよ、変なこと言ったらまーた敬意がないとかって叩かれるんだろうな。

 時々だけど、私のウマッターに突撃してくる変な人もいるから面倒くさいんだよ。

 何だよ他の出走ウマ娘への敬意って。ちゃんと敬意払って全力でレースしてんじゃんか。何が不満なんじゃワレ。

 

「ホシノウィルム」

 

 聞きなれた声に名を呼ばれて、顔を上げる。

 ずっと先に、堀野トレーナーが待ってくれていた。

 

「トレーナー!」

「こら、走らないように」

「はい」

 

 すっかり恒例になったやり取りと共に、私はゆっくりと歩いて、彼の元に帰り着く。

 ……帰り着く?

 私、いつの間にか堀野トレーナーのことを家か何かだと思ってんな。

 

 まぁでも、一理あるかも。

 担当ウマ娘はいつでも、トレーナーの元に戻るもの。

 ある意味で家みたいなものだし、何なら家族以上に親しい間柄って言ってもいい。

 ……いいよね?

 

「おかえり、ホシノウィルム」

「ただいま戻りました、トレーナー」

 

 頭に手が置かれ、軽く髪を梳かれる。

 何度もお願いして、今ではこうして普通に行われるようになった頭撫で。

 

 ……あぁ、温かい。安心する。

 少なくともこの瞬間……私はここにいていいんだって思える。

 

「私、勝ちました。どうでしたか、トレーナー」

「100点中、120点。俺の想定を超える、素晴らしい走りだった。

 ……うん、よく勝って、そして無事に戻ってきた。偉いぞ」

 

 少しだけ乱暴に、頭を撫でまわされる。

 

 ……えへへ、良かった。

 こうして褒めてもらえただけで、今回のレースに出たかいはあったかな。

 

 トウカイテイオーと走れなかったのは残念だけど、冷静に考えればテイオーちゃんと走るのは何も今回だけじゃないわけだし。

 勝利者インタビューだって、ただ訊かれたことに答えるだけだし、学校の授業みたいなものと思えばそんなに負担でもないな。

 うん、今日は良い日だった気がしてきた。

 ていうかすごく良い日、何なら最高の1日だったかも。

 

 …………あれ? 私、なんかチョロくなってない?

 

「さて、今日のレースはどうだった、ホシノウィルム」

「今日は……そうですね。いつものように熱くなれませんでした。残念です」

「そうか。まぁ、そういう日もあるな。

 ……安心しろ。ダービーでは十中八九、その熱を体感できるさ」

「そうですか、それは楽しみ、で……す」

 

 え?

 今、私、何て言った?

 

「どうした?」

「いえ、いや、何でも」

 

 ……楽しみ?

 

 あれ、えっと、あれ?

 次回のレースが楽しみ。熱が楽しみ。つまりは熱を味わえるレースが……楽しみ……?

 

 

 

 …………もしかして私。

 もうレース、楽しんじゃってない?

 

 

 







 まずは一冠。皐月の冠はホシノウィルムが取りました。
 次の目標レースは東京優駿(日本ダービー)です。
 日本ダービーは、皐月賞とはまた違ったレース。
 果たして次回も、今回のように簡単に勝てるでしょうか……。
 
 皐月賞も終わりましたし、この章はここでおしまいです。
 次回更新で恒例のおまけ他視点回を挟んだ後、新章に突入します。
 


 この時点での相互評価

トレ→ウマ:ようやく彼女を「担当」する覚悟を決めた。彼女のみに心を砕くよう、自分を変えなくては。
ウマ→トレ:世界でただ1人の、私のトレーナー。私に温かさをくれる人。心の底から信じてる。



 次回は3、4日後。誰かの視点で、破れた夢と新たな領域の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は修正させていただきました。ありがとうございました!

(本編に関係のない呟き)
 日本勢、お疲れ様!


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おまけ ワガハイはウマ娘である。名前はまだ……

ホシノウィルムのヒミツ②
 実は、朝に弱い方で、よくぼんやりしている。
 ただ、無表情だからあまり気付かれない。



 今回はおまけの別視点回です。
 読まなくても意味はわかるようにしますが、読めば本編をもっと楽しめると思います。





 

 

 

 ボクはウマ娘だ。

 ウマ娘は走るモノ。

 だからその日も、ボクは走っていた。

 

「はっ、はっ、はっ……あと、ちょっと!」

 

 不慣れなことをしたせいで、脚に余裕がなくなってきた。

 多分、このペースを保つことはできても、これ以上のスパートはできない。

 でも、勝つ。

 目の前を走る彼女が垂れれば、このスピードでも追い抜けるはずだ。

 

 

 

 ……なぜか色のない中山レース場で、17人のウマ娘たちと一緒に走る。

 皐月賞。クラシック三冠の、最初の一歩。

 ボクの夢の1つがかかった、絶対に負けられない戦い。

 その日に走っていたのは、そういう大事なレースだったんだ。

 

 

 

 皐月賞と同じコースの若葉ステークスに出て、理解したことがある。

 2000メートルって距離は、走ってみると案外短い。

 ボクの脚だと……オープンレースならともかく、国内最高峰のG1レースじゃ、終盤で一気に捲るのは無理だと思う。

 だから、前め前めに走って、第三コーナーあたりから一気に先頭を目指す……。

 定番の戦術って言えばそれまでなんだけど、これがボクの立てたレースプラン。

 それで問題なく、いつも通り1着を取れる……。

 

 ……はず、だったんだ。

 

 その日のレースは、上手くいかなかった。

 ネイチャに圧力をかけられたわけでもないのに。ボクの体調は絶好調だったのに。

 何故か、ずっと……ちゃんと走れてないって感覚があった。

 理屈はない。ただぼんやりとした嫌な予感と、脚が余っているような違和感があって。

 

 先頭を走る彼女が坂を降る瞬間、ようやくわかった。

 ペースをコントロールされてる、って。

 

 彼女はボクと同じで、ずっとスペックに任せて勝ってた。

 というか、ボクらにとってはそれが普通なんだ。

 ウマ娘としての強い力を持ってるから、それを使って正々堂々と、真正面から戦って勝つ。

 ……そういうものだと、思ってた。

 

 けれど、どうやら彼女は違ったみたいで。

 とんでもなく強引な方法で、ボクたちの皐月賞を掴み上げて、手のひらの上に乗せていたんだ。

 

 それを理解した瞬間、一気に駆け出す。

 このままじゃ、あの模擬レースの時みたいに差を付けられちゃう。

 ……でも大丈夫、まだ勝ち目は十分にある。

 

 彼女が最初に見せた速度は、明らかにラストスパートのそれだった。

 つまり、もう体力はそこまで残っていないはずだ。

 なら、ボクは……ロングスパートで距離を詰めて、最終コーナーで抜き去る!

 

「いよし、行くぞ……!」

 

 ジリジリと前を目指すロングスパートは、ボクの専売特許だ。

 ……流石に、今回みたいな1000メートルのスパートはやったことがないけど。

 それでも、ボクにできないわけがない。

 絶対に差し切ってやる!

 

 

 

 第三コーナーに入った。あと10バ身差くらい。

 最終コーナー。6バ身差まで縮めた。

 

 行ける。

 もう少しだけ加速して、その後方2バ身まで入って……彼女を振り向かせるんだ。

 

 トレーナーが言うには、彼女は後方からの圧力に弱いらしい。

 2バ身差くらいまで迫れば、こちらを振り向いて大きく掛かってしまうって話だった。

 前半にあんなペースで飛ばしたんだ、彼女にこれ以上スパートをする余裕なんてあるはずない。

 掛からせれば、確実に垂れる。

 それを差し切れば、ボクの勝ちだ。

 

 大丈夫。絶対問題ない。ボクなら勝てる。

 ……そのはずなのに。

 なんで、こんなに胸騒ぎがするんだろう。

 

 5バ身……4バ身……3バ身。

 行ける。この最終コーナーで詰め切れる。

 

「皐月賞は、もらった!」

 

 そうして、ようやく届いた。

 彼女の後方、2バ身。彼女を焦らせて、こちらを振り向かせるに足る距離に。

 自慢じゃないけど、ボクの圧力はちょっとすごい。何せ無敵の帝王様だもの、彼女も気付かないはずがない。

 

 ……それなのに。

 

 振り向かない。

 彼女は、何事もなかったかのように、ただ走っている。

 何かがおかしい。話が違う。

 なんで彼女は……ボクのことを見ようともしないの?!

 

「テイオーちゃん」

 

 何故か、ターフを蹴り飛ばす轟音の中でも、その言葉が聞こえた。

 静かで、澄んでて、けれど重い言葉。

 

「私にはもう、弱点なんてないんですよ」

 

 マズい、って思った。

 理屈のない直感。でも、間違いなくそう思う。

 このままじゃマズい。もっと、もっと速く走らないと!

 

 そうじゃないと、ボク……!

 

 

 

「さようなら」

 

 

 

 その後ろ姿が、弾けた。

 彼女の背負った灰色の光が一層輝いて、ボクがそれに見惚れた一瞬の後、既に彼女は遥か彼方にいた。

 

 ……スパート。

 序盤にあれだけの走りをして、その上で、いつもと変わらないスパート?

 なんでそんなことできるの?

 底なしにスタミナがあるの?

 それとも、どこかで脚を溜めてたの?

 

 いや、今は考えるな。

 負けじと脚の回転を速める。跳ね上がるようにターフを蹴り付ける。

 今はただ、前に走るんだ!

 

 ボクが、負けるわけがない。

 これまでだって、ずっと勝ってきたんだもん。

 本気を出して負けたのなんて、それこそあの模擬レースくらいのもので、あれだってネイチャに足を引っ張られたから負けたんだ。

 ボクは負けない。勝つ、勝つんだ!

 そのはずなのに……!

 

「なんで、なんでっ!?」

 

 届かない。迫れない。遠のく。

 足に力が入らない。息が上がる。フォームが乱れる。

 

 ……彼女との差が、開いていく。

 

 

 

 

 

 

 ボクが、負ける?

 

 

 

 

 

 

 そうして。

 

『ホシノウィルム、1着でゴール! 8バ身を付けた、堂々の圧勝!』

 

 ボクは、ただその光景を見ていることしか、できなかった。

 

 ……いや、できなかった、じゃない。

 

 ボクには、星のように煌めく灰色を、後ろから見ていることしかできないんだ。

 

 永遠に。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「わぁっ! うげっ!」

 

 気付けばボクは、頭を抱えていた。

 痛い……。何かにぶつけちゃった?

 

「あいたたた、なんだよ、もぉ……」

 

 周りを見回すと……そこは、色のないレース場じゃない。

 ここは……栗東寮の、ボクの部屋。今いるのは、ベッドの上?

 

 ……あぁ、なるほど。夢だったんだ。

 もう、なんて夢見るんだよ、びっくりしたぁ。

 あんなの、できれば二度と見たくないよ。

 

 で、状況は……飛び起きて、壁にかけてあったボードに思い切り頭をぶつけた、って感じかな。

 なんてツイてない朝だろ。よりにもよって皐月賞に負ける夢を見るなんて。

 ボクは、三冠を取らなきゃいけない、のに……。

 

「……あ、そっか」

 

 ボードをかけ直している時に、それがちらりと目に入る。

 ボクが掲げた目標の書かれた、2つの紙……。

 「無敗の三冠ウマ娘になる」「カイチョーを超える」。

 その内の片方、前者が、ぐちゃぐちゃに塗りつぶされているのが。

 

 

 

 ボクはもう、三冠を取れない。

 さっき見たのはただの夢じゃなく、現実で起こったことで。

 

 

 

 皐月賞は、彼女に……蛇ちゃんに、取られてしまったんだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「テイオー、大丈夫か?」

「トレーナー?」

 

 いきなりトレーナーに声をかけられた。

 大丈夫? 大丈夫って何だろ。

 特に気分が悪いとか、どこかが痛いってことはないけど。

 

「足、止まってるぞ。集中し切れてないんじゃないか?」

「足? ……あぁ、そっか」

 

 しまった、ランニング中だったんだ。

 ぼんやりと考え込んで、足を止めちゃった。

 ……あれ、ボク、何を考えてたんだっけ。

 

「……テイオー。やっぱり今日は休もう」

「っ、ダメだよ! トレーニングしないと、ダービーでも……!」

「うん、君の言いたいことはわかる。

 日本ダービーまで、あと1か月と少し。あのホシノウィルムに勝つためには、これまで以上のトレーニングが必要、だろ?」

「そうだよ! もっと頑張らないと、ボク……」

 

 

 

 もう、負けたくない。

 あんな経験はしたくない。

 

 ボクが勝つはずだったんだ。

 10万人が見守る中で勝って、あの歓声を浴びるはずだったんだ。

 それなのに、8バ身差なんて大きな差を付けられて……ボクに向けられたのは、冷たい声だけだった。

 

 いや、それじゃない。

 一番辛かったのは、それじゃなくて……。

 

『……残念です』

 

 彼女の目が、ボクを、見ていなかったこと。

 

 

 

「テイオー。……テイオー!」

「え、あ、うん。何?」

「……やっぱりダメだ、テイオー。今の君が無理にトレーニングすれば、最悪事故を起こしかねない」

「そ、そんなことないよ! お願いトレーナー、ボク頑張るから!」

「テイオー……わかってくれ」

「やだよ! やだやだ! このままじゃ、ボク……!」

 

 自分が焦ってるのは、薄々わかってる。

 このままじゃマズいってことも、頭では理解できてる。

 

 でも、それでも、もっと頑張らないと……。

 あの子に勝てない。

 ……蛇ちゃんに、相手にもされない。

 同じ土俵に上がることすら、できないんだ。

 

 

 

 その時。

 

「テイオー!」

 

 トレーナーとは別の、少しだけ怒ったような声がかかる。

 振り向かなくてもわかる。

 ボクがその声を、聞き間違えるはずがない。

 

「カイチョー……」

 

 そこにいたのは、ボクの憧れの人。

 トレセン学園生徒会長、無敗の三冠ウマ娘、シンボリルドルフその人だった。

 

 

 

 少し昔、まだカイチョーがトゥインクルシリーズ現役だった頃。

 皐月賞に続いてダービーに勝った後、カイチョーは余裕の表情を見せながら、2本の指を立てた。

 幼いボクは、そのカッコ良さに……たくさんの人から声援を貰って誇らしげに立つその姿に、心底憧れたんだ。

 

 その瞬間から、ボクの目標はカイチョーになった。

 だから後を追うように中央トレセン学園に入って、トゥインクルシリーズに登録した。

 

 ……その後、トレーナーと出会って、憧れるだけじゃなくカイチョーに勝ちたいって思うようになったりしたけど。

 今でもカイチョーと、カイチョーの成し遂げた無敗の三冠っていう伝説は、ボクにとって最高にキラキラした……憧れなんだ。

 

 

 

 そのカイチョーが、珍しく眉をひそめてボクを見てた。

 ……自分が良くないことをしてることは、なんとなくわかってる。

 だからちょっと気まずくて、ボクはカイチョーから目を逸らしてしまった。

 

「テイオー、言っただろう。トレーナー君にあまり迷惑をかけるな、と」

「……うぅ、だって」

「君の気持ちもわかる。私とて生涯無敗だったわけではない、敗北……大敗した時の動揺は、理解できるとも。

 けれど、そんな時だからこそ心機一転、自分のトレーナーと息を合わせて歩まなければいけない。

 彼は君のことを考えて言ってくれてるんだ。だから君も、彼と契約しているウマ娘として、彼に寄り添わなければならない。

 ……違うかな?」

「うぅ……違わないけどぉ」

「まぁまぁ、ルドルフ。テイオーにだって想いがあるんだ、そこを蔑ろにしちゃいけないよ」

 

 カイチョー、何かあった時は必ずトレーナーの肩を持つんだもん。

 正直、カイチョーとそこまで信頼関係を作ってるトレーナーに、ちょっと嫉妬するくらいだよ。

 

 

 

 ボクのトレーナーは、カイチョーのトゥインクルシリーズ現役時代のトレーナーでもあった。

 ドリームトロフィーリーグに移籍するにあたって、色々あってチーム所属になり、トレーナーとの契約は解除したらしいけど……。

 今でもカイチョーは時々トレーナーに会いに来るし、トレーニングについても相談してる。

 契約がなくなっても、長い時間が培った信頼関係は揺るがないみたいだ。

 ……いいなぁ、そういう関係。ちょっと憧れる。

 

 元々、トレーナーに契約を持ちかけたのはボクの方から。

 カイチョーを担当してたトレーナーなら、ボクをカイチョーの背中へ導いてくれるかもしれないって思って、彼にアタックしたんだ。

 結論から言うと、確かにその能力は高かった。

 きちんとボクの気持ちを理解した上でトレーニングを組んでくれるし、すごく堅実な育成をしてくれる人だ。

 信頼は、まぁ、してるよ。この人なら間違いないって。

 ただこうして時々、カイチョーとの関係性を見せつけられて……ちょっとうんざりもしてるかな。

 

 別に、トレーナーが誰と仲良くしようといいんだけどさ。

 自分の契約トレーナーと、自分の憧れの人が親しいと……なんか、むかむかする。

 ボクのトレーナーだし、ボクのカイチョーなのに、って。

 

 その上、今は皐月賞での負けもあって、ボクは素直にカイチョーの言葉を聞ける状態じゃなかった。

 

 

 

「だって、だって! もっとトレーニングしなきゃ……!」

「トレーナー君も言っていたが、これ以上は時間を浪費するだけだ。一旦気分転換でもしてきた方が良い」

「やだ! そんなことしてる間に、あの子はもっと速くなるんだもん!」

「……やれやれ、困ったな」

 

 カイチョーは、苦笑いで腕を組む。

 うぅ、カッコ良い。

 カッコ良いけど、だからって騙されたりしないからね!

 

 頬を膨らませるボクを前に、トレーナーはカイチョーに近寄って、何かを囁く。

 

「ルドルフ、もしよければ……」

「む? ……なるほど。ふふ、相変わらず君は、ウマ娘使いが荒いな」

「頼めるか?」

「君の頼みを、私が断ったことがあったかな?」

 

 仲が良い2人を見てると、もっともやもやする。

 ボクのトレーナーって言うんなら、カイチョーじゃなくてボクの方を見てくれればいいのに。

 カイチョーだって、もっとボクのことを見てくれてもいいじゃん。

 ……なんで皆、ボクのこと見てくれないんだよ。

 

「2人で何話してるのさ!」

「いや、何でもないよ。

 ……時にテイオー、君もあれから成長したはずだ。また模擬レースをしてみないか」

「えぇっ、カイチョーとレース!? いいの?」

 

 カイチョーは生徒会長で、いつも忙しそうにしてる。

 その上、やっぱり無敗の三冠ウマ娘って栄光には、ちょっと手の伸ばしにくいところがある。

 だからカイチョーは、模擬レースしたいって思っても簡単には挑めない相手なんだ。

 

 ……三冠の夢は破れたけど、カイチョーを超える夢は残ってる。

 こうなったら、それだけでも叶えてみせるよ。

 

「今度こそは勝つからね、カイチョー!」

「ああ、本気でかかって来るといい、テイオー。

 ……今回は、こちらも全力でお相手しよう」

 

 ゴクリ、と息を呑む。

 カイチョーの全力。

 ボクは初めて、この身でそれを体験できるんだ……!

 

「時にトレーナー君、来週末の予定はどうかな。実は映画のチケットが2枚手に入ってね、是非君と行きたいと思うんだが」

「来週末か。……わかった、予定を空けておくよ。ありがとう、ルドルフ」

 

「ねーっ! ボクが気合を入れてる時に2人で楽しそうにしないでよーっ!」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 数日後、模擬レースの日が来た。

 

 参加するのは、ボクとカイチョー、それから7人のウマ娘たち。

 急な模擬レースの開催を聞きつけて、自分も参加したいって言ってきた子たちだ。

 ……その中に、蛇ちゃんはいなかった。

 その代わり、って言っちゃ何だけど……。

 

「テイオー、今日はよろしく」

「ネイチャ……参加するんだ」

「まぁねー。あの会長と走れる機会は逃せない、ってトレーナーさんがさ」

「……へぇ、そっか」

 

 ボクと同期のウマ娘、ネイチャがいた。

 

 ナイスネイチャ。

 いつも飄々とした態度の、主に差しを得意とするウマ娘だ。

 ここまでの戦績は4戦2勝。目立って強いウマ娘ってわけじゃない。

 その末脚も、そりゃ他の子に比べれば切れるけど、間違いなくボクの方が上だ。

 

 それなのにあの日。

 

『いいえ、勝つのは私です。

 ……ネイチャならともかく、今のあなたに負ける道理はない』

 

 蛇ちゃんは、ネイチャがボクより強いって言い放った。

 ネイチャの脚は、あの子と違って普通のものだ。飛び抜けて強いわけじゃない。

 それなら、ボクが負けるわけない。

 実際、若駒ステークスでも2バ身の差を付けてボクが勝ってるんだから。

 

 ……負けるわけがない、のに。

 

 あの言葉が耳から離れない。

 ……彼女から見て、ボクとネイチャは、何が違うんだろう。

 

「それと、テイオー」

「……ん、何?」

「今日のレース、後ろめに行った方がいいよ」

「んえ、なんで?」

「そうしないと、皇帝の……行程は、止められないから、なんてね」

「…………あー、うん」

 

 そう言えばネイチャ、カイチョーと同じようなセンスだったっけ。

 レース前にこんな脱力することあるんだ。

 ある意味、これはネイチャの持つ脅威かもしれない。

 

 ……しかし、カイチョーを止められない? なんで?

 ボクがそれを聞こうとした時、ちょうどボクのトレーナーが模擬レースを始めるって言い出しちゃった。

 仕方なく、ボクらは会話を切り上げてスタートラインに並ぶ。

 うーん……ネイチャ、何が言いたかったんだろ?

 

 

 

 さあ、模擬レースが始まる。

 

 ボクは基本的に、トレーナーからどう走るかの詳細な作戦をもらったりはしない。せいぜいどの位置からどれくらいでスパートする、とかその程度だ。

 ボクにはレースセンスがあるし、変に前もって決めるよりも、その場でどうするか考えた方がいいからね。

 

 で、今問題なのは、ネイチャから言われたことを信じるかどうか。

 

 カイチョーは、いつも通りの差しで来るとして。

 ネイチャが言うには、後ろめ……つまりボクの場合は、中団くらいにまで下がって走った方がいい、って話だった。

 ボクは差しがそこまで得意じゃない。だからネイチャがボクを警戒して、変なことを吹き込んできたんじゃないか、とも思ったんだけど……。

 ネイチャはそういうことをする子じゃない。

 ……そして多分、今回の彼女の目標はボクじゃないと思うんだよね。

 

 ネイチャは、自分から見た最大の難敵を潰すために、全力を尽くすタイプだ。

 ボクを掛からせて蛇ちゃんに迫らせた、あの模擬レースの時もそうだった。

 あくまでボクの体力を枯らすのはおまけで、蛇ちゃんを暴走させるのがメインの目標だった……ってのが、トレーナーの考察。

 であれば、今回も……カイチョーより前をウマ娘が走るのは危険、それでカイチョーが調子を上げてしまうって、ネイチャはそう判断してるってことかな?

 

 どうしよう。今回は差しで行くべき?

 ……いや、でも、ダメだ。ボクの差しじゃ、絶対カイチョーに競り合えない。

 カイチョーの本気を知るためには、ボクは先行策で行かないと。

 

 ボクが今回の作戦を決めると同時に、トレーナーが持っていたフラッグが振り下ろされる。

 

「ふっ!」

「ここっ!」

「っ!」

 

 抜群のスタートを切ったのは、やはりカイチョー。ボクとネイチャがそれに続く形だ。

 勿論、3人とも逃げウマ娘じゃないから、きちんと自分のペースを守り、レースの流れに従って位置を下げる。

 ネイチャとカイチョーは中団、ボクは先行の位置に。

 

 今回は、逃げウマ娘が1人、先行ウマ娘が……ボクも含めて2人か。

 他は6人は差しと追込?

 えらく偏ってる。もしかしてネイチャ、皆にも同じことを伝えてたのかも。

 

 まぁ、同じ作戦のウマ娘は少ないほどいい。

 何せバ群に囲まれて抜け出せなくなることがないもんね。

 そういう意味では、この形はかなりラッキーだ。

 

 もう1人の先行ウマ娘より少しだけ前方に抜けて、内ラチに沿ってインコースをひた走る。

 よし、このまま好位置をキープして、終盤でスパートをかけよう。

 幸い、逃げウマ娘はそこまでペースを上げてない。これなら問題なく走り抜けられるはず。

 

 

 

 ……そこから終盤までは、普通のレースだった。

 ネイチャや他のウマ娘たちが何かを仕掛けてくることもなく、ボクも走りを間違えることなく。

 良く言えば、この上なく順調。

 悪く言えば、薄気味悪い嵐の前の静けさ。

 

 

 

 そしてその沈黙は、唐突に破られた。

 

 

 

 後方から、すさまじい威圧感が届く。

 この感じ、間違いない……カイチョーだ!

 

 負けじとボクもスパートを始める。

 皐月賞では満足に出せなかったボクのスパート。自慢になるけど、そう簡単には追い付かれない自信がある。

 大丈夫、これならカイチョー相手でも……!

 

 

 

 瞬間。

 ボクが見ていた世界が、塗り替わる。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 まるで、どこかの国の宮殿みたいな景色。

 

「我の前に道はなし」

 

 その中を、1人のウマ娘が進む。

 この豪奢な宮殿にあってなお威風堂々としたその姿は、まさしく皇帝そのもの。

 

「なればこそ、勇往、邁進!」

 

 バチバチと、その全身から稲妻が溢れて……。

 彼女が手を振るえば、光り輝く雷撃が眼前に広がる床を焼き払う。

 

 そうしてそこに、一条の進路が拓かれた。

 

 これこそが皇帝の歩むべき……覇道。

 

「道は自ら切り開くッ!」

 

 

 

 * * *

 

 

 

「な、なにこれ!?」

 

 確かにレーンが見えているのに、同時におかしな光景が重なって見える。

 

 ……でも、なんとなくわかる。

 この世界こそが、カイチョーの見せたかった、カイチョーの本気。

 

 間違いない、ここからカイチョーが上がって来……。

 

 

 

 ぞくり、と。

 とんでもない重圧に、体が硬直して姿勢を崩しかけ、咄嗟に道を譲った。

 

 

 

 ボクの横を、信じられない速度で、何かが抜き去っていく。

 ……カイチョーだ。

 一瞬だけ見えたその瞳からは……まるで稲妻のような、白い閃光が走っているように見えた。

 

 並んだのは、本当に瞬きほどの刹那。

 カイチョーは……ボクに一瞥もくれることなく、遥か前方に駆け抜けていった。

 

「……っ」

 

 ……仕方、ない。

 カイチョーに負けるのは、仕方ない。

 ボクじゃまだ、カイチョーにも、蛇ちゃんにも、届かない。

 

 ……でも、きっと、いつかは勝ってみせる。

 だから今は、せめて2着に……!

 

「ここだ……ここで、一気に!」

 

 後ろから、声がした。

 焦りもない、消沈もない、ただ歓喜と充実感の籠った声。

 

 ネイチャの声だ。

 

 もうここまで上がってきたんだ。

 ……でも、絶対に抜かせない。

 これ以上、ボクは負けたくない……! 

 

 

 

 そう、思ったのに。

 

 

 

「やっと見えた……アタシだけの、世界!」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 世界が暗闇に落ちる。

 どこにも寄る辺のない、どうしようもない暗い世界。

 

 その中に、1つだけ、星があった。

 輝く星。遠い星。……灰色の、星。

 そこから、1本の光の道が伸びている。

 ……いや、そこから伸びてるんじゃない。

 これは、星へと至る道。星を掴み取るための、彼女の道だ。

 

「夢、見せられるだけじゃ、ね!!」

 

 そう叫んで、彼女は星へと駆け出す。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……こ、これ、カイチョーのと同じ!?

 なんでネイチャが使えるの!?

 ボクだってまだわかんないのに……!

 

 それぞれを中心に広がるカイチョーとネイチャの世界が、互いを侵食しようと削り合う。

 ……ネイチャの世界は、カイチョーの世界ほど整ってない。完璧じゃない。あるいは進化してない。

 それでも対等に……カイチョーと、競り合ってる!

 

「はぁぁぁぁああああ!!」

 

 ネイチャの絶叫が聞こえる。

 命をすり減らしてるんじゃないかと思うほどの、必死の絶叫。

 

 そしてネイチャはボクに並んで、すぐに……抜き去った。

 

 ボクには、目もくれずに。

 

 カイチョーは一瞬だけ振り向いて、ボクじゃなく、ネイチャを見て……。

 少しだけ唇を緩め、更に足を早める。

 

 

 

 

 

 

 その光景が、心の最後の一線を、越えた。

 

 

 

 

 

 

 ……なんで。

 なんでだよ。

 ボクだって、カイチョーや、ネイチャや……蛇ちゃんと同じ、ウマ娘なのに。

 なんで皆、ボクの方を見てくれないんだよ!

 

 ボクだって同じようにここにいる! ここで走ってる!

 なのに、皆知らん顔して走り去って!

 ボクじゃ相手にならないって? ボクなんか視界にも入らないって?

 ふざけんな! ボクだってウマ娘だ!

 

 ボクだって、このレースに勝ちたいんだ!!

 

 

 

 渾身の力を脚に込める。

 

「……ボクが!」

 

 全力全開で、全身全霊で、一切出し惜しみのないボクの本気。

 それでも、このレースには勝てないかもしれない。

 相手はカイチョー、そしてカイチョーと互角に張り合えるネイチャだもん。

 調子の悪いボクの脚じゃ、永遠に追い付けない。

 ずっとずっと、その後ろ姿を眺めていることしかできない……。

 

 

 

 ……なんて。

 

 そんなの、絶対っ! 認めない!!

 

 勝つ、絶対に勝つ!

 ボクが、誰より速く、1着で、ゴールするんだ!!

 

『私は、トウカイテイオーと戦いたかった。

 私の全身全霊をも捻じ伏せてくる、最高のウマ娘と戦いたかった。

 ……残念です』

 

 あの日言われた、冷たい言葉がフラッシュバックする。

 

 見てろ、ホシノウィルム。

 

 いいや、ボクを見ろ、カイチョー、ネイチャ、ホシノウィルム!

 

 今回も次も、ボクが勝つッ!!

 

 

 

「ボクが、トウカイテイオーだぁぁぁぁぁぁぁあああああああ!!」

 

 

 

 パキン、って。

 

 呆気なく、視界が割れる。

 その先にあったのは……。

 

 

 

 青空。

 どこまでも広がる、綺麗で自由な青空。

 

 ……あぁ、なんて気持ち良い世界なんだろう。

 

 この空の中でなら、ボクはどこまでだって行ける。

 

 

 

 ボクを中心に広がった世界が、ネイチャのそれとぶつかる。

 それらは自分の領域を広げようと、互いにガリガリと削り合って……。

 ……その時、割れた世界の破片から、ネイチャの心が伝わってきた。

 

『勝ちたい! アタシだって、アタシだって勝ちたい!

 勝ってトレーナーさんに証明するんだ! あなたが選んだウマ娘は、本当に強い子に育ったって!!

 だから、絶対に! 相手が帝王だろうが、皇帝だろうが、負けてやるもんか!!』

 

 心の底から勝利を望む、ウマ娘の本性。

 燃えたぎる、闘争本能。

 

 それに魂が共鳴するように、ボクの心の熱も高まっていく。

 

 勝つ。勝ちたい。このレースに! 隣にいるウマ娘に! 遥か彼方にいる目標に!!

 

 これだ。この気持ちだ。

 あの日のボクに足りなかったもの。

 あの子に迫るために必要なもの。

 

 これがあれば。

 

 

 

 ボクはもう、負けない!!

 

 

 

「……っ!」

「来たか!」

 

 ネイチャから、そして前にいるカイチョーから、視線が向けられる。

 ボクがここにいると、脅威になり得る「ライバル」だと、ようやく認められた。

 

 喜んでる暇なんてない。

 ボクは、この2人に、勝つんだから!

 

 青空を飛ぶように、ターフを走る。

 ずっと高く、ずっと速く、どこまでも遠くにまで、この足で駆け抜ける!

 

「ボクが、勝つんだぁぁぁあああ!!」

「ッ、くそっ、まだまだぁぁぁあああ!!」

 

 お互いの世界をガリガリと削り合いながら、前へ、前へ!!

 

 まるで夜闇のように真っ暗なネイチャと、真昼のような青空のボク。

 2つの世界は対極だ。絶対に相容れない。

 そして、遥か先にいるカイチョーも。

 同じ競走ウマ娘で、同じレースを走るライバルで、勝つのはただ1人だけ。

 

 だから、だから、だから!

 

 勝つのは、ボクだぁぁぁあああ!!

 

 

 

 

 

 

「その感覚を忘れるな、2人共。

 そしていつか、夢の舞台で覇を競おう」

 

 

 

 

 

 

 ゴールラインを踏んだのは、カイチョー、ボク、ネイチャの順で。

 

 7バ身差で、カイチョーの勝ち。

 ネイチャとは、3バ身差だった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「テイオー! 大丈夫か!」

 

 遠くから、トレーナーが走り寄って来る。

 まぁ……心配にもなるよね。

 膝に手を付いて肩を上下させるなんて、ボクらしくない。

 今までずっと、あの皐月賞の時でさえ、ここまで疲れ果てることなんてなかったから。

 

 でも今は、この疲労が気持ち良い。

 ボクはようやく、カイチョーやネイチャ、そして蛇ちゃん……ホシノウィルムと、同じステージに立った。

 これは、その証拠だ。

 

 ……ああ。

 それでも、悔しい。

 

 悔しい。

 悔しい、悔しい、悔しいっ!!

 勝てなかったのが悔しい、結局カイチョーには全然届かなかった、それが心の底から悔しい!!

 

 けど、だからこそ。

 この気持ちがあるからこそ……ボクは、勝てる。

 

 あの灰色の光の向こうにいる、異次元の速さを持った彼女にだって!

 

 駆け寄ってきたトレーナーに、首だけを上げて、答えた。

 

「ふぅ……はぁ、大、丈夫……。

 ごめん、ありがとう、トレーナー……ボク、もう大丈夫、だから」

「……! そうか、見えたのか」

「うん! ……ボク、これで、ウィルムに、勝てるかな……?」

「勿論だ、準備は完全に整った。

 ……ダービー、勝ちに行くぞ、テイオー」

「っ、うん! 追い切りメニュー、頼んだよ……トレーナー!」

 

 

 

 

 

 

 君の願い、今度こそ叶えてあげるよ。

 トウカイテイオーが、君の言う最高のウマ娘が、君と戦ってあげる。

 そして、その伸びた鼻、叩き折ってやる!

 

「ダービーで待っててよ……ウィルム!」

 

 

 







 シンボリルドルフ
 『汝、皇帝の神威を見よ Lv9』
 レース終盤に3回追い抜くと最終直線で速度がすごく上がる。
 更に、皇帝の威圧が進むべき覇道を切り拓く。

 ナイスネイチャ
 『きっとその先へ…! Lv1』
 レース終盤で3番手の時に負けそうになると闘志に火が付き速度が上がる。

 トウカイテイオー
 『究極テイオーステップ Lv1』
 最終直線で前と差が詰まると華麗な脚取りで速度がすごく上がる。



 そんなわけで、テイオー視点でライバル覚醒編でした。
 本気になったトウカイテイオーはとんでもなく強いです。
 ダービーは、皐月のように簡単には勝てないかもしれませんね。

 あの「世界」が何なのかわからない人もいるかもしれませんが、後ほど説明はあります。
 もうちょっとお待ちください。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、困難と不可能への挑戦の話。


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帝王と優駿と転生チートの季節
担当したのか、俺以外の奴が……


 お前を担当するのは、俺だと思ってた(願望)





 

 

 

 八大競走、というものがある。

 国内でトップレベルの盛り上がりを見せるクラシックレース……皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞。

 もう1つの三冠とも呼ばれるトリプルティアラの内、桜花賞、オークス。

 ここに春と秋の天皇賞、そして有記念を加えたもの。

 重賞の中でも、特に格が高いとされる8つのレースのことだ。

 

 ここで言う格が高いってのは、「レベルが高い」とか「人気のある」と完全にイコールではない。

 正直一部のレースより、海外ウマ娘たちが殴り込んでくるジャパンカップの方が盛り上がったりするし、宝塚記念とかエリザベス女王杯の方がレベルが高くなったりすることもある。

 

 格が高いってのは、つまりトゥインクルシリーズの運営団体であるURAが重要視している、ってこと。

 ……で、主催が重要視してるレースとなると、ちょっとばかりいつもと違うことがある。

 

 今この瞬間に行われている勝利者インタビューなんかが、その典型例だろう。

 

 本来、出走ウマ娘の疲労なども考慮して後日改めて行われる、1着のウマ娘へのインタビュー。

 しかし八大競走においては当日、それもレースからそう時間も置かずに行われる。

 ……まぁ、勝った熱をそのまま伝えてほしい、という意図はわからなくもないんだけどさ。

 うちの担当ウマ娘に関しては、そのシステムがめちゃくちゃ空回ってるんだよなぁ。

 

 

 

「本日の皐月賞を走った感想は如何でしたか?」

「想像より退屈でした。もっと熱くなれるかと思っていました」

 

「2着トウカイテイオーは一時、後方1バ身まで迫っていましたが、彼女に思うことなどは?」

「特に何も。強いて言えば、期待外れです」

 

 

 

 誰か助けてくれ。この暴走する鹿毛ウマ娘を止めてくれ。

 面倒臭くなって、歯に衣着せぬ本音で答えちゃってるよこれ。

 

 ……まだ疲労も抜け切ってない内に、そんな楽しくもなかったレースについて訊かれたら、そりゃあやけくそになる気持ちはわかんなくもない。

 けど、できれば君のトレーナーの胃のこととか考えてくれると助かるなー。

 ……勘弁してくれぇ。君の評判とか考えてプロモーションするのもトレーナーの職務なんだが?

 こんな不遜な態度取るウマ娘のデータは堀野家にはないんだわ。どうしよう、もう一周回って魔王路線を完遂するべきか……?

 これが彼女の本音である以上、俺は訂正とか補足のしようもないし……あぁ、マジで誰かこの子を止めてくれ……。

 

 

 

「かのシンボリルドルフのレースレコードを3秒も更新したということで、注目が集まっていますが」

「記録に意味はないと思っています。私は今日、レースで勝った。大事なのはそれだけです」

 

「次回出走予定の日本ダービーは逃げウマ娘には不利なレースと言われていますが、勝算の程は?」

「全力を尽くすだけです。それ以上私にできることはありません」

 

 

 

 強いて1つ、俺の心を軽くすることを挙げるとするなら……。

 記者の皆さんが、だいぶ慣れた態度で対応してくれてることだ。

 

 ホシノウィルムの公式レース勝利者インタビューも、今回で5回目になる。

 毎度毎度とんでもない毒舌を吐き捨てるホシノウィルムに慣れてくれてるんだろう、半分くらいの記者は淡々と手元のキーボードを叩いたりメモ帳に書き込んでくれてる。

 ちなみにもう半分は「うわぁマジでこういうこと言うんだ、やべー」みたいな顔してる。ははは、同意見です。握手。

 

 ……あー、そういえばそろそろ胃薬のストックが切れてたなぁ。今日は帰りに薬局寄ろうかなぁ。

 

 

 

「今後の出走予定に関して伺ってもよろしいでしょうか」

 

 隣に立つホシノウィルムがこちらを見てくる。

 うん、代わろう。軽く頷き、記者たちに向き直る。

 

「彼女の代わりにお答えします。

 次回出走予定は、東京優駿、日本ダービー。

 次々回は、ファンの皆さまの期待にお応えし、宝塚記念に出走する予定です。

 その後は休養と調整のため、菊花賞を目指します。

 三冠を取った後、ジャパンカップや有記念に、彼女の脚の負担を見ながら出走登録するつもりです」

 

 ざわり、とその場の空気が揺れる。

 ……ま、そういう反応になるよな。

 

 ここまで、彼女のローテーションは発表していなかった。

 三冠を目指すウマ娘は皐月賞の前後にローテーションを発表することが多い。

 俺も今回の皐月賞を見てから確定したいと考えていたので、今日まで発表しなかったのだが……。

 

 何故記者たちに動揺が走っているのか。

 三冠を主眼にしているし、ダービーと菊花賞は当然。

 そして三冠ウマ娘になれば勿論ジャパンカップや有記念を期待されるから、そこも意外ではないだろう。

 

 彼らが驚いているのは、残った1つ。

 宝塚記念への出走だ。

 

 

 

 宝塚記念。日本ダービーからそう間を置くこともなく開催される、上半期の実力者を決める決定戦。

 本来、三冠を目指すウマ娘は、あまりここに出走しない。

 その理由は、大きく分けて2つある。

 

 まず第一に、開催時期が日本ダービーに近すぎること。

 特に今年の場合、ダービーは5月26日、宝塚記念は6月9日だ。

 その間は、わずか13日間。いわゆる中1週しか空いてない。

 故に、出走したら1か月程度は休めた方が良いとされるウマ娘の脚を酷使することになる。

 例年はもう少し余裕があるんだけど、今年は前倒しの開催になったからなぁ……。

 

 その上ホシノウィルムはこれまで、3月3日に弥生賞、今日4月14日に皐月賞に出ているんだ。

 三冠を目指すのなら必要のないG1レース。

 そんなところに出て脚を消耗させる必要なんてない……というのが、今は通説になりつつある。

 

 無論、その通説に逆らって出走する子もいる。

 調べたところ、今年もホシノウィルムの他に2人出走予定者がいた。

 チアーリズムなんかは結構人気があるし、ほぼ確実に出ると思う。

 

 なので、記者たちが驚いているのはこちらではなく、もう1つの理由によるものだ。

 

「ホシノウィルムさんの目標は、無敗の三冠と伺っていましたが……」

 

 その質問を投げかけてきた記者の顔は、露骨な困惑に歪んでいる。

 

 それもそのはず。

 宝塚記念において、クラシック級のウマ娘が勝利することはあり得ないとされている。

 理由は単純に、実力不足。トレーニングに使える時間も違うし、トレーナーとの信頼関係だってシニア級の方が厚いからな。

 普通に考えて、クラシック級のウマ娘には勝ち目がないレースなんだ。

 

 故にこそ、記者たちは困惑している。

 無敗の三冠を目指すと大言壮語を吐いたウマ娘が、勝つことのできないレースに挑もうとしている、と。

 

「ええ、その認識で間違いありません。

 その上で、ホシノウィルム本人との相談の末、宝塚記念への出走を決めました。

 彼女なら、ファンの皆さまの夢を背負って走れるという判断です」

 

 それはつまるところ、常識を覆しに行く、という宣言だ。

 再び、ざわりと会場が揺れた。

 

 

 

 この世界には、いくつかジンクスがある。

 たとえば、逃げウマ娘は三冠ウマ娘にはなれない、だとか。

 あるいは、ウマ娘の能力を決めるのは血筋だけ、だとか。

 

 ホシノウィルムは今も、果敢にこのジンクスに挑んでいるわけだが……。

 クラシック級ウマ娘は宝塚記念には勝てない、という半分事実の風説は、これらに並ぶもの。

 

 つまるところ、ホシノウィルムはまた1つ、新たな常識に挑む、と。

 これはそういう話なのだ。

 

 ……うん、まぁ記者の皆さんもこの子に振り回されて大変だろうし、少しくらいは記事になりそうな情報もいるだろうし。

 思う存分美談として書き起こしてほしい。

 

 よーし、いい感じに纏まったしこの辺でインタビュー終わっちゃおっかな、と。

 ……俺が油断した、その刹那のことだった。

 

 

 

「す……素晴らしいですっ!」

 

 

 

 恐るべき獅子が目を覚ましてしまった。

 

 ザッと、記者の中の1人が一歩前に歩み出る。

 他の記者たちはなんとも賢いことに道を開けた。

 うん、正しい判断だ。関わっても面倒なだけだろうし。

 歩み出た記者は、妙齢の女性。

 長い焦げ茶の髪を2つに結った、爛々と輝く藤紫の瞳を持つ……。

 

 いやもう、ぶっちゃけ言えば乙名史記者だ。

 

 クソ、面倒くさい人に絡まれちゃったよ!

 

「自らのウマ娘を信じ、彼女であればどれ程の強者と争おうと確実に1着を取れると!

 そう信じているわけですね!!」

「……ホシノウィルムは間違いなく優駿です。

 たとえシニア級のウマ娘たちの中に交ろうと、彼女ならば良い走りを見せてくれると信じます」

「なるほどなるほどっ! 素晴らしいっ!!」

 

 ……一見、話が嚙み合っているように見えるが、そんなことはない。

 この乙名史悦子という人間、鼓膜にかかっているフィルターが、そりゃあもう分厚いのである。

 

「担当ウマ娘を支えるため、山まで清水を汲みに行き、温泉さえ掘り当てる覚悟!!

 どこまでもウマ娘に尽くすその姿、天晴と言う他ありません!」

 

 うん、そんなこと言ってないね。

 話の趣旨がホシノウィルムから俺にズレてるし、普通に事実無根だし、というかもう会話がドッジボールなんだよね。

 

 ……あーもう、これだからこの記者は苦手なんだわ!

 なんか葉牡丹賞の時以来、変に気に入られちゃったし!

 それからインタビューの度にこうやって事実無根の風評が広がるし!

 どうすりゃいいんだこの人への対策!

 

 一応前世のゲームにも登場した人物ってことで、多少思い入れはあるんだけど……それ以上に厄介すぎる。

 一度ウマ娘について話し出すと止まらない、妄想過多の暴走特急。その上変に求心力のある記事を書くから手に負えない。

 ギャグとして楽しむならそれなりに面白いんだけど、ここ、俺の担当の勝利者インタビューっていうドチャクソ大事な場所なんですよ!

 どうすんだ明日の一面が「ホシノウィルムとトレーナー、エベレストへ」とかになったら!

 

 というわけで。

 

「申し訳ありませんが、ホシノウィルムの体調も鑑みて、インタビューはここまでとさせていただきます」

「ああっお待ちください! どうかあと5件質問を!」

 

 いや図々しい! せめてあと1つにしろ1つに!

 

 常識人な記者たちは皆「大変だね……」って感じの目で、打ち切りを受け入れてくれてるけど。

 ……大変だと思うんなら、助けてくれてもいいんですよ?

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ウイニングライブ。

 ファンの方々の応援に応える舞台であり、ウマ娘のアイドル性が最も色濃く出る瞬間。

 

 ……正直俺からすれば、ウイニングライブはレースに比べて印象が薄い。

 何せ、俺がトレーニングを付けるわけじゃないからね。

 ライブのダンスは振付師とダンストレーナー、歌はボイストレーナーが受け持つ。

 俺の仕事はその専門家たちとアポを取ったり、先方の時間が空いたタイミングで担当ウマ娘を送り込むこと。

 逆に言えば、その他はウイニングライブに関してノータッチなのだ。

 

 つまるところ、俺は彼女のライブパフォーマンスの完成度を、実際に見てみるまで知らないわけだが……。

 

 

 

『光の速さで駆け抜ける衝動は

 何を犠牲にしても 叶えたい強さの覚悟』

 

 

 

「よくもまぁ、綺麗にこなすものだな……」

 

 実際に踊る彼女を見ていれば、少しばかり抱いていた不安も消え去る。

 

 ウマ娘特有の身体能力所以なのか、素晴らしいパフォーマンスだ。

 指先に至るまで徹底された、キレのある動き。

 感情と芸術性を両立した、力のある歌声。

 そして何よりも……完璧な、表情。

 

「……演者だな、君も」

 

 俺とて仮面を被って久しい。

 演じることは人一倍慣れているし、逆にそれを見抜く力もあると自負している。

 だというのに、彼女の仮面は……それだけでは仮面と見抜けない。

 眉を寄せて目を伏せる表情は、まさしく必死に歌っているように。

 瞼を閉じれば切なげに。瞳を開けば決意を込めたように。

 自由自在に変貌する彼女は……生半可じゃなく、演技が上手い。

 

 ふと、思い至る。

 彼女の普段の無表情自体が、被っている仮面なのではないか?

 感情が表に出にくいのだと思っていたが……あれは単に、自制しているだけなのでは。

 幼少期の話からも、他人の前でそうした感情を表に出さないよう……油断しないようにしている、と考えれば納得できる。

 

 ふとした瞬間に見せる素朴な笑顔や、頭を撫でた時のちょっと世間には見せられないような顔。

 ああいう顔こそが、彼女の素顔なのかもしれない。

 

 ……なら、もっとそういう顔を引きずり出したいな。

 彼女が油断していても大丈夫だと感じられるように、頼れる存在になりたい。

 

 

 

『時には運だって必要と言うのなら

 宿命の旋律も 引き寄せてみせよう』

 

 

 

 トウカイテイオーとスイートキャビンのパートが終わり、その間からホシノウィルムが現れる。

 

 ……いや、ありゃすごいな。

 

 ホシノウィルムは小柄だ。身長は145センチしかない。

 レース中の威圧感こそ目を見張るものがあるが、普段はむしろ存在感が薄い方。

 それなのに舞台に立った今、自分と比べて大柄な2人よりも、なお目立っている。

 

 ホシノウィルム、競走ウマ娘辞めても女優で食っていけそうだ。

 即座に自分の存在を影に隠したり、あるいは光の下に出たり……。

 そういった細やかな動きが抜群に上手い。

 

 ……そして、何よりも。

 

 

 

『走れ!』

 

 

 

 彼女がそう歌った瞬間、暗かった会場に火柱が上がる。

 

「……ああ」

 

 耳が壊れそうになる大歓声の中、ポツリと息を吐く。

 ウマ娘を私情なしに鍛えねばならないトレーナーとして、そんな感想は持ってはいけないのかもしれないが。

 ……でも、こんな時くらいはな。

 

 上に指を突き立て、片手はマイクを掴んで、キラキラと輝く汗を飛ばしながら歌う姿。

 

 ……ホシノウィルム。

 君は、綺麗だよ。

 

 

 

『今を! まだ終われない!

 辿り着きたい 場所があるから!

 その先へと 進め!』

 

『涙さえも! 強く胸に抱き締め

 そこから始まるストーリー!

 果てしなく続く Winning the soul!!』

 

 

 

 突き出す拳は天を衝く。

 それは皐月賞ウマ娘として、どこに出しても恥ずかしくない風格。

 

 ……本当に。

 すごいウマ娘を担当してしまったな、俺は。

 

 だからこそ……俺には責任がある。

 彼女を支えるために、自分の持つ全てを使う責任が。

 

 彼女も命を懸けているんだ。俺もそれくらいの覚悟を持たねば。

 使えるもの、その全てを……どれだけ大事なものでも、利用する覚悟を。

 

 

 

 

 

 

 そうして、彼女の皐月賞のウイニングライブは。

 

 

 

『果てしなく続く Winning the soul!!』

 

 

 

 大盛況のままに、幕を閉じた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ウイニングライブが終わって、しばらく。

 流石に疲れ果てたか、車の中で寝てしまったホシノウィルムを寮に届けた後、俺は……。

 

「うーん、餌のかけ方はこれでいいんだろうか」

 

 ざざーん、ざざーんと、打ち寄せては返す波。

 目の前には、暗く底の覗けない水面と、眩しいくらいに綺麗な星空が広がっている。

 

 

 

 そう、担当が皐月賞に勝った日の夜。

 俺はトレセン近くの海に来ていた。

 

 

 

 手には1000円で買った釣り竿と、百均で揃えた針と餌。

 足元には海水を汲んだバケツ。

 準備は万端である。

 

「……よし、やるぞ」

 

 堤防に折り畳み椅子を置いて座り込み、ぶんっと針を海に飛ばす。

 一応軽く調べてみたけど、こんな感じでいいのかな。釣りなんて前世子供の時にやって以来だからなぁ。

 経験があるのとないのとでは全然違うだろうし、最悪ボウズでも仕方ないけど……。

 

「それ、引いてません?」

「え、もう?」

 

 リールを巻きあげる。あ、確かになんか、ちょっと重い?

 ある程度巻いて、そんでぐいっと竿を引っ張ると……。

 

「おー、釣れた。小さいけど」

「カサゴだねぇ。お兄さんやりますなぁ」

「はは……君ほどじゃないよ」

 

 釣り針を四苦八苦して外し、魚をバケツの中に突っ込んで、いつの間にか横に来ていた芦毛のウマ娘に苦笑を返す。

 

 いやまったく、来てくれてよかった。

 スぺちゃん伝手に知り合ったとはいえ、特に交友関係も深くないトレーナーの誘いに乗ってくれる確証はなかったからな。

 ……「行ければ行きまーす」なんてふざけたこと言って、何だかんだ期待には応えてくれる子なんだわ。

 

 勿論、彼女もただ雑談に来たわけじゃない。

 全ては情報収集のためだ。

 俺の担当するホシノウィルムは、今トゥインクルシリーズを襲っている嵐。

 彼女のことだから、その情報は是が非でも欲しがるだろう、と思っていたが……。

 ……やっぱり変わらないな、この子は。

 

「釣りのコツ○とかある?」

「まる? あー、そうですねぇ……ま、何よりも待つことですねぇ」

「十分な仕掛けをして、万全の態勢を整えてから?」

「おー、その通り。流石は中央のトレーナー、わかってるじゃないですかー」

 

 とりま、その餌じゃ釣れにくいですよ、と。

 彼女は何かの入った袋を差し出してくる。

 貝……かな? 何か白いのがまぶしてあるけど。

 

「ありがとう。感謝くらいしか返せないけど」

「そっちの担当ウマ娘の情報とかでもいいですよ~?」

「そりゃ勘弁してくれ、俺個人が差し出せるものじゃない」

「にゃははっ、それは確かに。ざーんねーん」

 

 2人で並んで、釣り糸を垂らす。

 現代において、ゲームでは触れることが多くなった釣りだけど、リアルでは趣味にでもしないとやる機会ないよなぁ。

 まぁ俺は前世から、とてもじゃないけど人生経験豊かな方じゃなかったし、もしかしたら普通の人間はもう少し触れることもあるかもしれないが。

 

「お兄さん、釣りもトレーナーも初めてなの?」

「お、よくわかるな。トレーナー業の不慣れは結構誤魔化せてると思ってるんだが」

「慣れたトレーナーは、自分の担当でもないウマ娘と夜釣りなんてしませんって」

「あー、そっか、そういうもんか。怪しいし、何より皆忙しいもんなぁ」

「お兄さんだって忙しいんじゃないの~? 何せ皐月賞ウマ娘のトレーナーでしょ?」

「今日のために仕事は大半片付けてきたよ。残った仕事は明日の俺に任せた」

「うわ、駄目な大人だ」

 

 ……本当、話しやすいな。

 俺が彼女をよく知っている、ということもあり。

 彼女の性格と相性が良い、ということもあり。

 

「お、また来た」

「えーうそ! ツイてますねぇ」

「……なんか可愛くないのが来たな」

「メバル。煮つけとかおススメかな」

 

 釣果、プラス2。

 うん、初心者としては十分でしょう。むしろかなり爆釣れ。

 

 さて、そろそろ本題に入る頃合いかね。

 

「皐月賞、見た?」

「見ましたよ。やってくれたね~?」

「どうだ彼女は。すごいだろ」

「すごいのなんのって、そりゃあ皐月賞のレコード、それも3秒更新だもん。

 とてもじゃないけど私なんかじゃ敵わないな~?」

「ふ。何せ君は、シンボリルドルフの記録よりコンマ2秒遅かったものな」

「……ふーん、結構イジワル言ってくるんだ。セイちゃん泣いちゃいそう」

「ははは」

「あのー、気を使ってほしいんですけどー? ……んお」

 

 彼女がリールを巻くと、そこには俺が釣ったものよりずっと大きな魚がかかっていた。

 ……当然だけど、こういうとこは敵わないよな。

 いや、じゃあ何なら敵うのかって言われると、何も勝てないんだけど。

 

「……ま、強いのは認めますよ。彼女をあっと言わせるのには、少し興味あるかな。

 でも、わざわざあれをやったのは何? 当てつけのつもり?」

「まさか。君の菊花賞は、俺の憧れだよ。

 生まれた時から……いいや、生まれる前から、あの3000メートルの逃げ切りに憧れてた。

 本当にすごい馬……ウマ娘だ、ってね」

「いきなり何~? 褒めたって、餌くらいしか出ませんよ?」

「はは、ありがとう」

 

 さっきまでのはビギナーズラックだったのか、俺の釣り竿はピクリとも動かなくなった。

 一方彼女は、また何か釣りあげたらしい。

 持って来ていたクーラーボックスに、不細工な魚が入っていった。

 

「憧れたからこそ、再現したかったんだよ。彼女のスペックなら、2000メートルで無理やり再現できると思った」

「……あれ、セイちゃんは結構頑張って練り上げたんだけどなー。そんな簡単に再現されると困っちゃうよ」

「俺の目と知識、何よりホシノウィルムの脚がなければできないさ。

 君の努力は理解しているし、俺はそれを貶すつもりは毛頭ない。

 むしろ最高の先達を称えるつもりで真似させてもらったんだ」

 

 偽らざる本心だ。

 俺は彼女を尊敬していた。

 アプリゲームでその存在を知って、元ネタになった馬の生涯を調べ、そのレース映像を何度も見返すくらいには。

 何度見ても、やはりすごい馬、そしてすごいウマ娘だと思う。

 その中でもやはり、あの菊花賞は……うん。

 俺にとって、この上ない憧れだった。

 

 そしてアプリの方の、ウマ娘としての彼女は、その性格も性能も非常に俺好みで。

 ……ゲームを通してとはいえ、彼女を担当できた日々は、この上なく充実した、楽しいものだった。

 

「……んー、なーんかやりにくい。まるでトレーナーさんと話してるみたいな」

「同じ中央の契約トレーナーだからな。どこか似てるのかもしれない」

「そーいうとこもやりづらいなぁ。なんか私、手のひらの上で転がされてない?」

 

 手のひらの上で転がす? 俺が、彼女を?

 ご冗談を。そんなことはあり得ない。その逆ならよくあったけどさ。

 

「はは、お上手だな。ま、それは置いておくとして」

 

 俺は、彼女に言いたいことがあった。

 何なら今日は、これを伝えるために呼んだんだ。

 

「……少し不愉快かもしれないが、わかったようなことを言わせてもらうよ。

 君の恐怖について、俺は少しだけ理解できる。後進というのはいつだって可愛く、そして恐ろしいものだ。

 けれど、それでも俺みたいな奴は……君のトリックに目を焼かれた者は、今でも君の姿をターフに幻視してしまうんだ。

 どうか戻って来てほしい。そして、たとえ敗北の運命が待っているとしても、それに打ち勝ってほしい」

「…………ホントに、わかったようなこと言いますね」

「申し訳ない、不器用なもので、他にどう伝えていいかわからなかったんだ。

 ……お、引いた」

 

 幸い根掛かりでもなく、小さいけど魚が付いていた。

 えっと、これは……あっ!

 

「あーあー、落としちゃいましたねぇ。あるある」

「あちゃあ、もっとちゃんと上げてから針を外すべきだったか」

「……そんなんじゃさ、ポロッと取りこぼしちゃうかもよ? 日本ダービー」

「気遣いありがとう、でも大丈夫だ。

 今年はスペシャルウィークの代わりにテイオーがいるが、キングヘイローの代わりになれる子はいないからな。ホシノウィルムの逃げ脚は止められない」

「……さて、ならいいけどね」

 

 

 

 しばらくの間、沈黙が流れた。

 釣り竿を垂らしている時間は、どうしても静かで、手持無沙汰で。

 呑み込まれそうな暗い海を見ていると、少しばかり不安になって……。

 思わず、弱音を吐いてしまう。

 

「彼女の脚、もつと思うか」

 

 あの日、選抜レースで彼女の大逃げを見て以来……小さな恐怖が脳裏を離れない。

 大逃げウマ娘を担当すると、どうしてもサイレンススズカを襲った悲劇を思い出してしまう。

 前世史実では、馬としての限界を超えた故に起こったと言われる……沈黙の日曜日。

 

 この世界でも、スズカは沈黙の中に落ちてしまった。

 幸いその故障は完治し、今は元気に海外芝を荒らしているが……。

 

 ホシノウィルムもそうなるのではないか、と。

 彼女がスパートを始める瞬間、体勢を崩し、倒れる……。

 そんな悪夢を見て飛び起きたのは、二度や三度ではない。

 

「…………さて。セイちゃんはあんな無理な足の使い方はしませんからねぇ……。

 あのスズカさんだって、本格的に始めたのは体が整ったシニア級から。

 ジュニア級からあんなことをしたってデータ、過去の歴史をさかのぼってもないんじゃない?」

「ご明察。……だからこそ心配なんだ」

「お兄さんから見て、どうなんです?」

「定期的な検診や触診でも、今のところ陰りは見えない。

 ……ただ、それが確かな頼りにはならないことは理解している」

「私たちの脚、いきなり折れたりするもんねぇ」

 

 ……本当、その通り。

 だからこそ、心配になる。

 ホシノウィルムも……この子も。

 

「君の方は大丈夫か? もうこれ以上競走ウマ娘の骨折なんて見たくないぞ」

「にゃははっ、今は極めて健康体ですよ。そもそも、よそのウマ娘を心配してる場合ですか~?」

「……そりゃそうだ」

 

 確かに、それは俺の仕事じゃない。

 ……でもな、余計なお節介としても、心配してしまうんだ。

 だって、俺は前世で君について調べて……。

 その結末を、知っているんだから。

 

 君は……君の魂は、今度の宝塚記念を回避した後、橈骨を痛めて現役を引退した。

 マイナーな血筋ながら、3000メートルの世界レコードを取るような最高峰の逃げ馬。

 しかし、その運命は非業に満ちている。

 ダービーを取り逃し、屈腱炎に苦しめられ、新時代に敗れ、更に骨を痛めて引退……。

 

 それが俺の知る競走馬、セイウンスカイの結末なんだ。

 

 この世界では、どうなるんだろう。

 彼女はシニア2年目のURAファイナルズの直後、屈腱炎を発症した。

 それからは公式レースに出走せず、ひたすらに療養を重ねること1年半。

 ついに今年、今日から2週間後、天皇賞(春)で復帰する。

 

 ここまでは、俺の知る競走馬セイウンスカイと似通った物語を辿っている。

 つまりは、そういうことだろう。

 

 正直さっきまでは、彼女が宝塚記念に出走できないであろうことに歯噛みしていたくらいだ。

 いくら予定が合おうと、出走回避になればどうしようもない。

 ホシノウィルムが戦える優駿が、1人減ってしまうことは避けられない……と。

 

 

 

 ……けれど。

 

 果たしてここからも、同じ流れになるだろうか?

 

「心配してもらわなくても、屈腱炎は治しましたよ。

 ……春の天皇賞、見ててよね。皐月賞でビックリさせられた分、良いものを見せてあげるからさ」

 

 ……こんな顔をしたスカイが、最下位になるか?

 悪だくみする子供のような、それでいて策を弄する大人のような、底知れない微笑み。

 

 まさしく絶好調。

 誰よりも気合の入った、けれど誰にもその素顔を見せることのない、トリックスターのあくどい笑顔。

 ……さっきの俺の失礼な物言いで、どうやら彼女の中に火が付いてしまったらしい。

 

 こんな彼女が負けるところなんて、想像もできない。

 セイウンスカイが立つ京都に、曇り空は似合わないんだ。

 

「……待ってるよ。春の天皇賞ウマ娘と競えるのを」

「期待しててよ。

 策は上々、仕掛けも万全……っと、セイちゃんちょっと喋りすぎちゃったかな?

 そろそろ良い頃合いだし、ここらでお開きにしましょうか」

 

 彼女はリールを巻き、立ち上がった。

 いつの間にか何匹もの魚が入っているクーラーボックスを閉めて、椅子を畳んで上に乗せる。

 

「なーんか、えらく口が滑っちゃった。

 私たち、会ったの、この前が初めてだったよね?」

 

 その言葉に、心臓を握りつぶされた気がした。

 それを、もっと前に聞ければ……。

 

 ……いや、詮無いことだ。

 彼女はどう足掻いたって、俺の担当ウマ娘にはならないんだから。

 

「ああ、君とは前回が初対面だよ。

 ……俺はホシノウィルムのトレーナーで、君は俺の担当ウマ娘のライバル。

 それ以上でもそれ以下でもない。そうだろう?」

「そうだよね~。あは、変なこと言っちゃった。

 それじゃあね。次会うのは、阪神レース場……宝塚記念かな?」

「ああ、楽しみにしてるよ。さようなら、セイウンスカイ」

「はーい、さようなら~」

 

 そうして俺は、芦毛のウマ娘と別れた。

 彼女は振り返ることなく、寮への道を歩いていく。

 

 ……その道中に、1台の止まった車と、トレーナーバッジを付けた男性。

 セイウンスカイは彼にクーラーボックスを預けて、笑いながら車に乗り込んだ。

 

 あぁ、良かった。心の底から安堵した。

 彼女はこの世界でも、素晴らしいトレーナーを見つけて、彼女らしく走っているんだ。

 

 

 

 ……だから俺も、決別しないとな。

 

 

 

「……本当に、さようなら、だ」

 

 セイウンスカイ。

 前世のアプリで引き当てた時から、何度も何度も繰り返し育成したウマ娘。

 その強かさが、抜け目なさが、笑顔が、全てが好きだった。

 育成していて、楽しくなれるウマ娘。

 同時に、支えることにやりがいを感じられるウマ娘。

 

 セイウンスカイは、俺の愛バだった。

 

 その未練は、断ち切らねばならないものだ。

 俺がホシノウィルムを担当する以上、彼女への未練は邪魔になる。

 

「トレーナーたろうとするのなら、己の全てを削り落とさねばならない」

 

 美食も、安眠も、肉欲も、後悔も、展望も。

 ありとあらゆる全ての機能を排し、残すのは担当を想う心と、その未来を考える頭のみでいい。

 

 それこそが、堀野のトレーナーのあるべき姿なのだから。

 

 

 

 持って来たバケツを、真っ暗な海に向かってひっくり返す。

 2匹の魚はばしゃりと音を立てて沈んでいき、すぐに所在も知れなくなった。

 

 釣果は、ゼロに逆戻り。

 

 それでいい。

 俺とセイウンスカイは、何の関係もない、赤の他人なのだから。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 2週間後。

 トゥインクルシリーズを取り扱っている雑誌、月刊トゥインクルに、それはでかでかと取り上げられた。

 

『セイウンスカイ 復帰戦となる天皇賞(春)快勝!

 優駿たちを手玉に取り、3200メートルの逃げ切りに成功。

 名優との激闘を制し、見事盾の栄誉を得た。

 古豪復活! 京都に再び青空が広がった』

 

 ……前世のセイウンスカイ号は、1年半ぶりに復帰した春の天皇賞で、最下位だったはずだ。

 それが、ターフの名優たるマックイーンを超えて、1着。

 

 どうやら彼女は、運命を乗り越えたらしい。

 宝塚記念にも出走してくれるはずだ。

 

 

 

「……さて、これで準備は完了か」

 

 三冠の落とし穴、日本ダービー。

 逃げウマ娘に不利とされるコースにおいて、トウカイテイオーとの決戦になるだろう。

 覚醒したテイオーは、これまでにない難敵。彼女とてそう簡単に勝てる相手ではない。

 

 不可能への挑戦、宝塚記念。

 スペックも策略も、その全てがホシノウィルムの上を行くセイウンスカイに加え、メジロの双璧ともぶつかる。

 はっきり言って、勝率は低い。ホシノウィルムに勝利と刺激がもたらされることを祈るばかりだ。

 

 最後の戦い、菊花賞。

 3000メートルという長いレースの果てに、彼女に初めて熱を与えたウマ娘が待っている。

 これに関しては、はっきり言って予想が付かない。ネイチャがどこまで伸びてくるのかも、その時俺とホシノウィルムが、どのような関係になっているのかも……。

 

 これでようやく、彼女に熱いレースをさせるための土壌が完成した。

 後は……彼女を事故なく、完璧に鍛え上げることだな。

 

 

 







 堀野君にとっては、前世と今世を切り離す一区切り。
 そして同時に、トゥインクル現役最強ウマ娘の1人が登場です。
 マックイーンを下した再起のトリックスターが、宝塚でホシノウィルムを待っています。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、レースの研究と彼女の気持ちの話。



(小話)
 今回ウイニングライブの話はやる予定なかったんですけど、ちょっと前に感想で「ホシノウィルムのwinning the soulカッコ良いんだろうなぁ」というものを貰ったことを思い出し、書いてみました。
 これからも、感想とかで貰ったアイデアとかは本編のちょっとしたところで使わせていただくかもしれません。
 あの時感想をくださった読者様、ありがとうございました!



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!

(追記2)
 内容に間違いがあったので、少しだけ訂正しました。


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とあるダービーの結末

 あまり馬や人体に詳しいわけでもないので、設定に緩さがあっても笑って許してもらえると助かります。あくまでフレーバー程度なので。





 

 

 

『ここでトウカイテイオー、トウカイテイオー抜け出した! ペースを上げてホシノウィルムとの差を詰めに出た! 3人の逃げウマ娘たちはここまでか?』

『スタミナ自慢で知られるホシノウィルムにロングスパート勝負を挑むつもりかトウカイテイオー! 果たしてその判断はどう出るのか!?』

 

 

 

 暗くしたトレーナー室で、モニターを見つめる。

 画面に映っているのは、先日の皐月賞の映像。

 その中でも、テイオーちゃんを撮影した部分だ。

 

「ここで……そう、やっぱりここ」

 

 私が下り坂に差しかかってすぐ。

 テイオーちゃんがペースを上げる。

 この瞬間だ。

 彼女の脚が大きく伸びて地面を蹴り付ける、この瞬間。

 

 ここから彼女のロングスパートが始まるんだけど……。

 注目すべきは距離とかタイミングではなく、彼女の走法。

 

 ウマ娘の走法に関しては、そこに積んである教本で勉強した。

 膝を折り曲げ、足を落として地面に付ける。

 後ろに向かって蹴り跳ばすことで前への推進力を得る。

 後ろに流れて伸びた脚を折り曲げて戻し、再び地面へ落とす……。

 2本の脚で交互にこれを行うことで、バランスを保ちながら前へ前へと走るのだ。

 

 ……ま、つまりは人間とほぼ変わんない。スピード感が跳ね上がるだけだ。

 

 

 

 けれど、テイオーちゃんのスパート時の走り方は、少しばかり普通と違う。

 

 あまりにも脚を回すペースが速いから、一見して全然違和感がないけど……やっぱり、ちょっとおかしい。

 ただ足首と膝のバネがすごいってことだけじゃ、私が大差を付けられない理由にはならないはずだ。

 何かある。絶対に、何か……。

 

 

 

 ずっとずっと見続けて。

 ようやく……わかってきた。

 彼女の走法の最大の特徴は、ストライド走法の……歩幅の広さ。

 そしてそれは、膝を曲げた後、下に落とすんじゃなくて、一気に前に伸ばすことで成立している。

 

 とはいえ、これだけならおかしいって程じゃない。

 ストライド走法で行くんなら、前に落とした脚を勢いに任せて引き寄せ、そこで改めて地面を蹴ることもある。

 

 だが彼女は……半ば脚を伸ばした状態のまま、かなり前方で地面を蹴り飛ばしているように見えたんだ。

 

「……減速するはずなのに」

 

 想像すればわかることだ。

 普通、足を前に伸ばしたまま、後ろに向かって地面を蹴ることはできない。

 前に蹴り出すためには、自分の脚力を地面に対して後ろ向きに伝えなくてはならないんだ。

 なのに、脚が前に伸びていれば……つまり自分の腰から斜め前に伸びているなら、どうしたって脚力は前に向かって伝わってしまう。

 

 更に言えば、膝が曲がっていない以上、足首のバネを活かすこともできない。

 通常のフォーム以上の脚力も期待できないはずだ。

 

 それはひとえに、体の構造の限界。

 いくらストライド走法だろうと、それ以上歩幅を伸ばすことはできない……はずなんだ。

 

 だと言うのに。

 

 

 

『トウカイテイオー速い! 最速と思われたホシノウィルムとの差をぐんぐん縮めていきます! これがクラシックに現れた帝王の姿なのか!』

 

 

 

 何度見ても、前で蹴ってる。

 結果として、彼女は普通では考えられない、とんでもない歩幅のスプリントを見せている。

 

 ……何故そんなことができる。何故減速しない。

 

 再びシーンを巻き戻して、テイオーちゃんがスパートする直前に戻る。

 ここまでは、彼女の走法は普通なんだよな。

 でも、スパートを始めた瞬間……。

 脚を伸ばして蹴り付ける、非常に歩幅の大きい、大ストライド走法とでも言うべきものになる。

 

 どうやってそれで「普通の走法」以上の推進力を得てるんだ?

 前世の知識もある私なら、きっとわかるはず……。

 見ろ。考えろ。結びつけろ。答えを出せ。

 

 前に向かって進む。

 後ろに向かって蹴る。

 正しい角度で蹴り跳ばす……。

 脚から出した力を、地面に対して的確に流す……。

 流す?

 流れる……曲がる……曲げる?

 誘導する、あるいは……コントロールする。

 

 ……もしかして。

 

 映像を停止して、テイオーちゃんの足元にズームする。

 ああ……ようやくわかった。

 

 

 

「足根関節か」

 

 

 

 足根関節。これはウマ娘特有の部位の呼称。

 人間の体で平たく言うと、足首の関節だ。

 

 一時停止した映像の中の、テイオーちゃんの足首。

 そこに彼女の秘密がある。

 

 やっぱり、脚の柔軟さがすごいんだ、この子。

 彼女の靴の上側……足の甲が、脛を超える角度で芝に沈んでいる。

 これが……これこそが、彼女の神髄。

 

「……曲芸じゃん」

 

 本来脚と並行に、つまりは後方への推進力になるはずの脚力のベクトルを、足首で無理やり後ろに捻じ曲げ、足先で地面へと伝える。

 

 つまり。

 本来は膝と足首で担うべきバネの役割を、足首のみに押し付けて……。

 1回1回地面を蹴るたび、その関節の柔軟さを以て、自身の脚力の全てを足首で受け流しているのだ。

 

 

 

 思わず顔をしかめる。

 なんて走り方をしてやがるんだ、このウマ娘は。

 

 そりゃ速いでしょうよ、何せ普通に比べて20%くらい歩幅が広いわけだし。

 そのくせ足首が柔らかすぎて、それ単体でも普通の子より地面へ伝わる脚力が強いし。

 

 ……でもそれは、致命的に脚に負担のかかる走りだ。

 

 言い方悪くなるけど、そりゃあ故障もするよ。

 1歩ごとに、自分が地面を蹴り跳ばす脚力、その全てを足首にかけているようなものだ。

 この大ストライドでスパート中のテイオーちゃんは、走るたびに自分の足に多大な負荷をかけている。

 

 前世の私は「テイオーちゃんは骨が弱いのかな」って思ってた。

 骨が弱いから折れてしまうんだって。

 けれど、現実は違った。

 

 彼女の骨は、むしろ強い。

 けれどその走り……才能に、彼女の体が付いて来れないんだ。

 

 同じウマ娘だからこそ、わかる。

 その体の天才性と、頑丈さ。

 彼女はどちらも、飛びぬけて高い。

 ここまで事故も起こさず大ストライドを行えていたのが良い証拠だ。

 

 けれど、それでも。 

 天才性の方が、僅かに上回るのだ。

 

 如何に頑丈なウマ娘の体とて、その飛び抜けた柔軟さがもたらす天才的なストライド走法に耐え得るものではない。

 いくら頑丈な体でも、それすらいつかは破壊してしまう。

 ……天性の才能というのも、行き過ぎれば呪いになるのかもしれない。

 

 寿命を縮める代わりに、爆発的な速度を生み出すスパート、か……。

 勿論、彼女程の体の柔らかさがなければ、真似もできないだろうけど。

 

「…………私なら、あるいは」

 

 誰にも聞こえないくらいの、小さな声で呟いた時。

 

 

 

 パチン、と部屋の電気が付く。

 

「ホシノウィルム、その研究は終わりだ」

「トレーナー」

 

 部屋に入って来て電気を付けたのは、私を担当してくれてる堀野トレーナーだった。

 なんか生徒会室に呼ばれてたみたいだけど、やっと帰って来てくれた。

 立ち上がって迎えようとすると、彼はその動きを手で制してくる。

 

「そのままでいい。どちらにしろ、今日は勉強尽くしだからな。

 それで、皐月賞の映像を見て、何か収穫はあったか?」

「そうですね……」

 

 収穫。収穫は、あったけど……あまり言うべきものでもないかな。

 所詮は思い付きだし、すぐさま再現できるものでもないし。

 

 あっでも、それ以外で伝えたいことはあったわ。

 

「テイオーちゃんの走法を見ていたのですが……。

 あのストライド走法は、速い分、足根関節や第三足根骨へのダメージが大きい気がします。

 ……あまり言いたくないことですが、彼女の脚は……ガラスの脚なのではないでしょうか」

 

 ごめんトレーナー、半分くらい嘘です。

 テイオーちゃんの脚はガラスどころか鋼鉄レベルだと思います。

 ただ、その走法があまりにもイカれてる。

 鋼鉄だってウマ娘が思いきり力を込めれば曲がっちゃうんだ。

 

 そうして……日本ダービーで、完全に折れる。

 

 ただ、そのまま言っても伝わるとは思えないから難しい。

 言葉を選びながらそれを伝えた私に対して……。

 

 トレーナーは、かなりビックリした顔をしていた。

 

「……驚いた。気付けるものなのだな」

「気付ける……と言うと、トレーナーにもわかっていたのですか?」

「ああ。……トウカイテイオーの脚は、恐らく菊花賞までもたない。

 このままならダービー周辺で……故障するかもしれない」

「っ!」

 

 やっぱり、この人はすごい。

 全部わかってるんだ。テイオーちゃんの走り方の危険性とか、脚の耐久の限界とか。

 でも、それなら……何とかできないのかな。

 

 たとえそれがわがままで、上から目線の憐憫だとしても……。

 テイオーちゃんが曇らずいられるなら、それ以上のことはないんだから。

 

「どうにかして、彼女を助けることはできませんか」

「……それは、難しい。

 まず第一に、俺の観察眼で得られる情報は、他者に示せる論理的な根拠に欠ける。だからベテランのトレーナーの判断を覆すに足る材料がない」

 

 あー、確かに。

 トレーナーの観察眼は、非常に正確だ。

 今までに1度だって、間違ったことを教えられた記憶はない。

 でもその根拠は……結局、トレーナーの主観なんだよな。

 信頼関係を築いてない状態で言っても、確かに信じてもらえないかも。

 

「次に、そもそもウマ娘とトレーナーの関係は唯一無二、不可侵のもの。

 ……ホシノウィルム。もしも誰か、例えば他のトレーナーが、急に俺の育成方針に異を唱えてきたらどうする?」

「殴ります」

「え?」

「殴ります」

 

 ……いや、殴るでしょそりゃ。

 私のトレーナーが、判断を間違うわけがない。

 特異な能力も持ち、その上で新たな知識を得る努力を怠らず、いつだって私のことを考えてくれてる彼が、判断を間違えるわけがないんだ。

 

 仮に間違ったとしたら、それは他の誰にだって正しい答えの出せない問題だろう。

 そしてその時が来たとしたら、私はトレーナーの判断に殉ずるつもりでいる。

 それこそが、あの時命を捧げた意味だもの。

 

 彼にならば、騙されたって後悔はない。

 だから私は、彼を信じる。

 堀野トレーナーは私にとって唯一無二、絶対の信頼を置ける人なんだ。

 

 その彼の判断に異を唱える?

 私のことをまともに知りもしない木っ端が、彼を否定する?

 ふざけんな。

 その判断は、彼が生きてきた人生から導かれた結論だ。

 その判断は、私たちが築き上げてきた関係性の結晶だ。

 それを否定する?

 

 そりゃ殴るでしょ。ナメんなクソが、と。

 

「……いやまぁ、殴るのはやめようか。ちょっと怒ってくれたら俺は十分嬉しいよ。

 とにかく、話を戻すが。

 トレーナーとウマ娘っていうのは、そういう関係なんだよ。他者が足を踏み入れるべきものじゃない。

 俺にできるのは精々、向こうのトレーナーに走法の危険性を伝えることくらいだ」

「……なるほど」

 

 すとん、と腑に落ちる。

 確かに、私だってトレーナーとの関係に第三者が入って来るのはごめん被る。

 そんな闖入者に「君の走り方は危険だからやめた方がいい」とか言われたら……うん、間違いなく拗れるね。

 最悪殴られるのは私になる。痛いのはイヤだな。

 

「そして最後にもう1つ。

 そもそも、あの走り方こそがトウカイテイオーの強みだ。

 彼女がそれをやめるというのは、最大の武器を捨てることを意味する。

 ……トウカイテイオー本人が、それを望まない可能性は、あるだろう」

 

 そういうもの……なのかな。

 正直私からすれば、事故なく走れる方がずっと良い気もするんだけど。

 これは私が勝ててしまうからこその余裕……あるいは油断なのかな。

 

「そういうわけで、俺たちがあの陣営にしてやれることは少ない。

 ……ま、そちらに関しては俺に任せろ。できることはしておくさ。

 だから君は、目の前のダービーに集中するんだ」

「了解しました」

 

 テイオーちゃんの故障に関して不安は残るけど……。

 彼がそう言うのなら……うん、頼ろう。

 トレーナー、テイオーちゃんのこと、任せました。

 ……ついでにネイチャとの模擬レースのセッティングも任せました。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 話が終わると、トレーナーはモニターを消し、机の端に寄せた。

 そして机に、引き出しから取り出したでっかい紙と紙束を置く。

 

「さて、皐月賞の次は、来月のダービーの研究を始めるぞ」

 

 机に広げられた大きい方の紙は……これ、東京レース場の俯瞰図か。下にあるのは傾斜かな。

 めっちゃ細かく色々書かれてる。トレーナー、こういうとこかなり几帳面だよね……。

 

「ではまず、東京レース場の芝2400メートルコースについて軽く解説していく。

 わからないことがあったら随時聞くように」

 

 

 

 トレーナー曰く。

 このコースは、40メートル程度の短い登り坂から始まる。

 その先400メートルの直線を抜けると、500メートル程続くコーナーに差しかかる。

 で、このコーナーを抜けるとまた400メートル程の直線。途中からは再び短めの登り坂になる。

 登り坂を越えたらすぐ、今度はしばらくの間下り坂が続き、そのままコーナーへ。

 最終コーナーを抜けると、すぐに登り坂と500メートル強の最終直線。登り坂が終わった後だけでも直線は300メートル以上ある。

 

 これが東京レース場、芝2400メートルコースである。

 

 ……うーん、やっぱり言葉だと伝わりにくいよね。

 こうしてトレーナーが図解してくれるから多少は理解できるけど、やっぱり実際に走ってみないと感覚的にはわかんないかも。

 

「さて、ホシノウィルム。何故このレースが逃げウマ娘に不利だと言われているか、わかったか?」

「……ええと、理由は複数あると思います」

「うむ、思い付くだけ言ってみなさい」

 

 うーん、逃げウマ娘に不利な理由……だよね。

 

 まず第一に、最初に登り坂からスタートするってのが不利だ。

 逃げウマ娘は序盤に突っ走って、後続から距離を離さなきゃいけない。

 なのにこのコースでは、登り坂で加速がしにくい上にスタミナを持っていかれるし、バ群に呑まれたり影響を受ける可能性もある。

 これは結構な不利だと思う。

 

 次に……登り坂や下り坂が多い。

 地形の切り替えに意識を持っていかれるし、それだけスタミナを消耗しやすい。

 逃げウマ娘は序盤から飛ばすわけで、終盤までのスタミナの割り振りを間違えてしまえば、それでゲームオーバーだ。

 でも、そもそもこの割り振りを考えるのは頭で、思考というのは疲れで停滞するもの。

 レース後半になると、疲れてペースを見誤り、ペースを見誤った結果スタミナを無駄にする悪循環が発生する。

 故にスタミナのキープは、逃げウマ娘にとっては死活問題なのだ。

 

 後は、というか何より、最終直線が長すぎる。

 500メートル強という、トゥインクルシリーズで用いられるレース場でもトップレベルに長い最終直線。更に前半は上り坂になっている。

 スタミナを使い切った逃げウマ娘は登り坂で減速を避けられないし、それを登り切ってもまだ300メートルもあるんだ。

 ……300メートルの直線って、菊花賞が開催される京都レース場の最終直線と同じくらいの長さなんだよね。

 末脚の切れるウマ娘にとって、差し切るには十分すぎる距離だ。

 

「……と、即座に思い付いたのはこの辺りでしょうか」

 

 思い付いたことを並べてみると、トレーナーは何とも言えない顔をしていた。

 え、何? なんかもっとあるの?

 

「ええと、何か見落としていたでしょうか」

「いや、逆だ。素晴らしい理解力だと思う。うん、偉いぞ」

 

 えへへ、頭撫でてもらっちゃった。

 ……でもこれ、そんな褒められることかな。

 普通にコースとか脚質の勉強をしてれば、答えられる範疇だと思うんだけど。

 まぁいいや、温かくて気持ち良いし、今はこの幸せを享受しよう。

 

「……そりゃそうだよな。大逃げウマ娘なら誰も彼もが頭先頭民族なわけじゃないよなぁ、安心安心」

「戦闘民族、ですか?」

「あぁいや、気にしないでいいぞ。おーしおし、偉い、偉いなー」

 

 おわわ、わしゃわしゃだ!

 レースに勝ってもないのに、こんなのしてもらっちゃっていいんですか!?

 お、お金とかいります? 私、今ならちょっとくらいは払えますけど?

 

「うむ、君の判断は大方間違っていない。大事な部分はきちんと押さえてるな。

 今君が言ったように、ダービーで走るのは、逃げウマ娘にとってかなり不利なコースだ。

 あのセイウンスカイでさえ、ダービーだけは取り落とした程に」

「スカイちゃん……」

「……相変わらずちゃん付けの基準がわからんなぁ」

 

 セイウンスカイちゃん。

 前世アニメの1期で、主人公スペちゃんから皐月賞と菊花賞を奪っていったやり手のウマ娘だ。

 最近はレースに出てないけど、一応今もトゥインクルシリーズ現役らしい。

 ミーク先輩曰く、現役最強の逃げウマ娘。

 やっぱり強いんだろうなぁ。トレーナーが「あの」って言うくらいだし。

 

「……だが、このレースにおける不利は、それだけじゃない。

 日本ダービーは、色々と特殊なレースなんだ」

「そうなのですか?」

「……うん、まぁ知らないよな、そうだよな。

 今でこそ有記念や宝塚記念、ジャパンカップなどに存在感を奪われつつあるが、元々東京優駿は日本における最大のレースだった。

 今でもその頃の威厳は残っている。『ダービーに始まりダービーに終わる』という言葉もあるくらいだ。

 故にこそ、ダービーを取ったウマ娘はダービーウマ娘として、そのトレーナーはダービートレーナーとして賞賛される」

 

 はえー、そうだったんだ。知らなかった。

 ああいや知ってるというか、一応学校で勉強した……気もするんだけど。

 

 正直レースの勝敗に直接関係ない勉強には、あんまり興味持ててないんだよなー。

 試験は毎回直前2日で一気に追い込んで、ちょうど中間くらいの順位に落ち着いてる。私、試験においては追込ウマ娘なのだ。

 毎回ノート貸してくれるネイチャには感謝しかないよね。無二の友人最高!

 

「そんなダービーという一大レースで、他のウマ娘の存在を感じながら逃げ続けるのは、精神的な消耗が大きいのだ。

 そういう意味でもダービーは逃げウマ娘に不利とされている……が」

「私には関係ありませんね。レースの箔に興味はありませんし」

「うむ、そうなる。君に限定すれば、ダービーの不利は半減すると言って良いだろう。

 残る問題は……ライバルだな」

 

 そう言って、トレーナーは脇に避けてあった紙束を出してきた。

 

「皐月賞直前時点での、ダービー出走予定のウマ娘たちのリストだ。

 確実に出走できるかわからないウマ娘も含め、30人程のデータをまとめてある。

 あくまで俺の観察眼依存のデータだから、確実に正しい保証はないがな」

「……30人、ですか」

「まだ誰が出るか確定していないから、一応な。

 とはいえ十中八九、最初の17枚の子たちが出てくるだろうが」

 

 取り敢えず、一番上の紙を見てみる。

 

 

 

 トウカイテイオー

 

 ステータス

 最高速度 C  431

 スタミナ D  348

 加速力  D+ 364

 精神力  D  319

 戦術眼  D+ 352

 

 一芸

 直感的なレースセンスがある。

 天才的な脚の柔軟性を持つ。

 好位置を取り、脚を溜めるのが上手い。

 バ群から抜け出すタイミングを逃さない。

 直線での加速の技術はトップクラス。

 

 総評

 今のところ恐れるに足る相手ではない。

 ホシノウィルムが全力を出せれば必ず勝てる。

 ただし伸びしろは非常に大きい。要観察。

 

 

 

 ……あの、えっと、こういう感じ?

 え、トレーナーの観察眼って、こんなゲームのステータスみたいな感じで見えるの?

 それとも自分の感覚からこんな細かい数字割り出したの?

 どっちにしろすごいな。

 

 ……いや、本当にすごいな!? 二度見ならぬ二度思いだわ!

 彼の眼は極めて正確だ。つまりこのテイオーちゃんを筆頭とする全てのウマ娘のデータも、限りなく事実に近いと思うんだけど……。

 ここまで完璧にデータとして抽出されているのなら、次回のレース展開の予想も相当にやりやすくなるだろう。

 

 ……ひょっとしてこの紙束、他のトレーナーは喉から手が出る程欲しいヤツなんじゃない?

 売ろうとすればめちゃくちゃ高額になりそう。

 い、いや、流石にそんなことしないよ?

 もしかして3か月分の食費くらいにはなるんじゃないかとか、そんな恩知らずなこと考えるわけないから。

 

「トモを見ればわかると伺っていましたが、こんな細かい数字まで見えているんですか?」

「……まあな」

「脚を見ただけで、精神力や戦術眼までわかるのですか……」

「…………うん、まあ」

 

 そ、そうなんだ……。

 

「これがトレーナーの力、なのですね……!」

「あ、それで納得するんだ」

「当然です。私はトレーナーを信頼していますから!」

「お、おう……」

 

 何言ってるんですか、1年以上の付き合いですよ。

 もう家族みたいなものじゃないですか。そりゃ信じますって。

 

 改めて手元のデータに目を落とす。

 

「……やはり他の子に比べても、テイオーちゃんは強いのですね」

「他のウマ娘は各ステータスがEからE+程度。スキル……技術の面で言っても、トウカイテイオーは頭1つ抜けているな」

「ちなみに、私はどの程度なのでしょうか」

「最後のプリントに載っているぞ」

 

 ええと……あ、本当だ、あった。

 

 

 

 ホシノウィルム

 

 ステータス

 最高速度 C+ 583 

 スタミナ A  877 

 加速力  C  413 

 精神力  B+ 736

 戦術眼  D  339

 

 一芸

 常にレースに対して全力で臨む。

 芝、長距離、逃げに強い適性がある。

 抜群のスタートを見せる。

 スタート直後の加速が速い。

 コーナーでの速度維持、息の入れ方が上手い。

 末脚が切れる。

 大逃げや逃げへの理解度が高い。

 

 総評

 無敗で三冠を取るウマ娘。

 極めて優秀。

 

 

 

 うわっ……私のデータ、強すぎ……?

 自分でも結構強い自信はあったんだけど、ちゃんとトレーナーからも評価されてるってわかって、思わず口の端が吊り上がりそうになる。

 極めて優秀、だって。へへ、嬉しいね……。

 

 って、え、嘘、私確かにスタミナに自信はあったけど、精神力も高すぎない?

 

「あの、私、そこまで図太く見えるでしょうか……」

「ん? ……あぁ、精神力か。いや、そういう意味じゃないぞ。

 これはスタミナを体力としたところの防御力というか……いざスタミナが切れかけてからどこまで粘れるかの根性、他のウマ娘と張り合う時の意志の強さ、みたいな感じだな。

 ……冷静に考えると、ここの表記は根性のままで良かったか。わかりにくいかと思って変えたけど、余計だったな」

 

 なるほど、ど根性か。

 ……根性、あるのか? 私に。

 あんまり自覚ないなぁ。

 

 あと、気になるところと言えば……。

 

「高く評価していただけて、とても嬉しく思いますが……。

 比べると、私は戦術眼が低いのですね」

「ああ。ここまでは読みやすいレースが多かったし、ずっと俺の指示で走っていたから問題なかった。

 だが、日本ダービーからは不確定要素が増えるし、俺の指示に従うだけではやっていけなくなる。

 故に、ここからは戦術眼も培ってもらう。そのために今日も、君にはひたすら勉強し続けてもらったわけだ」

 

 あぁ、だから朝からずっとレース見せられてたんだ。

 おかげで、客観的に見た自分の弱点とかレースの展開などは理解できた。

 今日だけでだいぶ戦略眼は上がったんじゃないだろうか。

 

 ……しかし、そっか、いよいよトレーナーの指示だけじゃ「確実に勝てる」とはいかなくなるのか。

 大丈夫かな、私。

 掛かりやすい弱点の克服は、トレーナーに指示を貰ってこそのものだった。

 それがなくなれば、私はまた暴走してしまうんじゃ、って……。

 

「心配するな」

 

 いつの間にか俯いていた頭に、手が置かれる。

 温かいけれど……今は、少しだけ頼りなく感じた。

 

「君なら大丈夫だ。……今の君なら、あんな危険な形で掛かることはないさ」

「そう、でしょうか」

 

 あの寒気。

 ネイチャちゃんに迫られた時の寒気は、今でも思い出せる。

 

 追い付かれるんじゃないか。負けるわけにはいかない戦いで、負けるんじゃないか。

 その恐怖は耐えられない怖気となり、私の頭はただ「追い付かれちゃダメだ」という一点のみに集中した。

 レースの展開も、残りの距離も、全てを忘れて全力で駆けだしてしまった、あの感覚。

 

 ……まるで、後ろから伸びてきた冷たい手に、心臓を握りつぶされるような。

 あの感覚から、私は逃げ切れるだろうか。

 

「君はここまで勝って来た。そんな自分を信じろ。

 ……それに、たとえ負けたとしても、俺は必ず『おかえり』と言って君の頭を撫でよう。

 だから走りたいように走って来い。

 それで、君は大丈夫だ」

 

 トレーナー……。

 でも、そんなこと、本当にあるんだろうか。

 

 敗北するホシノウィルムに……価値は、ないのに。

 

 それでも、トレーナーは私を……愛して、くれるだろうか。

 

「負けても、慰めてくれますか?」

「むしろ負けた時こそ慰めてやる」

 

「勝ったら、褒めてくれますか?」

「鬼のように褒め殺してやろうか」

 

「……じゃあ、勝たなくても、レースに出なくても、ここに帰ってきていいですか?」

 

 それは……。

 競走ウマ娘として、言っちゃいけないことかもしれない。

 

 私たちは、走るためにここにいる。勝つためにここにいるんだ。

 それを投げ出すことは、禁忌。

 

 勝利を諦めたウマ娘に、未来はない。

 そんなウマ娘に、トレーナーはもったいないんだ。

 

 だから、トレーナーである彼が、その言葉を肯定できるはずがないのに。

 ……なんで私、こんなことを聞いてるんだろ。バカじゃん。

 

「すみません、何でも……」

 

 取り消そう。

 今のはウマ娘として、トレーナーとの関係を破壊しかねない言葉だった。

 私は彼の担当ウマ娘でしかないんだって、それをちゃんと思い出さなくちゃ……。

 

「当たり前だ」

「……えっ」

 

 トレーナーは、いつも通りの無表情で……当然のように、告げる。

 

 

 

「君が望まないならレースには出さない。

 俺がすべきは君に寄り添うことであって、君に無理を強いることではないからだ。

 君が出たくないと言えば、どれだけ予定が荒れようと出走を取り消そう。

 だから、走りたい時に走れ。勝ちたいときに勝て。

 戻って来たい時には戻って来い。俺はいつでも君を待っている」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……バカ。

 バカ、バカ、本当にバカ。

 

 なんで、そんなこと、言うの?

 

 信じたくなっちゃうじゃん。

 誤解だってわかってるのに。

 トレーナーとしての言葉でしかないって、わかってるのに。

 

 ……間違えたく、なっちゃうじゃん。バカ。

 

 

 

「ホシノウィルム。……ホシノウィルム?」

「自主トレ、行ってきます」

「え? いきなり?! ちょっと待った、今日は賢さトレーニングを、」

「うるさい。……寄り添って、待っててくれるんでしょう?」

「あー……あーもう、わかった。ジムでランニングマシン、最長2時間!

 無理せず、足並みが乱れたら一旦休んでくれよ!」

 

 トレーナー室を出て、ぴしゃりと扉を閉める。

 

 顔が熱い。しかもくしゃくしゃ。目も絶対赤くなってる。

 とてもじゃないけど、人に見せられる顔じゃない。……特に、トレーナーには。

 

 早足にそこから離れて……絶対にトレーナーには聞こえないところまで逃げて。

 

 ……知らず、思考が口から漏れた。

 

「……あー、あ。もっと早く、会えてればな」

 

 そうすれば、私も……。

 

 ……なんて。

 

 そんなこと、考えたって意味ないんだけどさ。

 

 彼は名家の出身で、中央トレセンでトレーナーをすることは決まってたし。

 私は寒門のウマ娘で、彼と交わる未来は、去年のあの日にしかなかったんだから。

 

「それでも……」

 

 運命は交わった。

 

 あの日、真っ暗な空の下、失意のどん底で。

 

 

 

 

 

 

 私は、私の運命の人(トレーナー)に出会ったんだ。

 

 

 

 

 

 

「……あー、もう、最悪」

 

 私、今世ではチョロくならないって誓ったのにさ。

 いっつもいっつも、そうして私が欲しい言葉ばっかかけてきて。

 頭も撫でてくれて……愛をくれて。

 

 そんなのさ。

 ……勝てるわけないじゃん。

 

「先に好きになった方が負け、だもんな」

 

 ちぇっ。

 こっちの勝負まで惨敗だよ。

 

 勝てないなぁ……トレーナーにだけは、さ。

 

 

 







 恋のダービーは掛かった方の負け。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、彼女の領域と彼女の限界の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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やはり根性…! 根性は全てを解決する…!

 書きたいこと書いてたら、文字数今までで一番多くなっちゃった……。
 なっちゃったからにはもう……ね……。





 

 

 

 時というのは残酷なもので、どれだけ待って欲しくても勝手に進んでいく。

 ついこの前皐月賞が終わったばかりだと言うのに、トレーニングとホシノウィルムとのコミュニケーションに毎日を使う内、いつの間にかダービーまで1か月を切ってしまった。

 

 今日は久々……って程でもない1か月ぶりの、彼女の待望の模擬レースの日だ。

 左回り、芝2400メートルのコース。参加者は18人。

 勿論、1か月後に迫る日本ダービーを意識してのものである。

 

「ホシノウィルム、調子はどうだ」

「万全だと思います。模擬レースを組んでいただいた分、しっかり走ってきます」

 

 いつも通りの質問に、いつもより少しだけ多い言葉が返ってくる。

 俺の担当ウマ娘は、今日も今日とて無表情。

 ……けれど、少しばかり笑みが隠しきれていないのが可愛らしいところだ。

 

 あの皐月賞から、彼女との関係に少しだけ変化があった。

 

 いつからか、ホシノウィルムはまた一歩、俺に打ち解けてくれたんだと思う。

 薄っすらとだけど、よく微笑むようになった。

 彼女から話を振って来ることも多くなり、同室の先輩のかわいいところとか、ネイチャと遊びに行ったこととか、最近あったことを語ってくれるようになった。

 

 ……まぁ、そういったコミュニケーションが増えるに伴って、模擬レースや自主トレのおねだりも増えたのはアレだけどね。

 

「本音を言えば、脚の消耗も考えて模擬レースは避けたかったけどなぁ」

「す、すみません。それとありがとうございます」

「ああいや、構わない、気にするな。

 避けたかったが、君が走りたいと思うのならばその方が遥かに優先度が高い。

 だから君は、前に言った通り、好きなように走ってこい」

「あ、う、は、はい」

 

 ……また顔を背けられた。

 

 彼女との仲が深まったのは喜ぶべきことなんだけど、同時に少しばかり困った事案も発生し始めた。

 話している最中に、急に顔を背けたり、その場から脱走したりするようになってしまったのだ。

 そういう時は、こっちを向くように言っても止まるように言っても無駄。

 長くても大体10分くらいで元に戻るので、下手なことをせずしばらく待つべし、である。

 車のオーバーヒートと同じだね。

 

 で、今回は顔を背けられてるわけだけど……。

 尻尾も上めにぶんぶん動いてるし、取り敢えず不愉快に思っているわけじゃないはずだ。

 ……俺の息が臭すぎるとかじゃないよね? 大丈夫だよね?

 スカウトに失敗しまくったあの日を思い出して、正直ちょっと怖いんだけど。

 

 

 

 あんなに素直だった彼女が何故、顔を背けたり、脱走したりするようになったのか。

 堀野家のデータを顧みれば、思い付くことがないでもない。

 

 ……うん、ちょっとアレな話だが。

 ウマ娘だって、その精神構造は人間の女の子とそう変わらない。

 悩みを真摯に聞いてくれて、自分を導いてくれて、その上喜びを共有してくれる大人の男性には、こう……憧れというか、ぶっちゃけ恋心を覚えてもおかしくないのだ。

 

 しかし。

 殊俺とその担当に限って、それはあり得ない。

 それこそ、ホシノウィルムが転生者だって可能性くらいあり得ないと言っていいだろう。

 何故なら俺は堀野のトレーナー。担当ウマ娘との関係性の崩壊には一家言ある……とかいうとご先祖様に殴られるだろうが、そういうデータは大量にあったからな。

 当然、しっかりと対策は取っているのだ。

 

 ……トレーナーとウマ娘の関係というのは、非常に繊細なものだ。

 失望されるのは駄目。でも憧れられると駄目。

 頼られなきゃ駄目。でも依存されるのも駄目。

 遠いのは駄目。でも近すぎるのも勿論駄目だ。

 

 俺たちトレーナーは、別に彼女たちの保護者でもなければ交際相手でもない。

 「トレーナー」……トレーニングを付け、レースに出させる者、なのだ。

 そこのところをきちんと弁えないと……最悪の場合、暴行事件とか「うまぴょい案件」に発展してしまう。

 

 だが、俺は転生者だ。人生2周目ともなれば、人間関係ってものに地雷がめちゃくちゃ多いのは知っていた。

 故に、この問題への対策は怠らなかった。

 

 ……そう。

 普段から被っている、無表情で無愛想な仮面。

 実はこれ、担当との距離感問題への対策なのだ。

 

 こんな無愛想で鬼畜なスパルタトレーナーに惚れるようなウマ娘はいない。

 もしいたとしたら、一度メンタルクリニックに連れていくべきなレベルの気の迷いである。

 つまり逆説的に言えば、この仮面を被れば決して恋心を抱かれることはない。

 故に、どれだけ彼女たちの心に寄り添おうと、その未来に尽くそうと、あくまで相棒止まりになる。

 完璧に距離感のキープができるというわけだ。

 

 うーん、我ながら完璧な対策だ。

 ……もうちょっと俺に演技の才能があれば、言うことなかったんだけどな。

 

 ま、とにかく。

 今現在、ホシノウィルムが俺に好意を抱いている、なんてことはありえない。

 俺は所詮、あの日に事故を起こしかけていた彼女を止め、成り行きで契約を結び、理解していなかった適性を教えて、選抜レース以降無敗のウマ娘を育てて、頭を撫でて、勝負し、辛い過去を教えてもらって、ご両親にご挨拶して、彼女に熱いレースを楽しんでもらおうとしてる、ただの無愛想鬼畜トレーナーでしかないのだ。

 

 …………あれ。

 なんか改めて事実を列挙すると、彼女に好かれててもおかしくないような気がしてきたな。

 客観的に見ると、俺、だいぶ彼女に踏み込み過ぎてるのでは……?

 

 い、いやでも、恋愛感情はないはずだ。仮面あるし。

 彼女から向けられているのは信頼であって、そんな浮ついたものであるはずがない。

 そもそもアスリートであるホシノウィルムに対して、そして俺たちが築いてきた関係に対して、そんな疑念を持つこと自体が不敬だわ。

 

 しかしそうなると、いよいよ彼女が何故顔を背けたりするのかがわからないんだよなぁ。

 時々人間には感じ取れないレベルでめっちゃ臭い匂いが出てるとか……?

 いや、ホシノウィルムがその程度で動じるってのも考えにくいんだけど。

 反抗期……って歳でもないよな。

 素顔の彼女の精神年齢はちょっと幼いけど、基本的には素直で優しい良い子だし。

 

 うーん……。

 やっぱり彼女は、複雑怪奇なウマ娘だな。理解するだけでも一筋縄ではいかない。

 

 いやまぁ、人もウマ娘も、そう簡単に相互理解はできない。

 俺と彼女の付き合いはまだまだ1年と5か月。「最初の3年間」だけで考えても、折り返しにすら来ていない。

 これからもきちんと彼女に向き合い続ければ、いつかは彼女と分かり合える日が来る。

 ……と、思いたいな。

 

 

 

 さて、ぼんやりと思いを巡らせている内、ホシノウィルムがようやく再起動した。

 そろそろレースの話を再開しようか。

 

「改めて、今回のレースについて話そう。

 作戦は……ない。ダービーでのアドリブの練習だ、今回は自分の思う最適解で走って来なさい。

 それと、注意すべきウマ娘は……」

 

 ちらりと、出走する各陣営に目を向ける。

 

 

 

 最初に目に入ったのは、トレーナーと話し込んでいる鹿毛のウマ娘。

 休養明けとは思えないくらいの、しっかりとした体の仕上がり方。

 素晴らしい才能、そして努力の跡が垣間見える。

 ネームドではないはずなんだけど、ネームド級の強さだ。

 もしかすると、俺がアプリを離れた後に追加されたネームドなのかもしれないな。

 

「まず、青葉賞を制してダービー出走が確定した、リオナタール。

 基本的な策は逃げだが、青葉賞では出遅れして最後方から差し切っての勝利だった。相当な末脚のキレだ。

 逃げで来るか、先行や差しで来るかわからないぞ。気を付けろ」

「あの子は……初めて見ますよね」

「去年末から今年の3月あたりまで、休養に入っていたらしい。それで皐月賞には参加できなかったようだ。

 だが、ダービー出走予定のウマ娘の中でもトウカイテイオーに次ぐ力を持っている。足音を聞き、覚えておきなさい」

 

 

 

 次に目が行ったのは、今日も元気な青髪ツインテールウマ娘。

 うーん……相変わらずスピード偏重の育成方針だな。この時期にスタミナが200ないのはちょっとヤバいって。

 いやでも、根性は300超えてるんだよな。まさかの根性育成である。時代の先を行き過ぎでは……?

 

「残念ながら青葉賞では9着、ダービー出走を逃してしまった大逃げウマ娘、ツインターボ」

「師匠ですね」

「……うん、師匠ね、師匠。

 彼女は君も知る通り、破滅的な大逃げウマ娘だ。勝つ負ける以前に、レースを荒らしに荒らして来る。

 前回は出遅れたから問題なく走れただろうが、彼女が無事にスタートできれば、君と位置争いになるかもしれない。

 そこでスタミナを消耗すると、後半に響くぞ」

「師匠は師匠というだけで警戒対象ですね」

「あー……うん、そうだな」

 

 

 

 そして最後に……あークソ、現実から目を逸らしたい。

 ターフの上で黙々とストレッチしているのは、恐らく最もホシノウィルムと最も仲の良い、鹿毛の差しウマ娘。

 彼女が視界に入った段階で、俺の「アプリ転生」は彼女の力を正確に捉えてしまう。

 

 ナイスネイチャ

 

 スピード D  320

 スタミナ D+ 384 

 パワー  D  333

 根性   D  349

 賢さ   C  460

 

 うん、ステータスだけ見ると割とまとも。

 ……じゃないよ、全然!

 おかしいって、なんで才能の塊であるトウカイテイオーの皐月賞時点と同レベルのステータスなんだよ。

 マジのナイスなネイチャじゃん。こんだけ強ければネームド以外の子たちは鎧袖一触だよ。

 

 そして更なる問題……というか本当の問題は、スキル。

 

 前方にいるウマ娘の後ろに付いて風の抵抗を避ける「スリップストリーム」。

 他のウマ娘を戸惑わせ混乱させる「魅惑のささやき」。

 同じく威圧をかけて動揺させる「鋭い眼光」。

 レースを支配し掛かったウマ娘を更に焦らせる「トリック(後)」。

 中団で脚を溜める「小休憩」。

 

 彼女はあの3人の模擬レース以来、破格の進化を遂げている。

 ゴリゴリにデバフをかけて、レースを手中に収めてくる策謀家。

 ホシノウィルムからすると、最も恐ろしいタイプのウマ娘だ。

 

 ……でも、ここまでなら特に問題はない。

 いや十分強いんだけど、一番ヤバいスキルはこれらじゃないんだわ。

 

 表示されるスキルの中に、恐るべき文字列があるのだ。

 

 

 

『きっとその先へ…! Lv1』

 

 

 

 ……固有スキルじゃねぇか!!

 

 前世アプリでよく見た、固有スキル。

 それは文字通り、ウマ娘固有のスキルの総称だ。

 割と厳しめな条件を満たすと発動し、他のスキルよりも更に強い効果を発揮する、レース展開を塗り替える一手。

 

 ナイスネイチャは、それを習得していたのだ。

 

 

 

 固有……この世界で言うところの、領域。

 実のところ、その存在は昔から確認できていた。堀野の家にも口伝で伝わってたからね。

 でも、極めて素質の高いウマ娘が、極限にまで追い込まれてようやく覚醒するとか、そういうレベルのスキルって聞いてたんだけどなぁ!? まだ皐月賞終わったばっかりですよ!?

 

 ……で。

 なんでナイスネイチャが領域を開いたのかっていうと、どうやらこの前行われたシンボリルドルフ、トウカイテイオーとの模擬レースに参加した結果らしい。

 うぐぐ……予定が合わなかったから見送ったけど、やっぱり無茶してでも参加すべきだったか……。

 

 

 

 つい先日、唐突に生徒会長シンボリルドルフから「生徒会室に来てほしい」とお呼びがかかった。

 何事かと冷や汗をかいている俺に対し、彼女はテイオーとネイチャが領域を開いた経緯を説明した後「片側にだけ付くのは不平等だから」と、領域についての話を教えてくれたのだった。

 

 定期的にギャグと四字熟語が挟まれるから微妙にわかりにくいその話を総括すると。

 この世界における固有スキルは、領域、あるいはゾーンと呼ばれているらしい。

 俺はゾーンって言葉には聞き覚えがあった。

 アスリートが極限状態に置かれた時に陥る、超集中状態。よく聞く「ボールが止まって見える」とかのアレのことだ。

 どうやらウマ娘の領域も、それに近い状態らしい。

 

 ……ただし、ウマ娘たちのそれは、一味違う。

 限界を超える極限状態におかれたウマ娘たちは、目の前のレースに全てを注ぎ込み、己の限界を超えた先、本当の限界を……更に、超える。

 その感覚は研ぎ澄まされ、まるで生まれ変わったかのような心地良さと共に、普段より遥かに高いパフォーマンスを発揮できる……らしい。

 

 そしてこの時、ウマ娘は自身の心の底にある心象風景を幻視するのだという。

 自分の世界の中で、誰よりも自由に駆け抜ける。故に「領域」というわけだ。

 とはいえ、幻視という通り、これだけならただの極限状態における妄想に近いのだが……。

 

 ルドルフは詳細には語らなかったけど、これは恐らく、いわゆるウマソウルに非常に密接な関係を持つ現象なんだろう。

 だから、レース中に領域を開く者がいれば、それは他のウマ娘のウマソウルにまで影響を及ぼす。同じ波動で共鳴させてしまう。

 結果として、近くにいるウマ娘たちも同じ景色を垣間見るのだ。

 

 領域を開いた有力者同士の戦いになれば、お互いの膨張する領域が削り合い、その際に少しだけ世界が混ざり、相手の気持ちを理解してしまったりもするらしい。

 そしてその相互理解がより熱を高め、更にレースを加速させるのだとか。

 

 ……スポーツ漫画かな?

 いや、ここ一応ゲームの世界、あるいはゲームが元になった世界だったわ。

 ならそういうこともある……あるのかな。あるんだろうな。

 どっちにしろ、ウマソウルを持たないただの人間である俺には観測できるものじゃないし、とやかく言っても仕方ないけどさ。

 

 

 

 とにかく、前世アプリにおける固有スキルはこの世界じゃ領域と呼ばれ、しっかりとした理屈のある現象として認識されてるってことだ。

 ゲームでの固有発動時の演出も、幻視という形ではっきり見えるらしい、と。

 

 とはいえ、ゲームとは少し違うところもある。

 基本的に、ウマ娘はネームドであろうと、入学時点では領域を習得してない。

 習得のためには、ウマ娘たちは現役中のいずれかのタイミングで、自分の力で領域に辿り着く必要がある。

 けれど……実際に領域を習得できるのは、競走ウマ娘の中でも、ほんの一握りの素質を持つ者のみ。

 それを持たない子は、どれだけ鍛錬を積もうと領域に辿り着くことはない、と。

 ……少なくとも、今のところそれが定説らしい。

 

 更に、素質があるからといって簡単に開けるものでもない。

 領域を開くには、何らかの特別な条件を満たすことが必要なのだとか。

 多大な努力、良きライバル、他者が開いた領域、限界を引き出す熱いレース……色々と言われてるけど、正確な条件は未だ掴めていない。

 ルドルフは「もしかしたらウマ娘によって条件が違うのかもしれないな」と考察していた。

 

 それを聞いていた俺は、心の中で素直に喜んだ。

 この世界の固有は前世アプリのものに比べて、かなり凶悪になってるみたいだ。

 開いてる状態と開いてない状態では文字通り比べ物にならないし、時には物理法則を超えるような結果すら残す程に。

 ……ドリームトロフィーリーグとか、全員が領域持ちだからな。そりゃ、あんなわけわかんないレースになるわけだよ。

 

 でも、これで1つ、明確な目標ができたわけだ。

 ホシノウィルムが領域を習得すれば、彼女は更に速くなれる。

 なんとしてでもその条件を見つけ出すぞ、と思っていたんだけど……。

 

 

 

『1つだけ、明確にわかっている条件がある。

 そのウマ娘が、走りを楽しむことだ』

 

 

 

 詰んだ。

 

 嘘じゃん、そんな的確にホシノウィルムだけ弾かれることある?

 

 ……やっぱり、彼女に走りを楽しませることは必須だな。

 これまでは彼女の心と未来を考えての行動で、その勝率には関与しないものだったが……。

 これでようやく、全ての意味で目指すべき目標になったと言えるだろう。

 

 最後の迷いは晴れた。

 どれだけ厳しい戦いになるとしても、ホシノウィルムは宝塚記念に出すべきだ。

 スカイなら……セイウンスカイというトリックスターなら、彼女を楽しませてくれるはずだから。

 

 

 

 ……あのー、ところで、ですけど。

 この会長、めちゃくちゃステータスが高いのは、まぁ置いておくとして、さ。

 なーんかこう、スキルがさ、おかしいんだよね。

 

『汝、皇帝の神威を見よ Lv9』

 

 クソバケモンなんだけどこの会長。

 おかしいな、固有って6までしか伸びないはずだよね?

 9? 9って何? 最初の3年間の後も走り続けると、こんなヤバいことになるの?

 

 ただでさえ前世アプリでも強力だったルドルフの固有スキル。

 それがこの世界で領域となり、効果が計り知れなくなって。

 更に、そのレベルが9?

 

 うーん、これは永遠の皇帝シンボリルドルフ。

 勝てる気がしない、最強のウマ娘である。

 

 

 

「トレーナー? ……トレーナーっ!」

「うわ、なんだどうした」

「ネイチャちゃんの方を見て、これまでにないくらいぼんやりしていましたが、どうされましたか」

「……いや、すまない。何でもない」

 

 ヤバ、色んなショックで意識が逸れに逸れた。というか半ば現実逃避してた。

 うん、話を戻そう。

 

「最後に、君は当然マークしているだろうが、ナイスネイチャ。

 ……今回恐れるべきは彼女だな。ただの模擬レースだというのに鬼が宿っている。

 はっきり言おう。今回君が彼女に勝てるかどうかは……わからない。彼女は既に、それ程の存在だ」

「……そこまで、ですか。やはりネイチャは、恐ろしいウマ娘ですね」

 

 いやホントに。

 仮に俺が作戦を立案するなら、今回のレースにおける勝率は……不明。かなり甘く見ても9割、現実的なところで8割5分といったところか。

 

 今回の模擬レースは、ナイスネイチャに有利な状況が整っている。

 第一に、バ場状態が良バ場であること。

 第二に、前回と違ってツインターボとリオナタールという、ホシノウィルムに迫り得るウマ娘が参加していること。

 第三に、今のネイチャが明確に覚醒してしまっていること。

 最後に、数値では測れない領域まで習得していること。

 ここまで勝利に向けた道筋ができているのは、三女神のいたずらを疑うレベルだ。

 

 ……いや、違うか。

 整ってるんじゃなくて、整えている、だな。

 ナイスネイチャの陣営はこの日を見据え、あまりにも完璧に仕上げてきていた。

 そこに運という最後の1ピースが合わさり、この状況が完成したんだ。

 

 更に。

 今回は賢さ……戦術眼を鍛えるため、ホシノウィルムに作戦を渡していない。

 彼女の判断で、果たして今のネイチャとどこまで戦えるだろうか。

 ……仮に敗北したとしても、それはきっと彼女の糧になるだろうが。

 

「……改めて言っておく。俺は君が勝ったらすごく褒める。

 だが、たとえ君が負けたとしても、ここで君を待っているし、慰めてやる。

 だから気負わず、走りを楽しんで来い」

「っ……はい。楽しめるとお約束はできませんが、行ってきます、トレーナー!」

 

 うん。

 無表情だった担当がよく笑うようになるのは、やはり嬉しいものだな。

 

 

 

 * * *

 

 

 ウマ娘たちがストレッチを始める。

 俺はそれを、一人寂しくコースの外から眺めていた。

 

 ……いつもならこの辺りでネイチャのトレーナーが話しかけてくるんだけど、今日はどうしても外せない用事があるとのことで不在。

 そうすると、元々友達の少ない俺は……。

 

「…………」

 

 このように、孤独になるわけだ。

 

 いや、今更寂しいとかは思わないけどさ。何せ万年ボッチみたいなもんだし。

 でも何だろうね、この違和感は。

 いつもは話を交わしながらレースを観察していたのに、今は黙って見ているだけ。

 それが、なんというか……調子が狂うような感じ。

 

 やっぱり、ある程度共通認識のある他人と話すってのは大事なんだろうな。

 喋りながら自分の思考が整理されたり、相手の何気ない言葉から気付きを得たり……。

 こうしてただ1人で黙々と考えるより、アイツと意見を交わしながら見る方が生産的だわ。

 

 はー……誰かいい感じにお話しできる相手、いないかね。

 俺の無愛想さを気にせずに話してくれる……それでレースに関するある程度の知識を持ってて、理知的な意見交換ができるタイプ。

 ……あぁいや、もう今はただ話を聞いてくれるだけでもいいわ。

 ただアレだ、レースへの熱意は必須だな。

 レースを楽しむなり、あるいは学ぶなり、ちゃんとやる気あるトレーナーかウマ娘。

 そういう誰かが、あっちの方から話しかけてくれたりしないかなー。

 

 ははは。……いないか、そんな都合の良い人材。

 

 

 

「初めまして、堀野トレーナー。

 リクエストを提示します。お隣でレースを観戦させていただいてもよろしいでしょうか」

 

 

 

 そんなことある?

 

 そのどこか聞き覚えのある声に、振り向くと……。

 1人のウマ娘が、こちらを見つめいていた。

 

 ロングの豊かな栗毛。

 右耳に付いた輪の形の耳飾り。

 感情の薄い青い瞳は、正確無比に俺の目を捉えている。

 

 どこか……いや、めちゃくちゃ見覚えあるウマ娘だ。

 

 彼女はサイボーグとも呼ばれた、とんでもなく正確なラップタイムを刻む逃げウマ娘。

 その名を、ミホノブルボンと言う。

 

 

 

 ……そんなことある!?

 

 

 

「ミホノブルボン……?」

「はい、ミホノブルボンです」

 

 うわマジか。こんな急なネームドとのエンカウントあるんだ……。

 

 ミホノブルボンは、前世アプリに登場したネームドウマ娘だ。

 情緒が希薄で無表情、ロボ語とでも言うべきちょっと特殊な喋り方をする子。

 担当と言う程ではないけど、スカイと比較的継承相性の良い逃げウマ娘ということで、結構な回数育成した覚えがある。

 

 しっかりと史実を調べたのはスカイだけだったから詳しくは知らないけど、競走馬ミホノブルボン号もこれまたとんでもない馬だったはずだ。

 適性の限界を超えて皐月賞と日本ダービーを無敗で駆け抜ける、努力で血統の壁を乗り越えた優駿。

 

 要は、彼女は才気煥発の、輝く未来が内定しているつよつよウマ娘なのである。

 当然その能力を評価され、選抜レース前にはトレーナーが付いていたが……。

 この前、将来について揉めて、トレーナー契約を解除されたという話を聞いた。

 ……多分、彼女の血統や適性と、三冠という夢との相反で揉めたんだろうな。

 

 でもまぁ、大丈夫だろう。

 自分の担当ウマ娘の夢に寄り添うなんて、トレーナーとしては当然のことだし。

 このトレセンには百人を超えるトレーナーがいるのだから、彼女に寄り添えるトレーナーは必ずいるはずだ。

 

 

 

 しかし、なんでよりにもよって俺に話しかけてくるんだろう。

 確か俺、ウマ娘から見たトレーナーとしての評価は、地面を突き破るくらいに低かったはずだ。未だにスカウトが失敗しまくった日々はちょっとトラウマになってるし。

 普通そんな嫌われ者に話しかけるか?

 あるいはちょっと天然なところのあるこの子のことだし、そういう噂すら知らないのか?

 

 話しかけてくれたのは嬉しいけど……俺と話していれば、彼女の明るい未来に影響が出る恐れがある。

 うーん、ここは大人として、やんわりと「俺と話さない方がいいよ、周りに噂されるよ」って伝えるべきかな。

 

「何故俺の横に来る。一人で見ればいいだろう」

「不都合がありますか?」

 

 いや不都合っていうか……。

 

「不可解な判断だとは思う。

 もしトレーナーによる注釈が欲しいのならば……そうだな、あそこにいるトウカイテイオーのトレーナーの方が良いだろう。経験もあるベテラントレーナーだ」

 

 現在フラッグを持っているトレーナーの方を指し示す。

 トウカイテイオーのトレーナーは、この学園でもトップレベルの有名人。

 何せ、かつてシンボリルドルフを無敗の三冠に導いた皇帝の杖だ。トレーナーとしての実力は保証されている。

 

 複数の担当を持たない主義らしく、今はテイオーを担当しているためスカウトは望めないだろうが、レースの解説が聞きたいだけならあの人以上の適任はいないだろう。

 そうでなくとも、有名なテイオーのトレーナーとコネを作っておくことは将来的に有益になる。

 ブルボンの未来を考えても、早く行った方が良いと思うんだけど……。

 

 この子、なんで行こうとしないのかな。

 

「……やはり、私が傍にいてはご迷惑でしょうか」

「迷惑ではないが」

「では、是非ともよろしくお願いします」

 

 ぺこり、と頭を下げられる。断りにくくなっちゃったなこれは……。

 しかし、えらく押しが強い気がするな。この子、こんな感じだったっけ?

 

 話し相手がいるのは嬉しいけどさ。トレーナーのいない彼女は、こういう時こそコネ作っとくべきだと思うんだけど……。

 この顔、何を言っても聞きそうにない。

 もしかして、何かしら俺と接触する目的があるのか?

 

「……はぁ。まあいい、なら横に並べ、そろそろレースが始まる」

「了解。ミッション『レースの観察』を始めます」

 

 思わぬ形になってしまったが、もうすぐホシノウィルムのレースが始まる。

 よし、今はブルボンの意図とか無視だ。

 担当最優先、目の前のレースに集中しよう。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、ウマ娘たちがスタートラインに並ぶ。

 

 出走人数は18人。ダービー出走予定ウマ娘からは、ホシノウィルムとリオナタールが参加している。

 左回りの芝2400メートルというのもダービーに近い条件だし、この2人に注目している陣営は多いだろうな。

 

 さて、並んだウマ娘の調子だが……。

 絶好調はホシノウィルム、リオナタールの2人だけ。

 ツインターボは普通。

 ……そして、ナイスネイチャが覚醒状態。

 

 いやぁ、覚悟キマった目してるよネイチャ。

 あの3人でやった模擬レースの時も覚醒を疑ったけど、間違いなく今日の彼女はあの時以上のヤバさだ。絶対に勝つって気迫が漏れ出してる。

 その上で盤外戦術もしっかり行ってるってのが怖いところ。なんであの威圧感ふっと封じ込めてへらへら話しに行けるんだよ。というかそれって出し入れできるのか。

 

 ……いや、待てよ? 出し入れできるってことは……もしかして今は、わざと威圧感を出している状態なのか。

 ひえぇ、外から見た自分の状態すら把握して活用してんのか。作戦立案者としてはああいうタイプが一番怖いわ。

 

 ネイチャを観察して慄いてる俺に、横にいるブルボンが話しかけてくる。

 

「今回のレースも、ホシノウィルム先輩が勝つのでしょうか」

「さて、どうなるかな。

 俺から見て、勝率は……ホシノウィルムが7、ナイスネイチャが3だ」

「予想外の返答に、ステータス『困惑』が発生。

 データを検索。ナイスネイチャ先輩は現時点で、ホシノウィルム先輩に8バ身差までしか迫ったことがないはずですが」

「よく調べている。……だが、昨日のウマ娘と今日のウマ娘は、全く別の存在だ。昨日圧勝できても、今日勝てるとは限らない」

 

 実際これはホントにそう。

 昨日と今日では、バ場状態も仕上がりも調子も、全てが違う。

 俺が見ているステータスや調子だって、あくまで基礎値であり、指標。

 高ければ必ず勝てるという保証はどこにもないのだ。

 

 

 

 話している内、テイオーのトレーナーがフラッグを振り下ろす。

 多くの観客たちが見守る中で、18人のウマ娘たちが走り出した。

 

「……さて、始まったな。上手いスタートを切ったのはホシノウィルム。続いてリオナタールとナイスネイチャか」

「リオナタール先輩は、今日も逃げで走るのでしょうか」

「いや、俺の予想が正しければ……やはり中団まで下がったか」

 

 開始早々に突出したのは、やはりホシノウィルム。

 一方ナイスネイチャとリオナタールは自分のペースで位置を下げていく。

 

「過去のログを参照すれば、リオナタール先輩はこれまで逃げの策を取っていたはず。何故今回は後方に下がったのでしょう」

「ナイスネイチャの仕掛けだろうな。

 今回はツインターボがいるから、無理に他の逃げウマ娘を前に走らせてホシノウィルムを消耗させる必要はない。

 むしろ必要なのは後半、ナイスネイチャが前に詰める時の風の盾だ。

 故にレース直前に話していた時、何かを吹き込んで、リオナタールを誘導したのだろう」

「……ステータス、『驚嘆』を検知。担当でないウマ娘の思考パターンを、そこまで正確に予測できるのですか」

「突き詰めて道理を通せば、いくら隠した意図でも割れる。ナイスネイチャにとって最善の策を考えれば、彼女の作戦はわかるさ」

 

 今回のレースに参加しているのが、ナイスネイチャとリオナタールだけであれば、ホシノウィルムにとって何の問題もなかった。

 けれど今日はそこに、もう1人の大逃げウマ娘がいる。

 

 3人に比べて少しだけ出遅れたツインターボが、全力で前に走り出す。

 ホシノウィルムは、今のところミドルペース。

 このままじゃターボに追いつかれるが……彼女はどう対応するかな。

 

 ジリジリと差が縮まり……5バ身、4バ身、そして。

 

「……3バ身差まで詰められたが、そこから埋まらない、か。

 ツインターボに合わせてペースを上げた……上げさせられたと言うべきだろうが」

「これも、ナイスネイチャ先輩のオペレーションなのでしょうか」

「いや、これに関してはノータッチなはずだ。何せツインターボは、誰が何を言わなくても大逃げするからな。

 彼女に何かを言う時間があれば、ネイチャは他のウマ娘を誘導するために時間を使うだろう。

 ……逆に言えば、こうなることは間違いなく想定していたはず。想定通りに事が進んでいるという意味では、彼女の術中とも言えるな」

 

 恐ろしいものだ。

 ネイチャが他のウマ娘を用いてホシノウィルムを追い詰めることを、2月の俺は銃と弾丸に例えたが……。

 それはもはや、正確ではない。

 今のネイチャなら、周りのウマ娘をあらゆる得物にすることができるだろう。

 

 ホシノウィルムを焦らせるための弾丸にも。

 自分と一緒に迫らせ、威圧をかける剣にも。

 前へ走る時に風を避けるための盾にも。

 

「ターボが大逃げしてホシノウィルムのスタミナを削っている間に、自分はリオナタールの陰に隠れて風を避けながら、中団から威圧感をかけることで徐々に先頭との距離を詰めて……終盤、いや、300メートル前後で差し切るつもりかな。

 リオナタールのあの表情を見るに、利用されていることは理解しながらも、それが最も勝機のある作戦と踏んで、最後にネイチャをかわすつもりか?

 だがそれではスタミナがもたないだろうし、垂れて下位に落ちるかもしれないな」

「…………想定以上の能力を確認。評価のアップデートが完了」

 

 評価? ……ああ、ネイチャのか。

 そうだな。彼女は普段の態度からして強者という感じはないが、実のところトウカイテイオーと同格の恐ろしい相手だ。

 実際にレースを支配する様を見てみれば、やっぱり評価も変わるよね。

 

 ……うん、やっぱりここらでターボは垂れるな。スタミナ200弱の限界だ。

 しかし……既にだいぶスタミナを浪費したホシノウィルムは、いつもの無表情の陰にわずかな焦りを覗かせている。

 一方見事なレースメイクでリオナタールの後ろに付くナイスネイチャは、既に先頭との差を10バ身と少しに収めた。

 こうなれば、もはやセーフティリードとは呼べないだろうな。

 

「残り1000メートル……さて、ここからが勝負所か」

「……疑問を提起。誰にとっての勝負所なのでしょうか」

「俺の担当ウマ娘だ。ホシノウィルムがどこまで冷静に立ち回れるかが勝負のカギを握っている。

 何せ、もう彼女にこの距離をロングスパートするだけのスタミナは残っていない。

 かと言って残り200メートルでスパートすれば、ネイチャに差し切られる。

 多分……ネイチャがスパートし始めるより少し前、400メートルあたりで緩めのスパートをし始めるのが最も効果的だが、果たしてそれに気付けるか」

 

「……トレーナーとは、そこまでレース展開を見抜けるものなのですか?」

「ん? あぁ、過去のデータと、今走っているウマ娘たちの実力や性格などの考察材料を持っていれば、誰にでもわかるよ」

 

 何せ堀野の家は、莫大な量のデータを抱えていたからな。かなり大きい部屋が1つ、丸々資料の保管庫として使われていたくらいだ。

 ……何故か皆あんまり活かそうとはしてなかったけど、あそこは俺にとってこれ以上ない学びの園だった。自由時間はよくそこに籠って寝食を忘れ、家族には心配されたものだ。

 両親や兄には迷惑をかけてしまったが、あの時の勉強のおかげで、俺は今ホシノウィルムを支えられているんだ。

 本当、先達たちには感謝しかないよ。

 

 加えて俺の目には、あくまで参考程度とはいえ、ウマ娘たちのステータスや調子が見えている。

 後は他のウマ娘たちの陣営を調査して、クセや走り方、作戦の傾向に性格を掴めば、自ずとレース展開は予想できるようになるわけだ。

 

 「アプリ転生」に関してはちょっとわかんないけど、知識や情報に関しては、他にも持っているトレーナーはいるだろう。

 多分、俺を超えるレベルでの展開予想や作戦立案ができる人なんてごまんといると思う。

 中央のトレーナーは有能な人材が揃ってるし、殊更に俺が優秀というわけでもないはずだ。

 

 

 

 話している内にもレースは進む。

 リオナタールとネイチャがホシノウィルムとの距離を少しずつ縮めていき、先行ウマ娘たちも追い抜いて……。

 そこに到達した瞬間には、残り7バ身まで迫っていた。

 

「さて、残り400……気付けないか」

 

 ホシノウィルムは、焦りながらもペースを崩さず、ミドルのまま。

 昔やっていた、残り200で全てを出し切る作戦で行くつもりか。

 確かに、複雑なレースメイクのできない彼女としては、それが最も単純で効果的に映るだろうが……。

 

 今のネイチャは、それで逃げ切れる程甘くない。

 

「目測。残り322メートル」

 

 ついに、その時が来た。

 リオナタールを一瞬でかわして、ネイチャが前へとスパートをかけ始める。

 

 ……いや、違う。ただのスパートじゃない。

 

「速すぎる。領域か」

 

 口の中で呟く。

 ネイチャのそれは、もはや常識外れと言って良い速度だった。

 ここまでのペースも非常に速かったというのに、今のネイチャは……全力スパートをかけている。

 勿論、彼女のスタミナからして、そんなことができるわけがない。

 

 ナイスネイチャは今、限界の先を超えている。

 本来起こるはずのない奇跡を、ここに為そうとしているのだ。

 

ここで超えてやる、その背中ぁぁああ!

 

 必死の形相で何かを叫び、玉のような汗を散らして、どこまでも等身大の彼女は、前へ、前へ。

 

 ホシノウィルムは自分を呑み込んだ領域の異常性に気付いたのか、スパートを始めるが……。

 やはり、いつものようなキレがない。

 ターボに詰められ、ネイチャからの圧力を感じて、彼女はいつも通りに走れていなかったからな。

 残ったスタミナは少ない。だからスパートしようにも、できないんだ。

 

「ホシノウィルム……」

 

 ……本来、「冷」のホシノウィルムは他者からの圧力に強い。

 しかし逆に、敗北への恐怖には弱い。

 このままじゃ負けるんじゃないかという己の中の恐怖こそが、彼女にとって最大の弱点。

 それが噴出し、暴走してしまえば……このレース、彼女に勝ち目はない。

 

 ……でも、今の彼女なら、きっと大丈夫だ。

 俺はただ、それを信じて見守る。

 

 ゴールまでの距離と、ネイチャとの距離。その両方が急速に縮まる。

 そうして残り100メートル、2バ身を切って。

 

 

 

 ……ホシノウィルムと、目が合った気がした。

 

 

 

負け、たく、ない!

 

 

 

 一瞬だけ顔を歪めた彼女は、しかしすぐさま仮面を被り直し、そのままの速度でスパートを続ける。

 

 ……いや。

 そのままじゃない。

 

 もうスタミナに余裕なんてあるはずがない。

 彼女の顔は、その仮面でも隠しきれない苦悶に歪んでいるんだから。

 ホシノウィルムは既に全てを出し切って、もはやどうしようもなく負けると、誰が見たってそう思っただろう。

 

 

 

 それでも……ウマ娘には、最後の最後で頼るべき力がある。

 

 追い詰められた彼女は……。

 ホシノウィルムは、少しだけ、加速した。

 

 

 

「……やっぱり精神力じゃなくて、根性で正しかったか」

 

 残っているものすべてを使い切って、それでもなお止まらない、魂を燃やす根性の末脚。

 その少しばかりの加速が、ナイスネイチャの快進撃を止める。

 彼我の差は……もう、埋まらない。

 

 

 

 結局のところ、それがこのレースの全てだったのかもしれない。

 

 今までスタミナを使い果たすことのなかった彼女が初めて見せた、最後の底意地。

 トレーナーである俺も、ライバルであるネイチャも、彼女のファンである誰も彼も……。

 ホシノウィルムの本当の限界ってヤツを、知らなかったんだ。

 

 

 

 1着、ホシノウィルム。

 2着、ナイスネイチャ、1と2分の1バ身差。

 3着、リオナタール……大差。

 

 

 

「……これは、菊花賞も楽しめそうだな」

 

 今はターフに倒れこみ、挫折を味わっているが……。

 ネイチャは、まだまだ強くなるだろう。

 菊の舞台では、この着順がひっくり返るかもしれないと思える程に。

 

 ……ありがとう、ナイスネイチャ。

 ホシノウィルムに、最初に熱をくれたウマ娘。

 君のおかげで、ホシノウィルムはきっとレースを楽しめる。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、いつも以上に息を切らしているホシノウィルムに声をかけねば、と俺が外ラチを乗り越えようとした時。

 後ろから、声がかかる。

 

 

 

「堀野トレーナー、申請します。

 どうか、私と契約してはいただけませんか」

 

 

 

 …………は?

 

 

 







 最初の模擬レース以来、初めて作戦を貰わず、自分で考えて走ったホシノウィルム。
 領域を習得し、ばっちり仕上げて来て、今日こそはと必勝の覚悟を決めていたナイスネイチャ。
 レース展開に沿って、互いが何を考えているか予想すると楽しめると思います。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、久々のお出かけの話。



(お知らせ)
 この度、Chama様より支援絵をいただきました! ありがとうございます!
 すさまじくカッコ良い、勝負服のホシノウィルムのイラストです!
 この小説のあらすじに載せていただいておりますので、是非ご覧になってください!

(小ネタ)
 ネイチャとホシノウィルムの台詞の内容は、堀野トレーナーには聞こえてないので透明にしてますが、PCなら反転、スマホならコピペしてみるとわかると思います。
 ハーメルンってすごい機能あるんですね……。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました! ありがとうございました!


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ウィルムさんは告らせたい

 ~転生者の恋愛頭脳戦~

 ラブコメ要素回収。
 転生者「たち」じゃないのは仕様です。悲しいね。





 

 

 

 私、ホシノウィルムには、あまり贅沢の経験がない。

 お父さんは高給取りだったけど、同時にかなりの倹約家でもあった。へたへたになっちゃったクッションをバラしてタオルにしようとするくらいには。

 食事に関しても、お母さんが生きていた時代はお父さんの手作り料理が多かったし、お母さんが亡くなってからは買い置きの安いお弁当を頼むようになった。

 

 つまるところ、お金持ちってヤツには2通りのパターンがあるんだ。

 私のお父さんのように、お金を貯めることを重視して、普段は全然使わないタイプ。

 そして、目の前の堀野トレーナーの家のように、お金を使ってきちんと経験を積むタイプ。

 

「……む。どうした、ホシノウィルム」

 

 食事の手を止めるトレーナー。

 背筋を伸ばして座る姿勢、ナイフとフォークを拾い上げる動き、前菜を口に運ぶ様……そして何より、場慣れした態度。

 そのどれもが洗練されていて優雅で、一欠片の無駄もない。思わず見惚れてしまいそうなほどだ。

 

 正直、ちょっと恥ずかしい。

 なんとも不釣り合いだな、私。

 トレーナーにも、この場にも。

 

 その日、トレーニングを終えた夕方。

 私と堀野トレーナーは、トレセン近くの割とお高めなレストランを訪れていた。

 

 

 

「ホシノウィルム?」

「いえ、お気になさらず。ただ、様になるな、と思っていました」

「名家の生まれとなると、どうしても付き合いが発生するからな。特に食事や接待、パーティのマナーは教え込まれるものだよ」

「少しだけ、羨ましいです。私はそういったものとは無縁でしたから」

「であれば勉強するか? そう難しいものでもない、やる気を持って臨めば1か月そこらで身に付くと思うぞ」

「……トレーナーの『やる気を持って』とは、どの程度を指すのでしょう」

「自由時間を全て使うくらいかな」

 

 それは無理ですね。自由時間には自主トレしなきゃいけない……っと、これは言っちゃいけないヤツだった。

 たとえバレるとしても、自分からバラした上で約束を破るのはちょっと違うだろう。

 親しき仲にも礼儀あり。ちゃんとバレないように自主トレして、後で怒られるのが私のこだわりである。

 

 しかし、トレーナーは本当にストイックというか……呆れちゃうくらいに真面目だよね。

 趣味という趣味もなく、これまでの人生で娯楽ってものをほとんど体験していないっぽい。

 私が言うのもアレだけど……楽しいのかな、その人生。何を生きがいにしてここまで生きてきたの?

 ……なんて言ったら、「今は君を支えるのが生きがいだ」とか返してくるんだろうな。

 もう、なんて恥ずかしいこと言うんだこの人。天然たらしさんめ……。

 

「残念ですが、憧れるのが関の山ですね。テーブルマナーは諦めます」

「うむ、それで良いと思う。君は競走ウマ娘だ、走ることに集中するといい。

 それ以外の煩雑なことは俺が片付けるさ」

「いつもご迷惑をおかけします」

「それが俺の役割だ」

 

 そんなことを言っている内、店員さん……でいいのかな? お店の人が、スープを運んでくる。

 おぉ……美味しそうな甘い匂い。ポタージュかな。

 

「ありがとうございます」

 

 トレーナーは、店員さんに軽く頭を下げた。

 こういう時って感謝するのが道理なのかな。

 お金持ちってこういう配膳の時は平然としてるイメージがあったんだけど、これは偏見なんだろうか。

 ……あーでも、そういえばトレーナーって「感謝は大事だからよく感謝するようにしてる」みたいなこと言ってたな。彼個人の信条なのかもしれない。

 

 一方感謝された店員さんは、トレーナーに愛想笑いを返してから……。

 どうやら私を知っているみたいで、チラチラと私を見ながらお皿を並べてた。

 あー……有名税ってヤツだね。

 最近は私も慣れたもので、軽く手を振ったり笑顔を作ったり、ファンサービスを返せるようになってきた。

 そんなわけでニコリと笑うと……え、なんか微妙な顔された。なんで?

 うーん、ファンサじゃなくてサインとかを求められてた感じ? 流石にそんなの視線から読み取るのは無理なんだが。

 

 店員さんが去っていってから、改めてトレーナーと話を再開。

 

「しかし、テーブルマナーに従ってこの量の食事を取るのは、時間がかかりそうですね」

 

 トレーナーの前に置かれたものと、私の前に置かれたもの。どちらもほぼ円形のお皿だけど……全然大きさが違う。

 トレーナーのそれはスーププレートだけど、私のは……小さな洗面器くらいのサイズ感だ。

 

 このレストランは、トレセン近くってこともあり、ウマ娘用のコースも用意されているのだ。

 そしてそれは、人間用のコースとは比べ物にならない量と値段なのである。

 

「ウマ娘は人間よりも多くの食事を取る必要があるからな。高い運動能力を持つ以上、消費カロリーが増加するのは当然の話だ。

 その中でも、小食な子もいれば食いしん坊な子もいるのだが……君はなかなか健啖家な方だよな」

「うっ……」

「前菜の取り方を見ているところ、食欲は高いと見た。何せあれだけ盛られた野菜を、俺とほぼ同時に食べ終わっていたものな」

「……そ、その」

「うむ、大変結構。多く食べればそれだけ多く動けるからな。太らない程度の食欲はウマ娘にとって有益極まる。

 普段そういった話を聞かないから少しばかり不安に感じていたが、きちんとこの目で見て安心したよ」

「…………その辺りでお許しいただけると」

「お許し……?」

 

 いや、あのですね。

 私一応、あなたに惚れてる女の子なわけですよ。

 そして、女の子としてはですね?

 惚れた男性から「お前めっちゃよく食うじゃんw」って言われたら、こう、心がね? 割とドスッと来るんですよ。

 わかるかなー、可愛い子ぶりたいこの気持ち。

 

 勿論、その言葉に悪意がないのはわかってる。

 契約トレーナーからすれば、自分の担当が小食じゃないってのは安心できる要素なのかもしれない。

 だとしても、ね?

 私、前世では普通の女の子だったのよ。その頃の価値観もまだ残ってるわけでね?

 大食いのイメージはなんとか避けたいなーと思うわけですよ。

 

 ……うーん、「一緒にお食事」にご褒美権使ったのは、ちょっとばかり間違いだったかもしれない。

 無難にスーツを贈るとかの方が良かったかな?

 でも、コミュニケーションは食事より少なくなっちゃうもんなぁ。

 

「……しかし、改めて。せめて自分の分だけでも払わせてくれないか。

 『皐月賞のご褒美に、夕食を奢らせてほしい』というのは、ご褒美の使い方として間違っているような気がするんだが」

「いいえ。何でも言うことを聞いてくれるのでしょう? 今回は私に奢らせてください」

「君には借金があっただろうに」

「皐月賞の時に入って来たお金で借金の返済が完了したの、トレーナーは知ってますよね」

「教え子に奢ってもらうのは、社会人としてのプライドが抉れるんだが……」

「トレーナーより私の方が稼いでるじゃないですか」

「…………すまん、その辺りで許してくれ」

「えへへ」

 

 反撃成功。

 食いしん坊なんて言ってイジめるからですよーだ。

 

 

 

 ウマ娘によるレースは、世界的娯楽。

 競走ウマ娘は、その多くが学生ではあるけど、同時にプロのアスリートでもある。

 ぶっちゃけ才能次第では、並大抵の職業よりも稼げるのだ。

 

 レースに勝てば人気が出るし、人気が出ればグッズが作られる。そしてそれが売れれば売れるほど、ロイヤリティが払われる。

 他にもレースの入場料の一部や、ウイニングライブでのポジションに応じたチケット代の一部が入って来るし、人気が爆発するとCMや広告に出たりして臨時収入もある。

 

 ちなみに私もこの前、今度の日本ダービーのCMを撮った。

 撮ったって言っても、「カメラの方を気にもしない、威風堂々とした姿でお願いします!」って言われて、でっかい扇風機みたいなヤツの風を受けながら、勝負服で1分くらいボーっと立ってただけなんだけどね。

 出来上がったCMだと、なんか「最強の風格」みたいな扱われ方してたんだよな。その時の私が考えてたの、昨日食べたにんじんグラッセのことですよ?

 で、その肝心の報酬は……うん、かなりすごかった。入金額見てくらっとしたよね。

 1分立ってるだけでこんなにもらえるとか、ちょっと意味わかんない。労働とはいったい……うごごご……。

 

 で、そんな感じに稼ぎまくった結果。

 1年前までは借金まみれで、口座には多くても5桁までしか入っていなかったのに……。

 現在私の通帳には、ぱっと見ただけでは何桁かわからないくらいの数字が印字されているのだった。

 

 このままじゃ年収が生涯収入級の単位になるかもしれない。というか、なりつつある。

 私は前世も大学までしか進んでなかったし、その辺の管理はできない。代わりにやってくれる保護者もいない。

 そんな訳で弥生賞以降、お財布関係はトレーナーにお任せしたんだけど……。

 借金とかもキッチリ整理して、無事返済終了できたらしい。

 親戚の皆さまにはお世話になったからなぁ。ありがとうございました。

 

 そういう意味では、ここの代金もトレーナーの管理してる口座から落ちるわけで、なんか微妙に奢った実感が湧きにくい私なのであった。

 一応自分のお金のはずなんだけど……単位があんなに高いと、自分のものっぽく感じないよね。

 

 

 

「このまま勝ち続ければ、一生働かなくても生きていけそうですね」

「あまり良い思考とは思わないが、それはそうだな。

 これからもグッズ販売やCM、取材に応えるのを続ける前提なら、三冠を取れれば、質素な暮らしができるくらい貯まるんじゃないか」

「……改めて、すごい世界ですね。私、つい2年前までは、その日の夕食をどう安上がりに済ませるかで悩んでいたのに」

「金銭という力がある自覚を持ち、適度に自分の生活を整えるのはいいが、あまりその事実に踊らされないようにな。

 金があるからといって、これまでの生活を変える必要はない。君は君らしくあれ」

 

 大人らしい忠言に、私は頷いた。

 強すぎる力は人を変える。私もこのお金に踊らされないように気を付けないとな。

 

「ところでトレーナー、不動産と株、買うならどちらだと思いますか」

「踊らされてるねぇお金の魔力にねぇ! 良かったよこの段階で止められて!」

「冗談ですよ」

 

 驚きで仮面が外れたトレーナーを見て、私はわずかに口角が上がるのを感じた。

 本当、こういうとこなんだよな。

 

 表向きは感情の薄い、無愛想だけど有能なトレーナー。

 けれど彼の本性は、普通の人だ。

 色んなことに驚き、戸惑い、喜び、傷つく。

 普通の、でも普通よりずっと優しい男の人。

 

 そういう人が、私を救ってくれたのだ。

 そりゃあ好きにもなるでしょうが。

 

 

 

 これは自論だけど。

 人が人を気遣う時、そこに発生する大半は上っ面の言葉に過ぎない。

 心の底から誰かを心配し、心を割ける人間なんて、滅多にいるものじゃないんだ。

 

 例えば、私はかつてお母さんにネグレクトされていました、と言ったとしよう。

 すると周りの人間は「酷い母親だね」とか無責任に言ってくるだろう。

 

 ……でもそれは、そいつの感想でしかない。

 

 私はお母さんを憎んでない。酷い人とも思わない。

 私を気遣うつもりで言ってるのかもしれないけど、結局のところ、彼らは彼らの意見を言っているに過ぎないんだ。

 

 他人というのは、他の人。

 自分じゃない。自分じゃないから、究極的にはどうでもいい。

 他の人がどう思うかじゃなく、自分がどう思うか。それを優先するのが普通の人間、普通のウマ娘なんだと思う。

 

 相手を自分と同一視して、相手と同じだけ悲しみ、負う必要のない傷を共に背負ってくれる。

 そんな人は……本当に優しい、ごく一部の人間だけ。

 

 私の目の前にいる人間は、そういう人なんだ。

 

 私の無茶を止め、自分が上手く使うと言ってくれたあの日。

 走ることを楽しんでほしいと、すごく苦しそうに自分の欲望を告げてくれた夜。

 訳も分からず熱を求めた時に浮かべた、仕方なさそうな苦笑。

 来年の春に再び共に訪れると言ってくれた、誓い。

 ……そして、いつでも自分の下に戻って来いっていう、完膚なきまでのトドメ。

 

 彼は仮面を通すことはあれど、いつだって本音で私を気遣ってくれた。

 何の嘘もない、彼自身の意思で、私を想ってくれた。救ってくれた。

 それがただ担当ウマ娘を心配しているだけだとしても、関係ない。

 この世界で1人きりだった私に、温かさをくれたって事実に、変わりはないんだから。

 

 

 

 ……難しい言葉を並べ立てたけどさ。

 端的に言えば、堀野トレーナーはスパダリなんだよ。

 スーパーダーリン。原義とは少しズレるけど、私にとって完璧な男性だ。

 

 名誉のために言っておくけど、殊更に私がチョロいってわけじゃない……と思う。

 真っ当に乙女心のある女の子なら、自分が言ってほしいことを囁かれ、純粋な真心で寄り添ってもらったら、誰だって堕ちちゃうもんだよ。多分ね。

 

 ……でも、同時に。

 私は普通の女の子じゃない。

 前世の記憶を持つ転生者なのだ。

 

 恋に堕ちたのはもう仕方ないとして、だ。

 そこから先は、やっぱり転生者らしく、理知的に進めていこうと思う。

 ふっふっふ、何せこのホシノウィルム、恋愛に関しては結構上級者。

 前世でめちゃくちゃラブコメを見て来たので、とっても経験豊富なのだ。

 

 相手のことを好きだと自覚し、恥ずかしくなって好き避けする、とか。

 恋愛感情を暴走させて、引かれるレベルで相手に迫ってしまう、とか。

 自分の有り余る筋力や権力を使って、強制的にモノにしようとする、とか。

 経験豊富でチート持ちの私は、そんな普通のミスを犯しはしない。

 

 大体、そういった行動は論理的じゃないんだよ。

 好き避けなんてすれば相手に悪印象を与える。

 引かれればただ好感度が下がるだけ。

 力で捻じ伏せたところで、その心は手に入らない。

 

 人間もウマ娘も、衝動的な行動は大抵の場合、大きな機会損失に繋がるのだ。

 誰が言ったか、恋はダービー、2400メートル。 

 掛かりを自制し、長期的な計画に基づいて適切な行動を取ることこそ、勝利に繋がるのである。

 

 では、好きな人と結ばれる……いや、「結ばれる」は言いすぎ? ちょっと早すぎるかそれは。

 好きな人と……イチャイチャするには、どうすればいいか?

 答えは簡単。

 そんなもん、相手に好きになってもらう以外に方法はないのである。

 恋愛ってのは急がば回れなのだ。多分。知らんけど。

 

 故に、私は焦らない。

 将来的にトレーナーと……その、えっと、ラブラブ? 相思相愛? みたいな?

 そういう感じの関係になるため、着々と計画を進行させるのだ!

 

 今日、ご褒美権まで使ってお高めの食事を奢るのだって、計画の一部。

 表向きは日頃の感謝を伝えるため、という名目だけど……本当の目的は違う。

 ああいや待った、別に感謝してないわけじゃないよ? むしろめちゃくちゃ感謝してる。

 でもその感謝へのお返しは、やっぱりレースで勝利を収めることだと思うんだ。

 だから、今日の目的は別にある。

 

 そう、その目的は……!

 私の経済力の高さを理解してもらい、優良物件だと思ってもらうことだ!

 

 

 

 そもそも私はウマ娘。自分で言うのもなんだが、とんでもない美少女である。

 顔のパーツは怜悧な感じにまとまっているし、これといったノイズがない。

 声だって声優さんレベルで澄んでて、活舌も良い方だ。喋り方は流石に及ばないだろうけどさ。

 

 唯一欠点を挙げるとするなら、身長145センチ、スリーサイズの最初の数字が71という虚無さだろうか。

 トレーナーがこの体を恋愛対象に入れるか、ちょっとばかり疑問が残るサイズなのだ。

 いやでも、今は本格化で体格が固定されてるけど、「最初の3年間」が終わったら急成長するかもしれないし?

 むしろ急成長した私の姿に、トレーナーはドキッとするかもしれないし?

 というかマジで成長してくれ私の体。こんなお子様サイズで一生を終えたくないぞ。

 

 ……まぁ、とにかく。私は顔だけ見ると非常に恵まれてる。

 その上で簡単に大金を稼げて、そのお金を惜しみなくあなたのために使うんだ、と。

 男性の考え方はわかんないけど、このイメージはやっぱり高評価なんじゃないかと思うんだ。女性的にはめっちゃ嬉しいし。

 

 ふふふ……美少女力、経済力、そして足の速さ。

 その全てを持ったこの私の魅力に、果たしてトレーナーは耐えることができるかな?

 恋愛における最初の勝負こそ負けたけど、次は絶対に勝たせてもらうよ!

 

 

 

「……まったく、金銭関係は趣味の悪い冗談だぞ」

「そんなに心配してくれたんですか?」

「当然だろう、心配しないわけがあるか。

 君は今の俺にとって、最も大切な存在だぞ。金や権力に狂うなんて悪夢でしかないわ」

 

 

 

 …………。

 

 

 

「すみません、少し席を外します」

「お、おう。……またかぁ」

 

 トレーナーの言葉も聞かずに個室から逃げ出して、トイレに駆け込む。

 

 鏡を見ると……あーもう、やっぱり赤くなってるし、口元緩んじゃってる。

 こんな顔、トレーナーには見せられないって。

 

「……もう、もうっ! 最も……た、大切、とか!

 あんなこと普通に言ってくるのはズルじゃん……!

 チートだ! 絶対チート使ってる! 自分の羞恥心がなくなるチート! アンチ照れシステム使ってるって!」

 

 

 

 今日も今日とて、恋のダービーは連戦連敗。

 私の恋愛防御力は、どうやらとても低いみたいだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 トレーナーに寮に届けてもらった頃には、既に夜の帳が下りきっていた。

 ちゃんと許可取ってるからいいけど、そうじゃなかったら普通に門限オーバーだ。

 

「……ちょっと疲れたかな」

 

 トレーナーの天然たらしアタックを耐えるのには、結構気力を使う。

 というか耐えられない。急な攻撃で、一瞬で仮面を割られかけるし。

 流石に素顔を見られるのは恥ずかしいので、咄嗟に顔を逸らしたり逃げ出したりすることで、仮面の耐久力が回復するまで時間を稼ぐしかないんだ。

 で、そんなことを何度も繰り返すと、そりゃ当然疲れる。

 その分、楽しいし……幸せだから、いいけどね。

 

 幸い栗東寮はかなり緩い気風で、食事やお風呂、完全消灯の時間こそ決まってるけど、それ以外は基本的に自由。

 まだ9時にもなってないけど、今日はもう寝ようかな。

 もし明日早めに起きちゃっても、自主トレしてればすぐに登校の時間になるだろうし。

 

 ……と、自室に向かおうと思ったんだけど。

 食堂でジュースを買っていたジュニア級の子が、こっちに気付いて走り寄ってきた。

 

「ウィルム先輩! トレーニング帰りですか?」

 

 おうおう、今日も元気だね後輩ちゃん。

 そのピンクの髪をセミロングに伸ばした元気なウマ娘は、ちょくちょく私に話しかけてくれる優しい後輩の1人。

 つい先日「やっと本格化が来たんです、これから頑張ります!」ってめっちゃ嬉しそうに話してくれた子だ。

 

「ああ、うん、トレーニング。そんな感じ」

「流石です! ダービー前の追い切りメニューですね!」

 

 ……ごめん、嘘です。トレーナーとお食事行ってました。

 追い切りメニューはしっかりこなしてるし、たまにお出かけに行くくらい許してほしい。

 

「やっぱりダービーでも大逃げするんですか?」

「うーん、それは言えないかな」

「あっすみません! そうですよね、作戦ですもんね」

 

 あ、あ、待って、そんな顔しないで、罪悪感がすごい。

 君は笑った表情が可愛いんだから、しょげた顔なんてしないでよ。

 えーと、何て言えば笑ってくれるかな……。

 

「ごめんね。……でも、きっと勝つから。期待してて」

 

 どうやら私の選んだ言葉は正解だったみたいで、後輩ちゃんはにこっと笑ってくれた。

 

「はい! 絶対見に行きます!」

 

 うんうん、やっぱり可愛い。

 なんで勝気なこと言うと盛り上がるのかはわかんないけど、後輩ちゃんたちにはこれが良く効くんだ。

 

「それじゃ、また今度ね」

「あ、先輩! よければこれ、どうぞ!」

「いいの? ありがとう」

 

 後輩ちゃんはそう言って、さっき買ったばかりのジュースを渡してくれた。

 好きなヤツだし、めっちゃありがたいんだけど……。

 なんか最近、後輩からえらく絡まれたり、ジュースとか飴とかもらうのは何なんだろうね。

 将来の三冠ウマ娘だし、縁起物として拝んどけ、みたいな?

 このジュースって、もしかしてお供え?

 ……私、お地蔵さんとか仏像だと思われてんのかな。

 

 

 

 後輩ちゃんと別れた後、部屋に荷物ぶち込んで、さっとシャワーだけ浴びた。

 で、部屋に帰って来ると……同室のミーク先輩は、いない。

 帰ってきてないのかな。6月の安田記念に出走するって言ってたし、まだトレーニングしてるんだろうか。

 

「……うん、寝るか」

 

 歯を磨いて明日の準備して、お布団に潜ってみるが……。

 どうにも眠気が来ない。

 

 疲れてはいるんだけど……まだ時間が早いからかな。

 ダービーが近いから緊張してる、ってのは私に限ってないと思うし。

 

 あぁ、あれかな。さっきの食後のコーヒー?

 しまったな……まぁでも、しばらく目をつぶってたら、勝手に眠るかな……。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 暗い、世界にいる。

 ……なんで私、ここにいるんだっけ。

 なんで走ってるんだっけ?

 

 ドスン、って、重い足音。

 後ろに、誰かいる。

 

「ここで超えてやる、その背中」

 

 声が聞こえた。

 

 私に伸びる光が。彼女の道が。

 ……私を、超えていく。

 

 負ける? ここで?

 

 いやだ。

 私、負けたくない。

 

 

 

 目が、合う。

 ずっと私を見てくれている人と。

 

 私は……。

 

 あの人に、褒めてほしいから……。

 

 あの人に相応しいウマ娘になりたいから……。

 

 

 

 そう、だから……私は。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 扉が開く音に瞼を開く。

 

 ……今のは、想起? それとも夢?

 

 あー……若干ぼんやりするけど、起きたてほどじゃないね。

 眠りが浅すぎて夢とも言えない記憶を見てたってところかな。

 

「……あー、起こしちゃいましたか」

「ん……いえ。眠れてませんでしたから、お気になさらず」

 

 部屋に入ってきたミーク先輩は、いつも通り感情の薄い表情だけど……うん、眉も垂れ下がってるし、耳もちょっと垂れてる。申し訳なさそうだ。

 

 共同生活ってのは、お互い迷惑をかけるもの。

 私だってよく、ミーク先輩にお話を聞いたり、自主トレの相談に乗ってもらっているんだ。

 この程度は全然気にしなくていいんだけどね。

 

 

 

 ……しかし。

 まさかあの夢を見る、というか思い出すとはな。

 

 3週間くらい前、久々の模擬レースがあった日。

 終盤になって見えた、あの暗い世界……ネイチャが広げた世界は、トレーナー曰く「領域」と呼ばれるものらしい。

 

 その話を要約すると……。

 ウマ娘が極限状態で覚醒する、スポ根漫画あるあるの超集中状態。

 領域を開いたウマ娘は、自分の心象風景の幻視の中で、普段を大きく超える走りを見せる。

 

 一方で他のウマ娘も、理屈はよくわからないけど、その幻視を共有するらしい。

 同時に……これはトレーナーに言われたんじゃなく、実体験に基づく情報だけど、それが誰の領域で、どんな世界なのかを直感的に理解するんだ。

 

 あの時私が見たのは、ネイチャが開いた領域だった。

 

 ネイチャの領域は、多分、私を超えるための世界なんだと思う。

 静かで暗く、他に何の頼りもない世界で、ただ灰色の星を目指し、そのための道をひた走る。

 自分の目標……夢……あるいは、壁。

 持てる力の全てでそれに挑むっていう、すごくネイチャらしい領域だ。

 ……その壁役がテイオーちゃんじゃなくて私なのは、いささか気恥ずかしいものがあるけどね。

 

 あれはすごい。本当にすごかった。

 後ろから、すごいスピードで世界が塗り替わっていく瞬間。

 これこそがネイチャの全身全霊だって……そして、それが私に迫るためのものって理解して。

 

 ゾクリと悪寒が走った。

 このままじゃ負けるって、わかったんだ。

 

 多分あの時「負けたくない」って根性出さなかったら、ギリギリ差し切られてたと思う。

 

 いくらスタミナを切らしかけてたとはいえ、今まで誰にも負けたことのなかった私のスパートよりも速いなんて。

 ネイチャはすごい。そのすごさを更新し続ける。

 私に熱をくれたあの子は、やっぱり最高のウマ娘なんだ。

 

 特に、あの領域。

 たった1つのことに目標を定め、勝つために全てを振るうあの力。

 正直、すごく羨ましい。私もいつか、習得できればいいんだけどな……。

 

 あ、ていうか、そうだわ。

 せっかく大先輩がいるんだから聞いてみよう。

 

「ミーク先輩。領域って知って……ますよね」

「……おー、ウィルちゃん、領域、見たんですか?」

「友人が習得しました。私はまだ習得できていません」

「……あー、やっぱり」

 

 うんうん、と頷くミーク先輩。

 その反応、ちょっと傷つくなぁ。私、今世に限っては要領の良い方だと思うんだけど。

 

「やはりミーク先輩も領域を持っているんですか?」

「……はい。ただ、使う条件とかは、教えられないですけど」

「使うのに、条件があるんですか?」

「……うーん……そうですね、まぁウィルちゃんならいいですか。

 ……どちらにしろ、領域を開いたら、なんとなくわかることですし」

 

 ミーク先輩は少し両目をつぶって考えた後、1つ頷いて答えてくれた。

 

「……私たちは、領域を習得したとしても、すごく集中しないと使えません。

 ……それで、集中するためには……あー……なんというか、『いつも通りの形』を作らないといけないんです」

「いつも通りの形……」

 

 それを聞いて、ピンと来る。

 

 例えば、初等部の頃にやらされた漢字の書き取り。人生2周目ともなると心の底から面倒だった宿題。

 それをぱっぱと片付けるためには、流れてる雑音とか他人の声が気にならなくなるくらいの集中状態に入る必要があった。

 それは同じ行為を何度も何度も繰り返し続けることで、体と意識にその行動を刻み付け、意識せずとも行える状態。

 

 もしかすると、領域ってのはそういうもの、あるいはそれに近いものなのか?

 レースに勝てる王道の走り方を見つけて、それを必勝パターン……「いつもの形」として、自分の中に刻み付ける。

 そして実際のレース中にその状況が整った瞬間、スコンと超集中状態に入って、領域が開く……とか?

 

 ま、これに関しては自分で開いてみないとわかんないだろうから、あくまで仮説でしかないけども。

 

「なるほど、そういったものなのですね、参考になります。

 お答えいただきありがとうございます」

「……いえ。私のトレーナーが言っていました。今年のクラシック世代はとても早熟で、既に何人ものウマ娘が領域を経験してるって。

 ……そんな中で、ウィルちゃんは頑張っていますから」

 

 意外な言葉に少しびっくりする。

 天才だとか最強だとかはよく言われるんだけど、頑張ってるって言ってくれたのは……トレーナーを除けば、初めてかもしれない。

 

「……私には、わかります。ウィルちゃんはえらい子だから、頑張ってます。

 ……だから、少しだけ、アドバイスをあげますね」

「アドバイス?」

「……はい。日本ダービーが終わった後、宝塚記念に出るんでしょう?」

「そのつもりです」

 

 ミーク先輩はベッドに座って、指を1本立てた。

 

「……じゃあ、これだけは覚えていてください。

 セイウンスカイさんを、第三コーナー以降、先頭に立たせちゃだめです。

 彼女が自由に逃げるってことは、もう勝てないってことですから」

 

 

 







 ギャグ回も挟みましたし、そろそろシリアスに行きますか。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、自責と化かし合いの話、日本ダービー前編。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざと出ない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!

(本編に関係ない呟き)
 アストンマーチャン人形3.0商品化よろしくお願いします。


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策なんかねぇよ

 末脚こそが正義





 

 

 

 堀野の家は、トレーナーの血族としては日本でもトップレベルの名家だ。

 ……同時、確かに名家なんだが、超一流とまでは言えない家でもある。

 

 というのも、まず育成の失敗がかなり多いんだよ。

 関係性が瓦解したり、目標に定めたレースに負けて担当の心が折れたり、体調の管理に失敗して事故を起こして引退してしまったり。

 まぁ人生ってのは何が起こるかわかんないし、どうしても失敗は起こるもの。これに関しては仕方ないかなとも感じるけどね。

 

 大事なのは過去の失敗を悲しむことじゃない。

 そこから教訓を学び、明日に活かすことである。

 こういう失敗があるんだって理解して、原因を排除できれば、少なくともその問題はもう起こらないはずだ。

 堀野の歴史は、そういう意味で非常に有益なものだった。

 何年もかけて蓄えた知識は、きっと無駄にはならないだろう。

 

 ……話が逸れちゃったわ。

 今言った育成の失敗回避率以外にも、堀野家には足りないものがある。

 

 それが……東京優駿、日本ダービーの勝利だ。

 

 

 

『まずは、栄えある東京優駿への出走が確定したことを祝おう。おめでとう』

 

 スマホから聞こえて来たのは、懐かしい響き。

 厳しく、冷たく、けれど家族としての親しみのある声。

 この電話の相手こそが、俺の仮面の元になった人物……。

 堀野家の現当主、俺の父親だった。

 

『これまでの歴史において、堀野にダービートレーナーは生まれていない。

 故に、お前が歴史を変えろ。堀野で初のダービートレーナーとして、歴史に名を刻め』

 

 

 

 日本ダービーの勝利は、非常に難しい。

 ……いや、難しかった、と言うべきか。

 

 今は「日本ダービー」の副題を戴く東京優駿は、その題目通り、中央における最高の優駿を決める戦い。

 平たく言えば、日本における最強決定戦だった。

 故にここを目指すウマ娘は非常に多く、昔は30人ものウマ娘たちが出走したこともあったらしい。

 

 それだけ人数が増えれば、当然、勝てるものも勝てない。

 まず、スタートが横一列で行われる都合上、外枠のウマ娘はとんでもなく大外に追いやられることになる。ぶっちゃけ30人ともなれば、外枠になったら負け確定である。

 その上、今の18人立てのレースだって展開の予想やコントロールが難しいのに、30人立てともなれば、それは難しいという言葉を超えて無理となる。

 故にこそ、「最も運の良いウマ娘が勝つレース」と呼ばれるわけだ。

 実力云々以上に、できるだけ内枠を引き当て、上手くレース展開に乗れる運の良さが重視されるレースだったのだ。

 

 勿論これは、今は昔の話。

 現在の日本ダービーは18人立て、均整の取れた能力と展開への適応力が求められる、実力者が勝つレースである。

 

 けれどそういう時代も確かにあり、一時期のダービーは運ゲーとも言うべき状況で。

 運の悪い我が家は、尽くダービーを取り落としてきたのだ。

 ……いやまぁ、近年のダービーに1回も勝ててないのは、普通にウチがダメダメってことなんですけどね。

 

 

 

 しかし父さんめ、「お前が歴史を変えろ」と来たか。

 うーん……これはひっかけ問題だろうな。

 

「はい、彼女を支えられるように努めます。

 ……しかし、ここまで来れたのは俺の力ではなく、ひとえにホシノウィルムの素質と素養故。

 俺が彼女を勝たせるのではなく、彼女に勝たせてもらうのです」

 

 勘違いしちゃいけない。

 俺がやっているのはあくまで調査と指示と作戦立案や他雑事であり、実際に汗と涙を流しながら走っているのはホシノウィルム。

 俺が勝利に対して貢献している割合なんて、それこそ1割にも満たないのだ。

 

 俺はホシノウィルムと共にダービーを取るんじゃない。

 ホシノウィルムが勝って、俺にダービートレーナーの称号をくれるのである。

 

『……変わらないな。まさしく堀野のトレーナーとしてあるべき姿勢だ』

「ありがとうございます」

 

 あの父さんにそこまで言われるとは思ってなかったから、少し照れる。

 あるべき姿勢……か。少しは彼の後ろ姿に近づけただろうか。

 

『しかし、それはあくまで目指すべき姿。過度な謙遜は嫌味になるぞ。

 G1レースはウマ娘の実力だけで勝てる世界ではない。お前の研鑽なくては彼女も極まらなかっただろう。

 故にお前は、もう少し自分を認めるべきだ』

 

 ……はは、ちょっと苦笑い。

 父さん程のトレーナーでも見誤ることはあるんだな。

 

 そんなことはない。

 俺がいなきゃいけないなんてことはないんだよ。

 本当に、ホシノウィルムの実力は突出しているんだ。

 ……いや、突出して「いた」、が正しいのかな。

 

 

 

 「アプリ転生」。

 この力を持っているからこそ、俺には理解できてしまう。

 彼女は最初から、桁外れに強かった。

 自分1人の力でここまで強くなってきたんだ。

 だからきっと、俺がいなくてもじきに頭角を現して、もっと良いトレーナーが付いたはずだ。

 

 俺が彼女を担当しているのは、本当に偶然。

 あの夜に、彼女と再び出会った。

 その偶然だけが俺たちを繋ぐ細い縁となり、今も残っている。

 ただそれだけの所以なんだ。

 

 ……こんなことは、言うべきでないのかもしれないけど。

 本質的に、ホシノウィルムという最強の怪物に、トレーナーなど必要ない。

 

 いや、むしろ足を引っ張る拘束具でしかないのだ。

 

 彼女は強い。飛びぬけて強かった。

 ろくな作戦など渡さずとも、そう消耗することもなく、2着のウマ娘に大差を取れる程の才気を持っていた。

 遥か空に輝く、決して褪せないはずの一番星だったんだ。

 

 それなのに……俺の実力不足で、その差は埋められつつある。

 大差から、8バ身差へ。

 8バ身差から、1と2分の1バ身差へ。

 他のウマ娘たちが強くなるのは当たり前で、俺たちはそれよりもっと早く成長しなきゃいけないのに。

 

 ……俺の能力じゃ、彼女を完璧に導くには足りない。

 俺が至らないばかりに、ホシノウィルムは今、追い詰められているんだ。

 

 俺がもっとトレーナーとしてしっかりしていれば。

 もっとデータを集め、調査を徹底し、展開を読み、正しい指示を出せれば……。

 彼女は今だって、孤高の頂に立てているはずなのだから。

 

 彼女のメンタルケアと、事故が起きないようにコントロールすること、あとは作戦を立てるくらいしか、俺は彼女に貢献できてない。

 

 …………結局のところ。

 ホシノウィルムというウマ娘の担当は、俺には荷が重すぎたんだ。

 

 

 

 ……なんて、父さんに言っても伝わらないだろうな。

 ホシノウィルムが最初から強かったことを知るのは、俺1人なんだから。

 

 彼女が中央で勝ち始めたのは、俺が担当した直後、選抜レースから。

 周りの目からすれば、俺が担当した瞬間に化けたように見えるのだろう。

 

 無愛想だけど優しい父さんのことだ。仮に言ったとしても、それは俺の思い過ごしだと主張するのだろうし。

 だから、これを言う意味はない。

 誰にも言うつもりはない。

 

「いえ、まだ父さんには及びません。もっとウマ娘たちを支えられるように鋭意努力するつもりです」

『……やはり、教育を間違えたか』

 

 いや、父さんの教育は間違ってない。

 ただ俺が、それを吸収しきれなかったんだ。

 無能な息子で申し訳ない。

 

 

 

 ちらりと視線を向けた机の引き出しの中。

 そこには、いくつかの書類が入っている。

 

 それを使うべきか、否か。

 明日の日本ダービーで、確かめなくては。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 父さんとの電話を終え、改めて机に置いてある大きな紙を眺める。

 いくつも書き込みが加えられた、東京レース場の俯瞰図だ。

 

 改めて、明日の日本ダービーについて考えよう。

 これがホシノウィルムにしてやれる、俺の数少ない仕事なんだから。

 

 今回の注目ウマ娘は、2番人気トウカイテイオー、3番人気リオナタール、4番人気のスイートキャビン、5番人気のチアーリズム。

 ほとんど下バ評通りの実力で、これといったジョーカーはいないはずだ。

 

 ……しかし、今回に関しては、他のウマ娘を考慮する必要はない。

 ただ1人、トウカイテイオーにのみ視線を注げばいい。

 

 それだけ、今のトウカイテイオーは頭抜けている。

 

 領域を習得し、ステータスも上昇して、スキルも強化され、そして何より。

 トウカイテイオーはこの1週間……信じがたいことに、覚醒を維持しているんだから。

 

 

 

 覚醒状態。

 「アプリ転生」でも表記されない、絶好調の更に上の状態の仮称だ。

 

 自分を壊れるギリギリまで磨き上げて、ただ1度のレースに持てる全てをぶつけるという……。

 心身共に極まり、針のように研ぎ澄まされたウマ娘が至る、一瞬の爆発。

 俺の経験や堀野の歴史から見ても、それはレース1回分しかもたない特殊なコンディション。

 ……だった、はずなんだ。

 

 だというのに。

 トウカイテイオーは1週間もの間、この状態を維持している。

 

「……最後の輝きとでも言うつもりかよ」

 

 心の底から腹立たしい。

 まるで運命が「これがトウカイテイオーの最盛期だよ」とでも言うように、彼女に味方している。

 

 その消える直前の炎のような、爛々とした輝きは……。

 トウカイテイオーの、競走ウマ娘としての命そのものを、燃料にしている気がして。

 

 それが、腹立たしくて、虚しい。

 

 ふざけんな。

 テイオーが折れるわけがない。

 脚が折れたって、その心は絶対に折れない。

 あの子は絶対に立ち上がって来る。

 だから……。

 

「……だから、落ち着け」

 

 ああ、もう、すぐに思考が逸れる。

 

 やはり最近、どうにも情緒が安定しない。

 ホシノウィルムが追い詰められている現状に焦っているのか。

 いや、そこにブルボンの逆スカウトを受けたことで、言い訳が通ってしまったからか?

 それとも……。

 

 ……はー、クソ。

 だから余計なことは考えるなって。

 

 テイオーの脚に関して、できることはした。

 彼女のトレーナーにも危険性は伝えたし、担架や救急隊はすぐ傍で待機させるように手配してある。

 最も疑わしい足根関節や第三足根骨をケアするようにも伝えた。

 

 でも、そもそも、それは俺のエゴに過ぎない。

 今彼女のトレーナーたる者が、考えるべきことじゃないんだ。

 

「切り替えろ。今の俺は、ホシノウィルムのトレーナーだろうが」

 

 俺が考えるべきは、テイオーの安否じゃない。

 ホシノウィルムが確実に勝つ方法、だ。

 

 

 

 どう来る。

 明日、トウカイテイオーは、どう来る?

 

 まともに競り合えば……恐らく、勝率は8、9割。

 覚醒状態と領域の組み合わせの恐ろしさは、先日のネイチャでよくわかった。

 基本的にホシノウィルムが有利とはいえ、上手い作戦を立てられれば、その差を埋められる可能性はある。

 

 故に、トウカイテイオーを潰す策が必要だ。

 

 ……だが、最適解を叩きつけてくるナイスネイチャと比べて、トウカイテイオーの策は読みづらい。

 一旦、自陣営の情報と勝ち方を整理するところから始めるべきか。

 

 

 

 前提として、ホシノウィルムは非常に体力のあるステイヤー向きの逃げウマ娘。

 であれば、ダービーの勝ちの常道は1つ。

 

 去年のダービーウマ娘、アイネスフウジンと同じ走り方だ。

 

 序盤で後続を突き放し、中盤でスタミナを温存しながらリードキープ、終盤にも速度を保って逃げ切る。

 言うのは簡単だが、行うのは非常に難易度の高い展開だ。

 

 序盤の上り坂を根性で乗り越え、離れすぎて距離感のわからないリードをキープしながらも足を溜め、最後の長すぎる直線を逃げ切る……。

 スピードもスタミナもパワーも根性も賢さも、全てが揃った優駿でなければ実行できない偉業。

 故にこそ、アイネスフウジンはダービーレコードを塗り替え、あれだけの人から賞賛されたのだ。

 

 ホシノウィルムは、その逃げをできる境地にある。

 故に、王道を選ぶなら、この走り方を踏襲するべきだ。

 

 

 

 ……そう、ホシノウィルムのトレーナーは考えている、と。

 トウカイテイオー陣営は読んでくるだろう。

 

 ベテランであり、皇帝の杖であったテイオーのトレーナーは老獪だ。

 俺程度の浅知恵は読まれるに違いない。

 

 その上で、どう来る?

 どうやってこの王道を崩して来る?

 

 トウカイテイオーは他者へ干渉するようなスキルを持っていない。誰かを使ってホシノウィルムを追い詰めるようなことはできない。

 であれば、テイオー自身がホシノウィルムに威圧をかけに来るか?

 ……いや、彼女の逃げの適性はD。もしホシノウィルムに詰めてくれば、大幅にペースを崩し、スタミナを浪費することになる。

 

 先行であるトウカイテイオーが得意とする四角先頭は、直線の長すぎるこのコースでは難しい。

 であれば仕掛けてくるのは最終直線内? シンプルに末脚に頼って詰めてくるか?

 いや、それはない。先日のネイチャが証明したように、ホシノウィルムは策を弄さず勝てる相手ではないんだから。

 

 根本的に、ホシノウィルムは負けにくいウマ娘だ。

 彼女の走りに付いて行けば、その圧倒的なペースにスタミナを食われ、最後にスパートをかける脚が残らない。

 では彼女を放置して自分のペースで走ればというと、ホシノウィルムとの差が開きすぎるが故に詰め切れなくなる。

 

 ホシノウィルムにとって一番の脅威は、自分のスタミナを温存しながらこちらのスタミナを削って来る、ナイスネイチャのようなレースメーカー。

 逆に言えば、スペックに依存した走りをするトウカイテイオーのようなタイプには有利と言えるが……。

 

「じゃあ、どう走る? どう勝ちを拾いに来る……?」

 

 まともに戦えば勝率は8、9割。絶対の10割ではない。

 つまりそれは、策略にハマれば勝率が下がることを意味する。

 

 俺は読み勝たなければならない。

 皇帝を支え、帝王を育てる化け物のようなトレーナー。

 その策略を読み、更にその上を行かなければいけない。

 

 そうでなくては……。

 ホシノウィルムのトレーナーに、相応しくない。

 

「どうすればトウカイテイオーはホシノウィルムに勝てる……?

 トウカイテイオーから見て、最も大きな脅威は……?

 勝てない最大の理由は……?

 何を改めれば勝てる……?

 どうすればホシノウィルムを引きずり落とせる……?」

 

 ……わからない。

 テイオー陣営が何を考えているのか。どう仕掛けてくるのか。

 

「何を狙っている……トウカイテイオー……?」

 

 

 

 結局。

 ダービーが始まるその時まで、俺には答えがわからなかった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

『さぁ、今年もこの日がやって来ました、東京優駿、日本ダービー。

 クラシック級のウマ娘たちが覇を競うこのレースは、東京競馬場、左回りの芝2400メートルで行われます』

『全国から集った最強の18人の内、ダービーウマ娘の栄誉を得ることができるのはただ1人。

 最も運の良いウマ娘が勝つレースにおいて、三女神は誰に微笑みかけるのか』

『雨天の東京レース場に、去年に勝るとも劣らない数の観客が、ダービーウマ娘の誕生を一目見ようと押し寄せています。

 バ場状態は重バ場の発表、全ウマ娘が事故なく無事に走り切ることを祈りましょう』

 

 

 

 傘で雨粒が弾けて音を立てる。

 バケツをひっくり返したとまでは言わないが、かなりの雨勢。

 今日のレースは、いつものそれと一風変わったものになるかもしれない。

 

「……重バ場か」

 

 これまでホシノウィルムが公式レースで走ったことがあるのは稍重まで。

 最近のレース場の芝は水はけが良くて、バ場が悪化することが少ないんだ。

 昔は雨が降れば不良バ場まで落ちることもあったけど、最近じゃ大雨でも稍重に収まったりする。

 だから、ここまでコンディションが悪い状態での公式レースは、初めてのことになる。

 

 バ場状態が悪くなると……つまりターフが水でぐちゃぐちゃになると、地面がぬかるんで蹴りにくくなり、芝が滑りやすくなる。

 故に、普段以上の力で地面を蹴り上げるパワーと、それだけパワーを使っても走り続けられるスタミナの両方が、より高い水準で要求されるレースとなるのだ。

 

 勿論、レース全体のペースは落ちる。というかペースを落とさなければ完走できない。

 ただのスピード自慢の子……いやそんな子はダービーには出走できないだろうけど、そういう子がいた場合は、パワー不足でスピードは振るわず、スタミナも切らして垂れていき、一気に順位を落とす可能性があるくらいだ。

 道悪におけるレースは、いつも以上に慎重を期す必要が生まれ、仕掛けどころが難しいものになるのだ。

 

 

 

『さぁ、3番人気のご紹介です。

 母の宿願を果たし日本ダービーに堂々出走、6枠11番リオナタール!』

『デビューから逃げで戦ってきた彼女ですが、青葉賞では大きな出遅れをものともしない脅威の末脚を見せつけました。

 今日は蛇に次いで逃げるのか、それとも後ろから差し切るつもりか。トリッキーな彼女に注目です』

 

 

 

 もう1つ、今回のレースには特徴がある。

 数日続いた雨や直前のレースなど色んな状況が重なって、芝の状態が良くない今の東京レース場において、唯一走りやすいレーン……。

 グリーンベルトの存在だ。

 

 当然の話なんだけど、ウマ娘がターフを蹴れば、地面が抉れる。

 ……いや、当然っていうかヤバい話なんだけど、ウマ娘にはそれだけの力があるんだよ。

 で、何度も何度も同じコースをウマ娘が走っていれば芝が剥げたり掘り返されて、最終的にはただの土になってしまう。

 勿論、しっかりと手入れはされているはずだけど……今日のように間に合わないこともある。

 

 誇りあるダービーで、バ場が荒れまくって実質ダート、なんて状況になれば笑い話にもならない。

 故に、東京レース場ではダービーからしばらく前に、内ラチ……つまりコースを区切る内側の柵を、1メートル程度外にズラすんだ。

 そうして、ズラした部分の芝が万全な状態になったダービー直前で元の位置に戻す。

 

 すると……今は雨で見えにくいけど、インコースの幅1メートル程度の範囲に、他より芝の状態が良いレーンが現れる。

 これを「グリーンベルト」と言うわけだ。

 

 勿論、ダート適性のないウマ娘からすれば、外側の荒れたレーンよりもグリーンベルトの方が圧倒的に走りやすい。

 故に今回は、どれだけバ群を縫ってインコースを突くことができるかで、終盤に残せる脚が決まってくる。

 

 そしてその点において、ホシノウィルムは有利だ。

 何せ彼女はこのレースにおける唯一の大逃げウマ娘。

 他とポジションを争うことなく、悠々とグリーンベルトを走ることができるのだから。

 勿論、これについては事前に伝えてある。

 要領の良い彼女のことだから、しっかりと状態の良いレーンを選んで走ってくれるはずだ。

 

 

 

『2番人気はやっぱりこの子。

 皐月のリベンジに燃える帝王、8枠18番トウカイテイオー!』

『皐月賞で初めての敗北を経験し、一回り成長したように見えますね。その体の柔らかさから繰り出すストライド走法で、最速の蛇を差し切ることができるのか』

 

 

 

 テイオーは……想定通り、覚醒状態だ。

 ギリギリに張り詰めた緊張感と同時に、どこか泰然とした底の知れなさも持っている。

 恐らく今の彼女は、この1週間の覚醒の中でも最も「整った」状態。

 間違いなく、何か仕掛けてくるだろう。

 

 しかし重バ場な上、グリーンベルトが存在する状況で大外の18番か。

 皐月賞の時といい、つくづく三女神は彼女に微笑まないな。

 ……けれど、その悪運すら跳ね除けてくるのがトウカイテイオーというウマ娘。

 決して油断はできない。

 

 

 

『1番人気はこの子を措いて他にいない!

 灰を被った「最速」の蛇、ここまで無敗の皐月賞ウマ娘、5枠9番ホシノウィルム!』

『レースを崩壊させるとまで言われる異次元の大逃げは今回も健在か。彼女の目標無敗三冠まであと2つ、昨年のアイネスフウジンに続くダービー逃げウマ娘は誕生するのでしょうか』

 

 

 

 ホシノウィルムは……うん、今日も変わらない。

 いつも通りの無表情でストレッチを繰り返している……、が。

 

 おおお、とスタンドがどよめく。

 それもそのはず、俺たちの目の前には、1か月前に見た光景が広がっていた。

 

 ……孤立したホシノウィルムに、トウカイテイオーが話しかけに行ったんだ。

 

 あの時はすげなくあしらわれ、地団駄を踏んだトウカイテイオーだが……。

 今日のホシノウィルムは、ストレッチを中断し、彼女に正面から向き合った。

 

 その時、彼女たちの間でどんな会話が行われていたのかは、本人たちにしかわからない。

 けれど、俺たちから見て、1つだけ確かなことは……。

 

 トウカイテイオーが差し出した手を、ホシノウィルムは握り返した。

 

 

 

 今、灰色の蛇は、帝王を敵として認めたのだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

『さぁ、ウマ娘18人のゲートインが完了、出走準備が整いました』

 

 

 

 ゲートの中にウマ娘たちが揃う。

 その中でも威圧感を放つのは、やはりホシノウィルムとトウカイテイオー。

 ダービーはこの2人による決戦になる、というのが専らの噂。

 故にレースに勝つためには、この2人を意識せざるを得ない。

 

 そしてそれこそが、ウマ娘たちに多大な緊張を与えている。

 

 これまでに見たことがないほどの存在感を放つ、太陽のようなトウカイテイオー。

 逆にどこまでも静かで、けれど意識を向ければ凍り付いてしまいそうな「冷」のホシノウィルム。

 

 その2人を相手に競り勝たなければならない、という事実は……果たしてどれほどのストレスなのか。

 

 

 

『今スタートを切りました!』

 

 

 

 コンセントレーションは無事発動し、ホシノウィルムが素晴らしいスタートダッシュを見せる。

 そして、少し遅れて……。

 いや、殆ど変わらないタイミングで、トウカイテイオーが続く!

 

 スキル、つまり技術や慣れがない状態の、単純な一発勝負でこのスタートだと……!?

 

 

 

 スキルを習得するというのは、つまるところ意識せずともその技術を使えるようになるってことだ。

 故に、コンセントレーションを習得したなら、入れ込みでもしない限りいつでも抜群のスタートが切れるようになる。

 けど好スタートなんてものは、わざわざスキルとして覚えなくても、きちんと集中すれば不可能じゃない。

 これが示す事実は、スキルを習得しなくても、疑似的にスキルを使うことはできるってことだ。

 

 例えば俺がホシノウィルムに「向こう正面の直線で息を入れろ」と言えば、彼女はそのレースにおいて「直線回復」を使うことができるかもしれない。

 ただし、特に練習もしていない作戦なんて、レースの状況に合わせて上手く使えるかはわからないし、多く抱えても頭から漏れていく。覚えられても精々1つ2つだろう。

 これを作戦として意識せずとも使える段階に持っていくのが「スキルを習得すること」なんだ。

 

 だからトウカイテイオーが好スタートを切っても、俺は驚かない。

 彼女はこのスタートが必要だと判断し、強く意識を持っていた、というだけのことだ。

 

 ……それが、ただの好スタートならば。

 

 スキルには、上位と下位がある。

 好スタートを切る「集中力」の上には、抜群のスタートを切る「コンセントレーション」があるように。

 そして、ウマ娘に作戦を出して再現できるのは下位のスキルまで。

 上位のスキルは、「切れ者○」を持ったホシノウィルムですら再現できない。

 それが、俺の結論だった。

 

 けれど、今、余裕の欠片もない真顔で走るトウカイテイオーは……。

 コンセントレーションを発動させたホシノウィルムと、ほとんど同時に駆け出した。

 

 それこそが、彼女の本当の力だとでも言わんばかりに。

 

 

 

『抜群のスタートを切ったホシノウィルム、トウカイテイオー! そのまま各ウマ娘、内に切れ込んで行きます』

『前に出たのはいつも通りホシノウィルム、少し空けて逃げ宣言アクアリバー、そしてホリデーハイクも行きました!』

 

 

 

「マズい……」

 

 上位のスキルを再現できるのならば、トウカイテイオーが取れる手札は抜群に広がる。 

 周りのウマ娘に威圧感をかけて前に飛ばすことも、ホシノウィルムを直接威圧することも自由自在。

 

 どう来る、トウカイテイオー、皇帝の杖。

 ホシノウィルムという最速を相手に、どう出てくる。

 

 

 

『ウマ娘たちが雨粒を弾き飛ばして第一コーナーに入って行きます』

『トウカイテイオーは1、2、3、4、5番手、インコース5番手で第一コーナーをカーブして行きます。しっかりと展開を見据えているぞ』

 

 

 

 …………?

 

 なんだこれは、どうなってる。

 何故仕掛けない、トウカイテイオー。

 ホシノウィルムまでの距離がまだ空いていない序盤、これ以上の仕掛けどころはないはずだ。

 

 彼女の脚を引っ張らなければペースを作られる。

 そうなれば乗ろうが逆らおうが、トウカイテイオーにとって厳しいレースになるはずだ。

 

 まさか、そこまで読めていない……?

 いや、そんなわけがない。

 相手は天才と皇帝の杖、先の先まで読んでの行動のはずだ。

 

 では何もしない理由は?

 他に作戦があるのか?

 このレースで他にスキルの使いどころがあると?

 ……いや、いいや、ないはずだ。

 ホシノウィルムを叩けるタイミングは、今この瞬間の他にない。

 

 俺の視線の先で、灰色の煌めきが後続を突き放していく。

 コーナーで、しかも重バ場とは思えない程の速度。

 ……6バ身空いた。こうなれば、もうやすやすと仕掛けられない。

 

 何だ……? 考えろ、何が目的だ?

 

 彼女たちは何を狙っている。……トウカイテイオーは、何をしたい?

 

 何を…………したい、か?

 

 

 

 ……いや、待て。

 まさか、そんなバ鹿なことを?

 

 

 

『先頭に立っているのは皐月賞ウマ娘ホシノウィルム、大きく7バ身ほど離れて逃げ宣言アクアリバー、ホリデーハイクが3番手、そして外目を突くのはアゲインストゲイル。2バ身後ろでトウカイテイオーが現在5番手、向こう正面に入って行きます』

 

 

 

 仕掛けない。

 トウカイテイオーは、何も仕掛けない。

 

 ただ、「レースプランナー」を持った彼女は、見誤らない。

 このレースのプランを。

 あるいは、自分の走りを。

 

 何も仕掛けない、のではなく……。

 

 何かを仕掛ける余裕がない、としたら。

 

 本当にやりたいことのために、自分の持つリソースを全て吐き出すつもりだとしたら。

 

 

 

 ……やはり俺は、トレーナーとして未熟なのだろう。

 何故、彼女たちの作戦を見抜けなかったんだ。

 その在り方は、俺の理想に最も近いものだというのに。

 

 

 

 トレーナーにとって、ウマ娘を勝たせることは二の次。

 本当にすべき、目指すべきは……。

 

 ウマ娘の心に、寄り添うこと。

 

 彼女たちが本当に望むことを叶える、そのための機会を与えることだ。

 

 彼女の本当の望みは……。

 トウカイテイオーが本当にしたいのは、「ただ勝つこと」じゃない!

 

 

 

 

 

 

「正々堂々超えるつもりか、トウカイテイオー!

 全力のホシノウィルムを、自分の実力だけで差し切るつもりか!!」

 

 

 

 ホシノウィルムを、自分の走り方で超えて……。

 奪われた「最速」を、言い訳のしようもなく完璧に勝つことで取り返す。

 

 それこそが、帝王の挑戦。

 本当に超えるべきモノを見据えた、1人のウマ娘の戦いだった。

 

 

 







 天才はいる。悔しいが。
 ……では、天才は星を掴めるのか。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、日本ダービー後編と……。



(お知らせ)
 なんと、再びChama様より支援絵をいただいてしまいました……! 本当に毎回ありがとうございます!
 あらすじにて、堀野トレーナーの支援絵を掲載させていただいております。
 是非ご覧になってください! そして見た目のカッコ良さと中身のクソボケさのギャップにクラクラしていただければ、と!

(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました! ありがとうございました!


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帝王は、灰蛇を超えたか。

 クラシックレース、蛇と帝王の決着。
 色々ありますが、今は彼女たちのレースを見ていただければ。





 

 

 

 レース前に、彼女の表情を見た時、理解した。

 

 私がクラシックレースで負けるとすればここだ、って。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 降りしきる大雨の中、重たい芝を蹴り上げて、ひたすら前へと走る。

 ああ、雨粒が邪魔くさい。パタパタと体に当たるたび、どうしてもそちらに気を取られてしまう。

 ただでさえ風の抵抗もあるのに、今日は天気まで敵と来た。

 

 ……いや、本当の敵は、別にいるけれど。

 

 

 

 奇跡を起こすウマ娘、トウカイテイオー。

 このレースには、彼女が参加しているんだから。

 

 

 

「どう来るかな……」

 

 喋ると口に雨粒が入る。気道に入らないよう注意して飲み込んだ。

 私たちのクラシックレース、日本ダービーの日は、生憎の大雨。

 それも昨日から降り続いていたことで、バ場も重バ場に分類される酷い状態だ。

 その上、グリーンベルトこそあるけど、外側の芝もかなり状態が悪いし。

 「最も運の良いウマ娘が勝つ」レースにおいて、こんなに不運が重なるなんてね。

 

 特に、テイオーは8枠18番、大外からの出走になる。

 皐月賞に続いて2連続の8枠18番なんて、確率的には18の二乗で324分の1だ。運が悪いって次元じゃない。

 そういう意味では、彼女は「最も運の悪いウマ娘」。

 ダービーのジンクスが正しいならば、勝利は遠いかもしれない。

 

 

 

 ……でも、テイオーは間違いなく上がって来る。

 トレーナーも言っていたし、私もそう思う。

 ついさっき、私に手を差し出してきた彼女には、強い既視感があった。

 山のように泰然としていて、何を言っても揺らぐ気がしない存在感。

 見れば明らかにわかる、整った体の仕上がり具合。

 そして何より。

 

「今日はよろしく、ホシノウィルム。

 ダービーはボクがもらうからね」

 

 そう言って来た彼女の表情は、いつか見た奇跡の直前のそれに近かった。

 

 ……テイオーちゃんは、トウカイテイオーになったんだ。

 

 私にとっては、その事実こそが最も嬉しく、そして恐ろしい。

 それは、彼女が不可能を可能に変える主人公になったことを意味するんだから。

 

 憧れのウマ娘であり、最大のライバル。

 そんな彼女に手を差し出されて、私は……。

 

「ええ、よろしくお願いします。

 あなたと走れて嬉しいです、トウカイテイオー。

 ですが、勝つのはホシノウィルムだ。あなたには今日も、私の横で踊ってもらいます」

 

 跳ねる心を抑えながら、その手を握り返した。

 

 

 

 そして、それから10分くらい経っただろうか。

 今はまさに、日本ダービーの真っ最中だ。

 

 

 

『さぁ先頭のホシノウィルム快調に向こう正面を駆けていく。

 2番手アクアリバーまで実に10バ身余り、いつも通りの大逃げでインコースを切り裂いていきます!』

『重バ場とは思えない走りですね。ですが、もはや彼女の走りを疑うことは誰にもできません』

 

 

 

 トレーナーは、テイオーが何か仕掛けてくるはずだって言ってたけど、今のところその予兆はない。

 最初に引き離した後、他のウマ娘が私の聴覚の範囲に入って来ることはなかった。

 

 ……とはいえ、実のところ今の私は、いつもより耳が利かない。

 雨粒が地面とか芝、ラチを叩く音がうるさすぎる。それのせいで……多分、7バ身くらいの範囲までしか聞き取れない。

 7バ身より離れると、雨粒のノイズに紛れてしまって、足音なのか判別できないんだ。

 

 だからテイオーが8バ身後方で何かを狙っている可能性は否定できない。

 ……けれど、7バ身はおおよそ18メートル。私だって走っているんだから、その距離を一瞬で詰め、何か仕掛けてくることはできないはず。

 今は、とにかくペースを守ること、そして後ろから来る足音を聞き逃さないことだ。

 

 

 

 トレーナーから聞いた今日のレースの勝利条件は、皐月賞と同じ、テイオーよりも早くゴールすることだった。

 

「正直なところ、今回は必勝法というものがない。

 基本の走り方と、いくつかのパターンを教える。それらの内、条件に応じて、アドリブで適切なものを選ぶんだ。

 君の戦術眼はこの1か月でだいぶ鍛えられている。だから自分の判断を信じて走ってきなさい」

 

 それがトレーナーに言われた、今回の方針。

 そして、その日のバ場やテイオーの状態を見て、私が選んだのは……トレーナーの言った基本の走りだった。

 

 第二コーナーを抜けるまでに8バ身差を取り、そこからはミドルペースに落として後続の様子を伺う。

 特に突っ込んでくるウマ娘に警戒し、終盤まではたとえ抜かれたとしても無視して、自分のペースを保つ。

 第四コーナーから徐々にペースを上げ、最終直線でハイのローペースに持ち込み、登り坂を乗り越える。

 最後の坂を越えた先は直線、残りおおよそ300メートル。スタミナに余裕があるならここから更に加速を開始し、ハイのハイペース、つまり全力でゴールへ。

 

 今回は雨のせいで、聞き取れる範囲が狭くてリードをコントロールできないけど……。

 つまるところ、自分なりにスタミナをやりくりして、逃げて差す。

 後続を気にしない、いつものホシノウィルムらしい走りだと言えるだろう。

 

 ……問題があるとすれば。

 いつもの走りでは、テイオーに差し切られるかもしれないことか。

 

 トレーナーも、先程の言葉の後に言っていた。

 

「今回のトウカイテイオーの実力は未知数。何をしてくるか、どこまで伸びてくるかわからない。

 確かなことは1つ、警戒が必要だということだ。

 もしも後半、先程伝えたパターンでも対応しきれない事態になった場合、君が考えた最良の方法を選ぶんだ」

 

 確かに、今日のテイオーは明らかに強そうな気配を出していたし、領域も習得してるらしい。

 その上、あのトウカイテイオーだ。

 どれだけスペックが劣ってるとか、どれだけブランクがあるとか、そんなの関係ない。

 全部無視してぶっちぎって来るのが、奇跡の主人公、トウカイテイオーなのだから。

 

 

 

 だから……正直に言おう。

 私は今、少し焦っている。

 

 この1か月で、テイオーちゃんは私の知るトウカイテイオーになった。

 今の彼女には、どんなことだって不可能じゃない。

 その抜群の末脚で奇跡を起こすウマ娘だもの。

 

 今日も必ず、私を追い詰めてくる。

 決して楽な戦いにはならないはずだ。

 

 それでも……このレースには、負けたくない。

 

 

 

『さあ先頭ホシノウィルムが第三コーナーを走っている、2番手アクアリバーは10バ身以上離されて今直線を抜けた!

 現在トウカイテイオーは4番手、リオナタールは7番手の位置でそれぞれインコーナーから展開を見ているぞ』

『先頭そのまま、大ケヤキを越えて第四コーナーへ。ここから展開が動きますよ。

 おっとここでトウカイテイオー、バ群を抜け出して徐々にペースを上げていく。残りは800あるぞ、果たしてスタミナはもつのか?』

 

 

 

 来るか……?

 いつものトウカイテイオーなら、第三コーナーあたりから段々位置を上げ始める。

 それで第四コーナーに入った時には先頭を取るか好位置に付いて、最後の直線で完全に差し切って来るはずだ。

 

 ……いや、どうかな。

 第四コーナーに入っても、まだ足音は聞こえない。後方7バ身には入ってない。

 トレーナーの予想通り、四角先頭、つまり第四コーナーで先頭に立つ意図はないと見ていいだろう。

 あくまでバ群から抜け出し、私との距離を射程圏内に収めに来ただけ。

 まだまだ脚は残してあるってことだ。

 

 とすれば、やはり最終直線から来るか。

 どちらにしろコーナーで全速力は出せないし、ゆっくりと第四コーナーで差を詰めて、最後の直線で差しに来る気だ。

 全長500メートル弱、坂を越えてからも300メートル続く直線。逃げウマ娘にとっての本当の戦場。

 当然ながら、そこがこのレースの肝になる。

 

 重心をズラさないよう内ラチ沿いに走りながら、考える。

 テイオーは、どれほどの速さで来るだろう。

 7バ身の防壁は、果たしてどこまでもつだろう?

 

 彼女の末脚は、果たしてどこまでキレるか。

 私のスパートを、どれだけ上回るだろうか。

 それを考える上で、最も意識すべきは……。

 

 領域。

 

 私が持っていない、テイオーとネイチャの特権。

 自分の世界の中で限界を超えた走りを見せる、脅威のゾーン状態。

 テイオーの領域が開くか、開いたとすればどこまで速くなるか。

 これが今回のレースの分水嶺だ。

 

 ネイチャの時は、私が緩いスパートしかできなかったというのもあり、ネイチャの領域で一気に詰められてしまった。

 対して今回、私は今のところ多めにスタミナを残している。

 切れた末脚と呼んで差し支えないくらいにはスパートをかけられるはずだ。

 

 

 

『さぁ、いよいよ第四コーナーを抜けて最終直線! 東京レース場の直線は長いぞ、ホシノウィルムは逃げ切れるのか!?』

『追い上げるトウカイテイオーは現在2番手、先頭から8バ身あたりか。後続のウマ娘たちも必死に追い上げる!』

 

 

 

 コーナーを抜けて、遥か遠く見上げた先に、このレースのゴールが見えた。

 最後の坂まで50メートル駆け抜け、ここから坂を登って、いよいよ……!

 

 

 

 ……来た。

 

 

 

 後方7バ身、綺麗で軽快なこれは、間違いなくトウカイテイオーの足音。

 ここから、彼女の領域も考慮して……坂を登りきるまで6バ身以上キープすれば勝てる、はず!

 濡れて滑りやすい坂に足を踏み入れて、とにかく自分のペースを保つ。

 まだ脚は十分動く、このまま行けば……!

 

 

 

 ゾクリ、と。

 悪寒が走る。

 

 ……残り、6バ身を切った。

 

 

 

 速い。速すぎる。

 まだ坂を3分の1も登り切ってもいないのに。

 

 マズい、こっちもペースを上げなきゃ……差し切られる!

 

 咄嗟にハイのミドルまでギアを上げる。

 これなら……いや、これでも迫られてる!

 

 でも……それでも、このペースで行くしかない。

 これ以上ペースを上げたら、最後の最後で力尽きて垂れてしまう。

 

 だからこのまま……このペースで、何としても最後まで逃げ切るんだ!

 

 

 

『トウカイテイオー後続を引き離して一気に迫る! 残り400時点で後方6バ身! このペースを維持できるのか!?』

『ジリジリとホシノウィルムを追い上げていますよ! このペースで迫り続ければ蛇の牙城も崩れ去るかもしれません!』

 

 

 

 負ける。

 このままじゃ、負ける。

 

「はっ、はっ……く、寒い……!」

 

 悪寒が。

 これまでにない寒さが、心を凍らせて来る。

 

 落ち着け。掛かるな。大丈夫。

 私は……私が負けたって、トレーナーさんは待ってくれてるんだから。

 だから、私は大丈夫。

 この寒さも、乗りこなせる。

 だから落ち着いて、とにかく今はペースを守って……!

 

 

 

『さぁ先頭ホシノウィルムが坂を登り切り、いよいよ残り300メートル!』

『トウカイテイオー、驚異の末脚です! このまま詰め寄ることができるか?』

 

 

 

 やっと、坂を登りきる。

 テイオーの足音は……あと、5バ身!

 

 トウカイテイオーが7バ身まで迫ってきたのは、坂を登り始めた時。残り450メートル程度だ。

 そして今、坂が終わって残り300メートル。

 つまりは150メートルで2バ身詰められてる計算になる。

 

 ここからもテイオーが同じペースで来るなら、ギリギリ1バ身差で逃げ切れる、けど……!

 

 

 

 トウカイテイオーの足音が、更に速く迫る。

 ……まだ、加速するの!?

 

 

 

 トレーナーから聞いた言葉を思い出す。

 

『トウカイテイオーに詰め寄られるな。少なくとも、2バ身以上を保て。

 恐らく彼女の領域は、すぐ目の前に追い越せる誰かがいなければ発動できない』

 

 残り、4バ身……このままじゃ、残り200メートルくらいでその危険域に迫られる。

 

 どうする、このままじゃ……逃げ切れない。

 もっとスピードを上げたいけど……クソ、脚が重い!

 グリーンベルトを走ってきたとはいえ、風と雨、それに重バ場にスタミナを削られ過ぎた。

 その上さっきの坂でペースを上げたせいで、最低限の余裕すら残ってない。

 

 むしろテイオーは、なんでここまで走れるんだ。

 どこかでを脚を溜めた?

 あるいはそれだけ仕上げて来たってこと?

 皐月賞時点では、私より遥かにスタミナが低かったはずのに……!

 

「っ……!」

 

 ……駄目だ、やっぱりこれ以上の速度は出せない。

 

 マズい、どうする、どうすればいい!

 

 

 

 

『トウカイテイオー迫る迫る! ホシノウィルム逃げ切れるか!? 残り200で2バ身を切ったぞ!』

『ここまでの展開は皐月賞終盤に似ています。けれど今回は、既にハイペースもハイペース!

 ここから更に加速し、追いすがる帝王から逃げ切れるのか!?』

 

 

 

「くっ……うう」

 

 そうして、ついに。

 

 差が、1バ身を切って。

 

 

 

 吹き抜ける風と共に、世界が、塗り替わる。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 豪雨にすら負けず、今、目の前に青空が広がる。

 その中を、1人のウマ娘が跳び回っていた。

 

「勝つのは……ボクッ!」

 

 誰よりも自由に、誰よりも軽やかに、空の彼方まで跳び上がり……。

 彼方にある、星に、手を伸ばす。

 

「トウカイテイオーだっ!!」

 

 その背を、一陣の風が押し上げた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 雨の中でも、その瞬間、彼女が地面を踏みしめた音が聞こえた。

 

「勝負、だぁぁぁぁぁああああああ!!」

 

 それは。

 

「っ、くっ!」

 

 私が気圧されるほどの、とんでもない存在感と共に。

 

 一瞬で、私との差を埋め尽くして……。

 

 

 

 

 

 

『トウカイテイオー、トウカイテイオーだ!!

 トウカイテイオーが今、ホシノウィルムと……並ばない!! かわしたかわした、トウカイテイオーが先頭!!』

『とんでもない末脚だトウカイテイオー!! これが皇帝を追う帝王の本当の底力なのか!!』

 

 

 

 

 

 

 私は、抜かされた。

 

 

 

 ……負けた。

 

 

 

 どうしようもない。

 この速度のトウカイテイオーには追い付けない。

 遥か彼方に走り去るあの背中に、追いすがることだってできはしない。

 

 

 

 すごく、寒い。

 負ける。

 負けることが、決まったのが、冷たくて。

 

 寒くて。

 寒いけど……。

 寒いのに、それ以上に。 

 

 

 

 この気持ちは、何?

 

 

 

 何か、熱いものが、心にある。

 

 いつも、ネイチャから感じていたような何かが。

 まさに、テイオーから感じているような何かが。

 

 今、私の中に、ある。

 

 

 

「……私、」

 

 この感情は何なんだろう。

 

 冷たいのに、熱い。

 

 私は、どうしてしまったんだろう。

 

 

 

 いや、そんなの……どうでもいい。

 

 大事なことは、1つだ。

 

 

 

「負け、たくっ……ない!」

 

 

 

 思考は凍り付き固まって。

 けれど熱い想いが、脚を前に押し出す。

 

 勝つ。

 このレースに。

 トウカイテイオーに。

 

 

 

 ……たとえ、何を使ってでも!

 

 

 

 一発勝負だ。

 練習もできてない。頭の中に構想があるだけ。

 もし失敗でもすれば、どんなことになるかわかったものじゃない。

 

 それでも、これを使わなきゃ、このまま彼女に負けるだけだから。

 

 勝つには、やるしかないんだ。

 

 

 

 ずっと、考えていた。

 人の体の形は走るのに向いていない。

 複雑化し、万能性を持たせたが故に、走行という行為に特化していない。

 風の抵抗を受ける面積が広いから、どうしたって空気抵抗で勢いが弱まる。遅くなってしまう。

 

 では、どうすればいい?

 

 もっと効率良く走るには。

 

 極限まで抵抗を受けないようにするには。

 

 ……皮肉なことに。

 それを教えてくれたのは、今目の前を走っているテイオーだ。

 

 トウカイテイオーの走法は、極めて柔軟な関節によって成り立っている。

 つまり、どれだけその走法を研究したところで、天性の才能を持たなくては再現できない。

 

 ……逆に言えば、脚の柔軟さがあれば、無茶な走法が可能になるわけで。

 

 それなら、私にできないわけがないんだ。

 私は、特典に強い体を授かった、転生チートウマ娘なんだから!

 

 

 

 何度も何度も何度も何度も、彼女の足首と膝を見た。

 そのめちゃくちゃな走り方をどう改造するか。どう自分の体に合わせるか。

 自分の理想の走りと、現実の走りの差異を埋めるには、どうすればいいか。

 

 ずっとずっと、1か月の間考え続けて……。

 それでようやく、自分の中にその形を組み上げた。

 

 上半身を前に倒す。歩幅を更に広く。

 倒れようとする体を、無理やり地面を蹴飛ばすことで維持して。

 

 

 

 さあ。

 せっかく世間から付けてもらったあだ名だ。

 ここからは、蛇らしく行こうか。

 

「すぅぅうううう……」

 

 

 

 ……捨て身の、前傾スパート、開始。

 

 

 

『なっ、ホシノウィルム体勢を崩し……!?

 い、いや違う! 走っています、事故ではありません! むしろ加速している!!

 これは……この極端なまでの前傾姿勢は!?』

『芦毛の怪物オグリキャップを思わせる走り方です!!

 まさか、異次元だけでなく怪物をも受け継ぐというのかこのウマ娘は!!』

 

 

 

 ああ、やっぱり、ずっと良い。

 風も、雨も、その抵抗が小さくなった。

 これなら疲れないし、もっと楽に速く走れる。

 

 それでも、領域の中にいるテイオーよりは遅いけれど……。

 

 

 

 でもさ、テイオー。

 

 300メートルの間、本当にその速度が続くの?

 

 

 

 残り、130メートルくらいか。

 テイオーとの距離が3バ身に開いた、その時。

 

 風が止む。その脚が、衰えを見せる。

 ……やっぱり。やっぱりそうだ。

 テイオー、無理に前に出たな。

 

 最終直線に入ったら、残った脚を豪快に使って、先頭に躍り出る。

 限界が来たら脚を緩め、そこで稼いだリードで逃げ切る。

 私の戦術、逃げて差すの逆。

 300メートル区間の中で、差して逃げる作戦だったんだ。

 

 

 

 でも、テイオー。

 

 ……ホシノウィルムを、甘く見るな。

 

 今の私なら、あなたの速度に……詰め寄れる!!

 

 

 

「勝負、です! トウカイ……テイオー!!」

 

 

 

『後続との距離は既に大差に開き、再び蛇と帝王によるマッチレース!!

 一度は完全に突き放したかと思いきや、今度は蛇が帝王に迫る展開だ!!』

『逃げるウマ娘と差すウマ娘が逆転しました!

 残り100メートル、果たして空を飛ぶように駆ける帝王が逃げ切るのか、地を這うように迫る蛇が差し切るのか!?』

 

 

 

「……く、はっ」

 

 まず、息が……上手く吸えない。

 

 視界が、白く、歪んでいく。

 気付けば脚の感覚がない。

 思考も……乱れる。自分のフォームを保つことと、テイオーとの距離を見るので精いっぱい。

 

 この走法、予想以上に……負荷が大きい。

 多分、というか間違いなく、この走り方は体に悪いんだろう。

 

 私の命が……脚の寿命が、削られていく。

 

 

 

 それでも。

 テイオーとの距離は、縮まってる。

 

 

 

 そうしてようやく、今。

 互いの言葉が届く距離へ。

 

「やっぱり、来たッ! ウィルムッ!」

 

 テイオーがこちらに振り向く。

 その瞳から、目の前に広がる空と同じ色の、光とも炎とも取れない何かが溢れた気がした。

 気迫は十分、負けるものかという威圧感が私に叩きつけられる。

 

 ……けれど、もう彼女にも余裕なんてあるはずもない。

 その表情は、苦悶と真剣さ……そして、喜びに満ちている。

 

 

 

 何も言わなくても、わかる。

 

 私と彼女は同じだ。

 煮えたぎるような熱に浮かされている。

 

 何を使っても、この命を燃やしてでも。

 ただ、今、このレースに勝ちたい。

 目の前にいる、最高のライバルを超えたくて仕方ない。

 

 ただそれだけ。

 私たちの間にあるのは、ただそれだけなんだ。

 

 

 

「テイオー!」

 

 息が苦しいのに、言葉が口を突いて出た。

 そんなの、ただのスタミナの浪費だってわかってるのに。

 それなのに、自制の仮面なんて貫通して、臓腑から込み上げる熱が口から吐き出された。

 

 

 

「私がッ! 勝つッ!!」

 

 

 

 もっと、もっと速く。

 越えろ、あの背中を。

 トウカイテイオーを。

 ……私が憧れた、ウマ娘を!

 

 走れ、走れ、走れ走れ走れ!

 

 脚を動かして、無理を押し通して、無茶苦茶なフォームを維持して。

 視界が歪んでも、感覚がなくなっても……全てを懸けて!!

 

 

 

 走れッ!!

 

 

 

 縮まる。

 

 差が、縮まる。

 

 テイオーまで、あと、1バ身。

 

 ゴールまで、あと、何メートルある?

 

 あと……30?

 

 

 

 ……間に合わない。

 

 

 

 青空を駆ける天才は、もう誰にも止められない。

 

 このまま、ゴールへ……。

 

 

 

 

 

 

 行かせて、たまるかッ!

 

 

 

「っく、がぁぁぁぁああああああああ!!」

 

 

 

『残り距離は僅か! 蛇と帝王の差も僅か! どっちだどっちだどっちが勝つんだ!?』

『蛇の顎が帝王の首に迫る! だが僅かに届かないか! このまま帝王が差して逃げ切るのか!?』

 

 

 

 諦めない、絶対に諦めない!

 

 トウカイテイオーは諦めなかった!

 不可能と言われようとも、誰からも期待されずとも、それでも絶対に諦めなかった!!

 

 だから、私だって、最後まで諦めない!

 

 

 

 既に限界を迎えた体を、体中から溢れる熱が前に押し出す。

 

 勝たなきゃいけない理由がある。

 私をここまで連れてきてくれた人に、お礼がしたいから。

 

 負けたくないという願いがある。

 あの時浴びた歓声と期待に、私なりに応えたいから。

 

 でも、それらと同じくらいに……身勝手な欲望があった。

 氷みたいに冷たい体とは真逆の、触れれば焼かれる炎のような熱い想い。

 

 私は……。

 

 

 

 ……いや、私だって!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私だって、勝ちたいんだッ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……君の勝ちだよ、ウィルム」

 

 

 

 青空が、雨に溶けて消えた。

 

 

 

 

 

 

『大接戦でゴォォオオル!!

 ゴール直前でほんの僅か差し切ったホシノウィルム、ハナ差で日本ダービーを制しました!!

 逃げて差し、差して逃げ、最後の最後に差し返した! 見た者の心を揺さぶる、とんでもないレースでした!!』

『異次元だけでなく怪物まで受け継ぎ、彼女が出走叶わなかったダービーに勝利! 

 古き伝説を受け継いで紡がれる、これが新たな時代! これが新たな優駿だ!!

 ホシノウィルムは無敗のまま二冠を手にし、新たな伝説は秋の京都へ受け継がれていく!!』

 

 

 

 

 

 

 ……やった。

 勝てた。

 

 これで、トレーナー、も……。

 

 ダー、ビー……トレー……ナ…………。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……その後の顛末。

 

 ダービーで1着を取った私は、レース直後に意識を失って倒れこみ、そのまま病院に搬送。

 ハナ差で2着になったテイオーは、すぐに現れた救急隊による緊急の診察が行われ、骨折の疑いがあったので同じく病院に搬送。

 誇りある日本ダービーは、何とも言えない不安と微妙な空気感の中、終わった。

 

 ウイニングライブは私もテイオーも不在だったので、すごく大変だったらしい。

 特に、大差を付けられて3着になったリオナタールには、すごく迷惑をかけちゃった。本当に申し訳ない。

 

 

 

 で、私はただ酸素が足りなくて失神しただけなので、すぐに退院……。

 というわけにもいかず。

 あの無茶な走りで軽い肉離れを起こしてしまい、1週間の間、病院のベッドに拘束されることになってしまった。

 ……折れたり腫れたりしなくてよかったよ、本当に。

 

 お医者さん曰く、3日くらい安静にした後リハビリしていけば、1週間程度で普通に走れるようになるらしい。

 本来は入院する必要もないようなものなんだけど、「放っておいたら自主トレしちゃうから」ということで、トレーナーが無理やり入院って形にしたみたいだ。

 信頼ないなぁ。トレーナーが本気で言えば、ちゃんと自主トレやめるのに。……覚えてる限りは。

 

 

 

 私が入院してる間、トレーナーはどうやらとても忙しかったらしく、東奔西走してたみたいだ。

 近況報告したり、しばらく私を励ましてくれたり、リハビリのメニューを作ったりするくらいで、毎回雑談する暇もなく逃げるように病室から出ていってしまう。

 ちょっと寂しいんだけど……でも、仕方ないね。

 

 トレーナーはジュニア級の子たちの間ではスパルタトレーナーで通ってるらしい。多分世間から見てもそうだ。

 だから、そんなトレーナーの担当ウマ娘が……それも無敗で二冠を取ったウマ娘がレース後に失神なんてすれば、そりゃあ騒がれてしまうわけだ。

 

 本当に、トレーナーには申し訳ないことをしてしまった。

 ダービートレーナーの称号をあげたかったとはいえ……あんなクマを作らせるつもりじゃなかったんだけどな。

 「大丈夫、全て適切に処理しておくから、君は安心してリハビリしていなさい」なんて言われても……。

 そんな表情されちゃ、心配もしちゃうよ。

 

 

 

 ……結局、今回の日本ダービーは。

 テイオーも同時に骨折を起こしたせいで、世間から見て「あまりにも熾烈な命を削るレースの結果、2人のチャンピオンが共倒れになった」みたいな印象に落ち着いたらしい。

 

「テイオー……早く治るといいね」

 

 テイオーは、やっぱりというか、骨折してしまった。

 今は私と同じ病院に入院している。

 ……でも、聞いた話、菊花賞には間に合わないけど、年末あたりには完全復帰する予定らしい。

 

 正直うろ覚えだけど、確か前世アニメじゃ……うん、レースへの復帰は次の年の春からだったと思う。

 それに比べれば……勿論回避できなかったのは残念だけど、それでもだいぶマシな結果にはなった。

 

 トレーナーが手配してくれた救護班が速やかに対応してくれた結果か。

 ……あるいはあの時、彼女が自分から領域を閉じて、速度を緩めた結果か。

 

 

 

 後から聞いた話なんだけど、テイオーはダービーを走るにあたって、彼女のトレーナーと1つの約束をしたらしい。

 自由に、本気で走って良い。けれどその代わり、脚に違和感を覚えたら、絶対に歩幅を狭めてスピードを落とすこと。

 そしてそれを、テイオーは守った。

 今回のレースの勝利を求めるだけじゃなく、次回以降のレースでも勝つために。

 

 ……堀野トレーナーの忠言は、どうやらきちんと意味を成したらしい。

 本当に……うん、肩の荷が下りた気分だ。

 

「今回は脚がもたなくてギリギリ負けちゃったけど、ボクのトゥインクルシリーズはまだまだこれからだもん!

 ちゃんと治して、今以上に鍛え上げて、またウィルムに挑むからね!

 ウィルムもネイチャも、カイチョーも! いつかちぎっちゃうもんねー!」

 

 リハビリがてらに訪ねて行った先で、テイオーは笑顔でそう言った。

 ……無理に作った笑顔って感じじゃない。

 これから先を見据えた、充足感のある表情だったと思う。

 

 前世アニメでは結構へこんでいたテイオーだけど、この世界だとまだまだこれからって意気込んでいる。

 もしかして、私との走りが、何か彼女に影響を与えたのだろうか。……流石に思い上がりすぎかな?

 

 とにかく、テイオーは……その辛い運命にちゃんと向き合って、打ち勝つことができたらしい。

 うん。一安心、だね。

 

 

 

 彼女はもう、ネイチャと並ぶ、私の大好きなライバルであり友達だ。

 だから……。

 

「ええ、また走りましょう。……でも、次も負けませんよ、テイオー」

 

 きっとまた、今度は違う距離や違うレース場で、彼女と競い合いたい。

 その未来を想って、私は少しだけ口の端を吊り上げた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 それから1週間が過ぎて、普通に退院はできたんだけど……。

 

 実のところ、本当の問題は、そこから先だったんだ。

 

 

 

「…………」

「あの、トレーナー」

「…………」

「その、すみませんでした……」 

 

 トレーナー室で、私は黙り込むトレーナーに平謝りした。

 

 いや、本当に迷惑をかけてしまった。

 ダービーでの苦戦でひやひやさせてしまったし、そこで伝えてすらいない走法で勝手に走り、失神して心配させた上に世間からの風評はえらいことになってしまって、その上1週間入院してトレーニングもできなかった。

 宝塚記念までは、あと1週間しかない。

 トレーナー曰く、今回以上の厳しいレースになるって言ってたし、もっと鍛え上げたいってのが本音だっただろうに。

 

 他に何と言って謝ればいいか考えていると、トレーナーがゆっくりと口を開く。

 

「謝らなければならないのは俺だ。

 トウカイテイオーの実力を見誤り、適切な作戦を考えられなかった。

 結果として君の脚を酷く消耗させてしまい、こんな結果を招いたんだから」

「そんなことはありません。私が勝手にやったことです」

「そんなこと、あるんだよ。

 すまなかった、ホシノウィルム。やはり俺は……いや」

 

 トレーナーは一度首を振り、いつもの無表情で……。

 

 いや、違う?

 

 何、その顔……? 見たことない、冷たい……。

 

「話がある、ホシノウィルム。君の今後に関する、非常に大切な話だ」

「もしかして、宝塚記念の出走回避ですか? いえ、ですが、今の私なら負けても……」

「いや、もっと重要な話だ」

 

 仮面の下で困惑している私に対して……。

 彼は、見たことのない冷たい無表情で、告げた。

 

 

 

 

 

 

「ホシノウィルム。

 他のトレーナーから指導を受ける気はないか」

 

 

 







 緊迫した場面ですが、この章はここでおしまいです。
 次回はいつもと違い、おまけも挟まず、そのまま新章突入。
 ……そして次の章が、最後の章になる予定です。

 2人の転生者のお話はいよいよクライマックス。
 果たしてその関係は、どこに行き着くのか?
 是非最後まで、2人のお話にお付き合いください。



 この時点での相互評価

トレ→ウマ:自分はホシノウィルムに相応しくないのかもしれない。
ウマ→トレ:……私は、トレーナーに……相応しくない、ってこと?



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、ガチギレの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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転生者と宝塚と、終わりの季節
クソボケダメダメ転生者


 別にこの人スパダリでも何でもなく、ただの転生者なんですよって話。





 

 

 

 昔、この世界に生まれるよりもさらに前、前世で子供だった頃から。

 自分は要領の良くない方だという自覚があった。

 

 相応に努力するだけでは他人より成果が少ない。

 他人の倍努力して、ようやく並んだこともあった。

 勉強も、運動も、受験も、就職も、仕事も。

 大抵は結構苦労したし、そして大抵は人より良い結果を得られなかった。

 

 特に前世は酷いものだった。

 今世よりも、ずっとてきとうに生きていた……良く言えば等身大、悪く言えば覚悟のない人間だったからな。

 勉強も体作りも、そして未来のための行動も、何もかもてきとうに済ませてしまい……。

 至極当然の話だけど、中途半端な人間には中途半端な人生と、中途半端な終わりが待っていた。

 

 あの日、残業でパソコンをカタカタと叩いていた俺は……。

 信頼していた後輩に、灰皿で後ろからガツンといかれてしまった。

 それが、俺の前世最後の記憶である。

 

 残念ながら、俺は彼と信頼関係を築けなかった……いや、築こうとしたけど足りなかった、ってことだ。

 多分何かを勘違いされたか、逆恨みされたかだと思うんだけど……。

 もはや前の世界には戻れないので、確かめようがない。

 ……今改めて思い出すと、あの部下にはちょっと申し訳ないことをしてしまった。

 いや、俺は受動側だから、申し訳ないことになってしまった、が正しいか。

 俺なんかを殴り殺して刑務所行きなんて、コスパが悪すぎるからな。

 

 で、そんな半端な人生を終え、奇跡的に来世を得た俺は、当然ながら奮い立った。

 今度こそ、良い一生にする。

 何もできなかった前世と違う、何かを成し遂げられるような人間になりたい。

 

 そんな俺にとって、父から言い聞かされた堀野のトレーナーという像は、これ以上ない明確な目標だったんだ。

 

 非才の身ではあるが、俺には「アプリ転生」と前世の知識があった。

 才能とは別部分、ズル(チート)とでも言うべき、1つのアドバンテージ。

 

 これはきっと、俺の要領の悪さも補ってくれるだけの強みであるはず。

 生まれてからずっと努力を怠らなければ、きっとマシなトレーナーになれる。

 名家の出、膨大なデータ、アプリ転生。状況は出来すぎなくらいに整っていた。

 まるで、世界が俺をトレーナーに導いているようにさえ感じたものだ。

 

 

 

 何もなせずに死ぬのはもうイヤだ。

 俺だって、誇れるものが欲しい。

 トレーナーとしてこれ以上ない活躍をし、誇りを持った死に方をしたい。

 

 ……結局のところ。

 俺の行動原理の大元は、そういう自分勝手な欲望から来ているのだ。

 

 

 

 もしかすると、そういう部分が祟ったのかもしれない。

 俺は20年の努力を積んだ後でも、中途半端でダメダメなままだった。

 

 例えば、精神性がトレーナーに向いてない。

 細かいことを気にしてしまうし、勝率を数値化してしまい、担当の勝利を心から信じることができない。

 すぐにナーバスになってしまうし、1人で考え込んでしまう。

 最近ようやく振り切ったけど、レースに敗北するウマ娘のことを考えると……才能がなくて何もなせずに引退する子もいるのだと思うと、心が酷く痛む。

 

 例えば、どこまで担当に寄り添えているかわからない。

 ホシノウィルムに信頼されている、という自覚はある。

 けれどそれが、トレーナーとして十分なものであるかはわからない。

 果たして俺は、契約トレーナーとして、ホシノウィルムと適切な距離感を保てているのか?

 ……わからない。そしてそれがわからないことこそ、トレーナーとしての実力不足だと思う。

 

 例えば、トレーナーとしての能力も足りていない。

 最初は大きな差が開いていたはずのネイチャは、ホシノウィルムを追い詰めて本気を出させ。

 皐月賞では圧勝したテイオーは、ダービーでは一度ホシノウィルムをかわし、無茶なフォームを引き出させた。

 領域も、覚醒も。俺がホシノウィルムをそこに導ければ差は開かなかった。

 作戦だって、もっと相手や状況に合わせた完璧なものを立てられたはずだ。

 ひとえに俺の指導力不足で、ホシノウィルムはライバルとの実力差を詰められているんだ。

 

 特にネイチャのトレーナーは俺の同期、担当を持てるようになったのは俺と同じタイミングだ。

 それなのに……圧倒的な差があったはずのホシノウィルムとナイスネイチャの間に、今はほとんど差が存在しない。

 それだけ彼の指導力が飛びぬけているということであり……俺が、ホシノウィルムを導くに足るトレーナーではなかったことの証明だ。

 

 考えてみれば、思い上がっていたのかもしれない。

 20年間積み上げてきた研鑽が、俺に余計な自信を付けさせた。

 ここまで努力を怠らなければ、自分だってまともにトレーナーができるはずだ、と。

 

 でも実際は、そんなことはなかった。

 俺はスカウトすらまともに受けてもらえず、せっかく契約してくれたウマ娘を適切に導くこともままならない。

 

 堀野の最優先目標である、担当の心に寄り添うことは……思い上がりでなければ、できていると思う。

 けれどそれも、もっと上手く寄り添える方法があったのではないか?

 俺は兄程にウマ娘の心理について詳しくはない。もっときちんと勉強していれば、そこだってもっと早く解決できていたはずだ。

 

 そして、仮に彼女に寄り添えたとしても、それは俺のエゴではないか?

 彼女の望みを曲解しているのではないか? 俺は彼女の心を正しく理解できているのか?

 

 

 

 果たして……俺という半端者が、ホシノウィルムという稀代の天才ウマ娘を担当してよかったのだろうか?

 もっと適した、彼女の運命のトレーナーが、どこかにいるのではないか?

 

 

 

 ……いや、これに関しては、考えても仕方ないだろうけどさ。

 仮定の話なんて何も意味がないのはわかってる。

 わかってるけど……それでも。

 

 俺みたいなモブじゃない、それこそ前世アプリの主人公(トレーナー)のように芯の通った人が付けば。

 

 ……彼女はもっと、心の底から、笑えていたんじゃないか。

 

 

 

 結局のところ、思考はそこに落ち着く。

 まったく、何目線の言葉なんだって自分でも思うけどさ。

 

 俺は、ホシノウィルムに幸せになってほしい。

 辛い過去を持つ彼女に、もっと明るい人生を歩んでほしいんだよ。

 

 俺はあくまでトレーナーとして、彼女の心に寄り添っている。

 これまでしてきた判断……彼女と取ったコミュニケーションも、可能な限り熱くなれるレースをセッティングしたのも、全て堀野のトレーナーとして正しい判断をしたはずだ。

 けれど……そこに、俺の個人的感情が欠片たりともなかった、とは……断言できない。

 

 俺はいつの間にか、トレーナーとしてだけではなく……。

 俺という個人の感情で、彼女を応援していた。

 

 いつの間に、こんなに感情移入してしまったんだろうな。

 皐月賞で、彼女のことだけを考えると決めたあたり?

 あるいは、彼女の過去を聞いた時か?

 メイクデビューで、彼女の圧倒的な才能を確認してから?

 彼女との自己紹介を済ませ、不器用な笑顔を見たタイミング?

 ……あるいは、あの夜、彼女を放っておけないと思った瞬間に?

 

 ……あーあ。

 こういうところも、トレーナー失格なんだよ。

 

 不幸せな少女に、幸せになってほしい。

 それはファンの思想であって、堀野のトレーナーの思考であってはならないのに。

 

 ……まぁ、今はいいんだ。2つの想いは相反するものではないから。

 とにかく、俺が取るべき行動は……ホシノウィルムというウマ娘に、最適の環境を整えること。

 堀野のトレーナーとして、彼女の将来を想うことだ。

 

 だから……。

 そのためなら、彼女が俺以外のトレーナーに付くことも、許容するべきなんだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「ホシノウィルム。

 他のトレーナーから指導を受ける気はないか」

 

 

 

 そう告げた時の、彼女の表情の変化を、何と形容すれば良いか。

 

 その無表情の仮面が割れて……。

 

 そこに表れたのは、凍り付いた彼女の素顔。

 驚愕、であり。

 呆然、であり。

 困惑、であり。

 

 ……強いて言えば、絶望、という言葉が最も適切だっただろうか。

 

 

 

「…………それは、どういう意味でしょう」

 

 表情は歪み、声音は震えていた。

 今にも破裂しそうな感情と共に、どうか自分の想像した最悪を否定してほしいという、悲痛な響きが部屋に反響する。

 

 不安を感じているのか。

 しまった、そんな想いを抱かせるつもりはなかったのに。

 

 ……落ち着け。

 一度深呼吸しろ。

 謝意も焦りも自責も疲労も、今は一旦抑え付けろ。

 自分のことは後回し、担当のことを考えるんだ。

 

 俺は今も、これからも、彼女のトレーナーなんだから。

 

「私は、もう、不要だと……? 契約を、破棄……すると」

「違う」

 

 強く意思を込めて、首を振る。

 

 そんなわけがない。

 一度担当した以上、最後の時まで責任は取るとも。

 

 だからこそ、だ。

 

「俺は君のトレーナーだ。君から離れはしない。

 ……ただ、俺の実力不足で、君に苦労をかけているというのも事実」

 

 デスクの引き出しから、数枚の書類を取り出す。

 

「これは……簡単に言うと、委任状だ。

 俺がトレーナーであることに変わりはないが、君のトレーニングについてだけ、もっとベテランのトレーナーに委任しようと考えている」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 契機になったのは、ミホノブルボンの逆スカウトだった。

 ホシノウィルムが、本当の本気を見せたあの日、彼女からかけられた言葉。

 

「堀野トレーナー、申請します。

 どうか、私と契約してはいただけませんか」

 

 その淡々とした発言に、俺は多分、少しだけ眉をひそめてしまった。

 

 

 

 俺は新人トレーナーであり、持つことのできる担当は1人だけ。

 これは一応、規則として明記されているわけではない。いわゆる不文律というヤツだ。

 だが慣習として、担当を増やす時は秋月理事長に呼び出され、辞令を受けることになっている。

 

 そして、そうでないとしても、最初の内から複数の担当を持つトレーナーはいないだろう。

 理由は簡単、忙しすぎるからである。

 

 

 

 基本的に新人トレーナーはまず、サブトレーナーや教官という役割を通して、トレーナーの実務を確認する。

 そしてそこで、皆痛感するのだ。

 「トレーナーって激務なのでは……?」と。

 

 担当とのコミュニケーションやトレーニング、調子を整えるためのお出かけ。

 前世のアプリでは、主にこの辺だけでよかった。

 けど、現実になるとそんな甘い話はない。

 

 まず書類。担当ウマ娘との契約は勿論、トゥインクルシリーズやクラシックへの登録、レースへの出走登録に、グラウンドや施設の貸し出し許可の取得、グッズ展開した際のロイヤリティや肖像権、著作権に関する確認と認可。これらは有名になればなるほど、加速度的に増える。

 次に経理。担当ウマ娘が履き潰した靴やよれよれになったウェアを買い替えたり、消耗品を買ったりした際の領収書をまとめて、日毎に発生する取引に応じて仕訳し、月に一度試算表を組んで上に提出。

 そして報告。自分が行ったトレーニングや担当ウマ娘の調子、それらについての考察、ローテーションに沿ったこれからの予定をまとめて管理し、見やすいように整え、トレセンと家に送り付ける。

 

 ……これが日常的に発生するデスクワーク。

 ここに不定期に発生する仕事がいくつも積み重なる。なんならそっちの方が多い。

 

 更に、何日にも渡る他陣営の調査や、次のレースに向けたレース場の視察や考察、インタビューや取材の応答の可否とスケジューリング、トレーニングの付き添い、新しいトレーニング法やシューズ、蹄鉄に関する論文の読破……。

 やることは多い。あまりにも多すぎる。

 

 中央のトレーナーは優秀でないとなれない。

 免許を取る時に教養を、面接では人柄を測られるため、総合的に優れた人間しか採用されない。

 だが、選定基準が厳しいのも当然の話。

 そもそもそれだけ優秀でないと、長続きしないのだ。

 トレーナーになれば、バ鹿みたいな量の仕事を毎日こなさないといけない。

 慣れない最初の内は、1人担当するだけでもかなりの負荷になる。ソースは俺。

 

 故にこそ、最初の内から2人も担当なんてすれば、まず間違いなくパンクする。心か体のどちらかが。

 

 

 

 では、2人以上を同時に担当するにはどうすればいいか?

 答えは、「慣れるしかない」。ひたすら反復して、業務にかかる時間を短縮するしかないのだ。

 だからこそ、担当を2人持つのは3年以上経験を積んでから……というのが、不文律として通っているのだった。

 

 実のところ、俺も担当を2人持つのは難しい。

 多分業務的にはギリギリこなせるが、ホシノウィルムのトレーニングに付き合う余裕はなくなるだろう。

 そして何より、ただでさえ良くない風評をこれ以上落としたくはない。

 特にクラシック級、つまりホシノウィルムと同期の子からの評判は著しく悪いからな……。

 不文律とはいえ、ルールはルール。守るに越したことはないのである。

 

 故に、ブルボンの逆スカウトは断るしかないわけだ。

 心苦しいが、彼女を支えられるトレーナーは他にもいるはずだ。

 どうか彼女が運命のトレーナーと巡り合えるよう、祈るばかりである。

 

 

 

「悪いが、俺は既に担当を持っている。他のトレーナーを当たれ」

 

 少し悩んだ末にそう告げたが……ブルボンは強情だった。

 

「お願いします。あなた以外に、私のマスターの適性者は存在しないものと推測します」

 

 その後、何度丁重に断ってもずっと付いて来るので、ひとまず「前向きに検討する」という便利な言葉でその場を収めたのだが……。

 

 今になって考えると、その話こそが、俺に1つのアイデアを与えたのだ。

 

 

 

 ホシノウィルムは、勘違いでなければ、俺を慕ってくれている。

 彼女が持っているのは恐らく、肉親……父親に向けるような、敬愛と信頼の感情だろう。

 彼女は幼い頃、唯一自分を愛してくれた父親に依存していた時期があった。

 そうして、父親が逝去によっていなくなり、空いた位置に……代わりに俺が収まったのだろう。

 

 いつかはその依存心も取り除くつもりだが、今は少し時期が悪い。

 ひとまずは「最初の三年間」を共に乗り越え、その間にゆっくりと色んなことに興味を持たせ、依存できる先を増やしていくのが妥当な方針だろうな。

 

 少なくとも、現時点でホシノウィルムのそのあたりを突くのは良策ではない。

 ……いや、さっき少しだけ触ってしまったけども。今思うと、もう少し切り出し方を考えるべきだったな。

 

 その精神衛生を考えて、現時点で俺が彼女から離れることは、負の結果をもたらす可能性が高い。

 しかし、俺にはホシノウィルムに適切なトレーニングを課すスケジューリングができないのも事実。

 忸怩たる思いだが、所詮俺は父親代わりにしかならないのだ。

 

 

 

 トレーナー契約を解除するわけにはいかないが、適切にトレーニングを付けられないというジレンマ。

 更にその上、俺に契約してほしいというジュニア級の子まで現れた。

 状況が絡み合い、なかなかに難しい問題となってしまった。

 

 ……だが、問題というものには正解があるもの。

 俺は考えに考え、この状況の解決策を見出した。

 

 そう。

 父親としての役割と、トレーナーとしての役割を、別人に分ければいいのである。

 

 俺がホシノウィルムの精神的支柱となり、彼女の調子を整え、その心を支える。

 一方で誰かベテランのトレーナーに、正しくトレーニングを付けてもらう。

 それなら俺も余裕ができるので、あるいはブルボンに手を貸すことくらいはできるかもしれない。

 ホシノウィルムとブルボンを半分ずつ担当していると言えば、不文律に抵触しても言い訳くらいはできるだろうし。

 

 これなら、現状煩雑に転がっている複数の問題を、全て解決できる。

 ホシノウィルムはメンタルを保ちながら、今以上のトレーニングが積めるだろう。

 俺もよそ見をすることなく、彼女の心に寄り添うことに専念できる。

 ブルボンの面倒も多少は見ることができるようになるかもしれない。

 

 全員ウィンウィンのオールハッピーな策である。

 思い付いた時は、我ながら珍しく冴えていると思ったものだ。

 

 

 

 ……とはいえ。

 実際にホシノウィルムに他トレーナーの指導が必要かどうかは、難しいラインだった。

 俺だって一応は名家のトレーナー、その知識には多少の自信がある。

 経験や慣れこそないとはいえ、適したトレーニングを付ける能力は……まぁ、そこそこはあるはず。

 

 委任契約を結べば、様々な制約や条件に縛られるし、これまでとトレーニングの方式も大きく変わってくるだろう。

 煩雑な契約をし、ホシノウィルムに不慣れな環境でトレーニングをさせるだけのメリットがあるのかは……ダービー前の俺には計り切れなかった。

 

 結局のところ、ホシノウィルムがこのまま事故もなく勝ち続けることができれば問題ないわけで。

 俺から見て勝率が8、9割あるトウカイテイオーとのダービーで余裕ある勝ち方をできれば、今一度考え直してもいいかもしれない。

 結果次第では、申し訳ないけど、やはりブルボンの要求は受けられないかもしれないな……。

 

 ……そう思い、俺が見守る目の前で。

 トウカイテイオーは俺の予測を遥かに超えた実力を見せ。

 ホシノウィルムはトウカイテイオーにかわされ。

 無茶なフォームを強要されて……。

 なんとか差し切った直後、意識を失って倒れこんだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「日本ダービーを見て、思い知った。

 俺は、君のトレーナーとしてあまりに力不足だ。

 調査能力も、作戦の立案も、勿論君のスケジューリングも。その全てが足りなかったが故に、こうして君に無茶をさせてしまった」

 

 情けない話だ。

 ここまでトレーナーとして励んできたつもりだったが、それでもまだ足りなかった。

 俺の能力不足で彼女に展開を見誤らせ、あんな無茶な走りをさせてしまったんだから。

 ウマ娘を支えるはずのトレーナーが、彼女の足を引っ張るなんて許されることじゃない。

 それで俺は、この書類を使うことを決めたんだ。

 

「勿論、一度トレーナーとして契約した以上、最後まで責任を持つ気でいる。

 君を任すに適した、信頼できるベテラントレーナーも探す。

 君が望むなら、変わらず『おかえり』とも言うし頭も撫でる。

 俺は俺で、君にしてやれることは全てするつもりだ。そこに関しては安心してほしい」

 

 ホシノウィルムは俺の担当だ。である以上、俺がホシノウィルムに尽くすことに変わりはない。

 ただ、俺の実力不足な部分を先輩に補ってもらう。

 イメージとしては、臨時のサブトレーナーとして付いてもらう、というのがわかりやすいか。

 

 ……正直、これに関しては、少しばかり引っかかる想いはある。

 ずっと二人三脚でやってきたから……俺自身、寂しいと感じているのかもしれない。

 それでも、ホシノウィルムがより強くなるためであれば、俺は何でも受け入れるつもりだ。

 熱いレースをしたいと望む彼女も、強くなるためならきっと受け入れてくれるだろう。

 

「変わるのは……トレーニングに関して、他のトレーナーに委任するという点だけだ。それに関しても、きちんと俺の方で認可は通すから、おかしな調整をされると不安に思う必要はない。

 つまるところ、トレーニングに関する方針を変える、という程度の話だ。これでトレーニングの質は上がり、君はより成長できるだろう。

 総じて、君にとって悪い話ではないぞ。

 ……ほら、ペンだ。署名を頼む」

 

 後は、ホシノウィルムの了承を貰うだけだ。

 それで俺は、彼女のために動き出せる……。

 

 

 

 ……はず、なんだけど。

 

「ホシノウィルム?」

 

 彼女は、凍り付いた顔を緩めたかと思えば、話している内に全く別の表情を浮かべていた。

 

 そして、その顔には……初めて見た感情が窺えた。

 強いて言えば、日本ダービーで終盤に見せた必死の形相に近い。

 眉根は寄り、口の端は下がって、耳は絞られている。

 

 それらの情報を繋ぎ合わせれば、彼女の感情を類推するのはそう難しいことじゃない。

 

 彼女は……今、明らかに怒っていた。

 

「トレーナー……本気で言ってるんですか?」

「本気……? 冗談のつもりはないが」

 

 怒っている? 何故?

 感情の発露は、いつもそれすら自制しがちな彼女としては珍しく、その精神的な氷解を考えると喜ばしいことだ。

 ……けど、何故今、怒りを表に出すんだろう?

 

 堀野の歴史から見ても、トレーナーとの縁が切れることを悲しむウマ娘は多いらしい。

 故にトレーナーの方から契約解除を持ちかけるのはすごい悪手で、最悪暴行事件orうまぴょい案件というバイオレンス展開に突入することもある。

 

 俺は抜けてこそいるが、バ鹿ではない。

 その歴史に学び、今回も契約解除ではなくトレーニングの委任という形にしたわけだ。

 

 俺と彼女のトレーナー契約はそのままだ。

 これからもホシノウィルムは俺の担当であり、縁が切れるわけではない。

 そりゃあトレーニングに使う時間分は接触が減るだろうが、基本的には関係は続くわけだ。

 

 それなのに、彼女は何に怒ってるんだ?

 

 不安、というのはわかる。

 これまで会ったこともないトレーナーにトレーニングを付けてもらうことには、不安を覚えてもおかしくはないだろう。

 そこに関しては俺が両者を引き合わせ、しっかりと仲を取り持つつもりなので問題ないと思うんだけど……。

 

 そこで感じるのは、あくまで不安のはずだ。

 怒る理由にはならないと思うんだけどな。

 

「ホシノウィルム、待て、何に怒っている?

 いや、まずはすまなかった、気分を害したのなら……。

 ……ホシノウィルム?」

 

 

 

 ホシノウィルムは唐突に立ち上がる。

 そして止める間もなく、デスクに乗っていた書類を掴むと……。

 

 

 

 それを、ビリビリに破いた。

 

 

 

 そりゃあもう執拗に、ウマ娘の怪力を活かして、もはや文字1つすらまともに残さないとでも言うように。

 もはや元が紙だったのかティッシュだったのかもわかんなくなるくらいに。

 殺意と憎悪を込めて、破り、破り、破り尽くした。

 

 

 

 …………えぇー?

 

 え、あの、あれ?

 

 その書類、トレセン学園公式の、俺たちの大事な未来のためのヤツなんですけど……。

 なんていうか、これ君にとっても大事な話し合いで、書類ももうちょっと丁重に扱ってほしいというか、その……えっと……。

 

「……ふーっ……。トレーナー、これがヒントです」

「あーっと……あー、その」

「なんで私が怒っているか、わかりますか」

 

 や、ヤバい……。

 この状況は、ヤバい!

 

 ホシノウィルムはゆっくりと肩を上下させて、こちらを見ている。

 その瞳にはいつもの平静の色がない。

 さっきまで書類だったものが辺り一面に散らばり、次はお前の番だぞと言わんばかりに彼女の両手が震えていた。

 

 ウマ娘には、根底に眠る闘争本能がある。

 主にレースによって発散されるそれは、しかし極々稀に、「敵」に向けられることもあるのだという。

 故に、ウマ娘を怒らせてはいけない。執着され過ぎてもいけない。

 それは、こういった危機的状況をもたらすからだ。

 

 つまり平たく言えば、今の状況は……。

 下手したら、暴行事件に繋がる展開なのだった。

 

 なんで? え、俺なんか間違った判断しちゃった? どこで死亡フラグ立てた?!

 と、取り敢えず何か、無難な誤魔化し方を……!

 

「あー…………うん、わかってる、ホシノウィルム。大丈夫だ」

「なるほど。トレーナーは私のことをなんでもわかってくれますね」

 

 ニコリ、とホシノウィルムが微笑むのを見て、俺は更に警戒度を高めた。

 

 ホシノウィルムは、素の笑顔がちょっと不細工……いや不細工ってほどじゃないけど、にへらって感じなのだ。

 対して仮面の上で微笑むと、綺麗で整った笑顔になるんだ。

 

 今俺に向けられているのは、後者である。

 

 つまり、全然油断できない展開ってことだな!

 ホントどうするこれ!?

 

 ……いや、落ち着け。

 俺は堀野のトレーナー。

 自分の担当ウマ娘と、きちんと理知的に話し合うことができるはずだ。

 彼女を暴行の前科持ちにするわけにはいかない。なんとか穏当に場を収めなきゃ……。

 

「すまなかった、ホシノウィルム。恐らく俺が、どこかで君を不快にすることを言ってしまったのだな。

 次から繰り返さないようにするから、何が不愉快だったのかを教えてくれないか」

「……へぇ、トレーナー、事ここに至って、まだ私が怒ってる理由がわからないんですね」

 

 彼女はそう言って……。

 

 ドンッ!!

 

「私……こう思われてるんですね?

 あなた以外のトレーナーのトレーニングをホイホイ受けようとする、節操なしだって」

 

 あ、あの、ホシノウィルムさん。

 いきなりその、デスクをですね。置いてあった資料が浮かび上がるくらいに強く叩くのは、ちょっと怖いかなーって。

 間違っても人間に向けちゃ駄目ですよ、その力? 骨くらい軽く折れるからね?

 

「い、いや、トレーニングって別に節操とは関係しないっていうか……ナイスネイチャみたいに他の陣営と合同トレーニングすることも珍しくないし……強くなりたいなら色んなトレーナーの意見を聞く方が良いこともある、みたいな……」

「そういう教科書通りの回答を期待しているわけではありませんっ!」

「あっごめんなさい……」

 

 い、いや、良くないぞ俺。

 担当からの圧力に屈するのは、関係性が破綻しかねない行動だ。

 ここはきちんと、トレーナーとしての威厳を見せねば。

 何を言われても「落ち着け!」と一喝するくらいの強い態度で……。

 

「そこに正座してください!」

「はい、正座します……」

 

 い、いや、これは圧力に屈したとかじゃなくて、アレです。

 怒ってる担当を刺激するわけにはいかないし?

 取り敢えず怒ってる原因を聞き出す為に、一旦従うだけだし?

 

 ……いやごめん、嘘。今のホシノウィルムはちょっとだけ怖い。

 なんというかこう、鬼気迫るものを感じるのだ。

 

 すごすごとトレーナー室の床に正座しようとしたら、先んじてホシノウィルムがタオルで床を拭いてくれた。

 怖いと思ったら優しいって何? ドメスティックなバイオレンス?

 

 なんか今日の彼女、よくわかんないんだけど……どうしちゃったの俺の担当……。

 この子、結構合理主義っていうか、ちゃんと理論的な指示には従ってくれるし、感情だって無駄に表に出さない印象だったんだけどな……。

 何が癪に障っちゃったんだろう。

 あれか? やっぱり勝手に計画を進めちゃったこと? もっと構想段階からきちんと相談すべきだったか?

 

「……はぁ、もう、すごく憤慨です。イライラが青天井ですよ。

 ですがそれ以上に、この問題を解決する優先度は高いですね、多分。

 さて、なんで委任なんて考えたか、お聞きしましょうか」

「いいや、それはトレーナーとして担当ウマ娘に話すべきことでは……」

「お聞きしますね」

「はい、話します……」

 

 駄目だ、今のホシノウィルム、無敵モードに入っちゃってる。もう何を言っても止められる気がしない。

 ……ここで彼女を怒らせても、何も良いことはないだろうしな。

 俺は諦めて、事情を白状することになったのだった。

 

 勿論、前世関連は話せないけど……。

 この感じ、それ以外の部分は……色々聞きだされてしまいそうだなぁ。

 うぅ……これまで1年半保ってきた、冷徹でカッコ良いトレーナー像が……。

 

 

 







 勘違い(読者様まで巻き込む)系転生者。
 はた迷惑な人間ってこういうのを言うんでしょうね。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、一世一代の大勝負の話。



(補足)
 一部読者様は見抜いておられた通り、実はこういうことでした。
 2人の関係を心配してくださった方、堀野君に怒ってくださった方、ありがとうございました。それだけ彼と彼女を好きになってくださったと思うと、とても嬉しいです。
 それと、少しわかりにくいかなとも思ったので、活動報告の小ネタ・設定その2に、これまでの堀野君の心の動きとかを載せてます。
 ご興味があれば、是非目を通してみてください。

(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました! ありがとうございました!


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ハピエン厨登場!

 発狂するとしばらくの間無敵になって攻撃に耐えるしかなくなるタイプのボス。





 

 

 

 日本ダービーが終わってから、実に1週間。

 終盤の前傾スパートで肉離れを起こした私は、トレセン近くのウマ娘専門病院に移され、収監……もとい入院していた。

 そしてなんとか脚の筋肉が治り、しっかりとリハビリして以前の走りをある程度取り戻し、病院を退院。

 晴れて自由の身となった私は意気揚々……とは言えないまでも、心を躍らせながら堀野トレーナーのトレーナー室に向かい。

 

 ……まぁ、その後思い出したくもないことがあったので、ちょっと中略するとして。

 

 中略した色々の結果、私はキレていた。

 もうブチギレもブチギレ。

 脳の血管がプッツンしそうなくらいの激昂だ。

 

 ここまでキレたのは今世でも初めてのことだろう。

 いわゆる「ターフに行こうぜ……久しぶりに……キレちまったよ……」という状態なのだった。

 

 

 

 私、前世はオタクだったわけで、数えきれないほどのゲームとかマンガを消費してきた。

 その中には多くのストーリーがあり、色んな人がいて、そして人の数だけ多種多様な考え方があった。

 

 彼らの考え方を一概に否定するのは、間違いだと思う。

 だってそれは、その人の今までの生き方だし、人生なんだ。

 唾を飛ばして否定したって、できるのは人格批判くらいのものである。

 

 けど……人にはどうしたって、好き嫌いがある。

 例えば、なよなよした考えのキャラが嫌いって人もいれば、ヤレヤレ系が嫌いって人もいるだろう。

 それ自体は悪いことじゃないと思うんだ。

 何かを好き、何かを嫌う。これもその人の考え方だし生き方なので、他者が否定するもんじゃない。

 第一、嫌いと思うことと否定することは、近いようで全然違うしね。

 

 で、勿論、私にも好き嫌いはある。

 まず好きなのは、頑張っている人。頑張ろうっていう考え方だ。

 その人の才能あるなしに関わらず、自分にできる努力をするっていうのは美しい。

 たとえそれが失敗しようと、成果を結ばないことがわかっていようと、最大限に努力する人はカッコ良く映るものだ。

 だからこそ、前世のアニメ2期ではテイオー、ネイチャ、ターボ師匠が好きだったわけで。

 

 じゃあ逆に、嫌いな考え方は何かというと。

 

 相手と相思相愛なのに、相手のために距離を空けるっていう考え方……あるいは、そういう展開。

 私はそれが、大っ嫌いだった。

 

 

 

 わかる。わかるよ。その気持ちは理解できる。

 相手のことが大事だものね。

 相手のためを想えばこそ、距離を置くんだよね。

 そりゃあ自分の欲望を抑え付けて行動するのは、気高いことだと思うよ。

 なかなかできる事じゃないし、大体の人はそれを褒めそやすことだろう。

 

 ……ただ、私はその「大体」には入らない。

 

 確かにそれは、正しい決断なのかもしれないけど……。

 それでも、イヤだ。

 イヤなものはイヤなんだ。

 

 互いが互いを想うが故に離別するとか、悲しすぎる。

 幸せになるべき人たちが幸せになれないのは、おかしい。

 たとえ幼い理想論に過ぎないとしても、私はそれが間違っているとは思えないんだ。

 

 ……有り体に言えば。

 ホシノウィルムは……いいや、「私」は、いわゆるハピエン厨なのだ。

 全てが丸く収まって、主要な登場人物全員が後になって「あれも悪い時間じゃなかったよね」と笑うことができる大団円。

 そういうものこそ、私の理想だ。

 

 だから私は、そんな展開認めない。

 

 誰かが勝手に離れていくなんて。

 その人のことを勝手に思いやって、手の届かないところに逃げるなんて。

 

 そんなこと、絶対に許さない。

 

 ……自分のこととなれば、なおさらに。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「さて、なんで委任なんて考えたか、お聞きしましょうか」

 

 その私の質問に対して、トレーナーが答えを渋ること数分。

 色々とお話しして、ちゃんとこれが相互に必要な情報共有であるってことを真摯に伝えた結果……。

 彼は顔をしかめ、すごく辛そうな顔で、色々なことを語ってくれた。

 

 元より要領の悪い方で、何をしても中途半端な人間だったこと。

 それでもちゃんとした名家のトレーナーになろうと決意したこと。

 20年間、ずっとトレーナーとしての鍛錬を積んできたこと。

 それでもこの学園に入ってから、自分の至らなさを痛感する毎日だってこと。

 私がネイチャに追い詰められたのを見て焦り、トレーニングを他人に委任しようとしたこと。

 ダービーでの一件が、最後の一押しになったこと。

 

 ……私が言うのもなんだけど、さ。

 彼の語ってくれた半生は、だいぶほの暗いものだった。

 家庭に恵まれず才能に恵まれた私と真逆に、彼は家庭に恵まれたけど才能に恵まれなかった。

 そのどちらがマシ、だなんてくだらない話をする気はないけど……。

 

 うん、ちょっと不謹慎かもしれないけど。

 彼がそういう人生を辿って来たことが、私はちょっと嬉しかった。

 

 彼も色んなことに苦労しながら生きて来たんだってわかって、親近感が湧いたというか……「ああ、この人も私と同じなんだな」って思えたんだ。

 どこか違う世界の人間のように思えていたトレーナーも、実のところ私と同じ人間で。

 同じようにこの世界に生まれて、同じように思い悩んで、同じように苦労してきたんだって。

 

 

 

 そこまで考えて……やっと気付く。

 彼に期待しすぎてた、ってことに。

 

 私は彼の実態を見ていなかったんだ。

 彼は完璧超人でも何でもない。それは仮面に過ぎなかった。

 堀野トレーナーもこの世界に生きる普通の人間なんだって、そんな当然のことに、私は今の今まで気付けなかった。

 

 確かに、彼の能力はチートそのものだ。

 本人に自覚はないようだけど、彼の観察眼や知識量に行動力、その他トレーナーとしての能力は、それら全てが周囲より飛び抜けて優れている。

 そりゃあ1つ1つなら勝てるトレーナーもいるかもしれないけど、総合点で見るとまず間違いなく、彼がこの学園でトップクラスと言えるだろう。

 学園でも最高峰と言われるテイオーのトレーナーとも病院で何度か話したけど……やっぱり普通あんな目は持ってないし、レース前に30人分の詳細なデータを揃えたりするのは異常みたいだったし。

 

 まるでトレーナーになるべくして生まれて来たようにさえ見える……そのように自分で育ってきた人間。

 能力だけを評価するなら、彼がチートトレーナーであることは間違いない。

 

 ……けれど、その「トレーナー」というフィルターを取り除いて見た時。

 彼はチートも何も持っていない、ただの人間に過ぎないんだ。

 

 過労で思考が回らないこともある。

 上手く事が運ばずに焦ることもある。

 色んなことに悩み、迷い、道を間違えることもある。

 

 そんな当然のことに、私は全く気付けなかった。

 

 

 

 ……頭が痛いよ。

 仮面を被る演技力も、仮面の下を見抜く観察眼も、相応にあるつもりだったのに。

 実に1年半もの間、彼のもう1つの仮面に騙されてしまったんだ。

 

 仮面は必ずしも1層だけというわけではない。

 1枚目の仮面が剥げたとしても、そこにあるのは素顔ではなく2枚目の仮面である可能性もあるんだ。

 トレーナーは多分、そういうタイプだったんだろう。

 

 1枚目は、簡単に剥げてしまう、無愛想で無表情な仮面。

 彼の演技力のなさから簡単に壊れてしまう、自称完璧な隙だらけの仮面。

 

 そして2枚目が……トレーナーとしての、強固な仮面。

 自身をトレーナーであると自認し、それ以外の自分の全てを押し殺す、決して剥げない仮面。

 

 彼の素顔は、ちょっと悲観的なスパダリなんかじゃない。

 その更に下にあった本当の表情は、冷たい自己嫌悪と諦観。

 自分の才能のなさを嘆き、そしてそれを諦めている……。

 そんなありふれた、凡人の顔だった。

 

 

 

 ……想像して、少し悲しくなる。

 この1年半、私に付き合うのは、本来彼にとってどれだけ苦痛だっただろう。

 

 要領……才能がないが故にこれまで苦労してきたという彼にとって、先天的な素質で戦う私は、間違いなく目障りな存在であるはずだった。

 他人の庭の芝は青いものだもの。

 自分がどれだけ欲しくても手に入らないものを、当然のような顔で使うウマ娘なんて……鬱陶しいに決まってる。

 

 それなのに、彼が私を嫌うことなく、むしろ私のことばかり考え、支えてくれるのは……。

 多分、トレーナーとしての仮面が、その素顔に癒着してしまっているから。

 

 彼の2枚目の仮面は、1枚目みたいな脆いものじゃない。

 むしろ底抜けに強固で分厚いものなんだろう。

 剝ごうとしても剥げない。どんなショックを受けたって壊れることはない。

 ……既にその素顔と癒着し、切り離せなくなっているから。

 トレーナーとしての仮面と、その下の素顔。どちらが本当なのかもわからないほどに。

 あるいはそのどちらも、彼にとっては真実なのかもしれないけど。

 

 彼のトレーナーとしての自覚は、とんでもなく強い。

 担当であるという理由だけで、私みたいに相性の悪いだろうウマ娘を嫌うこともなく、どれだけ無力感を味わっても役目を投げ出すこともない。

 ……普通の人間である以上に、個人である以上に、彼の言う「堀野のトレーナー」像を優先しているんだ。

 故に、どれだけ自分が厭うような存在でも、担当というだけで嫌うことすらなく。

 どれだけ苦しくても辛くても、受け持った担当を投げ出すことがない。

 

 彼にとっての判断基準は、自分がどう思うか、何をやりたいか、じゃない。

 ただ、堀野家のトレーナーとしてどうすべきか、なんだ。

 

 だから今回の暗躍だって、ただの自己保身じゃないんだろう。

 彼は本当に、心の底から、「ホシノウィルムのトレーナーとして自分は力不足だから、他者から力を借りる必要がある」と思っただけなんだ。

 

 20年という長い間、トレーナーとしてしか生きてこなかった。

 故に、既にどこまでが仮面で、どこまでが素顔なのか、区別ができない。

 トレーナーとしての価値観が自然になって、それ以前の価値観なんて覚えていない。

 

 ……彼は「トレーナー以外の自分」に価値を置いていない。価値を見出せないんだ。

 自分にはこれ以外何もできない。何の取り柄もない。

 だから、トレーナーに集中できる。

 ……それに、命を懸けることができる。

 それは……とても寂しくて、悲しくて、残酷なことのように感じた。

 

 

 

 

 

 

 …………が。

 

 それはそれ、これはこれである。

 

 トレーナーがそういう人だったというのには、少なからず衝撃を覚えたけど……。

 それはこれから付き合っていく内に少しずつ吞み込んで、解決していくべき問題。

 

 私にはそれら以前の話、このわからずやのニブチントレーナーに、わからせてやるべきことがあるのだった。

 

 

 

「それで、私に適切なトレーニングを積ませる自信がないから、私のためを思って、距離を置こうとした……と?」

「いや、別に距離を置く気はないぞ? トレーニングを他トレーナーに委任するというだけで、別に距離自体を離すというわけでは」

「どう違うんですか?」

「え、いや、だから……」

「どう違うんですか?」

「違いませんね……すみません……」

 

 先ほども言った通り、私は「相手を想うが故に相手と距離を置く」というのが死ぬほど嫌いなんだわ。

 好き同士なら、ちゃんとイチャイチャしてろって思う。手ぇ繋いだりキスしたりして、ずっと幸せそうにしてりゃあいいのだ。

 ……いや、別に私がトレーナーとイチャイチャしたいってわけじゃないからね?

 これはあくまで恋愛に限ったものの例えというヤツであって、いや本音で言えばそりゃイチャイチャしたいけど、そうじゃなくて。

 そうやってお互いに本心では離れたくないって思ってるんだったら、それでいいでしょって話だ。 

 そこに差し障る問題なんか、ただのノイズ。そんなもんは全部この世界から消えればいい。

 

 ……勿論、現実にはそうもいかない都合がある。

 面倒なしがらみとか、自分が相手を堕落させるとか、自分より相応しい人がいる、とか。

 そういう都合があるからこそ、人ってのは身を引こうとするのだ。

 

 でも、そんなの知ったことか。

 私は切ないのが嫌いだ。一度掴んだ幸せを手放すのがイヤだ。

 冷たいのも、温度がないのも、全部全部、もうイヤなんだ。

 頭の上に置かれた熱源が、ようやく得ることのできた温かさが離れていくなんて。

 

 そんなの絶対……認められない!

 

「却下です。却下も却下、大却下です!

 他にトレーナー付けるとか、そんなこと絶対に許さないですからね!」

「え、えぇ……いや、だが、君のためを思えばそれが一番……」

「うるさいんですよっ!!」

「すみません小声で喋ります……」

 

 考えてほしいんだけど。

 例えば、寝取られが死ぬほど嫌いな人がいたとしよう。

 それはもう、最初のねの音が耳に入るだけで拒絶反応が起こるくらいに大嫌いだとしよう。

 そんな人が、リアルで自分の恋人なり妻なりを寝取られかけたら、どう思うだろうか?

 

 ……そう、それこそが今の私の状況だ。

 

 私が大嫌いな、相手を思うが故に離れるという行為を、よりにもよって私のトレーナーが行おうとした。

 

 そんなのもう、解釈違いのド地雷なんだよッ!!

 

「私は絶対、ぜーったい! 認めませんから!!

 私はトレーナーだけの担当ウマ娘です!!」

 

 ……確かに、堀野トレーナーは、私が思ったようなスパダリトレーナーではなかったかもしれない。

 あるいはその仮面は、嘘だったのかもしれない。

 

 でも、それでもこの人は、私のトレーナーだ。

 

 あの夜、私に手を差し伸べてくれた人で。

 勝てても負けても、私の頑張りを認めて撫でてくれる人で。

 走ることを楽しんで欲しいと言ってくれた人で。

 また来年、必ず共にあると誓ってくれた人で。

 レースに出なくても、私を受け入れてくれる人なんだ。

 

 積み上げてきた経験と、向けられた想いだけは、嘘じゃない。

 実はどれだけポンコツだったとしても、私を救ってくれたスパダリなんだ。

 信頼も、恋愛感情も、少しだって欠けることはないんだよ。

 

 これでも前世は大学まで行った女。恋に恋する時代はとうの昔に終わってる。

 私が恋してるのは……目の前にいる、ダメダメな男の人なんだ。

 

 ……それなのに。それなのにこの人はッ!

 

 テイオーの時は、「トレーナーとウマ娘は不可侵の関係だ」なんて言ったくせに!

 自分と私だけは例外だとでも思ってるの!?

 

「私はっ! 他の誰でもない、あなたの……『堀野のトレーナー』じゃない、たった1人の、堀野歩トレーナーの!! あなただけの担当ウマ娘なんですよ!! あなたと信頼関係を結んだウマ娘なんですよ!?」

「……君、俺の名前を」

 

 自分が堀野のトレーナーでしかないという自認のためか、彼は今まで私に名を言ったことがなかった。

 それでも1年以上付き合いがあれば、自然と目にする機会はある。

 そして、好きな人の名前を覚えない乙女なんてどこにもいない。

 

 堀野歩。

 それが私のトレーナーの名前だ。

 たった1人の、かけがえのない人の名前だ。

 

「覚えてるに決まってるでしょう! あなたにとって私が大切である以上に! 私はあなたを大切に思ってるんですから!!」

「お、おい……ホシノウィルム?」

 

 第一、この人はわかっていないのだ。

 私がこの人をどれだけ好いているか。慕っているか。

 

 確かに私は、熱いレースがしたいっていつもトレーナーに言ってた。

 より熱いレースってのは、より強い相手とのレースに近い意味を持つ。

 それをするためにも私を鍛えようとしてくれる、ここには何もおかしさはない。

 あるいはそのために他者を頼るってのも、担当との関係次第ではナシってわけではないのかもしれない。

 捉え方によっては、きちんと「レースにも出たいですが、それ以上にあなたと組んで出たいのです」と伝えなかった私が悪いとも言える。

 

 ……じゃあいいよ、言わなきゃわかんないなら言ってやるよ!!

 

「私はただレースに勝ちたいんじゃないんですよ!

 あなたと! 勝ちたいんです!

 1人で勝ったって何の意味もない! 他の誰かと勝っても何も嬉しくない!

 なんで! それが! わかんないんですか!

 1年半の付き合いでしょうが!!」

「え、いや、え……?」

 

 トレーナーは目をしばたたかせる。

 そんなに想われているとは予想もしていなかったと言わんばかりの反応。

 

 無駄に好かれるなんて、堀野のトレーナーに相応しくない状態。

 故に、そのぺらっぺらの仮面を被る。

 無愛想に、ぶっきらぼうに。そんな風に接すれば、相手に好かれることはないから。

 これが彼なりのやり方らしい。

 

 でも、そんなの成立するわけない。

 普通に考えれば誰でもわかることだ。

 そういうビジネスライクなやり方を選ぶ彼を好きになるウマ娘もいれば、冷たくされることに快感を覚えるウマ娘がいたっておかしくない。

 根本的に、誰しもに共通する「こうすれば好かれない」なんてやり方はない。相手によって態度を変えていくしかない。

 

 それなのに、彼は……持ち前の自己評価の低さで「ウマ娘が自分なんかを好きになるわけがない」なんて無意識に思い込んで、これで行けるだろうって踏んだんだ。

 

 はーい、残念でしたー!

 むしろ普段の無表情とふとした瞬間の柔らかい表情とかポンコツさがギャップになってめっちゃすっ……好きになった失敗例がここにいまーす!!

 

「もう二度と!! 一生!! 他のトレーナーにトレーニングを頼むとか言い出さないでください!!

 すごく、すごく、すっごく不愉快です!!

 絶対に手放さないでください、私は堀野歩トレーナーだけの担当ウマ娘です!!」

「…………お、おう、そうか。それは、すまなかった」

 

 ふーっ、ふーっ……と肩を上下させる。

 取り敢えず、言いたいことは言い切った。

 ……なんかちょっと言いすぎたような気もするけど。

 

 でも、今回の件でよーくわかった。

 このトレーナーに察しの良さを期待しても無駄だ。

 大事なことは、ハッキリ言葉にして伝えないと意味がない。

 

 よし、ついでに今抱えてる不満もぶつけてしまえ!

 

「ついでに言いますけど、今回はまだ『おかえり』とも言ってもらってませんし、頭も撫でてもらってませんし、それにご褒美権ももらってません! 早くください!!」

「いや、それは公式レースから無事に帰って来たウマ娘に贈るものだ。君は今回、軽くとはいえ故障したからあげられない」

「なんでそこだけ意固地なんですか!?」

 

 今までのおどおどした雰囲気が消え去り、キリッとした表情で断られた。

 なんでだよ。ここは譲ってよ。いいでしょ別にちょっとくらい減るもんじゃないんだから!

 

「やです! ください!!」

「いいや、あげない。負けたくないのはわかるが、だからといって自分の脚を慮らないウマ娘にご褒美はあげられない。

 前にも言ったが、俺は君が勝ったから褒めるのではない。君がここまで頑張ってきて、無事に帰って来るから褒めるんだ。

 褒めてほしければ、次回以降あんな無茶な走り方はしないように」

「うぐっ……」

 

 こ、この妖怪トレーナー男め……!

 いざ担当のこととなると一瞬で冷静になりやがって! ちょっとカッコ良いのやめろ!

 

 いいだろう、ならこっちだって徹底抗戦の構えだ!

 

「いいから褒めて! 撫でてください!」

「駄目だ。絶対駄目」

「今なら撫でてくれるだけで自主トレしなくなりますよ!」

「それはいつもそうしてくれ」

「ダービートレーナーにしてあげたじゃないですか!!」

「……それも、覚えていたのか」

 

 当たり前だ。

 1か月くらい前に聞いた、トレーナーの言葉を思い出す。

 

『今でこそ有記念や宝塚記念、ジャパンカップなどに存在感を奪われつつあるが、元々東京優駿は日本における最大のレースだった。

 今でもその頃の威厳は残っている。『ダービーに始まりダービーに終わる』という言葉もあるくらいだ。

 故にこそ、ダービーを取ったウマ娘はダービーウマ娘として、そのトレーナーはダービートレーナーとして賞賛される』

 

 あの時はさらりと流したけど、私はそれを聞いて、チャンスだと思ったんだ。

 いつも無私の精神で鍛えてくれる堀野トレーナーに、少しでも恩を返せるチャンスだって。

 

 トレーナーがいつも忙しく働いてるのは知ってる。

 私が声をかける時、いつもキーボードを叩いたり書類を読んだりハンコ押したりしているし。

 ある日の深夜、LANEで明日の予定について連絡したら、ものの数秒で返事が返ってきたりしたし。

 トレーナーはすごく真面目に、いつだって私のために頑張ってくれてるんだ。

 

 その努力に私が返せるのは、それこそレースの勝利くらい。

 だからこそ、特別なレースである日本ダービーには、負けたくなかった。

 堀野トレーナーにダービートレーナーの称号を贈ることができれば、受けた恩の何分の1……いや何分の1は言いすぎた。十何分の1くらいは返せるだろうと思ったから。

 

「私、頑張りました! 恩を返すためにすごく頑張りました!

 確かに、トレーナーとしては、脚を消耗させたのは褒められないことかもしれません。

 でも1人の人間として、堀野歩として! 自分のために頑張った女の子を褒めないのが正しいことなんですか!?」

「あー、いや、ええと……ん? それが正しいのか? ……あー、偉いぞ、ホシノウィルム?」

「どういたしまして! 頭も撫でてください!!」

「あ、うん……うん? 何か俺、騙されてない?」

 

 ……ふぅ。

 そう、これこれ。このちょっとゴツゴツした温かさだ。

 トレーナーの手が頭に置かれて、少しだけ怒りが落ち着く。

 

 もう。トレーナーなのに自分の担当ウマ娘を撫でないとか職務怠慢ですよ。

 今後は気を付けてほしいですね。まったくまったく。

 

 

 

 その時、恐らくは私に聞かせるつもりのなかった呟きを、ウマ耳がキャッチした。

 

「うーん、駄目か。良い案だと思ったんだけどな……」

 

 ……はぁ。

 もう、本当、この人は……。

 

 これだけ言ったって、トレーナーは自分に価値を見出せないんだろう。

 20年間ずっと味わい続けて来た劣等感や諦観は、そう簡単に拭えるものじゃない。

 それこそここから20年間かけて、少しずつ改善すべきものだ。

 

 気を付けないと、この人はまたすぐに自分には能力がないだの、他の人に頼るだの言い出しかねない。

 それを封じるには……そして、彼自身が彼を認める契機を作るには。

 私とトレーナーが、2人揃ってハッピーエンドに向かうには、どうすればいいか……。

 

 

 

 ……そうか、思いついた。

 

 私に、惚れさせればいいんだ。

 

 

 

「決めました、トレーナー」

「な、何をだ、ホシノウィルム」

 

 私はキッと彼に視線を向け、言い放った。

 一世一代の大勝負、その開始の宣言を。

 

 

 

「勝負しましょう、堀野歩トレーナー。

 私はあなたのトレーニングプランで、宝塚記念に勝ちます。

 それで勝てたら私を、ずっとずっと、あなただけのウマ娘にしてください!」

 

 

 

 

 

 

 ……後になって考えると。

 

 あれは普通に告白のセリフだったなぁ、と思うのだ。

 

 

 

 







 恋のダービー、第二R開幕。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、信じるということの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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(小並感)

 とある日の朝、栗東寮の一室での会話。
「先輩、トレーナーを誘うオススメのデ……出かけ先ってありますか」
「……うーん、水族館、ですね」





 

 

 

 ホシノウィルムに怒りをぶつけられた、次の日の午後のこと。

 

「よし、あと、2本……!」

「はーっ、はーっ……もう、ウィル……スタミナヤバすぎ……!」

 

 2人のウマ娘が坂路を駆けていく。

 

 1人は今日も無表情を貫く、俺の担当ウマ娘、ホシノウィルム。

 そしてもう1人は、疲労に顔を歪めて彼女の背を追う、ナイスネイチャ。

 

 2人は並んで……いや、ネイチャはバテてるので遅れてるけど、ほとんど併走と呼んでいいくらいに並んで駆けていく。

 いつかの日には、ホシノウィルムが全力で駆けだしてしまった展開だが……。

 そこには既に、暴走の気配はない。

 彼女は真の意味で、己の弱点を克服したのだ。

 

 日本ダービーで完全に「冷」の呪縛に打ち克ったホシノウィルムは、ついにそれを使いこなすようになった。

 こうしてネイチャと併走しても、ペースを合わせたり相手を気にしながら走ることができる。

 勿論「冷」の方がなくなったわけではなく、集中すればそっちに入ることができるようだ。

 他ウマ娘と競えば強制的に「冷」になっていたホシノウィルムだが、ついに「冷」モードの切り替えスイッチを手に入れた、というところか。

 

 これまでは逆方向に走らせたり距離を置かせて走らせて対処していたが、ついについに、ようやっと併走トレーニングが解放されたわけである。

 やはり知り合いと一緒に走れば負けん気も出るしステータスも上がりやすいみたいだ。

 併走トレーニングの解放は誠に、いやホントガチでありがたい。

 

 

 

「ネイチャ、そんな調子では、菊花賞を走り切れませんよ」

「くっ、病み上がりの、くせに……こん、のっ!」

 

 そんなわけで今日は、実に3週間ぶりになる、ネイチャとの合同トレーニングの日だった。

 ダービー前は委任計画を進めるために余裕がなかったためにお断りして、ダービー後はホシノウィルムが入院してしまっていたからな。

 

 ……思えば、ナイスネイチャにも悪いことをしてしまったな。

 結果として彼女の躍進を妨げてしまった。

 本当に俺は……。

 ああいや、これは禁止されてたんだったか。

 

 昨日の事件で、俺はホシノウィルムに自己嫌悪や自虐を禁止された。

 「そういうトレーナーを見るだけでこちらの調子が落ちますから」とのことだ。

 ……まぁ別に調子というかやる気は落ちていなかったけども、彼女のメンタルに被害が出るのなら、やめた方がいいだろうな。

 

 何より、自己嫌悪は本質的に必要のない、謂わば癖のようなものだったからな。

 大事なのは後悔ではなく反省。犯したミスを次回に活かすことだ。

 故に、やめてほしいと言われれば、頑張るのみである。

 

 

 

「……ふぅ」

 

 そろそろ10分か。

 ペンを動かしていた手元のバインダーから、ちらりと視線を上げる。

 

 ホシノウィルムは、まだ体力が削り切れてない。短期疲労すら軽い状態だ。

 ナイスネイチャは……あと20分程で短期疲労がピークになるか。失敗率が発生し始めるまでには、まだだいぶある。

 今日の合同トレーニングはあと15分程だし、休憩を入れる必要はないだろう。

 

 とはいえ、宝塚記念までは残り1週間もない。

 比較的負荷が軽くなる坂路トレーニングとはいえ、きちんと監視しなければ。

 もしも事故が起こって故障でもしたら笑い事にもならない。

 

 ……いや、こうしてトレーニングを続けている時点で、ある意味彼女を事故へと追い込んでいるようなものではあるが。

 

「果たして、これで正しかったのかね……」

 

 コツコツと、書類の束にペンの背を打ち付ける。

 

 俺は今、彼女を止めるべきなんじゃないか。

 生き急ぐ少女を、その首根っこを引っ掴んでも止めるべきなんじゃないかって。

 

 それを、ずっと迷い続けている。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 実のところ、現在のホシノウィルムは、高負荷のトレーニングを付けるべき状況ではない。

 

 3月3日、弥生賞。

 4月14日、皐月賞。

 5月26日、日本ダービー。

 

 ここまで彼女は、約1か月半に1度、レースに出走してきた。

 これ自体はそこまでハイペースというわけではない。

 ウマ娘の脚は、公式レースに出走した後は1か月休ませるべきだと言われている。

 確実だと言えるものではないが、今のところ十分に休養を挟んでいると言っていいだろう。

 現に毎回のレース後の検診から見て、ここまで彼女の脚に強すぎる負担は見られなかった。

 

 ……が。

 ここから先は話が変わって来る。

 今年の宝塚記念は、例年よりも前倒しの開催になったからだ。

 

 5月26日、日本ダービー。

 6月9日、宝塚記念。

 

 この間に空いた時間は、僅か13日。彼女の脚を十全に休ませる余裕がない。

 その上どちらも白熱するG1レースであり、どうしたって脚の消耗は避けられない。

 

 だけど、それだけなら大きな問題はなかった。

 ウマ娘の体は頑丈だ。多少無茶をしても、簡単に負傷したりはしない。

 ……無論、やりすぎれば選手生命を削ることにはなるが。

 

 その上、兄にも確認を取ったが、やはりホシノウィルムの体は通常と比べて頑健だ。

 今までの彼女の状態とこれまでの歴史を元に考えて、中1週の出走とはいえ、彼女の脚が故障を起こす可能性は限りなく低かった。

 

 けれど今回はもう1つ、悪条件が重なっている。

 前回、ホシノウィルムが日本ダービー終盤で見せた、彼女の言葉で言うところの「前傾スパート」。

 極端なほどの前傾姿勢になり、歩幅も伸びるストライド走法だ。

 

 多少ウマ娘に関する医学を齧っていれば、見ただけでわかるだろう。

 あの走り方は、間違いなく脚に悪い。

 本来人の形をしたウマ娘が取るべき走り方じゃないんだ。

 自分の寿命で一時的な速さを買うようなもの。結果として、脚には極端に負担が溜まる。

 ダービーが終わってからすぐ、兄から電話が飛んできた程だ。

 彼女がその脚をどれだけ酷使しているのかは、想像に難くない。

 

 いくらその後の1週間、病院で半ば休養状態であったとはいえ……。

 あそこでテイオーに勝つために彼女が行った無茶は、確実に脚に悪影響を残している。

 

 その状態で、中1週という短いスパンで公式レースに出るとなると……考えたくもないことだが、故障の可能性を無視しきれない。

 今の彼女が宝塚記念に出走するというのは、故障の危険性を受け入れるってことでもあるんだ。

 

 

 

 トレーニングと違い、公式レースでは俺が途中で止めたり声をかけることができない。

 その上今回出走するのは2大グランプリの1つ、宝塚記念。

 どうしたって白熱するし、ホシノウィルムもダービーの時のような無茶をしてしまう可能性がある。

 その危険性は、数値では測れない。

 「アプリ転生」を以てしても管理できない、最も危険な部分だと言えるだろう。

 

 故に、俺は彼女に出走回避を勧めようと思っていた。

 

 ただでさえ短いスパンの出走予定だった上、軽いとはいえ負傷が発生したのだ。

 回避する理由としては十分すぎる。むしろファンの方々も安心してくださるだろう。

 

 元より彼女を宝塚記念に出走させるのは、俺のわがままみたいなもの。

 出走回避は敗北ではない。故に彼女の最初の目標であった無敗三冠を妨げることもないし。

 無理に厳しい条件のレースに出走させることなんて、誰も望まないだろう。

 

 と、思っていたんだけど。

 

『勝負しましょう、堀野歩トレーナー。

 私はあなたのトレーニングプランで、宝塚記念に勝ちます。

 それで勝てたら私を、ずっとずっと、あなただけのウマ娘にしてください!』

 

 ……当の本人が出走を望んだ場合、どうすればいいんだろうな。

 

 勿論、トレーナーとして俺がすべきことは、彼女の心に寄り添うことだ。

 心に寄り添うとは、つまるところ願いを叶えること。

 担当ウマ娘が「白熊は黒い」と言えば、全世界の白熊に黒のペンキをぶちまけて回るのがトレーナーの役割なのだ。

 

 ……いや、つい昨日、彼女の心を読み損なってあんなに怒らせてしまった俺が言えることでもないんだが。

 

 

 

 あの時に見たホシノウィルムの怯え切った表情は、今でも思い出せる。

 俺はトレーナーとして、彼女にあんな顔をさせるべきではなかった。

 

 ……今思うと、あれは明確に判断ミスだった。

 まさかホシノウィルムが、あそこまで俺に親愛の情を持ってくれているとは思わなかったんだ。

 そりゃあ信頼している友人からいきなり「今度から俺以外の奴とツルんでくれる?」とか言われれば不安にも思うし、カチンと来るというものだ。

 

 それに、あまりにも切り出し方が悪い。

 前日までの無理が祟って頭が回らず、彼女に不安を感じさせるような切り出し方になってしまった。

 無意味に彼女の心を揺さぶるなんて、トレーナーにあるまじきことだ。

 

 更に言えば、もう少し情報を共有しながら話を進めるべきだった。

 最初から「委任を考えているんだがどう思う?」と訊いていれば、彼女は恐らく強く拒んで、それで話は終わりだった。

 あそこまで彼女を傷つけることはなかったのだ。

 

 総じて、ある意味俺らしいと言えば俺らしい、ミスの多い行動だったと言えるだろう。

 彼女に対しても、俺自身のことも……俺は間違えてばかりだ。

 自分の要領の悪さが恨めしい。

 

 ……いや、今更後悔しても意味はない。何より彼女に禁じられている。

 切り替えろ、俺にできるのはしっかりと反省して次回に活かすことだ。

 当面の対策は、今まで以上に彼女からの要望や展望を聞き、コミュニケーションを密に取ること。

 そして俺自身が疲労をため込まず、トレーナーとして正しい判断を徹底すること。

 

 ……なんだが。

 

 では、今……。

 彼女の心に寄り添うことが、果たして正しいのだろうか?

 

 

 

 宝塚記念への出走を望んだホシノウィルムに、俺は彼女の脚にかかっているであろう負担について説明し、せめてトレーニングの負荷を落とすことを提案した。

 今の走りを維持する、流す程度の負荷に止めれば、彼女の脚へのダメージは最低限で済む。

 それならば、彼女の望みである「熱いレースを楽しむこと」もできるだろう、と思ったのだが……。

 

『駄目です。負荷は限界ギリギリでお願いします。

 一応言っておくと、私はそれを、心から望みます。

 宝塚記念は……先輩方は、そんな甘い鍛錬で勝てる相手ではないと思いますから』

 

 すげなく断られてしまった。

 

 確かに、宝塚記念は厳しいレースだ。

 未だかつて、どのような天才でさえも、このレースをクラシック級の内に制したことはない。

 シニア級と争うにはあまりにも早期であり、かつ格式が高いために強者が参戦しやすい、というのがその理由だろう。

 今年もメジロマックイーンとメジロライアン、そしてセイウンスカイは間違いなく出走するはずだ。

 

 ターフの名優、メジロマックイーン。

 「絶対的な強さが故に、レースをつまらなくする」とまで謳われる、現役最強ステイヤーだ。

 今年の天皇賞(春)では惜しくも2着に敗れたが、へこむこともなく鍛錬に励んでいるらしい。

 

 麗しき実力者、メジロライアン。

 マックイーン程目立った戦績は見られないものの、重賞で掲示板を外したことがない陰の実力者。

 どうやらライアン陣営は今年の2大グランプリに狙いを絞っているようで、この前の視察ではとんでもないやる気が窺えた。

 間違いなくトップ争いに参加してくる、恐ろしい末脚を持つウマ娘だ。

 

 トリックスター、セイウンスカイ。

 ……語る必要も見出せない、再起した黄金世代の一角。

 天皇賞(春)では勝利確実と言われていたマックイーンから綺麗に逃げ切り快勝を決めた。

 恐らくは彼女こそが、ホシノウィルムにとっての最も高い壁になるだろう。

 

 どのウマ娘も、シニア級でもトップクラスの実力を持っている。セイウンスカイに至っては既に本格化を終えたシニア3年目だし。

 おおよそクラシック級のウマ娘には勝てない、次元の違う戦いになるだろう。

 

 この上ない天才であるホシノウィルムとはいえど、苦戦は避けられない。

 勝利は……はっきり言って、厳しいものであると予想できた。

 

 あるいは、彼女の無敗三冠という指針は、ここで砕けてしまうかもしれない。

 ……まぁ彼女自身は、別に気にしないだろうが。

 

 世間的には、ホシノウィルムは無敗の三冠を目指すものだと思われている。そのようにインタビューで答えて来たしな。

 だが実際のところ、どうやら彼女はそこに重きを置いていないらしい。

 それを聞いたのは……確か、今年の頭あたりだったか。

 最初に聞いた時は、他にこれといった目標もないからそう言っただけ。今現在は、レースに熱を感じることができればそれでいい、と言っていた。

 故にこそ、勝機の薄い宝塚記念にも出走する予定だったわけだが……。

 

 そういう意味で、宝塚記念で敗北するのは、良い。

 いや、良くはないが。

 決して良いわけではないが、彼女のこれからの未来に大きな悪影響はない。

 

 極論、俺も彼女も、無敗に拘る理由がないんだ。

 どちらも世間の声なんて気にしていないからな。無謀に挑んでやっぱり失敗したとか言われても、正直どうでもいい。

 とにかく、彼女が楽しめる熱いレースさえ用意できれば、それでいいんだ。

 申し訳ないが、勝ってほしいというファンの願望に応えるのは二の次だ。

 

 むしろ宝塚記念で走る経験……それだけの強敵、それだけの困難との戦いは、1つの成長の機会となるだろう。

 「冷」を乗り越えた彼女ならば、仮にレースで負けたとしても、俺がアフターケアさえ怠らなければ事実を受け止められるはずだし。

 

 そういう意味で、宝塚記念に敗北することは、本質的には問題がないんだ。

 

 

 

 ……だが。

 故障を起こすことだけは、いただけない。

 それは間違いなく、彼女の今後に暗い影を落としてしまうだろうから。

 

 故に俺は、今の彼女に負荷の高いトレーニングを付けるべきではないと思う。

 負荷が高ければ高い程、休養を放棄すれば放棄する程、彼女の脚が一線を越えてしまう確率は増える。

 トレーナーとして、それは避けさせるべき未来だ。

 

 でも、同時に……それを他でもない、彼女自身が望んでいる。

 

 トウカイテイオーもそうだった。

 ウマ娘とは、必ずしも将来を見据えた天秤に基づいて動く生き物ではない。

 時には無理をしてでも、目の前の高い壁を超えたいと望むこともある。

 

 彼女は今、そういう熱中状態にある。

 たとえ故障するリスクを冒してでも、宝塚記念に勝ちたいって望んでるんだ。

 

 

 

 では、俺はトレーナーとして……。

 それを応援すべきか。

 あるいは止めるべきか。

 

 

 

 …………それが、わからない。

 

 堀野のトレーナーとしては、彼女がそれで一切の後悔なく走れ、最終的に納得できるというのならば、応援すべきだと思う。

 そもそも故障というものは、負担が溜まった状態でレースに出れば必ずしも起こるものではない。

 発生する可能性がゼロではなくなる、というだけだ。

 彼女がこのトレーニングを終え、宝塚記念に出走して、無事故で帰って来る可能性は……ある。決して低くない。

 

 故に、俺は……彼女を応援すべきなんだろう。

 堀野のトレーナーとして、彼女の決断を後押しすべきなんだろうと思う。

 

 

 

 なのに。

 何故ウジウジと考え続ける。何を迷っている?

 

 ……いや、そんなの簡単だ。最初からはっきりわかってる。

 

 俺が嫌なんだ。

 彼女が故障して、走れなくなるなんて、嫌だ。

 

 こんなのはただの我がままだ。自分勝手な欲望に過ぎない。

 だから封殺して、これも忘れるべきなんだ。

 いつも通り、押し殺すべきなのに。

 

「……俺は、いつの間に」

 

 堀野家のトレーナーであること。

 誇れるような自分であること。

 

 それはずっと、それこそこの世界に生まれて以来自分に強いてきた縛りだ。

 決してブレない、ブレてはいけない、俺の理想の生き方だ。

 

 それが今、俺自身の欲望なんてものに、危うく負けそうになっている。

 

 俺はいつの間に……こんなに絆されてしまったのか。

 

 

 

 瞼を閉じて、もう1度考えてみる。

 この先1週間の、2つの未来を。

 

 1つは、俺が彼女に強く言って、なんとか宝塚記念を出走回避させる、あるいは今からでもトレーニングの負荷を下げるという未来。

 これなら……恐らく、ホシノウィルムは故障しない。

 だが、彼女との勝負を放棄したことになってしまうし……何より、堀野のトレーナーとして担当の望みを放棄させるのは、許される行為ではない。

 

 もう1つは、堀野家のトレーナーとして彼女の願望に寄り添い、このままトレーニングと宝塚記念への出走を許す未来。

 もしその道を選べば……もしかしたら、彼女の脚は故障を起こすかもしれない。

 下手をすれば、もう二度と満足に走れなくなるかもしれない。

 「かもしれない」ばかり。全て可能性の話ではある。

 けれど、確かに可能性のある話でもあった。

 

 それは、嫌だ。

 彼女はまだ幸せになってない。

 もっと多くの人から評価されて、もっと多くのファンから愛されて……救われなきゃ駄目だ。

 

 

 

 ……でも、全てのリスクを聞かされて、彼女は「それでもやりたい」と言ったんだ。

 「私なら大丈夫です、信じてください」と。

 

 その言葉を信じたいという気持ちも、確かにあった。

 実際、ホシノウィルムは桁外れの天才だ、俺の予測など簡単に超えて、何の故障もなく1着で帰って来る未来だってあり得る。

 けれど……それは、妄信というものではないか?

 

 俺は二の轍は踏まない。必ず失敗から学ぶようにしている。

 要領の悪い俺が同じ場所に留まっていては、周りの成長に付いて行けないからだ。

 1度彼女からの感情の大きさを間違えて問題を起こした以上、もう彼女に対して何かを決めつけることはしたくない。

 故にこそ、俺は迷い続けているのだ。

 

 確かに俺は、ホシノウィルムを天才だと感じている。

 人智の及ばぬ、最強のウマ娘なのだと思っている。

 

 ……けれど。

 昨日怒りの表情を見せ、感情のままに喋る彼女は、どう見たって等身大の女の子だった。

 ただの中等部の、どこにでもいる女の子に過ぎなかった。

 

 確かに、天才かもしれない。

 神から与えられたギフトを持っている、選ばれたウマ娘なのかもしれない。

 でも、それでも、今ここに生きる彼女は、ただ1人のウマ娘。

 生まれて10年と少しの、女の子でしかない。

 

 そんな子の言葉を額面通り信じるのが、大人のすべきことか?

 彼女を担当する者として、止めるべきじゃないのか?

 ……それともこれは、俺の欲望がもっともらしく理由付けしているだけなんだろうか?

 

「答えが出ないな。……いや、答えがないのか」

 

 「信じる」という行為の難しさを痛感する。

 額面通りに見ればさも善性の行いに思えるが、それだって行き過ぎれば妄信となって牙を向く。

 だが、だからって信じなければ信頼関係は築けない。

 そして信じていたはずのものが、昨日のように実物とズレてしまい、問題を起こすこともある。

 

 ホシノウィルムという女の子を育てる責任者として、俺は……。

 彼女を信じるべきか。

 彼女を守るべきか。

 

 ……なんか、字面を見ると、まるで子育てみたいだな。

 いや父親代わりだから、実際子育てみたいなものだけどさ。

 

 

 

 ……まぁ、実のところ。

 こうして悩んでおきながら、既に一応の答えは出しているのだが。

 

 宝塚記念まではあと1週間を切っている。

 未だにトレーニングを付けている時点で、心は決まっているようなものだ。

 

 直前まで脚に問題が出ないようならば……。

 宝塚記念には、出走させる。

 

 そのために彼女にしてやれるのは、俺なりに最良と思えるトレーニングを組むことと……。

 彼女を信じること、くらいか。

 

「……信じて、もらっているものな」

 

 俺と勝ちたいのだと。

 自分はあなただけの担当ウマ娘なのだと。

 彼女は、そう言ってくれた。

 

 まさか、ホシノウィルムにあそこまで信じてもらえているとは、思わなかった。

 俺と彼女の間に信頼関係があったとしても、それは教師と生徒のようなものだと思っていたんだ。

 時が来ればお互いに「今までありがとうございました」と言って別れる程度のものだと。

 

 堀野のトレーナーとして、最適の距離感はそのくらいだと教わったし。

 ……天才である彼女に、凡人である俺が、そこまで評価されているとも思えなかったから。

 

 だが今、事実として。

 俺は彼女に信じてもらっているのだ。

 

 たとえ分不相応のものでも、信頼には信頼で返さねばならない。

 彼女が無条件に俺を信じてくれるのなら、俺も……たとえそこに根拠がないとしても、彼女を信じるべきだろう。

 

 自分の担当ウマ娘を信じる。

 ホシノウィルムが、このトレーニングをこなした上で、宝塚記念に勝利すると、心から信じる。

 俺が今、一番心がけるべきことは、それだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「トレーナー」

「ん、終わったか、ホシノウィルム」

 

 気付けば、バインダーの向こうにホシノウィルムが立っていた。

 彼女は腰に手を当てて……少しだけ怒気を込めた瞳で見つめてくる。

 耳は絞られてないから本気ではないだろうが、ちょっとばかり不機嫌かな、これは。

 

「何か考え込んでいたようですね。

 また自己嫌悪ですか? それ、禁止って言いましたよね」

「いや、今回は違う。君に信頼されているのが嬉しいな、と考えていた」

「…………そうですか」

 

 なんでそこで顔を背けるの? 俺また何か信頼関係にヒビ入れるようなことやっちゃいました?

 

 ……あ、いや、これは前から時々あったヤツか。

 うーん、結局この動作は何なんだろうな。

 兄に相談しても、微妙に口ごもって明瞭な答えは得られなかったし。謎だ。

 

 まだまだ彼女にはわからないことが多い。

 せっかく契約を結んでいるんだ、いつかは彼女を知悉することができればいいが……。

 

 まぁ、その内そういうタイミングも来るだろう。

 今はとにかく、トレーニングを無事に終えた彼女を労うとしよう。

 

「お疲れ様、ホシノウィルム。ほら、水と塩飴だ。ちゃんと食事は取っているか?」

「……あ、ありがとう、ございます。えっと、食事に関しては……むしろいつも以上に取っているつもりですが」

「なるほど。しかし体重は僅かにも増えているように見えないとなると……ウマ娘の中でも基礎代謝の高い体質か?」

「……そういえば私、冬でも手が温かい方でした」

「そうか。……ふむ、だとすると出先でも食事量を増やした方が良いか」

 

 たわいのない話をしながら、手早くバインダーに挟んだ書類を整理する。

 最近ホシノウィルムの人気がすごくなったおかげで、処理しなきゃいけない書類が増えたからな。

 こうしてトレーニングを見ている中でも処理しないといけなくなってしまったわけだ。

 ……いや、量が増えたってこと以外にも、今はもう1つ理由があるんだけど。

 

「ナイスネイチャはどうした?」

「見ていませんでしたか? 彼女のトレーナーが迎えに来て、へとへとになった彼女を抱えて帰って行きました。

 『根を詰めすぎないようにね』と伝言を預かっています」

「……気を遣われてしまったか」

「そうかもしれません。トレーナー、難しい顔で黙り込んでいましたし」

 

 そのくらい、気にせず声をかけてくれていいんだけどな。

 アイツとも長い付き合いだし、もっと気安くてもいいと思うんけど……親しき中にも礼儀ありってヤツかな。

 

「それで、トレーナー。時間は取れそうですか?」

「ああ、仕事は問題なく片付けた。明日の10時から、3時間程度は空けておいた」

「……良かった」

 

 その端正な顔が、安堵と喜びで、にへらと歪む。

 ……うん、君にそんな顔をしてもらえれば、昨日からひたすら仕事を片付けたかいもあったというものだ。

 

 担当のために時間を割くのに躊躇はない。

 ずっと昔から、それこそが堀野のトレーナーとして正しい行為だって教えられてきたし。

 

 ……というかむしろ、嬉しい。

 彼女からの親愛は、どうにも信じられるものではなかったけど……こうして形にされれば、確かな物証として認められる。

 

 彼女は……一体何を認めてくれたのかはわかんないけど、一緒に時間を過ごしたがるくらいには俺に親愛を感じてくれているんだ。

 ならばそれに応えたくなるのがトレーナー、そして人間というものだろう。

 睡眠時間を2時間削ったくらいで彼女が幸せになるなら、安いものだし。

 

「それでは、10時に。寮で待っていますね」

「了解。迎えに行く」

 

 明日の日曜日は、午後3時までトレーニング禁止。

 ホシノウィルムはその空白に、俺との予定を捻じ込んだ。

 昨日俺がやらかしちゃった件は、今回のお出かけ……疑似的ご褒美権でチャラ。

 

 赦しの代価として彼女が要求したのは、一緒に水族館に行くことだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 水族館なんて行くの、いつぶりだろうな。

 今世じゃ行ってない。トレーナー業務には関係ないからね。

 前世で最後に行ったのは……中学校の時か? 確か家族で行ったような気がする。

 

 ……あ。

 前世の家族の顔、思い出せない。

 普通に円満な家庭だったし、大好きな家族だったんだけどな。

 俺、記憶力もないからなぁ。輪廻転生してから20年強、記憶はすっかり劣化し尽くしたらしい。

 すまん、前世の父さんと母さん。大好きだったよ。

 

 ……まぁそれは、今は置いておこう。

 俺は前世の名前も捨て、堀野歩となった。あまり長々と引きずってもいられないのだ。

 とにかく、水族館に行ったのは実に30年以上ぶり。

 どんな感じの場所だったか、もう覚えてすらいなかった。

 

 

 

 で、実際に行ってみると。

 

「見てください、トレーナー。可愛いクラゲですよ」

「おう……」

 

 なんというか、据わりが悪い。

 家族連れと恋人が多い中、成人男性とウマ娘……それも身長差が40センチくらいある俺たちは、ものの見事に浮いていた。

 

 伊達眼鏡で変装しているホシノウィルムは気にしていないようだが、結構視線が痛い。

 もしかしたら彼女が二冠ウマ娘であることがバレてるのかもしれないな。これからこういう時は、もう少しきちんと変装させるべきだろうか。

 ……いや、気にしていても仕方ない。

 ちゃんと内装を見ていこう。

 

 ムーディな薄暗いライトに照らされた、どこか幻想的な美しい空間。

 広めに取られた空間に、いくつか円筒状の水槽が設置されており、中でクラゲ……半球に細かい糸をたくさん付けたようなクラゲがぷかぷかと浮いている。

 色付きのライトで照らされて……なんというか、こう、クラゲって感じだ。

 

 ……これ、可愛いのか? クラゲだなぁって感想しか出てこないんだが。

 

「トレーナーはどんな水生生物が好きですか? 私はエイが好きです」

「……いや、これといって好きなものはないかな」

「じゃあ、今日見た中で一番好きだったものを教えてくださいね」

「了解した」

 

 うっすらとほほ笑む彼女に、思わず安請け合いしてしまった。

 

 了解はしたけど、そもそも好きな水生生物って何?

 クラゲは……クラゲだ。好きとか嫌いとかなくない?

 

 ……うーん。昔から、好きな食べ物とか好きな色とか聞かれると困っちゃうタイプなんだよな。

 特に今世では、トレーナーとしての勉強しかしてきてないから……人生経験が、ね……。

 

 何かを見て心を動かす感性は、人生経験によって培われるものだと思う。

 そして俺は、この20年、トレーナーとしてしか生きてきてない。

 結果として、トレーナー業に関係しないものには、その……よくわからないというか、興味が薄いというか。

 ぶっちゃけ好きとか嫌いって感想は出てこないんだ。

 

 とはいえ何か好きな魚を作らないと、ホシノウィルムのリクエストに応えられない。

 なんとか……館内を見回る内に、魚を好きにならなければ……!

 

 

 

 1時間後。

 

「……おお、サメ」

 

 心なしか目をキラキラさせて水槽を見ている彼女の後ろで、俺は脂汗をかいていた。

 

 わからん。

 好きな魚ってなんだ。

 ……魚を好きになるってなんなんだ。

 魚は魚だ。俺にとって食料か、生き物でしかない。

 好きな色って言われても絞り込めないのと同じで、どの魚が好きとかってないぞ。

 

 こ……このままじゃ、彼女のリクエストに応えられない。

 せっかく少しずつ取り戻している信頼関係が、再び崩れてしまう!

 

 急募、魚を好きになる方法。

 誰か助けて!

 

「また難しい顔になってますよ、トレーナー。何を考えているんですか?」

 

 水槽を覗き込んでいたホシノウィルムが、少し不安そうに駆け寄って来る。

 いや、そんなに気にされるほどのことじゃないんだけどね。

 

 なんかホシノウィルム、あの件以来、だいぶ俺を気にかけるようになったというか……過保護な感じになったな。兄さんを思い出すよ。

 本当、色々と心配をかけてしまって申し訳ない限りだ。

 信頼関係を取り戻し、彼女に何の心配もなく頼ってもらえるよう、改めて気合を入れなければ。

 

 ……そういう大事な時にこんなこと言うの、やだなぁ。

 でも基本的には隠し事はナシって約束しちゃったからなぁ。

 流石に信頼関係を瓦解させかねない前世関連は言えないけど……これは言ってもいいだろう。

 俺が恥をかくくらいのことで、彼女が安心できるのなら、それに越したことはない。

 

「いや……『好き』とは何かを考えていた」

「はぁ、す、好き……ですか」

「どうすれば好きになれるかを考えていたんだ」

「そ……そうですか。えぇと、好きっていうのは……その、どうにかしてなるものじゃなくて、自然となるものじゃないでしょうか。

 強いて言えば、い、一緒にいて心地良いと思えば、好き……なんじゃないですか?」

「!」

 

 なるほど、確かに。

 好きになるんじゃなく、自然と好きになっている。

 一緒にいて心地良いと思ったら、それが好き。

 それはこれ以上ない真理として、俺の心に沁み込んだ。

 

 まるで兄と話している時みたいだ。

 天才ウマ娘はすごいな。人の心にまで精通しているのか。

 

「なるほど、至極道理だ。

 よし、任せろ。俺も好きな魚を見つけるぞ」

「……ええ、そうでしょうね。そういうことでしょう。わかっていましたとも」

 

 

 

 ……結局、俺が一番心地良く感じたのは、名前もわからないブサイクな魚だった。

 びっくりするくらい可愛くないし、ゆったりと動く様は呆れるくらいに怠け者だったけど……。

 

 うん。なんというか、馴染むね。

 

 

 

 ん?

 一緒にいて心地良い、イコール、好き。

 確かに俺、前世でも今世でも、家族と一緒にいるのは心地よかった。

 つまり俺は、家族が好きだ。

 ここまでは良い。

 

 けどそれだと俺、ホシノウィルムのことも好きってことになる。

 

 困ったな……。

 堀野のトレーナーとして、親愛や信頼はともかく、教え子に好感や悪感情を持つのは良くないんだけどなぁ。

 

 ……いや、もう諦めるか。

 今更、ホシノウィルムとビジネスライクなだけの付き合いなんて、できないよな。

 

 

 







 トレーナー業務と名家関係以外はぜんぶよわよわのトレーナー君でした。まさしく小学生並みの感性。

 あ、水族館いちゃらぶデートは尺の都合上ほとんど書けませんでした。
 何があったかは読者様のご想像にお任せしますね。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、幽霊もどきと嫌な予感の話。



(ご報告)
 僥倖! あまりにも僥倖!
 なんと、また支援絵をいただいてしまいました……!
 小説のあらすじに新しく掲載しておりますので、是非ともご覧ください!
 前回にいただいたものとは毛色の違う、これまた最高のイラストです。
 本当に、ありがとうございました!!

(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました! ありがとうございました!


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憑いてく、憑いてく……。

 これが最後の日常回。





 

 

 

 私の中から、「寒さ」が消えた。

 最初にそれに気付いたのは、ネイチャとの併走を指示された時だった。

 

 他のウマ娘と一緒にスタートしても、あの「寒さ」が襲ってこない。

 相手を意識しても、そのスピードに合わせて走ることができる。

 まるで普段通りのトレーニングをする時みたいに、本気を出さずに駆け抜けることができる。

 

 それは私にとって、奇跡みたいな変化だった。

 

 

 

 それまで、私が走る時に感じていたのは、苛立ちと「寒さ」の2つ。

 もっと速く走りたいのに、体が上手く動かないという、苛立ち。

 正体不明の……今思えば、過度な勝利への渇望が自身を緊張させていた、「寒さ」。

 それらは私をがんじがらめに縛り付けていたはずだった。

 

 けれど、ダービーの最後の瞬間、私はその2つから解放された。

 姿勢を低く保つことで大きな空気抵抗を受けなくなり、なおかつ歩幅を広げることで速度を跳ね上げる「前傾スパート」。

 テイオーとの戦いの中で吹き上げた、彼女たちに感じたような熱。自分を勝利へと突き動かすモノ。

 

 その2つが、私を捕らえていた鎖を破壊した。

 

 もう、私を縛るものはない。

 ……自由だ。

 そう、私は自由になったんだ。

 

 

 

「はっ、はっ、はっ……」

 

 勿論、こうして普通に走れば、風の抵抗を感じる。

 けれど、もうそれに不快感を覚えることはない。むしろ優越感さえ感じるくらいだ。

 いつでもこの縛りを取り払うことができるんだっていう余裕があるからね。

 

 私はもうこの風に縛られることなく、自由に走ることができる。

 その認識は思いの外、私の心を軽くした。

 

 ……いやまぁ、その走りは禁止されてるんですけどね。

 ああ見えて心配性なトレーナーは、私の前傾スパートを封印したんだ。

 

 私にも自覚があったけど、あれは過度に負荷のかかる走法だ。

 特に足首と膝へのダメージはバ鹿にならないものがある。

 故に、大原則として使ってはならない。

 それはホシノウィルムの競走ウマ娘としての寿命を削る行為に他ならない。

 特に宝塚記念では決して使うな。使った場合はご褒美権の反対の、罰を課すことになる、と。

 割とシャレにならない真面目な顔で、彼は私にそう言い聞かせた。

 

 ちなみに罰の内容を聞いたら、自主トレと模擬レースを3か月禁止、とのことだ。

 殺す気か。

 

 確かに前傾スパートは、私の脚を消耗する走り方だと思う。

 自分ですら自覚があるくらいだ、トレーナーから見ると顔を青くするくらいのものかもしれない。

 そりゃあ、やめろって言ってくる気持ちは理解できるけどさ。

 

 とはいえ、そんなにガッツリ縛ってくるかぁ……。

 宝塚記念、全力を出さずに勝てるようなものじゃないと思うんだけどなぁ。

 罰は受けたくないけど、だからといって本気を出さないまま負けを認めるのも嫌だし。

 どうしたものか、ちょっと悩ましい。

 

 ともかく話を戻すと、この風はもう振り払えるってことで。

 一度でもそうと確信したことで、私の中の走る事に対するイメージはだいぶ明るいものになった。

 

 

 

 一方、「寒さ」に関しては……乗り越えた、と言っていいのだろうか。

 トレーナーが言っていたように、私はネイチャとの模擬レースで「寒さ」に耐えることができた。

 すぐそこに、トレーナーがいる。

 私が負けても慰めてくれる堀野トレーナーがいるんだって、そう思えば背筋を震わす「寒さ」にも耐えられた。

 

 けれど日本ダービーの終盤、私はそれとは違う形で「寒さ」を乗り切ったのだ……と思う。

 トレーナーを認識するんじゃなく、「負けたくない」「勝ちたい」という想いが……身を焦がすような熱が、私の「寒さ」を溶かした……ような気がした。

 

 これに関しては、正直よくわかんないんだよな。

 そもそも、あの時感じた熱が何なのかわかんない。

 あの熱、ずっと昔に感じたことがあるような気もするけど……。

 もしかしてあれが、トレーナーが時々言ってた「ウマ娘の闘争本能」ってヤツなのだろうか。

 私はテイオーに追い抜かれて、初めてそれを感じ始めたのか……。

 

 ん? でもそれ、違和感あるな。 

 一番最初の模擬レースで、私は確かに負けた。

 前を行くウマ娘に追いつけず、2着で敗れた。

 ……今考えると、加速ド下手くそだったくせに差しで走ってたの、本当にアホだったな、あの時の私。

 でも今、改めて考えてみると、あの時は闘争本能なんて感じなかったよね。

 負けると直感しても、ただただひたすら「寒く」なっていくだけだった。

 

 というかそれからも、例えばネイチャとのタイマン模擬レースでも「このままじゃ負ける」と思って暴走しちゃったわけで。

 敗北するという意識が闘争本能を奮い立たせるのならば、これまでにも何度か発生してしかるべきだったんだよね。

 

 あの時と今で違うのは……多分、1度「寒さ」に耐え切ったことか?

 トレーナーがそこにいてくれるから大丈夫、って意識があったのは事実。

 それで安心して闘争本能を爆発させられたってこと?

 

 ……いや、この辺はちょっと難しいな。

 一体何故、あの「寒い」を上回る熱が発生したのか……。

 現状、これを確定できるだけの情報はない。

 まぁ、そもそもウマ娘の心なんて複雑怪奇なものだ。

 これと確定付けること自体ナンセンスかもしれないけど。 

 

 とにかく、結論として。

 私はある程度「寒い」状態を使いこなせるようになった。

 「寒い」状態になって集中力を上げるのも、あるいはそうせず相手を意識して走るのも、今では自由自在だ。

 

 

 

「はっ、はっ、はっ……ふぅ、あと……1時間くらいかな」

 

 苛立ちと、「寒さ」。

 その2つを克服した結果として……。

 私は少しだけ、走ることが好きになった。

 

 これまではただ、勝つための手段としてだけ行っていた自主トレ。

 ……いや、正直これは癖というか、やってないと落ち着かないので、自主トレは元から好きだったとも言えるんだけど。

 自分を鍛えること、つまり体をイジめる行為は好きなんだと思う。

 けど、走ることが好きかと言われると、それは違った。

 

 走るのは手段でしかなくて、結局のところ、レースに勝つことが目的だ。

 私はその目的が好きだっただけ。

 正確に言えば、勝って褒めてもらうことが好きだったんだ。

 

 でも今は、少し違う。

 

 足で地面を後ろへと蹴飛ばす。

 全身を撫でる風の、柔らかい壁を切り裂いて。

 私の体は前に進んでいく。

 徐々に疲れてくる。疲労が足を止めようと泥のようにへばりつくけど……。

 それでも、弱音を叩き出して、ひたすら足を回転させる。

 

 楽しい。

 こうして走ることが、少しだけ、楽しい。

 全身に感じる涼しい風と、全身からにじむ汗と、少しずつ蓄積されていく疲労。

 その全てに心地良さと充実感を感じる。

 

 なんで今まで気づかなかったんだろうな。

 走ることは、楽しいんだって。

 

 ……だから、まぁその、なんだろう。

 そうやって、楽しいことを知って、ハイになっちゃって。

 その上、すべき理由まであるんだもん。

 勝手に自主トレしちゃうのも仕方ないよね。

 

「はっ、はっ、はっ……一旦、休憩」

 

 夜闇の中で立ち止まる。

 ここはトレセン学園の敷地外、ウマ娘用のレーンが整備された一般道路だ。

 時刻は夜の10時。勿論栗東寮の寮長であるフジ先輩から外出許可は下りてないし、トレーナーからも特別許可をもらっていない。

 

 そう、私は今。

 宝塚記念に向けて、久々の無断自主トレ中なのだった。

 

 

 

 トレーナーにも寮長にも許可を取ってない、無断の自主トレ。

 しかも時刻は夜、敷地外の一般道。

 これだけ聞いたら、私はだいぶやんちゃな不良みたいに聞こえるかもしれない。

 

 でも実のところ、決してそんなことはない。

 私は極めてまともなウマ娘だ。

 不良な要素なんて……強いて言えば、勉強はイマイチだしトレーナーの言うこともあんまり聞けてないくらいである。

 

 トレセン学園において、夜に勝手な自主トレをするというのは、そう珍しい話じゃないらしい。

 ランニングジャンキーとかトレーニングジャンキーなウマ娘は一定数いる。

 そういう子は、耐えきれずに夜な夜な寮を脱出して走り出してしまうこともある。

 

 これに関しては、はっきり言って仕方のないことだと思う。

 ウマ娘はそれぞれが強くなりたい、速くなりたいと望むものだ。

 自分からトレーニングに臨むのは、至極道理な行為だと言えるだろう。

 ……うん、おかしくない。全然おかしくないから私。

 

 現に、栗東寮寮長のフジキセキ先輩は、以前0時直前に寮に帰って来た私を見つけた時「はは……まったく、君も仕方のないポニーちゃんだ」と苦笑していた。

 つまるところ、黙認である。15分ほど業務的なお小言はいただいたけど、同時に深夜帯に外に抜け出す許可を得たも同然であった。

 ……そういえば、ポニーちゃんって何なんだろうな? 私、確かに小柄だけど、ポニーって言うほどかね。

 

 とにかく、夜の脱走とか自主トレは、一応軽く怒られるけど、基本的に黙認されているような状態だ。

 私のトレーナーに関しても、絶対に自主トレしないでほしい時はちゃんと言ってくるしね。

 つまり禁止されなかった今日に関しては、自由に自主トレしていいってわけだ。

 ……いや、自由ってほどじゃないけど。「するならランニング、ローペースで2時間以内」って言われたし。

 

 ……というか、相手に黙認されてる自主トレって、無断って言っていいのか?

 そもそもトレーニングの課目まで指定されてたら、もう自主トレですらないのでは?

 

 …………まぁどうでもいいや、走れるなら。

 へへ、無断自主トレバンザイだ。

 

 

 

「よし……出発」

 

 こんな夜中にうら若き乙女が出歩くなんて危ない、という見方もあるだろうけど……。

 私たちウマ娘に限って、その指摘は的外れだ。

 

 私たちはウマ娘。前世では馬力という単位があったくらいの、かなりとんでもない力持ちだ。

 多分世界で一番筋力のある男の人でも、私たちに比べると貧弱だろう。そこには種族差という厳然たる壁がある。

 たとえ屈強な男性複数人で囲まれたって、私たちをどうにかすることはできない。

 ポケモンで言えば、600族に300族が挑むようなもの。何人同時に来ても、そうそうやられはしないのである。

 

 更に、どうやらウマ娘には毒物の類も効かないらしい。

 ……いや、効かないって何? 毒物ってどこまで毒物? とか、気になることは色々あるんだけど、とにかく効かないんだってさ。

 トレーナー曰く、「ウマ娘の体調に強く影響する、服毒するタイプの毒」が無効なんだとか。

 

 例えば塩酸とか王水みたいな、体を溶かすような毒……というか酸は効く。

 でも睡眠薬とか麻痺毒みたいな、体の内に取り込んで効果を成す毒は、ほとんど効かない。

 ただよくわかんないことに、魚の中にいる寄生虫とかは有効らしい。ネイチャから聞いた噂では、この前ジュニア級の子が何を血迷ったか蜘蛛を食べて蕁麻疹発症したって事件もあったらしいし。

 本当によくわかんない体質だよね、ウマ娘。流石はフシギ生物である。

 

 ……話が逸れた。

 纏めると、睡眠薬とかの搦め手も効果を成さないってことね。

 

 つまるところ、正攻法でも搦め手でも、普通の人間に私たちを害することはできない。

 シンプルに強くて状態異常効かないエネミーとか、どうやって攻略するんだって話だよね。

 勿論本当にどうしようもないってわけじゃないけど、それこそ銃なり刀なり持ち出す覚悟じゃないと、私たちには対抗できない。

 そしてそもそも、友好的で文化的な種族なので害する必要性がない。

 これが、この世界における一般的認識だ。

 

 そのため、ウマ娘を狙ったそういう犯罪は極めて少ない。数年に1度、酒に酔ったバ鹿がやらかすくらいのものだ。

 今世は善性の人間が比較的多い気がするし、倫理観の良さも関係してるかな。

 

 もちろん私も、そういった行為に出くわしたことはない。

 平穏無事な……とは言えないけど、悪意にはあまり縁のない半生だったね。

 

 と、そんなわけで、ウマ娘が夜道を歩いたってそこまで危険ではないのだ。

 むしろウマ娘に下手に手を出す側の方が危険だ。

 私たちもまだ子供、自制心はあんまりないからね。ちょっと過剰防衛になりかねない。

 

 で、更に言うと、私はとても耳が良いんだわ。

 走ってる最中なら、10バ身……つまり25メートル周囲の足音が聞き取れる。

 もし不審者が来ようものなら、誰よりも先にその存在をキャッチできるわけだ。

 

 

 

 ……故に今、後ろから付いて来ている存在にも、当然気付いてる。

 

 

 

 20メートル程度後方、1人分の足音がする。

 ローペースとはいえ、走る私に付いて来てるってことは、ウマ娘なことは間違いないね。

 歩幅から考えて、多分小柄な子かな。ちょっと音が整ってないというか、どこか足取りがふらふらしてるし、まだ本格化で急成長する体に慣れきってないジュニア級の子?

 しかし、ただでさえもう遅い時間だってのに、何のために付いて来るんだ?

 熱烈なファン……ってわけではないと思うけど。

 

 私がペースを僅かに上げればあっちも上げてきて、休憩のために足を止めればやはり同じように止める。

 ……ペースを合わせてきてるのか。そういうトレーニングでもしてるのかね。

 とはいえ、どうやらかなり無理しているみたいで、聞こえてくる息遣いはぜぇぜぇと荒い。

 それでもしっかり付いて来るってあたり、スタミナとガッツはかなりのものがあるな。ステイヤー向きの子なのかも。

 

 もう20分くらい付いて来てるし、流石に声をかけてあげようかな、とも思うけど……。

 あー……まぁいいや、気になるっちゃ気になるけど、足を止める程のもんじゃない。

 

 今回は何も、楽しむための無意味な自主トレってわけじゃない。

 宝塚記念への対策と、私の感じる嫌な予感を振り払うための鍛錬だ。

 故に、ちょっと申し訳ないけど、声もかけてこない下級生の子を気にするほどの余裕はない。

 

 もし私に最後まで追いついて来れれば、その時改めて声をかけようかな。

 ……私に追いついて来るジュニア級の子、か。

 その時はちょっと……うん、その子ともレースしてみたいな。熱くなれるかも。

 

 

 

 結局その子は、30分くらいは付いて来てたんだけど、流石にバテたのか、いつの間にかいなくなった。

 軽いランニングとはいえ、それだけ付いて来るってのは……本当にジュニア級の子だとすれば、すごいウマ娘だ。

 もしかしたら本格化が遅れたクラシック級か、あるいは休養明けで本調子じゃなかったとかかもしれない。

 

 しかし、いつの間にか現れたり、いつの間にかいなくなったし、ちょっと変な子ではあったよね。

 かなり正確に距離を保ってくるし、一瞬振り返った時も黒い人影がぼやっと見えたような気がしただけだったし。

 それに……あまりに小声で聞き取れなかったけど、何か小声でぼそぼそ呟いてたし。

 

 ……ゆ、幽霊……じゃないよね。まさかね。

 でも確かに……ぴったりと付いて来るとか、足取りがちょっと不安定とか……。

 小声で「うらめしや……」とか「なんであなただけ……」とか言ってたり……?

 

 い、いや、いやいやいや!

 うん、そんなのあり得ないから!

 ウマ娘以上のフシギ存在なんてこの世界にいるわけないし!!

 

「……よし、ちょっとハイペースで走って帰ろうかな」

 

 うん、トレーニングの締めくくりってことで。

 他意はないけど。他意はないけど!

 

 

 

 その後は、足音が聞こえたりすることもなく、無事に寮に帰ることができた。

 良かった。本当に良かった。

 ……いや当然なんだけど!!

 

「別に怖くなかったが。全然これっぽっちも怖くはなかったが?」

 

 流石にトレセンの敷地内にまで入って来る幽霊なんていないでしょ。

 ……いや、ウマ娘の幽霊なら普通に入って来るのでは?

 

 よし、さっさと部屋に戻ろう! 汗流したらすぐにお布団にこもろうかな!

 別に他意はないけどね! ただ自主トレで疲れただけだよ!

 

 というわけで、栗東寮玄関……ではなく、寮の裏側に回る。

 無断外出した際の玄関はこっちだ。

 

 まずは上に向かって壁を伝う雨どいを、腕の力でせっせとよじ登って、十分な高さになったらそこを足場に、思い切り横へジャンプ。

 それで自室の窓縁を掴んで、懸垂の要領で……えいやっ、と。

 うん、我ながらアクション映画もビックリな帰宅法である。

 寮が頑丈な建材で出来ててよかった。普通の雨どいだったら、ウマ娘の脚力で蹴ったりすればへし折れてたところだ。

 

 これこそが私の見出した、寮長に見つからない帰還ルートなのだった。

 もし深夜帰りが見つかったら、15分くらいお小言もらうからね。

 私も聞く気はないし、あっちも聞くとは思ってない、極めて無駄な時間だ。省くに越したことはない。

 

「……あ、ウィルちゃん、お帰りなさい」

「ただいま帰りました。窓を開けておいてくださって、ありがとうございます」

「……へへ、ぶい」

 

 帰ってきたら、ルームメイトにご挨拶。

 窓からいきなり入ってきた私に動じることもなく、ミーク先輩はブイサインしてた。

 本当、頼れる先輩だよ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「ネイチャ、ちょっと一緒に走りませんか」

 

 おかしな足音を聞いた、次の日。

 私は一緒に昼食を取ってた友達に、そう話しかけた。

 

「一緒に? 併走ってこと? でもウィルって」

「ええ、私の予定はトレーナーに管理されています。

 ですが今日の3時から6時までは自由時間とされているのです」

「自由時間って……休んでほしいんじゃないの?」

「いえ、確認を取ったところ『君の自由に過ごしなさい。ただし全力疾走は禁止。破った場合は宝塚記念出走取消』と」

「……苦労してんね、堀野トレーナーも」

「え、自主トレを制限されて苦労しているのは私なのですが」

 

 首を傾げると、ネイチャは大きくため息を吐いた。

 理不尽を感じる。なんでだ。

 

「で、走るって?」

「ええ。併走というか、模擬レースみたいな」

「競走相手が欲しいってこと?」

「まぁ……そういう感じです」

「ウィルにしては歯切れ悪いじゃん。どうしたの?」

 

 うーん、何と言うか……。

 これは極めて直感的な、何ら確証のない話だ。

 故に、トレーナーにも話していない。

 というか、人間であるトレーナーに話しても、本質的な理解は得られないと思うし……また変に抱え込んじゃう危険性が高い。

 故に、同じウマ娘であるネイチャに話を持ち掛けたのだ。

 

 ……この、少しばかり暗い話を。

 

「このままでは……何と言うか、嫌な予感がするんです」

「嫌な予感? 負けるかもってこと?」

「いえ、勝ち負けはともかく……言葉にしにくいのですが、何かこう……。

 とにかく、何か壁……? そういうものを破らないとマズい気がしているんです」

「壁、か……。同じウマ娘として、なんとなく意味はわかるけど」

 

 競走ウマ娘としての直感、というヤツなのか。

 私は先日から、なんとなく予感していた。

 近く壁にぶつかる。そしてその時、何か嫌なことが起きるような気がする。

 それは敗北とか、決裂とか、そういうんじゃなく……もっとこう、なんというか、ヤバい感じ。

 

 なんとかそれを越えないと……本当に取り返しのつかないことが起こるような気がするんだ。

 

 ……それこそ、二度と走れなくなる、とか。

 

 

 

 ぶっちゃけさ。

 私としちゃ、宝塚記念に勝てるんなら、軽い故障くらい起こしてもいいんだよ。

 勿論これから一生走れないような負傷はしたくないけど、それこそ半年療養くらいならしたって構わない。

 そもそもトレーナーの言う「一生モノの故障」なんて、確率は相当低い。あくまで最悪のケース、それこそ確率で言えば数パーセントのものでしかない。

 

 そして……それを引いたって、私は後悔しない。

 

 私は、宝塚記念に勝ちたいと望んでる。

 強敵との戦いに煮え滾るような熱が心から湧いて来るのを感じてるし、誰よりも速くゴールしたいという欲がある。

 ……以前は感じることもなかった、私の熱。それが今、私をレースに駆り立てている。

 

 そして、宝塚記念に勝ちたいというたくさんの理由がある。

 あの期待に応えるために。最強であるために。

 あるいは、トレーナーと一緒にいるために。自分は間違ってなかったんだって認めてもらうために。

 何より……私が彼を惚れさせるために。

 

 そりゃあせっかく走ることを楽しめるようになったのに、それができなくなったら残念だけど……。

 望みと理由があるんだもの。満たすためには、何でもする。

 それは、私が命をかけてでも欲しいものなんだから。

 

 今なら、ダービーの時のテイオーの気持ちがわかるよ。

 たとえ危険でも、この脚がもたないとしても、そこに熱く燃え上がることのできるレースがあるのなら、出たいと望むのがウマ娘だ。

 

 ……だから、後悔なんてしない。

 私は私の欲望を満たすために、トレーナーに無茶を聞いてもらう。

 

 もしかしたら、すごく迷惑をかけるかもしれない。

 彼に消えない傷跡を付けてしまうかもしれない。

 それでも、勝ちたいと思ってしまったんだもの。

 ある意味、そういう運命だったのだろう。

 

 もし、そうなってしまった日には。

 申し訳ないけど、あの日、私なんかに手を差し伸べてしまったツケとして……。

 トレーナーには、最後までしっかり責任を取ってもらうつもりだ。

 

 その上で、ちゃんと立ち直らせる。

 あなたを必要とするウマ娘はたくさんいるんだ。

 トレーナーとしてしっかりと、ウマ娘の未来を育てなきゃ、って。

 そう言って、私の方から身を引くことになるだろう。

 

 

 

 ……けど、それじゃハッピーエンドとは呼べないよね。

 

 ハピエン厨の私からすれば、そんな不幸せな結論は認められない。

 物語の結末は、いつだって笑顔溢れる幸せなものじゃないと。

 

 彼も、私も、前に進める。

 そんな夢のようなハッピーエンドを迎えるために。

 

 私は、この壁を越えなければならないんだ。

 

 

 

 そんなわけで、昨日も自主トレしてみたんだけど……。

 どうにも、状況が変わった気がしないんだよね。

 私が感じている壁ってヤツは、単純に鍛えても突破できないのかもしれない。

 

 でも、他にどうすればいいかわからない。

 私、ここまでずっと、困った時は走ってきたし。

 足が速くなれば全部解決。それが私の人生の真理だったのだ。

 

 けど今回のは、私1人で頑張ってもどうにかできる問題じゃないっぽい。

 ならネイチャにも協力してもらおう、って流れなのだった。

 

「多分、私も領域を習得すれば、状況も変わるんじゃないかなって。

 だから領域を持っているネイチャと一緒に走って、何か掴めれば、と」

「あー、うーん……詳細には教えられないけど、私の領域は2人じゃ出せないっぽいからなー。役に立てるからはわかんないよ?」

「それでも、是非に。私にとって、最も恐るべきウマ娘であるあなたと走りたいんです」

「アタシが……恐るべき? テイオーじゃなくて?」

 

 テイオー?

 ああ、うーん、いやテイオーも恐ろしいと言えば恐ろしいんだけど……。

 

「確かに、テイオーは私が知る一番強いウマ娘です。

 ですが、そこまで恐ろしくはありません。私はいつだって、真正面から彼女を超えますから」

「うお……なんか、久々にアンタのキラキラをハッキリ見た気がするな」

 

 キラキラ? 私別に光ってないし……何かの比喩かな?

 ……よくわかんないけど、今は置いておくか。

 

「ですが、私にとって最も恐ろしいのはあなたです、ネイチャ。

 真正面から来るのではなく、ありとあらゆる手段を使って差を埋めてくる。

 ホシノウィルムというウマ娘にとっては、あなたこそが最も恐ろしいライバルなのです」

「おぉ……うん、いやー……ありがとう、って言うべきなのかな?」

 

 ネイチャはテレテレと頬をかき、視線を逸らして赤くなってしまった。

 褒められてないっぽい、初心な反応。

 美少女が慣れない褒められで照れる様は、やはり良いものだね……。

 

 ちなみに「ネイチャが一番恐ろしい」ってのに関しては、トレーナーも同意見らしい。

 前回日本ダービーではテイオーにハナ差で辛勝。直前のネイチャとの模擬レースでは1と2分の1バ身差だったことを考えると、実際に強かったのはテイオーの方だろう。

 

 でも「強い」と「恐ろしい」は少し違うベクトルだ。

 依然、ネイチャが一番恐ろしいライバルだってことに変わりはない。

 

 テイオーはいつでも、自分の全力で戦ってくる。

 他のウマ娘に依存しない、自身の持つ素養をフルに活用した走り。

 周りの状況に流されない代わりに、その流れに乗って加速することもない。

 故に彼女との戦いは、常に純粋なスペック勝負になる。

 ……つまり、ここから鍛錬に差が生まれなければ、私はずっとハナ差で勝ち続けられるわけだ。

 

 一方、策謀家であるネイチャは、状況によってその戦力が大きく変わる。

 バ場状態、距離、坂の有無、直線の長さ、他の出走ウマ娘、ファンの声援、その全てが彼女のレースを作り上げる素材となる。

 あの時は1と2分の1バ身差だったけど、更に状況が揃えば、今度は私が負けるかもしれないってことだ。

 そりゃあ恐ろしいってものですよ。

 

 そして、そんな恐ろしいウマ娘からこそ学べるものもある……かもしれない。

 ……本音を言うと、私の友達、他には療養中のテイオーしかいないし、頼めるウマ娘がいないってのもあるんだけど。

 

「というわけで、是非一緒に走ってほしいのです。

 勿論、自分のトレーナーさんに許可が取れたら、で良いので」

「……ま、そこまで言われちゃ断れませんわな。

 わかった、取り敢えずトレーナーさんに聞いてみるよ。あんまり期待せず待ってて」

 

 

 

 ちなみに、許可はすぐ下りたらしい。というか二つ返事でオーケーだったって。

 ネイチャのトレーナーさん、いつも思うけどめっちゃ思い切り良いよね……。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 その後、噂を聞きつけてすっ飛んできた私のトレーナーによって、模擬レースという形式は禁止された。

 結果として、ただの併走トレーニングということになってしまった。

 

 ……併走自体は先日もしたから、得るものはなさそうだなぁ。

 あれからお互い何が変わったと言う訳でもなし、両者のトレーナーも見に来てしまったので、何だかんだいつも通りの合同トレーニングって感じだ。

 確かに体は鍛えられるし、何より友人と走るのは楽しいけど……。

 

「困ったな……このままじゃ、ちょっとマズいぞ」

 

 

 

 私の心を今も急かす、このジクジクとした感覚が何なのかはわからない。

 

 けれど……きっと近く、私の前に立ち塞がる壁。

 それはもしかすると、私の力じゃ、越えられないのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

「……いや、越える。越えて、魅せる」

 

 私はもう、ただのウマ娘ホシノウィルムじゃない。

 堀野歩トレーナーが担当する、競走ウマ娘ホシノウィルムだ。

 

 折れるわけにはいかない。足を止めることはできない。

 彼のためにも……私自身のためにも。

 

 だから……。

 どうか私を信じて、見ていてくださいね、堀野歩トレーナー。

 

 

 







 担当ウマ娘が大事なレースを前にどこかそわそわし始めたら怖いよね。
 しかも理由を聞き出そうとしても明瞭に答えてくれなかったらもっと怖いよね。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、宝塚記念前半と、転生チートトレーナーの話。
 すごいボリュームになりそうです。もしかしたら前後編に分けるかも。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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定命

 さいごのレースが始まる。





 

 

 

 また、その光景を見た。

 

 どういう視点なのかもよくわからない。

 空から見ているような、あるいは誰かの視点になっているような、そんな不思議なビジョン。

 それを通して俺は、1つのレースを見ていた。

 

 そのレースの名は、宝塚記念。

 多くの人の夢と期待を背負い、「その子」は今日もまた走っていた。

 

 軽快な足取りで、誰よりも速く先頭を駆け抜ける。

 いくつもの常識を覆してきたその子は、今日もまた1つの常識に挑んでいた。

 

 ……けれど、今日のところは相手が悪かったのかもしれない。

 ライバルたちが彼女を追い抜く。

 ほんの一瞬で、彼我の差が大きく開く。

 

 それでも、「その子」は諦めない。

 今日も誰かの願いに応えようと、脚を伸ばして……。

 

 コーナーが終わって、最終直線に入ったその時。

 がくりと、その体が沈んだ。

 

 「その子」は必死に体勢を保とうとするけど……あぁ、駄目だ。

 時速60キロメートルの慣性が、無防備になった「その子」を前へと弾き飛ばした。

 

 

 

 そうして、「その子」は、そのまま……。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「っ!」

 

 気付くと。

 俺の視界の先にあるのは、見慣れた天井だった。

 

 ……トレーナー寮の、自室。

 

 俺は……今、ベッドの上にいる。

 嫌な汗をかく体にはタオルケットが乗っており、枕元にはスマホが置いてあった。

 ゆっくりと上体を起こして、念のために周りを見渡すけど……。

 やっぱりそこは、昨日と同じ、俺の部屋だ。

 

 ……良かった、夢か。

 

 今日は宝塚記念当日だっていうのに、嫌な夢を見るものだ。

 よりにもよって……。

 …………?

 よりにもよって、何だっけ。

 

 何の夢を見たんだったか。

 悪夢だったことは覚えてるんだけど、その内容が思い出せない。

 

 確か、俺の身近な誰かが不幸になるような、最悪な夢だったんだが……。

 

「……まぁいい、夢は夢だ」

 

 スマホで確認すると……まだ4時か。予定より30分早い目覚めになった。

 ベッドから足を下ろし、サイドテーブルに置いてあったタオルを掴んで洗面所に向かう。

 

 しかし、こんな大事な日に悪夢を見るとはな。

 昔からナーバスになりやすい方だったが、今回も例に漏れず緊張しているらしい。

 ……いや、今回だからこそ、か?

 

 今日開催されるレースの名は、宝塚記念。

 トゥインクルシリーズのG1レース。

 有記念と並べて「二大グランプリ」と呼ばれる、ファンの投票によって出走ウマ娘が決定される上半期の最強決定戦だ。

 

 俺の担当ウマ娘、ホシノウィルムにとって、これは様々な意味で最も難しいレースになるだろう。

 いや、だからって俺が緊張しても、どうなるという話でもないんだけどな。

 むしろトレーナーとしては、彼女を信じてどっしり構えているべきなんだろうが……。

 

 悪夢を見るってことは、俺は彼女のことを……まだ心の底から信じ切れてないんだろうか。

 

「大丈夫。彼女は必ず……戻って来る。

 ……弱音は、ここで捨てていかないとな」

 

 自分に言い聞かせ、まだ霞む視界で洗面所の鏡を見やる。

 そこには当然ながら、俺の……堀野歩の姿があった。

 

「思えば……この姿も、見慣れてしまったな」

 

 堀野歩は……いや、「俺」は転生者だ。

 

 何故か前世の記憶や感性を引き継いで生まれてしまった、よくわかんない存在。

 それで楽をしたこともあれば、逆に悩んだこともあったりしたな。

 特にウマ娘については……なかなかゲームの感覚が離れず、かなり苦労したし、担当に迷惑もかけた。

 いや、迷惑で言えば、俺の要領の悪さ故に他にもたくさんかけてしまったのだが……それはさておき。

 

 しかし気付けば、いつの間にか、俺の中から「自分は転生者だ」という意識は消え去りつつある。

 堀野の家で育って、トレーナーとしてのいろはを学び、トレセンに入って……。

 スカウトに失敗しまくり、ホシノウィルムに出会って、契約を結び……。

 それから、早いもので1年半。

 悩んだこともあれば、学んだこともたくさん……本当に色んなことがあったな。

 

 そして俺は、そうした経験をする内に、転生者から「堀野歩」に……この世界に生きる人間の1人になっていってるんだと思う。

 勿論、前世の記憶を忘れているわけじゃない。

 ただ、その自覚が薄れつつあるんだ。

 

 堀野歩という名前に馴染んでしまったから、前世の名前で呼ばれても反応が遅れると思うし……。

 今となっては、ウマ娘がいない世界っていうのも、なんだか信じられない。

 たとえ今から前世に戻れることになったとしても……多分、俺は拒むと思う。

 それくらい、俺はもうこの世界の人間になってしまったし……この世界のことを、気に入ってしまった。

 

 ……それに俺、前世じゃアレなヤツだったし。

 この世界に来てから20年、ちゃんと努力してきたからな。

 ウマ娘のトレーナーという仕事があるこの世界なら、俺だって少しは誰かの役に立てるはずだ。

 勿論トレセン学園には、俺よりもっと良いトレーナーがたくさんいるだろうが……。

 ホシノウィルムが頼ってくれるんだ。俺は俺なりに、俺にできることをしようと思う。

 

 前世じゃ、こんな風には思えなかったなぁ。

 俺も少しは自分を認められるようになっている……んだろうか。

 そういう点でも、俺は少しずつ変わっていってるのかもしれない。

 

「……ま、駄目さは前世から変わらないけども」

 

 そう独り言ちて、苦笑。

 要領が悪いのは、前世から変わらなかったからなぁ。

 せっかく転生って言うんなら、その辺も生まれ変わらせてくれてもよかったんだがなぁ。

 

 ……まぁ、要領が悪いからこそ努力を怠らなかったとも言えるんだけどね。

 俺は他人に劣ることに自覚的だ。

 故にこそ他人と並び、それを上回るためには努力を欠かさない。

 手前味噌な話だが、そういうストイックなところだけは美点だと思う。

 

 だが努力というのも、それをできるだけの環境が必要だ。

 俺はこの世界で、たくさんの人に助けられた。

 まずはやはり堀野家の皆。父さん、母さん、兄さんに妹。父さんの秘書には色々と面倒を見てもらったりしたし、ハウスキーパーにもこっそり書庫に連れて行ってもらったりした。

 

 トレセンに来てからは秋川理事長やたづなさん、同期の人の好いトレーナーたちにホシノウィルム、ナイスネイチャ、それからトウカイテイオー。

 ……トレセン学園の人やウマ娘も、昔はゲームのキャラクターという認識だったのに、いつしか普通に上司とか友人、生徒だと思うようになったな。

 ウマ娘も、そういう生物というか……良き隣人だと思えるようになったし。

 

 そうしてこの世界に生きているたくさんの命に支えられて……。

 「俺」は「堀野歩」になったし、なっていくのだと思う。

 

「……さて、と」

 

 大事な一件を前にこれまでのことを振り返って回想するとか、なんか死亡フラグっぽくなっちゃったな。

 俺は死んだりするわけじゃないってのに。

 ……俺、「は」?

 いや、別に誰も死んだりしないだろ。

 

 どうしちゃったんだ、俺。

 何か今日、ちょっと変だぞ。

 

「あー、もう、集中しないと」

 

 今日は、堀野家の皆の次にお世話になった少女の、決戦の日なんだ。

 

 これまでにやれることは、全てした。

 彼女の望む通りに、安全性をギリギリに保つ際どいトレーニングも付けた。負荷の溜まりにくい坂路やスイミングを中心に、可能な限りの鍛錬は積んだはずだ。

 その脚の負荷軽減のためにシューズや蹄鉄を厳選し、テーピングや温泉療法なども含め、可能な限り手を尽くした。

 

 ……俺にできることは、もう、あと1つだけ。

 

 彼女を信じることだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「さて……ついに宝塚記念当日になったわけだが。調子はどうだ、ホシノウィルム」

「絶好調です。今日ならいつも以上の走りができると思います」

 

 阪神レース場、控室にて。

 ホシノウィルムと2人で、今日の作戦について確認しながらパドック入りの時間を待つ。

 

 今日の彼女もいつも通り、「アプリ転生」上では絶好調。

 だが、この1年半で散々見せられてきたからわかる。

 彼女は今、覚醒状態だ。

 

 今考えると、「アプリ転生」上の絶好調ってのは、恐らく一定以上の調子の総称なんだろう。

 けれど現実に生きる彼女たちには、その絶好調の中でも良い悪いがある。

 覚醒状態は、その上澄み。

 絶好調の中でも更に調子の良い、自分の全てをレースに費やすことのできる状態なんだろうな。

 

 今日は、彼女にとって正念場のレースになる。

 万全な状態で挑めるのは僥倖と呼ぶ他ないだろう。

 ここまでの1週間、入院期間の分を取り戻すように仕上げてきた結果……。

 彼女の努力が、実を結んだのだ。

 

 ただでさえ天才のホシノウィルムが、努力を積み重ねてきたんだ。

 だからきっと……いや、必ず、彼女が勝つ。

 

 

 

「何度も伝えた通り、今回のレースにはメジロの双璧、そしてあのトリックスターが出走する。

 レースのレベルは今までよりも段違いに高いだろうし、不測の事態も避けられないだろう。

 ダービーの時と同じく、いざと言う時は君自身のアドリブで対処すること。

 ……だが、勿論前傾スパートは禁止だ。わかっているな」

「はい。私の脚を慮ってくださり、ありがとうございます」

「それが俺の仕事でもあるからな。

 先程伝えた条件さえ満たせれば、決して勝てないレースではない。

 だから、後悔のない走りをしてきなさい」

 

 彼女はいつも通りの無表情だが、どことなくレースへの充足したやる気を感じた。

 ……しかし、だからこそ心配になる。

 

 今回のレースは、あの日本ダービー以上に厳しいものになる。

 レースへの熱意を感じるようになったばかりのホシノウィルムは……抑えきれずに全力を出してしまうかもしれない。

 もしそうなったら、彼女の脚は……。

 

 顔を上げ、俺の目が彼女を捉えると同時、「アプリ転生」が彼女のスペックを文字にする。

 ……その中で、最近は気にならなくなりつつあった、あるコンディションが目に留まった。

 

 「命がけ」。

 

 俺の考察が正しければ、その効果はステータスが上がりやすくなる他、レースに出走する際一時的に調子が絶好調になる、というもの。

 ……ただ、恐らく、それだけじゃない。

 命がけ。命を、懸ける。

 この強すぎるコンディションのデメリットは、一体何なのか。

 

 俺が今感じている、この嫌な予感は……ただの錯覚なんだろうか。

 

 ……いや、理屈のない予感は、ただの勘に過ぎない。

 レース直前のウマ娘に言うべきことじゃない。

 割り切らないとな。

 

 

 

「君の言う通り、俺は君の勝利と帰還を信じて待つ。

 頑張れ、ホシノウィルム」

 

 そう言って、彼女の頭に手を乗せる。

 そうしていつも通りに撫でようとした、のだが……。

 

「ええ、トレーナー」

 

 その手を、ホシノウィルムが両手で包んだ。

 そのままゆっくりと、顔に沿うように手を下ろされて……。

 辿り着いたのは、彼女の頬。

 

 突飛な行動に思わず言葉を詰まらせた俺に、彼女は……。

 

「見ていてくださいね。そして、見惚れてください。

 私、あなたのウマ娘として……宝塚記念にも、あなたとの勝負にも、勝って来ますから」

 

 心地良さそうに、俺の手を顔に擦り付けて、流し目でこちらを見て……。

 彼女は、妖艶に微笑んでいた。

 

 初めて見る彼女の表情に、少しばかり驚きながら……。

 俺は、頬が緩むのを感じる。

 

 余裕綽々か。

 やはり、俺が心配するようなことじゃなかったな。

 

 彼女はホシノウィルム。

 その名に、敗北の二文字は似合わない。

 

「……ああ、そうだ、勝負だったな。

 いいだろう、見せてみろ、ホシノウィルム。

 君の走りと、勝利を」

 

 

 

 * * *

 

 

 

『今年もこの日がやってきました、上半期のチャンピオンウマ娘決定戦、G1、宝塚記念。

 ファンによる投票で選ばれたウマ娘たちは、その背に負う夢と期待に応えることができるのか。

 晴れ渡る晴天が照らす阪神レース場の内回り、芝2200メートル。バ場状態は良バ場の発表です』

『注目はやはり、メジロマックイーン、メジロライアン、イノセントグリモアのシニア1年3強対決。

 そこに加わる、シニア3年の黄金の一欠片、トリックスターのセイウンスカイ!

 そして文句なしのクラシック級王者、灰色の蛇ホシノウィルム!

 二大グランプリとはいえ、ここまでのメンバーが揃うことはそうそうありません。

 きっと誰もが心に残す名レースを見せてくれることでしょう!』

 

 

 

 スタンドからターフ上のウマ娘を眺めながら、これから始まるレースに思いを巡らせる。

 

 阪神レース場内回り、芝2200メートル。

 このコースの特徴は、大きく分けて2つ。

 

 まず1つは、第3第4コーナーだ。

 トゥインクルシリーズで使われるレース場は、大抵が長方形の両サイドに半円を付けたような形状なのだが、このレース場は違う。

 おむすび型とも呼ばれるが、自転車のチェーンのような形と言えばわかりやすいだろうか。

 このコースは、第1第2コーナーは350メートル程度だが、第3第4コーナーは550メートル強あるのだ。

 よって後方から追い上げる差しや追込ウマ娘にとって、第3コーナー以降前方との距離を詰める際、コーナリングの技術が重要になって来る。

 勿論逃げウマ娘や先行ウマ娘も、リードを保つ際に技術があればかなり楽になるはずだ。

 ホシノウィルムは「コーナー巧者○」を持っているため、ここに関しては有利に働くだろう。

 

 もう1つの特徴が、急に変わる坂。

 宝塚記念のコースには、緩やかな下り坂とその直後に来る少し急なこう配の登り坂があり、2回ずつ通過することになる。

 最初は下り坂から始まり、300メートルあたりで急に登り坂に切り替わる。登り坂は120メートル程度で終わり、しばらくは平坦な道が続く。

 次に坂が始まるのは第3コーナー内残り800メートルあたりの地点。ここから最終直線内まで、実に600メートルの間緩やかな下り坂が続き、残り200メートルあたりから再び登り坂。

 坂を登り終えたら、残り80メートル程度の平坦な直線を走って、ゴールとなる。

 基本的に、逃げウマ娘や先行ウマ娘は前半でスタミナを使うため、後半に垂れやすい。そんな状態で登り坂に差し掛かれば、当然減速してしまうだろう。

 ……とは言っても、有名な淀の坂に比べればその高低差は2分の1しかないし、コースの距離も2200メートルと、そこまで長いわけではない。

 ホシノウィルムやメジロマックイーンのように、無尽蔵に近いスタミナを持つウマ娘にとっては関係のない話だと言ってもいいだろう。

 

 

 

 総じて、ホシノウィルムは有利とも不利とも言い辛い、イーブンな状態のレースになるだろう。

 ……土台、阪神レース場は他に比べて、特徴による有利不利が出にくいからな。

 ウマ娘たちの実力そのものが、レースの行く末を決めることになるだろう。

 

 それを踏まえた上で、レースの中核を成す存在が誰なのか、と言えば……。

 それはやはり、4人に絞られる。

 

 

 

『今日も今日とて泰然自若、3番人気はここまで無敗の二冠ウマ娘、7枠13番ホシノウィルム!』

『シニア級の中にあってなお色あせない、素晴らしい仕上がりですね。

 これまでいくつもの伝説を作って来た彼女は、クラシック級で宝塚記念を制し、不可能を可能に塗り替えてしまうのか。

 灰色の蛇の奮闘に期待しましょう』

 

 

 

 ここまでホシノウィルムは最初期を除き、1番人気を独占してきた。

 それだけ彼女の走りは多くの人を魅了し、その勝利を固く信じさせてきたんだ。

 

 ……けれど、それでも今日に限っては、信じられないという人も多いのだろう。

 

 「クラシック級のウマ娘は宝塚記念に勝利できない」という半ば事実のジンクスがあるし……。

 何より、彼女は日本ダービー後の1週間、肉離れで入院していた。

 

 ただでさえシニア級のウマ娘と比べ、体を作る時間が1年も短いのだ。

 更にダービーの疲れも残っている上、直前2週間の内1週間は療養に充てていた。

 その状態で、心の底から信じられるかと言えば……それは難しいだろう。

 

 だが、彼女は必ず……勝つ。

 1着を取って、無事故で帰って来る。

 

 

 

『この評価は少し不満か。2番人気は菊花賞ウマ娘、5枠10番メジロマックイーン!』

『惜しくも春の天皇賞を逃してしまった彼女ですが、それでも実力は本物です。

 いつもの好位抜け出しでグランプリを制することができるのか?』

 

 

 

 メジロマックイーン。

 ターフの名優とも呼ばれる、最強のウマ娘の1人だ。

 無尽蔵に近いスタミナを誇るステイヤーで、「マックイーンが自分のペースで走っているだけで他のウマ娘が垂れていく」とまで言われる持久力を具えている。

 本格化の遅れと骨膜炎を発症したことで皐月賞やダービーには出走叶わなかったが、菊花賞でイノセントグリモアとメジロライアンを相手に勝利を収め、世代にその実力を叩きつけた。

 その後阪神大賞典でも問題なく1着を取り、世代最優ステイヤーとして評価されている。

 

 実際数字で見ても、ホシノウィルムよりスタミナが高い。

 根性もかなりあるので、現時点では総合的に、ホシノウィルムよりも長距離に向いていると言っていいだろう。

 ……いや、そもそもクラシック級なのにシニア級と同レベルでスタミナがあるホシノウィルムがおかしいんだが。

 どちらにしろ、宝塚記念は2200メートル、そこまで長い距離ではない。

 彼女たちの長所を活かすには微妙な距離だが……果たしてどうなるかな。

 

 俺が観察する中、ターフに現れたメジロマックイーンは……ストレッチをしていたホシノウィルムに声をかけた。

 何を話しているのかはわからないが、彼女たちの表情を見るに不穏なものではなさそうだな。

 

 マックイーンは誇り高いウマ娘だ。

 恐らくホシノウィルムの実力を認め、ライバルとして「良いレースにしましょう」的なことを言っているんだろう。

 差し出された手を、ホシノウィルムは迷いなく取り、固く握手を交わした。

 

 マックイーンにとってホシノウィルムが強敵であるのと同じように、ホシノウィルムにとってマックイーンは強敵だ。

 ……それも、現時点においては、トウカイテイオーを遥かに超える強敵。

 普段は無意識的に強者の傲慢を持つ彼女とはいえ、格上相手に油断はしない。

 

 クラシック級の最強と、シニア級1年目の最優が、互いを認め合う。

 その光景に、観客たちはレース前だというのに沸き立った。

 

 

 

 ……だが、誰もが忘れていない。

 いいや、忘れられない。

 

 3年前の皐月賞、続いて菊花賞。

 そして今年の天皇賞(春)。

 

 そこで奇跡のようなトリックを見せ、見事勝利を収めたウマ娘を。

 

 その青空を、忘れられない。

 

 

 

『そして1番人気はやっぱりこの子、再起の二冠ウマ娘、6枠12番セイウンスカイ!』

『3年前に黄金世代たちと覇を競った古豪がここに降り立った!

 完全復活した奇跡の黄金一欠片、再びここにトリックを見せつけることができるか?』

 

 

 

 ホシノウィルムとマックイーンに声をかける、芦毛のウマ娘。

 

 ……セイウンスカイ。

 

 気合十分といった様子の2人とは違い、彼女はへらへらと笑っている。

 これから公式レースに挑むとは思えない様子に……けれど、マックイーンは緊張した面持ちで身構え、ホシノウィルムはその雰囲気を更に冷たくした。

 

 ホシノウィルムには、俺から伝えた。

 メジロマックイーンは、春の天皇賞で体感しただろう。

 

 セイウンスカイの笑顔は、ホシノウィルムのそれに並ぶかもしれない程の、極めて強固な仮面だ。

 彼女は手強そうな様子を他人に見せない。いつだってやる気なさげにへらへらと笑っている。

 けれどそれは、相手の油断を誘うフェイク。自分を侮らせるためのミスリードだ。

 

 彼女の本性は、ナイスネイチャに近いが、更にその上を行く策謀家。

 レースの中の状況だけでなく、事前の下バ評や自身の評価、インタビュー記事や下らない噂まで、その全てをコントロールし、レースを「勝利できる状態」へと運ぶ。

 それこそが、彼女のトリックだ。

 

 自分のスペックに依存した走りをするホシノウィルムやメジロマックイーンにとって、天敵とも言える相手だろう。

 笑いかけられること。話しかけられること。言われた内容。その態度やテンション。走り方。威圧感。

 そのどれが素顔で、どれがトリックなのかもわからない。

 ……そして、それを考えさせること自体が最大のトリックだったりする。

 

 どんなに警戒してもし足りない。かと言って警戒し過ぎれば術中にハマる。

 セイウンスカイは、そういう恐るべきウマ娘なのだ。

 

 

 

 ホシノウィルム、メジロマックイーン、そしてセイウンスカイ。

 それぞれのステータスは……。

 

 スピードは、ほぼ横並び。強いて言えば少しだけホシノウィルムが劣るか。

 スタミナはマックイーンが一回り高く、次いでホシノウィルム、スカイと並ぶ。

 パワーはスカイ、マックイーン、ホシノウィルムの順。

 根性は……かろうじてホシノウィルムが一番高い。次いでマックイーン、スカイはそこまで高いわけじゃないか。

 賢さは、当然と言うべきか、セイウンスカイがダントツで高く、ホシノウィルムが一番低い。

 

 宝塚記念を走るにあたり、最も勝率が高くなるよう育成をしてきたつもりだが……。

 やはりどうしても、総合的には見劣りしてしまうな。

 

 レースに勝つためにまず必要なのは、スピードとスタミナだ。この2つがなければ、何が起ころうとも決して勝てない。

 次にパワー。これがないと最高速に乗るまでに時間がかかるため、必須級と言えるだろう。

 そして根性。これがあればスタミナが欠如した際にもカバーできるし、位置争いになった際勝ちやすくなったり、いざと言う時にスパートかけることもできる。

 最後に、賢さ。いざという時のアドリブ、出遅れや掛かりの防止にスキルの使用など、これは勝利に貢献するというよりは、その走りの安定性を高めるように働くイメージだ。

 

 それらの優先順位に基づいて、賢さはある程度妥協し、他のステータスを補完した。

 これなら彼女も、この宝塚記念で十分に好走することができるはずだ。

 

 

 

『三世代の頂点と呼んで差し支えないウマ娘たちの揃い踏み……そうそうたるメンバーですね。

 ここまで豪華な宝塚記念は向こう10年ないのではないでしょうか』

『セイウンスカイが黄金世代の恐ろしさを見せつけるか、メジロマックイーンが最優を証明するか、それともホシノウィルムが新たな時代の幕開けを告げるのか。

 今回のレース、瞬きは厳禁ですよ』

 

 

 

 ……更に、警戒すべきは2人だけではない。

 

 彼女たちとは少し離れて、1人ゲート向こうのターフを睨んでいるのは、メジロライアン。

 彼女のステータスは、ホシノウィルムよりも低い。

 だが……今日の彼女は、覚醒状態だ。

 ああなったウマ娘は、スペック以上の走りを見せる。

 警戒するに越したことはないだろう。

 

 一方マックイーンとライアンに並んで名を挙げられたイノセントグリモアは、残念ながら現在の調子は不調。

 間違いなく強者ではあるが、入着争いが妥当なところか。

 

 

 故に今回の宝塚記念の中心は、セイウンスカイ、メジロマックイーン、メジロライアン、そしてホシノウィルム。

 この4人が覇を競うレースになるはずだ。

 

 

 

 これまで通りのレース展開なら、まず突出するのはホシノウィルムとセイウンスカイ。この2人がペースを作る。

 一方マックイーンは好位に付いて、第3コーナー以降位置を上げて首位を目指す。

 ライアンは……どう来るか読みにくいが、中団から差しにくるのが一番妥当だ。ただしマックイーンを意識するのなら、彼女のペースを落とさせるために前に出て蓋をする可能性もあるか。

 

 ……ホシノウィルムにとっては、難しいレースだ。

 

 メジロマックイーンはホシノウィルム以上のスタミナを持つ。自由に走らせたらマズい。

 彼女を潰そうとすれば、ペースメーカーである逃げウマ娘のホシノウィルムが敢えてペースを落とし、バ群に蓋をして、終盤に末脚で逃げ切るしかない。

 

 だが、それではセイウンスカイの思う壺。

 彼女は悠々と先頭を取り、その領域を開いてしまうだろう。

 

 スカイの領域、その発動条件は、恐らく終盤のコーナーで先頭を走っていること。

 その効果は非常にわかりやすく、加速力が上昇するというものだ。

 

 しかし、スパートを始める終盤にこれが発動することで、本来時間がかかる加速を一瞬で済ませ、ミドルペースからハイペースへと移ることができる。

 こちらはゆっくりと加速するのに、相手は一瞬で最高速度に達する。

 これが示すところは……どうしたって差が開くってことだ。

 その上スカイのスピード、つまり最高速度は、マックイーンやホシノウィルムと同格。

 その最高速度を維持し続ける限り、差はほとんど埋まらないのだ。

 アプリでも猛威を振るっていた固有だったが、この世界の領域となっても脅威は減っていないだろう。

 むしろ、領域となったことで更に凶悪になったかもしれない。

 

 俺の想定が正しければ、スカイが領域を発動すれば、その瞬間にレースの趨勢は大きく傾く。

 故に、ホシノウィルムにとっての最優先は、終盤のコーナーからスカイに首位を取らせずに逃げ切ることになる。

 

 ……しかし、そのために不用意にペースを上げてしまえば、今度はスタミナが不足して後方からマックイーンに捲られるわけで。

 

 ホシノウィルムが勝つためには、セイウンスカイに首位を取らせず、なおかつメジロマックイーンに差されない、絶妙なペースキープが必要になる。

 その上、スカイが何をしかけてくるかわからない。これに対応するだけの思考の余裕も必要になるな。

 

 一応、スカイに前を取られた時や迫られた時の策はいくつか伝えておいたが……。

 果たして、あのトリックスターを相手に、どこまで策が通用するものか。

 

「知恵比べか……」

 

 ダービーで負けたばかりで自信はないが……。

 あのセイウンスカイと知恵比べできるとなれば、不足はない。

 

 さて……どう来る、トリックスター。

 

 

 

 * * *

 

 

 

『ゲートイン完了。出走準備が整いました』

 

 

 

 遠目から、スカイがゲートの中でホシノウィルムに話しかけているのが見えた。

 ……けれど、既に「冷」に入っているホシノウィルムは、気にした様子もなくゲートに集中している。

 

 よし。入れ込んだり驚いたりはしていないし、取り敢えず調子を崩された様子はない。

 勝利のための前提条件は満たした。

 後は、レース中に3つの条件を守りさえすれば……。

 

 ホシノウィルムは、勝てる。

 

 

 

『今スタートしました!』

 

 

 

 ゲートが開いて、一気にウマ娘たちが駆け出す。

 ……流石は宝塚記念と言ったところか、綺麗なスタートだ。出遅れたウマ娘はいない。

 

 「コンセントレーション」と「先駆け」が綺麗に発動し、ハナを切ったホシノウィルム。

 スタート差でクラシック級ウマ娘パワーチャージャーと、シニア1年3強の一角イノセントグリモアが続く。

 マックイーンもスタートは上手かったが、今回は好位を狙ってか中団近くまで下がり、メジロライアンは逆に前めに……マックイーンの少し後ろに付けて行く。

 一方セイウンスカイは……らしくない、平凡なスタート?

 

 ……頭が痛いな、最初から想定外の展開になるか。

 先行のマックイーンがあそこまで下がること、後方から末脚で差す印象の強いライアンが積極的に前に出ること。

 だが、そこまでは最たる予想こそ外したものの、想定の範疇。

 

 むしろ問題は、セイウンスカイのスタートが平凡なものだったことだ。

 彼女がスタートをしくじるとは思えない。

 何せ彼女は、高い賢さと「コンセントレーション」を具えているのだから。

 

 ……確かに、いくら賢さが高くても、スキルが不発し出遅れることもある。

 だが……あのセイウンスカイが、そんなミスをするのか?

 それともこれは、俺が彼女を過剰に警戒してしまっているだけなのか?

 

 

 

『18人揃って綺麗なスタートを切っています。

 まずスタンド前のポジション争いはやはりホシノウィルムがハナを切った。続いてパワーチャージャー、イノセントグリモア3番手』

『大逃げウマ娘ホシノウィルム、今日は2番手との距離を離そうとしませんね。初のシニア混合レースで慎重に様子を伺っているのか』

 

 

 

 いつもは前半で一気に後続との距離を離すホシノウィルムだが、今日は差を2バ身程度に止めてミドルペースの走りを見せている。

 

 今回の宝塚記念、その勝利条件は3つ。

 第一に、敢えてペースを落とし、メジロマックイーンの脚を余らせること。

 第二に、第3コーナー以降でセイウンスカイに先頭を譲らないこと。

 第三に、前傾スパートを使わず、末脚勝負でメジロライアンから逃げ切ること。

 

 故に、大逃げを放棄し、バ群に前から威圧感をかけてペースを作る。

 時間もなく、ろくに練習もできなかったが、彼女は1発勝負で見事にモノにしている。

 流石、切れ者の面目躍如といったところか。

 

 ……ただし。

 そのコントロールは十全なものとは言えない。

 

 後方から、パワーチャージャーが上がって来る。

 ホシノウィルムと同期の、クラシック級ウマ娘。

 ここまでは先行で走っていたが、今回のレースは逃げで走るようだ。

 ……いや、逃げにしてもペースが速い。ホシノウィルムを今にも追い抜こうという速度だ。

 

 見ているだけでもわかる。

 今日の宝塚記念は……今までのクラシック級のレースに比べて、威圧感が段違いなんだ。

 シニア級の実力者たちが、メジロの双璧が、そしてセイウンスカイが、そこに走っている。

 いつもと比べて、あまりにも速いペース。あまりにも強い敵。あまりにも狭苦しいバ群。

 その中で正確にペースを配分するのは至難の業だ。

 

 そして何より、歴戦の猛者たちが威圧感をかけているんだ。

 少しでもペースを落としてみろ、一瞬で抜いてやる、と。

 

 故に、クラシック級のウマ娘は、こうして掛かってしまう。

 

 

 

『パワーチャージャー前に出た! ホシノウィルムと熾烈な位置争いだ。イノセントグリモアは3番手で追走しています』

『掛かってしまっているのかもしれません、一息付けると良いのですが』

 

 

 

 だが……ホシノウィルムはペースを崩さない。

 

 「冷」の彼女は見誤らない。

 弱点を完全に克服した彼女は、もはや誰かに影響されることはない。

 

 このままのペースを維持しなければ、メジロマックイーンがそのスタミナを以てこのレースを制することになる。

 故に、決して掛かってはいけないのだ。

 

 

 

『先頭第2コーナーに突入しました。1番手を巡って競い合うのはクラシック級ホシノウィルム、パワーチャージャーの2人。1バ身離れてセイウンスカイが虎視眈々と狙っているぞ』

『そこから2バ身離れてイノセントグリム、2バ身くらい空きまして5番手集団は、メジロライアンが一気に上がっていきました、メジロマックイーンは現在8番手』

 

 

 

 このペースは、ホシノウィルムにとって問題ない範疇だ。

 終盤までに、十分脚を残せるはず。

 

 ……勿論、それは他のウマ娘にしても変わらない。

 このまま行けば終盤の末脚勝負になるだろう。

 そしてそうなってしまえば、スタミナに余裕があり、リードもあり、スピードも劣ることのないホシノウィルムに有利な状態になるわけだ。

 

「このまま……行け、ホシノウィルム」

 

 

 

『向こう正面中間、先頭はホシノウィルム。

 パワーチャージャー落ち着きを取り戻したか少し位置を下げた。セイウンスカイはまだ1バ身程距離を取って脚を溜めている。

 更に1バ身離れたイノセントグリモアが、今じわっと差を詰めていきました』

『内からメジロライアン早めに動いている、今イノセントグリモアを抜き去り4番手。

 メジロマックイーンは現在変わらず8番手、ここからどう仕掛けるか?』

 

 

 

 ……来た。

 

 セイウンスカイが、前に出始めた。

 ゆっくりと、気付かれないように、前方の逃げウマ娘との距離を詰め始めている。

 

 やはり終盤コーナーを狙ってくるか。そこまでは予想通り。

 

 だが、俺は君のことを誰よりも知っている。

 だからこそ、君を負けさせる方法だって、誰よりも知っているんだ。

 

 ホシノウィルムがセイウンスカイに対して、常に1バ身の距離を保てばいい。

 それで、彼女は決してスカイに抜かれなくなる。

 

 だから、悪いが君に勝利は……。

 

 

 

 

 

 

 …………?

 

 

 

 おかしい、なんだ、どうしたホシノウィルム。

 

 何故……差を維持しない?

 

 

 

『セイウンスカイがゆっくりと伸びてきているぞ! 1バ身あった差が少しずつ縮まっていく!』

『メジロライアンも一気に先頭を目指しています! 第3コーナーここからが勝負!』

 

 

 

 何だ、何をされた。

 ホシノウィルムは脚を速めていない。速めない。

 

 気付いていない?

 セイウンスカイの存在に、気付いていないのか?

 

 いや、そんなわけがない。

 ホシノウィルムが、後方のウマ娘の存在を掴み損ねるわけがない。

 彼女の耳は特別だ。10バ身以内の足音を聞き取り判別する、天性の聴覚を持っている。

 これまでのレースだって、雨でその範囲が縮まることこそあったものの、聞き取り損ねたことは一度もない。

 

 なのに……何故。

 

 

 

 いや、待て、聴覚。

 まさか……。

 

 

 

 ……その、まさか、か!?

 

 

 

 セイウンスカイの脚を見る。同時に、ホシノウィルムの脚も。

 これは……。

 

 やはり、やはりそうだ。

 どこで知った? 知ったとして、そこまでやろうとするのか?

 まさか最初に好スタートを切らなかったのはわざとか? これを狙って?

 

 セイウンスカイ、稀代のトリックスター。

 これこそが、彼女の本領だって言うのか!

 

 

 

 ……ホシノウィルムは、聴覚によって後方との距離感を測る。

 ウマ娘ごとの足音の違いを判別し、そのペースや歩幅まで、余すことなく聞き取って状況を把握することができるらしい。

 これまで何度もその走りを支えてきた、彼女の持つアドバンテージの1つだ。

 

 そして「冷」のホシノウィルムは他者からの威圧感を無視できる。

 それは、後方を気にしなくても耳で位置関係を把握できるから、という側面もある。

 

 ……逆に言ってしまえば。

 つまるところ、彼女は他のウマ娘を感じ取ることを、その聴覚に依存しているのだ。

 故に、もしも足音のない幽霊のようなウマ娘が詰めて来れば、彼女はその存在に気付けない。

 

 勿論、そんなことはあり得ない。

 どうしたって地面を蹴れば音はする。

 殊に時速60キロメートルなんていう速度を出せば、当然ながら轟音が響くはずだ。

 だからこそ、他のウマ娘の足音を聞き損ねるなんてことはあり得ない。

 

 ……あり得ない、はずなんだが。

 

 一見完璧に見える、彼女の察知能力。

 だがこれには、ただ1つ、弱点があるのだ。

 聴覚でその気配を判別する以上どうしようもない、ほんの一刹那の隙。

 

 それは、彼女自身が地面を蹴る瞬間。

 最も近い位置で轟音が鳴り響いたその瞬間だけは、後方からの音がそれに紛れてしまう。

 

 だが、本来それは何の問題も起こさない。

 足音が響くのは一瞬のことだし、何よりウマ娘はそれぞれ歩幅も足の回転速度も違う。

 その1歩が偶然噛み合ってしまったとしても、すぐに足音のペースがズレ始めるはずなんだ。

 だからその1歩で気付かなくても、次の1歩で気付ける。問題なく認識できる。

 

 ……でも、それなら、仮に。

 足音のペースを合わせたら?

 彼女が地面を蹴ると全く同時に、地面を蹴る。これをひたすら続けたら?

 

 ……そうなれば。

 ホシノウィルムは、そのウマ娘に気付くことができない。

 

 それこそが今、ホシノウィルムがセイウンスカイに気付けない理由。

 

 セイウンスカイは極めて正確に、ホシノウィルムの走り方をトレースしているのだ。

 

 

 

 慣れない歩幅やペースで、セイウンスカイからすればスタミナを消耗するだろうに。

 思考だって、そのペースを無理に維持することに大きく費やされるだろうに。

 ……そして、合わない走りで脚に負担も溜まるだろうに。

 

 ただホシノウィルムをかわすために。

 確実に先頭を取るために、そこまでするのか。

 

 どれだけ研究したんだ。

 ウマ娘の脚の回転速度なんてものは、時期と共に変わっていく。走法自体を変えることだって珍しい話じゃない。

 だから、セイウンスカイは最新のホシノウィルムの走りを研究したはずだ。

 日本ダービーか……あるいは、ネイチャとの模擬レースの時か?

 それを何度繰り返し見続ければ、走り方をトレースできるっていうんだ?

 

 それに、どれだけ練習したんだ。

 他人の走法に合わせるってのは、アスリートとしてあり得ない行為だ。

 猿真似で他人の武器の下位互換を手に入れて、自分に合った上質な武器を手放す行為なんだぞ。

 それもコピーするのは、自分より3年分も格下の後輩のもの。

 その模倣だって、簡単なことじゃない。

 他人の脚の回転速度に合わせて、疾走しながらそれを維持する……。

 それは果たして、どれだけ鍛錬を積めばできることなんだ。

 

 勝つためなら何でもしてくると、理解していたつもりだった。

 セイウンスカイはそういうウマ娘だと、わかっていたはずだった。

 

 ……けれど、やはり、ウマ娘はいつも想定の上を行く。

 

 すごいよ、セイウンスカイ。

 やはり君は、素晴らしいウマ娘だ。

 

 俺の、負けだよ。

 

 

 

『セイウンスカイ、セイウンスカイが今ホシノウィルムに並んだ! 並んで、抜いた!

 そして繰り出される猛加速! 変幻自在に順位を操る、これがトリックスターの神髄だ!!』

『セイウンスカイ、一気に引き離した! 古豪の意地を見せつけるか、追いすがるホシノウィルムに2バ身、3バ身、あっという間に差が付いていく!!』

 

 

 

 ホシノウィルムをかわした瞬間、セイウンスカイの体が一瞬沈み込み、爆発的に加速する。

 ほんの一瞬で最高速に達した彼女は、一気に後続との差を広げていく。

 

 まさか、この目で見るとは思わなかった、セイウンスカイの固有スキル……いや、領域。

 人間の俺には、彼女の見ている大海原を覗くことはできないが、間違いない。

 相手を策にかけ、一方自分は悠々自適に走り去る、恐るべきトリックがハマってしまった。

 

 ホシノウィルムは応じて加速しようとするが……やはり、加速力が足らず、距離を離されるばかり。

 ……いや、それどころか。

 

 既にスパートを開始していたメジロの双璧が、彼女に迫っている。

 

 

 

 そうして、第4コーナー。

 

 圧倒的な速度を誇る2人の先輩に、抜き去られた。

 

 

 

『さあ第4コーナー入って横に広がっていく!

 一人独走セイウンスカイ、追ってホシノウィルム、しかし後方からメジロライアン追い上げて一気に抜き去った!』

『続いてメジロマックイーン外に膨らんで5番手、イノセントグリモアをかわして前に飛んで行く!

 メジロメジロ、メジロの快進撃は止まらない!

 今メジロマックイーンがホシノウィルムを抜き去った!!』

 

 

 

「ホシノウィルム……」

 

 逃げウマ娘は、序盤にリードを作って、それを維持して逃げ切るのが基本戦術だ。

 故にそれを詰め切られ、一度抜かれてしまえば……再度差し返すことはできない。

 

 俺が彼女の策を読み切れなかったから、彼女はどうしようもなく負ける……。

 

 ……はずだった。

 それが、普通のウマ娘であれば、の話だが。

 

 

 

 俺は、確かに負けた。

 

 ……だが負けたのは、俺だけだ。

 ホシノウィルムはまだ、負けていない。

 

 

 

「頑張れ、ホシノウィルムー!!」

 

 

 

 観客の誰かが、声を上げる。

 ……いや、誰か、じゃない。

 誰もが声を上げていた。

 

 

 

「行けーっ!!」「差せ、差し返せー!!」「行ける、絶対行ける!!」「常識破ってくれーっ!!」「蛇、頼む!!」「逃げて差せーっ!!」「初のクラシック級グランプリウマ娘になって!!」「諦めるなぁーっ!!」「怪物を継ぐ走りを見せてくれー!!」「勝って、ホシノウィルムーっ!!」

 

 

 

 多くの人が、いや、このレースを見ている誰もが知っていた。

 

 ホシノウィルムは、ただの逃げウマ娘じゃない。

 

 異次元の後継者とも呼ばれた彼女の作戦は、ただの逃げじゃない。

 逃げて、差す。

 リードを埋められても、たとえかわされても、3バ身離されたって、それでもなお差し返す。

 そんな夢のようなウマ娘なんだ。

 

 俺だって知っている。

 ……いや、俺は誰よりも知っている。

 彼女は天才だ。俺が知る限り、彼女以上に素質あるウマ娘なんて、どこにも存在しない。

 

 だから、たとえ俺が読み負けようと……。

 

「勝つのは、ホシノウィルムだ」

 

 

 

 彼女の戦いは、ここから始まるんだ。

 メジロマックイーンまで1バ身、メジロライアンまで2バ身、そしてセイウンスカイまで5バ身。

 

 差は大きく開いてしまった。はっきり言って、逃げウマ娘にとってはかなり厳しい差だ。

 けれど、彼女なら……。

 

 彼女……な、ら……。

 

 

 

 

 

 

 待て。

 

 ホシノウィルム?

 

 ……何故、そんなに加速が緩い?

 いつもの君なら、もっと前に行けるはずだ。

 

 何故、少しよれている?

 このくらいのペースなら、まだスタミナは残っているだろう?

 

 

 

 何故、そんなに……辛そうに走っている?

 

 

 

 

 

 

 まさか。

 

 

 

 

 

 

 誰も気付かない。

 それは普段からずっと彼女を見ていた俺くらいしか気付けない、微妙な違和感でしかない。

 けれど確実に、彼女は今。

 

 

 

 ……何らかの、不調を起こしている。

 

 

 

 そして、最大の問題は。

 今もなお、彼女はレースを諦めていないってことだ。

 その瞳から、燃え滾るような熱が覗いていることだ。

 

 あのホシノウィルムは、もう見たことがある。

 日本ダービー終盤、テイオーにかわされた時。

 あの時も、彼女は決して諦めず、なお燃え上がり……。

 前傾スパートを、使った。

 

 

 

 駄目だ、使うな。ホシノウィルム。

 その走り方は……駄目なんだ。

 今使えば、本当に……。

 

 最終直線が迫る。

 第4コーナーが、もうすぐ終わろうとしている。

 

 嘘だろ。

 まさかそんなこと。

 

 

 

 フラッシュバックする。

 ここ2週間で何度も見た悪夢が、脳裏を掠める。

 

 

 

 ……頼む、やめてくれ。

 

 やめて、ください。

 

 神様、助けてください。

 あの子は良い子なんです、ずっと報われなかった良い子なんです。

 これからも評価されて、褒め称えられて、たくさんのことを楽しんで、誰よりも幸せにならなきゃいけない女の子なんです。

 

 お願いします。

 やめてください。

 彼女の未来を、奪わないでください。

 

 

 

 ゆっくりと、彼女が姿勢を落としていく。

 少しずつ、少しずつ、その脚が……彼女が、終わりに近づいていく。

 

 

 

 お願いします。

 神様でも、仏様でも、誰でもいい、彼女を、助けて。

 

 

 

 

 

 

 

 ……ふと、彼女と目が合った気がして。

 

 やっと、思い出す。

 自分が誰であったか。

 

 やっと、理解する。

 自分が何をしたかったのか。

 

 

 

 

 

 

 いや。

 

 違うだろ。

 

 

 

 誰でもいい、じゃねえ!

 助けてくれ、じゃねえだろ!!

 

 それをすべきは俺だ。

 彼女に手を差し伸べ、背中を押してやるのは俺だ!

 

 俺は、堀野家のトレーナーだ。

 彼女を担当するトレーナーだ。

 

 ……でもそれ以上に、「俺」は!

 転生して、この世界で「アプリ転生(チート)」持ちのトレーナーになった……。

 

 ホシノウィルムを応援する、堀野歩だ!

 

 

 

 俺が今すべきは、嘆くことじゃない。祈ることでもない。

 

 ……ずっと、何度も何度も心に刻んだはずだ。

 

 俺が今すべき唯一のこと。

 俺が今したい唯一のこと。

 

 

 

 それは、彼女を信じることだろうが!

 

 

 

 スタンドの柵を引っ掴んで、全力で、叫ぶ。

 

 

 

「負けるな、ホシノウィルムーーッッ!!!」

 

 

 

 どうか、この声が届きますように。

 俺の小さな応援が、少しでも彼女の力となりますように。

 

 

 







 本当に仮面が割れた日。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、宝塚記念後半と、転生チートウマ娘の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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「ホシノウィルム」

 その転生者の、物語の終わり。





 

 

 

 暗い。

 

 

 

 ……足を緩め、止める。

 

 気付けば、私はそこにいた。

 

 

 

 右を見ても、何もない。

 左を見ても、何もない。

 当然ながら前にもなく。

 ……気付けば、元来た後ろにも。

 

 

 

 そこは暗くて何もない、がらんどうの空間だった。

 

 

 

「……何、ここ?」

 

 口を開くと、冷たい空気が口に流れ込んでくる。

 喉の底まで一瞬で乾いて、痛みすら感じるくらいで……。

 慌てて口を閉じて、ようやく悟った。

 

 ここは、暗くて何もないだけじゃない。

 ……酷く、寒いんだ。

 

 

 

 ここ、何なんだろう。

 そもそも、なんでここにいるんだろうか。

 直前の記憶は……ええと。

 

 ……記憶が混濁している。

 まるで寝不足の頭でものを考えるような不快感。

 泥濘に足を取られるように思考が停滞し……同時、冷たい空気が思索を妨げる。

 

 頭を押さえて、記憶を掘り返す。

 思い出せ。私は直前に、何をしていた?

 

 

 

 私、確か……そうだ。

 私は、宝塚記念を走っていたはずだ。

 

 宝塚記念。

 マックイーン先輩、ライアン先輩、そしてスカイ先輩と一緒に走る、今まででも一番難しいG1レース。

 

 実際、私は……そう、スカイ先輩。

 スカイ先輩にハメられて、彼女に追い抜かれた。

 勝利条件の1つを、満たせなかった。

 

 ……寒い。

 

 それで、焦った。

 スパートをかけないと、完全に置いて行かれる。勝てなくなる。

 

 でも、遅すぎた。

 スカイ先輩に気を取られ過ぎて、スパートの判断を、誤ったんだ。

 そもそもペースが遅いのだから、ロングスパートすべき、って発想が、遅くなった。

 

 それで……ええと、それで。

 

 …………。

 あ、ああ、そうだ。

 

 そう、それで、ライアン先輩と、マックイーン先輩に、追い抜かれた。

 2人とも、スカイ先輩と同じように、領域を開いて……あっさりと、私を抜いていった。

 

 …………寒い。

 

 それで、それで……どうしたんだっけ。

 

 右足が、コーナーの途中で……。

 途中で、どうした?

 

 

 

 私、どうした、んだ?

 

 

 

「さむ、い」

 

 

 

 思わず、呟いた。

 寒い。

 ここは、寒すぎる。

 

 思考が、止まる。凍り付いてしまう。

 

 考えるのは、後だ。

 ここを、出ないと。

 本当に……寒すぎる。

 

 早く……早く、帰らないと。

 

 

 

 帰る?

 

 ……どこに、帰るんだっけ。

 

 

 

「…………?」

 

 

 

 動かない。

 脚が……動かない。

 

 霞む目で見れば……私の脚は。

 凍り付いて、いた。

 

 いや、脚、だけじゃない。

 

 私は、私の体は、既に、凍り付いている。

 

 

 

「さむ、い……」

 

 

 

 動くのは、もう、口と思考くらいで。

 

 私は……。

 

 もう、ここまで、なのかな。

 

 

 

 

 

 

 まったく、さ。

 調子に乗ったものだよね。

 

 私が、最強、とか。

 知っていたはずだ。わかっていたはずだ。

 

 ……私は、何者でもない、ただのモブだって。

 

 

 

 私は、転生者だ。

 別の、ウマ娘のいない世界から、この世界に転生してきた。

 記憶と人格を引き継いで、「アニメ転生」を持って。

 

 けれど、その心も魂も。

 何も特別じゃない、どこにでもいる、モブのものでしかないんだ。

 

 ホシノウィルムなんていうウマ娘は、元々存在しない。

 アニメのどこにも、そんな名前は出てこない。

 ……きっと、実際の歴史を調べても、そんな馬はいないんだろう。

 

 私は、ホシノウィルムという空っぽのアバターに入った、フツーの人間。

 

 そりゃあ、領域なんて得られないはずだ。

 最初から、私には……元になった存在も、心象風景も、ない。

 

 強いて言えば、それこそ、この無。

 寒くて、暗くて、何もない。

 そんな無が、私にはお似合いなんだろう。

 

 

 

 寒さが、思考が染み込む。

 

 脚から伝わる冷たさが、私の心を諦めさせていく。

 

 

 

 ……ぁ、あ。

 

 寒い。

 

 寒い、な。

 

 それに、もう、体も動かないし。

 

 

 

 …………もう、諦めちゃえば、楽になるかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ホシノウィルム』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 眩しい、光。

 

 光?

 

 この、何もない場所に、光?

 

 かろうじて動く視線を、上に向ける、と。

 

 

 

 そこには、私に差し込んでくる、一筋の光が、あった。

 

 

 

 あれは。

 あれは、何だったか。

 

 光は、私の頭に……頭の上に差し込んでいる。

 温かい。

 それと何故か、少しだけ、ゴツゴツしたような感じ。

 

 これは……この感触は、何だったか。

 確かに覚えのある、私の大好きだったもの。

 私の、帰るべき、場所。

 

 

 

 私は知っていた。

 この温かさを。私を温めてくれる何かを。

 

 ……私は知っている。

 今もなお私を信じ、待っていてくれる人を。

 

 …………私は、恋しているんだ。

 私を救ってくれた、実はダメダメで、けれどいつも、私のために頑張ってくれていた……。

 私の契約トレーナー……堀野歩に。

 

 

 

「トレー、ナー……」

 

 

 

 ……わかってる。

 正直、わかってたんだ。

 

 私は、この世界にいちゃいけない存在なのかもしれない。

 本来あるべき運命を乱す、川に落ちて来た岩なのかもしれない。

 川は、正常な流れを取り戻すために、岩を押し流そうとする。

 そしてそれは至極当然のことで、むしろ私の方が悪者なんだろう。

 

 どうしたって、レースに勝てるのは1人だ。

 私がいれば、そして私が勝てば、負けるウマ娘が出てくる。

 本来勝つべきだったウマ娘が負けることも、起こってしまう。

 ……「無意味な曇らせは嫌い」なんて言いながら、私は存在するだけで、多くのウマ娘に本来生じるはずのなかった悪感情を与えてしまう。

 

 ……ここで私が消えるのが、一番自然で、一番合理的で、一番道理なんだろう。

 転生チートウマ娘なんて……本来、存在するべきじゃないんだ。

 

 

 

 ……でも。

 

 それでも、私は。

 

 

 

「あなたと、勝ち、たい……!

 このレースに……これからも、ずっと……!!」

 

 

 

 凍り付いていた体は光に温められ、少しだけ動くようになっていた。

 

 だから、手を、伸ばす。

 

 あの光に。私を導いてくれる、光に。

 

 

 

「私、だって……ウマ娘だ!

 この世界に生まれた、ウマ娘なんだ……!!

 勝ちたいんだ……誰かを、負かしてでも……!!」

 

 

 

 このまま、止まってたまるか。

 

 私は勝つって言ったんだよ。宝塚記念にも、トレーナーにも。

 

 ……世界が、私を認めなくても。

 

 誰かが私を否定しても。

 

 彼が、私の勝利を信じてくれる限り。

 

 止まるわけには、いかないんだ!

 

 

 

「『私』は……『ホシノウィルム』は、こんなところで折れたりしないんだよッ!!!」

 

 

 

 手を、光に向かって伸ばした瞬間。

 

 

 

 

 

 

 私を包んでいた雲が、晴れた。

 

 

 

 

 

 

「ここ、は……」

 

 呆然と、周りを見渡す。

 そこは既に、何もない暗い空間じゃない。

 

 

 

 満天の、数えきれない光が……星が、私を包んでいる。

 

 

 

『行けーっ!!』

 ある星は、私に進むことを求めてくれた。

 その願いが、熱となって私に降り注ぐ。

 

『差せ、差し返せー!!』

 ある星は、私に逆転を望んでくれた。

 その願いが、熱となって私に降り注ぐ。

 

『行ける、絶対行ける!!』

 ある星は、私を信じてくれた。

 その願いが、熱となって私に降り注ぐ。

 

『常識破ってくれーっ!!』

 ある星は、私に型破りな未来を見てくれた。

 その願いが、熱となって私に降り注ぐ。

 

『蛇、頼む!!』

 ある星は、私に期待を寄せてくれた。

 その願いが、熱となって私に降り注ぐ。

 

『逃げて差せーっ!!』

 ある星は、私に熱中してくれた。

 その願いが、熱となって私に降り注ぐ。

 

『初のクラシック級グランプリウマ娘になって!!』

 ある星は、私の明るい未来を想ってくれた。

 その願いが、熱となって私に降り注ぐ。

 

『諦めるなぁーっ!!』

 ある星は、私を奮い立たせてくれた。

 その願いが、熱となって私に降り注ぐ。

 

『怪物を継ぐ走りを見せてくれー!!』

 ある星は、私に過去を重ねてくれた。

 その願いが、熱となって私に降り注ぐ。

 

『勝って、ホシノウィルムーっ!!』

 ある星は……勝利を、夢見てくれた。

 その願いが、熱となって私に降り注ぐ。

 

 

 

「星が……私を……」

 

 その星たちは、数えきれない星たちは、最初からそこにあったんだ。

 ただ私が、自分で雲をかけて、それを見ていなかっただけ。

 

 ずっとずっと、数えきれない……それこそ何万、何十万という人々が、私に望み、願い、祈ってくれる。

 私の勝利に喜び、私の不運に怒り、私の故障を哀れみ……私のレースを楽しんでくれる。

 ……私を、見て、くれている。

 

 私は……最初から、とっくの昔に。

 世界に、愛されていたんだ。

 

 

 

『……ウィルちゃん、頑張れー……!

 ……ずっと頑張ってたあなたなら、行けます……!』

 

 彼方にぼんやりと見える星は、そう言っていた。

 大声を上げるのは得意じゃないだろうに、必死に声を張り上げて。

 その応援は誰よりも実感を伴って、私の脚の強張りを解いた。

 

 ずっと前からの付き合いで、ずっと私の面倒を見てくれた先輩。

 感謝してもしきれない、私の大好きなウマ娘の1人。

 

 ミーク先輩の願いは裏切れない。

 1年半の間、面倒な後輩を辛抱強く支えてくれた恩。

 それを返すためにも……早く、行かないと。

 

 

 

『ウィルム!! こんなトコで負けないでよ!!

 ボク以外に負けるなんて許さないぞーっ!!』

 

 煌々と光り輝く星は、そう言っていた。

 ……まだ脚も治り切ってないだろうに、来てくれたんだ。

 その泣きそうなくらいの……いや、必死の涙声を聞けば、自然と心が温まる。

 

 こんなにも必死に、ライバルの勝利を望んでくれる。

 自分が打ち倒すべき相手であり、同時に競い高め合う友達だから。

 

 ……その期待に応えるよ、トウカイテイオー。

 私が得た、最強のライバル。

 またあなたと走って、またあなたに勝つために。

 

 

 

『ウィル、行けぇぇぇえええッ!!

 壁なんてぶっ壊せぇぇぇえええ!!』

 

 鈍く、けれど強く瞬く星は、そう言っていた。

 喉を壊しかねない絶叫なんて、アイドルでもあるウマ娘としてあるまじきことだけど……。

 複雑な言葉なんてない、ただただ私の前進を願ってくれる声を聞けば、脳に震えるほど血が上る。

 

 あなたは、私が今世で得た、最高の友達だ。

 いつも相談に乗るし乗ってくれる、話をし出せば限りがない、そして競い合い高め合える、最初で最後の親友だ。

 

 ただその無事と勝利を願い、少しでも背中を押そうと声を上げてくれる。

 だって、自分にとっての星、暗い世界の道しるべだから。

 ……私にとって、ナイスネイチャがそうであるようにね。

 

 

 

 そうして。

 私にとっての一等星が、強く強く、言っていた。

 

『負けるな、ホシノウィルムーーッッ!!!』

 

 ……あぁ。

 やっと、やっと聞けました。

 堀野のトレーナーじゃない、「堀野歩」の叫び。

 あなたの、本当の心からの言葉を。

 

 私を救ってくれた人。

 私が恋する男性。

 ……私の、契約トレーナー(うんめいのひと)

 

 あなたが望むのならば。

 ……いいえ、あなたと私の望みだから。

 

 

 

 勝ちましょう、一緒に。

 

 

 

 1歩、踏み出す。

 もう体は冷たくない。寒さなんてどこにもない。

 

 私の世界(りょういき)は完成されてる。

 暗い(からっぽ)を、何万何十万という星々(ねがい)が照らし、温めてくれる。

 

 もはや、どこにも不足はない。

 私はどこまでだって行けるんだ。

 

 だから、歩き出して……。

 

 

 

 

 

 

『────。』

 

 

 

 

 

 

 背後からかけられた言葉に、足を止めた。

 それは、もうこの世界に知る者のいない名前。

 私が「ホシノウィルム」に目覚める前に、私を産んでくれた誰かが付けてくれた幼名。

 

 振り返れば、そこには……2つの星があった。

 

 遥か遠くに光る、2つの星が。

 

 

 

「お父さん、お母さん……」

 

 

 

 懐かしい、気持ちになった。

 

 その名で呼ばれたのは、もう10年ぶりだ。

 私はその名前が好きだった。

 綺麗で、澄んでて、美しい名前だって気に入っていた。

 

 ……思えば、私たちが破綻しちゃったのは、呼ばれる名前が変わってからだったね。

 私が大したウマ娘じゃない、競走ウマ娘以外の道を行くような女の子だったら……。

 もしかしたら2人は、今でも笑顔で生きていたかもしれない。

 

 でも、そうはならなかった。

 私は転生者で、母はその能力に嫉妬してしまい、父は母の死を受け入れられなかった。

 

 誰が悪かったかで言えば、この素敵な世界に侵入してしまい、秩序を乱した私が悪いんだろう。

 

 

 

 ……それでも。

 私は今、生きている。

 

 ごめんね、お父さん、お母さん。

 そこに行くことはできないんだ。

 私は、生きたい。

 私を拾ってくれたトレーナーと、これからも生きていきたい。

 

 

 

「ホシノウィルムを産んでくれて、ありがとう。愛してたよ、2人とも。

 でも、私は前に進みたい。ここで止まってはいられないんだ。

 だから……そこから見ていて。

 あなたたちの娘が……2人に誇れる、最高のウマ娘になっていくところを」

 

 そう言って、再び前を向く。

 もう、振り返らない。

 

「それじゃ、行ってきます!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『行ってらっしゃい』

『頑張るんだよ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……っ。

 

 私は、前を向いて、駆け出す。

 

 彼方に見える、導きの星に向かって。

 

 満天の星の中、まるで(そら)を飛ぶように……。

 

 どこまでも、遠くへ。

 

 限りない、未来へ。

 

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 

 駆け抜けた星の宙は、いつしかターフの上に戻っていた。

 けれど同時、私の世界は眼前に広がったまま。

 

 これが……領域。

 なるほど、確かに……全てが変わった気がする。

 

 焦りもない。悔いもない。不調もなければ疲れもない。

 感じるのは、ただただ充足感と、楽しさ。

 

 自分の全力をぶつけるに足る相手。そんな相手と共に走るレース。

 それは何て素敵で、何て輝いて、何て満ち足りているんだろう。

 

 

 

「トレーナー」

 

 再び目が合ったトレーナーは、寸前とは違い、覚悟の決まった目をしていた。

 誰よりも私を信じ、勝利を願ってくれる、堀野歩の目をしていた。

 

 ……ええ、その願いを叶えます。

 私はあなたの、担当ウマ娘。

 あなたが鍛え上げた、最強のウマ娘。

 ……そして、他の世界から転生してきた、転生チートウマ娘だもの。

 

 負ける道理なんて、どこにもない!

 

 だから……今!

 この、楽しいレースで!!

 

「勝ちます!!!」

 

 

 

 瞬間。

 脳内に情報が溢れた。

 

 

 

 ……いや、溢れたって表現は正しくなかった。

 それだと抑えきれない、とか処理しきれない、みたいなニュアンスが含まれてしまうもんね。

 より正しくは……そうだな、視野が広がった、という言葉が近いだろうか。

 

 いつもの何倍も、ターフがよく見える。

 揺れる芝の1本1本、そこに照り返す日光、隙間から覗く地面。

 その全てが、よくわかる。

 

 勿論、それだけじゃない。

 10バ身どころじゃない、とんでもない広さに聴覚の範囲が広がる。

 その上、より正確に聞き取れる。

 ……もうこれ、聞き取れるって次元じゃないな。

 そこでした足音の反響から、どんな角度で地面を蹴り飛ばしたかとか、蹄鉄やシューズのフィット具合まで察することができる。

 ひょっとして私、ウマ娘からコウモリ娘になったんじゃないかって疑うほどだ。

 

 他にも……五感が極めて鋭くなっているのを感じる。

 その上、大きな情報に弱くなっているような気もしない。

 多分、強い光や音に怯むようなこともないだろう。

 

 なんだこれ、どうなってる?

 

 

 

 ……あぁ、なるほど、理解した。

 これは、五感が鋭くなってるんじゃないな。

 いや、鋭くなってるのは間違いないんだけど、それ以上に……。

 

 私の思考力が、とんでもなく加速しているんだ。

 

 

 

 いや、正直ね、ちょっと思ってはいたんだよ。

 私、転生チートウマ娘にしては弱くない? って。

 

 普通、いや転生モノに普通を求めるのはナンセンスかもしれないけど、普通転生者っていうのは段違いに強いものだ。

 誰もが有限の回数しかできないことを無限にできるとか。

 普通の人の何百倍っていう魔力があるとか。

 無限に何かを生み出せるとか。

 そういう、物語の根底を覆すレベルの何かを持っていることが多いのだ。

 

 それに対してホシノウィルムの転生特典、ちょっとショボくない?

 だってただ体が強いだけだよ?

 それも、走り方間違えたら簡単に負けるんだよ?

 正しい走り方で、最高の相棒に鍛えられても、それでもなお負けかけたりするんだよ?

 

 「転生チートウマ娘」って言うにはちょっと……いやかなり弱い。

 強いて言えば、「転生かなり強いウマ娘」くらいだろう。

 

 でも、ようやくわかった。

 私は確かに転生特典を持っている。

 だけど、体が強くなるのはオマケ程度でしかなかったんだ。

 

 

 

 転生特典の本体は……この、レース中の圧倒的な思考能力の上昇だ。

 

 

 

 思えば、確かにその片鱗はあった。

 レース中、やけに周りがよく観察できたり。

 相手までの距離やコースの残り距離を、かなり正確に測れたり。

 不自然なくらいに耳が良くなる……つまり聴覚情報の処理能力が上がったり。

 あれは全部、この封じられた転生特典から漏れだしたものだったんだ。

 

 では何故、転生特典が封じられていたのか、については……。

 まぁ、うん。

 今思うと、なんで気付かなかったんだって感じだけど……。

 お父さんだ。

 

 負けられないという氷のような呪縛。「寒さ」。

 あれは謂わば、めちゃくちゃ緊張してめちゃくちゃ集中する、っていう状態。

 緊張すれば、当然思考能力は硬直し、働きにくくなる。

 更に思考の集中というのは、つまり思考力という水を1つのパイプのみに流す行為なわけで。

 

 うん、つまりはそういうことなんだ。

 私、海みたいな量の膨大な水を緊張でカッチカチに凍らせて、その上残ったのも、全部細いパイプにだけ流し続けてた。

 要は、すっごい無駄使いしてたっぽい。

 

 ……お父さんさぁ。

 いや、お父さんは別に悪いわけじゃないよ?

 悪いわけじゃないんだけど……お父さんさぁ。

 

 はぁ……まぁいいや、今はすっかりこの思考力を使えるわけだし。

 お父さん、そっちで反省しててね?

 娘に変な思考植え付けちゃったこと。

 あと何より、ちゃんと娘を見てあげられなかったこと!

 私もこっちで、お母さんを救えなかったこと、ずっと反省してるから。

 これでおあいこ、ね!

 

 

 

 ……さて、ここまでは平行して進めていたサブの思考。

 すごいね、全体の1%足らずで、いつも通りの思考ができるなんて。

 それも、まだ次の1歩が地面に付いてないよ。どこまで加速するんだこの思考は。

 

 で、一方。

 それを除く99%、メインの思考力は今、このレースの考証に費やしている。

 

 今私が立っている場所、そして1歩先以内の範囲の芝の状況。

 ここから先、ゴールまでの進路。

 メジロマックイーン先輩、メジロライアン先輩、そしてセイウンスカイ先輩との距離。

 後方から詰めて来ようとしているウマ娘たちの足音。

 使える策と使ってくる策。

 私が今使える、最良のスパート方法。

 ……故障を起こしかけている、右足のこと。

 

 それらを纏めて、最も効率よく勝つ方法を考察する。

 

 

 

 そうして、次の1歩が地面に着くまでに、結論が出た。

 

 ここからセイウンスカイ先輩を差し切れる可能性は、おおよそ1000分の17。

 つまり、脳内で想定できる1000回の内17回、勝つパターンを発見した。

 

 その内で、最も右足に負担がかからず、かつ何かされても確実に勝つパターンを採用。

 

 さぁ、準備は整った。

 

 ファンの期待、友の声、彼の願い。

 

 それらに応えに……行くぞ!!

 

 

 

『ここまでかホシノウィルム、灰の蛇は……いえ、最終直線で再加速!

 出ました、怪物を継ぐ前傾姿勢! 逃げた末の差しは、メジロの2人とトリックスターに届き得るのか!?』

『日本ダービーの奇跡は再び起こるのか!? もはや彼女に不可能という言葉は通用しない!』

 

 

 

 ……すごいな、普段はぼんやりとしか聞こえない実況解説の声までクリアに聞こえるよ。

 それにしても、はっずかしいコト言うなぁ。

 不可能という言葉は通用しない、だってさ。

 ま、今からそれを事実にするんだけど。

 

 

 

 私を中心に、星の宙が広がっていく。

 それはすぐにマックイーン先輩とライアン先輩の領域とぶつかり合い、削り合った。

 

 

 

 マックイーン先輩の領域は、高貴の世界だ。

 自らの高貴さとその責務を理解し、それを果たすべく走り出す。

 彼女の持つ誇り高い精神が形になったような領域。

 

 削り取った世界の欠片から、彼女の想いが伝わって来る。

 

『負けるわけにはいきませんわ!

 メジロのウマ娘として……いいえ、一人のウマ娘として!

 この勝負、譲れない!!』

 

 ……負けるわけにはいかないのは、こっちだって同じだ。

 

「っ!」

 

 ほんの一瞬、並ぶこともなく芦毛の彗星を追い抜かす。

 

 

 

 メジロライアン先輩の領域は、鍛錬の世界だ。

 自らを鍛え上げ、彼方にいる誰かを目指し、その背を超えるべく走る。

 憧れと、劣等感と、それらを超える夢の詰まった領域。

 

 削り取った世界の欠片から、彼女の想いが伝わって来る。

 

『この距離じゃ、負けられない!

 憧れるだけじゃない、あたしだって、1人のウマ娘として……!

 このレースに勝って、スターウマ娘になるんだ!!』

 

 ……その夢は、ここで破る。

 

「くっ……!」

 

 ほんの一瞬、並ぶこともなく鹿毛の流星を追い抜かす。

 

 

 

 負けられないのは、誰だって同じだ。

 願いに貴賤はない。誰の願いも尽く平等であり、等価値。

 だからここにあるのは、正義じゃない。

 

 私たちの燃料は、ただのエゴイズム。

 ただ自分が勝ちたいという、それだけの感情だ。

 

 それをぶつけ合い、競い合い、潰し合う。

 勝つのはただ1人で、残りは全て敗者。

 夢も希望も全てバラバラに砕いて、残るのは僅かな喜びと、膨大な涙だけ。

 

 ……でも、それでいいんだ。

 

 それこそ、私たちの本能。

 誰かを負かしてでも勝ちたい。

 

 ただ……誰より速く、駆け抜ける。

 

 それこそが、ウマ娘が生まれて来た意味なんだから!

 

 

 

『なんということでしょう、クラシック級ホシノウィルム、ほんの100メートルでメジロマックイーン、メジロライアンを纏めて撫で切った!?

 彼女は本当にクラシック級なのか!? その速さはもはや天井知らず、セイウンスカイまであと2バ身!!』

『もはや常識の埒外と言う他ありません! これが型破りの蛇の実力!! これが無敗二冠の実力!!』

 

 

 

 ゴールまであと200メートル、先頭セイウンスカイ先輩まで2バ身差。

 この距離感なら、余裕を持って詰め切れる。

 

 ……とは、思えない。

 

 速度を緩めないまま、むしろ上げ続ける。

 

 スタミナは問題なく、足りる。

 前半で飛ばさずに温存した上……今の私なら、その消耗を大きく削ることができるから。

 足が地面を踏みつけ蹴り上げる、その角度と力の流れを完璧にコントロールすることができれば……。

 上から下へと、受け流すだけだもの。過度に疲れることはない。

 

 ……問題があるとすれば、右脚。

 脚に負担をかけない走りとはいえ、完全にゼロにはできない。

 どこまで負担をかければ、耐えきれなくなるだろう。

 首の皮1枚で繋がっているこの脚が……果たして最後まで持つのか。

 

 いや、持たせる。

 絶対に、絶対に、私は……負けない。

 

 このレースにも、スカイ先輩にも、トレーナーにも……運命にも。

 

 

 

 すぐにスカイ先輩までの距離が縮んだ。

 あと、1バ身もない。

 このまま行けば、残り100メートル弱で、私は差し切れる……。

 

 

 

 ……もしも、スカイ先輩が無策なら、の話だけど。

 

 

 

「来たかっ! ……でも、ここからぁ!!」

 

 

 

『差し切られるかと思われたセイウンスカイ、更に伸びる!

 もはや別次元! 5番手以下を大きく引き離し、別次元の戦いが繰り広げられている!!』

『淀の坂を越え3200メートルを逃げ切ったスタミナは伊達ではないぞ!!

 セイウンスカイ逃げ切るか!? ホシノウィルム差し切れるのか!? それともメジロライアンが差し返すか、メジロマックイーンが伸びるか!?』

 

 

 

 わかっていた。

 セイウンスカイ先輩は、ここで甘えさせてはくれないさ。

 

 第一のトリックは、足音を消して私を交わし切り、領域を展開したこと。

 ……そして第二のトリックは、真似ていた他人の走りのコピーをやめて、本来のスペックを取り戻すこと。

 

 このままなら詰め切れるという油断。

 直後に繰り出される、彼女の本当の力。

 再び広がる差に絶望し、もう無理だと諦めてしまう……。

 

 それこそが、彼女の敷いたレース展開。

 トリックスターの必殺の策。

 

 ……けれど。

 

 こっちは転生チートウマ娘なんだよ。

 その程度の策なんか、スペックだけで跳ね返してやる。

 

 

 

「すぅぅぅ……」

 

 大きく大きく、息を吸い込んで、酸素を取り入れる。

 最後の小休止だ。

 

 キラキラと星が輝く中、思考を回す。

 ウマ娘。人間の体をし、馬の力を持つ存在。

 その体の形と、筋肉、関節、骨格、全身に巡る血管、心臓、肺。

 

 その全てを組み上げて、生み出す。

 

 

 

 「私の理想の走り」を。

 

 

 

 ……見えた。

 

 全身全霊、天星のスパート、開始。

 

 

 

 強く、芝を踏みしめる。

 この体に出せる、限界出力。

 それを余すことなく大地に伝えて、渾身の力で蹴飛ばす。

 

 不思議と、大きな音はしなかった。

 そのエネルギーのほとんどが、私を前に進める力になる。

 

 

 

「っ! 負ける、もんかぁぁあああッ!!」

 

 

 

 勿論、スカイ先輩もただでやられるほど楽な相手じゃない。

 長い経験と研究で培ってきたんだろう、全身全霊。

 不意打ち的に追い抜けた2人とは違って、その差はなかなか縮まない。

 

 ……やっぱりすごいな、スカイ先輩は。

 領域は、展開できる時間に限りがある。

 当たり前の話、超集中状態なんて保ち続ければ脳も体もパンクしてしまうから。

 

 彼女の領域は、私が迫った時には、もう閉じてしまっていた。

 

 だから今、彼女は領域に入れていない。

 私の領域に一方的に呑み込まれ、それでもなお、私とそう変わらない速度を出している。

 

 ……まったく、何がトリックスターだよ。

 そもそも最初から、めちゃくちゃ強い。

 トリックなんてなくても勝てるような秀才じゃないか。

 

 

 

 だが、それでも。

 

 

 

 私は、愛されている。

 多くの人に、この瞬間も。

 

 全部、聞き取れるよ。

 私の勝利を望んでくれる声。私の幸せを願ってくれる声。

 ……そして、大事な人の、叫びが。

 

 その全てが星となり、私を照らし、背中を押してくれる。

 だから、負けない。

 

 

 

 ホシノウィルムは、負けない!!

 

 

 

『なんという末脚だ、この2人は本当に逃げウマ娘なのか!?

 互いの末脚がぶつかり合う、短距離レースと見紛うようなペースだ!!

 後ろからメジロマックイーン、メジロライアンも猛追を見せる!!』

『迫る迫るホシノウィルム!! 宝塚記念の勝利は目前だ!!

 残り50メートル、スポットライトを浴びるのは彼女なのか!?』

 

 

 

 星々が、輝く。

 数多の夢が、勝利への道筋を照らし出す。

 

「これが……ッ」

 

 ゴールの先で私を待つ、最も光り輝く星。

 あの一等星が私を導く限り。

 私はもう、惑わない。

 

「これが、ホシノウィルム、だぁぁぁあああッッ!!」

 

 

 

 葦毛の巨星を、かわして。

 

 

 

 

 

 

 私は、ゴール板の前を、ただ1人、駆け抜けた。

 

 

 

 

 

 

『今、ホシノウィルムが1着でゴォォオオルイン!!!

 信じられません、ホシノウィルム、ホシノウィルムです!!

 クラシック級王者ホシノウィルム、宝塚の主役を勝ち取り、ファンの夢と願いを叶えた!!

 史上初の宝塚記念クラシック級勝者はこの子、ホシノウィルムだーーっ!!!』

『2着はセイウンスカイ、3着はメジロライアン!

 見事に古豪と最優、そして隠れた実力者を差し切り、彼女に不可能がないことを証明してみせました!!

 地を這う蛇は天に昇り、空を舞う龍へと生まれ変わった!!

 伝説はまだまだ続く、果たして彼女はどこまで私たちに夢を見せてくれるのでしょうか!!』

 

 

 

 ……終わった。

 あぁ、終わってしまった。

 

 なんて……なんて勿体なくて、残念な。

 もっと走っていたかった。

 ずっとずっと、このとんでもなく強い先輩と、走っていたかったのに。

 

 星宙の領域が緩み、霧散する。

 こっちも残念だ。……また次のレースで、この光景を見たいものだね。

 

 足を緩めて立ち止まる。

 そして……スタンドに向き直った。

 

 

 

 そこには、私を支えてくれた、たくさんの煌めきがあった。

 たくさんの熱が、たくさんの想いが、たくさんの愛が、私に注がれていた。

 

 領域が閉じ切ってしまった私には、もうそれら1つ1つを聞き分けることができないけれど……。

 でも、皆が祝ってくれているのは、よくわかった。

 

 

 

 ……そうか、私、勝ったんだ。

 宝塚記念にも、スカイ先輩たちにも、トレーナーにも……自分の運命にも。

 

 

 

 それをようやく自覚すると共に、心の底から堪え難い熱が沸き上がる。

 

 勝った。

 

 勝った、勝った、勝ったんだ!!

 

 不可能と言われるレースに。

 トレーナーさえ困難だって言っていたレースに。

 強敵たちとのレースに。

 ……勝ちたかった、このレースに!

 

 その歓喜は容易く自制を突き破って、私は感情のままに、右腕を突き上げる。

 

 どっ、と。空気が揺れた。

 

 ……はは、すごい歓声だ。

 

 ありがとう、皆。

 本当に、ありがとう。

 皆のおかげで、私は今、ここに立ってるよ。

 

 

 

『右手を突き上げたホシノウィルム!

 その勝ちタイムは……2分11秒、2!!

 異次元の逃亡者しか破ることのできなかった12秒の壁を破り、今!!

 新たなる伝説、新たなるレコードがここに誕生!!

 異次元を継ぎ、異次元を超えて、今、彼女は自らの唯一性を証明しました!!!』

 

 

 

 * * *

 

 

 

 地下バ道。

 ターフの上から降りて、控室に戻る過程で、私はいつも通りその人の姿を発見した。

 

 堀野歩。

 私の契約トレーナーであり、私を導いてくれる一等星を。

 

「トレーナー!」

「走るなよ」

「……はい」

 

 なんだよ、今日くらいは盛り上がってもいいじゃん。

 ちぇっ、と内心拗ねながら、でも彼の意見は至極もっともなので、仕方なく歩いて彼の下に向かう。

 

 と、そう思ったけど……。

 私が行く前に、トレーナーが駆け寄ってきてくれた。

 いつも私が歩み寄るまで、そこで待っていただけだったのに。

 ……へへ、それだけ認めてくれたってことかな。

 

「やったな、ホシノウィルム」

「はい、やりました、トレーナー」

「違うわ。前傾スパートだ。君、やっちゃったな」

「…………」

 

 いやまぁ、確かにやっちゃったけどさぁ。

 でもあれ、前傾スパートじゃないもん。それを改良した天星スパートだもん。

 

 カッコ良くない?

 天の星に導かれるスパートだから、天星スパート。

 我ながら最高のネーミングセンスだ。へへ。

 

 ……いや、そうじゃなくてさ。

 

 史上初、クラシック級の宝塚記念勝利、とかさ。

 あのマックイーン先輩、ライアン先輩、それにスカイ先輩に競り勝った、とかさ。

 色々褒めること、あるよね?

 責めるより先にさ。

 ね?

 

「まぁいい、とにかく明日精密検査だ。

 それまでは『おかえり』も、頭撫でも、ご褒美権も、全て延期だな」

 

 ……もう、本当、この人は。

 好きな人に褒められたい乙女心ってヤツに、気付いてくれないもんかねぇ。

 

「……あの、何と言うか、もう少し他にありませんか?

 私、頑張って勝って来たんですけど」

「勿論あるとも」

 

 そう言うと、トレーナーは……。

 その場に片膝をついて、私に視線を合わせた。

 

 

 

 ……え、えっ。

 何、何何何!?

 

 いつも以上に近くなった顔にドギマギしていると、トレーナーはゆっくりと私の手を取った。

 あぁ、あったかゴツゴツで気持ちい……。

 じゃなくて!

 何!? 何なの!?

 

「俺は、最初の最初、大きな間違いを犯していた。

 誰であろうと支える、などと……たとえそれが堀野の家訓であろうと、思うべきではなかった。

 トレーナーと担当ウマ娘は、無二の関係だ。

 俺は……その言葉の本当の意味を理解できていなかった」

 

 そう言って、トレーナーは真面目な顔で、私の手を、両手で包み込んだ。

 

「今回のレースで、君の最後の走りを見て、思った。

 俺は、君がいい。

 君を育てたい。君がこれから勝つ、勝ち続ける姿を見ていたい。

 だから……いや、君からすれば今更な言葉に聞こえるんだろうけど。

 どうか俺と、一緒に歩んでほしい。

 俺を、君のトレーナーにしてほしいんだ」

 

 …………。

 

 はぁ、もう。

 ズルい人だ、本当に。

 

 いつもいつも、言ってほしいことを言ってくれる。

 私が望むことを、自然にやってくれるんだから。

 

 思わずニマニマしかける頬に活を入れて、努めて無表情を保って……。

 よし。

 

「勿論です。

 そもそも、勝負の約束ですよ。私が宝塚記念に勝ったら、あなたは自分の努力を認め、私をあなたのウマ娘にする。

 それはきちんと……果たしてもらいますとも」

 

 言ってて恥ずかしくなってきた。

 いや、耐えろ私。

 これめっちゃ大事なとこだから。

 

 堀野歩トレーナーにとっても、競走ウマ娘ホシノウィルムにとっても。

 きっと、一番大事な瞬間になるんだから。

 

「……コホン。

 私も……ええ、私もあなたと勝ちたい。

 あなたに付けられたトレーニングと作戦で、これからずっと勝ち続けたい。

 だから、堀野歩さん……」

 

 そっと、彼の横に張り付いて。

 その耳に囁く。

 

 

 

 ……まったく、私もチョロいもので。

 

 彼にだけ……。

 本当の私を知ってほしいって、思ってしまった。

 

 

 

「私を……いや、ホシノウィルムを、これからもよろしくね」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 これ以上ない、最高のハッピーエンド。

 それが「私」の物語の終わりだ。

 私はもう何も特別じゃない、ちょっと前世の記憶とすごい力を持っただけの、この世界に生きるウマ娘だ。

 

 これからも、嫌なこととかキツいこととか、きっとたくさんあるんだろう。

 私の存在が歴史を歪めたりすることも、きっと起こってくるんだろう。

 

 ……それでも、私は。

 堀野歩トレーナーと一緒に……。

 ホシノウィルムとして、この世界を生きていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なお、次の日。

 

「折れてますね」

「え?」

「は?」

「いや、脚、綺麗に折れてますよ。ひとまず入院しておきましょうか。

 菊花賞は……残念ですが、難しいでしょうね」

 

 ……いや、こんな締まらない終わり方なの、「私」の物語!?

 

 

 







 コンディション改善!
 「命がけ」が「一所けん命」になった!

 「命がけ」
 ステータスが上昇しやすくなり、レースの際一時的に絶好調になる。
 ただし体力の消費量が上がり、トレーニングに失敗したりレースで事故を起こした際、致命的な故障が発生することがある。

 「一所けん命」
 ステータスが上昇しやすくなり、レースの際一時的に絶好調になる。
 ただし体力の消費量が上がる。



 コンディション解消!
 「愛嬌×」が治った!



 コンディション解放!
 「切れ者○」が「切れ者◎」になった!






 この時点での相互評価

トレ→ウマ:俺の担当ウマ娘。
ウマ→トレ:私の契約トレーナー。



 本編第一部「ホシノウィルム」終了です。

 第一部の最終章も終わったことですし、おまけ回などを挟んだ後、第二部のプロローグを始めましょうか。
 「転生者の『私』の物語」が終わっても、「転生者2人のお話」はまだまだ続きます。
 どうぞこれからも、2人にお付き合いいただければ幸いです。



 次回は3、4日後。誰かの視点で、菊花賞前半の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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おまけ 菊の彼女と彼女の解

 (シリアスは)もうちっとだけ続くんじゃ。





 

 

 

「……さて。ついにこの日が来た」

 

 菊花賞。

 

 多くのウマ娘が目指す、クラシックレース。

 その最後の1つが、今日、開催される。

 

 アタシはそれに、2番人気で参加することになった。

 

 あの日、アタシじゃとても届かないような星を見上げて、それでも勝ちたいと叫んで……。

 トレーナーさんと一緒に二人三脚を始めて、実に1年以上。

 ここまで長かったような、あるいは一瞬だったような、不思議なカンジ。

 

 ……泣いても笑っても、今日、全てが決まる。

 

 アタシは……絶対に、このレースに勝つ。

 そのために、ここまでずっと、頑張って来たんだから。

 

「いっちょ、やったりますか……!」

 

 

 

 

 

 

 ……と、気合を入れて来たはいいんですケド。

 

「1人で待つってのも、暇なもんだよねぇ」

 

 アタシは控室で、ずーっとレースの開始を待っていた。

 

 出走ウマ娘たちは朝にレース場入りするんだけど、場合によっては昼過ぎまで控室で待機することになる。

 勿論、その間に体を伸ばしておくことも大事なんだけど……。

 菊花賞の出走は15時過ぎ。準備を考えても13時からで十分でしょう。

 

 トレーナーさんは他の陣営の情報を集めに行っちゃったし、出走ウマ娘は基本的に控室から出られない。

 ま、変に出歩いて騒ぎを起こしたら大変だから、妥当な処置だと思うけどさ。

 待ち時間は結構長いし、話し相手もいないと退屈なんだよねぇ。

 

 ストレッチとか作戦の確認とか、すべきことは色々あるけど、それを全部やったってだいぶ時間が余る。

 というか、余ったからこそトレーナーさんは情報収集に行っちゃったわけで。

 残されたアタシは、精神統一でもしてるのがいいんだろうけど……そういうの、あんまり得意じゃないし。

 

「……あの子なら『自主トレに行ってきます』なんて言い出しそうだけど」

 

 ここにはいない友人のことを思い出して、くすりと笑う。

 

 勿論、アタシはそんなキャラじゃないし、何よりこれ以上脚に負荷をかけられない。

 ここまでギリギリにトレーニング積んできたからね。無茶をする余裕は欠片もない。

 だから今は、ここでじっと待つ。

 それが、アタシたちの最適解だ。

 

 ……とは言っても、退屈なのは変わらない。

 暇潰しに、スマホでウマ娘関連を取り扱ってるニュースサイトにアクセスする。

 最近のニュースにはしっかり目を通してるし……ちょっと前の記事でも見直しますか。

 いくつかのワードを検索欄に入れて、まずヒットしたのは。

 

 

 

『灰色の龍に悲劇! 宝塚記念勝利の代償』

『ホシノウィルムに故障発生。菊花賞出走は絶望的か』

 

 

 

 アタシの大事な友人についてのものだった。

 

 

 

 ホシノウィルム。

 そのあだ名を、ウィル。

 いつからか灰色のイメージカラーが付いた、小柄な鹿毛のウマ娘。

 アタシと同期の、キラキラした最強主人公だ。

 

 メイクデビュー。

 オープン、葉牡丹賞。

 G1、ホープフルステークス。

 G2、弥生賞。

 G1、皐月賞。

 G1、日本ダービー。

 ……そしてG1、宝塚記念。

 

 その尽くに勝ち、7戦7勝。

 内4戦はG1、1戦に至ってはシニア混合のグランプリレース。

 無敗の二冠を手にし、宝塚記念で不可能を覆した灰色の龍。

 トゥインクルシリーズ現役の中で最強の座を勝ち取った、無敵の大逃げウマ娘である。

 

 ……改めて考えると、とんでもない子と同期になっちゃったもんだなぁ。

 勝ちの数だけ見ればアタシも彼女に並んだけど、アタシのは9戦7勝の重賞2勝だからね。

 その質の差は、どうしようもなく開いている。

 

 彼女のことはずっと傍で見てたから、わかる。

 はっきり言って、ホシノウィルムはモノが違うんだ。

 最上級の持久力、シニア級とも争えるスピード、冷静で冷徹な観察眼、完璧と言っていいレース運び。

 その全てが超一流。今やこれといった弱点も存在しない。

 まだ本格化も半ば、成長し切っていない現時点で、トゥインクルシリーズ中距離で最強なんだ。

 将来的には間違いなく……最強のウマ娘の1人として、歴史に名を連ねることになるんだろうね。

 

 

 

 ふと、この1年のことを思い出す。

 あの子と知り合った日。

 そして、あの子とトレーニングを積んだ日々を。

 

 彼女の最初の印象は……ちょっと申し訳ないけど「内気で陰気な子」だった。

 いつも俯いてるし、人と話しているところなんてほとんど見ない。

 アタシは違うクラスだけど、どうやら授業の休み時間もずっと机に突っ伏してるって話だった。

 何を考えてるかわからない……とまでは言わないけど、ちょっと不気味だったことは事実。

 

 ……まぁ、選抜レースでぶっちぎりの大差を刻んで、その印象はガラリと変わったけども。

 

 しかし、今改めて考えると、あの頃の彼女は……まだ付け込める隙のあるウマ娘だったんだ。

 その最たるものが、後方からの圧力に弱くて掛かりやすかった、ってこと。

 

 実際、アタシはそれを利用して、彼女を追い詰めたことがあった。

 残り、1と2分の1バ身。

 おおよそ4メートル弱まで、その差を縮めた。

 このまま行けば必ず追いつけるって、そう思えるくらいに、アタシは彼女の背中に迫っていた。

 

 ……けれど、当然。

 彼女もずっとその場に留まってくれはしなかった。

 

 ウィルは、少しずつ変わっていったんだ。

 どことなく物腰が柔らかくなり、同時に少しずつ明るくなっていった。

 ずっと「走ることにしか興味ありません」って顔してたのに、いつしかアタシとも普通に雑談したりお出かけを楽しめるくらいに……。

 なんていうか……そう、親しみやすいウマ娘に変わっていったんだ。

 あ、いや、別に元が親しみにくかったわけじゃないよ?

 ただ、無表情なのもあって、わかりにくい子だなーっていうか……はい。

 

 最近は後輩にも懐かれてるみたいだし、その交友範囲も徐々に広がっているらしい。

 元々、ただ誤解されがちなだけで、彼女は良い子だ。

 この変化は、ウィルにとって良いことなんだと思う。

 

 ……けれど、それと同時。

 その成長に伴って、彼女は自分の弱点を完全に克服してしまった。

 どれだけ近くに来られても、たとえ追い抜かれたって、焦らなくなった。

 更には、まず大逃げして、差された後差し返すなんていう、とんでもない戦術さえ取り始めてしまったんだ。

 

「……ホント、常識外れなんだから」

 

 最初の頃から、十分ヤバかったのに……。

 日本ダービーの時のウィルなんて、もうどうやって勝てばいいのか、わかんなかったもんね。

 

 

 

 根本的に逃げウマ娘っていうのは、後半でペースダウンするものだ。

 序盤に稼いだリードを維持して何とか「逃げ切る」から逃げウマ娘って呼ぶんだし。

 そりゃあ溜め逃げっていう概念もあるけど、それはウィルの基本戦術である大逃げとは決して相容れないはずのもの。

 それなのに……彼女は日本ダービーで、それを見せた。

 大逃げの末、追込と呼んで差し支えないスピードでテイオーを差し返す、あまりにも非常識な走りを。

 

 「大逃げ」と「追込」が共存することは、あり得ないはずだった。

 大逃げっていうのは、前半で大幅にスタミナを使って速度を出し、リードを広げる作戦。

 一方追込は、前半にスタミナを温存し、後半で一気にスピードを解放する作戦だ。

 普通に考えて、大逃げを試みれば追い込むことはできない。

 逆に追込で行くのなら、前半でスタミナを使う余裕はない。

 

 両立できるとすれば……そのウマ娘の基本速度、ミドルペースが、よほどレースの基準を上回っているとしか考えられない。

 それほどスタミナを使わずに走れるミドルペースが、他のウマ娘にとっては付いていけないハイペースなんだ。

 だからこそ前半も飛ばして、後半で更に加速する、なんてことができる。

 

 ……信じがたいけど、多分そういうこと。

 ホシノウィルムはそもそもの身体能力が、突出して高いんだ。

 

 

 

 ちょっと前、ウィルのお見舞いに行った時、初等部の頃の夢や趣味の話になったんだけど……。

 彼女は少しだけ悲しそうに目を伏せ、笑っていた。

 曰く、自分はずっと夢のない無趣味な人間で、暇さえあればもっと速くなろうと走ってばかりだった、と。

 だからこうして友達と話したりできるのが嬉しいのです、って彼女は笑っていたけど……。

 アタシは、ちょっと呆然としてしまった。

 

 ウマ娘は、専用に開催される模擬レースを経て本格化を迎え、そこから3年間身体能力が急激に成長する。

 だからウマ娘たちが頑張るのは、中等部に進級して、トレセンに入ってからでいい。

 そこまでにいくら努力したって、トレセンに入ってからの1か月の努力で、簡単に覆ってしまうから。

 ……これは、広く知れ渡ってる常識だ。

 

 そりゃあ、レースに憧れて子供なりに頑張る、ってのはよくある話だ。

 アタシだって、まぁ……地元の皆に期待されてたから、ある程度は頑張った。

 子供同士の野良レースに出たりするのも、そこまで珍しい話じゃない。

 

 けど、彼女のそれは、常軌を逸してる。

 自由な時間の全てを、ある時は睡眠時間や食事の時間を削ってまで、走ることに専念する……。

 そんな体験してりゃ、たとえ本格化前とはいえ、差が付いてしまうはずだよ。

 ウィルはそうした努力の果てに、今の強さを手に入れたんだ。

 勿論才能とか、先天的素質もあるんだろうけど……。

 彼女がやってきた死に物狂いの努力が、無駄だったわけがない。

 

 だから、他のウマ娘とはモノが違う。そもそもの基礎が違いすぎる。

 彼女が走るミドルペースは、他のウマ娘にとってのハイペース。

 そのスタミナも、同期のウマ娘とは段違いだ。

 

 だからこそ、大逃げして追い込むなんていう非常識なことができて……。

 そんな彼女だから、宝塚記念にも勝てたんだろう。

 

 

 

 

 

 

 ……だけど。

 圧倒的な強さを誇っていた彼女は、宝塚記念で右脚の骨を折った。

 それまで月1ペースで大逃げを繰り返し、前倒しの開催になった宝塚記念で、ついに限界を迎えてしまったらしい。

 

 スマホを何度かタップして、次のニュースを見る。

 

 

 

『菊花賞は龍と帝王不在か。期待は星の世代の三等星』

 

 

 

 龍と帝王。半年前は帝王と蛇って呼ばれてた、アタシたちの世代の2人のウマ娘のあだ名。

 

 片や、血筋と才能、そして実力、その全てが飛び抜けていた、トウカイテイオー。

 片や、常勝無敗、無敵の二冠ウマ娘、ホシノウィルム。

 

 この2人の対決は、ずっと注目されてた。

 何せ良血の化身と寒門の星。そりゃ話題にもなるってもので。

 皐月賞では8バ身という大きな差でウィルが勝ったものの、ダービーではハナ差にまで縮んだ。

 これは菊花賞ではどうなるかわからないぞ、と期待されてたんだけど……。

 

 そのテイオーは、ダービーの最中に足をやってしまった。

 更にウィルも筋肉を痛め、その後の宝塚記念で同じく骨折。

 

 ……アタシたちの世代、そういう呪いでもかかってんの?

 いや、2人の才能がすごすぎて、自分の体の耐久力以上の力を出しちゃったってことなんだろうけどさ。

 本当、天才ってヤツは何でこう……。

 

 ま、人の振り見て何とやらだ。

 せめてアタシは凡才なりに、自分の脚を大事にしよう。

 競走ウマ娘としても、ウマ娘としても、長生きしないとね。

 

 

 

「しかし『星の世代』ね。ご大層な名前が付いちゃったもんだ」

 

 星の世代。

 それは最近定着しつつある、ホシノウィルムやトウカイテイオー、そしてアタシの世代の通称だ。

 

 それは最初、ホシノ世代と呼ばれたところから始まったらしい。

 ホシノウィルムという前代未聞の怪物がいる世代、という意味だったらしいんだけど……。

 

 この世代で輝くのは、何も彼女だけじゃない。

 それをテイオーが、日本ダービーで証明した。

 

 最強は1人きりじゃない。

 故に、ただ1つの星が輝くんじゃなく……。

 夜空に輝く数多の星が照らす世代。

 それが「星の世代」って名前の由来なんだってさ。

 

「アタシが三等星、ってのも……何ともなぁ」

 

 星の世代っていう名前からか、いつしかこの世代の最強に近いウマ娘は、等級で格付けされるようになった。

 世間から見た強さの順に、上から一、二、三等星って称号が付けられるんだ。

 

 で、現在の格付けがどうなってるかっていうと……。

 一等星は勿論、灰色の龍、ホシノウィルム。

 二等星に、彼女の背を追う帝王、トウカイテイオー。

 ……そして、三等星にアタシ、ナイスネイチャだ。

 

 ここでも1番になれないことを悔しがるべきか、多くの星の中で3番目と目されたことを喜ぶべきか、微妙なところだ。

 勿論、評価されることは嬉しい。嬉しいけど……。

 

 また、3か。

 

 選別レースでも、3着で。

 ウィルとテイオーとの模擬レースでも、3着で。

 会長とテイオーとの模擬レースでも、3着で。

 付けられた称号も、三等星。

 

 どうにもアタシは3という数字に縁がある。

 どれだけやっても「あとちょっと」。

 もう少しで届くってところで、1番を取れずに終わる。

 3って数字に呪われてるんじゃないかって程だよ。

 

 

 

 ……でも、それも今日までだ。

 

 アタシは今日、必ず、1着を取る。

 G1ウマ娘になって、トレーナーさんにG1トレーナーの称号をあげるんだ。

 

「あー、いかんね、どうにも」

 

 柄にもなく、闘志が燃えて落ち着かない。

 スマホをスリープモードにして、アタシは立ち上がる。

 落ち着かないものは仕方ない。

 トレーナーさんが帰って来るまで、負荷をかけない程度にストレッチでもしてようかな。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、時間は過ぎ去り、いよいよ出走直前。

 

 アタシたちウマ娘はパドックでのアピールを終え、ターフの上に上がっていく。

 それを出迎えるのは……。

 

 とんでもない数の、観客。

 

「う、わ」

 

 思わず、呟いてしまった。

 

 アタシのここまでの戦績は、9戦7勝。

 最初にやらかしたメイクデビューと、テイオーに勝てなかった若駒ステークス以外の全てのレースで……アタシは、勝って来た。

 特に7月以降は5連勝。この前の京都新聞杯なんか、あのハートブロウアップに3バ身差を付けて勝てた。

 自慢じゃないけど、今のアタシはノリにノってる。多少のことじゃ動じない自信があった。

 

 ……でも、その光景の迫力は、予想を遥かに超えてたんだ。

 

 

 

『クラシックロードの終着点、菊花賞。

 「最も強いウマ娘」が勝つレースにおいて、最強を証明するのは誰になるのか?

 星の世代と呼ばれる彼女たちの中から新たなスターが生まれることを期待し、数多くのファンが京都レース場に集まっています!』

 

 

 

 遠くから聞こえて来た実況が言っている通り……すごい数の観客だ。

 あっちを見ても、こっちを見ても、ひたすら人とウマ娘だらけ。

 誰も彼もが、今から始まるレースを一目見ようと詰めかけて来てる。

 

 これが、G1レース。

 国内最高峰、最強を決める戦い。

 今までのレースとは段違いの期待と願いが、窒息しそうなくらいにレース場に張り詰めている。

 

 思わず、ぶるりと体が震えた。

 

 でも……うん、これは武者震いってことで。

 

「今更、ビビってらんないし。

 ……あの子はずっと、こんな舞台で戦ってきたんだから」

 

 口の中で呟いて、腹を括る。

 今日は決戦の日。こんなことで動揺していられない。

 アタシが本調子じゃなきゃ、勝てるものも勝てなくなっちゃうもんね。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 出走までの待ち時間。

 出走ウマ娘たちに好き放題囁いた後、ターフの上でストレッチしていると、遠くから解説の声が聞こえてきた。

 

 

 

『京都レース場、右外回り、芝3000メートル。前日の雨の影響で、バ場状態は稍重の発表。

 強靭なスタミナと、淀の坂を越えるパワーがなければ、このコースは完走することすら難しいですよ』

 

 

 

 京都レース場の、淀の坂。

 今日走るコースの一番の特徴とも言える、あまりにも有名な坂道だ。

 

 序盤と第3コーナー周辺で合計2回通ることになるそれは、実に高低差4メートル以上。

 これがどれだけ急こう配かと言うと……阪神レース場にある仁川の坂の2倍、と言えば伝わりやすいかな。

 

 逃げや先行の策を取るウマ娘にとって、この坂は非常に厄介な地形だ。

 前半でスタミナを使う彼女たちからすれば、3000メートルという距離はあまりに長い。

 その上終盤、長距離を走って疲労した状態で、この登り坂に向き合う必要があるのだ。

 ミドルペースにでも登れたら良い方で、最悪減速しすぎてローペースにまで落とされる可能性すらある。

 

 故に、菊花賞で逃げウマ娘が勝ったケースは、非常に少ない。

 歴代でも4人。……まだ研究が進んでなかった何十年も前に3人と、つい3年前に1人。

 この4人って数字は、歴代の三冠ウマ娘の数と一致する。

 つまりは、そういうことだ。

 菊花賞はダービーと同じかそれ以上に、逃げウマ娘に不利なレースと言える。

 

 更に、この坂の何が厄介って、差しや追込ウマ娘にも影響するところだ。

 このコースは、登り坂の途中から第三コーナーにさしかかる。

 コーナーの途中で登り坂は終わり、そこからは急こう配の下り坂になるんだけど……。

 ここで速度を出しすぎると、遠心力でコーナーの外側に弾き飛ばされてしまうんだ。

 

 ……ごく一部のハチャメチャなウマ娘を除いて、レースというものには定石がある。

 例えばそれは、第3コーナーからが勝負、ってこととか。

 逃げウマ娘は別として、先行、差し、追込ウマ娘は、レース中のどこかからペースを上げて自分の位置を押し上げ、最終直線でスパートした際に先頭を抜かせる位置に付かないといけない。

 積極策やロングスパートを取る場合は別だけど、それは多くの場合、向こう正面から第3コーナーあたりで始まる。

 テイオーやマックイーン先輩はそういう好位抜け出しを得意にしてるし、最近のレースの定石といったらこれになるだろう。

 

 けど、淀の坂はこれを許さない。

 

 登り坂をハイペースで登れば、めちゃくちゃにスタミナを削られるため、最終直線でスパートができなくなる。

 下り坂をハイペースで駆け降りれば、遠心力で外に弾き出され、自分の選んだレーンを放棄することになる。

 

 故に、京都レース場で第3コーナーからスパートをかけるのは危険なのだ。

 本当の勝負が始まるのは坂の後、最終コーナー間近から。

 これが菊花賞というレースの基本となる。

 

 ……ちなみに、ここまでのは全部トレーナーさんの受け売りです。

 何日も講義を受けて、このレース場の情報を頭に叩き込まれたからね。予習はバッチリ。

 

 

 

 とにかく、菊花賞の第3コーナーにある淀の坂。

 これを駆け登ったり、駆け降りることはタブーだ。

 これを破った上で勝てるのは、それこそ最高の才能を持つウマ娘だけ。

 

 例えば、今はドリームトロフィーリーグで走っているクラシック三冠ウマ娘、ミスターシービー先輩とか。

 

 

 

 あるいは……。

 

 

 

 その時。

 ざわり、と空気が揺れるのを感じた。

 

 

 

 ……あるいは、あまりにも悲劇的に故障を起こしておきながら、何事もなかったような顔で復帰してくるおバ鹿とか。

 

 

 

 

 

 

『さぁ少し遅れて、本日の主役がターフに姿を現しました!

 全ての過去を過去にする、最新の伝説。

 18の星々の中にあってなお燦然と輝く一等星は、今日もまた不可能を破り捨ててくれるのか!』

 

『一番人気はこの子をおいて他にはいない!

 ここまで無敗の二冠ウマ娘、ホシノウィルム!』

 

 

 

 

 

 

 その子がターフに足を付けただけで、その場の雰囲気が変わった。

 例外なく、皆が彼女に注目する。

 観客も、実況解説も、アタシたち出走ウマ娘も。

 

 誰も、彼女の存在から、目を背けられない。

 

 

 

 視線のスポットライトの中、こっちに歩いて来るのは……。

 アタシの知る限り一番キラキラした、主人公みたいなウマ娘。

 

 肩まで伸ばした鹿毛と、一房だけ伸びた黒鹿毛。

 黒のインナーの上に深紅のジャケット、羽織るのは美しい灰色のマント。

 小柄ではあるけど、誰もが無視できない威圧感を持つ、世代の王。

 

 ホシノウィルムだ。

 

 今日も今日とて、その顔は無表情。

 ……一見、そう見えるけど。

 彼女と付き合って久しいアタシには、わかる。

 

 ウィル、ちょっとだけ笑ってるよ。

 心の底から嬉しそうに、楽しそうに。

 ……そして、獰猛に。

 

 

 

 彼女はゆったりとしたペースで、アタシの前にまで歩いて来る。

 その歩調は、数か月前までの彼女のそれと全く同じで……。

 ようやく安心したアタシは、口を開いた。

 

「ウィル、待ちかねたよ」

「うん、遅くなってごめんなさい、ネイチャ」

 

 ピリピリと、肌が痛くなるような錯覚。

 初めて公式レースで対面した親友からは、これまでにない闘志を感じた。

 

 

 

 最初に会った頃の彼女は、どこかちぐはぐな、あるいは空虚な印象の子だった。

 何故走るのか。走って何がしたいのか……。

 それを考えることすらなく、義務的に走るような……ちょっと失礼かもしれないけど、壊れた機械みたいな印象を受けた記憶がある。

 

 ……でも、今の彼女は、違う。

 闘志に燃える瞳も、仕上げてきたんだろう体も、言動の端々から感じられる精神的な集中も。

 アタシが見て来た誰よりも、勿論アタシなんかよりも……。

 

 今のウィルは、誰よりもウマ娘らしいウマ娘だ。

 

 

 

「今日は良いレースにしましょう、ネイチャ。どんな手で来るか、楽しみにしていますね」

 

 彼女はそう言って、アタシに手を差し出してきた。

 

 ……風説によれば。

 ホシノウィルムがレース前に握手をするのは、自分が認めたウマ娘だけだという。

 そして、今まで……彼女が自分から握手を求めた例はなかった。

 

 観客たちは、レースが始まる前だってのに大盛り上がり。

 あーあー、こりゃまた変な評価もらっちゃうよ。

 ただでさえアタシ、この子が変にアピールするおかげで過剰評価されがちだっていうのにさ。

 

 そう、どこか冷静に考えながら、アタシは……。

 

 

 

 全身に走る寒気のような緊張を、抑えられなかった。

 

 

 

 ようやくだ。

 ようやくここまで来た。

 

 ウィルに……ホシノウィルムにライバルと認められて、同じ舞台、同じ条件で、互いに全力を出してぶつかることのできるところまで。

 

 ……いや、それは正確じゃないだろうけど。

 

 ホシノウィルムが全力を出せるのかは……微妙なところだったから。

 

 

 

 今から、大体1か月前のこと。

 

『ホシノウィルムがあの頃の走りをできるかは、正直に言ってわからない』

 

 ウィルが菊花賞に出走登録するという情報を掴んで10分後に始まった、トレーナーさんとの緊急会議。

 そこでの、トレーナーさんの一言目がそれだった。

 

『骨折はかなり大きな故障だ。最悪、それで以前通りの走りができなくなっている可能性もある。

 そしてたとえ元の走りができたとしても、4か月強っていう長期間トレーニングを積めなかったのはかなり大きい。いくらリハビリをしても、どこまで筋力が戻るかはわからないからね。

 その上、彼女は叩きなしで……事前に何かのレースに出ることもなく、直接菊花賞に殴りこんでくる。久々のG1レースで本調子が出せない可能性は、決して低くない。

 更に、出るレースは今までに経験のない3000メートルで、淀の坂まであるんだ。

 まともに走れる方が異常と言っていいくらいだよ』

 

 それは否定しようのない、まっとうな意見に聞こえた。

 けど、付き合いの長さから透けて見える。

 アタシのトレーナーさんが、こういうことを長々と言ってくる時は……。

 

『『でも、油断はできない』』

 

 そう、落として来る。

 思考を読まれたことに照れたのか、トレーナーさんはちょっと赤くなって、でも咳払いしてすぐに続けた。

 

『ホシノウィルムに常識は通用しない。

 どんな状態で、何が起ころうと、彼女が脅威であることに変わりはない。

 だから一番最悪のケース……彼女が更に強くなって戻って来る場合を想定して、対策を練ろうと思う』

 

 

 

 ……トレーナーさん。

 あの時の懸念、大正解だよ。

 

 ウィルは今……これまでのどのウィルよりも、恐ろしい。

 休養していたとは思えない、体の仕上がりもそう。

 このG1の大舞台を前にしてほとんど緊張していない、豪胆さもそう。

 でも、何より恐ろしいのは……その笑顔だ。

 

 彼女の口元は、確かに少しだけ吊り上がってる。

 けれど、目が笑っていない。

 

 馴れ合いなんてナシ、全力でお前を潰すと。

 踏み潰して、グチャグチャにして、お前より速くゴールすると。

 青白い目はそういう、野性的な獰猛さを秘めていた。

 

 今の彼女は、獣に等しい。

 それも血の味に飢えた、それでいて理性的な獣。

 獣は久々の戦場に燃え滾り、誰よりも勝利を渇望し、良き好敵手に恵まれた幸運に喜んでいた。

 

 正直、その雰囲気に呑まれないように耐えるのが関の山だ。

 

 今の彼女には、付け込む隙がない。

 完成してしまっていて、どこから崩せばいいかわからない。

 

 

 

 ……それでも。

 アタシは、その瞳を睨み返す。

 

 

 

 アタシにはまだ、自信がない。

 この場で彼女に勝てると、本心から言えるだけの成功体験がない。

 

 けれど……彼女と走ることもできないような、弱いウマ娘でもない。

 

 この時のために、ずっと備えて来たんだ。

 ずっとずっと、トレーナーさんと二人三脚で走って来たんだ。

 このレースで、全力の彼女を超えるために。

 ……今度こそ、1番になるために!

 

 だからアタシは……。

 

 1人の、ホシノウィルムのライバルウマ娘として、精一杯の虚勢を張った。

 

「『楽しみにしてる』、か。言ってくれるじゃん?

 ここまで5か月療養してたとは思えないね」

「ふふ……まぁ、私にも色々あるのです。

 それに、忘れたんですか、ネイチャ。私はホシノウィルムですよ?」

 

 アタシのそれを虚勢と見抜いたのかは、わからないけど……。

 彼女は口元を押さえて、おかしそうに笑った。

 

 こういう表情も、昔は表に出てこなかったよね。

 本当に、彼女は柔らかくなった。

 そして同時に、何を言われても揺るがなくなった。

 それは、友達としてはこの上なく嬉しいことで、ライバルとしてはこの上なく恐ろしいことだ。

 

 ……しかし「私はホシノウィルムですよ」、か。

 前にも増してキラキラしちゃって、まぁ。

 

 彼女は自分と、自分を鍛え上げた堀野トレーナーさんを、欠片も疑っていない。

 勝つのは自分たちをおいて他にいないと、心の底から信じている。

 

 けど……恐ろしいことに、慢心の気配はない。

 自分に自信を持つことと、相手を侮ることは紙一重だ。

 でも、紙一重だけでも、違う。

 

 妄信気味なまでの自信を抱きながら、彼女は現実を見ている。

 アタシを恐れている。脅威と認識している。

 その上で、全力を尽くして叩き潰すつもりだ。

 

 ……いいね、ウィル。

 そうじゃないと、アンタを超えたって胸を張って言えない。

 

 

 

 さあ、始めよう、アタシたちの……。

 いや、星の世代の、最後の決戦を。 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ゲートイン開始の合図を聞いて、アタシはウィルと別れ、自分のゲートに入る。

 アタシは3枠5番、ウィルは……1枠1番。

 

 心は……落ち着いてる。

 そして同時、奮い立っている。

 

 アタシのライバルは、最高の状態で来てくれた。

 

 ……後は、アタシがその背中を、追い抜くだけだ。

 

 

 

『ゲートイン完了。出走準備整いました』

 

 

 

 さぁ、状況は整った。

 考えろ、アタシ。

 ホシノウィルムを超えるには、どうすればいい?

 

 

 

『……スタート!』

 

 

 







 「○○が出ていればなんて言わせない」なんて言わせない菊花賞、開幕。



 ちなみに今の通算成績は以下の通り。
 ウィルム:7戦7勝(G1に4勝、重賞5勝)
 テイオー:6戦4勝(重賞未勝利)
 ネイチャ:9戦7勝(重賞2勝)

 G1ウマ娘もホシノウィルムに問答無用で大差を付けられるので、等級格付けは「公式非公式問わずホシノウィルムにどこまで迫ったか」で測られるらしい。
 なんだそのめちゃくちゃな定規。



 次回は3、4日後。ネイチャ視点で、菊花賞後半と、星の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでないは訂正させていただきました。ありがとうございました!


(本編に関係のない呟き)
 やっぱり大逃げってロマンがすごい。
 パンサラッサに釘付けでした。


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おまけ We are all of us stars, and we deserve to twinkle.

 一等星の輝きに目を焼かれた彼女の行き着く先は?





 

 

 

 ガタン、という音と共に、アタシたちは駆け出した。

 

 菊花賞、3000メートル。

 3分を超える長丁場のレースだ、落ち着いて行かないと。

 

 ……今回は、負けられないレースなんだから。

 

 

 

『さぁ各ウマ娘一斉にスタートを切りました。坂を駆け上がりハナを切ったのはやはり一等星ホシノウィルム、快調に飛ばして差を付けていきます。

 彼女を追うのはアゲインストゲイル、バイプロダクション、ホリデーハイクたち逃げウマ娘。破滅的なまでの大逃げに付いて行くことができるか?』

『注目の三等星ナイスネイチャ、今日は前めに付いていますね。日本ダービー3着リオナタールはその前、現在6番手。3番人気ハートブロウアップはいつも通り後方から睨みを利かせているぞ』

 

 

 

 よし、位置取りは悪くないし……1人行ってくれたか。

 先行集団後方のリオナタールの後ろに付き、先頭の様子を伺う。

 

 先頭をひた走るのは当然、ホシノウィルム。

 彼女のスタートは、おおよそ他に類を見ないくらいの抜群のものだ。

 いくら策を弄したところで、それは止められるとは思えなかった。

 

 ……だから、無理して追ってもらう。

 

 先んじて吹き込んでおいたことで、逃げウマ娘の内の1人、アゲインストゲイルがウィルとの差を詰めに出てくれた。

 明らかにこのレースの距離や特徴を無視したハイペース。

 でも彼女からすれば、それが妥当な策なんだよ。

 ……「ホシノウィルムを潰さない限り、逃げウマ娘に勝機はない」。

 だから、まずは彼女と競り合って、スタミナを擦り減らさないとね。

 

 勿論、アゲインストゲイルだってこのレースには勝ちたいんだと思う。

 でも……アタシたちの世代のウマ娘は、全員が知ってるんだ。

 自分なりに速くゴールする、の前に……。

 ホシノウィルムより前に出ないと、1着は取れないって。

 

 その焦りが、アタシに吹き込まれたことを信じ込ませた。

 「最初にウィルと先頭争いしてスタミナをすり減らして、すぐに下がってスタミナを温存、終盤に競り勝てばいいんだ」なんて……。

 普通の逃げウマ娘が、そんな器用なことをできるはずがないのに。

 

 ……トレーナーさんから聞いた話、こういうのを「ラビット」と呼ぶらしい。

 そのウマ娘の勝ちを度外視して、レースのペースを作ったり、逃げウマ娘と競り合わせたりする……。

 チームとしてのレースの多い海外では、そういうウマ娘を、犬に追わせるウサギに例えるんだとか。

 なんとも悪趣味な呼び方だとは思うけど、それはともかく。

 

 彼女には悪いことをしたなって思う。

 レースに勝つためとはいえ、駒として良いように使っちゃったんだ。

 今度会ったら謝っとかないとな。

 ……それを言ったら、アタシが謝らなきゃいけないウマ娘は、あまりにもたくさんいるんだけど。

 

 

 

 さて、アゲインストゲイルに対するウィルの反応は……。

 ……一切、動じてない、か。

 すぐ後方にまで迫られても、まるで彼女のことを見えていないように無視している。

 

 まぁ、そりゃそうか。

 ウサギに気を取られる龍なんていないよね。

 

 ウィルはほぼ確実に、アゲインストゲイルの存在に気付いてるはず。

 彼女の高い察知能力は、多分聴覚によるものだ。

 宝塚記念の時のセイウンスカイ先輩みたいな器用なことでもしない限り、ウィルに気付かれないことは不可能。

 

 つまり今のウィルは、アゲインストゲイルの存在に気付いた上で、「気にする程じゃない」と判断している。

 ここでどのように差を詰められ、ポジションを取られ、あるいは追い抜かれようと、自分の走りとレースの結果には関係がない、と。

 

 極めて冷静で冷徹な判断だ。

 必要でないものを斟酌することはなく、視界にすら入れない。

 

 それが意味するのは……。

 ……もう、ウィルを後方からの圧力で暴走させることができないってこと。

 

「……1つ目、失敗」

 

 予想通りと言えば予想通りなんだけど、やっぱり効かないか。

 ここで策にかかってくれれば、相当楽になったんだけど……。

 残念ながら、もう彼女には通じない。

 

 でも、焦るな。

 策はまだあるし、アタシ自身だってこの上なく仕上げて来たんだ。

 舞台は菊花賞、淀の坂が立ち塞がる3000メートル。

 いくら桁違いの持久力を持つウィルとはいえ、スタミナを管理せずに勝てる戦いじゃない。

 

 ……はず、なのに。

 

 

 

『さぁ第1コーナー入って坂を下る! 先頭ホシノウィルム素晴らしいコーナリングで減速なく、かなりのハイペースで後方との差をぐんぐん広げていきます』

『宝塚記念では大逃げを放棄したホシノウィルムですが、今日は大きく大きく差を広げる従来の走り。普通なら体力が持つのかを心配するところですが、もはや誰も彼女の型破りを疑うことはできません!』

 

 

 

 減速、しない。

 急な下り坂を、体を傾けることで遠心力を殺しながら駆け降りていく。

 

 ……何を考えてるの、ウィル。

 菊花賞はこれまでにない長距離レース、叩きもなしに久々に出走して、そのペースで走り切る気なの?

 ウィルに限って、掛かってるわけじゃない。

 でも、このペースで行って、最後にスパートをかけたら……流石のウィルでも持たない。

 最後の100メートルくらいは減速を避けられないはず。

 

 これは、どういう……。

 

 

 

 いや……そっか、わかった。

 

 菊花賞で逃げウマ娘が勝ったケースは、過去を遡っても4件しかない。

 その内3件は、大昔の記録だから置いておくとして。

 3年前の、菊花賞逃げ切り勝ち。その策を、彼女は再び用いているのかもしれない。

 

 数十年ぶりの菊花賞勝利を収めた逃げウマ娘。

 セイウンスカイ先輩。

 

 その策は、序盤で一気に突き放し、中盤でゆっくりと減速して、他のウマ娘が「ぺースが落ちてる」って気付かない内に足を溜め、最後までスタミナを維持して逃げ切る、ってもの。

 セイウンスカイ先輩の「トリックスター」ってあだ名の元になった、半ば伝説的な勝利だ。

 

 菊花賞における、逃げウマ娘としての黄金の勝利法。

 これ以上ないくらいの完璧な策略勝ち。

 故に、それをウィルが使おうとするのは、ある意味妥当というか、当然の結論なのかもしれない。

 

 ……でも、だからこそ、違和感が拭い切れない。

 

 セイウンスカイ先輩の逃げ切り勝ちは理想的なものだった。

 だからこそ出走ウマ娘たちが、その策を警戒しないわけがない。

 誰も彼も、それを研究し尽くして来たはずだ。

 

 トリックっていうのは種も仕掛けもあるからトリックと呼ぶんだ。

 その正体が分かれば、それはただの子供騙しに落ちて……。

 何の意味もなく、ただスタミナを浪費して敗北に直結する愚策になる。

 

 そんなバレバレの破りやすい策を、あのウィルが使ってくる……?

 

 ウィルは、ウィルの陣営は、何を考えて……?

 

 

 

 ……いや、落ち着け、揺らぐな。

 どっちにしろ、アタシにとっては悪くない展開だ。

 

 ホシノウィルムの策が透けて見えたからか、他のウマ娘たちも少しだけペースを上げる。

 中盤で息を入れられるわけにはいかない。そうしたら本当に勝つ方法がなくなってしまう。

 だから全体のペースを上げて、彼女を休ませないつもりなんだろう。

 

 でも、この程度のペースじゃダメだ。

 

 意識する。

 気付かれないように、でも意識せざるを得ない程度に。

 足を地面に叩きつけ、いつもより大きく音を立てる。

 バ群よりもほんの少しだけ、ペースを上げて。

 凡才なりに身に着けた、威圧感モドキをまき散らす。

 

 すると、自然とバ群のペースが上がっていく。

 

 ……ずっと練習してきた、ペースコントロール。

 良かった、G1レースでも通用してくれた。

 

 ウィルが気付かれない内にペースを落とすんなら、アタシは気付かれない内にペースを上げる。

 そうして、ウィルの休む暇をなくしながら……何より、彼女との距離を詰めるんだ。

 

 

 

『今先頭が1000メートルを通過、そのタイムは……59秒8! あのセイウンスカイの59秒6に近い、かなりのハイペースです! 中盤に息を入れる作戦か?』

『しかし、逃げウマ娘たちが追いすがっていますし、先行集団もしっかりとペースに付いて行っている。息を入れる隙はあるのでしょうか?』

 

 

 

 ホシノウィルムは、普通の逃げウマ娘じゃない。

 サイレンススズカ先輩のそれに近い、でも破天荒さはそれ以上の、大逃げして追い込むとでも言うべき作戦を取るウマ娘だ。

 ただ、彼女は今まで、その作戦で垂れたことがない。

 むしろ後半、一気に加速して来かねない。

 ……そんな彼女を追い抜くには、どれだけ苦しくても、この殺人的なハイペースに付いて行くしかないんだ。

 

 バ群のペースを着々と速めながら、アタシはリオナタールの後ろに付いて風を避け、スタミナを温存する。

 多分、真っ当に走ってる子は……このペースじゃ、後半垂れていくだろう。

 申し訳ないけど、アタシが勝つために、皆には犠牲になってもらう。

 おててを繋いで仲良く勝てる程、ホシノウィルムは甘くない。

 ……アタシは、アタシに利用できる全てを使って、あの星を超えなきゃいけないんだから。

 絶対に、何をしてでも、このレースに……!

 

「…………」

 

 落ち着け、ナイスネイチャ。

 

 過度に燃えちゃダメだ。

 

 菊花賞は長いレースだ。泰然自若に進めないと、無駄にスタミナを消耗してしまう。

 スリップストリームを利用し、落ち着いて、そして可能な限り内ラチ沿いにインコースを通ること。

 この3つを守って進まないと、勝ちに繋がった細い糸がプッツリと切れてしまう。

 

 

 

『さぁ直線越えて第2コーナー、ここからレースも中盤に入ります。

 バ群は大きく前後に開いて20バ身程度といったところ。悠々走るホシノウィルムに引きずられ、全体的に速いペースとなっています』

『今ようやく1500メートル前後、レースの半分が終わったことになります。各ウマ娘スタミナは足りるのか、そして後方の子は間に合うのか?』

 

 

 

 ……まだ半分だってのに、そこそこ消耗を感じる。

 脚は動きにくくなり、息は少しずつ乱れだした。

 

 3000メートル、淀の坂、G1レースの緊張感、更にはこのハイペース。

 全てがいつもの公式レースと違う。

 誰もが体力を削られる、地獄みたいな状況。

 

 ……でも、アタシは1年間、このレースのためにトレーニングを積んできたんだ。

 他のウマ娘たちよりは、ずっと楽に走れるはず。

 

 「他のウマ娘」の唯一の例外であるウィルは……後方のアタシたちなんて気にもせず、いつも通り大差を付けてリードを保ってる。

 10と……何バ身だ。12くらい?

 

 焦るなよ、アタシ。まだ行くべき時じゃない。

 今はただ、静かにバ群のペースを上げながら、ひたすらウィルに焦点を合わせる。

 

 

 

 そうして、コーナーが終わる。

 残り、おおよそ1400メートル。

 

 ……勝負は、ここからだ。

 

 突然、前にいたリオナタールが、ぐんとペースを上げた。

 アタシもその後ろに張り付き、併せて脚の回転を速める。

 

 

『向こう正面、リオナタール、続いてナイスネイチャがバ群を抜けてぐいぐいと前との距離を詰めていきます! 早めの仕掛けだが大丈夫か!?』

『淀の坂を警戒して距離を詰めに行ったか、しかし先頭までの距離は長い! スイートキャビン、パンパグランデもペースを上げる!』

 

 

 

 ……リオナタールには、このタイミングで仕掛けないとどうしようもないって吹き込んだ。

 

 勿論、まだレースは1400メートル残ってる。

 ここからスパートなんてしても、スタミナが持たないことは誰にでもわかるだろう。

 

 でも……もしこの直線で走らなかったら、いつ走るの?

 この直線の途中から淀の坂がある。

 その坂にいる間、普通のウマ娘はスパートできない。

 ……で、坂が終わるのは、最終コーナー手前、残り600メートル程度。

 大きく開いた差を埋めきるには、あまりに短い距離だ。

 

 あの常識外れのホシノウィルムが、坂だからって減速すると思う?

 更にリードを広げられて、600メートルでホシノウィルムを差し切れるの?

 垂れる? 本当に? ホシノウィルムが?

 ……本当に、第2コーナー後から加速しなくていいのかな?

 

 そう言えば、リオナタールは覚悟を決めた。

 アタシに利用されてでも、ホシノウィルムを超える覚悟を。

 

 勘違いしないでほしいんだけど、アタシは嘘は言ってない。

 実際、リオナタールにとってこれ以上の仕掛け時はないと思う。

 ここで差し切り圏内まで詰めて、後は最終コーナーまで彼女との距離を保つ……。

 これが、彼女にとっての最適解だ。

 

 ……問題は、たとえ最適解を取っても越えられない壁もある、ってことだろうけど。

 

 ごめんね、リオナタール。

 アンタには今回も、アタシの風除けの盾になってもらう。

 

 

 

 菊花賞は、最終コーナーから仕掛けるのが鉄板。

 ……けどウィルに、アタシの星に、そんなトロいやり方で追いつけるとは思えない。

 じゃあ、どうやって追いつくか?

 

 モノが違うウィルには、普通に走るだけじゃ追い付けない。

 彼女に追いつくためには……彼女が持たない強みを使うしかない。

 

 ……でも、アタシの策謀のほとんどは、彼女に効かないだろう。

 

 大逃げウマ娘だからバ群に巻き込むこともできない。

 レース中の彼女は冷静で、掛かることもない。

 焦らせたりためらわせようとしても、成功するかは微妙なところ。

 

 総じて、彼女に対して干渉するような策は、有効打にはならない。

 

 じゃあどうするか、と言うと……。

 それ以外の要素を使うしかない。

 

 バ群のペースを速めて、彼女が休憩するような暇をなくし。

 インコースを取るリオナタールを盾にして、少しでもスタミナの消耗を避けて。

 そして坂を登り始める前に、ウィルとの距離をある程度にまで詰めて……。

 

 ……そして、彼女が使わないであろう策を、使うこと。

 

 仕方ない。

 ちょっと危険だし、あんまりやりたくはなかったけど……。

 これしか、勝つ手段はないんだから。

 

 

 

『速い速いリオナタール、ホシノウィルムの後方5バ身まで一気に詰めまして坂を登る!

 ナイスネイチャもこれに続く、最終直線で差し切るつもりか!』

『まだレースは800メートル以上残っています、掛かってしまったのかもしれません。とはいえもう息を入れる場所もない、ここからスタミナは持つのでしょうか?!』

 

 

 

 ……そう、こんなの傍から見れば掛かったような動きだ。

 坂を登る前に体力を使いすぎれば、そこで一気にペースを落とされる。

 だからこそ、位置を押し上げるならまだしも、いっきに差を埋めるようなスパートをすべきじゃなかった。

 

 けれど、それしか勝ち目がないのなら……。

 アタシは、どんな手でも取ってやる。

 

 

 

「くっ……!」

 

 しかし、ホント急な坂だ。

 踏み出すたびに、地面を蹴り上げるたびに、スタミナを持っていかれるのを感じる。

 大丈夫……スパートする分には、ギリギリ足りるはず。

 

 でも、本当にギリギリだ。

 だからこの登り坂で、これ以上ペースを上げるわけにはいかない。

 今は、ウィルに詰め寄るんじゃなく……とにかくこの距離を保つ意識で。

 

 

 アタシたちの間に開いた距離は、おおよそ5バ身。

 簡単には詰められない距離だ。

 それも……相手はホシノウィルム。

 減速してくれれば楽だけど、それを望めるほど甘い相手でもない。

 

 ……だから、無茶をする必要があり。

 アタシはその無茶を通すために、ここまで練習してきた。

 

 

 

 ようやく、淀の坂の終わりが見える。

 

 

 

『今先頭ホシノウィルムが坂を登り終え下りに入ります。

 この坂が終わってから勝負が……いや!!』

 

 

 

 ここだ。

 登り坂が終わる、この瞬間しかない。

 

 今の位置関係と、敗北の直感が、アタシの魂を震わせる。

 

 

 

 ターフを映す視界に被って、その景色が見えた。

 どうしようもない暗闇。どうしようもない世界。

 アタシの……閉じ切った限界が、そこにある。

 

 それを、ただ一筋の光が切り裂く。

 見上げた先にあるのは、灰色の一等星。

 アタシの足元から一筋の光が伸びていく。

 

 ……そうだ、あの星。

 あの星が、アタシを導いてくれる。

 あの星を追い抜いた瞬間、アタシは本当に欲しいものを手に入れるんだ。

 

 だから、今日。

 ここで!

 

 あの星を、超える!!

 

 

 

『ナイスネイチャだ、ナイスネイチャ仕掛けた! 菊花賞のタブーを犯して前との距離を詰めに出た!!

 しかし逸れない、抜群のコーナリングでぴったりとインコースを突いてます!!』

『少し体勢を崩せば倒れてしまいかねないギリギリの角度です! このまま下り坂で一等星を捉えるつもりなのか!?』

 

 

 

 一瞬で、リオナタールの背中を越えて。

 

 最短の道を、最速で駆ける。

 アタシには、その道筋が見えていた。

 下り坂の中で一気に迫って、最終コーナーで差し切って、後は……残ったスタミナで逃げ切る。

 

 それしか、アタシに勝つ道は残されていない。

 

 アタシはホシノウィルムに、スペックで勝てない。

 昔からずっと死に物狂いで頑張ってきた彼女に、半端なアタシが勝てるわけがない。

 だから……スペックではなく、一芸で勝つ。

 

 ずっと、練習してきたんだ。

 この瞬間、下り坂のコーナリングを。

 

 平坦な芝の上では、ホシノウィルムに勝てない。

 一時的に競り勝ったとしても、5バ身という距離を縮め切るには足りない。

 

 だから、この京都レース場の地形を味方に付け、彼女を追い抜くために。

 ずっとずっと、この第3コーナーを曲がる練習を続けて来た!

 

 

 

 彼女の背中が、迫って来る。

 その灰色の煌めきが、手が届きそうな場所にまで。

 

 

 

 行ける。

 脚は、まだ残ってる。

 ここで差し切って、そこから最終直線で……全部使い切って、走り切る。

 

 勝つ。

 勝つんだ!

 

 

 

 

 

 

 ……アタシは、その時、ただ己の内から込み上げる熱で一杯で。

 ほんの一瞬、そのことを忘れていた。

 ホシノウィルムは……同じところに留まるようなウマ娘じゃないってこと。

 

 

 

 

 

 

「……来てくれると、信じていました、ネイチャ」

 

 

 

 直前に迫った背中から、言葉が降り注ぐ。

 

 アタシの存在が気取られてることに、違和感はない。

 どちらにしろ、アタシのスペックじゃ、足音を誤魔化してこの速度を出すなんてことはできないし。

 

 違和感があるのは……来てくれるのを信じていた、って言葉。

 その言葉は、アタシの行動が、アタシの策が、全て想定内だったってことで。

 それは、即ち……。

 

 彼女の陣営に、策で負けたことを、意味していた。

 

 

 

 瞬間。

 

 アタシの世界が削り取られた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 見慣れた世界だった。

 

 真っ暗で、どうしようもない世界。

 手がかりも足がかりもない、いやに寒くて閉じ切った虚無。

 

 でも、そこに今、満天の星が灯る。

 彼方に輝いた一等星を皮切りに、何もなかった世界が、星の宙に塗り替わって。

 

 ……そして、彼女は星に、手を伸ばす。

 

「私はもう、迷わない」

 

 氷のような呪縛も、寒気のようなためらいも、全て溶かし尽くして……

 満天の星々の中を、彼女は飛ぶように駆け出す。

 

 もはやその歩みは……誰にも、止めることはできない。

 

 

 

「全ての夢を背負って……勝ちます!!」

 

 

 

 * * *

 

 

 

「これが……っ!」

 

 領域。

 ホシノウィルムの、世界。

 

 彼女も……もう習得してたんだ!

 

 ぐん、とウィルの背中が遠ざかる。

 領域を開いた者は皆、その全力以上の走りを見せる。

 ただでさえ常識の埒外にあった彼女の走りが、更に……生まれ変わる。

 

 マズい。

 このままじゃ……勝てない!

 

「アタシだって……アタシ、だって!!」

 

 渾身の力を込めて、地面を蹴る。

 

 

 

 ホシノウィルムのスペックに、アタシは勝てない。

 そんなことはわかってる。

 

 これ以上ペースを上げて走る余裕はない。

 そんなことは、わかってる!

 

 策で負けた上、領域まで使われたら、アタシは……勝てない。

 そんなことは……。

 

 いいや、わかんないし、認めない!!

 

 

 

『ホシノウィルムとナイスネイチャ、ここで更に加速! 3番手リオナタールも追いすがるが届かないか!

 やはり一等星と三等星、この2人はモノが違うのか!!』

『残り500メートル前後、そろそろ最終直線だ! 他のウマ娘も位置を上げるが、この2人のペースには付いて行けないか! やはり前半の殺人的ハイペースが響いてしまったか!?』

 

 

 

 走れ!

 

 走れ、走れ、走れ!!

 

 ここしかない!

 あの子を超えるには、星を超えるには、ここしかないんだ!!

 

 負けられない、負けるわけにはいかない、絶対に、絶対に!!

 

 

 

 だって、あの星を超えるのが、アタシの……!

 

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 

「駄目ですよ、ネイチャ」

 

 

 

 声が、かかる。

 

 ……これは……ウィルの声?

 でも……レース中、それもスパート中に、ここまでキレイに声を聞き取ることができるはずがない。

 何より彼女の声には、疲れなんてものを感じなかった。

 

 ……じゃあ、この声は、何?

 

「それじゃ駄目なんです、ネイチャ」

 

 また、声がかかる。

 どこかぼんやりとした……耳じゃなく、直接頭に響くような。

 

 ……耳じゃない?

 これ、もしかして、現実じゃない?

 

 そうだ、現実の……ターフの上での出来事じゃない。

 それと被ってる、領域の方から……聞こえてくる。

 領域……それも、アタシのそれと削り合ってるウィルの領域から、声が聞こえるんだ。

 

 これ……何?

 

「……まあ、その辺りは置いておきましょう。私も急に繋がって驚いているところですし。

 とにかく、それじゃ駄目です、ネイチャ」

 

 駄目って?

 何が駄目なの?

 アタシはアンタに勝ちたい。ここで、この菊花賞で、絶対に勝ちたい。

 それが何かおかしいことなの?

 

「おかしくはないですが、駄目です。

 私は知っています。負けたくないと思うだけじゃ、駄目なんです」

 

 でも、アタシは……。

 アンタに、勝ちたいよ。

 アタシだって、星を見上げるだけじゃなくて、星を掴みたい。

 

「ああいや、違います。別にそこを否定してるんじゃなくて。

 ……私だけを見てちゃ、駄目なんです。

 あなたを見ている皆に、気付いてあげてください」

 

 アタシを見ている、皆?

 

「あなたが目指すべきは、本当は私なんかじゃありません。

 こんな灰色のくすんだ星なんかじゃないんです。

 思い出してください……どうして走り出したのか」

 

 何を……言ってるの?

 ウィル……アタシのこと、何か知ってるの?

 

「いえ、ネイチャのことは、まだよく知りません。

 けれど……私もウマ娘ですから、同じウマ娘のことは、ちょっと知ってます」

 

 ウマ娘のこと?

 それがどうしたって……。

 

「ネイチャは、なんで走ろうと思ったんですか?

 なんで中央に、トゥインクルシリーズに来たんですか?」

 

 走ろうと?

 それは……。

 

 

 

 ……地元の皆の期待に、応えたかったから。

 

 

 

 こんなアタシにも、期待してくれた人たちがいた。

 『ネイチャなら中央でもやれるよ! 頑張れ!』って背中を押してくれた人たちが、いた。

 

 皆の期待に、応えたかったんだ。

 皆が信じてくれたアタシが勝つところを、見せたかったんだ。

 

 そうだ……今更、思い出した。

 それがナイスネイチャの抱いた、最初の理由。

 

 

 

 アタシはただ、1番になって……。

 皆の夢を、叶えたかったんだ。

 

 

 

「私たちはね、きっと、そういうモノなんです。

 誰かに夢を託され、それを背に負って走るモノ。

 その夢に背を押されて、その夢を力にするモノ。

 道に迷うこともあるけれど、本質はきっと同じ。

 私も、あなたも、このレースに参加するウマ娘も、全員……夢を背負って走ってる。

 だから、ほら……聞いてください。

 あなたに夢を託した人たちの声を」

 

 声、って……。

 このレースは、でも、ウィルに期待する人たちばかりで……。

 

「そんなわけがありません。

 ね、ほら……よく聞いて」

 

 言われて、耳を……澄ます。

 

 ここにいる……誰かの声を、聞き取る。

 

 

 

『行けーネイチャー!! ウィルムも行けー!! 逃げろー!!』

 それは、一緒に走った模擬レース以来仲良くなった、青髪の友人の声だった。

 バ鹿正直で、でも実は多才で、誰より楽しそうに走るウマ娘。

 アタシを応援してるというよりは……知ってるウマ娘全員を応援してるみたいだけど。

 ……でもそんな純粋な想いに、少しだけ背中を押された気がした。

 

『ネイチャせんぱーい!! 頑張れ、勝てー!!』

 それは、半年くらい前に知り合った、ジュニア級の後輩の声だった。

 陽気で明るく、でも誰よりストイックで、一緒にいるだけで元気になれるウマ娘。

 彼女は複雑な言葉なんて使わず、ただアタシの勝利を願ってくれた。

 ……芯の強い彼女の想いに、少しだけ背中を押された気がした。

 

『ネイチャ、諦めないで!! あなたなら行けるはずです!!』

 それは、ふとしたことで知り合った、シニア級の先輩の声だった。

 いつも無表情で真面目かと思いきや、ノリが良くて優しいウマ娘。

 データと管理を重視する彼女は、けれど今、ただアタシを信じてくれた。

 ……その無上の信頼感に、少しだけ背中を押された気がした。

 

『いけぇぇえええ!! 走れぇぇぇえええええ!!』

 それはアタシの憧れた、キラキラした主人公みたいなウマ娘の声だった。

 ちょっと子供っぽくて、天才で、けれどアタシと同じウマ娘。

 今は走れない彼女は、誰ともなく、全てのウマ娘に想いを託して。

 ……その熱すぎるエールに、少しだけ背中を押された気がした。

 

 

 

 いた。

 

 アタシを信じてくれるウマ娘が、確かにそこにいた。

 

「彼女たちだけじゃありません。

 あなたは知っているでしょう、ネイチャ。

 誰よりあなたの背中を押してくれる人を」

 

 それは……。

 

 

 

『ネイチャァァァアアアア!!』

 

 ……それは。

 ずっとずっと、アタシを信じてくれた人の、声だった。

 アタシなんかを信じて、一目惚れだなんて言って、担当してくれた人の声だった。

 

『行けぇぇぇぇええええ!!!』

 

 その声に……強く、背中を押された気がした。

 

 

 

 アタシを信じてくれる皆が、そこにいて。

 きっとどこかで、もっとたくさんの人が信じてくれて。

 

 だから、アタシは……。

 

 

 

 ……そっか、ようやくわかった。

 ウィルが伝えたかったのは、これだ。

 

 アタシが目指すべきは、灰色の背中じゃない。

 

 アタシは……ウィルを超えたかったんじゃない。

 

 皆の期待に応えられる、素晴らしい素質のウマ娘(ナイスネイチャ)になりたかったんだ!

 

 

 

 キラリ、と。

 彼方の星が、金色の光を宿す。

 

 

 

 ようやく見つけた。

 

 あれが、アタシの目指すべき本当の場所。

 思わず目を細めてしまうくらい眩しい、アタシなりの一等星。

 

 

 

「……これが、ネイチャの……本当の……」

 

 ウィル。

 

 良かったの? アタシに、こんなこと教えちゃって。

 ……アタシ、本当に勝っちゃうよ?

 

「っ。……ふふ、構いません。

 私も、人から教えてもらったのです。この熱も、この星の輝きも。

 人から貰った善意は、誰かに返さなければ」

 

 いや、そういう偽善的な理由じゃないでしょ。

 アタシたち、ウマ娘だよ?

 自分の目的のために、誰かの夢をぶっ壊す競走ウマ娘だよ?

 誰かのため、なんて理由なわけないじゃん。

 

「あらら、バレましたか。……ええ、私にもネイチャに強くなってもらう理由はあります」

 

 理由?

 ライバルを強くする理由って……?

 

「簡単ですよ。

 私、熱くて楽しいレースがしたいのです。

 もっとネイチャに強くなってもらって、私に迫って来てほしいのです。

 ……そういう相手に勝った方が、楽しいでしょう?」

 

 そりゃあ……はは、なんてふざけた理由。

 余裕綽々ってわけ?

 

「……? いえ、余裕綽々じゃなくなるために、強くなってもらうのですが」

 

 あー、うん、そっか。

 アンタそういう子だったね。

 

 わかった。わかりましたよ。

 

 ……楽しむ余裕もないくらいにぶっちぎってやるっての!!

 

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 

『さぁ残すは400メートル最終直線! 3番手リオナタールに5バ身くらい差を付けて一等星と三等星のマッチレースだ!!』

『ホシノウィルムとナイスネイチャの差は1バ身あるかないか、どちらが差し切り大輪の花を咲かせるのか!?』

 

 

 

 不思議な会話を終えて、アタシの意識はターフに戻る。

 

 ……大丈夫、目指すべき星は見えてる。

 後はそこに向かって、走るだけだ。

 

「アタシが、勝つ!!」

 

 負けられない。いや、負けたくない!

 アタシに夢を託してくれた、たくさんの人たちのためにも!

 アタシを支えてくれた、あの人のためにも!!

 

 ここで、勝ちたい!!!

 

 

 

『ナイスネイチャ一気呵成に前に出た! ホシノウィルムも負けじと前傾姿勢で差し返す!

 あのホシノウィルムに、あの一等星に今、ナイスネイチャが並んでいます!!

 これが星の世代! これが並び立つ最強だ!!』

『一等星の輝きが消えない残光を歴史に残すのか!!

 三等星がその素晴らしい素質を証明し最強を覆すのか!!

 今年の菊花賞ウマ娘はどちらだ!?』

 

 

 

 勝つのは、アタシだ……!

 

 絶対、託された夢を、叶えるんだ!!

 

 

 

 アタシとウィルの領域が、互いを削り合う。

 似ているとはいえ、アタシたちの領域は別のもの。

 削り合った衝撃で、ウィルの世界の欠片が、彼女の想いを伝えてくる。

 

『最高、です……ナイスネイチャ!!

 それでこそ、私の、最高のライバル……!!

 

 それでも、勝つのは、私だ!!』

 

 ……ああ。

 そうだ、アタシたちは等しくウマ娘。

 誰だって勝ちたい。ゴールに一番早く駆け込みたいんだ。

 

 だから、アタシたちは互いに全力を出し、エゴ丸出しでレースを走って、泥臭く覇を競い……。

 

 

 

 

 

 

 そうして……。

 

 

 

 

 

 

『今2人がゴォオオルイン!!

 最後の最後で加速して差し切ったのは、ホシノウィルム!! 1バ身の差を付けて菊花賞を制しました!!

 赤の次に咲き誇ったのは灰の大輪!! 2人目の無敗のクラシック三冠ウマ娘が誕生すると同時、初の三冠逃げウマ娘が歴史にその名を刻んだ!!』

『もはや問答は無用!! 彼女こそが世代の一等星!!

 菊の舞台で最強を証明したのは、ホシノウィルムだ!!!』

 

 

 

 ……その日に勝ったのは、彼女の方だった。

 

 

 

 

 

 

「くっ……はぁ、げほっ……くそっ!」

 

 嘘、でしょ……あそこで更に加速する……?!

 想定の上では、序盤から中盤までペースを上げて走っていたウィルは、最後に垂れるはずだった。

 それなのに、むしろ速くなるなんて……!

 

 どこだ。どこで想定が狂った?

 あそこか? 領域が開いた時、何となく彼女の走り方が変わったような気がした、あの瞬間? 

 ただの気のせいだと思ってたけど……やっぱり何かしら、彼女は走り方を変えたのか……?!

 

 互角に競り合えてた。

 スタミナだって、互いにもう限界だって思ってたのに。

 ……ほんの一瞬、最後の最後で、かわされた。

 

 今までで一番……惜しかったんだ。

 あと1歩だった。あと1歩だったのに!

 何かあと1つ策が刺されば……あるいはやっぱりあの時、読み合いに勝てたら!

 

「く、やしい……悔しい、悔しい!

 アタシ、もうちょっとで、勝てたのに……!!」

 

 あと、1バ身。

 距離にして、2メートル強。

 

 ……それが、今のアタシと理想のアタシとの、短いようで長い距離だった。

 

 

 

 喝采の中にいるホシノウィルムに、視線を向ける。

 

 灰の光を背に負い、汗を輝かせるウィルは……。

 ぐっと右手を突き上げ、己の勝利を誇る。

 

 どっ、と。

 すごい歓声が、京都レース場を埋め尽くした。

 

 ……ホント、キラキラしてんな。

 

 アタシが憧れた、灰色の星。

 アタシが得た、最強の友達。

 アタシに大事なことを思い出させてくれた……無敗の三冠ウマ娘。

 

 どう足掻いたって、アタシは彼女にはなれない。

 最初から基礎が違うし、脚質も違うし、三冠も取れないし。

 

 

 

 ……それでも。

 

 

 

「アタシは、アタシなりに、いつか……」

 

 ここを目指してきたけど、ここが終わりってわけじゃない。

 幸運なことに、アタシには何度でもチャンスがあって、何度でも走れるんだ。

 だから……いつか、必ず。

 

 皆の夢を背負って勝つ、ナイスネイチャになってみせる。

 

 

 







 ナイスネイチャ
 『きっとその先へ…! Lv2』
 レース終盤で3番手の時に負けそうになると闘志に火が付き速度が上がる。

 ホシノウィルム
 『天星の蛇龍 Lv1』
 レース終盤に他のウマ娘と競り合うか負けかけると、星々の輝きを受けて燃え上がり勝利を誓う。



 「転生チートトレーナーvs転生チートウマ娘」
 第一部「ホシノウィルム」 完

 ここまでご愛読いただき、ありがとうございました。
 第二部もよろしくお願いします!



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、新しい関係性の話。
 時間を少し巻き戻し、宝塚記念が終わったすぐ後あたりのお話です。



(ご報告)
 第一部完結ということで、ホシノウィルムの転生特典と領域について、活動報告の小ネタ・設定その2に記載しております。
 見なくても本編には支障のないものですが、彼女の転生特典などについて興味のある方はどうぞ。

(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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おまけ プロフィール

 !注意!
 第一部(1~35話)読了後に見ることをおススメします!



 おまけの更におまけ。
 第一部終了時点の、ホシノウィルムのプロフィールです。
 需要があるかはわかりませんが、せっかくの節目なので投稿。


 

 

 

 ホシノウィルム

 

【自己紹介】

 ホシノウィルム。北海道出身です。

 好きな食べ物はにんじんのグラッセ、趣味は自己研鑽。

 目標は特にありませんでしたが……今はトレーナーと共に、走ることを楽しみたいと思っています。

 改めて、よろしくお願いします。

 

【学年】

 中等部2年

 

【所属寮】

 栗東寮

 

【身長】

 145cm

 

【体重】

 重くはありません。決して。

 

【誕生日】

 2月22日

 

【得意なこと】

 一極集中(最近は分散も得意に)

 

【苦手なこと】

 独りぼっち

 

【耳のこと】

 身長の割に大きい

 

【尻尾のこと】

 前より少し動くようになった

 

【靴のサイズ】

 左右共に20cm

 

【家族のこと】

 両親とは死別しており天涯孤独

 

 

 

(以下、トレーナーによる加筆)

 

【容姿】

 セミロングに伸ばした鹿毛。一房だけ長めの黒鹿毛が入っている。

 瞳の色は、青みがかった白。

 両耳に薄灰色の耳飾りを付けている。

 普段は俯きがちで、瞼も眠たげに垂れており、無表情。

 

 庇護欲をそそる幼さと、孤高な気高さを感じさせる美貌を両立している。

 総じて、非常に優れた容姿を持っていると思う。

 

【適性】

 芝S   ダートC

 短距離D マイルC 中距離A 長距離S

 逃げS  先行B  差しD  追込G

 

【ステータス】(以下、宝塚記念終了時点)

 スピード B  651 

 スタミナ A  882 

 パワー  C+ 532 

 根性   B+ 747

 賢さ   C  436

 

【固有スキル】

『天星の蛇龍 Lv1』

 恐らく終盤に発動。条件は不明瞭だが、近くに他のウマ娘がいること?

 速度と加速が上昇、スタミナ消費量が減少、賢さが大幅に上がる効果を確認。

 壊れ固有。前世アプリだと環境に付いて来れないプレイヤー出そう。

 詳細な情報が分かり次第追記予定。

 

【スキル】

 「大逃げ」:大逃げの感覚を掴む。

 「コンセントレーション」:「集中力」の上位。スタートが上手くなる。

 「先駆け」:スタートダッシュの加速が上手くなる。

 「コーナー巧者○」:コーナーで上手く遠心力を逃がし、速度を落とさず走る。

 「全身全霊」:「末脚」の上位。終盤に速度を上げる。

 「円弧のマエストロ」:「コーナー回復○」の上位。コーナーで息を入れ、脚を溜める。

 「逃げのコツ○」:逃げが上手くなる。

 

【コンディション】

『一所けん命』

 『命がけ』が変化したコンディション。表現としては丸くなったか。

 今のところ『命がけ』時代からこれといった違いは見られない。要検証。

『切れ者◎』

 恐らく固有習得や『一所けん命』への変化と同タイミングで、○から◎に変化。

 アプリと同じ効果なら、スキル習得に必要な時間が更に減少する? 

 だとすれば相当な壊れコンディションだと思うが。

 

 ……余談だが、同タイミングで『愛嬌×』は消失したものと思われる。

 付き合ってみれば案外愛嬌のある子なので、妥当なコンディション解消だと思う。

 

【勝負服】

『灰色の星』

 URAの勝負服製作部による命名。断じて俺が名付けたわけではないと明記しておく。

 ホシノウィルムが出した要望は「動きやすさ」「両耳の耳飾りに合うデザイン」のみ。

 白のラインが走った黒のショートパンツにインナー。その上に深紅のショート丈のジャケットを羽織る。

 胸元の薄灰色の星型ブローチがボタンになっており、押すと背後の襟から灰色の粒子を噴出し、マントのような形状に纏まる。

 このマント、非常にカッコ良い。本人も気に入っているようだし、やはりカッコ良さは正義だ。

 

 ……しかし、粒子のマントて。ブルボンの勝負服でも思ったことだが、URAの技術力はどうなっているのだろう。これもウマソウルパワーなのだろうか。

 

 

 







 各種ステータスやスキル、見た目の情報まとめがあると色々想像しやすいかな、と。
 細かい見た目は読者様のご想像にお任せします。

 ちなみに3サイズは71/52/76。
 何がとは言わないけどスズカより1大きい。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。こんなところまで、ありがとうございます……!


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And they all lived happy end after!
コンゴトモヨロシク


 第二部は菊花賞以降なので、しばらくは第一部の後日談、かつ第二部への準備的なヤツ。
 ホシノウィルムの迎えたハッピーエンド、その先のお話をどうぞ。

 今日の運勢:凶。失せ物見つかれど魔多し。水難注意。





 

 

 

 時に。

 「惚れた弱み」という言葉があるじゃないか。

 あれはある種、真理を突いていると思うんだ。

 

 思うに、「惚れる」というのは、つまるところ「好き」という感情なんだと思う。

 そして「好き」という感情は、ホシノウィルムの言っていたとおり「心地良い」に近く。

 「心地良い」は、最終的には「ほしい」に繋がっている気がする。

 

 その人と一緒にいること、それと一緒にあることを心地良いと思う。

 だから自分の横にあってほしい。

 究極的には、自分のものにしてしまいたい。

 それが「惚れる」という感情なのだろう。

 

 そして誰か、あるいは何かに惚れた人間が、最も恐れることは……。

 対象に離れられたり、嫌われたりすること。

 故に、それに対して従順になる。それに尽くすようになる。

 

 それこそが、「惚れた弱み」というヤツなのではないか。

 

 前世、何かの本に「最初に惚れた方の負け」という一文もあった気がするし、やはり惚れるというのは人間関係において弱点を露出することに繋がるんだと思う。

 それを「負け」と表現したんだろうな。

 

「……負け、か」

 

 つまるところ。

 

 俺はあの瞬間、ホシノウィルムに負けてしまったのか。

 

 

 

 宝塚記念終盤、ホシノウィルムはスパートした。

 禁じていた前傾姿勢で、それも今までに見せたことのないような、とんでもない速度で。

 

 ……けれど俺は、悲鳴を上げることすら忘れ、その姿に魅入ってしまった。

 

 その時の彼女は、誰よりも楽しそうで。

 誰よりも満たされて。

 誰よりも本気で。

 誰よりも……ウマ娘らしかったから。

 

 その走りは俺に、昔のことを思い出させた。

 この世界に来て、トレーナーになると決める……その直前。

 ウマ娘に興味を示したことで、父に初めて見せてもらったG1レース。

 

 そこでは誰もが必死で、燃え上がり、命を懸けて走っていた。

 

 アプリを通して見ていたものとは、熱量が違った。

 顔を歪め、余裕なんてかなぐり捨てて、自分が一番だって叫ぶウマ娘も。

 それを応援し、歓声を上げて、その勝利に喜ぶ観客も。

 

 俺はそのあまりの熱に圧倒されて……。

 

 その時。

 彼女たちの姿に……何かを感じたんだ。

 

 その気持ちが一体何なのか、当時はわからなかったが……。

 その時、俺は心の底から「トレーナーになりたい」と思った。

 

 

 

 ……そう。

 最初は、そんな純粋な想いだったんだ。

 

 

 

 いつから形を変えてしまったのか。

 俺は確かに、誇れる自分になるためにトレーナーを指標にした。

 それは否定しようもない事実だ。

 

 ……だが同時に、ウマ娘のレースに、熱いものを感じていたはずだったのに。

 

 年月が経ち、その熱が冷めてしまったのか……。

 あるいは、トレーナーとして相応しくないものとして、自分の奥底にしまい込んで忘れてしまったのかもしれないが。

 

 どちらにしろ、俺は……。

 あの瞬間、ホシノウィルムの走りに、ずっと昔に感じた熱を引っ張り出されてしまった。

 そして、誰よりもウマ娘らしく走る彼女を見て、俺はようやくその熱の意味を理解したんだ。

 

 「俺はウマ娘のレースが好きなんだ」と。

 

 そして……。

 「その中でも、ホシノウィルムの走りが一番好きだ」と。

 

 そう、思わされてしまった。

 

 

 

 堀野のトレーナーにあるまじき、個人的な妄執。

 故にこの感情は、忌避すべきものなんだろうが……。

 

 これが、どうにもならない。

 

 「好き」という感情は不可逆で、どうにも抑えが利かない。

 彼女を担当したい。彼女を支えたい。その走りを多くの人に見て、多くの人に感動してほしい。それだけ彼女には価値があるのだと、多くの人に認めてほしい。

 そして何より……それを通して、ホシノウィルムという少女に幸せになってほしい、と。

 その思いが、止められないんだ。

 

 ……どうやら俺は、もう彼女から逃げられないらしい。

 もちろん、今更逃げるつもりもない。

 むしろ俺が彼女に逃げられないよう、頑張らなければならないわけだが。

 

 

 

 ……しかし果たして、こんな個人的感情に振り回されているような状態で、彼女を適切に導けるんだろうか。

 

 それが今の、大きな頭痛の種だった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 波瀾と奇跡に満ちた宝塚記念が終わり、ホシノウィルムが名実ともに現役最強の一角として認知されてから、数時間。

 

 勝利者インタビューではセイウンスカイやメジロマックイーン、メジロライアンを「最高の好敵手でした」「再び一緒に走る機会に恵まれることを望みます」と讃え……。

 彼女にとって四曲目となるライブ曲、「Special Record!」のセンターを飾り……。

 その日は、飛ぶように時間が過ぎていった。

 

 流石に疲労困憊の様子で、車に乗るや否や眠りに就いてしまったホシノウィルム。

 気の抜けた年相応の寝顔を微笑ましく思いながら、彼女を栗東寮の寮長であるフジキセキに預けて。

 

 なんだか、これから大きな変化がありそうな。

 あるいは、俺の中で、彼女の中で、何かが変わっていくような。

 そんな奇妙な充実感と共に、トレーナー寮の自室で眠りに付いたのだが……。

 

 

 

 翌日、6月10日。

 

 ホシノウィルムを精密検査にかけた結果。

 

「折れてますね」

「え?」

「は?」

「いや、脚、綺麗に折れてますよ。ひとまず入院しておきましょうか。

 菊花賞は……残念ですが、難しいでしょうね」

 

 ……昨日の変な充実感は何だったのか。

 俺たちは、めちゃくちゃ大きな足踏みを強いられることになった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 その6月10日は、俺の今までの人生で一番大変な1日だったと思う。

 

 まず、トレーナーと広報等の中間管理をしているたづなさんに電話で彼女の故障について伝え、入院することになったホシノウィルムの精神状態が落ち着いていることを確認しながら病室まで付き添い、「必ず戻って来る」と伝えて、病院で貰った故障の証明書と共にトレセンに飛んで戻り……。

 

 各種メディアに故障の事実を発表し、そりゃあもうとんでもない反響になってしまい、電話対応に追われることになった事務局にぺこぺこ頭を下げて、今度はホシノウィルムの住む栗東寮に向かい……。

 

 フジキセキに頼み込んで、彼女の個室から着替えやタオルなど生活必需品をバッグに詰めて持ってきてもらい、再び病院にとんぼ返りして……。

 

 思いの外落ち着いているホシノウィルムに安堵しながら、持って来た荷物を病室に運び入れ、ベッドに横たわる彼女と少しだけ話をして、どうやらきちんと現実を受け止めていることや、ひとまず結果に後悔してはいないことを確認し……。

 

 このままでは互いに混乱して不毛な会話になりそうだったので、「お互い明日までに気持ちを纏めておこう」と結論を出して、再び病院を離れて今度は緊急記者会見の場へ赴き……。

 

 当然ながら事実の追求と責任の追及が始まったので、ひたすら事実だけを機械のように答え、感情を殺して頭を下げ続け……。

 

 それが終わったらトレセンに戻り、たづなさんから送られてくる書類を処理しながら、彼女がこれからお世話になる予定だった方々にキャンセルと謝罪の連絡を入れて……。

 

 明日彼女に聞くべき内容、伝えるべき内容をああでもないこうでもないとリストアップして頭に叩き込み……。

 

 過去3か月のレースとトレーニングのデータを見直して今回の件の反省と次回に活かす為のアーカイブ化を手早く済ませ、堀野の家に作成した報告書を送り……。

 

 

 

 ……それらが終わった頃には、既に夜は終わっていた。

 

 

 

 トレーナー室の窓から差し込んでくる光に、目を細める。

 

「あー……朝か……」

 

 ……ヤバい、頭全然動いてないな。

 

 いやぁ……うん、ちょっと……疲れた。

 

 あんまり疲れを感じない体質だと思っていたんだが……。

 今は……精神的な疲弊が、頭を重たくしている。

 どうやら、ホシノウィルムを故障させたってのが、かなり心に来ているらしい。

 

 それも、当然か。

 もしかしたら、二度とあの走りを見ることができないかもしれない。

 彼女の望む道を、俺の判断ミスが絶ってしまったのかもしれない。

 ……そんな畏怖が、泥のように頭に張り付いて離れない。

 

 こんな状態じゃ、彼女に会いに行けない。

 ひとまず仮眠を取って……精神状態を、リフレッシュしないと。

 

 布団に入ろうとして……ようやく、今、自分がトレーナー室にいることを思い出した。

 

「……うげ」

 

 そうだった、ここからトレーナー寮まで、結構距離あるな……。

 面倒臭い……もう、ここでいいだろう。

 どうせ彼女がいない今、ここに来るのは……。

 

 少しだけ、30分……いや、15分…………。

 

 

 

 

 

 

「……レーナー」

 

 ……あ?

 

 何、頭痛い……。

 は? いや、え……?

 

 何が……え、ここどこだ?

 てか体冷たっ。節々痛いし……何?

 

「堀野トレーナー、ご無事ですか」

 

 声……かけられてる?

 うっ、頭ぐわんぐわんする……吐きそう……。

 いやでも、答えないと……。

 

「ごぶじぃ……? ぶじ、ぶじ……あぁ、ぶじだ、けど」

 

 全然呂律が回らないし……。

 ヤバい、しっかりしないと、心配かける……。

 

「呼吸確認。血色状態不良。焦点不定。体温低。思考能力低下。痙攣、アルコール臭確認できず。

 ……体力の低下による気絶状態から復帰したものと推測。

 緊急タスクを開始します」

 

 こきゅう……え?

 

 俺が意味を理解できず困惑している間に……声の主はそう言ったきり、どこかに行ってしまった。

 

 ……何なの?

 

 あー……えっと、それで、何がどうなってんだ。

 見当識が……機能してない。

 ここがどこで、自分が誰で、何が起こってここにいるのか……。

 

 俺、何してたんだっけ……?

 

「堀野トレーナー、失礼します」

「え?」

 

 困惑する俺に……。

 いや、俺の顔面に、水がぶっかけられた。

 

「あびゃぁーっ!?」

 

 

 

 ……なんというか。

 厄日が続くなぁ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 俺が寝込みに奇襲を受けてから、15分後。

 濡れそぼったジャケットの水滴を落としてハンガーにかけ、びしょびしょの床を雑巾で拭き、ひとまずの安寧を取り戻した俺は、今回事件を起こした下手人と向き合っていた。

 

 豊かな栗毛、大きな体躯、感情の読みにくい青の瞳に、右耳に付けた水色の耳飾り。

 今日も今日とて無表情のスパルタサイボーグ。

 

 彼女の名は、ミホノブルボン。

 この世界を生きる、ジュニア級のウマ娘だ。

 

「さて、ミホノブルボン。今回俺にバケツで水をかけた理由を聞こうか」

 

 濡れた髪をタオルで拭きながら、彼女に問いただす。

 ……いや、正直「こうじゃないかな」という予想はあるんだけど、一応彼女の口から聞いておこう。

 

「はい。堀野トレーナーの気絶状態を確認、緊急タスク『寝耳に水』を実行しました」

「『寝耳に水』というのは?」

「私がよく使う覚醒法です。こうすればすぐに目が覚めるため、入学前は父に申請し、よく行ってもらいました」

 

 予想通りの理由だけど……すごい方法で目覚ましかけてるなこの子。アニメかよ。

 ……いや、そういえば前世ではアプリゲームのキャラだったわ。

 

 そう言えばブルボンって、前世アプリでも、トレーナーが知り合った時点でゴリゴリのスパルタ方針だったよな。

 めちゃくちゃな目覚まし方法を見るに……やはりと言うべきか、その血と汗と涙で強くなる方針は前のトレーナーからではなく、生来のものだったらしい。

 ……いや、そうじゃなくて。

 

「まぁ、君がどのような起き方をするかは問わないが。許可も取らず他人に行うには適さない方法だな、それは」

「申し訳ありません。堀野トレーナーが床に横たわっている状態を見て、緊急事態であると判断しました」

「あぁ、いやすまない、確かにそんな状態で倒れていた俺が悪いな。

 ……ん? いや、それでも水をかけるのは正しいのか……?」

 

 確かに、床に人が転がっているのは緊急事態だ。

 むしろそんな状態で慌てもせず、冷静に自分が思った最適行動をできるのは偉い。

 

 偉いけど、まずはやっぱり肩をゆするとか、人を呼ぶとかじゃないか?

 そこで「取り敢えず水をかけて起こそう」はちょっと早くないか?

 

 ……いや、取り敢えず、彼女の気持ちはありがたく受け取るべきだな。

 意識と呼吸は確認した上での行動だったみたいだし……うん、ここは感謝が正解か。

 

「ひとまず、起こしてくれてありがとう、ミホノブルボン。少し働き過ぎて倒れていたようだ」

「いえ、通りすがりにドアの隙間から倒れた姿が見えたので、当然の処置を実行したのみです。

 しかし、体力の低下による気絶は、時に酷い怪我を招きます。お体を大切になさってください」

 

 今もなお無表情な彼女だが……どうやらただ表情に出にくいだけなんだろう。

 今はその瞳から、心配そうな気配が伝わって来る。

 いつも機械的な印象のある子だが、やはり彼女もウマ娘の1人、心優しい一面も持ってるんだろうな。

 

 しかしこの1年半で、俺も人の表情を窺うのがだいぶ上手くなったな。

 この学園に来た時の俺であれば、まず彼女の感情など推し量れなかった。

 これもホシノウィルムに学ばせてもらったものだ。

 

 

 

 ……ん?

 ホシノウィルム?

 

 

 

「しまったっ!!」

 

 完全に状況が頭から飛んでいた。

 

 椅子を倒す勢いで立ち上がり、机の上にスマホを探すが……ない。

 いや、この感触、ポケットか!

 

 急いで取り出して時間を確認すると……もう12時。

 俺のバ鹿、何が15分だ、ぐっすり3時間くらい寝てたわ!

 

「すまないミホノブルボン、俺は用事があるので失礼する!

 この借りは何かの形で必ず返すから!」

 

 ホシノウィルムが入院しているウマ娘専門病院、そこの面会時間は13時から20時。

 今のホシノウィルムを1人にする時間は短い方がいい、今すぐ準備しないと……!

 

「用事とは、ホシノウィルム先輩のお見舞いでしょうか」

「ああそうだ、早く準備しないと面会時間の開始に間に合わない。だから申し訳ないが……」

「であれば、私も同行しても構いませんか?」

「……? 君も?」

 

 ミホノブルボンの意図が読めず、思わず聞き返す。

 ジュニア級の子の中には、ホシノウィルムの熱烈なファンがいるという話も聞くし、ひょっとして彼女もそうなんだろうか。

 確かに三冠を目指すブルボンにとって、無敗で二冠を取ったホシノウィルムは憧れるに足るウマ娘なんだろうが……。

 

 何にしろ、同行を許すことはできない。

 今はホシノウィルムに余計な衝撃を与えたくはないんだ、と。

 そう言おうとしたのだが……それより先に彼女が口を開いた。

 

「私は以前、ホシノウィルム先輩に助けていただいた経験を持ちます。故に、後輩として先輩のお見舞いに行くことを志願します」

 

 ホシノウィルムが、ミホノブルボンを助けた?

 そんな話は彼女から聞いていないが……。

 いや、誰かを助けたことを自慢げに話すような子でもないか。

 

 しかし、交友のあった後輩、か。

 今のホシノウィルムは、少なからずショックを受けているはず。

 彼女を少しでも励ますことができるのなら、ブルボンも連れていくべきだろうか。

 ……ミホノブルボンは、空回ることはあれど、悪意で誰かを傷つけるようなウマ娘ではない。

 連れて行っても、悪い影響は生まない……か?

 

 ……いやしかし、どちらにしろ今はタイミングが良くない。

 今のホシノウィルムの状態は読めない。

 心細がっている可能性も、苛立っている可能性も、心が折れている可能性もある。

 そんな彼女に、余計な影響を与えるような行為は避けるべきだ。

 

 たとえ友人だとしても、少し天然の気があるミホノブルボンを連れていくことは、悪影響に繋がる可能性がある。

 会うのも、情報を渡すのも、俺1人からだけである方が望ましいだろう。

 

 

「……そうだな、では病室の場所は教える。

 だが他のウマ娘には教えず、個人的に見舞うように。

 それと、今日は……いや、俺が連絡するまでは行くのをやめてくれ。彼女の調子が安定したら、改めて連絡するから」

「了解しました」

「うむ、話の分かるウマ娘で助かる。

 少し待て……よし、これが俺の連絡先だ。後ほどメールを頼む」

 

 こくりと頷く、無表情のウマ娘。

 

 ……きっとホシノウィルムにとって、親しい後輩の存在は、大きな財産になるはずだ。

 多くの人とウマ娘を知り、話し、付き合うこと。

 それが彼女の世界をもっと広げ、満たすことに繋がるはずだから。

 

 

 

 トレーナー室を施錠している時、ブルボンが声をかけてくる。

 

「時に、トレーナー契約の件、考えていただけましたか」

「……まだ諦めてなかったのか。残念だが、受ける気はないぞ」

 

 何せ俺は、あのホシノウィルムの走りに魅せられてしまったからな。

 今は彼女のことに集中したいんだ。

 

「……そうですか、残念です」

 

 ミホノブルボンは、以前に比べてやけにあっさりと引き下がったように思えたが……。

 それを気にしている余裕は、今の俺にはなかった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「トレーナー!」

 

 病室に入ると、すぐに声がかかった。

 その調子に思わず「走るなよ」と返しそうになって……あまりにも不謹慎だと心の中で押し殺す。

 

 ドアを閉め、視線を向けた先にいるのは、俺の担当ウマ娘、ホシノウィルム。

 彼女は現在、右脚をベッドに固定され、この病室で安静の状態にあった。

 

 幸いにも骨は綺麗に折れており、手術の必要はないらしい。

 けれどこれ以上脚に刺激を与えないため、今は自由に歩くことさえ許されない状態だ。

 自主トレをこよなく愛する彼女にとって、とても窮屈な環境だと思うが……流石の彼女も、この状態から無理をするほど道理を弁えていないわけじゃない。

 「この怪我が治るまでは、勝手に自主トレしたりはしません」と誓ってくれた。

 そう言いながらも「早く治して走りたい」という想いは抑えられていなかったけど……。

 

 ……うん、ひとまず今日も元気そうで何よりだ。

 勿論、そこには空元気も含まれてるんだろうが……落ち込んでいるよりは、ずっといい。

 兄曰く、病は気からという言葉には一理あり、ちょっと無理をしてでも明るく振舞った方が、精神にも体調にも良いらしいし。

 

 だから俺は、努めていつも通りの声を意識し、彼女に声をかけた。

 

「すまない、少し遅くなったな」

「ええ、待ちくたびれました」

 

 ……遅いって言っても、渋滞に引っかかった5分かそこらなんだけども。

 病室に入っただけでそんなに表情を明るくされては、野暮なことも言えなくなってしまう。

 

 いや、一見表情はほとんど変わってないんだけど……よく見れば、その変化はわかりやすい。

 伏せられがちな目がちょっと開いて、唇の両端が吊り上がる。

 けれど次の瞬間、取り繕おうとしたのか、慌ててそれらが仮面の下に隠される。

 ……でも、少しするとまたジワジワとにじみ出てくるんだ。

 

 気付いてしまえば可愛いもんだ。

 彼女は確かに無表情で、どこか冷たい雰囲気を持っているが……。

 それはあくまで、彼女の仮面。

 恐らくは幼少期の辛い経験から培われた、自分の感情を前に出してはいけないという思い込み、あるいはその方が被害が少なくて済むっていう処世術に過ぎない。

 

 彼女は無感情なようでいて、その実かなり情緒豊かだ。

 色んな経験を通して、色んなことを感じ、色んなことを学ぶ……等身大のウマ娘。

 

 自分のトレーナーが病室を訪れただけで、思わず喜びを表に出しかけてしまうくらいに……。

 どこにでもいる普通の、中等部の女の子なんだ。

 

「……ん、トレーナー、お風呂入ってきました?」

「え?」

「なんだかいつもの匂いが……しないような気がします」

「…………そ、そうか。確かにシャワーは浴びて来たが」

 

 ……いや、アレだ。

 これは別に、彼女が変態なんじゃなくて。

 

 俺たち人間の感覚だと、相手の匂いを覚えてるってのは……生涯のパートナーでもない限り、ちょっとアレだが……。

 ウマ娘は嗅覚がかなり鋭いからな。

 前世でも馬は嗅覚で人間を覚えていたというし、ウマ娘にとってはこれが普通なんだろう。

 

 一応教本で「ウマ娘は人の匂いを覚えることがある」と学びはしたのだが、事実と実感はまた別のもの。

 熟練のトレーナーであれば、さらりと流せるところだろうが……反射的に戸惑ってしまった。

 やはりこういうところは、トレーナーとしての経験のなさが露骨に出てしまうな。

 

 俺たちトレーナーは、その感性に寄り添わなければいけないのに……。

 一瞬でも彼女を変態かのように思ってしまったこと、反省しなければ。

 

 ……それはそれとして、なんで深呼吸してるのかな、この子。

 匂いの話したばっかりだから恥ずかしいんだけど。

 

 

 

 さて、落ち着いたところで、そろそろ話を始めよう。

 

「改めてこんにちは、ホシノウィルム。調子は悪くなさそうだが……どうだ?」

「そうですね……やはりまだ、骨折したという実感が湧きません。確かに脚に違和感はあるんですが、痛みはほとんどないですし」

「ふむ……親類の医療従事者に聞いたところ、そういう骨折こそ危険との話だ。折れたことにも気付かず余計に悪化させてしまう、ということでな」

 

 本当に、ちゃんと精密検査を通してよかった。

 検査にかかったからこそ骨折が発覚したし、だからこそ最低限の悪化で済んだんだ。

 もしも「ホシノウィルムのことだから大丈夫だろう」「あんなに気持ちよく走っていたのだから折れてるはずがない」なんて判断していれば……考えたくもないことになっていた。

 

 ……いや、それ以上に、もっと考えたくないのは。

 レース中に、事故を起こしていた可能性だ。

 

 ウマ娘の体は、人体に比べてかなり頑丈だ。

 だが、それにも限度ってものがある。

 彼女たちの最高速度はおおよそ時速70キロメートル強。高速道路を通る普通自動車と並ぶ程。

 いくらウマ娘とはいえ、そんな速度で転んだり衝突すれば……最悪、命に関わる怪我を負う。

 

 本当に……本当に、そうならなくてよかった。

 

「ひとまず、君が無事で良かった。

 本来は故障を起こした君に言うべきことではないが……よく帰ってきてくれた。

 おかえり、ホシノウィルム」

「はい。少し遅れてしまいましたが、ただいまかえりました、トレーナー」

 

 ……ようやく、その言葉を交わして。

 

「……はぁ」

 

 俺は……椅子の上で、一気に脱力した。

 

「と、トレーナー? どうし……もしかして、疲れてます?」

「……まぁな。業務自体は良いんだが、どうにも……君のことが心配だった」

 

 最近よく見た悪夢のせいか、なんとなくホシノウィルムのことが気にかかった。

 宝塚記念の最中も、彼女が手の届かないところに行ってしまうような嫌な予感が、ずっと背筋を伝っていた。

 

 けれど……改めて彼女と腰を据えて話し、帰って来たのを認識して……ようやく落ち着けたような気がする。

 

「我ながらよくわからない話だが……今になってようやく、君が帰ってきたという安堵が湧いて来た」

「帰ってきた、って……当然帰って来ますよ。私はあなたのウマ娘なんですから」

 

 ……まったくこの子は、人の気も知らないで。

 

「君なぁ……最終コーナーであんなよろよろして、心配しないわけないだろ」

「き、気付いてたんですか……隠してたつもりだったのに」

「当たり前だ、君の走りをどれだけ見て来たと思ってる。……クソ、あの時は舞い上がってしまったが、冷静に考えるとウイニングライブを見送ってさっさと医師に見せるべきだったな」

「そ、それは駄目です。可能なら、ファンの方に感謝は伝えたいですし」

 

 おぉ……。

 彼女の考え方に、少し変化があったかな?

 

 以前の彼女は、ファンのことを視界に入れていなかった。

 負けないことに必死だったから、あまりレースに関係しない部分に興味を持てなかったんだろう。

 それが今は、ファンの方々に感謝を伝えたい、と言い出すとは……。

 よほどその声に背中を押されたと見える。

 

「きちんと耳にした応援の声はどうだった、ホシノウィルム」

「……すごかったです。ウイニングライブという文化が生まれるのも納得です」

 

 それほどか。

 「ファンの声援が競走ウマ娘の力になる」というのは、俗説ではあるが有名な話。

 ただの人間である俺には体感できない、大きな何かがあったんだろうな。

 

 何にしろ、幸せなことだ。

 自分に向けられる期待を、夢を、愛を……。

 彼女はようやく、目に入れられるようになったのだから。

 

 「良かった」という安堵と共に、「これからだな」という思いも生まれる。

 彼女はこれからも、ずっとずっと愛されるウマ娘になる。

 常識外れで、桁違いで、圧倒的な、最強のウマ娘として、永遠に語り継がれる存在になるんだ。

 

 

 

 ……そう、「ここから」だ。

 俺とホシノウィルムは、ここから心機一転、歩き出さなければいけない。

 

 

 

 すぅ、と息を吸う。

 これは、あるいは不必要な工程かもしれないけれど……。

 それでも俺にとって、俺たちにとって、きっと踏む意義のあるものだから。

 

 俺はホシノウィルムの青白い目を正面から見据え、話し出す。

 

「改めて……君に、謝らせてほしい。

 トレーナーとして、君の事故を未然に防げなかった未熟を。

 すまなかった、ホシノウィルム」

「もう、またですか、トレーナー。

 第一今回のは私が言い出したことで、悪いのは私……」

 

 彼女の言葉を、手で制する。

 もうコミュニケーションの不足で不和を起こしたくはない。

 俺は今一度、この気持ちを言葉にして、彼女に表明しないといけないんだ。

 

「……だが、あの時にも言ったが、俺は君がいい。ホシノウィルムを担当したい。

 君を育て、君と共に歩み、君の走りを最も近い場所で見たい。

 だからどうか……これからもよろしく頼む」

 

 頭を下げる。

 ……俺は、乞わねばならない立場だから。

 

 俺にはある程度、トレーナーとしての能力があると思う。

 だが……ある程度でしかない。

 熟練のトレーナーである皇帝の杖や、超一流の桐生院に比べれば、俺は間違いなく劣っているトレーナーだろう。

 稀代の天才である彼女を担当するには、能力も才能も足りないかもしれない。

 

 それでも、彼女を担当したい。

 そのあまりにも眩しい走りを支え、どこまでも見ていたいから。

 

 だから……!

 

 

 

「トレーナー」

 

 ゴスッ、と。

 そこそこ痛烈な一撃が、頭の頂点を突いた。

 

「いたっ!」

 

 顔を上げれば、ホシノウィルムの左手がチョップの形で俺に向けられている。

 

 ……えっと、ホシノウィルムさん。

 今俺、かなり真面目に、清水の舞台から飛び降りる覚悟でお願いしたんだけどなぁ。

 なんでそんな、怒ったような不満なような表情向けるの?

 

「まったく、トレーナーは何で、こういう時にダメダメなんですか」

 

 ホシノウィルムは、苛立ち半分呆れ半分、といった様子でため息を吐いている。

 

 俺自身がダメダメな自覚はあるけど……。

 そ、そんなに今の台詞、駄目だったかな。

 俺の想いは込めたし、ちゃんと言葉も選んだつもりなんだけどな……。

 

「忘れましたかトレーナー、私はこう言ったはずです。

 『あなたのトレーニングで宝塚に勝つ。勝てたら私をあなたのウマ娘にしてくれ』と」

「い、いや、確かに覚えているが」

 

 だから君のトレーナーとしてよろしくお願いしたんだが……何が不満なんだ。

 

 ホシノウィルムは、なお分かり合えないことに苛立ったのか、ちょっとだけ頬を膨らませてベッドをべちべちと叩いた。

 

「つまり、あなたが私に願うよりずっと前! 私の方からあなたにお願いしてるんですけど!

 『クラシック級の担当を宝塚に勝たせるような天才トレーナーに、私を担当してほしい』って!」

 

 宝塚記念。

 クラシック級では勝ち目がないとまで言われた戦いに、ホシノウィルムは勝った。

 

 しかし俺はその勝利を、あくまでホシノウィルムの功績だと思っている。

 俺はセイウンスカイをあれだけ知っておきながら、それでも行動を読み切れなかった。

 それでもなお勝てたのは、ひとえに彼女の実力、才能が凄まじかったからだ、と。

 

 ……だがそれを、他ならぬホシノウィルムが、それは俺の功績なんだと叫ぶ。

 

「私はあなたを認めます。あなた以上のトレーナーなんて、きっとこの世界のどこを探したって存在しません。

 そりゃあ、ちょっと人の感情を読むのが下手で、変に気を回すせいで空回りすることもありますけど……。

 それでも、私みたいな癖ウマ娘をここまで連れてくるなんて、それも宝塚記念に勝たせるなんて! あなたにしかできないことなんですよ!」

 

 彼女は僅かな怒気と共に……でもそれ以上に、痛烈な気持ちを込めて、伝えてくる。

 

「あなたは私が選んだ、唯一無二のトレーナー。

 だから……それはまず、こちらが言うべき言葉なんですよ」

 

 彼女は俺の手を取り、真剣な瞳で告げた。

 

「私もあなたがいい。堀野歩に担当してほしい。

 あなたに育てられ、あなたと共に歩み、あなたと勝ちたい!

 だから、改めて……これからもよろしくお願いします、トレーナー!」

 

 

 

 

 

 

 ……それは、俺たちが最初に交わし損ねた、互いへの想いの交換。

 

 季節は巡り、あの夜から1年と半年。

 俺とホシノウィルムの関係は変わり、再び「トレーナーとウマ娘」として、次の道へと歩み始める。

 

 

 







 「君(あなた)でいい」から、「君(あなた)がいい」へ。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、ここから先に伸びる道の話。
 そろそろギャグも息を吹き返して来る……はず。多分。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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「あ、これ前世ゼミでやったところだ!」

 本日の運勢:小吉。待ち人来たれり。水難注意。





 

 

 

 ……ふ、ふふふ。

 

 言われちゃった。

 言われちゃった、言われちゃった、言われちゃったよ!

 

『……だが、あの時にも言ったが、俺は君がいい。ホシノウィルムを担当したい。

 君を育て、君と共に歩み、君の走りを最も近い場所で見たい。

 だからどうか……これからもよろしく頼む』

 だってさ!

 

 こんなのもう9割告白じゃん!

 堀野トレーナー、私のこと大好きじゃん!!

 

 ……いや、正直に言うと、わかってる。

 これ多分、恋愛感情からの告白とかではない。

 あの堀野トレーナーのことだ。これもあくまで、トレーナーとしての言葉なんだと思う。

 

 でも、でもさ?

 自分が好きな男性に「お前と一緒に歩んでいきたい」って言われてニヤつかない乙女なんていないし……。

 同時、自分が惚れたトレーナーに「君を担当したいんだ」って言われて舞い上がらないウマ娘はいないんだよ!

 

 だって私、ようやくトレーナーに認められたんだもの!

 

 

 

 ……実のところ、ずっと前からわかってた。

 トレーナーにとって、私は今まで、唯一無二じゃなかったってことは。

 

 トレーナーにとって、ホシノウィルムというウマ娘は、「成り行きで担当することになったウマ娘A」でしかなかったんだ。

 勿論私は強いから、そこで多少評価はしてもらえてたかもしれない。

 担当として、当然のように尽くすべき存在であると見られていたかもしれない。

 

 ……でも、「堀野のトレーナー」にとって、他のウマ娘よりも高い価値を持つ存在じゃなかった。

 

 私を他のウマ娘より優先していたのは、「担当ウマ娘だから」。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 

 もしも宝塚記念よりも前に……考えるだけで嫌な気持ちになるけど、仮に担当契約を解除するようなことがあれば、この人は何の悔いもなく私と別れていただろう。

 元担当だからって固執するのは、堀野のトレーナーとして正しくないからって。

 私たちが共に歩んできた過去も、そこで共にした苦労も、全て記憶の奥底に封じて、忘れる。

 ……たとえ本人が、そこにいかなる感情を抱いていたとしても、揺らぎなく。

 

 彼の「トレーナーとしての理想像」は、それくらい、魂の奥深くまで食い込んだ価値観だったから。

 

 

 

 でも今、状況が変わった。

 

 彼は私に魅入られてしまった。

 どうしても私を担当したくなってしまった。

 「堀野のトレーナーとしてかくあるべし」という意識を、「ホシノウィルムの走りを見て、支えたい」という想いが超えた。

 

 彼の中で今まで最優先だったものが転落し、私に切り替わったんだ。

 

 ……つまり。

 私はもう、彼にとって「どこにでもいるモブウマ娘」じゃない。

 「自分が担当したい唯一無二のウマ娘、ホシノウィルム」になれたんだ。

 

 そして同時、これは彼のトレーナーとしての仮面に初めてヒビが入ったことも意味する。

 彼と恋人……いやまぁ流石にそこは早いだろうけども、少しでも懇意になりたい私にとって、これは非常に大きな快挙だ。

 何せ彼がその仮面を被り続ける限り、私は永久に「対象外」。意識すらしてもらえないんだから。

 

 

 

 宝塚記念ではかなり無茶をしてしまい、結果として私の脚は折れてしまったけど……。

 果たして、その甲斐はあった。

 

 私はついに、ちゃんと「堀野歩の担当ウマ娘」になれた。

 そして何より、彼の心の一部を占有できたんだ。

 

 私がこっそりと立てていた「彼を惚れさせる」という目標は、達成できたと言っていい。

 

 これが嬉しくないはずないでしょ!

 

 

 

 

 

 

 ……けれど、その感情は一旦、仮面で押さえつけるとして。

 今はお説教の時間だ。

 

 彼の問題は、何も仮面だけじゃない。

 これだけ能力があるのに、それを全然認められない過度な謙虚さ。

 それのせいで、彼は度々現実と認識をすれ違わせている。

 

 これからもずっと付き合っていく以上、これも早急に改善しなきゃならない問題だろう。

 

「まったく、トレーナーの自虐……いえ、自己肯定感の低さは欠点です。

 あなたが成し遂げた快挙、つまりは振るわない寒門のウマ娘に道を示し、育て上げ、無敗で4つG1を取らせたことを認識しているんですか?

 ……その顔、『それを成し遂げたのは君で、俺はその手伝いをしたに過ぎない。他の誰が付いてもきっと君なら取れただろう』みたいな顔ですね。

 何度でも言いますが、私にはあなたしかいません。あなたでなければ、ここまで来れてはいません。いい加減聞き入れてくださいね。

 勿論、トレーニングに関しても、ですよ? 

 メーターか何かで可視化されてるのかと思うくらい正確に体力を測る観察眼、あなたしか……」

「ゲホッ!! んぐっ、ゴホッ!!」

「だ、大丈夫ですか!?」

 

 くどくどとお説教してたら、トレーナーは急にせき込んでしまった。

 

 わわわ、さ、流石に責めすぎた!?

 確かにちょっと、いやかなり、キツく言い過ぎたかも。

 落ち着いて考えると、担当ウマ娘からトレーナーに駄目出しって、ちょっとアレか……?

 私、一応前世の記憶は持っているとはいえ、今は中等部の女の子なわけで。

 そんな生徒にボロクソ貶されるって……トレーナー視点だと、ちょっと酷かもしれない。 

 

 引いて駄目だから押し押しで行こうと思ったけど、コミュ障特有の距離感バグだったかなこれ?!

 どうしよう、いやどうするもこうするもない、その前に苦しそうなトレーナーを何とかしないと!

 

「す、すみません、これをどうぞ」

 

 ベッドのサイドテーブルに置いてあった、朝貰った飲料水のペットボトルを渡すと、トレーナーは2口程それを飲んで落ち着いた。

 

「ん、ん……!

 いや、すまん……ああ、言っておくが君が悪いわけではないぞ。

 ただ、その……ちょっと驚いたと言うか、その、なんだ。

 ……そう! 君もだいぶハッキリと物を言ってくれるようになったな、と嬉しく思ってな」

 

 言われて、思わず顔を赤くする。

 た、確かに……彼から見たホシノウィルムは余計なことなんて喋らない、冷静で冷徹な、悲しきトレーニングマシーンみたいなウマ娘だったはず。

 最近、ちょっと感情を表に出し過ぎたかも。いくらトレーナーの前だからって油断しすぎたか?

 私のクールビューティ……いや、この体躯でビューティは無理か。クールキュートな容貌とミスマッチだったりする?

 

 ど、どうしよう。

 いきなりキャラ変わっちゃって、ちょっと引かれたりしてない?

 いや、嬉しいって言ってくれたってことは、不快ではない……よね?

 でもいきなり熱くなったりして、変な子って思われたり、してたりとか……?

 

「そ、その……以前の私と今の私、どちらが……良いですか?」

 

 ……こんなこと言ったけど、これで「前の方が良かったよ」なんて言われたらどうしよう。

 今度こそ私の心、完全に凍り付くかもしれん。永久凍土になるかも。

 ちょっとばかり不安になりながら、トレーナーの顔を窺うと……彼は1つ頷いて、言ってくれた。

 

「勿論、今の君の方が好ましいよ」

「トレーナー……!」

「俺にも至らない点はたくさんあるからな。これからも二人三脚していく上で、改善点を教えてくれればより良く担当できると思う。

 だから気になったところがあったらバシバシ言ってほしい」

「トレーナー……」

 

 そうじゃなくて。トレーナーとしてどちらが好ましいか、じゃなくて!

 私は、「堀野歩」はどっちのホシノウィルムが好きなんですか、って訊いたつもりなんだけどな!

 

 ……ああもう、先に惚れた方が負け、だもんな。

 こういう乙女心を解さないクソボケっぷりも可愛いって思い始めた私、もう手遅れなんだろうね。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、トレーナーにお説教したり、思わぬ反撃が響いたり、クソボケっぷりに呆れるのは楽しいけど……。

 

 それはそれとして、私たち競走ウマ娘はアスリートだ。

 故障発生の後、楽しいことばかりとも行かない。

 

「さて、君が比較的元気そうで安心したところで。

 将来的な話をしようか。……具体的には、君の復帰の話だ。

 まずは確認しよう。君に、再びレースを走りたいという意思はあるか?」

「勿論。早く治して、またレースを楽しみたいですから」

「……そうか」

 

 堀野トレーナーは、小さく息を吐く。

 その表情からは、隠しきれない安堵が窺えた。

 

 ……あ、そうか、そりゃあトレーナーとしてはそこを不安に思うか。

 

 私からすれば、復帰するのは当然だって思ってたけど……故障して心が折れるようなウマ娘もいるんだよね。

 うーん、イマイチ理解し辛いというか、よくわかんない思考だ。

 折れたなら治せばいいし、遅れたなら取り戻せばいい。

 全力で頑張って、それでも届かなかったら、そりゃあもう仕方ない。その時に諦めればいいんだ。

 

 そう思う私は……呑気なのかね。普通はもうちょっとへこんだりするものなの?

 

「わかった、ありがとう。君が再び立ち上がる決断をしてくれて嬉しいよ。

 リハビリも、そこからのトレーニングメニューも、精一杯サポートさせてもらう。」

「はい、よろしくお願いします」

 

 頭を下げる。

 いやホント、私は支えてもらう側、サポートしてもらう側なんだよ。

 さっきもそうだけど、何でこのトレーナー、自分がやる側なのに頼み込んでくるんだろう。

 お願いするのも助けてもらうのもこっちだよ?

 

 ……多分、トレーナーとして「担当させていただいている」って意識なのかな。

 なんというか……あんまり他所のおうちを悪く言いたくないけど、堀野の家ってちょっとやり過ぎじゃない? そこまでストイックだと、流石にちょっと引くんだが。

 

 この辺も、付き合っていく内にもうちょっと普通に寄せていきたいところだ。

 ……トレーナーは気付いてないみたいだけど、勝負の約束の文面上、私は「ずっと」彼のウマ娘。

 これからいくらでも時間はあるだろうしね。

 

 

 

「……さて、では次に、君の復帰レースについて考えようか。

 俺としては、年末開催される有記念を見据えていきたいと思うが……」

 

 私がお医者さんから提示された復帰の目安は……11月上旬。

 時期で言うと、ギリギリ菊花賞には間に合わないくらいだ。

 でも……私は。

 

「菊花賞に、出走したいです」

「……ホシノウィルム」

 

 トレーナーは、厳しい顔をした。

 ……そりゃそうだ、私は今、とても難しいことを言ってるんだから。

 

 競走ウマ娘の復帰目安は、「リハビリと鍛え直しを終え、十分レースを走れるようになる時期」を指す。

 ……けれどそれは、最低限レースを走れるようになる時間、という意味でしかない。以前までの走りをどこまで取り戻せるかはわからない。

 普通は復帰後、調整と様子見で少し格の低いレースに出す……いわゆる「叩き」を経て、ようやく本調子としてレースに出るんだ。

 

 私が菊花賞に出たいと望むなら、まずお医者さんの予測より早く怪我を治し、リハビリを終えねばならない。

 その上叩きも十分にできないまま、一発本番のレースとなる。

 更に菊花賞では、非常に長く高低差が大きいコースを走ることになる。久々のレースで、私はこれまでにない難しいレース運びを求められるわけだ。

 

 担当を勝たせるのがお仕事であるトレーナーにとって、そんな不利な条件で出走させるのは許しがたいものがあるのかもしれない。

 

 ……でも、私には菊花賞に出たい3つの理由がある。

 

 1つ目は、京都レース場に友人を待たせてるってこと。

 ネイチャはずっと前に言ってた。「アンタとは菊花賞で決着付けるから」って。

 彼女はずっと、菊花賞を見据えていた。長距離を走るために過酷なトレーニングを積んで、どう私を超えるかを考え続けてたみたいだった。

 他人には隠そうとしてたみたいだけど……ああも見られてたら流石に気付くってものだ。

 ネイチャは私に、菊花賞での決戦を求めてる。

 だから私は、なんとしてでもそこに出なければならない。

 ……敵に塩を送るような理由で私の脚を酷使することになるから、トレーナーには言えないけどね。言っても心証が悪くなるだけだ。

 

 そして2つ目は……。

 

「だって私、まだ約束を果たしてません」

「約束?」

「最初にG1に勝った時、勝負を始めたじゃないですか」

「あぁ……君が無敗で三冠を取るか、それとも俺が君にレースを楽しませるか、という」

「えぇ、そうです。

 ……あれは私の負けです。だって宝塚記念、すごく楽しかったですから」

 

 高貴で華麗だったメジロマックイーン先輩。

 力強く覚悟の決まったメジロライアン先輩。

 そして誰より、老獪で恐ろしく強かったセイウンスカイ先輩。

 

 あの3人とのレースは、私の心の底から熱を呼び覚ました。

 誰かと走ることを、心の底から「楽しい」って思えたのは、この世界に来てからは初めてで……。

 あんなに楽しかったのは、前世まで含めても初めてだった。

 

 誰かと速さを競うこと。

 相手の策を打ち負かすこと。

 疲れ、戸惑い、それでもなお足を進めること。

 誰より先にゴールすること。

 私を支えてくれた星に、勝利でお返しすること。

 トレーナーと勝利を分かち合うこと。

 

 その全てが……すごく、すごく楽しかった。

 

 だからあの勝負は、私の負けだ。

 何なら完敗と言っていい。

 

「そして、私が負けた時の約束は『レースを楽しんでくること』。

 無敗の三冠最後の1つ、菊花賞。

 ……私が楽しむには、これ以上ない舞台だと思いませんか?」

 

 私がそう言うと、トレーナーは……。

 

「……つまるところ、君が出たいんだな?」

 

 普通に痛いところを突いてきた。

 

 ……うん、それはそう。

 いくら理屈をこねたところで、この沸々と湧き上がる熱には蓋をできない。

 それが菊花賞に出たい、3つ目にして最大の理由。

 

 私はまた、最高のレースを楽しみたいんだ。

 きっとネイチャとならそれができるはず。

 

 勿論、大事な約束があるってのも嘘じゃないんだけど……。

 どうやら私は、誰かのため以上に、自身の内なる衝動に従ってレースに出たがっているらしい。

 

 そして見抜かれた以上、隠し立ては無用だ。

 というかトレーナー、こういうとこだけは敏いから、多分隠し切れないし。

 

「そうですね、出たいです。

 何せここを逃せば、菊花賞には二度と出られないんですから」

 

 そう言うと、トレーナーは……少し瞼を閉じて考えた後、頷いてくれた。

 

「わかった。ひとまず努力してみよう。

 ……だが、どうしても難しいようなら、その時はストップをかける。素直に聞いてくれよ」

「勿論です。頑張りますね」

「いや、頑張り過ぎないように、と言っているんだが……」

「頑張ります」

「……俺、また判断間違えちゃったかなぁ」

 

 そんなわけで、菊花賞の出走が決定した。

 なんとしてでも怪我を治し、秋の京都レース場にたどり着かなければ……!

 

 

 

 * * *

 

 

 

「……さて、君はどうやら驚く程落ち着いているらしい。

 それなら……次は菊花賞以後の話をしようか」

 

 お互いクールダウンするために、少し雑談して時間を過ごした後、トレーナーはそう切り出した。

 私の次走は菊花賞に決まったが、別にそこがラストランってわけでもない。

 勿論私のトゥインクルシリーズはこれからも続くわけで、トレーニングが出来ない今の内にどんどん先の予定を決めてしまおう、ということらしい。

 

 トレーナーは懐から手帳を取り出し、ページを捲りながら改めて口を開いた。 

 

「菊花賞に出られるか出られないかは現状不明として……取り敢えず今は、出られたという仮定の下に話を進める。

 今年の菊花賞は10月27日。この後出られるレースは、と……。

 ……一応聞くが、出たいG2レースはあるか? ないならば、秋のG1レースを中心に考えるが」

「せっかくですし、できればG1レースに出たいですね。

 その方が強いウマ娘と走れますし、トレーナーの箔も付きますし、一石二鳥ですよね」

 

 むしろG2レースに出る意味がわからない。

 もちろんそこに強いウマ娘が出るっていうんなら悪くないけど、どうせなら強いウマ娘だらけの中で走った方が楽しいし。

 特にネイチャみたいなタイプは、周りに強いウマ娘がいないと本調子を出せないわけで。

 そういう意味で、レースの質の高さは、レースの楽しさと直結していると言ってもいいだろう。

 

 しかも大きなレースだと、たくさんファンが来て走りを見てくれるし、グッズも買ってくれる。

 現金な話なので口には出さないけど、一石二鳥どころか一石四鳥だ。

 G1レースしか勝たんまである。

 

「……まぁ、そうだよな。今の君の人気ならまず弾かれることもないだろうし、ステップレースに出る必要もないだろう。

 連続出走や叩きなど、考えなければいけないこともあるが……そこは菊花賞を見てから、だな」

 

 ウマ娘にも色んな子がいて、叩きをせずとも本調子を出せる子もいれば、中にはレースに出れば出る程調子を落としていく子、あるいは逆に調子を上げていく子もいるのだという。

 私は弥生賞から宝塚記念までずっと絶好調と呼んで差し支えない状態だったので、連戦で調子を落とす心配はないだろうけど……。

 

 果たして休養明けでの出走はどうだろう。

 3か月も走るのをやめたことはかつてないので、正直わかんない。

 ある意味、菊花賞が私の性質の試金石になるかもしれないな。

 

 

 

「菊花賞以後、今年中に出られるG1レースは……君の適性を考えると、次の通りだ」

 

 そう言って、トレーナーは手持ちの手帳にいくつかの名前を書き込んだ。

 

 ・エリザベス女王杯 11月10日

 ・ジャパンカップ 11月24日

 ・有記念 12月22日

 

「ジャパンカップに有記念!」

 

 思わず声を上げてしまった。

 いや、だってそりゃ、反応しちゃうでしょ。

 前世で見てたアニメウマ娘における、一大イベントと言っても過言じゃないレースだもの!

 

 アニメ一期、スぺちゃんがブロワイエちゃんを下して、日本の強さを証明したジャパンカップ。

 アニメ二期、テイオーが復帰明けにビワハヤヒデちゃんを下して奇跡を見せつけた有記念。

 そのどちらも、私にとっては激アツイベントである。

 

 ……私はホシノウィルムとして今の世界を生きているわけだけど、だからって前世の「私」ときっぱり決別したってわけじゃない。

 というか、「私」はホシノウィルムで、ホシノウィルムは「私」なのだ。決別する必要性がない。

 最近はすっかり主体がホシノウィルム側になってはいるけど……。

 それでも、前世の経験は嘘にはならない。

 当然、あの2つの一大イベントだって、印象が薄れているわけではないのだ。

 

「珍しいな、君がレースの名前に反応するのは」

「そうですね……やはりウマ娘としては、この2つは逃せないものがあると思います」

「……三冠や宝塚は興味がないのにか」

 

 「そういうウマ娘もいるのだな」と呟きながら、堀野トレーナーは手帳に何かをメモしていた。

 うーん……レアケースではあるけど、そういう子もいるんじゃないだろうか。多分。

 ジャパンカップも有記念も、十分格式高いレースだしね。

 

 ……まぁ、この2つの距離に適性があるなら三冠は目指しそうだし、せっかく有に出るなら宝塚も取ってグランプリ制覇と行きたいのが普通かもしれないけどさ。

 

 三冠はなぁ……アニメじゃ、あんまりメインで取り上げられなかったからね。

 いや勿論、この世界に生きるホシノウィルムにとっては、クラシック三冠は一大イベント。

 その内2つは既に取ってしまったわけで、残る菊花賞にだって想いがないわけじゃない。

 

 ……しかし、ジャパンカップと有記念は、ちょっとばかり違うんだ。

 何せ前世からの憧れと、今世でのワクワク、その両方が重なっているんだから。

 

 その上、海外のウマ娘と戦ったり、とんでもない豪華なメンツで走れるのは、このレースしかない。

 せっかくだし、是非とも出走して楽しんでいきたいところだよね。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 八大競走と並ぶ高い格を持つ、ジャパンカップ。

 世界的には有記念すら超える人気を誇り、ターフにおける世界最強決定戦である凱旋門賞の勝者が乗り込んでくることもあるような一大レース。

 普段は戦えない海外のウマ娘たちと走りを競える、またとない機会だ。

 

 私自身は経験がないから何も言えないけど、かつてジャパンカップで入着した経験を持つミーク先輩曰く、そのレースは普段と違い、『……こう、豪快で、ずどーん、ずばーん、って感じ』らしい。

 どうやら海外ではラフプレイとかチームプレイが許容されているらしく、日本のウマ娘と比べてかなり豪快な走りをするとのことだ。

 是非とも一緒に走ってみたい。実に楽しそうだ。

 

「URAは君に、是非ジャパンカップに出てほしい、という意向を見せている。

 スペシャルウィークがモンジューらに競り勝った3年前のジャパンカップから、日本勢は2連敗を喫しているからな。そろそろ日本の本気を見せたい、という意図があるのだろう」

「モンジュー……?」

 

 ブロワイエちゃんじゃなくて?

 

「おや、知らないか。3年前にジャパンカップに出走したフランスの子だ。

 不慣れなバ場でも十分スペシャルウィークと競り合える、素晴らしい末脚を持っていた凱旋門賞ウマ娘だよ」

 

 ……それ、ブロワイエちゃんじゃなくて?

 

 えーっと……もしかしてスペちゃん、2年連続でジャパンカップ出て、2連続で凱旋門賞ウマ娘に勝ってるの?

 だとしたらだいぶ強……いや、でもスぺちゃんだからな、そういうこともあり得るのか……?

 

 あるいは、この世界だとブロワイエちゃん以外の子が凱旋門賞に勝ち、ジャパンカップに出た……?

 いや、あのエルちゃんすら倒せないブロワイエちゃんを下せる子とか、そうそういるとは思えないんだけど……。

 

「とはいえそのモンジューも当地のドリームトロフィーリーグに進み、今年は今のところ、そこまで目立った外国勢はいないかな。

 前年凱旋門賞ウマ娘も同じくドリームトロフィーに進んだし、今年ジャパンカップを視野に入れているウマ娘には、そこまでの注目株がいない。

 強いて言えば、今年の凱旋門賞出走を有力視される、イギリスのテンダー、フランスのノーブルシンガーあたりか?」

「……えっと、もうそこまで調べてるんですね」

「いや、余暇時間に調べた程度だ。今年中に開催されるレースには、ある程度目星を付けてはいる。

 ……とはいえ、勿論時期が離れれば予想は甘くなる。現状確実なものとは言えないだろうが」

 

 いや、ジャパンカップって5か月以上後だよ?

 今から見て5か月前って言ったらお正月、まだテイオーとすら知り合ってなかった頃だ。

 その時は大差で勝てたテイオーも、今では私とハナ差まで迫って来てるわけで。

 ここからの5か月で、ウマ娘の戦績も能力も、簡単にひっくり返るんだよ?

 そりゃ確実も何もなくない? もはや調査の意味すら怪しいレベルじゃない?

 

 なのに、出るかも決まってなかったレースを目して外国のウマ娘まで調べてるのは……ちょっと仕事熱心が過ぎるよ。

 よく私を「トレーニングジャンキー」と評するトレーナーだけど、そういう彼も言うなら「トレーナージャンキー」だよね。

 ……もしかして私たち、お似合いだったりする?

 えへへ……だとしたら嬉しいけども。

 

「あぁ、それとジャパンカップにはメジロマックイーンが出走予定だったはず」

「マックイーン先輩ですか!?」

「落ち着きなさい。興奮するのはわかるが、あまり体を動かしすぎないように。

 今年のメジロマックイーンの出走予定は……G2京都大賞典、G1天皇賞秋、G1ジャパンカップ、それからG1有記念だったはずだ。

 アクシデントがなければ出てくるだろう」

 

 あのマックイーン先輩と、また一緒のレースで走れるのか。

 それも、他の国の列強たちがいる舞台で。

 おお……いいね、すごい楽しそう!

 

 しかもジャパンカップでぶつかった後、1か月後の有記念でも戦えるときた。

 なんだこれは、楽しさのバーゲンセール?

 もう行くしかないでしょジャパンカップ!

 

「……ジャパンカップに出走するとすれば、エリザベス女王杯は難しいだろう。

 そちらは回避する、という方針でいいか?」

「はい。取りに行きましょう、日本一!」

「いや、別にジャパンカップを取っても日本一とは限らないと思うが……。

 まぁ夢は大きい方がいいか。ではその方向で進めよう」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 八大競走の一角、今年度の最強を決める最終決戦、有記念。

 年度末に行われる最後のG1で、2500メートルというちょっと微妙な長距離のレースだ。

 私が勝った宝塚記念と並んで、「二大グランプリ」と呼ばれている。

 

 伝説の戦士シンザンや、今もドリームトロフィーリーグ現役のイナリワンさん、スぺちゃんさえ差し切って勝利を掴んだグラスちゃんはこの両方に勝ち、「グランプリウマ娘」って呼ばれているらしい。

 宝塚記念もそうだけど、これらのレースは他のものと違い、そのウマ娘の強さや格、潜在的なファンの数などを斟酌せず、純粋なファンの人気投票によって出走ウマ娘が選ばれる。

 故に、そこまで勝率は高くない、人気のあるウマ娘が出ることもあるんだけど……。

 

 これは有記念、年度末の最強決定戦だ。

 歳の締めくくりとして、多くの強いウマ娘たちが出走を望む。

 そのため、トゥインクルシリーズのG1の中でもトップクラスのレースになることが多い。

 

「こちらも、URAとしては君に出てほしいとのことだ。

 まぁ今年これだけ業界を賑わせてしまった君が不在では締まりが悪くなるだろうからな」

「マックイーン先輩以外は、どんなウマ娘が出走するんですか?」

 

 トレーナーは暫く手帳を捲り、答えた。

 

「予定の上での注目ウマ娘は……メジロライアン、ダイタクヘリオス、ツインターボ、それにナイスネイチャと……間に合えばトウカイテイオー陣営も出走する意思を見せているな」

「出たいです、是非!」

「……まぁそうだろうな。了解」

 

 トレーナーは苦笑気味に手帳にメモをした。

 いや、だって出たいでしょ。何だこの夢のレース!

 

 スカイ先輩はいないかもしれないけど、宝塚記念で競ったメジロの2人。

 確かすごい大逃げでレースをめちゃくちゃにするって噂のダイタクヘリオス先輩。

 そこにネイチャとテイオー、そして師匠で私の世代が揃い踏み。

 

 出ないわけにはいかないでしょこれ! 絶対楽しいヤツだもん!

 

 私は明るく楽しい未来に心を躍らせていたんだけど……。

 一方でトレーナーは、少し考え込むような気配を見せていた。

 

「これに関しては少しばかり不穏な噂もあるのだが……いや、君にとっては良い噂か」

「噂、ですか?」

「……いや、すまない、まだ語るべき物じゃない。

 何せ裏が取れていないし、俺としても少し信じがたい話だ。

 もう少し時期が迫ってきたら、改めて話すかもしれない」

 

 ちょっと珍しい。

 この人は基本的に裏取りを欠かさないし、まだ確定してない情報を話そうとはしない。

 それをぽろっと漏らしちゃうあたり、今のトレーナーは本当に疲労が溜まってるのかも。

 

 ……十中八九、というかほぼ間違いなく私のせいだろうな。

 いや本当に申し訳ない。ご迷惑をおかけします。

 できるだけ早く復帰するので、どうかこれからもよろしくお願いします。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そこからも数時間、色々な話をして……。

 トレーナーが帰って行った後。

 

「こっこれ、どど、どうすれば……?」

 

 私の病室には、トレーナーが口を付けたペットボトルが残されていた。

 

 私はこの劇物を、どうすればいいんだろう。

 

 今から電話してトレーナーに取りに来てもらう?

 いや、それはトレーナーに悪いし。

 「明日も来る」って言ってたし、メッセージを送って明日まで取っておく?

 いやいや、昨日口を付けたお水を飲ませるのは気が引けるし。

 

 うん、やっぱりここは内密に処分するのが正解でしょう。

 別に自分の欲望を出してるとかそういうんじゃ全然なくて、普通にそうすべきと思っただけだけど。

 いやー全くもって全然、か、間接キス……とか、期待してないけどねー!

 

 ……さて、これをどう処理するか、だけど。

 …………ちょっとしか飲んでないし、捨てるのは勿体ないよね。

 普通に、何も気にせず飲んでいいのでは?

 そもそも飲むためにもらったものだし? 病院の「飲んでくださいね」って想いを無下にするのも違うし?

 ていうか時代はエコだが? 大事な大事な資源を浪費するとかありえないが?

 

 ……そう。どう考えたって、答えは1つ。

 

 こうなれば、飲むしかない!

 たとえトレーナーと間接キスしたことになろうと、私はただお水を無駄にしないように飲んだだけで、それはただの事故でしかないのだから!

 

 正座……は、できないな。脚固定されてるし。

 よし、せめて深呼吸。

 

「すぅー……ふぅ。よし、いざ……参る」

 

 私は覚悟を決めて、ペットボトルを取って……。

 

 けれど。

 

「なっ……バ鹿な……!?」

 

 てっ、手が、震える……!?

 そんな……私が、この私が。

 ……ホシノウィルムが、緊張してる……!?

 

 私はこれでも、無敗の二冠ウマ娘だ。

 ここまでホープフルステークス、皐月賞、日本ダービー、そして宝塚記念と4つのG1で勝利してきた。

 そして、その1度だって、緊張はしなかった。

 いや、「寒い」を緊張と捉えるなら毎回死ぬほど緊張していたけど、少なくとも手が震えるなんてことはなかった。

 

 そのホシノウィルムが……今、震えている。怯えてしまっている。

 この、何の変哲もないペットボトルに対して!?

 

 ペットボトルの中の水が立てるチャポチャポって音が、私を煽っているかのように感じた。

 『何お前、間接キスくらいでビビってんの?w ガキじゃんw』と。

 

「……っ!! な、無礼(なめ)るな、私だって……!!」

 

 この程度の苦難に負けてたまるか……!

 己の恥ずかしさに勝てないヤツが、恋愛に勝てるワケがない。

 私は……私は!

 トレーナーと……アレだ、なんかこう、いい感じになるんだ!

 こんなところで、足踏みしてられないんだッ!!

 

 私は、不退転の覚悟を決めた。

 震える手をもう片方の手で押さえつけて……。

 ゆっくりと、ペットボトルを口に近づけて……。

 

 

 

「ホシノウィルムさーん。夕食のお時間ですー」

 

「おわぁーっ!!」

 

 

 

 結局、病衣とベッドのシーツを1枚水浸しにしてしまい、看護師さんにぺこぺこと謝ることになってしまった。

 とほほ……もう間接キスはこりごりだよ~……。

 

 

 







 こんなIQの低いホシノウィルム、久々に書いた気がする。
 レース中はカッコ良くても、恋愛になるとこんなもんです。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、とある日のお見舞いの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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ズッコケ三星組

 百合かと思ったらハーレムかと思ったら直火で炙った焼きとうもろこしだった。
 これはガンダムだ、私がそう判断した(判断が遅い)。 





 

 

 

 不幸中の幸い、と言うべきか。

 ホシノウィルムの故障は、骨折という分類の中ではかなり治りの早いものらしい。

 どうやら実際に折れてから検査を受けるまでの時間が非常に短かったらしく、競走ウマ娘の骨折後の状態としてはとても良好なものだったとのこと。

 どれだけ遅くても今年中には復帰できるのだ。一度の骨折で選手生命を奪われるウマ娘が多数いることを思えば、これは僥倖だと言えるだろう。

 

 さて、ホシノウィルムは今まさに、その負傷の療養期間なのだが……。

 骨折の治療というものにも段階がある。

 

 今回は複雑な骨折ではなく手術の必要もないので、最初は骨折部位をギプスで固定する保存的治療を行う。

 ……とはいえ、彼女の場合痛みもほとんどないようなので、2、3日経てば松葉杖付きで出歩くこともできるだろう。

 この際、負傷部位を痛めない程度に周辺の筋肉や関節を伸ばす程度の軽い運動を行っておくとリハビリに効果的らしい。

 

 1か月強経てば、ある程度骨が固まり、ギプスを外しても良い程度の状態になる。

 ここからが本格的なリハビリの始まり。

 硬くなってしまった関節をしっかりと伸ばし、体を解しておく。

 勿論過度な運動は厳禁だ。脆くなっている骨を再び折りかねないからな。

 

 で、3か月程度で骨が完全に癒合する見込み。

 ここまで来れば、もう動いても大丈夫。

 ただし体はかなり弱っているので、かける負荷を少しずつ上げていき、長い時間をかけて以前と同じ状態にまで体を仕上げ直さなければならない、のだが……。

 

 彼女が入院したのは6月11日。ここから3か月後は、9月11日。

 ……そして、彼女が出走を望む菊花賞は、10月27日。

 その間に空いた期間は、おおよそ1か月半。

 その時間で、彼女が果たしてどこまで以前の走りを取り戻せるかは……。

 彼女の体の丈夫さと、天運と……そして俺次第、というわけだ。

 

「……ひとまず、リハビリに関しても兄に相談しようか」

 

 こういう時身内に医療従事者、それもウマ娘方面に強い人間がいると安心感が違う。

 文字通り、使えるものは親でも使って彼女の復帰をサポートせねば……。

 

 ……あ、そうか、その方法があったか。

 

 今は繊細な時期だから無理としても……そうだな。

 今月末あたり、有給消化と報告も兼ねて、一度実家に戻るとしようか。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ホシノウィルムが入院してから、早くも1週間が過ぎた。

 今のところ経過は良好。

 ……むしろ、良好すぎるくらいらしい。

 

 元より、彼女の体が並み以上の頑丈さを持っていることはわかっていた。

 何せ弥生賞からダービーまでの3連戦を不調なく走り切り、ダービーではあの意味の分からない走り方までして、それでもなお故障はなかったのだ。

 無茶なローテーションや走り方をしなければ、彼女はいわゆる「無事之名バ」的な意味でも名バなのだろう。

 

 しかし……まさか回復力まで飛び抜けているとは思わなんだ。

 

 検査の結果を見るに、既に骨が固まり始め、今はもう軟骨状になりつつあるらしい。

 普通はギプスを取るまでに1か月強かかるはずが、このまま行けば3週間から1か月程度で外せるかもしれないとのこと。

 「負傷の治癒速度には個人差があるものですが、ここまで早いウマ娘はなかなかいませんよ」と医師は語っていた。

 

 改めて、ホシノウィルムというウマ娘は「天才」なのだと痛感する。

 鍛えれば素直に応える体、教えたことをスポンジのように吸収する呑み込みの良さ、並み以上の体の頑健さと回復力、努力に向いた精神性。

 彼女は……勝利の星の下に生まれたウマ娘だ。

 殊「走る」という事柄に関して、彼女以上に才能のある者など、そうはいないだろう。

 ……正直、その才能が羨ましいくらいだよ。

 

 しかし、どんな名馬が元になれば、こんなトンデモウマ娘になるんだろうな。

 残念ながら前世の俺は競馬の歴史に詳しくなかったので、「ホシノウィルム号」が前世でどのような戦績を上げたのかは知らない。

 やっぱり、無敗二冠の後、史上初の若さで宝塚記念を取った馬だったんだろうか。

 あー……まぁ確かに、それくらいのぶっ飛んだ最強名馬だったら、彼女のウルトラフィジカルギフテッドも納得できるかもしれない。

 

 あるいは、やはりウマ娘のオリジナル存在、誰かにとってのライバルウマ娘なのだろうか。

 しかし……それにしては、彼女はヒロイック過ぎる気もするんだよな。

 「辛い過去を乗り越えて今を生きる、無敗二冠ウマ娘」。これじゃ誰かの引き立て役じゃなく、主人公そのものだ。

 そう考えると、以前の「ホシノウィルムライバルウマ娘説」は説得力を失ってくるな。

 とすると、やはり前世には……いや、「このウマ娘世界の元になった世界」には、ホシノウィルム号が存在していたと考えるべきか?

 

 んー……駄目だな、わからん。

 というか物証がない話なので、いくら考えても意味がない。

 

 間違いないのは、ホシノウィルムが真正の天才であるってことだけ。

 それ以上は……無理に考える必要はないだろう。

 

 俺が今考えるべきは、「彼女がどういう存在なのか」ではなく「ホシノウィルムというとんでもない天才をどう支えていくか」だ。

 今は彼女にとっても大事な時期。きちんと切り替えていかねば。

 

 

 

 ……しかし「とんでもないウマ娘を担当してしまった」と思い直すのも、これで何度目だろう。

 流石にもう慣れてきたのか、弱音は出てこない。

 いや、むしろ……。

 

 俺はそういう彼女に憧れたのだから、改めて奮起しなければ、と。

 そういう、決起の想いが強かった。

 

「改めて……うん、頑張ろう」

 

 彼女が高く舞い上がるのならば……俺は彼女に惚れた身として、それを支えられるようにならねば。

 そう思い直し、俺は彼女のいる病室へと向かった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、毎日通った結果見慣れつつある廊下を歩き、彼女の病室の扉をノックした、のだが……。

 

「トレーナー!」

「うわ、ちょ、ウィル落ち着きなって! と、堀野トレーナー、おひさでーす」

「もー、あんまり動くとまた折れちゃうよー?」

 

 いつもは静かな病室に、今日はどうやら先客がいたらしい。

 ベッドから嬉しそうにこちらを見るホシノウィルムの他に、病室には2人のウマ娘の姿が窺えた。

 

 1人は、豊かな鹿毛をツインテールにした、赤と緑のクリスマスカラーなメンコを付けたウマ娘。

 その名を、ナイスネイチャ。

 思わず身を起こしかけた患者を止めようと肩に手を置くネイチャは、ホシノウィルムにとって最も親しい友人。

 同時に、レースではありとあらゆる手段を使って彼女を超えようとしてくる、油断ならないライバルでもある。

 

 もう1人、鹿毛の中に綺麗な流星を持つ端正な顔つきのウマ娘は、トウカイテイオー。

 今は窓側のベッドの縁に腰かけて、ホシノウィルムやネイチャを呆れたような顔で眺めている。

 彼女はホシノウィルムに次ぐフィジカルギフテッドで、彼女をハナ差まで追い詰めたこともある実力者。

 しかし激戦となった日本ダービーで負傷が発生してしまい、現在は療養中だ。

 復帰はホシノウィルムよりも少し遅く、年末あたりになる予定らしい。

 

 数日前からホシノウィルムのお見舞いを解禁して以来ちょくちょく来てくれていた彼女たちだが、今日は2人揃って来てくれたようだ。

 

 

 

 ……しかし、ホシノウィルム、トウカイテイオー、そしてナイスネイチャか。

 注目のウマ娘がここまで集まってるのは、ちょっとばかりすごい光景だ。

 

「驚いたな、星の世代の三星が揃い踏みか」

 

 俺が思わず呟いた言葉に、3人は首を傾げた。

 あら、病院暮らしのホシノウィルムとテイオーはともかく、ネイチャも知らないか。

 世間じゃ少しずつ浸透しつつあるあだ名なんだが……さてはトレーニングに集中し過ぎているのか?

 

 俺はタブレットに定期購読している月刊トゥインクルの記事を表示し、彼女たちに見せた。

 そこには例の狂じ……ちょっとヤバめのライター、乙名史記者の書いた記事が載せられている。

 

『星の世代三星! 三等星トレーナー、最新のトレーニング機材購入のため1年間絶食宣言!』

 

 ……後半はいつも通りの誇大妄想、純度100%の妄言なので無視するとして。

 前半の内容は、星の世代という名称や、この世代で三強と目される彼女たちに触れるものだ。

 それを見た彼女たち3人の反応は、三者三様だった。

 

「星の世代……? 私たちの世代のこと、ですか」

「えー、何それ、帝王世代じゃないの?」

「ちょ、は!? これアタシのトレーナーさんなんだけど!? 何やってんのあの人!?」

 

 ……そうか、ネイチャはあの記者の記事を見るの初めてか。

 新鮮な反応を見ると、なんだか温かい気持ちになるね。

 

「安心しろ、後半はただのガセだ。

 だが前半、つまり君たちの世代が星の世代と呼ばれ、それぞれ1から3の等級で呼ばれ始めているのは事実だぞ」

「私が一等星……ちょっとカッコ良いかも……」

「二等星かー。まあいいや、すぐに一等星に上がっちゃうもんねー」

「3……また3……」

 

 あ、そっか、ナイスネイチャにとって3って数字は……。

 い、いやでも、この呼称どんどん広まってるから、どちらにしろ近く彼女も知ることになったはずだ。

 ちょっと落ち込ませちゃったのは申し訳ないけど、こればかりはもう彼女が乗り越えるべき問題だろう。

 すまん……強く生きてくれ、ネイチャ。

 

「つまるところ、君たちが揃っているというのは、おおよそこの世代の最強が揃っているようなものだ。

 不注意に集まらず、記者にすっぱ抜かれておかしな誤解を生まないよう気を付けなさい。

 それとトウカイテイオー、ナイスネイチャ、彼女の見舞いをありがとう。彼女のトレーナーとして感謝する」

「うぇ……ボクたち今怒られたの? 感謝されたの?」

「切り替え早すぎてわかりにくいけど、トレーナーとして注意すべきところを注意した後、個人的な感謝をしてる感じだね、ありゃ。

 怒ってるみたいな言い方だけど、ただ『気を付けてね』って注意しただけと見た」

「ネイチャ、なんか詳しいね」

「これでも半年くらい合同トレーニングで見てもらってたからねぇ……」

「あのスパルタトレーナーに? うわぁ……」

「んまぁ……確かに結構スパルタではあるけど。音を上げても『まだ行け、やれるだろう』って言われたりするし」

「ホントにスパルタなんだ。気絶してもビンタで起こされるってホント?」

「いやいや、流石にそれはデマだって。常識はちょっと足りないけど良識はある人だから」

 

 なんかテイオーとネイチャがボソボソと話しているが、触れても良い未来は見えないのでスルーすることにした。

 漏れてくる言葉を聞くだけでも……うん。

 俺、そんな噂立てられてるんだね。泣いてもいいですか?

 

 

 

 ……さて、改めて、取り敢えず挨拶から。

 

「こんにちは、ホシノウィルム。今日の調子はどうだ」

「こんにちは、トレーナー。今日は2人が遊び……お見舞いに来てくれたので、退屈を持て余さずに済んでいます」

 

 それは良かった。

 いや、本当に良かった。

 彼女はこの一週間、余りにも暇だからってソシャゲに手を出してしまい、レースで得たお金を湯水のごとく溶かしていたからな。

 別にその行為自体が悪いと言うつもりはないし、それで彼女のストレスが紛れるなら俺が金を出してもいいくらいだが、ぶっちゃけ復帰したらやる暇もなく走ることが目に見えてるからなぁ。

 無駄遣いは程々に、だ。

 

 ……というか、少し意外なんだよな。

 ホシノウィルム、案外ゲームとかにのめり込むタイプだったらしい。

 こう見えて結構負けず嫌いな子だし、1つの物事に集中するタイプなので、射幸心を煽られるソシャゲには弱い方なんだろうが……。

 

 なんというか、彼女がゲームで遊んでいる光景は……ちょっと意外に映る。

 いや、これは俺がストイックな彼女ばかり見ていた弊害か?

 彼女だってそれが許される環境であれば、歳相応にゲームやったり漫画読んだりすることもあっただろうし。

 

 むしろ、幼い頃にできなかった分、ここでどっぷりハマってしまったのかもな。

 だとすれば、ここは多少甘やかすのも大人の仕事か。

 うーん……よし、今月の請求額が7桁に行くまでは黙って見守ろうか。

 ……この数日で、既にその限度額の40%くらいは使ってしまっているけども。

 

 話を聞くに、キャラクターカードとサポートカードが別のガチャから排出されるため、好きなキャラクターを強くするには巨万の富が必要なのだと言う。

 ……なんかそのソシャゲに既視感を覚えないでもないが、きっと気のせいだろう。

 

「痛みなどはないか? 時期からして、そろそろ炎症が始まってもおかしくない頃合いだが」

「これと言って感じませんね。今のところ炎症も見られないそうです」

「そうか、それは何より。……すまない、話の邪魔をしたかな。席を外そうか」

 

 同年代の同性、同種族でしかできない話もあるだろう。

 また後で出直そうと思ったが……ネイチャがパタパタと手を振って止めてくる。

 

「別にいいですよー。聞かれて困るような話もしてませんし」

「そーだねー。強いて言えばウィルムが……」

「わ、わーっ! ちょっと、それは秘密だって言いましたよね、テイオー!」

 

 ホシノウィルムは慌ててテイオーの言葉を制するが、テイオーの方はキシシといたずらっぽく笑うばかり。

 元よりそれを言うつもりはなく、からかってたんだろうな。

 

 ホシノウィルムとネイチャは元々仲が良かったのだが、テイオーとも前回の1週間と今回の1週間の入院で、かなり仲良くなったようだ。

 入院生活はとかく刺激がないものらしく、同世代の同性と話すだけでも、かなり退屈が紛れるらしい。

 そのためテイオーは、時々松葉杖を突いて、ホシノウィルムと話しに来ていたのだ。

 

 それに加え、元よりネイチャはテイオーと交友を持っていたらしい。

 結果としてホシノウィルムとネイチャ、ネイチャとテイオー、そしてホシノウィルムとテイオーの間に交友関係が発生。

 そうなると当然というか、自然な流れで3人はつるむようになった。

 

 ……世代でも最強の3人が自然と集まったというのには、どことなく運命を感じるな。

 いや……考えれば、テイオーが興味を持つのは一定以上の強者だけだろうし、ホシノウィルムもネイチャが迫って来たからこそ急激に仲を深めたイメージがある。

 この関係はネイチャの努力によって出来上がったと言える。

 そういう意味では、少し意外だけど、この3人の関係の中心はネイチャなのかもしれないな。

 

「仲が良いようで何よりだよ。

 ……あぁ、忘れていた。ほらホシノウィルム、頼まれていたスマホスタンドだ」

「ありがとうございます。寝ている時、手を使わず動画を見たかったので……助かります」

 

 ぺこりと頭を下げたホシノウィルムは、なんというか本当に……現代文明に急速に馴染んでいる感じだ。

 いや、別に彼女が原始的生活を送ってたわけではないんだけど……寝ても覚めてもトレーニング三昧だった頃に比べると、だいぶ中等部の女の子らしい趣味を持つようになったものだと思う。

 ベッドで横になりながら動画サイトを眺めたり、ひたすらソシャゲの周回をしたりと、コンテンツの消化に余念がない。

 

 ……うん、楽しいなら何よりだけどさ。

 大丈夫だと思うけど、あんまりハマりすぎないでね?

 走れるようになったのにそっちにハマっちゃってサボり癖が付くとか……うわぁ、めちゃくちゃありそうで嫌だ……。

 前世アプリのサボり癖イベントって、本当にそんな感じだったからな……。

 いや、今でも俺が来ればすぐにスマホをスリープにして、楽しそうにレースの話をしているのを見るに、そんなに心配する程でもないと思うけどさ。

 

 

 

 ……さて、落ち着いたところで。

 今日はどの話題を振ろうか。

 彼女たちの会話をただ聞いている、というのもアレだし、俺からも何か話題提供したいところだ。

 

 俺はここ一週間、毎日ホシノウィルムのお見舞いに来ているわけだが……。

 何気に困るのが、話題だ。

 

 最近のホシノウィルムは情緒が豊かというか、感情を少しだけ表に出すようになった。

 流石にこの状態の彼女としりとりをするのはちょっと申し訳ない。

 ……いや、仕方なそうに受け入れてくれて、その上で割と楽しんでくれはするんだけど。

 どうせなら、もっと楽しめる話題を振り、少しでも不安を取り除いてやりたいからな。

 

 なので、最近の俺の業務には「ホシノウィルムに持っていく話題探し」が加わった。

 

 それは例えば、先日トレセンで行われた模擬レースや、そこで好走を見せたウマ娘とか。

 この手の話題はかなりウケが良い。

 宝塚記念で完全に色々振り切ったらしいホシノウィルムは、レースやウマ娘への強い愛着を持ってくれるようになったらしく、話を聞くだけでも楽しそうにしている。

 最初は故障を起こして走れない状態のウマ娘に対して振る話題ではないと思ったのだが、彼女の方からせがまれて以来、毎日のように話すお決まりの話題になっていた。

 

 例えば、来年のレースのこととか。

 勿論来年のことは来年にならないとわからない。

 レース場に改修工事が入ったりする可能性もあれば……考えたくもないことだが、彼女が再び故障を起こして走れない可能性もある。

 故に、まだ予定と呼べるものではなく、あくまで雑談程度でしかないが……。

 それでも彼女は「大阪杯と天皇賞春で春シニア三冠! 宝塚二連覇!」と鼻息を荒くしていた。

 ……その頃になれば、彼女のステータスは今以上に上がっているはずで、もう彼女を止められるウマ娘なんてほとんどいないかもしれない。

 ホシノウィルムの勝利を支えるべきトレーナーとしては矛盾したような発言だが、それは少し困る。

 彼女が十全にレースを楽しむためには、誰かに追い詰められねばならないからな。

 彼女のライバルであるネイチャやテイオー、1つ世代上のマックイーンやライアンたちの奮闘に期待しよう。

 

 例えば、俺の個人的な話とか。

 正直、これは話題に困った時に出したその場凌ぎだったけど、これが案外ウケる。

 昔話とか家族の話とかすると、興味津々って感じで食い入って聞いてたな。

 俺自身はずっと本を読んでいたり体を動かしていたくらいしか話すことがないけど、超人すぎて当時から色んな事件に巻き込まれてた兄、ずっとお兄ちゃんっ子だったのにいつしかグレてしまった妹の話とか、結構人気がある。

 正直、ちょっと気持ちはわかる。

 特に兄は色々すごい人だから、物語として聞くと面白いとは思う。

 ……周りにいると、割と気苦労が多くて大変だったりするんだけどね。

 めちゃくちゃ好き好きアピールしてくる子に気付かず、刃傷沙汰に発展しそうになったりもしたし。

 あまりにも鈍感が過ぎて、当時はため息が出たものだ。鈍感系主人公って、見てるこっちがハラハラするんだよなぁ……。

 

 後は、例えば……今日持って来た、彼女が興味を持っているらしいツインターボの動向とか。

 

 

 

「もう知ってるかもしれないが、近々ツインターボがレースに出走するぞ」

「アクセル師匠が?」

 

 誰だよアクセル師匠。ここに来て新キャラかな?

 

「6月30日のラジオNIKKEI賞に出走予定だ。1800メートルのG3レースだな」

「おお……師匠、ついに重賞デビューを飾るのですね」

「本格化の遅れもあり、勝率は不安視されていたが……ここまでの戦績は2戦2勝。デビュー戦も1発で3バ身差を付けて勝っている。

 ここ2戦は距離の長さや調子の悪さで垂れてしまったが、今回は期待できるかもな」

「師匠ですからね……気持ち良く勝つか大きく負けるか予想が付きません。いえ、きっと勝ってくれると信じますが」

 

 うんうん、と頷くホシノウィルム。

 

 それを見ながら、俺は……テイオーとネイチャに視線を巡らせる。

 うん、やっぱり2人もちょっと疑問って表情だ。

 

 

 

 ツインターボ。

 ツインテールに結った綺麗な青髪と、珍しい赤と青のオッドアイが特徴的なウマ娘だ。

 性格は明朗快活、少し幼げこそあるが、いつでも真っ直ぐ、目の前のことに全力を尽くすタイプ。

 ホシノウィルムと同じ、世代でも有数の大逃げウマ娘でもある。

 

 ……のだが。 

 

 だからと言って、ホシノウィルムが記憶に残すほど有力なウマ娘とも思えないのが現状だ。

 

 確かに、その素質は高い。

 特にスピードやレース勘に関しては見るべきものがある。

 最速で本格化を迎えていれば、あるいはネイチャたちと並んで、ホシノウィルムのライバルに数えられていたかもしれない。

 

 けれど、彼女は半年以上本格化が遅れてしまった。

 そのため同期のウマ娘たちより半年分、ステータスやスキルが出遅れてしまっている。

 特にそのスタミナの低さは、逃げウマ娘として致命的と言っていい。

 回復系のスキルを覚えていないため、道中で上手く機転を利かせなければ垂れてしまう。

 ……たとえ機転を利かせて脚を溜めても、恐らくその距離限界は2000メートル。頑張っても2200メートル程度だろうというのが俺の推測だった。

 

 それでもなお2戦2勝というのは、確かにすごいものがあるが……。

 ハッキリ言って、今のターボは重賞優勝ウマ娘が関の山、G1ウマ娘にはなれないというのが世間の見方だ。

 彼女はレースを盛り上げてくれるし、時に大きく勝ってどんでん返しを見せてくれる。

 ……けれど、ここにいる三星に届くほどではない、と。

 俺から見ても……申し訳ないが、その評価が的外れとは思わない。

 

 しかしそうなると謎なのが、ホシノウィルムが彼女に注目している理由だ。

 彼女は何を基準に、どういうウマ娘に目をかけているのか。

 それは長い間、そして今でも、俺の中での大きな疑問だった。

 

 彼女も最近は、割と他のウマ娘に対してコミュニケーションを取っているんだが……ツインターボのそれは、他と一線を画する。

 何せ、まだ他のウマ娘に関心を持っていなかった頃、その名前を聞いただけで椅子をひっくり返して倒れるくらいの過剰反応だったからな。

 他にもネイチャ、テイオーあたりもかなり反応が強かった覚えがある。

 ……本当、何を基準にしてるんだ?

 

 ウマ娘の素質や素養に反応しているのだろうか。……いや、だとすればハートブロウアップやリオナタールといった強いウマ娘に反応しない理由がわからない。

 距離や脚質、バ場の適性を見ても、彼女が反応するウマ娘はバラバラで統一性がないように思える。

 

 ……やはり、ネームドに反応しているのか?

 しかし、だとすればネームドの中でも反応しない子がいたのが謎だ。

 

 どうにも基準がわからないな。

 もしかして、彼女の元となった「ホシノウィルム号」に関係があるとか……?

 

 そしてもう1つ、彼女の反応基準の他に疑問があるとすれば……。

 

 

 

「ずっと気になってたんだけどさ、なんでウィルム、ツインターボのこと師匠って呼んでるの?」

 

 テイオーが俺の疑問を代弁してくれた。

 そう、そこだ。

 

 ホシノウィルムはツインターボのことを「師匠」と呼ぶ。

 もしくは「ダブルターボ師匠」とか「ダブルジェット師匠」とか「ツインドライブ師匠」とか「フタツエンジン師匠」とか、その他色々。

 真面目な話をする時はきちんと「ツインターボ師匠」って呼んでるあたり、覚えてないんじゃなくてふざけて間違えてるんだろうから、後者は置いておくとして……。

 

 師匠呼びって何なんだろうな。

 

 例えばこれが、ホシノウィルムはターボの大逃げに憧れて自分も大逃げをし始めた、とかならわかる。

 だが彼女が大逃げを身に付けたのは、俺が逃げ方を教えて選抜レースに出した際。

 恐らく、周りのウマ娘に距離を詰められそうになって必死に走った結果、それが大逃げになったんだと思う。

 それで1発でスキル「大逃げ」を覚えるあたり、彼女の「切れ者」っぷりが出ているが、それはともかく。

 

 その時点でのターボは、まだ本格化も来ていなければ、ステータスも……平均よりは高いけど、彼女のように飛びぬけているものではなかった。

 彼女が師匠と仰ぐレベルの大逃げができたとは思えない。

 

 時系列が逆なんだよな。

 一時期世間が言っていた「ツインターボの走り方はホシノウィルムのパクリ」っていうのはあり得ないとしても、大逃げをし始めたのは間違いなくホシノウィルムの方が先。

 強いて言えば、ホシノウィルムの方こそツインターボの師匠になるべきウマ娘なはずだ。

 

 その上、ホシノウィルムとターボの間に面識はなかった。

 いや、ホシノウィルムはターボを知ってたっぽかったけど、それは一方通行のものでしかなかった。

 彼女がターボと知り合ったのは、今年の2月に行った模擬レースの際だ。

 

 では何故、ホシノウィルムはターボを「師匠」と呼ぶのか。

 それは担当トレーナーである俺も知り得ない、彼女の秘密だった。

 

「あ、それアタシも聞きたいわ。堀野トレーナーさんは知ってます?」

「いや、俺も知らない。ホシノウィルム、何か理由があるのか?」

 

 ネイチャの問いに首を振って、ホシノウィルムを見やる。

 

 俺、テイオー、ネイチャの3人にじっと注目され、ホシノウィルムは……。

 

 …………?

 

 今この子、一瞬だけ「あ、ヤバ」みたいな気配を出したような。

 

「て、テイオーがそれを……い、いえ、特に深い理由は……えっと」

「何、恥ずかしい話? ネイチャさんに話してみな~?」

「そうだぞ、テイオー様に話してみろ~!」

 

 かなり珍しいホシノウィルムの動揺に、友人2人はここぞとばかりにからかいに行く。

 

 ……しかし俺は、直前の彼女の表情の方に意識を引っ張られていた。

 彼女の瞳からは、間違いなく……「怯え」、「危機」、あるいは「緊張」の色が見て取れた。

 何故……? ただあだ名の由来を聞かれただけで、何故そこまで危機感を覚える必要がある?

 

 俺はまだ、彼女のことを知悉しているわけではない。

 しかし、それにしても……その反応は、なんとなく違和感があるというか、「ホシノウィルムらしくない」気がした。

 

 ……いや、今思えば、彼女は過去にも何度か、ああいう表情をしていたような?

 

「そ、その……いえ、別に恥ずかしい話というわけではないんですけど。

 デビュー前、果敢に走る師匠の姿に元気をもらって、それ以来勝手に師匠って呼んでるんです」

「なーんだ、ホントに全然恥ずかしい話じゃないじゃん」

 

 その言葉に納得したのは、昔のホシノウィルムをよく知らないテイオーだけだ。

 

「……あの頃のウィルが……?」

 

 ネイチャは怪訝そうに呟いているし……俺も表情には出さないが、違和感を覚えた。

 勝つことで頭が一杯だったホシノウィルムが、誰かの走りを見て「元気をもらう」とは思えない。

 合同トレーニングをしたがるくらい気に入っていたネイチャさえ、いざレースになれば敵としてしか見ていなかったんだから。

 

 走ることを目的ではなく、ただの手段としてしか見ていなかったホシノウィルム。

 そんな彼女が、誰かの走りに元気をもらうなんてことがあるのか……?

 

「む……なんですか、トレーナーにネイチャ。

 私だってウマ娘です、そういうこともありますよ」

 

 そう言った彼女の表情に……。

 

 

 

 これ以上探ってくれるな、と。

 そういう想いが、見えた気がした。

 

 

 

 ……そう、俺はまだ、彼女のことを知悉しているわけではない。

 彼女の最たるトラウマを知り、それを緩和することはできたが……だからと言って、全てを教えてもらえるというわけじゃないんだ。

 

 

 

 だが、それでもいい。

 

 俺と彼女にはまだ時間があるし……最悪、明かしてくれなくても構わない。

 人には誰しも、他人に知られたくない部分がある。普段は意識の奥底に葬って、考えないようにしているようなことが。

 そういうものはきっと、無理に表出させるべきものじゃない。

 今年の春先、北海道の墓前に赴いた際のように……自分が言いたいと思った時に、言いたいと思った人にだけ言えばいいんだ。

 

 それに、わざわざ確認はしないけど……。

 彼女は「ずっと」、俺のウマ娘らしいからな。

 

 ホシノウィルムを知り、信頼を築き直す時間は、まだまだ残されている。

 本当に大事な部分さえ隠さなくていいと思える程に、俺が信頼されれば……。

 きっとホシノウィルムは、いつかそれを明かしてくれるだろう。

 

 故に、そこについての思考を封印する。

 きっといつか、「何だ、そんな理由だったのか」と笑い合える日が来ることを信じて。

 

 そうして俺は、ターボのG3レースに話題を戻したウマ娘たちの会話を聞きながら、しばらく安穏の時間を過ごした。

 

 

 

 







 テイオーが最初気だるげだったのは、それまで1時間以上ホシノウィルムがトレーナーとの惚気話をしてたからです。
 恋愛脳堕ちって怖いね。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、爆死と後輩の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざと出ない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!
 今回はちょっと多すぎたので反省です……。


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カネヲカケル

 ガチャノヒッキー
 スリヌケノガシタル
 トーゼンテンジョーダン





 

 

 

 LUC、というステータスがある。

 昔ながらのRPGゲームでは王道の、いわゆる「運の良さ」を示すステータスだ。

 私の印象としては、正直一般的なステータスの中では一番微妙な数値って感じ。

 

 まず一番大事なのは、敵をスムーズに倒すSTRとかINTとかだ。これらがないと無駄に攻撃を受けたり行動されることになるし、ジリ貧になる可能性が高い。

 次に、相手を殴り倒すまでに攻撃を耐え切るDEFとかVITあたり。やりこみプレイの領域になると無駄に回復行動とかしてる暇がないので、この辺の数値も結構大事な印象がある。

 その次あたりに、回避率や命中率を決めるAGIとかDEXあたりが入って来るか。正直回避は望み薄だが、こちらの攻撃が命中しなければ勝負にもならない。最低限の数値は欲しいところだね。

 ……で、最後にLUC。状態異常の付与・被付与率とかクリティカル率、ドロップ率とかに関連する数値だ。でも、逆に言えばそれだけ。稼ぎ中や縛りプレイ、RTAで使うことはあっても、通常プレイで優先的に上げることはあんまりないだろう。

 

 もちろん、人によってステータスの重要性は変わって来るし、これが唯一無二の正解なんて言うつもりはない。

 ゲームの質によってはタンクとかヒーラーとか、役割を分けないといけないことも多いしね。

 そうなると全員1種のステータスに極振りするよりも、それぞれ役割に添ったステータスに極振りした方が良かったりもするわけで……。

 

 ……いやいや、本題はそっちじゃなくて。

 

 今大事なのは、私にとってLUC、つまり運は微妙なステータスだったってこと。

 

 でも、それはあくまで前世でやってたゲームの中での話。

 リアルの世界で一番重要なステータスって、ぶっちゃけ運だと思うんだよね。

 

 リアルで運がないとどうなるかと言うと……。

 例えば、両親との仲が噛み合わず家庭が崩壊した上、本来の形を取り戻せないまま死に別れたりする。

 いや、勿論運だけってわけじゃなくて、それぞれが相手に寄り添うだけの余裕を欠いていた部分も大きいんだけど……そこも含めて、環境を構築する運がなかったなとは思うね。

 

 で、逆に運が良いとどうなるかと言うと……。

 例えば、トレセンに来てすぐに理想のトレーナーと出会えたり、信頼できる良き先輩、尊敬と友情を抱けるライバルたちと知り合えたりする。

 これも運だけってわけじゃないけど以下省略。

 

 ……こう見てみるとわかるんだけど。

 ホシノウィルムっていうウマ娘は……なんというか、運の偏りがすごい。

 時にLUCが1になることもあれば、99になることもある。そんなピーキーなウマ娘なのだ。

 

 で。

 そんな上振れと下振れが日常生活でも襲ってくるわけで。

 つまり何が言いたいかって言うとさ。

 

 ……爆死する時には、そりゃもう綺麗に大爆死するのだ。

 

 

 

「くっ……! ふっ、ふーっ……うぐぐ……!」

 

 おかしい。

 おかしいおかしいおかしい絶対おかしい!

 

 私は病室で1人、息も荒くスマホを握り潰し……かけて、ウマ娘パワーだと本当に潰れかけないので我慢していた。

 

 憎しみを込めた視線の先には、最近流行ってるらしいソーシャルゲーム……そのガチャ結果が示されている。

 10枚並んだカードは、その内9枚が銀色の縁取りで、1枚だけが金色。

 このゲームにおける最高レアリティは虹色の縁取りであり、ぶっちゃけそれ以外は全部ハズレだ。

 更に言うと、10連で引くと1枚は必ず金になるので、この結果はいわゆる最低保証というヤツになる。

 

 つまるところ、完膚なきまでに爆死であった。

 

 しかし私も素人ではない、たかだか10連回して最低保証を引いても「まぁそんなもんでしょ」と受け止める、ソシャゲガチャに慣れ切ったオタクメンタリティを持っている。

 ……いや、今世でソシャゲやるのはこれが初めてだし、持っていた、って言うべきかな。

 

 しかし。しかし、だ。

 最高レアの確率は3%、ピックアップの的中率はその半分。

 つまり、期待値的には大体66回程度回せば1枚命中すると言える。

 

 それなのに……。

 

「回転数、600……おかしい、60連で命中する確率を2分の1とするなら、既に1024分の1023の確率で引けているはずなのに……!」

 

 偉い人は言いました、回転数こそ全てであると。

 どうこういう条件なら当たるという宗教も、単発で引いた方が当たるという迷信も、全ては無価値。

 ガチャに王道なし。

 結局は回した試行回数こそが正義であり、それによって「当たらない可能性」を排除していくことが唯一の歩みなのである。

 

 でも20人近い諭吉が消し飛んで1枚も命中しないのは違くないか。

 違うでしょ! もっと私に優しくあれよ現実!!

 

 

 

 ……私は今年の4月あたりに借金生活を抜け出し、今ではすっかりお金持ちとなった。

 オープンを1つ、G2を1つ、G1を4つ制し、いつしか戦績的には競走ウマ娘の中でも最上位と言っていい状態まで来た。

 その上私はこう見えて、ライブやファンサービスは割としっかりこなす方だ。

 そうなると当然人気も出てくるわけで、人気がすごくなればグッズが飛ぶように売れるわけで。

 口座の通帳を見ると、ちょっとすごい数字が記入されてる。

 多分、質素に暮らそうとすれば一生持つかな、くらいの金額である。

 

 でも、金銭感覚が即座に跳ね上がるかと言うと、それは違った。

 今でも特売と言う言葉には心躍るものがあるし、割引シールには目を引かれる。

 だいぶ慣れてはきたけど、コンビニで物を買うのにも少し抵抗が残っているくらいだ。

 

 だが「私はめっちゃお金を持っている」というイマイチ現実感のない認識もあるわけで。

 ……それがつい、財布、というか通帳の紐を緩めてしまった。

 

 その結果何が起こったかと言うと。

 ついソシャゲに課金してしまっては「私はなんてことになんて量のお金を使ってるんだ……!」とすごい罪悪感に襲われる、っていうアホみたいな自滅が繰り広げられていた。

 しかもここまで来ると引くに引けない。途中で挫折したなんて失敗案件は残せない……!

 

 

 

「ぐっ……ぐぎぎぎぎ……!」

 

 病室が個室なのを良いことに、小さくベッドの上で呻き声を上げる。

 

 いや、別に課金は悪いことじゃないんだ。

 このゲームにはお金を払うだけの楽しさや充実感があったってことで。

 これはひとえに楽しませてもらったことへの返礼であり、続きの開発も楽しみにしてますという意思表示でもある。

 

 ……でもさ、爆死は違うじゃん。

 もうちょっとユーザーに優しくてもいいじゃん。

 

 もしかして、私のアカウントだけバグってる?

 というかむしろバグであってくれない?

 もしくは私のガチャからだけは排出されない仕様じゃない?

 

 既に3回天井して3凸したわけだが、ピックアップ対象のカードが当たった回数は0。

 あと1凸しないと……あと1凸しないと、この子の本当の性能は出せない。

 ただでさえ1回ガチャを回すのに300円っていうアホみたいなお金かかるのに、まだあと200連、ろ……6万円、かけなきゃいけないの……?

 

 というか、ここまでの600連、当たった最高レアはすり抜けの1枚だけだった。

 600連回して、3%が1枚。

 期待値は18枚なのに、現実は1枚。

 

 あまりに悲壮な現実に、私は自分の心が闇に落ちていく感触を味わった。

 

「ぐぐぐ……運命め、そんなに私が嫌いか……!」

 

 憎いよ……この世界の全てが、憎い……!

 

 許せない……SNSで煽って来るヤツも……単発で当たった報告するヤツも……!

 あと悪意はないと思うけど、私のウマッターでの爆死報告に「こっちは当たりましたw」とかってガチャ結果送りつけて来るヤツも……!

 

 私と比べて遥かに少ない労力で勝利と喜びを甘受するなんて……許せない……!

 ガチャは悪い文明……この世界には不要。

 滅ぼす……滅ぼしてくれる……!!

 

 手始めにお前だ、私の手の中のクソスマホ、この煮えたぎる怒りを思い知……!

 

 

 

 ブーッ、とスマホが振動して、思わず振り上げた手の中でわたわたとスマホをお手玉。

 慌てて掴みなおして、応答ボタンとスピーカーボタンを押した。

 

 このスマホ、私は連絡手段としてはほとんど使ってない。

 主な用途はSNSでの情報発信、ソシャゲ、動画視聴の3つだ。

 連絡先なんて、トレセンに入るまで助けてもらってた親戚の方やネイチャにおススメされた美容院とかも含めて5件くらいしか登録していないし、SNS関係は全部通知切ってる。うるさいから。

 

 その上で、私のスマホが振動するとなれば、それは即ち……。

 

「トレーナー!」

『うん、こんにちは、ホシノウィルム。今、時間、平気か?』

 

 そう、私のトレーナー、堀野歩さんからの通話なのだ。

 

 スマホのスピーカーから聞こえてくるのは、いつもと少し違う、電波に乗ったトレーナーの声。

 どうやら歩きながらの通話のようで、時々車の行き交う音や何かのアナウンスみたいな声が途切れ途切れに伝わって来る。

 

「大丈夫です、何かありましたか?」

『いや、特には。今日は様子を見に行けないから、少し声と調子を聞いておきたかっただけだ』

「なるほど。……えっと、あと2時間程度なら大丈夫です」

『いや2時間は話さないが。……うん、今日も元気そうだな、安心した』

 

 うへへ……めっちゃ気を使ってもらってる。

 やっぱ嬉しいね、好きな人に心を割いてもらえるのは。

 

 今日はトレーナーがお見舞いに来れないらしくて少し残念だったけど、こうして声が聴けるとは。

 心を満たす温かい気持ちに、思わずスマホを両手で包みこむ。

 私とトレーナーを結ぶ大事な縁の1つ。スマホ様は神様だ。

 かろうじて壊さず我慢したからこそ、こうして今日もトレーナーとお話できるわけで。

 うん、いくら爆死しまくったとしてもやっぱり物に当たるのは駄目だよね!

 

 皆、爆死したとしても、その苛立ちを物にぶつけちゃダメだよ!

 物は大事に使おう! 憎しみは何も生まない! 暴力反対、ラブ&ピース!

 

『何か変わったことはあったか?』

「…………特には。ああ、今日は師匠のレースが見られるので、楽しみにしています」

『うん、君と同じ大逃げウマ娘だ、参考になる部分もあるかもしれない、しっかり見ておくように』

「トレーナーの方は……えっと、ご実家に帰省、でしたよね」

『すまない、本当は君の傍にいたかったが……明後日にはまた見舞いに行けると思う』

 

 聞くに、トレーナーは3年ぶりに実家に帰省してるらしい。

 ずっと「いい加減有給消化してくださいね?」ってたづなさんに怖い笑顔で詰められてたし、ご実家の方に用事があるとのことで、私のリハビリが本格的に始まる前に消化する方向に舵を切ったらしい。

 

 ……本音を言うと、2日間とはいえ会えなくなるのはちょっと寂しいけど、トレーナーにもトレーナーの生活がある。

 そこを束縛するのは、何というか、よろしくない。

 私はトレーナーに好いてほしい。けど、そもそもまだ意識すらされていないのが現状だ。

 「私だけを見てほしい」みたいな領域には、とてもじゃないけど入ってない。それを求められるだけの、トレーナーからの想いがない。

 そんな時に束縛なんかしてみ? そりゃもう嫌われ一方通行よ。

 

 てかそもそも私、重い女にはなりたくないんだよな。

 私は堀野歩トレーナーのことが好きだ。人としても、恋愛的にも。

 でも、だからって必ずしも彼が私の感情を受け取り、同じものを返してくれるべきとは思わない。

 

 「これだけ愛してるのになんでわかってくれないの!?」とか言い出すメンヘラがよくいるけど、そりゃお前が相手を慮らない、独りよがりでエゴイスティックな愛しか持っていないからだ。

 自分から出したら相応のものが返ってくるというナイーブな考えは捨てろ。

 この世界はそんな優しくない。私はそれを、よく知っている。

 愛されたいのならば、相手が愛してくれるように気に入られるしかない。

 本当にすべきは、相手の方から求めてもらえるよう自分の魅力をしっかりアピールし、決して迷惑をかけないようにすることだ。

 

 自分の恋愛感情を叶えることも大切だが、その欲望は相手の感情と等価値。

 どちらを優先していいってものでもない。

 大事なのは相手の気持ちを尊重しながら、それを自然と自分の方に傾かせていくこと。

 つまりは篭絡だ。いや篭絡はちょっと言い方悪いか。ちゃんと好きになってもらうこと、かな。

 そうして土台からしっかりと作り上げた関係でなければ、決して長続きしない。

 

 ……以上、前世で100冊以上の恋愛漫画を読み漁った私の恋愛哲学でした。

 

 まぁ恋愛に限らずとも、自分の汚い感情やエゴを丸出しにして、評価されたり好かれたりすることなんてないからね。

 その辺の欲望はひけらかさず、同時に抑えつけない、適度な形での昇華が望ましい。

 なので……そうだな。

 

 ……これくらいは、言っても良いよね。

 

「寂しいので、早く帰って来てください。

 ……いや、早く帰って来てね?」

『……ああ、明後日には必ず会いに行くよ』

 

 

 

 それから10分くらい話して、トレーナーとの通話は終わった。

 もう声が聞こえてくることのないスマホを……なんとなく、胸の前で抱き締める。

 

 ああ……私、やっぱり好きなんだな。

 堀野トレーナー……堀野歩さんのこと。

 

 更に言えば、こっちはあくまで友人としてだけど、ネイチャも、テイオーも、ミーク先輩も。

 師匠も、ブルボンちゃんも、後輩ちゃんたちも、皆好きなんだと思う。

 

 私は、今自分がいる環境が好きだ。

 ずっと続いてほしいって思うくらいに、大好きだ。

 

 この環境がどれだけ恵まれたものか知ってる。

 残酷な世界の中で、どれだけ得難いものであるか、よく知ってる。

 だからこそ……。

 

「……壊れてほしく、ないなぁ」

 

 ……1週間と少し前。

 「なんでターボのことを師匠って呼ぶの?」とテイオーに聞かれた時、私は仮面で隠しきれないほど動揺し、緊張してしまった。

 怖かったんだ。

 前世の記憶がある、なんて知られたら……またあの目を向けられるかもしれない、って思うと。

 

 そんなわけないって、理性ではわかってる。

 ネイチャもテイオーも、どっちもすごく優しい。トレーナーならきっと受け入れてくれる。

 そう頭では理解できても、それでも怖いんだ。

 

 もしも今の環境が崩れれば……私はきっと、今度こそ耐えられないから。

 

「でも、いつか……トレーナーにだけでも、明かせるようになる日が来るといいな」

 

 それは仄かな、何の保証もない希望だったけど。 

 ……未来に希望があるってのは、思っていたより何倍も……温かくて、気持ちの良いものだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 トレーナーとの通話が終わって、改めてガチャを回したら、最初の10連で2枚抜きして微妙な気分になったり……。

 SNSにこの爆死の形跡を残した後、落ち着くために動画サイトでペットの動画とか見て心を満たしてる内、時間は過ぎていき……。

 

 

 

 時刻は15時30分過ぎ。

 そろそろダブルジェット師匠の走るレース、ラジオNIKKEI賞が始まる頃合い。

 私はベッドの上で、スマホからレースの中継を見ていた。

 

 G3、ラジオNIKKEI賞。

 福島レース場右回り、芝1800メートルのコース。天気は晴れ、バ場状態は良バ場の発表。

 

 私は福島レース場で走ったことがないから、正確にはわかんないけど……。

 緩やかとはいえ3回も登り坂を越える必要があるのは、大逃げウマ娘である師匠には若干厳しいと言えるのかもしれない。

 ただ、その距離は1800メートル、マイルの範疇だ。

 そこまでスタミナが必要なレースじゃないと言っていいと思う。

 

 師匠は根っからの逃げウマ娘。

 前半で稼いだリードでなんとか逃げ切る、ってのがメインの戦術になるだろう。

 距離の短さは基本的に有利に働くはずだし……。

 

「うん、大丈夫そうだ」

 

 カメラが遠くから、師匠の姿を捉える。

 

 師匠は今日も、やる気満々な笑顔でレースに臨んでいる。

 その様子からは不調の気配なんて感じ取れない。

 5番人気とはいえ、その実力は本物。

 後は緊張して入れ込んだりしなければ……。

 

 

 

 コンコンコンと、規則正しいリズムで病室のドアがノックされる。

 

 あれ、誰だろ。

 看護師さんが来る時間じゃないし、テイオーとネイチャも今日は来れないって言ってたはず。

 勿論、実家に帰ってるはずのトレーナーでもないし……。

 変なマスコミだったらどうしよ、トレーナーを通さず接触するわけにはいかない。

 

 ……とはいえ、流石に外で待たせるわけにもいかないよね。

 ちょっと警戒しながら、訪問者を招き入れる。

 

「どうぞ」

「失礼します」

 

 返ってきた言葉は、どこかで聞いたことのあるもの。

 久々に聞いた、冷たく澄んだその声は……。

 

「ミホノブルボンちゃん」

「はい、お久しぶりです、ホシノウィルム先輩」

 

 ドアを開けて入って来たのは、私の後輩。

 ジュニア級ウマ娘、ミホノブルボンちゃんだった。

 

 

 

 ミホノブルボン。

 

 ロングに伸ばされた栗毛も綺麗で、身長も高く胸も大きい、私の1つ下とは思えない大人っぽいウマ娘だ。

 お子様体型に悩まされる私からすると、正直色々と羨ましい。

 

 前世のアニメにも出演してた子で、常に冷静沈着でストイック、感情の読みづらい無表情な女の子。

 ……髪色とか体の大きさとかこそ違うけど、パッと見の属性だけだと結構私と被ってるんだよなぁ。

 

 あ、でもこの子、とてもじゃないけど真似できない大きな特徴があったな。

 アニメではそうでもなかったと思うんだけど、この世界のブルボンちゃん、なんか機械的っていうか、アンドロイドみたいな喋り方するんだよね。

 一度話したら忘れられない、めちゃくちゃインパクトのある個性だ。

 最近無個性なことを気にしてる私としては、こっちも羨ましい。……「隣の芝は走りやすい」ってヤツかもしれないけど。

 

 で、そんなブルボンちゃんと私は、ちょっと前に話したことがあった。

 あれは確か皐月賞直前だったから……もう2か月前のことになる。

 その内容は……今思うと、どういうことだったのかよくわかんないんだけど。

 要約すると、自分の血筋は中長距離に向いてないけど、なんとかクラシック三冠を狙いたいっていう相談だったと思う。

 

 何をトチ狂ったのか、この世界じゃブルボンちゃんはスプリンターとして評価されてる。

 前世アニメにおいて無敗で二冠を取ったブルボンちゃんが、だ。

 

 まぁ確かに、ウマ娘のレースは「ブラッドスポーツ」と呼ばれる側面がある。

 自分の母親の距離や脚質の適性は大抵の場合、子のウマ娘に大きな影響を与える……というか、その素質の大部分を決めてしまう。

 これは広く知られる一般常識だ。

 その上で、ブルボンちゃんの血筋はスプリンター向きのものらしい。

 故に、多くのトレーナーや関係者は、彼女をスプリンターの卵として見てるんだって。

 

 ……でも、血は絶対じゃない。

 しばらく前に一世を風靡したらしい、現ドリームトロフィーリーグ所属の芦毛の怪物、オグリキャップさん。

 皐月賞と菊花賞、そして今年の天皇賞(春)を制した黄金世代の二冠ウマ娘、トリックスター、セイウンスカイ先輩。

 そして何よりこの私、ホシノウィルム。

 

 血に頼らない個人の素質やトレーナーと共に積んだ努力で、その血の限界を乗り越えたウマ娘は実在する。それも、決して少数でなく。

 きっとブルボンちゃんも、そういうウマ娘の1人なんだと思う。

 なので「いや君なら行けると思うけど。トレーナーもそう言ってたし」とマジレスしたら、何やら驚いたような顔で感謝されて、話は終わった。

 

 今思うと、彼女が何に納得したのかもよくわかんないし、悩みを解決できたような気もしない。

 ……いや、それを言っちゃうと、時々ジュニア級の子から持ち込まれる相談、私はほとんど聞くことくらいしかできてない。

 精々トレーナーに伝えて、彼女たちに合うトレーナーを紹介してもらったり、アドバイスを伝達したくらいだ。

 頼りがいのある先輩をできてる気はしない……んだけど、あれからもちょくちょく相談持ちかけられたりするんだよな。謎だ。

 

 

 

 さて、そんなことがあってから早2か月。

 私が忙しかったってこともあって、ブルボンちゃんとはお話とかする暇もなかったんだけど……。

 まさかそんな彼女が、お見舞いに来てくれるとは思わなかったな。

 

「いらっしゃい、ブルボンちゃん。お見舞いに来てくれたの?」

「はい。オペレーション『お見舞い』を実行しています」

 

 ……改めて、強烈な個性だなぁ、その喋り方。

 私、強い以外にはあんまり特徴のないウマ娘だから、正直ブルボンちゃんのキャラ立ちが羨ましいよ。

 世間にアピールするにも、トレーナーにアピールするにも、キャラクター性って大事だからね。

 キャラが弱いってのは、それだけでだいぶ致命的なんだ。

 その上私、体がこの通り貧相だし……多分私がソシャゲのキャラとしてガチャに実装されても、全然回らないんだろうなぁ。

 

 と、と、そうだ。

 

「ごめんね、ちょっと待って。友達の重賞レースがあるんだ」

 

 そろそろ師匠のレースが始まっちゃう。

 ブルボンちゃんとは明日も話ができるけど、ジェット師匠のラジオNIKKEI賞はこれが最初で最後。

 ちょっと申し訳ないんだけど、こっちを優先させてもらおう。

 

「……謝意を表明します。お邪魔してしまい、申し訳ありません」

「大丈夫。でも、10分程度待ってもらえる?」

「了解、ミホノブルボン、待機モードへ移行します」

「……ただ待ってもらうのも悪いし、一緒にレース観戦しようか。ほら」

 

 ちょっと端に寄ってブルボンちゃんにスペースを空け、スマホをベッドに立てかける。

 ……ちょうどゲートイン中か。危ない危ない。

 

「先輩のご友人、というのは……」

「4枠7番のダブ……ツインターボし……ちゃんだよ」

「ツインターボ先輩。やはりお強いのでしょうか」

「うーん……うん、少なくともこの中だと強いんじゃないかな」

 

 ちょっと意地の悪い言い方になっちゃうけど、まぁそれはそう。

 今回師匠が出走したラジオNIKKEI賞は、G3レース。重賞の中では最も格が低いとされるレースだ。

 当然と言えば当然なんだけど、格が低いと、それだけ実力者も少なくなるからね。

 本格化が遅れてスペックが控えめな師匠だけど、それでもこの面子の中ではかなり強い方らしい。

 

 トレーナー曰く、今回のレースは「ツインターボが本調子で走れれば7割ツインターボが勝つ」。

 レース全体のペースを基準に考えて、今のエンジン師匠はテンから終いまでハイペースで飛ばせるだけの持久力があるらしい。

 問題があるとすれば、きちんとスタートダッシュを決められるか、最初の内に先頭をもぎ取れるか、そして後方を意識し過ぎて掛からないか。

 それらの不安要素さえ解決すれば、ツインターボはおおよそ1着になれるスペックは持っている、ってトレーナーは言ってた。

 

 勿論、これがG2とかG1になると、レース自体の基本ペースが速まって来て、更に速度を出さざるを得なくなる。

 そうなると必要な体力も跳ね上がっていき、ずっとハイペースとは行かなくなるだろうけど……。

 少なくとも、今の師匠はこの距離のG3なら普通に取れるだけの実力がある、ってことだ。

 故に、「この中なら強い」という評価が妥当なところだと思われる。

 

 ……ってのを、ブルボンちゃんにかいつまんで話した。勿論、トレーナーの受け売りってことも添えてね。

 

「トレーナー、レース展開の予想は今まで9割くらい当ててるから、信じていいと思うよ」

「なるほど」

 

 そう話している私たちの前で……ラジオNIKKEI賞は始まった。

 

 バ群の中からぐんぐん前に足を進める師匠は、少し競り合ってすぐに先頭を確保。

 ちょっと先行争いで飛ばしちゃったから心配だったけど……すぐに3バ身くらい差を付けて逃げ始めた。

 

 最終直線までで1バ身差程度にまで詰められたものの、気合を入れ直した師匠が再加速、3バ身差くらいまで再び差を広げて……結局後続は師匠を捉えきれず、そのままゴールイン。

 

 ツインターボ師匠は見事、重賞初勝利を飾ったのだった。

 ……ふぅ、ちょっと緊張したけど、一安心だ。

 

「うん、多少の加減速はあったけど最初から最後までハイペース、隙のない走りだったね。

 極端に減速せず綺麗に逃げ切れたし、ししょ、ターボちゃんにはこれくらいの距離が一番合うのかも」

 

 綺麗な逃げ切りだったなぁ。

 最初から最後まで速いペースで走るんだから、そりゃあ誰も追いつけないってものだ。プチ異次元の逃亡者って感じ?

 

 うん、総じて半年の遅れなんてものともしない、良いレースだったと思う。

 

「どう思った? ブルボンちゃん」

「……差を離し、後続からの影響を防ぐ。伺っていた通り、ホシノウィルム先輩に近しい走りであると分析しました」

「そうだね。私も彼女も、そういう走りが得意だから」

 

 何せ大逃げって、後ろのウマ娘から影響を受けずに済むからね。

 後ろからの圧力に弱かった昔の私にとっては、これ以上ないくらいの適正脚質だったんですよ。

 宝塚記念でも見せたように、今の私は普通の逃げもできるけど……やっぱり独走しやすくトリックもかけやすい大逃げの方が得意な自覚はある。

 

「ブルボンちゃんも、自分に合う走り方を見つけられるといいね」

「私に合う走り……」

 

 ブルボンちゃんは少し視線を落とし、考え込んでしまった。

 

 トレセンに来るまで適性に理解のなかった私が語るなって話だけど、ウマ娘には確かに、自分に合う走り方ってものがあると思う。

 他のウマ娘からの威圧感に弱い子もいれば、逆にそういう中だからこそ本調子になる子もいる。

 一気呵成な末脚のキレる子もいれば、じわじわと前へを目指すのが得意な子もいる。

 ウマ娘は十人十色、「これが一番速い」という正答はどこにもなく、それぞれがそれぞれの最速の走り方を見つけ出さないといけない。

 

 例えば、私たち……星の世代なら。

 テイオーなら先行、好位置に付いて第三コーナーから抜け出して加速する。

 ネイチャなら差し、後ろからじわじわと距離を詰めて、ここぞって時にスパートをかける。

 私なら大逃げ、最初ドカーンと逃げて中盤で脚を溜め、最後にまたドカーンと追い込むって感じ?

 

 ブルボンちゃんにどんな走り方が合うかはわかんないけど、それを見つけ出さないと……最初の内は苦戦を強いられるかもしれない。

 サイレンススズカ先輩とかはまさにそのタイプだったらしく、シニア級に入るまで成績が振るわなかったって話だし。

 一番の近道はやはり、それを教えてくれるトレーナーに巡り合うことなんだけど……。

 

「……あ、そういえばジュニア級の子に聞いたけど、ブルボンちゃん、契約トレーナーが付いてないって本当?

 もしよければ、私のトレーナーに言って、誰か紹介してもらおうか?」

「その件に関して……ホシノウィルム先輩、リクエストがあります」

 

 ブルボンちゃんは顔を上げて居住まいを正し、改めて私の目を見て、言った。

 

 

 

「ホシノウィルム先輩を担当している堀野トレーナーに、私も契約していただきたいと望んでいます。

 ですが、お返事が芳しくなく……もしよろしければ、ご協力いただけると助かります」

 

 

 







 まだまだ次章には行きませんが、そろそろギプスも取れる頃なので、一旦別視点回を挟みます。
 多分このおまけの次……の次くらいから、ウィルのリハビリが始まります。



 次回は3、4日後。おまけの別視点回で、ネイチャとトレーナーのとある日の話。



(ご報告)
 狩猟系ナメクジ様より、NovelAIを使った支援絵をいただきました!
 表情の変化がストーリーに沿っていて感動しました……!
 小説のあらすじに掲載しておりますので、是非ご覧ください!

(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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おまけ 3+i

 ちょっと短めのおまけ、別視点回。
 中央のトレーナーはイカれた奴しかいない説、その真実に迫る。





 

 

 

 1年通してトレーナー業に就いて、1つだけ、よく理解できたことがある。

 

 ウマ娘のトレーナーは、ちょっとヤバい。

 やりがい搾取……とまでは言わないけど、ちょっとリスクとリターンが釣り合ってない。

 真面目に取り組もうとすると、下手すれば人死にが出かねないレベルの激務になるんだ。

 

 先輩トレーナーによく「大変だろうけど頑張れ」って言われた理由、今ならよくわかる。

 こんな仕事の量をこなそうとすると、それだけで慣れない新人は潰れかねないからね……。

 というか例年、最初の3年間で新人の5割はトレーナーを辞めるって話だ。

 僕の同期が未だに誰も脱落してないのは、それぞれの努力や忍耐もあるけど、やはり同期主席の彼のサポートによるものが大きいね。

 実際僕も、彼の助けがなければ既に体を壊していたかもしれないと思うほどだ。

 

 この仕事は、先輩曰く「慣れ」らしい。

 担当がデビューしてからの1年を乗り切れば、後は段々と作業を速くこなせるようになり、楽になっていくとのこと。

 そういう意味では、僕や僕の同期は、最初の試練を乗り越えたと言っていいだろう。

 

 ……が、それはあくまで最初の試練に過ぎない。

 乗り越えたからといって急激に楽になるわけじゃないんだな、これが。

 

 現状、僕のトレーナー業は未だにハードなまま。

 というのもこの仕事、自分の担当の人気に比例して、加速度的に忙しくなるんだ。

 特に、世代三星なんて言われるようなウマ娘を担当すると、本当に、本当にすごいことになる。

 

 そんなわけで僕は今日も、休日返上して仕事に取り組んでいた。

 

 

 

 僕の担当であるナイスネイチャは、現状そこまで飛び抜けた戦績を残しているわけじゃない。

 現在4戦2勝、重賞未勝利。1着2回と2着2回で、連対率は100%。

 ……いや、クラシック級6月でこれなら、間違いなく名バではあるんだけどね。

 うん、この戦績がそうでもないって感じるようになってしまったのは、ネイチャと同期のあの子に毒されてしまったなぁと感じる。

 

 根本的に、レースは最大18人で走るものだ。

 その中で「勝利」と数えられるのは、1着だけ。

 つまり、全員の間に実力差がなかったとすれば勝率は18分の1、おおよそ6%になるはずで。

 

 ネイチャはその勝率を、50%に保っている。

 それはつまり、彼女がこの世代においても通用する素質を持っていることを示すわけで。

 彼女が選ばれた最強格の1人であることに、異論を挟める者はいないと思う。

 

 ……同期にホシノウィルムがいなければ、の話だけど。

 

 クラシック級6月時点で7戦7勝、G1を4勝にG2を1勝。

 同期にこんな子がいれば……悔しいけど、あの子の素質も霞んで見えてしまう。

 ネイチャがどれだけ輝こうとも、すぐ隣に眩しすぎる星があれば、それは平凡なものにしか見えないんだ。

 

 

 

 ナイスネイチャは、強い。

 レース中の臨機応変な思考能力、抜群にキレる末脚。その2点に関しては世代でもトップクラスだ。

 まさしく不世出の傑物と言っていいと思う。

 ……けど今のところ、それが世間から正しく評価されているかと言うと、否だ。

 

 何せ僕とネイチャは菊花賞に狙いを定めて、ここ最近ずっとトレーニングを積んでいる。

 だから重賞レースに出走し、ファンにその力を見せつける機会もないんだ。

 ホシノウィルムが定期的に話を出してくれるから、期待は集まっているけど……それでも、得られた評価は「三等星」に過ぎない。

 

 ……その評価は、きっと間違ってる。

 ナイスネイチャは、この世代でも頂点を取れるウマ娘だ。

 

 確かに、ホシノウィルムやトウカイテイオーといった最高級の天才と比べれば、才能や早熟具合では勝てないかもしれない。

 それでも僕は、ネイチャこそがこの世代の「一等星」であると疑っていない。

 

 才能で負けても、努力では負けてない。

 彼女は天才たちに食らいつくべく、あらゆる手段で努力を積み重ねているんだ。

 だからネイチャは必ず、菊花賞でホシノウィルムを超え、「一等星」として大輪の花を咲かす。

 誰が信じなくても……僕は彼女を信じ続ける。

 

 ……あれ、いつの間にか話が逸れてた。

 僕、ネイチャのことになるとこれだからなぁ。

 気を付けないと、また同期にトレーナーバ鹿だの何だのとからかわれてしまう。

 

 

 

 とにかく、今のところネイチャは極めて高い評価を受けてるわけじゃない。

 世間の認識は、世代でも有数のG1級ウマ娘、って辺りかな。

 

 でも、この段階で既に、契約したトレーナーはとんでもなく忙しくなる。

 

 そもそも8時から5時の定時を基準に考えると、1日に使える時間は9時間しかない。

 勿論それじゃ全く足りないから残業するんだけど、それにしたって1日に精々5時間程度だ。

 合計14時間。……それでもまだ足りない。

 

 まず、処理しなきゃいけない書類が本当に多いんだ。

 これ自体はそう難しくもないんだけど、とにかく時間を要する。しかもミスをすれば担当ウマ娘に被害が及ぶから、常に気が抜けない。

 ……ついこの前も、他の書類に紛れ込んでた肖像権の確認書類を白紙のまま提出してしまい、たづなさんに怒られた僕が偉そうに言えることじゃないけど。

 

 更にネイチャのトレーニングの観察や色んなアクシデントへの対処も挟まり、基本的に固まった時間というものが取れないんだ。

 強いて言えばネイチャが授業を受けていることの多い午前中だけど、それだって3時間程度しかないし。

 ネイチャの前で情けない姿は見せられないから、その数時間でがむしゃらに書類を片付けて、彼女が来る頃にはゆとりのあるスケジュールを確保してなくちゃならない。

 

 その上技術というのは日進月歩で進化するもので、日々新たなシューズや蹄鉄、ウェアにトレーニング方法が生み出される。

 それを調べて安全性とかソースの元をチェックする作業も欠かせない。

 この辺りは最悪自室でできるから、主に持ち帰ってやることが多いけどね。

 

 

 

 ……朝起きてから夜寝るまで、おおよそずっと仕事漬け。

 僕も立派な社畜だなぁ。

 

 トレーナーを目指す中で「中央のトレーナーに人権なんてものはない」「トレーナーやめますか? それとも人間やめますか?」なんて不穏な話も耳に入って来るわけだよ。

 きちんと担当を支えようと思うなら、新人の内はとてもじゃないけど個人的な時間を取れない。食事中に軽くニュースを見たりするのが限界かな。

 その上、1つミスをしようものなら全責任はトレーナーに降って来る。

 給料は悪い方じゃないし、担当を勝たせればかなり稼げるんだけど……それでもなお、リスクとリターンが釣り合ってないと思う。

 

 成果主義の給料、残業上等の労働環境、責任が全て個人に依存する状態。

 身も蓋もない言い方をすると、楽しまないとやってられない仕事なわけだ。

 ウマ娘のトレーナー業に命を懸けられるような人じゃないと、早々に離職する。

 だからこそ中央のトレーナーは、頭のネジが何本か抜けてるような人が多いんだろうね。

 

 ……しかし、何事にも例外はある。

 いや、頭のネジの抜け具合は、むしろ他よりもすごいと思うけど……。

 僕と同期でありながら、とんでもない担当ウマ娘を抱えてなお、既に仕事に慣れたのか余裕を見せているトレーナーもいる。

 

 いる、んだけど……。

 彼はまぁ、ちょっと例外かな。

 あまりにも優秀すぎて、同期からは一時期浮いていたし、先輩にも逆に心配されてたような超人だからね。

 凡人の僕からすると、ちょっと比較対象が悪すぎるとして……。

 

 既に2人以上を担当してる、あるいはチームを運営してる先輩方は、どうやって時間をやりくりしてるんだろうなぁ……。

 この1年半で多少は慣れて来たとはいえ、それでもようやく1、2時間短縮できたくらいだ。

 まだまだ担当を増やせると断言できるほどの余裕はない。

 

 ……場合によっては、あと1年半で担当が増えるかもしれないんだよね。

 どうしたものかなぁ……手を抜くなんて不誠実なことはできないし。

 

 睡眠時間を削れば、今でもギリギリ、もう1人分は確保できる……かな?

 できればそれは避けたいし、早くもっと慣れないとな。

 

 

 

「……うーん」

「およ? どしたー、トレーナーさん」

「ん? ああいやごめん、ちょっと難しいところがあってさ」

 

 おっとと、良くないな。

 思わず声が漏れてたみたい。

 

 今日のトレーナー室には僕の他にももう1人、ウマ娘の姿があった。

 部屋に備え付けられたソファでスマホを触っていたのは……僕の担当ウマ娘、ナイスネイチャ。

 

 先日ランニング中に軽く足を捻ってしまったこともあり、今日はトレーニングを中止してお休みに充てたんだけど……。

 「暇だしさ、トレーナー室行ってもいい?」ということで、遊びに来ているんだ。

 僕としても、きちんと彼女が安静にしてるのを確認できるので、この方が有難かったりする。

 

 とはいえ僕も僕でやることがあるので、あまり彼女に構えないのは申し訳ないところ。

 ネイチャはあまり気にしないでいてくれてるけど、せっかく来てくれたんだし、なんとか昼過ぎから時間を作って彼女とコミュニケーションを取りたいところだ。

 

 ……個人的には、こうして彼女と2人、静かな時間を共有するのも嫌いじゃないんだけどね。

 無言で一緒にいても気まずさを感じない関係というのはなかなか得難いものだし。

 

 僕はそこそこ友達が多い自負があるけど、それでも隣にいて不自然を感じない友達は数少ない。

 人の関係って複雑なもので、何も心を配って親切にすれば親しいってわけじゃないんだ。

 

 相手に気を遣わなくていい、隣にいて当然だと思える、家族にも近しいような関係性。

 あくまで僕からネイチャに向けた、一方通行の想いでしかないけど……。

 自分の担当をそう思えるようになったのは、すごく幸せなことだと思う。

 

 

 

 ちらりとネイチャの方を窺うと、彼女はソファの肘かけに上半身を投げ出して脱力していた。

 スマホをいじるその顔は、無表情。

 耳が緩く横に倒れているところを見るに、リラックスはできてるらしい。

 

 改めて見ると、本当に可愛らしい女の子だなぁと思う。

 どういう理屈かはわからないけど、ウマ娘は人の美的感覚で言う美人や美少女ばかりだ。

 そんな彼女たちが綺麗で力強い走りを見せるんだから、そりゃ人気も出るってものだよね。

 

 思わず見惚れる気持ちはよくわかる。

 僕だって……見た目の美醜はともかく、彼女の走りに一目惚れした人間の1人だし。

 

 

 

 ……もう1年以上前、選抜レースでのこと。

 僕はネイチャの走りに一目惚れして、彼女をスカウトした。

 

 あの時の光景は、今でも思い出せる。

 彼女が見せた必死の表情。鋭くキレる末脚。

 展開が悪く、惜しくも3着に敗れたけど……表情に隠し切れない悔しさをにじませた彼女は、誰よりも輝いて見えた。

 

『これだ、と思ったら逃がすな。運命はふとした瞬間に始まることが多いらしい』

 

 堀野君にもらったアドバイス通り、あの場で即決でスカウトして正解だった。

 

 僕はあの時から変わらず、彼女こそ同世代の誰よりも輝くべきウマ娘だと信じている。

 そして僕はそれを、傍で支えたいんだ。

 

 

 

 ……よし、そろそろ考え事はやめようか。

 彼女を支えるためにも、現実に向き合わないとなぁ……。

 

 僕の目の前には、何枚かの書類が広げられてる。

 それは再来月分の予算の申請書だったり、ネイチャの外泊許可の申請書だったり、あるいはネイチャへの取材の申し込みだったり、トレーニング機材交換の確認だったりするんだけど……。

 

 公的な書類って、なんでこう、わかりにくく書くんだろうね。

 正確に記述して玉虫色の解釈を防ぐためってのはわかるんだけど……文面もわかりにくいし意図も読み取りづらい。むしろこっちの方が危ないんじゃないか。

 

 ……いやごめん、これは八つ当たりだった。

 僕、一般家庭の出だし、まだこういう文面には慣れないんだよね。

 もうちょっと平たい文章で書いてはくれないものかなぁ……。

 

 文句を言ってても仕方ないし、文面に目を通すけど……うーん、どうにも集中できない。

 もう3時間くらい机に座ってるし、そろそろ気分転換が必要な時期かな。

 

 

 

 ちょっと小休止を入れようかと、ペンを置いて伸びをした、その時。

 ソファでスマホを触ってたネイチャが、声を上げた。

 

「ウィル、バズってるじゃん」

「ん?」

「あっごめん、トレーナーさん」

 

 ネイチャは慌てて両手を振る。仕事の邪魔をしてしまったと思ったんだろう。

 僕は彼女のトレーナー、最優先は彼女のサポートなんだから、気にする必要はないんだけどね。

 

「大丈夫だよ、ちょうど休憩しようと思ってたところ。どうしたの?」

「いやぁ、ウマッターでね? ウィルがとんでもないバズり方してるっていうか……うわ、話には聞いてたけど酷いなぁ、こりゃ」

 

 ウィル、もといホシノウィルム。

 ネイチャと同世代のウマ娘で、彼女たちの世代における中核を担う、稀代の天才だ。

 同期の筆頭トレーナーである堀野君の担当ウマ娘で、少し冷たい印象のある小柄な子だった。

 

 けれど、それはあくまで表面上の話。

 実のところ、彼女は真面目な良い子らしい。

 確かに一見冷たく見えるが、きちんと接すれば芯に優しさを感じられる女の子なんだと、堀野君は時々そう言っている。

 

 実際、今のホシノウィルムは1年前に比べて、だいぶ物腰が柔らかくなっていると思う。

 もしかしたら、慣れない環境に来て緊張していたのかもしれないな。

 堀野君がその緊張を解き解した結果、従来の彼女の性格が出て来たのかもしれない。

 

 で、そんなホシノウィルムは、ウマッターというSNSを利用して情報発信を行っている。

 けど、トレーニングに対してストイックすぎたり、少し感覚がズレているところが災いして、その戦績から考えると控えめなフォロワー数だった記憶がある。

 最後に見たのが数か月前だから、今はどうなってるのかは知らないけど。

 

 バズった、つまり爆発的な反応があったってことは……何かレース関係の呟きでもしたのかな。

 ……いやでも、酷いって何? ウマッターの話だよね?

 ちょっと気になって来たな。気分転換と情報収集を兼ねて、軽く調べてみようか。

 えーと、ウマッター……ホシノウィルム、と。

 うん、このアカウントだね。自己紹介文が『ホシノウィルムです。』だけの。

 さて、文脈を見るためにも、少し遡って見てみよう。

 

 更新頻度は……ちょっとムラがあるな。1日に平均4件くらいで、多くて10件、少ない時は2件程度。

 最初はトレーニングのメモ帳代わりにしてるのかと思うような内容だったけど、段々普通のウマ娘らしい使い方になってるね。

 使い方はネイチャが教えていたらしいし、その成果かな。

 ……今でもちょっと使い方が独特だけど、これなら個性として十分受け入れられる範囲だね。

 実際フォロワー数も前に見た時よりめちゃくちゃ増えてるし。

 

 しばらく時系列を進めて、ここ数週間。

 療養中で暇なのか、ウマートの頻度も上がっているみたいだ。

 で、彼女の負傷直後の投稿がこれ。

 

『こんにちは、私です。療養中はやることがなくて退屈なので、皆さんのおすすめのゲームを教えてください。手元にスマホしかないので、スマホでできるゲームでお願いします』

 

 ……彼女、ゲームとかするんだなぁ。

 いつもトレーニングに励んでいるイメージがあったから、正直ちょっと新鮮だ。

 

 これまでにない親近感を抱ける内容、かつ負傷後の初めての個人的な呟きでファンも安心できたのか、1万以上のリウマートを集めている。

 リプライや引用リウマートでも、『ホシノウィルムってゲームするんだ』『「私です。」可愛すぎ』『オタクはチョロいからゲームするってだけで好感度上がる』『俺たちの龍がゲームなんてするはずない』など、驚き半分好意半分のコメントって感じ。ちょっと厄介なのも交じってたけど。

 

 それからしばらく、『おすすめされたこのゲームをやります』とか『今日はトレーナーがお見舞いに来てくれました』とか『このキャラが気に入ったので引きます』とか『テイオーとネイチャが来てくれました。友達は良いものですね』みたいな、割と当たり障りのない内容になるんだけど……。

 

 昨日の投稿。

 

『 』

 

 無言のウマートには、一連のリプライも含めて7枚の画像が貼られており……。

 それはどうやら、彼女が始めたソーシャルゲームのガチャ結果画面らしかった。

 

「うわ……6万リウマートか」

「お、トレーナーさんも見ました? いやぁ、グロいよねぇ……」

「うーん、僕はこのゲームをやったことがないから、グロいのかはわからないけど……」

 

 ウマッター上の反応は……。

 

 『グロ画像やめろ』『酷い爆死で誰かと思ったら現役最強ウマ娘で草』『吐いた』『怖くて泣いちゃった』『中等部の女の子がしていい爆死ではない』『世界よ、これが現日本最強ウマ娘だ』『0.011%を引き当てる、その姿はまさしく不可能を可能にする灰色の龍』『人生良いことあるよ! 元気出して!』『かわいそうだけど(すり)抜ける』『本気すぎる』『最後の10連だけ他の人に引いてもらったでしょこれ』『これは忖度のない神ゲー』『人のガチャ結果に本心から同情したのは初めてかもしれない。これが心か……』『レース後以上に憔悴してない?』

 

 ……あぁうん、よっぽどだね、これは。

 

「ちなみにネイチャ、これってお金で換算すると、どれくらいかかってるの?」

「うぇ、あんまり考えたくないんですケド……えぇと、最初の配布分は前に使い切ってたし……今回だけで20万弱?」

「円で?」

「円で」

 

 20万円かぁ……。

 

 ……いや、20万円!?

 一瞬で理解できた。そりゃあ多くの人が反応するはずだよ。

 

 そりゃあG1を取るようなウマ娘はかなり稼げるし、既にG1を4勝しているホシノウィルムにとっては、20万円も大した金額ではないのかもしれないけど……。

 大丈夫かな、堀野君はこのこと知って……いや、知らないわけないか、堀野君だし。

 でも止めなくていいの? 教え子の金銭感覚壊れちゃうよ、このままじゃ。

 何か狙いがあるのかな。失敗させて、そこから学ばせようとしてるとか?

 

「ウィルのどことなく抜けた感じ、ウマッターに向くかもなぁって思ってはいたけど……唐突に無言でこれを投稿か。こりゃ免許皆伝ですなぁ」

「……競走は人気商売な側面もあるから、人気を出すに越したことはないんだろうけど……」

「大丈夫、お金の使い方に関してはアタシが言っとくよ」

 

 ネイチャはどこか悟ったような表情で呟いた。

 

 ネイチャとホシノウィルムの付き合いは長い。

 その中で、ネイチャはその背中を追いかけると同時、天然の気があるホシノウィルムを支えたりもしてきた。

 ウマッターの使い方を教えるのを筆頭に、勉強を見てあげたり、誤解されやすい彼女の通訳を買って出たりと、色々と奔走してたみたいだ。

 

 ……で、積み重ねて来た日々というのは、その人の意識を形作ってしまうもので。

 ネイチャ、今ではホシノウィルムの保護者みたいな意識まで持ってるらしい。

 彼女自身それを楽しんでいるようなので、特に口を挟むようなことでもないんだけど……。

 

 ……そういえば僕も、同期の飲み会とかトレーナーの発表会では、何かと言葉足らずな堀野君のサポートに回っていることが多い気がするな。

 いつも彼には世話になってるし、これくらいはと思ってやってるんだけど……。

 もしかして僕とネイチャ、似た者同士だったりするのかなぁ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ネイチャと色々と話したり、難解な文面と向き合う内に、空は赤くなってしまった。

 トレーナー室を施錠、ネイチャと別れて、いくつかの書類を提出して……。

 その後、僕は1人、商店街に向かっていた。

 

 ここまではひたすらトレーニングに励んできたネイチャだけど、迫る7月からはそこそこのハイペースでレースに出走する予定だ。

 レースや追い切りに備えて、必要なものを買い揃えておかないと。

 

「テーピングテープ、絆創膏、包帯……あと、タオルがちょっとへたってきてたよね。水筒とウェアも予備を買っておくとして……」

 

 口の中で呟き、指折り数えて買うべきものを考えながら歩いていると……。

 

 

 

 ふと、見知らぬウマ娘に目が留まった。

 

 ウマ娘用のレーンを走る、小柄な黒鹿毛の子だ。

 彼女はどこか決意を秘めた瞳で、ずっと前の方を見つめている。

 

 ウマ娘は本格化すると、体格が大きく変化したり、固定化したりする。

 だから、小柄だからといって必ずしも幼いと断定はできないんだけど……。

 

「……綺麗なフォームだなぁ」

 

 もしジュニア級の子だとすれば、とても整った走りだと思う。

 体の軸がブレない。上半身が大きく揺るがない。

 すごいなぁ……普段のランニングからここまで整った姿勢を保てるってことは、自分に合った走りを見つけているに違いない。

 きっと優秀なトレーナーが付いているんだろう。

 

 僕がなんとなく立ち止まって見ている先で、その子は長い黒鹿毛をたなびかせ……ずに、信号に引っかかって立ち止まる。

 ふと、その瞳が悲し気に揺らいだ気がした……。

 

「っとと、行かないと」

 

 少し興味は引かれたけど……うん、今は買い物を済ませないとな。

 僕は黒鹿毛の子に背を向けて、改めてスポーツ用品店に向かった。

 

 

 

 

 

 

 『これだ、と思ったら逃がすな。運命はふとした瞬間に始まることが多いらしい』

 

 今思うと、堀野君の言葉は正しかった。

 

 あの時、既に……僕と彼女の運命は、始まっていたのかもしれない。

 

 

 







 本編では語れないことを語るためにおまけ編やってるつもりなんですが、それでも全然語り切れないですね。
 塩梅が難しい……。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、実家と理想と汚泥の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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歩のはなしは信じるな

 賢明な読者様は勘付いていらっしゃると思いますが、信頼できない語り手ってヤツですわよ。





 

 

 

 6月30日。

 その日は俺にとって、少しだけ特別な日だった。

 

 何せこの1年半の間、ほぼ常に隣にいたホシノウィルムが、いない。

 俺を取り巻くのは、スーツを着たり私服だったり、色んな服装の町行く人たち。

 普段は見飽きるくらいに溢れたウマ娘も、今は殆ど見られない。

 

 それもそのはず、ここは中央トレセンから遥か彼方。

 俺は現在職場を離れ、古巣へと向かっていた。

 

 今は彼女が負傷し、傍で支えるべき大事な時期ではあるけど……。

 堀野の家には莫大な記録が残っている。あれは彼女のリハビリや復帰にきっと役に立つはずだ。

 ある程度は頭に入れている記録だが、やはり完全に記憶できているわけではない。負傷や復帰に関する正確な記録を集めに行かないといけない。

 

 ……もう1つ、俺は実家に用もあったしな。

 いつか片付けないといけない……大事な用が。

 

 ホシノウィルムの様子もより安定してきて、なおかつリハビリが本格的に始まる前の今しか、傍を離れるタイミングはない。

 とはいえ、彼女を丸一日放置するわけにもいかない。

 なので、移動中に電話をかけたのだが……。

 

『そういえば、知ってますかトレーナー。数日前にジェット師匠がお見舞いに来てくれてたんですけど、すごく綺麗にムーンウォークしてくれたんですよ。

 私も、脚が治ったら練習してみます。上手くできたら褒めてくださいね』

 

 ……良かった、この調子だと安定しているようだな。

 いや、ある意味で不安定なんだけど、恐らくただテンションが上がってるだけだろう。

 不安や恐怖を感じている様子がないのは、故障後のウマ娘としては良好な精神状態と言える。

 

 

 

「そろそろかな。それじゃ、今日はこの辺りで」

 

 10分程話をして、乗るべきバスが来たので通話を切り上げる。

 

『寂しいので、早く帰って来てください。

 ……いや、早く帰って来てね?』

「……ああ、明後日には必ず会いに行くよ」

 

 そう言葉を交わして、彼女との通話を終えた。

 

 ……ホシノウィルムは最近、時々敬語を外すようになった。

 それが如何なる心理的影響によるものなのか、正確に推し量ることはできないけど……。

 

 彼女なりのやり方で、少しでも俺との距離を縮めようとしてくれているのかもしれない。

 あるいは、それこそが彼女の本音、本当の素顔なのかも。

 ……どちらにしろ、ホシノウィルムが俺を信頼してくれていることだけは、間違いない。

 

「本当に……信じてもらっているんだな」

 

 確かに、俺は可能な限り誠実にホシノウィルムに向き合って来たつもりだ。

 けれど、こうも信頼を貰えるというのは……少しばかり意外というか、現実感がないというか。

 

 結局のところ、俺は彼女の言う通り、自己肯定感が低いんだろう。

 どれだけ彼女から信頼を得ようと、それを受け入れることが難しい。

 自分にそれだけの価値があることを信じられない。

 

 だが、だからこそ。

 

 もらえた信頼は、大事にしたい。

 俺は俺で、彼女のためにできることをしよう。

 

 ……たとえそれが、他の全てを裏切る決断になったとしても。

 

 それが、一度彼女を担当した者としての、あるいは彼女の走りに魅せられたトレーナーの、最低限の責任の取り方というものだろう。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 堀野の実家は中央トレセンから遥か遠く、飛行機で2時間程飛び、そこから電車を数本乗り継いだ片田舎にある。

 なんでこんな遠いかって言うと……うん。

 簡単に言うと、元々堀野の家は、地方でウマ娘を育成してた過去があるんだよね。

 

 結構前にトゥインクルシリーズを走った、オグリキャップというウマ娘がいる。

 地方のトレセンで走っていたが、あまりの強さに中央へスカウトをかけられ、スーパークリークやイナリワンと共に三強を構成、その余りある才能を以て中央のG1で4勝を飾った突然変異の怪物。

 1つ上の世代であったタマモクロスと共に「芦毛は走らない」というジンクスを覆し、一躍時のウマ娘となった子だ。

 

 分かりやすく言えば、堀野家はオグリキャップと同じ移籍組なんだ。

 だいぶ前の時代になるが、堀野は地方でトレーナー業を営んでいた。

 そんな中でトレーナーとしての実績を評価され、中央に招かれたのだ。

 

 ……非情な話だが、地方と中央は次元が違う。

 地方でも選りすぐりの天才が乗り込んでくるのが中央、トゥインクルシリーズだ。

 別の名前であった頃からもずっと変わらず、地方と中央ではレースのレベルが決定的に違うんだ。

 

 故に堀野は、元々中央で活躍していた超一流の名家には勝てないと目されているわけだ。

 中央で何十年何百年とウマ娘を育てて来た猛者に比べると、どうしても収束した知識と経験の両面で差が付いてしまう、と。

 

 

 

 とはいえ堀野家も、総合戦績で言えば間違いなくトップクラスではある。中央に来た後も、重賞めちゃくちゃ勝ちまくってるし。

 逆に言えば、それほど優秀でもなければ中央に招かれるなんてことも起こらないからな。

 

 ……ただ、光があるところには陰もあるというべきか。

 堀野家の最たる欠点を挙げるとすれば、担当との関係の瓦解が比較的多かった、という点だろう。

 

 生え抜きである他の名家と違い、堀野は外様。

 常に実力を見せ続けねば、いつ排斥されるとも知れない家だった。

 故にこそ、焦る部分もあったんだろうな。

 

 堀野家はかつて、極端なまでの実力主義だった。

 ウマ娘の心よりも鍛錬を重視し……過重なトレーニングを課したり、望まぬレースを走らせたりと、度の過ぎた態度を取っていたこともあったらしい。

 そうなると当然というか、担当との契約解除とか暴行事件も起こった。

 堀野家の黒歴史という奴だ。

 

 もうそこまで行っちゃうと、トレーナーだとか名家だとか言ってられなくなる。

 家の評価は下がる一方で、ご先祖様は方針の転換を余儀なくされた。

 ……というか、とても優秀なトレーナーだった当主が、大改革を図ったらしい。

 堀野のトレーナーの基本指針を、徹底的な実力主義から、その心の在り様を重視するものに転換したんだ。

 最初の方こそ混乱もあったみたいだけど、今ではこれが堀野のやり方として定着してる。

 

 結果として、実力主義だった時代よりも戦績は良くなっているのだから、不思議なもので。

 やはりウマ娘は理屈では測りがたい部分に底力を持っているのだ、という事実を堀野家は痛感したのであった。

 

 そんなわけで、不幸な境遇に陥るウマ娘はいなくなり、堀野家も一歩前に進めましたとさ。

 

 以上、3分でわかる堀野家の過去でした。

 

 

 

 さて、話を戻して。

 

 そんなわけで、堀野家は中央トレセンからめちゃくちゃ遠い片田舎にある。

 電車を乗り継いで辿り着く、田舎と都会を足して2で割ったくらいの町……から、徒歩で20分程歩き、山に入って、落ち葉が脇に避けられ舗装された道を登ること10分。

 

 青々しく茂る山の木々が途切れ、ふと視界が開けた先。

 そこに、堀野の本家は邸宅を構えている。

 

 ぶっちゃけハウスキーパーがいないと管理すらできないバ鹿でかい敷地と、ウマ娘でも越えられなさそうな大きな大きな門。

 徹底的に整備された広大なターフ、そして横に建つこれまたデカい屋敷。

 その脇にいくつか建設されている離れとか倉庫とか。

 これが堀野家の全貌となる。

 

 備え付けられたキーパッドをいくつか押して門を開け、一番大きな屋敷を目指して足を進める。

 

 今回俺が用があるのは、勿論母屋だ。

 赤レンガで造られた古風な様式で、広さは……名家本筋と言うには少し小さいかもしれない。

 元より、中央の他家と深い繋がりは持っていなかったからな。今も精々、年に何度か分家の人たちを泊める程度だし、あまり広い家は必要ないんだ。

 昔は子供が多かったために家も広かったらしいけど、現代となると兄弟姉妹は3、4人。

 他にも職業選択の自由だとか、地方と中央の確執だとか、色んな要因が重なった結果、現代における堀野の本家は一般家庭並みの人数で、かつ狭めの家となっている。

 これも時代の流れってヤツだ。

 

 ……ま、狭いと言っても、常識的に考えればかなり大きな屋敷なんだけどね。

 中央トレセンのトレーナー寮と比べても、どちらが大きいかわからないくらいだ。

 

 

 

「久々に帰って来た、気がする」

 

 赤レンガの建物が目の前に迫ると、郷愁に襲われる。

 

 ここを出たのも、もう2年以上も前のことなんだよな。

 俺がこの世界でずっと過ごしてきたその場所は、いつもと変わらず無機質に俺を迎えてくれた。

 

 ……少し、緊張する。

 ここは俺に、今世における目標を与えてくれた場所。俺の始まりになった場所だ。

 だからこそ思い入れがあるというか……こんな想いを抱いて帰って来るとは思わず、心が軋むような想いだった。

 

 俺は今、この家に相応しいトレーナーでいられているだろうか。

 常々抱いていたその疑問が、脳裏をよぎる。

 

「……いられてないから、ここにいるんだけどな」

 

 ため息1つ。

 ……覚悟を決めて、俺は玄関の鍵を取り出した。

 

 

 

 家を管理してくれてる昔馴染みのハウスキーパーさんたちとすれ違う度に挨拶して、リビングへと向かう。

 勝手知ったる第二の我が家、迷うこともなければ追い出されることもなく、そのまま屋内を区切る扉を開いた。

 

「よく帰って来た」

 

 品の良い調度品と静謐な空気に包まれた空間。

 ……その奥に座るのは、1人の男性だった。

 

 常に冷たい無表情、品のある服に身を包む男。

 その歳も40を過ぎて、けれどなお壮健。

 彼こそが、俺をトレーナーの道へ導いてくれた父親だった。

 

 俺に堀野のトレーナーとしての生き方を教えてくれた恩師であり。

 俺の被る仮面の基になった、鋼の仮面の持ち主でもあり。

 俺が誰よりも尊敬する、最高のトレーナーだった人だ。

 

 その鋭い視線に射られると、心の底まで見透かされるような気がして、思わず身震いする。

 中央でトレーナーをやっていたのは、先代の家長が引退するまでの、僅か10年足らず。

 その間に担当ウマ娘にG1を4度も勝たせた、超が付く敏腕トレーナー。

 父にとっては俺など、文字通り子供のようなものだろう。

 この心を如何に隠そうとも、簡単に透けて見えるに違いない。

 

「……ただいま、戻りました」

 

 そう言って、深く頭を下げた。

 

 俺にとっての理想であり、目標であった、最高のトレーナー。導きの星。

 今から俺は……そんな父を、裏切ることになる。

 

 まずは何を言おうか迷っていると……。

 

「昼食を用意させている。食べてから話そう。

 まずは荷物を置いてきなさい。お前の部屋は、そのままにしてある」

 

 そう言って、父は食堂へと歩き出してしまった。

 

 

 

 静かで味のしない食事を終えた後。

 父は俺に対して、厳かに話し出した。

 

「さて、改めて。

 まずは日本ダービーの勝利を祝おう。これでお前は、堀野で初めてのダービートレーナーになった。

 更に、クラシック級のウマ娘が宝塚記念に勝利するのは、史上初のことになるな。

 おめでとう、歩」

 

 寡黙な父にしては珍しい、饒舌な台詞だった。

 現堀野家当主である父にとって、この2つのレースの勝利はそれだけ喜ばしいことだったんだろう。

 

 長い堀野の歴史においても、未だかつて成し遂げられていなかった日本ダービーの勝利。

 そして史上初となる、宝塚記念のクラシック級時点での勝利。

 この2つは、間違いなく堀野の名に箔を付けることができる記録だ。

 家長として、嬉しくないわけがないだろう。

 

 だが、その祝福をそのまま受け入れるわけにもいかない。

 

「いえ。以前にも言いましたが、これも全てホシノウィルムの力です。

 是非、彼女の努力と勝利を祝ってあげてください」

「……そうではないが、確かにその側面もある。

 良い担当を持ったな。大事にしなさい」

「…………」

 

 本当に、俺にはもったいないくらいの、素晴らしいウマ娘だ。

 だが……だからこそ、俺は。

 彼女を支えるためにも……。

 

「父さん。……言わなければならないことが、あります」

「聞こう」

 

 父は、やはり動じなかった。

 俺がこれから言うことも……父は既に、察しを付けているのかもしれない。

 それを聞いて、どう反応するつもりなんだろうか。

 

 

 

 ……これは、手酷い裏切りだ。

 ここまで育て、導いてもらった大恩を、仇で返す行為だ。

 

 けれど俺は、この人や堀野家に、嘘を吐き続けることはできない。

 堀野家のデータは、今のホシノウィルムに必要だし……。

 何より俺は、堀野の皆のことが……好きだから。

 

 だから、言わなくちゃいけないんだ。

 

 

 

「俺は、堀野のトレーナーを辞めようと思います」

 

 

 

 ぴたり、と。

 父の動きが止まった。

 

 その瞳はじっと俺を見て、何を考えているか窺ってくるようで。

 俺は寒気を覚えながら……けれど、その瞳を見つめ返す。

 

 じっと、時が止まったように、視線を交換する時間が続く。

 

 果たしてどれだけ時間が経っただろう、父の唇が重苦しく開いた。

 

「それは……」

 

 

 

 

 

 

「待った」

 

 父の言葉を遮るように、ダイニングの入り口から女性の声が響いた。

 

 凛として涼やかな、耳慣れたそれは……。

 

(あきら)……」

「久しぶり、兄さん。……相も変わらず辛気臭い顔してるね」

 

 俺の、妹のものだった。

 

 

 

 堀野の家には、両親を除いて3人の家族がいる。

 長男、次男、そして長女だ。

 

 堀野昌は、俺の知る限り堀野の家に生まれた最後の子供だ。

 今は大学に通いながら、トレーナー免許を取ろうと勉強を頑張っているらしい。

 

 今日は日曜日、大学は休みだったのだろう、普段のコンタクトではなく厚縁の眼鏡をかけた私服姿。

 ぱっちりとした二重、幼さの残る童顔と、可愛らしい容貌を持っている……のだが、その冷ややかな雰囲気が全てを封殺してしまっている。

 

 幼い頃は、天真爛漫でよく懐いて来る、可愛げのある妹で……。

 いつからか、一定の距離感を保ち、何かと反抗的な妹になってしまった。

 だがまぁ、何だかんだ根底にある優しさは変わらない。雨の日に捨て猫を見つけたら無視できないタイプのヤンキーガールなのだ。

 

「今、何か不愉快なこと考えたでしょ」

「……いや、褒めたつもりなんだけど。2年ぶりかな、昌」

「そうだね、2年と2か月ぶり。薄情者が全然帰ってこないから」

「トレーナー業に就いていると暇がなくてね」

「1つ上の長男さんは定期的に顔を見せてくれるのにね」

「い、いや、兄さんはトレーナーじゃないしさ」

「父さんも、もっと顔を見せに来るべきだと思いますよね?」

「…………まぁ、そうだな」

「ほら」

「今すごい圧かけなかった?」

 

 ……そして俺は、この妹に弱かった。

 兄に生まれついた宿命として、どうしたって妹には勝てないんだ。

 というかこの家のヒエラルキーの頂点は母、次点でこの子なので、ぶっちゃけ母以外は誰も昌に勝てない。無敵の妹なのである。

 

 しかも今回に関しては、相手に一理あるんだよな……。

 昌は昔から、割と寂しがりな部分があった。

 ずっと隣にいた肉親が2人もいなくなったことで寂しさを感じていたのかもしれない。

 そこに関しては、ちょっと申し訳ないね。

 

「次変なことを考えたら殴るから」

「ごめんなさいです……」

 

 殴られたくはないので素直に頭を下げる。

 

 昌はため息を吐き、俺の隣の椅子に荒々しく腰かけた。

 

「……で、何だっけ、『堀野のトレーナー辞める』だっけ?」

「あ、あぁ、うん、そう」

「どういう意味? 何も中央のトレーナーを辞職するって意味じゃないんでしょ」

「…………? 辞職する? なんで?」

 

 俺は「堀野のトレーナー」を辞めるだけで、別にトレーナーを辞める気はない。

 というか、今更ホシノウィルムから離れるなんて考えられない。

 

 

 

 そもそも俺は、堀野のトレーナーだって辞めたくはない。

 ただ、俺はホシノウィルムの走りに惚れてしまった。余計な一念を持ち込んでしまった。

 それは不可逆で、どうしようもない変化で……俺は堀野のトレーナーとして、決定的に欠陥品になってしまった。

 だから……情けないことだが、「堀野のトレーナー」は諦めるしかないと判断した。

 

 俺をここまで育ててくれた父には、本当に申し訳ないことだと思う。

 俺は堀野のトレーナーになるべく生まれ、堀野のトレーナーになるべく育てられた。

 それが役目を放棄し、自分勝手な方針でトレーナーをしたいと言っているのだ。

 名家の子としては許されざる蛮行。ここまでに繋がれてきた歴史を放棄する、最悪の愚行だ。

 

 その上自分の担当のために、ここの資料を使わせてほしいとまでのたまう。

 恩知らずの上恥知らず。廃嫡どころか絶縁されてもおかしくない傲慢な願いだろう。

 

 だが、それでも……ホシノウィルムを支えたい。

 彼女のトレーナーとして、彼女の走りを一番傍で見ていたいんだ。

 だから、最悪ここで縁を切られても仕方ないという覚悟をして、この話を切り出した。

 

 

 

 ……んだけど。

 2人の反応は、予想外のもので。

 妹は「はいはい」と言わんばかりに頬杖を突いて。

 父は……何故か、胸を撫で下ろしていた。

 

「父さん、安心しましたか?」

「あぁ……寿命が縮んだわ」

「寿命……!? まさか、ご病気ですか!?」

「兄さんは邪魔だから黙っててくれる?」

「あ、うん」

 

 どうやら俺は邪魔らしかった。

 

「……はぁ。兄さんが悪いのは当然として、父さんも悪いんですよ。

 いい加減、腹を割って話すべきじゃないんですか?」

「む……」

 

 昌と父は、よくわからない会話を交わしている。

 腹を割る……? 何か、2人の間で共有されてる秘密があるのかな。

 ……もしかして、また1人兄弟姉妹が生まれたとか言わないよね?

 どうしよう、俺滅多に帰ってこないから家族って認識されないかもしれん。

 

「兄さん、変な妄想はやめてくれる?

 てか他人事じゃないよ、兄さんも悪いんだから。

 私、昔言ったよね。誤解しやすい上に意味わかんない結論から話し出す癖やめてって」

「言われた……けど」

「けど?」

 

 相手との会話を円滑に進める上で、「最初に結論を述べる」のは基本中の基本。

 恐らく問題は、その結論が突飛で誤解を招きかねない、という点にあるんだろうが……。

 

「今回の、そんなに突飛な話だったかな?」

「…………まずは相手が持っている情報を整理して、『こう言ったら相手はどう思うかな』って考えるところから始めて。まともに人と話す気があるなら」

 

 これだから兄さんは……と、昌は軽く頭を押さえた。

 

 ……これでもホシノウィルムとのすれ違いを生んで以来、コミュニケーションの意識は徹底していたつもりだったんだけどな。

 しかし、相手の持ってる情報を整理する、か。

 ……地味に難しくない、それ?

 

「で? 『堀野のトレーナーを辞める』ってどういう意味か、改めて聞いていい?」

「あ、うん……じゃあ、改めて」

 

 

 

 この2年で、俺は1つ痛感したことがある。

 俺は堀野のトレーナーに向いていない、ということだ。

 

 無私の奉仕をするつもりでウマ娘に尽くそうとしても、そこに俺個人の「勝って欲しい」「もっと走って欲しい」「幸せになって欲しい」という我欲が少なからず混じってしまう。

 根本的な要領の悪さもあり、担当ウマ娘との距離感を適切に保つことができない。

 あろうことか1人のウマ娘の走りに魅了されてしまい、身を引くべき場面で身を引けない。

 

 ……俺は、堀野のトレーナーとしての適性が、ない。

 

 ウマ娘のそれと同じで、俺は努力さえ積めば適正の壁を越えられると信じ、ここまで研鑽を積んできたつもりだった。

 でも……それでも、今はまだ届かない。

 

 そして、今は届かない、じゃ駄目なんだ。

 ホシノウィルムは今まさに、支えを必要としているんだから。

 

 「堀野のトレーナー」では、駄目だ。

 今の俺では、ホシノウィルムを担当できない。

 実力不足の俺単体では、彼女を支えるに適さないんだ。

 故に担当契約を解除するか、あるいはトレーニングを委任するなりして、然るべき人材にその才能を託す、という方針しか残されない。

 

 だから……逆説的に。

 ホシノウィルムを俺が担当したいのなら、「堀野のトレーナー」を捨てるしかない。

 

 それが、俺の悩み続けた末に出した……。

 ホシノウィルムを取る代わり、それ以外の全てを裏切る決断だった。

 

 

 

 語り終えた頃には……自然と、視線はテーブルに落ちていた。

 

 どんな罵倒をされてもおかしくない結論だ。

 堀野がこれまで築いてきた何百年という歴史。

 その中で積み上げられ、研鑽され、完成された「堀野のトレーナー」という理想形。

 

 それを投げ出すというのは、つまるところ、堀野の歴史の全てを裏切る行為だから。

 

 

 

 俺はこの家が、家族が、好きだったんだと思う。

 

 少し頑固なところはあるけど、尊敬できるトレーナーであった父。

 子に対する愛と理解を持って接してくれた母。

 他者に対する深い博愛と努力を惜しまない強さを持った兄。

 心優しく、何だかんだ人の世話を焼いていた妹。

 

 いつも勉強や運動ばかりだったとはいえ、皆の中で暮らす毎日は……俺には少し眩しいくらいに、楽しかった。

 

 だから、もうそこに戻れないと思うと、少し寂しいものがあるが……。

 それでも、受け入れなければならない運命も、きっとあるんだ。

 

 

 

 堀野の家と、ホシノウィルムなら、今の俺は後者を取る。

 結局は、それだけの話。

 

 

 

「兄さん」

「……うん」

「宣言はしたから」

 

 え、何、あ痛ぁっ!

 

 昌は立ち上がって俺に近寄ってきたかと思うと、割と強めにげんこつを振り下ろしてきた。

 

 う、お……割と真剣に痛いヤツだ。

 なんで? 俺、そんなに何か悪いことした?

 ああいや、間違いなくしたけど、確かに言ったけど、暴力まで行くぅ……?

 

 しかも殴るや否や、昌はダイニングの入り口に向かって歩き出してしまった。

 

「父さん、これ父さんのせいですからね。ご自身で誤解を解いてください」

「あ、昌?」

「じゃあ私、勉強があるから。

 ……あぁ、それと。担当ウマ娘の躍進、おめでとう、兄さん」

 

 振り返ることもなくそう言って、昌は歩き去ってしまう。

 ……勉強があるなら何のために来たんだ。

 挨拶? するにしても、今、このタイミングで?

 結果として、仲裁してくれたことで話が円滑に進んだのは助かったけど……。

 

 いやまぁ、とにかく。

 彼女は頑張ってトレーナー免許を取ろうとしてるわけだし、エールだけでも送らないと。

 

「頑張れ。昌なら絶対受かるよ!」

「それ、ウザいから。マジウザい」

 

 駄目だった。

 ウザい、かぁ……。何が駄目だったんだろうな、はは……。

 

 

 

「歩」

 

 父が、俺の名を呼ぶ。

 向き直れば、父はこちらをじっと見つめていた。

 

「大事な話がある。聞きなさい」

「はい」

 

 ……いよいよ、話が始まる。

 恐らくは……俺にとって、辛い話が。

 思わず身を竦ませてしまった俺に……父の、落ち着いた言葉がかけられる。

 

「まず、お前は間違っていない。むしろトレーナーとして、新たな一歩を踏み出したと言っていい。

 『堀野のトレーナー』とは、あくまで目標であり理想の1つでしかない。

 お前は、お前自身が正しいと思った道を行け」

 

 …………?

 それは、どういう……。

 

「俺は、お前への教育を間違えた。堀野の理想を押し付けすぎてしまった。

 理想は、あくまで理想でしかない。理想そのものになる必要はない。ただそこを目指すことが、多くの場合成長に繋がるだけだ。

 ……お前は、ストイックすぎる。無理に自分を変えようとしてはいけない。

 お前が担当に感じた感覚と、自分がしたいこと、トレーナーとしてすべきこと。その全てを今一度鑑みて、自分がすべきだと思うことをしなさい」

 

 ……それは、つまり。

 

「俺は……えぇと」

「お前は、間違っていない。

 ホシノウィルムがお前を求め、お前がホシノウィルムを求める限り、傍にいてやれ。

 トレーナーとウマ娘は……極論にはなるが、そういう関係なんだ。

 ……ウマ娘のトレーナーのやり方に、正解はない。トレーナーの数だけ正解があるのだ。

 だからお前は、お前なりの正解を探しなさい」

 

 

 

 つまり。

 

 俺はずっと昔から、大きな勘違いをしていた。

 

 「堀野のトレーナー」とは、即ち「道徳的観念」みたいなもので。

 基本的にそれが理想だけど、それを守ったからと言って必ずしも正解になるとも限らない「理想」でしかなく。

 大事なのは、それを守る中で自分が正しいと思う道を探し出すことだ、と。

 

 

 

「本来、家は子を縛るべきではない。

 兄が自分の道を行ったように、お前にも望ましい道が見えたのなら、それを行きなさい。

 堀野は……いや、俺は、それを応援する」

 

 

 

 ……そうして、堀野歩は自由になって。

 

 

 

 同時に、進むべき道を照らす明かりを、失ってしまったのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「……あー」

 

 久々でありながら身に馴染む自室で、うめき声を漏らす。

 

 あの後、帰ってきた母に挨拶したり、無理言って嫌がる妹の勉強を見たり、父にトレーナー業についてアドバイスを聞いたり、資料庫でリハビリに関する資料を漁ったり……。

 

 俺はその日を、久々の実家で過ごした。

 楽しく、充実した1日だったと思う。

 

 

 

 けれど、頭を占めていたのは、やはり……。

 俺のトレーナー観の間違いだった。

 

「これから、どうしよう……」

 

 俺は、要領が悪い。

 もっと言ってしまえば、才能がない。

 

 自論だが、人の能力ってのは才能と努力、努力の軌道の正しさ。この3つの乗算で培われる。

 その内才能が僅かしかない俺は、「俺自身の努力」と「その方向性を定めてくれる目標」、この2点が揃わなければ人並みの能力を持てない。

 

 そして今日、その内の片方が、失われた。

 

 堀野のトレーナーを絶対正義としてきたから、俺はここまで来れた。

 超一流にはなれなくとも、そこそこのトレーナーにはなれた。

 なのに今、その軌道の1つがなくなったら、俺は……。

 

「いや、やるしかない。やるしかないんだ」

 

 そう何度も口に出して、自分に言い聞かせる。

 

 どれだけ能力が劣っていても、ホシノウィルムのトレーナーである以上、そうありたい以上、俺はやるしかない。

 

 ……それで、彼女に迷惑をかけても? 彼女の可能性を閉ざしてしまっても?

 俺のエゴで、彼女の未来に影を落とすのが、正しい判断か?

 

 また、同じ間違いを犯すのか?

 

「…………また? いや……駄目だ、混乱してる」

 

 ここまで人生の道筋にしてきたものがなくなってしまったんだ。そりゃ混乱もするか。

 

 もう夜も更けたし、寝よう。

 早く寝て、気分を切り替えないと……。

 

 ベッドの中に入ると、長旅で疲れていたのか、すぐに意識は暗闇に沈んでいった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……多分、最後に考えていたことが良くなかった。

 「堀野のトレーナー」を失った俺には、何もできないんじゃないか、と。

 その無力感が……本当に、良くなかった。

 

 その夜、俺は酷い悪夢を見た、気がする。

 

 前に見た、ぼんやりした誰かの夢ではなく。

 意識の奥底に沈めた、ずっと昔の、自分の夢を。

 

 いわば、大雨の後の川のように。

 感情の濁流が、俺の中から思い出したくもない記憶を掘り返してしまった。

 

 けれど……。

 

 

 

「うえ、すごい汗かいてる。悪夢見たからって……。

 ……ん?

 あれ、どんな夢見たんだっけ?」

 

 翌朝には、その記憶も、忘れてしまった。

 過ぎ去ってしまった記憶を掴もうとしても、泥の中を探るような気持ち悪さがあるだけで……。

 

 何も、思い出せない。

 それをただの悪夢として、記憶の底に封じることしか、できなかった。

 

 

 







 1人のウマ娘としてある意味完成したホシノウィルムに続き、堀野歩もようやく1人のトレーナーとして歩き始める、的なお話でした。
 それにしては不穏なスタートになっちゃいましたけども。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、リハビリ開始! の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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一時的にレベルが1になる系のイベント

 修行回ならぬリハビリ回。





 

 

 

 病室の窓の外で降り続いていた雨は、いよいよ小雨になってきた。

 

「今年の梅雨も終わり、か」

 

 ホシノウィルムにとって、色々なイベントの重なったクラシック級6月が終わった。

 今思うと、これまでのレース人生で一番激動の月だったんじゃなかろうか。

 いや、でもクラシック級は何だかんだ色んなことがあったからなぁ。どうだろう。

 

 ……せっかくだし、これまでの私のトゥインクルシリーズ、軽く振り返ってみるか。

 

 

 

 ジュニア1月の夜、あの夜にトレーナーに助けてもらい、契約。その後大逃げを始め、選抜レースで大差勝ち。

 ジュニア6月、メイクデビューで大差レコード勝ち。ネイチャと出会い、初の模擬レースをしたのもこの辺りか。

 ジュニア11月、葉牡丹賞で大差レコード勝ち。

 ジュニア12月、ホープフルステークスで大差レコード勝ち。トレーナーとの勝負は、この日の夜に始まった。

 

 

 

 こう見ると、ジュニア級って丸々1年あったにしては、イベント少なめだったんだな。

 まぁ特筆すべきことがなかったとはいえトレーニング自体はずっと積んではいたわけで、何もなかったわけではないんだけどさ。

 それでもこう、何というか、今に比べると寂しい一年だったなって思う。

 

 当時は私余裕なかったし、まだトレーナーに恋愛感情って程強い想いも持ってなかったから、当然と言えば当然なんだけどさ。

 私がトレーナーのことを明確に気にし始めたのは、多分ホープフルステークスあたりからだ。

 ……いや、最初の夜から既に、気になってたと言えば気になってたんだけども。

 

 さて、ジュニア級が終われば、次はクラシック級か。

 

 

 

 クラシック級2月、テイオーと知り合ったのはこの辺りだったかな。3人の模擬レースで迫ってきたネイチャに、初めて「熱」を感じた。

 クラシック級3月、弥生賞で大差レコード勝ち。

 同じく3月、トレーナーに過去を打ち明ける。……あれはホシノウィルム史上最も勇気が必要な、そして最も私に必要な決断だったと思う。当時の私、グッジョブ。

 クラシック4月、皐月賞8バ身差レコード勝ち。

 クラシック5月、めちゃくちゃ強くなったネイチャに差し切られかける。あれは本当に焦った。領域のヤバさを痛感したね。

 同じく5月、ダービーハナ差勝ち。テイオーまで領域を持ってきて、真正面から負けかけた。そして多分、初めて自分の中から熱を感じた。その後、筋肉を痛めて入院。

 更に5月、トレーナーがおかしなこと言い出したので叱って、色々と話を聞かせてもらう。宝塚記念に勝ってトレーナーを「理解させ(わからせ)」なければならないと痛感。

 クラシック6月、宝塚記念1バ身差レコード勝ち。「私」の終わりで私の始まり。きっと何年経っても人生最高のレース、最高の瞬間の1つとして思い出せるだろう。

 

 

 

 うん、やっぱりクラシック級に入ってから、イベントが増えたね。

 初めての友達らしい友達、トレーナーへの恋の自覚、芽生え始めたレースへの熱……そして、私の領域(せかい)の完成。

 この半年、すごく色んなことがあった。

 その全てが楽しくて……満ち足りていた。

 

 私、やっぱり中央トレセンに来てよかった。

 ここに来たからこそトレーナーに出会えた。ここに来たからこそ、ネイチャやテイオーに出会えた。

 全力で駆け抜け、全力で生きてきた1年半。そこには一片の後悔もない。

 

 ……いや、宝塚記念後に脚ポッキリやったのは、若干アレだけども。

 何せそれから、ずっと入院生活だったしね。すっごい窮屈な毎日だったよ……。

 

 

 

 だが、いよいよカレンダーも次のページへ進み、私も新たな一歩を踏み出す時が来た。

 

 時は7月上旬。

 ついに、私の脚のギプスが取れたのである。

 

 っしゃーい!! ようやく解放じゃー!

 これでようやく好きに走れるぞー!

 

 ……とは行かないのが、非情な現実というもので。

 ギプスが取れるというのは、何も以前と同じ走りができるのとイコールじゃない。

 まず筋力は衰え関節は固まり、とてもじゃないけど走れる状態じゃないし……。

 仮に走れたとしても、ようやく固まってきた骨に負担をかければ、また折れてしまう可能性が高い。

 

 ここからは病み上がりの骨に強すぎる刺激を与えないよう細心の注意を払いながら、苦痛に満ちたリハビリテーションが始まるのであった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「さて、いよいよ本格的なリハビリに移るわけだが……当然ながら、苦痛と苦労が予想される。

 心の準備はいいか、ホシノウィルム」

「勿論、イメージトレーニングは万全です」

 

 そんなわけで私とトレーナーは今、入院中の病院にあるリハビリ施設に来ていた。

 流石は中央トレセン最寄り、日本一のウマ娘総合病院。リハビリ用の施設や機材がこれでもかと用意されている。

 他にも、食事ににんじんが多めに入れられたり、病室にリハビリやスポーツに関する本が置いてあるのも、配慮が行き届いててすごく良い。

 あと何気に、病衣にちゃんと尻尾用の穴が開いてるのもありがたいポイントだ。店頭で見かけた良さげな服に尻尾用の穴が開いてなくてがっくり来るの、ウマ娘あるあるだからね。

 

 さて、話を戻してリハビリ施設。

 リハビリというものにも、段階や方法がたくさんある。

 日本でも最高級の競走ウマ娘用総合病院であるここには、当然と言うべきか、莫大な資金を用いて作られた多くの施設がある。

 その中でも、私たちが訪れたのは……。

 

「……水位の低い、プール?」

「ああ。しばらくの間は、ここで運動を行う」

 

 プールっていうか、イメージとしては意図的に作られたでかい水溜まりって感じ?

 縦25メートル、横10メートルくらいの、水かさが地面から30センチくらいしかないすっごく浅いプール。

 ちっちゃい私の体でも、膝まで浸かり切らないくらいの高さだ。

 ……こんなに浅くて、何か意味あるのかな。

 

 更に普通のプールと異なる特徴を挙げるなら、水中とプールサイドに敷設されている柵だろう。

 横に1メートル弱の間隔で、床から80センチ、110センチ、140センチ……と、定期的な高さごとに伸びている。

 これ、アレだ。スポ根アニメとかで見る、脚のリハビリで支えにする柵。実在したのか……。

 

「……水着を持って来た方が良かったでしょうか」

「いや、まだしばらくはこのプールには入らない。この水位なら水着も必要ないだろうしな。

 今日からしばらくは……松葉杖を手離して、その足で歩く練習だ」

「歩く練習」

 

 もしかしてトレーナー、私のことを歩くこともできない生まれたての小鹿だと思ってる?

 ふふふ、私今日までずっと関節も伸ばして来たし、歩くくらい訳ないですよ。

 ここはいっちょ久々に、転生チートウマ娘っぽいとこ見せちゃおうかな……!

 

 松葉杖を握る手から、力を抜く。

 

「じゃあ、行きま……!?」

 

 ……正直、私は舐めてた。

 私がほとんど右脚を使わなくなってから、おおよそ1か月。

 私の筋力の衰えは、想像以上だった。

 

 ガクリと姿勢を崩しかけて、本能的な恐怖感から慌てて松葉杖を掴み直した。

 ……右脚、全然力入んない。

 関節もガッチガチで、立つことすらままならない。

 

 今までは意識して使ってなかったから、気付かなかったけど……。

 こんなに……こんなに弱ってたんだ、私の右脚。

 

「ゆっくりだ、ホシノウィルム。焦らずゆっくりと松葉杖を離して、まずは直立することだけ考えろ。

 歩かなくていいから、自分の体重を支えるんだ」

 

 トレーナーに言われて、慎重に事を進める。

 松葉杖を掴む力を徐々に、徐々に緩めて……足に体重をかけていく。

 倒れかけた松葉杖は、トレーナーが受け取ってくれた。

 

 改めて、右脚を地面に着けて……。

 痛みは……感じない。

 けど、とにかく力が入らなくて、体重のコントロールが難しい。

 脚の震えが……止まらない。

 

「痛みや違和感はないか」

「痛みはありません。ただ……力が入らなくて、何というか、やりきれない違和感があります」

「それは正常な反応だから、落ち着いて。不自然に拒否せず、自分の状態を受け入れろ」

 

 ……受け入れる。

 この状態を。まともに立てない状態を、普通のことだと受け入れる。

 

 そうだ、心を落ち着けて……とにかく、体のバランスを整えることに集中しよう。

 右に倒れないように。左に倒れないように。

 慎重に、慎重に、2本の足で、その場に……留まる。

 

 よし……何とか、立てる。

 

 ……逆に言うと、立つことすらギリギリの状態だけどね。

 油断すればふらつくし、脚はプルプルしてる。

 

 うぅ、すみません、舐め腐ってました……。

 私は歩くこともできない生まれたての小鹿です。

 

「直立は……できるな、よし。

 じゃあ次は、横の柵を掴んで……いや、1つ下。そう、それ。

 腕に力を込めて。……歩けそうか」

「ちょっと待ってください、慣らすのに……あと1分、いただければ」

 

 1か月ぶりに地面に触れた私の脚は、びっくりするくらい虚弱だった。

 

 考えてみれば当然のことだ。

 人はしばらくその行動を取らなかったら、本来動くはずの器官が退化し、動かし方を忘れてしまう。

 私も前世じゃ1か月間人と話さなかった結果、滑舌ガバガバになって話し方思い出せなかったもんね。

 いや、生来コミュ障ボッチだった「私」が元々人との話し方を知ってたかと言えば、それはまぁ、アレだけども。

 

 今回はそれの脚バージョン。

 ほぼ1か月固定して動かさなかった右脚は、動き方をサッパリ忘れてしまったんだろう。

 

 ……しかし、基本的にそれらは、訓練を繰り返せば取り戻せるもののはずだ。

 だから、大丈夫。

 私は……ちゃんと動ける。

 

 一度息を吸い込み、吐いた。

 

「行きます」

 

 努めて慎重に、横に添えられていた柵に手をかけて、ゆっくりと……右足を踏み出す。

 絶対に捻ったりしないよう、足の裏を地面と平行に落とした。

 

 うん、力はほとんど入らないし、思うように動かない。文字通り足が棒になったような感じ。

 けど……取り敢えず、歩くことはできそうだ。

 二歩、三歩。掴んだ柵と、いざと言う時に備えて近くにいてくれるトレーナーを信じて、足を前に進める。

 

 うん……歩ける。

 私は、歩ける。

 

 最初の一歩は、踏み出せた。

 だから後は、ひたすら繰り返していけば……必ず。

 

「そこまで」

 

 トレーナーの声に、足を止める。

 歩いた距離は……10歩も行かない程度。

 それなのに……。

 

「……ふぅ」

 

 思わず、息を吐いた。

 想像以上に、キツい。

 

 痛みはないけど、右脚の倦怠感が強い。

 これ、ちょっと休憩しないと……しんどいかも。

 

 でも、頑張らないと……絶対、菊花賞までに、以前の走りを取り戻さないといけないんだから。

 

「トレーナー、私、もっと……!」

「いや、よく頑張った。今日はここまででいい」

「え?」

 

 

 

 1日目のリハビリは、たった10分で終わってしまった。

 その後は再び松葉杖を突いて検査室に向かい、骨や筋肉に異常がないか見てもらって……。

 夕食前と寝る前に、丁寧に右脚を解し関節を動かして、その日は終了。

 

 何でもここから数日の間、筋肉痛を起こすような急激な負荷の向上は厳禁らしい。

 今の私の脚は、それこそ生まれたての小鹿レベル。故にその稼働時間も10分からちょっとずつ伸ばして、長い期間かけて負荷を増やしていく、とのことだ。

 何事も一歩ずつってわけだね。……流石に、こんなにもスロースタートとは思わなかったけど。

 

 ……しかし、改めて。

 1か月動かさないだけで、脚ってこんなに弱るんだね。

 アニメとかドラマでよく見る、リハビリでめちゃくちゃキツそうに歩いてる描写の意味がようやくわかった。

 

 自分の体が自由に動かないって感覚は、不気味だ。本来脚があるべき部分に冷たい棒があるような感覚、って言うと伝わりやすいかな。

 

 その気味の悪さ、簡単な動きすらできないストレス、そして筋力の衰弱による疲労の蓄積。

 たとえそこまで痛みがなくとも、そりゃあ顔を歪めてしまうってものだ。

 

 その上アスリートとしては、精神的に結構辛いものがある。

 ここまでやってきた「現在の状態から鍛えていく」トレーニングと違い、リハビリは「極端に落とされたところから鍛え直す」行為。

 気持ちよく動いていたはずの体がその機能を失ったことを知るのは、競走ウマ娘的にはかなりデカいストレスだ。

 一般人で例えるなら……頑張って仕事でお金を稼いで貯金してきたのに、それが事故で全部なくなって、また1から貯め直さないといけない、みたいな。

 人によっては心が折れてしまいかねないね。

 

 ……ま、私にはあまり関係のない話ではあるが。

 死ぬ気で努力するのは慣れてるし、上手く走れないストレスなんてずっと昔から抱えてた。

 確かにここまで体が弱ったのは初めてだけど、目の前に道筋があるなら、後は前に進むだけだ。

 

「よし、明日も頑張るぞ」

 

 そんなわけで、私のリハビリ生活は始まったのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 リハビリをしていく上で、最もマズい事態が何かと言うと……それは「状態の悪化」だ。

 私の例で言うと、せっかく癒合してきた骨が過重な負担によりまた剥離したり、あるいは炎症を起こしてしまうことがそれに当たる。

 そうなるとまた……えっと、保存的療法、だったっけ? あのギプスで患部を固定するところからやり直し。

 酷いと手術の可能性まで見えてくるし、最悪骨折がクセになってしまいかねない。

 

 故に、過重なリハビリは厳禁。自主トレなんて論外だ。

 流石の「トレーニングジャンキー」の私といえど、そこまで空気を読めないバ鹿ではない。

 骨が完全に固まるまでは、自主トレは封印です。悲しいね。

 

 まだ骨が固まりきってない、ギプスが取れた直後のタイミングですべきことは、患部の調子を窺いながらカチコチになってしまった関節を解きほぐし、基礎的な筋力を取り戻すこと。

 特に今、ようやく固まりつつあるっていう時期は、とてもじゃないけど過重な負荷をかけるべきじゃないらしい。

 故に、少しだけ歩いて体に「歩く感覚」を思い出させた後は、プールを使ったリハビリになる。

 

 

 

「プールでの運動には3つの長所が見込まれる。

 1つ目は、浮力により骨にかかる負担が軽減されること。

 2つ目は、水圧や抵抗により筋肉には普段以上の負荷をかけられること。

 そして3つ目は、足を冷やすことで炎症を防止できることだ。

 故に、このプールには浅く冷たい水が満たされている。筋肉への負荷が強すぎないよう、けれど骨への負担は軽減できるようになる」

 

 トレーナーの言葉を聞きながら、私はゆっくりと松葉杖から柵に手を移し、浅いプールの中に足を進めた。

 うお、確かに思ったよりひんやりしてる。ちょっとビックリした。

 でもすごく冷たいってわけでもなく、今の季節柄もあって気持ちの良い程度の水温に調節されてる。

 足湯ならぬ足水……って言うには、少し水位が高いかな。

 

 そして……うん、確かに水の抵抗でちょっと歩きにくいね。

 ちゃぷちゃぷと、敢えて少し大きめに足を動かし、前に向かって歩く。

 歩調はまだ安定しないけど……1日目よりは、だいぶマシになったかな。

 

 数日間のリハビリの結果、少しだけ脚が動くようになってきた。

 まだまだ柵がないとふらつくことには変わりないけど、それでも一歩前進だ。

 

「……どうだ、ホシノウィルム。痛かったり辛かったりは、しないか?」

 

 トレーナーは無言で足を進める私を心配してか、ちらりとこちらを覗き込んでくる。

 そこには、以前は仮面の奥に封じられてた親愛と……同時に、自信のなさが垣間見えた。

 

「平気です。……信じてください、私はあなたのウマ娘ですよ?」

 

 師匠のラジオNIKKEI賞の日、実家に帰省してからだろうか。

 彼は少しだけ、変わった。

 素顔、それもトレーナーの仮面の下にあった彼の本当の素顔を、時々覗かせるようになった。

 そして何より、「堀野のトレーナー」という言葉を使わなくなった。言いかけてやめる、あるいは「トレーナーとして」などと言い換えるようになったんだ。

 

 多分、帰省中に何かがあったんだと思う。

 彼の根底にあった価値観を揺るがしてしまうような、何かが。

 

 何があったのかは……話したそうにもしてないし、無理に聞き出そうとは思わない。

 彼が話そうと思った時、その時改めて聞けばいいと思う。

 

 とにかく私にとって大事なのは……。

 今、彼が精神的に不安定で、支えを必要としてるってことだ。

 

 何かあれば、全力で支えていかなきゃね。

 なにせ、トレーナーにはいつも助けてもらってるもの。

 とても返し切れない恩だけど、こういうところで少しずつ親孝行ならぬトレーナー孝行していこう。

 

 

 

 それと、彼にとっての一大事を利用するようで、少し不謹慎かもしれないけど……。

 これは私にとって、チャンスでもあった。

 

 「堀野のトレーナー」は非常に強固かつ隙のない仮面だった。

 彼の価値観の根底に刻まれた、本人すら素顔と区別が付かないレベルで徹底されていた仮面。

 

 あれを被られている限り、彼にとって私は「担当ウマ娘」以上でも以下でもない。

 未来永劫対象外、攻略不可能状態だったわけだ。

 

 ……けれどその仮面は、宝塚記念でヒビが入り、先日の帰省で完全に割れた。

 今の彼は……まだその半分割れた仮面の残滓を残しながらも、素の彼にとても近い状態。

 

 つまり今、この瞬間は……。

 

 好感度が超あがりやすい確変状態!

 彼に好かれる、またとないチャンスなんだ!!

 

 これぞ棚からぼた餅、降ってわいた幸運。

 ここで私の魅力を見せつけて、彼を惚れさせてみせる……!!

 

 

 

 ……と。

 スムーズに話が進む程、私に魅力があれば良かったんだけどねぇ……。

 

 ゆっくり歩きながら、ちらりと自分の体を見やる。

 踵からウマ耳を含めない頭の先まで、その長さたるや僅か145センチ。

 体も出るとこは出ず、引っ込むところは引っ込んでる虚しき大平原だ。

 性格もまぁ、この通り歪んでる。変に前世の記憶があるせいで可愛げもないだろう。

 良いところを挙げるなら顔の良さだけど、それだってウマ娘は顔の良い子ばっかりだし。

 

 こんなことを声高に言うのもなんだけど、はっきり言ってホシノウィルムは、男性の所有・独占・性欲を煽る魅力に欠けている。

 単純な色仕掛けは難しいと思う。そもそもトレーナー、そういうのに強そう、というか鈍感そうだし。

 

 そんな私にできるのは、とにかく献身的にトレーナーを支えることだ。

 歯に衣着せず言うなら、陰から彼を支える「理解ある良い女」になることである。

 そして私、前世からオタクだったのでそういう概念には詳しい。台詞の引き出しだって大量だ。

 

 やってやるさ……スパダリならぬ、スパハニ!

 それでトレーナーの心を問答無用に射貫いてやる。

 見た目はともかく中身は最高ウマ娘として、心の底からメロメロにしちゃうぞ!

 

 

 

「無理はしないでくれ。俺はもう、君が走れなくなるところなんて見たくない。

 ずっと君の傍で、君の走りを支えていたいんだ」

 

 

 

 …………。

 

 思うんだけど、「ずっと君を支えていたい」とかシラフで言ってくるの、ヤバいよね。

 しかも信じられないことに、仮面じゃなくて素でこれなんだもんな。

 恥って感情ないの? 無敵の人なのか?

 私なんて、聞くだけで顔真っ赤になりそうなんだけど。

 

 あー……もう、本当。

 マジ信じらんない。このウマたらし。

 他の子にも同じこと言ってるんですか?

 

「ホシノウィルム? どうした、立ち止まって」

「いえ。……リハビリ、再開します」

 

 はぁー……トレーナーに恋愛で勝てるの、いつのことになるのかなぁ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、浅いプールでの歩行と、地上でのゆっくりした歩行を交互に繰り返すこと、2週間程。

 筋力と関節の柔らかさもだいぶ戻って、骨も少しずつ固まってきたこともあり、リハビリは次の段階に進んだ。

 

 次にトレーナーに案内されたのは、以前の浅いものじゃない、水深1メートルくらいのちゃんとしたプールだった。勿論柵付きだから泳げないけど。

 

「今度はこのプールで歩行ですか」

「ああ。深いプールになれば抵抗も水圧も強くなり、更に筋肉に負荷をかけられる。

 恐らく骨が完全に繋がるまでは、ここと陸上での歩行を交互に繰り返すことになるだろう」

 

 実際にプールに入ると、確かに以前よりも動きにくい。

 それなのに、骨には強い負担がかかってないようで……なるほど、リハビリには良い方法なのかもしれない。

 

 ……唯一欠点を挙げるとすれば、この水深になるともう水着を着るしかないので、トレーナーに私の貧相な体を晒してしまうってことだ。

 お目汚ししてしまって申し訳ないというか……正直、その、照れる。

 

「あの、トレーナー……あまり見られると、恥ずかしいというか」

「これは……いや、うん、そうか」

 

 多分以前のトレーナーであれば、「君のトレーナーとして、今の君を監視する必要がある」みたいなことを言っていただろう。

 でも、今は……少し気まずげに、視線を逸らした。

 

 ……これ、どう見るべきかなぁ。

 好意的に解釈するなら、私のことを意識してくれてる。

 現実的に見れば、大人としての倫理観が働いた。

 

 前者であれば嬉しい……んだけどねぇ。

 私、体もロリ体型で、更に性格もキツめだった過去があるわけで、正直トレーナーにそんな想いを持ってもらえてるとは思えないんだよなぁ……。

 

 脚を評価してもらえてるのはわかってる。

 相棒としても認めてもらえてる……と信じたい。

 でも、女としては……はは、こんな体の女の子に興味を持つわけないよね……。

 

 クソ、もう1回転生してブルボンちゃんみたいな体に生まれ直してぇ……バスト90以上のウマ娘に生まれて「いやぁ胸なんて走るのに邪魔なだけだよ?w」とか言ってみてぇ……。

 

 ちらとトレーナーの方を窺うと、私の言葉を真に受けて後ろを向いていた。

 ……なんか、それもそれでムカつく。手前勝手な乙女心だ。

 

「ま、まぁでも、トレーナーとしては担当ウマ娘のことは見ないと、ですよね……?」

「そう、だな。そうだよな、うん」

 

 

 ……焚き付けておいてなんだけど、意識されてるかもって思うと、やっぱりどうしても恥ずかしい。

 思わず火照った顔を水に付けたら、転んで溺れたと勘違いしたトレーナーが大慌てしてた。

 

 へへ、トレーナー、あんまり慌てたりしないから、なんか珍しいとこ見れた気分だ。

 ……その分私の水着姿もしっかり見られたわけですが。

 

 その日の夜は、枕に顔をうずめて寝ることになりました。はい。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そんなこんなで、更にそこから3週間が経ち。

 軽く歩くだけなら以前と同じようにできるようになって。

 本気で走ったりでもしない限りは足も付いて来るようになり。

 常に脚に纏わりついてた違和感も消え去って。

 いよいよ菊花賞に向けた復帰メニューのことを、トレーナーと話し合ったりしている内に……。

 

 8月中旬。

 ついに私の骨が、完全に繋がった。

 

 これでもう大丈夫、また過剰な無茶でもしない限り、骨折の危険性はない。

 ようやく、本当にようやく……私がターフに、トレセン学園に戻る時が来た。

 改めて、ここから頑張らなきゃね。

 

 

 

 

 

 

 ……さて、それはそれとして。

 私がトレセンに戻るとなったら、そろそろかな。

 

 スマホを取り出し、私はその子に通話をかけた。

 

 

 

「もしもし。……うん、そう。大丈夫だと思うよ。

 うん、うん。わかった。

 それじゃ頑張れ……ブルボンちゃん」

 

 

 







 薄暗いプール、したたる水滴、年若いウマ娘と異性のトレーナー。
 何か起こるはずもなく、病院でのリハビリは終了です。
 勿論まだ本調子じゃありません、彼女が本気で走れるようになるのはまだまだ先になります。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、戦いは始まる前に終わる話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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前門の栗毛、後門の鹿毛

 前回短めだったし文字数多め。

 続くリハビリはホシノウィルム視点で。
 トレーナー視点では別方面のお話が進みます。





 

 

 

 実のところ、この世界がどういうものなのか、俺は未だにわかっていない。

 

 確かなことは、俺が前世でやっていたアプリゲーム「ウマ娘 プリティーダービー」に近似した世界だってことくらいだ。

 ウマ娘という存在、トゥインクルシリーズ、トレセン学園、最初の三年間……。

 単語やシステムが、アプリで語られていたものと酷似している。し過ぎている。

 細部こそ疑問は残るが、少なくとも大枠はあのゲームに近いと考えていいだろう。

 

 ……けど、ゲームの世界に転生するとか意味わかんなくない?

 根本的にゲームの世界ってのはプログラム、つまりデータ上のものであり、物理的に存在しない。

 そこに自分が体を持って生まれる、というのはあり得ないと言っていいだろう。

 つまり、俺の認識がおかしくなっていない限り、この世界はゲームの中そのものではないのだ。

 

 では、この世界とは何なのか? 前世アプリとどんな影響があるのか?

 そのあたり、ずっと疑問には思ってるんだが……。

 考えられることは、色々ある。

 

 

 

 まず、この世界、実はフルダイブのVRゲーム説。

 なんかバグってこれまでの記憶が思い出せないだけで、俺はただVRのゲームで遊んでいるだけなのかもしれない。

 こう考えると、どうにもゲーム的な「アプリ転生」の表示には納得がいく。

 だが同時、このあまりにも臨場感のある感覚には説明が付かなくなるんだよな。

 人間やウマ娘の誰もが生き生きとしている世界なんて……前世の「俺」が生きていた時代では、とてもじゃないが再現できるものじゃないと思う。

 まぁ俺の記憶がないだけで、コールドスリープ技術が開発されて時代が進んだとか、可能性が0というわけではないが、おおよそ考えにくい説だ。

 

 次は、暇を持て余した神々の遊び説。

 世界を管理する神様的存在が実在したとして、ソイツが何をトチ狂ったか人間ごときの娯楽を気に入り、「アプリウマ娘を元にした世界」を1から作り上げた、という説。

 こう考えると、様々なことに納得がいく。ここはゲームを元にしたとはいえ物理的な世界ってことになるし、ウマ娘というフシギ生物の存在にも説明が付く。

 ……そりゃ説明が付くのも当然なんだけどね。何せ「神」ってデウスエクスマキナを仮定に持ち込んでるんだから。

 勿論こんなもんはただのつじつま合わせのおとぎ話でしかない。神話ってこうやって作られるんだろうね。

 

 次の説は……これも非常に考えにくいことではあるが、実はアプリウマ娘はこの世界を元に作られたもの、という説。

 前提として、輪廻転生はもうそういうものがあるんだと受け入れるとして……。

 この世界で死んだ誰かが、俺にとっての前世の世界に転生し、ウマ娘というアプリゲームの企画を立ち上げた、というもの。

 この説を採用すれば、ここはゲームの世界ではない、物理的な世界であると認めることができる。

 ……が、非常に大きな問題がある。前世アプリのモチーフになった競馬の世界には、元ネタとなった競走馬たちが実在したってことだ。

 彼ら彼女らの名前を決めたのは馬主なわけで、全ての馬主に接触して的確にウマ娘たちの名前を付けさせる、なんてのはとてもじゃないけど考えられない話だろう。

 

 最後に、俺の中で現状最も有力と考えている説。

 それはつまり、俺の前世……いや、ここでは敢えて「もう1つの世界」とするか。

 「もう1つの世界」と「この世界」が、非常に密接な関係にある、という説。

 もう頭が痛くなるくらいにファンタジーな話だが、2つの世界は相互に関係してるとすれば、この謎めいた状況は説明できる。

 例えば「もう1つの世界」で活躍した馬の魂が、「この世界」でウマ娘として転生し……。

 「この世界」で活躍したウマ娘は、「もう1つの世界」でウマ娘として実装される運命に置かれる、とかね。

 これなら、無理やりな理屈になるけど納得できなくもない。……いや、本当に非現実的というか、何の物的証拠もない、まさしく妄想レベルの話だけども。

 でもこれが、前世アプリの設定とかと一番噛み合った解釈なんだよなぁ。

 ウマ娘は、他の世界の存在から名前と魂を受け継いだ不可思議な生き物。そして他の世界から影響を受ける以上、他の世界に影響を及ぼしてもおかしくはない。

 ……まぁ、半分以上屁理屈でしかないけどさ。

 

 

 

 他にも、いくらでも考えられることはあるけど、その尽くは妄想でしかない。

 調べたり考えてみましたが、よくわかりませんでした。いかがでしたか? ってレベルの結論だ。

 

 結局、この世界って何なのか。

 それは多分、今考えてもわからないし……あるいは、ずっとわからないままなのかもしれない。

 何せ物的証拠のない、非常に少ない状況証拠を繋ぎ合わせた話だ。

 確実と呼べることは1つもない。

 

 ただ確かなのは……今、俺がすべきこと。

 それだけは、明確にわかってる。

 

 この世界で、堀野歩として生き、ホシノウィルムを支える。

 それが、今の俺の行動原理だ。

 

 

 

 ……さて、その上で。

 この世界が何らかの形で前世アプリと関係していることは、ほぼ間違いないと言っていい。

 この辺りについて考察することは、きっとホシノウィルムを支える際に役に立つ。

 故に今一度、前世アプリとこの世界の類似性について考えてみようと思う。

 

 まず、前世アプリ……「ウマ娘 プリティーダービー」について振り返ってみよう。

 このアプリは、現実における競走馬を美少女に擬人化したソーシャルゲームだ。

 ゲーム内の流れを大雑把にまとめると……。

 

 まずガチャを引いて、育成ウマ娘とサポートカードを引き当てる。

 育成ウマ娘を、サポートカードを用いて、3年間育成する。

 そして育てたウマ娘を走らせたり、時にチームを組ませて他のトレーナーと対決する。

 

 ……って感じだ。

 

 これ、びっくりするくらいこの世界のトレーナー業と合致する部分がある。

 

 

 

 まずガチャに関しては、出会いの縁だ。

 育成ウマ娘は自分の担当との出会い、サポートカードは担当以外との出会い。

 俺たちこの世界のトレーナーは、それを育成中にリアルタイムで引いているんだ。

 

 例えば、俺の例で言うなら……。

 なかなか育成ウマ娘を引けずに困っていたが、あの日、人権級星3育成ウマ娘・ホシノウィルムを引き当てる。

 その後彼女を育成する中で、メイクデビュー直後にSSRサポートカード・ナイスネイチャを引き、今年の頭にSSRサポートカード・トウカイテイオーを引いたような感じ。

 ネイチャとの合同トレーニングでは明らかにステータスの伸びが良くなったし、前世におけるサポートカードは、一緒にトレーニングするような友人を意味していたんだろう。

 

 更に、ダービー前には星3育成ウマ娘・ミホノブルボンも引いた形になる。

 今のところ彼女を担当する気はないので、見送りになるだろうけどね。前世で言うところの、引いたはいいけど育成はしない状態かな。

 ただ前世のアプリと違うのは、彼女たちには他にも契約できるトレーナーがいて、タイムリミットもある。

 ミホノブルボンの目指すクラシック三冠、その最初の一歩たる皐月賞までは、あと10か月程度しかない。

 そこまでに……いや、メイクデビューや出走権の確保も考えれば、年始までに担当が付かなかった場合、ミホノブルボンはそこまでだろう。

 ……勿論、彼女程の実力者なら、間違いなくトレーナーは付くはずだ。もし間に合いそうになかったなら、俺が仲介して相応しいトレーナーを探してもいい。

 

 とにかく、俺はミホノブルボンを担当する気はないってことだ。

 残念だが、これも運命ってものなんだろうな。

 今の俺は、ホシノウィルムのトレーナーなんだから。

 

 

 

 で、次は育成だけど……。

 ここに関しては、前世アプリとこの世界で、結構違う部分があるんだよね。

 

 前世アプリでは、育成は3年間が経過し、URAファイナルズ決勝に勝った時点で終了した。

 でも、今世ではそうじゃない。

 

 確かに「最初の3年間」が終わると、URAファイナルズへの出走が許される。

 けど別にそこで関係が終わるわけじゃなく、担当ウマ娘が望む限りはトゥインクルシリーズを走り続けることが可能だ。

 故に、サイレンススズカなんかは合計で6年という長い期間、トゥインクルシリーズに参加している。

 ……いや、彼女は今海外で走り回っているので、名前だけ登録された幽霊部員みたいな状態。正確には参加しているとは呼べないかもしれないけど。

 

 ただ、何故ゲームでは3年で終わるかに関しては、恐らくこうだろうという発想がある。

 こちらの世界でも、前世アプリと同じく「最初の3年間」は重要視されている。

 それは、「本格化」と呼ばれる現象が、おおよそ3年間で終了するからだ。

 そしてこれこそが、アプリでは3年で育成終了となる理由なのだろう。

 

 「本格化」。広く知られている、競走ウマ娘特有の現象である。

 半公式である選抜レースを他のウマ娘たちと走ることで、ウマ娘たちの体は走るための準備が整い、本格化を迎える。

 すると、そこから3年の間、彼女たちの体は急激に成長するんだ。

 スピード、スタミナ、パワー、根性、そして賢さすらも。それまでとは比べ物にならない速度で跳ね上がっていく。

 更に体格は急激に成長し、それぞれの走りに合った状態で固定化され、そこから3年の間は彼女たちの見た目はほぼ変化しなくなる。

 これが本格化という現象である。

 

 ……逆に言えば、この3年間が終わると、ウマ娘たちの能力はほとんど成長しなくなる。

 だからこそ、ゲームではここで打ち止めなんだろう。

 それ以上育成を続けても、殆ど成長がない。

 ゲーム的な育成要素は、そこまでで終了というわけだ。

 

 

 

 だが、この世界のレースはまだ続く。

 トゥインクルシリーズを走り抜けても終わらない。

 

 トゥインクルシリーズを引退した際に一定以上の人気・実力を持っていると、前世アプリでは名前だけ語られていたドリームトロフィーリーグというレース群への参加が認められる。

 名バ中の名バだけが参加することを許された、絢爛極まる夢の舞台。

 あのホシノウィルムであってもなお、今の実力のままなら欠片の勝機もないような、とんでもない戦いである。

 

 その身体的成長こそ打ち止めになっているが、技術やレース勘、領域を磨き上げることはできる。

 トゥインクルシリーズのような短い期間での爆発的な成長は望めないが、それでもウマ娘たちは強く、速くなり続けるのである。

 故にこそ、ドリームトロフィーリーグはトゥインクルシリーズよりも開催されるレースの数が少ない。

 そして機会が少ないからこそ、ファンたちは英雄たちの決戦を心の底から楽しみにしているのだ。

 

 ……さて、改めて3つ目、チームを組ませて対戦したりするPVPなんだけど。

 多分、前世アプリにおけるチームレースやチャンピオンミーティングは、このドリームトロフィーリーグにあたる。

 ドリームトロフィーリーグはファンへの感謝祭のような側面も強く、基本の18人立てのレースは勿論、チームを組んだり9人立てのレースだったりと、様々な形式のレースが開催されるんだ。

 勿論、同じウマ娘が3人出走するようなことはないんだけどね。デバフネイチャなんてなかった。

 

 

 

 ここまで考えてわかることとして、やはりこの世界と前世アプリは、その設定や名称などにかなり近しい関係性が見られる。

 この世界がアプリの基になったのか、あるいはアプリがこの世界の基になったか、もしくはその2つが同期しているのかはわからないが……。

 何にしろ、アプリにおいての知識や経験はきっと無駄にはならないと思う。

 

 

 

 ……そろそろ、本題に入ろうか。

 

 俺はこの認識を元に、1つの結論を出していた。

 それは、初の担当との「最初の3年間」を越えるまで、担当ウマ娘の数は増えない、ってことだ。

 

 アプリの主人公、つまりプレイヤーが投影する存在は、確か新人トレーナーだったはず。

 彼や彼女は、決して同時に2人以上のウマ娘を担当していなかった。

 ……いや、正確に言えばメインストーリーでは担当していたんだけど、あれは先代によってチームトレーナーに指名されたが故の特例だろう。

 

 本質的に、複数のウマ娘の担当は、仕事に不慣れな新人トレーナーには困難。

 何よりこの学園の最高権力者は、見た目こそ幼いが、あれでいて人格者だ。

 新人に無理難題押し付けるような人ではない。

 

 故に、新人トレーナーは2人以上の担当ウマ娘を持たない。

 それはトレセン学園の不文律も語る通りの、絶対的な原則なんだ。

 

 ……と、そう思っていたんだが。

 

 

 

 

 

 

「提案ッ! 堀野トレーナー、担当ウマ娘を増やしてみないか!」

 

 

 

 

 

 

 俺とホシノウィルムの、最初の物語は終わり。

 

 いつの間か、新たな運命が胎動を始めていた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 8月某日。

 いよいよホシノウィルムの骨が完治し、菊花賞に向けた復帰メニューを実行に移す時が来た。

 データは堀野の本家から引っ張って来たものが大量にあるため、最適とまでは言わないまでも、多少は良いものが組めたはずだ。

 

 他に出来ることと言えば……俺なりに、ホシノウィルムを支えること。それだけだろう。

 

 

 

 俺は、堀野のトレーナーという道筋を失った。

 だが、不幸中の幸いがあったとするなら……。

 その時、俺は既に、もう1つの道筋を見出していた。

 

 「ホシノウィルムの良きトレーナーになる」という、俺自身が目指したい目標を、見つけた。

 

 勿論それは、堀野のトレーナーと違い、明確な指針のないものだ。

 例えるなら、コンパスのない旅。

 俺は彼女という星を唯一の道しるべとし、そのぼんやりとした明かりの下、自分の足で歩いて行かなければならない。

 

 それは、才能のない俺には難しいものだ。

 ……それでも、何の頼りもないよりは、ずっと良い。

 

 だからその日も奮起し、トレーナー室で仕事に精を出していたのだが……。

 

 

 

 コンコンコンと、軽いノックの音と共に。

 

「堀野トレーナーさん、理事長がお呼びです」

 

 そう、たづなさんが俺を呼びに来てくれた。

 

 駿川たづな。

 前世アプリにもいた、トレセン学園の理事長秘書。

 緑を基調とした服に身を包む、妙齢の女性だ。

 

 アプリでは友人サポカと爆死のイメージが強かったんだけど、この世界ではめちゃくちゃ優秀な上、話のわかる事務員さんって感じだ。

 

 彼女の職務上の役割は、理事長の仕事の補佐と、俺たちトレーナー個人と学園全体の仲介。

 俺たちが個々でこなした書類を纏め上げて事務所に話を通したり、理事会に提出したり、ヘルプに入ってくれたりもする。

 

 この学園で一番方々に顔が通っているのは、間違いなく彼女だ。

 故に、何か緊急事態が起こればまずたづなさんに伝え、話を通してもらうことになっている。

 他にも、疑問や確認があれば、取り敢えず事務所かたづなさんに尋ねるのが常道だ。

 

 彼女がいなければ、俺たちトレーナーは今のようにトレーナー業務にばかり集中してはいられないだろう。

 故に、1年以上トレーナーを務めた者なら誰もが彼女に感謝している。その惜しみない努力と献身に敬意を表している。

 ……容赦なくミスを咎めてくる彼女を恐れ、冗談交じりに緑の悪魔呼ばわりする者もいるが。

 

 

 

 さて、そんな彼女が俺を呼びに来たってことは、何らかの緊急事態である可能性が高い。

 例えば、ホシノウィルムの今後について話がある、とか。

 

 幸い今は昼時、ホシノウィルムは昼食を取っている頃合いだろう。

 トレーニングの時間まではまだ余裕があるし、すぐさま片付けないといけない業務もない。

 俺はホシノウィルムに仔細を伝えるメッセージを送って、すぐにたづなさんの後に付き、理事長室に向かった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 俺は、ナイスネイチャやトウカイテイオーのことを「ネームド」と仮称している。

 前世アプリで実装されていた、汎用(モブ)ではないキャラクター、という意味合いでの呼称だ。

 

 しかしそういう意味においては、アプリ版で明確に名前や立ち姿が出ていたたづなさんもネームドと呼べるだろうし……。

 そして、このちびっこ理事長もまた、ネームドと呼べるだろう。

 

「歓迎ッ! よく来てくれた、堀野トレーナー!」

「ご無沙汰しております」

 

 『歓迎』と書かれた扇子を開き、笑顔でこちらを出迎えてくれたのは……。

 淡い栗毛色の髪を持つ、何故か帽子の上にいつも猫を乗せた小柄な少女。

 

 彼女こそがトレセン学園理事長、秋川やよい。

 トレセン学園が誇る、ちびっこ理事長様だ。

 

 ウマ娘のそれと比べても遜色のない可愛らしい見た目をしているが、その性質は豪胆無比。

 ノリと勢いとウマ娘への愛で生きており、前世アプリじゃURAファイナルズが開催の危機に瀕した際、私財を投げ打って張り替え用の芝を育てようとしたりしてた。

 この世界では2年前半からURAファイナルズが開催され始めたらしいし、前世アプリで同世代だったハッピーミークは現在シニア3年目。

 それらから考えても、今はアプリの育成終了時点から2年半後だと推測できるんだけど……やっぱりこの世界でも、開催のために芝を育てたりしてたんだろうか。

 

 そんな豪快で暴走気味な彼女だけど、ウマ娘関連以外は善性な人格者だ。

 未だ幼い身ながら立派に理事長を務め、他者の未来を慮れる、心優しい女の子なのである。

 

 

 

 さて、秋川やよいはトレセン学園の理事長。

 理事長とは即ち理事の長、学園に利益を出すための舵取りが主な職務だ。

 故に、時にはこうしてトレーナーを呼び出し、辞令を伝えたり指示を出すこともある、のだが……。

 

「さぁ、そこに座ってくれ。今日は君に大事な話があるのだ!」

「失礼します」

 

 今日は何の用だろうな。

 ……まぁ、ある程度予想は付くんだが。

 

 何せ俺の担当は、今を時めくスターウマ娘だ。

 想像できることとしては……彼女を育てた賞賛、今年のURA賞や顕彰についての内示、あるいは今後についての打ち合わせあたりか。

 

 

 

 ホシノウィルムは無敗のクラシック二冠ウマ娘であり、史上初のクラシック級宝塚記念勝者。

 更に言えば、サイレンススズカを思わせる大逃げやオグリキャップを思わせる前傾姿勢を見せ、その出自が寒門であることなどもあり、その人気はとてつもないことになっている。

 そして同時、彼女と走る強者であるトウカイテイオーやナイスネイチャ、ひいては世代全体が、世界中から注目されている。

 ここまで1人のウマ娘を中心としてトゥインクルシリーズ全体が盛り上がっているのは、オグリキャップらの永世三強以来と言っていいだろう。

 

 トレセン学園の上位団体であるURAからは、その人気にあやかって更にトゥインクルシリーズを盛り上げたいという意図が透けて見えるし、今回もそういう話かもしれない。

 ホシノウィルムの故障も完治し、これでようやくおおっぴらにイベントを組んだりできるからな。

 URA協賛のトークショー、あるいはCMか何かのセッティングとか?

 

 ……もしそうだとすると、少し難しいな。

 競走ウマ娘にとっては、そういった案件を受けるのも仕事の1つだ。

 だが同時、ホシノウィルムは一刻も早く本来の実力を取り戻し、菊花賞へ出走することを望んでいる。

 仕事を受けさせるか、トレーニングを積ませるべきか。

 どちらを優先すべきかは、難しい問題だった。

 

 堀野のトレーナーであれば、悩むことはない。

 ホシノウィルムの意思は何よりも優先される。

 たとえURAからの依頼でも、彼女が受けたくないと言えばそれまでだ。

 

 ……しかし、俺個人としては。

 彼女には、色々な経験をして欲しい。

 確かにトレーニングにはならないかもしれないが、社会的に自分が認められているという実感は、きっと彼女に必要なものだと思う。

 それに、より多くの人に彼女の努力と走りを知ってほしい、という想いもある。

 

 それらは、ただのエゴイズムに過ぎないが……。

 エゴを交えないことが必ずしも正しいとは限らないと、俺は思い知らされたばかりだ。

 

 取り敢えず話を聞き、ホシノウィルムに確認を取ってみないと何とも言えないが……どんな話であれ、俺なりに正しいと思える道を選ばなければ。

 

 ……と、そう思っていた俺にかけられたのは、想像の遥か外の言葉だった。

 

 

 

「うむ、話というのは他でもない。

 提案ッ! 堀野トレーナー、担当ウマ娘を増やしてみないか!」

 

 

 

 バサリと、理事長が先程とは別の扇子を開く。

 そこには「増加」という二文字が刻まれていた。

 

 いつも思うけど、その扇子って何種類あるの?

 服の裏に何十という扇子隠し持ってそう。アサシンかな?

 

 ……じゃなくて。

 

「……増やす、ですか。担当を」

 

 思わず、オウム返しで訊き直してしまった。

 

 

 

 担当ウマ娘を増やすというのは、新人トレーナーにとって1つの試練みたいなものだ。

 いつかは越えないといけない、でも気軽に手を出すと火傷する案件である。

 ……まぁテイオーのトレーナーのように、上から何度言われても頑なに増やさない者もいるにはいるんだが、あれは例外中の例外だ。

 

 その問題はまず、こなさなきゃいけない仕事の絶対量が増えるってこと。

 短いとはいえ前世の社会人経験というズル(チート)、堀野本家での徹底的な予習経験。

 2つの強みがある俺でも、苦戦は免れない量になると思われる。まぁ可能かどうかって言うと多分可能なんだけど。

 だが、ズルとか予習のない寒門のトレーナーにとっては、かなりの激務になるだろう。

 業務の量が今の倍近く増えるとなれば、やはり勤め始めて4年目以降ですべきことだと思えた。

 

 そしてもう1つの問題が、現在担当しているウマ娘と揉めかねないことだ。

 誰であれ、勿論ウマ娘のトレーナーであれ、時間は有限だ。

 担当ウマ娘を増やすということは、それまで他に割いていた時間をその子に振り分ける、ってことを意味する。

 そこで真っ先に割を食いかねないのが、既に担当していたウマ娘だ。

 トレーナーが時間を余らせていれば話は別だが、そうでない場合は既存のウマ娘を見る時間が減ってしまう。

 そこに不満を覚え、色々と問題を引き起こしてしまうことも多い。

 

 ……しかしこれらの問題があってもなお、トレーナーはいつか担当ウマ娘を増やさなければならない。

 何故なら、マンモス校である中央トレセンには2000人のウマ娘がいるのに対して、トレーナーの人数は200人弱しかいないから。

 割合としては、トレーナー1人が10人のウマ娘を受け持つことで何とか成り立つレベルの、万年人材不足な状況なのだ。

 ……まぁ実はその全てが競走ウマ娘として所属しているわけではないので、実質的にはトレーナー1人が7、8人担当すればいいのだが、それはさておき。

 

 故にこそ、何十人というウマ娘が所属するチームがあったり、「トレーニングを見ることはできないがせめてレースに出られるように」と名義貸しが黙認されているのだった。

 

 トレセン学園は、トレーナーを求めている。

 それも優秀で、可能な限り多くのウマ娘を同時に担当できるトレーナーを。

 

 ……その理屈は、よくわかる。

 わかりはする、が。

 

 まだ仕事に慣れきってもないどころか、初めての担当がクラシックロードを走っている最中のトレーナーにさせるべきことではないんじゃないかなぁ。

 

 

 

「……自分は非才の身。今でも万全に担当ウマ娘を支えられているとは言えません。

 故に、できればもう少し時間をいただきたく思います」

 

 可能なら、辞退したい。

 道を見失った俺にとっても、リハビリ期間のホシノウィルムにとっても、今は踏ん張り時。

 言い方は悪くなるが、背負い込むものを増やしたくないんだ。

 

 だが、秋川理事長は何も気にする様子もなく、首を横に振った。

 

「君は非常に効率よく、なおかつ大きなミスもなく仕事をこなせていると聞く。

 更に1年半という長い間、担当ウマ娘にトレーニング中の怪我を一度も許さない、完璧な管理を敷いていたともな」

「お言葉ですが、自分は日本ダービー、宝塚記念で二度の故障を許しました。完璧な管理であるとは言えないかと」

「そこについて、ホシノウィルム本人からの事情聴取は済んでいる。

 『日本ダービーでは私がトレーナーに伝えなかった走法を勝手に使い、宝塚記念では忠告を振り切って出走したのです。全ての責は私にあります』とな。

 ……これは事実か?」

「いいえ。彼女の出走を許したのは自分です。である以上、全ての責はトレーナーである自分が引き受けるべきものと考えます」

 

 担当を増やす云々の前に、それは変えようのない事実だ。

 トレーナーは、まだ年若く正常な判断のできないウマ娘を客観視し、正しく支えるための存在。

 その俺が、彼女の負傷し得る選択を止められなかった。

 たとえそれで彼女が後悔していなかろうと、彼女の負った傷の責任は俺にある。

 

 故に、2人以上の担当を持つような能力はない、と伝えたかったんだけど……。

 

「ふむ、上々ッ! その心構えさえあれば、2人目も担当できるだろう!」

「…………?」

 

 おかしいな、なんで己の不出来を告白したのに高評価されるんだ。

 バグってる? もしかして理事長バグってるかこれ?

 どうしよう、部下としておかしくなった上司を諫めるべきだろうか、と迷っている内に……。

 

 秋川理事長は表情を消し、こちらの目を見つめて来た。

 

「私は理事長として、君たちトレーナーの面接に同席している。君は覚えているか?」

「はい、覚えています」

 

 懐かしい、3年程前のことだ。

 俺は中央トレーナー免許を取った後、面接を受けた。

 面接官は4人。知らない人──後に確認したらURAの人間だったらしい──が2人と、たづなさんと理事長。

 テレビ以外で初めて見たネームド……前世アプリで見覚えのある顔に、「本当にウマ娘の世界に来たんだな」と再認したことを覚えている。

 

「うむ。その時私は、君にこう問うた。

 『君の考える、トレーナーにとって最も大切なものとは何か』」

「我を捨てること」

「そう、君はそう答えたな。我を捨て、欲を捨て、相手に尽くすことであると。

 君は今、その回答についてどう思う?」

 

 聞かれ、少し考える。

 我を捨て、担当を支えること。それは「堀野のトレーナー」としての模範解答だ。

 そして俺は今も、それが全て間違いだとは思わない。

 余計なノイズを交えることなく思考し、自分の持てるものの全てを使って支える。

 それは間違いなく、トレーナーとして必要なことだと思う。

 

 ……だが。

 それだけで良い、とも思えなくなった。

 

「……不完全なものであったと思います。

 ウマ娘は人の期待、人の夢を背負って走る。その話が真実であるとするなら……。

 トレーナーは我を捨てるのではなく、それを上手く飼い慣らす必要がある。

 第一に、自分の担当ウマ娘の走りを、誰よりも……好きにならなければいけない」

 

 考え込んだ末に出した、堀野のトレーナーとしてではない、俺なりのやり方。

 それが正しいものなのか、俺にはまだ、わからなかったが……。

 

 

 

「合格ッ!」

 

 

 

 理事長の反応は、劇的なもので。

 バサリと、また新たな扇子が開かれた。

 そこには「合格」という文字が記されている。

 

 ……合格? 何の?

 

「試すような真似をして悪かった、堀野トレーナー。

 これは通過儀礼のようなものでな。2人以上のウマ娘を担当するトレーナーとは理事長自ら話し、その成長と考え方の変遷を確認することとなっているのだ。

 秘密裏に話さなければ本音は見えてこないからな。君も、他のトレーナーには内密に頼む!」

 

 はぁ……なるほど?

 つまり俺は、2人目以上の担当ウマ娘を持つに相応しいか、試験を受けていたってことかな。

 ……元々、担当を増やすつもりはなかったんだけどなぁ。

 

「だが、1人のトレーナーが成長する姿を見ることができて、私は嬉しい!

 堀野トレーナー、改めて君に提案する。もう1人、担当を持ってみないか?」

「この1年半で、自分の実力不足を痛感しました。できればあと1年半、せめてホシノウィルムが本格化を終えるまでお待ちいただけませんか」

「うむ、不文律もあることだし、私も君たちが『最初の3年間』を過ごすまでは待とうと思っていた。

 しかし今、私は君に是非とももう1人、担当を持って欲しいと思っている」

「……何故でしょうか」

「理由は2つ。まずは、君だからだ」

 

 理事長はたづなさんが運んできたお茶を一口啜って、再び口を開く。

 

「私は君を、高く評価している。

 そのストイックな在り方は危うくもあるが、同時に何よりの逸材になる可能性もある、謂わばトレーナーの原石だとな。

 そして同時、君には確かな能力がある。本来は慣れるのに4年以上かかる仕事を1年で習熟し、何よりウマ娘の疲労を適切に見抜く観察力を持っている」

 

 ……バレていたのか。

 仕事の習熟はともかく、俺は確かに疲労を見抜く力を持っている。

 「アプリ転生」。恐らく俺だけが持つ、おかしな観察眼。

 

 恐らくそれそのものがバレたわけじゃないだろうが、競走ウマ娘の体力を見抜く観察力があることは察されているらしい。

 

「……君も知っての通り、現在我がトレセン学園にはトレーナーが不足している。そのせいで、多くのウマ娘たちが適切なトレーニングを受けられないという状態にある。

 故に我が校は1人でも多くの、優秀で気高い心を持つトレーナーを求めているのだ」

 

 どこでそんな評価を受けたのだろうと、一瞬考えたが……。

 俺が秋川理事長に自分の考え方を話したタイミングなど、それこそあの面接の時くらいで。

 そしてウマ娘たちの疲労状態に対する判断を下したのは、新人研修の時。

 

 ……つまり俺は、一番最初の時点で、秋川理事長から特別な評価を受けていたわけか。

 

 そうを考えた時、俺の疑問が1つ氷解する。

 

「もしや、自分がサブトレーナーや教官を経ることなく、担当を持つことを許されたのは……」

「肯定ッ! 私が独断で許可した!

 優秀な人材の卵を腐らせている余裕は、今のトレセン学園にはない。ずっと昔の時代の不文律より、今を生きるウマ娘たちを優先するのは当然のことだ。

 もしも厳しいようなら、たづなに力を貸させるつもりだったが……君は私の期待通り、いや期待を超える最高の結果をもたらしてくれた。

 感謝するぞ、堀野トレーナー!」

 

 ……なるほど。

 父さんあたりが変な茶々でも入れたのかと疑心暗鬼になってたけど、この暴走特急理事長の計らいだったか。

 まぁ、結果として俺が成長できたのは事実だし、ホシノウィルムに巡り合えたのもこれ以上ない僥倖だった。

 最悪たづなさんが助けてくれれば、彼女が致命的に走れなくなることもなかっただろうし……。

 全部ホシノウィルムたちウマ娘への想い故の行動だって言うなら、責めるのもお門違いかな。

 ……もうちょっと説明してほしかった気持ちがあるにはあるんだけど、情報を与えない状態でどこまでやれるかを試していた、とかそんな感じだろう。納得するしかない。

 

 まぁ結果良ければ全て良し、今はそこは置いておこう。

 今話すべきは、担当を増やすことについてだ。

 

「過分な評価、ありがたく思いますが……自分にそこまでの能力はありません」

「能力とは自ら認めるものではなく、結果から逆算して求めるものだ。

 君は初めて担当したウマ娘と、二人三脚で無敗二冠に辿り着いた。たとえ君がそれをただの幸運であると思おうと、あるいはウマ娘の力だと思おうと、その運命に導かれたのは他でもない君自身。

 故に君がどれほど自虐しようと、私は君を評価する。

 そしてもし業務が手に余るようならば、最大限手を貸すことを約束しよう。

 どうか君の成長のため、そして多くのウマ娘のため、挑戦の道を選んでほしい!」

 

 ……評価されるのは、嬉しい。

 けど、本当に過大評価だからなぁ。

 いまいち現実感がないというか、達成感みたいなものはないけども。

 

 

 

 それはそれとして、どうするか。

 たづなさんによるサポートがあるなら、いざやってみて間に合わなかった際の保険になる。

 精神面や思考の余裕に関しても、自分自身で管理するべき問題。

 そういう意味で、業務上の問題は全てクリアされているわけだ。

 

 ……けどそれでも、問題はまだ残っている。

 

「ホシノウィルムのことを考えれば、この時期に担当を増やすことは避けたいと判断します。

 彼女は今、故障明けのリハビリ中。ここで下手な刺激を与えたくはありません」

「了解ッ! つまり、彼女の了承が取れれば良いのだな!

 2人とも、入ってくれたまえ!」

「え?」

 

 俺が困惑していると、事務室へと繋がっているはずの扉が、軽い音と共に開き……。

 そこから、2人のウマ娘が現れる。

 

「君に担当を増やしてほしいもう1つの理由だがな、どうしても君に担当してほしいと直談判しに来るウマ娘と、どうかそれを認めてほしいと言いに来たウマ娘がいたからだ。

 頭を下げて願われたら、私としては行動しないわけにはいかないからな!」

 

 扉を潜って入って来た1人は、俺に逆スカウトをかけてきた栗毛のウマ娘、ミホノブルボン。

 ……なるほど、彼女が理事長を誘導したのか。

 そこまでして他のトレーナーを探したくないのかと、俺は少し困惑してしまった。

 

 ……が。

 彼女の後ろから入ってきたウマ娘を見て、困惑も何も吹き飛んだ。

 

 その子は、小柄な鹿毛の……見覚えのある、ありすぎるウマ娘。

 

「ホシノウィルム……?」

 

 数時間ぶりに会った俺の担当ウマ娘は、軽く頭を下げた後、口を開き……。

 想定外のセリフを口にした。

 

「トレーナー。もしよければ、ブルボンちゃんのことも見てあげてもらえませんか。

 私だけでなく、彼女のことも……三冠の夢へ、導いてあげてください」

 

 

 







 バトル漫画でよくある、部屋に入った時点で詰んでる展開。
 いわゆる追い込み漁。

 ちなみに、堀野トレーナーの「アプリ転生」は現役の競走ウマ娘にのみ働きます。
 別にこのタイミングで書くことに深い意味はないんですけどね。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、ピンクと黒の話。
 かなり文字数が多くなる予定。



(報告)
 【速報】URAミーク、鋼の意志獲得【桐生院の悲願叶う】
 これを受けて、過去の記述をちょっと書き換えてます。
 具体的に言うと、「桐生院チームはミーク以外鋼の意志を持っている」という描写を「全員鋼の意志を持っている」に変更しました。
 育成成功おめでとう桐生院、アイスをありがとう理事長。
 ミークがちゃんと強くて嬉しかったです(小並感)。これは現役最強の一角。

(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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百合の間に挟まるウマ

 これまでにないくらい文字数多め。筆が乗り過ぎた……。

 今回、禁忌な展開に足を一歩踏み入れてる気がしたんですが、今までも大概だったのでもうこれでいいかってなりました。





 

 

 

 私はついさっき、トレーナーにこう聞かれた。

 

『ホシノウィルム、担当を増やすことについて思うことがあるなら、遠慮なく言って欲しい。

 君は本当に、それでいいのか?』

 

 いいわけねーですけど。

 

 ……という本音は隠し、私は1つ頷き、言う。

 

『トレーナー。堀野歩さん。あなたはトレーナーとしての確かな力を持っているのです。

 だからどうか、私だけじゃなく、多くのウマ娘を導いてあげてください。

 それはきっと、あなたのためにもなると思うのです』

 

 

 

 その後も、ブルボンちゃんが熱を秘めた声音でトレーナーを口説き落としたり、たづなさんから2人以上を担当する場合の業務の変更の話があったり、理事長さんが「ウマ娘たちの明るい未来のためを思って、頼む!」って頭を下げてトレーナーが慌てたり、覚悟を決めたトレーナーがちょっとカッコ良い台詞でブルボンちゃんを認めたり……色々あったけど。

 

 結果としてトレーナーは、担当ウマ娘の数を増やし、ブルボンちゃんともトレーナー契約をするという決断を下した。

 

 

 

 せっかくトレーナーが私の走りに惚れてくれて、2人きりの蜜月の日々を過ごせるようになったのも束の間。

 ミホノブルボンちゃんという刺客によって、幸せなる日常は脅かされたのである。

 

 ……どうしてこうなっちゃったんだろうね。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 全ての始まりはあの日、ブルボンちゃんがお見舞いに来てくれた6月末。

 

『ホシノウィルム先輩を担当している堀野トレーナーに、私も契約していただきたいと望んでいます。

 ですが、お返事が芳しくなく……もしよろしければ、ご協力いただけると助かります』

 

 ブルボンちゃんにそう言われた私は、当然と言うべきか、困惑した。

 

 まず、ブルボンちゃんがトレーナーに粉かけ……失敬、逆スカウトを持ちかけてたってのが想定外だったのだ。

 ……ただ、冷静に考えると、これに関しては別段おかしいことではないとも思う。

 

 この世界でブルボンちゃんは、スプリンターとしての未来を期待されている。

 そんな彼女が三冠を目指すと言っても、それを信じるトレーナーは少ないかもしれない。

 

 けれど私はかつて、彼女に伝えてしまったのだ。

 「私のトレーナーが、ブルボンちゃんはクラシックレースで結果を残すと言っていた」と。

 

 つまり彼女から見れば、私のトレーナーは自分の夢を信じてくれてトレーナーとしての能力も確かな上、イケメンだしお金持ちだし優しいしそれでいてポンコツでギャップもあって一緒にいて飽きない、減点式ならともかく加点式なら超絶高得点な人。

 これ以上のトレーナーなんて、この世界にはきっとただの1人も存在しないだろう。

 ……あれ、後半私見入ってた? まぁ事実だしいいじゃんか。

 

 とにかく、本気でトゥインクルシリーズで活躍したいって言うんなら、堀野歩さん以上のトレーナーは存在しないだろう。

 実際、トレーナーは隠そうとしてるみたいだけど、最近はブルボンちゃん以外からも頻繁に逆スカウトを受けてるみたいだし。

 

 何せ新人の内から、初の担当に無敗二冠を取らせたトレーナーだ。その能力はこれ以上ないほどに保証されている。

 特にクラシック三冠を目指すブルボンちゃんからすれば、トレーナーを逆スカウトするっていう行動は非常に理に適った行動だと言えるだろう。

 

 

 

 問題は……彼女のその行動が、私の利に反するものでもあったことだ。

 

 何せ担当を増やせば、否応なく自分にかけてもらえる時間と想いが減る。

 そりゃあ愉快な訳もなく、私としちゃ、できれば認めたくない話だった。

 

 ……ただなぁ。

 

 ブルボンちゃんの三冠を目指す想いの強さも、理解できてしまうんだよね。

 私だって、この学園に入って来た時は勝ちたい、負けたくないって想いで一杯だったわけで。

 

 私と彼女は別人だ。それはわかってる、わかってるけど……。

 無表情で、必死で、勝ちたいと望んでる。

 その姿は……どうしても、あの時の私に被ってしまう。

 

 だから……。

 

『……うん、いいよ、協力する。

 トレーナーは頑固だけど、感情に振り回される人じゃない。彼の中の「担当したくない理由」を1つずつ潰していけば、最後は頷いてくれると思う。

 そういう方向で話を進めてみようか』

 

 頷いちゃったんだよなぁ。

 

 ……ま、どっちにしろさ、時間の問題ではあったんだよ。

 トレーナーは新人であることを加味しても、トレセン学園でも最高級の契約トレーナーだろう。

 ああ見えてウマ娘への想いは強いみたいだし、万年トレーナー不足らしいこの学園で担当を増やさずにいられるとは思えない。

 たとえここでやり過ごしても、いつかは必ず増えていたはずだ。

 

 そう考えると、むしろ2人目がブルボンちゃんで良かったんだと思う。

 彼女はアニメのネームドウマ娘。私はその性格や性質を、多少なりとも知ってる。

 無表情な上言葉足らずな印象はあるが、根本にあるのは善性と根性と走りへの熱意。

 どこのウマの骨とも知れないウマ娘を担当するより、きっと良い方向に進むはずだ。

 

 だからブルボンちゃんとは情報共有し、ネイチャや彼女のトレーナーに根回ししてもらい、理事長にまで掛け合って場を整えたりして……。

 トレーナーに、必ず契約してもらえるような状況を作り上げたんだ。

 

 結果として、その策略は成功した。

 

 ……成功しちゃったんだよなぁ。

 

 

 

 

「むー……」

 

 トレーナーにブルボンちゃんと契約してもらったことに、間違いはなかったはずだ。

 

 けど、トレーナーにかかる労力も増えるし、私もこう……彼とイチャイチャし辛くなる、と言うか。

 自分で推し進めた話でありながら、どうにも不満というか、「嫌だなぁ」って気持ちが抑えられない。

 

 ……ブルボンちゃんのことは、決して嫌いじゃないんだけどね。

 頑張る子は好きだ。その成果に関わらず、全力で頑張ってるって時点で高評価しちゃう。

 その健気な姿に報いるためなら、私にできることは何でもしてあげたいくらいだ。

 

 堀野トレーナーに関しても、ああは言ったけど実はそこまで心配してはいない。

 彼が「担当が増えたから」なんて言い訳を自分に許すとは思えない。きっと今までと同じだけの想いを向けてくれると思う。

 問題があるとすれば、これまでも大概忙しそうだったのに、これ以上働けば過労死してしまうんじゃないかってことだけど……。

 そこに関しては、最大限の協力を約束してくれた理事長を信じていいと思う。実直そうな人だったし。

 

 つまり、そこまで大きな問題なんかないのだ。

 むしろトレーナーの自己肯定感を上げてくためには、より多くのウマ娘の育成成功体験が必要だ。メリットの方が大きいまである。

 その点ブルボンちゃんは素晴らしい才能を持ってるし、言うことなしなんだよね。

 

 総じて、トレーナーがブルボンちゃんと契約するってのは、私にとっても悪い話じゃない。

 

 けどねぇ……どうしても感情がねぇ……。

 もうちょっと2人きりの時間を過ごしたかったなぁ、って贅沢な想いが湧き出てくるんだわ。

 

 

 

 ……と、そんなことを考えていたら、横から声をかけられる。

 

「どうしました、先輩?」

「ん、ああ……ごめん。ちょっと考え事してた」

「病み上がりなんだから、集中しないと危ないですよぉ」

「はは、大丈夫大丈夫、私頭良いから」

「確かですけど、成績普通な方でしたよね……?」

「え、よく覚えてるね。正解」

 

 後ろに吹き抜けていく風に、吐いた言葉を流していく。

 耳に入るのはたったったっという駆け足の音と、横から聞こえる後輩ちゃんの声。

 足から伝わって来るのは、芝のわさわさした感触と、脚を動かす充実感だけ。

 

 そう。

 私は実に2か月ぶりに、ターフを走っていた。

 

 いやぁ、やっぱり走るなら芝の上だわ。

 この感触、この気持ちよさ。ダートもいいけど、私はやっぱり芝派だなぁ。

 ずっと恋しかったよ、この感覚。できるだけ長い間味わいたいし、もう故障はご免だね。

 

「……けど先輩、本当に走れるんですね」

 

 そう言ってくるのは、まだ駆け足程度でしか走れない私と併走してくれてる後輩ちゃん、セミロングのピンク髪をなびかせるジュニア級ウマ娘。

 よく私に話しかけてくれる後輩の1人で、私はピンクちゃんって呼んでる。

 すごい直球なあだ名で申し訳ない。他人の名前覚えるの苦手なんだよね……。

 

 

 

 ピンクちゃんは、名家でもなければ寒門とも呼べない、そこそこの血筋を引いたウマ娘だ。

 卑下する程ではなく、けれど誇れる程でもない、彼女曰く「普通(モブ)の血筋」とのこと。

 目標は「G2に勝ってG1出走」。この情報からも、彼女がどの辺に属するウマ娘なのか察することができるだろう。

 

 そんな彼女は、寒門出身の私がホープフルステークスを制したことで「血は全てじゃないんだ」と感じ入り、ファンになってくれたらしい。

 けど当時の私、ひえっひえの無愛想だったからね。声をかけるには勇気を必要としたんだろう。

 そこから少し時間を置いて、彼女は皐月賞が終わったあたりで初めて声をかけてくれた。

 肩を上げてプルプル震えながら、真っ赤な顔で声をかけてくれたの、可愛かったなぁ。

 いや、今でもピンクちゃんは可愛いんだけどさ。ニコニコ笑顔が眩しいぜ。

 

 で、それ以来会う度にちょくちょく話すようになって、後輩ちゃんたちの中でもトップレベルで親しい仲になったわけだ。

 友達と一緒にいる時でも、私を見つけるとキラッキラの目で手を振り、駆け寄ってきてくれるくらいには懐かれてるみたい。

 尊敬と敬愛、それから友情。彼女の瞳からはそういうものが感じられて、すごく嬉しいんだよね。

 ……認められて嬉しいとか、私、承認欲求のモンスターになってるのかもな。気を付けよう。

 

 とにかく私とピンクちゃんは、先輩後輩であり、友人であり、同時に競走ウマ娘とファンでもある。

 そういう、ちょっと複雑な関係なのだ。

 

 

 

 しかし、私の信奉者かってくらいに持ち上げてくれる彼女が『本当に走れるんですね』なんて言ってくるのは、少し意外というか何というか。

 

「お見舞いの時に『8月には戻る』って言ったよね。私のこと、信じてくれなかったの……?」

「い、いや、そういうわけじゃないですけど! でもその、テイオー先輩だってまだ完治はしてないって話でしたよね……?」

「らしいね。9月には完治予定らしいけど」

「そうなんですね。……いや、そうじゃなくて。

 先輩、テイオー先輩よりも2週間遅れて骨折したのに、1か月以上早く治すって……」

「まあ、私の骨折はかなり綺麗に折れてたって話だったからね。繋がるのも早かったんだよ、多分。

 それに治ったって言っても、この通り万全に走れるわけじゃないし」

「いや全力じゃないにしても、2か月で走れるようになるってかなりとんでもない速さですからね!?」

「私も頑張ったし、何よりトレーナーがしっかりリハビリメニュー組んでくれたからね」

「噂のスーツトレーナーですか。……専属契約、羨ましいです。よよよ……」

 

 ふざけて泣き真似するピンクちゃん。

 確か大人数のチーム所属って話だったもんね。そうなると、やっぱり見てもらえる時間は減るんだろう。

 あながち冗談だけってわけでもなさそうだなぁ。

 

 ま、かくいう私も、もう専属じゃなくなっちゃうんだけどねー、ははは。

 ……はぁ。話変えよう。

 

「そう言うピンクちゃんだって、メイクデビューすごかったよ。1着おめでとう」

「あ、ありがとうございます!

 えへへ、ウィルム先輩の逃げ方を参考にしたんですけど、どうでした?」

「良い逃げだったと思うよ。私の走りには全然届かないけど」

「うっ、辛辣! でも紛れもない事実だから何も言い返せない!」

 

 きゃーっ、と何故か黄色い声を上げるピンクちゃん。楽しそうで何よりだ。

 

 ちょっと前……ああいや、皐月賞あたりだから、もう4、5か月前になるのか。

 その頃に本格化を迎えたピンクちゃんは、6月後半のメイクデビューでも2バ身半の差を付けて圧勝。

 下バ評だと4番人気、1、2、3番人気からだいぶ実力が離れてるって言われてた中、予想を超える強さを見せつけた形になる。

 

 私は病院のベッドの上から観戦してたんだけど、普通に強いなーって感じの走りだった。

 芝1400メートルの右回り、逃げで挑み、バテることもなく綺麗な逃げ切りを見せた。

 

 どうやら逃げの脚質は彼女に合っていたらしい。良かった良かった。

 そういえばデビュー戦の直後、「先輩のおかげで自分の走りが見えた気がしました! ありがとうございました!」ってLANEが来てたな。

 そんなの後回しでいいってのにね。本当、真面目で可愛い後輩ちゃんだ。

 

「でも、君の強みは出てたと思う。

 これからもしっかりトレーニングを積んだら、G1出走も十分視野に入るんじゃないかな」

「っ! あ、ありがとうございます、これからも頑張ります!」

「もしかしたら、いつか一緒に走る機会もあるかもね。その時は全力で行くから、よろしく」

「わぁ……先輩と一緒のレース……!」

 

 本当、健気な子だなぁって思う。

 さっき1人で走ってるとこを見ただけで「先輩、併走ご一緒してもいいですか!?」って言ってくれたし、いつも会うたびに飴玉とかジュースとかの差し入れくれたりするし。

 お返しにアドバイスとか応援するくらい、安いものだよ。

 

 ……いや本当に安い。相手は色々奢ったりくれたりするのに、こっちは無料でしかお返ししてないの、先輩としてどうなんだ。

 もうちょっと交際にお金使った方がいいよね。課金なんかよりずっと健全な使い方だし。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、昼のトレーニングの時間が終わった。

 すると何が始まるか?

 そう、自主トレの時間だね。

 

 そんなわけで私は自室の窓から飛び出して、トレセン学園の敷地を抜け出したのだった。

 

 

 

 夜の一般道を、軽いジョギングくらいの速度で気持ち良く駆けて行く。

 

 あー、自主トレ欲が満たされるのを感じる。

 こうして自主トレをするのは、実に2か月ぶりのことになるかな。

 故障期間にリハビリはしてたけど、あれはトレーナー主導の奴だったもんね。やっぱり「自主」じゃないから、ちょっと違うんだよな。

 

 共感を得られるかわからない話だけど、私が好きなのは「自主トレ」だ。

 トレーニングも好きだけど、自主トレはもっともっと好き。

 というのも、自分のペースでのびのび走れるし、「今自分の体鍛えてるなー」って実感できるから。

 

 トレーナーは最適なトレーニングメニューを組んでくれるけど、それでもやっぱり他人が組んだメニューじゃ、何と言うか、「課題感」みたいなのが出てしまう。

 それに、必要な分以上に、プラスアルファで走ってるって状況も良いんだよな。

 この追加分でもっと速くなれる、これでもっと楽しいレースができるんだって思うと、その充実感はたまらないものがある。

 

 

 

 ……と、偉そうに語っておいてなんだけど。

 私がこうして自主トレを楽しめるようになったのは、つい最近のことだ。

 トレーナーが私を義務的な「寒さ」から救い出してくれたからこそ、こうして今楽しめているし……こうして今、走れている。

 

 楽しく走れるってのは、幸せなことだ。

 だから今日も、私はホシノウィルムとして、自主トレを楽しむ。

 トレーナーに捧げ、トレーナーからもらった命で、この世界を走っている。

 

 ……はは、ちょっとポエミーになっちゃったわ。

 ちゃんと自分の走りを取り戻しつつあることで、ちょっとばかり感傷的になってるのかね。

 

 うん、改めて。

 この整備されたレーンを踏みしめる感覚、本当に久々で気持ち良……。

 

 

 

 

 

 

ついてく、ついてく……

 

 

 

 

 

 

 ……う、わ。

 

 後方20メートルあたりから、小さな呟きが聞こえて来た。

 内容までは聞き取れないけど……これは、あの時のヤツ……!

 

 そうだった、思い出した。

 ここ、レースに出られなかったことを嘆くウマ娘の亡霊(仮)の出現スポットだった……!

 

 思わず背筋が凍り付く。

 私、またずっとストーキングされるのか……?

 それでこの声を聞き続けてたら、いつしかあっち側に引きずり込まれたりして……。

 

「……っ」

 

 いや……おち、落ち着け私。

 大丈夫、幽霊なんかいない。幽霊の正体見たり枯れ尾花、正体は絶対幽霊なんかじゃないんだ!

 

 無礼るなよ、こちらとら無敗の二冠ウマ娘、幽霊もどきがなんぼのもんじゃい!

 怯える日々は終わりだ、ここでその正体を突き止めてやる!

 

 その場でブレーキをかけて、いっきに後ろへダッシュ!

 

わ、わわっ!

 

 幽霊ちゃん(仮)の驚いたような声が微かに聞こえてくる。

 ん、これ……この声、どこかで聞いたような。

 

 戸惑っている幽霊ちゃん(仮)まで一気に距離を詰める……けど、その姿を確認する直前、その子は近くの木の裏に隠れてしまった。

 ……いや、木の幹からおっきい黒鹿毛のウマ耳がはみ出して見えちゃってるけど。

 

う、うぅ……どうしよう、怒られる……?

 

 ゆっくりと歩を緩めている間にも、鋭敏になった私の聴覚が、その言葉を捉える。

 この鈴を鳴らすような、涼し気で、けれどどこか切ない、自信なさげな声……。

 

 これ、私の耳がおかしくなかったら……。

 

「ライスシャワーちゃん?」

「ひゃっ、ひゃいっ!」

 

 木の向こうで、ピンと耳が張った。

 

 ……やっぱり。

 幽霊の正体見たり、ライスシャワーだ。

 

 

 

 ライスシャワー。

 

 前世アニメ2期で登場した、小さくて可愛くて強くて怖い、ネームドウマ娘の1人だ。

 ブルボンちゃんの無敗三冠とマックイーン先輩の天皇賞(春)三連覇を阻んだ、漆黒のステイヤー。

 いつもはおどおどとして弱気だけど、その正体は誰よりも勝利と祝福を望むウマ娘である。

 

 前世のアニメ2期は、1期に比べて色んな子に焦点が当たり、非常に推しを選びにくいものだった。

 この子も良い、この子も良いとつい移り気になってしまい、一番を決めにくかったんだよね。

 それでも、敢えて順位を付けて選ぶならなら……。

 1番はテイオー。2番にターボ師匠。3番にネイチャ。……そして4番は、ライスちゃんになる。

 

 つまるところ、彼女もまた「私」の推し。

 アニメで鬼のようにトレーニングを積む彼女の姿は泣きそうな程気高かったし、何話かのオープニングでの鬼神の如き姿には鳥肌が立った。

 そしてマックイーン先輩との天皇賞(春)。

 瞳から青い炎を漏らして詰め寄る、殺気立った走り。

 涙を流し、それでも前へ進むと宣言する姿。

 その全てが、本当にカッコ良かったんだ。

 

 で、そんな子が、どんな因果か今世では私の後輩になっている。

 そうなると、当然っていうか。

 

 せっかくなら、仲良くなりたいと思うわけよ。

 

 

 

「ライスちゃん、お水でいい? あ、スポドリの方がいいかな」

「いえ、悪いですっ! 払わせてください!」

「いいんだよ、私先輩だから。ほら、何がいい?」

「……なら、えっと、スポーツドリンク、お願いします」

 

 ちょうどその日は、交友関係にお金を使わな過ぎたことを反省したばかり。

 そんなわけで、取り敢えず近くの自販機でジュースを奢ってみる。

 ライスちゃんはあわあわと可愛らしく取り乱しながら、スポーツドリンクを受け取ってくれた。

 

 ……改めて、彼女の姿を観察する。

 

 ブルボンちゃんとは違う、親近感を覚える体型。

 身長は私と同じくらいか。胸は……う、うん、誤差の範囲かな?

 見た目の最大の特徴と言えば、身長の割に豊かな髪かな。後ろはロングって感じだけど、前髪が長すぎて右目を完全に覆い隠してしまってる。邪魔じゃないそれ?

 

 あんまりじろじろと眺めるのも失礼なので視線を外して、近くのベンチを指さす。

 

「ちょっと話さない? 私、ライスちゃんのこと、興味あるんだ」

「ライスのこと……?」

「駄目かな」

「いえ……わかりました、ホシノウィルム先輩」

「ウィルムでいいよ」

 

 ぎこちなくだけど、ライスちゃんは頷いてくれた。

 ありがとう。ここで逃げられたら、テイオーでも敵わなかった逃走劇に挑まなきゃいけなかったところだ。全快状態ならともかく、今の私には荷が重い。

 

 ベンチの端に腰を下ろすと、ライスちゃんは「し、失礼しますっ!」と横に座ってくれる。

 なんか、めっちゃ肩に力入っちゃってるな。別に怒ったりしないよ?

 ま、そこはひとまず置いておくか。話してる内に、自然と緊張も解けて来るでしょ。

 

 何から話すか少し考えたけど……このガチガチ状態じゃ、楽しく会話はできなそうだな。

 取り敢えず、聞きたかったことでも尋ねてみようか。

 

「で、何で私のこと追いかけてきてたの?」

「ひぇっ」

「宝塚記念の前も追いかけてきてたよね?」

「あっあのっ、すみませんでしたぁ!」

「あぁ、違う違う、落ち着いて。怒ってるわけじゃないよ。

 ただ、なんでわざわざ私を追いかけて来たのか、理由が知りたいんだ」

 

 そう、そこが大きな疑問だった。

 

 ライスちゃんにとって、本来のストーキング……もとい追跡対象は、ブルボンちゃんのはずだ。

 皐月賞後くらいからかな、その圧倒的な強さに競り勝つべく徹底的にストーキングするって流れだったよね。多分。

 

 一方私は、前世アニメでは存在しなかったイレギュラーなウマ娘。

 そして手前味噌な話、ライスちゃんが目を付けかねない強者でもある。

 

 ブルボンちゃんが台頭するまでの、ちょうどいい目標として捉えられてるのならいいけど……。

 もしも、それ以上に思われてたら……。

 

 ……いや、まさかな。

 まさか私が、元オタクとしての最大に近い禁忌を犯してるわけが……。

 

 

 

「ライス、そ、その……ウィルム先輩に憧れてて!

 最初はトウカイテイオー先輩のライバル、敵役(ヒール)として見られてたのに、今は皆を笑顔にしてて!

 素敵だなって、ライスもいつか、先輩みたいなウマ娘になりたいって、そう思っててっ!

 それで思わず、追いつきたいって思っちゃって……。

 あっ、その、応援、してますっ! リハビリ、頑張ってください!」

 

 ライスちゃんは顔を真っ赤にして言い切り、私が買ってあげたペットボトルをぎゅっと抱きしめた。

 

 

 

 ……おい、嘘でしょ。

 これ、これは……ッ!

 

 NTR(ねとられ)やんけ~~ッ!!

 

 

 

 いや、待てよ。

 今回の場合、私が寝取った側……いや寝てないが、奪った側? にあたるのか。

 だから正確には、NTL(ねとり)か? ジャンルとしてはそれが正しいのか?

 

 んなことはどうでもいいんだよぉ!!

 今大事なのは、ブルボンちゃんとライスちゃんのカップリングを私っていう異物が引き裂いちゃってることなんだよぉ!!

 

 嘘でしょこれ、どういうことなんだよ!

 なんで私、無意識の内に推しのカプ破壊してんだ! 元オタクとしてそれでいいのか!?

 どどどっどうしようこれ、ライス、ライスちゃん、ちょっとどうしようこれ。

 

 え、駄目だよね? 転生者がライスちゃんの視線独占しちゃ駄目でしょ常識的に考えて?

 普通に死刑だよね? え、でも私死にたくないよ? こんなことで両親のとこ行ったら流石に縁切りレベルで呆れられるって。

 

 どうしよう、策を考えなければ。このままでは百合の間に挟まる不心得者として殺される。

 ライスちゃんとブルボンちゃんのカプを成立させるにはどうすればいい?

 ライスちゃんの目をブルボンちゃんに引き戻すにはどうすればいいんだ?

 

 ……いや、ていうかそもそも私が存在したことがもう根本的に間違いだったのでは?

 うわ、なんか死にたくなってきたな……。こんなに鬱になったの、20万くらい爆死した時以来だわ……結構最近じゃん……。

 

「う、ウィルム先輩? あの、大丈夫ですか?」

「大丈夫……いやごめん、嘘。落ち着くから10秒ちょうだい」

「は、はい……」

 

 ライスちゃんは頭にクエスチョンマークを浮かべていたけど、そっちを気にする余裕はない。

 

「すーっ……ふーっ……」

 

 落ち着こうか。

 

 うん、一旦落ち着こう、クールになって考えるべきだ。

 

 ……いや無理! 無理ぃ! ライ×ブルのヘタレ攻め誘い受けシチュ破壊なんて脳が耐えられない!

 いや待てよ、そもそもこの世界においてはライスちゃんもブルボンちゃんも、どっちも生モノだ。

 普通に失礼なんじゃない、この思想自体?

 いやでもそうなると、私は前世までの感情をどうすればいい?

 

 ぐわーっ駄目だ、頭ぐちゃぐちゃだ! どうすればいいんだこの私!?

 

「ウィルム先輩……もう2分くらい経ってますけど……」

「よし!」

「ひゃっ!?」

 

 立ち上がる。

 

 駄目だ、今の精神状態でまっとうな思考はできない。

 であれば、思考を切り替えるべし。

 せっかく「寒さ」っていう便利なモード切替があるんだから活用していこう。

 

「ライスちゃん、一緒に走ろうか」

「い、一緒に!? ででっ、でも、ウィルム先輩は……」

「うん、本調子じゃない。出せてローペース、ミドル以上は無理だね。

 だからレースはできない。併走ってことでいい?」

「併走、してもらっていいんですか!?」

「え? うん、しようよ」

 

 なんでそんなビックリしてるの?

 え、ただの併走だよ? 別に宝くじ当たったとかじゃないんだよ?

 

「でっ、でもライスと一緒にいたら、その……先輩まで、また何か……」

「ん、何?」

「ライス、だめな子だから……ライスと一緒にいると、不幸なことが起こっちゃいます……」

 

 ……?

 

 あれ、そういう感じだったっけライスちゃん。

 アニメのライスちゃんが全てじゃないってことかな。ブルボンちゃんもこの世界じゃ機械っぽい喋り方するもんね。

 ライスちゃんの場合は……レース以外の部分は、かなり根深いネガティブなのかな、この感じ。

 

 まぁいいや、とにかく走ろう。走ってれば、彼女の底の方も見えてくるだろうし、私の混沌とした思考も纏まるはずだ。

 やはり走り……! 走りは全てを解決する……!

 

「いいよ、私不幸なんかに負けないし。ほら行こ」

「ええぇっ!? そんな、ライス……!」

 

 そんなわけで、割と唐突に、私とライスちゃんの併走が始まった。

 

 

 

 

 

 

 その併走は、結構長い時間続いた。

 ほぼ休憩を挟むこともなく、1時間くらい?

 

「ウィルム、先輩……はぁ、はぁ……くっ、えほっ」

「ライスちゃん、大丈夫? まだ行けるかな」

「行け……ます!」

 

 脚力が衰えてしまったから、短期間の爆発的な加速はできないけど……。

 トレーナー曰く、私は本質的にステイヤーらしいし、長時間走るのは専門分野だ。

 その上病院ではしっかり有酸素運動してたから、呼吸器官や基礎体力はそう弱ってないんだよね。

 ……とは言っても、どうしても右脚が重くて、スタミナの消耗は激しいけど。

 宝塚記念の時の半分も持たないんじゃないかな、今の私。

 

 それでも、先にバテたのはライスちゃんの方だった。

 いくらステイヤーの卵とはいえ、ジュニア級6月の時点で振るえる力は限られる。

 今の彼女の体力よりも、私のやや弱った体力の方が、まだまだ高いってことだ。

 

 そろそろやめるべきかな、とライスちゃんの方を振り返る。

 ジャージを汗で濡らしたライスちゃんの足取りは、だいぶ崩れてきてる。

 過度に体力を使った状態でのトレーニングは、ハプニングを誘発する。休憩を挟んだ方が良いかも。

 

 ……とはいえ、彼女は根性を振り絞って「まだ行ける」って言ったんだ。

 その想いは無下にしたくない。

 

 「寒い」状態になって思考も切り替えたし、彼女にかけるべき言葉も大体構築できたけど……。

 せっかくだし、限界まで付き合っ、て!?

 

「っ!」

「先輩っ!?」

 

 何か、ぬめぬめとしたものを踏んだ。

 足が滑り、後ろに流れる。

 マズい、これ、倒れる……捻る。

 

 

 

 反射的に、「アレ」を使った。

 

 

 

 途端に、時間の流れが緩やかになる錯覚。

 実際は、私の思考能力が跳ね上がったんだけどね。

 

 はー、もう、めっちゃびっくりした。

 胸を撫で下ろす……余裕はないけど、取り敢えず思考を整理して、落ち着きを取り戻した。

 

 視界の端を見るに、私が踏んだのは……なんか黒いオイルみたいなものだった。

 もう日も落ち切ったから、夜闇に紛れて見逃してしまったらしい。

 あー、油断したなぁ。本気で集中してたら、こんなの見逃さなかったと思うんだけど。

 

 さて、と。

 

 前に倒れる体を丸め、顔の前に持って来た腕を縮めて地面に手を付け、かかる重力をぐいっと後ろに逸らす。

 んで、力を込めて、腕を伸ばす!

 

「よい、しょっとぉ!」

「えっ、ええっ!?」

 

 2メートルくらい跳ね上がりながら上下に半回転、左足を軸にして地面に着地した。

 ん、綺麗な着地。我ながら10点10点10点10点、って感じ。いや、これは競技が違ったか?

 

 しかし、病院でしっかり腕も鍛えてて良かったよ。

 やっぱりいざって時のことを考えると、体は鍛えといて損はないね。

 

「ふぅ、転ぶかと思った」

「えっ、えっ、今、腕で……」

「あはは、腕ジャンプ。咄嗟だったけど、上手くいって良かったよ」

 

 実のところ、成功するのがわかってたからやったんだけどね。

 

 私の転生特典、「アニメ転生」。

 これは体が強くなる他、走っている中に思考力を爆増させるっていうトンデモチートである。

 これを使って姿勢を崩し切る前に対処法を考えに考え、安全で、かつ外から見てて冗談で済みそうなものを選んだのだ。

 これを使わなかったら、普通にコケてただろうね。多分あの感じ、足も捻ってたと思う。

 

 いやー、本当に危なかった。ここで事故起こすのはマズい。

 自主トレ中に怪我なんてしたら、トレーナーに3か月自主トレ禁止を言い渡されそうだし。

 

 更に言えば、尊敬する先輩らしい私が目の前で怪我なんてしたら、ライスちゃんに変なトラウマを植え付けかねない。

 前転の要領で受け流すとかも考えたけど、わざわざ大道芸じみたことまでやったのは……。

 できれば至って平気そうな様子を見せて「大丈夫だよ」ってアピールしたかったのである。

 

 ……ごめんなさい、半分嘘です。尊敬してくれる後輩の前だから、ちょっとカッコ付けようかなって思いました。

 でもいいよね、ちょっとくらい。後輩の前でくらいは、カッコ良い私でいたいしさ。

 

 

 

 さて、体勢を立て直して、と。

 

「ライスちゃん、そこ、オイルみたいなのあるから気を付けて」

「え? ……あ、ホントだ! 先輩、これに足を取られて……」

「そうみたい。はは、つまらないドジ見せちゃったね」

「ごっ……ごめんなさい!!」

 

 ライスちゃんは現状を把握するや否や、すごい勢いで頭を下げて来た。

 

 え、何?

 

 ライスちゃんが謝るようなことある? 私が勝手に転びかけただけなんだが。

 ……あ、待てよ、確か出発前……。

 

「ライスが……ライスがだめな子だから、先輩まで、不幸な目に……!」

 

 その声も、下げた頭も、まるですごく寒い場所に放り出されたように震えている。

 

 ……なるほど、大体理解できた。

 察するに、ライスちゃんは間が悪い子なんだろう。

 ホシノウィルムのLUCが極端に良くなるか極端に悪くなるかの二択であるように。

 ライスシャワーのLUCは悪い目しか出ない、みたいな。その上周りにも影響を与えてしまうと。

 

 非科学的な話だけど、そういうツキってあるからなぁ。

 私も同類である以上、ライスちゃんの悪運も、あながちただのオカルトと言い切れない。

 

 ……まぁ、だからどうしたって話だけどね。

 

「謝る必要なんてないよ、ライスちゃん。

 言ったでしょ、私、不幸なんかに負けないから。実際今も、怪我なんてしてないでしょ?」

「で、でも……!」

 

 あー、駄目だなこれ、完全に凹んじゃってる。

 

 多分ライスちゃんの精神って、本質的にはトレーナーに近いんだろうな。

 物事を悪い方向に捉えすぎる。それを自分の中で完結させすぎる。

 

 ……うん。

 そういう子には、ちょっと強めのお薬が必要かもしれない。

 

「じゃあ、こう言おうか。

 調子に乗らないでね、ライスシャワー。

 君程度の不幸で、このホシノウィルムが潰せるわけないでしょう?」

「……え?」

「君とどれだけ一緒にいようと、私は潰れないよ。だって、すごく強いから。

 だから、ほら、顔を上げて」

 

 ライスちゃんのほっぺを両手で挟み、無理やり顔を上げさせる。

 うーん、青ざめたもちもちほっぺ、呆然とした綺麗な瞳。

 流石はウマ娘、外見スペック100万点。

 

 でもきっと、元気な君は、もっと可愛いよ。

 

「君は駄目な子かもしれない。……でも、それを言うなら、私だって駄目な子だったんだよ。

 お母さんはネグレクトの末に病死したし、お父さんは私を見てなかった上に事故死。

 トレセンに入った時なんて、何千万円っていう借金があったんだよ?

 正直、不幸パワーで誰かに負ける気はしない。勿論君にだってね」

 

 瞳の光が揺れて、動揺してるのがわかる。

 ま、いきなりこんな激重エピソード聞かされたら驚くよね。

 でも、それでいい。

 自分の殻にこもった人を引きずり出すには、予想外の衝撃を与えて揺さぶればいい。

 いわゆる天岩戸作戦だ。……いや、あれはちょっと意味合いが違ったかな。

 

「でも、私は自分の力で、今の幸福を勝ち取った。

 君も、駄目な自分を変えたいと思うなら、そうすればいいんだよ。

 君にはその力がある。経験者の私が保証するよ」

「ライスも……ライスも、変われる……?」

 

 そこで初めて、ライスちゃんの瞳の奥に、救いを求める色が見えた気がした。

 

 ようやく捉えた、彼女の根底の本音。

 変わりたいと、彼女は望んでいるんだ。

 今の自分じゃ嫌だ、変わりたい、もっと良い自分になりたいと。

 

 ……上等だよ。

 長い間、変わりたいとすら思えていなかった誰かさんより、君はずっと前に進んでる。

 

「『変われる』、じゃないよ。『変わる』んだ」

「皆を、しあわせにできる……そんなウマ娘に、なれますか?」

「『なれる』、じゃないでしょ?」

 

 ライスちゃんはそれを聞くと、瞼を閉じて、胸に手を当てた。

 

 

 

「なる。……ライスも、皆をしあわせにできるウマ娘に、なる。

 なる、んだ……しあわせの、青いバラに!」

 

 

 

 青いバラってのが何を指すのか、私にはわからないけど……。

 ライスちゃんの暗い雰囲気は霧散したし、野暮なことは言いっこなしだ。

 

 これでいい。無意味に曇るより、笑顔とか頑張る顔の方が、ずっと輝いてる。

 ハピエン厨の私もニッコリだよ。

 

「ん、頑張れ、ライスちゃん。上の方で、君と走れるのを待ってるよ」

 

 具体的に言うと、再来年の天皇賞(春)とか。

 

 トレーナー曰く、生粋のステイヤーであるライスちゃんは距離が延びれば延びる程強くなるらしい。

 いつか、3200メートルの距離で一緒に走ってみたいね。

 いや、まだ私、公式レースは2400までしか走ったことないんだけどさ。

 

 ……なんて、明るい未来を想ってちょっとニヤついてた私は、若干遅れて彼女の変化に気付く。

 

「ん……ぐすっ、あ、ありがとう、ございます……!」

「え?」

 

 あれ……ライスちゃん、泣いてない?

 しかも大粒の涙をボロボロ流して……しっかり泣いちゃってる!?

 あれ待って!? ちょっと、そういうつもりじゃなかったんだけどなぁ!?

 

 え、私、もしかして泣かせた? 励ますつもりで塩塗った?

 いや、ありがとうございますってことはこれで良かったのか……?!

 最近の若いウマ娘って難しいよぉ!

 

 いや、落ち着け、取り乱すなよ私。

 今、目の前で後輩が泣いてるんだ。

 頼れる先輩として、冷静に対処しなければ!

 

「あらら……ほら、ハンカチ。涙拭いて」

「ごっ、ごめんなさい……」

「ごめんより、ありがとうの方が嬉しいよ」

「ありがとう、ございます!」

 

 ……正直、彼女が何にそこまで感じ入ったのかはわからない。

 けど、とにかく。

 落ち込んでいた彼女が、涙を流しながらでも、笑ってくれて良かった。

 私の中にあったのは、その安堵だけだった。

 

 

 

 さて、しばらく近くのベンチで休憩している内、ライスちゃんの感情も落ち着いてきたっぽい。

 よし……そろそろ軌道修正と行くか。

 

「……ふふ、まぁ私とぶつかるにはシニア混合のG1レースに出なきゃいけないし、その分たくさんレースに勝たないといけないけどね。

 勝ち上がってきなよ、ライスシャワー。ブルボンちゃんを超えて、さ」

「ブルボン、さん……?」

「そう、ミホノブルボンちゃん。君がクラシック三冠を目指すんなら、彼女は間違いなく壁になるよ。

 何せ、私のトレーナーが持った、2人目の担当ウマ娘でもあるしね」

「ウィルム先輩と同じ、トレーナーさんの……」

「ブルボンちゃんは強いよ。きっと君の良いライバルになる。

 だからまずは、彼女の背中を目指してごらん。きっとそのレースが、君を新しい自分へ導いてくれるからさ」

「えと、わ、わかりました! ライス、頑張ります!」

 

 よしよし、完璧だ。

 これでライスちゃんはブルボンちゃんを強く意識してくれるはず。

 そして彼女の背を追う内に、自然と仲良く……。

 

 ……あれ、待てよ?

 

 少なくとも前世アニメでは、彼女がブルボンちゃんと仲良くなったきっかけって……確か、マックイーン先輩とのレースから逃げ出した彼女を、ブルボンちゃんとテイオーが引き留めたところだよね。

 菊花賞でブルボンちゃんが勝ったら……ライスちゃんとのフラグって折れちゃう? というか、そもそも立たないのか?

 

 ブルボンちゃんに付いているのは、天性のチートトレーナー、堀野歩トレーナーだ。

 あの人なら気軽に原作ブレイク……いや別にあれが原作ってわけじゃないけど、アニメの展開を壊してきかねない。

 ていうか壊した。テイオーの二冠を奪ったのは、誰であろうこの私だ。

 

 ……あー。

 まぁでも、もしそうなったら仕方ないかな。

 ブルボンちゃんもライスちゃんも全力で走った結果そうなったっていうなら、それもまた運命だろう。

 

 でもそうなると、ブルボンちゃんには私やトレーナーがいるとして、ライスちゃんを支える人とかウマ娘っているんだろうか。

 専属のトレーナーがついてるならいいけど、大抵のウマ娘って大人数のチームに所属してるみたいだし、そうなると十全なメンタルケアは望めないかもしれない。

 それにあのネガティブで他人を遠ざける感じからして、友達もあんまり多くなさそうだし……。

 

 もし、あの菊花賞みたいなことが起これば、誰がライスちゃんを支えてあげるんだ?

 

 スポーツドリンクをちびちびと飲む彼女を、視界の端に捉える。

 「私」が好きだったウマ娘。きっとこの世界でも、たくさんの悲しみを経て……彼女の言葉を借りれば、いつか「青いバラ」になるべき漆黒のステイヤー。

 

 色んなことを抱え込みがちな彼女の姿は……どことなく、私の好きな人のことを思わせる。

 放置は……できないよね。

 

 できれば彼女にも、いつかあの万雷の祝福を受けて欲しい。

 あの圧倒的な熱を感じれば、きっと彼女も「誰かに幸せを届けられた。自分は変われたんだ」って思えるはずだ。

 だからその時が来るまで、彼女には諦めず走り続けてほしい。

 

 ……よし、決めた。

 ライスちゃんのケアは私がしよう。

 

 親しい仲というのは、何も一通りじゃない。

 私が目指すべきは、ブルボンちゃんとの間に挟まる大罪ウマではなく、彼女を支えられるポジション……。

 

 そう、ギャルゲーにおける親友キャラだ!

 

 辛い時には支え、ブルボンちゃん攻略の際には力を貸す。

 そんな都合の良い友人に、私はなる!

 

「これからも、何かあったら相談に乗るよ。ほら、LANE交換しよ?」

「わわ、はい……!」

「ん……気軽に声、かけてね。

 あと、せっかく走るなら、夜は併走しようよ。無言で付いて来るより、一緒の方が楽しいでしょ?」

「併走、ライスと一緒でいいんですかっ?」

「もちろん。レース前以外、夜は大抵走ってるし、ライスちゃんがやりたい時に声かけて」

「っ、はいっ!

 すごい……本当に、お姉さまみたい……!

「ん、お姉さま?」

「い、いえっ! 何でもないです!

 その、これから……よろしくお願いします!」

 

 友人を得たことが嬉しかったのか、ライスちゃんはニコリと笑ってくれた。

 うん、ちょっとは前向きになってくれたか。よきかなよきかな。

 

 頑張れ、ライスちゃん。

 辛い運命でも乗り越えられるよう、先輩は応援してるよ!

 

 

 

 

 

 

 ……あれ待てよ?

 冷静に考えると、ブルボンちゃんって、いわばもう私と同門なわけで……。

 ライスちゃんに肩入れするのって、もしかして利敵行為だったりする?

 

 …………やっちゃったかな、これ。

 

 

 







 ! ウマたらし

 メインストーリーじゃお兄さまお姉さま呼びしなかったりするし、そういう世界線もあるということで。
 お兄さまお姉さまガチ勢の皆さま、ブルライ派閥の皆さま、許して……許して……。

 それと、次回は別視点。頻度高めで何か申し訳ないような気持ち。



 次回は3、4日後。おまけの別視点で、これまでとこれからの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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おまけ 無表情三銃士を連れて来たよ。

 よわよわ系無表情、堀野トレーナー「よろしく」
 つよつよ系無表情、ホシノウィルム「がんばります」
 出にくい系無表情、ミホノブルボン「どうも」





 

 

 

 私は昔から、意思の希薄なウマ娘であったようです。

 覚えている限りにおいても、多少の波はあれど、強い感情を覚えたことはありませんでした。

 

 データ参照。

 好きな食べ物……該当なし。

 嫌いな食べ物……該当なし。

 好きな動物……該当なし。

 嫌いな動物……該当なし。

 好きなもの…………該当なし。

 嫌いなもの…………該当なし。

 

 ミホノブルボンというウマ娘は、あるいは何かが欠落しているのかもしれません。

 対象に関して、好意的な感情を抱くことがない。

 そして同時、悪意のある感情を抱くこともない。

 

 「こだわり」というものがない。

 

 当時の私を一言で表すとすれば、それが正しい表現になると思われます。

 

 

 

 ……しかし、その状況は、あの時に変わりました。

 

『速い速い、素晴らしい末脚だ! 流石は三冠ウマ娘、G1レースをものともしない走り!

 2バ身の差を付けて今、彼女が年末の大一番を制しました!

 そのタイムは……2分32秒8!! レコード、レコードタイムです!!』

 

 父に連れていかれた、トゥインクルシリーズのG1レース。

 そこで走る三冠ウマ娘は、圧倒的な強さを以て、G1……国内最高峰のレースを制したのです。

 文字通りの圧勝。他のウマ娘を寄せ付けない、飛び抜けた実力。

 

 

 

 幼かった私はそれを見て、初めて強い感情を……『憧れ』を、覚えたのです。

 

 

 

 私があのレースに参加していれば、果たしてどこまで走ることができたでしょうか。

 勿論、その時点における私は、本格化どころか骨格すら整っていない状態。あの三冠ウマ娘と走ることができたとしても、勝負すらできずに終わったでしょう。

 しかし、それでも。私はシミュレートせざるを得なかったのです。

 

 ……すごい。

 三冠ウマ娘は、すごい。

 

 後から考えれば、それは、私が初めて覚えた「こだわり」だったのでしょう。

 

 

 

 ですが幼い私には、その想いを何と表せば正確に伝わるのか、更に言えば、それがどのような想いなのかすら理解できませんでした。

 故にただ、こう言ったのです。

 

「お、お父さん、私……私、その……三冠ウマ娘になりたいです」

 

 私が本当に憧れたものは、恐らくそれではなかったのでしょう。

 

 ……けれど、少なくとも三冠を取らなければ、あの背中には追いつけない。

 だからこそ、私はそう言ったのかもしれません。

 

 

 

 そうして、もう1つ。

 

「……! ……そうか、そうか、そうか。ブルボンは、三冠ウマ娘になりたいか。

 それなら、頑張って目指そう、三冠ウマ娘を!」

 

 無骨な父が、珍しく笑ってくれたのです。

 

 その時、私は父の笑顔を見て、不可思議な情動を覚えたことを記憶しています。

 いつも厳しく、時に優しく、私の体を鍛えてくれた、元トレーナーの父。

 あの人が私に笑いかけてくれたのは、本当に珍しいことであり……。

 

 恐らく私はそれを、とても嬉しいと、そう思ったのです。

 

 

 

 そうして、ミホノブルボンというウマ娘の目標は設定されました。

 三冠ウマ娘になる。

 たとえどれだけ厳しい行程になろうとも、私の初めの意思、父との夢を、必ず現実のものとする。

 

 それが、現在まで私が抱き続けている、最も長期的かつ優先度の高いタスクとなります。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 しかし現実には、想定を超える問題が発生しました。

 

 

 

 まず、私が長距離を走る素質を持っていないこと。

 教官に走りを見ていただいたところ、やはり血筋に合ったスプリンター、あるいはマイラーが適切であろうという判断を頂いたのです。

 

 トレセン学園入学時点のウマ娘は、長距離を走るスタミナがない。それは当然のことであると認識しています。

 ……けれど、当時の私はマイル距離、1600メートルですら、満足に走れなかった。

 鍛錬を積んだ結果走れるようになっても、他のウマ娘との競り合いを続ければ、すぐに脚を使い切り、一杯になってしまう。

 

 故に、今の私の限界はマイル……1800メートルまで。

 残念ながら、それ以上の距離はミホノブルボンには難しい。

 菊花賞の3000メートルはおろか、クラシックレースの最初の1つである皐月賞の2000メートルすら、私は走り切れないかもしれない。

 ……極めて、適正な評価であると認識します。

 

 血筋という、絶対的な壁。

 それが、私がトレセン学園に入学して対面した、最初の困難でした。

 

 

 

 次に衝突した困難は、私を選んでくださったベテラントレーナー……元マスターと、意思の統一を図れなかったこと。

 

 元マスターは、私に何度も説いてくださいました。

 君にはマイラーの才能がある。それを腐らせるのは勿体ない。活躍できる才能を持っているのだから、是非それを使ってほしい。気持ちはわかるが、三冠は困難だ、と。

 

 恐らく、それは事実なのでしょう。

 私としても、何度走っても走行可能な距離を伸ばせない自分を知り、三冠という目標が遠のくように感じていたのですから。

 

 ……ですが、それは私の根源的な指針。

 

 私は一般的なウマ娘と、因果が逆転しているのです。

 勝ちたい、もっと強くなりたい、栄光を掴みたいから三冠を目指すのではなく。

 三冠を取るために、勝ちたい、もっと強くなりたい、栄光を掴みたい。

 

 故に、三冠という目標は、決して譲れるものではありませんでした。

 ……たとえそれが、結果として、元マスターとの契約解除を招いたとしても。

 

 

 

 以上の問題により、私はクラシックレースの中・長距離を走るだけのスタミナを持たず、その上契約トレーナーを持たない、危機的状況に陥りました。

 

 追い詰められた私には、ステータス『焦り』が発生。

 即座にこの状態を解決せねばならないと感じ、行動を開始します。

 

 私がすべきことは、2つ。

 自らの体力を向上させ、長距離を走ることができるラインにまで鍛え上げること。

 そしてトゥインクルシリーズへの出走のため、新たなトレーナー……マスターを得ること。

 

 特に後者は危急の課題です。

 既に当時、メイクデビューの開始は2か月後に迫っていました。

 最速でデビューすることは必須ではありませんが、可能な限り早く済ませておけば、それだけスケジュールに余裕が発生することも事実。

 故に可能な限り早く、三冠という私の夢を信じてくださるマスターを見つける必要がありました。

 

 

 

 ……しかし、実際に問題解決に取りかかり、私はそれが困難なものであることを理解しました。

 どうやら私は、拾ってくださった元マスターの指示に逆らい契約を解除された、気性難のウマ娘として名前が通っていたようです。

 そして何より、スプリンターの血筋でありながら三冠を目指すウマ娘に、会ったトレーナーは皆首を振り、諦めるように促すのです。

 

 曰く……それこそが、私の為であると。

 

 私のマスターの必須条件は、クラシック三冠という目標達成のために行動を起こしてくれる方。

 けれど、その条件を満たすトレーナーが、どこにもいない。

 

 僅か1日で計画が頓挫し、私は自室でショートしてしまいました。

 現実とはままなりません。努力すれば全ては越えられると信じてここまで来た私でしたが、人望のなさはどうしようもない。

 一言で表せば、万事休す、です。

 

 

 

 そしてそんな私に、ルームメイトのフラワーさんが言ってくたのです。

 

 現クラシック世代の先輩に……三冠を有力視されるホシノウィルム先輩に会ってみてはどうか、と。

 

 ホシノウィルム先輩。G1を含め3戦3勝、全て大差を付けての圧勝を刻んだ、当時世代最強を謳われていた逃げウマ娘。

 

 そんな彼女も、最初は自分の脚の限界に苦しめられていた、という噂があるそうです。

 選抜レース前に出た唯一の模擬レースで、1バ身差を付けられた2着。ホシノウィルム先輩とは思えない、極めて平凡な走りであった、と。

 けれど現在の彼女は、圧倒的な実力を誇る世代の中核の1人。

 ……その事実は、私の距離限界を突破する方法が隠されている可能性を秘めている。

 

 既に思い付く限りの策は取り、その尽くが失敗していた私は、フラワーさんの提案を実行に移すことにしました。

 

 

 

 結果として、この行動は私にとって、非常に大きな転換点となりました。

 

 ホシノウィルム先輩は、ただ自らの適性を理解せずマイル距離への出走を行っただけで、今は中長距離を主眼に戦っているとのこと。

 つまり、彼女は元より中・長距離の適性を保有していた。

 残念ながら、私の距離限界を超える方法は見つかりませんでした。

 

 ……けれど。

 常勝無敗、どこか泰然とした余裕のある先輩は、皐月賞直前というタイミングだというのに、私のリクエストに応えてくれました。

 そして2つの、重大な事実を伝えてくださったのです。

 

 ホシノウィルム先輩は、その血統が有力視されない……私と同じ、いわゆる寒門の出であるということ。

 

 そして、先輩の担当トレーナーが「ミホノブルボンはクラシックレースで結果を残す」と仰っていた、ということ。

 

 血の壁は、超えられる。

 私の夢を信じてくださるトレーナーが、いる。

 

 それは、私の今後の行動指針を決定させるに足る情報だったのです。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「それからも私は、トレーニングの傍ら、私の夢を支えてくださるトレーナーの捜索を続行しました。

 けれど、やはり誰もが私をスプリンターとして捉え、三冠は難しいものであると仰っていました。

 君の未来を想えば、今からでも短距離・マイル路線で走るべきだと」

 

 その言葉にも、元マスターの意思にも、悪意は欠片も存在しませんでした。

 ただ未来と脚を鑑み、私のためを想っての言葉。

 

 ……それでも。

 私は、利口にはなれない。

 諦められなかったのです。私が唯一持つことのできた、夢を。

 

「故に……堀野歩トレーナー。あなたに私のマスターになっていただきたかった。

 私を慮ってくださる方はいても、信じてくれる方は、他にはいない。

 たとえいたとしても、その中で最も私と相性の良いトレーナーは、あなたをおいて他にはいないと判断しました」

「相性?」

「私はどのような厳しいトレーニングにも耐え抜く覚悟があります。

 三冠を取るためならば、たとえ脚が千切れるような鍛錬でもこなすつもりです」

「……ふむ、君たちジュニア級ウマ娘の中で、俺がどう思われているのかはよくわかった」

 

 そう言って、私の新たなマスター、堀野歩トレーナーは頷きました。

 

 

 

 堀野歩トレーナー。

 

 新人でありながら教官やサブトレーナーを経ることなく担当を持つことを許された、名門出身の契約トレーナー。

 

 事前に掴めた確かな情報は、ただその1つ。

 流れる風評は数知れず、その多くが情報の確度に難があるものでした。

 

 曰く、その性格は冷淡であり冷徹、担当ウマ娘に過重なまでのトレーニングを積ませ、限界まで追い詰め切って無理やりレースに勝たせる薄情者。

 曰く、真面目だが抜けたところがあり、ウマ娘の無理や無茶を決して許さない人情家。

 名門の出身でありながら、寒門のウマ娘を選んだ物好き。

 あるいは、その寒門のウマ娘の秘めたる才能を引き出し、無敗二冠という栄光へと導いた天才。

 徹底した管理主義により怪我をさせない名手。

 もしくは、無理なローテーションを強いて名バに骨折を強いた無能。

 

 マスターの風評は、語る人やウマ娘によって大きくその色合いを変化させます。

 時には、考え得る限り最良のトレーナーであり尊敬すべき人格者だと。

 時には、利己的でウマ娘のことを考えない最悪のトレーナーだと。

 

 ……つまるところ、人の噂では、彼の本当の姿を量ることは不可能。

 故に、私は彼と直接接触し、その人柄と能力を知るというタスクを実行したのです。

 

 

 

 結果として、わかったことは。

 彼は非常に誠実で優秀なトレーナーである、という事実でした。

 

 これまでホシノウィルム先輩越しに一度しか接点のなかった私の名前を把握し、すぐに想起できるレベルで覚えている情報収集、記憶能力。

 自分ではなくこのトレーナーの隣に行った方が良いと、プライドを捨て相手を慮る愚直さ。

 見知らぬウマ娘の接触を許し、なおかつレース展開について語って聞かせる度量。

 並外れたウマ娘への観察眼と、極限にまで練り上げられたレースの展開予想。

 

 ステータス「納得」が発生。

 確かに、これだけの人格と能力を持つ契約トレーナーであれば、あのホシノウィルム先輩が自慢に思うのも道理であると考えられました。

 

 ……この世界には「ウマ娘はトレーナーに似る」という言葉があります。

 あるいは、皐月賞前日という大事な日に、面識のないウマ娘の相談に乗ってくれるホシノウィルム先輩の寛容さは、マスターに似たのかもしれない。

 あるいは、そうした2人だからこそ引かれ合い、契約を結んだとも考えられます。

 

 閑話休題。

 とにかく私、ミホノブルボンにとって、彼の下に就くことが最適解であることは明らかでした。

 2人共に私の夢を信じてくれる、優秀で誠実なマスターと、強く優しい先輩。

 これ以上の環境は、おおよそ他にないでしょう。

 

 故に私は、オペレーション『契約』を実行しました。

 私と契約していただけませんかと、彼に直接契約を持ちかけ、断られても何度でも再試行。

 しかし、残念ながらマスターの意志は頑なで、正面からの突撃は有効打になり得ませんでした。

 「俺には君に責任を持つだけの余裕はない」と何度も語ってくださり、その上で有力なトレーナーの推薦までしてくださいました。

 

 ……ですが。

 そんなトレーナーだからこそ、私は強く、彼と契約したいと思ったのです。

 きっと彼ならば、最後まで私を支えてくださるのだと、信じることができたのです。

 

 その後は父やフラワーさんに助言を仰ぎ、セカンドオペレーション「トレーナーを射んとすればまず担当ウマ娘を射よ」を実行。

 入院中のホシノウィルム先輩に接触を図り、協力を仰ぎました。

 結果、ホシノウィルム先輩には快諾していただき、有効な作戦まで立案していただいて……。

 

 ついに私は、私の夢を信じてくれるマスターを獲得したのです。

 

 

 

 そして、現在。

 私はマスターと契約するにあたり、コミュニケーションを図っていました。

 改めて相互に自己紹介をし、目標や方針の情報共有を済ませた後、マスターが次に尋ねられたのが、何故自分を選んだのか。

 

 これから二人三脚で共に歩んでいくにあたり、互いの背景への理解は非常に重要であると推測。

 私はマスターに、自らの夢と、どこで彼を知ったか、私から見た彼の必要性を語りました。

 

 これに対し、マスターの反応は……複雑なものでした。

 どこか戸惑っているような、何か引っかかるものがあるような。

 人の心の機微に疎い私には、彼の心情を推し量ることができません。

 

 ……けれど、マスターはすぐさまその表情を抑え、改めて口を開きました。

 

「さて、ホシノウィルムが君を受け入れた以上、俺も君と契約したいと思っている。

 ……だが1つ、問題が残っていてな」

「何でしょう」

「俺は、成り行きで担当を取りたくはない。『この子を支えたい』と思えるウマ娘以外を担当したいとは思わない。

 だから……悪いが、君を担当することに、俺から1つ条件を付けさせてもらう」

 

 成程。

 ウマ娘を担当するにあたり、トレーナーが試験や条件を課すのは珍しい話ではありません。

 特にマスターは、その途轍もない戦績もあり、私以外のジュニア級ウマ娘からも頻繁に逆スカウトを受けている様子。

 引く手数多であることから考えても、新たな担当契約に条件を課すことは不自然なことではないと推測します。

 

「オーダー、謹んで拝聴します」

「うむ、助かる」

 

 マスターは、そこで一度言葉を切り、ちらりと今もターフを走っている彼の担当ウマ娘、ホシノウィルム先輩の方を窺いました。

 私にとって2つの意味で先輩にあたる彼女は、宝塚記念で骨折を経て、現在リハビリの最中。

 故に私とマスターは、ホシノウィルム先輩を観察しながら話をしていたのです。

 

「さて、条件だが……ジュニア級が終わるまでに、G1タイトルを取ってみせろ。

 その走りで、俺を惚れさせてくれ。君を担当し、君を支えて行きたいと思わせてくれ」

「……G1タイトル、ですか」

「ああ。安心しろ、君の素養ならば十分に目指せるものだ。

 俺も微力ながら支えていくから、まずはそこを小目標としよう」

 

 G1レースは、日本にいる何千というウマ娘の頂点に立つ者のみが出走することのできるもの。

 それは簡単に手を伸ばし、あろうことか取ると宣言できるものではないと考えますが……。

 

 それが三冠を取る為に必要だというのなら……。

 いえ、マスターが取れ、と言うのならば。

 私はただ、それを実行に移すだけです。

 

 トゥインクルシリーズで、現在ジュニア級のウマ娘が出走することのできるG1レースは、4つ。

 阪神レース場、芝1600メートル、阪神ジュベナイルフィリーズ。

 同条件、朝日杯フューチュリティステークス。

 川崎レース場、ダート1600メートル、全日本ジュニア優駿。

 中山レース場、芝2000メートル、ホープフルステークス。

 

 私はクラシックレースを走るため、芝を走る練習を積んできました。であれば、ダートである全日本ジュニア優駿は回避すべきであると推測。

 そう考えれば……考慮すべき選択肢は2つ。

 阪神ジュベナイルフィリーズ、あるいは朝日杯フューチュリティステークスでマイルを走るか。

 それとも、ホープフルステークスで中距離を走るか。

 

 私が目指すべきは、クラシック三冠。

 その終着点である菊花賞を見据えれば、目標として定めるべきは……。

 

「やはりホシノウィルム先輩の後を追い、目標はホープフルステークスにすべきでしょうか」

「いや。……そうだな、先にそちらの話をしようか」

 

 マスターは一度言葉を区切り、改めて私の目を見て、言いました。

 

 

 

「ミホノブルボン、ひとまず中・長距離は諦めろ」

 

 

 

 ……思考、凍結。

 

 それは。

 

「三冠を、諦めろと?」

「ん? ……あぁ、なるほど、また間違えたかこれは。

 すまない、君の思っている意味ではない。……意識していても、癖はなかなか治らないものだな。

 君が望む限り、菊花賞には出走する。俺が言いたいのは、現段階で中距離以上を走ろうとするのは諦めろ、まずはマイルから始める、ということだ」

 

 ……ステータス『安堵』を検知。

 ほっと、息が漏れました。

 

 元マスターとの離別。理想を共にできず、支えてくださった方と別れた事案は、未だ記憶に新しい。

 今回もそうなってしまうのかと思ってしまい……非常に早い動悸を検出。

 私はどうやら、不安を感じていたようでした。

 

 ともあれ、それは誤解でしかなく、マスターは私の夢を信じてくださっている。

 であれば、それ以上に求めるべきことはありません。

 

 数度呼吸を繰り返す内、思考の正常な状態への沈着を確認。

 会話の再開を要請しましょう。

 

「会話の腰を折ってしまい、申し訳ありません。どうぞ続行をお願いします」

「謝るべきはこちらだが……今は置いておくか。

 改めて。今の君のスタミナでは、距離の限界はマイル……それも1600メートル程度。

 無理に中距離や長距離を走ろうとするより、走る距離を段階的に伸ばしていった方が、君の脚にも良いし、何より適切な負荷になる。

 故に、君が目指すべきG1タイトルは……朝日杯フューチュリティステークスだ」

 

 朝日杯フューチュリティステークス。

 年末、12月中旬に開催される、ジュニア級ウマ娘の決戦の1つ。

 クラシックレースへの出走に直結する、重要なG1レースでもあります。

 

 しかし、何故それと言い切るのか。

 そこに1つの疑問を抱きました。

 

「阪神ジュベナイルフィリーズではなく、朝日杯フューチュリティステークスであると断言される理由はあるのでしょうか」

「歯に衣着せず言えば、レベルの違いだ。

 阪神ジュベナイルフィリーズ、朝日杯フューチュリティステークス。

 これらは同じG1レースの中でも僅かながら格が違う。平均的なレベルは後者の方が高い。

 故にミホノブルボン、君が優駿たろうとするのならば、後者への出走と勝利を目指すべきだ」

 

 それはシンプルでわかりやすい理由でした。

 極めて困難なクラシック三冠を取ろうと望むのならば、その程度の障害は乗り越えて当然。

 私の血にも適した、マイル1600メートル。この距離での世代一も取れないようなら、血に適さない3000メートルなど文字通り夢でしかない。

 

 至極道理であると思いました。

 確かに、より強いウマ娘を制し、より強くなっていかなければ、三冠という高い目標を果たせるとは思えません。

 

 同時、先程に比べれば弱い、ステータス『安堵』を確認。

 ……これは、個人的な都合に過ぎませんが。

 阪神ジュベナイルフィリーズには、ルームメイトであるフラワーさんが出走予定。

 マスターの指示であれば従いますが……せっかく2つのレースがあるのならば、あの明るく可愛らしい友人にも勝っていただきたい。

 私はどうやら、心のどこかでそう思っていたようです。

 

「了解しました。ご指示に従い、朝日杯フューチュリティステークスに出走したいと思います」

「うむ、話が早くて助かる。

 今年の朝日杯の開催は12月8日だ。

 ……すると、そこまでに1度、オープンかプレオープンに勝って、十分な人気を得ておきたいな」

「距離は、やはり同じく1600メートルでしょうか」

「そうだな。ここからメイクデビューを終えて、君の走法の改善や気性なども確認するのに時間を使うことを考えて……11月中旬から下旬の、1600メートル……」

 

 そう言って、マスターはスーツの内ポケットから手帳を取り出し、ページを捲っていきました。

 ……一瞬、手帳のページを視認。今年開催されるレースについての詳細な記述が、小さな字で几帳面に纏められているようです。

 そして、その記述の中には……『阪神JF ニシノフラワー出走予定』とも。

 

 フラワーさんの出走予定を、ご存じなのですね。

 その上で朝日杯フューチュリティステークスを選択されたということは……。

 もしや、気を遣っていただいたのでしょうか。

 

 ……やはり彼は、ウマ娘に対して傍若無人に振舞うような方ではない。

 私たちウマ娘に寄り添ってくださる、信頼できるトレーナーなのでしょう。

 

「うむ、11月17日、ベゴニア賞。東京レース場、芝1600メートル。

 レース場の条件は少し厳しいが、ここが妥当なところか。ホシノウィルムのジャパンカップとも被らないしな」

「ホシノウィルム先輩は、ジャパンカップに出走予定なのですか?」

「あ。……あぁ、そうだな。

 ただこれは、まだ外に出していない情報だ。部外秘にするように」

「了解しました」

「うむ……まぁ、君なら信頼できるか。

 せっかくだから情報を共有しておくが、ホシノウィルムは今年、菊花賞、ジャパンカップ、そして有記念に出走予定だ。

 君のレース予定とは被らないから安心しなさい」

「菊花賞に……?」

「…………あぁ、そこも言っていなかったか。

 駄目だな、全然整理できてない。また昌にどやされ……いや、今はそこではなく。

 ホシノウィルムは既に、骨折を完治させている。ここから万全にリハビリをこなせれば、出走できるようにはなるだろう」

 

 ステータス『驚愕』が発生。

 今年の宝塚記念から菊花賞までの間隔は139日、おおよそ4か月半。

 聞いた話では、ホシノウィルム先輩は完全骨折であったとのことですが、その短期間でレースに復帰すると。

 

 そもそも完全骨折が完治するまでには、早くても3か月弱かかるはず。

 そこからリハビリをするために、どれだけ早くて2か月以上。

 その上で、そこから叩きのレースを経て、本調子で復帰する。

 故に、骨折からの復帰は半年以上の時間を見込んで行うのが定石と聞き及んでいました。

 

 確かにホシノウィルム先輩は、既に骨折の形跡すら見られない程に綺麗なフォームで走ることができています。

 しかし、それにしても……菊花賞までに完全な状態に復帰することは困難であると推測できます。

 

 彼らはその困難を、当然のように越えようとしている。

 ……やはり先輩とマスターには、常識は通用しないのでしょう。

 

 彼らと共にいれば……あるいは、私も。

 

「さて、ホシノウィルムの話はまた今度。今は君の今後の話だ。

 ひとまず、レースでの君の姿が見たい。これから1週間で君の走りを整え、メイクデビューを済ませてしまおうか」

「了解しました」

 

 マスターの言葉には気負いなど見られず、ただ淡々と予定を組んでいきます。

 絶対的な自信……いえ、より正確には、正解を知っているかのような自然な流れ。

 例えるならジュニア級の私と同じ、新人であるはずの彼は、しかし驚くべき能率で的確にスケジュールとトレーニングメニューを組み上げていく……。

 

 これが、名家のトレーナー。

 いえ、これが、マスター。

 

 ……不明なステータスを検出。

 類似するステータスを検索。『憧憬』『尊敬』『嫉妬』『焦燥』の4件が該当。

 それらから推測するに……私は彼を高く評価し、そこに並びたいと思っているのかもしれません。

 

 遠く、ターフを走っているホシノウィルム先輩の姿を視認。

 かつてお話しした際、先輩はマスターのことを深く信頼しているように見受けられました。

 そして同時、先ほど彼女を見ていたマスターの目も、落ち着いて自然なもので……。

 

 圧倒的な強さを誇る灰色の龍と、飛び抜けた技能と精神性を持つトレーナー。

 先輩とマスターは、強い信頼で繋がっている。

 二人三脚という言葉に相応しい、完璧な相互理解に基づく関係を築かれているのでしょう。

 

 私も早く、ホシノウィルム先輩と同じように、マスターに相応しい担当ウマ娘にならなければ。

 

 

 

 次なる目標は決定。

 朝日杯フューチュリティステークスに勝利し、マスターに認めていただくこと。

 そしてマスター、及びホシノウィルム先輩との間に、確固たる信頼関係を築くこと。

 

 ミホノブルボン、奮起します。

 

 

 







 ブルボンの口調難しすぎて禿げそう。

 申し訳ないんですが、次回もおまけです。
 最近シリアスばかりだったので、次回は頭を空っぽにして読めるギャグ回となります。
 それが終わったら……少しずつ、菊花賞が近づいてきますね。



 次回は3、4日後。おまけの別視点で、案件配信の話。
 色々と変更がありますが、読者様からアイデアを頂いたものが基になってます。ありがとうございます!



(本編に関係のない呟き)
 バイオレットでニャオハ選びました。
 ニックネームは「タテバニグン」です。

(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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おまけ 【#三星プリプロ】ゲームで対戦します!【ホシノウィルム/トウカイテイオー/ナイスネイチャ】

 2日前のホシノウィルムのウマート
『明後日、URAの公式チャンネルでネイチャとテイオーと配信します。
 ゲームでこの世代の頂点を決めます。
 視聴者プレゼントもあるみたいなので、見に来てね』





 

 

 

『待機』

『待機』

『コメントも賑わってきた』

『世代三強が公式チャンネルで配信……時代だなぁ』

『ウマートヨシ!』

『ジュースとスナックの買ってきた』

『テイオー最近露出少ないから助かる』

『ゲームって何? この前ウィルムが大爆死してたソシャゲ?』

『そういやレースとライブ以外でウィルム見るの初めてかも』

『ネイチャ、あがり症なイメージあるけど大丈夫か?』

『同接16万で芝。公式レースかな?』

 

 

 

『お』

『お』

『お』

『始まる?』

 

 

 

「輝くのは1人にあらず、数多の星が照らす世代。

 その中でも一層輝く、3つの星があった」

 

 

 

『始まった!』

『きったああああ』

『何これPV? ナレーション渋いね』

『編集めちゃくちゃ良いな。映像は皐月賞とダービーか』

『ゲーム配信でお出しするクオリティか? これが…』

 

 

 

「1つは、最速最強、最新の伝説。

 あらゆる英雄、あらゆる記録を過去のものにする、生きる神話。

 灰色の龍、ホシノウィルム」

 

 

 

『龍だ!』

『出た、宝塚のわけわからん末脚』

『あんな小柄で可愛いのに強いの、良いよね……』

『生きる神話(誇張なし)』

『無敗二冠なのか無敗三冠なのかの論争が終わらんヤツ』

 

 

 

「おお、すごい……!」

「ちょ、ウィル、喋っちゃ駄目だって」

 

 

 

『おい何か聞こえたが』

『ウィルムちゃんワクワクで芝』

『生きる神話「おお、すごい……!」』

『最近浮上したポンコツ疑惑、ガチなのでは?』

『ネイチャ、今日も頑張ってるな……!』

 

 

 

「1つは、神話に迫る天才。

 龍と共に2人の世界を駆ける、もう1人の主役。

 小さな帝王、トウカイテイオー」

 

 

 

『そりゃダービーの映像出すよね』

『2着ハナ差、3着大差』

『この表情な。悔しがるような、相手を認めたような』

『チャンピオンは2人いる』

『無事に復帰してくれ。ウィルムとの熱いレース待ってる』

 

 

 

「1つは、まだ見ぬ煌めき。

 陰に隠れた続けた実力、菊の舞台で大輪を開くか。

 ブロンズスター、ナイスネイチャ」

 

 

 

『重賞出てないから実力がわからん』

『模擬レースで龍に1バ身差まで迫ったって』

『なんでこの子クラシックレース出なかったの?』

『終身名誉ホシノウィルムさん係』

『ウィルムが問題発言した時のカバーの印象が強すぎる』

 

 

 

「輝く星が、新たな物語を紡ぐ。

 トゥインクルシリーズ」

 

 

 

『良いPVだった……』

『改めて、今年のクラシック熱かったなぁ。まだ終わってないけど』

『やっぱ公式の力ってすげーわ』

『盛り上げようって意思が伝わって来る』

『こういうハイセンスのPRはどんどん打ってほしいわ。見てて楽しい』

『あれ、てかこれゲーム配信じゃなかったっけ?』

 

『あ』

『三星きた!』

 

 

 

「皆さん、こんばんは」

「「こんばんはー!」」

 

 

 

『こんばんは』

『こんばんはー!』

『こんばんは!』 

 

 

 

「改めまして、トゥインクルシリーズクラシック級ウマ娘、ホシノウィルムです。

 今日は配信、楽しんでくださいね」

 

 

 

『改めて見るとほんとにちっちゃいな。初等部に見えるわ』

『この儚げな笑顔が俺を狂わせる』

『うーん、これはクールキューティ』

『走れば芍薬座れば牡丹、ガチャの姿は大爆死』

『多数のファンの脳を焼き切ったスターウマ娘やぞ』

 

 

 

「同じく、トゥインクルシリーズクラシック級ウマ娘、無敵のトウカイテイオー様だぞー!

 ほらほら、控えおろーう!」

 

 

 

『無敵の(2敗)』

『相手が龍だからノーカンだな!』

『松葉杖が痛々しい』

『今日も元気でえらい』

『ウィルム共々リハビリ頑張れ!』

 

 

 

「う、ういーっす……ナイスネイチャでーす。あ、違った、トゥインクルシリーズクラシック級ウマ娘、ナイスネイチャです!

 あーもう、えーっと、頑張りまーす!」

 

 

 

『めっちゃ緊張してて芝』

『他2人とは走ったレースの観客数が段違いだから……』

『ネーチャン!』

『世代三星とは思えない庶民感』

 

 

 

「今日はこの3人で、今度発売されるゲーム、『実況プリティープロレース』、略してプリプロシリーズの最新作を先行プレイさせていただきます」

「ウマ娘のチームを育てて、クラシック三冠とかグランプリ制覇とかを目指すモードだね。

 結構長めの配信になるから、皆、お菓子とかジュースの用意も忘れずにね!」

「えっと……今年の6月までに活躍したウマ娘が転生ウマ娘として実装されてて、ウィルとテイオー、ついでにアタシも登場するみたい、デス。

 じぇ、是非、皆も買ってやってみよーう!」

 

 

 

『芝』

『最後やけくそになってて芝』

『顔真っ赤で可愛い』

『プリプロだったか』

『今年の6月ってことは宝塚まで入ってるのか。ウィルムヤバそう』

『競走ウマ娘が競走ウマ娘のゲームするのか……実際に走った方が早いし速いのでは?』

 

 

 

「今日は、というか私たちにとっては今日も、ですね。3人で対戦していきます。

 『栄冠スリー』モードで、ジュニア級年末まで育成したウマ娘を走らせて対決です」

「勝者には何か商品とかあるのー?」

「なんとプリプロ公式様から、1番人気だった子を育成したウマ娘に、本編に何らかの形で関与する権利が贈られます。

 更にURAから、1着を取った子を育てたウマ娘に、新しい勝負服をオーダーする権利が贈られます」

 

 

 

『栄冠いいね』

『転生ウマ娘引いた子の勝ちかな』

『本編には既に関与しているのでは?』

『挿入歌にソロの歌入れられたり、マネージャーにそっくりさん出したりとかかな』

『勝負服!?』

『こんな企画で勝負服貰えるのか……』

『オーダーの費用かなり高いらしいし、URA本気出してんな』

 

 

 

「見てくれてる視聴者さんには、何かないのカナー?」

「ぷっ……勿論、視聴者プレゼントもあります。

 ウマッターでハッシュタグ『#三星プリプロ』で呟いていただいた方の中から抽選で5名様に、トゥインクルシリーズ秋のファン大感謝祭の優先入場券が贈られます。

 是非、どんどんウマートしてくださいね」

「後で覚えてなよウィル……」

 

 

 

『かわいい』

『かわいい』

『ヘタレネイチャ』

『なにわろとんねん』

『何故笑うんだい? 彼女の演技は大根だよ』

『優先入場券めっちゃほしい。抽選厳しくて毎回入れないんだよな』

『なんか聞こえたな』

『仲良いね君たち』

 

 

 

「よし、それではさっそくやっていきましょう。

 せーのっ」

「「「「実況! プリティープロレース!」」」」

 

 

 

『88888』

『好きなゲームを好きなウマ娘がやってくれる、天国かな?』

『3人ともあんまりゲーム上手いイメージないし、のんびり見守ろうな』

 

 

 

 * * *

 

 

 

「まずはトレーナー作成ですね。今回はプリセットを用意していただいているので、そちらで。

 さて、皆さまお待ちかねウマ娘ガチャですが……ここでは星100以下がハズレ、150以下がそこそこ、200以下が良さげ、201以上が当たりという認識でいいと思います。

 ただ特殊能力、所謂青特に他チームのスタミナを削れる【威圧感】、安定した走りができる【アベレージランナー】、コーナーで減速しなくなる【コーナーA】があれば1発合格級になりますね。

 是非、良いウマ娘を引けるようにお祈りお願いします」

「ウィル、すごい詳しいね。本当に初心者ぁ?」

「司会を任せていただくとのことで、少し勉強させていただきました」

 

 

 

『詳しいな』

『え、既プレイ?』

『しかも割と的を射てる』

『予習えらい』

『ウィルムはやっぱ真面目なんやな』

『ホシノウィルムって物静かなイメージだったけど、案外喋る方なのね』

『興味がある話題振ると良く喋ってくれる印象あったけど、もしかして結構ゲーム好きなのか?』

『初見の人向けに解説してくれてるんでしょ』

 

 

 

「さて、ガチャの結果は……」

「あーっ! カイチョー! カイチョーだ! ボクカイチョーだったよ!」

「シンボリルドルフ先輩!? て、テイオー、とんでもない引きですね……。

 ルドルフ先輩は最強級の転生ウマ娘です。1年で差を埋めるのは、少し厳しいかもしれません」

「そ、そんなレベルなの?」

「現実のレースで言うと、相手が私くらいの難易度ですね」

「……一回リセットしない?」

 

 

 

『引きがヤバすぎる』

『企画終了のお知らせ』

『【威圧感】【アベレージランナー】その他多数青特持ちです。本当にありがとうございました』

『過去作では敵として出ると難易度を跳ね上げて来たルドルフ……』

『はい解散』

『そんなヤバいのか……いやまぁルドルフだもんな……』

『言外に自分はルドルフ級だと宣言していく』

『的確な例えと言うべきか、傲岸不遜と言うべきか』

『ネイチャの心折れかけてて芝』

 

 

 

「あー、アタシはサンサンフラワーって子で、星122……まずまずかぁ。ウィルは?」

「……あ、私ですね」

「は?」

「私が出ました。ホシノウィルムです。星は311ですね」

 

 

 

『!?』

『皇 帝 V S 龍』

『ドリームトロフィーリーグでやれ』

『一等星と二等星ヤバすぎて芝』

『そんな引きある?』

『ネイチャ……強く生きろ』

『星342と星311と星122、脅威の格差社会』

『公式チャンネルで才能の違いによる絶望を見せつけていく』

『ブラッドゲームならぬスターゲームかぁ』

 

 

 

「あー……ネイチャ、頑張ってくださいね」

「ネイチャ、ファイト~! ボクはカイチョーと一緒に頑張ろーっと!」

「な、なんで……ゲームの世界にも才能って絡んでくるの……?」

「……よし、それでは準備も整いましたし。

 ゲームスタート、です」

 

 

 

 * * *

 

 

 

「このモードですが、基本的に3月6月9月12月の月始めからレースがあり、勝ち上がり式でオープン、G3、G2、G1レースに順に出走することができます。

 ただ最初の1年はジュニア級の子しかいないため、3月6月9月のレースはスキップされ、12月だけレースがあります。

 そこまではひたすら選手……もとい、担当ウマ娘を育てていくんですが、最初の内はグラウンドレベルも低いですし良い機材もないので、そこまでの成長は見込めませんね。

 スタミナを重視しつつ、スピードとパワーを上げていきましょう。短期決戦ですし偏差値は捨てて大丈夫だと思います」

「……ねぇウィル、本当に初心者なんだよね?」

「初心者です。似たゲームはやったことありますけどね」

 

 

 

『初心者……? これが……?』

『明らかに慣れた手付きでチュートリアル読み飛ばしてますが』

『動画でチュートリアル見たんやろなぁ』

『このウマ娘ひょっとして熟練者なのでは?』

『初心者?』

『初心者かぁ』

『まぁプリプロ系のゲームは割とあるしな』

 

 

 

「さて、本編を進めていきましょうか。

 ジュニア級1月から11月まではレースもなく、トレーニングできる日々が続きます。

 画面下部に並んでるカード群、進行アイコンカードの左上の数字分、そのトレーニングに時間を使います。例えば、私が今選んでいるカードなら『ダートダッシュ』の『3』なので、3日間ダートダッシュする、といった感じですね。

 で、画面上部のすごろくみたいなマス目が日数に対応しており、例えば先ほどのダートダッシュをすれば3日経過するので3マス進み、私の画面で言えば赤のマスに止まる、という流れです。

 それぞれアイコンの種類で貰える経験値が変わって来るんですが、ここでは細かくなるので省略します。ネイチャやテイオーに聞いてもらえれば答えますね。

 マス目の色に関しては、青マスはプラスの効果、赤だとマイナスの効果、白だとプラスかマイナスかランダムの効果があります。他には緑だとウマ娘の体力回復、黄色だと止まるために選んだカードの取得経験値が上がりますよ。

 ただ黄色は効果量が微妙なのであんまりおすすめしません。青と体力が低い時の緑を優先して、安定性を無視するなら白も止まっていきましょう」

「絶対やったことあるよねウィル!」

「いや本当にこのゲームはリハの時しかやったことないです。よく似たゲームがあったんですよ」

 

 

 

『想像の3倍くらい詳しい』

『アイコンの経験値量概念理解してるのか……』

『もうお前が実況解説しろ』

『白は割とうまあじなイメージ』

『似たゲームか』

『似たゲームなら仕方ない』

『言うてそこまで似たゲームあるか?』

 

 

 

 * * *

 

 

 

「ねーウィルム、なんか金? のマスみたいなの出たんだけど、何コレ?」

「おお、テイオー、運が良いですね。

 それは特訓マス、レアで強いマスなので、是非止まってください。

 効果は練習効率を上げて、かつ確率で青特を獲得できるというもの。強い青特を取れば、かなりのアドバンテージですよ」

「へー。これ、候補一杯あるけどどれがいいの?」

「うーん……そうですね。どの脚質で走らせるかにもよりますが、差しなら末脚が鋭くなる【末脚+2】とか、好位に付きやすくなる【奪好位】とか、チャンスを活かせる【チャンス+2】は王道に強いですよ。

 ただこれらは獲得確率も低いので、安定性を取るなら【ムード○】や【勝ち運】あたりを取るのもアリですね。

 というか高難易度は取得確率20%なので、正直今回狙うのはリスキーすぎ……」

「あ、【末脚+2】取れた」

「……わぁ」

 

 

 

『そんなことある?』

『これもうテイオー止められないのでは?』

『シンボリルドルフすぎない?』

『「わぁ」かわいい』

『ネイチャドンマイすぎる』

『俺はネイチャを応援してるよ! 頑張れ!』

『まぁでもウィルムもウィルム引いてるし、まだあるでしょ』

 

 

 

「うわ、先が赤と白まみれなんですけど」

「まぁアンタ最初の引き良かったしね。テイオーもその内運の揺り戻し来るでしょ」

「あ、マネージャーが、マッサージでグキッと……」

「……ウマ娘の脚をグキッってさせるのすごくない? このマネージャー本当に人間?」

「あっ、女子マネージャーに肩を揉まれてるところを見て、ウマ娘のテンションが……」

「そんなことでテンション下げないで欲しいねぇ。……気持ちはわかんなくもないですケド

「あっ、あっ、あっ、大雨でグラウンドレベルが……」

 

 

 

『そんなことある!?』

『忘れてた、この子運が……!』

『駄目みたいですね』

『今ネイチャなんかすごいこと言わなかった?』

『嫉妬かわいい』

『ネイチャとトレーナーの仲の良さは有名な話』

『トレセン近くの商店街でトレーナーと一緒に買い出ししてる光景よく見るぞ』

『これ1着はともかく2着3着はわからなくなってきたな……』

 

 

 

「アタシの方は、割と順調かな? なんかマネージャーが本見つけてきてくれたとこ」

「おお、良いですね。本は消耗品で、使うとその青特が付きますよ」

「短期決戦だし、使い得かな。よーし、のびのび強くなるんだよ、アタシのサンサンフラワー」

「ボクは勿論絶好調だよー! カイチョーが失敗なんてするはずないし!」

「本当に全然悪いイベント引きませんね……ズルいですよ」

「ズルいって何さー、それを言うんだったらウィルだって、ぱぱっと骨折治しちゃってズルいよ!」

 

 

 

『モブなのにどんどん強くなるなサンサンフラワー』

『まぁ転生って言っても青特とか初期ステが高いだけだからなぁ』

『もしかしてこれ、ホシノウィルムの史上初の負け試合来る?』

『というかテイオーの引きがエグい。一年分の運使ってそう』

『ぱぱっと治しちゃって(全治2か月)』

『回復力が化け物』

『ウィルム、ジャパンカップ辺りからひょこっと復帰してきそうで怖いわ』

 

 

 

「骨折と言えば、テイオーは有記念から復帰予定でしたよね。経過は順調ですか?」

「良くもなく、悪くもなくかなぁ。段々歩くことには慣れて来たけど、まだ本気出すと危ないって言われてるし。有までには、しっかり仕上げてみせるけどね!」

「……なんか、怪我もなく走れてるのが申し訳なくなるねぇ」

 

 

 

『テイオーとウィルムが菊花賞出られないの残念すぎる』

『テイオーがあんまり落ち込んでないのが救い』

『ネイチャは誇ってええんやで』

『無事之名バ的には、ネイチャが一番の名バなんだよなぁ』

『有記念でこそ世代三星のレース見たいね』

 

 

 

 * * *

 

 

 

「さて……ついに12月、レースが始まりますね。

 ここで如何に勝ち上がれるかで、ステータスが大きく変わってきます。

 G1は厳しいでしょうが、是非ともG2までは勝ち上がりたいものですね。

 2人とも、準備は大丈夫ですか?」

「よーし、作戦、能力確認、調子良好! 行けるよ、サンサンフラワー!」

「カイチョーならG1も余裕余裕!」

「では、せーの、で行きますよ?」

 

 

 

 

『何気にウィルムとネイチャの差詰まって来たし、わかんなくなってきたな』

『ジュニア級王者サンサンフラワー来る?』

『テイオーがダントツトップすぎる。シンボリルドルフかよ』

『ネタバレ:強いウマ娘が勝つ』

『でもホシノウィルムならもしかしたらって思っちゃうわ』

『さぁレース開始』

『頼むサンサンフラワー、意地を見せてくれ……!』

 

 

「せーのっ」

「「「スタート!」」」

 

 

 

「あっ」

 

 

 

『あ』

『あっ』

『えっ』

『出遅れ……』

『ウィルムが出遅れ!? あのスタートの鬼が!?』

『ホシノウィルム、史上初の大幅な出遅れじゃん』

『追込より後ろにいるの絶望感やば』

『こーれ終わりです』

『【集中力】持ってて出遅れってどんな低確率よ』

『これは順当に無理』

『ホシノウィルムがオープン戦負けるってマジ?』

『嘘だよな、龍……?』

『あぁ……』

『無敗伝説、破れる』

『これがif世界ホシノウィルムちゃんですか』

『ホシノウィルム8着という言葉の違和感』

『レースに絶対はない(至言)』

『自分を引いて以来良いとこなしでしたね……』

 

 

 

「よーし、7バ身差で1着! さっすがカイチョー!」

「こっちは3バ身差。いやぁ良かった良かった、無事に突破できたぁ」

「…………」

「ウィル、どうしたの? なんか静かな……あっ」

「ウィルム負けたの!? あのステータスで!? ホシノウィルムで!?」

「…………」

「まっまぁ、そういう時もあるよね! むしろウィルは現実で勝ってるんだから大丈夫だよ、これあくまでゲームだしさ? ね?」

 

 

 

『容赦のない死体蹴りがウィルムを襲う』

『やめて差し上げろ』

『流石に芝』

『「ホシノウィルムで!?」から伝わって来る信頼感』

『ライバルだけど相手の実力に絶対の信頼あるの好き』

『これまで多弁だった分沈黙が痛い』

『ネイチャ、慰めモード入ってるじゃん』

『慰めは時に、傷口を抉る』

『公式配信でこれは撮れ高ヤバい』

『あのガチャの爆死、やらせとかじゃなかったんやなって』

 

 

 

 * * *

 

 

 

「……それでは、テイオーがG2まで、ネイチャがG3まで勝ち……私はオープンで敗北ということで、育成は終了です」

「わ、わぁ~……」

「もー、いつまで落ち込んでるのさ、ウィルム。元気出しなって」

「だって……まさか私が、オープンで負けるなんて……」

 

 

 

『テンションエグいくらい下がってて芝』

『あの多弁だったホシノウィルムはどこへ』

『この静かな感じ、一周回ってよく知る龍が帰って来た感ある』

『テイオー、1年目にG1ホープフルまで出たのすごかったな。3着まで上がったし』

『2年目以降があったら普通に三冠取れそうな勢いだったんだけどな。今回は先行プレイなのが惜しい』

『サンサンフラワーの頑張りが見れたから満足だわ』

『G2でクビ差の2着、これは名脇役』

『サンサンフラワー推しだわ』

『ホシノウィルムはなぁ……』

『多分この世界に、ホシノウィルムの名前を憶えてるファンは何十人くらいしかいなんだろうな……』

 

 

 

「……よし、気分を切り替えて、対決です!

 3人のウマ娘とモブ6人の9人立てでレースをしていきますよ!」

「い、いえーい!」

「頑張れカイチョー!」

 

 

 

『あ、吹っ切れた』

『まぁ本番はここからだし』

『サンサンフラワー強くなったな。星258まで上がったし』

『ホシノウィルム、スカウト以降星30くらいしか上がってなくて芝』

『これウィルム、また出遅れしたら普通に負けるのでは?』

 

 

 

「さて……ええと、ルーム作成。2人共、入室よろしくお願いします」

「はーい! えっと、ウィルムのユーザーIDはっと……」

「言っちゃ駄目だからね、テイオー」

「もぉ、わかってるよー」

 

 

 

『ナイスネーチャン』

『もはやカーチャン』

『ネイチャの包容力よ』

『星の世代のスーパークリーク』

 

 

 

「……さて、3人とも入室完了。

 条件は、ホープフルステークスと同じで行きますね。

 さぁまず1つ目の勝負、1番人気は……はい、テイオーです。当然の結末」

 

 

 

『知ってた』

『まぁ、そうなるな』

『妥当』

『テイオーがプリプロ出演か。どうなるんだろう』

『挿入歌でcvテイオーの「Make debut!」欲しい』

『テイオーそっくりさんマネいいな』

 

 

 

「でも実際のレースはどうになるかわかりませんよ。

 1番人気で8着になったホシノウィルムがいるんですから、テイオーだって負けてもおかしくありません。

 さあ、レース開始です!」

 

 

 

『酷い自虐で笑ってしまう』

『まぁでもルドルフが勝つな』

『ここで全部ひっくり返せホシノウィルム』

『サンサンフラワーしか勝たん』

『2番人気サンサンフラワー、私の最推しのウマ娘です』

 

 

「行け私、逃げて差すんです! あなたはホシノウィルムでしょう!」

「サンサンフラワー、良い位置だよ! 大丈夫、絶対行ける!」

「む、カイチョー進路がちょっと厳しい……でもカイチョーだから勝ーつ!!」

 

 

 

『あなたホシノウィルムでしょう!(本人)』

『残念ですがこのゲーム、逃げ差しは実装されてません』

『スズカに続いてウィルムも来たんだし、次回作あたり逃げ差し実装されそう』

『サンサンフラワー、レース勘すごいな。4連続で先行好位置じゃん』

『ルドルフ囲まれた! あるかこれ!?』

 

 

 

「さぁ終盤、頑張れわた……」

「あ、ウィル……」

「ウィル、忘れたの? カイチョーは【威圧感】持ってるんだよ~?」

 

 

 

『垂れた』

『ホシノウィルム、ホシノウィルムならず』

『スタミナ足りないか。大逃げだからなぁ』

『蛇は本物の龍にはなれず……』

 

 

 

「くっ、こうなったらサンサンフラワー行ってください! この調子に乗りまくったテイオーを勝たせるのは悔しいです!」

「行け、サンサンフラワー!」

「ふっふっふ……カイチョーを無礼(なめ)るなよ」

 

 

 

『あっ』

『ルドルフ抜けた』

『速すぎ!』

『末 脚 A』

『これは永遠の皇帝』

『唯一無二の無敗の三冠ウマ娘は格が違った』

『うーん、これは絶対のあるウマ娘』

『サンサンフラワー……!』

『サンサンフラワーは頑張ったよ』

 

 

 

「ゴールイン! 1着は……シンボリルドルフ!

 サンサンフラワーは3着、……うぅ、ホシノウィルムは6着。

 本日の勝者は、トウカイテイオー!!」

「くぅぅっ、サンサンフラワー……!

 悔しいけど、でもおめでとう、テイオー!」

「いえーい、皆も応援ありがと~!」

 

 

 

『8888888』

『最初から最後まで強すぎた』

『テイオー勝負服か。おめでとう!』

『前の勝負服も好きだったけど新しいのも楽しみ』

『これが公式配信ってのがめっちゃおもろい』

『今後ホシノウィルムが無敗のままだったら、公式でホシノウィルムがレースに敗北する瞬間ってこの配信だけになるのかな』

『皇帝vs龍といい、灰の龍の大敗といい、ある意味すごい記録を残してしまったな……』

 

 

 

 * * *

 

 

 

「というわけで、今日は『実況プリティープロレース』の最新版を先行プレイさせていただきました。

 2人とも、どうだった?」

「アタシはゲームをやる時はスマホが多いんだけど、こうして腰を落ち着けてゲームをするってのもいいもんだね。今日はすごい楽しかったわ」

「ぷっ! ネイチャ、台本まんまじゃん!」

「あっちょっ! 普通そういうこと言う!?

 いや、嘘じゃないからね! 2人と遊ぶのは楽しかったし、何よりサンサンフラワーが頑張る姿には不覚にも感情移入しちゃった。視聴者の皆も楽しんでくれたみたいで良かったよ」

 

 

 

『芝』

『芝』

『台本で芝』

『普通に感想言えるじゃん』

『サンサンフラワーファンになったわ。現実でのデビューいつ?』

『サンサンフラワーの成り上がり物語待ってます』

『主人公だったな、サンサンフラワー』

 

 

 

「テイオーはどうだった?」

「いやー、やっぱりカイチョーは強いね! これも、しっかりカイチョーの強さを引き出した良いゲームだったよ!

 それはさておき、2年目以降はチームとして2人以上のウマ娘を担当しながら進められるらしいし、是非ともボクたちのいる新たな栄冠スリーを体験してみてね!」

 

 

 

『本日の勝者』

『ルドルフ好きすぎで芝』

『でも本当に、これこそルドルフという感じではあった』

『何気に宣伝も上手にこなしていく』

『相変わらずテイオーは何でも器用にこなすね』

 

 

 

「テイオーに話題を攫われてしまいましたが、やはり私としても、ゲームに自分が登場するというのは非常に嬉しかったですね。負けたのはとても悔しいですが。

 それにランダム性の強いゲームは、苦手ですが好きなので、すごく楽しかったです。

 是非皆さんも私たちを育てて、現実の記録越えを目指してみてくださいね」

 

 

 

『苦手すぎるだろ』

『楽しむのが難しいレベルの苦手さ』

『君の記録越えるのは無理じゃない?』

『無理です』

『このゲーム、クラシック級では宝塚挑めないんだよなぁ』

『次回作ではクラシック宝塚挑めるようになってそう』

 

 

 

「さて、では次に連絡、というか宣伝ですね。

 ネイチャ、テイオーの順で、何かあればコメントをお願いします」

「ん、まずアタシか。8月16日、G3レースの小倉記念に出走予定です。応援よろしくね」

「ボクはまだハッキリ言えないけど、予定としては有記念には出走予定。リハビリ頑張るからね!」

 

 

 

『初の重賞レースか』

『むしろここまで重賞に出なかったのが不思議なくらいの戦績だしね。頑張れ』

『サンサンフラワーの分まで背負って勝ってくれ!』

『テイオー、無事に戻って来てね』

『またあの走りが見たい』

『今年の有記念、あの噂もあるし荒れそうだな』

 

 

 

「最後に私ですが、これについては後日公式発表があるので、是非そちらで。

 1つだけ言っておくと……ファンの皆さんの期待は裏切りませんよ」

 

 

 

『え?』

『期待ってどれ? 無敗?』

『ジャパンカップと有記念は期待してるけど』

『とにかく無事に戻って来てくれれば嬉しい』

『まさか……』

 

 

 

「ふふ……はい、それでは今回の配信はここまで。

 皆さん、ご視聴ありがとうございました。

 それじゃ、せーの……」

 

「「「ばいばーい!」」」

 

 

 







 慣れない執筆形式は難しい……!
 こういう回が需要あるのかはわかりませんが、こんな仕事を請け負う事もありそうだと思ったので書いてみました。
 


 次回は3、4日後。トレーナー視点で、ブルボンのメイクデビュー前編。



(追記)
 誤字報告を頂き、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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過労キチィこんにちは

 出来立ての追加請求書と伝票と確認書類とアポイントメントと業務メールと報告書はいかが?





 

 

 

 8月も下旬、季節は夏の終わりに近付いてきた。

 気温の上昇は落ち着きを見せ、いよいよ秋の気配が迫っている。

 

 ウマ娘にとって鍛錬を積むべき季節であり、同時に健康や体重を崩しやすい魔の夏は過ぎ、10月から始まる秋のG1戦線についての話題が耳に入り始めた。

 芝の中長距離に限っても「秋華賞」「天皇賞(秋)」「菊花賞」「エリザベス女王杯」「ジャパンカップ」そして「有記念」と、格の高いG1レースが目白押しのシーズン。

 そこに備えるために、ウマ娘たちは7月頭から8月末までの2か月間、何百人という規模の大合宿を行い、ライバルとの交流と能力向上に努めるのだ。

 

 ……のだ、が。

 合宿に限って言えば、ホシノウィルムとミホノブルボンには関係のない話だ。

 何せ今年はどちらも参加しなかったからね。

 

 骨折明けで十全に走れる状態ではないホシノウィルムは、負荷の高い合宿のメニューには付いていけない。今は着実に力を取り戻すことが第一だ。

 そしてブルボンに関しては、そもそも原則的にジュニア級のウマ娘は合宿には参加しない。まだ体づくりの途中である彼女たちには、急激なものじゃない、段階的で緩やかな負荷の向上が望まれるのである。

 

 故に俺や彼女たちは、クラシック級以上のウマ娘がごっそりと減ったトレセン学園に残り、それぞれがすべきことをこなしていたのだった。

 

 

 

 まずホシノウィルムは、当然リハビリ。

 完治から1か月弱、彼女はある程度筋力を取り戻しつつある。

 彼女の従来の全速力から見れば……今は40%程だろうか?

 ウマ娘の回復力や筋肉の付き方は、人間に比べてかなり優れている。だが同時に筋力の上限値も高いので、結果としてリハビリには人間と同じくらいの時間がかかるわけだ。

 ……まぁ、あれだけ毎日苦痛を堪えて走り回れば、10月頭あたりには従来のスペックに迫る力を取り戻せるだろう。

 俺はとにかく焦燥故の怪我がないよう、徹底した体力管理を心がけるだけである。

 

 まともに脚が動かない状態のリハビリは、心身共にかなりの疲労を伴うと聞く。

 しかし彼女は今、鋼のような精神力でそれに耐え……いや、むしろ楽しそうに走っていた。

 走ることに前向きな感情を抱けるようになったのは、彼女にとっては喜ばしいことだろう。

 彼女がトレーニングやレースの中で学び、掴んできた経験。それはきっと、彼女の人生に幸福をもたらしてくれるはずだ。

 ……その分、頻繁に「撫でてください」と頭を擦り付けて来るようになったのは、それだけ彼女が弱っていると見るべきか、甘えん坊な素が出て来たと見るべきか。

 

 とにかく、ホシノウィルムに関する経過は順調、いや、順調を超えて快調に進んでいると言っていい。

 このまま事故もなく進めば、彼女の望む菊花賞出走も、十分叶うはずだ。

 

 

 

 一方、ミホノブルボンに関して。

 こちらもこちらで、順調と言っていいと思う。

 

 彼女の走りにあった僅かなフォームのブレ、不安定感、ぎこちなさ。

 それらをカメラに収めて記録し、後々修正箇所と方法を伝えれば、彼女はスポンジのように吸収……とまではいかないものの、比較的スムーズにそれを修正した。

 

 ……やはり、ミホノブルボンには才能がある。

 ホシノウィルムのそれに近い、けれど少しばかり方向性の違う才能が。

 

 ホシノウィルムのそれは、極めて良い要領による思考的能率の良さ。

 彼女は、世間一般的に言うところの「天才」のイメージが近い。

 コンディションにもある通り抜群の切れ者で、教えたことを一瞬で自分の力にし、途轍もないスピードで成長していく。

 ……その上、身体面まで天才的だから手に負えないんだが。まさしく天が二物を与えたウマ娘だ。

 

 一方ミホノブルボンのそれは、かけられた負荷に対して素直に成長する、身体的な成長限界の緩さ。

 謂わば成長するという側面での「フィジカルギフテッド」だ。

 普通のウマ娘にとって、成長は急な階段のようなものだ。階段を踏みしめて登り成長できることもあれば、なかなか脚が上がらずに成長が滞ることもある。

 しかしミホノブルボンにとっては、成長は坂道だ。その体はかけられた負荷に応じて、シームレスに成長していく。

 平たく言えば、鍛えれば鍛えるだけ素直に強くなるんだ。そりゃあ強いわ。

 

 故にこそ、体に染み付いてしまった悪い癖を抜くのも苦にしなかったのだろう。

 本来は何度も意識して動き、以前の癖を封殺して、長期間継続的に繰り返すことで体に染み込ませ直すところを、彼女は1週間程で綺麗に修正してしまった。

 

 ホシノウィルムが思考の天才ならば、彼女は体の天才だ。

 しかもそのどちらも、クラシックレースを荒らし回ることができる程の稀代の逸材。

 

 まったく、俺が縁を持つのは天才的なウマ娘ばかりだな。

 ……少しばかり、嫉妬しそうになるよ。

 

 

 

 最後に、俺に関して。

 ……正直、ここ3週間はかなりのハードワークだった。

 ブルボンとのコミュニケーションを取って信頼関係を築きながら、ホシノウィルムとブルボンのスケジューリングを済ませ、ブルボンの契約周りの確認や処理を済ませて、菊花賞とブルボンのメイクデビューに関しての下調べもしなければならなかったからね。

 

 当然と言うべきか、めちゃくちゃ忙しかった。最初の1週間なんか、多分睡眠時間が合計で6時間くらいしか取れなかったくらいだ。

 流石に体を誤魔化すのに限界を感じ、仕方なくホシノウィルムやブルボンのトレーニング中にも書類仕事を片付けるようにして、ようやく1日2時間程度の睡眠時間を確保できるようになった。

 

 とはいえ、これはあくまで契約初期特有の忙しさ。

 一時期は手に負えないかと思って本気で焦ったけど、まだまだ効率化できるところはあるし、もう少し慣れれば業務的には手に負える範疇になるはず。

 

 ……まぁ、ここからまた、少しばかり忙しくなるんだけども。

 

 

 

 さて……そうして俺たちがそれぞれ頑張っている内、ついにその時は訪れた。

 

 時は8月下旬。

 クラシック級ウマ娘たちが、段々と合宿から帰り着き、トレセンに活気が戻りつつある今。

 

 ミホノブルボンのメイクデビューが、始まる。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 中山レース場、出走ウマ娘控室にて。

 俺はホシノウィルムと共に、ミホノブルボンと向き合っていた。

 

「調子はどうだ、ミホノブルボン」

「状態良好。平常時以上のパフォーマンスをお約束します」

 

 ブルボンは胸に手を当てて答える。

 うん、彼女の言う通り、調子は好調だ。

 残念ながら絶好調までは持っていけなかったが、時間がなかった以上そこはもう仕方がない。

 

 

 

 

 今日彼女が走るのは、メイクデビュー。

 競走ウマ娘が乗り越えるべき、最初の障害だ。

 

 本格化を迎えた後、ある程度走れるようになるジュニア級6月以降、ウマ娘はまずこのレースへ出走することになる。

 彼女たちがトゥインクルシリーズのレースに出走するためには、まずはこのメイクデビューか、そこに負けた際に出走することになる未勝利戦で1勝を飾らなければならない。

 

 ここは競走、勝負の世界だ。

 非常に残酷な話だが、未勝利戦に勝つことができず、トゥインクルシリーズに参加すらできないウマ娘も数多くいる。

 そういったウマ娘は、競走ウマ娘を引退するか、地方トレセンへ転校してそちらのレース群に参加することを強いられる。

 ……そうなれば、もう二度と、この中央には戻っては来れない。

 

 更に言えば、その勝利が遅れると、ジュニア級年末のホープフルステークスやクラシック級4月の皐月賞など、比較的早めに行われるレースへの参加は難しくなる。

 何せG1は格式が高く、強くて人気のあるウマ娘が出走登録してくるんだ。

 出走のためには、それらを押しのけるだけの強さを事前のレースで示し、潜在的な人気を獲得する必要がある。

 デビューをこなすのが早ければ早い程、人気を得るためにプレオープンやオープン、他の重賞を走るゆとりを持てるわけだ。

 

 そういった意味で、トゥインクルシリーズに参加する競走ウマ娘にとって、メイクデビューは非常に大きな意味を持つ。

 彼女たちの人生の岐路の1つ。大事な大事な瞬間なのである。

 

 ……けれど、今の俺に気負いはない。

 

 何故なら、今のミホノブルボンが敗北する可能性は、絶無と言っていい程に低いのだから。

 

 

 

 

「ブルボンちゃん、トレーナーの作戦を忘れないようにね。後はあなたらしく走れば、大丈夫」

「ありがとうございます、ホシノウィルム先輩。必ず勝利を刻みます」

 

 ホシノウィルムはいつもの無表情で、安心させるように言っているが……。

 よく見れば彼女自身、少しだけ不安そうに眉を寄せている。

 

 ホシノウィルムはどうやら、ブルボンのメイクデビューを心配してるらしい。

 先程から平時の彼女に比べて少しだけ口数が多く、定期的にブルボンに話しかけたり、そわそわと目線を動かしている。

 まぁ時期が時期だ、不安になる気持ちはわからなくもないが……。

 

 その様子は、悪いとは思うけど、少し可笑しく見えた。

 どんなレースを前にしても緊張なんてしなかった彼女が、後輩のメイクデビューを前にして取り乱している光景は、どこか微笑ましいものがある。

 

 正直少し心配してたんだけど、なんだかんだ、ホシノウィルムは良い先輩をしていると思う。

 いつもはブルボンに走り方とかコーナリングを教えたりしてるし、今も後輩の心配を和らげようと話しかけたり、何度も「大丈夫」と繰り返したり。

 ……まぁ、彼女の走り方は感覚的なものが大きいから身になってるかは微妙だし、今も落ち着くべきはホシノウィルムな気がしなくもないが。

 

 一方で俺は、既にブルボンに伝えるべきことは全て伝えている。

 だから……言うべきは、勝つ負けるではなく。

 

「無事に戻って来い、ミホノブルボン」

「ミッション了解。身の安全の優先度を最大にし、完走を最優先とします」

 

 その言葉を交わしてすぐ、URAの職員がブルボンを呼びに来た。

 ……さて、俺とホシノウィルムは、スタンドから観戦だな。

 

 

 

 * * *

 

 

 

『中山レース場に新進気鋭のウマ娘たちが集いますメイクデビュー、綺麗な晴れ模様の広がる中、輝く舞台へと足を踏み入れるのは誰だ。

 中山外・右回り、芝1600メートル。バ場状態は良バ場の発表です』

『やはり注目は、そのハードなトレーニングを見込まれ1番人気と目されたミホノブルボンでしょう。

 クラシックレースへの参戦を望み、シンボリルドルフ以来の無敗二冠ウマ娘を生み出した堀野歩トレーナーと契約した彼女は、不可能を破るための最初の一手を打つことができるか』

 

 

 

 遠くから響いて来た実況解説の声を聞いて、ホシノウィルムは僅かに口角を吊り上げて笑った。

 

「言われてますよ、トレーナー」

「やめてくれ。顔から火が出る」 

 

 不釣り合いな評判だってことは、誰よりわかっている。

 確かに、俺が担当したホシノウィルムは無敗二冠と宝塚記念を取った。

 そしてそこに、俺のトレーナーとしての技量が関与していない、とは言い切れない。

 

 だが、それを成し遂げた要因の内多くの割合を占めるのは、あくまでホシノウィルムの素質と実力。

 トゥインクルシリーズ、特にクラシックレースは天才と天才のぶつかり合い。

 トレーナーが彼女たちを万全に補佐することは前提として、彼女たちの才能と努力がどこまで極まるかの戦いなのだ。

 

 ……そう、トレーナーが万全なサポートをすることなんて、大前提だ。やって当然の職務に過ぎない。

 それを褒めるのは、謂わば生きてて偉いだとか、息をして偉いだとか、そういうレベルの話。

 やって当然、できて当然。生きて、息をして、その上で何を為せるかが俺たちの価値なんだと思う。

 故に……ホシノウィルムをサポートしたことを、俺個人の評価へと加えるべきではないんだ。

 

 俺たちトレーナーが評価されるべきは、ウマ娘たちの引退後。

 全てを終えた彼女たちが、「何の後悔もない良い競走人生だった」と笑えるなら、それこそが何よりの誉れなのだ。

 

 ……ああいや待て、これは堀野家の考え方、か。

 俺としては決して間違った考え方じゃないと思うんだが……あるいはこれも歪なんだろうか?

 

 まぁいい、取り敢えずこれについて考えるのは後回しにしよう。

 確かなのは、俺は未だ、彼女を支えたことを誇る気にはなれないってことだ。

 

 

 

 ……ま、社会的にそういったわかりやすい基準が必要なのはわかるけどね。

 故にこうして変に持ち上げられたり、それを理由にして勤務態度の査定を付けられるのは、ある種仕方のないことだと思う。

 

 ……思う、けど。

 それはそれとして、身に余る評価を大々的に叫ばれると、そりゃあ顔をしかめたくなるってもので。

 

「俺を評価するくらいなら、『前年無敗二冠ウマ娘、ホシノウィルムを継ぐ逃げを見せられるか』とか、そういった評にして欲しかったんだがな」

「駄目ですよ。ブルボンちゃんの走りは私とは違う、むしろ全く逆と言ってもいいものです。

 それはトレーナーもわかってる……というか、トレーナーこそわかってるでしょう?」

「……正論は苦手だな。何も言い返せないから」

「あら、どの口が言うんですか?」

 

 ホシノウィルムはそう言ってクスクスと笑った。

 

 思えば彼女とも、だいぶ気安い関係になったものだと思う。

 最初は互いへの過干渉を避けるような空気があったのに……今ではこうして、冗談を言い合うような仲にまでなった。

 

 俺から彼女への意識はともかく、彼女から俺への意識が変わったのは……多分、あの時か。

 俺が委任計画を立てたことを叱られて以来、彼女は俺に遠慮しなくなった。

 「これを言ったら傷つくかな」みたいな配慮がなくなって、自分の伝えたいことをストレートに伝えてくれるようになったと思う。

 それは、不器用で人の心を推し測るのが苦手な俺からすれば、非常にありがたくて……同時に、嬉しいことだった。

 

 勿論、全てを詳らかにしてくれているわけではないだろう。

 俺だって、自分の全てを明かしているかと言われると、そんなことはない。

 人にもウマ娘にも、相手や自分との関係を想えばこそ、話せなくなることはあるんだ。

 

 ……けれど、それでも、1つ確かなこととして。

 彼女は以前よりもずっと、朗らかに笑ってくれるようになった。

 

 俺はそれを嬉しく思っている。彼女と仲を深められることを。

 評価され、信頼され、親愛を抱かれることを……堀野歩は喜んでいる。

 

 ただ、それがトレーナーとして、正しいことなのか……。

 俺にはまだ、わからなかったけれど。

 

 

 

 ふと、レース場に目をやった。

 ちょうどブルボンがターフへ入場してきたところだったようだ。

 ホシノウィルムも口元から笑みを消し、ブルボンの方を観察している。

 

「トレーナー、今回のレース、どうなると思いますか」

「ブルボンが勝つ」

「……だ、断言するんですね」

「ああ。無理に信じるまでもなく、彼女が勝つだろう」

 

 そういえば、ホシノウィルムには今回のレースの展望を話してなかったかもしれない。

 いや、話したか? ブルボンのデビューの日程とその相手が決まった頃に話したような気もする。

 いやでも、彼女が知らないってことは話してないんだろうな。

 ここ1、2週間くらいの記憶、ちょっと朧気っていうか、纏まってなくて思い出し辛いんだよなぁ。睡眠不足とかで記憶が体系化できてないっぽい。

 

 話さなきゃいけないことはメモに残してるはず、と思って胸元から手帳を取り出すと……。

 はは、筆跡がぐちゃぐちゃに震えてて読めねぇわ。俺のバ鹿。

 後で解読して清書しないと。わぁい、タスクが増えた。

 過去の自分に期待するのは諦めて、手帳をしまって口を開く。

 

「今日のレースだが、基本的にどんな展開になってもブルボンが勝つ。

 理由は簡単で、今回の参加者の中ではブルボンが圧倒的に強いからだ」

「……私の時よりも圧倒的ですか」

「それは比較対象が悪いわ。君に勝てるウマ娘などいるものか」

「うぇへへ」

 

 ホシノウィルムはあんまり人には見せられない笑顔を浮かべているが、それは本当に欠片の間違いもなく事実だ。

 ホシノウィルム程にステータス、適性の両面がズバ抜けていたウマ娘は他にいない。

 殊にメイクデビューの瞬間で見れば、まず間違いなく彼女は「歴代最強」だったはずだ。

 名バと言われているサイレンススズカやスペシャルウィーク、あの無敗三冠を取ったシンボリルドルフでさえ、一番最初の瞬間だけで見ればまず勝てない。

 それだけ、ホシノウィルムというウマ娘は常識外れの桁外れだったんだ。

 

 

 

 そして今のミホノブルボンも、あくまで常識の範疇の中ではあるが、桁外れと言っていい。

 ……というか、今回に関しては、他のウマ娘の才能がそうでもないと言うべきか。

 

 まずその適性がかなり致命的で、芝DだったりマイルCだったり、脚質と適性が一致してなかったりする。

 一方ブルボンは、芝AマイルB逃げAだ。これは大きな大きなアドバンテージとなるだろう。

 

 次に、ステータスにも大きな差がある。

 他のウマ娘は60から90台でステータスが纏まっているのに対して、ミホノブルボンはスピード、パワー、そして根性が200を超えている。その分スタミナや賢さは控えめだが、それでもどちらも100をオーバーしているんだ。

 

 適性、ステータスの面でスペックに格差がある。

 この状況から負けるのは、何らかの事故があるか、あるいは走行妨害で降着処分でもされない限りあり得ないだろう。

 

 勿論、数字が絶対だとは言えない。何が起こるかわからないのがウマ娘のレースだ。

 ……が、それを確実に近づけるのがトレーナーの仕事であるわけで。

 何が起きても対応できるように、ミホノブルボンには10を超える作戦を伝えてある。

 

 本番で起こる確率が5%を下回るようなハプニングが発生し、その上で彼女の頭の中から対策がすっぽ抜け、更に彼女が本気を出して走れない、なんてことが起こらない限り敗北はない。

 

 

 

 ……ということを、かいつまんでホシノウィルムに伝えた。

 

「なるほど、やはりブルボンちゃんは強いのですね。少し安心しました」

「強いって……君はあの子のことを何だと思っているんだ」

「何、と言われると……私より弱いウマ娘、でしょうか」

 

 そりゃあ君が基準なら、そういう雑な判断にもなるだろうけども。

 

「彼女は天才だよ。それも『何十年に一度の』という枕詞が付く天才。

 『適性は努力で超えられる』……この言葉に嘘はない。だがそこには、前提として高い才能と膨大な努力、そして間違いのない指針が必要になる。

 ミホノブルボンはその内2点において、最高の素質を持っている逸材だ。

 膨大な努力を可能とする頑丈さ、それを身にする才能と、努力を惜しまぬ精神性。その全てを持ち、そしてそれを活かせる環境にあるウマ娘なんて、世界中を見てもそうはいない」

「へぇ……そうなんですね。

 ちなみに、私はなんて枕詞の天才なんですか?」

「君は……『唯一無二の』天才かな」

「唯一無二……へへ」

 

 ……最近のホシノウィルムは、よくミホノブルボンと張り合っている気がする。

 恐らく、これまでにないくらい身近に他のウマ娘の存在を感じ、無意識に敵対心というか、負けず嫌いな彼女の本能が出ちゃってるんだろうな。

 

 とはいえ、それは悪いことではない。

 自分を他と比べて負けたくないと思うのは、ウマ娘の根本的な闘争本能。

 むしろそうして張り合い、相手を意識することで、互いに高め合うこともできるだろう。

 

 問題があるとすれば、彼女たちの関係性が悪化してしまう可能性だが……。

 そこに関しては、ホシノウィルムもミホノブルボンも、年頃の少女とは思えない程理性的だ。

 ホシノウィルムはブルボンを後輩として可愛がっているようだし、ブルボンもホシノウィルムに淡い尊敬と信頼を持っているように見えた。

 故に、今のところ俺たち3人の関係が親しくなることはあれど、瓦解する兆しは見えていない。

 担当を増やした直後とは思えない、驚く程平和な関係性に落ち着いている。

 

 正直言うと、彼女たちの仲が良いのはすごく助かる。

 一緒にトレーニングもできるし、2人きりにしても問題ない。そして何より、その関係の修復に労力を割かずに済む。

 もしも関係が悪化していたら、多分デスクワークに関してはたづなさんのお世話になっていただろう。これ以上疲労を溜めたら、冗談抜きで倒れかねないからね。

 

「ブルボンちゃん、勝ってほしいですね」

「ああ。こんなところで止まるべきウマ娘ではない」

「トレーナーの不敗記録に傷を付けてほしくもないですし」

「いやそこはどうでもいいんだが」

「堀野歩トレーナーの担当ウマ娘たるもの、メイクデビューで躓いているようじゃ失格ですし」

「いや俺は別に気にしないが」

「トレーナーはもっと評価されるべきなんです。こんなところで評判を落とすようじゃダメですよ」

 

 ふんす、と鼻息を荒らげるホシノウィルム。

 ……後輩として可愛がってるんだよね?

 これはアレだよね、ちょっとツンデレチックな激励だよね?

 

 どうしよう、彼女たちの関係が心配になってきた。

 ホシノウィルム基準で言うと、普段はかなり親しくしてるはずなんだけどなぁ……。

 

 

 

 どうしたものかと頬を掻いている、と。

 

「……それと、トレーナー」

「ん?」

「このレースが終わったら、ちゃんと休んでね」

 

 ……バレバレか。

 気恥ずかしさに、思わず口端が上がる。

 

 本当に聡くて、そして優しい女の子だ。

 俺の状態を悟りながらも、ここまで思うようにやらせてくれたこと。

 そして今、どうしようもなく逃げられない状況で、敬語も使わずに言ってきたこと。

 その全てに、彼女の気遣いを感じる。

 

「ありがとう。今日の諸々が終わったら、一度長い睡眠を取るよ」

「ん」

 

 本当は私を頼ってほしいけど、と。

 彼女は小声で呟いた。

 呟くだけにしてくれた。

 

 ……俺は、彼女を頼りたくない。トレーナーとして、必要以上の迷惑をかけたくないと思っている。

 そしてそれを、彼女は知っている。

 だから無理には求めないんだ。

 

 俺が進退窮まって、自分から「助けてほしい」と言い出すまで、彼女は待ってくれている。

 

 本当、知られるっていうのは恐ろしくて、同時に……うん、心地良いものだな。

 

「気遣いありがとう、ホシノウィルム」

「いえ。私、あなたのウマ娘ですから。

 ……さぁ、今はブルボンちゃんの勝利を見守りましょうか」

 

 

 

 話している内、レースの時間が迫って来ていた。

 実況の声が中山レース場に反響する。

 

 

 

『さぁ1番人気を紹介します、3枠3番ミホノブルボン!

 努力は血を超えられるのか、彼女の挑戦が今、始まろうとしています』

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、あっという間にウマ娘たちのゲートインが完了し、ミホノブルボンのメイクデビューが始まる。

 

 ……と、言いたいところだが。

 どうやら今日は、そうもいかないようだ。

 

「ゲートイン、遅れてますね」

「ああ。仕方ない、ここに関しては気性だからな」

 

 何人かのウマ娘たちがゲート入りを拒んでいる。

 いや、拒んでいるというか……足が動かないのか。

 

 ウマ娘は人間に比べて、パーソナルスペースが広い。端的に言えば、閉所が苦手な傾向にあるらしい。

 故に狭い場所に入ると、気性が荒い子はイラつき、逆に大人しすぎる子は怯えてしまう。 

 勿論その度合いには個人差があり、そうでもない子はほとんど何も感じないらしいが……。

 特に酷い一部のウマ娘は、ゲートに入ろうとしても拒絶反応が出て、ゲートインが進まないことがある。確かセイウンスカイもそういうタイプだったはずだ。

 他にも、本番を前に緊張して動かなくなるとか、他のウマ娘の威圧感にあてられて動けなくなるとか、そういった理由もあるんだが、それはともかく。

 

 特に、出走ウマ娘がまだ公式のレースを体験していないメイクデビューでは、そこそこの頻度でゲートインが遅れる。

 今回はその典型例で、何人かのウマ娘が初めてのレースに緊張したのか、なかなかゲートに入れないようだった。

 

 一方でブルボンはいつも通りの無表情、感情の読めない機械的な動きで、既に淡々とゲートインを済ませていた。

 

 ……そして、その後ずっと、ゲートの中でスタートの瞬間を待っている。

 

「大丈夫でしょうか、ブルボンちゃん」

「さて。……そういえば、君はゲートの中、どうなんだ」

「そうですね……恐らく私は、ウマ娘の中では比較的平気な方だと思います。

 ですがそれでも、ここまで待たされると……少し集中力を削がれるかもしれません」

 

 そう、そこが問題だ。

 

 ゲートの中で待つと、ウマ娘は苛立ち怯え、集中を欠く。

 で、スタートの瞬間に集中力がなくなると、出遅れてしまう可能性が高まるわけだ。

 それに対策するための、スキル『集中力』。

 故に俺は去年、ホシノウィルムに真っ先にそれを教え込んだわけだ。

 

 けれど残念ながら、ミホノブルボンには、スキルを習得させる暇がなかった。

 それでも、ホシノウィルムのように気性が穏やかであれば、大きな問題はないはずだったが……。

 

 結果として。

 

 

 

『さぁ今最後のウマ娘がゲートに入りました。

 お待たせしました、6レースメイクデビューです。

 ……スタートしました!』

 

 

 

「っ!」

「…………」

 

 ミホノブルボンは、出遅れた。

 

 

 







 本当は1話で終わらせようと思ってたんですが、文字数が膨らんだので前後編になります。
 レース書こうとすると毎回こう。

 あと史実のブルボンファンの皆さまのために言っておきますと、ブルボンのメイクデビューの距離はミスじゃなくて仕様です。
 ブルボンの短距離適性はCなので、堀野君はマイルを選びました。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、ブルボンのメイクデビュー後編。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざと出ない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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ウィルムはトレーニングへ行った

 不穏なタイトルですが、命に関わるような不穏なことはないです。
 ちょっと暗い展開はあるけど。





 

 

 

 私の後輩、ミホノブルボンちゃんが迎えた初めての公式レース、メイクデビュー。

 そこで、彼女は……。

 

 

 

『……スタートしました!

 ややバラけたスタートになりました今レース、1番人気ミホノブルボンは出遅れか』

 

 

 

「っ!」

 

 ブルボンちゃんは、出遅れた。

 

 私はよく知ってる。

 逃げウマ娘にとって、出遅れは致命的なミスなんだって。

 だから思わず、声を出しかけてしまったんだ。

 

 

 

 土台、出遅れっていうものは、全てのウマ娘にとって致命打になり得る。

 

 例えば、1秒出遅れたとしよう。

 勿論、1秒なんて出遅れは本当の本当に大きすぎるミスなんだけど、ここでは大きく見て1秒ね。

 ウマ娘が最高速で1秒間走れば、おおよそ15から20メートル程度の距離が開く。

 これを着差で表現すると、おおよそ6から8バ身差。

 本来5バ身差で圧勝できるはずのレースも、1秒出遅れすれば負けてしまう。

 それくらい、出遅れは圧倒的なディスアドバンテージなんだ。レースを走る前に敗北が確定してしまうそれは、競走ウマ娘にとっては最も恐るべき可能性だろう。

 

 その上、逃げウマ娘にとっては、更にマズいことになる。

 

 根本的に、この世界において逃げはメジャーな脚質ではないっぽい。

 前半でスタミナを消耗しすぎれば、脳に酸素が回らず、残ったスタミナのやりくりや冷静な対処ができなくなる。

 故にレースは前半で抑えて、後半から飛ばす。

 序盤のリードではなく、終盤の最高速で戦う。

 それがこの世界の共通認識だ。

 ……まぁ、スズカさんや私の台頭で、多少は意識改善も発生するかもしれないけども。

 

 そんな共通認識のある中敢えて逃げで走るって子は、バ群の中で走ることや、終盤の競り合いに精神的に向かないウマ娘であることが多い。

 周りに他のウマ娘がいると緊張するとか焦るとか、あるいは後半にスタミナを残しすぎると掛かってしまうとか、逆に足を余らせる癖があるとか、そういうの。

 逆に言えば、周りに誰もいなければ快速で飛ばせるとも言える。こういうのはあくまで得手不得手の問題だから、短所も時には長所になったりするんだ。

 

 でも、仮にそんな子が出遅れて、バ群の中に沈むとどうなるか?

 答えは1つ。

 ……真っ当には走れない。

 

 故に、逃げウマ娘にとって出遅れは致命的になり得る。

 リレーでバトンを落とすようなもの、と言えばわかりやすいかな。

 

 

 

 ……トレーナー曰く、ブルボンちゃんの脚質適性は逃げ特化。先行も不可能じゃないけど、やらせるつもりはないって。

 

 そんな彼女が出遅れすれば、どうなるか……。

 

「トレーナー」

「心配するな、ホシノウィルム」

 

 思わず声をかけた私の横で、しかしトレーナーは何ら動じず、レースを眺めていた。

 表情からは僅かな疲労の色が透けて見えたけど……それでも、その目は確かに正気を保ってる。

 

 それを見て、少しだけ安心した。

 この展開は彼にとって、予想外だとしても、想定外ではない。

 あくまで想定し得る範囲の、対策できる範囲のものでしかないんだ。

 

「言っただろう、ミホノブルボンは勝つよ。彼女は確実にそれを為せるくらいに、強い」

「とは言っても……9人立ての中で、7番手くらいになってますけど」

「問題ない」

「その上ほぼ全員にマークされてるし、両脇も挟まれて進路がないですが」

「それでも、彼女が勝つ」

 

 強く言い切るトレーナーに、少し驚く。

 

 私のトレーナーは、心配性だ。

 確実性の低い情報に関しては断言しないし、いつだって自分のウマ娘を細やかすぎるほどに心配し、気遣っている印象がある。

 直球に言っちゃえば、彼は担当に対してかなり過保護なんだ。

 総じて、優しくて温かく、堅物なくせに柔らかい……そんな人っていうイメージだった。

 

 けれど、今のトレーナーは……。

 何というか、すごく、鋭い。

 

 思えば私は、担当のレースを観察する堀野歩トレーナーを、初めて近くで見たのかもしれない。

 いつもはターフの上からしか眺めることのできなかったその雰囲気は……まるで針のように鋭く、研ぎ澄まされていた。

 

 これまでに集積してきたものが収束し、極まったような……。

 いや、そう、これは。

 ……私たちウマ娘が公式レースに挑む時の雰囲気に、よく似ている。

 

 これが彼の、契約トレーナーとしての表情、なんだろうか。

 

 思えば、ウマ娘にとって公式レースが決戦であるように、トレーナーにとっても担当のレースは決戦なのかもしれない。

 私たちがトレーニングを積むのと同じように、トレーナーは情報とスケジュールを積み上げ、こうしてレースに臨むんだから。

 

 そして、私たちが流してきた汗と涙を自信に変えて走るように……。

 トレーナーの中にある、蓄積したデータによる高い完成度の予測と、あの子なら勝てるという信頼。

 それらが緊張や興奮、不安を駆逐して、ただただ冷静に眼前のレースを眺めさせていた。

 

「…………」

 

 思わず、見惚れてしまう。

 真摯に自分のウマ娘のトレーニングに向き合ったが故に、彼女なら負けることはありえないと……自分に自信を持つのではなく、自分の担当に絶対の信頼を置く、彼らしいその在り方。

 

 私たちを正しく導き……そして、どこまでも信じてくれる。

 それが、堀野歩さんっていう、私の自慢のトレーナーだ。

 

 ……あーもう、ただでさえ顔が良いのにそんな表情するとか、女殺しならぬ担当殺しじゃん。

 うぅ、心臓がうるさい。聞こえてないよね?

 

 私もこれまでのレースで、こうして信じてもらっていたんだろうか。

 いつだって全幅の信頼を置いてもらって、君なら勝てるって、信じてくれたんだろうか。

 もしそうだとしたら、担当ウマ娘としても、ホシノウィルムとしても、これ以上嬉しいこともない。

 あぁでも、宝塚記念で受けた、必死な声援。

 あれを味わえないとなると、少し損をしたような気持ちに……。

 

 

 

 ……あ、いや待て待て。

 今は大事な後輩のメイクデビューだ。しっかり見守ってあげないと。

 

 ちょっと色ボケてしまった思考を立て直し、改めてレースに目を向けた。

 

 

 

『ウマ娘たちが第二コーナーを回ります、出遅れたミホノブルボン、現在7番手の位置でバ群の中から展開を窺います。

 改めて現在の位置は……』

 

 

 

 ブルボンちゃんは、いつもの走り方を崩してない。

 遠すぎてはっきりとはわからないけど、動揺の気配はないように見えた。

 

 やっぱりトレーナー、ブルボンちゃんにしっかり出遅れの対処法を教えてたんだな。

 もし出遅れても勝てるように、あるいは他にどんなアクシデントがあっても勝てるように、万全の準備と策を用意してきたに違いない。

 

 ……でも、どう対処するんだろう。

 出遅れは、シンプルながら非常に大きなディスアドバンテージだ。

 それを覆すのは、簡単じゃないように思えるけど……。

 

「ブルボンちゃんにはどんな策を伝えたんですか?

 この出遅れを取り戻すのは、彼女にとっても骨だと思うのですが」

 

 本人は認めないしあまり自覚も持ってないが、堀野歩トレーナーは本質的に策士だ。

 膨大な過去のレース、そして現在のライバルのデータを用い、レースの先読みと支配を得意とする。

 

 これまでの私のレースを見れば、一目瞭然だろう。

 私にスペックによる勝ちを繰り返させ、策など用いないイメージを付けて、中盤でのペースダウンを悟らせなかった皐月賞。

 敢えて大逃げを放棄し、バ群に蓋をしてマックイーン先輩のスタミナを使わせなかった宝塚記念。

 

 ……勿論、フィジカルで競り合ってくるテイオーや、足音を被せるなんて奇策を取るスカイ先輩のような想定外もある。

 けど、逆に言えば想定外に陥らない限り、彼の展開予測と策は必ずハマるんだ。

 

 故に今回も何らかの策を打ち、ブルボンちゃんを先頭まで導くのだ、と。

 そう思っていたんだけど……。

 

「特別な策はない」

「……え」

「俺が彼女に教えたのは、レース展開と走り方だ。今は4つ目に伝えた通りの展開で進んでいる」

「えっと……では、どうやって勝つんでしょう」

「そりゃあ、前の子を追い抜いて勝つんだろう」

 

 

 

『さぁ第3コーナー、残り900メートル。

 内を突いて走るミホノブルボン、後方6番手の位置』

『やはり序盤の出遅れが大きく響いたか、逃げウマ娘であるミホノブルボンにとっては厳しい展開ですね』

 

 

 

「追い抜いて勝つって……それはそうでしょうけど」

 

 私には1つ、苦い思い出がある。

 

 トレセン学園に来て、最初の模擬レース。

 1バ身差で負けた、現実における私の唯一の黒星である。

 

 私はそこで、合わない距離を合わない脚質で走り、めちゃくちゃにマークされた結果、半ば反則じみた進路妨害を受けたりもして、結局1バ身差で2着。

 

 ……いや、冷静に考えるととんでもないな。そりゃ負けるわって感じ。

 というか当時の私、アホすぎない?

 ただ自主トレするだけじゃなく、もうちょっと座学もした方が良かったよなぁ。ずっと勝ててたからって調子に乗ってたね、アレは。

 

 下手に失敗経験を踏まないと、「勉強なんかするより、自主トレしてた方が強い」みたいな間違った学習をしてしまいがちだ。

 そういう意味では、最初に鼻っ面を叩き折られたのは、私には良い薬だったのかもしれない。

 ……その薬の苦さに暴走して、危ういところまで行ったりもしたけど。

 まぁ結局それでトレーナーと巡り会えたんだからオールオッケー。終わり良ければ全て良しだ。

 

 さて、話を戻して。

 今のブルボンちゃんの状況は、私の最初の模擬レースに似た展開なんだよね。

 

 逃げウマ娘が前方に出ること叶わず、後方でバ群に巻き込まれて進路を塞がれる。

 すぐそこに他者がいるというわずらわしさ、好きに進路を取れない苛立ち、そして目の前にある背中に辿り着けないストレス。

 それがどれだけ苦しいものなのか、私は誰よりも知っている。

 

「……勝てますか?」

「勝てる」

「私でも、勝てなかったのに?」

 

 トレーナーも、あの時の私を見てたはずだ。

 ホシノウィルムでも、こうなれば勝てないと。

 彼は誰よりも、それを知って、覚えているはず。

 

 けれどトレーナーは、それでも揺るがない。

 

「あの時の君と今のブルボンには、2つ、決定的な違いがある」

 

 トレーナーは2本指を立てて、言った。

 

「1つはトレーナーが付き、走り方を教えているかどうか。

 ……そしてもう1つが、君と彼女の頭の違いだ」

「頭?」

 

 

 

『さぁ第4コーナー、ここから勝負が決まるぞ。

 先頭から最後方までは15バ身程度、中山の直線は短いぞ、後ろの子たちは間に合うか?』

 

 

 

「君は、いや、ホシノウィルムは賢い。外部から入力された情報を咀嚼し、効率良く自分の糧として活かす思考能力を持っている。

 それは非常に稀有で、そして有用なものだ。

 しかし逆に言えば、咀嚼しきれない情報に関して、君は身にすることができない」

「……ええと、それは異常なことなんでしょうか」

「いいや。君はそのままでいい、それこそが君の強みなんだから。

 ただミホノブルボンは、頭の使い方が少し異なるというだけだ」

 

 

 

『先頭が最終直線に入ってラストスパート!

 外に膨らんだウマ娘たちが、一斉にゴールに向かって駆け出していく。

 トゥインクルシリーズへの道は開けたぞ、誰がデビューを飾るのか?』

 

 

 

「ミホノブルボンは、外部から与えられた刺激に対して素直だ。

 それは肉体への刺激もそうだし……情報、つまり脳への刺激もそう。

 彼女は情報を得た時、それを咀嚼するのではなく、形を捉えて丸呑みにする。

 ……そうだな、例えて言うなら。

 君は授業を受けた時、自分の頭で情報を纏めて、自分の言葉でノートに書き記す。

 しかしミホノブルボンは、板書や言われたこと、教師の発言の全てをノートに書き写す。

 故に……」

 

 最終直線に入るとバ群が外に膨らみ、一気に道が拓けた。

 そして……その中にいた、1人の栗毛が。

 

 ドン、と。

 一気に、加速した。

 

「故に、これだけ実力差があるレースなら……その適性不足さえも、作戦で補える」

 

 

 

 逃げウマ娘は、自らの気性故にバ群の中で待つことができなかったり、他のウマ娘に勝とうという闘争心を持てなかったり、あるいは末脚が甘かったりする。

 

 ……だけど、例えば。

 『出遅れたなら、バ群に速度を合わせて走れ』

 『第4コーナーから最終直線にかけて外に膨らんで、そこからゴールまで全力でスパートしろ』

 そう自らのトレーナーから『オーダー』を受け、自分の邪魔な思考を排除し、ただその通りに体を動かすことのできるウマ娘がいたのなら。

 その能力が、他よりも飛び抜けて高かったら。

 

 

 

 ……ただひと時だけの追い込みも、あるいは可能なのかもしれない。

 

 

 

『ミホノブルボンが差を詰めて、一気に先頭に立とうという勢いで行きます!

 内か外か、並んだかわした、そして突き放す! ミホノブルボンそのまま先頭でゴールイン!

 自らが持っていた脚質の不利さえ跳ね除ける素晴らしい走りで、見事1勝を飾りました!』

 

 

 

 ゾクリと、胸のあたりが震える。

 ……すごいな、ブルボンちゃん。

 これはちょっとばかり……彼女と走るのが、楽しみになってきたかもしれない。

 

 私が感心している一方で、トレーナーは……。

 

「やはり……それが、ミホノブルボンの弱点か」

 

 既に、未来を見据え始めていた。

 

 

 

 ……そうして、ブルボンちゃんのメイクデビューは終わった。

 2着との着差は、実に2と2分の1バ身差。

 出遅れたとは思えない大きな差を付けて、その実力を世界に叩きつけたのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 メイクデビューで勝利を刻んだウマ娘は、続いてもう1つ、初めての経験を積むことになる。

 そう、ウイニングライブだ。

 素晴らしい勝ち方を見せたブルボンちゃんも例に漏れず、彼女のファンになってくれた観客の皆に「Make debut!」を披露した。

 

 ……トレーナーによる表情筋の動かし方の指導や私による演技指導もあり、何とか表情豊かなライブになったと思う。

 でも、曲が終わると同時にスッと真顔に戻るのはちょっと問題かもしれない。

 いや、そういうとこも含めて彼女の魅力だと思うべきかな。

 

 しかし、ライブ時の表情の動きを見ている感じ、トレーナーの言う通りブルボンちゃんは「こう動く」と覚えさえすれば、その動きを綺麗にトレースできるみたいだね。

 すごいな、マジでアンドロイドみたいだ。デトロイトベカムブルボンちゃん。

 ……まぁその分、想定外には弱いみたいだけどね。そこは改善点だ。

 

 そうしてデビューを刻んだブルボンちゃん。

 改めてトレーナーと2人で、彼女を「おかえり」って出迎えて。

 当然、無事に完走した記念のご褒美権もブルボンちゃんに贈与されて。

 後は私が「ブルボンちゃんも頭、撫でてもらったら?」と提言した結果、彼女にも頭撫でが行われたりもして……。

 

 そんなこんなで、ブルボンちゃんのメイクデビューは何事もなく、無事に終わったのだった。

 

 

 

 ……いやぁ、なんだか肩の荷が下りた気分だ。

 

 別にホシノウィルムは、ミホノブルボンに対して何か責任を負っているわけじゃない。

 強いて言えば、かつてアドバイスを送った後輩であり、同じトレーナーに指導を受けている担当ウマ娘ってだけだ。

 

 でも、私は彼女に、勝利を掴んでほしかった。

 

 ブルボンちゃんは、感情がわかりにくい。いつも無表情だし、態度にも感情を出すことがない。

 過去の私に近く思えるけど、多分ちょっと違う。

 「寒さ」っていう呪縛に囚われてた私と違って、彼女は元から感情が希薄なタイプっぽく見えた。

 

 ……でも、感情がないわけじゃない。

 私が走っていたら併走を申し出てくれるし、トレーナーの話も素直によく聞いている。

 トレーナーが使った機材を片付けようとしてる時とか、積極的に声をかけて手伝ったりもしてる。

 信頼を得ようとしてる部分もあるんだろうけど……総じて、根は真面目で優しい女の子なんだと思う。

 

 で、そんな子と付き合ってれば、自然と好感度も上がっちゃうって言うかさ。

 気付けば私は、ブルボンちゃんのことを、後輩として気に入っちゃってたんだ。

 ネイチャやテイオーとの友人関係とは違う、先輩後輩関係。

 前世でも永世ぼっちだった私からすると、それはすごく新鮮で、楽しい関係性だった。

 

 で、そんな気に入った後輩が夢に向かって一歩を踏み出したとなれば、当然嬉しくて。

 うん、その日は非常に良い気分で眠れました、と。

 

 

 

 ……はい、回想終わり。

 

 現在は、ブルボンちゃんのメイクデビュー翌日の午前中。

 私はいつも通り、トレセン学園で入院で遅れた分の補習を受けていたんだけど……。

 

「はぁ……」

 

 同じように補習を受けているのは、私を含めず4人。

 彼女たちは皆……ガラが悪いというか、明らかに鬱屈とした雰囲気を漂わせている。

 教師の言葉を平然と無視して本を読む子、人目も憚らず爆睡する子、顔を俯かせてじっとしている子、ブツブツと何かを呟いてる子……。

 

 うん、怖い。

 有り体に言えば、地獄だった。

 

 

 

 当然と言えば当然、前世アニメじゃ語られないような暗部も、この世界にはある。

 ウマ娘が人と変わらぬ心を持つ以上、不祥事は発生するのだ。

 その1つが、この現状。

 

 クラシック級8月下旬のトレセン学園は地獄だ。

 何故かと言うと、そろそろ未勝利戦が終わるから。

 

 トゥインクルシリーズに参加するためには、メイクデビューか未勝利戦に勝たなくてはならない。

 で、このメイクデビューはジュニア級6月からクラシック級3月くらいまで行われている。最初の1戦はそこまでに出てください、というわけだ。

 ……そして未勝利戦は、クラシック級9月上旬で終わる。

 そこまでに勝利できなければ、ウマ娘は……トゥインクルシリーズには参加できない。

 

 すごく残酷な話だけど……。

 「ここまで走っても勝てないようなウマ娘は、トゥインクルシリーズにはいらない」というわけだ。

 

 故に、クラシック級9月までに勝利できなかったウマ娘は、引退か地方への転校を余儀なくされる。

 期待されて中央に来たウマ娘たちにとって、これ以上ないくらいのバッドエンドだろう。

 

 そもそも入学時、私たちのクラスには30人くらいのウマ娘が在籍してた。

 そこからクラシックレースが始まるまでに5人くらいの心が折れて転校、あるいは退学していき。

 ここ4か月で、更に10人近くいなくなった。

 結果として、私たちのクラスは入学時の半分近い18人まで減ってしまった。

 

 特に7月、デビュー済みの子たちが合宿に行ってからは酷いものだった。

 何せ残ったのは、挫折し競走の道を諦めた者か、諦めずともバッドエンドの期限が迫る者が大半。

 寮での空気なんかもう最悪で、ガスまみれの工業地帯の方がまだマシってレベル。

 そんな中にいれば更に士気も下がるってもので、酷い時は1週間に2人退学や転校が出た。

 

 ウマ娘は、基本的に善性の子が多い。気性難と呼ばれる子だって、癖はあっても悪い子じゃない。

 ……でも、機嫌や焦燥っていうものはある。どうしても抑え込めるものじゃない。

 自分の人生をかけた走りを否定されれば、ショックを感じ、暴走する子が出てくるのは道理だ。

 

 結果として、この時期未デビューのクラシック級の子は、最悪な雰囲気になる。

 後先考えないやけっぱちの子とかも出てくるので、ホントにちょっとヤバい。

 

 何やらトレーナーが手を回してくれたみたいで、私は手を出されることはなかったけど……。

 こんな光景、長いこと見たくはない。すごく気が滅入る。

 

 夏に合宿を行うのって、夏休みの代替にするのと同時に、この光景をデビュー済みの子たちに見せないように、ってのもあるんだろうなぁ。

 こんなの見せたら、ライスちゃんみたいな子は「自分が勝ったせいで」とか言い出しかねないし、下手すりゃ暴行事件まで発生しかねない。

 ……というか、冗談抜きで稀に発生するらしい。逆恨み、怖すぎる。

 

 勿論、そんな中でまともに授業を受けてられるわけがない。いや、そもそもまともに受けたこと自体あんまりないけど。

 真面目に勉強するような態度見せれば、彼女たちの反感を買いかねないからね。それは一番恐ろしい可能性だった。

 そんなわけで私は、今日も今日とて頭を伏せ、眠ったフリをして午前中を経過させた。

 勉強は……まぁネイチャに甘えよう。最悪トレーナーに聞いてもいいし。

 

 ……ネイチャも合宿に行ってるからいないし、テイオーはリハビリにメジロ家の施設を借りてるらしくて不在だし。

 後輩ちゃんたちに会いに行こうにも、休み時間程度じゃ迷惑だろうし。

 

 何も癒しがない、久々の辛い学園生活だ……。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、地獄の午前中が終わると、救いの放課後がやって来る。

 ピリピリしている子たちを刺激しないように教室を抜け出し、トレーナー室に向かった。

 

「……はぁ」

 

 別に、あの子たちが悪いってわけじゃない。

 ただ素質と努力と運、その総合値が足りていなくて、結果を出せないだけ。

 そして、勝負の世界に慈悲はない。

 いくら頑張ろうと、泣き叫ぶ程努力しようと、最終的な結果を出さない限り認められない。残留さえも許されない。

 だから焦る。こんなところで燻っているわけにはいかないって。

 ……そして、いよいよ間に合わなくなれば、自棄になってしまう。

 

 誰も悪くないんだ。責めるべき人もモノも、どこにも存在しない。

 そうはわかっていても……やるせない。

 心を抉られる彼女たちを見ても、そのすさみっぷりを見ても……果てに出てくる、嫌なイベントを見ても、さ。

 やっぱり、辛いものはあるね。

 

「ままならないよ……本当に」

 

 そんな現状に、私は何もできない。

 

 私はこの世界に転生してきた、チート持ちのウマ娘だ。

 でも、持ってるのは万能のチートじゃない、走ることに特化したものだし……。

 この世界がご都合主義的なものじゃないなんてこと、両親と決裂した時からよくわかってる。

 

 全ての人やウマ娘の心を救うことなんて、私にはできない。

 レースで勝てるのはただ1人で、メイクデビューや未勝利戦の数は限られている。

 どうしたって勝者と敗者は生まれ、敗者の心を救うことはきっと、彼女たち自身にしかできない。

 

 ホシノウィルムにできるのは精々、レースに勝って、私を好いてくれるファンに夢を見せることくらいだ。

 

 ……うん、そうだ。

 私は、私にできることをしなきゃ。

 

「……よし、切り替えてトレーニング」

 

 

 

 さて、見慣れたトレーナー室のドアを開く……。

 

 ……と。

 

 そこには、予想外の光景が広がっていた。

 

 まず目に入ったのは、窓際のソファで毛布をかけられて寝ている、トレーナー。

 そして、そのトレーナーに膝枕している、ブルボンちゃん。

 2人は昼下がりの穏やかな日差しに照らされ、ゆったりと時間を共にしていた。

 

 えー、っと……。

 

 これは、その……もしかして……。

 

「……NTR(ねとられ)、返し……?」

 

 思わず呟く私に気付き、ブルボンちゃんはそっと口元に指を立てた。起こさないようお静かに、ってことだろう。

 

 とても心穏やかではいられない光景だったけど、取り敢えずブルボンちゃんの隣に立って、その耳元で小声で呟く。

 

「どうしたの? 膝枕って……」

 

 ブルボンちゃんはそれを聞くと、すぐにくいくいっとジェスチャー。

 トレーナーを起こさないように内緒話で、ってことか。

 今度は私がブルボンちゃんの口元に耳を寄せると……自然と、そこが目に入った。

 

 うわっ、でか。何とは言わないけどデカ過ぎんだろ……。

 直立してたら足元見えないでしょこれ。私なんて胸から下は全部見えるんだぞ、なんでこんな格差があるんだよ。この世界やっぱり残酷だわ。

 

 てか、これ大丈夫? トレーナーが飛び起きたりしたら、この実った果実に頭突っ込むことになるよ?

 トレーナーの派閥は知らないけど……もしおっきい方が好きだったらどうしよう。

 下手すれば、ブルボンちゃんは無自覚なまま寝取られが発生しちゃう。いや寝てないけど。惚れさせてすらないけども。

 

 どうしよう、膝枕役代わってもらおうかな。

 万が一にもおかしなことがあったら困るし。

 

 ……あれ、そもそも何の話だっけ?

 ああそっか、まずはそこじゃなく、なんで膝枕してるか聞かないと。

 

「ご説明します。

 私がこの部屋を訪れた時、マスターはステータス『疲労困憊』の状態であると推測されました。

 マスターの疲労は、私たち担当ウマ娘の万全な成長を妨げる要因の1つ。故に私はマスターに休息を取っていただくことを要請しました。

 しかしマスターは要請を受け入れてくださらなかったため、私は『ご褒美権』を行使。

 同級生の方から聞いた、男性トレーナーを癒すタスク『膝枕』を実行しながら、強制的に休んでいただいている状態です。

 現在、マスターが睡眠状態に入ってから、8分16秒が経過しています。

 それと、ホシノウィルム先輩に向けて、マスターからメッセージを預かっています。

 『机上に置いたノートの33ページに今日のトレーニング予定。ただし疲労がかさんでいるので、君の判断で休んでも構わない』とのことです」

「……わかりやすい説明、ありがとう」

 

 良かった、NTRなんてなかった……。

 いや、なかったっていうか、強いて言えば私がライスちゃんをNTRしかけてるような状況なんだけど……うわ、なんか改めて自覚すると死にたくなってきたなハハハ。……はぁ。

 

 しかしブルボンちゃん、恐らく恋愛感情なしで膝枕という高等スキルを使うとはね。なんて恐ろしい子なんだ……。

 私だったら、恥ずかしくて言い出せるかすらわかんないわ。言い出せたとしても、実行の段階まで来て逃げ出しちゃう可能性すらある。

 

 しかし、隠されたトレーナーの疲労を見抜き、無理やりに休憩させてくれたのはありがたい。

 この人昨日はちゃんと寝るって言ったくせに、朝見た感じ、全然寝てなかったからなぁ。

 

「ありがとう、ブルボンちゃん。トレーナーを気遣ってくれて」

「いえ、担当ウマ娘は契約したトレーナーと二人三脚、互いに支え合って進むものと認識していますから」

 

 ブルボンちゃんの何気ない言葉に……私は少しだけ、目を見開いた。

 次いで、口角が上がる。

 

「そうだね。……うん、本当にそうだ」

 

 

 

 ホシノウィルムは自らの契約トレーナー、堀野歩さんに救われた。

 氷のような呪縛に閉ざされていた世界をこじ開け、広い広い世界を見せてくれたのは彼だ。

 私を支え、「熱」を教え、ここまで連れてきてくれたのは……彼だ。堀野歩さんだ。

 

 だから今度は……私が彼を助ける番。

 

 トレーナーの顔を見る。

 とても安らかとは言えない、僅かに眉を寄せた表情で寝ている、私の好きな人。

 

 必ず、恩は返しますから。

 だから、いつか私を……担当ウマ娘じゃなく、1人のウマ娘であるホシノウィルムを、心から信じられるようになった時。

 

 その時はどうか、私を頼ってくださいね。

 ……歩さん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ところでブルボンちゃん、膝枕辛いでしょ? 代わってもいいよ?」

「お気遣い感謝します。ですが、ウマ娘の体は頑丈です。あと4時間36分は苦痛がないものと予測。

 私は今日、レース明けということで1日クールダウンの期間を置かれていますので適任かと。

 先輩はお気になさらず、どうぞトレーニングメニューの実行を」

「……あ、そう? ふーん、そっか」

 

 ブルボンちゃんの善意100%の言葉を受けて、私は泣く泣くトレーニングに向かった。

 

 後輩の前ではカッコ付けたいし、トレーナーはもっと惚れさせなきゃいけない。

 この辺のバランス、難しいね……。

 

 







 ブルボンのメイクデビューは終了。
 次回からはクラシック級9月、秋に突入です。
 秋と言えば文化祭ということで、アプリ版にはないあのイベントをやります。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、秋のファン大感謝祭、企画の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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ヘルプレス・フォビア

 ポケモン面白過ぎて執筆に時間を取れないジレンマ。





 

 

 

 ミホノブルボンのメイクデビューも無事に終わり、そろそろ9月が迫って来ている。

 

 ……いや、言う程無事だったか?

 ブルボンのデビュー自体は無事だったが、その後の俺は無事ではなかったかもしれない。

 

 この仕事が終わったらきちんと休むと言ったのに、ご褒美権まで使ったブルボンに無理やり膝枕され、その上寝ているところをホシノウィルムにまで目撃されたり……。

 休むと言っておいて休まなかったことをホシノウィルムに叱られ、キレた彼女がたづなさんに現状を報告してしまい、結局慣れるまでは仕事を少し助けてもらうことになったりもした。

 

 確かに睡眠時間はかなり擦り減ってたけど、慣れれば改善の見込みはあったし、何よりただでさえ多忙なたづなさんの手を煩わせたくはなかったんだけどなぁ。

 「自分の職場から死人が出るのは嫌です」と笑顔で圧をかけられれば、流石に従うしかない。

 

 実際、たづなさんが書類の一部を受け持ってくれたおかげで、俺の睡眠時間が1時間くらい増えたのは事実。

 そもそも俺が十分に仕事をこなしきれなかったのが悪いわけで、気遣いに感謝しこそすれ、嫌がるというのもお門違い。

 今はただ感謝すべし、だな。

 

 とはいえ、たづなさんも多忙の身。

 「応援を呼ぶ必要が」とか「人員を確保しないと」と呟いていたので、その内相応の人員が派遣されるのかもしれない。

 その頃には仕事に慣れ切り、十分にこなせるようになっているのが理想だけど……果たしてどうだろうな。

 少しずつ作業の効率化を図っているとはいえ、同期のサポートや新たなトレーニング法についての研究なども考えると、時間の余裕はどれだけあっても足りないわけで。

 

 ……いや、なんにせよ、これ以上無様な姿を担当に見せるわけにはいかない。

 せっかくたづなさんがサポートしてくれるんだ、この間にもっと精進して仕事に慣れなければ。

 

 そう思い、俺はこの数日担当のトレーニングを付けながらも、何とかかんとかこの仕事量に慣れるべく奮闘していた。

 

 

 

 一方、担当ウマ娘2人の様子はと言うと。

 

「んはっ……ふぅ、やっぱりスタミナ、落ちてるなぁ」

「目標、完泳距離、達成。クールダウンに入ります」

「あはは、プールで泳いでるのにクールダウンっていうのもおかしい気もするけど」

「……確かに。では、ホットダウンでしょうか」

「いいね、ホットダウン」

 

 今日も今日とて、それぞれトレーニングに勤しんでいた。

 

 2人に課したのは、プールでのトレーニング。

 前世ではスタミナを鍛えるトレーニングだったけど、この世界でも同じように、肺活量向上によるスタミナの上昇、キツくなってきた時にも諦めない根性の上昇が望める。

 更に言えば、前世アプリはあくまでゲームだったから伸びなかったが、やり方によっては脚に負荷をかけて、スピードやパワーまで上げることだってできる。

 プールでのトレーニングは、王道に強い。スキルを習得したり平地に慣れることはできないが、その分ステータスを伸ばすことに向いているトレーニング方法と言えるだろう。

 

 最近はホシノウィルム、ミホノブルボン共に、このプールでのトレーニングを中心に行っている。

 ホシノウィルムは、その最たる武器であるスタミナを完全に取り戻すため。

 そしてブルボンは……彼女の弱点克服のためだ。

 

 

 

 メイクデビューや彼女のステータスを見ている限り、現状のミホノブルボンには3つの弱点があるように思えた。

 内2つは現状如何ともしがたいので一旦置いておくとして、今から解決できる問題は、スタミナの低さだ。

 

 現状のミホノブルボンは、スピード、パワー、そして根性がよく伸びており、スタミナと賢さはそうでもない。

 これは短距離からマイルを走るのに向いたステータス。この状態じゃ、確かにマイラーとして見込まれるのも道理だ。

 

 クラシック三冠、つまり中長距離路線を進もうとしているブルボンがスプリンター向けなステータスである理由には、もう見当が付いている。

 彼女が、坂路でのトレーニングを主眼に置いていたからだ。

 

 ミホノブルボンと言えば、坂路。

 それは前世アプリで遊んでいる時にも小耳に挟んでいたので、知識としては知ってたんだけども……。

 どうやらこの世界でも、ブルボンは坂路を中心にトレーニングを組んでいたらしい。

 なんでも実家近くに長く急な坂があったらしく、幼い頃からそこを走り込んでいた、と。

 

 トレセンに来て本格化を迎えてからも、敷地外の山の坂道で自主トレーニングを組んでいたようだ。

 実際、坂路は脚への負荷の大きい、つまり成長しやすいと言われているトレーニング法。

 その分かなりキツいけど、その苦痛を乗り越える体と根性を持っていれば、大きく成長できると言われている。

 

 ……言われている、のだが。

 しかしその実、前世アプリでは坂路は根性トレーニングに分類されていた。

 根性トレーニングで伸びるのはスピード、パワー、根性の3つだけだ。

 より正確には、この世界では僅かずつ他のステータスが上がったりもするが……それでも大きく伸びるのは上記の3つだけ。

 

 ブルボンは坂路を中心に、というかそればかり走っていたために、このステータス構成となっているわけだ。

 

 確かに、ステータスは総合的に高い。瞬間的な走りにおいて、現状ミホノブルボンに優るジュニア級ウマ娘は存在しないかもしれない。

 けれど短距離マイル路線を走るならばともかく、彼女の夢である三冠を取るまでの道には、大きな問題が存在する。

 現状のミホノブルボンには、菊花賞どころか、皐月賞を走るだけのスタミナもないことだ。

 

 マイルまで走ることができるのは、ひとえに坂路で鍛えられた高い根性によるもの。謂わば根性でゴリ押している状態だ。

 しかしそれが通用するのは、精々1600メートルまで。

 それ以上を目指すとなれば、彼女にはスタミナも伸ばしてもらわなければならない。

 

「……クール、訂正、ホットダウン完了。ミホノブルボン、出ます」

「じゃあ私も行こう。せっかくなら勝負する? どっちが100メートル、先に泳ぎ切るか」

「競い切磋琢磨することは効率的であると思考。申請を受諾、オペレーション『勝負』を開始します」

 

 幸いにも、ブルボンは坂路にこだわりがあるわけではなく、とかく強い負荷のトレーニングを積み、クラシックレースを制覇することに集中している。

 自分の考察やデータを提出し、プールに行って欲しいと言えば、2つ返事で頷いてくれた。

 

 取り敢えず今は、スタミナを中心に伸ばしていく方向で進めよう。

 そこから先は……少し難しいところがあるが。

 

 

 

 ……ここから、彼女たちのトレーニングをどうするべきか。

 

 ホシノウィルムに関しては、自主トレを適切に制限しコントロールすれば、体力を消耗する代わり、自らスピードやパワーを伸ばしてくれることがわかっている。

 なので、日中のトレーニングではプールでスタミナと根性を取り戻し、夜の自主トレでスピード、パワーを取り戻してもらうつもりでいる。

 賢さに関しては、入院中にもしっかり勉強していたから落ちてないどころか伸びてるし、大きな問題はないだろう。

 彼女の体は優秀だ。ギフテッドと呼んでいい。

 非常にスムーズに、というか慮外のスピードで力を取り戻している。

 このまま問題なく進めば、予定通り10月上旬には実力を取り戻し切るはず。

 

 問題は、ミホノブルボンだ。

 初期のホシノウィルムと違い、彼女のステータスにはそこまで明確な長所と短所がない。

 故に、バランスの良い育成が求められる、のだが……。

 バランスを重視し過ぎると、行き着く先はURAファイナルズのハッピーミーク。全て中途半端なせいでモブにも負ける、なんて終わりは到底認められるものじゃない。

 ……いや、この世界のミークはG1を4つも取ってるスターウマ娘なんだけどね。あくまで前世アプリでのハッピーミークの話。

 

 しかしここで問題になるのが、前世アプリと今世でのステータスの働きの違い。

 前世ではほぼ死にステータスだった根性だが、今世では結構重要なものになってるんだ。

 位置取り争いや追い比べになった際に闘争心を出して本領を発揮しやすく、更に少し前の模擬レースでホシノウィルムが見せたように、ラストスパートで少しだけ加速することができる。

 その上、逃げウマ娘は根性を持っていないと、終盤に迫って来るウマ娘の圧力に負けることが過去のデータによって示唆されている。

 

 その上、大事なのは根性だけではない。

 賢さに関しても、ミホノブルボンの走り方を考えれば必要不可欠なものになるだろう。

 ……ミホノブルボンは、サイボーグ。

 緻密に、一定のペースで、過たず走る。

 それが彼女を無敗の二冠にまで導いた、彼女だけの走り方なんだから。

 

「ぷはっ! ふーっ、勝負は私の勝ちかな? 差は……1秒くらい?」

「……敗北、確認。敗因はスペックの違い、そして体の動かし方にあると推測」

「ふふふ、まだまだ負けられないよ。これでも無敗二冠ウマ娘だもの」

「フォームを修正、再度の勝負を申請します」

「いいよ、満足するまでやろう」

 

 そして、ブルボンが鍛えなければいけないのはそこだけじゃない。

 現状解決し辛い問題が、2つも残っているんだ。

 

 ちら、と再びプールに飛び込んだ彼女に目を向けると……「アプリ転生」が彼女の適性を映し出す。

 

 ミホノブルボン

 芝A ダートG

 短距離C マイルB 中距離B 長距離C

 逃げA 先行E 差しG 追込G

 

 ……うん。

 俺の記憶と違うね。

 

 前世アプリの記憶だと、中距離適性はA、長距離適性は……多分Bだったと思う。

 それに比べてこの世界でのブルボンは、中長距離の適性が1つずつ低い。

 

 これに関しては、アプリの方が「無敗二冠、菊花賞でも2着」という戦績を反映され、現実的な彼女よりも高く設定されている、という側面もあるのかもしれないけど……。 

 

 あれは多分、上がった後の最終的な適性なんじゃないだろうか。

 

 

 

 この世界では本当に「努力で適性を超える」ことができる。

 

 俺がその事実を断定したのは、トレセン学園に入った直後。

 海外で走るサイレンススズカを、スマホのライブ中継を通して見た時だった。

 俺のアプリ転生は、レンズを通したりしても働くのだが……。

 その時、俺の目にはこの文字列が飛び込んできたんだ。

 

 サイレンススズカ

 芝A ダートG

 短距離D マイルA 中距離A 長距離D

 逃げA 先行C 差しE 追込G

 

 ……ここで注目すべきは、長距離適性だ。

 前世アプリで彼女は引けなかったけど、中途半端に絶望的な適性で印象に残っている。

 サイレンススズカの長距離適性は、Eだったはずだ。

 そこから1段階上がって、今の彼女は、D。

 

 トゥインクルシリーズで走っていた時の彼女は、長距離適性がEだった。過去の映像を見て確認したから間違いない。

 けれど今、海外で走っている彼女は、D。

 三女神像を経由した想いの継承は、トレセンに帰ってきていないスズカにはほぼ不可能だろう。

 そう考えると、ほぼ間違いないと断言できる。

 この世界では、鍛錬を繰り返すことで、適性を伸ばすことができるんだ。

 ……ただし、ごく一部の天才が、多大な努力をした場合に限るけど。

 

 

 

 これまで見た、膨大な数のレース映像を鑑みるに。

 距離適性はBまでならなんとかなるが、Cとなると重賞で1着を取るのは難しい。

 スペックに差があっても覆されかねないレベルのマイナスなんだ、適性Cってのは。

 そして、ミホノブルボンの適性は、中距離がB、長距離に至ってはC。

 このままでは菊花賞は厳しいし、皐月賞と日本ダービーさえ危うくなってしまう。

 なんとしてでも、中・長距離の適性を上げていかねばならないわけだ。

 

 ……ミホノブルボンの、ある種機械的な記憶能力は、適性の壁を超えることを可能とする。

 だが、それを実行することに専心する以上、他の策は使えなくなってしまうだろう。

 更に当然ながら、慣れない距離や走り方では、彼女の持ち味を活かし切れなくなる。

 メイクデビューでは大きな実力差があったために何とかなったが、G1レースでも同じように上手く行くとは思い難い。

 

 それに……。

 ミホノブルボンがいる以上、同じクラシックレースに黒い刺客も出てくる。

 その持ち味を活かし切れなければ、祝福の名を持つステイヤーは、優に彼女を差し切って来るだろう。

 

 

 

 ではどうやって、中・長距離の適性を上げればいいのか?

 正直ここに関して、俺は明確な正解を知らない。

 堀野の歴史を見れば、やはり厳しいトレーニングが必要だってことは間違いない。

 特に中長距離の場合は、距離やペース配分に慣れるため、その距離を何度も走り込む必要があるっぽい、んだが……。

 

 残念ながら現状のミホノブルボンは、それを走ることができる段階にまで至っていない。

 やはりまずはスタミナを300あたりまで上げてから、まずは中距離、そして長距離に慣らしていかなければいけないだろう。

 それが、3つの弱点の内の1つである適性問題が今すぐに解決できない理由。

 

 ……「スタミナ問題」、「適性問題」。

 これらに関しては、取り敢えずの解決策は立てた。

 後者に関しては今すぐになんとかできるわけではないが、皐月賞までには中距離、菊花賞までには長距離適性を上げる。間に合わせてみせる。

 それが俺の、トレーナーとしての仕事だ。

 

 

 

 だが、最後の問題は……。

 

 やはり、俺には解決できないのだろう。

 

 これを解決できるのはミホノブルボン自身だけで……それを手伝えるのも、恐らく……。

 

 

 

「トレーナーさーん」

 

 遠くからかけられた声に、俺は手帳から顔を上げた。

 振り向くと……ここ数日お世話になっているたづなさんが、こちらに向かって走ってきている。

 

「たづなさん。何か仕事ですか」

「ええ、残念ながら」

「特に残念ではありませんが……」

 

 たづなさんは、俺やホシノウィルム、ミホノブルボンの判断が必要ない書類に関しては、あちらで片付けてくれている。 

 その上で、この時期に、俺に渡してくる仕事となると……。

 

 あ、まさか。

 

「もしかして、企画ですか?」

「はい。秋のファン大感謝祭、聖蹄祭についてのお話です」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 前世アプリにおいて、ファン大感謝祭と言えば春のイベントだった。

 理事長の好感度が一定以上、かつ担当ウマ娘のファンの人数が一定以上の場合、なんかいい感じのイベントと共に、担当の固有スキルのレベルがアップする、って内容。

 

 ……が。

 この世界の大感謝祭は、トレーナー業と同じように、ゲームで省かれていた諸々がある。

 

 まずこの世界のファン大感謝祭は、春だけでなく秋にも開催される。

 年2回のこのイベントは、普段あまり触れ合うことのできないスターウマ娘と触れ合うチャンスということもあり、毎度毎度大盛況、どころか入場だけでもかなりの倍率で抽選がかかるらしい。

 俺は前世でもあまり縁がなかったけど、多分アイドルの大きなイベントみたいなイメージが近いかもしれないな。

 

 で、この大感謝祭の内容なんだけど……。

 5人以上のウマ娘が所属するチームや有志のウマ娘、そして一部人気のウマ娘が、屋台を出したりイベントを行い、それぞれが非日常を楽しむと同時、来てくださった方に楽しんでいただく、というもの。

 規模はかなり大きいが、人間の高校の文化祭みたいなものだと思えばいいかな。

 

 ……で、ネックなのは「一部人気のウマ娘」って部分で。

 G1ウマ娘や一部人気なウマ娘は、学園から要請されて、ほぼ強制的に何らかの企画を持つことになるんだ。

 ジュニア級秋まではG1はないし、クラシック級春は皐月賞直前なので免除されるけど……。

 クラシック級秋からは「大感謝祭を楽しむ側」から「大感謝祭を盛り上げる側」に回るわけだ。

 

 俺の担当であるホシノウィルムは、当然「一部人気のウマ娘」に含まれる。

 なにせここまでホープフルステークス、皐月賞、日本ダービー、宝塚記念と4つのG1タイトルを獲得した上、今のトゥインクルシリーズの中核を成すウマ娘だと言われているわけで。

 そりゃ大感謝祭を盛り上げたいトレセン学園からすれば、是が非でも彼女にも企画を出してもらいたいだろう。

 

 ここまでの話を要約すると……。

 ホシノウィルム、学祭で個人企画出します、ってことね。

 

 そんなわけで、俺はホシノウィルムが出す企画をまとめ、上に提出する必要がある。

 勿論俺が勝手に考えて出すわけにもいかないので、彼女にはどんな企画をしたいか、一晩考えてくるよう伝えた。

 そしてその結果……。

 

 

 

「何も思いつきませんでした……」

 

 翌日、トレーニング前のミーティングにて。

 ホシノウィルムは、ちょっと困った……いや、ハッキリ言えばちょっと憔悴した顔でそう言った。

 

「私、これまで走ることしかして来なかったっていうか……趣味とかないですし、料理もできませんし……ファンの皆に喜んでもらう、っていうのも自分で考えると難しくて……」

「なるほど、それで寝不足になるまで考え込んでしまった、と」

「えっ、な、なんで?」

 

 ぺたぺたと顔を触るホシノウィルム。

 いや、別にクマができてるとかじゃなくてね?

 単に、コンディションに『夜ふかし気味』が追加されてるのよ。

 

 まぁでも、ホシノウィルムが走ること以外で真剣に頭を悩ませてくれるようになったのは、彼女の成長が感じられて喜ばしいね。

 最初の頃なんて、走ること以外の話は半分くらい……いや、8割くらい聞き流されてたもんなぁ。

 それがこうして、ファンへのお礼を何にするか、憔悴するくらいに考え込んでくれるとは……。

 

 それは、走る以外のことにも興味を持てた……父親にかけられた呪縛を振り払えたことを意味する。

 

 これでひとまず、彼女は大丈夫だろう。

 これからの生涯、色んなことがあるだろうが、それでもその2本の脚で歩いて行けるはず。

 

 うん……本当に良かった。

 俺も少しは、彼女の助けになれた……かな。

 

 

 

 

 

 

 いや。

 違う。

 

 心の底から、じわりと、無力感が広がって来る。

 調子に乗るな。

 お前に誰かが助けられるものか。

 

 そうしてまた、見なかった振りをして、何もしないつもりか、と。

 

 ……そうだ。

 そうだった。

 俺はまだ、何もできてない。彼女に、何もしてあげられてない。

 もっと頑張らないと。

 頑張らないと、頑張らないと、頑張り続けないと……。

 

 何か大切だったモノを、喪う気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 それは稀に襲い来る、靄がかかったように正体の掴めない、変な無力感。

 まるで川底に溜まった汚泥のような、底の覗けない気持ちの悪い何か。

 これが何なのかは、わからない。わかりたくない。思い出したくもない。

 ……けれど、その透明で不快な情動のおかげで、俺は平静を取り戻すことができた。

 

 そうだ、終わったような顔をしてちゃ駄目だ。

 ホシノウィルムのトゥインクルシリーズは、まだ半分だって終わってないんだから。

 

 

 

 さて、そのためにもまず、目の前の問題から片付けなければ。

 『夜ふかし気味』は厄介なバッドコンディションだ。さっさと解消するに越したことはないだろう。

 

「寝不足の状態はトレーニングに差し障る。今日のミーティングが終わったら、保健室で仮眠を取ってきなさい」

「え、いや、でも」

「でもじゃない」

「いや、私なら大丈夫……」

「宝塚記念の前も大丈夫だと言っていたな、君は」

「…………」

「悪いが、今日のところは譲ってくれ。しっかり眠って、今夜から走ればいい」

 

 何と言おうと、今回は譲らない。

 何故かと言うと、『夜ふかし気味』の怖さは昔、身を以て思い知ったからです。

 ……前世アプリで、夏合宿前に夜ふかし気味習得から夜ふかし、さらにテンションダウンイベントのコンボを食らったのを思い出す。あれは酷い事件だった……。

 

 というか前世知識を度外視しても、寝不足の状態でトレーニングは避けるべきだ。

 それだけ集中力が落ちるし、脳への学習も進まない。

 長い目で見れば、一度コンディションを立て直してから再度臨む方が賢いのだ。

 

 

 

 さて、少し話題が逸れてしまった。

 改めてどうするか、と口に出そうとしたところで……。

 会話を聞いていたブルボンが口を開いた。

 

「議題は、ホシノウィルム先輩が出す企画、ということでよろしいでしょうか」

「ああ、そうだ」

「では、前回までのファン大感謝祭でホシノウィルム先輩が興味を示した企画・店舗から、先輩の持つ興味の方向性を探ることを提案します」

 

 言われて、俺とホシノウィルムは視線を通わせた。

 彼女の在学中、ジュニア級春、ジュニア級秋、そしてクラシック級春と、大感謝祭は3度に渡って行われている、が……。

 

「確かジュニア級の春は、トレーニングしてばかりで大感謝祭には参加しなかったな。トレセンの敷地は使えなかったから、外を走り回っていたはず」

「ジュニア級秋の時もそうでしたよね」

「ああ。クラシック級春は皐月賞前だったから、追い切りメニューで忙しかったしな」

「要約すると、これまでにファン大感謝祭には参加なされていない、と」

「そうなるね」

 

 ついでに言うとその3回、当然ながら俺も参加してない。

 ホシノウィルムに付き合ってたからね。

 

 ブルボンはそれを聞くと、無表情なまま口を閉じてしまった。

 

「……気を落とすなよ、ミホノブルボン。君の提言は多くの場合的を射たものだったはずだ。

 ただ今回は……ホシノウィルムがちょっとアレなだけで」

「アレって何ですか、アレって」

 

 本人も言った通り、ホシノウィルムというウマ娘は、これまで走ることにばかり注力してきた。

 故にこれといった趣味を持たず、走る以外の特技もこれといってない。

 出したい企画と言われても思いつかないのは、ある意味道理と言えるのかもしれないな。

 ……改めて考えると、ちょっと親近感を覚えるね。俺も仕事人間だし。

 

 少しの間フリーズしていたブルボンだったが、改めて1つ頷き、再び口を開いた。

 

「であれば、ホシノウィルム先輩の走行以外の長所・特技から企画を絞り込むことを提案します」

「私の、走る以外の長所……? か、顔……?」

「悲しいことを呟くな、ホシノウィルム。君には他にもたくさん良いところがあるだろう」

「な、何がありますか……?」

「優しいところとか」

「優しいウマ娘止まりってことですか!?」

「優しいウマ娘は良いことなのでは……?」

 

 何やら興奮しているようだが、実際ホシノウィルムは優しい少女だと思う。

 突然現れてトレーナーに見られる時間を減らされてもなお、ブルボンに対して様々なことを教えたり、アドバイスしたりしてるし。

 

 それに、まず挙がるのが優しさってだけで、彼女の優れたところは無数にあるんだし。

 

「あとは真面目だし、自主トレ関係以外では基本的に嘘を吐かない正直者。前向きで、きちんと現実に向き合うだけの心の強さを持っている。そして何より、そのストイックさだ。自分を鍛え、向上させるという事柄に関して、君以上に熱意を持つウマ娘はそういないだろう。それでいて愛嬌も良く、きっかけさえあれば簡単に友人を作れるコミュニケーション能力も強みだな。精神面に限って言っても、すぐに出るだけでこんなにあるし、勿論外見も……」

「あ、あの、いいです、もうその辺りで……」

 

 ホシノウィルムは顔を赤くして、俯いてしまった。

 年若い女の子らしい、可愛らしい反応だ。

 ……察するに、やはり褒められ慣れていないんだろうな。

 彼女の半生は苦しみに満ちたものだ。ストレートに褒められることは少なかっただろうからな。

 うん、耐性を付けさせるためにも、これからも積極的に褒めていくべきだろう。あんまり調子に乗る方でもないし。

 年若い子供が頑張れば、存分に褒めてあげるのが大人の務めだしね。

 

 

 

 俺がまた1つ彼女への理解と方針を見極めている内に、彼女も自分の考えを纏めていたのだろう。

 ブルボンはコクリと頷き、言った。

 

「であれば1つ、『献策』を実行します。

 相談所、というのは如何でしょうか」

「相談所?」

「ホシノウィルム先輩は、これまで私を含め、多くのジュニア級ウマ娘たちの相談に乗ってくださりました。その結果満足度は、一概に高いものであると認識しています。

 その現状とマスターの言葉から、ホシノウィルム先輩はその優れた精神性により、他者の悩みに対して解決策をもたらす、あるいは安心感を与える能力を持っているものと推測。

 ファンの方々の相談に乗る、という企画には需要が存在するものと考えます」

「なるほど」

「え、高い満足度……?」

 

 確かに、ホシノウィルムはこう見えて、人の心を把握し誘導することに長けている。

 俺だってこれまで何度も、叱られたり説得されたりしてきたんだ。この身を以て実感してますとも。

 その上、どこか中等部とは思えない程精神的に成熟した部分のある彼女なら、相手の立場になってものを考えることもできるはず。

 

 ……うん、その企画、ありだな。

 

「それで行くか。色々と詰めなければいけない部分はあるが、悪くない案だと思う」

「当日は私もご協力します」

「いいのか、ミホノブルボン」

「ホシノウィルム先輩には、いつも多くのことを教えていただいています。

 私に可能な形で、少しずつ恩を返す必要があると考えました」

「恩を忘れないのは良いことだな。それなら当日、列の整理……いや、整理券の配布などに協力してもらうか。いや、ホシノウィルムの手伝いか?」

 

 やっぱりブルボン、真面目で良い子だなぁ。

 大感謝祭で自分から手伝いを申し出るなんて、この年の子にはそうそうできることじゃない。

 見て回るだけでも楽しいのは、4月に体験済みだろうに。

 

 ブルボンの好意は、勿論嬉しい。

 間違いなく人手は必要になるだろうし、申し訳ないがここは甘えさせてもらおう。

 

 ……が、完全に甘えていいわけでもない。

 ウマ娘は何も、走ることに専念すればいいわけじゃないんだ。

 この一生に一度しかない大事な競走人生、様々なことを体験し、様々な想いを抱いて生きなければ損というもの。

 故に、彼女にも、そしてホシノウィルムにも、是非とも大感謝祭というイベントを楽しんで欲しい。

 

 楽しいこと。悲しいこと。嬉しいこと。嫌なこと。

 様々な経験を経てウマ娘として成長し、彼女たちがドリームトロフィーリーグへの移籍の際に「悔いのないトゥインクルシリーズだった」と思えるようにしたい。

 

「だが、ある程度働いたら、後は自由に見て回りなさい。君にも友達がいるだろう」

「友達……」

 

 ……小さく口を開けて上を見つめているが、誰と一緒に回るか考えてるんだろうか。

 この表情アプリでもしてたけど、やっぱり宇宙猫みたいで可愛いね。

 

 

 

「……え、あの相談って……」

「ん? 嫌か、ホシノウィルム」

「ホシノウィルム先輩ならば、問題なくこなせるものと考えますが」

「あ、いえ、何も……なんでもないです……いえ、やります。やりましょう!」

 

 ホシノウィルムの態度に若干引っかかる部分はあったが、相談所という草案は採択された。

 彼女は嫌なら嫌だとハッキリ言ってくれるはずなので、そんなに嫌だったわけではないんだろうが……どうしたんだろう。

 まさかコミュニケーションに秀でたホシノウィルムに限って、知らない人と楽しく話す自信がなくて嫌だと言いかけたけど、ファンのためだと腹を括ったとか、そんなわけないしな……。

 

 

 







 秋のファン大感謝祭はアニメには出てきて、アプリにはほぼ出てこないイベントです。ルドルフたちが執事喫茶してたヤツ。
 でもホシノウィルムもなんかお祭りあったなくらいにしか覚えてないです。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、大感謝前編、1日相談所の話。



(謝辞)
 この度、本作は50話を越えました。
 飽き性な自分がここまで書き続けられたのは、読者様の感想や評価などの反応、そしてご愛読のおかげです。
 本当にありがとうございました! これからも是非、本作をお楽しみください!

(追記)
 誤字報告を頂き、訂正させていただきました。ありがとうございました!
 「適性」「適正」のミス、よくやっちゃいます。ぱっと見で間違ってるとわかりにくくて……。
 これからも誤字報告などいただければ、すごく助かります。


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行列のできるウィルム相談所

 ネタバレ:行列はできない。





 

 

 

 秋のファン大感謝祭でホシノウィルムが出す企画は、相談所に決まった。

 その名も、『ウィルム相談所』。……すっごい直球で捻りのない名前になっちゃった。

 来てくれたファンの方1人1人のお悩みを聞き、それに答えながらコミュニケーションを取る、っていう企画だ。

 ちなみに会話できるお時間は1分で、相談料金300円。お祭りじゃないと許されないとんでもない暴利である。

 

 正直知らない人と楽しく話す自信がなくて嫌だって言いかけたけど、腹を括った。私を支えてくれるファンの皆に、少しでもお礼をしたいからね。

 

 お忘れかもしれないが、私はコミュ障である。

 ……いや、その実、コミュ障ってほどじゃないかもしれないけど。

 

 前世では人と一緒にいるのが苦痛でぼっちだったし、そういう苦手意識がなくなった今世でも……まぁ色々とあって、友達が少なかった。トレセンに来るまでは絶無だったと言っていい。

 だから私には、人とコミュニケーションを取る経験が足りていないんだ。

 コミュ障と言うよりは、コミュ貧とでも言うべきかもしれない。

 

 でも、手前味噌な話になるけど、私は要領が良い。

 思えば前世から、何かに本気で取り組んで失敗したことはあんまりなかった。

 今世でも、自慢じゃないけど、いやごめん嘘めっちゃ自慢だけど、無敗二冠や初のクラシック級宝塚記念勝利まで辿り着けた一因には、トレーナーの実力と共に私の才能もあると思うんだ。

 

 そんな私だから、人とのコミュニケーションも、できないってレベルではない。

 ただ、それは「自分のトレーナー」とか「後輩」とか、相手の立ち位置が明確に定まってるというか……最初からどういう話し方、どういう話題振りをすればいいかわかる時限定。

 急な対応を求められたりすると「あっ、あっ」となってしまう可能性があるわけだ。

 

 ファンという総体への接し方はわかるとしても、その1人1人に対応しなければいけない相談所という形式で、果たして私は『よし、楽しく話せたな!』と思える会話をできるだろうか。

 

 ……と、そんな弱音を出しかけたんだけど。

 

 ファンの皆にお礼をしたいのは事実で、トレーナーが「それで行くか」と言った以上、そこには十分以上にファンを引き付ける魅力があるってことで。

 需要があっても供給が少ないというのは辛いものだ。私も抽選販売とか即売り切れとか市場に蔓延る転売ヤー(ゴミカス)とか、前世で一杯嫌な想いをしてきた。

 そんな私だからこそ、自分を推してくれる方々の需要には積極的に応えていきたいと思ったんだ。

 

 そんなわけで、私は腹を括った。

 こうなったらもうやるしかねえのだ。

 

 そうして、打ち合わせとかトレーニングをこなす毎日が過ぎて行って……。

 その日はあっという間にやってきた。

 

 ……まったく。

 ちょっとヤだなって思うイベントって、なんでこうも早くやってくるんだろう。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ファン大感謝祭当日、朝早く。

 早朝ランニングを終えた私は、中央トレセン名物の嘆きのウロの前にいた。

 

 学園の中庭にポツンとある、中がウロになった大きな木の切り株。

 ここはトレセン学園の生徒が、その負けた悔しさとかトレーニングの苦しさを叫びとして吐き出す、一種のストレス解消スポットなのだ。

 

 ちなみに、この嘆きのウロっていうのは私が勝手に付けた名前である。

 ここ、アニメにも出てたし結構人気なスポットなのに、明確な名前がないんだよね。大樹のウロとかあのウロって呼ばれることが多い。

 

 なので名付けてみました。

 ウマ娘の悔しさとか苦しさが籠ってるから、嘆きのウロ。

 どう、いい名前でしょ?

 

 ……で。

 そんな場所に、何故私がいるかと言えば……そりゃ、理由なんて1つしかない。

 私だって、吐き出したいものはあるんだ。

 具体的には、不安とか言い訳とかゲロとか。

 

 大感謝祭当日。

 ホシノウィルムは、久々に緊張と不安というものを味わっていた。

 

 

 

 大丈夫、窮地なんてこれまで何度も越えて来たんだ。今更これくらい何とでもなる。

 宝塚記念の最終コーナーなんて、脚は折れかけてたしめっちゃ抜かされたしでもっとヤバかったぞ。

 あの時の逆境に比べれば、今の状況なんてゆるゆるだ。突破は容易い。容易いに決まってる。

 そうだ、行ける、私なら行ける、行ける……。

 

 いくら自分に言い聞かせても、緊張と不安が消えない。

 うぅ、楽しむべく来てくれたのに、私が「アッハイ、あっスーッ……あ、そうですね、あ、アッ」みたいなクソ対応しかできなかったらどうしよう。

 

 レースではほとんど不安を覚えたり緊張したりしない私だけど、それはターフの上が私のホームグラウンドだから。

 これでも幼い頃から、起きてる時間の半分以上は走って来たんだ。そりゃ今更緊張も何もない。

 

 だけど今日は、完膚なきまでのアウェー。

 コミュニケーションという、経験のない土俵で勝負することになるんだ。

 その上、絶対に失敗できない。

 何せ今日開催されるのは秋のファン大感謝祭。ファンの皆には、楽しんでもらわないといけないから。

 

 私、本番には強い方って自負はあるんだけど、これでも前もって準備を積み重ね、万全の態勢で事に臨む派なのです。

 一応ミーク先輩を相手に、30回くらい相談所の真似事をして練習こそしてきたけど、気心の知れた先輩と違って、今日来てくれるのはほぼほぼ初対面と言ってもいいファンの方々。

 どこまで練習の成果が発揮できるかは未知数だ。

 そういう意味で、今回は準備や練習のしようのない、ぶっつけ本番の勝負になると言っていい。

 

 よくわかんない人向けに、今の状況を例えるなら……。

 あまり練習も積めないまま、絶対に勝たなきゃいけないダートのG1レースに出るような心境です。

 そりゃあ当然、勝たなきゃって緊張もするし、勝てるのかって不安にも思うわけで。

 

 

 

「……どうしよう」

 

 ボソリと、ウロに言葉を落とす。

 

 どうしようって言ったって、やるしかない。

 だからこそ、覚悟キメて腹も括ったつもりだったけども……。

 それでもなお、不安になってしまう。

 

 ……今世を生きる私には、もう関係のない話に近いけど。

 

 前世の「私」は、人とのコミュニケーションを嫌っていた。

 何故かっていうと、多分単純に向いてなかったんだと思う。

 人と一緒にいると気を遣う。相手に合わせなきゃいけない。こっちから何らかのアクションを取らなきゃいけない。

 それが億劫で、面倒で、一人でいる方がずっと楽だったんだ。

 

 でも「ホシノウィルム」は、そうは思わない。

 確かに気を遣わなきゃいけないかもしれないけど、それは当然の必要経費だし、何より仲良くなればその気遣いすら必要なくなる。

 合わせるのも時には有益だ。一体感も高まるし、そうやって同調する中で相手のことをより深く理解できるようになるし。

 こちらからアクションを取り、相手が反応を返してくれることに、今は楽しさを覚えられるようにもなった。

 

 ホシノウィルムになって性質が変わったのか、あるいは歩さんやネイチャたちによって変えられたのか。どちらなのかはわからないけど……。

 とにかく、今の私は、人とのコミュニケーションをそこまで苦にしない。

 

 ……が、だからこそ、不安になる部分もある。

 

 知らない人と話して、そこで何かしら……昔の「私」を感じたらどうしよう。

 

 まずはこっちが楽しまなきゃ、相手も楽しめない……とは、言わないけど。

 それでも何時間もかかるイベントで、完璧に負の表情を隠し切ることはできないだろう。

 察しの良い人や、観察眼の鋭い人なら、私の表情から不快を見つけ出してしまうかもしれない。

 

 それで、嫌な気持ちにさせたらどうしよう。

 私はファンの皆にお返しをしたいのに、むしろマイナスになっちゃったら。

 

 ……どうしよう。

 

 ぐちゃぐちゃと、悪いことばかり考えてしまう。

 悪い想像が止まらない。

 

 それらを振り切るためにここに来たのに……むしろ悪い方向に転んでいっているような。

 

 

 

 

 

 

「ホシノウィルム」

 

 ぴくりと、反射的に体が震えた。

 背後からかかった聞きなれた声に、私は慌てて表情を取り繕い、振り向く。

 そこにいたのは、薄いオレンジ色の朝日に照らされた、私のトレーナー、歩さんだった。

 

「トレーナー……」

「ここにいたのか。何かあったか」

「いえ。……ただ、ファンの皆に楽しんでいただけるよう、色々と考えていました」

 

 嘘は吐いてない。

 

 この不安を切り捨てて行かないと、私は今日の企画、上手くこなせないかもしれない。

 だからここまで来て、それを吐き出そうと思ってたんだ。

 

 ……でも、実際に来てみると、私の不安はなかなか言葉にならなかった。

 

 レースに勝つのは、そう難しいことじゃない。

 誰よりも速くゴールに駆け込めば、問答無用で勝てるんだから。

 でも、コミュニケーションを楽しみ、楽しませるっていうのは、難しい。

 初めて会った人の波長にアドリブで合わせて会話をしなきゃいけない。それは不慣れな私からすれば重労働だってことは容易に想像できて……。

 果たして私は、それを楽しめるだろうか。そしてファンをきちんと楽しませることができるだろうか、って。

 

 纏めるとそういうことになる……のかな。

 感情がぐちゃぐちゃで、正直自分でもよくわからないんだけど。

 

「珍しいな、君がそこまで不安がるのは」

「え、不安……」

「ずっと君を見て来たんだ、それくらいはわかるさ」

 

 ……か、隠してたつもりだったのに。

 思わず、顔が熱くなる。

 

「そうして素直に感情を出す君も良いと思うぞ」

「あ、ちょっ、見ないでください!」

 

 トレーナーの腕を引っ張って後ろを向かせて、両腕を掴んで振り向かせなくする。

 

 ……うぅ、油断した。

 いやもう別に、トレーナーになら感情見せても問題はないんだけどさ。

 でもあれよ、恥ずかしいもんは恥ずかしいのよ。超絶恥ずかしいのよ。

 

 私の素顔は、ずっと隠してきたんだ。ずっとずっと、大事に隠してきたんだよ。

 理屈の上では見せていいとか、そういうんじゃなくてさ。

 例えるなら、それは裸と一緒。

 不意に見られたら、そりゃもうすっごく恥ずかしいんだって!

 

「はぁ、もう、えっと……何の話でしたっけ。

 ああそう、不安なんて……」

 

 誤魔化そうとして、もう誤魔化す意味もないことを思い出す。

 私の地を、素顔を少しだけ知ってくれてる、唯一の人だもの。

 不意打ちならともかく、ちゃんと話せる場なら、今更弱音を隠す必要なんてない。

 今の私には、支えてくれるトレーナーがいるんだ。いっつも頼りっぱなしで申し訳ないけど、今は弱音を吐き出させてもらおうか。

 

「いえ、確かに、私は不安を感じています。無事に今回のイベントで、責務を達することができるか」

「成程。不安に感じることはないと思うが」

「……私はトレーナーが思っているほど、人とのコミュニケーションが得意ではないのです」

「そこまで好きでも得意でもないが、決して苦手ではないだろう?」

 

 うわ、そこまで見抜かれてるのか。

 思いの外、トレーナーは……私をよく知ってる。見てくれてる。

 

 確かに、苦手ってほどではないかな。

 私が苦手なのは、それこそトレーナーに……恋愛的なごにょごにょすることくらいだし。

 

 ……でも他人の相談に乗るのは、ほんのちょっとだけ苦手かもしれないんだよね。

 後輩ちゃんたちの相談も、ちゃんと解決できてる気はしてなかったし。

 ただ表情と声で話せるように誘導、相手が求める反応と、それに反しない程度のアドバイスを送って、それからトレーナーにも相談して色々と対策を取ったくらいだ。

 その多くは、抜本的な解決ができたわけじゃない。革新的なアイデアなんてそうは浮かばない。

 良いトレーナーと巡り合えないって子には、トレーナーに相談して、その子に合いそうなトレーナーさんを紹介とかしてあげられたけど……大半は話を聞いて、表面的な対策を提案したくらいだ。

 それなのに、ブルボンちゃん曰く高評価貰えてたらしい。なんで?

 

「それでも……上手くファンの皆さんの相談に乗れるか、不安です。

 きちんとその場で解決策を思い付かないと、会話も弾まないかもしれませんし……」

「……? あぁ、成程、そうなるのか」

「はえ?」

「いや、別に相談に乗るからと言って、解決する必要はないぞ?」

 

 ……???

 

 え、いや、でも、相談ってどうしていいかわかんないからするんだよね?

 解決する必要はないって、なんで?

 

 困惑のあまり、彼の両腕を離してしまった。

 するとトレーナーは振り向き、しっかりと私の目を見てくる。

 うっ……視線がくすぐったい。

 トレーナーは誰かと話す時、必ずじっと目を見るんだけど……彼に惚れてる身からすると、ちょっと恥ずかしいんだよね、これ。

 

「相談というのは大概の場合、話を聞いて欲しいか、背中を押して欲しいか、だ。

 想定外の解決をできなかったら駄目ってものじゃない。相手に寄り添ってきちんと話を聞き、失礼にならない程度に自分の思ったことを言えばいい」

「いえしかし、せっかく相談してくれたというのに……」

 

 頭に、温かな手が置かれる。

 差し込んでくる陽射しが眩しい。思わず目を細めて見上げると……トレーナーは、仕方なさそうに笑っていた。

 

「気負うな、ホシノウィルム。

 君は確かに、多くの人から期待されるウマ娘だ。

 ……けれどそれ以上に、まだ年若い中等部の子供に過ぎない。何かをしなきゃいけないよりも、まずは何をしたいか、何を楽しく思うかを優先しなさい」

 

 ……気負って、たんだろうか、私は。

 確かに、思えばファンの皆を楽しませなきゃいけない、相談を解決しなきゃいけないって考えすぎてた気がする。

 

 やりたいこと優先……か。

 

「……トレーナー」

「うん」

「私、誰かとコミュニケーションを取るのは、苦手ではありませんが、得意でもありません。

 はっきり言って、気が重いです」

「そうか。……すまない、負担を強いたな」

「いえ、私もすべきだと思ったのです。だからお気になさらず。

 ですが、それだけ担当が頑張るのですから……『ご褒美』があっても良いとは思いませんか?」

 

 言うと、トレーナーは驚いたように固まり、少し考え込んだ。

 

「そうか、そういう選択肢もアリなのか。

 ……うん、良いだろう。せっかくだから、久々の勝負と行こうか。

 君がこの大感謝祭で、最後までファンを楽しませながら、自分も楽しんで過ごせるか。

 もし君にそれができたら、『ご褒美権』を贈ろう」

「やった」

 

 楽しく過ごせるか、ね。

 「失敗しない」じゃなくて「楽しむ」。トレーナーが優先してるのはそっち側なんだろう。

 

 気負わず、楽しむ……。

 そうだよね。

 せっかくのお祭りなんだし、精一杯楽しまないと嘘だ。

 

 ……お祭りを楽しむ、なんて前世ぶり。

 本当に……本当に、久しぶりだ。

 

「さて、そろそろスペースの設営に行くんだが……手伝ってくれるか?」

「当然です。私の企画ですから!」

 

 いつしか不安も緊張も、朝日の中に溶けて消えていた。

 

 さぁ……相談所、開設!

 アドリブのぶっつけ本番勝負、行くぞー!

 

 

 

 * * *

 

 

 

 こういう言葉がある。

 

 案ずるより産むが易し。

 

 私は今、その言葉を、強く強く痛感していた。

 

 

 

「あっその……えっと、おっ、おえっ」

「嘔吐ですか? 袋、ありますよ」

「だ、大丈夫ですっ! あ、いやそうじゃなくて、その、お、応援してます!」

「なるほど。いつも応援、ありがとうございます」

「えっ、え、笑顔……! 本当に笑ってくれるんですね……!?

 ライブ以外はいつも無表情クール系なので……ていうか近くで見るとやっぱり顔が良いっ!」

「どや、我ながら自慢の顔です。……さて、そろそろご相談をどうぞ」

「あっそうでした! えっと、最近ダイエットしてるんですけど、どうしても欲望に勝てなくて……」

「そうなのですか、それは……大変ですね。私はどれだけ食べても太ったことがないのでお気持ちはわかりかねますが」

でで、出たっこんなところでも無自覚最強発言……! 強すぎる、録音して目覚ましにしたい……!

「無自覚最強……?」

「あっいえすみません、お気になさらずっ!」

「ダイエット、ですよね。ぜん……いえ、一般論になりますが、食べる量を少し減らし、運動する量を少し増やすことから始めるといいかもしれません。

 ダイエットと言うと辛いイメージがありますが、自分の生活基準を少しずつズラすイメージで行うと、そこまで苦労もせず、自然と体重を落とせるはずです」

「おおおぉ! これが龍のダイエット法……! 早速身内で共有しなければ!」

「いや、あくまで一般論ですよ? ……一般論ですからね?!」

 

 

 

 私は1つ、大事なことを見落としていた。

 

 トレセン学園のファン大感謝祭は、そもそも入場自体がとても倍率の高い抽選制。スターウマ娘と触れ合えるってこともあり、入場チケットもなかなかの金額らしい。

 中で行われているのは学園祭みたいなものだが、外から来る時は前世におけるライブイベントに近いものがある。

 だからこそ、ある程度民度は保証されるっていうか……ぶっちゃけ、私たちウマ娘が大好きな人しか来ないんだ。

 

 皆、ただお話するだけだっていうのに、すごく楽しんでくれる。

 そしてそんなファンの反応を見ているだけで、自然とこっちまで楽しくなってくる。

 

 ……本当、案ずるより産むが易し。

 楽しみ、そして楽しませる。やってみれば、案外難しいことじゃなかった。

 

 

 

「こ、こんちは~……ってうわ、マジで本物ホシノウィルムじゃん……!」

「こんにちは、本物ホシノウィルムですよ。偽物ホシノウィルムと思いました?」

「あ、いや、なんかすんません。……うわすげー、やっぱオーラあるってゆーか」

「そうでしょう? 何せ無敗二冠ウマ娘ですから。どやぁ」

「あー……なるほど、やっぱそーいう」

「そういう……?」

「いや、何でもないっす。

 そんで早速相談なんすけど、実は幼馴染のウマ娘が中央トレセン入りたいって言ってて、俺もなんか力になってやりたいんすよ。ウマ娘視点で、されて嬉しいこととかってないっすかね?」

「なるほど……。ひとえにウマ娘と言っても十人十色ですが、やはり自分のことを理解し、寄り添ってくれる方がいるのは大きいと思います。どうかその子に優しくしてあげてください」

「優しくはしてるつもりなんすけど、なんかすぐキレるんすよね。何が駄目なんすかね」

「どういう時に怒るんですか?」

「俺がクラスの他の女子と話したり、ウマ娘のレースの中継見てるとキレるんすよ。

 ……あ、実は今日も内緒で来てるんで、もしアイツが来ても、俺が来たってことは内緒で頼んます」

「あーそれは……うん、私から言えることは何もありません。どうかその子のことを幸せにしてあげてください」

「え? あ、はい。まぁアイツの幸せは願ってますが。

 ……あ、そうだ、もし良ければサインもらっていいっすか、アイツホシノウィルムさんの大ファンなんで、喜んでくれると思うんすよ」

「…………偶然会って、サインをもらってすぐ別れたってことにしましょう。それならきっと喜んでくれますよ」

「え? あー、はい。了解っす?」

 

 

 

 私は無敗二冠ウマ娘ってこともあり、当然と言うべきか、企画には長蛇の列ができるくらいのファンが詰めかけてきてる。

 ……実際には、長蛇の列はできてないけどね。

 

「整理券44番の方、テントへどうぞ! ……あ、はい、『ウィルム相談所』はこちらです。そちらの発券機で整理券の方を。料金300円となっております。

 はい、整理券を取ったら、そちらのベンチへどうぞ。まだ陽射しも強い中なので水分補給はお忘れなく、あちらの案内板を見てお待ちください。

 ……すみませーん、現在1時間待ちとなっております! 12時から14時はお昼休憩となっておりますので、ご注意ください!」

 

 私たちのいるテントの外では、トレーナーが迫り来るお客さんを整理してくれてる。

 

 トレーナー、なんと自前で整理券の発券機とか用意して、効率的にお客さんを捌いてくれてるのだ。

 ありがとう、本当にありがとうトレーナー、すごく助かります。

 でもちょっと本気すぎませんか。学園からベンチとかテントを借りるのはともかく、わざわざ発券機とか発電機までレンタルしてくるのはビビるって。

 

 ……まぁそうでもしないと、この人数のお客さんを捌くは難しかっただろうけど。

 テントの外には、優に50人を超える人たちが待ってくれている。

 列で並んでもらってたら……今日は綺麗な日本晴れだし、相当辛い時間が続いてただろう。

 カップルで夢の国に行くとあまりの待ち時間の過酷さに別れがちって聞くし、トレーナーによる設営がなければ、多少なりとも雰囲気が悪くなっていたかもしれない。

 

 こんなとこまで全力サポートしてくれるトレーナーには感謝するしかないな、ホントに。

 むしろご褒美権を渡すべきは私なのでは? ウィルムは訝しんだ。

 

 

 

「ヒョワェェェェエエ! あの、あのホシノウィルムさんが目の前にぃぃぃいい!」

「落ち着いて、深呼吸しようか。はい、吸ってー、吐いてー」

「すーっ……はーっ……うわすごい良い匂い、グッドスメル超えてゴッドスメル……! これが在り得べからざる神話の香り、現代に舞い降りた女神の一柱……!

「なんて?」

「あ、へ、へへ、すみません動揺が、その、すぅうっ、へへへ、抽選をすり抜けて来てみたはいいものの、まさかご本人、すぅぅぅうううっ、いえ御本尊と一対一でお話できるとは思わなくて! ……あっ過呼吸で頭が」

「大丈夫だから、一旦落ち着こうね。

 ……いや、もうお話しながら緊張を誤魔化そうか。持ってきてくれたご相談は何かな?」

「あっ、フヒ、えっと、あっあたし、見ての通りウマ娘なんですが、どっちかと言うとウマ娘ちゃんたちの頑張る姿を見るのが好きでして! レースもウイニングライブも、観客として楽しんでたんです。

 ですが、ですがッ! もう遠くから眺めているだけでは満足できなくなってしまったのです!

 もっと近くで、レースを走るいと尊き姿を見たいッ! 傲慢にも、そう思ってしまうのですッ!

 私は一体どうすればいいのでしょうか……ッッッ!?」

「……なるほどね。わかるよ、その気持ち。

 推しを、味わいたい。その想いは誰にも止められない」

「ウェエエェェエェ!?!? まっ、まさか……まさかまさか、同志でいらっしゃるのですかァ!?」

「最高の推しで、最高のライバルで、最高の友達がいるから……細かい宗派は違っても、広義においては同志だね。

 でもこれ、トップシークレットだよ。言いふらしたりはしないように。

 そして解決策は簡単だ。君も一緒にレースを走って、誰より近くで推しと、推しとのレースを楽しめばいいんだ。

 君もおいで、最高のウマ娘たちと最高に熱いレースを楽しめる、トゥインクルシリーズに」

「あばばばばば、こ、これは夢……!? まさかホシノウィルムさんが同志だとは……!!

 しかも、しかもしかも! トゥインクルシリーズにご招待されて!! あのホシノウィルムさん本人から、直接に!?!?

 ま、マズい、天に召され……アッ」

「あ、倒れちゃった……どうしよう」

「1分が経過。お客様を保健室へと運搬します」

「ごめんねブルボンちゃん、頼んだ」

 

 

 

 協力してくれてるのは、トレーナーだけじゃない。

 後輩であり、まだ大感謝祭に参加する義務もないブルボンちゃんまで手伝ってくれている。

 彼女の役割は、テントの中での私の補佐だ。こうして何か問題が起きた時なんかに、その対処を手伝ってくれる。

 ……まさか、頭に血が上り過ぎて気絶するウマ娘が現れるとは思いもしなかったけども。あのピンク髪のウマ娘ちゃん、大丈夫かなぁ。

 

 他にも、ブルボンちゃんは体感時間がめちゃくちゃに正確なので、相談所の1人につき1分という制限時間もピッタリ計ってくれたりもしてる。

 お客さんの前でタイマーを動かしたりするのはちょっとイメージ悪いので、何気に助かってる。

 

 

 

 ブルボンちゃんが小さなウマ娘ちゃんを運んでいったことで、私はテントの中で数時間ぶりに1人きりになった。

 

 足元に置いてた水の入ったペットボトルを拾い上げて、口元に運ぶ。

 

「……うま」

 

 久々に飲んだ水は、何故だかすっごい美味しかった。

 おお、これが甘露ってヤツか……。

 

 ……うん、ただの水を美味しく感じるくらい、しっかり疲労してるってことだ。

 

 ファンの皆との交流は、ぶっちゃけすごく疲れる。

 何せ今日来てくれるのは、ファンの中でも特に気合の入った人たちだ。

 皆、熱がすごい。そりゃもう、熱波にやられそうになるほどすごい。

 中にはレースの時のウマ娘かってくらいの、圧巻の熱量をぶつけてくる子もいる。さっきのピンク髪ちゃんみたいにね。

 

 それを真正面から相手すれば、自然と私もテンションを吊り上げられてしまう。

 結果として、かなり疲れちゃうんだ。

 

「……ま、その何倍も楽しいからいいんだけどね」

 

 現実にいるファンと交流するのは、楽しい。

 

 本当、その一言に尽きる。

 

 

 

 知っていたはずだ。

 ファンは確かにそこにいるって。レース場で走り終わった後、毎回見ているんだもの。

 それでも、どこか実感がなかった。

 私を推してくれるファン、その1人1人が存在するんだっていう実感が。

 

 ……でも、今回でよくわかった。

 

 皆、生きてる。

 それぞれがそれぞれに生きて、そこにいる。

 そして、私を見てくれている。

 

 こんなに嬉しいこと、他にないよ。

 

「さ、トレーナーに、次の人どうぞ、っと」

 

 だから今、この瞬間だけは……。

 レースも、トレーニングも忘れて、楽しむとしようじゃんか。

 

 

 







 大感謝祭はあと2話くらい続く予定。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、大感謝祭中編、お祭りを回ろうの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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ここかァ、祭りの場所は……

 短く書くの下手すぎて全然展開が進まない苦悩。
 宝塚からもう15万字以上書いてるという事実に震えてる。


 

 

 

「トレーナー、あれ、あれ行きましょう!」

「待て待て、ホシノウィルム、いやホントに待て、腕が千切れる」

 

 担当に肩が外れる勢いで腕を引かれ、俺は慌てて脚を動かす。

 ウマ娘の力ってすごい。ちょっとはしゃいで引っ張っただけでこの力だ。

 流石、前世では「馬力」という単位のあった生物の……生物の、何?

 冷静に考えると、ウマ娘って馬にとっての何なんだろう。この世界では二次元の擬人化キャラってわけでもないんだろうし、魂を継承した別生物?

 

 まぁそれはさておいて、このままじゃ肩が外れるか骨が折れるかの二択。

 何はともあれ注意しなければ。

 

「せめて握るのは逆の手にしてもらえるか? 右手が逝ったら業務に差し障るので……」

「あっ、す、すみません」

 

 何故かちょっと顔を赤くして、繋いだ手を離すホシノウィルム。

 うん、冷静になってくれたようで何よりだ。

 いくら競走ウマ娘と言っても、傷害事件とか起こすのは問題だからね。

 この子は中等部の女の子なわけで、お祭りを前にしてはしゃぐのはおかしなことじゃない。そんなに顔を赤くして恥ずかしがる必要はないが……トレーナーとして注意はしておくべきだろうな。

 

「君はウマ娘だ。俺はいいが、他の人に対しては優しく、な?」

「はい……」

 

 人に優しく。

 それは、この世界でウマ娘が一番最初に教え込まれることだ。

 

 ウマ娘は人間とほぼ同じ体型、体重でありながら、筋力や頑健さは人間を遥かに超えるフシギ存在。

 敢えて冷たい言い方をすれば、あくまで限りなく近いだけの別種族なんだ。

 そして、だからこそ。俺たち人間とウマ娘が共生するには、相互の歩み寄りが不可欠と言える。

 特に人間よりも性能的な側面で上位に立つウマ娘が暴走すると、人間は寄ってたかってそれを止めなくてはならなくなる。

 そうなれば、相互の信頼関係は瓦解しかねない。最も避けるべき可能性だ。

 

 そんな事態に陥らないよう、この世界は前世に比べ、倫理教育が更に徹底しているように感じる。

 決して悪い子に育たないように。あるいは癖のある子に育ってしまったとしても、その根底には善性と隣人への理解・友愛を持てるウマ娘になるようにと、幼少の頃から、しっかりと教育を受けるんだ。

 

 勿論これは、ウマ娘に対して数で圧倒的に勝る人間側も同じだ。

 隣人愛は、この世界の基本中の基本。

 恐らくこの道徳教育の方針も、この世界の人間やウマ娘に善性の存在が多い原因の1つなんだろうと思う。

 

 でも、逆に言うと……。

 この世界で他者を傷つけることは、前世よりも更に忌避されている、とも言える。

 よりにもよって無敗二冠、最強格と目される大スターが人間の骨を折った、なんてニュースが広がれば、それはもうとんでもないスキャンダルになる。

 俺なら事故ってことで済ませられるけど、もしもファンの方に被害を出してしまうと庇うことも難しいからな。

 窮屈な思いをさせて申し訳ないけど、ホシノウィルムには抑えてもらうしかないんだ。

 

 ……とはいえ、今日はお祭りだ。

 叱ってばかりじゃいられないよな。

 

「ほら、目的はあの出店だろう? 行こうか」

「っ、はい!」

 

 

 

 今日は大感謝祭、当日。

 

 俺とホシノウィルムは、なんやかんやあって、一緒に祭りを見て回っていた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 本日のホシノウィルムのお仕事は、トレーニングやレースではなく、『ウィルム相談所』。

 たくさんのお客さんの相談を聞き、コミュニケーションを取ることだ。

 

 ……だが、ホシノウィルムがそれを受け入れていたかと言うと、どうやらそうではなかったようで。

 

 朝、彼女は珍しくナーバスになり、大樹のウロの前でぼんやりと物思いにふけっていた。

 振り向いた顔は僅かに目尻が下がり、いつもは合う視線もどこかすれ違っている。

 

 ホシノウィルムは、コミュニケーションに長けたウマ娘だ。

 俺の前では理性的だが多少甘え気味に、友人の前では少しだけ砕けた態度で、ファンの前では笑顔で優しく、後輩の前では寛容かつ親身に、インタビューでは歯に衣着せず強者として。

 彼女は対面した人物や出来事によって、その仮面を切り替える。

 そのどれが本物というわけじゃなく、全てがホシノウィルムの一面なんだろう。意見が変わるのではなく、その言い方や表し方を変えていくわけだ。

 

 どんな人間や出来事に対しても適切な対応ができるというのは、実のところなかなか得難い能力だ。

 だからこそ俺は、彼女は誰かと話すことを得意にしていると思った。

 これまで誰かと話すことを苦にしている様子もなかったし、相談所に関しても問題ないと判断していたが……。

 

 その実、ホシノウィルムは大きな緊張を感じていたわけだ。

 

 彼女は想像以上に、人との関わりに慎重だった。

 ただの学生のイベントだって言うのに、客やファンの方々のことを考え過ぎて……。

 楽しむべきお祭りで、他のウマ娘がレース前に感じるような緊張を抱いた。

 

 それだけ彼女は優しいウマ娘であり、同時、ファンに恩を感じていたんだ。

 宝塚記念で、彼女は決定的に変わった。

 あの瞬間、彼女があの走りをできたのは、きっと多くのファンの方々の声援によるものなんだろう。

 だからこそ、ファンの方々に恩返ししたいと思った。

 なんとしてでも楽しんでもらわなければと、強く強く想った。想い過ぎてしまった。

 その気負いを察することができなかったのは、俺の不徳の致すところだ。後でしっかり反省しよう。

 

 

 

 だけどそんな彼女も、最終的には笑顔を見せてくれた。

 

 12時の昼休みに入り、俺が声をかけてテントに入った時。

 ファンの熱に当てられたか汗をかきながらも、「午前中、とても楽しかったです!」とあどけない笑顔で言ってくれたんだ。

 

 今のホシノウィルムに必要なのは、とかく多くの人に愛される経験だ。

 これまでの人生で愛というものを知らなかった彼女にとって、評価され、好まれ、愛されるという経験は重要なもの。

 それは呪いを破り広がり始めた彼女の世界を、もっともっと広げてくれるはずだ。

 

 だからこそ、ファンと直接触れ合える「相談所」というブルボンの企画を通したわけだ。

 一度は酷い読み間違いで彼女を追い詰めてしまったものの、その結果は実を結びつつあるらしい。

 

 ブルボンも無事に大感謝祭を一緒に回る友人を見つけたみたいだし、取り敢えず今のところ、俺の担当は2人とも大感謝祭を楽しんでくれている。

 うん、良かった。

 ホシノウィルムもミホノブルボンも、それぞれ違う意味で人生経験が豊かでないウマ娘だ。

 走ること以外にも色んな経験を積んで、良い競走人生を送ってほしい。

 

 

 

 

 

 

 ……で、そこまでは良かったんだけど。

 

 ホシノウィルムの直後の言葉は、俺の想定の外にあった。

 

「じゃあ行きましょう、トレーナー!」

「え?」

「え? じゃなくて。昼休みの間に一緒に回るんですよ、大感謝祭!」

 

 ……なんで?

 

「いや、俺のことは気にしなくていいから。君は友達と一緒に回って来なさい」

「ネイチャもテイオーも企画やってるらしいですし、ブルボンちゃんはサクラバクシンオーさんとかニシノフラワーさんと一緒に回ってるらしいですし、こういう日に後輩ちゃんたちの中に入るほど私も無作法じゃないですし、他に友達っていうほどの友達もいませんし」

「うっ」

 

 なんだその悲しい……うわ、前世の学生時代の記憶がフラッシュバックする!

 これは、この記憶は……友達が皆他の友達と一緒に回るって先約付けてて、微妙な空気にもしたくないから交ざることもできず、微妙に寂しい思いをしながら1人で回った高校1年生の時の文化祭!?

 あまりに物悲しいが故に忘却の底に封じていた記憶が、ふと蘇ってしまった。

 くっ、担当にあんな想いを抱かせるわけにはいかない……!

 

「……一緒に回ろうか、ホシノウィルム」

「はい!」

 

 そんなわけで俺はホシノウィルムと一緒に、ファン大感謝祭を回ることになったのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「まずは何か食べましょう。この香ばしい匂いに身を任せて!」

「テンション高いね今日は。……お、あれは」

「たこ焼きですね。良い匂いです……」

「企画担当は白い稲妻、タマモクロスか。綺麗に焼くものだな、すさまじい手並みだ」

「……そういえば、あのたこ焼きをひっくり返す針みたいなの、何て言うんでしょうか。やっぱりカタカナのカッコ良い正式名称があったり?」

「たこ焼きピックだ」

「え?」

「これと言った正式名称はないが、最も誤解なく広く伝わるのはたこ焼きピックだろう。

 一応千枚通しとかアイスピックとも言われるが、たこ焼きピックの方がずっと伝わりやすいだろう?

 なので、現時点においてあの器具を示す最も人口に膾炙した名称はたこ焼きピックだと思われる」

「……なんか想像以上に詳しいですね。なんでそんなこと知ってるんですか?」

「教養」

「きょうよう……」

「トレーナーとしての教養」

「ウマ娘のトレーナーって難しいんですね……」

 

 嘘。前世で得た知識です。

 

 さて、ちょっと並んで買ったたこ焼きは、12個のパック2つで24個。

 人間2人で食べるには多い量だが、俺の隣にいるのはウマ娘。これくらいが適切な量だろう。

 

 2人で近くのベンチに座り、ゆっくりとアツアツのたこ焼きを口に入れていく。

 

「はふ、はふっ……うん、美味しい!

 たこ焼きって独特な感触と青のり、鰹節、ソースが美味しくて、時々食べたくなりますよね」

「そうだな……とは言っても、俺が前回食べたのはずっと前だが」

「え、そんなに……あ、でもそういえば私も……」

 

 たこ焼き、実は前世ぶりに食べた。

 今世では繊細な味わいと保存食に慣れ切ってしまってたけど、やっぱりこういうジャンクな味も良いよね。粉物、前世で好きだったし。

 

「ところで、ピンクの髪の小さいウマ娘が来ただろう。君から見てどうだった?」

「え? どうだったかと言われると……そうですね、少し感じるところはありましたが」

「ほう、やはりか。年齢的に君とトゥインクルシリーズで当たるかはわからないが、あの子は恐らく伸びてくるぞ」

「あ、そっち方面で……」

 

 今日来てくれたお客さんの話なんかをしながら、俺たちはしばらくの時間を共にした。

 

 ……ちなみに、2パック24個の内、18個くらいはホシノウィルムの胃に収まった。

 うん、今日も食欲旺盛なようで何よりだ。午後からも頑張らなきゃいけないから、少しでも英気を養って欲しい。

 

 

 

「あれは何ですかね? 射的?」

「射的だな。最強マイラーことタイキシャトルの企画らしい。

 よくある、撃ち落としたら景品が貰えるルールのヤツだ。……あ、君のぱかプチもあるな」

「トレーナー、やってみてください!」

「あー……うん、じゃあやってみるけど、期待はするなよ」

 

 奮闘の結果。

 4000円使って、ちっちゃいお菓子の箱が1つ取れた。

 

「……想像を超える下手っぷりですね」

「射的の練習はしたことがないから……」

「いや、うーん、にしてもこれは……ちょっとやらせてください」

 

 ホシノウィルムは銃を構え、まず1発目は狙ったお菓子の少し下に逸れて外した。

 

「む……なるほど」

 

 そして2発目、綺麗に大きめのお菓子を撃ち落とし。

 3発目で、自分のぱかプチを撃ち落とした。

 

「……すご」

「ふふん、私天才なので。……このぱかプチはトレーナーにあげます」

「いいのか? ありがとう」

「私と思って、大事にしてくださいね」

 

 大きくて笑顔を浮かべた、勝負服のホシノウィルムぱかプチ。URA謹製のぬいぐるみだ。

 

 ……うん、実はこれ、2つ目なんだけどね。

 ぱかプチ、というかウマ娘のグッズは、URAの企画制作部から担当トレーナーに、販売前の確認のために送られてくる。

 だから俺、ホシノウィルムの公式グッズは全種類持ってるんだよね。勿論ぱかプチも。

 小さいのと大きいの、制服と勝負服、普通の顔とにっこり笑顔の組み合わせがあり、トレーナー寮の自室にはそれぞれのパターン、合計8つのぱかプチが棚に並んでいる。

 

 とはいえ、これはホシノウィルムからの気持ちだ。ありがたく受け取ろう。

 しかし彼女と思って大事に、か……。埃を被ったりしないよう、ガラスケース買わないとな。

 

 ……でも、そろそろホシノウィルムグッズが部屋から溢れる頃合いだ。捨てるのは忍びないし、どこかの倉庫借りるか、実家に送るかしないとなぁ。

 

 

 

「ネイチャは友人と組んで、小規模なカフェを開いてるそうです。まだお腹の余裕があるなら行ってみませんか?」

「いいぞ、行ってみるか」

 

 そんなわけで、次の目的地はネイチャの開いたカフェ。

 ……カフェ? これカフェというか、メニュー見てる感じ、ちょっとした定食屋? というかお酒のない飲み屋じゃないこれ?

 

 しかしそのオシャレさ皆無の中身とは裏腹に、教室を1つ使ったそのカフェはめちゃくちゃ混んでた。なんなら行列までできてる。すごい人気だ。

 中からはお客さんの歓談の声と共に、スタッフであろうウマ娘たちの悲鳴が聞こえてくる。

 

「ちょ、誰かジュース買ってきて!」

「ジュースって何!? 炭酸!?」

「オレンジ! あと紙コップも足りない! あ、お箸も余裕ないからお願い!」

「誰か会計ヘルプ入って! あとアンケート足りないって!」

「回せる人手ないって! デイジー探して呼び戻して来て!」

「煮込みあと何分!?」

「そんなぱっと終わるわけないでしょ! あと16分!」

 

「からかい半分に来たんですけど……思いの外大人気ですね」

「午前中に聞こえて来た噂だと、牛筋煮込みと串カツが学生のクオリティじゃないらしい」

「……渋すぎません?」

「ナイスネイチャは確か、親がバーを営んでいるという話だったからな。料理も上手いんじゃないか」

「あー……ちなみにトレーナーは、料理のできる女の子って魅力的だと思います?」

「料理に限らず、できることが多い子は魅力的だとは思う」

「あ、はい、そうですよね……」

「まぁでも、競走ウマ娘に限って言えば、君のように走りに特化した子もいいと思うぞ。トレーナーとして、非常に支え甲斐がある」

「うぅ……それじゃ駄目なんですよねぇ」

「?」

 

 彼女はがくりと肩を落としてしまった。

 ホシノウィルムは走ることに特化していたからこそ、ここまで飛びぬけて強いわけで、俺としてはそれを否定する気はないんだけどな……。

 

 結局、そこまでお腹も空いていないし、列に並ぶ時間がないので、ネイチャのカフェは様子を窺うに止めて次の企画に向かった。

 

 

 

「テイオーはダンスライブですね。……そう言えば、テイオーのダンスをしっかりと見るのは初めてかもしれません」

「君の隣で2回も踊っていたが」

「ウイニングライブの時は、横を見ている余裕がありませんから」

「そういうものか。……では、せっかくだし見に行こう。ちょうどもう少しで始まる頃合いだ」

 

 ダンスライブが開催される体育館には、既に溢れんばかりのお客さんたちが押し寄せていた。

 少し待つと照明が暗くなり、トップバッターを任されたテイオーのダンスが始まる。

 

『まっすぐな目で こっち見ないで

 かわせない 逃げられない

 こんな時 どうすんの?

 恋の経験値 ギミギミギミギミ!』

 

 ……すごいキレだな。あまりダンスには詳しくないけど、これ普通にプロ級なのでは。

 いや、彼女たちはレースとライブで集客してるわけで、ある意味間違いなくプロではあるんだけど。

 

『覚悟 決めて 勝負しなきゃ

 明日? やだね、今すぐ! Step it!』

 

「……見事なものです。勝負の内容がダンスなら、今の私では勝てないでしょうね」

「君も綺麗にウイニングライブをこなしていると思うが」

「こればかりは、才能の違いですね。ダンスの才能で見ると、私よりテイオーの方が秀でている。

 今の私でもある程度はこなせるでしょうが、テイオーのような独自性を含んだダンスはできません」

「ほう。君にしてはあっさりと負けを認めるな」

「は? 負けてませんが。

 現段階で勝てないとしても、あと100……いや、50時間くらいちゃんと練習すれば勝てますし。現時点で劣っているというだけで、まだ勝負の舞台に立ってないので全然負けてませんが」

「あ、うん、そうだね」

 

 

 

 ダンスライブを見終わり、そこらの屋台を見て回る内、一風変わったスペースを見つけた。

 

「あれは……ゴミ捨て場?」

「気持ちはわかるが、そう言ってやるな。マチカネフクキタルの開運占いショップだな」

「いえ、でも……その、粗大ゴミ……」

「いや、あれも彼女なりの開運アイテムなんだよ。多分」

「なんか扉の上半分がなくなった冷蔵庫とかありますけど」

「恐らく何かの開運アイテムなんだろうな……」

「あのバキバキに割れた勉強机も?」

「……うん」

「しかもフクキタル先輩、なんか泣いてますけど」

「なんでだろうね……」

 

 せっかくなのでゴミ捨て……じゃなかった、開運占いショップにも寄ってみることにした。

 

 ……さて、ここで1つ疑問が湧き出る。

 開運占いショップって何? 占いしてるの? それとも何か売ってるの?

 果たして、その答えは……両方だった。

 どうやらフクキタルが集めた多数の開運グッズ(?)を売ると同時、彼女謹製のおみくじや占いをすることができるらしい。

 

 ちなみに、フクキタル自身は売ることに納得していないようだ。

 寮の部屋から開運グッズが溢れ出そうになったことで、同室の子と寮長がトレーナーに「なんとかしてくれ」と訴え、今回グッズ販売という形で処理することになったらしい。

 試しに小さめのゴミもといグッズを手に取ったら涙目になったので、可哀そうだから買うのはやめておいた。

 これ、処分進まないかもしれないな……。

 

 しかしショップが機能不全を起こしてるとなると、利用できるサービスは……。

 

「おみくじか。君の秋のG1戦線の願掛けでもしておこうか」

「はい。……あ、中吉ですね。『好事魔多し、足元の即死トラップに要注意! ラッキーアイテムはぶっきらぼうなカエル』……? ぶっきらぼうなカエルって何?」

「俺は……超大凶? なんだ超大凶って。

 『空回り、盲目、最悪の1年! ぬおお、最悪の運勢です!! ラッキーアイテムは銀河のストラップ』……」

「あ、おみくじの引き直しで結果を更新できるらしいですよ。『開運初心者限定! 無料で何回でも引き直せるおみくじ!』って書いてます」

「ソシャゲか……?」

「10連続でおみくじを引くと1枚は吉以上確定とも書いてますね」

「ソシャゲだこれ」

「私も大吉目指して引き直そうかな」

「やめておけ」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 思えば、誰かと一緒に祭りを巡るのは……前世の10代以来だから、30年ぶりになるだろうか。

 

 改めて、何の目的もなく歩くっていうのは……なんというか、少しばかり、不安になる。

 

 俺は凡才だ。人の何倍も努力して、ようやく人並になれると思ってる。

 だからこそ、この世界に生まれてからは、決して努力を怠らなかった。

 20年間、ひたすらに堀野のトレーナーとして必要な知識を詰め込み、体力も付けて来た。

 

 だから……うん。

 今、本当に久々に、トレーナー業以外のことをしている気がする。

 

 自分の担当のための調査やスケジューリング、デスクワークをしているわけでもない。

 次回のレースに向けた調査や研究、根回しをしているわけでもない。

 ただホシノウィルムと2人、シュールな出し物を笑ったり、気まぐれに美味しそうなものを食べるだけの時間。

 

 それが、落ち着かない。

 

 やって当然のことをできていない、地に足が付かない感覚。

 まるで鞄を持たずに仕事に向かっているような、週末にすべき部屋の掃除を忘れてしまっているような違和感。

 それがどうにも、心から離れない。

 

 とはいえ、今はホシノウィルムに付き合う時間。

 そんな気配を出すわけにもいかない。いつも通りの表情を取り繕ったつもりだ。

 

 ……だが、どうだろう。

 果たして俺は、それをホシノウィルムから隠し切れる程、演技が上手かっただろうか。

 

 

 

「そろそろ時間だ。戻ろうか、ホシノウィルム」

「……トレーナー」

「ん? まだ何か食べるか?」

 

 振り向くと、ホシノウィルムは少し……寂しそうにしている?

 何故? やはりネイチャやテイオーと一緒にお祭りを回りたかったからか?

 

 どう声をかけるべきか迷っている内に、ホシノウィルムが口を開いた。

 

「楽しかったですか?」

「楽しかった……?」

「私はこの2時間、すごく楽しかったです。トレーナーは?」

「俺は……」

 

 勿論楽しかった、と答えようとして……言葉に詰まる。

 楽しい。最後にその感情を持ったのは、本当に、随分と前のことで。

 

 何が「楽しい」という感覚なのか。

 正直、俺にはよく、思い出せなかった。

 

 ……そして、彼女に嘘を吐く気にもなれない。

 事実を捻じ曲げて伝えることが、彼女との関係を良いものにするとは思えない。

 だからここは、正直に言うべきだろう。

 

「楽しいかは、ともかく……君のことを知れて良かったと思う。この2時間は有意義なものだった」

「そう、ですか」

 

 ……マズい、そんな顔をさせるつもりはなかったんだけど……。

 また俺は、何か間違えてしまったらしい。

 

「いや違う、待った、やり直させて。

 君と一緒にいることができて、良かった……じゃ、駄目か?」

「駄目とか、そういうんじゃないです。それがトレーナーから出て来た言葉なら……今は、それでいい」

 

 ホシノウィルムは俯いて、俺を先導するように歩き出す。

 俺は……彼女を追い抜かないよう、ゆっくりとその後を追った。

 

 ゆったりとした歩みと共に、前から彼女の言葉が降って来る。

 

「私が今日を楽しめているのは、トレーナー、堀野歩さん。あなたのおかげです。

 でも、あなたは楽しめていないんですよね」

 

 何と答えるべきか、数瞬戸惑う。

 けれど、ここで嘘を吐いても……意味がない。

 彼女はとても聡い女の子だ。俺が吐いた嘘は、簡単に看破される。

 そして何も言わない、誤魔化すことも、今は許されない。

 

 あまり他人に話すようなことでもないが……本音を言うしかないか。

 

「……正直に話すと、俺は『楽しい』って感覚がわからないのかもしれない。

 この世界に生まれてから、気分の浮き沈みはあったが、浮足立ったことはなかったように思う。

 だから……」

「全ては『すべきこと』だったからですか?」

「……そう、なのかも、しれないな」

 

 思えば確かに……俺はいつだって、「すべきかどうか」で判断していた気がする。

 かつては堀野のトレーナーとして。今はホシノウィルムとミホノブルボンのトレーナーとして。

 自分の担当やウマ娘たちに、何をしてやれるか。何かをしてやるために、何を蓄えられるか。

 

 そうじゃなかったのは、ただ、あの時だけで……。

 

「じゃあトレーナーは、私に言えないですよね」

「え?」

「『楽しめ。何をすべきかじゃなく、何をしたいかを優先しろ』。

 私にかけてくれた言葉、トレーナーにそっくりそのままお返ししますよ」

「……いや、俺は大人だからな。何をしたいかじゃなくて、何をすべきかで判断しなきゃいけない立場なんだよ」

「前に聞いた話から考えるに、幼少の頃からずっとそうらしいですが」

「ん、む」

 

 言い返せない。

 ……それは、俺の転生者という特殊性によるものだから。

 

 俺は、前世の記憶を持っている。

 本当に駄目な、救いようのない男の記憶を。

 何かをしようとして、結局何もできず、何も……。

 

 だからこそ今世では、何かができるようになりたいと思ったんだ。

 今度こそ、誇れる人間になりたい。

 今度こそ、何かができるようになりたい。

 今度こそ、間違いのない選択を下せるようになりたい。

 

 来世という、あり得ないはずの、奇跡のような再起のチャンス。

 

 やり直せる可能性が生まれた時、きっと人は誰だって「今度こそ」を望む。

 もっとより良い人生になるようにと、幼少期の拙さや愚かさを取り返したがるはずだ。

 俺も、そういう普通の人間の1人なんだよ。

 

 前世の経験で、自分に才能がないことはわかっていた。諦めが付いていた。

 だからこそ腐らず、才能がなくても問題のないように学習と鍛錬を徹底できたんだ。

 ……その方向性は間違っていたとしても、その研鑽の積み重ねは今、確かに活きている。

 

 だから俺は、この20年の努力が間違っていたとは思えないんだ。

 

「俺は子供の頃から変わっていたらしいからな」

「今のトレーナーが見れば否定するような子供だったわけですか」

「……ホシノウィルム、理論の間隙を突くのが上手くなったな」

「あまり人前には出していなかっただけで、元から得意な方です」

「あ、そう……」

 

 ……わかってる。

 俺は、他人からは多少歪に見えるんだろう。

 

 それでも……もう二度と間違えたくないという想いが間違いだとは思わない。

 そのために努力することが間違いだとは、思いたくない。

 

「俺のことを心配してくれているんだろうことは、なんとなくわかるよ。

 でも、ごめんな。俺はこういう人間だから」

「……ふーん、私を好き勝手にイジっておきながら、自分のことはイジらせないと」

「言い方に気を付けなさい。ファンの方も来てるんだから」

「わざとです」

 

 なお悪いが。

 

 苦笑しながら、先導するホシノウィルムを追う……と。

 少し、声音の違う質問が耳に入ってくる。

 

「いつからですか?」

「いつから、というのは?」

「いつからトレーナーは、そういう風になったんですか? 何がトレーナーを……堀野歩さんを、そういう人間にしたんですか?」

 

 それは……難しい質問だ。

 

 人間に「いつから、なんでそうなったのか」なんて聞いて、明確な答えが返って来ることは少ないと思う。

 

 何かしら重大で、どうしようもないような出来事が起きて、不可逆的な変化が起こったというのならともかく……。

 大抵の人間は、そんな出来事に出くわすことはないんだ。

 生きていく中で少しずつ学習し、少しずつそういう風になっていく。

 

 勿論俺にも、自分を変えた一大事の記憶なんてない。

 何か分岐点があったとしても、きっと忘れてしまうくらいにつまらない、取るに足らないことだったんだろう。

 

「昔から、かな。もう覚えていないくらい昔から……。

 いや、あるいは……この世界に生まれた時からそうだったのかもしれない」

 

 そう。

 「堀野歩」がどうあれ、「俺」は昔から、そういう人間だった。

 思い出せないくらいに昔から、ずっと。

 

 

 







 次回で大感謝祭も終わり。
 そろそろレースもできる……かな?



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、大感謝祭後半、見知った顔と見知らぬ顔の話。



(報告)
 ちょっと忙しくなる予感がするので、投稿ペースが3、4日に1本になるかもしれません。ならないかもしれません。予定は未定!

(追記)
 誤字報告を頂き、わざとでない部分は訂正させいていただきました。ありがとうございました!


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獅子身中のロボ

 ウィルム相談所、後編。





 

 

 

 お昼休みの終わりに語られた、トレーナーの過去。

 何かをしたいと望み、何かを楽しむと言うことを知らず、ただ「すべきかどうか」だけで判断する、半ば機械じみた判断基準。

 正直に言えば、そこに引っかかるものがないわけではなかった。

 

 トレーナーの在り方は、歪だ。

 私から見て歪、というだけじゃない。

 論理的に考えて、トレーナーの在り方はおかしいんだ。

 

 普段は理屈家なのに、事が自分の評価や働きになると急激に非論理的、感情的になる。

 誰よりもデータと数字を信頼するくせして、自分に関してはそれを放棄し、感覚のみの評価を下している。

 

 それはあまりにも急激な変化だ。普段の彼とその時の彼の間には、大きな大きな断絶がある。

 彼の中で一本の筋が通っていない。自然じゃない、歪な精神状態。

 それはすなわち、彼がゆっくりと時間をかけて変化したのではなく……どこかでその心を捻じ曲げられたことを意味する。

 

 そして、何より。

 まるで自分が駄目な存在であることを前提にしているかのようなその姿は……どうにも、思い出させるんだ。

 「勝てないホシノウィルムに価値はない」と、強く強く思い込んでしまっていた私を。

 

 ……彼には、何かの呪いがかけられているのかもしれない。

 そう思い至るのに、時間はかからなかった。

 

 何かしらの辛い事実が、彼を変えてしまった。堀野歩という人間を、決定的に変質させた。

 何も特別なことはなかったって言ってたけど……あるいは、思い出すことも拒むような何かがあったという可能性はあるだろう。

 

 彼の過去。一体何が、堀野歩さんを堀野歩さんたらしめたのか。

 そこを詳しく追求したいという思いは、確かに私の中にあった。

 

 

 

 が。

 それはさておき。

 

 トレーナーと私には、まだ時間がある。

 私はこれからもずっと、彼のウマ娘だ。この疑問の解決に取り組む時間はまだまだ残ってるはず。

 でも、ファンの皆と触れ合えるのは今日限り。次の機会は来年の4月まで来ない。

 その状況でどちらを優先すべきか弁えない程、私は愚かにも恩知らずにもなれなかった。

 

 ま、進歩がなかったわけじゃない。

 あんまり自分語りしてくれないトレーナーが、また少しだけ自分のことを教えてくれたんだ。

 それ以上のことは、また次の機会にでも問い詰めればいいし、『ご褒美権』を使って教えてもらうって手もあるわけで。

 今日はひとまず、ここで満足するとしよう。

 

 今ホシノウィルムが行うは、ファンの方々への感謝とコミュニケーション。

 それは今日の朝から変わりはしない。

 

 ……よし切り替えて。

 午後もウィルム相談所、頑張るぞ!

 

 

 

 * * *

 

 

 

 トレセン学園のファン大感謝祭は、入場自体が高い倍率の抽選制になっている。

 来る人全てを受け入れてしまうと、それこそ万とか十万単位の人間が学園に押し寄せてしまうだろうからね。

 いくらトレセン学園が広い敷地を有しているって言っても限界はある。

 故に、入場者数自体を制限するしかないんだ。

 

 で、入場者数が制限されるとなると、当然ながらお客さんは午前に集中しやすい。

 「命に替えてでもこの企画に行きたい」という殺気立ったファンの方は当然ながら一番最初に駆け込んでくるし、そうでなくとも「このウマ娘の企画は行っておきたい」という方は午前中の内に来やすい。

 

 そうなると、午後は多少人も空いてくるはずなんだけど……。

 

 ウィルム相談所は、多少待ち時間は減ったものの、相変わらずの人気だった。

 ……ぶっちゃけ、午前中で需要を消化しきれてなかったっぽいな、これ。

 

 

 

「こ、こんにちは……!」

「いらっしゃいませ。……あれ、もしかして、ずっと昔からライブを見てくださってる方ですか?」

「えっ!? あっ、え!? 嘘、認知され!?」

「あぁ、やっぱりそうですよね。私たちこう見えて、ライブの際は結構しっかりとファンの方を見ているんですよ? いつも応援、ありがとうございます」

「えっ、あっその、こちらこそありがとうございます! いつもウィルムちゃんの走りには元気をもらってて、その、ライブもギャップがすごくて……!」

「こちらこそ、皆の応援のおかげで私は走れてると思ってます。いつも声援をありがとうございます。

 ……さて、時間もありませんし、ご相談を伺いましょうか」

「あの、えっとその、いや冷静に考えるとめっちゃ失礼かもしれないんですけど……推しが骨折から5か月でG1レースに出るって言ってて、すごく心配で……その」

「……ふふ」

「いやすみません、失礼だってことはわかってるんですけど! 父が医者で、5か月で復帰は早すぎるって言ってて不安になっちゃって……!」

「大丈夫です、心配してくださったことはわかってます。その上で私から言えるのは……宝塚記念の時と同じように、信じてください。

 私はきっと、その期待に応えてみせます」

「はっ、はい……! うぅ、推しがカッコ良すぎる……ロリなのに……!」

「ロリじゃないですけど。トレセン学園に通ってるんですけど!」

 

 

 

 勿論、ファンの方も無尽蔵ってわけじゃない。

 午後4時を回る頃になるとだいぶ需要を満たせたみたいで、待機時間はようやく20分を切った。

 とはいえ、逆に言えばまだあと20分、人数にして10人以上のファンの方々が、私との会話の機会を待ってくれている。

 予断の許されない状況と言えるだろう。

 

 が、外から見ればお客さんが減って来たという事実は確かなもので。

 そしてそうなると、お客さんを優先しなきゃって遠慮してくれてた、私の知り合いも来てくれるわけだ。

 

 

 

「先輩、来ました!」

「ピンクちゃん、いらっしゃい。どうぞ座って」

「はい!」

「来てくれてありがとう。……でも、ちょっと申し訳ないな。いつもは普通にお話ししてるのに、わざわざお金まで払ってもらうのは」

「いいんですよ。先輩にはお世話になってますし、少しくらいはお返しさせてください!」

「いつもお菓子とかジュースとか買ったりしてくれてるし、気にしなくていいのに。

 ……じゃあ、お悩みを伺いますか」

「あっ……」

「……もしかして、お悩みを忘れた?」

「え、えっと……そういえば、お悩み必要でしたね……」

「……普通にお話ししよっか」

「はい……」

 

 

 

 そんな感じで、私の知り合いが来てくれることも増えた。

 1分300円ってのは、めちゃくちゃ高い金額設定だ。

 食事1回分くらいなら十分賄えるお金を1分のおしゃべりに使うわけで、このサービスはもう高級嗜好品の類と言っていい。

 だからこそ、そのお金を払ってでも企画を見に来てくれるのは、ただただ感謝しかない。精一杯相談に乗らせていただこう。

 

 私の数少ない知り合いの中でも、特にジュニア級の後輩ちゃんたちはよく来てくれた。

 彼女たちはまだ自分の企画を持ってない。チーム企画を持ってる子たちも、ジュニア級の間は1時間しかシフトを当てられないらしい。

 結果として、親しくしてる後輩ちゃんたちは、その多くが来てくれたわけだ。

 

 そして、その後輩ちゃんたちの中に、黒鹿毛の彼女の姿もあった。

 

 

 

「おね、じゃない、ウィルム先輩!」

「ん、ライスちゃん、来てくれたんだ。どうぞ、座って」

「失礼します……あっ、えっ!?」

「あぁ、椅子さん殉職しちゃったか。この1日、よく頑張ってくれたからね」

「ごっごめんなさい! ライス、また……」

「それは良くないなぁ、ライスちゃん。

 椅子さんは精一杯職務を全うして散っていった……いや本当に文字通りバラバラに散るとは思わなかったけど、とにかくちゃんと役目を果たしたんだ。

 それを『自分のせいで非業の死を迎えた』みたいな言い方はよろしくない。椅子さんの仕事への誇りを奪っちゃいけないよ」

「そ、そうかな……そうかも?」

「うん、あんまり謝ってばかりはよくないぞ、と。

 ごめんブルボンちゃん、椅子を片付けて……トレーナーに新しい椅子を借りてきてくれるかな」

「オーダー了解。ライスシャワーさん、失礼します」

「……ブルボンさん、ウィルム先輩の企画を手伝ってるの?」

「はい。16時11分に帰還後、再度ホシノウィルム先輩を手伝わせていただいています」

「そうなんだ……」

「ライスちゃん、申し訳ないけどあんまり時間がないから、お悩みを聞けるかな」

「あっ、はい! えっと、ライスでも受け入れてくれる優しいトレーナーさんは見つけたんですけど……それでも、なかなかレースに出走する勇気が出なくて。出なきゃいけないのはわかってるんですけど、どうしても……」

「なるほどなるほど。取り敢えず、トレーナー獲得おめでとう。

 で、勇気が出ないって件だけど……うん、それじゃ一緒に走ろう」

「え? えっ?」

「今度、お互いのトレーナーも交えて計画立てようか。日時は……」

「えっ……え~っ!?」

 

 

 

 私が思うに、ライスちゃんに足りないのは成功体験。彼女が自分を肯定できるだけの経験だ。

 成功体験が少ないから、自分から挑戦をしたいと思えない。挑戦をしないから、成功体験を積めない。まさしく負のループだよ。

 これを解決するために必要なのは、彼女の不幸体質を乗り越えるだけのガッツとメンタル、そしてそれを発揮するための機会。

 前者は彼女次第だけど、後者に関しては私の方で用意できる。

 ライスちゃんには申し訳ないけど、無理やり挑戦の舞台に引きずり出せばいいんだ。

 

 ……それに、同時にブルボンちゃんも連れだすことができれば、現状微妙な空気感を漂わせる彼女たちを近づける好機にもなる。

 百合百合キューピッドを気取る気はないけど、前世で彼女たちのカプを愛していたウマ娘として、最低限彼女たちが友人になるまではサポートしたい所存。

 段々と力を取り戻しつつある私の肩慣らしならぬ脚慣らしにも丁度いいと思うし、トレーナーに模擬レースを組んでもらおう。

 この時点で決定事項みたいに話を進めるのは、取らぬ狸の何とやらかもしれないけど……。

 トレーナーは何だかんだ私に激甘だし、大丈夫でしょう。最悪今日手に入れる予定の「ご褒美権」もあるわけだしね。

 

 そんなわけで模擬レースをしようと告げ、軽く話を詰めたわけだ。

 それを聞いたライスちゃんは、ちょっとあわあわぺこぺこ、混乱しながら帰って行った。

 相談に乗った結果、更に混乱させてしまったのはちょっと申し訳ないけども、これもライスちゃんのためだ。是非ともその模擬レースで、彼女のなりに何かを掴んで欲しいものだね。

 

 で、更に。

 相談所に来てくれたのは、ジュニア級の後輩ちゃんたちだけじゃなくて……。

 これまではあまり接点のなかった、尊敬すべき先輩も来てくれた。

 

 

 

「失礼いたします」

「え……マックイーン先輩」

「お久しぶりですわね、ホシノウィルムさん」

「お久しぶりです。まさか来てくださるとは思いませんでした」

「あら、機会があれば是非お話ししたいと思っていたのですよ?」

「あぁ、私が入院していたから……。わざわざお金まで払っていただいて、申し訳ないです」

「構いませんわ。1つ、相談したいこともありましたし」

「相談? 私にですか?」

「えぇ、非常に大事なことです」

「……謹んで、お聞きします」

「では、伺いますが…………非常に効率的なダイエット法を考案したとお聞きしました」

「……え?」

「どんな方法ですの!? 私、次走の京都大賞典までに2キロ落とさなければならないのです!

 どうか甘味の誘惑に耐える方法を教えてくださいませ!」

「……あー、はい?」

 

 

 

 なんか、思ったよりだいぶ俗っぽいマックイーン先輩の相談に乗ったりもした。

 思わず脳内で、誇り高くカッコ良いマックイーン先輩のイメージが崩れかけたりもしたけど……。

 

「それとこちら、京都大賞典のチケットです。

 セイウンスカイさんとあなたには、これまでしてやられましたが……困難は打ち破るべきもの、次の機会があれば必ず越えてみせますわ。

 これは挑戦状のようなものです。この夏で更に極めた私の脚、どうぞあなたのトレーナーさんと一緒に見にいらして」

 

 ……直後のこの発言で、全部持ち直したよね。

 案外可愛いところもあると思ったけど、やっぱりマックイーン先輩は、品のある気高いウマ娘だ。

 せっかくチケットももらったし、是非ともトレーナーと見に行こう。

 楽しみだね、久々のレース観戦だ。

 

 

 

 そんなこんなで、ファンの皆やウマ娘たちとコミュニケーションを取っている内。

 飛ぶように時間は過ぎて行った。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、時刻は17時半。

 季節はいよいよ秋に差し迫る頃、空は少しずつ赤く染まりつつある。

 ……そろそろ今回の大感謝祭も、終了間近だ。

 

 この頃になるとお客さんたちが帰宅し始めるため、企画の客入りはほぼほぼ0に近づく。

 それは私の企画も例に漏れず、ようやく待機しているお客さんの数は5を下回った。

 ……うん、まだ5人いる。どんだけ需要あるんだこの企画。

 

 それだけ、ファンの求めるものを出せた……と、思っていいのかな。

 うん。改めて、やって良かった。

 ファンの皆に楽しんでいただけたなら、設営とか会話を頑張った甲斐もあったし……何より私も、すっごく楽しかった。

 ついでにトレーナーから「ご褒美権」ももらえるし、これ以上ない結果だったと言えよう。

 

 断言するにはちょっと早いけど……。

 ホシノウィルムのクラシック級、秋のファン大感謝祭は、これ以上ない大成功で終わったと言っていいだろう。

 

 

 

 そうして、18時。

 トゥインクルシリーズ・秋のファン大感謝祭が終わると同時。

 私は最後のお客さんを捌き切り、笑顔で見送って……。

 『ウィルム相談所』は、ようやく終わりを迎えたのだった。

 

 

 

「あー……」

 

 何も考えられず、口から呻きを垂れ流した。

 そのまま、ブルボンちゃんが見ている前というのも気にせず、べたりと机にへたり込む。

 

「ほわぁー……つっ、かれたぁ……」

「お疲れ様です、先輩」

 

 疲れた。本当に、めちゃくちゃ疲れた。

 いや、楽しかったよ? そりゃ楽しかったさ。

 総合値で見れば、人生で一番楽しい日だったと言っても過言じゃないと思う。

 

 けど、それはそれとして、めっっっちゃ疲れたのも事実だ。

 

 肉体的なものじゃない。ただただ重い、精神的疲労。いわゆる気疲れ。

 お客さんとの会話が途切れ、脳内麻薬が途切れた瞬間、それは私を圧し潰さんばかりに襲ってきた。

 

 肉体面には自信のある私だけど、コミュニケーションに関してはご存じの通り素人同然。

 持久力なんてものがあるわけもなく、この1日の体験は明らかなオーバーワークだ。

 故に、疲れる。めちゃくちゃ疲れる。

 

「あぁー……うぇ……」

「先輩、この後は撤収がありますが」

「わかってる……でもちょっとだけ、休ませて……」

「了解。マスターに通達します」

 

 その言葉と共に、ブルボンちゃんはテントから出て行った。

 私も後を追って、作業を手伝うべきなんだろうけど……今はちょっと無理だなぁ……。

 

 机の上にでろんと溶けたまま、ぼんやり思いを巡らせる。

 

 頭が、というか体が重い。思考がぼんやりして纏まらず、何かをする気になれない。

 体力的に疲れることは、私にとってはそこまで負担じゃない。

 けど、精神面は別だ。その領分の不慣れな疲労は、私にダイレクトに刺さってしまう。

 

「……ふぅ」

 

 とはいえ、ここまで精神的に疲れることはそうそうない。

 ここまで頭が重くなったのは……最初の模擬レースの時以来かな。

 

 

 

 今となっては懐かしい、ジュニア級1月。

 私は中央トレセン入学後、初めての模擬レースで負けた。

 

 あの頃の私にとって、敗北という事実は文字通り致命的な意味を持っていた。

 トレセン学園に来るまで無敗だったプライドを大きく傷つけられると同時、絶対的な価値基準だった「勝利するホシノウィルム」という理想を貶める行為だったからね。

 

 だからこそあの時は、それはもうめちゃくちゃショックを受けたものだ。

 現実を受け入れられない。敗北を認められない。自棄になってトレーニングすることしかできない。

 

 あの時トレーナーに拾ってもらい、そこに未来を見出せた……より正確には、今は休むことが最善の方法だと理解したから良かったものの……。

 もしも歩さんと出会わなかったら、彼に管理してもらわなければ、私はどうなってたんだろうな。

 冷静になれないまま、オーバーワークで事故を起こした? あるいは、もっと酷ければ故障していた?

 何にしろ、酷いことになってたのは間違いない。多分、宝塚記念まで故障もなく走り切ることはできなかったはずだ。

 

「……ずっと、助けてもらってたんだよね」

 

 競走ウマ娘として、故障しないように体を管理してもらった……だけじゃない。

 

 1人のウマ娘として、壊れないように心を支えてくれたんだ。

 

 無意識かもしれない。彼の「堀野のトレーナー」像に基づいただけの行動なのかもしれない。

 それでも彼は、何度も私の氷漬けになった心を温めてくれた。

 盲目的になっていた私を助けるために、ずっとずっと頑張ってくれた。

 

 今日ここで、ホシノウィルムが楽しく生きていられるのは……。

 ファンの皆のおかげで、私が頑張った結果で。

 でもきっと、それと同じくらい、トレーナーの努力の成果でもあるんだ。

 

 堀野歩さんは、ずっと、何度も、ホシノウィルムを救ってくれた。

 だから……そんな人に惚れてしまうのは、ある意味当然というか。

 

「…………好き」

 

 知らず、感情が口から零れて……。

 

 その時、疲れた頭にピリッと、甘い痺れが走った気がした。

 

 ……ヤバい。

 この感覚、ちょっと気持ちいいかも。

 

 深いことも考えず、気持ち良さに任せて再び口を開く。

 

「好き、好きです……あ、歩さんっ……」

「ホシノウィルム?」

「わぁぁああッッ!!??」

 

 テントの外から投げかけられたトレーナーの声に、思わず椅子ごとひっくり返った。

 

 わ、あわわ、わわわわわ!

 き、聞かれてない? 聞かれてないよね? 小声だったし大丈夫だよね?!

 

「悲鳴!? どうした、何かあったか!?」

「な、なんでもないです! というか、何か聞こえましたか?!」

「悲鳴が聞こえたぞ!? 本当に大丈夫か? 何か虫が出たとか?」

「大丈夫ですから! 全然大丈夫! それで、何の用ですか!」

「え、いや……俺は生徒会に今日の来客数とか収支の書類を出しに行く。疲れているだろうから、君はしばらく休んでいていいぞ、と……」

「そうですか、それじゃしばらく休みますから、どうぞ行ってください!」

「え、うん……なんでこんな怒ってるんだ……? 俺また何かしちゃった……?

 

 トレーナーの声が遠ざかっていく。

 その足音が聞こえなくなるまで待って……私は、バクバクと鳴る胸を撫で下ろす。

 

 ……た、助かった……!

 

 危ない危ない。疲労のせいか、欲望をあまりにも安直に垂れ流してた。

 もし聞かれたら、羞恥のあまり体が弾け飛ぶところだったわ。ホシノウィルムの競走人生どころか人生そのものが終わってた。

 以後は同じことを繰り返さないようにしなきゃな。いくら疲れてるとはいえ警戒心なさすぎだって。

 

「……ふぅ」

 

 取り敢えず、最悪の展開は免れたことに、心底安堵した。

 倒れた椅子を立て直し、改めて座っていると……。

 

「先輩、入ってよろしいですか?」

「ブルボンちゃん? どうぞ」

 

 トレーナーに続き、ブルボンちゃんまで声をかけてくれた。

 なんだろ、悲鳴を心配してくれたのかな。異性のトレーナーと違い、ブルボンちゃんなら相談に乗れると思ったのかも。

 ありがたい配慮だけど、今はそういうんじゃないんだよね。

 

 とはいえ、気遣ってくれるのは嬉しい。なんでもなかったよって誤解を解かないと……。

 と、思っていたんだけど。

 

 テントに入って来たブルボンちゃんは、コトリコトリと機械じみた均一なペースで近づいて来て……言った。

 言い放った。

 

「ホシノウィルム先輩は、マスターのことが好きなのですか?」

「うぇあっ!?」

 

 ……忘れてた。完全に頭から飛んでた。

 ウマ娘、耳が良いんだ。

 テントの外、トレーナーより遠くにいても、私の呟きが聞こえてもおかしくはない!

 

「いやいやいや、これはその、あれはこれがそれで、いや違う、違くて!」

「では、マスターのことが好きではないのですか?」

「いやそれはっ……好きじゃない、とは、言えないですけども……ですけども……」

「成程。私も、マスターのことは『好き』です」

「は!? それどういう意味!?」

「自分の契約トレーナーとして尊敬し、敬愛している、という意味ですが」

「……そっ、そうだよね、そうだよね……!」

「?」

 

 コクリと首を傾げるブルボンちゃんの返答に、思わず胸を撫で下ろす。

 彼女が抱いているのはラブじゃなくライク。恋愛じゃなく親愛だ。

 良かった、このナイスバディでトレーナーを攻められたら、最悪脳が破壊されるところだった。

 NTRはフィクションだから許容されるものであって、現実にはあり得てはならないものなのである。まぁ寝てないんですけども。

 

 少なくとも現状では、ミホノブルボンちゃんは私のライバル足り得ない。

 走りでも……そして恋愛的な意味でも。

 

 情けないことに、私はそれに深く安堵してしまったのだった。

 

 

 

 

 

 

「ところで、マスターに正式に契約していただいた暁には、父に紹介したいと思っているのですが、契約トレーナーはどのタイミングでスケジュールの余裕ができるのでしょうか」

「…………」

 

 私が脳破壊される日、案外近いのかもしれない。

 ま、負けられない戦いが始まる……!

 

 

 







 ! 伏兵

 クラシック級、秋のファン大感謝祭終了。
 全力で走れなかった間に色ボケとあまあまな展開が多かった分、そろそろレースの話が始まります。
 そして次回はおまけ、とあるウマ娘の回です。



 次回は3、4日後。おまけの別視点で、黒い彼女の話。
 ちょっとだけ時系列が戻ります。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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おまけ 努力 未来 A BEAUTIFUL ROSE

 (煙の向こうから現れる、強靭なトモを持つ黒い刺客)





 

 

 

 昔、童話を読んだことがあるの。

 

 題名は、「しあわせの青いバラ」。

 読んでいて悲しくなるお話。

 でも最後はきちんと、明るくなる、私の大好きなお話だ。

 

 お話は、バラがたくさん植えられたお庭から始まる。

 色とりどりの、たくさんのバラたちが、訪れる人みんなにしあわせをくれるお庭。

 でもある日、そのお庭に、誰も見たことのない青色のバラがつぼみをつけたの。

 きっとみんな、見たことのない色を不安に思ったんだね。

 お庭を見に来た人たちは、その青いバラを「青いバラなんて気味が悪い」「きっと不幸の花だ」ってなじった。みんなしあわせにならず、嫌な気持ちになってしまった。

 そしてそれを聞く内、青いバラ自身も「ぼくはだめな花なんだ」って思って、だんだんしおれてきちゃうんだ。

 

 すごく、悲しいお話だと思う。

 だって、悪い人なんてどこにもいないんだもん。

 青いバラは、望んで青く生まれたわけじゃない。生まれた時からずっと青かった。

 見に来た人たちは、青色っていう見たことのない色を怖がった。そこにあったのは悪意じゃなくて、恐怖だ。

 それでも結果として、確かに痛みを伴う言葉が、青いバラを貫いてしまったのは事実で。

 

 誰も悪くない。誰も悪くないのに……。

 青いバラも、見に来た人たちも、誰もしあわせにならない、悲しい結末。

 

 ……でも、お話は不幸のままじゃ終わらない。

 

 しおれてしまった青いバラの元に、「お姉さま」が現れるの。

 心の優しい、とっても穏やかに笑う人。不幸をしあわせにしてしまう、魔法使いみたいな人。

 その人は、お庭の中から青いバラのつぼみを見つけて、すぐに笑顔でこう言うの。

 

『やあ、青いバラだなんてとっても素敵だ!

 きっときれいに咲くに違いない。ぜひ買い取らせてください!』

 

 青いバラはお姉さまに買われて、綺麗な鉢に植え替えられる。

 そしてお姉さまに毎日声をかけてもらって、お水をもらって、育てられて……。

 しおれていたつぼみをまた膨らませて、いつか見事な花を咲かせるの。

 

 そうして青いバラは、お姉さまのおうちの窓辺に飾られて、道ゆく人たちをたくさんたくさん、しあわせにできましたとさ。

 めでたし、めでたし。

 

 

 

 私は、その童話が好きだった。

 多分、自分を重ねてたんだと思う。

 

 幼かった当時から、ライスシャワーは「不幸なウマ娘」だったから。

 

 なかなか大きくならないから、お父さまとお母さまに、すごく心配をかけちゃったり。

 初等部の学校で、先生が「ライスシャワーは体が小さすぎる。行けて中堅だろう」って噂しているのを聞いちゃったり。

 ……みんなを、失望させてばっかりだった。

 

 私のお母さまは、海外のG2のレースを取ったすごいウマ娘なんだ。

 その上、おばあさまはもっとすごい。G1レースを大差で勝つような、飛び抜けたウマ娘だったんだって。

 私には、強いウマ娘の血が流れてるんだ。

 だから中央のトゥインクルシリーズで活躍することを望まれて……。

 でも結局、体が育たないことで、失望された。

 期待してくれたみんなを、不幸にしてしまった。

 

 ライスは期待してくれた人を、お父さまを、お母さまを不幸にしてしまう……だめな子なんだ。

 そう気付くのに、時間はかからなかった。

 

 

 

 でも、私に1つだけ、希望があるとすれば。

 頑張って、頑張って、頑張り続ければ……。

 いつかライスも、誰かをしあわせにできる青いバラになれるかもしれない、って。

 そんな子供みたいな夢を、いつまでも胸の中に抱いてたこと。

 その夢を心の支えに、私はずっと走り続けた。

 

 そうして……。

 走って、走って、ひたすらに走って……何とか中央トレセン学園に入学することができたんだ。

 

 合格通知をもらった時は、すっごく嬉しかった。

 もしかしたら、変われるかもしれない。

 ライスもこのトレセン学園で、みんなをしあわせにすることができる、青いバラになれるかもしれないって、そう思えたから。

 

 

 

 けど、現実はすごく、冷たくて。

 ライスはトレセン学園っていうお庭の中で不幸なことを起こす、だめな子のままだった。

 

 入学式で、理事長さんのマイクが壊れて、進行が遅れちゃったこともあった。

 授業を担当する先生が腰を痛めてしまって、自習になったこともあった。

 選抜レースの時なんて、ゲートが開かなくなってしまって、スタートまでにすごく時間がかかったりもした。

 他にも、急に雨が降り出したり、芝が酷い状態になったり、チョークが割れたり、何か私物がなくなったり……。

 そんなことは、日常茶飯事だった。

 

 ……ライスの周りでは、タイミング悪く、何かいやな事が起こる。

 それは、これまでの経験でよくわかってた。

 ライスはだめな子だ。だめな子だから、周りを不幸にしてしまう。

 

 それでもなんとか、自分の心をだましだまし、前に進もうとして……。

 

 

 

 けれど。

 寮で同室だった、仲良くしてくれた先輩のウマ娘が、怪我をしてしまった時。

 

 私の心は、しおれてしまった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ライスはだめな子だから、みんなを不幸にしてしまう。

 だから、みんなから遠ざかった。

 

 心が痛かったけど、親しくしてくれようとした同級生から距離を置いた。

 寮長のフジキセキ先輩にお願いして、一人部屋に移してもらった。

 教室でもなるべく目立たないようにして、授業が終わったらすぐ抜け出すようにした。

 こっそりと息をひそめるねずみさんみたいに、私はトレセン学園の端っこで生きることにした。

 

 でも、それで1つ、困ったことが起こったの。

 ライス、レースに出られなくなっちゃったんだ。

 

 選抜レースで、ライスにはトレーナーさんが付かなかった。

 優しそうなトレーナーさんが契約を持ちかけてくれたけど、この人のことも不幸にするのかって思ったら、ライスはその手を取れなかったの。

 

 でも、トレーナーさんがいないと、トゥインクルシリーズに出走登録することはできない。

 お父さまやお母さまの期待に応えるためにも、私はトゥインクルシリーズに出たい。

 だから、トレーナーさんを得る必要があるんだ。

 そしてトレーナーさんからスカウトを受けるためには、新入生の模擬レースに出なきゃいけない。

 

 ……でも、模擬レースに出れば、きっと他の出走ウマ娘を不幸にしちゃうし、トレーナーさんと契約すれば、きっとその人のことも不幸にしちゃう。

 誰も不幸にしたくないのなら……ライスは、レースに出ちゃだめなんだ。

 

「……ライス、は」

 

 どうすればいいんだろう。

 

 レースに出れば、他の出走ウマ娘のことを不幸にしちゃう。

 レースに出なければ、お父さまやお母さまの期待を裏切っちゃう。

 

 どちらを選んでも……ライスは誰かを不幸にしちゃう、だめな子のままだ。

 やっぱり、ライスには……無理、なのかな。

 

 ……だめだ。

 前を向かないと。頑張らないとだめだ。

 ライスはだめな子。だめな子だから、人の何倍でも頑張らないと。

 

 青いバラに、なるためには。

 たくさんの人をしあわせにできるような、すごいウマ娘になるためには。

 

 『…………本当に、なれるの?

 ライスなんかが、青いバラになれるって、本気で思ってるの?』って。

 

 自分の中から聞こえてくる、その声を振り切るためにも。

 

「ライスは、もっと頑張らないと」

 

 いつか、青いバラになるために。

 

 ……足掻かなきゃ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そうして、必死に走っている中で。

 私は……。

 

『圧倒的な「はやさ」を現実に叩きつけ、今……!

 ホシノウィルム、1着でゴール! 8バ身を付けた、堂々の圧勝!

 タイムは……えっ、3!?

 れっ、レコードです! 皇帝シンボリルドルフの2分1秒1を3秒弱縮めた、1分58秒2!!』

『ホシノウィルム、ここに圧倒的な成長と異次元の速度を示しました!

 無敗三冠を目指す灰色の蛇は、多くのファンの夢を背負ってダービーへ!』

 

 そのウマ娘のことを、知ったんだ。

 

 

 

 ホシノウィルム先輩。

 皐月賞を8バ身差で勝利した、今年のクラシックレースの中核を成すって言われてる、逃げウマ娘。

 

「皐月賞で……40年ぶりの、8バ身差」

 

 それは、飛び抜けた実力を示す差。

 最速という言葉を過言にしない、新しい神話の幕開け。

 

 私が覗き込んだ画面の中で、それを多くの人が喝采してたの。

 

 中継を通してるから、一人一人の声は聞き分けられないけど……。

 誰もがその強さに感じ入ってた。

 誰もがそのウマ娘に憧れてた。

 ……誰もが、そのウマ娘を見て、しあわせになってた。

 

「す、ごい……」

 

 心の中に、希望の光が見えた気がした。

 このウマ娘みたいになれば……このウマ娘に追いつければ、ライスも。

 

 それが、私がウィルム先輩を知ったきっかけ。

 きっと一生、忘れられない……一輪の青いバラを見つけ出した瞬間だった。

 

 

 

 お姉さまは、すごいウマ娘だ。

 

 良血って言われてたライスと違って、寒門。つまりは振るわない、地方のレースに苦戦していたウマ娘の血筋で。

 更に、お母さまがすごく病弱で、地方のトレセン学園にも入れなかったらしい。

 幼い頃はお姉さまも、その虚弱体質を引き継ぐと思われてたんだって。

 

 ただでさえトゥインクルシリーズで活躍できる見込みの薄い血筋で、噂だと、環境も良くなかったって聞いたし……。

 その上……お姉さまは、幼くして両親と死別してしまったんだ。

 

 それを知った時……。

 ライスは、お姉さまもライスと同じ、不幸なウマ娘なんだと思ったの。

 同じように、お庭の中に植えられていた青いバラ、だめなウマ娘なんだって。

 

 ……でも実際は、ライスよりもずっと不幸な境遇だった。

 お姉さまが打ち明けてくれたんだ。

 お母さんはネグレクトしていて、お父さんは自分のことを見てくれなかった。その上、トレセンに来た時には何千万という借金があった、って。

 

 並の不幸には慣れてたはずのライスも、そこまでの不幸は知らない。

 お姉さまは、想像よりもずっとずっと……辛い世界の中を生きてきたんだ。

 

 それなのにお姉さまは、しおれなかった。

 トレセン学園に入ってから、選抜レースよりも前にトレーナーを得て、すぐさま頭角を現したんだ。

 メイクデビュー、オープン戦葉牡丹賞……そして、G1ホープフルステークスに大差勝ち。

 

 G1レースで大差勝ちするなんて記録、ほとんど残っていないのに。

 それこそ飛び抜けた最強、怪物とまで呼ばれてた、ライスのおばあさまと同じ。

 

 お姉さまは……ホシノウィルム先輩は、「本物」なんだ。

 

 その後も、快進撃は止まらない。

 皐月賞で、二強と呼ばれていた良血の天才ウマ娘、トウカイテイオー先輩に8バ身差の圧勝。

 そしてライスがホシノウィルム先輩のことを調べている内に、日本ダービーの日が来て……圧倒的な末脚を見せたトウカイテイオー先輩に、それでもハナ差で競り勝ったの。

 

 2つのクラシックレースでの激闘を見た観客は、みんなトウカイテイオー先輩の健闘と、何よりお姉さまの勝利を讃えてた。興奮して、楽しんでた。

 

 ……そう。

 お姉さまはレースを通して、みんなをしあわせにしていたんだよ。

 

 最初こそトウカイテイオー先輩の敵役、ヒールとして見られていたのに……。

 いつしか誰もが、お姉さま自身の輝きに、色に、目を奪われてたんだ。

 

 それは、奇跡。

 しおれるはずだったお花が綺麗に咲き誇る、これ以上ないハッピーエンド。

 

 お姉さまは不幸な境遇から立ち上がって、みんなをしあわせにできるウマ娘になったんだ。

 

「ライスも……ライスも、いつか」

 

 あの先輩みたいに、なりたい。

 その後ろ姿に、追いつきたい。

 

 私も……いつか、青いバラに!

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……そうして。

 

「でも、私は自分の力で、今の幸福を勝ち取った。

 君も、駄目な自分を変えたいと思うなら、そうすればいいんだよ。

 君にはその力がある。経験者の私が保証するよ」

 

「ライスも……ライスも、変われる……?」

「『変われる』、じゃないよ。『変わる』んだ」

「皆を、しあわせにできる……そんなウマ娘に、なれますか?」

「『なれる』、じゃないでしょ?」

 

「なる。……ライスも、皆をしあわせにできるウマ娘に、なる。

 なる、んだ……しあわせの、青いバラに!」

 

「ん、頑張れ、ライスちゃん。上の方で、君と走れるのを待ってるよ」

 

 そう言って、にこりと柔らかく笑う、ウィルム先輩を見た時。

 

 ……私はついに、ライスシャワーにとっての「お姉さま」を見つけた気がしたんだ。

 

 

 

 あれ以来、ライスは時々、お姉さまと一緒に走ることになった。

 「せっかくなら一緒に走ろう」ってお姉さまが誘ってくれたんだ。

 

 勿論、近くにいたりすれば、いつお姉さまが不幸に襲われるかわからない。

 だから、最初は遠ざかろうとしたんだけど……。

 

『私は、君の不幸になんて負けないよ』

 

 その言葉の通り。

 お姉さまは、ライスの不幸に嫌な顔をしたこと、一度もなかったんだ。

 

 足を取られて転びそうになった時は、咄嗟に腕で飛び上がって無事に着地したり。

 赤信号に何度も止められた時は、ライスの話を聞いてくれたり、お姉さまの話をしてくれたり。

 急にどしゃぶりの雨が降り始めた時なんて、近くの木陰に逃げ込んで「ライスちゃんとゆっくり話ができて嬉しいよ」って笑ってくれた。

 

「おね、ウィルム先輩……あの、やっぱりライスとは離れて走った方が……」

「え? 私と走るの、嫌い?」

「いえっ! ライス、すごく楽しいです……でも、ライスは楽しいけど……」

「ならいいじゃない。私も楽しいし……走るのは、楽しくなくちゃ駄目だからね」

 

 何度聞いても、お姉さまは優しく笑ってくれる。

 1人で走った方が、ずっと走りやすいはずなのに……それでもライスを見捨てず、ずっと一緒にいてくれたんだよ。

 

 ……だから、ライスも。

 その期待に応えたい。

 

 

 

 誰もにしあわせを届けられるような、ウマ娘になる。

 そのために……。

 

「まずは、クラシックレース。そして、ミホノブルボンさん……」

 

 ライスと同じジュニア級のウマ娘、ミホノブルボンさん。

 お姉さまと同じトレーナーさんと契約した、来年のクラシックロードの中心になるかもしれない逃げウマ娘。

 

 お姉さまは、「まずはブルボンちゃんを目指してみて」って言ってた。

 それは多分、「私に追いつきたいのなら、まずは世代で1番を取らないとね」って意味だと思うんだ。

 

 お姉さまは、史上初めて、クラシック級で宝塚記念に勝利した。

 それも、直前に天皇賞(春)に勝った古豪セイウンスカイ先輩、現役最強ステイヤーと名高いメジロマックイーン先輩、陰に隠れていたけど確かな実力を持ったメジロライアン先輩が参加する中での1着。

 その時から、お姉さまは「世代最強」ではなく「現役最強」と呼ばれ始めた。

 シニア級の先輩たち、本格化を終えた古豪、その全てを含めた、トゥインクルシリーズの中における最強の一角なんだって、誰もが認めたんだ。

 

 だから、お姉さまに並びたいと思うなら、私も同じ「最強」にならなきゃいけない。

 

 ……とはいえ、そんなウマ娘になれるかは、わからないけど。

 無敗の二冠なんて、お姉さまだから成し遂げられた、奇跡みたいなものだもん。

 ライスには……だめな子なライスには、難しいかもしれない。

 

 それでも。

 この憧れは、止められない。

 

 お姉さまの背中に、私は青い花びらを見てる。

 お姉さまを追いかければ、きっといつかライスもそこに辿り着けるって、信じてるんだよ。

 

 だからまずは、クラシックレース。

 その最初の1つである皐月賞に向けて、頑張らないと。

 

 

 

 ……というか、そもそもライスはトレーナーさんと契約してないから、その問題もどうにかしないといけないんだけど。

 うぅ、どうしよう……。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「はっ、はっ……ふぅ、そろそろ、だよね」

 

 そうして、とある日の夜。

 ライスは珍しく、1人きりで走ってた。

 

 いつも一緒に走ってくれるお姉さまは、今日は大事な生配信があるから走れないって、すごく申し訳なさそうに言ってきた。

 それと、是非その配信を見てほしい、とも。

 

 もちろん、ライスの方が助けてもらってるんだから、お姉さまが謝る必要なんてない。

 それに、お姉さまの大事な生配信なんだから、絶対に見るよ。

 だってライスはお姉さまの……ホシノウィルム先輩の、ファンでもあるんだもん。

 

 うん……そろそろ、その生配信が始まる時間だ。

 

 徐々に足を緩めて、息を整えながら近くにあった石に座り込む。

 ポケットからスマホを出して、ぽちぽち……えっと、多分、これだよね。

 お姉さまの今後の出走予定が発表される、公式の生配信って。

 

 お姉さまは、宝塚記念での熾烈なレースの果てに、骨折してしまった。

 競走ウマ娘が骨折した場合、復帰には大体6か月以上の時間がかかるって言われてるらしい。

 それはつまり、宝塚記念から5か月弱しかない菊花賞に出走するのは難しい、ってこと。

 三冠ウマを有力視されてたお姉さまは、けれど無念の負傷により、栄光を逃してしまう。

 

 それを思うと、悲しくなる。

 お姉さまだって、クラシックレースの最後の1つ、菊花賞に出走したくないわけがない。

 目前にまで迫ってたクラシック三冠を、取りたくないわけがないんだ。

 ……お姉さまは全然気にしていないように「えーと、いや、まぁ、気にしなくていいんじゃない? うん、私は全然平気だよ?」って言ってくれたけど……。

 きっと内心では、すごく落ち込んでると思う。

 気丈に振舞うお姉さまに、なんて言えばいいのか……ライスには、わからなかった。

 

「……お姉さま、次はどのG1レースに出走するんだろう」

 

 多くの優駿の集うエリザベス女王杯?

 でも、宝塚記念からエリザベス女王杯までは半年しかない。叩きでレースに出走するどころか、以前以上に鍛え直すのも難しいと思う。

 

 じゃあ、海外の猛者が集うジャパンカップ?

 鍛え直すのは間に合うかもしれないし、もしかしたらこれかも。

 確か、メジロマックイーン先輩も出走予定だったと思うけど……どうなっちゃうのかな。

 

 あるいは、年末の大一番、有記念?

 最強決定戦とも言われるG1レースで華々しく復活、というのは……正直、ちょっと見てみたい。

 きっとお姉さまなら、そうそうたる顔ぶれにも負けない、カッコ良くて強い走りを見せてくれる。

 

「……お姉さま」

 

 ライス、菊花賞じゃなくてもいいから、またお姉さまが走ってる姿が見たいよ。

 ライスに付き合って走るんじゃない、とんでもない戦法と速度でレースを荒らす、まさしく嵐を纏う龍みたいな破天荒な走りが、また見たい。

 

 どこに出走するにしても、オープンレースとかG3レースでの叩きはあるだろうし、まずはそこで見ることができると思うけど……。

 やっぱり、ライスは……。

 

 あ、生配信、始まった!

 

 

 

 画面に映っているのは、お姉さまと、いつも通りスーツを着込んだお姉さまのトレーナーさん、そして2人を囲むたくさんのカメラ。

 無敗の二冠ウマ娘の進退が語られる配信だから、注目度がすごい。何十万って人やウマ娘が見てる。

 

 特に、復帰に向けて走るお姉さまを見てないトレセン学園外の人たちからすれば、競走ウマ娘ホシノウィルムが引退するっていう、最悪の可能性も考えられるんだ。

 だからみんな、この配信を固唾を飲んで見守ってる。

 

 ……大丈夫かな、お姉さま。

 とんでもない数のメディアの人たちと、画面越しには更にとんでもない、何十万という視聴者さん。

 ライスだったら、こんな状況耐えられないかも。とてもじゃないけど緊張は避けられないと思う。

 

 でも……。

 

「やっぱり、お姉さま、すごい」

 

 そんな状況を、けれどお姉さまは全然気にしてない。

 いつも通りの無表情で、泰然と前を見据えてる。

 4つのG1レースで、毎回何万人の大歓声の中で走って来たお姉さまにとっては、この状況も大して負担じゃないのかもしれない。

 

 ……そうして。

 配信は、お姉さまのトレーナーさんの言葉から始まった。

 

『お集まりいただき、ありがとうございます』

 

 軽く挨拶を述べた後、宝塚記念後のお姉さまの骨折の状況、その後の経過や現在のリハビリの状況などが語られる。

 記者さんやメディアの人たちの、現状を確認する質問に、1つずつ丁寧に答えていって……。

 

 そうしてついに、今回の配信の主題について触れた。

 

 

 

『最後に、今後のホシノウィルムの出走予定についてお話します。

 ホシノウィルムの次走は……菊花賞。

 その後、様子を見ながらジャパンカップ、そして有記念に出走予定です』

 

 

 

 空気が、凍り付く。

 

 宝塚記念から菊花賞までは、5か月弱。

 そして菊花賞は、クラシック級のウマ娘は誰一人として経験のない、長距離のG1レース。

 いくらお姉さまのライバルだったトウカイテイオー先輩が不在とはいえ、骨折し、その療養とリハビリを挟んで、その上で勝てるようなものじゃない。

 

 念のため『本当に菊花賞に出走するのか』という質問をした人に『間違いなく、クラシックロードの終着点、G1菊花賞に出走予定です』って答えて。

 『骨折からの期間が短すぎるのではないか』って遠回しに疑っている人には『否定はしません。その上で、彼女の意思と自身の判断の結果、出走という決断を下しました』って答えて……。

 

 会場も、視聴者も……どうやら2人が言ってることが本気だって、ようやく理解する。

 

『それは……っ!』

 

 会場の誰かが声を上げかけて、止めた。

 自分の目の前にいるウマ娘が誰か。

 彼女がここまでに何をしてきたか。

 それを、思い出したから。

 

 お姉さまのトレーナーが、お姉さまにマイクを渡す。

 するとお姉さまは、緊迫してる雰囲気に呑まれることもなく、口を開いて……。

 真剣な表情で、言った。

 

『私は菊花賞に出ます。

 そこで、これ以上ない程に楽しい、最高のレースをします。

 そして応援してくださった全てのファンの方に、『ホシノウィルムのことを信じて良かった』と思わせてみせます。

 だから……どうか、私を信じてください』

 

 みんな、その空気に呑まれた。

 

 これまでに、ホシノウィルムというウマ娘は、何度も奇跡を起こして来た。

 

 振るわないって言われてる寒門から這い上がって。

 G1レースで大差勝ちし。

 本来不利と言われている逃げで、無敗の二冠を達成し。

 「不可能」とまで言われていた、クラシック級時点での宝塚記念の勝利を刻んだ。

 

 不可能を可能にする、灰色の龍。

 そのあだ名はまさしく、お姉さまに相応しいものなんだ。

 

「お姉さま……」

 

 返り咲いた青いバラは、みんなをしあわせにする。

 

 だからきっと、お姉さまは……本当に菊花賞に出走して、すごいレースをしてくれるんだ。

 

 誰もが、言葉もなくそれを信じた。

 疑り深い人も、悲観的な人も……これまでのお姉さまのレースを見てきた人はみんな、その瞳の奥の煌めきに「もしかしたら」を感じてしまったんだ。

 

 

 

 気付けば生配信は終わってた。

 ただ、強すぎる余韻だけを残して、スマホの画面は真っ暗になっていた。

 

「……行こう」

 

 心の底から湧き上がる熱を、抑えられない。

 スマホをポケットにしまって、改めて走り出す。

 ただでさえ遅れてるんだ、お姉さまに追いつくためには、もっともっと頑張らないと。

 

 いつか、あの青いバラに追いついて。

 私も、ライス自身も……しあわせの青いバラに、なるために。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 それから、数日後。

 お姉さまの配信に触発されて、毎日のように走っている内、お姉さまがお仕事を受けて、一緒に走れなかったタイミングがあって。

 そこでライスはまた、人を不幸にしちゃった。

 

 

 

 でも、それは……。

 もしかしたら、運命だったのかもしれない。

 

「あっ、あの、すみません……!」

「え、僕?」

「は、はい! あの、ご、ご……ごめんなさいっ!

 ライスがそばを走ってたばっかりに、学園に戻るの、こんな遅くなっちゃって……。

 ほんとにほんとに、ごめんなさいっ!」

「いや、君のせいじゃないと思うけど……」

 

 ……出会ったのは、中央トレセン学園のトレーナーさん。

 真っすぐで真面目そうな、男の人。

 

 そのトレーナーさんと契約することになるって、当時の私はまだ、知らなかった。

 

 

 







 ライバル(になり得る子)にバフばら撒く系ウマ娘、ホシノウィルム。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、復活と瀕死の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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 くろいしかく





 

 

 

 秋のファン大感謝祭は、つつがなく終わった。

 

 ホシノウィルムの企画「ウィルム相談所」は、クラシック級ウマ娘としては異例の客足を記録し、学園側としても満足のいく結果に終わったらしい。

 警戒していた不審者が現れたり不祥事が発生することもなく、事は平和に済んだ。

 ……まぁ、トレセン学園入学前のアグネスデジタルが来た時には、思わず声が出そうになったりもしたけど。

 ブルボンに抱えられた失神状態のデジタルが出て来た時には、何事かと動転しそうになったものだけども。

 

 取っていたアンケートの結果も良好だし、SNSで検索しても『コスパ最強でスターウマ娘と会話できる神企画』『ウィルムめっちゃ良い子だった。握ってもらった手、一生洗わない』『時間内なら握手もしてくれるしサインももらえる。来年も開催希望』など、良い方向の感想が大多数。

 運営側、つまり俺の不手際も目立ったものはなかったし……。

 ホシノウィルムの企画は、大成功で終わったと言っていいだろう。

 

 

 

 そんな大感謝祭を経て、ホシノウィルムは……。

 

「すっごく楽しかったので、『ご褒美権』もらいますね!」

 

 ニッコニコであった。

 嘘でもおためごかしでもない眩い笑顔。

 ホシノウィルム検定4級の俺が断言する。

 彼女、心の底から大感謝祭を楽しめたらしい。

 

 あの日の朝、大樹のウロの前で見たものとは真逆の表情を見て、安堵のため息が漏れかける。

 うん。あのお祭りを楽しめたなら、これ以上のことはない。

 

 人に、ウマ娘に、敬意や好意を持たれる。応援され、愛される。

 ホシノウィルムにとってその実感は、きっと大切なものだろうからな。

 

 堀野のトレーナーの理想像は、何より担当の心に寄り添う存在。健全に導く存在だ。

 既に俺は、そこから逸脱してしまっているが……。

 それでも、その考え方自体は間違っているとは思わない。

 だから、ホシノウィルムたちのメンタル第一というこれまでの方針は続行する予定。

 

 ま、体調や体力の管理、敵勢力の調査や研究、スケジューリングなど、トレーナーとしての基本業務以外、俺にできることはこれくらいしかないからな。

 彼女たちの明るい未来のため、できることはしてやりたい。

 ……人の情緒に鈍い俺に何ができるか、という問題ではあるけども。

 

 

 

 さて、ホシノウィルムはこんな感じとして。

 もう1人の担当ウマ娘、ミホノブルボンに関しては……。

 

「マスター。バタフライ200メートル、終了しました。次のオーダーをいただきたく思います」

「良し。もう1本行け」

「了解。ミホノブルボン、行きます」

 

 ……うん、全然変わんない。

 まぁ当然といえば当然か。彼女にとっては大感謝祭も、あくまで日常のイベントの1つに過ぎなかっただろうしな。

 契約してすぐに聞いた彼女の来歴からして、ミホノブルボンの過去や性質は、完全に同じではないにしろ前世アプリとそう大差がないように思える。選抜レース直後にアプリトレーナーに出会えなかったっぽいところとか、細部にこそ違いはあるけどね。

 その上で考えると、今のブルボンは無敗の三冠に集中し切っているはずだ。クラシックレースが始まるまでは、情緒面での大きな変化は望めないかもしれない。

 

 今の俺にできることは……とにかくブルボンがクラシックレースに辿り着き、悔いのないレースができるよう、しっかりと彼女を支えることだ。

 

 とするとやはり、当面の課題は……3つの弱点。

 

 ミホノブルボンには、3つの弱点がある。

 「スタミナの欠如」、「中長距離の適性不足」、そしてもう1つ。

 

 前2つは既に対策を立てているので問題ないとして……。

 問題は、俺の「アプリ転生」でも数値に表れない、最後の1つ。

 まずはその弱点を、データとして取得しないといけない。

 

 俺の脳内には、堀野の家に引き継がれた莫大なデータがある。

 彼女の弱点、その性質を数値と感覚で見て取れば……対策は、難しいものじゃないはずだ。

 

 

 

 さて、そうなると。

 

 ブルボンには、弱点のデータ取りと本人の自覚が必要。

 ホシノウィルムもそろそろ力を取り戻しつつあるし、レース勘を取り戻すための機会が必要。

 

 それらはレースの中でしか取得できないもの。

 そういう意味で、ホシノウィルムが持って来た話は、非常に有用なものだったと言えるだろう。

 

 彼女は大感謝祭が終わってすぐ……「ご褒美権」を与えてすぐに、こう言ったのだ。

 

「トレーナー、早速ですが『ご褒美権』を行使します。

 後輩のライスシャワーちゃんと、ブルボンちゃん。彼女たちと模擬レースをさせてください」

 

 ……どこでライスと接点持ったの? とは思ったけどね。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ライスシャワー。

 

 ロングに伸ばした跳ね気味の黒鹿毛と、いつも被った黒い帽子が特徴的な子だ。ホシノウィルムと同じくらいの小柄で、瞳の色は淡い薄紫。

 今年のジュニア級ウマ娘であり、ミホノブルボンと同じように、確かな実力を持ちながらもつい最近までトレーナーと契約していなかった子。

 

 レースに出ること自体を忌避するような動きも見せており、他のウマ娘と争うことになるレースに恐怖を感じているのではないかという疑いもある。

 そうしたウマ娘も珍しくはない。気弱な子は、レースの熱と恐ろしさに侵されてしまい、他者と競うことに恐怖を感じてしまうんだ。

 ……とはいえ、この推論は間違いだ。ライスシャワーは絶望しながらも決して自分を諦めない、とんでもない最強ガッツを持ったウマ娘だからね。

 

 とはいえこの世界のトレーナーから見れば、そんなことはわからない。

 トレセン学園は、走るウマ娘のための園。走る気力を持たないウマ娘に、トレーナーが興味を持つことはない。

 故に、これまではあまりトレーナーたちから注目されていなかった。

 

 ……でもライスシャワーは、それだけのウマ娘じゃない。

 

 彼女は、ネームド。

 つまり前世アプリにおいて名前と固有スキル、そして元ネタになった競走馬が存在したウマ娘。

 前世アプリにおいて、現在の俺の担当ミホノブルボンとクラシック三冠を争った、優れたステイヤーの1人である。

 

 そして、彼女にとって元ネタとなった史実のライスシャワー号は……いや、これに関しては昔ざっと調べただけだから、細かいことはわからないけれど。

 ライスシャワー号は、小さな馬体に無尽蔵のスタミナを持つ、生粋のステイヤー。

 残念ながら安定した戦績を残せたわけではないが、騎手の徹底したマークの甲斐もあり、菊花賞、そして天皇賞(春)を2度に渡って制覇した競走馬だ。

 

 八大競走のG1レースを3度、それも生涯1度しか出られない菊花賞と名誉ある天皇賞の勝利というのは、とんでもない戦果だ。

 歴史に名を遺す最強ステイヤーの一角と言っていいだろう。

 

 

 

 ……が。

 ウマ娘の世界では、ライスシャワーが名バとして語られることは少ない。

 何故かと言うと、ウマ娘のライスシャワーは、ヒールとしての側面が強調して語られるからだ。

 

 そもそも、競走馬ライスシャワー号は最初の内、特段注目されていた馬じゃなかった。

 血統を見れば優れていたが、馬体の小ささもあって不安視する声もあったとかなかったとか。

 実際のレースでの活躍を見ても、メイクデビューで勝った後はどうにも振るわず、菊花賞までに勝ったレースはオープンレース1つきりとか、そんな感じの戦績だったはず。

 

 本来、そんな競走馬が菊花賞を取ったとなれば、シンデレラストーリーとして語られてもおかしくはない。

 ない……の、だが。

 問題は、同じ世代に無敗の二冠ウマ娘、ミホノブルボン号がいたことだ。

 

 とてつもなくハードな調教を受け、スプリンターとしての血筋を超えて、クラシックレースに出走したミホノブルボン。

 その馬は飛び抜けた実力を見せ、平然と連戦連勝していく。

 皐月賞と日本ダービーも踏み越え、菊花賞に出るまで、7戦7勝という記録を残した。

 故に、多くの人が期待したんだ。

 シンボリルドルフ以来となる、新たな伝説。無敗三冠馬の誕生を。

 

 ……けれどその夢は、黒い刺客によって阻まれる。

 ミホノブルボンに期待していたファンにとって、この光景は「別にライバルでもないぽっと出の馬に、無敗三冠の夢を奪われた」という風に見えたわけだ。

 

 アプリウマ娘、特にメインストーリーのライスシャワーは、このあたりの逸話がかなり色濃く再現されている。

 菊花賞という大舞台で勝利したのに、浴びせられたのは歓声ではなく罵倒だったり、ね。

 聞いた話だと、現実ではウマ娘ほど酷い扱いはされていなかったらしいけど、それはともかく。

 

 その後もライスシャワーは、メジロマックイーンの三連覇がかかった天皇賞(春)で勝利を刻む。

 結果として付いたあだ名は、レコードブレイカー。

 記録に刻まれる伝説を破壊する、黒い刺客(ヒットマン)

 

 その史実を反映した結果として、アプリでのライスシャワーは、運が悪く敵役(ヒール)になってしまうウマ娘としてキャラ付けされていた。

 まぁ、そのヒールの呪いを乗り越え、いつか誰かを幸せにできるウマ娘になろうと走り続けるからこそ、ライスシャワーは尊いわけだが……。

 

 

 

 ともあれ。

 前世アプリとこの世界では、だいぶ事情が違っている。

 この世界のライスシャワーにかかる負荷は、だいぶ軽減されるはずだ。

 

 まず、ブルボンと菊花賞に関して。

 ホシノウィルムは今年、無敗の三冠逃げウマ娘になる……と、俺は信じている。

 故に、世間では前世ほどに無敗の三冠に対する熱は上がらないだろうと予想される。

 2年連続の無敗三冠というのも夢がある話ではあるから、実際どうなるかはわからないけどね。

 ……というか、あまり考えたくないことだが、ブルボンが無敗二冠を取れるという保証もない。勿論、全力で支える所存ではあるが。

 

 そしてマックイーンの春天3連覇に関しても。

 よりにもよって1年目である今年、再起し運命を塗り替えたセイウンスカイによって、その栄光を奪われてしまった。

 その上、来年はホシノウィルムが出走する予定なんだ。身内びいきかもしれないが、彼女が十全な走りができるのならば、マックイーンに敗北する未来は見えない。

 連覇どころか、マックイーンは来年のホシノウィルムか再来年のライスシャワーに勝たなければ、春天1勝すら危ういわけだ。

 

 

 

 ……はぁ、胃が痛い。

 

 マックイーンも、俺が前世アプリで好きだったウマ娘の1人だ。

 ホヤあそばせたりモンブランを床にぶちまけたり、かけられた期待と自分の想いがすれ違って曇ったり、文字通り抜群の強さで他を寄せ付けない強さを誇ったりと、ギャグもシリアスもこなせるハイブリッドウマ娘。

 俺も結構な回数育成した。ぶっちゃけスカイと継承相性が良かったという理由が大きいけど。

 

 そんな彼女にとっての栄誉であり運命である今年の天皇賞(春)をぶち壊したのは……俺だ。

 ホシノウィルムにとって最強のライバルを用意するために、セイウンスカイを焚き付けた。

 結果として、いや、俺だけではなくファンやトレーナー、何よりセイウンスカイ自身の力が最も大きいだろうが、スカイは天皇賞(春)に勝った。

 ……本来メジロマックイーンが勝つはずのレースに、勝ってしまったんだ。

 

 この世界は、トゥインクルシリーズは、残酷だ。

 本来勝てなかったはずの勝者が生まれることは、本来勝つはずだった敗者が生まれることを意味する。

 セイウンスカイが勝てば、メジロマックイーンは負ける。

 そういう風に、できているんだ。

 

 ……まったく、本当、ままならない。

 

 シンボリルドルフの理想、ウマ娘皆が幸せになれる世界。

 それは確かに、最高の世界だと思うが……犠牲もなくそれを達成する世界とは、果たしてどうすれば実現できるんだろうな。

 

 1着の子がいる以上、2着から18着の子が存在してしまう。

 お手々を繋いで仲良くゴール、なんてことができるのは初等部までで、アスリートの世界にそんな甘えは許されない。

 

 その中で、トレーナーは自分の担当の勝利のために、17人のウマ娘を敗北へと突き落とさなければならない。

 それを第一とせねばならない。

 

 そのエゴイズムの結果として……。

 俺が好きだったウマ娘が天皇賞(春)に敗北し、宝塚記念では4着に惨敗したんだ。

 

 セイウンスカイを焚き付けた時に、俺はその残酷な結末を受け入れる覚悟を決めた。

 決めた、が……それでも、辛いことに変わりはない。

 

 メジロマックイーン……。

 果たして彼女は、この世界で、幸せになれるだろうか?

 

 

 

 ……ん、あれ?

 というか俺、なんでマックイーンのこと考えてたんだっけ?

 

「トレーナー」

「マスター」

「ん、うん?」

 

 声をかけられ、視界が思索から現実に戻る。

 

 俺の目の前には、2人のウマ娘がいた。

 担当ウマ娘である、ホシノウィルムとミホノブルボンだ。

 

「大丈夫ですか? 心ここにあらず、という感じでしたが」

「問題ない、気にするな」

 

 心配そうに見上げてくるホシノウィルムに軽く手を振って答えると……彼女はチラリとブルボンの方を窺い、言った。

 

「ブルボンちゃん、チェック開始」

「オーダー了承。確認開始。失礼します……瞳孔異常なし、脈拍異常誤差範囲、体幹差異誤差範囲、呼吸異常微量、体温僅かに低。

 結論として、僅かに疲労状態ではありますが、健康体であると推測されます」

「ふむ、後々休息は取ってもらうとして、ひとまず嘘ではなかったということですか」

「俺の言葉が致命的に信じられてないことだけはわかった」

「当然でしょうに」

 

 いつの間にか俺の信頼度、地を這うレベルに下がってたらしい。特に健康面の自己申告は、ここ最近全く信じてもらえない。

 これでも自己管理はしっかりしてたつもりだったし、最低限不調を外に悟られないようにしてたつもりだったんだけどね。

 とはいえそれも、完璧なものではなかったんだけどさ。

 

 彼女たちが、というかホシノウィルムが、やけに俺の健康状態を気にしだしたのは……。

 うん、ブルボンのメイクデビュー以来だね。

 あの時は不覚にも、彼女たちに疲労を見抜かれてしまったからなぁ。

 しかもブルボンからは膝枕され、それをホシノウィルムに見られるという公開処刑にあった。

 ……冷静に考えると、自己管理もできない駄目な大人判定されてもしかたないかな、はは……。

 

 と、と。まぁ俺の名誉はどうでもいいんだわ。

 今は目の前のことを片付けないとな。

 

「ストレッチはできたか?」

「軽く流す程度ですが」

「万全です」

 

 運動の前のストレッチは基本中の基本。特に、ウマ娘が走る前には必須だ。

 なにせレースで事故を起こせば、影響が出るのは本人だけじゃない。他の子に迷惑がかかるし……最悪、玉突き事故のように多数のウマ娘を巻き込んでしまう可能性すらあるんだから。

 

 そんなわけで、真面目にトレーニングやってくれる子は大助かりだ。

 うちの担当は2人とも、歳に見合わないくらい理性的で助かるよ。

 

「良し。それでは、本日の作戦を伝える」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 時は10月上旬。

 今日はホシノウィルムが「ご褒美権」まで使って求めた、3人の模擬レースの開催日だ。

 

 「ご褒美権」は、絶対命令権。

 「君が頑張ってくれた分、俺に可能なことなら何でもする」。そう言って毎度渡しているこの報酬は、その内容が順守されるからこそ価値を持つ。

 だから俺は、それを使って命令されれば、基本的には必ず従うようにしている。

 ……教え子同然の担当ウマ娘に膝枕される、っていう恥も受け入れたくらいには。

 

 とはいえ、あくまでも「基本的には」、だ。

 決して従えない例外、というのも存在する。

 

 まず、俺のトレーナー業務に多大な影響が及ぼされること。

 「死ね」と言われても死ねない。何故なら、その子との契約を投げ出せないから。

 「1年間遊ばせて」と言われてもできない。何故なら、その子の出走するべきレースがあるから。

 ただ、「契約を破棄して」というのなら受け入れるつもりだ。

 遵守すべきは「俺のトレーナー業務」であって、「その子の体調やスケジュール管理」ではない。その子のためになるのなら、離れることも選択肢の1つである。

 ……勿論、ブルボンにはそんなことを言われないよう、気を付けるつもりだけどね。ホシノウィルムは多分言ってこないだろうし。

 

 次に、どうしたって俺に不可能な指示には従えない。

 目からビームを撃てとか言われても、無理なものは無理。方法があるなら頑張ってみるけど、俺もあくまで普通の人間、不可能は存在するんだ。

 

 最後に、どう考えてもその子のためにならないことにも従えないかな。

 滅多にないとは思うけど……例えば「私の脚を折ってください」と言われても、基本的には断ろうと思ってる。それが彼女たちウマ娘の未来を明るくするとは思えないからだ。

 これはご褒美なんだから、彼女たちが得をするようなことでないと駄目だと思う。

 

 例外はこの3件だ。

 逆に言えば、それ以外の指示には絶対に従うつもり。

 

 「ライスシャワー、ミホノブルボンと模擬レースさせてほしい」というのは、これらの例外には当てはまらない。

 故に、俺の担当であるミホノブルボンのスケジューリングは勿論、ライスシャワーのトレーナーを探し出してコンタクトを取り、模擬レースを申し込もうとしたんだが……。

 

 いやはや、まさかライスのトレーナーがアイツだとは。

 想像の斜め上、まさしく予想だにしてなかった展開だよ。

 

 

 

 そんなことを考えながらターフ上の3人のウマ娘を眺めていた俺に、声がかかる。

 ホシノウィルムの療養期間もあってだいぶ久々な気がするが、模擬レースの際俺に話しかけてくる男といえば……。

 

「堀野君……」

 

 聞き慣れ……て、ない声。

 いや、聞き慣れてるんだけど、いつものそれに比べてめちゃくちゃに掠れた声だ。

 

 俺の隣に並んだ……というか倒れ込むように外ラチにもたれかかったのは、もはや見慣れた俺の同僚、ナイスネイチャのトレーナーだ。

 

 いつもならニコニコと胡散臭い笑顔で話しかけてくるヤツなんだけど、今日は少しばかり様子が違う。

 ……顔面は蒼白、焦点は定まらず、全身が僅かに震えてる。

 ブルボンじゃなくてもわかるわ。めちゃくちゃ疲れてるな、コイツ。

 

「大丈夫……じゃ、なさそうだな」

「……あぁ、うん。ちょっと……はは」

「帰って寝た方がいいんじゃないか」

「……いや、うぅん、大丈夫だよ」

「全然大丈夫じゃなさそうだが」

「いや、僕は、彼女の、ライスのトレーナーだからね」

 

 あー、うん、駄目だねこりゃ。

 全然視線が合わないし、会話も微妙にすれ違ってるし。

 意識も定かじゃないんじゃないか、コイツ。

 

 ……驚いたことに、ライスシャワーのトレーナーは、俺の目の前で失神寸前のこの男だった。

 

 あまり詳しくは聞かなかったけど、ライスと何度か接触の機会があり、成り行きで契約することになったらしい。

 なんでも「この子が走らないのは勿体ない、絶対に間違いだ、なんとか彼女を支えたい」と思ったのだそうな。

 前世アプリのトレーナーがしていたような、運命的な出会いってわけだね。

 

 その後、秋川理事長との担当増やし問答では熱意のゴリ押しでかろうじて及第点を貰ったり、たづなさんから警告と助力の約束をされたり、ライスとネイチャの初接触でどことなく重い空気が流れかけたりと、色々あったらしいけど……。

 

 結果として、コイツは2人目の担当を持つことを許されたのだ。

 新人トレーナーとしては驚くべきことだ。俺が言うべきことでもないけども。

 

 ただこの様子を見るに、流石に無理があったみたいだ。

 2人の担当を持つのは、普通の新人トレーナーには厳しいからな。堀野の実家で20年間研鑽を積んだ俺でもギリギリだったんだ、こうしてグロッキーになるのも仕方ない。

 むしろ多少の憔悴は、努力した勲章と言ってもいいだろうが……。

 

 ……とはいえ、流石にこんな状態は見てられないな。

 とても平静に模擬レースを観察できるような状態じゃないし……。

 レースが終わるまでの僅かな間でも、睡眠を取ればマシになるかな。

 

「はぁ。……ほら、目を閉じろ」

「め……目?」

「いいから」

「うん……」

 

 あ、寝た。

 

 暖かい秋の日差しの中とはいえ、いくらなんでも早すぎるだろ。どんだけ限界だったんだ。

 というかそんな状態で、よくもまぁここまで眠気を抑えられてたな……。

 根性で無理を通した、ってヤツ? ホントすごいなコイツ。

 

 取り敢えず、倒れそうになった体を抱え、自分のスーツのジャケットを下に敷いて地面に寝かせる。

 レースが終わったら、担当ウマ娘であるライスに引き渡すとして……。

 

「うーん、あんまりこういう邪道は教えたくないんだが……。

 ……あぁ、あの時のたづなさん、こういう気持ちだったんだなぁ」

 

 あまり手は出したくはないが、同僚に死なれるのは嫌だって……。

 ようやく、その気持ちに共感できたよ。

 

 手帳のページに、いくつか殴り書きする。

 その内容は、時間の有効活用。ちょっとズルい、無茶をする方法だ。

 『睡眠時間は30分ずつ、必ず一日に6回以上取る。仕事中に集中力が切れたと判断したらすぐに諦めて仮眠を取り、睡眠と休息を同時に行うこと』

 『文化的生活を投げ出さないこと。特に風呂と食事、運動は手早くでもいいから規則的にこなすこと。これを放棄すると逆に効率が落ちるし、ウマ娘たちに心配をかける』

 『表情筋と喉を鍛えておく。表情に出る程疲労したら、無表情、無感情な声を取り繕うことで外からの目を誤魔化す』

 『たづなさんの目は朝方と夕方に緩むので、仕事を持ち出したりするならそこを突く。ただしバレると怒られて時間をロスするので注意』

 

 とか、そんな感じ。

 

 ここまで結構無茶してきたから、この辺のコツは弁えてるんだよね。

 

 睡眠は30分程度だと寝過ごしにくいし、分割して何度も取ることで、なんか不思議といっぱい寝てるような気がするし、時間もたくさん使える気がするんだ。プラシーボ効果は大事。

 やりすぎると頭が痛くなったりしてちょっと色々危ないんだけど、過労で頭プッツンするよりは幾分かマシだと思う。

 

 食事を投げ出したりお風呂に入っていないと、腹が痛くなったり頭が回らなくなったり、全身が痒くなったり体の感覚にズレが出たりして、すべての効率が落ちる。

 なので、この辺の生活はしっかりと行った方が、逆に効率が良かったりする。あんまり投げ出しすぎると担当に心配かけるしね。

 

 表情とか声も、担当に心配をかけないための施策だ。

 ……昔はあんまり寝なかったりして、家族に心配かけたりしたからね。その辺の技術も鍛えられた。

 

 たづなさんの警戒網の隙は……この2年弱で何度も繰り返した戦いによる研鑽の成果である。

 あの人、仕事やり過ぎるとめっちゃ怒るんだ。こっちはサビ残前提でこそっとやろうとしてるのに、あんなに怒らなくてもいいじゃんね。

 これまでコツを弁えず、何度捕まって怒られたことか。とてもじゃないけど人間の力じゃないんだよなぁ、たづなさん……。

 

 後はいくつか、トレーナー業、主に書類整理に関するアドバイスを纏めて……よし、ページを破いて、コイツのポケットに突っ込んで、と。

 ……気付くよね? 気付かずにポケットに入れたまま洗濯機に入れたりしないよね? 洗濯できないっぽいジャケットだし、大丈夫だと思うけどさ。

 

「……しかし、たづなさんに止められなかったのかねぇ。いや、止められた上で突っ走ったのかな」

 

 コイツは穏やかそうに見えて策士で、策士なようで熱血漢。

 どうしても支えたいと望んだ子が現れれば、道理も無視してやってしまう。

 そういう、すごくトレーナーに向いた心を持つ男なんだ。

 

 だから俺は、コイツに関して、そこまで心配はしていない。

 予習もなく1年目から担当を増やしたことで、まず間違いなく色々と問題が起こるだろうし、これまで以上に業務の難易度は上がるだろうが……。

 それでも、コイツはネイチャをここまで育てたトレーナーだ。

 きっと担当たちと二人三脚、問題を乗り越えていくだろう。

 

 

 

 ……しかしライスシャワー、なぁ。

 

 ホシノウィルムに対して、ナイスネイチャ。

 そしてミホノブルボンに対して、ライスシャワー。

 

 コイツ、俺の担当と菊花賞で決戦になる子とばかり契約するな。

 まるでウマ娘たちではなく、俺とコイツがぶつかる運命にでもあるかのような……。

 

「同期で、新人で、経験不足な条件は変わらない……いわゆるライバルってヤツかね」

 

 俺はゲロを吐きそうな顔で寝ている同僚を見て、少しばかり感慨深く、出会った頃を思い出す。

 ……訂正。ちょっと寝ゲロ吐きながら寝ている同僚か。回復体位にしておこう。

 

 最初に会った時は、すごく純朴な青年だと思った。トレーナー業に携わるには、真っ直ぐすぎるくらいの男だと。

 けれど関わっている内、策に長じたところがあると知り、そうして冷静なようでありながらウマ娘への熱意を秘めていると知り。

 その氷と炎の2面性のような性質は、尊敬に値するトレーナーであると再認識して……。

 俺のところにもよく育成論を交わしに来るし、情報交換や色んなことを話す内、友人と呼べるくらいにまで仲良くなったんだ。

 あっちの方が年上なのに「フランクな態度でいいよ。同期だろう?」と言ってくれたりしたし、あちらもそこそこ仲の良い友人だと思ってくれている……はずだ。多分。

 

 ……しかし、そんなヤツが、まさかなぁ。

 

 確かにコイツは決して油断できない、有能なトレーナーだとは思うが……。

 ……まさかナイスネイチャを、そしてライスシャワーを担当するとは思ってもみなかったわ。

 新人でありながらネームドを2人担当するとは、まさしく主人公みたいなヤツだ。

 

 そうなると、俺はコイツのライバル、というか敵役か?

 

 ……いや、ゲームじゃないこの世界で、いつまでもゲーム的思考してちゃ良くないな。

 俺は俺だ。この世界に生まれた堀野歩。アプリゲームの登場人物じゃあない。

 

 そして……ホシノウィルムと、ミホノブルボン、ライスシャワーも同じく。

 彼女たちはこの世界に生きるウマ娘。そして同じく、彼女たちの走るレースも生き物だ。

 俺の中には今回のレース結果の予想はあるが、それが的を射るかどうかはわからない。

 何が起きるかわからないのが、この世界のレースなんだ。

 

「さて……そろそろだ」

 

 コイツの状態は気になるが……今はそれ以上に、彼女たちのレースを見届けなければな。

 

 

 

 ……さぁ。

 ホシノウィルムにとっては、久々の。

 ミホノブルボン、そしてライスシャワーにとっては、1つ上の世代の格上との。

 

 3人の、レースが始まる。

 

 

 







 今回でレースが終わるまで行こうと思っていました。
 色々書いてる内に、レースが始まる前に1万字突破しました。
 なんで?



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、久々の模擬レースと後輩たちの話。



(追記)
 誤字報告を頂き、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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バ鹿な私はただ走るだけ

 ぶちまけちゃおうか 芝に





 

 

 

 私が最後にレースを走ったのは、実に4か月ほど前、宝塚記念でのことだ。

 今となっては懐かしい。

 全力疾走の爽快感。領域が開けた瞬間の充足感と全能感。

 そしてメジロマックイーン先輩、メジロライアン先輩、セイウンスカイ先輩と、とんでもなく強力なウマ娘たちに競り勝った達成感。

 あれ、本当に気持ち良かったなぁ。前世から記憶を消してもう1回やりたいゲームは多かったけど、記憶を消してもう1回やりたいレースと言えばあの宝塚記念を挙げるくらいの快感だった。

 

 ……が、そんな宝塚記念も既に、今は昔のこと。

 

 そこで骨をやってしまってから、私は本当に長い間、本気で走れなかったんだ。

 骨が完治してから10月に入るまで、昼はトレーナーの指導の下、夜はライスちゃんと一緒に走り続け、かなり力を取り戻せたけど……それでも、全力疾走とは行かなかった。

 なにせ、トレーナーから止められていたからね。許されてるのはレースにおけるローペース未満、軽いジョギングの速度まで。

 「君は全力を出していいと告げたら、本当にどこまでも走って行ってしまいそうだからな」とのこと。流石は私のトレーナーだ、ホシノウィルムのことをよくわかってる。

 

 

 

 ……でも、ついに。

 部分的とはいえ、その縛りは今日この時、解かれるのだ。

 

「ふぅーッ……」

 

 逸る心を抑え付ける。

 

 あぁ、久しぶりだ。本当に久しぶりの、レース。

 楽しみだ、楽しみすぎて心が弾む。思わずニヤついちゃいそうだよ。

 脚の調子は絶好調。精神状態も整っている。これ以上のコンディションなんてそうそう望めないだろう。

 たとえ相手がジュニア級の子だとしても……それでもやっぱり、誰かと競うっていう感覚が、大人げなくも私の底にある炉に火を付けるんだ。

 

 はぁ……待ち遠しい。

 早く駆け出したい。

 一気に抜け出して何もかもを置き去りにしたい。

 

 早く……早く。

 

「おね、ウィルム先輩……?」

「ん……ん?」

 

 かけられた声に振り返ると……そこには、黒鹿毛色の髪を持つ私のかわいい後輩が、どこか心配そうにこちらを見つめてきていた。

 その瞳の色を見て……ようやく、自分が平静を乱してたことを悟る。

 

 一度深呼吸をして、心の熱を無理やり抑え込んだ。

 

「ライスちゃん……あぁ、ごめん。ちょっとレースが楽しみ過ぎて、入れ込んでたんだ。気にしないで」

 

 いやホント、いくら楽しみだからって、ちょっと沸き立ち過ぎだ。完全にハイになってたよ、私。

 

 人間に本能があるように、ウマ娘にも本能がある。

 それはほとんどが人間と同じなんだけど……そこに「走りたい」という強烈な欲求が追加されるような感じ、って言えば伝わるかな。

 そして私はこの数か月、それを全くと言っていいほど解消できなかったわけで……。

 

 ぶっちゃけ、私は飢えてるんだろう。

 全力の走りに。熱い死闘に。……楽しいレースに。

 

 ……が、だからと言って、こんなかわいい後輩ちゃんに心配かけていいわけもなし。

 特に今のライスちゃんは、まだ誰かの手助けが必要な精神状態だ。私が取り乱してちゃ、彼女の今後にも影響しかねない。

 今は欲求を心の底に封じて、頼れる先輩ホシノウィルムを演じなければ。

 

「先輩も……緊張? って、するんですか?」

「そりゃあするよ。特に今日は、模擬とはいえ久々のレースだし……何より、かわいい後輩ちゃんたち2人と走るんだから、多少はカッコ付けないといけないしね?」

「か、カッコ付けなくてもお姉、ウィルム先輩はカッコ良いですよ!」

「そりゃ、ライスちゃんやブルボンちゃんの前ではカッコ付けてるからね。実際の私はもうちょっと、というかとってもカッコ悪いんだよ」

「そんなことないです! きっと!」

「それがあるんだなぁ……」

 

 ホシノウィルムはレースにおいてはこれといった弱点のないウマ娘だけど、だからと言って「カッコ良いウマ娘か」と言われると、そこには疑問を挟まざるを得ない。

 

 特に私、これでも私生活とかを見ると、弱点は少なくないんだ。

 ミーク先輩も触れたがらないレベルで朝弱くて、毎日30分くらいベッドでボンヤリしないと本調子にならないし。

 勝手に自主トレしてトレーナーに迷惑をかけるし、そこで気遣ってくれることに快感を覚えるような構ってちゃんだし。

 割と考えなしに行動するせいで、行き当たりばったりになりがちだし。

 運がすっごい下振れて、周りに迷惑をかけちゃうことも少なくないし。

 今でこそ余裕が出てきたけど、昔は……うん。駄目なこと、やめるべきこと、最悪なこと、たくさんやってきちゃったし。

 何よりこうして、後輩ちゃんに心配かけちゃったりするしね。

 

 うーん、こうして見ると私、弱点だらけだ。

 というか私、もしかしていわゆる癖ウマ娘なのか……?

 ちょっと、いやだいぶ面倒くさい子だったりする? トレーナーに面倒くさがられてないかな。

 

 ……考えてると、なんか自分がダメなウマ娘なんじゃないかって思えてきた。

 鬱屈とする前に、話逸らしちゃおっかな、うん……。

 

「ま、私のことはどうでもいいとして。

 改めて、今日はよろしく……いや、全力でかかって来て。軽く捻ってあげるよ」

「……! はい、頑張ります!」

「ん。ライスちゃんもクラシックロードが終わればシニア級との混合レースに出ることになるし、ちょっと、いやだいぶ早いけど、今日の経験を糧にしてくれたら嬉しいな」

 

 あんまり柄じゃない、ちょっと傲慢な言い方だけど……。

 ライスちゃんには、こういう強気な発言の方が効く印象がある。

 この子、あまりにも自己肯定感が低くて、よろしくされても恐縮しちゃうからね。

 勝負の場に出た時は、バチバチにプロレスしかけに行くくらいの勢いの方が、ライスちゃんの感情と噛み合う気がする。

 

 一方、もう1人の後輩ちゃんは、もうちょっと違うんだけど……、と。

 

 今回の模擬レースに参加するもう1人のウマ娘、私の後輩でもあるミホノブルボンちゃんは……。

 私とライスちゃんから離れて、じっとターフを見ていた。

 時々やってるぽかーんとした表情、じゃ、ないか。何考えてるんだろ。

 

「ブルボンちゃーん? どうしたの?」

「…………」

 

 あれ、聞こえてないねこりゃ。

 てくてくと歩み寄って、そのぷにぷにの頬をつつくと……うわぷるぷるぷにぷに、特にケアもせずこれって、やっぱりウマ娘ってすごい。

 ……じゃなくて。その頬をつつくと、ブルボンちゃんはようやくこちらを見た。

 

「ウィルム先輩?」

「うん、先輩だよ。何か考えてたみたいだけど、大丈夫?」

「……不明なエラーを検出。先程から、集中力が著しく増加中。しかし同時、多角的思考に強く制限がかかっていることも確認しています」

「……えっと、緊張してるってこと?」

「緊張? ……『緊張』状態についてのデータが不足しています。私は、緊張しているのですか?」

「いや、他人の心はわからないけど」

 

 ……うーん、言っておいてなんだけど、緊張っぽくはないなぁ。

 なんというか、ちょっとアレな表現だけど、ブルボンちゃんの心臓、毛が生えてるからね。

 普通、男の人に膝枕とか恥ずかしくてできないでしょ。そんな高等スキルを平然とこなしてた彼女は、恐らく緊張なんて感情とは無縁だろう。

 

 と、考えると。彼女の言う「エラー」とは何なのか。

 ちらと伺っても、彼女はいつも通りの無表情、声にも目立った震えはない。

 外から見れば、彼女は全く以て普段通り。問題は表に現れ辛い内面なんだろう。

 とすると、考えられる可能性は……。

 

「もしかして、ブルボンちゃん、昂ってる?」

「昂る?」

 

 ミホノブルボンは、常に冷静沈着なウマ娘と思われがちだ。

 いつも無表情で、どこか機械的な言動を見せるため、そう見える。

 ……そう見える、んだけど。

 それが常に正しいわけではないことを、私やトレーナーは知っている。

 

 ブルボンちゃんは確かに、感情が表に現れにくい。

 感情がないわけじゃないみたいだけど、それ自体もあまり強くないし、たとえ感情を覚えても表情にまでは出てこないみたい。

 だからこそ、彼女は感情のない機械みたいに思われがちなんだけど……。

 

 その実、ブルボンちゃんはどちらかと言うと、むしろ直情的だったりする。

 普段は冷静だからわかりにくいけど、いざ思い立ったら即行動。

 私みたいな考えなしってほどでもないけど、割と感情のままに行動を起こしちゃう子である。

 そうでもなきゃ、自分のトレーナーとはいえ年上の男性相手に、膝枕とかやるはずないしね。

 その辺がブルボンちゃんの仄かな幼さを感じられる、かわいらしいチャームポイントなんだけど……それはともかく。

 

 私から見たブルボンちゃんは、一見理性的な女性っぽく見えるけど、実はちょっと子供っぽくてかわいらしいウマ娘。

 そんな彼女だから、レース前に軽く入れ込むってのもあり得ない話じゃないと思うわけだ。

 ……いや、この理屈だと沸き立ってた私もお子さまってことになっちゃうけども。

 

 ともかくそれは、私なりの納得の上で放った言葉だったんだけど……。

 どうやらそれは、ブルボンちゃんにとっては想定外の言葉だったらしい。

 彼女はパチパチとその目を瞬かせた後、こくりと頷く。

 

「……確かに、ステータス『高揚』を感知しました。

 どうやら私は、初めてウィルム先輩とレースを走ることに、高揚を覚えているようです」

「ふふ、そっかそっか。私も、2人と走れるのは楽しみだよ。

 ……でも、アレだね。ブルボンちゃんも、ライスちゃんも……」

 

 ちらりと、トレーナーの方を窺う。

 トレーナーは……ライスちゃんも担当してるらしいトレーナーさんを何故か地面に寝かせて、同じくこちらを窺ってきた。

 どうやら、準備はできてるらしい。

 

 けど……うん、やっぱり。

 彼女たちには、明確に欠けているものがある。

 

「2人とも、見るべきものを間違ってるよ」

「え?」

「…………?」

「ま、それも今日のレースで掴めたらいいね」

 

 これからトゥインクルシリーズを走る上で、彼女たちがまず見るべきものは……。

 私では、ないんだからさ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 トレーナーに呼ばれ、3人でスタートラインに立つ。

 

 今回走るコースは、芝の右回り2000メートル。

 私やライスちゃんが本領発揮するには短くて、ブルボンちゃんが走るには長すぎる距離、って感じ。

 つまり、全員が平等に相性的不利を背負った状況での戦いになると言っていいだろう。スタミナと適正の不足を考えればブルボンちゃんの不利がちょっと強いだろうか。

 

 あー、考えてみると、こうして誰が有利とか不利とか、当事者として考えるのも久々だ。

 やっぱり、考察とかストレッチしながら心躍らせる時間まで含めてのレースだよね。

 ……いや、私がその辺楽しめるようになったのは割と最近だし、語れるほどでもないんですケド。

 

「……ふぅ。ふふ」

 

 今日するのは、非公式の模擬レース。トゥインクルシリーズの公式レースじゃない。

 公式で使うようなゲートだってないし、観客だって……いや、思いの外見物客はいるけど、それでも公式G1レースのように何十万って人がいるわけでもない。当然芝も、今日のために整備されてるわけでもなく、殊更に良い状態とは呼べないだろう。

 競走ウマ娘にとって公式レースこそが本番であるとするなら、今回は本番よりずっと前の練習試合ってところか。

 

 ……それでも、やはり。

 他のウマ娘と競り合うレースができる、っていうのは心が躍る。

 今日の相手は後輩ちゃん2人。私を楽しませてくれるかはわからないけど……同じターフを走れるってだけで、私にとっては僥倖だ。

 

 浮つく。心が躍る。地に足が付かない。

 レース前の熱くなれる気配に、全身の血が沸き立つ感じがして……。

 

 

 

 トレーナーが、ゆっくりとスタートのフラッグを振り上げる。

 その姿を見て……私は、心を、冷やした。

 

 

 

「……寒い。

 でも、心地良い寒さだ」

 

 心の中で、安堵のため息1つ。

 危ない危ない、このままじゃ興奮しすぎて、掛かったり出遅れたりするかもしれなかった。

 こういう時は、やっぱり「寒い」状態の方が冷静に対処できるね。

 

 レースの際に私が感じる、「寒さ」。

 それはお父さんに受けた呪いみたいな愛を発端とする、極度の緊張と集中状態だ。

 昔はそれに振り回されて、自分のことすらコントロールできない暴走状態になってしまってたけど……呪いを振り払った今の私にとって、もはや「寒さ」は便利な機能に過ぎない。

 

 簡単に言うと、今のホシノウィルムには3つのモードがあるんだ。

 目の前のレースにめちゃくちゃ集中するから思考の幅が狭まる代わり、掛かりや出遅れなどのアクシデントを防止し、冷徹にレースを運ぶ「寒い」モード。

 そしてこの「寒い」状態から脱した本来の私、自分なりに色々と考えながら走ることのできるニュートラルな状態、「温かい」モード。

 そして最後に、終盤に熱くなれると突入する全身全霊、転生チートウマ娘としての本領を発揮する「熱い」モード。

 

 モードの名前は今付けたばっかりの仮称だけど、まぁともかく、そんな感じの区分があるわけだ。

 これらを、特に前者2つを臨機応変に切り替えながら走るのが、これからのホシノウィルムの走り方になると思う。

 

 ……なんかこう見ると、まるで異能バトルモノみたいだな。なんだよ3つのモードて。

 自分が漫画の登場キャラみたいな状態になるなんて、前世では思いもし……少なくとも高校に入ってからは思いもしなかったなぁ。

 

 

 

 とにかく、今の私なら……この「寒さ」も使いこなせる。

 だから……。

 

 スタートだって、失敗したりなんかしない。

 

 

 

 トレーナーがフラッグが振り下ろした瞬間。

 誰より速く、私は駆け出した。

 

 脚で地面を蹴る。

 体が空気を裂き、風が頬を撫でる。

 

 文字通り、地に脚の付いた感覚。

 自分の力で、前へ前へと疾走する、ほんのひと時の全力疾走。

 

 あぁ、そう、この瞬間だ。

 私たちが生まれて来たのはこのためだって思える、最高の瞬間。

 

 ウマ娘が、走るために生まれてきたのなら……。

 私は今、ようやく生き返った。

 

 

 

 ……へへ、なんてね。

 感動するのもいいけれど、さっさと脳内で情報整理を始めましょう。

 

 まず、スタートは……悪くなかった、って感じ。

 宝塚記念の時に比べればちょっと遅かったかもしれないけど、日本ダービーの時並みのスピードは出せたと思う。

 復帰したてと考えれば十分なもののはず。あとでトレーナーに褒めてもらおう。

 

 脚を動かす感覚も掴めてるし、体幹の維持も違和感もなくできてる。

 うん……問題なく走れそうだ。

 全盛期の私と比べれば劣っているかもしれないけど、このペースで走ることはできる。

 

 とすると、問題は……むしろ私じゃなく、後方かな。

 

 響いて来る足音に耳を澄ます。

 続く足音は2つ、重いものと軽いもの。重い方がブルボンちゃんで、軽い方がライスちゃんだろう。

 いや別にブルボンちゃんが太ってるとかじゃなくて、単純な体格差の問題ね?

 

 2つの足音は……2バ身、3バ身と離れていく。

 言っちゃなんだけど、そりゃそうだ。

 私は4か月くらい療養中だったとはいえ、これでもクラシック級の無敗二冠の逃げウマ娘。

 デビューして間もない……とは言わないけど、まだ1年も走ってないジュニア級の子に、初速で負けるつもりはない。

 

 とはいえ、今の速度はぶっちゃけ、ちょっと微妙なものだ。

 宝塚記念の時はわざと控えめだったし、日本ダービーの時は重バ場だったから単純な比較はできないとしても……ネイチャやテイオーに見られたら首を傾げられそうな、控えめな速度。

 

 うーん、やっぱりもっと速く走って気持ちよくなりたい。

 スタミナにも余裕はあるし、スパーンって走っちゃおうかなぁ。

 

 ……なんて、冗談冗談。

 今日のところは、本気で走る気はないよ。

 

 

 

 今日のレースは、何も勝てばいいっていうものじゃない。

 模擬レースは本番じゃなく練習試合、学習と実践の場だ。

 だからこそ私にとっても、後輩ちゃん2人にとっても、学びの機会にならなきゃいけない。

 

 今回トレーナーからもらった指示は「自分の脚の状態やスタミナを見ながら、ローペースまでで走れ」というもの。

 いくら転生チート持ちの私といえど、いきなり公式レース並みの速度を出そうとしたら、体が付いて行かない可能性があるからね。

 なので今の速度も、腹八分目ならぬ脚六分目と言ったところ。多分公式レースなら、バ群に付いて行くことすらできないくらいだ。

 

 そんな私にも2人が付いて来れてないっていう現実が、クラシック級ウマ娘とジュニア級ウマ娘の大きな大きな差を示してる。

 本格化が始まってからの時間は、おおよそイコールでその子の強さを示す。

 まだ10か月やそこらしか走ってないライスちゃん、ブルボンちゃんは、1年10か月……いや、1年半くらい走って来た私には、とてもじゃないけど勝てない。

 

 元から厳しい戦いだったとはいえ……このままじゃ、ただの独走だ。

 申し訳ないけど千切っちゃおうかなぁって、ちょっとだけ思ってたけど……。

 ……うん、そうはいかないよね。

 

 

 

 おおよそ600メートル地点、まだまだ折り返しすら来ていない頃。

 

 ドン、と。

 今までよりも強い足音と共に、軽い方の足音が加速し始める。

 

 思わず、口角が上がってしまう。

 

 来た。来てくれた。

 私を追って来てくれた。

 

 黒鹿毛を揺らす彼女が、期待通りに。

 

 彼女との差はそれまで開くばかりだったのに、徐々に広がり方が緩くなっていき、最終的には大体9バ身差くらいでぴったりと付いて来るようになった。

 私と同じスピードを出して、差を維持しようとしてるわけだ。

 

 ……ふふふ。なるほど、そう来たか。

 多分これ、ライスちゃんのトレーナーさんの作戦かな?

 

 原則的に先行ウマ娘であるライスちゃんは、ペースメーカーの逃げウマ娘、つまり私に付いて行かなきゃいけない。

 けれど私は大逃げウマ娘、そのままぴったりマークしても、自分が垂れることは目に見えている。

 だからこそ、一定の距離で追走し続ける……その練習をする道を選んだのか。

 

 ……残酷なことをぶっちゃければ、今のライスちゃんじゃ、私には追い付けないだろう。

 彼女にも結構スタミナはあるけど、私ほどじゃない。このペースに付いてくれば、まずスタミナがもたない。

 だけど……可能な限り付いて行くことは、できる。

 

 元より、ジュニア級ウマ娘であるライスちゃんにとって、今回の模擬レースでの勝ち目は薄い。歯に衣着せずに言えば絶無だ。

 だからこそ、勝つのではなく……将来を見据え、私を追う感覚を掴みに来た。

 

 うん、すごく正しい判断だ。

 ライスちゃんが強い逃げウマ娘と競り合うところまで来たら……つまり、ブルボンちゃんと走るクラシックロードでは、今日の経験はきっと役に立つだろう。

 そうでなくとも他の子とのレース中に苦境に立たされた時、「でも、あの時の模擬レースほどじゃない」と比較できる経験を持っておくのは有益だ。

 

 さて、問題は彼女がどこまで粘れるか、だけど……。

 

 

 

 ……と。

 

 そこまでは私にとって、トレーナーの言う「予想外ではあるけど想定外ではない」状況だった。

 

 けれど。

 

 ドン! と。

 ライスちゃんよりも重い足音が、強く踏みしめられた音が聞こえる。

 

 ……ライスちゃんに続いてブルボンちゃんまで加速してくるのは、完全に想定外なんだけど?

 

「…………?」

 

 ライスちゃんの少し後方、私の聴覚の限界ギリギリで、ブルボンちゃんは粘って来てる。

 それはつまり、ブルボンちゃんは自分のペースを乱し、私への追走を始めた、ってことだ。

 

 ……トレーナーの、指示を破って。

 

 何がブルボンちゃんをそうせしめたのかは、わからないけど……。

 むぅ、あとでお話が必要かもしれない。ただ掛かっちゃっただけなら良いけど、故意にトレーナーの指示を破ったのなら、それはちょっとばかり問題だ。

 ……まぁ私も、トレーナーの指示よく無視しちゃうんですけどね。あんまり人のこと言える立場でもありませんけども。

 

「ふっ……」

 

 ま、いいや。

 こうなるのは少し予想外だけど……トレーナーにはともかく、私にとってこれは、悪い形じゃない。むしろ望んだ形と言っていいだろう。

 

 じわりと、ほんの少しだけ、速度を速める。

 さぁ、かわいい後輩ちゃんたちがどこまで粘って来るか、拝見するとしましょうか。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 模擬レースが、終わった。

 

 結果は当然というか、私が大差を付けての1着。

 そして2着は……なんとか走り切った、ブルボンちゃん。

 ライスちゃんは3バ身差で3着だった。

 

 今回のレースの展開。

 800メートルくらいから一度ライスちゃんが前へ出たものの、ブルボンちゃんもそれに追従。

 その後ライスちゃんの体力が尽きてよれ始めたところでブルボンちゃんがかわして、かわしたはいいもののブルボンちゃんの体力も尽きて、残り600メートルくらいは泥沼のへろへろバトル、といった感じだった。

 

 いやぁ……ブルボンちゃん、頑張ったね。

 この一か月くらいひたすらプールで肺活量と体力を上げてきたとはいえ、2000メートルをちゃんと走り切った。

 まぁ、ゴールした時は眉も下がりきって口も開いたへろへろ顔だったけど、それでも勝ちは勝ち。根性の勝利だ。

 

 一方ライスちゃんは……ブルボンちゃんほどじゃないけど、それでもだいぶ疲れてる。

 まぁあのペース、ジュニア級の子たちには厳しいだろうからなぁ。スタミナが切れれば末脚のキレも悪くなるし、結果としてブルボンちゃんに逃げ切られた形だ。

 

「……うん、悪くない結果だったかな」

 

 私は疲労困憊でターフに倒れ込む2人を後目に、そう独り言ちた。

 

 

 

 結果として、今回のレースは後輩ちゃん2人に、色んな学びや変化をもたらした。

 

 まず、ライスちゃんの今後について。

 

 ライスちゃんはジュニア級にしてはとてもフォームが整ってるし、高めのスタミナを持ってると思う。

 この時期にここまで走れるなら……うん、やっぱり来年の菊花賞の有力候補だね。

 上手く噛み合えば、中距離以上なら十分戦えるG1級ウマ娘になりそう、というのが私の感想だった。

 

 ……ただライスちゃん、残念ながら年末のジュニア級G1中距離レース、ホープフルステークスへの出走はしないことになった。

 何故なら、トレーナーが今日のライスちゃんの走りを見て、彼女の脚部不安を見抜いたからだ。

 ライスちゃん、ここまでの重いトレーニング……と、夜間の長期ランニングが祟ったのか、骨折直前だったらしい。本当にごめんなさい。

 なので、ここからは休みの比率を大きく上げて、脚を休めながらのトレーニングになるのだそうだ。勿論その間、夜の併走も禁止です。

 12月にはだいぶ疲労は抜けているはずだけど、安全を取ってG1は回避し、オープンレースやG3あたりに出走予定なんだって。

 

 それを聞いたライスちゃんがちょっと涙目になってて可哀そうだったので、理解ある先輩として、私はネイチャとの合同トレーニングにライスちゃんとブルボンちゃんも参加させることを提案しておいた。

 両トレーナーは「即座には返事はできない」って言ってたけど、無茶のない範囲での参加なら認めてくれると思う。

 

 ライスちゃん……まさかトレーニング量が減ることを、涙を流すほど悲しむなんてな。

 思えば、アニメでも鬼のようにトレーニングをしてたし、この世界でも夜はいつものように走ってた。

 恐らく、彼女もまたトレーニングジャンキーなのだろう。同志は案外近くにいるものだ。

 

 彼女の脚のためを思えばこそ、トレーニングの量は減らすべきだろうけど……。

 私やネイチャ、ブルボンちゃんと一緒にやってれば、色々と学ぶこともあるだろう。絶対量が減る分、内容の充実度を上げることで補ってくれればと思う。

 

 

 

 次に、ブルボンちゃん。

 

 見事ライスちゃんを越えて2着を取ったブルボンちゃんだけど、その表情には僅かに不満……いや、戸惑いの色が見えていた。

 

 今回トレーナーがブルボンちゃんに出していた指示は、「自分のスタミナから計算した一定で最適なペースで、最初から最後まで走り切ること」。

 それなら後半に垂れることもなく、今回ライスちゃんに対してもっと差を付けて勝てたはずだった……らしい。

 ……いや、そんなことできるの? 「それができれば苦労はしない」ってヤツでは? とも思ったけど、本人曰く「可能」らしい。ブルボンちゃんの頭、すごい。

 

 が、彼女はそれを行わなかった。正確には、途中で投げ出した。

 それでも根性で3バ身差で勝ってるっていうのはすごいけど……。

 やはり問題は、何故トレーナーの指示に逆らったのかってことだ。

 

 例えば、これがただ掛かっただけなら問題はない。

 けれどもし、トレーナーへの不信感や作戦への不満から来ていたなら、今後の関係に関わる。

 だから私は、なんで突っ走っちゃったのか、彼女に尋ねたんだけど……。

 

「……原因、不明です。胸のあたりに、謎の反応を検知し……気付いた時には、ライスシャワーさんの背中を、追っていました」

 

 まだ息も荒いブルボンちゃんは、どうやら少し混乱しているようで、視線を下げ、眉を寄せながらそう言った。

 ……まぁつまるところ、ライスちゃんの熱に当てられて掛かっちゃったらしい。そんなとこまで私に似なくてもよかったんだけどね。

 取り敢えずトレーナーとの関係が悪化しているわけではないみたいで一安心、かな。

 

 しかし……もしかしてブルボンちゃん、案外掛かりやすいタイプなのかな。

 一応後で、トレーナーに相談しておこうか。あの人なら、既に把握してるのかもしれないけども。

 

 

 

 次に、私にとっての主目的の1つでもある、ライスちゃんのブルボンちゃんや交友関係、走りへの意識改善については。

 

「ブルボンさん、今日は、ありがとうございましたっ! 最後、逃げ切られちゃって、ライスすごく悔しかった……! 最後まで、ずっと……すごかったです!」

「こちらこそ、ありがとうございました。ライスシャワーさんのおかげで、自身の不明なエラーを検出することができました」

「ら、ライスでいいよ! というかライス、もうブルボンさんって呼んじゃってるし……」

「では、ライスさん。とても有益な時間でした。是非また一緒に走りましょう」

「い、いいの? ライスと一緒で……」

「『いい』の意味がわかりませんが、ウマ娘は切磋琢磨し競い合うべきものと認識しています。是非とも私の『ライバル』になっていただければ、と」

「ら、ライバル……! は、はいっ! よろしくお願いしますっ!」

 

 うん、互いを知り合う、良いきっかけになったんじゃないかな。

 

 気遣ったわけじゃないだろうけど、ブルボンちゃんのそれはパーフェクトコミュニケーションだ。

 ウマ娘の走るモチベーションとして、友人兼ライバルの存在は非常に大きい。ソースは去年の私。

 ライスちゃんにはこれまで「自分と走れば相手が不幸になる」、あるいは「自分と走りたがるウマ娘なんていない」って思い込みがあって、他の子との併走すらためらうような状態だったけど、これでちょっとくらいはマシになったんじゃないかと思う。

 それに、今のライスちゃんには、近くにネイチャもいるからね。

 面倒見の良さ選手権があるなら連覇確定の彼女が、ライスちゃんを今のまま放置するとも思い辛い。

 

 同門の先輩であるネイチャ、よく一緒に走る先輩の私、そしてライバルとしてブルボンちゃん。

 うん、ライスちゃんの私以外の交友関係については、ひとまずこんなものでいいんじゃないかな。

 契機は作った。ここから先は、ライスちゃん自身が頑張る番だろう。

 

 ……ついでにブルボンちゃんともっと仲良くなって、良質なブルライを見せてくれると嬉しいんだけど……どうなるなぁ。

 

 

 

 そして同時。この2人の関係性の変化の影響は、ライスちゃんの内面だけに留まらない。

 

 これでブルボンちゃんも、ライスちゃんも、同期で競り合えるライバルを見つけたことになる。

 まぁ、今回掛かりに掛かった上、スタミナも十全な状態じゃなかったブルボンちゃんに3バ身差取られるあたり、まだまだライスちゃんはブルボンちゃんに勝てるわけじゃないけど……。

 

 でも……それでもブルボンちゃんの目線は、しっかりとライスちゃんに吸い付いている。

 

 わかる。わかるよ、ブルボンちゃん。

 私だってそうだった。去年、私に迫って来るネイチャを見て、感じるものがあった。

 これで、2人は正式に「ライバル」になったわけだし、お互いに高め合える、良い関係になれたらいいね。

 

 ……うん、これでいい。

 私は彼女たちより1つ上、中長距離路線を進む彼女たちと公式レースで走れるのは、どれだけ早くても来年の6月だ。

 勿論その身体的スペックも、本格化を迎えてからの時間的に、私の方が遥かに高い。

 故に、ホシノウィルムはあの2人の「目標」であることはできても、「ライバル」であることはできないんだ。

 

 でもこれで、彼女たちが上を目指すのに必要な条件は整った。

 良きトレーナー、良きライバル。昨年私が手に入れた環境が、彼女たちにも揃ってる。

 

 是非2人とも強くなって、シニア混合レースまで這い上がってきてほしい。そこで楽しいレースをするのが今から楽しみだね。

 

 

 

 ……でも、あれだな。

 私の想定だと、ライスちゃんはもうちょっとブルボンちゃんとの距離を縮める予定だったんだけどなぁ。

 

「お姉さま、やっぱりすごかったです! ライス、全然追い付けなくて……!

 でも絶対、いつかお姉さまが楽しめるようなレース、してみせます! だから、待っててね!」

 

 おめめキラッキラなライスちゃんは、なんならいつも以上に距離が近かった。

 えっと、なんでそんなに私に懐いて来るの?

 私、今回大人げなく大差勝ちしちゃったから、印象悪くなることはあれど良くなることはないと思うんだけど。

 それとついに普通に言っちゃったけど、お姉さまって何なの? 百合百合学園モノなの? ごめんねライスちゃん、私見るのはイケるけど基本ノーマルだから……。

 いやでも百合文脈の「私ノーマルだから」は堕とされるフラグだな。「私好きな人がいるから」にしとこう。

 

 うーん、今回で私との力の差を知って、より近い位置にいるブルボンちゃんに視線を向けるようになる、って計画だったんだけどなぁ……。

 いや、確かに視線は向いたと思うけど、それ以上に私に対する視線が強くなった気がするのはなんで? 普通レースでボコボコにされたら、ちょっと嫌な想いとかしない? なんで逆に距離感近くなってるの?

 

「しばらく夜の併走はできないけど、絶対、絶対また誘うから……。だから、ライスの脚が治るまで、待っててくれますか……?」

 

 うぅ、そんなうるうるしたつぶらな瞳向けられたら、どんな悪人でも断れないだろうに……。

 私としても併走相手は欲しいから、そのお誘い自体は願ったり叶ったりなんだけど、誘うならブルボンちゃんじゃない? って思ったり思わなかったり。

 いやでも、すごく言い出しにくい……さっき「ライスちゃんが頑張る番」とかカッコ付けちゃった手前、私の方からまた2人のキューピッドするのはちょっと……うん。

 はは、自分のあまりに綺麗な自爆っぷりに笑えてきたな。バ鹿なウマ娘と笑いなさい。

 

「……ふふ、勿論。また一緒に走ろう、ライスちゃん」

「はっ、はい!」

 

 ……あー、もう。かわいいは正義。

 このキラキラ笑顔を見ると、もう誤算とか何とかどうでもよくなってくる。

 

 まぁ……うん、どうせクラシックレースが始まれば関係性も動くだろうし、今はこれでいいか。

 曇りがちなライスちゃんが、併走とはいえ走ることを楽しめている。今回のレースで、1人のライバルを得ることができた。

 だったらもう、何の問題もないんじゃないの? ライスちゃんが今笑えてるってことが何よりなんじゃない?

 ……なんて、そんなことを思ってしまう。

 

 私、正直トレーナーに対してチョロい自覚はあったんだけど、もしかしたらライスちゃんにもチョロいのかもしれない。

 ……もしかしてこのまま、彼女のかわいらしさで押し切られて、色々やらかしちゃうんじゃなかろうか。

 そんな不安が胸をよぎった、10月のお昼だった。

 

 

 

 ……どうでもいいけど、なんでライスちゃんのトレーナーさんはすやすやお昼寝してるんだろう。

 秋の日差しの暖かさに負けちゃったのかな?

 

 

 







 芝にぶちまけられたゲロは堀野君が処理済み。
 この後ライスがぶっ倒れたトレーナーさんに悲鳴を上げて、うんしょうんしょと背負って帰ってくれました。
 そしてこの後、ネイチャにしこたま怒られます。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、京都と名優の実力の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざと出ない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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この先、知識チートがあるぞ

 おそらくウマ





 

 

 

 阪神大賞典と、京都大賞典。

 この2つのレースはG2レースでありながら、G1級ウマ娘が頻繁に出走する。

 何故ならこの2つのレースは、その先のG1レースの命運を占うものとしてちょうど良いからだ。

 

 阪神レース場、芝、右内回り3000メートルの、阪神大賞典。

 3月後半に行われるこれは、シニア級限定のレースであり、天皇賞(春)の前哨戦。

 天皇賞(春)は、トゥインクルシリーズのG1レースの中でも最も距離の長い、3200メートルのレースだ。

 そのため、いきなり出走すればペースキープに失敗しやすい。その前に3000メートルの長距離を走り、ある程度勘を掴んでおく、というわけだ。

 

 一方。

 京都レース場、芝、右外回り2400メートルの、京都大賞典。

 10月上旬に行われるクラシック級・シニア級混合のこれは、10月後半から始まる芝・中長距離のG1レース群の前哨戦として扱われる。

 ここからはクラシック級での秋華賞、菊花賞や、クラシック級・シニア級混合の天皇賞秋、エリザベス女王杯、ジャパンカップ、有記念と、熾烈なG1戦線が始まる。

 G1に次ぐ格を持つG2レースで、なおかつ多くのG1レースの条件に近い2400メートルというのは、これ以上ない試金石になる。故にローテーションに組み込まれやすいわけだ。

 

 

 

 ……さて。

 今年も10月を回り、いよいよ秋のG1戦線が近づいてきた。

 それはつまり、前哨戦となる京都大賞典が行われることも意味する。

 そして今年はそこに、現役最強級ステイヤーと謳われるメジロマックイーンも出走予定なのだった。

 

 マックイーンの契約トレーナーは、非常に手堅い手を打つベテランだ。

 今年の春も阪神大賞典に出走して見事1着を飾っていたし、秋の京都大賞典にも出走予定。

 ウマ娘もそのトレーナーも、どちらも王道を取るタイプなわけだ。

 

 ホシノウィルムのローテーション上、マックイーンとはジャパンカップ、有記念でぶつかる予定。

 当然ながら俺もデータの収集のため、京都大賞典を観戦するつもりだった。

 とはいえ、ホシノウィルムの下を長期間離れるわけにもいかない。京都にあるレース場まで行くことは諦め、中継を見るつもりだったが……。

 

 どうやらと言うべきか当然というべきか、マックイーンはホシノウィルムに目を付けていたらしい。

 大感謝祭の日、ホシノウィルムは彼女から、京都大賞典のチケットを受け取っていた。本人曰く挑戦状として叩きつけられた、とのこと。

 更にはホシノウィルムの分だけかと思いきや、ご丁寧に3枚、俺やミホノブルボンの分までくれた。気遣いの化身かな?

 

 

 

 そんなわけで、10月6日。

 俺たちは……。

 

「京都、初めて来ました……!」

「うむ、菊花賞のためにも、京都レース場の下見もしておこう」

「京都って言えば、やっぱりアレですよね。『ぶぶ漬けいかがどす』! ……アレって本当に言うんですかね?」

「え、どうなんだろう……ブルボン、知っているか?」

「データを検索……。お茶漬け、所謂『ぶぶ漬け』を食べませんか、と言う文化は既に廃れ、使われることがないようです。遠まわしな嫌味、所謂『いけず』を言う文化はまだ残っているようですが。

 また、元来は『早く帰って欲しい』という意味合いではなく『楽しい時間でした』と告げるものであったという説もあります」

「そうなんだ……」

「そうなのか……」

 

 俺、ホシノウィルム、そしてミホノブルボン。

 この3人で、京都を訪れていたのだった。

 

 

 

 そうだ、京都行こう。

 こう言うと、まるで俺たちが観光に訪れたような感じもするけど、勿論そうじゃない。

 俺は中央の契約トレーナーで、ホシノウィルムとミホノブルボンは現役競走ウマ娘。

 である以上、京都観光なんてしている暇があるわけでもなく……。

 

「せっかく京都に来たんだし、やっぱり生八つ橋とか食べたいよね」

「父に京都のお土産を買っていきたいのですが、どこか良い場所はあるでしょうか」

「郵送で送るんなら食品でもいいだろうし、和菓子とかどう? 抹茶大福とか」

「父はどのようなものを喜んでくれるでしょうか……」

「嗜好もあるだろうけど、やっぱり娘が選んでくれたものなら喜んでくれるよ、きっと」

「であれば……この、電池と基盤などは」

「ブルボンちゃん……?」

「メカジョークです」

 

 …………。

 まぁアレだ、ここ最近はホシノウィルムのリハビリとかもあってハードなトレーニングが続いていたし、レースが始まるまでは休暇に充てるか。

 彼女たちはこれまで、走ることに集中していたウマ娘だ。観光とか旅先での食事にも興味を持ってくれるのは、個人的には嬉しい。

 

「……むぅ」

 

 嬉しいの、だが。

 俺はトレーナーなわけで、京都レース場の視察に行きたい、というのが本音だ。

 しかし今、俺はこの子たちの引率でもある。中等部1年と2年のウマ娘を旅先で放置するわけにもいかない。

 

 ホシノウィルムとミホノブルボンは、歳に見合わないくらいに理性的なウマ娘だ。

 無用な問題を起こすような可能性は低いし、ウマ娘ってこともあって、面倒事に巻き込まれることも少ないだろうが……。

 

 ちら、と周りの様子を伺う。

 

 行き交う人たちの大半は、こちらを気にしてもいないが……。

 何人かは、こちらを見て驚いた顔をしている。

 露骨にスマホを向けてくるような人がいないのは幸いだけど……ぶっちゃけ正体はバレてるね。

 

 ホシノウィルムは髪を結った上にキャスケットにサングラス、体型の分かりにくいオーバーサイズのアウターを羽織って変装してるんだけど……。

 ブルボンは一切変装してない、アプリでも見た私服姿だ。ウマ耳すら隠してない。

 まぁデビュー直後だし、そんなにファンがいるってわけじゃない。彼女単体で見れば問題のない行動と言える。

 

 ……が。

 問題は、事情に詳しいファンは、ミホノブルボンがホシノウィルムと同じトレーナーと契約したことを知ってる、ってこと。

 そうなれば、ミホノブルボンと一緒にいる小柄で鹿毛色の髪を持つ少女が誰なのか、察しが付くというもので。

 ぶっちゃけブルボンの存在が、ホシノウィルムの変装の効力を50%くらい下げているのだった。

 まぁそれ自体は、中等部の少女が想定し得るものかと言われると難しいし、幼いが故の失敗、ってことでいいんだけども……。

 

 日本でもトップレベルのアスリートであり、アイドル。そんな中等部の女の子がうろついていれば、アホが湧き出てくる可能性も高くなる。

 俺たちトレーナーにとっては、その辺の露払いも仕事の内だ。

 であれば今、彼女たちの傍を離れるわけにもいかない。彼女たちの心身の平穏は何物にも優先されるのだから。

 

 ……仕方ないな。多少ドタバタになるけど、京都レース場の状態はレースの前に確認しよう。

 

「悪いがその京都巡り、俺も付き合わせてもらうぞ」

「悪い……? いえ、トレーナーも来てくれる前提なんですが」

「マスターには同行を申請します。父へのお土産の選定において、大人の成人男性のご意見を頂きたく思います」

「……了解」

 

 そんなわけで、京都大賞典の出走までのしばらくの間、俺たちは京都観光に勤しんだのだった。

 

 ……余談だが。

 ホシノウィルム、かなりしっかり京都の名所とかを調べて来てた。

 もしかしたら、京都観光をかなり楽しみにしてたのかもしれない。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 京都観光は……うん、悪くなかった。

 いやごめん見栄張った。トレーナーとしては公私混同感があるけど、癖のある担当たちと観光先を回るのは、楽しかった……かもしれない。

 

 ちょっと甘味は多かったけど和菓子は美味しかったし、景観も美しかったし。

 それと、ホントに木刀売っててちょっと感動した。プライベートで来てたらあのカッコ良さに惹かれて買ってただろうな。プライベートで京都に来る予定はないが。

 途中でホシノウィルムのファンの方が「サインください!」って言ってくるハプニングもあったが、彼女が「今はオフだから……また今度、ね?」と上手くあしらってくれたので事なきを得たりもして……。

 

 普段はあまり表情を動かさないホシノウィルムもブルボンの奇抜な感性にクスクス笑っていたし、ブルボンも父へのお土産を買って心なしか満足気だった。

 総じて、良い時間が過ごせたんじゃないかと思う。

 

 

 

 ……さて、そんなこんなで。

 色々見たり買ったり食べたりしている内、京都大賞典の出走の時刻が迫って来た。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 3人でレース場に入り、物販を見て回ったり、パドックを観察した後、スタンドの指定席へ向かう。

 その後ターフの状態を眺めていると、ホシノウィルムが声をかけてきた。

 

「どうなるでしょうか、今回のレース」

 

 ……俺、誰かとレースを見る時いつもこれ聞かれてる気がするな。

 まぁ俺、一応は堀野家出身のトレーナーなわけで、そりゃ膨大なデータに基づく展開予想はできなくはないんだけど……。

 まぁいいや、聞かれたからには答えようとも。

 

「ふむ。……恐らく、メジロマックイーンが勝つだろうな」

 

 先ほどパドックで見たウマ娘たちのことを思い出しながら、今回のレース展開を頭の中で作っていく。

 とはいえ、今回の京都大賞典の出走ウマ娘の中で、ホシノウィルムやミホノブルボンと当たる可能性のある子は少ない。

 彼女たちのことは詳細には調査していないので、走り方のクセとかまでは知らない。故にただ、「アプリ転生」で覗けるステータスやスキル、調子などを元にした予想になるので、確実なものとは言えないだろうが……。

 

「1番人気、メジロマックイーン。当然ながら彼女がこのレースの肝だ。

 セイウンスカイに天皇賞(春)、君に宝塚記念を取られ、殊に宝塚記念では4着という結果になったが故に、今はその人気が落ち気味だが……それでもやはり、彼女の実力は本物。

 好位追走から直線で抜け出し、膨大なスタミナで独走。王道を以てレースに正答を叩きつける、ターフの名優だ」

「マックイーン先輩は……やはり今回も?」

「当然、得意の好位抜け出しで来るだろうな。

 彼女はレースを作る側ではなく、レースに乗る側だ。では、今回のレースを作るのが誰かと言えば……メジロパーマーか」

 

 メジロパーマー。

 前世アプリでも登場した、ネームドウマ娘。

 長くクセのある鹿毛を後ろで纏めた、メジロ家の一員でもある逃げウマ娘だ。

 

 ……申し訳ないんだけど、俺は正直、彼女について詳しくない。

 何せ俺がやってた当時は育成ウマ娘として実装されておらず、サポートカード、それも使いにくい根性のSSRのヤツくらいしかなかったからなぁ。

 性格に関しては、明るいムードメーカー、くらいの知識しかない。

 

 この世界における戦績は……正直、強いとは言えないが弱いとも言いにくい、微妙なラインだ。

 20戦4勝。この前のG3札幌記念で初の重賞勝利を飾った。

 重賞に勝利している時点で、ある程度の実力は持っているが……G2を取れるかと言えば、現状微妙と言わざるを得ないくらいの子だと思う。

 

 ただし、決して無視できるウマ娘でもないというのが、レースの複雑さでもある。

 

「今回の京都大賞典において、明確な逃げウマ娘はメジロパーマーただ1人。ほぼほぼ間違いなく、彼女が先陣を切って走ることになる。

 つまるところ、このレースのペースは彼女が握っている。彼女が速く走れば走る程……高いスタミナを持つメジロマックイーンにとっては有利な戦況となるか」

 

 今回の京都大賞典に出走するネームドウマ娘はこの2人のみ。

 他に注目するとすれば……。

 ここまで1度しか掲示板を外したことのない、G3エプソムカップ2着、2番人気のエレガンジェネラル。

 去年の天皇賞(秋)にも出走した古豪、G2レースでも2着の成績を収める、3番人気ダイサンゲンくらいか。

 

 ……とはいえ、マックイーンという大きな壁を打ち崩せる程の子たちかと言われると首肯しかねるというのが正直なところだ。

 彼女を除いて、このレースにはG1に勝った、所謂G1ウマ娘は存在しない。なんならG1に出走した子も少ない。

 一方マックイーンは、昨年の菊花賞勝者であり、これまで1度たりとも掲示板を外すことがなかった。

 11戦5勝で勝率は45%、そして連対率、つまりは2着以内に収まった確率は脅威の80%以上。

 戦績だけで見ても十分すぎる強さだ。

 

 そしてステータスも……うん、高い。

 天皇賞(春)を超えたためかスタミナの向上は見られないが、宝塚記念の時より賢さやスキルに磨きがかかってる。

 はっきり言って、1人だけ異次元の強さだ。4バ身くらいは差を付けられるんじゃないだろうか。

 

「このレースには、メジロマックイーンを負けさせる要素が少なすぎる。落鉄なり事故なりが発生するか、あるいは他の子たちが協力してメジロマックイーンだけを潰そうとでもしない限り、彼女の敗北は遠い。

 繰り返しになるが、恐らくはメジロマックイーンが勝つだろう」

 

 要は、それが結論だ。

 メジロマックイーンというウマ娘は、現役最強に数えられることもある誇り高いステイヤー。

 これといった強力なライバルのいないG2レースで躓くような子じゃない。

 

 ……と。

 そう、判断したいところだが。

 

「ですが、『必ず勝つ』ではなく『恐らく勝つ』ということは、マックイーン先輩の勝利に多少なりとも疑う部分があるってことじゃないですか?」

 

 ホシノウィルムはそう、少しだけ不安そうな顔で言ってくる。

 まったく……付き合いも長くなってきたおかげか、この子は俺のことをよくわかってるよ。

 

「ああ……ある」

 

 ちょうどその時、本バ場入場の時間が来て、出走ウマ娘たちがターフに現れる。

 何人ものウマ娘が視界に入る中に……当然、芦毛の彼女の姿もあった。

 

「ホシノウィルム、ミホノブルボン。メジロマックイーンの調子はどう見える?」

「え? ……パドックで見た感じ、心身共に仕上がっていると思いました」

「身体的な数字は高い水準を示しています。調子は『絶好調』であると推察します」

「……そう、見えるよな」

 

 そう、実際俺の目から見ても、マックイーンの調子は非常に良さそうに見えた。

 ……あくまで、「俺」の目から見れば、だ。

 

 俺の謎観察眼、「アプリ転生」は、俺の意見とは異なる結果を映し出している。

 「絶好調」ではなく、「好調」だと。

 僅かな差と言えばそれまでだけど……どうにもそれが引っかかる。

 

 メジロマックイーンは、気高い誇りを持つ子だ。

 前世アプリでもそうだったけど、信頼する人、つまり担当トレーナーや家族以外には滅多に弱みを見せない。

 だから恐らく、今調子良さそうに見えるのも……彼女の仮面なんだろう。

 

 俺から見ても、身体的な仕上がりは言うことなし。

 だから問題があるとすれば、内面だ。

 

 ……ずっと目標にしていた天皇賞(春)に敗北し、その後の宝塚記念にも勝てなかったからな。

 彼女の中で、精神的な柱が揺らいでいるのかもしれない。

 

 前世アプリのメインストーリーを見ても、マックイーンは他者からの評価や評判などについて過敏な方だ。

 ファンからもらった期待と願いに応えたがる、ノブレスオブリージュの体現者。

 結果として、課せられた重すぎる期待を背負いかねたりもしていたが……。

 今世では、その期待に応えられなかったとか、自分の非力のせいで夢を破ったとか、そういう想いを抱いているのかもしれない。

 

 ……俺の、偽らざる本音を言うと。

 そんな彼女をどうにかしたい、という思いはある。

 俺はメジロマックイーンを知り過ぎている。前世アプリで彼女を何十回も育成し、〈チームシリウス〉のトレーナーの視点を通して彼女の物語を見ていた。

 故に、どうしても同情してしまう。感情移入してしまう。

 悲しんでいるなら慰めたい。落ち込んでいるなら前を向いてほしい。そう思ってしまう。

 

 ……だが、それでも俺は、彼女に必要以上には関わるべきではないんだ。

 

 それはあくまで、メジロマックイーンと、彼女のトレーナーの物語だから。

 俺は、ホシノウィルムとミホノブルボンの契約トレーナーである堀野歩は、そこに干渉するべきではない。

 ただ彼女が無事に立ち上がって来ることを、祈ることしかできない。

 

 あぁ、本当に……いや、鬱屈は置いておこう。

 今は真横に、彼女たちがいるんだから。

 

 話を戻そう。

 今回の京都大賞典の話に。

 

「メジロマックイーンの調子は、悪くない。……だが、完璧なものでもない。

 常に高いパフォーマンスを発揮して、抜群の安定感を見せていたメジロマックイーンが、レースに臨む時に絶好調にまで行かなかったというのは……。

 実力差から言って、今回のレースでは勝てるだろうが……嫌な符丁でなければいいが」

 

 

 

 結局。

 

 俺たち3人の見守る中で、マックイーンはいつも通りの好位抜け出しで、1着をもぎ取った。

 

「流石はマックイーン先輩。圧勝でしたね」

「……どうすれば、あれから逃げ切ることができるでしょうか」

 

 喝采の中と彼女たちの呟きを聞きながら、俺は僅かに眉を寄せる。

 2着との差は、3バ身。

 ……俺の予想よりも、小さな着差だった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 京都大賞典は終わった。

 

 結果として、メジロマックイーンは3バ身という大きな差を付けて1着を取った。

 ここまでに2連続の敗北を重ね、調子を落としていると見られていたマックイーンだが、この強い勝ち方を以て復調したと見られるかもしれない。

 

 ……だが、マックイーン本人はどうだろうな。

 レースの後、スタンドに向かって手を振るマックイーンの表情は、どこか納得がいっていないように見えた。

 

 ウマ娘は心身共に整って、初めて本調子を発揮するらしい。

 想いが体に伴わなかったり、あるいは体が心に付いて来なかったりすると、どうしても思った走りができないのだと言う。

 

 今のマックイーンの不調は、恐らく前者。

 彼女の精神状態が、その走りと合致していない。

 

「トレーナー?」

 

 だけど今回、俺は手が出せない。

 ダービー前、トウカイテイオーの時とは違う。

 あの時は、テイオーの選手生命そのものがかかっていた。下手をすれば、そのままトウカイテイオーという傑物が消えてしまう可能性があったんだ。

 だからこそ、俺はテイオーのトレーナーに接触して、危険性を警告した。

 

 ……けれど今回は、なにもメジロマックイーンの脚がかかっているわけじゃない。

 言うならば、ただホシノウィルムのライバルが調子を落としているだけなんだ。

 担当の勝利を第一に考えるなら、喜ぶ……とは言わないまでも、受け入れ、利用すべき状況。

 

 端的に言えば。

 俺には、メジロマックイーンに助力するだけの理由がない。

 

「あの、トレーナー」

 

 俺が今、彼女を助けたいと思っているのは、エゴイズムに過ぎない。

 ホシノウィルムのトレーナーではなく、堀野歩個人の利己的思考だ。

 俺には、前世の記憶がある。そこでやっていたゲームのキャラ、あるいはそれに近似したウマ娘。

 彼女に感情移入してしまっていたから、ただ助けたいと思っただけ。

 

 ……いいや、違うか。多分違う。

 

 俺は、これからメジロマックイーンが辿る道のりを知っている。

 前世アプリのメインストーリーで、それを見たことがあるからだ。

 

 雨の中の、天皇賞(秋)。

 メジロマックイーンは、そこで1着を取りながらも、降着処分を受ける。

 

 知っている。それを知っているからこそ、助けたいと思った。

 

 別にメジロマックイーンに限らず……誰かが困っていたり、嫌な結末に向かっているのなら、それを止めたいと思うのは当然のことだろう。

 だから俺は、何かしてやりたいと、してやらねばならないと感じている。

 

 ……けれど、それはホシノウィルムのためにならない。

 彼女がレースに勝つという未来のためを考えるなら、申し訳ないが、ライバルには不調であってもらった方がいい。

 

 俺は、ホシノウィルムの走りに惚れた。俺が彼女のトレーナーをしたいのだと、心の底から感じ入った。

 だからこそ、俺は……彼女のトレーナーとしての自分を貫くべきなのだと、そうも思う。

 

 だが……それでは、

 

「トレーナー!!」

「わっ、びっくりした……どうした、ホシノウィルム」

「どうした? じゃないですよ。トレーナーこそどうしたんですか」

 

 いつの間にか俺の目の前に立っていたホシノウィルムは、少し呆れたような……いや違う、どこか心配そうに、俺の目を見てくる。

 ……えぇと。

 

「ミホノブルボンは?」

「お手洗いに行くって言ってましたし、なんならトレーナー、それに頷いてましたけど」

「……うん」

「本当、どうしたんですか? 少し、顔色が悪いですよ。

 何かあるのなら、相談してください。……パートナーでしょう?」

 

 顔色? 体調が悪いという自覚はないが……。

 

 しかし、パートナーか。

 確かに、ホシノウィルムは俺のパートナーと言って差し支えない。

 ここまで2年弱の時間を共にし、色んな経験を共にしてきた。

 マックイーンの掲げる一心同体……とまでは行かないだろうが、苦楽を共にする関係と言っていい。

 

 極めて個人的な、エゴイスティックな苦悩。「堀野のトレーナー」であれば、それは隠すべき感情だ。

 だが……パートナー、二人三脚の関係であるとするなら。

 どうしようもないことを除いて、隠し事をすべきではないと思う。

 

「……メジロマックイーンは今、不調だ。俺はその不調の原因に、心当たりがある。精神的な引っかかり、悩みがあるんだろう。

 もしかしたら今、俺がメジロマックイーンのトレーナーに接触すれば、彼女の不調が少しは改善するかもしれない。

 だが、俺にはそれができない。君のトレーナーである以上、君の勝利を思えば、利敵行為をすることは許されない。

 だから……どうすべきかはわかってる。納得もできてるんだ。……ただ、感情をコントロールする時間が欲しい」

 

 纏まらない言葉を、感情のまま吐き出す。

 

 ……あー、これ、酷いな。

 パートナーって言葉にグラついちゃったけど、冷静に考えると俺は大人で、彼女は子供だ。

 頼られることはありこそすれ、頼るなんてことがあっちゃいけない。

 殊に俺は、前世からの経験も含めれば既に5……いや、実年齢は20ちょいだし。まだまだおっさんって歳じゃないし。

 

 駄目だ、混乱してる。

 もうちょっと落ち着かないと。俺は彼女から頼られるような大人じゃなければならないのに。

 

 俺がそんなことを思って頭を掻いている内、ホシノウィルムはぼそっと口を開いた。

 

「……私、実はライスちゃんを助けようと思ってるんですよね」

「ん? ライス……ライスシャワー?」

「あの子、色々と抱え込みがちなので、私が支えてあげたいな、と思って。

 トレーナーのそれも、似たようなものでしょう?」

「いや……しかし、君への利敵行為になるわけだし」

「私のそれだって……トレーナーの予想が正しければ、ライスちゃんは来年のクラシックロードの有力候補なんでしょう?

 それなら私がやってるのだって、ブルボンちゃんへの利敵行為じゃないですか」

 

 ……まぁ、それは確かにそうかもしれない、けど。

 

 だが、ホシノウィルムはあくまで学生。一方俺は、仕事で彼女のトレーナーをやっているんだ。

 彼女は良くても、俺は……。

 

「でも私、この行動が間違ってるとは思わないんですよね」

「え?」

「だってそうでしょう? いくらライスちゃんが迷いを振り切って強くなっても……それを超えて、ブルボンちゃんが強くなればいいんです。

 マックイーン先輩もそう。どれだけ先輩が強くなっても……トレーナーが、私をもっともっと速くしてくれれば、何の問題もないでしょう?」

 

 そう言って、してやったりと笑うホシノウィルム。

 

 ……そうだ。

 そういえば、ホシノウィルムはこういう女の子だった。

 

 自身の速さに自信を持ち、俺を信頼してくれて、俺となら……誰よりも速く走れると。

 彼女はそう、心から信じてくれてる。

 

 ……知らず、息が漏れた。

 

「情けないな。俺は君に、たくさんのことを教えてもらってる」

「私もたくさんのことを教えてもらってます」

「君には、本来以上の負担をかけてしまう」

「その分、トレーナーが一緒に背負ってくれるんでしょう?」

「それが、パートナー?」

「それが、パートナーです」

 

 むふん、と可愛らしく胸を張るホシノウィルムに……俺は何度目か、あるいは何十度目かの感心を覚えた。

 

 この子は本当に……俺なんかよりもずっと、心が強い。

 歳不相応なくらいの、信頼を置ける安定感。それはやはり、幼少の辛い体験で培われたものなんだろうか。

 

 ……なんにしろ。

 やはりこの子は、すごいウマ娘だ。

 

「……悪い、ホシノウィルム。少し席を外す」

「トレーナー」

 

 ちょん、と裾をつままれる。

 今までと違う、彼女の表情。

 それは……どこか寂し気なものだった。

 

「救えたかもしれないものを取り落としてしまったら、きっと後悔します。

 私も、……だから……」

「ああ、わかってる」

 

 手を伸ばせる時に伸ばさないと、後悔する。

 そんなことは、ずっと昔から、わかってるよ。

 

 

 

「もしもし……はい、ホシノウィルムのトレーナーをしている、堀野歩と申します。

 メジロマックイーンのトレーナーさんと、少しお話ししたいことがありまして……。

 ああ、いえ、そうではなく。……次走の、天皇賞のことで」

 

 

 







 せっかく生まれ変わったのなら、後悔のない選択をしなきゃ。

 さて、10月ですね。次話、いよいよ菊花賞です。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、菊花賞の話。



(本編に関係するかもしれない呟き)
 JRA賞、2023年度から最優秀マイラーと最優秀スプリンターが分けられるらしいです。
 せっかくなので、本作ではこれを採用していこうと思います。

(本編に関係するかもしれない呟き2)
 ディープとキンカメ匂わせ!?!?(混乱)

(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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幼年期の終わり

 菊花賞です。ネイチャ視点(35話『おまけ We are all of us stars, and we deserve to twinkle.』)の答え合わせのような形でも楽しめると思います。





 

 

 

 10月27日。

 

 本当に長かった。

 6月頭に骨を折って、そこから実に5か月弱。

 

 ようやく、この日が来た。

 ようやく、ここまで来た。

 

 歓声の響く中、私はゆったりと、ターフの上に上がる。

 

 

 

『さぁ少し遅れて、本日の主役がターフに姿を現しました!

 全ての過去を過去にする、最新の伝説。

 18の星々の中にあってなお燦然と輝く一等星は、今日もまた不可能を破り捨ててくれるのか!』

 

『一番人気はこの子をおいて他にはいない!

 ここまで無敗の二冠ウマ娘、ホシノウィルム!』

 

 

 遠く響く実況解説の言葉を聞いて、思わず苦笑しかける。

 

 はは……まったく、言ってくれるね。

 でもその期待、請け負った。

 このレース、必ず……勝つ。

 レース場に来てくれた人たち、今レースを見てくれてる人たち、そして私を信じてくれる人たち……その全てに、結果を以て応えるために。

 

 さて、と。

 改めて、少しだけ目線を走らせ、すぐにその瞳を見つけ出す。

 

 私を貫く、焼け付くような視線。

 私の無二の友人である、ナイスネイチャのそれを。

 

 一目見ればわかる。

 彼女は、完璧に自分を整えている。

 体付きも、雰囲気も、闘志も、精神状態も。その全てが、このレースに、そしてライバルである私に向けられていた。

 

 抑えきれず、口角が上がる。

 あぁ、最高だよ、ネイチャ。よくそこまで仕上がってくれた。

 

 これで私は……この上なく、菊花賞(レース)を楽しめる。

 

「ウィル、待ちかねたよ」

 

 彼女へと歩み寄る内、ネイチャが口を開いた。

 

 お前の威圧感に呑まれてなんてやるかと言わんばかりの、ナイスネイチャらしい、少しだけおどけたような台詞。

 けれど、いつもの口調ではない。

 ピリつき、張り詰め、緊張している。火花でも散れば燃え上がってしまいそうな臨界点だ。

 

「うん、遅くなってごめんなさい、ネイチャ」

 

 応じるように、私も微笑を以て答えた。

 これから叩き潰すことになる親友の闘志を前に、心の底から滾る熱を感じながら。

 

 

 

 さぁ、私たちの、最後の決戦が始まる。

 

 今日行われるのは、G1、菊花賞。

 私たち星の世代最強を決める、最後のクラシックレースだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ゲートの中で頭を冷やしながら、情報の整理を開始する。

 

 トレーナー曰く、今の私の総合的スペックは、宝塚記念時点を僅かに上回る程度。

 しかしそれは、完全上位互換、という意味ではない。

 

 戦術眼は療養期間での勉強で、あの時よりも高くなった。

 最高速度とスタミナは持ち直し、なおかつ更に成長できたと思う。

 けれど、加速力と精神力はやや劣化してしまっている、とのこと。

 それらを数値にして単純に合計すれば、あの時を僅かに上回る、ってだけの話だ。

 

 そして、宝塚記念の時ほど、今の私は「整って」いない。

 あの時はなんというか、絶好調って言葉じゃ収まり切らない、完璧を超えたパフォーマンスだったと自負してる。

 今回の私は絶好調って言えるレベルだけど、逆に言えばそこ止まりだ。

 そう考えれば……うん、日本ダービーの時からちょっと強くなった程度と思えばいいだろうか。

 

 更に言えば、私自身のレース勘が戻っているかもわからない。

 一応、何度かの模擬レースや3000メートルの通しは実践してきたけど、久々の、それも叩きを経由しないG1で、どこまで実力が発揮できるかは不明瞭。

 ……まぁ、ここに関しては多分大丈夫だけどね。

 何せ今回は、トレーナーによる明確な作戦がある。私は終盤まで、それを信じて動けばいいんだ。

 

 そして、最後にして最大の障害は……。

 ちらりと、左を窺う。

 何人かのウマ娘の向こう、ちらりと赤と緑のメンコが見えた。

 

 今回の菊花賞には、これ以上ない仕上がりのネイチャが参加している。

 

 本気を出さなければ、負けてしまうだろう。

 私の……ホシノウィルムの、領域を使わなければ。

 

 

 

 まぶたを閉じて。

 

 ブルボンちゃんの激励を思い出す。

 友達の応援を思い出す。

 後輩ちゃんたちの願いを思い出す。

 多くのファンの祈りを思い出す。

 

 ……私を導いてくれる星を、思い出す。

 

 大丈夫。

 今も変わらず、まぶたの裏に見えてる。

 

 満天の、星が。

 

「寒い。……良い寒さだ」

 

 

 

『ゲートイン完了。出走準備整いました』

 

 

 

 さぁ、準備は整ってる。

 行くぞ、ネイチャ。

 あなたから逃げ切るために、私は私の全てを使う。

 

 

 

『……スタート!』

 

 

 

 ゲートの開く音と共に、思い切り地面を蹴り上げる。

 ぐん、と前進する視界。周りの子は、誰一人として付いて来れない猛加速。

 

 いつも通り、完璧と言えるスタートダッシュだ。

 このまま……全員、振り切る!

 

 

 

『さぁ各ウマ娘一斉にスタートを切りました。坂を駆け上がりハナを切ったのはやはり一等星ホシノウィルム、快調に飛ばして差を付けていきます。

 彼女を追うのはアゲインストゲイル、バイプロダクション、ホリデーハイクたち逃げウマ娘。破滅的なまでの大逃げに付いて行くことができるか?』

『注目の三等星ナイスネイチャ、今日は前めに付いていますね。日本ダービー3着リオナタールはその前、現在6番手。3番人気ハートブロウアップはいつも通り後方から睨みを利かせているぞ』

 

 

 

 見られている。このレースに参加する全てのウマ娘が、私を見ている。

 皆、考えてるんだ。

 コイツの背中を越えるにはどうすればいいか。どこで仕掛けるのが上策か。

 ……あるいは、ナイスネイチャの策に乗った方が良いのか。

 

 逃げウマ娘の中の1人の足音が、遮二無二に伸びてくる。

 へぇ、私に付いて来るつもりなんだ。

 ……いや、違うな。

 これ、私と追い比べして掛からせるつもりか。

 

 足音はラストスパートもかくやって勢いで、一気に駆け寄って来る。

 その勢い自体は、悪いものじゃないと思う。

 

 ……が。

 申し訳ないけど、わざわざ無益な戦いに取り合うつもりもない。

 彼女の存在は無視して、私は自分のペースを保つ。

 

 ホシノウィルムが後方からの圧に弱かったなんて、もう遥か昔の話。

 今の私に、弱点は、ない。

 

 ……名前も知らない彼女も、そろそろ追い付き難いことを悟って、下がっていくはずだしね。

 

 

 

『さぁ第1コーナー入って坂を下る! 先頭ホシノウィルム素晴らしいコーナリングで減速なく、かなりのハイペースで後方との差をぐんぐん広げていきます』

『宝塚記念では大逃げを放棄したホシノウィルムですが、今日は大きく大きく差を広げる従来の走り。普通なら体力が持つのかを心配するところですが、もはや誰も彼女の型破りを疑うことはできません!』

 

 

 

 今回のレースを走る前に、私はトレーナーと情報交換をした。

 内容は、私の領域と、その特殊性について。

 

 その結果練られた策は、非常に単純なもので。

 このレース中、序盤から終盤までハイペースを保つ、だった。

 

 菊花賞は淀の坂が立ち塞がる3000メートルの長距離、多大なスタミナを消耗するレースだ。

 その距離の長さは、トゥインクルシリーズのG1レースでは天皇賞(春)に続いて2番目。

 故に本来は、ハイペースの大逃げの許される距離ではない。

 

 ……けれど。

 例えば、終盤に脚を残さなくていい、とするとどうだろうか。

 

『2400メートルまで、ハイペースを維持しろ。……そこまでに、ネイチャは必ず仕掛けてくる』

 

 それはつまり、このレースのスタミナ勘定は2400メートル分でいい、ってこと。

 私の持つ体力を、2400メートルまでで自由に使う。……それなら、日本ダービーの時とそう条件は変わらない。

 幸いあの時と違って、今日は雨も降っていなければ重バ場でもないんだ。

 ハイペースの大逃げも……難しくはない。

 

 

 

『今先頭が1000メートルを通過、そのタイムは……59秒8! あのセイウンスカイの59秒6に近い、かなりのハイペースです! 中盤に息を入れる作戦か?』

『しかし、逃げウマ娘たちが追いすがっていますし、先行集団もしっかりとペースに付いて行っている。息を入れる隙はあるのでしょうか?』

 

 

 

 クラシックレース、その最後の1つに出るのは、当然ながら世代最高峰と謳われるウマ娘たちだ。

 勿論その脚を仕上げるだけでなく、誰もが必死にこのレース場を、菊花賞を、逃げウマ娘を、そして私を研究してきている。

 

 だからこそ、私の領域と特殊性を知らない子たちは、こう思うはずだ。

 

 序盤で差を離し、中盤で息を入れる。

 セイウンスカイ先輩と同じ戦略を取るつもりだ、と。

 

 皆が研究し尽くし、こちらの手の内を読む前提の、欺瞞。

 誰もが「こうだろう」という常識に囚われてるが故に、私とトレーナーの本当の狙いは読まれない。

 

「……すぅー」

 

 全てのウマ娘の足音が消え去った中、ただ1つ、私の呼吸と足音だけが響く。

 

 欺瞞は、成功している。

 誰もが、今から息を入れると思っている。

 

 私との距離を見誤らないように、私のペースを見落とさないようにして……。

 私を休ませないよう、必死に距離を詰めてくるはずだ。

 

 トレーナーの想定が正しければ、そろそろ……。

 

 

 

『向こう正面、リオナタール、続いてナイスネイチャがバ群を抜けてぐいぐいと前との距離を詰めていきます! 早めの仕掛けだが大丈夫か!?』

『淀の坂を警戒して距離を詰めに行ったか、しかし先頭までの距離は長い! スイートキャビン、パンパグランデもペースを上げる!』

 

 

 

 ……来た。

 

 この足音は、ネイチャと……多分、何度か一緒に走った子だ。

 何だっけか……えっと、ラ、ラ行から始まる名前だった気がするんだけど……レース中ってこともあってちょっと思い出せない。本当にごめんね、正直ネイチャの盾になってるイメージが強すぎて……。

 とにかく、模擬レースやダービーで一緒に走った、結構すごめの末脚を持ってる子のはずだ。

 

 脳内にトレーナーから貰ったプランを広げる。

 これは……確か1番目、最も確率の高いパターン。

 ネイチャが誰かを盾にしながら、向こう正面で上がってきた場合の対応は……。

 

 うん、何もない。

 現状維持で問題ないはずだ。

 

 さぁ、二度目の登り坂に差しかかる。

 この坂をハイペースで登り切った先で、ネイチャのスタミナが、果たしてどれだけ残っているか。

 それが今後の展開を決めると言っていいんだけど……。

 

 

 

『速い速いリオナタール、ホシノウィルムの後方5バ身まで一気に詰めまして坂を登る!

 ナイスネイチャもこれに続く、最終直線で差し切るつもりか!』

『まだレースは800メートル以上残っています、掛かってしまったのかもしれません。とはいえもう息を入れる場所もない、ここからスタミナは持つのでしょうか?!』

 

 

 

 普通に考えれば、こんなに早期のスパートはスタミナを消耗しかねないけど……。

 もう1人の子はともかく、ネイチャにとっては問題のない範囲だろう。

 何せ彼女、もう1人の子の後方で、しっかりと風を避けて進んできてる。

 足音のグラつきも少ないし、余力は感じるね。

 

 私も、限界は遠い。

 まだまだ、いいや、どこまででも行ける。

 

「……ふっ」

 

 坂を登り終え、コーナーの先に目を向けながら考える。

 

 淀の坂、その下りは、第三コーナー内にある。

 ここでスピードを出しすぎれば、大きく膨らんで外に弾きだされてしまう。

 私はコーナリング上手いから問題ないけど、ネイチャは……。

 

 いや。

 続くこの足音に、全く迷いを感じない。

 減速する気はないな。むしろ……。

 

 

 

『今先頭ホシノウィルムが坂を登り終え下りに入ります。

 この坂が終わってから勝負が……いや!!』

 

 

 

 世界が、塗り替わる。

 無明の暗がりの中、ただ1つ、くすんだ灰色の星だけを頼りとする世界へと。

 

 ……ここで来るか、ネイチャ!

 

 

 

『ナイスネイチャだ、ナイスネイチャ仕掛けた! 菊花賞のタブーを犯して前との距離を詰めに出た!!

 しかし逸れない、抜群のコーナリングでぴったりとインコースを突いてます!!』

『少し体勢を崩せば倒れてしまいかねないギリギリの角度です! このまま下り坂で一等星を捉えるつもりなのか!?』

 

 

 

 想像以上だ。まさか私以上にコーナリングが上手いとは。

 この5か月。私が休み、力を取り戻す間に……彼女はもっとたくさんの力を付けていたんだ。

 

 ……流石。

 流石だよ、ナイスネイチャ。

 

 それでこそ、私が見込んだライバル。

 それでこそ、キラキラした主人公。

 

 ありがとうネイチャ、無事にここまで来てくれて。

 ……私の勝利条件を、満たしてくれて!

 

「来てくれると、信じていました、ネイチャ」

 

 冷めた心。その奥底から、炎が吹き上がる。

 その「熱」のままに、私は……。

 

 領域を、開いた。

 

 

 

 領域。

 

 ウマ娘特有の、不思議な現象。

 

 心象風景を現実世界に押し付け、自らの世界の中で、通常以上の力で走ることができる。

 ネイチャやテイオーに使われて、ずっとずっと苦戦を強いられたそれを……今は、私も使うことができるんだ。

 

 まるで世界が割れて、本当の世界が現れるような錯覚と共に……。

 久々に見るその光景が、私の網膜を焼く。

 

 暗い世界に、数々の星が灯る。

 私を導いてくれる、ファン、後輩、知り合い、友達、そしてトレーナー。

 私は皆に照らされ、温められ、溶かされて……生まれ変わる。

 

 そうして、カチリと、切り替わった。

 

 私の意識と、走りが。

 

 

 

 ホシノウィルムには、3つのモードがある。

 冷静にレースを運ぶ「冷」、私らしく走れる「温」。

 ……そして。

 

「……熱い」

 

 誰の耳にも入らない、私だけの小さな小さな呟きと共に。

 

 胸の底から溢れ出る、熱、熱、熱。

 今、私の背中に手を伸ばすネイチャとのレースが……たまらない。

 たまらなく、熱い。

 

 その熱が、最高の熱が、私の脳に火を入れる。

 

 

 

『ホシノウィルムとナイスネイチャ、ここで更に加速! 3番手リオナタールも追いすがるが届かないか!

 やはり一等星と三等星、この2人はモノが違うのか!!』

『残り500メートル前後、そろそろ最終直線だ! 他のウマ娘も位置を上げるが、この2人のペースには付いて行けないか! やはり前半の殺人的ハイペースが響いてしまったか!?』

 

 

 

 ……さぁ、考えよう。

 このレースに勝つ方法を。

 ナイスネイチャに勝つ方法を。

 

 まずは、情報収集。

 足元の芝の状態。一歩先の地面の細かな傾斜。僅かな風の動き、内ラチまでの距離、彼女の脚の動く速度、その歩幅、体の軸のズレ、自分の残った脚、不調、その全て。

 目と耳と鼻、足裏の感触まで。あらゆる感覚から、あらゆる情報を取り入れていく。

 

 そうしてそれらから、最適の方法を考案する。

 

 一歩先に足を落とす。

 それを、果たしてどの角度で、どの場所にすべきか。

 脚を持ち上げ、運ぶ。

 それを、果たしてどう動かし、どう回すべきか。

 

 普段は慣習的にやっているそれを、全て片端から再度計算し演算する。

 そうして導かれた答えは、まさしく「最適解」。乱雑な走行などよりずっと無駄なく加速できる。

 

 それこそが、私の天星スパート。

 限界まで体を倒した前傾姿勢で風を避けながら、最小の負荷で前へ前へと疾走する、私だけの走り方。

 

 ……良し、次。

 戦法の次は、戦術だ。

 

 ナイスネイチャの速度、互いの距離、バ場の状態、ゴールまでの距離……ネイチャの領域。

 その全てを材料に、このレースの勝ち方を導いて……。

 

 

 

 …………?

 

 いや、待て。

 なんか……違う。

 

 ネイチャの領域。それは確かに、領域で間違いない。

 けれど、なんというか……違う。

 

 これは……らしくない。そう、らしくないんだ。

 「ナイスネイチャらしくない」んじゃなくて……「ウマ娘らしくない」。

 

 これじゃ……かつての私そのままだ。

 勝利への渇望のあまり、視野が狭くなってしまってる。

 自分を支えてくれる、本当に見るべきものを見失ってしまってる。

 

 頭が冴えている今なら、この領域の……彼女の精神状態の歪さがわかる。

 彼女は……ネイチャは、今、私しか目に入ってない。

 それじゃ……駄目だ。駄目なんだ。

 

 ネイチャが、本当の実力を出せない。

 

 手段と目的が逆転するのは、ままあることだ。

 昔の私だって、お父さんに頭を撫でてほしいって、そう思ってただけだったのに……いつしか勝つことに執心するようになってしまってた。

 ネイチャも、あるいは今、そうなりつつある……のかもしれない。

 

 駄目だ……それじゃ駄目だ。

 

「駄目ですよ、ネイチャ」

 

 知らず、口にする。

 

「それじゃ駄目なんです、ネイチャ」

 

 ……しかしまさか、そうして漏らした言葉に対して。

 

「これ……何?」

 

 ネイチャの返事が、返って来るとは思わなかった。

 

 これ……もしかして、「重なった」の?

 

 

 

 * * *

 

 

 

 領域というのは、摩訶不思議なもので。

 自分を中心に広がろうとする領域同士がぶつかると、互いが互いを削り合い、その破片から相手の想いを理解できたりもする。

 宝塚記念で、私がほんの少しだけマックイーン先輩やライアン先輩の心に触れたのが良い例だ。

 

 そして……条件はわかってないけど、領域同士がぶつかる時に「重なる」とか「繋がる」って言われる現象が起こることがあるらしい。

 削り合い、食い合うのではなく「重なる」。お互いの領域の一部が繋がってしまい、その心を、時間と言葉を介さずに理解し合える……のだとか。

 トレーナー曰く、堀野の長い歴史でも10とか20くらいしか記録されていない、非常に珍しく、そして不可思議な現象。

 

『正直、これが本当に実在する現象なのかはわからない。ただの錯覚である可能性も高い。

 だが、いざと言う時に直面して困惑するのも良くないからな。念のため伝えておく』

 

 ……トレーナー、どうやらそれ、実在したっぽいよ。

 

 私とネイチャの領域は今、繋がってるみたいだ。

 

 

 

 レース中に言葉を交わせるって意味では、この領域の重なりは非常に面白い現象だと思う。

 ……ただ、アレだ。流石の私といえど、思念で会話するなんていうファンタジー行為に慣れているわけじゃない。

 ネイチャは疲れからか、すごく率直に言葉を伝えてくるけど……私はちょっと、隠すべきことが多いからね。転生者なこととか、あと恋心とか。

 なので、思考を垂れ流すわけにもいかない。上手く脳内で言葉を紡がなければ。

 

 努めて冷静に言葉をこねくり回して、伝えたいことを伝える。

 今のネイチャじゃ駄目だ。私だけを見ているようじゃ駄目。

 もっと、ネイチャを支えてくれてる人たちを見ないといけないんだって。

 

 転生者の私でさえ、最初はレースを楽しめてたんだ。

 ネイチャが最初に走ることを目指し始めたキッカケは、きっと……。

 

 ……いや。

 ナイスネイチャに限った話じゃない。

 ウマ娘は、きっとそういうモノなんだ。

 

 誰かに夢を託され、それを背に負って走るモノ。

 その夢に背を押されて、その夢を力にするモノ。

 道に迷うこともあるけれど、本質はきっと同じ。

 私も、ネイチャも、このレースに参加するウマ娘も、全員……夢を背負って走ってる。

 だから、ほら……聞いてみて。

 あなたに夢を託した人たちの声を。

 

 ……って。

 あ、まず、半分思考垂れ流しになっちゃってたかも。

 やっぱり難しいよ念話、ファンタジー漫画とかで念話しながら戦闘とかしてるの、アレさてはだいぶマルチタスクだな?

 

 ……あれ、でもそれ言ったら私、「アニメ転生」してる間は思考力が伸びてるはずなのに。

 もしかして、領域上の会話では使えないのかこれ? 現実じゃないから?

 ああいや、そんなことはどうでもいいとして。

 

 私がネイチャの領域に視線を向けなおすと……そこには、既に変化が窺えた。

 

 どうやら、ネイチャにもちゃんと見えたみたいだ。

 

 

 

 キラリと。

 ネイチャの世界を照らしていた灰の星が、まるで月が満ちていくように……輝きを増す。

 

 それが宿したのは、金色の光。

 何よりも、誰よりも眩しい、彼女の夢。

 ナイスネイチャを導く、彼女だけの一等星だ。

 

 ……私にとっての、彼方に輝くそれのように。

 彼女もまた、本当に自分を導いてくれるものを見つけたらしい。

 

 

 

「……これが、ネイチャの……本当の……」

 

 思わず呟く私に、ネイチャは冗談めかして……いや、冗談半分に言ってくる。

 

「ウィル。良かったの? アタシに、こんなこと教えちゃって。

 ……アタシ、本当に勝っちゃうよ?」

 

 ゾクリと、背筋が震える。

 

 あの、ネイチャが。

 全ての謙虚と自虐を捨てて、殴りかかって来てくれる。

 

 最高だ。

 そんなの絶対、面白いレースになるに決まってる!

 

「っ。……ふふ、構いません。

 私も、人から教えてもらったのです。この熱も、この星の輝きも。

 人から貰った善意は、誰かに返さなければ」

「いや、そういう偽善的な理由じゃないでしょ。

 アタシたち、ウマ娘だよ?

 自分の目的のために、誰かの夢をぶっ壊す競走ウマ娘だよ?

 誰かのため、なんて理由なわけないじゃん」

 

 はは、それは本当にその通り。

 

 私たちは皆、エゴイストだ。

 自分の勝ちたいという想い、その先にあるものを目指して、あらゆる夢と願いと祈りを踏み砕いて行くんだから。

 他人のため、なんてわけがない。

 いや、そういう部分がないわけじゃないけど、それがすべてじゃない。

 

「あらら、バレましたか。……ええ、私にもネイチャに強くなってもらう理由はあります」

「理由?

 ライバルを強くする理由って……?」

「簡単ですよ。

 私、熱くて楽しいレースがしたいのです。

 もっとネイチャに強くなってもらって、私に迫って来てほしいのです。

 ……そういう相手に勝った方が、楽しいでしょう?」

 

 このレースに出る名目にもなったこと。

 トレーナーとの「レースを楽しむのが早いか、無敗で三冠を取るのが早いか」という勝負に負けた私は、この菊花賞を……いや、参加するレースを「楽しまなくちゃいけない」。

 

 それが、私が勝負に負けた罰であり……。

 それが、トレーナーからもらった最大の祝福でもあり……。

 それが、ホシノウィルムがこれから生きていく意味でもある。

 

 だから、私は心から真摯に言ったんだけど……。

 

 何故か、ネイチャの雰囲気がピリッと冴え渡った。

 

「そりゃあ……はは、なんてふざけた理由。

 余裕綽々ってわけ?」

「……? いえ、余裕綽々じゃなくなるために、強くなってもらうのですが」

「あー、うん、そっか。アンタそういう子だったね。わかった。わかりましたよ。

 ……楽しむ余裕もないくらいにぶっちぎってやるっての!!」

 

 彼女が怒った理由は、正直なところ、よくわかんなかったんだけど……。

 ネイチャがブチ切れた感じを最後に、領域の「重なり」は解けた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そこからは……。

 

「アタシが、勝つ!!」

 

 そう言って末脚を伸ばして来るネイチャに対して、私はいつ何が起きても良いように、常に最適を選びながら彼女の前を走り続け……。

 それでもなお想定を越えてくるネイチャに心を躍らせながら、計算と走行を続けて。

 

 

 

 そうして……。

 

 

 

『今2人がゴォオオルイン!!

 最後の最後で加速して差し切ったのは、ホシノウィルム!! 1バ身の差を付けて菊花賞を制しました!!

 赤の次に咲き誇ったのは灰の大輪!! 2人目の無敗のクラシック三冠ウマ娘が誕生すると同時、初の三冠逃げウマ娘が歴史にその名を刻んだ!!』

『もはや問答は無用!! 彼女こそが世代の一等星!!

 菊の舞台で最強を証明したのは、ホシノウィルムだ!!!』

 

 

 

 ……その日に勝ったのは、私の方だった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 レースを無事に走り切り。

 めちゃくちゃ長いインタビューを受けたり、記念写真の撮影とかを終わらせて。

 これが最後となるライブ曲「winning the soul」を踊り終えて、とんでもない喝采をもらって。

 

 そうして……ホシノウィルムのクラシックロードは、三冠達成という結果で終わった。

 

 伝説のセントライト、戦士シンザン、常識破りのミスターシービーさん、そして永遠の皇帝シンボリルドルフ会長。

 このそうそうたるメンツに、私、ホシノウィルムの名が並ぶことになるわけだ。

 無敗三冠に限って言えば、シンボリルドルフ会長と、ただ2人きりの存在となるわけで……。

 

 ……なんというか。

 今更ながら……すごいことしてない、私?

 

 最初は「とにかく負けたくない」「あとできればテイオーちゃんの夢を代わりに叶えたい」というところから始まり。

 トレーナーと関わる内に「楽しいレースがしたい」「トレーナーに恩を返したい」となって。

 

 ただ走って、走って、走り続ける内。

 いつしか、こんなところまで来てしまった。

 

 勝負服から私服へ着替えながら、思えば遠くまで来てしまったなぁと思う。

 

 ここが、競走ウマ娘が立ち得る頂点の1つ。

 

 ……お父さん、お母さん。見てくれてる?

 あなたたちの娘は、結構すごいウマ娘になったよ。

 

 

 

「で、そこからはグワーッ! と迫って来るネイチャからグーンッ! と脚を伸ばしてズバーッ! と行ったんです。しかも進むごとにドゴーンッ! って来るのでブワーッ! でしたよ!」

「うん、楽しめたなら何よりだ」

「……ウィルム先輩、水です」

「ありがと、ブルボンちゃん。……でもネイチャ、ズドーンッ! って感じで! やっぱりアレが領域のアレなんですかね、流石はネイチャ、アレするとはアレですね!」

「君そんな語彙力死んだキャラだったっけ?」

「今の暗号は一体……?」

 

 宿泊するホテルへ向かう車の中で、今日のレースを見てくれていたトレーナーやブルボンちゃんと言葉を交わす。

 

 今日は、本当に楽しかった。

 充実感ならともかく、楽しさって意味なら、あの宝塚記念に勝るとも劣らないレベル。

 けどそれを口にしようとすると難しい。どうしても的確に表現できない。言葉にした時点で、本当に感じたそれよりも劣化してしまう気がしてもどかしいよ。

 

 でも、どうしてもこの気持ちを誰かに共有したい。一緒に楽しみたい。

 だから頑張って口に出すんだけど……どうにもトレーナーはニコニコしてるし、ブルボンちゃんはポカーンとしてる。

 わかってない、2人とも全然わかってないし!

 

「むぅ……すごく楽しかったのに!」

「それはよく伝わって来るよ。本当によく、な」

「同意します。このようなウィルム先輩は初めて見ました」

「そりゃそうだよ! こんなに楽しいレースは久々だもの! ブルボンちゃんだって、きっとクラシックレースを走ればわかるって!」

「そう……でしょうか」

 

 たまらない充実感、勝利の余韻と歓声の残響が、今も頭を痺れさせる。

 私は最高のレースを走り、そして勝ったんだ。

 これを嬉しいと言わずして何と言う。これ以上ウマ娘として満たされることが他にあろうか。

 

 身振り手振りでその様を伝えようとする私をミラーでちらりと窺い……。

 

「……良かったよ。君がレースを楽しめて、本当に良かった」

 

 ポツリと、トレーナーは呟いた。

 

 その真剣な声に、ブルボンちゃんは首を傾げてるけど……。

 私は、トレーナーの想いを理解できた。

 

 2年弱という長い間、トレーナーはずっと、私を支えてくれたんだ。

 ただ、レースを楽しめるように。この人生を楽しめるように。

 

 ……そう。

 二度目に得た、この人生。

 

 私が「ホシノウィルム」を生きられるようになったのは、彼のおかげだ。

 

 だから。

 今は、改めてこう言おう。

 

「ただいま、堀野歩さん!」

「! ……ああ、おかえり、ホシノウィルム」

 

 

 

 

 

 

 そうして、「ホシノウィルムのクラシックロード」という1つの物語が幕を引いた。

 

 けれど当然、私と彼の関係はこれからも続く。

 

 さぁ……次は、ジャパンカップだ!

 

 

 







 ようやく時系列が第一部おまけに追いつきました。20万文字の行間とは一体……?
 次回から、いよいよ第二部突入です。まぁある意味では、もう始まっているようなものですが。



 次回は3、4日後。誰かの夢の話。



(追記)
 前話の内容について、ストーリーに深く関わる部分ではありませんが、少しだけ描写を変更しています。
 変更点は、堀野君の京都観光への感想について「楽しかった」→「楽しかったかもしれない」です。
 細かい変更になりますが、よろしくお願いします。

(追記2)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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JCと停滞と転生者の季節
私の夢は


 第二部プロローグ。
 ちょっと不慣れな三人称多視点です。





 

 

 

 秋も過ぎて行き、少しずつ冬の気配が見え始める10月中旬。

 いよいよ肌寒くなってきたなと、堀野歩は身を震わせた。

 

 夏になると汗が滲んで書類が纏めにくくなり、冬になると手がかじかんで文字を書いたり打ったりできなくなる。

 気温の変化は往々にしてハプニングを招き、それは著しく自分磨きやトレーナー業の効率を落とすのだ。

 そういう意味で、彼にとって季節というのは、生涯かけて戦うべき敵の1つなのであった。

 

 そして、それらの問題を最も簡単に解決する手段が、暖房や冷房。

 故にそういった時期は、できるだけ外に出ず、部屋に籠って書類の束とお友達になるのが通例だったのだが……。

 

 今日ばかりは、そうもいかないらしい。

 

「……はぁ」

 

 海に向かって吐き出された白いため息は、すぐに空気中に霧散する。

 彼はその手の中の釣り竿を改めて握り直し、ちらりと横に置いているバケツを見た。

 その中にあるのは多少の海水だけで、魚の1匹どころか貝の1つすらも入っていない。

 歯に衣着せず言えば、坊主だった。

 

 堀野歩に趣味はない。強いて言えば、仕事が趣味かつ恋人と言えるだろうか。

 当然のことながら、自分の前世の愛バと決別して以来釣りを趣味にするようになった、などという人間らしい経験など持つわけもなく、彼の釣り竿はつい最近までホシノウィルムとミホノブルボンの各種グッズと共に、自室の片隅に封印されていた。

 それが急に引っ張り出されたという事実には、あるいは釣り竿自身が最も驚いているかもしれない。

 

 そして彼は、天才ではなく秀才。経験や勉強を経ることのない技能に秀でているわけもなく……。

 

 あるいはその結果なのだろうか。

 この1時間、彼の握る釣り竿は、微動だにしていなかった。

 

「釣れないなぁ……」

 

 すん、と鼻を鳴らす音が寂しく響く。

 前回はビギナーズラックとはいえ2匹も釣り上げたというのに、今日は微塵も反応がない。

 自分の才能のなさを考えれば、これも自然な結果なのかもしれないが……何の成果もなく身を凍えさせ、時間を無駄にするのはちょっと、と。

 彼が嫌になり始めた、その頃だった。

 

「にゃは、お待たせ~」

 

 その背中に、声がかかる。

 

 声の主は、眠たげな垂れ目の、芦毛の少女。

 今日も今日とて呑気そうに、けれどどこか底知れない雰囲気を醸し出している、現役の競走ウマ娘だ。

 

 彼女はやって来るな否や、許可を取ることもなく彼の隣に折り畳みイスを広げた。

 勝手知ったるというよりは、予定調和とでもいうような動き。そして彼も、当然のようにそれを受け入れる。

 

「そんなに待っていない……と言いたいところだが、そうもいかないかな。何があった?」

「ごめんごめん、寮長に見つかっちゃってね? 誤魔化すのに時間がかかっちゃった」

「そっか、ならいいよ」

「えー、『なら』って何? セイちゃんといえど、さすがにわざと遅刻なんてしませんってぇ~」

「いや、事故か何かあったかと思ったんだよ。君が無事で良かった」

「……ふーん、まぁいいけどさー」

 

 少しばかり唇を尖らせた彼女は、彼の隣に荷物を下ろし、釣り竿を垂らし始める。

 使用感の窺える、愛用なのだろう一品。その装飾もシックでありながらも高級感を漂わせ、てきとうに買い揃えた歩のものとはとてもではないが比べられない。

 

 弘法筆を選ばずと言うが、やはり良い筆を使えばより良い結果を生めるんだろうな、などと彼がぼんやり考えていると……その釣り針に餌を付けて海に投げ込んだ彼女が、再び口を開く。

 

「な~んかこれ、密会みたいだよね?」

「ん?」

「セイちゃん、今日はトレーナーさんに伝えてないし、そっちもウィルムちゃんとかブルボンちゃんには伝えてないんでしょ? 下手したら怒られるんじゃない?」

「ははっ、ホシノウィルムはそんなこと……いやどうかな、怒られるかも……」

「なに自信なくしてんのさ」

「俺も彼女のこと、何もかも知ってるわけじゃないからなぁ。

 ……ま、今日は怒られてでも確認しなきゃいけないことがあるし、いいんだよ」

 

 ざぱ、と波が堤防に打ち付ける音を聞きながら、彼は少しの間口をつぐむ。

 すぐにでもそれを訊かなければならないのに、なかなか口を開かない。

 それはまるで、彼の言っている「確認しなきゃいけないこと」を、彼自身がどこか信じ切れていない、とでもいうような間だった。

 

 けれど少しして、彼は一度まぶたを閉じ、改めて口を開く。

 

「……まず、君が有記念に出走する、というのは事実かな」

「うーん、ちょーっと事実とは違いますかね? なにせ有記念は、ファンの方々の投票次第で出走できるか決まるんですし?

 いくらセイちゃんが『出走したいよ~』って言っても、落とされちゃう可能性はあるしね~」

「君が出たいと言って出られないわけないだろうに」

「あはは、まぁね~。出走予定ではある、って言った方がいいかな?」

 

 芦毛の彼女の自信ありげな笑みに、彼は少しだけ口端を緩めた。

 彼にしては朗らかな笑み。どうやらその遠まわしでわかりにくい、こちらをかく乱してくるような言い回しを懐かしんでいるらしい。

 

 だが、すぐに強く唇を結ぶ。

 ……彼にとって確認せねばならないことは、決してそれだけではなかった。

 むしろ、ここからが本番と言っていい。

 

 彼の担当ウマ娘は、セイウンスカイと相性が良い。

 領域に目覚めた今ならば、彼が正しい育成と作戦の考案さえできれば、あるいは大きな脅威ではないとすら言える程に。

 だが、彼が聞きつけた、有記念に関する「噂」が正しいとすれば……。

 それは彼の担当を以てしても、大きすぎる脅威になるかもしれないのだから。

 

「次に、君が有記念に出走しようと思った理由を聞いていいか」

「……ま、セイちゃんもそろそろ次に進む頃かなー、って。いつまでもトゥインクルシリーズに留まってないで、ドリームトロフィーリーグに行かないと。

 だから年末の大一番で皆をビックリさせて、最後に大きな花火を上げましょうか、ってね?」

「ラストラン、ということか」

「えぇ、そーいうことです」

 

 彼はチラリと、横にいるウマ娘を覗き見た。

 人らしい情緒に疎い彼では、彼女の普段通りに見える表情の奥に見えるものは窺えないが……。

 

 時には、それを気にしているというポーズ自体が有効になることもある。

 殊に、権謀術数に秀でる、芦毛の彼女のような子には。

 

「本当に、それだけ?」

「……何が言いたいのかな?」

 

 彼は懐からスマホを取り出し、彼女に見せた。

 そこにはいくつか、ブックマークされたニュースが表示されている。

 それぞれを見れば、もはやゴシップに近いような、正確性に欠ける情報群。

 ……けれど、火のない煙と言うには、あまりにも数が多い。

 

 芦毛の彼女はそれを見て、ピクリと眉を動かし……盛大にため息を吐いた。

 

「はぁ~……。もうちょっと待てないんですか?」

「待てないとは言わないが、待ちたくはないな。可能な限り早く正確な情報を手に入れ、自分にできることを精一杯する。それがトレーナーとしての仕事だから」

「あと1か月もすれば、正式に発表されるんだよ? それに菊花賞が終わるまでは、お兄さんの担当の子たちにも言えないんじゃない? 下手すれば集中力が切れちゃうだろうし」

「それはそうだな。……でも、彼女たちに言えなくても、俺ができることはあるから」

「……ふーん、そうですか」

 

 芦毛の彼女は少しばかり不満げに、自分が投げ入れたウキを眺める。

 策士を自負する彼女は、自分が策にハメられることを好まない。こうして理詰めで追い詰められ、情報を吐き出すことを快くは思わないのだろう。

 

 ……けれど。

 

 今日の海は少し荒れて、魚が少ない。釣りで時間を潰すにしても、少しばかり手持無沙汰だ。

 それこそ何かを話していないと、退屈に過ぎるかもしれない。

 

 それに、もう1つ。

 あの天皇賞の時、力をもらったっていうのも事実だからなぁ、と。

 彼女は彼に気付かれないよう、小さくため息を吐いた。

 

 芦毛の彼女は、決して口に出さずとも、受けた恩を忘れない……そんな善性のウマ娘の1人なのだ。

 故に、彼女自身の誇りを守るために、口を開く。

 

「本当だよ」

「っ……どこから、どこまで」

「あの2人が出走する、ってとこ。ついでに言うと、私が出走する理由も、そっちの予想で合ってます」

「そうか……」

 

 その時、彼が握っていた竿がピクリと震える。

 けれど、彼がそれに反応することはなかった。

 ……反応するだけの、余裕がなかった。

 

 それはあまりにも夢想じみて、あるいはあまりにも理想じみていた。

 自分の関与しない部分で起こった奇跡。その実在を知って、彼は少なからず衝撃を感じていたのだ。

 

 誰かが抱いた夢が、願いが、あるいは1つの未来を変えたのかもしれない、と。

 

「今年の有記念は……まさに、夢みたいなレースになりそうだな」

「あの宝塚記念も、結構豪華だったんだけどねぇ」

 

 2人は奇しくも同時に、それぞれの想いと共にため息を吐き出したのだった。

 

 

 

 そうして、それからしばらくの間、釣り人たちは釣り糸を垂らしていたが……。

 彼も、そして芦毛のウマ娘も……結局、1匹も釣果を得ることはなかった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 秋も過ぎて行き、少しずつ冬の気配が見え始める10月中旬。

 ちょっとだけ肌寒くなってきたなぁと、黒鹿毛のウマ娘は白い息を吐いた。

 

「うぅ……今年は寒いなぁ。地元に比べると、ずっと暖かいはずなんだけど」

 

 トレセン学園に入ってから長いし、こっちに慣れちゃったのかもなぁ……などとぼんやり考えながら、彼女は階段を登っていた。

 それはトレセン学園近くにある山の、小さなお寺に続くもの。その段は数百とも言われる、とんでもなく長い地獄の階段である。

 運動に秀でた人間でも一気に駆け上がるのは厳しいだろうそれを、彼女は一段一段丁寧に、けれど非常に素早く駆け上がっていく。

 もはや慣れたことだと言わんばかりに、妄想に浸りながら。

 

「こう寒くなってくると、やっぱりあれだよね。人参スープ。温かいスープと、大きなハンバーグ、それとやっぱり大盛りのご飯をがーっと……!」

 

 彼女がぼんやりと呟いている内、視界から一気に階段が消えて……。

 

「わっ、ととと!」

 

 ざざーっとブレーキをかける彼女の横で、階段の終点で待っていた彼女のトレーナーが、ストップウォッチのボタンを押し込んだ。

 

「36秒6。……今何か余計なこと考えてただろ」

「うっ……! いや、ちょっと寒いなぁ、って……」

「その後は?」

「えーっとぉ……温かいスープと、ハンバーグと、それからご飯のことを……」

 

 えへへ、と笑う自分の担当ウマ娘に、トレーナーはため息を吐く。

 今朝もあれだけ食べたのにまだ食べるつもりか、と。

 あるいは、お前の細い体のどこにあの量の食事が収まるのか、と。

 

 ウマ娘の体の神秘はともかくとして、彼は今のタイムをバインダーに載せたプリントに書き込み、自分の担当に檄を飛ばす。

 今は妄想力を鍛える時間ではなく、ウマ娘の神秘を考える時間でもなく、彼女の脚を鍛えるトレーニングの時間なのだ。

 

「帰ったら好きなだけ……いや、おかわり4杯までは食べていいから、今はトレーニングに集中!」

「はっ、はい!」

「ほらもう1本!」

「わかりましたーっ!」

 

 「ひえーっ」と、彼女は冗談めかした悲鳴を上げながら、階段を下って行った。

 そうしてしばらく待つと、再びだだだだだっと勢い良く階段を登って来る音。

 トレーナーはその前を彼女が通過した瞬間、再びストップウォッチを止める。

 

 結果は……どうやら芳しくなかったらしい。彼の眉間にしわが寄る。

 

「36秒8。乗らなくなってきたし、一旦休憩するか」

 

 ここまで何本もこの階段ダッシュを繰り返している。そろそろ疲労が溜まって来る頃だろう。

 そう思い、出した案だったが……。

 

「いえ、まだまだっ! もう1本お願いします!」

「やる気だなぁ。ま、こっちとしちゃ嬉しい限りだが」

「当然ですよ! 私の約束で……夢なんですから!」

 

 黒鹿毛のウマ娘は、キラキラと両目を輝かせる。

 それを見た彼女のトレーナーは、どこか切なくなるような懐かしさが胸をよぎるのを感じた。

 

 彼女の瞳がこんなにも輝くのは、いつぶりだろうか。

 この中央トレセンに来てすぐ、偶然出会ったトレーナーである彼に、自身の夢を語ってくれた……あるいは、その時以来かもしれない。

 子供のように幼気に、けれど本気で、彼女は壮大な……殆ど不可能とも言えるような、大きすぎる夢を見ていた。

 その時の彼女の瞳は、特別な明日を夢見て、眩しく思える程に煌めいていたのだ。

 

 そしてその光に、彼は目と脳を焼かれてしまった。思わずその場で「俺と契約してくれ」と切り出すくらいには。

 それが、今もなお続く彼らの関係の始まりだった。

 

 けれど、それから。

 多くの期待を背負い込む内、彼女は徐々に子供らしい表情をなくしていった。

 幼なかった表情は戦士のそれになり、そしていつかは総大将と呼んで申し分のないものへ。

 彼女は多くのものを背負って戦った。それは必ずしも全戦全勝とは行かない、波乱に満ちた戦いだったが……あるいはだからこそ、その苦難と歓喜が彼女を育てたのかもしれない。

 

 それらを経てここに在るのは、もはやただのウマ娘ではない。

 「日本」という大きすぎるものを背負って立つ、最強の……いや、日本一のウマ娘。

 

 ……だからこそ。

 彼が、彼女のそんな表情を見るのは、本当に久々だったのだ。

 

 夢を語る子供のように……いいや、文字通り、今から叶う夢に浮足立つ子供が、そこにいる。

 久しぶりに彼女の年相応の表情を見ることができたのは……トレーナーからすると、この上なく喜ばしいことだった。

 だからこそ、彼はその大はしゃぎに付き合うという決断を下す。

 

「よし……それじゃ頑張るか、スペ。

 目指すは……今度こそ、有記念1着だ!」

「はい、行きます!」

 

 

 

 子供がすぐそこに迫った遠足を想うように、彼女は待っている。

 

 果たすべき約束の時を。

 そして、それを叶えてくれるウマ娘を。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 秋も過ぎて行き、少しずつ冬の気配が見え始める10月中旬。

 こちらの方が少しだけ暖かいなと、栗毛のウマ娘は微笑んだ。

 

 コトリコトリと綺麗な足音を鳴らしながら、空港の中を歩く。

 その姿はすぐさま取材陣に取り囲まれる……ようなこともなく、いくつか訝し気な視線こそ向けられるものの、あくまで疑惑程度で収まっている。

 それは彼女なりの──あくまで「彼女なり」の、伊達メガネをかけて髪を後ろで結んだだけという客観的に見れば非常に控えめな──変装が功を奏したというより、それを見る人々の正常性バイアスによるものだったのかもしれない。

 

 まさか彼女が、ここにいるわけがない。

 もしいるんだとすれば、もっと大々的にニュースにでもなるはずだ、と。

 その無意識下の思い込みが、彼女の正体の露見をかろうじて、本当にかろうじて防いでいた。

 

 そして、そんな奇跡的に成り立ったような静寂の中、栗毛の彼女は口を開く。

 

「……本当に、久々ですね」

「ええ。久々に故郷の土を踏んだ気がするわ」

 

 彼女の感慨深げな呟きに、隣を歩く彼女のトレーナーが応じる。

 それは彼女の感傷を打ち消すような、酷くさっぱりと乾いた言葉だったが……。

 彼女は気分を害することもなく、むしろ自分のトレーナーらしい不器用な気遣いに、小さく笑った。

 

「トレーナーさん、時々日本に帰ってたじゃないですか」

「ほんの一瞬ね。誰かさんのおかげでこの数年間は本当に忙しかったんだから」

「でも、楽しかったでしょう?」

「……誰かさんのおかげで、ね」

 

 思わず漏れたようなトレーナーの苦笑に、栗毛の彼女は心から嬉しそうに笑う。

 自らのトレーナーと共に、どこまでも歩んで行くこと。

 それが今の彼女の一番の望みであり……そしてそれは、現在進行形で叶っているのだから。

 

 ……しかし、あと2つ。

 彼女の望みがあるとすれば。

 

 それは、反故にしてしまった1つの約束を、今度こそ果たすことと。

 そして、彼女の抱く夢の景色を、再びこの国の人々に見せることだ。

 

 その2つが同時に叶う日は……そう遠くない。

 

「楽しみですね、有記念。私の後継者って言われてた子も出るみたいですし」

「……ま、やるだけやったから、あとはあなたを信じるだけよ」

「不安ですか?」

「あなたに2500メートルはちょっと長いからね。……まぁ、新世代のあの子を見ちゃうと、ちょっと自分の感覚が信じられなくなるけど」

「でも、私の方が速いですよ?」

「それをこれから決めるんでしょうが」

 

 わざと面倒くさく絡んでくる彼女を軽くいなし、トレーナーは改めて歩き出す。まずは送られているはずの、彼女と自分の分の荷物を回収しなければならない。

 そしてそういう雑事に関して、彼女の担当ウマ娘には何1つとして期待できないのだ。きちんと見張っておかないと、荷物も放置して走り出しかねない。

 

 まるで手のかかる子を見守る母親のようだと、トレーナーは何度目になるかもわからないため息を吐く。

 走ることを第一とし、それに関する自制心が欠片程度にしか存在しないウマ娘と長年付き合っていれば、どうしたって母親のような接し方になってしまう。

 子供もいなければ結婚したこともない、なんなら適齢期を全て栗毛のウマ娘のサポートに費やして来たトレーナーは、少しだけ人生を儚んだ。

 

 ……けれど、それはある側面において、仕方のないことでもあるだろう。

 一番最初に、彼女の圧倒的な脚に魅せられてしまったのは、他ならぬトレーナー自身なのだから。

 

「それじゃ、荷物を受け取ったらショップに行くよ」

「シューズですか?」

「いくつ持ち込んでると思ってんの? アパレルに決まってるでしょ。そんなバレバレな服で出歩いたらURAの人たちに怒られるってば。なんでよりにもよって緑なのよ」

「えぇー……」

 

 トレーナーは面倒くさそうにする彼女の腕を引っ張って、空港を歩いていく。

 彼女も無理に抵抗する気はない。ウマ娘が本気で嫌がれば、トレーナーの、つまり人間の力程度で動かせるわけがないのだから。

 つまるところ、これは彼女たちの日常的なコミュニケーション。ただのじゃれあいだった。

 

 ……とはいえ、モチベーションのない状態を続けられても困る、と。

 トレーナーはため息1つ、彼女のやる気を叩き起こす必殺の言葉を口にする。

 

「ほら、しっかりする。……ここでも、見に行くんでしょ?」

 

 ガバリと、彼女が身を起こす。

 その瞳はいつも通り、子供のように煌めいていた。

 

「はいっ、久々の日本(ここ)でも、先頭の景色は譲りません!」

 

 

 

 そうして、実に静かに。

 異次元は再び、日本という国に現れた。

 

 

 






 有記念(現状)出走予定ネームド一覧
 メジロマックイーン、メジロライアン、ダイタクヘリオス、ツインターボ、ナイスネイチャ、トウカイテイオー、ホシノウィルム、芦毛のウマ娘、黒鹿毛のウマ娘、栗毛のウマ娘。
 計(ホシノウィルム含め)10人。

 夢の11R、またの名をバ鹿が取って来たバイキング有記念、開催──ッ!!



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、お祝いとサブトレーナーの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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P.A.R.T.Y. ~オータムン・フェスティバル~

 どんなミラクルも起き放題(夢の11R)





 

 

 

 菊花賞が終わった。

 

 俺の初の担当ウマ娘であるホシノウィルムのクラシックロードはここで完結。

 彼女は見事に、初期目標であった無敗の三冠を達成したのだった。

 

 ……無敗の三冠、かぁ。

 

 改めて考えると、とんでもないことになったなぁと思う。

 いや、無敗の二冠とか初のクラシック級での宝塚記念勝利という時点で、既にとんでもないことだったんだけど……。

 それでも、無敗の三冠というのはちょっとばかり、字面の力強さが違う。

 

 クラシックレースは生涯で1度しか挑戦できない、日本の頂点18人が覇を競う3つのレース。

 誰もが憧れる、「最速」「幸運」「最強」の証明。

 1勝でもできた時点で、まごうことなき優駿の証明になる。

 それを1つたりとも欠かすことなく全勝してしまうのは、世代でも飛び抜けた強さを持つことを示す。

 それも、そこまでの5戦も含めて全戦全勝ともなれば……それはもう、「最強」の前に「史上」という言葉が付きかねないような戦績だ。

 

 ……そう思うと、彼女、とんでもない成り上がり方をしてるな。

 無名の寒門から、世代二強。

 世代二強から、現役最強。

 そして現役最強から……史上最強級か。

 いや、とんでもなさすぎるでしょ。ホントに現実かこれ?

 

 確かにホシノウィルムは、入学時点でとんでもない素質を持っていた。

 高すぎるステータス、恵まれた適性、見たこともないようなコンディション。

 トレセン学園入学時点で比べれば、恐らくは歴史上でも5本の指に入るようなウマ娘だっただろう。

 だからある意味で、無敗三冠という結果も、史上最強という呼び名も、そこまで違和感のあるものではないのかもしれない。

 

 しれない……が。

 堀野の家に日本ダービー勝利の過去がなかったということは、つまるところクラシック三冠の過去もなかったということだ。

 いや、そもそもこれまでにクラシック三冠を達成したウマ娘は、ホシノウィルムを含めず4人きり。その内の誰かを担当していた、という家の方が少ないだろうが。

 で、そんな中で、俺の担当したウマ娘が堀野の歴史では初の、それも無敗という枕詞が付く、史上ただ2つのみの記録の片割れを残してしまった。

 それは……何と言うべきか、すごく現実感のない現実だった。

 

 この事実を心から受け入れるには、恐らく今しばらくの時間を要するだろう。

 とにかく、今わかるのは……。

 俺の惚れたウマ娘は、やっぱりすごい子だった、ということだ。

 

 

 

 ……そして、彼女の無敗の三冠という実績は、俺の業務に1つの変化をもたらした。

 至極当然の話ではあるが、俺の業務が爆発的に増加したんだ。

 

「……なるほど、スケールフィギアの販売ですね、了解しました。一応本人に確認を取った後処理しますので、書類を回してください」

「もしもし……インタビューですか? なるほど、独占ではなく合同。構いませんが、日程は……いえすみません、その日は、はい……ああ、その日なら問題ありません。彼女に確認を取りますので、少々お待ちください。……ホシノウィルム、4社合同のインタビュー依頼が来てる。受けるか?」

「あぁはい、有記念ですね。はい、出走予定です。彼女の脚にも現状不安は見つかっていませんし、問題ないかと思います。ジャパンカップと同時にCM……なるほど、了解しました」

「もしもし……え、ブロンズ像ですか? ……はい、はい、なるほど……わかりました、本人に確認を取り、折り返し連絡します。はい、はい……はい、失礼します」

 

 ……うん。

 ミホノブルボンを担当してから時間が経ち、ある程度落ち着いてきたトレーナー業務だったけど、ホシノウィルムの三冠によってまた多忙化したのだ。

 当然ながらホシノウィルムへのインタビューや取材、会見の申請は爆増、グッズの類なんかも何倍も増産され、CMとか広告の撮影、宣伝依頼やトークショーへの誘いなんかも死ぬほど……というか、殺される程多くなった。ついでになんか俺個人へのインタビューとかも増えたし。

 多分1人で片付けようとしてたら、今頃冗談じゃなく倒れてたと思うくらいの量だ。俺の要領がもうちょっと良ければと思わずにはいられない。

 

 今回は流石に、1人で片付けられるなどと慢心はできなかった。

 担当が増えた上、最初の担当が無敗の三冠を取るとなると、業務が俺の限界を超えることは想像に難くなかったからな。ちゃんと前もって対策はしていた。

 ……いや、対策って言うほどカッコ良いものでもないんだけどさ。

 

 自分じゃどうしようもない、けどどうしてもこなさなきゃいけない仕事がある時、どうすればいいか。

 そう……他人を頼るしかないのだ。

 

 俺の取った対策は、至極簡単なもの。

 ぺこぺこと頭を下げまくって、知り合いに協力を申請したのである。

 

 そんなわけでここ数日は、理事長秘書のたづなさんや信頼できる同期何人かに手伝ってもらいながら、ひたすらに仕事を片付ける毎日だった。

 「手伝ってくれる」という言葉通りたづなさんは最大限の配慮を見せてくれたし、同期の皆もまるで当然のような顔で手伝ってくれた。

 ……俺、本当に人の縁に恵まれてるな。この恩は、必ず何かで返さないと。

 

 さて、そうして助力を得たとはいえ、それでも仕事の量は膨大なことに変わりはなく。

 特にレースが終わってから3日は、皆の協力があってもなお余念を割けないレベルだった。

 俺はホシノウィルムとミホノブルボンに、1日のスケジュールを走り書いたメモを渡すとか、終日休暇とするとか、そういった大雑把な指示だけして、なんとかその3日を乗り切った。

 

 ほとんど眠る時間もなかったし、うとうとと舟をこいだ瞬間に電話の着信音とかたづなさんがドアを開く気配で叩き起こされるような日々だったけど……。

 なんとか、なんとか乗り越えられた……本当に良かった……。

 

「まさか新人トレーナーさんの担当ウマ娘さんが無敗の三冠を取る、なんて想定されていませんからね……。

 ともかくお疲れ様でした、堀野トレーナーさん。ここから多少は楽になるはずです」

 

 そう言ってくれるたづなさんも、疲労を隠し切れてない。

 「10人くらいドッペルゲンガーがいるんじゃないか」とまで言われるあの超人たづなさんがそういう状態ってことから、この数日の大変さを推し量れると思う。

 前世含めた人生でも3本指に入る、地獄みたいなデスマーチだった……。

 

 ともあれ、なんとか多忙すぎる3日は乗り切った。

 あとは……残る作業をこなしながら、トレーナーとしてのもう1つの仕事を果たさなきゃな。

 

 そう、トレーナーの仕事は何も、事務作業やトレーニングのスケジューリングだけではない。

 担当ウマ娘とのコミュニケーションも、大事な仕事なのである。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そんな訳で、菊花賞から5日後。

 

「ホシノウィルム、三冠達成おめでとう!」

「おめでとうございます」

 

 パンパンと、彼女たちの耳に害のない程度の、小さな乾いた破裂音。

 それと共に、トレーナー室に入って来たばかりのホシノウィルムに向かって、色とりどりの紙テープが飛んだ。

 

 ホシノウィルムは見開いた目をぱちぱちと瞬かせて、周りを見渡す。

 

 普段は殺風景なトレーナー室には、俺が昨日から1日かけて作ったバルーンやペーパーフラワー、ペナントや横断幕が飾り付けられ、机には書類の束ではなくブルボンが選んでくれたケーキとかフライドチキンなどの絢爛な料理が並べられている。

 

 それらを見て、大体の事情を察したんだろう、彼女は……。

 

「ありがとうございます、嬉しいです!」

 

 にへら、と可愛らしく笑った。

 

 そう。

 ようやく俺が落ち着いて時間を取れるようになった今日。

 トレーニングのお休みに合わせ、ホシノウィルムの三冠達成サプライズパーティが開催されたのだった。

 

 

 

 俺は昔からよく「相手の心を察するのがド下手クソ」と言われてきた。主に妹に。

 実際、他人の心というのは非常に難解なもの。その感情を正確に推し測るのは、俺からするとなかなかに難しい高等技術だ。

 ホシノウィルムみたいに、息をするように相手の状態を観測できるのが「得意」と言うのなら、俺は確かに「相手の心を察するのがド下手クソ」なんだろう。

 

 だが、そんな俺でもわかる。

 クラシック三冠とは、もう言葉で祝うとか、そういう次元のお話ではないのだ。

 史上で2人しか成し遂げた者のいない大偉業。それも毎回楽勝なんてわけでもなく、テイオーやスカイやマックイーンにライアン、そしてネイチャとの死闘を制してここまで来た。

 その上、彼女は幼少の頃のトラウマを振り切り、その経験を糧にして立ち上がったのだ。

 それはもう、頭撫でとか「ご褒美権」とか、そういう低レベルの報酬では足りない、とんでもない功績だと言える。

 

 信賞必罰。賞も罰も厳格にあらねば、その存在の価値をなくしてしまう。

 ここまで頑張ったホシノウィルムに、俺は何か、彼女が喜ぶような報酬を提供せねばならないわけだ。

 では俺は、彼女のトレーナーとして、彼女の頑張りを知る大人として、何をしてやれるだろうか?

 

 休暇? 多分今のホシノウィルムにとって、それはただの罰ゲームだ。

 頭撫で以上の身体的コミュニケーション? ……子供を褒めるとしたら、抱き締めるとか? いや、頭を撫でるのと変わらないよな、これは。

 では旅行や美食? ホシノウィルムにそういうものを体験してほしいというのは俺のエゴでしかないし、彼女が喜ぶかは不透明。最悪罰ゲームで終わってしまう。

 服飾とか美容とか? 俺自身がそこまで詳しくない上、趣味に合わないものを贈ればタンスの肥やしになるのが目に見えている。

 

 ……こういうところ、俺は弱いんだよなぁ。

 彼女についての身体的データは持っている。だから適切なトレーニングの指示を出すことはできる。

 けれど、彼女の心は不可視のものだ。それがわからない以上、適切な報酬を選ぶのが難しい。

 データキャラの弱みというか、応用が下手な人間が陥りやすい欠陥というか。俺はこういうところが駄目なんだよなぁ……。

 

 とはいえ、何も考えずに「三冠おめでとう、頑張ったな!」なんて言葉だけで済ませていいわけもない。

 俺は仕事をこなしながらも、適切な報酬について考え、考えに考え……。

 ない知恵を絞って捻出したのが、「サプライズパーティ」だったわけだ。

 ……ホープフルステークスの時のネタの使いまわし、などと言ってはいけない。それくらい何も思いつかなかったんだ。許してほしい。

 

 日本には、誕生日とかクリスマスとか、特別な日に会食する風習がある。

 ……いや別に日本に限る話じゃないし、なんかめっちゃ他人行儀な言い方になってしまったけど。

 要は年に数回だけ、特別などんちゃん騒ぎを許される文化があるんだ。

 そのパーティの中では、特別に高い食べ物とか飾り付けとかの贅沢三昧が許されて、ハメも外したい放題。

 いわゆる「ハレの日」。一年でもすごく特別で、すごく楽しい1日。

 

 つまるところこれは、今日をハレの日にしてしまおう、という策である。

 というか、俺にできることなんてもうこれくらいしかない。

 ホシノウィルムって、特にお金を使う趣味とか持ってないし、そもそもお金に困ってないし。むしろモチベーションは走ることに向かって伸びており、そこに関してはこれ以上に支えることなんてできないわけで……。

 俺に贈れるものなんて、ほんのひと時のお祭り感覚くらいしか思いつかなかったんだ。

 

 さて、そんなわけでサプライズパーティを企画し、ブルボンに伝えて協力を得、商店街でパーティグッズとか飾り付けを購入、ケーキや料理、お菓子、ジュースとかをブルボンに選んでもらって予約……。

 なんとか1日でそれをやり遂げて、ホシノウィルムには内密なまま、パーティが開催されることになったのだった。

 

 

 

 果たして、その結果。

 

「改めて、三冠達成おめでとう、ホシノウィルム。それとこの数日、しっかりと祝う時間を取れなくてすまなかった」

「……正直少し寂しかったですが、私のためにここまでしてくれたのは嬉しいので、帳消しで許します。ありがとうございます、トレーナー。

 でも、このパーティ……もしかしてブルボンちゃんも手伝ってくれたの?」

「はい。授業があり、飾り付けなどを手伝うことはできませんでしたが、昨日の食料の購入や買い出しに貢献したと自負しています」

「そっか。ブルボンちゃんもありがとう、嬉しいよ」

 

 ホシノウィルムは、笑ってくれた。

 ファンや後輩の子たちに見せるような綺麗な笑顔ではなく、ちょっと特徴的な──歯に衣着せず客観的な観点で形容するなら、不気味な、という言葉が的確かもしれない──彼女の素の笑顔を、浮かべてくれた。

 

 うん……一安心、だな。

 

 ホシノウィルムの感情を掴めている、なんて思い上がることはできない。

 妹が言うように、俺は基本的に人間らしい情緒が薄く、そして鈍感なのだろうという自覚がある。

 だからこそ、こうして開いたパーティを、彼女が楽しんでくれるかは予想が付かなかった。

 

 コミュニケーションには、明確な正解や指針といったものが存在しない。

 トレーナー業のように蓄積された膨大なデータがあるわけでもなく、書類仕事のように明確な答えがあるわけでもない。

 故に、俺にとってそれは難易度の高いもの。

 ホシノウィルムの反応の想像すらも難しい、不案内な領分だ。

 

 だが、今回はなんとか及第点を取れたらしい。

 内心で安堵すると同時に、不器用に笑う彼女を微笑ましく思う。

 

 今日はハレの日、特別で楽しい1日にする。

 少しでも、彼女にこの非日常を楽しんでもらえればいいな。

 

「今日は2人とも、トレーニングは完全にお休みだ。レースやトレーニングは一旦忘れて、1日ゆったりと過ごして欲しい」

「それでは、ウィルム先輩。音頭の方を」

「音頭? え、ええっ、私が?」

「そりゃ、君が今日の主役だからな。勿論、堅苦しい話なんて必要ない。言いたいことを言いなさい」

「えぇ……うーん」

 

 ホシノウィルムは少し腕を組んで悩んでいたが、こくりと頷き、コップを取った。

 その中に注いだのはお酒……では勿論なく、ファンタグレープ。

 彼女はそれを天高く……いや、俺の頭くらいの高さに掲げ、言った。

 

「それじゃ……えっと、楽しかったクラシックレースに、乾杯!」

「乾杯!」

「乾杯」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 パーティが始まって、ホシノウィルムがまず目を付けたのは、やはり料理だった。

 

 資料などを全て棚に詰め込み、2年ぶりにすっきりした俺の机の上には、たくさんの料理が並んでいる。

 特大のケーキ、何十ピースというフライドチキン、まだ蓋を開けてない何枚ものピザ、大きなボウルに盛られたサラダ、百貫以上のお寿司。それから俺の手作り、彼女が好きだと言っていたにんじんのグラッセの山盛りなど、お腹に溜まりそうな料理群。

 そしてポッキーとかポテトチップス、チョコの詰め合わせ、マシュマロやクッキーなどのお菓子類。

 コーラとかファンタ、リンゴとかにんじんなどのジュース。ペットボトルにして20本以上。

 

 とんでもない量の食事を前に、基本的に大食いなウマ娘2人はやはり目を輝かせる。

 

「わ、すごいですね。たくさん、美味しそうな……いや本当に、これ……いくらかかってます?」

「値段は気にするな、全部俺のポケットマネーから出してるから問題ない」

「経費で落ちるって聞いた方が安心できたんですけどね……」

「実は全部経費で落ちてるぞ」

「マスター、口端が僅かに痙攣し、目があらぬ方向を向いている状態では、説得力が生まれないものと考えます」

「……ふふっ。まぁ、今日はお祝いってことで、いただきますね」

 

 そう、今回用意した料理はかなりの山盛りだ。

 3人で取るには多すぎる量と思われるかもしれない。

 

 ……だが、そんなこともないんだな、これが。

 

「あふっ……ん、美味しいですね、ピザ。チーズが耳の中でトロトロになってて……これ、いくつでもいけるかも」

「…………」

 

 はふはふと、ピザを口に放り込んでいくホシノウィルム。

 そして無言、無表情でパクパクと……いや、バクバクとサラダを胃に収めていくブルボン。

 

 2人は結構な勢いで料理を消していく。

 全然手が止まらない。むしろ加速していく。末脚ならぬ末口かな?

 

 ……そう、もうお察しかもしれないが。

 俺の担当2人は、ウマ娘としても大食いな方なのだ。

 

 ホシノウィルムは恥ずかしがっているのか、俺の前だと比較的小食だったのだが、彼女の知り合いたちの証言により、ウマ娘の中でも健啖な方だとわかっている。

 一方ミホノブルボンは……どうやら彼女の主義に「たくさん食べてたくさんトレーニングをしたウマ娘は強くなる」というものがあるらしく、ホシノウィルムを一回り上回るくらいよく食べる。

 大食いで有名なオグリキャップやスペシャルウィークとまでは行かないまでも、恐らく2人合わせれば彼女たちを超え得る、というか確実に超えるだろうってくらいだ。

 

 しかし、いつも思うんだけど、ウマ娘が食べたものはどこに行ってるんだろうな?

 彼女たち、平然と自分の体重以上に食べてるんだけど、大きく体型が崩れるようなことがないのだ。時々瞬間的な食べすぎで腹が膨らむことはあるけど、それもすぐに引っ込むし。

 ウマ娘たちの胃の中に異空間が広がっているのか、あるいはその消化能力が異次元的なのか。

 どっちにしろ、やっぱりフシギ生物なんだなぁと思う。今度医療関係に強い兄に、その辺の話聞いてみようかな。

 

 ……などと思っている内に、気付けば料理は半分くらいなくなってた。

 え、まだ10分くらいだよね? 噓でしょ……。

 

「ふぅ……お腹減ってたから、すごく美味しい」

「ウィルム先輩、こちら、ステータス『美味』を感じました。どうぞ」

「ありがと……あー、良いねぇ、やっぱりマカロンって美味しい。高いけど。

 じゃあブルボンちゃんにはこれ、ほら、あーん」

「んむぐ。…………???」

「あはは、スターゲイジーパイ、よくわかんない味だよね。

 ……というか、なんでこんなの混じってるの?」

 

 

 

「さて、ほどほどに空腹を満たしたところで……ゲームでもするか? 有名なボードゲームはある程度揃えてあるぞ」

「携帯ゲームとかテレビゲームは……すみません、なんでもありません」

 

 俺がちらりとブルボンに視線を向けたことで、ホシノウィルムは理解したようだった。

 ブルボンがペコリと頭を下げる。

 

「私のために、申し訳ありません」

「あぁ待って、ごめんはこっちだ。気を遣わせちゃってごめんね。

 大丈夫、私こっちも好きだから……ブルボンちゃんも一緒にやろう、ボードゲーム!」

 

 ミホノブルボンは、機械を壊す。

 なかなかに謎な現象なんだけど、ブルボンが触れた精密機器類は、何故か故障してしまうんだ。

 ゲームの本体やコントローラーは勿論、スマホとか電話機にまでその累が及ぶ。

 なので、ブルボンはデジタルなゲームを遊ぶことができないのだった。あ、ここで言うデジタルはオタク的な方じゃなくて電子的って意味ね。

 

 ……この現象、前世アプリでは「そういうキャラ」として受け入れてたけど、実際に目の前で起こると、ホントによくわかんないんだよな。

 勿論、ブルボン自身に機器を壊そうなんて思惑はない。ただ触ると、何故か機器側が壊れてしまうんだ。

 車に乗るとか膝の上にPCを載せるまではセーフっぽいんだけど、実際に手で操作しようとすると駄目になる。

 境界線もわかりにくければ原理も不明、これもウマ娘特有のフシギ現象なんだろうか。

 

「さて、どれにしようかなぁ……ブルボンちゃんってこういうゲームやったことある?」

「いえ、経験はありません」

「そっか。じゃあわかりやすいヤツの方がいいかな……」

「ホシノウィルム、君は経験があるのか?」

「勿論あり……あ、いえ、威張れるほどではないですけど、この前テイオーに誘われてやりました。

 トレーナーの方は、やったことあるんですか?」

「ルールは熟読した」

「なるほど、私以外初心者と……まぁ私もリアルに遊ぶのは初めてだけど

 

 彼女はしばらく、うーんうーんと首をひねって悩んでいた。

 その手元にあるのは、ちょっと嫌な生き物のカードを相手に押し付けていくゲーム、同じ色のペンギンのカードを上に積み重ねていくゲーム、自分以外のカードの数字を見て場の数字の合計値を予想するゲーム。

 そこまで複雑なゲームはないので、初心者のブルボンでも楽しめるだろう。

 ……いや、「楽しい」って感情がよくわからない俺が言うのもおかしな話だし、ブルボンがこういうゲームを好むかもわかんないけど。

 

 まぁでもこの子、こう見えて誰かとの勝負に熱くなるタイプだ。

 この手のゲームにも夢中になれるんじゃないだろうか。多分。

 

「いや、時間もありますし、せっかくなら全部やりましょう! 4戦ずつやれば、経験の差もある程度埋まるでしょうし」

「うむ。……言っておくが、全力で行くぞ」

「当然、勝負で手を抜くことはありません。オペレーション『全身全霊』発動」

「ふふふ……今日は私が主役です。ちょっと申し訳ないですけど、ボコらせてもらいますよ?

 あ、せっかくなので負けた人は一発芸しましょう。面白いのを期待します」

 

 そんなわけで、料理やお菓子をつまみながらの、罰ゲームをかけたボードゲーム大会が開催されたのだが。

 

「なっ……ブルボンちゃん、表情が全然……! い、いや、ネズミなはずがない、盤面には既に6枚が出揃ってるんだもん、ここでネズミを切っても……そ、そんなバ鹿な……!」

「認めよう、私の負けだね。でも、これはまぐれ勝ち(フロック)ってヤツだよ。ビギナーズラックはそう続かないってことを教えてあげる、ブルボンちゃん……!」

「…………いや、完全に無表情なのはちょっとズルくない? 強すぎない?」

「ならトレーナーを狙うのみです! これ、ゴキブリですから!

 ……なんでわかるんですか!? え、付き合いが長いから、私のことならある程度わかる? そ、そうですか……そですか……」

 

「あの、2人とも。何故紫を潰そうとするんですか? いや、ペンギンがかわいそうじゃないですか。

 紫色のペンギンだって生きてるんですよ? あの……いえ、別に私の手札に紫が多いわけじゃなくて、ただかわいそうだなーって思うんですけど」

「あ、いや……脱落です、ハイ……」

「…………なんだろう、手札偏るのやめてもらっていいですか?」

 

「……なんだか嫌な予感がするので……小さめに言っておきますか。11」

「コヨーテ!? なんで!? ……マックスゼロ!?」

 

 ……結果として。

 初心者でありながら、とんでもない計算能力で理論値の戦いをしたミホノブルボンが7勝。

 続いて、平凡にプレイしていた俺が4勝。

 最後に……幸運の女神様に愛されなさすぎるホシノウィルムが1勝。

 

「あーもう、なんでこうなるんですかーっ!」

 

 ホシノウィルムは一発芸として、ヒポポタスの鳴き声のモノマネをした。

 めっちゃ上手かった。

 

 

 

 で、ゲームでボコボコにタコ殴りされた結果。

 

「うぅ……どうせ私なんて自信満々に挑んだゲームで全然勝てない、激上手ヒポポタスモノマネすることとレースで勝つことしか能のない無敗三冠ウマ娘ですよ……」

 

 ホシノウィルムは機嫌を損ねてしまった。勿論、冗談半分だけど。

 

 しかし無敗三冠マウント、めちゃくちゃ強いな。

 このマウント破ることができるの、日本には1人しかないんだが。

 

「エラー検出。自虐をしてるのか自慢をしてるのか判読できません」

「元気を出せ、ホシノウィルム。少なくともレースに勝つこととヒポポタスのモノマネはすさまじく上手いんだから大丈夫だ。俺はヒポポタスのモノマネが上手いウマ娘は好きだぞ」

「逆ですよね? レースに勝つウマ娘のことを好きでいてくださいね? というか私を好きでいてくださいよ」

「好きだが?」

「ミ°」

 

 そりゃ好きだよ、担当ウマ娘なんだもの。

 俺は君に惚れたからこそ、是が非でも担当を続けたいと思ったわけだし。

 

「……まぁいいですけどー。ふーん、私無敗三冠だし。強いし? あ、あなたのウマ娘だし……

 

 何故かブルボンの背後に隠れてしまったホシノウィルムだけど、その言葉にはどことなく喜悦が混じっている。取り敢えず機嫌は治ったらしい。

 彼女の方が先輩だというのに、自分よりも大柄なブルボンの背に隠れる姿は、昔兄の背に隠れがちだった妹の姿を思わせ、思わず笑ってしまう。

 当初は不安視していた彼女たちの関係だったけど、仲良くなってくれて何よりだ。

 

 

 

 そんなこんなで、俺たちはだらだらと平穏な時間を過ごして英気を養った。

 ホシノウィルムも笑ってくれているし、ブルボンも小さく口端を緩めている。

 ……うん。ガス抜きも兼ねての祝賀会だったけど、彼女たちも良い感じに楽しめただろうか。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、段々と料理もなくなってきて、パーティも終わりに近付いてきたあたりで。

 コンコンコンと、トレーナー室のドアが叩かれた。

 

「失礼します、堀野トレーナーさん、いらっしゃいますか?」

 

 聞こえてきたのは、たづなさんの声。

 

 また仕事が増えるのだろうか。まぁそれ自体は構わないが、今はホシノウィルムとブルボンに使う時間だ、もしかしたら後回しになるかもしれないが……。

 取り敢えず「どうぞ、鍵は開いています」と答えると、すぐにたづなさんが室内に入って来た。

 拍子に少し傾いた帽子を直して、トレーナー室を見回し、ニコリと笑いかけてくる。

 

「あら、担当ウマ娘さんたちも一緒でしたか。それなら、ちょうど良かったかもしれません」

「ちょうどいい?」

「ええ。私の後任についてご紹介しようかと」

「ああ、その件ですか」

 

 数か月前から俺のサポートをしてくれるたづなさんだが、彼女も多忙の身だ。

 ただでさえ俺の他にも同期のトレーナーのサポートもあるし、少し前から仕事を引き継ぐという話は出てはいた。

 ただ、扱いとしてはサブトレーナーを付けるということになるんだけど、どうやらそもそも職に就いて5年目以内にサブトレーナーが付くことは想定されていなかったらしく、事務的に色々と難しい部分があってなかなか進んでいなかったとのこと。

 

 それがついに叶った、というか……菊花賞が終わり、ホシノウィルムたちや俺の仕事が落ち着くのを待ってくれていたのだろう。

 すごく気を遣ってもらっているな。改めて、深く感謝しなければ。

 

「これまでずっと、ありがとうございました」

「構いませんよ、お2人のためですから。さて……ふふっ、後任の子、ご紹介しますね」

「?」

 

 なにやら意味深な笑みに、小首を傾げていると……。

 

「それではどうぞ、入ってください」

「失礼します」

 

 そう、部屋の外から声がかけられる。

 

 ……え?

 いや、え、は?

 この声、いやまさか、でも俺がこの声を間違えるわけないし、でもなんで、は?!

 

 俺の困惑を面白がるようにクスクス笑うたづなさんをよそに、俺の視線は扉を開けて入って来た声の主に縫い付けられていた。

 

 スーツ姿で、丁寧に前で手を合わせている女性。

 童顔で可愛らしい容姿をしながら、吊り目や無表情でキツい印象を受ける、その独特な雰囲気。

 

 ……見覚えがあるとかないとか、そういう次元じゃない。

 十年以上一緒に暮らしてたんだ、今更間違えるはずもなく。

 

 彼女は……。

 

 

 

「堀野昌と申します。堀野歩トレーナーのお仕事を手伝わせていただくことになりました。

 短い間ですが、どうぞこれからよろしくお願いします」

 

 ……彼女は、俺の妹。

 堀野家の長女、堀野昌だった。

 

 

 







 薄幸で満足にご飯を食べられなかった子がたくさんものを食べているシーンからしか摂取できない栄養がある。

 急に好きな人の妹が現れて戸惑う子からしか摂取できない栄養もある。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、妹さんと目標レースの話。



(感謝とご報告)
 狩猟系ナメクジ様より、再び支援絵を頂きました! ありがとうございます!!
 素晴らしく雰囲気の良いものが1点と、ウィルがロリ可愛いものが1点の計2点です。こんなにたくさんいただいていいんでしょうか……!?
 活動報告の方に掲載させていただいていますので、是非ともご覧ください!

(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!
 まさかウマ娘の二次創作でポケモンの名前を誤字報告されることになるとは……。


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侵略! ヒト娘

 驚異の侵略者 アキラ/ザホリーノ





 

 

 

 Q.話にだけは聞いていた好きな人の妹が急に現れた時の女の子の反応を述べよ。(配点・20点)

 

 A.めちゃめちゃ動揺する。

 

「改めて、堀野昌と申します。あなたたちのトレーナー、堀野歩の妹にあたります。

 ホシノウィルムさん、ミホノブルボンさんですね。

 兄から素晴らしいウマ娘たちであると伺っています。これからよろしくお願いします」

「ミホノブルボンです。よろしくお願いします」

「アッ……えっ、えっと、あ、よろしくお願いします……」

 

 まぁ勘違いすることはないと思うけど念のために言っておくと、返事の内、後者が私のものです。

 うぅぅ、めちゃくちゃ素のコミュ障なトコが出ちゃってるんですけど!

 

 私、これでも結構要領は良い方なので、こういう挨拶も普段ならそつなくこなせるんだけど……。

 今回は、ちょっとばかり事情が異なる。

 何せ彼女は、私の契約トレーナーであり、私の救い主であり、私の好きな人の妹さんなんだもの。

 

 改めて、歩さんの妹、堀野昌さんを覗き見る。

 まず、総評としては……うん、スーツ姿の働く美人さんって感じ。

 

 ウマ娘レベルとまでは言えないだろうけど、きちんとケアされてる肌は潤いがあって髪もさらさら。

 顔は若干童顔気味だけど、少しキツめの吊り目と表情のなさ、それから170センチ前後という高めの身長、そしてそこそこあるお胸が、大人の女性としての威風を醸し出してる。

 

 本格化中のウマ娘みたいな、完璧に整った不朽の美ってわけでこそないものの、普通の人間としてはかなり偏差値が高いと思う。

 ミスコンとかに出ても文句は言われず「まぁ出るよね」って反応になるかなってくらいだ。

 

 ……確か、歩さんのお兄さんもすごいイケメンって話だったよね。

 この一家、顔面偏差値高くない? 何なの? そういう遺伝子を選んできたの?

 

 いやまぁ、別にいいんだけどね、堀野家が美人な一家でも。

 そこ自体は別に言うことなしだけどさ。

 

 問題は顔面ではなく、むしろ内側で……。

 

「他人の心への理解が足りない上に頑なに過ぎる愚兄ですから、きっとお2人にも迷惑をかけていると思います。

 申し訳ありませんが、これからもこの面倒臭い兄にお付き合いいただければと」

「……お言葉ですが、マスターはステータス『面倒臭い』には該当しないものと考えます。

 非常に理解しやすい指針とその判断基準、適切なトレーニングを提示し、私たちを効率的に導いていただいています」

「なるほど。察するに、ミホノブルボンさんは兄と相性が良いのでしょうね。

 あなたのようなウマ娘が近くにいるのは、兄にとって幸運なことでしょう。どうかこれからも、兄をよろしくお願いします」

「お願いするのはこちら側であると主張します。マスター、そして堀野昌さん共々、トレーナーとしてウマ娘を支えていただくのですから。

 改めて、こちらこそよろしくお願いします」

 

 ブルボンちゃんと昌さんは、一瞬で意気投合したように握手を交わしてる。

 ブルボンちゃんが若干喧嘩腰で反論し始めた時はどうなることかと思ったけど、どうやら2人は気が合いそうだ。

 

 ……私も昌さんと仲良くなれるだろうか。

 ちょっと、いやだいぶ心配です。

 

 

 

 「好きな人の妹」という存在は、とんでもなく大きい。

 なにせその、仮に、仮にね?

 仮に私が、歩さんとゴールインしたとするじゃん?

 競走ウマ娘を引退して、その後は契約トレーナーと担当ウマ娘ではなく、男性とウマ娘の関係になったとして。

 それで最終的に、その、家族になったとして……。

 

 ……家族。家族、かぁ。

 そういえば私、前世でも家庭環境微妙というかぶっちゃけ崩壊気味だったし、今世では気味どころか完全に崩壊してたわけで、家族って言える家族を持ったことがないんだよなぁ。

 歩さんと家族になる……ってのも、なかなかどうして想像が難しい。

 家族って、どういう関係を言うんだろうな。

 お互いを好き合い、一緒にいるのは間違いないとして……。

 ただ一緒にいるだけでは、家族とまでは言わないよね。そこに足りないピースは何だろう。安定感? それとも既成事実?

 私たちはどこから家族になるんだろう。家族と他人の境界はどこにあるんだろう。

 

 ……とと、思考が暴走してた。ポエミーな私は封印封印。

 今考えるべきはそこじゃなくて。

 

 その、最終的に籍を入れたとしてね?

 そうなると、歩さんの妹である昌さんとも家族になるわけですよ。

 もしも相性が悪いとか仲が悪いなんてことになれば、それだけで私たちの幸せ新生活が破綻する可能性があるわけで……。

 つまるところ昌さん、というか歩さんとの家族との関係というのは、私にとっては非常に肝要な要素になるんだ。

 そりゃあ緊張するし、どうしたものかとわたわたしてしまうんだわ。

 

 しかし、いつまでも後手に回っているわけにもいかない。何事も、成果を手にするためには自ら動かなきゃダメなんだから。

 

「あ、あの……よろしくお願いします」

 

 会話の途切れ目を狙ってゆっくりと差し出した私の手を、昌さんは快く握ってくれた。

 けれど同時に……少しだけ、彼女の瞳が見開かれる。

 

「えぇ、よろしくお願いします……ホシノウィルムさん」

 

 僅かに歪められた口端に、何かの感情を見出しかけた瞬間……。

 スッと、その瞳が逸らされた。

 

 それは……そのタイミング、その行動は。

 

 ……この人、多分だけど。

 歩さんの妹とは思えないくらい、感情を隠し、取り繕うことのできる……堅い仮面を持ってる人だ。

 

 それに共感を覚えるべきか、あるいは警戒すべきか悩む内に……。

 

「兄さん、どうぞ」

「あ、ああ、うん」

 

 声をかけられて、部屋の隅に追いやられていたトレーナーが、どこかおずおずと歩み出てくる。

 トレーナーはいつも、少なくとも表面上は自信ありげにしてたから、その様子はちょっと新鮮というか……ふふっ、可愛い。

 

 微かに微笑む私にも気付かない様子で、改めてトレーナーは咳払い1つ、話の進行を引き継いだ。

 

 

 

 改めて、今日はトレーナーとブルボンちゃんが開いてくれたサプライズパーティの翌日。

 予定では、これからのレースやトレーニングの方針を決めるためのミーティングが開かれる……はずだったんだけど。

 そこに突如として現れたのが、堀野昌さんだ。

 流石に今日ばかりはいつも通りとはいかず、ミーティングに先んじて、堀野昌さんの自己紹介とかが行われていたわけだった。

 

「そんなわけで、俺の妹、昌だ。

 たづなさん曰く、来年の4月までインターン扱いで働いて、そこからは正規に新人サブトレーナーとして働くことになっている……らしい。間違いないか?」

「そうだけど。兄さん、担当ウマ娘の前ではそんな口調なんだ。父さんの真似?」

「う、うるさいな、いいだろ別に……。

 というか昌、大丈夫なの? インターンってお金出ないだろ。住む場所とか生活費はどうするの。というかトレーナー免許は? 大学は? ちゃんとご飯食べてる?」

「うるさい、過保護。今はまだ仕送りがあるし広告収入もあるから質素に暮らす程度は問題ない、近くに賃貸借りてる、免許は9月の試験で取れた、大学は免許取った後中退。ご飯については兄さんにだけは何も言われたくない。これで満足?」

「中退!? なんで!?」

「……別に深い理由なんてないけど。トレセンは学歴より能力と人格重視らしいし、ゼミの教授調子乗っててクソうざかったから」

「…………なんだかんだ真面目な昌のことだし、きちんと考えがあってのことだって信じてるけど。せめて相談とか報告とか欲しかったな」

「ウザい。それと、ずっと帰って来なかった誰かさんに言われたくない」

「そ、それを言われると弱いな……」

 

 わいわいと繰り広げられる、兄妹らしい気安い会話。

 これまでに見たことのないトレーナーの表情と声音に、思わずブルボンちゃんと目を合わせる。

 

 トレーナー、コミュニケーションに関してはちょっとアレだし、妹さんもちょっとやさぐれてるって話を聞いてたけど……。

 仲が悪いって感じじゃないし、昌さんも荒れてるっていうんじゃなく……ちょっと方向性が違う気がする。

 相手のことを認めてないんじゃない。認めて、寄りかかることができるっていう前提で反発してる……強いて言えば、反抗期に近いような感じ?

 

 ともかく……トレーナーと昌さん、仲が良い方なんだなぁ。

 いや、兄妹だし、何の問題もないんだけどさ。むしろ仲は良いに越したことはないけど……。

 うぅ、なんかこう……もやもやする。

 昌さん、あんまりトレーナーに似てないし、美人さんが好きな人と仲が良いと、ちょっとこう……胸がざわつく。

 

 とはいえそんなことを表情に出すわけにもいかず、もにょもにょする胸を抑えながらぼんやりと2人を見ていると……。

 トレーナーはこちらの様子に気付いたか、少し恥ずかしそうに咳払いした後、改めて話を続けた。

 

「……とにかく、これからは昌がサブトレーナー見習いとして、仕事を手伝ってくれる。

 言葉遣いが荒かったり多少露悪的なところがあるが、根っこの部分は優しいし真面目な子だ。俺からもよろしく頼む」

「何目線ですか。それに何分かったようなこと言ってるんですか。

 それはそれとして……ホシノウィルムさん、ミホノブルボンさん、改めてよろしくお願いします。お2人を支えられるよう、頑張りますね」

 

 そんなわけで。

 

 たらららったったったー。

 ほりのあきらさんが なかまに くわわった!

 

 ……なんて、陽気に言えることなのかはわかんないんだけど。

 

 季節は廻り、私とトレーナーにとって2年目の秋。

 野分のような強風が、私たちの関係に吹き込んできたのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、昌さんの紹介が終わったら、いよいよ今日の本懐。

 私とブルボンちゃんのこれからを考えるミーティングだ。

 

「……それじゃあ、昌も来たことだし、改めて今後について確認していくぞ」

 

 トレーナー室の隅に寄せられていたホワイトボードを引っ張り出し、トレーナーはマーカーを握った。

 昌さんは一歩引き、バインダーにメモ帳を置いて聞きの姿勢を取る。

 私とブルボンちゃんも、改めて居住まいを正した。自分たちのことなんだし、集中して聞かないとね。

 

 1つの季節が終わったら、次の季節が来る。

 三冠を競うクラシックレースが終わったということは、次のレース群が目の前に迫ってるってことなんだから。

 

「取り敢えずは年内、有記念まで。時系列……いや、ミホノブルボンとホシノウィルム、それぞれの目標レースに分けて、今後のローテーションについて確認する」

 

 トレーナーはホワイトボードに「ミホノブルボン」「ホシノウィルム」とスペースを空けて書いた後、更に前者の下に2の名前を書き込む。

 内容は、ブルボンちゃんの出走予定のレースだ。

 

 11/17 pre-op ベゴニア賞(東京・左 芝1600m)

 12/8 G1 朝日杯フューチュリティステークス(阪神・右外 芝1600m)

 

 ブルボンちゃんのジュニア級の公式レースは、残りこの2本だ。

 主眼に置くのは、やはりG1である朝日杯FS。そこに向けて調整していくことになるんだろうね。

 

「ミホノブルボンの最終目的地点は『クラシック三冠』。

 皐月賞までは出走に足るようファンを獲得しながら、君の適性不足を補うため、少しずつ限界距離を伸ばしていくことになる。

 とはいえ、今年の目標は別だ。G1という大舞台に慣れることと……」

「トレーナーに、私の走りを認めてもらうことですね」

「うん、それもある」

 

 ……あ、そっか、それもあったね。

 

 

 

 忘れがちだけど、というか私は完全に忘れちゃってたんだけど、まだブルボンちゃんはトレーナーに認めてもらってるわけじゃない。

 トレーナーは宝塚記念で、私の走りに惚れてくれた。恋愛的な意味じゃなく、トレーナーとして担当ウマ娘の脚に惚れ込んだ、という意味でね。

 で、そこから彼は「トレーナーはまず第一に担当の走りを好きにならないといけない」という考えに行き着いたらしく、自分と契約するように頼んできたブルボンちゃんに「じゃあ俺を惚れさせてみろ」と試練を課したのだった。

 ……あれももう、2か月以上前のことかぁ。時が経つの早い。特に最近は早すぎる。

 

 で、ブルボンちゃんがトレーナーに走りを認めさせるための舞台が、年末のジュニア級G1レース、朝日杯FSなのである。

 担当する条件としてG1レースの勝利を突き付けるあたり、もしかしたらトレーナー、鬼畜なのかもしれない。G1に勝てるウマ娘なんてほんの一握りなんだけどね……。

 ま、私から見てもブルボンちゃんは、私程ではないにしろ逸材だ。

 そこにトレーナーの管理と育成が挟まるわけで、G1レース1着というのも決して不可能な話ではないと思うけどね。

 

 ……まぁ、とはいえ。

 もし仮に、ブルボンちゃんが1着を取れなかったとしても、トレーナーとブルボンちゃんとの契約は解除させないけども。

 一度契約した以上、彼はブルボンちゃんの今後に責任を取ろうとするだろうし、この学園で歩さん以上に彼女の夢を信じているトレーナーさんは多分いない。

 他に彼女のトレーナーを見繕おうとしても、彼以上の人材がいない、という結果に陥るのは目に見えてるわけだし。

 

 それに、宝塚記念以前のトレーナーならともかく、今のトレーナーならきっと……感情的な部分も見てくれるはず。

 歩さんの管理能力は中央のどのトレーナーよりも高い。ブルボンちゃんが三冠を目指すなら、彼以上のトレーナーなんていないだろう。

 だからきっとブルボンちゃんは、必要に駆られてトレーナーを求める。

 そしてトレーナーも、ここまでの2か月間でブルボンちゃんに感情移入している。彼女を支えてあげたいと思ってる、はずだ。

 だからきっとトレーナーも、感情的にブルボンちゃんを求める。

 

 結局、彼らが契約解除する理由なんて、トレーナーが自身に課している「走りが好きな子しか担当しない」という制約ただ1つ。

 信条を守るのは立派だけど、それに振り回されてちゃいけない。時には臨機応変に曲げることも必要なんだと思う。

 

 第一、別にジュニア級の内に好きになる必要なんてないはずだしね。

 私なんて宝塚記念まで来てようやくトレーナーに好きになってもらったんだし、ブルボンちゃんもクラシックレースでトレーナーを惚れさせればいいんだ。

 それまでトレーナーには、しばらく待ってもらおう。

 

 ……もしもその辺をトレーナーが弁えないようなら、私にも考えがある。

 私からもブルボンちゃんとの契約続行をお願いする、って策だ。

 

 歩んでいく道の途中でトレーナー契約の解除を申し入れられるのは、想像以上にキツいものがある。

 例えるとすれば、頑張って歩いている中で、ふと気付けば片足がなくなってる、みたいな感じだ。ぶっちゃけ絶望感がすごい。

 できればそんなこと、ブルボンちゃんに体験してほしくはない。

 先輩ウマ娘として、なんとか先んじてトレーナーを説得する必要がある。

 

 そのためにも、この前もらった菊花賞の「ご褒美権」は残しておく予定だ。

 この命令権があれば、トレーナーにブルボンちゃんとの契約解除をしばらく待ってもらうってこともできる。最終手段として保持しておこう。

 

 ……ま、どっちにしろ。

 朝日杯FSでブルボンちゃんが結果を出してくれれば、それでオールオッケーなわけなんだけどさ。

 

 

 

 私が脳内で次善策を考えている内、トレーナーは話を進める。

 

「が、もう1つ、目的がある。

 ……ミホノブルボン。君には3つの弱点がある。自覚はあるか」

「弱点……。データの検索を開始します」

 

 ブルボンちゃんは、上を見上げてぬぼーっとした表情で数秒考えた後、改めてトレーナーに視界を戻す。

 私も考えてみるけど……3つかぁ。

 考えられるとすれば、血筋とスタミナと、それから……アレかな?

 

「向かない血筋、長距離を走る持久力不足の2点は推測が可能。もう1点は何でしょうか」

「うむ。言い換えると適性不足、そしてスタミナ不足だな。そこに関しては正解だ。

 で、最後の1点だが……それは、君の気性だ」

 

 あー……やっぱりそこなんだ。

 なんとなく察しの付いていた結論に、私は内心で頷く。

 

「ミホノブルボン、君は確かに強い。

 ……だが、メイクデビューではゲートの中で集中力を切らし、この前の模擬レースではライスシャワーの存在に気を取られて掛かった。

 普段の君の走りなどからも類推するに……君はレースになると闘争心が強くなり、掛かりやすくなってしまうタイプであると推測できる。

 一言で表すと、気性難だな」

「私が……」

 

 無表情のまま、少しばかり固まるブルボンちゃん。

 

 しばらく一緒に走っていれば、ウマ娘の気性ってのは段々わかってくるものだ。

 私から見たブルボンちゃんも、トレーナーの推測とそう外れるものじゃない。

 普段は機械のように冷静で、けれどレースになると吹き上がる炎のように抑えが利かなくなってしまう。

 ブルボンちゃんは、そういう二面性を持つウマ娘なんだ。

 

 けどこの子、トレーナー以上にデータ重視というか、精神的な部分に疎いからなぁ。

 自分のこととはいえ、こういうとこには気づきにくいのかもしれない。

 ……いや、宝塚記念以前の私のことを考えると、自分だからこそ気付きにくい部分もあるんだろうな。

 

「だから、これからはレースの経験を積み、場慣れでその気性難を解決する。

 最終的に目指すべきは、その冷静な思考で計算通りにレースを進められるようになることだ」

「方針、了解しました」

「うむ。では実際のレースを見ていく」

 

 トレーナーがマーカーの背でホワイトボードを突く。

 彼女の次走は、11月17日、ベゴニア賞。

 

「君のメイクデビュー後の初レース、プレオープンベゴニア賞。

 が、調査の結果……あまり口にしたくはないことだが、ここには特に脅威となるライバルはいないことがわかっている。メイクデビュー同様、苦戦することもなく突破できるはずだ。

 公式レースの空気感に慣れるために使いなさい」

 

 トレーナーはそう語って、すぐに次のレースに話を進める。

 

 12月8日、朝日杯フューチュリティステークス。

 

「朝日杯。G1レースということもあり、ここには明確な強敵がいる。ある意味君の挑戦はここから始まると言ってもいいだろう。

 脅威になりそうなのは、京王杯ジュニアステークスで1着争いをするだろう、フルーツパルフェやブリーズカイト。そしてメイクデビューではレコードを飾った……マチカネタンホイザか」

 

 マチカネタンホイザちゃん。あるいはタンホイザちゃん。もしくはマチタンちゃん。

 前世アニメにも登場した、ネイチャと共に〈チーム・カノープス〉のメンバーの1人だったウマ娘だ。

 

 私の勝手なイメージだけど、タンホイザちゃんは〈チーム・カノープス〉の一員ってこともあって、めちゃくちゃ強いイメージはないんだよね。

 でもトレーナーが脅威って言ってるってことは、やっぱり強いんだろうなぁ。

 ネームドはネームド。追い詰められたら、ネイチャみたいにぶわーっと来たりするのかもしれないね。

 

 彼女とも走れたらいいなぁとか考えてる私の横で、ブルボンちゃんは無反応だ。

 どうやらタンホイザちゃんのことも知らないらしい。そう言えば前世アニメでも、ブルボンちゃんとタンホイザちゃんって絡みがなかった気がするな。

 一応同学年なんだけど……まぁ中央トレセンのジュニア級って600人くらいいるから、知らなくても不思議じゃない。私も去年、テイオーのこと知らなかったりしたし。

 

「ライバルは確かに強い。……だがそれ以上に、君が戦うべきは君自身だ。

 最適な走りをするミホノブルボンは、決して負けることはない。来年のクラシックレースに向けて、ここで君の気性難を克服するぞ」

「了解。ミホノブルボン、奮起します」

 

 コクリと頷くブルボンちゃん。いや、奮起しすぎちゃマズいんだけども。

 

 ブルボンちゃんは、強い。

 なにせメイクデビューでは壮絶な出遅れの後に、本来適性もない追込で勝ったんだ。

 普段通りの冷静沈着なレース運びができれば、ブルボンちゃんのポテンシャルはかなり高いはず。

 

 私としても、やっぱり対決するなら最高の状態のブルボンちゃんが良いし、是非とも弱点克服頑張って欲しい。

 協力できる部分があれば全力で手伝いますとも。

 

 

 

 さて、ブルボンちゃんの次は私、ホシノウィルムのローテーションだ。

 トレーナーは私の名前の下に、2つのレースの名を連ねた。

 

 11/24 G1 ジャパンカップ(東京・左 2400m)

 12/22 G1 有記念(中山・右内 2500m)

 

 最初に取り上げるのは、当然ジャパンカップ。

 海外の強豪たちと戦える貴重な機会だ。

 

「さて、ジャパンカップ。前にも言ったと思うが、今年の海外勢は例年に比べて小粒だ。

 今年の凱旋門賞ウマ娘、ノーブルシンガーはあのモンジューと同じトレーナーの担当ということで注目していたが、どうやらジャパンカップは避けて療養する予定らしい。

 イギリスのダービーウマ娘、テンダーも凱旋門賞8着惨敗の後体調を崩したため不在。

 その上で注目すべきは……」

 

 トレーナーはジャパンカップの下に、2人のウマ娘の名前を書いた。

 当然というか、私は知らない名前だ。

 海外のウマ娘事情なんて、ちゃんとアンテナ張ってないとあんまり入ってこないからなぁ。私あんまりテレビとかも見ないし。

 

「まず注目すべきはやはり、フランスからの刺客、凱旋門賞2着のウィッチイブニング。

 そして……芝の本場ではないために注目度は低いが、アメリカから出走を望むシルバーピジョンか。オベイユアマスターのような例もあるし、決して侮れる存在ではない」

 

 トレーナーが調べて来た、脅威になる海外のウマ娘たち。

 きっと、というか間違いなく、彼女たちは強いんだろう。

 

 ……けど通説として、海外の戦場ではウマ娘たちは体調や調子を崩しやすい。

 そもそも海外と日本ではレースや芝の質が違う。ヨーロッパの芝は日本より長くて密度が高いらしいし、アメリカではそもそも芝よりもダートの方が主戦場になってたりする。

 そういう不慣れな戦場で走るとなれば、自然とウマ娘たちの調子は一回り落ち込んでしまうらしい。

 更に長時間の移動とか時差ボケで調子を狂わせてしまうこともあるのだとか。ちょっと前にミーク先輩もそういう話してた気がする。

 

 だから下手な海外のウマ娘よりも、警戒すべきは……。

 国内の、強力なウマ娘。

 最強の一角と呼ばれる芦毛の先輩だろう。

 

「それと、マックイーン先輩ですね」

「そうだな。メジロライアンやイノセントグリモアなども不在である今、脅威となり得るのはやはりメジロマックイーンだ。

 ……まぁそれも、まずは明日、彼女の天皇賞(秋)での調子を見てからだがな」

 

 トレーナーは含みを持たせてそう言った。

 

「……?」

 

 ちょっと不思議な反応だ。

 セイウンスカイ先輩や私、ライアン先輩のいない今回の天皇賞(秋)。

 実力を考えても、普通にマックイーン先輩が勝ってしまいそうなものだけど……。

 

 あー、前世アニメだとどうなったんだったかな。

 えっと、テイオーが怪我をした年の年末……確か有記念に負けた、みたいな描写はあった気がするんだけど……。

 うーん、どうにも記憶にない。前世アニメのマックイーン先輩、この世界とは違ってジャパンカップ出走しなかったとかじゃなかろうな。

 

 トレーナーの言いよどむ理由について尋ねようと思った時、ちょうどトレーナーが次のレースをマーカーで指したため、私はそれを聞くタイミングを逃してしまった。

 普段なら、それを遮って聞いてもいいんだけど……今回は、口を閉じた。

 トレーナーの口調が、普段よりずっと険しいものだったから。

 

「さて……問題は最後の1レースだ。

 年末の祭典、年度最強決定戦、有記念。

 ……ホシノウィルム、ミホノブルボン、昌も。これから先のことは他言無用だ。絶対に外に漏らすな」

 

 そう言ったトレーナーの表情は、かなり厳しいものだ。

 眉は寄せられ、その瞳にはいつも以上に真剣な色が宿っている。

 

 ここまで真剣な顔をするトレーナーは、それこそ……ブルボンちゃんのメイクデビューの時以来。

 一体何が彼をそこまでさせるのか、内心で首を捻りながら、思わず私は居住まいを正して……。

 

 それを、聞いた。

 

 

 

 

 

 

「今年の有記念には、セイウンスカイ、サイレンススズカ、そしてスペシャルウィークが出走する」

 

「…………え?」

 

 

 

 

 

 

 サイレンススズカさん。

 そして、スペシャルウィークちゃん。

 いつか一緒にレースをしようと誓い、けれど悲劇の事故により、トゥインクルシリーズ現役の内にはそれを成し遂げられなかったはずの2人。

 

 ……私の過去の記憶を超えて。

 年の瀬、願いの結集した戦いが迫っている。

 

 

 







 長い長い2か月間が始まる……!



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、2人のウマ娘と妹の話。



(訂正)
 少し前(38話)、ノーブルシンガーをノーブルソングと間違って書いていました。
 モブウマ娘の名前なんて気にならないとは思うんですが、取り敢えず訂正したと報告させていただきます。

(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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俺の妹がこんなに良い子なわけがない

 ぼざろがあと1話で終わるなんて嘘だ……これはただの悪い夢……。





 

 

 

 

「今年の有記念には、セイウンスカイ、サイレンススズカ、そしてスペシャルウィークが出走する」

 

 そう告げた時の各々の反応は、劇的なものだった。

 

 一番反応が小さかったのは、ミホノブルボン。

 しかし普段から無表情、無感動な彼女をして、その事実には無反応ではいられない。

 それは僅かな、彼女への理解が足りなければ見逃してしまうようなものではあったが……彼女は確かにその目を見開き、口端を引き締めた。

 

 次に、今日から俺のサブトレーナーになった俺の妹、昌。

 普段はどことなく冷ややかな雰囲気を保つ彼女は、しかしそれすら放棄し、無表情を驚愕に歪ませる。

 昌は一時期こそウマ娘関係の文化を避けていた風だったけど、今ではトレーナーを目指そうとするくらいにはウマ娘への愛を持っている……のだと思う。

 故にこそ、その名前を知らないわけがなかった。驚かないわけがなかった。

 

 そして最後に……俺の最初の担当ウマ娘、ホシノウィルムも。

 

「……約束の、レース」

 

 思わずといった感じで何か呟くくらいには、それに衝撃を受けているようだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そもそも。

 セイウンスカイという逃げウマ娘が復活したことに、世間は大層驚いていた。

 いや他人事みたいに言っちゃったけど、ぶっちゃけ俺もかなりビビった。

 スカイならあるいはと思ってたら、現役マックイーン超えて本当に1着取るとは……。

 リアルタイムで見てた時、思わず声を上げて応援してしまったくらいだよ。

 

 土台、ウマ娘が怪我の療養のために1年以上公式レースに出なかった、ということは……残酷な話だが、もう活躍が難しいことを示す。

 レース勘は衰え、筋力は弱まり、闘争本能もなくなっていく。レースに出走するペースは早すぎてもいけないが、同時に遅すぎるのも良くないのだ。

 殊に、熾烈極まるG1レースで勝つなどもっての外。スカイ以前に、1年以上の休養の末にそれを成し遂げたウマ娘は1人としていなかった。

 故にこそセイウンスカイの天皇賞(春)は、メジロマックイーンという現役最強ステイヤーを下してなお「奇跡の復活」として世間に受け入れられたのだ。

 

 黄金世代の一欠片、復活したトリックスター。

 彼女の走りが再び見られることに感動したファンは、決して少なくないだろう。

 

 ……けれど。

 トゥインクルシリーズに残っていたのは、彼女だけではなかった。

 

 ダービーウマ娘、あるいは天皇賞春秋連覇者、もしくは……日本総大将、スペシャルウィーク。 

 彼女もまた、トゥインクルシリーズにその名を残していたのだ。

 

 

 

 スペシャルウィーク。

 現在シニア3年目、黄金世代と呼ばれる魔境で活躍したウマ娘だ。

 その戦法は王道中の王道、先行と差し。

 どこかとぼけた雰囲気を出しながらも、レースになれば図抜けた末脚で威風堂々と勝利を掻っ攫っていくような子だった。

 

 その戦績は驚異の17戦10勝、連対率82%。

 セイウンスカイやキングヘイローとクラシックレースを競い合い、夢のダービーを制覇してセイウンスカイの三冠を阻止。

 クラシックレースが終わってからは、エルコンドルパサーやグラスワンダー、エアグルーヴ、メジロブライトらと競り合いながら、数年前のトゥインクルシリーズの中核を為していた。

 

 そして彼女を語る上で外せないのが……やはりシニア1年目、ジャパンカップだろう。

 

 時は少し遡り、パリのロンシャンレース場で行われる、芝の世界最強決定戦、凱旋門賞。

 そこで、ただ1度きりの例外を除いて国内不敗を誇っていたエルコンドルパサーを惜敗の2着に追いこんだ、世界最強を謳われたウマ娘がいた。

 その名を、モンジュー。

 凱旋門賞勝利というURAの、そして日本の悲願を打ち砕いた、当時の現役最強ウマ娘だ。

 

 そうして、凱旋門賞勝利の夢は遠のき、時間は流れて……。

 それから約1か月後の日本で行われる、G1ジャパンカップ。

 そこにはモンジューを含め、多数の海外のウマ娘が参戦していた。

 

 凱旋門賞でのエルコンドルパサーの敗北は、本当にギリギリのものだった。

 モンジューからエルコンドルパサーまでは、半バ身しかなくて……。

 そしてエルコンドルパサーから3着の子までは、6バ身あったんだから。

 もはやモンジューとエルコンドルパサーの一騎打ちと呼んでいい状態。海外メディアが「チャンピオンは2人いた」と報道するくらいのマッチレース。

 

 それを見て、海外にいる多くのウマ娘に火が付いた。

 日本には強いウマ娘がいるのだと全世界が認め、だからこそジャパンカップに多くのウマ娘が集ってきたんだ。

 

 基本的に日本で行われるレースでは、当然と言うべきか、日本のウマ娘の方が人気が出る。

 いわゆる「何番人気」という指標においてもそれは同じで、日本のウマ娘の方が上に上がって来やすい。

 しかしこの年のジャパンカップに限っては……1番人気はモンジューだった。

 ここまで8戦7勝、G1に3勝、連対率は100%。

 その数字と、そして凱旋門賞での勝利により、彼女は日本の自信をへし折っていたのだ。

 

 ……しかし。

 その熾烈なジャパンカップに勝ったのは、2番人気、日本の全ての期待を背負った総大将、スペシャルウィーク。

 

 凄まじい勝負勘と末脚で、彼女は日本の威信を見せつけたんだ。

 日本のファンにとっても、そして世界から見た日本のレースへの印象という意味でも、彼女が出した結果は非常に大きな意味を残した。

 故にこそ、スペシャルウィークはこう評されるのだ。

 日本を負って立つ総大将。あるいは……日本一のウマ娘と。

 

 その人気は、そろそろ最後に公式レースに出走して2年になる今でも衰えず、現役最強という声も止むことはない。

 彼女はまさしく、現代を生きる1つの伝説と呼んでいい存在なのだ。

 

 

 

 そして。

 スペシャルウィークを伝説と呼ぶのなら、彼女を何と呼ぶべきだろう。

 強いて言えば、ドラマチックな物語の主人公、だろうか。

 

 もう1人の有記念追加出走者。

 あるいはホシノウィルムよりも有名かもしれない、最速の大逃げウマ娘。

 異次元の逃亡者、サイレンススズカ。

 

 彼女の最大の特徴は、唯一無二と思われていたその大逃げだろう。

 逃げウマ娘、つまりは他の子たちを振り切って先頭に立つ走りをしておきながら、それでなおぐんぐんと差を付けて行き……最後の最後、レースが終わる瞬間まで減速することなく駆け抜ける、夢のような走り。

 

 根本的に、レースの趨勢はスタミナの配分で決するというのが常識だ。

 序盤にスタミナを使うのが逃げであり、終盤に使うのが追込。どこかでスタミナを使い、どこかで温存する。その駆け引きこそがレースの妙なんだ。

 

 ……けれどその常識は、「異次元」には通用しない。

 最高のスタートを決め、誰も付いて来れない大逃げで最短のコースを走り、そして終盤までペースを落とさず、むしろ加速して駆け抜ける。

 スタミナを分配するのではなく……ずっとずっとスタミナを使い続ける、とんでもなく豪快な走り。

 

 常識が通用しない、定石も意味を成さない、同じルールで走ることすらできはしない。

 言い換えれば、他のウマ娘たちとは次元の違う存在。

 まさしく「異次元」の逃亡者というわけだ。

 

 ……が、ただ強いだけならば、彼女はここまでの人気を誇っていないだろう。

 サイレンススズカというウマ娘の生涯には、大きな山と谷があったのだ。

 

 

 

 サイレンススズカは彼女のクラシック級時代、日本ダービーに出走した。

 そこまでの彼女の戦績は4戦3勝、弥生賞では2番人気でありながら8着と大敗してしまったが、それでも十分に活躍を期待できるG1級ウマ娘と言えただろう。

 故に日本ダービーでも4番人気と、そこそこ高い評価を貰っていたのだが……。

 結果は振るわず、8着惨敗。

 東京レース場には、膝に手を付いて悔しさに俯くサイレンススズカの姿があった。

 

 ここから、サイレンススズカの転落が始まる。

 神戸新聞杯、2着。 

 天皇賞(秋)、6着。

 マイルチャンピオンシップ……15着。

 G1レースに出走こそできるけど、そこで結果を残すところまでは行かない。

 そんな悲しい……けれどありふれた、G1「級」ウマ娘。

 それがクラシック級時点での、世間から見たサイレンススズカの評価だった。

 

 ……けれど。

 彼女はその年の師走、運命の出会いを果たす。

 

 年末、とあるニュースが広がった。

 サイレンススズカがトレーナーとの契約を解除し、新たなトレーナーと契約したのだと。

 基本的に、G1級のウマ娘がトレーナーを変更することは少ない。

 G1レースを走れている時点でそのウマ娘は優秀であるという証明になるし、トレーナーとの相性も良いと判断されるからだ。

 だが、サイレンススズカは低迷と停滞の道を選ばなかった。

 それで全てが駄目になる可能性を加味した上で、現状を打破できる可能性を選んだのだ。

 

 結果から言うと、それが彼女の栄光の始まりだったと言えるだろう。

 

 彼女がレースに勝てなかった理由は簡単で、彼女の気性とトレーナーの立てた作戦が噛み合わなかったから。

 彼女の脚は、G1レースにも勝てる圧倒的に高いポテンシャルを秘めていた。ただその気性が、抑えて走るには余りにも向かないものだったんだ。

 故に、サイレンススズカというウマ娘の気性を深く理解し、彼女の能力を十全に活かすトレーナーと出会って、彼女は……。

 異次元の逃亡者に、覚醒した。

 

 バレンタインステークス1着。

 中山記念1着。

 小倉大賞典1着。

 金鯱賞1着。

 宝塚記念1着。

 毎日王冠1着。

 

 サイレンススズカが辿った、連戦連勝の道筋。

 その中でも特筆すべきは、やはり金鯱賞と毎日王冠だろう。

 

 今も語り継がれる、伝説の金鯱賞。

 ライバルは、菊花賞ウマ娘のマチカネフクキタルや重賞連勝中のウマ娘たち。

 G1レースもかくやという競走相手たちに対し、サイレンススズカは抜群のスタートを切ってグングンと他の子を引き離す大逃げを見せ……露骨に息を入れることもなく2000メートルを駆け抜けた。

 結果は2秒弱もの差が付いた、大差の1着。

 彼女の「異次元」、後方のウマ娘に何もさせない、無敵の戦法が完成した瞬間だ。

 

 そうしてもう1つ、歴史に残る毎日王冠。

 ライバルは、黄金世代の2つの頂点。

 その時点でG1レースも含めて全戦全勝、無敗のG1ウマ娘エルコンドルパサー、そして同じく無敗のG1ウマ娘グラスワンダー。

 この2人を相手に、それでもサイレンススズカは圧倒した。

 2着エルコンドルパサーまでの着差は、実に2と2分の1バ身。

 ……そしてこれは最終的に、エルコンドルパサーが国内で敗北した唯一のレースとなった。

 

 多くのウマ娘たちを、そして黄金世代の最強たちを下し、彼女は名実共に日本最強の逃げウマ娘となったのだ。

 クラシック級までの振るわない戦績、そこから返り咲いたヒロイックなシニア級。

 そこには強い物語性があり、だからこそ誰もがサイレンススズカに、その目と脳を焼かれたのだ。

 

 まさしく栄光の絶頂、サイレンススズカの輝かしき最盛期。

 日本中を魅了した彼女は、そのまま天皇賞(秋)へ出走を決定。

 同世代の天皇賞(春)制覇者であるメジロブライトに大きな差を付けた1番人気を獲得し、その勝利は間違いのないものだと誰もが信じて……。

 

 そして、窒息してしまいそうな重い沈黙が、東京レース場を覆った。

 

 後日「沈黙の日曜日」と称される、サイレンススズカの故障事件。

 彼女は第4コーナー手前で減速した。

 珍しく息を入れようとしているのかと思われたが……しかし彼女はそのまま、ふらふらと速度を落としていく。

 ……サイレンススズカの左脚は、折れていた。

 

 下手をすれば、命も危なかったような怪我。

 競走への復帰は厳しいという、厳しい医師の見立て。

 それらがニュースを通して語られるたび、日本中で彼女を喪わずに済んだ安堵と、二度と異次元を目にすることができない口惜しさのため息が漏れた。

 

 ……これが、サイレンススズカにとって、最も深かった谷だ。

 

 その後彼女は、驚いたことに競走の世界に復帰した。

 驚異的な回復力により、その脚に後遺症が残らなかったのもそうだが……致命的なまでに弱まった筋肉を鍛え直す克己心、そして恐怖を覚えてもおかしくないレースに対して前向きになれる心の強さ。

 それらがなければ達成し得なかった、まさしく奇跡の復帰だ。

 

 けれど、残念なことがあるとすれば……。

 サイレンススズカがその後、海外へと出て行ってしまったことだろう。

 

 彼女はトゥインクルシリーズにその名を残しながら、海外へと遠征してしまった。

 本人の意向と言われているが、その実、何故日本から出て行ってしまったのか、詳細なことはわかっていない。

 元よりシニア級1年目を境に海外進出しようとしていたからとか、日本のレースやレース場にトラウマを持ってしまったのではとか、色々疑われていたけど、真相は闇の中。

 

 とにかく1つだけ、誰もが理解できたのは……。

 恐らくトゥインクルシリーズでは、二度と異次元の走りを見ることはできないだろうってことだ。

 サイレンススズカは死ななかった。引退もしなかった。

 けれど、誰もが望んだ景色……日本のレースで、他を圧倒するサイレンススズカの姿は、もう見ることができない。

 

 だからこそ、メイクデビューでスズカを思わせる大逃げを見せたホシノウィルムに注目が集まった。

 異次元の後継者。スズカの時は見ることのできなかった、早咲きの異次元として。

 もしかしたら、クラシック級の時点で……あるいはクラシックレースで、あの無敵の走りを見ることができるのではないかと。

 

 そしてホシノウィルムは、その期待に十全以上に応えた。

 スズカのように無敵ではない、けれど誰より破天荒な大逃げと逃げで、無敗三冠。

 その実績を以て、スズカを重ねて見ていた全てのファンに、自分はサイレンススズカではなく、唯一無二のウマ娘、ホシノウィルムであると見せつけた。

 

 

 

 ……だが。

 時は過ぎ、ホシノウィルムが1人のウマ娘として確立するのを待っていたかのように……。

 彼女がトゥインクルシリーズを去ってから、実に3年の時が経った今。

 

 あらゆる人の想像を裏切り、中山レース場に、再び異次元が舞い降りる。

 再起した悲劇の主人公が、自分の物語を「めでたしめでたし」で終わらせに来るのだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 恐るべき、と言って差し支えないだろう。

 片や王道。優れた戦術眼とずば抜けた末脚で、終盤に迫り来る総大将。

 片や覇道。序盤に圧倒的な差を付けて、一人きりの独走をする異次元。

 2つの世代の中心を成すウマ娘が、ホシノウィルムの敵として立ち塞がる。

 

 ……まさかここで、彼女たちが出てくるとは。

 それもホシノウィルムがクラシック級というタイミングで、年末の大一番に現れるとはな。

 

 俺のような、知るはずのない知識を持っていたズル(チート)持ちが介入したのではなく……ただただ彼女たちの願いと努力が叶えた、1つの奇跡。

 それはホシノウィルムにとっても、十分以上の脅威になる。

 恐らくはあの宝塚記念の時よりもなお、大きな壁になるだろう。

 

 勿論、ホシノウィルムが宝塚記念で戦った古豪セイウンスカイも、恐るべきウマ娘であったことには変わりない。

 だが……対セイウンスカイと、対サイレンススズカやスペシャルウィーク。この間には、致命的なまでの相性の差がある。

 

 セイウンスカイの本領は、自分が先頭に立ちレースを支配してこそ発揮される。土台自分よりも前を走る大逃げウマ娘は、彼女にとって最悪の天敵と言ってもいい。

 対して王道の展開と末脚で勝ちに来るスペシャルウィーク、位置取り争いすることになるスズカとは、イーブンの条件でやり合うことになるだろう。

 

 ホシノウィルムの持つ領域がいかほどのものかデータが取れていない今、正確な勝率を量ることは難しいけど……。

 間違いなく、簡単なレースにはならない。

 彼女にとって有記念は、超えるべき大きな大きな壁となるだろう。

 

 ……それでも、ホシノウィルムはレースに出たがるだろうけどね。

 最近のホシノウィルムは、対決するウマ娘が強い程レースが楽しいものになることを学習し、なんなら楽しいレースにするためにライバルを育てようとする姿勢を見せている。

 もはや立派なバーサーカー、いや、レースジャンキーだ。1つのものにハマっちゃうと突っ走っちゃうこの一極集中姿勢、彼女らしいと言うかなんというか……。

 

 そんな今の彼女が、物語の主人公のような彼女たちと戦いたがらないわけがない。

 今もなお、瞳を爛々と輝かせているだろう、と思ったんだが……。

 

「……ホシノウィルム?」

 

 予想に反して、彼女はどこかぼんやりとしていた。

 そして俺の目がおかしくなければ、その瞳には……不安げな色が宿っている。

 

「ホシノウィルム、どうした? 何か不安があるのか?」

「あ、いえ……なんというか……出るんですよね、有記念」

「嫌か?」

「嫌では……いえ、ただ、少し混乱しています。時間をいただけますか」

 

 ホシノウィルムが何に悩んでいるのかはわからないが……。

 何か仄暗いものを抱え込んでいる、という風ではなさそうだ。

 その不安に関しても、混乱していると言われれれば、確かにそれらしく見えた。耳も絞ってないし、尻尾も落ち着いてるしな。

 

 確かに、ちょっとばかり大きなニュースだ。

 俺も初めて聞いた時は、ちょっと他に何も考えられない状態になったし……。

 一旦、それぞれで考える時間を置いた方がいいのかもしれないな。

 

「そうだな。今日のミーティングはここまでにしよう。ホシノウィルム、ミホノブルボン、メニューは組んであるから、これを時間厳守で実行するように。

 ……ちゃんと集中できそうか?」

「大丈夫です。走れば……思考も整理できるはずですから」

「わかった。君を信じる」

 

 ホシノウィルムの反応も疑問だけど……今の彼女なら、致命的なことになるとは思い辛い。

 ホシノウィルムには、後輩も友達も先輩もいる。そしてトレーナーである俺がいる。もしも思い悩むことがあれば、その内の誰かに相談できるはず。

 そこに関しては、彼女を信じよう。

 

 ……今はそれ以上に、優先順位の高いことがあるしな。

 俺はすぐそこで澄ましている肉親と、話さなければならないことが多々あるのだ。

 

「で、昌は……ちょっとお仕事しながら、お兄ちゃんとお話しようか」

「兄さんと話すことはないけど」

「メインのトレーナーとこれからの業務について打ち合わせしようか」

「……了解」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ホシノウィルムとミホノブルボンを見送って、残ったのは俺と昌の2人きり。

 もしもここが堀野家母屋なら「落ち着くなぁ」とでも思っていただろうが、ここはトレセン学園のトレーナー棟の俺に割り当てられたトレーナー室。更に俺と彼女は兄と妹ではなく、今はトレーナーとサブトレーナーだ。

 落ち着きなんて感じてる暇もなく、さっそく仕事に取りかかる。

 

「担当のトレーニング、見なくていいの?」

「時間がある時は見る。けど今は昌に言わなきゃいけないこともあるし、まだ仕事も大量に残ってるからね。あぁ、体力管理は徹底してるから安心して」

「徹底って……あぁ、アレ。

 で、大量に仕事残ってるとか言ってたけど……やっぱり無敗三冠ウマ娘の契約トレーナーともなれば忙しいの?」

「まぁね。正直菊花賞が終わって最初の3日間は死ぬかと思いながら働いてた」

「……兄さんが? 死ぬかと?」

「え、うん。うん?」

 

 昌は思い切り眉を寄せてこちらを睨んだ後、ため息を吐いて言った。

 

「…………単純に処理していい書類よこして。たづなさんから大体のことは教わってるから」

「あ、うん、ありがとう。……じゃあこれ、ここからここまで、書類に書いてるの、エクセルに書き写してくれる?」

「多い。半分」

「え? そんな多かったかな」

「その『自分ができることは誰でもできるだろう』って思うとこ、兄さんの悪い癖」

「いや、昌ならできるかなって思って……」

「やっぱやる。全部ちょうだい」

「なんなの……?」

 

 取り敢えず、サブトレーナーとして仕事を手伝ってくれる気はあるみたいで安心したけど……。

 昌は変わらないなぁと、俺は唇を苦笑の形に歪める。

 

 この子、割と気分屋というか……今もそうだけど、会話の中でコロコロとモチベーションとか行動方針が変わる子なんだよなぁ。

 俺が上手く彼女を煽てられればいいんだろうけど、昔はともかく、今の昌が何考えてるかはよくわかんないし。

 

 昔は「おにーちゃんおにーちゃん!」って駆け寄ってくる、すっごい可愛い妹だったんだけどなぁ……擦れちゃったなぁ……。

 お兄ちゃんとしては、妹の成長を喜べばいいのか、それともちょっと険悪気味になっちゃったことを悲しむべきか、わかんないよ。

 いや、素直に自立を喜ぶべきなんだろうけどね。大学退学はちょっとアレだけど、自分で自分自身の判断が下せるようになったのはとても偉いし。

 

「うん、それじゃ、よろしく頼むよ」

 

 ……それはそれとして。

 今の彼女は、トレーナーの卵。インターンのサブトレーナーだ。

 きっちり仕事をしてもらわないといけない。

 

 勿論、最低限のリスクヘッジはするけどね。

 本人に言うつもりはないけど、昌に渡したのは優先度の低い仕事だったりする。最悪不慣れな昌がミスしても取り返しが付くくらいのものだ。

 聞いた感じ、昌はここ数日で大体の仕事の流れとかはたづなさんに聞いてるけど、流石に実体験はないみたいだし。

 

 たづなさんが昌を俺のサブトレーナーに付けたのは、この子を十分にトレーナーとして通用するくらいに育ててくださいって意味だろうし……。

 取り敢えず今は、この子がミスしても俺が支えられるように頑張らないと。

 

「……これ何?」

「何って、そこに書いてない?」

「いや……書いてるけど。来年の大阪杯の出走予定ウマ娘って」

「うん。間違えないように、エクセルに書き写してくれる? あ、全員分終わったら天皇賞(春)分もそっちにあるから」

「いや……終わったらって……今から、来年のデータを? それにこの量を? 50人分くらいあるけど」

「あぁそっか、ごめん、不慣れだもんね。えっと……ん、これ読めばわかると思う。

 大丈夫、2時間くらいで片付けてくれれば問題ないから。昌ならできるでしょ?」

「…………やる」

 

 ふん、と顔を背けられる。

 

 俺の妹、堀野昌は努力家だ。

 努力を苦にしない兄のようなタイプではなく、勉強も体作りも、それなりに嫌がる子だ。

 だけど、嫌だからと言って投げ出さない。

 勿論モチベーションとかその日の調子にもよるけど、自分がすべきことを、自分にできる精一杯でする。

 そういう、真面目で真っすぐな、誇らしい妹。

 

 だからこそ、俺はこの子を信頼してる。

 

 この子は俺よりもずっと才能がある。少なくとも人並には物事をこなせる方だ。……というか、俺がめっちゃ才能ないって言うべきなんだろうけど。

 その上、あくまで自分にできる範囲でだけど、努力を怠らない心の強い子でもある。

 つまり彼女は、才能と努力を両立させている優秀な人材なんだ。

 故にこそ、この若さで中央のトレーナー試験というめちゃくちゃに狭い門を突破し、見事免許を勝ち取ったわけで。

 彼女ならすぐ、この仕事にも慣れてくれるだろう。何なら俺よりも仕事できるようになる日も、そう遠くはないはずだ。

 

 ……俺もトレーナー試験には1発で受かったわけだけど、そりゃ前世の記憶とか「アプリ転生」があるからね。

 そこでズルしてる分、他人よりも勝る結果を残せてようやく人並みなんだわ。

 むしろ前世からの記憶っていう大きすぎるアドバンテージを持ちながら、人一倍程度にしか仕事をこなせてないのは……うん、やっぱ俺、要領良くないんだろうなぁって。

 ま、良くないなら良くないなりに頑張るしかないわけだが。

 

 そんなことを考えながら俺も仕事をしていると、書類とにらめっこしていた昌が声をかけてくる。

 

「兄さん、これ意味わかんないんだけど」

「どれ?」

「これ。この数字何」

「あー……ほら、言ったでしょ。俺、見えてるって」

「あの『なんとか転生』ってヤツ?」

「そ。『アプリ転生』ね」

「じゃ、この数字、ここに打ち込んでいけばいいの?」

「うん」

 

 ……そう。

 昌は努力家で真面目で優しい自慢の妹だが、それじゃない。

 この子はもう1つの意味でも、俺にとって特別な存在だった。

 

「まったく……前世の記憶があるとか、ウマ娘のスペックが数値化できるとか、本当に……」

「変な人?」

「変な兄さん」

 

 ……堀野昌は。

 堀野歩の前世……「俺」のことを、世界で唯一信じてくれている人間なんだ。

 

 

 

 ヒトは基本的に、自分の持っていないものを信じない。

 

 例えば、霊感とかが良い例だろう。

 たとえ「信じる」と言っても、どうしたって半信半疑の域を出ないだろうし、何か被害が及ぶとか予言を当てるとかしない限り、本気で信じてはくれない。

 

 俺の前世の記憶もそうだ。

 父や兄に「前世の記憶がある」と言った時、片方は微かに笑い、片方は心配そうに眉をひそめた。

 冗談か、あるいは心の病か。……それが、「前世の記憶がある」と言った際の一般的な反応なんだ。

 それはたとえ家族でも、例外にはならない。

 

 俺はすぐに発言を取り消して、冗談だと告げた。

 その理由は、俺のせいで家族の円満な空気を壊したくないと思ったのが1つ。

 人の良い2人を心配させたくないと思ったのが1つ。

 ……変な誤解を生んで、前世の最期みたいなことになりたくないと思ったのが1つだ。

 

 自分が人に誤解されやすい質だという自覚はある。

 だからこそ、変に疑われるようなことは言わない方がいい。

 第一前世の記憶があると相手に告げたところで、特にこれといったメリットなんてないんだ。

 理解者を求めるより、まずは円満な関係を築くべきだし、そうして築いた関係を脅かすようなことを言うべきじゃない。

 幼少の俺はそう判断したし、今でもそれは変わらない。

 俺は他人に「自分は転生者だ」なんて言う気はないんだ。これまでも、これからも。

 

 ……だけど。

 その唯一の例外が、妹の昌だった。

 この子は、俺の言った言葉を信じてくれた。

 

『……まぁ、兄さんが嘘を吐く理由はないし。私くらいは信じてあげる』

 

 それが憐憫であったか、あるいは慈悲であったかはともかくとして……。

 この子は、兄が突然とち狂ったことを言い出しても、それを疑うより先に信じる。

 そんなことができる、優しい子なんだよ。

 

 ……ん?

 あれ、そう言えば……。

 俺、なんで昌に前世の記憶のこと打ち明けたんだっけ。

 父と兄の時で懲りて、もう誰にも理解を求めたりしないようにしたと思うんだけど……。

 

 脳内の記憶を漁る。昌にそれを打ち明けた時の記憶を。

 ……夜? そう、夜にそんな話をしたような。

 いや、なんで夜? それも、なんか深夜だったような……。

 

 駄目だ、思い出せない。どうにもとっかかりがなくて、まるで霧の中に手を伸ばすがごとし。

 まぁいいや、そんなのどうでもいいことだし。

 

 とにかく、今大事なのは……。

 堀野昌は唯一、俺が前世の記憶を持つ転生者であることを知ってる、ってことだ。

 

 更に言うと、『アプリ転生』という謎の観察眼のことも知られてる。

 レースの予想を当てまくった時に問い詰められて白状したら、「それでレースの結果予想できるんだ。ズルじゃん」って言ってた。うん、言い訳しようもなくズルです。なんというか、誠に申し訳ない。

 ちなみに、何故「アプリ転生」って名前なのか首を捻ってたけど、流石にこの世界とよく似たアプリがあったってことは言ってない。その辺、自分でもよくわかってないしね。

 

 

 

 そんなわけで、この子の前では転生関係の話を隠さなくていい。

 そんなに気合を入れて隠してるってわけじゃないけど、やっぱり普段よりは少しだけ楽かな。変に言い訳しなくていいから、嘘吐いて嫌な思いしなくていいし。

 

 キーボードを叩いたり書類をチラチラ見ながら、昌に話しかける。

 

「昌。当然だけど、担当には前世とかのこと話してないから、言わないようにね」

「……わかってる」

「ん。それと……まぁ昌なら地雷踏んだりはしないと思うけど、ミホノブルボンに三冠を諦めろとか、そういうことは絶対言わないで。多分傷つくと思う」

「…………うん」

「ホシノウィルムは、結構繊細な過去を持っててね。特に家族関係の話とか幼少の話を振る時は注意して。俺の前では吹っ切れてるように見えるけど、実際はどうだかわからないから」

「…………」

「あと、俺たちは定期的に同期のトレーナーと合同トレーニングしてるんだ。次回の予定は来週の火曜日で、その日は俺もトレーニングに付き添わなきゃいけないから注意して。

 昌も付き添い来る? もし来るんなら、相手方のウマ娘との接し方にも注意してね。あっちの2人はちょっと自己肯定感低めだから、絶対にそっち関係で突っ込んだりしないこと。

 それから……」

「ああもうっ、うるさいっ!」

「あ、え?」

 

 昌は外にまでは響かないくらいの大声を上げて、こっちを睨みつける。

 そ、そんなにうるさかったかな……。

 

「こっちは集中して作業してるの! 兄さんみたいに左手でキーボード打ちながら右手では書類整理して、その上他の人と話せるような状態じゃないの! わかる!?」

「ご、ごめんね?」

「注意事項は後で確認できるように筆記、もしくはLANEとかで送って!

 あとここ、何『一陣の風』とか『軽やかステップ』って! 意味わかんないんだけど、舐めてんの!?」

「前者は直線で猛加速する技術で、後者はレーンの移動の負担を減らす技術だね。名前そのまま、スキルの欄に打ち込んどいて」

「くっ……この兄さんは……! 了解!」

 

 それを聞いて、懐かしさに思わず口端が吊り上がるのを感じた。

 「この兄さんは」。

 堀野の家で、この子に何度も言われてきた言葉だ。

 多分「このバ鹿は」みたいな意味合いの罵倒だと思うんだけど……。

 何故だか、久々に聞き慣れた罵倒を浴びせられた俺が覚えたのは、安堵だった。

 

 トレセン学園で出会うとは思わなくて、なんとなくこれまで、現実感がなかったけど……。

 やっぱりこの子、昌なんだなぁ。

 

「改めて久しぶり、昌。これからよろしくね」

「……はぁ。4か月ぶり、兄さん。これからサブトレーナーとして、よろしくお願いします」

 

 ため息交じりだったけど、昌は作業の手を止めて答えてくれた。

 ……本当、真面目で優しい子だ。

 これでやさぐれた感じを出さなかったら、彼氏でも何でも作り放題だと思うんだけどなぁ。そこだけが玉に瑕って感じで、お兄ちゃんは心配です。

 

 

 







 たづな(気心の知れた方がサブトレーナーに付きましたし、これで堀野トレーナーさんの負担も減るでしょう。良かった良かった)
 歩(これは昌を一人前のトレーナーに育てろってことかな? よーし、頑張るぞ!)



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、天皇賞(秋)と人間関係の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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NTっていいのは、NTRれる覚悟のある奴だけだ。

 メリークリスマス!
 いやクリスマスにしてはサブタイトル不穏すぎない?





 

 

 

 私の菊花賞が終わって、早くも1週間が経過した。

 本日は11月3日、日曜日。天気は生憎の雨天だ。

 秋のG1戦線とも言われるこの季節、日曜日は毎週のようにG1レースが行われる。

 今日も今日とて例に漏れず、G1レースが開催されるわけだけど……。

 

 本日行われるレースは、天皇賞(秋)。

 メジロマックイーン先輩の目標レースであり、先輩の属するメジロ家の悲願の1つでもあるらしい。

 そんなわけで、マックイーン先輩は盾の栄誉を求め、東京レース場へと赴いているのだった。

 

 マックイーン先輩と私の間には、決して浅からぬ関係がある。

 ああいや、ちゃんと話すようになってからは、まだ1か月くらいしか経ってないんだけど。

 宝塚記念で覇を競って、ファン大感謝祭では企画に来てくれて、京都大賞典を見に行って……。

 ……あ、思えばこれだけなのか。

 私が友達少ないから特別意識してただけで、実は全然浅い関係だったかもしれない。

 

 でも、マックイーン先輩は私のことをライバル視してくれてるみたいだし、私もマックイーン先輩をライバル視してる。

 これはもうズッ友レベルの因縁と言っても過言じゃないよね。

 

 で、そんなライバルであり尊敬できる先輩が走るレースとなれば、当然私も中継で観戦する予定だったんだけど……。

 

「ホシノウィルム、天皇賞だが、ブルボンや昌と一緒に見ないか」

「よろしくお願いします」

「私としても、勉強になるので是非お願いしたいです」

 

 まぁ当然と言うべきか、トレーナーとブルボンちゃん、それに昌さんが合流し。

 

「ウィル、天皇賞一緒に見ない? ステイヤー志向のアタシとしちゃ、是非ともウィルの意見も交えながら見たくてさ。

 ……え、先約? あー、そうなん? じゃあ諦めますかー」

「待った待った待った! その話待った! それなら是非僕たちも一緒に見せてもらっていいかな!」

「え、えっ? あの、もしかしてライスも……? お姉、先輩と一緒に見られるのは嬉しいけど……」

 

 偶然居合わせたネイチャとライスちゃんが、彼女たちのトレーナーさんに巻き込まれるような形で合流して。

 

「聞いたよウィルム、ネイチャとマックイーンの天皇賞見るんでしょ? なんでボクをハブろうとするのさ! 三星? ってヤツの仲でしょ~?」

「ごめんね、ホシノウィルム。テイオーが噂を聞きつけてからずっとこの調子で。良ければ一緒していいか、堀野トレーナーに聞いてくれないかな」

 

 テイオーやそのトレーナーさんたちまでやってきて……。

 

 結果。

 

「やはりマックイーン先輩が1番人気ですか」

「ま、とーぜんだよねー。ボクやウィルムのライバルを名乗るんなら、天皇賞くらい勝ってもらわないと」

「そう言うテイオー、まだ重賞にも勝ってないけど?」

「む。言っとくけどボク、G1レースくらい簡単に勝っちゃうからねー? ね、トレーナー?」

「うーん、どうかな。中長距離路線のG1レースは、基本的にホシノウィルムも出走するんだろう? そう簡単に勝てる相手じゃないし、断言はなぁ……」

「何だよトレーナーまでー!」

「まぁG1レースはともかく、ホシノウィルムの出ないG2レースであれば勝てるだろうな。重賞にも勝てない、という評価は的外れだろう」

「データによる解析、でしょうか?」

「うぅ……みんなすごい自信……ライス、居場所が……」

「ライス、大丈夫だよー。アタシと一緒に隅っこで『うわぁ』って顔してようねー」

「いやいや2人とも、ここは『G1レースを取るのは自分だ!』くらい言わないと」

「ちょっと、みんなして何言ってんの? ウィルムにだって勝つからね、ボク!」

「ま、そのためにもまずは復帰トレーニングからだね。ちゃんと取り組んでよ、テイオー」

「んもー、そんなに言わなくてもわかってるって」

「……テレビの音、聞こえないんですけど」

 

 私、トレーナー、ブルボンちゃん、昌さん。

 ネイチャ、ネイチャのトレーナーさん、ライスちゃん。

 テイオー、テイオーのトレーナーさん。

 普段は4人で使っているトレーナー室に、現在なんと9人もの知り合いが押し寄せていた。

 

 いかにトレセンの施設が広大とはいえど、トレーナーの人数は200近い。

 そりゃトレーナー室1つ1つがそんなに広いわけもなく、特にチームを組んでない新人トレーナーさんである歩さんに割り当てられたものは小さめだ。9人も入ると流石に狭さを感じるね。

 

 ……とはいえ。

 最近は、こういうのも悪くないな、って思うけど。

 

「マックイーン、ここ最近好位取れずに負けること多くない?」

「いやいや、アンタそれ宝塚記念しか見てないでしょ。京都大賞典じゃ綺麗に勝ってたからね?」

「ま、マックイーン先輩、走る姿が綺麗で……すごいです、よね」

「同意します。メジロマックイーン先輩の走りは安定性が非常に高く、理想に近いものであると考えます。強いて言えばスタートダッシュが難点でしょうか」

 

 親しいウマ娘たちが固まって、今日のレースについて話し合っているところを見ていると、なんというか……幸せな気持ちになる。

 私、2年前までは10年以上……前世も含めるとその何倍もの時間、友達がいなかったのに。

 今はこうして、気軽に話しかけてくれて、そして話しかけられる友達がたくさんいる。

 

 同期のウマ娘とはちょっと疎遠気味だけど、後輩ちゃんたちは慕ってくれる子が多いし、マックイーン先輩とかライアン先輩、スカイ先輩とも接点ができたし。

 先輩後輩関係も、どんどん充実していってる感じ。

 

 その上……。

 

「そういえばお前、サブトレーナーは付いたのか?」

「あー、うん。ただ彼、ちょっと気難しい人っぽくてね。今日も誘ったんだけど断られちゃった」

「サブを持ってない俺が言うのもなんだけど、その関係性を作るのもトレーナーの仕事だよ。頑張れ若人」

「……む。兄さん、何その目は」

 

 同年代の友達だけじゃない。

 私を支えてくれる、年上の大人の人たちもいる。

 

 テイオーのトレーナーさんやネイチャのトレーナーさんとは何度か話したことはあるし、その度に気を遣ってもらったり心配してもらったりした。

 当然ながらトレーナーである歩さんはいつも私を助けてくれてるし、サブトレーナーさんである昌さんは……まだ関係はぎこちないけど、悪い人じゃないんだろうなぁ、ってのは見えてきた気がする。

 

 本当に、私は周囲の運に恵まれてる。

 最近はどうにも運が悪いというか、特にゲームに関わることになるとめちゃくちゃ運が悪くなるような気がするんだけど……それもむべなるかな。

 そもそも私、最近めっちゃ運が良かったんだ。特に人の運、環境の運がとんでもなく良かった。

 

 いくらホシノウィルムが転生チートウマ娘と言えど、きっと歩さんと出会えなければ結果は振るわなかっただろうし、ネイチャやテイオーに出会えなければここまでレースを楽しめはしなかっただろう。

 たくさんの人が、ウマ娘が、私を支えてくれて、助けてくれて……そうして今、私はここにいる。

 ホシノウィルムとして、ここに生きている。

 

「……本当に」

 

 こんなにも楽しくレースができて、好きな人と一緒にいられて、理解者に恵まれて……。

 私はきっと、この世界で1番幸せなウマ娘だ。

 

「何ニヤついてるの、ウィル。無表情キャラどこいったー?」

「最近のウィルム、なんかほわほわしてるよね。無敗三冠の余裕ってヤツなの? ムカつくー!」

「いえ……楽しいな、と」

 

 ネイチャとテイオーは顔を見合わせて、思わずって感じで噴き出した。

 何それ今更、やっぱちょっとズレてるよね、って……彼女たちはクスクスと笑う。

 

 うん、そういうとこだよ。

 私がおかしなことを言えば、笑ってくれる。間違ったことを言えば、きっと正してくれる。

 私が何かすれば、その反応が返って来る。

 

 私は確かにここにいて、確かに生きているんだって、強く実感する。

 

 それが、何より嬉しいんだ。

 

 

 

 ……そう。

 私は、私たちウマ娘は、この世界に生きている。

 

 生きているからこそ……今年の有記念みたいな、とんでもないバッティングも起こっちゃうわけなんだよなぁ。

 

 昨日の内に、覚悟は決めた。

 私はこの世界に生きるウマ娘の1人として、多くの人に期待される三冠ウマ娘として……。

 どれだけ無粋だろうと、彼女たちとのレースに、真っ向から挑まなきゃいけない。

 

 スペシャルウィークちゃん、そしてサイレンススズカさん。2人が約束して、けれど叶わなかった2人のレース。

 そこに私という異物が紛れ込み、そしてあろうことか勝ってしまえば……。

 あるいは、他人の夢に土足で踏み入り打ち壊すような行為になりかねないって、わかってるけど。

 それでも、ホシノウィルムは走らなきゃいけないんだ。

 

 それだけが、ちょっとばかり残念でもあり。

 ……同時、少し申し訳ないけど、楽しみでもある。

 

 アニメで何度も見た、2人の雄姿。

 この世界で伝わっている、2人の強さ。

 それを両方知っている私だからこそ……それに、挑んでみたいと思うんだ。

 

 ……更に言うと、出走するのは多分、その2人やセイウンスカイ先輩だけじゃないだろうしね。

 ずっと一緒に走ってみたかったあのウマ娘とも勝負ができるかもしれない、となると……。

 

 うん。

 やっぱり、沸き立つものがあるよ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そうしてわいわいと話している内、天皇賞(秋)の本バ場入場の時間が来た。

 

 マックイーン先輩は、7枠13番。

 枠番には愛されず、比較的外からのスタートだ。

 

「堀野トレーナー、君から見てメジロマックイーン以外で注目のウマ娘は誰だと思う?」

 

 テイオーのトレーナーさんにそう訊かれて、トレーナーは胸元から手帳を取り出した。

 その内容とテレビを見比べながら、ゆっくりと口を開く。

 

「そうですね……。メジロマックイーン以外は実力伯仲と言ったところですが、個人的には3番人気、フォシューズでしょうか。

 2番人気イノセントグリモアは……少し入れ込んでしまっていますね。今回は1着争いは難しいでしょう。もしかしたらマックイーンへの対策として積極策を取って来るかもしれませんね。

 他は……身体的スペックで優っても技術で劣る子もいれば、その両者で僅か劣る代わり、今日の調子が素晴らしく整った子もいるように思います。レースの展開次第ですね」

「お、その手帳が噂の堀野ノートかい?」

「ノート……? 何ですか、それ」

「トレーナーの間で噂になってるよ。偵察に来てはじっとウマ娘の様子を見て、すごく細かくデータを取っていくトレーナー……つまり君のこと。

 曰く、その男が取っている手帳には、あらゆるウマ娘の正確な情報が記されているとか」

「そんなわけないでしょうに……」

 

 トレーナーは、ちょっと呆れたような口調で肩をすくめた。

 ……ちなみにその噂、完全に嘘ってわけではないにしろ、確かに誇張は入ってる。

 

 今トレーナーが持ってる手帳には、全てのデータが記されてるわけじゃない。

 何せトレーナー、1か月に1冊くらい、手帳を買い替えてるからね。

 今使ってるのは今年だけでも多分11冊か12冊目、それまでのデータは全てデジタルなデータに纏められ、トレーナーのパソコンとバックアップのUSBの中に納まっているのだ。

 そんな訳で、「手帳に全部書いてる」ってのは嘘で、本当は歩さんの使うパソコンの中にある。

 

 それと、全てのウマ娘のデータを持ってるってわけでもない。

 トレーナーが調べてるのは、あくまで私やブルボンちゃんが戦う可能性のあるウマ娘数百人程度。中でも徹底的に調べて常にマークしてるのは100人前後だって言ってたし。

 

 ……ん? いや100人のデータって多い……? いや多いよね、多いわ冷静に考えたら。

 トレーナーと一緒にいすぎたせいか、最近あっちの感覚に引きずられてる感じがする。

 

 少しずつ私と彼の境界線が溶けて来たようで嬉しくもあるけど……うん、変に引きずられすぎてトレーナーの頑張りを見過ごすのはダメだ。

 相互理解を深めて少しずつ互いの色に染め合いながらも、染まっちゃいけないとこは染まらないように注意しなきゃいけない。

 

 うーん……やっぱり難しいな。

 前世ではずっと1人きりだったから、誰かに変えられる、なんてことは起こらなかったんだけど、今思えばアレはアレで自分に凝り固まっちゃうし。

 理想を言えば、人と関わって変わりながら、しかし人に染まらず変わらない部分も持つべきなんだろうけど……。

 簡単なようで、なかなか難しそうだよね。

 

「うん、やっぱり堀野トレーナーの予想は参考になるね」

「恐縮です」

「その判断の秘訣を発表会で明かしてくれれば言う事なしなんだけど」

「はは、それはなかなか……」

 

 私がぼんやりと内省している内に、トレーナーたちは今回のレースに関しての品評を終えたらしい。

 結論としては、「高い確率でマックイーンが勝つ」ってとこに落ち着いたっぽい。

 

 皆が来る前にトレーナーに聞いたところ「マックイーンが落ち付いてレースを進められれば、必ず彼女が勝つ」って言ってたし、私もマックイーン先輩が勝つんだろうなーって思ってる。

 天皇賞(春)や宝塚記念ではスカイ先輩の策にかかったり外を走らされたから勝てなかっただけで、マックイーン先輩は本質的には強者なんだ。

 

 ……それに。

 ちらとトレーナーの方に目をやると、真剣な目でテレビを見ている。

 その表情は……「できることは全部やった」って顔だ。

 

 トレーナーは、何度かマックイーン先輩のトレーナーさんと話していた。

 曰く、今のマックイーン先輩には少しばかり精神的な不安があり、自分はそれを解消できるかもしれない、と。

 

 マックイーン先輩の心の歯車が噛み合ってなかったとして、そしてそれが彼女のトレーナーさんだけでは解消できなかったとしても……。

 きっと、歩さんが絡み合った問題を解きほぐしてくれたはずだ。

 

 ……あの人がこの表情をしてるってことは、大丈夫。

 私をここまで導いてくれたように、きっとマックイーン先輩のことも救ってくれる。

 たとえこの先、悲劇が起こる運命だろうと……今のマックイーン先輩なら曲げられるはずだ。

 

「頑張れ、マックイーン先輩」

 

 誰にともなく、呟いた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そうして、ファンファーレが鳴り響く。

 いよいよ出走の直前だ。

 

「始まりますね」

「あぁ……頼むぞ、マックイーン

 

 トレーナーはボソリと、小さく呟く。

 きっとそれは、誰に聞かせるつもりもない言葉で、だからこそ本当に小さな呟きでしかない。

 

 ……でも、聞こえた。聞こえてしまった。

 トレーナーの近くにいて、なおかつ鋭い聴覚のウマ耳を持つが故に……私にだけは、聞こえてしまった。

 

「マック、イーン……?」

 

 あだ名。

 

 トレーナーが、あのトレーナーが、いつだってウマ娘をフルネームで呼ぶトレーナーが。

 マックイーン先輩のことを……略称で、つまりあだ名で、呼んだ。

 

 なんで?

 私だって、「ホシノウィルム」としてしか呼ばれてないのに。

 

「トレーナー、あの……」

 

 

 

『いよいよ始まります、盾の名誉をかけてウマ娘たちが東京レース場に集いました、天皇賞(秋)。

 降りしきる雨の中、勝負服のウマ娘たち18人がゲートが開く瞬間を待ち望む。

 果たして今回、名優は2作目の大作を演じ切ることができるのか?』

 

 

 

 私がトレーナーに聞きかけたところで、ちょうど実況が始まってしまった。

 うぅ……気になる。もやもやする。

 ……けど、今はマックイーン先輩の天皇賞だ。

 よし、絶対後で聞けるように、しっかりと心の中のメモ帳に確かに走り書きを残して……。

 よし、今は目の前のレース映像に集中!

 

 

 

『……さぁ、ゲートインが完了。出走の準備が整いました』

 

 

 

 出走直前、緊張に静まり返るレース場。

 その余波を受けたように、テレビの前の私たちも誰からともなく黙り込む。

 

 スタートの瞬間は誰もに平等で、そして何よりも残酷だ。

 18人が唯一横並びになって駆けることのできる瞬間。

 しかし同時、ここでミスを犯せば、決して覆すことのできない大きな大きな差が開くことになる。

 圧倒的な実力を持つウマ娘が大幅な出遅れで惨敗した、なんて珍しい話じゃない。

 だからこそ、この瞬間は誰もが気合を入れるし集中するんだ。

 

 そして……その沈黙は、唐突に破られる。

 

 

 

『スタートしました!』

 

 

 

 降りしきる雨の中、18人が走り出す。

 ……そうして、そのバ群の中から抜け出したのは。

 

 

 

『先行争いはフォシューズ、イノセントグリモア! この人気ウマ娘2人が抜け出した!

 一方1番人気メジロマックイーンは慎重に内に入って、泰然とレースを進める』

 

 

 

「……少し意外だね。メジロマックイーンにしては慎重な運びだ」

「好位置を取ろうとするなら、もっとキュッと行くベきなんじゃないの?」

 

 ネイチャのトレーナーさんとテイオーが呈した疑問に、テイオーのトレーナーさんが首を振る。

 

「いや。不良バ場でバ群が詰まりやすい上、今回はマックイーンがいるから、皆インコースに入ろうとするだろう。そんな中、外めの枠の子が無理やり内に入ろうとすると、最悪進路妨害と見なされることもある。

 彼女の脚なら僅か程度の外回りはハンデにもならないだろうし、万が一のことを考えれば正しい判断だと思うよ」

 

 あーそっか、とテイオーは頷いて……ネイチャのトレーナーさんは、それに気付かなかったことが恥ずかしかったのか俯いた。

 昌さん含めたトレーナー陣で反応してるのはネイチャのトレーナーさんだけだし、多分それは大人たちの共通認識なんだろう。歩さんはともかく、昌さんまでわかってたっぽいのは、やはり名家の教育が故だろうか。

 

 レースから目を離すことなく、私のトレーナーが言葉を継いだ。

 

「メジロマックイーンは、はっきり言って今回のメンツの中でも頭1つ抜けている。

 無理に前に出ようとするのではなく……落ち着いて走る方が逆に勝率が高いだろうな。

 ……ここ最近敗北続きで焦っているのではないかと心配していたが、どうやら落ち着いてレースに臨めているらしい」

 

 その声はどことなく……安堵してる?

 トレーナー、そんなにマックイーン先輩のことを……。

 

 う……。

 うぅぅぅ、ズルい。ズルいよ!

 マックイーン先輩、トレーナーの担当ウマ娘でもないのに、レースを心配してもらって、その上あだ名で呼ばれてるとか!

 確かに、京都大賞典でトレーナーに「行動した方がいい」って言ったのは私だけどさ、まさかここまで心配してるとは思わないじゃん?

 トレーナー曰く、あくまで今回は「マックイーン先輩が勝てるレース」だ。それなのにここまで心配するなんて……。

 

 トレーナー、もしかしてマックイーン先輩のことが好き……だったりとか?

 もしかして、ああいう体型とか声とか髪色のウマ娘が好きだったりするのかな。

 声はちょっとどうしようもないけど、体型だけなら私にも可能性あるし髪色も染めればいいわけで、まだ救いもあるんだけど……。

 

 どうしよう、実は私の走り以上にマックイーン先輩の走りが好きだったら。

 そうなると、もう本当にどうしようもないわけなんだけど。

 

 私は大逃げという、だいぶ破天荒な走り方をする。

 対してマックイーン先輩の走りは王道中の王道、好位抜け出しだ。

 確かにトレーナーは安定を好む方だし、私みたいなド不安定なウマ娘よりは、確実に成果を生むマックイーン先輩の走りを好きになってもおかしくない。

 

 で、でもさ、戦績的には私の方がずっと安定感あるはずだし。

 何せ無敗の三冠、ここまでただの1度の敗北もなくここまで来たわけで、安定感という側面において私を越え得るのは、もはや同じく無敗の三冠ウマ娘であるシンボリルドルフ会長くらいだ。

 

 それに、宝塚記念でトレーナーは私の走りに惚れてくれたみたいだし? 私の方がずっと一緒にいて、苦楽を共にしてきているわけですし?

 まだ会ってそう間もない……はずのマックイーン先輩よりは、私のことを大事にしてくれてるはずだ。レースへの対策だって、私の方がずっと時間をかけてくれてるわけで。

 

 ……でも実際にトレーナーはマックイーン先輩をあだ名で呼んで、その上こんなにもレースを心配していたのも事実ではあるんだよね。

 問い詰めねば。このレースが終わったら、絶対に問い詰めねば!

 NTR……いやBSSならぬWSSか? その芽は早めに摘んでおくに限るんだから!

 

 

 

『さぁ大欅を越えてフォシューズのリードは1バ身にまで縮まっている。2番手メジロマックイーンとイノセントグリモア、僅かにイノセントグリモアが前でしょうか、殆ど並んでいく形で第四コーナーに入りました!

 後続は4バ身後方で600メートルを迎えます、懸命に上がって来るが届かないか!』

 

 

 

 私が内心で嫉妬の炎をメラメラ燃やしている、あるいは焼きもちをもちもちと焼いている間に、レースは既に終盤に入っていた。

 全然レースに集中できてないわ私。ごめんなさいマックイーン先輩、やっぱり自分で走らないとレースの寒さが薄くてちょっと集中し辛い……いや嘘、普通に煩悩が出てただけなんだけど。

 

 改めて画面に目をやると、勝負は1、2、3番人気のウマ娘が実力通りに抜け出して競り合う形。

 遠くから見るに、先頭の逃げウマ娘はやや疲労をにじませており、マックイーン先輩に並んでいるウマ娘からは疲れが色濃く窺える。

 

 一方で、マックイーン先輩は……。

 

「流石と言うべきか、マックイーン先輩、殆ど疲れが窺えませんね」

「うへぇ、底なしじゃん。ハイペースで走って皆を疲れさせて自分は悠々と走るとか、頭ホシノウィルムかな?」

「おいネイチャ、それはどういう意味ですか」

「ウィルム先輩、恐らくは高い持久力を賞賛されているものと思われます」

「いやブルボンちゃん、今のは多分皮肉というか茶々だと思うよ。それとネイチャ、時系列的には私の方が後だから、むしろ私がマックイーン先輩脳でしょう」

「重要なのそこ?」

 

 うん、先輩、全然疲れてない。

 まぁ当然と言えば当然かな。

 マックイーン先輩は高いスタミナを持つステイヤー。天皇賞(春)の3200メートルまで走ることもできる彼女は、おおよそ2000メートル程度で力尽きるようなウマ娘ではない。

 

 ……問題があるとすれば、それはスタミナではなく、ステイヤー特有の弱点だろう。

 

 ジリ脚、という言葉がある。

 簡単に言えば、瞬間的な加速が苦手という特徴、あるいはその特徴を持ったウマ娘を表す言葉だ。

 平均的なペースで走り続けることはできても加速ができないという、ちょっと困った特徴。

 ジリ脚を持つ子は、まずスプリンターにはなれない。基本的に距離が短ければ短いほどに、瞬間的、爆発的な加速を要求されるからね。

 だからそういう子は、スタミナと適性さえあるなら、中長距離を目指すことが多い。

 つまり、短距離志向のウマ娘とは逆に、距離が縮まれば縮まる程に不利になっていくわけだ。

 ……以上、トレーナーからの受け売りでした。

 

 つまり、何が言いたいかっていうと。

 3000メートル越えの長距離を主眼とするマックイーン先輩に、天皇賞(秋)の2000メートルは短すぎる可能性がある、ってことで。

 

 ……ま、そんなの杞憂でしかなかったんだけどさ。

 

 

 

『メジロマックイーン、メジロマックイーンが外からフォシューズに並びかける! イノセントグリモア内から立て直して懸命に粘るがしかし3番手!

 前の2人の競り合いが続く、続くがしかし先頭はメジロマックイーン! メジロマックイーンが抜け出した!』

 

 

 

 マックイーン先輩が強く地面を蹴り跳ばす音が、ここまで聞こえた気がした。

 

 確かにマックイーン先輩は、少しジリ脚気味なところがある。

 天皇賞(春)でも、宝塚記念でも、脚を残したまま使い切れずに敗北を喫したのだから。

 ……けれど、それでも。

 

 

 

 彼女は、そこにいた誰よりも……強い。

 

 

 

『メジロマックイーン伸びる、後続も懸命に追い縋るがその差は縮まることを知らない!

 100メートルを切って、メジロマックイーンこれは楽勝! 3バ身4バ身の差を付けて今ゴールイン!!』

『結果が確定、春の雪辱を果たして今、メジロマックイーンが念願の盾の栄誉を手にしました!!』

 

 

 

「……ふぅ」

 

 レースが終わって、まず浮かんできたのは、「良いものを見たな」って感想だった。

 冷静沈着、全ての歯車が嚙み合ったが故の絶好調。極力リスクを排除した容赦のない勝ち方。極限的に濃縮された隙のない走り。

 

 その全てが、強かった。

 

「ふ……ふふふ」

 

 心の底から、熱が込み上げてくるのがわかる。

 

 いいね。

 いいねいいねいいね! ジャパンカップ、すっごい楽しみになってきた!

 

 今のマックイーン先輩は、強い。

 あの京都大賞典の時も強かったけど、それより更に一回り、存在が大きくなってる感じ。

 自らの悲願である天皇賞を制したマックイーン先輩は、今までの見たどの先輩よりも仕上がってる。

 

 そんな絶好調の先輩と、私はもうすぐ戦えるんだ。

 こんなに嬉しいことがあるわけない。

 

 ジャパンカップまであと3週間。負けてらんない、私ももっともっと強くならないと!

 

「お姉さ……ウィルム先輩」

 

 私が来たるレースに向けてにやにやしていると、ライスちゃんがおずおずと話しかけてきた。

 

「ライスちゃん? 何、どうしたの?」

「……やっぱり、マックイーン先輩のこと、好きなんですか?」

 

 ……好き?

 いやまあ普通に好きだが? 推しって言うほどガチで推したことはないけど、それにしたって前世からお慕い申し上げておりましたが。

 

 でも前世で見ていた、キャラクターとしてのマックイーンちゃんも好きだったけど……。

 今世での、ライバルとしてのマックイーン先輩は、もっと好きだ。

 

 だから、その疑問に答えるとすれば……。

 

「うん、好きだよ。マックイーン先輩は強いからね。今からジャパンカップが楽しみだ」

「……やっぱり、そうなんですね」

「?」

 

 なんかよくわかんないけど、ライスちゃん……え、なんで気合入った感じの目してるの?

 

「ライスちゃん?」

「いつか……いつかライスもブルボンさんを超えて、マックイーンさんも超えて、ウィルム先輩が楽しめるレースをしてみせます!」

「えっ、あ、うん」

 

 そりゃ楽しみだけど……。

 なんでこの子、こんなやる気を出して……?

 

 

 

 ……ん?

 あれ、待てよ。

 私、無意識に変な因縁作ってないか?

 

 ライスちゃんがブルボンちゃんに対して意識を持ったのは、私が「まずはブルボンちゃんの背中を目指してみな」ってアドバイスしたからだ。

 結果として2人はちょっと仲良くなったみたいで、休み時間にお話しするような関係になったらしいので、それは結果良ければ何とやらなんだけど……。

 

 今、ライスちゃんがマックイーン先輩を意識するようになったの……もしかして私のせいか?

 いやしかし、それにしたってなんでマックイーン先輩のことをそんなに意識するんだろう。

 

 記憶の中から、情報の断片を拾い漁る。

 そういえばライスちゃん、「いつか先輩が楽しめるようなレースをします」みたいなこと言ってたし……。

 風の噂(ネイチャ調べ)によると、「ホシノウィルムは気に入った相手以外の名前を覚えない」なんて言われてるみたいだし……陰キャだから名前覚えるの下手で、結果として半分くらい事実になってるけど。

 今私、「マックイーン先輩は強くてレースを楽しめそうだから好き」って思われかねない発言をしたわけで……。

 

 もしかして、ライスちゃん……私に気に入られるために強くなろうとしてる、とか?

 いやいや、そんなまさか。ネームドであるライスちゃんにそこまで好かれるほどすごい存在じゃないし私。

 ……いや、無敗で三冠獲った転生チートウマ娘だったわ私。好かれるのはともかく、憧れられるには十分かもしれない。

 その上、ライスちゃんのことも多少理解があるから、結構彼女に寄り添って話してた気がする。ゲームだったらそこそこ好感度が上がってもおかしくないくらいには。

 

 それらの情報から、推察するに……。

 

 ……これ、自意識過剰ならいいんだけどさ。

 もしかして私……想定以上にライスちゃんに気に入られてない?

 冗談で「百合か?」とか思ってたけど、これガチめに気に入られてる説ある?

 百合までは行かないにしろ、想定外に……それこそライスちゃん、ブルボンちゃんルートじゃなくてホシノウィルムルートに突入してる可能性が微粒子レベルで存在する……?

 

 あー……いや、これ、うーん。

 私、これからライスちゃんに対して、どう接するべきなんだろうな……。

 

 いや、ライスちゃんとブルボンちゃんに仲良くなってほしい、って気持ちは相変わらずあるのよ。

 けどそれって、ぶっちゃけただの私のエゴイズムなんだよね。

 彼女はこの世界に生きてる1人のウマ娘。最終的に誰と仲良くするか、誰とくっつくかなんてのは彼女自身が選ぶべきことだ。

 ブルボンちゃんとくっつくのが正しい道筋であるかのように思い、無理にその道に進ませようとするのも、それはそれで不自然と言えるかもしれない。

 なので私は、2人が友達になるところまでしかキューピッドしなかったわけだ。

 

 ブルボンちゃんとのことを除けば、私としては……ライスちゃんは憧れのウマ娘の1人と言っていい存在だ。なんなら8話か9話あたりのオープニングの顔の良いライスちゃんにガチ恋したくらいには。

 けど、それはあくまでアニメの中のキャラクターへの感情というか、「私のものにしたい」みたいな独占欲はほとんど存在しない。

 私はあくまでライスちゃんの友人Aとして、ああいや名前的には友人Hかな? とにかく普通に仲良くできればいいなぁと思ってる。

 

 なので、ライスちゃんも友人になりたいと、あるいは仲良くなりたいと思ってくれるのなら、それは別に悪いことではないと思うんだけど……。

 

 問題は、ライスちゃんからの感情が、なんか思ったより重いっぽいことだ。

 多分現状、ブルボンちゃんやマックイーン先輩よりも好感度高いっぽいぞこれ。好感度調整ミスってない?

 

 あー、どうする。どうすべきだ私。今更ブル×ライ以外は許さんとか言うつもりもないけど、これは流石に重すぎる気もする。

 

 ちょっと無理にでもライスちゃんに強く当たって好感度を下げる? ……いや、そんなことはしたくない。ライスちゃんの曇り顔がガチで心に来るのはアニメで予習済みだ。

 でも、じゃあだからと言ってこのライスちゃんをそのままにしておいていいのか? もうちょっと広く色んなウマ娘を見るようにさせた方がライスちゃんのためになるのでは?

 

 私は、先輩として、正しい行動を……。

 

「先輩……?」

 

 ……いや無理。ライスちゃんが曇る姿は本当に無理。

 このきゅるんとした瞳、裏切れないよ……。

 

「あー……うん、頑張れライスちゃん。応援してるよ」

「はいっ!」

 

 わぁ、元気なお返事と可愛らしい笑顔。こんな顔されたら変なこと言えないわこれ……。

 

 

 

 実っていく人間関係と共に、色々と問題も浮上してきた。

 マックイーン先輩とトレーナー、そしてライスちゃんと私。

 ……正直ライスちゃんに関してはちょっと打つ手なしというか、どうすべきか判断しかねるので、一旦棚の上に上げるとしても。

 トレーナーとマックイーン先輩の関係は、しっかりと聞き出さないと、だね。

 

 

 







 そんなわけで、別にクリスマス関係のないお話でした。
 クリスマス特別編とか書いてみたいなとも思ったんですが、残念ながらタイミングが合わなかったです。マイペースに行くということでお許しください。
 その代わり、次回は……砂糖多めになるかも。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、あだ名の話。



(本編に関係のない呟き)
 ぼざろロスが凄い。

(本編に関係のない呟き2)
 イクイノックスおめでとう! 強い!

(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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第一回 チキチキあだ名発表会

 前回のあらすじ!
 ・秋天はマックイーンが勝った。
 ・ホシノウィルムは「マックイーン先輩だけあだ名で呼ばれててズルくない?」と思った。
 ・クリスマスなのに砂糖成分が全然なかった。





 

 

 

 天皇賞(秋)が終わり、ブルボンのベゴニア賞まで2週間、ホシノウィルムのジャパンカップまで3週間を切った。

 11月となると比較的暖かい立地にあるトレセン学園とはいえど寒気の波に襲われ、クローゼットの中に封印されていたジャケットやマフラー、ネックウォーマーたちが復活の気配を見せる頃合いだ。

 そんな中、俺たちは……。

 

「ミホノブルボン、10分間クールダウン。ナイスネイチャ、ライスシャワーはペースを1段階落とせ。ホシノウィルムはそのまま続行」

「了、解……」

「クソっ、スタミナじゃ、やっぱり勝てないか……」

「はぁ、はぁ……くっ、うぅ……」

「すぅー……ふーっ……」

 

 今日も今日とて、トレーニングに励んでいた。

 

 今日は火曜日、久々のナイスネイチャとの合同トレーニングの日であり、初めてのライスシャワーとの合同トレーニングの日でもある。

 ネイチャたちのトレーナー陣は不在……というか、色々あって時間を取れなかったらしい。

 それにしたって完全に俺にトレーニングを任すというのは、相変わらず無警戒だと思うべきか、あるいは頼られるだけの信頼は得ていると思うべきか……。

 勿論、その信頼には応えたい。責任を持って、最適と思えるメニューを組んでいるつもりだ。

 

 「アプリ転生」を持っていないトレーナーの育成方針は、どうしたって偏ってしまう。

 特にネイチャたちのトレーナーはスタミナ偏重な育成方針になっており、それ自体はネイチャやライスと相性が悪いわけじゃないんだけど、やはりそれだけでは勝てるレースにも勝てなくなる。

 だから他のステータスの不足分は、こうして合同トレーニングの際に補おうとしているわけだ。

 

「……ネイチャがスピード1、ライスはパワー1か。悪くない上昇率だ」

 

 さて、ネイチャ・ライス陣営だが、今俺は1人きりで彼女たちを見守っているわけではない。

 俺のサブに付いてくれている昌は「勉強のため」と一緒に彼女たちのトレーニングを見てくれてるんだけど……。

 

「……あー」

 

 いや、訂正。見てるのはトレーニングじゃなくて手元の書類だった。

 

 どうにも昨日今日の昌は精彩を欠いている。

 この子の才能があれば書類仕事をこなしながらトレーニングの観察くらいはできると思ったんだけど、今は軽く頭を掻きながら、バインダーに載せた書類の束に四苦八苦しているようだ。

 うーん、一応そんなに難しくない方の書類を割り振ったつもりだったんだけど、何に苦戦してるんだろうな。

 

 過度な負担は無駄に繋がる。

 無茶ってのも経験としては重要なんだけど、やっぱり適切な負荷こそが成長に繋がるのはウマ娘の脚に限った話じゃないんだ。

 だから、昌が苦しんでいる原因究明、そして適切に負荷を減らしたいところだけど……。

 難しいことに、昌は俺が任せた仕事に手を出したり覗き込もうとしたら嫌がる。すごく嫌がる。

 一応進捗確認ってことで時々覗いてるんだけど、多分そろそろバレるだろう。というかもうバレてるかもしれない。昌めっちゃ察し良いし。

 

 ……これ、どうしようかなぁ。

 昌はかなり……少なくとも俺目線だと、要領が良い。多少大きな負荷程度なら、あるいはそれも成長に繋げられるかもしれない。

 ただ、肉親が苦しんでいる姿というのは心に来るものがある。できれば力になりたいんだけどな……。

 

「昌、ごめんね、仕事振り過ぎちゃったよね。厳しいようなら手伝おうか?」

「うるさい黙ってろバ鹿兄さん。……ちゃんと担当たち見ててあげて」

「あ、はい」

 

 この通り一刀両断である。ついでに言うと正論だから反論の余地もない。

 

 俺は改めて、合同トレーニングでダートを走っているウマ娘たちに目をやるけど……。

 あれ、と首を傾げた。

 土台、「アプリ転生」を持つ俺にとって、ウマ娘の体力管理は非常に簡単だ。なにせただ見るだけでどれだけ体力が残っているのか、そしてどれくらいの確率で事故を起こすかを一目で見ることができるわけで。

 ……で、「アプリ転生」について知ってるはずの昌も、そんなことわかってるはずなんだよね。

 

「もしかして今の、皮肉?」

「こっちは集中してるから黙ってろって言ってるんだけど」

「あー、ごめん、黙るね……」

「……はぁ。本当に全然変わらない、この兄さんは。

 他人のことの前に、自分のことを片付けたら?」

 

 昌はため息をついて、再びバインダーに目を落としてしまった。

 相変わらずの態度に、思わず苦笑が出てしまう。

 

 昌は、基本的に人に対しての当たりが強い。

 特に昔、中等部の時なんかはすごくて、唯一彼女が心を開いていた母さん以外はとてもじゃないけど昌に接触できなかった。

 今も、俺や父さんへの当たりは強いままだけど……ここ数日の様子を見るに、ウマ娘たちに不当に強く当たることはない。それどころか、かなり丁寧に接触している印象がある。

 なんというか、妹の成長を感じられて嬉しいね。

 

「さて……」

 

 ……しかし、彼女のことばかりを考えてはいられないのも、また事実だ。

 なにせ俺は今、ホシノウィルムから1つ、無理難題を仰せつかっているのだから。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 時は昨日、月曜日に遡る。

 酷く冷え込んだ朝、担当ウマ娘たちが防寒着を忘れでもしたら大変なので、昌も含めた人数分のジャージや手袋、カイロなどを用意し、朝のミーティングの準備をしてたんだけど……。

 

「トレーナー、失礼します」

 

 その日は、ホシノウィルムが俺の次、かなり早くにやってきた。

 それは本当に珍しい、というかはっきり言って空前絶後のことだった。

 

 なにせホシノウィルムは、朝に弱い。とても弱い。

 どうやら彼女は隠したがっているようなので気付かないフリをしてるけど、俺は当然ながら他のウマ娘からの情報収集で、既にそれを掴んでいた。

 

 曰く、朝のホシノウィルムは危険。手を出すと噛まれる可能性がある。

 曰く、彼女自身、自分の性質を理解しているため、朝は自室に引きこもっているが、時々寝ぼけて出てくる。

 曰く、殆ど目が明いてない上にふらふらと歩くので心配になるが、手を出すと危険なので何もできない。

 曰く、声をかけると「んゆぁ……」みたいな不明な言語での回答が返って来る。

 曰く、普段は隙のない先輩が唯一見せる隙であり、非常に可愛い。

 

 ……一部客観性を欠いた情報もあったけど、まぁ大体そんな感じ。

 ホシノウィルムは朝に弱く、起きるのも遅いし正気を取り戻すまでに時間がかかる、ってことだ。

 

 思えばメイクデビューで遠方のレース場に行ってホテルに泊まった時なんか、「9時までは絶対こっちの部屋に入って来ないでくださいね! いいですか、絶対ですよ! ドアを叩くのとかもアウトですから!」と……いやまぁ当時はもうちょっとそっけない態度だったけど、今のホシノウィルムの言い方で表せばそんな感じのこと言われたしね。

 実際に見たことはないけど、噂を聞いている感じ、本当に……ちょっと致命的なレベルで朝に弱いみたいだ。

 

 だからこそ、彼女が朝のミーティングに来る時間は、毎朝ギリギリになるのが常だ。

 集まる順番は、まぁ当然と言うべきか、まずはトレーナー室の鍵を開けなければいけない俺、次にサブトレーナーとして俺と情報共有する必要のある昌、少し間を空けてスマホも時計も持っていないのに時間に正確なミホノブルボン、そしてホシノウィルムの順。

 これは決して揺るがない、絶対の法則のはずだったのだ。

 

 それなのに、ホシノウィルムが昌よりも早くトレーナー室に来る……?

 バ鹿な、そんなことが起こり得るのか……?

 まさか明日は槍でも降るのか? あるいは世界の終わりか?

 

 ……いや、そうか。

 俺は一瞬、驚きのあまり、彼女が誰なのかを失念してしまっていた。

 そうだ……この子はホシノウィルム。不可能を覆す灰の龍。

 朝早くに起きてくる、という不可能すら可能にしてしまう、ということか……!

 

 その著しい成長に、俺は思わず、深く感動してしまった。

 昌もそうだし、ホシノウィルムもそうだ。

 俺がこうしてだらだらと生きている傍で、皆、どんどん成長していくんだな……。

 

 ただ、悲しいことに、今回は彼女の成長を喝采することはできない。

 何故なら、俺が「朝早く起きれて偉い!」などと言おうものなら、それはホシノウィルムが朝に弱いという弱点を知ってることを示す。

 「隠してたのになんで知ってるんですか? ストーカーとかキモッ、契約解除お願いします」なんてことにならないよう……いやまぁ今更そんなことにはならないと思うけど、万が一の最悪を考えれば、直接的に彼女を褒め称えることは避けるべきだろう。

 

 だが、担当の健闘に応えない者など、トレーナーとは呼べない。

 俺はせめて彼女が快く入室できるよう、にこやかな表情を作って朗らかに口を開く。

 

「おはようホシノウィルム、肌寒いが陽射しの気持ちの良い朝だ、な……?」

 

 ガラ、と音を立ててドアを開いた先にいたホシノウィルムを見て、俺は思わず言葉を止めてしまった。

 

 なにせ、ホシノウィルムは……。

 眉をくいっと寄せ。

 唇をきゅっと結んで。

 頬をぷくりと膨らませていたのだ。

 

 ……まずい。

 この子、ちょっとご機嫌斜めだ。

 

「あー……ホシノウィルム? もしかして、こう、何かあったか?」

「何か……?」

「な、何か嫌なこととか? 気分を害することとか? 何かあったんなら、是非俺に相談……」

「…………」

 

 ま、まずい、もっと頬が膨らんだ。

 

 俺はこれまでに踏んできた幾度もの修羅場(しかられ)を経て、ホシノウィルムの怒りの感覚を掴みつつあった。

 そんな俺の直感によると……。

 今、彼女は、そこそこ気分を害している。……少なくとも、俺に対してそう見せようとしている。

 

「トレーナー」

「は、はい」

「お伺いしたいことがあるのですが、今お時間よろしいでしょうか?」

「勿論。担当……いや、君のためならいくらでも時間を作るぞ」

 

 ……あ、若干機嫌が良くなったか。取り敢えず致命的なセリフの選び間違いはなかったらしい。

 まぁそりゃそうだよね、話がスムーズに進んで機嫌が悪くなるってことはないだろう。

 

 さて、問題は彼女が何に怒っているか、だ。

 本質が善性なホシノウィルムは、他人に八つ当たりすることはない。

 たとえ怒りを覚えていても、それを関係のない他人に直接向けることがないんだ。……いや最近は時々そういう甘え方をしてくるようにもなったけど、今回はガチっぽいのでそういうわけでもないだろうし。

 そう考えると、俺に向かってこうして怒気を向けてくる以上、俺が何かしら、彼女にしてはならないことをした可能性が高い。

 

 しかし、俺にはその心当たりがない。いやホシノウィルムに怒られる時に心当たりがある方が少ないんだけど、今回は本当に全くない。

 ……どうする、取り敢えず謝っておくか?

 

「あー、ホシノウィルム。もし何か君の気に障ったのなら……」

 

 ソファに腰かけるホシノウィルムの対面に座って、取り敢えず頭を下げようとした、んだけど……。

 

「ホシノウィルム」

 

 彼女は、自分の名を呼んだ。

 

 その言葉は、まるで霜でも張り付いているかのように冷め切っていた。

 ……しかし、それはあくまで表面上の話。

 彼女の発した言葉は、その表面を剥いで見れば……ぐつぐつに煮え滾る熱が、確かにそこにある。

 その熱は、所謂「不満」と呼ばれる感情だ。

 

「なんでホシノウィルムなんですか?」

「え、いや……すまない、君の名前の語源までは存じ上げないんだけど……」

 

 ホシノウィルムはニッコリと笑った。

 すごく、綺麗な笑顔で。

 

「トレーナー。なんで、私を、ホシノウィルムと、呼ぶんですか?」

「い、いや、君はホシノウィルムだろう? だからホシノウィルムと呼ぶんだけど……」

「へぇ……」

 

 彼女の口端が吊り上がる。

 

「マックイーン先輩のことは、『マックイーン』って呼ぶのに?」

「え?」

 

 

 

 俺は、転生者だ。

 前世の記憶を持ち、人格を引き継いでいる。

 そして、その最たる特徴として……俺は前世でやっていたアプリ、「ウマ娘 プリティーダービー」の記憶を保持している。

 なんで今更そんなことを整理するかと言うと、前世と今世の意識が、今の俺の中でも複雑に絡み合っているからだ。

 

 俺は前世で、ゲームとして「ウマ娘」を遊んでいた。

 故に、そこに登場するウマ娘を架空のキャラクターとして認識し、だからこそ気軽にあだ名で呼んでいたんだ。

 スペシャルウィークならスペ、セイウンスカイならウンスとかスカイ、そしてメジロマックイーンならマックイーンとかめじょまっきーんとか、そんな感じで。

 

 が、ウマ娘が実在し生きているこの世界で、親交もないウマ娘に対面していきなり敬称もなくあだ名で呼んだりしたら、それはもう民度の低いファンか異常者のどちらかだ。中央のトレーナーにしても、本人がいる時に親交のないウマ娘を呼ぶ場合、フルネームで呼ぶのが通例になってるし。

 問題は、俺は本人がいるいないの状況に応じて呼び名を変え、そしてそれを間違えない程に要領が良くないってことで……。

 故に俺は、ウマ娘のあだ名を口にすることを禁じている。基本的に全部フルネーム呼びだ。

 

 が、前世からの意識というのはなかなかに抜けないもので、俺は未だ脳内ではあだ名、というか略称でネームドの子たちを呼んでしまう。

 

 これがまたしっかり癖になってしまってて、直そうとしてもなかなかに直らない。

 まぁ脳内まで見られるわけでもなし、口に出しさえしなければ問題ないか、と思っていたんだが……。

 

 

 

「え、えぇと……聞き間違いじゃないか? 俺はそんな風にメジロマックイーンを呼んだことはないはずだが」

「いや、聞きましたからね。昨日の天皇賞の時、絶対呼んでました」

「あ、あー……」

 

 や、やべ、そういえば昨日はちょっとレースに集中し過ぎてた。

 昌のための資料作りとかもあってちょっと疲れてたし、どこかでぽろっと漏らしちゃった可能性はなくもない。

 というか漏らしちゃったんだろうな。やらかした。

 

 そこまでヤバい内容ではないとはいえ、下手をすれば信用に関わった問題だ。バレたのがきちんと信頼関係を築いているホシノウィルムだったのは、不幸中の幸いと取るべきかな……。

 

「……まぁ、君になら話してもいいか。頼むから他の人やウマ娘に話してくれるなよ」

「2人きりの秘密、ということですね」

「ん、まぁそうなるか」

 

 ……なんでそこでちょっと機嫌よくなるんだ?

 あ、やっぱり女の子は秘密の共有とかが好きだったりするのかな。

 

 とにかく、彼女の機嫌が良い内に、ちょっと嘘を交えてでも事情を説明しないと。

 

「俺は……まぁ、そうだな。ウマ娘って、名前が長い子も多いだろ? メジロマックイーンとかトウカイテイオーとか」

「まぁ、確かに長い……ですかね?」

「誤差レベルと思うかもしれないけど、どうしても名前を思い浮かべる時に時間がかかってしまうからな。普通に呼ぶ時はともかく、脳内で考える時は略称で呼ぶことも多いんだよ。作業の効率化のためにな。

 昨日は……俺自身は覚えてないけど、多分聞かれないだろうと思って漏らしてしまったんだろうな」

 

 うん、我ながら悪くない誤魔化し方なんじゃないだろうか。

 ちょっと無理やり感はあるとはいえ、論理的な破綻点もないし、これなら誤魔化し切れ……。

 

「嘘ですよね」

「え」

「トレーナー、嘘を吐くの下手ですから、わかりやすいですよ」

 

 ……自分の演技力のなさが恨めしい。

 しかし、これを嘘だと認めるわけにはいかないのが難しいところだ。

 

 俺は自分が転生者なのだと、誰かに言う気はない。それは余計な疑いと面倒を生むことになるからだ。

 それはホシノウィルムも例外ではなく……いいや、むしろ彼女だからこそ、明かすわけにはいかない。

 俺は彼女のトレーナーを続けたい。これはもう、今の俺の絶対的指標だ。

 そして彼女のトレーナーを続ける以上、友好的な関係の維持は何よりも優先される。

 

 申し訳ないけど……転生関係の話ばかりは、彼女に「ご褒美権」を使われようとも答えるわけにはいかない。

 俺と彼女の関係のためなんだ。許してほしい。

 

「……うーん」

 

 しかしそうなると、どう誤魔化すべきかな。

 嘘を吐けば看破される。かと言って下手な誤魔化しでは誤魔化し切れない可能性が高い。

 

 どうしたものかと、俺がまぶたを閉じて考えていると……。

 

「まぁそこはいいです」

「え、いいの?」

「内心ではウマ娘をあだ名で呼んでたってところは本当ですよね? マックイーン先輩だけ特別、というわけではなくて」

「そうだが」

「……そっか。ならいいや」

 

 彼女はどことなく安堵したように、息を吐いて俯いた。

 

 ……あぁ、なるほど、そういうことね。

 

「俺が君以上にメジロマックイーンを気にかけていると思ったのか」

「なっ、なんですか。そう思いましたけど? 何か悪いんですか?」

「いや、悪くはないが。安心しろ、今のところ、俺が君以上に惚れ込んだウマ娘はいないよ」

「そ、そですか。はい、それなら良いですケド……」

 

 彼女は視線を逸らして……少しだけ、その頬を赤くする。

 それを見て俺は、少しだけ目を細めた。

 

 まったく、この子を見てると、なんというか……不思議な感覚になるね。

 いつも無表情で、時々不器用な笑顔を浮かべて、それで……。

 

 …………?

 

 なんで俺、今、そんな彼女を懐かしいって思ったんだろう?

 何これデジャヴ? いや俺前世の記憶も割とハッキリ覚えてるけど、ホシノウィルムに遭遇したことなんてないぞ。こんなキャラの濃い子に会ったらまず忘れないと思うんだけど。

 

 ……まぁ、こういう錯覚はままあることだ。

 もしかしたら覚えてないだけで、昨日か一昨日あたりの夢に、彼女が出てきたのかもしれない。

 

 なんて、取り敢えずホシノウィルムの怒り……というか、こっちを問い詰めるための怒った演技が終わったことに安堵して、そんなことをぼんやり考えてた時。

 

「ところで、私は脳内ではなんて呼ばれてるんですか? ウィルムですか? それとも……」

「いや、ホシノウィルムはホシノウィルムだな」

「は?」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……で、あの後、冗談とかじゃなく本気で拗ねたホシノウィルムに、俺はあだ名を付けることを命じられたのだった。

 期限は次の日……つまり今日の夕方、トレーニング後のミーティングの時間まで。

 

「あだ名、か……」

 

 改めて、あだ名を付けろ、と言われると難しいものがあるなぁ。

 土台あだ名というのは、その場のノリで呼び始めて定着していくものだ。ノリも何もなく考えるのはなかなかに難しい。

 その上、事は俺の担当の呼び名である。たとえ脳内だけのものだとしても、てきとうな名前は付けられない。

 

 この難しさは、言うなれば子供の名付けに近い。

 ホシノウィルムの名にちなんだもので、なおかつ彼女が納得のいく、そして独自性のあるもの。

 ……これらの条件を同時に満たす名前となると、その解答の難易度は、もはやウマ娘の新たな育成論を立ち上げるに等しいレベルだ。

 

「……ふむ」

 

 実は既に2通りのあだ名を思いついてはいるんだけど、それでホシノウィルムが納得するかはわからない。念には念を入れて、あと2通りくらいは考えておきたいが……。

 

 

 

 そうして考えている内に、すぐさま時間は過ぎていき。

 合同トレーニング終了の時間になって、ネイチャやライスは同期のトレーナーに引き取られて行き、ホシノウィルムやブルボンに明日以降の予定を伝えたり、昌に昨日の夜作った資料を渡して何故か絶句されたりして……。

 ホシノウィルムには少し話があるということで残して、トレーナー室に2人きりになった。

 

「さて、それじゃあ聞かせてもらいましょうか。トレーナーの考えた私のあだ名を」

 

 彼女はソファに座らせ、俺はホワイトボードの前に立つ。気分はプレゼンテーションだ。

 ……しかし、緊張感は前回のトレーナー中間発表会の時の比ではない。

 なにせ俺のトレーナーとしての信頼と威信をかけた発表なんだ、決して失敗は許されない。

 

 俺は咳払い1つ、話し始めた。

 

「それでは、ホシノウィルムの略称の発表を始めさせていただきます。

 今回の略称はメインターゲット層をホシノウィルム一個人に置き、よし親しみやすさを感じさせると同時に、ホシノウィルムというウマ娘の個性を損なうことなく……」

「そういうのはいいんで、早く発表お願いします」

「あっはい」

 

 導入を全否定されたので、さっさと発表に移る。

 

「俺が考えてきた君のあだ名候補は4つ。この中から君が気に入ったものを残してほしい」

「4つ……」

「うむ。ハッキリ言って、俺はネーミングセンスがない。納得してもらえるかはわからないが……まず1つ目は、これだ」

 

 ホワイトボードにマーカーを走らせ、1つ目の候補を書き込む。

 

「『ホシノ』……ですか」

「うむ。いわゆる冠名にあたると思われる部分だな。『ホシノ』という冠名はあまり見ないし、呼び分けもできるだろう」

 

 冠名とは、例えば『メジロ』とか『シンボリ』みたいな、何かしらの縁があるウマ娘たちが共有する苗字みたいなものだ。

 前世においては……確か同じ馬主が競走馬に付ける特定のワード、みたいな感じだったかな。

 俺は前世の競馬について詳しくないからシステム的な理解が浅いけど、つまりはこの世界で同じ冠名が付いている子は、前世では同じ馬主の元にいた、ってことかな。

 

 しかしそうなると困るのは、「メジロ」とか「シンボリ」と名の付いたウマ娘は大量にいるってことだ。

 例えば、メジロ家で「メジロさん」などと呼ぼうものなら、メジロマックイーンもメジロライアンもメジロアルダンもメジロパーマーもメジロドーベルもメジロラモーヌも振り向いてしまうわけだ。

 ……いや、改めて考えるとネームド多すぎだろメジロ。前世世界の馬主すごいな。

 

 だがその点、「ホシノ」は非常に珍しい冠名だ。探せば他にもいるのかもしれないが、少なくとも俺は見たことがない。

 だから呼び名としてはそこまで不適切でもないかな、と思ったのだが……。

 

「うーん……ちょっとボツです」

「え、何故」

「いや……私はやったことないんですけど、この体型でカタカナ表記のその名前は、もう枠が埋まってるというか……動いてないのに暑いというか……」

 

 よくわからないが、とにかくアウトらしい。ぶっちゃけ最有力候補だったが故に残念だ。

 仕方ないのでマーカーの裏でさっさと消し、次の候補を書き込む。

 

「次はこれだ」

「『シノルム』……なんですかこれ、新種のポケモン?」

「ホ『シノ』ウィ『ルム』。多分独創性はこれが最高だと思う」

「トレーナー、ハイドロポンプをドロンプって略すタイプですか。却下です」

「むぅ、シノルム、可愛いと思うんだがな……」

「かわ……悪くはないような気もしてきましたけど、私も一応女の子なので、そんなはがね・フェアリータイプのポケモンみたいな名前はちょっと……」

 

 これもボツか……。シノルム、良いと思うんだけどな。三段進化の中間か幻のポケモンっぽくて。

 

「それでは3つ目」

「『龍ちゃん』……やけくそになってませんか?」

「徹夜中の頭だとこれが限界だった」

「は? 徹夜? トレーナー、また無理してるんですか?」

「いやごめん嘘、徹夜はしてない」

 

 多分、30分は寝てたと思う。時間感覚が狂ってた上に仕事中に気付いたら寝てただけだから、ハッキリとはわかんないけど。

 

「……む、嘘は吐いてないですね。本当のことも言ってない感じですが……。

 まぁそれは後で追及するとして、次どうぞ」

 

 すっぱすっぱと切って捨てられるので正直心が折れそう。これでも昨日怒られてから35時間くらい考えて捻り出したんだけどな。

 ……35時間かかって4つだけしか思いつかない俺のネーミングセンスのなさが悪いんですけどね。はは。

 

 しかし、最後の1つかぁ……。これも絶対ボツになるんだよね、この流れだと。

 この名前を彼女が気に入らない、ということはあり得ないだろう。

 だが同時、これは少しばかり特別なものだし、何よりも独創性が死んでる。なんなら彼女に怒られる可能性まであるものだ。

 だからこそ、初手の「ホシノ」で仕留めてしまいたかったわけだが……。

 

 ここまで来たらだんまりというわけにもいかない。

 ええい、ままよ!

 

「最後は……『ウィル』?」

 

 そう。

 それが、最後のあだ名候補だった。

 

 

 「ウィル」。

 ホシノウィルムがただ1人、一目で気に入って以来付き纏……もといコミュニケーションを図って来て、今や彼女の親友となったナイスネイチャにのみ許している呼び方だ。

 「蛇」や「灰色の龍」といった二つ名ではない、彼女の唯一無二のニックネーム。競走ウマ娘ホシノウィルムではなく、ウマ娘ホシノウィルムを指す記号の1つ。

 

 ……いや、やっぱりちょっとナンセンスだったな。

 どうしても思いつかなかったために、言っちゃ悪いが枠埋め的に持ち出したけど、きっとこの呼称は彼女にとって特に親しい者にのみ許すもの。

 俺と彼女は、トレーナーと競走ウマ娘だ。その一線を越えるべきではない。

 

「すまない、やはり……」

「呼びたいんですか?」

 

 俺の言葉に被せるように、ホシノウィルムが言ってくる。

 見れば、彼女はどこか掴みどころのない視線を俺に向けて来ていた。

 薄っすらと伺える感情は……期待と緊張、不安といったところだろうか。

 

「私のこと、ウィルって呼びたいの?」

 

 なんだ? 俺は何を期待されてるんだ?

 しかし、どんな答えを期待されているとしても、間違えてはいけない。俺はあくまでトレーナーで、彼女と一線を引くべきで……。

 

 

 

 ……いや。

 違う。

 

 俺はそれで間違えたんじゃないか。

 

 彼女の蒼白の表情を思い出す。

 堀野のトレーナーとしての観点で間違えないように選んだ選択こそが、彼女にとっては間違いだった。

 ウマ娘とトレーナーの在り方は十人十色、それぞれが唯一無二で、他に同じものなど1つもない。

 過去のあらゆる凡例で正しかった答えが、ただ1人のウマ娘においては致命的な間違いになり得る。

 それがトレーナーとウマ娘という関係性なんだ。

 

 だから、言われたんだ。

 俺は俺の正解を探せ、と。

 

 では、俺は。

 俺とホシノウィルムは、一体どういう関係性で、今何と答えるのが正解なのか。

 

 ……わからない。

 今の俺に、今ここに生きている俺に、正しい答えなんてものがわかるはずがない。

 

 けれど……でも、そもそも。

 俺は、何と訊かれたんだったか。

 

『私のこと、ウィルって呼びたいの?』

 

 ……そうだ。

 最初から、「どうすべきか」なんて聞かれてない。

 

 

 

「呼びたいよ」

「え」

「俺は呼びたい。それが君と最も近しい者の呼び方なら、俺は君をそう呼びたい」

 

 ……まったく、俺らしくもない。

 いつの間に、こんなに欲張りになってしまったんだろうな。

 

 たとえ俺では釣り合わないとしても、彼女を担当すること。

 それだけでなく……あろうことか、彼女と親しくしたい、なんて望みを持つとは。

 

 それは、あるいは失望すら招きかねない怠惰だっただろう。

 

 けれど……。

 ホシノウィルムにとっても間違いとは、限らないらしい。

 

「……ふへ。そうですか、そうですか。

 なら仕方ないですね。私とトレーナーの仲です。そう呼んでいただいて構いません。

 いえ、むしろ呼んでください。というか2人きりの時はウィルって呼んで。それ以外認めないから」

 

 にへにへとだらしない笑顔を浮かべるホシノウィルムに釣られたか、俺も口角が上がる。

 

 ……どう見たって不細工な笑顔を見て、綺麗な笑顔よりも「可愛い」と思うなんて。

 俺もだいぶ、彼女の価値観に染められてしまったのかもしれないな。

 

 

 







 変わっていってるのはホシノウィルムだけじゃない、ってお話。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、妹さんを知ろうの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。
 本作では特有の言い回しの中に含まれるものや極端に読みにくくなる場合を除き、数字の表記は全角アラビア数字(1、2、3……)を使わせていただいています。漢数字ではないのは基本的に誤字ではないです。
 でも普通にいっぱい誤字してたので、訂正本当にありがとうございました!


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白と闇が両方備わり最強に見える。

 美味しさばつ牛ン





 

 

 

 色々あって、私はトレーナーからのあだ名呼びという特権を手に入れた。

 ……いや、相変わらずトレーナーは脳内では他のウマ娘もあだ名呼びしてるわけで、これだけだと特権ってほどではないかな?

 でも、どさくさ紛れに取り付けた「2人きりの時はあだ名で呼ぶ」って約束も加味すれば、これは莫大なアドバンテージだ。もはやセーフティリードと呼んでいいのではないだろうか。

 

 トレーナーに恋愛感情があるかはともかく、恋のダービー堀野歩ステークスの1番人気の座は死守できたと思う。

 勿論、人気がそのまま結果に現れるわけではないのはレースも恋愛も変わらない。油断は大敵、常に余裕を持って何とやらだけど、それはともかく。

 

 トレーナーマックイーン先輩問題が解決したとなると、私には次に取りかかるべき問題があった。

 え? 私ライスちゃん問題? いやそれはちょっと打つ手なしなので棚上げするとして。

 ジャパンカップ対策? それはもう、しっかりと走りまくってるからいいとして。

 

 いや、そういう即物的なモノじゃなくてさ。

 ホシノウィルムにはもう1つ、大きな大きな課題があるのをお忘れではないだろうか。

 

「ホシノウィルムさん、兄から連絡です。『今日はURA企画制作部に呼ばれているため、トレーニング終わりのミーティングはなしとする。ミホノブルボンと共に適切なストレッチをした後帰っていい』とのことです。

 今日もお疲れさまでした。タオルと水、それから塩飴です。機材の不備に関してはこちらで兄に伝えておくので心配しなくて大丈夫ですよ」

 

 そう言って、昌さんは綺麗な笑顔を浮かべた。

 

 ……そう。

 ホシノウィルムは彼女と……堀野昌さんと、仲を深めなければならないんだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 堀野昌さん。

 

 私のトレーナーである、堀野歩さんの妹。

 入院していた時に聞いた話によると、堀野家の長女であり兄妹の一番下らしい。

 幼い頃は可愛く、そして成長していくたびに強く賢くなっていった自慢の妹。多少擦れてしまっている部分はあるけれど、その根底は真面目で優しい女性である……とのことだった。

 

 正直、トレーナーの評価ってちょっとアテにならない。この人ほど人を見る目がない人間もそうはいないからね。

 だからこの評価に関しても、私は半信半疑だったんだけど……。

 

 実際に観察すると、確かに昌さんは「強く賢い、そして真面目で優しい女性」だと思う。

 ……より正確には、少なくともそういう仮面を被ってる、って言うべきかな。

 

「兄さん、スポーツドリンクの代金を経費で落とす場合、科目は何? 消耗品費? ……他のと纏めて消耗品費ね、了解」

「ここ、入力間違ってると思うけど。スピード6057って書いてるけど、これでいいの?」

「……ふぅ、書類整理終わり。やっと休……は? 追加? あと1時間で? ……はぁぁ」

「これ、兄さんのメモから書類に起こして、それをまたデジタルに落としてるの? 二度手間でしょ、バ鹿らしい。管理にさえ気を付ければ手間も省けるんじゃないの」

 

 確かにちょっと、いやそこそこ、あるいは結構口は悪いけど……。

 トレーナーに課せられた尋常ではない量の仕事という拷問……もといしごきを受けてもなお、腐らずコツコツと仕事を片付けていく精神性。

 自分が感じた改良点を隠さず口に出して、業務の効率化を図ろうとする前向きな姿勢。

 

 そしてそれだけではなく、私たち担当ウマ娘へのコミュニケーションも……。

 

「ホシノウィルムさん、こちら今度新しく作られるあなたのアクリルキーホルダーです。デザインや触り心地に不満がないか確認をお願いします。何かあればお気軽にどうぞ。……確かに、光の加減か、耳飾りの周辺の色味が違いますね。大丈夫ですよ、この程度なら編集で修正できるはずです」

「ミホノブルボンさん、プールの循環浄化装置が故障したとのことで、本日13時から15時のスイミングの予定を変更し、ホシノウィルムさんに併せてジムでのスクワットとランニングマシーンを使ったトレーニングをするとのことです。こちらタオルです、使ってください」

「お2人とも、トレーニングお疲れ様です。駅裏の美味しいお店のプリンを買ってあります。トレーナー室の冷蔵庫の中にあるので、それぞれ名前が書いてある方を食べてください。食べ終わったら容器はそのまま、冷蔵庫の中に入れておいてください」

 

 こんな感じで、一見そっけないように見えるけど、とても気遣ってくれてる。

 特に、トレーニング後に差し入れてくれるお菓子なんかはありがたいね。毎回ブルボンちゃんと一緒に美味しくいただいてるけど、いつもの日常に彩りを加えてくれてる。

 こういう美味しいヤツ、ちょっと高くて自分では買えないし、地味だけどかなり嬉しい。

 この辺は、人の情緒ってものに疎いトレーナーにはない強みだね。まぁトレーナーはそういう鈍いところがギャップになってて良いんだけどさ。

 ……そういえばこの2人、兄妹なのに性格全然似てないね。私は前世でも今世でも一人っ子だからよくわかんないけど、そんなもんなのかな。

 

 で、話を戻して。

 そんな風に、美人な上に心までイケメンという完全超人みたいな昌さん。

 ……とはいえ、勿論、この世界に完璧な人間なんて存在するはずがない。

 あくまで彼女のそれは仮面であって、本心であるかは不透明なわけだけど、それはともかくとして。

 

 私はこの人と、できるだけ仲良くならないといけない。

 

 何せこの昌さん、私が恋するトレーナー、堀野歩さんの実妹だ。

 私が目指す最終地点から考えて、そこに至るまでの道のりの短縮のためにも、そしてそこに着いた後の円滑で楽しい新生活のためにも、昌さんとの交友を深めておくのは必須事項なんだ。

 いわゆる将を射んとする者はまず馬を射よ……って言葉は、ウマ娘が騎馬に使われないこの世界にはないみたいだけども。

 とにかく、少なくとも悪くない関係を築く、そしてできれば友達と呼べるところまで関係を深めておきたいわけだ。

 

 が。そこには1つ、非常に切迫した問題がある。

 それは……。

 

「…………」

「あの、なんでしょう、ホシノウィルムさん。そんなに見つめられると、気になってしまうんですが」

「いえ、お気になさらず」

「お気になさらずというか……」

 

 私は、友達を作るという行為が得意ではないのである。

 

 

 

 ホシノウィルムの話をしよう。

 

 私は、前世の記憶を持った転生ウマ娘だ。

 この世界に生きる普通のウマ娘たちの何倍もの人生経験を持っている、特異でチートな存在である。

 だが、そんな私もまた、この世界に生きる不完全な命の1つ。不足したものや不得意な領分も、確かに存在する。

 

 で、その最たるものが、コミュニケーションの経験と実力なんだ。

 私は友達が少ない。……なんか一昔前のラノベのタイトルみたいになっちゃったけど、これは否定しようもない残酷な事実である。

 

 前世では、ホントに文字通り絶無だった。

 あの頃の私は、家庭環境が微妙だったからか、人と一緒にいること、人とコミュニケーションを取ることが好きじゃなかった。

 更にはそれらが好きでもないくせに友達というものに一丁前に憧れ、そのくせ変に思考が凝り固まって自分からは友達を作ろうとしないしイベント事にも参加しないという……うん、ちょっと今思い出すと頭が痛くなるくらいにドの付く陰なキャラだったのだ。

 当然のことながら、そんな私に友達なんてできるわけもなく、私の人生は孤独なままに終わった。

 私はこの経験から、欲しいものがあるなら自分から努力しないといけないことを学んだ。友達も戦果も、そして恋も。積極性こそが一番大事なんだ。まさしくソースは私。

 

 で、今世では……ネイチャとテイオーという、2人の大事な友達に恵まれている。

 そう、私はついに、友達を作ることに成功したのである。

 

 ……が。

 これが自分の戦果と言えるかは、正直ちょっと微妙なところだ。

 ネイチャの方は、まぁ自分から頑張ったし、ちょっとは認めてあげてもいいと思う。ただ、若干引かれ気味だったし、上手い手法ではなかったんだと思うけど。

 でもテイオーの方は、完全に流れだ。クラシックレースを競ったライバルという背景、一緒の病院に入院していて、暇だから話すようになったという成り行き。その2つが合わさり、偶然仲良くなっただけだ。

 

 だから私には、友達を作るという行為の経験値が足りていない。

 その上、ネイチャの時の反応を見るに、恐らくここに関して私は要領が良くないっぽい。

 そもそも友達ってどんなものかもそこまで実感がないし、どうすれば友達になってくれるかのゴールが判然としない。

 私にとってこれは、言わば証明問題なのに何を証明すればいいか明かされていないようなものだ。そりゃちょっとどうしようもないよ。

 

 こんな状態のままじゃ、下手を打てばあの時のネイチャみたいに、昌さんにも引かれてしまう可能性を秘めている。

 これは危険だ。非常に危険。あっちのトレーナーさんが私を気に入ってたネイチャと違って、昌さんは立場上、一歩引くってことができるわけで。

 そうなってしまうと、それ以上の関係性の向上は難しいだろう。不可逆なゲームオーバーだ。

 

 つまるところ「昌さんと仲良くなる」というのは、経験もなければ才能もないのに、絶対に失敗できない重要ミッションってわけだ。

 

 ……とはいえ、この程度で躓いていては、転生チートウマ娘として失格だろう。

 私は何でもできる……とはとても言えないけど、取り敢えずある程度のことはできる転生者。

 ここはしっかり昌さんと友達になり、明るい未来にレッツゴーしなければ!

 

 そして、そのためには、まず……。

 

 

 

「…………」

「ホシノウィルムさん?」

「なんでしょう」

「いや、『なんでしょう』はこちらのセリフというか……」

 

 そう、そのためにはまず、観察あるのみであった。

 

 私の愛読書である『バ鹿でもわかる友達の作り方』によると、友達を作る一番のコツは、相手に興味を持ち、相手のことを知ることらしい。

 

『相手に興味を持てば、当然相手について知りたくなる。そして知りたくなれば、自然と相手に色んな質問をするようになるよね。わかる?

 人は大抵の場合、自分語りしてると気持ち良くなるものだよ。だから相手に質問をしていい感じに情報開示してもらえば、相手のことを知れると同時、気持ち良くもなってもらえるんだ。まるでキャバクラみたいだね!

 後は状況に合わせて高度な柔軟性を維持しつつ臨機応変に対応すれば、友達なんて簡単に作れてしまうよ! 君もこんな本を読んで油を売っていないで、まずは人に話しかけるところから始めてみよう!』

 

 こっちのことをバ鹿と舐め腐っている、というかなんかもう社会全体を舐め腐ってそうな語り口調だけど、書いてる内容自体は確かにと頷けるものばかりだ。

 

 極論になるけど、コミュニケーションの最終目標は相互理解だ。しっかりとそこを見据えて進まなければ、いざ友達関係まで進展しても、その維持に失敗したりするかもしれない。

 そして、相手がウマ娘であれば領域を削り合ったり重ねたりすることで相互理解を図ることもできるけど、相手が普通の人間である以上それは望めない。

 観察と会話、それに様々な体験を共にすることでしか、お互いを理解し合えない。改めて考えるとコミュニケーションって不便なものだよね。

 

 ただ、ここで難しいのが……今の私が昌さんとお話ししても、スムーズに仲良くなれるかはわからないってこと。

 

 大体の場合、初めて物事に取りかかる時「わかんないことがあったら聞いてね」なんて言われても、自分が何をわかんないかがわかんないのだ。

 今の私はまさしくそれで、そもそも昌さんに何を質問すればいいのかがわからないのだ。

 好きな色? 好きな季節? 犬と猫どっちが好き? 北海道と沖縄行くならどっち?

 どこからどう聞けばいいんだ。どう話を続ければいいんだ。なんもわからん。

 

 そんなわけで、取り敢えずそのとっかかりを得るために昌さんを観察していたわけだけど……。

 

 その時、急に昌さんが立ち上がった。

 そして、お仕事疲れたのかな、とか思って首を傾げている私を前に、彼女の口からは想像だにしないことが飛び出してきたのだった。

 

「……ふぅ、わかりました。ホシノウィルムさん、少しお話しましょうか。

 兄さん、しばらく外す。担当の子、借りるから」

「え? あ、うん。ホシノウィルム、今日はお休みの予定だから、彼女がいいなら構わないけど」

「お話、ですか? あ……はい、行きます」

 

 そんなわけで、急遽として対話の機会が設けられたのだった。

 マズい、まだ準備不足だ。これといった話題思い付かないぞ。

 

 ……いや、せっかくの棚ぼたチャンス、活かさない手はない。

 なんとしてもここで、昌さんの心を射止める……って言うとなんかちょっと違うけど、友達になるきっかけくらいは掴んでみせる……!

 

 

 

 * * *

 

 

 

 私は昌さんに言われて、一度寮の部屋に戻り、変装用のコーデに袖を通した。

 わざわざ制服から着替えてどこに行かせるつもりなんだろうと首を捻っていると、昌さんはあれよあれよと言う間にトレセンの敷地を抜け出して市街地の方へと向かっていく。

 

「あ、あの、大丈夫なんでしょうか。お昼からこんな……」

「トレセン学園の生徒は、原則として昼以降の自由行動が認められています。実のところトレーニングやミーティングも、公的には皆さんが自由時間を使ってやっていることになっているんですよ」

「そっちじゃなくて、その、お仕事あるのに抜け出してきちゃってるんですよね?」

「……なるほど、私の心配でしたか。ご心配なく、トレーナーやサブトレーナーは、ウマ娘に寄り添うためにある程度の自由行動を認められています。兄さんだって平日から学園を空けたりすることも珍しくないでしょう?」

「そういえば……確かに」

 

 トレーナーは、ランニングする私に付き添って外に出てくれたり、URAに話を付けに行ったりと、割と頻繁に学園から出かける。

 そりゃ業務的に認められてないと、そこら辺の融通も利かないか。

 

「私も、今はインターンとはいえ、扱いはサブトレーナーです。この程度の自由は許されます。

 ……というか、お金が発生しない以上私は労働者としてカウントされませんし、正確には『働け』と命令されることすらないんですけどね」

 

 少しおどけたように肩をすくめる昌さんに……私はようやく1つ、優先的に聞きたいことを見つけた。

 

「あの、なんで……なんというか、トレーナーの前ではつんけんしてるんですか……?」

 

 なんとも尋ねにくいなと思いながらそう聞くと……昌さんの背中が、ピクリと震えた気がした。

 

「それは……」

 

 しかし、その先の言葉が形になるよりも先に、彼女は足を止めてしまう。

 

「……着きました。続きのお話は、中でしましょうか」

 

 その言葉と共に私が招かれたのは……とても有名な、オシャレなカフェだった。

 

 

 

 少し暗めのムーディな雰囲気。

 基本的なカラーは黒に纏められ、しかし全体的に暗くなりすぎないよう白色が挟まれ、電球色の光が全体的な雰囲気を整えている。

 私の語彙力だと、このオシャレ空間を言い表すのはこの辺が限界だけど……とにかく、ここは……!

 

「スターでバックスなヤツだ……!」

「ホシノウィルムさん?」

 

 思わずちょっと身を引いて、昌さんには怪訝そうに首を傾げられるけど、きっと同じ陰キャなら、この気持ちを共有できるはずだ。

 陰キャは基本的に、その場の雰囲気に併せて生きるのが下手だ。というか併せて生きるのが下手だから陰キャになったと言うべきだろうか?

 まぁその辺は個性だし、何も他人に併せて生きることが絶対正義というわけでもなし、陰キャは陰キャなりに好き勝手生きればいいと思うわけだけど……。

 とにかく、陰キャは場の雰囲気ってモノに弱い。だからこそ、こういう「雰囲気に乗って楽しむ」みたいなスペースに対して、本能的な恐怖と拒絶の感情があるのだ。

 

 かくいう私も、前世ではこういう類の場所には全く縁がなかった。というか自室の外には縁がなかったと言うべきか。

 ホシノウィルムになってからも、せいぜいがトレーナーに奢るためにちょっと高いお食事処に行ったくらいで、それにしてもどっちかって言うとロマンチックな方向で、こんなオシャレ全振りみたいなところじゃなかった。

 故にここは、未知の領域。私にとっては未開の世界と言っても差し支えないんだ。

 

「あ、あれですよね、呪文を唱えないといけないっていう」

「呪文?」

「ふ、フラダンス? ショット? パピプペポ? みたいな」

「……ぷっ」

「あっ、ちょっと、今笑いましたね!? しっ初心者だからってバ鹿にしてます!?」

「いえ……すみません、少し誤解していました。ホシノウィルムさん、案外可愛らしい方だったんですね」

「か、かわ……やっぱりバ鹿にしてますよね!」

 

 

 

 結局、私は昌さんのオススメの品を頼んだ。

 ……いや、マジで呪文みたいだね。なんだダークモカチップクリームフラペチーノアーモンドミルク変更チョコソースとホワイトモカシロップ追加のトールって。

 

 ダーク、これはわかる。闇だ。オタクには色んな意味でなじみ深い単語である。

 モカチップ。これはまぁ、詳細にはわからなくともイメージは湧く。なんか甘そうだ。

 クリーム。わかりやすい。ケーキとかに載ってるヤツだよね。

 フラペチーノ。何これ。聞いたことはあるし、ニュアンス的に何らかの飲料であることはわかるけど、そのほかは全くわかんない。トムヤムクンの方がまだ想像しやすいぞ。

 アーモンドミルク。聞いたことはあるけど飲んだことはないね。まぁでも甘くて美味しそうってことはわかる。

 チョコソース。ここに来て一気にわかりやすい単語が出てきて安心する。実家のような安心感だ。これで私の想像するチョコソースじゃなかったらどうしよう。日本カレーかと思ったらインドカレーだった、みたいなこと起こらないよね?

 で、ホワイトモカシロップ。安心感は数秒足らずで死に絶えた。なんとなくわかりそうでわからない、絶妙な単語だ。というか冒頭にダークがあるのに何故ここでホワイトが出てくる。あのポケモンさんだってブラックとホワイトで分けたというのに何という欲張りだよ。

 そして極めつけに、トール。なんだお前。なんで急に神様が出てくる。聞いてる感じ、中くらいのサイズってことを意味するっぽいけど、トールが中くらいなら上は何だ。オーディン? それともノルンとかディース? 誰が上で誰が下か決める、神話の大戦が始まろうとしている。

 

 ……うん、やっぱり慣れないというか、わけわかんない。なんなんだこの単語軍は。やっぱり呪文じゃないか。

 

「ホシノウィルムさん、今までに来たことはなかったんですか?」

「誘われることはあったんですけど、忌避感が勝ってしまって……」

「そうですか。それでは、もう来れそうですか?」

「いえ、むしろ来たくはなくなってしまいましたね……」

「それは残念。……それじゃ、どうぞ、飲んでみてください」

「いただきます。…………んっ、前言撤回します。今度は友達と一緒に来ます」

「それは良かった」

 

 昌さんは少しだけ口端を緩めて私を見ていた。

 若干大人の余裕感があって癪に障る……ようなこともなく、今の私は未知の甘味に夢中であった。

 

 いやこれ、めちゃくちゃ高いけどかなり美味しいな。

 こんなの一杯で600円とか700円するの気が狂ってるなぁって思ってたけど、確かにこれなら、週1のお楽しみくらいには良いかもしれない。

 ちょっと贅沢すぎるような気もしなくもないけど……へ、へへ、いいよねこれくらい。私これでも結構稼いでるし。

 

「……やはり、そうですね。警戒のしすぎでした」

「?」

 

 ストローを咥えたまま、私は昌さんの方に視線を向ける。

 昌さんは自分のカップに視線を落としたまま、呟くように言った。

 

「見ていればわかります。そしてあなたもわかったと思います。……あなたも私も、表情を繕うのが上手いこと」

「……あ、えぇと、それ、言っちゃうんですね」

 

 確かに、私は昌さんのことを「私と同じく、上手く仮面を被れるタイプ」だって思ってた。

 そして実際、こう言われるってことは同類だったんだろう。

 

 細かい言動とか動作のタイミング、癖とか微かな不自然さ。私たちは上手く仮面を被るためにもそういったものに敏感で、だからこそ他人の繕った表情……仮面に気付きやすい。

 昌さんと知り合って1週間弱、互いに確信を持つには十分すぎる時間だったね。

 

 ……とはいえ、そういうのをはっきり口に出すってのは、なんかこう、アレだ。

 もし違った時に気まずいし、なんか訊きづらいところもあると思うんだけど……。

 

「バレてしまっている以上、隠すことはできませんからね。何より私たちは、本質的には敵ではなく味方。変に警戒し続けるよりは、腹を割って話してしまって、相互理解を図った方がいいでしょう?」

「確かに、それはそうですね。

 ……あれ、でも「警戒しすぎてた」ということは、私のことを……」

「いや、それは……ここ数日、ずっとあなたの視線を感じていましたから。どうやら警戒されているらしいとなれば、当然警戒し返すでしょう?」

「え?」

 

 警戒? いや警戒とかしたつもりは……。

 ……いや、視線。視線か。

 向けてたわ。めちゃくちゃ向けてたわ私。

 

「す、すみません、警戒させるつもりは……。ただ、昌さんと、その……仲良くなるきっかけがほしいと思って、観察してたというか……」

「……なるほど、そういうことですか」

 

 昌さんは小さく……けど綺麗ではない、自然な表情で笑った。

 多分そこには、少なからず本音が入っていた……と、思いたい。

 

「安心しました。天下の無敗三冠ウマ娘さんに嫌われたらどうしようかと」

「そんなわけないです! 昌さんはいつも気を遣ってくれますし」

「そのくらい当然のこと……あぁいえ、そうか、基準が兄さんなんですね。本当、あの男は……」

 

 昌さんは片手で軽く頭を抱えた。

 いや、トレーナーも気を遣ってくれないってわけじゃないよ? ただちょっと、他人の感覚に無頓着というか、問題を起こすことが多いだけで……。

 確かに気遣いには欠けてると思うけど、私もブルボンちゃんも走ること第一だからそんなに気にならないし、トレーナーとしての技量自体はズバ抜けてるから、うん……。

 

 あ、そうだ、トレーナーと言えば、聞きたいことがあったんだった。

 

「そういえばさっきの質問なんですけど、なんでトレーナーにはつんけんした態度を取るんですか?」

 

 ……それを聞いた瞬間。

 昌さんの雰囲気が、変わった。

 

 客観的に見た変化は、目が少しだけ伏せられ、上がっていた口角が落ちただけ。

 それだけで、今までの一見冷たいようでどこか温かかった雰囲気は消え去り、どこか冷淡で触れ難い空気が彼女を覆った。

 

「複雑な理由はありませんよ。簡単なことです」

 

 彼女は、カップを握っていた手に、少しだけ力を入れて、まぶたを閉じる。

 

 

 

「……ただ、私はあの兄が、大嫌いなんです。

 嫌いな人に冷たい態度を取るなんて、珍しいことではないでしょう?」

 

 

 







 兄が嫌われてるのは火を見るより確定的に明らか。



 次回は3、4日後。おまけの別視点で、挑戦者のこれまでとこれからの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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おまけ 隙あらば昔語り

 隙を見せた方が悪い

 別視点回です。
 今回、視点の子に関する捏造があります。
 どうしてこんな考え方をするのかとか史実とかを鑑みた結果こうなりました。苦手な人はごめんね。今更か。





 

 

 

 「食事を取る」という行為は、ウマ娘にとって、非常に重要なものであると言えるでしょう。

 私たちは生きるため、そして走るために、必ず食事を取る必要があります。完全に結びついているわけでこそありませんが、食事を取り、エネルギーを補給する程に活動しやすくなると言えるでしょう。

 そして「美味しい」と感じるということは即ち、それだけ私の味覚が、体に有用なものであると感じている証拠。

 つまり、ウマ娘が美味しいものをたくさん食べることに、何ら不自然はないのです。

 

「だから、その、トレーナーさん? 私が多少体型を崩してしまったとしても、許してくださいますわよね……?」

「外周1000周」

「殺す気ですの!?」

「冗談だよ、半分は」

「お許しくださいまし! お許しくださいまし!」

 

 深まっていく冬空の下、私とトレーナさんの鬼気迫る……けれどどこかふざけたような、穏やかな声が響きました。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 メジロマックイーン。

 私はその名に、誇りを持っています。

 

 メジロ、という冠名には特別な意味がある。

 私たちメジロ家は長く、そして多く伝わっている、由緒正しき一家。華麗に、優雅に、完璧に勝利することを義務付けられる、栄誉ある一団なのです。

 

 そんな誇りあるメジロ家の一員にして、今や「最優のステイヤー」などと呼ばれている私ですが……。

 しかし何も、昔からそのように過大な評価をいただいていたわけではありません。

 

 幼少の折、私はメジロの広大なお屋敷を冒険に繰り出し、道に迷ってじいやに迎えに来てもらうような、ただのやんちゃな子供でしかありませんでした。

 勉強もトレーニングも中途半端。メジロに相応しいものとはとても呼べないものであったでしょう。

 

 そしてそうなると、あるいは当然と言うべきか。

 私と同世代にメジロのウマ娘は複数人おり、私はその中でも……とても本命とは言えない、期待度で言えばライアンに次いで3番目にあたるような子供だったのです。

 

 では、そんな私が、今の「私」になったのは、いつだったのか。

 幼く、何も知らず、責務などというものとは縁遠い心をしていた私が、メジロとしての誇りを抱くようになったのはいつだったのか。

 

 それは、恐らくあの時。

 私たちの世代の中で、最も期待されていたメジロのウマ娘が、故障してしまった時でしょう。

 

 彼女は将来を期待される、非常に整った体をしたウマ娘でした。

 けれど……その未来は来なかった。

 彼女はトレセンに入る以前に腰を痛めてしまい、思うままに走れなくなってしまったのです。

 

 悲劇と言う他ありません。

 将来を期待された、最高の素質を持つ子が、不運な事故で走れなくなってしまった。

 振るうべき力を持てず、得るべき栄誉を掴めなくなってしまったのです。

 

 まだ幼かった私にとって、それは途轍もない衝撃でした。

 いつも凛として美しかった彼女の走りを、私たちは、この世界は二度と見ることができない。

 それは大いなる損失であり、決して他には替えようもない、無二の出来事であると感じたものです。

 

 ……しかし。

 それは、間違いだった。

 

 メジロのおばあ様やじいやたちもまた、彼女の故障について酷く悲しんでいました。

 けれど、それだけ。

 ただ悲しむだけで……私程に驚いている方はいらっしゃいませんでした。

 

 それを見て、私はようやく理解いたしました。

 これは、この残酷な世界で、ありふれたことなのだと。

 

 ウマ娘が故障して走れなくなることなど、珍しくはないのです。

 私たちが毎日走ったり食べてたりしてる間に、この世界のどこかではウマ娘が故障し、絶望している。

 いいえ、それだけではなく。……きっと、生まれた瞬間に絶望する者すらいる。

 自分よりも優れた才能を羨む気持ちは、私にもわかるつもりです。あるいは諦観にまでなる程、それは冷たく苦しいものなのです。

 

 ただ、幼かった私の視野には、それが映らなかっただけで……。

 この世界はどうしようもなく理不尽で、幸運と不運があり、私たちは自由に走ることができるだけで幸せなのだと。

 私はそれを、ようやく理解できたのです。

 

 

 

 メジロマックイーンは、恵まれたウマ娘でした。

 瞬間的な加速力こそ甘いものがありますが、生まれついて体力が付きやすい体質と、強すぎず弱すぎない闘争心、そして戦術的なセンスまで。

 「将来はステイヤーとしてG1レースを制する可能性もある」とまで言っていただける素質を持って生まれたのですから。

 

 それは、疑いようもない幸運です。

 この世界に何千といるウマ娘の中でも頂点に立ち得る素質を持つ、メジロのウマ娘。

 これを幸運と呼ばずして、何と呼ぶのでしょう。

 

 だからこそ、私は奮起したのです。

 幸運の下に生まれて、幸運にも走れるのだから……不運にもまともに走れなくなってしまった彼女の分まで走らねばならない、と。

 

 恵まれた境遇、強い立場。だからこそ、メジロのウマ娘として相応しい働きをしなければならない。

 ノブレス・オブリージュ。それこそが、私のそれからの指針になったのです。

 

 それからは私は、真面目にトレーニングに励むようになり、将来のために知識も蓄え始めました。

 そうしている内にいつしか、私よりも期待をかけられていた幼馴染であり同期のライアンよりも注目を集めるようになっていたのですが……。

 幸いなことに、彼女はそれにひがんだりすることもなく、むしろ「すごい」とキラキラした目で褒めてくれるような、優しい子でした。

 故に、ドーベルも含めた私たち幼馴染の仲は悪化することもなく、今も親しくすることができています。

 本当に、ライアンには感謝しかありませんわね。

 

 

 

 そうして、辛いことも楽しいことも多かった幼少期が終わり。

 先に入学したドーベルを追うように、私とライアンはトレセン学園に入学したのです。

 

 ……けれど。

 ジュニア級の内にデビューしたライアンと違い、それからの私のトゥインクルシリーズは、とても順風満帆とは呼べないものでした。

 私の素質と誇りを見初めてくださり、現実的なプランを作ってくださるトレーナーさんを得たところまでは良かったのですが……。

 本格化が遅れてしまい、デビューしたのはクラシック級の2月。

 更には、ライアンとの決戦という意識もあり日本ダービーを目指すも、骨膜炎を発症してしまい療養を強いられてしまいました。

 

「……いいでしょう。こうなれば、秋。

 ステイヤーらしく、菊花賞を取りに行きましょう、トレーナーさん」

 

 私たちは、菊花賞に向けて歩みを進めました。

 けれどその旅路もまた、決して盤石なものではなく。

 秋以降に出走したオープンとプレオープンのレース、私の戦績は2戦2勝。

 ……私が菊花賞に出走叶ったのは、歯に衣着せず言えば、奇跡と呼んでいいものでした。

 

 結果として、皐月賞や日本ダービーの勝者が不在であった菊花賞においてなお、メジロ家という名家の出身にも関わらず……私は4番人気という評価に甘んずることになったのです。

 1番人気は、メジロライアン。

 私のライバルであり……昔も、そして今も、私よりも高い評価を受ける、メジロ家のウマ娘。

 

「マックイーン……」

「心配なさらないで、トレーナーさん。今の私に動揺はありません。

 行って参りますわ。……貴顕の使命を、果たすために」

 

 そうして……。

 

 

 

『先頭は、僅かに外を突いたメジロライアンか、メジロマックイーンか! それとも内からイノセントグリモアか!? この3人の勝負!

 今抜け出して、先頭は中を突いてきたメジロマックイーン! イノセントグリモア内から伸びるが届かない、届かないか!

 マックイーン、マックイーンだ! メジロでもマックイーンの方だ! メジロマックイーン今先着ゴールイン!!』

 

 

 

「マックイーン、G1勝利おめでとう!」

「ありがとうございます、トレーナーさん。……でも、ここからですわよ?

 私はメジロの名を負う、メジロマックイーンなのですから」

 

 私はようやく、最初の1歩を踏み出したのです。

 

 

 

 菊花賞の勝利以来、私は多くの人の期待を受けるようになりました。

 

 メジロライアン、イノセントグリモア、そしてメジロマックイーンが形作る「新三強」の一角。

 あるいは、3000メートルをものともしない新たな時代の最強ステイヤー。

 あるいは、メジロの誇りを継ぐ新たなG1ウマ娘。

 

 様々な言葉が私を形容し、私を覆い……その期待が、メジロマックイーンの形を作り直していく。

 

 応えなければなりません。

 私は恵まれたウマ娘。力を持つウマ娘。

 だからこそ、それら全ての期待を背負い、応えなければならない。

 それこそが、ノブレス・オブリージュ。果たすべき貴顕の使命なのですから。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……それなのに。

 

『セイウンスカイ、メジロマックイーンの猛追を振り切り、今ゴォォオオルイン!!

 なんと1年半という時を超え今、復活! トリックスターが復活しました!!

 京都に広がるのはあの時と同じ青空!! 1着はセイウンスカイ! セイウンスカイです!!』

 

『今、ホシノウィルムが1着でゴォォオオルイン!!!

 信じられません、ホシノウィルム、ホシノウィルムです!!

 クラシック級王者ホシノウィルム、宝塚の主役を勝ち取り、ファンの夢と願いを叶えた!!

 史上初の宝塚記念クラシック級勝者はこの子、ホシノウィルムだーーっ!!!』

 

 私は。

 

 ……私は、勝てない。

 

 ファンの皆さまの期待に、応えなければならないというのに。

 天皇賞というメジロの悲願。宝塚記念という上半期の最強決定戦。

 その両方で、私は……敗北したのです。

 

 開けたと思った道が、閉ざされた錯覚。

 外面こそ取り繕っていたものの……どうしても振るわない日々が続きました。

 

 トレーナーさんには……相談できません。

 あの人は、既に私の管理をお任せしているのです。これ以上の迷惑はかけられませんわ。

 私の心の問題は……私自身で解決しなくては。

 

「……落ち込んではいられませんね」

 

 かつての目標を超えた先で新たな目標が見つかる。そんなこと、珍しい話ではありません。

 上の世代の先輩である、セイウンスカイさん。

 下の世代の後輩である、ホシノウィルムさん。

 この2人が、今のメジロマックイーンの前に立ち塞がる、新たな壁。

 

 ならば、私の脚で乗り越えるしかありません。

 私は……私は、メジロマックイーンなのですから。

 

 

 

 けれど。

 

 秋のG1戦線の試金石、京都大賞典。

 自らに発破をかけるためにホシノウィルムさんを招いて走った、大事なG2レース。

 ……そこで勝利を刻んでも、私の心が晴れることはありませんでした。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 下がるばかりだった私の調子。

 それに転機が来たのは、京都大賞典の数日後でした。

 

「マックイーン、結論から言うぞ。今日は君の悩みを話さない限り帰さない」

 

 それまで私の様子を静観していたトレーナーさんが、突然そう言ってきたのです。

 トレーナー室の鍵を閉め、あろうことかその鍵を窓から放り投げて、カーテンを閉め、電話線やコンセントの類まで全て抜いて、徹底抗戦の構え。

 

「君が何かに悩んでいるのは、見ていればわかる。そしてそれは、あるいは俺には解決できないことなのかもしれない。

 ……でも、それでも! 俺は君のトレーナーだ!

 頼むから、1人で悩まずに一緒に背負わせてくれ!」

 

 そう言って眉を寄せるトレーナーさんの表情は、悲痛に過ぎるもので。

 それを見て、私は……ようやく気付いたのです。

 

 トレーナーさんは既に、私が悩んでいることに気付いて、それでも私のために静かに見守ってくださっていて。

 ……私は、「自分で解決するだろう」という期待に応えられなかったのだと。

 ファンの方々と同じく、私はトレーナーさんに……失望されたのだと。

 

「話すべきことはありませんわ。最近振るわないのは、ひとえに私自身の力不足。トレーナーさんはいつも通り仕事をしてくださいませ」

 

 トレーナーさんに、失望の視線を向けられるかもしれない。

 その可能性に怯えて、それ以上声をかけられることを恐れて、私は背中を向けました。

 

 ……私がどれだけ勝てずとも信じてくださり、ついにはここまで連れてきてくださった、私のトレーナーさん。

 彼に、たとえどんなことでも失望されることは……私にとってこれ以上なく、恐ろしいことなのです。

 

「……それでは、失礼しますわ」

 

 ドアの鍵は閉められましたが、ウマ娘にとってそんなことは大きな問題にはなりません。

 無理やりにでも開けようと、ドアに手をかけて……。

 

 もう片方の手を取られて、私は動きを止めました。

 

「離してくださいまし。これからトレーニングに行かなければならないのです」

「駄目だ! 今の君の走りは見てられない! トレーナーとして、トレーニングを許可できない!」

「何故そんなことを! 私は……っ!」

「俺が、メジロマックイーンのトレーナーだからだ!」

「っ……」

 

 思わず、その勢いに押されてしまいました。

 トレーナーさんの顔は苦しそうに歪んで……それは、とてもではありませんが、私が見たかったはずのものではなくて。

 

「俺は、メジロマックイーンのトレーナーだ! 華麗に、優雅に、完璧に勝利するべき、メジロマックイーンっていうウマ娘のトレーナーなんだ!!

 だからこそ、これ以上君の走りが鈍るのは見ていられないんだよ!!」

 

 ……私が契約の際に、トレーナーさんに言った言葉。

 

『私はメジロのウマ娘。華麗に、優雅に、完璧に勝利することをこの名に義務付けられておりますわ』

『私を担当すると仰るのならば、貴方にもまた、メジロ家のトレーナーという自覚を持っていただかなければなりません』

『いかがです? ──その覚悟は、おありかしら?』

 

 ……トレーナーさんは、その覚悟を持ってくださっていた。私の走りと勝利を、どこまでも信じてくださっていた。

 トレーナーとして私を支え、私を名に恥じぬウマ娘にしようと、己の使命を果たしてくださっていたのです。

 

 では。

 ……果たすべき使命を放棄しているのは、誰?

 

「私、は……」

「マックイーン、俺を使ってくれ。君の予定を整える装置として、君の走りを支えるサポーターとして、君の隣に立つ相棒として、俺を便利に使ってくれ。

 君の役に立つ。それが、君のトレーナーの、一番の望みなんだから」

 

 彼を頼ると決めながら。

 私の不足を補ってくれる方だと思いながら。

 『一心同体』であると、そう謳っておきながら。

 

 ……それなのになお、彼を信じ切れていなかったのは、誰だったか。

 

「トレーナーさん」

「うん」

「私……ファンの皆さまから受けた期待を、裏切ってしまって」

「うん」

「春の天皇賞も、宝塚記念も、ふがいない走りをしてしまって」

「うん」

「焦っているんです。もっと強くならないといけないんだって。

 怖いんです。秋の天皇賞でも、また、多くの方々の期待を裏切ってしまうのではないかと。

 ……予感がするんです。すごく、嫌な予感が」

「うん」

「どれだけ足掻いても、まるで沼に足を取られているように……脚が鈍ってしまうんです。

 自分の感情と、体、それと外から聞こえてくる声。どうしてもそれらが噛み合わない。

 私は……私に、この名は相応しくないのではないかと、最近、そう思ってしまうんです」

 

 ノブレス・オブリージュ。

 強き者、貴い者は、自らの使命を果たさなければならない。

 メジロの名を負い、幸福に生まれて、こうして走ることのできる私は、応援してくださるファンの方々の期待に応えなければならないのに。

 ……トレーナーさんの期待にも、応えたかったのに。

 

「私は……私は、強くなければならない。メジロのウマ娘として、勝たなければならないのに!

 セイウンスカイさんに負け、ホシノウィルムさんに負け、ライアンにも負けて!

 誰のっ、期待にも応えられず! なんて、なんて情けない、無様な……!」

「うん」

「それに、悔しいのです! 天皇賞も宝塚も、あと1歩というところにすら迫れていない!

 偶然でもなく、必然に……私の実力が足りずに負けたのです!

 それが、それが……悔しいっ!!」

 

 いつしか、私はトレーナーさんの胸に泣きついていました。

 まるで、あの時に失った幼児性が蘇ってきたように、彼の胸元に両手を突いて、顔を押し付けて。

 

「てんっ、天皇賞はっ! メジロ家の悲願なのに……! 絶対に、取る、はずでしたのにっ、負けてしまって……!

 宝塚記念では、ライアンにも、またっ、また追い抜かされてしまって……!

 悔しい、私、悔しいですっ!!」

 

 

 

 そうして、ずっとずっと、溜めこんできたものを吐き出して……。

 涙も言葉も枯れ果て、私がただ彼の胸に縋るだけの子供になった頃。

 

「マックイーン。……また1から始めよう。

 君はこれまで、何度も成し遂げて来ただろう? 期待されない3番手から這い上がって、遅れた本格化と骨膜炎にも負けずにここまで来たんだ。

 だから、また1から始めて……そして、秋こそは取りに行こう、天皇賞」

 

 そう、言われて。

 

 私は改めて……いいえ、今度こそ、本当に。

 唯一無二、一心同体のパートナーを得たのです。

 

 

 

 

 

 

 そうして、1か月後。

 

 

 

『メジロマックイーン伸びる、後続も懸命に追い縋るがその差は縮まることを知らない!

 100メートルを切って、メジロマックイーンこれは楽勝! 3バ身4バ身の差を付けて今ゴールイン!!』

『結果が確定、春の雪辱を果たして今、メジロマックイーンが念願の盾の栄誉を手にしました!!』

 

 

 

 私はようやく、この名に相応しい……いいえ。

 ファンの皆さまの期待に応えられる、私に相応しい私になれたのでした。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 と、まぁ、そんなことがありまして。

 

 ついに念願の天皇賞を制覇した私は、トレーナーさんの業務が落ち着くのを待って、トレーナーさんが担当している他のウマ娘さんたちと一緒に、祝賀会として食べ放題の高級ビュッフェに向かい。

 想像よりもずっと充実したスイーツの群れに、ここしばらく減量中だった私の理性が融解し、数多の制止を乗り越えてしまい……。

 ……天皇賞(秋)の時と比較して、少しばかり……いいえ、隠さず言うならかなり数字が、何とは言いませんが数字が増えたのです。

 

 しかし、これに関しては、果たして全面的に私が悪いと断言できることなのでしょうか?

 私をあのようなビュッフェに連れて行けば、必ずこのような結果を生むと、トレーナーさんは予測できたはずです。

 なにせ私たちは一心同体、彼は私のことならば100%完全に理解しているはずなのですから。

 それなのに、トレーナーさんは私をあそこに連れて行ってしまった。

 

 つまるところ、高所からガラスのコップを落とせば割れるのと同じことです。

 高所からガラスのコップを落としたら割れる。この時、悪いのは割れたコップではなく、落とした人なのではないでしょうか。

 では、ビュッフェに連れて行けば私はスイーツの誘惑に勝てない、というケースでは?

 私を連れて行った方にも相応の責任はある……いえ、一番責任を負うべきは、やはりトレーナーさんなのではないでしょうか。

 

「ご安心くださいまし、トレーナーさん。私たちは一心同体、あなたの責任は私の責任、そして私の責任はあなたの責任ですわ! 一緒に背負って参りましょう!」

「何を言ってるかわからないけど外周行こうか。あとスイーツは一週間禁止」

「殺生ですわ! お願いですから1日1モンブランはお許しくださいまし!」

「モンブランは一番駄目です! 毎回食べ過ぎるか落とすかするでしょ君!」

「そんな! 私を殺す気ですの!?」

「君モンブランで生きてるの?」

 

 うぅぅ、今日のトレーナーさんはつれませんわ……。

 仕方がありません、確かにあまりにも数字を増やし過ぎた私が悪いのは疑いようもないこと。ここは大人しく、トレーニングに行くしかありませんね。

 ……スイーツに関しては、もう少し交渉の余地があるでしょうけれど。

 

「来たるホシノウィルムへのリベンジ、ジャパンカップまでに体重落とし切るからね。しっかりメニューは組んできたから安心して」

「ひぇ……た、食べられる方のメニューですわよね?」

「そんな時間あると思う?」

「ま、まさかそこまで……!? トレーナーさん、人の心をどこに落として来たんですの!?」

「今の俺は君の予定を整える装置だから」

 

 そんな風に、小気味良いやり取りを交わしながらトレーニングに向かおうとしていると……。

 

「ん? ちょっとごめんね」

 

 トレーナーさんは懐からスマホを取り出し、画面を付けて……。

 ぴたりと、動きを止めました。

 

「トレーナーさん?」

「……マックイーン、トレーニングは中止だ。他の担当の子たちを呼び戻して来て」

「え? 構いませんけど……どうしてですの?」

 

 トレーナーさんは、先ほどまでのふざけた顔から一転、鋭く冴えた顔でこちらにスマホの画面を見せて来ました。

 そこには……。

 

 

 

『スペシャルウィーク、サイレンススズカ、ラストランに有記念出走!!

 日本一と異次元が再びトゥインクルシリーズに現れる!!』

『ホシノウィルム、セイウンスカイ、ハッピーミークらも参戦、年末の中山に嵐が吹き荒れる』

 

 

 

 ……恐るべき文字列が、並んでいました。

 

「……あのお二方に、ホシノウィルムさん、セイウンスカイさん、ハッピーミークさん」

「こりゃあ……とんでもないことになったね」

 

 私のジュニア級の時分、日本の威信をかけて戦った、スペシャルウィークさん。

 恐るべき異次元のウマ娘、最強とも名高かった、サイレンススズカさん。

 天皇賞(春)で私を打ち負かした策略家、セイウンスカイさん。

 時に短距離で、時に長距離で戦い、その幅広さにも関わらず恐るべき強さを持つハッピーミークさん。

 ……そして、あの宝塚記念に勝った無敗の三冠……いいえ、無敗の四冠ウマ娘、ホシノウィルムさん。

 

 このメンバーで……戦えるのですね。

 そこで、私も……いいえ、私が。

 

「……こうしてはいられませんわ」

「ん? マックイーン?」

「皆を呼ぶのでしょう? 行って参ります。

 ──ご安心を、2分もかかりませんわ」

 

 勝ちたい。

 勝って、ファンの皆さまの期待に応えて……。

 そして勝利を、トレーナーさんと分かち合いたい。

 

 そのために……まずはジャパンカップですわね。

 海外から来る方々も、そしてホシノウィルムさんも……私たちの前に立ち塞がる壁は必ず、トレーナーさんと2人で超えてみせますわ。

 

 私はメジロマックイーン。

 強く生まれ、幸運にも走れ、メジロの名を背負い……勝たねばならないウマ娘ですもの。

 

 やってみせますわ。

 

 ……必ずや、この手に勝利を!

 

 

 







 ライバルもライバルで背負うものがあるというお話でした。
 サイドストーリーにしてはだいぶ重い話になっちゃったな。

 ……ちなみに、マックイーンが幼かった頃に一番期待されていたメジロの子ですが、腰を痛めておきながらもなんとか中央トレセンに入ったものの、現実は甘くなくて、デビューに失敗して既に競走ウマ娘を引退しています。
 しかしその後、彼女は競走ウマ娘専門のカウンセラーとして活動を開始し、今は全国の「不幸な子」たちの心を支えるために飛び回っているのだとか。
 今でもマックイーンやライアンとは交友があり、定期的に長電話するくらいには仲良くしているようです。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、合同インタビューの話。
 今年の投稿はこれで最後になります。皆様、良いお年を!



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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ウィルムさんニヤニヤでワロタ

 あけましておめでとうございます!
 今年もマイペースに投稿していきますので、今年もどうぞよろしくお願いします。





 

 

 

 ついにというか、なんというか。

 11月中旬に入り、スペシャルウィークとサイレンススズカ、2人の有記念参戦の報道が始まった。

 所詮噂でしかなかったその情報は、URAが認めるという何よりも確かなソースと共に知れ渡り、すぐさま日本中の認知するところとなる。

 

 彼女たちの参戦自体は数か月前から決まっていたことらしいが、それが表沙汰にならなかったのは、ひとえに今のトゥインクルシリーズ、特にクラシックレースのためだ。

 

 当然のことながら、クラシックレースを走っているような子より、スぺやスズカの人気は高い。

 レースを観戦するファンにとって、クラシック級のウマ娘は「まだ出て来たばかりの新鋭の子」に過ぎない。

 自分たちの前で長らく走ってきた、慣れ親しんだシニア級の子と比べると、どうしても感情移入の度合いが下がってしまうんだ。

 

 で、そんなシニア級の子たちの中でも、スペシャルウィークとサイレンススズカの人気は更に図抜けていると言っていい。

 片や総大将、日本の威信をかけて戦った我らが日本一のウマ娘。

 片や異次元、あらゆるファンに夢を見せてくれた生ける物語の主人公。

 もはやトゥインクルシリーズでは彼女たちの走りを見ることはできないと思われていたからこそ、そして誰もが内心では「もう1度」と思っていたからこそ、その報は速やかに日本中に広がっていったのだ。

 

 そんな2人が「今年の有記念にラストランとして出走する」なんて情報が広がってしまえば、誰もが強すぎる衝撃を覚える。

 その結果、当時開催されていたホシノウィルム……もといウィルたちのクラシックレースの話題なんて吹っ飛んでしまいかねなかったんだ。

 中央のレースを運営するURAとしては、そんな混乱はなんとしても避けたいところ。

 なので、スぺとスズカの両名、そしてトレーナーに対し緘口令を敷いたのだという。

 

 ……ま、隠そうと思って隠し通せる規模のことでもないんだけどね。

 「日本にいるはずがない」ってあまり信じられてなかったけど、変装したサイレンススズカの姿はちょくちょく目撃されていたし、スカイなんかには既に情報が筒抜けだったし。

 そうして漏れ出した、あまりにもソースに乏しく信じ難い風説。

 それこそが、「有記念の噂」の顛末だった。

 

 更にこの情報を受けて、今年は短距離・マイル方面へ挑戦していたため有記念は回避する方針だったハッピーミークも参戦を表明。

 結果として、今年の有記念へ出走予定のネームドは……。

 シニア4年目のサイレンススズカ。

 シニア3年目のスペシャルウィーク、セイウンスカイ、ハッピーミーク。

 シニア1年目のメジロマックイーン、メジロライアン、ダイタクヘリオス。

 クラシック級のホシノウィルム、トウカイテイオー、ナイスネイチャ、ツインターボ。

 この、計11人となる。

 

 ……地獄か?

 

 まだまだ開催までは時間があるが、既に頭が痛い。

 今年の有記念は、荒れる。荒れるというか、もう他に類を見ないめちゃくちゃなレースになるだろう。

 勿論俺としては、自分の担当であるウィルの勝利を信じるばかりだが……。

 

 世間は、そうもいかない。

 この1か月半後に迫った、信じがたい奇跡のような──というか、ハッキリ言って奇跡そのものなんだけど──レースについて、少しでも多くの話を聞きたい、という需要が透けて見えた。

 

 その結果として。

 俺とウィルは、次走ジャパンカップと年末の有記念について、メジロマックイーン陣営と合同でインタビューを受けることになったのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 某所、スタジオにて。

 俺とウィル、それからマックイーンとそのトレーナーは、取材陣に取り囲まれていた。

 

「では、インタビューを始めさせていただきます。お2人にはいつも通り、気楽にお答えいただければと思います」

「よろしくお願いします」

「よろしくお願いしますわ」

 

 インタビュアーが言うと、ホシノウィルム、メジロマックイーンの両者がぺこりと頭を下げた。

 彼女たちの一挙手一動作を見逃すまいと構えていた取材陣は、堰を切ったように一斉にパシャパシャとフラッシュを焚き始める。

 

 メジロマックイーンは勿論、今やホシノウィルムも立派なスターウマ娘。

 インタビューともなると独占とはいかず、どころかちょっととんでもない人数のメディアが押しかけてくることになる。

 更に、ウマ娘はアスリート性と同時にアイドル性も兼ね備えているため、こういったインタビューの際は写真撮影も同時に行われるのだった。

 

 今回は、恐らくこの企画の発起人であろう主導のインタビュアーの他に、月刊トゥインクルを含めて多数の他社メディアもマイクとカメラを握ってる。

 誰もが2週間ほど後に迫ったジャパンカップ、そして年末の大嵐有記念について、少しでも有用な話を聞き出してやろうと言う気迫に満ち、目を爛々とさせている。

 まぁ俺たちトレーナーが横に控えている以上、滅多な話をさせるつもりはないけどね。

 

 

 

 そうこう考えている内、インタビュアーとの打ち合わせも終わり、いよいよインタビューが始まった。

 

「今年も秋のG1戦線が始まり、早くも秋華賞、菊花賞、天皇賞(秋)、エリザベス女王杯が終わりました。その内、ホシノウィルムさんは菊花賞、メジロマックイーンさんは天皇賞(秋)に勝利されましたが、その感想をお聞かせください」

 

 いよいよ始まったと、俺はいつも通り内心で気を揉んだ。

 ウィル、今回は爆弾発言とかしないだろうか。いや、爆弾発言するのはもう許容するとして、ちゃんと本音を過たずに伝えられるだろうか。

 この子、大体のことはそつなくこなすくせ、インタビューとか取材に応えるのは若干下手というか、やらかしちゃうことがあるんだよなぁ……。

 

 昨日の内に「こういう話をする」って予定は聞いてるんだけど、彼女は無意識的な強者故の傲慢があるというか、時々突拍子もなく擁護しにくいこと言ったりするからね。

 最近のインタビューではその癖の強さも控えめになり、他の子を讃えたりレースへの満足感を語ったりすることも増えたけど……。

 俺としては、いつ彼女の中の不発弾が炸裂するかと気が気じゃない。

 

 そんな杞憂に満ちた俺の隣で、ホシノウィルムはちらりとマックイーンの方に視線をやり、彼女が先を譲っていることを確認して、改めて口を開いた。

 

「菊花賞は非常に楽しいものでした。

 多くのファンの方々に期待していただいて、私のライバルであるネイチャと競り合うことができて、当初の目標であった無敗の三冠を取ることができました。

 この上なく楽しいレースに、改めて感謝したく思います。私を生んでくれた両親に、ここまで育ててくれたトレーナーに、速さを競いながらも親しくしてくれた友人に、そして応援してくださったファンの皆さまに……ありがとうございました」

 

 ……おお、なんというか……普通。

 いや、悪い意味じゃなくてね? すごく良い意味で、きちんとインタビューに答えてるって感じだ。

 強いて言えば、一言目から感謝述べるのはちょっと気が早いと言えるかもしれないけど、そのくらいは学生らしい茶目っ気として十分許容できる範囲だ。

 

 最近はインタビューにも真っ当に対応できるようになってきたと思ってたけど、今日はその中でも一等まとも、というか普通だ。

 やっぱりあのインタビューでの強気の態度って、半分くらいは強者の傲慢だったんだろうけど、もう半分は彼女のトラウマが関係していたのかもしれないな。

 「負けてはいけない」「勝たなければならない」。その強い思い込みが、彼女の態度を過度に強めていた。強気に出ることで「自分は負けない」と自己暗示をかけていたとか、そういう感じかな。

 テイオーを煽った時のことなんかも、まさか世代一強と名高かったトウカイテイオーの存在を知らなかったわけもないし、それ以外にテイオーを煽った意図も見えないし……。

 

 そう考えると、これからは彼女のインタビューへの態度も軟化していくのかもしれないな。

 トレーナーとしてはとてもありがたい。相手方に菓子折りを持って謝罪しに行く手間が省けるので。

 

 さて、ウィルが回答を終えたことを受けて、マックイーンも口を開いた。

 

「私は……ホシノウィルムさんと違い、申し訳なかった、という気持ちがありますわ。

 天皇賞(春)から半年近く、ファンの皆さまには酷くふがいない走りをお見せしてしまいました。

 けれど、今の私は一味違います。必ずや、皆さまのご期待にお応えできる走りをお見せしますわ」

 

 うん、マックイーンは相変わらず安定した受け答えだ。

 危惧していた精神的なブレはもはや窺えず、今は充実感と達成感、そしてやる気に満ち溢れている。

 

 ウィルには少し申し訳ないが……俺は彼女のそんな姿に、少しばかり安堵を覚えた。

 

 

 

 正直、俺は前世の競馬についてそこまで詳しくはないし、ちょっと記憶があやふやな部分があるんだけど……。

 前世世界の史実において、メジロマックイーンは春の天皇賞には2度勝利したが、秋の天皇賞には勝てなかったはずだ。

 唯一出走した際にも、1位入線し2着と圧倒的な差を付けておきながら、進路妨害による降着処分を受け、18着という結果になった。

 

 ウマ娘のマックイーンも、メインストーリーで同じ未来を辿るんだけど……。

 その最たる敗因は、焦りだ。

 宝塚記念でライアンに負けた際、大きく外を回らされたという記憶。それが彼女に、急いで内に入るという選択肢を取らせてしまった。

 不良バ場によるバ群の密集、マックイーンの圧により他の子たちも急いで内に入ろうとしたこと、そしてマックイーンがその進路を塞ぐように内に切り込んだこと。

 それらの状況が重なった結果、彼女は天皇賞という大舞台で大きすぎるミスを犯してしまった。

 ……って感じだったと思う。ちょっとうろ覚えだけどね。

 

 更にこの世界では、彼女は宝塚記念だけではなく、勝つはずだった天皇賞(春)でも敗北を喫している。

 俺がセイウンスカイを焚き付け、そしてホシノウィルムを育てたことで、マックイーンは従来以上の苦境を味わうことになったんだ。

 だからこそ……あるいは、天皇賞(秋)は、前世のそれよりも酷いことになるんじゃないかと、そう思ってしまって……。

 

 彼女を助けたいと、そう思った。

 

 それをウィルに見抜かれ、許されて……俺は、自分のエゴイズムで行動を起こすことにした。

 ……とは言っても、大層なことができたわけじゃないけれどね。

 俺にできたのは、彼女のトレーナーに、「メジロマックイーンは精神的に不調に陥っている。致命的なところに行く前に、今すぐに彼女と話し合い、彼女が背負い込んでしまっているものを一緒に抱えてあげてほしい」と伝えることくらいだ。

 

 メジロマックイーンの不調は、その精神的なストレスと焦りによるもの。彼女のトレーナーが適切に処置できれば、あるいはそれを解消できるかもしれない。

 そう思っての進言だったけど、相手のトレーナーもそれは感じていたのか、俺の言葉に背中を押される形で行動に移してくれたようだ。

 

 その後、彼女たちの間に何があったのか、詳しくは知らない。

 事後報告として、マックイーンのトレーナーから「君のおかげで、俺は大きすぎる間違いを犯さずに済んだ。本当にありがとう、この借りはいつか必ず返すよ」と言われたので、ひとまず円満に事が済んだのは間違いないけど……。

 果たしてマックイーンが自らの運命を乗り越えられるかは、俺にはわからなかった。

 

 

 

 けれど、俺程度でもその背中を押せたのか、あるいはそのきっかけになれたのか。

 

 結果として、今、俺の目の前にいるメジロマックイーンは天皇賞(秋)に勝って、迷いのない表情でインタビューに臨むことができている。

 それを、俺は……多分、嬉しく思っているんだ。

 彼女のトレーナーでもないのに、彼女が勝てて良かったと、心から安堵している。

 

 ……本当、俺はトレーナーに向いてないんだろうな。

 担当のことだけを見ていればいいのに、どうしても他の子のことが視界に入ってしまう。

 あるいは、そういうところから視線を外すのも才能なのかもしれないが……。

 

 ともあれ、今は彼女たちのインタビュー中だ。

 意識を現実に戻さなければ。

 

「お二方ともに満足のいく走りをできた、ということでしょうか」

「はい。きっと皆さんのご期待にお応えできたと思います」

「勿論私も、今の自分に持てる力を振るえたと思いますわ」

「なるほど。ではそんなお互いに対し、何か思うところはあるのでしょうか?」

 

 インタビュアーにそう聞かれ、今度はウィルではなくマックイーンが先んじて答える。

 

「私にとってホシノウィルムさんは、越えるべき壁であり、同時に尊敬できるウマ娘ですわ。

 宝塚記念では見事に超えられてしまいましたが、いつまでも後塵を拝するようではメジロの名折れ。いつか、必ずやその背中を越えてみせましょう。

 そして同時、ホシノウィルムさんは人格的にも非常に優れたウマ娘であるとも思います。いつも後輩の相談に乗ったり、道に惑うウマ娘に手を差し伸べていると伺っております。その精神には見習うべきところが多くありますわ」

「あ、あはは、照れますね……」

 

 公の場で褒め殺しにあって、ウィルは少し赤くなって頬を掻いている。

 ……実際のところ、彼女が他のウマ娘を助けているのは確たる事実だ。その理由はともかくとして。

 

 いやまぁ、「もっとたくさん強い子が出て来た方が楽しいじゃないですか」とにこやかに……より事実に基づいて言えばニヨニヨと語っていたそれが、本当に理由の全てだとは限らないんだけども。

 むしろ彼女の根底にある優しさを考えると、あれは恥ずかしさを誤魔化すための誤魔化しだった可能性もあるくらいだ。

 

 さて、次はウィルの番だが、まぁこの調子であればこの場に合わせた無難な答えをしてくれるはず……。

 

「私にとって、マックイーン先輩は……そうですね、最高のライバルの1人、でしょうか。

 私に迫って来てくれて、私を心の底から熱くしてくれる、得難い競走相手です。

 ……あ、当然ながら性格的にも尊敬していますよ? テイオーに療養施設を提供したって聞きましたし……あっいや私には提供してくれなかったって皮肉とかではなく、ただそういう困ってる子がいたら当然って顔をして助けるのはすごい、というか……」

 

 ……あー、うん。

 ちょっと油断してたわ。

 

 まず「越えるべき壁」とこちらを持ち上げてくれたマックイーンに対して、「競走相手」だと同格、あるいはそれ以下に見てるのが失礼だし……。

 まるで取って付けたように性格を褒め、しかもあろうことか皮肉とかじゃないですよ、と繕ったのがもう本当にアレすぎる。

 

 この子、普段はあんなに話すの上手いのに、なんでインタビューとか取材の時はやらかしてしまうんだろうな……。

 もしかして、対多数……それもホームグラウンドではない、アウェーの状況で喋るのは苦手なんだろうか。

 あるいは、走ることについて話しているだけで楽しくなってきて、テンションが上がってしまい、思わず繕わない本音を答えてしまったか……。

 いやまぁ、考察はともかく、今は仕事をしなければ。

 

「すみません、今のは誤解を招きかねないので、カットでお願いします」

「……ご、ごめんなさい、トレーナー」

「ん? ……何を謝っているのかよくわからないが、カットでいいんだな?」

「はい、よろしくお願いします」

 

 ウィルは少し恥ずかしそうに俯いた。

 

 インタビューは、生配信と違って編集が利く。

 生放送は細かい語弊にも気を付けなければならないため、基本的には台本が用意され、それに沿って進行することになる。

 それに対し、インタビューは先に質疑の内容が教えられることもあるものの、細かい打ち合わせなどは行われないことが多い。

 その方が本音に近い答えを聞けるし、いざとなれば編集で消したり付け足したりできるからだ。

 

 で、ホシノウィルムの回答は、それ単体……の、前半部分だけなら特に問題のないものだっただろう。

 だが、メジロマックイーンの回答は彼女のそれを超える模範的なものであり、だからこそ彼女の回答には粗が目立った。

 

 インタビューではこういうことがままある。

 そして、そういう時に大人としてストップをかけるのも、トレーナーの仕事の1つであり。

 相手との間に誤解やしこりを残さないようにするのもまた、俺の仕事だ。

 

「すまない、メジロマックイーン。この子に君を貶そうというような意図はないんだ。そこは理解してほしい。だろう、ホシノウィルム?」

「は、はい、すみません、マックイーン先輩……」

「ご安心を、誤解などしておりませんわ。ね、トレーナーさん」

「ああ、インタビューの時のホシノウィルムの気性難は知っているつもりだからね」

 

 冗談交じりに言って、マックイーンのトレーナーはくすりと笑った。

 ……そうか。外から見ていると、インタビューの時のウィルは問題児に見えるよな。

 実際には問題児って程ではないんだけど……今はこの辺りの誤解を解いている暇はないかな。

 

「ホシノウィルム」

「はい。ん、ん……。マックイーン先輩のことは、良き先輩として、そして良き競走相手として尊敬しています。

 私なんかよりずっと快く他人に手を差し伸べる方ですし、走っていて心の底から熱くなれる、最高のライバルであると認識しています。

 だからこそ、次走のジャパンカップ、そして年末の有記念での対決は心から楽しみです」

「それは私も同じこと、宝塚記念での雪辱を果たさせていただきますわよ?」

 

 2人はそう言って、ニヤリと笑い合う。

 ライバルの熱い舌戦を前に、カメラのフラッシュが瞬いた。

 

 ……うん、数秒で整えたとは思えない、良い答えだ。

 本当、この子は要領が良くて助かるね。

 

 

 

「なるほど、お2人とも良きライバル同士であると。

 ……では次に、ジャパンカップについて窺っていきたいと思います。今回のジャパンカップでは、9人もの海外のウマ娘が出走するとのことですが、お2人が注目しているウマ娘などいらっしゃいますか?」

 

 ウィルは、ちらりとこちらを見てくる。

 本音で答えていいのか、と判断を仰いでいるように思えたので、1つ頷きを返す。

 

「……いいえ、これといって注目しているウマ娘はいません。

 誰が出るレースであろうと、私はただ最善を尽くし、全力で駆けるのみです」

「私は……そうですね。やはりウィッチイブニングさんでしょうか。

 凱旋門賞2着の脚は決して舐められるものではありません。全力を尽くし、この名に相応しい走りを以て応えるつもりです」

 

 2人の対応は対極的だ。

 ホシノウィルムが好戦的で傲慢、唯我独尊であるのに対し、メジロマックイーンは冷静で謙虚、他者へと視線を向けている。

 

 ……きっと、メジロマックイーンのような、海外のウマ娘へ慮った回答こそが正しいんだろうな。

 ウマ娘は実力だけではやっていけない。ファンからの人気がなければ、レースへの出走も難しくなる。

 多くの人がこのインタビューを聞くのだから、より聞こえの良い言葉を残してイメージアップを図った方が良い。

 それは、一面の真理ではあると思う。

 

 ……でも。

 それを本音で言えるマックイーンと違って、ウィルは心の底ではそうは思っていない。

 マックイーンが外向的であるとすれば、ウィルは内向的なウマ娘だ。

 彼女にとって本当に大事なのは、レースに誰が出ているかではなく、自分をどこまで高め、より良いレースを楽しめるか、なのだから。

 

 では、自分を誤魔化してでも、他者に慮った言葉を吐くべきなのか?

 俺はそう思わない。

 

 人気を得るために本音を封じるのを悪と断じるつもりはないが、少なくとも今の彼女がすべきことではないと思う。

 ホシノウィルムというウマ娘には、当然ながら良いところもあれば悪いところもある。

 その内、悪いところを封殺して、良いところばかり見せるのは、果たして健全なのだろうか。

 

 勿論、ウマ娘レースは利益の発生する営利事業なわけで、冷徹な割り切りも必要なのかもしれないが……。

 だからと言って、ウィルに望まない仮面を被せ続けるのが正しいとは、到底思えない。

 

 本当の意味で愛されるというのは、多分、そういった駄目な部分も受け入れてもらうってことだ。

 「コイツはこういうところが駄目。その駄目なところも含めてコイツが好き」と言ってもらうこと。この子の全てを肯定してもらうこと。

 今のホシノウィルムには、そういった体験が必要なんだ。

 ……多分ね。

 

 だから、良い。

 それがどれだけ傲慢で、周りに対する配慮のない言葉でも、ホシノウィルム自身の言葉をこそ、世界に届ける。

 それが今、俺のすべきことなんだと思う。

 

「ジャパンカップが開催される東京レース場は逃げウマ娘に不利と言われていますが、そこに関してはどう思われますか?」

「特には。『不利』は『不可能』ではありませんし、不可能でないなら結果は出せると思います」

「あら、強気の発言ですわね。私も参加するのですよ?」

「そうですね。……だからこそ、決して油断できるようなレースにはならないでしょう。それがとても楽しみです」

 

 マックイーンの言葉にも動揺せず、彼女はその姿勢を貫く。

 傲慢で、強気で、好戦的。

 それがレースを前にしたホシノウィルムであると、世界に見せつけるように。

 

 

 

 それからいくつかジャパンカップについて訊かれた後、いよいよ、ある意味今日の本題である有記念の話題に移った。

 

「では次に、年末の有記念について伺いたいと思います。

 今年の有記念はあのサイレンススズカさんやスペシャルウィークさん、セイウンスカイさんやハッピーミークさんの出走が予定されていますが、彼女たちについては何かありますか?」

 

 インタビュアーが口を閉じると、「ついにその話題が来たか」といった感じで、今回はマックイーンが率先して答える。

 

「出走するウマ娘は皆、この上ない強敵になると予感しています。

 だからこそ、私は私らしく、全力で走ることをお約束しますわ。そうしなくては、勝てるものも勝てませんもの」

 

 メジロマックイーンは、多数の戦術を持っているわけではない。

 彼女の走りは王道中の王道、好位抜け出し。よりインコースを取り、より速く駆け抜けるという、非常にシンプルながら隙のない戦術だ。

 

 しかし逆に言えば、彼女にはそれしかない。

 有記念がどのように荒れようと、彼女はその荒波の中に付いて行くしかないわけだ。

 

 そして同時、その荒波が彼女の背を押した時には……彼女は止められなくなるとも言える。

 あまり好きな言葉ではないが、レースは運否天賦。その日のウマ娘たちの仕上がりと調子次第で簡単に展開は覆り、その流れに乗った者が勝つ。

 

 ……そして、今回ばかりは俺の担当の大逃げウマ娘も、その波に呑まれざるを得ない。

 

「今回の有記念には、多くの逃げウマ娘が出走を予定しています。特にサイレンススズカさん、ツインターボさんはホシノウィルムさんと同じく大逃げで知られています。

 そこについて、ホシノウィルムさんはどう思われますか?」

 

 大逃げの強さは、ひとえに周りに影響されないことにある。

 誰の存在も感じない程突出し、誰と競り合うこともなく経済コースを走る。

 故に、無駄にスタミナを消耗することも、掛かることもなくなるわけだ。

 

 ……しかし、今回の有記念には、他にも2人の大逃げウマ娘がいる。

 片や向こう見ずな程の全開エンジン、ツインターボ。

 片やウマ娘としての限界速度と謳われる異次元の逃亡者、サイレンススズカ。

 

 大逃げで走るとなれば、この2人との先行争いは避けられないだろう。

 それは即ち、ホシノウィルムがこれまで独占していたアドバンテージが失われ、他のウマ娘たちとイーブンな、あるいはそれ以下の戦いを強いられることを意味する。

 

 つまり、要約すると。

 大逃げウマ娘であるホシノウィルムにとって、今回の有記念は、これまでになく不利なレースになるだろう、ということだ。

 

 

 

 ……それでも。

 

 俺の担当ウマ娘は、決して顔を下げない。

 むしろ瞳を煌めかせ、口角を上げた。

 

「サイレンススズカさんも、ダブ……ツインターボさんと競り合うのも。そして後方から追って来るだろうスペシャルウィークさんやマックイーン先輩、テイオーやネイチャから逃げるのも、きっとすごく楽しいでしょうね。

 きっと今年の有記念は、すごく、すっごく楽しいレースになると思います。本当に待ち遠しいですよ」

 

 そう言ってニヤリと笑う姿を、カメラのフラッシュが捉える。

 

 もはや彼女に、「負けてはいけない」という縛りは存在しない。

 あるいは「ファンの期待に応えて勝ちたい」はあったとしても、それは彼女を呪うものじゃない。

 だからこそ、ホシノウィルムは笑うのだ。

 本音と演技が混ざり合った結果、すごく……その、邪悪っぽくなった、魔王みたいな笑顔で。

 

 

 

 それを見て、心の中で苦笑すると同時、改めて気合を入れ直す。

 海外のウマ娘と競う、ジャパンカップ。

 年末の祭典、有記念。

 どちらのレースも、彼女が心から楽しんで、そして勝つことができるように……。

 トレーナーとして、精一杯支えないとな。

 

 

 







 大逃げウマ娘が3人! 来るぞ遊馬!



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、日々のまにまにの話。



(謝辞)
 本作のUA(読んでもらえた回数みたいなもの)が100万を突破しました! 
 100万……100万!? もう数が正直数が膨大すぎてよくわかんない領域です!!
 登録者様が100人を超えた時点で現実感は消し飛んでたんですが、改めていただいた応援のすさまじさに頭がくらくらしますね……。承認欲求モンスターになりすぎないよう注意せねば。
 改めて、いつもご愛読ありがとうございました!
 そして、今年も本作をよろしくお願いします!

(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました! ありがとうございました!
 ……有記念と天皇賞間違えるってどういうこと? なんで推敲の時気付かなかったんだろう……。


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兄・気性難・熱

 いよいよタイトルのネタが尽きつつある。





 

 

 

 堀野昌さんが語った言葉。

 

『……ただ、私はあの兄が、大嫌いなんです。

 嫌いな人に冷たい態度を取るなんて、珍しいことではないでしょう?』

 

 あの言葉は、一体どういう意味だったんだろう。

 

 先週、昌さんに連れて行ってもらったオシャレなカフェで、彼女が吐いた毒。

 その真意を聞こうとして、けれどすぐに話を逸らされてしまったから聞けずじまいだったけど……。

 恐らくそれは、彼女の本音だったんだと思う。

 

 「あの兄」というのは、ほぼ間違いなく歩さんのことを指す言葉だろう。

 では、昌さんは歩さんのことが嫌いなのか?

 正直なところ、そこには疑問を挟む余地があるんだ。

 

 人のそれと違ってよく動く耳を向けて、彼女たちの会話を拾う。

 ターフを走る私たちを見ながら、トレーナーと昌さんは書類仕事をしつつ、言葉を交わしていた。

 

「……兄さん、昨日寝てないでしょ。さっきから焦点定まってないし。そんな状態でうろつかれても迷惑なだけだから、さっさと仮眠取って来てくれる?」

「いや、そんなわけにはいかないよ。今だって担当が走ってるんだ、俺だけ休むなんて許されない」

「ふーん、やっぱり寝てないのは事実なんだ」

「あ、いや、それは……まぁ寝てはないけど」

「寝ろバ鹿」

 

 ……これが嫌いな人への態度だろうか?

 控えめに言って、普通に仲の良い兄妹のやり取りにしか聞こえなかった。控えめに言わなかったらめっちゃ仲の良い兄妹でしかないよこれ。

 

 私、前世からコミュ障だったわけで、人のコミュニケーションってものに詳しくはない。むしろかなり不案内な方だと思う。

 だから、私がよくわかってないだけで、「嫌い」が直結して「仲が悪い」に繋がるわけではないのかもしれないし、こうした関係性もあるのかもしれないけど……。

 それにしても、昌さんが歩さんを嫌っているようには思えなかったんだ。

 

 人が人を嫌えば、その態度はそっけなくなるものだと思う。より正確に言えば、その相手とは接点を持ちたくないと思ったり、あるいはその態度が攻撃的になる、って感じだろう。

 その点で言えば、確かに昌さんの歩さんへの当たりは攻撃的で冷たいもの……に、見える。

 

 だがその実、冷たいのは表面上だけだ。

 

 普通、嫌いな人間を気遣うことなんてない。

 「嫌い」というのは本質的には敵対であり、敵対者を気遣うのは生物的なレベルでの間違いだからだ。

 

 ……でも、昌さんは明らかに歩さんのことを心配している。

 先ほどの言葉は辛辣なテクスチャに覆われてるけど、その実「寝てないんでしょ? 仮眠取りなよ」という心配と提案だ。

 果たしてそれは、嫌いな人間に対して出る言葉なのだろうか?

 

「よくわかんないな……」

 

 私の観察眼が間違っていないのなら、昌さんは本音で「兄のことが嫌い」だと言っていた。

 けれど普段の彼女の態度からは、歩さんのことが嫌いであるという様子は窺えない。

 強いて言えば……自発的に嫌おうとしているかのように冷たい態度を取っているけど、その根底には家族の情とでも言うべきものが見える……ような気がした。

 ……いや、そもそも前世でも今世でも、親から愛情というものを貰ってこなかった私が、そういったものを判別できるかは微妙なとこなんだけどさ。

 

 それでも……うん、嫌いと言うには距離感が近い。

 男女の仲ってほど甘いものじゃなさそうのは安心だけど、片方が片方を「嫌い」と称するには、あまりにも距離感が近すぎる気がする。

 

 となれば、アレか? 恋愛系のマンガでよく見た、自分の好意に無自覚なタイプ?

 いや、昌さんってそういうんじゃない気がするんだよなぁ。自分の感情はきちんとコントロールできそうっていうか。

 勿論、まだそこまで付き合いが長いわけじゃないし、単なる読み間違えの可能性はあるんだけどさ。

 

 

 

「……うーん、しかしそれは……」

「先輩?」

「んお、ブルボンちゃん」

 

 思ったより近くから声をかけられて、びっくりして足がふらつきかける。

 咄嗟にチートを使って思考力を伸ばし、変に脚を傷めないよう体勢を整え直した。

 危ない危ない、変に捻ったりしたら事だからね。気を付けなければ。

 

 改めて。

 転生ウマ娘であるホシノウィルムが今世で得たチートは、「ある程度の速度を出して走っている時、任意で思考力を伸ばすことができる」ってものだ。

 「寒い」モードのスイッチと同じような要領で切り替えが可能で、軽い未来予測とかフォームの安定性の向上、無駄なスタミナの消耗防止など、様々な効果を見込める、なかなかの万能チートである。

 

 ……しかし、このチートに1つ、不満があるとすれば。

 ちょっと、いやだいぶ地味だってことだろうか。

 

 チートって言うとやっぱり、一発で状況をひっくり返す、みんなびっくりトンデモパワーなイメージがあるんだけど……。

 私の場合は、そういう派手なヤツじゃない。

 

 思考力が上がることによる恩恵は、主に状況の把握とか計算による展開予測、走り方の最適化によるスペックの限界直前までの向上と脚と体力の負担軽減、そしてこうした際の危機回避がメイン。

 つまり、このチートを使っても、限界以上の力を出せたりはしないんだ。

 現在の私やレース場の状況における「最適解」を導き出し、実行する。

 それが私の転生チート、「アニメ転生」である。

 

 そこに、ちょっとばかり不満があると言うか、残念があると言うか。

 転生チートって言うくらいなんだから、何もしなくても勝利確定のぶっ壊れパワーが欲しかった……とまでは言うつもりもないけどさ。

 ……正直、もうちょっとこう、カッコ良いというか、派手というか、そういう力が良かったなぁ、と思うことはあるんだよね。

 

 だってさ、思考力増加ってすっごい地味なんだよ。

 他人から見たら何も変わんない。どれだけ聡い人やウマ娘が見たって、「あれ? なんか走り方変わった?」程度でしかないんだ。「もしかして髪切った?」と同レベル。もう本当にめっちゃ地味。

 

 勿論、派手じゃないといけない道理なんてないよ? むしろチートがあるってだけで感謝しなきゃいけないとは思う。

 でも、どうせ転生したんだし、もっと派手に決めたいって欲求があるんだよ。その方がトレーナーももっと私に夢中になってくれるだろうしさ。

 

 更に言うとこのチート、本領発揮できる場面が本当に少ない。

 ウマ娘の公式レースは、多くても1か月に1回ペース。G1を主眼に置く私にとっては更にローペースになるだろう。

 その上、色々と検証してみた結果、「アニメ転生」は1回につき最大30秒程度しか使えないこともわかった。

 この前試してみたんだけど、これを30秒くらい使い続けると、情報量に酔って吐きそうになるんだよね。どうやら思考力は上がるけど、脳のキャパシティ……というか耐性? 慣れ? そういうのは上がらないらしい。

 結果として、なんとこの転生チート、1か月に30秒しか本領発揮しないという、なんともしょっぱいものとなってしまっている。

 

 なんならレースで使うより、ライスちゃんと走ってる時の危機回避に使ったりすることの方がずっと多い。もうチートってよりはただの便利なスキル扱いである。

 

 地味で、活躍の機会が少なくて、でも肝心な時には頼りになるチート。

 勿論、そういうのにもロマンがあって、私としても嫌いじゃない。むしろ前世で転生系を読み漁ってた時は、ぶっ壊れたチートなんかよりその方が好きだったまである。

 ……でも、当事者として転生すると、ちょっと話が変わってくるわけだ。

 せっかく転生して得たチートなんだから、地味なサポートじゃなく、もっとカッコ良く使って活躍したいという思いが抑えがたくて……。

 

 そんなことを考えて、ふと莫大な思考力によって気づく。

 あれ、この感情、もしかして……。

 

 

 

 中二病、か……? 

 

 

 

 考えてみれば私、今中等部2年だ。ちょうどぴったし罹患タイミングである。

 前世の大学に通ってた……いや通ってなかったけど、大学生だった時の私なら、「便利に使えるならカッコ良さとかどうでもいい」って言ってた気がするし……。

 

 ……うわ、マジか。自覚するととんでもなく恥ずかしくなってきた。

 好きな人の前とはいえ、こんなええかっこしい自分がいるとは……。

 う、うぅぅ、恥ずかしい! 承認欲求モンスターかよ私!

 

 あーやめやめ、思考打ち切り、「アニメ転生」のスイッチオフ。

 考えないのは論外だけど、考えすぎも良くないわ。自分の闇と向き合い続けたら心が持たない。こういうことはさっさと忘れるに限るね。

 

 暴走と言っていいレベルで動いてた思考が、「アニメ転生」をオフにすると同時、いつもの速度に落ち着いていく。

 まったく、夢中になれるレース以外で思考力が上がると、こういう副作用もあるのが困りものだ。それ以上の恩恵があるから使わないわけにはいかないんだけど、と。

 

 

 

 そんなことを思いながら、私は動かしていた足を止める。

 後ろから聞こえてきた足音も、それに倣ったようにピタリと停止した。

 

 振り返ると、そこにいるのは私の後輩、ミホノブルボンちゃん。

 今日は2人で併走トレーニングをしていたところだったんだ。

 

「どうしたの、ブルボンちゃん?」

「心ここに在らずといった様子だったのでお声をおかけしました。走っている最中の考え事は危険であると推測します」

「あー、うん、そうだね。ありがとう」

 

 それは全く以て正論だ。いくら転生ウマ娘の私と言えど「アニメ転生」を使ってない状態でぼんやりしてたら転んだりする可能性もある。

 忠告はありがたく受け止めて、走ってる時はそっちに集中しなければ。

 

「じゃ、改めて行こうか。これで何本目だっけ」

「5本目です」

「そっか。今度こそ、成功するといいねぇ」

「はい、胸をお借りします」

 

 そう言って一度足を止めた私たちは、「よーい、ドン!」の掛け声と共にもう1度、同時に駆け出した。

 

 

 

 11月は中旬に入り、ついに今週末にはブルボンちゃんの出走するプレオープンレース、ベゴニア賞がやって来る。

 トレーナー曰く、ここにはブルボンちゃんの障害になる程の逸材は見られず、特に問題もなく勝てるだろうってことだったけど、それでもやはりレース前の追い切りは欠かせない。

 

 ウマ娘にとって、レース前の追い切りはかなり大事なことだ。

 辛いトレーニングを積んで限界まで自分を追い込むことで、精神的にも肉体的にも尖り、闘争本能を掻き立てられるからね。

 本番で闘争本能が足りないと、他のウマ娘たちとの追い比べとか位置取り争いになった際に譲ってしまいやすいし、ラストで「足りないか……?」と思った際に根性が出なくなる。

 そんな展開を避けるためにも、コンディションを切り詰めるレース直前の追い切りメニューは必要不可欠なんだよね。

 

 そんなわけで、今日も今日とてブルボンちゃんを心身共に追い込むため、トレーニングを積んでいたわけだけど……。

 

「ふっ……!」

「……くっ」

 

 今日のトレーニングは、ブルボンちゃんの3つの弱点の内、「気性難」を解決するためのものだ。

 

 ブルボンちゃんは、非常に高いスペックを持ってる。それも単純な才能ではなく、努力によって培われた秀才的な力だ。

 トレーナー曰く、「現状ミホノブルボンが絶好調、かつ適正距離、1対1で走った時、彼女の世代で彼女に勝てる者はいない」くらいの圧倒的なものなんだって。

 

 ……だが、そこにはあくまで「1対1で走った時」という指定がある。

 その理由は簡単で……。

 ブルボンちゃんは、かなり掛かりやすいんだ。

 

 逃げウマ娘が掛かりやすいってのは、ぶっちゃけそこまで珍しい話でもない。

 そもそも逃げは王道ではない戦術で、それを選ぶのは掛かり癖があったりバ群の中にいるのが苦手だからって理由も多い。

 バ群の中にいたり、他の子の存在を見ると焦って掛かってしまう。だから、他の子たちの存在も感じなくなるくらいに前に出て走るわけだ。単純明快な解決策である。

 

 ……が。それは逃げウマ娘が2人以上存在しない、つまり先行争いをしなくていい場合に限る。

 そう、「他の子の存在を感じなければ強い逃げウマ娘」が2人いれば、互いにそのスペックを落とし合ってしまうんだ。

 

 トレーナー曰く、現状のブルボンちゃんにとって最大の脅威がそれらしい。

 第一に、他の逃げウマ娘によって掛からされ。

 第二に、他の強力な末脚を持つ子に迫られる。

 その2点を同時に満たした時、ブルボンちゃんは避けようもなく敗北する。

 

 勿論、弱点が明確に分かっている以上、克服しない手はない。

 彼女の掛かりやすさを少しでも抑えるため、こうしてトレーニングを積んでいるわけだが……。

 

「ブルボンちゃん!」

「っ、……はい」

 

 結論から言うと、彼女の闘争本能は、想像よりもずっと強かった。

 

 今やってるトレーニングの内容は、とても単純。

 ブルボンちゃんがローペースで走り、私は彼女よりも2バ身前を維持して、同じペースで走る。

 そしてそのまま、ブルボンちゃんは速度を上げないように注意して1000メートルを走り切る、というものだ。

 

 私からすれば、相手との足音の距離を把握してペースキープすればいいから、簡単なんだけど……。

 私の後方を走る後輩ちゃん、ブルボンちゃんの方のペースキープが、なかなか成功しないんだよね。

 

 

 

 1000メートルを駆け抜けて、足を止める。

 2バ身後方にいたブルボンちゃんの足音もすぐに止んだけど……。

 ……うーん、ちょっと指摘するの、心苦しいな。

 

「ブルボンちゃん、どう?」

「…………データを参照。342メートル地点から徐々に加速し、ペースアップしています。申し訳ありません」

「いや、私は構わないけども。……やっぱり気性ってのは難しいね」

 

 ウマ娘は馬の魂を継いでる存在ということもあってか、人間よりも本能が強い。

 特に走ってる時が顕著で、ついつい熱くなって、理性より本能の方が強くなってしまうことがある。

 これはウマ娘によって強弱あって、私は割と平常通りに走れるタイプだ。楽しくはなるけど、だからって作戦も忘れて走るようなことはない。

 ……今考えると、もしかしたら「アニメ転生」による恩恵なのかもしれないな。あれ、足音の感知とか要領の良さとか、使ってない時もそこはかとなく恩恵がある感じがするし。

 

 そんな私とは対極的に、ブルボンちゃんは本能が結構強いタイプ。

 こうして他のウマ娘と300メートル前後走ると、見境なくとまでは言わないけど、結構走りが荒れてしまう。

 いやまぁ、頑張って止めようとしてるとは思うんだけどね? 実際今回も、途中で一度我に返ったように遅くなり……かけて、また徐々に加速しちゃったんだけどさ。

 

 まぁでも、私も同じウマ娘。そうやって熱くなっちゃう気持ちはわかる。

 レースの終盤に感じるような高揚感、相手に勝ちたいという欲求。

 割と冷静になれる私は、それらを上手く走りに昇華してるけど……ブルボンちゃんみたいに真面目で本能の強い子にとっては、その辺の管理がちょっと難しいのかもしれない。

 

 ……うーん、どうしたものかな。

 

 可愛い後輩のためだもの、手を貸してあげたい気持ちは大いにある。

 しかし、事が彼女の気性、つまり内面である以上、現実的に取れる手段がない。

 私は多少口が上手い自負はあるけど、それだけだ。心理カウンセラーでもなければ彼女の担当医でもない、ただの中等部のウマ娘でしかない。

 

 ぶっちゃけ、どうすれば彼女のそれを解決できるか、筋道が見えない。

 ブルボンちゃんには申し訳ないけど、お手上げだ。

 

 うーん、やっぱりこういう方面はトレーナーにお任せするしかないかなぁ。

 女の子の精神には疎すぎるトレーナーだけど、トレーナーとしての能力は一級品。多分掛かり癖の解消に関しても、堀野家のデータとかそういうのを色々使って解決してくれる……はずだ。きっと。

 

「どうする、ブルボンちゃん。一旦休憩する?」

「……いえ、先輩さえ良ければ、あと何度かお願いできますか」

「ん。トレーナーは『威圧感に慣れるまで走れ』って言ってたし、もうちょっと頑張ってみようか」

 

 ブルボンちゃんは……少し思い悩んでいる感じはあるけど、それでもまだ許容範囲内って感じ。

 いざとなればトレーナーに相談するなりするとして、今は彼女に付き合うことにしよう。

 ……こうして他の子と走るのは、私としても色々と発見があるしね。

 

「ん、それじゃ行くよ。……よーい、ドン!」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 トレーニングの時間が終わると、ウマ娘である私たちはいつも通り寮に帰る。

 私もブルボンちゃんも栗東寮所属だし、基本的には毎日一緒に寮まで帰ってるんだけど……。

 今日はそこにもう1人、お客さんが交ざった。

 

 帰り道、ブルボンちゃんと並んで歩いていた私の視界に移ったのは、見覚えのあるピンク髪の後輩ちゃんだったのだ。

 

「あ、ウィルム先輩!」

「ん、ピンクちゃん?」

「ソウリさん」

 

 私たち3人は、全く別の名前を呼び合った。

 ……ピンクちゃんが呼んだのは私の名前で、私が呼んだのは彼女のあだ名。

 一方でブルボンちゃんが呼んだのは……総理?

 

「あ、ブルボンさんも。そっか、ウィルム先輩と同じトレーナーさんなんだっけ。今帰り?」

「はい。ソウリさんも、今?」

「うん、ちょうどチームのサブトレーナーさんが腰をやっちゃって、お開きになったとこ」

「それは……お気の毒様です」

「はは、ありがと」

 

 ……会話から察するに、ソウリちゃんってのはピンクちゃんのお名前、あるいはあだ名らしい。

 先輩のくせに後輩の名前1つも覚えられなくて申し訳ない。割と本気で先輩失格である。でもピンクちゃんってあだ名可愛いし、どうか許してほしい。

 

 で、ピンクちゃ……ソウリちゃんとブルボンちゃんは、親し気……とまでは行かないまでも、普通に会話を交わしてる。

 もしかして、というかもしかしなくても、顔見知りなのかな。2人とも、今ジュニア級の同学年だし、不自然はないか。

 

「2人は友達なの?」

「友達……とまでは行かない、かも? クラスメイトかな?」

「はい、クラスメイトであると認識しています」

 

 驚愕。ピンクちゃんとブルボンちゃん、クラスメイトだったのか。

 トレセンってめっちゃマンモス校なので、ジュニア級の時はクラスが20近くある。

 なので、クラスメイトになるってのはかなりのレアだ。ブルボンちゃんとライスちゃんもクラスメイトじゃないくらいだもん。

 

 そうとなったら……うん。

 ブルボンちゃんが誰かさんみたいに孤立しないよう、先輩としてお願いしてみようか。

 

「そっか。……ピンクちゃん、ブルボンちゃんは少し抜けてるところがあるから、先輩としてよろしくお願いするね」

「あー、えっと……ブルボンさんは、そのぅ、私では近づき辛いと言いますか……」

 

 てっきり快く頷いてくれると思ったんだけど、彼女は少し申し訳なさそうな顔で言葉を濁してしまった。

 

 ……あー、なるほど、そうか。

 

 トレセン学園は中等部と高等部を内包する学園なわけで、そうなると当然と言うべきか、カーストだとかグループだとか、そういった面倒くさいあれやこれやも存在する。

 で、その最たるヤツが……何と言うべきか、「格」みたいな概念だ。

 

 例えば、あの子はG1級ウマ娘だから、重賞も勝てない子は近づいちゃダメだ、みたいな。

 そういった感じの、なんとなーく嫌な感じの雰囲気が、トレセン学園には漂っているのだ。

 

 いやまぁ、前の世界のものに比べるとだいぶマシなんだけどね。なにせイジメとかじゃないし、グループ間との争いとかもほとんどないし。

 ただ、やっぱり同じくらいの実力の子の方がレースも一緒になりやすいし、トレーニングも共にしやすくて、自然と接点が増える。

 そういった事情もあって、あくまで普段一緒にいるグループが違うってくらいの緩い、けれどそれでいて結構高い壁がそこにはあるのだった。

 

 私としちゃ、そんな空気感とかどうでもいいって思うんだけど……残念ながら、クラスの皆はそうは思ってくれない。

 ホシノウィルムの在籍するクラスには、私を除いてG2以上に勝てた子がいない。だから自然と、G1ウマ娘である私は浮いてしまう。

 その結果として、私はクラスでも孤立してしまっているのだった。

 ……いやまぁ、私が積極的にコミュニケーションを取りに行かないのも悪いんですけどね、はい。

 

 で、ピンクちゃんは……本人曰くG3からG2級の普通の(モブ)ウマ娘。

 ……未勝利戦に勝てず転校していく子も多い中で、G2でも十分に戦える彼女が「普通」なのかには疑問を挟む余地があるけど、少なくとも彼女の中ではそうなってる。

 そんな子がブルボンちゃんと仲良くするってのは……多分、ちょっとばかりハードルが高いだろう。

 

 この年代の女の子にとって、空気感ってのは最強の敵だ。服従するしかないレベルで。

 それに逆らうなんて、これ以上ないくらい恐ろしいだろうし……そんなことを可愛い後輩ちゃんに強いることはできないな。

 

「ごめん、なんでもないや。忘れて」

「すみません、お力になれれば良かったんですけど……」

「いや、これに関しては空気感を悟れなかった私が悪い。第一こっちが頼む側なんだから、気にしなくていいよ」

 

 申し訳なさそうに俯くピンクちゃんに、こっちまで申し訳なくなる。

 こういう時、どうすればいいんだろうな。互いに申し訳ないーってなった時、どうにも気まずいよね。

 どうしようかと頭を掻いていると、静観していたブルボンちゃんが口を開く。

 

「……抜けている、とはどういう意味でしょうか。何が抜けているのでしょう」

「あー……はは、気にしなくていいよ。ブルボンちゃんはそのままで、さ」

 

 気軽に応えたけど……もしかしてブルボンちゃん、意味わかってて聞いてる? ちょっと気まずくなった空気を気遣ってくれたのかな。

 

「抜けるとすれば、ネジ……? 確かに、今日の早朝から僅かな違和感を検出しています。どこかのネジが外れた可能性が……む、ポケットにネジが」

「ブルボンさん、本当にネジで体止めてるの!?」

「メカジョークです」

 

 ……やっぱりそうっぽい。

 ブルボンちゃんの渾身のギャグのおかげで、ピンクちゃんは笑ってくれた。その微笑ましさに、私も思わず口角を上げる。

 

 ブルボンちゃん、確かに天然ではあるけど、空気が読めない子じゃないし、ノリも良いんだよね。

 こうしてちょっと間が持たない時なんか、結構サポートしてくれたりもする。

 

 本当に良い後輩を持てたなぁ、私。

 こうして助けてもらった分、トレーニングに付き合ったり、相談に乗ったりして報いなければ。

 

 

 

 ……ところで、ブルボンちゃん。

 もしかしてその1発ギャグのために、ずっとポケットにネジ入れてたんだろうか。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、寮に帰って2人と別れ、自室に戻る。

 すると、そこには……。

 

「……おかえりなさい、ウィルちゃん」

「ただいま帰りました、ミーク先輩」

 

 私の敬愛する、めちゃかわ先輩ウマ娘がいる。

 

 珍しい白毛に、優しく垂れた薄いピンクの瞳。

 ゆったりとした雰囲気の漂う、けれどどこか油断ならなそうな、でもどことなく油断してもよさそうな、不思議な雰囲気を持つウマ娘。

 

 ハッピーミーク先輩。

 実はネイチャよりもずっと長い付き合いの、私の同室の先輩ウマ娘である。

 

 いつだったか、「空を眺めるのが好き」と言っていたミーク先輩は、今日も椅子に座って窓の外を眺めていた。

 いつもと変わらぬその姿になんとなく安心しながら、私は荷物を置いて、先輩に話しかける。

 

「今日は先輩の方が早かったですね。これでも早めに帰って来たつもりでしたが」

「……トレーナーが、スカイさんのトレーナーと出かけてしまったので。……今日は、お休みです」

「え、っと……トレーナーが? トレーナーと、お出かけですか?」

「……私のトレーナー、同期のトレーナーさんと、仲が良いので」

 

 ぽやーんと窓の外の赤くなっていく空を眺めながら、ミーク先輩は答えた。

 

 そういうこともあるのか。私のトレーナーじゃ、ちょっと考えられないことだ。

 ……いや、考えてみるとそりゃそうか。

 誰もがウチのトレーナーみたいなトレーナージャンキーなわけじゃない。というか、むしろ日常的な生活を投げ出してるトレーナーが異常なんだよね、多分。

 

 で、そうして軽く放置を食らってるミーク先輩は……。

 寂しそう、って感じ……じゃないな、多分。

 いつも通りの無表情だからわかりにくいけど、ミーク先輩のこの表情は、何かを考えてる時のものだ。

 

「ミーク先輩、何を考えてるんですか?」

「…………今年の、有記念のことを」

「あぁ、なるほど。ミーク先輩も出走する、という話でしたもんね」

 

 制服から私服に着替えていると、改めてミーク先輩はこちらに向き直った。

 いつもぼんやりとしている彼女の瞳は……今は夕焼けを受けて、赤く煌めいている。

 

「……今年は、短距離とマイルの年でしたけど……予定変更、です」

「やはり、黄金世代のお2人とスズカさん目当てで?」

「……はい。私の、ライバルたち。3年間では超えられませんでしたが、今なら、きっと」

 

 そう。

 ミーク先輩の戦績は、いわゆる「最初の3年間」は、そこまで振るったものではなかった。

 しかし、ある時期から徐々にギアが上がっていくように強くなっていき、最終的にはURAファイナルズの長距離決勝戦で優勝を収めるところまで行った……らしい。

 ちょっと前に、トレーナーからそう聞いた。

 

 3年間が過ぎて、ミーク先輩は遅咲きを見せた。トレーナーの言う「覚醒」ってヤツかな。

 それまではG2やG3を走っていたミーク先輩は、一気にG1に勝てるようなウマ娘へと昇華したんだ。

 

 ……けれどその頃には、同世代の多くのウマ娘たちがドリームトロフィーリーグに移籍したり、療養に入っていた。

 ミーク先輩が覚醒して以来、当時のライバルだったウマ娘たちとは、あまり多く戦うことができなかったんだ。

 

 でも、ついに。

 サイレンススズカさん、スペシャルウィークちゃん、セイウンスカイ先輩が参戦するレース……。

 今年の有記念でようやく、先輩にとって念願だっただろう再戦が叶うんだ。

 

 

 

「……それと、ウィルちゃん。……あなたも」

「え?」

「……あなたも、私のライバルです。……無敗の四冠ウマ娘、ホシノウィルムさん」

 

 ミーク先輩は立ち上がって、こちらに手を差し出して来た。

 その瞳の、いつも通りの柔らかな光の奥に……仄かな、けれど確かな熱を感じて……。

 

「……有記念、よろしくお願いします。

 ……絶対、負けませんから。むん」

 

 その熱と、言葉に、心を揺さぶられる。

 

 最初は、そのすごさを理解できず、ただの先輩として知り合って。

 付き合っていく内に、彼女と仲良くなり、そして同時に強さを知っていき……。

 

 ……そうして、今。

 私はようやく、現役最強ウマ娘の一角、ミーク先輩のライバルになれたのか。

 

「ふ……ふふ。はい、よろしくお願いします、ミーク先輩。

 まだ先のことになりますが、是非、良いレースにしましょう」

 

 心の底から、抑えがたい熱が込み上げる。

 

 あぁ……最高だ。

 強いウマ娘とのレースを予感するこの瞬間。

 胸の底に滾る熱、頭を破裂させてしまいそうなほどの興奮と期待、そして戦意。

 これに優る感慨はない。ここまで本能を満たす瞬間はない。

 

 あぁ、本当に……。

 ウマ娘に生まれ変わって良かった。

 

 

 

 来たる年末、有記念。

 ……そしてその前に立ち塞がる壁、海外のウマ娘たちとマックイーン先輩。

 

 ここ最近、人間関係とかで悩むことも多かったけど、やっぱり今は目の前のことに集中しないとね。

 さぁ……頑張るぞ!

 

 

 







 この世界のミークは覚醒済な上、領域持ちです。とても つよい。

 というか、めっちゃ強いURAハッピーミーク大先輩という幻覚を見て登場させたら、連載中に本編で本当に覚醒しちゃった……。
 こんなことあるんですね。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、ベゴニア賞の話。



(余談)
 どうしてもぼざろのギャグ二次創作を書きたい欲求を抑えられないので、本作の投稿頻度が3、4日に1度に下がるかもしれません。申し訳ない。そこまで長期的に書く予定もないので、その内ペースも戻るはず。
 こっちをメインに据えて、最低でも4日に1度は投稿できるよう頑張ります。


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うおォン 彼女はまるでウマ娘火力発電所だ

 夜は焼肉っしょォー!!





 

 

 

 11月中旬、秋も通り過ぎ、深まっていく冬の中。

 

 毎日をホ……ウィルとブルボンのトレーニングとか書類仕事、昌の教材作りや教育に費やす内に時は流れ……。

 ホシノウィルムのジャパンカップまではあと1週間にまで迫り。

 ミホノブルボンのメイクデビュー以来初となる、公式レースの日がやって来た。

 

 そのレースの名は、プレオープン、ベゴニア賞。

 

 トゥインクルシリーズでのクラス、つまり格付けは、上からG1、G2、G3、そしてオープンが来て、最後がプレオープンに分かれる。

 つまり今回ブルボンが走るレースは、最も格の低いレースなのだ。

 

 そのクラスが示す通り、ベゴニア賞はあまり注目が集まるようなレースじゃない。

 というかぶっちゃけ、去年ウィルが突破した葉牡丹賞と同じく、ブルボンにとってはG1レースへの足掛かりでしかない。

 

 勝って当然というか、今のブルボンのスペックで走るのなら、負ける方が難しいと言っていい。

 それこそメイクデビューの時と同じように、大きく出遅れしたって勝てるだろう。

 

 

 

 そう説明はしたんだけど、やっぱり先輩として心配にはなるんだろうね。

 

「ベゴニア賞って、どんなレースなんでしょうか」

 

 スタンドからターフを見ながら、どこかそわそわと落ち着かないホシノウィルムが呟いた。

 

「ブルボンの頭には既に叩き込んでいたが、そう言えばホシ……ウィル、君には語っていなかったな。

 やはり後輩のことが心配か?」

 

 あ、口元緩んでる。

 あの日「2人きりの時はあだ名で呼ぶ」と約束して以来、俺はそれを実行しているわけだが……。

 彼女、あだ名で呼ばれるたびに、ちょっとニヤついてるんだよな。

 普段被っている仮面を破って表情が出てくるところを見るに、余程嬉しいらしい。

 

 あだ名というのは、親愛の象徴。

 ただそれを呼ばれただけで喜んでしまうとは、やはり彼女は愛情に飢えているんだろうな。その生い立ちを考えればさもありなんだろう。

 俺は彼女にとって、ある時は保護者であり、ある時は友人であり、ある時は家族の代わり……にはなれないだろうけど、それに近い存在だ。

 かつて彼女が欠落してしまったものを、少しでも満たせるように頑張らなければ。

 

 

 

 ……と、そうじゃなくて。

 今は、今回のレースの話だ。

 

「ジュニア級の11月に開催されるプレオープンレース、東京レース場、芝の左回り、1600メートル。

 G1だとNHKマイルカップやヴィクトリアマイル、安田記念と同じコースだな。

 コースとしては、1600メートルでは第一第二コーナーを走らないので、実質的には長い直線、コーナー、そして長い直線の3段階で構成されている。

 特徴としてはやはり、東京レース場特有の非常に長い最終直線か。逃げウマ娘に不利……というか、後方の先行から追込のウマ娘にとって有利なコース、有利なレース場と言えるだろう」

 

 東京レース場。

 ホシノウィルムが出走した日本ダービーも、ここで開催された。

 結果論にはなってしまうが、現状無敗の彼女が、唯一ハナ差まで詰められたレースだ。

 雨天、かつ重バ場であったこと、まだ領域を習得していなかったこと、テイオーの圧倒的な末脚、そして長すぎる最終直線。

 これらの要因により、彼女はこれまでになく追い詰められてしまった。

 

 そしてこの内でも、最終直線の長さは非常に大きなウェイトを占めていただろう。

 

「実に500メートルを越える、第一コーナー直前まで続く広大な直線。

 新潟レース場を除けば最長のそれは、君もダービーで体験したように、逃げウマ娘にとっては非常に長く、逃げ切るには莫大なスタミナを要する」

 

 俺は大前提としてそう言ったんだけど、ウィルは不思議そうな顔で小首を傾げた。

 

「そんなに厳しいですかね。割といつも通りの感覚で逃げ切れたんですけど」

 

 ……ホントこの子は、常識外れな。

 確かにウィルのスタミナや根性の数値からして、クラシック級のペースでの直線も、そこまで負担にもならないのかもしれないけどさ。

 

 訂正。さっきの要因の内、最終直線の長さはそう大きなウェイトを占めてないかもだ。

 

「……それは、元よりステイヤー気質の君だからだ。そこまでスタミナが高いわけではないブルボンにとって、この最終直線は大きく響くだろう」

「でも、勝つんですよね?」

「勝つが」

 

 大きく響くとは言ったが、負けるとは言っていない。

 第一、ブルボンのスタミナ不足もある程度は解消できているしな。

 距離が2000メートル以上だったり、あるいはクラシック級以上のペースだったりすれば話は別だけど、ジュニア級のプレオープン、1600メートルで不足する数値ではなくなっている。

 

 更に言えば、勿論調子は絶好調状態だし、メイクデビューでの失敗を活かすためにスキル「集中力」を習得させている。

 ……いや、習得させているって言うとゲーム的に聞こえるけど、何度も何度も繰り返しスタートの練習をさせた、って感じね。

 やはりと言うべきか、「切れ者○」を持っていたウィルに比べると若干習得に手間取ってしまったけど、なんとか本番には間に合った。

 

 これだけすべての要素が揃った状態で、今のブルボンが負ける確率は……まぁ、1000回やって3、4回負けるくらいだろうか?

 流石に地力が違い過ぎるし、それこそ落雷とか致命的な事故でも起こらない限り負けやしないだろう。

 

「……彼女なら、期待を背負い込みすぎて潰れる、なんてこともないだろうしな」

 

 ステータス、スキル、そして調子も整った今のブルボンは、今年のベゴニア賞の出走メンバーの中でも群を抜いた実力を持っている。

 先程のパドックでも、彼女が登場した際にはちょっとしたどよめきが起きていたし……今も周りからは、彼女についての話が漏れ聞こえてくる。

 

「今回のレースはミホノブルボン一強だろうな」

「あのメイクデビューを見ちゃうとなぁ」

「中距離以上ならともかく、マイルまでで今のブルボンに勝てるヤツなんかいないだろ」

「それにあれだろ、確かトレーナーが……」

「公開されてるトレーニングもめちゃくちゃシビアって話だったし、さっき見てた感じ入れ込んでる風もなかったしね」

 

 それらの声が示す通り、ブルボンは出走メンバーでも最も期待されるダントツの1番人気。

 プレオープンレースにしては多くの観客たちが集まっているのも、ひとえに彼女がメイクデビューで見せつけたモノの違い故だろう。

 

 彼女の強さに、多くの人が期待を寄せている。

 ミホノブルボンなら、このレースを制し、朝日杯FSに勝って……。

 そして、不可能と思えるような夢を叶えるのではないかと。

 彼女なら、血という壁を越えて、クラシックレースすら制することができるんじゃないかと。

 

 ……本来ならば、そのあまりにも無謀な夢を信じる人は少なかったかもしれない。

 けれど……どこかのウマ娘が今年、「レースに不可能はない」ってことを証明してしまったからな。

 

 レースには夢がある。「もしかしたら」が叶うことがある。

 ならば、適性の壁を越えた、3000メートルの制覇も。

 2年連続のクラシック三冠も。

 あるいは……もっとすごいことすら、あり得るかもしれない。

 

 鹿毛の大逃げウマ娘の走りは、多くの人に、そんな夢を信じさせてしまった。

 

 これは、ブルボンとライスの菊花賞のことを考えると、少しばかり恐ろしいことだ。

 ブルボンに期待が寄せられるということは、即ち、それが破られた時の衝撃が大きくなるということでもある。

 もしも……もしも、前世のアプリと、そして史実と、同じ結末を迎えれば……。

 

 ……いいや。

 そうは、させない。

 

 俺はミホノブルボンのトレーナーだ。

 今世でどうだとか、前世のアプリがどうだったとか、そんなのは関係ない。

 彼女の勝利のため、宿願のために、俺は自分の持つ全てを使うだけだ。

 

 

 

 改めて内心で気合を入れ直していると、ウィルが改めて口を開く。

 

「今回は、ブルボンちゃんにどんな作戦を渡したんですか?」

 

 作戦。作戦か。

 「俺のすべてを使う」なんて気合を入れた直後にこんなこと言うのもなんだけど……。

 今回、特別な作戦ってものはないんだよなぁ。

 事前に取れる対策は全部取ったし、後は彼女らしく走ってもらうだけだ。

 

「複雑なものはない、いつも通りだ」

「『自分にとっての最適ペースを最初から最後まで維持する』っていう?」

「そう。ラップタイムを意識した、俗に言うラップ走法だな」

 

 脚質……逃げとか先行とかっていうのは、バ群と自分の位置関係によって決まる。

 例えば、どれだけローペースで走っていようと積極的にハナを奪いに行けば逃げ。逆にどれだけハイペースだろうと、バ群最後方にいれば追込と呼ばれる。

 

 そういう意味では、前世史実におけるミホノブルボン号の走りは、確かに逃げに分類されるだろう。

 何せバ群の先頭に立ち、そのポジションを維持する、っていう走り方なんだから。

 

 ……だが、それはただ前半でスタミナを使い、無理に前に出るという普通の逃げではない。

 

 俺やブルボンが目指すのは……言ってしまえば、スペック任せのゴリ押しな走りだ。

 「ブルボンの持つ機械的な程に正確なリズム感やペース測定能力を使って、テンから終いまで常に一定のペースで走らせる」。言ってしまえばそれだけの、非常にシンプルな作戦である。

 

 問題は、前半にも後半にも重点を置かないそんな半端な戦術が「逃げ」に分類されるってことで。

 つまるところ、ここで言う「一定のペース」はバ群の先頭に立つに足りるものであり、前半に比重を置いている他の逃げウマ娘と競り合える速度である必要がある。

 

 ……要は、ホシノウィルムの大逃げと同じ理屈だ。

 彼女にとってのミドルペースが、他のウマ娘のハイペースに当たる。

 故に、最初から最後までミドルペースで進むことが、他の子から見れば絶対に追いつけない弱点のない走りになる、って感じだ。

 

 「前半からハナを切って進み、そして後半も垂れずにペースを保つ」って意味では、この走りもまた、逃げウマ娘にとって理想のそれと言えるかもしれない。

 

 ……ただし、実現できれば、の話なんだが。

 

「ブルボンちゃん、その走り方、成功したことないですよね?」

 

 そう。

 ブルボンは掛かりやすく、自分の前にウマ娘がいる時に「前に進みたい」という本能を抑えきれない。

 故にここまでの1週間、ホシノウィルムとの併走トレーニングでラップ走法が成功したことはなかった。

 

 が、まぁそれはそうというか、成功しなくても大丈夫というか。

 

「まぁね。でもそこは……」

 

 と、俺が口を開きかけた時……。

 

 

 

「兄さん、買って来たけど」

 

 ちょうど、昌が戻って来た。

 

 俺と同じくスーツ姿の、見慣れた姿。

 ……じゃない。両手にこんな色々と抱えた姿を見慣れてるわけがなかった。

 

 俺やウィルは利用したことがなかったが、レース場には様々なファストフード店や、テイクアウトのできるお店が内包されている。昌の話じゃ、東京レース場なんか100軒近くあるらしい。

 

 俺たちがそれを使わない理由は簡単で、特に興味がなかったからだ。

 

 俺もホシノウィルムも……ああいや、ホシノウィルムはそうでもないみたいだけど、俺は特に食や味に強い関心を持っていない。ぶっちゃけ早急に体と頭を動かすエネルギーを補給できれば、泥水でもいいくらいだ。

 一方ホシノウィルムは、食に対する関心はそこそこあるっぽい。ただ、昔は強迫観念によって抑えつけられていたし、今はそれを超える走りへの欲求が優先されているようだ。

 

 つまるところ、俺もホシノウィルムも、グルメとレースならレース優先。

 レース場に来たら、まずはパドックとターフを見に行くので、そういうお店に行く優先度が下がってしまうわけだ。

 

 が、俺の妹である昌はそうでもないらしい。

 パドックを見た後、「じゃあ行ってくるから」と言い残して、彼女はレース場グルメ探求に出かけてしまった。

 

 そして、それから20分の探求の果てに、彼女の腕の中には……チュロスとドーナツ、それにポップコーン、パックの焼きそばが抱えられていたわけだ。

 

「……昌さん、それ全部食べるんですか?」

 

 買い過ぎでは、と思ったのは俺だけではなかったらしい。俺は怖くて口に出せなかったけど。

 彼女の質問に対して、昌は小さくため息を吐く。

 

「ホシノウィルムさん、私を大食いだと思ってます? 勿論あなたと……ついでに兄さんの分。

 私はチュロスをいただくので、2人は他のをどうぞ」

「トレーナー、どうします?」

「あー、じゃあ俺は……ごめん、しばらくご飯食べてないから、焼きそばもらっていい?」

「元よりこれ、兄さんに買って来たものだし。昔からこういうの好きだったでしょ」

「う、お恥ずかしい……。昌、ありがとうね。お代は後で払うから」

「いらない。ホシノウィルムさんは……ポップコーンはキャラメルですよね? ドーナツは甘そうなのを選んできてます。はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

 

 改めて、優しい子だなぁと思う。

 

 こういう時に外さないというか、自分の主義を貫きつつ他人への気遣いを怠らない。

 彼女は昔から……いや、昔からって程じゃないかな。中等部あたりに進級したあたりから、こういう対人関係の努力を怠らない。

 

 大概のことで守りの方が強いのが世の常だけど、人間関係に関しては攻めの姿勢が肝要だ。自分からアクションを取らないと望んだ方向に動くことは少ない。

 そういう意味で、堀野昌という女性は非常にアグレッシブだ。細やかな気遣いやプレゼント、何気ない言葉とか差し入れとかで相手の心を掴むことに長けてる。

 

 結果として……。

 

「あむ……ん、あま」

「美味しいですか?」

「はい! 一口食べます?」

「ふふ、大丈夫。味わって食べてくださいね」

 

 ウィルは、ご覧の通りガッツリ胃を掴まれてしまっている。

 普段のウィルを見ても、昌には少しだけ気安く接しているのがわかるし、既に2人は信頼関係を結んでいると見て間違いないだろう。

 

 そう。

 昌は、俺が2年弱かけてウィルとの間に築いた信頼関係を、たったの1か月で築いてしまっているのだ。

 

 なんとも恐ろしい妹である。トレーナーとしての仕事の技量は、まだまだ不慣れということもあって特段見るべきところもないが、対ウマ娘のコミュニケーションに絞って言えば俺の何十倍も上手い。

 正直に言えば、それが誇らしいと同時、少しだけ羨ましい。

 

 ……いや、羨ましい、じゃないな。

 これは昌が頑張って習得した能力だし、羨ましがるくらいなら俺も習得すればいいだけだ。何年かかるかわからないけど。

 

 熱い焼きそばを口に運びながら、次に学ぶべきことに思いを巡らせていると、昌が口を開いた。

 

「……それで、話を遮っちゃったみたいだけど、何の話してたの?」

「んぐ。あぁ、ミホノブルボンの、ラップ走法についての話だよ」

「あの『最初から最後まで同じペースで走る』ってヤツ? あれ、実現できるの?」

「その可否について話していたところ。まぁできるかできないかで言うと、彼女のペース感やリズム感はかなり正確だからできるだろうけど、問題は本番で前にウマ娘が……」

 

 と、改めて話を続けようとした時。

 出走直前を告げる、ファンファーレの音が聞こえて来た。

 

「……まぁ、続きは実際のレースを見ながら話そうか」

 

 論より証拠、百聞は一見に如かず。

 

 俺の推論と兄さんの理論が間違っていなければ……。

 今回、ミホノブルボンのラップ走法は成功するはずだしな。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、ゲートインと言うと……やはりブルボンのメイクデビュー、他の子たちのゲートインが遅れて彼女が集中力を欠き、出遅れてしまったことが記憶に新しい。

 あんなことになると、流石のブルボンでも戦略も何もなくなるんだけど……。

 

 果たして今回は、比較的スムーズにゲートインが完了している。

 

「ひとまず一安心、ですね」

「うん、流石に前回と同じじゃ、ブルボンが学べることも少なくなるからな」

「……あぁ、そう言えば彼女のメイクデビューでは、ゲートインが遅れて出遅れたんでしたか。資料で読みました」

 

 そう言えば、昌が来たのは1か月前、ブルボンがメイクデビューを終わらせてからだいぶ後か。

 

 堀野昌という女性は、潤滑油みたいな存在だ。いや面接で言う定型文とかではなく、本当の意味でね。

 人と人の間にするっと入り込み、その関係性を滞らせることなく自然とそのグループに馴染み、そしてより円滑に事を進ませる。

 

 実際に俺のサブトレーナーに付いてくれてからも……まぁ若干俺への当たりが強いところは残っているけど、それでも仕事のことになったら素直に話を聞いてくれるし、公私混同にはならないレベルに留めてくれてる。

 ウィルやブルボンとの良好な関係性も築いてるし、だからと言って必要以上に干渉しようともしない、絶妙な位置から2人を支えてくれている。

 

 そして、そんな自然な立ち位置にいるからこそ……彼女が来てからそんなに経っていないって事実を忘れそうになる。

 

 俺がウィルと契約してからは2年弱、ブルボンと契約してからは……まだ3か月か。そして昌がサブトレーナーに付いてくれてからは、たった1か月しか経ってない。

 なんか後半に行けば行くほど、どんどん体感時間が長くなっているような……いや違うな、1日1日の情報量が多くなったのか? むしろ体感時間は短くなっていってる気がするな。

 

「スタートの練習は十分に積んだ。多分、今日は失敗しないはずだよ」

 

 ……さて、そろそろレースが始まる。

 俺は改めて、ウマ娘たちが収まっているゲートの方に目を向けた。

 

 頑張れ、ミホノブルボン。

 

 

 

 

『ゲートインが完了、出走の準備が整いました。

 ……スタート!』

 

 

 

 俺たちの視線の先で、ジュニア級のウマ娘たちが一気に駆け出す。

 中でも好スタートを切ったのは……ブルボンと、もう1人の逃げウマ娘だ。

 「集中力」は無事発動したのか、悪くないスタートダッシュを切れてるな。

 

 ……けど、少し困ったことも発生している。

 

「掛かってない? 向こうの子」

「ああ、掛かってるね」

 

 ブルボンと先行争いしていた逃げウマ娘の子が、かなり掛かってしまってる。

 彼女自身のペースを乱し、ブルボンよりも先に行こうとして……。

 

 半ばやけくそに競り勝ち、前に、出てしまった。

 

「……!」

「マズい……のかな」

 

 ホシノウィルムは息を呑み、昌は少しだけ眉をひそめる。

 

 掛かりやすいミホノブルボンにとって、周りに……特に、前にウマ娘がいるという状態は望ましくない。

 従来通りの彼女ならば、そのウマ娘に追いつこうとして掛かり、ペースを乱してしまう。

 

 ……と。

 2人の目には、そう映ったのだろうが。

 

 

 

『2番手ミホノブルボン、やや離されたように見えたが内に入って冷静に見ているぞ』

 

 

 

 ミホノブルボンは、掛からない。

 番手として、先頭のウマ娘を……いいや、その先のターフをその目で捉え、ミドルペースでインコースを駆け抜ける。

 

 その光景を見て、ウィルは少しだけ驚いたような声を上げる。

 

「……ブルボンちゃん、意外と冷静に走れてませんか?」

「ああ。ここしばらくのトレーニングの成果だよ」

「えっと……でも、ずっと掛かっちゃってましたよね」

「そりゃ、君相手だからな」

 

 ……そう。

 そりゃあ、ホシノウィルムと走るとなれば、掛からないわけがないんだ。

 

「ミホノブルボンがずっと一緒に走っていたのは、無敗の三……いや、四冠ウマ娘であるホシノウィルムだ。たとえ本気ではなかったとしても、その存在感はジュニア級のウマ娘の比にはならない。

 その圧力に晒され続けたミホノブルボンは、君の存在感に慣れている。その感覚を基準にしている。

 だから今の彼女は、あの子たち程度の威圧感なんて気にならないんだよ」

「えっと、つまり……これまでのトレーニングは」

 

 ウィルはどこか戸惑ったように言葉を紡ぐ。

 ……あれ、説明してなかったかな。いや、説明した気がするけど。

 

「ミホノブルボンには『威圧感に慣れるまで走れ』と言っただろう?

 君の威圧感に慣れさせ、他のウマ娘の存在へのセンサーを鈍らせる……いや、少し言い方が悪いか? より強いウマ娘にしか反応しないよう、基準を上げるためのものだ」

 

 ミホノブルボンの掛かり癖は、気性の問題だ。そう簡単には解決できることじゃない。

 ウマ娘の気性について詳しい兄さんに聞いてみても、たった数か月で気性難を解決したという話はそうそう聞かないらしい。

 抜本的解決を図るためには、年単位の長い時間がかかると思われた。

 

 しかし、来年のクラシックレース……そして年末のG1レースまでには、時間がない。

 

 彼女の掛かり癖の完全な解消は望めないだろう。

 では、考えなければならないのは何か?

 掛かり癖が残った状態で、掛からないようにするにはどうすればいいか、である。

 

 「掛かり癖がある」と、「掛かってしまう」。

 この2つの事柄の間には、僅かながら間隙がある。

 より細かく分析するのなら、「掛かり癖がある」、なおかつ「他のウマ娘の存在を知覚する」、そして「知覚したウマ娘に闘争本能を掻き立てられる」。この3つの条件を満たした時、ミホノブルボンは掛かってしまう。

 

 この内「掛かり癖がある」の部分の解消は、現状難しい。

 では「他のウマ娘の存在の知覚」を拒絶するのは……これもまた難しいし、何より危険だ。そこまで深い暗示状態に持っていくのは、兄にはともかく俺には難しいだろうし、完全に知覚しなかったら激突するなどの危険もあるので却下。

 

 であれば、最後に残った「知覚したウマ娘に闘争本能を掻き立てられる」。

 これを阻止すればいい。

 ミホノブルボンが一緒に走って、他のウマ娘の存在感を知覚しても、「なんだ、この程度なのか」と感じるように……。

 すごく言い方が悪いが、まるで路傍に転がる石を知覚するように、「転べば危ないけど恐れるに足りない、回避すればいいだけの存在」であると認識すればいい。

 

 そのために、現役最強の一角である彼女と走らせ続けた。

 あまりに大きな背中、あまりに強い姿を見せつけ続け、彼女の感覚を狂わせた。

 

 それが、この数日のトレーニングの内容であり、成果だった。

 

 

 

 兄さんにも相談して取った作戦だったけど、目の前のレースを見るに、無事成功したらしい。

 ミホノブルボンは掛かることもなく……周りのウマ娘を気に留めることもなく走り続けている。

 

 正しく、彼女ただ1人のレース。彼女自身との戦い。

 それはミホノブルボンにとって、これ以上ないくらいに理想的な状況だった。

 

 しかしウィルと昌は、目の前のレースの状況より、俺の言葉に気を取られていたらしい。

 2人して驚いたような、あるいは呆れたような声を上げる。

 

「そ、それは……」

「……本当、めちゃくちゃなやり方」

 

 え、そんなにめちゃくちゃかな。

 Aという達成目標があり、Aのための手段はBとCとDの3つ。BとCが実行不可能なら、Dを実行する。

 殊更におかしなやり方ではないと思うんだけど。

 

 ……あぁいや、まぁブルボンの感覚をイジってしまったのは少し問題ではあると思うんだけども。

 しかし現状の問題を解決するにはそれしかなかったし、兄にも相談してブルボンの精神状態に大きな問題が生まれないだろうことは確認済みだし。

 

 

 

 何より……。

 俺は彼女に、助けを乞われたんだ。

 『私のオーダー、クラシック三冠の達成にご協力ください』と、そう言われた。

 

 助けてほしいと言われれば、何をしてでもそれを叶える。

 それは至極当然のことだ。

 だから、現実的に取り得る最良と思われる方法を選んだ。

 

 それだけだ。

 

 

 

「ミホノブルボンが勝利を望んだからな。であれば俺は、考えられる安全かつ最速の方法で、彼女を導くだけだ」

 

 そう呟いた俺が見ている先で……。

 

 ブルボンは盤石にレースを進め……いいや、そのマイペースで他のウマ娘たちを振り回して、レースはいよいよ終盤に差し掛かる。

 

 

 

『さぁ最終直線に入って押し出されるようにミホノブルボン先頭に立ちました!

 横に広がって良いレースになってきた残り400メートル、しかし先頭は敢然としてミホノブルボン!

 これは独走、坂を駆け上がって差が開く一方! 6バ身7バ身8バ身まだ開くか! そのまま影も踏ませずゴールイン!!』

『他のウマ娘がスタミナを切らしてペースダウンする中、ただ1人だけ正確無比にラップを刻んだ走りでモノの違いを見せつけましたミホノブルボン! 2着との差は堂々の大差!

 これは年末朝日杯の有力候補! ジュニア級王者の冠の1つは彼女の手に渡るのか!?』

 

 

 

 至極当然のように。

 ミホノブルボンは、勝利した。

 

 土台、ジュニア級のウマ娘はレースに不慣れだ。

 1600メートルという距離の中で、自分の脚質やバ群の状況を見ながらスタミナを割り振るのは、実のところかなり高度な技術だ。まだレースに慣れないジュニア級の子には難しい。

 故に、誰かが前に出たり、特に強い子がいると、焦って掛かってしまうのは珍しいことじゃない。

 

 そんなレースで、飛び抜けた力を持つミホノブルボンが、過たず一定のペースで駆け抜けた。他の子が脚を使う時も、息を入れる間も、だ。

 周りはそれを見て大いに焦ってしまったんだろう。「ミホノブルボンは冷静にレースを進めてる」「ミホノブルボンが仕掛けた」と、彼女の存在に翻弄された。

 その結果、彼女たちはスタミナを消耗してしまい、500メートルを越える長い最終直線は、ただミホノブルボンに引き離される結果となってしまった。

 

 そうして、決着。

 今年のベゴニア賞、その結末はミホノブルボン1着。2着との着差は、大差。

 まるでホシノウィルムの後を追って走るように、彼女は次の戦いに駒を進めることになった。

 

「良かった……」

 

 呟かれた声にちらりと見れば、ウィルの表情が安堵に緩んでいた。

 

 この子、なんだかんだブルボンには優しいというか、割と先輩としてしっかり面倒を見てるんだよな。

 

 2年前に出会ったばかりの頃の彼女を思い出すと、ちょっと同一人物とは思えないくらいに、ホシノウィルムは変わった。

 幼い頃の経験によって妨げられていたが、それが本来彼女の獲得するはずだった人間性……ウマ娘性? なんだろう。

 

 それを少しでも引き出せたのは……。

 

 ……いや、満足しちゃいけない。

 まだまだここからも、俺はトレーナーとして彼女を、彼女たちを支えていかなければ。

 

 

 

 と、少しながら感慨に浸っていたんだけど。

 横にいた昌が、ふと口を開いた。

 

「で、兄さん。祝勝会はいつするの?」

「え、いや、特にする予定はないけど」

「は? なんで? あんなに頑張ったんだから、祝ってあげるべきでしょ」

「いや、彼女たち『そんなことよりトレーニング』派だし……」

「私が来た時はやってたでしょ」

「あれはホシノウィルムの三冠記念だからなぁ」

「担当の勝ちにG1もプレオープンもないでしょ。全部祝ってあげるべきじゃないの」

「いやまぁ、それはそうかもしれないけど……」

 

 この子たち、本当に「そんなことよりトレーニング」なんだよなぁ。

 この前のように大々的なパーティを開こうとすると、丸1日飾り付けに時間がかかる。

 そうなると、当然ながら彼女たちのトレーニングに穴が開いてしまうわけだ。

 せめて去年のウィルのように、初G1勝利で記念に、とかならいいんだけど……。

 

 しかしながら「担当の勝ちにG1もプレオープンもない」という昌の意見も間違いなく事実。

 考えてみれば、一応「ご褒美権」という堀野家3代前のやり方を真似こそしているものの、確かに彼女たちには自分たちのレース結果に対してろくな報酬が払われていない。

 彼女たちがお願いしてくれば俺は大体それを叶えるために行動するだろうし、俺への絶対命令権なんぞあってないようなものかもしれない。

 

「ふむ……」

 

 これは由々しき状態だ。下手をすれば彼女たちのモチベーションを下落させてしまいかねない。

 いや、別にウィルからもブルボンからも不満は上がってないけども。

 それでも、もしこの改善によって彼女たちのモチベーションが更に上がるというのなら検討の対象だ。

 

 では、実際にどんな報酬を与えればいいのか?

 

 ……いや、どんな報酬を与えればいいんだろう? なんもわからん。

 

 黙ってしまっている俺に気を遣ってくれたか、ブルボンに手を振っていたウィルが声をかけてくれた。

 

「では中間を取って、4人でどこかに食べに行きませんか」

「ふむ、素晴らしい落としどころだと思います。兄さんも、それで構わないでしょ」

「……そうだね、それなら予定も圧迫されることもないだろうし、本人が望むなら問題ないかな。ありがとう、ホシノウィルム」

 

 

 

 そんなわけで。

 ミホノブルボンがウイニングライブを終えた後、俺たちはブルボンの祝勝会として、かなりお高い焼肉屋さんに赴いた。

 

 俺や昌が人間として常識的な量を胃に収めていく横で、やはりウマ娘たちはとてつもない健啖っぷりだった。

 いや、健啖っていうか……特にレースを終えたブルボンは「エネルギー補給の要あり」って次から次へと焼いては食べ焼いては食べ……。

 

「こ、これは……経費、無理かな……」

「……兄さん。私もサブトレーナーだし、言い出した責任はあるし、折半でいいから」

 

 あの昌が俺に気を遣ってくれるという珍事が起こるくらいに、その結果は恐ろしいものだった。とだけ。

 

 

 







Q.担当の掛かり癖にどう対処しますか?

 普通のトレーナー:掛からないように注意させる
 一流トレーナー:掛かってもケアできる作戦や、それを強みにする走法を捜索する
 堀野歩:担当の感覚を壊して正常に判断できなくさせる

 こんなヤツが主人公でいいのか



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、彼女から見た彼の話。



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 ぼっち・ざ・ろっく! の二次創作も始めました。
 こっちと違ってゴリゴリのギャグになる予定です。
 興味がある人は是非……見てください!

 ぼざろ世界に転生したから全力で楽しみたい転生者の話


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暗雲! 彼私情

 やってみてわかったんですけど、小説2本同時連載は結構負荷かかります。
 平然とやってる作者様方は超人か何かかな?





 

 

 

 ジャパンカップまで1週間を切り、ブルボンちゃんの次は私の追い切りが始まった。

 その内容は、いつものトレーニングをかなりハードにした感じで、多分だけどブルボンちゃんは付いてこれないだろうなぁってもの。

 逆に、私にとってはこれくらいしないと追い切りにならないんだけどね。

 

 私とブルボンちゃんは、ぶっちゃけちょっとばかり地力に差がある。

 これは才能とかチートとか以前に、私の本格化を迎えてからの期間がブルボンちゃんの2倍近く長い、って点が大きく響いてる。

 生まれてから20年の人と10年の子では色々と比べられないように、現状では私とブルボンちゃんは比べられるレベルじゃない。

 

 ……そう考えると私、今更ながら、よく宝塚記念に勝てたな。

 まぁあの時は、領域の覚醒とチートの本当の使い方がわかって、とんでもなく全能感あったからなぁ。

 バトル漫画とかだったらまず負けない展開だったし、そういう運命力とか勢いみたいなのもあったのかもしれない。

 

 勿論、今の私にそんなバフは残ってない。

 気を付けないとね。

 あの日に越えられたからと言って……今週末も、あの芦毛の星を越えられるとは限らないんだから。

 

 そんなことを考えながら、1度足を止める。

 

「ふうっ……よし、調子良好」

 

 今日はネイチャたちとの合同トレーニングでもなく、ブルボンちゃんも1日お休みだから、1人で走っていたんだけど……。

 うん、脚の調子は悪くない。体も心も、しっかりレースに向いて一直線だ。

 

 というか、心の方は無理やりレースに向けてるんだけども。

 

 最近は……というかあの宝塚記念で「寒い」と「温かい」を切り替えるスイッチを手に入れてから、私は気持ちの切り替えがすごく上手くなった。

 

 そりゃあ私だってこの世界に生きるウマ娘、気分が沈んだり、あるいは逆に高揚することもある。

 そんな風に集中を乱したまま走るのは、非常に危険なんだけど……。

 そこで役に立つのが「寒い」スイッチだ。

 

 レース前になると……というか、最近は他の子がいなくとも、走る前になると動かせるようになる「寒い」スイッチ。

 これをぽちっとオンにすることで、私の思考はすごく冴え渡り、同時に静まっていく。

 

 例えるなら……そうだな、荒波だっていた心の湖の表面が凍り付く、と言えば伝わりやすいかな。

 表面が凍り付けば、その下で荒波だっていようが何の問題もない。その上を渡るのも、一部だけ穴を開けて釣りをするのも自由自在である。

 

 勿論スイッチオフすれば氷が解けて荒波だっちゃうので、何か気になることがある時なんかは基本的に「寒い」モードで走るのがいいだろうね。

 あるいは、レースに夢中になって、心の湖の考え事を全部蒸発させるような「熱い」モードか。

 

 どちらにしろ、走る時には必ず好調……というか絶好調な状態に心を持っていけるっていうのは、すごく大助かりだ。

 やっぱり走りに気分が乗ると気持ち良いし、ずっと走っていたくなる。走りが楽しくなるんだ。

 

 走るのを楽しむことは大事だと思う。

 トレーニングを楽しんで、レースを楽しんでこそ、私たちウマ娘は生きている実感を得られるんだから。

 

 

 

「よし、あと1周……」

 

 気合を入れて、もう少し走って行こうとした時。

 ポケットに入れていたスマホが振動した。

 

「ん……あれ、トレーナー?」

 

 画面には、トレーナーからメッセージが届いたという旨の通知が表示されていた。

 どうしたんだろう。どんなことであれ、そろそろトレーニングの時間も終わってミーティングがあるんだし、そこで言えばいいと思うんだけども。

 

 えっと、内容は……。

 

『今日のミーティングは中止する。トレーニング後は直帰するように。明日以降の連絡は次いでLANE上で行う。

 今日は過度な自主トレーニングをせず、しっかりと体を休めること』

 

「……んー?」

 

 珍しい、というか……。

 こんな直前になってトレーニング後のミーティングを取りやめるなんて、初めてのことだ。

 

 トレーナーはスケジューリングの鬼なので、当然と言うべきか、自分の予定に関してもかなり細かく組み上げている。

 前もって予定があるとわかっているのならこんな直前の連絡にはならないだろうし、もうそろそろ6時になろうかって時間に急な予定が入るっていうのも……あり得ない話ではないんだろうけど、なんとなく違和感があるような。

 

 ……なんて思ったけど。

 

「ま、何か都合があったんでしょう」

 

 そう結論し、私はスマホをポケットに突っ込んだ。

 

 私は結局前世でも大学生止まりで、社会に出たことすらない。

 だから知らないってだけで、社会人になると夕方でも問答無用で用事を入れられるのかもしれないし、残業上等なのかもしれない。

 ……というか、話を聞くに中央のトレーナーって結構ブラックらしいし、トレーナーもいっつもトレーナーしてるし……もしかしてウマ娘の契約トレーナーって、めちゃくちゃヤバいお仕事なのでは?

 

「……トレーナー」

 

 トレーナー、いっつもトレーナーしてる……。

 自分で考えたことながら、少しだけ引っかかる。

 

 そう言えば私、「トレーナーをしていない歩さん」と話したことってない……のかな。

 

 トレーナーは一時期、「堀野のトレーナー」という強い強迫観念を持っていたことがあった。

 堀野という名家のトレーナーとして、自分はその家の理想を体現する存在でなければならない……みたいな、そういう感じに。

 今は「堀野のトレーナー」より「私のトレーナー」を優先してくれるようになったので、それはもう普通に、というかめっちゃ嬉しいんだけど……。

 

 結局、「堀野のトレーナー」が「ホシノウィルムのトレーナー」になったというだけで、トレーナーという仮面を外して私を見てくれたことは……。

 ああいや、宝塚記念の直後……あの瞬間は、トレーナーというより……いや、どうだろう、わかんないな。

 

 私は歩さんのことを知っているようで、実は全然知らない。

 人間関係において2年弱という時間は長いようで短いし、その内の大半を、私たちは担当ウマ娘と契約トレーナーとして過ごしてきた。

 そりゃ好きなもの嫌いなものくらいならともかく、そういう表層的なものじゃない、深層的なことについては全然……。

 

 いや、待てよ? トレーナーの好きなもの、嫌いなものってなんだ……?

 歩さんが食関係で好き嫌いしてるとことか見たことないし、色とか天気とかの好みなんて知らない。

 強いて言えば、嫌いなのは安定しない戦術で、好きなものは…………私、とか?

 

「へ、へへ、照れますね……」

 

 思わずてれてれとその場で身をよじる。

 で、数秒後正気を取り戻した。何やってんだ私、恥ずかしい。

 

 ……うん、トレーニングも終わりの時間だし、もう今日は帰るか。

 ちょうど疲れも溜まってるし、トレーナーに言われた通り今日は自主トレを控えて、ぐっすり寝るとしますかね。

 

 

 

 そうと決まったら、ロッカーに叩き込んである制服に着替えて……。

 っとと、あれ?

 

「本……」

 

 そういえば、あの本どこにやったっけ。

 トレーナーから暇なときに読むようにと渡された、『新世代レース戦術概論』……みたいな題名の本。

 お堅い学術書かと思ってちょっと驚いたけど、蓋を開けてみるとその中身は普通に読みやすくて面白い解説書で、思わず夢中になって読んでしまったんだよね……。

 個人的にはなんでグラスワンダーちゃんがグランプリで強かったのかの考察の章とかめっちゃ面白くて大好きで……いやそれはともかく。

 

 渡されてから、トレーナー室で夢中になって読んでて、それで……確か、もっと夢中になれることがあって……。

 そう、トレーニングの時間になって、放り出してしまったような?

 

 ……思い出した。多分あの本、トレーナー室に置きっぱなしだ。

 

 別に明日取りに行けばいいんだけど……うーん、せっかく今日は自主トレなしって決めたし、夜のお供が欲しいんだよね。

 ちょっと面倒だけど、取りに行くか。

 

 もしかしたら、もうトレーナーが鍵を閉めちゃってるかもしれないけど、まぁその時はその時だ。

 取り敢えず行ってみるだけ行ってみようか。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 トレセン学園のトレーナー室では、ローテーションや次のレースでの作戦など、外に漏れてはいけない話をすることも多い。

 故に、防音機構はしっかりしており、たとえ扉の前にいようと中の会話は聞こえてこない程だ。

 

 ……勿論それは、きちんと扉が閉められている場合に限るんだけど。

 

 

 

「兄さんはいつもそんなことばかり言って、私たち家族の気持ちを考えたことあるの!?」

「落ち着いて、昌」

「落ち着かない、落ち着けないから! 自分だけの命だと思ってるの!? 兄さんが死んだらっ……皆が、どれだけ悲しむと思ってるの!?」

「い、いや、死なないよ。というか死ねない。まだ担当の子たちが走ってるんだから」

「だからッ! ふざけんな、担当担当担当って! 兄さんは担当ウマ娘のために生きてるの!?」

「……? いや、そうだけど」

「ッ!!」

 

 

 

 ……マズいな。

 すごく……その、入りにくい。

 

 私がトレーナー室の前に来た時には、既に廊下に昌さんの声が響いていた。

 そこまで大きくない、人間なら聞き取れないくらいのものだけど……それでも、私たちウマ娘なら、十分に聞き取れるくらいの音量で。

 

 その会話から察するに、トレーナーと昌さんが喧嘩してる……というか、昌さんが一方的に怒ってるのは間違いないだろう。

 その怒りの矛先はトレーナーで、怒ってる原因は……多分、トレーナーが寿命を縮めるような無茶でもしちゃった、って感じだろうか。

 トレーナー、普通に寝なかったりするからなぁ。私もよく注意してるんだけど、残念ながら改善の見込みはない。

 昌さんが怒る気持ちも理解できない話じゃない。というか、すごくよくわかる。

 

 他人の喧嘩を盗み聞くのは少し心苦しいけど……歩さんはこういう時に相手の堪忍袋の緒をぶった切るのが非常に上手いイメージがあるので、刃傷沙汰になる前に上手く仲裁に入るべきだろう。

 いや、何も昌さんが刃傷沙汰を起こすと思ってるわけじゃない……というか、歩さんとの付き合いも長いだろう彼女が暴走するとは思い難いけど、万一のことを考えてね。

 

 いつインターセプトに入ろうかと迷っている内に、部屋の中の2人の会話、というか昌さんの口調は更に熱を上げていく。

 

 

 

「それやめるんじゃなかったの!? 堀野のトレーナーは辞めて、あの子のトレーナーになるんでしょ!?」

「うん、そうだね。俺はもう堀野のトレーナーじゃない。でも彼女のトレーナーとして、命をかけて彼女を支えたいと思ってるよ」

「それじゃ何も変わってないッ!! ただやり方を変えただけで、結局兄さんの理想像を押し付けてるだけじゃん!!」

「落ち着いて、昌。なんでそんなに怒ってるの? 一旦落ち着いてから話そう?」

 

 

 

 あぁ、そりゃ悪手ですよトレーナー。

 激している女性に対して「なんで怒ってるの?」は、禁句だ。

 例えると真面目にサッカーやってる人に「何真面目に玉蹴りやってんの?w 暇なの?w」って言うくらい禁句。

 

 女性に限らず怒ってる人っていうのは、一旦怒りの感情を吐き出し切るか、時間経過で自然消滅するまではまともに話ができない。

 なので対話をするのではなく、可能な限り相手を刺激しないように聞き役に徹するか、あるいは一旦時間を置いて冷静にさせるかしないといけないんだけど……。

 その辺の機微、トレーナーには難しいかもしれないね。人の情緒への理解が浅すぎることに定評がある歩さんだし。

 

 しかし、改めて2人の会話を聞いてると……。

 やっぱり昌さんって歩さんのこと好きなのでは? と思わざるを得ない。

 彼女の言葉は、他人第一にせず、まずは自分の体のことを考えろという趣旨。つまりはただ、彼の体や健康を考えての、他者のための怒りだ。

 嫌いな人にそんなことを言うだろうか? ウィルムは訝しんだ。

 

 まぁ人間の感情って二元論的なものじゃないし、「嫌いだけど好き」みたいな奇妙な感情を抱くこともあるだろうから、何とも言えないんだけど……。

 あれかな、人間としては嫌いな部類だけど、兄妹して一定の親愛の感情はある、みたいな?

 私からすると歩さんを嫌うっていうのはちょっとよくわかんないけど、まぁ人の嗜好っていうのは十人十色なものだしね。

 

 しかし、もしそうだとすると、何というか、なかなか複雑な兄妹事情だな。

 堀野家の家庭環境、だいぶ地獄そう。いや1つの家庭を崩壊させた私が言えることではないけども。

 

 そんなことを考えながら、私はトレーナー室の扉の前で「今行くか。いや、まだか。いや、今か?」と取っ手に手をかけたり離したりしてたんだけど……。

 

 

 

 次の瞬間、聞こえてきた声に、手を止めた。

 

 

 

「だからトレーナーなんてやめろって言ったの! 兄さんには向いてない! そうやって悪化するだけだって!」

 

 

 ……トレーナーを、辞めろ?

 それは、どういう……。

 

 思わずピクリと、手が震えて。

 それが思ったよりも強く、扉を動かしてしまい。

 

 ガラ、と……完全に閉まっていなかった扉が、音を立てて、少しだけ開いた。

 

 その先にいた2人は、同時にこちらを見て……。

 

「ホシノウィルム? なんで……今日はミーティングは中止って」

「ホシノウィルムさん……っ!」

 

 トレーナーはきょとんとした表情を。

 昌さんは……少しだけ焦ったような表情を浮かべた。

 

「えっと、すみません、盗み聞きするつもりはなかったんですけど……。

 すみません、お邪魔でしょうし、帰りますね」

 

 バレてしまった以上、退散あるのみだ。

 昌さんの発言の真意は気になるけど、まぁそれは後日に聞くなりすればいいし。

 

 そう思って振り返ったんだけど……。

 

「待って!」

 

 その腕を、昌さんが掴んだ。

 

「説明、させてください。私は……あなたの敵ではないし、そうなりたくないんです」

「え? は、はい……」

 

 それは、いつもクールな昌さんにしてはすごく焦っている、感情の露出した声で。

 その勢いに、私は思わず頷いてしまったのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そんなわけで、数週間ぶりの昌さんとのお話・イン・オシャレカフェが開催された。

 参加者は勿論、私と昌さんの2人。

 そして、今回のメニューは……。

 

「えっと、ダークモカチップフラペチーノ? の……チョコチップ増量でお願いします。あ、サイズ……えっと、トールで」

 

 いつまでも昌さんの善意に頼るわけにもいかないし、自分でオーダーしてみた。

 前回に比べてだいぶシンプルな感じになっちゃったけど、まぁ初心者はまずこんなもんだろう。

 あんまり欲を出せば恥をかく可能性もあるし、まずは一兎から確実に追っていきたいところ。

 

 さて、私はそんな感じに落ち着いてたんだけど。

 一方で……。

 

「お、お恥ずかしいところをお見せしました……」

 

 昌さんは、顔を赤くして俯いていた。

 どうやら感情を丸出しにしてるところを見られたのが恥ずかしかったらしい。

 昌さんの余裕のなさそうな態度は珍しいので、なんというか、ちょっと趣味が悪いかもしれないけど、新鮮で楽しいね。

 

「私は気にしてません。大人でも怒ることがあるっていうのは理解できますし、トレーナーの態度は……まぁ、少しアレなものがありましたし」

「すみません、ご理解いただいて助かります。……あなたが大人びたウマ娘で本当に良かった」

 

 そう言って昌さんは珍しく笑顔を浮かべ、そしてすぐにそれを打ち消して、頭を下げる。

 

「改めて、まずは謝罪させてください。あなたに誤解を与えかねない発言をしたことを。

 いくら感情が荒ぶっていたとはいえ、失言でした」

「えっと、その発言っていうのは……」

「『トレーナーを辞めろと言った』という部分です。あなたから聞けば、私があなたからあなたのトレーナーを引き離そうとしている、と聞こえてもおかしくないものだったでしょう」

「あぁ、やっぱりそこですよね」

 

 まぁ確かに、ちょっとびっくりした。私が前世の人格とかがないただのウマ娘なら、そう思っていてもおかしくはなかったかも。

 でも、私は転生者だ。ディスコミュニケーションというのはそういうところから発生するってのを十分すぎるくらいに理解している。

 トレーナーの「他のトレーナーに指導される気はないか」事件でもそうだったけど、こういう時は取り敢えず落ち着いて、本人に真意を問い質すのが良いよね。

 

「ちゃんとお話を聞いたわけではありませんし……普段の様子を見ても、昌さんが私からトレーナーを遠ざけたいという意図は見えませんでしたし。そう考えると、私の思ったものとは別の意味合いがあったと考えるのが妥当なところだと思います。

 改めて、発言の意図を伺ってもいいですか?」

「勿論です。……とはいえ、これは身内の恥、あまり公言したいことでもないのですが」

 

 それでも、誤解を招いた責任を取るために話させていただきます、と。

 昌さんは、口を開いた。

 

 

 

「そもそも、私があの愚兄に『トレーナーは止めろ』と言ったのは、あれがトレーナーになる前の話です。

 私は個人的に、兄にトレーナー業は向かないと思っていました。

 ……いえ、正確に言えば、少なくとも業務的には向いているでしょう。あれは遮二無二働くことには長けていますから。

 けれど、精神的にはどうでしょうか」

 

 昌さんはそこで1度、考える時間を置くように口をつぐみ、目の前のテーブルに目を落とした。

 真っ黒なドリップコーヒーに浮かぶ氷が、彼女の手の中でカランと音を立てる。

 

「向かない。それも致命的に、いっそ笑えるほどに適性がない。私は兄を、そう評価しました」

 

 それは、他人が聞けば正気を疑うような言葉だっただろう。

 堀野歩トレーナーの評価は、もはや世間では盤石なものになりつつあるんだから。

 

 初めての担当ウマ娘に無敗の三冠、そして史上初のクラシック級での宝塚記念を勝利させた、名家出身の凄腕トレーナー。

 決して自らの腕を誇らず、全ては担当ウマ娘の才覚と努力が故であると驕らない。

 本来は苦戦するはずの仕事にすぐさま慣れ、今はベテラントレーナーと比べても遜色ない程に効率良く仕事をこなす。

 

 今や世間では、そんな彼を天才だと褒めそやす声が主流になっているんだ。

 

 昌さんは、そんな彼が「トレーナーに向かない」と言い切った。

 歩さんのことを詳しく知らない人が聞けば、それは誤った評価であると思ったに違いない。

 

 けれど、私は……。

 彼の担当ウマ娘として、この2年間最も彼の近くにいた存在として。

 ……彼女の言いたいことを、理解できた。

 

「あれは……誰かを助け、救うことに喜びを見出す人間です。しかしそれと同時、誰かが傷つくことに人の何倍も共感する人間でもある。

 今はある程度振り切り、考えないようにしているようですが……それでも、レースでウマ娘が勝ち負けを付ける度、敗者と、敗者が明確に生じるレースに、絶望感を覚える。そんな人間なのです」

「それは……」

「誤解しないように、ホシノウィルムさん。これはあなたの責任ではありません。

 あの兄が自分で選んだ道であり、あなた以外の誰を担当しても、兄は同じように傷ついていたでしょう。だから、あなたが責任を感じるのはお門違いというものです」

 

 トレーナーは、優しい。優しすぎると言えるだろう。

 殊に私やブルボンちゃんのようなウマ娘に対して、あの人はとても寛容だ。何かしらミスをしても許してくれるし、ひとえにその勝利を願ってどこまでも調査・研究に苦心してくれる。

 

 そして同じように……それこそ、この前のマックイーン先輩の時みたいに、関係のないウマ娘にさえも、その心を砕くのだ。

 その勝利を喜び、その敗北に悲しむ。18人の内1人しか勝者になれず、17人が敗北する残酷なレースに、心を痛ませる。

 

 それを表す言葉として、適切なのは、やはり……。

 

「優しい方、なんですね」

 

 改めて、そう呟いた。

 

 この2年間で、彼の気性はある程度理解したつもりだ。

 誰かに施すことのできる、そして誰かの痛みに共感できる人間。

 それを優しいと言わずして、何と言うのだろう。

 

 ……けれど。

 

 

 

「いいえ、優しいのではありません」

 

 

 

 ぴしゃりと。

 昌さんは言い切った。

 

 それはなんというか、すごく冷たくて、すごく……確信に満ちた言葉だった。

 

「あの人は、優しくなんてない。ただ……」

「ただ?」

「……いえ、すみません、話が逸れましたね」

 

 昌さんは軽く頭を振り、言葉を濁した。

 これ以上は訊くな、って感じの拒絶。ここから先は、私から彼女に踏み込むことはできないだろう。

 

 ……昌さんから見て、歩さんはどんな人間なんだろう。

 人を助けることに喜びを見出し、人の失意に悲しむ。けれど、優しくはない人間。

 あるいはその真意に、彼女が彼を嫌う所以があるのかもしれない。

 

 

 

 その辺りを、もう少し聞いてみたかったけど……。

 確かに、少し話が逸れてしまったのも事実。

 寮の門限もそう遠くないし、今は話を戻そう。

 

「とにかく、兄さんがトレーナーを目指すことに、私は反対しました。

 ……しかし、先程は怒りのあまりああ言ってしまいましたが、今はトレーナー業も兄にとって良い体験になるのではないかと考えを改めています」

「えっと、何故でしょう。トレーナーはトレーナーに……えぇと、あ、歩さん……は、トレーナーに向かないのですよね?」

 

 私の質問に、昌さんはまぶたを閉じ、コーヒーを一口飲み込んだ。

 

「あなたがいるからですよ、ホシノウィルムさん」

「え?」

 

 昌さんはまぶたを伏せたまま、静かに語る。

 

「あなたは、兄にとって特別な存在なんです。

 ……この前、兄が帰省してきた時は驚きました。たとえ自分が力不足でも、あなたの担当を続けたい……そんなエゴを、あの兄が吐き出すなんて。

 生まれてこのかた、自分から何かを求めず、誰かに乞われた通りに生きてきた兄が……私が覚えている限り、初めて自発的な欲求を持ったんですから」

 

 それを聞いて、私は思わず唾を飲み込んだ。

 

 「生まれてこのかた、自分から何かを求めず、誰かに乞われた通りに生きてきた」。

 昌さんは今、トレーナーをそう形容した。

 その言葉が、私の思い描く通りの意味であれば……それは、少なからず歪んだ生き方だ。

 

 私は、歩さんについて多くを知らない。

 彼が私に見せてくれるのは、「トレーナー・堀野歩」としての側面だけだ。

 そして……あの宝塚記念からは、「私のトレーナーになりたい」という、昌さん曰く非常に珍しい自身の欲求を見せてくれるようになった。

 だから気付かなかったし、わからなかっただけで……。

 

 歩さんは……何か、思ったよりも深刻なものを抱えているのかもしれない。

 

 なんて、節穴。ずっと付き合ってきて、彼にそんな欠落があることすら、まともに認識できなかったなんて。

 

「……ふぅ」

 

 私は一度、フラペチーノを口に含んで、前に味わったものよりほろ苦い味を感じながら、思考を整理する。

 

 私は彼が、堀野歩さんが好きだ。

 彼に受けた恩はあまりにも大きく、そして彼に抱いた好感はその何倍も大きい。

 隣にいると落ち着く。どうでもいいことを楽しめる。満たされる幸せを感じる。

 

 だからこそ……。

 もっと彼を知って、彼の助けになりたい。

 

 ずっとずっと、彼に助けられてきた。

 あの日、事故を起こさずに走りきれたのは、私の世界を拓いてくれた彼のおかげだ。

 私が今ここにいるのは、走れるのは、笑顔でいられるのは、彼のおかげだ。

 

 だから。

 今度は……きっと、私がトレーナーに、何かしてあげる番。

 

「ホシノウィルムさん。あなたはきっと、兄にとって特別な存在です。

 こんなことを私がお願いするのは、お門違いだと理解しています。それでも、あなたにお願いしたい。

 どうか、兄のことをよろしくお願いします。

 この先、あなたはいくつものレースに出走するでしょうが……何度でも、必ず、あのバ鹿の下に戻ってあげてください」

 

 そう言って、昌さんは深々と頭を下げた。

 

 言われるまでもない。

 私はあの人のウマ娘で、あの人は私のトレーナーだ。

 

 今週末のジャパンカップだって……必ず勝って、トレーナーの下に帰るよ。

 

 

 







 こうして2人が親交を深める中、取り残された堀野トレーナーは「……改めて明日話し合った方がいいかなぁ」と思いながら仕事に励むのであった。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、ジャパンカップ前編の話。
 なんかすごい久々にちゃんとレースを書く気がします。



(本編には関係のない呟き)
 水星の魔女 やってくれたな

(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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伝説は塗り替えるもの

 時代をゼロから始めよう





 

 

 

 情報は、力だ。

 これは現代に生きる者ならば、多くの人が頷いてくれる話だと思う。

 そしておそらく、トレセンで専属担当を持ったトレーナーなら、全員が大きく頷くであろう話だ。

 

 担当ウマ娘たちのレースについて考察する際、ライバルのウマ娘たちのデータは非常に重要なものになる。

 例えばそこにサイレンススズカのような大逃げウマ娘がいるのなら、ペースは大幅に上がってしまうだろう、だとか。

 例えばそこにナイスネイチャのような策謀家がいるのなら、展開の鍵を握るのは彼女の思考だ、とか。

 

 自分の担当が出走するレースのライバルウマ娘の情報を探れば、レース展開の予想の大事な材料になる。むしろ、その過程を経ることなく展開予想することは不可能に近いだろう。

 

 更に、コースの距離や状態、自分の担当の走りとその限界、観客の数など、そのレースについての情報は調べれば調べるほど、展開予想の精度は上がっていく。

 そうして全ての要因を頭の中に揃えさえすれば……レースの勝敗の予想も、それを覆す方法の考案も、難しいものではない。

 なにせ俺にだってできるんだ。本気でやろうとすれば、誰でも可能だろう。

 

 ……が、それは逆に言えば。

 どんな人間であろうと、情報がないと展開の予想が難しいことも意味する。

 

 

 

「…………」

 

 東京レース場の俯瞰図を見下ろしながら、頭の中の情報を整理する。

 

 今回のレースにおいて、ホシノウィルム程の逃げウマ娘はいない。

 強いて言えば7枠15番や5枠10番の子は前に出てくる可能性があるが、それでもウィル程の脚は持っていないし、たとえ前に出てきても今の彼女なら冷静に対処することが可能なはずだ。

 

 故に、まず間違いなく、ハナを切るのはホシノウィルムだ。そこまでは間違いない。

 だが、その先はどうなる?

 誰がどのタイミングで、どうしかけてくる?

 速すぎる程のハイペースの中、日本の子程にホシノウィルムの破滅的大逃げに慣れていない海外のウマ娘は、どう対処してくる?

 

 無理にでも早めにしかけるか? だとしたらどこで? 向こう正面の下り坂か?

 いや、ナイスネイチャとの菊花賞を見たのなら、早めにしかけることが失敗に繋がる可能性を考慮するか?

 長い最終直線に賭けてくる? だとすればそこまでのペースはどこまで落とす?

 

 まぶたを閉じ、脳内でシミュレートを繰り返す。

 何度も、何度も、何度も。ステータスとこれまでのレースを見た上で、誰がどう来るかの予想を続ける。

 

 考えるべきことは多い。そして、「これだ」という明確な答えは出ない。

 

 俺は、海外のウマ娘について詳しくを知らない。

 勿論彼女たちについての記事は読んでいるし、レースも見ている。ステータスだって写真越しに観察できる。

 だが、彼女たちの気性やトレーナーの作戦方針は、遠く離れた地からは窺い知れない。ある程度の傾向の割り出しと察しを付けることはできても、確実と言えるラインにまでは上がってこない。

 

 故に、今回のレース……ウィルのジャパンカップについて、明確に「彼女が勝つ」と断言できるだけの情報を、俺は持っていないのだ。

 

 

 

 ……まぁ、それでも。

 最後には彼女が勝ってくれると、そう信じることができるのは、幸いなことかもしれない。

 

 データもなければロジックもない。

 ただ、ホシノウィルムなら何とかしてくれるだろうという、無責任で出処の不明な彼女への信頼だけがある。

 

 つまるところ、それは「ホシノウィルムが勝つ」という先入観を持ってしまってるってことで、客観的に状況を見るべきトレーナーとしては、あまり良い状態であるとも言えないんだけど……。

 

 どんな状況にしろ、俺がすべきことは変わらない。

 俺にできる全てをして、彼女を勝利へ導く。

 それは彼女と……ホシノウィルムと契約した時から、一切変わらない方針だ。

 

「……最終直線で来るとしたら、やはりウィッチイブニングか? 単純なスペックなら最も警戒すべきは彼女だ。

 しかし、日本への渡航の結果調子が落ちているという情報もあるし、そうなるとやはり、国内のウマ娘であるメジロマックイーン……いや、むしろ調子を上げているという話を聞くシルバーピジョンか?」

 

 そうして……。

 俺はレース場へ出発する時間ギリギリまで、トレーナー室で思索に沈んでいた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 11月24日、東京レース場。

 

 スタンドから見下ろすターフは、あまり良い状態ではなかった。

 ここしばらく雨が続いたこともあり、どうやら芝の整備が間に合わなかったらしい。かなり土の色が見えてしまっている。

 

 こうなると、地面を蹴り上げて走る際に普段以上のパワーを使う。そしてパワーを使うということは、それだけスタミナを消耗する、ということでもある。

 ウィルがパワー不足なウマ娘であったのはもはや遥か昔の時代、今のウィルはスタミナと根性を筆頭にどのステータスも高水準でまとまっているため、大きな問題はないだろう。むしろスタミナを使うレースである以上、有利になったとも言えるか。

 

 4か月以上という長い休養を挟んだ彼女だが、それでもメジロマックイーンと比べても見劣りしないステータスを見せている。

 ……いや、むしろその差は宝塚記念の時よりも縮まっているくらいだ。

 

 恐らく、マックイーンがここしばらく調子を落としていたこともそうだが、ここ最近行っている他のウマ娘との合同トレーニングの効果が強く出ているんだろう。

 基本的にはブルボンと一緒にトレーニングさせていたし、日によってはそこにネイチャとライスも加わった。前世アプリで言うところの友情トレーニングが発生していた……かは定かではないが、ステータスの伸びは非常に良かったからな。

 

 考察を続けている内に、実況解説の声がここまで響いて来る。

 

 

 

『東京レース場に海外から多くの優駿が集いますジャパンカップ、現在の天気は曇り。バ場状態は良バ場の発表となっております。

 果たして今日のレース、どうなるでしょうか』

『やはり注目は1番人気、今年の日本総大将を託されたホシノウィルムでしょうね。

 2番人気メジロマックイーンもそうですが、彼女たちにとってこの2400メートルという距離はむしろ短いくらいでしょう。長く使える脚をどう活かすか、その走りに注目です』

 

 

 

「だってよ、兄さん」

「ん? うん、まぁそうだろうね」

 

 実際、俺もこのレースで注目すべきはホシノウィルムだと思ってる。担当なんだし当然と言えば当然だけど。

 大逃げウマ娘であるホシノウィルムが出走する以上、このレースのペースは彼女が決めると言っていい。

 問題は他のウマ娘がどこまで食い付いて来るか、どこまで脚を残せるか、なんだが……。

 

 そんなことを思いながら曖昧に肯定した俺を、昌はじとっとした目で見てくる。

 

「……寝てない? いや、仮眠はしてるか」

「最近のホシノウィルムといい昌といい、なんでそんなに察しが良いのかなぁ」

 

 レース直前ってこともあって睡眠時間は安定してないけど、昨日は幸いにも2時間くらいぐっすり仮眠を取れた。少なくともこのレースの観戦に大きな問題はない。

 

 いや、そんなことより、大事なのは目の前のレースだ。

 俺は寝ようとすればいつでも寝ることができる。それに対してホシノウィルムのクラシック級ジャパンカップは、後にも先にも、この1度きりなんだから。

 

「今回のレース、トレーナーはどう思われますか?」

 

 俺と昌の雰囲気に気を利かせてくれたのか、あるいは単純に気になったのか、隣でレースを見守るブルボンが尋ねてくる。

 

 うーん……いつもなら堂々と自分の見解を話せるんだけどな。

 情報が不足している今回ばかりは、少しばかり自信がない答えになってしまう。

 

「情報が不足しているため、あまり自信はないが……単純な勝率で言えば、ホシノウィルムが最も高い。次いで……メジロマックイーンとシルバーピジョンだな」

「メジロマックイーンさんはわかるけど……シルバーピジョンさん?」

 

 俺の推論を聞いて、昌が軽く眉根を寄せた。

 

 シルバーピジョン。

 アメリカで生まれ、イギリス、フランスと渡り歩いてアメリカに戻り、そしてついに日本にもやってきた、その名が指す通りの輝く芦毛のウマ娘。

 彼女は今回の18人立てのレースにおいて8番人気、あまり目立ったウマ娘ではない。だからこそ、昌も判断の基準を疑ったのかもしれない。

 ……いや、昌は「アプリ転生」を知ってるから、疑ってるわけじゃないか。意外に思った、というのが実情だろうか。

 

 今は評価を落としているとはいえ、シルバーピジョンは元々かなりの優駿だった。

 G2に2勝し、G1にも勝ったことのあるようなウマ娘なんだが……その後に故障が発生。療養後の戦績が良くなかったこともあり、残念ながら、今はあまり期待されていない。

 

 ……だが今日の彼女は、ものの見事に覚醒している。

 ステータス的にはメジロマックイーンに比べて1枚劣るが、大番狂わせを見せてくる可能性はある。

 

「決して安堵していい相手じゃないよ。しばらく強い走りを見せられていないけど……それでも、今の彼女は強い。それこそ、ホシノウィルムより前に出る可能性もある程に」

 

 余程その脚に日本の芝が合っていたのか、その走りの調子はすこぶる良い。もしかしたら、彼女の全盛期を塗り替えるかもしれない程に。

 オグリキャップやタマモクロスからジャパンカップの勝利をもぎ取ったオベイユアマスターのような例もあるし、やはりウマ娘にとって、自分の脚に合うバ場で走るというのは非常に大事なんだろうな。

 

 ……ただ、それでも。

 あのメジロマックイーンに勝てるかと言われると、少しばかり難しいかもしれないが。

 

 

 

 パドックで見たマックイーンの様子を思い出す。

 

「そして勿論、メジロマックイーンもとても高い壁だ。

 戦法は一通り。ただ王道の強さを叩きつけてくる走りだけど……だからこそ、弱点が少ない」

 

 マックイーンの現在のステータスは、ホシノウィルムより若干高い程度。調子は……絶好調だ。

 スキルも非常に手堅く取得されており、今回のレースにおいてはホシノウィルムの次に有力な優勝候補だろう。

 

 確か前世アプリでのメインストーリーでは、秋天で降着処分を受けた後、精神的不調を治すことができないまま出走し、ジャパンカップにも敗れていたと思うが……。

 今の彼女に、そんな不調は見られない。

 恐らく、というか間違いなく、この世界の彼女は侮りがたい強敵になるだろう。

 

 そしてメジロマックイーンと言えば、やはりこの前の天皇賞(秋)での5バ身差の勝利。

 天皇賞(春)や宝塚記念では結果が振るわず、「マックイーンの時代は終わったのではないか」とまで言われる状態だったが……彼女はその風評を、自らの実力によって捻じ伏せた。

 圧倒的な強さを見せつけ、彼女もまた現役最強の一角であると、誰もに知らしめたのだ。

 

 そうなると当然と言うべきか、彼女もまた非常に人気が高く、ホシノウィルムに次ぐ2番人気に指名されている。というかもうこの2人の二強状態だ。

 

 実際、今も耳を澄ませば、すぐそこからマックイーンのファンであろう男性の声が聞こえる。

 

「今回のレース、勿論ホシノウィルムも主役になるだろうが、もう1人の注目ウマ娘はメジロマックイーンだな」

「どうした急に」

「非常に高い安定感を誇るステイヤーであるマックイーンだが、彼女は先月このジャパンカップと同じ東京レース場で開催された2000メートル天皇賞(秋)に勝利している。

 冷静沈着な走りで不良バ場や他の子たちの徹底マークを完璧にいなし切った勝利は、あまりにも記憶に新しい。

 その上直近1か月で東京レース場を走っているという経験値的アドバンテージ、逃げウマ娘にとって大きなディスアドバンテージになり得る長すぎる直線もある。

 今回のレースにおいてもきちんと実力を出すことができれば、ホシノウィルムに追いつくことは十分に可能であると考えられるんだ」

「なるほど、ウィルムとマックイーンの熱い走りに期待ということだな!」

 

 ……いや、めちゃくちゃレースに詳しいファンの方いるな。しかもどことなく聞き覚えのある声だし。

 奇妙な巡り合いもあるものだ……なんて思っていたら。

 

「……あれ?」

「兄さん?」

 

 横にいたはずのブルボンがいない。昌は俺を挟んで反対側にいたから気付かなかったか。

 どこに行った、と視線を巡らせると……。

 

「お言葉ですが、ウィルム先輩は負けません」

「ごっ、ごめん!」

 

 ……ブルボンは、先の言葉の主らしき男性2人に抗議していた。

 

 

 

 当然ながら、その2人には俺と昌が平身低頭謝らせていただいた。

 快く許していただけて本当に良かったよ……。

 

 しかし、基本的には常に冷静沈着なブルボンが、こんな行動を取るとは。

 ウィル、よほど彼女に慕われているらしい。

 トレーニングの時間以外でもよく話しているし、良き先輩後輩関係、と言ったところだろうか。

 

 トレーナーとしては、担当2人の関係性が良好なのは、これ以上ないくらいに僥倖なんだけど……。

 こういうハプニングが起こるのは困りものだ。

 

「彼女を想う気持ちはわかるが、もうちょっと冷静に行動するように」

「申し訳ありません」

 

 取り敢えず叱っておいたけど、ブルボンはいつも通りの無表情。

 うーん、わかってるのかな、これ……。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、しばらく待っている内に本バ場入場の時間が来た。

 

 ジャパンカップに出走するウマ娘たちが、各々のタイミングでターフの上に上がっていく。

 菊花賞の時は蹄鉄の調子がおかしいと入場が遅れたウィルも、今日はいつものように率先して現れた。

 

 

 

『ターフに現れましたホシノウィルム、体重精神共にこれ以上ない仕上がりですね。

 あのトウカイテイオーとの激闘を演じた日本ダービーと同じコースで、彼女は今回どんな走りを見せてくれるのでしょうか』

 

 

 

 ターフの上を歩く、ホシノウィルム。

 改めて遠目に見ると……その姿には、威圧感というか、貫禄のようなものが生まれている。

 

 彼女の身長は低い。145センチメートルという数字は、今回の出走ウマ娘の中でも彼女が最も小柄であることを示している。

 実際こうして見ても、他のウマ娘に比べ、その体格は一回り小さい。

 

 ……が。

 それでも、ゆっくりと歩を進める彼女には、えも言われぬ力強さがあった。

 

 それは、四つの冠を取ってきた常勝無敗のウマ娘としての誇りか。

 あるいは、多くの人やウマ娘の期待を背負うが故の決起か。

 もしくは……ただ目の前のレースを楽しみたいという闘争本能か。

 

 モノクロに彩られたインナーの上に燃え上がるようなジャケットを着込み、その背には灰のマントを煌めかせ。

 コトリコトリと、ゆっくりとターフの上を歩いていくその姿は、途轍もない存在感を放っている。

 ……まさしく、今を生きる新たなる伝説といったところか。

 

 その実、彼女はどこにでもいるような、普通の優しい女の子なんだけど……。

 ある意味でこれもまた、彼女の一側面。レースに直面した時のホシノウィルムの姿なんだろう。

 

 

 

 そうして……。

 

「頑張れー、ホシノウィルムー!」

「勝って伝説になってー!」

 

 彼女の成してきたこと、そしてこれから成そうとしていることを考えると、当然の帰結ではあるんだが。

 日本の威信を見せつけるべきレースにおいて、彼女は今、どのウマ娘よりも期待されていた。

 

 寒門の下剋上。逃げウマ娘の三冠。クラシック級時点での宝塚記念勝利。

 不可能と思われていた事象を次々に可能へと書き換え、誰しもにとっての希望であり、ある者にとっての絶望になってきたあの子は……。

 今、「次」を望まれている。

 

 ジャパンカップ。

 日本一のウマ娘と名高いスペシャルウィークが勝って以来、ここ2年負け続けているこのレースにおいて、彼女のレコードを止めることなく次に進めること。

 無敗のままに、新たな冠を手に入れることを。

 

 なにせこの1戦には、もう1つの意味合いも込められているのだから。

 

 

 

「やっぱりっていうか、期待されてる」

 

 昌が呟いた言葉に、苦笑を返す。 

 

「そりゃあね。……なにせこのジャパンカップを勝てば、戦績上、あのシンボリルドルフを超えることになるんだから」

 

 シンボリルドルフ。

 長く続くトゥインクルシリーズでも史上最強と名高い、無敗の三冠ウマ娘。

 彼女の三冠達成時の戦績は8戦8勝、その後ジャパンカップに出走し……3着に敗れる。

 

 奇しくもホシノウィルムの現在の戦績も8戦8勝であり、今こうしてジャパンカップに出走している。

 今回のジャパンカップに勝てば、彼女は公然とした事実として、シンボリルドルフを……永遠の皇帝を超えることになる。

 

 人はいつだって未来を望む。停滞よりも進歩を、昨日よりも明日を。

 故に今、過去の最強たるシンボリルドルフを超えるかもしれない現役ウマ娘ホシノウィルムは、とてつもない人気を誇っているんだ。

 

 相手が普通のウマ娘であれば、俺はトレーナーとして、その大きすぎる期待を背負いかねるのではないかと心配していただろうが……。

 今、ターフの上でストレッチをしているホシノウィルムには、毛ほどの動揺もない。

 

 既に彼女は、今自分を見ている人々が敵ではないことを知っている。

 彼女を見て、彼女に期待し、彼女の背中を押してくれる存在であると、知っている。

 

 故に……俺にできるのは、あとは応援くらいだ。

 

 

 

「……兄さん」

「ん? 何?」

 

 ふと聞こえたその声は、昌のものにしては、どこか弱々しかったような気がした。

 ……いや、そんなことはないな。震えもなかったし、その声音もいつも通り。ただの気のせいだろう。

 

 改めてその表情を見ても、彼女はいつも通りの無表情でターフを上を見ているだけだった。

 

「……気分は悪くない?」

「え、何急に。特に問題はないけど」

「そう。……それなら良い」

 

 ? ……なんなんだろう。

 

 昌が俺の体調を心配してくれるのは、ちょっと珍しい気がする。いつもは怒られちゃうし。

 ……ああいや、珍しいって程でもないかな。なんかよくわかんないけど、時々怒るんじゃなくて心配してくれる時があるんだよね。

 やっぱりアレか、幼かった頃に持っていた優しさの片鱗だろうか。

 

 

 

 そんなことを言っている内、ターフの上にメジロマックイーンが現れた。

 泰然自若、今日も今日とて誰よりも誇り高き姿を見せる彼女は、ターフの上を見回すとすぐさまホシノウィルムの方へと歩みを進める。

 ウィルはその接近に気付くと、ストレッチを停止。

 2人は会話を交わしてから、しっかりと握手を交わしたのだった。

 

 1番人気と2番人気、日本の注目を一手に集めるウマ娘たちの会話に、観客たちは沸き立ち……海外のウマ娘たちは2人を睨みつける。

 

 彼女たちからすれば、自分たちなど敵ではないと言われたように感じるんだろうな。

 ……だが恐らく、それは違う。

 

 メジロマックイーンは、他のウマ娘を侮ることをしない。

 ただ、誰よりも強敵になり得るのはホシノウィルムであると認め、彼女との健闘を誓っているのだ。

 

 

 

 ……ホシノウィルムにとって、その力を侮られる時代は、完全に終わった。

 ここからは最強の一角として、挑戦者たち、そして同じく最強格のウマ娘たちとの戦いが始まる。

 

 

 

 * * *

 

 

 

『さぁ東京レース場に18人のウマ娘が出揃いました。世界からやってくる刺客たちを相手に、日本のウマ娘たちはその力を見せることができるか』

『東京レース場、芝の左回り、2400メートル。天気は曇り、バ場状態は変わらず良バ場の発表です。それぞれの持ち味を活かした良いレースを期待しましょう』

 

 

 

「始まる……G1レースが」

 

 昌が、どことなく緊張の籠った声で呟く。

 彼女にとって、インターン中とはいえトレーナー業に就いて初めてのG1レース。

 そこには少なからぬ緊張があるのかもしれない。

 

 それに対して、敢えて何かを言う必要はないだろう。

 俺も最初の頃は緊張していたからよくわかる。

 こういうのは、慣れるまでは何を言っても緊張が解けることはない。そして慣れるには、場数を踏むしかない。

 だから俺は、固まっている昌から目を逸らし、ターフを見ながら改めて考える。

 

 曇天の東京レース場。

 この狭いレース場に15万人以上の観客たちが押し寄せ、日本のウマ娘たちに期待を寄せている。

 果たして並み居る強豪たちを、そしてメジロマックイーンを退け、ウィルはその期待に応えることができるのか……。

 

 このジャパンカップ、勝率は決して低くはない。

 ……だが、決して100%でもない。

 

 作戦は既に伝えてあるが、どれも確度の低いもの。

 最終的にはウィル自身の判断力がこのレースの成否を分けると言っていいだろう。

 

 ちょっと前に彼女に聞いた、ホシノウィルムの特殊性──恐らく領域の解放に起因するという、レース中の思考能力増加──を考えれば、終盤に判断を間違えることはない……と思う。明確なデータはないので断言できないが。

 

 となれば警戒すべきは、序盤と中盤の展開……は、大逃げウマ娘である彼女にはそこまで関係ないとして。

 やはり考えるべきは……終盤の、単純な力負けか。

 

 クラシックレースが終わり、これからホシノウィルムは強豪たちと肩を並べてレースを走ることになる。これまで通りの単純なスペックによる競り勝ちは難しくなってくるはずだ。

 彼女の作戦である大逃げは、その性質上序盤に多大なスタミナを消耗する。序盤から中盤にかけて大きなリードを稼ぎながら、終盤にどれだけ脚を残せるかが、勝負の分け目になる。

 

 そしてその点において、領域を開いた際……正確には少し違うらしいが、とにかく終盤にスタミナの消費を大幅に抑えられるらしいホシノウィルムは、かなり有利に戦えるはずだ。

 十分に走れるだけのスタミナを残した状態で終盤に突入しさえできれば、後はホシノウィルムの独擅場になるだろう。

 

 ……と、思いたいところだが。

 果たして実際はどうなるか。今回のレースは予想の難しい部分が多いからな……。

 

 

 

『3番人気を紹介しましょう。G1ヴェルメイユ賞1着、G1凱旋門賞2着、連対率は驚異の70%!

 今ノリにノっている小柄なフランスウマ娘が、モンジューの仇を取るべく参戦だ!

 日本でも魔法を起こせるか、2枠3番、ウィッチイブニング!』

 

 

 

 ターフで軽く周遊しているウィッチイブニングは、実況で呼ばれたことに気付くと、観客の方に向かって気取った一礼を見せた。

 秋の上がりウマ娘である彼女は、6月以降重賞で1着2回2着3回の好成績を収めている。芝の最強決定戦と名高い凱旋門賞では2着と惜敗してしまったが、それでも実力は確かなものだろう。

 

 そして彼女自身、強さの自負があるんだろうな。

 事前インタビューでも「真正面から打って出る。私の脚なら、龍さえ化かす魔法をかけられるさ」といった趣旨の言葉を放っていた。

 ……しかしながら、やはり渡航の結果か、その調子は普通。

 客観的に見て、絶好調であるホシノウィルムに迫れる程ではないはずだ。

 

 

 

『2番人気は、天皇賞を制したメジロのウマ娘!

 不良バ場の中を驚異の5バ身差、圧倒的実力を見せつけた彼女は、ここを3作目の大作の舞台とできるか!?

 ターフの名優ここにあり、菊花賞ウマ娘、3枠5番メジロマックイーン!』

 

 

 

 マックイーンはその実況にも動じることなく、しっかりとターフを睨んだまま精神統一を図っている。

 彼女にとって、ここは1つの分水嶺。

 ホシノウィルムに勝ち最強の名を取り戻すか、宝塚記念までの敗北を繰り返すかの大一番だ。

 

 精神状態も体の状況も整った、まさしく万全の状態。

 果たしてどこまでウィルに追いすがり、そしてあるいは越えてくるか。

 誰もが彼女に、今の彼女の走りに期待している。

 

 

 

 そして……。

 

 

 

『1番人気はこの子しかいない、今年の日本総大将!

 より強き敵を、より難しいレースを追い求めるスピードジャンキー、その正体は新たな神話を紡ぐ龍!

 今日、彼女のアギトは「史上最強」の称号に届くのか!?

 不可能を覆す灰色の龍、ここまで無敗の三冠ウマ娘、5枠9番ホシノウィルム!!』

 

 

 

 ウィルは熱の乗った声に対し、観客たちに向かって軽く手を振ることで応えた。

 ……ただし、その表情は好戦的な熱に染められ、とても穏やかなものではないが。

 

 やる気は十分、そして誰よりも、心の底からレースを楽しみにしていることが窺える。

 今の彼女ならきっと、このレースを楽しみ……勝つことだってできるだろう。

 

 

 

『全ウマ娘のゲートインが完了。出走の準備が整いました』

 

 

 

 ここまで、できることはしてきた。

 最も安全に勝てる可能性の高い作戦も立てたし、そのためのトレーニングも組んできた。俺にできることは、これ以上は何もない。

 

 ……だから、せめて。

 ここから精一杯、君のことを応援しよう。

 

 頑張れ、ホシノウィルム。

 

 

 

『今、スタートしました!』

 

 

 







 久々の難産でした、申し訳ない。やっぱり気分が乗らないと執筆に響きますね。
 次回までには頑張って持ち直します。投稿間隔は……ぼざろの方が落ち着き次第。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、ジャパンカップ(後編)の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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私再生産

 雨粒落ちて花は散っても、次なるレースに生まれて変わる





 

 

 

 『今、スタートしました!』

 

 

 

 ガタンという音を聞くと同時、渾身の力で駆け出す。

 

 脚に伝わって来るのは、結構重い感覚。

 出走前に見たからわかってたけど、やっぱり相当バ場の状態が悪いね。

 いつもの芝のように踏みしめられず、僅かに脚が沈み込む。ターフというよりダートみたいだ。

 

 ……それでも、今の私なら……行ける。

 

 

 

『18人のウマ娘がどっと飛び出しました!

 まずハナを切ったのは日本総大将ホシノウィルム! 今日もぐいぐいとバ群を引き離すハイペースで坂を登っていく!』

 

 

 

 約半年前の、宝塚記念。

 私はトレーナーの作戦で、マックイーン先輩の高いスタミナを封殺するため、敢えてローペース、普通の逃げウマ娘くらいの位置でレースを進めた。

 

 あの時と同じく、今回のジャパンカップも、メジロマックイーン先輩が出走しているけど……。

 今回はトレーナーとも相談した結果、いつも通りのハイペース、大逃げで行くことに決まった。

 

 その理由は、いくつかある。

 日本の軽い芝に慣れていない海外のウマ娘たちに私の大逃げを見せて掛からせるためであり。

 宝塚記念の時のように、ライアン先輩の末脚やスカイ先輩の策を警戒する必要がないからであり。

 そして……今はマックイーン先輩とでも十分にやり合えると、トレーナーが判断したからでもある。

 

 そう、今の私なら。

 あれから更に、ネイチャやライスちゃん、ブルボンちゃんとも走った私なら。

 ……トレーナーが鍛えてくれた私なら。

 

 真正面からマックイーン先輩と戦い、超えることだって……できる。

 

「……ふッ!」

 

 歩幅をを広く保ち、誰よりも前へ、前へ。

 このまま……突き放すッ!

 

 

 

『外からデュアリングステラ懸命に迫るがその差は開き続けるばかり、2バ身3バ身と離れていく!』

『相変わらずのハイテンポ、やはりホシノウィルムから先頭を奪うのは難しいか』

 

 

 

 聞こえてくる足音からして、バ群は順調に遠ざかりつつあるっぽい。流石にあの時のスカイ先輩みたいな無茶苦茶な子もいないと思うし。

 ……うん、トレーナーが言ってた通り、やっぱりこのペースで正解だね。

 バ群との距離感を見ても……私のスタミナの消費具合を見ても。

 

 今回トレーナーからもらった作戦は、展開の読めないレースってこともあって、非常に簡単なものだ。

 ハイペースで走り出し、そのまま速度を落とさず走り切る。

 そう、あの異次元の逃亡者、サイレンススズカさんに近い走り方であり。

 ……ブルボンちゃんが目指すべき走りの、更なるハイペース版であるとも言える。

 

 

 

 レースってのは難しいもので、何も全力全開で走り続ければ一番速くゴールできるわけじゃない。

 

 こう言っちゃなんだけど、ダブルジェット師匠なんかが反面教師の良い例だろう。

 あまりに速く走ろうとすると、私たちウマ娘といえど呼吸は困難になり、全身を巡る酸素量が減る。酸素量が減れば、その分筋肉も動かなくなるし頭も回りにくくなっていく。

 結果としてスタミナを使い切り、垂れてしまう、というわけだ。

 

 だから、走る速度は速めすぎてはいけない。自分の中の、その場における最適のペースを定め、それを守らなければならない。

 掛かり、つまり自分のペースを乱すのが致命的になりやすいのは、そういうわけだ。

 ……まぁスズカさんとか私みたいに、掛かっても問題にならないくらいスタミナがあったり、他の子とのスペックに差が開きすぎると、また話が変わって来るんだけども。

 

 だが勿論、速すぎるのが駄目だからと言って、遅くすればいいわけではない。

 速度を出さずにレースに勝つとか、考えが甘すぎる。ここはアスリートたちが己の限界を出し競い合う場所なんだから。

 

 つまり、結論としては。

 私たちウマ娘は、速すぎず遅すぎない、最適なペースを保たなければならないんだ。

 

 いや、当然の話っぽく聞こえるけど、その「当然」が案外難易度高いんだよ。

 本能を刺激されて掛かっちゃうのもそうだし、逆に戦意を叩き折られて萎えちゃうのもそう。私たちウマ娘は、周りのウマ娘に強く影響され過ぎる。

 その上バ群の中に巻き込まれようものなら、とてもじゃないけど自分のペースで進むことなんてできない。

 

 だから、逃げウマ娘や追込ウマ娘以外は皆、バ群の状況や自分の精神状態を含め、様々な要素からアドリブで自分の走り方を割り出していく必要がある。

 

 そういう意味では、私たち逃げウマ娘は得だと言えるだろう。

 余程でなければバ群に巻き込まれることはない。更に引き離せば、その存在を感じることもなくなる。

 考慮すべきは、自分の脚とバ場状態、コーナーや坂などのコース、そして同じ作戦のウマ娘だけだ。

 

 その上、私やブルボンちゃんには……歩さんが付いている。

 私たちの強さを正確無比に見極め、目指すべき正しい数字を割り出してくれる、最高のトレーナーが。

 

 

 

『大きく離れた先頭が今第一コーナーに入りました。

 2番人気メジロマックイーンはバ群の中から睨みを利かせる。3番人気ウィッチイブニングはやや後方からのスタートになったか』

『番手を取ったデュアリングステラ、いつもの彼女よりもだいぶ速いペースです。掛かってしまっているかもしれません。一息つけると良いのですが』

 

 

 

 「20」と書いてあるハロン棒が、私の横を飛んで行く。

 残り2000メートル。つまりはここで400メートル、後方番手のウマ娘までは……4バ身くらいか。存外食い下がってくるね。

 掛かってるか……あるいは作戦か。

 どちらにしろ私は、私たちの作戦を実行するだけだ。

 

 トレーナーは、私の身体的スペックと追い切り期間の走りの数字から、私にとっての最適のペースをはじき出してくれた。

 後は私が落ち着いて、それを実行するだけなんだけど……。

 

 冷静に走るという分野においては、私ほどの適合者もそうそういないだろう。

 

 今、私の思考は凍て付いている。

 他のウマ娘を認識しても、まるで湖の表面に一面氷が張るように、波風1つすら立ちはしない。

 

 そう、「寒い」時の私は、掛からない。

 ウマ娘の本能を超えるレベルで……とは流石に言えないけど、それを抑え込めるくらいにはレースに集中している。「アニメ転生」の莫大な思考力を、かなり浪費気味ではあるけど、レースというただ一点に注いでいるからだ。

 

 体感のスピード、脚に感じる負荷、流れていくレーン、走っているコースと現在の距離。

 それらから保つべきペースと誤差を修正……まではできないけど、とにかくこの1週間で体に叩き込んだリズムを意識して駆け抜ける。

 

 ……たとえ他の子が追ってきたとしても取り乱さず、落ち着いて、冷静に。

 

 先ほども言った通り、ウマ娘がレースに勝つためには、自分の最適なペースを保つことが肝要になる。

 だから、私を追いかけて……つまり掛かって前に出てくる子は、勝手に自滅してしまう。

 

 私が本当に警戒すべきは、むしろ今感じ取れないウマ娘だ。

 自分のペースを保ち、目に見える私ではなく、自分自身の本能と戦っているような子たち。

 本当に上がって来るのは、そういうウマ娘なんだから。

 

 ……例えば、それこそ今はバ群の中にいて気配を感じ取れない、マックイーン先輩のように。

 

 

 

『第二コーナー回って残り1600メートル、先頭変わらずホシノウィルム、番手との距離は7バ身程度か。既に全体で20バ身を越える縦長に開いた形だ』

『ホシノウィルムのいるレースではいつもの展開と言っていいでしょう。果たしてこの大きすぎる差を前に、海外のウマ娘たちは正しく対応しきることができるか。どこで仕掛けるかが大事なレースになりそうですね』

 

 

 

 ずりずりと足音が遠のいて行き、いよいよ番手の子の音も聞き取りづらくなってきた。あと2バ身くらいで圏外かな。

 ここからは、本格的に1人の戦いが始まる。

 

 大逃げは、私に合った走り方……というか、唯一無二レベルで適性の高い走り方だと思う。

 ただの逃げだと、バ群が近すぎてあんまり聴覚が活きないし、私のかなり高いらしいスタミナも十分に使い切れない。

 それにバ群に追い付かれたり呑まれたり、そういった事故も起こり得る。

 

 そういう意味では、メイクデビューで偶発的にこの走り方を覚えたのは、運命的な出会いだったのかもしれない。いや、あの時はペースキープとかの知識もなく、とにかく負けないようにって必死だっただけなんだけど。

 ……あそこで大逃げのコツを掴まなかったら、どうなってたんだろうね。あるいは、ダービーでテイオーに差し切られてたりしたんだろうか。

 

 と、それはともかく。

 

「……ふぅ」

 

 足音が、聞こえなくなった。

 私の10バ身以内に、今、他のウマ娘は存在しない。

 

 それが正直なところ……少しだけ、寂しかった。

 

 他のウマ娘と一緒に走ると、楽しい。

 ネイチャやテイオー、ライスちゃん、ブルボンちゃん。

 多くのウマ娘とレースやトレーニングで一緒に走る内に、私はそれを学んだ。

 

 例えば、相手が前に出て来た意味を考えたり、ブラフで少しだけペースを速めたり、敢えてペースを落として圧をかけたり。

 そういう騙し合いというか、走りの読み合いみたいなものもそう。

 例えば、遮二無二迫って来る相手から逃げ切ろうとペースを考えたり、相手に負けないよう限界すら超えて足を動かそうとしたり。

 そういった本気の競り合いもそう。

 

 誰かと一緒に走るのは、すごく楽しい。

 私たちの腹の底にある本能が熱を上げ、何よりも満たされていると感じられるから。

 

 ……でも。

 この走りは……大逃げは、それができない。

 

 これは自分の強さを押し付けて勝つ、誰より傲慢で、何よりも遊びのない走り方だ。

 相手との読み合いとか差し合いの余地がない。そういった不安定要素を極力排して、安全に確実に勝ちに行く。

 

 十分なスペックさえあればその安定感は抜群で、けれどだからこそ、他のウマ娘と競うことはできない。

 ……この走り方の唯一の不満点は、その寂しさくらいかな。

 

 

 

 でも、その1人きりの独走も……。

 そろそろ、終わりが近い。

 

 その事実に……心の底から沸き上がった僅かな熱が、ちろりと、凍り付いた私の心を舐めた。

 

 

 

『さぁ先頭が向こう正面抜けて第三コーナーに入ります、依然その差は大きく開いて12、3バ身!

 しかしここまで来ても龍の勢いは留まるところを知らない!! ここから龍の背を捉えるウマ娘は出てくるのか!?』

『バ群全体のペースもやや早まっているように見えます。ここからが勝負処!』

 

 

 

 ここまでの2週間、私はペースキープの練習を続けて来た。

 いやまぁブルボンちゃんと一緒にやった時は、彼女が掛かりまくったからあんまりそれの練習にはならなかったけど……。

 少なくとも、ここ1週間はひたすらにペースを意識して走る練習をしてきたわけだ。

 

 その結果、ブルボンちゃん程ではないにしろ、私もそこそこ正確なペースキープができるようになったんだ。

 ……勿論、こんなのはただの付け焼刃。冷静さを欠けばすぐに保てなくなるんだけども。

 

 それでも……少なくとも終盤までの間、私は決して間違えない。

 

 

 

『さぁ第三コーナー入って残り1000メートル、ここまでのタイムは……83秒0!! ラップ平均は11秒9、12秒切り! かなりのハイペースです!!』

 

 

 

 トレーナーが打ち出した目標、ラップ平均11秒6周辺。

 今回のペースは、ここからバ場の状態悪化を考えて少し遅らせたものだ。

 

 11秒台は、一般的なウマ娘からすれば、非常にハイペースな数字。

 如何なホシノウィルムと言えど、そのスペック上、最後まで保つのは厳しい速度だけど……私の特殊性が、この非現実的なまでのラップ走法を叶える。

 

 はっきり言って、生半可なウマ娘では付いて来ることさえ困難な程の速度だろう。

 なにせこれは、下手なウマ娘なら終盤のラストスパートにも匹敵するようなスピード。

 私はここまで、ずっとそういう速さで走っているんだから。

 

 

 

 ……それでも。

 きっと、来てくれるウマ娘は、いる。

 

 なにせここは、クラシック・シニア混合のG1レース、ジャパンカップ。

 八大競走と並べられるほどの高い格を誇るレースであり……。

 海外のウマ娘たちが容赦なく首を取りに来る戦場であり……。

 

 そして何より、あの先輩が参加してるんだから。

 

 

 

『先頭ホシノウィルム、大ケヤキを越えて第四コーナーに入りました! そしてここでメジロマックイーン、バ群の中を縫うように脱出、猛然と差を詰めに出た! 追うようにバ群のペースが一気に上がりました!』

『シルバーピジョンも追走を開始! ホシノウィルムの超絶ハイペースに釣られ、既にレース全体のペースもかなり上がっていますよ! ここから更にテンポを上げてゴールまで持つのか!?』

 

 

 

 来た。

 やっぱり、来てくれた。

 

 足音が聞こえ始める。

 1つ……マックイーン先輩の優雅で苛烈なものに続いて、何人ものウマ娘の音が。

 

 

 

『さぁコーナー終わって最終直線! 東京レース場の長い直線の間で、どこまでこの大きな差が詰められるのか!』

 

 

 

 来た。

 

 来た、来た、来た。

 

 足音が聞こえる。たくさん聞こえる。私を敗北へ追い込む死神の鎌が、私に熱をくれるライバルたちが、すぐそこまで迫って来てる。

 誰もが必死に、喉から手が出る程に勝利を求めてる。誰もが全力で、血反吐を吐くような思いでそれに手を伸ばしてる。

 その命を削って、その想いを擦り減らして、全身全霊で。

 

 ……あぁ、熱くなってきた。

 

 他の子たちに追いつかれればゲームオーバー。その前に逃げ切ればゲームクリア。

 達成条件は非常に簡単で、そのために使える時間は……残り、30秒前後。

 

 相手が全力で来るんだ。こっちも本気を出さない道理はない。

 

 だから……私はカチリと、自分の中のスイッチを入れる。

 

 

 

 凍り付いていた思考が溶けだし、柔軟さを取り戻すと同時……。

 世界の全てが、スローダウンしていく。

 

 勿論、そんなのはただの錯覚だ。

 時間って相対的なものだから、自分の意識……というか思考能力? 処理能力? それが向上すれば、自然と遅く感じるようになるわけだ。

 

 まぁなんにしろ、私にとっては好都合なことこの上ない。

 なんてったって、しっかりと考えながら走ることができるんだから。

 

 さぁ、世界がゆっくりになった今、改めて考えよう。

 私を追って来るウマ娘たちから逃げ切る、完璧な勝ち方を。

 

 目を走らせ、耳を向けて、匂いを嗅ぎ、脚で蹴り上げ、情報を集めて。集めて。集めて……。

 それらを体系的に繋げて、計算し、検証し、想定し……。

 

「良し」

 

 そうして、瞬きを1つしている内に、計算は終わった。

 

「行くぞ」

 

 天星スパート、開始。

 

 

 

 脚が地面を捉える、その瞬間。

 私は……宙を飛ぶように、自由になる。

 

 何1つ、私を縛れるものはない。

 空気抵抗も、姿勢の限界も、自身に蓄積していた疲労も、過去からさえも。

 その全てから、今、解き放たれた。

 

 

 

『ホシノウィルム、前傾姿勢! 得意のスパートをかけるつもりか!? そしてここで番手を奪ったのはメジロマックイーン!! 後方からはシルバーピジョンが追い上げる!!』

 

 

 

 期待を裏切っちゃうようで悪いけど、スパートをかけるつもりはない。

 なにせ、今回の私の作戦は一定のペースを守ること。この姿勢はあくまで、スタミナの消耗と脚へのダメージを抑えるためのものだ。

 

 ……普通、こんな変則的な姿勢だと、日本ダービーの時みたいにむしろ脚に負担がかかるんだけどね。

 力の受け流し方、関節の柔らかさ次第では、こうやって風の抵抗も避けながら脚の負担も和らげる、なんて曲芸も不可能じゃないわけだ。

 

 とにかく、11秒後半。このペースを、ひたすらに守る。

 もしもの時は判断を任されているとはいえ、安定した戦略で勝てるというのなら、それに越したことないんだから。

 

 

 

『さぁ一気呵成に前へ迫るメジロマックイーン、やはり最強ステイヤーか、その走りに陰りは見えない! その後ろからは早めに仕掛けたシルバーピジョン、そしてシルバーピジョン追走!』

 

 

 

 さて、問題があるとすれば、後続のウマ娘なんだけど……。

 

 後方に耳を澄ませる。バタバタと駆けるウマ娘たちの、地面を踏みしめる音……その中からフォームを乱していない、つまりスタミナを維持しているものを絞り込み。

 その中から更に、まだ加速してくる余力のありそうなものを探して……。

 

 ただ、1人。

 

 まったく疲れを感じさせない、重厚でありながら軽やかな足取りを見つけた。

 

「やっぱり……マックイーン、先輩……!」

 

 自分の敗北を全く感じていない……いいや、そんな恐怖や不安よりもなお強く、自らの勝利のためにひた走る気配。

 彼女を突き動かすのは、そうしなければならないという責任感と……何よりそうしたい、かけられた期待に応えたいという彼女自身の意志。

 

 それらが今、完璧に噛み合い……。

 

 世界を、塗り替える。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 美しく彩られた庭園の中、彼女はただひた走る。

 

「今こそ、貴顕の使命を果たす時」

 

 たとえ雨が降りしきり、庭園が無惨に散って、世界が闇に包まれようと。

 ……それでも彼女は、決して止まることはない。

 

「全ての期待を背に負って、私は……」

 

 そうして走り続けた先で、雨雲は切り裂かれ……。

 

 広く澄み切った青空の下、彼女だけの道が、拓く。

 

 

 

「勝ちますッ!!」

 

 

 

 * * *

 

 

 

「……!」

 

 以前見たものとは、似て非なる領域。

 これが正真正銘、彼女の全力。彼女の神髄……!

 

 ほんの一瞬で、彼女の速度が跳ね上がる。

 尋常ではない速度で……差が、埋まる。

 

 8バ身。7バ身、6バ身5バ身4バ身……!

 

 僅か数秒足らず、稼いできた差は無に帰していく。

 

 トレーナーからは「メジロマックイーンは加速に難がある」って聞いてたんだけど……今の彼女には、全く以てその気配がない。

 圧倒的な爆発力と、長く伸びる末脚。ウマ娘に必要な2つを兼ね備えるなんて……。

 今の彼女はまさしく、ウマ娘の王道の極み。おおよそ完璧な脚をしていると言っていいだろう。

 

 

 

『メジロマックイーン抜け出した!! なんという末脚!! 僅か数秒、華麗に空を舞うような走りで一気にホシノウィルムに迫ります!! 不敗神話もここまでか!?』

『後方から多くのウマ娘たちも迫っていますが、やはりここまでのハイペースが響いてしまったか、僅かにキレが甘いか!』

 

 

 

 ……こりゃ、私もトレーナーも、計算の前提条件が間違ってたね。

 

 ウマ娘の実力は、スペックだけじゃ決まらない。

 それは、チートを持ってる私に限った話じゃない。

 

 運命を歩み、あるいは覆すためと言わんばかりに、ウマ娘には「領域」っていう力があるんだ。

 

 私が宝塚記念で、負けることもなく、けれど事故を起こすこともなく、ゴール板前まで駆け抜けたように。

 マックイーン先輩が、数多の因果と困難の果てに、菊花賞を制したように。

 

 運命に挑む時に、自らの進路を切り拓く力。

 それが、領域。

 

 ……そして今、マックイーン先輩はその領域を、更に昇華させている。

 その身に馴染ませ、誰よりも本質を理解して、使いこなしている。

 

 そっか……。

 まだ、先があるんだ。

 

 

 

 運命の向こう側、夢みたいなレースで、ウマ娘は……私たちは、もっと先へ進めるんだ!

 

 

 

 ……改めて。

 

 メジロマックイーン先輩の評価を上方修正。

 展開予測。ターフの悪化した状況、距離感、速度から計算して……。

 このペースのままでは……差し切られる。

 

 ごめんトレーナー、この作戦じゃ勝てない。

 だから……ここからは、私の判断で行く!

 

 

 

『残り200メートル余り、メジロマックイーン肉薄!! 続く3番手は5バ身以上後方、もはやこの2人の叩き合いか!!』

『すさまじい熱戦!! コースレコードペース……いいえ、世界レコードペースの2人の戦い!! 最後に勝利を刻むのはどちらだ!?』

 

 

 

 マックイーン先輩が迫る。

 

 私の後方……3バ身……2バ身……。

 

 彼女との距離が近づく程に、私の心の温度が上がっていく。

 私と競ってくれる、私と戦ってくれる、私をもっと伸ばしてくれる、最高のライバルに、最高のレースに……堪えがたく、燃え上がって。

 

 そうして、残り1バ身。

 

 熱が心に回り切り……私の領域が、開く。

 

 

 

 私だけの世界。数多の星々の輝く、ずっとずっと広がり続ける宇宙。

 

 私の領域はまだ開けて間もなく、マックイーン先輩程に練り上げられたものじゃない。

 昇華どころか、はっきり言って、まだ使いこなす領域にすら入れてないだろう。

 

 ……それでも。

 

 この領域の中でなら、私は誰よりも自由に走れる。

 

「頑張れ、ホシノウィルム!」

「お願い、負けないで!」

「行けっ、行けーっ!」

 

 声が。

 数多の声が、多くの星が、降り注ぐ光が、私を照らし、温めてくれる。

 

「ホシノウィルムさん……!」

「ウィルム先輩、前へ!」

 

 知っている輝きが、私の進むべき先へと導いてくれる。

 

 そして、誰よりも……。

 

「ホシノウィルムゥゥウウッッ!」

 

 ……あの一等星が、私を導いてくれるから。

 

 だから……!

 

 

 

 ガリッと、私とマックイーン先輩の領域が削り合う。

 

 その欠片から伝わって来る想いは、私と何ら変わらない。

 

 ただ、私たちは、互いに。

 

『勝負ですわ!』

『勝負です!』

 

 そう、宣言した。

 

 

 

『まだ余力を残していたのか!? ホシノウィルム、ここで更に加速!!』

『もはやその差は僅か! ホシノウィルムが逃げ切るか!? メジロマックイーンが差し切るか!?』

 

 

 

 勝つのは……ッ!

 

「私ですッ!」

「私だッ!」

 

 まるでシンクロしているように、私たちは同じ言葉を叫び。

 そして……。

 

 

 

 

 

 

『今、ゴールインッ! 着差は半バ身差! 僅かに逃げ切り、ジャパンカップを制したのはホシノウィルム!!』

『タイムは……なんと、2分20秒9!! 圧巻の芝2400メートル世界レコードです!!』

『並みいる強豪なんのその、圧倒的な力でレースを捻じ伏せましたホシノウィルム! その伝説は年末、世紀の有記念へと続いて行く!!』

 

 

 

 私は、ジャパンカップを制した。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「はぁっ、はぁっ、はぁ……げほっ。……おえ」

 

 ……まぁ、当然と言うべきか。

 レース後、私はそれはもう、めちゃくちゃに疲れていた。

 

 まぁそれも、当然と言えば当然の話。

 そもそも「スタミナを全部使い切ってちょうど走り切る」ペースが11秒8なんだ。

 それなのに、最後の600メートルなんか全然ペース守ってなかったし……特に最後の200メートルは、本当の本当に超絶ハイペースだった。

 

 当然スタミナなんて欠片も残っておらず、気力も根性もかなり酷使してしまった。脚はプルプルしてるし、最悪軽い炎症くらいなら起こってるかもしれない。

 

 ……でも。

 

「はぁ……、ふぅ、やった」

 

 勝てた。

 勝てた!

 あのとんでもない領域と、最高と呼ぶべき末脚を見せてきたマックイーン先輩に、私は、勝てたんだ!

 

 今はとにかく、それが嬉しい。

 それこそスタミナさえあれば、踊り出していただろう程に。

 

 

 

「ホシノウィルムさん」

 

 肩を揺らしている内に、私よりも早く息を整えたマックイーン先輩が話しかけてきた。

 その表情は……強い悔しさを感じさせながらも、一点の曇りもない。

 

「見事な走りでした。悔しいですが、今日のところは潔く敗北を認める他ありませんわ」

「マックイーン先輩も……ふぅ、まさかあそこまで、迫って来るとは思いませんでした……。最高に楽しい瞬間を、ありがとうございました!」

「感謝するのはこちらの方です。私が自らの走りを取り戻せたのは……あなたのトレーナーのおかげなのですから」

「私のトレーナー、の?」

 

 マックイーン先輩は、少しだけ自分のことを話してくれた。

 今年から負け続きで焦り、自分の中の歯車が噛み合わなくなってしまっていたこと。

 それをトレーナーさんに相談できず、1人で抱え込んでしまっていたこと。

 ……そして、私のトレーナー、歩さんの手引きで、マックイーンのトレーナーさんが彼女としっかり話し合ったことで、その不調を解消できたことを。

 

 そっか。トレーナー、ちゃんとマックイーン先輩のことを助けられてたんだ。

 なんというか……うん、良かった。

 

「そして、今日。あなたの走りを見て、私はまた1つ成長できました。あなたたちには助けられてばかり。心から感謝しますわ」

「それは私も、です。マックイーン先輩の走りを見て、もっと上に行けるんだって、知りました。ありがとうございました!」

 

 そう言って頭を下げると、マックイーン先輩はクスリと笑って言う。

 

「先輩、はいりません。ライバルには年上も年下もありませんから。どうぞマックイーンとお呼びになって?」

「っ! は、はい! マックイーンせ……えっと、マックイーンさん! えっと、それなら私のこともウィルムで……!」

「えぇ、改めてよろしくお願いします、ウィルムさん」

 

 そう言って、私たちは握手して……。

 

 大歓声に包まれる中、マックイーンさんがニヤリと笑って言う。

 

「次は、有記念で。今度こそ勝たせてもらいますわよ?」

「いえ。……次も、勝つのは私です!」

 

 

 

 そうして、マックイーンさんと正式にライバルになって……。

 ホシノウィルムのクラシック級、ジャパンカップが終わった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さぁ、今年出走予定のレースは、残り1つ。

 前世アニメ1期における2人の主人公であり、同時にこの世界では2つの伝説となっている、スぺちゃんとスズカさん。

 更にはスカイ先輩たち多くのネームドと、ミーク先輩やテイオーにネイチャなど、因縁あるウマ娘たちとの戦い。

 

 年末の祭典、有記念。

 

 なんというか……いよいよラストスパート、って感じ?

 

 

 







 メジロマックイーン
 『貴顕の使命を果たすべく Lv5』
 最終コーナーで前の方にいると抜かさせない覚悟を決めて速度が上がる。
 更に、抱いた誇りと背負った期待がその脚を前に進める。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、勝利者インタビューの話。
 おまけを挟まず次の章へ。第二部はここで折り返しです。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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有マと歩みと転生者の季節
多分これが一番早いと思います。


 新章開幕。第二部は二章構成なので、後編です。





 

 

 

 ホシノウィルムは、ジャパンカップを制した。

 

 ……いや、こんなにさらっと流して良い事実じゃないんだけどな、これ。

 

 ジャパンカップは、多くの海外のウマ娘が乗り込んでくる、シニア混合のG1レース。

 本来その勝利に対しては、もっとこう、「うおおおお、ホシノウィルム、やったなぁぁぁ!!」みたいなノリが正しいんだろうが……。

 もうここまで来ると、G1に勝っても「よく頑張った!」以上の感想はなかなか出てこない。

 どうやら彼女のレースの勝利に関する価値観は、既に壊れてしまっているらしい。

 

 ……まぁ、俺が一番祝いたいのは勝利(そこ)ではないので、ひとまずそこは置いておこう。

 

 地下バ道に帰って来たウィルは、やはりというか、いつも以上に疲れを滲ませていた。

 それでもいつものように、こちらを視認すると駆け寄って来ようとするので、「歩いて、な」と苦笑いで応え、ゆっくりと歩み寄って来る彼女を待つ。

 そして彼女が擦りつけようとしてくる頭に手を置いて、少し乱雑気味に撫で回した。

 

「わ、わっ」

「おかえり、……ウィル」

「へへ……ただいま、あゆ……ん、ん。トレーナー」

「よく無事に帰って来た。ずっと見ていたぞ」

「うん。応援の声、聞こえてましたよ」

「……聞こえるものなのか?」

「私、走ってる間は耳が良いって言ったでしょう?」

「む……」

 

 そんな会話を交わしながら、俺たちは昌やブルボンが待っている控室に向かう。

 

 ……ウマ娘の仕事は、レースだけで終わりってわけじゃない。

 彼女には今日、もう一、いや、二仕事してもらわないといけない。

 

「それじゃ……少し体を休めたら、勝利者インタビューに向かうぞ。やれそうか?」

「勿論です。ファンの皆さんが待っててくれてますから」

 

 ウィルはそう言って楽しそうに、不器用な笑みを浮かべた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 トゥインクルシリーズの原則として、八大競走に勝ったウマ娘には、当日の内にインタビューが行われる。いわゆる勝利者インタビューというヤツだ。

 本来インタビューはウマ娘の負担も考えて後日に行われることが多いが、八大競走……つまり国内でも最大規模・最高級の格を持つレースは例外となる。

 運営しているURAとしては早急な対応を取りたいだろうし、何より少しでも早く生の声が聞きたいというファンの方が多いからな。

 

 が、同時。ハプニングや例外というものは往々にして存在する。

 例えば、1着2着がどちらも負傷してしまい、インタビューどころかウイニングライブすらままならなかった今年のダービー……とは、まったく逆の方向性にはなるが。

 今回のジャパンカップのようなレースもまた、例外的なレースの1つに数えられる。

 これは八大競走には数えられないが、当日中にインタビューが行われるんだ。

 

 八大競走に数えられるのは、皐月賞・日本ダービー(東京優駿)・菊花賞・桜花賞・オークス・天皇賞(春・秋)・有記念の8つ。

 今はこれらに加え、宝塚記念やエリザベス女王杯、ジャパンカップなど、中長距離に限ってもこれらと十分並ぶようなレースがいくつも開催されている。

 

 そもそも、八大競走という枠組みができたのはだいぶ昔のこと。G1とかG2とかのグレード制ができる、その更に前の時代。

 今で言うG1もG3も全て「重賞」という区切りだった時代、その中でも一等格の高いレースを区別するために生まれたんだ。

 故に、今は必ずしも、八大競走が最大の規模や格を持つというわけではないわけで。

 

 なので今は、ジャパンカップに代表されるような八大競走に並ぶ大規模レースもまた、当日中にインタビューが行われるようになっているのだった。

 

 

 

 で、この勝利者インタビュー。

 これはレースに勝ったウマ娘が得る、ウイニングライブと並ぶ1つの特権とも言えるものだ。

 

 本来ウマ娘は、ただ純粋な実力主義ではなく、人気商売としての側面も内包している。なにせアスリート性半分、アイドル性半分みたいな存在だからな。

 グランプリレースを除く一般的なレースへの出走の優先度は、そのウマ娘の実力と共に、抱えているファンの数を基準にして決定される。

 要は実力・人気の両面を具え持つ子が優先されるわけだ。

 

 故に人気のないウマ娘は、たとえ多少の実力があったとしても、レースに出ることすらできない場合がある。

 ……ま、善性の人間が多い影響か、そんなことはそうそう起こらないけどね。

 ごく稀にラフプレーしがちな子とかが弾かれるくらいで、基本的には実力と人気は比例に近い相関関係を持っている。

 

 で、人気商売って意味においては、勝利者インタビューは自らをアピールする絶好の機会でもある。

 自分が勝ったこと、他の子よりも強いことをアピールし、次回に出走したいレースなど伝えることで強く意識してもらう、というわけだ。

 

 とはいえ、俺の担当であるウィルとブルボンはどちらも極めて実力派のウマ娘であり、集める期待は相当のもの。敢えてアピールしなければレースに出られない、ということは起こらないだろうけども。

 故に、俺たちにとって勝利者インタビューというのは、少なくともアピールの場という意味では、あまり大きな意味を持つイベントではない。

 

 しかし同時、レースを見た直後ファンにとって、彼女たちの生の声は是が非でも聞きたいもの。

 最近ファンサービスをしっかりと考えてくれるようになったウィルにとって、これがファンの応援に報いる大事な機会であることは間違いないだろう。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ホシノウィルムはしばしの休息の後、勝負服のままでインタビューの舞台に上がった。

 灰のマントこそ畳んでいるが、レース直後の彼女からは、レース後の余韻とでも言うべき熱が立ち上ったままだ。

 

 その姿を、数えきれない程のカメラが一斉に捉えた。

 パシャパシャと光るフラッシュに、ウィルは少しだけ眩しそうに目を細める。

 

 多くの人にその声を届けるために、彼女はここに立っている。

 勝利の感慨を。未来への展望を。次走への意気込みを。

 ……そして、その姿を見せるために、ここにいる。

 

 だから彼女は、今もこうして堂々と、カメラのフラッシュに耐える。

 勝者としての誇り高い姿を、そのレンズに焼き付けるために。

 

 

 

 俺は契約トレーナーとして、そんな彼女の隣に立つ。

 

 この場で、俺にできることは少ない。

 彼女の言葉に余計な装飾を加える気もないし、逆に言いたくないことを言わせる気もない。

 ただ彼女に答えられないこと、答えにくいことがあれば、それを話すくらいだ。

 

 それと、効果があるかはわからないが……彼女の隣にいてやること、か。

 

 彼女にはもう、この世界に保護者と呼べる人がいない。

 遠縁の親戚はいるようだが、ウィルはその方々とは一定の距離を保っているようだ。

 少しだけお話させてもらったところ、あちらとしてもウィルのことを子供というよりは1人の親戚として見ていたようなので、保護者とは呼び辛い。

 

 だからこそ俺は、そんな彼女にとって、たとえ一時だとしても休める木陰になれればと思う。

 大した助けにはなれないと思うけど……少しでも邪魔な陽射しを避け、警戒することもなく昼寝ができるような場所になれたらいい。

 

 ……いやまぁ、そうなれるかはわからないし、なれたとしてもどれだけ彼女の助けになるかはわからないけどさ。

 

 

 

 さて、檀上にウマ娘とトレーナーが揃ったことで、勝利者インタビューが始まる。

 早速インタビュアーの1人が口を開いた。

 

「ホシノウィルムさん、ジャパンカップの勝利おめでとうございます!

 強力なウマ娘たちを退けての勝利となりましたが、今の率直な感想をいただいてもよろしいでしょうか」

 

 俺が彼女にマイクを渡すと、ウィルはすぐにそれを口元に寄せた。

 

「最高のレースでした。まずは一緒に走ってくれたウマ娘の皆さん、そして見ていただいた皆さんにお礼が言いたいですね」

 

 おぉ……。

 

 無難と言えばその通りだが、素晴らしく堅実な回答である。

 半年前の彼女なら『死ぬ程つまらないレースでした。もっと強いウマ娘いないんですか?』とか言い出しかねなかったことを考えると、これがどれだけ真面目で得難いものなのかがわかるだろう。

 

 最近じゃメディアにも「最近のホシノウィルムは気性難が抜けつつある」と報道もされがちな彼女だけど、実際それは事実に近い。

 一種の場慣れだろうな。特に彼女が三冠を取って以来、そりゃあもうインタビューとか取材とかすごかったし、経験値は相当に得られたはずだ。

 

 レースでの暴走もそうだが、インタビューにおいても、ホシノウィルムの気性難……というかちょっと非常識な回答はその数を減らしつつある。

 まぁ勿論、少し前のマックイーンとの合同取材のように、完全になくなったわけではないので油断は禁物なんだけども。

 

 

 

 ホシノウィルムの回答に記者がメモを取っている間に、他の記者が質問を出してくる。

 

「結果はメジロマックイーンさんと2分の1バ身差とのことですが、彼女について何か感想を」

「やはりと言うべきか、あるいは当然と言うべきでしょうか? 素晴らしく強い先輩です。

 トレーナーの指導の下、逃げウマ娘として自分が有利になる戦術を取ったつもりでしたが、彼女はそれを真正面から打ち負かしに来た。

 あとほんの少し私のスタミナが持たなければ、あるいはあとほんの少しマックイーン先輩の脚が伸びれば、今回の結果は覆っていたと思います」

 

 ……そうなんだよなぁ。

 無表情を保ちながら、俺は内心で少し気落ちした。

 

 恥ずかしながら、俺は今回のレースの展開を読み違えた。

 それも、よりにもよって確かにデータを取っていたはずだったマックイーンの伸び方を、だ。

 結果として、最終直線ではホシノウィルムに無理を強いてしまった。痛恨のミスと言っていいだろう。

 

 今回のミスの要因としては、未知の部分が大きい海外のウマ娘に注目しすぎたこと、宝塚記念や天皇賞(秋)でメジロマックイーンの限界を知ったような気になっていたことが挙げられるだろうが……。

 何にしても確かなのは、俺の立てた作戦はウィルの手を勝利へ引くことはなく、むしろその脚を引っ張ってしまったという結果だけ。

 深く反省し、二度と同じ間違いを犯さないよう気を付けなければならないだろう。

 

 ……だが。

 今は、ホシノウィルムの勝利を祝い、彼女の感動を伝える場だ。

 反省は後でするとして、今は目の前のインタビューに目を向けなければ。

 

「海外のウマ娘たちに対してはどうでしょう」

「日本の芝という慣れない戦場で、とても良く走ってくれたと思います。

 ただ、やはり私のような慣れない大逃げウマ娘と一緒に走るとなると、どうしてもペースを見誤ってしまうのかもしれませんね。再び走る機会があれば、今度は万全の彼女たちと走ってみたいものです。

 ……無論、次も私が勝ちますが」

 

 今回俺が立てた作戦は、ハイペースのラップを刻み、大逃げに慣れない海外のウマ娘たちの判断を乱すと言うもの。

 実際、海外のウマ娘たちはただでさえペースを上げられたことに加え、マックイーンが抜け出したのを見て早めの仕掛けを強いられ、結果として多くの子たちが垂れていった。

 ホシノウィルムに迫ることができたのは、無尽蔵に近いスタミナを持っていたマックイーンだけだ。

 

 まぁ、あのマックイーンと叩き合えたホシノウィルムだ。仮に海外の子たちが垂れなかったとしても、十分に逃げ切れていた可能性は高いが……。

 最悪、マックイーンの更に後ろから追い込んでくる子がいないとも限らなかったからな。その可能性をケアできたのは悪くはなかったと思う。

 いや、その結果ウィルが負けかけていては悪くないも何もないんだが……。

 

 

 

「では次に、今回打ち立てた記録について。今回の勝利によって、ほぼ理論上最速のG1レース6勝を飾ったわけですが、感想はありますか?」

 

 理論上最速、なぁ……。

 

 トゥインクルシリーズで出走できるG1レース、その数自体はそこそこあるが……。

 その中で、両立できるレースというのは、存外少ない。

 

 競走ウマ娘の脚は、1度レースを走った後は、1か月程度休めるべきだと言われている。

 その理由は簡単で、単純に負荷が強まり過ぎて故障発生の確率が高まる上、それだけ休ませないとフルスペックに実力を発揮しにくいからだ。

 特にG1レースなんてのは、その1回のために全ての神経を集中させてようやく勝てるようなもの。とてもじゃないけど無理に脚を使って勝てるようなものじゃない。

 

 その前提で言えば、確かにホシノウィルムのG1レース6勝は、おおよそ最速と言っていい。

 

 

 

 クラシック級の11月までにウマ娘が出走することのできるG1レースは……。

 

 まず、ジュニア級の年末に行われる、朝日杯フューチュリティステークスと阪神ジュベナイルフィリーズ、そしてホープフルステークスと全日本ジュニア優駿。

 これらはかなりレースの開催時期が近く、連闘でもする覚悟がなければ2勝は厳しい。

 更に言うと、このレースに出走するのはまだ体が整っていないジュニア級。ただでさえ負荷の強いG1連闘を許すトレーナーはほぼ皆無だろう。

 

 次にクラシック級4月に行われる、クラシック路線の皐月賞とティアラ路線の桜花賞。

 クラシック三冠とティアラはどちらかに絞るのが基本だし、たとえそれらを跨ぐとしても、同時期のものに出走するのはおおよそあり得ないと言っていい。

 

 5月、NHKマイルカップ、クラシックのダービーとティアラのオークス。

 前述の通りダービーとオークスへ両方参加することはないだろうし、4月に皐月か桜花に出走している場合はマイルカップは避けるのが常道。というか流石に2か月でG1レース3本は負荷が強すぎる。

 

 6月から7月、安田記念、宝塚記念、そしてジャパンダートダービー。安田と宝塚はクラシック級のウマ娘たち、特に三冠路線やティアラ路線に参加する子は避けることが多いし、たとえ出ても両立はこれまた難しいだろう。

 ダートダービーはその名の通りダートなので、単純にG1レース数が少なくて勝利数を稼ぎにくいし。

 

 少し時間は飛んで9月から10月、短距離のスプリンターズステークスに、ダートのマイルチャンピオンシップ南部杯、それぞれ最後となるクラシックの菊花賞にティアラの秋華賞、そして天皇賞秋。

 前2つに参加する子は、距離やバ場の関係で他のG1に参加しにくいため勝利数を稼ぎにくく、中長距離路線で走る子たちは菊花秋華、あるいは秋天のどこかに焦点を絞ることになる。

 

 そして最後に11月、ダートのJBCクラシックとJBCスプリントにJBCレディスクラシック、エリザベス女王杯とマイルチャンピオンシップ、そしてジャパンカップ。

 もう言うまでもないだろうが、後ろ3つはどれか1つに焦点を絞ることになる。

 そもそもここからは本格的にシニア級との混合レースが始まるので、そう簡単に勝てるものでもなくなってくるんだけどね。……いや、そもそも簡単に勝てるG1レースなんてないんだけども。

 

 これらの期間で1つずつ、ホープフルステークス、皐月賞、日本ダービー、宝塚記念、菊花賞、そしてジャパンカップを制してきたホシノウィルムは、ほぼ最速無敗のG1レース6勝、となるわけだ。

 「ほぼ」って言うのは、芝もダートも、短距離から長距離まで全部走れる子がいるから一応付けられてるって感じ。当のミークは現在G1レース4勝だけど。

 

 ……感覚が麻痺しているのを感じるな。

 普通G1レースって、自分の狭い適性距離の中で完璧に調子が噛み合った時、ようやく1勝をもぎ取ることができるとか、そういうレベルなんだけどな。

 それを「4勝だけど」って……。4回も勝てば、歴史に名を遺すレベルの優駿だぞ。

 

 やっぱり俺の感覚、どこぞの鹿毛のウマ娘に壊され尽くしちゃったらしい。

 

 

 

 しかし、そんなとんでもない偉業を成し遂げた当人は、何の気負いもなさそうに語る。

 

「前にも言いましたが、個人的には記録というものには、あまり大きな意味は見出していません。

 ……そして同時、この記録は私を支えてくれた多くの人やウマ娘なしでは勝ち取れなかったもの。自分を誇るよりも、まずはその状況を顧みて、私を取り巻くすべてに感謝したいと思います」

 

 至極真っ当というか、模範に近い回答だ。

 別に相談して言うべき内容を決めてきたわけでもないんだけど……改めて、こういう時にもちゃんと答えられるようになったんだなぁ。

 

 レースでは作戦で負けそうになっても実力でカバーできるし、インタビューにも十分答えられるし。

 俺が彼女を助けられることも、少しずつ減ってきたかな。

 そう思うと、なんだか……。

 

 うん。ちょっと、辛いかもね。

 

 

 

「現状のG1最多勝であるシンボリルドルフさんの7勝に、次回有記念で手が届くわけですが、そこに関してはどうでしょう」

 

 次のインタビュアーの言葉に、ウィルは少し考え込む。

 

 海外まで含めると話が難しくなるが、少なくともトゥインクルシリーズにおけるG1最多勝は、シンボリルドルフの7勝だ。

 

 クラシック級で皐月賞、日本ダービー、菊花賞、有記念を制し。

 シニア級で天皇賞(春)、ジャパンカップ、そして再び有記念に勝った。

 

 出走したG1レースは計9つ、その内7つを制した彼女は、正しく生きる伝説だ。

 ドリームトロフィーリーグに上がった後も、出走する度毎回1番人気を掻っ攫っている。

 

 その偉業に手が届くと言われ、流石に思うところがあるのか、と思ったが……。

 どうやら、それは違ったらしい。

 

「いえ、特には考えていませんでした。

 ……というか、他のことを気にしながら勝てるほど、今年の有記念は簡単なレースにはならないと思います」

 

 ……無表情だから本当のところはわからないけど、もしかしてこの子、「あ、そう言えば私、もうそういうところにまで来たのか」とか考えてたんだろうか。

 

 ウィル、本人も言う通り、レースの記録にはあんまり興味を持ってないからなぁ……。

 彼女にとって大事なのは、どれだけ楽しく、熱くなれるレースができるか。そこで残した記録が何を成すかは二の次なんだ。

 

 いやまぁ、最近は割と無敗の三冠ウマ娘マウントとか取って来ることも増えたけども。

 あれは遊びというか冗談というか、ふざけて言ってるヤツだからな。多分本人はそのワードの強さをあんまり意識せず言ってる。

 ……どうしよう、今回のジャパンカップ勝利で無敗の五冠マウント取り始めたら。そこまで行くと、現状この世界で彼女に勝てるウマ娘はいなくなるんだが。

 

「やはり、次回の有記念に出走するウマ娘たちのことを意識されているんでしょうか」

「意識しない子がいたとすれば、その子は多分入着すらできないんじゃないでしょうか。……本当にいたとすれば、ですが」

 

 それは……まぁ、その通りだろうな。

 

 今年の有記念は、ちょっとばかりとんでもないウマ娘との戦いになる。

 日本一のウマ娘ことスペシャルウィーク、異次元の逃亡者サイレンススズカを筆頭に、トリックスターのセイウンスカイやオールラウンダーのハッピーミーク。

 今回驚異の脚を見せたターフの名優メジロマックイーン、宝塚記念ではそのマックイーンを超えたメジロライアン、掛かりながらも逃げ続けるダイタクヘリオス。

 菊花賞でも競り合ったナイスネイチャや復活する天才トウカイテイオー、最初から全力全開のツインターボもいる。

 1人でも参加すれば盛り上がるだろうウマ娘たちの大盤振る舞い。ここまで豪華なレースはそうそうないだろうし、ここまでの難易度のレースもまたそうそうないだろう。

 

 あるいはだからこそなのか、ホシノウィルムにしては非常に珍しいことに、彼女は有記念の出走ウマ娘たち……特に、スペシャルウィークやサイレンススズカを強く意識しているらしい。

 トレーナーとしての観点で言えば、ライバルを意識してくれるに越したことはないので、非常にありがたいことなんだが……。

 

 同時にそれは、やはり今年の有記念はそれだけ難しいものになるという証左でもあった。

 あのホシノウィルムが意識してしまう程に、その難易度は高いのだ。

 

 

 

「では、次走……年末の有記念について伺いたいと思うのですが」

 

 ウィルがちらりとこちらを窺ってきたので、頷いておく。

 ……それがどのようなものであったとしても、彼女の言葉で、彼女の意志を伝えるべきだろう。

 

 さて、どのような強気の発言が飛び出すかと、俺は内心身構えていたんだが……。

 

 彼女の口から出てきたのは、予想外のものだった。

 

「正直なところ、今回の有記念については、今までのように必ず期待に応えると断言はできません。

 あのお2方もそうですが、ここまですごいメンバーのレースは、誰もが体験したことがないでしょう。

 ですが、死力を尽くして……レースを楽しむことを誓います」

 

 ホシノウィルムにしては破格な程謙虚な言葉に、思わずと言った感じでインタビュアーが黙り込む。

 一方、彼女のトレーナーである俺も、少なからぬ驚きを覚えた。

 

 そう言えば、彼女はしばらく前にネームドの名前を挙げて確認していった中で、スペシャルウィークやサイレンススズカには他よりも強めに反応していた気がする。

 何かしら、運命的なものがあるのか……やはりウィルは今、2人を強く意識しているらしい。

 

 ……彼女でさえも勝利を確信できないレース、有記念。

 実際、軽く展開を予想するだけでも、ホシノウィルムが苦境に立たされることは間違いないだろう。

 

 それでも。

 少しでも彼女が楽しく走れるように、そして勝つことのできるように、支えて行かないとな。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、勝利者インタビューが終われば、今度はウイニングライブ。

 ここに関して俺はほぼノータッチなので、大人しく関係者席から昌やブルボンと一緒に、宝塚記念に続いて2度目となるホシノウィルムの「Special Record!」を眺めて。

 

 諸々の事後処理を終わらせて、レース場を後にする頃にはウィルがうつらうつらし始めたので、一旦日を改め。

 

 後日、俺とウィル、ブルボンに昌の4人は、恐らくこれからも定例になるだろう祝勝会を開催することにした。

 いやまぁ祝勝会って言っても、走った子が食べたい物を皆で食べに行く、ってだけなんだけどね。

 

「ホシノウィルム、どこか食べたい店やものはあるか? 最大でも半日で済む範囲で」

 

 そう尋ねると、彼女は顎に手を当ててやや悩み。

 

「今は辛い物の気分なんですけど、担々麺って大丈夫ですか?」

 

 

 

 結論から言うと、俺と昌は顔を真っ赤になりながら食べることになった。

 美味しいけど、確かに美味しいんだけど、とんでもなく辛いお店だった……。

 ウィルやブルボンはなんであんなに食べられるんだ。もしかして、ウマ娘の胃が毒物だって見なして無効化したりしてない?

 

 

 







 ポケットモンスター 真っ赤になって汗をかきひーひー言いながら辛いものを食べるウマ娘/なんでもなさそうな顔で美味しそうにもりもり辛いものを食べるウマ娘

 皆はどっち買った? 自分は後者。
 多分普通の辛さなら感じるけど、一定以上になると体が「これ毒だ!!」と判定して、感じる辛さが控えめになるんじゃないかなって。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、作戦会議の話。



(本編に関係ない呟き)
 ポケモンSVで色違い(1/632)+Aダメかも(1/32)+みたことのない証(1/200くらい?)引いちゃった……。
 近い内隕石に当たるかもしれない。更新が途絶えたら隕石直撃したと思ってください。

(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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サイレンススズカを追い抜ける確率は0%と表示されるが、

 この世界では小数点以下を切り捨てているため、実際は小数点以下の確率で追い抜ける。
 気が遠くなるほど速いスピードだが不可能ではない。
 十分にステータスを上げ、スキルや掛かりを防ぐ精神力を完璧に揃え、何度も何度もシミュレートすれば追い抜くことが可能。
 感覚を壊すことができれば掛かり率が下がるため、追い抜ける確率が多少上がる。





 

 

 

 ついこの間まではファン大感謝祭とか秋のG1戦線なんて言ってたのに、気付けばもう11月も末。

 秋はすっかり過ぎ去って、身をつんざくような寒さがトレセン学園を包んでいる。

 

 とはいえ、ウマ娘の体は人間に比べて寒さに強い。

 多少気温が下がっても、ジャージどころか短パン、ウマ娘によってはブルマを穿いて、平然と外を走ってたりするんだけどね。

 

 ブルマねぇ。この世界では絶滅してなかったんだなぁ。ま、パンツ系と違って砂が入りにくかったりするし、悪いとこばっかりじゃないんだけどさ。

 ちなみに短パンを穿くかブルマを穿くかはウマ娘それぞれの自由とされてるんだけど、当然ながら私は短パン派だ。何故なら恥ずかしいから。前世の記憶持ってるのにブルマはキツイって……。

 

 ……いや、何の話よ、これ。

 

 話を戻すと、いよいよ冬も深まり、寒さも本格化してきた。

 私たちウマ娘は体質上寒さにも強いけど、それはあくまで「我慢できる許容量が大きい」だけで、寒いもんは寒い。

 トレーニングのためとなれば我慢もするけど、できれば外に出たくはないし、可能なら温かいコタツとか暖房の効いた部屋とかに籠ってたい、というのが偽らざる本音だったりする。

 

 そういう意味ではジャパンカップの翌日である、11月25日は、すごく平穏で幸せな1日だったと言えるかもしれない。

 なにせ、トレーニングで外に出たりせず、ずっと室内にいたわけだからね。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「さて……それでは改めて、それぞれの作戦会議を始めようか」

 

 トレーナーの声が、暖房の効いたトレーナー室に響く。

 椅子に座って話をしてた私とブルボンちゃんは、その言葉に居住まいを正す。

 

 私たちのトレーナーは、かなりの慎重派だ。

 だから公式レースの翌日は、脚に強い疲労が溜まってるっていう理由で原則トレーニングは禁止。勿論自主トレも、絶対に駄目だって念を押される。

 

 レースお疲れ様って意味も込めて、場合によっては1日丸々お休みに充てられることもあるんだけど……今回はそうも言っていられない。

 動けないなら動けないなりに、次回のレースに向けてできることをしなきゃね。

 

 なにせ次のレースは、有記念。

 地獄のようなメンツで走る、地獄の怪獣大戦争なんだから。

 

 そんなわけで、ジャパンカップ翌日である今日。

 夕方の祝勝会までの数時間は、今後のレースに向けた作戦会議の時間に充てられたのだった。

 

 

 

「『それぞれ』ということは、私のオペレーションについても言及があるのでしょうか」

 

 事実確認を取るように、私の横に座ったブルボンちゃんが手を挙げてトレーナーに尋ねる。

 

 今走れないのは、ジャパンカップを走った私だけ。ブルボンちゃんはいつも通りにトレーニングすることもできる。

 けどトレーナーは、敢えてブルボンちゃんにお休みを取らせ、私とトレーニングのタイミングを合わせてくれた。

 

 なんでも、ウマ娘は親しいウマ娘と一緒にトレーニングすることで、その効率を上げることができるのだとか。

 だから複数の担当を持つ場合は、バラバラにトレーニングさせるより、お休みのタイミングを合わせてできる限り一緒のトレーニングスケジュールを組んだ方が良いんだって。

 

 まぁそんな理屈はさておいて、私としては可愛い後輩ちゃんとトレーニングできるのは僥倖だし、こういう作戦会議だって一緒なら嬉しい。

 

 嬉しい……んだけど。

 ブルボンちゃんの作戦会議は、ベゴニア賞の翌日には済ませてるはずで──まぁ私は追い切りのために不参加だったから、その詳細までは知らないけど──、改めて彼女が作戦会議に参加する必要があるのかは、確かに疑問が残る。

 

 首を傾げるブルボンちゃんに、トレーナーは手帳を取り出しながら、少し苦笑して答えた。

 

「そこまで重要情報が手に入ったわけではないから、あくまでも作戦の復習と確認になる。

 ……だが、君の先輩は心配性だからな。きちんと分析を伝えないと、レース当日に落ち着かないんだ。付き合ってやってくれ」

 

 ……私がちょっと赤くなってしまったのは、言うまでもないだろう。

 もう! 可愛い後輩に、余計なこと教えないでほしいんだけどなぁ……!

 

 

 

 * * *

 

 

 

 気を取り直して、レースの話だ。

 

 ブルボンちゃんの次走は、朝日杯フューチュリティステークス。

 ジュニア級王者を決めるべく年末に開催される、4つのG1レースの1つである。

 

 翌年のクラシックレースの出走や結果に直結すると言われる、ジュニア級の子たちの登竜門。

 ブルボンちゃんにとっては、トレーナーに認めてもらうべく課された目標でもあり、同時に三冠を目指すのなら是非とも勝っておきたい足がかりでもある。

 

 ダートである全日本ジュニア優駿を除いた3つのG1、ホープフルステークスと阪神ジュベナイルフィリーズ、そしてこの朝日杯フューチュリティステークス。

 これらを制するウマ娘は、クラシックレースでの有力候補として、かなり注目が集まる。

 ぶっちゃけこれにさえ勝てれば、後は一切レースに出なかったとしても皐月賞に出走できるくらいに。

 

 逆に言えば、ここで勝てないと、ファン獲得のために他のレースに何度も出走するか、トライアルレースで一定以上の着順を取りに行かないといけなくなる。

 そうなると自然、ローテーションやスケジュールは制限されてしまい、どうしても万全なトレーニングを付けることが難しくなってくる……。

 

 ……らしい。

 私は今まで負けたことがないからよくわかんないんだけど、過去のデータを知ってるトレーナー曰く、そういうものなんだって。

 

 ここで勝てれば一気に箔が付くし、クラシックレースへの出走も確定し、更にはスケジュールの余裕も出て来る。一石二鳥超えて一石三鳥だ。

 だからこそジュニア級年末のG1は、多くの早熟なウマ娘たちが集う、決して油断できないレースになるんだ。

 

 

 

 では、今年の朝日杯に出走する、ブルボンちゃんのライバルたちはどうなのかと言うと。

 

「まず第一に警戒すべきは……京王杯ジュニアステークスを制したG2ウマ娘、ここまで4戦3勝のフルーツパルフェだろうな。

 前めに付けてくることもあれば後方から捲って来ることもある、かなり脚質の読み辛いウマ娘だが……恐らく朝日杯ではミホノブルボンのペースに付いて来るために積極的に前に出てくると思われる。

 京王杯での上がり3ハロンは、35秒2。朝日杯では200メートル距離が伸びるとはいえ、ミホノブルボンを打倒し得る可能性が最も高いのは彼女だろうな」

 

 35秒2か。1ハロン(200m)ごとの平均は……大体11秒7?

 おぉ、結構すごい。荒れたバ場の2400メートルで常にそのペースが出れば、大体私と同じくらいの速さだ。

 

「……とはいえ。ミホノブルボン、君が真っ当に走れさえすれば、負けることはないだろう。

 確かにフルーツパルフェは強敵だが、君のスペックはその1枚上を行っている。

 とにかく落ち着いて、君らしく走りなさい」

「了解しました、マスター」

 

 トレーナーとブルボンちゃんが頷き合う。

 その意見については私も概ね同意。

 

 ブルボンちゃんは最近、どんどん強くなってきてる。

 流石に私の追い切りは無理としても、普段のトレーニング程度なら十分に付いて来れるようになったしね。

 この前なんか、試しに2000メートル走ったら、まずまず悪くない数字が出たくらいだ。流石に去年の私よりは遅いだろうけど、これなら多分ホープフルステークスでも十分通用したんじゃないかな。

 

 そんな状態で朝日杯に出るとなると……そりゃあ私と同等のトレーニングを付けてるんだから当然と言うか、スペックでは1枚優る状態ではあるだろう。

 なにせ歩さんをトレーナーにしてるんだ、そりゃ速くもなるってもんよ。

 

 

 

 強いて問題を挙げるとすれば……やっぱりこれがただのかけっこじゃなく、公式のレースだってことで。

 他のウマ娘たちの織りなす展開と彼女の掛かり癖次第じゃ、その有利も覆ってしまうだろう。

 

「他に警戒すべきは……3戦2勝マチカネタンホイザ、それから前に出てくる可能性のある逃げウマ娘数人、といったところか」

 

 マチカネタンホイザちゃん。

 前世アニメにおいて、ネイチャと同じく〈チーム・カノープス〉に所属していたネームドウマ娘。

 アニメでは特にこれといった活躍はなかったからあんまり強い印象はないけど、ムードメーカーで周りを明るくしてくれるイメージが強い。

 

 けれど、彼女もネームドウマ娘。

 トレーナーがその名を挙げたところからしても、決して油断できるような存在ではないんだろうな。

 

 ……というか、すごく今更なんだけど、〈チーム・カノープス〉って歳の差のあるチームだったんだね。

 全員仲良いし、特に敬語も使ってないし、先輩とかの敬称も使わず名前呼びだったから、アニメ見てた時はてっきり同世代だと思ってたよ。

 

 この世界には〈チーム・カノープス〉っていう枠は存在しないみたいだけど、それでもあの4人は仲良くしてるらしい。よくネイチャとの雑談にも出て来るし。

 なんかこういうの、運命的なものを感じて、ちょっと良いよね。

 

「……総じて、このレースは君が全力を出せれば十分に勝てる戦いだ。

 とにかく掛からないこと。視野狭窄にならないこと。一定のラップを刻み続けることを意識しなさい」

「ミッション、改めて了解しました」

 

 どうやらそこまでで、彼女の作戦の振り返りは終了したらしい。

 

 

 

 朝日杯フューチュリティステークス。

 彼女の行く末を占う、ジュニア級の大一番。

 

 頑張れ、ブルボンちゃん。

 同門の先輩として、応援してるよ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ちょっとだけ休憩を挟んだ後、改めて作戦会議が再開される。

 

「さて、今日の本題に入ろう」

 

 トレーナーがそう言うと、あらかじめ控えてた昌さんが私たちに何枚かの紙を配ってくれた。

 

 これは……中山レース場の俯瞰図と勾配、注意点とかを纏めたのが1枚。

 で、2枚目以降は……ここ最近恒例になった、各ウマ娘たちのスペックを纏めた詳細情報か。相変わらず、すっごい細かく分析されてるな……。

 

「これが、現状における今年の有記念の参照データだ。

 開催までまだあと1か月弱あるから、ここから数字や特徴が変動する可能性はあるだろうがな」

 

 取り敢えず、軽くパラパラと捲ってみる。

 

 まず目に入った、今の私のデータが……。

 

 

 

 ホシノウィルム

 

 ステータス

 最高速度 A   821

 スタミナ A+  918

 加速力  B+  705 

 精神力  B+  741

 戦術眼  B   692

 

 適性

 芝S   ダートC

 短距離D マイルC 中距離A 長距離S

 逃げS  先行B  差しD  追込G

 

 

 

 こんな感じ。

 上限がいくつとか、どれくらいなら良いとかの基準がないからちょっとわかりにくいけど……。

 手前味噌な話、G1レースに参加するようなシニア級の先輩よりもまずまず高いくらいの数字だ。なにせ無敗三冠ウマ娘ですから。ふふん。

 

 昔はスタミナと精神力だけ飛びぬけて高かった私のステータスだけど、なんだかんだ他の数字も追い付いて来てるんだな。これもトレーナーがバランス良く鍛えてくれたおかげか。

 

 総じて、我ながらかなり強いね。どやぁ。

 

 さぁ、他のめぼしい出走ウマ娘を見てみよう……と。

 

 え、うわ……。

 

 

 

 サイレンススズカ

 

 ステータス

 最高速度 SS  1105 

 スタミナ A   811(∞)

 加速力  S   1028

 精神力  A   802

 戦術眼  C+  539

 

 適性

 芝A   ダートG

 短距離D マイルA 中距離A 長距離B

 逃げA  先行C  差しE  追込G

 

 

 

 ……見なかったことにしていい?

 

 いや、慢心も何も一瞬で吹っ飛んだわ。

 何コレ、ぶっ飛んでない? 最高速度とか私より300くらい高いよ??

 

 あと、トレーナーの評価って1000点満点じゃなかったんだ。まだまだ高みがあることを喜ぶべきか、あるいは先が果てしないことにくらくらするべきか。

 あとスタミナのところになんか(無限)って書いてたり、戦術眼だけやけに低いのは、突っ込んでいいポイントなのかな……。

 

 適性の面で言えば、その広さはともかく今回の有記念では私が有利……かな?

 しかし、スズカさんですら適性Sはないんだね。私の適性の3つのS評価って、やっぱり転生チートによる素質だったりするのかな。

 

 更にページを捲って、次に見つけたのは、スぺちゃんのデータ。

 

 

 

 スペシャルウィーク

 

 ステータス

 最高速度 A   877

 スタミナ A+  903

 加速力  S+  1051

 精神力  A   886

 戦術眼  B+  729

 

 適性

 芝A   ダートG

 短距離F マイルC 中距離A 長距離A

 逃げG  先行A  差しA  追込C

 

 

 

 こっちは隙がないんですけど……?

 スタミナがかろうじて上回ってこそいるものの、数字だけならほぼ私の上位互換だ。

 適性を見ても、スズカさんのように長距離に弱かったりするわけでもないし……弱点っていう弱点が見つからない。

 

 流石、「日本一のウマ娘」の名は伊達じゃないというか。

 ……ぶっちゃけチートとか領域、作戦なしでまともに競り合ったら、絶対勝てないんだろうなぁ、コレ。

 

 

 

 この2年で結構強くなった自負はあったんだけど……それでもやっぱり、半ばレジェンドであるスズカさんやスぺちゃんには敵わないんだな。

 いやまぁ、そりゃ私より1年多く本格化期間があったわけで、ある意味当然と言えば当然なんだけども。

 それでも……ここまで差を付けて負けるってのは初めてで、ちょっとばかり悔しさが募る。

 

 ぐぬぬ……! 今に見てろ、私もすぐにそこにまで登って行ってやるんだから!

 

 

 

 * * *

 

 

 

 私たちがある程度配られた紙に目を通したあたりで、トレーナーが改めて口を開いた。

 

「さて、まずはコースの内容を見ながら、ざっと展開の予想をしていく。覚える必要はないから、一旦話を聞いておいてほしい」

 

 トレーナーはそう言って、昌さんが軽くコースの見取り図を描くのを待って、彼女からマーカーを受け取って話を続けた。

 

「中山レース場、芝、右内回り、2500メートル。

 このコースの一番の特徴は、やはり『コーナーから始まる』という点だろう。一部外回りのコースを使っているが故に、このコースはスタート直後から500メートルを越える長いコーナーが続く。

 故に、一般的に言って大外枠は不利だ。内に切り込もうとすると速度を上げる必要があるが、速度を上げれば遠心力で外に弾き出されるからな」

 

 「まぁ、逆に内枠になれば有利というわけではないんだが……」と言いながら、トレーナーは図の横にいくつかの名前を書き込む。

 

「さて、この第三第四コーナー内で逃げウマ娘たちによる先行争いが行われるわけだが……今回に限っては、先行争いに参加するメンバーはほぼほぼ絞り込める」

「私、ジェット師匠、そしてスズカさんですね」

「その通り。いわゆる大逃げウマ娘3人だな。一応、ここにダイタクヘリオスも入って来る可能性もあるが……君やサイレンススズカの脚に追い付ける程かと言われると難しいだろう」

 

 先行争いっていうのは、レース序盤に逃げウマ娘が先頭のポジションを奪い合うこと。

 で、当然の話なんだけど、逃げウマ娘が複数いればこの先行争いは熾烈になり、終いには潰し合いにも等しい状況になってしまう。

 

 その上今回は、ただの逃げウマ娘ではなく序盤から一気にリードを開きハナを切ろうとする大逃げウマ娘が3人もいるんだ。

 

「サイレンススズカ、ツインターボ、共に後続を突き放して先頭を取ろうとする大逃げウマ娘だ。

 他のウマ娘がどう動くかは関係なく、彼女たちはテンからハイペースもハイペース、互いに叩き合うように飛ばしてくるだろう。それこそレース終盤のようにな」

 

 私はそうでもないと思うんだけど、大逃げを取るウマ娘は気性難なことが多い。

 例えば、走るとなると抑えが利かなくなって全力で駆けてしまったり、あるいは他のウマ娘への闘争本能がとんでもなかったり。

 

 だからこそ、大逃げウマ娘同士が走れば、間違いなく……。

 ……いや、そもそも大逃げウマ娘が同じレースに出走するってこと自体が極めて稀なケースで、はっきりと断言するのは難しいらしいけど。

 そうなれば恐らく、互いに刺激し合って掛かってしまい、それはもう途轍もないハイペースになってしまうだろう、ということだった。

 

 そしてそれが普通の大逃げウマ娘であれば、前半に飛ばしてしまった以上後半は垂れてしまうだろうから、自分のペースさえ守れればそこまでの脅威性はないんだけど……。

 

 今回ばかりは、そうもいかない。

 

「ツインターボはともかく、サイレンススズカは異次元だ。長距離の適性が1歩劣るとはいえ、恐らく彼女は、とある条件を満たす限り減速することはない」

「……これ、合いの手が必要なヤツ? 条件っていうのは?」

「ありがとう、昌。……その条件とは、『彼女が先頭であること』だ」

「先頭……ですか? えっと、セイウンスカイ先輩のような、先頭に立っていることを条件とする領域という意味でしょうか」

「いや、近いようで違うな。勿論領域もあるんだが……」

 

 そう言って、トレーナーはホワイトボードにマーカーを走らせ、スズカさんの絵を……。

 

 絵を…………?

 

 え?

 いや……ん?

 なんだろうこれ、強いて言えば……鹿?

 まだ体って概念も理解できてない子供が頑張って書いた、消し炭になった鹿?

 え、なんで今鹿の絵?

 

「マスター、それは何を示す記号なのでしょうか?」

「サイレンススズカだが」

 

 スズカさんらしい。

 ……これが? このホラー映画に壁の落書きとして出てきそうな、子供がクレヨンで描いた恐ろしい化け物みたいなのが?

 

 …………ま、まぁ、アレだ。

 人間、得手不得手がある。

 歩さんはトレーナー業務に関しては全一レベルで優れてるし、その分どこかに不得手があるのはむしろ自然なことだろう。むしろ欠点があるくらいでちょうどいいですよ人間なんて。

 

 ……そういえばトレーナー、ファン感謝祭を一緒に周った時、あり得ないくらい射的下手だったな。

 もしかしてこの人、トレーナー業務に関すること以外ポンコツだったり……?

 いや、それはそれでちょっとかわいいというか、むしろ好きです付き合ってくださいって感じだけど。

 

 「指摘した方が良いのか……?」となんとなく気まずくなって顔を見合わせる私やブルボンちゃん、軽く頭を抱えている昌さんを後目に、トレーナーはスズカさん……いやスズカさんって言うのは失礼だな、鹿の化け物の下に『先頭=絶好調』と書き込んだ。

 

「すごく簡潔に言うと、サイレンススズカは自分が先頭である時にはすさまじく調子が良くなり、逆に先頭ではなくなると調子が鈍る。

 調子が良い時のサイレンススズカは、おおよそ垂れるということを知らない。疑似的にスタミナが無限にあるような状態だ」

「無限って……」

 

 昌さんが苦言を呈するような感じで呟いたけど、トレーナーは首を横に振った。

 

「いや、比喩でも冗談でもないよ。

 理屈はわからないけど、前に誰もいなければ、彼女は垂れずに加速し続ける。そして加速し続けるからこそ、彼女よりも前に出ることは難しい。

 更に終盤、他のウマ娘がいよいよ加速する頃になると、彼女は領域を開いて更に加速するからね。

 どうやっても倒せない。倒せる未来が見えない。だからこそ、彼女は『異次元』って呼ばれてたんだ」

 

 私たちは、さっきとは別の意味で顔を見合わせた。

 

 とんでもない話だ。

 いや、前世アニメでもスズカさんのすごさは強調されてたけど、まさかそこまでとは。

 ある意味、私の「アニメ転生」みたいなスーパーモードってこと? まさかスズカさんも転生者……ってことは、まぁ流石にないだろうけども。

 

 ……というかそれ、もう勝てないのでは? ぼくがかんがえたさいきょうのウマ娘かな?

 

「誰かがスズカさんよりも前に出ないと、どこまでもハイペースで駆けてしまう。でも追い付こうとすると、スズカさんは加速して逃げる。……理論上勝つことは不可能、と?」

「いや、理論上は可能だ。領域が開く終盤までに単純なスペック勝負で彼女との叩き合いを制するか、あるいは彼女を超える圧倒的な加速力で一気に追い抜けば、先頭から陥落したサイレンススズカは調子を崩して減速するからな」

「……それ、理論上可能でも実際には不可能な、いわゆる机上の空論というものなのでは」

「机上の空論に限りなく近い、が正しいかな。だからこそ、レースの頻度自体も下がってはいるとはいえ、彼女はシニア級になってから約4年という長期間に渡って、ただの1度も……いや、ただの1度しか敗北していないんだ」

「ただの1度、というのは」

「彼女が故障した、天皇賞(秋)だよ」

 

 あぁ……なるほどね。

 

 どこかで聞いた話、スズカさんの天皇賞での事故の要因は、その速度が「ウマ娘の出していい限界」を超えてしまったためって言われてるらしい。

 

 つまるところ彼女は、大逃げを始めて以来……ただの1度さえも、他人に負けたことがないんだ。

 

「……それ、どうにかなるんですか?」

「どうにかするよ。俺は君のトレーナーだから」

 

 そう言った後、トレーナーは序盤の展開から終盤まで、どのウマ娘がどのように動くのかの展開予測と共に、自分が立てた作戦を話してくれた。

 

 それは、なんというか、こう……。

 

「その、割と力づくな手法ですね……」

「力づく以外でサイレンススズカを超える方法があれば俺が聞きたいよ。

 ……それで、どうだ、ホシノウィルム。この作戦で行けると思うか?」

 

 作戦を立てるのはトレーナーだけど、実際に走るのは私だ。

 感覚的にその作戦の成否を量るのは、私にしかできないだろう。

 

 脳内でシミュレートする。

 有記念。最初の長いコーナー。先行争い。そしてトレーナーの予測した展開……それらの上に私の走りを乗せて。

 

 ……うん、これなら……なんとか。

 

「……不可能、じゃない、と思います。サイレンススズカさんと一緒に走ったことはないので、必ずしも抜けるとは断言できませんが」

「そうか。……正直、この他には彼女を突破する方法は思いつかなかったからな。ひとまず第一関門は突破といったところか」

 

 スズカさんは私と同じ、強い走り方を一方的に押し付けて勝ちに来る大逃げウマ娘。

 その走りには極端に隙が少ないけど、その代わり、彼女はそのたった1つの戦術以外を取らない。あるいは取れないのかもしれないけど。

 

 そして私を除けばほぼ唯一彼女と先行争いする可能性がある師匠も、まぁまず間違いなくズバーッと行くだろうし……。

 ひとまずそこまでの展開は、ほぼほぼ確定しているわけで。

 

 スズカさんは……うん、多分抜ける……かな。

 割と、いや、かなり無茶をすることになるけど。

 

 いや、むしろ問題になってくるのは、その後かもしれない。

 

「ただ……この展開だと、後半が厳しいんじゃないですか?」

「……そうだな、困ったことに」

 

 そう言って、トレーナーは真剣な表情でコツコツと自分の頭を突く。

 

 ……え、なんかこう、ないの? 攻略方法っていうか、こうすれば勝てる、みたいな。

 

 ちょっと驚いて目を丸くした私に、トレーナーは申し訳なさそうに言う。

 

「色々と考えたんだが、まだ正確なデータが揃っていない以上展開予測の精度も低いし、このリスクは切り離す方法は思い付かなかった。すまない」

 

 おぉ……。

 

 なんか、こう、アレだ。

 歩さんにも不可能ってあるんだな……。

 

 予測を多少外すことはありこそすれ、なんだかんだ言って毎回ちゃんと勝てる作戦を立ててくれてた歩さん。

 そんな彼が、今回はリスクを排除し切れなかったって言って弱ってるのは……こう、新鮮だ。

 

 まぁでも、歩さんだって普通の人間。そりゃ不可能もあるでしょって話で。

 

「トレーナーが考えても対策が思い浮かばなかったのなら、きっとそれ以上の策はありません。それでいきましょう」

「すまん。……その代わりと言ってはなんだが、恐らく今回はナイスネイチャやセイウンスカイの策謀はそこまで障害にならないはずだ」

「え、なんででしょうか?」

「彼女たちが勝つには、どうしたってサイレンススズカやスペシャルウィークも抑えねばならないからな。リソースは一点集中でなく部分的に割くだろう。最終的に君にかかる負担は軽くなるはずだ」

 

 あぁ、そうか。

 宝塚記念でスカイ先輩に策をかけられたのは、私がスカイ先輩よりも前を行く大逃げウマ娘で、かつスカイ先輩の領域を開く条件が先頭に立つことだから。

 菊花賞でネイチャがやってきたのは、私さえ抑え込めば菊花賞に勝つことができるって判断したから。

 

 だけど、そんな私に焦点を絞れたレースと違って、今回は私以上の脅威が何人も参加する。

 異次元の逃亡者、サイレンススズカさん。

 日本一のウマ娘、スペシャルウィークちゃん。

 ターフの名優、メジロマックイーンさん。

 オールマイティ、ハッピーミーク先輩。

 そして誰より、策略家たるスカイ先輩とネイチャ。

 その全てを知り、貶め、超えなければ……今回の有記念に勝つことは不可能。

 

 であれば、私に向ける瞳も策も、前回までに比べてだいぶ軽くなるはず。

 

「ある意味で、今回の有記念、特にその後半は非常にシンプルなものだと言える。

 サイレンススズカを差した後は、ただひたすらに逃げ切り、誰よりも速くゴールしろ。

 それが、今回の極めて不利なレースに勝つための……作戦とも呼べない作戦だ」

 

 セーフティリードを作ったり、安全な盤面を用意するわけじゃない。

 ただ自分の脚を信じ、最速で駆け抜ける。

 

 ……悪くない。

 むしろ良いじゃん。面白くなってきた。

 

 勿論、いつもトレーナーがくれる安全策、確実に勝つ作戦に、不満があるわけじゃない。

 けれど……。

 

 たまには、目一杯不利な戦いってヤツを楽しんでみたい。

 

 そんな不遜な熱が、私の胸の底から沸き上がった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 とは言っても、それはそれで、これはこれ。

 

 作戦会議が終わって解散が告げられ、昌さんやブルボンちゃんがいなくなったトレーナー室。

 私はしなきゃいけない課題がある……っていう言い訳で、ここに残っていた。

 

 カリカリとプリントに答えを書き込むフリをして、無作為に黒の毛玉を量産しつつ、私は機を窺った。

 狙うべきは、トレーナーの仕事が一区切り付いて、彼の気が緩んだ瞬間。

 

 ……そう、まさに今みたいに、キーボードから手を離して伸びをしたような瞬間だ!

 

「あ、そうだ、トレーナー」

 

 努めてなんでもないような空気を装い、私は口を開く。

 

 声、震えてないかな。裏返ってない? 変に思われてませんように。

 そんな益体もないことを、頭に浮かべながら……。

 

「ご褒美権を使いたいんですけど、今度私のお休みの日に都合が合うようなら、一緒にお出かけしませんか?」

 

 私はトレーナーに、久々のデートの約束を取り付けた。

 

 

 







 なお実際に出た声は上擦っていた模様。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、お出かけの話。


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へぇ、デートかよ

 もっとシャツにシルバードラゴンプリントするとかさ





 

 

 

 先に断っておくが。

 担当ウマ娘と出かけるという行為は、何ら異常性のあるものではない。

 

 ウマ娘の走りには、彼女たちの精神状態が強く関わっている。

 これは決してマイナーな話ではない。

 研修で公的に習うようなことはないし、そういった論文が上がっているわけでもない。

 それでも、トレーナーを生業とする人間であれば、誰もが聞いたことのある話だろう。

 

 特に俺は、ウマ娘の精神状態や心の在り様を重視する堀野家のトレーナー。

 まだ幼い頃から「心の整った普通のウマ娘は心を乱した一流のウマ娘を超える。故にこそ、彼女たちの想いを第一に、それを導く灯りたれ」と何度も語り聞かされてきた。

 

 実際、歴代の記録から見てもその様は確かに確認できる。

 トレーニング重視だった頃よりも今の在り方の方が、勝率も良ければおかしな拗れ方もしない。それは明確に数字にも表れているんだ。

 

 更に言えば、俺は「アプリ転生」を持つ転生者でもある。

 ウマ娘の調子……正確にはやる気が、絶好調、好調、普通、不調、絶不調の5段階に区分され、実際の能力に影響することをよく知っている。

 

 総じて、ウマ娘の心の健康を保つことは、彼女たちを支える上で非常に重要だ、ってことだ。

 

 

 

 ……で。

 ウマ娘が、トレーナーとのお出かけを望むことも、決して珍しいわけではない。

 

 競走ウマ娘のアスリート人生は、中等部から始まる。

 この年頃の女の子には、保護者が必要だ。

 なにせまだ自制心も強くない子が多いし、人の悪意や挫折を味わったことのない子が大半。

 そういう彼女たちのメンタル面を守り、支えることもまた、トレーナーとして必要な業務なんだ。

 

 で、そうなると、ある意味で当然の帰結と言うべきか。

 ウマ娘はトレーナーに懐く……いや、これは良くない言い方だな。下手に歴史を学んだ結果、視座が高くなりすぎてる感じがする。

 ウマ娘がトレーナーに親愛の感情を抱くのは、よくあることなんだ。

 

 俺たちトレーナーは保護者であり、ウマ娘たちは庇護対象。

 故に、彼女たちを正しく支えることのできたトレーナーは……第二の親、頼るべき相手として、深い親愛を抱いてもらえることがある。

 

 で、そうなると、親にねだるように「今度のお休み、一緒にお出かけしませんか?」と提案されることもあるわけだ。

 

 前世アプリでもお出かけコマンドがあったが、あれは決してただの遊びではない。

 休暇の日に一緒にお出かけすることで、担当ウマ娘とコミュニケーションを取り、その精神状態を整えることができる。

 お休みが肉体の休暇であれば、お出かけは精神の休暇というわけだ。

 

 

 

 ……で、長々と語ったけど、結局何を伝えたいかと言えば。

 

「トレーナー、どうしました?」

「……いや、己と戦っていた」

「精神的な自己研鑽ですか? 流石はトレーナーですね」

 

 この状況は、決して異常性のない、極めて健全なものだということをわかってほしいんだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 12月上旬。

 だいぶ肌寒くはあるけど、それがむしろ強い陽射しを心地良くさせるような久方ぶりの休日。

 

 俺とホシノウィルムはトレセン学園を飛び出し、街に繰り出していた。

 

 先日のジャパンカップの……というか2回分溜まっていたのでその内1回分の、と言うべきか。

 とにかくそのご褒美権を行使し、休日のお出かけを願ったからだ。

 

 ……とはいえ、その行為自体は、必要なものとは言えなかったんだが。

 

 

 

 宝塚記念以降のホシノウィルムの特徴として、メンタル面の管理が非常に簡単である、ということが挙げられる。

 何故かと言うと、彼女は走っていると勝手に絶好調になるからだ。

 

 当然ながら彼女もウマ娘、時には調子を落とすこともある。

 アプリのようにドチャクソ理不尽な理由で落とされることはそうそうないけど、「めっちゃ走りたい気分だったのに、寮長に見つかってしまって自主トレできなかった」とかそんな感じで。

 ……いや、改めて考えるとやっぱり結構理不尽かもしれないな。

 

 でも、そうやって走れないことで溜まったストレスは、走ることで解消される。

 自主トレでもいいし、スケジュールに基づくトレーニングでもいい。何にしろ、ウィルは30分程度走れば、その調子が1段階上がるんだ。

 そして現役の、特に本格化中の競走ウマ娘は、休む時間より走る時間の方がずっと長いわけで。

 

 結果として、彼女は基本的に、いつも絶好調を保っている。

 これもまた、ホシノウィルムが高い成長率を誇っている所以の1つだ。

 

 

 

 で、勿論今日も、ホシノウィルムは絶好調状態を保っていた。

 先述の通り、お出かけは精神的休息の意味合いが強い。絶好調の状態でお出かけするのは、体力が満タンの状態でお休みするようなもの。

 その上微量回復する体力も、今はまだそこまで減っているわけではない。

 こんなことを言うのはなんだけど、今お出かけをするメリットは殆どないと言っていいだろう。

 

 ……だが、彼女たち担当ウマ娘が望むのなら、それはあらゆるメリットとデメリットを超越した価値を持つ。

 彼女たちは思いやりの深さや目標への真摯な態度故にあまりわがままを言わないが、1日のお出かけなんて、ご褒美権を使うまでもなく受け入れる予定だ。

 その上でご褒美権なんて使われたんだから、そりゃあ急いで望みを叶えるのは当然の話で。

 

 

 

 ジャパンカップが終わって数日。

 インタビューの依頼とかグッズの増産の確認とか、すごい量の仕事のラッシュをなんとか捌き切り……いや、正確にはまだまだ残ってたんだけど、昌の目が虚ろになってたし、俺も少しばかり疲労が溜まって来たので、一区切りつけて。

 

 俺はその日、休憩も兼ねて、彼女の望みであったお出かけを実行に移すことにしたのだった。

 

 

 

 そう。

 このお出かけは、必要性に応じて取られたもの。

 俺とウィルが並んで歩く現状には、全く以て異常性はない。

 ただトレーナーが、担当ウマ娘と一緒に出かけているだけ。

 

 それにウィルは、例によって変装している。

 かなり大きなキャスケットで耳を隠し、体型が出にくく尻尾も見にくい、ゆったりとしたポンチョとボトムス。俺が「風邪を引かないように」と言ったので、ネックウォーマーと手袋も付けている。

 その上で、顔にも大きな黒のマスクを付けているので、かなり目敏い者でなければ彼女とはわからないだろう。

 

 俺と彼女の身長差については多少留意すべきではあるが、トレセン周りではそんな男女がいても強い違和感などあるわけもない。

 むしろ俺とウィルの身長差なら、一周回って親子に見えるくらいだろう。

 

 

 

 そう、おかしくない。

 客観的に見ても、おかしくないはずなのに、何故……。

 

 何故、俺はこうも、落ち着かないんだろうか。

 

 彼女と休日に出かけることは、しばらく前、日本ダービーの後にもあった。

 あの時は水族館に行ったんだけど……ここまでの落ち着きのなさは覚えなかったはずだ。

 

 いや、あの時は特大級のやらかしをどうにか補い、彼女との関係性を再構築しようと必死だった気もするな……しないような。

 早いものであれから半年強、なんだか懐かしく感じてしまう。

 

 

 

 しかし改めて、何故今回はこうも落ち着かないのか。

 ……やはりあれか、彼女の知名度だろうか。

 

 今のホシノウィルムの知名度は、日本でも、というか世界でも最上級だろう。

 前世で言えばアイドルがオリンピック級のアスリートを兼ねているようなもので、自然と注目は集まる。

 それも国民的どころか世界的競技で史上類を見ない記録を出しているとなれば、世界中からその視線を奪ってしまうのは、ある意味当然の話で。

 

 もしも彼女の正体が露見してしまえば、それはもう瞬く間にファンの方々に取り囲まれてしまうだろう。

 今の俺は、それを避けるために緊張している……のだろうか。

 

 ……緊張? そもそも緊張してるのか、俺?

 

 自分のことながら、よくわからない。

 なんか最近の俺、ずっとこんな調子だな。

 

 「堀野のトレーナー」を辞めて以来……いや、宝塚記念で、帰って来たウィルを見て以来か?

 俺の思考は、自分でもよくわからない理由で、よくわからない方向に暴走している気がする。

 一体どういう心理状態なのか、今度兄に相談でも……。

 

 

 

「トレーナー」

 

 俺の無為な思考を、ウィルの声が遮った。

 

 いけないな、今は彼女とのお出かけ中なんだから、余計なことは考えないようにしないと。

 俺は軽く首を振り、改めて彼女の方に視線を投げた。

 

「うん? なんだ、ウィル」

「最初はどこに行くんですか? 今日はトレーナーがプランを立ててくれるんですよね?」

「そりゃ、君にご褒美権で頼まれたからな」

 

 昨日、数時間かけて色々考えたとも……なんて言うと、優しい彼女のことだから「お仕事が忙しいんだから、てきとうでいいんですよそういうのは!」なんて言ってきそうだし、言わないでおく。

 自分の担当ウマ娘に関することなんだ、てきとうでいいわけがないだろう。そりゃあしっかり時間を使って考えてきたさ。

 

「まず、ジムでランニングマシーン……」

「いや、今日は走ること以外ですよ?」

「…………え!?」

「あの、私のことを何だと……ああいえ、これは自業自得かもしれませんけども……」

 

 困った、詰んだ。

 

 ホシノウィルムのことだから、今日も今日とて走ることを望むと思っていた。というかそれ以上のビジョンが見えなかった。

 故に今日立てた計画も、メインは走ることで、その合間合間に休憩の時間を設けていたんだが……。

 

 その計画は今、彼女の言葉によって完膚なきまでに崩れ去った。

 

 くっ……こうなったら、即座に何か考えるしかない……!

 何かないか? こう、良い感じに時間を潰しつつ、彼女の良い経験になって、なおかつコミュニケーションを取りやすいもの……!

 

 ……そうだ!

 

「では……そうだな。…………映画、とか」

 

 今世では殆ど娯楽の経験のない俺だが、1度だけ昌に連れて行かれて映画を見たことがあった。

 何の映画だったかな……この世界のものにしては珍しく、1度もウマ娘が登場しなかったことは覚えてるんだが。

 

 あの時は、既にだいぶ態度が硬化していた昌とも感想で話が弾んだ……ような気がする。多分。

 ウィルとコミュニケーションを取る、という今日の目的には適した手段なのではあるまいか。

 

 そう思っての提案だったが……果たして、彼女の反応は。

 

「映画! 良いですね、行きましょう!」

 

 ウィルは笑い、俺の手を取って走り出す。

 

 良かった、取り敢えず提案は合格ラインに乗ったらしい。

 俺は安堵のため息を吐き、とりあえず肩が外れそうだから止まってくれと彼女に叫んだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 俺たちが目を付けた映画は、未知の生物を発見したウマ娘が、その不思議な生き物と共に暮らす、という趣旨のものだった。

 最初は生態も形も全く違う上に言葉も通じないその生物に戸惑っていたウマ娘だが、一緒に日々を過ごす中で少しずつ打ち解けていく。

 だが、最終的にはその生物は異世界から来たものだと判明。

 その子にはその子の暮らしがあり、家族がある。ウマ娘は寂しいと感じながらも、その子のかつての暮らしを取り戻すべく、異世界へと送り出す方法を探す……って感じ。

 

 大筋は宇宙人を自転車に乗せて飛ぶアレに近いものがある。

 そこにウマ娘としての孤独とか苦悩とか、そういったテーマを交えた映画だった。

 ……と、思う。

 

 問題は、その「生き物」が……こう、すごく特徴的で。

 4本足で立つ、鹿などに近い形。大きな特徴として、体つきががっしりとしていて、ウマ娘と似た形の耳や尻尾を持っていた。

 そう。その架空の生き物は、「馬」に酷似していたんだ。

 

 よくよく見ればちょっと違和感はあるけど、映画スタッフの中に転生者いるんじゃないか? と思うくらいには馬。

 あまりにも馬すぎて、正直全然内容に集中できなかったくらいだ。

 

 だからって言うと、ちょっと言い訳っぽくなるけど……。

 ウィルと共にフードコートで食事を取りながら感想会を行っても、どうにも俺の脳からは、感想らしい感想が出てこない。

 

 そうしてぼんやりしてる俺に対して、ウィルは……不思議な生き物への感慨に浸っているのか、彼女も彼女でどことなくぼんやりしていた。

 やはりウマ娘としては、馬……みたいな生き物に対して、何かしら思うところがあるのだろうか。

 

「……なんというか、すごく、こう……因果を感じる生き物でしたね」

「……あぁ、極めて未知の生き物だったな」

 

 この世界に馬は存在しない。その代わりにウマ娘が存在する。

 だから、この世界の人間にとって「馬」というのは未知の存在だ。

 

 故にこそこの映画は、非常に奇妙な、それでいてどことなくウマ娘に近いような気もする異世界の生き物と触れ合う、心温まる映画足り得るのだが……。

 

 正直、転生者の俺としては、馬のインパクトに気を取られ、まともに集中すらできなかった。

 前世の価値観で言えばウマ娘の存在に違和感があるし、今世の価値観で言えば馬の存在が異形すぎる。その2つが並び立っているものだから、頭がおかしくなりそうだったわ。

 

「……えっと、こう、感動でしたよね!」

「……そうだな、感動できる話だった……と思う」

 

 いやまぁ、映画って何だかんだ基本は感動できるものか笑えるものだからな。取り敢えず感想はこれ言っとけば良い、みたいなとこある。

 実際馬に抱き着いて別れを悲しむウマ娘の構図は、不覚にも心に来るものがあったしな。あんまり詳しくないけど、そういう題材の二次創作、前世でもあったんじゃないだろうか。

 

「どう見ても……馬だったよねアレ……」

「ん? 何か言ったか?」

「あ、い、いえ、何も」

 

 何やら「どう見てもうまだっちよねアレ」とか聞こえたが、どういう意味だったんだろう。

 「うまぴょい伝説」はこの世界でもライブ曲として存在し、特別な成果を残したりURAファイナルズを制したウマ娘が歌うことを強いられ……いや、許される。

 だから「うまだっちよねアレ」という言葉には違和感はないが……。

 

 いやあるわ。結局何なんだようまだっちって。

 というかそもそもうまぴょいって何? あとうまぽいとすきだっちって何だったの?

 

 ウィルが違和感なく言葉として用いているところを見るに、ウマ娘にだけは何か感じることのある単語なのだろうか。

 うーむ、謎だ。うまぴょい伝説とは一体何なのか。その言葉には、一体どんな深遠な意味が隠されているのだろうか……。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 映画を見て微妙な空気になったりうまぴょいの謎を深めた後は、ショッピングに向かう。

 

「それでは、ランニングシューズでも……」

「いや走ること関係は今日は禁止ですよ?」

 

 なん……だと……?

 あのホシノウィルムのことだ、そろそろ我慢していた走欲が抑えきれず、せめてシューズとかウェアを見るだけならセーフと言ってくれると思ったが……これまた想定が甘かったか。

 

 まぁ、走ること、そして負けないことのみに意味を見出していたかつての彼女よりは、ずっと良い状態だと言えるだろうが……。

 

 困ったな、そうなると俺、いよいよどこに行けばいいかわからない。

 女の子が興味を持ちそうなもの、とすると……。

 

「…………ええと、服とか」

「ふむ、悪くないですね。行きましょう。……トレーナーが私をコーデしてくれるんですよね?」

「む……正直に言って、自信はないが」

「構いませんよ、トレーナーが好きな服を選んでいただければ」

 

 そう言って、彼女はニヤリと笑う。

 ……いや、謙遜とかじゃなくて、本当に自信ないんだけどなぁ。

 

 

 

 

 

 

「いや、謙遜とかじゃなくて本当にセンスないじゃないですか!?」

「うん」

 

 俺は、前世から一貫して要領が悪い。

 それも、どこかが悪いとかじゃなくて、ありとあらゆる分野に対して才能やセンスが欠けていると言っていい。

 

 物覚えも悪ければ、体の柔軟性もなかったし、鍛えてもなかなか筋肉も付かないし、そしてもちろん芸術的センスも皆無に近く。

 20年かけてトレーナー業務に関係する分野に関しては徹底的に鍛えたため、そこだけは人一倍にこなせる自信こそあるが……逆に言うとそれ以外は、かなり致命的だと思う。

 

 特にファッションセンスなんて、トレーナー業務に掠りもしない上、流行の知悉と自身の色彩感覚によって培われるものだ。

 俺とは致命的に相性が悪いと言っていい。

 

 俺が毎日スーツしか着ない理由は、毎日しっかり勤めようという意思もあるけど、それ以上に下手な私服よりはスーツの方がまだ格好がつくという側面も大きい。

 昌には「兄さんは絶対自分で服選ばないで。それくらいなら私が選ぶから。絶対やめて」と口を酸っぱくして言われてるしな。

 

「い、いや、でもこれ……それにしても、こんなの選ぶことあります?」

 

 彼女が試着しているのは、真っ黒一色のアウター、カーキのロングスカート、そして濃いエナメルの紫のシャツに銀に光る龍と「GO GO DRAGON!」という文字がプリントされたシャツ。

 

「アウターとスカートはいいですよ? こういう色合いも使えないことはないですし。でもこのシャツは何!? どこから持って来たの!?」

「いや、ここで意外性を一つまみ、と思って……」

「なんで基礎ができてない人ってこう意外性を求めちゃうんですか!?」

 

 いや、実際なんでだろうな。なんかよくわかんないけど、こういうのってアクセントとかあった方がいいんじゃないかなって思っちゃうんだよ。

 基本を知らないからこそテクニカルなことをして少しでも良くしようと思うが、そもそも基礎ができていないのでテクニカルが的外れになる……とか、そんな感じだろうか

 

「……トレーナー、料理できないでしょう。あれも引き算ですし」

「いや、できるぞ。実家で特訓したから、和と中華、フレンチ、それからイタリアンはある程度。店を出すレベルには行かないだろうが」

「なんでそこはできるの!?」

「俺の父は、担当ウマ娘によく料理を振舞っていたらしいからな。もしかしたらそういう機会もあるかな、と思って」

「じゃあ担当の服も見繕うかもしれないって発想はなかったんですか?」

「無茶を言う」

 

 確かに、堀野の歴史にはそういう関係性を築いた者もいたが……俺は担当とはある程度距離を置いて接すると決めていたからな。

 ご褒美として料理を振舞う可能性は微量にあったとしても、服を選ぶような機会があるとは思っていなかったんだ。

 

 まぁここに関しては、俺の想定が甘かった……というか、そもそも根本的な「堀野のトレーナー」という指針自体が間違いだったわけで。

 今になって思うと、もう少し手広く学んでおけば良かったな。今からでも遅くないと思いたいが……それもなかなか難しいし。

 

「じゃあ今から鍛えてください。将来的には、その……私の服を選んでくれるように!」

「恐らく習得に5年程かかるが大丈夫か」

「思ったより悠長に進めますねぇ!」

「いやトレーナー業務を優先しなきゃいけないし、そういうのって過去の歴史を紐解いて流れと傾向を把握しないといけないし……」

「くっ、これが要領の悪さ……! いいんですよこういうのは、直近の流行を把握してそれっぽくすればそれっぽくなるんですから!」

 

 彼女はぷりぷりと可愛らしく怒りながら、「とにかく、いつかコーデしてくださいね!」と言って試着室のカーテンを閉める。

 

 ウィルは、昔に比べてずっと感情を見せてくれるようになった。

 それが彼女の隠してきたものなのか、あるいは情緒が発達した結果発露したものなのかはわからないが……どちらにしろ、信頼関係を築くべきトレーナーとしては非常に得難いことだ。

 それを見せてくれるくらいに、俺を信じてくれていることは変わらないんだから。

 

 ……それが俺の不甲斐なさ故の怒りでなければ、もっと良かったんだけどな。

 

 

 

 結局ウィルは、試着した紫のシャツだけは戻し、アウターとスカートは購入。

 その上、何故か俺の服まで選んでくれた。

 

「……地味すぎるんじゃないか?」

「トレーナー、顔は……その、整ってるんですし、地味でいいんですよ。というか明るい色は似合わないです。だからその手に持ってるパステルピンクのズボンは戻して来て。というか本当にどこから持って来たんですかそれ! このお店なんでそんなの置いてるの!?」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 その後、俺たちはアミューズメント施設に行ってボウリングをし、俺がトリプルスコアくらい付けられてぼろ負けしたり。

 

「当然のようにガター取りますね……そんなに曲げられるものなんですね」

「真っ直ぐ投げてるんだが」

「え?」

「真っ直ぐ投げてるんだが?」

 

 

 

 カラオケに行って、かろうじて知ってる曲を歌って72点を取ったり。

 

「どうやったらそこまで音程とリズム外せるんですか! わざとでもそこまで外せないですよ!」

「どうやっても何も、ちゃんと歌ってるんだけどね……」

「……よし、まずは音感とリズム感を培いましょう。私の声と同じタイミングで手を叩いてみてください。行きますよ、ワン、ツー、スリー、フォー……なんでもうズレるんですか!?」

 

 

 

 ゲームセンターに行ってクレーンゲームに挑んだり。

 

「よし、1つ落としたが4つは取れたな。3プレイでぱかプチ12個、なかなかの戦果じゃないか?」

「なんでクレーンゲームだけは異様に上手いんですか! 今までで一番トレーナー業務関係ないですよね!?」

「あるぞ」

「あるんですか!?」

「回復とやる気アップ、直線回復のヒントは大事だからな……」

「あの、すみません、何言ってるのかよくわからないんですが」

「じゃあこれは君にやろう」

「流石に12個はいりませんよ! ……私とネイチャ、テイオーの分はいただきますけど」

 

 

 

 そんな感じで。

 俺とウィルは太陽が赤くなるまで、街中を歩き回った。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「うん、今日1日、すごく楽しかったです」

 

 最後に寄ったファミリーレストランで、彼女はこの1日をそう締めくくる。

 

「トレーナー、お仕事してない時は、やっぱり普段のトレーナーとは違うんですね。まさかあんなに、その……アレだとは思いませんでしたけど」

「アレで悪かったな」

「拗ねないでくださいよ。冗談ですからね?」

 

 拗ねてないが。

 

 自分の才能のなさや要領の悪さには自覚があるし、諦めも付いている。

 なにせ前世からの付き合いだ。僻んでいても何もできないし、それ以上に自分にはしなきゃいけないことがあるんだから。

 

 人の2分の1しか才能がないのなら、人の2倍努力する。

 俺はそうやって生きてきたし、きっとそんなやり方でしか俺は生きていけない。

 

 ……でも。

 それを他人に……いや、この子に見られるのは、なんとなく、少し嫌な気分だ。

 

 これは、見栄……なんだろうか。

 トレーナーとウマ娘として適切な関係を保つために、あまり無様な姿を見せてはいけない。

 だから俺は、彼女にそれを見せることに抵抗感がある……?

 

 いやしかし、それなら今日のお出かけの行先も、もう少し工夫できたはずだ。今だってもう少し格式のあるレストランに行けば、実家で培ったマナーが活かせたはずで。

 無意識とはいえ、俺がそうしなかったということは……。

 

 俺は無意識的に、ホシノウィルムに自分を知ってほしいと思っている……ということか。

 

 どうやら今、俺の中には2つの矛盾する行動原理があるらしい。

 1つは、ウィルにそういった無様な姿を見られたくないという意思。

 そしてもう1つは……むしろそういう部分を、彼女に見てほしいという意思。

 

 人間やウマ娘にとって、精神的な板挟み、いわゆるジレンマは珍しいことじゃない。

 しかし、俺にとってはだいぶ……珍しいことだった。

 

 何故、彼女に知られたいなんていう欲求が湧いているのか。

 俺は頭の中で、その要因を漁って……。

 

「あ」

 

 

 

 ふと。

 色あせた光景を思い出した。

 

 

 

「トレーナー?」

「ああいや、すまない。……そういえば、今日と似たことがあったと、ふと思い出してな」

「似たこと?」

「あぁ。ずっと前……初等部の頃に、丸々1日、小さな女の子と遊んだことがあったのを思い出した」

 

 小柄な彼女と遊び回ったことで刺激されたのか、とっくに忘れていた記憶が脳裏に蘇る。

 

 色褪せた……前世の、子供の頃の記憶。

 

 別に知り合いでも何でもない、名前すら知らない女の子だった。

 友達を呼びに図書館に行ったらどこにもいなくて、その代わりとでも言うように、その女の子がいた。

 椅子に座って俯くその子は無表情だったけど、なんとなく寂しそうに見えて……だから俺は、彼女を遊びに誘ったんだ。

 

 懐かしい、そんなこともあったなと思える、セピア色の思い出。

 自然と、口から声が漏れた。

 

「内気で、無口で、はっきり言えば陰気な、普通の女の子だったな。

 その子も最初は淡泊だったけど、段々笑顔を見せてくれるように……あれ、ウィル?」

 

 ふと回想から現実に視線を戻し、俺の担当ウマ娘を見ると……彼女は見事に頬を膨らませていた。

 いや、スパゲッティを頬張ってとかじゃなくて、不機嫌そうに膨れているのだ。

 

「あー、なんだろう、気に障ってしまったか?」

「……今は私との時間ですよね。他の女の子の話なんて出さないでくださいよ」

「いや、初等部の頃のことを思い出しただけだぞ? 他の女の子って」

「それでもです! ……今くらいは、私のことだけ考えてくれてもいいじゃないですか」

 

 そう言って、彼女は拗ねるように顔をそむけた。

 俺はそれを見て、思わず唇が緩むのを感じる。

 

 ……子供らしい独占欲か。

 

 ホシノウィルムは、両親の愛を受けることのできなかった女の子だ。

 だからこそ、普段は冷静沈着に見えても……やはりその実、甘えたい盛りなんだろう。

 

 俺にできるのは、せめて彼女のそれに応えることくらいか。

 

「わかった。そうだな、悪かった。

 今日1日は仕事も走りもなしで君に付き合うと決めたからな。君を寮に送り届けるまでは、君のことだけを考えるよ」

「よっ……よろしい! その、最後まで……よろしく」

 

 そう言って、彼女はにへら、と笑う。

 

 それは、記憶の中の小さな少女に似ているようで……けれど全く違う、彼女だけの不器用な微笑みだった。

 

 

 







 堀野君はトレーナー業だけは強い。でもそれ以外は全部ポン。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、トレーニングの日々の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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期限短し鍛えよ乙女

 前回までのあらすじ
 ・トレーナー君はファッションセンス0。
 ・ボーリングも呆れるくらい下手。
 ・はめつのうたを覚えている。
 ・でも料理はかなりできる。
 ・クレーンゲームの達人。


 

 

 

 歩さんとのデート、もといお出かけは、楽しいままに終わった。

 

 「トレーナーじゃない歩さんを知ろう」計画は、ひとまず成功としていいと思う。

 

 実のところ私は、トレーナーしてる時以外の歩さんを殆ど知らない。

 彼は良くも悪くも、職務に忠実だ。なんなら放っておくと24時間365日、ずっとトレーナーやってるかもしれないレベルで。

 

 そんな状態じゃ、とても彼を知るどころの話じゃない。

 だから無理やりにトレーナー業から引き離し、丸1日付き合ってもらったんだけど……。

 

 いやぁまさか、トレーナーやってない時の歩さんが、こうも……その、アレだとは。

 まぁ、どの世界にも完璧超人なんて存在しない。

 トレーナー業に強い以上、それ以外に不案内な部分があるのは、ある意味において当然の帰結とも言えるんだけども。

 

 いや、それにしても、エナメルな紫のシャツに銀のドラゴンて……。

 ボウリングだって右に左にとボールが逸れまくるし、カラオケもすさまじい音痴っぷりだったし。

 

 総じて歩さんには……その、すごく、センスがない。

 

 現実にいるんだ、あんなにセンスない人。

 いや、そりゃまぁどこかにはいるだろうけど、まさかこんな近くにいるとは……というか、まさか自分の好きな人がそんなにセンスがないとは。

 

 これまでずっとスーツ姿しか見てなかったけど、もし彼が自分で選んだ私服姿を見ることがあったら……うん、心の準備もなしだと、ちょっとばかりびっくりしたかもしれない。

 なんなら寝込んだかも。とてもイケメンがやっていい恰好じゃないし。

 

 まぁでも、うん。

 そういうところも……なんというか、こう、可愛いよね。

 

 普段無敵のスパダリが、私の前でだけ見せてくれる隙……みたいな?

 いやそりゃ本当は私以外にも見てる人はいるんだろうけども。

 なんだろうな、こう、結構仲良くならないと見せてくれない部分なんだろうなって思うと、ちょっと嬉しくない?

 

 まぁ実際のところ、彼がどこまで私に信を置いてくれてるのかはわかんないんだけどさ。

 それでも、ただの担当に向けるだけのものじゃない感情、多少は持ってくれてると思うし。

 

 であれば、それをお互いにもっと深めていければ……こう、ごにょごにょなこともできるんじゃないかな、と思うわけですよ。

 

 ……いや、あの生真面目なトレーナーが、「担当ウマ娘とトレーナー」という間柄である間、そういった関係の進展を許してくれるとは思えないんだけども。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……で。

 そんな楽しい非日常が終われば、当たり前のように日常が戻って来る。

 競走ウマ娘である私たちは、それぞれトレーニングに勤しんでいた。

 

 私たちクラシック級以上のウマ娘は、年末の大一番、有記念への対策のため。

 ブルボンちゃんたちジュニア級の子たちは、年末の4つのG1に向けての特訓のために。

 師も走る12月、忙しいのは大人だけじゃないわけだ。

 

 勿論、トレーナーさんたち大人も、とても忙しいっぽい。

 特に昌さんは最近、歩く時にフラフラしてて危なっかしい。相当疲れてるみたいだ。

 最近はトレーナーが捌き切れない分の仕事を処理してるらしいけど、どうにもその量が新人サブトレーナーさんの許容量を遥かに超えてるらしい。

 ……いや、勤め始めて2年目のトレーナーが、私を含む2人のウマ娘に関する書類、その大半を処理できてる方がおかしいのかな。

 

 

 

 っと、話が逸れたな。

 私たちのトレーニングについて、ね。

 

 私はここ最近、ブルボンちゃんと一緒にはトレーニングしていない。

 理由は……私のトレーニングの負荷がこれまで以上に上がってしまい、ブルボンちゃんが付いて来れる許容量を超えたからだ。

 より正確に言うと、瞬間的には付いて来れたとしても、消費体力に対する能力向上の費用対効果が著しく悪い……だったかな? トレーナーがそんなことを言ってた。

 

 でも、今のブルボンちゃんがすべきは、基礎的なスペックの向上と共に、何より他の逃げウマ娘の存在に慣れること。

 そしてそれに慣れるためには、逃げウマ娘が周りにいる状況を再現しなければならない。

 その役を私が請け負えないなら、他の逃げウマ娘の協力が必要だ。

 

 そこで選ばれたのが……。

 

「ソウリさん、協力を要請します」

「えっ、ええっ!? 私!?」

 

 ソウリちゃんこと、ピンクちゃんだった。

 

 ピンクちゃんは、私に憧れてくれてるジュニア級の後輩ちゃんの1人。

 あだ名通りの、綺麗なピンク色の髪が特徴的なウマ娘だ。……いや、ピンクの髪ってだけだと他にも大量にいるんだけど、よく絡んでくれる後輩ちゃんの中にはいなかったからね。

 

 ピンクちゃんは逃げウマ娘だ。私の真似をするように逃げを試したら、思いの外自分の脚質に合っていたらしく、以降作戦の主眼に据えてる。

 その上、同じジュニア級ってこともあり、私とブルボンちゃんほどにはステータスに開きがない。

 彼女のトレーニングにはピッタリ的確な相手ってわけよ。

 

 まぁピンクちゃんはデビュー以降、まだ公式レースには出てないらしいらしいんだけども。

 確か、ちょっと前に聞いた次走の予定は……今月中旬のプレオープンレースだったかな?

 

「い、いやっ、私ブルボンちゃんみたいなG1級のウマ娘じゃないよ!? 年末G1も出ないし、なんでよりにもよって私っ!?」

「ウィルム先輩のご紹介です」

「ちょ、先輩っ!」

 

 ピンクちゃんはちょっと涙目になって睨め付けて来た。かわいい。

 

「駄目だった? ピンクちゃんのトレーニングにもなるかなって思ったんだけど」

「いやそりゃ、ブルボンちゃんとの併走とか、すっごく勉強にはなりますけど……!」

「じゃあ良いのでは?」

「い、いや、こう、空気感っていうか」

「ブルボンちゃんが頼んだんだから大丈夫でしょ。むしろ押し付けられたトレーニングでしごかれてるってことにすれば、被害者側の立場に立てるだろうし」

「そ、それじゃブルボンちゃんの立場が……」

「問題ありません。そもそも私が強くなるための施策です、私だけが非難を受けるならば許容の範囲内であると考えます」

「う、うーん……いやでも……トレーナーが反対するかも……」

 

 ピンクちゃんは予期せぬ事態に頭を抱え込んでしまった。

 私はブルボンちゃんと顔を見合わせて頷き合い、ポケットからスマホを取り出す。

 

「実は既にソウリちゃんのチームトレーナーさんには話を通して許可をもらってあります」

「いや早いですよ行動っ! いよいよ逃げる言い訳なくなっちゃったじゃないですか!」

「いえ、私と共に逃げていただければ良いのですが」

「そっちの逃げるじゃなくてっ!」

 

 なんだかんだ良い子なピンクちゃんは、それからしばらく続いた私とブルボンちゃんの説得の結果、なんとか頷いてくれた。

 今はピンクちゃんのチームのサブトレーナーが、彼女たちのトレーニングの様子を見てくれてるはずだ。

 この前ちらっと見た時は、平然としてるブルボンちゃんの横でピンクちゃんはぜぇはぁと肩を揺らしてたけど……ピンクちゃん、大丈夫かなぁ。

 

 

 

 で、ブルボンちゃん以外の、私の友達やライバルのウマ娘たちは……。

 

 まずは、やっぱりテイオーか。

 彼女の怪我はしばらく前、無事に完治した。

 ここしばらくは有記念出走に向けて、復帰トレーニングに精を出している。

 

 有記念は、宝塚記念と合わせて二大グランプリと呼ばれるレースだ。

 他のレースとは違い、出走のためにはファンの方々の投票が必要となる。

 

 この半年出走できなかった彼女は、私の存在の大きさもあるのか、世間から若干忘れられつつあるっぽかった。あんなに強いのに失礼しちゃうよね。

 だから、アピールの意味もあるんだろう。テイオー陣営は結構頻繁に公開トレーニングをしてたわけだ。

 

「頑張ってますね、テイオー」

「とーぜんでしょ! 今度こそ、ボクが勝つんだからーっ!!」

 

 この前話した感じ、気合十分って感じだったね。

 きっと有記念では、彼女らしく走る姿を見せてくれるだろう。

 

 ……ただ、ちょっと残念なことに、トレーナーはその脅威度をネイチャよりも1段下に置いている。

 やっぱり半年もトレーニングができなかったハンデのためか、今回の有記念のメンバーの中では若干見劣りしてしまうらしい。

 

 それでも、彼女は決して立ち止まらない。

 どれだけ厳しいメニューになろうと、多くのメディアが見守る中、テイオーは走り続けた。

 

 私の復帰期間は4か月だったのに、それでもかなりキツかったんだ。半年以上となると、あの時以上の厳しさになるはず。

 それなのに笑顔で取り組めてるのは、流石の明るさというか……いや、アニメでのテイオーを思い出すと、もしかしたら取り繕ってるだけなのかもしれないけども。

 

 それでも……。

 不運を嘆いたり、タイミングを呪うんじゃなく、真っすぐに頑張ってるんだ。

 

 やっぱりテイオーは、すごいと思う。

 

 

 

 一方、ネイチャやマックイーンさんの方は……残念ながら、そこまで詳しくは知らない。

 

 というかむしろ、テイオーみたいにガンガン公開トレーニングしてる方が珍しいんだよね。

 普通は一部を除いて、トレーニングは積極的に公開はしない。何せそれを明かせば、次のレースでの作戦を公表するようなものなんだから。

 

 勿論、隠すのにも限界はあるし、そこまで徹底して隠すものでもない。

 その辺の調査を怠らないトレーナーは知ってるのかもしれないけど、とにかく私は知らなかった。

 

 でも、時々話す感じからすると、やっぱり懸命にトレーニングに励んでいるみたいだ。

 特にマックイーンさんの気合の入りようは、かなりのものだった。どうやらあのジャパンカップでの敗北の雪辱を果たしにくるつもりらしい。

 

 

 

 ……うん、やっぱり楽しみだ。

 かなり厳しい戦いになることは間違いないだろうけど……。

 

 たくさんのライバルたちとの、頂上決戦。

 

 ウマ娘として、これ以上楽しみなこともないよね。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、他のウマ娘たちはそんな感じとして、一方私はと言うと。

 

 ここ数日はトレーナーの方針で、ジムでのレッグプレスやスクワットを繰り返していた。

 

 今回の有記念の中核を担うであろうウマ娘、スペシャルウィークちゃんとサイレンススズカさん。

 この2人と私の間には、致命的と言っていいくらいのスペック差がある。

 ……そりゃあ本格化1年分あちらにアドバンテージがあるわけで、当然と言えば当然の話なんだけども。

 

 そんな彼女たちと争うなら、小手先の技術を磨く前に身体能力の強化を図った方が良い……らしい。

 他の側面に関してはアレだけどトレーナーとしてはめっちゃ有能なトレーナーの言うことだから、多分間違いはないだろう。

 

 で、こうして脚に負荷をかけて筋力を増やすのは、最高速度や加速力の向上に繋がるとのこと。

 

 今回の有記念は、私にとっては前半と後半に分けられる。

 前半は即ち、大逃げウマ娘との戦い。師匠とスズカさんを追い抜いて先頭を取ることが目標だ。

 後半はその後、後続のウマ娘との戦い。彼女たちから逃げ切ることができれば、晴れて勝利となる。

 

 特にその前半部分、スズカさんとの競り合いを考えると、現状のままではいられない。

 

 トレーナー曰く、スズカさんのスタートの技術は私と同格らしい。

 であれば、その加速力でどちらがハナを切るかが決まるはずだ。

 そしてスズカさんに先手を取られた場合、最高速度と加速力が劣っていては追い抜くことができない。

 

 要は、大逃げという同じ脚質で戦う以上、最高速度とパワーである程度競り合えないと、そもそも勝負にもならないってことだ。

 ……普通は相手が垂れることに期待できるけど、相手はスタミナ無限のスズカさんだしね。

 

 スズカさんと私の間にあるスペック差は、先日見せてもらった資料では……最高速度が300弱、加速力が300強だったはず。

 この差をどこまで埋められるかというのが、レース前半部分の攻略の肝になるだろう。

 

 

 

「……とはいえ、幸いと言うべきか、スピードに関してはそこまで考えなくていい」

 

 トレーニングの合間、短期的な疲労を抜くための休憩時間。

 両足の疲労とバクバク言う鼓動を感じながら、椅子に座ってタオルで汗を拭いている私に対して……。

 1時間ぶりに様子を見に来てくれたトレーナーは、スポドリを渡しながら教えてくれた。

 

「サイレンススズカには、長距離の適性がない。……あぁいや、『なかった』が正しいか」

「どういう意味でしょう?」

「彼女がデビューした時点での長距離適性は、俺の思い違いでなければ……Eだったはずだ」

「えっと、前回見た資料では……あれ、Bでしたよね? つまり、えっと、D、C、Bだから……」

「彼女はその長距離適性を、3段階上昇させた、ということになるな」

 

 それは……すごい話だな。

 

 トレーナーは昔、この適性のランクについて語ってくれた。

 曰く、適性はC以上でようやく「適性がある」と呼べるレベルになる。そしてG1レースに限定するのなら、少なくともB以上でなければ勝利は難しい、と。

 

 じゃあ適性を上げればいいんじゃないかってなるだろうけど、それは難しい。

 原則として、ウマ娘の能力はその血に強く依存する。言い換えてしまえば、残酷なことだけど、生まれが能力の大部分を決めるのだ。

 努力によってその基礎を伸ばすのは、トレーナー曰く不可能ではないが困難。それこそ適性のランクを1つ上げるにも、下手をすれば年単位になるような懸命な修練が必要……とのことだ。

 

 最初にトレーナーが見た際のスズカさんの長距離適性は、E。G1レースに出走するには致命的なレベルで低かった。

 それが、彼女自身の努力により、3段階上がって……G1に通用するBまで来ている。

 

 そりゃあ彼女はシニア4年目、競走ウマ娘としては6年という非常に長いキャリアを持っている。

 可能かどうかと言えば、そりゃあ時期的には可能なんだろうけども……身に合わず、綺麗に走れない距離に何度も挑戦し続けるのは、相当に厳しい道のりになるはず。

 

 それを叶えたのは、克己心故か……あるいは単純に、噂に聞く彼女の走りへの積極性故か。

 

 ……どちらにしろ、脅威だな。

 彼女はその努力で、有記念の長距離の走行を、不可能な段階から可能な段階にまで引き上げたんだから。

 

「だが、幸いと言うべきか、それでも長距離適性Aまでは上がっていない。

 つまり彼女は、未だ長距離におけるペースの感覚を完全には掴めておらず、最高速度の出し方を理解しきれていない。

 そして君の適性は全てAを超えるS。これらを鑑み、適性の補正分を考慮すれば……。

 君の最高速度は900辺り、加速力は800弱。

 サイレンススズカの最高速度は950辺り、加速力は1000強。

 これが今回のレースにおける適正な評価になるかな」

 

 おお、だいぶ差が減った。

 ……けど、適性2段階の差を以てしても、300の差は完全には埋まらないのか。

 やっぱり数字の大きさって大正義なんだな……。

 

 むむむ、と悩む私の頭に、ポンと手が置かれ、軽く撫でられる。

 おわ、サプライズ頭撫で……!

 

「大丈夫、そう不安そうな顔をするな。

 適性の他にもう1つ君に有利があるとすれば、サイレンススズカは既に本格化を終えている、という点も挙げられる。

 君は本格化中であるが故にそのスペックを伸ばすことができるが、彼女は既に打ち止めだ。差が縮まることはあっても、開くことはない」

「あ……そっか、そうですね」

 

 ウマ娘の身体能力は、本格化中の3年間の間に一気に伸びる。逆に言えば、本格化以外の期間では非常に緩やかにしか伸びないのだと言う。

 スズカさんは本格化を終え、ここから急激にステータスが向上することはないだろう。一方私は、短い期間とはいえステータスの向上を図ることができる。

 

 差は、多少なりとも埋められる。

 私が頑張った分、スズカさんとのスペックの差は縮んでいくはずだ。

 

 そう考えると、僅かな希望の光が見える気がする。

 

 

 

 ……いや、でもなぁ。

 今回の有記念、怖いのはそこだけじゃないんだよね……。

 

「トレーナー」

「ん?」

「競走ウマ娘の領域って、変わることがある……んですか?」

 

 そう、最近気になってた点が、そこだ。

 

 天皇賞(秋)の終盤で見えた、マックイーンさんの領域。

 それは、宝塚記念で見たものとは大きく……とは言えないまでも、明確に様相を変えていた。

 

 宝塚記念の時は、庭園で優雅にティータイムを過ごし、そこから一気に走り出す彼女の姿を幻視した。

 けれど、天皇賞(秋)では、違った。

 降りしきる雨の中、恐らくは同じ庭園の中をマックイーンさんが走り、いつか青空の下へと辿り着く。

 ……そんな景色が見えたんだ。

 

 この2つは、近いようで異なるものだ。

 そして前者よりも後者の方が……何というか、すさまじかった。

 

 私がトレーナーにそれを相談すると、彼は「ふむ」と顎に手を当てる。

 

「……まず、『領域が変わることがあるか』という問いに答えると、ほぼ確実にあると思っていい。

 だが、『変わる』というのにも2通りある、というのが俺の見解だ」

「トレーナーの見解……ですか?」

「前にも言ったが、そもそも領域はウマ娘にしか感じ取れない。俺たち人間からすると、ただ君たちが急に速くなったようにしか観測できないんだ。

 更に言えば、科学的にその存在を証明する試みは1つ残らず失敗している。現在の科学技術では、ウマ娘に関する秘密を解き明かすことはできないらしい。

 ……故に、領域に関する話は、あくまで君たちウマ娘に聞いた話を元にした推測にしかならない。

 その上で、堀野の歴史を紐解いて、そこに出てくる叙述を繋げた結果だ。……だから、あくまで俺の推測に過ぎないことを理解してほしい」

 

 つまるところ、論理的根拠のない話だってことか。

 トレーナー、確定してない情報を話すのを嫌うとこあるからね。間違っている可能性があることを前提に話しておきたかったんだろう。

 ……まぁそれでも、何十年何百年という歴史をソースにした話であれば、少なくとも大筋は外れてないんだろうけども。

 

 

 

 スポドリを飲みながら聞く姿勢を取る私に対し、トレーナーは話し始める。

 

「ウマ娘の領域というのは、その心象風景を具現化する行為だ、という言説がある。

 これが一定の説得力を持つ根拠として、新たな勝負服に身を包んだり大きなレースを前にしたりして、そのウマ娘の心持ちや精神状態が大きく変化すると、領域が別の形になるらしいことが挙げられる。

 ……まず、これが1つ目。領域が全く別のものになるケース。

 存在するかもわからない仮説段階だから決まった呼び名はないが、領域の変更、転化、換装などと呼ばれたりするものだ」

 

 全く……別のもの?

 

「それは……えっと」

「領域を開く条件も変われば、ウマ娘の走り方……つまり領域の恩恵、効果も変わる。

 勿論、その領域内で見える光景も、全く別のものになるらしい」

「あー、じゃあマックイーンさんのはそれじゃないですね……」

 

 マックイーン先輩の領域は多分、その方向みたいなものは、前と変わっていない。

 ただ単純に、こう……昇華されたような感じなんだ。

 

「もう1つが、進化とか昇華などと呼ばれる現象だ」

 

 彼の口が、私の思っていた言葉をそのまま形作る。

 思わずトレーナーの方を見ると、彼はこちらと目を合わせた後、改めて前に向き直って話を続けた。

 

「領域がまるきり別のものになるのではなく、一歩進んだようなものになる。その景色はより走りに向き、ウマ娘に生じる効果も強烈になる。

 方向性は変わらないままベクトルが伸びるように、あるいは色自体は変わらずより濃くなるように、領域が次なる段階に入る。それがもう1つのケースだ。

 状況から判断するに、メジロマックイーンの領域の変化はこちらに当たるんだろうな」

「領域に磨きがかかるってことですか」

「いや……うーん、磨きがかかるのとは、これまた少し違うと思う。

 君に伝わる例えで言うと……そうだな、ポケモンで例えればわかりやすいか? 磨きがかかるのが領域のレベルアップ、昇華は領域の進化みたいなものと思えばいい」

 

 領域はただでさえとんでもない効果を発する。

 そのウマ娘の実力の限界を超えることもあるし、時には物理現象を無視することもあるって聞いた。

 それが更に強くなる。それもレベルアップではなく進化と言われると……。

 

 それは脅威であり、同時に自身の強化への近道だ。

 

「どうすればその、昇華? が起こるんですか?」

「不明だ」

「……不明?」

 

 いやにきっぱりと言い切るな。

 ……あぁいや、そもそもこれ自体が論理的根拠に欠ける話って言ってたから、そりゃ不明ではあるんだろうけども。

 

「そもそも領域を開けるウマ娘は、1つの世代でも10を超えない。

 その上それを昇華するのは、1世代に2人いれば多い方で、1人すらいないことも珍しくない。

 条件を絞り込もうにもデータが少なすぎる、というのが正直なところだ」

「そうですか……」

「強いて言えば、領域の習得と同じく、極めて研ぎ澄まされた精神と肉体が必要……な、可能性はある。

 だが、残念ながら確定情報ではない。今から半月程度で目指すのはリスキーが過ぎるな」

 

 うーん、ちょっと残念。

 もしも私の領域の強化が叶えば、きっと有記念での大きな助けになったと思うんだけどな。

 

 まぁでも、それもむべなるかな。

 運よく色々と噛み合って領域を開けた私だけど、更にそれを昇華できるウマ娘は一握りらしいし。

 ……何より、多分まだ私、領域の精度が足りてない。トレーナーに倣ってポケモンで例えれば、進化に必要なだけのレベルに到達してない……気がする。

 

 では、領域の精度を上げるにはどうすればいいかと言うと……これまたハッキリしないんだよな。

 

 菊花賞でネイチャの領域の雰囲気が変わったアレは、多分精度の向上、レベルアップだと思う。多少風景は変わったけど、マックイーン先輩程一気にヤバくなった感じはしなかったし。

 とすれば……他のウマ娘との領域が重なる、あるいは重なるじゃなくても刺激を受けるとか?

 あるいはもっと多くのレース経験、人生経験を積むとかそんな感じ?

 

 ……そのどれにしろ、今すぐに取れる手段ではない、かな。

 

 

 

 結局、近道なんてない。コツコツトレーニングするしかないってことか。

 ……ま、それも悪い気はしないけどね。

 

 トレーニング……っていうか、走ることは好きだ。自分のスペックが目に見えて上がっていくのは悪い気分じゃない。

 

 もっと強くなりたい、もっと速くなりたい。

 そして、最高に楽しいレースをしたい。

 それが、今の私を突き動かす、胸の底から湧き上がる渇望だから。

 

「なるほど。では、そろそろトレーニングに戻ります。タオルとスポドリ、ありがとうございました」

「うん。1時間後にまた来る。何か問題が発生したら、躊躇わずに連絡するように」

「もう、何回目ですか。了解してます」

 

 そう言って私はトレーナーと別れ、再びジムスペースに向かった。

 

 

 

 ブルボンちゃんの朝日杯、そして私の有記念まで、もうあまり時間も残っていない。

 精一杯できることをして、後悔のない、楽しいレースにしないとね。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そんな中で、ふと思い出した。

 

 そういえば、あの日に聞いたトレーナーの古い記憶。子供の頃に知らない異性と1日遊んだという経験。

 

 ソレが、ちょっと気になる。

 

 私は前世でも今世でも、そんなアオハルっぽい経験をしたことがない。そもそも前世の私は人嫌いだったから、知らない人と遊んだりはしなかったし。

 だからわからないんだけど……ひょっとして、というかやっぱり、それって……恋心を覚えたりするものなんだろうか。

 

 もしかしてトレーナー、その子が初恋だったりするんだろうか!?

 

 だとすれば、それは非常に重要な話なのではないか? その子の特徴とか聞いたりして今後に活かした方が良いのではないか!?

 

 そう考えて、それとなくトレーナーにその思い出について聞いてみたんだけど……。

 

 

 

「……ん? 子供の頃に女の子と……?

 そんな話をしたか? いや、俺に覚えはないんだが……思い違いじゃなくて?」

 

 

 

 どういう訳か、トレーナーは……。

 その記憶を、そしてそれを話した記憶まで、さっぱりと失ってしまっていた。

 

 

 







 まるで川の汚泥のように。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、ブルボンの朝日杯、作戦会議の話……?



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!
 過去イチレベルで誤字が多かったです……。反省。


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ブレイクダウン

 

 

 

 既に起きてしまったことの多くは、取り返しが付かない。

 

 例えば、俺が転生してしまったこともその内の1つだ。

 俺はもはや、前世の家族に会うこともできない。こんな俺を大事にしてくれた両親、いつも目標だった兄。その姿を見ることも、声を聞くことも、出来はしないのだ。

 更に、前世での正確な死因を把握することもできない。最後の記憶は、信頼していた部下に、恐らく灰皿で後頭部を殴られたようだと思ったとこで終わっている。けれど、果たしてそれが本当に彼女の仕業だったのかを確かめる手段は、永遠に失われてしまった。

 

 はっきり言えば、前世でやり残したことは山のようにあった。

 もっと上手くできたんじゃないかと思わない日はないくらいだ。

 

 けれど、もはやその時選べたはずの選択肢は、既に俺の指の隙間から零れ落ちてしまった。

 後悔先に立たず、覆水盆に返らず。

 死という断絶は、未来へと時が進むことは、決して止めようがない不可逆の変化。

 俺が何をどう望もうと、過去は決して変えられない。

 

 俺が失敗してきた多くのことは、成功に変えることはできない。

 やり残してきたことを為すことも、できはしない。

 俺なんかを殴ったことで罪に問われるだろう部下を庇うことも、その真実を探ることも、不可能だ。

 

 生きるというのはある意味で、そういった取り返しの付かない後悔を背負い続ける、ということなのかもしれない。

 ……いや、俺は既に1度死んでるんだし、『生きる』ではないかもしれないけどさ。

 

 

 

 なんにしろ、時間は川の流れのようなもので、ただただ前に進むことしかできず。

 

 そして、往々にして。

 取り返しのない出来事というものは、唐突に、何の兆しすらなく、俺たちに襲い掛かって来る。

 

 なにせ前世はそれで死んだんだ、俺はそれをよく知っていた。

 

 

 

 ……知っていた、はずだったのに。

 

 俺はいつの間にか、そんなことすら忘れてしまっていたのかもしれない。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ウィルと出かけたり、ブルボンのトレーニングメニューを組んだり、ここからの大雑把な予定を立てたり、来年のレースの出走ウマ娘の調査をしたり。

 トレーナーとして彼女たちのサポートをしている内、瞬く間に時間は過ぎて行き……。

 

 早くも、ブルボンの朝日杯の前日になった。

 

 

 

 レース前日になれば、改めて作戦の確認をするのが通例だ。

 ブルボンの正確無比な記憶能力を以てすれば、忘れるなんてことはないかもしれないが……念には念を入れて、やっておくに越したことはないだろう。

 

 そんなわけで、俺はブルボンと2人、トレーナー室で資料を囲んでいた。

 

「さて、では作戦を確認していく。何か先に言っておきたいことはあるか?」

「疑問が1点。何故昌さんは不在なのですか? トレーニング中のウィルム先輩の元にいらっしゃるのでしょうか」

「あぁ、そこか」

 

 確かに、普段なら作戦会議には必ず出席している昌が、今ここにはいない。

 そこには深い……いや別に深くもないが、致し方ない理由があるのだった。

 

「いや……昌は今、休息を取っている。疲労がいよいよ限界に達して、明日の朝日杯の観戦すら難しそうな状態だったからな」

 

 昌は思いの外、トレーナー業務に苦戦しているらしい。

 なんだかんだ要領の良い彼女のことだから、すぐさま仕事に慣れて俺以上にテキパキこなすようになるものだとばかり思っていたんだが……ちょっと意外だな。

 

 とはいえ、彼女がダウンに追い込まれたのは、無敗の三冠ウマ娘であるウィルと期待の新星であるブルボンという2人のウマ娘を担当をしているからだ。

 恐らくオープンレースを主戦場にするような子であれば不足なく、というか余裕を持って担当できるだろうと思えるくらいには、ちゃんとこなしてくれてるんだが。

 

 ウマ娘は人気商売の面を持っている。

 である以上、世代でもトップレベルの人気を持つ2人への依頼や確認は自然と多くなり、契約トレーナーにかかる負荷は平均的なウマ娘の何十倍にも膨らんでしまう。

 結果として、今の昌では……というか俺でも、助けもなくあの2人を担当することは不可能と言っていいレベルの激務となっている。

 

 負けず嫌いの彼女はそれに挑み、懸命に頑張り続け、そしてついには倒れてしまったのだ。

 

「昌はああ見えて頑張り屋だし、その努力を他人に誇らない。あの子なりに頑張った結果、限界が来てしまった、というところだろう。今はゆっくり眠らせてあげてくれ」

「了解しました」

 

 ブルボンも昌の性格はだいぶ掴んでくれているのか、頷いてくれた。

 まったく、担当の理解があってありがたいよ。

 

 いつも思うことだけど、俺の担当2人は、どちらもとても理性的だ。ブルボンは常に冷静で合理的だし、ウィルは熱血と冷静さを兼ね備えるような部分がある。

 

 そういう彼女たちの落ち着きに、俺たちは何度も助けられてきた。

 もしも彼女たちが年齢に見合った性格だったなら、俺や昌は非常に重いメンタル管理を強いられ、仕事は今以上に激化していただろう。

 ……そうなったら、多分昌もそうだけど俺も倒れてたかもな。

 

「さて……改めて、明日のレースの確認と行こうか」

 

 俺にできる彼女たちへのせめてもの礼は、そのレースを万全に支えることくらいだ。

 さぁ、トレーナーとしての仕事に取りかかろう。

 

 

 

 ミホノブルボンの次走、朝日杯フューチュリティステークス。

 このレースの最大の特徴は……直線もコーナーも少なく、その分長い、ということだろう。

 

「長い直線、長いコーナー、そして長い最終直線。ゴール前には急激に勾配の変わる仁川の坂。

 これが阪神レース場、芝外回り1600メートルのコースの概要となる。

 距離の短さや外回りであることもあり、比較的変化の少ないコースになる。その分君のペースキープはやりやすくなるはずだ。……掛からなければ、の話だが」

「問題ありません」

 

 そう言って、彼女は自身の胸に手を当てる。

 

「ここまでマスターの指導の下、ウィルムさんやソウリさんにご協力いただき、トレーニングを積んできました。今の私ならば、高確率で正常な走行が可能であると推測します」

「うむ、結構。あとはとにかく、明日のレースまで心を乱さぬように」

「はい」

 

 前世アプリでもそうだったけど、ブルボンは一見冷静に見えて、実のところ直情的な子である。

 機械のように人間味なく見えてしまうのは、実は彼女の気性故の勘違いでしかないんだ。

 

 この世界で観察していて感じたが、彼女は1つの目標に向けて手段を選ばない。

 より正確に言うと……なんというか、手段にこだわりを持ってない感じだ。

 

 ただ1つの目標である「クラシック三冠」。

 彼女は決して、この1点だけは譲らない。

 

 だが逆に言えば、それ以外の全てを妥協する。

 速くなれるのならどのようなトレーニングも許容し、強くなれるならどのような体験も受容する。

 だからこそ、彼女は一見自己や感情のない、機械のように見えてしまう。

 

 ……けれど、その目標である三冠だけは譲らない。

 初めて抱いた夢であり、同時に父と共有する夢。そして今は、俺と共に抱える夢でもある。

 彼女はその一点だけは、頑なに曲げはしない。

 

 柔軟で自我を持たないようで、その実きちんと自分の中で最終目標を定めているんだ。

 そういう意味で、彼女は決して機械的な人格というわけではない。確かに自分の意思を持ち、それに基づいて行動できる、普通のウマ娘だ。

 

 ……強いて言えば。

 それが自らに強いているだけで、求めるものではないというのが、少しばかり残念なところだが。

 

 そう。

 言ってしまえば、ブルボンはあの頃のウィルに似ている。

 

 ウィル程に苛烈すぎて呪いじみているわけではないが、彼女も「必要だから走っている」。

 走りたいから走っているとか、競走自体を楽しんでいるのではなく、自らに強いる何らかの目標のための手段として、競走を選んでいるだけ。

 

 「負ければ愛を貰えない、自分に価値がなくなってしまう」と思い込んでいたウィル程に後ろ向きなものでこそないが……。

 それでも「クラシック三冠を唯一の目標とする」という指針は、軸がブレない代わり、それに失敗したり達成してしまった後のリスクを抱えている。

 

 できれば……俺個人のエゴとしては、ブルボンにも走りを楽しんでもらいたいと思う。

 ただ、それをトレーナーとしての本分を越えるレベルで要求したいとは、今のところ思えない。

 それこそが俺の中でのウィルとブルボンの違いであり……。

 

 …………?

 

 いやしかし、俺はウィルに前から……契約した直後から、求めていた気がする。

 彼女に走ることを楽しんでほしい、幸せになってほしいと。

 

 それは堀野のトレーナーとしての基本指針ではあったが……だとしても、いささかそれを求め過ぎていたような……。

 

「俺は……」

 

 あの時点では、あたかもそれが正しいかのように理論武装し、これでいいのだと信じていたが……。

 俺は、あの時から既に、彼女の育成に……私情を持ち込んでいたのか?

 

 俺は私情を切り捨て、トレーナーになったつもりだった。

 実際、俺の心よりも業務を優先したことは間違いない。でなければウィルのトレーニングを他人に委譲しようなどと思う訳がないはずだ。

 だが……それはあるいは、別側面から見た私情に過ぎなかったと?

 

 何故だ?

 俺は何故、こうもウィルに対して私情を挟んで……。

 

 それは、多分……。

 彼女が…………あの時の、

 

 

 

「マスター?」

 

 ブルボンから声をかけられ、はっと正気を取り戻す。

 そうだ、こんなことを考えている暇はない。

 

 今は朝日杯の前日、ブルボンと作戦を共有する時間だ。

 内省も自己分析も後回し。俺は彼女のトレーナーとして、すべきことをしなければ。

 

 1度瞳を閉じて精神を整え、息を吐く。

 

「……すまん、少し思考が逸れていた。話を朝日杯に戻そう。

 君のライバルとなってくるのはやはり、以前と変わらずフルーツパルフェ、マチカネタンホイザだろうな。君を差し切れる可能性があるのは、この2人のウマ娘だけだ。

 逃げウマ娘としてはアーケードチャンプがいるが……君を超えるスペックがあるとは言えないな。平常通りに走れば、君のペースに付いて来れず垂れるだろう。気にする必要はない」

 

 ミホノブルボンの体は、与えられた負荷に対して非常に素直だ。

 走れば走る程、殆ど直線的に成長していく。

 それも、他のウマ娘よりもずっと速いペースで、だ。

 

 ウィルのように特別なコンディションがあるわけでもなく、「アプリ転生」で見える成長率はスタミナ20%パワー10%と何の変哲もないもの。

 ……いや、成長率がプラスになっているのは、その時点でかなり珍しい素質なんだが、それはともかく。

 

 つまるところ、それは彼女にとっては特異な状態でもなければ特別なことでもない、単純な体の特性。

 身長が高い低い、体が硬い柔らかいと同じように、「アプリ転生」には表れないものなんだろう。

 

 俺が事故を起こさないよう徹底的な管理を心がけるだけで……彼女はその負荷に応じ、群を抜いたスピードでその体を仕上げていく。

 

 結果として、俺が担当して僅か半年で、彼女のステータスは見違える程に高まった。

 それこそ、ジュニア級G1に出走するウマ娘の中でも、頭1つ抜ける程に。

 

「結局のところ、やはりミホノブルボンの戦いは、自分との戦いになるんだろう。

 君が自らの闘争本能、掛かり癖を御し切れるか。レースの趨勢は、そこにかかっていると言っていい」

 

 ホシノウィルムには、トウカイテイオーとナイスネイチャという明確なライバルがいた。

 彼女たちは決して侮ることのできない存在だった。1人は早期に領域を開き、1人はウィルとの相性が悪かったからである。

 

 では、ミホノブルボンはどうかと言えば……。

 少なくとも現段階において、彼女に明確なライバルは存在しない。

 ……いや、ウィルもウィルで、ジュニアG1ホープフルステークスの時点では、おおよそライバルは存在しなかったんだが。

 

 強いて言えば、やはり先に名前を挙げた2名。

 

 恐るべき可能性を秘めたネームド……それも俺がアプリをやっていた当時は実装されていなかったため、その走りについて詳しく知らない、マチカネタンホイザ。

 

 しかし彼女は、ダービーの際のトウカイテイオーと違い、未だ領域を開いていない。

 「アプリ転生」のスキル一覧に固有スキルがないことからも、それは明らかだ。

 他のスキルやステータスの面で見ても、今のマチカネタンホイザにミホノブルボンを越える地力があるとは言い難い。

 

 むしろそういう意味では、ネームドではないが、フルーツパルフェの方が恐ろしいだろう。

 領域は持たないが、総合的にマチカネタンホイザと同格のステータスがあり、彼女とは違ってここ最近絶好調を保っている。

 恐らく明日も、タンホイザ以上の実力を以てブルボンに肉薄してくるだろう。

 

 

 

 ……だが、関係ない。

 

 全てはレースの展開次第とはいえ、ブルボンが過たず一定のペースで走り続ければ……。

 その走りには、誰一人として付いては来れないのだから。

 

「明日は曇りの予報だが、恐らくは良バ場になるだろう。グリーンベルトもない。コーナリングの際は、意識してインを突き続けろ。経済コースを走り、とにかく無駄なく、完璧にレースを終えるんだ」

「ミッション了解。ミホノブルボン、奮起します」

 

 結局のところ、作戦らしい作戦はない。 

 

 ミホノブルボンらしく走れ。

 誰にも惑わされず、君らしく、最適の走りをしろ、と。

 

 ……根性論みたいになってしまって申し訳ないんだけど、これが現状最も勝率の高いプランだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 その後、ブルボンと詰めるべきところを詰めて、予備のプランもいくつか提案し、作戦会議は終わった。

 彼女には「今日は10時に寝て7時に起きるように」と告げて別れる。

 

 地味に大きいブルボンの強みとして、体感時間や睡眠・起床が機械じみて正確なことが挙げられる。

 彼女はどういう仕組みなのか、時計などを使うまでもなく、分刻みどころか秒刻みで正確な時間を計る感覚を持っている。

 更に「この時間に寝てこの時間に起きる」と決めると、ほぼほぼ誤差なくその通りの睡眠を取ることができるらしい。

 ……仮眠を取ろうとして失敗することもある俺としては、彼女の能力が少しばかり羨ましい。

 

 彼女は睡眠に関して、ほとんど失敗しない。

 ごくまれに、闘争本能が刺激されたり不安に襲われた時は歳相応に眠れなくなることもあるようだが、基本的には失敗しないと言っていいだろう。

 

 今日も伝えた通り、きちんと睡眠を取ってくれるはずだ。

 十分に休み、意気軒昂の状態でレースに望んでほしい。

 

 

 

 そこから少し時間を置いて、仮眠を取っていた昌から『ごめんなさい。もう大丈夫。今夜から仕事に復帰します』と連絡が来た。

 ……いや、基本的に仕事というのは昼間にやるものであって、夜勤でもない限り「夜から復帰」するものではないんだが。

 ここしばらく仕事漬けだったから、感覚が壊れちゃってるっぽいな。

 

 トレーナーとして懸命に働くのは良いことだとは思うが、それで大事な妹の心が壊れるのは心苦しい。

 別に現在の彼女には労働の義務もないわけだし、ここまで必死に片してきたから仕事も差し迫ってるものはない。

 昌には一晩、しっかりと休んでもらおう。

 

『今日は休んで、明日のレースを万全に観戦できるようにしよう』

『大丈夫だから。余計な気は回さないで』

『気を回してるんじゃなくて、リソースを管理してるんだよ。

 俺はまだ余裕があるし、仕事もある程度片付いてる。それなら君にしっかり休んでもらって、フルスペックに戻ってもらった方が効率が良い』

 

 いくつかやりとりをした後、しばらく彼女からの返信は途絶え……。

 

『寝ます。ありがとう』

 

 そう返信が来て、取り敢えず一安心。

 昌、ここ最近本当に忙しくて、いよいよ限界が来ていたというか……俺に吐く悪態もキレがなかったからな。一旦きちんと休んで、しっかり体調を戻してほしい。いや悪態を吐かれたいわけではないが。

 

 なにせ、ブルボンが明日の朝日杯FSで勝てば、再び依頼だの確認だのが急増し、忙しくなってしまうんだからな……。

 

 

 

 更にその後、ウィルからも連絡が来る。

 

『トレーニング終わりました! 今日はそのまま直帰ということで、帰ります』

『了解。明日は朝日杯だから、朝寮に迎えに行く』

『今日は自主トレは控えめにしておきます』

『そこでやめておきますにならないあたり、君らしいよ。程々にな』

『はい!』

 

 後輩のレースの前日だろうと、ウィルにはなんら揺らぎはないらしい。

 今日も今日とて寮の窓から抜け出して、夜の街に飛び出すのだろう。

 

 ……実を言うと、ウィルの寮からの脱走は既に、寮長であるフジキセキにバレ、俺のところまで話が上がってきている。

 ただ、フジキセキは「現行犯で捕まえでもしない限りは見過ごす」という方針であり、俺としてもウィルの自主トレを止める気はないので、ひとまず問題が起きでもしない限りスルーする予定だ。

 

 教育者としては、ちゃんと止めた方がいいんじゃないかとは思うが……。

 彼女の保護者代理としては、やはりここまでの彼女の人生を考えると、もっと走ることを楽しんで欲しいと思うからな。

 

 ああ見えてきちんと分別は弁えているし、どうしても止めてほしい時は止めてくれるので、そうでない時くらいは好き放題していてほしい。

 

 それがきっと、彼女の幸せのためになる。

 

 ……いや、だから何なんだろうな、この彼女への私情の入れ方は。

 俺、なんでホシノウィルムにこうも……?

 

 

 

「……まぁ、いいか」

 

 言って、立ち上がる。

 

 彼女たちは、後は休むだけ。

 だが、俺にはまだいくつか、やらなければならないことが残っていた。

 

「まずは……買い出し、だな」

 

 そう独り言を呟いて……。

 俺はトレーナー室を施錠し、外に向かった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 12月7日。

 

 いよいよ冬も深まってきた中、俺はいつも通りのコートを着込み、近くの商店街に向かう。

 使い捨てのカイロや担当ウマ娘が使うタオルなどなど、買わなければならないものがいくつかある。少々遅くなってしまったが、明日からは余裕もなくなるし、今日の内に買い揃えておかなければ。

 

「……さむ」

 

 呟き、思わず身を縮こめる。

 既に夕方を過ぎ、視界も悪くなった夜。

 太陽の温かさは知らぬ間に消え去り、辺りには酷い寒気が漂っていた。

 

 空を見れば雲もないし、明日は更に冷えるだろうな。3人の分の防寒着やカイロを用意しておいた方がいいだろうか。

 そんな風に思い、頭の中のメモ帳にいくつか書き加える。

 

 と、その時。

 

「っと」

 

 ポケットの中のスマホが鳴り響く。

 

 取り出してみると、ウィルから着信が来ていた。

 何かあったのかと思い、急いで通話を開始する。

 

「もしもし、ウィル、どうした?」

『トレーナー。いえ、特に用があるってわけではないんですが、ちょっと声とか聞きたいなーって思ってしまって。……今、お時間いいでしょうか』

 

 一気に肩の力が抜けた。

 ……安心した。何か事故でもあったんじゃないかと思ったよ。

 

「ああ、いいよ。少し話そうか」

『ありがとうございます!』

「とはいえ、俺は今商店街に行ってるところだから……お店に入るまでの10分くらいでいいか?」

『はい!』

 

 少しだけ荒い息からして、多分軽くジョギングしながらなんだろうが……。

 まったく、元気の良いことだ。俺も見習いたいところだね。

 

「それで、今日はどの辺りを走ってるんだ?」

『今は河川敷沿いの直線を。ここは信号がないのが良いですね』

「楽しくなって飛ばし過ぎないようにな」

『勿論です! ……ライスちゃんも一緒に走れたら良かったんですけどね』

「ライスシャワーはまだ脚部不安があるからな。君と一緒に走るとなれば……まぁ、来年以降か」

『走りたいのに走れないなんてかわいそうですよ。私だったら泣いてます』

「それは君だけだと思うが」

 

 たわいのない話をしながら、俺は近道の狭い路地に入る。

 トレセン周辺にしては電灯が少ないが、商店街に直行するにはここが一番早い。

 

「来年春は忙しくなるな」

『そうですか? 私としてはここまで忙しかったので、少し休めるかなーと思ってたんですが』

「何を言ってる。君のご両親に挨拶する約束だっただろうに」

『……覚えてて、くれたんですね』

「当然だ、君のご両親のことだからな。

 それに、ゆったりできると思っているなら、それは甘いぞ?

 勝負事である以上初詣には行っておきたいし、URAファイナルズも見に行きたい。更に君はほぼ間違いなくURA賞、それも年度代表ウマ娘に選出されるし、そうなると取材が殺到する。その上、普通にトレーニングだってあるんだからな」

『……あれ、もしかして今より忙しくなります?』

「当然だ。有力なウマ娘にとって、正月は試練の季節になるという。頑張りなさい」

『ひえぇ』

 

 おどけた声を聞いて、俺は少しだけ口角が上がるのを感じた。

 

 明日にも、未来にも、当然のように幸せな日々が続くと、証拠もなく確信して。

 

 

 

 

 

 

 ……けれど、知っていたはずだ。

 運命は必ずしも、俺たちに味方するわけではない。

 

 

 

 

 

 

 その時、『それ』が起こった原因は、多岐に渡る。

 

 そこが車が2台も通れないような、狭い路地だったこと。

 俺が度重なる仕事の結果、軽度の疲労状態にあったこと。

 ウィルと電話をし、集中力が散漫になり、片手がふさがっていたこと。

 向こうから来た車のライトが眩しくて、思わず手で目を覆ってしまったこと。

 

 ……そして何より、俺の後ろから来た誰かに、突き飛ばされたこと。

 

 

 

 結果として、俺は踏ん張ることもできず、車道に倒れ込んでしまった。

 

 

 

『トレーナー?』

 

 

 

 電話口の向こうから届くウィルの声が、妙に間延びして聞こえた。

 

 

 

 ……マズい。

 

 立ち上がらないと。逃げないと。車のライトが近い。

 このままじゃ、轢かれる。

 だが、咄嗟には立ち上がれない。

 まるで足の使い方を忘れてしまったように、固くなって動かない。

 

 

 

 間に合わない。

 

 

 

 あぁ、そうか。

 

 また、死ぬのか、これ。

 

 

 

 前世での最期もそうだった。

 死は、唐突にやって来る。

 伏線も兆しもなく、気付いた時には手遅れだ。

 

 

 

 ……しかし。

 やはり今世でも、心残りは多いな。

 

 事故なのか故意なのかはわからないが、俺を突き飛ばした誰かに、罪を背負わせてしまうだろう。

 家族も……多分、悲しんでしまうだろう。父も母も兄も皆人が良いし、昌もきっと。

 ブルボンに関しても、彼女が三冠を取るまで面倒を見ることができなかった。

 

 そして……何より。

 

 

 

「ウィル……」

 

 

 

 彼女を……いや。

 最後まで、彼女の隣にいられなかったこと。

 

 それが酷く、残念で。

 

 

 

「ごめん」

 

 

 

 ライトの光が、眼前に迫る。

 

 

 

 ……あぁ、クソ。

 

 嫌だ、まだ俺は彼女を……。

 

 死にたくな──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、断絶と彼女の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました。


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Your Catastrophes

 物語は、まだ続きます。





 

 

 

「トレーナーが、事故……?」

 

 最初、何を言われたか、理解できなかった。

 

 スマホの向こうから届く聞き慣れた声は、トレーナーが交通事故にあったと、そう告げていた。

 

 ……やはり、理解できなかった。

 

 

 

 確かに、不穏な予感はあった。

 昨夜、トレーナーとの電話の途中で突然会話が途切れて、「ウィル、ごめん」って言われて……。

 その後、すぐに電話が繋がらなくなって。

 

 でも……でも、それはきっと、突然用事か何かができただけで……。

 何もおかしいことなんて、ない。

 

 ……あるはずがない、のに。

 

 

 

「落ち着いて聞いてください、ホシノウィルムさん。

 昨夜兄が交通事故に遭い、意識不明の状態で病院に運ばれました」

 

 

 

 ……昌さんの声は。

 

 非現実的な現実を、私に突きつけた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 それを聞いてからしばらくの記憶が、私にはない。

 

 ただ、気付けば私は、病院のベッドに眠る歩さんの顔を覗き込んでいた。

 

 彼の顔は、苦痛に歪んでいるとか、やけに白々としているわけじゃない。

 穏やかで落ち着いた表情だし、肌色だって確かに血が通っている。

 傷ができてるのか、ガーゼを当てられてるところはあるけど……それ以外は、正常だ。

 まるで深い眠りに就いているかのように、彼は安らかに呼吸を繰り返している。

 

 呼吸は正常、体温は十分、血流も確か。

 彼は生きてる。

 間違いなく、ここに生きている。

 

 

 

 

 

 

 でも……目を覚まさない。

 

 

 

 

 

 

「不幸中の幸いと言うべきでしょうか……。自動車との衝突の際、咄嗟に体を丸めたのでしょう。各所の擦り傷の他に大きな外傷はなく、骨折もありません。負傷に関しては、1か月程安静にしておけば完治するはずです。

 ただ……脳への衝撃が強かったせいか、昨晩から覚醒していません。最悪の場合、このまま昏睡状態にあることも考えるべきでしょう」

「……当然、すぐに目覚める可能性もあるんですよね?」

「勿論です。……しかし、軽い脳震盪であれば2、3時間で意識を取り戻すことが多いので……万が一を考えておくべきかと」

「そう……です、よね。すみません」

「謝られる必要はありません。どうかお気を強く持って……」

 

 

 

 後ろから聞こえる言葉は、殆ど耳に入ってこなかった。

 

 ただ、私の前には、目を覚まさない歩さんの顔だけがあって……。

 

 

 

 彼はもう……戻ってこないかもしれない。

 

 

 

 彼から名を呼ばれることも。

 頭を撫でられることも。

 トレーニングを付けてもらうことも。

 不器用なところを見ることも。

 ……一緒にいることも。

 

 もう、できないのかもしれない。

 

 

 

 その恐怖に直面して、私は……。

 

「トレー、ナー……」

 

 私はようやく、理解した。

 

 

 

 走るのは、好きだ。

 正確には、好きになった。

 

 私はお父さんに呪いのような言葉をかけられ、勝つことに……負けないことに執心していた。

 けれど歩さんのおかげで、広い世界と走ることの楽しさを知り、そこから抜け出すことができた。

 私はそれ以来、「やらなきゃいけないから」じゃなくて「やりたいこと」として、走りを楽しむことができるようになったんだ、と……。

 

 ……そう、思ってた。

 

 でも、違ったんだ。

 

 私が楽しんでいたのは……。

 

 彼の下で、走ること。

 彼と一緒に、勝つことだったんだ。

 

 

 

 けれど。

 それはもう、味わえないのかもしれない。

 

 

 

 その冷たい現実だけが、私の前に立ち塞がっていた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 腰に振動を感じ、惰性的に電話を取る。

 

『ホシノウィルムさん』

 

 スマホの向こうから聞こえて来た声の主は……昌さんか。

 彼女の声は、周囲のざわめきに掻き消されそうになりつつも、なんとか私の元まで届く。

 

「……はい」

 

 対する私の声は、掠れ、震えていた。

 

 それでようやく気づいたけど……私の体は凍り付くくらいに冷たくなってた。既に四肢から感覚は消え去り、喉の奥までカラカラに乾いている。

 歩さんのいる病室には暖房が付いているけど、そこまで効きが良くないのか、真冬の寒気は防ぎきれずに室内に漂っていた。

 

 私、どのくらいここで、歩さんを眺めてたんだろう。

 時間の感覚は完全に壊れて、自分がどれだけの時間ここにいたのか判然としない。

 来たのは朝だったはずだけど……今は……16時?

 

 ……7時間以上ここにいたんだ。

 何時間も歩さんを眺め続けて、何時間も……歩さんは、目覚めなかった。

 

 どこか現実味のないふわふわとした感覚の中に、昌さんの声が投げかけられる。

 

『兄の様子は』

「……変化ありません」

『そうですか……。わかりました、ありがとうございます。

 こちらでは、ミホノブルボンさんの朝日杯が終わりました。序盤から掛かってしまう展開になりましたが、それでもハナ差で勝利しました』

「そう……ですか。すみません、見に行けなくて」

『構いません、兄の様子を見ておいてほしいとお願いしたのは私ですから』

 

 ……そんなこと、言われたかな。

 覚えてない。……いや、覚えてないんじゃなくて、聞いてなかったのかもしれない。

 

 それに、朝日杯。

 そう……そうだ、今日はブルボンちゃんの朝日杯フューチュリティステークスの日だ。

 忘れてた。完全に頭から蒸発していた。

 最悪だ。大事な後輩の、初のG1レースなのに……見てあげられなかったなんて。

 

 軽くない自己嫌悪に圧し潰されそうになって、何を言っていいかわからず黙り込んでいると……。

 更に真剣味を増した昌さんの声が、耳に届いた。

 

『トレセンに帰ったら、ブルボンさんと併せて話があります。……よければ、トレーナー室の前に来ていただけますか』

 

 ……わかってる。

 

 私は普通のウマ娘じゃない。前世の記憶や人格を引き継いでいる転生ウマ娘だ。

 だから……だから、理性ではわかってるんだ。

 

 こんなことをしてる暇はないんだって。

 

 私はこの世界を生きる1人のウマ娘であると同時、多くの人に期待される「競走ウマ娘・ホシノウィルム」でもある。

 迫る有記念への出走と活躍を望まれ、それを叶えなければならない立場。

 

 本当は今すぐにでも、トレーニングに行かなきゃいけないんだ。

 だから……。

 

「……了解しました」

 

 抑え込め。

 

 自分の感情も、激情も、全てを。

 

 

 

 ……そうでもしないと、今にも暴れ出してしまいそうだから。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 日も落ち切り、身を刺す寒気が世界を包む頃。

 私は穏やかに呼吸を繰り返す歩さんに別れを告げ、トレセン学園に戻った。

 

 今にも目を覚ましそうなのに、歩さんは全く反応がない。

 軽く頬に触ったり、手を握ったり、語りかけたり、おでこに触ったりしても……あの困ったような苦笑が返って来ることは、なかった。

 

 事故が起きたのは昨日の夕方で……。

 それから既に、丸一日経ってるのに。

 

 植物状態とか、脳死とか、最悪な言葉が頭に浮かぶたびに必死にそれを掻き消す。

 そんなことない。そんなこと、あるはずがない。

 あり得ない。歩さんは絶対にそんなことにはならない。

 すぐにでも、それこそ明日にでも、「心配をかけたな」ってトレーナー室で私を出迎えてくれるはずだ。

 

 何度も何度もぐちゃぐちゃな頭の中を整理しようとして、その尽くに失敗しながら、フラフラとトレセンの敷地を歩く。

 慣れ切った道のり。この2年で何度も何度も通い続けた、私のトレーナーがいるはずの場所へ。

 

 そこには……。

 

 

 

「よかった、ホシノウィルムさん。お迎えに行こうと思っていたところでした」

「先輩……」

 

 やっぱり、私のトレーナーはいない。

 スーツ姿の妙齢の女性と、後輩のウマ娘。私を待っていた2人は、どことなく気遣わしげに私を見てくる。

 

 その視線でようやく、彼女たちにすごく心配をかけていたことに気付いた。

 

 ……駄目だ、切り替えろ。

 気遣ってくれる昌さんにも、後輩であるブルボンちゃんにも、これ以上心配をかけちゃ駄目だ。

 

 今は、感情は、切り捨てなければ。

 

「お待たせしました、昌さん、ブルボンちゃん」

 

 努めて、無表情を作る。

 

 いつかのように……この学園に来た時のように。

 感情を殺し、激情を封じ、私は私を偽った。

 

「改めて……ブルボンちゃん、今日はレースを見に行けなくてごめん」

「構いません。1人は残り、マスターの様子を見る方が良いという判断は合理的です。ウィルム先輩が謝罪する必要はありません」

「ありがとう。……それで、昌さん、お話ということでしたが」

 

 改めて、昌さんに向き直る。

 

 久々にちゃんと顔を見た気がするけど、彼女は……すごく疲れてるみたいだった。

 クマもすごいし、呼吸が不安定だし、顔色も蒼白。

 歩さんほど疲労を隠すのに長けてないのか、あるいはそれすらできないくらいに追い詰められてるのかは定かではないけど……。

 彼女は、ブルボンちゃんでなくともわかるほど、明らかに疲労困憊の様子だった。

 

 昨日は休んでたらしいけど、兄の交通事故の報で叩き起こされ、それからは歩さんの事故の処理やブルボンちゃんのレースと、寝る間もなくすべき事に追われていたんだろう。

 多分そこから寝てない……どころか、ずっと働きづめだったのかもしれない。

 

 ……昌さんは、立場上はサブトレーナー。

 もしも歩さんがトレーナー業を行えなくなった場合、代理としてそれをこなす必要がある。

 ブルボンちゃんをレース場に連れて行くのもそうだし、そこでURAの職員さんとやり取りをしたり、不測の事態に対応したりすることもそう。

 「サブトレーナー」としてインターンを受ける昌さんは、その辺りに関して多くの経験を持っていなかったんだろう。不慣れな業務にくたびれきっている様子が伺えた。

 

「えぇ。……2人に、大事なお話があります」

 

 しかし。

 彼女はどれだけ疲れ果てようとも、私たちを統率する者として、その瞳に正気を保っている。

 

 それは責任者としての矜持か……あるいは、歩さんが語っていたように「すべきことから逃げない」という真っすぐさ故か。

 

 ……昌さんは歩さんに似ていないと思ってたけど、こういうところは似ているかもしれない。

 2人とも、どっちもすごく真面目で頑張り屋だ。

 

 目の前にやることがあれば、それがどれだけ困難や苦痛を伴うとしても、必死にそれを片付けていく。

 理由を付けて逃げ出すことはないし、恐らく最初からそんな思考は持ち合わせてない。

 自身のすべきことを理解し、それを行うことに疑問を覚えない……2人が名家の出身であることも考えると、一種のノブレスオブリージュなのかもしれない。

 

 私は歩さんのそういうところが、心配であると同時……好きだった。

 私のために頑張ってくれるところが、私と一緒に頑張ってくれるところが、大好きで……。

 

 でも、それはもう……。

 

 ずぐりと、胸を冷たい杭が抉る。

 

 ……駄目だ。忘れなきゃ、駄目だ。

 今、歩さんのことを考えていても、何の意味もない。

 頭から離れないこの記憶を、まぶたの裏に焼き付いた顔を……今だけでも忘れなければ。

 

 軽く頭を振る私を……昌さんは、少しだけ目を伏せて見ていた。

 

 

 

「……この寒い廊下で話すのも、お2人に悪いですね。中に入りましょう」

「入ると言っても……鍵を預かって来ているんですか?」

 

 中央トレセンのトレーナー室は、厳重に施錠される決まりだ。

 なにせその中には、トップレベルの機密情報が山積みになっているから。

 トレーナーたちが分析した、ライバルウマ娘のデータや次走予定とその戦略、そして今後の仕事の予定。

 それらはまさしく一攫千金の情報だ。ただ1つでも盗み出せば、かなりの大金で売り飛ばせることは間違いないだろう。

 

 だからこそ、トレーナー室の鍵はそこを管理するトレーナーただ1人に渡され、それ以外の誰にもドアを開けることはできないようになっている。

 それはサブトレーナー扱いになっている昌さんも例外ではなく……堀野歩さんのトレーナー室を、堀野昌さんが開けることはできないはずなんだけど……。

 

 戸惑う私の前で、昌さんは胸元から1本の鍵を取り出した。

 何度か見た、歩さんの手にあった鍵とよく似てるけど……よく見れば、別物のように見えた。

 

「それは……」

「この部屋のスペアキー。……いざという時のために、兄に渡されていたものです」

「いざという時、って……」

「兄は、こういう状態になることも……想像はしていなかったでしょうが、最悪の事態として想定はしていたんです。

 私がトレセンに来た時、兄は最初に『自分に万が一のことがあった時、この鍵で入って、デスクの上から3番目の引き出しを開くように』と言って来ました。

 私が来る前は、ナイスネイチャのトレーナーさんに渡していたそうですが……とにかく、最悪のケースに陥っても対応できるよう、兄は常に備えていたということです」

 

 そう言いながら、昌さんは鍵を開け、扉を開いた。

 

 そこにあったのは、歩さんのいる、いつもの温かいトレーナー室ではなく……。

 誰も座っていない寂し気なデスクが目立つ、冷たい……見慣れない空間。

 

 昌さんは室内に入り、エアコンのスイッチを入れながら、いつも歩さんが座っていたデスクに向かう。

 私とブルボンちゃんは、少しだけ顔を合わせた後、その後に続いた。

 

 

 

 部屋に入ると、前を歩く背中から言葉が降って来る。

 

「先に宣言しておきますが、私は決して兄の代わりになろうとも、なれるとも思いません。

 私はあくまで、兄の一時的な代理人。兄が不在の間に可能な限り穴を埋めるだけの、あなたたちのサブトレーナーとして行動するつもりです」

 

 それは多分、責任を負いたくないとか過度な仕事をしたくないとか、そういう意味ではなく……。

 あなたたちのトレーナーの座を奪ったりはしないという、宣言だったんだろう。

 

 私たちウマ娘は、自分の契約トレーナーに少なからず親愛の感情を抱く。

 それは敬愛であることもあれば友情であることもあり、執着であることもあれば……私のように、恋愛感情であることもある。

 だからこそ、「自分のトレーナーはその人しか認めない!」と思うようなケースも、決して少なくはないわけだ。

 

 そして、トレーナーが不在になった以上、サブトレーナーが繰り上げでトレーナーになる可能性はある。

 そこに関して、「あなたたちの意にそぐわずトレーナーの座を奪う気はない」と先に宣言し、コミュニケーションエラーを起こさないよう先回りしてくれたんだろう。

 

 ……まぁ、昌さんにしては言葉足らずで、誤解を招きかねない発言だと思うけど。

 もはやきちんと言葉を繕うのも難しいくらいに疲れてるのかな。

 

 

 

 私たちが所在なく見る中で、昌さんは歩さんのデスクの引き出しを開ける。

 そして恐らく中身を見てのことだろう、少しだけ動きを止めた後、ため息1つ、その中の物を机の上に並べていく。

 

 どかどかと取り出されたのは……ファイリングされた書類の束だ。それも10枚や20枚ではなく、何百枚という単位の。

 昌さんはそれをそのまま机に載せた後、最後に引き出しの中から手帳を拾い上げ、その中を覗いて……小さく、私たちがウマ娘でなければ聞き逃してしまうくらいの声で呟いた。

 

「2人の今の実力、これから1か月のトレーニングスケジュールの予定、次走での作戦の詳細情報、注意すべきライバルに……この後しばらくの間の仕事、振付師さんやダンストレーナーさん、業者の連絡先と留意すべき点……!?

 あっのバ鹿兄さん……。こんなの逐次、他人に伝わるように纏めたりしてたら、そりゃ忙しくもなるでしょうが……」

 

 昌さんは呆れたように……いや、少しばかり苛立ったような声音で呟く。

 そしてはっとしたように1度私たちを見て、1つ咳払いした後、改めて言った。

 

「ん、ん。話を戻します。

 お2人に話したいことというのは、他でもありません。……この先どうするか、です」

 

 昌さんは歩さんのデスクに座ることはなく、その横に添えられた彼女のデスクに書類を運びながら、静かにそう語った。

 

 ……この先、どうするか。

 

 最も考えたくはなかった、けれど今、最優先で考えるべきことだ。

 

「医師の話によると、兄がこの後いつ目を覚ますかは不明です。もしかしたら明日にでも目を覚ますかもしれませんし、逆に言えば……一生目を覚まさない可能性もある」

 

 努めて冷静に保たれた声に、私は心臓を鷲掴みにされた気がした。

 

 一生、目を覚まさない可能性が、ある。

 

 勿論、あくまで可能性がある、ってだけだ。

 確実にそうなるわけじゃない。むしろそうならない可能性の方が高いんだろう。

 でも、でも……もし、そうなったら。

 

 それが……すごく、怖い。

 

 ……いや、駄目、駄目だってば。

 この思考も切り離さないと。今は昌さんの話の最中なんだから。

 

「当然ながら、意識不明の状態であなたたちのトレーナーをすることはできません。その上、あなたたちは本格化中の競走ウマ娘、1秒1瞬が惜しい状態です。

 である以上、他のトレーナーを探すのも選択肢に入るかと思いますが……」

 

 そこまで聞いて、話を遮るように、ブルボンちゃんが1歩前に出る。

 

「私のトレーナーは、マスターをおいて他にはいません。他のトレーナーを探すことは在り得ません」

 

 キッパリと、何の躊躇もなく、彼女は断言した。

 

「なるほど。その場合、兄が復帰するまでの間、可能な限り私がサブトレーナーとしてあなたを支えることになりますが……私は兄ではありません。あと1か月は兄のプランでやっていけるとはいえ、恐らくあなたを支えることに関しても力不足になると思いますが……それでも構いませんか?」

「マスターが認めたサブトレーナーを否定するつもりはありません。どうかよろしくお願いします」

「わかりました。未熟な身ですが、全力で支えさせていただきます」

 

 2人はお互いに頭を下げて……すごくスムーズに、話を終えた。

 

 ブルボンちゃんは、歩さんから離れる気はないのだという。

 あるいは、彼女のそれまでのことを考えれば、それも当然の結論だったのかもしれない。

 歩さんのデータと統計に基づく理論的なトレーニングプランはブルボンちゃんの主義に合致するものだろうし、何より彼女の夢を全力で応援してくれるトレーナーはそういない。

 その2つを同時に持ち合わせる、彼女の「マスター」たる人間は……もしかしたら、今のトレセン学園には歩さんしかいないのかもしれない。

 

 ……でも、それは「歩さんがその内目覚める」っていう前提ありきの話だ。

 彼がもしも……ずっと目を覚まさなかったら、私たちはトレーナーなしでやっていかなきゃいけない。

 私はまだいいとしても、三冠を絶対目標とするブルボンちゃんにとって、それは致命的と言っていい程の大きなディスアドバンテージであるはずだ。

 

 もう歩さんは目を覚まさないんじゃないかっていう可能性が……彼女は、怖くはないんだろうか。

 私がそれを聞こうとするより早く……。

 

「でしたら、ミホノブルボンさん。今日は寮でしっかりと休み、レースの疲労を取ってください」

「了解しました。失礼します」

 

 ブルボンちゃんはペコリと頭を下げて、トレーナー室を立ち去ってしまった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 トレーナー室に取り残されたのは、私と昌さんの2人。

 取り敢えず私は、自分の考えを伝えようと口を開きかけ……。

 

「ホシノウィルムさん」

 

 昌さんの言葉に、その先を封じられた。

 

 見れば昌さんは、書類の束から視線を上げ、まっすぐにこちらを見つめている。

 どことなく、先ほどとまでは違うような視線の色。疲労もかさんでる上複雑に感情の絡み合ったその感情を察するのは、少しばかり難しい。

 

 彼女は私を見据えたまま、ゆっくりと口を開き……。

 

「お願いがあります」

 

 そう、言った。

 

「お願い?」

「はい。厚顔無恥なことこの上ない願いになりますが、聞いていただけますか?」

「え、っと、はい」

 

 そもそも何のことか知らなければ聞きようがない。

 私は視線で彼女に話の続きを促した。

 

 昌さんはコクリと頷き……。

 

「どうか、兄が目を覚ますまで、このまま契約を続行していただけませんか」

 

 そう言ってこちらに、深く深く頭を下げてきた。

 

 ……どういうこと?

 ブルボンちゃんには選択肢を提示するのに、なんで私にはお願いしてくるの?

 

 困惑する私に対し、昌さんは部屋の隅に据えられているソファに座るよう手で促した。

 それに従って、私は自分のデスクに座る昌さんに視線を向ける。

 

 デスクの上で指を組んだ昌さんは、少しだけ何かを考えるような間を開けて、話し出した。

 

「……私が、『あなたは兄にとって「特別な存在」である』と言ったことは覚えていますか?」

「はい」

 

 確か、ジャパンカップの少し前、歩さんと昌さんの話を聞いてしまった後のお話で言われたことだ。

 ずっと他人のため、自分の意思なく生きてきたという歩さんから、自身の欲望を引き出した私は……あの人にとって特別な存在である、と。

 

「だから……ですか? 私が特別だから、トレーナーにとって大事だから?」

「いいえ、大事だからというわけではありません。『特別だから』です」

 

 昌さんは苦虫を嚙み潰したような顔で、微妙なニュアンスの違いを指摘する。

 

 ……どういう意味? 大事じゃなくて「特別」? そこにどんな違いがあるの?

 

 思わず眉をひそめる私を見て、昌さんは「やはり、わかっていないのですね」と目を伏せる。

 

 わかってない? 何を……。

 

「あなたは……唯一、兄が『見ている』存在なんです」

「見ている……?」

 

 理解できない。唯一「見ている」って……つまり、私以外のものは見てないってこと?

 抽象的な表現? 何かしら含むものがある……それそのものじゃなく、何かを重ねて見ている、とか?

 

「すみません、意味が理解できないのですが……」

「でしょうね。あなたの疑問は当然のもの。

 ですが、それを説明するためには……まずは、兄の過去について話さなければいけないでしょうね」

「歩さんの、過去?」

 

 歩さんは昔、自分の過去について語ってくれたことがある。

 自分はトレーナーになるべくして努力してきた、それだけの存在だと。

 殊更特殊な出来事もなく、普通の人生を送って来たのだと。

 

 人生の大半を自己研鑽に費やすのが「普通」なのかは置いておき、少なくとも彼の自意識はそうなってしまっている。

 あるいは、そう……歪んでいるんだ。

 

 トレーナーの価値観には、少なからぬ歪がある。

 自分に対する評価基準、肯定感が非常に低い。何かあったとしても、それを大事とは捉えない。

 例えば事件に巻き込まれても、あるいは……もしかすれば、殺されるようなことになっても、「そんなこともあったな」くらいの認識しか持たない。あるいは、持てない。

 

 つまるところ、信頼できない語り手というか……。

 歩さんの言葉はその大半が正しいけど、自分に関する言葉が正しいとは言い切れないんだ。

 

 だからこそ。

 他者の視点を通した、歩さんの話。

 あるいはそれこそが、本当に正しい情報になるのかもしれない。

 

「とても愉快な話ではありませんし、少しばかり長くなってしまいますが……『特別』であるあなたには、聞いていただきたいと思います。構いませんか?」

「は、はい……」

 

 だから私は、ソファの上で居住まいを正した。

 もっと、歩さんのことを知るために……。

 そして、昌さんの本当の意思を知るために。

 

 ずっと昔、まだ私が生まれてすらいないかもしれない時代の話に、耳を傾ける。

 

「まず1つ、先に謝っておくことがあります」

 

 昌さんは目を伏せ、どこか痛みをこらえるような顔で……。

 

「『兄は他人を救うことに救いを見出す人間』だと、私はあなたに語りましたが……すみません、あれは嘘です。

 兄は……どうしようもなく救われない、救えない人間なんです」

 

 そう、語り始めた。

 

 

 







 次回は3、4日後。別視点で、嫌悪の理由と「前世」の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました。


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明らかな不明

 別視点回です。





 

 

 

 堀野昌(わたし)は昔から、2人の兄が嫌いだった。

 

 堀野の家の、長男と次男。

 それぞれに違った意味でイカれてる、兄たちが。

 

 ……昔は、違った。

 2人の兄が大好きだったし、何よりも誰よりも誇りだった。

 

 誰よりも優しくて、何の見返りもなく手を差し伸べてくれる、上の兄さん。

 「助けて」とお願いすればどんなことでもやってくれる、下の兄さん。

 

 幼く頑是ない私からすれば、2人は魔法使いのようなものだった。

 だってそうでしょ? 言えば何でもやってくれるし、何でも買ってくれた。落ち込んでる時は慰めてくれたし、嬉しい時は一緒に喜んでくれた。

 

 あらゆる願いを叶えてくれた……とまでは言えないけど、それでも全力を尽くしてくれたんだもの。

 結果として、不器用で人との接し方というものを知らない父なんかより、私は2人の兄の方に懐いていたと思う。

 

 

 

 ……ある程度成長して、現実が見えてくるまでは。

 

 

 

 上の兄にとって、誰かを助けることは当然のことだった。

 私に対してもそうだったように、彼は誰にでも同じような態度を取っている。どんな人にだって同じように手を差し伸べ、同じように協力しているんだ。

 

 つまり私は、上の兄にとって……次男のように、特別視されているわけではない。

 彼にとって私は、クラスメイトや知り合いなどと……いや、言ってしまえば、その辺りですれ違った赤の他人と、なんら変わりはないんだ。

 

 家族と、友人と、他人。その間に、一切差を付けてない。誰に対してでも平等に博愛を注ぐ。

 全てを最上級としている、って言えば聞こえはいいけど、私はどうにもそれが気に入らなかった。

 家族なのに、兄妹なのに、特別扱いしてくれないのが、寂しいから……かもしれない。

 

 ……とはいえ、上の兄の方は、まだいいんだ。

 アレもアレでイカれてるけど……それでも、人として最低限の倫理と正常性は持っている。

 嫌いは嫌いだけど、それはあくまで私個人の価値観に基づく理論のない嫌悪。それなら抑え込むなり適切な距離感を保つなり、あるいは別の形に昇華するなりで対処もできるんだから。

 

 

 

 でも、次男のことは……兄さんのことは、上の兄と違って、決して受け入れられない。

 

 「こうしてほしい」と言われれば、自分の意思に関係なく、ただそのためだけに時間を費やす。

 「助けてほしい」と言われれば、手段を選ばずあらゆる方法で、その人を助けようとする。

 

 それは、表面上だけを浚えば、あるいは善性と呼べたかもしれない。

 誰かの願いに応えること、誰かを助けようとすること。それは一面において、確かに「優しさ」と呼べるものだから。

 

 ……ただし、行き過ぎなければ、だけど。

 

 

 

 兄さんは、上の兄とさえ比べられないくらい致命的に、生物として壊れている。

 

 人の感情を察することができない……もっと言えば、人らしい情緒を忘れてしまっているのもそう。

 強迫的な観念を感じるほどに、誰かを助けようとするところもそう。

 

 そして……人間が持つべき最大の正常性の1つ。

 救われたい、助けられたい、誰かに愛されたいという、持って当然の欲望が、どうしようもなく欠けているのも、そう。

 

 どうしようもないくらいに、兄さんは……「欠落」している。

 

 

 

 ……けれど、私が兄さんを嫌っている所以は、そこではない。

 

 兄さんは……私を見ていないんだ。

 

 上の兄のように、赤の他人と同じ対応をするわけではない。

 兄さんは私に対し、家族として、兄としてきちんと振舞っている。

 ……あくまで、表面上は。

 

 けれど、何年も家族として傍にいれば、誰だってその違和感に気付くだろう。

 その実、あの兄は……。

 

 私を通して、ずっとずっと、遠くの誰かを見ている。

 

 

 

 話す時も、笑う時も、遊ぶ時も、勉強の時も、食事の時も、居間でも、学校でも、自室でも。

 あの人は決して、一度たりとも、私のことを見てくれなかった。

 

 最初の頃は、私が兄さんの視界にも入れてないからだと思った。

 

 2人の兄は、どちらもとんでもない傑物だ。学校のテストで満点以外を取ったことはほとんどないし、身体能力も図抜けており、成績は常に最高の値を叩き出していた。

 その上でなお努力も怠らず、特に次男の方は自己研鑽していない瞬間を見つける方が難しいくらい。

 

 対して私は、勉強も運動も平凡の一言。分家の奴らには出涸らしだの落ちこぼれだのと散々陰口を叩かれたくらいだ。

 

 言っておくけど、私に殊更才能がなかったわけじゃない。

 むしろ大体のことはこなせる程度には要領の良い方だと思う。ただ、兄さんを含む上の2人が飛びぬけていただけ。

 

 長男は、才能も多分にある上、十全を越えた努力ができる完璧超人。

 次男は、才能こそないけど、尋常じゃないくらいの努力家。

 ……対して私は、才能と努力、そのどちらも程々に過ぎない凡人。

 

 だから、兄さんは私を見ていないのか。

 私が出涸らしで、落ちこぼれで、落伍者で、役立たずだから?

 そう思って奥歯を噛みしめ、遮二無二努力を続けて……。

 

 最終的に私は、国内最高峰の難易度と言われるトレーナー試験に、2年で合格するくらいにはなった。

 ……まぁ、兄さんは一発で合格していたんだけど。

 

 

 

 けれど、それだけ頑張っても……。

 結局、兄さんの濁った瞳に、私が映ることはなかった。

 

 それが、気に入らない。

 心の底から、恨めしくて、憎くて……嫌いだ。

 

 

 

 私は、家族なのに。

 

 兄さんの、ただ1人の妹なのに。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そんな兄さんの異常性に気付いたのは、中等部の頃だった。

 ……いや、気付きかけていたのは、と言うべきかな。

 

 私はそれについて、確たる証拠を持っていなかった。

 兄さんは、どことなくおかしい。その視線にどことなく違和感がある。

 幼い私は外に気を配り切れておらず、その程度の認識でしかなかった。

 

 そんな中、私が徐々に兄たちとの才能や実力の格差に気付き、関係がぎくしゃくし始めていたあたりの時期に……。

 

 それは、起こった。

 

 

 

 堀野はトレーナーの名家だ。

 父さんも含め、これまでにも何度も名トレーナーと呼ばれる逸材を世に送り出してきた。

 

 時代に即してその形を変え、子に業を強いることはなくなったとはいえ、それでもやはり子供へのトレーナーを目指す教育は徹底される。

 上の兄さんのように「トレーナーにはならない」と明確に宣言すれば流石に免除されるけど……確実にトレーナーになるであろう兄さんや、将来に明確なビジョンのない私なんかはほぼ強制参加だ。

 

 その内容は、堀野のこれまでの歴史を教わったり、ウマ娘のトレーニングや書類仕事について軽く習ったり……。

 あるいは、日曜日になるとテレビを通して、時には現地にまで飛んで、レースを観戦したりすること。

 

 その日は、そういう日曜日の内の1つ。

 なんでもない、昼下がりの午後になる……はずだった。

 

 

 

 結論から言えば。

 その日の午後、父さんと兄さん、そして私が見守るテレビの向こう側で……。

 レースの最中、ウマ娘が事故を起こしたんだ。

 

 うろ覚えだけど、比較的小柄な、栗毛の差しウマ娘だったと思う。

 彼女は第三コーナーの最中に前に倒れ込み、勢いそのまま痛々しくターフの上を転がって……そのまま、動きを止めた。

 カメラはバ群を追ったのですぐにフレームアウトしたけど……。

 打ち所が悪かったのか、かなりの大怪我になってしまったらしく、カメラの向こうのレース場が騒然としていたのを覚えている。

 

 事件の原因は……事後の調査によると、過度のトレーニングによる負担が抜けないままレースに出走したから、だったか。

 その後、彼女は手術するところまで行ったんだけど、結局そのレースを最後に現役を引退したって話だった。

 ……後遺症と脚の衰えもあって、本番のレースには復帰できなかったんだろう。

 

 

 

 テレビの向こうの出来事とはいえ、目の前で起こった悲惨な事件に、見ていた全員の顔が歪んだ。

 父も長男も母も……そして勿論、兄さんも。

 

「……兄さん?」

 

 けれど、その中でも、兄さんの顔色は……。

 不愉快とか可哀そうだとか、そういう次元を飛び越えたもので。

 

 例えるなら……そう、まさしく。

 今、目の前で、人が殺されたとでも言うような。

 

「…………、ごめんなさい、中座します」

 

 兄さんはそう言って立ち上がり、どこかへと歩き去ってしまった。

 それを見て、私は……。

 

「……変なの」

 

 そう呟くだけで、特に止めることもなく、兄さんの後ろ姿を見送った。

 

 

 

 

 

 

 そう。

 

 もしそこで終われば、私は今も、何も知らないままだった。

 私は兄の隠していたもの……「前世の記憶」を、かつて兄に何があったかを、そしてそれによって起きた不可逆の変化を……知ることはなかっただろう。

 

 ……けれど、運命はそう回らなかった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 私はその日の深夜、不意に目を覚ました。

 寝ぼけた意識の中で感じたのは、ちょっとした喉の渇き。

 ……こんなことで起こされるのは、ちょっとばかり不愉快だけど……仕方ないか。

 

「ん……む」

 

 寝ぼけたまま、転がり落ちるようにベッドから這い出る。

 この時期はベッドの中の温かさが恋しくなるけど、やはりお腹の減りとか喉の渇きには勝てない。 

 こういうのは我慢していても眠れなくなるだけだ。さっさと食堂に飲みに行った方がいい。

 

 そう思い、目をこすりながら部屋を出て、階段を降りようとして……。

 

 ふと、聞こえてきた声に足を止めた。

 

 

 

 堀野の邸宅は、森の中にある。

 車が通ることは滅多になく、当然ながらうるさい隣人もいない。

 夏場になれば微かに虫がざわめきが聞こえるけど、冬の夜になると、この家の中は静かで音と動きのない、静謐な世界に変わる。

 

 子供の頃はこの静けさとそこに潜むモノが恐ろしくて、兄たちにトイレに一緒に付いて来てもらったこともあったけど……それも今は昔の話。

 今はそういうモノとの付き合い方も学んで、そこまで大きな脅威ではなくなった。

 

 ……けれど。

 

「…………」

 

 問題は、そういうモノよりも恐ろしい、人間が入り込んでいる可能性だ。

 

 当然ながら、名家である堀野の邸宅には、そこそこ価値のあるものから膨大な価値があるものまで、たくさんの情報や家財が詰まっている。

 その上隣人もいないから見つかるリスクも低い。盗人からすれば絶好の狩場だろう。年に1人や2人、入ってもおかしい話ではない。

 

「……ふぅ」

 

 幸い、私は護身術を習っている。

 実践は初めてだけど、相手が単体で、なおかつ得物がある状態なら……制圧は難しくないはずだ。

 

 緊張で眠気は吹き飛んだ。

 私は足音を立てないよう慎重に部屋に戻り、警棒を手にして、音の発生源を探り……。

 

 少しだけ開いていた、兄さんの部屋のドアから、中を覗き込んで。

 

「……え?」

 

 そこに、見た。

 

 

 

 ……兄さんが、血の混ざった吐しゃ物の中に倒れている姿を。

 

 

 

「これ、は……?」

 

 念のため警戒を怠らず、けれど急いで部屋の隅々まで確認し、不審者がいないことを確認。

 ……ふぅ、取り敢えず一安心。

 

 いや、一安心してる暇はない!

 非常事態に混乱する顔を軽く振って、改めて兄さんに駆け寄る。

 

「兄さん……?」

 

 声をかけると、力なく倒れていた体が、ピクリと反応する。

 い、生きている……よね。反射でもないだろうし、意識もあると思っていいはず。

 

 内心で胸を撫で下ろしながら、私は服が汚れるのも気にならず、兄さんを抱き起こす。

 

「ど、どうしたの兄さん、これ……」

 

 触れればすぐに気付く。

 ……体温が、低い。

 まるで生きることを放棄しているかのように、指先に触れた兄さんの体は、冷たかった。

 

 それに、兄さんの口元に窺える、掠れた血の跡。

 周りの吐しゃ物……いや、その殆どが固形物のない胃液か。

 これだけ胃液が吐かれてるってことは、つまり何度も何度も嘔吐を繰り返したってことで、それで食道が傷ついて吐血を……?

 

 相当に気分を害したか、あるいは頭でも打ったか……。

 

 ……いや。

 それだけじゃない。

 なんで……兄さんの指先に、他よりも濃く、血が付いてる?

 

 待て、違う、落ち着け私! 今は原因よりも現状への対処を……!

 

「兄さん、平気? 気分は? 痛いところはある? 救急車呼ぶから……!」

「昌」

 

 慌ててスマホを取り出そうとした私の行動を、兄の掠れた声と、冷たい手が止めた。

 見れば、兄は……さっきまで倒れ込んでいたのが嘘だったかのように、平然とこっちを見ていた。

 

 そうして、酷く冷たい体が、私の手の中から起き上がり……逃げていく。

 別に、それ自体はいい。自分の意思で動けるのならそれに越したことはない。

 

 けど……その顔は何?

 

 顔面蒼白で、血の気なんて全然なくて……。

 そのくせ、何かを誤魔化すような、作り笑いを浮かべて。

 

「ごめ、ん。なんでも、ないよ。少し気分が悪かっただけ。心配かけたね」

 

 まるで子供をあやすような優し気な声音に……。

 

 思わず、カッとした。

 

「ッ、ふざけないで! そんな状態で大丈夫なわけないでしょ!!

 なに、私が出来損ないで頼りないから、何も話せないってこと!?」

 

 

 

 ……今思えば、なんて情けない。

 少なからず心を乱してる人に、感情だけで怒鳴り散らすなんて。

 

 でも、言い訳するようだけど……。

 正直、私も限界だったんだ。

 

 散々兄たちと比べられて……あるいは自分で比べて、自己嫌悪に浸って。

 認められない状況に反発し、意味もなく反抗したりして環境に甘え、受け入れられることで甘やかされている現状を自覚し、それで尚更自分が認められていないのではないかと思わされ、そんな態度を取っている自分に腹が立ち、けれどそういう感情に振り回されることは止められず……。

 

 結局、その時の私は……いや、今の私も、上の兄程に成熟した精神性を持ってはいないんだ。

 

 私は、上の兄のような聖人じゃないし、下の兄のような狂人でもない。

 ムカついたことがあれば当たり散らしてしまうような、未だに感情の抑えが利かない、愚かな人間でしかない。

 

 

 

 ……けれど。

 あるいは、だから、なのか。

 

 そうして当たり散らす私に対して、兄は少しだけぼんやりした目を向けた後……。

 力なく笑って、言ってくれた。

 

「そうは言っても、ね。

 昌も、俺に前世の記憶がある、なんて言っても信じないだろ?」

 

 唐突に思える台詞に、思わず戸惑う。

 

 前世の記憶がある……いや、昌「も」ってことは。

 

「……何、誰かにそんな話したの?」

「……父さんと兄さんには、信じてもらえなかったよ」

 

 思わず、眉をひそめてしまう。

 

 そりゃ、信じがたい話ではあるでしょ。

 前世の記憶とか、そんなのオカルトの領域だ。そう言われてすぐに信じる人の方が心配になるくらい。

 その上、話した相手が頑固でコミュ障の父さんと、心理面に知識のある兄。

 それじゃ、心の病か何かと思われたって仕方ない。

 

 ……でも。

 私は違う。

 

 これでも頭は柔らかい方だって自負はあるし、不可思議なモノに出くわしたこともなくはない。

 そういうモノがこの世界にあるんだから、前世なんてモノがあるとしても、そこまで強い違和感があるわけではない。

 

 

 

 それに……あまり褒められた話ではないけど。

 久しく感じることのなかった、優越感があった。

 

 こうまで弱った兄さんは初めて見た。

 何が兄さんをここまで追い詰めたかは知らない。

 その「前世の記憶」ってヤツを信じてもらえなかったことも、あるいはその一因なのかもしれないけど、それはともかく。

 

 確かなことは、今の兄さんは精神的にとんでもなく参っているってことで。

 あの、いつも「なんでもない」って顔をしてる兄さんが、余裕のある表情を崩さない兄さんが……今は、今だけは、弱者の立場に立っている。

 

 我ながら性格が悪いとは思うけど……少しだけ気分が良い。

 

 ……そっか。

 信じてもらえなかったんだ。

 他の誰も、信じてくれなかったんだ。

 

 今、兄さんは、私しか頼れないんだ。

 

 それが、少しだけ……嬉しかった。

 

 

 

「……まぁ、兄さんが嘘を吐く理由はないし。私くらいは信じてあげる」

 

 私がそう言うと、兄さんは少しばかり驚いたような表情を浮かべた後……。

 

 ふと、目を下に向けた。

 

「…………すっぱい匂いがする」

「…………そりゃ、そんだけ吐けばそうなるでしょ」

 

 部屋も私たちも、兄さんのゲロ塗れだったし、すっごい匂いだったし……。

 私たちは部屋の掃除をしてからお互いお風呂に入った後、改めて話をすることになった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 諸々の片付けを済ませた後、深夜、兄さんの自室にて。

 私は改めて、兄さんに事情を尋ねる。

 

 何故酷く嘔吐していたのか。何故指先に血が付いていたのか。

 ……他にも聞きたいことはあるけど、取り敢えずはこの2点だ。

 

 私が椅子の上からそれらを尋ねると、ベッドに座った兄さんは、苦い顔で頬を掻く。

 

「何度も言うけど、面白い話にはならないよ」

「何度も言うけど、面白い話なんて期待してないから。私明日は学校だし、なんであんなことになってたか、早く教えてくれる?」

 

 もう何度も繰り返した会話に、兄さんはようやく諦めてくれたらしい。

 ため息1つ、指を組んで話し始めた。

 

 

 

 曰く。

 

 兄さんには、前世の記憶があるのだという。

 より正確に言えば、前世で死んだ時点の記憶とこの世界で生まれた時の記憶が連結し、連続して続いている、と言う感じだろうか。

 人生を1本の紐だとするなら、まるでその端と端を結び合わせたように、兄の記憶は「前世」から継続しているらしい。

 

 更には、その人格までもが前世から地続きなのだという。

 その歳にしては随分と、それこそあの上の兄よりも大人っぽいと思ってたけど、どうやらそれが真相だったらしい。

 もしかして、あっちも……いや、アレは種も仕掛けもない天然モノか。前世の記憶も信じてもらえなかったって言ってたし。

 

 

 

 つまるところ、この世界には輪廻転生が実在し、兄さんは前世の記憶と人格を忘却することもなく引き継いでしまったらしい。

 

 ……その話は、当然と言うか、すごく信じ難いものだった。

 仮に兄さんではない誰かから言われたり、もう少し兄さんの声に力があれば、私はこれを一笑に付してたかもしれない。

 

 でも、今の兄さんには……嘘を吐けるほどの余裕も感じない。

 

 それに、考えてみれば腑に落ちる部分も多いんだ。

 やけに潤沢な知識、子供らしくない落ち着き、そして何よりも「アプリ転生」なる不可思議な力。

 それらをピースとして当てはめていくと、確かにこれまで疑問だった点の大部分が解消される……ような気がする。

 

 とはいえ、常識的に考えれば信じ難い話だ。ホラ話である可能性の方がずっと高いだろう。

 

 けど……まぁ、そういうこともあるのかもしれない。

 

 誰にも言ったことはないけど、昔から私は「見えないはずのモノ」が見えてしまうクチだ。

 まぁ見えるって言っても、そんなに大したことじゃなくて、本当に時々見えちゃうってだけなんだけど。

 

 だから、この世界にオカルティックなものが実在するっていうのは、既に知ってた。

 

 兄さんの話を疑うことは、誰にだってできるだろう。

 でも、多分……この話を信じることができる人間は、少ない。

 それこそ、「そういうモノ」の実在を知る、私くらいで。

 

 だから……私はひとまず、兄の言葉を信じてみることにした。

 

 

 

 しかし、なんで今、そんな話をするんだろう。どこかで繋がってるんだろうか。

 

 私が聞いているのは、深夜にここまで嘔吐をしていた理由だ。

 頭をぶつけたとかの物理的要因だったら念のため病院に連れて行かなきゃいけないし、精神的なものだとすれば父さんにカウンセラーか何かを付けてもらった方が良い。

 兄さんはその辺りの自己管理がてきとうすぎるし、周りにいる私たちが気を付けなきゃいけない。

 

 それに……指先に付いていた血の理由も、だ。

 それが衝動的なものであればいいけど、もしも習慣付いたものなら、妹として、家族として、止めなきゃいけないから。

 

 だから、改めて兄さんにその話を促すと……彼は珍しく、少しだけ顔を苦々しく歪めた。

 そしてその口を、すごく重そうに開く。

 

「そうだね、何と言うべきか……うん、そう、許せなかったんだ」

「許せなかった……何を?」

「忘れてしまっていたことを」

 

 そう言って、兄さんは軽く頭を抱えた。

 その瞳は……今まで見たことがない程に、濁ってしまっていた。

 

 許せなかった。誰を? 自分か? だとすれば……自己嫌悪? それで自傷したってこと?

 

「それを想うと……吐き気がすごくてね。それでちょっと錯乱してしまった、って感じ」

 

 吐き気がすごくて、錯乱……?

 聞くところによると、吐き気を感じた時には、いっそ吐き出した方がずっと楽になるらしい。

 だから、喉に指を入れて吐いた? ……食道が傷付いて、血が混ざるくらいに?

 

 だとすれば、その吐き気って、どれだけ……。

 

「……まぁ、今は一旦、話を聞く。それで、何を忘れてたって?」

「それは……」

 

 その時、急に兄さんが口を手で押さえた。

 

「……っ」

「もしかしてまた吐き気? 袋持ってきてるけど」

「…………、いや、大丈夫」

「大丈夫って……ちょっと、もしかして飲み込んだの?」

「慣れてるからね。……勉強のために徹夜してると、吐き気なんて日常茶飯事だから

 ……まぁ、さっきは全然我慢が効いてなかったんだけどさ」

 

 兄さんは仕方なさそうに笑って、コップに汲んできた水を飲んだ。

 

 慣れてるって、そんな、普段から体調を崩すくらい無茶をして……。

 

 

 

 …………、そっか。

 やっぱり足りてなかったんだ、私の努力。

 

 これでも、頑張って来たつもりだった。

 空いた時間には教科書を開いたり、筋トレしてみたりして、私なりに兄さんを追いかけようと頑張って来たつもりだったんだ。

 

 けど、足りてなかった。

 兄さんは、普段からそんなに頑張ってたんだ。

 私の何倍も、努力し続けてるんだ。

 

 ……悔しいけど、そりゃあ、追い付けないはずだよね。

 

 なんだか一周回って、変に納得した気分になった。

 

 私には、多分「努力の素質」がない。

 兄さんたちのように頑張ろうとしても、頭の中の冷静な部分が「そんなに頑張る必要あるの?」と問いかけてくる。

 

 「やらなきゃいけないことはやらなきゃいけない」。そう割り切ることも、あるいは思考停止することも、平凡な私には難しい。

 何をどうしたって、「私なりの努力」では……完璧な上の兄にも、狂っている下の兄にも、勝てはしないんだろう。

 

 ……それでも、努力をやめる理由にはならないのが辛いところだけども。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 兄さんの吐き気は、しばらくして落ち着いた。

 

 上の兄と違って心理的な方面には詳しくないけど、思い出そうとするだけでここまで急激な吐き気に襲われるっていうのは多分、相当に強い拒絶反応だと思う。

 これ以上話を聞き出して、大丈夫なんだろうか。

 

「……その、話せる?」

「ん……多分大丈夫。忘れる……前に、誰かに聞いてほしいし」

 

 兄さんは一度言葉に詰まり、顔をしかめながらもそう言った。

 先ほどよりも軽そうだけど、やはり吐き気はあるらしい。それでも話したいっていうんなら……あるいは、その覚悟を汲むべきか。

 

 しかし……忘れる前に、聞いてほしい?

 さっきは「忘れてしまっていたことが許せない」って言ってたし……まるで、その「理由」についてさっきまで忘れていて、そしてすぐに忘れてしまうかのような言い方に聞こえた。

 

 思わず眉間にしわが寄る。

 もし、その推論が正しければ……どう考えても、健全な状態とは思えない。

 

 そうして、真剣に聞こうと居住まいを正す私の前で……。

 兄さんは膝に手を置き、俯いて、まるで吐き出すかのように語り出す。

 

 兄さんになる前の、私の知らない誰かに起こった、1つの小さな悲劇を。

 

 

 

「これは俺が、小学生の頃の話。

 

 俺は、1人の女の子を……見殺しに、したんだ」

 

 

 







 次回は3、4日後。別視点で、壊れてしまった日の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました。


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歩みなき停滞

 引き続き別視点です。





 

 

 

 兄さんの、前世の話。

 それは、初等部の頃にまで遡る。

 

 話を聞く限り、その時の彼は今の兄さんとは違って「普通」の──兄さんの言葉で言うところの、すべきことに専心できない、幼く愚かな──男の子だったらしい。

 精一杯遊び回り、程々に親に甘え、時々友達や家族と喧嘩し、少しだけ勉強をする。

 そんな、今の兄さんからは想像もできないような、どこにでもいる小学生の男の子。

 

 ……これは、そんな普通だった男の子が、致命的な程に歪んでしまう話だ。

 

 

 

 初等部の子供なんて、遊ぶのが仕事みたいなものだ。

 ……いや、私たち兄妹の中では、遊び惚けていたのは私くらいのものだったんだけど。

 とにかく、一般的な子供であれば、毎日公園に行ったりゲームをしたりと楽しい毎日を過ごすものだと思う。

 

 彼──前世における、まだ兄さんになる前の少年──は、そういった普通の小学生の1人だった。

 

 そうして、そんな平凡な毎日の中の1日。

 彼はその日も、放課後に友人と遊ぶ約束をした。

 昨日や一昨日と変わらず、母親の大声を無視しながら自室にランドセルを放り投げて、走って図書館に向かった。

 

 学校の近くにある、人気のない図書館。そこが彼らの集合場所だった。

 殆ど人がおらず、いたとしても1人や2人。司書もやる気なさげで、少しくらいなら騒いでも怒られない。

 夏場にはクーラーが、冬場には暖房が効いて、更に時間を潰せる漫画もある。

 初等部の彼らにとっては、絶好の待ち合わせスポットだったのだという。

 

 

 

 しかし、その日。

 何かハプニングでもあったのか、そこに友人はおらず……。

 

 代わりに、1人の女の子がいた。

 

 小柄で、黒い髪を垂らした……恐らくは彼より、少しだけ年下であろう女の子。

 彼女はその図書館で、本を読むわけでもなく、ただ据え付けられた椅子に座って、無表情で俯いていた。

 

 彼は、彼女の表情を見て、何となく声をかけた。

 そこに深い理由はない。ただその顔が、無表情でありながら、どこか寂しそうに見えたから。

 

 「ねー、暇なら一緒に遊ばない?」

 

 少女は彼の言葉に、ぼんやりとした無表情のまま顔を上げ……。

 こくりと、頷いた。

 

 

 

 そうして、それから数時間の間、彼は名前も知らない少女と遊ぶことになる。

 公園に行ってブランコをこいだり、木に登ったり、かけっこしたり。

 そんなたわいのない、いつも通りの、けれどかけがえのない時間を過ごして……。

 

 そうして、無表情だった彼女は、少しずつ笑うようになった。

 最初は仄かに口角を上げて。

 徐々にくすくすと笑い声を上げるようになって。

 最後にはお腹を抱えて、慣れていなさそうな大笑いを見せて。

 

 そうして夕方、別れ際に……。

 

「また遊ぼうなー!」

「うん!」

 

 そんな約束を交わして、何事もなくその日は終わったのだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 名前も知らない少女との付き合いは、その後1か月続いたという。

 

 放課後に図書館に行くと、彼女はいつもそこにいた。

 所在なさげに座って、やってきた彼を見ると、ぱっと表情を輝かせて立ち上がる。

 そうして町中の色んなところを歩き回って、色んな遊びをして、色んなことを話して……。

 2人は、そんな毎日を過ごしていた。

 

 

 

 そんなある日、彼は自分の家族についての話題を振った。

 

 厳格な母と、尻に敷かれた父、それから一人暮らしで長らく会っていない兄。

 それが彼の家族の全て。

 

 その中でも、彼にとって最も厄介なのが母親だった。

 彼の母は教育に熱心な人で、常に「強くあれ、正しくあれ」と徹底して教え込んできた。

 当時の彼にとっては、それが酷く窮屈だったらしい。

 

「親父ったらだっせーんだよな。お袋がビシッて言ったら、へこへこして全部言うこと聞いてさ。男として誇りとかねーのかっつーの。お袋もクドクドうっせーし」

 

 ジャングルジムのてっぺんで唇を尖らせ、そんな愚痴を吐き出した彼に対して……。

 なかなかそれに登れずに苦戦していた少女は、こてんと頭を傾げた。

 

「……えっと、そういうのが普通なの?」

「普通? 普通っつーか……何? まぁ普通なのかもしんねーけどさ、ダサくね?」

「……そうなんだ」

「そうなんだって……」

 

 少なくとも、彼にとってはそれが普通の家庭であり、ダサい父親であり、うるさい母親だった。

 彼女にとっては違うのかと、彼は少女の方に目をやると……。

 彼女は、いつか見たような無表情で、彼の方を眩しそうに見上げている。

 

「……ま、いいや。そんでさ……」

 

 少女が乗り切れていないことを察して、彼は話を打ち切った。

 

 幸い、最近学校で流行っている遊びの話をすると、彼女はすぐに笑顔になってくれる。

 それに安心して、彼は新しい話題に自らのめり込んでいった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……けれど。

 少女との日々は、長くは続かなかった。

 

 その要因は、大小合わせて2つ。

 

 

 

 まず、彼の同級生に、少女と遊んでいるのがバレたことだ。

 

 その日、登校した彼を迎えたのは、友人たちの好奇の視線だった。

 

「お前女と遊んでんのかよ!」

「は?」

「うわーキモー!」

 

 そんな風に、朝からクラスの男子にからかわれた。

 恐らくは他校の生徒であろう女の子と遊んでいた。……ある程度デリカシーを身に付けた人間であれば触れない部分ではあるんだろうけど、まだ頑是ない初等部の子たちにとって、それは好奇心と嗜虐心の的だったんだろう。

 それはもう、「嫌になるくらいに」からかわれ続けたという。

 

 幼少期は、どうしても自分の世界が狭くなる。家族と、そして友達が全てだ。

 そのどちらかで立場を失うことは、実質的な世界からの追放を意味する。

 彼もその例には漏れず、当時はそのからかいが相当心に響いたらしい。

 

 ……これが2つの内、小さい方の要因で。

 

 

 

 ……そして、もう1つ。

 大きな方の要因が。

 

「…………助けて」

 

 少女の言葉だった。

 

 その日、図書館に行った彼に、彼女は言って……抱きついて来た。

 

 当然ながら、彼は動揺し、困惑した。

 彼女の唐突な行動もそうだし……何よりその顔には、昨日まではなかったはずの青い痣が生まれていたんだから。

 

「えっと……え、何、どした?」

 

 あまりにも唐突な状況に、彼の思考は硬直した。

 

 ……当時は幼く、緊急時の対応だって今ほどにはできなかったと、兄さんは語る。

 心理学の方面への知識も、こういう時の場慣れも……全てが足りなかったと。

 

 だから彼は、その決断を、下してしまった。

 

「わ……わかった、助ける。俺が助けるよ」

 

 

 

 それは決して、安請け合いしてはいけないことだったのに。

 

 

 

 少女はその言葉に安心したように、彼の胸に埋めていた顔を上げた。

 そして徐々に瞳を濡らし、喉の底から言葉を吐き始める。

 

「わ、私……私ね、パパがっ」

「うん」

 

 彼はじっと、彼女の独白を待って……。

 そうして。

 

 

 

「パパが、叩いてくるの」

「……え?」

 

 

 

 彼は、知らない世界を……。

 知るはずでなかった世界を、知る。

 

「パパがね、『私が悪いんだ』って叩くの! 最近はなかったのに……また帰って来て、叩かれたの!

 ママもね、私が悪いんだって……。私が、私が悪い子だから叩かれるんだって……」

「それは、その、説教とかじゃ」

「何もしてないの! 私、言いつけを守ったのに! ちゃんと日が落ちる前に家に帰ったのに!

 何度も、何度も叩くの! 私が悪いんだって、これは教育、だって言って!!

 私、私、痛いって! 痛いから、やめてって、何度も言ったのに!!」

「え、い、いや……」

 

 

 

 彼は、知らなかった。

 

 慎ましく幸せな毎日を享受していたからこそ、彼はそれが普通であると思い込んでいた。

 厳格でありながら常に彼を保護していた母、弱気ではあるが優しかった父。

 親からの愛は当然のものであると思い込み、それがこの世界の常識であると……錯覚していたんだ。

 

 けれど、当然のことながら……。

 兄さんの前世の世界にも、人の悪意というものは存在しており。

 

 彼女を取り巻く黒く暗い渦を、彼は理解しきれなかった。

 

 

 

「前までは、嫌じゃなかったの……ただ時間が過ぎるのを、待ってればよかったのに……。

 それなのに、最近は……痛い時に、君の顔が頭に浮かんで……嫌なの! 怖いの!

 ねぇ、助けて……助けてよ。お願いだから……助けて……」

 

 

 

 ……それに何と答えたかは、記憶の底にすら残っていないらしい。

 彼は気付けば少女と別れ、自宅に帰っていた。

 

 そうしてようやく正気に戻った彼は、自分の部屋でぼんやりと、どうすべきなのか悩む。

 

 助けてと、言われた。

 である以上、助けなきゃいけないと思う。それが正しい、すべき行動だ。

 そんなことは知っている。学校でも習ったし、母にもそう教えられた。

 助けを願われれば、それに応えなければならないのだと。

 

 でも、どうすればいい?

 どうすれば、彼女を助けられる?

 

 わからない。

 わからない、わからない、わからない。

 

 何を、どうすれば、彼女を助けられるのか。

 

「……お、親父とお袋に、相談……」

 

 その頃の彼にとって、大人は魔法使いみたいなものだった。

 言えばなんでも……とは言わないまでも、ある程度のことまでは叶えてくれる、すごい人たち。

 その理屈も過程も知らない。けれど、確実に結果だけをもたらしてくれると、そう思っていた。

 

 だからきっとこれも……彼女のことについても、解決してくれると信じたんだ。

 

 ……けれど。

 

「名前もわからない? 小柄で、髪の長い子? ……いや、それだけじゃ絞り込めないかなぁ」

「女の子? ……いや、他のご家庭の方針に口は出せないよ。諦めなさい」

 

 両親は、解決してくれなかった。

 

 

 

 子供の世界は、狭い。

 家族と、友人。その2つしかない。

 

 だから彼は、それだけで……詰んでしまった。

 

 自分ではどうしようもなく、友人には相談できず、親は解決してくれない以上……。

 彼にはもう、何もできない。

 

 

 

 ……勿論、警察に行くなり、自分の足で探すなり、もっと行動を起こすことはできただろう。

 可能か不可能かで言えば、間違いなく彼には、行動を起こすことができたんだ。

 

 けれど……。

 

「……どうせ冗談だろ。だって、そんなことあるわけないし。それに学校のヤツらだってうるさいし……もう寝よ。明日『ごめん、無理だった』って言えばいいだろ」

 

 自分のものと異なり過ぎる世界への不信。

 友人の世界を失ったことによる倦怠感。

 明日からも幸せな日々が続くのだという、子供らしい根拠のない確信。

 

 様々な要因が、彼の行動を阻害して……。

 

 そうして、彼は諦めた。

 諦めて、しまった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 次の日の放課後。

 図書館に行っても、少女はどこにもいなかった。

 

 次の日も、その次の日も、その次の日も。

 少女は、どこにもいなかった。

 

 

 

 そしてそれから、文字通り『一生』。

 

 彼が少女に会うことは、なかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 ……ただし。

 

 数日後、彼は地元のテレビ番組で、そのニュースを見ることになる。

 

『本日未明、市内住宅で女児の遺体が発見されました。

 警察は虐待の容疑で両親を逮捕し……』

 

 

 

 それを瞳に捉えた瞬間。

 彼は、不可逆の変化を辿ることになる。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「……取返しは付かないんだよ。命も、真実も、何もかも」

 

 そう言って、兄さんは頭を抱えた。

 

「確認してないんだ。その女児が、彼女なのか。

 顔はテレビに出なかったし、俺は彼女の名前を知らなかった。だから実際にソレが彼女だったのかはわからないんだ。

 ……確かめるのが怖かったんだと思う。前世の俺は結局、その一件を詳しく調べることはなかった」

 

 それに。

 その話に、果たして、私は何を言えるのか。

 

 非難? できるはずがない。それは幼い少年としては仕方のない行動だ。

 同情? できるはずがない。そんなに重い体験を、私はしたことがない。

 憐憫? していいはずがない。それは前世を生きた彼だけの経験、彼だけの悔恨。そこに踏み込む権利なんて、この世界に生きる誰にだってないんだから。

 

 私はただ、何も言えず、口を閉ざして彼の話を聞くばかりだった。

 

「それでも……大事な時に逃げて彼女をっ……見殺しに、した、俺にでも、1つわかったことがある。

 それは、大事な時に手を伸ばさなければ、俺が何もしなければ、失われるものがあるということ。

 そして、誰かが何かを求めてくるのなら、それに応えなければならないということ。

 そんな学びの一番の始点を、決して忘れてはいけない彼女のことを、俺は……また、忘れていたんだ」

 

 兄さんは、そこで一度口を閉じて……。

 

「……ずいぶん遠回りになってしまったけど、最初の話題、『何故吐いていたか』に戻ろうか。

 俺は、彼女を見殺しにしたこと、そしてそれを忘れていた自分が嫌で……精神的に、ちょっとショックを受けてしまってね。止まらない吐き気と戦っている内、少し行き過ぎてしまったらしい。

 ……改めて、ごめんね、昌。すごく心配をかけた。そして、ありがとう」

 

 最後にその言葉で、長い長い過去語りを締めくくった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 何を、言えばいいのか。

 

 私は、兄さんに、一体何を言えるのだろうか。

 

 語られた内容は、悲劇だった。

 偶然だ。本当に酷い偶然。出会うはずのない2人が出会い、共に時間を過ごした。

 不幸せだった獣は、火の温かさを知り、冷たい自然へと戻れなくなって……。

 

 そうして、破局した。

 子供たちの無知、無力が、どうしようもなく冷たい現実を招いてしまった。

 

 それに、果たして私は、何を言うべきなんだろうか。

 

 

 

「それが……兄さんの、頑張る理由ってこと?」

 

 辛うじて絞り出した声は、それだった。

 

 兄さんがあそこまで頑張る理由。

 偏執的な程に努力を繰り返し、誰かに何かを願われればすぐさま行動を起こす在り様。

 それは、かつての反省によるもので、彼なりに同じ悲劇を繰り返さないように努めているのか、と。

 

 そう尋ねた私に対して、話し疲れたのか、少しだけ朦朧とした様子の彼は……まぶたを閉じて、こう、答えた。

 

「……そう、だね。俺は、今度こそ…………」

 

 

 

 それは。

 

 私の想像していたような、前向きな理由では、なくて。

 

 

 

 

 

 

「…………あの子を、助けなきゃいけないから」

 

 

 

 

 

 

 それを聞いた瞬間。

 私はようやく、「堀野歩」を理解した。

 

 

 

 『今度こそ間違えられない』。

 『あの子を助けなきゃいけない』。

 

 そんな想いに、彼はずっと、囚われているんだ。

 前世で間違いを犯し、その事実に、あるいは自分自身に絶望して以来……彼の心も生き方も、一切動かなくなった。

 

 堀野歩の時計は、既に壊れ、止まってしまっている。

 成長も退化もせず……堀野歩は、前世に呪われ、永遠に停滞しているんだ。

 

 

 

 兄さんは、救われない。

 

 誰かを救うことで救われる人間は、少なくない。上の兄がまさしくそんなタイプだ。

 救うというのはつまり、相手の立場や状況を向上、改善させること。それを通して、成し遂げた自分の評価を向上させる。それは殊更おかしなことじゃない。

 

 ……けれど兄さんは、それとは違う。

 「常に頑張らなければならない」「人を助けなければならない」という強迫観念に囚われた彼は、誰もが救われている状況を以て、初めて自らの価値を保つ。

 土台、全てが救われているという状況は成立することが少なく、それが成立したところで、自らの評価を上げることもなく最低限に保つだけ。

 だから彼の自己評価は、永遠に底を彷徨い続けるだけなんだ。

 

 兄さんの「助けたい」対象には、この世界で唯一、自分だけが入っていない。

 だから、堀野歩には、堀野歩自身を救うことができない。

 どれだけ兄さんが努力し、頑張り、命をすり減らしたところで……彼は、満たされない。

 

 ……いや。

 正確には、満たされる方法はある。

 

 本当に救いたかったものを救いさえすれば、彼は満たされるんだろう。

 けれどそれは、絶対に不可能だ。

 兄さんが言った通りに、それは決して取返しが付かない、二重の意味で手の届かないところにあるのだから。

 

 

 

 兄さんは、忘れる。

 

 恐らくは、精神的な防衛本能なんだろう。

 そのことを思い出せば、今のように自罰的に暴走し、自傷してしまうかもしれない。

 あるいは、行き過ぎれば……自決まで、してしまうかもしれない。

 

 だからそれを避けるために、彼自身の心が、頭脳が、それを「思い出さない」。

 

 現実から目を逸らす。正しかった思考を曲げる。無理やり事実をなかったことにする。

 ただ「人を助けなければならない」という強すぎる方向性だけを残して、その所以を全て忘却する。

 それこそが、唯一彼が「健常に」生き延びる道だった。

 

 まるで川底の泥のように記憶の中に沈めて封じ、兄さんはその記憶を忘れた。

 思い出すことを、無意識的に自制したんだ。

 

 ……けれど、その忘却は完全なものじゃない。

 川に激流が走れば、泥が掘り起こされてしまうこともある。まさしく、今日の兄さんのように。

 小柄なウマ娘の酷い事故に死を連想し、それによって連鎖的に記憶が蘇ってしまう……。そんなことも、起こりえてしまうんだろう。

 

 勿論、激流は永遠には続かない。

 1度睡眠を挟んで思考の整理でも済ませれば、兄さんは再びこの事実を忘れてしまうのかもしれない。

 

 それを私に話してくれたのは……明日の自分にそれを伝え、思い出させて欲しいってことだろうか。

 

 ……でも、きっとそれは、忘れたままにしておくべきもの。

 いくら請われても……私は、これを兄さんに伝えることはないだろう。

 

 だって……伝えて、何になるっていうんだ。

 

 それを知って、彼に何ができる? 既に『彼女』は死んでいるだろうし、更には輪廻転生を経過してる。

 今更死者を蘇らせることはできない。それどころか、真実を探ることさえできはしないんだ。

 

 であれば、せめて。

 そんな冷たいだけの記憶は忘れてしまって、安らかに過ごした方が、ずっとマシというものでしょう?

 

 

 

 兄さんは、見ていない。

 

 私も上の兄も、父も母も。それどころか誰も、この世界すら、兄さんは見ていない。

 彼が誰かを助けるのは、代償行為に過ぎない。本当に救いたい、救いたかったものは遥か遠くにあって、彼の本質的な行動指針は全てそこに集中している。

 彼の取る一挙手一投足、視線の動き、考え、その全てが……今は亡き『彼女』にしか、向けられてはいないんだ。

 

 どうしようもないくらい、前世に囚われている。

 あるいは、今世を生きていないと言ってもいいだろう。

 

 視線も、考え方も、方向性も、その全てが前世の、その瞬間のままに停滞している。

 そこから1歩たりとも前に進めない。前に進もうという意志もなく、そしてそれを決して自分に許さない。

 

 それが、あるいは彼なりの贖罪なのかもしれない。

 ……この世界に生きる私たちにとっては、はた迷惑もいいところだけれど。

 

 

 

 つまるところ。

 

『前世の悲劇に囚われ、決して変わらず、救われない人間』

 

 それが、堀野歩という人間の真実なんだろう。

 

 もはや、前世や輪廻転生なんてモノが実在するかどうかは問題じゃない。

 そう感じ、そう信じ、そう記憶し、それに基づいて人格を形成している以上、兄さんは決して揺るがない。自ら救いを求め、救われることがない。

 

 この世界に生まれたその瞬間から、決して救われることのない運命を背負った人生。

 

 それが、本当に、本当に……。

 

 

 

 どうしようもなく、悲しくて、嫌いなんだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 だからこそ、あの日。

 

 奇跡が起こったのだと、思った。

 

 

 

 その日は、実に1年半ぶりに兄さんが帰って来る日だった。

 

 この1年半のこと、詳しくは聞いてないけど……。

 どうせトレセンでも寿命を削るような、それでいて即時に体の調子は崩さない、器用で最悪な働き方をしているに違いない。

 せめて面と向かって小言の1つでも言えれば気も紛れるって言うのに、全然帰って来ないし。

 ……本当に、イライラする。

 

 9月にトレーナー免許試験が迫っていることもあり……今思えば、私はかなりフラストレーションが溜まっていたと思う。

 

 だから、ってわけじゃないけど……。

 私は帰って来た兄さんに、「トレーナーなんて辞めろ」って言うつもりだった。

 

 トレーナーという仕事は、兄に向いてない。全く以て向いてない。

 18人の中で優劣を付けて、たった1人の勝者を決める?

 全ての人が救われていなければ自らの価値も認められない兄にとって、それがどれだけ精神的負担になることか。

 

 よしんば担当のために、その思考を切り離したとしよう。見ないふりをするのは兄さんの得意分野だ、それくらいはできてもおかしくない。

 けれどその場合、他の17人分の感情が乗せられた担当が負けた時、あるいはもしもレース中の事故で……考えたくもないけど、担当が死んだりでもしたら、兄さんは何を思う?

 

 ……考えたくもない、最悪の展開が、現実になることすら考えられる。

 

 だから、言ってやろうと思ったんだ。

 「堀野のトレーナーは私が継ぐ。どうせ向いてないんだから、兄さんは帰って来て、父さんから当主の引継ぎでもしたら?」って。

 

 それなのに。

 

 

 

『俺は、堀野のトレーナーを辞めようと思います』

 

 

 

 何の準備もなく、父さんの前でいきなりあんなことを言い出すんだもの。

 本当にバ鹿。アホ。おたんこにんじん。おかげで本当は賛成派の私が、父さんに取りなさなきゃいけなくなっちゃったじゃん。

 

 ……けれど、相変わらず誰かさんに似て言葉足らずな彼に呆れると同時。

 私の中に1つ、疑問が生まれた。

 

 何故、そんなことを言い出したの?

 『堀野のトレーナー』って言葉は、兄さんがよく言っていたものだ。恐らくは直接的なトレーナー業そのものを指すわけではない。

 

 でも恐らく、兄はそれを無意識的に『父から請われたこと』であると認識し、なおかつ『誰かを助けるための最善のやり方』であると思っていたはずだ。

 それを、途中で投げ出す……?

 

 トレーナーを辞めろ云々の前に、まずはその事情を聞き出す必要がある。

 だから、兄さんの放言にビビりすぎて腰を抜かしかけている父さんとの仲を取り持ち、まずは事情を聞こうとして……。

 

 

 

『ホシノウィルムを担当したいから、堀野のトレーナーを辞めたい』。

 

 

 

 その言葉に、動揺した。

 変な動作を見せないために、理由を付けてその場から逃げてしまうくらいには、動揺した。

 

 自分から、何かを求めない。

 ただ過去への贖罪のために、誰かに奉仕し続けるだけだったはずの兄が……。

 

 自分の欲望に基づいて、行動を起こした。

 

 それがどれだけの奇跡なのか、私はよく知っていた。

 なにせ、実に20年を超える私の人生の中で、初めて見たんだから。

 

 「ホシノウィルム」。

 兄さんの担当する、稀代の怪物。現役最強と名高い、不可能を可能にする大逃げウマ娘。

 

 彼女の何が、兄さんの琴線に触れたのかはわからない。

 もしかしたら最初は、ただその容姿が『彼女』に似ていたとかそれくらいの、つまらないことだったのかもしれない。

 

 けれど、長く一緒に時間を過ごしたためか、あるいは何か転機があったためかはわからないけど……。

 

 ホシノウィルムというウマ娘の存在は、兄にとって、この上なく大事で特別なものになった。

 友人よりも、家族よりも、ずっと特別な……唯一無二のものに。

 

 父の希望と自分の欲望を比べ、それでもなお後者を取りたいと思う程に。

 ……つまりは前世からの妄執を、ほんの一瞬、僅かとはいえ越えかねない程に、特別な存在。

 

 

 

 彼女しかいない。

 

 ホシノウィルム。兄さんの最初の担当ウマ娘。

 彼女ならあるいは……兄さんを、救ってくれるかもしれない。

 

 ……年下の子供にこんなことを頼むのは、大人としては失格かもしれない。

 本来は、私たち大人が子供を助けなきゃいけないんだ。その逆はあっちゃいけない。

 

 それでも……。

 きっと彼女は、兄さんを救い出すことのできる、唯一の存在だ。

 

 彼女と共に時間を過ごし、少しずつ人間らしい情緒を取り戻すことができれば、あるいは……。

 

 そう思い、9月。

 私はようやく勝ち取ったトレーナー免許を持って、トレセン学園に向かった。

 

 

 

 兄さんのことは、嫌いだ。

 私のことを見てくれないし、その辛すぎる生き方は見ていてイライラするし、思わず叫ぶくらいに非難したことだって数えられないくらい。

 

 ……だけど、そんな兄でも、家族なんだ。

 決して欠かすことのできない、私の大事な家族なんだよ。

 

 だから、もしも兄さんが救われる道があるのなら、私はせめて、それをサポートしたかった。

 少しでも早く、そんな苦しいだけの生き方を辞めて、兄さんにも……今を生きて欲しかった。

 

 だからそれまで、少しでも兄さんを支えられたらと思って、私はトレセン学園に来たんだ。

 

 

 

 

 

 

 ……まさかその矢先。

 年末の大一番を前にして、こんなことになるなんて……欠片たりとも、思ってはいなかったけれど。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 これまでのことを整理し終わり、私はまぶたを開ける。

 

 今、私の視線の先では、1人のウマ娘がソファに座っている。

 両手を膝に置き、こちらに視線を投げてくる彼女は、ホシノウィルムさん。

 兄さんにとって最初の担当ウマ娘であり、同時にとても特別な存在であろう子でもある。

 

 改めて、彼女について思いを巡らせる。

 ホシノウィルムさん。

 彼女は年齢にはそぐわないくらいに成熟した心を持ち、どこか大人びた割り切りや理性的な態度が目立つ、一風変わったウマ娘だ。

 

 ……正直、最初は彼女のことを警戒した。

 その変わったあり方は、どこか前世の記憶を持つ兄さんを思わせたから。

 もしかして、彼女も前世の記憶を持つ転生者で、兄さんを騙してるとか……そういうこともあるんじゃないかって、そう思ったんだ。

 

 でも、その疑いは、既に捨てた。

 少しばかりお話をするために行ったカフェで、彼女は……歳相応の笑顔や動揺を、彼女の素朴な素顔を見せてくれた。

 

 それは、今世を生きている証だ。

 たとえ転生者だとしても、彼女はきっとこの生涯を大事にしているし、兄さんとも信頼を築いているんだろう。

 そう思わされるくらいに、彼女は……なんというか、そう、幸せそうだったんだ。

 

 普段の会話を聞いていても、兄さんとホシノウィルムさんの間に堅い信頼関係があることは間違いない。

 兄さんは私たち家族と同じか、あるいはそれ以上にホシノウィルムさんを信じていたし、ホシノウィルムさんは同じだけ兄さんを信じている。

 

 ……だからこそ、だろうね。

 兄さんが意識不明になった今、彼女は気丈に表情を取り繕っているけど……それでもやはり、仮面の向こうには隠し切れない心労が窺えた。

 

 兄さんの不幸を我がことのように、半身が欠けたように、彼女は悲しんでくれている。

 

 そんな表情を見れば、信じざるを得ない。

 彼女はきっと、兄さんを助けてくれることに協力してくれる。

 

 そのために……兄さんには悪いけど、私の知っている情報は、最大限に有効活用させてもらおう。

 

 

 

 きっと兄さんを救えるのは、ホシノウィルムさんを除いて他にはいない。

 だから私は、何がなんでもこの子と兄さんの間をつなぎ留めなきゃいけない。

 

 そのために話すべきは、兄の過去だ。

 あるいは、これは学生に聞かせるべきでないような闇かもしれない。彼女に不必要に辛い想いをさせてしまうかもしれない。

 

 けれど、彼女にそれを伝えれば……きっと協力してくれる。

 兄さんを救ってくれるはずだ。

 

 この話をする際に、嘘は吐けない。

 彼女の観察眼はバ鹿にならない。嘘を見抜かれ、信頼を失うわけにはいかないからだ。

 

 ……ただ、語るべきでないこともある。

 それは、兄さんが転生者だということだ。

 

 転生者疑惑のある彼女にそれを話せば、どんな波紋を生むかわからない。落ち着いてからならともかく、混迷している今の状況で取るべき選択ではないはずだ。

 それに、そもそも兄さんからは「担当には前世のことは秘密で」って言われてる。

 だから、『彼』に起こったあの悲劇は……今世の初等部での経験ということにする。周りの話も上手く都合を合わせなければ。

 

 

 

 ……さぁ。

 

 1つの、呪いの話をしよう。

 

 

 







 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、呪いが導くものの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました。


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仄暗い失意の底から

 

 

 

「……それが、兄さんの過去。兄さんが囚われた、1つの呪いです。

 あの人がもっと賢ければ『この世界はそういうものだ』と学びにしたでしょう。あるいはもっと器用であれば『自分が悪かったわけではない』と正当化できたはずです。

 けれど、兄さんはそのどちらも足りなかった。自分のせいで1人の知り合いが死んだのかもしれないという事実に、真正面から向き合ってしまった。

 結果として、兄は大きすぎる責務を負った。『常に動き続け、全ての人を救わなければならない』なんていうふざけた生き方が、身に沁みついてしまった」

 

 昌さんの口は、そこで一度止まり……。

 

「それが兄さん……堀野歩という人間です」

 

 その言葉を以て。

 30分程続いた、昌さんの話は、終わった。

 

 

 

 ……私はそれを聞いた時、果たして、どんな顔をしていただろう。

 歩さんが初等部だった頃の、思いもよらない過去。

 

 それは、悲劇に他ならない。

 

 子供特有の世界の狭さ、視野の狭さが招いた惨劇。

 偶然にも出会い、その世界を交え、けれどお互いに救われなかった2人。

 

 片や無邪気に将来の幸せを信じ、不幸な少女の手を取ってしまった無垢な少年。

 片や不幸のどん底で、その手を取られ幸せを知ってしまった無辜の少女。

 

 2人とも、悪いことをしたわけじゃない。

 

 勿論、何を以て悪いこととするかにもよるけど……無知は罪ではないし、歩さんが最初に取った行動は善性のものだった。

 最後の諦めに関しても、ただ子供に取り得る責任の領域を越えたというだけで、ある意味で当然の帰結だと言えるだろう。

 

 少女も、ただ不幸の中で手を取られ、その温かさを知ってしまっただけだ。

 私は……その感情を、よく理解できる。

 なにせ、私も不幸の中で、歩さんの手の温かさに救われた子供だもの。

 そんな中で再び不幸の冷たさを味わえば、助けを求めてしまうだろうことは想像に難くない。同じ状況になれば、私もその行動を選択しただろう。

 

 ……どちらも悪くない。悪くないんだ。

 悪意はなくて、ただ子供特有の頑是なさだけがあって。

 間が悪くて、運が悪くて、噛み合いが悪くて、環境が悪くて……。

 

 結果として。

 名も知らない少女は、恐らくその短い生涯を終え……。

 歩さんには、二度と塞がらないような、深い傷が刻まれたのだ。

 

 

 

 それを知った私は……ただ、愕然としていた。

 

 以前ならば……冷たい世界にいた私ならば、あるいはその重さを理解できなかっただろう。

 あの頃の私は、他人に興味がなかった。……いや、興味自体はあっても、手段と目的が逆転していた私にとって、他人は自発的に意識すべきものではなかったんだ。

 だから、少年の味わったその絶望を、想像しきれなかったかもしれない。

 

 ……けれど、今ならわかる。

 歩さんの直面したそれは、子供が負うにはあまりにも重すぎる経験だ。

 それこそ、歩さんに出会うまでの私のように……呪いを負いかねない程に。

 

 歩さんは今も、その日の残響に襲われ続けている。

 「あの時何かしていれば、彼女は救われたんじゃないか」「あの時自分にできる最大限のことをすれば、状況は変わったんじゃないか」。

 そんなイフの想像が、彼の心を焼き続ける。

 止まるな、動け、もっと速く走れと、その心を急かし続けているんだ。

 

 だから……。

 だから、歩さんは、あそこまで……。

 

 

 

 ずっと、違和感はあった。

 いや、あまりにも違和感が強すぎて、逆にそれを当然の物だと思ってしまっていたのかもしれない。

 

 歩さんが、いつも働きすぎる理由。

 私たちのために頑張ってくれた理由は……それだったんだ。

 

 

 

 あの日、白くて大きな月が見下ろす夜、歩さんが私と契約してくれて以来。

 彼は私のために、凄まじい程に頑張ってくれた。

 

 自分の体を労わることすらなく必死に、まさしく命を懸けて働いてくれた。

 趣味らしい趣味も持たず、ただただトレーナー業に自分の全てを費やして……。

 それこそ時には、このままじゃ死んでしまうのではないかと思うくらいに。

 

 しかも彼は、その疲れを隠すのがすごく上手い。

 普段から無表情気味なこともあって直接的にはわかりづらいし、血色とか毛穴の開き程度なら、軽い化粧で誤魔化してしまう。

 それを窺うとすれば、会話のテンポのズレとか歩き方の誤差とか、あとは本当に微妙な表情の動かし方の遅れくらいのもので。

 

 それだって、前世の記憶と経験を持つ私が、1年半の間歩さんと付き合って、ようやく分かるようになるくらいの本当に軽微な差だ。

 

 そうして彼は人目を忍んで、ずっとずっと、文字通り死ぬ程頑張ってくれていた。

 

 

 

 けれど……。

 今思えば、なんで私は考えなかったんだろうか。

 

 彼が、担当ウマ娘というだけで、ここまで尽くしてくれる理由を。

 

 ……いや、他のトレーナーさんに対してやっているらしいデータの共有や同期の仕事への協力を考えるに、担当ウマ娘だから、じゃないんだろうな。

 

 歩さんは、相手を選ばなかった。

 担当ウマ娘である私であろうと、自分の同僚であるトレーナーさんだろうと、あるいはライバルと言っていいウマ娘のトレーナーさんにさえも、平然と手を差し伸べる。

 

 勿論、利益性の問題でもない。

 私はともかく、ライバルのトレーナーさんを助けても、何もメリットがない。強いて言えば貸しを作れるくらいだろうけど、そんなものはシビアな世界の中ではなんら力を持たないだろう。

 彼は「助けてほしい」と請われれば、その全てに応えてしまう。

 たとえそこに利益がなかろうと、むしろ逆に損害になるだけだろうと、関係なく。

 

 

 

 何故、そこまでするのか。

 何故、そこまでして、人を助けようとするのか。

 

 私はずっと、その疑問から目を背けていた。

 最初はスパダリなんだと思い込み、付き合う内に担当ウマ娘だから、あるいは自分だからと落とし込んでいた。

 

 ……昌さんの言葉が正しいとすれば、「私のため」という側面は多少あったのかもしれない。

 けれど、少なくともそれだけじゃない。

 私以外のウマ娘も、人間たちも、皆を助けようとしていたんだから。

 

 何故そこまでして、他者を救いたがるのか。

 

 そこには、明らかな不明があって。

 その先に、歩みなき停滞があった。

 

 私はもっともっと、ちゃんと考えるべきだった。

 

 大事な……私の大好きな、人のこと、だったのに。

 

 

 

 忸怩たる思いに歯軋りする私に対して……。

 

「私はあの人の家族として、兄妹として、兄に救われてほしいと望んでいます。

 そしてそのためには……きっと、あなたの存在が、協力が必要なんです」

 

 そう言って、昌さんは頭を下げた。

 

 深々と……とてもじゃないけど、一回り以上年下のウマ娘には、すべきでない程に。

 

「お願いします、ホシノウィルムさん。

 勿論、私は全力を出します。取れる手段の全てを取り、あなたを支えてみせます。それでも、あの兄には届かないかもしれませんが……決して諦めず、最後まで責任を持って、サブトレーナーとしての職務に従事します。

 だから、どうか……兄との契約をそのままに、有記念での勝利を刻んでください。

 自分がいなかったから、自分が何もしなかったから勝てなかったのだと……また、救えなかったのだと。

 どうか兄に、そう思わせないでください」

 

 

 

 歩さんにとっての最大の恐怖は、中途半端に仕事を投げ出してしまい、誰かを救えずに終わってしまうことだろう。

 それはそのまま、幼少期の破局の再現だからだ。

 

 恐らくは、それを目にした時……彼は致命的な程のショックを受けてしまう。

 「小柄なウマ娘のレース中の事故」という、とても近いとは言えない現実を前にしても、衝動的な自傷に走ってしまうくらいなんだ。

 何が起こるのかは……考えたくもない。

 

 そして……もしも歩さんが意識を取り戻した時、私がレースに敗北していれば、彼は何を思うだろうか。

 自罰的で、自虐的な彼は、こう思うかもしれない。

 『勝てたはずの勝負だった。自分が昏睡なんてしていたから、彼女の才能を潰し、殺した』……と。

 

 彼の思考の不器用さ、愚直さは、昌さんの話からも明らかだ。

 とてもじゃないけど、あの日の夜に自分を轢いた犯人に責任を転嫁したり、『偶然の事故だったから仕方ない』なんて逃げ文句で逃避できるとは思えない。

 間違いなく、彼は直面してしまうだろう。自分のせいで、誰かが救われなかったという事実に。

 

 致命的。

 文字通りの、命に到る程の、傷。

 それが再び、開いてしまいかねない。

 

 

 

 絶対に……。

 絶対に、それは許容できない。

 

 

 

 私は、彼に救われた。

 

 前世から生まれ変わった先で、私のせいで両親との仲と家庭が破綻して……。

 その最果てにお父さんからかけられた、寒く冷たい呪縛。

 ずっとずっと囚われているはずだったそれから、彼が解き放ってくれた。

 

 走ることは、楽しいんだと。

 誰かと競うことは、熱いのだと。

 多くの人が私を見て、私を好きになってくれて、私を愛してくれていると。

 そして誰よりも近くで、彼が私を見守り、導いてくれるんだと。

 

 それを、すごく遠回しに、けれど何よりも確かに、彼は私に教えてくれた。

 ……いや、違う。

 私自身の手で、その事実を掴ませてくれたんだ。

 

 感謝してもし足りない。

 今、ホシノウィルムが健常にこの世界を生き、走れているのは、彼のおかげなんだ。

 

 

 

 だから、今度は私の番。

 

 そうしてたくさん助けてもらった分、私も彼を救わなきゃいけない。

 

 悔しいけど……本当に悔しいけど、私には彼を目覚めさせる力はない。

 私の転生チートは酷く限定的で、ただただウマ娘として走ることに特化したものだ。

 世界を作り替えることも、盤面をひっくり返すことも、誰かを癒すことも、歩さんを起こすことも……トレーナーなしで走り続けることもできない。

 

 私にできるのは、ただ走ること。

 そして、勝つこと。

 

 ホシノウィルムとして、彼の担当ウマ娘として……いや、歩さんのウマ娘として。

 私は、有記念に勝たなければならない。

 

 

 

 絶対に、絶対に……勝つんだ。

 

 勝たなきゃ、いけないんだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 結局、それから数日経っても……歩さんが目を覚ますことはなかった。

 

 ただ、いくつか進展したことや、わかったことはある。

 

 

 

 まず、歩さんの事故に関して。

 当時の監視カメラや事故を起こした車のドライブレコーダーで、この1件には事件性が認められた。

 車の方が故意に轢いた……というわけではなく。

 歩さんを、車道に突き飛ばした人間が、いた。

 

 詳しくは知らないけど、40代の男性らしい。

 通り魔……って言うのかな。別にトレーナーを狙ったわけではなく、衝動的で無計画に、そして無作為に行われた犯行だったと聞いた。

 

 この事件に関しては、歩さんのお父さんが中央まで出て来てくれて、片付けてくれたらしい。

 どんな形に落ち着いたのかは、私は知らない。

 その男の人がどうなったのか、誰だったのか……そんなこと、興味がなかった。

 

 それを知ることで、歩さんの目が覚めるわけじゃないし……。

 そんな無駄なことを頭に入れる程、今の私に余裕があるわけでもない。

 

 

 

 次に、昌さんを通して改めて聞いた、お医者さんの話。

 歩さんが目を覚まさない理由ははっきりとはせず、いつ目覚めてもおかしくない状態ではあるらしい。

 けれど同時、逆に言えば……いつまでも目を覚まさなくてもおかしくはない状態であるとも言っていた。

 

 脳というものは現代医術を以てしても未解明な部分が大きく、その損傷や機能不全についても完全に解き明かされているわけではない。

 トレーナーが陥っているのはまさしく「そういう状態」らしく、現代の医療技術では確実に彼を救い出すことは……不可能、なのだという。

 

 通常、軽い脳震盪による昏睡状態は、2から3時間程度で終わるらしい。

 これが6時間以上続くと、たとえ起きたとしても後遺症が残る場合があり……。

 3か月以上経過すれば……植物状態と、見なされる。

 

 そして、そのまま6か月が経過すれば……大半の場合、死亡する、らしい。

 

 嫌。

 そんなの、嫌だ。

 嫌、嫌、嫌、絶対に、絶対に嫌!

 

 ……嫌、だけど。

 どうしようもない。

 私には……歩さんを、昏睡状態から回復させる手段が、ないんだから。

 

 

 

 せめて今、私がすべきことは、ただ1つ。

 彼が起きた時に「自分のせいでホシノウィルムは負けた」なんて思わせないよう、来たる有記念を筆頭に、あらゆるレースに勝つことだけだ。

 

 不幸中の幸いと言うべきか、トレーナーは最悪の事態を想定し、私たちのためにトレーニングスケジュールを残してくれている。

 今は余計なことも考えず、とにかくそれに沿ってトレーニングを心がけないといけない。

 

 それしか……それしか、歩さんを助ける手段は、ないんだ。

 

 

 

 ……それなのに。

 

 昌さんと、協力してくれるたづなさんの主導の下で行われる、日々のトレーニング。

 ……しかし、私はそれに、集中しきれないでいた。

 

 

 

「はっ、はっ、はっ……」

 

 気分が、乗らない。

 走っても、走っても、走っても、あの脳の中を風が吹き抜けるような爽快感が来ない。

 たとえ「アニメ転生」を使おうと、その思考力が大幅に落ちている。

 

 ……端的に言えば、こう表せただろう。

 ホシノウィルムは今、これまでにない程の不調に陥っている。

 

 

 

 ゴールの前で待っていた昌さんの横を走り抜ける。

 

 彼女は持っていたストップウォッチを止めて……私に声をかけてきた。

 

「ホシノウィルムさん、一旦休憩しましょう」

「……スケジュールでは、まだ時間は残っていたと思います」

「そうですね。ですが、色濃く疲労が窺えます。まだ有記念までは期間がありますし、少し落ち着いてから……」

「駄目です。トレーナーの組んでくれたスケジュール通りに進めないと」

 

 トレーナーなら、私を勝たせてくれる。

 今までもずっとそうだった。きっとこれからもそうだ。

 だから、トレーナーのプランを守らないと。

 

 今回のレースは、負けられない。負けてはいけない。

 

 歩さんのために、絶対に、絶対に、絶対に、勝たなきゃいけないんだから。

 そうしなきゃ、私は……。

 

「ホシノウィルムさん……」

「……行きます」

 

 昌さんの、私を気遣ってくれている気持ちはわかる。

 私に歩さんの過去を話した者として、責任を感じてしまっているのは、わかる。

 私を止めようとするのも悪意ではなく、純粋な気遣いなんだろう。

 

 けれど……私は、止まるわけにはいかない。

 

 それが、歩さんのためになるなら。

 それで、歩さんが助けられるのなら。

 

 ホシノウィルムは、どんなことだってやる。

 

 それが、彼女に救われた者の、最低限の恩返しだ。

 

 だから……。

 

「……ふっ!」

 

 走り出す。

 

 もっと速くなるために、もっと強くなるために。

 

 もっと、もっと、もっと、走らないと。

 

 とにかくそんな言葉だけが、頭の中を駆け巡っていて……。

 

 

 

 

 

 

 ……そう、まさに。

 

 足元がお留守っていうのは、この瞬間の私のことを言うんだろう。

 

「えっ?」

「なっ!?」

 

 私はぬかるんだ地面に足を取られ、盛大に転んだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 幸い、私の脚に大きな怪我はなかった。

 精々が膝を擦りむいた程度で、それもウマ娘の体だから大したものにはならない。

 保健室で消毒し、大きめの絆創膏を貼ってもらって、私はそのまま今日のトレーニングを終えることになった。

 

 ……昌さんには、「申し訳ありません、私の管理ミスです。大きな怪我にならなくて良かった。今日はもう休み、明日、しっかりとお話ししましょう」って言われてしまったけれど。

 

 

 

「……どうすればいいんだろう」

 

 タオルで頬を拭いながら、病院までの道を歩く。

 

 私はレースに、勝たなければならない。

 いつか歩さんが目覚めた時のために、ホシノウィルムは勝ち続けなければならない。

 

 でも、勝つためには、たくさん走って速くならなきゃいけなくて。

 しかし走れば走る程に、私の脚は鈍ってしまう。

 走るという行為自体が、レースと、その向こうにある目的、歩さんのことを思い出させる。

 そして彼のことを思えば……恐怖してしまう。

 もう彼が目を覚ますことはないんじゃないかという恐怖が、私の思考を散り散りにするんだ。

 

 もっと走るためには、この意識的な繋がりを、絶たねばならない。

 歩さんを意識せずに走れるようにならなければ……下手をすれば、私は、レース当日にも……。

 

「…………どうすればいいの?」

 

 答えが、出ない。

 出せるんだったらとうの昔に実行している。

 

 今は、勝たないと。

 歩さんのために、勝たないといけないのに。

 私は、私は負けられないのに……!

 

「……ふぅ」

 

 駄目だ。

 落ち着かないと。

 

 動揺してはいられない。動転している余裕はない。

 とにかく有記念に向けて、しっかりと取り組まなければいけない。

 

 とにかく、やらないと。

 勝たないと。走らないと。歩さんの力にならないと。

 

 私は……あの人の、ウマ娘なんだから。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そんなことを考えている内……。

 私はいつの間にか、目的地に到着していた。

 

 トレセン近くの総合病院。

 静かで、清潔で、静謐で……その病的なまでの白さが、どこか死と寒さを想起させる場所。

 

 その敷地内、いつか私が入院したところとは別の、人間用の病棟。

 そこで、歩さんは眠りに就いている。

 

 私は毎日、トレーニングの時間が終わると、面会時間いっぱいまでを、歩さんの病室で過ごしていた。

 いつ彼が目覚めるかはわからない。もしかしたら今日、目を覚ますかもしれない。

 もしも、もしもそうなったら……真っ先に「おかえりなさい」を言いたかったから。

 

 ……今のところ、その目標は達成できていないけれど。

 

 

 

 何度かノックしてドアを開き、中に入る。

 

「トレーナー、来ましたよ」

 

 そう言って中に入り、ベッドの上を窺う。

 

 ……やっぱり。

 歩さんは……まだ、そのまぶたを、開いていない。

 

 覚悟していたはずなのに、毎度のことながら、膝から崩れ落ちそうになる。

 どうせ今日もと思いながら、けれどどこかに抱いていた希望が打ち砕かれる感覚は……何度体験しても慣れることはない。

 

 私は倒れ込むようにベッド横の椅子に座り込み、歩さんの顔を覗き込んだ。

 

 顔色は、良い。その傷も、治りつつある。

 体調は、決して悪くないんだ。

 それこそ、今に目覚めてもおかしくないくらいに。

 

 ……それでも。

 歩さんは、起きてはくれない。

 

 

 

「…………歩さん」

 

 思わずポツリと、小さなため息と共に、弱音を吐き出す。

 

「私、どうすれば、いいんでしょうか」

 

 歩さんの力になるって決めたのに。

 冷静に、落ち着いて、トレーナーのプラン通りにやるって決めたのに。

 全く集中もできず、今日だってつまらないミスで、トレーニングの時間を台無しにして……。

 

 私、何をやってるんだろう。

 なんで、こうなっちゃったんだろう。

 

「歩さんのためにも、勝たなきゃいけない、のに」

 

 視界がブレかけて、必死に目に力を入れる。

 

 ……駄目だ。

 挫けるな。負けるな。こんなの全然大丈夫なんだから。

 

 まだ時間はある。トレーナーは帰って来る。私はレースに勝てる。

 全部上手くいく。最後はきっと、全部上手くいくから。

 

 だから……だから、まだ。

 

 

 

 

 

 

 その時。

 

「失礼しま~す……」

 

 少し緊張気味だけど、私からすれば底抜けに明るくて……そして、どこか聞き慣れた声が、耳に届いた。

 

 思わず振り返った、その先にいたのは……。

 

「あ、ホシノウィルムちゃん? ごっ、ごめんね、邪魔するつもりじゃ……!」

 

 わたわたと手を振る、1人のウマ娘がいた。

 

 丸みを持ったセミショートの黒鹿毛と中央に垂れた流星、綺麗な薄紫の瞳に、右耳に付けた紫のリボン。

 

 ……どうして?

 どうして、彼女がここに?

 

 

 

「スペ、シャル、ウィーク……さん……?」

 

 

 

 私が親しんだ、前世のアニメ、1期の主人公。

 

 スペシャルウィークちゃんが、そこに立っていた。

 

 

 







 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、今、本当にすべきことの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました。


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冬の日、先輩の答

 

 

 

「ごめんね。何度も言うようだけど、邪魔するつもりはなかったんだ」

「それは……構いませんが」

 

 突然歩さんの病室に現れた、黒鹿毛のウマ娘、スペシャルウィークちゃん。

 

 彼女は、来たる有記念において、私のライバルになるはずのウマ娘だ。

 そこから考えれば、もしかしたらスパイに来たのか、って発想が出てこないでもなかったけど……。

 

 彼女の手に握られていたフラワーアレンジメントを見れば、それは違うんだろうと思えた。

 

「……スペシャルウィーク先輩だったんですか、お花を持ってきてくれてたの」

 

 私は毎日ここに来てるから、当然気付いていたけれど……。

 病室に飾られているアレンジメントは、日に日に増えていた。

 今や病室は、両手では数えきれないくらいの、たくさんの花々によって彩られている。

 

 だから、わかった。

 私や昌さん、ブルボンちゃんじゃない。

 多分朝か、あるいは私が来る前に、誰かが花を持ってお見舞いに来てくれてるんだって。

 

 それがスペちゃんだったんだと、そう思ったんだけど……。

 

「私だけじゃないよ。堀野トレーナーさんにお世話になった子は多いから。

 私が知ってるだけでも、セイちゃんとかマックイーンさんは来てるって話聞いたし」

 

 穏やかに微笑んで、スぺちゃんはそう言った。

 

 

 

 ……そっか。

 歩さん、やっぱりたくさんのウマ娘を助けてたんだ。

 

 セイちゃん……スカイ先輩のことは、詳しくは知らない。

 でも、歩さんは「宝塚記念を最高の舞台にするために色々頑張った」って言ってたから……。

 もしかしたら、スカイ先輩にアドバイスを送るとか元気づけるとか、私の視界の外で何かしらしていたのかもしれない。

 

 マックイーンさんの件は、歩さんから直接聞いた。

 天皇賞(秋)を前にしてマックイーンさんが発症した、精神的不調。

 自分ならそれを解決できるかもしれないと言って、歩さんはマックイーンさんのトレーナーさんに電話をかけていた。

 その結果、マックイーンさんは歩さんに感謝していたし、天皇賞(秋)ではこれ以上ない程の、最高の走りを見せてくれた。

 

 それに、先輩だけじゃなくて、同期も。

 

 テイオーは、ダービーに際して故障の危険性を抱えていた。

 アニメでも見た、恐らくは前世の史実がベースになってるんだろう、ある意味で運命的な彼女の骨折。

 しかしそれも、歩さんが彼女のトレーナーさんに危険性を指摘したことで、阻止こそできなかったものの、その療養期間をだいぶ縮めることができた。

 前世アニメでは来年春からの復帰だったのに対し、この世界では今年の有記念からの復帰。

 おおよそ4か月、半分近い短縮だ。そこにはきっと、歩さんの尽力も少なからず関わっている。

 

 ネイチャに関してもそうだ。

 歩さんは、彼女との定期的な合同トレーニングのために頑張ってくれた。

 私のスケジューリングの間を縫って、ネイチャの体調や身体能力を、担当ウマ娘もかくやってくらいに細かく分析していたんだ。

 決して失敗しないよう。そしてできるなら、ネイチャがもっと躍進できるように……。

 合同トレーニングの間だけは、担当ウマ娘である私と一切の差を付けず、平等に彼女を育てていた。

 

 きっと、これだけじゃない。

 私がハッキリと知っているのが4人だっただけで……。

 きっと彼は、もっともっと多くのウマ娘を、当たり前のような顔で助けているんだろう。

 

 同期のトレーナーさんたちに、本来は家の外に出すべきでないハウツーを平然と教えたりとか。

 あるいは、早く独り立ちできるように、昌さんにしっかりと教育を付けたりとか。

 

 そして……。

 白い月の見降ろす、寒々しい冬の夜に、1人のウマ娘を助けたりとか。

 

 決して手の届かない『彼女』を救うために……。

 歩さんはウマ娘にも人にも、おおよそ誰にでも、手を差し伸べてきたんだろう。

 

 

 

 その結果が、この病室の花々だ。

 

 彼は確かに、たくさんの人間やウマ娘を救っている。

 それを、この白い病室を彩るたくさんの色彩が、どうしようもないくらいに証明している。

 

 それなのに……。

 それなのに、認められないのか。

 

 頑張り続ける、自分を。

 多くのウマ娘や人間が、歩さんに救われてるっていう、事実を。

 

 

 

 スペちゃんは持っていた小さなアレンジメントを机に置いて、困ったように頬を掻く。

 

「えっと……その、2人の時間を邪魔するのもなんだし、私はもう失礼した方がいいかな?」

 

 ……気を遣ってくれてるんだろうな。

 スペちゃんは最近は公式レースに出走していないとはいえ、シニア級3年目のウマ娘。

 トレーナーさんと不仲っていう話も聞かないし、仲が良いだろうことは間違いないだろう。

 だからこそ……自分のトレーナーが意識不明になったっていうことの重さを、担当ウマ娘との時間を邪魔することの無粋さを、理解できるんだ。

 

 ……確かに、歩さんとの時間を邪魔されたような気持ちは、あった。

 でも、彼女が来なかったら……私は多分、何もできない無力感と、何も上手くいかないやるせなさで、ぐちゃぐちゃになっていたはずだ。

 

 正直に言って……今、歩さんと2人きりになると、弱い私が出て来てしまいそうで、怖かった。

 

「いえ……よければ、お話ししませんか。トレーナーも、たくさんお見舞いがいた方が喜ぶと思いますし」

「いいの? ありがとう」

 

 スペちゃんは驚いたような表情をした後、少しだけ悲しそうに笑い、私の提案を受け入れて……。

 病室の隅に寄せられていた椅子を置いて、私の横に座ってくれた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 改めて見たスぺちゃんは、ほとんど私の知っている通りの姿をしていた。

 ……けれど、完全に同じではない。少しだけ、どことなく違和感がある。

 

 例えばそれは、短く揃えられた黒鹿毛の髪と白の流星が、記憶よりもほんの少しだけ長いこと。

 その身長も、私のイメージよりはいささか大きくて……。

 童顔のイメージが強かった相貌は、より美しく、より精悍に引き締まっている気がする。

 

 本格化を迎えたウマ娘は、その体型や体格を急速に成長させ、そしてそこに留める。

 極端な例だと、140センチ台から1か月で180センチに伸び、それから3年間伸びもしなければ縮みもしない、なんてことすらあり得るらしい。

 

 それは逆に言うと、その3年間の本格化が終われば体格が変わることがある、ということで……。

 今、私の目の前にいるスペちゃんは、本格化を終えてから既に2年が経過した……私の知らない「スペシャルウィーク先輩」なんだろう。

 

 

 

 けど、彼女はなんで、お見舞いに来てくれたんだろう。

 どこにトレーナーとの接点が? お世話になったって言ってたけど、一体いつ……?

 

「その、スペシャルウィーク先輩は……」

「スペでいいよ。みんなそう呼んでくれるし」

「それでは、スぺ先輩で。スペ先輩は、どこでトレーナーと知り合ったんですか?」

 

 そう聞くと、スぺちゃんは「あー……」と、懐かしむような表情を浮かべ、話し始めた。

 

「初めて会ったのは、もう1年前になるかな。

 今年の有記念に向けて少しずつレース以外の露出を増やしていくってことで、お正月にちょっとしたイベントに出てね? その時に知り合ったんだ。

 トレーナーバッジを付けてたし、何よりウィルムちゃんは有名だったから、すぐに『あ、ウィルムちゃんのトレーナーさんだ』って気付いたんだけど……。

 うん、いきなり『セイウンスカイを紹介してほしい』って言ってきたのは、ちょっとびっくりしたかな」

「スカイ先輩を、紹介……ですか?」

「うん。『どうしても、天皇賞(春)までに伝えたいことがある』って。

 ……そう言われても、いきなりはちょっとアレだから、その日はお断りしたんだけど」

 

 歩さん……今年のお正月に、そんなことを?

 もしかして、私と初詣に行った後に、スぺちゃんにコンタクトを取ってたりしたんだろうか。

 ……やっぱり私に隠れて、色んなところで色んなことをしてたんだろうな。

 

 私のことに専心するように心がけたとしても……。

 やっぱり本当は、彼にとってはあらゆる人間、あらゆるウマ娘が、助けたい対象だったんだろうし。

 

「でも、一応話は聞こうかなって思って……それからは、色々とアドバイスをもらったりね。

 私のトレーナーさんも色々助けてもらったりしたらしくて、信頼できると思って、セイちゃんに相談もしたりして……。

 うん、そんな感じかな」

「……なるほど」

 

 結局のところ、歩さんが私の視界の外でやっていた行動の1つだ。

 私は子供で、競走ウマ娘で、だから走ることだけに集中してたけど……。

 歩さんは、少なくとも役職上は大人で、社会人。

 色んなところで、色んな繋がりを作っていってことなんだろう。

 

 

 

 それに、とスペちゃんは言葉を繋げる。

 

「本当は、ウィルムちゃんともいつか話してみたかったんだ。なかなか機会がなくて……まさかこんなタイミングになるとは思わなかったけど」

 

 スペちゃんはそう言って、小さく笑った。

 

 それに、思わず感情が揺れかけて……。

 ……「最悪だ」と、自己嫌悪する。

 

 こんな些細な、悪意のない笑顔に……苛立ってしまうなんて。

 

 癪に、障った。

 スペちゃんが、楽しそうなのが。申し訳なさそうなのが。満ち足りているのが。幸せそうなのが。

 その全てを、自分の惨めさと比べてしまって……。

 すごく……苛立つ。

 

 正当性のない怒りだ。ただの八つ当たりだってわかってる。

 ……わかって、いるのに。

 それでも、自分の情動を抑えられない。

 

 私は今、スぺちゃんを、競走のライバルとして見ることが、できていない。

 平穏と心の安寧を乱して来る敵として、障害としてしか……見ることができない。

 

 本当に余裕がないんだな、私。

 ここまで無様を晒すなんて……本当に情けなくて、自分が嫌になる。

 

 

 

「……えっと、大丈夫?」

 

 その言葉に、いつの間にか下がっていた視線を上げる。

 スペちゃんは……その薄紫の目で、じっと私を見つめてきていた。

 

 大丈夫かと聞かれると、大丈夫じゃない。

 すぐそこにスペちゃんがいるから、ある程度自制できてるけど……それでも、私の心は散り散りになってしまっている。

 

 ……でも、そんことを他人に言ったって、何の意味もないのはわかってる。

 大丈夫って言わないと。適当に言い繕わないと。

 

 そう思い、口を開こうとした瞬間。

 

「……ごめん、すごくバ鹿な質問だった。大丈夫なわけがないよね」

 

 そう言って、スペちゃんは軽く頭を振った。

 

「少しだけ、気持ちはわかるつもりだよ」

 

 わかる?

 ……この、気持ちを?

 

 わかるはずがない。内面で渦巻くこの激情が、誰かに理解できるはずがないんだから。

 

 私の中で、反感から激情が沸き立って……。

 

 

 

「私も、大事な人が倒れちゃったことがあったから」

 

 

 

 その言葉に、一瞬で、凍て付いた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「スズカさん……サイレンススズカさん。知ってるよね、すっごく有名だし。

 私ね、スズカさんが日本にいた頃は寮で同室でさ、すっごく仲良くしてもらってたんだよ。

 だから……あの天皇賞の時も、レース場で見てたんだ。スズカさんの走りを」

 

 ……そうだ。

 

 なんで忘れてしまっていたんだろう。

 私はその光景を、この目で見たことがあったのに。

 

「大ケヤキを越えた時、誰もがいつものようにスズカさんが勝つと思ってた。

 でも、そうはならなくて……スズカさんはふらふらって体勢を崩して、ペースダウンして……。

 あの時は……ちょっと、頭が真っ白になったな」

 

 痛みのない……いや、痛みを乗り越えた、懐かしそうな声。

 

 そう、スペシャルウィーク先輩は……。

 私と同じ体験を、したことがあるんだ。

 

 慕っていた人が、続くと思っていた時間が、変わらずあるべきだった平穏が。

 その全てが、自分の手の届かないところで一瞬のうちに崩れ去り、腐り落ちるように「終わった」瞬間を……。

 彼女は……彼女も、見たことがある。

 

 だから、多分。

 彼女は、本当の意味でわかっているんだろう。

 このやるせない感情も、どうしようもない激情も……その全てを、知っている。

 

 スペちゃんは、膝の上に置いた手を緩く握り、歩さんの様子を見ながら呟いた。

 

「辛いよね。なんでこんなことにって、どうしてあの人がって、思っちゃうよね。

 でもそう思うたびに、答えなんてないんだってわかっちゃって、感情を向かわせる先がなくて。

 『どうしようもないんだ』ってわかって……それが、辛いよね」

 

 ……そう。

 ずっと、そんな激情を、自分の中に抱え込んで。

 

「それに、わかるって言ったけど、私の時は……スズカさんは、すぐに目覚めてくれたから。

 ウィルムちゃんよりも、ずっと楽だった。いつかはきっと復帰してくれる、戻ってきてくれるって……たとえ空元気でも、そう思えたから」

 

 だから、その気持ちの全部は理解できないんだ。ごめんね、と。

 

 スペちゃんは、すごく申し訳なさそうに、目を伏せてそう言った。

 

 確かに、私の記憶は唯一無二のものだろう。

 スペちゃんは、ここまで冷たい激情を覚えたことはなかったのかもしれない。

 

 ……それでも。

 たとえ似ているだけだったとしても。

 感情を共有してくれる人がいるっていう事実は、私の心を、ずっと軽くした。

 

 

 

 ……けれど。

 あるいは、だからこそ。

 

「だから、心配してたんだ。ウィルムちゃんは、私の時よりもずっと辛い想いをしてる。だから……もしかしたら、折れてしまうんじゃないか、って。

 でも……まだ平気そうで良かった。ウィルムちゃん、強い子なんだね」

 

 その言葉は、思いの外……。

 

 私の心に、深く刺さって。

 

「……強くなんて、ありません。

 私は……私は、ずっと、ずっと……怖くて……!」

 

 気付けば、喉から声が出ていた。

 

「トレーナーが……歩さんが、このまま、死んじゃうかもしれない……! それなのに、それなのに私は、何もできなくて……ずっと助けてもらってたのに、私からは、何も……何1つ……ッ!!

 それが、そんな自分が許せなくて!! それで、それで……そんな現実が、怖くて……」

 

 ただ感情のままに、私は言葉を吐き出した。

 

 もう、自分の話に文脈が成り立っているかすらわからない。

 ぐちゃぐちゃにかき混ぜられた、グロテスクな混沌とした感情。

 それを、目の前の人に……現実に、ぶつける。

 

「私は、私は強くなんてないんです! 何もできない、何もしてあげられない……! せっかく両親が生んでくれたのに……この世界に生まれついたのに! それなのに、何一つできはしない……ッ!!

 せめて歩さんのために走ろうとしても、ずっと、ずっとずっと、恐怖が頭から離れないんです! 歩さんにはもう会えないんじゃないか、もう話せないんじゃないかって……。

 私は……私は、ずっと助けられてきたのに…………歩さんを、ただ1度救うことすら、できない……」

 

 それが、辛い。

 

 何もできなくて。

 

 彼を、助けられなくて。

 

 このまま、彼と、二度と話すことができない。

 

 そんな「もしかしたら」が……どうしようもなく、私の脚を竦ませるんだ。

 

 

 

 いつの間にか握りしめていた拳に、ぽたぽたと何かが落ちる。視界は歪んで、まともに世界を捉えられやしない。

 

「私は……私は、それが、怖い……」

 

 ……不安定で不定形な心を言葉にして、初めて自分を理解した気がした。

 

 私はただ、怖いんだ。

 

 幸せと平穏は、何の保証もないと、知ってしまったから。

 日常は、唐突に崩れ去ることがあると、知ってしまったから。

 

 未来の幸せを、続く日常を、根拠もなく信じていられる子供では、なくなってしまったから。

 

 だから……未来が怖い。

 もっともっと状況が悪くなってしまうんじゃないかと、そう思ってしまって。

 

 

 

「私は、全然、強くなんてない。ただの……何もできない、ウマ娘でしかないんです」

 

 転生ウマ娘だとか、チート持ちだとか、そんなことを言っても。

 結局……私はただの、この世界に生まれ付いたウマ娘でしかない。

 

 歩さんを助けることもできなければ、1人で走ることもできない、普通のウマ娘なんだ。

 

 ……もしも、私がもっと、すごいウマ娘であれば。

 それこそ、万能のチートを持っていれば……歩さんを助けられたはずだったのに。

 

 自分の非力さに、項垂れる。

 

 私には、何もできない。

 「歩さんのために勝たないと」なんて言っても、結局それも、辛い現状から目を背けるための言い訳に過ぎない。

 私が本当に叶えたい、「歩さんに起きてほしい」っていう願いは……。

 決して、私の手の届くところには、ないんだから。

 

 無意識に伸ばした手が、ベッドのサイドレールに触れる。

 感じたのは、冷たい感触だけで……私が本当に欲しかった温かさなんて、そこにはなくて。

 

 やっぱり、世界は寒くて冷たいんだと……そう、思いかけて。

 

 

 

 ……けれど。

 

「何もできない、なんてことはないよ」

 

 ポン、と。

 私の手の上に、温かさが生まれる。

 

 見れば、レールを握りしめる私の手の上に……スペちゃんの手が、置かれていた。

 

「確かに、私たちは神様じゃない。怪我をした人を助けるなんてことはできないと思う」

 

 それでも、と。

 スペちゃんは、言う。

 

「きっと、何もできないなんてことはない。

 私たちウマ娘にできることは……背負って、走って、信じること、だよ」

 

 それは、ウマ娘の先輩としての、確信に満ちた言葉だった。

 私よりもずっと先に走り出し、多くの人の見守る中で走り続けたウマ娘の、1つの結論。

 

「たくさんの人の夢と願いを背負うこと、それぞれのやり方で走ること……そして何より、自分とトレーナーさんと、世界を信じること」

「世界、を……?」

「うん。私たちを取り巻く、世界を。

 ……今、ウィルムちゃんは世界に酷い目に遭わされて、何も信じられなくなってると思う。

 1秒先にはもっと悪いことが待ってるんじゃないか、1日経てば状況はもっともっと悪化してるんじゃないかって、疑っちゃうと思う。

 でも、そんなことはないんだよ」

 

 スペちゃんは、その手を私の手に乗せたまま、静かに語った。

 

「確かに、世界には辛くて苦しいことがたくさんある。理不尽もあるし、間が悪いこともあるし、最悪な目に遭わされることもある。

 ……それでも、きっと。

 ウマ娘が自分とトレーナーさんを信じて走り続ければ、世界は応えてくれる」

 

 

 

 それは根拠のない、あやふやで抽象的な話だった。

 

 信じて走り続ければ、世界は応えてくれる、なんて……。

 

 そんなものは、ただの戯言だと。

 ……そう切り捨てられれば、どれだけ楽だったことか。

 

 私は、覚えてる。

 全てのかかった宝塚記念。

 不安定だった歩さんとの関係。開けない領域。折れるかと思った脚。

 それらを想ってなお、それでも懸命に、最後まで走り続けて……。

 そうして、勝ち取ることのできた勝利を。

 

 だから……スペちゃんの言葉を、否定しきれない。

 

 

 

「……それと、私ね。1つ、後悔してることがあるんだ」

「後悔、ですか?」

「私はウィルムちゃんより、ずっと弱かったからね。

 スズカさんが目を覚ましても、頭の中はスズカさんでいっぱいで……目の前のことに、全然集中できなかったんだ」

「それは……でも、仕方ないことじゃ」

 

 誰だって、大切な人が傷つけば、そのことで頭が占められるに決まってる。

 

 ……いや。

 そうじゃない、のかな。

 

 私は歩さんが昏睡状態になっただけで、いっぱいいっぱいになってしまった。

 けれど……あの2人は、違う。

 ブルボンちゃんと昌さんは、今も懸命にトレーニングや仕事に励んでいるんだ。

 

 ブルボンちゃんにとって歩さんは、唯一無二のトレーナー。

 昌さんにとって歩さんは、絶対に欠かすことのできない家族。

 

 そのはずなのに、2人は……。

 辛そうにしながらも、毎日を冷静に過ごしている。

 

 なんでそんなに平気そうなのか、八つ当たりしそうになったこともある。

 歩さんのことが大事じゃないのか、心配じゃないのか、って……。

 結局、そんなことを言う気力すら、その時の私の中にはなかったけれど。

 

 でも、それは……。

 

「違うよ、そうじゃないんだ」

 

 スペちゃんは緩く頭を振り、否定した。

 

「私は……信じられなかったんだ。

 スズカさんがターフに復帰するって、心の底から信じることができなかった。

 スズカさんなら当然立ち上がってくるはずだって、そう信じることができなかった。

 だから、疑って……怖がってしまったんだ」

 

 その人を信じられないから、怖がるのだと。

 

 信じているのなら、怖くなんてなくて……。

 ただ、いつか立ち上がって来るその日を待ちながら、走り続けたり……。

 ただ、いつ立ち上がって来てもいいように、必死に間隙を埋めようとするんだって。

 

 スペちゃんの言葉は、暗に、そう告げていた。

 

「私の後悔っていうのはね、スズカさんを信じられなかった結果、レースに集中しきれなかったことがあったんだ。何年経っても、それが忘れられなくて。

 ……だから、ウィルムちゃんは、信じてあげてほしいんだ。

 きっといつか、あなたの大事な人は戻って来る。それを……その人のことを、信じてあげてほしい」

 

 ……信じる。

 

 歩さんは必ず起きてくれるって、信じる。

 

 どうするか聞かれ、二つ返事で「マスターの帰りを待ちます」と宣言したブルボンちゃんのように。

 計り知れない精神的負荷を抱えながら、それでも毎日懸命に、兄の穴埋めを続ける昌さんのように。

 

 それが……あるいは、それこそが、今。

 

 本当に、私がすべきこと……なのかもしれない。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 語り終えると共に、スぺ先輩は照れたような顔をして手を離した。

 

「あ、あはは! ごめんね、ちょっとカッコつけちゃった!

 その、そんなわけで、えっと……有記念、一緒に頑張ろうね!」

 

 さっきまで醸し出していた、歴戦の戦士のような風格は消えて、彼女は再びただの少女に戻った。

 

 ……そっか、考えてみれば、スぺ先輩はまだ高等部の生徒なんだよね。

 私との年齢差だって、3歳くらいしかないんだ。

 むしろ前世の分を考えたら、彼女の方が人生経験は少ないと言っていい。

 

 それなのに……。

 スペシャルウィーク先輩は、こんなにも……強い。

 

 それが、黄金世代という修羅の時代に生まれ付いたが故の、豊富な人生経験によるものなのか。

 あるいは、それこそが彼女を『日本一』たらしめている所以なのか。

 今の私には、それもわからなかったけれど……。

 

 1つだけ、確かなのは。

 

 スペ先輩は、先達として、私に1つの道筋を示してくれたってことだ。

 

「……ありがとうございます。ずっと感情を抱え込んだままだったので……すごく、助かりました」

「えっ、い、いや、そんな! そんな大層なことしてないし! ほら、顔上げてってば!」

 

 深く頭を下げた私に対して、スぺ先輩はぶんぶんと両手を振って慌てる。

 そして、「あ」と呟いて、背負っていた鞄の中を漁り……。

 中から新品らしく見える、1冊のノートを取り出した。

 

「そっそうだ! 信じるって言っても、やっぱり感情がぐちゃぐちゃになってると難しいよね?

 このノートあげるから、これに思ったこととか感じたことをばーっと書いちゃうといいよ。

 あとはカラオケに行ったりとか、信頼できる友達にうがーっと話しちゃうとか!

 そうすれば、もっと楽になると思う!」

「あ、ありがとう……ございます」

 

 スペ先輩は私にノートを渡すや否や、「うぅ、こんなつもりじゃなかったんだけど……」と呟きながら、鞄のチャックを閉め、慌ただしく立ち上がった。

 

「じゃあ、私はそろそろ!」

 

 ……この恥ずかしがり様、ちょっと冷静になって、カッコ付けすぎたって思ったのかな。

 

 私からすれば……本当にカッコ良い、最高の先輩だったんだけどね。

 

「スペ先輩」

「な、何かな」

「有記念で、また会いましょう。

 ……助けていただいてなんですが、勝つのは私ですから」

 

 まだ、ぎこちないかもしれないけれど。

 私は背中を向けようとしたスペ先輩に、笑顔を向ける。

 

 対して、スぺ先輩は……。

 嬉しそうに、そして少しだけ安心したように、ニコリと笑った。

 

「うん! 良いレースにしようね!」

 

 

 

 ……これが、テイオーとは違う、既に自分の物語を終えた主人公の姿か。

 

 カッコ良くて、威厳があって、でも優しくて、頼れて……何より速くて強い、最高のウマ娘。

 

 

 

 ……負けて、られないな。

 

 私の凍り付きかけた心の底に、再び炎が灯った気がした。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そこから先の2週間、語るべきことは多くない。

 

 まず、歩さんは……結局、目覚めなかった。

 目を閉じたまま、意識を閉ざしたまま、彼は今も病院のベッドの上にいる。

 

 ……でも、いい。

 私はもう、彼がいつか必ず起きてくれるって、そう信じているから。

 

 幸せも、日常も、世界も。そのどれも、信じられないとしても……。

 私の手を取ってくれたあの人のことだけは、きっと信じられる。

 

 

 

 そして、私は……。

 ひたすらに、トレーニングを重ねた。

 スペ先輩との会話以来、いつもの絶好調とは行かないまでも、ある程度トレーニングに集中できるようになった。

 だから、昌さんの監視の下、ひたすらに走り続けた。

 

 勝つことで、歩さんを救えるわけではないと思う。

 昌さんは「勝たなければ兄は絶望する」って言ってたけど、私はそうは思わない。

 彼が求めているのは、勝利なんていう分かりやすい結果ではない、もっと曖昧でぼんやりとした、けれど得難いものだと思うんだ。

 

 ……それでも。

 いつか目覚める歩さんを、喜ばせることは、できるはず。

 

 私は、あの人に相応しいウマ娘になりたい。

 あの日、あの人が私を救ってくれたように……。

 いつかはあの人を救ってあげられるような、そんなウマ娘になりたい。

 

 でも、私は彼の目を覚まさせることはできないし、過去のトラウマを払拭させることもできない。

 私はスペ先輩の言う通り、背負って、走って、信じることしかできない、普通のウマ娘だから。

 

 ……だから、せめて。

 いつか、あの人が笑ってくれるように。

 「君のトレーナーで良かった」と、少しでも喜んでくれるように。

 

 私は……トレーナーの期待を背負い、有記念を走って、彼の目覚めを信じる。

 

 

 

 

 

 

 着ていた制服を脱ぎ去り、私はモノクロのインナーと、深紅のジャケットを身に着ける。

 そして……指先でパチンと、胸元のブローチを弾いた。

 静かに、けれど煌びやかに、灰の星々が散るのを鏡で見ながら……。

 

 1つ、頷く。

 

「……よし、行くか」

 

 12月、22日。

 

 今年最後の、決戦へ。

 

 

 







 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、有記念前編。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました。


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等身大の、私として

 

 

 

『ついにこの日が来ましたね。今年の締めくくり、年末の大一番、G1レース有記念。

 今年はこれ以上ないと言える程の、とんでもなく豪華なメンバーとなりました』

『異次元の逃亡者、圧倒的な強さを私たちに見せつけるサイレンススズカ。

 我らが誇る王道中の王道、ダービー、天皇賞、そしてジャパンカップを制した、スペシャルウィーク。

 本来逃げに不利とされる長距離においてこそ真価を発揮するトリックスター、セイウンスカイ。

 芝の短距離、マイル、中距離、長距離において、それぞれ1つずつG1勝利を収めるオールラウンダー、ハッピーミーク。

 ジャパンカップでのマッチレースも記憶に久しいターフの名優、メジロマックイーン。

 先日ダイイチルビー、ケイエスミラクルという2人のライバルを下し、マイルチャンピオンシップを制したダイタクヘリオス。

 そして新世代の最強、不可能を覆す灰の龍、無敗の三冠ウマ娘ホシノウィルム。

 G1ウマ娘が7人、そして合計したG1勝利数は国内のものだけに限っても、なんと21! まさしく世紀の決戦と呼んでいいレースになるでしょう!』

 

 

 

 私のいる地下バ道にまで、実況解説の声が聞こえてくる。

 

 ……その言葉通り、今日の有記念は、おおよそ類を見ない程の、とんでもないレースになるだろう。

 スズカさん、スぺ先輩、スカイ先輩、ミーク先輩、マックイーンさん、ダイタクヘリオスさん、そして私。G1レースを獲った実績を持つウマ娘だけでもこれだけいるんだ。

 更にここに、未完の大器とも言われるライアン先輩、レースを荒らしに荒らすターボ師匠、策謀で展開を握りに来るネイチャ、復活した大天才であるテイオーもいる。

 

 分類に分けても、かなりひどい。

 1人いるだけでもレースが荒れることになる大逃げウマ娘が3人。

 展開を自在に操ることのできるレースメーカーも2人いるんだ。

 はっきり言って、今回の有記念は誰にも予想の付かないレースになるだろう。

 

 ……あるいは、歩さんが起きていれば、予想もできただろうか。

 

 

 

『本日の1番人気は、全てのファンの夢を背負った異次元の逃亡者、サイレンススズカ!

 彼女がトゥインクルシリーズのレースに出走するのは、あの天皇賞以来、実に3年ぶり。これまでは海外のレースをモニター越しに見るばかりでしたが、ついに私たちも、彼女のレースをこの目で見ることができます』

『彼女とスペシャルウィーク、セイウンスカイにとっては、これがラストランでもあります。

 復帰したサイレンススズカの最初で最後のレース、一瞬たりとも目を離すことができませんね』

 

 

 

 今日の1番人気は、スズカさんだ。

 というか彼女に至っては、敗北する姿を想像できないって人も多いんだろう。

 大逃げを始めてからのサイレンススズカは、海外のレースも含め、1度たりとも他者に負けたことがない。どのようなレース場、どのような天候やバ場であろうと、必ず勝利を収め続けてきたんだ。

 完全なものではないとはいえ、無敗という実績は大きな意味を持つ。

 だからこそ、彼女の勝利を信じ、祈る人はとても多いんだろう。……それこそ、私以上に。

 

 とはいえ、スズカさんに関しては、不安要素がないわけではない。

 ジャパンカップが終わった直後に歩さんが推察してたけど、今回のレースの距離は、彼女が本領を発揮するにはいささか長すぎるらしい。

 サイレンススズカの主戦場は、1800から2200メートルまでの中距離。2500メートルという長距離は、彼女にとっても初めての挑戦となる。

 

 トレーナー曰く、スズカさんの長距離適性は、私のSやスペ先輩やマックイーン先輩のAに1枚劣るB。

 有利不利の問題で言えば、彼女はやや不利であると言えるだろう。

 

 そしてそれは、トレーナー程に正確な分析ではないにしろ、多くの人が知るところだ。

 

 サイレンススズカの強さは多くのメディアが分析している。

 それは逆に言うと、彼女の弱点もまた、解析され尽くしているということでもある。

 異次元が異次元足り得るのは中距離まで、つまりどれだけ長くても2400メートルまでであると、多くの人がそう認識している。

 

 ……しかし。

 それでも、信じたくなるものはあるんだろう。

 

 不敗の伝説が、不敗のままに終わることを。

 あらゆる困難を薙ぎ倒し、彼女が最強の座に立つことを、あの日に彼女の大逃げに魅了されたすべての人が夢見ている。

 

 あぁ……そうか。

 考えてみれば、この有記念の前半は、無敗同士の衝突ってことになるのか。

 完全に無敗というわけではないけど、既に本格化を終えて完成しているサイレンススズカ。

 無敗のウマ娘だけど、まだ本格化の途中で完成していないホシノウィルム。

 どちらがより速く、より前に出るのか……。恐らくは多くの観客が、その勝負にも注目している。

 

 そして、レース前半で注目されるウマ娘がスズカさんだとすれば……。

 後半で注目されるのは、やっぱり彼女だろう。

 

 

 

『2番人気はスペシャルウィーク! あの日に日本の威信を背負って立った彼女が、再びグランプリに殴り込みです。

 競い続けた不死鳥は夢の舞台に上がって不在、彼女は今度こそ栄光のセンターの座を勝ち取れるのか!? ホシノウィルムとの新旧日本総大将対決にも期待が高まりますね!』

『スペシャルウィークは高いスタミナと恐るべき末脚を兼ね備えるウマ娘。2500メートルという距離を考えると、適性の面ではサイレンススズカに優るものがあるでしょうね。その王道の脚質は、この大荒れするレースにおいてどれだけ猛威を振るうのか?』

 

 

 

 スペ先輩は、スズカさんに次ぐ2番人気。

 数多のG1レースに参加しておきながら圧倒的な連対率を誇っていた彼女は、その戦績を以て王道戦法の強さと自身の群を抜いた実力を示している。

 獲ったG1は4つだけど……もしも彼女が別の世代に生まれていれば、その数はもっと増えていただろうと思えるくらいに、彼女は強大だ。

 

 これまでのグランプリレースでは、黄金世代のライバルだったグラスちゃんに阻まれて記録を出せなかったらしいけど……今日は彼女もいない。

 前世アニメでもよく見たスペ先輩のライバル、エルコンドルパサーちゃん、グラスワンダーちゃん、そしてキングヘイローちゃんにツルマルツヨシちゃん。……ツルマルツヨシちゃんは、前世では知らなかったけども。

 彼女たちは既にトゥインクルシリーズを引退し、ドリームトロフィーリーグに進んでるからね。

 

 彼女の栄進を止めていた難敵はもういない。スズカさんの適性のような難点もない。

 故に、今回の有記念において最も「圧勝を期待されている」ウマ娘が、長い時を経て奇跡の復活を果たしたサイレンススズカさんだとすれば……。

 最も「勝つと予測されている」ウマ娘は、スペシャルウィーク先輩になるんだろう。

 

 ……そう。

 スペ先輩は、私以上に勝利を見込まれているんだ。

 

 

 

『そして3番人気はホシノウィルム! 無敗の三冠ウマ娘たる彼女も、このレースの主役の1人です!

 しかし、彼女が3番人気であるという事実がこのレースの異様さを表していますね。まさかこれまでに圧倒的な強さを見せつけ、日本を魅了してきた彼女が、1番人気から外れる日が来るとは……』

『彼女のトレーナーは現在、交通事故で入院中とのこと。現在はサブトレーナーが臨時のトレーナーとして付いています。1番人気を譲ったのには、その辺りの事情もあるのでしょう。

 本調子とはいえない状況かもしれませんが、それでも彼女は灰の龍。不利であろうと、相手が誰であろうと、勝ってくれるのではないか……。そう思わせてくれるものがあります』

 

 

 

 やはりというか、私の人気は落ちてしまった。

 

 手前味噌な話になるけど、これでも私は無敗の三冠ウマ娘だ。

 そんなウマ娘のトレーナーが交通事故で昏睡し、ウマ娘の方も不調の兆しを見せているとなると、話題性としては十二分。

 私や昌さんにそういうのを隠す余裕がなかったってこともあり、噂はかなりの速さで広まってしまった。

 

 ここまでホシノウィルムが無敗を貫けていた理由は、大きく分けて2つ。

 1つは勿論、私の素質。転生ウマ娘としての高いポテンシャル。

 そしてもう1つが、トレーナーの完璧な管理体制。軽い怪我すら許さない、それでいて限界ギリギリまで体を追い込む、徹底的な育成方針とそれ見合うだけの監督能力だ。

 

 「ホシノウィルムの能力はトレーナーにも強く由来する」ってのは、決してマイナーな話じゃない。

 ……というか「トレーナーのおかげで私はここまで来れた」「トレーナーの管理体制は最高」って、私自身が散々に喧伝しちゃってたからね。

 更に、トレーナーもそれに応じる形で、様々な取材を通して、自分の育成方針や方法を世間に詳らかに語ってしまっていた。

 結果として、少なくともトレーナーとしての能力という側面において、彼の評価は途轍もなく高くなっていた。

 

 そんな彼が欠けた状況は、謂わばホシノウィルムの片翼がもげたようなもの。

 共に歩んで来たトレーナーがいない今、ホシノウィルムがどこまでやれるのか……。

 多くの人がそれを不安視、あるいは疑問視しているわけだ。

 

 実際問題、殊更昌さんの仕事に不満があるわけではないけど……何度か、アクシデントとか失敗、すれ違いはあったからね。

 歩さんがいた瞬間に比べれば、この2週間のトレーニング効率が下がっていることは間違いない。

 

 

 

 ……それでも、負けるつもりはないけどね。

 

 昌さんとの連携は不完全だし、トレーニングでの失敗はあった。

 けれど、その根底には歩さんのスケジュールがあったし、昌さんと一緒に、やれるだけやって来たもの。

 そう簡単に、勝利をくれてやる気はない。

 

 昌さんも……確かに歩さんに届かない部分はあったかもしれないけど、すごく頑張ってくれた。

 ライバルたちの調査から私の微細な調整、必要なものの買い出しとか書類の整理に施設の使用許可申請といった基本業務は勿論のこと……。

 支障が出ない範囲でインタビューや取材などの仕事を減らし、私が落ち着いてトレーニングを積むことのできる状況を作ろうとしてくれたんだ。

 それこそ三冠を獲った直後の歩さんもかくやってくらいに、睡眠時間も個人的な時間も全て削って……懸命に、彼の不在が空けた穴を埋めてくれた。

 本当に、感謝してもしきれない。

 

 それに、頑張ってくれたと言えばブルボンちゃんもそうだ。

 あの子は自分のトレーニングをある程度放棄してまで、私のサポートをしてくれた。

 「私も先輩に多くのサポートをしていただきましたから」って、仮想敵として走ったり、色んな雑用を代わってくれたりもしたんだ。

 

「すぅ……ふぅ」

 

 冷えた空気を吸い、吐き出す。

 

 だから……私は。

 

 昌さんの努力、ブルボンちゃんの期待を背負って。

 有記念を走り。

 ……彼を、信じる。

 

 私は私に、私なりに……転生ウマ娘として、できることをするんだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「ウィル」

 

 背後から、少しおどけたような、聞き慣れた声が届く。

 振り返らずともわかる。その主は……。

 

「ネイチャ」

「よ」

 

 私が振り返った先で軽く片手を上げたのは、なんだか久々に会ったような気がする、私のライバル。

 シンプルでシックな勝負服に身を包んだ、ナイスネイチャだった。

 

 彼女はぷらぷらと手を振りながら、私の元にまで歩いて来る。

 

「何、地下バ道なんかで立ち止まって。アンタらしくもなく緊張してるの?」

「む……緊張してはいけませんか?」

「いけなくはないけどさ。でも、アンタらしくはないんじゃない?

 いつも『勝つのは私ですし』みたいな顔をしてるのが、アタシの知ってるホシノウィルムだし」

「この有記念を前にそんな顔をしてたら、その子は余程呑気なんでしょうね」

 

 ネイチャの軽口に、思わず苦笑する。

 

 私、これまでそんな顔してたかなぁ。

 初期の無謀な自信を持っていた頃ならともかく、少なくとも宝塚記念あたりからは、1回1回しっかり気合を入れて臨んでたと思うんだけど。

 

 ちょっと心外なことを言ったネイチャは、コツコツと蹄鉄の音を響かせながら、ターフへと歩いて……。

 けれど、私の横で、足を止めた。

 

「……行かないんですか?」

「アンタが緊張するレースで、アタシが緊張しないわけないでしょうに」

「その割には、震えたりとかしてませんけど」

「そりゃこの時のために頑張ってきたんだもん。今更震えてなんていられないっしょ」

「矛盾してるような、あるいは覚悟が決まったような……複雑な状態ですね」

「ウィルは初めて知ったかもしれないけど、レース前のウマ娘って、普通はそんなもんだからねぇ。

 レースにすっごい緊張しながらも、それでも今までの努力を信じて自分を奮い立てるものなんですよ」

 

 やれやれと、ネイチャは肩をすくめる。

 

 ……そうか。みんなこんな状態なのか。

 そりゃ、なんというか……すごいな。

 

 今までのレース、私はずっと自信を持って走れた。

 初期の頃は、恥ずかしながら井の中の蛙で、レースには勝って当然だと思ってたし……。

 それが抜けた辺りからは、信頼するトレーナーがいたから、彼を信じて走れば間違いはないって思えた。

 

 けれど、あるいはだからか。

 彼がいなくなると……一気に不安になる。

 

 今日のレース、大丈夫かな。

 作戦は間違ってないか。脚の調子は悪くないか。見落としたことはないか。そもそも私は勝てるのか。

 それがすごく不安になって、何度も何度も繰り返し考えてしまう。

 そんな状態を、すごく大雑把にまとめれば……やっぱり「緊張してる」ってことになるんだろうな。

 

 ……でも、まぁ。

 これはこれで悪くないかな。

 

「緊張というのも、悪いものじゃありませんね。このドキドキ感、クセになりそうです」

「うへ……なんというか、すごいわ。こんな状況だし、ちょっとは動揺してるかもと思って声かけたけど……むしろ気合十分って感じ?」

「お気遣いありがとうございます。でも、私は大丈夫。今はしっかり集中できてますよ」

「……まったく、テイオーもウィルも、みんな勝手に立ち上がってんだから。やっぱ主人公は違うね」

「テイオー?」

「この前、ちょっとね。心配しなくとも、今はテイオーもしっかり集中できてるよ」

 

 「さて……」、と。

 ネイチャは、私に先んじて1歩前に踏み出す。

 

「……そろそろ行こうよ、ウィル。

 もしかしたら敵わないかもしれない、もしかしたら勝てないかもしれない……誰も予想ができない、アタシたちのレースに」

「ええ。……まぁ、私が勝ちますが」

「ふんっ、今度こそアタシが勝つっての!」

 

 そんな風に軽口を叩きながら、私たちは……。

 ターフの上へと、足を踏み出した。

 

 

 

 * * *

 

 

 

『本日の出走ウマ娘たちが続々とターフに現れます。

 三星の一角、菊花賞2着のナイスネイチャ。そして無敗の三冠ウマ娘、ホシノウィルム!

 2人共、まさに意気軒昂といった様子ですね』

『パドックでも確認しましたが、両者その仕上がりは万全と言えるでしょう。果たして星の世代は、その強さを証明することができるか?』

 

 

 

 聞こえてくる言葉に、思わず苦笑しかける。

 

 ……どうだろうな。

 今回は環境が環境だ、私もネイチャも、本領を発揮できるとは限らない。

 

 まず私に関しては、やはりライバルに2人も大逃げウマ娘がいるのが相当に大きい。

 特に、師匠はさておくとしても、やはりスズカさんにはスペックで勝てないからね。

 先頭にいる限りスタミナが無限大で、終盤に入って領域を開けば完全に無敵と化すスズカさんを超えるには、かなりとんでもない労力を要する。

 

 なんなら、そこまでを1つのレースとして区切って欲しいくらいだ。

 いやそれはそれで距離が短くなって、スズカさんに有利な状況になってしまうんだけども……。

 「対スズカさん」だけなら、今回のような長距離の方が有利なのは確かだ。でも、その後後続のウマ娘たちから逃げ切らなければならないと考えると……この距離の長さがネックになってくると思う。

 

 そしてネイチャにとっても、今回の有記念は熾烈なレースになるだろう……というのが、私と昌さんの立てた予測だった。

 

 レースメーカーであるネイチャは、これまで常にレースの展開を手中に収めて来た。

 徹底的なライバルの動きの予測と作戦立案、本番前に散りばめた布石と心理誘導によって、自分の好きなようにその流れを作り上げて来たんだ。

 

 ……でも、今回も同じように事を進められるかはわからない。

 なにせ、同じくレースメーカーであるスカイ先輩がいる。レース勘も経験値も勝り、更に言えば素質も能力も高いであろうスカイ先輩がいる以上、ネイチャは相当にやり辛くなると思う。

 

 とはいえ、スカイ先輩も本領が出せるとは言えない。今回は私やスズカさんがいる以上、スカイ先輩の領域が実質的に封印されるんだ。

 それならいっそのこと、努めて無視して事を進めるのが一番マシかもしれないけど……。

 

 しかし、スカイ先輩を棚上げしたとしても、今回は彼女の策を正面から食い破り越えかねないウマ娘が多すぎる。

 スペ先輩とかマックイーン先輩に対してネイチャがどう出るのか、個人的にはすごく気になるところだ。多分私の耳には入ってこない攻防になるだろうけど。

 

 総じて、今回のレース……有記念は、今までとは格が違うものになる。

 果たして、私とネイチャの策が、走りが、どこまで通用するのか……。

 それは、実際に走ってみないことにはわからないだろう。

 

 

 

 ターフに上がった私はネイチャと別れて、ターフの周遊とストレッチに入る。

 

 勿論、ここまでの時間で体は伸ばして来たし、既に走り出せるだけの状態は整っている。

 けれど、こうして軽く周遊することで、その時々のターフの状態を感覚的に知ることができるし、精神をレースに集中させることもできる。

 

 ……それに何より、準備にやりすぎるってことはないからね。

 レース中に事故なんて起こさないよう、徹底的に体の調子を整えなきゃ。

 

 

 

『本日のレース、有記念。開催される中山レース場は雲1つない快晴に照らされています。

 バ場状態は良バ場、ターフの状態も良好。名勝負の舞台は整い、役者は揃いましたね』

 

 

 

 芝の状態は悪くない。というか……これまでにないくらいに良い。

 脚を下ろせば、しっかりと感触が返って来る。軽すぎず、けれど重すぎない、気持ちの良い反発だ。

 うん、これ以上なく走りやすい状態と言えるだろう。

 

 一方で、私の脚は……良い状態、だと思う。

 歩さんがいないから断言はできないけど、完璧とまでは言えないとしても、非常に良好なコンディションであるはずだ。

 

 というか、完璧なんてものはそうそう起こり得ないハズなんだ。

 あくまでも歩さんの管理能力が高かったからそういう状態になってただけで、本来はこの「多分大丈夫」っていうのが万全の状態なんだろう。

 

 そう。私は今、万全の状態にある。

 

 ただ、問題があるとすれば……。

 私が万全の状態だとしても、今回のレースは勝てるか怪しいってところで。

 

 

 

『さぁ、本日の主役が登場です。

 日本最強とも名高い彼女が、多くの夢を背負って2年ぶりに中山レース場に現れました!

 あの日の惜敗を越えて、今度こそ! 本日の2番人気、スペシャルウィーク!』

 

 

 

 わっと、観客が一際盛り上がる。

 そんな大歓声を受けて、地下バ道から進み出て来たのは……。

 私にとっては見慣れた、1人のウマ娘。

 

「スペシャルウィーク先輩……」

 

 今、誰よりも期待され、勝利を予期されるウマ娘。

 彼女は堂々と、しかし気負いする様子もなく、強者の風格を負い、ターフの上に歩み出て……。

 

 

 

 私を見つけると、その鋭く尖っていた相好を崩し、ぶんぶんと手を振って来た。

 そして、駆け足で近寄って来ようとして……。

 

「ウィルムちゃーっ、うえっ、へぶっ!」

 

 思い切り、ずこーっと転んだ。

 

 

 

「……えぇ?」

 

 まるでギャグ漫画みたいにずさーっとターフの上を滑ってきた先輩は、私の前でようやく止まって……まるで何事もなかったかのように、ばっと顔を上げる。

 

「こんにちは、ウィルムちゃん!」

「あ、はい。……先輩、大丈夫ですか?」

「うん、大丈夫! へへ、慣れっこだからね」

「慣れっこ……。なんというか、不良バ場じゃなくて良かったですね」

「うん! へへ……」

 

 ちょっと照れくさそうに笑い、スペ先輩は立ち上がる。

 

 ……確かに、スペ先輩は前世アニメにおいて、ドジっ子の気があった。

 こう、レースでゴールの位置を間違えたり、割と大事な局面で転んでしまったりする、どことなく垢抜けない純朴な感じが。

 しかしまさか、こういう時にまでそれを発揮してしまうとは……。

 

 意外と思うべきか、やっぱりと思うべきか。

 やっぱりスペ先輩は、前世でモニタを通して見た「スペちゃん」の、延長線上にいる存在なんだろう。

 

 それが何となく嬉しくて、思わず苦笑してしまう私に対して……。

 先輩は、安心したように微笑んだ。

 

「……うん、良い表情。もう大丈夫そうだね」

「はい。あの日は、その、お世話になりました」

「私は何もしてないよ。ウィルムちゃん、やっぱり私よりずっと強い子だね」

「そんなことないです。……今落ち着いてるのも、スペ先輩と、サブトレーナーさんと後輩の子、それにライバルのウマ娘。みんなに支えられてる結果ですから」

「そっか」

 

 スペ先輩はニコリと、穏やかに笑って……。

 

「良かった。これで、悔いのないレースができるね。私も、ウィルムちゃんも」

 

 そう、言ったのだった。

 

 

 

 アニメの内容を振り返れば、はっきりとわかるけど……。

 スペ先輩は、極めて「ウマ娘らしい」ウマ娘だと思う。

 

 走ることを楽しみ、競うことを楽しみ、レースを楽しむ。

 自分の願いのために他者の願いを踏み越え、たった1つの頂を目指す。

 極めてエゴイスティックな……あるいはアスリートとしてこの上なく誠実な、精神的な在り様。

 

 それが、この世界にいるウマ娘の本質。

 そして、スペシャルウィーク先輩の根底だ。

 

 しかし同時、彼女は心優しい少女でもある。

 だから、せっかく走るなら互いに絶好調で走り、全力を尽くし合って、その上で勝ちたい……と。

 そう、望んでくれるんだ。

 

 だからあの日、彼女は私のことを元気づけてくれようとしたし……。

 今までも、すごく気にかけてくれてたんだろう。

 

 慈悲というには利己的すぎて、憐憫というには熱すぎる想い。

 それが、今の私には、ありがたかった。

 

 

 

「色々とありました。世界に、運命に裏切られたような気もしました。苦しかったり辛かったり悩んだりもしましたし、自己嫌悪にも陥りました。

 ……けど、結局は先輩の言う通りです。

 私たちウマ娘にできるのは、背負うこと、走ること、信じることくらいで……天命を待つ前に、やはりできることはしないといけないと、そう思いました」

 

 私は先輩に、自身の想いを吐き出す。

 

 「できないことでウジウジ悩む前に、できることを1つずつ片付けて行こう」と……。

 そんな単純な結論に行き着くのに、本当に長い時間がかかってしまった。

 

 でも……今思えば、悪くない経験だったと思う。

 多くのことを考えて、多くのことに悩み、その結果多くのことを学べた。

 きっと、トレーナーに依存してばかりではできなかった成長を、私はすることができたと思う。

 

 だから……。

 

「だから、全力で行きます、先輩。今日は良いレースにしましょう」

「!」

 

 全力を尽くして、それを返礼としよう。

 最高のレースを。全力の競り合いを以て……私は、この学びをくれたスペ先輩へのお礼とする。

 

「うん! お互い頑張ろう!」

 

 そう言って、スペ先輩はにっこりと満面の笑顔を見せて、握手してくれたのだった。

 

 

 

 その後、スズカさんがターフに現れると、スペ先輩は彼女の方に飛んで行ってしまった。

 先輩の語っていた通り、やっぱりこの世界でも、彼女たちは相当に仲良しらしい。

 

 ……この有記念は、2人にとってのラストラン。

 トゥインクルシリーズでぶつかることのできる、最初で最後のレースでもある。

 「一緒のレースを走る」っていう約束を果たせる、最初で最後の、特別な機会。

 だからこそ今、2人は……しっかりと握手し合い、健闘を誓いあっていた。

 

 ……いや、この有記念が特別なのは、何も2人に限った話じゃないのか。

 ふと見れば、色んなところで、色んなドラマが起こっている。

 

 ネイチャがテイオーに、「若駒ステークスでは負けたけど、今度はアタシが勝つから!」って宣言していたり。

 そこにターボ師匠が「ターボも負けないからなーっ!」って殴り込んでいたり。

 マックイーン先輩がスカイ先輩に「天皇賞の雪辱は果たさせていただきますわ」って宣戦布告したり。

 ミーク先輩が、スペ先輩やスカイ先輩に「今日勝つのは私です。ぶい」といつも通りの無表情で言っていたり……。

 

 私の関わって来たウマ娘たちが、皆、それぞれの物語を書き記していく。

 

 ……ある意味で、ウマ娘にとって「特別なレース」なんてものはないのかもしれないね。

 だって、彼女たちにとって……。

 いや、私たちにとって。

 これから走る全てのレースが、人生で1度きりの大事なレースなんだから。

 

「……私も、行くか」

 

 ひとまず、ネイチャとテイオーの前で勝利宣言と行こう。

 

 私だって、この世界を生きるウマ娘だもの。

 目の前のレースを楽しまないとね。

 

 

 

 * * *

 

 

 

『さぁ、ウマ娘たちが続々とゲートインしていきます。

 一般的に外枠が不利と言われる有記念、今回の枠番はどうでしょう?』

『注目の1番人気サイレンススズカは8枠15番、2番人気スペシャルウィークは1枠2番、そして3番人気ホシノウィルムは4枠7番。

 単純なスタート位置で見ると、サイレンススズカが不利と言えるかもしれません。しかし、彼女はあの異次元の逃亡者、サイレンススズカです。果たして常識が通用する相手なのでしょうか』

 

 

 

 ゲートの中でまぶたを閉じ、状況を整理する。

 

 ……枠番は、悪くない。

 4枠は統計的に言って、もっとも勝率の高い枠だ。ウマ番で見ても、最高とまでは言えないまでも高い勝率を持つポジションと言える。

 

 一方で、スペ先輩やスズカさんの位置は……微妙なところ。

 特に、序盤にリードを稼ぐべき大逃げウマ娘であるスズカさんにとって、大外枠であるという事実はかなり重く響くだろう。

 何せこのレースは有記念、最初からコーナーに入ることになる。飛ばせば飛ばす程に、彼女は遠心力に振り回されて外に逸れてしまう。

 

「…………良し」

 

 運は、私の味方をしてくれている。

 あとは、私自身の力で……勝つだけだ。

 

 

 

『さぁ、全ウマ娘のゲートインが完了。出走の準備が完了しました』

 

 

 

 息を吸って、吐き……精神を、集中。

 レースが始まる気配に、思考が凍り付いていく。

 

 作戦は十全。

 準備は万端。

 対策は……不完全だけど、どうにかするしかない。

 

「行くぞ」

 

 

 

 ……今。

 最初で最後の、有記念が始まる。

 

 

 

 

 

 

『……スタートしました!』

 

 

 







 次回は2日後。ホシノウィルム視点で、有記念中編。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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灰の龍と逃亡者

 有記念、前半です。





 

 

 

『……スタートしました!』

 

 

 

 ガタンという音と共に、私も含め、ゲートの中にいた全てのウマ娘が駆け出す。

 

 流石は有記念と言うべきか、大きく出遅れた子なんて1人もいない。

 その中でも、上手くスタートを決めたのは……。

 

 私……ではなく。

 

 サイレンススズカさんだった。

 

「っ!」

 

 覚悟はしていた。

 ジャパンカップ直後の作戦会議で、トレーナーから「サイレンススズカは君以上のスタートを決めてくるだろう」と言われていたから。

 

 ……けれど、実際に目にすると、やはり衝撃があるな。

 

 まさか大外枠から、当然のように先頭を掻っ攫ってくるとは。

 

 

 

 私はこれまで、ただ1度として、スタートの時点で負けたことはなかった。

 というのも、歩さんと契約した後、しばらくの間はひたすらにスタートの練習をさせられたからだ。

 

 逃げウマ娘はバ群に呑まれない関係上、他のウマ娘との読み合いや、バ群から抜け出すための状況作りといったものが発生しない。

 しかしその分、誰よりも早く、そしてずっと先頭に立ち続けるために、他の脚質とは違ったものが求められるんだ。

 

 それは、時にレースをハイペースで走り切るだけのスタミナであり、時に他のウマ娘に迫られても負けないだけの心の強さであり……。

 そして、時に最初からハナを切るための、スタートダッシュでもある。

 

 堀野家の長い歴史から読み取ったのか、歩さんはそれをよく知っていた。

 

 しかし、そんな彼とは違って……トレセンに来た直後の私は、自身の基本的なスペックに依存した走りしかしてなかったんだ。

 出遅れようが掛かろうが、歩さん曰く「唯一無二の」スペックに頼って、全てを捻じ伏せて来た。

 ……いやまぁ、そんな技術も何もない走りをしていた結果、最初の模擬レースではものの見事に負けてしまったわけだけど。

 

 そんな不格好な走りを見ていたから、というのもあるだろうけど……。

 私と契約し、逃げに転向させた後、歩さんがまず掲げたのが「スタート技術の改善」だった。

 

 ひたすらに集中力を高め、レースが始まった瞬間、他のウマ娘よりもコンマ1秒でも早く駆けだす。

 本番で確実にこなせるよう、私はそれを何度も何度も、正直ちょっと嫌になるくらいに繰り返し練習し続けた。

 

 あの時に培われた経験は、今でもしっかりと活きている。

 「寒い」モードによる集中力もあり、私はこれまでのレースで1度もスタートで負けたことがなかったんだ。

 

 

 

 けれど。

 今、スズカさんは、私を超えるスタートを切った。

 

 ……横目に捉えていた体感だと、私たちはほぼ完全に同じタイミングで駆け出したはずだ。

 集中力は同格。私もスズカさんも、考えられる限り最高の走り出しだったと思う。

 それなのに、スタートから間もない今、既に差が付いてしまっているのは……。

 

 やっぱり、地力の差か。

 

 

 

 当然の話だけど、集中力さえあれば誰しも良いスタートが切れるわけではない。

 前へと駆け出すための脚力……トレーナーの言い方であれば、「加速力」が肝要になってくるんだ。

 

 私たちウマ娘はレースの初め、完全に静止しているゼロの状態から、自分の目指すべきペースにまで加速しなきゃいけない。

 そして当然のことながら、その加速が速ければ速い程に、ウマ娘はより前に出る。

 

 「サイレンススズカは長距離に適性がなく、最適な速度の出し方がわからないだろう」って、トレーナーは言っていた。

 だから、このレースにおけるスズカさんの最高速度は、本来のスペックから劣化してしまうだろうと。

 

 ……けれど、その加速力までも鈍るわけではない。

 サイレンススズカは、ホシノウィルムを優に超える加速力を持っている。

 更に言えば、その最高速度に関しても、劣化した上でようやく私と同格程度だろう。

 

 つまり、結論はただ1つ。

 私の脚では、彼女に追いつくことはできない、ってことだ。

 

 

 

『18人のウマ娘が綺麗なスタートを切りました!

 さぁ大逃げウマ娘サイレンススズカが行くのか、栗毛と緑の勝負服がバ群から出てきます。やはりハナを切るのはサイレンススズカか!』

『後ろに付いたのはホシノウィルム、次いでツインターボという形か。ぐいぐいとバ群を引き離す3人に少し遅れる形でダイタクヘリオスが続く、予測されたことではありますが途轍もないハイペースでレースが始まりました!』

 

 

 

 ……でも。

 それは、予想通りの展開でしかない。

 純粋なスペック勝負になれば、私に勝ち目なんてものはない。そんなの最初からわかっていたさ。

 

 私はこれでも、かなり高い身体能力を誇っている自負がある。

 同期のトップレベルであるテイオーやネイチャにも、スペックの押し付けで勝てるくらいなんだ。

 おおよそ世代間で比べれば、このスペックは突出していると思っていいだろう。

 

 でも、スズカさんには勝てない。

 トレーナーの分析によると、勝っているのはスタミナと戦術眼くらいで、前者はスズカさんの特殊性から考えて不必要なものだし、後者もスペックでゴリ押すタイプのスズカさんには必要性が薄い。

 

 つまり……彼女が勝負に用いる身体能力において、私は何1つスズカさんに勝てていない。

 それだけ、サイレンススズカというウマ娘は飛び抜けているんだ。

 

 ……しかし、それを覆すためにあるのが、作戦。

 歩さんが骨子を組み立て、私と昌さんで肉付けしてきた、競走ウマ娘ホシノウィルムの作戦だ。

 

 ここから先、どうすればいいか。

 それを頭に思い浮かべながら、私はあの日に聞いた話を思い出す。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 大逃げに転向して以来、サイレンススズカは他者に負けたことがない。

 

 これまでの4年間で敗北を喫したのはただ1度、彼女のシニア級1年目、天皇賞(秋)の時のみ。

 それにしても、彼女が負けたのは自分自身の限界に、だ。

 決して、他のウマ娘に捕まったわけじゃない。

 

 大逃げを取るサイレンススズカは、原則として敗北することがない。

 その強さの最大の理由は……やはり、彼女の埒外のスタミナだ。

 

 

 

 サイレンススズカは、垂れない。

 どれだけのハイペースで走ろうと足を緩めることなく、むしろ加速し続ける。

 

 土台、ウマ娘が先行とか差しなんて作戦を分けるのは、脚質の適性……つまり、それぞれの体に適したペース配分があるからだ。

 最初にハイペースを出して、そこで稼いだリードでローペースに落ちた後も逃げ切る、とか。

 あるいは最初はローペースで走り、最後にハイペースで一気に追い込む、とか。

 ウマ娘のレースにおいては、そういった全体を通したスタミナ配分が非常に重要になってくる。

 

 ……けれど。

 サイレンススズカの無尽蔵のスタミナは、その常識を完膚なきまでに破壊する。

 

 最初から最後まで、誰も追いつけないハイペースで走る。

 それは酷く夢想的な、言ってしまえば「ぼくのかんがえたさいきょうのはしり」みたいなものだ。

 それができれば最初から苦労はしない、非現実的な……まさしく、叶わないはずの夢のような走り。

 

 しかし彼女は、彼女だけはそれを可能とする。

 

 あの日、トレーナーはスズカさんをこう評した。

 

『理屈はわからないけど、前に誰もいなければ、彼女は垂れずに加速し続ける。そして加速し続けるからこそ、彼女よりも前に出ることは難しい。

 更に終盤、他のウマ娘がいよいよ加速する頃になると、彼女は領域を開いて更に加速するからね。

 どうやっても倒せない。倒せる未来が見えない。だからこそ、彼女は『異次元』って呼ばれてたんだ』

 

 彼女にとっての勝利条件はただ1つ、「常に自分が先頭に立っていること」。

 それを満たす限り、彼女のスタミナは無限だ。どれだけハイペースで走ろうと、それでもなお加速し続けることができる。

 

 この異次元の逃亡を止めるためには、彼女よりも前に出なければいけない。

 ……だが、無限に加速し続けるということは即ち、彼女よりも最高速度か加速力が優っていなければ追い抜けないという意味でもある。

 そして、スズカさんの最高速度と加速力は、両者共に途轍もない高さを誇っているんだ。……それこそ、あのスペ先輩ですら超えられない程に。

 

 地力か、あるいは一時的な爆発力によってその背を越えなければ、サイレンススズカは止められない。

 けれど、彼女の持つ暴力的なまでの身体能力と逃走の技術が、それを許さない。

 

 だからこそ、『異次元』。

 土台、並みのウマ娘とは次元が違う。まともに勝負することすら許されない。

 

 それが、異次元の逃亡者、サイレンススズカだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

『注目のスペシャルウィークは現在11番手、バ群の中、メジロマックイーンのやや後方からレースを見ています。

 同じく黄金世代ハッピーミークはやや前めから積極的に行く姿勢か。復活したトウカイテイオーと並び先行集団外目で追走』

『予想通り、大逃げウマ娘3人がペースを作る形で第三コーナーを曲がっていきます。先頭からサイレンススズカ、食い下がるツインターボ、そしてそこから1バ身程離れてホシノウィルム、更に3、4バ身程空いたところにダイタクヘリオス』

 

 

 

 有記念というレースにおける大きな特徴の1つが、最初のコーナーだろう。

 

 多くのレースは、それが長かったり短かったりはするけど、とにかく直線から始まる。

 少なくとも、私が今まで走ったレースは全てがそうだった。

 

 けれど、有記念は2500メートルという距離の都合上、外回りの緩い曲線、第三第四コーナーに続くところから始まる。

 つまりは、レースが始まってすぐ、コーナーに入るってことだ。

 

 そして、コーナーの中でスピードを出そうとすれば、どうしたって遠心力に邪魔される。

 進む力が外に逃げてしまって、どうしても無駄が発生してしまう。

 

 だから……まだだ。

 まだ、その時じゃない。

 

 私は努めて冷静に、目の前を走る2人の大逃げウマ娘を観察する。

 

 

 

 サイレンススズカ、そしてツインターボ。

 

 私の前にいる2人の走りは、良くも悪くもワンパターンだ。

 最初から全力疾走、大きくリードを広げない限り息も入れずに、ただひたすらに逃げ続ける。

 

 だからこそ、この2人がぶつかった時に起こることなんか、誰にだって想像できる。

 

 そう。……壮絶な、叩き合いだ。

 

 ツインターボが前に出ようとして、追いつかれまいとサイレンススズカが加速する。

 加速したサイレンススズカを見て、ツインターボが更にエンジンに火を入れる。

 

 レース全体で割り振るスタミナとか、今がコーナーの中だとか、そんなことは何一つ考えていないだろう、まるで子供のかけっこのような全力疾走。

 

 問題は、それがG1という、国内最高峰のレースで行われることで。

 

「…………、っ」

 

 

 

『ぐんぐんバ群との差が開きます、先頭3人はもはや異次元の戦い! 400メートル通過する前から、既に8バ身以上の開きがあります!』

『殺人的……いえ、もはや殺戮的と言っていいペースです! いくら逃亡者や龍とはいえ、こんな速さで2500メートルの間走り続けられるのか!?』

 

 

 

 ……正直、なかなか厳しい。

 

 彼女たちの後ろに付いて風を避けながらでも、このスピードで走り続けるのは堪える。

 2500メートルは……うん、持たないだろう。

 

 勿論、ただ付いて行っているだけの私に比べて、前で直接競り合ってる2人は更に消耗するはずだ。

 レース全体の展開を考えない、スタミナの分配なんて度外視した戦い。こんなもの、意地の張り合いにも等しい。

 

 特に、先頭にいる限りは無尽蔵のスタミナを持つスズカさんはともかく、ターボ師匠にとっては途轍もない疲労なはずだ。

 

 それこそ……。

 走り始めてからたったの400メートル強で、既に足取りが怪しくなりつつある程に。

 

 

 

 ツインターボに、控えるなんて言葉はない。

 先頭を取り、大きくリードを広げ切るまで、彼女はどこまでも走り続ける。

 けれど……異次元の逃亡者がいる今回のレースにおいて、彼女はまず先頭を取れない。

 

 だから……恐らく、その限界は500メートル。

 おおよそこの第四コーナーが終わる辺りまでだろうというのが、私と昌さんの予想だった。

 

 ターボ師匠のスタミナは、そこで尽きる。

 そこからは、スズカさんに付いて行くこともできず、垂れるだけだろう。

 

 その瞬間が、私にとっての勝負処。唯一サイレンススズカを追い抜くチャンスだ。

 だからそれまで、私は不用意にスタミナを使わない。

 菊花賞でのネイチャのように、ライバルの後ろに付いて風を避け、極力脚を残しながらサイレンススズカに追従する。

 

 それが昌さんと考案した、最も適切な対策。

 

 そして、ツインターボの足音からして……それは正しいものだと思えた。

 彼女はもう限界だ。恐らく直線に入るや否や、垂れてしまうだろう、と。

 

 

 

 

 

 

 ……けれど。

 

 事態は、そう上手くは動かない。

 

 

 

『さぁ正面スタンド前にやってくる3人、やはり先頭は変わらずサイレンススズカ、けれどツインターボも食い下がり続けている! あの異次元を相手に、2つのエンジンはなおも健在だ!!』

 

 

 

 ……垂れない。

 

 ツインターボが、垂れない。

 

 既に500メートルは通り過ぎた。コーナーが終わり直線に入った。

 彼女の足取りは既に乱れ、急激すぎるスタミナの消耗で力尽きそうなのは明白だ。

 

 それなのに……。

 彼女は、まだ、諦めない。

 

 強すぎる精神力。空元気。あるいは根性。

 それだけを頼りに、彼女は懸命に、逃亡者を追い続ける。

 

 

 

「まだ、まだぁ……! ターボ、エンジン、全開ッ……!」

 

 

 

 ……そうだ。

 色々あって、忘れてたよ。

 そういえば、彼女はそういうウマ娘だった。

 

 ツインターボは、諦めない。

 その心は愚直な程に真っすぐで、前向きで……苦痛や苦難を前に折れることは、決してない。

 そんな彼女だからこそ、1人の主人公に、不屈を教えることができた。

 あの世界のトウカイテイオーを、もう1度立ち上がらせることができたんだ。

 

 彼女は決して、絶対に、何があっても、諦めない。

 その脚が前に動く限り、止まる理由はないと言わんばかりに、走り続ける。

 

 それが、ツインターボという……この世界を生きる、1人のウマ娘。

 

 

 

 ……しかし、勿論それも、永遠のものではなく。

 

 

 

『直線半ば、ツインターボ減速! やはり異次元、並みのウマ娘には付いて行くことすら許さない!』

 

 

 

 ぐらりと、ターボの足取りが大きく乱れる。

 それを契機に、サイレンススズカは一気に彼女を突き放した。

 

 彼我の差は一瞬で、残酷な程に開く。

 この時点でスタミナを枯らしてしまったターボ師匠に、レースでの勝機はないだろう。

 

 ……けれど。

 その背を追い越す一瞬、見えた彼女の顔は……。

 

 「それでも」と、前を目指していた。

 

 

 

「……ふ」

 

 

 

 ターボの残り火が、私の心を焼く。

 

 ……ここからは、私の時間だ。

 

 

 

 大前提として……。

 ホシノウィルムは、サイレンススズカには勝てない。

 

 レース勘、身体能力、そして技術。

 その全てにおいて、私はスズカさんに負けている。

 

 まだ中央で走り始めて2年しか経過していない私に対して、スズカさんは実に6年だ。

 それだけの時間をかけて磨かれた宝石は、粗削りな私とは比べ物にならないくらいに美しく輝く。

 

 私の最高速度はスズカさんとほぼ同じ程度、加速力においては負けているはずだ。

 机上の空論にはなるけど、どこまで駆けたとしても、スズカさんを越えることはできない。

 それどころか、無限に湧き出るスタミナで、私の方が潰されるというのがオチだろう。

 

 技術を以てしても同じこと。

 歴戦のウマ娘である彼女の持つ技術が、私のそれを下回るはずがない。

 同じだけの技術を以て一時的な速度を得られれば、どうしたって私は追いつくことはできないだろう。

 

 地力でも、技術でも勝てないとなれば……どうしようもない。

 

 ホシノウィルムの脚では、サイレンススズカには追い付けないんだ。

 

 

 

 ……勿論。

 尋常な手段では、という但し書きが付くが。

 

 

 

 私は一瞬、まぶたを閉じて……。

 

 カチリと。

 脳の奥にあるスイッチを、押す。

 

 

 

 瞬間、流れていく世界が、ゆっくりと鈍化した。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 あの日のことを思い出す。

 まだ歩さんが健在で、私と彼と、それから昌さんとブルボンちゃんの4人で、これからのレースの作戦会議をした日のことを。

 

 あの日、私はトレーナーが語ったスズカさんの特性、そのあまりのチートっぷりに呆れ、思わず呟いた。

 

「……それ、どうにかなるんですか?」

 

 それに対して、歩さんは……。

 

「どうにかするよ。俺は君のトレーナーだから」

 

 その言葉を皮切りに、立てた作戦を話し始めた。

 

 

 

「……まず第一に確認するけど、ホシノウィルム。

 君の思考力増加能力……それはサイレンススズカの無限に続くスタミナと同じのような、少しばかり特殊な能力であり、領域とは別の力だという認識だけど、それは正しいか?」

 

 トレーナーの言葉に、私は頷いた。

 

 私は担当ウマ娘で、彼は契約トレーナー。

 である以上、私は自分の能力について、彼に隠さず報告する必要があった。

 特に私のトレーナーは、データを非常に重視する人だ。私の特殊な能力についても、知っておいた方が作戦に組み込めるかもしれない。

 

 なので、「アニメ転生」についても報告しておいたんだけど……。

 そんな名前を直接言うことはできない。

 それは、私が転生者だっていう事実に、ほとんど直接的に繋がっているからだ。

 

 とはいえ、歩さんなら多分、私が前世の記憶を持ってるって知っても、受け入れてくれるだろう。

 でも、なんというか、ちょっとこう……。

 

 ……いや、結局、私は躊躇しているんだろうな。

 まず間違いなく大丈夫だと思っても、もしもを考えて二の足を踏んでしまう。関係性の崩壊を恐れ、言い出すべきではないと思ってしまう。

 何せ……私の前世の記憶は、私の家族と幼少の頃の人間関係を崩壊させた遠因だからね。少しばかり躊躇もしてしまうというものだ。

 

 閑話休題。

 とにかく、私は「アニメ転生」について、名前やその発祥は避けながらも、その内容を既にトレーナーに共有していた。

 

「君が自由にオンのスイッチを入れることができ、そこから30秒間程、思考力が大幅に増加する。

 その間であれば、君は……『天星スパート』だったか。前傾姿勢での、低負担かつ超効率のスパートを切ることができる、という認識で間違っていない?」

「間違いありません」

 

 私が再び肯定すると、トレーナーは1つ頷いて、言った。

 

「うん、ではその札を、サイレンススズカとの戦いで切ろう」

 

 

 

 ……正直なところ、私は使用者本人でありながら、その発想を持っていなかった。

 

 本来ウマ娘にとって、スパートすべきタイミングは終盤だ。それは大逃げウマ娘である私にとっても例外じゃない。

 スタミナが尽きかけ、他のウマ娘に迫られかける第四コーナーから最終直線は、非常に重要な局面。

 だからこそ領域と併せて、脚への負担を軽減し、実質的にスタミナという限界を取り払える「アニメ転生」を使い、いわゆる「大逃げして追い込む」戦術を取っていた。

 

 けれど……「アニメ転生」は領域と違って、使用するタイミングを限られるものじゃない。

 やろうとすれば序盤でも中盤でも終盤でも使えるんだ。

 

 制限はただ1つで、1度のレースにつき30秒前後しかもたないってことだけ。

 それ以上使い続ければ情報量の過多に酔って走るどころじゃなくなるし、もう1回30秒間使うためには2時間くらい休む必要があることを私は割り出している。

 

 けれど逆に言えば、その制限さえ守れば、どのタイミングでも使えるわけだ。

 

 考えてみれば、この「いつでも使える」というのは、非常に高い利便性を持っている。

 スズカさんや私を含めた多くのウマ娘の領域が終盤まで使えない。

 中盤までにこれを使うことで、私は他のウマ娘に対して1歩有利を握れることになる。

 

「サイレンススズカは、強い。それこそ、真正面からでは君でも勝てない可能性が高いくらいに。

 ……しかし、それは彼女の『先頭にいる限りスタミナが続く』という特殊な能力による強さだ。

 であれば君も、自分の持つ強みを使うのも、何もズルということはあるまい」

 

 トレーナーはそう言い、小さくニヤリと笑った。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 「アニメ転生」を使うなら、今だ。

 

 ターボが垂れた瞬間。

 スズカさんが、ずっと自分に付いて来ていたウマ娘がいなくなったことを認識し、ほんの少しでも気を緩めた瞬間。

 

 今、この瞬間しか、ない。

 

 天星スパート……開始!

 

 

 

『ツインターボと入れ替わるようにホシノウィルムが前に出た!

 まさしく猛追、龍の本領を発揮する全身全霊の前傾姿勢!!』

 

 

 

 いつもの私じゃ、スズカさんには勝てない。

 経験の差、地力の差、技術の差。そのどれも、彼女に比べて致命的な程に劣っている。

 

 ……なら、チートの1つや2つ、使ってやる。

 私が持って生まれた、そして自ら封じてしまっていた、特殊な能力。

 

 サイレンススズカの能力が「先頭にいる限りスタミナが無限に続く」ことだとすれば、ホシノウィルムのそれは「一時的な思考力の増加」。

 

 それに伴って、スズカさんが「自分の全力を半永続的に出し続けられる」んだとすれば……。

 私は、「30秒だけ自分の限界を超えられる」んだから。

 

 私はこれで……異次元の逃亡者(サイレンススズカ)を、超えてみせる!

 

 

 

 緩やかに進む世界の中、研ぎ澄まされた五感を通して、世界を知る。

 今いるレーンの状態。内ラチとの距離。スズカさんの足並み、後続のウマ娘たちの気配。

 どこに足を踏み出せばいいか、どう体を動かせばいいか、これからのレースの展開、私の残ったスタミナと、出すことができる限界速度。

 それらを頭の中でパズルのように組み上げ、普段の私には到底不可能な、完璧すぎる走りを捻出。

 

 

 

 ……行ける。

 

 ここで、スズカさんに、勝つ!!

 

「はぁぁぁあああッ!!」

「っ、やぁぁあああ!!」

 

 

 

『第一コーナーに突入し、早くもレース終盤かと見紛うような壮絶な叩き合い!

 未だレースは中盤だというのにここまで熱い展開になると、果たして誰が予想したでしょうか!?

 ほんの一瞬目を離せば決してしまうかもしれない、長い長い先行争い! その終着点、先頭を掴み取るのはどちらだ!?』

 

 

 

「……ぐッ」

 

 速い。

 サイレンススズカは、速い。

 

 いざ競ってみれば、そんな当然のことを、今更ながらに痛感する。

 

 天星スパートという、おおよそウマ娘として埒外の走りをして……それでもなお、スズカさんは簡単には追い抜けない。

 

 菊花賞の時のように、万が一に備えて力を温存しているわけじゃない。

 ジャパンカップの時のように、強力な領域を展開されているわけじゃない。

 

 それなのに、彼女はなお、私の前にいる。

 

 

 

 ……私の「アニメ転生」、そして天星スパートの制限時間は、30秒。

 距離にすれば、おおよそ3ハロン……600メートルだ。

 

 本来は直線に入ってすぐに使うはずだったそれは、しかしターボの健闘によって、正面の直線半ばでの開始になってしまった。

 恐らくタイムリミットは、第二コーナーの中でのことになるだろう。

 

 そこまでにスズカさんを抜き去り、彼女の無敵性を剥ぎ取ってしまえば、私の勝ち。

 そこまでに抜かせず、私の限界突破の制限時間を枯らせば、彼女の勝ち。

 

 つまるところ、これはそういう勝負だ!

 

 

 

『さぁ回って第二コーナー、2人きりの異次元旅行はどこまで続くのか!?

 もはや3番手ダイタクヘリオスとの差はぱっと見ただけではわからない! 一体どれだけ縦に開くのか!? どれだけのペースで彼女たちはレースを駆け抜けるのか!?』

 

 

 

 もっと、もっと速く……もっと速く!

 

 サイレンススズカは、速い。

 もう限界だろうと思ったのに、まだ加速してくる。

 

 

 

 ……歩さんは、1つ、読み誤っていたらしい。

 

 サイレンススズカの強みは、そのとんでもないスペックと無尽蔵のスタミナによる無敵性、そして領域展開時の疾走であると、彼は言っていた。

 そしてそれは、今までのサイレンススズカさんのデータを見れば、間違いのないことだっただろう。

 

 けれど……彼女はこれまでにただの1度も、本当の限界を見せてはいなかった。

 領域を展開する終盤ではなく、中盤までに迫られることなんて、これまでに1度だってなかったから。

 

 だから彼女は、その瞬間……。

 

 誰もが見たことのない、真の限界を表出させた。

 

 

 

「先頭の景色は……譲らないッ!!」

 

 

 

 加速する。

 加速する。加速する。加速し続ける!

 

 僅かに、けれど確実に……サイレンススズカは、未だに加速し続けている!

 

 これが、生きる伝説の本気だと言うのか。

 ……あるいは、1人のウマ娘としての、最後の根性なのか。

 

 サイレンススズカは……その限界を超えて、どこまでも加速する!

 

 

 

 

 

 

 …………それでも。

 

 それでもッ!!

 

 

 

「私が、勝つッ!!!」

 

 

 

 大地を蹴り跳ばす。

 

 視界はただ前に、持てる力の全てを以て。

 

 私は…………ッッ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『第二コーナーを抜けて向こう正面、僅かに先頭を取ったのはホシノウィルムッ!!

 長く続いた先行争いは、灰色の龍が制しました!!』

 

 

 







 転生チートと天然チートの勝負は、転生チートが制しました。
 けれど、有記念はまだ1300メートル付近。ここが折り返しです。



 次回は2日後。ホシノウィルム視点で、有記念後編。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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流れ星と一等星

 有記念後編。
 前回と繋がっているお話なので、是非連続でお読みください。





 

 

 

「……っ!!」

 

 勝った。

 

 確かに今、私はサイレンススズカを超えた。

 

 視覚と聴覚、それに空気の振動を感じる触覚。

 その全てが、半バ身程度の差を付けて、私がスズカさんよりも前に出ていることを示している。

 

 

 

 

 やった、と……そんなことを思う間もなく、私の頭がジクリと痛んだ。

 

 しまった、これは……やりすぎたか。

 

 私の転生チート、「アニメ転生」には制限時間がある。

 そのタイムリミットは、おおよそ30秒。勿論、正確に30秒ピッタリというわけではなく、その日の体調などによって多少上下するんだけども。

 

 このジクジクとした嫌な感じの痛みは、そのタイムリミットの予兆……というか、初期症状だ。

 多分、脳が処理する情報量が多すぎることで悲鳴を上げているとか、そういう状態なんだと思う。

 

 これを感じながらも「アニメ転生」をオンにしていると、頭痛は更に酷くなるし、果てには酔ったような感覚と共に酷い混乱状態に陥る。

 そうなると、とてもじゃないけどもう走ることはできない。勢いそのまま転倒して事故を起こすことになるだろう。

 

 勿論、歩さんのウマ娘であるところの私が、そんな事故を起こすわけにはいかない。

 私は慌てて天星スパートの前傾姿勢から通常の走行姿勢に立て直し、「アニメ転生」のスイッチをオフに切り替える。

 

 天星スパートは、あくまで「アニメ転生」中限定の姿勢だ。

 通常状態で使うにはあまりにも脚に負担が大きすぎるっていうのは、あの宝塚記念でよくわかった。これ以上使うわけにはいかない。

 

 

 

 

「……ふぅ」

 

 「アニメ転生」を切ったことで、頭痛はゆっくりと消えていった。

 ひとまず一安心といったところか。

 

 ……しかし、ちょっとマズいな。

 想定よりも、かなり消耗してしまった。

 

 今回の有記念において立てた作戦は、ジャパンカップ直後に歩さんが立てた粗い骨子に、私と昌さんが肉付けしたもの。

 ただ、私たちには歩さんほどの能力はないから、こうして微妙な誤差や失敗が生じてしまう。

 

 今回の最大の読み間違いは、ターボが想定以上に粘ったことで、私の「アニメ転生」の開始位置が遅れてしまった、というものだ。

 これに関しては、ターボを舐めていたとかそういうことではなく、彼女がデータに表れにくい根性を振り絞った奮闘の結果、と言うべきだろう。

 

 だから、そこに関しては仕方がないと思うんだけど……それはともかく。

 良くも悪くも、この微細なズレは、レースの状況を大きく変えてしまった。

 

 本来のプランでは、第四コーナーを抜けて正面の直線に入ると同時に天星スパートを開始し、約350メートルの直線内でスズカさんをかわすつもりだった。

 コーナーに入れば、どうしたって走る力に無駄が生じてしまう。だからそうなる前に、最低限の負担でスズカさんを抜き去り、後半に備える……。

 それが、この有記念に勝つためのプランだった。

 

 けれど……。

 ターボが想定以上に粘ったことで、天星スパートの開始は直線の半ばとなり。

 その上、スズカさんが計算以上にその力を発揮したことで、越えるのは600メートルギリギリになってしまった。

 

 結果として、第一第二コーナーで、過剰なくらいに速度を出すはめになってしまい……。

 更には「アニメ転生」でこれからの展開について考える時間もなくなってしまった。

 

 ……そう言えば、いつかトレーナーが言ってたな。

 「ウマ娘は常にこちらの想定を超えてくる」って。

 

 なるほど、今になってその言葉の真意を理解する。

 必死に研究し、数値化し、考察し……しかしそれでも、ライバルたちは想定を超えてくる。

 それが脅威でないはずがない、か。

 

 けれど……。

 

 

 

『さぁ体勢を戻した先頭ホシノウィルムが向こう正面を駆けていきます! 現在1400メートル、ここまでのタイムは1分19秒4!!

 番手となったサイレンススズカは少し下がって、先頭から1バ身程度開いたか。そこから3番手ダイタクヘリオスまでは13バ身程、ジワジワと差は詰まり始めています』

『2人とバ群までの距離もそうですが、バ群自体も縦に広く開きましたね。25、いえ、30バ身程度あるでしょうか?

 自分のペースを保つべきか、あるいは意地でもこのハイペースに乗るべきか、空前絶後のこのレース、各ウマ娘の判断が問われています!』

 

 

 

 ……もう、スズカさんは脅威にはならないだろう。

 

 歩さんの言う「絶好調状態」が解かれた今、まるで重力を無視するような走りを見せていたスズカさんも、これからはスタミナの有限性というルールの下で走ることになる。

 

 そしてスズカさんのスタミナは、私のそれよりも乏しい。

 彼女は既に本格化を終え、その身体能力が大きく成長することはない。

 1か月前の段階で私が上回っていたんだから、今は逆転している、なんてことは起こりえない。

 本来はその無敵性でスタミナ不足を補う走りを見せていたんだろうけど……今はもう、それも不可能。

 

 更に言えば、彼女は大外枠から先頭に立てるくらいに全力で駆け出し、コーナーの中で遠心力に振り回されながらターボと熾烈な競り合いをして、その上私の天星スパートと対等にやり合ったんだ。

 そのスタミナは大きく抉れているだろう。

 

 仮に、私の「アニメ転生」のように負担を軽減できていたとしても、完全にゼロにできているわけではないはず。

 今、彼女がペースダウンしていることからも、それはほぼ間違いないことだと思えた。

 

 異次元から引き落とされた逃亡者は、もはやスタミナで私に劣り、ここまでに消耗し過ぎた大逃げウマ娘に過ぎない。

 

 もしかしたら、また限界以上の力を引き出して迫って来るかもしれないけど……。

 もはや彼女の無敵性はなくなった。私が追い抜かれない限り、復活することはない。

 長距離に対する適性不足、残ったスタミナから考えても……ターボのように大きく垂れることはないにしても、ここから私を抜き返すことは不可能。

 

 ホシノウィルムがサイレンススズカに負けることは、もうないはずだ。

 

 この有記念における、私にとって最大の壁の1つ、異次元の逃亡者サイレンススズカ。

 私はこれを、なんとか突破したことになるだろう。

 

 

 

 ……でも、当然ながら、まだ油断はできない。

 

 昌さんと一緒に立てた作戦において、私は第一第二コーナー内と向こう正面では、ある程度リードを保ちながら速度を緩め、息を入れるはずだった。

 

 「アニメ転生」の開始地点までは、ターボとスズカさんの破滅的と言っていいペースに合わせて走らなきゃいけないし……。

 天星スパート中も、いくら「アニメ転生」を使っているとはいえ、負担はゼロにはならないんだ。

 故に、スズカさんを突破したら、一旦減速しないと流石にスタミナが持たない、というのが私たちの予測だった。

 

 だから今、私はスピードを落としている。

 スズカさんには決して追い付かれない、けれど過度な負担にならないような……いわゆる経済速度から僅かに速めた程度のもの。

 

 けれど、すぐに追手が迫って来るだろう。

 いつまでも、これを続けるわけにはいかない。

 

 スズカさんに勝ったとはいえ、まだ有記念は終わっていない。

 いや、距離的に言えば、ここでようやく折り返しだ。

 

 

 

『さぁ前から振り返って行きましょう。先頭ホシノウィルムから1バ身サイレンススズカ、そこから11バ身程度開いてダイタクヘリオス、セイウンスカイ、バイトアルヒクマ追走。

 そこからはトウカイテイオー、ハッピーミーク、メジロマックイーン、スペシャルウィーク少し前に出たか、そこから少し空いてナイスネイチャ、メジロライアン、ダイサンゲン!』

『おっとここで仕掛けたのはハッピーミーク、徐々にペースを上げていく! 釣られるようにしてセイウンスカイ、トウカイテイオーも前に出ました! ここからペースアップか!』

 

 

 

 早いな……もう来たか。

 

 私の聴覚の範囲に、数人のウマ娘の足音が聞こえ始めた。

 1人は聞き覚えのある……いや、少し足音が変わったみたいだけど、久々に聞いたテイオーのものだ。

 そしてもう1人は、宝塚記念の終盤に聞いた軽快な足音、スカイ先輩だろう。

 

 一方で、残る1人の方は……聞き覚えはない、初めて競う相手だ。

 でも、この自由なようでいてしっかりと基礎の根付いた足音には、察しが付いた。

 

 ……ミーク先輩、ここで仕掛けてくるか。

 

 

 

 さて、どうするべきだろうか。

 

 私と昌さんは、歩さんのようにはなれない。

 昌さんは相当に頑張ってたけど、それでも歩さん程にデータ収集ができるわけではないし……。

 私は2年間で培ったレース勘で、直感的な展開予想はできるけど、それでも歩さん程に正確な展開予測はできない。

 

 だから、歩さんがするような正確無比な作戦立案は、私たちには不可能だ。

 

 この有記念において、ターボとスズカさんが張り合うところまでは間違いない。

 そして、スズカさんを正面の直線で──実際には、第二コーナー内までかかってしまったわけだけど──超えるべきだろう、というところまでは予測できた。

 

 しかし、ここから先の展開の予測は、非常に困難だった。

 

 なにせ、このレースには策謀に秀でたウマ娘が2人も参加している。

 セイウンスカイ先輩と、ナイスネイチャ。この2人はどこで何をしてくるか、予想すらできなかった。

 一体どこで、どのように仕掛けてくるか。あるいは、他のウマ娘を仕掛けさせるか。

 

 私を超える最適解というだけなら、むしろ読みやすい。なにせ明確な答えが存在するんだから。

 ……けれど今回のレースは、私の他にも対策すべきウマ娘は多い。

 スズカ先輩を超え、スペ先輩たちを抑えながらの勝利となると……彼女たちがどういう策を取るか、私たちには想定することすらできなかった。

 歩さんは「こちらにかかる負担は減る」って言ってたけど……むしろ状況が複雑になったことにより、私たちにとってはより読み辛くなってしまったんだ。

 

 更に、警戒すべきはその2人だけじゃない。

 このレースには、私でも止められない身体能力を持つウマ娘が、少なくとも4人いる。

 既に超えたサイレンススズカさんはひとまず置いておくとしても、いつも通りの好位抜け出しを狙ってくるだろうメジロマックイーン先輩、先行で来るか差しで来るか読めず未知数な部分も多いハッピーミーク先輩、そしてやはり誰よりも恐ろしいスペシャルウィーク先輩。

 

 これだけの逸材、これだけの優駿が揃った今回の有記念、一体誰がどう出てくるかなんて想像すらできない。

 

 あるいは歩さんなら、いくつかのプランに絞り込めたかもしれないけれど……残念ながら、私と昌さんには不可能だった。

 

 歩さんの立ててくれた骨子を参考にしようとしても、あれはあくまで情報の精度に難のある1か月前のデータを元にしたもの。

 参考にするならまだしも、絶対に正しいと信じられる程の精度ではない……と、歩さんの残したデータの中に書いてあったらしい。

 ……いや、そもそもこんなトンデモレースに対して、1か月前にある程度の予測を付けられる方がおかしいと思うんだけど。

 

 そんなわけで、ここから先は、アドリブで対処すべき部分が大きいんだ。

 落ち着いていかないと……。

 

 

 

『さぁ先頭ホシノウィルム、向こう正面を越えて第三コーナーに入りました!

 ここからおおよそ900メートル、レースもいよいよ終盤といったところです!』

 

 

 

 さて、改めて。

 

 今迫って来ているのは、後ろ7バ身程度にスカイ先輩、少し距離を置いてミーク先輩と、そのすぐ後ろにテイオー。

 いや、もう1人来たか。徐々にペースを上げてきているのは、すごく力強い足取り……。

 

 これは、スペシャルウィーク先輩……か?

 

 

 

 ……マズいな、これはちょっと、マズい。

 

 テイオーだけならいい。そこにミーク先輩が加わっても、対処可能な範囲。

 あるいはそこに領域を封じられたスカイ先輩がいても、ギリギリなんとかなるレベルだったと思う。

 

 けれど、スペ先輩まで入って来るとなると……もはや猶予はないだろう。

 

 残ったスタミナは、そこまで多いわけではない。

 それを900メートルという距離に適切に割り振る必要がある。

 問題は、後ろから来るウマ娘へ対応する必要があること、そして領域という数値化し辛い現象……。

 ……駄目だ、まだ不明なピースが多すぎる。こうして走りながらじゃ、とても正確には考えられない。

 

 ここで「アニメ転生」が残っていれば、これからの300メートルに全力を注げたろう。

 あるいは、ここからの適切なペース配分を、正確無比に割り出すことができたかもしれない。

 

 けれど、何を言おうと、ない袖は振れない。

 どちらにしろ、スズカさんを超えるためには、あそこで「アニメ転生」を切る必要があったんだから。

 

 戦いは、いつだって全力を出せるものではない。

 スズカさんは私によって、その無敵性を剥ぎ取られた。

 スカイ先輩は、このレースでは領域の展開が難しいはず。

 ネイチャは、その策謀の大半をバ群の処理に占められ、こちらに割けないだろう。

 

 私たちは、その場その場の状況に応じて、持てる力を振るわなきゃいけない。

 だから、私も……今の私にできる、最善を尽くさなきゃ。

 

 さぁ。

 ここからペースアップして……走り切るぞ!

 

 

 

『もはやサイレンススズカとツインターボの叩き合いは遠い過去、第四コーナーに入ります!

 サイレンススズカ、懸命に粘るが今なおホシノウィルムには届かないか! 一方後ろからはセイウンスカイを筆頭にバ群がペースアップ! 最終直線だけでは差し切れないと判断し、ロングスパートをしかけに来たか!?』

『ここからが勝負所! 中山レース場の直線は僅か310メートル、果たしてこの大きな大きな差を詰めることのできるウマ娘は出て来るのか!』

 

 

 

 あと……500メートル。

 

 まだ、ゴールは見えない。

 

 徐々に重くなってきた脚で、懸命に体を前に進める。

 少しでもこのリードを維持できるよう、けれど負担が大きくなり過ぎないように細心の注意を払って、芝の大地を蹴り飛ばした。

 

 終盤以降、私は領域の展開が可能になる。

 私が領域を開く条件は、恐らく間近で……推定1バ身以内に、他のウマ娘の熱を感じること。

 それを満たした瞬間、私は領域を開き、更なる力を振るうことができるようになるんだ。

 

 けれど、それも無制限というわけではない。

 領域は「アニメ転生」と同じで、その維持にタイムリミットがある。

 

 そもそも領域というのは、言わば極限の集中状態。チートもなしにそれを維持するのは、生物としてかなり強い負担がかかるものらしい。

 故に、私たちウマ娘が領域に入っていられる時間は、おおよそ5秒から15秒程度。

 そこから先は、領域で得た速度や加速力の恩恵を上手く残しながら走るしかない。

 

 最大である15秒展開し続けたとしても、その持続時間は「アニメ転生」の半分でしかない。

 距離にしておおよそ300メートル弱、つまりこの短いと言われる中山の直線と同程度。

 

 最後まで領域に入った、全力全開の状態で駆け抜けるために……。

 私はなんとしても、最終直線に入るまで、領域を温存しなくてはならない。

 そのためには、後方1バ身以内にライバルを入れないよう、リードを保ち続けなければ。

 

 勝つために。

 誰よりも早く、ゴールするために。

 

 

 

 

 

 

 ……しかし。

 

 それは結局のところ、私が現在の状況から、最も早くゴールする方法……。

 つまり、「最も勝率の高い走り」でしかない。

 

 もしも。

 もしも、現段階で、勝率がゼロであったら……。

 私は……どうすればいいんだろうか。

 

 

 

 

『ハッピーミーク、ここでスパートを切りました! 先頭までの距離はあと4バ身、サイレンススズカの番手はここまでか!?』

『スペシャルウィークがトウカイテイオーをかわしてハッピーミークに続き……いえ!!』

 

 

 

 ゾクリと、心臓を鷲掴みにされたような恐怖が、私の思考を硬直させる。

 

 

 

 「それ」が、見えた。

 見えてしまった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 美しい星空の下。

 

 何十、何百、何千、何万、あるいはそれ以上。

 数えきれない色とりどりの星々が、1人のウマ娘の背後から飛び去って行く。

 

 幻想的に美しいその景色の中を、彼女は駆ける。

 

「日本一のウマ娘として」

 

 その薄紫の瞳が映すのは、ライバルでもターフでもなく、遥か先。

 

 いつもは緩めている唇を凛と結び、1人の戦士となった少女は、ただ至るべき場所のみを見据えて。

 

「このレース」

 

 そうして、彼女の背中を押すように流れていく無数の星が、1つの点に結集する。

 

 至るべき栄光。

 他の全てを超えた先の、たった1つの頂。

 

「この勝負……!」

 

 ……自らの言葉の通り。

 

 彼女は、何万何十万という夢を背負い。

 ただひたすらに、走り続け。

 そうして……自らと、トレーナーさんと、そして世界の全てを信じていた。

 

 

 

 ……だから、彼女の元に道が拓ける。

 黄金に輝く、たった1つの、王の道が。

 

 

 

「勝ちますッ!!!」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 負ける。

 

 敗北の予感が……いいや、確信が。

 初めて、恐怖として、私の心に刻まれた。

 

 

 

『スペシャルウィーク抜け出した!! 爆発的加速で一気にハッピーミークを抜き去りました!

 サイレンススズカまでの距離はあと1バ身、ホシノウィルムまでは2バ身!!

 さぁそろそろ最終直線だ!! バ群もすぐそこまで迫っているぞ!』

 

 

 

 それはきっと、ウマ娘以外には理解できない感覚だったと思う。

 

 スペシャルウィーク先輩の領域は、余りにも完成され過ぎていた。

 言うならば、ジャパンカップで見たマックイーン先輩の領域の、更なる上位。

 

 その美しさに、私は心を打たれて、絶望しかけてしまったんだ。

 

 完全に洗練され、究極に磨かれた、文字通りこれ以上ない程の「自分の世界」。

 不足しているものがない。あらゆるものが完成している。満ち足りている。

 この世界に彼女の脚を阻む要因は一切なく、そして世界全てが彼女の背中を押していた。

 

 これが……領域の、最奥。

 自らの心と魂、そしてこの領域の……いや、「世界」の全てを味方に付けた、絶対的な、「我」。

 

 

 

 私は、これに勝てるだろうか。

 

 スペ先輩の、勝ちたいという欲求。

 もっと速く、もっと強く、完璧に、絶対に、何が何でも、誰かに勝ちたいという、燃え上がる闘争本能。

 

 この上なくエゴイスティックで、この上なく真摯な、彼女の想いに。

 

 

 

 ……いや、違う。

 

 勝てるかじゃなくて、勝ちたい。

 

 勝ちたいじゃなくて……勝つんだ!

 

 

 

 足音は、ほんの一瞬で迫って来る。

 

 こっちがあれだけ頑張って稼いだ大差なんてものともせず、彼女は私の後方1バ身に踏み込んだ。

 

 その瞬間、彼女の世界を押しのけるようにして、私の領域が広がる。

 

 ……それでも、私だってやられるばかりじゃない。

 懸命に脚を伸ばし続け、ここまで距離を稼いだんだ。

 

 この場所はもう、ちょうど最終直線に入る辺り。

 ここからなら……最後まで行ける。行ってみせる!

 

 

 

 

 

 

 ……けれど。

 

 この時の私には、1つ、忘れてしまっていたことがあった。

 

 歩さんに、言われていたはずだ。

 「領域はウマ娘の心持ちによって、その形を変えることがある」と。

 

 いくら忘れようとしても、意識の外に追い出そうとしても、あるいはどれだけ信じようとも……。

 

 領域は、鏡のように、私たちの心を映し出す。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 星空の世界。

 数多の星が、私を照らし、温めてくれる、ホシノウィルムの領域。

 

 けれど、私の視界に広がったそこは、いつもと様相が違った。

 

 確かに、多くの星がある。

 多くの人やウマ娘が、私のことを見て、期待し、愛してくれている。それは変わらない。

 

 

 

 でも……。

 今はその星が、ただ1つ、欠けていた。

 

 私を導いてくれた一等星が……雲の向こうに、隠れてしまっていたんだ。

 

 

 

「……っ」

 

 その事実に、一瞬、怯えた。

 

 私の傍にはずっと、あの星があった。

 私を支え、導き、共に歩んでくれるあの星が。

 だから、ここまで来ることができたんだ。

 だから、私は今、走れているんだ。

 

 けれど……。

 

 今、私の世界に、あの星はない。

 いつかは再び顔を出すと、またあの輝きを見せてくれると、そう信じようとも……。

 

 この瞬間に、あの星が見えないことだけは、揺るがない真実だった。

 

「……、あ」

 

 それが、どうしようもなく……寒くて、冷たい。

 

 星を見失った旅人は、もう二度と、目的地にたどり着くことはない。

 だから、私はこの領域に……「世界」に、助けてもらうことが……できない。

 

 理解が、現実が、その冷たさが、私の心を覆い……この体を氷漬けにする。

 

 

 

 

 

 

 その、寸前。

 

 

 

 トン、と。

 

 冷たくて、どこか懐かしい2人の手に、背中を押された気がした。

 

 

 

 

 

 

「…………いや」

 

 

 

 過去、というものは……。

 変えようがない。決して変えられないものだ。

 

 たとえば、そこで誰かに助けを乞われ、けれどそれを叶えられずに、見殺しにしてしまったとしても。

 あるいは、この世界に異端な存在として生まれ、自分のせいで愛すべき家族を破綻させたとしても。

 

 それは、決して変えられない事実として刻まれる。

 

 覆しようがなく、贖いようがなく、これからの一生……あるいは、記憶が続くのなら転生した先でも。

 私たちがずっと抱えていくべきものとして、残り続けるのかもしれない。

 

 

 

 ……でも。

 

 でもさ、歩さん。

 

 その過去がなければ、私たちはここにはいないんだよ。

 

 それが如何に辛くて痛々しくて、あるいは冷たくて無力感に満ちたものだとしても……。

 それは間違いなく、今の私たちを形作った経験であり、私たちをここに導いてきた一因だ。

 

 たとえ苦しいばかりの過去だったとしても……その過去がもたらした現在(いま)がある。

 

 そして……現在(いま)を必死に生きた先にこそ、きっと、未来があるはず。

 

 

 

 だから私は、過去を抱えていく。

 決して誇れるものじゃない。私のせいで2人の家族の歯車が狂ったことを、誇れるわけがない。

 けれど、そんな最悪な過去も、一生背負って生きていくんだ。

 

 そうして、未来に歩んだ先に……きっと、あなたがいるから。

 

 

 

「星は……ッ!」

 

 

 

 手を伸ばす。

 

 あの日、垣間見た星の方向に。

 あの夜、私の手を取ってくれたあなたに向かって。

 

 

 

 領域が、ウマ娘の心を示すと言うのなら。

 

 受け入れた過去もまた、私の世界に内包されると言うのなら……。

 

 ハッピーエンドの(あなたがいる)未来も、私の世界にあるはずでしょう?

 

 

 

 キラリと、遥か彼方、導きの星が煌めく。

 

 厚い雲の先、ただ今までは見えていなかっただけで……。

 

 私が取り戻すべき希望は、確かに。

 

 

 

「そこに、ある──!!」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 残り、約300メートル。

 最終直線に入った瞬間、私の世界が拓けた。

 

 ……大丈夫。

 もう、目指すべき場所はわかってる。

 

 スペ先輩が王の道を行くのなら、私は星を目指す。

 

 

 

 その過去が、現在(いま)が、そして未来が……。

 私を、ゴールの先に導いてくれるんだから!

 

 

 

「っ、がぁぁぁあああああ!!」

 

 

 

『さぁ最終直線、ウマ娘がどっと押し寄せて来る!

 逃げる灰の龍ホシノウィルム、それを追うは日本一かスペシャルウィーク!

 内からハッピーミークにサイレンススズカ、メジロマックイーンはここにいる!

 更に大外から、これはびっくりダイサンゲン!? その後方から詰めるのはナイスネイチャだ!!』

『誰が前に出るかのか、誰が夢を掴むのか、もはや誰にもわからない!!

 この奇跡の舞台でセンターを飾るのは──!?』

 

 

 

「私、だぁぁぁぁあああああッ!!!」

 

「勝ちたぁぁぁあああーーいッ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ホシノウィルム、スペシャルウィーク、もつれ込むようにしてゴォォオオルインッ!!!

 とてもではありませんが、ぱっと見ただけではどちらが1着かわからない、あまりの大接戦でした!!

 これは……写真判定!! 今年の有記念は、写真判定です!!!』

 

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 

 

「かっ、はっ……は、ぁ……」

 

 頭が、回らない。

 

 体が、上手く動かない。

 

 私は、なんとか減速した後、ターフの上に倒れ込んだ。

 

 

 

 ……スタミナも、根性も、本気も、底力も、全部全部出し切った。

 限界なんてとうの昔に超えてしまって、世界が歪んで、白くなって……意味がわからなくなって。

 それと同時、どうやら私は、ゴールラインを踏み越えていたらしい。

 

 その瞬間、彼女は、隣にいた。

 私と一緒に、本当にすぐ隣で、ゴールしていた。

 

 

 

 ほんの少し、勝ったと思った。

 多分、私の方が数ミリメートル先にいた。いたはずだ。そう信じたい、と。

 

 でも同時、負けたとも思った。

 きっと、彼女の方が先にいたはずだ。あんなに綺麗な走り、綺麗な世界だったんだから、と。

 

 

 

「はぁ……はぁ、はっ……げほっ」

 

 体の熱か、あるいは勝負の余韻か……。

 とにかく体が熱くて、でも同時に冷たくて。

 その熱を少しでも外に逃がそうと、ゴロンと仰向けになって。

 

「……ぁ」

 

 自然と見上げた、雲1つない空に……その青さに、驚いた。

 

 なんて綺麗な青空なんだろう。

 ずっとこの空を見ずに、ここまで走って来てたんだ、私。

 

 ……そうか。

 緊張とか、興奮とか、そんなので一杯になって、空を見る余裕なんてなかったから……。

 

 あぁ、なんて、もったいない。

 もっと早く、こんなに綺麗な空がそこにあるって、気付けば良かったのに。

 

 

 

「ウィルムちゃん」

 

 声をかけられて、視線だけを動かす。

 

 そこには、黒鹿毛の髪を垂らした、彼女がいた。

 

 ……マズい、頭が回らない。

 確かに名前を知っているはずなのに……彼女の名前が、出てこない。

 

 黒鹿毛の彼女は、私に手を差し出してくれた。

 先輩として。

 ……あるいはもう、「ライバルとして」だったら、嬉しいんだけど。

 

 そうして、彼女は荒れる息もそのままに、言った。

 

「勝っても負けても悔いなんて残らない、すごく良い……いや、最高のレースだったよ!

 私と一緒に走ってくれて、ありがとう!」

 

 

 

 ……はは。

 

 そんなこと言われたら、胸が一杯になっちゃいますって。

 

 もう……まだ、泣くには早すぎるのに。

 

 

 

「こっち、こそ……最高の、レース……でし、た」

 

 私は、かろうじてそう返事して……彼女の手を、握った。

 

 

 

 

 

 

『長い写真判定の末、結果が確定しました!!

 たった3センチメートルの差で1着をもぎ取り、奇跡の有記念を制したのは────!!』

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ウイニングライブを終えて、私はステージを後にする。

 この後は控室で待機してくれてるはずの昌さんと合流し、制服に着替えて帰らなきゃいけない。

 

 ……あー、めんどくさい。

 もう1歩も歩きたくないのに、帰ったらご飯を食べたりお風呂に入らなきゃいけないなんて。

 

 今日は疲れた。

 本当に、本当に疲れた。

 

 正直、レースの後にライブをやるとか言い出した人を殴ってやりたいくらいだ。

 なんで当日、それも数時間後なんだよ。こっちはもう生まれたての小鹿くらい脚がプルプルなんだ。せめて翌日にしてくれ翌日に。

 

 ……いやまぁ、ファンの皆の応援への感謝という意味では、やっぱり当日が良いと思うんだけどさ。

 もうちょっとどうにかならないかな、その辺り。まぁどうにもならないから、今もこれが続いてるんだろうけども。

 

 私たちの疲労と、ファンへの恩返し。

 この2つを天秤にかけるなら……確かに後者の方が重いわけで、こればっかりは仕方がないのかな。

 

 でもそれはそれとして、やっぱり疲れるものは疲れるんだ。

 今日はもう何もしたくない。早く帰って寝たい。

 

 

 

 そんな風に、心の中で愚痴をこぼしながら、控室に戻ろうとしているところで……。

 

 ふと、俯きがちに歩いていた私の前に、2本の足が生えた。

 

 誰だか知らないけど、今の私は疲れてるんだ。さっさとどいてほしい。

 あまりの気怠さに思考停止して、ただそれを避けようとして……。

 

 ……そうして、私は。

 

 

 

「おい、君、止まれ」

 

 

 

 …………ずっと聞きたかった声を、聞いた。

 

 

 

「まったく、目を覚まして急いで来たというのに、その反応は……なんかこう、少し傷つくぞ。

 もうちょっと……なんだろう、『待ってましたよ』とか、そういうのはないのか、そういうのは」

 

 

 

 ……その声。

 

 

 

「いやまぁ勿論、ずっと寝ていた俺の方が悪いし、君が拗ねるのも仕方がないとは思うんだが……。

 というか、担当の有記念に間に合わないとか最悪すぎるし、トレーナー失格くらいあるわけだが。

 その件に関しては、本当に申し訳ないと思う。後日、改めて謝らせてくれ」

 

 

 

 その声も、話し方も、どことなくズレた話も……。

 すごく、聞き覚えがあった。

 

 ずっとずっと聞きたくて、けれどこの2週間、聞けていなかった声。

 

 

 

 思わず顔を上げようとして……ピクリと痙攣して、終わる。

 

 もし、違ったらどうしよう。

 私の思い描いた人じゃなかったらどうしよう。

 きっと、傷ついてしまう。生半可に希望を持った分、酷く傷んでしまう。

 

 それが、怖くて。

 

 

 

 けれど……。

 

「ウィルム先輩」

 

 もう1つ投げかけられた、聞き覚えのある……今もまだ病院にいるはずの、後輩の声と共に。

 私の頭は掴まれ、無理に前を向けさせられて。

 

 そこにいた、のは…………。

 

 

 

「トレー、ナー……?」

 

「ああ。……君の感覚で言えば、久しぶり、になるのかな、ホシノウィルム」

 

 

 

 ちょっと申し訳なさそうな顔をした……。

 

 私のトレーナー、堀野歩さん、だった。

 

 

 







 スペシャルウィーク
『シューティングスター Lv6』
 レース終盤に前の方で相手を抜くと勢いに乗って速度が上がり、加速力もちょっと上がる。
 更に、背負った夢が流星となり黄金の道を切り開く。

 ホシノウィルム
『天星の蛇龍 Lv2』
 レース終盤に他のウマ娘に競り合うか負けかけると、星々の輝きを受けて燃え上がり勝利を誓う。



 次回は2日後。トレーナー視点で、その日の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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「堀野歩」

 久々のトレーナー視点です。





 

 

 

 ホシノウィルムは、有記念を制した。

 

 サイレンススズカ、スペシャルウィーク、セイウンスカイにハッピーミーク、メジロマックイーンとメジロライアン、ダイタクヘリオス、そしてナイスネイチャやトウカイテイオー、ツインターボ……。

 並みいる強豪相手に1歩も引かず、見事にその強さを証明したんだ。

 

 そうして、それからしばらく経ったある日。

 彼女は今回の「ご褒美権」を使って、1日の間、一緒に遊ぶことを要求してきたのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 トレセン学園近くの住宅街にて。

 

「トレーナー、こっちです!」

 

 そう言って、ホシノウィルムはこっちに向けて元気にぶんぶんと手を振った。

 いくら変装しているとはいえ、彼女は日本でも最上級の有名人。

 往来で大声を出すような目立つ行為は避けてほしいというのが本音だったが……。

 

 ま、今日くらいはいいだろう。

 彼女は有記念のために、ずっと頑張って来たんだものな。

 

 ……いや、有記念だけじゃない。

 去年は本当に色んなことがあった。

 

 彼女の故郷でご両親にご挨拶し、彼女の過去について聞かせてもらったり。

 ダービー直後には俺の思い違いから、辛い想いを強いてしまい。

 宝塚記念で、俺は彼女に惚れ込んで、彼女のトレーナーになりたいと望み……。

 そこからは二人三脚でリハビリをこなし、なんとかジャパンカップを制して。

 そうして年末、有記念だ。

 

 俺は彼女にとんでもなく迷惑をかけてしまったし、更に言えば、彼女の頑張りはその年齢に見合わないくらい多大なもの。

 それらへの謝罪と報酬が「丸1日、自制もなく遊び回る」というのは、むしろ少なすぎるくらいだろう。

 

 

 

 俺は苦笑しながら、彼女の隣に立つ。

 すると……。

 

「……ん?」

 

 ホシノウィルムは、俺の腕に自分のそれを絡めて来る。

 思わず彼女の方を見ると、少しだけ照れくさそうに笑った。

 

「いけませんか?」

「……いや、いけなくはない、が」

「ふふ。それじゃあ、行きましょう!」

 

 そう言って……彼女は、歩き出した。

 

 

 

 彼女の言う「遊ぶ」というのが何を指すのか、俺にはわからなかったが……。

 

 結果から言うと、彼女が選んだのは……。

 なんというか、彼女には珍しく年相応……いや、それ以下だろう内容だった。

 

 それは例えば。

 

「じゃあ探しますよ、トレーナー! ……いや、あの、木の裏は流石に無理があると思いますが」

 

 公園の敷地内限定で、かくれんぼをする、とか。

 

「あはは、そんなんじゃ一生捕まりませんよ! 鬼さんこちら、手の鳴る方へ!」

 

 無意味に追いかけっこをしてみる、とか。

 

「うん、やっぱり……高いところに登ると、気分が良いですね」

 

 ジャングルジムに登ってみたり、とか。

 

 そういった、所謂子供が「遊び」という言葉から想像するようなもの。

 俺たちはそんなことを、人目も気にせず、日が暮れる直前まで繰り返した。

 

 

 

 そろそろ日も暮れるという時刻、俺たちは帰路につく。

 

「ふぅ、楽しかった……。こうして子供らしく遊んだのは、ずいぶんと久方な気がしますねぇ」

 

 世界が夕闇に包まれて行く中、白い街灯に照らされた彼女は踊るようにくるくると回り、笑った。

 

「思えば、歳を取るにつれて、こういった遊びをすることはなくなりますよね。

 でも、こうして子供みたいに好き勝手に遊び回っている時が……一番楽しい気がします」

「……ふむ」

 

 その言葉には、少なからず頷ける部分があった。

 

 俺たちは歳を重ねる毎に、多くの過去と経験を抱えていく。

 そしてそれは、決して前向きなものだけとは限らない。

 人間関係の面倒臭さとか、しなければいけない義務だとか、あるいは辛い過去だとか……そういったものも、たくさん背負い込むことになる。

 

 そうして余計なものを抱え込む内に、俺たちはいつしか、純粋に遊び回るようなことはできなくなる。

 前向きな未来を根拠もなく信じられる子供から、効率とか意味とか周りの視線を気にして、気ままな行動を取れなくなる大人になってしまうから。

 

「……生きれば生きる程、背負うものが多くなる。楽しいだけの人生が、苦しいものに変わってしまう。

 それなら死んだ方がマシ……とまでは言いませんが、ずっと子供のように遊んでいた方が楽しい。

 ね、あなたもそう思いませんか?」

 

 楽しそうに、街灯の下でくるくると回っていた彼女は、ふとそれを止めて俺に聞いて来る。

 

 何も背負わず、何も考えなくてよかった子供の頃が、一番楽しかったのではないか。

 ……そんな頃に戻りたくはないか、と。

 

 俺は半ば衝動的に肯定しそうになり……しかし、首を振った。

 

「いや。俺はこのままでいい」

「そうですか? こんなに楽しかったのに?」

「楽しかった、という事実は否定しないが……俺はそれ以上にやるべきことがあるからな。

 ……それより、1つ聞いていいか?」

「はい? どうぞ」

 

 ……明確に意思を問われ、ようやく彼女に対して自由に会話をできるようになった。

 この機会を逃すわけにはいかない。

 

 俺はずっと疑問に思っていたことを、口にする。

 

 

 

「君は誰だ? 何故、ホシノウィルムの見た目をしている?」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 目の前の、ホシノウィルムの姿をした少女は、けれどホシノウィルムではない。

 

 俺の確信めいた言葉に、彼女は数秒固まった後……。

 

「……いつ、気付いたのかな」

 

 先程まで浮かべていた表情を消して、俺にそう聞いてきた。

 

 それへの回答は……。

 

「君に会った時、だな」

 

 

 

 ……この世界の違和感には、朝から薄っすらと気付いていた。

 

 今朝以前の記憶が、ぼやけて思い出し辛い。明確に思い出せた……いや、事実だと認識できたのは「ホシノウィルムは有記念に勝利した」ということくらいだ。

 特に、昨日何をしていたかとか、昨夜食べたご飯なんかは、何1つ思い出せない。

 ……まるで、そんな細かい設定はされていない、とでも言うように。

 

 更に言えば、そもそも思考が動きにくい。

 どこかぼんやりとしていると思えば、逆に突飛な方向に吹き飛んで行ってしまうこともある。

 

 ただ、これだけなら、何となく「そういうこともあるだろう」って納得できていたんだが……。

 それら全てから視線が逸らせなくなったのは、やはり彼女を見てからだ。

 

「君はホシノウィルムじゃない。そんなことは、見ていればわかる」

「……そうかな。結構頑張って、彼女を演じたつもりだったんだけど」

 

 思わず眉をひそめる。

 何を言っているんだろう、彼女は。

 

「ホシノウィルムと君では、笑顔が違いすぎる。ホシノウィルムはそんなに綺麗には笑わないんだよ」

 

 勿論、それが最も大きな違いというだけで、他にもたくさんの相違点はある。

 話し方、言葉選び、間の取り方、振る話題の内容、身振り手振り、恥ずかしがり方、小さな癖。

 それらが全て違うともなれば、ただレースでの勝利ではっちゃけていると納得することはできない。

 

 彼女は、ホシノウィルムの姿を取っているだけの、別人。

 そう判断することに、時間はかからなかった。

 

 そして、いくら意識がぼんやりしているとはいえ、1つ疑問に思えば芋づる式に不明が沸き上がる。

 何故12月中旬以降の記憶がはっきりしないのか?

 そもそも、記憶を思い出そうとすると思考が停滞してしまうのは何故か?

 自分が今、体系的に物事を考えることが難しくなっている理由は?

 そして何より、何故それらを今まで疑問に思えなかったのか?

 

 それらの疑問に対し、説明のつく答えはただ1つ。

 

「これは、現実じゃない。俺が見ている夢なんだろう。違うか?」

 

 俺が自らの推論を口にすると、彼女は……少し硬直した後、苦笑する。

 

「……こういうところでも、相変わらずだね」

「ん? 相変わらず?」

「目の前の疑問から目を逸らせない。不器用だから、未知とか困難、恐怖とストレスに対しても、真正面からぶつかっちゃう。

 真面目だよね、君は。……気付かないフリをしてれば、ずっと気楽でいられるのにさ」

 

 それはまるで……俺のことをよく知っているような言い方だった。

 いや、そもそも俺の夢の中の人物なんだから、そりゃあ俺を知っていてもおかしくはないんだが……。

 

 改めて、彼女のことを見る。

 見た目はホシノウィルム以外の何者でもなく、けれど中身は……意識は、全くの別物だろう。

 しかし今日、彼女が取って来た行動を鑑みても……その癖や言動に該当する人物は、絞り込めない。

 俺の夢に出て来た以上、どこかで会ったこと、あるいは見たことがあるはずなんだが……。

 

 そう思っていると、彼女は苦笑する。

 

「そりゃあ、覚えてないよね。まぁ覚えてたとしても、あの頃と今じゃだいぶ違うだろうしなぁ……」

 

 そのよくわからない言葉に違和感を覚えながらも……。

 それ以上に、まるで考えを口に出していたかのように会話が成立したことに眉をひそめる。

 

「……思考を」

「隠し事ができないわけではないけど、私には君の考えていることは、なんとなくもわかるよ。……えっと、そう、君の夢……みたいなものだからね」

 

 一説には、夢は記憶を整理するためにあるらしい。

 自分が無意識化に考えていること、思い出した記憶を整理している際に、連鎖的に想起したことがパッチワークされて現れる、意識と記憶の世界。

 

 夢を明晰夢にできれば……つまりそれ自身が夢であることを自覚できれば、空を飛ぶとか分裂するとか、自分の思うままの現象を起こすこともできる。

 逆に言えば……今のところ俺には感じ取れないけど、俺が考えたことは全て、この世界に現れて(・・・)しまう、ということだろうか。

 

 まぁ、別に思考を見られてもそこまで困るわけでもないんだが。

 これが夢である以上、彼女も俺の意識の内の一部なんだろう。自分に自分のことを知られても、大して問題はないはずだ。

 

 

 

 白い街頭の下に照らされた彼女は、ホシノウィルムそのものの姿で、けれど決してホシノウィルムのものではない微笑を浮かべる。

 

「これが君の夢っていうのは……まぁ、概ねその理解で間違ってないよ。

 君はしばらく前に車に撥ねられて、昏睡してしまった。これは眠り続ける君が見ている夢みたいなものだと思っていい」

 

 ……そう、か。

 

 その言葉を聞いて、ようやく思い出した。

 俺は……ブルボンの朝日杯FSの前日の夜、買い出しに行って……。

 

 そう、車に撥ねられたんだ。

 

 背中に衝撃を感じて倒れ込み、車のライトが近づいて来て……そこまでは覚えてる。

 けれど、それ以降の記憶が、ない。

 

 彼女の言葉が正しければ、俺はそれで昏睡してしまい、ずっと眠り続けているということになる……!

 

「まずい、起きないと!」

 

 思わず動転する俺に対して……。

 

 

 

「なんで?」

 

 

 

 彼女は、急に表情を消して、聞いて来る。

 

「なんで起きなきゃいけないの?」

 

 既に日が落ちきった住宅街の中で、チカチカと街頭が点滅した。

 それに応じて見え隠れする彼女は、どこか底冷えのする声で言う。

 

「どうせ起きても、また背負うものが増え続けて、苦労し続けるだけだよ。

 そんな辛い思いをして、なんでそこまで……生きようとするの?

 誰かを助けるため? それで『誰か』を救ったような気になって救われるため? そうしないと生きていけないから? そうしないと駄目だと感じるから?」

 

 それはどうやら、俺を非難……いや、誘惑するもののように聞こえた。

 現実は、辛い。生きても辛いことばかり。

 それならいっそ、この夢の中にいればいいじゃないか、と。

 

「…………」

 

 その言葉は、理解できるものだった。

 確かに、生きていて苦労することは多い。特に手酷い失敗をした後なんかは、「合わせる顔がないなぁ」と現実逃避したくなることはある。

 

 彼女の言いたいことは、わかるんだ。

 だが、疑問なのは……俺の意識の一部であるはずの存在が、そんなことを言い出すのか、と。

 それから、何故その声が、悲痛の色を帯びているのか。

 

 俺は、自分の生き方に不満を持っているわけではない。

 自分の意識の一部に、そんな声でそんな提案をされる程、現状に不満を感じているわけではない……はずだった。

 

 それなのに、何故彼女はそうも……悲し気な瞳をしているんだろう。

 

 

 

 けれど、それはそれとして。

 彼女の言葉に答えるとしたら、それは……。

 

「俺は、ホシノウィルムの元に戻らなければいけないからだ」

 

 そう、それをおいて他にはない。

 

「どうして彼女を助けるの? そうしないとといけないような気がするから? 誰かを救わなきゃいけないと、そう思うから?」

「そういうことじゃないよ。そんな……誰かを救いたいなんて、立派な理由じゃない」

 

 自分が駄目な人間だと思うことは多いが、最近は特にそれが多い。

 俺がホシノウィルムのトレーナーとして傍にいたいと思う理由は、残念ながらそんな立派なものじゃないんだ。

 せめて、彼女の言うような「誰かを救いたい」なんて理由なら、格好も付いたんだけどな……。

 

 俺は思わず俯いて……自分の足元を見ながら、言った。

 

「ただ……彼女の信頼に応えたいだけだよ」

 

 

 

 その信頼を初めて感じたのは、恐らくあのダービーの直後。

 あの日、彼女は……「自分のトレーナーはあなたただ1人だけだ」と言ってくれた。

 それ以来、彼女は一度としてそのスタンスを崩さず、いつも言ってくれるんだ。

 「私はあなたのウマ娘だ」と。

 

 彼女は、俺を信じてくれている。

 トレーナーとして、そして保護者として、大人として……導き手として。

 

 そうして、あの日……。

 彼女は俺のトレーニングプランを信じ、実行して……あの宝塚記念で、最高の走りを見せてくれた。

 

 俺はそれを見て、「ホシノウィルムのトレーナーとして、これからも彼女の走りを見ていたい」と思わされたんだ。

 

 「ホシノウィルムの信頼に、トレーナーとして応えること」。

 結局のところ、今の俺を動かす最大の原動力は、それ以外の何物でもない。

 

 早く彼女の元に戻らなければ、トレーニングを付けられない。彼女の走りを見られない。

 だから俺は……早く起きなきゃいけないんだ。

 

 

 

「俺は彼女の信頼に応えたい。信じてくれる彼女に、相応のものを返したい。

 トレーニングプランでもいいし、レースでの結果でもいい。とにかくそれで、彼女が楽しく、満ち足りて走る姿……俺はそれが見たい。

 ただ、それだけなんだよ」

 

 ……本当に、なんて格好の付かない。

 

 ただ、自分が評価されたことが嬉しくて、そうまでして求められたことが嬉しくて……救われたような気さえして。

 そうしていつしか、彼女のことを求めてしまっていた。

 トレーナーとしてではなく……堀野歩として、彼女の隣にあることを望んでしまったんだ。

 

 でも、それだけ彼女に信じてもらっても、俺には返せるものがない。

 堀野歩はトレーナーになろうと決めて生きてきて、それにしか自分の人生を使わなかったから、それ以外には何一つとしてできない。

 だから、せめてトレーナーとして彼女を支えようと、そう思った。

 

 結局のところ、俺がホシノウィルムのトレーナーでありたいと望む理由は、ただそれだけ。

 ホシノウィルムというウマ娘に相応しい存在であるために……彼女の隣にいることに、相応しい理由が欲しい。

 

 ただそれだけの、本当につまらない……利己的な我欲でしかないんだ。

 

 

 

「俺は彼女のトレーナーとして、隣にいたい。

 まだまだ、彼女からもらった信頼に応えきれてないんだ。だから、少しでも早く起きなきゃいけない」

 

 俺はそう、独り言ちるように呟く。

 

 改めて内省すると、本当に……自己嫌悪に陥りそうなくらい、醜い欲求だ。

 これが現実であれば、とてもじゃないけど他人には言えなかっただろう。

 

 けれど……。

 自分勝手な欲望ではあるとしても、それは俺にとって……大事な理由でもあった。

 

 

 

 これが、初めてだったんだ。

 初めて俺は……「すべきこと」以上の、「やりたいこと」を見つけられた。

 

 

 

 だから俺は、なんとかして起きなければと、そう思って……。

 

「…………?」

 

 点滅する街灯の下、ふと見えた彼女の表情に、困惑する。

 

 ホシノウィルムの姿をした彼女は……。

 悲しそうな、衝撃を受けたような……それでいて、どこか嬉しそうな、複雑な表情をしていた。

 

 何故そんな表情を……いや、そもそも彼女は俺の……?

 

「……そっか。そっか、そっか。その子のことが、そんなに大事なんだね」

 

 ポツリと、彼女は呟いた。

 その表情と同じく、複雑で読みにくい声音で。

 

「あぁ、大事だよ」

「君の中で一番?」

「あぁ。一番大事だ」

「…………そっか。良かった」

 

 良かった? 何が?

 俺がそう聞くよりも早く、彼女は俺の後ろを指差す。

 

「じゃあ、行って。君の本当に大事で、本当に救いたい女の子のところに」

 

 彼女の指さした先、俺の背後。

 そこに広がる景色は、今までと同じ住宅街……では、なくなっていた。

 

 いつの間にか住宅街は消え去り、ずっとずっと先まで、底知れない闇が広がっている。

 けれどその中に……1つだけ、遠くに光が灯っていた。

 

 これは、俺が見ている夢だ。

 だから、こんな唐突な展開も、あり得るのかもしれないが……。

 

 夢であるということを前提にしても、それはなんとなく、異様な光景に思えた。

 

「あそこに行けば、目が覚めるのか?」

「うん。……でもその前に、1つの条件と、1つのお願いがあるんだ」

 

 振り返ると、彼女の頭上にあった電灯が、激しく点滅する。

 その度に見えたり、見えなくなったりする彼女は、まぶたを閉じて語る。

 

「まず、条件は……君は1つ、何かを捨てないといけない。いわゆる、事故の後遺症ってヤツ。

 ……とはいえ、これに関しては安心していい。

 それはもう、君には必要ない……むしろ君の足を引っ張るだけのものだったから。

 どう、条件を吞んでくれる?」

 

 彼女の語るものが何を指すのか、俺にはわからなかったが……。

 

「わかった。早く目覚めるためなら、何を捨ててでも構わない」

「……うん、わかった」

 

 

 

 その時。

 プツンと、彼女の頭上の電灯が、完全に消えた。

 

 とうの昔に陽の落ち切っていた住宅街は闇に包まれ……彼女の姿は、完全に見えなくなる。

 しかし、それに対して俺が何か言うより前に、彼女は静かに、どこか切なげに告げた。

 

「それで、お願いっていうのはね。……あなたの名前を教えてほしいな、って」

「名前? 堀野歩だが……」

「今世じゃなくて、前世の名前だよ。結局、それを知らずに終わっちゃったのが、すごく悲しかったから」

 

 …………?

 駄目だ、どうにも思考がぼやける。

 彼女の言葉には違和感があって……けれど結局、それが何についての違和感なのかはわからなかった。

 

 ……まぁいい、それは一旦置いておこう。

 俺の、前世の名前。それを教えても、何か悪いことがあるわけじゃないはずだ。

 なにせ、これはただの夢に過ぎないんだから。

 

 俺は素直に、かつての自分を表していた名前を告げた。

 

「そっか、────。良い名前、だったんだね」

 

 既にその存在も感じられなくなってしまった誰かはそう呟いて……。

 直後に、吹っ切れたような明るい声が届く。

 

「うん、最後にたくさん遊んだし、お願いも聞いてもらった。これで私は十分満たされた!

 さぁ、早く行った行った! こんな暗い世界にいてないで、君は彼女のことを支えてあげて!」

 

 言われ、俺は振り向く。

 

 世界からは一切の明かりが消え去って……ただ1つ、彼方の光だけが輝いていた。

 

 俺は、そこへと歩き出し。

 そして、いつしか走り出して……。

 

 

 

「さよなら、──君」

 

 

 

 最後に、そんな言葉が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 

 ……目覚めは、本当に酷いものだった。

 

 全身が重い。というか、まぶたすら重い。その上、動かそうとすると酷く痛む。

 正直に言えば、動かないままじっとしていたかったが……今はそういうわけにもいかない。

 

 既に、さっきまで見ていた夢の内容は、忘れかけているけれど……。

 とにかく、俺が長いこと眠っていたことだけは、よく覚えている。

 

 嫌な音を立てて送られてくる、全身からの悲痛な訴えを努めて無視し……俺は上体を起こした。

 

「マスター!」

「うっ……」

 

 かけられたらしい誰かの声が、わんわんと頭に響き……数秒して、それが自分の担当ウマ娘のものだったと思い出した。

 ……マズいな、頭の回転が緩い。急がないといけないのに。

 

「ミホ、ノっ、けほっ」

「! ……再起動確認。急激な運動による過負荷と断定。マスター、一時静止してください」

 

 ……お恥ずかしながら、言われなくともそろそろ限界だ。

 なんとか上体を起こしたが、今できたのはそこまで。

 どうにも体に力が入らない。まるで、脳と体が繋がっていないような錯覚さえ覚える。

 

 というか、鼻、鼻に違和感が……。

 あ、これ、管か。

 

 そっか、俺、意識がなかったんだものな。

 確かそういう場合は、鼻から胃に栄養剤を送ったり、腹に小さな穴を開けて、そこから胃に入れたりするんだったか?

 

 ……取り敢えず、穴を開けられてなくて助かった。

 もしそうだったら、流石にどうしようもなかったものな。

 

 俺は震える手に力を入れ、固定器具を取り……管を、引っ張る。

 

「……マスター?」

 

 ブルボンの怪訝そうな声にも手を止めず……体内を傷つけないよう、慎重にそれを抜き去った。

 ……本来は、意識がない内か、あるいは麻酔をしてやることなんだろうな。正直涙が出そうになるくらいには強烈な異物感と痛みがあったが、これはもう必要経費だろう。

 

「う、ぐ……げほっ、げほっ!」

 

 なんとか管を体外に出し切って……俺は鼻を押さえながら、ブルボンに話しかける。

 

「ミホノ、ブル、ボン……今は、いつ、だ」

「いつ……現在日時という意味で言えば、12月22日、17時37分です」

 

 12月、22日。

 ウィルの……有記念の、日。

 

 ……マズい、最悪だ。

 彼女のレースに、間に合わなかったか。

 

「マスター、どうか落ち着いてお聞きください。マスターは2週間前に自動車と衝突し……」

「わかって、る。ブルボン」

「は、はい」

 

 殆ど無表情ながら、僅かに困惑の色を見せる彼女に、俺は言った。

 

「お願いだ。中山レース場に、連れて行ってくれ」

 

 

 

 ミホノブルボンは非常に聡く、そして素直な子だ。

 ある意味で機械的というか……元になった馬がサイボーグと呼ばれた関係だろうか、その思考方法や過程が半ば機械じみて高速かつ純粋なのである。

 

 彼女は俺の言動から、俺が既に状況を理解していることを察した。

 その上で、俺が何を考えているかを考えてくれたんだろう。

 

 俺は、ホシノウィルムのトレーナーだ。

 このタイミングで中山レース場に行きたいと言い出す以上、その理由は1つしかない。

 自分の担当ウマ娘に……ホシノウィルムに、少しでも早く会うためだ。

 

 それらを瞬時に推理すること、2秒弱。

 真っすぐで心根の優しい彼女は……コクリと頷いてくれた。

 

「オーダー……いえ、『お願い』を受諾。

 了承しました、行きましょう、マスター」

 

 

 

 

 この病院に勤める方々には申し訳ないけど、今は正規の手続きなんてしてる余裕もない。

 俺とブルボンは、バレないようにこの病室を脱出する準備を始めた。

 

「脱出手段については、お任せください。こういう時のために、ホシノウィルム先輩が教えてくださった方法があります。マスターは、必要な荷物の確認を」

「すまない、頼む」

 

 彼女の言う「方法」がどんなものなのかはわからないが、恐らくこの病院からコッソリと脱出することのできる方法なんだろう。

 ……「ウィルが教えた」というあたりで嫌な予感がしないこともないが、どうか穏当な手段であってくれ。お願いします。

 

 内心の不安を振り払い、痛む体を押して、ベッドサイドに置いてあるものを見る。

 

 たくさんのフラワーアレンジメントが並べられている。どうやらたくさんの知己がお見舞いに来ていたらしい。

 色々と片が付いたら、お礼をしに回らなければならないだろうな。

 

 そしてその中に、俺のスマホは……ないか。

 ブルボンは機械類に触れると壊してしまう特性を持っているし、彼女もスマホは持っていないはず。

 となると、連絡は難しいかな。事前に昌に話を通しておきたかったんだが。

 

 その代わりと言うように、アレンジメントの陰に置いてあったのは……俺の使っていた手帳だった。

 あの事件の時にはスーツに入れていたはずだが、昌が置いておいてくれたのだろうか。

 

 軽く捲って見ると、中には女性の筆跡で走り書きが残されていた。

 『起きたらすぐにナースコールすること。絶対に勝手に出歩いたりしないこと。絶対に! 昌』……と。

 

「……すまん昌、それはちょっと無理だ」

 

 俺はそれを見なかったことにして、手帳の中からページを1枚破り、置かれていたペンで書き置きを残して……。

 

 ……あれ、これは?

 

「マスター、準備完了しました。こちらに」

「あ、うん。頼む」

 

 反射的に机の上にあったそれを掴み、重い体を引きずってブルボンの元に辿り着く。

 

 ……と。

 

 ぐいっと、俺の体が持ち上げられた。

 

「?」

「では、マスター、行きます。衝撃に備えてください」

「???」

 

 あれ、なんで窓が開いてるんだろう。

 それと、なんでブルボンは俺を背負っているんだろう。

 

「あの、ブルボン?」

「オペレーション『エスケープ:フォールダウン』……開始します」

 

 ちょっと、ブルボン?

 

 ……ミホノブルボン!?

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ちょっと死ぬかと思ったが、なんとか生きながらえた。

 ただでさえ体もボロボロ、精神的にも振るわない状況で、まさか4階の窓から落下するハメになるとはな……。人生って何が起こるかわからないものだ。

 ブルボンが窓のひさしや雨どい、柵を使って上手く衝撃を殺してくれたから良かったものの……もし彼女が手を滑らせたりしたら、ぺちゃんこになっていたところだろう。

 

 なんだろう、もうちょっとこう、穏当な手段はなかったものだろうか。

 いや、結果としては、多少目立ってはしまったものの病院から脱出できたし、彼女の協力には感謝する他ないんだけどさ。

 

 

 

 そんなわけで、俺たちはなんとか病室を脱出することができたんだけど……。

 

 しかし真の問題は、病院を出てからだった。

 

 俺もブルボンも、世間には顔が割れてしまっている。

 俺は無敗のクラシック三冠、あるいは五冠ウマ娘のトレーナーであり、ミホノブルボンは中央所属のクラシックレースの有力株。

 多少業界に詳しい人ならば、顔を知られていてもおかしくない。

 

 更に現在、俺は全身の筋肉が凝り固まってしまい、とてもじゃないが走れるような状態ではなかったし、着ているのも運動には向かない病衣。

 より早く中山レース場に向かうには、ブルボンに背負ってもらう必要があったわけだが……そうなると当然ながら、そりゃもう目立つわけで。

 

 俺たちは人目を避けるため、病院を出てすぐにタクシーを拾い、目を白黒させる運転手に無理を言って、レース場に急行してもらった。

 

 

 

 タクシーがレース場に着くまでに、俺はブルボンにあれからのことを聞きながら、凝り固まった筋肉を伸ばそうと、軽い柔軟運動を行う。

 

 ブルボンは、朝日杯FSに勝利した。ただし余裕のものではなく、ハナ差ギリギリのものだったらしい。

 一方ホシノウィルムは、一時期は相当に思い詰めていたようだったが、ある時期を境に持ち直した。そして昌とたづなさん主導の下でトレーニングを重ね、つい先刻有記念を走った、とのことだった。

 

 ブルボンが続けて「有記念では……」と語ろうとした気配を見て、俺はその声を手で制した。

 

「いや……悪いが、結果はまだ言わないでくれ」

 

 なんというか……有記念を見逃してしまった今、結果だけはせめて、本人から聞きたかったんだ。

 彼女は俺の意思を汲んでくれたか、コクリと頷いてくれた。

 

 

 

 軽く一連の流れを聞き終わった後、改めてストレッチに精を出していると……。

 ブルボンがふと、俺の隣に置いてあったものを見て、呟く。

 

「……マスター、それは」

「ん……よくわからないが、病室にあったので……思わず持ってきてしまった。どうしようか」

 

 俺が手帳と共に持って来てしまったのは、1冊のノート。

 表紙にはタイトルも名前も書いていない、まだ真新しそうなものだった。

 

 もし病院の備品だったりしたら、持ち出したのは少し問題かもしれない。

 ……いや、そもそも勝手に病院を抜け出しているのが既に問題なわけなんだが。

 

 その辺りが少し、頭が痛かったんだけど……。

 どうしようかと悩んでいる俺に、ブルボンが呟いた。

 

「……それは、ホシノウィルム先輩が病室に残していったものです。恐らく、マスターへの贈答品であると推測します」

「ホシノウィルムの……」

「まだレース場まで、少し時間があります。中身の閲覧を提案します」

 

 少し迷ったが……ウィルは相当に追い詰められていたらしいし、これが俺への恨み言であれば、俺にはそれを受け止める責任があるだろう。

 

「そう……だな」

 

 俺はそのノートのページを開いた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 確かに、そこには過去への恨み言が書いてあった。

 

 「なんでこういう時にいなくなるんですか」。

 「あなたのせいでもう心がハチャメチャです」。

 

 そんな言葉が、いくつも並んでいた。

 

 

 

 ……けれど。

 

 「また、あなたのトレーニングを受けたい。そうでなくても、ただ一緒にいるだけでもいい」。

 「早く目を覚ましてください。言いたいこと、聞きたいこと、やりたいことがたくさんあるんです」。

 「いつまででも待っています。あなたが私のトレーナーに戻ってくれる時を」。

 「私は、あなたのウマ娘だから」。

 「だからどうか、自分だけで抱え込まず、思い詰めないで」。

 「私にも、あなたの想うことを一緒に想わせて、背負うものを一緒に背負わせてください」。

 「私たちは契約トレーナーと担当ウマ娘で、相棒なんですから」。

 「それに、あなたは私を救ってくれた、恩人だから」。

 「今度は私に、あなたのことを救わせてください。あなたの隣にいさせてください」。

 

 その何倍もの……明るい未来を望む声が、綴られていた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 それを読んで……半ば衝動的に、口元を抑える。

 

 

 

 …………そうか。

 彼女は、これから先の未来でも、俺の隣にいてくれるんだな。

 

 

 

「マスター?」

 

 隣でこちらの様子を窺っていたブルボンが、ふと口を開く。

 

「ん? なんだ、ミホノブルボン」

「泣いて……いるのですか?」

 

 泣いて……?

 

 気付けば、俺の目からは涙が流れていた。

 何故流しているのかも、……誰に向けているのかもわからない、涙が。

 

「……いや、悪い。起きたばかりで、情緒が不安定なのかもしれない。気にしないでくれ」

 

 俺はそう言って目元を拭い、ノートを閉じて前を向く。

 

 

 

 中山レース場はもう、すぐそこまで来ている。

 ……そろそろ過去を振り返るのではなく、彼女に会って何を言うか、考えなければな。

 

 

 







 次回は、明日。ホシノウィルム視点で、彼と彼女の最後のお話。
 2回目の本編最終話です。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました。


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私たちの物語

 

 

 

 目の前の現実をこんなにも疑ったのは、いつぶりだっただろう。

 

 それこそ、お父さんが死んでしまったっていう連絡が来た時と同じくらいに……私には、その光景が、嘘みたいに思えた。

 

「トレー、ナー……?」

「ああ。……君の感覚で言えば、久しぶり、になるのかな、ホシノウィルム」

 

 今、私の前にいるのは……歩さんだ。

 

 ずっと会いたいと思っていた人。

 ずっとずっと、会って、話して、くだらないことで笑って、色んな体験を共にしたかった人。

 

 そんな人が……今、目の前に、いる。

 

 

 

 私はこの2週間、彼が無事に起きてくれることだけを望んでいた。

 例えば、後遺症で手足が麻痺しようが、あるいは記憶がなくなろうが構わない。体が動かしにくいのなら私が支えるし、記憶だってこれからいくらでも作って行けるから。

 

 とにかく目を覚ましてさえくれれば、それ以上の欲を言うつもりはなかった。

 ただ、彼が彼として、私の傍にいてくれれば……それだけでよかったんだ。

 

 けれど……。

 結局、ただの1度だって、彼は目を覚まさなかった。

 

 どれだけ望もうと。どれだけその顔を覗こうと。どれだけ病室にいようと。

 その指先は少しも動くことなく、そのまぶたが開くこともなかった。

 

 いつしか私は、それに一種の諦めのようなものすら覚えていた。

 勿論、いつかは起きてくれるだろう。私はそれを信じている。

 けれど……きっとそれは、今じゃない。

 今この瞬間、彼が起き出すことはないだろうと、私の中の冷たい理性が、そう言っていた。

 

 あるいは、希望なんて持たないよう、本能的にブレーキをかけていたのかもしれない。

 今日起きるんじゃないか、今起きるんじゃないか。そんな風にいつも期待していては、裏切られた時の衝撃が大きすぎるから。

 

 だから私は、彼を信じながらも、同時に心のどこかでそれを諦めかけているっていう、不思議な状態になっていて……。

 

 

 

 ……それなのに、今。

 

 彼が、歩さんが、目の前にいる?

 

 

 

 ……夢? そう、夢、なのかもしれない。

 だって、そんな都合よく……そんな私に都合の良い展開が、あるわけがない。

 

 スペ先輩の言っていた通り、背負って、走って、それから信じて。

 有記念が終わって……それで、それで報われた……?

 

 そんなの……それこそ、作為を感じてしまうほどに、非現実的に思えて。

 矛盾してるかもしれないけど、夢だって思った方が、まだ現実味があるような気さえして。

 

 

 

 いや……。

 もう、いい。

 

 これが現実じゃなくて、夢でも、幻覚でも、いい。

 ここに彼がいるなら……もうそれだけで。

 

 だからどうか、もう少しだけ覚めないで。

 もう少しだけ、夢を見せて、ほしい。

 

 

 

「なんで……目、覚めて……え、いや、病院……違う、そんな」

 

 かろうじて喉の奥から引き出したのは、そんな掠れた声だった。

 

 混乱、している。

 頭の中はぐちゃぐちゃで、何をどこから話していいか、わからなかった。

 

 あれだけ話したいと思っていた相手なのに。あれだけ会いたいと思っていたのに。

 それなのに、いざ直面すると、どうしようもなく言葉に詰まってしまう。

 

 歩さんはそんな私を見かねて、小さく苦笑した。

 

「ホシノウィルム、本当に心配をかけた。今はこの通り元気……あ」

 

 ぐらりと、歩さんの体が揺れる。

 その光景に、私の頭は真っ白になりかけて……。

 しかし、すぐそばにいたウマ娘が、すんでのところで彼の体を支えた。

 

「う、お」

「マスター、その身はまだ病み上がりです、ご注意を」

「……すまん、ミホノブルボン。助かった」

 

 彼を支えたのは……ミホノブルボンちゃんだ。

 

 なんで? なんで彼女がここにいる?

 彼女は今、まだ病院にいるはずで……。

 

 ……あぁ、いや、そうか。

 

 ブルボンちゃんが病院に待機していたのは、歩さんが起きた際、すぐ対応できるようにするため。

 歩さんが起きてここにいる以上、彼女も付いて来るのが道理……な、はずだ。

 

 でも、それはあくまで、歩さんが起きたっていう前提の話で……。

 いや、だからそう……歩さんが目を覚ましたから、彼女はここにいるわけで。

 

 

 

「……え、本当に……トレーナーが、目を、覚まして……」

「本当も何も、俺が君のトレーナー以外の誰かに見えるか?」

「いや、だって……ずっと、ずっと目を覚まさなくて……2週間も……」

「あぁ、起きたのはつい先ほどだ。時間にして、1時間程前か?」

 

 そう言って、歩さんは確認するようにブルボンちゃんの方を見る。

 

「マスターが意識を覚醒させてから、1時間21分41秒です」

「ありがとう、ブルボン。……1時間21分41秒だ」

「現在1時間21分49秒になりました」

「いや、そこまで詳しく教えなくてもいいんだけどね?」

 

 おおよそ1時間前に、歩さんは、目を覚ました。

 

 ……本当に。

 …………目を、覚ました?

 

 

 

「トレーナー……」

「うん」

「私、その……ずっと、トレーナーを待ってて……えっと、その」

「うん、本当に待たせてしまったな」

 

 言葉が、出てこない。

 

 頭の中に、たくさん、言いたいことを詰めていたはずだった。

 2週間の間、ずっとずっと溜め込んできたんだ。

 

 それなのに……何も、何も出てこない。

 

「そ、そうじゃなくて……えっと、トレーナー……その、体とか、大丈夫なんですか」

「体……え、そういえば大丈夫なのか、俺。まぁ今も全身まんべんなくめちゃくちゃ痛くはあるが」

「お医者様曰く、覚醒しないこと以外は完全に健康体とのことでした。痛みは体が鈍っている状態で無理に動き過ぎた弊害であると推測します。

 とはいえ、脳に関する故障はブラックボックスです。昌さんに見られれば、再び病院送りになると推測できますが」

「うっ、そうか、昌……。怒られそうだなぁ。いや、絶対怒られる。超怒られるよこれ……」

「目を覚ましてすぐ病室を抜け出してきているのです。叱責されるのは自然ではないでしょうか」

「あ、う……いや、まぁそれはその通りなんだが……」

 

 歩さんとブルボンちゃんはどことなく、前よりも仲良くなっているようだった。

 一定の距離を置いていた歩さんが、ブルボンちゃんにちょっと気安くなったような……。

 

 …………いや、違うか。

 なんというか……彼女に対してだけではなく、歩さん自体が、以前より柔らかくなっている気がする。

 

 一体何があったのかと、そう思う間もなく……。

 歩さんが私の方に向き直る。

 

「ま、まぁ、それはいいんだ。どうせ後で病院送りにされることはわかっていたし。

 とにかく、ホシノウィルム。俺はこの通り大丈夫だ。少しばかり体は鈍ってしまっているが、もう寝込むようなこともないはずだよ」

 

 「ほら」と差し出された手を、私は縋りつくように握りしめる。

 

 

 

 ……温かい。

 ベッドの上で握った時より、少しだけ、体温が高かった。

 

 

 

 あぁ……この、手だ。

 

 私に温かさをくれたのは……この手だ。

 

 生きてる。

 

 歩さんは……今、目の前にいる!

 

 

 

「トレーナー……トレーナー、トレーナーっ!」

 

 温かい、温かい、温かい!

 この手も、肘も、肩も、体も……全部!

 

「生きてる……っ! トレーナー、生きて、生きてっ!」

「あぁ、生きてるよ」

「良かった、良かったぁ、本当に良かった……! 生きてる! トレーナーぁっ!!」

 

 彼の体を、抱き締める。

 固く固く、もう2度と、決して離さないよう。

 

 彼が勝手に、どこかに行ってしまわぬように。

 

「もう、本当に心配したんですよ! ずっとずっと心配して、だから……っ!」

「いや、その……。……ホシノウィルム?」

「……だから、もう、どこにも行かないでください」

 

 ……指先も、声も、ガタガタだ。

 

 大事な人を失う恐怖が、心を、震わせる。

 

「トレーナーが、事故に遭ったって聞いて……怖かった。ずっと、怖かった。

 もう二度と、トレーナーと話せないんじゃないかって。ようやく見つけた大事な人を……また喪うんじゃないかと思って、怖かったんです。

 でもっ……でも、信じてました。トレーナーなら絶対に、戻ってきてくれるって」

「……ホシノウィルム」

「だから、本当に、本当に良かった……! 信じて良かった、待っていて、良かった……!」

 

 あぁ、どうしよう。

 

 言いたい言葉も、叩きつけたい不満も、甘えたいことだって、たくさんあったのに……。

 口から飛び出すのは、ただ自分勝手な想いだけ。

 

 顔を涙でぐちゃぐちゃにしたまま、まるで子供のように、私は歩さんの腰に抱き着いた。

 

「良かった……良かった……! 戻ってきてくれて、本当に……っ!」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 それから暫くの間、私はまともに会話を交わすことすらできなかった。

 本当に10分以上、彼の腰に抱き着いて、泣き続けるだけで……。

 

「お、お恥ずかしいところを……ずっ、んんっ、お見せしました……」

 

 ちょっと落ち着いてきた時には、そりゃもう恥ずかしくなって、顔を真っ赤にしてしまうくらいで。

 

 ……いや、これがただの中等部のウマ娘ならいいのよ。歳相応の反応だろうし。

 けどさ、私これでも転生者なの。前世の記憶も経験も持ってる、人格そのままの転生者なんだ。

 

 これでも一応、前世は大学生だったのよ? 社会に出てない以上大人と言えるかは微妙だとしても、少なくとも成人してはいたし、お酒とか煙草もやれる歳ではあったんだよ。

 それなのに、こんなぐちゃぐちゃに泣くとか……ホントにもう、恥ずかしいったらないってば。

 

 うぅぅ……顔から火が出そうって言葉あるけど、あれって本当だったんだ。

 今ならホントに火炎放射できそう。汚物じゃなくて黒歴史を燃やしてしまいたいよ……。

 

 せめて、その惨状を見られたのが、気心の知れた歩さんとブルボンちゃんの2人で良かった。

 ……と思ったけど、冷静に考えるとここ通路だし、多分通りすがりのスタッフさんとかウマ娘には見られたかもしれない。はは、死にたくなってきたな……。

 

「あー、その、なんだろう。俺は……その、信頼関係を再認識できて、嬉しかったぞ?」

「自らのマスターと再会できて感激する事は、決して恥じ入るべき事ではないと考えます」

「あの、ガチのフォローやめてもらえます!? むしろそっちの方が辛いんですよ!」

 

 あーもう、ホント、顔あっつい。

 

 もう何を言ったかも覚えてないけども、だいぶ明け透けに色んなことを言っちゃった気がするし……。

 今の私の目、それはもう間違いなく真っ赤に充血してるし……。

 しかも、…………。

 あーもう、ホント、最悪だ……。

 

 

 

 ……よし、切り替えよう。

 

 軽く頬を挟み、思考をリセット。

 私は彼の担当ウマ娘だ。積もるお話をする前に、報告すべきことがある。

 

「トレーナー……ええと、トレーナーはどこまで状況を掴んでいるんでしょう」

「今日は君の有記念の日。俺は事故で昏睡してまんまとそれを見逃した、間抜けすぎるトレーナー。レースの結果はまだ聞いていない。時間帯や君が勝負服を着ていることからして、君は今ライブを終えて帰って来たところか」

「……びっくりするくらい状況を整理できてますね。え、混乱とかないんですか?」

「混乱なんて、するだけ時間の無駄だろう?」

「えぇ……」

 

 やっぱりこの人、トレーナー業に関わることだけは、とんでもないな。ちょっと頭のネジが飛んでるまである。

 まぁ、それ以外の部分では……色々と抜けてるところとか、可愛いところも多いんだけど。

 

 とにかく、それだけ状況を理解しているのなら、整理は必要ないだろう。

 

「じゃあ……今の私が言うべきはただ1つ、今日のレースの結果ですね」

 

 一度、大きく息を吸い……吐き出して。

 

 

 

「今日の有記念、私は……3センチメートルの差で、スペ先輩に勝ちました」

 

 

 

「すごかったんですよ。是非今度、映像で見て欲しいくらいです。

 最初からとんでもないスピードで切り込んできたスズカさんとターボの追い比べ、想定外なくらいのターボの粘り、そこから入れ替わりで前に出た私とスズカさんのとんでもないマッチレース!」

 

 ……あぁ。

 

「なんとかそれを制しても、すぐに後続との戦いになって、ミーク先輩やスカイ先輩、テイオーが前に出て来て……でもそこから、スペ先輩がとんでもない加速力で突っ込んできて!

 スペ先輩の領域は本当にとんでもなくて。私、あれほど負けを直感したことはありませんでした。

 最終直線からは私も領域を開いて……あ、私の領域、前よりももっと良くなったんですよ? それでスペ先輩のスパートに対抗してですね……」

 

 ……もう。

 

「それで、逃げ切れるかどうか本当にギリギリの戦いで……倒れてしまうくらいに限界状態でゴールして……そこから、写真判定になって。

 それで、たった3センチ差とはいえ、勝ったんですよ! あのスペ先輩相手に!」

 

 …………本当に。

 

 

 

 

 

 

「……って、そう言えれば良かったんですけどね」

 

 

 

 本当に、悔しい。

 

 

 

 

 

 

「ごめんなさい、嘘です。負けちゃいました。3センチメートル……本当の本当に、紙一重の差で」

 

 ……それが本当の、有記念の結末。

 

 1着、スペシャルウィーク。

 2着、ホシノウィルム。

 その差は、僅か3センチメートル。

 

 私は、スペ先輩に、勝てなかった。

 

 

 

「今回は、とんでもないレースでした。誰も自分の本領を出せないような大混戦。

 私はスズカさんを越えるために手札を1枚切ることを強いられ、スタミナを消費していましたし……。

 スペ先輩の方も、どうやらスカイ先輩の策で外の方に追いやられていたようです。

 だから、条件はイーブンで、どちらも不利で……結局のところ、私の方が1枚劣っていた、ということですね」

 

 ……駄目だなぁ。

 

 冷静に語ろうとしたのに、どうしても……心が、騒ぐ。

 

「……悔しいです。もう、本当に……。

 あと少し、どこかで力を温存できたら。あと少し、本番前に仕上げられたら。あと少し、私の脚が速かったら、って……そう思わずにはいられません」

 

 悔しさが、私の心をチリチリと焦がす。

 

 あと少しだった。本当の本当に、あと少しだったんだ。

 

 あと少しだけ……届かなかった。

 

 

 

「……すまなかった」

 

 トレーナーはやはりというか、苦悶の表情を浮かべて、頭を下げた。

 

「俺が眠っていたばかりに……本当に、君には多くの迷惑をかけてしまった。

 結果として、ただ1度きりの有記念において、君は完全に本調子と呼べない状態で走ることになったのかもしれない。

 契約トレーナー失格と言われても、何の言い訳のしようもない」

 

 ……そう言うだろうなって、思ってた。

 

 この人は自虐的で自罰的で、何よりとんでもなく真面目な人だ。

 もしかしたら、自分がいなかった結果が、3センチメートルという差を空けてしまったのではないかと……そう思ってしまうんだろう。

 

 そして恐らく、現実的に考えて、その側面はある。

 昌さんはすっごく頑張ってくれたし、作戦会議では私も頑張って案を出したけど……それでも、やっぱり歩さんのようにはできなかった。

 もしかしたら、歩さんが昏睡しなければ。あるいはそうでなくとも、起きるのが昨日であれば……。

 今日のレースで勝っていたのは、私だったかもしれない。

 

 

 

 ……でも。

 

「いいんです」

 

 そう言って、私はトレーナーの背中に、改めて手を回した。

 

「自分の全力を出して、相手の全力を受けきって、それで勝敗を決したんです。

 悔しさはありますけど、後悔はありません。ただこの熱を、次回に活かせばいいだけ」

 

 「悔しい」と「納得いかない」は、別のものだ。

 

 今日のレースに負けて、公式レースでは初の敗北を刻んで……当然ながら、悔しい。

 

 けれど、一切出し惜しみのない全力で負けたんだ。

 そこにはドロドロとしたものなんて少しも残っていない。ただ「ちくしょー、次回は絶対勝つ!」という、未来への奮起だけがあった。

 

 有記念は、レース後にスペ先輩が言っていたように、「勝っても負けても悔いの残らない、最高のレース」だった。

 

 故に私は、今回の結果に納得している。

 今この瞬間だけは、スペ先輩に劣っていることを、受け入れている。

 

 ……でも。

 彼がそれを恐れる気持ちは、理解できる。

 だから私は、歩さんを抱き締めたまま、その背中を撫でて、言った。

 

 

 

「だから、大丈夫。私は折れたりしませんし、この脚の持つ限り、あなたのウマ娘であり続けます。

 ……絶対に、あなたの元に戻って来ますから」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 歩さんが倒れた時に、昌さんと少し話す機会があって……。

 彼女は私に、こう言ってきた。

 

 「どうか兄との契約をそのままに、有記念に勝って欲しい」。

 「もしもあなたが負ければ、兄は今度こそ絶望してしまうかもしれない」、と。

 

 ……でも、私はその言葉に、なんとなく違和感を覚えたんだ。

 

 だって、歩さんはこれまでに、私に勝利を望んだことなんてなかったんだもの。

 

 それはかつて、堀野のトレーナーとしての義務だったのかもしれない。

 聞いた話、トレーナーの名門堀野家は、「ウマ娘が健全かつ幸せにウマ娘が走り続けられること」を最優先目標に置いているらしい。

 だから私に対しても、勝利以上に、無事な帰還を望んだのか、と。

 そう思うことも、できた。

 

 けれど……堀野のトレーナーを辞めても、彼が求めることは変わらなかったんだ。

 それは、レースの度に言われることを考えれば、一目瞭然だった。

 

 

 

 今も昔も変わらない。

 彼は、レースを終えた私に対して、「おめでとう」よりも「おかえり」を言ってくれる人なんだよ。

 

 

 

 彼が求めているのは、担当ウマ娘の成功なんかじゃない。

 そんなものよりもっと些細で、当然のようで、けれど得難く、曖昧なもの。

 

 身近な人が、平穏無事に帰って来ること。

 明日になっても、当然のように再会できること。

 

 彼が本当に望んでいたのは、ただそれだけのことだったんだ。

 

 

 

 ……ただ、真の意味で「無事に帰って来る」っていうのは、競走ウマ娘には難しい部分がある。

 

 なにせ私たちの脚は、「ガラスの脚」と言われるくらいに脆い。

 トレーニング中やレース中での故障によって引退するウマ娘たちは数知れないくらいだ。

 

 更に、それだけじゃない。

 ウマ娘の中には、レースで負けることで心が折れて、戦いの舞台から降りてしまう子もいるのだと言う。

 

 彼にとって「無事」というのは、勿論肉体的な部分もそうだけど、精神的な無事も指しているんだろう。

 だからこそ、私以外のウマ娘が負ける姿を見て、その心が折れるところを見て、心を痛めていた……のだと思う。

 

 この辺りになってくると、あくまで私の推測に過ぎない部分も大きくなるんだけど……彼のこの顔を見るに、そこまで間違っているわけではなさそうだ。

 

 

 

「ホシノウィルム……君は……」

 

 彼の表情に浮かんでいるのは、驚きと……薄っすらと浮かぶ、ほんの少しの、淡い希望。

 

 明日という日が、平穏無事に来るかどうか。

 身近な人に、再び会えるかどうか。

 そんな些細なことさえも、彼は信じられずに生きてきたんだろう。

 

 自分が頑張らないと、人が死ぬかもしれない。

 死なないとしても、もう会えなくなるかもしれない。

 だから、頑張らなければならない。自分の周りにある温かい環境を守るために、常に努力し続けなければならない。

 ……そうやって頑張り続けなければ、自分には価値がなくなってしまう。

 

 彼はそうやって、自分の命を燃やすようにして生きてきた。

 もはや不可能な、過去への清算。自分の失敗で喪われたものに、少しでも償うために。

 

 

 

 私は、嫌だった。

 

 彼がそんな悲しい生き方を選ぶのも、その瞳がいつまでも過去を向いているのも。

 

 ……だから。

 

 

 

「私は、いつでも……これからずっと、あなたの隣にいます。

 相棒として、あなたのウマ娘として、あなたの苦しさも悲しさも一緒に背負います」

 

 ……私の言葉は、今は、届かないかもしれない。

 

 歩さんはこれまでに10年以上を、そんな暗い価値観の中で過ごしてきた。

 そんな彼が、私の言葉で全部解き放たれる、なんてことはないのかもしれない。

 

 けれど……それだって、きっと永劫不変のものじゃない。

 私が歩さんに、1年半という時間をかけて、心の氷を溶かされたように……。

 これからずっと付き合っていく内に、彼だって、変わっていくはずだ。

 

「私はもう、救われました。

 あなたがあの夜に手を取ってくれて、私を大事にしてくれて……温かさをくれたから。

 だから、今度は……私の番」

 

 私は彼の体を抱き締め、祈りを込めて、言った。

 

 

 

「いつか私に、あなたを救わせてください」

 

 

 

 彼はその言葉に、数秒固まって。

 それから……。

 

 私の頭に手を置いて、静かに語った。

 

「俺はもう、君に救われてるよ。

 あの夜に出会って、俺を信じてくれて、そうして戻って来てくれたから。

 ありがとう、ホシノウィルム。これからも、可能な限り長く、よろしく頼む」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ちょっと恥ずかしい、けれどきっと大事な会話を終えて……。

 私と歩さん、それにブルボンちゃんの3人は、改めて昌さんが待っている控室に向かうことにした。

 

 ……ブルボンちゃん、さっきは空気を読んで黙ってくれてて助かったな。今も、さっきの会話には触れないでいてくれるし。

 もし茶々でも入れられたら私、恥ずかしさのあまりここから逃げ出していたかもしれない。

 

 やっぱり、出来た後輩だ。

 ただちょっと天然が入っているだけで、本質的には人に気を遣える優しい子なんだよね。

 

 そんなことをぼんやり考えながら歩いて……。

 

 ふと、忘れ物があったことを思い出す。

 

 

 

「あ、そうだ、トレーナー。いつもの」

「ん……そうだったな」

 

 私は、すっごく抽象的にそれを求めて……。

 歩さんも、それを何と言わずとも察してくれた。

 

 彼に向き合った私に与えられたのは、頭上に置かれた温かさと、彼のいつもの言葉。

 

「おかえり、ホシノウィルム。よく頑張って走り、よく無事に帰って来た」

 

 レース後に与えられる、私の報酬。

 きっと、私と歩さんが救い合う、その象徴だ。

 

「ん、ただいまです、トレーナー」

 

 そう言った後、私はふと良いことを思いついて、ニマリと笑う。

 

「ね、ね、ちょっと屈んでください」

「ん? うん、ちょっと待ってな」

 

 彼は明らかに鈍いぎくしゃくとした動きで、ゆっくりとしゃがんでくれる。

 

 2週間も眠りに就いて、私たちが時々軽く動かしていたとはいえ、凝り固まっているはずの体。

 激痛の走るそれを押して、歩さんは、私に会いに来てくれたんだ。

 

 だったら、いつもは与えられてばかりの報酬も、ちょっとは返さないとね。

 

 

 

 ようやく首の高さに下がって来た彼の頭を、くしゃくしゃっと撫でて、私は笑う。

 

「おかえり、歩さん。ずっと待ってたよ」

 

 歩さんは、ちょっと呆然とした後……。

 

 これまでに見たことのなかった、穏やかな笑顔を浮かべた。

 

「……あぁ。ただいま、ウィル」

 

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 

 あの宝塚記念が私の物語の終わりとするなら、これは私たちの物語の終わり。

 ……あるいは、2人の新たな人生の始まり、って言ってもいいかもしれないな。

 

 不確かだった想いを言葉にして、与えられた救済を交感して……。

 それでようやく、私たちは本当の意味で、パートナーになれたんだと思う。

 

 対等に、お互いに救い合った、そしてこれからも救い合うだろう関係性。

 ……へへ、ただのパートナーって言うには、ちょっと近すぎる気がしないでもないけどさ。

 

 

 

 人生は、続く。

 

 これから先も、嫌なこととか難しいことは、たくさんあるだろう。

 取り返しの付かないミスを犯したり、それに後悔することだって、きっと数えきれなくなる。

 そのあまりの過酷さに、再び足を取られてしまう日も、来るのかもしれない。

 

 それでも、2人ならきっと大丈夫だ。

 

 どんな辛いことがあったって……。

 またお互いに、救い合って生きていけばいい。

 

 私たちはこれからもずっと、この人生を、隣り合って生きていくんだから。

 

 ……あ、いや、それはちょっと気が早すぎか?

 あ、あはは、ちょっと顔熱くなってきたな……。

 

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 

 ちなみに、その後。

 

「は、兄さん!? ちょっと、ミホノブルボンさん、どうなってるの!? それに、え、何なの!?」

 

 昌さんが珍しく狼狽しまくり、ちょっと面白かったのは……本人の名誉のために、忘れておくとしよう。

 

 

 







 なんとか間に合った……! 今日2/22は、ウィルの誕生日です。
 このハッピーエンドが、うちの子への作者なりのバースデープレゼントということで。



 改めまして、本編第二部「堀野歩」終了です。
 正確には、次回のおまけ別視点回で本当に終わるんですが……2人の転生者の視点=本編はこれにて終了ということで。

 そして、これにて「転生者2人のお話」も、その本編を終えたことになります。
 ゲームではない人生、1度の敗北を経験しても、バッドエンドとはなりません。
 片や過去を受け入れ、片や未来に視界を向けられた転生者たちは、これからもこの世界でハッピーエンドを目指して生きていくことになるでしょう。

 色々とお伝えしたいこともあるんですが……。
 ひとまず今は本編の締めくくり、次回の別視点回をお楽しみに。



 次回は3、4日後。別視点で、祈りの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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幸せになれなかった魂のためのキリエ

 別視点回です。





 

 

 

 あの日から、色々なことがあった。

 

 ホシノウィルムさんは、有記念で、僅か3センチメートルという差で惜敗した。

 

 ……その要因は、疑うまでもなく、私の調整不足だ。

 彼女にはこのレースでも勝てるだけの素質があったし、能力があった。

 それなのに彼女が敗北したのは、前日までに彼女の体を完璧に仕上げることのできなかった私の責任に他ならない。

 

 けれど、彼女は唇を結びながらも、私を責めなかった。

 初めての敗北、自分の黒星。それが悔しくないわけがないのに……それでも、決して責任転嫁すらすることなく、自分の過失として受け入れていた。

 

 改めて、すごい女の子だと思う。

 私が彼女と同じ年頃で同じことを経験すれば、まず間違いなく周りに当たり散らしていただろう。

 ……というか、去年トレーナー免許試験に落ちた時は、それなりに父さんに当たり散らしてしまった。今も昔も、そう変わらないかもしれない。

 

 それなのに、彼女はそれを、自分の不足だと受け入れていたんだ。

 担当ウマ娘とか年下とか以前に、1人のウマ娘として尊敬に値する人物だと思う。

 

 

 

 ……で。

 それだけだったなら、残念ではあっても、まだ平和に終わったんだったんだけど……。

 

 更に、その有記念の数時間後、兄さんが目覚めた。

 

 ……いや、兄さんが目を覚ますのは、間違いなく良いことだ。

 私だってこれでも家族なわけで、そりゃあ喜ばしい気持ちはあった。

 

 けどさ、普通病院から脱走なんてする?

 2週間意識がなかったんだよ? 体なんてガタガタで、私と会うや否や倒れ込むような体だったんだよ?

 そんな状態で、何を当たり前みたいな顔で脱走してるの?

 

 私、手帳に書いたよね? 勝手に出歩くなって。兄さんの性格的にまず間違いなく見たでしょ? なんで平然と無視してるの?

 

 本当にバ鹿。本当の本当の本当にバ鹿。

 どうせ今日の夜まで待てば、私もホシノウィルムさんも兄さんに会いに行っただろうに……その数時間すら待てないなんて。

 こっちがどれだけ驚いて、どれだけ心配したと思ってるの?

 

 それに……私が驚いたのは、それだけじゃないし。

 まぁ、それは兄さんが悪いわけじゃないし、一旦置いておくとしても……。

 

 あぁ、もう……。

 前からそうだったけど、兄さんと付き合っていくのは心臓に悪すぎる。

 ……あんな兄さんのことが好きっぽいなんて、ホシノウィルムさんの気が知れないよ、ホント。

 

 

 

 そして、兄さんが意識を取り戻したってことは、引継ぎが不十分で停滞しがちだった仕事が動き出すってことも意味する。

 兄さんを病院に叩き込んで精密検査を終え、無事に健康体だっていうお墨付きを貰った後……。

 私と兄さんは、この2週間で溜まりに溜まった仕事の消化に奔走することになった。

 

 悔しいけど、兄さんでさえ1人では手に余っていたような業務を、私1人でこなすなんて不可能もいいところ。

 この2週間は、余裕のある仕事は極力後回しにしながら、とにかくホシノウィルムさんの周りの状況を整えようとしていたんだ。

 結果として、文字通り「山」と呼んでいいだけの仕事が積もりに積もっていたんだけど……。

 

「あー、なるほどなるほど。まぁこの量なら……2日くらいで終わるかな」

「は?」

 

 兄さんが2晩でやってくれました。

 

 ……信じられない。

 どういう頭をしてれば、アレが2日で片付くんだ。

 いや、勿論私も精一杯手伝ったんだけども……正直全体の10%も受け持てなかった気がする。

 

 やっぱりこの人、少なくともトレーナー業に関してはちょっとおかしいわ。

 

 確かに、才能はないのかもしれない。

 1つのことに手を付けても、普通の人の半分しか結果を残せず、学べないのかもしれない。

 

 それでも、兄さんはいつだって死ぬほど努力し、どれだけ苦しくても諦めず、最後の最後までやり通す。

 そうして培われたものが、小さいわけがないんだ。

 

 そういうところ、妹としては嫉妬を通り越してただただ尊敬するし……。

 同時に、「このくらいなら昌もすぐできるようになる」なんて悪意なく言い放つのが、気に入らない。

 

 何でもないって顔でそんなすごいことされたら、全く追い付けない私の自尊心がバラバラになっちゃうじゃん。

 もっと、自分はすごいんだって、認めてほしい。

 ……私の家族のことを、認めてあげてほしい。

 

 そう思ってしまうから、やっぱり兄さんのことは、どうにも苦手なままだった。

 

 まぁ……。

 あの頃の、ぐちゃぐちゃな色をしてた兄さんよりは、ずっとマシだけどさ。

 

 

 

 で、そんな兄さんと一緒に、地獄のデスマーチ2日間を乗り越えて……。

 

 今日は、12月25日。

 世間ではクリスマス、救世主の降誕祭として知られている1日だ。

 

 そして今年のこの日、中央トレセン学園のトレーナー棟、そのとある一室では……。

 

「えぐっ、うっぐ、負け……負けだぁ……あとぢょっどだっだの゛に゛ぃ……」

「お、お姉さま……そっ、その、元気出して! お姉さまも、カッコ良かったよっ!」

「うわ、ウィルムがこんな壊れてるところ初めて見た。酔ってる?」

「いえ、アルコールの類はこのテーブルにはありません。肌の赤みや言葉の調子からしても、酩酊状態は確認できません」

「え、じゃあこれ場酔い? うわぁ、これまで見たことのないはっちゃけ……」

 

 遅れてやってきた敗北のショックに打ちひしがれるホシノウィルムさんを、友達でありライバルでもあるウマ娘たちが励ましていたり……。

 

「それで、堀野君、体の調子はもう大丈夫なの?」

「問題ない。多少筋力は落ちてしまったが、それも半月で持ち直せる範囲だ。トレーナーとしての業務に差し障る程ではないよ」

「この仕事、体が資本なんだから、大事にするに越したことはないよ? この前も俺の同期が体を壊して辞めちゃったしさ……」

 

 たった3日で体の調子を戻してしまった兄さんと、同業者であるトレーナーたちが会話していたり……。

 

 そんな、平和で平穏な光景が広がっていた。

 

 

 

 今日はクリスマスってこともあり、トレーナー業もトレーニングも一旦中止。

 

 私たちは、クリスマスパーティ、兼身内の忘年会、兼有記念残念会として、小規模ながら立食パーティを開いていたのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 ホシノウィルムさんが場酔いの結果テンションがおかしくなり、兄さんにしがみ付いて「褒めてくださいよぉ~、あんなに頑張ったんだから褒めてぇ~!」と絡み始めたり……。

 兄さんも兄さんで、それにバ鹿真面目に応えて「ホシノウィルムは偉いな。いつも一生懸命に走ってるし、そういった自分の努力を他人にひけらかさない。君の走ることへの真摯さは本当に立派だと思う。それにやはりいつでも前を向けるところは俺も見習わなければと思わされるし……」とか長々と褒めだしたり。

 それに対してホシノウィルムさんは、顔を真っ赤にして大人しくなり、部屋の隅っこの方に行って湯気を吹き出してしまったり。

 

 他にも、たくさんのウマ娘やトレーナーたちにより、色んなイベントが起こっていた会場。

 本当は、私もそこで羽を伸ばすつもりだったんだけど……。

 

 

 

 ふと、巡らせた視線の先に、ソレ(・・)を見つけてしまった。

 

 

 

「……はぁ」

 

 見つけてしまったものは、仕方がないか。

 

 私はてきとうに言い訳して、会場になっているトレーナー室を抜け出し、中の暖気が漏れないように……あるいは、変なモノが入ったりしないように、しっかりと扉を閉めた。

 

 そして、ポケットから取り出したスマホを、耳に当てる。

 勿論、別に今から通話をかけようってわけじゃない。そもそもスマホはロック画面すら解除してない。

 

 単に、こういう時には恒例になっている動作だ。

 なにせ、こうしておけば独り言を呟いててもおかしくは見えないんだもの。文明の利器って、便利なものだよね。

 

 そうして、堂々と独り言を呟く大義名分を手に入れた私は……。

 

「それで、あなたは誰なの?」

 

 今もパーティ会場のトレーナー室を覗き込んでいる、黒いモヤのようなモノ(・・)に、話しかけた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 私、堀野昌には、軽い霊感のようなモノがある。

 わざわざ「のような」って言うのは、これが俗に言う霊感と同じモノなのか、イマイチよくわかっていないからだ。

 

 それは例えば、明らかに普通じゃない、変なモノが見えるとか。

 腕の数がおかしかったり、頭が半分ないなんてのはまだマシな方で、人っぽいけどどう見ても人型じゃなかったり、もはや生き物かすら怪しい外見だったり、半透明だったりどういう立体なのかわけわかんなかったりと、その見た目は大抵がめちゃくちゃで秩序がない。

 

 どうやらそういうモノは、私以外の人間やウマ娘には見えないし、触ったり話したりもできないらしい。

 私にとって、それらはこの世界にあって当然のものなんだけど……他の皆にとっては、違うんだ。

 

 

 

 最初にそれに気付いたのは、ずっと昔のこと。

 母さんに「あそこにいるの、何?」って聞いて、「何って……そこに、何かいるの?」って言われた時だった。

 

 私と他人とでは、見えている世界が違う。

 幼かった私は、母の言葉で、その事実に気付いてしまった。

 

 末っ子だったこともあって、昔から空気を読むことに長けていた私は、それで変に浮いてしまうことを恐れて、おかしなモノが見えることを他人に言うことをやめた。

 

 あの変なヤツらも、私がソレらを見えてるってことに気付かなきゃ、基本的にはただそこにいるだけの無害なモノだからね。

 ソイツらが見えないように振舞うのはそう難しい話じゃなかったし、もしバレても大丈夫なようにいなし方も覚えた。

 だから私は今まで、そういうモノを見ながらも、何事もなく平穏無事に暮らして来れたんだ。

 

 

 

 ……で、更に言えば。

 「変なモノが見える」っていうのは、そういう化け物に限った話じゃない。

 

 私は人とかウマ娘などの生物を見た時に、なんとなく、普通の色以外の変な色が見える。

 

 感覚的なモノだから、他人には説明しにくいけど……例えば、Aという人間がどんな格好をしても、たとえ変装とか整形をしたって、同じ色が見えるんだ。

 すごくスピリチュアルな話をすれば、その人がその人であることを示す連続性……言っちゃえば魂の色のようなものなんだと思う。

 

 例えば、ホシノウィルムさんであれば、少し複雑で冷たく映る、厚塗りの灰色が。

 ミホノブルボンさんであれば、割とショッキングな、紫とピンクの中間のような色が。

 かつての兄さんであれば……どことなくゴチャゴチャして、気持ち悪い感じの色が見えていた。

 

 より正確に言えば、色っていうか気配みたいな感じなので、言葉で表現するのは難しいんだけど……大体そんなイメージだ。

 

 

 

 この色? についてわかっていることは、2つ。

 

 まず、それが人やウマ娘のものであれば、ある程度その人柄に連動していること。

 嫌な性格をしてるヤツは濁り切った酷い色をしてる傾向にあるみたいだし、逆に上の兄なんかはいっそ気持ち悪くなるくらいに澄んだ色をしている。

 ……いや、澄んでるから良いってわけでもないと思うんだけどね。水清ければ何とやらとも言うし。

 

 そしてもう1つが、この色は、基本的に変わらないこと。

 時間経過でゆっくりと移り変わることはあるみたいだけど、瞬時に変化することはこれまでになかった。

 まぁ、これが魂の色だったとしたら、そう簡単に変わったりするわけもない。

 ……というか、そう簡単には変わらないっていう特性が、この色が魂なんだって理解できた要因の1つでもあったんだけども。

 

 

 

 ……だからこそ。

 私はあの時、酷く驚かされた。

 

 あの有記念の後、ホシノウィルムさんの控室に入って来た兄さんは……。

 以前とは、全く違う色をしていたんだ。

 

 たった2週間前に……もっと言えば、つい今朝見たものとは、本当に、全く別の色。

 それこそ、見た目だけは兄さんでも中身は別人なんじゃないかってくらいの変化だった。

 

 私はそれに大いに狼狽して、結果として兄さんの担当ウマ娘たちにも、恥ずかしいところを見せてしまったわけなんだけど……。

 

 

 

 ついさっき、トレーナー室を覗いていたモノを見て、その変化の理由にも、大方の見当が付けられた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 改めて、私は目の前の黒いモヤに話しかける。

 

「私にはあなたが見えてる。あなたも元は人間かウマ娘みたいだし、言葉くらい話せるでしょ。

 それで、あなたは誰? なんであの部屋を覗き込んでるの?」

 

 おかしなモノの中には、元々人間だったりウマ娘だったりするモノもいれば、そうではないモノもいる。

 けど、それらの違いは、魂の色を見ればなんとなくわかるんだ。

 

 これまた説明しにくいけど……明確な自我、意識を持っているモノは、それが強ければ強い程に複雑な色合いになる。

 黒いモヤの中に見えたのは、深海の底のような、黒に近い群青。相対的に見れば、かなり複雑な色だ。

 だからソレが、元は人間だったんであろうことはわかっていたんだ。

 

 そして同時に……。

 あくまで推理に過ぎないけど、その正体にも察しは付いている。

 

『……私は、その……えっと…………』

 

 どこかぼやけた、男か女かも判別の付かない声が聞こえる。

 

 相変わらず、こういうモノの言葉を聞くのは、おかしな感じだ。

 耳で聞いてるのか、それとも頭に直接意味を流し込まれてるのか、よくわからなくなる。

 

 軽く眉をひそめた私の前で、黒いモヤはうぞうぞとうごめくばかりで、明瞭に答えようとはしない。

 

 ……ま、答えないのなら、勝手に考察させてもらうけど。

 

 

 

「あなた、兄さんにくっ付いて来た『彼女』でしょ?」

 

 

 

 黒いモヤが、ビクリと震える。

 

『なっ、えっ、なんで……!?』

「やっぱり、そういうことね」

 

 自分の推察が正しかったことを知り、1つ頷く。

 

「死んだ人間の霊が近しい人間に取り憑く、なんて……実害が少ないからあまり大っぴらにはならないけど、その実珍しいことじゃない。

 ま、そのまま一緒に生まれ変わるとなると、ぐっと珍しくなると思うけどね」

 

 

 

 人間が死ぬと、魂の色は体から抜け出す。

 

 それは、そのままどこかに消えてしまうこともあれば、その辺りに漂うこともあり、変なモノになってしまうこともあり……そして、誰かの体や魂にしがみ付く、つまりは取り憑くこともある。

 

 まぁ取り憑くと言っても、基本的に魂っていうのは無害なんだけどね。

 なにせ、物理的な体を持っていないから、何もできない。

 「憑依」なんてのはホラー系の題材になりやすいけど、変なモノになって新たに体でも形成したり、荒ぶってその体を奪いでもしない限り、これといった影響はないんだ。

 

 ……けれど、例えばの話。

 魂が生まれ変わるとなった際に、他の魂がそれにしがみ付くように取り憑いていたら、どうなるのか。

 

 もしかしたら、魂が選別されて、1つだけが生まれ変わり、もう1つは放られるのかもしれない。

 ……でも、もしかしたら、もう1つの魂まで一緒に転生してしまうことも、あるのかもしれない。

 

 

 

「多分、兄さんを通して知ってると思うけど、私はあなたのことを聞いてる。

 幼少の頃、兄さんの呪いになった女の子。兄さんに『助けて』って言い残して消えた子。違う?」

 

 黒いモヤは、しばらく黙り込んだ後……。

 諦めたようにトレーナー室の窓から離れ、話しだした。

 

『……はぁ。まさか、私のことが見える人がいるとは。それも、よりにもよって昌ちゃんなんて』

「昌ちゃん……? まぁ、いいけど。

 あなたみたいなのが存在したり、輪廻転生なんてモノが存在するよりは、そういうモノが見える人間がいる方が、まだ現実的でしょ」

『私が言うのもなんだけど、どっちも現実味は薄いと思うな』

「む」

 

 考えてみれば、私も『彼女』たちと変わらない、おかしなモノの一員か。

 そういったモノが見える、触れる、話せる。

 それだけで、普通の人間じゃないって言われるには事足りるだろう。……たとえ、私自身は普通の人間だとしても。

 

 

 

 ただ、私の霊感モドキは、そんなに強いものじゃない……と思う。

 見えるって言ってもその頻度は高くないし、触れる、話せるとなると更に珍しい。精々1日1件、少なければ1週間ずっと見ないようなことさえある。

 「何かいる」とだけわかったり、形は見えずとも色だけは見えたりすることも多いんだけど……それはとにかく。

 

 私は基本的に、波長みたいなモノが合わなければ、ソレらを見ることができないんだ。

 

 それなのに、黒いモヤは、はっきりとその形を目視できる。

 ……いや、モヤなのにはっきり見えてるって言うと矛盾しているようだけど、「モヤ」として捉えられている以上、これでもしっかり見えてる方なんだ。

 コレらはそういうモノ。一々理論的に考えているとバ鹿を見るのはこちらの方だ。

 

 なんで黒いモヤ、もとい『彼女』とこんなに繋がってしまっているのか、私は疑問だったんだけど……。

 

『なんとなく私が見えてるような気はしてたんだけど、まさかこんなに明瞭に見えてるなんて……。

 あー、もう、こんなつもりじゃなかったのにな……。なんで毎度こう、決まらないんだろう』

 

 ……なるほどね。

 

 呟いた『彼女』の言葉が聞こえて、ちょっと理解できた気がした。

 

 

 

 兄さんの前世の世界で、『彼女』は死んだ。

 その死因はわからない。兄さんの見たニュースの通りなのかもしれないし、あるいはそれ以外の何かなのかもしれない。

 けれどとにかく、兄さんよりも早く死んだことは確かだ。

 

 そして、『彼女』の魂は、兄さんに取り憑いた。

 それも、魂にしがみ付く程に、しっかりと。

 

 その結果、兄さんが死に、その魂が輪廻転生を遂げる時……どういうわけか、『彼女』の魂まで一括りに世界を渡ってしまった。

 2つの魂が1つの魂とされたのか、それとも本来は分かれるはずだったのに激流に呑まれて2人とも押し流されたのか……転生の仕組みに詳しいわけもない私には、わからないけど。

 

 ともかく、『彼女』は兄さんと共に転生してきた魂だ。

 本来、新たな体を授かり、兄さんと兄妹として、あるいは私の姉として生まれるはずだったのかもしれないけど……そうはならなかった。

 

 恐らく『彼女』は、彼の魂と共に転生した弊害か、体を授かることはなかった。

 

 兄さんの魂の色が気持ち悪かったのは……そしてあの日、兄さんの色が急に変わった理由は、それだ。

 

 兄さんの体には、2つの魂が宿った。転生した彼と同じように、『彼女』もその体に入っていた。

 ……いや、その主導権が兄さんにあったこと、そして魂だけの存在だった『彼女』を兄さんが知りもしなかったことを考えれば、『彼女』が体に取り憑いている状態に近い……のかな。

 

 とにかく、1つしかない兄さんの体に、変則的に2つの魂が入っていた。

 だから……彼と『彼女』の魂が重なっていたから、その色がゴチャゴチャして気持ち悪かったんだ。

 

 そして今は、兄さんの体から『彼女』の魂が分離しているから……。

 あの有記念以後の兄さんの色は、とても澄んでいるんだろう。

 

 更に、考察を進める中で、やけに『彼女』と波長が合う理由にも大方見当がついた。

 

 兄さんを通して、私は20年以上『彼女』の色を見続けていた。

 だから私の感覚……波長みたいなモノが、それに合ってしまった、って感じだろうな。

 

 

 

 変なところで変な縁ができてしまったと、私は軽く眉を寄せる。

 堀野昌は凡人だ。こういう異常事態の専門家でもなければ、何でも解決できるスーパーマンでもない。

 あまりこういう縁を深めたいとは思わないんだけど……と。

 

『……誤解してほしくないんだけど、私は彼に、害意を持ってるわけじゃないんだよ』

 

 私の表情をどう受け取ったのか、『彼女』は弁明するように語り始める。

 

『そもそも取り憑いたのだって、事故みたいなものなんだ。

 死んで……幽霊って言うのかな? それになってすぐはね、思考がボンヤリして、冷静に物が考えにくくなるんだよ。私なんか、この世界に来て、ようやく意識がハッキリしたくらいだし。

 それで、多分死んだ直後に、私は……そうだね、「彼と一緒にいたかった」とか、そんなことを思ったんじゃないかな。

 気付けば、私は彼の周りに纏わりついていた』

 

 ……まぁ、大方そんなところだろうな。

 

 そういうモノと会話を交わしたことは何度かあるけど、死んですぐの魂は大抵が混乱している。

 

 死ぬ時はどうしたって恐怖とか激痛が走りがちで、記憶が飛んだりするし、最悪それだけで人格に影響がある。

 その上、現代じゃ天国とか地獄は否定されがちで、「死んだら終わり」って教わることも多いからね。

 

 気付けば体もなくなってふわふわ浮いてれば、そりゃあ混乱もしてしまうってものだろう。

 

『そしてそれから、ぼんやりする意識を通して、彼の近くで色んなものを見て、知って……そうして、目の前で、彼が……死んだ時、に、付いてきちゃったみたいで』

 

 兄さんの前世の死について語ろうとした時、その言葉が揺れる。

 ……兄さんのかつての死に、少なからずショックを受けてたってことだろうか。

 

 その言葉を真実とするなら、『彼女』にとって前世の兄さんは、最期の瞬間に想うような相手だったんだろう。

 そんな人が、手も出せない自分の前で、死んだ。

 そりゃ……ショックも、受けるか。

 

『この世界に生まれ変わってからは、彼の体の中で、彼の目を通して、世界を見て来た。

 平和で、満たされた……前世で、私が得られなかった、幸せな世界を』

「……そう」

 

 『彼女』は、堀野の家族たちを見て……果たして、何を思っただろう。

 

 父は、不器用でコミュ障ではあるけど、あれでいて子供想いで。

 母は、誰より私たちのことを考えてくれて、とても優しくて。

 上の兄は言うに如かず、特に兄さんに対しては甲斐甲斐しくて。

 私は……まぁ、そうでもなかっただろうけど。

 

 幸せな家庭を、幸せな家族を、幸せになるはずの人生を見せられて……。

 

 自分の手の届かなかった景色を、眼前に置かれて。

 

『……わかってたよ。私の人生じゃないんだって。これはあくまで彼の来世であって、私のものじゃない。

 それでもさ、ただ特等席から見ているだけでも……楽しかったなぁ』

 

 楽しかった夢のことを話すような声で……あるいは、夢から醒めたような声で、『彼女』は語った。

 

 

 

 ……『彼女』の言葉が真実だとするなら、1つ疑問が残る。

 

「それじゃ、そのまま兄さんの中にいれば良かったじゃん。なんで出て来……」

 

 聞こうとする中で、ふと……その答えに感付く。

 

 ……そうだ。

 体から、魂が出て来る理由なんて、……1つしかない。

 

「あの事故……まさか、兄さんの代わりに、」

『違うよ』

 

 すっぱりと、『彼女』は言い切る。

 

『違う。代わりじゃない。

 そもそも、私がこの世界にいるのがおかしかったんだよ。あの体から出たのは、本来あるべき状態に戻ったってだけ。

 ……それに、私だけじゃ足りなかったしね』

「足りなかった……?」

 

 黒いモヤの姿をしていた『彼女』はゆっくりと移動して、廊下の隅、外が覗ける窓辺に赴く。

 薄暗い月明りに照らされながら、彼女は呟いた。

 

『あっちの世界に片足を踏み入れるとね、戻って来るのには代償が必要なんだよ。

 突き飛ばすようなものだよね。私が体の外に飛び出る反動で、彼は体の中に戻れる、みたいな。

 ……でも、魂1つじゃ釣り合わなかった。もう少しだけ、彼をこっちに戻す推進力が必要だった。

 だから……あの人を、少しだけ貰ったんだ』

「兄さんを、もらった……?」

『うん。あ、別に寿命を、とかじゃないよ。

 ……あの人が本来背負うべきじゃなかったもの。あの人が、新しい人生を生きるのに邪魔になるもの。

 そう言えば……あなたなら、わかるでしょ?』

 

 それは……いや、まさか。

 

「あなた、まさか、自分の記憶を……?」

『正確には、もうちょっと多いかな。多分、小学生の頃までの彼の時間は、私と一緒に消えたはず』

 

 ……そんな。

 

「寂しく、ないの……? あなた、だって、最期だって兄さんに会いたいって……。

 それじゃ、あなたを覚えてる人は、もうどこにも……!」

『寂しい、よ。すごく』

 

 黒いモヤが、少しだけ揺れる。

 

『寂しい。とっても、寂しい。

 忘れられる。あの人に。もう会えない。辛い。寂しい。怖い』

 

 

 

 本来、異常なモノは皆、「寂しさ」に弱い。

 

 そもそもソレらを認識できる者が少なく、生きている者たちからの疎外感や孤独感を感じやすいというのもあるんだろう。

 こちらがアレらを認識できると知るや否や、仲間にしてやろうと、1人でも仲間が欲しいと、追い回したりしてくるんだ。

 

 ……恐らく、『彼女』もその例外ではない。

 前世から数えれば、もう何十年も誰からも認識されずにいた『彼女』もその例に漏れず、「寂しさ」を厭っているはずなのに……。

 

 それなのに。

 

 

 

『……でもね、いいんだ』

 

 『彼女』は……小さく、笑った。

 

『負けちゃったから、さ』

「負けた……?」

『悔しいけど、私には、どうやったって彼を幸せにはできない。彼の歩む足を引っ張って、ただただ辛くすることしかできない。

 ……でも、あの子なら、できるかもしれない。この世界で彼を、幸せにできるかもしれないんだ』

「あの子って……もしかして、ホシノウィルムさん?」

『そう』

 

 『彼女』は、夢を謳うように語る。

 

『あの子なら、きっと、救い合うことができる。

 私みたいに、ただ彼に救われるだけじゃない。あの子が彼に手を差し伸べることができる。互いに救い合うことができる。

 だから……うん。だから、私が消えることで、あの人が救われるのなら、私はそれでいいんだ』

 

 

 

「消える、って……確かに体から出たのは残念かもしれないけど、また兄さんに取り憑けばいいじゃん。

 それなら、まだ兄さんの傍で見ていられるでしょ?」

 

 ……いつの間にか、私は『彼女』を引き留めようとしていた。

 

 最初は、兄さんに危害を加えるナニカなのではないかと警戒し。

 『彼女』であるとわかってからは、それでも兄さんに害になるのなら排除しようと、決めていたのに。

 

 それなのに……『彼女』は、どこまでも純心だった。

 

 ただ兄さんを想い、自らとその記憶を投げ打って、兄さんが救われるように背中を押して……。

 そんな優しい女の子が消えるなんて、間違っている、と。

 『彼女』にも、幸せになる権利があるはずだ、と。

 

 いつしか私は、そう思うようになっていた。

 

 

 

 ……けれど。

 

『それは、無理なんだよ』

 

 ざり、と。

 黒いモヤの輪郭が……『彼女』が、ブレる。

 

『……私は、この世界のモノじゃない。彼にひっついてこの世界に来た、ただの不純物でしかない。

 だから、体っていう入れ物がなくなると……2、3日くらいで、消えちゃうみたいなんだ。まぁ、体から出る前から、薄々わかってたことだけど』

 

 消える、って……。

 

『言い訳するつもりじゃないけど、さっきパーティを見てたのも、思い出作りのつもりでさ。

 誰にも見つかることなく、綺麗に消えるつもりだったんだよ? 結果的に、昌ちゃんに見つかっちゃったけど』

 

 『彼女』は兄さんの体の中で、どんな気持ちで、今世を過ごしてきたんだろうか。

 自分の恩人で、想いを寄せる人が……全てがリセットされるはずの来世でも、自分のせいで追い詰められている現実を見て。

 一体、何を思ってきたのか。

 

 ……そう、か。

 それがきっと、今の『彼女』の原動力。

 

 もう彼に、これ以上の傷を残したくないと。

 自分の記憶も魂も奪い去り、その気配すら感じさせることなく消えることで、救われる彼の背中を押したいと。

 

 ただ、そう思って……それだけのために。

 

『……あぁ、でも言っておくけど、消えること自体には納得してるんだよ? 彼を苦しめるばかりの私は、ここで消えてしまうべきだもの』

 

 黒いモヤは、その黒色を徐々に剥がれ落としながら……。

 そう、静かに語った。

 

 

 

 ……そんな。

 

「なんで……なんで、そんな」

 

 信じられない。

 なんで、そこまでできるの?

 

 多くの人にとって、死は断絶だ。

 何故なら、私のように「死んだらどうなるのか」を知っている人は少ないからだ。未知こそが、死を絶対たらしめている。

 

 逆に言えば、私のように魂が見えている者にとって、死は恐ろしくはあっても絶対的なものではない。

 死んだら魂となって浮き出る、死んでもその先があると、知っているから。

 

 ……でも、その更なる先は、違う。

 

 死んで魂になった後、私たちはいずれ、どこかに消えていくことになる。

 その消滅は……消えるのは、すごく、怖い。

 どこにいくのか、どうなってしまうのか、わからないから。

 

 あるいは、兄さんの言うように、生まれ変わるのかもしれない。

 でも、そうだとしたら……何故私や他の皆は、前世の記憶を持っていないんだろう?

 ただ忘れているだけ? 忘れていない兄がレアケースなの?

 ……それとも、そもそも生まれ変わること自体が、すごく珍しいことなんじゃないの?

 

 私や魂を知る者たちは、「死」の先を知っている。

 けれど、その「消滅」の先は、知らない。わからない。わからないからこそ、怖い。

 

 『彼女』の言う「消える」とは、そのことだ。

 私たちにとっての、どうしようもない断絶。普通の人の言う、「死」に近い恐怖。

 

 『彼女』はそれを受け入れてまで、兄さんを救おうとしている。

 

 なんで、どうして、そこまでして……。

 

 

 

『当然だよ』

 

 月明かりに照らされた『彼女』は……厳かに、祈るように、言った。

 

『確かに、彼に温もりをもらって、逆に世界は冷たいんだって知ることになった。

 ……でもさ、それでも。

 私は確かに、あの人に救ってもらったんだよ。

 死ぬまで知らなかったはずの温かさを、あの人にもらったんだ』

 

 既に救済は済んでいたと、『彼女』は独白する。

 ……兄さんが叶えたかったことは、本人が自覚できていないだけで、とうの昔に叶っていたのだと。

 

『でも、今、私はそんな人の足かせにしかなっていなくて、しかも彼が目の前で死にかけていて……私がいなくなれば、彼は幸せになれるかもしれないんだよ。

 だったらさ……迷惑をかけてしまった分、幸せになってほしいと思うでしょ?』

「それは……っ」

 

 ……口を開きかけて、閉じる。

 

 わからない。

 凡人に過ぎない私には、そんなに重い経験は、ない。

 

 だから私には、『彼女』の決断を、肯定することも否定することも、できない。

 

 押し黙った私に対して、『彼女』は穏やかに語る。

 

『……ありがとう。昌ちゃんのそういう気遣いに、あの人も……私も、ずっと助けられてきた』

「私も、って……」

『言ったでしょ? あの人を通して、私は世界を見て来た。

 だから、私に幸福な家族の形を見せてくれたのは……あなたたち、堀野家の皆なんだよ。

 ずっと未来を、未来に幸福があるってことを信じられなかった私に、「もしかしたら」って思わせてくれたのは……あなたたちなんだ』

 

 だから、ありがとう、と。

 

 黒い、ゆっくりと崩れ落ちていくモヤは、感謝を告げた。

 

 

 

 『彼女』の崩壊は、加速度的に進んでいく。

 

『……そろそろ、限界かな。

 悪くない。うん、悪くないな。彼の幸福な未来を見届けられたのは、すごく良かった。

 それに、昌ちゃんに話を聞いてもらって……すごく、気持ちが軽くなった。

 私がやったことで、取った決断で、少しでもあなたたちに恩を返せたのかな、って』

 

 ポロポロと、黒いものが剥がれていく。

 『彼女』が……欠けていく。

 

 

 

 ……駄目。

 

 好きだった人に忘れられて、自分は全部失いながら、それでも笑って消えるなんて……。

 

 そんな悲しい終わり方、駄目に決まってる!

 

 何か、何か、せめて最後に……!

 

 

 

「……あなたの、名前!」

 

 考えるよりも先に、私の口が動いた。

 

『え?』

 

 困惑する『彼女』に、私は縋るように言った。

 

「あなたの名前を、教えて。

 兄さんは、あなたの記憶を失ったんでしょ? この世界に、あなたを覚えてる人はいないんでしょ?

 だったらせめて……あなたのことを知ってる私に、その名前を、教えて」

 

 ……そんなことが、慰めになるとは思えないけれど。

 私の、自己満足に過ぎないのかもしれないけれど。

 

 せめてこの世界にいる、誰か1人くらい……。

 兄さんを助けてくれた女の子の名前を、憶えているべきだと、そう思ったんだ。

 

『……そっか、覚えててくれるんだね。

 あの人を呪って、縛った、こんな私を……あなたは、覚えていてくれるんだ』

 

 私の言葉に、『彼女』は、動きを止めて……。

 

 

 

『────、だよ。私の前世の、生きてた頃の名前』

 

 

 

 それを、教えてくれた。

 

 私の姉として生まれるかもしれなかった魂の、幸せになれなかった少女の、たった1つの名前を。

 

「覚えてる。きっと、ずっと覚えておくから。私の兄さんを助けてくれた人のこと」

『……、そっか。

 現金だなぁ、私。この期に及んで、まだそんなことで喜んじゃうなんて……彼を貶めた私が救われることなんてないって、覚悟してたはずだったのになぁ』

 

 そう言って、『彼女』は……小さく、泣くように、笑った。

 

『酷い死に方をするし、初恋は破れたし、散々だったけど……なんだ、良いこともあるものだね』

 

 私が『彼女』のことを覚えているっていう、ただそれだけなのに。

 それを『彼女』は、夢を見ているかのように、すごく嬉しそうに語って……。

 

『……うん、今度こそ、満足。

 恩人も助けられたし、その妹さんには覚えていてもらえるし……過去は、十分清算したよね。

 私もそろそろ……未来に進まないと』

 

 崩れていく黒いモヤは、もはや原形すら留めていない。

 『彼女』は……『彼女』は、もう。

 

『さようなら、昌ちゃん。ありがとう』

 

 そう言って、『彼女』は最後に、その深海の底のような、黒い群青色を瞬かせて……。

 

 ほんの刹那、瞬きの間に、跡形もなく消え去った。

 

 

 

「……さよなら、──さん。こっちこそ……ありがとう、ございました」

 

 小さく呟いて、私はまぶたを閉じる。

 

 死後の魂が消えた先が、天国なのか、それとも輪廻転生なのか、私には知る由もないけど……。

 

 

 

 そのどちらにせよ。

 どうか、『彼女』の魂に、慈悲と安らぎのあらんことを。

 

 

 

 冬の夜、窓の外の真っ暗な空に向かって……。

 私は1人で、静かに祈りを捧げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これは物語のエピローグ、その、更にずっとずっと未来の話。

 余談、あるいは蛇足と呼んでも構わない、語る必要のない話かもしれない。

 

 私が兄さんの元から独立し、初めての専属担当ウマ娘を持って、彼女と3年間を駆け抜けて。

 幸運にも学園の理事長から高い評価をいただき、チームを持てるようになって。

 プレオープン、オープン、そしてG3、G2と、担当ウマ娘たちと共に勝ちを重ねて行った……。

 

 そんな、とある頃の話だ。

 

 

 

 桜咲く春、出会いと別れと、新たな旅路の始まる季節。

 そんなとある日、私は自分が運営するチームの入団テストを行うために、トレセン学園のグラウンドに出ていた。

 

「ふむ……」

 

 無意識に呟きながら、手元の資料をパラパラとめくる。

 それは今日のテスト受験者の名簿と、その各種データや来歴の載った書類の束だった。

 

 ……ここに来て間もなく、兄に徹底的にしごかれた経験からか、気付けば私はデータ至上主義に染まっていた。

 

 私は浅学菲才の身だ。兄のように完璧なレースの展開予測ができるわけじゃない。

 

 自分でウマ娘を担当するようになって、改めてあの人のおかしさを理解した。

 なんで「あのウマ娘は750メートル地点から1段階ペースを落とす」とかわかるんだよ。圧倒的な過去のデータと経験則による予測って言ってたけど、未来視の能力を持ってるって言われた方がまだ納得できるっての。

 

 結局のところ、兄は要領こそ悪いけど……いわゆる「努力の天才」ってヤツだったんだろう。

 手を付けたことのない事柄、経験のない体験には弱かったけど、逆に自分が取り組んできた事に対してはめっぽう強い。

 ……それこそ、無敗の三冠ウマ娘を育ててしまう程に。

 

 それに比べれば私は確かに、分家のアホ共が言うように、出涸らしだった。

 上の兄程要領が良くないし、下の兄程努力の鬼でもない、中途半端な人間だ。

 

 ……けれど、そんな非才の私にも、データは嘘を吐かない。

 自分の担当ウマ娘とライバルのウマ娘、レース場とコースやバ場状態……。

 そういったピースを十分に集め、パズルのように組み合わせていけば……兄程ではないにしても、私にもある程度はレースの展開予測ができたんだ。

 

 データは正直だ。常に一定の法則で動く、私にだってわかりやすい指標。

 私がデータ至上主義に落ちていくのに、そう時間はかからなかった。

 

 ……三下のデータキャラって、こうして生まれていくんだろうな。

 非才が故にデータを集め始めて、必死に努力し続けて……でも、本物の才能には勝てはしない。

 だって天才は……本当に天才的なウマ娘たちは、データなんて軽々と飛び越えていくんだから。

 

 

 

 ……まぁ、そんな愚痴を言っていても仕方ない。

 私は益体のない思考を打ち切り、改めて、今日来るチーム入団志願者たちのリストを分析していたんだけど……。

 

「あの」

 

 そんな私に、声がかかる。

 

 聞き覚えのない声に振り向いた先にいたのは……今日のテストを受けるウマ娘の1人。

 

 

 

 長く伸ばした黒髪に、同色の綺麗な瞳。

 あの頃のホシノウィルムさんよりも、更に一回り小さな体躯。

 大きな耳と尻尾を緊張で張らせ、真新しいトレセンのジャージに身を包んで……。

 

 

 

 

 

 

 そして、その魂の色は。

 深海のような、少しだけ黒に近い、群青だった。

 

 

 

 

 

 

 …………そう、か。

 

 そうか、そういうことも、起こり得るのか。

 

 

 

「あの、〈チーム・シェアト〉の入団テストの会場ってここであってます?」

「……あぁ、あってるよ」

「そうですか! 遅れずに済んで良かったぁ」

 

 彼女はほっと、胸を撫で下ろす。

 

 ……果たして、彼女は私のことを覚えているのか。

 そして、私がその〈チーム・シェアト〉のメイントレーナーだと理解しているのか。

 

 それはまだ、わからなかったけれど……。

 

「……まだテストまで時間もあるし、ちょっと聞いてもいい?」

「え? はい、どうぞ」

「あなたの夢は、何?」

 

 唐突にそう訊かれた彼女は、一瞬ポカンとした表情を浮かべた後……。

 

 楽しげな笑みを浮かべて、言った。

 

 

 

「私、ここまでずっと、たくさんの人に助けられてきたんです。

 不器用だけど真面目なお父さん、優しくていつも支えてくれたお母さん、それにたくさんのお友達も。

 だから……今度は私が、誰かを救えるようなウマ娘になること。

 それが、今の私の夢、未来への希望です!」

 

 

 







 「転生チートトレーナーvs転生チートウマ娘」
 第二部「堀野歩」 完

 本編完結です。
 転生者2人……と、そしてずっと密かにそこにいた、3人目の転生者。
 彼と彼女、そして『彼女』の物語を楽しんでいただけていたら、この上なく嬉しいです。
 ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!






 ちなみに3、4日後からは長い長いエピローグ、あるいはホシノウィルムのシニア級、もしくは生まれ変わった彼と彼女の新たな人生、またの名を第三部が始まりますので、そちらもよろしくお願いします!
 メインストーリーは終わったので、ここからは急激にシリアス度減少、ギャグ度と糖度が急上昇する予定です。是非ともお楽しみに!



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、大晦日の話。



(報告)
 活動報告にて、第二部終了の謝辞の方を掲載させていただいています。
 今後の方向性も軽くですが書いているので、興味のある方はご一読ください。

(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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幸せに終わった物語の続き
当然のように明日が来る、とある日の話


 第三部開幕。
 有記念もメインストーリーも終わったことですし、しばらくは平穏で砂糖多めの日常をお楽しみください。





 

 

 

 トレセン学園のトレーナーに、仕事納めなどという概念は存在しない。

 ……と、それは流石に言い過ぎか。

 

 正確には、中央トレセン学園には明確な「仕事納め」が存在する。

 まぁ当然と言えば当然だろう。トレセン学園のトレーナーは公的な教職員。だからこそ、他の公務員と同じく、12月28日が最終就業日とされているんだ。

 

 ……が、これはあくまで規定上の話。

 その実、果たして何割のトレーナーがこれを守っているんだろうか。

 

 

 

 この前にウィルも走った、有記念。

 国内最高峰のレースであるそれは、年内最終盤にして最大のクラシック・シニア混合レースという都合上「年度の締めくくり」と言われるが、実のところこれは正確じゃない。

 

 あまり詳しくないファンの方は意外に思うかもしれないが、有記念は必ずしも最後のG1レースというわけでもない。

 ジュニアG1の1つであるホープフルステークスは、この後に行われることも多いからだ。

 

 今年の場合、ホープフルステークスが行われたのは12月28日。

 有記念から6日後であり……規則上におけるトレーナーの仕事納めの日である。

 

 語るまでもないことだけど、そうしてレースがある以上、出走するウマ娘のトレーナーたちは仕事に追われることになる。

 当日までの調整にウマ娘の追い切り、そして当然のことながら、レース後の事後処理も、だ。

 

 さてそうなると、ホープフルステークスに出るウマ娘のトレーナーが28日に仕事納めするには、その日の内にG1レースの事後処理を終える必要があるわけだ。

 果たして彼ら彼女らは、これをこなすことができるだろうか?

 ……できるわけがないんだよね、これが。

 

 そもそもトレーナー業というものは、必ずしも定時で終えられるものじゃない。G1に出走するようなウマ娘と契約すれば特に、だ。

 更に、秋川理事長が選んだトレーナーたちが皆、その形の差はあれどウマ娘を好んでいるという都合もあり、中央のトレーナーはサビ残前提で働き続ける者も多い。

 その上年末は、関係者への年賀状の作成とか今年のレースのまとめとか年始の準備とかで、そりゃあもう忙しくなる。

 

 それらの条件が重なった結果として、俺や昌含むトレーナーたちは、12月29日以降も当然のような顔をして働く。勿論給与は発生しない、いわゆるサービス残業というヤツだ。

 そして「残業はやめてって言いましたよね!」と、たづなさんに鬼のように怒られるのだった。

 

 

 

 とはいえ、それにもいつかは終わりが来る。

 というか、終わらせなきゃいけない。ひとまず年内の仕事はここまで、と区切りをつけることは大事だ。

 

 ただ俺たちの場合、それが遅れに遅れた。

 ……ぶっちゃけ寝坊助の俺のせいで、業務が停滞気味だったのが原因なわけだが。

 

 結果として……。

 

「よし、終わった」

 

 俺がペンを置いたのは、実に12月31日の正午も迫る頃。

 28日から遅れに遅れに遅れ、年の瀬どころか大晦日に突入し、更にその4分の1を使い切ってしまった時だった。

 

 

 

 いやぁ、ここまで大変だった……。

 ホシノウィルムが今年、好成績……とかいう次元じゃない、とんでもない記録を残してしまったことで、俺たちトレーナー陣も色々とすべきことが増えてしまった。

 

 いや、勿論それ自体は担当ウマ娘の躍進であり、これ以上ないくらいに光栄なことだ。

 でも正直これ、もしも俺が名門出身で、ある程度とはいえ仕事に慣れてなかったら、普通に過労死するレベルだったんじゃないだろうか。

 

 26日から31日昼までの5日半、俺と昌はとんでもない量の書類の束や溜まっていくメールとの戦闘を強いられていた。

 俺が目を覚ますまで頑張ってくれた昌には疲労の色が見えたし、流石に30日以降は、丸1日休みを取らせるつもりだったんだけど……。

 そう言うと彼女は、「は? 兄さんが休むまでは休まないけど?」と、いつもの意地っ張りモードに突入してしまった。

 

 そうなれば、彼女を休ませるには早急に仕事を済ますしかなかったんだけど……。

 そう決意するや否や、これでもかと言わんばかりに追加の仕事が舞い込んでしまった結果、ついにはここまでかかってしまったわけだ。

 

 少しは仕事に慣れてきたと思ったが、まだまだ予測が甘かったな。

 俺の仕事の計画には昌や担当ウマ娘も関わってくるんだから、これからはもっとバッファを持った予定を組まなければ。

 

「お、おわ、おわった……?」

 

 自分の机に座って、死んでから3か月経った魚のような目をしていた昌は、ぼんやりと虚ろに呟く。

 

 ……改めて見ると、ちょっと無茶させすぎたかな。

 ここまで2徹だったからな。いや、3徹だったか? うん、昌もすごくよく頑張ってくれたと思う。

 

「うん、これで……最後の1枚だ。お疲れ様、昌。……昌?」

 

 返事がないと思ったら、昌は机に倒れ伏していた。

 息は……あるな、良かった。

 脈は不整脈だし体温は低いけど、どうやら寝不足が祟って気絶したらしい。

 

 ふぅ、びっくりした。それと、安心した。

 ……俺が事故にあった時、そしてひとまず命に支障がないとわかった時、昌やウィルたちも同じように思ったんだろうか。

 いや、昌は普通に怒ったかもしれないけど。

 

「……頑張ったな。お疲れ様、昌」

 

 昌をソファの上に移動させ、トレーナー室に備えてあった毛布を体にかけて、「仕事は終わったからゆっくり休んで。施錠はしっかりお願いね」という旨の書き置きを残して……。

 

 俺はトレーナー室に鍵をかけ、そこを後にした。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 時は12月31日の昼下がり。

 いわゆる大晦日の日、いつもは活気のあるトレセン学園も、今日ばかりは静かなものだ。

 ……ごめん嘘、別に静まってはいないわ。

 いつもよりかは少ないとはいえ、今日もトレーニングに励むウマ娘の声は遠くから聞こえてくる。

 

 現在、トレセン学園は冬休みの真っ最中。

 ウマ娘の出走レースやトレーナーの指針にもよるが、この時期はトレーニングはお休みにして、実家に帰省する場合もある。

 彼女たちは初等部を終えて、親元を離れたばかりの子も多い。たまのお正月くらいは帰省し、慣れ親しんだ家庭に戻る権利もあるだろう。

 

 ……が、そうしないウマ娘も、決して少なくはない。

 彼女たちは学生でもあるが、同時にトップアスリートでもある。大晦日にもトレーニングに励んでいる子もいるわけだ。

 

 担当の勝利を一番に考えるなら、きっとその選択が正しいんだろうな。

 アスリートである彼女たち、それも本格化中のウマ娘にとっては、一瞬一秒が惜しいのだから。

 

 けれど俺の指針としては、走ることを楽しみ、人生を豊かにしてほしいという想いがあるわけで……。

 ウィルもブルボンも、今年はすごく頑張ったんだ。

 サボるというわけではなく、メリハリを付けてモチベーションを保つという意味で、彼女たちにはしばらく休んでもらおうと思ったわけだ。

 

 昌もあの様子を見るに、しばらくは動けないだろうし……。

 俺たちの陣営は、一時的に足を止め、ほんの少しの小休止に入ったことになるだろう。

 

 

 

 ……だが。

 そうなると、俺はどうしようか。

 

「ふむ……」

 

 昌の久々の睡眠の邪魔はしたくないから、トレーナー室には入れない。

 となると、トレーナーとしての仕事は殆どできないだろう。情報収集はできるかもしれないが……年末の1日となると、できても電子書籍を読むことくらいか。

 

 勿論、ウィルやブルボンに連絡を取り、休暇を邪魔するわけにもいかない。

 久々に休暇を取るのは、何も昌だけじゃない。彼女たちにはそれぞれに安息の世界がある。そこに踏み込むのはちょっとやり過ぎだろう。

 

 と、すると……。

 

「うん、寝るか」

 

 そういえば、俺もしばらくの間睡眠を取っていない。

 明日以降にきちんと働くためにも、今は一度自室でしっかりと睡眠を取るべきだろう。

 

 6時間くらい眠ればある程度スペックが戻るはずだし、夕方くらいに起き出して昌の様子を伺って、そこからちょっとだけまた仕事を……。

 

「ん……」

 

 うわ、仕事が終わったことで気が緩んだのか、睡眠不足を自覚するとめっちゃ眠くなってきたな……。

 この疲れ、明日までにしっかりと取らなければ……。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……などと。

 

 そんなことを考えながら寝たら、12時間くらい爆睡してしまった。

 

 

 

「あー……」

 

 マジか。

 

 スマホに示されている時間は、もうあと1時間弱で年が明けることをを示している。

 

 ……いや、マジか。

 

 アラームは……うわ、止まってる。

 記憶は残っていないが、どうやら俺は1度起き出して無意識にアラームを止めた後、再び眠りに落ちてしまったらしい。 

 いわゆる二度寝というヤツである。

 

 試しにスマホを再起動してみたけど、その数字は変わることはなかった。

 ……考えたくないことだが、どうやらこれは、紛うことなき現実であるらしい。

 

「……やっちゃったかー」

 

 いやまぁ、明日の……もう今日の、か。今日の朝にまでするべきことは全部やっている。

 ここで寝ていても、誰かに迷惑をかけるわけではないんだが……。

 

 寝坊。寝坊かぁ……。

 思い通りに起きられなかったの、本当に久々だ。

 

 

 

 最近の俺は、どうにもおかしい。

 いや、おかしかったのはあの宝塚記念以来ずっとなんだけど、ここ最近は特におかしい。

 

 何がおかしいかと言うと、なかなか一言で表すのが難しいんだけど……。

 簡単に言うと、気が緩んでいるような……あるいは、生物的な欲求が強くなったような、そんな感じだ。

 

 例えば、疲れている時に布団に倒れ込むと、すごく心地良くて動きたくなくなる、とか。

 朝に温かい布団から出ることに抵抗感を覚える、とか。

 あとはやけに食事を美味しく感じたりもしたし、あまりに仕事を長く続けていると疲れを強く感じて休憩を取りたくなったりと……。

 なんというか……昔より強く欲求を感じるようになってしまったんだ。

 

 

 それらを一言でまとめるなら……そう。

 俺は弱くなった。それが、一番近い表現だろう。

 

 以前に比べて、俺の「我慢しなければならないという理性」に対し、「食べたい、寝たい、休みたいという欲望」が大きくなってしまっている。

 

 理性と欲望。

 前者が弱くなったのか、それとも後者が肥大化したのか、俺はしばらく考えていたが……。

 結論としては、その両方っぽいんだよなぁ。

 

 以前のように簡単に我慢が利かなくなったことからも、理性が脆弱になっているのは間違いない。

 そして同時、睡眠を心地良いと、食事を美味しいと、休んだ時にほっとすると感じるようになったのは、欲望自体が肥大化しているとも感じる。

 

 俺からすれば、自分がどんどん駄目になっていく感じがして、ちょっと不安になるんだが……。

 ……俺に「もっと食えもっと寝ろもっと休め」と言って来ていた兄さんが知ったら、喜ぶだろうな。

 

 

 

 何故事ここに至って、俺はこんな状態になっているのか。

 その理由は……正直、よくわからない。

 

 どうしちゃったんだろうな。あの有記念以降、どうにも俺はおかしくなってしまった。

 もしかして頭をぶつけた際に、大事な何かが壊れたりしたんだろうか? 一応、精密検査でも文句なしの健康体だったはずなんだが……。

 

「……ま、いいか」

 

 色々と考えていた思考を、一言で打ち切る。

 

 俺は、以前のように無理ができなくなった。

 ずっと仕事を続けていると息抜きが欲しくなるし、ちょっと食事を抜いただけで空腹を我慢できなくなるし、3徹以降は目に見えて能率が落ちる。

 

 ……けど、トレーナー業の効率が落ちたかと言うと、そういうわけでもないんだ。

 

 食欲や睡眠欲を凌駕するレベルではないようだが、俺の中には確かに、ホシノウィルムとミホノブルボンのトレーナーとして頑張りたい、彼女たちを支えたいという欲求がある。

 だからこそ、理性が弱くなっても、本能から行動を起こすことができるようだし……。

 

 ……少しばかり、皮肉なことに。

 しっかりと食べて、寝て、休んで取る活動は、以前よりも効率の良いものだった。

 

 頭はより回るし、勘も利く。以前なら少し頭を捻らなければならなかったようなことでも、すぐさま解決法を思い付く。

 結局のところ、以前までの俺には休息の時間が足りなかったんだろう。脳と体のスペックを何段階か落とした状態で活動していたんだ。

 

 長時間動けるが能率の悪かった昔と、短時間しか動けない代わりに能率良く働ける今。

 どちらがより多くの仕事をこなせるかというと……ぶっちゃけ今の方がマシだと思う。

 

 以前のように無理は利かなくなった。多分30時間ぶっ続けで机に向き合うことはもうできない。

 けれど、休憩を挟みながら20時間くらいならできる。そしてその20時間での能率を2倍以上にすることができれば、以前より多くの仕事をこなすことができる、というわけだ。

 

 以前よりも仕事ができるのなら、これはきっと、良い変化と呼んでいいものだろう。

 そんなわけで、俺は自分の変化に戸惑いながらも、それを半ば受け入れつつあった。

 

 

 

「いやしかし、それはそれとして、寝坊は良くないか……」

 

 寝坊とは即ち、予定通りに起きられないということで。

 もしもそれが、大事なレースの朝にでも起こったら……うわ、めっちゃ鳥肌立った。

 もっとしっかりしないと、マジで取返しの付かないことになりかねん。気を引き締めよう。

 

 ……しかし、寝坊か。

 寝坊なんてしたの、いつぶりだろうな。

 

 今世ではした覚えがないから、自然と前世の話になるんだろうが、最後は前世のいつ……。

 

 …………?

 

 中学生以降にした覚えはないから、初等部の頃……だと思うんだけど。

 ……どうにも、その辺りが思い出せない。

 

 人生で1度も寝坊してないとは流石に思えないし、流石に初等部の頃にはしてると思うんだが……。

 

 いや、そもそも俺、初等部の頃はどういう子供だったっけ?

 どこの学校に通って、どんな友達がいて、何をしていた?

 その頃の将来の夢は? お気に入りの遊具は? 流行っていた芸能人は……?

 

「……思い、出せない?」

 

 漁ろうとしても、記憶がない。脳からすっぽり抜け落ちたみたいに、その部分だけ空白になっている。

 これは一体……。

 

 ……いや。

 考えてみれば、そんなものなんだろうか。

 

 前世の初等部時代となると、既に30年以上前だ。

 記憶というものはどんどん経年劣化していくし、それは人が生きていく以上防ぎようのないもの。

 

 特に俺は、転生者だ。前世の記憶が今世にどうやって持ち越されているのか、どうやって保存されているのかが判然としていない。

 もしかしたら、前世の記憶は今世の記憶よりも劣化しやすく、こうしてどんどん思い出せなくなっていくのかもしれない。

 

「……うーん」

 

 そう思うと、なんとも言えない気持ちになる。

 

 忘却は、ある意味で仕方のないことだ。

 人間は全てを覚えておくことはできない。そこには無駄が多すぎるし、何より忘れる事で精神的な負荷を減らさなければ、人生はどんどん重いものになっていってしまう。

 

 生きることは、辛いものを抱え、苦しみが増え続けることなのだと……。

 そう、どこかで聞いた気がする。

 誰から聞いたのかは、思い出せなかったけれど。

 

 だからこそ、忘れることは、ある意味で生きることを望む者の自衛行為でもある。

 一定以上に抱え込み過ぎないように、苦しみが増え過ぎないように、潰れてしまわないように……。

 背負っていたものを過去に置いて、未来に進む行為。

 

 それは、仕方のないことだ。

 人が生きる上で、いつかは経験することだ。

 

 ……ただ、何故かそれが、少しばかり寂しかった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「あー、駄目だ。ちょっとネガティブになってるっぽいな」

 

 どうやら俺は、覚えている限り初めての寝坊という失敗に、思いの外ショックを受けているらしい。

 これはこれでしっかり反省するとして、今は気を持ち直さないとな。

 

 ……さて、改めて、ここからすべきことを考えよう。

 

 ひとまずこの12時間で何かなかったか、連絡用のLANEを見てみると……5時間程前に昌からメッセージが飛んできていた。

 

『ごめんなさい、寝てた。毛布ありがとう』

『というか、正直ここ最近の記憶がないんだけど、どうなってた? 私ちゃんと仕事できてた?』

 

 そこから20分程時間が飛んで、3件のメッセージ。

 

『ちょっと』

『大丈夫?』

『確認したら連絡ちょうだい』

 

 ……ヤバい、これめちゃくちゃ心配かけてるな。

 あの事故の後、昌その辺にすごい敏感になったからな……。またぞろ事故にでもあったんじゃないかと心配されているに違いない。

 

 俺は『ごめん、こっちも寝てて気付かなかった。普通に無事だから気にしないで』と昌にメッセージを送って……。

 え、もう既読付いた。1秒も経ってないのに。

 

『バ鹿』

『もう』

『いや、バ鹿は言い過ぎた』

『ごめんなさい』

 

 その昌らしい不器用な気遣いに、思わず頬が緩む。

 他人に対して心配性で、考えすぎることも多く、思わず感情を出してもすぐに反省することができる。

 身内贔屓ではあるけど、そういう真面目さは昌の美点の1つだと思う。

 

『それで、状況は?』

 

「ふむ……状況」

 

 改めて聞かれ、俺はここ数日のことを思い出しながら、パタパタとスマホに打ち込んでいく。

 

 ……まだ若干寝ぼけて意識も曖昧だし、ここは一旦、あの有記念からの記憶を整理してみようか。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ホシノウィルムの有記念が終わり、今年の俺たちの陣営が出走するレースは全て終わった。

 そして同時、俺が遅まきながら目を覚まし、翌日午後から仕事に復帰。

 そこから2日間ひたすらに仕事の処理をして、昌が手に余らせ積み上げていた山に大体の決着を付けた。

 ……まぁ、あくまで「大体の」でしかないし、追加でやるべき調査や整理はまだまだ残っていたわけなんだけども。

 

 で、ひとまず色々と片付いた12月25日、クリスマスの日。

 最初は陣営内でクリスマスパーティ&有記念残念会を開こうと思っていたが、ウィルが漏らしたらしく、ネイチャとテイオーの陣営も参加を希望。

 結果として、かなり大規模になってしまったパーティが行われたのだった。

 

 ……冷静に考えるとあのパーティ、今年の有記念の2着と3着と9着がいたんだよな。

 更に、ブルボンはG1レースである朝日杯を制したジュニア級王者。

 あれ、実はとんでもなく豪華なパーティだったんじゃないだろうか。

 ファンの需要もあっただろうし、配信とかすべき案件だった気がしないでもない。

 

 ともあれ、そんなクリスマスが終わると、いよいよ今年も終わりに近付く。

 学生であるウマ娘たちは本格的に休暇シーズンに入り、俺たちの陣営だと、ブルボンは実家の方に帰省したのだった。

 

 ……まぁ彼女の場合、休暇というよりは、両親に顔を見せるという意味合いが強かったっぽいけど。

 「あちらでもトレーニングができるようにメニューが必要です。マスター、出力をお願いします」なんて言われた時は、割と本気でどうしようか迷ったものだ。結局作って渡したんだけどさ。

 

 一方で、ウィルはトレセンに残った。

 というか、彼女の場合は北海道の家を売ってしまったらしいからな。トレセンの寮を出ても帰省する先がない、と言うべきだろうか。

 ……こう言うと少し寂しく感じるが、今の彼女の財産を考えると、家の1つや2つは簡単に建てられるだろう。そこまで悲観すべき状況ではないはずだ。

 必要なら、俺が色々と手を尽くしてもいいしね。

 

 話を戻して。

 そんなわけで、ウィルはまだトレセンにいるわけだが……。

 とはいえ、流石に彼女に28日以降もトレーニングを強いることはできない。

 いくらアスリートであると言っても、彼女たちウマ娘はあくまで学生だ。年末年始くらいは休みが与えられるべきだろう。

 

 まぁ、その年末年始にも走ってそうな子ではあるので、「もしも自主トレをするのなら」と軽いメニューを渡してはいるんだが。

 そして毎日「今日はここを走ってきました!」とか「見てください、ここにこんなお店できてたんです。今度一緒に行きませんか?」とかの報告とか雑談も来てるわけなんだけども。

 

 ……ま、まぁアレだ。トレーニングを押し付けられるのと、自分から自由にトレーニングするのじゃ、気の持ちようも違うだろうしね?

 

 

 

 さて、そうして担当ウマ娘たちにはそれぞれしばらく休息の日々を──いや、実際に休んでいるかどうかはともかくとして、それぞれの思うままに過ごせる日々を──与えて。

 一方で俺と昌は、やはり仕事に忙殺されていた。

 

 25日までに片付けたのは、「大体の」書類でしかない。

 来年の春以降に訪れる多忙さに対策しようとすれば、仕事が尽きるなんてことはないんだ。

 

 だって、考えてもみてほしい。

 1月に入れば、初詣に行かなきゃいけないし、ウィルのご両親にご挨拶もしなければならない。私事ではあるが流石に俺と昌も本家に戻って報告しなきゃいけないだろうし、正月が過ぎれば今度はウィルと、恐らくはブルボンも取るであろうURA賞の受賞関係で奔走しなければならないし、その後はマックイーンたちシニア級2年目のウマ娘たちのURAファイナルズの観戦が待っている。勿論春に向けたトレーニングだって欠かせないし、今年の新入生たちの調査だって怠れない。

 

 ……今更ながら、トレーナーの1月、忙しすぎるのでは?

 

 いや、わかってる。これはあくまで、ホシノウィルムとミホノブルボンという傑物中の傑物を担当しているが故の忙しさだ。

 普通は無敗三冠、現五冠ウマ娘とジュニア級王者のウマ娘を同時に担当なんてするはずがないんだから。

 

 正直、専属を持ってようやく3年目の俺には、手に余るものがあるが……。

 ……ま、彼女たちのトレーナーである以上、頑張るしかない。ちょっと申し訳ないけど、これも経験と思って、昌にも踏ん張ってもらおう。

 

 そんなわけで、俺は昌に書類を整理してもらいながら、URAの方と話したり、理事長に呼び出されたり、来年以降の粗いプランを立てたり、彼女たちの脚について研究したりと、多忙な日々を送って……。

 

 ついに今日のお昼、それらすべきことの大部分が片付いた、というわけだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 昌に状況を整理して送ると、『取り敢えず了解。申し訳ないけどまた寝る。じゃあまた明日、トレーナー室で』とメッセージが飛んでくる。

 

 ……三が日どころか元旦から働く気まんまんな辺り、昌もトレーナーに慣れて来てるなぁ。

 よし、俺も頑張ろう。精進しなければすぐに昌に追い付かれてしまいかねない。

 

 取り敢えず、ずっと読めていなかった月刊トゥインクルでも読もうかと、タブレットを取り出そうとしたんだけど……。

 手放そうとした瞬間に、再びスマホが震える。

 

「ん……?」

 

 昌が何か伝え忘れたか? いや、寝るっていってたし違うかな。

 こんな深夜となるとURAの方ではないだろうし、振付師とかのライブ関係の方でもないな。となると電子でたのんだ領収書か、堀野家の面々が早めの明けましておめでとうでも送って来たか……と。

 

 そう思って、スマホを覗き込むと。

 

「ウィル……?」

 

 ウィルから、LANEが来ていた。

 

『トレーナー』

『えっと』

『お時間ありますか』

『いえだぃざかな』

『大事な用ではないのですが』

『お忙しいでしょうし、誰かといるのなら勿論大丈夫で』

『す』

『いえ本当に』

 

 結構なスピードでメッセージが更新されていく。

 しかし、俺がそれらに既読を付けると、その更新ラッシュはぴたりと止んでしまった。

 

 ……さて、こうなると、俺は彼女のトレーナーとして一体どういう対応をするべきだろうか。

 何故こんなに慌てているべきか、その用件が何か、当然ながら気になる。

 だが、テキストで聞き出すとなると……少し難しいか。

 

 となれば、取るべき手段は1つ。

 

『ウィル』

『ひい』

『今、電話をかけて大丈夫か?』

『え、はい!』

 

 俺は早々に文字によるコミュニケーションを切り上げて、彼女に電話をかけることにした。

 

 

 

 コールすること1秒足らず。

 殆ど待つこともなく、彼女は通話に応じてくれた。

 

「もしもし、ウィル?」

『え? えっと……トレーナー』

 

 ベッドの中から通話をしているのか、僅かな衣擦れの音が聞こえる。

 ……そりゃそうか、もう栗東寮は就寝時間のはず。消灯後にこっそりと連絡してきた、という感じか。

 

 用があれば明日にすればいいのに、何故そんなことを、と疑問に思う俺に対して……。

 彼女は、少し怪訝そうな声音で聞いて来る。

 

『もしかして、寝起きですか?』

「あれ、バレたか。実は先程まで睡眠を取っていた」

『いや、こう、息遣いとか喋り方が……ちょっと甘いというか』

「甘い……?」

 

 喋り方が甘いって何? 活舌のこと? だとするとちょっと申し訳ない。

 ん、ん、と喉と舌の調子を整え、改めて俺は口を開く。

 

「で、改めて何の用だ、ウィル。今更言うまでもないが、夜更かしは体力と調子に良い影響をもたらさないぞ。いやホントに」

『いえ、それはそう、ですけども……ですけども……』

 

 どうにも今日のウィルは彼女らしくなく、奥歯に物が挟まったように口ごもっていた。

 俺がその態度に首を傾げていると、彼女は……少し恥ずかしそうに、言った。

 

『その、もうすぐ新年じゃないですか。でも、同室のミーク先輩は帰省中でいないですし……。

 だから、えっと……できれば、会って話すのは無理でも、通話して一緒に年越しとか……寝落ちとか……

 

 後半は声が小さかった上に、衣擦れの音が大きくて聞こえなかったけど……。

 

 なんだ、そんなことだったか。

 

「安心した。何か悩みがあるのではと思ったよ」

『あ、そっか、すみません、誤解を招くような……』

「いや、構わない。むしろ君のことはもっとよく教えてほしいから、なんでも気軽に言ってくれ」

『あ、う……』

 

 気恥ずかしがるように呻く彼女に、思わず笑みが漏れる。

 

 ……彼女は本当に、歳相応の女の子らしい反応を見せるようになったと思う。

 出会った当初の彼女は、まるで冷たい機械のようにさえ思えた。

 けれど触れ合っていく内に、ただ自身を抑圧しているのだと知り、徐々にその内面を俺にも見せてくれるようになって……。

 今ではこうして、自分の素直な心を明かしてくれるようになったんだ。

 

 些細かもしれないけど……その進歩が、俺は嬉しかった。

 

「……それで、一緒に年越しってことだが」

 

 ちらりとベッドサイドの時計を見ると、今は11時半。

 

 彼女はこの1年、その年に似合わぬ程頑張ってきた。

 その努力に、ほんの少しの時間で報いられるなら、むしろ安いものだろう。

 

 

 

 それに……。

 

 年越しまでの30分を、担当ウマ娘と……今年を共に駆け抜けて来た、ウィルと共に過ごす。

 

 ……うん、悪くない。

 むしろ、どこか心が弾むような気さえする。

 

 

 

「わかった。ただし、年を越したら終わり。すぐに寝るように。いいな?」

『っ、はい!』

 

 スマホの向こう側から、本当に嬉しそうな、弾んだ声が聞こえた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 それからの30分間、俺とウィルは、本当に何でもない話をして過ごした。

 

 同室の先輩──聞いてみれば、その正体はハッピーミークらしく、酷く驚いてしまった──と、どちらも有記念を制することができず、勝負がなあなあになってしまった話とか。

 この前URAの職員と話した際に発生した、ちょっと面白かったすれ違いの話とか。

 最近寮の食堂で突発的に発生した大食い勝負で、ふらっと現れて勝利を掻っ攫って行ったレジェンドウマ娘、オグリキャップの話とか。

 最近、やけに食欲とか睡眠欲が湧いてきて困る、という話とか。

 

 そんなことを静かに、クスクスと笑いながら語り合っている内に……。

 

 気付かぬ内に年は明けていた。

 

「……あ、しまった、もうこんな時間か」

『え? あ、気付きませんでした。もう年明けてたんですね』

「すまない、熱中し過ぎたな」

『いえ、楽しかったから大丈夫です!』

 

 少しでも楽しんでもらえたら嬉しい。

 それに……俺も、思わず笑いが漏れるくらいには、満ち足りた時間だったし。

 

 ……が、それはそれ、これはこれ。

 こういうのはメリハリが大事だ。

 

「それでは、今日はここまでだな」

『あ……そうですね』

 

 楽しそうにしていたウィルの言葉に、ほんの僅かな悲しみの色が落ちる。

 でも、大丈夫だ。

 

「ではまた明日、改めて話そうか」

『! そうですね、また明日会えますもんね!

 それじゃ、えっと、ハッピーニューイヤー。……今年もよろしく、歩さん!』

「ハッピーニューイヤー。今年もよろしく、ウィル」

 

 そう、穏やかに言葉を交わして……。

 俺たちは、静かな年明けを終えた。

 

 

 

 とても長かった、けれど同時にとても短かった、ホシノウィルムのクラシック級、ミホノブルボンのジュニア級が終わった。

 

 さぁ……ここからはホシノウィルムのシニア級1年目、そしてミホノブルボンのクラシック級だ。

 改めて気合を入れて、彼女たちのトレーナーとして頑張るぞ。

 

 

 







 大忙しな1年が終わり、もっと大忙しな1年が始まります。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、2度目の初詣の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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クレカの刃 ~無限ティッシュ編~

 ホシノウィルムのヒミツ③
 実は、ガチャの運がとても悪い。
 ガチャを引くこと自体は好きだが、後で後悔する。





 

 

 

 新年あけましておめでとうございます。

 ……と、元旦にこの定番のセリフを言うようになったのは、実はこの2年のことだったりする。

 

 私は割とアレな過去を持つ。その重さたるや、一周回って話のタネになるレベルだ。

 いや、割とホントに重いから、話をするタイミングは考えなきゃいけないけども。

 

 母が私を要因として心を病んでしまい、家庭環境が崩壊。

 更には幼少の頃に母が病死、それからしばらくして父は事故死。

 中等部に入ってトレセンの寮に入るまでの間、広くて寒い家に1人きりだった、っていうもの。

 

 ……いや、既に受け入れた過去とはいえ、並べてみるとなかなかだね。

 やっぱりこれ話のタネにするのやめておこう。普通に引かれかねないわ。

 

 そんなわけで私は、両親と死に別れてからは、1月1日を誰かと一緒に過ごすっていう経験を持っていなかった。

 そうなると当然と言うか、元旦の内に「あけましておめでとうございます」なんて言葉を使うタイミングもなかったわけだ。

 強いて言えば、お世話になった親戚の方に年賀状やメールを送ったことくらいなんだけど……それも言葉じゃなくて文字だったしね。

 

 

 

 だからこそ、というか。

 実際にそれを……それも、年上の男性と女性の2人に言うのは、なんだか特別なことのように感じた。

 

「歩さん、昌さん、新年あけましておめでとうございます、今年もよろしくお願いします」

「うん、改めて、今年もよろしく」

「明けましておめでとうございます、こちらこそよろしくお願いします、ホシノウィルムさん」

 

 1月1日、元旦の朝。

 私は2人の契約トレーナーさんに、頭を下げた。

 

 仕事の手を止めて頭を下げ返してくれたのは、堀野歩さん。

 私を冷たい世界から救ってくれて、そしてこれから私が救っていく……その、好きな……片想いと言うか……懸想相手? みたいな? そういう感じの人です、はい。

 

 そしてその隣、丁寧に言葉を返してくれたのは、堀野昌さん。

 歩さんの妹さんで、優しくて真面目なお兄さん思いの良い人だ。何度かお話もさせてもらって、歩さんとはまた違った形でだけど、私は彼女を結構信頼している。

 

 競走ウマ娘ホシノウィルムを監督し保護してくれる、トレーナーさんとサブトレーナーさん。

 そういう意味では、2人は私の保護者と言っていいかもしれないし……。

 ある意味では、育ての両親に近い存在と言えるかもしれないな。

 

 ……うーん。育ての親、両親、か。

 自分で思ってなんだけど、それはちょっとヤだな。

 

 昌さんは流石家族といったところか、歩さんと良い距離感を保っている。

 近すぎてイチャイチャしてるって程でこそないけど、互いに相手を大事に想っていることがよく伝わって来る、家族らしい距離感だ。

 そういう意味では、熟年夫婦と思って見ても、そこまで強く違和感のある2人ではないと思う。2人とも、特に昌さんは「いやそれはない」って言ってくるかもしれないけども。

 

 昌さん、表面上はツンケンしてるけど、ああ見えてかなり家族思いだ。

 抜けたところが多く、トレーナー業以外はポンコツと言って差し支えない歩さんのパートナーには、昌さんくらい厳しめの性格の方が良いのかもしれない。

 

 ……けど、2人の相性はさておき、ヤなものはヤだ。

 だって育ての親、両親ってことは、2人が夫婦ってことじゃん?

 懸想している相手にパートナーがいるなんていう事実、乙女としちゃ認められないよね。

 

 普通に考えれば、妹っていうのは敵にすらならない。

 既に家族だからこそ、これ以上深い関係にはならないことが保証されている。それが妹という属性の宿命なのだ。

 

 けど、私知ってるよ。

 そういう禁断の関係こそヤバいんでしょ? そういうギャルゲ、前世ではめっちゃ多かったし。

 

 そんなわけで、警戒は怠れない。

 昌さんも、私のライバルになり得る存在なのだ。多分本人に言ったらすっごく嫌そうな顔で否定されるんだろうけども。

 

 

 

 そんなわけで。

 有記念前の事故のショックで吹っ飛んでしまっていたけど、私は当初の目的に向かって再び手を伸ばすことにした。

 

 そう。

 ホシノウィルムには、存分に楽しく走ること以外にも、もう1つ目的がある。

 

 それは、片想いしている私のトレーナー、堀野歩さんを射止めること。

 

 ……改めて考えると、自分の恋愛脳っぷりに頭を抱えそうになるな。

 けど、仕方ないじゃんね。

 好きになっちゃったって事実は変えられないし、そうなれば振り向かせたくもなるってものだ。 

 

 歩さんには私を惚れさせた責任を取って、私に惚れてもらおう。

 目指すは両想い、そして……こう、お付き合いとか、デートとか、そんな感じ!

 

 そのためにも、まずは歩さんと2人きりの時間を確保しなければならない。

 サブトレーナーの昌さんが来てから、歩さんと2人きりになれるタイミングは急激に減少している。これは由々しき問題だ。

 そんなわけで、私は懸命に歩さんと2人の時間を作ろうとしているわけで。

 

「歩さん、その、一緒に初詣とか……」

 

 その日も昨日の夜に引き続き、一緒の時間を過ごそうというお誘いを致したわけだけど……。

 

「あぁ、初詣はブルボンが帰って来る4日からにしようと思っている。君も是非同行してほしいと思っているが、どうだろう」

 

 ……残念ながら、現実はそう甘くはないのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 いやまぁね? わかってましたよ。

 

 私たちの陣営は、去年に比べて大きくなった。

 後輩の逃げウマ娘であるブルボンちゃん、サブトレーナーである昌さん。

 私と歩さんを含めれば、全部で4人。

 

 そりゃあ去年みたいに2人きりの初詣とはいかないし、ブルボンちゃんが帰って来るまで待つっていうのが妥当なところだろうって。

 

 わかってはいたんですよ?

 ……ただ、やっぱり駄目かーって、消沈してしまう気持ちは止められないっていうか。

 

「……はぁ」

 

 ちょっと……いや、かなり残念。

 こういうイベントこそ、歩さんと過ごせればなーって思ったんだけどなぁ。

 

 あー、まだ2人きりだった去年の春に戻りたい。

 あの頃から歩さんへの想いを自覚していれば、ブルボンちゃんや昌さんが来る前に、もっともっと濃密に2人きりの時間を過ごせたのに。

 あるいは、もっとアタックをかけてドギマギさせたり……は、無理だったかな。相手は歩さんだし。

 

 ま、そんなイフを考えても意味はないんだけどさ。結局こうなってるってのがたった1つの現実なわけで。

 あークソ、なんて勿体ない。

 歩さんとの蜜月……は言い過ぎだけど、2人きりの時間の価値を、私はわかっていなかったんだ。

 

 トレーナーのことだもん、これからも担当するウマ娘はどんどん増えていくに違いない。

 というか、あの管理能力の高さを放置するようなら、トレセン学園に未来はないかもしれない。

 今年は……ちょっとトレーナーも限界っぽいし増えないかもだけど、どうせ来年には1人、いや2人くらい増えたりするんだろうな。

 

 もう2度と、トレーナーと2人きりの毎日を過ごす時間なんてこないに違いない。

 それどころか、私と触れ合ってくれる密度もどんどん下がっていくんだろうな。

 果てには私の価値なんて足が速いことだけになるんだ。無敗三冠とか五冠ウマ娘ってことにしか価値のない、過去の栄光にすがる老害に成り下がっちゃうんだ……。

 

 あー、鬱だ。もう未来に何の希望もない……。

 

 

 

 そんな風に落ち込みながら歩いていたところに、声がかかる。

 

「表情の悪化を確認。何か支障がありましたか、ウィルム先輩」

 

 どこか機械的に聞こえる、特徴的な言葉遣い。

 それを出したのは、認めたくないことにどう見ても私より年上っぽい、栗毛の後輩。

 私の隣を歩いていた逃げウマ娘、ミホノブルボンちゃんだった。

 

 年上のはずの私より15センチ以上背が高いし、身体付きもすごく良いし、更に言えばおっぱいもでかい。まさしく胸囲の格差社会ってか? 残酷すぎるでしょ。

 

 私これでも、前世から数えれば彼女の3倍くらいは生きてるんですけど。

 であれば胸も3倍……いやそこまでは求めないけども、せめて同じくらいに大きくてもいいんじゃない? って思う訳です。

 お母さんも結構大きい方だったのに、何故私はこうも小ぶりなのか。慢心、環境の違い……。

 

 と、そうは言っても。当然ながら彼女も、完全超人ってわけではない。

 精神的に未熟な部分とか、三冠路線への拘りがすごく強いところとか、色々と年相応なところはある。

 でも、そういうところがギャップになってすごく可愛い、まさに助けてあげたくなる後輩ってわけだ。

 

「あぁいや、ごめんね。ただ考え事があっただけだから」

 

 無表情ながらどことなく心配そうな雰囲気を漂わせる彼女に対し、私は慌てて取り繕った。

 ……駄目だな、もっと気を引き締めないと。

 以前のように完全に感情を隠すのが正しいとも思わないけど、出しすぎるのも考え物か。難しい。

 

 私は軽く頭を振り、改めて彼女に微笑みかけた。

 

「大丈夫、何でもないよ」

「了解しました」

 

 今の私は1人のウマ娘だけど、同時にミホノブルボンという将来有望な競走ウマ娘の先輩でもある。

 そして先輩とは先達、先を行く者。

 有記念前の私にとってのスペ先輩がそうであったように、ホシノウィルムはミホノブルボンの行く道を照らし、その手を引く者でなければならない。

 

 それに、私は転生ウマ娘だ。この世界を生きるウマ娘の大半よりも、人生経験はそこそこ豊富だろう。

 だからこそ、縁のある後輩ちゃんたちはできるだけ助けてあげたい。前世ではモニターを通して見ていた彼女たち、そして今ある人生を必死に走る彼女たちの助けになりたいと、そう思う。

 

 

 

 ……いや、まぁ。

 そうして節操なく手を伸ばそうとした結果、ブルボンちゃんだけでなくそのライバルのライスちゃんまで助けようとしてるのは、我ながらどうかと思わないでもないけどさ。

 

「ウィル、ブルボン? どうした?」

「いえ、すみません、今! 行こう、ブルボンちゃん」

 

 そう言われ、私とブルボンちゃんは速足で歩さんたちに向かって歩く。

 

 本日は、1月4日。

 三が日が終わってすぐ、私たちは初詣に向かっていた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 つい昨日の、つまり3日のこと。

 ブルボンちゃんは、そろそろ日が落ちるくらいの時間に、トレセン学園に帰還した。

 

 両親と色んなことを話してきたとのことで、今まで以上にやる気の入った顔で「目標を再設定。『クラシック三冠』達成に向かって躍進します」って言ってたのが印象に残ってる。

 

 ……ぶっちゃけ、ほんの少しだけ、羨ましいと思わないでもない。

 私にはもう、語り合える両親がいない。

 共に夢を見られる父も、気にかけてくれる母もいない。

 

 でも、いいんだ。

 私には何もないわけじゃない。

 むしろ、必要なものはすべてを持っていると言っていいだろう。

 

 両親は、もういない。

 けれどその代わりに、一緒に夢を見てくれる歩さん、私を気にかけてくれる昌さん、そして共に走る友人たちに恵まれた。

 だから、ホシノウィルムは報われている。

 これ以上を求めるのは、ないものねだりってやつだろう。

 

 え、何? あと10年もすれば現役引退して、歩さんと昌さんとの縁も切れるって?

 そりゃあなた……そこまでの間に、なんとか射止めればいいってものですよ。

 私には歩さんが必要だ。競走ウマ娘としても、1人のウマ娘としても。

 絶対、何がなんでも振り向かせてみせる……いや、振り向かせたい。できれば。そのために頑張る。頑張ろうと思います。そのつもりです、はい……。

 

 

 

 ……で、その後。

 

 日付が変わって今朝、私はブルボンちゃんと共にトレーナー室に集合し、改めて皆で新年の挨拶をしたり、私とブルボンちゃんは騒ぎにならないように変装して……。

 

 改めて4人で、初詣に行くことになったのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 久方ぶりに訪れた神社は、相変わらず盛況だった。

 たくさんの出店が並び、下手すれば呑まれてしまいかねないレベルの人混みが境内を埋め尽くしている。

 その中を4人で纏まって進むんだから、これがなかなか時間と忍耐力が必要だ。元旦に初詣とか行ってる人はすごいね、尊敬するよ。

 

 今世を生きてだいぶ緩和されてきたとはいえ、私は前世から続く厭世家。カッコ付けず言うなら陰キャ。

 こういう人混みが得意な方ではなかったんだが……。

 

「ちょ、人多……え、こんなに多いの!? もう4日でしょ!?」

「この辺りはトレセン近くということもあって、ウマ娘たちのファンの方も多いからね。推しの応援目的で訪れる一般の方も多くなるわけだ」

「オペレーション『神頼み』は勝負における勝率を上げる有効な策であると父が言っていました。ファンの方々全員が祈れば、勝率は跳ね上がるのでしょうか?」

「いや、それは……まぁ、人事を尽くして天命を待つ、なのかな。無駄じゃないと思いたいね」

 

 そんな風にやいのやいのと話しながら、ゆっくりと進む人混みに身を任せているのは……思いの外、悪いものじゃなかった。

 というか……うん。

 ぶっちゃけ、楽しい。

 

「そういえば、3人は賽銭用の小銭は用意してきたか?」

「一応5円玉は用意しました」

「投擲準備、完了しています」

「ブルボンちゃん、投擲準備はちょーっと早いかも」

「……なんか、ちょっと意外。兄さんのことだから、『担当のためだ』とか言って大金投げ込んだりしないか心配してた」

「あぁ、大金を賽銭箱に入れるのはマナー違反だからな。事前に祈禱料として神社に渡してるよ」

「…………兄さんに変な期待した私がバ鹿だった」

「オペレーション『神頼み』は、金銭の量に応じて効果が向上するのでしょうか」

「そんな現金すぎる神様もどうなんだろうねぇ」

 

 歩さんが皆に呼びかけてそれに応じたり、かと思ったらズレたことを言って昌さんが頭を抑えたり、天然なブルボンちゃんにクスクス笑ったり。

 そういった、平和で日常的なやり取りが……温かくて、楽しい。

 

 これが、今のホシノウィルムの日常。私が手に入れたハッピーエンドの先の光景。

 そう思うと、自然と頬が緩んでしまう。

 

 あぁ、幸せだな、って。

 そう、痛感するんだ。

 

 

 

 ……そういえば、去年の初詣の時は、私と歩さん、どんな話してたっけ?

 えっと、確か……そう…………共通の話題が思い付かなくて、しりとりやってたような。

 

「…………」

 

 冷静に考えると、何やってたんだ私たち。もっと他になかったんだろうか。

 いやまぁ、あの頃の悪い意味で尖ってた私が悪いんだけどね。もっと最初から、歩さんとコミュニケーションを取ろうとしてればなぁ……。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 歩さんの妹とは思えないくらいファッションについて詳しい昌さんから最近の流行を聞いたり、その間歩さんが会話に入れず気まずそうにしていたり。

 私とブルボンちゃんが逃げる時のスタミナの配分の感覚について話している間、歩さんと昌さんは今後の仕事についての打ち合わせをしていたり。

 私とトレーナーが走り方について話しているのに対して、ブルボンちゃんが「なるほど」と頷いているのを昌さんが「いやいや、普通は無理ですからね」と押し留めたり。

 

 そんな風に話しながらしばらく待つ内に、ようやく私たちの番が来た。

 

「賽銭、鐘を鳴らす、お辞儀2回、拍手2回、お祈り、それからお辞儀だぞ」

 

 歩さんの言葉に従い、賽銭箱の中に5円玉を投げ入れて、代表者の歩さんが鐘を鳴らし、お辞儀と拍手を済ませてから、静かに手を合わせる。

 

 えっと……確か、お願いの前に感謝だよね。

 

 去年は、たくさんのことがありました。

 辛いこともありました、悲しいこともありました。こんな世界なんて、って思ったこともありました。

 ……でも、それでも今、私はトレーナーの横に立ててる。それが嬉しいんです。

 だから、ありがとうございます、三女神様。

 私とトレーナーを出会わせてくださって。そしてここまで導いてくださって。

 

 ……うん、感謝は終わり。

 

 色んなことがあったけど、総合的には感謝の方がずっと大きい。

 この世界に私を転生させてくれて、歩さんと出会わせてくれて、ここまで導いてくれた女神様がいるのなら、本当にありがたいと思う。

 

 ついでにお願いまで聞いてもらえれば、更にありがたいんですけど……と。

 

 ……あれ、困ったな。

 

 何のお願いをしよう。

 

 

 

 閉じていたまぶたを、薄っすらと開ける。

 

 私の左にいるブルボンちゃんは、多分三冠のことをお願いしてるんだろう。

 右の歩さんは、十中八九、私たちの健康と安全のことなんだろうな。

 昌さんは……ちょっとわかんない。でも、きっと彼女らしい、すごく真面目で良い願いなんだと思う。

 

 さて、一方私は、何を願ったものか。

 

 脚の安全祈願……は、歩さんが請け負ってくれるから、不安はない。

 レースでの勝利……も、歩さんや昌さんと共に自力で掴むから、神様に願うことでもない。

 ……強いて言えば、私と私の周りの人やウマ娘たちの健康かな? うーん、でも……せっかくの神様へのお願い権、こんなことで使うのはちょっと勿体ないような。

 

 やっぱりお祈りなんだから、自力だけじゃ叶え難いものにしたいよね。

 とはいえ私、レース関係はほとんど自力でなんとかするしな。

 三女神を祀る神社でお祈りすることとなると……うーん……。

 

 この神社のご利益は、あくまでレース関係と健康祈願、あとは……。

 

 ……そうだ。

 そういえば、縁結びも、ご利益に入ってたか。

 

 

 

 競走ウマ娘たちにとって、その素質や実力と同じくらいに大事なのが、巡り会いの運だ。

 

 学校の担任とか大学の教授に当たる運と同じように……いや、それ以上に。自分に合うトレーナーに巡り合う運は重要なものになる。

 スタンスの合わないトレーナーと契約するとどうなるか、というのは……あんまり言いたくないけど、ブルボンちゃんが前のトレーナーさんと破局したっていうのが良い例だと思う。

 

 だからこそ新入生たちはトレーナー選びに懸命になるし、真偽問わず色んな噂が流れるわけだ。

 私が新入生の頃も、それはもう色んな噂があった。友達がいない私の耳にも届くくらいに。

 歩さんなんて「良家のコネで就職した、ウマ娘のことを何とも思ってないボンボン」なんて言われてたんだよ。今思うと真逆にも程があるよね。

 

 ちなみに去年、ブルボンちゃんが新入生だった頃に聞いた噂だと、歩さんは「有能ではあるけど、限界ギリギリのトレーニングを積ませて来るスパルタトレーナー」って言われてたらしい。

 ……客観的に見て、こっちはそんなに間違ってないかもしれない。確かにトレーニングはかなり厳しいと思うし。

 

 とにかく、そんなわけで。

 私たち競走ウマ娘にとって、巡り会いの運は非常に重要。

 だからこそ、私たちが崇める三女神も、縁結びを司ってくれているのだ。

 

 

 

 で。

 この縁結びっていうご利益には、複数の種類がある。

 良きトレーナーに巡り会うこと、良き友に巡り会うこと、良き競走相手に巡り会うこと……そして、良きパートナーに巡り会うこと。

 

 ……考えてみれば、これはちょっと、私の力だけだと叶え難いものかもしれない。

 

 レースや今年の安全を祈っている3人の横でこんなことを願うのは、ちょっと申し訳ないような気もするけど……。

 うん、これにしよう。

 

 三女神様、どうかこれからも、良き出会いがありますように。

 ……そして何より、歩さんの心を射止められますように! 本当に、本当にお願いします!!

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……そんな祈りが、あるいは天に届いたのか。

 チャンスは、思ったよりも早く訪れた。

 

 

 

 初詣からの帰り道。

 歩さんが途中で「買い出しに行くから」って商店街に向かうのに私もお供して、ブルボンちゃんや昌さんと別れた後。

 私は運よく歩さんと2人きりになれて、ホクホクで歩いてたんだけど……。

 

「ん? あれは……」

「……あぁ、やってたか」

 

 ふと、それが目に入った。

 

 結構賑わってる商店街の1スペースに置かれた、大きな机に乗せられているのは……。

 時々見る、福引でガラガラするヤツ?

 なんて名前なのかは知らないけど、こう、ハンドルを掴んで回して、色んな色の玉が出て来るアレだ。

 

「さあさ、新春・大福引祭り開催中だよ~!」

 

 おぉ……福引。

 どうやら商店街のイベントとして開催されているらしいそれは、この辺りのお店でお買い物することで福引券をもらい、1枚につき1回引くことができる、という趣旨のものらしい。

 

 トレセンの周りの商店街は、靴やタオルなどの消耗品をガシガシ消費したり、運動量の問題から大食いだったりするウマ娘が多いこともあり、かなりの賑わいを見せている。

 更にこの時期は、色々と入り用だったり買い替えの時期だったりするからか、かなり人手が多い。

 書き入れ時にブーストをかけるためのイベント、というわけだ。

 

 さて、景品は……残念賞がティッシュ、3等がにんじん1本、2等がにんじん山盛り、1等は特上にんじんハンバーグ。

 そして特賞、煌めく金色が……!

 

 ぺっ、ペアの、温泉旅行券……!?

 

 いや、残念賞はまともなんだけど、3等とか2等はウマ娘じゃない人間が引くと微妙な気分にならない? とか、そりゃ特上のにんじんハンバーグは美味しいだろうけど山盛りっていう物量より魅力的か? とか、色々とツッコミ所はあるんだけど……。

 

 今は何より、特賞、ペアの温泉旅行券!

 これ! これはチャンスですよ!!

 

「歩さん、確か買い物があるんでしたよね?」

「うん。……まぁ、数回は引けるかな」

「なら、せっかくだし回していきましょう! もしかしたら温泉旅行、行けるかもしれませんよ!」

「いやー、うん。まぁティッシュじゃなければ御の字かな……やる気も絶好調だし、今は体力も……

 

 何故かあまり乗り気じゃない……ってわけじゃなさそうだけど、どことなく諦め半分な気配を見せている歩さんを引っ張って行き、私はテキパキと福引券を3枚確保。

 福引会場に戻っても……うん、まだ特賞は引かれてない!

 

「ぃよし……!」

 

 こんなチャンスはそうそう来ないぞ。

 これで温泉旅行券を当てれば、当てさえすれば……!

 

 「いつもトレーナーも頑張ってくれてますし、一緒に温泉に行ってお休みしませんか?」みたいなお誘いもできるんだっ!!

 

 これは歩さんとの2人きりの時間が減ったことを嘆く私に、三女神様がくださったチャンス!

 歩さんとの距離を縮める、これ以上ない絶好の機会だ!!

 

 1度、深く深呼吸。

 

「……ここで、引き当てる!」

 

 私は勝利を目指し、福引を回した──!!

 

 

 

 

 

 

 ……んだけど。

 

「ティッシュ、にんじん1本、ティッシュ……」

 

 結果は、惨敗でした。

 

 残念賞、3等、残念賞って……。

 あの、三女神様? 私の祈り届きませんでした? ここはスパっと特賞引かせてくれてもいいんですよ?

 

 いやまぁ、冷静に考えると、たった3回で特賞なんて引ける方がおかしいんだけどさ……。

 

「まぁ、にんじん1本当たっただけ良しとしよう。

 元気を出せウィル。もし君が望むなら、何か料理でも作ろうか……って、ウィル? 聞いてる?」

 

 歩さんは私を元気付けてくれようとしてたけど……。

 その言葉は、私の耳を右から左に通り過ぎていく。

 

 だって……。

 

「……負けられません」

 

 だって私は、この福引に対して闘志を燃やしていたんだから。

 

「え?」

「負けられませんこんなところで! 福引に勝てない者がレースに勝てるものですか!

 歩さん、追加です! もっともっと引きますよ!」

「おい、ウィル?」

 

 こんなところで諦めてたまるか!

 私は……私は絶対に、歩さんと一緒に温泉旅行に行くんだ!!

 

 私これでも五冠ウマ娘ぞ!? これまで負けたのはスペ先輩だけだぞ!?

 こんなところで福引なんかに負けていいわけないだろ!! 最強tierランクSSがスぺ先輩と福引だけになったらどうしてくれるんだ!?

 

「お金はあります! 歩さん、どんどん福引券もらってきてください! ここで確実に仕留めますッ!!」

「いや、あの、ウィル? それならもう普通に温泉旅行に行けばいいのでは……」

 

 普通に行くんじゃ駄目だ、それじゃ絶対に昌さんやブルボンちゃんも付いて来る!

 「ペア」の旅行券で、更に言えば「たまたま手に入った」という条件があるからこそ、これは私と歩さんが2人きりになるチャンスたり得る……!

 

「いいから! ほら、買ってきてください!! タオルとかシューズとか蹄鉄とか、買い溜めしといていいものはたくさんあるでしょう!!」

「あ、はい……」

 

 幸運の女神の後ろ髪は短い。遅れて手を伸ばしても掴めはしない。

 通りすがった瞬間に飛びついて前髪を掴み上げ、それを振り回すくらいの勢いでなければ、幸運は捉まえられない。

 

 だからこそ……。

 この勝負、負けられない!

 

 絶対の絶対の絶対に、ぜーったいに!

 ここで温泉旅行券を引き当てて、歩さんとの2人きりの時間を手に入れるんだぁーッ!!!

 

 

 

 * * *

 

 

 

 その戦いは、実に2時間近く続いた。

 

 本当に熾烈な戦いだった。

 途中で何度も心が折れそうになった。

 あとティッシュとにんじんなどの荷物が私でも抱えきれなくなるくらいに増えたので、トレセンに郵送することになった。

 

 そして、その果て。実に162回の施行。

 お金に換算すると……ちょっと考えたくないくらいの出費の果てに。

 

「つっついに! ついに出ました!! 特賞『温泉旅行券』!! おめでとうございまぁぁああす!!」

 

 カランコロンと鳴らされる祝福のベルの下。

 私はついに、勝利を掴んだ。

 

 金色に輝く──いやこれは滲んだ涙でそう見えただけで、実際はただの黄色なんだろうけど──ペアの温泉旅行券を!

 私はっ!! 手に入れたんだぁーッ!!!

 

「ふぅ、ふぅ……ようやく、ようやく勝ちました……!!」

 

 レースの直後くらい息が上がっているのを感じながら、ようやく勝ち取った勝利にガッツポーズ!

 これでっ……これで! 歩さんと温泉旅行だ!!!

 

「……とんでもないパワープレイで手に入れてしまったな。

 ともあれ、おめでとう、ホシノウィルム。レースで得た利益も含めて、君の努力の成果だ」

 

 歩さんと共に、いつからか周りで見守ってくれていた商店街の方々やウマ娘たちにも拍手を向けられる。いっぱい見られてちょっと恥ずかしい。

 

 でも、勝った……私は勝ったんだ……!!

 ヤバい、これ射幸心めっちゃ煽られる。実質ソシャゲのガチャだこれ。皆もやろうよ新作スマホアプリゲーム福引。

 

 よし、これで後は……歩さんを旅行に誘えば、これ以上ない完全勝利S!

 勢い込んで彼に向き合った私に対して、チケットを確認していた歩さんは……。

 

「ふむ……有効期限は来年の4月までか。なら、急いで使う必要はないな」

「え?」

「今は本格化中だし、落ち着かないからな。もう少し落ち着いてから……来年のURAファイナルズを君が走り終わった頃に使うといい」

「……えぇー…………」

 

 ここまで来て、お預けですかぁ……?

 

 流石に落ち込んでしまった私に、歩さんはクスリと笑って。

 

「大丈夫。君ならすぐに、必ず辿り着けるよ。それまで一緒に頑張ろう」

 

 そう言って、温泉旅行券を受け取る手を拾い、握ってくれた。

 

 ……はぁ。

 そんな台詞と、握られた手の温かさだけで不機嫌が消し飛んで、むしろすごく嬉しいって思っちゃうなんて……私、めっちゃチョロいんだろうなぁ。

 

「もー……でも、はい、よろしくお願いします!」

 

 そう答えた私は、多分、満面の笑顔だったと思う。

 

 ……周りの観衆たちは、何故かギョッとした表情してたけども。

 

 

 







 Q.運が悪くて温泉旅行券が引けません。どうすればいいですか?
 A.引くまで引けば必ず引けます。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、今年のローテーションの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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三冠と最強

 もっと何事もないような日常回をやりたい気持ちもあるけど、本筋を進めたい気持ちもある。難しいですねぇ。





 

 

 

「さて、それでは……」

 

 暖房を付けたトレーナー室の中で、俺は軽く周りを見回した。

 俺の横で議事録を付けるためにノートパソコンに向き合っているのは、実の妹であり、同時に俺の補佐をしてくれるサブトレーナー見習いである昌。

 そして机の対面で座っているのが、俺の担当ウマ娘である2人。今年シニア級に入ったホシノウィルム、そしてクラシック級に入ったミホノブルボン。

 

 これで1週間ぶりに、俺たちの陣営はそのメンバーを全員揃えたことになる。

 今日から、いよいよ再始動だ。

 

「改めて、今年のローテーションの話をしようか」

 

 時は1月5日、日曜日。

 

 一般人であれば、まだ日曜日ってこともあり、ゆったりと休んでいるところだろうが……。

 三が日も終わって初詣も済ませた俺たちは、早速今年の話を始めることにしたのだった。

 

 

 

 ……いや、念のために断っておくけど、俺は明日でいいと思ったんだよ?

 昌は不慣れなトレーナー業務に悪戦苦闘してるみたいだったし、ホシノウィルムやミホノブルボンも去年はすごく頑張った。もう少し休暇があったってもいいだろうって。

 だから陣営のグループLANEでも『せっかくだし日曜日までしっかり休んで、月曜日から頑張ろうか』って話したんだけど……。

 

『え? そろそろちゃんとしたトレーニングがしたいんですが』

『同意します。加えて、目標であるクラシック三冠に向けた、具体的かつ現実的なプランが必要です』

『私はどっちでもいいけど、2人がこう言ってる以上、明日にでも始動すべきなんじゃないの?』

 

 と、俺以外の全員から、やる気のあるお返事をいただいてしまった。

 新年早々からホシノウィルムもミホノブルボンも絶好調だ。やる気的にも調子的にも。昌の方も慣れて来たのか、やる気十分って感じだし……。

 

 まぁ元々、このお休みは担当ウマ娘たちの精神的な休養のためにあったわけで、彼女たちが十分に疲れが取れたと言うのなら、こちらから言うべきことはないんだけどさ。

 

 強いて言えば昌の状態が心配ではあったけど……多分、それも大丈夫かな。

 あの有記念以来、昌は何故か以前に比べて生き生きとしてるというか……肩から力が抜けたような感じがする。

 だからなのか、今日もそこそこ疲れているだろうに、割と平気そうな顔色だ。

 ……うん、昌だって自己管理はできるだろうし、いよいよとなったら言ってくるだろう。ここは昌のことを信じようか。

 

 

 

 そんなわけで、俺は今年の予定についての話をしようとしたが……。

 その前に、話を聞いていたブルボンがぴっと手を挙げる。

 

「主題に移る前に、1つ質問をよろしいでしょうか、マスター」

「あぁ、構わない。どうぞ、ミホノブルボン」

 

 ふむ……少し珍しいな。

 ブルボンはこういう時、取り敢えず相手の話を全て聞き終えてから、自分の意見なり質問なりを出すタイプだと思っていたんだが、一体何だろう。

 

「ありがとうございます。

 昨年、私がマスターに契約を結んでもらう際、マスターは『朝日杯で、その走りによって俺を惚れさせろ』と発言されました。

 その走りに惚れこまなければトレーナーはできない。だからこそ、G1の舞台で自分らしい走りを見せ、自分を魅了してみせろ、と。それまではあくまでも仮の関係である、とも」

「そうだな」

 

 少し懐かしい話になるが……その想いは、今でも変わっていない。

 ウィル程に惚れこむことはないと思うが、それでも自分が担当するウマ娘の走りには好感を持たなくてはならないと思う。

 いざという時……ウィルの宝塚記念の時のように、何かがあった時、その走りを信じるためにも。

 

 俺がコクリと頷いたのを見て、ブルボンは1つ頷き、話を続ける。

 

「しかし、マスターは朝日杯の日に昏睡されており、私の走りを見せることができませんでした。

 また、あの日の私の走りは精彩を欠くものであったと、マスターの評価に値するものではなかったと推察します」

「あっ」

 

 うわ、嘘だろ……この件、完全に頭からすっぽ抜けてた。

 そうだ、このことも彼女に伝えなければ。

 

 

 

 俺は1か月前、交通事故により2週間程度の間昏睡状態にあった。

 

 この事故に関しては、どうやら俺が眠っている間に、既に処理されていたらしい。

 その結果、俺は完全に被害者とされているようだ。

 

 後で昌から聞いた話にはなるが、どうやらあの日、俺は害意のある誰かに突き飛ばされ、更に最高速度を超過した車に撥ねられたとのこと。

 街頭の監視カメラにはその一部始終がしっかり残っていたらしい。

 その事後処理も父さんがわざわざ中央まで来てくれて請け負ってくれたようで、目を覚まして以降、この件について何か言われたことはない。

 

 とはいえ、あの時の俺がもう少し良い状態であれば、突き飛ばされても踏ん張ることもできたし、もっと早く起き上がることもできただろう。

 担当ウマ娘の管理に穴が開いたことに関して、完全に俺に責がない、とするのは……彼女たちに対して無責任が過ぎる。

 

 そんなわけで、俺はその2週間の空白を埋めるべく、ここ最近まで奔走してきた。

 勿論その中には、ミホノブルボンの朝日杯やホシノウィルムの有記念の映像を見たりすることも含まれていたわけで。

 

 その朝日杯に関しては……残念ながら彼女の言う通り、あまり良い走りではなかったと思う。

 明らかに平静を欠いた、大きく掛かったもの。

 

 それを見て、俺が最初に抱いた感想は……。

 「残念」、だった。

 

 本来のミホノブルボンならば、もっと綺麗に走れるはずなのに……恐らくは俺のせいで、彼女の走りは酷くギリギリの、見ていられないものになってしまった。

 

 それが、とても残念で……。

 ……そして、残念だからこそ。

 俺は、今度こそ彼女の……ミホノブルボンの綺麗な走りを見たいと、そう思ったんだ。

 

 

 

 が。

 それなのに、俺は書類仕事に追われる内、それをすっかり伝え忘れてしまっていたわけだ。

 

 うおぉ、やってしまった……!

 久しぶりの酷いミスに、思わず頭を抱えそうになる。

 何やってんだ俺。報連相は社会の基本。こんなの、彼女たちのトレーナーとして失格レベルのミスだぞ……!

 

「すまないブルボン……完全に伝え忘れていた」

「マスターに対して責任を求める意図はありません、お気になさらず」

「そう言ってもらえると助かるよ。ここまで不安にさせてすまなかった」

 

 ここしばらく、色々あって気が緩んでいたのかもしれないな……。

 俺は彼女たちのトレーナーで、なおかつ保護者だ。改めて、引き締め直さなくては。

 

 俺は1度まぶたを閉じて心を落ち着け、改めて無表情のブルボンに向き合った。

 

「ただ私は、今でも……いいえ、契約時以上に、マスターの指示を必要としています。

 そのために必要なタスクがあるのならば、それに臨みたいと思います」

「了解した。……それでは、君のローテーションの話をしながら、そのことについても伝えよう」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ローテーション、つまりは今後の出走の予定を立てる上で最も大事になるのは、当然ながら彼女たちウマ娘自身の意志だ。

 まぁブルボンの意志がそう簡単に変わるとは思えないが……ひとまず、その点を彼女に尋ねる。

 

「念のため確認するが、ミホノブルボン。君の最終目標は『クラシック三冠の達成』から変化はないか?」

「はい。私と父の夢、そしてマスターとの共通の目標であると認識しています」

「わかった。それでは……」

 

 隅に寄せていたホワイトボードを引っ張り出し、全員から見える位置に配置。

 マーカーを手に取って、俺は改めて話し始めた。

 

「もはや確認の必要もないと思うが、クラシック三冠とは即ち、3つのG1レース、皐月賞、日本ダービー、そして菊花賞での勝利を意味する」

 

 手帳を取り出して今年のレースの開催日を確認しながら、ホワイトボードに3つのレースを書き込む。

 

『4月19日 G1 皐月賞』。

『5月31日 G1 日本ダービー』。

『10月25日 G1 菊花賞』。

 

 この3つのレースでの勝利が、ミホノブルボンの最終的な目標となるわけだ。

 

 そして、そこに立ち塞がる最大と言っていい障害を、彼女は既に突破している。

 

「ミホノブルボンは昨年末のジュニア級G1、朝日杯フューチュリティステークスの勝利によって、現段階で十分な数のファンを獲得している。皐月賞への出走は問題なく叶うだろう。そして……」

「皐月賞で勝利すれば日本ダービーへの、日本ダービーで勝利すれば菊花賞への優先出走権が付与される。

 ……ですよね?」

「去年それを実行したウマ娘ともなると流石に覚えているか、ホシノウィルム。

 ……つまるところ、ミホノブルボン。あくまで『勝ち続ければ』という但し書きこそ付くものの、君は既に、支えてもらえるファンの数という、クラシック三冠に必要な条件の内の1つを満たしているわけだ」

 

 本来、殆どのウマ娘は、この段階で弾かれる。

 

 皐月賞。

 これは日本のトゥインクルシリーズにおいて、最高峰の格を持つG1レースだ。

 

 出走できるチャンスは生涯にただ1度、クラシック級の4月のみ。

 中長距離路線を走る何百というウマ娘たちの内、頂点に立つ18人のみが出走を許される。

 

 ただ……ミホノブルボンはその中で本当の、たった1つの世代の頂を目指していたからな。

 去年の内にG1レースに勝利し、余裕を持って今年のレースに臨めるようにしていた。

 

 ファンの数という、謂わば中央トレセンへの入学に続く第二選考とでも言うべき段階は既にクリア。

 クラシック三冠に向けて残すところは、レース本番という最終選考のみ、という状態だ。

 

 ……とは言え、他のレースに出走せず皐月賞に直接乗り込む、というのは難しいだろうが。

 

「しかし、出走は可能だからと言って、そこまでにレースに出ないわけにはいかない。

 ブルボン、何故レースに出る必要があるか、わかるか?」

「その時点での調子を確認するため、他のウマ娘と本気で競うことで闘争本能を落とさないようするため……そして何より、私の距離の適性を確認するため、でしょうか」

「流石、正解だ」

 

 

 

 俺はホワイトボードの、レースの部分から少し離れた場所に、『適性問題』と書き込んだ。

 

「ミホノブルボンのクラシック三冠への問題は、大きく分けて3つ。『スタミナ』『適性』『気性』だ。

 この内スタミナ問題に関しては、俺がトレーナーとして責任を持って解決しよう。気性問題に関しては、ホシノウィルムやあのソウリクロスとの併走で解決していきたいと思っている。

 ……で、最後に残るのが適性問題だ。これに関しては、実際にレースに出ながら向上を確認すべきだと思われる。よって……」

 

 『適性問題』から矢印を引き、皐月賞の少し上の部分に伸ばす。

 

「皐月賞、初の中距離レースの前に、1つ2つ、中距離の重賞レースに出ておく。

 ミホノブルボン、少し遅れてしまって悪いが……ここで君の完璧な走りを見せてくれ」

「了解しました」

 

 ブルボンは聞き分けよく頷いてくれた。

 ……俺のかけた面倒を思えば、叱責の1つや2つされてもおかしくはないんだが……今回も彼女の物分かりの良さに助けられてしまったな。

 

「ありがとう、ミホノブルボン。

 さて、出走する重賞レースは、今月のシンザン記念も考えていたが……今の君には必要ないだろうな」

 

 ちらとブルボンの方を窺うと、「アプリ転生」が彼女のスペックを映し出す。

 流石に去年のウィルには劣るが、それでも十分過ぎる程に高いステータス。

 今更G3、それもマイル距離のレースで、彼女の力を確かめる必要はないだろう。

 

 ……それに、この正月の間、彼女が自主トレで溜め込んだ脚への負担も気になるところだ。

 ある程度余裕がある今、無理に事を進めるべきではないだろう。

 

「そう考えると……出るべきレースはこれだろう」

 

『3月29日 G2 スプリングステークス』。

 

 俺はその名前を、皐月賞のすぐ上に書き込んだ。

 

「皐月賞のトライアルでもある、G2、1800メートルのレース。

 このレースを目途に、君の中距離への適性を上げることを目指す。そして実際のレースの中で、ライバルたちとの実力差やスタミナの割り振りを学習する。

 ミホノブルボン、君にとっての当面の目標はこれになるだろう」

「了解しました」

 

 ……実のところ、俺は「アプリ転生」によって、ブルボンの適性を知ることができる。

 だが、実際にその適性によってどれだけ走りやすくなるか、それは彼女がレースを走ることでしか体感できないものだろう。

 そのためにも、やはりスプリングステークスへの出走は重要だと思う。

 

 ……まぁ、また「優先出走権の枠を潰すな」だの何だのと言われるかもしれないが、そんなことは知ったことではない。

 何を天秤にかけても、担当ウマ娘ファースト。トレーナーとして、この軸は譲れない。

 ある意味では、それこそが彼女たち担当ウマ娘の信頼に返せる、俺なりの誠意なのだから。

 

 

 

「さて、その後皐月賞、日本ダービーに出走する。これらの間隔は1か月しかないし、他のレースに出走する余裕はないだろう。

 ……が、ダービーから菊花賞までの間には、5か月近い間隙がある。レース勘を取り戻すためにも、どこかでレースに参加しておきたい。

 ここも同じように……菊花賞のトライアルである神戸新聞杯になるかな」

 

 誰しもがホシノウィルムのように、いつでも全力を出せるわけじゃない。

 ここでもう1つレースを挟むのが安全だろう。

 それがこのG2レース……。

 

『9月27日 G2 神戸新聞杯』。

 

「そして菊花賞に参加、クラシック三冠達成だ。

 その後は順当に行けば、去年のウィルと同じくジャパンカップや有記念を目指していくことになるだろう。……まぁそこは、少々先の話になるから、今は一旦置いておくが」

 

 

 

 俺は一度マーカーに蓋をして、ブルボンの方に向き直る。

 

「以上が、俺から提案する当面の目標レースだ。ブルボン、何か意見はあるか?」

「いいえ、ありません。マスターから下されたオーダー、必ずやコンプリートしてみせます」

 

 ブルボンは胸に手を当て、決意を秘めた……ような気がする無表情で、そう答えた。

 

 となると、今年のブルボンのローテーションは……。

 

『3月29日 G2 スプリングステークス』

『4月19日 G1 皐月賞』

『5月31日 G1 日本ダービー』

『9月27日 G2 神戸新聞杯』

『10月25日 G1 菊花賞』

 

 このようになるわけだ。

 

 彼女の目標は、父との夢、俺との目標であるクラシック三冠。

 ひとまず当面の間は、そこに集中力を注いでいくべきだろう。

 

 そして彼女の夢が叶った後……あるいは散った後。

 菊花賞後のレースに関しては、脚の負担や疲労などの状況によって、臨機応変に対応することになる。

 

 ……彼女が三冠を獲れば、自然と有記念への出走が求められるだろう。

 場合によっては、昨年の三冠ウマ娘であるウィルとぶつかることもあるかもしれないな。

 

 その時は……うん。

 公平に、両者を支えるとしよう。

 

 ……しかし、どんな展開になろうと、少なくともどちらかの担当ウマ娘が敗北するレースか。

 俺はそれに直面した時、一体何を思うんだろう。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、ブルボンのローテーションの話が終われば、次は……。

 ウチの陣営の、ある意味での問題児の番か。

 

「……では次に、ホシノウィルム。君の今年の目標を聞いておこうか」

「できるだけたくさんのG1で勝ちたいです!」

 

 …………うん。まぁ、そうだよね。

 

 ランニングジャンキーかつレースジャンキーな俺の担当ウマ娘、ホシノウィルム。

 今の彼女は、走ることを心の底から楽しんでいる。

 いや、それ自体はトレーナーとしてこれ以上なく歓迎すべき状態なんだけど……彼女はそれはもう、他のことが目に入らないくらい夢中になってるんだ。

 

 勿論、競走ウマ娘として、レースを楽しめるのはこの上なく良いことだ。

 俺個人としても、そうして楽しんでくれることはとても嬉しい。

 

 ……けれど、夢中になりすぎて猪突猛進になってしまうのは頷けない。

 ウマ娘の脚は非常に繊細だ。レースが楽しいからって連闘を続けたりすれば、とてもじゃないが持たないだろう。

 幸い彼女は、丁寧に話せばわかってくれる、非常に理性的なウマ娘だ。その辺りの塩梅は、俺が上手く管理しなければな。

 

 

 

「ではひとまず、宝塚記念までの、君の出られる中長距離レースを並べて行こうか」

 

 シニア級のウマ娘が春……正確には春ってわけでもないが、レース興行において春と区分される期間に出られる、G1の中長距離レース。

 その候補は、3つだ。

 

『4月5日 大阪杯』。

『4月26日 天皇賞(春)』。

『6月28日 宝塚記念』。

 

「いわゆる、春のシニア三冠レースだな。短いもので大阪杯の2000メートル、長いもので春の天皇賞の3200メートルと、クラシック三冠以上に距離の幅の広いレース群だ」

「いいですね。中距離も長距離も、それぞれ違う難しさがありますし、違うライバルがいるわけですから」

 

 そう言って楽しそうに笑うウィルに、思わず苦笑いが漏れる。

 普通、こういう時の反応は、広すぎる距離の幅に怯えるとか、あるいはライバルの脅威に気合を入れるとかだと思うんだが……。

 まぁ、今更この子を「普通」のカテゴリに括ってはいけないか。

 

 なにせ、ホシノウィルムは天下の五冠ウマ娘。

 ……そして何より、俺が惚れ込んだ、たった1人の大逃げウマ娘なのだから。

 

「勿論、トレーナーが許してくれるなら3つとも出ますよ! 天皇賞にはマックイーン先輩も来るでしょうし、ここで再戦と行きましょう!」

「去年の菊花賞を見るに、君は長期間レースに出走していなかった直後でも全力を尽くせるタイプだろう。この3つを走るのなら、他のレースはやめて、それだけに集中すべきだろう」

「ふむ……そう言われるとちょっと勿体ないような気もしますが、やはり空腹が最高のスパイスとも言いますからね。トレーナーの指示であれば従います」

 

 いや、これ以上のペースでレースに出るのは厳しいからね?

 ウマ娘のレースは月1ペース。それ以上のペースで走れば、どうしたって脚への負担が増えてしまう。

 殊に、熾烈極まるG1レースともなれば、更に間隔を空けてもいいくらいだ。

 

 いざ4月になって「私の体頑丈だから大丈夫です! もっともっとレースに出ましょう!」なんて言い出されても困る。

 ここは……彼女が他のレースに気を取られないように、1つ情報を落とすべきだろうな。

 

「ふむ。ではそんな君に、1つ良いニュースがある」

「ニュース?」

 

 こてんと首を傾げるウィルに対し、俺は数秒後に浮かべる彼女の表情を予想し、少しばかり愉快な気持ちでそれを告げた。

 

 

 

「大阪杯と、天皇賞。これらのレースに、トウカイテイオーも出走予定だ」

 

 

 

 ウィルはパチパチと何度か瞬きして、少し意外そうな顔をした。

 

「へぇ……トレーナーがわざわざ伝えてくるってことは、今回のテイオーは脅威ってことですか?

 有記念ではネイチャよりも1段劣るって言ってましたよね」

「正確に言えば、そうなる可能性は秘めている、といったところか。

 なにせ彼女は、有記念では抑えて(・・・)走っていたようだったからな」

「抑えて……?」

 

 ウィルは、少し眉をひそめる。

 疑問に感じた、という風ではなく……どこか不愉快を感じたような表情。

 

 ……ああ、これは言い方が悪かったか。

 

「いや、すまん、撤回する。抑えて走っていた、というのは表現として違うな。

 彼女は新しい走り方を模索していたようだった、というのが正確だろう」

「えっと……それは、どういう」

 

 俺は数日前に見た、有記念のレースの映像を思い出す。

 トウカイテイオーが映ったのは一瞬だったが……その走りは確かに、以前のものと違った。

 

「有記念の映像では、彼女は以前に見せていた、極めて大きな歩幅を取るストライド走法を見せなかった。ダービーでの骨折から、あれが脚に大きな負担をもたらすことを理解していたからだろう。

 つまるところ、彼女は脚に負担をかけないように、けれど同時にG1に適うレベルの走法を模索し……しかし、復帰からほとんど時間がなかった有記念では、それがまだ未完成だったと見ていいだろう。

 ……だが、トウカイテイオーは天才だ。ここから3か月あれば、確実にその走法をモノにしてくる」

 

 トウカイテイオーは感覚派の天才だ。その領分に限っては、あるいはホシノウィルムを凌駕する程に。

 

 あのダービーで受けた衝撃は、今でも思い出せる。

 G1レースの最中、前世アプリにおける上位スキル、この世界における研鑽された技術の神髄を、即興で再現できてしまう程に……彼女のレースへの感覚は頭抜けているんだ。

 

 確か、前世史実におけるトウカイテイオーは、皐月賞と日本ダービーを制した二冠ウマ娘だったはず。

 この世界でも、ウィルというとんでもない鬼才さえいなければ、彼女は悠々と2つの冠をその手にしていたんだろう。

 それ程に、トウカイテイオーの才は図抜けている。まさしくレースの天才とでも呼ぶべき存在だ。

 

 「有記念ではその走法が未完成だった」とは言ったが、それは彼女の限界を示すと同時に、恐るべき意味合いも有している。

 そう、彼女は故障から復帰して1、2か月程度で、今までの人生でずっと使ってきた走法を放棄し、自分の中に新しい型を形成しつつあったんだ。

 それも、以前よりも負担は軽く、けれどG1レースに十分通用するという、恐るべき走法を。

 

 つまり、彼女は「結果として有記念に勝てなかった」のではない。

 「半年ぶり、休養明けのレースに未完成の走法で出走し、それでもなお、あの有記念で9着をもぎ取った」と見るべきだろう。

 

 

 

 そのニュアンスが伝わったのか……。

 ウィルは、彼女が自然と浮かべた時特有の、形の整わない笑顔を浮かべた。

 

「……ふふ。それは、面白くなってきましたね。

 そうですか、あの日もなかなか耳に入ってこなかったから、どうしたのかと思っていましたが……。

 低負担で、なおかつ速く走れる走法……やっぱり天然の天才は違いますね……ふふふ

 

 彼女はおかしそうにクスクスと笑いながら、小さな声で何かを呟いている。

 

 お気に召したようで何よりだ。

 できればそのまま、大阪杯と天皇賞(春)に夢中になったままでいてくれないかなーと思うが……。

 多分、模擬レースとかは要求されるんだろうなぁ。どうか程々に抑えて欲しいなぁと思うところ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、ウィルのローテーションに関しては、話はここで終わらない。

 と、言うより……むしろ、ここからが今日の本題と言っていい。

 

 ようやくテイオーとの戦いの予感が落ち着いてきたらしいウィルに対して、俺は声をかけた。

 

「さて、ホシノウィルム。この先のローテーションについてだが、大事な話がある」

「大事な……あの、経験則上、歩さんがその切り出し方をする時って大体嫌なことが起こるんですが……」

「え? あー、いや、すまない、今回はそういうものじゃない。むしろ君にとっては、この上なく良い話になると思う」

 

 きょとんとするホシノウィルムに対して……。

 俺は横でキーボードを叩いていた昌と顔を合わせ、頷いて……それを、言った。

 

 

 

「ホシノウィルム、君は今、名実ともに日本のトゥインクルシリーズ現役最強だ。

 ……それを、世界最強にしてみる気はないか」

 

 

 







 何のことかよくわからない方は、もう少し先にちゃんとした説明があるので少々お待ちください。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、ピンク色の後輩のお話。



(本編に関係ない呟き)
 ブルアカのストーリーにドハマリして、「転生してゲヘナのモブ生徒になったけど、平然と使われる銃火器が怖すぎてずっと寮に引きこもっていたが、先生に説得されてガチ恋した結果シャーレに所属しようと決心し、恐怖を乗り越えて成長しながらちょっとずつ世界に馴染みながら先生にアピールしようとするけど、ネームドたちの圧に負けがちでなかなか先生に関われない、むしろ何故かライバルのネームド生徒たちの方に気に入られていく(でも先生は譲ってもらえない)青春物語とか、書きて~~~」ってなったんですが、ウマ娘もぼざろも全然書き終わらないし、自分の欲求に執筆力(しっぴつぢから)が追い付かなくて辛い……。

(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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ピンクの伝説 夢を見るウマ

 ちょっと暗めのシーンもあるのでご注意を。


 

 

 

「ふむ……」

 

 走りながら、ぼんやりと考える。

 

 改めて、ウマ娘って不思議なものだよね。

 

 どう見たって人間と同じ……ではないけど、ウマ耳と尻尾を除いて、人間と同じ体。

 それなのに、人間に比べて、体力も筋力も段違いにズバ抜けてる。

 

 現に、こうして寒空の下走っていても、全然疲れが来ない。

 いやまぁ、今やってるのはローペース以下でのランニングだし、私はこれでもアスリートなわけで、ここまでも必死に体を鍛え上げてきたんだ。そういう意味じゃ、バテないのも当然と言えば当然なんだけども。

 

 それにしたって、しばらく……多分もう20分以上走ってるのに、息の1つも乱れないってのは、なかなかに不思議な気分だね。

 

 

 

 多分これ、私が転生ウマ娘だからこその違和感なんだと思う。

 

 なんだかもうずっと前のことに思える、前世の記憶。

 私は普通の女子高生として、年1のマラソン大会でめちゃくちゃ苦しめられた。

 普通のオタクであり、普段から運動などするはずもなかった私にとって、3、4キロという距離は本当に辛いものだったんだ。女子高生としてはどうかと思うけど、走り終わった後は吐きそうになったのを覚えてる。

 

 あーあ、今の身体能力のままあの頃に戻れれば、誰より速くゴールできるんだけどな。3キロくらいなら3分くらいで走れるし。

 いや、人間の競技にウマ娘が入ってくんなよって感じではあるけどさ。

 

 ……それに、私だけ戻ってもつまらないしね。

 歩さんも一緒に行ってくれるんじゃなきゃ、やだ。

 

 

 

 と、ちょっと話が逸れたか。

 話を戻して、あの心臓がぐちゃぐちゃになるような苦しさを知っているからこそ、ウマ娘の心臓……いや、身体の強さが異常であることが理解できる。

 脚力もそうだけど、やっぱり呼吸器官とかも優れてないとここまでの能力は出せないはずだ。多分。あんまり人やウマ娘の体に詳しいわけでもないから断言はできないけども。

 

 この前トレーナーと雑談した時に聞いたところによると、ウマ娘は理論的に言って、ここまでの身体能力を持てるはずがないのだとか。

 従来の進化論で語るとすれば、本来生物がこの身体能力を持つには、もっと体が大きくなるか、あるいは体重が重くなるかするはず……みたいなことを言ってた気がする。

 

 いや、正直うろ覚えだから、正しいかはわかんないけどね。

 更に言えば、その話自体も彼のお兄さんからの伝聞らしくて、「そういう話もあるらしい」って程度のものだった。

 又聞きの上うろ覚えとなると、信憑性には疑問が残る。与太話の類と思って聞いてほしいレベルだ。

 

 

 

 でもとにかく、ウマ娘の身体能力が異常ってことは間違いないと思う。

 本来私たちはこの体格で、この筋力を持つはずがない。

 でも現実的には、ウマ娘は人間と殆ど同じ体で、人間よりも遥かに高い身体能力を有しているわけで。

 

 一体何故、私たちウマ娘がこんな摩訶不思議な力を持っているのかというと……ぶっちゃけ、その真相は明かされていない。

 

 ウマ娘の研究はかなり盛んで、世界中で進められてるんだけど、それでもブラックボックスは多い。

 他種族であるはずの人間との間に子を成せるのも謎だし、その子供がウマ娘だったり人間だったりと綺麗に分かれるのも謎。そして雌しかいないっていうのも謎。ありとあらゆることが謎に満ちている。

 

 うーん……我がことながら、本当に謎生物だな、ウマ娘。

 前世ではアニメのキャラクターとして登場していたから違和感もなく受け入れてたけど、現実的に考えるとすっごい不思議だ。

 

 幸いなことがあるとすれば、この世界の人間たちが、善性に傾いてることだろう。

 個体数が少ないとはいえ、自分たちより圧倒的に高い身体能力を持ち、その上力の源が謎に包まれてる生物とか……前世の世界だったら最悪、差別隔離人体実験紛争戦争コース不可避だったよね。

 

 「なんかよくわからん他種族だけど、自分たちと似てるし友好的だし隣人として共生しよう」なんて思える時点で、この世界の人たちは本当に優しいと思う。

 

 そして私は……いつしか、そういう世界が好きになっていた。

 

 いやまぁ、そりゃあそうというか。

 私のために頑張ってくれるトレーナー、折れず曲がらず努力し続ける昌さん、すごく真っ直ぐで良い子なブルボンちゃん、そして私たちが走るのを懸命に応援してくれるファンの皆。

 

 そんな温かいものに囲まれれば、そりゃあ好きにもなるってものだ。

 

 

 

 ……なんて、ぼんやり考えながら走っていると。

 

「ウィルム、先輩……ソウリさんが」

 

 ちょっと息が上がってる、ブルボンちゃんの声が聞こえてきた。

 振り返ると、私のペースに併せてついて来てるはずの2人のウマ娘の内、片方が見当たらない。

 

「あれ? ピンクちゃんは?」

「後方、63メートル……」

 

 肩で息をしてるブルボンちゃんの後方に目をやると……あ、ピンクちゃん、四つん這いになってら。

 結構ガッツのある子だし、ただ疲れたってだけじゃないだろう。いよいよ限界が来ちゃったかな。

 

「ピンクちゃーん、大丈夫?」

 

 声をかけると、彼女はよろよろと立ち上がって……あ、駄目だ、立ち上がれてない。フラついて内ラチに寄りかかってる。

 

「……大丈夫じゃなさそうだ」

 

 

 

 あの状態、覚えがある。

 

 まだトレーナーに出会う前、がむしゃらに走り続けていた頃。

 とにかく速くなるために走らなきゃと思って、私はひたすらに足を動かし続けた。

 

 それでも、当然のことながら体力的な限界はあるわけで。

 そこまで行っちゃうと、その意志に体が付いて行かず、どうしても体が動かなくなる。

 

 数年前は、私もよくああなってたものだけど……いざ外から見ると、だいぶ痛々しく見えるんだね。

 

 

 

 ……ピンクちゃん、かなり無茶しちゃってるな。

 ここは先輩として、手遅れになる前に止めるべきだろう。

 

「ブルボンちゃん、トレーニング一旦中止。改めて小休止にしよう。悪いけど、あっちのサブトレさんに話付けておいてくれる?」

「了解しました。ソウリさんをお願いします」

 

 ブルボンちゃんはぺこりと頭を下げてくる。

 私の可愛い後輩は、こういう時察しが良いし話が早いから本当に助かるよ。

 

 私たちは二手に分かれ、それぞれに行動を起こす。

 ブルボンちゃんは、こっちを見て心配そうにしていたピンクちゃんのチームのサブトレーナーさんの方に向かい……。

 私は、まだ立ち上がろうとしているピンクちゃんの方に走り寄って話しかける。

 

「ピンクちゃん、立たなくていいから、そこに座って」

「せん、ぱい……まだ、行けます」

「行けないよ。そんなに脚ガタガタで、それ以上行けるわけないでしょうが」

 

 ちょっとばかり平静を欠いているピンクちゃんを無理やり抱え上げ、緊急搬送開始。

 ピンクちゃんはちょっと抵抗しようとしたけど……私はこれでも五冠ウマ娘。後輩ちゃんに負けるようなパワーしてはいない。

 

「せっ、先輩……!」

「だーめ。まったく、無茶し過ぎだよ。ウチのトレーナーに言われたでしょ? 今日は厳しいって感じたら無理せず休憩、息が整ったらまた走るを繰り返す、って」

「でも、もっと、頑張らないと」

「んー……」

 

 いつものピンクちゃんなら、すぐに頷いてくれるところなんだけどねぇ。

 

 

 

 年が明けてから……いや、私が気付いていなかっただけで、多分もっと前か。

 恐らく、彼女が公式レースで負けてしまった12月中旬あたりから……ピンクちゃんは、どこか思い詰めているようだった。

 

 彼女が何を思っているのかは……まぁ、想像できないこともないけども。

 それでもやっぱり、本人から聞いておこうか。

 

「どうしたのさ、ピンクちゃん。ちょっと焦ってない?」

 

 私の背の上で、彼女が少しだけ言葉に詰まる気配がした。

 そして……。

 

「……先輩には、わかりませんよ」

 

 少しいじけたような口調で、そう言った。

 

 あらら、いつも素直で可愛かったピンクちゃんがこんなこと言うなんて、反抗期かしら。

 ……なんてね。

 

 確かに、私が普通の五冠ウマ娘であれば……それこそ前世アニメの日本ダービーまでのテイオーみたいな、挫折を知らないエリートであれば、あるいは彼女の想いもわからなかったかもしれない。

 

 けれど、私は前世で色々挫折も多かった転生ウマ娘だし、今世だって出身は一般家庭、ついでに言えばそこそこ重い過去も持ってる。

 

 だからこそ……。

 ただ巡り合わせが悪かったって理由だけで、自分が持ち得なかったものへの嫉妬も……すごくよく、理解できるんだ。

 

「ブルボンちゃんのこと?」

「……っ」

「ま、ブルボンちゃん、世代でも飛び抜けて強いもんね。一緒に走ってれば、どうしても『あれに比べて私は』って思っちゃうよね」

 

 そう言うと、彼女は首に回してくれていた手を一瞬だけ強張らせて……脱力した。

 

 

 

 やっぱりちょっと酷だったかなぁと、反省。

 

 ピンクちゃんにブルボンちゃんとの練習を頼んだのは、私だ。

 ブルボンちゃんにとっては同世代の同じ逃げウマ娘と競え、ピンクちゃんにとっても格上と競えるチャンスだと思ったから誘った。

 そして、その判断自体は、今でも間違っていないと思うんだけど……。

 

 そう言えば、ピンクちゃんは真っ当な子だったなぁと、私は最近になって思い出したんだ。

 

 私の周りには、ちょっと異常なメンタルの人やウマ娘が多い。

 トレーナー業に全てを向けている歩さんもそうだし、三冠のためならどこまでも走って行きそうなブルボンちゃんもそう。そして真面目さと対抗心だけでめちゃくちゃ頑張れる昌さんもそうだ。

 彼ら彼女らは、目の前に苦難があれば、自力でそれを乗り越えてしまう。そこで感じる苦痛も苦悩も、その全てを根性でねじ伏せる。

 

 私はずっとそんな環境に囲まれて、そして私自身もそういうタイプだったこともあり……。

 いつしか、普通の感性が鈍ってしまっていた。

 

 ピンクちゃんの気持ちになって考えれば、すぐにわかるはずだったんだけどね。

 普通、自分が持ち得ない才能を目の前で見せつけられたら、そりゃあ落ち込んでしまうだろう、って。

 

 相手が私なら、まだいい。

 恐らくホシノウィルムは彼女から見て、理外の存在だろう。

 憧れは理解から最も遠い感情とはよく言ったもので、相手が憧れの存在となれば、そのあまりにも遠い距離にも諦めが付くというもの。

 

 けれど同世代で、それも同じ脚質の相手に、圧倒的な差を付けられているっていう現実。

 練習中に、何度も何度もそれを見せつけられると……うん。

 

 ちょっと凹んじゃうというか、捻くれちゃう気持ちも、わかる話だよね。

 

 

 

 改めて、背に負うウマ娘に話しかける。

 

「ごめんね、思いやりが足らなかったと思う。ここまで頑張ってくれてありがとう、ピンクちゃん。

 走るのは、楽しくなきゃ駄目だ。もしこのトレーニングが辛いなら、私から皆に話しておくよ」

 

 私は、歩さんと共に駆け抜けたクラシック級の中で学んだ。

 ウマ娘は、楽しく走らないと駄目だ。きっとそれは、私たち競走ウマ娘にとって最も大事なことだから。

 

 ピンクちゃんをこの環境に巻き込んで、走ることに悲壮感を持たせてしまったのは私だ。

 どんな形で終わるにしろ、そこは最後まで責任を取らないと。

 

 そう思っての言葉だったんだけど……。

 

「……う、うぅ」

「ん? ピンクちゃん?」

「んあーっ! もう!!」

 

 ピンクちゃんは癇癪を起こしたように大声を上げ、ぽかぽかと私の肩を叩いて来る。可愛いけどちょっと危ない。体幹鍛えてて良かった。

 

「そんなに優しくしないでくださいよ!! もう、私がすっごい子供みたいじゃないですか!!」

「え、いや、中等部って子供だし、子供でいいんじゃない?」

「もう、そうじゃなくて! ……はぁ、本当、先輩って……」

「私って?」

「いーえ、なんでも!」

 

 ぷりぷりと怒っていたピンクちゃんだけど……しばらくして怒りを発散し終わったか、私にはしっと抱き着いて来て。

 

「……先輩、後でちょっと話聞いてもらっていいですか」

 

 そう、小声で言ってきた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 私にとって、ピンクちゃんは大事な後輩だ。

 

 勿論、流石にブルボンちゃん程に肩入れしているわけではない。ちょっと申し訳ないけど、流石に同じ陣営であるブルボンちゃんよりも優先するっていうのは筋違いになってしまうと思うし。

 で、ネイチャと同じ陣営に属するライスちゃん程でもない。これに関しては完全に私の私情だけど、前世アニメでその苦難を見てしまったライスちゃんは、特別に応援してあげたいと思ってしまうんだ。

 

 ……でも、逆に言ってしまえば。

 私はその2人の次に、ピンクちゃんという後輩を贔屓している。

 

 いや、別に大した理由はないんだけどね。

 私と親しくしてくれる優しい後輩ちゃんたちの中でも接触が多く……。

 そして何より、個人的に最も応援してあげたくなるウマ娘だから、って感じ。

 

 

 

 競走ウマ娘はアスリートで、トゥインクルシリーズは極めてシビアな世界だ。

 同期だけで数えても400人以上、中央全体で見れば2000人という膨大な人数を誇るこの競技には、勝者の17倍の数の敗者が存在する。

 

 そうなれば、悲しいことだけど、たくさんの敗北に心の折れる子や、もはや敗北することを受け入れて負け癖が付いてしまう子も出てくるわけだ。

 

 歯に衣着せず言うと、私が付き合いのあった後輩ちゃんたちも、少なからずそうなってしまった。

 

 最初の頃は、そうでもなかった。

 彼女たちも皆、勝利を望んでトレセン学園に来たんだ。私が知り合った頃の後輩ちゃんたちは、勝利への渇望は皆一様に強く、「きっとトゥインクルシリーズで結果を残してみせる」って意気込んでいた。

 

 けれど、去年の秋あたりには、その心を折られてしまったんだ。

 

 

 

 中央トレセンには、全国から優秀な脚を持つウマ娘が集まって来る。

 そして地方からやって来た多くの子が、地元では負け知らずだったり、極めて高い成績を収めていたりする。かく言う私もその1人だ。

 というかむしろ、そうして高い成績を収めているからこそ、中央トレセンに入学できるわけだけどね。

 

 で、そんな自分の脚に自信を持って入学してきたウマ娘たちは、この中央トレセンで本当の蠱毒の激しさ、中央のレベルの高さを知り……急激なギャップで心を折られてしまう、というわけだ。

 

 今年もそろそろあるはずの入学式では、理事長が「覚悟ッ! ここは君たちが走ってきた戦場とは全く違う! 覚悟してトレーニングとレースに臨むように!」って言ってくれてたりするんだけど……。

 連続した成功体験で天狗になってる、まだまだ子供の中等部の女の子たちに対して、その言葉がどれだけ効力を持つかは微妙なところだよね。

 

 実際ここに、まさか自分が負けるだなんて思わず、最初の模擬レースで心をバッキバキに折られかけたウマ娘もいるわけで。

 ……そういう意味では、私もあまり人のことを言えたものじゃないんだけどさ。

 

 幸いなことに、私は転生ウマ娘ってこともあって素質自体は十分で、更に堀野歩さんという最高のトレーナーに巡り合うことができた。

 その結果として、こうして五冠ウマ娘になることができたんだ。

 

 けど、もしもその2点がなかったら、今頃私は…………。

 

 いや、考えたくないな。多分、最悪なことになってるだろうし。

 

 

 

 で。

 私の後輩ちゃんたちの大半も、そうした泥沼に足を踏み入れてしまった。

 

 ある子は心が折れて、地方のトレセンに転校し。

 ある子は敗北を認められず、せめて未勝利戦に勝ちたいと涙ながらに走り続け。

 ある子はなんとか勝ち取れた勝利に喜び……けれど直後の敗北に叩き折られ。

 

 正直、そういう光景は、見ているだけでもかなり心が苦しい。

 真っ当に頑張っていた子の心が折られるっていうのは、どうしようもなく重く、辛いものだ。

 「どうして私は、先輩みたいに……」って言われると、正直かなり心に来るものがあるんだよ。

 

 

 

 ……と、ちょっと脅すみたいになっちゃったけども。

 今語ったのは、あくまで極端な例に過ぎない。

 

 確かに多くのウマ娘が、自身の限界という泥沼に足を取られることになる。

 けれど、そこで諦め足を止める子ばかりではない。

 むしろその泥沼を正しく認識して、それでもなお懸命に前を目指そうとするウマ娘も多いんだ。

 

 そしてその筆頭が、目の前にいるピンクちゃんだった。

 

 

 

 彼女はよく、自分のことを「どこにでもいるような普通の(モブ)ウマ娘」と形容する。

 

 ……実際のところ彼女は、ブルボンちゃんやライスちゃんのような、非常に優れた素質を持っているとは言い難い。

 

 メイクデビューでは無事に勝利を飾れたものの、12月中旬に走ったプレオープンレースでは中団から仕掛けようとして追い切れず、8着に敗れてしまった。

 

 彼女はブルボンちゃんのように、大幅に出遅れて自身に向かない脚質を使うことになって、それでもなお勝ててしまう程に、圧倒的スペックを持ち合わせてるわけではないんだ。

 

 そういう意味において、確かにピンクちゃんは「どこにでもいるような普通の(モブ)ウマ娘」かもしれない。

 約束された勝利なんてない。1つ1つのレースに対して全力を注ぎ、それでもなお勝率は高くならないような、そんなウマ娘。

 

 ……けれど、それでも。

 

 

 

「すみませんでした、先輩。さっきの私、すっごく態度悪かったですよね。

 この前のレースの負けとか、ブルボンちゃんとの差とかで焦っちゃって、とにかく走って速くならなきゃって……。

 でも、先輩の言葉のおかげで目が覚めました。ていうか、なんか情けなくなって逆にモヤモヤがなくなりました。ありがとうございました!」

 

 2人で話そうと訪れたカフェで、ピンクちゃんはそう言い、ペコリと頭を下げる。

 それを見て私は、すごく穏やかで温かい気持ちになった。

 

 ……本当に良い子だな、この子は。

 

 ピンクちゃんは精神的に、すごく真っ当なウマ娘だ。

 ショックなことがあれば凹むし、辛いことがあれば悩むし、嫌なことがあれば眉をひそめる。

 自分だってトレーニングを積んでいるはずなのに、それでもどんどん差が開いていくブルボンちゃんを見て、やはり心に暗い影を落としていたんだろう。

 

 でも同時に、彼女は良い意味で真っ当でもある。

 たとえ辛いものを感じようと、追い詰められようと、誰かに向けられた善意を無視できる子じゃない。

 私の気遣う言葉に気まずくなり、冷静になって、そして今までの自分を反省する。

 そして意地を張ることもなく、すぐさま頭を下げて謝ることもできる。

 

 そういう、可愛い後輩なんだ、この子は。

 

「……私、もっと強い自信があったんです。

 メイクデビューも1発で勝てましたし……それこそ、G1レースでも十分通用するんじゃないかって、そんなこと思って。

 でも、現実は違いました。G1ウマ娘であるブルボンちゃんとの差は歴然で、プレオープンレースにも負けてしまって……やっぱり私、普通のウマ娘なんだなって思わされて。

 だから、もっと強くならなきゃって、ブルボンちゃんに追いつかなきゃって思ってしまって……」

「うん。信じられないかもしれないけど、その気持ちはわかるよ」

「……いえ、信じます。先輩、本当に辛そうな顔してくれてますし。

 私、焦りすぎてましたよね。なんていうか、先輩やブルボンちゃんの足並みに、無理に合わせようとしちゃってました。

 私は普通のウマ娘なんだから、もっと普通にしか走れないって、わかってたはずなのに」

 

 そう言って、ピンクちゃんは肩を落としてしまった。

 

 ……普通、かぁ。

 

 

 

 実際に彼女が「普通か」と言えば、そんなことはないと思う。

 

 中央トレセンに所属する平均的なウマ娘は、重賞にも出られないくらいだ。

 彼女がそこに当てはまるかと言えば、そんなことはない。

 

 ピンクちゃんは、私やブルボンちゃんに並ぶ程でこそないけど、多分重賞でも十分に通用するレベルの素質は持っていると思う。

 だから、そこまで落ち込むことはないと思うんだけど……。

 

 プレオープンレースに大敗してしまい、更にブルボンちゃんとの覆しようのない程の差を感じてしまって、彼女は自身の素質を疑ってしまっているんだろうな。

 

 その疑念は、きっと私から何かを言って解決する問題ではない。

 彼女自身がレースを通して自分の素質を確かめることでしか、抜本的に払拭することはできないだろう。

 

 だからせめて、私に言えるのは……。

 

 

 

「……友達にね。あなたと同じことを言ってた子がいたよ」

「友達に……?」

「うん。自分には素質がない、私と……ホシノウィルムとトレーニングするようなウマ娘じゃないって。

 そう言って諦めかけて……それでも、絶対に諦めなかった子。今でも諦めず、勝利を狙ってくる子。

 ……ナイスネイチャってウマ娘なんだけどね」

「ネイチャ……先輩、が?」

 

 ピンクちゃんは、その目を大きく見開いた。

 ……うん。今のネイチャからは、とてもじゃないけど考えられないよね。

 

 

 

 ナイスネイチャ。

 私と同世代の、三等星とも呼ばれる策謀家のウマ娘。

 12戦8勝、今のところG1レースでの勝利こそ達成していないものの、他3件の重賞レースでは1つ残らず勝利を刻んでいる、紛うことなき優駿だ。

 

 そこまで目立つ戦果こそないけれど、菊花賞では私と1バ身差での惜敗、そしてあの有記念でもマックイーン先輩やスズカさんを超えて3着に滑り込むなど、その実力は誰もが認めるレベル。

 

 そして私にとっても、彼女は最初にして最高の、油断ならないライバルでもある。

 

 そんな子が、最初はあんなに逃げ腰だったなんて……後輩たちは知らないんだろうなぁ。

 

 

 

「ネイチャもさ、自分に自信がない子だった。私を見ただけでびっくりしちゃうような子だった。

 それでも、菊花賞で私を追い詰めて来たよ。

 まったく、何が『素質がない』んだか。まさしく『素晴らしい素質』だよ。

 ……いや、自分に素質がないことを自覚してるからこそ、単純な走力以外も全部使って勝ちに来る、ネイチャらしい戦い方が確立したんだろうけどさ。

 でも、そうやって色んなことを使えるってことこそが、彼女の素質なんだって思うんだよね」

 

 ある意味では、それも成功の1つなんだろう。

 

 自分ではどうしようもなく足りないのだと、泥沼に足を取られて。

 ……それでも決して諦めず、足を取られて動けないのならと、その手を使ってツタを引き寄せ、口を使って周りの者と協力し、道具を使って沼を抜け出そうとした。

 

 その結果が、今のナイスネイチャという優駿だ。

 決して諦めずに足掻き続けた結果、彼女は自分なりの走り方、自分なりの星を見つけ出した。

 

「勿論、ネイチャの戦い方がピンクちゃんに馴染むとは限らない。ネイチャのアレは、もはや一周回ってそういう才能だからね。

 だけど……諦めずに走り続ければ、きっとピンクちゃんも見つけられるよ。君らしい、君だけの走り方……抗い方が」

 

 

 

 私がそう言うと……ピンクちゃんは、頷いた。

 

「そう、なんですね。……そうなんだ」

 

 そう言って、顔を上げる。

 

 彼女の表情には、もう陰りはない。

 ただ未来を見据える、強い輝きが瞳に宿っていた。

 

「先輩、ここで宣言します。

 私の夢は、G2レースに勝ってG1レースに出走することでした。

 けど、今、ここで変更です!」

 

 ぐっと拳を握り、彼女は高らかと未来を宣言する。

 

 

 

「私、菊花賞までに自分を磨き上げます! それで、菊花賞に出て……ブルボンちゃんに、勝つ!!」

 

 

 

 ……それは。

 果たして、どれだけの苦難を伴う道だろう。

 

 あくまで重賞級のウマ娘だと思われるピンクちゃんにとって、菊花賞に出走すること、そこで勝つことは熾烈を極めるだろう。

 その上、今年の菊花賞ではブルボンちゃんとライスちゃんの叩き合いが発生する。そこに彼女の介在する余地はあるかわからない。

 ……極めつけに、ブルボンちゃんのトレーナーは、あの歩さんだ。きっとこのトレセンの誰にも負けない、圧倒的な育成手腕を持っている。

 

 だからきっと、彼女の新たな夢は叶わないだろう。

 今年の菊花賞に勝つのは、ブルボンちゃんかライスちゃんのどちらかだろう。

 

 ……けど。

 

 応援くらいは、しても許されるよね。

 私は彼女の、先輩なんだから。

 

「うん、頑張れ……ソウリクロスちゃん。君のこと、見てるからね」

「っ、はい!!」

 

 そう言って、彼女はにこっと、輝く笑顔を見せてくれたのだった。

 

 

 







 ライバル(候補)を奮起させることに定評のあるホシノウィルム



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、趣味の話。



(報告)
 URAファイナルズの開催時期についてガバがあったので訂正しています。
 何故か1月中に予選準決勝決勝が続くデスマーチになってたんですが、1月に予選、2月に準決勝、3月に決勝がある形になりました。

(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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そんな疑似餌で俺様が釣られクマー

 ネタバレ:釣れません。





 

 

 

 忙しすぎる年末の仕事ラッシュも終わり、正月の内に片付けるべきごたごたも片付いて。

 そろそろ10日が迫って来るという頃……。

 ようやく、俺たちの仕事にも、余裕というものが発生した。

 

 いやまぁ、これまでも余裕がなかったってわけではないんだけどね。

 陣営で初詣に行った時もそうだったように、仕事が途切れる瞬間というのは何度か存在した。というか、俺が調整して途切れさせた、っていうのが正しいんだけども。

 

 けれど……。

 ここまで仕事がなくなるタイミングは、あるいはウィルが三冠を取って以来、なかったかもしれない。

 

 ちょうど今、ウマ娘のレースはシーズンオフとでも言うべき季節。

 いや、一部のレースはこの季節も開かれてるんだけど、とにかくウィルやブルボンが出走するようなG1レース、そしてそのトライアルレースは、3月までは開催されない。

 そのため、俺たちの仕事にも少しだけ余裕が出て来るわけだ。

 

 更に、要因はその1つではない。

 というのも……ぶっちゃけ、俺と昌が多少なりとも成長したらしい。

 

 以前以上に業務の能率が良い。特に昌は、仕事に慣れたというのもあるんだろう、目に見えて書類の処理速度が上がった。だからと言って雑にはなっていないのがすごいところだと思う。

 

 俺の方も……手前味噌な話になるけど、トレセン学園に来た直後に比べれば、そこそこ成長したと思う。

 やはり実体験というのは大事だ。どれだけシミュレーションを繰り返したところで、たった1度の実体験にも勝てない。

 こうしてトレセンに来て、トレーナーとして仕事を経験して、初めて得たものは多いんだ。

 

 

 

 仕事の絶対量も減り、更にそれを処理する能率も上がったとなれば、当然ながら書類の山はみるみる擦り減っていくわけで……。

 今日は担当ウマ娘2人もお休みで、なおかつ俺と昌には手を付けるべき直近の仕事がない。

 俺たちの陣営には、6時間とか半日とかじゃなく、丸々1日の余暇が発生した。

 

 あとしばらくしたら入学式があって新入生も入ってくるし、その後はURAファイナルズの予選開催、更にはURA賞の授賞式と、また忙しくなるんだけど……。

 とにかく今日1日は、俺も昌も手持無沙汰になってしまったというわけだ。

 

 以前であれば、将来を見越して他陣営のウマ娘について調査を行うとか、レース場の芝の状態の確認とか予測とか、あるいはレースの枠番の考察とか、そういったことで時間を潰せたんだけど……。

 今日はちょっとばかり、そうもいかなかった。

 

 いや、いかなかったというか……昨日の夕方、昌により未然に防がれてしまった。

 

「その調査とか確認とかって今すべきことじゃないんじゃないの? 私が来た時点で大阪杯までのマークは終わってたし、どうせここ半年のレースについてはもう終わってるんでしょ?」

「いや、まぁ、うん」

 

 勿論、状況は時間と共に変化する。

 芝の状況なんて直近1か月で大きく変わるし、ウマ娘なんて「3日会わざれば刮目して見よ」だ。

 いわゆる要経過観察、欲を言えば常に観察していく方が良いに決まっている。

 

 ……だが同時、1か月で大きく状況が変わるということは、つまり1年前に調べたって殆ど意味がないということでもある。

 

 例えばの話、1年前の俺は、トウカイテイオーよりもナイスネイチャの方が勝率が高くなることとか、今もなおトウカイテイオーが重賞未勝利のままだなんてことを、転がっている情報から分析できただろうか?

 ……いや、できるわけがないんだよなぁ。

 

 圧倒的なレースの天才であるテイオーと、素質がないわけではないがテイオー程とは言い難いナイスネイチャ。けれど、彼女たちの意志と努力によって、その道は分かたれた。

 ただの数字的な情報からそこまで推察するのは、流石に難しい。というか無理だ。

 

 ウマ娘の情報やレース場の状態。

 前もって調べるに越したことはないとはいえ、現時点で得られるメリットは非常に微妙なものだ。今すべきことかと問われると……正直、その必要性は薄い。

 

 つまりはコレ、ぶっちゃけ無駄に近い行動なわけだ。特に今は半年どころかブルボンの菊花賞辺りまでの調査を済ませてしまっているわけで。

 

 では何故、そんなことをやっているのかと言えば……。

 ……うん、他にやることないしな…………。

 

「は? なんか趣味とかないの? 一切?」

「ないよ? トレーナーだし」

「…………」

 

 昌は呆れたように黙った後……ため息1つ、俺に告げた。

 俺がついぞ気付くことのできなかった、大きな大きな欠陥を。

 

 

 

「あのさ、趣味の1つや2つ持ってた方がいいんじゃない?

 担当ウマ娘とか関係者さんとの会話だって、話題がなくて困ったりするでしょ、それじゃ」

 

 

 

「……ッ!」

 

 それを聞いて、雷が落ちたような衝撃を覚えた。

 

 俺には確かに、その覚えがあったのだ。

 

 1年前、まだホシノウィルムとの接点が多くなかった頃……俺は彼女に振る話題に窮し、しりとりや走ることの話ばかりしていた。

 更に言えば、今も業者の方々やURAの職員と話すことは、競走ウマ娘のレースに関することばかりだ。

 

 いつも同じことを話して、それ以外に話題を持たない。

 もしかして……あれ、これ、もしかして……。

 

 

 

 俺、コミュニケーションが、下手…………?

 

 

 

 * * *

 

 

 

 いや、その自覚がなかったわけではないんだ。

 

 俺はコミュニケーションが下手。それはもう、昌から何千回と言われたことだ。

 実家にいた頃は「主題から話すのはいいけど相手の気持ちも考えろ」「なんでそうやって極論になる」「相手が何を言いたいのか考えて聞け」と何度も何度も怒られたものだ。

 何故か父さんにも飛び火したり、兄さんは苦笑したり、母は穏やかに微笑んで見守っていたり。それが堀野家の日常的な光景だった。

 

 だから多分、コミュニケーションの要領も悪いんだろうなぁ、というぼんやりとした自覚自体はあった。

 

 だが……それを明確に自覚できたのは、ここが初めてだったかもしれない。

 

 何を以てコミュニケーションが上手いかを判断するかは、難しいところがあるけども……。

 少なくとも、他に趣味を持たず関係者の方や担当ウマ娘とのコミュニケーションが滞ってしまうのは、非常に大きな問題であると思えた。

 

 

 

 善は急げと言うが、善に限らずあらゆる行動は急いだほうがいい。

 そんなわけで、俺はさっそく余暇を使い、その問題を解決すべく動き出すことにした。

 

 ……のだが。

 1つ、俺の前には大きな問題が立ち塞がっている。

 

 コミュニケーション力不足。または、話題の不足。

 この解決のためには、昌に指摘された通り、趣味を作るのが手っ取り早いはずだ。

 

 では、どんな趣味を作るべきか……。

 これが、なかなか難しい。

 

 

 

 前世から仕事を恋人にするような人生を送って来た俺にとって、趣味というのは理解しがたい概念だ。

 趣味? 何それ美味しいの? とまでは言わないけど、それをして何が変わるのか疑問に思うくらいには有用性を理解できていない。

 勿論、趣味に生きるって言葉はよく聞くし、やはりそれはそれで良さがあるんだろう。だけど、現時点の俺は、まだそれを理解することができていない。

 

 だからこそ、ここで難しいのが……何を趣味にするか、だ。

 そもそも俺は、何を趣味にすればいいのか、どんなものが一般的なのかもわからないんだ。

 

「うーん……」

 

 トレーナー業に関すること以外の趣味なぁ……。何があるだろうか。

 読書? いや、俺が読んでるのレース関連とかウマ娘関係の本ばっかりだし。料理も担当ウマ娘のために作るだけだし、勿論クレーンゲームに関してもそうだ。

 

 ……これまでトレーナー業のことばかり考えて生きてきたこともあって、それに関すること以外の発想が出てこない。

 

「どうしよう……」

 

 俺は自室のベッドの上で、ちょっとばかり途方に暮れていた。

 趣味……趣味な……。あー、昔からこういうのを決めるの、苦手なんだよなぁ……。

 

 俺はチラリと、自分の部屋を見回す。

 俺の無趣味っぷりはこの部屋を見てもらえば一目瞭然だろう。

 ここに置いてあるものはトレーナー業に必要な資料や器具、URAの企画制作部から送られてくる担当ウマ娘のグッズ。もはやそれらで足の踏み場もない程に埋まってしまっている。

 

 我ながら、本当に仕事のことしかないと言うか、なんというか……。

 

「……あー、いや」

 

 そうか……1つ、候補があったな。

 

 ちらと視線を向けた部屋の片隅には、ウィルやブルボンのグッズの中に埋もれ、埃を被ってしまっている釣り竿が鎮座していた。

 

 ……釣り、行くか。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 誤解なきように言っておくが、俺が釣りに行ったのにも、その場所を選んだのにも、深い意味はない。

 何も思い付かなかったところに釣り竿が目に入ったから釣りに行ったというだけだし……。

 これまで釣りに行くとなれば毎度──と言っても累計2回だけど──そこに行っていたっていう経験があり、俺の中に釣りに行くとすればそこだという固定観念が生まれていたというだけ。

 

 勿論、釣りに行くことに関して彼女に伝えたわけでもない。

 何故か予定を聞き出そうとしてきた昌には言ったけど、昌と彼女の間に繋がりがあるとは思い難いし。

 

 更に言えば、俺がそこに辿り着いた時、既に彼女は長いこと釣りをしていたようで、クーラーボックスの中には決して少なくない量の魚が収められていたし。

 

 ……つまるところ。

 

「あれ、お兄さん?」

「……セイウンスカイ?」

 

 その日赴いた堤防で、セイウンスカイと出会ったのは、完全な偶然だった。

 

 

 

 セイウンスカイ。

 今更語るべくもない、稀代のトリックスターであり、黄金世代で二冠を取った逃げウマ娘であり、そして俺の前世での愛バでもあった子。

 

 短い芦毛を潮風に揺らす、前世の記憶よりも少しだけ成長した様子の彼女は、少し驚いたような表情でこちらを見ていた。

 

「……久しぶり、お兄さん」

「あぁ、久しぶり、セイウンスカイ」

 

 俺にとっては慣れ親しんだ、大好きなウマ娘だったが……それはあくまで前世の話。

 この世界において、俺とセイウンスカイの間には、数度すれ違う程度の関わりしかない。

 

 これまでの接点は、2つ。

 俺がホシノウィルムにとって最高の戦いの舞台を用意するため、彼女を天皇賞に焚き付けた時と……。

 去年の有記念の噂の裏を取るために、彼女を呼び出した時。

 

 そのどちらも、必要な情報のために互いを利用し合うような、それでいてどこか近しく話し合えるような……不思議な距離感での付き合いだった。

 

 

 

 そんなスカイだが、彼女は俺がやって来たことを見て、意外そうに目を見開いていた。

 

「へぇ……お兄さんも釣り?」

「うん。久々にな」

「お、そうなんだ、いいねぇ~。にゃは、セイちゃんとしては同好の士ができると嬉しいんだけどな~」

「俺としても、これを趣味にできればいいなと思っているよ」

「趣味にできればいい……? ま、いいけどさ」

 

 彼女に隣に座っていいか確認を取った後、俺はバケツに海水を汲み、彼女の横に折り畳み椅子を置いて腰かけた。

 

 まさかセイウンスカイに会えるとは思わなかったが……まぁ、それはそれとして。

 俺は釣り針を海の方に放り投げた。

 

 今日は彼女と取引とか情報交換をしに来たわけじゃない。

 俺は釣りをしに来たんだ。こっちにしっかり集中しなくては。

 

 

 

 それからしばらく、俺たちは無言で釣り糸を垂らしていた。

 

 最初の内こそ、横にスカイがいることに違和感を感じていたけど、段々とそれも気にならなくなり、ただぼんやりと釣り竿を握りしめている時間が過ぎて行く。

 

 ……あー、こういう落ち着いた時間、久々だな。

 静かに打ち付ける波の音、まだ少し肌寒い潮風と、けれどそれでも体を温めてくれる陽の光。

 思わずうとうとしてししまいそうになるくらいに……心地良い。

 

 昨日はなんと0時には眠りに就けたので、今日は睡眠時間は十分なはずなんだけどな……。

 

「ふわ……あ、すまん、セイウンスカイ」

「別にかまいませんよー。今日は気持ちの良い晴れですからねぇ」

「本当に気持ちの良い晴れだな……」

 

 ウマ娘の前で呑気に欠伸。

 普段なら気が緩んでいるから引き締めないと、と思うところだが……今は業務時間外、趣味の時間だ。スカイが許してくれると言うのなら、そこまで気にすることもないだろうか。

 少しだけ悪いような気がしながらも、変わらず出ようとする欠伸を口の中で押し殺した。

 

 ……と、そんな時。

 

「お、ヒット。大物の予感」

 

 スカイはそう呟き、クイクイっと俺には理解しがたい緩急で竿を動かし、リールを巻き始める。

 しばらく待つと、彼女の釣り竿から伸びる糸の先には……見事に、少し大きめの魚がかかっていた。

 

「ぃよし、良いカサゴ!」

「おわー、おめでとう」

「『おわー』ってなんですか『おわー』って。気が抜けてますねぇ」

 

 スカイは彼女の釣り竿にかかった、背びれのギザギザした魚をどやっと見せびらかしてきて、俺の反応に苦笑する。

 

 良いなぁ、ちょっと羨ましい。

 俺の方はピクリとも反応が来ないのに、スカイの竿には定期的に反応がある。

 やはり竿とか餌、そして経験の差だろうか。まぁその辺最初から上手くいくことなんて滅多にないけど……やっぱり悔しいものは悔しいな。

 

 ……よし、決めた。次回来るまでに、釣りのテクニックを調べておこう。

 改善できないなら仕方ないとしても、やれることはしなければ。ウィルやブルボンだって頑張っているんだ、俺だって技術向上のために努力しない理由はない。

 

 あとアレだ、竿と餌も、もうちょっと良いの買っておこう。

 初心者の内から高級品に手を出すのはちょっと躊躇があるけど、むしろそうすることで後に引けなくなるし、逆に釣りにハマることができるかもしれない。

 それに、最初の内はモチベーションが大事だ。良いものを使ってどんどん釣れた方が楽しくなるかもしれないし。

 

 ……別にスカイに対抗意識を燃やしてるとか、そういうわけではないぞ。

 

 

 

 チリチリと心を燃やしていた俺を後目に、横に座っているスカイは……くすりと笑った。

 

「……お兄さん、なんかちょっと変わったね」

「変わった?」

 

 ちらりと彼女の方を窺うと、スカイは海の方を眺めながら、どこか弾んだ口ぶりで言った。

 

「変わったよ。前まではピリピリしてたけど、余裕が出てきた感じ」

「そう……か?」

「あ、勿論良い意味でね。……なんていうか、肩から良い感じに力が抜けたような」

 

 どうだろう。あまり自覚は……なくもない、か。

 

 確かに最近、俺は気が緩んでいる気がしていた。

 ものを食べれば美味しいと感じ、睡眠を取れば心地良いと感じる。

 俺はそれを、トレーナー業に専心できなくなったと認識していたが……。

 好意的に解釈すれば、肩から力が抜けたと言える……のかもしれない。

 

 ……いやしかし、やはり集中力が落ちているのはどうかと思うんだが。

 

「気が緩むのは、どうもな」

 

 そう言って、俺は唇を結んだんだが……。

 そんな俺に、スカイは明るく言った。

 

「良いんじゃない? 私のトレーナーさんもそうだったし」

「君のトレーナーも……?」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 この世界における、セイウンスカイのトレーナー。

 彼はこの界隈では、知る人ぞ知る有名人だ。

 

 それは何も、担当ウマ娘にクラシックレースで二冠を獲らせたという理由だけではなく……。

 そもそも、セイウンスカイを担当した当時の彼が新人であり、更に言えば名門でもなんでもない一般家庭出身だった、という要素が大きい。

 

 

 

 俺も何度か話す機会があったが、彼は一見して普通のトレーナーという印象を覚える人間だ。

 ウマ娘を愛し、レースを愛し、担当ウマ娘のために奔走する。そういった、中央のトレーナーとしては非常に模範的で一般的な人間性を持っているようだった。

 

 ……けれど、彼はそれだけの人間ではない。

 黄金世代という魔境の世代に当たって初めて専属を持つことを許され、多くのウマ娘の中からセイウンスカイを見出し──ここに関しては、本人曰く偶然の部分が大きいらしいけど──、果てにはクラシック二冠という栄誉へと導いた天才トレーナー。

 それが、彼と言う人間を形容する適切な言葉だ。

 

 同期には名門桐生院の寵児が支えるハッピーミークや、この前あのウィルにも勝ったスペシャルウィークを筆頭に、他にもエルコンドルパサー、グラスワンダーにキングヘイローらを持つ、まさしく豪華絢爛な黄金の世代。

 それでもなお、寒門のウマ娘と新人のトレーナーの2人は、2つの冠を手にした。

 

 まさしく、光り輝くシンデレラストーリーだ。当時は世間でもかなり騒がれたらしい。

 ……まぁ、それも去年のホシノウィルム程ではなかったはずだが。

 

 

 

 そして……うん。

 

 桐生院葵トレーナーやハッピーミークと同世代で、セイウンスカイがシニア級2年目になる年からURAファイナルズが開催されており、その上新人の天才トレーナー。

 

 ……どう考えても。

 彼は、前世アプリの主人公にあたるトレーナーだ。

 

 彼のことを知った時は、そりゃもう驚いたものだった。

 URAファイナルズは既に開催されているということで、ここが前世アプリの育成シナリオから数年後の世界であろうことは察しが付いていた。

 更に、その開催開始時期やハッピーミークの世代から、本編の時間軸は黄金世代と一致しているということも。

 

 けれど……そうやって察しが付いたとしても、それでもなお、驚いた。

 

 まぁ、当然と言えば当然だろう。

 かつて遊んでいたアプリゲームの主人公が、自分のいる世界に実在している。

 それに驚かないわけがないんだから。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……で。

 そんな彼も、セイウンスカイのトレーナーもそうだったというのは、どういう意味か。

 

 思わず眉を寄せた俺に、スカイは独り言を呟くように言う。

 

「私のトレーナーさんも、最初はすっごく肩肘張ってて真面目だったんだよー。ちょーっとセイちゃんがトレーニングサボるだけですっ飛んで来てさ。……ま、今は程々に休ませてくれるようになったんだけど」

 

 セイウンスカイは懐かしそうに、数年前のことを想起する。

 

 ……そうだな。

 もしも彼女のトレーナーが「彼」なら、契約した3年間で、頑張るスカイを支えるために柔軟に、そしてダダ甘になっていったはずだ。

 俺はそれを、よく知っている。……なにせ、目の前で何度も見てきたようなものだからな。

 

 どんな顔をしていいかわからず、釣り竿の方に目をやった俺に、スカイは続けて言ってくる。

 

「でもさ……担当ウマ娘からすればそれくらいの、ちょっと緩いくらいがちょうどいいんだよ。

 お兄さん、結構精神的にキツキツっぽかったから心配してたんだけど……うん、もう大丈夫そう」

「……君、ホシノウィルムのこと、心配してくれてたのか」

「そりゃまぁ、先輩ですしね? セイちゃんだって、可愛い後輩の心配の1つや2つ、するんですよぉ?」

 

 そう言ったセイウンスカイは、海の方を見ながら、ふっと息を吐いた。

 

「……それに、心配してたのは後輩のことだけじゃないよ」

「ん? 何、どういうこと?」

 

 よく理解できず反射的に聞き返すと、彼女の表情が呆れに染まる。

 

「…………本当に頭回ってないんだね? 大丈夫?」

 

 いや、大丈夫だと思うけど……。

 

 ……あぁそっか、そういうことね。

 

 彼女はウィルの居心地を心配してたわけだけど、そもそもウィルの居心地を心配するってことはつまり、俺の緩み具合を気にするってことで……それは俺のことを心配することに繋がるわけだ。

 そこはしっかりと感謝しておかないとな。

 

「あぁそうか、ありがとう、セイウンスカイ」

「わかってなさそー……。ま、ただの気まぐれですし、いいですけども」

 

 スカイはそうぼやいて……うわ、また魚ヒットしてるし。

 嘘でしょ、上手くなればそんなにかかるの……? いや、スカイだからなのか? やっぱりトリックスターには相手を誘導する才能があるんだろうか。

 

 俺も1匹くらいは釣り上げたいんだけど……お?

 

「来た!」

「えっ、嘘!?」

「嘘は酷くない!? いや重っ! こんな重い!?」

 

 体は結構鍛えてるつもりなんだけど、それでもここまで重いとは……! さては大物か!

 絶対に釣り上げてやると、思わず腰を上げかけて……。

 

「あ、根がかりだねそれ。あんまり強く引かない方がいいよ。軽く揺するような感じで外すんだ」

「…………」

 

 静かに、腰を下ろした。

 

 

 

 

 

 

 結局その日、1度たりとも俺の釣り竿に魚がかかることはなかった。

 回数を重ねるごとに釣果落ちていってるんだけど、なんで……?

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そろそろ夕陽も落ちる頃、俺たちは解散することになった。

 ……というか、スカイが全く帰る気配がなかったので、さっさと帰るように駆り立てたんだけども。

 

「ぶー。せっかくのお休みだし、夜釣りしたかったんだけどなー」

「それはまた今度、自分のトレーナー同伴でしなさい。そろそろ門限だろう」

「言っておくけど、ちゃんと許可は取ってるんですけど?」

「誰の?」

「…………」

「はい、それじゃ寄り道せず帰ること」

 

 言い繕おうとするスカイを黙らせて、俺はしっしっと彼女を急かす。

 

 いつもこんな調子なら、彼女のトレーナーはやはり気苦労が絶えないだろうな、と思って……。

 ふと、スカイが言っていたことを思い出す。

 

 「少し緩いくらいが、担当ウマ娘にとってはちょうどいい」、と。

 

 それは十中八九、セイウンスカイの個人的な所感なんだろうが……。

 ……それでも、最近緩んでいて駄目だと否定しがちな自分を肯定してもらえたのは、なんというか……救われたような気がした。

 

 そのことも、感謝しておかないとな。

 

「セイウンスカイ」

「ん? 何~?」

「今日は色々とありがとう。この恩はいつか返すよ。

 それと、ドリームトロフィーリーグ、頑張ってくれ。1人のファンとして応援してる」

 

 そう言うと、前を歩いていた彼女は少し硬直した後……振り返って、ニヤリと笑った。

 

「……それじゃあ、お兄さんには、仲間になってもらおうかな」

「え?」

「いやー、セイちゃんにとって釣りって心のオアシスなんだけどさ、ずーっと釣り仲間が欲しいって思ってたんだよね。トレーナーさんも付き合ってくれるけど、それでも趣味って程じゃないし。

 だから恩を返すって思うなら、一緒に釣りを楽しんでもらえたらなーって思うんだけど?」

 

 ニヤニヤ笑う彼女の可愛らしいおねだりに、俺は思わず表情を緩めてしまった。

 

「……あぁ、わかった。暇な時はここに来ることにするよ」

「ホント? やったー! じゃあ今度、もっと良い釣り場教えてあげますから、楽しみにしててね!」

 

 そう言って、彼女は嬉しそうに笑う。

 

 

 

 ……まったく。

 そうやって無邪気に笑う姿を見ると、彼女が自分の担当ウマ娘なんじゃないかと錯覚しそうになるな。

 

 だがこの世界において、セイウンスカイは、決して俺の担当ウマ娘ではない。

 

 スカイを支えるトレーナーとして、前世アプリにおける主人公以上の存在はいないだろうし……。

 どうあれ、俺の担当ウマ娘はホシノウィルムとミホノブルボンの2人きりだ。

 

 だからセイウンスカイとは、強いて言えば……。

 これからは、個人的な友人になるだろうか。

 

 前世の愛バと、今世では友人か。

 ……存外、悪い気分じゃないかな。

 

 

 







 何かが終わるってことは何かが始まるってこと。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、生徒会の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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三冠取ったら挨拶やれは全て詐欺です

 めちゃくちゃ流行に乗り遅れました。





 

 

 

 とんでもなく今更な話だけども……。

 トレセン学園は、非常に独自性の強い学校だと言っていいだろう。

 

 中等部から高等部へ、エスカレーター式の内部進学ができる中高一貫校であり……。

 暗記的な学力以上に走力を重視され、全国から強いウマ娘たちが集ってくる結果、生徒数が実に2000を越える、スーパーマンモス校でもある。

 

 年頃の少女たちを預かる以上学園という形を取っているし、当然ながら一般的な教育も施されるけど……この学園の本質はやはり、アスリートの養成機関。

 URAの主催するトゥインクルシリーズやドリームトロフィーリーグに出走するウマ娘のために、これ以上ない環境とトレーナー陣を揃えている、「トレーニングセンター」なのだ。

 

 

 

 で、そんな学園だからこそ。

 ここの「新学期」は、公式レースの期間と同調して始まる。

 

 新学期。それは本来4月、桜の舞い散る季節から始まるのが一般的だ。……いやまぁ、実際に桜が散る中での入学式になることはそこまで多くなかったりもするんだけどね。雨で簡単に散っちゃうし。

 

 けれどトレセン学園ではその新学期が、身を裂くような寒さに包まれる1月10日あたりのことになったりするんだ。

 

 この期間の変更には、ウマ娘たちの本格化が強く関係している。

 

 ウマ娘の体は中等部1年あたりから本格化を迎える。早ければその1月あたり、そして遅くてもこの年の終わりまでのどこかだ。

 つまるところ、最速で本格化を迎えるウマ娘は、4月入学じゃ本格化の始まりに間に合わないんだよね。

 

 本格化という身体能力が急激に成長する不可思議な現象には、3年間というタイムリミットがある。

 この期間にどれだけ優秀なトレーナーの下で、どれだけ良質なトレーニングを積めるか。これがウマ娘の強さの7割を決めると言っていいだろう。

 

 そんな大切な期間を、ただその子の育ちが早く本格化のタイミングが早いという理由だけで浪費させるなんてことが通るわけもなく……。

 そういった都合から、この学校の入学式は、正月の余韻も過ぎた1月10日辺りに行われることになっているのだった。

 

 

 

 で、だ。

 なんで私が、今更こんな話をしているのか、と言うと……。

 

「…………」

 

 前に目をやれば、やる気に満ちた目が。

 右に目をやれば、意外そうにこちらを見る目が。

 左に目をやれば、キラキラと憧れるような目が。

 上に目をやれば、値踏みするような目が。

 

 たくさんの視線が……実に600を越える数多くの視線が、私に突き刺さっていた。

 

 その全てに共通するのは、極めてポジティブな未来への希望。

 私こそがトゥインクルシリーズを荒らしてやるんだという決意。

 

 私の見下ろす、あるいは見上げる先……。

 トレセン学園の巨大な体育館には、現在、今年の新入生たちやその保護者の方々が詰めかけている。

 

 

 

 そう、今日はトレセン学園の入学式。

 そんな日に私はと言えば……体育館の壇上に立ち、そんな彼女たちのことを軽く見回していた。

 

 ……うん、そろそろか。

 

 私は口を開き、マイクに向けて言った。

 

「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。在校生代表挨拶を任されました、ホシノウィルムと申します」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、何故こんなことになってしまったか。

 

 話は数日前に遡る。

 

 

 

 その日、私はトレーナー共々、生徒会室に呼び出されていた。

 

 ここに所属する者なら誰もが知る、トレセン学園生徒会。

 実はこの組織、一般的な高校と違って……あぁいや、創作での高校じゃままあることなんだけど、めちゃくちゃ大きな権限を持っている。

 まぁ会長があの子なんだから、そりゃあ権限もあるだろうなって話なんだけど……それはともかく。

 

 その権限は、校内で発生した問題の独自解決や軽い自治行為の実行、そして……。

 こうして冬休みの真っ最中、1人のウマ娘とトレーナーを呼び出すこともできる程に強いわけだ。

 

 

 

 辿り着いた生徒会室のドアの前で、私とトレーナーはひそひそと話し合う。

 

「……あの、トレーナー、何か悪いこととかしました?」

「いや、心当たりはないが……ウィル、もしかして君、授業中に我慢できずランニングのために脱走したりしてない?」

「流石に我慢しますよそれは。授業は真面目に受けてる……とは言いませんけども、ちゃんと座って終わるのを待ってますし」

「いや保護者としてそこは真面目に受けててほしいなって思うわけなんだけど」

 

 生徒会に呼び出されるような心当たりはない。

 いや、トレーナーは何度か呼ばれていたようだったし、私もちょっとだけお話くらいはしたことはあるんだけど、2人セットで呼び出されるってことは今までになかった。

 保護者に近い存在であるトレーナー同伴となると、一体何を話されるか知れたものじゃない。ちょっと重めの話とか、真面目な話なのかな……。

 

「……最悪、退学とか?」

「いや、それはないはずだが。君が退学となると世論は荒れまくるだろうし、その大義名分も今のところ確認できていない。……強いて言えば、栗東寮の雨どいや窓縁が傷んでいるくらいか」

「な、何の話ですかそれ……。え、じゃあなんで今日呼ばれたんですか?」

「うーん……三冠を取ったお祝いとか?」

「もうあれから3か月経つんですけど、今更ですか?」

「それは……いや、というかここで待っていても仕方ないし、そろそろ入ろうか」

 

 トレーナーの言葉に、それもそうかと頷く。

 

 怯えていても仕方ない。何の話をされるにしろ、私たちはそれを聞くしかないんだから。

 私たちは覚悟を決めて頷き合い、生徒会室のドアを叩いた。

 

 

 

 「どうぞ」という声に導かれて入った生徒会室にいたのは、1人のウマ娘だった。

 

 そのウマ娘は、私のよく知る……というか、競走ウマ娘ならばおおよそ誰もが知っている人。

 前世アニメではトウカイテイオーの憧れであり、この世界では無敗でクラシック三冠を取った史上初のウマ娘であり、今もドリームトロフィーリーグを走る競走ウマ娘でもあり、そして現トレセン学園生徒会長でもある女傑。

 

 長く綺麗な黒鹿毛に、三日月のようにクセの付いた流星、凛々しい顔貌を備えた彼女は……。

 

 シンボリルドルフ会長、その人だ。

 

「やぁ、よく来てくれた。どうぞそこにかけてくれ」

 

 彼女はにこやかに、けれど確かに威厳を感じる落ち着いた態度で、備え付けられたソファを指し示した。

 

 

 

 私の前に座り、優雅に紅茶を飲むシンボリルドルフ会長。

 彼女の容姿は、前世アニメで見たものよりも成長している。

 記憶の中の彼女は美しさに寄った少女と女性の中間って感じの風貌だったけど、この世界のルドルフ会長は明確に女性だ。溢れ出る風格もあって、20代前半くらいに見える。

 

 既にトゥインクルシリーズからドリームトロフィーリーグへと進んでいる彼女は、当然ながら既に本格化を終えて久しい。

 体型を固定される時期は過ぎ去り、彼女もまた時間の経過と共にその容貌を変化させる。

 その結果として、彼女の見た目は完全に成人女性のものとなっているわけだ。

 

 そしてそれだけ見た目が変化しているということは、つまりそれだけ彼女は歳を重ねているわけで。

 シンボリルドルフ会長は、既に成人も近い年頃だ。

 

 彼女がトゥインクルシリーズを走り、数々の伝説を残したのは、既に6年も前のことだ。

 トレセン学園を卒業してから数えても3年、そりゃあ容姿が大人びてもおかしくはないだろう。

 

 で、そんな卒業生であるルドルフ会長は、けれど同時にこの学園の現役生徒会長でもあるわけで……。

 ……正直よくわかんないよね、うん。

 

 先にも言った通り、トレセン学園は非常に独自性の強い学校だ。その実学校と言うよりは、アスリートの養成機関という形容の方が実情に沿っているくらいに。

 更に言えば、所属するウマ娘たちは人間を遥かに超える身体能力を持つ。もしも集団的に暴走でもしようものなら、そう簡単には止めることができないだろう。

 

 そんな組織のトップ……生徒会の長となると、相応の威厳と求心力が必要になる。

 そういう意味において、ルドルフ会長以上の人員はいないだろう。三冠ウマ娘という立場や圧倒的な実力、そしてカリスマ性を持つ彼女は、学園の統治者としてこれ以上ない素質を有していた。

 

 ……そう、これ以上ない素質だったんだ。

 ルドルフ会長の代わりが見つからないくらいには。

 

 彼女の在学中に、ルドルフ会長が抜けた穴を埋められる人材は見つからなかった。

 トレセン学園を上手く纏めていくためには、どうしても彼女の協力が必要になっていた。いや、勿論やろうとすればできるんだろうけど、どうしたってこれまで彼女に依存していた生徒会には混乱が発生してしまうだろう。

 

 その混乱を避けるため、そして彼女自身の望みもあって、卒業したはずのシンボリルドルフ会長は今もなお、いわゆる「名誉会長」的な立ち位置で中央トレセン学園の生徒会長を続けているのだった。

 

 ……というか歩さん曰く、殆ど大人であり、なおかつ道理を弁えている彼女が生徒会長をやっているからこそ、今の生徒会の権限は非常に強くなっている、っていう側面もあるらしい。

 要は、トレセン学園内部でシンボリルドルフを最上とした、トップダウンの警察・行政組織を持っているような状態なんだって。なんかカッコ良いよね。

 

 ……いや、生徒会って何? と首を傾げたくなる気持ちあるけども。

 

 

 

 で、そんなルドルフ会長は……直に向き合うと、やっぱりかなりの威圧感がある。

 歴戦の戦士の風格というか、よく言われる皇帝らしい威厳というか、そういう固く強い空気感を纏ってる感じだ。

 

 一瞬、「これが無敗三冠ウマ娘の存在圧……!」と思ったけど、よく考えたら私も無敗三冠獲ってたわ。

 私にはこんな強そうな空気出せないし、これはルドルフ会長自身のカリスマ性なのかもしれないね。

 

 さて、そんな会長が、一体何を話し出すのか。

 私は固唾を飲んで彼女の言葉を待ってたんだけど……。

 

 彼女は何故か、どこか自慢気な様子で、こう切り出してきた。

 

「改めて、生徒会長のシンボリルドルフだ。堀野トレーナー、ホシノウィルム、それぞれと話したことはあれど、共に会話を交わすのは初めてになるな。

 2人にはご足労いただいてありがたく思っている。いや、私と話すことこそ苦労(・・・・)かもしれないが」

 

 …………?

 え、なんでどことなくドヤ顔? 普通こういうこと言う時、申し訳なさそうな顔はすれど、ドヤ顔はしないと思うんだけど。

 それに、苦労って……卑下にしてもちょっと言い過ぎでは?

 

「いえ、別に苦労とは思いませんが。ルドルフ会長が良い方というのは知っていますし」

 

 上手く相手の意図が掴めず、私は困惑に眉をひそめる。

 

 ルドルフ会長、確かに威厳はあるけど、少し話してみればとんでもなく善性のウマ娘ってことがわかる。いわゆる聖人とまで呼べるだろうウマ娘だ。

 

 そんなウマ娘だから、話しても苦になる相手じゃないんだけど……。

 あぁいや、確かにこの威圧感、あんまり心が強くない子には厳しいかな? ライスちゃんだったら失神したり……しないか。あの子自尊心が低いだけで心臓はメチャクチャ強いタイプだし。

 

 ……なんて、そんなことをぼんやり考えている私の横で、歩さんは……これまた何故か、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

 え、何その顔。歩さんまで、なんでそんな顔するの? え、もしかして私、空気読めてない?

 

 状況に困惑している私を前に、ルドルフ会長は咳払い1つ、改めて話を続ける。

 

「ん、ん。……さて、話の前にお茶請けでも用意しようか。

 とはいえ、当生徒会も余裕があるわけではない。『これ好みちゃうけ(・・・・)ん!』なんて言われると困ってしまうが」

「いや、先輩にため口なんて使いませんよ。それにわざわざ出していただいたものに文句なんて言えません。ありがとうございます」

 

 ……え? いや、なんでそんな悲しそうな顔するの会長。私、また空気読めないこと言った?

 

「いや、すまないシンボリルドルフ。俺は……うん、面白いと思うぞ」

「気遣いは不要だよ、堀野トレーナー。これも私の不徳、七転八起して精進する他ないのだから」

 

 そう言って、ルドルフ会長は軽く肩を落としてしまった。

 

 な、なんなんだ……???

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そんなよくわからないやり取りもあったものの……。

 言葉の通りお茶とお茶請けを出してくれたルドルフ会長は、改めて口を開いた。

 

「さて、改めて。突然の呼び出しにも関わらず来てくれてありがとう、堀野トレーナー、ホシノウィルム。

 今日は公式の会見というわけでもないし、どうか自然体で聞いてほしい。

 ……とはいえ、君たちも既に三冠を獲ってから数か月。そういった会見やインタビューには慣れ切っているかもしれないが」

 

 そう言って、彼女はクスリと笑った。

 

 確かに、三冠の後……特に直後1か月は、めちゃくちゃな量と種類の仕事が回って来たからな……。正直あまり走れないことに、そして歩さんが追い詰められていくことにストレスが溜まったまであった。

 ……でも、経験っていう意味で言えば、アレはかなり貴重なものだったと思う。ぶっちゃけ今後の人生であれほど忙しないことなんてないだろうしね。

 

 そして、ルドルフ会長もまた三冠ウマ娘だ。クラシック三冠を達成した当時は、やはり相当にメディアに追い回されていたんだろう。

 その気持ちがちょっとわかって、私も小さく微笑を返した。

 

 クラシック三冠を獲ったウマ娘同士の共感。これまた、かなりレアな体験だろうな。

 

「そうだな、話の前に、改めて祝わせてくれ。

 ホシノウィルム、堀野トレーナー、クラシック三冠の達成おめでとう。

 いくらウマ娘の素質があろうとも、あるいはトレーナーが優秀であろうとも、これは易々と達成できることではない。それらを掴み取った君たちは二人三脚、素晴らしい関係を築けているのだろう。

 良き巡り合わせがあったことを喜ばしく思い、そして何より、君たちの努力に敬意を表する」

 

 穏やかに、けれど威厳を持って私たちを祝う姿は、とてもまだ成人していないとは思えない。

 ……というか、前世の私と同じくらいの年頃なんだよね? あまりにも成熟し過ぎてない? ちょっと怖いまであるよ。

 

 しかし、同時に……。

 

「……いや、すまない。自然体でと言った私自身が畏まってしまったな。

 とにかく2人共、おめでとう。同じ競走ウマ娘として、そして先にその道を進んだ者として、とても嬉しく思うよ」

 

 彼女は、ただ厳めしいだけではない。

 

 ユーモアがある……とは言い難いかもしれないけど、相手に気遣いもできるし、雰囲気が固すぎると感じればすぐに柔らかい笑顔を浮かべてくれる。

 彼女はその理想で語る通り、ウマ娘の幸せを第一に考えている。だからこそ、相手が辛いと感じているようならすぐに話題を転換してくれたりもするんだ。

 

 そこら辺、前世のアニメで見た彼女とは……どことなく印象が違うように感じた。

 

 

 

 アニメで見たルドルフ会長は、とても厳しい……いわば厳格な父親のような存在のように見えた。

 スペ先輩を迎え、テイオーを見守る彼女は、まさしく強者としての威厳に満ちていた。強者として、先達として、彼女たちの旅路を高みから見守っていたんだ。

 

 けれど、彼女は……今のルドルフ会長は、なんというか、その内面に余裕や柔らかさを孕んでいる。

 柔よく剛を制すって言うけれど、まさしくその通りだ。今の彼女は、ただ厳格そうだった以前の彼女よりも余程手ごわそうに見える。

 

 

 

 そういったことからもわかるように……。

 今更になるけど、この世界は、前世アニメで見ていた世界と若干の違いがある。

 

 私たちの世代は、前世アニメで言えば2期、テイオーやネイチャたちの世代なんだと思うんだけど……。

 例えば、ルドルフ会長やスペ先輩、スカイちゃんは姿そのままではなく見た目が成長してるし、スカーレットちゃんやウオッカちゃん、ゴルシなんかが見当たらない。

 例えば、ルドルフ会長の顔つきや雰囲気がどことなく柔らかくなっている。

 そして、例えば……ホシノウィルムという、本来いるべきでないイレギュラーが存在する。

 

 そういう意味において、この世界は正確な意味での「ウマ娘世界」ではないんじゃないかな、なんて。最近はぼんやりそんなことを思ったりもした。

 

 強いて言えば、見ていたアニメに限りなく近い、現実の世界。

 

 ……そう、現実の世界。ここは私にとって第二の故郷ならぬ、第二の現世なんだ。

 

 

 

 と、まぁそんなことは置いておいて。

 今はルドルフ会長の賛辞に、返事をしなきゃだ。

 

「ありがとうございます。最初の無敗三冠ウマ娘に言われると、やっぱり嬉しいですね」

「ふ、世辞はいらないよ。君は記録云々より、その場その場のレースを楽しむタイプだろう?」

「あはは、お見通しですか。……あぁいえ、嬉しいのは本当ですけどね」

 

 相手はあのシンボリルドルフ、生きる伝説だ。

 彼女に手放しで褒められるなんてそうそうあることじゃないし。

 

 ……ただ、どちらかと言えば、目の前の壁の大きさの方が気になるってだけで。

 

 最初の無敗三冠ウマ娘。唯一無二、レースの世界に「絶対」をもたらす永遠の皇帝。

 彼女と本気で走れば……果たして、どこまで楽しめるんだろうってさ。

 

 

 

 そんな風にちょっとだけ気もそぞろな私を見て、彼女は小さく微笑みを浮かべた後、再び口を開いた。

 

「さて、改めて本題に入ろうか。今日君たちを呼び出した用件だが……」

 

 そう言って、一拍置いた後。

 切り出されたのは、私の想定外の言葉だった。

 

「ホシノウィルム、生徒会に入ってみないか?」

 

 …………え?

 

「生徒会……ですか?」

 

 思わずおうむ返しに言ってしまった。なんかアホっぽいな。恥ずかしい。

 

 ……しかし、生徒会?

 何故今、このタイミングで……というか、なんで私?

 

 そんな疑問が顔に出ていたのか、ルドルフさんは一度紅茶を口に含んだ後、私の疑問を見透かしたように語った。

 

「正直なところ、私は自らのポジションについて、違和感を抱いているんだ。

 トレセン学園生徒会……本来今を走る生徒たちが自らを治めるべき組織の長が、いくらクラシック三冠というシンボルが必要だからと言って、過去の者であって良いのか、と」

 

 それを聞いて、私はようやく、さっきの賞賛の意味を理解した。

 

「……なるほど、先ほど三冠の話をしたのはそういう」

「理解が早くて助かるよ。……そう、私がそんな風に悩む中、新たな三冠ウマ娘が現れた。

 トゥインクルシリーズ現役、つまりこの学園の現役の生徒であり、数多くの偉業を成し遂げたためにシンボルとしては十分。その上同期や後輩との付き合いも……絶対数こそ少ないが、1つ1つを見れば相当に良好なものであると聞いている。

 未来を任せるウマ娘の候補として考えても、おかしな話ではないだろう?」

 

 なるほど……事情は大方理解できた。

 

 そろそろ生徒会長を引退したいと思っても、自分に代われる存在がいない。そんな時に私っていう、新たな三冠ウマ娘が出て来た。だから生徒会に勧誘し、ゆくゆくは自分の代わりに生徒会長として、シンボルになってもらう……と。

 ルドルフ会長は、それを望んでいるわけだ。

 

 うーん……ちょっと複雑。

 評価いただくのは当然ながら嬉しいとしても、そういう方面で注目されちゃうのは……ちょっと面倒だなぁって思ってしまうね。

 

 しかし、その要請に応える前に、気になることを尋ねておこうか。

 

「しかし、このタイミングで話すのには、何か事情があるんでしょうか。そのお話、もっと前でもよかったのでは?」

「タイミングか……。ふむ、君は菊花賞の後、ジャパンカップ、そして有記念も控えていただろう? 堀野トレーナーとしても、初の担当ウマ娘が三冠を獲り、しばらくは忙しかったのではないかな?」

「あぁ、なるほど。気を遣ってくださった、と」

 

 ルドルフ会長にしては、答えるまでに若干の詰まりがあったような気もするけど……ひとまず理屈は通ってるよね。

 実際、私たち色々あって滅茶苦茶に忙しかったし。特に12月中旬以降は、そんな話されたらキレかねないくらいに切羽詰まってたし。

 

 腕を組んで考えている私に対して、会長は改めて勧誘を持ちかけて来る。

 

「トレセン学園生徒会は……君も知っていると思うが、簡単に言えば学園に所属するウマ娘たちのサポート全般、そして学園の運営を生業とする。

 一見雑用のようで面倒に思うかもしれないが、実際に手を付けてみれば学べることは多い。もしも興味があれば、どうだろうか」

 

 ルドルフ会長は、真摯に言葉をかけてくれる。

 勿論、それに応えたいという気持ちはあるけども……。

 

 うーん……。生徒会に所属っていうのは……ちょっと許して欲しいかなぁ。

 

「ご提案はありがたく思いますし、評価いただけるのは嬉しいのですが……生徒会への所属は勘弁していただけると」

「ふむ。何故かな」

 

 ……いや、なんかちょっと申し訳ないな。

 そんな真面目な顔で聞かれる程、大した理由でもないんですけどね。

 

「仰る通り、私は結果よりも、その瞬間に走ることを楽しむタイプです。だからこそ、勝てればいいと満足するのではなく、自らができる限界にまでトレーニングを積んでレースに向かいたいんです」

「当然ながら、過度な要求をするつもりはないよ。各々は自分にできることをすればいい。それが私の考え方だからね」

「それでも、自由時間は削れてしまうでしょう? 私はそんな時間も全て、自分のために充てたいんです」

 

 そう言った後、思わず自分の発言に苦笑してしまう。

 とんでもなく自分本位な……ルドルフ会長の理想には、どこまでも反発する考え方だろうな、これ。

 

「すみません。私はそういうウマ娘なんです。

 誰かのために頑張るんじゃなくて、自分のために頑張る。レースを、走ることを楽しむために、今を全力で頑張りたい。……そういう、利己的なウマ娘。

 だからきっと、あなたの後継者には相応しくないと思うんです」

 

 

 

 シンボリルドルフの理想は、広く知られている。

 

 曰く、全てのウマ娘が幸せであれる世界。

 

 彼女はその荒唐無稽とも思える夢を実現するために、本気で努力している。トレセン学園の生徒会で在校生たちを支えるのもその一環だ。

 

 しかし……残念ながら、私にそんな素晴らしい想いはない。

 

 そりゃあ、周りの人やウマ娘が幸せであれば、それ以上のことはないと思う。

 多少であればそのために手を貸すこともある。大切な人のためになら自分のリソースだって使うだろう。

 

 けれど、あくまでそれだけだ。

 顔と名前も一致しない誰かを、自分のトレーニングの時間を削り、歩さんと会う機会を投げ出してまで助けたいとは……いや、時と場合によりけりだけど、基本的には思わない。思えない。

 

 私は聖人なんかじゃない、至極普通の転生ウマ娘でしかないんだから。

 

 だから……そんな利己的な私は、シンボリルドルフの後を継ぐ者として、相応しくないと思う。

 ……というか、前世じゃただのオタクだった私が継ぐには、ちょっと重すぎる役目なんだよなぁ。

 

 いっそブルボンちゃんが今年三冠を獲って、この役割を負ってくれたりしないかな。それはちょっと高望みか?

 

 

 

「だから……お誘いは嬉しく思いますが、お断りさせていただきます」

 

 ペコリと、私は頭を下げる。

 

 シンボリルドルフ会長は、尊敬に値するウマ娘だ。

 その人柄もそうだし、勿論走りもそう。10年近く現役として第一線で走り続けているのだから、そりゃあ尊敬する他ないってもので。

 

 そんな生きる伝説と呼んでいいウマ娘に過分な評価を受けたのだから、そりゃあ嬉しくは思う。

 

 思う……けど、だからこそ。

 彼女の想いを、理想を軽視してはいけないと思うんだ。

 

 そんなわけで、私は「ちょっと申し訳ないなぁ」と思いながら、生徒会への勧誘をお断りさせていたいたんだけど……。

 

 

 

 それを聞いて、ルドルフ会長は……。

 どこか微笑ましいものを見るような目を、私に向けていた。

 

「そうか、君は……」

「何でしょう」

「……いや、すまない。何でもないよ」

 

 そう言って、ルドルフ会長は軽く首を振った。

 

 ……何かおかしなこと言ったかな、私。

 お誘いにもしっかりと向き合って、誠意のある対応をしたつもりだったんだけども。

 

 小首を傾げる私の横で、歩さんがどこか呆れたような声を出す。

 

「横から失礼する、シンボリルドルフ。露悪的に言ってはいるが、彼女は心優しいウマ娘だ。交渉術など使わずとも、頼めば応じてくれると思うぞ」

 

 え? 何? 交渉術?

 というか歩さん、私頼まれても生徒会長にはなりませんよ? 私なんかの手には余りますし。 

 

「……はは、参ったな。こうも簡単に手の内がバレてしまうなんて」

「これでも堀野の出、権謀術数には多少の慣れがある。ドア・イン・ザ・フェイス……基本中の基本くらいは見抜けて当然だ」

「流石、と言うべきかな」

「お褒めに預かり光栄に思うよ」

「あの……え、何?」

 

 ルドルフ会長たちは歩さんと、なんとなくわかりにくくて遠回しな会話を交わした後……。

 眉をひそめる私に、改めて向き合う。

 

「……さて、ホシノウィルム。生徒会の件は残念だ。もし気が変わったら、いつでも声をかけてほしい。

 で、その代わりと言ってはなんだが……1つ、頼まれてくれないか」

 

 頼み? もしかしてそっちが、歩さんの言ってた「頼めば応じてくれること」?

 だとすると……え、もしかしてさっきのって、本題じゃなくて駄目元の雑談だったってこと? うわ、真面目に返したのちょっと恥ずかしいな……。

 いやでも、最初に「本題に入ろうか」って言ってたような。それ自体がブラフだったってこと?

 

 ……うーん、頭が痛くなってきたな。

 一旦考えるのやめて、素直に話を聞こうか。

 

「えっと……何をでしょう?」

 

 対面の会長は1つ頷いて、紅茶のカップをソーサーに置き……。

 恐らくは今日の本当の本題、私をここに呼び出した要件を、告げた。

 

「来たる入学式、そこで新入生たちにエールを贈ってあげてくれないか。

 去年の無敗三冠ウマ娘であり、いくつものジンクスを破ってきた君の声を、きっと新入生たちは喜んでくれると思うんだ」

 

 

 







 ウマ娘の成長とか学年とか世代の設定、あまりにも情報が薄すぎて二次創作してて困る設定ランキングダントツナンバーワン。
 本作ではウマ娘たちが成長してたり卒業してたりします。よしなに。

 あと本当はこの話1話で終わるはずだったんですけど長くなったので続きます。
 お話進めるの下手くそ芸人。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、入学式の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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仰ぐな──!! 私は君たちが思うような特別なウマ娘ではない!

 もうタイトルのネタもないし軽率に流行りに乗っていく。





 

 

 

 時間が経つのは本当に早いものだと思う。

 

 俺がこのトレセンに来てから3年弱、そしてホシノウィルムの担当になって2年。

 時は瞬く間に過ぎて行き、俺はこうして、3度目のトレセン学園入学式に参加することができた。

 

 見回せば、並んでパイプ椅子に座り、新たな生活に心を躍らせる新入生たちが目に入る。

 巨大なトレセン学園の体育館、それを2階まで埋め尽くす、600人という数の新たな生徒たち。

 

「…………」

 

 正直に言うと、去年までは、そんな彼女たちを見るのが、少しだけ辛かった。

 

 トゥインクルシリーズで活躍できるウマ娘は、ほんの一握りだ。

 1人の勝者と17人の敗者を決める、公式レース。

 遠い昔に聞いた父の『勝者の一滴の汗と、敗者の海の如き涙。それを受けて輝くのがトゥインクルシリーズだ』という言葉通り、彼女たちの大半は……95%近くは、敗者の側に回ることになる。

 

 そして、その内の何割かは……心を折られ、競走ウマ娘として、死ぬ。

 それを考えるだけで、胸が軋むような痛みに襲われた。

 トゥインクルシリーズの厳しさを、この世界の残酷さを痛感するようで、辛かったんだ。

 

 

 

 けれど、何故か……今年はそれを、そこまで苦しく感じなかった。

 

 その理由を考えて……ふと、あの有記念を走ったダイサンゲンのことを思い出す。

 

 前髪を上げた姿が印象的な、負けん気の強いウマ娘。

 

 彼女は、ネームドウマ娘ではない。少なくとも、前世で俺がやっていた頃にアプリに実装されてはいなかったはずだ。

 更に言えば、1か月前の事前調査では、その能力も極めて高いとは読み取れなかった。

 調子は良さそうだったが、それでもこの有記念ではまず大敗を避けられないだろうと……それが、俺の予測だったんだ。

 

 ……が。

 彼女が有記念で勝ち取った順位は、5着。

 サイレンススズカにハッピーミーク、セイウンスカイやトウカイテイオーといった超一流の優駿たちを超えて、掲示板に載るところにまで駆け上がった。

 

 勝利できたわけではない。

 彼女の上にはなお4人のウマ娘がいた。勝者か敗者かで言えば、ダイサンゲンは敗者側に転んだ。

 だが……同時に、信じがたい程の好成績を収めたことに、変わりはない。

 

 つまるところ、それが何を意味しているかと言えば……。

 この世界では、ネームドだから活躍するわけでもなければ、高い素質があるから良い成績を収めるわけでもない。

 彼女たち自身の努力、必死の抵抗、懸命な尽力……そして良きライバルと、共に歩むトレーナーとの絆が、ウマ娘を勝利へと導くんだろう。

 

 だから……この体育館に詰めかけた600人という新入生たち。

 彼女たちも、誰もがチャンスの芽を持っているんだ。

 無事に萌芽するかどうかは……恐らく、彼女たちの巡り会いと努力によるのだろうが……。

 

 

 

 それでも、誰もが少なからずチャンスを持っているというのは……。

 俺にとっては、決して小さくない希望だった。

 

 

 

 この世界には、持つ者と持たない者がいる。

 俺が才能を持たず生まれたように、彼女たちの間に覆しがたい素質の差があるように……あるいは、環境に呪われ、まともに生きることさえも叶わない者さえいるように……。

 生まれの差は絶対的で、覆しようがないものだ。

 それが、前世の『俺』の人生を総括した結論だった。

 

 ……けれど、それでも。

 彼女たちは皆、チャンスを持っている。

 

 あるいは、俺が才能などなくとも、努力でなんとかトレーナーとしてやっていけているように……。

 彼女たちの中にも、きっと、その希望を芽吹かせる子が出て来るだろう。

 

 だから……なのかな。

 俺はそこまで悲観的になることもなく、むしろ前向きな気持ちで彼女たちを眺めていた。

 

 

 

 ……そして、今日の入学式が特別な理由は、それだけじゃない。

 

「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。在校生代表挨拶を任されました、ホシノウィルムと申します」

 

 壇上から聞こえてくるのは、俺の最初の担当ウマ娘の声。

 

 無敗の三冠ウマ娘、ホシノウィルム。

 彼女は今、偉大なる先達として、新入生たちへの挨拶を任されているのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 事の発端は数日前、ルドルフによって生徒会室に呼び出された時。

 いくつかのやり取りをした後、彼女はウィルに入学式での挨拶を依頼してきた。

 

 ウィルは多少悩む様子を見せたが……。

 次いでルドルフに示された「もし受けてくれるなら、今度模擬レースを受けよう」という言葉に、一瞬で釣られてしまった。

 

 

 

 ……まぁ、気持ちはわかるよ。

 シンボリルドルフと模擬レースができる機会は、貴重だ。

 殊に、トゥインクルシリーズに参加しているウマ娘が行える機会は、本当に稀だと言えるだろう。

 

 その理由は……残酷なことだが、単純な走力の差だ。

 

 シンボリルドルフは、強い。それこそ「最強」という言葉が似合うくらいに。

 ドリームトロフィーリーグまで含めても、中長距離でならおおよそ敵なし、常に彼女に勝てる者など存在しないだろう。……残念ながら、ホシノウィルムを含めてもなお、だ。

 

 だからこそ、トゥインクルシリーズのウマ娘相手では、シンボリルドルフにとっては練習にもならない。

 競り合いもなく、ただ当然のように走り、当然のように勝つ、ただの独走にしかならない。

 

 それこそ何かのイベントでもない限り、模擬レースをするメリットがないんだ。

 

 そんなことを頼めるのは彼女にコネや個人的な親交のある者だけであり……。

 残念ながら、新人である俺はそんなものを持ってはいなかった。

 ……まぁ、テイオーのトレーナーに頼めば、マッチを組んでくれるかもしれないが……あの老獪なトレーナーに大きな借りを作るのは、ちょっとばかり怖いんだよね。

 

 だからこそ、シンボリルドルフに対して、トゥインクルシリーズに属するウィルが模擬レースを挑める機会は……恐らく、他にはない。

 ルドルフもその価値を理解した上で、交渉材料として持って来たわけで……。

 

 この部屋に入った時点で、ウィルがこの依頼を受けることはほぼほぼ決定していた、と言っていいだろうな。

 

 幸いなことに、ウィルはこの仕事に抵抗感がなさそうだった。

 ああ見えて心優しい彼女のことだ、あんな交渉材料なんてなくとも、頭の1つでも下げれば頷いていただろうしね。

 

 もしも嫌そうだったら、多少のゴリ押しも辞さないつもりだったけど……ルドルフ相手に手札を切るハメにならなくてよかったよ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、そんなわけで、在校生代表挨拶を請け負ったホシノウィルム。

 壇上に立つ彼女は、新入生たちの熱のこもった視線を受け、再び口を開く。

 

「私たちは、皆さんを歓迎します。

 この日本最大のトレセン学園にて、皆さんはトゥインクルシリーズに参加し、走り、競い、そして勝利を目指すことになります。

 公式レース、重賞レース、G1レース、グランプリや天皇賞にシニア三冠、そして……クラシック三冠。目指すべき高みは、それぞれ違うでしょう。

 自らの望んだ戦場で、どうか存分にその脚を振るい、我こそはと名乗りを上げてください。私たちは、皆さんと走れることを楽しみに待っています」

 

 マイクを通して体育館に凛とした声が響く。

 それを発した主は、落ち着いた微笑と共に新入生たちを見渡していた。

 

 ……これは、すごいな。

 ここまで風格を出したりできるんだね、ウィル。

 

 壇上に立つ彼女からは、1人のウマ娘というよりは、遥か先を行く先達という印象を受ける。

 表情、所作、声の調子。それら全ての要素が彼女を、それこそシンボリルドルフに並ぶくらいのカリスマのあるウマ娘に仕立て上げているんだ。

 

 いやはや、恐ろしい。

 ルドルフのようにこれが素ってわけでもなく、コントロールして作っている仮面だと言うんだからな。

 

 

 

 ホシノウィルムは、仮面を被るのが上手い。

 最近は割と素の部分が見え隠れするから忘れそうになるけども、これは出会った時から変わらない彼女の特徴の1つだ。

 

 自分の感情を隠し、偽り、全く違う色を見せる。

 それが、辛い境遇を持つ彼女がここまで生きて来るための処世術だったんだろう。

 

 この半年くらい、明確に感情を見せてくれるようになったのは……単純に、俺やブルボン、昌を信頼してくれている証だろう。

 彼女は今、俺たちのことを「わざわざ演技をするまでもない、一緒にいても違和感のない存在」と認識してくれてているんだと思う。

 

 ……更に言えば、昌やブルボンの前では、素に近くはあれど、完全に素の部分を見せているってわけでもないらしい。

 

 思い上がりでなければ、彼女は俺にだけ、本当の素の部分を見せてくれている。

 ああ見えて甘えたがりで、けれど自分からは甘えに行けない、器用なのに不器用な……歳相応の、女の子らしいところを。

 

 2年という決して短くない時間、俺たちは共に歩んで来た。

 色んなことがあったし、俺は彼女にたくさん迷惑をかけ、助られて……そして助けて来た。

 彼女が素顔を見せてくれるのは、共にした時間と築かれた信頼の結晶なのかもしれない。

 

 そう考えると……うん、すごく嬉しい。

 これからも、その信頼感に応えたいな。

 

 ……と、ちょっと話が逸れたか。

 そんなわけで、彼女は俺たちの前では割と素を晒すことも多くなったが……だからと言って、仮面を被ることをやめたわけではない。

 後輩の前では相変わらず良い先輩をしているみたいだし、ネイチャやテイオーには多少カッコ付けてるらしいし、昌の前では少し澄まし気味に見えた。

 

 そうするのは、別に悪意があるとかじゃなく……。

 人によって自分の見せる色を変えるのが、彼女にとっては普通の生き方なんだろうな。

 

 そして今日の彼女は……あるいはあの日のルドルフを参考にしているのか、在校生代表らしく、威厳溢れる強者の仮面を被っていたわけだ。

 

 

 

 ……しかし、その威厳のある姿は長続きしなかった。

 いや、正確には「長続きさせなかった」と言うべきだろうけど。

 

「……と、真面目な挨拶はここまでにしましょうか。新入生の皆も、あまりお堅い話ばかりじゃ詰まらないでしょう」

 

 そう言って、彼女は形の良い、綺麗な笑顔を浮かべる。

 強者の気配は霧散し、そこにいるのは……普通の、小柄なウマ娘だ。

 

「私のことを知っている方は、私のことをすごく特別なウマ娘だと思っているかもしれませんね。

 憧れを壊すようで申し訳ないのですが、そんなことはありません。私も皆さんと同じ、色んなことに悩んだりする、ただ2年先に入学しただけのウマ娘です」

 

 ……いや、そこは若干口を挟みたくはあるが。

 

 ホシノウィルムは、その素質という側面においては、他に類を見ない程のものだった。

 「アプリ転生」による分析では、芝、逃げ、長距離の適性がSであり、ステータスも極めて高く……これは素質とは別方向かもしれないが、コンディションだっていくつも特殊なものを有していたんだから。

 

 ハッキリ言ってしまえば、彼女は勝つべくして勝ったと言っていいだろう。

 圧倒的な素質を以て、まさしくトゥインクルシリーズを荒らしに荒らしたんだ。

 

 トレーナーである俺にできたのは……その際に事故がないよう、そしてトレーニングに無駄が生じないように、彼女を管理することくらいだった。

 いやまぁ、それこそがトレーナーの仕事ではあるんだが……。

 

 ……あぁでも、そうだな、彼女の全てが特別ってわけでもないか。

 フィジカルはともかくとして、彼女のメンタルはあくまで一般的な……いや、一般的と言うよりは少しばかり大人びているような気もするが、それでもあくまで誤差の範疇に収まる程度の、普通のものだ。

 

 そういう意味で彼女は、フィジカルもメンタルも超越気味であるシンボリルドルフのような特別なウマ娘ではない、と言えるだろうか。

 

 …………いやでも、やっぱりあの子が「普通のウマ娘」とは思い難いな。

 普通のウマ娘であれば、ここまで惹き付けられるとは思えないし。

 

「そんな普通の私が勝つことができたんですから、皆さんにも必ず、チャンスはあります。

 自分に合うトレーナーを選び、自分に合う走り方を見つければ、誰もがこの世界で輝く可能性を秘めている。これは素晴らしいことだと思います」

 

 それは、綺麗事のように聞こえるが……。

 ……ネイチャやダイサンゲンを見ていると、あながち嘘とも思えなくなる言葉だった。

 

 思えば、前世アプリでもそうだったな。

 ウマ娘は、その閉ざされた運命を軽快に超えていくものだ。限界だとか常識だとかいう言葉は、この不思議な生物の前には何の意味も成さない。

 

 だからこそ、今年の新入生たちの中からも、そういった子が出て来る可能性は十分にあるだろう。

 

「きっとこの先、皆さんには多くの苦難が降りかかるでしょう。走ること、勝つことを諦めたくなる程辛いこともあるかもしれません。

 それでも……多くの願いを背負い、全力で走り、そこでもたらされる結果を信じて、走ってほしい。

 そうしていつか、私と、これ以上なく楽しいレースをしましょう!」

 

 ……いや、そこか。そこがオチでいいのかホシノウィルム。

 着地点としては綺麗だけど、結局それ「楽しいレースしたいから皆頑張って私に追いついてねー!」っていう我欲100%の言葉じゃないか。

 

 まさか無敗の三冠ウマ娘がそんな我欲を表に出すことはないだろうっていう色眼鏡さえあれば、冗談交じりの新入生たちへの激励のように聞こえるだろうけど……。

 周りの感心するような視線を向けているトレーナー陣の中で、俺と昌だけが真相を察し、彼女の奔放っぷりに苦笑を浮かべる。

 

 ……やっぱり、彼女は生徒会長には向かないだろうな。

 堅苦しい役職に縛り付けて、彼女の願いを奪うのは本意じゃない。

 ルドルフには悪いが、彼女にはもうしばらく、生徒会室で頑張っていてもらおう。

 

「以上で、在校生代表挨拶を終わります。ご清聴ありがとうございました」

 

 

 

 * * *

 

 

 

「トレーナー! どうでした、私の挨拶?」

 

 体育館を出てすぐ、下駄箱の脇で。

 入学式が終わるや否や俺の下にすっ飛んできたホシノウィルムは、喜色満面の笑顔で訊いて来た。

 

 良かったか悪かったかを評価するとすれば……まぁ、「良かった」になるだろうな。

 演説っていうのは中身はどうあれ、聞こえさえ良ければ合格だ。そういう意味において、ホシノウィルムの挨拶は、多少幼稚なところはあれど十分に優れたものだったと言えるだろう。

 

「良かったぞ。……最後に自分の欲求を詰め込んだところはどうかとも思ったが」

「う、いやアレは、それくらいフランクな方が、先に挨拶してたルドルフ会長と対比になるかなーと……」

「その判断は正しい。だからこそ、先程も言ったが君の演説は良かった。……俺と昌は、苦笑を抑えるのに苦労したがな」

「あー……」

 

 ウィルは苦笑いを浮かべ、ほんの少しだけだが、落ち込んだ様子を見せた。

 しまった、ちょっと責めすぎたかな。一応言っておきたい程度のものだったんだが……うん、良かったところはきちんと褒めなきゃ駄目だな。

 

「……いや、悪い、少し意地悪を言った。君は十分によくやったと思うよ。お疲れ様、ホシノウィルム」

 

 そう言って俺が彼女の頭を軽く撫でると……。

 ウィルは、にへらと顔を歪め、ピースサインを作った。

 

「へへ……はい、頑張りました。ぶい」

 

 ……うん、そう。

 やっぱり、この笑顔だ。

 

 壇上でウィルが敢えて作ったような、綺麗な笑顔じゃなくて……彼女が自然に浮かべた時の、ちょっとばかり形が良いとは言い難い表情。

 こっちの方が彼女らしくて……一般的にはどうあれ、俺としては好ましく思う。

 惜しむらくは、おおよそ世間様には公開できないであろう表情だってこと……。

 

 …………?

 

 あれ、惜しむらく、だよね?

 世間に彼女の魅力を届けられないことは、残念なことのはずだよね?

 

 なんで俺、それを……ちょっと嬉しいと思ってるんだ?

 

 

 

 と、その時。

 

「ホシノウィルム先輩! ……と、先輩のトレーナーさん!?」

 

 体育館の方から、数人のウマ娘が出て来る。

 ……まだ真新しい制服と、浮ついた雰囲気からして、今年の新入生の子たちか。

 

 彼女たちはホシノウィルムというスターウマ娘を前にしてきゃいきゃいと初々しく騒ぎ、すぐさま彼女と……ついでに俺のことも取り囲んでしまった。

 

「わ、わ、本当にホシノウィルム先輩だ! 本物だよ!」

「あっ、あのっ! 私、皐月賞の時から応援しててっ!」

「え、ホントにちっちゃい……! 私より!」

 

 そんな後輩の黄色い声に、ウィルはすぐさま表情を切り替え、「あはは、ありがとう。皆もこれから頑張ってね、応援してるよ」と慣れた対応を見せている。

 

 ……で、そんな一方で。

 彼女たちは、俺にも声をかけてきた。

 

「ミホノブルボン先輩が三冠獲れば二連続で担当が三冠ですよね!? すごいです!」

「すみません、よければ私と契約してもらえませんかっ!? 私、結構走れるんですよ!」

「写真では見てたけど、やっぱりイケメンだ……!」

 

 ……おぉ。

 いや、こう、なんというか……ビックリするな。

 

 ホシノウィルムがスターとしてもてはやされるのは、当然の話だ。

 何せ彼女は今を時めく五冠ウマ娘。その走りだけでも、日本中のファンを惹きつけてやまない。

 

 更に、初期こそ冷たい雰囲気があったものの、今の彼女はファンサもエンタメも真面目もなんでもござれで、アイドルとしての魅力も十分以上に備えている。

 その上、この前読んだ雑誌に載ってたけど、親しい後輩などの身内には優しいっていう噂も立っているらしいからな。

 後輩になる新入生たちに囲まれるのは、至極道理というものだろう。

 

 ……が。

 まさかそこに、俺まで巻き込まれるとは。

 

 確かに、界隈の中で俺の評価が上がっているのは確認できていた。

 たとえその実情がホシノウィルムの素質によるものだとしても、俺が初の担当ウマ娘を三冠へ導いたトレーナーであるという事実は変わらない。

 わかりやすいシンボルをもてはやすように、俺は過分な評価を賜っていたわけだ。

 

 勿論、世間的に見ればレースの花形はウマ娘だ。

 けれど、新入生たちにとって大事なのは、走る先輩ウマ娘以上に、その契約トレーナー。

 故に、新入生の彼女たちは、そういった界隈の中で流れている評価や噂も集めているのかもな。

 

 ……思えば、俺が契約した2人って、あのホシノウィルムとあのミホノブルボンだったからな。ちょっとばかり一般的な新入生とは言い辛い2人だ。

 更に、ウィルは夜中に偶然に出会って契約したんだし、ブルボンはスカウトの時期がだいぶ過ぎてからの逆スカウトだった。

 案外、こういう風に逆スカウトをかけてくるのが、普通のウマ娘だったりするのかもしれないね。

 

 

 

 

 ……とはいえ、その逆スカウトを受け入れるわけにはいかないのが、ちょっと申し訳ないところだが。

 

「悪いが、今年は新しく担当を増やす予定はないんだ。なにせ、俺はまだまだ新人だからな」

 

 逆スカウトしてくれた子にそう言ってお断りし、俺はウィルに目配せする。

 

 入学式も終わったみたいだし、これ以上ここにいれば他の新入生たちが来てしまいかねない。

 トレセン学園には、過度に他のウマ娘を囲むのはマナー違反だっていう暗黙の了解があるんだけど、新入生たちがそういうことを知っているわけもないし……。

 ここは早々に離脱するのが得策だろう。

 

 ウィルの方も既に、適度に新入生の子たちを受け流して離脱の姿勢を作っている。

 ……よし、逃げるか。

 

「それでは、すまないが俺たちはこの辺りで」

「あっ、その! 契約……!」

 

 まだ粘ろうとしてた子には本当に悪いけど、ウィルとブルボンの2人以上に担当するのは、現状物理的に不可能だ。

 今はサブトレとして昌もいるし、あと1年くらいあれば増やすのも現実的になるかもしれないけど……今年ばかりは縁がなかったとして諦めてもらおう。

 

 

 

 追いかけて来る新入生たちを避けるため、取り敢えずトレーナー室に逃げ込み、ウィルと2人して疲労のため息を吐く。

 

「……ふぅ、思いの外しつこかったな」

「まぁ、有名人と知り合いになりたいって想いもあるでしょうし……何より、良いトレーナーに付いてもらえば一安心でしょうからね。

 その点で言えば、歩さん以上のトレーナーはそうそういないでしょうし」

「そうかなぁ……他にもたくさんいると思うが」

「本気で言ってそうなのが歩さんらしいですよ。初めて担当したウマ娘に三冠を獲らせたなんて空前絶後でしょう?」

「それは君だからだし」

「それは、つ、つまり私たち……その、相性抜群? みたいな感じ? ってことですかね?」

「いや君の素質がとんでもないって話だよ。……いや、そうむくれるな。相性も良いと思ってるよ」

 

 一瞬本気で怒りの表情を見せたウィルだが、続く俺の言葉にころっと笑顔に変わった。

 

 

 

 実際、俺たちの相性は悪くないと思う。群を抜いて良いというわけではないかもしれないが、少なくとも平均よりはずっと。

 そうでなければ、ここまでの間に関係が拗れるようなこともあっただろう。

 ……いや、ダービーの後に拗れそうになったような気がしなくもないが……その後無事に関係を修復できたので良しとする。

 

 ウィルはあれから、何度も「自分のトレーナーはあなただけ」って嬉しいことを言ってくれるし……。

 ……ブルボンには悪いが、正直、俺の中にも「担当ウマ娘と言えばホシノウィルム」という意識がある。

 トレーナーとして適切なのかは今の俺にはわからないが、親密な関係を築けているのは間違いない。

 

 そういう意味で、俺たちの人格的な相性は良いんだろう。

 隣にいても不快に思うことはないし……むしろ、心地良いとさえ思うんだから。

 

 

 

「……君が初の担当ウマ娘で良かったな」

「え、あ、え? と、突然何ですか」

「いや……この2年間、君にずっと支えられてきたと思ってな。

 あるいは、俺の初の担当ウマ娘が君でなかったら、ここまで来られなかったかもしれないと思う程に」

 

 ……そう。

 俺は、ホシノウィルムを特別視している。

 

 あの宝塚記念で……いや、あるいはもっと前から。

 俺はいつしか、彼女の走りを、そして彼女のことを、好きになっていた。

 

 この子のためだから、頑張れる。

 多少の無茶も、無理も呑み込んで、頑張るべきだと……いや、頑張りたいと思える。

 

 そういう意味でも、俺は彼女に支えられっぱなしだ。

 この恩、少しでも返していければいいが。

 

「改めて、これまで一緒にいてくれてありがとう、ホシノウィルム」

「ちょっと、それはっ……ん、ん」

 

 顔を赤くして何かを言おうとしたウィルは、一度咳ばらいをした後、ソファに腰かけながら呟いた。

 

「それは、こっちの台詞です。私の方がずっとトレーナーに支えられてきたんですから。

 さっきだって、新入生の子に歩さんが取られちゃうんじゃないかって、ちょっとだけハラハラしたくらいなんですから。

 ……こちらこそ、今までありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いします」

 

 気恥ずかしそうにしながら、それでも俺の目をしっかりと見つめてくる彼女に……。

 

 俺は、ポツリと呟いた。

 

「ハラハラしてたのか」

「そこですか!? 今結構真面目なシーンでしたよ!? いやハラハラしてたのは……事実ですけども……そうじゃなくて! そうじゃなくてぇっ!!」

 

 

 







 改めてよろしくなんてなんぼあってもいいですからね。

 次回ですが、本編は既に終わったし、別に読まなくてもいい(本編に一切合切関係がない)掲示板回やってみようかなと思ってます。苦手な人は読み飛ばしていただいて大丈夫です。
 ただ作者が掲示板形式とか書いたことないので、若干時間がかかるかもしれません。その時は申し訳ない。



 次回は3、4日後。おまけの別視点、掲示板形式。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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おまけ 【シニア級】ホシノウィルムファンスレpart319【突入】

 今回は掲示板形式です。正直1回やってみたかった。
 他の別視点回以上に本編に絡まない、いわゆる補完的な回なので、苦手な方はスルーしていただいて大丈夫だと思います。





 

 

 

1:名無しの龍信奉者 ID:+dFh0miuq

 ここはホシノウィルム及びホシノウィルム陣営のファンスレです。

 批判等はこっちで→【ウマ娘】トンデモウマ娘さん、トゥインクルを荒らしてしまうpart61【ホシノウィルム】

 

 公式サイト→ https://tra_cen.com/runner/senior_144

 公式ウマッター→ https://umatter.com/Hoshino_wyrm

 

 ホシノウィルムは大逃げ、三冠、ヒール、ラスボス、バーサーカー、ロリ、クール系、ギャップ、芸人、トレウマ等、様々な側面のあるウマ娘です。

 相手がどの側面で語っているか意識しながら話しましょう。堀ウィルは程々に!

 

 

2:名無しの龍信奉者 ID:Oc6oyev+X

 乙。相変わらず仕事が速い

 

 

3:名無しの龍信奉者 ID:28sChnoWE

 乙

 

 

4:名無しの龍信奉者 ID:SgPb2Q1zu

 乙! なんで特にレースもない正月明けてすぐの平日に1スレ埋まってたんすかね……

 

 

5:名無しの龍信奉者 ID:vYasdLQo9

 乙

 

 

6:名無しの龍信奉者 ID:22W71zmeL

 >>4 ウィルムスレは初めてか? 力抜けよ

 

 

7:名無しの龍信奉者 ID:IlQtVh8ic

 乙!

 >>4 ホシノウィルムだから。

 

 

8:名無しの龍信奉者 ID:GqzSIE2Ys

 堀ウィルはガチ

 

 

9:名無しの龍信奉者 ID:9jqcwhIdI

 乙。

 前スレでも出た話題だけど、結局ウィルムのマイル適性ってどうなん? 走ったことある?

 

 

10:名無しの龍信奉者 ID:5fBTQfqSI

 >>8 堀ウィル派閥はえーよ わかるけど

 

 

11:名無しの龍信奉者 ID:sHlVXLNRU

 若干スレチかもしらんけど、そろそろ三星の順位変わらん?

 あの有記念で3着とか、ネイチャもう二等星格上げで良いのでは

 

 

12:名無しの龍信奉者 ID:j+8TIBH1x

 ・顔が良い

 ・声も良い

 ・脚が速い

 ・ロリ

 無敵かこの女……?

 

 

13:名無しの龍信奉者 ID:1oNW5TG60

 >>9 走ったことはないはず

 

 

14:名無しの龍信奉者 ID:4SwWnar/w

 はー好き……。笑顔可愛すぎんか?

 

 

15:名無しの龍信奉者 ID:y+tQuHaWO

 >>13 あるにはあるぞ。まだ堀トレが付く前に模擬レースでマイルを差しで走って2着だったヤツ

 

 

16:名無しの龍信奉者 ID:XwTKAmd/u

 求:去年のホシノウィルムのベストバウト

 

 

17:名無しの龍信奉者 ID:JXrCZVPgu

 >>12 これで胸まで大きかったら本気でヤバかった

 

 

18:名無しの龍信奉者 ID:/1+bPRhag

 >>16 皐月賞 テイオーに8バ身差付けてるの「ヤバすぎ」感が異常

 

 

19:名無しの龍信奉者 ID:1oNW5TG60

 >>15 マジ? ソースは?

 

 

20:名無しの龍信奉者 ID:j+8TIBH1x

 >>17 は? ウィルムちゃんはあの控えめなお胸が良いんだが?? ……すぞボケ

 

 

21:名無しの龍信奉者 ID:LPNnWD/2t

 うぅぅぅ、正直初期の無表情だった龍に惚れたけど今の表情豊かなウィルムも好きだ……心が2つある……

 

 

22:名無しの龍信奉者 ID:2gl2md8Bc

 >>16 そら有記念よ

 前半のスズカとの先行争い、後半のスペとの叩き合い どっちも最高すぎる。あんなんウィルムの一人舞台みたいなモンよ。

 結果としては負けだけど、ウィルムの強さを証明するには十分すぎるレースだった。

 

 

23:名無しの龍信奉者 ID:eExTW5RVn

 最近三星の絡み少な目で寂しい。久々にネイチャが気苦労するところが見たいねぇ

 

 

24:名無しの龍信奉者 ID:OuKYKFkWw

 記憶消してもう1回有記念見たすぎ

 

 

25:名無しの龍信奉者 ID:TKmKxhtsq

 普段無表情→ファンに対しては柔らかい笑顔→レース前は悪役みたいな怖すぎる笑顔→レースが終われば子供みたいな純真な笑顔

 こんなん狂うでしょ

 

 

26:名無しの龍信奉者 ID:y+tQuHaWO

 >>19 去年の月刊トゥインクル11月号 優駿回顧「蛇が天に昇るまで」

 

 

27:名無しの龍信奉者 ID:mc/1HBIQW

 >>16 こういう時あんまり上がらないけど宝塚記念もすごかったと思うんだ

 明確にかわされて差が付いた状態から差し返したのってあのレースくらいでは? まぁ結果から言えば無茶が祟っちゃったけどさ

 

 

28:名無しの龍信奉者 ID:jhBo83txw

 >>16 めちゃくちゃ個人的な話な上9割以上自慢なんだけど、メイクデビュー。偶然居合わせたんだけどあまりにも圧勝の大差勝ちで「やべー奴が出て来ちゃった……」って思ったな。

 

 

29:名無しの龍信奉者 ID:Fnf0fvDzX

 >>26 マジか、ウィル非公式とはいえスペ以外に負けたことあったの!? ウィルに勝てた子、今はめちゃくちゃ自慢に思ってそう 

 

 

30:名無しの龍信奉者 ID:JCRvR7oYH

 ウィルムしかり、毎年大穴なウマ娘が出て来るたびに「もっといろんな子に注目しとくべきだった……!」って思うんだよな。

 そんなわけで今年はミホノブルボンに注目してる。今年はブルボンの三冠ですよ奥さん

 

 

31:名無しの龍信奉者 ID:exaLYh13K

 もう何万回と同じこと言ってるけどあんな小さい体のどこからスタミナが出て来るのよ

 

 

32:名無しの龍信奉者 ID:Qpf5lnriU

 >>25 わかりすぎる。ホシノウィルムの百面相、見てて楽しいよね。あんな娘が欲しかった……。

 

 

33:名無しの龍信奉者 ID:4derxdWat

 >>30 なお距離限界

 

 

34:名無しの龍信奉者 ID:du/yKfr10

 龍、今年はどこ目指すんやろなぁ

 

 

35:名無しの龍信奉者 ID:FkujngHtR

 可愛さとかギャップに注目されがちだけど、レース直前とか最中の殺意すら感じそうなくらいに研ぎ澄まされた雰囲気も好き。カッコ良いロリからしか摂取できない栄養素がある。

 

 

36:名無しの龍信奉者 ID:JCRvR7oYH

 >>33 堀トレ付いてるからなんとかしてくれるやろ! ……多分

 

 

37:名無しの龍信奉者 ID:SuC6pr5bx

 >>34 「春のシニア三冠から秋のシニア三冠全部片端から取りに行きます!」とか言いかねない。ランニングバーサーカーだし

 

 

38:名無しの龍信奉者 ID:cuXnOGEiC

 龍に勝てるウマ娘って今のトゥインクルシリーズにおるんか???

 

 

39:名無しの龍信奉者 ID:B+z6GyLgk

 >>37 堀トレ止めてやくめでしょ

 

 

40:名無しの龍信奉者 ID:TV9efM7aQ

 正直ウィルムと並んでる堀トレに嫉妬しそうになるけど、ウマ娘の隣にいても不相応じゃないくらい顔良いからお似合いに感じてしまう……。これが脳破壊……。

 

 

41:名無しの龍信奉者 ID:ivJFAGjBs

 >>39 その人担当の方針最優先ですよ

 

 

42:名無しの龍信奉者 ID:8lic4pBVG

 >>38 古豪ハッピーミークが若干不調気味だし、対抗バがシニア2年目メジロマックイーン、単穴で同期ナイスネイチャか? どっちも長距離じゃないとキツそうだけど

 

 

43:名無しの龍信奉者 ID:zv2CQo40L

 >>39 でもウィルムならこれくらい行けるんちゃうかという思いもあるんだよな。龍だし

 

 

44:名無しの龍信奉者 ID:vXALxD5Kp

 >>42 テイオー無理かなぁ。有記念じゃ振るわなかったけど、またダービーの時みたいな接戦が見たい

 

 

45:名無しの龍信奉者 ID:JzEtA3kQ5

 >>42 スズカと全力で競ってスタミナ浪費しただろうにそれでもスペとギリギリだったし、ぶっちゃけ1対1で勝てる子はいないのでは

 

 

46:名無しの龍信奉者 ID:up28cAyMN

 皐月賞以降の戦績

 ・ダービー(テイオーハナ差)

 ・宝塚(スカイ1バ身差)

 ・菊花賞(ネイチャ1バ身差)

 ・JC(マックイーン半バ身差)

 ・有(スペ3cm差)

 うーんこの名勝負メーカー。今年もいい感じに熱いレースを期待したい

 

 

47:名無しの龍信奉者 ID:Eg6MeTA3S

 >>40 君素質あるよ

 

 

48:名無しの龍信奉者 ID:ulZ8fYdLJ

 次走は大阪杯かなぁ。適性的には長距離の方が得意らしいけど。

 

 

49:名無しの龍信奉者 ID:/ZEWWt1PQ

 普通このくらいの時期には年度代表獲れるかドキドキするもんなのに誰1人心配してないの笑う

 まぁスペスズにスカイが上に上がった今、この子が取らなくて誰が取るんだよって話ではあるけども

 

 

50:名無しの龍信奉者 ID:rFvcfNPGy

 去年のプリプロ三星配信面白かったし、メンバー違ったりしてもいいからああいうコンテンツ増えてほしいな。やっぱ動画配信なり生配信なりってコンテンツ力強いし

 

 

51:名無しの龍信奉者 ID:A/BMXw0gF

  >>49 ほぼ確実だからな。もはや出来レースレベルよ。

 ティアラが出てればまだ他の子になってたかもしれんけども、それもないし

 

 

52:名無しの龍信奉者 ID:XjJ1dxMqD

 単純に脚が速い ←わかる

 スタミナもめちゃくちゃある ←わかる

 本来不可能なレベルの前傾姿勢で爆速になる ←何?

 

 

53:名無しの龍信奉者 ID:GAUda996d

 >>50 めっちゃわかる エンタメするウマ娘見たいわ

 まぁただでさえ忙しい子たちにこれ以上求めるのもアレかもしれんが

 

 

54:名無しの龍信奉者 ID:gglicaAls

 トレーナーとウマ娘って身長差あることも少なくないけど、ウィルムと堀トレくらい身長差あるのも珍しいよな。ウィルムの頭が堀トレのお腹くらいだし

 

 

55:名無しの龍信奉者 ID:HuCOi320r

 >>52 ウマ娘の体専攻してる姉が目回してたし普通じゃないことは間違いない

 

 

56:名無しの龍信奉者 ID:IVoCjNxp1

 >>54 小学生と保護者みたいで微笑ましいよね。

 実際関係性的にはそういう感じだし。

 

 

57:名無しの龍信奉者 ID:O9KzXNa4N

 【速報】五冠ウマ娘ホシノウィルムさん、またガチャで爆死してしまう【狙うは温泉旅行券か】

 https://news.umagle.com/article_detail=300010221

 

 

58:名無しの龍信奉者 ID:0bIhH8E/b

 >>57 草

 

 

59:名無しの龍信奉者 ID:a5UdRE6+w

 >>57 流石に笑う

 

 

60:名無しの龍信奉者 ID:mQKv8oOZr

 >>57 昨日ウマッターで話題になってたヤツ、ガチだったのかw

 

 

61:名無しの龍信奉者 ID:kHSorhpwm

 >>57 ウィルムお前もうガチャ降りろ

 

 

62:名無しの龍信奉者 ID:ym6XXC4qu

 >>57 爆死芸人さん!?

 

 

63:名無しの龍信奉者 ID:dbYjjMo5j

  >>57 世界よ、これが日本の誇る無敗の三冠ウマ娘だ

 

 

64:名無しの龍信奉者 ID:9cLI6may4

 >>57 膝から崩れ落ちてるの面白過ぎるでしょ。有記念で負けた時より絶望してそう

 

 

65:名無しの龍信奉者 ID:TJy9zsVuA

 >>57 俺たちがグッズを買って貢いだ金はこうして溶けていくんやなって

 

 

66:名無しの龍信奉者 ID:dxOruT4Fx

 >>57 沼ること自体はいいとしても、それを大々的にニュースにされて流されるの面白過ぎるな

 

 

67:名無しの龍信奉者 ID:aRzo3IeMA

 もしかして、俺と一緒に温泉行きたい……ってコト!?

 

 

68:名無しの龍信奉者 ID:bKhxBHSsL

 >>67 お前じゃねぇ座ってろ

 

 

69:名無しの龍信奉者 ID:bc5DX7VZN

 >>67 現実を見ろ

 

 

70:名無しの龍信奉者 ID:TdhVLHqgu

 >>67 行きたいのは堀トレと、な?????

 

 

71:名無しの龍信奉者 ID:aRzo3IeMA

 >>68

 >>69

 >>70 正論は時に人を傷つけるんだぞ

 

 

72:名無しの龍信奉者 ID:LHH+am8ik

 宝塚あたりまでは、ちょっと抜けてるところこそあるけど、ルドルフの後を継ぎうるカリスマ性の高いウマ娘だと思えたんだけどなぁ……。どうしてこうなった

 

 

73:名無しの龍信奉者 ID:Q9/VYc4lW

 シンザンなんだけど、ウィルムもトレウマ概念強めなの?

 

 

74:名無しの龍信奉者 ID:PR+9w6f7v

 爆死芸人ホシノウィルムすき

 

 

75:名無しの龍信奉者 ID:8lAXNVqN+

 >>73 堀ウィルはガチ

 

 

76:名無しの龍信奉者 ID:TEAOH3h72

 >>73 おは二代目三冠ウマ娘

 

 

77:名無しの龍信奉者 ID:Mz2P1MYv1

 うっそだろお前福引で爆死する無敗三冠ウマ娘とか存在していいのか

 

 

78:名無しの龍信奉者 ID:USHKmyqdL

 >>73 他と比較してもかなり強い。ウィルムの有記念見たさに昏睡状態から回復したとかいうドラマみたいな話もあるし、ウィルムの視線もただの保護者に向けるには熱っぽすぎる

 

 

79:名無しの龍信奉者 ID:45uyjkqoj

 カプ厨としては堀ウィルはめちゃくちゃ好き

 ただ、いたいけな少年の初恋が終わる音が響いてそうだとも思う。悲しいね

 

 

80:名無しの龍信奉者 ID:9/ACANIYL

 これ普通に温泉旅行行った方が安上がりに済んだのでは?

 

 

81:名無しの龍信奉者 ID:yboh8be2d

 ウマ娘は中等部に入るや否やトレーナーと一緒に3年以上二人三脚するわけで、更に言えば中央のトレーナーは皆高スペックで精神的にも聖人揃い

 そりゃそうなるわ

 

 

82:名無しの龍信奉者 ID:vwjoTLQNf

 へぇぇ~~~そんなに堀トレと温泉旅行行きたいんだねぇニチャニチャ

 

 

83:名無しの龍信奉者 ID:ZKdruQLAl

 >>80 ウマ娘にはな、引けない時があるのさ……知らんけど

 

 

 

84:名無しの龍信奉者 ID:Hr6o/1dBW

 トレウマ概念を嗜むくらいが一番この界隈楽しめるからなぁ

 ガチ恋勢はちとキツいものがある世界

 

 

85:名無しの龍信奉者 ID:seLuPfpdB

 ウィルム結構初心な印象あるしこのスレ見たら爆発四散するんとちゃうか

 

 

86:名無しの龍信奉者 ID:VbblRqP3m

 ふぉおおお、あのホシノウィルムさんがこんな緩い姿を見せるなんて……!

 

 

87:名無しの龍信奉者 ID:k0ADvCDVb

 >>85 その可能性は考えないものとする

 

 

88:名無しの龍信奉者 ID:OIBdI3AxJ

 >>86 さん呼びとか珍しい礼儀正しさ、さてはスパイか?

 

 

89:名無しの龍信奉者 ID:7hmUxsDCN

 あー俺もトレーナー免許取れればなぁ~~~ウマ娘ちゃんとイチャコラしたいぜ

 

 

90:名無しの龍信奉者 ID:IcWXnxvsM

 今年も楽しいレースと堀トレとのイチャラブっぷりを燃えない程度に見せびらかして欲しいねぇ

 

 

91:名無しの龍信奉者 ID:09JkwXzWR

 >>89 そんなこと言ってるヤツは面接で見抜かれて落とされる定期

 

 

92:名無しの龍信奉者 ID:QhCva0dtt

 >>57 初笑いを推しに持っていかれたので今年は良い年になるな

 

 

93:名無しの龍信奉者 ID:z31he5kj5

 今年でウィルムの本格化も終了か。終わる頃にはマジで無敵になってそうで怖いな。

 三女神様、バランス調整ってことでウィルムの本格化ここで終わらせません?

 

 

94:名無しの龍信奉者 ID:VbblRqP3m

 今年もウマ娘ちゃんたちが楽しく走れる1年になるといいですねぇ

 

 

95:名無しの龍信奉者 ID:f/5xwxggE

 >>93 まず血統ガチャをどうにかしろ定期

 

 

96:名無しの龍信奉者 ID:8rfce1l5/

 >>93 レースのバランスを保つため以下の調整を実施しました。

 ・弱体化

  ホシノウィルムのガチャ運値を0.1から0.05に変更

 

 

97:名無しの龍信奉者 ID:CDaUA74SG

 >>96 これはひどい

 

 

98:名無しの龍信奉者 ID:Tp3V96TAc

 >>96 違う、そうじゃない

 

 

99:名無しの龍信奉者 ID:t42Z23UWo

 >>96 やめて差し上げろ

 

 

100:名無しの龍信奉者 ID:b+xO3xB8q

 >>96 調整下手くそ女神様がよ……

 

 

 







 空白の空け方とか空気感の醸成とか、普段のスタイルと全く違うので結構苦戦しました。でも楽しかったのでオッケー!

 評判が良ければこれからも定期的にやっていこうかなと思ってます。
 この書き方に知識がないこともあり、ご意見ご指摘等いただけると嬉しいです!
 何故かアンカーはずっと下の方に出ちゃうし、どうしても特殊タグは増えるし、これがなかなか難しくて……。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、復活と休止の話。


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走り出す者、立ち止まる者、歩み始めた者

 色々と変化していく状況の話





 

 

 

 1月も中盤に入り、まだまだ冷え込む空気の中。

 一人のウマ娘の歓声が、トレセン学園のグラウンドに響いた。

 

「ライス、ふっかーつ!」

「ふっかーつ」

 

 おー! と天に拳を突き上げたのは、小柄な黒鹿毛のウマ娘と、彼女とは対極的に大柄な栗毛のウマ娘。

 私の後輩である、ライスシャワーちゃんとミホノブルボンちゃんだ。

 ……いや、ブルボンちゃんは別に復活してないでしょうに。こう見えてノリの良い子だよね。

 

 で、そんな彼女たちに対して、私とネイチャはパチパチと手を叩く。

 

「合同トレーニングとレース復帰おめでとう、ライスちゃん」

「ライス、すごく頑張ってたからね。報われて良かった良かった」

 

 そう。

 

 去年脚部不安が生じ、トゥインクルシリーズの公式レースや私たちとのトレーニングを禁じられていたライスちゃん。

 けれど、彼女はついにその状態を脱し、彼女のトレーナーさん……つまりネイチャのトレーナーさんと歩さんの両方にお墨付きを貰って、今日から合同トレーニングに復帰する運びとなったのだ。

 

 いやぁ、本当にめでたいね。

 ライスちゃんは私にとって、ブルボンちゃんに次いで応援しているウマ娘。更に言えば、夜の自主トレに付き合ってくれる優しい後輩でもある。

 彼女が健全に走れるようになったのは、我がことのように嬉しいよ。

 

「夜、どうする?」

 

 早速そう聞くと、ライスちゃんは少し気恥ずかしそうに赤くなって俯き、呟いた。

 

「えと……今夜、いいですか?」

「早速だね。それじゃ、部屋で待っててね」

 

 久々のライスちゃんとの併走の予感にニヤニヤしてると、頭にゴツンと衝撃が走る。

 

「あいた」

「ちょっと、何の話してんの!?」

 

 そのチョップの主は、私の横で共に快気を祝っていたはずのネイチャ。

 彼女は何故かその頬を若干赤らめて、その拳を固く握りしめていた。

 

 ……? 何? ネイチャ何に怒ってるの?

 

「何の話って……そりゃ、夜の自主トレの話ですが」

「…………あぁ、そう、そうよね」

 

 ネイチャはなんだか微妙な顔で、俯いてしまった。

 

「ネイチャ、何の話だと思ったんですか?」

「いや別に……別になんでもないし! ほら、合同トレーニングでしょ? 走るよ!」

 

 ネイチャからは明確な答えが得られず、ブルボンちゃんやライスちゃんも首を傾げるばかり。

 よくわかんないけど……まぁ走れるならいいか。

 

「行こうか、2人とも」

 

 今日も今日とて、トレーニング開始だ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「んふー……」

 

 相も変わらずと言うべきか、やっぱり走るのって、すごく気持ちが良い。

 足が地面を捉える感覚、僅かに絡みつくような芝の弾力と、それを後ろへ蹴り飛ばす爽快感、自分の走りの技術が着実に伸びていく実感。

 これらは唯一無二のものだ。カラオケとかサンドバッグを殴るとかの、並みのストレス解消手段よりよっぽど心地良い。

 

 まだ人間だった前世の頃は、こんな感覚を覚えることもなかったし、やっぱりウマ娘特有の本能みたいなものなんだろうね。

 食欲、性欲、睡眠欲が三大欲求って話はよく聞くけど、ウマ娘の場合はそこに走欲が加わってるのかもしれない。

 

 ……でも、勘違いされがちだけど、どんなところでも走れればいいってわけでもないんだよね、これが。

 

 食欲で例えるとわかりやすいかな。

 いくらお腹が減ってたとしても、どんなものでも食べられればいいってわけじゃない。より美味しいものの方が食欲がそそられるし、より満たされる。

 それと同じように、この走欲も、より良い場所で走る方が満たされやすいってわけだ。

 

 日本のレースでターフがメインになっていることからもわかるように、多くの日本のウマ娘にとって、最も走りやすいのは芝の上。

 そんな競走ウマ娘の1人である私もやっぱり、コンクリートや砂場、ダートよりも、しっかり整備された芝の上が一番走りやすいし、気持ちが良い。

 

 特にトレセンのグラウンドの芝は、流石にレース場の芝には勝てないものの、しっかり整備されてるからすごく走りやすいんだよね。

 叶うなら、夜の自主トレもここで走りたいんだけど……それで問題が起こったり、変に疑われたり、怪談になったりなんかしたら面倒臭いからね。仕方なく一般道のウマ娘専用レーンで我慢しているってわけだ。

 

 あー、いつもこんな気持ちの良いところで走れたらなぁ……。

 いや、空腹こそ最高のスパイスって言うし、たまにだからこそこのターフのありがたみが理解できるってものかもしれないけどさ。

 

 

 

 そんなことを考えていると、すぐ横を走るネイチャに声をかけられる。

 

「気持ちよさそうだね、ウィル」

 

 ウマ娘にとって、走りながら話すのは、そんなに難しいことじゃない。

 ……いや、そりゃあ最高速度で走りながら話すのは無茶だけど、走るペースによっては可能、っていうのが正しいかな。

 人間だって、軽いジョギングをしながらなら会話だって可能じゃん? そういう感じだよ。

 

 今日歩さんが組んでくれたトレーニングメニューは、私とネイチャが控えめのランニング。そしてそれに追従する形で、ライスちゃんとブルボンちゃんはちょっと速めのペースを2000メートル維持する、ってもの。

 スタミナのある私とネイチャは延々とグラウンドを回り続け、ブルボンちゃんとライスちゃんは何周かに一度私たちに合流し、2000メートル走って離脱し休憩、体力が戻り次第また合流、って流れだ。

 

 シニア級の私やネイチャにとってはローペース以下のランニングでも、ブルボンちゃんやライスちゃんにとってはそこそこのペースになるからね。そりゃあ何千メートルも走り続けるのは厳しいだろう。

 本格化というルールに縛られる競走ウマ娘にとって、1年という差は圧倒的で決定的だ。1つ上の級のウマ娘と同じ練習をするのには、かなり強い負荷がかかってしまう。

 ……いやまぁ転生ウマ娘である私は、ちょっと例外かもしれないけど。

 

 そんなわけで、かなりへとへとになっているジュニア級の……じゃなくて、もうクラシック級か。クラシック級のブルボンちゃんとライスちゃんの2人に対して……。

 私とネイチャは、息切れもなしにとはいかないけど、結構長時間走り続けることができる。

 

 このペースなら……まぁ、1時間くらいは持つかな。人で言うところの駆け足程度だし。

 

 

 

 で、そんな余裕のある速度だから、こうして軽く話もできるってわけだ。

 

 ちょっと呆れ気味に頬の緩みを指摘してきたネイチャに、私は気持ちのままに答える。

 

「ええ。走るのって、やっぱり楽しいですから」

「あのウィルがこんなことを言うなんて、アタシは嬉しいよ……」

「もう、何ですか、それ。……まぁ確かに、あの頃の私からすると、ちょっとびっくりするような台詞かもしれないですけど」

「ホントだよ。昔はめちゃくちゃつまらなそう……というか、気持ち辛そうに走ってたのに」

「実際、結構辛かったですしね。死んだお父さんから呪いみたいな言葉かけられてて、レースに勝たないと自分に価値なんてないんだーって思ってましたし」

「……え、なんか今さらっとすごく重い事実カミングアウトしなかった?」

「ネイチャならいいかなーって」

「いや急すぎる! 流石に反応に困るから!! ……そっか、そんなことがあったんだ。えっと、今はもう大丈夫ってこと?」

 

 慌てながらも誠実に返してくれるあたり、本当に友達甲斐のある良いウマ娘だなって思う。

 

 ……本当。

 ここで最初にできた友達が、ネイチャで良かった。

 この子に熱を教えてもらって、この子と一緒に走って来て、どれだけ救われたことか。

 

「大丈夫。今はネイチャのおかげもあって、すっかり元気です」

「アタシの……? まぁ、確かに最近のアンタ、誰よりウマ娘らしいっていうか……走ることをすごく楽しんでるって感じだけど」

「実際楽しいですからね。夢なら醒めてほしくないって思うくらいに充実してます」

「……そか。そりゃ良かった」

 

 そう言って、横で走るネイチャは微かに微笑んだ。

 

 

 

 で、そんな私たちの、ちょっと後ろの方では。

 

「……1500メートル、突破……!」

「ついてく、ついてくっ……!」

 

 割と和気あいあいと走っている私たちとは違い、熾烈な競走が繰り広げられている。

 

 私たちのペースに合わせて走る、ブルボンちゃんとライスちゃん。

 今回のトレーニングプランは、ただの併走だったはずなんだけど……彼女たちの走りはいつしか、タイマンの競走じみてきている。

 

 今の彼女たちの身体能力については、ちょっと前にトレーナーが分析していた。

 曰く、瞬間的な速度や加速力、精神力といった面ではブルボンちゃんに分があるが、スタミナに限れば元よりステイヤー気質のライスちゃんの方が高い。

 1600メートルまでの距離ならブルボンちゃんが圧倒的に有利だけど、2000メートルかつ速めのペースとなると、現状どちらが勝つかわからない……とのことだった。

 

 そして、その「どちらが勝つかわからない」という状況こそが、ウマ娘の闘争本能を最も強くくすぐる。

 今回は別に、どちらが勝つとか負けるとか、そういう勝負ではないんだけど……それでも2人は「より前に進もう、横にいるウマ娘に負けられない」と、懸命に脚を動かしている。

 

 

 

 それを音で聞きながら、走りを楽しんでいたんだけど……。

 ふと、横のネイチャから声がかかる。

 

「ね、ウィル。あの2人、今はどっちが優勢なの?」

「ん? ……足音からして、前に出てるのは半バ身差くらいでブルボンちゃん。ただ足並みが乱れてるし、最終的に2000メートル時点で前にいるのはライスちゃんじゃないですかね」

「……いや、改めてとんでもない耳だね、アンタ」

 

 ネイチャは呆れたように首を振った。

 

 自慢じゃないけど、私は耳が良い。より正確には、耳が良くなる、と言うべきかな。

 競走ウマ娘ホシノウィルムの特徴の1つ。走っている間限定だけど、周囲10バ身程度の足音が聞き取れたり、その歩調がわかったりする。

 恐らくは私の持つ転生チート「アニメ転生」の一部が漏れ出したものと思われる、特殊な能力だ。

 

 で、歩さんに許可をもらって、ネイチャには既にこの能力のことを話してある。勿論、転生周りの話は除いて。

 というか、もう隠す意味なかったんだよね。耳に何かあるってことは普通にバレてたし。

 ……ただ、ここまで耳が良いとは思わなかった、とは言われたけども。

 

「大逃げでめちゃくちゃ距離を離すアンタにとって、すごい使いやすい能力じゃない? いいなぁ」

「あはは……」

 

 まぁこの耳の良さ、多分「アニメ転生」がちょっとだけ漏れ出しただけで、本気で「アニメ転生」使ったらもっともっとエグいことになっちゃうんだけど……。

 流石にその辺は秘密だ。私の持つ最大のアドバンテージ、これを易々と公開するのは、ライバルに弱みを晒すことに他ならない。

 

 幸い、ネイチャにはこのチートに気付いている様子はないしね。

 ……というか、地に脚を付けて走ってる皆が、こんなトンデモ能力に気付けっていう方が無理って話だ。

 アイツは転生者でチートを持ってるんだ! なんて推察しようものなら、普通はお薬出しておきますねーと流されるのがオチだろう。正直当事者の私ですらちょっと現実味がないんだもの。

 

 どれだけ察しが良くても「なんか知らんけどアイツ一時的にめっちゃ速くならない?」って考えるのが限界だろうね。

 ウマ娘が一時的に速くなるなんてこの世界じゃそう珍しいものじゃないし、たとえその内容をある程度察したとしても、そこから私が転生者であるという事実まで割り出すことは不可能だろう。

 

 というか、そもそもこの世界にはスズカさんみたいにデフォルトでチートみたいな能力を持ってるウマ娘もいるし、そこまで疑われることもないでしょう。安心安心。

 

 

 

 ……とはいえ、その辺を探られるのは、やっぱりちょっとだけ怖い。

 ここは話を変えておくべきだろう。

 

「ネイチャだって、皆を綺麗に誘導したりするじゃないですか。私としてはその能力も十分に羨ましいんですけどね?」

「あれは……あーいうことでもしないと、ウィルやテイオーに追いつけないってだけだし」

「私だって、耳が良かったり脚が速くないとネイチャには勝てませんよ」

「いやそうじゃなくて……」

「ネイチャのそういう策士なところ、ある種の能力だと思いますけどね」

「うーん、そういう感じじゃなくて、こう……もっとキラキラっていうか……」

 

 

 

 妙なこだわりのあるネイチャと話していると、いよいよ後ろの方で決着が付いたらしく、2人の足音がストップした。

 結果は、やっぱりライスちゃんの勝利だ。……いや、本当に僅かな差だけども。半バ身差ないくらい。

 

 今回のルールはライスちゃんに有利だと思うんだけど、それでもギリギリなあたり、やっぱり単純なスペックだとブルボンちゃんが優ってるらしい。

 この調子で成長を続ければ、やっぱり皐月賞と日本ダービーまではブルボンちゃんに有利かだろうか。

 

 

 

「はぁ、ふぅ……やっぱり、ブルボンさん、すごい……! この距離、向かないはず、なのに……!」

「いえ、ライスさんこそ……流石です。私も更にトレーニングに励まなければ……」

 

 彼女たちが脚を止めて距離が離れたから少し聞き取りづらいけど、どうやら互いに健闘を讃え合っているらしい声が聞こえてくる。

 うーん、これは美しい百合の花。やっぱりミホライは正義だね。

 

「ブルボンさん、一緒に頑張ろう! 私もお姉さまに追いつくために頑張るから!」

「はい。マスターとの目標『クラシック三冠』達成のため、鋭意努力しなければ」

 

 ……あれ、ミホライ成立してるよね? なんか心配になってきたな……。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……と。

 そこで、その日が終われば良かったんだけど……。

 

 

 

 私のトレーナーである歩さんは、そこまで高い頻度でトレーニングを見には来てくれない。

 どうやらこれは多少なりとも珍しいことらしく、ライスちゃんなんかは最初結構驚いてたな。お目目をまん丸にしてて可愛かった。

 

 でも私、個人的には、これに不満はないんだ。

 

 彼が見に来ないのは、ひとえに歩さんの管理能力の高さと、信頼感が故だ。

 1時間に1回見るだけでも十分に体力と事故防止の管理が可能で、なおかつ私たちがちゃんとトレーニングに励むと信じているからこそ、歩さんは時々しか顔を出さない。

 ……いやまぁ、書類仕事に追われて見に来る暇もない、って側面もあるんだろうけども。

 

 更に言えば、あくまで歩さんが見に来ないってだけで、大体は誰かが見に来てくれるしね。

 手が空いた時は昌さんが見に来たりもするし、合同トレーニングの時はネイチャのトレーナーさんやソウリちゃんのチームのサブトレーナーさんが見に来てくれたりもする。

 私たちだけでトレーニングをするってことは、そうそう多くはないんだけど……。

 

 その日は間が悪かったのか、誰も私たちのことを見ていなかった。

 

 別に、それが悪かったとは思わない。

 たとえ見ていたとしても、多分それがわかったのは歩さんくらいのものだっただろうし、そしてその歩さんはここ数日本当に忙しくしていたようだったし……。

 

 

 

 つまるところ、それは仕方のない事だったんだ。

 現に、誰一人として、当事者さえも歩さんを責めなかった。

 

 けど……。

 歩さんは、自分を責めるかもしれないな、とは思った。

 

 

 

「ナイスネイチャ!」

 

 遠くから歩さんの声がかかるのを聞いて、ターフを走っていた私とネイチャは脚を止めた。

 

 ちょうど気持ち良く走れてたところだったから、少し残念ではあったけど……。

 それ以上に、歩さんの余裕のなさそうな声が気にかかる。

 

 歩さんは、そうそう声を荒らげたりしない。というか、もはや怒りっていう感情があるかすら怪しいような人だ。

 そんな人が鬼気迫るような声を出したってことは……。

 

「え、何、どうした堀野トレーナーさん」

 

 ネイチャ自身は状況を飲み込めていないらしく、目を白黒させていたけど……。

 私は思わず、眉を寄せてしまった。

 

 

 

 歩さんの観察眼は、鋭い。

 これまで、たった一度だって、ウマ娘の状態や容体を読み間違えたことがなかった。

 その目を以て、ずっとずっと私のことを支えてくれていたんだ。

 

 だからきっと今回も、歩さんの言葉は、正しいものなんだろう。

 それが、良い事であろうと……あるいは、悪い事であろうと。

 

 

 

 彼は私たちに駆け寄って来て……肩を上下させながら、真剣な表情で言った。

 

「ナイスネイチャ。今すぐに、保健室に行け」

 

 

 

 * * *

 

 

 

「あー、やっちゃったか」

 

 保健室のベッドの上で、ネイチャはどこか明るい調子で、軽く頭を掻いた。

 

 ……診察の結果。

 彼女の脚には、骨膜炎が発症していることが発覚した。

 

 

 

 管骨骨膜炎。

 俗にソエとも呼ばれる、競走ウマ娘にとっては非常にメジャーな、そして非常に悪名高い故障の1つ。

 本格化中にトレーニングを積み過ぎると起こると言われている炎症だ。

 

 実のところ、この症状自体は、そこまで重いものじゃない。

 重症化すれば腫れたり痛みが伴ったりするものの、初期の内に気付くことができれば、適切にトレーニングの負荷を落とし、患部を冷却することで比較的簡単に治癒する。

 

 ただ、これの最大の問題は、再発しやすいってことなんだ。

 

 一度骨膜炎を発症すると、2度3度と繰り返すことが多い。最悪の場合、現役の間ずっとこれと付き合っていくことになる。

 

 無論、重度の炎症が発症すれば、まともに走れるわけもない。

 本格化中のウマ娘がこれを本格的に発症してしまうと、身体能力を伸ばす有限の時間を大幅に削られることになる。

 そして、たとえ本格化を終えようと、こんな炎症が再発すればレースへの出走は不可能になる。

 

 私たち競走ウマ娘のアスリートとしての人生に、大きな足かせを嵌める病。

 それが、骨膜炎であり……ネイチャが陥ってしまった故障だった。

 

 

 

「ネイチャ……」

 

 思わず呟いて、ベッドに横たわったネイチャに瞳を向ける。

 トレセン学園の保健室、私や歩さん、ブルボンちゃんにライスちゃん、そして彼女のトレーナーに囲まれたネイチャは……。

 

「そんな顔しないの、ウィル。何、アタシが走れなくなったとでも思ってるの?」

 

 それでもなお、明るかった。

 

 ……演技じゃない。

 その瞳に浮かんだ感情からして、彼女がこの故障を無念に思っているのは間違いないだろう。

 けれどネイチャは……これをそこまで絶望的なものとは見てはいないらしい。

 

 思わず眉を寄せた私に、彼女は苦笑気味に告げる。

 

「いや、実はさ、初めての発症じゃないんだよ、これ」

「え? でも……」

「去年の若駒ステークスでテイオーに負けた後、やっちゃってさ。初期段階で気付けたから、負荷落とすだけで対処できたけど……うん、ここ最近頑張り過ぎたからね。再発しちゃったんでしょう。

 たはは、あの有記念で3着なんて取ったからなー。アタシの脚も悲鳴を上げるってものよ。

 大丈夫、今回は前回よりもっと早く見つけられたんだから、絶対復帰してみせるから」

 

 そう……だったんだ。

 

 これが2度目で、彼女が再起する可能性は高いっていう事実に、私は少し落ち着きを取り戻す。

 ……そう、そうだよね。私やテイオーだって半年の休養が挟まっても復帰したんだ。ネイチャだってきっと、問題なく復帰してくる。

 

 そう思って私が身を引くと同時……。

 

 横にいた歩さんが、頭を下げる。

 

「すまない、ナイスネイチャ。俺がもっとよく見ていれば……」

「あーもう、堀野トレーナーさんも何度目ですか! むしろ発症直後、本来は気付けないような初期段階で気付いてくれたんだから、こっちからありがとうって言うところですよ。ね、トレーナーさん」

 

 ネイチャが目を向けると、先程保健室に飛んできたばかりのネイチャのトレーナーさんが、ようやく息を整え終わって顔を上げた。

 

「うん……。そうだ、その通り。堀野君、僕は君に感謝しこそすれ、責めることはないよ。

 そもそもネイチャのトレーニングを見ていられなかった僕が悪いし、その上で君は、おおよそ考え得る限り最高の段階で骨膜炎に気付いてくれた」

「しかし……」

「反論は許さないよ。ネイチャが骨膜炎を発症したのは君のせいじゃないし、君は最速でそれに気付いてくれたんだ。彼女のトレーナーとしてこれ以上を求めるのは大きな間違いだし、何より僕は君に感謝すべきなんだよ」

 

 

 

 ……そう。

 歩さんを責めることなんて、誰にもできない。

 

 歩さんはただ、契約トレーナーが見ていないところでウマ娘の骨膜炎を発見し、保健室に行かせてトレーナーに知らせただけ。

 

 殊に今回は、歩さんの付けたトレーニングで事故を起こしたわけじゃない。

 骨膜炎は長期的な負荷が原因で発生する故障だ。時折付けられる合同トレーニングも極端に負荷が高かったわけではないし、それ単体では故障には繋がらないはず。

 あんまりこういうことを言いたくはないけど、どちらかと言えば彼女のトレーナーさんの方針にミスがあったのだろうと推測できる。

 

 ……いや、普通は骨膜炎を回避しながらスパルタなトレーニングを積ませるのは難しいんだ。

 私があの宝塚記念以外で一切の故障を経験していないのは、歩さんがその辺りの観察眼と知識が飛びぬけているだけで……こういう故障は、普通のトレーナーさんであればどれだけ気を付けようと発生してしまうようなものらしいし。

 

 ネイチャのトレーナーさんは頑張っているけど、それでも管理能力に限界があった……というところだろうか。

 

 

 

 少し話が逸れたけど……。

 とにかく、歩さんに責がないことなんて明らかだ。

 

 それでも、彼が自分を責めてしまうのは、やっぱり……過去の経験からか。

 自分が行動を起こさなかったことで、知り合いの少女を救えなかったという、彼の過去。

 

 その呪縛がまだ彼を縛っているのか、と。

 どうしようもない現実に、私が眉をひそめた時……。

 

 

 

「……すまない、正直、そう言ってもらえると助かる」

 

 

 

 歩さんは顔を上げて、そう言った。

 以前なら、言わなかったであろうことを……確かに言ったんだ。

 

 驚きに、思わず目を見張る私を後目に、彼らの会話は続く。

 

「とはいえ、俺としても呑み込めないものはある。せめてネイチャの復帰プランについて、できる範囲で協力させてくれないか」

「もう。だから君は悪くないって」

「先にも言ったが、これは俺の心情的な問題だ。……俺も当事者の1人なんだ、協力させてくれ」

「……そっか。そういう理屈なら、まぁ……いや、ごめん、正直すごく助かる。よろしく頼むよ」

「あぁ」

 

 ……以前の歩さんなら。

 きっと、自分が悪いのだと譲らなかっただろう。

 その上で、ネイチャの復帰プランに関しても、自分が請け負うとまで言っていたかもしれない。

 

 でも、今、歩さんは……自分が悪い訳ではないって認めて、その上で当事者の1人として、罪悪感の払拭のために協力したいと申し出た。

 

「…………」

 

 変わってる。

 

 歩さんは……やっぱり、少しずつ、変わって行ってるんだ。

 

 

 

 故障を起こしたネイチャには悪いし、不謹慎だと思うけど……。

 

 私はそれが、すごく嬉しかった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、これは後日談のことになるんだけど……。

 

 ネイチャは彼女のトレーナーさんと話し合った結果、春の間は全休とすることになったらしい。

 ここまでかなりハードにトレーニングを積んできたから、余裕を持って一度体を休めながら鍛え直し、秋以降のレースに全力を注ぐつもりとのこと。

 

「この際焦らず鍛え直そうかなって。あんだけ完璧に走れた有記念でも2バ身近く差を付けられたんだもん、次に走る時までに、もっと走りに磨きをかけておきたいじゃん?」

「……春って4月までですか?」

「バ鹿、分かってるのに聞かないの。……復帰は、早くても8月以降かなぁ。毎日王冠か京都大賞典あたりから始動になるかも」

「そうですか……」

 

 マジかぁ……実に1年弱、ネイチャとは公式レースを走れなくなるわけだ。

 思わず肩を落としてしまった私に、ネイチャは笑いかけて来る。

 

「そう落ち込まないの。ほら、秋以降なら本気で走れるからさ、模擬レースでもすればいいじゃん」

 

 あー、その提案は嬉しいんだけど……。

 

「いや、それはちょっと難しくて……」

「え、なんで?」

 

 きょとんとした目を向けて来るネイチャに……。

 私は頭を掻きながら、言った。

 

 

 

「いや、私、秋からはちょっとパリに行ってるんですよね……」

 

 

 







 ネイチャは頑張り過ぎたのでちょっとお休みです。
 とはいえ、本当に初期段階の発見でしたし、そう長く休養しているわけではありません。レースには出ずに鍛え直しがメインになります。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、URAファイナルズ予選の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!
 ライスのことをスプリンターとか書いてて、我ながら「コイツ大丈夫か……?」となりました。推敲の時にも全然違和感覚えなかった不思議。


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マックイーンの スキルの しょうたいが つかめない!

 最近各話のプロットを考える時間よりタイトルを考える時間が長くなりつつあります。これが本末転倒か……。





 

 

 

「今年も、この時期が来ましたね」

 

 京都レース場の綺麗に整えられた芝を見下ろしながら、俺の横にいるホシノウィルムは、あたかも万感の想いが籠っているかのような声でそう言った。

 

 最近の彼女は、威厳が出て来たと思う。

 ……いや、威厳と言うと、少し違うかな。

 何と言うべきか、こう……確かな実力と高い自信が噛み合った、強者特有の雰囲気を醸し出すようになってきた、という表現が近いかもしれない。

 

 仮面を被るのが上手い彼女は、昔からインタビューなどではそういう風を装うことは多かった。

 けれど最近は、それが素顔と溶け合ってきたというか……いや、素顔がそちらに近付いてきた、と言うのが正しいだろうか。

 

 毎日のトレーニング、彼女の大好きな自主トレ、やる気はなさそうだが真面目に聞いてくれる座学。

 そして皐月賞、日本ダービー、宝塚記念、菊花賞、ジャパンカップ、有記念……。

 それら、積み重ねて来た研鑽と体験してきた激戦が、彼女に戦士としての威風を付与しているんだろう。

 

 ……まぁ、その風格の全てが本物かと言えば、そうでもないんだが……それはともかく。

 

 今日の彼女はそういう強者としての雰囲気を醸し出しながらレース場を眺めており……。

 それに呼応するように、昌とブルボンは少し張り詰めた様子で言葉を繋いだ。

 

「URAファイナルズ……同期の中での最強を決める、誰もがチャンスを持つレースの日」

「その予選ですね」

 

 そう。

 

 時は1月下旬。

 もはや毎年の恒例行事となりつつある、URAファイナルズの開催時期である。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 新年1月から行われる、本格化も終わりつつあるウマ娘たちによる死闘、URAファイナルズ。

 

 実のところこのレース、歴史自体はそこまで長いわけでもない。むしろ極めて短いと言っていいだろう。

 創設されたのは実に2年前、中央トレセンの実質的なオーナーである秋川理事長自らにより発起されたものだ。

 

 その趣旨は、あらゆる距離、あらゆるバ場を網羅した、トゥインクルシリーズに登録された全てのウマ娘がチャンスを有するレース。

 あの理事長らしい、ウマ娘たちのことを思いやったアイデアだと思う。

 

 ……とはいえ、「全てのウマ娘にチャンスが与えられる」というのは、つまりは「全てのウマ娘が出走できる権利を持つ」ということでもある。

 これまでにない、100人単位の規模の大レース。一時期は俺の父ですら実現すら不可能なのではないかと漏らしていた程だったが……。

 秋川理事長の尽力と私財の投入により、これは現実のものとなった。

 

 予選の出走条件はシニア2年目であることのみで、重賞レースのようにファンやその子の格によって出走登録が制限されることもなく、望む子は全員が希望したレースに出走可能となっている。

 そこからは上位3人のウマ娘が、準決勝、そして決勝への出走権を獲得し、次の段階へと歩みを進める、というわけだ。

 

 前世アプリでは1着以外は次のレースに進めなかったし、この辺はちょっと変わってるな。まぁトライアルとかステップレースなどでの優先出走権を考えると、1着の子しか進めないってのはちょっと残酷すぎる気もする。

 更に言えば、決勝こそ18人立てになるけど、予選や準決勝は6から9人立てのレースになるし、人数が少ない部門だと予選がない場合もある。その辺も前世と違うところだね。

 

 割と差があるけど……まぁアプリでのURAファイナルズではいないはずの子が平然と出走してたりもするし、ゲーム的な部分を現実的に直すとなると、誤差が出てしまうんだろうな。

 

 ……というか、結局この世界ってアプリが基になってるんだろうか? あるいはこの世界がアプリの基になってる? あるいはただ似てるだけなのか?

 結局、その辺は全然わかんないままなんだよなぁ……。

 まぁ、考えても仕方がないのかもしれないけども。

 

 

 

 さて、話を戻してURAファイナルズ。

 

 300人以上のウマ娘たちが、それぞれの得意距離、得意バ場に分かれ、予選、準決勝、そして決勝の3回に渡って激闘を繰り広げるこのレース。

 プレオープンやオープン級のウマ娘にとっては、重賞級を打ち倒す下剋上のチャンスであり……。

 重賞級のウマ娘たちにとっては、G1級ウマ娘に挑む貴重な機会であり。

 そして同時、G1級ウマ娘たちにとっては、世代の唯一無二の頂点を決める最強決定戦でもある。

 

 そう、このレースの出走条件は「シニア2年目」であること。

 このレースは久々の、同世代間での戦いなのだ。

 

 基本的に、トゥインクルシリーズでG1級のウマ娘が世代間で争うのは、クラシック級の秋まで……つまり、クラシックレースやティアラレースまでだ。

 そこから先は天皇賞やグランプリを筆頭とするシニア級混合のG1レースが一般的になるからね。

 

 しかし、果たしてこれらのレースを世代の最強決定戦としていいかは……ちょっと微妙なところだ。

 

 皐月賞が「もっとも成長が早いウマ娘が勝つレース」とも言われている通り、これらのクラシック級のレースは早熟なウマ娘程有利になりやすい。

 それは逆に言えば、晩成型のウマ娘は不利であることも意味している。

 去年で言えばツインターボなんかはその典型例で、本格化が遅れに遅れた結果、彼女はクラシックレースへの参加ができなかった。

 

 勿論、早熟さもまたウマ娘の素養であるのは間違いないが……せっかくなら晩成の子も含めた、本当の最強決定戦が見たいという意見があったのもまた事実。

 そんな時に始まったこのURAファイナルズ、晩成の子はまだ本格化を終えてはいないとはいえ、クラシックレースよりも差が埋まっているのは間違いない。

 

 そういった理由で、URAファイナルズの3つのレースは、クラシックレースやティアラに次ぐ第三の世代最強決定戦として認識され、あの有記念と並ぶくらいに絶大な人気を誇っているのだった。 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 勿論、トゥインクルシリーズの担当ウマ娘を抱える俺としても、これは全く以て他人事ではない。

 来年にはウィルが、そして再来年にはブルボンが、高確率でこれに出走することになるわけで、今年も何か参考にならないかと陣営全員で観戦しに来たわけだが……。

 

 ……とはいえ、だ。

 まるでこの時をずっと待ち望んでいたかのようなウィルの言い方には、苦笑の1つも漏らしたくなるというものだよね。

 

「ウィル、君、去年は全く興味なさそうだっただろうに」

「え、いや、それはっ……!」

 

 恥ずかしそうに取り繕おうとするウィルの横で、もう1人の担当ウマ娘とサブトレーナーは首を傾げる。

 

「想定外の反応に、ステータス『驚愕』を検知。先輩が、レースに興味がないと……?」

「私も少し意外。ホシノウィルムさん、レースの観戦も好きそうな印象だったけど」

 

 あぁそうか、そういう反応にもなるよな。この2人は、あの頃のウィルを知らないから……。

 

 

 

 かつてのホシノウィルムは、レースを楽しむことを……彼女の言い方で表すと、熱を感じることを知らなかった。

 ただ義務的に……もっと言えば「負けてはいけない」っていう強迫観念に駆られて走り続けていただけだったんだ。

 

 俺は当時の指針に基づいて、彼女に走りを楽しんでもらうべく色々と試行錯誤していたわけだが……。

 彼女がそれを楽しめるようになるきっかけ、その最も大きな転機になったのは、恐らくはあの時。

 去年2月の、ネイチャとテイオーとの模擬レースだろう。

 

 ……今考えると、アレはなかなかに因果な組み合わせだったなぁ。

 ウィルが属する星の世代、その三星と言われる、世代の頂点での模擬レース。

 当時もかなりの注目を集めたけど、もしも今行えば、とんでもない観客が付きそうだ。……いや、やるなら公式レースでやれって言われるのがオチだな。会場がパンクする。

 

 ウィルはあの模擬レース以降、明確にレースへのモチベーションを上げた。

 というか、当時はそりゃあもうネイチャネイチャ模擬レース模擬レースと言ってきたものだ。

 ……いや、あれはあれで、なんというか、子供っぽい年相応さが可愛らしかったし、それで彼女との距離もだいぶ縮んだから良かったんだけども。

 

 とにかく、ウィルがレースに対して前向きになったのは……もっと言えばレース自体に興味を持ち始めたのは、クラシック級の2月から。

 彼女がブルボンと知り合ったのは4月らしいし、昌に至っては10月末だ。

 あの凍てついた目で、まさしく命懸けで走るウィルを、知ってるわけがないか。

 

 

 

「この子も、元からレースジャンキーだったわけじゃないってことだよ。出会った頃のウィルは……」

 

 俺がそう言って、昔話に花を咲かせようとしたところで……。

 

「わーっ! ちょ、ちょちょちょっと、何言おうとしてるんですか歩さん! そういうの勝手に言っちゃ駄目ですって!」

 

 横から、少しだけ顔を赤くしたウィルが止めに来た。

 

「え、駄目なのか」

「そうですよ! 人の黒歴史を軽率に掘り起こさないでください!」

 

 え、黒歴史……黒歴史なのかアレ。

 いやまぁ、確かにあの頃のウィルはちょっと当たりが強かったというか、ちょっとアレなところはあったけど……黒歴史って程かなぁ。

 

 今のウィルは勿論、あの頃のウィルも、少し視野狭窄なところがあったとはいえ、悪い子ではなかった。俺個人としても好感が持てる子だったと思うんだが……。

 いや、これは相手がウィルということで、贔屓目に見てしまっているだけだろうか。最近はどうにもウィルを特別視してしまいがちだからなぁ……。

 

 まぁ、昔の自分が色々アレすぎて、思い出すと枕に顔をうずめたくなる気持ちはわかる。

 俺もかつての失敗を思い出しては枕を濡らした夜もあったし……いや、あったかそんな夜? なんかあんまり思い出せないけれども。

 

「では、その辺りはあまり触れないとして。

 とにかく、君だってきちんとURAファイナルズを見るのは初めてだろう。去年は『もう帰ってトレーニングしません?』なんて言ってたんだし」

「触れてますけど!? ちょっと言っちゃってるんですけど!? 

 ……確かに、ちゃんと見るのは初めてかもしれないですけど、いいじゃないですか、少しくらい浸らせてくれても」

 

 そう言って、ウィルはぷくっと、わざとらしく頬を膨らませてしまった。

 

「悪かったよ、そう拗ねるな」

「もーっ」

 

 可愛らしく脇腹を軽く殴って来るウィルに、思わず笑みを漏らす。

 担当ウマ娘に対して言うべきではないかもしれないが……本当に可愛らしい子だ。大人びているかと思えば、こういう子供らしい一面もある。

 いわゆるギャップ萌えってヤツか? ……萌えって言葉も今日日聞かないな。

 

 ……と、そんなやり取りをしていると、ふと昌が何とも言えない視線を向けてきていることに気付いた。

 

「ん? 何、昌」

「……別に。ただ爆発しろって思ってただけ」

「爆発……?」

 

 おぉ……昌に罵倒されることは慣れてるけど、「爆発しろ」か……。

 初めて聞いた、斬新な罵倒だ。ウィルやブルボンたちの走りと同じように、昌の語彙力もまた、日進月歩の進化を続けているらしい。

 俺も見習って、精進しないとな。いや罵倒の語彙力を上げるつもりはないけども。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、そうして暫く待つ内に、いよいよレースが始まる直前になった。

 

 URAファイナルズを制するために勝つ必要があるレースは3つ。同レースの予選、準決勝、決勝だ。

 これらは出走ウマ娘たちの負担を考慮して1か月ずつスパンが空き、1月下旬、2月下旬、そして3月下旬に行われる。

 

 1月下旬である今は、ちょうどいくつかの予選レースが開催される時期。

 その内でも今回見に来たのは、京都レース場で行われる、芝の3000メートル、長距離レースだ。

 

 スタミナと根性が強く響くこのレース、ここで上位3着を取った子たちは、URAファイナルズ制覇のための次のステップである、2月下旬の準決勝への出走権を手に入れるわけだ。

 勿論、ウマ娘の彼女たちが「まぁ3着以内を取れればいいや」なんて結論になるわけもなく、誰もが1着を目指して走ることになるだろう。

 

 ……とはいえ、今回見に来たのは、誰が勝つかはほとんど確定しているようなレースなんだが。

 

 

 

 眼下で、ターフに上がっていくウマ娘。

 その中でも一際威圧感を持った、芦毛のウマ娘がいる。

 

 彼女以外の全員がトレセン公式の体操服を着ているのに対して、ただ1人黒を基調としたシックな勝負服に身を包み、我が道を行くように堂々と歩みを進める彼女は……。

 

 

 

『さぁ本日の主役がターフの上に現れました!

 多くのファンの期待を背負う一番人気、今日も余裕の表情を見せるターフの名優、菊花賞ウマ娘のメジロマックイーン!!』

 

 

 

 そう。

 今日の芝長距離の予選は、メジロマックイーンが出走する。

 

 勿論、偶然このレースに当たったわけではない。

 URAファイナルズを観戦に行こうと言った際、ウィルが「せっかくならマックイーンさんのレース見に行きましょうよ。天皇賞じゃ多分ぶつかることになるんですし」って言い出したんだ。

 

 俺としても、春にウィルとぶつかる……そして今年の秋にはブルボンとぶつかることになるかもしれないマックイーンの戦力調査は望むところ。

 仕事詰めに慣れてきつつあった昌も連れ出して、陣営全員で見に来ることになったのだった。

 

 

 

『15戦の内4度の重賞、2度のG1レースを超え、先月の有記念ではスペシャルウィーク、ホシノウィルム、ナイスネイチャに次ぐ4着を刻みました。

 その実力を疑う者はもうどこにもいない、中長距離における最強格の1人です!』

『長く使える脚を持つ、王道の好位抜け出し戦術を取るウマ娘ですね。果たして彼女のハイペースに付いて行ける子はいるのか?』

 

 

 

 ちらっと、昌がこちらを見て来るのがわかった。

 昔、まだ実家にいた頃に、レースの映像を見る際毎回向けて来た目線だ。少し懐かしい。

 何が聞きたいかは予想できるし、先んじて答えておくか。

 

「いや、彼女に勝てる子はいないよ。メジロマックイーンは飛び抜けてる。実際……」

 

 本格化を終えたマックイーンは、正しく優駿と呼んでいいステータスとスキルを備えている。

 

 ちらりと葦毛の彼女の方に目をやると……「アプリ転生」がその実力を数値化した。

 

 

 

 メジロマックイーン

 

 スピード A+ 906

 スタミナ S  1001

 パワー  A  819 

 根性   A  895

 賢さ   B  630

 

 

 

 ……うん、非常に隙がない、素晴らしいステータスだ。彼女のトレーナーもステータスを数値化できる能力でも持ってきてるんじゃないかって思う程に。

 いや、マックイーンのトレーナーはテイオーのトレーナー以上にベテランだし、長年蓄積した経験による実力なんだろうけども。

 

 そのスピードに限ってはスペシャルウィークよりもなお高く、高いスタミナと根性から長距離への適性もあり、先行としては十分なパワーも備えている。

 強いて言えば、賢さが多少低いが……そもそも彼女は自分の走りを押し付けていくタイプ、スカイやネイチャのように高い賢さが必要なわけではないからな。

 

 今の彼女を飾る最強格という言葉には、なんら嘘偽りはないだろう。

 もう少しレース展開が違えば……というか、スカイの誘導にかかって外目に出なければ、あの有記念にさえ勝てていたかもしれない。

 

 ステータスの面においては、まさしく最強格。

 そして同時に……そのスキルもまた一級品と言っていい。

 そのほとんどが長距離・先行に向いたもので、基本的にはバランスよく取得されているが……。

 

 ……困ったことに、その中には俺にも判別の付かないものがあるんだよなぁ。

 

 

 

 スキル

 メジロの心得

 

 

 

 ……アレ、何なんだろうな。

 

 いや、先に言っておくと、このスキルの存在自体はそこまでおかしなものでもないんだ。

 

 この世界には、こういう固有のスキル……固有のスキルって言うと前世アプリの固有スキルと被ってちょっとわかりにくいな。

 便宜上『特殊スキル』とでも呼ぶべきものがあること自体はわかってた。

 

 スペも「はらぺこ大将」とか「夢叶える末脚」とか持ってたし、スズカも「最大集中」とか「異次元の逃亡者」とか持ってた。 

 スカイもいくつか俺の知らないスキルを持っていて、てっきり俺がアプリから離れた後に追加された強いスキルなのかと思っていたが……。

 どうやらこの世界では、強力なウマ娘が独自のスキルを習得することもあるらしい。

 

 恐らくは、汎用的な技術をウマ娘たちが己の独自技術として昇華したものなんじゃないか、という予想はあるんだが……残念ながらそれが正しいのかすらわからない。

 

 とにかく確かなのは、ごく一部の優駿は、特殊なスキルを習得することがあるってことだ。

 

 だから、そういうスキルがあることは特におかしくないんだ。マックイーン程の優駿ともなれば、それを身に付けていることも予想できて然るべきことだった。

 

 しかし、問題は……その名前から内容が測れないってことなんだよなぁ。

 

 はらぺこ大将は、わかる。回復スキルっぽいし、名前の響きからも食いしん坊の上位互換だと予想できる。いやどんな名前だよって思わなくもないけども。

 夢叶える末脚は、末脚の上位互換である全身全霊の更なる上位互換なんじゃないだろうか。末脚だし。どうでもいいけど名前がめちゃくちゃカッコ良くて好き。

 最大集中は、集中って言葉からも、やっぱりコンセントレーションの上位互換だろうな。有記念でウィルがスタートの時点で敗北していたのは、このスキルによるものだろう。

 異次元の逃亡者は、逃亡者の上位互換だな。これを固有スキル……領域の展開と同時に使うからこそ、スズカは圧倒的な実績を持っていたわけで。

 

 

 

 で……。

 

 メジロの心得。

 

 ……これ、何?

 

 メジロの……メジロの心得……? メジロなんて名前の入ったスキルはなかったよな? あったとしたら少なくともマックイーンがスキルとして持ってると思うし。

 うーん、マックイーンが持ってたスキルというと…………心得? あ、ひょっとして先陣の心得か?

 

 前世じゃ逃げウマ娘ばかり育成してた俺だけど、マックイーンは逃げでも使いやすかったから結構育ててた。最初の頃はスタミナを軽視して春天でボコボコにされていたのが懐かしい。

 

 で、そんなマックイーンを逃げとして運用し、頑張って因子周回したのには理由があり……。

 彼女は、スカイと同じスキルを持っていたんだ。

 その名を、先陣の心得。レースが長距離、かつ中盤に3バ身以上の差を付けて先頭だった時に発動する速度アップスキルだ。

 

 ……いやこれ、どう見ても逃げウマ娘用のスキルだよね? 改めて考えると、なんで先行を主眼とするマックイーンが持ってたんだろう。

 まぁ結果として、そのスキルを見て「マックイーンは逃げ運用できるのでは……?」と思って彼女を育て始めたからいいんだけども。

 

 ちなみにこのスキル自体は、少なくとも俺がやっていた頃は、ゲームの仕様上ほとんど発動できない、いわゆる死にスキルだった思い出がある。

 大逃げとかいなかったし、前に出過ぎると何故か減速するみたいな仕様あったからなぁ……。

 

 

 

 しかし……仮にこれが先陣の心得の進化先だったとして、果たしてマックイーンはこれを上手く発動させることができるだろうか?

 そもそもこの世界のマックイーン、逃げたことは殆どない。

 1番手は他のウマ娘に譲り、その子との距離を上手く調整しながら好位に付いて走るのが、この世界における彼女の基本戦術だ。

 

 そうなると、長距離という縛りはともかく、中盤に3バ身もの差を付けて先頭になるなんて展開は起こらないんじゃないだろうか?

 

 ……いや、あるいはアレか? 特殊スキルになったことで、発動条件が緩和されたとか、そういう方向の進化もあり得るのか?

 マックイーンの脚質から考えて、条件が緩和されたとすれば……シンプルに考えれば、中盤に前の方にいる時速度アップとか? 前の方にいる時速度アップだとすれば、確かに有用なスキルだと言えるだろうか。

 

 むぅ……。ジャパンカップの時にはなかったし、あれから身に付けたんだろうが……。

 なかなかどうして、計り切れない変数となると、やはり少しばかり不安を感じてしまうな。

 

 

 

「兄さん?」

「え、うん?」

 

 かけられた昌の言葉で思索の海から帰って来ると、彼女は……というか昌とウィル、それにブルボンも、ちょっと心配そうな目でこちらを見ていた。いや、ブルボンはほぼ無表情のまま、気持ち程度だけども。

 あー、3人に心配かけちゃったか……。ちょっと思考に集中しすぎてたかもしれない。

 

「どうしたの、ぼーっとして」

「あー、うん、ごめん。ちょっと考え事」

「そう。……疲れてるでしょ。今日帰ったらちゃんと寝てよね」

「あぁ、そうだな。今日はもう仕事もないし……いや、帰省とかもあるし、可能ならもう少し前倒ししておきたいけど」

「駄目。睡眠もまともに取れてない状態でやったって効率が悪くなるだけって、痛感してるでしょ?」

「……そうだね。ちゃんと寝ることにする」

 

 何かと小言の多い彼女だけど、ただ当たりが強いだけで、いつも俺の体を心配してくれてるんだよな。

 それに、ウィルやブルボンも、俺のことを心配してくれてるみたいだし……。

 ……うん、ありがたい。俺は家族と担当ウマ娘に恵まれてるね。

 

 彼女たちを安心させるように小さく笑い、俺は改めてレース場の方に向き直る。

 

「……うん、やっぱりメジロマックイーンは強い。このレースの勝者は、間違いなく彼女になるだろう」

「あのマックイーンさんですもんね。この距離、3000メートルなら私以外には勝つに決まってます」

 

 うんうんと頷くウィル。

 

 宝塚記念、ジャパンカップ、有記念と共に走って……特にジャパンカップでの激闘が大きかったからか、彼女のマックイーンへの評価は極めて高い。

 大逃げという破天荒な戦術と、好位抜け出しというこの上ない王道戦術という違いはあれど、どちらも長距離に向いた莫大なスタミナを持つステイヤーだ。

 共感できるところ、尊敬できるところも多いのかもしれないな。

 

 ……いやまぁ、そこで「私以外には」なんて枕言葉を付けてるあたり、相変わらず無自覚な強者故の傲慢が出てしまっているが。

 

 

 

 そんな風に、自慢の先輩を誇るようにドヤ顔を見せていたウィルと対照的に……。

 もう1人の担当ウマ娘であるブルボンは、どこか浮かない顔をしていた。

 いや、浮かないっていうか、相変わらず無表情に近いんだけど……その眉が、いつもよりはほんの少しだけ寄せられている気がした。

 

「……3000メートル、なら……」

 

 ……あぁ、そうか。

 

 京都レース場の3000メートルは、彼女の最終目標であり、同時に最も厳しいと予想される菊花賞と同じ条件。

 ウィルはそれを、適性を思わせるような言葉と共に言ってしまったんだ。

 少しばかり、考え込んでしまうところもあるか。

 

 とはいえ、担当に心配をかけるわけにはいかない。

 その部分を払拭するのも、また俺の仕事だ。

 

「安心しろ。俺がトレーナーとして責任を持って、君が最高の状態で菊花賞に臨めるように調整する。

 それが、君のトレーナーとしての仕事だからな」

「……はい。どうかお導きを、マスター」

 

 ミホノブルボンはその瞳から揺れる光を消し、決意を秘めた視線をこちらに向けて来た。

 

 

 

 ……彼女の夢、クラシック三冠。

 前世史実では惜しくも叶わなかった……適性と掛かり癖、そしてライスシャワーによって阻まれてしまった、奇跡の偉業。

 

 だが、この世界では……ウマ娘である彼女たちには、無限大の可能性がある。

 本来あり得なかったはずのことも起こり得る未来。誰が勝つか、その結果は常に未知数だ。

 

 彼女が唯一抱くことのできた夢……それを達成できるよう、俺なりに全力でサポートしなければな。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 URAファイナルズ、芝・長距離部門予選。

 勝ったのはメジロマックイーン。当然のように大差を付けた圧勝だった。

 

「楽しみになってきましたね、天皇賞。……その前に、テイオーとの大阪杯ですが」

 

 ウィルはそう言って、いつものニヨニヨとしたすごい笑みを浮かべたのだった。

 

 

 







 ウマ娘世界の1月、イベント多すぎでは? 全然時間進まないんですけど?



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、2度目の帰省のお話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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多生の縁

 ちょっと忙しくてあんまり執筆に時間取れなかった……。
 定期的に更新できてクオリティ保ててる方々、ほんとにすごいですね。





 

 

 

 1月下旬、凍てつくような空気が身を包む、とある日の昼のこと。

 

「…………」

 

 冷たく乾いた風の吹き抜ける、静かな草原。

 まばらに生えた木や、1つだけ通っている狭い道の他は殆ど何もない、見慣れた場所……。

 

 私は約1年ぶりに、そこを訪れていた。

 

 中央の温度感に慣れてしまったためか、震えてしまう程に寒い空気の中。

 雲一つない晴天に思わずくらりと意識が揺れて、私は思わず、額に手を当てた。

 

 何だろう。とても寒いのに、同時……。

 

「……なんだか」

 

 ふとこぼした声を、横を歩いていた彼が拾い上げた。

 

「なんだか、何だ?」

「……あー、何でしょう。何か言おうとしたんですけど、忘れちゃいました」

「なんだそれ」

 

 彼は小さく笑って、改めて歩みを進める。

 私は少し慌ててその後を追った。

 

 

 

 前回ここに来たのは、確か去年の3月。

 だから……これが10か月ぶり、二度目の帰省ってことになるだろう。

 

 すごく早かったな、この10か月。

 楽しいことがいっぱいで、辛いことも少しあった。

 けれど、そんな辛い過去を吞み込んで、受け入れて、踏み越えて、私はここまで来たんだ。

 

 ……それなのに。

 全ては、良く終わって。まさしく望んだ通りのハッピーエンドの先にいるのに。

 どうして……どうしてこうも、胸が騒ぐんだろうか。

 

 

 

「ウィル」

 

 かかった声に視線を上げると……。

 彼は少し先で振り向き、こっちを待っていた。

 

「行こう。君の両親が待ってる」

「……はい」

 

 そうだ、行かなきゃいけない。

 お父さんとお母さんに、今年のことを報告しなきゃ。

 

 それはわかってるのに……。

 どうにも、足が重かった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 肌寒い草原の片隅にある、静謐な空気を漂わせる集団墓地。

 その中の1つに、今は亡き私の両親が眠る、小さなお墓がある。

 

 唯一残った肉親である私が最後に訪れてから、既に1年以上の時間が経過しているのに、そのお墓は綺麗なままだった。

 約束通り、親戚の方がきちんと管理してくれているらしい。

 今度改めて、感謝の連絡を入れないと。

 

「着いたな」

「……はい」

 

 トレーナーと一瞬視線を交わして、私は一歩前に踏み出し、墓石の前で地に膝を突いた。

 

 お父さん、お母さん、久しぶり。

 私です、ホシノウィルムです。お2人には他の名前の方が通りが良いかもしれないけど……覚えてくれているでしょうか。

 

 ……思わず、自分の思考に苦笑しそうになる。

 どうだろう、果たして2人は覚えていてくれているだろうか。

 2人にとって、私は敵……とは言えないまでも、親しい相手ではないだろう。

 自分たちの家庭を破綻させた、憎き相手。恨まれて然るべき……かも、しれない。

 

 ……それでも、私にとって2人は、この世界で唯一無二の両親だった。

 だから私は、お墓の前で手を合わせるんだ。

 

 

 

 でも……。

 どうしよう、何の話からしようか。

 

 歩さんに出会うまで、私の人生は面白みなんてないものだった。

 ただ強くなるために走るだけの毎日。特筆すべきことなんて何もなく、ただただ前を目指すだけの、単調でつまらない日々だったんだ。

 

 けれど、この1年は、全然違った。

 

 たくさんのことがあった。たくさんの彩りがあった。多くの人と知り合い、多くのウマ娘と走った。

 これまでにないくらい、忙しくて楽しい、実りのある1年だったと思う。

 

 去年の春から……。

 ネイチャとテイオーと模擬レースをして、熱を感じ始めたり。

 皐月賞やダービーでテイオーと戦って、彼女の才能に燃えたり。

 宝塚記念でスカイ先輩と戦って、転生者である私がパンクしちゃうくらいに走ったり。

 歩さんに救われて、広い世界を知ったり。

 骨折してしまって、トレーナーの指導の下、必死にリハビリしたり。

 なんとか間に合った菊花賞で、ずっと待たせていたネイチャと1度目の決着を付けたり。

 ジャパンカップでシニア級のライバルであるマックイーン先輩と戦ったり。

 歩さんが最悪な事故にあって、昏睡してしまったり。

 有記念ではたくさんの優駿たちと最高に熱いレースをしたり。

 少しだけとはいえ、歩さんを助けることができたり……。

 

 本当に、本当の本当に、色んなことがあった。

 それこそ、どこから語るべきかもわからない程に、色んなことが。

 

 

 

 ……だから、なのかな。

 こうして両親に会いに来たのに……どうにも、言葉が出てこない。

 

 

 

 何を、言えばいいんだろう。

 どんな風に、語ればいいんだろう。

 お父さん、お母さんに、なんて報告すればいいのかな。

 それが……わからない。

 

 いや、わかってる。去年までと同じようにすればいいって、わかってるんだ。

 わかってるのに……できない。どうにも頭が回らなくて、何も言葉が出てこない。

 

 ……去年は、こんな風にはならなかったのに。

 なんで今、私は、こうも心が揺れているんだろう。

 

「…………」

 

 去年はただ、両親に1年の報告をして、トレーナーに両親のことを打ち明けて、それで終わりだったはず。

 何事もなかった。何も感じなかった。凍てつくような寒気は相変わらずあったけど、ただそれだけで。

 何故今、私は……今になって、動揺しているのか。

 

 わからない。

 思考が空回ってしまって、何もわからない。

 

 

 

「大丈夫か」

 

 声が、かかる。

 いつしか閉じていたまぶたを開き、眩しい世界に思わず目を細めてしまった。

 

 ……ほんの一瞬、息を吸って、吐いた。

 落ち着け。普通に、歩さんの声に応えなければ。

 

「トレーナー? えっと、何か?」

 

 我ながら、完璧に取り繕えたと思った。

 自慢じゃないけど、私は演技が上手い。被った仮面の下は、そう簡単には見抜かれたりなんてしない自信があったんだ。

 

 けれど……。

 

「誤魔化すな、君の動揺くらいはわかる。……これでも、2年以上の付き合いだからな」

 

 ……それはもう、歩さんには通じないらしい。

 積み上げた年月の力、か。

 本音が隠せないのは厄介だけど……うん、ちょっと嬉しいかもしれない。

 

 改めて、彼に何と答えようかと、少しだけ考えたけれど……。

 見抜かれてしまった以上、隠すことでもないかと、私はお墓に向き合ったまま、静かに息を吐いた。

 

「……ちょっと、大丈夫じゃないかもです。

 よくわからないんですが、ここに来てから……いえ、北海道に来てから、もっと言えば飛行機に乗ってから、心がざわついてしまって」

 

 そう。

 今日になって、私のメンタルは荒れていた。

 

 朝早く、トレーナーと一緒に空港に行く時から、ずっと。

 飛行機の窓から空を見下ろす時も、トレーナーが運転するレンタカーでここに向かっている時も……今、両親のお墓に向き合っている時も。

 

 集中できない。思考が乱れる。

 ……もっと言えば、ここから逃げ出したいとさえ思う。

 

 なんでこんなことになっちゃったのか、わからない。

 頭がゴチャゴチャして、全然考えが纏まらない。

 

 

 

 どうしたものかと、眼下の石畳の隙間から生えた雑草を見ながら、ぼんやりと考えていた時……。

 

「ウィル、1人で抱え込むな」

「え」

 

 言って、トレーナーは私の頭に手を置き、くしゃくしゃっと撫でてくれた。

 

「俺は察しの良い方じゃない。はっきりと伝えてくれなければ、君と気持ちを共有できない」

「…………」

「君が言ったことだぞ、私にも背負わせてくれ、と。

 であれば同じように、君の苦痛や悩み、俺にも背負わせてくれ。君と同じ世界を見させてくれ。

 それが俺の、君のパートナーとしての責務であり、やりたいことでもあるんだから」

 

 ……なんて、殺し文句。

 思わず唖然として……そして、苦笑する。

 

 あぁ、そうだ、忘れてた。

 そういえば歩さんは、こういう人だった。

 

 この1年、特にダービー以降は、歩さんが無意識の内に追い詰められてしまってたから、その側面が隠れてしまいがちだったけど……。

 この人、普段は距離感を保ってるくせに、こっちが弱った時にはすっと踏み込んでくるんだ。

 

 思わず、ため息を吐く。

 本当、ズルい人だよ、まったく。

 

 ……でも、想いを共有するにしても、困ったことがあるんだ。

 そもそも私自身、その想いってヤツを纏められないってこと。

 

「そうは言っても、頭がゴチャゴチャしてて、自分でもよくわかってなくて」

「思考の垂れ流しでいい。人間……いや、ウマ娘も。話している内にこそ、考えが纏まったりするものだ」

「そう……ですか」

 

 思考の垂れ流し。頭の中のゴチャゴチャをそのまま吐き出せ、と。

 

 正直、他者に深い部分を知られるのは、抵抗がある。

 今では、親しい人にある程度見せるようになったとはいえ、私はこれまで自分を隠して生きて来た。

 思考を読ませないように、弱みを見せないようにして、ここまで生きて来たんだ。

 

 だから、自分の思考を他人に晒すのは、少し怖いけど……。

 

 でも……。

 今は、歩さんになら、いいかな。

 

 私は1つため息を吐いて、思ったことを、そのまま口からこぼす。

 

「……なんだか、調子が悪くて。ああいえ、ご心配なさらずとも、走りの調子が悪いわけじゃないんです。

 ただ……こう、心がもやもやする、というか」

「情緒不安定、ということか?」

「いや、その言い方はちょっとアレですけど……まぁ、似たようなものかもしれないですね。

 ここに来るんだって思うと、ちょっと心が、こう、シクシク痛むような……そんな感じがして。

 去年はこんなのなかったはずなんですけど」

「……うん」

「私は歩さんに助けられて……去年よりずっと楽しく走れて、お父さんやお母さんへの想いだって、ずっとずっと纏まって、普通になったのに、なれたと思ったのに……なんで、今更」

 

 そう。

 今の私は、以前に比べてずっとまともだ。

 

 お父さんの呪縛のような言葉も振り切り、過去に踏ん切りを付けて、走ることを楽しいと思えて、多くの友達や後輩、尊敬できる大人たちに囲まれて……。

 今、ホシノウィルムは、これ以上ないってくらいに満たされている。

 

 だと言うのに、まるでまだ過去に囚われているように、こうして苦しくなっている。

 なんで私は、こんな状態に……。

 

 そうして悩む私に、どこか悲痛そうな色を宿した、歩さんの声がかかった。

 

「……いや。君は、おかしくない」

「え?」

 

 その言葉に思わず顔を上げ、歩さんの方に振り返る。

 

 彼はゆったりとこちらに歩み寄り、私の隣にしゃがみ込んだ。

 その顔は、穏やかで、落ち着いて、そしてどこか寂し気で……。

 

 そうして彼は、静かに、私に教えてくれた。

 

 

 

「何もおかしくないよ、ウィル。

 ……中等部の女の子が両親の死を悲しむことは、何もおかしくないんだ」

 

 

 

「…………」

 

 その言葉に、何かを言おうとして……口をつぐむ。

 

 悲しんでいる。

 私が……両親の、死を?

 

「……なんで、今更?」

 

 だって、両親がいなくなったのは、ずっと前のことだ。

 お母さんも、お父さんも、ずっと前に、死んでしまった。

 死んで、もう二度と会えなく、なって……しまった。

 

「……あ」

 

 ズクンと、胸の奥底が疼く。

 

 痛い。

 切ない。悲しい。辛い。それらのどれが正しいのかは、ぐちゃぐちゃしててわからないけど……。

 今、私の胸は、確かに痛んだ。

 かろうじて抑えはしたけど、目にも涙が溜まりそうになった。涙腺が緩みかけた。

 

 ……歩さんの言葉は、正しいんだ。

 やっぱり私は……今になって、2人と死に別れたことを、悲しんでる。

 

 でも、なんで……なんで、今更?

 

「君は……走りに集中することで過去から目を逸らしていた君は、それを受け入れることで、自分の世界を再構成した。

 ……だからこそ、だよ。ようやく君は過去に向き合い、両親との死別を悲しむことができた」

 

 私が……。

 

 …………あぁ、そっか。

 

 そう、だったんだ。

 

 

 

 受け入れてた、つもりだった。

 

 両親が、死んでしまったことも。

 それが、自分のせいだってことも。

 全部理解して、受け入れている……つもり、だった。

 

 ……でも。

 考えてみれば、私、両親の死を悲しんだことはなかった気がする。

 

 お母さんがいなくなった時は、ただそれを事実として、呑み込んだつもりになってた。

 お父さんがいなくなった時は、ただ走ることに逃げて、現実を受け止められなかった。

 

 一度として、それに……家族がいなくなったという事実に、泣いたりしたことはなかった。

 ずっと「そういうものだ」って理解したつもりになって、受け入れたつもりになって、全然現実を見ていなかったんだ。

 

 

 

「……こんなつもりじゃ、なかったんです」

 

 知らず、想いが口からこぼれ落ちた。

 

「両親と、揉める気はなかった……家族として、親しくしたいって思って、それなのにこんなことになっちゃって……しかも、全部私のせいで」

 

 私が普通のウマ娘であれば、こんなことにはならなかっただろう。

 お母さんは私に嫉妬するようなこともなく、お父さんとは平和に過ごせたはずだ。

 

 家族との平穏を打ち壊してしまったのは、私の意思じゃなくて……。

 それでも、間違いなく、私のせいだった。

 

「お母さんと……仲直りしたかった。お父さんに私を見てほしかった。ずっと昔みたいに、3人で平和に過ごしたかった。

 でも、もう、それは……望めないん、です」

 

 ……あぁ。

 駄目だ。堪えられなかった。

 

 視界が歪む。世界の輪郭が歪み、ゆっくりと中央に纏まって、落ちる。

 

 痛い。

 胸が、痛い。掻きむしりたくなるくらいに、痛くて、辛い。

 

 自分のせいで失われたものがあって、それは二度と取り戻せないっていう事実が……嫌で、辛くて、怖くて、痛い。

 

「取り戻せない。戻れない。二度と、二度と私は……あの人たちに、『ごめんなさい』って言うことすら、できない」

 

 ぼたぼたと、熱い雫が零れ落ちる。

 とめどなく、留められず、石の上に落ちて行く。

 

「私は……私は、この世界に生きる、ウマ娘なんです。普通の、この世界に生まれた、子供なんです。

 最近、ようやくそれを理解できて……だから……だから、ようやく」

 

 力が抜けて、その場に座り込む。

 

 私が奪ってしまった未来(かこ)の前で、静かに、想いを吐き出した。

 

「だから、ようやく、悲しめたんですね。私を産んでくれた、大事な家族たちの……死を」

 

 等身大のウマ娘になって、この世界の住人になって、それでようやく、普通に泣けるようになった。

 それはすごく、すごく辛いことで……でも、これが一歩前に進んだってことなのかもしれない。

 

 

 

「……お母さんは、病弱なウマ娘でした。いつもベッドの上で、申し訳なさそうに、儚げに笑う人でした。

 私が走り出してからは、無視されるようになっちゃいましたけど……赤ちゃんの頃は、ゆっくりと絵本を読んでくれたり、楽しそうにお話をしてくれる、優しいお母さんだったんです」

 

 私の転生者としての素質を見て、自分との差を感じて、お母さんは心に嫉妬を落とした。

 まともに走れなかった自分の素質へのコンプレックスを刺激されて、精神の平衡を乱してしまった。

 

 ……私は、前世で大学まで進んだから、知ってる。

 大人というのは、特別なモノじゃない。聖人君子でもなければ無敵の存在でも魔法使いでもない、ただ人生経験を積み続けただけの、普通の人間やウマ娘だ。

 

 だから、嫉妬することもある。心が折られることもあるんだ。

 

 お母さんがああなってしまったのは、悲しいけれど、当然の帰結だったんだろう。

 私が、彼女の娘として生まれてしまった以上……どうしようもなく、避けられないことだった。

 

 

 

「……お父さんは、真面目な人でした。いつもお母さんのためにお仕事に行って、家庭を支えてくれて。

 お母さんがいなくなってからは、塞ぎこんじゃいましたけど……それまでは、じっと私の話を聞いてくれて、時々微笑んでくれる、穏やかなお父さんだったんですよ」

 

 今の私なら、少しだけ、お父さんの気持ちが想像できる。

 

 好きな人が、自分の子供を愛せず、精神を病んで……その果てに死んでしまったら。

 きっと私も、ズタボロに傷ついてしまうだろう。

 なんでこんなことにって、頭を抱えて、ふさぎ込んでしまうだろう。

 

 お父さんのそれも、責められるようなものじゃない。

 状況が招いた、悲劇的な事故と言っていいものだ。

 

 

 

 ……そして。

 その全てが、私の招いたものだった。

 

 お母さんが狂気に落ちてしまったことも、お父さんが現実を受け止められなかったことも、全て。

 

「私は、そんな人たちを……だから、だからっ、謝るべき、だったのに。謝りたかったのに……っ!」

 

 言葉が、乱れる。

 

 もう、心が散り散りで……言葉すら、まともに紡げやしない。

 

 それはもう、二度と取り戻せない、どうしようもないことなんだって……その事実が辛すぎて。

 

 

 

 …………あぁ。

 ようやく、理解した。

 

 これがかつて、歩さんが味わった気持ち。

 自分のせいで誰かが死んでしまって……二度と謝れないし償えない、取り戻せないっていう実感。

 

 私は、歩さん程真面目じゃない。善く生きたいとも思わないし、誰かのために生きたいとも思えない。

 それに、この事実に直面したのも、まだ精神的に余裕のない初等部の頃じゃない。前世も含めれば、精神的には十分な余裕がある今だ。

 

 ……それなのに。

 それなのに、こんなにも苦しいのか。

 

 取り戻せない。

 もう二度と……どうしようもなく、取り戻せないんだって。

 

 それが、嫌で、辛くて、痛くて、怖くて、苦しくて、悲しくて……。

 

 

 

「私が……私が、生まれなければ、2人は……!」

 

 思わず叫びそうになった、その瞬間。

 

 

 

 私の体を、温かさが包んだ。

 

 

 

「…………え」

「ウィル……もういい」

 

 地面に手を突いた私を、背後から、歩さんが……抱き締めていた。

 

 思わぬ事態に目を白黒させる私を、彼はゆっくりと抱き起して……。

 そして、改めて首に手を回し、ゆったりと包み込んでくれたんだ。

 

 

 

 ……え。

 

 あ、え? な、いや、え、その?

 だ、抱き……え、ハグ? これ? なんで?

 

「君が悪いわけがない。強く生まれたことに、罪なんてあるわけがない」

「いや、ちがっ!」

「違わない」

 

 反射的に言い返そうとすると、きゅっと腕の力が強まる。

 う、うぅ、ちょっと、それ反則……。

 

 顔が近い。匂いが濃い。それに、かっ、身体の感触が……。

 駄目だ、頭が沸騰しておかしくなりそう……!

 

「ウィル」

「な、何ですか……」

「生まれてきてくれて、ありがとう」

 

 その言葉に、過熱していた思考が、真っ白に染まった。

 

「……歩、さん」

 

 言葉に、詰まる。

 なんと言えばいいかわからなくて……ただ、彼の言葉の温かさが、心にじわりと広がって。

 

 ただ彼の名を呼んだ私に対して、彼は腕の力を強めた。

 

「君に会えて良かった。君の存在に救われた。君が生まれてきてくれて、本当に良かったと思ってる。

 ……そして、そう思っているのは、俺だけじゃない。

 ブルボンも、昌も、ネイチャもテイオーも彼女たちのトレーナーも、たづなさんも秋川理事長も、君の走りに魅了される全てのファンの方たちも、皆が君に会えて良かったと思っている。君を愛してくれている。

 忘れないでくれ。君がここにいて良かったと思っている者たちが、この世界には数えきれないくらいいることを。君の存在が、数多くの幸福を生んでいることを」

 

 ……なんで、そんな、ことを。

 

「なん、でっ……こんな時だけ、口が回るんですか、歩さん」

「こんな時だけって君、ちょっと失礼な……。いや、口下手な自覚はあるんだが。

 担当が……いや、君がそんな表情をしている時に、口を噤んでいる程に薄情なつもりはないよ」

 

 ……ズルい。

 本当に、この人は、ズルい。

 

 いつもはコミュニケーション面じゃポンコツなくせして、こういう時だけ……私が追い詰められた時だけは、言ってほしいことを言ってくれる。

 温かい言葉を、温かい気持ちを、惜しみなくくれるんだ。

 

 ……思わば私は、一番最初、そういう彼に惹かれた気がする。

 まだ走ることを義務的に感じていた頃、世界の冷たさに震えていた頃に、温かさを貰って……どうしようもないくらいに惚れてしまったんだ。

 

「……あぁ、もう」

 

 また、助けてもらっちゃった。

 私が弱った時に、この人はいつも……いつも、何度でも、助けてくれるんだ。

 

「もう、本当に……私のこと好きすぎでしょ、歩さん」

「まあな。君のことは世界で一番好きだと思うよ」

「!?!?」

 

 あっ……いや、違う! わかってる、これ、違うから!

 これはただ担当ウマ娘として好きってことで、そう! 別に男女間の好きじゃないんだよね、わかってるから、誤解とかしないから!

 

 

 

 思わず顔を赤くする私を抱き締めたまま、歩さんは……ボソリと、呟いた。

 

「……それに、きっと、どうしようもないわけじゃない」

「え……?」

 

 歩さんは少しだけ手の力を緩め、私の目を見て、言った。

 

 

 

「ウィル。君は、輪廻転生を信じるか」

 

 

 

「…………」

 

 心臓が跳ねたのは……果たして、今日、何度目だろう。

 

 輪廻転生。

 ……信じる。そりゃ、信じるに決まってる。

 だって私は、転生ウマ娘だ。ここじゃない世界から転生してきた転生者だ。

 輪廻転生(それ)が確かに実在することを、誰よりもよく知っている。

 

 でも、なんで……なんで今、彼が、それを持ち出してくるのか。

 それが、わからない。

 

「信じるか、って……信じない、ってわけではない……ですが」

 

 正直、その動揺を、上手く取り繕えた気がしなかった。

 心を揺さぶられ過ぎて、あまりにも急過ぎて、演技もままならなくて……。

 

 でも、幸いなことに、歩さんはそれに気付いた様子もなく、言葉を返してきた。

 

「そうか。……俺は信じているんだ。たとえ記憶はなくとも、俺たちには前世があり、そして死んだ後も来世があると」

「それは……何というか、ちょっと意外ですね」

「そうか?」

「歩さんは理論派な印象があったので……そういう、理論的でないものを信じるのは……」

「あー……確かに、俺らしくはないかもしれないが」

 

 歩さんは頭を掻いて、話を続ける。

 

「ともかく、俺は輪廻転生を信じている。理屈や理論を越えて、人間には次のチャンスがあると。

 ……だから、希望を捨てる必要はない。君にはきっと、次の機会がある」

「機会って……何の」

「仲直りをする機会だよ。

 ……確かに、今生ではもうあり得ないだろう。死は絶対的な断絶だ。決して覆りはしない。

 だが……生まれ変わった先で、いつか再び両親だった人たちに巡り合えるかもしれない。そしてそこでは、円満な関係を築けるかもしれない。……あるいはその頃には、もう記憶はないかもしれないが」

「それは……」

 

 それは、理想論だ。

 

 もしかしたら、転生するかもしれない。

 もしかしたら、両親だった人に巡り合うかもしれない。

 もしかしたら、今度こそ円満な関係を築けるかもしれない。

 

 もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら……。

 全部、仮定に仮定を重ねた理想論でしかない。

 

 だから……。

 もしも、自分で転生を経験していなかったら、そんな夢みたいな話、信じられなかっただろう。

 

「死に別れても、救いがあるって……そう言うんですね」

「ああ。きっとな」

「……本心から」

「そう、願っているよ」

 

 それは…………。

 

 

 

「歩さん、は……」

 

 ……あぁ、そうなんだ。そうなんだね。

 

 彼はもう、振り切ったんだ。

 

 彼の中で、何があったのかはわからない。

 どんな経緯で、それを振り切ったのかはわからない。

 けど、彼は……もう、過去を乗り越えているんだ。

 あんなに辛いことを、あんなに苦しい思いを、どんな経緯であれ、どうにかして、決着を付けたんだ。

 

 ……負けていられない。

 

 歩さんも頑張ったんだ。私も、前に進まないといけない。

 この悲しみを受け入れて、その上で、もっと前に進まないといけない。

 

 でも……今だけは、足を止めて、休んでもいいかな、歩さん。

 

 流れ続ける涙を見られないよう、改めて彼に抱き着く。

 

「……もうちょっとだけ、泣いてもいいですか。そしたら、また、頑張りますから」

「うん。君が大丈夫になるまで、好きなだけ」

「ありがとう……歩さん」

 

 そうして私は、それから5分程、歩さんの胸を借りて……。

 

 ……いい加減恥ずかしくなって顔を赤くするまで、彼の温かさに包まれていたのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 今も見てくれてるかな、お父さん、お母さん。

 どうだろう、もう転生しちゃってるかな。私のことなんて、忘れちゃってるかな。

 

 でも、もし見てくれてるなら……安心してほしい。

 

 私、すごく良い人に巡り合えたよ。

 もしかしたら、世界で唯一、「私」のことを理解してくれるかもしれない人に。

 

 どうか、私がそっちに行くまで、もうちょっとだけ待っていてほしい。

 

 私はこの世界で、ウマ娘としてしっかり生きる。最後まで生き切る。

 これから先、辛いことがあっても、苦しいことがあっても、絶対にこの世界を生き切るから。

 

 ……だから。

 

 その先に、希望を持っても、いいかな。

 いつか2人と、今度こそ幸せな関係を築けるって……そう、願っても、いいかな。

 

 

 

 そして、もう1つ、願いが叶うなら。

 

 私だけが知る、かつていた世界の人たちと……この世界のどこかで、出会えたらいいな。

 

 まぁ、その人たちには記憶もないだろうし、実際に会っても気付かないかもしれないし……。

 その人が生まれ変わりだって証明する方法は、どこにもないんだけどね。

 

 それこそ、私と同じように記憶を持って転生した誰かでもいない限り、これが叶うようなことはないんだろうけどさ。

 

 

 







 ウマ娘が存在せず馬が存在する世界から記憶を保持して転生してきた人間なんてどこを探してもおらんやろなぁ……。

 Next Uman's HINT!
「灯台下暗し」



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、もう1つの帰省の話。
 だいぶしっとりしちゃったし、次回はギャグ回……にしたいなぁ。
 隙あらばシリアスする癖、いい加減改めないと。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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自分から埋まりに来るタイプの外堀

 1日遅刻しました。お待ちいただいた読者様がいらっしゃったら、誠に申し訳ありません。
 ここ数日あまり執筆の時間が取れなかった上、ちょっとだけメンタルがぐらついてしまい、全く筆が乗りませんでした。
 今はしっかり復活しておりますので、これからも3、4日間隔での投稿は続けていきます!

 それはそれとして、親公認の関係構築RTA、はーじまーるよー。
 計測区間は親御さんに会ってから関係を認めてもらうまでです。
 はい、よーいスタート。





 

 

 

 名家の人間は、財産や権力、地盤といった大きな力を持つと同時、ある程度の責務を負わされる。いわゆるノブレスオブリージュというヤツだ。

 というかそもそも、名家というのはかつて何らかの責務を果たすために力を結集させ、団結した一族だったりすることもあるのだが……まぁ、今はそれはさておいて。

 

 貴族……日本で言えば名家。その権威がパワーダウンした現代においても、名家が力と共に責務を負うことは変わらない。

 堀野家に属する俺や昌もまた、例外ではない。定期的に本家に戻って色々と報告したり記録を収めたりする義務を持つわけだ。

 

 この「定期的」というのは大体1年に1度程度のことを指すんだが……前回1年半という長期間家に帰らなかった俺は、母さんから「もっと帰って来てくれると嬉しいわ、お母さんも、お父さんもね」と仰せつかってしまった。

 母さんは、堀野家において絶対的権力者だ。母さんがカラスが白いと言えば白いし、もっと帰って来いと言えば帰る必要があるのだ。

 

 ……いや、これに関しては名家の責務とか関係なかったな。

 ただ親にお願いされて、それを叶えているだけ。一般家庭でもよくある光景だろう。

 

 そんなわけで、1月下旬、URA賞授与式の準備が始まる前。

 俺は昌を伴って、堀野の本家に帰省する……つもり、だったんだが。

 

 

 

「ウィル、俺は25日土曜日に実家に帰省するので、その間は……」

「えっ、帰省って実家ですか? じゃ、じゃあ行きます、私も行きますそれ!」

 

 

 

 何故かこの子も付いてきちゃったのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「へぇー……こんな山奥だったんですね、お2人のご実家」

 

 実家の持ち山を登っていく中で、ウィルはきょろきょろと周りを見回しながら、俺と昌の後に付いて来ている。

 ……いや、ホントに付いてきちゃった。付いてきちゃったよこの子。

 

 なんとも言えない気分で彼女の方を窺っていると、横にいる昌が囁いて来る。

 

「……ねえ、良かったの? ホシノウィルムさんを連れ出しちゃって。学園に残ってる、ブルボンさんの近くに誰も残らないし」

「ひとまずブルボンのことはネイチャのトレーナーに任せてはいる。あと、俺はあっちでトレーニングして待ってるように言ったんだけど……」

「けど?」

「……『自主トレめっちゃ増やしますよ』って言われて」

「脅しに屈してるじゃん……」

 

 いやぁ、そうなんだよね。

 

 土台、堀野のトレーナーは、ウマ娘の要求に弱い。

 彼女たちの心を何よりも重要視する在り方は、つまるところ彼女たちが「やりたい」と言い出したことに絶対服従という意味でもある。

 故に、こうして担当ウマ娘が「行きたい!」と言い出せば、それに逆らう訳にはいかないのだ。

 

 ……とはいえ、俺は既に堀野のトレーナーを脱して久しい。

 彼女たちの衝動的な願いよりも、大局的な視点で見て必要な行動を優先させることも、選択肢の1つとして持っている。

 

 持っている……ん、だが。

 だからと言って、彼女たちの望みを無視できるかと言われると、それはまた話が別なわけで。

 canとwantは違う。たとえそれが可能であろうと、俺自身がそれをやりたいと思えないんだよなぁ。

 

 ウィルのお願いは、拒めない。

 なんでなんだろうな。あの綺麗でキラキラした目で見上げられると、つい譲歩したくなっちゃうんだよ。脅されたりしなくとも、普通に願いを叶えてあげたくなるんだ。

 この子、もしかしたら人たらしの才能があるのかもしれないな。後輩にもかなり慕われてるし。

 

 

 

 ……と、そんなことを考えていたら。

 

「あの、ウマ娘の耳の良さ忘れてます? 全部聞こえてますからね。

 ……いや、脅したのはちょっと申し訳ないですけど、いいじゃないですか1日くらい。ここ数日色々忙しなかったですし、ちょっと気分転換ってことで」

 

 ウィルはちょっと唇を尖らせ、逸らしてしまった。

 ちょっと負い目を感じてる様子を見るに、彼女自身、強引だった自覚はあるらしい。

 

 なんでそんな自覚の上でウチに来たがったのかは謎だけども……。

 取り敢えず、ウィルのそういう顔、あんまり見たくはないな。

 

「ま、いいと思うよ。ウマ娘が遠出する際、トレーナーが引率することは珍しくない。これもその一環だと思えばいい」

「いや、担当が男性トレーナーの実家に行くって、世間体も相応に悪い気がするんだけど……」

「!!」

「? ……あぁ、そういう捉え方もできるか。まぁそれなら、昌が付き添いってことでいいんじゃないか」

「……はぁ」

 

 ウマ娘は性別で言えば女性だし、アイドル的な側面で見れば、男性トレーナーと出歩くことは良くないイメージを受けるかもな。

 それも近所に気晴らしにいくのではなく、トレーナーの実家に行くというのは、そういう方向性の誤解を与えてしまうかもしれない。

 

 だが、ウィルの担当トレーナーは俺だけではなく、昌も該当する。そちらを主体として捉えれば大きな問題はないと思うが……。

 

「いや、そういう問題じゃないでしょ。マスコミにでも抜かれたらどうすんのって言ってんの」

「ホシノウィルムの脚には昨年の苛烈な走りによって調整の必要性が発生した。彼女自身が名家出身でなく頼れる親類もいないため、契約トレーナーのコネを使い、堀野家の専門的施設で行うことになった、と」

「もう言い訳考えてるし。対策は万全ってわけ?」

 

 そりゃあね。

 担当が行きたいと言えば行かせるし、そこに発生する問題を解決するのがトレーナーのお仕事だ。二重三重の予防策は既に敷いているとも。

 ……まぁ、俺の世間体の悪化は避けられないかもしれないが、そんなのは彼女の願いに比べればどうでもいいことだし。

 

 ウィルの変装、偽装工作、徹底的な尾行対策。

 ここまでやればまずバレはしないだろうし……仮にバレたとしても、大きな問題には発展させず、収めてみせるさ。

 金に権力、コネに威圧。バ鹿とハサミは使いようだし、使えるものは何でも使うのが大人だからな。

 

 

 

 ちょっと仄暗いことを考えている内、ずっと続いていた森の木々が途切れる。

 そして俺たちの視界に、冬の温かな日差しに照らされた、大きな壁と門が現れた。

 

「さて、ようこそ堀野本家へ。歓迎するよ、ホシノウィルム」

 

 そう言って、俺が彼女の方に振り返ると。

 

「お、おぉ……お邪魔します」

 

 意外にも、彼女はこれまでにないくらいに動揺していたのだった。

 

 ……なんで公式レースとかG1レース、クラシックレースなんかより、ただのお出かけで緊張してるんだこの子は。

 ホシノウィルム、本当に難解なウマ娘だな……。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 何を今更という話だが、堀野の実家は、俺にとってのホームグラウンドだ。

 なにせ転生してから実に20年以上をここで過ごしたわけで、そりゃあ慣れや愛着も発生する。

 最近はトレセン学園のトレーナー室もそこそこ馴染んできたが、それでもやっぱり、一番親しみが持てるのはここ、堀野本家……。

 

 の、はずなんだが。

 

「……?」

 

 開けてもらった門を潜り、2人を連れて本邸に向かいながら、軽く首を傾げる。

 

 なんか、妙だな。

 前回ここに来たのは約半年前。そこまで極端に時間が空いたわけでもない。

 なのに今、俺は……違和感というか、真新しさのような感覚を覚えている。

 

 目線を動かして庭を見回しても、特に何か変わったところがあるわけでもない。

 相変わらず丁寧に整備された庭園とターフ。今は冬だから彩りは少ないけど、それでも見慣れた様式美がそこにはあった。

 

 それなのに何か、こう、落ち着かないというか、見慣れないというか。そんな感触を覚えるんだ。

 

 何故だろうかと頭を捻り……ふと、思い至る。

 

 そういえば俺、こうやってしっかりとこの家を見るのは……初めてかもしれないな。

 

 思えばこれまでの人生、俺はトレーナーになるという目標に追い立てられるように生きてきた。

 とにかく頑張って、努力し続けて、より良いトレーナーになろうと、より良いトレーナーであろうと心がけて来た。

 

 だからこそ、外観を把握するために見ることはあれど、こうしてぼんやりと目的もなく周りを見渡すことは……なかった気がするな。

 

 気が緩んでいる……いや、スカイの言い方で言えば、肩から力が抜けた。

 俺のその変化が、景観を眺める心持ちにも変化をもたらしている、と……そういうことだろうか。

 

「ふむ……」

 

 なんというか、不思議な感覚だ。

 正直、俺には自分が大きく変わったという自覚がない。最近気が抜けていると思ってはいたが、価値観やものの見方が変わるレベルでのものだとは思っていなかった。

 だが、こうして外的な要因を以て観察すれば、確かに俺は、以前から大きく変わっているらしい。

 

 そして俺は、そういった自分の変化を……どうやら好ましく思っているようだった。

 

 トレーナーとしては、あまり好ましくない変化だとは思う。

 滅私奉公もできずに何がトレーナーか、という思いはあるんだが……。

 

 それ以上に、今の方が……ウィルやブルボンたちのトレーナーとして、「彼女たちを支えなければ」と思うのではなく、「彼女たちを支えたい」と思える今の方が、良い……気がする。

 

 何の根拠もなく、ただ直感的にそうした方がいいんじゃないかって思うだけなんだけど……。

 なんでだろうな。そうやって「俺」らしく生きた方が良いって思うのは。

 

 

 

 と、そんなことをぼんやり考えながら、落ち着かないウィルをなだめている内に、本邸玄関に到着。

 俺はインターフォンのボタンに手を伸ばして……。

 

 それを押す直前、扉が開いた。

 

 背後でびくっと震える気配。俺と昌は慣れているから、やはりウィルのものだろう。

 ……いや、流石に緊張しすぎなのでは? 何ならこの前君の両親のお墓を訪ねた時より緊張してる。

 

 あー、いや、堀野本家って結構大きいからな。その辺に場違いを感じてるんだろうか。

 名家と言っても普通の家庭とそう変わるわけじゃないし、緊張なんて感じる必要はないんだけどね。

 

 と、それより今は、目の前の人に対応しなければ。

 

 

 

 突然開いたドアの奥からは、1人の女性が現れた。

 ……いや、現れたというか、突っ込んできたっていうのが正確か。

 

 俺はもう慣れたもので、無感動に彼女の抱擁を受け止めた。

 

「おかえりなさい、待ってたわ~!」

 

 かかる言葉と、割と本気でぶつかってくる小さな感触。

 

 まったくこの人は、何年経っても変わらないな。俺に人の心がなかったら「年甲斐もなく」なんて表現を使うところだったよ。

 ……いや、昌のそれの元になっているだろう童顔っぷりで、見た目からはそこまで違和感を覚えないのがなんとも恐ろしいけども、それはともかく。

 

 俺はその人の肩をポンポンと叩き、いい加減放してくれないかなーとアピール。

 ちょっとほわほわしてる人ではあれど、彼女は決して空気が読めない人でもなければ、子供に嫌なことを強いる人ではない。

 すぐさま、俺は無事に解放された。

 

 顔が離れたことで見ることができたのは、流石にウマ娘には勝てないもののそこそこ整った顔立ちの、見た目30代に入るかどうかの女性。

 昌と違って背丈は低い方だが、顔の造形なんかは結構そっくりだ。……まぁ、昌はいつも厳しめの表情をしてるから、いつもふんわり微笑んでるこの人とはだいぶ印象が違うんだが。

 

 で、その人は俺たちを見て、改めて口を開く。

 

「あっ、ごめんなさいね、ちょっと興奮しちゃって。

 改めておかえりなさい歩、昌。それにいらっしゃい、ホシノウィルムさん……」

 

 彼女の視線は、俺たちを順番に行き来して……。

 しかし、ホシノウィルムのところで、止まった。

 

 そして、彼女にしては珍しく驚いたような表情をした後、俺とウィルの間で数度視線を行き来させ、少しばかり考え込む様子を見せて……。

 

「なるほど。今日はお赤飯ね?」

 

 そう言ったのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 その人を端的に表せば、「無敵」という表現が正しいと思う。

 

 堀野家の母。彼女はこの家における絶対権力者、序列最上位、トップティア、またはピラミッドの頂点。

 

 父のように、トレーナーとしての能力が非常に高いわけではない。

 兄のように、精神的に卓越しているわけでもない。

 妹のように、とんでもなく真面目で前向きなわけでもない。

 

 ただ彼女は……こう、なんというか、常に余裕があるのだ。

 

 たとえば、昌が食卓で俺にキレ散らかしてる時も。

 たとえば、兄さんが色恋関係でやらかしてしまった時も。

 母さんはいつでも笑顔を保ち、俺たちのやり取りや失敗、そして成功を、微笑ましそうに見守っている。

 

 それだけだったら、ただのおっとりしてる母親なんだけど……流石と言うべきか、家庭の平和を守り続けた堀野家の母は、それだけでは終わらない。

 

 母さんは……とんでもなく察しが良く、理解が早いのだ。

 

 

 

 玄関に立つ俺たちに向かって、母さんは心底楽しそうに、あるいは嬉しそうに、ほにゃりと笑った。

 

「つまり、歩はホシノウィルムさんにたくさん助けられたのね。すっかり余裕が出て、まるで若い頃のお父さんみたい。

 ありがとう、ホシノウィルムさん。これからも、この子のことを支えてあげてくれると嬉しいわ」

「……いや、母さん。つまりも何も、俺はまだ何も説明をしていないのですが。再会してから10秒なのですが」

 

 1を聞いて10を知るという言葉があるが、あれはまさしく母さんに相応しい言葉だ。

 いや、まだ何も話してない内から、俺やウィルの表情を見ただけでこの数年のことを粗方察してしまうのだから、もはや何も聞かず100くらいを知っているような気もする。

 

 相変わらずの話の速さ、そしてテンポの早さに思わず苦笑していると、彼女は「あらあら」とでも言わんばかりに頬に手を当てた。

 

「歩は産んだ時からずっと張り詰めていて、少し不安だったけれど……うん、ホシノウィルムさんなら大丈夫そう。お母さん、すっごく安心したわ。でも、くっついたらそこがゴールインじゃないからね? 気を抜いちゃダメよ?」

「えっあっ、その!?」

 

 わかりにくい母さんの言葉に、背後にいたウィルはびくっと反応したようだった。

 

「ウィル、母の言葉は半分聞き流していい。慣れてくれ……とは言わないが、まぁこういう人なんだなと了解してくれると助かる。

 で、母さん。やめてほしいとまでは言いませんが、初めて会ったウマ娘に対して、いささか距離感が近いかと思います。もう少しきちんと言葉を飾るべきかと」

「え、そうかな? そうかも……」

 

 母さんはびっくりしたような顔をした。……けど、本当に驚いている感じではない。俺が苦言を呈するところまで織り込み済みって感じだ。

 本当、こういうところがな……。なんで「自分はわかるんだから相手もわかってるだろう」みたいな話し方しかできないんだ、この人。

 

 何と言ったものかと口を閉じた俺の代わりに、横にいた昌が呆れたような声を上げる。

 

「母さん、ゲストの前なんだから、はしゃがないで下さい。

 それに、そういうコミュニケーション不足が回り回って兄さんの言葉足らずさを招いてるんですよ。思考過程とそう考えた根拠をちゃんと明示してくださいって言いましたよね?」

「あ、昌ちゃん、良かったわね。これで昌ちゃんも一安心でしょ?」

「くっ、この……もういいから黙っててください!」

「えー? もっとお話ししたいんだけどなぁ」

 

 

 

 ウチの母親は、こういう人だ。

 

 なんというか、無敵。何を言ってもまるで予想していたかのように動じないし、こちらが伝えたい旨を正確無比に読み取り、そこから何歩も先の回答を返してきたり、あるいはまったく別の流れのようにさえ思える言葉を投げかけてきたりする。

 とんでもない察しの良さと独特なテンポ感のせいで、話しているだけで自然と母さんのペースに乗せられてしまうんだ。

 

 ちょっと言い訳みたいになってしまうけど、昌の言う「俺のコミュニケーション力不足が母さんに一因がある」っていうのは、正直ちょっとだけありえる気がする。

 なにせ母さんは、というか俺の家族はかなり察しが良い。複雑に言い繕わなくても理解が得られるんだ、そりゃあ口数も必要なければ減っていくというもので。

 

 

 

 ……しかし、一安心か。昌が何を一安心したって……?

 あ、もしかして年末、車に轢かれた時のことかな。あの優しい昌が、昏睡状態の肉親を心配しないわけがないし。

 

 …………ん、車に轢かれた?

 

「あ」

 

 ……そういえば、そうだった。

 ここ最近色々あって、あの事件のことがすっかり頭から飛んでいた。

 まずはあの件に関して、心配と迷惑をかけたことを謝らなきゃいけない。

 

「……改めて、その」

「いいのよ、歩。謝らないで。あなたが悪いわけじゃないんだから。無事に目を覚ましてくれただけで、お母さんは嬉しいわ」

 

 彼女は慈愛に満ちた目で、俺の手を取った。

 

 ……あぁ、この人には、本当に勝てない。

 流石はグレかけた昌をすんでのところで引き留め、堀野家の波乱を何度も鎮めて来た母親。

 相手への気遣いという面じゃ、勝てる気がしないな。

 

「じゃあ、せめて感謝を。……今まで、こんな俺の面倒を見てくれてありがとう、と」

「! ……ふふふ、いいのよ! ほら、入って入って! ホシノウィルムさんも、ほら!」

 

 母さんは、今までにないくらいに楽しそうな笑顔で、改めて俺たちを招き入れてくれた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 その日は、かなり忙しい1日になった。

 

 俺と昌が父さんに報告書を提出して色々と話をしている間、ウィルは母さんと2人きりで何か話していたらしかったり。

 で、小一時間経ってもまだ緊張している上、何故か顔を真っ赤にしているウィルと合流して、皆で昼食を取る中で、ウィルを父さんに紹介すると、何故か父さんもウィルもガチガチに固まってしまったり。

 と思ってたら、ウィルは案外早く父と打ち解けて、レースについて議論を交わすような仲になったり。

 その間、俺と2人で母さんの相手をしていた昌からは「……久しぶりだけど、やっぱり疲れる」と愚痴を零されたりもして。

 良い時間になったのでそのまま夕食を取り、母さんが「それで? 式はいつの予定なの?」などと言い出して一波乱あったりと。

 

 ……本当に忙しく、そして騒がしい1日だった。

 主に母さんのせい……いや、おかげで。時間は瞬く間に過ぎて行ったのだった。

 

 

 

「なんというか、その……すごいご家庭でしたね」

 

 夕陽が沈んだ頃、俺の私室にて。

 ウィルは疲れ果てたように息を吐いた。

 

 ……いや、「ように」じゃなく、実際疲れたんだろうな。

 

 彼女は純粋な体力で言えば、とんでもないものを持っている。

 なにせ彼女は競走ウマ娘で、それも無敗で三冠を取った超一流と言っていい存在だ。

 時速15キロメートル程度の速度なら1、2時間ぶっ通しで走れるくらいには、人間離れした体力を持っている。いや人間離れっていうか、実際人間ではないわけだが。

 

 だが、精神的な面で言えば、彼女はただの中等部の女の子。それも過去の経験の薄さから、家庭での触れ合いに慣れていないはず。

 知らない家庭の中に突然投げ込まれれば、そりゃあ緊張で気疲れもしてしまうってものだろう。

 

「お疲れ様、ウィル。すまなかったな、母さんがあんなで」

「い、いえっ、全然疲れてなんて……というか、すごく楽しかったですし」

「『ちょっと疲れましたし、休憩がてらに少し話しませんか』なんて言ってきたのは君だろうに」

「……はい、すみません、嘘吐きました。正直に言うと、ちょっと疲れはしましたね。

 でも、すごく楽しかったのは本当ですよ? ……ゲストとしてとはいえ、家庭の温かさに触れたのは久々でしたから」

「……そうか。君が楽しめたなら何よりだよ」

 

 ソファの隣に座り、ちょっとだけ体を傾けてアピールして来るウィルの頭を軽く撫でる。

 

 風呂上りということもあってか、触り心地の良い髪だ。ウマ娘は特別なことをせずとも髪質までも整うという話だったが……何も手入れせずともここまで心地の良いサラサラとした感触になるものだろうか?

 俺の髪なんか結構芯が通ってる感じで……いや、そもそも人間とウマ娘で容姿を比べるのが間違いかもしれないけども。

 

 機嫌良さげに尻尾を揺らしていたウィルは、更にこちらに頭を寄せながら言ってくる。

 

「それに、あの……お義母さん、私、好きですよ」

「ん、そうか? なら良かった」

 

 なんか若干引っかかるようなニュアンスだけど、わざわざツッコむこともないかとスルー。

 

 人によっては、傍にいるだけでペースを乱される母さんを受け入れられず、生理的に拒んだりすることもある。彼女がそうでなかったことは幸いだろうか。

 

 ん? いや、言うほど幸いか?

 冷静に考えると、トレーナーの家族と担当ウマ娘の相性が良いのは、別にそこまで幸いってわけでもないかな? そもそも接触することも多くないだろうし。

 

 ……いや、自分の好きな人同士の仲が良いのは、それだけで嬉しいものだ。

 やっぱり、ウィルと両親の相性が良さそうなのは、幸いだったな。

 

 

 

 俺が脳内でよくわからない結論を出していると、ふとウィルが口を開く。

 

「……そ、その、そういえば、なんですけど。やっぱりアレでしょうか。トレーナーと……将来的に添い遂げるウマ……人って、やっぱり礼儀作法とかそういうの、身に付ける必要があったりするんでしょうか」

「ん?」

 

 風呂上りだからか赤い顔で訊いて来る彼女に、ちょっと首を傾げる。

 なんでそんなことを聞いてくるんだろう。何かそんなことを意識する必要があっただろうか。

 

 ……あぁ、そうか。

 さては、昼食と夕食の時のことを気にしてるんだな、ウィル。

 

 彼女は一般家庭の出身で、テーブルマナーとかそっち方面には強くない。

 その結果として、ウチで出て来る食事には、ちょっとばかり苦戦していた。

 

 だが、それは学ぶ機会がなかっただけ。仕方のないことだ。

 ゲストなんだからその辺は気にしなくていいと言ったんだけどね。

 

 そもそも堀野の家は、名家かと言えば間違いなく名家ではあるものの、時代の流れに沿って一般家庭に近い在り方に迎合している。

 勿論マナーや品格の教育や、ウマ娘育成のメソッドの継承は続いているものの、それを強制されることは多くないし、トレーナーになることを強いられるわけでもない。

 

 故に、ゲストが多少マナーを失したところで、それを責めるようなことはない。

 更に言えば、それが家の者の担当ウマ娘で、必死に不慣れなマナーを守ろうとしているのならば尚の事。

 彼女の真面目さ、懸命さを評価する者はいこそすれ、眉をひそめるような者はいない。

 

 しかしそれはそれ、これはこれ。外からどう見られているかと、自分がどう思うかはまた別の問題だ。

 ウィルはそうして無作法を見せてしまったことに、恥を覚えたんだろう。

 故に、その恥ずかしさを誤魔化すためにこれを訊いて来た……と。そんなところだろうか。

 

 ふふふ、俺も伊達に彼女と一緒にいるわけではない。多少は察しも良くなってきたかな。

 こんな質問で彼女の気が紛れるなら、喜んで答えようとも。

 

「ふむ。まぁ、繋がりのある家以外から招くとなると、ある程度は覚えてもらうだろうな。名家というものは力を持つ分、負うべき責務もまた大きいものだ。

 ……とはいえ、そういった在り方が現代にそぐわないのは事実。そこまで徹底的な教育を施したりするつもりはないが」

 

 

 

 ……ま、俺がそんな相手を持つのは、ずっと先のことだろうけどね。

 今はトレーナー業……ホシノウィルムたちを見ることに忙しいし、とてもじゃないがそんなことを考えている余裕はない。

 更に言えば、自分が妻を持つというのは……なんというか、想像し辛いし。

 

 俺は今、既に完成された……とまでは言わないが、十分に満足のいく環境にいる。

 ホシノウィルムのトレーナーとして、そしてブルボンのトレーナーとして、サブトレーナーである昌と共に彼女たちを支える。

 この関係に、全く他の女性が挟まって来て、そこに時間を割く必要があると考えると……満たされるような気持ち以上に、「邪魔だな」という感情の方が先立ってしまう気がする。

 

 そんな状態で配偶者など作れるわけもない。

 前世からそうだったように、しばらくは仕事を恋人にする生活が続くんだろうと思う。

 

 ……いやまぁ、昨年末もそうだったように、人生というのはいつ何が起こるかわからない。

 案外相性の良い相手を見つけて結ばれたりすることもあるかもしれないし、逆に一生そんな相手は見つからないかもしれないが。

 

 

 

 なんとも言えない未来への不透明に、俺は微妙に言葉を濁してしまったが……。

 

 対してウィルは、何故か逆に緊張したような固い気配を出してしまった。

 

「そ、そうですよね。……よし、その、頑張りますね!」

 

 え、頑張る? 何を?

 

 ……いや、そうか。

 

 冷静に考えれば、その答えは1つしかないよな。

 

「あぁ。だが、君1人で頑張るんじゃない。俺と君、2人で頑張る。そうだろう?」

「ひゃえっ!? あ、や、そ、そうですね!? ……え、嘘、そんな、え? ホントに?

 

 そう、ホシノウィルムは競走ウマ娘。

 競走ウマ娘である彼女が頑張るとなれば、それは競走、つまりレースのことに他ならない。

 

 彼女が存分にレースに集中できるよう、日程やトレーニングメニューの調整はこちらで頑張らないとな。

 

 改めて決起する俺の横で、何故かウィルは縮こまっていたのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ちなみに。

 この日、俺と彼女がすれ違っていたことが発覚したのは、ずっと先のことだった。

 

 

 







 今夜はお赤飯になったところでタイマーストップ。
 記録は4秒6です。ぶっちぎりのワールドレコードです、お疲れ様でした。
 完走した感想ですが、堀野(母)の圧倒的察しの良さに助けられた形になりましたね。このレギュレーションでは堀野(母)の理解力が必須だと思います。



 ホントはあと2、3話くらい堀野家でイチャイチャしてもらおうかとも思ったんですが、いい加減ストーリー進めないとなので泣く泣くカットしました。
 堀野母姉+ウィルでのお風呂シーンとか、堀野家のターフを走るウィルとか、呪いの解けた状態でのお父さんとの会話とか書きたかったんですけどねぇ……。これはまた次の機会ということで。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、URA賞授与式の話。



(追記)
 気付けば今回で連載100話を達成していました。
 ここまで書き続けられたのは、応援してくださる読者様のおかげです。
 ご愛読ありがとうございます!

(追記2)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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ウィル・ウィル・ロック・ユー

 いよいよタイトルが思い付かず2時間くらい悩んでました。
 良い感じのタイトルを作ってくれるAIの開発、待ってます。





 

 

 

 URA賞。

 それは1月末、URAから今年度……というか去年、レースで活躍したウマ娘に、新たな勝負服と共に送られる表彰だ。

 

 このシステム、私はあんまり詳しく知らないけど、URAがレース関係の記者さんとかメディアさんに声をかけ、投票でそれぞれの分野ごとに去年活躍したウマ娘を選出するのだとか。

 

 選ばれる分野っていうのは、世代を選ばない最優秀ダートウマ娘と最優秀短距離ウマ娘の他、世代ごとに最優秀シニア級ウマ娘が2人、最優秀クラシック級ウマ娘が2人、最優秀ジュニア級ウマ娘が2人ずつって感じ。

 

 「え、最優秀なのに2人なの?」って思うかもしれないけど、どうやらこれは通例で「違ったレース、違った領分で活躍した2人の最優秀を決める」ってことになってるらしい。

 例を挙げると、今年の最優秀クラシック級ウマ娘の内片方はこの私、クラシック三冠を獲得したホシノウィルムなんだけど、もう片方はティアラ路線で活躍した子になったとのことだ。

 

 ……これ、もしかして前世史実では牡馬と牝馬で別れてたとか、そんな感じなのかな。

 私、前世じゃ競馬関係は殆ど触れなかったからなぁ。もうちょっと知ってれば、この辺の事情も呑み込めたのかもしれないけども。

 

 

 

 で、ちょっと話は逸れたけど、最後に残った選考基準が……。

 それらの中でも、一年度を通して最も活躍したとされる、年度代表ウマ娘だ。

 

 これに選ばれることは、どうやら大変名誉なことらしい。

 なにせ地方も含めた全てのウマ娘の内、最高の成績を残したのだと公式に認められることになるのだ。

 そりゃあ、人生最高の表彰と言ってもいいだろう。

 

 そして、今日。

 私はそんな名誉を、受け取ることになるのだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「それでは、昨年度のURA賞の発表に移らせていただきます!」

 

 広いはずの、けれど詰めかけた多くの記者たちによって手狭にさえ感じるような会場、高級ホテルのパーティホールに、司会の高らかな声が響く。

 続いて、記者たちのカメラのフラッシュがぱしゃぱしゃと焚かれ、私の目を焼いた。

 

「う」

 

 私は思わず、目の上に手をかざしてしまう。

 

 仕方がないとはいえ、ウマ娘にはちょっと眩しいんだよね、フラッシュ。

 いや、私はそこまで気にならないタイプなんだけど、それでも急にやられるとちょっと眩しいんだよ。特にこうやって、薄暗い舞台袖で待機してる時なんかは。

 

 

 

 「仕方ないことだけど、勘弁してほしいなぁ」なんて思っている私に、話しかけて来るウマ娘が1人。

 

「あら、ウィルムさんはフラッシュが苦手なんですの?」

「マックイーンさん」

 

 私と同じく、今回の表彰を受けるメジロマックイーンさん。

 尊敬できる先輩であり、最高に熱いレースができるライバルであり、そして個人的にちょこちょこ付き合いのある友人でもある彼女が、こちらに向かって軽く手を上げ、歩み寄って来ていた。

 

 その姿を見て、私は思わず息を呑みそうになる。

 淡い青緑を基調とする落ち着いたドレスに、深い緑のスカート。

 少し意外な、彼女のイメージからは離れる色で着飾ったマックイーンさんは、しかしそれらを完璧に着こなしている。

 綺麗な衣装なのに着せられている感が全然なくて、なんというか、まさに名家のお嬢様って感じだ。

 

「ドレス、よくお似合いですね」

「ありがとうございます。私としてはエンパイアスタイルと迷ったのですが……ウィルムさんに褒めていただけるのでしたら、こちらにした甲斐がありましたわ」

 

 照れくさそうな様子も見せず、それでいて嫌味のない笑顔を浮かべるマックイーンさん。

 褒められた時にすっと切り返せるの、慣れを感じるな。私だったら照れてしまって、まともに返事できなかっただろう。

 歩さんもその辺しっかりしてるし、やっぱりこの辺は名家出身の人やウマ娘たちの威厳って感じ。私も頑張って追い付かないとなぁ。

 

 ……ていうか、エンパイアスタイルって何? 文脈的に、ドレスにそういう様式があるんだろうか。

 後で歩さんに教えてもらおうかな。ちゃんと憶えられるかは別として、歩さんとの会話の種は多いに越したことはないし。

 

 こっそりと企みを巡らせている私を前に、マックイーン先輩は笑顔のままに告げて来る。

 

「ホシノウィルムさんも、よくお似合いですわ。やはりあなたには薄灰色がよく映えますわね」

「そうですか? えへへ、実はこれ、トレーナーが選んでくれて……」

 

 今私の身を包んでいるのは、先日トレーナーが贈ってくれたドレスだ。

 フィットだとかフレアーだとか言っててよくわからなかったけど、とにかく割と一般的で使いやすいものなんだとか。

 

 薄い薄灰色を基調とし、各所にキラキラと白色が散りばめられ、胸元には深紅のバラでワンポイント。

 私から見ても、可愛らしさと華美さを両立した良いデザインだと思う。

 強いて言えば、ちょっとだけ子供っぽいかな? まぁ身長的に仕方ないかもしれないけど。

 

 歩さんは「素材が良いから簡単に選べた」って言ってたけど、なんでカジュアルな服を選ぼうとするとああなるのに、ドレスとなるとセンスがあるんだこの人。

 いや、名家の教育の賜物なんだろうけど、あまりにも落差が酷すぎるでしょ。もうちょっとこのセンスを流用とかできないかなぁ。

 

 

 

 ……ま、いいや、それはともかく。

 私は今、歩さんに選んでもらった服に身を包んでいるわけだ。

 

 自慢するような気持ちで軽くその場でターンすると、隣から軽い咳払いが聞こえた。

 

「んんっ、ウィル」

 

 慌てて、崩れかけた相好を立て直す。

 いけないいけない。常に余裕を持った笑顔、と。

 

「……えへへ。えと、お褒めいただき恐縮です」

「そうなのですね」

 

 取り繕うように笑うと、マックイーンさんは特に言及することもなく対応してくれる。大人の……いや、令嬢の余裕って感じでカッコ良いな。

 私が一般家庭と名家の差をまざまざと見せつけられていると……しかし、彼女は少しだけ表情を崩す。

 

「……少しうらやましいような気もしますわ」

「羨ましい、ですか?」

「私のトレーナーさんは一般家庭出の身ということもあり、その辺りの情報に疎いのです。あの人にドレスを選んでいただければ……と。少し、ウィルムさんをうらやましく思ってしまいますね」

 

 あれ、そうなんだ。名家の期待されたウマ娘って、基本的に名家のトレーナーが契約することが多い、みたいな話を聞くけど……。

 

 

 

 ……あぁ、そう言えばマックイーン先輩って、あんまり期待されてなかったって話だったっけ。

 

 ちょっと前に歩さんから聞いた話。

 デビュー前のマックイーンさんは、同世代のメジロのウマ娘の内でも三番手って評価だったらしい。

 なんでも幼少期の骨格の成長が微妙で、本格化も遅れがち、更には骨膜炎まで発症したってこともあり、菊花賞で花開くまではメジロ本家の方々にもそこまで期待されていなかったのだとか。

 

 だから名家じゃない、一般のベテラントレーナーさんが付いたのかな。

 ……結果として、それで菊花賞を制してるんだから、あるいはその人こそ彼女にとっての運命の人だったのかもしれないけど。

 

 まぁこの実力主義の世界じゃ、いくら名家って言っても、絶対的な指標じゃないもんね。

 

 名家は、あくまで歴代のメソッドとか在り方を受け継いでて、その血をより洗練させてるってだけ。

 場合によっては一般からそれを上回る人材が出て来ることもある。具体的に言うと私とか。

 

 更に言えば、トレーナーのベテラン云々だってあくまで判断基準の1つに過ぎない。

 それは仕事に慣れてて実績もあることを示すけど、だからって必ずしもベテランが新人に優っている証明にはならない。

 場合によっては、ベテランのトレーナーを超える新人が出て来ることもあるだろう。具体的に言うと歩さんとか。

 

 ……私と歩さん、だいぶ例外中の例外だな? いや、今更か。

 

 とにかくそういう意味じゃ、名家だとかベテランだとかの肩書ではなく、まずは自分の方針や気性、脚質に合うトレーナーを探すっていうのが、ウマ娘にとって大切なのかもしれない。

 

 で、そういう意味では、私もマックイーンさんも大当たりを引いたと見ていいだろう。

 

 

 

「……そうですね。トレーナーに服を選んでもらうのは……いえ、普段着はちょっとアレなのですが、ドレスを選んでもらうのは、すごく楽しかったです。

 歩さんはこういう服を私に着て欲しいんだなぁって思うと、ちょっと気恥ずかしいような嬉しいような……えへへ。案外こういう綺麗系の服の方が好みなのかなーとか……」

「んんっ! ……ウィル」

 

 ……もう。

 

「あの、トレーナー、今いいところなんですけど」

 

 頬を膨らませて不機嫌アピール。

 せっかく楽しくお話してたのに、中断させるなんて酷くない?

 

 いつもはそんな表情を見せれば、簡単に譲歩してくれるんだけど……。

 私の横で待機していた、いつも以上にちゃんとしたスーツ姿の歩さんは、ちょっと呆れたような視線をこちらに向けて来た。

 

「いや、マナー違反をしたら止めるように言ってきたのは君だろうに。

 それと、あまりそういうことを公言するものじゃない。言い方と話題選び、気を付けなさい」

 

 ……あ、そうだった。ドレスの自慢に夢中になって、完全に頭から飛んじゃってた。

 将来的に歩さんの隣にいるためにも、こういう場に慣れようとして、礼儀作法の訂正をお願いしてたんだった……。

 

 うぅ、恥ずかしい……。私、流石にはしゃぎすぎてたかな。

 

「……すみません」

「反省できているのなら良し。失敗は次に活かせば無駄にはならないからな」

 

 あ……えへへ、撫でてもらえた。

 やっぱり失敗したらすぐに謝るに限るね。頭撫でがもらえるなんて実質ご褒美じゃん。

 よーし、これからもどんどん失敗してどんどん謝ってどんどん頭撫でてもらうぞ~!

 

 

 

 ……と。

 そんな会話をしている私たちを、マックイーンさんは苦笑気味に見ていた。

 

「仲睦まじいことは良いことだと思いますが、そろそろ発表が始まりますわ。

 私もそろそろトレーナーさんの下に戻りますから、お2人もステージに集中してくださいまし。

 ……年度代表ウマ娘が登壇を忘れていた、なんて冗談になりませんわよ?」

 

 「それでは」と、マックイーンさんはすごく綺麗にお辞儀して去って行った。

 去り際まで優雅でおしとやかで、ちょっと憧れちゃうな。

 

「マックイーンさん、相変わらずカッコ良いですね……」

「君からすれば、そう感じるか。俺からすると、まだ所作にぎこちなさが見えて微笑ましく感じるよ」

 

 ……あぁ、忘れかけてたけど、今私の横にいる人、トップクラスの名家の出自だった。しかもあり得ないくらいストイックに育ってるからその辺めちゃくちゃ鋭いんだよね。

 あんな完璧に見えたマックイーンさんの立ち回りがぎこちない、かぁ……。

 歩さんの求めるラインってどこまで高いんだろう。

 

 私、いつかはトレーナーの隣に相応しいウマ娘になれるだろうか。

 将来のことがちょっとだけ心配です。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、そんなことを話している内に、URAのお偉いさんの挨拶とかも終わって……。

 マックイーンさんの言っていた通り、いよいよ今年のURA賞の発表が始まった。

 

 

 

 まず発表されるのは、最優秀ダートウマ娘。

 ちょっと心苦しいものがあるけど、トゥインクルシリーズにおいて主要なバ場はターフ、つまり芝。

 なのでこうして、まずは前座に近い形でダート部門が発表されるわけだ。

 

 うーん、部門に上も下もないし、全部一気に公開とかにした方が良い気もするんだけど……やっぱりこれも営利の興行である以上、盛り上げるための施策が必要になってくるんだろうな。

 平等とか公平ってものはなかなか難しい。それを守ったところで利益が上がらなければ営利団体としては大失敗なわけで。

 

 とにかく、この部門に選ばれ、その子のトレーナーと共に壇上に上がったのは……私の知らないウマ娘だった。

 いや、走る戦場が違い過ぎるからね? 仕方なくない?

 

 「誰ですか?」ってこそっとトレーナーに聞いたら、軽めのチョップと共にありがたい解説が下される。

 

「君の1つ先輩だ。クラシック級の冬からダートに転向して9戦3勝、連対率は50%越え。昨年のダートレースを語るにはまず外せない子の1人だよ」

「トレーナー、ちゃんとダートのレースまで調査してるんですね。私もブルボンちゃんも参加しないのに」

「こういうのは調べて損がないからな。情報はどこで活きるかわからないし」

 

 その後、小声で「まぁ、君と戦うことはないだろうが……芝の中距離以上で戦えば、君が勝つ。安心しなさい」って言ってくれた。

 

 まぁ手前味噌な話、今の私に勝てる可能性があるトゥインクルシリーズのウマ娘なんて、それこそネイチャとマックイーンさんとテイオー、それから本調子を取り戻せばミーク先輩に、しっかり育てばっていう前提付きでブルボンちゃんとかライスちゃんくらいのものだろう。

 

 ……いや、結構いるじゃん、私に勝てる子。

 トゥインクルシリーズ現役最強の一角の座は頂けても、無双の座に辿り着くのはまだまだ先かなぁ。

 

 ま、それだけ熱いレースができるってことだから、構わないけどね。

 

 

 

 次に発表されたのは、最優秀ジュニア級ウマ娘の2人。

 これに選ばれた片方は、私もよく知るウマ娘。

 ホシノウィルムと同じトレーナーの下で指導を受ける、ミホノブルボンちゃんだった。

 

 真っ白のドレスに同色のカチューシャ、胸元には大きなネックレスと、その中等部2年生とは思えない体格をこれ以上ない程に活かした、非常に……艶のある恰好だ。

 同性の私が言うのもなんだけど、この子本当に中等部2年? 大学生でも全然通る体付きだけど。

 あと、こんな光景お茶の間に流して大丈夫か? 元オタクとしては思春期の男子たちが心配です。男の子ってこういうのが好きなんでしょ?

 

 幸いなことがあるとすれば、2つ。

 彼女が可愛らしい笑顔とは無縁の無表情っ子で、その艶が大幅に帳消しになってることと……。

 ブルボンちゃんの隣にいるのが、彼女とは対極的なくらいに小柄なウマ娘ってことだろう。

 

 桜色のドレスに可愛らしく身を包んだ彼女は、ブルボンちゃんと並んでこの賞を授与されたジュニア級のG1ウマ娘。

 その名は、ニシノフラワー。なんとブルボンちゃんと寮で同室の子らしい。

 同室でURA賞同時授与って、なんだそのとんでもない偶然。世界って狭いわ。

 ……いや、ミーク先輩と同室の私が言えることじゃないかもしれないけども。

 

 表彰の際に行われた自己PRでは、ニシノフラワーちゃんはトリプルティアラを目指すことを、一方でブルボンちゃんは三冠の道に進むことを表明。

 多少ざわつきを残しながらも、ブルボンちゃんがクラシック三冠に挑むことは前から発表されていたこともあり、そこまで大きな波紋も残さず無事終了した。

 

 これが去年までだったら、ブルボンちゃんのトレーナー……というか、彼女の後ろに控えてる昌さんが「ウマ娘の適性を考えないのか」とか「大人として適切に導くべきだ」とか非難されてたかもしれないけど……今年はそんな声も上がらない。

 

 なにせ、私っていう前例があるからね。堀野歩さんっていうトレーナーなら、適性という本来越えられないはずの壁も打ち壊すんじゃないかと期待されているわけだ。

 

 そしてきっと、歩さんならその期待を裏切らない。

 なんてったって、私をここまで連れてきてくれたトレーナーだもん。皆、期待してていいよ。

 

 

 

 さて、次が最優秀クラシック級ウマ娘……の、片方。つまりは私以外の方だ。

 

 彼女は桜花賞1着、オークス2着っていう戦績で、トリプルティアラ路線で活躍したウマ娘。

 オークスで大幅な出遅れを見せ、更に展開にも愛されず惜敗してしまった他は、4戦4勝の無敗。

 可愛らしい見た目と抜群の末脚を備え持つ、とても強く人気もある子……。

 

 ……だったんだけど。

 

 残念ながら、オークス後の休養中に屈腱炎の発症が発覚したらしく、今は療養中とのことだ。

 療養は結構長くかかるらしく、少なくとも春は全休になりそうらしい。全部歩さんの予想なんだけど。

 

 いやぁ、惜しいなぁ。それだけ強いんならどこかで一度走ってみたいんだけど……と。

 ちょっと諦めきれない気持ちでその後ろ姿を眺めていると、彼女はびくっと反応し、視線だけでこちらの様子を窺ってきた。

 あ、いや、ごめんね? びっくりさせるつもりじゃなかったんだけど……。

 

 ……うん、後でちゃんと謝っておこう。

 最近こういうこと増えたよなぁ。変に箔が付くのも困りものだよ。

 

 

 

 その次は、最優秀シニア級ウマ娘の2人。

 

 片方は勿論、先程も挨拶に来てくれたマックイーン先輩。

 堂々とした立ち振る舞いで壇上に立ち、記者たちにも余裕の笑顔を見せている。良いねあれ、後で表情の参考にしよう。

 

 そしてもう一方は、なんと最優秀短距離ウマ娘も同時に受賞したらしいウマ娘で……。

 

 

 

 ……!?

 

 あ、あれは……縦ロール……!?

 

 

 

 すごい、あの子、縦ロールだ!

 フィクションだとありがちだけど、現実だと初めて見たよあの髪型! 実在したんだな……。オタクに優しいギャルみたいなもんかと思ってた。

 私と同じくらいの小さな体を瀟洒なドレスに包ませ、綺麗に巻いた髪を揺らし、凛として立つ姿は正しくお嬢様。さぞや名うてのご令嬢に違いない……! 名うてのお嬢様って何?

 

 オタク的興奮ポイントとのエンカウントに、ちょっと興奮気味に彼女を見ている私に対して、横から歩さんの声がかかる。

 

「……気になるか」

「気になりますね」

 

 あの縦ロール、果たして何十分かけて巻いているのだろうか。あるいは巻かせたりしてるのか。

 梅雨になったら蒸れたりしないのか。夏場は熱がこもったりしないのか。それと変な癖がついたりしないかも気になる……!

 

 そんな風に、見当違いの方向に思考が飛んでいた私の耳に、歩さんの言葉が入って来る。

 

「ダイイチルビー。15戦6勝、G1レース2勝、そして連対率は脅威の80%。

 あの華麗なる一族のご息女であり、今のトゥインクルシリーズの短距離からマイルを支配する女王。

 現在療養中のケイエスミラクルや、君と有記念を走ったダイタクヘリオスを相手取って一歩も引かない、文句なしの優駿だよ。

 特にその瞬発力は恐ろしく、後方からの末脚一気で上がり3ハロン34秒台を叩きだす、天性のスプリンターだ」

「ほへぇー……」

 

 いや、興味がないわけではないんだけどね? それ以上にあの縦ロールがね?

 

 ……ん? いや、ちょっと待った。

 なんか微妙に違和感なかった今の?

 

「歩さん、ちょっと詳しくありません?

 いや、詳しいのはいつものことですけど、なんか言葉が多いっていうか……」

 

 私が尋ねて彼の方を見ると、歩さんは何気なく「まぁな」と答えた。

 

「なにせ、ダイイチルビーとは付き合いがある。多少言葉も尽くしたくなるさ」

 

 

 

 ……付き合い?

 

 …………お付き合い?

 

 

 

 

 

 

 ……………………は?

 

 

 

 

 

 

 ……い。

 いや、違う! これ違うぞ!

 もう慣れた、流石に慣れた! 歩さんはよくこうやって誤解しがちなこと言うんだもん! どうせあのお義母さんみたいに言葉足らずなだけでしょ!

 

 まずはちゃんと意思を確認! これ大事!

 

「……えっと、それ、どういう意味ですか?」

「え、いや、どういう意味って……どうしたウィル、ちょっと顔が引きつっているが。

 特別な意味はないぞ。堀野の家はあの一族と親交があるってだけで」

 

 うん、そう、そうだよね! 知ってた! 知ってましたよ勿論!

 あーびっくり……してませんけど!? 別にびっくりしてませんし予想通りのオチでしたが!?

 

 第一この真面目なトレーナーがトレーナー業やってる間にウマ娘と付き合うことを許容するとかそんなはずないしね! そりゃ当然こういうオチなわけよ! 全部ぜーんぶ予想通りでーす!

 

 というかそもそも「付き合いがある」を「男女として付き合ってる」って誤解するのはちょっと脳内お花畑すぎませんかね!? 我ながらバ鹿なの!?

 

「ウィル、どうした、百面相の練習? 表情筋を鍛えてるのか?」

「……いえ、別に。それで、どんなお付き合いしてるんですか?」

 

 まぁ精々、社交界とかそういうトコで礼儀程度にお話しするとか、その程度だろうけど。

 一応、一応確認ね? 確認するに越したことはないしね?

 

「時々話すくらいだな。半年に一度彼女の一族が主催する立食会に招かれたり、その際に少しだけ話したり」

 

 うんうん、まぁそんなもんだよね。良かった、安心したぁ。

 ……いや全然安心してないけど? は? 別にライバルになるかもとか思ってなかったが?

 第一私と歩さんには、互いに助け合い救い合うっていう唯一不可侵の深く決して切れない繋がりがあってだな……。

 

「後は、たまに意見が聞きたいからって個人的な茶会に招かれて、そこで芸術や歴史などの話をしたり、彼女のトレーナーに男性の礼儀作法を教えてほしいと頼まれたり」

 

 全然大丈夫じゃなさそう。

 え、いや、なんか距離近くない? なんかこう、個人的な友好関係築いてない?

 しかも自分のトレーナーにって……結構信頼度高くない?

 

 は? 歩さん、私に隠れて何してるの? いや、家単位の交友ってことは私と知り合う前から付き合ってるってこと??

 ……あ、あああ、脳、脳が……脳が破壊される……ッ!

 

「歩さんっ!」

「ちょ、ウィル、静かに! ここ舞台袖だぞ!」

「私、私ですよね? 歩さんの担当ウマ娘、私!」

「いやそうだよ君だよ、ホシノウィルムが俺の担当ウマ娘だよ、だから落ち着いて」

「ふーっ、ふーっ!」

 

 ……そう。私だ。ダイイチルビーじゃなくて私、ホシノウィルムが彼のウマ娘だ。

 

 彼のウマ娘。彼のウマ娘。そう、その通り、私こそが彼のウマ娘……。

 この言葉を繰り返すたびに、徐々に脳が回復していくのを感じる。どうせなら超再生で前より強くなったりしないかな。

 

「……ああ、そういうことか。心配しなくとも、あくまで割り切った関係だよ。

 彼女の人生観と俺のやり方は一致する部分があって、時々意見交流や取引をしているというわけだ。

 勿論、彼女のことを担当に迎えようなどという気はない。彼女は彼女で良いトレーナーを見つけたようだしな」

 

 そう、あくまで協力関係ね。友人とか恋人……とかっ、そういうんじゃない、ただの協力関係!

 

 ふぅー……良かった、なんとか脳が再生した。純愛最高! NTRはNG! いや寝てないですけども。

 

 

 

 ……あ、やば。

 気付けば最優秀シニア級ウマ娘の発表は終わってる。あの2人のスピーチ、全然聞いてなかったぞ私。

 

「歩さん……」

「マックイーンは天皇賞路線、ダイイチルビーは……明言はしなかったが、『最後まで一族に相応しく』とのことだ」

「ありがとうございます……」

 

 以心伝心でお願いが伝わる仲、最高。

 いや、これでいいのかって思わないでもないけども……。

 

 と、私が微妙な気持ちになっていると……。

 ボソリと、歩さんは呟いた。

 

「そろそろ頃合いということかな」

「頃合い?」

 

 私が首を傾げていると、歩さんは、なんというか……。

 寂しそうな、それでいて嬉しそうな、なんとも言えない複雑な表情で、言った。

 

「……トゥインクルシリーズ現役を退き、次のステージに上がる頃合いだよ」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さぁ、他の表彰は済んだ。

 最後に行われるのは、最優秀クラシック級ウマ娘の残った方と、同時に年度代表ウマ娘の発表だ。

 

 私はトレーナーと視線を交わし、どちらからともなく頷いて、壇上へと歩み出る。

 そうして2人並んで歩き、ステージの中央辺りで停止。

 歩さんがすぐ後ろに付いてくれてる気配を感じながら、カメラを構えたたくさんの記者さんたちの方へ向き直った。

 

 私たちがポジションに就いたのを確認して、司会が再び口を開く。

 

「さぁ、今年度のURA賞も、いよいよ最後の表彰となります。

 登壇していただいたのは、最優秀クラシック級ウマ娘の1人であり、同時に年度代表ウマ娘に選ばれましたホシノウィルムさん、そしてその契約トレーナー、堀野歩さんです!」

 

 司会の言葉と共に、カメラのフラッシュが瞬いた。

 ちょっと眩しいけど……まぁ、これも競走ウマ娘のお仕事の1つだ。笑顔を保って我慢。

 

「その戦績は10戦9勝、2着1回!

 シンボリルドルフさん以来となる無敗でのクラシック三冠制覇を成し遂げ、更に史上初のクラシック級での宝塚記念の勝利、そしてジャパンカップの勝利と、瞬く間に勝利を積み重ねました。

 現在のトゥインクルシリーズの台風の目、果たして彼女の破天荒な旅路はどこまで続くのか、日本中の注目が集まっています」

 

 そこで合図を受けて、私は一歩前に踏み出す。

 

 一度瞼を閉じて、イメージ。

 私が今、浮かべるべき表情。言うべき台詞。求められている態度。

 

 ……よし。

 

 それじゃ、ちょっと日本中をびっくりさせちゃおうか。

 

 

 

「まずは、この栄ある賞をいただけて光栄です。

 ファンの皆さんに支えられてここまで来ることができました。改めて、ありがとうございます」

 

 ぺこりと頭を下げた後、少しだけ視線を上に上げ、昨日のようにも思える記憶を想起しながら語る。

 

「去年は、非常に楽しい1年でした。

 テイオーと、スカイ先輩と、ネイチャと、マックイーンさんと、そしてスズカ先輩やスペ先輩と。とても強い最高のライバルと、これ以上ないくらいに楽しいレースができました。

 今年も大阪杯、春の天皇賞、そして宝塚記念の春シニア三冠ルートで、多くのライバルたちと熱いレースができればと思います」

 

 実質的なローテーションの公開に、記者さんたちが一斉にメモを取り出す。

 ……なんかちょっと面白いな、自分の言動1つで多くの人が動くの。

 

 まぁ、それで言ったら、今からもっと多くの動きがあるかもしれないけど。

 

「……でも、私、思うんです。日本の中で満足しているのは、ちょっともったいないんじゃないかって」

 

 ペンを走らせてた記者さんたちが、一様に硬直した。

 ホシノウィルムの奇行……いや奇行って程じゃないと思うんだけど、インタビューなどでの奇抜と思われがちな発言は、そこそこ有名だ。

 こうして改まって何かを言い出すっていうのが、彼らにとってはもう緊張の瞬間なんだろう。

 

 でも、安心してほしい。今回は別におかしなことを言う気はないよ。

 

 私はニコリと、努めて綺麗な笑顔を浮かべた。

 

 

 

 ……まぁ、別の意味でビックリするかもしれないけどね。

 

 

 

 

 

 

「なので、秋からはフランスに行って、凱旋門賞にでも出ようと思っています。

 せっかく『不可能を覆す』なんて言ってもらえているのですから、それを真にしようかな、と」

 

 

 







 この年のJ……URA賞の層、分厚くない……?

 次はおまけの掲示板回、その次は別視点回、その更に次からはいよいよ2月に突入です。長い1か月だった……。
 しかしバレンタインやらウィルの誕生日やら、まだまだイベントは目白押し。忙しなく騒がしい毎日はまだまだ終わりません。
 ……そして同時、徐々にレースの日も迫って来ます。そっちの話もそろそろ始まる……はず。予定は未定!



 次回は3、4日後。おまけの掲示板回。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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【最優秀】URA賞授与式実況スレpart2【年度代表ウマ娘】

 例によって、読み飛ばしても問題のない掲示板回です。
 普段と違う執筆方法になると、掲示板形式の難しさを痛感しますね。





 

 

 

338:名無しのウマ娘ファン ID:FQwYHsgji

 次はシニア級か 

 

 

339:名無しのウマ娘ファン ID:kmoW7JMUV

 最優秀シニア級ウマ娘

 ・メジロマックイーン(15戦7勝、重賞4勝、G1レース2勝、連対80%)

 ・ダイイチルビー(15戦6勝、重賞4勝、G1レース2勝、連対80%)

 

 

340:名無しのウマ娘ファン ID:NgrOHrCAK

 まぁそうなるわな

 

 

341:名無しのウマ娘ファン ID:CPC9NM5Wh

 そりゃこの2人しかいないわ。戦績もかなりすごいし

 

 

342:名無しのウマ娘ファン ID:JgUjwzXwf

 この2人相変わらずカッコ良いし可愛いな。まさに良いとこの凛々しいお嬢さんって感じ

 

 

343:名無しのウマ娘ファン ID:SWVE8aToI

 お嬢……

 

 

344:名無しのウマ娘ファン ID:3G8e24auC

 本来ならクラシック級にミラクルが選出されたかもしれないって思うとやるせないよ。本当に

 

 

345:名無しのウマ娘ファン ID:cFwm94WB1

 澄ました表情がむしろ悲しく見える

 

 

346:名無しのウマ娘ファン ID:rEbNtmwLD

 マックイーンのドレスの色、ちょっと予想外だな。白系かと思ってた

 でもコッチもコッチで良いね。よく似合ってる

 

 

347:名無しのウマ娘ファン ID:PK/GOSNQG

 アイネスがダービーで故障しなかったらマックイーンと競り合えてたかなぁ

 ここにいたかもしれないと思うと……

 

 

348:名無しのウマ娘ファン ID:8/hfXQ5FL

 >>339 この2人の戦績こんなに近かったんか。中長距離じゃないからマックイーン程話に上がらないけどやっぱつえーんだなお嬢

 

 

349:名無しのウマ娘ファン ID:wrgR7j+8p

 中長距離と短距離マイル、それぞれの世代の覇者って感じ

 

 

350:名無しのウマ娘ファン ID:X2pRYq6Y2

 どっちも名家のお嬢様ってこともあって煌びやかな会場にめちゃくちゃ映えるな

 

 

351:名無しのウマ娘ファン ID:POMG34e7A

 >>344 ミラクルの戦績10戦5勝重賞1勝だしURA賞は流石にキツいんじゃないか

 まぁ言いたくなる気持ちは痛い程わかるけど

 

 

352:名無しのウマ娘ファン ID:kmoW7JMUV

 これからの方針

 メジロマックイーン:URAファイナルズ完走後春の天皇賞、そして宝塚記念リベンジが目標。ライバルは当然龍と帝王、必ず討ち取ってみせる。

 

 

353:名無しのウマ娘ファン ID:lBPaVEntu

 おお、もしかしてこれホシノウィルム・トウカイテイオー・メジロマックイーンの戦い見れる?!

 

 

354:名無しのウマ娘ファン ID:9Uo3f12W5

 テイオーのローテって確か大阪杯から春天だよな

 

 

355:名無しのウマ娘ファン ID:K7nj/5jdI

 宝塚はマックイーンには短すぎるんや……2200はステイヤーには厳しい

 

 

356:名無しのウマ娘ファン ID:ZiDHOAgUL

 >>352 まとめ速すぎだろどんなタイピングしてんだ

 

 

357:名無しのウマ娘ファン ID:i7vK44G2n

 今年こそ春天取ってくれマックイーン、いい加減誰か龍を止めるんや

 

 

358:名無しのウマ娘ファン ID:UemSjhB1n

 ライバルが強すぎる

 

 

359:名無しのウマ娘ファン ID:kmoW7JMUV

 これからの方針

 ダイイチルビー:最後まで一族の者として相応しく走り切りたい。好敵手たちに誇れる自分でありたい。

 

 

360:名無しのウマ娘ファン ID:fD4LFOLXu

 具体的にはどこ出るの

 

 

361:名無しのウマ娘ファン ID:0a7nQX8cV

 >>355 なお龍

 

 

362:名無しのウマ娘ファン ID:kMR9DK+Ea

 やっぱミラクルの件が

 

 

363:名無しのウマ娘ファン ID:/yhCCRD9r

 心折れてないかこれ

 

 

364:名無しのウマ娘ファン ID:MkSHB0ZZN

 雰囲気が重すぎる……

 

 

365:名無しのウマ娘ファン ID:VnX5bbM7I

 尊敬し合えてたライバルが目の前で事故起こしたからな。そらショックはあるでしょ

 

 

366:名無しのウマ娘ファン ID:mh1RqoABk

 >>363 お嬢の心は折れないよ。ルビーはそんなに脆くない。

 

 

367:名無しのウマ娘ファン ID:3A5vUboRQ

 まだ走れるんなら、ドリームトロフィー行ってくれるかなぁ……。

 もっと見たいけどな、短距離ぶっちぎるお嬢

 

 

368:名無しのウマ娘ファン ID:zZTpwJs2o

 三女神はなんでこんな残酷な絵図を描くんや

 

 

369:名無しのウマ娘ファン ID:qfIY9geNk

 ミラクルも重篤までは行かなかったのが不幸中の幸い。競走能力が戻るか不明とはいえ、ひとまず生きてるし意識もちゃんとあるってのが一番嬉しいよ

 

 

370:名無しのウマ娘ファン ID:eIa+5/Bn9

 お嬢も乗り越えてるんだから俺たちも乗り越えなきゃだぞ。一々悲嘆にくれてちゃ話進まないし

 

 

371:名無しのウマ娘ファン ID:vAt7vAN0j

 まぁシニア2年目なら引退なりステップアップなりに早すぎるってわけじゃない。

 お嬢には前に進んで欲しいね

 

 

372:名無しのウマ娘ファン ID:NvntQfanl

 次年度代表か

 

 

373:名無しのウマ娘ファン ID:i4rDpaS4y

 おおおおおお

 

 

374:名無しのウマ娘ファン ID:XjP7a3hTd

 でしょうね

 

375:名無しのウマ娘ファン ID:kmoW7JMUV

 最優秀クラシック級ウマ娘、兼年度代表ウマ娘

 ・ホシノウィルム(10戦9勝、重賞7勝、G1レース6勝、連対100%)

 

 

376:名無しのウマ娘ファン ID:09RJQMZFl

 うわウィルムのドレス姿とかめちゃくちゃレアだぞこれ

 

 

377:名無しのウマ娘ファン ID:5kt2cH8v4

 こうしてみるとやっぱ美人やな 可愛いが勝つけど

 

 

378:名無しのウマ娘ファン ID:3O914K05w

 こんな子があんな暴れ回っとるんやなぁ……

 

 

379:名無しのウマ娘ファン ID:Qvc3AlXUA

 文 句 な し の 年 度 代 表

 

 

380:名無しのウマ娘ファン ID:ooOgB4tIg

 そりゃお前が年度代表じゃなかったら誰がって話よ

 

 

381:名無しのウマ娘ファン ID:QiOTBJ36w

 なんかもうおめでとうとかの言葉も出てこないわ

 

 

382:名無しのウマ娘ファン ID:lipE0VSXf

 灰灰強い強い

 

 

383:名無しのウマ娘ファン ID:3b5z8Ka9b

 ジャパンカップあたりから貫禄みたいなの出始めたよね。マックイーンとかお嬢に負けないくらい、なんというかこう、存在圧みたいなのがある

 

 

384:名無しのウマ娘ファン ID:MVmF0Iymb

 ワイ、ロリコンだったかもしれへんな

 

 

385:名無しのウマ娘ファン ID:4iOxdLjKm

 あとG1レース1勝でルドルフに追いつくのか。どこまで戦績が上がり続けるか楽しみで仕方ない

 

 

386:名無しのウマ娘ファン ID:Atcn25syA

 可愛い

 

 

387:名無しのウマ娘ファン ID:q4FB1nI/d

 >>375 なんだこの化け物戦績!?

 

388:名無しのウマ娘ファン ID:g4HayAK/P

 黙ってれば美人系ロリ 喋ると言葉飾らぬバーサーカー

 

 

389:名無しのウマ娘ファン ID:B99HEkpgg

 あっ

 

 

390:名無しのウマ娘ファン ID:ujUuuoTvX

 喋らないで 残念になっちゃう

 

 

391:名無しのウマ娘ファン ID:AtzJy0Mrb

 お?

 

392:名無しのウマ娘ファン ID:4RvHPaMF+

 え? 思ったよりまともじゃん

 

 

393:名無しのウマ娘ファン ID:ksYBBSqZf

 最近時々見る普通な時のホシノウィルムじゃん

 

 

394:名無しのウマ娘ファン ID:kmoW7JMUV

 今後の目標

 ホシノウィルム:春シニア三冠

 

 

395:名無しのウマ娘ファン ID:B+3WIJM10

 まぁそうだろうなという感想しか出ない

 

 

396:名無しのウマ娘ファン ID:D+G7CIMPu

 G1ローラーかよコイツ

 

 

397:名無しのウマ娘ファン ID:fY0bRmkC0

 目についたG1レース全部取りに行くじゃんこの娘

 

 

398:名無しのウマ娘ファン ID:ZaRro9cLw

 ってことはやっぱり大阪杯はウィルムvsテイオー、春天はウィルムvsテイオーvsマックイーンか。宝塚はちょっと遠すぎるしどうなるかわからんけど

 

 

399:名無しのウマ娘ファン ID:HABS9iQ+k

 G1大好きウィルムさん

 

 

400:名無しのウマ娘ファン ID:orFcn7Bmn

 G1に拘ってほしくはないけど、だからと言ってG2に降りて来るのは怖すぎるというジレンマ。出走ウマ娘3人とかになりかねないわ

 

 

401:名無しのウマ娘ファン ID:+79S/StM7

 ん?

 

 

402:名無しのウマ娘ファン ID:F8jW8tmOt

 は?

 

403:名無しのウマ娘ファン ID:UxsRPm8Ur

 お? 流れ?

 

 

404:名無しのウマ娘ファン ID:cejAYIK4H

 え

 

 

405:名無しのウマ娘ファン ID:jXFy9FZDH

 g

 

 

406:名無しのウマ娘ファン ID:8V+1J/b07

 門!?

 

 

407:名無しのウマ娘ファン ID:SXkFdOIPX

 凱旋門かよ

 

408:名無しのウマ娘ファン ID:kmoW7JMUV

 今後の目標

 ホシノウィルム:凱旋門賞

 

 

409:名無しのウマ娘ファン ID:Kc2dGe2b3

 凱旋門賞!?

 

 

410:名無しのウマ娘ファン ID:kJGiR7hZV

 マジで

 

 

411:名無しのウマ娘ファン ID:qPbC0WHum

 妄想はしてたけどガチで行くの!?

 

 

412:名無しのウマ娘ファン ID:yiF2Y3vea

 いや確かに不可能を可能にするとかはやし立てたけどそこまでするか普通

 

 

413:名無しのウマ娘ファン ID:ZRa2Pr4ki

 日本最強……凱旋門賞……逃げ……うっ頭が

 

 

414:名無しのウマ娘ファン ID:oYPBw4Hb/

 勘弁してくれという思いとウィルムならもしかしたらという思いが同時にある

 

 

415:名無しのウマ娘ファン ID:fAZUz3931

 うおおおおお行くんか世界!

 

 

416:名無しのウマ娘ファン ID:crSk0OAiz

 無敗三冠ウマ娘の海外出征は……

 

 

417:名無しのウマ娘ファン ID:2O0x6BmVE

 頼むから宝塚の時みたいに無茶しすぎて故障だけはやめてくれ、海外に行くのはいいけどそれで倒れる子は見たくないんや

 

 

418:名無しのウマ娘ファン ID:6QV1wAlHl

 今北

 

 

419:名無しのウマ娘ファン ID:9CcJOdIQz

 うわ

 

 

420:名無しのウマ娘ファン ID:R6I4d+FH1

 凱旋門賞を「でも」扱いですか……

 

421:名無しのウマ娘ファン ID:FOagN+o/B

 正直日本の中で安全に走ってほしい気もするし、そのバーサーカーっぷりを抑えずどこまでも挑戦してほしい気もする

 

 

422:名無しのウマ娘ファン ID:dTc2bGeJP

 シンザンなんだけど凱旋門賞ってそんなヤバいんか

 

 

423:名無しのウマ娘ファン ID:a2ty5nlpi

 >>418    灰

      凱 の

    行 旋 龍

    く 門

    っ 賞

    て

    よ

 

 

424:名無しのウマ娘ファン ID:E0xsEdsAV

 行けるんか? ウィルムなら日本の夢叶えられるんか!?

 

 

425:名無しのウマ娘ファン ID:uOYfye3W7

 この子こう見えて案外ファンのこと考えてるよね。

 やっぱ日本最強ってなると凱旋門考えちゃうし、同時に海外遠征となると怖がっちゃうし、軽く切り出すからこそその恐怖がだいぶマシになる

 

 

426:名無しのウマ娘ファン ID:0ufVBeibE

 実際のところ勝てるのかウィルム? 凱旋門賞だぞ

 

 

427:名無しのウマ娘ファン ID:UODtDGXa6

 >>422

 おは二代目三冠ウマ娘

 

 

428:名無しのウマ娘ファン ID:1+tnV+/YH

 いくらなんでも凱旋門賞は……というか海外芝は、ウィルムでも厳しいか……?

 

 

429:名無しのウマ娘ファン ID:5Oson4zGr

 頼むから無茶はしないで

 

 

430:名無しのウマ娘ファン ID:HHEvhEBFr

 >>422

 ・ただでさえ日本芝に比べて重い海外芝

 ・更に開催されるロンシャンレース場は雨が降りやすくて重バ場になりやすい

 ・その傾斜は菊花賞や春天で有名な京都レース場の2.5倍

 結果として展開が遅いレースになり、高い瞬発力と距離には見合わない程のスタミナが求められるレースになる。

 その上、海外のウマ娘は日本に比べて積極的に競り合ってくる傾向にあるし、レース場の形状も日本のものと大きく違う。

 海外渡航で調子落ちやすい上に、不慣れな地形と不慣れな状況、不慣れな相手と戦うことになるからとても勝ちにくい。

 あのエルが惜敗とはいえ敗れたレースは伊達じゃない。

 

 

431:名無しのウマ娘ファン ID:kmoW7JMUV

 今後の目標

 ホシノウィルム:夏の合宿が終わり次第フランスに行って海外芝に脚を慣らす。フォワ賞から凱旋門賞に出走し、凱旋門賞が終わり次第日本に帰って秋天やジャパンカップ、有記念に出走予定

 

 

432:名無しのウマ娘ファン ID:lFvBU1INs

 言ってること夢みたいで付いていけない。頭完全にフリーズしてるわ

 

 

433:名無しのウマ娘ファン ID:X4sHQfLv4

 こんなちっこい子が日本を負って立つのか

 

 

434:名無しのウマ娘ファン ID:WseV6x1yj

 頼むウィル、勝ってくれ……!

 

 

435:名無しのウマ娘ファン ID:v4DtpQSUt

 実際どうなんだ、逃げウマ娘だし可能性はあるのか?

 

 

436:名無しのウマ娘ファン ID:/0HgRoGkU

 >>426

 海外のウマ娘は競り合いが強いから、バ群の中に埋没しない逃げが有効なのはエルが証明した

 ただ>>430の言ってた通り、不慣れだったり調子落としてたりもするから、その中でどれだけウィルムの持ち味の大逃げを活かせるか、かなぁ

 確実に勝てるとは間違っても言えないけど、ウィルムなら日本のウマ娘の中では比較的向いてる方……なんじゃないかな、何も保証はないけど

 

 

437:名無しのウマ娘ファン ID:8whwRJ/89

 凱旋門賞考察スレになっちゃいそうだからスレ立てした→【徹底考察】凱旋門賞の勝機はあるのか【ホシノウィルム】

 しばらくは話す話題に事欠かなそうね

 

 







 この世界では、同じ無敗三冠ウマ娘であるルドルフが海外出征した直後に故障したり、つい2年前には日本最強を謳われたエルが凱旋門賞に敗れています。
 突然ショッキングなことを言い出すのは、やめようね!



 次回は3、4日後。別視点で、弟の話。


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おまけ お兄ちゃん(の心配)はおしまい!

 今回は別視点、当初はそこそこ登場する予定だったけど、度重なるプロットの変更と圧縮により殆ど出せなかった彼の視点です。
 正直必要かと言われると微妙なんだけど、ここでやっておかないと消化不良になっちゃうからね……。





 

 

 

 1月中旬のとある日の昼。

 俺の勤める、とある地方トレセンの保健室で……。

 

「それじゃ、歩はもう大丈夫ってこと?」

 

 片手間に実家に送る報告書を纏めながら、俺はスマホの向こうの通話相手に問いを投げかけた。

 対して返ってきたのは、恐らく1か月ぶりくらいに聞いた、妹の……昌の声。

 

『ん。兄さんのためにも、あんまり細かいことは教えられないけど、とにかくもう大丈夫』

「そっか。……よかった」

 

 呟いて、俺は小さく安堵の息を吐いた。

 

 

 

 俺の実家である堀野には、5人の家族がいる。

 父、母、長兄、次男、そして長女。その内俺は長兄にあたり、弟と妹を1人ずつ抱えていた。

 

 堀野歩。昔から過ぎるくらいに努力家だけど、同時に少しばかり気がかりな、大事な弟。

 堀野昌。色々あって荒んだりもしたけど、それでも真っ直ぐに育ってくれた、可愛い妹。

 

 俺にとってはとても大事な、そして同時にそれぞれちょっとした問題のある弟妹たち。

 

 その内で妹にあたる昌は、彼女が中等部の頃に、俺や歩のせいで少しだけ歪みかけてしまった。

 その時は、母の懸命なケアによって、何とか家族としての関係を取り戻したんだけど……。

 

『……ね。兄貴』

「ん、何かな」

 

 その時以来、昌は俺のことを「兄貴」と、歩のことを「兄さん」と呼び分けるようになった。

 お兄ちゃんとしては、ちょっと距離を感じてしまって悲しくなるね。

 

 ……とは言っても、むしろ彼女が距離を空けてるのは、「兄さん」って呼んでる歩の方だったりするんだけども。

 

 

 

 あの一連の騒動の中で、昌と俺との関係は、比較的早く修復された。

 唯一最初から拗れなかった母さんを除外すれば、最も早く関係性を作り直したと言っていいはず。

 

 で、その時。

 しばらく俺のことを無視していた昌は、久々に話した際に俺の呼称を「兄貴」に変えたんだ。

 

 ……明け透けに言ってしまえば、以前のように話すのが恥ずかしかったんだと思う。

 当時俺、というか家族皆への当たりが強かった昌は、和解しようにもどうにも引っ込みが付かず、呼び方も喋り方や態度などと併せて、意識的にそういう方向へ変えていったんだろう。

 

 当然ながら、昌がどんな話し方や呼び方をするかは彼女の自由なので、特段否定することもないんだけど……お兄ちゃんとしては、やっぱりちょっと寂しかったね。

 

 

 

 一方で、昌と歩との仲は拗れに拗れた。

 母さんがちゃんとケアしてたから決定的な決裂まではいかなかったけれど、その亀裂は実に深くて、俺が家を出る時にも完全に元通りにはならなかった程。

 ……まぁ、人間の関係は時間と共に変化するものだから、元通りになることはないんだろうけど。

 とにかく、歩から昌への接し方は以前と変わらなかったけれど、昌から歩への接し方はだいぶ距離のある……反感の先立つものになってしまったんだ。

 

 端的に言えば、昌は歩に対して、わざと冷たく当たるようになった。

 敢えて理性的な態度を保ちながらも、感情的に歩の行動や思考を否定し、家族というよりは少し近い他人のような距離感を保とうとして……けどこの子もちょっと甘いところがあるから、何だかんだ家族である歩に気を遣ってるような、複雑に拗れた関係。

 そんな関係になったからこそ、昌は歩のことを「兄さん」と、少し他人行儀に呼ぶようになったわけだ。

 

 

 

 そんなことを懐かしみながら思い出していると、昌は少し掠れた声で話を続ける。

 

『兄さんの……アレ』

「アレ……察するに、歩の精神疾患のことかな」

『疾患……』

「ごめん、少し言葉が強かったね。歩の心の問題、かな」

『……うん、そう』

 

 俺の弟と妹には、それぞれ全く別の形で、小さからぬ問題があった。

 

 昌のそれは、家庭内の不和という形で表面的に出て来るもので、その影響も非常に大きかったんだけど……歩の問題はその真逆。

 表面的には問題が出て来辛く、外部にもたらす影響も少なかったから、気付きにくいものだった。

 

 凄まじく察しの良い、もはや野生の勘とでも言うべき理解力を持つ母さんはともかくとして……。

 ああ見えて、トレーナー以外の分野以外ではちょっと抜けていて鈍感なところのある父さんは、ついぞそれに気付かなかったくらいには。

 

『……ずっと聞けなかったけど、兄貴はいつ、兄さんのアレに気付いたの?』

「いつ、か……うーん」

 

 少し難しい問題に、思わず頭を捻る。

 

 歩がおかしいことには、ずっと前から気付いていた。

 あの子には、最初から……母さんの言葉を使えば、「生まれた時から」違和感があったんだ。

 

 ただ、俺の中で、その違和感が明確に形になったのは……多分。

 

「……初等部の頃、かな」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 もはや懐かしい、セピア色の過去を想起する。

 

 俺も歩も、まだ初等部だった頃の休日。

 あの子が俺に、花の冠を作ってくれたことがあった。

 

「兄さん、これ、いつものお返しです」

 

 ずっと庭で何かをしていると思ってたけど、まさか俺のためにこんな可愛らしい贈り物を作ってくれていたとは。

 その健気なプレゼントに、当然ながら喜んだんだけど……。

 

 それと同時に、僅かな違和感を覚えた。

 

 

 

 基本的に、子供は自己中心的なものだ。

 特に初等部に入って間もない歩くらいの年齢の子供は、まだ他人への共感性に欠け、文字通り自分が世界の中心であると認識していることが多い。

 

 これは何も性悪だとかそういった話じゃなく、単純に脳が育ち切っていないという側面が大きい。

 というか、共感性や協調性をしっかりと伸ばすためにこそ、近い学年の子供と共同生活を送る学校という機関があるって側面もあるわけで……。

 個人的な意見にはなるけど、この子くらいの年齢の子供はまだ、他人とか遠慮なんて気にせず、自由に遊び回るくらいがちょうどいいと思う。

 

 

 

 他者の存在を認め、その行動がもたらす恩恵に感謝できるのは、一般的にはもう少し先になるはず……。

 ……なんて、流石に当時から、そこまで理論的に考えられていたわけではなかったんだけど。

 それにしても、自分やクラスメイトたちと比べて、歩は……なんというか、達観していた気がした。

 

 誰かが喜んでくれるという状況が嬉しいのは、理解できる。

 俺だって、そういう気がある。クラスメイトや家族が笑ったり感謝してくれると思えば、それだけで心が躍るよ。

 

 けど、当時……普段の感謝に対して返礼する、という思考はなかったと思う。

 生まれてからずっとその環境にいたから、普段からずっと享受していたから、そのありがたさをいつしか忘れてしまっていたんだ。

 

 ……そもそも、考えてみれば、歩は昔から変わった子だった。

 両親曰く、赤ん坊だった頃からまるで明確な意思を持つかのような行動が目立ったと言うし、歩き出すとか言葉を話し出すのも普通よりずっと早かったらしい。

 ただ早熟なだけだと思っていたけれど……どうやらそうじゃないらしいと思い始めたのは、多分この時だったと思う。

 

 

 

 そうやって疑問を持ちながらも、俺はその贈り物を喜んだ。

 というか、今思うと恥ずかしくなるくらい、過剰なくらいに喜んだと思う。

 

 さっきも言ったけど、普段のお返しなんてものは滅多にもらえない。

 友達に何かをしたって、返って来ることは少ないんだ。

 

 例えば、友達を笑わせることは多くても、笑わせてくれることは多くない。

 誰かを助けたとしても、助けられることは滅多にない。

 返礼を求めて行動しているわけじゃなかったから、別にそれ自体は構わなかった。

 というかそもそも、自分だって誰かへの返礼を果たせているわけじゃなかったんだ。それ自体は構わないんだけど……。

 

 だからこそ。

 それがとても得難く、自分にさえできないことだからこそ……。

 贈られた純粋な気持ちが、すごく嬉しかった。

 

 俺にとって、歩が「弟」から「大事な弟」になったのは、この時だった。

 父の徹底した教育もあって、人への態度に区別を付けないように努めていたけど……歩は特別。

 

 時々ちょっとおかしなことをしたり言ったりするし、日常生活を放棄してまで習い事や自己研鑽に精を出すような、母さんと同じくらいに変わった子だったけど……。

 

 とにかく、俺にとって歩は、とても大事な弟だったんだ。

 

 だから俺は、あの子のことをよく見ていて……。

 ……だからこそ、確信できた。

 

 

 

 やっぱり歩は、おかしいって。

 

 

 

 俺がようやく中等部に上がった頃の、とある日。

 俺は父さんに言われ、歩を呼びに行って……。

 堀野本邸の資料室で、たくさんの紙束に埋もれている人影を見つけた。

 

「歩、父さんが呼んでるよ」

「……兄さん」

 

 そう言って、顔を上げた歩の目は……その目の下には、厚すぎるクマがあった。

 肌色は悪く、目はろくに開かず瞬きも多い。よく見れば目の焦点さえまともに合っていない。

 

 素人目にも、体調が悪いのは明白だった。

 

「……最後に寝たのは?」

「ん……えっと、2回学校に行く前……2日前?」

「食事は? 入口にあったのは冷めてたけど」

「昨日の夕方は取った……と思う。多分」

「また無茶をして……。母さんが怒るよ」

「……怒らないよ。母さんなら、わかってくれる」

 

 この日は、疲れからかいつもよりテンションが低かったけど……。

 この子は、いつもこんな調子だった。

 

 父さんの前でトレーナーになるって宣言してから、ずっと頑張ってる。頑張り過ぎている。

 

 そもそも、俺の周囲の同級生たちを見ても、子供が将来を見据えた主体性を持つこと自体が稀だと思う。

 その上で、娯楽の時間をゼロにまで削り、まともに友人を作ったり一緒に遊んだりもせず、睡眠時間や食事の時間まで削っているとなると……もはや狂気的なものさえ感じる。

 

 家族として、その無茶を止めなければと思うと同時に……。

 なんでこの子が、そこまで無茶をするのか、気になった。

 

「……ねぇ。なんでそこまでするの? お腹も空いてるだろうし、気持ち悪いでしょ?

 もう少し休んだりしてもいいんじゃない?」

 

 何気なく、俺はそう聞いて……。

 意識も朦朧としているらしい歩は、ぼんやりと答えた。

 

「…………頑張るべき、だから」

「頑張るべき?」

「頑張らないと、いけないから。そうしないと、俺は、また……」

「また?」

「……? あー、ごめん、何でもない。父さんが呼んでる、だっけ。今から行くね」

 

 歩はその手に持って読んでいた、とても古くて辞書みたいに分厚いスクラップファイルを閉じて、それを戸棚に仕舞いながらフラフラと歩き出す。

 しかし、足元に転がっていた本に躓き、転びそうになって……。

 

「ちょっと!」

「あ……ごめん、ありがとう、兄さん」

 

 慌てて手を伸ばし、掴んだ歩の手は……酷く、冷たかった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「……そういうことがあったりしてね。歩がおかしかったのはわかってたんだ」

『初等部……そんな、昔から……』

「うん」

 

 家族だからね、と言おうとして……昌の言葉の響きを聞いて、やめた。

 

 ちょっと唖然としたような様子からして、昌はその辺りについて気付いていなかったんだろう。……少なくとも、俺と同じ年齢の頃は。

 それを当然のように語るのは、ある意味で彼女の能力のなさを責めることに繋がってしまう。

 

 俺は露骨にならない程度に、軽く話題を逸らすことにした。

 

「実を言うとね、俺が外科以外に精神科を学び始めたのは、歩のことを理解したかったからなんだ。

 当時は全然歩のことをわかってあげられなかったから、もっと心理学とかを勉強して、わかってあげたいって思ってね」

『そうだったんだ。……それで、何かわかったの?』

「うん、まぁ……わかりはした、かな。

 多分歩は、何らかの強迫観念に襲われて行動を強いられてたんだ。

 自分は頑張らないと駄目だ、自分は行動を止めちゃいけない、もっと言えば……そうやって努力をしない自分に価値はないって、そんな風に」

『……うん』

「でも、結局、その原因はわからなかった。

 歩のことは、生まれた時から……って言うと少し語弊があるけど、少なくともあの子が言葉を話し出す頃から知ってる。

 でも、あの子がそこまで追い詰められるようなことは、その人生にはなかったと思うんだ」

 

 そう、そこが最大の疑問だったんだ。

 

 歩の状態は、わかった。

 ……でも、懸命に思い出しても、両親に話を聞いても、そしていくら話して聞き出そうとしても……結局、その歪みの原因を特定することはできなかった。

 

「カウンセリングはね、その子に精神的なセルフコントロールを身に付けさせるのが目的になる。

 だけど、そのためにはまず、その子が何故そう感じているのか、何故そう思うのか……その根っこの部分、その子の人生経験についての情報が必要なんだ。

 でも俺は、どうやってもそれを得られなかった」

『……もしかして、だから兄貴は……』

「そう言うと、ちょっと言い訳になっちゃうけどね」

 

 本来、歩を救うのは、俺であるべきだったと思う。

 

 あの時、歩からもらった、綺麗な花冠。

 俺はまだ、あれにちゃんとお返しができていない。あの純心な贈り物に、なんら対価を示せていない。

 だからせめて、歩の力になろうと、その異常を少しでも正しい形に治そうと、頑張ったつもりだったんだけど……。

 

 どうやら俺では、力不足だったらしい。

 昌曰く、歩は彼の担当ウマ娘、ホシノウィルムさんによって救われたのだという。

 

 堀野はトレーナーの家系で、俺はその出身。当然ながら、ウマ娘についての知識は身に付けている。

 だから、トレーナーとウマ娘の間に発生する絆の特殊性については理解しているつもりだ。

 恐らくは、歩はそういう不思議な関係に、心の底から救われたんだろう。

 

 それを少し、残念と言うか、申し訳なく思う。

 

 結局、俺の手は届かなかった。

 あの子のことは何一つわからないまま、俺の視界の外で、歩を取り巻く問題は解決してしまった。

 

 俺にできたのは精々、無意味だとわかっていながら体を大事にするよう警告することと、新人トレーナーだったあの子から持ちかけられた、いくつかの相談に応えることくらい。

 

 ……まったく、お兄ちゃん失格だな、俺。

 

 

 

 心中では少しばかり落ち込みながらも、言葉のトーンを落とさないように注意して、昌との話を続ける。

 

「それと、もう1つ。歩にあんまり手出ししないようにって、母さんに言われたってのもある」

『母さんに? ……っていうかそれ、母さんも兄さんの問題を知ってたってこと?』

「そりゃそうだよ。あの母さんだよ? 俺なんかよりずっと前から、歩のことには気付いてたはずでしょ」

『……めちゃくちゃな上理屈の1つもないのに、納得感しかない』

 

 まだ歩の問題に気付いて間もない頃。

 それについて相談した俺に、母さんは「やっぱりあなたも気付いたのね」と頬に手を当てて、応えた。

 

「……手を出しても無意味。どうしたって、俺や母さんには歩の抱える問題を解決できないって、そう言われてね。歩にその問題を自覚させるとか、そういう行為は禁止されちゃった」

『相変わらず、唐突というか何と言うか……』

「うん。俺も納得できなくて、せめて積極的ではないにしろ、色々と手は尽くしたつもりだったんだけど……やっぱり今回も、母さんの方が正しかったな」

 

 昔から、ずっとそう。

 母さんの言葉はわかりにくくて、何の根拠も語ってはくれない。

 けど、いつだって母さんの言葉は、最終的に正しくなる。

 そういう方向に現実が歪められてるんじゃないかって思うくらい、正しい形に落ち着いて行くんだ。

 

 別に、それを苦々しく思うわけじゃないけど……。

 俺にもその力があれば、もう少し歩の力になれたかな、と。時々そう思う。

 

 

 

『……仕方ないと思うよ』

 

 ぼそりと、話を聞いてくれていた昌が口を開く。

 ……あぁ、失敗だった。これは気を遣わせちゃったかなって、そう思ったけど……。

 どうやらそれは、違ったらしい。

 

 昌は静かな、どこか痛ましいものを想うような声で言った。

 

『兄さんがそうなっちゃった原因からして、多分本当に、母さんとか兄貴には解決できない。

 何を言ったって拒否されちゃうだけだったと思う』

「それは……」

 

 歩がああなってしまった原因を知っているという意味か、って尋ねようとしたけど……。

 昌の声が、俺の疑問を遮る。

 

『悪いけど、それについては何も話せない。

 それはもう、この世界に存在しないし、するべきじゃないことだから』

 

 ……存在しないし、するべきじゃない?

 

 言葉をそのまま安直に捉えるなら、「それ」はかつて歩を変えてしまった要因であり、なおかつ今はもう存在しないものを指すのだろう。

 

 人を変えるのは経験であり、記憶だ。それが存在しないとなると、つまりは……。

 

「まさか歩は、あの事故で記憶を……」

『覚えてるよ。この世界に生まれてからの記憶、ちゃんと全部覚えてる』

「……そっか。それは、良かった」

 

 一瞬、自分や両親のことを忘れてしまったのかと肝を冷やしたけど……ひとまずそういうわけじゃなかったことに安心する。

 しかしそうなると、本格的に昌の言葉の意味がわからなくなってしまうな。

 

「……話しては、くれないよね」

『うん、話せない。これは私が墓まで持っていくつもりだから』

「そっか。じゃあ、無理には求めないよ」

 

 気になる。大事な弟だもの、当然ながら気になるが……。

 それは、妹の本意を、恐らくは歩の尊厳を傷つけてまで探るべきことじゃないだろう。

 問題は、解決した。歩が正常に人生を送れるようになった以上、無理に傷痕を抉る必要はないんだ。

 

 瞼を閉じて、一息吐き、好奇心を押し殺し……。

 俺は改めてまぶたを開いて、話を続けた。

 

「……昌はその辺りの事情を知ってる上で、歩はもう大丈夫だって言うんだね?」

『そこは保証する、もう兄さんは大丈夫。兄貴も、何度か電話で話したんでしょ?』

「うん、確かに歩は、驚く程明確に変わってた。前にあったような心理的な視野狭窄がなくなってたと思うし、思考も正常になってたと思う」

『ん。だから、そこに関してはもう安心していい。母さんにも連絡は入れてるから』

「そっか」

 

 どこか肩の力が抜けるような、あるいは肩透かしを食らうような、微妙な気分を味わい……。

 同時、ふと疑問に思った。

 

「……父さんには?」

『父さんはそもそも兄さんのアレに気付いてすらなかったバ鹿だし連絡の必要ないでしょ』

「なかなか手酷いね」

 

 相変わらずの辛辣さに、思わず苦笑がこぼれる。

 

 昌が中等部に入って荒れ始めた時、母さんは昌の話をよく聞いてたし、俺も昌との関係を修復したりする一方で、父さんはあたふたするばかりで何もしなかった。

 いや、娘心を掴めず、余計なことをしないようにしていた、と言うべきかもしれないけれど。

 

 とにかく、多分その頃のイメージが原因なんだろうけど、昌から父さんへのイメージ、めちゃくちゃ悪いんだよなぁ……。

 まぁ父さんに鈍感の気があるのは確かだし、実際歩の問題に関しては、ただとんでもなくストイックなだけだと認識し、気付いてなさそうだった。

 女性からすると、そういう察しの悪さは軽い嫌悪の対象になるのかもしれないな。

 でも、一応注意はしておこう。何より彼女のために。

 

「あんまり親に強く言うものじゃないよ」

『兄貴のそういう優等生なとこ、嫌い』

「あはは、ごめんごめん」

 

 優等生っていうか、ただ昌の将来的な精神衛生を考えての言葉のつもりだったんだけど。

 

 ……いつか、父さんも母さんもいなくなる。

 その時になって、「もっと孝行すれば良かった」と思っても遅いんだ。

 できれば今の内から、後悔しないように仲良くすべきだと思うんだけど……うん、押し付けることでもないかな、これは。

 

「……話を戻して、改めて連絡ありがとう、昌。状況がわかって安心したよ」

『ん。……兄貴も、お疲れ様』

 

 お疲れ様、か。俺は何もできなかったんだけどね。

 

 まぁそれでも、歩が救われたなら……それでいいか。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……と。

 

 俺は保健室の扉がノックされるのを聞いて、小声で昌に語り掛ける。

 

「ごめん、昌。ちょっと用事ができた」

『ん。仕事中にごめん。それじゃ、また』

 

 ぷつっと音声が途切れる。

 俺は急いでスマホをポケットに仕舞って、部屋の外に向かって「どうぞ」と声をかけた。

 

 すぐにがらっと扉が開かれて、向こうにいた子が突っ込んでくる。

 

「せんせ~っ! 疲れた疲れた、休ませてーっ!」

 

 プリンになった髪をたなびかせたその子は、まるで猫のような俊敏さで──いや、猫じゃなくてウマ娘なんだけど──椅子に座った俺に抱き着こうとしてくる。

 

 懐いてくれるのは嬉しいけど、やはり養護教諭と距離感が近すぎるというのは好ましくないかな。

 俺はさらっと立ち上がって彼女の突進を回避し、デスクに寄りかかった。

 

「昨日ぶり。休むのはいいけど、ちゃんとトレーナーさんには許可取ってる?」

「うぅ~、せんせーつれない……勿論許可なんてもらってませーん、匿ってくださーい!」

 

 勢いそのまま、俺が座っていた椅子にべたりと倒れかかった彼女は、唇を尖らせて不満をアピールして来る。

 

 ……まったく、彼女のサボリ癖には困ったものだね。

 いや、彼女というか、地方トレセンに通う何人かのウマ娘の、と言うべきかもしれないけど。

 

 あるいは中央程の魔境ではないからなのか、ここに所属する一部のウマ娘は、レースへのモチベーションをそこまで持っていなかったりする。

 流石に普通の女子高生程とまでは言わないけど、トレーニングから抜け出し、こうして保健室にサボりに来るような子も珍しくないんだ。

 

 多分ここにあるベッドが目当てだと思うんだけど……中にはベッドにすら入らず、ソファの上で俺と話して時間を潰したりする子もいるんだよね。

 正直、養護教諭としては、最低でも体調不良っていうサボる口実くらい守ってほしいんだけどな。目こぼしにも限界があるわけだし。

 

 更に言えば、彼女たちがここに居座ると、彼女たちのトレーナーたちから苦言を呈されるんだよなぁ。

 別に俺が彼女たちを誘っているわけじゃないんだが、やはり逃げ道があるとそこに走りたくなるものなんだろう。「もう少し強く拒否してください」なんて言われたりもする。

 

 しかし難しいのが、俺も堀野の家で育てられた者、彼女たちの望みや願いを無下にもできないんだよね。

 本当に疲れたような顔で「ごめん、ちょっと休ませて……」と乞われ、慌てて許可した瞬間に満面の笑顔で「ありがとー!」なんて言われることも何度もあったし。

 

 養護教諭、なんか思ってたよりちょっと違う意味で気苦労が多いよ。

 

 とはいえ、そんな板挟みの毎日でも、彼女たちの役に立てていると思えば充実したものだけどね。

 

 

 

 ……あの日、死んだ目をして資料を漁り続けていた歩も、今はトレーナー業を楽しめてるかな。

 そうだと……嬉しいな。

 

 

 







 あっちもあっちでなんかラブコメやってるブラコンお兄ちゃんでした。
 こんなことを言っていますが、この兄はお父さんの鈍感を(恋愛方面だけ)引き継いでるため、後々すごいことになります。まぁそれは、また別のお話なのですが。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、お仕事と門の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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このあと滅茶苦茶仕事した

 ケセド君ゴリラに殻ごと割られてかわいそう





 

 

 

「お仕事は楽しいなぁ」

 

 時は2月、まだまだ肌寒さが続く昼下がり。

 担当ウマ娘たちがトレーニングに出向き、俺と昌の2人のみが詰めるトレーナー室に、呟いた言葉が寂しく響いた。

 

 何か反応してもらえるかな、と思ったけど……。

 昌はちらっと俺の方を見たものの、すぐに手元の書類の方に視線を戻してしまった。

 

「……いや、無視されるのはちょっと悲しい」

「こんなクソ忙しい中で気狂いの言葉に反応なんてしてられないから」

「昌は今日もキレッキレだねぇ」

 

 まぁ実際、こんな雑談する暇すら惜しいくらいに、今は忙しいんだけども。

 

 先日のURA賞発表会以来、俺たちの仕事はまた一段と増えた。

 ……いや、仕事が増えたっていうか、アポ取りとか確認が必要な書類、ウィルへの仕事の依頼が増えた、と言うべきか。

 

 何かの宣伝依頼や取材っていうのは、その瞬間に話題性のある子に集中する傾向にある。

 そういう意味では、つい先日、高らかに凱旋門賞への挑戦を宣言したホシノウィルム程に話題性のある存在もいないだろうからなぁ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 G1、凱旋門賞。

 フランスの首都パリ、セーヌ川沿いのロンシャンレース場で行われる、芝2400メートルのレースだ。

 

 この世界において、ウマ娘によるレースは世界中で親しまれる最大のエンターテインメント。

 これは日本の中だけに限った話ではない。様々な国で様々な条件の、そして様々なウマ娘たちの参加する、たくさんのレースが行われているんだ。

 

 それら数多くのレースの中でも、海外出身のウマ娘も受け入れて行われるレースは国際競走と呼ばれる。

 実のところ、日本においても主要なG1レースはこの国際競走だったりする。勿論、毎度海外のウマ娘たちが出走しに来るわけじゃないから、国内での戦いになることも多いんだけどね。

 で、その国際競走の最たるものが、去年ウィルやマックイーン、そして海外のウマ娘であるウィッチイブニングたちが走った秋のジャパンカップというわけだ。まさしく海外との決戦といったところ。

 

 で、そんな国際レースは、当然ながら日本だけで行われるわけではなく……。

 日本のウマ娘が海外遠征をすることも、珍しい話ではないわけだ。

 

 そうして、日本のウマ娘たちが出走する、海外の国際レース。

 その中でも殊に注目されるのは、やはり国際グレードにおけるトップ層、国際G1。

 凱旋門賞もまた、この内の1つ。フランスで開催される国際G1レースなわけだ。

 

 

 

 ……と。

 ここまでの情報だけだったら、あくまでただのG1レースの1つ、ウィルがこれまでに打ち破って来たレースと変わらないわけだけど……。

 

 凱旋門賞は、あらゆる意味で今までのレースとは異なるものになる。

 

 何故ならこれは、芝の世界最強決定戦と呼ばれる程の、最高峰の格を持つレースであり……。

 同時に、日本のウマ娘ファンや関連者、そしてURAにとっての、最大の夢だからだ。

 

 

 

 日本のウマ娘は、これまでに一度として、凱旋門賞に勝ったことがない。

 海外のレースである時点でハードルが高く、挑んだこと自体がそこまで多くないというのもあるが……それでも、4度。

 4度に渡って、日本でも最強格のウマ娘たちが、このレースに散ったのだ。

 

 1人目は、数多の海外含む重賞レースを制し、更には天皇賞(春)を勝ち獲ったシンボリのウマ娘。

 最終戦績43戦17勝、息の長い活動と残してきた戦績から「老兵」や「不死鳥」などと呼ばれた黒鹿毛の子だ。

 当時はURA賞、最優秀シニア級ウマ娘にも選ばれ、更には顕彰ウマ娘という名誉も受けた。歴史に残る名バと言っていいだろう。

 ……だが、シニア級3年目に出走した凱旋門賞では、11着にも入れず敗北。日本が狭い井戸の中であることを、誰もが知る結果となった。

 

 2人目は、その冠名で初めて天皇賞を勝ち獲り、家に栄華をもたらしたメジロのウマ娘。

 美しい黒鹿毛をたなびかせる苛烈なウマ娘であった彼女は、天皇賞(春)と宝塚記念を制し、最優秀シニア級ウマ娘に選抜された。

 ……しかし、欧州に出征した彼女は、恐らく脚をバ場に合わせきれなかったか、19人立ての内で18着と大敗。

 

 3人目は、日本のダービーを制して海外で戦った「唯我独尊の開拓者」の異名を持つシンボリのウマ娘……いや、シリウスシンボリ。

 トゥインクルシリーズ登録までに色々と問題が発生したりした彼女だが、実際に走り出すとクラシック級の夏までに6戦4勝、見事にダービーを制した。

 そして、幼馴染でもあるシンボリルドルフと共に海外へ渡る予定だったが、彼女の脚部不安の発生により単身遠征へ向かい……。

 ……しかし、彼女の気性の荒さや状況の悪さもあり、14戦0勝。レースの展開自体は好走なのだが、なかなか勝ちきれず、凱旋門賞では14着に終わった。

 

 そして4人目が、黄金世代の一角、世界最強と謳われたターフの怪鳥、エルコンドルパサー。

 たった1度、異次元の逃亡者サイレンススズカに後塵を拝したことを除けば、日本の中で誰かに遅れをとることなくNHKマイルカップやジャパンカップを制し、国内最強を証明した。

 翌年、タイキシャトルの欧州遠征の波に押されるように海外遠征を決定。万全に万全を期すため、半年もの期間ヨーロッパに滞在し、現地の条件に体を慣らした上で凱旋門賞へ挑んだ。

 ……しかし、運命はそれを嘲笑う。

 当日までに雨が続き、バ場の状況は観測史上最悪に。ただでさえ海外の重い芝がぬかるみ、どうしようもない程彼女の脚を引きずり、重バ場を得意とするモンジューにほんの半バ身差し切られたのだ。

 

 

 

 3人目までは、10着以内に入ることすらできなかった。

 世界最強と言われたエルコンドルパサーでさえも、入念な準備と研鑽を重ね、欧州の芝にも十分すぎる程に慣らして……それでも、惜敗の2着。

 

 日本と世界の間には、未だ埋めがたい差がある。

 凱旋門賞での連続する敗戦は、どうしようもない程にこれを証明してしまっているのだ。

 

 

 

 ……更に言えば、凱旋門賞に「挑もうとした」強者は、この4人だけではない。

 史上初めて無敗三冠を、そして七冠を成し遂げた「永遠なる皇帝」、シンボリルドルフ。

 日本史上最強と名高い彼女も、秋のヨーロッパを目指して海外遠征に出て……そして、断念せざるを得なかった。

 

 シリウスシンボリとの海外出征に失敗した翌年、奇跡の復活を果たした彼女は再び海外を目指し……。

 しかし、アメリカでのレース中、その脚に故障が発生したんだ。

 勝利より、たった3度の敗北を語りたくなるウマ娘、シンボリルドルフ。彼女の最後の敗因は、海外に出て最初のレースで患った、その左足の故障だった。

 

 故に……この国の多くのウマ娘のファンが、凱旋門賞での勝利を待ち望み、そして同時に恐れている。

 

 数多の失敗、数多の敗北を超え、それでも日本のウマ娘に世界最強の名を手にしてほしい。

 そして同時、シンボリルドルフのように海外へ挑戦することで故障が発生し、トゥインクルシリーズを引退する、などという事態になってほしくはない、と。

 

 

 

 その上で……。

 シンボリルドルフと同じく、というか彼女とたった2人きり、無敗の三冠を成し遂げたホシノウィルム。

 彼女が海外遠征を、それも凱旋門賞への挑戦を申し出たのだ。

 

 そりゃあ、とんでもない数の期待と心配が寄せられるのは道理であり……。

 それだけ俺と昌にかかる負担が増えるのも、また道理だったわけだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ぷるる、と鳴り始めた内線電話を、昌が手慣れた手つきで取る。

 あれはトレセン学園の事務室に繋がる回線だ。良かった、今度はトレセンを通した正規の依頼だな。

 最近は非正規の依頼が増えて、昌がイライラしてたからね。いい加減、俺や昌のスマホの番号を特定して直接かけてくるのやめてほしいなぁ。どうせ非正規の依頼を引き受けるわけがないんだし、あっちもこっちも不愉快に終わるのが確定してるのに。

 

「はい、もしもし、堀野です……あぁ、はい、またその件。以前お断りしたんですけど……え、先方が条件を変えて来た?

 ……はい……はい。承りました、メインのトレーナーと相談した上ですぐお返事します。はい、ありがとうございました。失礼します」

 

 ため息を吐いて受話器を置き、手元のメモにペンを走らせる昌に声をかける。

 

「何だって?」

「また月刊ミドル。独占インタビューさせろって」

「あー……そういえば、条件が変わったって言ってたけど」

 

 そう訊くと、昌は指を4本立てた。

 ……なるほど、1回のインタビューで払うにしてはかなりの好条件だ。

 

 まぁ、受けないんだけどさ。

 

「拒否しよう。悪いけど、丁重にお断りしてくれる?」

「……今更なんだけど、なんでここの取材受けないの? 条件としてはかなり良いと思うし、あっちも誠意は見せて来てると思うんだけど」

「あぁ、昌は知らなかったよね。あそこ、弥生賞の前にウィルをこき下ろした記事出してたんだよ。それだけなら意見の自由って受け入れられるんだけど、皐月賞でウィルが大勝するや否や急に手の平返して持ち上げだしてね。

 戦績で簡単に手の平を返すようなメディアと付き合ったら、もしもウィルが負けた時になんて言い出すかわかんない。短期的な実利よりウマ娘の心を優先する方針だからね、堀野……じゃなくて、ウチは」

「なるほど」

 

 メディアにも良し悪し、というか特徴がある。

 例えば、裏取りを欠かさず正しい情報を記載することに定評のあるところもあれば、逆に真偽問わずセンセーショナルな記事を載せるところもある。

 記者個人の考えで、その記事に載せられる情報が好意的に解釈されることも、あるいは嫌意的に解釈されることもある。

 

 そういった違いは、どれが良い悪いではなく、どう使うかなんだけど……。

 俺としては、やはり担当の子たちの心労になるような選択肢は取りたくはない、というのが本音だ。

 まぁ、必要であれば情報操作の1つや2つは行うが……今のところ、月刊ミドルに恩を売る必要性は欠片たりとも存在しない。

 

 そんなわけで却下だ却下、一昨日お越しください。

 

「そうやって、裏からウマ娘の心とブランドイメージを守るのも、俺たちトレーナーの仕事だよ。将来独立した時のために覚えておいて」

「……ん。参考にする」

 

 昌は珍しく素直に俺の話を聞いてくれた後、再び受話器を取って、トレセン事務室の方に話を通し始めてくれた。

 ちゃんと丁寧に断ってくれてるみたいで安心安心。流石昌、この3か月くらいでだいぶ仕事にも慣れて来てるね。

 

 

 

 うーん、しかし。

 本当はこういう渉外も俺がやるべきなんだろうけど……今は手が空いてないからなぁ。

 

「……はぁ」

 

 俺は改めて、手元の資料や紙束などの山に目を落とす。処理しなきゃいけない仕事は無限に増えていく。頑張って片付けなければ。

 

 えぇと、ウィルのグッズの認可……アウトだ。

 よく見たら契約書にとんでもない落とし穴があって、この企画が頓挫したら何故かこっちが違約金を払うことになってる。詐欺とは言えないまでも、悪質なヤツだ。

 あるいはわざとポシャらせて金を巻き上げて来る詐欺の可能性もあるか。たづなさんに報告してこの企業はシャットアウトしてもらおうかな。どうせ次には名前変わってそうだけど。

 

 次、ブルボンの分の蹄鉄を発注してる会社からの、値上げのお知らせ。

 ……うん、これはいい。彼女たちはトップアスリート、使うものも一流であるべきだ。多少値を上げても、品質さえ落ちなければ問題ない。

 

 これはブルボンへのトークショーの依頼……これは駄目かな。

 一応カレンダーアプリを開いて見てみるけど、やっぱりこの辺は俺がトレーナー学会の発表関係で忙しくて日程が空かない。

 というか無茶して空ける程、この依頼の優先度が高くないと言うべきだろうか。申し訳ないがお断りの連絡を入れなければ。

 

 今度は……URAからの感謝の連絡。公式なものじゃなく、非公式で割と私信に近いヤツだ。

 ウィルの凱旋門賞への挑戦は、URAにせっつかれたという側面もあったからな。その辺りの事情を汲んだことへの感謝が綴られている。

 ……あ、それから最大限に体調に気を付けてほしいとも書いてあった。完全にルドルフの件がトラウマになってるなぁ、これ。

 これは取り敢えず仕舞っておこう。返事の必要とかもないだろうし。

 

 次は……ウィルとブルボンへのファンレターが数十枚。相変わらずすごい量だ。

 公式にされているわけではないが、ウマ娘へのファンレターは、学園に入る時に危険物が入ってないかなどをチェックされ、次に担当トレーナーが中身の検閲を行った上でウマ娘本人に届く。

 勿論、筆者の秘密を覗くのはマナー違反だから、しっかり中身を読むわけじゃない。基本的には悪意がなければ問題なくウマ娘の元に届くことになる。

 今回は……2つだけ駄目なヤツがあったが、他は問題なし。片方は内容がヤバくて、もう片方はいくつか体液が付着していた。本当にやめてほしいよこういうの。後でシュレッダーにかけに行かなければ。

 

 で、次がウィルの……コラボ商品? いやこれ全然ウィル側に利益出ないじゃん。却下だ却下、彼女の青春の1秒1秒はこんなに安くない。提案にすら値しないよ。

 

 はぁ……。最近、変な依頼増えたなぁ。

 まぁウィルやブルボンが、それぞれ活躍したり話題を沸かせた結果と考えると、嬉しくもあり悲しくもありといったところ……。

 

「兄さん、事務室から日程調整してほしいって。再来週のホシノウィルムさんのアレ」

「え、なんで?」

「なんか先方のシステムエンジニアと連絡が取れないとか。その次の週にしてほしいって」

「……マジ?」

「マジ」

 

 え? そうなるとちょっと前に処理したヤツがひっくり返るんだけど?

 許可の判押しちゃったよ? え、先方にも連絡しなきゃだよ? あ、一昨日やったヤツも撤回か? というかトレーニングスケジュールも全部組み直しだよ?

 

「…………お仕事、楽しいなぁ」

 

 俺、ウィルやブルボンのトレーニングを見に行ける余裕のある生活に戻りたいなって、そう思います。

 

 

 

 

 

 

 と、そんなことを祈っていたら、その機会は思いの外早く訪れた。

 

「兄さん」

「何?」

 

 キーボードを叩きながら上を見ると、昌も何かの書類を仕分けながらこっちに話しかけてきていた。

 あっちから話を始めるのはちょっと珍しいかな、と思いながら問い返すと、彼女はちらりと視線を向けて言ってくる。

 

「疲れてるっぽいし、2、30分くらい担当の子たちのこと見て来たら。気分転換に」

 

 ……うわ、それ、すごい甘美な誘惑。

 

「いや、仕事が……」

「メンタルボコボコの状態でやってたら能率下がるでしょ」

「それを言うなら昌も」

「私は昨日1人お休みもらったから平気。兄さんは……もうしばらく仕事のことしか考えてないでしょ」

 

 ……言われてみれば、ここ数日はずっと仕事してた気がするな。

 いやでも、昔はこれくらいなら、能率落とさずにこなせてたんだけどなぁ。

 やっぱり気が緩んで……いや、これ、もしかして老いだろうか。齢20と少しでもう老いを感じ始めるとは……うぅ、辛い。

 

「……なんかろくなこと考えてなさそうだけど、とにかく行ってきて。兄さんの死んだ魚みたいな目には慣れてるけど、今の兄さんは前とは違う意味でちょっと嫌」

「辛辣ぅ」

 

 こんな言い方だけど、昌が俺の体調を気遣ってくれているのは間違いない。

 ……うん、正直、ちょっとネガティブになってきてるってのは自覚できてる。ここは彼女の好意に甘えてもいいかな。

 

「ごめん、じゃあちょっとミホノブルボンのこと見て来る」

「ん。判断できないことがあったら保留しとくから」

「ごめんね。今度はこっちが時間作るから、しばらくお願い、昌」

「……うん。ちゃんと疲れ取って来てね」

 

 優しい妹を持つと、こういう時に頼れるなぁ。今度何かプレゼント……お菓子の詰め合わせでも贈ろう。

 

 俺はバキバキ言う体を動かしながら、トレーナー室のドアに向かった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さっき昌に上から目線で語った通り、トレーナーの仕事とは、何も担当ウマ娘のトレーニングスケジュールの立案だけではない。

 この辺世間からは勘違いされがちなんだけど、実はそれと同じくらいに書類の確認や整理処理、渉外に調べものなどを強いられるんだ。

 

 ぶっちゃけ、トレーナーという言葉はこの職業の本質を指してない。

 俺たちの仕事を正しく表現するとしたら、どちらかと言えばマネージャーとかプロデューサーの方が近いだろう。

 

 トレーニングを付けるだけではなく、担当ウマ娘とコミュニケーションを図り、その想いを汲み取り、URAの営利性や世間の在り方とすり合わせながらそれを実現できる方向性を探り、雑務や渉外をこなしながら総合的に彼女たちを支える……。

 

 ……いや、これもうマネージャーとかプロデューサーですらなくない? もはや親以上に彼女たちを支えてない? と思わないでもないが。

 プロのアスリートであり、他のことに気を割いてはいられない競走ウマ娘たちを支えるとなれば、これくらいのことはしなきゃいけないわけだ。

 

 で、それら業務の内には、ウマ娘の心や名誉、あとブランドイメージを守るとか、定期的にトレーニングの様子を窺うことも含まれるわけで……。

 つまるところ、俺が担当の様子を見に行くのも、また立派なお仕事の1つ。

 

 なのに、なんで書類仕事と違って、こんなに心躍るんだろうな。

 やっぱりアレか、俺がウマ娘の走る姿が好きだったからだろうか。

 いや、単に彼女たちの育成に関係しない書類仕事が、単調で面白みがないからって可能性もあるが……今は、それは置いておこう。

 

 もはや語る必要もないだろうが、俺には2人のウマ娘がいる。ホシノウィルムとミホノブルボンだ。

 両者ともに逃げを得意とし、というかほぼ逃げしかしないが、そうして脚質を読まれやすい状況にあってなお、レースでは他を圧倒して寄せ付けない程の抜群の素質の持ち主たち。

 

 おおよそレースとなると敵なしの2人なのだが、忘れてはいけないのが、この子たちはまだ中等部の普通の女の子でもあるってこと。

 

 この年頃、思春期の女の子というのは、とかく暴走しがちだ。大人である俺や昌がきちんと見ていなければ、おかしな方向に行ってしまう可能性もある。

 

 ……いや、彼女たちが普通の思春期の女の子かと言うと……うん、難しいところもあるんだけども。

 

 年齢以上の精神力や思考能力を見せることのあるウィル、意思が薄弱で思春期に入っているか怪しいブルボンと、その方向性は逆ではあれど、彼女たちは一般的なウマ娘からはズレているところがある。

 最近のウィルは比較的健全に近づいてきているが、やはりたまに、どことなく精神的に成熟しているところが見え隠れするしな。

 

 ウィルは自分の欲望を我慢したり、理屈で物事を呑み込める賢い子だし、ブルボンの方は合理的な理由があれば基本的に言うことに従ってくれる。

 そういう意味では、他のウマ娘たちと比べて、あまり手のかからない子たちだと言えるだろう。

 

 まぁその分、彼女たちの残すとんでもない戦績のおかげで、俺たちが忙しいのは変わらないんだが……。

 

 

 

 で、そんなブルボンのトレーニングを見に行ったんだけど……。

 彼女はやはり無表情で、真面目に取り組んでいた。

 

 今日の彼女のトレーニングはジムでのランニングマシーンの使用によるミドルペースの長時間維持。

 きちんと矯正された綺麗なフォームで走っていた彼女は、遠くから歩いて来る俺を認識するとマシーンを降り、ペコリと頭を下げて来た。

 

「マスター……お疲れ様、です」

「お疲れ様、ブルボン。少し様子を見に来た。調子はどうだ」

「コンディション、イエロー。僅かながら、疲労を検知しています。しかし、まだ問題なくトレーニングを続行することが可能であると考えます。

 また、トレーニングの結果は、昨日に比べて平均プラスコンマ9秒。半月を通して目標値を僅かに上回っています」

「うん、報告ありがとう。」

「マスターのプランあってこそです。こちらこそ、ありがとうございます」

 

 改めて、ペコリと頭を下げてくるブルボン。本当に真面目で良い子だな。

 

 彼女が自己申告してきた内容、特に体力の部分は……うん、かなり正確だ。

 俺の「アプリ転生」で見ても、彼女の体力減少はそこそこといったところ。トレーニングは問題なく継続できるだろう。

 この辺りを客観的に見ることができるのも、ブルボンが手のかからない要因の1つだな。

 

 一方でトレーニングの結果に関しては、「アプリ転生」で見ることができるわけではないが、こちらも定期的に取っている数字を見るに正しいはずだ。驚いたことに、コンマ単位まで合ってる。

 

 ……時々、彼女は体内に計器か何か持ってるんじゃないかって思う。なんでそこまで正確に測れるの? ミドルペース、つまりレースでのペースで走りながらだよ?

 流石にウィルでもそこまでは……あぁいや、できそうだなあの子なら。思考力増加とかいう能力まで持ってるし……。

 

 

 

 ……さて。

 ブルボンはこのように、理論と数字で物を考える、非常に手のかからないウマ娘だ。

 

 とはいえ、完全に安全というわけではないのが難しいところで……。

 

「マスター、クラシック三冠に向かったフローチャートは万全でしょうか」

「うむ、問題ない。ステータスの面で言えば、計画と実態の誤差は数字にして5%以内、修正可能なラインを維持している」

「私の適性については」

「そこに関しては何とも言えないというのが実情だ。ただ、客観的なデータの上では、君の中距離以上の走りの技術は確実に向上していっている。焦る必要はない」

「了解しました」

 

 基本的に理論と数字で全てを納得してくれる彼女だが、クラシック三冠への拘りだけは非常に強い。

 どれだけ説かれても前のトレーナーの「スプリンター、マイラー路線で戦う」という話を吞まなかったように、彼女にとってそれはあらゆる理屈や正論を超えた、絶対的な価値。

 一時期のウィルの敗北への忌避のように、呪いにまでなっている様子はないが、執着……いや、固執と言えるレベルのものだろう。

 

 ただ、ブルボンの三冠への拘りは、かつてのウィルのそれとは違い、その身や心を削るものではない。

 むしろ、彼女が前を向いて努力するための良いモチベーションになっている。

 悪い方向に転ばないよう様子見は必要だろうが、今のところ手を出す必要はないだろう、というのが俺の考えだった。

 

 まぁ、人間……いや、彼女の場合はウマ娘か。ウマ娘なら、拘りの1つでも持っていた方が良いだろうとも思うしね。

 

 例えばウィルなら、走り……というか、誰かとの激しいレースを楽しむことに拘っている。これは執着というよりは嗜好だろうが、拘りであることには変わりはないだろう。

 例えば昌なら……うーん、自分の心に素直なことだろうか。あの子、その辺りを繕うことはあっても、嘘を吐くようなことは滅多にないしな。

 例えば俺なら…………え、思えば俺の拘りって何だろう。強いて言えば、彼女たちを幸せな未来に導ければ何よりだとは思うんだけど、それはトレーナーとして当然のことだしな……。

 

 まぁいいや。

 とにかく、ブルボンだってモチベーションになる拘りの1つや2つ、持っても問題はないだろう。

 特にクラシック三冠となれば、最終的な目標としてもわかりやすいし、トレーナー的な観点からしても心理的に掴みやすいからね。

 

 ウィルなんて、「やだやだ自主トレしたい模擬レースしたいモード」になると、あんま言うこと聞いてくれなくなるからな……。

 この前なんか休んでもらうために1日一緒にお出かけを強いられたりしたし。いや、それ自体は充実した時間だったから良いんだけどさ。

 

 そんな1人目の担当ウマ娘に対して、三冠を獲るためだと言えば素直に言うことを聞いてくれるブルボンは、かなり付き合いやすい部類だと言えるだろう。

 ……まぁ、それは同時、俺が判断を間違えたら彼女は失敗してしまうっていう意味でもあるけどね。

 「アプリ転生」や堀野の膨大なデータがあるとはいえ、そこに関しては重々気を付けなければ。前世のアプリとは違ってたった1度きりの人生、失敗は許されないんだから。

 

 

 

 とはいえ、気を引き締め直してすぐに慢心するような感じになってしまうが……。

 ブルボンにも言った通り、彼女のステータスの伸びは計画の誤差範囲内で進んでいる。ウィル程ではないにせよ、世代の中では頭1つ……いや、2つ抜けている。

 定期的にトレーニングを共にする、彼女の夢の最大の障害足りうるライスシャワーに比べてもなお、僅かに劣ったスタミナを除けば全てが上回っている。

 

 三冠達成への道筋は、今のところ順調だと言っていいだろう。

 

 

 

 ……不安要素があるとすれば、俺の目と知識でも完全には管理しきれない適性面、そして彼女の持つ掛かり癖だろうな。

 適性に関しては、今のところ「アプリ転生」の表記上は『中距離:B』から変わっていないものの、彼女のペース管理は上手くなってきているし、少なくとも皐月賞と日本ダービーに関しては問題ないとは思うが……。

 

 問題はやはり、年末の朝日杯でも彼女を苦しめた掛かり癖だな。

 これは、彼女の持って生まれた気性だ。簡単に覆せるものじゃないし、それが本番で起こってしまえば、彼女の強みである一定ペースでのサイボーグじみた走りはできなくなってしまうだろう。

 

 今はウィルや、ブルボンの同級生であるソウリクロスと走らせ、自分の周りでウマ娘が走っている感覚に慣れさせようとしているが……果たしてこれがどこまで有効に働くかは不透明だ。

 これまでの歴史から考えれば、効果がないわけではないはずだが……これまでの歴史上で正しかったことが、彼女にとっても正しいとは限らないからなぁ。

 

 

 

 とはいえ、これらの不安を彼女に感じさせる必要はない。……少なくとも、今のところは。

 

「よし、ブルボン、トレーニング再開。ここで見ているから、しっかりと励むように」

「了解。残り22分、ミホノブルボン、奮起します」

 

 

 胸に手を当ててそう応えると、ブルボンはランニングマシーンに乗り、走り出した。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 それからブルボンが休憩時間に入るまで、俺は彼女のトレーニングの調子を眺めていた。

 彼女は基本的に無表情だったが、流石に疲労を感じないわけではないんだろう、僅かに唇を強く結んでいるようだった。

 それでもなお、殆ど表情に出ないっていうのがなかなかすごい気もするけどね。

 

 ……しかし、こうして頑張る彼女の姿を見ていると、こう、何かご褒美とかあげたくなるな。

 

「ブルボン、いつも頑張ってるし、今度久々に皆で外食にでも行こうか」

「! ……はい、了解しました」

 

 休憩のためにベンチに座ったブルボンにそう言うと、彼女はほんの少しだけ尻尾をピンと立て、すぐに平常に戻して頷いた。

 

 忘れがちだけど、彼女はこう見えてもサイボーグでも何でもない、美味しいものをたくさん食べられることを喜ぶくらいには普通の女の子なんだよな。

 勿論クラシック三冠程にはならないにしても、こういうご褒美が、日々を頑張る小さなモチベーションになればいいなと思う。

 

 ……しかし、どうか食べ放題で勘弁してはくれまいか。

 普段はトレーナー業務以外ではほとんど使わないとはいえ、流石に俺のお財布にも上限があるからさ。

 

 

 







 日常回って久々に書くと書き方忘れますね。なんか纏まりのない話になっちゃってちょっと反省です。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、戦争と実弾準備のお話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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よろしい、ならば戦争だ

 久々に予告詐欺になっちゃいました。今回は「戦争と実弾準備の話」になります。
 なんか不穏っぽいですが、特に不穏要素はないです。安心安全。





 

 

 

 一説には、平和とは戦争の準備期間であるらしい。

 

 現代における戦争というものは、領土や資源、食料といった総力と、事前に積み上げた準備によって8割が決してしまう。

 戦法や戦術に戦略。そういったものが無駄なわけではないが、それ以上にどれだけ万全の体制を整えて戦端を開くかが勝敗を分けるのだと言う。

 

 まぁこれ、至極道理な話であるとも言えるよね。

 素人考えになっちゃうけど、戦闘っていうのはその規模を問わず、どちらが先に相手に致命的な一撃を入れるかだ。

 例えば、素人の喧嘩なんかがわかりやすいかな。

 相手の頭にガツンと一撃でも入れれば、その時点で思考力が乱れて相手は反撃できなくなる。そうでなくとも、体のどこかを痛みでも機能不全でもいいから封じてしまえば、莫大なアドバンテージになるんだから。

 

 だから勝負に勝つためには、相手に致命的な一撃を入れられないように徹底した防御を固めつつ、相手の隙を突いて一撃を入れなきゃいけないわけで……。

 その為には、戦いが始まるより前に十分以上の資源を集め、盾と矛を作るという準備が必要となる。

 

 

 

 さて、そんな事情……準備が一番肝要だっていう事情は、このトレセン学園やウマ娘のレースでもそう変わらない。

 

 公式レース当日より前に、どこまで自分の体を鍛え上げ、万端に調整し、メンタル面の不安要素を取り除いて、調子を整え、集中できる状況を作るか。

 実のところ、それがレースの趨勢の大部分を決めると言っていいだろう。

 

 レース内での展開作りや、その波に乗る咄嗟の機転だって勿論大事だ。地力だけ見ればいささか劣っても、そういう技術で上に這い上がって来るネイチャのようなウマ娘もいるんだから。

 ……だけど、それはネイチャの劣勢が「いささか」だからできる話。

 地力に大きな差がある場合は、そんな策略自体が通用しなくなる。それこそ去年の、弥生賞までの私みたいにね。

 

 故に、戦いにおける準備段階は非常に重要なんだ。

 ここを欠かして勝利はないと言っていいだろう。

 

 

 

 ……と。

 伊達メガネをかけて講釈を垂れていた私に、椅子に座ったブルボンちゃんが尋ねてくる。

 

「結局のところ、ウィルム先輩は何を仰りたいのでしょうか。普段のトレーニングの重要性は十分に理解していると自負していますが」

 

 要はさっさと本題に入れ、とのことだ。

 まったくもう、結論を急くのはよろしくないよ、過程を楽しまなきゃ。これだから最近の後輩は……って言うと、ちょっと老害っぽくて嫌になるけども。

 

 まぁでも、確かにちょっと冗長になってたか。

 そろそろ本題に入ろう。

 

「つまり……そろそろ次の戦争に向けて、実弾の準備を始めなきゃいけないってことだよ」

「…………? 真意を推察。春のG1レース群に向けて、特別なトレーニングを実行するという意味でしょうか?」

「いや、違う。トレーナーが最適なプログラムを組んでくれるから、そっちは気にしなくて大丈夫だよ。

 というかむしろ、そんなことしてトレーナーのプログラムを乱しちゃ駄目かな。横槍になっちゃうし」

「了解しました」

 

 

 

 歩さんの組んでくれるトレーニングプログラムは、一般的なトレーナーさんたちのそれとは違い、とんでもなく微に入り細を穿つものだ。

 

 通達される分だけでも1か月以上前から分刻みの予定表が組まれてるし、私たちのその日の調子や身体能力の伸び具合を見て、数時間に1回のペースで微妙に調整されていく。

 それらは私とブルボンちゃん専用に組まれる、彼独自のとんでもない精度の鑑識眼と徹底的なデータ分析による、これ以上ない完璧なプログラム。

 ただでさえ最高級のクオリティなのに、逐次補完され完全に近づいていくそれは、もはや芸術のそれに等しい……っていうのは、ちょっと前にネイチャのトレーナーさんが言ってたことだったか。

 

 実際これまでの2年間、私はトレーナーの指示で動いてる間、一度たりとも事故を起こしたことがない。

 唯一の例外はあの宝塚記念だけど、あの時は「危険すぎるからやめよう」って言われるのを私がゴリ押して出走したんだし。

 勿論ブルボンちゃんの方も同じで、歩さんの担当になって以来、トレーニング中の事故と呼べるものは一度も起こしてない。

 

 どうやらこれはかなり異常なことらしく、この前テイオーに話したらドン引きされたのを覚えてる。

 どんなベテラントレーナーが支えたって、その調子を読み間違えたり意思疎通の失敗が響いたりして、担当が失敗を起こすことは珍しくないらしい。

 それが丸々2年間、ブルボンちゃんの分も含めれば2年半という期間発生しないっていうのは、少しばかりとんでもない結果なんだとか。

 ……やっぱり歩さん、ちょっとすごすぎるよね。ぶっちゃけ私なんかより全然チートかもしれない。

 

 私たちのトレーニングプログラムは、そんなとんでもないトレーナーが組んでくれたパーフェクトプランなんだ。

 知識も経験も能力も、その全てが歩さんには劣るだろう私たち担当ウマ娘が、思い付きで崩していいものじゃない。

 

 ……いや、勝手に自主トレしまくってる私が言っていい言葉じゃないかもしれないけども。

 でもトレーナー、その辺もちゃんと織り込んでスケジュール組んでくれるし? ちょっとくらい甘えてもいいかなーとも思うわけですよ。

 

 

 

 でもまぁ、その辺はわざわざブルボンちゃんに言う必要もないかな。

 今はとにかく、目の前の戦争のことだ。

 

「今回はレースとは別件。どちらかと言うと、私たちの私生活に関わることだよ」

「私生活……戦争……?」

 

 ブルボンちゃんはそう呟き、ちょっと上の虚空を見上げてポカンとしてしまった。

 多分黙って何かを考えてるんだろうけど、この何もないところを見上げる感じ、猫ちゃんかな? って思っちゃうね。いや、ただの猫じゃなくて宇宙猫かな、これは。

 

 しかしこれ、そんなに真面目な話じゃないんだけどね?

 どっちかと言えば、私の羞恥心を誤魔化すための詭弁なんだけども。

 

 ちょっと申し訳なくなった私は軽く咳払いして、改めて人差し指を立て、本題に入ることにした。

 

 

 

「そう、戦争。……トレセン学園の2月と言えば、やっぱりこのイベント。

 

 バレンタインデー、だよ」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 2月14日、バレンタインデー。

 女の子が勇気を振り絞り、一歩を踏み出さんとする日。

 あるいはメーカーのプロモーションに踊らされ、気になる異性、感謝すべき相手にチョコを贈る日だ。

 

 私がまだ普通の人間だった前世、このイベントにはあまり……いや、言葉を濁さず言えば、欠片たりとも好感を覚えていなかった。

 だって私、前世じゃただの陰キャオタクだったし。

 そんなの贈る相手もいなければ、そんなに他人と関わるような積極性もなかったし。

 バレンタインと言えば、触ってたソシャゲでイベントがある日。それくらいの印象だった。

 ……ごめん嘘、見栄張った。正直陽キャがはしゃいでてウザいイベントって思ってたわ。前世の私、普通に性格悪かったからなぁ……。

 

 でも、そんな時代は過ぎ去った。今世の私は一味違うぞ。

 なにせ、その、恋……とか、しちゃったんだし。

 

 今なら、あの陽キャどもの気持ちも、ちょっとはわかる。

 好きな人に想いを届けるんだもん、そりゃ緊張しちゃうし、興奮しちゃうよね。

 

 なんならその準備をしようっていう今、既に私の両手は手汗まみれ、背中は冷や汗だらだら、頭の毛穴は開きっぱなし。

 いや、これは緊張っていうか、必死に抑え込んでる気恥ずかしさ故かもしれないけども。

 

 ……しかし、いくら恥ずかしくても、1人の女の子として、このバレンタインっていう日に行動を起こさないわけにもいかないんだ。

 だって何もしないっていうのは、それはそれで1つの意思表示になっちゃう。

 どうするよ、歩さんに「あ、ウィル、特にチョコをくれるくらいに親しくは思ってくれてないんだな……」なんて思われたら。その時点で私に残されていた細い勝ち筋は途絶えてしまう。

 

 ただでさえトレーナーとウマ娘っていう立ち位置上、かなりのディスアドバンテージがあるんだ。なんとかそれを埋められるよう、こういう時にアピールしていかなきゃいけない。

 

 更に言えば、チョコを用意しなきゃいけないのは歩さんだけじゃない。

 女子同士のコミュニケーションのために友チョコは必須だし、お世話になった昌さんにだって贈りたい。

 それが義理か本命かは問わず、誰かと一定以上に親しいなら、贈るチョコの用意は必須だと言っていい。

 

 ネイチャやテイオー、マックイーン先輩やブルボンちゃんにライスちゃん、他後輩ちゃんたち。その辺りに贈る友チョコは、ちょっとお高い市販のものでいいとしても……。

 やっぱり恋する相手である歩さん、そしてお世話になってる上に彼の妹でもある昌さんには、しっかりと手作りしたチョコを贈りたいよね。

 

 さて、私がそうしてチョコ作りへの意欲を燃やす一方。

 私の後輩、ブルボンちゃんの方も……意外にも、チョコの作成には意欲的だった。

 

 トレーニングに集中して、ついぞこの日までバレンタインのことを失念しちゃってたらしいけど、バレンタインが近づいていることに気付くと「……オペレーション『贈り物作成』を挿入、優先度を『高』に設定」って言ってた。

 念のため、あくまで本当に念のため、そこはかとなくその真意を尋ねてみたけど、「慣例的なイベントですし、普段からお世話になっているマスターに恩を返す貴重な機会ですから」とのことだった。ほっ。

 

 ブルボンちゃんにとって歩さんは、クラシック三冠を目指す同志であり、なおかつ彼女のトレーニングプランを組んでくれる恩師でもある。

 そういう相手に感謝の感情を忘れないのは、簡単なようでなかなかできることじゃない。ブルボンちゃんの真面目さとか優しさがよくわかるよね。

 

 そんなわけで私たちは、歩さんに贈るためのチョコを作成することになったんだけど……。

 

 

 

 問題は、これがただのバレンタインデーではなく、「トレセン学園の」バレンタインデーだってことだ。

 

 

 

 トレセン学園において、バレンタインは少なからず特殊な意味合いを持つ。

 

 そもそもの話なんだけど、トレセン学園に入学した時点で、ウマ娘はようやく初等部を終えたばかりの女の子。それこそ思春期真っ最中の年頃だ。

 で、共に苛烈なトゥインクルシリーズを駆け抜けた担当ウマ娘と契約トレーナーの間には、とっても強い信頼関係が生まれるんだ。

 

 すると、何が起きるか?

 そう、恋愛感情の発生である。

 

 普通の生徒と違ってトレセン学園生は全員がウマ娘、つまりは女性。恋に恋し、男性トレーナー、そして時には女性トレーナーに淡い恋心を抱くような子たちだって珍しくはないんだ。

 仮に恋心を抱かなかったとしても、善性の子が多いここには、頑張ってくれるトレーナーへの感謝の心を持たない子なんていないしね。

 

 その結果として、何が起こるかって言うと、さ。

 

 トレーナーに恋をして、あるいはトレーナーに世話になった恩を返すため、この日に手作りチョコを贈ろうとする子は、そんなに少なくない……どころか、超多いんだ。

 

 ……で。

 そうして需要が増えすぎた結果、供給の量が不足すると、何が起こるかと言えば……まぁ、想像に難くないよね。

 

 

 

 

「そんなわけで、トレセンのキッチンは借りられませんでした、はい」

「……なるほど」

 

 この時期、チョコを作るためにキッチンを借りたがる子は多い。めちゃくちゃ多い。あまりにも多すぎて、キッチンがパンクするレベルで。

 

 トレセン学園には、その校舎内に1つ、栗東寮と美浦寮に1つずつ、そこそこ広めのキッチンが存在する。あとは家庭科室も生徒会に申請さえすれば使えるのだとか。

 2月の上旬は、これら4つの料理ができるスペースが、チョコを作らんとするウマ娘たちによってフル稼働することになる。

 

 とはいえ、トレーニングとおまけ程度の学業に追われるウマ娘たちが自由になるのは主に昼休み、それからたまにある休日くらいのもの。

 空いた時間でなんとかキッチンを借りて、料理スキル次第では繰り返し練習し、少しでも美味しい手作りチョコの完成を追い求める……。

 それはまさしく、担当ウマ娘にとってのもう1つの戦場。時間と自分の料理の腕、求めるクオリティと鎬を削る戦争である。

 

 

 

 で。

 私はその戦争の第一段階、キッチン争奪戦に敗北したのだった。

 

「先輩。1つ、疑問を提起してもよろしいでしょうか」

「うん」

「キッチンを使えないのならば、チョコを作ることはできないのではないでしょうか」

「うーん、痛いところを突くね」

 

 今日は2月の第二日曜日、私とブルボンちゃんの休暇が珍しく被った日だ。

 ……というか、バレンタイン直前の日曜日は不思議と多くのウマ娘がお休みをもらえるんだとか。

 もしかしたらトレーナーたちの間で、私たちウマ娘のそういった事情に配慮するように内々に決まってるのかもしれないね。

 

 さて、お休みという貴重な好機を逃すわけにもいかない。

 私は早速、私やブルボンちゃんの所属する栗東寮のキッチンを借りようと思ったんだけど……。

 やっぱり誰でも考えることは同じなのか、私が事務室に申し込もうとした時には、貸し出しの枠はびっちりと埋まっていた。

 

 今日は休日ってこともあって校舎は締め切られてるし、確認したら美浦寮の方も埋まっちゃってた。

 うん、どうやらちょっと行動が遅すぎたみたい。

 今日、私たちがトレセンのキッチンを借りることは、不可能らしかった。

 

 戦争に例えれば、まだ本番が始まる前に補給路が完全に断たれたような状態かな。

 あるいは、もうこの時点で敗戦を予感するような展開だけど……。

 

 ……ふ。この三冠ウマ娘ホシノウィルムが、その程度で諦めるわけがあるまい。

 

 正攻法が通じない時でも、裏道はある。

 表向きの補給路が潰されたなら、裏のルート……つまり、コネを使うだけだ。

 

 そんなわけで、私は立ち上がり、ブルボンちゃんに手を差し伸べた。

 

「じゃ、行こうか、ブルボンちゃん」

「どこに?」

「援軍……いや、我らが軍師殿との待ち合わせ場所、だよ」

 

 

 

 * * *

 

 

 

「というわけでお呼びしました、商店街のアイドル、ナイスネイチャさんです」

「はーい、ネイチャさんだよー」

「らっ、ライスも、お邪魔します!」

 

 ぷらぷらと手を振ってゆるーく挨拶するのは、私の親友であり最高のライバル、現在は骨膜炎で療養中の競走ウマ娘であるナイスネイチャ。

 そしてその隣にいるのが、黒鹿毛のウマ娘、今年ブルボンちゃんと共に三冠に挑む予定の後輩、ライスシャワーちゃん。

 

 本日はネイチャ陣営こと、この2人にも来ていただきました。

 

「って、誰がアイドルやねん!」

 

 いつものノリの良さでツッコんでくれるネイチャに、しかし今日ばかりは白い目を向ける。

 

「実際アイドルでしょ。ネイチャ、めちゃくちゃ人気あるじゃないですか。商店街に限っては、三冠ウマ娘の私より全然話題性ありますし」

「ぐっ、そう言われるとイマイチ否定し辛い……! 実際皆に良くしてもらってるのは事実だし」

 

 言っとくけどこれ、だいぶ異常な事態だからね。

 

 トレセン近くの商店街ってことは、それだけレース業界に対して強い関心を持つ人が多いはずなんだ。

 ホシノウィルムはクラシック三冠、宝塚記念とジャパンカップを含めれば五冠を獲って、かなり話題性があるはずだ。

 対してネイチャは、確かにかなり強いウマ娘ではあるけど、今のところG1は未勝利。

 ファンにとっては戦績が一番わかりやすい指標なわけで、そこを超えて評価されてるのは、もはやアイドル的人気と言って差し支えないだろう。

 ……ま、ネイチャもネイチャで、評価されるに値する脚は持ってるんだけどね。

 

 それに、特定の人たちに愛されるっていうのは、そうされるだけの何かを持ってるってことでもある。

 その狡猾な走りもそうだけど、彼女の愛嬌のある人格がそれを為してるんだろう。

 ふふ、流石は私の親友。ちょっと鼻高々である。

 

 

 

 さて、そんなネイチャたちに、なんで来てもらったかと言えば……。

 

「……で、用事は何なのよ」

「聞きましたよ、ネイチャ。商店街の定食屋さんのキッチン、こっそり借りてるんですよね?」

「えっ、嘘!? 秘密にしてたのに、どこでっ!?」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 その情報を詳細に聞きつけたのは、つい3日前。

 

 いや正直さ、どうにもおかしいと思ってたんだよね。

 ネイチャはああ見えて……いや、そう意外でもないけど、結構トレーナーラブな子だ。

 明確に態度に出ることは多くないけど、ふとした時に彼女のトレーナーさんに向ける視線がこう、熱っぽいと言うか何と言うか。

 まったく、トレーナー大好きなのはいいけどさ、恥ずかしがるくらいならもうちょっと隠したりできないもんかね。私を見習いなさいよ私を。

 他にも、三星の3人で集まった時はいつものようにトレーナーさんの自慢してるし、この前もトレーナーさんの誕生日プレゼント何がいいかなって相談されたし……。

 

 

 

 

 ……ん、誕生日?

 

 あれ……待てよ。歩さんの誕生日っていつだ?

 そう言えば私、あの人の誕生日知らなくない……? え、祝ったこともないよね?

 

 や、え、嘘……そ、そんな、なんでこんなこと忘れてたんだ私。

 ちょ、やば、今すぐに……は、ネイチャに失礼だけど、出来るだけ早く昌さんに聞いておこう。

 

 ここまで丸々2年を超える付き合いで、たくさんたくさん助けてもらったのに、誕生日すら知らないなんて……。ちょっと自分のポカの酷さに泣きそうになるわ。

 今年こそ絶対に祝わなくては。私にできる最大のプレゼントを……いやしかし、歩さんって何を喜ぶかな。私の……例えば、私の人生の半分とか? なんて、ハハハ。 うぅ、顔あっつ……。

 

 

 

 ……いや、違う、そうじゃなくて。

 

 とにかくそんな調子で、トレーナーが好きなはずのネイチャ。

 それなのに、夜の自主トレを一緒にしたライスちゃんから、不思議な話を聞いたんだ。

 

『ネイチャ先輩ですか? ……えっと、キッチンを借りてるところは見てない……と思います』

 

 もう日も落ちて暗い中、うーんと可愛らしく首を傾げるライスちゃん曰く、ネイチャはこの時期にキッチンを借りていないのだと言う。

 それはつまるところ、バレンタイン用のチョコを用意していないってこと。

 

 ……あり得ない。

 脳内お花畑の恋愛脳になったウマ娘が、「チョコを用意しない」なんて選択肢を取るわけがない。まるで我がことのように断言できるわ。

 

 なので、それに続いて、最近ネイチャがよく出かけるところはないかって尋ねたら……。

 

『あ、そう言えば、最近ちょっと商店街に行くって言ってたことが多かったような気がします。

 ライスも荷物持ちしますって言っても、大丈夫だからって……』

 

 あー……なるほど、繋がった。

 ふーん、ネイチャ、なかなか小狡い抜け道を使ってるじゃん。

 流石は頭脳派、策謀でここまで駆けあがって来たウマ娘だ。正攻法が通じないなら他の手段ってわけ?

 

 面白い。グッドアイデアだ。

 

 その後はネイチャの友達に最近の動向を聞いて回って、ターボが「あ、そういやネイチャ、最近商店街のご飯屋さんに入ってたぞ! ターボも一緒に入ろうとしたらなんか断られた!」って自白したことで、全ての事情が明るみに出た。

 

 さて、偶然にも握ることのできたこの情報、如何に使うべきか……。

 これはネイチャの弱点の1つだ、上手く使えば面白いことができるかもしれない。

 

 

 

 ……彼女は、戦争で例えれば、軍師だ。

 ここは排除したりするより……味方につけるべきだろうね。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「と、そんなことがあって、チョコ製作に協力していただくことになったわけ」

「らっ、ライスもその時、お姉さまに誘われて……!」

「うん、ライスちゃんも時々『キッチン借りられなくて、トレーナーさんにチョコ、用意できないかも……』って言ってたし」

「あっ、そ、それはっ! その、いつもの感謝の証っていうか!」

「大丈夫、わかってるよライスちゃん。勿論ネイチャもね」

 

 定期的に夜の自主トレでも話してるから大体察しが付くんだけど、ライスちゃんはトレーナーさんに対して恋愛感情を持ってなさそうだ。

 慌ててそれを強調してくるのは、恥ずかしさ故とかじゃなく、ネイチャの手前そうしないとマズいからだろうね。

 ライスちゃんからすると、自分がトレーナーさんに矢印を向けてるって思われたら、そのトレーナーさんに惚れてる先輩との関係がぎくしゃくしちゃうかもしれないって思ったんだろう。

 

 基本的には善性が強くて人一倍優しいネイチャだけど、恋愛関係の話が絡むと途端にドロドロする……端的に言えば湿度の上がる子っているからね。

 私の観察眼が正しければ、ネイチャは誰かに惚れちゃうと結構湿度高くなるタイプと見た。

 ライスちゃんの行動は正しいと思うよ。

 

 ……ただ、ライスちゃんもトレーナーさんに対して何の感情もないってわけではない。

 『こんなライスを、すっごく頑張って担当してくれてるトレーナーさんに、チョコくらいは贈りたかったのに……』って落ち込んでたので、それならもうこの子も誘えばいいのではと思ったわけだ。

 

「ラ~イ~ス~……よっくもこのネイチャさんを売ってくれたねぇ……!」

「ねっ、ネイチャ先輩……! その、ライス、そんなことになってるなんて知らなくて、それで……!」

「あはは、冗談冗談。そんなことで一々怒ったりしないよ」

「えっ! もっ、もう、ネイチャ先輩っ!」

「ライスは真面目だし、きっとトレーナーさんが喜んでくれるチョコ作れるよ。一緒に頑張ろうね」

「はいっ!」

 

 ネイチャとライスちゃんは和気あいあいと話してる。

 ……うん、同一の陣営同士、やっぱ仲良いね。

 良かった良かった、自分の最高のライバルと可愛い後輩が仲悪かったりしたら、ちょっと気まずいし。仲良きことは美しきかな、だね。

 

 そんな2人に挟まるようで、少し申し訳ないけど……。

 私とブルボンちゃんも、彼女たちのチョコ作りに参加させてもらおうかな。

 

「……さて、それじゃネイチャ、案内してもらいましょうか。ナイスネイチャの秘密キッチンに」

「いや、別にそういうんじゃないからね? ただ知り合いの店主さんに厚意でキッチン貸してもらってるだけだからね! ……ちょっと大丈夫か聞いてくるから、待ってて」

 

 そう言って少し離れ、恐らくは店主さんに電話をかけたネイチャ。

 彼女はほんの1分後、ちょっと不服そうな顔をして戻って来たのだった。

 

「あーもう、一応快く許してもらった……っていうか『大歓迎だよ!』って言ってもらったけどさぁ。絶対に失礼なことはしないでよ! 特にウィル!」

「何だと思われてるんですか私」

「途中で投げ出して『ちょっと走り行って来ます』とか言い出しかねないバ鹿」

「ひどい」

「普段の行動から考えるに、妥当な評価であると推察します」

「ブルボンちゃんまで! ライスちゃんはそんなこと思わないよね?」

「あ、あはは……」

「味方がいない……」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 と、まぁそんなことがあって。

 私たちはそのお店で夕食を食べることを交換条件に、ご好意を受けたのだった。

 

 

 

「ライス? あの、何やってるの?」

「え? チョコを溶かそうと……」

「板チョコをそのまま鍋に入れて?」

「え、な、何か間違えて……!?」

「今時こんな可愛いことする子いるんだ……」

「ライスちゃんは可愛いねぇ」

「データを参照。プロダクト『手作りチョコ』を製作するためには、まず市販のチョコを細かく粉砕し、それを『湯煎』というプロセスで溶かすべきです」

「そ、そうなんだね……うぅ、恥ずかしい……!」

 

 

 

「あれ、なんかボソボソした塊が……」

「あー、それ高温すぎたね。50から55度くらいの温度でゆっくり溶かさないといけないんだとか」

「思ったより難しいですねぇ、これ。5度しか余裕がないとは」

「ウィル、チョコ作るの初めて? 去年は堀野トレーナーさんとかにあげなかったの?」

「去年はバレンタインデーのこと忘れてて……はい……」

「あー、ウィルっぽいというか何と言うか……」

 

 

 

「ウィルは……へぇ、そういう感じ。ライスはマシュマロチョコか、良いねー。で、ブルボンちゃんは……え、何それ!?」

「マスターの嗜好が不明であるため、好まれる形状がわかりません。なので、高い確率で好んでいると思われるウマ娘の形へと造形するため、型を制作しています」

「型から!? しかも3Dの立体型!? そんなの絶対間に合わないよ! 拘るのは来年に回して、今年はシンプルなヤツにしなって!」

「……なるほど、了解しました。確かにクオリティに拘るのなら、まずは最上級のカカオの輸入から始めるべきであると思います。今年は味にのみ拘り、メソッドを脳内保存、来年へのプランの立案を開始します」

「…………ブルボンちゃん、時々ズレてるって言われない?」

「察するに、ネイチャ先輩はエスパーなのでしょうか」

「うん、ズレてるね」

 

 

 

 そんな風に、色々とトラブルがありつつも、4人でのチョコ製作は進み……。

 

 数日後。

 ついに、開戦の幕が切って落とされたのだった。

 

 

 







 商店街の某定食屋を訪れたメンツ
 ・商店街のアイドル、ナイスネイチャ
 ・ネイチャの後輩の可愛い黒鹿毛のウマ娘
 ・ネイチャの友達の五冠ウマ娘
 ・五冠ウマ娘の後輩のG1ウマ娘

 とんでもないメンバーだなこれ……。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、少し特別な日常の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!



(本編には関係ない呟き)
 数日前の話になりますが、まさか1日に2回、皐月賞の大外一気が見られるとは思いませんでしたね。やっぱり悪路って面白い。
 おめでとう、ソールオリエンス! まさしく覇王を思わせるようなすんごい末脚でした。


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手を握らないでくれ、死ぬほど疲れてる。

 気付けばいつもの1.5倍くらいの文字数になってたバレンタイン後編。





 

 

 

 2月某日の朝、まだ学園所属のウマ娘たちの授業も始まってないくらいの頃合い。

 今日も今日とて昌と2人、担当たちのスケジュール調整やたづなさんから渡された書類の整理に精を出していると……トレーナー室の扉がノックされる音が響く。

 続いてトレーナー室の扉が開き、そこに現れたのは……もはや見慣れた栗毛のウマ娘だった。

 

「ミホノブルボン? どうした、何か忘れ物か?」

 

 彼女は首を傾げた俺を一旦スルーし、相変わらず情緒の薄い顔でトレーナー室に入って来て……。

 俺と昌に1つずつ、背負っていたバッグから箱を取り出し、差し出してきたのだった。

 

「マスター、昌さん、チョコです」

「チョコ?」

 

 どうやら、贈り物か届け物らしい。

 引っ込めるようすはないので、ひとまずは受け取って箱を検分。

 

 メーカー名とか商品名の記載はない、シンプルなものだ。材質は厚紙、色は白、大きさは手で掴めるくらいのサイズで、形状はシンプルな薄い直方体。

 

 ブルボンはチョコだと断定してた。中身を知っていることから考えて、落とし物を届けに来たとかではないだろうな。

 更に、俺と昌に1つずつ差し出してくれているところから考えて……俺たちへの贈り物と考えるのが妥当なところだろうか。

 

「……ふむ、差し入れか。ありがとう、ミホノブルボン」

 

 パッケージに何も書かれていないのが不安と言えば不安だが、ブルボンが毒の類を仕込むとは思えない。

 ここは素直に、ありがたく受け取ろうか。

 

 そう思い、俺はそれをデスクに置こうとしたんだが……その直後。

 

「このバ鹿兄さん!」

「あいたっ!」

 

 割と本気で、頭をぶっ叩かれる。

 う、お……ちょっと視界がくらくら。咄嗟に衝撃を逸らせなかったら脳震盪してたかもしれない。

 

「あたた……後頭部は危ないよ、昌。ちゃんと衝撃逃がさなかったら変なことになってたかもしれないよ?

 殴るのはいいけど、脇腹とかその辺、命に別状のないところにしてね」

「いいでしょ、どうせ兄さんは受け身の1つくらい簡単に取れるんだから。いやそうじゃなくて、本気で気付いてないの? マジで?」

 

 変な信頼を向けて来てる昌は、怒り半分呆れ半分って感じの表情でこちらを見てくる。

 

 気付いてない? 何を?

 え、俺、何かを見落としてるのか?

 

 ……よし、ちょっと考えてみよう。

 

 唐突にブルボンから渡されたチョコ。

 ただの差し入れかと思ったが、普通に受け取ったら昌が怒りだした。ここには何か理由があるはずだ。

 

 昌の不満げな顔。

 昌が怒るのは、大体俺が相手への気遣いを欠かしたり、ちょっと無茶をした時が多い。

 若干理不尽なこともないわけじゃないけど、多くの場合はちゃんとした理由がある。

 

 とすると、今回の場合、俺がブルボンからの贈り物への対応を間違えたと見るべきだろう。

 しかしプレゼントされたチョコへの対応としては、別におかしなものじゃ……。

 

 

 

 ……チョコ?

 

 

 

 待てよ?

 今日は2月の第2週金曜日。日付は……。

 

 2月14日。

 

 いや、バレンタインデーじゃん、今日。

 

「……なるほど、今日はバレンタインだったか」

 

 そう呟いた直後、襲い掛かって来た次なる一撃……は、流石に食らうわけにもいかないので回避。

 昌、最近は落ち着いてたのに、久々にプリプリしてるね。いやプリプリしてるとしても暴力はどうかと思いますが。

 

「だったかじゃないのよだったかじゃ! 担当とはいえ女性からチョコを貰ってるんだから、多少は嬉しそうにするの!」

「え、いや、でも担当だし……そういう対象に入れちゃいけないし……」

「そういう対象に入る入らないじゃなくて、単純にそれが礼儀でしょ! 『あ、くれるんだ。ありがとね』みたいな反応されたら相手が誰だろうと傷つくっての!」

「そういうものか……」

 

 いや、ブルボンがそういうことを気にするとはちょっと思い辛いけども……。

 

 ふむ。

 そういうものなら、わざわざ感情を押し殺したり、隠す必要もないかな。

 

 俺は昌との会話を切り上げ、改めてチョコを差し出してくれるブルボンに向き合う。

 

「ありがとう、ミホノブルボン。嬉しいよ」

 

 ひとまず俺が現状を把握したことに満足したのか、追撃をやめてくれた昌は自分のデスクから小さな箱を取り出し、ブルボンのチョコと交換する。

 

「私もいただきますね、ミホノブルボンさん。それから、私からもこれ。友チョコならぬ、サブトレチョコです。トレーニングの合間にでもどうぞ」

「感謝します、昌さん。トレーニングの際に消費しようと思います」

 

 おぉ……昌、すごいね。

 差し出していた箱にメーカー名とか見えないところからして、どうやら手作りっぽいけど……ここ最近かなり忙しかったはずなのに、どこで作る時間を確保したんだろうか。

 

 その梱包もかなり綺麗だし、昌のことだから味も上等なはず。大きさではブルボンのものよりも小さいけど、質では負けてないだろうね。

 

 ……いやぁ、ホワイトデーのお返し、なかなかハードル上がってるなぁ、これ。

 まぁ、料理にはちょっとだけ自信があるし、多分時間さえかければなんとかなるかな。

 

 

 

「しかし、今日はバレンタインだったか……。イベント自体を忘れてしまっていたな」

 

 ブルボンからもらったチョコをひとまずデスクに置いて、ぼんやりと呟く。

 

 本当は忘れちゃいけないはずなんだけど、男である俺は自分から行動する必要がないってのもあって、頭から飛んでしまっていた。

 いや、つい何週間か前までは、バレンタインにちなんだ企画とかタイアップの依頼なんかもいっぱい来てたんだけど……仕事は仕事だし、イベントとしては意識に留めていられなかった。

 

 ……いや、全部言い訳だな。

 普通にド忘れだ。これが大事なイベントだったら大事だ、気を付けなければ。

 

「去年のバレンタインは? 何かなかったの? 兄さんのことだから、何だかんだ義理チョコの1つや2つはもらったんじゃないの」

「いや、俺をなんだと……。まぁ、理事長から全職員にチョコが配られたのと……同期のトレーナーと、付き合いのあったウマ娘からいくつか貰ったな。あとはウィル経由で知り合ったジュニア……いや、今年のクラシック級の子たちから数点と、商店街の方々から好意で数点、それから……」

「めちゃくちゃ貰ってるじゃん!! それでなんで覚えてないの!?」

「いや忙しかったし……」

「それでも普通は覚えてるもんでしょ!」

 

 やばい、昌火山がまた噴火してしまった。

 本当に沸点がわかんないなこの子。いや、俺が忘れてたのは確かに悪いんだけど、そんなブチ切れる程のことかな……。

 

 困惑する俺と、湯気を出す昌。そんな状況を見かねたのか、話を聞いていたブルボンが俺たちの間にインターセプトしてくれる。

 

「昌さん、私は気にしていませんから」

「ミホノブルボンさん、兄さんに気を遣う必要はありません! 乙女にとっての一大イベントも覚えられないこの人は、1回ちゃんと反省すべきで……!」

「私もクラシック三冠に集中し、先日までバレンタインデーのことを忘れていましたので。私とマスターは、ステータス『お揃い』の状態です」

「…………」

 

 お、昌が何とも言えない表情になってる。何気に珍しいね、こういう顔するの。

 

 どうやらちょっと落ち着いたのか、昌は後ろめたそうに「……ごめん、ちょっと怒り過ぎた」と言って、自分のデスクに座って小さくなってしまった。

 

 まぁ……アレだ。

 慰めるわけじゃないけど、こういうすれ違いはままあること。

 昌の言葉はだいぶ強かったけど正当性自体はあるし……その、なんだ、元気出して欲しい。

 

 

 

 ……で、それはそれとして。

 改めて、ちゃんとブルボンに感謝しておかなければな。

 

「改めてチョコをありがとう、ブルボン。今ちょうど糖分が欲しいところだったから、早速だけど食べてもいいかな」

「構いません、どうぞ」

 

 本人からの許可をもらったので、何か言いたげにこちらに向けられる昌の視線をスルーし、受け取った箱を開ける。

 さて、ぱかっと蓋を開けた中に入っていたのは……。

 

「……立方体?」

 

 そう。それは、どう見ても立方体だった。

 

 ……いや、仮にも誰かに贈られたチョコに対する形容詞として「立方体」が正しいのかはわからないが。

 でもそれは、思わずそう思ってしまうくらい、すごく完璧な立方体だったのだ。

 

 ブルボンからもらった箱の中に入っていたのは、均等な間隔で並べられた、極めて正確に造形された黒い立方体のチョコ。縦、横、高さの三辺がほぼ……というか、目測の範囲では完全に一緒である。

 形が完璧に揃えられた……なんというか、非常にミホノブルボンらしいチョコだな。

 

 

 

 ふと、自分の脳内に湧いた「ブルボンらしいチョコ」という言葉に思いをはせる。

 

 ブルボン、前世アプリではどんなチョコをくれたんだったかな。

 カカオを自分で育ててたってことは覚えてるんだけど、チョコの詳細までは語られてなかった……と思う。流石に昔のことだし、記憶が劣化してるだけかもしれないが。

 

 もしかしてこれも原材料から作ったのか……と思ったけど、流石に最大の目標であるクラシック三冠を前にしてそんなことをしていられる余裕はあるまい。

 あれは三冠レースが終わったシニア級だからこそできた行動なんだろう。多分。

 

 

 

 ともあれ、彼女の純粋な想いは、やっぱり嬉しい。

 試しに1つ、その黒いキューブを口の中に入れると……。

 

「甘!?」

 

 ちょっとびっくりするくらいの甘さが、脳天を貫いた。

 ……え、こんな黒いのにこんなに甘い? もしかしてブルボン、ミルクとかじゃなくて砂糖めちゃくちゃ入れてない? 糖尿病にする気かな?

 

 思わずこれの贈り主の方を窺うと、彼女はこちらの視線をどう解釈したのか、コクリと頷いた。

 

「頭脳労働のためには糖分が必要とのこと。このチョコには、通常のチョコの約30倍の糖分が含まれています。理論上、1粒食べれば1日間の頭脳労働に耐えうるものとなっています。

 いつも頑張っていただいているマスターや昌さんには、これで少しでも……」

「いや、あの、ミホノブルボン」

「はい、マスター」

 

 思わず彼女の言葉を遮ってしまう。

 いや、コミュニケーションにおいて、相手の言葉を遮るのはあまり良くないってことは、わかってるつもりなんだけど……。

 

 彼女の一見完璧なプランには、大きな大きな落とし穴があった。

 むしろなんで見えなかったの? ってレベルの落とし穴が。

 

「これ、血糖値上がり過ぎて体壊れちゃうよ」

「…………」

 

 ブルボンは俺の言葉を聞くと、まるで処理落ちしたかのように硬直し……。

 数秒後、視線を下に落とした。

 

「…………なるほど、確かに」

 

 どうやらこの子、血糖値というものが完全に頭から抜けていたらしい。

 ブルボン、基本的にはそつがない子なんだけど、時々抜けてるところあるよね……。

 

 

 

 吸収・消化能力の高いウマ娘ならいざ知らず、人間は糖分を取ったとしても、それが全て栄養になるわけではない。

 専門分野じゃないからうろ覚えだけど、そもそも思考を回すための糖分……ブドウ糖は、殆ど体内に貯蔵できないんだよね。

 

 摂取されたブドウ糖は血液の中に溶けて血糖値を上げる。

 しかしこの血糖値が上がり過ぎるとインスリンが分泌され、ブドウ糖は脂肪へと合成されてしまったりするし、更に上げ続けると倦怠感や眠気に襲われたりするし、行くところまで行くと糖尿病になる、と。

 

 つまるところ、糖分は一気に摂取しても意味がない。

 脳を回すだけの糖分が切れかける度、逐次摂取していかなきゃいけないんだ。

 

 糖分もそうなんだけど、基本的に何事も程々が一番。

 体に有益だからって、大量に取り過ぎれば病死……なんてことすらあり得てしまう。

 

 ……と、まぁこれ、現役のお医者さんである兄さんの受け売りなんだけどね。

 あんまり食事を取らなかった頃、「ちゃんとご飯は食べないと駄目だから!」って、この辺の話を耳にたこができる程聞かされたからなぁ……。

 

 

 

 で、そういう意味において、ブルボンのくれたこのチョコは、なかなかの劇薬だ。

 過剰なまでの糖分、しかも多分純粋なブドウ糖じゃなくて砂糖だ。

 これ1つ食べるだけでも、かなり太るんじゃないだろうか。いや、詳しくは知らないけどさ。

 

 どう消費したものかな、と俺は頭を悩ませていたんだけど……。

 そんな俺を見て、彼女は動く。

 

「申し訳ありません、回収し、改めて作り直します」

 

 ブルボンは僅かに気落ちした様子で、俺のデスクに置かれた箱に手を伸ばしてきたが……。

 俺は箱を引き寄せ、その手を拒んだ。

 

「いや、構わない。君からの贈り物だ、すぐに全て消費することは難しいだろうが、きちんと美味しくいただくよ。俺がそうしたいんだ。

 ……そうだな、反省があるなら、来年に活かしてくれれば嬉しい」

 

 ただでさえ三冠を目指してトレーニングに追われるブルボン。

 その上、彼女だって中等部の女の子だ。友達と遊んだりもしたい年頃だろう。

 

 しかし、彼女はそんな中で、チョコを作るという行為に時間を割いてくれた。

 それも、糖分を30倍含ませるなんていう、手間のかかることまでしてくれたんだ。

 

 たとえ渡されたチョコが、彼女の満足いくものではない失敗作であろうと、何よりその気持ちが嬉しい。

 その気持ちの証であるチョコも、決して手放したくはない。

 

「……了解しました。お気遣い感謝します、マスター」

「いや、繰り返しになるが、こちらこそありがとう、ミホノブルボン」

 

 ブルボンは俺の気持ちを汲んでくれたか、手を引いてくれた。

 

「来年のバレンタインデーには、新たなラーニングの結果を出力し、より完成度の高いチョコを作ることをお約束します。

 どうかご期待ください、マスター」

 

 彼女はそう誓った後、それではと頭を下げ、午前中の授業を受講しに向かったのだった。

 

 

 

 ……うん、ブルボンの気持ちは、本当に嬉しい。

 「ホワイトデーにはとっておきのお返しをしなきゃいけないな」と思うくらいには、とても嬉しいんだ。

 

 嬉しい、んだが……。

 

 俺が振り返った先では、同じくキューブ状のチョコの入った箱を抱え、呆然とする昌の姿があった。

 

 ……妙齢の女性にとって、この糖分爆弾は、ちょっとばかり問題かもしれないな。

 

「昌……その、手伝おうか。女性にはちょっとキツいかもしれないし……」

「い、いや、食べる。ブルボンさんの気持ちだし、消費しないわけにはいかないし……」

 

 通常のチョコの、30倍の糖分。

 つまり、この甘すぎる1粒食べれば、30粒食べたことになるわけで……。

 

 ……俺達、この先しばらくは「甘いものは勘弁」ってなっちゃうかもしれないな。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、それから数時間。

 

 俺は今日も今日とて飛んでくるめちゃくちゃな依頼を切り捨てたり、URA本社の方に出向いて色々と打ち合わせしたりと、いつも通りの日常を送り……。

 

 そんなことをしている内、俺の頭の中から、バレンタインの6文字は消え去っていた。

 

 いや、完全に忘れ去ったわけじゃないよ?

 それからもちょくちょくチョコはもらえたんだけど、その度に「あ、そういえば今日バレンタインだったな」と思い出すくらいだった、っていうのが正確かな。

 

 仕事中に他のことに気を取られてたら危ないし、これに関してはまぁ仕方ないかなと思う。

 変に失敗したら担当の2人に迷惑をかけちゃうし、それだけは避けなきゃいけないわけで。

 

 

 

 そんな中、食事を取りながら海外レースについての学術誌を読んでいた昼。

 ぽろんと鳴ったスマホを見ると、同期のトレーナーからメッセージが飛んできていた。

 相手は、時々重賞に出走する子を担当している男性トレーナー。ウマ娘に対してはとても真摯なんだが、それ以外の女性関係については少しだらしないのが玉に瑕なヤツ。

 

 で、その内容は……。

 

 『誰かからチョコ貰った?』だった。

 

 ……コイツ、もしかして暇なのか? 暇なら仕事手伝って欲しいんだけど? 今年の有力な海外勢の情報とか集めてくれないかな、なんならアルバイト料払うからさ。

 

 と、流石にそんな八つ当たりをぶつけるわけにもいかず、『担当の子1人と、交友のあるウマ娘数人、ルドルフと同期の女性トレからはもらった』と返信。

 ……『モテモテじゃん!』じゃないんだよ。全部義理に決まってるでしょうが。

 

 ちょっと呆れていると、『え、でも俺、同期の子たちからもらってないんだけど……え?』と悲しいカミングアウトが降って来たので、俺は辛い現実から目を逸らし、スマホにロックをかけた。

 

 アイツ、悪い奴ではないんだけど、色々と明け透けすぎて女性陣から避けられてる節あるからなぁ……。

 まぁ俺たちの代は、他の代に比べて同期間での繋がりが強いようで、こうして贈らないのも1つのイジりとして通ってるんだけどね。

 アイツも本気で嫌われているわけじゃなく、夕方あたりになって押し付けられるようにプレゼントされたりするのかもしれないが。

 

 

 

「……ん、そう言えば」

 

 ふと気になって、ネイチャのトレーナーにチョコをもらえたかどうか聞いてみると……数分してメッセージが返って来る。

 『堀野君がそういうこと聞くの、ちょっと珍しいね』という前置きの後、『僕は同期の皆と担当2人にもらえたよ。やっぱり嬉しいね』……と。

 

 ……このあまり言葉を飾らない感じ、やっぱり疲れてるな、コイツ。

 最近はちょっと余裕ができてきたらしいし、このまま落ち着けばいいが……ライスとブルボンたちの菊花賞の結果次第では、また酷く疲労することになるかもしれない。

 まぁ……俺とブルボンが、そうはさせないが。

 

 

 

 っとと、ちょっと話が逸れちゃったか。

 

 お疲れの同僚も言っていたが、やはり担当からチョコが貰えるというのは、幸せなことだと思う。

 それだけ俺たちの仕事に満足していると言ってもらえるようなものだし、良好な関係を築けているという証左でもあるからね。

 

 正直俺も、ブルボンからチョコをもらえたことで、ちょっと安心したところがある。

 一応俺なりに、全力で三冠への道筋を支えているつもりではあるが……あまり感情が表情に出てこないブルボンからは、どれだけ俺のプログラムに満足しているか読み取るのが難しい。

 こうして形にして、多少なりとも信頼関係を築けていると確認できたのは……うん、嬉しいものだ。

 

 

 

 ……ま、若干1名程、まだチョコをいただけていない担当もいるんだけどね。

 とはいえ、彼女と十分に信頼関係を築けていることは、今更疑うべくもない。そこに関しては殊更不安でもないな。

 それに、心優しい彼女が、トレーナーやサブトレーナーにチョコを用意しないとは思えないしね。

 

 とはいえ、必ずしも今日くれるとは限らないけども。

 あの子のことだ、昨日まで走るのに夢中でバレンタイン間近であることに気付かず、今頃「うわ、忘れてたぁっ!」なんて言いながらコンビニでチョコを買い占めたりしてるかもしれない。

 ブルボンもそうだけど、ウィルも時々……本当に時々だけど、抜けてるところがあるからなぁ。

 ……いや、実際に忘れていた俺が言えたことではないかな。

 

「ま、いいや」

 

 結局のところ、バレンタインチョコというものは、想いの確認に他ならない。

 確認する必要もなく、確かに信頼関係を築けているのなら、焦るものでもないだろう。

 

 

 

 そんなわけで……。

 俺は今日中にチョコを貰うことを半ば諦め、いつも通りトレーナー業に勤しむことにした。

 

 当然ながら、それがバレンタインであろうと休日であろうと、俺たちの業務は変わらない。

 昌と2人して机の上でひたすらデスクワーク、時々調査や会議のために外出って感じだ。

 

 とはいえ今日は、直近の1か月の中だと、だいぶ仕事が少ない方だったりするんだよね。

 

 数週間前にあったバレンタインのタイアップ系の依頼も片付けきって、凱旋門賞出征の報告からある程度時間も経った今、2月頭あたりのとんでもなかった忙しさはある程度落ち着いた。

 結果として、俺たちのスケジュールにもぼちぼち余裕ができてきたわけだ。

 

 そんなわけで、その日は特段大きなトラブルも起こらず、昌と2人トレーナー室でキーボードを叩いたり、書類を整理したりしながら……。

 いつもより多い来客に対応するのが、俺のタスクだった。

 

「堀野トレーナー……あ、堀野歩トレーナー、いらっしゃいますか?」

「ん? ……あぁ、君か。その後どうだ、合原トレーナーとは上手くやれているか?」

「はい、最近はすごく目をかけてもらってます! 堀野トレーナーが紹介してくれたおかげです、ありがとうございました!」

「合原トレーナーは真面目なウマ娘を評価する人だ。君の頑張りが実を結んでいるんだよ。良かったな」

「それでも、すっごく助けられたことは事実ですから! これ、お礼……じゃないですけど、バレンタインチョコです!」

「あぁ、ありがとう。嬉しいよ」

「えへへ。それじゃ、ホワイトデーのお返し期待してますねー!」

 

 そう言ってトレーナー室から飛び出して行ったのは、知り合いのジュニア級のウマ娘。元気で活発な赤髪の子だった。

 

 知り合いって言っても、そんな深い仲じゃないんだけどね。

 2週間程前、ごみを捨てようと立ち寄った校舎裏で「もう駄目だぁ……!」と涙目になっていたので、何事かと話を聞き、少しだけ世話を焼いたという、それだけの関係性だ。

 

 すごい感謝してくれたけど……ぶっちゃけ俺がやったのは、ただ彼女に合うだろうトレーナーを紹介したことだけ。

 自分で面倒を見るどころか、合原トレーナーに口添えすらしてないんだから、本当に感謝される程のことじゃない。

 むしろ、合原トレーナーのそこそこ厳しめな入団テストに合格したのは、彼女の努力の成果。誇るべきことだと思う。

 

 過分な感謝の品をいただき、少し申し訳ないような、あるいは面映ゆいような気持ちで、もらった小さなチョコの包みをデスクの引き出しにしまう。

 今日のために空けたスペースで、いくつかのチョコの包装が触れ合い、カサカサと音を立てた。

 

「……モテてるね、兄さん」

 

 そんな言葉に振り返ると、昌がジト目でこっちを見ている。

 

「もう、からかわないでよ、昌。そんなんじゃないってわかってるでしょ」

「いやからかうっていうか……今ので今日もらったチョコ、いくつ目?」

「え? いやぁ、数えるのは……」

「数えきれないくらいチョコもらってるのにモテてないは無理があるでしょ」

「全部義理なんだから、モテるとは違うんじゃないかな」

 

 モテるっていうのは、つまるところ異性から恋愛感情を向けられることだろう。

 それなら、俺は欠片もモテてはいない。全員が好意を向けてくれてはいるものの、それは男性としてではなく、1人のウマ娘のトレーナーとして、だからな。

 

 ……いや、よく同僚のトレーナーに相談されたりすることとか、1か月前から続くかなりの数の逆スカウトとかも考えれば、トレーナーとしてはモテてると言えるのかもしれないけども。

 

 頼られるのは嬉しいんだけど、逆スカウトは断るしかないからちょっと心苦しいんだよなぁ。

 これ以上仕事を増やしたら心か体のどっちかが潰れちゃうだろうし、そうなったら兄さんや昌に怒られるのは目に見えてるし……。

 

 本当は、全員を見てあげたいんだけど……なかなか難しいもので、俺の体は1つしかないし、心の容量には限界があるんだ。

 自分が2人いればなぁって、この1年で何度考えたことか。

 

 ぼんやりそんなことを考えながらキーボードを叩いている俺に、相変わらず昌は白い眼を向けて来てる。

 

「……納得いかない。こんなバ鹿のどこがいいんだか」

「まぁ、やっぱり新人にしては使えるってとこじゃない? 昔からちょっとずつ培ってきた実力が評価されてると思うと、嬉しくはあるね」

「いや、そういう意味じゃないし」

 

 昌は少しだけ唇を尖らせて呟き、不意にこっちに何かを投げて来た。

 視界の端に入ってたし、すぐに気付いてそれを掴み取ると……これ、桐箱?

 

「ウマモルトのビターチョコ」

 

 ウマモルト。堀野でも愛好してた、結構高めの食品メーカーだ。お酒とかつまみになるようなものを取り扱ってるところで、父が愛好してた。

 そこのビターチョコか。箱の大きさからして、9個入りかな。そこそこ値が張るはずだけど……。

 

「え、何? もらっていいの?」

「良いも何もない。今日はバレンタインだし……まぁ、感謝してる人にチョコを渡すのは、変なことじゃないでしょうが」

 

 ……おぉ、珍しい。

 昌が素直に「感謝してる」なんて言ってくれるなんて。

 

 しかも、ビターっていうのが嬉しいね。

 消費しなきゃいけない甘味が大量に溜まってきている中、少し苦みも欲しいっていうのが本音だったし。

 

「気遣いありがとう、昌。すごく嬉しい。ホワイトデーのお返し、期待してくれていいよ」

「……ま、そこそこ期待しとく」

 

 本日の素直さ許容値を超えたのか、そう言って昌は、ぷいっと顔を背けてしまった。

 

 

 

 ……最近、昌からの当たりが軽くなってきてる気がする。

 今の会話に関してもそうだ。昔なら「家族として最低限の礼儀」とか「期待とかしないから勝手にすれば」とか言われてたと思うんだよね。

 

 彼女の態度が軟化し始めたのは、多分……去年末、俺が事故にあって以来だろうか。

 

 やはり肉親が昏睡していたというのが、彼女の意識に少なからぬ変化をもたらしたのか……。

 あるいは、スカイ曰く「肩の力が抜けた」らしい俺の方が、以前より気に入ってもらえてるのか。

 

 何にしろ、この変化は好ましいものだと思う。

 以前のような親しい兄妹にまではなれなくとも、少しでも距離を詰められたらいいな。

 

 堀野昌は、数少ない信頼できる肉親の1人であり、俺が唯一前世の記憶について打ち明けている人間。

 せっかくなら親しく、互いにとって快い関係性を築きたいと思う。

 ……まぁ、彼女はあんまり俺のことが気に入らないらしいし、なかなか難しいかもしれないけどさ。

 

 

 

 それからも、当然昌宛ても含め、チョコを持ったお客さんはそこそこ来た。

 途中からチョコが引き出しに入りきらなくなり、仕方ないので使っているバッグの中にどかどかと突っ込むことになったりもしたけど、まぁなんとかなったね。

 流石にバッグ2つ目は必要なかったし、良かった良かった。

 

 ……急いで食べないと、消費期限ヤバそうだなぁ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 それから、更に数時間。

 

「ふぅ……」

 

 日も落ち切って、昌は先に帰らせたトレーナー室にて。

 

 ウマ娘の走る姿勢と身体構造、脚の限界と故障の発生率の関連性についての論文を参考文献一覧で結び、俺は息を吐いた。

 ざっと中を検分してみるけど……うん、見落としはないはず。多分。

 明日誤字脱字のチェックをしてから父に送って内容を確認してもらって、その後はどこかの懸賞にでも送ってみようかな。

 

 ……本当はこういうの、現場で働くトレーナーではなく、研究職の人たちがやるべきなんだろうけど……詳細なものは探しても見つからなかったから仕方ない。

 

 ウィルの「天星スパート」について、その負担と影響を詳細に調べるため、少しでも多くのデータを得ようと資料を集めたのが始まりだったんだが……。

 せっかくならちゃんと纏めるかと思い、いつしか論文を書くまでになっていた。

 ……正直ちょっとやりすぎた感は否めないけど、ここまで体裁を整えたんだし、少しでも誰かの役に立つといいな。

 

「ふわ……」

 

 ついに終わったという安堵からか、思わず欠伸しながら大きく体を伸ばす。

 

 いやぁ、時間かかったな……。

 メインの業務の片手間に進めていたこともあって、丸々2か月以上使っただろうか。

 これで実は、俺が調べ足りなかっただけで、既出の情報だったりしたら……うん、その時は泣こう。

 

 

 

 とにかく、これでようやくしっかり安心できた。

 

 ホシノウィルムの独自の走り方、「天星スパート」。

 あの走法は、あくまで十分な食事と休息を取り、完璧な脚捌きで走った場合に限るが、そのガラスの脚に対して大きすぎる悪影響をもたらさない。

 その仮定がほぼ確信に変わっただけでも、今回は良しとしよう。

 

 ……いや、まぁ。

 その「完璧な脚捌き」というのは、尋常な思考能力では到底できないはずなんだが。

 

 常にターフの細かい変化を察知し、その内で最も適切に踏みしめられる、なおかつ自分の脚の面積が収まる位置を把握。

 そこにコンマ単位の正しい角度で脚を下ろして、これまたコンマ単位の猶予の中で適切に蹴りだす。

 そして飛んでいく体とそこにかかる体重を制御し、次に下ろすべき場所へと脚を伸ばす……。

 

 ……誰ができるっていうんだ、こんなの。

 言葉で表せば簡単に聞こえても、これははっきり言って曲芸だ。

 人間に例えると……「全力疾走しながらナイフを投げて、10メートル向こうに1メートル間隔で立っている人の頭の上のリンゴに当て続ける」とか。そういうレベルの、とんでもない奇行だよ。

 

 特に最初の、ターフの様子を細かく把握する。これが無理ゲーにも程がある。

 ウマ娘の最大速度は秒速20メートル弱、時速にすれば70キロメートル弱。

 その速度で流れていく景色の微妙な凹凸や芝の剥がれ具合を把握するとか、どんな頭してればできるんだろう。

 ウマ娘の体は強いが、頭脳は人間のそれとそう変わらないはずなんだけどな……。

 

 しかも問題点は、頭の回転だけじゃないんだ。

 ターフを捉える感覚もまた、並外れたものが必要になる。

 

 通常、人間やウマ娘の情報収集の大半を担っているとされる視覚には、どうしたって角度的な限界があるし、疲労すれば視界は歪み、揺れ、乱れてしまう。

 視界……感覚1つだけに頼っては、おおよそあの走りは不可能な芸当のはずだ。

 

 ということはやはり、彼女の言う通りに……ウィルはその耳で、まるでソナーのように音の反響で地形を掴んでいる、ということになるんだが……。

 ……いや、むしろその方が怖いよ。どういう耳なんだそれは。

 

 いくら人よりも優れるウマ耳を持つとはいえ、そんな微妙過ぎる音の差を聞き分ける聴覚、そしてその膨大な情報量を処理できる頭脳……。

 改めて、どうなってるんだ彼女。もうウマ娘の生物的スペックの限界を超えてるんじゃないのかそれ。

 

 ……ホシノウィルムの持つ、「思考力増加能力」。

 やっぱりこれ、俺が思っていたよりずっととんでもない(チート)能力なのではないだろうか。

 

 実際のところ、彼女はこの能力を使って、確かに天星スパートを我が物として使いこなしているわけで。

 無名の血統から無敗三冠まで駆け上がるようなウマ娘は、やっぱりとんでもない強みを持ってるってことなのかな。

 

 スズカだって先頭絶好調っていう特殊能力を持ってるんだし、ウィルがそういう突然変異的な異能を持っていてもおかしくは……。

 いやいや、比較相手があのサイレンススズカ? スペとかスカイみたいな最強級の優駿でさえ持ってないんだぞ、そんな能力。

 

 ……完全に感覚がおかしくなってるよね、これ。

 おのれウィル、君のせいで俺の女性観ならぬウマ娘観、だいぶ狂ってしまってるぞ。

 

 

 

「あー……」

 

 一仕事終えた達成感と共に、そんなことをぼんやり考えていると……。

 不意に、トレーナー室がノックされた。

 

 体を重くする虚脱感に浸りながら、最低限声を取り繕って「どうぞ」と応えると、すぐにドアが開く。

 そこに現れたのは……見慣れた、鹿毛のウマ娘。

 

「トレーナー」

「ウィル? どうした?」

 

 扉を開けて入って来たホシノウィルムは……その手に、2つのマグカップを持っていた。

 

 彼女は軽く室内を見回した後、何故か安堵するようなため息を吐き、部屋の隅のソファに座って、カップの片方をこちらに差し出して来る。

 

「お疲れ様です。一休み、どうですか」

 

 ……どうやら、こっちに来いとのお達しらしい。

 

「え、っと……うん、それじゃそうしようかな」

 

 特に今取り組んでいる仕事もなかったし、集中力も散り散りになっているのを感じる。

 ここは素直に、その好意に甘えちゃおうか。

 

 久々にデスクから立ち上がり、その手からマグカップを受け取って、彼女の隣に腰を下ろす。

 

「ありがとう、ウィル。ちょうど一仕事終えたところでね、助かった」

「いえ。こちらこそ、いつもお気遣いいただいてますから」

 

 彼女の言葉を聞きながら、マグカップを傾ける。

 

 その中身は、ぱっと見ココアかと思ったけど……。

 口に含むと、思わぬ甘さに驚いた。

 

 優しい味が舌の上に、そして疲れた脳に沁みこむ気がする。

 あぁ……美味しいな、これ。

 

「ん……もしかして」

「えへ、ハッピーバレンタイン!

 少し遅くなっちゃいましたが、お疲れだろうと思ってホットチョコをお持ちしました」

 

 こんなのもお持ちしてますよ! と可愛らしくミニマシュマロの袋を掲げる彼女に、思わず小さく笑みを漏らす。

 

 いつもは年齢以上に大人びた様子を見せるのに、こういう時は歳相応の女の子だ。

 ズルいな、と思う。……いや、何がズルいのか、我ながらよくわからない感想だけども。

 

 彼女の手でいくつかマシュマロが投入されたホットチョコを、改めて口に含んだ。

 マイルドな甘さ、マシュマロの柔らかさ、それから温かさが、疲れと寒さに浸された体を癒す。

 ……本当に、美味しい。いくらでも飲めそうなくらいだ。

 

「うん、ありがとう、ウィル。嬉しいよ」

「今日、だいぶモテモテだったらしいですけど?」

 

 ちょっと意地悪そうに笑う顔に、俺は思わず苦笑を漏らした。

 

「勿論、その中でも一等嬉しい。君からもらったものだからな」

「……ふひ、うぇへへ」

 

 例の腑抜けた笑みを浮かべ、彼女もいくつかマシュマロを入れてマグカップを口に付ける。

 

「ん、我ながら良い感じです」

「うん、優しい甘さで美味しい。ウィル、あまり料理ができるイメージはなかったんだが、本当に要領が良いんだな」

「まぁ、ブルボンちゃんやネイチャ、ライスちゃんと一緒に、ちょっと特訓しましたからね」

 

 ドヤ顔で語られる裏事情。しかしそれを加味しても、これはなかなかすごいと思う。

 ただ市販のチョコを溶かしただけでは、この味にはなるまい。きちんと彼女独自の、そして同時に的確なアクセントが加えられている。

 

 ……だから、これはただのホットチョコではない。

 ホシノウィルムが俺のために用意してくれた、世界で唯一のホットチョコ。

 

 それが……なんだか、無性に嬉しかった。

 

 

 

「それと……ちょっと手先が冷えてたから、温かいものがありがたいね」

 

 そう言いながら、いくつかカップにマシュマロを入れていると……。

 ふと、その手を取られる。

 

「ん?」

 

 戸惑っていると、さらっと俺の手の中から、カップが奪われた。

 え、何、俺にくれたバレンタインチョコじゃないの? もっと飲みたいんだけど。

 

 何事かとウィルの方を見れば、彼女は何故か顔を赤くして、俺の手に触れていた。

 ……もしかして、ちょっと寒いんだろうか?

 節電のために、1人の時は暖房は最低限にしてるからな。彼女が来た時点で温度を上げておくべきだっただろうか。

 

 そんなことを考えている俺を前に、ウィルは小さく呟く。

 

「……確かに、指先が冷えてますね」

「まぁ、まだ2月中旬、冬も明けてない。夜間にキーボードを叩いていると、どうしてもな。

 ところで、ホットチョコ飲んでいい? 今は甘いものが欲しくて」

「じゃ、じゃあ、その、えっと」

 

 どうやら俺の言葉が聞こえてないっぽいウィルは、そのまま俺の両手を合わせ……。

 自分の手で、ゆったりと包み込む。

 

「温かさのおすそ分け……みたいな?」

 

 

 

 ……ホシノウィルムは、体温が高い。

 

 そもそもウマ娘の体温は人間に比べて多少高いことが知られているが、ウィルの特筆すべきところは、寒い環境下でもその熱を保つところだ。

 恒常性や基礎代謝が強いのか、冬の北海道でだって、その指先まで温かいままだったのを覚えてる。

 

 だからこの日のウィルの手も、すごく温かくて……。

 そして同時に、細くて柔らかい、女の子らしい手だった。

 

 ……でもそれはそれとして、そろそろホットチョコ飲みたいんだけど、いいかな。

 

「うん、温かいな。ところでウィル、チョコを……」

「……こういうの、ちょっといいですよね。冷たいけど、なんだか温かい、みたいな」

「あぁ、君の体温を直に感じられて良いね。でさ、ウィル、そろそろ……」

「わっ、私の体温を直になんて……!? そ、そんな、恥ずかしいですってそれは……!」

 

 どうやらウィルは、彼女らしからずめちゃくちゃに掛かっているようで、嬉しそうな声を出したり真っ赤になったり、かと思えば表情をふにゃふにゃに溶かしたりと忙しない。

 

 うん、ウィル、君が幸せそうで何よりだよ。何が幸せなのかはわからんけども。

 

 ……でもさ、ウィル。

 俺、今ちょっと疲れてて、できればもう少し君のくれたホットチョコ飲みたいなーとかって思ったりしてるんだよね。

 あと、だんだん手に力入って来てるよ。そろそろ緩めてくれないと、めきょって逝っちゃうかもなー?

 

 

 







 ウィルの手の柔らかさに感じ入る情緒<極度の疲労状態による本能的な糖分摂取欲求



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、平凡な日が特別になる話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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◆ここは 2ばんめの 「おまえのばしょ」だ。

 ごめんなさい、ちょっと投稿頻度が下がってしまうかもしれません。下がらないかもしれないけど。
 理由は、ふと思い出して積んでたゲームに手を出してしまった結果、綺麗にハマってしまったからです。命の火時計全部壊したら戻ってきます!





 

 

 

 確率は収束する。

 それは簡単に言うと、試行回数が増えれば結果が期待値に近づきやすい、という意味合いの言葉だ。

 

 例えば……そうだな。

 人生における、幸運と悪運の割合。

 100年弱という長い時間は、それらを大体同じくらいにしてしまう……って言えばわかりやすいかな。

 端的に言えば、「悪いことがあったら、きっとその分だけ良いことがあるよ」ってことね。

 

 実際、私も初等部の頃まではだいぶアレな人生だったんだけど、中等部に入ってからはそれを取り返すくらいに一気に幸運が襲い掛かって来たわけで。

 

 ミーク先輩と同室になり、歩さんと出会って、ネイチャやテイオーと同期になれて、ブルボンちゃんやライスちゃんたちとも出会えて……。

 

 温かさを知った。走ることを楽しむことを知った。

 生きることを知った。

 ……皆の温かさに、救われた。

 

 これは、とても幸せなことだったと思う。

 前世の私がそうであったように、何かに本気になる熱い気持ちも、全力で生きることも知らないまま、何となく生きて何となく死ぬ人だって多いはず。

 私はそこから脱し、熱中できるものと、最高に楽しめるものを知ることができたんだ。

 それはきっと、幸福なことなんだと思う。

 

 確かに、幼少のアレは本当にキツい体験だった。今はもう受け入れてるけど、正直もう一度体験したいとは冗談でも言えない。

 でも、それを乗り越えた先に、この生があったと考えれば……。

 辛くて悲しい過去も、意味があったと思えるんだ。

 

 だから、私は感謝している。

 私を生んで、育ててくれたお母さんとお父さんに。

 辛くとも、確かに私を形成してくれた過去に。

 そして……幸せで温かい、今に。

 

 

 

 ……ちょっと話が逸れてしまったな。

 そう、確率は収束するって話ね。

 

 試行回数が増えれば、幸運と悪運の量は等しくなりやすい。

 それはつまり……総合的に発生する幸運と悪運の量が等しくなると仮定すれば、良いことが起こるごとに悪いことが起こる可能性が高くなっていくことも意味する。

 

 今日良いことがあれば、明日は悪いことがあるかもしれない……って考えるのは、ちょっと悲観的すぎるかもしれないけども。

 まぁ、とんでもなく良いことがある日があれば、逆にとんでもなく悪いことが続く日もあるよねって話。

 

 つまるところ……今日はそういう、悪運の日だったんだろう。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 今日は、とにかく運のない日だったと思う。

 

 歩さんは朝からURAの本社に行っているらしく不在で、トレーニングスケジュールの確認などは全て昌さんが代行していた。

 ……いや、昌さんが嫌いなわけじゃないよ? むしろその真面目さは好きの部類に入るんだけど……やっぱり好きな人に会えないっていうのは、ちょっと寂しくなっちゃうよね。

 

 更に、寮の私室と並んで、私が最もくつろげる空間であるトレーナー室。

 なんとこれに改修が入るとのことで、今日の間は立ち入り禁止らしい。

 歩さんと出会って以来2年の間、改修とか入った記憶なかったし、まぁそういうタイミングもあるよね。

 むしろ私たちがちゃんと暮らせるよう、改修工事してくれる業者さんには感謝しなきゃいけない。

 でもさ、いつも使ってた部屋が使えないのは、やっぱり残念だよ。落ち着ける場所がないのは、ちょっと精神的に疲れるし。

 

 正直、このダブルヒットの時点でもう「ついてないなぁ」って思ってたんだけど……。

 更に追撃するように、今日はブルボンちゃんがトレーニングお休みの日だった。

 私は1人で走るのも勿論好きだけど、それ以上に誰かと一緒に走るのが好きだ。

 だから今日も、ブルボンちゃんと走るのを楽しみにしてたんだけど……残念ながら、そうもいかないみたいだった。

 

 で、その上、悪運はまだあって……。

 お昼前に、ライスちゃんから『すみません、今日は夜の自主トレ行けません……! ごめんなさい!』ってメッセージまで飛んで来たんだ。

 ……ほぼ毎日のように一緒してたのに、ライスちゃんまで駄目なんて……。

 いや、仕方ない、仕方ないんだけど……仕方ないんだけどさぁ!

 

 ここまで来たら、ネイチャとかソウリちゃんに頼ろうかとも思ったけど……。

 今日は合同トレーニングの日じゃないし、あっちもあっちで最近は今年のレースに向けてトレーニングが苛烈になってきてるみたいだ。

 そんな中、私のエゴイズムに付き合わせるのは、ちょっと違うと思う。

 寂しいからって呼び出すとか、それはもう彼氏彼女でもめんどくさいヤツだしさ。

 

 

 

 その日は、そんな感じで……。

 歩さんには会えない、トレーナー室に入れない、ブルボンちゃんやネイチャたちとも走れないと、残念なことが続いた1日だった。

 

 ここしばらく幸せな毎日が続いていたからこそ、そういうのがちょっと悲しい。

 トレーニングを終えた私は、肩を落として寮の自室に帰っていた。

 

「……はぁ」

 

 勿論、最近始まったスタートの練習はしっかりこなして来たけど……。

 やっぱり、こうも悪いことが続くと、どうにも気持ちが乗らない。気持ち良さはいつもの2割減って感じだった。

 

 いつもならこういう日は、昌さんがささっと差し入れくれたりするんだよね。

 流石は堀野家出身のサブトレーナーと言うべきか、あの人も担当ウマ娘の調子をよく見てる。

 歩さん程不調にすぐに気付くわけじゃないけど、明らかに気落ちしてたり悩んでたりすると、それとなく声をかけてくれたり、甘いものを贈ってくれたりするんだ。

 

 でも、今日は彼女も忙しいらしく連絡も最低限だったし、ちょっと望めないだろうなぁ。

 さっきも『トレーニングお疲れ様でした。今日は直帰で大丈夫です、しっかり体を休めてくださいね』って簡素なメッセージが来たきりだったし。

 

 

 

 ……あぁ、ちょっと、寂しいな。

 今日は丸々一日、歩さんや昌さん、ブルボンちゃんと会えなかったから。

 

 たった1日だ。何も一生会えないってわけじゃない。

 明日になれば、当たり前のように再会できるだろう。

 何も心配する必要はない。突然日常が崩れ去ることは……ないとは言えないけど、そうそう起こらない。

 

 それなのに、それなのに……こんなにも、寂しくなるなんて……。

 

 私、こういうとこは、弱くなっちゃったなぁ。

 昔は、人と話さなくても平気だった。何か感じることすらなかった。

 ……いや、ただ走ることに逃避して、それを感じることを拒絶してただけかもしれないけども。

 

 やっぱりあれか、火の温かさを知った獣は野に帰れない的なヤツだろうか。

 孤独だった状況から離れたことで、耐性が下がった。あるいは、友人や好きな人という温かさを知ったことで、それへの欲求が強くなってしまった。

 その結果として、私はこんなにも寒さに弱くなったんだ。

 

 

 

 ……なんて。

 暇に飽かせてそんなことを考えていても、一度落ちたテンションはなかなか戻って来てくれないわけで。

 

「あーもう、先にお風呂入ろ。嫌な気持ちごと汗を流して……」

 

 大きく伸びをして、面倒くさい思考を全部ぽいっと投げやろうとした、その時。

 

 ふと、ポケットに入れていたスマホが震える。

 

「ん……」

 

 何気なく見た画面には、LANEの通知。

 メッセージの送信者は……。

 

「歩さん!」

 

 片手で持っていたスマホを両手に握り直し、思わず力がこもり過ぎて割りそうになる。

 危ない危ない、そこまで行ったら馬じゃなくてゴリラだ。

 

 一度落ち着くために深呼吸して、改めてスマホのロックを解除し、その内容を見ると……。

 

『お疲れ様、ウィル。今日はトレーニングを見られなくてすまなかった』

『さて、突然になって申し訳ないが、この後時間を空けてくれるか』

『少し急な要件が入って、君の確認が必要になった。トレーナー室に来てくれ』

『2時間程で済む予定だ』

 

「……お仕事の話かぁ」

 

 いや、まぁ、知ってたけどさ。

 

 私と歩さんの関係性は今のところ、ちょっと……いや、かなりって言ってもいいかな? かなり仲の良い契約トレーナーと担当ウマ娘に過ぎない。

 去年の菊花賞前あたりからちょこちょこ個人的なやり取りもするようになったものの、LANEでのやりとりは、未だに7割くらいが業務報告や連絡だ。

 

 ちょっと期待しないでもなかったけど、まぁ仕方ないよね。

 しかし、こういう時まで悪運の日って感じだな、今日は……。

 

 とはいえ、ちょっとでも歩さんに会えるっていうのは、やっぱり嬉しい。

 急ぎの用件って話だし、さっそく向かおうか。

 

 

 

 ……この時。

 私は正直、身内への警戒心がゼロになっていたと思う。

 

 もう少し、疑うべきだったんだ。

 

 朝からトレーナー室に入れなかったこと。

 それなのに、今になって急にトレーナー室に来て欲しいって言われたこと。

 歩さんに会えず、LANEの一件も来なかったこと。

 ブルボンちゃんやライスちゃんとトレーニングができなかったこと。

 そして何より、今日という日。

 

 その全てを材料に考えれば、あの人たちの企みも看破できていたかもしれない。

 

 ……けれど、覆水盆に返らず。

 私は結局、その瞬間まで、騙されていることに気付けなかった。

 

 

 

 そうして……。

 

「歩さーん、来ました……」

 

 そう言って、トレーナー室のドアをガラッと開けた私に。 

 

 

 

 

 

 

「「「誕生日おめでとう!!!」」」

 

 

 

 

 

 

 ……たくさんの祝福と、紙テープが襲い掛かったのだった。

 

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 

 2月22日。

 その日は「私」こと、ホシノウィルムというウマ娘がこの世界に生を受けた日付。

 世間一般で言うところの、誕生日というヤツにあたる。

 

 多分、誕生日となると、喜ぶのが普通なんだろうけど……。

 正直なところ、私は誕生日というものに、深い思い入れを持っていなかった。

 なんでかって言うと……まぁ、これまでの経験が響いてるんだろう。

 

 私はこれまで、あんまり誕生日を祝われたことがなかった。

 前世では、言葉で「おめでとう」と言われることは何度かあったと思うけど、覚えてる限りプレゼントをもらったりパーティを開かれたりってことはなかったと思う。

 今世では……まぁ、今更語るまでもなく。本当に幼い頃は祝われたこともあったけど、それもすぐになくなってしまった。

 

 故に、2度の人生の内の大半の期間、私にとって誕生日は普通の日と変わらなかったんだ。

 経験が人を、ウマ娘を作るってことなんだろうね。

 そういった特別な経験の不足から、私は自分の誕生日を特別だとは思えなかった。

 

 あ、でも、他人のは話が別だよ?

 その人が生まれてくれた日。私と出会う運命へと回り始めてくれた日。

 私はそれを祝える。バレンタインと同じで、そういう日だっていう認識だから。

 

 ただ、自分が祝われるとなると……なんとなく、現実感がないというか。

 要はこうして、たくさんの人やウマ娘に祝われるってことを、全く予想できなかったんだ。

 

 だから……。

 

 だから、私は彼らに対して、まともに反応できなかった。

 

 

 

「……あれ、おーい、ウィル?」

「ちょっと兄さん、やっぱりサプライズなんかせず普通に祝った方が良かったんじゃ……」

「お言葉ですが、『ただ祝っただけではパワーが弱い』という意見は妥当性のあるものだと推測します」

「で、でも、お姉さま固まっちゃったよ?」

「あの子ああ見えてホラー系駄目って言ってたし、心臓止まってるんじゃない?」

「心肺停止!? どっどどどうしよう堀野君!?」

「いや、見たところただ驚いてしまっているだけだと思うけどね」

「ていうかあのウィルムがこの程度で心臓止まるとかありえなくなーい? G1でも全然ビビらない心臓に毛がもしゃもしゃ生えたような子なんだよ?」

「い、いや、もしゃもしゃはちょっと言い過ぎじゃないですかね、テイオー先輩……。あの、ていうか私すっごい不相応じゃないですかこの場に」

 

 

 

 私の前にいるのは、歩さんに昌さん、ブルボンちゃんにライスちゃん、ネイチャとそのトレーナーさん、テイオーのトレーナーさんとテイオー、そしてソウリちゃん。

 彼ら彼女らは、それぞれの手に鳴らし終わったパーティクラッカーを持っている。そして、そこから伸びた紙テープが纏わりつく私を見て、戸惑ったようにこそこそと話していた。

 

 そんな彼らに対して、私は……。

 何の反応もできず、ただぼんやりと立ちすくんでいた。

 

 どう反応すればいいのか、わからなかったんだ。

 こんなに多くの人たち、ウマ娘たちに誕生日を祝われて……。

 私は、何を、どう見せればいい? 何を言えばいい? どんな風に振舞えばいいんだろう?

 

 

 

 私は今まで、自分を繕って生きてきた。

 相手に感情を見せれば不利になるから、表情を消して、想いを隠して。

 あるいは、誰かに気に入られるために、相手が望むような顔をして。

 

 それが、いつしか身についていた、私の生き方。

 ホシノウィルムの、他者に対して取る、基本的な態度。

 

 でもそれは、所詮は仮面に過ぎなくて、だからこういう不測の事態にすごく弱くて。

 いつも咄嗟に取り繕えていたのは、多分私の要領の良さ故だろう。

 その上限を超えてしまえば……簡単に、素の、不細工な自分が出てきてしまう。

 

 

 

 あまりにも唐突で、あまりにも不慣れで、あまりにも温かい、皆の祝福に。

 私は思わず、仮面を被り切れなくなってしまって。

 どう反応すればいいか、なんて言えばいいか、わからなくて……。

 

「えっ、と……」

 

 なんて。

 そんな無様な声さえ漏らしてしまう。

 

「ウィル?」

「あ、歩さん……その」

 

 反応の滞った私を不思議に思ったのか、歩さんがこっちに歩み寄って来た。

 

 思わず後ろに……肌寒く暗い廊下の方に、下がりそうになる。

 

 歩さんには……いや、その背後にいる人たちには、見られたくない。

 今更歩さんに、全てを隠せるとは思えない。それだけの時間を一緒に過ごしてきたんだから。

 

 それでも、こんな隙だらけの、駄目な私を……他の人たちには、見ないでほしかった。

 取り繕えてない、綺麗じゃない私を見ないで欲しい。

 

 だって、それで、そんなところを見せて、私は……。

 

 お母さんに、嫌われたんだから。

 

 

 

 ……お母さんが私を嫌ったのは、私が、自分の能力を見せびらかしたからだ。

 

 この世界に生まれ変わって数年間の私は、はっきり言って調子に乗っていた。

 自分の大好きだった作品の世界に、それもウマ娘として転生した。それに舞い上がってしまっていた。

 その上、私の体には恐らく転生チートによるものと思われる多大な才能があったんだ。

 「もしかしたらスペちゃんやテイオーちゃんと走れるようになるかも!」なんて思って……その実力を、ひけらかした。

 

 赤子に戻って、自制心がなくなってたってのもあると思う。

 転生っていう、非現実的な奇跡に酔ってたのもあると思う。

 でも、その結果として、私は……お母さんの心を、傷つけてしまった。

 

 このことは……このこと自体は、もういいんだ。

 自分が悪かったって認めてるし、近い将来、きっと両親に謝りたいと思ってる。

 私自身、この事実を受け止めて、受け入れたから。

 

 でも……いや、だからこそ。

 同じ間違いを犯したくないとも思うんだ。

 

 素の自分を、見せすぎちゃいけない。

 ちゃんとその場に適した表情を浮かべる、その場に相応しい自分でいなきゃいけない。

 

 それは多分、無意識的に深く刻み込まれたルール。

 誰かと円滑なコミュニケーションを図るための、大原則。

 

 だから……だから、怖かったんだよ。

 最も親しい歩さんだけじゃなく……こんなにたくさんの人に、素の私を見られることが。

 

 

 

 そんな私の怯えに対して、歩さんは……。

 そっと、頭に手を置いてくれた。

 

「ほら、ウィル、外は寒いだろう。早く入りなさい」

「でも……」

「でも?」

「いや……その、私、今、全然可愛い表情できてないっていうか」

 

 もう少し、慣れない状況を飲み込むだけの時間がほしい。

 そう思っての言葉だったけど……。

 

 歩さんは、おかしそうに小さく笑った。

 

「あぁ、そんなことか。何、気にするな。皆もう知ってるだろうし」

「え、知ってるって……」

「君、演技なしで笑う時、結構アレな顔になってるからな。今更取り繕うこともないだろう」

 

 …………?

 

 演技なしで笑う時……結構アレ?

 

 えっと、歩さん、何を……アレな顔って何?

 

「いや君、最近は言う程表情隠せてないからな。頭を撫でる時なんかはいつも『ニマァ』ってなってるし。

 多分、ここにいる皆はもう知ってると思うぞ。なんならファンの間でもちょっと広まりつつあるっぽい」

 

 知られてる? 素の、私のこと?

 私の、表情……え、そんな、ニマァって?

 

 ……頭に血が上るような、あるいは血の気が引くような、不思議な感覚。

 あぁ、私、今どんな表情をしてるんだろう。

 

「し、知られ……っ!?」

 

 不細工な自分。駄目な自分。愛されない自分。

 そんな素を、無意識に誰かに晒してしまっていたという事実に、恐怖と、それから恥ずかしさを覚える。

 

 それで、思わず身を引きかけて……。

 

「俺は君のそういう表情、好きだぞ。……ほら、行こう。用意していた料理が冷めてしまう」

「あ、ちょっ……え、今好きって!?」

 

 そんな私の後ろに回って、歩さんがぐいと背中を押してくる。

 

 ちょっと、今! 今「好き」って言いましたよね!? え、私のこと? 私の……素の表情!?

 つ、繕わない、素の私を……好き!?!?

 

「ちょ、ちょっと、今の話詳しく……!?」

「はいはい、後でな。今はパーティの主賓として皆に挨拶だ」

「いや、そんなことより……ねぇ、歩さん!?」

 

 

 

 そんなこんなで、割とグダグダなまま。

 私は、私の誕生を祝ってくれる、誕生日パーティに参加することになったのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そのパーティは、すごくカオスだった。

 

 そもそも、この限られた空間に対して、人数が多すぎるんだ。

 1つのトレーナー室に、私も含めて10人。こうなると、流石のトレーナー室でも手狭に感じる。

 その上、たくさんのご飯とかケーキもあって、それぞれが話したり食べたりしてるんだもん。

 狭い空間で、たくさんの人やウマ娘が、話したり飲んだり食べたり。そんなことしてたら、そりゃ空間の熱量も上がるってもので。

 もう、温かい通り越して暑いまであるよ。

 

 

 

 そんな中、主賓としてサプライズを受けた私はと言えば……。

 なんとなくぽやぽやした気持ちで、皆と話したりしてた。

 

「あ、そういやウィル、ちょっと前にファッションモデルの仕事受けてたじゃん? ちょっと珍しいよね」

「え、ネイチャ見てたんですかアレ。ちょっとお付き合いのあるところからの依頼で、断り辛かったっていうか……」

「見てたっていうか、アタシあの雑誌定期購読してるからねぇ」

「それライスも見ましたっ! お姉さま、ガーリーなのも似合うんですね! フリフリしたのが可愛くて……」

「うぅ、ライスちゃんまで……。私としては、もうちょっと大人っぽいのが似合うようになりたいんだけどねぇ……ちらっ」

「? 視線を検知。何でしょう、ウィルム先輩」

「あー……身近にブルボンがいると大変そうだね。自尊心とか」

「本当ですよ……。いや、テイオーに言われる程でもないと思いますが」

「なんでさー! ボクの方がずっと身長高いでしょー!?」

「5センチはずっととは言いませんよ」

「5センチは大きいでしょ!」

「わ、私は先輩も可愛らしくていいと思いますよっ!」

「私より身長が10センチも大きいソウリちゃん、時に優しさはウマ娘を傷つけるんだよ?」

 

 パーティらしいとは言えないけど、騒々しくて姦しい、なんというか、年相応の会話。

 それが、すごく楽しくて、温かくて……嬉しかった。

 

 

 

 で、しばらく食べたり話したりが続いた後。

 トレーナー主導で、皆から誕生日プレゼントをいただいた。

 

 ブルボンちゃんからは、携帯栄養食の詰め合わせ。

 どうにもブルボンちゃんのご家庭では、しっかり食べてしっかり走ることが重要視されるらしく、手軽に栄養を取れるこれは愛用しているとのことだ。

 私としても、ご飯を食べるより走りたいって気分の時多いし、かなり助かるね。……そういう使い方するものじゃないかもしれないけどさ。

 

 昌さんからは、なんかすごく高そうなリップ。

 いつもの差し入れとかもそうだけど、平然と高級品贈って来るの、やっぱり名家出身って感じがしてちょっと気遅れするよね。

 かと思ったら、こそっと耳元で「唇の艶も出ますし、気になる男性へのアピールにもおすすめです」なんて言われた。

 ……もしかして昌さん、私が誰かに恋してるって察してたりする? まぁ、まさか歩さんが相手とはバレてないと思うけど、昌さんって結構察しが良いから怖いなぁ……。

 

 ネイチャのトレーナーさんからは、消耗品になりやすいタオルをいくつか。

 ネイチャからは、なんか可愛い感じのリードディヒューザー。

 ライスちゃんからは、蹄鉄付きのトレーニング用シューズをたくさんいただいた。

 どれもすごく嬉しいんだけど、この内どれを一番喜ぶかで、その子がどういう性格してるかがわかっちゃいそうな組み合わせだね。

 ちなみに私の場合は、何気にシューズが一番ありがたいと思いました。自主トレでめちゃくちゃ履き潰しちゃうし、無断だからトレーナーにもお願いしにくくてね……。

 

 テイオーのトレーナーさんからはなんか綺麗なグレイのハンカチ。

 テイオーからは……今度開催するっていうダンスライブの招待券。

 更にソウリちゃんからも、「こんなので申し訳ないんですが……」と結構大きなお菓子の詰め合わせをいただいてしまった。

 テイオーのトレーナーさんは無難に嬉しいもので、ソウリちゃんはちょっと子供らしいけど生活に潤いをくれるからいいんだけど……テイオーのそれ、どう反応したものかなぁ。

 テイオーのダンスはプロ級だし、見ていて楽しいから、嬉しいんだけどさ。その自信、ちょっと分けてほしいまであるよ。

 

 

 

 たくさんの友人から贈られた、抱えきれないくらいのプレゼント。

 その全てに、これでもかってくらい彼ら彼女らの想いが籠っている。

 それを私がもらえるっていうのが、すごく、現実感がなくて……。

 

 だから、私は……。

 

「……皆、ありがとう」

 

 綺麗に笑顔を浮かべることもできず、何とも言えない顔で……。

 そう、静かに言うことくらいしか、できなかった。

 

 ただ、それでも。

 皆、そんな私を見て、幸せそうに笑ってくれたんだ。

 

 それが、心の底から嬉しくて、温かくて……。

 

 

 

 ……そう。

 

 私は、すごく、幸せだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そうして、最後にもらった、歩さんからのプレゼントは……。

 1つの、何の変哲もない大きめの封筒だった。

 

 「誕生日おめでとう」と手渡されたそれを軽く揺すってみると……何やらカサカサという音と、ちょっとだけ金属音。

 

「これは……?」

「開けてみろ」

 

 取り敢えず言われた通り封を開けてみる……と。

 その封筒の中に入っていたのは、いくつかの鍵と、更に複数の封筒に分けられて入っている、たくさんの書類だった。

 

 ……え、何これ、不動産登記権利……?

 

「あの、歩さん、これ……」

「家だ」

「いえ?」

「土地と家の権利書と、その家の鍵だ」

 

 ……?

 

 何……え、何? 権利書? 鍵?

 

「ここからは少し離れてしまったが、家を建てた。君に譲るので、自由に使うように」

「え、えぇ……?」

 

 家……家? 

 家を、建てた?

 えっと、それは……建設したってこと……?

 立てたとか絶てたじゃなくて、建てた?

 

 しばらく、歩さんが何を言っているのか、理解できなかったけど……。

 現実を認識するや否や、かっと頭に血が上った。

 怒ったとか喜んだとかじゃなくて、めちゃくちゃビビったって意味で。

 

「い、いやっ、流石にもらえませんよこんなの!?」

 

 誕生日とはいえ、流石にこんなものは受け取れないって!

 家、家って!? 何それ、どんだけ費用がかかって……いや、プレゼントは気持ちだしお金の問題じゃないのはわかってるけど、流石に規模が違い過ぎるって!!

 

 慌てて中身を詰め直し、封筒を歩さんに返そうとしたけど、彼はどうやっても受け取ってくれない。

 

 彼は真剣な目で、私のことを真っ直ぐに見つめていた。

 

「君、今、自分の家を持ってないだろう」

「え……い、いや、確かに家は持ってないですけど……」

 

 ホシノウィルムが幼少期に育った家は、トレセンに入る時に土地ごと売ってしまった。

 親戚の方に借りていたお金を少しでも返したかったというのもあるけど……。

 今考えると、あの家には辛い思い出が多すぎたんだと思う。当時の私は自然と、そうするのが正しいと思って行動していた。

 

 だから、現時点で私には、「自分の家」と呼べるものがない。

 強いて言えばトレセンの栗東寮だけど、あれはやっぱり寮だし、家ではない気がする。

 

 でも、どうして今更そんなことを……。

 戸惑う私に対して、歩さんは静かに尋ねて来た。

 

「それで、この学園を卒業した後はどうする予定だ。どこに住む?」

「それは……どこかに部屋を借りるとか」

 

 未来の話をしようとすると、言葉があやふやになってしまう。

 だって、そんな先のことなんて考えてなかった。

 ただ、誰かと走る今がすごく楽しくて、だから先のことを全然考えてなくて……。

 

 ……あぁ、やっぱり私、生まれ変わって子供になってるんだな。

 

 前世、大学生だった頃には、もうちょっと先のことを考えてた。

 どのゼミに行くかとか、どの授業を取るかとか、あるいはどこの企業に勤めるかとか。

 軽い将来のプランまで立てて、色々と考えてたんだけど……。

 

 今世では、全然そんなことを考えられなかった。

 ……あるいは、思わず夢中になってしまうくらいに、今が幸せすぎるのか。

 

 そんなことを考えて言葉を詰まらせた私の肩に、彼の手が置かれる。

 

「決まっていないのなら、この家を使えばいい。

 ……これは私見だが、帰れる家がないというのは、なかなかに寂しいものだと思う。

 俺は君に、いざと言う時に帰ることのできる家を……自分の場所を持って欲しいんだ。

 だから、受け取ってくれ。今、俺が君にできるせめてもの礼で、君が生まれて来たことへのお祝いだ」

 

 自分の家。自分の、場所。

 ……ずっと前に失って、もう手に入らないような気がしていたもの。

 

 私は……私は、これを……。

 

 

 

「……いや、やっぱり受け取れません」

 

 誘惑を振り切って、彼の胸に押し付ける。

 再三の拒絶に、歩さんはようやくその封筒を受け取ってくれた。

 

「お気持ちは嬉しいです。嬉しいですけど……だからこそ、受け取れません。

 私はあなたが思っているより、ずっと多くのものをもらいました。お礼をすべきはむしろ私の方で、だからこんな大きなものは受け取れないです」

「しかし、ウィル……」

 

 ……あぁ、違うんです。そんな顔をしてほしいんじゃなくて。

 私はただ、もう少しだけ、欲張りたくなってしまって。

 

「だから……」

 

 

 

 ……あぁ、胸が痛い。緊張でドキドキする。

 

 私、今、すごいことを言おうとしてるんじゃないだろうか。

 皆からもらった幸せに酔って、求めすぎちゃってるんじゃないか。

 

 そんなこと思っても、動き出した口は止まらなくて。

 

 私は……熱に浮かされたまま、言った。

 

 

 

「だから、歩さんの家に住ませてください」

 

 言った。

 

 言って、しまった。

 

「え?」

「あなたの家に……その、屋根の下……いえ、なんというか、居候というか、いや寄生虫にはなりたくないですし家賃もちゃんと払いますっていうか……」

 

 結局、最後まで言い続けることもできず、言葉は尻すぼみになって消えて行った。

 

 あぁ、我ながら情けない。告白でもないのに……いやもう実質告白みたいなものかもしれないけども、言い切ることすらできないなんて。

 

 赤くなって、同時にへなへなと小さくなってしまった私に対して……。

 歩さんは、しばらく驚いたように黙り込んだ後、穏やかに笑った。

 

「わかった。これはひとまず、こちらで預かっておこう。

 高等部を卒業する時にも意見が変わらないようなら……その時に、改めて」

 

 その一言は、私にとって……。

 今日1日の、全ての悪運を補って余りある、最高のプレゼントだった。

 

 

 







 なお、2人は見えなくなってるけど、周りはプレゼントの重さに驚いたり頭を抱えたりドン引きしたり笑ったりしている模様。
 ちなみに建てたのは、一戸建て220平米の8LDK。将来誰かと一緒になっても安心の、広めの邸宅です。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、堀野的恋愛観の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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堀野末妹的恋愛方法論

 気付けば本作のお気に入り登録数が1万を突破していました。
 1万……1万!?!? お気に入りが1万ってことは……1万人の人がお気に入り登録してくれた……ってコト!?
 正直数字が大きすぎて感覚が掴めませんが、いつもご愛読いただき、本当にありがとうございます!!
 近い内に記念として、何かおまけ的なもの書くかもしれません。程々にご期待ください!





 

 

 

「本日はお忙しい中、お集まりいただきありがとうございます」

 

 名家・堀野家の一員ともなると当然、幼少の頃から立食パーティや茶会の作法も教え込まれる。

 まぁ、堀野は名家の中でも比較的現代に適応した、謂わば「緩い」家風だったりするので、普段からそれを強制されることはなく、披露する機会は多くはないのだが……。

 

 それでも、努力して身に付けた技能というのは、そう簡単には衰えない。

 いわゆる、昔取った杵柄。自転車にしばらく乗っていなくても、一度覚えてさえしまえば、また普通に漕げるのと同じようなもの。

 

 そんなわけで、俺はこの集まりのホストとして、2人に最大限の敬意を払った挨拶から入ったわけだが……。

 

『いや、家族に対してそういうのいいから、さっさと本題入ってくれる?』

 

 昌の一言に、簡単に切って捨てられてしまった。

 

 ……まぁ、確かに、家族に向けるには多少仰々しいものだったのかもしれないけどさ。

 でもこういうのって、やっぱり形から入るべきっていうか……ご飯を食べる前に「いただきます」って言うようなものだしなぁ。

 

「親しき仲にもって言うし、これくらいは言わせてほしい」

『いや、そもそも集まってないし。今日は休日とはいえ予定入ってるから、さっさと本題に入ってほしいんだけど』

 

 ……確かに。

 昌に無駄に時間を取らせるのは申し訳ないし、そもそもお集まりいただいてないから「お集まりいただいて」は嘘になっちゃうか。

 

 今、俺が向き合っているのは、2人の人間ではなく、電源を付けたPCのモニター。

 そこにはLANE通話のウィンドウと、そしてその中に俺の2人の兄妹のアカウントを指すアイコンが表示されている。

 

 そう。

 今回の「集まり」というのは、オンライン上でのものだった。

 

 

 

 やっぱり一般的には、名家の集会と言うと「綺麗な庭でラウンドテーブルを囲み、紅茶と茶請けを用意して……」とか、「絢爛なパーティ会場で、煌びやかなドレスを身に纏って」……みたいな印象があるかもしれない。

 

 まぁ、実際のところ、そういうのもないわけではない。

 他の家との交流とか顔合わせの時はこのパターンが多く、実家にいた頃には俺もそこそこ体験した。

 あれ、なかなか肩肘張ってて疲れるんだよなぁ。本心を晒さないよう仮面を被らなきゃいけないし、俺はその手の演技があまり上手くないから気張らなきゃいけないし。

 

 ……とはいえ、俺たちが集まればいつもそんな豪勢なことをしている、というわけでもないんだよな。

 畢竟、そういうのは必要性があるから行うものなんだ。

 

 例えば、自分の家の権威や力を見せつけるため。

 例えば、内密に行いたい相談があるから。

 例えば、共通認識と仲間意識を確立するべく。

 そういったホスト側の目的があり、そのための必要経費としてこういったパーティを開いているわけだ。

 

 そして、逆に言うと。

 明確な目的がないのなら、無駄に豪勢なパーティを開く必要はないとも言える。

 

 故に堀野の家では、家族同士で集まる時には特別贅沢はしなかった。

 精々が午後のティータイムにちょっと良い紅茶や緑茶を入れるくらいかな。

 

 兄さんと昌を呼んで話をしている今日も、ある意味ではその延長だ。

 特別力を入れて話を進める必要はなかったのかもしれない。

 ……いやまぁ、今回は別にわざとお固く入ったわけじゃなくて、緊張のあまり固くなってしまった、というのが真相なんだけども。

 

 

 

『まぁまぁ、昌。俺としては、歩の方からこうして相談を持ちかけてくれたことを嬉しく思うよ。昌もそうじゃないの?』

 

 そう言って取りなしてくれたのは、俺の兄さん、堀野の長兄だった。

 いつも揉めがちな俺と昌を仲裁してくれる兄さんは、今日も今日とて「仕方ないなぁ」って感じの声音で昌をなだめてくれる。

 

『……そりゃ全部ひとりでやろうとしてた頃よりは、多少マシかもしれないけど』

『だったら素直にそう言いなよ。歩は歩だから、言わなきゃ伝わらないよ?』

『…………善処する』

 

 よかった、昌の方もひとまず怒気を収めてくれたみたいだ。

 ……いや、今回は何かに怒ってるというよりは反射的に反抗しちゃったような感じだったから、怒気も何もないんだけども。

 

 また助けられてしまったなぁと思いながら、俺は兄さんに声をかける。

 

「ごめん、ありがとう兄さん。それと、遅くなったけど、久しぶり」

『うん、3週間ぶりかな。その後、調子はどう?』

「調子は良いかな。睡眠時間を確保するようになってから、活動時間自体は減ったけど能率が上がった感じがあるし、若干の体調不良も減った。……今になって兄さんの言葉が正しかったのを思い知ってるよ」

『そっか……ちゃんと休めてるなら良かった』

 

 兄さんは、どこか安心したように呟いた。

 

 ……ふと。この人にも、たくさん心配をかけてしまったな、と思う。

 昔から俺のことを気遣ってくれていた兄さん。いつもいつも、もっと食べろもっと寝ろと言ってくれて、俺の体調に気を遣ってくれて……。

 

 もっと早く、この人の言葉を聞いて、安心させてあげるべきだったな。

 数少ない、信頼できる家族の言葉なんだ。ちゃんと正面から受け止めるべきだったのかも。

 俺は目の前のことに集中しすぎて、そんな当然のことを見落としてしまっていたのかもしれない。

 

 ……謝罪と感謝を口にするのに、遅すぎるということはないかな。

 

「兄さん、これまで心配かけてごめん。それと、ありがとう」

『……ううん、いいんだよ。俺は君の兄さんだから』

 

 俺の尊敬する兄は、いつものように心地良く笑って、そう応えてくれた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……さて、久々の家族との会話も程々にして。

 

 そろそろ本題に入らないと、昌がまた噴火しちゃうかもしれない。

 本日2人を通話にお呼びした用件について……いよいよ、触れて行こう。

 

「それで、今日は相談がありまして、2人に話を聞いてもらおうと思って連絡したのですが」

『なんで敬語』

「いや……うん」

 

 それは多分、今から出す議題に少なからず緊張してしまっているからなんだけども。

 

 ……正直に言えば。

 俺は今でも、この話をすることに躊躇している。

 今からでも口をつぐんだ方がいいんじゃないかと思ってしまうんだ。

 こんなものはただの錯覚だと、全部気のせいだと思い、忘れて、見なかったフリをするのが正しいのではないかと……そう、逃げそうになる。

 

 でも、逃げるわけには、いかない。

 

「突拍子もない話に聞こえるかもしれないし、くだらないと思うかもしれない。

 それでも……聞いて欲しいんだ」

 

 それに真正面から向き合うことが、如何に怖くても。

 それを認識し確かめることに、どれだけ抵抗を感じようとも。

 

 それでも、向き合わなければならないものは、存在する。

 

 それが……彼女のトレーナーとして、果たすべき責務だから。

 

 俺は一度息を呑み……静かに、語った。

 

 

 

 

 

 

「これは、友達のトレーナーの話なんだけど……。

 担当ウマ娘に、恋愛感情を持たれているかもしれないんだ」

 

 

 

 

 

 

 ……我ながら、頭が痛い。

 

 何を言ってるんだ俺は、という羞恥心。

 家族に嘘を吐くなんて、という罪悪感。

 なんて酷い思い上がりを、という嫌悪感。

 それらがないまぜになって……少なからず、頭に血が上る。

 

 わざわざ呼びつけてする相談が、友達のこと。

 それも、担当に好かれているという非常にセンシティブな内容だ。

 下衆の勘繰りと思われたって仕方がない、非常に品のない行為だってことはわかってる。

 

 しかし、これしかない。

 本人の名誉を守り、なおかつおかしな誤解をされずにこの件を相談するには、これしかないんだ……!

 

 俺が自身にそう言い聞かせ、必死に感情を抑えつけようとしていると……。

 

 

 

『……おぉ』

『えぇ……』

 

 兄さんは、どこか感心するような声を漏らし。

 昌は……何故か困惑したように呟いた。

 ……え、何その反応。なんか予想とはだいぶ違うのが来たな。

 

 しかし、果たしてここから、どう話を進めようかと思っていると……。

 

 付けていたイヤホンから、昌の呆れた声が飛んできた。

 

『……兄さん、それ、本気でごまかせると思ってるの?』

「ん? え、いや、誤魔化すってなんの話……」

『バ鹿なの? 「友達の話なんだけど」とかいう枕詞、今日日誰も信じないでしょ。

 要は兄さん自身が、ホシノウィルムさんの好意にようやく気付いたってことね』

「…………え!?」

『いや「え!?」じゃないけど。あんだけ露骨にアピールされて今の今まで本気で気付いてなかったのが異常だからね逆に』

 

 なん……だと……!?

 

 完璧に偽装したはずなのに、昌は一瞬で俺のことだと気付いた……?

 そして彼女は、もっと前からウィルの想いに気付いていた……!?

 

「……流石は昌、やっぱり敵わないな」

『いやそんなことで評価されても欠片たりとも嬉しくないんだけど。というか気付かない兄さんがイカれてるだけで、私の方がよっぽど正常だからね?』

 

 こう言って謙遜してはいるけど、やはりこれは昌の察しの良さ故だろう。

 そういうところ、少し羨ましい。この子、兄さんとは別の方向で要領が良いからなぁ……。

 

 

 

 堀野の長兄は、何に手を付けても結果を出せる、言うならば万能の天才だ。

 何でも手広く器用にこなせるタイプ、と言えば伝わりやすいだろうか。

 名家の人間としての、そしてトレーナーとしての教養。外科や内科、精神科の知識。勿論社会常識や、その他雑学の領分までも。それらを全て20代という若さで修められているあたりからも、兄さんの異常性が窺えると思う。

 

 まぁ逆に言えば、そういう実力者だからこそ、殆どキャリアもない状態ながら地方トレセンの養護教諭を任されているわけだ。

 ……というか小耳に挟んだ話だと、その能力を買われて中央に招待を受けたこともあったらしい。自分にはまだ相応しくないってお断りしたらしいけど。

 

 そんな兄さんに対して、昌は……言うならば、早熟の天才。

 彼女は何かを手を付けると、ある程度まではかなり早く覚え、身にすることができる。それこそ最初の内は、あの兄さんに勝ることもあるくらいだ。

 一芸特化はできないけど、広く浅く、大体のことができるタイプ。彼女を言い表すとすれば、それが正確になるだろう。

 

 ……とはいえ、昌は兄さんと違って、弱点がないわけではない。

 というのも、学んでいるものが一定の領域を超えると、ちょっと手こずる傾向があるんだよね。

 トレーナー免許を取るための筆記試験の模試でも、80点まではすぐに到達したけど、90点を安定させることにかなり苦労してたみたいだったし。

 

 ただ、込み入った領域に入ると進捗が遅くなるのは、どのような分野、どのような人であろうと変わらないとも言える。

 後半が詰まることを弱点と言うよりは、むしろ学び始めてすぐの頃に大きく伸びる長所があると言うべきだろう。

 

 ……では、そんな2人の天才に対し、次男の俺はどうなのか?

 俺は何事においても最初から最後まで学びが遅いタイプです。

 ま、才能がなくて要領が悪いのは慣れっこだからいいんですけどね。その分頑張ればいいだけですし?

 

 ……うん、ごめん、嘘。

 正直兄さんや昌が羨ましいと思ったことは数えきれないくらいです、はい。

 

 

 

 そんなわけで、昌が俺より先にそれに気付いたのは、ある意味仕方のない事なんだと思う。

 それだけ、昌のコミュ力……短期間で相手を理解し、その意図を読み取る能力は高いんだ。

 勿論俺の不徳の致すところでもあるし、そこに関しては反省の至りなんだけど……。

 

 ……あれ、というか、昌が気付いてるってことは。

 

「もしかして、兄さんも……」

『まぁ、歩から時々話は聞いてたからね』

 

 俺の恐る恐るの問いかけに、兄さんは苦笑いで応えた。

 

 信じ難いことに、兄さんに至っては直接会ったこともないのに察しを付けていたらしい。

 兄妹は俺以外の2人とも、ウィルのその疑惑に気付いていた、ということになる。

 

 自分が人の情動に疎いことは理解してたつもりだったんだけど……まさかそこまでダメダメだったとは。

 正直、ちょっと凹むなぁ……。

 

 とはいえ、反省は後回しだ。

 バレちゃったものは仕方ない、きちんと謝罪し、本来の目的を果たす必要がある。

 

「……ごめん、嘘吐いた。白状すると、そう、俺とウィルのことだ。

 勿論思い上がりである可能性は否定できないし、俺の勘違いであればそれでいいんだが……」

『そういう予防線はいいからさっさと本音に入って』

「はい……」

 

 ……すまん、ウィル。

 これが俺の勘違いであれば、君のイメージを酷く傷つけてしまうかもしれない。

 

 けれど、もしもこの疑惑が真だとすれば……。

 これは、俺の手に余る問題になってしまう。

 

 信頼できる、なおかつそれぞれ確かな能力を持っている2人に、協力を仰ぐべき事態なんだ。

 

 俺は一度、軽く深呼吸をして、言った。

 

「改めて。ホシノウィルムが、俺に好意を抱いている可能性がある。

 これが正しいか、そして正しいならどう対応すべきか、意見を聞かせてほしい」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 話は遡り、去年。

 ウィルと共に、彼女の両親の眠る墓地を訪れた時のこと。

 

 「両親と過ごした家は、既に売ってしまった」と語るウィルの、少しだけ寂し気な横顔を見て……。

 

 俺は、居場所を用意してあげたいと思った。

 

 人間にとっては、そして恐らくウマ娘にとっても、帰る場所というのは非常に大事なものだと思う。

 無条件に「そこにいていい」と思える場所。自分と、本当に心を許せる者だけがいる場所。

 俺にとっての堀野本家のように、取り繕わない自分でいられる、自分たちだけの場所。

 

 それがないというのはつまり、気が抜ける場所が、気を抜いていい場所がないということで……。

 それは、酷く悲しいことだと思うんだ。

 

 故に、俺は行動を開始した。

 

 実家のコネと私財で良い土地を確保し、建設会社を手配。図面の段階から先方と色々話し合って最大限便宜を図ってもらい……。

 彼女が将来、家庭を持った時にも暮らせるよう、広く使いやすい構造を心がけたつもりだ。

 

 ホシノウィルムは、生まれ付いた家庭と折り合いが悪く、良い家族を持てなかった少女だ。

 だからこそ、彼女には将来、温かくて気を許せる家族を持ってほしい。

 

 この家の広さは、その願いの象徴。

 彼女が良い人と巡り合い、子供も無事に産んで、幸せに暮らせますように……。

 

「三女神様、どうか、よろしくお願いします」

 

 今年の1月下旬。

 竣工した家を前に、俺はそう言って、手を合わせた。

 

 

 

 で、諸々のチェックや手続きなどもなんとか間に合わせ、それを贈ったのがつい先日の彼女の誕生日だったというわけだ。

 

 ……まぁ、我ながらちょっと大きめのプレゼントになってしまったとは思う。

 結果として、後から昌に「未成年にそんなもの渡すとか正気なの!?」とか「もし彼女が望まなかったらどうするつもりだったの!?」とかめちゃくちゃ怒られてしまったけど、それはさておき。

 

 そうして、俺なりのとっておきのプレゼントを贈ったわけだが……結局、ウィルにはそれを受け取ってもらえなかった。

 

 まぁ、それ自体はいいんだ。

 高等部卒業の時までは、彼女が困った時の保険として残しておけばいい。もしその時もいらないと言われれば……まぁ、俺と昌の拠点として使うとか、色々考えられることもあるし。

 

 だから、問題はそっちじゃなくて……。

 

 

 

『だから、歩さんの家に住ませてください』

 

 ……彼女が、そう言い出したことだ。

 

 

 

 年頃の少女の精神構造は難解な部分があるが、それでも1つ、確かに言えることがある。

 

 自分の家にしていいと言われたのに「あなたと一緒に住みたい」と……そう望むことが、他意を含んでいないわけがない。

 

 勿論、可能性としては色々と考えられるだろう。

 例えば、もの自体は受け取らないことで、贈与税を回避しようとしているんじゃないか、とか。

 例えば、そこを起点に、堀野の世話になろうとしてるんじゃないか、とか。

 

 だがそれらは、彼女が今を時めく三冠ウマ娘であり、将来働かずとも十分暮らせるだけの貯えがあることや、彼女自身が心根の優しい女の子であるという事実によって、簡単に否定できる。

 

 シャーロックホームズ曰く、「在り得ない可能性を除外した後に残ったものは、どんなに信じがたくてもそれが真実である」らしい。

 それに基づいて、思考を進めると……。

 

 ホシノウィルムは、俺に対して好意を抱いている……かもしれない、と。

 

 そんな結論が出てきたわけだ。

 

 

 

 ……正直、それに思い至った時は、ちょっと唖然としてしまった。

 

 だって、相手は無敗の三冠ウマ娘、ホシノウィルム。

 俺にとっては可愛い教え子であり、大事なパートナーであり、素直で真面目で優しいウマ娘。

 

 そんな相手に想われてるとか、ちょっとばかり現実感がなさすぎる。

 ありえない。何かが間違っているはず。……けれど、他に思い付く可能性が、ない。

 

 ……いや、あるいは俺だからか? 俺がバ鹿だから思い付かないだけか?

 もしかしたら、俺からは見えないだけで、どこかに大きな落とし穴があるんじゃないか?

 

 と、そんなわけで。

 俺はこの疑惑の真偽を確かめ、そして対策を取るべく……外に漏らさないと信頼できる2人に相談してみよう、と思ったわけだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「改めて。ホシノウィルムが、俺に好意を抱いている可能性がある。

 これが正しいか、そして正しいならどう対応すべきか、意見を聞かせてほしい」

 

 少なからず……というかめちゃくちゃに緊張しながらそう聞いた俺に対して。

 

 昌と兄さんは、さらっと答えた。

 

『ま、あの子が兄さんに気があるのは間違いないでしょ』

『俺は直接会ったことはないけど……まぁ、話を聞いている限り、可能性は高いと思う』

 

 ……あー、そうか。やっぱりそうなんだ……。

 

 正直俺は、ここで「何言ってるの? 現実見なよ、そんなわけないじゃん。思い上がらないでよキショ」と言われることを期待していた。

 ……いや、罵倒を期待してたわけじゃなく、単純に否定されることを期待してたって意味でね。

 

 俺が思い付かなかった何らかのロジックがあって、実のところウィルは俺のことをあくまで「信頼できるトレーナー」としてしか見ていないと……。

 その方が、話はずっと簡単だったんだけどな。

 

「マジかぁ……恋、か……」

 

 俺は思わず、頭を抱えてしまった。

 

 

 

 競走ウマ娘の、恋愛。

 これは実のところ、決して珍しいものではない。

 

 過去のデータを見返しても……特に堀野が方針を転換して以来、そういった話は割と多いんだ。

 

 まぁ、当然と言えば当然の話だろう。

 良好な関係を築き、トゥインクルシリーズを駆けたトレーナーとウマ娘の間には、強い絆が生まれる。

 勿論、それは大抵の場合友愛に過ぎないが……彼女たちトレセン学園生は、アスリートであると同時、思春期の女の子だ。そういった友愛を恋愛感情だと誤解してしまうことも多い。

 

 だからこそ、競走ウマ娘の恋愛というのは、決して珍しい話ではなく……。

 ……それが悲劇的に終わることもまた、ありふれた話だ。

 

 土台、契約トレーナーは、担当ウマ娘と恋愛などできない。

 いや、こればかりは本当に当たり前の話。歳の差もあれば役職的な制限もあり、理念上の問題もあれば倫理的な問題もある。

 問題が山積みどころか、問題のない部分を探した方が早いまであるわ。

 自由恋愛が許されるのは、あくまで法律の範囲内での話。教え子との恋愛が許されるのはドラマや小説の中だけだ。

 

 「契約トレーナーと担当ウマ娘、禁断の恋……」なんてのは、この世界にありふれたフィクションなんだけど、それはあくまでフィクションなのである。

 トレーナーとして、自分のためにも彼女たちのためにも、それらを現実と同一視してはいけない。

 ……いや、同一視するような者は、理事長との面談の段階で弾かれ、トレーナーになることはできないんだろうけど。

 

 そんなわけで、担当ウマ娘が想いを伝えてきた場合、トレーナーは拒絶することしかできない。

 しかし失恋というのは、思春期の女の子にとって、非常に大きな失敗であり変化。もはやカタストロフィと言ってもいいだろう。

 それをきっかけに、今まで順調だった信頼関係が破綻……というケースは、これまでの過去に確かに存在していたらしい。

 

 そして今、俺とホシノウィルムは、それと同じ轍を踏みかけているのだ。

 

 

 

「どうしよう、兄さん、昌……」

 

 俺は、あくまで個人的な感情で言えば……ウィルに、幸せになってほしいと思っている。

 そのために、俺にできることがあるなら、何でもしてあげたい。

 1年前に家を建てる時だってそこまで迷いがなかったし、今はあの頃よりも更に想いが強まっている。

 

 だが、俺の想いなんてものは、あくまで二の次。

 一番大事なのは、ホシノウィルムという少女にとっての、本当の幸せなんだ。

 

 そうなると、彼女の恋愛感情は……とても扱いの難しいものになってしまう。

 

 ぐちゃぐちゃの頭をどうにか纏めようとする俺の下に、昌の声が届く。

 

『まず聞きたいんだけど、兄さんは何を心配してるの?』

 

 何を心配してるか。

 

 ……問題の分析、細分化か。そう、確かにそれは大事な行程だ。

 

「……心配は、2つある。まず1つ目は、ウィルが友愛の感情を恋愛感情と勘違いしてないか……」

『そこは大丈夫でしょ。彼女、恋に恋するような精神年齢じゃないし』

「……まぁ、それもそう、かなぁ」

 

 確かにあの子は、妙に大人びてるっていうか、浮ついているようで落ち着いているところがある。

 大人……と言うには少しだけ幼い、けれど子供としては成熟した姿。それもまた、ウィルの一面だ。

 

 とはいえその辺りは、たとえ大人でも見誤ることがあるもの。

 ホシノウィルムだからと一概に頷くのもどうかと思うが……。

 

 ひとまず今は、次の問題に行こう。

 

「2つ目は……彼女の世間体と想いだよ。契約トレーナーとして、そして彼女の保護者として、そのどちらも裏切ることはできない」

 

 そう、最も大きな問題は、そこだ。

 

 競走ウマ娘は、アスリートであると同時、アイドル的な側面を持っている。

 契約トレーナーとの熱愛なんぞ発覚すれば……流石に選手生命を絶たれるとかはないとしても、口さがないファンから、ある程度の罵詈雑言が飛んでくることは想像に難くない。

 

 誰もが、彼女の走りだけを見ているわけではないんだ。

 容姿、性格、カリスマ性、声、動き。人を惹きつける要素は多岐にわたり、その内の一部は、恋愛という色が加われば濁って見えてしまう。

 

 それを避けようと思えば、彼女の想いはきっぱりと断るべきだろうが……。

 ウィルの想いを無下にすることは……したくない、というのが本音だ。

 

 そもそも、彼女から告白でもされれば、トレーナーである俺は断るしかない。

 そうでなくとも、想いをほのめかされた時点で断るのが誠実な対応というものだろう。

 しかし、堀野の過去にはそれによって崩壊した関係がいくつもあるわけで……。

 

 ……あぁ、頭が痛い。

 俺はどうするべきなのか。

 

 

 

『なかなか、難しい問題だね。多分、これに悩んだトレーナーは数多いだろうし、それでも明確な「正答」は出ていない……いや、存在しない』

 

 いつもは俺の悩みをいとも簡単に解決してくれる兄さんでさえ、この問題には即答できないようだった。

 

 ……それもそうか。もし即答できるような確かな答えがあるのなら、堀野の白書に残されているはずだ。

 問題が複数回にわたって発生していながら、しかしそれへの対処法は確立されていない。

 ウマ娘1人1人でその答えは違うし……あるいは、全てが丸く収まる解法など存在しないが故に。

 

「どうすればいいんだろう……」

『うーん……』

 

 

 

 そうして男2人、頭を抱えていたんだけど……。

 

 そこに、昌が切り込んできた。

 

『1つ聞きたいんだけど、兄さんはホシノウィルムさんの想いを受け止めてもいいと思ってるの?』

「え」

『え、じゃないでしょ。そこも肝要なとこじゃん』

 

 ……俺が、ウィルの想いを、受け止めてもいいか?

 

 いや……それは、でも……。

 

『何考えてるか当ててあげる。「自分なんかがホシノウィルムに釣り合うわけがない」でしょ』

「……昌、もしかして読心術とか学んだ?」

『何年の付き合いだと思ってんの? それくらいわかるっての。

 ……ホント、バ鹿な兄さん。相応しいかどうかじゃないでしょ、そういうの。世間体とか外から見て釣り合ってるかじゃなくて、大事なのはお互いがお互いを求めるか、受け入れられるか。違う?』

「…………」

『だから今考えるべきは、相応しいかじゃなくて、兄さんが彼女を受け入れられるか。答えは?』

 

 それは、耳が痛くなるくらい、正鵠を射た言葉だった。

 

 そうだ。その通り。

 彼女が言及しているのは、「契約トレーナー・堀野歩と、担当ウマ娘・ホシノウィルムの関係」ではない。「1人の人間・堀野歩と、1人のウマ娘・ホシノウィルム」の関係だ。

 

 その時大事なのは、外からどう見えるかじゃなくて、お互いが納得できるか。

 

 それなら……うん。

 

「そういう意味なら、俺はウィルを受け入れられるよ。受け入れたいと、思う」

 

 年齢だとか外見だとか立場だとか、そういう問題は一旦棚に上げるとして。

 彼女の持つ精神性は、俺にとって、非常に好ましいものだ。

 1人のウマ娘として見た時、それを受け入れられるか言えば……むしろ、歓迎したいくらいで。

 

 ……当然、当人にこんなこと、何があっても言えないけれど。

 

 俺は、ホシノウィルムを、1人のウマ娘として好ましく思っている。

 

 

 

『っ……』

 

 俺の答えに……何故か昌は、少しだけ息を呑んだようだった。

 しかしすぐに、どこか取り繕うように話を戻す。

 

『……それなら、問題ないでしょ。世間体も、彼女の想いも、守る方法はある』

「本当!?」

 

 昌の言葉に、思わずその場で立ち上がってしまう。

 

 彼女の心を傷つけず、それでいて世間に変に騒がれない、たった1つの冴えた方法……。

 それを昌は、『ちょっと汚くて、趣味の悪い方法かもしれないけど』と前置きして、語った。

 

 

 

『今まで通り、ホシノウィルムさんの想いに気付かない、鈍感な兄さんであればいい。

 彼女の想いに気付かないフリして、そのアタックをなあなあでやり過ごして……それで、彼女が競走ウマ娘を引退するまで逃げ切れば、どんな関係でも認められるようになるからね。

 途中で彼女が心変わりしたら、それはそれで、どちらも守られる。

 逆に、もしも最後まで彼女が想いを貫いたら……さっき兄さんが納得してなかった、恋に恋してるとかじゃない、ホンモノの愛ってことの証明にもなる。

 

 ……つまり、兄さんの勝利条件は、「ホシノウィルムという競走ウマ娘が引退するまで、2人の関係性を進展させない」こと。

 それが、世間体も彼女の想いも守れる、唯一の方法じゃないの』

 

 

 







 久々にvs要素が出てきた。
 ちなみに、堀野君が勝利条件を満たした場合、晴れて責任を取っていただきます。
 仮に敗北し、彼らの関係が進んでしまった場合、罰として責任を取っていただきます。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、お仕事の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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はたらく最強

 1時間程お遅刻申し上げました。
 命の火時計壊したり、天皇賞がまさかの展開になったりで、だいぶ進捗が遅れちゃいました。申し訳ない。
 GW中は4日に1度の投稿になっちゃうかもしれません。





 

 

 

 お仕事。

 

 ……嫌な響きだなぁ、これ。

 

 いや、誤解なきよう言っておくと、お仕事自体はとても良いことだと思うんだよ。

 勤労は日本の三大義務の1つだし、誰かが満たされた生活を送るために必要な価値を生む行動だもの。それはすごく尊いものだと思う。

 

 ……思う、んだけども。

 元半引きこもりのオタクからすると、やっぱり労働って良いイメージないんだよなぁ……。

 

 いやまぁ、偏見が入ってる部分はあると思う。

 私、記憶が正しいなら、前世は大学生の頃に死んだんだと思う。

 だから、正規雇用って意味では、ちゃんと働いたことはないんだ。

 精々、ちょっとコンビニでアルバイトした程度で、それも半年も続かなかったんだけど。

 

 けど、その半年で十分すぎるくらいに痛感した。

 労働は、クソ。

 覚える事多いし、足は張るし、心は辛いし、正直二度とやりたくないね。

 

 

 

 ……とはいっても。

 あのバイトが辛かったのは「ただお金を得るための行動だったから」という側面もある。

 環境が変わり、他にモチベーションが生まれれば、そりゃあ心持ちも変わるというもので。

 

「トレーナー、最近露出少なかったですし、何かファンの皆に届きやすい仕事、ありませんか?」

 

 転生した私は、そんなことを自分から言い出すようになったのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 競走ウマ娘の言う「お仕事」とは、アスリート的な側面のものではなく、アイドル的な側面でのものを指すことが多い。

 

 私たちは学生でありアスリート、本業はあくまで、学ぶことと走ることの2つだ。

 けれど同時、一様に可愛い容姿をしているプロのアスリートともなれば、当然ながらアイドル的な人気も出て来る。

 それが重賞、特にG1で勝つようなウマ娘ともなるとなおのこと。

 

 そんなわけで、私たちG1ウマ娘の下には、多くのお仕事の依頼が来る。

 その内容は、取材やインタビューの申し込みから、トークショーやらバラエティ番組の出演、何かしらの商品とのタイアップにPRもあれば、ファッションモデルになってほしいとか歌ってほしいとか語ってほしいとかもあるし、時にはURA公式から次回レースやトゥインクルシリーズの広告を撮りたいって話が来ることもある……って聞いた。

 

 正直この辺、私の下まで降りて来る依頼は少ないから、あんまり詳しくはわかんないんだよね。

 

 こういうお仕事の依頼は、まずクライアントがトレセン学園に依頼を入れて、それが事務室で整理された後、対象のウマ娘の契約トレーナーの下に伝達されるシステムらしい。

 この際、筋の通っていないものやあまりにも論外なものは事務室の段階で弾かれるんだけど……私やブルボンちゃんの場合は、更に歩さんの厳しい検閲を通ることになる。

 

 二代目無敗三冠ウマ娘となると、そりゃもうとんでもない量の依頼が来る。

 歩さん曰く、それは「全部引き受けようとすれば君が100人は必要になる」程なんだとか。

 故に、その中でも条件と扱いが良く、なおかつ安全なものを歩さんが厳選し、そのごく一部だけが私の耳に届けられるわけだ。

 

 正直、一時期は「報酬とか待遇で受ける依頼を選ぶのはどうだろ」と思ってたんだけど……。

 それを歩さんに告げると、「気持ちはわかるが、君の時間は有限で貴重な資源だ。自分を安売りするのは良くない」と諭された。

 なんとなく、お金で行動の指針を変えるのは卑しいようなイメージがあったけど、「示された値段は直接的に君の評価に繋がっている。下げていいことはないぞ」と言われてしまうと……確かにそれもそうかと納得してしまった。

 

 

 

 正直、2年前の私からは想像もできないことだけど、今の私はお金には困ってない。

 

 この世界じゃ前世のそれとは違い、レース自体にはお金が発生しない決まりだ。

 でも物販やウイニングライブの出演料は確かに発生するので、競走ウマ娘はかなり儲かる。勿論勝てさえすれば、だけども。

 

 そんなわけで、かなり勝てている私は、ちょっと現実味がないくらいの報酬を受け取っている。

 この前歩さんに通帳見せてもらった時は、いよいよ残高が10桁を超えてて気絶しかけたくらいだった。ちなみに奨学金とか借金を全部返して税を払っても桁は変わらないらしい。どうなってんだこれ。

 現時点でも、そこそこの暮らしをしても一生じゃ使い切れないくらいの貯金だ。日本が破綻でもしない限り、将来はまずまず安泰といったところ。

 

 そういう意味では、今の私、転生チートで人生イージーモードである。

 ありがとう「アニメ転生」。いつも助けられてます。

 

 

 

 さて、そんな私だからこそ、正直に言うとこれらのお仕事に報酬の量を求めてはいない。

 ……というか、依頼されるお仕事を100回受けても、G1に勝った時の収入に勝てないんだもん。

 走って得られる快感も加味すれば、このお仕事っていうのは、とんでもなくコスパが悪いと言っていい。

 

 でも、報酬だけが全てじゃない。公式レースでは得られない大きなアドバンテージもあるんだ。

 私がお仕事に求めているのは、ひとえにファンの皆に姿を見せること。

 いわゆる露出を増やすことである。

 

 競走ウマ娘にとってのお仕事は、数か月に一度出る公式レースや、一部の公開トレーニング、年に2度のファン感謝祭を除けば、公式にファンの前に出ることのできる数少ない機会でもあるんだ。

 去年からファンの皆のありがたさを痛感している私にとって、皆の期待に応えるのはすごく大事なことになっている。

 流石に走ることやレースそのものよりも優先するって程ではないというか、そこまで行くと本末転倒になってしまうと思うけど……それに差し障らない範囲で、できるだけ皆の期待に応えたい。

 

 だから、新年やバレンタインといったイベントが終わったら、改めて皆の前に出られるお仕事にも精を出そうと思ったわけだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、それから1か月弱。

 

 私がオーケーを出したら、とんとん拍子で話が通ったらしく……。

 私は久々のお仕事に取り組むことになった。

 

 本日のお仕事は、URAからの依頼……という形になっている、ネイチャのトレーナーさんが立ち上げた企画への参加。

 

 果たして、その内容は……。

 私史上何度目かの、生配信の出演だった。

 

 

 

「画面の前の皆、おいっす~、ナイスネイチャでーす。元気してたか~? ネイチャさんのお喋りタイム、今週も来てくれてありがとね~」

 

 そう言って、視線の先にいたネイチャは、カメラに向かって笑顔でヒラヒラと手を振る。

 

 ……おぉ、ネイチャってこういう時ちょっと照れがちな印象あるんだけど、今は全然動揺してない。

 流石、慣れてるなー。もう1か月くらい続けてるだけあるよ。

 

 ちらりと手元のスマホに目を落とすと、結構な勢いでだばーっとコメントが流れてる。

 

 

 

『おいっすー』

『おいっすー』

『今週の生きがい』

『おいっすー』

『無理せず毎秒配信しろ』

『おいっすー』

 

 

 

 カメラの横に設置されてるモニターで、自分の映りを確認しつつコメント欄を追っていたネイチャは、すぐにアハハと苦笑した。

 

「お、『無理せず毎秒配信しろ』だって。いやどっちよ。配信って結構疲れるんだからねー?

 時には公式レースくらいへとへとになったり? ……いや、それは流石に言い過ぎか、たはは」

 

 

 

 ネイチャさんのお喋りタイム。

 そう題されるこれは、毎週土曜の午後3時に行われている、いわゆる雑談配信だ。

 

 これが始まったのはおおよそ1か月前、ネイチャが脚部不安を起こした少し後。

 人気商売なところもあるウマ娘にとって、長期間公式レースに出走できず、話題性がなくなってしまう……世間から忘れられてしまうのは、時に致命的になり得る。

 だから、ネイチャのトレーナーさんは、ネイチャの露出を増やすための企画を立ち上げた。

 

 ちょっと前にネイチャがゲストに出たラジオ番組や、去年の三星によるPR配信などに着想を得た、週1間隔、2時間の生配信。

 特に何かを話すっていうんじゃなく、ただ最近あったこととかちょっと前のレースの話をしながら、コメントに反応して受け答えする、というもの。

 

 シンプルな企画だけど、ネイチャの人気や人当たりの良さもあって、企画は好調。

 最初こそネイチャの脚部不安を心配する声で若干荒れかけたこともあったんだけど、今はかなり良い雰囲気の配信を作っているのであった。

 

 ちなみに、私も初回から毎週追っかけてたりする。

 そこまで画面を見る必要のない、半分ラジオみたいな配信なので、よく走りながらイヤホンで聞いてる。良い自主トレのお供って感じ。

 

 つまるところ、私はこの配信のリスナーの1人なんだけど……。

 今回はリスナーの立場ではなく、参加する側に回る必要が出てきたわけだ。

 

「うし、それじゃそろそろ呼んじゃおうかな。なんと、今回はゲストがいまーす!」

 

 

 

『ゲスト?』

『これゲストとか呼ぶタイプの企画なんか』

『三星だったりする?』

『むんちゃん!?』

『体調不良で休養中のターボか』

『誰だ? もしかしてトレーナーだったり?』

 

 

 

 ネイチャのコメント欄に、コメントが沸き立つ。

 私はそこまで見て、トレーナーにスマホを渡し、一度まぶたを閉じて深呼吸。

 

 正直、ミスの許されない生配信に緊張してるところはあるけど……。

 大丈夫。これでも、仮面を被るのは得意技だ。

 気合入れて、行こう。

 

 

 

「それじゃ……おーいウィルさんや、こっちおいでー」

 

 あくまで軽いテンションで呼びかけて来るネイチャに、「はーい」と答えて歩み寄る。

 で、彼女の隣に座ると、カメラに向かって軽く頭を下げた。

 

「お邪魔します、皆さん。競走ウマ娘、ホシノウィルムと申します」

「はい、そんなわけで、皆さんご存知灰の龍こと、ウィルに来てもらいましたー。ぱちぱちぱちー」

 

 頭を上げて、カメラの横のモニターを見ると……。

 コメント欄は、とんでもない速さで下から上に流れていた。

 

 

 

『うわマジか!?』

『おおおおおおおおおお』

『龍お前神出鬼没すぎるだろホントお前!』

『私服の龍とか激レアも激レアじゃん! クールでいいね!』

『唐突な無敗三冠登場』

 

 

 

 ……うん、反応は上々かな。

 

 カメラ横のモニターに流れるコメントの勢いは、結構なものだ。

 勿論、困惑する声もないわけではないだろうけど、それを越える圧倒的な量の歓迎の声に押し流されてるって感じ。

 まぁ私、G1ウマ娘の中では露出少ない方らしいからね。サプライズなのもあって、皆結構驚いてくれてるみたいだ。

 

 とはいえ、あんまり調子に乗り過ぎないようにしないとな。

 今回は、3人で放送を作っていた前回の生配信と違って、私がネイチャの作った空間にお邪魔する形だ。

 出しゃばりすぎないように、なおかつちゃんと私の色を出せるよう、うまーく立ち回らないとね。

 

 そんな風に気合を入れていると、ホストであるネイチャは軽く私の方を向いて、視聴者さんに紹介してくれる。

 

「一応知らない人のために解説すると、ウィル……ホシノウィルムは、アタシと同期のウマ娘ね。アタシの友達で、三星って呼ばれてるメンツの1人で……それと、ライバルでもある、かな」

 

 

 

『知らない人……?』

『ネイチャのファンでウィル知らないヤツっておるんか? ホントにシンザンな人?』

『ライバルだけど直接の対戦経験は少ない』

『三星の友達だけどライバル感ほんとすき』

『早くまた走ってネイチャ』

 

 

 

 おぉ、思いの外知られてるね。

 ここはあくまでネイチャの配信だし、私のこと知らない人多くてもおかしくないな、って思ってたんだけど……それはともかく、ボケにはツッコまなきゃだ。

 

「そんな、ネイチャ……」

「あ、いや、ライバルってのは言い過ぎかもしれないけど……」

「友達じゃなくて、『親友』ですよね?」

「そっち!? ……いやまぁ、確かに親友だと思ってるけどさ」

「ネイチャそういうとこ、結構奥手というか、怖がりですよね。最初から親友って言えばいいのに」

「だ、だって、相手はそう思ってなかったらーって思っちゃうじゃん?」

「気持ちはわかりますけど、そこはしっかり言葉にしないと」

「むぅー……そういうの、なかなか難しくない? 視聴者さんたちもわかるでしょー?」

 

 

 

『芝』

『ネイチャさんさぁ……』

『やっぱ仲良いね君たち』

『ウィル×ネイ……アリだな』

『わかる』

『あるある』

『俺はネイチャのこと彼女だと思ってるけどネイチャはどうかわからんしな』

 

 

 

 流石ネイチャも慣れてるっていうか、私の振った話題を上手く拾い上げて話を続けてくれた。

 

 こういうの、百合営業ではないけども、ある程度仲が良いんだと理解してもらった方がいいからね。

 この配信は、あくまでもネイチャの雑談配信。コメントじゃ「ホシノウィルムのこと知らないヤツおるんか?」なんて言われてるけど、多分何割かは私のことを殆ど知らないはずだ。

 そういう人にとって、「ネイチャと親しい」っていうのは、かなり良いファーストインプレッションになるはず。

 これからの配信の空気とか考えても、そうしてイメージを作っていくのは大事だと思う。

 ……勿論、別に営業でも何でもなく、ネイチャのことは本心から親友だと思ってるんだけどさ。

 

 で、ネイチャはそういうあれこれをしっかり理解した上で私の話題に乗り、自分と視聴者さんの空気感を崩すことなく、自然と話題を繋げたわけだ。

 

 なんというか、流石はネイチャって感じ。

 どうすれば喜んでもらえるか、どうすればもっと人気が出るかをよく考えてるし、しっかり身に付いてるように感じる。

 

 私も足を引っ張らないよう、気を付けないとな。

 ある程度知識はあるし、どう立ち回ればいいか察しは付くとはいえ、私は生放送の経験は何度かしかない素人だもの。

 ネイチャに迷惑をかけないよう、細心の注意を払わなければ。

 

「そんなわけで、今日はウィルと2時間くらい、ゆるーく雑談していきまーす」

「わーぱちぱち」

「ウィルも今日はいい感じに緩いねー。……あ、そうだそうだ。アタシもしゲストさん呼ぶってなったらやろうと思ってたことがあってさ。祝すべき初回ゲストのウィルにも、一緒にやってほしいんだけど」

「ほう、なんでしょう」

「互いに互いを知った経緯とか、最初の印象とか話せたらなーって。その辺ってあんまりファンの人たちにまでは届かないじゃん?」

「あ、確かに。それいいですね」

 

 私たちウマ娘は、普通の……ではないかもしれないけど、学生だ。

 故に普段から、誰かと友達になったり、あるいはちょっと距離が離れたりと、そういった交友関係の変化は枚挙にいとまがない。

 

 ……が、ファンの皆は、私たちのアスリート面やアイドル面しかご存じない。

 そうなると当然、私たちの関係の発端って、なかなかわかんなかったりするんだ。

 

 とはいえ、そういうのを改めて話す機会って、実は結構少ないんだよね。それこそお仕事を受けて、2人で対談する時くらいかな?

 なので、こういうちょっと緩い場で話しとくっていうのは、ファンサービスとしてはかなり良いかもしれない。

 

 ……ネイチャ、「やりたいと思ってた」なんて言うけど、実際は色々考えてたんだろうな。

 流石は星の世代の軍師殿。こういう作戦を考えることにおいては超一級だ。

 

 

 

『気になる!』

『割と初期から仲良かったよね』

『そういえば聞いたことないか』

『尊みエピソード追加ありがとうございます』

 

 

 

 コメントの方でも、多くの声がこの話題を歓迎してくれてる。

 うん、ネイチャの話題選びは正しい。

 

 ……問題は、私がこれにどう答えるか、だな。

 

 まさか「ネイチャのことは前世から知ってました」なんて赤裸々に語るわけにもいかない。

 いきなりそんなこと言い出したらとんだ電波キャラだもの。また歩さんの頭を悩ませてしまう。

 

 となると……どう答えるのがいいだろう。

 嘘を吐かないよう、けれど真実を伝え過ぎないよう、気を付けなければ。

 

 そう考えていた私の横で、「じゃ、まずはアタシから」とネイチャが語り出す。

 

「アタシがウィルのことをちゃんと知ったのは、それこそウィルが選抜レースを走った頃かな。

 ウィルは知らないかもしれないけどさ、あの頃は『もしかしたらテイオー一強を崩せるかもしれないウマ娘が現れた』って、トレセンでも結構噂になってたんだよ?」

「え、そうなんですか。知りませんでしたね」

「ま、そうだろうね。あの頃のアンタ、評価とか気にしてなさそうだったし」

「で、どんな印象だったんです?」

「……すごい子だな、って思ったよ。とてもじゃないけどアタシじゃ勝てない、とんでもない天才なんだろうな、って」

「へぇ……そんな風に見えてたんですね」

 

 

 

『まだウィルムもあんまり話題になってなかった頃ね』

『ネイチャ、親友だしライバルだし最古参のファンでもあるのか』

『俺より古参じゃん』

『すごい子(メイクデビュー17バ身差の圧勝)』

『ネイチャも大概すごいと思うんですけどそれは……』

『まぁ、そうなるな』

 

 

 

「ま、付き合っていくうちに『あれ? この子なんか……ちょっと……』ってなったんだけどさ」

「ちょっとって何ですかちょっとって」

「ちょっとポンコツ」

「ひどい」

 

 

 

『芝』

『芝』

『ち ょ っ と ポ ン コ ツ』

『灰の龍をポンコツ呼ばわりできるのネイチャくらいでは?』

 

 

 

 私、そんなポンコツかなぁ……。正直、何事もそつなくこなせるタイプだと思うんだけど。

 ……あぁ、いや、走りへの自制心って意味なら、ちょっとばかし問題があるかもしれないけども。

 

「ウィルの方は? いつアタシのこと知ったの?」

 

 そう訊かれて、私は脳内で整理してたことを、ゆっくりと語り出す。

 

「うーん……私の場合は、知った、というか……。

 ネイチャ、覚えてます? 一番最初に、私たち2人で模擬レースした時」

「勿論。アタシのトレーナーさんがそっちに話付けてくれたヤツね。最初に会ったのってあの時だよね?」

「そう、あの時です。……実は私、あの時まで、同期の子の顔とか全然覚えてなかったんですよ」

「えぇ……嘘でしょ」

「それが本当なんですねぇ。あの頃はまだ、ちょっと外に目を向ける余裕がなくて」

 

 

 

『今日有用な情報落ち過ぎでしょ』

『これアーカイブ残る? 残して♡』

『この2人のジュニア級の頃の模擬レースか、見たかったなぁ』

『灰の龍、まさかのコミュ障……?』

『あぁ……ご家族の件』

『事情が重いって』

 

 

 

 あ、やば、ちょっと重い話を連想させちゃった。

 急いで方向転換しなきゃだ。

 

「まぁそんな調子で、1人で走ってた私なんですけど、ネイチャを見て『この子だ!』って思いまして。

 ネイチャなら私と一緒に走ってくれる、ネイチャなら私とライバルになってくれる……って。今思うと、そう感じたのかもしれないですね」

「え、えぇ……? いや、アタシが……?」

「実際、ネイチャは私のライバルに、親友になってくれたじゃないですか。やっぱりあの直感は正しかったんですよ。

 その後ネイチャとの合同トレーニングを切り出したのは、我ながら良い判断でした」

「あぅ……うん、まぁ、お気に召しましたら何よりなんだけどさ……」

 

 

 

『運命……ってコト!?』

『やっぱウィル×ネイなんだよなぁ……』

『ウィルム、案外ガンガンいこうぜなんだ』

『かわいい』

『照れてるネイチャ可愛い』

『契約トレーナーの次くらいにネイチャの素質見抜いてそう』

 

 

 

「お、『トレーナーの次に素質見抜いてそう』ですって。私、ネイチャのファンとしてはかなり古参な自信ありますからね。メイクデビュー前から見てますし」

「い、いや、ウィル、もうその辺りでいいから……」

「お、照れちゃってるんですかネイチャ? 可愛いですねぇ」

「……ウィル」

「え? あの、ネイチャ、ちょっと顔怖いですよ?」

「アンタさぁ……この前の誕生日……」

「ちょっとネイチャそれはズルですよ!?」

 

 

 

『マジの最古参じゃん』

『ライバルで親友で最古参ファン、尊すぎか……?』

『かわいい』

『照れてるねーちゃんが一番かわいい』

『ん?』

『誕生日?』

『その話詳しく』

『誕生日、一体何があったんだ……!?』

 

 

 

 

 

 

 ……その後も私とネイチャは、過去を振り返ったり、この前やっちゃったたわいない失敗だとか、学校の成績だとか、最近気に入っているスイーツだとか、色んなことを話して……。

 そうこうしている内に、2時間という時間は、飛ぶように過ぎて行った。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「それじゃみんな、今週もだらーっとした雑談に付き合ってくれてありがとー。来週も来てくれたらネイチャさん嬉しいですよーってことで。

 それじゃここらで、またねー」

「またねー」

 

 

 

 そう言って、2人でぷらぷらとカメラに向かって手を振る。

 

 ……すぐにカメラの裏側にいたネイチャのトレーナーさんが動いてくれて、しっかりと画面を確認した後、両手で大きく「(まる)」のマークを作った。

 確かに配信が終わったことを意味する動作。それを見て、私は肩の力を抜いた。

 

「ふぅ……楽しかったけど、疲れましたね……」

 

 いやぁ、いつもと違う集中してたから、ちょっとへとへとだ……。

 やっぱ生配信って体力使うよね。こうしてやる側に回ってみると、前世で声優さんがやってた公式生放送とか、どれだけ頑張ってたかが骨身に沁みてわかるよ。

 あと、長時間配信やってる人はちょっとおかしいんじゃないかな。どんなスタミナしてんの? あ、もしかしてスプリンターの子がステイヤー見る時ってこんな気分なのかなぁ。

 

 疲労で思わず俯いちゃった私に、横にいたネイチャが声をかけてくれる。

 

「あはは、お疲れ、ウィル。今日はウィルがいたおかげでだいぶ楽だったよ」

「そうですか……? 正直、ところどころミスしたなーって、ちょっと申し訳なかったんですが」

「え、失敗?」

「ちょっと声が上ずっちゃったり、気持ちが入りきらなかったり、あとちょっと雰囲気重くなりかけたりしちゃって」

「いやいやいや、そんなの普通だからね?! ウィル、ちゃんとすぐにカバーできてたじゃん! アタシから見ても十分以上によくできてたって!」

「そうですかね……」

 

 いや、実際のところどうだろう。自信ないなぁ……。

 頑張ってはいたけど、今回の仕事は完璧とは言えなかったと思う。反省すべき部分はたくさんあった。

 まぁクライアントには満足いただけてるわけだし、仕事としては成功かもしれないけど。

 

「ウィル、改めて今日はありがとね」

「いいんですよ、ネイチャの力になれるんなら全然。それに、私もちょっと露出増やしたいって思ってましたし、グッドタイミングです」

「そっか……うん、それなら良かったかな」

 

 ……ん?

 ネイチャ、よく見ると、何か引っかかってるような表情だ。

 あんまり表に出ないよう抑えてるみたいだけど……多分、生配信の疲れで、少しだけそれが表に出て来てる。

 

 彼女が何に悩んでいるのか、考えて……。

 ……今日の生放送を振り返って、察しが付いた。

 

「嘘じゃないですよ」

「え?」

「親友って言ったことも、ライバルって言ったことも、『この子だ』って思ったのも。……言ってないことはあると言えばあるんですけど、本当に嘘じゃないです」

 

 一番最初、彼女に出会った頃。

 私はネイチャのことを、まだ1人のアニメのキャラとしてしか見れていなかった。

 

 でも、それはすぐに変わった。

 彼女の決して諦めない負けん気とか、私に勝ってやろうというガッツ……そういう熱を感じ取って、私は彼女を「自分に抗し得るライバル」だと認識できた。

 

 それは、彼女と出会ってから、少し先のことになってしまうんだけど……。

 それでも、最初に走った模擬レースの時から、その片鱗は感じていた。

 

「あなたの脚の強さは、誰より私が、ホシノウィルムが知ってる。

 ……だから、今は走れなくても、またネイチャと走れるのを楽しみにしてます。

 親友としても、ライバルとしても……あなたのファンとしても。期待していいですよね?」

 

 その脚に、慢性的な故障を抱えていても……ナイスネイチャは、きっと復活する。

 

 そんな私の、半ば自分勝手な欲望を聞いて。

 ネイチャは少し驚いたような表情を見せた後、苦笑した。

 

「前から思ってたけどさ、ウィル、そういうのどこで覚えてくるの?」

「さぁ? 生まれた時から知ってたような気がしますね」

「ったく、この子は……。

 ま、ありがと。アタシもアンタのこと、本当に親友だし、ライバルだと思ってるよ。それに……」

 

 ネイチャは、気持ちすっきりした顔で椅子を立ち上がって……。

 にやっと笑って、言った。

 

「最初のあの時から、ずっとアンタの走りに夢中だよ、ウィル」

 

 ……あー。

 確かに、こういうの、真正面から言われると、ちょっと恥ずかしいかもしれない。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、そんなこんなで私は仕事を終えて。

 ずっと部屋の隅で見守ってくれてた歩さんから、タオルとスポドリをいただいた。

 ただ座って喋ってただけだけど、喉はカラカラだし、脂汗も出たからありがたい。

 

 ……こういうとこは気が利くんだよなぁ、この人。

 やっぱり堀野の教えに、お仕事を終えたウマ娘にはこうしろ、みたいなものがあるんだろうか。

 

「お疲れ様、ウィル。今日もそつなく素晴らしい仕事っぷりだったぞ」

「ありがとうございます」

 

 そう言ってもらえるのは嬉しいんだけど、今は疲れちゃって、ちゃんと反応する余裕がない。

 ぼそっと吐き捨てるようになってしまった返事に対し、歩さんは膝を付けて、私の顔を覗き込んでくる。

 

「……流石の君とはいえ、やはり疲労が見えるな」

「あ、すみません。……精神的な疲労ですから、肉体的な疲労とはまた別の辛さがありますね」

「今日はトレーニング、やめておくか?」

「いや、やります。走った方がすっきりしますし」

「だと思った」

 

 トレーニングと聞いて一気にやる気になった私を見て、歩さんはにやりと笑った。

 最近じゃ、そこまで珍しくもなくなってきた笑顔だけど……やっぱり見るたび、ドキッとしちゃうな。

 

 ……あ、そうだ、ドキッとすると言えば。

 

「歩さん、どうでした? 私、可愛かったですか?」

 

 何気なく、ちゃんと可愛く映っていたか、と聞いたつもりだった私に対して……。

 

 

 

「ん……うん、ああ、可愛かった……と思う、ぞ」

 

 

 

 歩さんは……とんでもなく、口ごもって答えた。

 

 

 

 んん?

 あれ、なんだ、この感じ……?

 

 

 







 次回は掲示板回、その次は別視点回。
 それが終われば、いよいよ新章突入です。
 砂糖漬けの毎日は一旦ここまで。ここからは再び、戦いの日々が戻って来ますよ。



 次回は3、4日後。掲示板回です。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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【スレ閉じろ】何故か一向に点数が上がらない中央トレーナー試験対策スレpart58【勉強しろ】

 読まなくても本編には差し障らない掲示板回です。

 今回はちょっと仄暗いテイストで、本人の知り得ないところでミームになってるお話。たまにはこういうのもね。





 

 

291:トレーナーワナビ名無し ID:ZRJxMkcy5

 今日もこの負け犬スレに来てしまった……。傷舐めあうか……。

 

 

292:トレーナーワナビ名無し ID:TE0GQsecE

 やったぞ点数5点伸ばせたぞ!! →ただの上振れでした

 何回目だよこの流れ

 

 

293:トレーナーワナビ名無し ID:7hA7/51Ib

 >>291 よしよし、今日もクソデカ教本にボコボコにされて涙目乙

 

 

294:トレーナーワナビ名無し ID:ZRJxMkcy5

 >>293 舐めろや。塩塗り込むんじゃねぇよ。

 

 

295:トレーナーワナビ名無し ID:8wjHZgdz5

 もういや無理だこれ諦めます皆さんお世話になりました

 

 

296:トレーナーワナビ名無し ID:bSfVZGgH4

 これ仮に突破しても、待ってるのはトンデモ面接と人権のない激務って考えると、マゾにとっては垂涎の環境なんだよな

 まぁただのマゾなら面接で落とされるんだろうが。受かるのはウマ娘好きのマゾだけ。つまり中央のトレーナーは全員マゾ

 

 

297:トレーナーワナビ名無し ID:vbyc3g7wP

 俺、このテスト受かったら……大外一気でG1に勝つウマ娘担当するんだ……。

 

 

298:トレーナーワナビ名無し ID:7hA7/51Ib

 >>295 おうまた明日な。ぐっすり寝ろよ

 

 

299:トレーナーワナビ名無し ID:66V/i6o1p

 300時間程みっちり勉強して腕試しに短答式模試に挑んだ結果、全然わからんのやが

 どうなっとんねんこのテスト

 

 

300:トレーナーワナビ名無し ID:kh4w3O+S1

 なんでトレーナーのテストで論理物理学が要求されるんだよ 

 

 

301:トレーナーワナビ名無し ID:7hA7/51Ib

 >>299 ピュアなシンザン来たぞ囲え囲え

 

 

302:トレーナーワナビ名無し ID:TE0GQsecE

 >>299 マジで最初はそんなもんだから気にすんな

 

 

303:トレーナーワナビ名無し ID:dI8ohUSg6

 わかってるんだ、こんなところに書き込んでるよりは教本に嚙みついた方が良いんだってことは。

 わかっててもできねぇんだ、九朗じゃねーんだもん。

 

 

304:トレーナーワナビ名無し ID:JTUdjpStW

 >>299 参考までに、トレーナー資格は司法試験級かそれ以上の難易度。取得のための勉強時間はおおよそ4000~10000時間やぞ

 こんなこと言いたかないが300時間で「みっちり」って感覚なら諦めた方がいい。才能ないよ

 

 

305:トレーナーワナビ名無し ID:CtSUoa6ys

 >>299 ドンマイ! 一緒に励まし合って頑張ろうな

 

 

306:トレーナーワナビ名無し ID:jk5b4uerf

 >>303 九朗の名前は出すな ピキっちゃうので

 

 

307:トレーナーワナビ名無し ID:L2MAfOayf

 これだけ出題範囲が広くて内容が難解かつ多彩だと、もはや模試の意味はないのでは? ワナビは訝しんだ。過去5年の模試、同じような問題1つも出てないんですが……

 

 

308:トレーナーワナビ名無し ID:8RRlkKcFn

 禿げそう

 

 

309:トレーナーワナビ名無し ID:2QDeqNJxy

 >>299 良いことを教えてやろう。それを突破したら次は論文式、よしんばそれを突破しても秋川ロ理事長によるトンデモ倍率面接や。半端な覚悟なら諦めた方が身のためやぞ

 

 

310:トレーナーワナビ名無し ID:qSYlXMHfE

 >>304

 >>305 怖い警官と優しい警官かな?

 

 

311:トレーナーワナビ名無し ID:66V/i6o1p

 すんません正直舐めてました ここで先達に教えを乞いながら気長に挑みます

 

 

312:トレーナーワナビ名無し ID:2cxHJklgq

>>307 努力は必ず実るわけではない。

 だが、種を蒔かなければ、決して実ることはない。

 

 

313:トレーナーワナビ名無し ID:YiGWWClIS

 >>311 ボコボコに言われてるけど、模試やる前に300時間ちゃんと勉強できたなら十分すぎるくらい素質あると思うよ。頑張れ

 

 

314:トレーナーワナビ名無し ID:ROzhfQpRn

 >>303 前から気になってたけどちょくちょく言われてる九朗って何? 概念?

 

 

315:トレーナーワナビ名無し ID:xTk/m5NMz

 マークシート70点代安定ワイ、高みの見物

 

 

316:トレーナーワナビ名無し ID:GWRHoAtaw

 >>308 髪の話やめろ もぐぞ

 

 

317:トレーナーワナビ名無し ID:wkeUbOjkD

 >>314 まぁ妖精みたいなもん

 

 

318:トレーナーワナビ名無し ID:1ZtGqFVl4

 >>315 なお合格点は85点

 

 

319:トレーナーワナビ名無し ID:jShQHXcOl

 >>315 余裕で落ちてて芝

 

 

320:トレーナーワナビ名無し ID:0qHDWoXrL

 >>314 どこぞの二代目無敗三冠ウマ娘のトレーナーのこと。あるいは「それができりゃ苦労しねぇんだよバーカ!!」という悲痛な叫び。

 色々あってこの掲示板だとネタにされてる。本人に迷惑がかからないようあだ名呼び推奨。

 

 

321:トレーナーワナビ名無し ID:jDyVHKWqi

 そうか、九朗ネタも若い世代には伝わらないのか……。ジェネギャ感じるぜ

 

 

322:トレーナーワナビ名無し ID:5mu2vYAuT

 こんなの対策スレじゃないわ! ただの雑談スレよ!

 

 

323:トレーナーワナビ名無し ID:Tm61IK/5u

 >>320 悪い噂は聞かない人だけど何かあったの?

 

 

324:トレーナーワナビ名無し ID:7U+xOqL97

 >>322 だったらスレ閉じて勉強すればいいだろ!

 

 

325:トレーナーワナビ名無し ID:d2YNs9/f1

 一昨年の論説題難しすぎでは? なんでウマ娘のトレーナーをするのに経営学の知識が必要になるのか、コレガワカラナイ

 

 

326:トレーナーワナビ名無し ID:0qHDWoXrL

 >>323 いや、別に何かあったとかじゃないよ。ただの逆恨みみたいなもん。

 某Hトレーナー、トレーナー試験では最年少の21歳、1度目の試験で、歴代トップクラスの点数出して合格してるのよ。

 そのくせインタビューの時とかは「自分には才能がないですから、とにかく努力あるのみです」みたいなスタンスなのよね。

 で、いつか雑誌の取材でトレーナー試験に合格するコツ訊かれた時、「私欲を全て絶って5万時間程勉強すれば、筆記までは受かると思います」って答えててさ。

 そんで当時、「そんなことできれば苦労はしねぇんだよ!」って盛り上がって、以降苦労→九朗ってあだ名で定着した感じ。ぶっちゃけ身内ノリよ。

 

 

327:トレーナーワナビ名無し ID:DWDcS84zt

 >>325 残酷なことを言うようだけど、ちゃんと計算して答えがわかるあたり、あれはまだ簡単な方だぞ。

 4年前のヤツ見てみ、もはや正答ないからなアレ

 

 

328:トレーナーワナビ名無し ID:tVetYaiup

 人間ができる難易度じゃないでしょこれ

 作ってる方もバ鹿だし解く俺もバ鹿、トレーナーになったヤツはネジの飛んだバ鹿なのでは?

 

 

329:トレーナーワナビ名無し ID:tvLbADVAw

 >>328 中央のトレーナーになりたきゃ人間やめろ。それしかない

 

 

330:トレーナーワナビ名無し ID:Tm61IK/5u

 >>326 はえ~やっぱ歴史があるんだなぁ ご教授感謝

 

 

331:トレーナーワナビ名無し ID:AXiIJBt6g

 九朗のことは試験直前の時期には話題に出さん方がいいぞ。ピリつくことあるから。

 

 

332:トレーナーワナビ名無し ID:IvftLrc81

 >>328 トレーナーやめますか? それとも人間やめますか? は伊達じゃないぞ

 

 

333:トレーナーワナビ名無し ID:nUPrk2j1T

 九朗理論マジで嫌い。「できるようになるまでやれば絶対できる」とか極論すぎるだろできるようになる前に諦める人間もいるっての

 

 

334:トレーナーワナビ名無し ID:914I8EdMu

 司法試験:毎年何千人が受けて論文式まで通るのが平均1000人前後

 中央トレーナー試験:毎年何千人が受けて面接まで通るのが平均30人前後(地方免許免除除く)

 何これ……何これ?

 

 

335:トレーナーワナビ名無し ID:FbCvWbqW1

 急募:おすすめの栄養学の教本

 

 

336:トレーナーワナビ名無し ID:WvN6p6CdN

 >>334 トレーナー試験は能力だけじゃなく人格も問われるし、出題範囲と採点基準が特殊すぎるから……

 

 

337:トレーナーワナビ名無し ID:rRKB4FFCL

 >>333 その極論を通して初の担当ウマ娘(しかも寒門)に無敗三冠獲らせたヤツがいるらしい

 

 

338:トレーナーワナビ名無し ID:5b0Af2PPx

 >>336 あと面接が本当にエグい ロ理事長の観察眼が厳しすぎる ロリなのに

 

 

339:トレーナーワナビ名無し ID:IIyk9Dnr0

 なんか中央のトレーナーってみんな「周りやべーけど私は普通ですよ」みたいなツラしてるけど、このクソ難関テスト受かって超絶ブラックな職場でも働き続けてる時点で普通ではないんだよな。バケモンどもがよぉ……

 

 

340:トレーナーワナビ名無し ID:e/8Q/nn1D

 模試解いてたら解答用紙にコーヒーこぼして萎えた。トレーナーなんか向いてなかったんや私には

 

 

341:トレーナーワナビ名無し ID:h3/VZMSDg

 >>335 初心者なら川の「ウマ娘と食事」から入るのが吉

 あんまり専門書って感じではないけど、まずはこういうので雰囲気みたいなの掴むと楽になるよ

 

 

342:トレーナーワナビ名無し ID:914I8EdMu

 >>337 なんだこの化け物!?

 

 

343:トレーナーワナビ名無し ID:FbCvWbqW1

 >>341 感謝

 

 

344:トレーナーワナビ名無し ID:GjOi6BAgJ

 >>340 コーヒーに負けてて芝 人生楽しそうだね

 

 

345:トレーナーワナビ名無し ID:ejwWWOltt

 >>340 芝

 

 

346:トレーナーワナビ名無し ID:btgUsJSEy

 そういや、なんでトレーナーって人間ばっかなんだろう。ウマ娘のトレーナーあんま見ないよな

 

 

347:トレーナーワナビ名無し ID:IIyk9Dnr0

 >>337 冷静に考えるとやべーな九朗 いや冷静に考えなくてもやべー奴だわ

 

 

348:トレーナーワナビ名無し ID:mYz6Z15n9

 あ~~~俺もトレーナーの名家に生まれて4歳の頃から毎日10時間勉強し続けてたらな~~~今頃最年少最高得点でトレーナーになって寒門のウマ娘スカウトして大逃げでG1獲らせてそのまま無敗でクラシック三冠獲らせてたんだろうな~~~

 とはならんやろ

 

 

349:トレーナーワナビ名無し ID:IIyk9Dnr0

 >>346 そりゃウマ娘は走る側だから

 

 

350:トレーナーワナビ名無し ID:IXceBwpbX

 トレーナー試験のキツいところ、人格厳選があるからカスはどんだけ勉強しても無駄ってとこなんだよなぁ

 育ちの悪い奴は問答無用 こんなスラムに居座るお前らも全員詰みです

 

 

351:トレーナーワナビ名無し ID:ZY+6LEG/v

 勉強してる時にコーヒー淹れてくれる担当ウマ娘、欲しすぎ

 そのために契約トレーナーになろう!

  →それならまずは勉強しなきゃな!

   →勉強してる時にコーヒー淹れてくれる担当ウマ娘、欲しすぎ

 

 

352:トレーナーワナビ名無し ID:19JLEB+pd

 >>350 辛すぎる真実を突きつけて来るのやめろ

 

 

353:トレーナーワナビ名無し ID:/jaTzx2LI

 >>348 ついでに相方は辛い境遇を乗り越えて今走れることを楽しむ天災ウマ娘

 あのペアはもうバグとかチートとかそういうレベルや 参考にすらならん

 

 

354:トレーナーワナビ名無し ID:6rxT6bQeW

 >>346 なんかよくわからんけど、人間とウマ娘の絆がうんぬんかんぬんみたいな話あったよな

 まぁ、ただ人間に対してウマ娘の母数が少ないからっていうのが真相な気はしてるけども

 

 

355:トレーナーワナビ名無し ID:owovWIu/Z

 1年前に比べると教本もすらすら読み解けるようになり、成長を感じる

 脳って不思議だな。どこに入ってるんだこの知識

 なお点数はほぼ上がっていない模様

 

 

356:トレーナーワナビ名無し ID:yMMDKEQ6S

 九朗の同期、初の担当に重賞連覇させたり、菊花賞で2着取らせたりしてる粒揃いなのに、九朗のインパクトでかすぎて霞むのかわいそう

 俺だったら嫉妬で狂ってるわ

 

 

357:トレーナーワナビ名無し ID:IXceBwpbX

 >>356 同期の某トレーナー曰く「Hトレーナーはいつも同期のことを気にしてくれて、何かあったら自分の時間を削って助けてくれる。名家の知識も惜しみなく教えてくれるし、トレーニングメニューに関しても相談に乗ってくれるから、担当共々いつも助けられてる」とのこと

 同期へのケアも欠かさない聖人やぞ お前ら嫉妬するんじゃなく敬えよ 

 

 

358:トレーナーワナビ名無し ID:cUKIFDzKA

 九朗を見習って俺も頑張ろう! ではなく九朗はいいよな九朗は……となるのでスレ民は駄目

 

 

359:トレーナーワナビ名無し ID:aOdh21Bd3b

 >>327 これ問題は当然わからんし解説読んでもまだわからん 作問者バ鹿 俺はもっとバ鹿

 

 

360:トレーナーワナビ名無し ID:e1UDCaU9K

 九朗はすごすぎて人間味なくて怖いわ。なんで小学生時代から親に強いられることもなく無限努力編やってんだコイツ、さては転生者か?

 

 

361:トレーナーワナビ名無し ID:R3l8NVGuZ

 試験合格のためにはめちゃくちゃな勉強時間を強いられ、トレセンに入ってからは地獄のような労働環境

 どう考えてもコスパ悪いのに、なんで諦め付かないのかね、これ。

 俺、落ち続けてもう6年目だよ

 

 

362:トレーナーワナビ名無し ID:S9Zb4NO6Q

 >>359 調べたら解説の解説出て来るからそっち読んでどうぞ

 

 

363:トレーナーワナビ名無し ID:sdgXodVEQ

 >>361 そりゃウマ娘が好きだからでしょ。他に理由必要か?

 

 

364:トレーナーワナビ名無し ID:DKKr+3+YN

 今年もこのスレから1人くらい合格者出るといいねぇ……

 

 

 

 







 トレーナー:名家出身で幼少の頃から努力を欠かさず、トレーナーになると寒門のウマ娘をスカウト、その子の走り方に大きく手を加えて最適な脚質を割り出し、無敗三冠を獲らせた(シニア1年目現在五冠)。

 ウマ娘:無名かつ病弱なウマ娘から生まれながらとてつもない才能を持ち、トレーナーと出会ってからはその才能を開花させ、大差でG1獲るわクラシック級で宝塚記念に勝つわ大逃げで無敗三冠を獲るわとやりたい放題。

 ……なんだこのコンビ!?
 当初はこのイカれ具合について「特異点」って言葉を使おうと思ってたんですが、アプリでほんまもんの特異点が出て来ちゃったのでやめました。
 流石にアレと並べるのは、こう、恐縮すぎるというか……。



 次回は3、4日後。別視点で、勝つために本気になる話。



(本編に関係のない呟き)
 頼むから誰かアヤベさんをふわふわで満たしてあげて。今すぐに!


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ウマの名は。

 今回は別視点。春のライバルになりそうなあの子の視点です。





 

 

 

 しとしと降りしきる雨の音が聞こえる、薄暗い図書館の自習席。

 ボクはそこに座って、ノートパソコンでとある動画を再生していた。

 

 それはURA公式が出してる、つい2か月前に開催されたG1レースの映像だ。

 耳に付けたウマ娘用のイヤホンからは、広いレース場に響き渡るくらいの大歓声と、すっごく興奮した実況の声が伝わって来る。

 

『さぁ周って第二コーナー、2人きりの異次元旅行はどこまで続くのか!?

 もはや3番手ダイタクヘリオスとの差はぱっと見ただけではわからない! 一体どれだけ縦に開くのか!? どれだけのペースで彼女たちはレースを駆け抜けるのか!?』

 

「異次元旅行、ね……」

 

 ハイテンションな実況を聞いて、思わず苦笑する。

 その仰々しい響きと……そして何より、その言葉の適切さに。

 

 カメラでも全体像を捉え切れないこれは、まさしく先頭2人だけの異次元旅行。

 このレースにおける前半、先頭に立つ2人は、他のウマ娘とは目に見えて次元が違う。

 

 片や、最速の名と先頭の栄光をほしいままにする、流麗なフォームでターフを駆ける栗毛の逃亡者。

 片や、地を這うような、それでいて空を飛ぶような低姿勢で逃亡者を追う、鹿毛の龍。

 

 国内でもたった2人の、大逃げG1ウマ娘。

 苛烈に過ぎる先行争いは、もはや国内大逃げ最強決定戦って感じだ。

 

 年末の中山で競われる、有記念。

 2500メートル、距離の区分では長距離とされるこのレースにおいて、ここは1000メートル前後……まだまだ中盤だ。

 それなのにこの2人は、他のウマ娘たちを置き去りにして、終盤のスパートもかくやという速度でターフの上を走り抜けている。

 

「……本当に常識外れだなぁ、ウィルム」

 

 

 

 もはや語る必要もないくらい当然のことだけども、ボクたちウマ娘は速く走れば走る程、加速度的に体力の消耗が大きくなる。

 10の速度を出すために10の体力を消耗するとすれば、15の速度を出すためには20、20の速度を出すためには40の体力を使う……って言えば、感覚的にわかりやすいかな。

 レースに勝つためには速度を出す必要があるけど、速度を出し過ぎるのは非効率的になるわけだね。

 

 だからこそ、僕たちのレースにおける基本戦略は、序盤から中盤までは抑えて走り、終盤に一気に加速するというものになる。

 

 ウマ娘は機械じゃない。生物である以上、当然ながら限界とか判断ミスってものも存在する。

 体力を消耗して呼吸が乱れれば、それだけ脳に回る酸素が減って、思考の柔軟性がなくなり、正しい戦法、戦術を取れなくなってしまう。

 だからこそ、そこそこの速度に抑えて消耗を避け、終盤に残ったスタミナを使い切るんだ。

 

 ……なんてね。

 実のところ、偉そうに語れる程、ボクはこういう事情に詳しくはないんだけどさ。

 

 理論的な分析は、どっちかと言うとネイチャの領分だ。

 ボクはあの子程、頭が良くない。……いや、頭が悪いってわけじゃないんだけど、方向性が違うって言うか、そんな感じ。

 ネイチャが理論づくの理系タイプとすると、ボクは直感重視の文系タイプ。1つ1つの小さな材料を理論という紐で繋げて考える、なんてのは面倒くさすぎるし得意じゃないんだ。

 だから、本来はこうやって誰かの走りを観察したりすることは少ないんだけど……それはともかく。

 

 ボクはどっちかと言えば、直感的に物事を考える方で……。

 

 

 

 ……あるいは、だからこそ、それに気づけたのかもしれない。

 

 

 

「……?」

 

 ふと、自分の眉が寄ったのがわかった。

 映像の中に……ターフの上を駆けるウィルムの姿に、何か違和感を覚えたんだ。

 

 それは明確なものでも何でもない。ただ「なんか引っかかるな」程度の小さな気付き。

 けど、こういう時のボクの勘、特にレース関係のヤツは、結構当たるんだ。

 

 動画のシークバーをぐいっと左に動かし、ウィルムがスズカ先輩と競り合い始めるくらいから再生。

 さっき感じた小さな違和感の正体を、その微かな感触を忘れないように探っていく。

 

 画面の中のウィルムは、600メートルくらいから垂れ始めたターボをかわした後……。

 ぐいっと、驚く程に前傾姿勢を取り、一気に加速する。

 

 ……これが、ウィルムが本気を出す時の姿勢。

 本人曰く「天星スパート」って言うらしい。正直、ちょっと悔しいけど、カッコ良い名前だと思う。

 

 で。

 ボクが引っかかったのは……多分、このスパートについて、だ。

 

 

 

 さっきも考えたように、ウマ娘にとっての基本戦術は、終盤にスタミナを使って一気に駆け抜ける、っていうものだ。

 スズカ先輩やウィルムが異次元たる所以は、そのハイペースが前半に現れるところ。

 

 その戦術の名を、大逃げ。

 前半に大きくスタミナを使ってバ群を引き離し、後半までなんとかその差を維持するっていう、すごく珍しい脚質。

 

 ……そりゃあ珍しいよね。

 ボクたちがスパートを終盤に限るのは、脚を使い切って垂れることを防いだり、思考の柔軟性を失って不利にならないようにするためだ。

 

 それなのに大逃げっていう戦法は、前半にスタミナをどかどか使って消耗しちゃうわけで……。

 更に言えば、速度が上がればそれだけ空気抵抗も大きくなるし、誰かと競い合うことで闘争心を掻き立てられたりもすることもない。

 

 はっきり言って、とてもじゃないけど「勝ちやすい」戦い方じゃない。

 むしろ自滅の危険性が高い、危険な走り方だと言えると思う。

 

 だからこそ大逃げは、そのようにしか走れない子と、そう走りたいと望む子……そして、そんな無理ができるだけの途轍もない能力を持つ子くらいにしかできない。 

 

 これはトレーナーの受け売りなんだけど、この戦法を取ってなおレースで勝利するためには、大きく分けて3つの素養が必要になるんだって。

 誰かと競わなくても十分に走れる特殊な気性。

 後ろを気にしないでいられる高度な理性と思考能力。

 そして破天荒な走りをできるだけの身体能力。

 

 勿論、出走するレースによって要求される水準は変わるんだろうけど、その3点のどれかが欠けてしまえば、大逃げウマ娘の勝利は難しい。

 

 わかりやすい例を挙げると、有記念のターボだろう。

 あの子は気性面は十分に条件を満たしてるけど、身体能力が足りてない。だからスズカ先輩やウィルムについて行けなかったんだ。

 

 ……というかむしろ、その三点がG1レースに通用するレベルで揃っていることなんて、本当に稀なんだけどさ。

 

 だからこそ、サイレンススズカやホシノウィルムというウマ娘は、こんな国内最高峰のメンツの中でも「異次元」と呼ばれる。

 他のウマ娘が如何に真似しようとしてもできない、2つの「異物」なんだ……。

 

 

 

 ……と。

 ボクはトレーナー共々、そう思っていたんだけど。

 

 今、そこに、ほんの小さな疑問が生まれた。

 

「改めて考えると、ウィルムはなんで……」

 

 

 

 ボクがそう小さく呟いた、その時。

 

「もし?」

「うひゃっ!」

 

 突然肩を叩かれて、ボクは驚きのあまり立ち上がった。

 で、ここが図書館だってことを思い出し、咄嗟に口を塞ぐ。

 

 逆恨みとはわかりつつも、声の主に恨みがましく視線を向けると、そこにいたのは……。

 

「もう、大きな声を出さないでくださいまし! ここ、図書館ですのよ?」

 

 少し慌てた様子で眉をひそめたのは、僕のライバルの1人で、同時に友達でもある芦毛のウマ娘、メジロマックイーンだった。

 

「マックイーン……え、なんでここに? マックイーンも勉強?」

「勉強ならば当家の施設を使います。ここに来たのは、あなたのトレーナーさんから伝言を頼まれたからですわ」

「伝言?」

「えぇ。『今日はもうお休みにする。明日のトレーニングに差し障らないよう、程々に切り上げるように』とのことです」

 

 お休み? まだトレーナーにそんなこと言われる時間じゃないと思うけど。

 そう言って時計を見ると……うぇ、もう3時間経ってるじゃん!

 トレーナーと約束した2時間はとうの昔に過ぎ去っていた。

 ……どうやらボク、思いの外動画に集中してたらしい。

 

「しまった……。ごめん、助かったよ、マックイーン」

「構いません。ですが、あまり根を詰めすぎてはいけませんよ」

「ん、心配ありがと。もうちょっとしたら帰るよ」

 

 「程々に切り上げるように」って言葉からして、ひとまず今日は自由にしていいってことだろう。

 さっきの違和感についての考察を終えたら切り上げるとして、もう少しだけ考えてみよう。

 

 この小さな違和感から、ウィルムの大逃げの秘密を、何かしらの弱点を見つけ出すことができれば……もう少しだけ、状況を有利にすることができるハズ。

 

 ウィルムが久々に走れる大阪杯まで、そう時間は空いてない。

 次のレースまでに、ウィルムとの差を少しでも縮めないと。

 

 

 

 さぁ、外れちゃったイヤホンを耳に入れ直して……と?

 

「マックイーン?」

 

 すぐにいなくなると思った背後の気配が、消えない。

 ちらっと窺うと、彼女は興味深げな目で、ボクとノートパソコンの方を見てた。

 

「あなた、座学にはあまり興味がない方だと思っていましたが」

「今でもあんまり興味はないよ。ただ必要だと思ったからやってるだけ」

「ふむ。少し、変わりましたね」

「何が? ……あ、ボクのこと?」

「昔のあなたなら、『ボクならそんなことしなくても勝てる!』なんて言っていたでしょう。

 けれど今、あなたはあの子に勝つために、真剣に自分にできることを模索している。

 それだけあの子があなたを、レースに対して真剣にしたのですね。喜ばしいことです」

 

 ……まぁ、あなたをそうしたのが私ではなかったのは、少しばかり残念ですが、と。

 マックイーンは冗談交じりにそう続けて、笑った。

 

「……うん、そうだね。確かにちょっと真剣になったかも」

 

 ちょっと気恥ずかしいような気もするけど……。

 ボクは確かに、ウィルムと……そしてネイチャに、変えられたんだと思う。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 あの、ウィルムに惨敗した皐月賞まで。

 ボクにとってレースっていうのは、ちゃんとトレーニングさえしていれば、何の問題もなく勝てるものだった。

 

 だって、ボクは天才だからね。

 トレーニングをサボって体が鈍りでもしない限り、周りよりもずっと強かった。

 取る戦法は王道の先行抜け出し。ただ身体能力の差で、他の子に大きな差を付ける。

 戦法とか戦術とか、そんなことをわざわざ考える必要もなかったんだ。

 

 そもそもそういうの、考えなくてもわかるもん。

 

 どう走ればもっと前に出て、もっと早くゴールできるか。

 わざわざ考えるまでもなく、ボクにはそれが、直感的に理解できた。

 

 誰だって、いちいち歩き方なんて考えなくても普通に歩けるじゃん?

 息の仕方とか、まばたきの仕方とか、そんなことを意識して生きてるウマ娘なんていない。

 

 僕にとって、レースでの走り方、勝ち方もそういうものだ。

 ここで前に出れば、ここでバ群から抜け出せば、ここでかわせば、ここで本気を出せば……勝てる。

 レースを走っていれば、そういうことがなんとなくわかる。理論じゃなく、直感で。

 ……というか、むしろボクからすれば、なんでみんなはわかんないの? って感じだけど。

 

 

 

 けど……。

 

 レース中の直感だけじゃ、ホシノウィルムというボクを超える天才には、勝てない。

 

 

 

 去年の11月辺り、ボクはそれを悟って、ちょっとばかり落ち込んだ。 

 有記念までに、今ボクとトレーナーが目指している走法は完成しない。

 たとえ完成したとしても……あのジャパンカップを制したウィルムを超えられるとは、思えなかった。

 

 ……レースに関することで、ボクの直感は、当たる。

 

 今のボクでは、ホシノウィルムに、勝つことはできない。

 

 

 

 でも、そんな時に、友達のネイチャに言われたんだ。

 

 『また負けるから、怖いからって諦めるんだ? アンタってその程度で諦めちゃうようなウマ娘だったんだ』ってさ。

 

 ネイチャにしてはすっごく強気の、煽りみたいなセリフ。

 ボクは弱ってたこともあって、その言葉が結構堪えて……喧嘩にまでなった。

 

 でも、ネイチャは別に、意地悪を言ってたわけじゃなかった。

 ただ悲観するばかりじゃなくて、もっと前向きに頑張れって、背中を蹴飛ばしてくれたんだ。

 

 ボクはそれをきっかけにして、気を取り直した。

 

 こんなところで止まってられない。

 

 ボクらの目指した走法は、有記念に間に合わないかもしれない。

 ボクは今回、どうしようもなく負ける……のかもしれない。

 

 けど、次がある。

 

 

 

 ……そうだ。

 あの時、日本ダービーで、ボクは選んだ。

 

 その一瞬の勝利ではなく、将来的な勝利を。

 長く、そして強く、走り続けることを。

 

 来年以降も、ボクとウィルムのトゥインクルシリーズは続く。

 

 

 

 だったら、やってやろうじゃん。

 今回が駄目なら次回。次回が駄目ならそのまた次回。

 ボクはウィルムに、何度だって挑み続けて……。

 

 いつか帝王として、龍を超えてみせる。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……と、そんな決意もあって、柄にもなくウィルムのレースの研究なんかしてたわけで。

 マックイーンにはなんと説明したものか、少し迷って……結局、何も言わないことにした。

 

 ま、わざわざマックイーンに告白することもないでしょ。

 こういうのって自慢するようなものでもないし、胸の内でしっかりと抱え続けていればいいんだ。

 

 というわけで、ボクはさっさと話題を変えることにした。

 ……別に、なんか気恥ずかしかったとか、そういうんじゃないんだけどね?

 

「分析はトレーナーのすることかもしれないけど、ボクもやれる分だけやろうかなって。

 ま、そうは言っても、収穫は多くないんだけどさ」

 

 そう言って、ボクは自然と肩を竦めた。

 ……あれ、今のちょっとネイチャっぽかったかな。若干影響されちゃってるかもしれない。

 

 ちょっと悔しいような恥ずかしいような思いをしてるボクを前に、マックイーンは更に話を続けてくる。

 

「なるほど。ちなみに、どの動画を?」

「この前の有記念のだよ」

「そうですか。研鑽は素晴らしいことですわね」

「うん、ありがとう」

「…………」

「…………」

 

 ……えっと、何? なんで帰らないのこの子?

 伝言は確かに受け取ったし、こう言っちゃなんだけど、別にもう行ってくれてもいいんだけども。

 

 マックイーンはちらちらと、パソコンで開いた動画の方を見てくる。

 ……あー、もしかしてこれ、こっちの方から誘ってほしいヤツかな。

 

「……えっと、マックイーンも一緒に研究する?」

「あなたが構わないのなら。よろしくて?」

「いいも何も、そっちからねだってきたようなもんじゃん。もう……」

 

 メジロ家のあれこれなのか、マックイーン、時々面倒臭くなるよね……。

 ボクは苦笑しながら横にスペースを空けて、イヤホンを片方手渡した。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そんなこんなで、急遽始まったボクとマックイーンの研究会。

 ひとまずはパソコンで開いていた動画を再生すると、狭いスペースに少し居心地悪そうにしていたマックイーンが、小声で訊いてきた。

 

「先程は『なんで』と言っていたようですが、何を疑問に思ったのです?」

 

 なんでって……え、そんな独り言漏らしたっけ。

 もし無意識に漏らしてたとすれば……やっぱりあの違和感のことかな。

 

「んー、なんか違和感があってさ」

「違和感、ですか」

「うん」

 

 画面の中でスズカ先輩と走るウィルムを見ながら、ボクは呟く。

 

「ウィルムの走りに……いや、ウィルムの天星スパートに、かな」

「ふむ……詳しくお聞かせ願えますか?」

 

 マックイーンは顎に手を当て、ボクの言葉を聞く姿勢を取る。

 

 ボクは1つ頷いて、動画を一時停止した。

 それはちょうど、ウィルムが姿勢を前傾に倒した辺りだった。

 

「ウィルムの前傾姿勢での疾走、天星スパート。これは、あの子が本気で脚を使う時の姿勢だ。

 つまりウィルムは、終盤じゃなくここで……600メートル地点から、本気を出したことになる」

「しかし……私、終盤でウィルムさんの領域を見ましたわよ? 本気と言うならば領域を開いた時のことを言うのではなくて?」

「うん、まさにそこ。そこが1つ目の違和感なんだ」

 

 ボクたち競走ウマ娘にとって、領域は最終奥義だ。

 

 一種の過集中状態に入り、自分の全てをレースに向けることによって、平常時を超えるパフォーマンスを見せることができる……ってのが、トレーナーの言。

 まぁ実際は、自分の内面世界みたいなモノが見えたりするあたり、ただの過集中ってわけでもないと思うんだけど……それはともかく。

 

 確かなのは、領域を開いている間、ボクたちはいつもよりずっと強くなるってこと。

 

 逆に言えば、領域を使う時は即ち、そのウマ娘にとっての仕掛け時でもある。

 前を目指して脚を使うタイミングであったり、あるいは速度を保ちながら脚を入れるタイミングであったり、その意味合いはウマ娘それぞれで変わって来るだろうけど……。

 少なくとも、ウィルムやボク、ネイチャとマックイーンに限っては、「前に出る際」に使うモノだ。

 

 で、ウィルムはそんな領域を、終盤に……序盤に使った天星スパートとは別のタイミングで使っている。

 

「つまり、このレースでウィルムは、2回に分けて本気を出してるんだ。

 1度目はスズカ先輩に追いすがる中盤、2度目はスペ先輩たちに追われる終盤。

 で、そのどちらも、かなり速い」

「普段のレースでは1度で良かったスパートを2回切ることになった……だからウィルムさんはスペシャルウィークさんに負けた、と?」

「いや、違う。……違うっていうか、もしかしたらそうかもしれないけど、大事なのはそこじゃないんだ。

 ウィルムが大逃げした果てに末脚を振るうなんて珍しくないでしょ? 考えるべきはそこじゃないよ」

 

 そう。ウィルムはいつもそういう走りをする。

 

 序盤に一気に前に出てバ群に巻き込まれることを回避し、中盤は少し息を入れて抑え気味に、終盤で追いすがる後方のウマ娘たちに対抗するように再度スパートを入れる。

 それが逃げて差す、あるいは大逃げして追い込むと言われる、ウィルムの走り方だった。

 

 ……が。

 今回はそういういつもの走りと、違う点があったわけだ。

 

「ウィルムは本来、天星スパートを領域と一緒に使うんだ。

 というかボク、あの天星スパートは領域の中だからこそできるものだと思ってたんだよ。

 ボクもちょっと負担の大きい走り方してたからわかるんだけど、ウィルムのアレは、普通に使えばかなり負担が大きい走法のはずなんだ」

「そう言えば……日本ダービーの直後、ウィルムさんは軽く足を傷めたと聞きましたわね」

「うん、ボクと同じ病院に入院してたから間違いない。

 あのスパート法をまともに使えば、たった1回本番を走っただけで故障する。それくらい反動の強い、ハッキリ言って使うべきじゃない走法なんだ。

 だからこそボクは、宝塚記念以降ウィルムが天星スパートを使えたのは、領域の恩恵だと思ってた」

 

 領域は人智を超えたものだ。

 それこそ『脚にかかる負荷を全てなかったことにする』……なんてことができても、おかしくはない。

 

 でも、ウィルムは有記念で、天星スパートを中盤に、領域を終盤に使った。

 その上で終わった後気絶したり、故障を起こしたりすることもなく、有記念直後からトレーニングを再開していたらしい。

 

 そこから考えるに……。

 ウィルムが領域パワーでスパートの負荷を踏み倒してるっていう推理は、間違いだったんだろう。

 

「……ふむ。そうなると気になるのは、ウィルムさんがどうやって負荷の強い走法を使っているのか」

「それともう1つ、今まで終盤に使ってたスパートを、なんで前半に使ったのか、もね」

 

 なんならボクは、後者の方が気になってるんだけど……。

 そう思い、小首を傾げていると、マックイーンはふと思いついたように声を出した。

 

「それは……サイレンススズカさんの特性故ではないでしょうか」

「特性? あぁ、先頭の景色が好きってヤツ? 要は調子を崩すために無理やり抜いたってこと?」

「いえ……あくまで私のトレーナーさんの考察、確かな物証はないのですが、サイレンススズカさんは先頭にいる限りその際のスタミナの消耗が大幅に抑えられるのだとか」

「え、何それ!? 先頭にいれば……!?」

「ちょっと、声を抑えて。……あくまでそういう仮説があった、という話ですわ」

 

 先頭にいる限り……いや、先頭にいるという条件を満たせば、スタミナの消耗が抑えられる?

 何それ……え、本当に何それ!? いや領域なんてものがある時点で今更なんだけど、そこまでいくともうスポ根漫画みたいになってない!?

 

 もしそれが本当だったとして……ボクのトレーナーは、それに気づかなかったのかな。

 いや、多分あの人のことだし、気付いた上でボクのノイズにならないように言わなかったのか。

 

 少なくとも今回の有記念で、ボクがそれに関わることはなかったわけで……。

 確かに、考えることが1つ増えるよりは良かったかな。おかげで今、ちょっとだけ恥をかくことにはなったんだけどさ。

 

「そうでなければ、スズカさんのように逃げて差す、ということはなかなか……あぁ、なるほど。

 あなたが感じていた違和感……つまりはそういうことですか」

「あー……うん、そうだね。ちょっと納得した。

 もしマックイーンのトレーナーの仮説が正しいんなら、ウィルムが前半に本気を出したのは、スズカ先輩の無限のスタミナを潰すためだったってことになる」

 

 この有記念を見るに、天星スパートを使っていないウィルムとスズカ先輩なら、後者の方がスペック的に上を行ってたと思う。

 だからこそ、領域を使われて手遅れになる前に、天星スパートを使ってスズカ先輩の無敵性、無限大のスタミナを潰しに行った。

 

 更に言えば、ウィルムにかわされた後、スズカ先輩の走りが精彩を欠いたことにも納得がいく。

 今までは無限に使えていたスタミナが、一気に制限された。そうなれば当然、どこでスタミナを使うか、どこで前に出るかの計算が必要になる。

 今までひたすら走るだけで勝てていたのが、急にそういうものを要求されるとなれば……そりゃあちょっと難しいよね。

 

 ……まぁ、それでもなお、サイレンススズカは8着。

 2バ身もの差を付けて、ボクの1つ上だったんだけどね……。

 流石の貫禄と言うべきか、ボクの未完成な走りがお粗末すぎたと言うべきか、微妙なところだ。

 

 

 

「となると、残る疑問は……ウィルムさんの天星スパートの不自然さ、ですか」

「そうだね。あんなに負荷が強いだろう走りを、どうやって……」

 

 ……言いかけて、ふと、思いつく。

 

 サイレンススズカが、そんな特殊能力(ズル)を持っているのなら……。

 

 ホシノウィルムが特殊能力(チート)を持っていない保証が、どこにある?

 

「……もし?」

 

 そうだ。

 そうだ、そうだ、そうだ。なんで今まで疑いもしなかった?

 

 彼女は、ホシノウィルム。会長に続く無敗三冠ウマ娘。

 その程度の不条理、その程度の不可思議、持っていたっておかしくない。

 

 ホシノウィルムの、その脚以外の特異性。

 それがあるとすれば、内容は何だ?

 

 後方5バ身以上にも伸びる、由来不明の索敵範囲。

 「天星スパート」と呼ぶ、本来不可能なはずのローリスクハイペースの走法。

 ……そして、大逃げという破格の走りを叶えるだけの、圧倒的なスタミナ。

 

 それら全てに説明の付く能力は?

 体の頑健さ。……違う。それでは説明の付かないことが多すぎる。

 第六感? ……いや、それだと無視できない違和感が残る。

 であれば……。

 

「聴覚……感覚の拡大。いや、それを処理できる思考能力の増加? そう、それなら……足取りの効率化ができるから……」

「あの、どうしました?」

「サイレンススズカが『先頭である』っていう条件を持っているのなら、ホシノウィルムも……有記念を見るに『先頭』じゃない。終盤でもない。

 いや、違うのか、発動の方じゃなくて……そう、ここで姿勢を立て直してることからして……そうだ、タイムリミット!」

 

 机に手を突き、立ち上がる。

 

 ようやくわかった。

 ホシノウィルムが持つ特異性。

 

 

 

 走行距離か、あるいは経過時間かはわからないけど……。

 3ハロン弱、おおよそ30秒の、思考能力の増加。

 それに伴う、走法の本来不可能な程の高度な効率化と、情報の大量獲得。

 

 それがホシノウィルムの持つ、領域と並ぶもう1つの切り札だ。

 

 

 

「ありがとう、マックイーン。ボク、ようやくわかったよ」

「えっと、何を……」

「ホシノウィルムのこと」

 

 多分だけど、この推論は正しい。物的証拠は何もないけど、状況証拠は十分に揃ってる。

 

 ……しかし、なんて厄介さだろう。

 思考能力と感覚の拡大。それは即ち、ボクたちが少ない情報を元に一瞬でしなければいけない判断を、彼女は多くの情報を元に長い時間をかけてできることを意味している。

 その上、恐らくそれに伴い、彼女の走りはおおよそ完璧と言っていいレベルに……いや、本来ウマ娘には不可能なレベルに洗練されているはずだ。

 更に言えば、もしもタイムリミット式っていう推理が正しければ、有記念でのスズカ先輩みたいに不意打ち気味に走りを崩すことも叶わないわけで……。

 

 決して派手なものじゃないけど、だからこそ外に露見しにくく。

 そのくせ効果は絶大で、対策も立てにくい。

 

 まさしく特殊能力(チート)と言って差しつかえないような、とんでもない力だ。

 

 ……でも、この世界に無敵の存在なんていない。

 種が割れてさえしまえば、取れる対策は……必ず、ある。

 

 ひとまず、これをトレーナーに報告して、判断を仰がないと。

 そのまま駆け出したボクの背中に、マックイーンの声が届いた。

 

「あの、ちょっと!? どうしたんですの!?」

「マックイーンにも今度教えてあげる! 悪いけど今日はここで解散ね!」

 

 ありがとう、マックイーン。君のおかげで活路が開けた気がするよ。

 トレセンの校舎を走りながら、ボクは心の中で、友人に手を合わせた。

 

 

 

 ……さぁ、情報は十分に得た。

 後はボクらしく、ボクの新しい走り方で、彼女を超えるだけだ。

 

 待ってな、ホシノウィルム。

 

 皐月賞では、ボクの心に慢心があった。

 日本ダービーでは、最後に脚を緩めてしまった。

 有記念では、まだ走法が未完成だった。

 

 でも、今度こそ。

 今度こそ、君が戦いたかった本当のボク……。

 全力のトウカイテイオーと、戦わせてあげるよ。

 

 

 







 直感力が強すぎる。
 骨膜炎で休養となったネイチャと入れ替わるように、春のレースではホシノウィルムの前にトウカイテイオーが立ち塞がります。
 ……どちらかと言えば、トウカイテイオーの前にホシノウィルムが立ち塞がってるような気がしなくもないですが。



 それと次回は、お気に入り1万人記念ということで、ずっと書くか迷っていたちょっとした特別編。
 本編にちょっとだけ登場した、とある人物の視点になります。
 本当にちょっとしか出ていませんし脇役も脇役なんですが、多分覚えている方は覚えていると思います。予想してみてね。



 次回は3、4日後。別視点で、小さな自慢と煌めく一等星の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!

(本編に関係ない呟き)
 自分は良い物語を見た時、創作意欲を掻き立てられると同時に「これに勝てる作品を書かなきゃな」となることが多いんですが、RTTT最終話はちょっと「勝てないなぁ、これ」感がありました。
 「大事な人のためにいらないものを持っていく」という展開は本作でも似たようなことをやったわけですが、あんなに美しくはできなかった気がします。悔しい~!


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おまけ 【モブの子】

 今回は特別編的なもの。
 とある人物の視点で、トレセン学園の片隅の、平凡な日常をお届けします。





 

 

 

 ウマ娘誰しも、自慢の1つや2つは持っているものだと思う。

 ちょっと調子に乗った時に出てくる「私昔こんなことしたんだー」とか、あるいはちょっと追い詰められた時に出てくる「でも私にはこれがあるし」とか。

 そういう、根本的な自己肯定感を支える支柱。

 ……まぁ、そういうのないって子もいるかもしれないけど、それはそれとして。

 

 私たち競走ウマ娘にとって、その「自慢」は大半の場合、成績や脚のことだと思う。

 

 私は中央のG1に勝てるウマ娘だ! とか。

 そうでなくても、重賞に勝てるウマ娘だ! とか。

 もうちょっと下げて、重賞に出られるウマ娘だ、とか。

 更に言えば、オープンレースには勝てるウマ娘だ、とか。

 もういっちょ行くと、未勝利戦には勝てたウマ娘だ、とか。

 ひとまず中央に入学の叶ったウマ娘だ……とか。

 まぁ競走ウマ娘になれる程度のウマ娘だ……とか。

 

 ……なんか言ってて悲しくなってきた。やめようこの話。

 

 成績以外の自慢となると、やっぱり脚や走りのことかな。

 自慢の末脚。長く使える脚。レース中の冷静な観察眼。いざとなった時の粘り強さ。競り合いで一歩も譲らないパワー、周りの子を振り回す策略、などなどエクストラ。いや、エトセトラだっけ?

 

 多分、G1を走るような、もっと言えば勝つようなウマ娘は、すんごいたくさんの自慢を持ってるんだと思う。

 例えば……私と同期の、一番有名な子で言えば。

 寒門出身にして無敗の三冠ウマ娘。大逃げして追い込む、異次元の脚の持ち主……とかね。

 

 で。

 そんなご大層なウマ娘じゃない私にも、そりゃあ自慢の1つや2つはありますよって話で。

 

 誰にも言わない、言っても冗談と思われて笑い飛ばされるだけだろう、私の中の思い出。

 

 

 

 私はあの無敗の三冠ウマ娘、ホシノウィルムに勝ったことがあるんだぞ、ってね。

 

 

 

 ……いや、他人に自慢できるようなものじゃないのは、わかってるけどさ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 改めて自己紹介をば。

 

 私の名前はシッソウビーム。

 学園で探せば1900人くらいは見つかりそうな、フツーのトレセン学園所属競走ウマ娘である。

 

 競走の実力は……まぁ、あんまり大っぴらには自慢はできないくらい。

 具体的に言えば、本当にギリッギリ重賞に出られるかどうかって感じかな。

 未勝利戦にはちょっと余裕を持って勝てて、オープンレースでもそこそこ善戦できるけど、G3レースに出ると大敗を以て大海を知る……。

 それくらいの、箸にも棒にもかからない、中途半端な一般ウマ娘なのです。げこげこ。

 

 

 

 ……ま、そんな普通のウマ娘な私ではあるけど、我が世の春ってのがなかったわけでもない。

 っていうか、あった。トレセン学園入学直後は、そりゃもう私の時代が来たーって感じだったんだ。

 

 ウマ娘って、早熟とか晩成とかって概念があるんだよね。

 要は早く育つか、ゆっくり育つか、みたいな。

 本格化は来るのが早い遅いがあるんだけど、来たとしても最初の頃にぐっと伸びるとか、あるいはある程度体ができてから伸びるとか、そういう個人差も当然あるわけで。

 

 その点で言えば、シッソウビームは、そりゃもうびっくりするくらいに早熟型だった。

 トレセンに入学した直後は、流石にあのトウカイテイオー程じゃなかったかもしれないけど、自慢に思えるくらいには強かったと思う。

 何度か出た模擬レースでは勝率が50%を超えてたもん。これ、何気にすごいことだよ?

 

 でも、その頃に私の実力を見込んでスカウトしてくれたトレーナーには、正直ちょっと悪いことをしたかもしれない。

 有力かと思ったウマ娘が、箱を開けたらただ早熟なだけなんだもん。あっちからすりゃ最悪だよね。

 「君が楽しく走れるならそれが一番だよ」って言ってくれる神トレーナーで本当に良かったですよ。

 

 閑話休題。

 そんな井の中のゲコゲコウマ娘だった私は、「よーし重賞総なめしてやるぞー」とか調子に乗って、トレーナーを得るべく選抜レース前の模擬レースに参加して……。

 

 

 

 そこで、バケモノを、見たんだ。

 

 

 

「寒い」

 

 ボソリとそう呟いた、小柄な鹿毛のウマ娘。

 

 彼女を見た瞬間、多分、私を含む全ての出走ウマ娘が絶望したと思う。

 だって一目見ただけで、誰だってわかるもの。

 彼女は、私たちとは、全く別の存在だって。

 

 覚悟の決まり方が違う。

 体の出来上がり方が違う。

 ……存在の圧が、決定的に違う。

 

 中央トレセンに入って一人前のウマ娘になった気でいた私たちは、所詮はまだまだ入り口に立っただけの赤ちゃんで。

 あの子は……あの子だけは、その2本の脚で立っている、競走ウマ娘だった。

 

 ちっぽけな自尊心とか、そこそこ強いっていう偽りの自負なんてものは、ものの一瞬で叩き折られた。

 残ったのは、こんなバケモノと競うのかという恐怖と、それでも一矢報いてやりたいという意地。

 

 だから私たちは、無言の内に協力関係を結んだ。

 

 1人じゃ、この化け物に勝つことは難しい。

 いや、難しいっていうか、絶対不可能だ。

 

 その時の空気は、例えるなら飢えた野生の熊に出くわしたような感じだった。

 食われる。自分たちは今から、無慈悲に狩られる。

 そう思わせるくらいには、鹿毛の彼女は他を圧倒する気配を持ってたんだ。

 

 そんな状況になったらもう、ウマ娘同士で敵対とかしてる場合じゃない。狩られたりしないよう、皆で協力して立ち向かわなきゃいけない。

 いや、そんな危険を冒すんじゃなくて、すぐ逃げ出した方が良いとは思うんだけど……流石に始まる直前の模擬レースから逃げるわけにもいかなかったしね。

 

 ……それに。

 私たちは競走ウマ娘だ。

 戦わずして負けを認めるなんてできない。走らずして1着を譲りたくはない。

 勝てそうにない相手にだって、挑まず逃げることはできないんだ。

 

 だから、全力で戦って、そして……。

 

 

 

 私は、幸運にも、彼女に勝つことができた。

 

 

 

 幸運。そう、まさしく幸運だった。

 後から思えば、あの子は合わない脚質で合わない距離を走ったんだ。

 その上、私たちが協力したことで徹底的にマークされ、バ群の中に閉じ込められた。結果として抜け出しが遅れたのも、彼女の敗因の1つだったと思う。

 

 合わない脚質。合わない距離。そして最悪な状況。

 その3点が揃って、私は初めて彼女に勝つことができたわけだ。

 

 

 

「はぁ、はぁ……、げほっ」

 

 レースが終わった後は、せき込んでしまうくらいに消耗した。

 そりゃそうだ。駆け上がって来るあの子に対抗した、あり得ないくらいのハイペースだったもの。

 

 それでも、勝てたことが嬉しかった。

 だってあのバケモノに、トウカイテイオーにすら勝てるかもしれない最恐のウマ娘に勝ったんだもの。

 この瞬間、ジュニア級のウマ娘の中で、最強は私だ……なんて。そんな風に思い上がりそうになった。

 

 ……でも。

 

 気になって、ちらりと視線を向けた先で、その鹿毛のウマ娘は……。

 敗北なんて何も感じてないとでも言うように、淡々とストレッチを始めた。

 

 それを見て、わかった。

 わかってしまった。

 

 あぁ、私、この子に敵としてすら見られていないんだなぁ、って。

 

 

 

 レースの前に見せた、凍り付いたような雰囲気。

 レースの中で見せた、獣のような荒々しい走り。

 レースの後に見せた、全てへの興味を失ったような瞳。

 

 それらは、私の網膜にハッキリと焼き付き、いつまでも離れなかった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……と。

 以上が、私の経験した黄金期である。

 いや、黄金期って割にはなんか物悲しい終わり方をした気もするけれども。

 

 いやぁ、あの頃は良かったなぁ。私も周りの子も、まだ見ぬ明日への希望にキラキラしてた気がするよ。

 本格化の終わりも近付いて来るシニア級ともなれば、流石に自分たちの限界ってモノも見えて来る。

 流石にここから成りあがってG1勝利! ……なんてのは都合の良すぎる夢だと思う。

 

 私たちは2年の時間を経て「自分の実力は大体この辺りかなぁ」という実感を掴み、浮足立つこともなく、かといって逆に大して沈み込むことのない、落ち着いた状態になっている。

 

 だから……ちょっと悪趣味かもしれないけど、1月に入って来る新入生たちのはしゃぎようを見ると、なんとも複雑な心地になるよね。

 

 挫折を知らないからこその、未来を信じる無垢な心。

 それが羨ましいやら、心配になるやら、あるいは期待したくなるやら。

 

 あぁ、叶うなら若かったあの頃に戻りたいよ~……。

 

 

 

 なんて、そんなことを思いながら、しんみり下校していると。

 いきなり後ろから抱き着いて来る感触があった。

 

「ビームぅ!」

「にょわっ!?」

 

 こ、この背中に当たる無駄にデカい駄肉の感触……心当たりしかない!

 

「ちょっと、ポーちゃん! ビックリするからいきなりとびかかって来るのやめてって言ったよね!?」

「うへへへ、相変わらずビームは良い匂いがするねぇ! ほのかな諦観と自虐、でも底の底では自分を諦めきれずつい前を見ちゃう、ウマ娘らしい最高の匂い!」

「あとその精神分析ペラペラ話しちゃうのもやめてって言ったよ! もしかして覚えてないかなぁ!? それともお話聞いてない!?」

 

 首に回された手を解き、そのままぐいっと引き剥がす。

 

 そこでようやく目に入ったのは、フラフラと揺れる、ふざけた様子の芦毛のウマ娘。

 割とファッションに気を遣う方な彼女は、インナーカラーを入れてたり、こっそり制服を改造してたりするんだけど……。

 それ以上に目立つのは、やはりその胸だ。すごく、デカい。くっ、持たざる者の憂鬱。

 

 ていうかいい加減頭皮嗅ぐのやめろ。

 こっちはトレーニング直後だぞ、汗の匂いとかしたら恥ずかしいだろうが。

 

「……はぁ。ポーちゃんさぁ、距離感近すぎって言われない?」

「よく言われる! 主にビームに!」

「そりゃ私は言ってますけども」

「私ビームくらいしか友達いないから、他の人から何か言われたりはしないよー?」

「悲しい事実やめてよ、怒るに怒れなくなるってば」

 

 

 

 にははと猫のように笑う、芦毛のウマ娘。

 この子の名前は、ポートレートリアル。

 美浦寮に住む私のルームメイトで、大事な友達で、「元」ライバルのウマ娘だ。

 

 気に入った子に対しては極端に距離感が縮まる代わり、そうでない子には一切興味を持たないっていう、かなり風変わりな性格。

 匂いを嗅いでなんとなく相手の抱いてる感情を察してしまうという、よくわかんない変な能力。

 おおよそ配慮という言葉を知らない、良く言えば天真爛漫さ、悪く言えば自由奔放さ。

 総じて変な子で、自分で言う通り友達は極端に少ない。というか多分私しかいない。

 

 寮が同室だったことで接点が生まれ、なんかよくわからんけど変に気に入られてしまい、私はまんまとこの子の友達になってしまった。

 

 正直、彼女に振り回されるのは結構疲れる。

 壁に爪を立てたりそこらじゅうでおしっこしちゃう自由奔放キャットの面倒を見てるような気分だ。伝わるのかなこの例え。

 ただまぁ、彼女とも2年の付き合いだし……何より、いつも世話になってるからね。あんまり無下にもできない都合があるわけだ。

 

 

 

「ね、一緒に帰ろー? もうトレーニング終わったでしょー?」

「もしかして、私のこと待ってたの? ポーちゃんにはもうトレーニングとかないんだし、先に帰っててもよかったのに」

「好きで待ってたからいいでしょ? それに、ちょっと勉強もできたし~」

 

 そう言ってポーちゃんは、じゃーん! と本を見せつけてきた。

 表紙に控えめに刻まれたタイトルは「蹄鉄調整基礎」。

 

 この子、なんだかんだでしっかり未来を見据えて歩いてるとこ、偉いんだよなぁ。

 ちょっと変なトコさえなければ、きっとたくさんのウマ娘に尊敬されて、友人だってできただろうに。

 

 ……いや、変じゃないポーちゃんなんか、ポーちゃんじゃないか。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 競走ウマ娘の現実ってさ、すごく無慈悲で残酷なんだよね。

 

 私たちは、皆がずっとトゥインクルシリーズを走り続けられるわけじゃない。

 

 トゥインクルシリーズの公式レースの内、メイクデビューと未勝利戦を除くすべてのレースには、出走のための条件として「既に公式レースで1勝以上を上げている」というものがある。

 つまるところ、私たちはメイクデビューか未勝利戦に勝たない限り、重賞は勿論、オープンレースやプレオープンレースにさえ出走できなくなるんだ。

 

 で、その未勝利戦が開催されるのは、クラシック級の夏まで。

 そのタイムリミットまでに勝利を刻めないと、一部の例外を除き、基本的にはトゥインクルシリーズのレースに参加することができなくなる。

 

 私ことシッソウビームは、クラシック級の2月、3度目の未勝利戦でなんとかこの壁を越えて、トゥインクルシリーズを走る競走ウマ娘としての資格を手に入れたんだけど……。

 

 実に、7割。

 7割ものウマ娘たちが、未勝利戦に勝利できず、資格をなくしてしまう。

 

 この事実、この数字、残酷と言わずして何と言えばいいのか。

 

 ……そして。

 私の目の前にいる、ポーちゃんことポートレートリアルもまた、未勝利戦に勝てなかったウマ娘だった。

 

 

 

 トレセン学園というのは、大きく分けて2つの側面がある。

 1つは勿論、トレセン、つまりトレーニングセンターとしての面。

 そしてもう1つが、学園、つまり学びの園としての面だ。

 

 何が言いたいかっていうと、その内片方が欠けたとしても、ここに所属すること自体は可能なんだ。

 

 例えば……そんな例は聞いたことがないんだけど、規則上は「学園自体は中退し、トゥインクルシリーズへの参加とトレーニング施設の利用だけに絞る」こともできる。

 そして逆に、「トゥインクルシリーズからは退くけど、中央トレセン学園には所属し続ける」こともできるのだ。

 

 まぁ、私たちは中等部の女の子だ。アスリートとして失敗したからって学校に通わないってのもちょっとばかし不健全な話。

 それに中央トレセン学園では、競走ウマ娘関連の勉強はかなり盛んにおこなわれてる。将来そっち関係のお仕事を目指そうと思うなら、ここ程優れた環境はないだろう。

 そういう意味では、競走ウマ娘を引退しても、ここに所属する意味は確かにある。

 

 ……とはいえ、この選択を取るウマ娘は、決して多くはないんだけどね。

 なにせ、中央トレセンに入学できたってことは、地方のレースシリーズなら十分すぎるほど活躍できることを意味する。それへの参加のために地方トレセンに転向する子は多い。

 さっき言った未勝利戦に勝てなかった7割の内、5割くらいは地方トレセンに転向して、残りの2割くらいがこの学園に残るらしい。

 

 で、私の友人たるポーちゃんは、2割の中の1人なわけだ。

 

 

 

 クラシック級8月下旬、彼女の最後の未勝利戦。

 本人から聞くより早く、テレビで彼女の敗北を見てしまっていた私は、ポーちゃんに一体何と言うべきか、すごく迷っていた。

 しかし案ずるより生むが易しと言うべきか、拍子抜けと言うべきか、自室に戻った私を待っていたのは「おかえりー!」と突っ込んでくるいつも通りのポーちゃんであった。

 

 なんとこの子、未勝利戦の敗北に対して「やっぱ無理だったかぁ」で流してしまい、さっさと切り替えてしまったのである。

 いや、勿論悔しさはあったんだと思う。競走ウマ娘が走りを諦めるなんてことになれば、胸を刺されるくらいに辛いのは想像に難くない。

 でも、その悲しみを一瞬で切り替えられる変わり者。それがポートレートリアルというウマ娘なのだ。

 

 

 

 私はその後、彼女に後ろから抱きしめられた姿勢で、今後の展望を聞くことになった。

 

「やっぱり私、自分で走るのは向いてなかった。だから、他のウマ娘が走るのを支えられるようになりたいなーって思った!」

「そう。……それで、どうするの?」

「そんなに不安そうにしなくても、トレセン学園には残るよー? ここで装蹄覚えようかなーって」

 

 装蹄。

 それは、簡単に言えば、ウマ娘の使う蹄鉄に関するお仕事だ。

 

 主な業務は履き潰されゆくトレーニングシューズに蹄鉄を打ち付けたり、勝負服のシューズに使われる蹄鉄を綺麗に調整すること。

 蹄鉄って、軽くなら自分で調整できるけど、大きく形が歪んでしまった場合とかは、炉に入れる必要もあるからね。

 その危険性や要求される技術のこともあり、専門職があるわけだ。

 

 勿論、これはとても大切なお仕事と言える。

 私たち競走ウマ娘が平穏無事に走れているのは、装蹄師さんたちのおかげだ。感謝してもし足りない。

 しかし、それはそれとして、ウマ娘が装蹄師を目指すっていうのはなかなか珍しい。

 

 ウマ娘は人間に比べ、容姿とか声とか身体能力とか、色々優れてる。

 だからそういうのを活かした仕事に就くことが多いんだ。

 いやまぁ、鍛冶も力が必要になるし、そういう意味じゃ間違ってないかもだけど……。

 

「なんで装蹄? そんなに蹄鉄好きってわけじゃなかったよね?」

「うん。好きなのは蹄鉄じゃなくて……には、ビームならわかってるでしょ?」

 

 彼女は珍しいことに、ちょっと気恥ずかし気に微笑んで答えた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、そんな調子で元競走ウマ娘であるポーちゃんと一緒に、トコトコと帰路を歩くことしばらく。

 私たちは、美浦寮の自室へとたどり着いた。

 

「はー、今日も疲れた……」

「私は疲れてなーい!」 

「でしょうねー」

 

 ため息を吐く私の横で、ポーちゃんは伸びをしている。

 今日も今日とて厳しめなトレーニングに励んでた私と違って、彼女はずっと本読んでたんだ。そりゃ肉体的な疲れはないだろうね。ちょっと羨ましいよ。

 

 ああ、そんなことより、早くこの体の怠さを癒さなければ。

 

「うぅ、どうかこの疲れをお癒しください……!」

 

 そう独り言ちで、私はベッドの上に安置してあったでかぬいの1つを抱きしめる。

 はー、ふわふわの手触り、ちょうどいい反発、まだちょっと残ってる太陽のかぐわしい匂い。このウマ耳の部分がふわふわもちもちしてるのが最高……!

 あぁ、癒されるぅ~……。一生こうしてたいよ……。

 

「……ビーム、ほんとそのぬいぐるみ好きだよね」

 

 ちらと視線を向けると、ポーちゃんはちょっと呆れたような視線を向けて来ていた。

 

「うっさいよ、ポーちゃんに呆れられたかないっての。

 っていうか違うからね? 私が好きなのはこのぬいだけじゃないから」

「知ってるよぉー」

 

 私の抱えたぬい以外にも、この部屋の私サイドには、大小合わせて20以上のぬいが保管してある。

 まぁその大半は、埃を被らないようにガラスケースに保存してあるんだけども。

 

 更に言えば、ぬいぐるみだけじゃない。

 キーホルダーに観賞用のフィギュアとアクションフィギュア、彼女がタイアップしたハンカチにタオルケット、まだ封を開けてない彼女のイメージの香水が保存用観賞用布教用緊急用で4点。

 壁には彼女が宝塚記念に勝った時に見せた輝く笑顔とか、菊花賞のウイニングライブの後にネイチャと一緒に行ったダブルピースの写真を額縁に入れて飾ったり、タペストリーとかポスターで装飾してる。

 

 そして、個人的に一番自慢の一品は、やっぱりこれ!

 ベッドサイドに置いてある、ラミネート加工したチケット群!!

 

 一昨年のとあるメイクデビューとオープンレース葉牡丹賞、G1ホープフルステークスの観戦及びウイニングライブチケット。

 去年のG2弥生賞、G1皐月賞、同じく宝塚記念、ジャパンカップの観戦チケットとライブチケット、それから運よく手に入った有記念のライブチケットも。

 

 菊花賞と有記念の観戦チケットは、抽選漏れした上、知り合いに当選者ゼロという現実の厳しさの前に、血の涙を流して諦めるしかなかったけど……。

 それ以外の、彼女の……ホシノウィルムの道筋の全てを、私は直に見守ってきたんだ。

 

 そう。

 あの日、鮮烈な灰色の一等星に目を焼かれた栗毛の普通の(モブ)ウマ娘は……。

 以来、ホシノウィルムの大大大ファンになっていたのです。

 

 

 

「えへ、えへへぇ……ウィルム様ぁ……」

「キモ」

「やめなさい冷たい本音は。仕方ないでしょうが、推しのことを思えば頬が緩むっての。

 ウマ娘大好きだから装蹄師目指してトレセンに残ったポーちゃんと同じだって」

「……そういう時のビームとは、同じにされたくないなぁ。いつもならともかく」

 

 何を言うこのおたんこにんじん!

 ウマ娘が大好きで装蹄師を目指すポーちゃん、ホシノウィルムが大大大好きで推し活してる私、そこに何の違いもありゃしないでしょうが!

 

 ……いや、まぁちょっと違うかもしれんけども。

 真剣に将来を考えて動いてるポーちゃんと、今が楽しすぎて推し活してる私じゃ、色々違うかもしれないけども!

 

 でもでも、やっぱり趣味に冷たい目を向けられるのは悲しい。

 ここはちょっと意趣返し、っと。

 

「はんっ、そんなこと言っていいのかなー? ここにあるこれ、なんでしょーか?」

「え? そ、それ……っ、まさか!?」

 

 ポーちゃんは、ウマ娘が大好きだ。

 それも特定の子じゃなく、競走ウマ娘全体が好きな箱推しタイプ。

 

 現に、私が使ってる半分はホシノウィルムグッズで埋まってるけど、もう半分は色んなウマ娘たちのグッズで埋まってるもんね。

 ……まぁ「ホシノウィルムのグッズは見るだけでもお腹いっぱいかな」ってことで、あっち側には全然ないんだけども。そこだけはわかってないなぁと思う。

 

 で、そんなポーちゃんだからこそ、私の手に握られたチケットは見過ごせまい。

 

「てってれてってって~! 来たるG1、大阪杯の観戦チケット2枚~! しかもなんとなんと! ゴール板前の西エリアー!!」

「そ、それちょうだい! 大阪杯行きたい! しかも最高の位置じゃん!!」

「うーん、どうしよっかな~? 何度言ってもいきなり飛びつくのやめないような子はな~?」

「やっ、やめる! もうやめるから!!」

「……本当にやめる?」

「やめるやめる! もう絶対にやめる!」

「よし。それならこれを片方譲ってあげましょう」

「ははーっ! ありがとうございますビーム様!!」

 

 涙目でへりくだるポーちゃんが流石に哀れになって、私はチケットを手渡した。

 

 わーいわーいと子供のように喜ぶポーちゃん。ホントこの子体格と性格がミスマッチだなぁ。

 

 

 

「……ところでこういうやり取り、何度目だろうね」

「えっと、6度目?」

「ちなみに抱き着くのやめたことは?」

「ないよ?」

「今回からやめる?」

「やめないよ?」

 

 この後めちゃくちゃ喧嘩した。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 競走ウマ娘の世界は、無慈悲で残酷だ。

 

 1人の勝者が生まれるために、17人の敗北者が犠牲になる。

 ゲートの枠、その日の天気、芝の状態といった運の要素で、レースの有利不利が大きく分かれる。

 それぞれの素質には、どうしようもない限界がある。

 タイムリミットに間に合わなければ、レースに出ることすらできなくなる。

 

 本当に、どうしようもなく、無慈悲で残酷だ。

 

 

 

 ……だけど、まぁ、アレよ。

 そんな残酷な世界でも、なんやかんやで毎日をエンジョイしてる、私たちみたいなウマ娘たちもいる。

 

 シッソウビームとポートレートリアルの縁は、このトレセン学園という場が紡いでくれたもの。

 こんな残酷な世界が、私に大事な友達をくれたんだ。

 

 このことを、忘れちゃいけないと思う。

 

 ここは無慈悲で残酷で、数多の悲劇を生む場所だけど……。

 同時に、私たちウマ娘に、新しい未来をくれる場所なんだってことを。

 

 

 

 あと、めちゃくちゃサイコーの推しと巡り合わせてくれる場所だったことも!

 

 

 







 シッソウビーム:栗毛の普通なモブウマ娘。1話・2話でウィルムに勝った子。
 一緒に出た模擬レースで脳を焼かれた最古参ファン。最初の頃は競走能力にのみ惚れ込んでいたが、徐々に柔らかくなっていく表情に惚れ、今はアイドル的にも推している。堀ウィルもいけるクチ。
 趣味はウィルムの香水(使用用)をウィルムのでかぬいに軽く付けて抱き締めること。そういう時の自分がちょっとキモいことは自覚しているので、推しには近づかないよう気を付けている。

 ポートレートリアル:芦毛の変なモブウマ娘。ビームの同室の子。色々でかい。背丈とかね。
 ウマ娘が苦悩し絶望しかけ、それでも負けずに立ち上がるのが性癖の箱推し勢。なのでテイオーやネイチャあたりは特に好きで、ウィルはそうでもない感じ。
 趣味は唯一の友人であり、同時に推しでもあるビームをからかうこと。これまであまり友人とかがいなかったので、彼女に向ける矢印は何気にかなり大きかったりする。でもでへでへしてる時のビームはマジでキモいと思ってる。



 そんなわけで、スペちゃんと並んでウィルに勝ったモブウマ娘ちゃんの視点でした。
 この子のその後の話は、ファン視点という意味でもいつか書きたいと思っていたので満足です。

 次回からは新章。
 いよいよ大阪杯、そして皐月賞に向けた日々が始まります。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、レース対策会議・シニア3月版の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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彼と彼女と大阪の季節
まだ見ぬ強敵たち


 この作品書き始めた頃に前書きで「ブレワイ続編発売日決定!」みたいなこと言った記憶があるんですけど、ついに発売されましたね。
 もはやここはきみの知っているハイラルではない。神ゲーです。本当にありがとうマ・オーヌ。





 

 

 

 元より俺は、時間の流れを速く感じるタイプだった。

 なにせ人生というのは案外短く、努力を積むにはとかく時間が足りない。

 非才の俺は今を走っているだけで目一杯で、そうすると時間はあっという間に過ぎて行ってしまう。

 

 更に言えば、ウィルと出会ってからは、別の意味で体感が速くなったんだよな。

 以前のように精神的にギチギチになってるからというわけじゃなく……なんというか、毎日が充実しているからこそ、時間が飛ぶように過ぎていってしまう。

 

 それが嬉しいような悲しいような、微妙な心持ちなんだが……それはともかく。

 

 そんなわけで、ウィルがシニア級に入ってからも、時間は飛ぶように過ぎていき……。

 あっと言う間に訪れた、2月下旬。

 

 おおよそ1か月前に開催された予選に続く、URAファイナルズの準決勝が開催された。

 

 

 

 俺たちは予選の時に続いて、マックイーンの参加する長距離部門の見学に赴いた。

 このレースを選んだのは、ウィルがマックイーンと友人関係であり、「せっかくなら見に行きませんか」と誘われたというのもあるけど……実のところ、もう1つ狙いがある。

 

 今回のURAファイナルズの長距離レースの条件は、京都レース場右外周りの3000メートル。

 つまりは、菊花賞と同じコースとなっている。

 

 マックイーンたち出走ウマ娘は本格化も終わるシニア級2年で、ブルボンは始まったばかりのクラシック級だ。

 果たしてここまで年季の違うウマ娘たちのレースが参考になるかは、微妙なところだったが……。

 

「…………」

 

 レース中、恐らくは菊花賞を意識してだろう、ブルボンはじっとその趨勢を見つめていた。

 目の前のレースを楽しむ以上に、目標である三冠達成に少しでも活かすべく、状況を分析しているんだろう。わかってはいたが、やはり真面目な子だ。

 百聞は一見に如かずと言うし、この観戦が少しでも彼女の糧になればいいと思う。

 

 

 

 さて、そんなURAファイナルズ準決勝だったが……。

 結果から言うと、メジロマックイーンやメジロライアンにメジロパーマー、ダイタクヘリオスにアイネスフウジンらネームドは、無事に3着以内に入り、決勝へと駒を進めた。

 

 とはいえ、全てのウマ娘が順調に事を進めたわけではない。

 残念ながら、ネームドの中だとイクノディクタスだけは、初っ端から大きく出遅れてしまった上にレースの展開も悪く、準決勝で脱落してしまった。

 決勝戦で彼女の走りを見られないのは残念だが……これも1つの巡り合わせか。

 

 今回は残念な結果に終わったが、彼女のトゥインクルシリーズはこれで終わりというわけではない。

 というか、イクノディクタスは大阪杯に出走予定なんだよな。何事もなく進めば、1か月半後にはウィルとも対決する予定だ。

 ここで満足な走りをできなかった鬱憤は、次のレースで晴らせばいい。

 ……いや、ウィルの契約トレーナーとして、勿論そんなことはさせないが。

 

 俺の立場上、特別にイクノだけを応援することはできないが、彼女も満足のいくトゥインクルシリーズを歩めればいいな、と思う。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そうして、URAファイナルズの準決勝も終わって、更に数日。

 

 担当たちが2か月レースを走っていないこともあって仕事は落ち着きを見せてきた。

 が、だからと言って業務が減るわけではない。

 手が空いたということは即ち、他にできることが生まれたということでもあるんだ。

 ただでさえやりたいことが多いトレーナーを生業にしている以上、時間を浪費する手はない。

 

 そんなわけで俺は、昌の新人教育を進めると共に、秋に備えて海外のウマ娘の情報を集めたりして時間を過ごした。

 

 ……とはいえ、これがどれだけ意味を成すかは疑問が残るところだが。

 

 凱旋門賞は……というかヨーロッパのレースは、日本のレースに比べると、シニア級よりもクラシック級のウマ娘が多く活躍する傾向にある。

 当地の子たちが早熟なのか、あるいは競り合いが激しくなるが故に勢いのある子が競り勝つのか、考えられる要因は色々ある。

 そこに関しては後日、余裕のある時に改めて考証するとして、だ。

 

 本格的に重賞……グレードレースが始まるのがクラシック級の春からという事情は、日本もヨーロッパも大きく変わらない。

 だから、今年クラシック級になる当地のウマ娘たちに関しては、まだ公式レースのデータが多く残っていないんだ。なんなら未デビューの子すらいるかもしれない。

 現時点で取ったデータだけでは、全てのライバルを絞り出すことはできない。今年の海外レースは注目していかなきゃいけないだろう。

 

 特に、三冠(トリプルクラウン)やティアラに相当するレースには注目しなければ。

 2000ギニーステークスを筆頭としたイギリスクラシック三冠、1000ギニーステークス他イギリスティアラ、プール・デッセ・デ・プーラン他フランスクラシック三冠及びティアラ、芝の本場ではないがケンタッキーダービー他アメリカクラシック三冠……。

 それに加えて、いわゆる変則三冠と言われるものにも注意しなければならないだろうな。

 

 芝の世界最強決定戦、凱旋門賞で脅威になるウマ娘は、G1に勝利したり好走を見せていることが多い。

 この辺りに注目し、なおかつしっかりと耳をそばだてていれば、情報を逃すことはないだろう。

 

 ……とはいえ、それは未来の話になる。

 現時点でできる分、凱旋門賞の有力候補について考察しておこう。

 

 ひとまず現クラシック級を除いて考えると、ウィルを脅かしうる強さを持ち、調子が良好で、なおかつ凱旋門賞へ出走する意思のある、有力候補と言えば……。

 

 去年ウィルとジャパンカップを競った、鹿毛のフランスのウマ娘、ウィッチイブニング。

 それと去年G1パリ大賞を制した、同じく鹿毛のフランスのウマ娘、ネディリカ。

 

 この2人が目玉になるだろう。

 

 彼女たちは、かなり強いウマ娘だ。

 ウィッチイブニングは現状14戦して1度しか掲示板を外したことがなく、調子の乗った時は必ず2着以内に収まってきた実力者。

 対してネディリカは現状9戦、1度として掲示板を外したことがない安定性を誇る。

 

 去年のジャパンカップでは、ウィルとマックイーンが大きく差を付けてワンツーだったが、それはあくまでホームグラウンドである日本のバ場であったからこそ。

 彼女たちの本場であるフランスのロンシャンレース場では、あのウィルとは言えど、少なからず苦戦を強いられることになるだろう。

 

 ……まぁ、だからと言って、あの子が負けるとは思わないが。

 無敗の三冠ウマ娘であり、俺の担当ウマ娘、ホシノウィルム。

 彼女は強い。そりゃあもう、少なくとも素質という側面においては、俺が知り得るどのウマ娘よりも優れている。

 

 だからこそ、たとえそこに海外のレースというデバフがかかろうが……。

 きっと彼女なら、何の支障もなく勝ってしまうだろう。

 

 

 

 ……そう、きっと。

 

 それこそ、彼女と同じ、無敗三冠級のウマ娘でも現れない限りは。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そうして充実した毎日を過ごす内に、2月も終盤に入り……。

 いよいよ次のレースを見据え、作戦会議を開かなきゃいけない時期になった。

 

 ウィルと契約して以来続いている、レースの1か月前の対策会議。

 ブルボンが入ったことで正確に1か月前ではなくなってしまったが、それでもこの習慣はしっかり根付いたまま。

 

 そんなわけで、まだまだ寒気の残る2月の昼過ぎ。

 万が一がないようにしっかりと暖房を効かせたトレーナー室に、俺たちは集まっていた。

 

 そうして口を開き、会議を始めたのは、俺……ではなく。

 

「それでは、次走レースへの作戦会議を始めたいと思います。

 本日の前半、ブルボンさんのスプリングステークスへの対策は、私こと堀野昌が担当させていただきます。よろしくお願いします」

「よろしくお願いします!」

「よろしくお願いします」

 

 何枚かの資料を配り、ホワイトボードの前でペコリと頭を下げたのは、俺の妹であり彼女たちのサブトレーナーでもある、昌だ。

 

 今回の作戦会議、その内のブルボンに関する部分は、昌が取り仕切る。

 ひとえにトレーナーとしての経験を積み、早く独り立ちできるだけのスキルを身に付けるためだ。

 

 

 

 サブトレーナーという仕事は、何かと激務になりがちなトレーナーの補佐という側面もあるけど、同時に新人研修的な意味合いも兼ねている。

 まだウマ娘と契約する前の新人トレーナーは、サブトレーナーとして雑務をこなしながら経験豊富なトレーナーの姿をすぐ傍で見ることで、「ウマ娘の何をどう見ればいいのか」「どんな時にどんな判断をするのか」「担当ウマ娘とどういう距離感を保つのか」を学んでいくのだ。

 ……まぁ、そんなサブトレーナーとか教官を経由することなく専属契約を許される俺のような例外もいるわけだが、それはともかく。

 

 一応インターン扱いで無給で働いている昌もまた、そういった研修中の身。

 たづなさんが彼女を俺に付けたのは、俺の業務の軽減という側面もあるが、やはりそれ以上に昌を一人前のトレーナーにしてくれ、と託された部分が大きいんだと思う。

 

 昌は俺と違ってかなり要領が良い、名手の卵だ。

 トレセン学園はいつだって人材不足、優秀なトレーナーになり得る逸材を腐らせておく手はない。

 彼女の家族であり、その人となりをよく知る俺が教育役として適切だと判断されたんだろう。

 

 そんなわけで、今年の4月からはちゃんとお給料を払われる予定の昌もまた、トレーナー見習いとして頑張ってくれているわけで……。

 そうなれば俺としても、彼女の努力に応えたくなるというもの。

 そんなわけで俺は、彼女がサブトレーナーに付いてくれた去年の10月以来、色んな仕事のやり方やコツを伝授してきた。

 要領の良い昌はそれをスポンジのように吸収し、最近はもう契約トレーナーとしてやっていけるレベルに入ってきたと思う。

 

 

 

 彼女にとって今日は、この数か月の集大成を見せる時だ。

 

 競走相手となるウマ娘たちの分析、レース場やレースに枠番と様々で複雑な要素についての考察、何より担当ウマ娘に対する深い理解……。

 それらが試される、レース前の対策会議の進行。

 

 これは、昌の今の技量を見るためのテストであり、彼女が積んでいくべき経験であり、将来的にウマ娘を担当するための練習でもあるわけだ。

 

 

 

 勿論、ブルボンのスプリングステークスに関する発表が終われば、俺がそれを採点、訂正する予定。

 流石に「昌のミスや勘違いでブルボンの競走人生めちゃくちゃになりました」というのは許容できる話じゃない。

 

 俺は「アプリ転生」のおかげでライバルの子たちやブルボンの実力を数字で見ることができるし、手前味噌な話になるけど、レースについての考証も人一倍進めている自負もある。

 必ずしも正答を出せるとは限らないが、今の昌よりは正しく状況を見ることができているはず。

 

 ブルボンのメインのトレーナーとして、そして昌の兄であり先輩として、責任を持って修正作業を行う予定だ。

 

 ……ま、個人的には、昌がそんなに大きなミスをするとは思ってないけどね。

 

 この子はかなり早熟な方で、トレーナー業務に関してもかなりのスピードでモノにしてる。

 その上、目の前のことを投げ出さず、真面目に取り組める精神性もあるんだ。

 この1か月、今日の対策会議に備えて情報収集に動き回っていたし、俺の下に悔しそうな顔で色々尋ねに来たこともある。

 ああして真面目に取り組んでいる以上、そこまで酷いものが出て来ることはないだろう。

 

 そんな風に思いながら、部屋の隅に寄せた椅子に座り、俺は昌の言葉を聞くことにした。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「それでは早速、今年のスプリングステークスに関して考察を進めたいと思います。

 お手元の資料を確認しながら聞いてくださいね」

 

 俺はひとまず声に従って、配られた資料に目を通した。

 

 ……うん、いいね。

 紙のスペースを適切に使った、読みやすく頭に入りやすいレイアウト。

 特にレース場の勾配やコースについては、恐らく彼女オリジナルだろうイラストでわかりやすくまとめられていて、ここに関しては俺の資料よりも優れていると思う。

 

 情報の内容については……その量は置いておくとして、確度はなかなかに高い。

 レース場の考察も十分進んでるし、ライバルのウマ娘に関しても、過去半年の公式レースを元に精度の高い予測が立てられている。

 

 とはいえ、勿論「アプリ転生」が示す程に正確な情報というわけではない。

 ぱっと見ただけでも、ところどころ俺から見えるステータスやスキルとの食い違いはある。

 ……まぁ、ここまで細かい分析は、チート能力を持っている俺にしかできない芸当だろう。昌にそれを求めるのは酷という話だ。

 

 それ以外に引っかかる部分としては、単純に情報量が足りないかなぁとは思う。

 俺がいつも纏めている資料では、ここ40年分の天気の記録とレース場の芝の状態から考察するレース当日のバ場状態とか、相手のウマ娘の性格と契約トレーナーのやり方から予測した戦略とか、当日の来場者数の予想とか内ラチの傷みとか、その辺りも纏めてあった。

 それに比べると、昌の纏めた資料は、少々情報量が少ない気がする。

 ……というか、優先度の低い情報を削っている、と見るべきだろうか。

 

 それらも全て加味して、この資料を総合的に採点すれば……。

 今の昌の状態からすると、厳しめに見て85点かな。

 

 ボーダーラインには十分に届いているが、完璧とは言い辛い。

 担当ウマ娘の大事なレースを支える資料としては、不安が残らないわけじゃない。

 

 よし、後で俺が情報を補完しておこう。ちゃんと俺の方でも資料作っておいてよかったよ。

 

 

 

 さて、俺が資料のマエストロとしてそれを品評している間に、昌はその口を開いた。

 

「3月29日、G2スプリングステークス。中山レース場の芝、右内回り、1800メートルのレース。

 今年のこれは、G2レースとしては破格のメンバーでのレースになると思われます」

 

 昌はそう言ってマーカーの蓋を取り、ホワイトボードにブルボンのライバルになるウマ娘の名前を書き連ねた。

 

「まず、私から見た最大の障害はこの2人……ライスシャワーさん、そしてコンテストライバルさんです」

 

 ライスシャワーは、ブルボンもよく知るところだろう。俺の同期のトレーナーが担当する、黒鹿毛の先行ウマ娘だ。

 莫大なスタミナと非常に長く使える脚を持つ、生粋のステイヤーであり、何事もなければこれからブルボンとクラシックレースを競うことになる。

 

 一方でコンテストライバルは、栗毛の差しウマ娘。前世アプリには彼女の姿はなかったので、恐らくはネームドウマ娘ではないんだろうな。

 去年、脚部不安であまり成績を残せなかったライスに対し、彼女はこれまでに5戦3勝、連対率80%という安定した好成績を収めている。

 既に重賞レースも経験済みで、経験値という意味ではブルボンにも優っているかもしれない。

 

 ……と、俺はトレーナーなので当然覚えているが、ウィルやブルボンは後者の名前を聞いたことがなかったのか、じっと資料に目を落としている。

 昌は2人がある程度資料に目を通すのを待って、それから話を続ける。

 

「ライスシャワーさんは、合同トレーニングの様子を見るに、誰かを徹底的にマークし、ペースを合わせるのが非常に上手です。逃げウマ娘であるミホノブルボンさんは、彼女のペースメイクに利用されてしまうかもしれません。

 一方でコンテストライバルさんは、非常に安定した走りを見せています。かなり早熟な気配もあり、恐らくは今回も、真正面から向かってくるでしょう」

 

 ですが……とそう言って、昌はホワイトボードに書いた2人の名前の前に、黒塗りの三角の印を付ける。

 

「潜在的なステイヤーであるライスシャワーさんにとって、1800という距離は短すぎます。

 そしてコンテストライバルさんは、先日のG3共同通信杯で不調の気配を見せていました。

 今回は2人共に、全力を出せない状況が整っています。

 この状況下においてならば、ミホノブルボンさん、あなたの勝率は高いと推測できます」

「はい。マスターのオーダーに従い、必ず勝ちます」

「うーん……そうですね、今はそれで大丈夫です」

 

 ブルボンのそれは信頼と呼ぶべきか、あるいは妄信と呼ぶべきか……。

 まぁ、どちらにしろ俺のすることは変わらない。彼女の期待に添うよう、全力で応えるだけだ。

 

「次いで問題になり得るのは、サクラバクシンオーさんやマチカネタンホイザさんでしょう。

 しかし、サクラバクシンオーさんは瞬発力のある逃げウマ娘ではありますが、スタミナ面で難があり、現時点で1800メートル持つとは思い辛い。

 マチカネタンホイザさんは、他のようにマイナスがあるわけではありませんが、単純なスペックでミホノブルボンさんが一回り上回っています。

 ……強いて言えば、サクラバクシンオーさんと先行争いになり、ミホノブルボンさんが掛かってしまうのが、このレースの最大の敗北要因と言えるでしょうね。

 兄さんの言葉を借りるわけではありませんが、ミホノブルボンさん、あなたはとにかく自分らしく、何があってもあなたの走りを貫くよう心がけてください」

 

 昌にそう言われ、ブルボンは胸に手を当てた。

 

「統計的データを参照するに、私の掛かり癖は改善の徴を見せていると推測できます。公式レースで十全に走ることで、マスターと昌さんに、私の成長をお見せできればと思います」

 

 

 

 ブルボンの言葉に1つ頷いた後、昌はこちらをちらりと見てくる。

 

「……どう、兄さん」

「うん……そうだね、よくできてたと思うよ。流石は昌だ」

 

 今回の作戦会議は、そこまで難易度の高いものじゃない。

 ブルボンの作戦は「一定ペースでの疾走」。他のウマ娘がどうであれ、そこは揺るがない。

 

 だからこそ今回の会議は、作戦立案というよりは、収集した情報の発表って形になる。

 割と臨機応変に走るウィルに比べて、判断しなければいけないことは少なくなり、難易度は格段に落ちるわけだ。

 

 とはいえ、初めてこの手の資料を作ったり発表したと考えれば、昌はよくやったと思う。

 流石と言うべきか、淀みなくわかりやすいものだったし、その内容もそつがない。

 

 ……まぁ、間違いが全くないわけではなかったけれども。

 

「ただ、2点だけ訂正」

「訂正……」

「大丈夫、十分合格点は越えてたから、これは次回に向けた勉強と思って。……ミホノブルボンも、よく聞いてくれ」

 

 俺は昌からマーカーを受け取り、ホワイトボードの前に立つ。

 そして、ライスとコンテストライバルの名前の横にある三角のマークを消して、ライスの横には丸を、コンテストライバルの横にただの三角のマークを描いた。

 

「ライスシャワーは公式レースに出ていないから過小評価されがちだが、今の彼女はかなりの実力を持っている。……どこぞの大逃げウマ娘がマンツーマンで鍛えているという話だしな」

「うっ」

 

 件の大逃げウマ娘は「痛いところを突かれた」と言わんばかりに胸を押さえた。

 

 ……彼女の立場からすると、なかなかに難しい問題だよね。

 

 ホシノウィルムにとってライスシャワーは、1人の可愛い後輩なんだろう。

 先輩としてその望みは叶えてあげたいし、困ったことがあったら助けてあげたい。

 

 しかしここで難しいのが、契約トレーナーである俺が同時に担当しているミホノブルボンの存在だ。

 ブルボンはウィルにとって、謂わば妹弟子的な存在になるわけだけど、そうなれば当然彼女に気を遣わざるを得なくなる。

 

 競走ウマ娘ライスシャワーを助けることは、即ちクラシックレースを競う競走ウマ娘ミホノブルボンの妨害となってしまいかねない。

 だからこそ、彼女はライスと共にトレーニングすることに、ジレンマを感じているんだ。

 

 まぁ、実のところ、そこは心配無用なんだけども。

 

「……少し嫌味な言い方になってしまったが、ホシノウィルム、俺としては君の行動を止める気はない。

 君がライスシャワーを育てたいと思うのなら、そうすればいいさ」

「で、でも……自分で言うのもなんですが、ブルボンちゃんの目標に差し障りますよね……?」

「いや? そんなことはない。

 要は、ライスシャワーを君が伸ばすよりも速い速度で、俺がミホノブルボンを伸ばせばいいだけだ。

 あくまで学生に過ぎない君に、指導力で負けるつもりはないぞ。……いや、ウマ娘特有のフシギパワーとか使われたら流石にアレだが」

 

 俺はこれでも20年以上、ウマ娘を育てる訓練をしてきた男だ。

 一回り若く、またトレーナーとして勉強してきたわけでもないホシノウィルムに後塵を拝するようではトレーナー失格。もはや失格どころか死刑。

 いや、死んだらウィルの担当はできなくなるので、死ぬ気で学び直しといったところだ。

 

「そうですか? じゃあ……ある意味、これもトレーナーとの勝負ですね。

 私、しっかりライスちゃんを鍛えますから、トレーナーも全力でブルボンちゃんを鍛えてあげてくださいね!」

 

 ……え、これ代理戦争?

 いや負けないよね? 流石にね?

 去年、ネイチャがウィルに勝ちかけた時みたいな思いをするのは勘弁だぞ……。

 

 

 







 多分本作では初めて尺の調整をミスったので、前後編分割です。
 本当はウィルの対策会議まで行く予定だったんだけどなぁ。

 GW明けて3日に1回投稿になった直後で申し訳ないんですが、ティアキンが神ゲーすぎて4日に1回投稿に戻るかもです。
 さて、ゾナニウム採掘作業に戻るか……。


 次回は3、4日後。トレーナー視点で対策会議の話・後編。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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転生チートウマ娘(二重表現)

 前回のあらすじ
 ・ウィルとブルボンの次走対策会議
 ・ブルボンの対策はサブトレの昌が担当、現在発表後の堀野君による批評中
 ・尺の調整をド派手にミスって前後編





 

 

 

「少し話が逸れてしまったが、話を戻すと、だ。

 昌のライバルウマ娘の分析におけるミスは2つ。大雑把に言えば、コンテストライバルを過大評価し、ライスシャワーを過小評価している」

 

 俺は椅子の上で腕を組み、少し悔し気な昌を見据えて、彼女の解析の間違いを挙げた。

 

「昨日様子を窺ってきたが、コンテストライバルは共同通信杯以降も調子を崩し続けている。ドツボにハマってしまったと見ていいだろう。

 あと1か月で持ち直すのは厳しいと思われるし、仮に持ち直したとしてもギリギリのことになるはず。レース直前のトレーニングが身にならないとなると、ミホノブルボンの成長に付いては来れない」

 

 まぁぶっちゃけると、この辺のミスは仕方ない部分もあると思うけどね。

 

 ウマ娘の調子を見るってのは、簡単なようでいて案外難しい。

 特に、直接的に話をするのではなく、たまに走りを見る程度の関係でしかない他陣営の子となればなおさらだ。

 

 俺は「アプリ転生」のおかげで絶不調から絶好調までの5段階で見分けられるけど、なんならこれだって絶対的なものじゃないしね。

 前世のアプリゲームだった時ならばともかく、実際のウマ娘の調子なんてものは、1つの区分の中でもピンからキリまである。

 ギリギリ絶好調で実質的には好調な時もあれば、バリバリに覚醒している場合もあるわけだ。

 

 そしてそういうところになると、ぶっちゃけ俺でも「今日のネイチャはヤバい」とか、「絶好調という割には入れ込んでる」とか、その程度にしか判断できない。

 生まれてこの方トレーナーとしての勉強をしてきた俺ではあるが、だからって経験値があるわけではないんだ。

 分析や予測ではなく、センスとか経験値の求められるジャンルにおいては、ただのクソ雑魚トレーナーに過ぎない。

 

 一応契約トレーナー歴3年目の俺でもそんな感じなんだ。

 俺より経験の浅い、というかまだ1年目の昌に判断できないのは、ある意味当然のことだろう。

 

 ……が。

 そういうことは、この子に言ってはいけない。

 

 昌は良い意味でプライドの高い子だ。

 こういう客観的な視点からの分析も慰めだと受け取ってしまい、傷つけられた誇りの分無茶をしてしまいかねない。

 そんなわけで、こういう時の昌には下手にフォローなど入れず、ズバズバと物を言った方がマシだったりするんだよね。

 

 正直、俺は女性(競走ウマ娘除く)の心理には疎い自覚があるんだけど……この辺りはやはり、長年共同生活を送った家族が故だろう、ある程度察しが付く。

 

 今の昌が欲しているのは、精神的な安寧などではない。少しでも前に進み、成長するためのきっかけなのだ。

 であれば俺は、せめて彼女にできる限りのアドバイスを送るだけである。

 

 ……まぁお兄ちゃんとしては、そういう危ういレベルのストイックさが時々心配になったりもするんだけどね。

 

 

 

 さて、話を戻して。

 もう1人のウマ娘についても語っておこう。

 

「一方でライスシャワーだが、先述の通り非常に強力と言っていい。スペックで言えばミホノブルボンに比肩する……とまでは言えないが、間違いなく二番手に当たる。

 とはいえ、昌も言っていた通り、距離の短さが大きく響いてくることも事実。

 ライスシャワーのマイルへの適性は、評価を付けるならCといったところだろう。加えて瞬発力に欠ける彼女の脚は、1800メートルでは真価を発揮し得ない。

 総評としては、俺から見て今回唯一ミホノブルボンに対して勝機のある存在……といったところか」

 

 ウマ娘のレースの勝敗を分けるのは、ステータスだけではない。

 距離やバ場、脚質の適性。コンディションやスキル。当日の天気やバ場状態にコース。そして実際のレースでの展開。

 それらが複雑に絡み合うこそ、時にレースは予想も付かない方向に転ぶことがあるんだ。

 

 しかしながら……。

 それらは決して、計算し切れない程の変数ではない。

 

 徹底した事前調査と考証分析をこなせば、レースの展開っていうのは予測できないわけじゃない。

 当日の天気やバ場状態は不確定ではあるが、これまでの歴史を紐解き、あるいは実際に現地に調査に行けば確率を出すことはできる。

 ウマ娘の能力に関しては……まぁ、誇れることでもないな。ただチートで数字として見えてるだけだ。

 

 謂わば、軽量版ラプラスの悪魔戦法とでも言おうか。

 俺は昔からそうやって、理詰めでレースの結果を予測してきた。

 勿論最初の内は失敗続きだったけど、堀野の歴史を紐解いたり、これまでの主要な重賞レースの映像を片端から見たことで、今はある程度の精度で予測することが可能になったわけだ。

 

 その上で、今回のスプリングステークスの結果を考えれば……。

 

「もしも今回ライスシャワーが勝つとすれば……それは、彼女が領域を会得した時だろうな。

 まぁ、皐月賞時点で領域に目覚めるウマ娘なんて、歴史的に見てもそう多くはないんだが」

「領域……」

 

 俺の言葉を受けて、ブルボンはボソリと呟き、視線を落とした。

 

 

 

 領域。

 クラシック級以上のG1レースを語る上では決して外せない、競走ウマ娘の最終奥義とも言えるものだ。

 

 いや、最終奥義って何? スポ根モノの漫画か? なんて思わなくもないが……実のところ、そんな感覚も段々薄れてきつつある。

 アプリゲームが基になった世界なのか、あるいはこの世界を基にしてアプリゲームが作られたのかは知らないが、俺たちが生きる世界は割とスポ根じみてるからな。

 覚醒だとか奥義だとか、そういうこともままあるのである。

 いちいち驚いてちゃ身が持たない……というか、もはやそれが普通なんだし。

 ……なんか、気付けばだいぶこっちの世界に染まっちゃったなぁ、俺。

 

 閑話休題。

 領域の話なんだけど、これを感じ取ることができるのはウマ娘たちだけだ。

 より正確に言えば、同じレースを走るウマ娘であればその領域の中を覗くことができ、そうでなくとも周囲100メートル程度にいる優れたウマ娘は「あ、誰かが領域使ってるなこれ」となんとなくわかるらしい。

 

 が、それはあくまで彼女たちに限った話。

 人間である俺たちからすれば、ぶっちゃけ「領域? 何それ?」といった感じだ。

 

 いかに目を凝らそうと、感受性を上げようと、人間がウマ娘の領域を感知することは不可能。

 彼女たちが如何にその神髄を披露しようとも、目敏い者が「あ、速くなった」と気付く程度にしかならないんだ。

 

 そして、この世界の人間とウマ娘の比率は、前者にかなり重く傾いているわけで……。

 実のところ、一般社会に領域というものはあまり浸透していないんだ。

 

 認知度で言うと「あ、なんかそういうこと言ってるウマ娘もいるよね? オカルト?」みたいな感じ。

 積極的に否定する程でもなく、しかしながら心から信じられるかと言われると微妙な俗説レベル、というわけだ。

 存在を感じ取れるのがウマ娘だけ、それも素質のあるごく一部のみともなれば、その信頼性が高くならないのは当然と言えるだろうね。

 

 そういう事情もあって、基本的に領域の存在は広く周知されてはいない。

 なんなら去年ウィルが知らなかったように、中央の競走ウマ娘であっても、時にはジュニア級王者ですらも、その存在を知らないこともあり得る。

 

 ……というか、変にウマ娘たちが焦ったりしないよう、むしろトレーナーは情報は伏せることが推奨されてたりもするんだよね。

 領域のことを知るのは、それを開く素質を持つか、あるいはそんなウマ娘と対戦する可能性のある子だけでいい。

 素質が欠けているのに領域を得ようと無茶をするような子も、いないわけでもないからな。

 

 なので本来は、まだクラシック級に入ったばかりのブルボンは、領域を知らなくてもおかしくないんだけど……。

 実のところ、ブルボンは既に、領域について知っている。

 

 ウィルと共に作戦会議に参加する以上、その辺りの話を知らなければ付いて来れないこともあるだろう。

 それに、ミホノブルボンというウマ娘は文句なしのネームド。いずれ領域を習得する可能性はかなり高いはずだ。

 そう判断した俺は、ブルボンと契約してしばらくの頃に、彼女に領域について説明したのだ。

 機械的なまでの高い記憶力を持つブルボンのことだ、今もしっかりと、なんなら一字一句違わず記憶していることだろう。

 

 

 

 ……しかし、その存在を知っているから、だろうか。

 ブルボンは心なしか、焦っているように見えた。

 

 彼女はいつも通りの無表情だし、表には感情なんて殆ど出ていない。そういった様子を窺わせる動作を取っているわけでもない。

 ただ、なんというか……そういう雰囲気を纏っていた、というか。

 

 俺とブルボンの付き合いも、なんだかんだ半年以上続いてるからな。

 多少なりとも彼女のことがわかるようになってきた、ということだろうか。

 

「三冠というミッションの達成に、タスク『領域の覚醒』は必須になるものと思われます。

 どうすれば領域を開けるのでしょうか」

 

 ブルボンの苦悩した声を聞いて、少なからず罪悪感を覚える。

 

 領域のことで担当ウマ娘を悩ませるのは2度目だ。

 ……いや、当時の1人目の担当は、苦戦する状況に楽しみを見出しかけていた気もするし、悩んでいたかは不明だけども。

 

 しかし、ブルボンの目標はウィルと違って明確で、クラシックレースでの勝利。

 そこに関して不安を覚えさせてしまったというのは、ひとえに俺の指導力不足だと思う。

 

 ……とはいえ、領域は競走ウマ娘の秘奥。

 中央トレセンに入学するウマ娘の内、平均して100人に1人くらいしか覚醒できないものだ。

 その上、覚醒するにしても、レースが本格化するクラシック級の4月以降の開花となることが多い。

 

 現時点でブルボンが領域を開けないことが、直接的に俺の指導力不足に繋がるかというと……うん、ちょっと微妙なところだけども。

 

 何はともあれ、彼女にそんな不安を味わわせるわけにもいかないよな。

 俺に出せるだけの情報を提示し、少しでも状況を把握してもらうとしよう。

 

 

 

「どうすれば領域を開けるか。言い換えれば、領域を開く条件か。それは……ウィル、わかるか?」

 

 ふと思い立って視線を向けた先、ウィルは申し訳なさそうに俯いた。

 

「すみません……」

「うん、そうだよな。こちらこそ無理を言って悪かった」

 

 覚醒したウマ娘にとって領域を開くのは、謂わば息をするのと同じ感覚なのだという。

 人間だって、どの筋肉を動かし、どういう原理で自分が呼吸をしているのか、説明できる者は少ないだろう。いたとしても、それは先人が暴いた知識を知っているだけなはず。

 ウマ娘の領域はそれと同じで、「できるようになればなんとなくできる」ものなんだ。

 その上、領域がどのようなものなのか、どうすれば開くのかは、未だに解明されていない。

 

 故に、領域に覚醒したウマ娘に、「どうしたら開けるのか」と聞いても、無意味に終わることが多い。

 自分の体について学んだことのない子供に「呼吸ってどうやってするの?」と聞いた時のように、感覚的な答えが返って来て終わりである。

 

 正直、ウィルの常識外れなところとか、こう見えて理論派なところに、期待しないでもなかったが……。

 そもそも、彼女の走行能力を理論的に分析することが仕事である俺がわかっていないんだ。彼女に期待を寄せるのは筋違いと言ってもいいだろう。

 

 であれば……うん、残念ながら未確定の情報しか話せなくなるわけだが。

 俺はこちらを見据えてくるブルボンに正面から向き合って、口を開いた。

 

「ミホノブルボン。実のところ領域というものは、明確なメカニズムの判明していない、超能力のようなものなんだ」

「超……能力……?」

 

 あっ駄目だブルボンが宇宙ウマになってしまった。

 これは言い方が悪かったな。……まぁ、実際超能力みたいなものっていうのもあながち間違いではないんだけどさ。

 

「いや、いわゆるサイキックパワーという意味ではなく、超常の力という意味でな。

 現時点において、俺たち人類はウマ娘の領域を観測することに失敗している。マイクロレベルでの観測や遺伝子操作を筆頭とした状況再現なども含め、あらゆる手段が施策されてきたが……その尽くが、1つ残らず失敗している。

 つまるところ、領域は『現代科学では解明できない、未知で未開の力』なんだ」

 

 いやはやまったく、これは恐ろしいことだと思う。

 

 人類の知的好奇心は、易々とは止まらない。

 この世界には善性の人間が多いが、だからと言って悪性の人間が絶無と言うわけではない。

 つまるところ、正直目を背けたくなるような過去というのも、確かに存在していた。ちょっと別の話になるけど、堀野家の過去なんかもその典型だろう。

 

 しかし、そういった仄暗いものも含めた多くの試みが、こと領域に関しては1つたりとも成功していないんだ。

 

 つまるところ、そこから導かれる結論は二者択一。

 1つは、現段階の人類文明では、ウマ娘の領域は観測及び解明ができないということ。

 そしてもう1つは、そもそもウマ娘の領域は科学では解明できないものだということ。

 

 理論派の俺としては、前者であれば嬉しいんだけど……。

 転生だとかチートだとかウマソウルだとか領域だとか、そういうなんともファンタジーな要素が出て来てる以上、後者も否定しきれないのが現実である。

 

「故に現状、俺たちは領域について『憶測』はできても、『推測』はできないというわけだ。

 これから俺が話す内容も、そういうものだと思って聞いて欲しい」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 領域を開く条件。

 これに関して、俺は去年の時点では「ウマ娘が心身共に極まった状態であること」以外にロクに絞り込めなかった。

 

 だがそんな怠慢の結果、ウィルに苦戦を強いてしまい、深く反省。

 トレセン図書館の資料などを漁り、帰省した際に資料庫をひっくり返して、領域を開いたウマ娘の状況を比較・検討し続けた。

 

 その結果、それらしい条件を、4つに絞り込むことに成功したのだ。

 

 

 

 まず1つ目、そのウマ娘が心身共に充足し、完成された状態であること。

 

 これは前回想定していた条件を、過去の記録に即して訂正したものになる。

 

 その子がレース前の追い込みを経て、体と心を一欠片たりとも零さずにレースに向けること。

 当然のことのようにも聞こえるが、まだまだ中等部であるウマ娘たちがそこまでレースに集中できるかと言うと、これがなかなか難しいんだ。

 実際、レース当日に絶好調のウマ娘なんて、18人立てのレースでも4、5人程度しかいない。

 その中でも上辺の、いわゆる覚醒状態にあることが条件となると、この条件を満たすことができるタイミングは相当に限られるわけだ。

 

 

 

 次に2つ目、そのウマ娘が自分に合った走りを実現できていること。

 

 前世アプリの、固有スキルの条件を思い浮かべればわかりやすいだろう。

 領域を開くためには、そのウマ娘固有の走り方を実現しなきゃいけない。

 

 例えばサイレンススズカなら、最終直線で1位かつ、番手のウマ娘とある程度差を付けていること。

 例えばホシノウィルムなら、恐らくは終盤に自分の後方1バ身以前に他のウマ娘が走っていること。

 そういう条件を満たして初めて、彼女たちは領域を使うことができる。

 領域に覚醒するためにも、そのウマ娘に向いた走り方を確立しなければならない可能性があるわけだ。

 

 ミホノブルボンの場合、固有発動の条件は「『出遅れ』や『掛かり』を発動させず、最終直線で前の方にいること」だったはず。

 彼女の正確無比な体内時計や独走時のペースキープから考えて、彼女の「自分に合った走り」は、決して乱すことなく一定のラップを刻んだ走りをすること、だろう。

 

 ……そう考えると、やはりまた彼女の掛かり癖が問題になってくる。

 素晴らしい体質と優れた素質を持っているブルボンだけど、やはりこの掛かり癖はかなり大きなディスアドバンテージになっているな……。

 

 

 

 そして3つ目、そのウマ娘が走りを楽しむこと。

 

 これは主に昨年のウィルの状態からの類推で、あまり確度の高い情報とは言えない。

 4つの条件の中でも最も眉唾な、でもこれがあれば色々と納得がいくようになるピースだ。

 

 そもそも、領域というものは前の世界の馬の魂、いわゆるウマソウルによって引き起こされる現象だ。

 では、改めて考えると、ウマソウルとは何か?

 

 前世の……つまり競馬という概念が存在する世界から受け継がれた、馬の魂?

 いいや、違う。ただそれだけなら納得のいかないことがたくさんある。ありすぎる。

 

 

 

 さて、それを考える上で……少し話は逸れるが、転生者の話をしよう。

 いわゆる異世界転生は前世でもメジャーな創作のジャンルだった。

 で、そういった創作における「転生者」は大抵の場合、その世界に大きすぎる影響を及ぼす、恐るべき存在だ。

 

 では、彼らの何が真に恐ろしいかと言えば、それは大雑把に分けて2つ。

 「記憶」と「チート」である。

 

 ゲームなんかでもそうだけど、何の知識もない1周目より、そのゲームのシステムやバランスを理解した2周目の方が、遥かにスムーズに事を進められる。

 具体的には、勝てないはずの戦いに勝てたり、最初は難航するはずの経営に成功してしまったり。

 それだけ、色んなことを「知っている」ことは武器になるんだ。

 

 前世の記憶を持つ、いわゆる人生2周目の転生者もそれは同じこと。

 中世から近世の時代に文明の利器を持ち込んだり、子供の頃から天才児って呼ばれたりと、好き放題できるわけ。

 これが、いわゆる「記憶」の恐ろしさである。

 

 そしてもう1つの脅威が「チート」だ。

 転生者は、よくチートをも持って生まれて来る。ソースは俺。

 これはある意味、記憶以上に恐ろしいものだ。

 なにせチート、つまり「その世界のルールを破って自分の有利に事を進めることができる」能力だ。

 大抵の場合、その世界の中にあるものでは対抗できない。チートプレイヤーを倒せるのは余程の実力者(プロ級プレイヤー)か主人公くらいのものだもんね。

 

 

 

 で、こんなことをつらつら並べて何が言いたいかというと、だ。

 じゃあ、あっちの世界から転生してきてるウマソウルの恐ろしさはどちらか、って話だ。

 

 記憶か? ……まぁ、それもあるだろう。 

 「前世の記憶を垣間見て、その絶望を超える」みたいなシナリオ、実際ありそうだし。

 けど、基本的にウマ娘は前世の馬のことを覚えていない。それは前世アプリでも、この世界でも共通していることだ。

 

 つまるところ、ウマソウルの恐ろしさはもう片方、そのチート性なんだ。

 これをその身に宿すことによって明らかに普通の人間を超える不可思議な身体能力を有して、更には領域という不可思議な技で軽々と自分の限界を超える。

 どう考えたって、これは世界の物理法則(ルール)を超えた力。転生したが故に付与されたチートだ。

 

 つまるところ、極論にはなるが……。

 彼女たちウマ娘の力の源であるウマソウルは、俺の「アプリ転生」と似たようなもの。

 転生チート……と、言えるのかもしれない。

 

 そうである以上、ウマソウル関係のことについて真面目に「どうしてこうなっているのか」などと考えても意味はない。

 転生チートなんて「そういうもの」だ。世界の理の外側にある力を、世界の理で測れるわけもないし。

 

 

 

 さて、そろそろ本題に戻るけども。

 だからこそ、覚醒の条件として「走ることを楽しむ」なんて項目があっても、大して不思議ではないと思う訳だ。

 より正確に言えば、不思議ではあるんだけど、いちいち気にしちゃいられないっていうか。

 

 自分の走りを愛せるか。誰かと競うことを楽しめるか。レースに対して感動を覚えられるか。

 ある意味で1つ目の条件である「心身共に充足すること」にも繋がって来るが、そういった心理的なトリガーがあるのかもしれない。

 

 

 

 ……少し熱が入って長くなってしまったけど、3つ目の条件についてはこれで終わり。

 

 次が最後の4つ目。

 そしてこれが、一番意外に感じるかもしれない項目でもある。

 それは……。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「勝負服だ」

「……勝負服、ですか」

「そう。君も朝日杯で着ていた、あの勝負服。

 あれを着ることも、恐らくは領域会得のための条件の1つだと考えている」

 

 勝負服。

 競走ウマ娘が、G1レースや一部特殊なレースを走る際に身に付ける衣装のことだ。

 

 URAが自らが手掛けるこの服は、どれだけ華美なものであってもウマ娘たちの動きを妨げず、むしろその走りを適切なものへと調整するという、これまた不可思議なチートパワーを持っている。

 そんなチート物体を作れるURA勝負服製作部の技術どうなってんだと思わないでもないけども、今はそれは置いておくとして。

 

 この勝負服、ある程度高い成績を収めたり、あるいはトゥインクルシリーズに大きく貢献したと認められたウマ娘には、URAからそれぞれ1着ずつ贈られる。

 更に特定のイベントに参加するとか、特別な成績を収めるとか、URA賞に選出されるとか、そういうタイミングで2着目以降を貰うことも可能となっている。

 

 俺の担当ウマ娘は2人共、ジュニア級の12月、G1レースに出走する前に1着目を頂いていた。

 更にウィルに至っては、この前のURA賞受賞によって、2着目も貰ったんだが……。

 

 そういう身近なものだからこそ、領域の覚醒とは結び付かなかったのかもしれない。

 ブルボンは軽く頭を捻り、ウィルは素直に疑問を口にした。

 

「えっと……前の3つはわかりますけど、勝負服って領域と何か関係があるんですか?」

「うん、あるっぽい」

「ぽいって……」

「さっきも言った通り、これらはただの当て推量だからな。俺としても、確実と言えるだけの推論を提示できないのは心苦しくはあるんだが……ひとまず今は、勝負服と領域の関係について」

 

 俺が領域と勝負服の関係性を疑い始めたのは、前世アプリが原因だ。

 あっちじゃ勝負服に応じて、領域やスキルなど性能が変わっていた。いわゆる衣装違いってヤツ。

 そういう違いがこの世界にもあるんじゃないかと思って探り始めて……。

 結果として、恐らくはビンゴを引き当てた。

 

 これまでの歴史において、勝負服を受け取らずに領域に覚醒したウマ娘はいない。少なくとも、俺が調べられる範囲では。

 

 勿論、これを「勝負服も受け取れないウマ娘が、領域会得まで昇華できるわけがないから」と切って捨てることは簡単だろう。

 しかし、色々と考えた結果、この2つには繋がりがあると考えた方が納得のいくことが多かったんだ。

 

「俗説だが、領域はウマ娘たちの持つ特殊な『魂』によって起こる現象と言われている。

 つまるところ、君たちが見る領域の景色は、魂に刻まれた原体験、原風景である、という説。

 ……だが、この説には、1つおかしなところがあるんだ」

 

 いや、全部が全部机上の空論すぎて、ぶっちゃけ頭からつま先までおかしなことだらけなんだけども。

 それでも、この一件だけは、決して見逃せない問題だ。

 

 

 

「領域を開く、一流のウマ娘。

 その中でも更にごく一部、超一流のウマ娘は……領域を、複数保有している」

 

 

 

 俺の言葉に、ウィルは息を呑み、ブルボンもパチパチと瞬きした。

 俺は努めて動揺を見せず、何でもないことかのように話を続ける。

 

「近いところで言うと、ドリームトロフィーリーグのシンボリルドルフとオグリキャップだな。

 少なくともこの2名は、領域を2つ持ち、レースによってそれを使い分けている……らしい」

「らしいって……」

「俺たち人間には観測できないが、過去共に走ったウマ娘たちに聞き回った結果、そういう話だった。

 レースによって使われる領域が変わり、それらの領域の風景は、全く異なるものだったと」

「それは……なんて……」

 

 ウィルも領域持ちのウマ娘だ。その奇想天外さを本能的に理解できるのだろう。

 

 本来領域とは、ウマ娘の秘奥中の秘奥、ごく一部の才気溢れる優駿のみが辿り着く至高の境地だ。

 しかし、彼女たちの強さは青天井。

 至高の中には更なる至高があり、2つ目の境地に脚をかける者もいるわけだ。

 

 ……まぁ、個人的には、ウィルの世代からもそこに手をかける子が出てきそうだとは思っているが。

 なにせ最強の大逃げウマ娘ホシノウィルムと、レースの天才トウカイテイオーがいるんだ。

 そのどちらか、あるいは両方がそこに脚をかけても、おかしいとは思わない。

 

「不安を感じる必要はない。この前シンボリルドルフに聞いた話では、2つ目の領域は1つ目の時に比べて、習得が容易になるらしい。勿論相応の努力や心身の充足は必要だろうがな」

 

 シンボリルドルフの言う「比較的容易」が、果たしてどこまで信用に足る言葉かはわからないが……。

 コンディションで「切れ者◎」とか「一生けん命」とか持ってるウィルが、要領の面で他のウマ娘に負けるとは思えない。案外するっと獲得できたりするんじゃないだろうか。

 

 ……いや、流石にそれは慢心が過ぎるか。

 彼女は確かに世紀の大天才だが、俺は彼女のトレーナーとして、それをしっかりと支え、導かなければならない。

 改めて、これからも油断せず、しっかりと彼女をサポートしよう。

 

 

 

「さて、そろそろ話を戻すが、この2つ目の領域の話について、1つおかしな点がある。わかるか?」

「えーっと……」

「回答します。『1つ目と2つ目の領域の間で、内部の風景が一致しないこと』でしょうか」

「ああ、その通り」

 

 ウィルは2つ目の領域という話のインパクトに持っていかれたようだが、ブルボンは冷静に話を聞けていたらしい。

 領域を持たず、その異常性を理解できないが故の落ち着きか。

 あるいは単に、彼女の性格が故か……。

 どちらかはわからないけど、今は彼女の落ち着きが好都合。話を進めさせてもらおう。

 

「領域が『ウマ娘の原体験、原風景を映すもの』だとすれば、異なる領域でも同じものが見られるはずだ。

 勿論、そういった体験や光景を2つ以上持っている子もいるかもしれないが、それにしては2つ以上の光景が観測された数が多すぎる。

 つまるところ、領域内の光景イコール魂の原風景、とするには疑問が残るわけだ」

「なるほど。そして、話の流れから考察するに、それら2つ目の領域を習得したウマ娘は、皆が2着目以降の勝負服を得ていた、と」

「おぉ……流石だな、ミホノブルボン。

 まさしくその通り、オグリキャップやシンボリルドルフは、2着目の勝負服をもらった後に2つ目の領域に覚醒している。

 そういうこともあって、領域の獲得と勝負服の間には何らかの関係がある、と踏んだわけだ」

 

 俺は1つ頷き、持論を展開する。

 

「何故勝負服がウマ娘の領域覚醒のキーになっているのかは、正直なところ妄想の領域を出ないが……思うに勝負服は、領域を一枚の絵とした時、形を作っているのではないだろうか」

「形……」

「ウマ娘の魂は、色だ。形がないから現実に何の影響ももたらさない。

 しかしここに勝負服……言ってしまえば、ファンやURAの思い描くウマ娘の走る姿、夢の形(イメージ)が与えられることによって、初めて現象となって現れる。

 異なる勝負服になれば、与えられる形や模様が変わって、本質()は同一だが全く別に見える光景()が広がる、というわけだ。

 ミホノブルボン、君にも伝わりやすい言い方を選ぶとすれば……そうだな、領域をコンピューターに例えれば、勝負服はプログラミング言語で、魂がその指定内容と言ったところだろうか」

 

 伝わりやすい例えかはわからないが、正直俺の表現力だとこの辺りが限界だ。

 もう少し、日本語の勉強もしておくべきだったかな……。

 

 

 

 少し長くなってしまった話を終え、全員で一息吐く。

 ウィルは複数の領域という事実を受け止めるために、ブルボンは言われたことを整理して記憶するためだろう、ぼんやりと何かを考えていた。

 

 一方昌は……何かメモってるな。なんだろ。

 あ、そう言えば領域の発現条件に関しては情報共有し忘れてた。あーこれ、あとで「事前共有してよ!」って怒られちゃうな、多分……。

 諦めよう、昌の叱責からは逃げられない。せめて素早く済ませるためにじっと聞くのが吉。

 

 ……さて、それはそれとして。

 

 時間は無限ではない。

 そろそろ次の話題に進まなくては。

 

「さぁ、そろそろ次の話題に移ろうか」

「えっと、次の……あ、そういえば次走の作戦会議でしたよね」

「脇道に逸れまくってしまったがな。ブルボンの話は終わったから、次は君の番だ。

 それでは、君の次走、4月5日の大阪杯のことだが……」

 

 改めて話を続けようとした俺の言葉を、ウィルの手が止める。

 

「その前に、いいですか、歩さん」

「なんだ?」

「正直ちょっと理解が追い付いてないんですけど、つまり……2つ目の領域を得るためには、2着目の勝負服を着なきゃいけないってことでいいんですかね」

「多分、おおむねその理解で間違っていない……と思う。その可能性が高い、と言えるはずだ」

「うわ、今まで聞いた兄さんの言葉の中で一番自信なさげ」

「ほっといてよ、俺は本来、こういうの苦手なんだから……」

 

 俺が多少なりとも得意にしているのは、蓄積されたデータと理論に基づく、推測と演算。

 こういうファンタジーでメルヘンな超常的サムシングなんて管轄外にも程があるんだよ。

 

 昌の茶々に対して、俺がちょっとだけ辟易とした気分になっていると……。

 ウィルはその拳をぐっと握りしめて、その身を俺の方に乗り出してきた。

 

「2つ目の領域、すっごく興味あります! 身に付けてやりましょう、私と歩さんの2人で!

 そのためにも、大阪杯は新しい勝負服で出ましょう。URA賞の時にもらったヤツのお披露目です!」

 

 

 







 前後編にしたのに尺が収まり切らず、ウィルの対策パートが入りませんでした。
 なんで??? 2万文字書いてるのになんでたどり着けなかったの??? はい、領域の話ばっかりやりすぎでした、反省します……。
 大阪杯のライバルたちのことや、ウィルがどういう走りをするかは、後々のお楽しみということで、よしなに。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、ライスとスタートダッシュの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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いわゆるサポカ完走イベント

 書きたい内容多すぎて全然追い付かず、結果として一部キャラがあんまり登場しないという憂き目に遭ったりしてるのが最近の悩み。
 本当はミーク先輩との会話とかもっと書きたいんだけど、尺が……。





 

 

 

 これはもうファンの皆にすらバレてる秘密なんだけど、私は自主トレが好きだ。

 

 何事もそうだけど、準備期間が一番楽しいじゃん?

 遠足で言えば前日の夜。文化祭で言えば設営中。TCGで言えばデッキ構築。ゲームで言えばストーリー進行中。

 目標に向かって1つ1つ課題をこなし、自らの能力やできることを増やしていく。

 それはやっぱり、こう、達成感が満たされる行為なんだ。

 

 で、私にとって自主トレは、そういうのと同じような感覚なんだよね。

 自分を追い詰めて、次回のレースを有利にする。熱いレースをするために、万全の準備を整える。

 それ自体も充実してて楽しいし、やればやる程どんどん自分が強くなる実感があるから、ついつい夢中になってしまう。

 ゲームでレベル上げをしてるような気持ち……と言えば伝わりやすいかな。

 

 とはいえ、現実の筋トレは、ゲームのレベル上げとは違う。

 本質的には自分の体を虐める行為だし、そりゃ当然痛かったり苦しかったりするんだ。

 もうちょっと忌避感があってもおかしくないんだろうけど……。

 

 私の場合、幼少の頃のアレのせいで感覚がおかしくなってるというか、耐性が付いているというか。

 「走る」という事柄に関しては、どれだけ苦しかろうと、特に嫌だと思うことはないんだよね。

 

 

 

 そんな私にとって、歩さんはかなり相性の良いトレーナーなんだと思う。

 なにせ限界ギリギリを見極める、スパルタ寄りで最適なトレーニングプランを立ててくれるからね。

 

 彼の付けるトレーニングの厳しさは、中央のウマ娘の中でも噂になるレベルだ。

 まぁその実際のところは、厳しいっていうか、適切っていうのが感じなんだけどね。まだまだ行けるって思っても「今は休め」って言われることも多いし。

 ただ、精神的にかなり厳しい状態でも体力が残ってたら「まだ行けるぞー」って発破をかけられるのは事実だから、その辺りが注目されがちなんだろうけどさ。

 

 私は実感できないけど、集中力が乱れて怪我をする直前まで追い込まれるのって、普通のウマ娘にとってはかなりキツいんだろうなぁ。

 今年になってから何度か来た、しつこく歩さんに契約を迫る新入生ちゃんたちも、試しにトレーニングしたらすぐ脱落してたし。

 

 私のように苦痛に耐性があるか、あるいはそれを押してでも走りたい理由を持ってないと、歩さんの担当になるのは厳しいかもしれない。

 逆に言えば、その精神的な負荷にさえ耐え切れれば、最高のトレーナーの下でこれ以上なく成長できるチャンスとなるわけだけども。

 

 

 

 さて。

 そんな鬼畜……もといスパルタトレーナーの下で、私ことホシノウィルムはご指導ご鞭撻を受け、更に追加で自主トレまでやっているわけで。

 ちょっとオーバーワークなんじゃないかって気もするけど……。

 

 それはそれ、これはこれ。

 デザートと自主トレは別腹って言うもんね。

 

 今は歩さんも、私が自主トレをする前提でトレーニングメニューを組んでくれてるんだもん。

 もはや自主トレをやめる理由はないと言っていい。私は自由の身なのである。

 

 それに……今は自主トレも、1人きりのものじゃない。

 ここ数か月は、そんな自主トレに付き合ってくれる、健気な後輩ちゃんもいることだしね。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 3月に入って、段々暖かくなってきた夜の闇の中。

 トレセン学園近くの歩道、ウマ娘専用レーンに、2人のウマ娘の足音と声が響く。

 

「はっ、はっ、くうっ……!」

 

 私の隣を走るのは、最近はもう見慣れてきた黒鹿毛のウマ娘、ライスシャワーちゃん。

 将来的にはブルボンちゃんとクラシックレースを競うことになるだろう期待の新鋭で、私にとっては歩さんとの勝負に関わって来る要素の1つでもあり、同時に懐いてくれている可愛い後輩の1人でもある。

 

 私と彼女は今日も今日とて、夜の自主トレに励んでいたのであった。

 

 

 

 ライスちゃんと自主トレを共にするようになって、数か月。

 基本はひたすら走り込み、時々2人で柔軟とか無酸素運動って感じの雑な自主トレだったけど……。

 昼のトレーニングの成果も出てるんだろう、ライスちゃんは結構強くなってきたと思う。

 

「いやしかし、ライスちゃん、どんどんスタミナ付くね。流石ステイヤー気質だ」

「でも、お姉さまには……ふぅ、全然っ」

「そりゃライスちゃんが本格化後1年なのに対して、私は2年だからね。そうそう簡単には負けてあげられないよ」

 

 私の自主トレは、歩さんの組むメニュー程ではないにしても、結構ハードな方だと自負してる。

 そこまでペースを上げることはないにしろ、ずっと走り続けるわけだしね。

 殊にクラシック級の子が付いて来ようと思えば、肉体的・精神的共にかなりの負荷があるはずだ。

 

 そのはずなのに、ライスちゃんはかなり食いついて来る。

 去年自主トレを始めた頃は、ちょっと走ったらバテちゃって休憩してたのに、今じゃそこそこ付いて来れるようになったんだ。

 

 単純にスタミナを付けているってのもそうだけど、私のペースに併せることにどんどん慣れてきてるっぽい。

 やっぱりライスちゃん、歩さんが言っていたように、誰かに併せる才能を持ってるのかな。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ライスちゃんの取るメインの脚質、先行。

 これは、ある意味で最も実力の出しやすい脚質として知られる。

 

 逃げは、自然と前半にハイペースでの走りになるのでスタミナを消耗しやすく、また他のウマ娘が適度に競り合って来なければ闘争心や根性も出にくい。

 差しは、先行集団に進路を塞がれやすく、垂れたウマ娘に影響を受けたりすることも珍しくない。

 追込は、進路の影響やバ場の状態に最も影響を受けやすく、レースの展開に依存した走りになる。

 

 それらの脚質に比べると、先行はあまり運の要素に左右されない走り方と言えるだろう。

 

 だからこそ、自分のスペックに自信のある子……それこそマックイーンさんやテイオーのような、一線級のウマ娘もこれを選ぶことが多いわけだけど……。

 ライスちゃんの場合は、この「付いて行く」才能が故の選出なのかもしれないね。

 

 

 

 先行っていうのは、言ってしまえば「逃げウマ娘に付いて行く」戦法だ。

 突き抜けて独走しレースのペースを作る逃げウマ娘。

 これに対して食い下がり、距離を離され過ぎないように距離をキープする。

 そして終盤、第3コーナーあたりからスパート。逃げウマ娘との距離を詰めて、差し切り、ゴールする。

 

 流石は王道と言われるだけある、非常に隙のない戦法だけど……勿論、弱点がないわけじゃない。

 逃げの次に前めかつハイペースで走る分、スタートダッシュの上手さやスタミナの多さが必要となる。

 王道の脚質だからこそ競合率も高く、その先行集団の中で勝ち切るだけのパワーと根性、機転も必要。

 総合的に、自分のスペックが強く結果に表れる分、求められるものも多くなってくるらしい。

 ……以上、去年入院してた時に、テイオーが自慢気に言ってた内容でした。

 

 しかしその点で言えば、ライスちゃんは結構先行に向いてると思うんだよね。

 なにせ彼女は、ジョギング程度とはいえ私に……逃げウマ娘に付いて来るセンスとガッツがある。

 それに去年から見れば、かなりのペースでスタミナも伸びて来てるわけで。

 

 強いて言えば、機転の良さは……うーん、どうなんだろう。

 彼女と走ってると、時々不幸なハプニングが起こるんだけど、そういう時はわたわたしてる印象が強いんだよな。

 

 まぁ日常生活とレースの時で、全く違う姿を見せる子はいる。私とかもその気はあるし。

 前世アニメでそうだったように、レース中にだけ覚醒して、目から青い炎まき散らしながら万難を跳ねのけて突っ走る強キャラに覚醒する可能性はある。

 

 そうなるとやっぱり、ライスちゃんはかなりの難敵になるかもしれないな。

 マックイーンさんに似て長い脚が使えて、ガッチリとこちらをマークして離さない、刺客のようなウマ娘……か。

 

 いやぁ、未来のライスちゃんと走るのが今から楽しみだわ。

 どこまで私に迫ってくれるんだろう、どこまで私を追い詰めてくれるんだろう。

 あぁ……その日のことを考えると、今からゾクゾクするね。

 

 

 

 ……さて。

 そんな明るい未来を待つためにも、そして歩さんに勝つためにも、ブルボンちゃんに皐月賞を楽しんでもらうためにも……。

 ライスちゃん強化計画、始動だ。

 

「ライスちゃんライスちゃん、スタートダッシュの練習はしてる?」

「はっ、はっ……へ? あ、おわっ!?」

「おっと」

 

 咄嗟に「アニメ転生」、スイッチオン。

 

 ゆっくりと進む……というか、思考が加速しすぎて止まったに等しい世界の中で、視覚と聴覚から状況を把握する。

 

 ライスちゃんは……あぁ、体勢崩してる。

 疲労でちょっと意識が朦朧としてたところに声をかけちゃったからか、何かに足を取られて転びかけてるみたいだ。

 

 軽くジョギングしてる程度の速度だ、仮に転んでも足を擦りむくとかその程度で終わると思うけど……。

 まぁ、万一のこともあるし、アクシデントは防ぐに限るね。

 

 状況整理と体の動かし方を脳内でしっかり整え、無事ライスちゃんの体を支えることに成功。

 

 「アニメ転生」、チートって言うにはちょっと地味な能力だけど、便利さではピカイチだよね。何かあったらひとまず使っとけば、慌てる必要なくなるし。

 

 1回使ったら数時間使用不可になるとはいえ、使用するごとに何かが擦り減るってこともなさそうだし、使わずに腐らせるよりは使った方がお得だろう。

 発動条件に「走ってること」があるとはいえ、やろうと思えば走ること以外にも使えちゃう便利系チート能力だ。なんかグリッチみたいで申し訳ないけど、ガンガン使わせてもらおう。

 

 

 

 ……と、思考が逸れちゃった。今はライスちゃんのことだ。

 足首を捻ったり、変に体を捻ったりしないように気を付けて、腕の中にあった彼女の体を下ろす。

 

「大丈夫? ごめんね、急に声かけて」

「あ、いっ、いえっ! こっちこそごめんなさい……じゃなくて、ありがとうございますっ!」

「いーよいーよ、怪我なんてされたら寝覚めが悪いし。

 ちょうどいい、ここらでいったん休憩しようか。いい加減ライスちゃんも限界近いでしょ?」

 

 そう言われて改めて疲労を感じたのか、ライスちゃんは力なく頷く。

 ……あー、脚ちょっとカクカクしてら。こりゃ歩かせない方がいいかな。

 

「よし、じっとしててね」

「え? あっ、え!?」

 

 改めて、ライスちゃんの背中と膝に手を回して持ち上げ、お姫様抱っこの体勢。

 

 人間だった頃なら結構腕に負担かかっただろうけど、ウマ娘の筋力は人間より遥かに強く、そのくせ体重は人間とそこまで変わらない。

 その上、私はアスリートとして、脚と同時にちゃんと上半身も鍛えてるからね。

 だからこそ、こうしてお姫様抱っこもできるってワケよ。

 

「え、ふぁ、えぇ~っ!?」

「あ、こらこら暴れない。ほら、ベンチ座って」

 

 なんかわちゃわちゃしだしたライスちゃんを抑え、近くのベンチに持ち運ぶ。

 まったく、想定外の悪運が起こった時にわたわたしちゃうのは、ライスちゃんの悪い癖だと思うよ?

 いや、急に抱き上げたのは確かに距離感バグというか、マナー違反だとは思うけどさ。

 

 しかしライスちゃん、改めて抱え上げると……すっごく軽いな。

 体格は、相変わらず成長を見せない私と同じくらいなんだけど、予想よりも全然重さを感じない。

 人間だった頃の感覚で例えると、5キロくらいのお米の袋持ったくらいだ。

 ライスだけに。

 

 ……ライスだけに、ね!

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ライスちゃんをベンチに座らせ、近くの自販機で買ってきたスポドリを渡した。

 私も買ってきたヤツを飲みながら、彼女の状態を観察。

 

 時折スポドリを飲みながら、なんとか息を落ち着かせようとするライスちゃん。

 まだ脚は震えてるし……いや、なんなら手もプルプルしてる。

 焦点は……ギリギリ定まってるけど、視線自体がちょっと揺れてるか。

 

 ……うーん、思ったより疲れてるな。というか、本当に限界ギリギリだった感じ?

 この子、前世アニメでもどちゃくそストイックな描写あったし、もしかしなくとも歩さんと同じ、努力の鬼というか、やりすぎちゃうタイプなのかね。

 

「ライスちゃん、そんなにフラフラになるまで走るのは駄目だよ。キツかったらちゃんと言ってね」

「で、でも、お姉さまに、迷惑が……」

「可愛い後輩に併せるなんて、全然迷惑に感じないよ。

 ……っていうか、ちょっと言葉が強くなっちゃうけど、万が一それで怪我なんかされたら、ホントに迷惑になっちゃうからさ」

「う、そう……ですね。ごめんなさい、気を付けます」

「うん、そうして。あんまり言うこと聞かないなら怒っちゃうからね?」

 

 軽く釘を刺してから、さっきも出した本題に入る。

 

「さて、改めて。ライスちゃんはスタートダッシュの練習はしてるかな?」

「えっと、それは……あう、言っていいのかな……」

 

 「言っていいのかな」……か。

 あぁ、そうか。そりゃそうだよね。

 

「あー、ごめん、不躾なこと聞いちゃった。今のはなかったことにして」

 

 私は一応、ライスちゃんのライバルになり得るブルボンちゃんと同じ陣営に属しているわけで。

 この聞き方じゃ、まんま情報を抜こうとするスパイだよね。

 

 私としては、むしろライスちゃんを勝たせようと……いや、ブルボンちゃんの本意が叶わないのも悲しいので「勝たせよう」までは行かなくとも、「良い勝負をさせよう」と思ってるんだけどね。

 

 

 

 ぶっちゃけると今のところ、ブルボンちゃんとライスちゃんの間には、埋めがたいスペックの差がある。

 

 歩さんも作戦会議で言ってたけど、今度のスプリングステークスだと「ブルボンちゃんが領域に目覚めず、なおかつライスちゃんが領域に目覚めた」場合に、初めて勝てるレベル。

 更に言えば、あの作戦会議ではちょっとぼかした言い方してたけど、歩さんが言ってた「勝てる」っていうのは「勝機が発生する」って意味だ。

 実際には、ブルボンちゃんが掛かってスタミナをロスしてしまい、更にライスちゃんにとって理想的な展開でレースが進み、その上で領域を開けば勝てるだろう……といった感じか。

 

 勿論、今回のレースはマイル距離。ブルボンちゃんに有利で、ライスちゃんに不利な条件だってこともあって、ここまでの格差が発生するわけだけど……。

 

 ぶっちゃけブルボンちゃん、伸びがヤバいからなぁ。

 

 歩さん曰く、彼女は「君程ではないが、すごく素直に成長する体」だそう。

 更にその上であのストイックなトレーニング姿勢を見せてるんだもの。

 ブルボンちゃんは成長性の才能と努力の才能を両方持ってるわけだ。心技体の内、心と体の面では天性の才を持ってると言っていい。

 

 それに比べてライスちゃんは、心と技には素質があると思うんだけど、体の才能は頭1つ劣ってる。

 私がライスちゃんに色々教えて、それでようやく互角……に近付く、くらいじゃなかろうか。

 

 というか、このままブルボンちゃんが歩さんプロデュースで育っていけば、下手すると無敗のまま三冠とか取れちゃうレベルに成長するかもしれないんだよね。

 そしたら自然、彼女も今年のジャパンカップなり有記念なりに出走することになって、私とも戦うことになるわけで……。

 更にそこに、ブルボンちゃんと同等に()れるライスちゃん、蜘蛛の巣のような策謀を巡らすネイチャ、シンプルに激強なテイオーにマックイーンさんも加わって来るわけで……。

 

 うへへ、楽しみだな。

 今年最後の祭典、絶対最高のレースになる。

 というか、私がそういう舞台にしてやるぜ。

 

 

 

 ……あ、ちょっと思考が逸れちゃった。

 そういう今年の最終目標のためにも、今はとにかくライスちゃんを鍛えなきゃだ。

 

「ライスちゃんから情報を抜こうって意図はないよ。というか、こうして一緒に自主トレしてくれる仲だもん、少しでも力になれたらって思うんだ」

「お、お姉さま……でも、ブルボンさんは……」

 

 おぉ、心優しい。

 ライスちゃん、私の立場を気にしてくれてるんだ。

 

 でも大丈夫、そこに関してはトレーナーにも許可取って勝負ってことになったし……。

 その後、ちゃんとご本人にも確認を取ってるんだ。

 

「大丈夫。ライスちゃんに手を貸していいかって訊いたら、『問題ありません。私はマスターと共に勝利を目指すだけです』ってさ」

 

 ライスちゃんには言わないけど、むしろ「マスターと出会えたのはウィルム先輩のおかげでした。その時点で、先輩からは十分以上に助けられています。どうか私のことは気にせず、先輩のしたいと思うことをなさってください」って言われてしまった。

 

 私の後輩が良い子すぎて泣ける。

 こんなこと言われたら、ブルボンちゃんの方にも手を貸したくなっちゃうよ。

 ま、歩さんがいるし、私の助けなんて不要かもしれないけどさ。

 

 私にできるのは、精々ブルボンちゃんがライスちゃんとのレースを楽しめるよう、ゲームバランスを調整するくらいです。

 

「そんなわけで、ちょこっとだけ手助けさせてほしいんだ。ライスちゃんのこと。

 私の勝手なエゴで、もしかしたら迷惑になるかもしれないけど……駄目かな」

 

 私がそう言うと、ライスちゃんは……嬉しそうに微笑んでくれた。

 

「お姉さま……やっぱり、お姉さまだ」

 

 いや、お姉さまじゃないけども。

 ……いい加減、聞いちゃおうかな、こういうとこ。

 

「そういえばライスちゃん、なんで私のことお姉さまって呼ぶの?」

「あっ、その……駄目、ですか……?」

「いや駄目じゃないけど。え、血縁とかないよね?」

 

 え、流石にそんな展開ないよね?

 せっかく両親への想いを纏め終わったのに、ここから隠し子とか腹違いとか出てきたら、ちょっと心の整理が付かないよ?

 

 困惑する私に対して、ライスちゃんは……疲労で上気する頬に手を当てて、口を開く。

 

「その……『お姉さま』っていうのは、ライスの……憧れなんです」

 

 

 

 ライスちゃんは少し恥ずかしそうに、彼女の過去を語ってくれた。

 

 彼女は昔から酷い不幸体質で、自分が不幸を起こした結果「誰かを不幸にしてしまうこと」を極端に恐れていた。

 そんな彼女にとっての心の支えが、「しあわせの青いバラ」という絵本だったのだという。

 

 庭園の中で1本だけ咲いた、珍しい青いバラ。

 しかしそのバラは、物珍しさから「不幸を引き起こす」と避けられ、恐れられてしまう。

 青いバラ自身もその状況に耐えられず、果てには萎れ、枯れかけて……。

 

 しかしその時、「お姉さま」が青いバラを引き取りに来る。

 青いバラを恐れず、むしろその美しさを評価してくれる女性。

 青いバラは彼女の愛を受けて煌びやかに咲き誇り、その家の窓辺に飾られて、たくさんの道行く人を幸せにしたのでした。

 めでたし、めでたし。

 

 ……と、そんなお話らしい。

 

 多分ライスちゃんは、その青いバラと自身を重ねてしまったのだろう。

 そこにいるだけで、誰かを不幸にしてしまう。

 ライスちゃんの中では、自分はそういう存在なんだ。

 

 だからこそ、そんな青いバラが救われる物語に、救いを覚えた。

 自分が救われたような気持ちになったんだ。

 

 

 

 ライスちゃんの過去語りがいち段落したところで、私はふと首を捻った。

 

「……あれ」

 

 いや、待てよ?

 その話の流れだと……私のことを「お姉さま」って呼ぶのは……。

 

 襲い来る嫌な予感に冷や汗をかく私を前に、ライスちゃんは少しばかり照れながら、しかしキラキラと輝く瞳で私の方を見て来くる。

 

「それでライス、皐月賞を見て、お姉さまのことを知って!

 最初は期待されてなくて、それでも走り続けて、皆を笑顔にしてたお姉さまが、すごく格好良く見えて……ライスも、ライスもああなりたいって思ったんです!」

「あ、そ、そうなんだ」

 

 そ……そういう感じ?

 確かに私、ホープフルステークスに勝つまでは殆ど人気なかったし、なんなら皐月賞の時には悪役扱いされてたけどさ。

 

 そっか、ライスちゃんの境遇的に、ちょっと感情移入しちゃったかー……。

 

「……それにウィルム先輩は、『ライスも変われる』『自分の力で変わるんだ』って言ってくれた。

 その先で待ってるって、そう言ってくれたんです。

 だから先輩は、ライスにとっての目標で、ライスを導いてくれたウマ娘。

 庭園から窓辺へ、ライスが走るべき方向を示してくれた……ライスにとっての『お姉さま』なんです!」

 

 ……え、っと。

 

 お、おう。

 

 いや、なんだろうな、思ってたより全然重いぞこれ。

 私、いつの間にか想定以上にライスちゃんに好かれちゃってるんだが?

 

 正直、当時の私としちゃ、ライスちゃんを助けるのは「アニメでもカッコ良かったし、強くなってくれると嬉しいなぁ。もっともっと楽しいレースしたいなぁ」くらいの気持ちだった。

 しかし、当時割と追い詰められてたらしいライスちゃんには、そんな私の言葉がクリティカルヒットしてしまったらしい。

 

 対人コミュニケーションって難しいものだ。

 意図しない言葉で相手を傷つけてしまうこともあれば、その逆もまた然りで、何気ない言葉に救われるようなこともある。

 私だって歩さんの言葉に救われたから、その気持ちはよくわかる。

 

 わかる、んだけども!

 

 実際に当事者になると、すごい動揺しちゃうよこれ!

 べっ、別にライスちゃんを救おうと思って言ったんじゃないんだから!

 ただお互い楽しく走れたらいいなって思っただけなんだからね!

 

 というか私じゃなくてブルボンちゃん! ブルボンちゃんの方に行ってほしかったんだけどなぁ!

 ミホライには需要があってもホシライなんか誰も求めてないんだって!

 

 

 

 内心の動揺を押し殺し、懸命に落ち着こうとしていると……。

 

「だから、その、先輩がよければ、これからもお姉さまって呼んでいいですか……?」

 

 ライスちゃんは、恐る恐るといった感じで訊いて来た。

 

 正直、私に「お姉さま」は重すぎると思う。

 だって私、スパダリならぬスパハニではないもん。いつだってライスちゃんの望んだ答えを返せるとは限らない。

 私は私、ホシノウィルムだ。青いバラを救うお姉さまとは、少なからずイメージの差異もあると思う。

 

 ……でも、この子のお願いを拒めるか?

 

 体格は自分と同じくらいなんだけど、前世で大学生まで成長したってこともあって、ライスちゃんはどうしても年下の女の子っぽく思えてしまう。

 そんな子が、不安そうにうるうるとその瞳を潤ませて、ゴリゴリに保護欲を刺激して来るんだ。

 

 拒めるか、これ??

 

 

 

「……私、ライスちゃんが思ってる程、立派なウマ娘じゃないよ。ただ運良く最高のトレーナーに巡り会えて、最高の機会が与えられた、ラッキーなウマ娘ってだけ。

 それでもいいなら……うん、自由に呼んでいいよ」

「あ、ありがとうございますっ!」

 

 ……あー、弱い。私弱すぎる。

 

 でも仕方なくない? ライスちゃんだよ? 前世アニメで見た、とんでもなく頑張り屋さんで、逆境の中でも懸命にひた走るライスちゃん。

 この子から、こんな風に求められて、断ることなんてできないでしょ。

 できるヤツがいたとしたら多分、人の心がない。あるいはウマの心がない。

 

 

 

 私は「えへへ」と可愛らしく笑うライスちゃんを見ながら、内心でこっそりとため息を吐いた。

 

 おかしい。

 私、ミホライが見たかっただけなんだけどなぁ……。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、お姉さま呼びとかお姉さま扱いは、もう受け入れるとして、だ。

 そろそろ本題に戻らねばならない。

 

「それじゃ、改めて。私としてはライスちゃんを手伝いたいなぁと思ってる。どうかな」

「はいっ、是非! お姉さまに教えてもらえるなら百人力です!」

 

 ライスちゃんは腕をまくり、ぐっと力こぶを作ってみせた。可愛い。

 懐いてくれた子犬を幻視して全力で撫でまくってあげたくなったものの、渾身の自制心でそれを押しとどめる。

 くっ、魔性の黒鹿毛ちゃんめ……! 私を誘惑しようったってそうはいかないぞ!

 

「ありがとう。それで、教えるならまずはやっぱり、スタートダッシュかなと思うわけだよ」

「スタートダッシュ、ですか?」

 

 ベンチに座ったライスちゃんの横で、私はぴっと人差し指を立てた。

 

「ほら、ライスちゃんのトレーナーさんって、トレーナーとしての経験が浅いじゃん?

 歩さんと同期ってことは、ぶっちゃけ差しウマ娘であるネイチャしか経験してないわけで。

 そうなると、先行ウマ娘のライスちゃんにとって大事になるだろうスタートダッシュの肝要さも、知識では知ってても体感できてない可能性がある……と、私は愚考するわけよ」

「トレーナーさんは……」

 

 弁解するように口を開きかけたライスちゃんを、慌てて手で制する。

 

「あ、待って待って。さっきも言った通り、ライスちゃんから情報を貰おうとは思ってないよ。

 だから教えないでオッケー。これも、私の独り言みたいなものだと思ってもらえば大丈夫」

 

 私、嘘を吐いたり仮面を被るのはすごく上手い自信あるけど、もし歩さんに「頼むから教えてほしい」って言われたら断りきれる気がしない。いわゆる惚れた弱みってヤツだ。

 ライスちゃんの情報アドバンテージを守ることを考えると、そもそも秘密を知らないのが一番ってわけ。

 ……まぁ、歩さんがそんなことを求めるかと言えば、多分そんなことはしないんだけどさ。

 

「まぁ実際、ライスちゃんのトレーナーさんがスタートダッシュをちゃんと教えてるかはわかんないんだけどさ、もし仮に教わってたとしても、追加で私から体感的なところを学ぶのも悪くはないでしょ?

 そんなわけで、私は勝手にライスちゃんに教えちゃおうと思います。

 私が一番最初に歩さんに教わったこと。最近、改めて練習してること。逃げとか先行を取るウマ娘が覚えるべき、ゲートの中での集中力……。

 歩さんの言葉を使えば、『コンセントレーション』ってヤツをね」

 

 

 







 「コンセントレーション」のヒントLvが5上がった

 そんなわけで、ライス強化パッチでした。
 無敗三冠ウマ娘による理論解説&見取り稽古なわけで、ヒントレベルが急上昇するのも多少はね。
 というか本作では、ヒントレベルは基本的に他のウマ娘の技を見て盗む感じ。目の前でご丁寧に何度も見せてくれれば、そりゃ一気に上がります。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、釣りと対策の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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三歩の計

 ティアキン面白過ぎて全然執筆ペース戻せないし、ぼざろの方も更新滞っちゃってるし、もう神ゲーはこりごりだよ~!





 

 

 

「つまるところ、あのレースは後半に入った時点で、既に負けが決まっていた、と」

「ああ。後半の君の走りには、ケチをつけるべきところがなかったからな。逆に言えば、前半のミスが故に敗北したと言えるだろう。結果論だけどな」

「む……。それ、喜ぶべき評価なんでしょうか」

「ミスのない、完璧と言っていい走りだったからな。そこは誇っていいと思う。……500メートル地点の躊躇を除けば、だが」

「もう、何回言うんですかそれ」

「それだけ残念だったんだよ。前日……いや、1週間前にでも起きていれば、もっと君を万全に走らせることができた」

「……後悔、ですか?」

「ん……いや、未練だね、これは。君のトレーナーとして、俺はいつだって君を支えていたかった。レース当日に君の横にいられなかったのは、一生の不覚だよ」

「それは……歩さんには申し訳ないですけど、そう思っていただけるのは嬉しいですね」

 

 3月上旬、いよいよ本格的にG1レース群が始まる、その前に。

 俺と担当ウマ娘のホシノウィルムは、どこかぼんやりとした、緩い会話を交わしていた。

 

 その内容は、反省会交じりの雑談って感じ。

 彼女の本業の1つであるレースに関わる話ではあるが、殊更に重要度が高いわけではなく……。

 どちらかと言えば、暇を潰すための話題作り、という側面が強い。

 

 現に、さっきまではウィルが最近仲良くなったウマ娘や、来年のクラシックレースについて話していた。

 つまるところ、この退屈を誤魔化せさえすればなんでもいいのだ。

 彼女と話すことであれば、俺はどんな内容でも楽しいからな。時には雑談も悪くない。

 

 彼女の方も楽しめていればいいが……。

 そう思い視線を横に向けると、ウィルは薄く、不気味な微笑を浮かべている。 

 少なくとも、憎からずは思ってくれている……のかな。だとしたら幸いだが。

 

 

 

 さて。今しているのは、雑談レベルの話ではあるが……。

 だからと言って、完全に無益というわけでもない。

 

 競走ウマ娘は体を鍛えることも重要だが、同時に知識の方も高い水準で要求される。

 それを身に付けるには、座学……前世アプリで言うところの、賢さトレーニングに勤しむ必要がある。

 

 が、俺の1人目の担当ウマ娘は、とかく走ることが好きだ。

 なんなら全ての興味・モチベーションがそこから発生しているとまで言ってもいいレベル。

 

 故に、「レースを万全に走るために必要だから」とトレーニングの時間に座学を要求すれば、彼女は受け入れてこそくれるんだが……。

 ほんの僅か、恐らく出会った頃では気付けなかった程度ではあるが、悲しそうな表情をしてくるんだ。

 

 堀野歩は、ホシノウィルムの契約トレーナーだ。

 彼女をレースで勝たせること、競走ウマ娘としての彼女を支えることこそが、俺の本業である。

 故に、必要であれば彼女が嫌がることでも、させる義務がある。

 

 ……が。

 彼女に好感を覚えている俺個人としては、やはり彼女にはできるだけ笑顔でいてほしいわけで。

 こうした何気ない瞬間に彼女のレースへの理解度を深め、出来るだけ座学の時間を減らしておくのは、少なからず有益な行為なんだと思う。

 

 そんなわけで、本格的なものではなく雑談程度ではあるが、俺とウィルはあのレースについての話をしているのだった。

 

「しかし、そうですか、あの時……。ターボが粘るの無視するか、そもそももう少し早仕掛けしてれば?」

「うん。500地点でなら間に合ったとは思うが、600は遅すぎたな」

「やっぱり、ターボが粘った分遅れちゃったのが悪かった、と」

「まぁそうと言えばそうだが……レース中に正確な状況判断を下すのは難しいからな。君の『思考力増加能力』でも使わない限り確実なものにはならないさ。

 今回は結果的に、君の慎重な判断が裏目に出た、というところだ」

「慎重っていうか、立ててきた戦術に固執しちゃった感じですね。ちょっと言い訳じみてますが、これまで歩さんにもらってきた作戦、かなりの精度で有効でしたから……今回もついつい予定してた通りの戦術に頼っちゃったというか」

「あー……。なんというか、すまん」

「謝る必要はないですよ。ただ愛用の得物が使いやすくて頼り切りだった結果、それが手元を離れた途端に大幅弱体化したってだけです。つまり、私の慢心故のミスですって」

 

 歩さんがいないとレースって難しいですねぇ、「これ」と違って。

 そう言って、俺の担当ウマ娘は、手に持っていた竿を軽く揺すった。

 

「……いや、こっちも難しいんだが? 俺の方は今のところ逃げられっぱなしなんだが?」

「それはトレーナーがド下手なだけですって」

「ド下手て。誹謗中傷は現代じゃ炎上の元だぞ」

「ヒット自体はするのに3回中2回逃がして1回に至っては竿持っていかれた人がド下手じゃなくて誰がド下手なんですか」

「真実は時に人を傷つけるんだぞ」

 

 俺はウィルのために持ってきていた予備の釣り竿を握り直し、軽くため息を吐いた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 競走ウマ娘のトレーナーにとって、1年で最も忙しい時期はいつか。

 この問いへの答えは状況によって変わり、いくつか考えられるが……。

 俺の場合、それは4月と12月となるだろう。

 

 12月は、まぁ当然ながら忙しい。

 1年の締めくくりということで色々な調整・連絡・挨拶が必要になる上、年末の大一番有記念が開催されるのだ。

 師も走る季節とはよく言ったもので、この期間はとてもじゃないが余暇などない。休日返上どころか不眠不休になりかねないくらいには多忙になる。

 

 そして、4月……厳密には、3月末以降。

 あまり世間には知られていないが、トレーナーにとってはこの時期もこの時期で忙しかったりする。

 今年の重賞レースが本格的に始まる時期であり、大阪杯や天皇賞といった、いわゆる春のG1レースも開催され始める頃合い。

 その上、年度の初めということで色々と処理せねばならない書類も増えるし、4月頭にはトゥインクルシリーズ春のファン大感謝祭があるんだものな。

 

 ……いや、改めて考えると、なんでこの時期にやるんだ大感謝祭?

 時期的には皐月賞の直前だし、大阪杯に至っては大感謝祭数日後の開催だよ? 

 しかもこれ、G1ウマ娘や有力なウマ娘は必ず企画を出さなきゃいけないっていうルールまであるから、大阪杯の有望株は粗方疲労を溜めるハメになるし。

 2月とか3月あたりにやるのが穏当だと思うんだけどなぁ……。

 今度URAに意見具申しとくか。通るとは思い難いけども。

 

 

 

 と、少し話題が逸れたか。

 

 とにかく、俺たちトレーナー、特にG1トレーナーにとって、4月はかなりの繁忙期に当たる。

 ホシノウィルムとミホノブルボンという2人のG1ウマ娘を抱える俺も、その例に漏れず……。

 今月までは落ち着いていた仕事も、来月以降は再び忙しくなってしまうわけだ。

 

 余裕を持って休めるのは、今月まで。

 来月の頭からは……流石に去年末程ではないにしろ、そこそこ忙しない毎日が始まるはずだ。

 だからこそ、最近昌には休みを多めに取らせて、嵐に備えさせている。

 繁忙期の真っ最中に倒れられちゃ困るからな。……いや、これに関しては、俺は人のことを言える立場じゃないか。

 

 さて、かく言う俺も、多少は気を休めなければならないだろう。

 昔の精神状態であればともかく、今の緩んだ俺にとって、ぶっ続けでの仕事は心身ともに摩耗する。

 ただ精神的に摩耗するだけならいいが、それで視野狭窄になってしまうと、去年のようにウィルたちに迷惑をかけてしまいかねない。

 そして肉体的な疲労がかさめば、あの時のように、危機にも気付けないポンコツになり果ててしまう。

 2人のG1ウマ娘のトレーナーとして、俺はいつでもフルスペック、万全の状態でなければならない。

 

 そんなわけで、3月上旬。

 担当ウマ娘を彼女たちのトレーニングメニューと共に昌に託し、俺は丸々1日の休暇をいただいた。

 昌が来てくれたからこそできる芸当だな。やっぱりサブトレーナーって存在はすごくありがたい。

 

 

 

 ……しかし、問題が発生したのは、その休みを担当たちに報告した時のことで。

 俺の話に、ウィルが食いついてきた。

 

「え、お休みって……何するんですか? 爆睡?」

「まぁ睡眠も取ろうとは思っているが、昼からは釣りに行こうと思っている」

「釣り? ……ナンパってことですか!?」

「なんでそうなる。普通に海釣りだよ」

 

 前から感じてたけど、この子、時々発想が突飛になるよな。

 「釣りに行く」を「ナンパに行く」と捉えるのはだいぶ曲解。というかもはや拡大解釈と言っていい。

 

 2年という時間付き合って、彼女のことはだいぶ深く知ったつもりだったが……やっぱり付き合っていれば、新しい面が見えて来るね。

 思い込みが激しい方ではないと思ってたんだけど、案外年相応なところもあるらしい。

 誤解を招いたりしないよう、これからは改めてしっかりと情報共有していかないとな。

 

「当日は俺も見ることができないので、自主トレは程々に控えてくれ。計算上、昌が無茶でもさせない限り事故は起こりようがないと思うが、もし脚に違和感を覚えたら、俺か昌、あるいは養護教諭でもいいから迷わず相談を……」

「歩さん」

 

 注意事項を語る俺の言葉に、ウィルが割り込んでくる。

 何事かと口を閉じ、彼女の瞳を見ると……。

 そこにはどこかいたずらっぽい、そして同時に恥ずかし気な色が浮かんでいた。

 

「久々に『ご褒美権』行使です。……私もそれ、連れて行ってください」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そんなこんなで、お休み当日。

 

 念のためウィルの分も釣り竿を用意してきた俺は、割としっかりした真新しい釣り竿を携えていた彼女と共に、例の海辺に向かった。

 そして、どうやら初心者らしいウィルに色々と教えながら、いつも通りに釣り糸を垂らし……。

 

 俺が1匹も釣り上げられず、なんなら手が滑って釣り竿を持っていかれている間に、ウィルは6匹程魚を釣り上げていたのだった。

 

「なんでこんな釣れないんだろうなぁ……」

「いや逆に聞きたいんですけど、どうやったらそこまで手こずるんですか」

「普通に釣ろうとしてるだけなんだけど」

「そもそもなんで餌を付け替えるのに3分もかかってるんですか? なんでその最中に3回も餌を落としたり指を刺したりしてるんですか? 不器用すぎません???」

「いや、初心者だしそんなもの……じゃないか。君はちゃんとできてるわけだし」

 

 やっぱり俺、才能ないんだなぁ。

 思わず言葉に出して、ため息を吐いてしまう。

 

 何事においてもそうだが、堀野歩は要領が悪い。

 手先の器用さとか、物分かりの良さとか。そういったものが一律に悪く、物事の習熟が遅い。

 

 ある程度こなせている、日常生活や仕事、テーブルマナーに交渉。そういったものは全て、長年自分の体に覚えさせたが故にできるだけ。

 根本的に、堀野歩という人間は、何もできない非才の身なのだ。

 

 ……趣味にしようとした釣りの技術も、始めて数時間の初心者に追い抜かれちゃうくらいには。

 

「あ、いや……うーん」

「あぁ、慰めはいらないぞ? 自分の無能とも長い付き合いだ、諦めも付いてるしコンプレックスもない。君がウマ娘で、俺が人間で。そういうのと同じように、君には才能があって、俺は才能がない。それだけだ」

「なるほど、そういう自意識……。ま、まぁでも、私、そういうところも含めて歩さんのこと好……し、信頼してますよ」

「なんか微妙に文脈が繋がってない気もするけどありがとう」

 

 無能なところを信じられてもなぁ……と思わなくもないけど、それでも信頼は嬉しい。

 強いて言えば、時間の経過と共にそれが有能への信頼へと変わるよう努めるだけだな。

 

 ウィルはちょっと微妙な表情をして、しかし特に言い返すことなく海の方に視線を投げた。

 

「ちょっと暗めの話になっちゃいましたし、レースの話に戻りましょう」

「ん、了解。議題は……サイレンススズカへの対策だったか」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 俺とウィルがしていたのは、2か月前の有記念、その敗因についての話だ。

 

 去年末の有記念で、ホシノウィルムは公式レース初となる敗北を喫した。

 

 それが彼女の万全な状態、万全な走りの上でのことであれば、反省の必要はなかっただろう。

 ただ次回は勝てるようにと、よりトレーニングに励めばいいだけだ。

 

 だが、あのレースは、そうではなかった。

 

 レース前の、俺の昏睡。それに伴う、昌でも防ぎきれなかった追い切りメニューの不完全化。

 ライバルたちの調査不足。結果として表出した、作戦のカバー範囲の狭さ。

 これまで俺の作戦に依存してしまっていたが故の、ウィルの咄嗟の躊躇。

 

 今回のレースで、競走ウマ娘ホシノウィルムに否を付けるのならば、この3点。

 着差3センチメートルという差は、これらさえなければ生まれなかっただろう。

 

 故にこそあのレースには、次に繋がる反省点を探す価値がある。

 

 ……いやまぁ、本を正せば、俺が昏睡しちゃったのが悪いんだけどね。

 

 彼女の敗北を導いてしまったのは俺の機能不全が故で、それは今でも苦々しく思うばかりだが……。

 あれから3か月という時間が経って、俺の中のそういった悔やみや、ウィルの敗北へのショックもある程度和らいでいる。

 故にこそ、今はこうして気軽に語らうこともできるというものだ。

 

 そして、それらを語れるようになったのだから、次にすべきことは1つ。

 

 もう二度と、彼女たちに……サイレンススズカとスペシャルウィークに負けないよう、対策することだ。

 

 

 

 もう1時間近く反応しない釣り竿を奇妙に思い、糸を巻くと……餌が、付いていない。

 ……うん、まぁそういうこともあるだろう。

 俺はため息と共に針に餌を付けようと四苦八苦しながら、隣に座る少女に語りかける。

 

「君がサイレンススズカに勝つには、後半、彼女が領域を開くよりも早く、ハナを奪わなければならない。

 彼女の『先頭にいる限りスタミナが無尽蔵になる』という性質を潰さない限り、無限のスタミナと速度に特化した領域を以て、スペック負けしかねないからな」

「まぁ、それはわかりますけどね……」

 

 ウィルは「無茶言うなぁ」という顔で俺の手から釣り針を奪い、片手でぱぱっと餌を付けてしまった。

 ……え、ホントに初心者? やっぱりこの子めちゃくちゃ要領良いよね。ちょっと嫉妬しそう。

 

「言うのは簡単ですけど、スズカさんすごいですよ? 正直に言って、真っ当に戦えば『アニ』……『思考力増加』を使わないと越えられそうにないです」

 

 彼女の言葉に「だろうな」と頷きながら、俺は釣り糸を海の中に投げ……ようとして、振りかぶった際に後ろに置いてあった鞄に引っかけてしまった。

 ……うん、まぁそういうこともあるよね。まだ始めてから3か月の初心者だし?

 

 

 

 さて、小さなトラブルは置いておくとして、スズカの話だ。

 

「サイレンススズカの走りは、ウマ娘にとっての一種の理想形だ。

 唯一無二君を超えるスタートダッシュ。無駄のない完璧なフォーム。無限のスタミナによる先頭を譲らない疾走。その全てがまさしく『異次元』たりうる」

 

 単純にそのスペックで競り勝つか、あるいは特殊な技術や能力によって突破するか……。そうでもしなければ、サイレンススズカは越えられない。

 しかし、彼女はそのスペックに関しても、全てがトゥインクルシリーズにおいて頂点に近かった。

 故に、強力な領域とスキルを完璧に嚙み合わせるか、あるいはウィルのような特殊能力でも持っていない限り、彼女には勝ちようがないんだ。

 

 「普通のウマ娘」では越えられないからこその、「異次元の逃亡者」。

 ウィルに突破されるまで、ただの1度も先頭を譲らなかったウマ娘は、決して伊達ではない。

 

 トゥインクルシリーズを卒業してドリームトロフィーリーグへと移籍した彼女ではあるが、恐らくそこでも華々しい活躍を見せるのだろう。

 

 

 

「彼女はドリームトロフィーリーグに上がったが、いずれは君も同じ舞台に立つことになる。

 今の内から完全な対策を組み上げておくに越したことはないだろう」

 

 俺は釣り糸を解きながら、言葉を結んだ。

 

 今すぐに、ウィルがスズカと当たることはない。

 トゥインクルシリーズとドリームトロフィーリーグ。

 競走ウマ娘の2大レースシリーズは、基本的に交わることはない。そもそも走るレースが違うしね。

 

 そういう機会があるとしたら模擬レースだろうが、その模擬レースも基本的には同じレースシリーズ内で行われるため、本人たちが強く望まない限りは越境したレースは発生しない。

 そして、サイレンススズカが交友を持ち、頻繁に模擬レースをしているのは、その全てがドリームトロフィーリーグに進んでいるウマ娘だ。

 

 故に、ホシノウィルムサイレンススズカが同じレースを走ることは……恐らく、少なくとも1年の間はあり得ないだろう。

 

 だが、だからと言って対策はするに越したことはない。

 非常に強力なウマ娘であるホシノウィルムには、現状敗因に繋がるような明確な弱点は存在しない。

 そうなると、ピンポイントメタ……特定の状況に対して強い戦術を組み上げておくのも、決して時間の無駄にはならないだろう。

 

 そんなわけで、最近はそのためのトレーニングを積んでもらっているわけだ。

 

 

 

「サイレンススズカに勝つには、彼女よりも前に出なければならない。

 しかし、先頭にいる間の彼女は無限にスタミナを使える。どこまでも速度を上げることができる以上、一度速度が乗ってしまえばまともに競り合って勝つことが困難だ。

 君がしたように、ある程度の区間から越える方法もあるが、そうすれば当然ながら消耗が非常に大きくなり、手札も切るハメになるだろう。

 であれば……」

「まだあちらが加速しきらない最初の内に、スタートで勝つ、と。だから最近、スタートダッシュの練習が多かったわけですね」

「流石、察しが良くて助かるよ」

 

 ようやく手元に戻ってきた釣り針を、改めて海に投げ入れる。

 ……そろそろ釣れるといいなぁ。

 俺が釣りをする場合、大抵は1日費やして1匹釣れるかどうかだ。より正確には、5回くらいは反応があるものの、釣り上げることには成功しないって感じだけど。

 しかも今日は、横にバカスカ釣りまくる脅威のウマ娘がいるからなぁ……。やっぱり望み薄だろうか。

 

 思えば、最初に釣りをした、こちらの世界でスカイと初めて話したあの日。

 あの時にかなりの数が釣れたのは、かなりのビギナーズラックか……あるいはスカイが撒き餌とかしてたのかもしれないな。

 

 スカイと約束した通り、俺はあれ以来、手隙の時間には釣りに勤しんでいるわけだが……。

 色々調べたり試みているというのに、これがなかなか成長しないんだよなぁ。

 まぁ、たった3か月で何かを習得したことなんてこれまでになかったからな。

 まだまだ始めたて、これからだ、これから。

 

 

 

 自分を慰めながら、有記念で直面したスズカのスタートダッシュ……「最大集中」を思い出す。

 

「サイレンススズカの隙のなさは、スタートが絶技と呼んでいい程に上手いところだ。

 彼女は最初にハナを奪ってしまえば、以降はその特殊能力により無敵性が付与される。……逆に言えば、最初にハナを取られれば、凡庸な大逃げウマ娘に過ぎなくなる」

 

 ……自分で言っててなんだけど、凡庸な大逃げウマ娘って何?

 そもそも大逃げウマ娘ってめちゃくちゃレアだし、その時点で凡庸とは呼べないような気もするけど。

 

 ま、それはとにかく。

 サイレンススズカは1度先頭を奪われれば、一気に失速する。

 その結果が、有記念の8着なわけだ。

 

 であれば本来は、彼女が加速し切っていない序盤の内に抜いてしまうのが上策だが……。

 それをさせないのが、サイレンススズカの持つ「最大集中」というスキル。

 「コンセントレーション」の上位互換と考えられるこれによって、彼女は抜群のスタートを切ることができるんだ。

 

「彼女はその唯一のリスクと呼べる序盤を、君を超える圧倒的なスタート技術によって補っている。

 故にこそ、サイレンススズカは序盤、中盤、終盤、その全てに隙がなく、無敗であり続けた」

 

 序盤はそのとてつもない加速力によって一気に逃げて。

 中盤は皆が脚を残す中で、自分1人だけが自由に先頭を独占し。

 終盤は領域と「異次元の逃亡者」、そして無限のスタミナによって差す。

 

 改めて考えると、本当に無敵に近いウマ娘だ。

 『アプリ転生』というチート能力、名家に蓄積されたデータを持つ俺をして、彼女の攻略法は殆ど思い付かない。

 

 逆に言えば、1つ。

 明確な対策は、思い付いているのだが。

 

「……が。それはつまり、逆に言えば」

 

 言えば、察しの良いホシノウィルムは、すぐに眉を寄せた。

 

「スズカ先輩と同じ……いえ、それを超えるスタート技術を身に付ければ、彼女への対策は容易になる?」

「容易になる、じゃない。そのスタートの時点で、サイレンススズカの封殺は完了する」

 

 サイレンススズカは、先頭にさえ立たせなければ、ただの大逃げウマ娘だ。

 そうなればウィルが……俺の担当ウマ娘が、負けるわけがない。

 

「ま、それができるのは、サイレンススズカと張り合えるスペックを持ち、同時に大逃げで走ることのできる君くらいのものだろうが」

 

 周辺の世代で、彼女たちを除いて唯一大逃げを取る重賞級のウマ娘であるツインターボは、「集中力」こそ持ってはいても「コンセントレーション」までは行きついていないしな。

 仮に行き着いたとしても、単純なパワー……加速力でウィルの方が前に出るだろうし。

 

 つまるところ、サイレンススズカを真正面からではなく、最初の時点で封殺できるのは、この子……ホシノウィルムしかいない。

 スズカがウィルにとっての天敵であるのと同じように、ウィルもまたスズカにとっての天敵なのだ。

 

 

 

 そこまで語った時、ウィルが「お」と呟いてリールを巻く。

 その糸の先には……うわ、見事に付いてるよ魚。

 俺の方はまだ1匹も釣れてないのに、これで7匹目だよ。大漁すぎない?

 やっぱりこの子、なんでもできる天才なんだな。ちょっと兄さんを思い出す。

 

「でも、スズカさんを超えるレベルのスタート技術って……そこまで行けますかね? 正直今の時点でも、技術としてはかなり極まってると思うんですが」

「…………」

「あれ、歩さん?」

 

 怪訝そうにこちらを見て来るウィルに、何と言うべきか思い悩む。

 

 スペシャルウィークが、サイレンススズカが持つ、特殊スキル。

 「はらぺこ大将」。「夢叶える末脚」。「最大集中」。「異次元の逃亡者」。

 恐らくは既存のスキルが進化したのだと思われる、オリジナルの技術。

 

 サイレンススズカに勝つには……そしてウィルが次のステージに昇るには、あれが必要になるだろう。

 

 サイレンススズカは、「最大集中」に加えて「先手必勝」を持つ。

 それに対してウィルは、「コンセントレーション」と「先手必勝」。

 「最大集中」と「コンセントレーション」との差の分だけ、ウィルはスズカにスタートで負けてしまう。

 

 スキルで負けるのならば身体能力の差で勝つことが考えられるが、極まったスペックを持つスズカに対して、単純な能力勝負だけでその差を巻き返すのは困難だろう。

 

 であれば、確実にサイレンススズカのスタートを超えるには……。

 ウィルにも、あの特殊スキルを習得してもらう他ない。

 

 だが、俺の持つ前世アプリの知識の中には、あんなものはない。

 どうすれば身に付けられるのか、どうすればウィルの力になるのか、わからない。

 

 

 

 ……だから。

 わからないなりに、俺は、結論を出した。

 

「3歩だ」

「さんぽ?」

 

 小さく頷いて、俺は彼女に告げる。

 

 これまでにない、無理難題を。

 

 

 

「3歩で、サイレンススズカに勝つ。

 それが……ホシノウィルム。次に君の身に付けるべき技術だよ」

 

 

 

 くいっ、と。

 手元の竿が、小さく揺れた。

 

 

 







 ちなみに、この日の堀野君の釣果はゼロでした。

 ウィルの持つ『ご褒美権』はあと2回分残ってます。菊花賞以来使ってなかったので。
 ブルボンはメイクデビュー以来使ってないので、そっちも2回ですね。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、ホワイトデーとURAファイナルズ決勝の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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それに比べてホワイトデー!! お前はなんだ!

 バレンタイン君は由緒正しいし、女の子の純粋な想いを伝えられて素晴らしいなぁ。





 

 

 

 サイレンススズカさんを封殺するため、スタートダッシュを極める。

 それが私こと、ホシノウィルムの当面の目標となった。

 

 ……しかし、ひとえに極めるって言っても、なかなか難しいものがあるよね。

 

 私は歩さんと契約して間もなく、「コンセントレーション」なる技術を身に付けた。

 これは簡単に言うと、しっかりと反射神経を鍛えて、なおかつめちゃくちゃに集中することで、スタートの瞬間を逃さないようにするってモノ。

 

 模擬レースであればフラッグが振り下ろされる瞬間、公式レースであればゲートが開く瞬間。

 それをコンマ1秒以下の単位で察知し、ノータイムで駆け出す、と。

 

 簡単なように聞こえるけど、いざやってみると、これがなかなか難しいんだ。

 

 

 

 人間もそうだけど、ウマ娘って脳内では無意識の内に色々なことを考えてるんだよね。

 メインで働かせている思考の裏に、気にしてることとか気になってることとか、そういうノイズが大量にうごめいてる。

 それが多ければ多い程「集中できてない」状態で、逆に少ない程「集中できている」状態というわけだ。

 

 で、「コンセントレーション」って技術は、これらのノイズを極力排除して、自分の思考の全てをスタートの瞬間に注ぎ込む、ってもの。

 全てを削ぎ落として集中し、鍛え上げた反射神経でスタートする。

 ……うん、改めて考えると、確かに1つの技術と言っていいかもしれない。

 

 私は実のところ、この技術と非常に相性が良かった。

 

 私が走る時に用いる3つのモードの内の1つ、「冷」のモード。

 かつては呪いであったそれは、簡単に言うと「走ること、ひいては目の前のことにのみ思考力を全て注ぎ込む」っていう状態だ。

 

 このモードはスタートダッシュと、そして「コンセントレーション」と、とんでもなく相性が良い。

 極端に集中……過集中する状態だからね。それしか考えなくていいってシーンでは、おおよそ最高の結果を生み出せる。

 多分、だからこそ「コンセントレーション」の習得も早かったんじゃないかな。

 

 去年、学び始めて1週間くらいで歩さんから習得完了判定をいただいたのが懐かしい。

 懐かしいなぁ、あの時、「え、嘘だろ……どういうこと?」って顔されたのは今でも覚えてる。

 思えば、あそこまで露骨に感情の出た顔を見たのは、あれが初めてだったかもしれない。

 

 

 

 さて、そんな調子で「コンセントレーション」はすぐに習得できた私に対し……。

 後輩兼、夜限定の弟子となったライスちゃんはなかなか習得に苦戦しているようだった。

 

 目の前で何十回かスタートを見せたり、感覚的にはこんな感じって伝えたり。

 そういうことを繰り返す内、最初の頃に比べればだいぶ筋は良くなってきた。

 

 実際、今のライスちゃんなら、並みのウマ娘よりは洗練されたスタートが切れると思う。

 少なくとも皐月賞までなら、序盤は負けなしなんじゃないだろうか。

 ……あぁいや、ライバルには歩さんの育てたブルボンちゃんがいるか。流石にそこに勝てると思う程驕れはしないかなぁ……。

 

 ともかくそんな感じで、明らかに上達はしているライスちゃんのスタート。

 けど、まだ「コンセントレーション」って程ではないかな。

 私やスズカさんと一緒に走ったら、ちょっと出遅れてしまうと思う。

 

 ……いや、そりゃあ当たり前か。

 まだクラシック級も始まったばかりのライスちゃんを、私たちの戦いに突っ込むのは……うん。

 

 というか、私は「冷」モード+「コンセントレーション」という必殺コンボ。

 スズカさんは歩さんをして「唯一無二」と言わせる最強のスタート技能の持ち主だ。

 クラシック級3月時点で私たちと対等にやり合えるなら、もうライスちゃんは三冠とか余裕だろう。なんなら今の時点で有記念に出ていいまである。

 

 

 

 あ、いや、話が逸れちゃったな。

 今はライスちゃんのことじゃなくて、私のトレーニングについて、ね。

 

 私は「コンセントレーション」を習得して、おおよそウマ娘としては最速のスタートを切ることができるようになった。

 では何故、去年の有記念でスズカ先輩に負けたのかと言うと……それは単純な話で、加速力の問題である。

 

 スズカ先輩の最初の加速は、正直ちょっととんでもなかった。

 少なからず自信のあった私を、優に一回り超える、神速のスタート。

 それに勝つとなると、当然ながら私も加速力を鍛えなきゃいけないわけだ。

 

 集中とか反射神経とかじゃなく、単純に脚力とそれの使い方の領分。

 私が次に目指すべきは、ここになるわけだけど……。

 

「うーん……」

 

 ちょっと手前味噌な話になるんだけど、正直現時点でもかなり速くはあるんだよな。

 

 技術っていうものは、必ずしも右肩上がりに伸びるわけじゃなく、伸ばせば伸ばす程に成長速度は下がっていく。

 そういう意味で言うと、私のスタート技術は既にかなり仕上がってしまっている。

 

 歩さんの言葉を使うと、最速のスタートを切る「コンセントレーション」と、一気に加速する「先手必勝」。

 これらの技術を私は体得している。

 

 ここから更に伸ばすとなると、当然ながらもっともっとトレーニングを積まなきゃいけない。

 というか、シニア級4年目の最強級の古豪だったスズカさんですら、私よりも少しだけ速かった程度なんだもん。

 この上のステージに昇るために必要な労力は、推して知るべしというところだろう。

 

 とはいえ、だ。

 私は転生チートウマ娘。

 今はちょっとした、いや、かなりズルいチートな手段もある。

 大阪杯までにステップアップするのは、絶対に不可能ってわけじゃないと思う。

 

 ……いや、弱気は駄目だな。

 絶対に上がってみせる。

 

 歩さんのウマ娘として相応しくあれるように。

 ファンの皆の期待に応えられるように。

 そして……もっともっと、最高に楽しいレースができるように!

 

「……いよし、今日も走るか」

 

 そんなわけで、私は日々のトレーニングを大事に、楽しくこなしていった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、歩さんとの釣りから暫く時間も経って……。

 

 ついに訪れたその日は、3月14日。

 

 バレンタインデーのちょうど1か月後。

 そう、世はまさにホワイトデー!

 バレンタインで女性からチョコを貰った男性が、そのお返しにお菓子とかをくれる日だ!

 

 今を生きる中等部女子としては、否応もなく盛り上がっちゃう一日である!

 いやっふぅー! ホワイトデーばんざーい!!

 

 

 

 ……まぁ。

 私個人としては、あんまりこの日は好きではないんだけども。

 

 そもそもホワイトデーって由緒も何もないからね。

 

 一応とはいえ、バレンタインはキリスト教から発生したイベントじゃん? 謂わばクリスマスみたいなもので、一種の由緒正しき祭日と言っていいと思う。

 まぁ、そこでチョコが絡んでくるのは、各洋菓子メーカーの邪な意思が感じられなくもないけどさ。

 それでも発端自体はとてもしっかりしたもので、ならば祝ってもいいと思うんだ。

 そもそもお祭りって何かをきっかけにして皆で盛り上がるミーム的なヤツだし? その発端がある程度ちゃんとしてるなら、お祭りとして認められもするってもの。

 

 それに比べてホワイトデー!! お前はなんだ!

 由緒も何もない、企業が儲けようとして純粋な乙女心を利用するっていう俗すぎる発祥!!

 企業戦略の塊! 100%純粋な営利目的の結晶! 金のことしか考えてねーのかよ企業どもはよ!

 しかもこの日があるから、結果的にバレンタインが見返りを求めてチョコ贈る日みたいになるじゃん! 女の子の純情をなんだと思ってんのよ!

 

 まったくまったく、憤懣やるかたない。

 ホワイトデーなんて日がなければ、バレンタインは女の子の純な気持ちを伝える、とてもキラキラした日になるはずだったのに。

 人の心を利用するようなこんな祭日、好きになれって方が難しいだろう。

 

 そんなわけで、私は前世の頃からホワイトデーアンチである。

 別に自分に縁がないイベントに僻んでるとか、そういうんじゃない。ないったらない。

 

 

 

 まぁでも、女の子っていうのはなんとも現金なもので……。

 そんな風にお返しを厭いながらも、実際に受け取る時になれば、やはり舞い上がってしまうものだ。

 

 歩さんからお返しがもらえることが確定している私は、こんなことを言っておきながらも、そこそこ……いやごめん見栄張った。めちゃくちゃに期待してしまい、その日は珍しくトレーニングにも集中し切れない程だった。

 

 そうしてトレーニングの終了後、「ホシノウィルム、先月のお返しを渡すからトレーナー室に来てくれ」って言われて、私は意気揚々と乗り込んだんだけど……。

 

 

 

「改めて、バレンタインの日はありがとう、ホシノウィルム。お返しだ」

 

 そう言って差し出されたのは……差し出された? いや、差し出すっていうか並べられたのは、かなりの量のお菓子の群れ。

 普通の、ココアっぽいの、チョコチップ、ナッツ入り、オレンジっぽいのと、色んな種類のクッキー。

 可愛い果物モチーフのとか、中に甘いのが入ってるのとか、清涼感があるのとか、サプリっぽいのとか、コットンのとか、これまた色んな種類のキャンディ。

 他にもホワイトチョコとかビターチョコ、マシュマロにガム、それからケーキが多種多様に山盛りで。

 

 私の前には、あまりにもたくさんの、豪華絢爛なお菓子が並んでいた。

 しかも、明確に全部手作り。

 

 えっと、何……?

 私たちのトレーナー室、いつの間にケーキ屋さんになったの?

 

「あ、あー……そのぅ」

「いや、言いたいことはわかる。実のところ、俺もそこに関しては悩んだ」

「あ、自覚的ではあるんですね。ちょっと安心しました」

「うん。やっぱりお菓子だけに囚われず、ハンカチとかネックレスなども視野に入れるべきだよな。

 ピアスや指輪のようなものはさておいて、やはりアクセサリー系も必要かなーと思ったんだが……」

「いやそっちじゃないですよ? これだけでも十分以上に多すぎるって話ですよ?」

 

 え? と首を傾げるトレーナーに、思わず眉間をつまむ。

 

 歩さんって、なんかこう、金銭感覚とか物の価値感バグってるところあるよね……。

 やっぱりアレか、生まれが名家だから消費活動が板に付いちゃってるんだろうか。

 ……いやでも、昌さんは割とフツーな価値観なんだよな。名家出身としてはどっちが普通なんだろう。

 

 一方私の方は、3年前までの困窮っぷりがまだ記憶に新しく、金銭感覚はちょっと厳しめ。

 ……と、言いたいところだけど。

 去年の春辺りから、順調に緩んできているのを感じる。

 

 レース興行で入って来るお金もすごいんだけど、歩さんの金使いや物使いの荒さに慣れてきて、感覚が壊されて行ってるのを感じる。

 まったく、罪なお人だよ。私のトレーナー観、男性観の次は価値観までグチャグチャにするとは。しっかり責任を取ってもらわねば……なんて。

 

「あのですねぇ……。普通、お返しって同じくらいの額で抑えるモノですよ?」

「え? 3倍とか4倍とか、そんな感じじゃないのか」

「なんですかその倍率!? 女尊男卑!? ていうかそれにしても4倍じゃ収まってないですけどこれ!」

「いや、競走ウマ娘ホシノウィルムがその貴重な時間を割いてお菓子を作ってくれたんだぞ? この程度じゃ等倍にも追い付いてないさ」

「……あー」

 

 まぁ……あー、それはそう、かも。

 少なくとも、金銭的な勘定をすれば、歩さんの言は一定の妥当性がある。

 

 私、これでもかなり稼げるウマ娘だからね。

 去年の年収は10桁行ってたし、時給を計算すれば10万を優に越えてる。

 

 そんな私が、今年のバレンタインチョコ、歩さん専用スペシャルホットチョコは、大体10時間くらいかけて万端に準備したわけで。

 時給から換算すれば、その値段は……うわ、頭おかしくなりそう。

 あの1杯にそんな価値があるとは到底思えないけど、少なくとも額面上はそういうことになるわけだ。

 

 ……でも、それはそれ、これはこれ。

 

「あのですね、それを言ったら今の歩さんはG1トレーナーでダービートレーナー、そしてクラシック三冠トレーナーなんですよ? そっちだってこれだけ手作りするのはめっちゃ時間かかったでしょう?」

「いやまぁ、そこそこかかりはしたが」

「でしょう? ……だから、十分です。というかむしろ多すぎるくらいですよ」

 

 実際のところ、私も相当に稼いでるけど、歩さんだってめちゃくちゃ稼いでるはずだ。

 

 なんでもウマ娘のトレーナーは、担当が取ったレースの格と着順に応じてボーナスが入るらしい。

 それがG1ともなると、かなりの額になるんだとか。

 

 私の戦績は……えっと、今どんなもんだ?

 最初のメイクデビュー、オープンレース葉牡丹賞、G2の弥生賞に勝って……。

 G1は、ホープフルに皐月賞、ダービーに宝塚、それから菊花賞とジャパンカップで1着、それと有記念で2着。

 並べると、デビュー戦1勝、オープン1勝、G2で1勝、G1で6勝、そしてG1で2着1回か。

 

 更に言えば、もう1人の担当であるブルボンちゃんもデビュー戦1勝、プレオープン1勝、そしてG1も1勝してる。

 

 こんだけ勝てば、そりゃあ歩さんだってガッポガポのはずだ。

 流石にアスリート側の私と同じ程ではないにしろ、ぶっちゃけあと2、3年くらい勤めてれば、お仕事卒業できるレベルの収入が得られるんじゃないだろうか。

 あぁいや、あのめちゃくちゃでかい家を維持するって考えると、もっともっとお金は必要か?

 まぁそこは……私が一緒になったら解決、かもだけども。だけども。

 

 いや、今考えるべきはそこじゃなくて。

 

「ていうかこの量、だいぶとんでもないですよ。大丈夫ですか、これ」

「ウマ娘の食欲を考えれば、消費期限には十分間に合うと思うが」

「いや、これだけ食べれば太っちゃうんじゃないかって話ですけど」

「……あ」

 

 歩さんはポカンと口を開けてしまった。

 え、嘘、考えてなかったのかその辺り。トレーナーとしてはどこまでも真面目な歩さんらしくない。

 

 私はそう思って、小首を傾げたんだけど……。

 

「いや……その、君へのお返しということで気合を入れすぎた。すまん」

「あ……う、それは嬉しいです、けど」

 

 後頭部を掻く歩さんに、口をつぐんでしまう。

 

 う……や、やられた。

 歩さんったら、こういう時は素直に気持ちを伝えて来るんだもん。

 ズルいったらないよ。恥ずかしい気持ちとかないのこの人?

 

 

 

 2人して少しばかり黙っていると、横から女性の声が届く。

 

「イチャイチャするのは結構だけど、仕事してもらえる?」

「あ、はい……」

 

 ……そう言えば、歩さんはまだ仕事中だった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、その翌日、雨の降りしきる日。

 

 3月も中旬、URAファイナルズ決勝の時期が訪れた。

 

 私たちが見に行くのは、今回もマックイーンさんの出走する長距離部門。

 予選や準決勝では同じ部門でもいくつかのレースが開催されるんだけど、決勝まで行くと開催されるレースは部門ごとに1つきり。

 このレースを制した者は即ち、「その世代・その距離における最強」を証明するわけだ。

 

 世代の上澄み、最強同士のぶつかり合い。

 そうなれば自然、決勝はG1レースにも等しい、かなり熾烈なレースになるだろう。

 

「どうなりますかね、このレース」

 

 着込んだウマ娘用の雨合羽の下、持って来た歩さんお手製クッキーを齧りながら、ぼんやり呟く。

 

 ……うん、すごく美味しい。

 一口齧ればサクサク感と香ばしさ、バターの甘味が口の中に広がる。

 歩さんってホント、食材調達はアレなのに、料理の方はとんでもなく上手いんだよなぁ。これ普通にお店で売れるレベルだと思うんだけど。

 

 敢えて不満を挙げるとすれば……単純に量が多すぎて、その内飽きが来そうってことだろうか。

 もらったお菓子の種類は多いしそうそう飽きないかと思ってたんだけど、消費期限を考えるとチョコとかマシュマロから食べなきゃいけないんだもん。

 自然と、時期によって食べるお菓子は決まってしまう。どうしても飽きるのは避けられそうにない。

 ……逆に言えば、それ以外に欠点が見当たらないとも言える。

 

 さて、そんなお菓子の中で、今回持って来たのは……バターの甘いヤツと、それとチョコチップの入ってるヤツの2つだ。

 どっちも違った方向で美味しいので、1枚食べたらもう1枚と、どんどん口の中に放り込んじゃうね。

 

 ……体重? まぁ……食べた分自主トレすれば痩せるでしょ。多分。

 

 

 

 そんなことを思いながらクッキーを齧っていると、一応お休みのはずの今日もスーツでカッチリ決まってる歩さんが口を開く。

 

「……今回のレースに関しては、メジロマックイーン一強と言ってもいい状態だな。彼女だけ目に見えて強い……というか、中長距離路線の子の多くが彼女を避け、中距離部門を目指したくらいだ。

 ただでさえ強力なステイヤーだったのが、去年の秋の天皇賞で更に1つ上のステージに上がった。はっきり言って、彼女の世代のウマ娘では、長距離のメジロマックイーンに対抗すらできないだろう。

 だからこそ、そうやすやすは負けないだろうな。あり得るとすれば……レース中の事故くらいか」

 

 おぉ……。

 歩さんがそこまで言うって、なかなかだよ。

 

 正確無比な観察眼を持つ歩さんをして、長距離という部門においては間違いなく世代最強、と。

 このレースにしても、マックイーンさんが事故を起こしたり巻き込まれたりしない限り、彼女の勝利は決して揺るがない。

 彼がそう言う以上、それは決して揺らがない事実なんだろう。

 

 流石はマックイーンさん、私のライバルの1人。

 ライバルが評価されるのは、なんというか、ちょっと鼻高々な気分。

 

 ……と、その時。

 

 

 

『URAファイナルズ決勝、世代の頂点18人のウマ娘たちが最終決戦へ挑みます。

 長距離部門の1番人気はこの子をおいて他にはいない、ターフの名優メジロマックイーン! 人気と実力を兼ね備えたウマ娘ですね。

 今日も泰然自若と余裕の笑みを浮かべる彼女は、世代最強ステイヤーの名を手に入れられるか?』

『阪神レース場、芝右外周り3000メートル。天気は雨、バ場状態は稍重の発表です。

 1年半前に雨・重バ場の菊花賞を、半年前に雨・不良バ場の天皇賞(秋)を制した彼女にとって、この状況はホームグラウンドと呼んで差し支えないでしょう。

 スタミナとパワーが要求されるこのレース、果たして大番狂わせは起こり得るのか?』

 

 

 

 実況の声が、拡声器を通してスタンドまで届く。

 

 それを聞いて視線を落とすと……まず目についたのは、やはり件の芦毛のウマ娘。

 自信ありげな笑みで軽くウォーミングアップしているのは、尊敬できる先輩でもあり、最高に熱くなれるライバルでもあるメジロマックイーンさんだ。

 

 今日の彼女は、いつもの黒を基調とした勝負服ではなく、真新しい白のドレスのような勝負服に身を包んでいる。

 去年のURA賞受賞の時にもらった、2着目の勝負服だろう。

 ……ってことは、彼女もまた2つ目の領域の存在を知り、その習得を目指してるんだろうね。

 

 果たしてあの洗練された領域が、どう変化するのか。

 それはまだ未知数で……だからこそ、一緒に走る日が、彼女が領域を見せてくれる日が楽しみだ。

 

 

 

 さて、そんなマックイーンさんに対し、周りのウマ娘は彼女から一歩引いてる。

 結果として、彼女の周りだけドーナツのように空白が出来ている状態だ。

 

 いわゆる強者故の孤独、というヤツだろうか。

 模擬レース前とか、あと自分のクラスとかで、私もよくああいう状況になるし。

 ……まぁ、それは私にコミュ力がないってだけかもしれないけど。

 

 しかし、こうして露骨に孤立するっていうのは、マックイーンさんみたいなタイプのウマ娘にとってはあまり良い状態じゃない。

 それはつまるところ、周囲からこの上なく意識されてるって意味でもあるからね。

 

 マックイーンから1歩引いたところで、他のウマ娘たちはいっそ露骨なくらいに、マックイーンさんに意識を向けている。

 敵視してるっていうか、もはや恨みがましい、親の仇を睨むような眼差しだ。

 流石はここまで勝ち上がってきたウマ娘、絶対に一矢報いてやるというガッツに満ちてるね。

 

 ……まぁ、そんな敵意なんて何でもないように受け流されちゃってるけど。

 

 しかし、意識されるってことは警戒されるってことでもあり、それはつまるところ、レース中にマークされやすいってことでもある。

 そういう状況を上手く活用するネイチャのようなタイプならともかく、真正面から他を下すマックイーン先輩のようなタイプのウマ娘にとって、これはなかなかに不利な状況だ。

 

 

 

「うーん、マークされてそうですね。まぁ、マックイーンさんに限って心配の必要はないと思いますが」

「マックイーンだからね。勝つよ、絶対」

 

 私の呟きに応えたのはトレーナーではなく、一緒にこのレースを観戦しに来た1人のウマ娘。

 同じく雨合羽を羽織った私のライバル、トウカイテイオーだ。

 

 URAファイナルズ準決勝までは「見る必要ないでしょ」と興味なさげだったテイオーだけど、数日前に聞いたところ、流石に決勝戦は見に行くとのこと。

 私は半ば反射的に「一緒に行かない?」と誘い……結果として、今回は私と歩さんにブルボンちゃんと昌さん、そしてテイオーとのそのトレーナーさんという、なかなかの大所帯での観戦と相成った。

 

 ちなみに、ネイチャとライスちゃんは中距離の方を見に行くということで不在。

 もしあの陣営も長距離を選んでたら、これが更に4人増えてたかもだ。

 三星揃い踏みな上に、今年のクラシックレースの有力候補までいるってなると、流石にかなり目立っちゃってただろうなぁ。

 

 ……まぁ、現時点でもかなり目立っちゃってるけどね。さっきもサインとか求められたりしたし。

 

 

 

 しかし、テイオーが素直に誰かを評価するようなことを言うとは。

 ちょっとばかり意外な気がする。

 

「流石のテイオーでも、マックイーンさんは評価の対象ですか」

「流石って何さ流石って。……そりゃ、マックイーンは春の天皇賞でぶつかることになるからね。ウィルムと一緒に警戒と評価の対象だよ」

「……へぇ」

 

 ちょっと、びっくり。

 

 以前のテイオーなら、こんなにも素直に返してこなかっただろう。

 もうちょっと捻くれてたっていうか、「当然ボクが勝つけどね」っていう余裕や前提みたいなものがあったっていうか。

 

 けど、今のテイオーには、そういった慢心がない。

 勝つために、ただ淡々と私やマックイーンさんを警戒しているように伺えた。

 

 ちらりと横顔を覗き見ると、彼女は真剣な表情で、マックイーンさんの方を眺めている。

 

 負けるかハラハラしている……ってわけじゃない。

 ただ、真剣に、見ようとしてる。

 このレースから、何かを得ようと……学び取ろうとしているんだ。

 

 

 

 ……テイオーも、変わったんだな。

 

 私が歩さんや彼女たちに出会い、少しずつ前向きになれたように。

 ネイチャが彼女のトレーナーや私たちに出会い、レースに本気になれたように。

 

 テイオーも……変わった。

 恐らくは、私やネイチャ、マックイーンさんにとって、脅威的な方向へ。

 

 そして私にとっては、心の底からワクワクする方向へ。

 

 

 

「ふふ、楽しくなりそうですね」

「ん? うん、そうだね。きっと良いレースになる」

 

 私の言葉の意味が理解できていないテイオーは、どこまでも目の前のレースに集中していた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

『速い速い、速すぎるメジロマックイーン!! 突き抜けたまま脚衰えることもなくゴールイン!!

 一騎打ちすら許さない、圧倒的強さ! 世代のスポットライトの1つが今、彼女を照らし出した!!

 2着に8バ身もの差を付けて最強を証明! 勝ったのはメジロマックイーンだぁぁああーーッ!!』

 

 

 

 実際に始まってみれば、そのレースは蹂躙と呼んでもいい有様だった。

 マックイーンさんの足並みは、明らかなハイペース。誰もが彼女になんとか食らい付こうとして……けれど、届かない。

 

 圧倒的な速度と、莫大なスタミナ。

 複雑な技術すら介入しない地力で以て、メジロマックイーンというウマ娘は、ここに最強を証明した。

 

 

 

 ……いやしかし、とんでもないな、これ。

 

「テイオー。マックイーンさん、領域使ってませんでしたよね」

「……うん。多分」

 

 そう。

 スタンドから見ていた限り、マックイーンさんは今回、領域を使ってない。

 

 いや、歩さんの言ってたことが正しいなら、「使ってない」じゃなくて「使えなかった」のか。

 彼女の2着目の勝負服による領域は、まだ目覚めていない。……あるいは、その条件を満たせなかったのかもしれない。

 領域を使えないことは、マックイーンさんにとって少なからぬデメリットだったはずだ。

 

 更に言うと、彼女は他の17人のウマ娘たちに、徹底的にマークされてた。

 早い段階でバ群に囲まれてしまい、その進路はかなり細く難しいものとなってたんだ。

 

 ……しかし。

 それらのデメリットを加味した上で、8バ身差。

 

 決定的な実力差がなければ、こんな数字は出てこない。

 そりゃあトレーナーも「そうやすやすは負けない」って言うよね。

 

 

 

 マックイーンさんはもう本格化も終わる時期で、しかし去年よりも更に洗練されてる。

 技術も、意気込みも、レースへの熱も、益々上がるばかりだ。

 

 私はそんな彼女と、天皇賞(春)で……ここから更に200メートル伸びた距離で、走るんだ。

 

 どうすれば勝てるかな。

 消耗させる? 脚を余らせる? それとも真正面からぶつかる?

 そこに関わって来る外的要因は? テイオーはどう動いて、どう対処する?

 

 考えれば考えるだけ楽しくなって、思考が熱を持つようだった。

 

 ……あぁ、これだよ、これ。

 やっぱりレースって、これ以上ないくらい、楽しい。

 

 

 

「ウィルム」

 

 名を呼ばれ、横にいたウマ娘の方を見ると……。

 

 彼女は、未だターフの上にいるマックイーンさんの方を見ながら、静かにこう言った。

 

 

 

「大阪杯は貰うから。覚悟してよね」

 

 

 

 ……あー、もう。

 

 みんなして、なんでそんなに、私を楽しませてくれるのかな。

 

 

 

「全力で追いかけて来て、私を捕まえてくださいよ。……できるものなら、ね」

 

 心の底からの笑みを浮かべて、私はそう言った。

 

 

 







 本当はもっとゆっくり進めるつもりだったんですけど、ちょっと巻きで。
 尺の調整思いっきり間違えちゃったなぁ……。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、今年最初のレースの話。



(追記)
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3年目のウマ娘

 ただでさえウマ娘とぼざろの二次創作を書いていたところに、ブルアカの二次創作TRPGも作り始めたため、脳内とスケジュール管理がもうごちゃごちゃ。
 並列創作は程々にしよう!(教訓)





 

 

 

 逃げウマ娘にとって、総合的に見て最も肝要になるスキルは何か?

 俺はこの問いに対しては、悩むこともなく「コンセントレーション」だと答える。

 

 差しや追込ウマ娘にとって終盤が勝負になるように、逃げウマ娘にとってはスタートこそが勝負処だ。

 逃げウマ娘は先頭を走るから、他のウマ娘たちに囲まれて進路を塞がれることもない。

 良いスタートを切ったら、後は自分のペースで逃げるだけ。他の子に追いつかれないように疾走し続けるだけなんだから。

 

 しかし逆に言えば、スタート時点で失敗すると……つまり出遅れてしまうと、悲惨なことになる。

 バ群の中で走るのが苦手だから逃げを取る子が多いっていうのに、もしも出遅れて囲まれてしまったりすれば、調子が崩れることは避けられないからな。

 逆に言えば、スタートの時点で失敗さえしなければ、逃げウマ娘はある程度の調子を保証されるということでもあるんだが。

 

 そもそも逃げウマ娘でなくとも、ウマ娘にとっての一瞬一秒は非常に重要だしね。

 コンマ1秒の差で1着2着が分かれることなんかしょっちゅうだし、それがスタートの差であることも決して珍しくない。

 

 だからこそ、逃げや、そして先行。

 前目の戦法を取るウマ娘にとって、スタートダッシュはかなり重要な技能であると言っていいだろう。

 

 そういった思考があるからこそ、俺はこれまでに担当した2人のウマ娘に対して、まずは何よりそのスキルを覚えさせた。

 「コンセントレーション」。

 「集中力」の上位であり、抜群のスタートダッシュを切るための上位スキルを。

 

 

 

 ……で。

 

 今、俺の視界には、2人の「コンセントレーション」持ちのウマ娘が映っている。

 

 片や、俺がそれを教え込んだ担当ウマ娘、ミホノブルボン。

 片や、1か月前までは「集中力」すら持っていなかったはずのブルボンのライバル、ライスシャワー。

 

 G2、スプリングステークス。

 まだまだ上位スキルを持っていない子も珍しくないクラシック級の3月末、まるで示し合わせたように同じスキルを所持した2人のウマ娘たち。

 これは果たしてただの偶然か、あるいは運命か……。

 

 ……なんて、そんなわけがない。

 これは明らかに作為的な一致だ。

 

「ウィル、君、ライスに何を教えた」

「え? あー、いや、別に」

「『コンセントレーション』」

「お見通しですか……」

 

 てへ、と可愛らしく舌を出す、俺の最初の担当ウマ娘。

 その様子は……まぁ、ぶっちゃけ言えばかなり可愛いけども。

 それはそれとして、やってくれたなぁとは思う。

 

 

 

 この世界におけるスキルは、前世アプリと違って、ポイントを使えば簡単に取れるようなものじゃない。

 長い歴史の中で培われた技術が体系化された、謂わば先人たちの汗と涙の結晶とも言えるものだ。

 

 コンセントレーション1つを取っても、特別な才覚に頼ることなく誰もが使える、これ以上ない程のスタートダッシュ技術。

 当然ながら、これがスキルとして確立されるまでの間には多くの研鑽と挫折があったようだし……。

 今でも習得しようと思えば、並みのウマ娘なら半年、要領の良い優駿でも2、3か月程度の特訓が必要になるような、トップアスリートからしても高度な技術……だった、はずなんだ。

 

 ……まぁ、中には1週間なんて短期間で身に付ける、とんでもない天才ウマ娘もいるわけだけど……。

 それは多分、彼女のかつてのコンディション「命がけ」や「切れ者○」が働いた結果だろう。

 特別なコンディションを持たないライスが、とんでもない短期間でこれを身に付けてるのは、ウィルの影響としか思えない。

 

 原理は未だ不明だが、ウマ娘は他のウマ娘と走ることで、その能力を大きく伸ばすことが知られている。前世アプリで言うところのサポートカードによる友情トレーニングにあたる部分だな。

 それがあるからこそ、俺は前世アプリのサポートカードという概念が、この世界にも何らかの影響をもたらすことがあると考えていたわけだが……。

 

 ひょっとすると、サポートカードホシノウィルムは、イベント完走で「コンセントレーション」のヒントを貰えたりするんだろうか。

 ……うん、もうそういうことで納得しておこう。

 

 流石にウィルの教育力が俺たちトレーナーを上回っているとは思い辛いし、これもまたもやウマソウルに関わる何らかの特異な現象だろう。

 なんかこう、魂が共鳴? とかして、感覚共有? とか、そういう感じで技術の習得が早くなるとか、そんな感じだろうな。

 正直なんもわからんけども、今はもうそういうことだって自分を納得させるしかない。

 

 

 

 思わず渋い顔をしてしまった俺に対し、ウィルはちょっと焦ったようにわたわたする。

 

「い、いや、その、歩さんから許可も出たし、ライスちゃんを強化するならまずここかなーって……」

「ひとまず、俺の教えがしっかり生きているようで、そこは嬉しいよ。

 まぁ、ミホノブルボンのトレーナーとしては、少しばかり頭の痛い展開になったが……」

「もしかして、ちょっとやりすぎましたかね……?」

「……いや、君が気にする必要はない。要は俺がブルボンをもっと強くすればいいという話だからな」

 

 いや、これに関しては本当にその通り。

 

 トレーナーは、競走ウマ娘を鍛える専門職だ。

 一般人よりも、そして当然ウマ娘よりも、俺たちこそが競走ウマ娘の力を引き出してやれる。そうでなくてはならない。

 

 だからこそ、ウィルがそんなことを心配するまでもなく、俺はミホノブルボンを鍛え上げ……。

 必ず、クラシック三冠を獲らせる。

 彼女の願いを、望みを、夢を……叶えるんだ。

 

 そのためにも、受けたショックは程々に切り替えて、ちゃんと目の前の彼女たちを見なければ。

 俺は軽く頭を振り、ウィルを安心させるように頭を撫でた。

 

「わ……えへへ」

「『コンセントレーション』は非常に強力な技術だが、それ1つで戦局を左右する程ではない。

 君が教えたというのなら納得だし、そこに関してとやかく言うつもりはないよ」

 

 実際、ライスシャワーの上位スキルは「コンセントレーション」と「弧線のプロフェッサー」の2つだけだが、ブルボンは「コンセントレーション」「先手必勝」「全身全霊」、そして今回は発動しないが「切り開く者」の計4つ。

 ステータスに至っては、スタミナ以外は全てブルボンの方が高い。

 ウィルがライスに肩入れしても、未だブルボンの有利は崩れてはいないと言っていい。

 

 ……というか、やっぱりブルボン、ちょっとおかしいんだよね。

 ウィルの「一生けん命」のような特殊なコンディションがあったり、「アプリ転生」で見ても表記上の成長率が高いわけでもないのに、ステータスの伸びが異常だ。

 俺はウィルのおかげでだいぶ感覚が壊れてる自覚があるんだけど、そんな俺をして「……なんかおかしいな?」と気付けるレベル。

 恐らくは彼女の育ちやすい体質と……あとはウィルと一緒にトレーニングすることで良い影響が出ているんだと推測できる。

 

 結果、現段階において、素のステータスでブルボンを凌駕するウマ娘は、彼女の世代には存在しない。

 そして技術の面では、俺がきちんと支えているので問題はなく。

 問題になって来るのはやはり適性と掛かり癖だろうが、今回はマイルレースだから適性不足もなく、掛かり癖も改善の様子を見せている。

 

 「アプリ転生」で見ても、今回はライスが領域を習得しているようなことはなさそうだし、ブルボンが壮絶に事故ったりしない限りは問題なく勝てるはずだ。

 

 ……あくまで今回は、だが。

 

 

 

 * * *

 

 

 

『さぁ、皐月賞を目指すウマ娘たちが集いました中山レース場、G2スプリングステークス。

 天気は生憎の雨、バ場状態は重バ場の発表です。

 弥生賞、若葉ステークスと並ぶ、皐月賞への優先出走権を賭けたトライアルレース。今年のトライアルは全体的に荒れているように思えますが、どうなるでしょうか』

『本日の1番人気は栗毛の新星、コンテストライバル! 5戦3勝の好成績、鋭いキレのある末脚が評価された形になりましたね。

 一方、ここまで無敗のジュニア級王者ミホノブルボンは2番人気に甘んじる形となりました。やはり距離適性への不安と朝日杯の大幅な掛かりが不安視されたのでしょう。

 そして3番人気は逃げ宣言サクラバクシンオー。短距離において鬼のような速さを見せつけてきた彼女は、1800メートルでも結果を残せるのか?

 個人的にはこの3人に注目したいところですね。番狂わせがあるとすれば、気合が入っている6番人気ライスシャワーでしょうか』

 

 

 

 実況の声に、俺は思わずターフの片隅へと視線を走らせる。

 

 そこにいたのは鹿毛の逃げウマ娘、3番人気のサクラバクシンオー。

 今日も今日とて元気に伸びをする委員長系ウマ娘であり……。

 ……俺にとっては、結構思い入れの深いウマ娘でもある。

 

 

 

 時は前世、俺が友人に誘われて、アプリウマ娘を始めてすぐの頃。

 なんとかダイワスカーレットを勝利させることはできたものの、どうにもURAファイナルズの攻略が安定せず、俺はほとほと困り果てていた。

 

 アプリウマ娘はそのシステム上、育成をしなければサポカを育てるマニーが手に入らない。

 しかし、その育成をクリアできるだけ育ったサポカがない。

 つまりは、サポカを育てるために必要なマニーを稼ぐために育成をするために必要なサポカを育てるために……という悪循環が発生していたのだ。

 

 この問題に風穴を開けてくれたのが、何を隠そうサクラバクシンオーことバクちゃん委員長。

 複雑怪奇なシステムを理解せずとも、スピードサポカを積み込んでスピードトレーニングしてれば勝てるというシンプル極まりない脳筋っぷりで、俺のマニー不足問題を一気に解決してくれた。

 

 恐らくはウマ娘をやったことがある人ならば誰もがお世話になっただろう、1200メートル3本ノックの覇者、偉大なる長距離(長距離ではない)逃げウマ娘。

 それこそがサクラバクシンオーその人、もといそのウマなのだ。

 

 

 

 実際、この世界でもバクちゃん委員長は非常に強い。

 これまでに走った1200メートルのメイクデビュー・オープンレースでは、4バ身差と5バ身差の圧勝を刻んでいる。

 

 3戦中2戦で4バ身差以上の勝利となると、そりゃあネームドにもなるという戦績。

 彼女とスプリント勝負をして勝てるウマ娘は、恐らく同期の中にはいないだろう。

 

 ……が。

 バクちゃん委員長が無敵なのは、あくまで短距離での話だ。

 

 当然ながらこの世界でも彼女のことには注目していたが、やはりその適性距離は1600メートル程度までだろう。

 ……いや、ぶっちゃけ現状のステータスだと、1600も厳しいか。

 実際今年1月の1600メートルのオープンレースでは、惜しくも2着に敗れてしまったし。

 

 やはりこの世界でもバクシンしているのか、彼女のステータスはスピードに特化し、若干パワーが高い程度だ。

 スプリングステークスの1800メートルを走り切るだけのスタミナは……残念ながら、ないと判断するべきだろう。

 

 まぁこの辺は、「アプリ転生」があるからわかることなんだけども。

 

 彼女がこれまでに走った公式レースの最大距離は1600メートルのオープンレースで、そこではアタマ差の2着と好走を見せていたわけで。

 適性不足は否めないとはいえ、それはミホノブルボンも同じこと。

 バクシンオーならこの距離も走るのではないかと、そう思われたからこその3番人気だ。

 

 とはいえ、中長距離用にスタミナ・根性を育てて来たブルボンとは、この距離における地力が違う。

 実際は最終直線以降から減速し、沈んでしまうことになるだろうが……。

 

 

 

 さて、そんな一方。

 G2とは思えないくらいにネームドの多いこのレース、ブルボンとバクシンオー以外のネームドで言えば、マチカネタンホイザとライスシャワーが参戦している。

 ……が、意外と彼女たちの人気は振るわず、マチタンが4番人気、ライスに至っては6番人気だ。

 

 G1級のウマ娘の人気は、クラシックレースや八大競走で形作られることが多い。

 なのでこの時期のウマ娘には特定の子に人気が集まり辛く、また出走レースの数が少ないからこそ実力も測りづらい。

 勿論、公開トレーニングや当日の仕上がり具合である程度判断は付くだろうが、判断材料が少ないことに変わりはない。

 結果として、この時期の人気はあまり着順に関係しないこともあるわけだ。

 

 実力だけで判断するのなら、今回のスプリングステークスは……ぶっちゃけブルボンが突出して、他はかなり微妙なところ、というのが俺の所感だった。

 ウィルのサポートもあってか、ステータスやスキルの面ではライスが頭1つ抜けてはいるが、残念ながら彼女のマイル適性はC。そこを加味すれば、他のウマ娘よりか少し前に出る程度だろうか。

 

 

 

 出走ウマ娘の次は、今日のレースの環境周りを見るべきだろう。

 

 今日のような重バ場の環境下では、逃げや先行のような前目の作戦の子が有利になる。

 更に言えば例によって例のごとく中山の直線は短く、後ろのウマ娘たちは間に合わないかもしれない。

 スタートからコーナーまでもそこそこ長いし、距離もそこまで長くはない。かなり逃げや先行に有利な形になったな。

 

 強いて言えば。残り200メートルから高低差2メートルの坂があるので、この重バ場に脚を取られてスタミナを消耗し、そこで減速してしまえば不利にはなるだろう。

 

 ミホノブルボンが掛かってしまうと、少しばかりマズいだろうが……。

 「コンセントレーション」と「先手必勝」を習得したことにより、彼女のスタートダッシュは殆ど完成したと言っていい状態だ。

 そこで差を広げ、後は彼女の目指すハイペースで一定のラップを刻んだ走りさえ実現できれば、周りはそれに釣られて潰れてしまう。

 

 彼女に唯一抗えるスタミナがあるのはライスだが、やはり先述のマイル適性の低さがあり、ブルボンに追いつける程ではないだろうと推測できる。

 

 何か事故でも起こらない限り、ブルボンが1着、続いて最低でも4バ身、最高で8バ身程度差を付けて他の子がゴールする形になるだろう。

 2着に滑り込むのはライスシャワーの可能性が最も高いが、彼女自身1800メートルを走るのは初めてのこと。

 果たしてどこまで冷静に走れるかで決まって来るが、今のライスシャワーは絶好調と言っていい状態。恐らくは彼女がブルボンに次ぐ形になるか。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……と。

 

 いつものように、俺が今回のレースの展開予想を話していると……。

 それを聞いたウィルは「まだ鍛え方が足りなかったか……」と顎に手を当てて考え込んでしまった。

 

 察するに、もっとライスを鍛えれば良かった、とか思ってるんだろうな。

 いや正直、基礎ステータスの向上と「コンセントレーション」の伝授だけでも、かなり強化は入ってるんだけどね。

 ぶっちゃけウィルがいなかったら、ライスは今回のレースで2着にもなれなかった可能性が高いし。

 

 ……とはいえ、その強化もそろそろ打ち止めだろうか。

 ウィルには先行の走り方を教えたことはないし、そのスキルも逃げに特化してる。

 ステータスの面はさておいて、スキルの伝授は難しくなってくるんじゃないだろうか。

 「コンセントレーション」の他は……あぁいや、「全身全霊」とか「円弧のマエストロ」とかもあったな。全然油断できないぞこれ。

 

 まず「全身全霊」だけど、ライスの末脚が強化されるのはかなり怖い。

 ダービーの開催される東京レース場は最終直線が長いし、菊花賞は3000メートルと距離が長い。

 総じて逃げ切りの難しいレースだ。そこで「全身全霊」が発動すれれば、差し切られてしまうリスクがかなり高くなる。

 

 一方で「円弧のマエストロ」で息の入れ方を学ばれるのも、それはそれで脅威だ。

 ただでさえ高いライスの持久力が伸びれば、それだけ菊花賞終盤の爆発力が恐ろしくなる。

 ブルボンがスタミナを削られて、なおかつライスが万全な状態で最終直線に入れば、そこにあるのは敗北の2文字だ。

 実際前世アプリ、というか前世の史実ではそうなってしまったわけで、ここに関してはしっかり注意を払わなければならない。

 

 ……いや、ほんとにどうしようかな、これ。

 前世アプリでのライスのことを考えれば、彼女が菊花賞で領域に目覚める可能性は決して低くない。

 少なくとも、ブルボンの長距離適性がCのままでは、彼女に負ける可能性は無視できないレベルになる。

 できればAに、そうでなくとも最低限Bに上げなければならないだろう。

 

 

 

 さて、ウィルの呟きに対して思わず苦笑を漏らしてしまった俺だったが……。

 その隣では、昌も昌で微妙な顔をしていた。

 

「相変わらずというかなんというか……どうしたらそんな予想できるの?」

「ん……まぁ俺にはアレがあるし、あとはデータを集めて計算していけば」

 

 彼女の問いには、軽くぼかして答える。

 今は横にウィルがいるし、「アプリ転生」なんて突飛な名前を出すわけにはいかないからな。

 

 昌は俺が転生者であることや、「アプリ転生」という謎の力を持っていることを知っている、現状この世界唯一の人間だ。

 担当には勿論、他の人にはそれを話さない方針も知ってるから、俺が言葉をぼかしたことで逆説的に「アレ」の正体を察してくれるだろう。

 

 ……しかし、いくら誤魔化そうとも、ウィルが小首を傾げることは避けられなかった。

 

「? アレってなんです?」

「いや、俺の観察眼の話だ」

「あー、歩さんの観察眼、天性のものっていうか……もはやチートじみてますもんね」

「ん゛ん゛っっ!!」

「えっ、あれっ!? 大丈夫ですか!?」

 

 い、いや、ただの偶然だよね?

 天性……チート……。

 まさか察されてるとか……そんなことはない、よね?

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて。

 そんなことを話している内、出走の時間が近づいてきた。

 

 G2、スプリングステークス。

 俺たちの陣営の今年最初の公式レースであり、ブルボンのクラシックロードの行く末を占うものであり、俺が見たレースの中では、恐らくあの有記念の次にネームドの多いレース。

 

 1枠1番、ミホノブルボン。

 2枠3番、ライスシャワー。

 2枠4番、サクラバクシンオー。

 4枠7番、マチカネタンホイザ。

 

 ティアラ路線を進むニシノフラワーを除けば、彼女たちの世代のネームドが勢揃い。

 

 

 

 ミホノブルボンは、紛うことなき優駿だ。

 その血こそクラシック三冠には向かない無名のものだが、彼女の身体的素質は「群を抜いて」という言葉が適切な程に高い。

 マイル距離、1600メートル付近で戦えば、それこそ生涯無敗を貫き得るくらいに強力無比。

 

 そんな彼女を、決して向かない中長距離で走らせるんだ。

 俺はトレーナーとしての責任を持って、できる最大限のことをして、彼女を支えなければならない。

 ミホノブルボンというウマ娘を知り、鍛え、試し、仕上げる必要があるのだ。

 

 今日のスプリングステークスは、その「試し」の部分。

 

 俺が予測する彼女の最適距離の1600メートルから、200メートル伸びた距離。

 サクラバクシンオーという強力な逃げウマ娘との競り合い。

 

 これらの条件を越えてなお、彼女が最高の走りを見せることができれば……。

 それはきっと皐月賞の、そして日本ダービーと菊花賞の勝利への、最初の一歩となり得る。

 

 だからこそ、俺はこのレースを、少なからず緊張感を持って見守り……。

 

 

 

 ……しかし。

 

 

 

『スタートしました! 18人綺麗に揃いました、中でも抜けたのはミホノブルボン、先行争いは内から押しましてミホノブルボン出て行きます!

 次いでサクラバクシンオー、この2人が抜けましたがサクラバクシンオー届かないか?』

 

 

 

『第1コーナーカーブに入ります。コンテストライバルは現在後方から4番手の位置、ナルキッソスはやや後退しています。

 早くも第2コーナーを迎えまして抜けましたのはミホノブルボン、リードは3バ身!』

『ミホノブルボン、恐ろしく冷静な走り。朝日杯の失敗が堪えたか、掛かる様子を見せず淡々と、ややハイペースなスピードを維持しています』

『栗毛に続くはサクラバクシンオー2番手、ライスシャワーが3番手。続いて内を突いてジュエルルベライトという形で向こう正面の直線です』

 

 

 

『800を通過、第3コーナーに入って先頭は変わらずミホノブルボン。負けじと追い上げるサクラバクシンオー、その差はしかし2バ身と少しといったところか。

 そこから3バ身程離れてライスシャワー、内に突いた小さな黒鹿毛がしっかりと前を見据えているぞ。

 その更に後は1バ身程空いて、するすると上がってきたムシャムシャがここにいる!』

 

 

 

『さぁ第4コーナー外からマチカネタンホイザが上がってきた! その外にはやはりコンテストライバル! 好位固まって400の標識を通過! 殆ど一団固まって第四コーナー抜けて今、直線に入りました!

 内を走るミホノブルボン先頭で再びその差が大きく開く、疲れを知らぬ疾走でその差は今5バ身か、これは強い!

 番手は混戦少し抜けてライスシャワーがジリジリ追い上げているが果たして届くのか!?』

 

 

 

『既に200も通過しました、逃げ切り態勢濃厚ミホノブルボン! ライスシャワー追い上げるがしかし距離はなかなか縮まらない!

 これは圧勝ムード、衰えぬ脚でそのまま綺麗にゴールイン!!』

『2着入線ライスシャワーに4バ身の差を付け、その強さを見せつけました!

 素晴らしき脚の速さ、成長の早さ! 距離適性という大きな壁を越え、皐月賞を制するのは彼女になるのか!?』

『昨年ホシノウィルムに続いて、血統を越えた勝利を見せてくれるのかミホノブルボン。新たな伝説の樹立に期待が高まりますね』

 

 

 

 

 

 

 ……心配する必要、なかったな。

 

 あの日「成長をお見せします」と言った彼女は、その言葉通りに、素晴らしい走りを見せつけた。

 

 完璧と言う他ないスタートに始まり、追走するサクラバクシンオーの存在を感じていないかの如き冷静沈着な走り、殆どペースも乱さない定速に近いペース、そして最後までしっかりと残された脚。

 

 その結果、ミホノブルボンが刻んだのは……。

 自分の適性距離から200メートル離れたG2で、あのネームドたちを相手に、余裕の4バ身差の勝利。

 

 

 

「……いや、すごいな、これは」

 

 ミホノブルボン。

 彼女は、どこまで伸びるんだろう。

 

 あの素晴らしく素直な脚は、限りなく正確な走りは、果たしてどこに辿り着くんだろうか。

 

 皐月賞?

 日本ダービー?

 菊花賞?

 

 ……あるいは、もっと先まで?

 

「兄さん? ブルボンさんを迎えに行かないと」

 

 昌に呼ばれ、ぼんやりとした夢想から戻って来る。

 

 あぁ、そうだ。

 あの素晴らしい走りを終えたブルボンを迎えに行って、そして……。

 

 俺から改めて、彼女に願わなければ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そうして俺は、地下バ道に戻ってきた、少なからず疲弊した様子のミホノブルボンに、ひとまずその場で息を整えるように伝えて……。

 

 肩を上下させ、こちらの言葉を待つ彼女に、言う。

 

「素晴らしい、思わず見惚れてしまう走りだった。

 改めて、ミホノブルボン。……俺に、君と同じ夢を見せてくれ」

 

 その言葉を聞いて……。

 

 ミホノブルボンは、彼女にしてはとても珍しいことに、薄っすらと笑みを浮かべた。

 

「はい、よろしくお願いします、マスター。

 私の夢を……私と父と、マスターの夢を。

 どうか、共に」

 

 

 







 堀野歩トレーナーにとって2人目の担当ウマ娘、ミホノブルボン。
 彼女との、トレーナーとウマ娘としての関係は、今、ようやく軌道に乗りました。



 ちなみにそれを真横で見ながら、ウィルはとんでもなくモヤモヤしています。
 そりゃいつかはそうなるだろうって思ったけどさぁ! 祝うべきことだけどさぁ! そういう意図がないってこともわかってるけどさぁ! それでも好きな人が女の子と親密にしてるとなんかヤだなぁ!



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、迫る大阪とRe:最強の話。



(追加)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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楽しいレースを見たり想像して脳を守ってね

 前回のあらすじ:堀野君の視線がブルボンに釘付けになった。そしてウィルはそれを隣で見ていた。





 

 

 

 わかってたことではあったんだ。

 いつかトレーナーは、担当ウマ娘を増やすって。

 

 

 

 そもそも歩さんは、スンってしてるように見えて、案外ウマ娘のことを好きなんだと思う。

 今までは初等部の頃の因縁故に楽しむ余裕がなかっただけで、本質的にはウマ娘のトレーナーとして必要な「愛」みたいなものを持ってる感じがするんだ。

 

 実際、昌さんから定期的に仕入れている情報によると、最近の歩さんは楽しそうに仕事してるらしい。

 以前までのように淡々と作業的にこなすのではなく、テンションに浮き沈みが見られるようになった。

 特にあなたのトレーニングを見に行く時は、露骨にワクワクしている、とのことで。

 

 ……正直、めちゃくちゃ嬉しい。

 好きな人に気にされて嫌な乙女なんていないもん。

 私が歩さんを男性として気にしているように、歩さんの方も私のことを、一人のウマ娘として見てくれるようになった……というのは、ちょっと気が早いと思うけど。

 それでも、私を特別に見てくれているのは間違いないわけで……うん、やっぱり嬉しいな。

 

 と、私の感想はともかくとして。

 そんな風に、歩さんがトレーナー業を楽しめるようになったのは、多分……。

 

 彼が、トラウマの発端になった記憶を、忘れてしまったせいなんだろうな。

 

 

 

 昌さん曰く、歩さんはあの事故で、初等部の頃の記憶を忘れたのだという。

 体は殆ど無事だったけど、頭を強かに打ったせいで記憶障害を……それも一時的ではない、不可逆的な記憶の欠損を起こしたのだと。

 

 私は、辛い過去は受け入れ、乗り越えるべきものだと思ってる。

 過去は変わらない。過ぎ去っていった今は、決して覆せない。

 だからこそ、あの宝塚記念の日に、たくさんの人たちに貰った温かさで、ちゃんと両親との過去と向き合って認識したように……。

 どれだけ辛くともそれに向き合って、自分の糧にするべきだ、と。

 

 でも、歩さんの過去は失われてしまった。

 もう彼は、それを思い出すことも、受け入れることもできない。

 だからそれを聞いた時、私は思わず、ちょっと微妙な顔をしてしまったんだけど……。

 

『兄の過去は、あなたのものとは違う。どうしても正には繋がらないものなんです。

 あなたとは違う意味で、それは届かない、手の伸ばしようのないものだから……。

 だからといって、忘れていいというわけではありませんが……それでもきっと、これは兄さんたちにとって、前に進む唯一の方法だったんだと思います』

 

 昌さんにそう言われて、そのどこか思い詰めたような表情を見て、受け入れざるを得なかった。

 

 

 

 昌さんは歩さんと、大きな年の差がない。

 ということは、初等部の頃は普通に一緒にいた記憶があったはずで……。

 その記憶が、家族として一緒にいた記憶が消えたんだ。辛くないはずがない。

 

 2人は一見険悪なようで、その実かなり仲が良い兄妹だ。

 昌さんは歩さんにツンケンしてるように見えるけど、ああ見えて家族への愛情は深い方っぽいし。

 歩さんの方も、この前ご実家にお邪魔した時のことを考えても、家族にはかなり優しくしてた。

 

 妹はずけずけと兄の駄目なところを指摘できて、兄は苦笑してそれを受け入れるような、温かな関係。

 それを一言で表現するとすれば……やっぱり「仲の良い兄妹」というのが妥当なところだと思う。昌さんは嫌そうな顔をするかもしれないけど。

 

 そんな兄に、一部分とはいえ自分のことを忘れられて、平気なわけもない。

 昌さんが感じている精神的な苦痛は、私の想像をはるかに超えているだろう。

 そんな彼女が受け入れているんだ、私がとやかく言うわけにもいかないよね。

 

 そもそも、アレは偶発的な悪意と事故で起こったことだ。歩さんが悪いわけじゃない。

 忘れてしまうっていうのは悲しいことだけど……それでも、歩さんが前向きになれたっていうのは、私からすればとても良いことだし。

 

 だから私は、ただ今の歩さんを受け入れたんだ。

 

 

 

 ……と、そんなこともあって。

 歩さんは、前よりも幾分か前向きになったと思う。

 

 トレーナー業を「しなければならないこと」と義務的に捉えてたあの人が、今は自分から私に向き合ってくれるんだもん。

 私としては、そりゃ当然すごく嬉しい。

 

 嬉しい……が。

 

 それは同時、歩さんがその内に隠し持っていた、ウマ娘好きの本性が出てしまうということでもあって……。

 そうなれば、ブルボンちゃんのあの走りを見て、感動しないわけもないんだよね……。

 

 

 

 今日開催されたG2レース、スプリングステークス。

 あそこのブルボンちゃんは、ちょっとばかりすごかった。

 

 もうちょっと育てば私に届いたかもって思う程のスタートダッシュ。

 最後の最後まで変わらなかった、一定ペースでの隙のない疾走。

 掛かり癖も乗り越え、距離の適性すら関係ないと言わんばかりに走る姿は、一種芸術的ですらあった。

 

 正直、私でさえブルボンちゃんから目が離せなかったくらいだもん。

 まだまだ本格化も1年、彼女の成長はこれからだ。

 果たしてブルボンちゃんは、どこまで上って来てくれるんだろう、どれだけ私を楽しませてくれるんだろう、って。

 

 適性的には、マイルが主戦場になるかもしれないブルボンちゃんと、ゴリゴリのステイヤーである私は、あんまり相性が良くないんだけど……。

 それでも、中距離……2000メートルの大阪杯とか2200メートルの宝塚記念、2400メートルのジャパンカップあたりなら、お互いイーブンな条件で走れるはずだ。

 

 シニア級まで上がって来てくれたブルボンちゃんと、そこで全力を出し合って競う。

 1人の大逃げウマ娘と1人の逃げウマ娘として、互いに全力を振るう……。

 うん。考えるだけで、胸の底から熱いものが込み上がってくるね。

 

 

 

 ……が。

 彼女の走りに感動しているのは、何も私だけではなかった。

 

 スプリングステークスが終わり、ブルボンちゃんが4つめの勝利を刻んだ後。

 私が「すごかったですね!」と共感を求めようとして歩さんの方を向いた時……。

 

 歩さんは、ゴール板を越えたブルボンちゃんを見ていた。

 

 

 

 今まで、私だけに向けてくれていた目。

 その走りに惚れた、担当ウマ娘に向ける目で。

 

 

 

 ……実際のところ。

 歩さんは今まで、ブルボンちゃんのことを本当の意味で「担当ウマ娘」として見てはいなかった。

 いや、確かに担当という意識はあったんだろうけど……何と言うべきかな、この辺。

 

 例えるなら、私が宝塚記念を走るまでの歩さんの意識が近いかな。

 確かに担当契約してるけど、それだけだけの関係、みたいな。

 

 全力で支えるし、責任も取る。契約トレーナーとしてすべきことはきちんと……というか、普通の300%くらいにこなす。

 けど、そこから先の一線は、決して踏み越えない。

 

 自分がそのウマ娘に釣り合わない、あるいは自分以上にその子を伸ばせる人がいると思えば……。

 もしくは、ウマ娘の方から契約の打ち切りを求められれば。

 悩むこともなく、それを受け入れる。それがその子のためになると信じて。

 

 正しい意味で、「競走ウマ娘をサポートする契約トレーナー」。

 歩さんは原則的に、その一線を越えることはない。

 

 つまるところ、歩さんの中に、その子への「執着」が生まれていないんだ。

 自分の方から「この子を担当したい」「この子を支えて共に走りたい」と想ってはおらず、ただ「その子をより速く、強くさせなければならない」と認識しているだけ。

 だからこそ、自分以外のトレーナーが担当することになろうと構わない。それでその子が伸びるのなら、何の問題もない。

 

 宝塚記念を走るまでの、歩さんから私への意識は……。

 そして、スプリングステークスが終わるまでのブルボンちゃんへの意識は、そういう状態のものだった。

 

 

 

 けど……。

 スプリングステークスで、状況が変わった。

 ブルボンちゃんの、あの機械的な美しい走りが、状況を変えてしまった。

 

 あのキラキラした目。

 歩さんにしては幼い、シンプルな憧れの色。

 それを見た瞬間、私は歩さんの中に、ブルボンちゃんへの執着が生まれたのを察した。

 

 まぁ、あんなに良い走りを見せられちゃ、トレーナーとして疼くってのは当然の話かもしれない。

 殊に、今の歩さんは長年苦しめられた記憶を捨て去って自由になった直後だもん。

 

 トレーナーは自覚はどうあれ実際の能力はめちゃくちゃ高いわけで、あのブルボンちゃんの走りを見ても、もっともっと上に導く方法をたくさん思いつけるんだろう。

 だから、彼女がどこまで行けるのか、どこまで自分は彼女を支えられるのか……。

 そう思うことがあっても、なんらおかしくはない。

 

 

 

 おかしくはない、が。

 

 これにて、歩さんの担当ウマ娘が、正式に1人増えたことになる。

 それはつまるところ、「歩さんが自分から(担当であることを)唯一求めてくれるウマ娘」という私の最大の恋愛的アドバンテージが崩れてしまう、ということでもあるわけで……。

 ブルボンちゃんの先輩としては当然嬉しいんだけど、歩さんのことを好きな1人のウマ娘としては、すごく頭が痛いことになっちゃった。

 

 ……わかってはいたんだよ、いつかこの日が来るってことは。

 歩さんが私を求めるようになってくれたのは、宝塚記念での走りで魅せたから。

 逆説的に言えば、歩さんを惚れさせる走りさえできれば、本質的にウマ娘が好きな歩さんはその子を担当にしたくなる。その子を支え、共に夢を叶えたくなってしまう。

 だから、いつかは担当ウマ娘が増えるってのも、覚悟していた……はずだったんだ。

 

 

 

 でも実際に歩さんがあの目を他のウマ娘に向けてるってなると、すごく、なんかこう、心に来るものがあるんだよね!

 これが……この胸に来るこの感じが、NTR(寝取られ)……ッ!?

 ぐぬぬぬぬ……。モヤモヤする……! 胸の中がムカムカする……! あとなんかこれずっと味わってたら癖になっちゃいそうでちょっと怖い!

 

 

 

 * * *

 

 

 

「ふぅ……」

 

 そんなわけで、スプリングステークスの日の夜。

 私はライトNTRの心地を味わいながら、自分の住む寮に帰っていた。

 

 

 

 歩さんの陣営では、レースのある日は基本的に全休となる。

 出走ウマ娘であるブルボンちゃんは疲労が蓄積しているし、観戦していた私もその熱に浮かされて無茶をしてしまう可能性があるからだ。

 スパルタと言われがちな歩さんだけど、基本的には慎重というか、ウマ娘の怪我絶対許さないマンなところあるからね。自主トレも最小限って約束するまでは許してもらえないレベル。

 

 更に言えば、最近は昌さんの提言で、レースの後は祝勝会が開かれる。

 別日になることもあるけど、当人さえ調子が悪くなければ、当日の夜に行われるからね。

 流石にこの手のお祝いを「トレーニングするから行きません!」は……うん、感じ悪いよね。

 

 そんなわけで今日は、ブルボンちゃんのウイニングライブが終わった後、祝勝会として結構お高めらしいバイキングに行ってきた。

 

 主役のブルボンちゃんは、レースで失ったエネルギーの補給と言わんばかりに、陳列されたものを消し去る勢いで料理を口に放り込んでた。

 あれを処理しきれるとは、すごいなウマ娘の胃と消化器官。自分で言うのもなんだけど。

 まぁブルボンちゃんはウマ娘の中でもかなりの……それこそスペ先輩やオグリ先輩に次ぐレベルの健啖家だ。彼女の胃が殊更に強いだけかもしれないけど。

 

 一方で歩さんと昌さんは、ブルボンちゃんの様子に苦笑しながら、名家の出らしく気品のある様子で舌鼓を打ってた感じ。

 お皿を持ってる立ち姿すらシュッとしててカッコ良いんだよなぁ。

 やっぱりアレか、教育による自信の賜物だろうか。

 三冠を獲って以来なんか気品のあるパーティにお呼ばれされる機会も増えた私だけど、あれだけの余裕を身に付けられるのはまだまだ先になりそうだ。

 

 で、そんな私はと言えば、色んなものにチャレンジしてみた。

 いやぁ、何と言うか、高級な食事って、こう……味が薄いよね。

 いや、薄いっていうか、不思議っていうか、いや、こういうのは繊細な味って言うのかな。間違いなく美味しいんだけど、普段は食べない味すぎて首を傾げることが多かった感じだ。

 こういうのを貧乏舌って言うのかな? まったく、我ながら庶民派な三冠ウマ娘だよ。

 

 

 

 ……さて、そんな祝勝会も終わってようやく寮に帰る頃には、既に日も落ち切って。

 玄関あたりでブルボンちゃんと別れた後、私はため息を吐きながら自室に戻った。

 

 あー……前世でオタクやってた頃は、まさか異世界転生するとは思ってなかったんだよな。

 そして自分がウマ娘になってトゥインクルシリーズに参加するとも思ってなかった。

 で、当然のことながら、まさか自分がNTRる立場に回るとも思ってなかったわけで。

 

 時間を空けても、やっぱり思考はそこに戻って来るわけで……。

 どうしたもんかなぁと、どうしようもないことがわかっていながら、思わず眉間を揉んでしまう。

 

 元々、歩さんを独占できるとは思っていなかった。

 だからこそあの日も、「私は歩さんのウマ娘だ」とは言っても、「歩さんは私だけのトレーナーだ」なんてことは言わなかったんだ。

 

 だって歩さんはトレーナー、それも超絶優秀なチートトレーナーだもん。

 例外的にすぐ専属契約を許されたり、2年目にして2人目の担当契約を許されてるって辺り、その異次元さがよくわかる。

 いずれ複数のウマ娘を担当するってことは、当時の余裕のない私ですらわかってた。

 

 もしも私が生まれるのが10年くらい遅かったら、歩さんは既に何十人というウマ娘を抱えるチームトレーナーだっただろう。

 私が歩さんの最初の担当になれたこと、ここまで1対1で向き合えてたってことは、ただの偶然の産物に過ぎなかったのだ。

 

 わかってる。

 私は理解ある転生チートウマ娘。そんなことは当然ながらわかってるんだ。

 

 ……わかってるけどぉ!

 やっぱNTRは辛いよぉ! 脳が壊れるよぉ!

 

 くそぅ……この状況を乗り越えるには、もはや走り以外の部分で、つまり1人のウマ娘として歩さんを惚れさせるしかない……!

 数いる担当ウマ娘の中でもたった1人の唯一無二、絶対的なパートナーって認識させるしか……いやしかし、あの歩さんにどうすればそう思ってもらえるだろうか。

 私、すごい速いことと転生チート持ってる以外は割と普通のウマ娘だし……後者を歩さんに明かすのは、流石にちょっと勇気がいるし……。

 

 

 

 そんな風にうだうだと考えながら、私が自室のドアを開くと。

 

「……ウィルちゃん、おかえりなさい」

 

 そこには、既に帰って来ていたらしい、ミーク先輩の姿があった。

 

 ハッピーミーク先輩。

 私がこのトレセン学園に来て最初に仲良くなった、共に栗東寮に暮らすルームメイトであり、尊敬できる先輩でもあるトゥインクルシリーズ現役のウマ娘。

 いつもぼんやりぽやぽやしている印象のある彼女は、今日も今日とてこっちを見てるのか遠くを見てるのかよくわかんない視線を投げかけて来た。

 

「ただいま、です。今日は遅くなっちゃいました」

「……ブルボンちゃんの祝勝会、ですよね。……私もテレビで見てました、スプリングステークス」

「ミーク先輩も見てくれました? 我が後輩ながら、かなり強い勝ち方でしたね」

「……影も踏ませぬ勝利、お見事です」

 

 相変わらず表情の移り変わりの少ない先輩だけど──あぁいや、これに関しては仮面を被ってる私が言えたことじゃないか──、こくりこくりと頷く様を見るに、ブルボンちゃんの勝ち方を評価しているのは間違いないらしい。

 

 実際、アレは私でも評価せざるを得ない走りだったからね。

 

 スタートで一気に引き離してリードを広げ、そこからも一定のペースで疾走を続けて、無駄なスタミナ消費もなく脚を余すこともなく、完璧な計算を現実に落とし込んで通して勝ち切る。

 あれは……私やスズカ先輩とはまた別の意味での、理想の逃げだ。

 

 サイレンススズカは、単純に速すぎる。

 唯一無二のスタートダッシュ、無限大のスタミナを活かした、理論上誰も追いつけないっていう夢のような走り。

 

 ホシノウィルムは、自分で言うのもなんだが、ズルい。

 歩さんに鍛えられた抜群のステータスと技術群、そして私の転生チートたる「アニメ転生」により、割と無茶苦茶が通せてしまう。

 

 対して、ミホノブルボンのそれは……無駄がないと言うべきか。

 機械的な程に計算され尽くしたペース、スタミナ配分。

 終盤、頭に酸素が回らない状態ですらそれを完遂できるんだもの、彼女の走りは、そのスペックにおける理論値の走りと言っていい。

 つまるところ、ブルボンちゃんと同じスペックのウマ娘が100人いたとしても、ブルボンちゃんはその中で必ず1着を取れるわけだ。

 

 作戦も何もなく、ただ「最適解」を算出し、自らの強さを押し付ける走り。

 ブルボンちゃんの特性を最大限に活かした、ブルボンちゃんだけの走り方。

 歩さんの導きと共に見出したそれが弱いはずがなく……。

 

 下手なクラシック級G1レースよりも豪華なメンバーだった、今回のスプリングステークス。

 彼女はそこで、これでもかってくらいに、自分の実力を証明したんだ。

 

 

 

 私はブルボンちゃんの走りを思い出しながら荷物を置き、愚痴るようにため息を吐いた。

 

「正直なところ、少し羨ましいですね。

 私が自分の走りを見つけたのは、あの宝塚記念。クラシック級の6月でした。

 それなのに、ブルボンちゃんはクラシック級の3月でもう見つけてるんですもん。これも早熟の才能なんですかねぇ」

 

 走り方を見つけるってことは、それだけ熱いレースができるってことで、つまりはレースが楽しめるってことだ。

 私が完全に楽しめなかった皐月賞を、日本ダービーを、ブルボンちゃんは自分らしく楽しめる。

 先輩としては見苦しいってわかってるんだけど、それがちょっと羨ましくなってしまうんだよね。

 

 

 

 ……全く、後から思うと、我ながら情けない。

 大切で可愛い後輩に、こんな醜い妬心を向けていることもそうだけど……。

 

 それ以上に。 

 それを、もっともっと羨ましがるかもしれないウマ娘がいることに、私は気付けなかった。

 

「…………そう、ですね。……羨ましい気持ち、わかります」

 

 その、僅かな哀愁が宿った声の響きに、自分の失言を悟った。

 言ってはいけないこと……って程ではないと思う。踏んだらすぐ大爆発する地雷ではない。

 けど、それほどではなくとも、まだ少しだけ痛む傷ではある。

 

 つまるところ、今の私の発言は、この優しい先輩の琴線に触れてしまうものだったんだ。

 

「あ、その……」

「……大丈夫です。……ただ……」

 

 そこで言葉を切ったミーク先輩は、ちょっと考え込むように視線を上に上げて……。

 

「……少しだけ、お話ししましょうか、ウィルちゃん」

 

 静かに、彼女のことを話してくれた。

 

 

 

「……私が、自分に合う走りを見つけたのは、シニア級の1年目が半分が過ぎた頃。

 ……それまでの私は、陸の上を走る亀さんみたいなウマ娘でした」

 

 懐かしむような、あるいはどこか苦いものを想うような、複雑な声音。

 

「……私のトレーナーと同期だった、当時の新人トレーナーさん。

 ……あの人が契約したセイウンスカイちゃんと、何度も何度も競って、知って……それで、ようやくわかった。……私は、ようやく私だけの走り方がわかった」

 

 ライバルと走って、自分の走りを見つけた。

 それだけ聞けば、ありがちなハッピーエンドに聞こえるものだ。

 

 でも、ミーク先輩の雰囲気が、そうでないことを悟らせる。

 

「…………でも、遅すぎた。

 ……結局、URAファイナルズでも勝てなくて、決勝で4着。

 ……ちゃんと勝てるようになったのは、シニア級2年目からでした」

 

 だから、早熟なのが羨ましいって気持ちは、わかります。

 だって、私は間に合わなかった側だから、と。

 ミーク先輩は、そう、言葉を結んだ。

 

 

 

 想像以上に重い、ミーク先輩の過去。

 それに、私は何と言おうか悩んで、そもそも何か言えるのかって迷って……。

 

 でも、言葉は出さないと、分かり合えない。

 だから、取り敢えず頭を下げた。

 

「すみません、その、配慮に欠けることを言って……」

「……ですから、大丈夫。……気にしていませんし、むしろ、私は嬉しいです」

「嬉しい?」

 

 思わず首を傾げてしまった私に、ミーク先輩は淡く微笑んだ。

 

「……ウィルちゃんが、自分の走りを見つけて、領域を開いた時も、嬉しかった。

 ……だって、わかってましたから。……ウィルちゃんは私と同じで、一杯頑張ってる子だって」

「頑張ってるなんて、そんな……」

 

 むしろ私は楽しんで……いや、確かに最初の頃は、過ぎるくらいに頑張ってたかもしれないけど。

 思わず謙遜しそうになった私に対して、ミーク先輩は緩く首を振る。

 そして、私の少し上を見上げて……昔を思うような表情を浮かべた。

 

 

 

「……私の世代には、間違いなく天才って言える、すごい子たちがいました。

 ……スペちゃん、スカイちゃん、キングちゃん、エルちゃん、グラスちゃん。

 ……みんな天才で、みんなすごいウマ娘で、みんなライバルで……みんな、全然、勝てなかった」

 

 俗に言う、黄金世代。

 それは、トゥインクルシリーズの最盛期であろうとまで言われた、とんでもない世代だった。

 

 私でさえ敵わなかった日本総大将、最強と言っていい末脚を持つ、スペシャルウィーク先輩。

 策略に優れ機智に富み、宝塚記念では完膚なきまでにハメられた、セイウンスカイ先輩。

 何度負けても俯かずG1勝利を目指し続け、果てにはその夢を実現させた、キングヘイロー先輩。

 日本どころか世界最強とも名高い、もっとも門の栄光に迫ったウマ娘、エルコンドルパサー先輩。

 怪物級と言われたグランプリの鬼、爆発的な瞬発力を持ち全てを差し切る、グラスワンダー先輩。

 

 その誰もが、それこそ年に1人、あるいは5年、10年に1人出るかどうかの傑物。

 それがたった一世代に集まり、クラシックレースを、八大競走を競い合った。

 

 最も熱く、最も猛り、最も厳しく、最も恐ろしい世代。

 それを、人は黄金世代と呼ぶのだ。

 

 ミーク先輩は、幸か不幸か、そんな世代の中に生まれた。

 クラシックレースを、ティアラレースを、あるいは八大競走を、彼女たちと競うことになった。

 

 ……けれど、その結果は、決して振るったものではない。

 ミーク先輩が結果を残し始めたのは、シニア級2年目以降。

 そして、その頃には……もう、黄金世代の多くのウマ娘が、ドリームトロフィーリーグに移籍してしまっていた。

 

 だからミーク先輩は、彼女たちに、一度も勝てたことがない。

 ずっと苦戦して、ずっと頑張って、それでも間に合わなかった。

 

「……私は、見てました。ウィルちゃんが、ネイチャちゃんやテイオーちゃんに苦戦したところを」

「あ、いや、別に私は……」

 

 彼女の過去を知ったからこそ、私は言葉を濁さざるを得なかった。

 だって、私はミーク先輩程に苦戦したわけじゃないし、苦しんだわけでもない。

 

 だけど、ミーク先輩はそんな私を見て、わかってると言わんばかりに頷いた。

 

「……はい、ウィルちゃんは楽しんでましたね。……でも、他の子に勝つために頑張ったのは、間違いないでしょう?」

「それは……まぁ、そうですけど」

 

 確かに、去年のダービー辺りからは、かなりトレーニングが厳しかった。

 特に宝塚のラストスパートは、無茶を超えて無理を通してしまった。今でも歩さんに時々持ち出されて怒られるくらいだ。

 

 そういうのを「頑張った」と褒められるのは……なんというか、少しこそばゆい。

 そうするのは、当時の私にとって当然のことだったし。

 

 でも、そうして恥ずかしがってる私に対して、ミーク先輩は大真面目に頷く。

 

「……私も、同じでした。世代のみんなに勝つために、スカイさんに勝つために、ずっとずっと頑張って……それでやっと、見つけた。

 ……だから、私は嬉しいんです。……あなたも、ブルボンちゃんも……頑張った子が、自分の走りを見つけて、困難に打ち克って……」

 

 そう言ってミーク先輩は、窓の外の空を見上げた。

 昼まで続いた雨が止んで、綺麗に晴れた夜空。

 

 そこに輝く、満天の星を。

 

 

 

「そうして、私と、走ってくれることが」

 

 

 

 ゾクリと、背筋が震える。

 同時に、甘く艶やかな喜悦が走る。

 そして何より、心の底から湧き上がる、滾るような熱。

 

 ……そう、これは。

 強者と相対した時の、緊張と興奮。

 

 ミーク先輩の纏う雰囲気が、優しい先輩ウマ娘のそれから、恐るべき競走ウマ娘のそれに変わった。

 

 

 

「……あの日に言ったことは、嘘じゃありません。

 ……スペちゃんとスカイちゃんがいなくなった今、現役最強はマックイーンちゃんと、三冠を獲ったウィルちゃん、そして私、ハッピーミークです。

 ……でも、本当の最強は、1人だけ。

 ……だから、ウィルちゃんがフランスに行く前に、決めちゃいましょう」

 

 それは、つまり……。

 

「有記念では不甲斐ない走りを見せてしまって、ごめんなさい。

 今度こそ……今年の宝塚記念でこそ、私の走りを見せます。

 ……そして、相手がウィルちゃんだろうと、勝っちゃいますから。ぶい」

 

 指でブイサインを形作るミーク先輩を前に、自然と口角が上がる。

 

 あぁ、この人も……。

 また、私の前に立ってくれるんだ。

 私と本気で競ってくれるんだ。

 

 テイオーにネイチャ、マックイーンさんみたいに……。

 私を支え、助けてくれたこの先輩とも、本気でやり合えるんだ!

 

「……ふふ、ふふふ。それじゃあ、待ってますね。

 先輩にこう言うのもなんですが、去年の宝塚記念覇者として、待ち構えてます。

 だから……私のこと、楽しませてくださいね?」

 

 

 







 ミークパイセンはウィルに似て、困ってる子がいたら助ける善性を持ち、同時にその子と全力で走れることに喜悦を覚えるタイプ。いやまぁウマ娘はみんなそんな感じかもしれませんが。
 あの日出会ったカニさんがここまで育つとは、感慨深いなぁ……(後方ぽわぽわルームメイト兼ライバル面感)。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、春のファン大感謝祭前編。
 本当はそろそろ別視点を入れたいところですが、諸事情でもうちょっとだけ続くんじゃ。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。
 ウィルのトレーナーへの呼称は「トレーナー」と「歩さん」で安定しておらず、トレーナーとしての要素が強い時はそっちで呼ぶこともある感じです。
 でも多くの場合は歩さん呼びになります。脳内お花畑状態なので。


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時期が悪いよ時期がー

 時期が悪いお兄さん

 尺の調整に失敗しまくっているのでちょっと長めです。久々の13000文字。





 

 

 

 トゥインクルシリーズには、年2回のファン大感謝祭がある。

 即ち、4月頭の春の大感謝祭と、9月頭の秋の大感謝祭である。

 

 そもそもレース興行は、ウマ娘たちを支えてくれるファンの方々のおかげで成り立っている。

 これは綺麗事でも何でもなく、紛うことなき事実。

 そもそもレース開催やウイニングライブにかかる莫大な費用は、ファンが落とす席代やグッズ代から賄われている。もっと言えばURA傘下であるトレセン学園の運営もそうだ。

 

 ファンの方々による応援がなければ、俺たち関連業種は立ち行かなくなる。

 俺たちは常にファンの善意に依存しているのだ。

 

 である以上、定期的にレースやライブ以外のお返しをするのは、ある意味自然なことで……。

 それこそが、年2回のトゥインクルシリーズファン大感謝祭なわけだ。

 

 

 

 で、だ。

 秋はいいんだよ、秋は。

 

 9月頭と言えば、秋のG1レースが始まる前。

 9月末のスプリンターズステークスや10月前半のマイルチャンピオンシップ南部杯、10月末の秋の天皇賞といったレースを控え、徐々にトレーニングが厳しくなっていく頃合いだ。

 7月から8月までは夏合宿が控えているので、それが終わった後、そしてレース群が本格化する前に、ファン大感謝祭を終わらせてしまおうという、という意図なわけだ。

 ここに関しては非常に理知的な選択だと思う。俺も年2回開催日を選ぶとすれば、片方はここにする。

 

 

 

 ……が、春の感謝祭は、ちょっとばかり話が違う。

 

 春の大感謝祭が開催されるのは、4月頭。

 

 4月頭と言えば、シニア級G1レースである大阪杯とドンピシャのタイミングだ。

 更に言えば、同じくG1レース高松宮記念ともぶつかるし、何ならクラシック・ティアラレースである皐月賞や桜花賞にも近い。

 そう、春の大感謝祭は秋と違って、名のあるレース直撃コースなのである。

 

 ……いや、改めて考えてもわからん。

 なんで4月頭にあるんだこれ。

 

 クラシック級レースの方は、まだいい。

 クラシックロードやティアラ路線を走るウマ娘への配慮もあり、クラシック級春の時点では、まだウマ娘たちは企画の提出や参加が強制されない。

 なんなら、この大感謝祭自体への不参加すら許されるくらいだ。

 現にウィルも、直近に迫る皐月賞に集中するため、去年の春の大感謝祭にはほぼほぼノータッチでトレーニングばかりしてたしな。

 

 が、シニア級のウマ娘となると、そうもいかない。

 

 ファン大感謝祭は、その名の通りファンへの感謝を伝えるためのイベントだ。

 ウマ娘がシニア級になる頃には、クラシックレースやティアラレース、八大競走を経て、特定の子に多くの人気が集まるようになる。

 そんな子たちがこのイベントに参加しなければ、ファンへの感謝を示せない。

 故に、G1タイトルを獲ったり特別な人気を得たウマ娘は、企画の提出、あるいは参加を義務付けられている。

 

 まぁ、理屈の上ではよくわかる。

 実際、例えばウィルやマックイーン、ハッピーミークといったウマ娘が不参加だったら、そりゃあファンとしては肩透かしを食らってしまうだろう。

 

 ……けど、問題はこの時期だ。

 4月頭。多くのG1レースが控えた、とても大事な時期。

 大阪杯や高松宮記念に参加するG1級ウマ娘の一部は、ファンとの交流やその準備で疲弊した状態で、レースに臨まなければならなくなってしまうわけだ。

 

 全く、何度考えても、この時期に大感謝祭を開催する意味がわからない。

 せめて3月頭、できれば2月中旬あたりに開催してくれれば、トレーナーとしても競走ウマ娘としても助かるのだが……。

 

 ……と、そんなことをぼやいていても仕方ないか。

 

 聞いた話、現場からこういった不満が出ていることは、URAの上層部でも知られているらしい。

 というか、URAとしても出来ることなら時期を変更したがっているのだとか。

 まぁそれも当然か。この時期に忙しくなるのは、何もウマ娘たちだけじゃないし。

 

 そんな意図があってなお開催時期が変更されないのは、歴史だとか伝統だとか承認だとかの面倒臭い諸々の問題があるからなんだとか。

 なかなか難しいな、その辺りの話は。一朝一夕で解決できることばかりじゃない。

 

 ともかく、URAとしてもウマ娘たちに強い負担がかかってしまうことは理解してる。

 だからこそ、時期自体は変わらないものの、春の大感謝祭には多少の配慮があるんだ。

 

 それこそが、学園側が主催するチーム対抗型企画群。

 通称、大規模企画である。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「いやぁ、ここしばらく忙しかったねぇ」

 

 俺の隣にいる男が、柵に寄りかかってそう言ってくる。

 直接会ったのは少し久々になる俺の同期、ナイスネイチャとライスシャワーのトレーナーである。

 

 この前、最後に会ったのはいつだったか……。もう1か月前になるか?

 『付いてくれたサブトレ君が業務より調査向きでね』と言って、最近はトレーナー室に籠って書類仕事に専念していたが、今日は流石に外に出てきたらしい。

 

 更に言えば、コイツの調子の良さそうな顔を見るのは、もっと久しぶりか。

 去年の年末には今にも死にそうな顔をしていたが、業務に慣れて来たことと、最近は落ち着ける時期ということもあってか、かなり顔色はマシになったな。

 まぁ、ここからはライスのクラシックレースが始まるし、また忙しくなってしまうんだが。

 

 

 

 ネイチャとライスの2人を支える、俺と同期のトレーナー。

 

 コイツとは専属契約の研修で一緒になって以来、何だかんだ一緒にいることも多い。

 去年はウィルとネイチャがライバルだったり、今年はブルボンとライスがライバルだったりと、何かと担当同士が因縁深いこともそうだが……ぶっちゃけて言えば、単純に性格的な相性が良いからな。

 

 そんなわけで今日、春の大感謝祭当日も、担当の参加する企画を一緒に観戦しようという話になり、こうして2人してグラウンドを眺めているわけだ。

 

「本当にこの時期は忙しないな。今日まで必死に感謝祭の準備をしてきたが、4日後には大阪杯だぞ」

「僕もライスの皐月賞があるし、それが終わったら間もなくダービーだ。気が抜けないな。

 とは言え、僕はネイチャが全休だから、堀野君の半分未満の業務量なんだけどさ。

 ……そっか、考えたら堀野君はこれの2倍仕事してるのか……。やっぱり超人?」

「凡人だよ俺は。……多少、努力は重ねて来たつもりだが」

「お、堀野君がそういうこと言うのはちょっと珍しい」

「そうか?」

 

 まぁ、努力ってあまりひけらかすものでもないしな。確かに、ある程度仲の良い、冗談が通じ合える相手じゃないと言えないようなことだが。

 俺が首を傾げていると、ネイチャのトレーナーは軽く首を振り、話を変えてくる。

 

「それで、ホシノウィルムはどれに参加するの?」

 

 訊かれ、俺の担当ウマ娘が参加する企画を思い浮かべた。

 

「ウィルが出るのは……午前の気配斬り、正午の模擬レースが2本と、それから午後に玉入れだな」

「おー、結構出るんだね。少し意外かも」

 

 まぁそうだよな。

 俺も1か月前は、まさかこんなことになるとは思ってなかったし。

 

 

 

 春の大感謝祭では、ウマ娘たちが出す企画以外にも、学園が主催する大規模企画が開催される。

 これは大雑把に言えば、参加するウマ娘たちが三女神を象徴する色である赤・青・黄の三陣営に分かれ、様々な対戦企画で点数を稼いで、陣営の勝利を目指す、というものだ。

 一般的な学校の運動会とか体育祭を想像すればイメージしやすいだろうか。

 

 通常の体育祭等と違う点としては、まず、全生徒が参加を強制されるわけではないこと。

 これはあくまで数多くある企画の1つであり、当然ながらこれ以外にも、ウマ娘個人やチームが数多くの企画を主催する。

 更に言えば、ジュニア級の子やクラシック級の子は企画の提出・参加が強制されない。

 故に、全体で見た大規模企画の参加率は、大体2から3割といったところ。

 一般的なものと比べれば、決して高い参加率とは言えないだろう。

 全生徒の内3割が参加するわけで、企画としてはかなりの大規模ってことは間違いないんだけどね。

 

 それと、競う科目が運動だけに限らないことも大きな特徴か。

 一言中央トレセンのウマ娘と言っても、中にはG1レースを走るような高い身体能力を持つ子もいれば、そうでない子もいるわけで。

 題材を運動だけに限ってしまうと、活躍するのはもっぱらG1級ウマ娘だけになってしまうだろう。

 それを避けるためにも、大規模企画では運動系以外にも、様々な対決型の企画が行われる。

 早押しクイズやパズルの早解きに早食い勝負、変わったところだとミスコン(ミストレセンコンテスト)など、さまざまな題目での競技が用意されているのだ。

 

 運動だけでなく、知識や魅力、運や食欲など、たくさんの条件で競われる、チームでの対抗戦。

 要は、学生らしくお祭り感覚で対決する、という企画なわけだ。

 

 

 

 この大規模企画の優れている点としては、何より自分たちで企画を立案・準備しなくていいところだ。

 俺たちトレーナーは事前の申請や処理の手間がなくて済むし、ウマ娘の方も準備に取られる時間をレースへのトレーニング、追い切りに使える。

 更に、大規模企画に内包される企画群は、長くても1つ15分そこらで終わる。それに1つ2つ出るだけなら、脚や精神への疲労も大幅に軽減できるというわけだ。

 

 そういうわけで、この大規模企画は俺たちへの配慮となっている。

 なっている、はず、なんだが……。

 

 

 

「まぁ、URAがな……。流石に年度代表ウマ娘が殆ど出ないってわけにもいかないから」

「ああ……。心中お察しするよ」

 

 残念なことに、ウィル……史上2人目となる無敗三冠ウマ娘ホシノウィルムともなると、配慮とか言ってられなくなるわけだ。

 

 現在、ウィルが獲得している人気、世間からの話題性は、ちょっととんでもないことになっている。

 去年の有記念で敗北を喫したことで、ウィルの話題性も多少落ち着いた……。

 ……かと思いきや、むしろレース内容の研究が進むにつれ、「トレーナー不在の状況で、なおかつサイレンススズカとスペシャルウィークの2連戦でギリギリ敗北した」という風説が広まってしまったからだ。

 

 異次元の逃亡者と、日本一のウマ娘。

 現役日本最強の2人をして、ギリギリ敗北に追い込むことのできた、正真正銘の怪物。

 時に不可能を覆し得る、星の如く輝く灰の龍(今を生きる神話)

 それが今、ホシノウィルムが纏っているイメージだ。

 

 そうなれば当然、URAとしては彼女を前面にプッシュしたくなる。

 人気絶頂、最強の王者。

 トゥインクルシリーズを盛り上げたければ、これ以上の人材はいない。多分あと10……いや、20年は現れないレベルだろう。

 

 ファン感謝祭においても、これは例に漏れない。

 今、日本において最も多くのファンを獲得しているのは、疑うべくもなく彼女だ。

 走り、外見、声、踊り、動き、性格、対応。その全てが、一挙手一投足が人を惹き付ける。

 であれば当然、ファン感謝祭においても、その登場と活躍を望まれる。

 故に、URAやトレセン学園としては、俺たちにより多くの企画に出て欲しいと思うわけだ。

 

 ……とはいえ、まさか本来は1、2件出ればいいはずの企画に、4件も出るはめになるとは思わなかったけどね。

 まぁ「3件出ていただければ嬉しいんですけど……!」と非常に丁重に当たってきたあちら側に対し、無茶を言ったのはむしろ俺たちだったりするから、文句なんて言えないんだけどさ。

 

 

 

「しかし、見事に運動系ばかりだね。ウチのネイチャはあんまり運動系に偏らせないで欲しいって言われて、『地元愛を量る! タイマン早押しクイズ』とかに参加することにしたんだけど……」

「まぁ……ウィルたっての願いでな。URAには悪いが、少し無茶を言わせてもらった」

 

 本来ウィルは、運動系の企画への参加は1件までとされていた。

 何故かと言えば、それは簡単な話で……彼女の身体能力が高く、その勝負を一方的なものとしてしまいかねないからだ。

 

 この大感謝祭、ファンは自分の愛するウマ娘たちを見に来るわけだが、それと同時、この大規模企画においては伯仲する勝負を期待している。

 そりゃあ、三陣営による勝負事だからな。一方的なワンサイドゲームより、最後の一瞬まで目が離せない勝負の方が好まれるわけで。

 だからこそ、戦力を均一化するためにも、強力なウマ娘は運動系の企画は制限されることがある。まぁ強制ではなく要請って感じだから、無茶を言えば拒否もできるんだけど。

 

 ……では何故、ウィルは運動系企画に4件も出るのか?

 というか、何故俺がそれを許したか?

 

 そこには、非常に深い訳がある。

 

 

 

『トレーナー……もっと運動系出たいです……』

『そうは言っても、URAからのお達しだからなぁ』

『「ご褒美権」』

『はい……』

 

 

 

 と、まぁそういうわけで。

 ウィルの申請を受け、俺がURAに平身低頭三顧の礼した結果、なんとか運動系の企画4件への参加を認めてもらったのだった。

 その代わり、いくつか個人的な仕事も頼まれてしまったが……まぁ可愛い担当のためだ、こればっかりは仕方がない。

 

 ……いやでも、改めて考えてもトレーナーのASMR録音音声とか需要なさすぎると思うんだが。

 ぶっちゃけ本気で恥ずかしいから今からでも断りたい。演技は殆ど未経験でロクにできないだろうし、失笑モノのクオリティになる予感しかしないぞ。

 

 

 

 と、俺の事情はともかくとして。

 そんなわけで、ウィルは本日、4本の運動系企画に出ることになった。

 

 メインのトレーナーである俺は、当然ながらそれを見守り、何かあった際に備える予定。

 一方で、先日のレースでの疲労が残るブルボンは企画に参加することなく、この前のレースで改めて親しくなったらしいサクラバクシンオーと共に感謝祭を見て回る、とのこと。

 残る昌は、残った仕事を片付けた後、彼女なりに企画を見て回るつもりらしい。

 

 今日くらいは仕事もお休みしていいと思うんだけど、昌、めちゃくちゃ真面目だからなぁ……。

 「残った仕事は明後日に回して、明日は感謝祭見たら?」と提言したら、「うるさい」と切り捨てられてしまった。

 お兄ちゃん、頑張りすぎる妹が心配です。

 

 

 

 そんなことをぼんやり考えていると、横にいる男が声をかけてくる。

 

「しかし、気配斬りか。運とコツの絡む難しい競技だね。

 やっぱりホシノウィルムに注目が集まると思うけど、勝つ見込みは?」

 

 気配斬り。

 この競技を簡単に言い表すと、目隠しして柔らかい棒を持ち、音を頼りに相手を斬る、というもの。

 

 むやみやたらに棒を振り回せば風切り音で相手に場所を悟られるし、そもそも歩いた時点で相手に情報を与えてしまう。

 故に、お互い慎重になるわけだが……如何せん視覚が閉ざされているため、向き合っているつもりが見当違いの方向を向いていたりする。

 そういうシュールさや面白さを楽しむ遊び、というわけだ。

 

 この気配斬り、人間に比べると、ウマ娘の方がスムーズに事が運びやすい。

 ウマ娘たちは優れた聴覚を持っているため、より相手の情報を得られるからだ。

 とは言っても、本来最も頼りにしている視覚が失われるのはやはり大きく、シュールな戦いになるのは避けようがないんだが……。

 

「いや、勝つよ。ホシノウィルムだぞ」

「信頼感すごいね。……正直ちょっとわかるけど」

 

 今日本人に「負けるところが想像し辛いウマ娘は誰か」と尋ねれば、まず挙がるのはシンボリルドルフとホシノウィルムだろう。

 そしてこのイメージは、決して的外れなものではない。

 

 たとえその競技がレースではなく気配斬りであろうと、彼女は勝つ。

 俺は、そう信じている。信じさせる何かがあるんだ、彼女には。

 ……いや、ただ俺が彼女を依怙贔屓しているだけかもしれないけども。

 

 

 

「……まぁそうは言っても、昨日練習したら負けたんだけどな、ウィル」

「負けたの? あぁ、ミホノブルボンに?」

「いや俺に」

「君に!?」

 

 え、そんなに驚く? ちょっと失礼じゃない?

 

「俺、一応名家の出で、護身術習ってるからな? その反応は若干不服だぞ?」

「護身術習ってると気配斬りも上手くなるの……?」

「なるぞ。視覚に頼らず戦う訓練とかあるし、ある程度学べば相手の気配とかわかるようになるし。

 あと、堀野の護身術は主に特殊警棒の棒術中心だからな。気配斬りとは比較的相性が良い」

「そ、そうなんだ……」

 

 昨日の練習では、トレーナー室で、俺の陣営4人で実演してみたわけだが……。

 

 まずは俺と同じく護身術を習っていた昌を不意打ちで潰し、次いで動揺していたウィルにフェイントをかけて打倒。

 その後は一瞬で動揺を収め防御を固めたブルボンと睨み合いになり、5分程揺さぶりをかけた後、なんとか1発入れた感じになった。

 

 ウマ娘の聴覚やパワーは恐ろしいが、武術の類を学んでおらず、視覚を制限され、更にウレタン素材の扱いが難しい棒となれば、ある程度脅威性は下がる。

 事態に冷静に対処しに来たブルボンは脅威だったが、なんとかギリギリ、俺のこれまでの修練が上回った形になった。

 

「……そういう運動の類で、ウマ娘に勝てるものなんだねぇ」

「まぁ、時と場合によるよ。……本当に」

 

 そう、まさしく、時と場合だ。

 

 今日の競技と同じ条件であれば、俺は間違いなく、ウィルに瞬殺されていただろうから。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 友人と語り合いながらしばらく待っていると、いよいよ気配斬りの開始時間が迫って来た。

 早めに集まっていた俺たちの周りに、ファンの方々がウマ娘たちを一目見ようと集まって来る。

 

 流石は中央のファン大感謝祭と言うべきか、あるいは流石はホシノウィルムと言うべきか。

 気付けば俺たちの周りには、公式レースもかくやという程の人だかりができていた。

 

「……こんなに集まるか」

「例年盛り上がる昼の模擬レース以外で、ここまでお客さんが集まるのはすごいね。

 ……まぁホシノウィルムの気配斬り、見てみたいって気持ちはわかるけどね」

 

 一応、気配斬りは隣の区画でも3件同時に行われてるんだけど、やはりウィルの参加する試合が最も耳目を集めたようで……。

 満員電車……とまでは言わないけど、軽く横に動くことすらできないレベルの人だかり。

 それが今、ウィルの参加する気配斬りのフィールドを取り囲んでいた。

 

「フィールドが広くて助かったね。狭かったら後方の人たちは見えなかったよ、これ」

「その辺りまで含めての敷地設定だろうな。流石はシンボリルドルフといったところか、狭すぎもしなければ広すぎもしない、非の打ちようもない広さだ」

 

 今回の気配斬りは、かなり広いフィールドで行われる。

 なにせ参加するのは全員が競走ウマ娘、ウマ娘特有の優れた聴覚を持っているから互いを見失いにくいし、ちゃんと戦うためには広いフィールドが必要だろうという判断だろう。

 

 それに加え、コイツの言っている通り、狭すぎれば後方の人たちからは見えなくなってしまうからな。

 ある程度はフィールドの直径の広さが必要になってくるというわけだ。

 

 いくらトレセン学園が広大な敷地を持つとはいえ、一区画にここまで広い面積を使うのは、かなり豪勢だと思うんだが……。

 驚くべきは、そこだけではない。

 

 

 

『さぁ、いよいよ春の大感謝祭、気配斬り、Cブロックの開始時間が近づいてきました。

 解説の細江さん、今回の勝負はどうなるでしょう?』

『やはり注目が集まるのはホシノウィルムでしょうね。今日も気合十分、良い顔をしています』

『ホシノウィルムの所属は赤組、現在2位の黄組にやや差を付けて1位です。ここで勝って差をより大きくできるか?』

 

 

 

 ……なんと、よくわからんがプロによる実況解説まで付いてるのだ。

 

 いや、こういう時の実況解説ってこう、有志の生徒が「青組の皆さん、頑張ってください」みたいにやるもんじゃないの? 

 なんで公式レースで引っ張りだこの有名解説者の方まで来てるの? 雇ったの? 大感謝祭のために?

 

 

 

 かなり豪勢に敷地を使った企画で、ホシノウィルムが参加し、多くのファンの方々が見に来て、その上実況解説まで付いている。

 

 こうなると自然と言うべきか、俺たちの周囲にはなかなか物々しい空気感が漂っている。

 

「なんかこう……もう学生のお祭りとかそういう雰囲気じゃない何かになってるね……」

「もはや公式レース……いや、競技のことも考えれば闘技場かな、これは。賭け事の1つでも始まりそう」

「レースに関しては賭け事禁止って公文があるけど、こういう場合は良いのかな」

「……学生のチャンバラに金を賭ける情けなさを呑み込めるならいいんじゃないか」

 

 まぁ、純粋に楽しみに来ている人が多い以上、そういったことは起こらないはずだが。

 そんなことを思い、ふと観客たちの方を見回す中で……。

 

 ふと、見覚えのある鹿毛のウマ娘を見かけた。

 

「……トウカイテイオー?」

 

 ホシノウィルムの友人でありライバル。

 4日後、大阪杯を競うことになる先行ウマ娘だ。

 

 てっきりウィルの友人として、彼女の応援をしにきてくれたのかと思ったが……。

 俺の予想に反し、その視線は真剣で、真面目なものだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そうしていよいよ、俺の担当が参加する気配斬りが始まった。

 

 楽しそうにルールを説明する実況の声に従って、各ウマ娘たちが黒い目隠しを巻き、その手に棒(殴られても「痛い」で済む安心設計)を握って、方向感覚を狂わせるためにしばらくその場で回転。

 

 中にはくらくらとふらつくウマ娘もいたが、その中でもウィルはいち早く正気を取り戻して、棒をしっかりと握り直す。

 流石は最高峰の競走ウマ娘、三半規管もつよつよだ。

 

 そして、ウィルが立ち直ったということは……。

 

「うん、終わったな」

「え?」

 

 軽く頭を振った後、ウィルは駆け出す。

 

 今回の気配斬りのフィールドは、かなり広い。

 それこそ……ウマ娘が、軽く走っても問題ないくらいに。

 

 そして、ウィルが走ることができるってことは、つまり……。

 

 

 

 スパン、と。

 グラウンドに鳴り響く、綺麗な衝撃音。

 まず1人、ウィルが最も近くにいたウマ娘を討ち取った。

 

 

 

 更に、すぐ構え直して1人、もう1人。

 周りで鳴り響く、心地良いくらいの敗北の音に戸惑う子たちを、ウィルは容赦なく刈り取っていく。 

 まるでその目が見えていると言わんばかりに、正確無比に。

 

「え、っと……」

「想定外……いや、想定以上か?」

「……うん、正直ここまでとは」

 

 駆け足程度の緩い走りで、しかし確実に、ウィルは生き残ったウマ娘たちへと向かっていく。

 

 それを見て、呆気に取られていた観客たちから、ようやく当惑のざわめきが上がった。

 視覚を閉ざしているにしてはやけに的確な動き。もしかして彼女の目隠しは万全でなく、その目は見えているのではないか、と。

 

 そんな疑問が湧き上がるとほぼ同時に、事態は動く。

 

 ウィルの後ろ、撃ち漏らした……と言うより、彼女が無視していたウマ娘が動く。

 それまで一歩たりとも動かず状況を窺っていた彼女は、周りで何らかの異常事態が起こっていることを悟り、直感か、あるいはその足音からか、ウィルの方へと棒を振り下ろしたのだ。

 

 如何に目が見えていたとしても反応できない、完全な死角からの奇襲。

 展開を見ていた全ての観客が、ウィルの敗北を確信して……。

 

 

 

 ……しかし。

 

 後方から襲い掛かる、不可視のはずの一撃を……。

 ぬるりと、ウィルは躱してみせた。

 

 

 

 たとえ目隠しがなくとも予期できなかっただろうそれを避けたことで、ウィルの異常性は露わとなった。

 

 ……いや、それ以前に、そもそも誰もが違和感を持っていたはずだ。

 これまでにウィルが攻撃したのは、動いていたウマ娘だけ。

 じっと静止して状況を窺っているウマ娘に対しては、攻撃を仕掛けようとしなかった。もっと言えば、その存在に気付いてすらいないようだった。

 

 そう、ウィルは目が見えているわけではない。

 ただ、動くものに対して……それが立てる音に対して、反応しているのだ。

 

 

 

 それからも、ウィルの異常な攻勢は続く。

 

 駆け足でフィールドを駆け抜けながら、スパン、スパン、スパン。

 焦った子の乱雑な攻撃を当然のように躱し、音を聞きつけて振り下ろしてきた正確な攻撃を受け止め、逸らして……そして、一撃。

 彼女は、容赦なくライバルを蹴散らしていく。

 

 

 

『こ、これは……恐ろしい快進撃! 目が見えているのか!? いいや、たとえ見えていてもここまで隙のない回避はできないのでは!?』

『これが灰の龍、ホシノウィルムの本気といったところでしょうか。目が見えないというデメリットなど知ったことかと言わんばかり、一体どのようにこの不可能を成しているのか?』

 

 

 

 どのように、と言われれば、話は簡単。

 彼女は走行中に限り、視覚ではなく、聴覚からこそ情報を仕入れているのだ。

 

 ホシノウィルムは、その脚を動かして走っている間、非常に聴覚が鋭くなる。

 具体的には、実に10バ身……25メートル周囲の足音に対して、「これは誰の足音だ」とか「まだ余裕がありそうだ」とか、そういったことがわかるくらいに。

 彼女は「恐らく『思考力増加』が30秒しか持たないのは私の脳に限界があるからで、これくらい聴覚処理能力を強化するだけなら、そこまで強い負荷がかからない。だから常時発動で、ちょっとだけ『思考力増加』が働いてるんじゃないでしょうか」と推理していたが……まぁ、理屈はともかくとして。

 

 つまり、どういうことかと言えば、だ。

 走っているウィルにとって、視界が塞がれるということは、大きなデメリットにはならない。

 「フィールドが走れる程度に広い」という条件こそあるものの、彼女にとって気配斬りは、自分だけ目が見える状態のチャンバラ……いや、後ろからの音も聞こえることを考えると、更に有利な状態での勝負になる、というわけだ。

 まぁその分、音を立てない、つまりじっと動かない相手は気付きにくくなってしまうが……それでも、他の子たちより情報面で圧倒的有利になることは変わらない。

 

 そうなれば当然、軽い無双状態になるわけだ。

 メインの情報収集手段である視覚を封じられた他のウマ娘たちは、状況すらよく掴めないまま、一方的に嬲られることになる、と。

 

 

 

「……なんというか、容赦ないね、ホシノウィルムは」

「まあな……」

 

 横から呆れたような声がかかる。

 うん、正直俺も、これに関しては大人げないなぁと思います。

 ただでさえ頂点級の競走ウマ娘、身体能力もすさまじく高い。

 そこに唯一無二の特殊能力による情報取得を上乗せすれば……もはや誰も彼女に勝てはしないだろう。

 

 更に言うと、今日は使わないよう言い含めてるけど、負けず嫌いな彼女のことだし、敗北の可能性が見えたら「思考力増加」も使うはずだ。

 そうなると……まぁ、まず勝ち目がなくなる。

 思考力増加中のウィル、耳で捉えられる範囲がすさまじく伸びる上、全く精神的に動揺しなくなる……というか、加速した思考の中でそれを落ち着かせることができるみたいだし。

 精神的動揺や躊躇を誘うのが基本になる対人戦において、これは途轍もなく大きなアドバンテージになるはずだ。

 

 まぁ最大の欠点、というか制限は、この聴覚の強化も「思考力増加」も、自分が走っている間にしか使えないという点だろう。

 現に、昨日は狭いトレーナー室で行ったために走れる空間がなく、俺に討ち取られてしまったわけだし。

 

 まさしく勝負は時の運というか……。

 状況によってここまで有利不利が分かれるというのも、なかなか珍しいだろうな。

 

 

 

 ウィルの無双劇を眺めながら、同僚の彼と言葉を交わす。

 

「でも、ちょっと意外かな。あの子って互角の勝負を楽しむ気があったから、こういう一方的な勝負は好まない印象があったんだけど……」

「そこに関しては……まぁ、俺のせいだな、うん。

 レース前ということもあってあまり気が入っていないようだったから、『出た企画で全勝したらご褒美を用意しよう』って言ったら……」

「本気になっちゃったわけか。……うん、まぁファンは盛り上がってるしいいとは思うんだけどね」

 

 その時、俺たちの視線の先でウィルが最後の1人を討ち取り、試合終了。

 結果は、僅か23秒弱での決着。

 息をつく暇もない、一方的な試合だった。

 

 見ていたファンたちは、そりゃもう大盛り上がりだ。

 まぁ集まった人の大半がウィルムのことを、そして彼女の活躍を見に来ていただろうし、予想を遥かに上回る無双劇を魅せられたらむべなるかな。

 

 まぁそれでも、どうやってこんな勝利を勝ち取ったのか、疑問はあるだろうが……。

 その疑問に関しても、近々答えは出す予定だしな。

 

「にしても、良かったの? これ、勘の良い人なら、彼女の特異性を察する大きな材料になっちゃうよ?」

 

 周りに聞こえない程度のボリュームで、ネイチャのトレーナーはそう言ってくる。

 

 コイツは去年、ウィルのライバルであったネイチャと共に、いち早くウィルの聴覚の鋭敏さを突き止めてきた者の1人だ。

 互いの担当がライバル関係にあるトレーナーとして、コイツは容赦なく秘密を暴いてくれたが……。

 

 しかし同時に、コイツは俺の同僚であり、同期であり、そして付き合いの長い友人でもある。

 だからこそ、俺の陣営の不利になりかねないこの行動に、眉をひそめてくれるんだ。

 

 ……やっぱり良いヤツなんだよなぁ、コイツ。

 担当のためなら手段を選ばない冷徹さと努力を怠らない泥臭さを兼ね持ち、担当のことは担当のこととして、個人的な感情と割り切る。

 そういうところも、本当に尊敬できるヤツだ。

 

 

 

 が。

 殊今回に限っては、彼のそれは、無用な心配と言えるだろう。

 

「問題ない。そろそろ公表するつもりだからな」

「……耳が良いってことを?」

「ああ。そもそもこれだけ注目されれば、G1級のトレーナーやウマ娘は皆しっかりと研究してくる。

 これ以上秘匿することはできないだろう。それならこうして派手にお披露目しようか、とな」

「なるほど……。やっぱり注目されるのは、必ずしも良いことばかりじゃないね」

 

 そう言って、俺の同僚はうんうんと頷いた。

 ……コイツもネイチャが有名になって、色々悩まされたんだろうな。

 俺もウィルが有名になって以来、変なファンレターとかファンの民度とかSNSや掲示板サイトの書き込みとか、色々悩まされたし。

 

「……贅沢を言えば、もうちょっとトレーナーに慣れてから、あの子たちを担当したかったよな」

「死ぬ程同意。ネイチャにはかなり迷惑かけちゃったからね……」

 

 そう言って、俺とネイチャのトレーナーは苦笑し合った。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、ウィルの気配斬りでの圧勝から数時間。

 褒めて褒めてオーラを出していたウィルを、頭を撫で繰り回して讃えたり。

 昼からの模擬レースに備え、2人で少し早めになる昼食(俺の手作り)を取ったり。

 色々と準備を整えた後、俺とウィルは、今日の模擬レースの作戦会議を開始した。

 

 ……いやまぁ、作戦会議も何もないんだけどな、今回は。

 

 トレセン主体の大規模企画の内の1つ、模擬レース。

 これはいつもの模擬レースと違い、ウマ娘やトレーナーが相手を決めることができない。

 学園の行う大雑把な等級分けの中で抽選が行われ、ほとんどランダムで相手が決まるんだ。

 

 問題は、この等級分けの中で最も上のランクが、「重賞レースでの勝利経験のあるウマ娘」であること。

 G3に1勝でもしていれば、問答無用でこのランク帯に放り込まれてしまうのだ。

 

 ……つまり、何が言いたいかと言うと、だ。

 

「今回の対戦相手は、最も有力な子でもG2未勝利。

 ……特別な仕込みはなくとも、君のスペックで負けることはおおよそあり得ない。情報開示を避けるため、領域と『思考力増加』、それからアレ(・・)はなしで走るように」

 

 まぁ、なんというか……。

 少し言葉は悪いが、例年この模擬レースは、弱いものイジメみたいになっちゃいがちなわけだ。

 

 ウィルの参加するものの他にも大体100回程度の模擬レースが開催されるんだけど……。

 先輩トレーナーに聞いた話、G3からG2級のウマ娘にとっては、「G1級のウマ娘と当たらないようにお祈り」みたいな雰囲気になっているらしい。

 ……もうちょっと等級制度を見直した方がいいと思うのは俺だけなんだろうか。

 

 

 

 こう言うと他出走者たちに失礼に当たるかもしれないが、はっきり言って、このレースでウィルに本気を出させる意味はない。

 今やウィルの走りには、万の富を超える価値がある。

 灰の龍の走りという意味でも、研究材料という意味でも、だ。

 

 ここでウィルの力を見せるということは、他陣営に情報的アドバンテージを握らせてしまうと同義。

 トレーナーとして、無意味にその一線を越えさせることはできない。

 

 更に言えば、大阪杯はもう目の前、たった4日後に迫っているのだ。

 ここで疲労を蓄積させることは、敗北に直結すると言っていい。

 

 故にこそ、今回は抑えて走る。

 決して本気は出さず、5から6バ身差を目安に、程々に勝ちに行く。

 これは、事前にウィルにも(数十分のご機嫌取りの果てに)了解を取ったことだったんだが……。

 

 

 

 作戦会議中のウィルは、何かを考え込むように俯いていた。

 そして、俺の言葉を聞き終わった後……。

 どこか決意を固めた表情で、こう言ってきたのだった。

 

「1戦だけ。1戦だけ、本気を出しちゃ……駄目ですか?」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 その日の、1回目の模擬レース。

 

 ホシノウィルムは、領域と新たな切り札の2つを縛った上で……。

 それでも、2着に20バ身以上の差を付けて、圧勝した。

 

 ……どうしてもあの子に甘くなってしまう自分が憎いよ。

 

 

 







 Tips
 堀野君は武術的にはめちゃくちゃ強いです。
 護身術、トレーナー業、語学、名家の作法、クレーンゲームに関しては、実家でめちゃくちゃしっかり学んでるからですね。

 去年末の事故も、もし堀野君が電話中じゃなかったり体調が良い状態だったら、後ろから近づく気配(敵意)を察知して投げ飛ばすくらいはできてました。
 昨日の気配切りと同じように、勝負は時の運。条件が悪ければ、どんなに強くても負けることはあるのです。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、大感謝祭後編。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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逃げるは恥だが?

 は? 逃げるのは恥なんだが? 恥ずかしさなんかに負けないが?





 

 

 

 そもそもの話をするけど……。

 私たち競走ウマ娘には、時間がないんだ。

 

 ウマ娘がその身体能力を伸ばせるのは、長い生涯の中でもたった3年しかない、本格化の期間中だけ。

 日数にすればおおよそ1000日強……本格化のブレも考えると1000日弱か。

 

 1000って数字で見れば一見長そうに見えるけど、実際には決して長い時間じゃない。

 だって、3年だよ? 中等部から高等部に、あるいは高等部から大学に進むまで。

 

 気付いてみれば一瞬で過ぎ去っていくくらいの、刹那のひと時。

 殊に、こうして充実した毎日を送ってればなおさらだ。

 

 だからこそ私たちは、決して時間を無駄にできない。

 1日トレーニングをサボるってことは、1日分だけ他の子にリードされることを意味する。

 そしてその差は、その子が休んでいる間に自分が頑張らない限り、決して取り返せないんだ。

 ……ああいやもちろん、実際には肉体の成長率とかトレーニングの吸収率の違いみたいなものがあって、単純に日数だけで比べることはできないんだけど、それはさておき。

 

 本当に強いウマ娘になろうとするなら……本当にトゥインクルシリーズで勝とうとするなら、少なくとも本格化中は、走ること以外を考えてはいけない。

 少女である以上にアスリート。思春期である以前に本格化中。

 私たちが普通の女の子らしい何かしらをするために浪費した時間、それそのものが私たち自身に牙を剥いて来るわけだ。

 

 では、ひたすらに禁欲的に走ればいいかと言うと……これもまた否。

 ある程度は自分の欲求を満たさないと、集中力が落ちたりモチベーションに響くからね。

 走ることに集中するためにも、ある程度まではフラストレーションを発散しておく必要がある。

 

 理論上、トレーニングの果てに肉体的な疲労が蓄積したタイミングで、体を休めながらストレス解消を行うのがいいんだけど……。

 その辺りは、当人である私たちでは管理し辛い。

 気が逸っている時は「もっと行ける!」って思っちゃうし、逆にモチベーションが終わってる時は「いやもう無理ぃ」ってなっちゃうからね。

 

 じゃあ、その辺りを誰が管理するのかと言えば……。

 それこそ、トレーナーのお仕事だ。

 

 担当ウマ娘の体力、やる気を正確に見計らい、最適なトレーニングスケジュールを組み上げる。

 ……トレーナーエアプの私だけど、思春期の女の子の心情を推し測らなきゃいけないっていのがめちゃくちゃ大変なのはよくわかる。

 人生2周目の自分ですら、この体に引きずられるように面倒くさい態度を取っちゃうことがあるんだ。

 普通のウマ娘ともなれば、ウマによってはとんでもなく面倒なんじゃないだろうか。

 

 そんな子たちと良質な関係を築き、機嫌を取ってモチベーションを維持しつつ、最適なトレーニングプランを実行させなければならない。

 ……うん、場合によってはすごく胃が痛くなる仕事だよね、これ。

 

 

 

 閑話休題。競走ウマ娘には時間がないって話に戻ろうか。

 

 私たちはその人生を賭けて勝負に挑むアスリート。余計なことに時間を割くような暇はない。

 これは本当に切迫した事情であり、もうどうしようもなく言い訳できないくらいに絶対的で、他を優先なんてしてはいられない最優先事項なのである。

 

 そう、だからこそ。

 だからこそ、私は日頃から、歩さんにアピールとかできないのだ。

 

 決して、恥ずかしすぎてできないとか……。

 もうトレーナーとウマ娘の距離感に慣れてしまって踏ん切りが付かないだとか……。

 拒絶なんてされようものなら本気で落ち込んじゃいそうで怖いだとか……。

 そんな都合は全く以てこれっぽっちも欠片たりとも存在はしない。

 

 ただ、ただただ、単純に時間がない。

 そう、それだけだったんだ。

 

 

 

 ……けれど。

 つい先日、状況が変わった。

 

 私の持っていた「唯一無二の担当ウマ娘」というクソでかアドバンテージが、一瞬にして消失。

 恋のダービーのライバルとして、ブルボンちゃんが驚異的な追い上げを見せて来たのだ。

 

 ……いやまぁ、実際のところ、そこまで脅威があるわけじゃないんだけどさ。

 ブルボンちゃんが歩さんへ恋愛感情を持ってるかと言うと……ぶっちゃけないと思うし。

 

 なにせブルボンちゃんは今、クラシック三冠という夢の達成のため、とにかく走ることに集中している。

 とてもじゃないけど、色恋沙汰に思考を使う余裕はないだろう。

 

 ただ、それは同時に……。

 彼女がクラシック三冠の栄誉を頂いた時に、ずっと自分を支えてくれた歩さんに好意を向けない保証はどこにもない、ってことも意味している。

 

 ……ていうかさ、ぶっちゃけ歩さんの隣にいれば、そりゃあ惚れるでしょ。

 顔も良い、声も良い、体まで良い、トレーナーとしては超一流、尖っているとはいえスペックはめちゃくちゃ高い、不器用ながら気遣いもできる、完璧超人なようでいて抜けたところもある、自己評価最低だったけど改善中で偉い、本当に辛い時に隣にいてくれる、この人のことを助けてあげたいと思える。

 こんなの嫌える要素なくない? 世が世なら傾国の美男だよ。

 

 だからブルボンちゃんも、きっと歩さんにピンクのハートマークが刻まれた目を向けるようになるんだ。

 どうせこの後入って来る後輩たちもみんな、きゃいきゃい黄色い声上げて歩さんの周りに集まるようになるんだ!

 クソ、この泥棒猫ならぬ泥棒ウマ! いや別に歩さんは私だけのものではないんだけど、それでも心のもやもやしたものが抑えられない! ぬわーっ!!

 

 

 

 ……こほん。

 ちょっと興奮してしまったけど、まぁとにかくそういうことだ。

 

 ホシノウィルムには時間がない。

 競走ウマ娘としてもそうだし、乙女としてもそう。

 

 競走ウマ娘としては、歩さんが完璧に近い調整をしてくれているから、それに従えばいいとして……。

 乙女としての恋のダービー攻略戦は、非常に激ヤバな課題と言える。

 

 前世ではラブコメ系の作品やギャルゲーを一通り通って来た私だが、つい最近気づいたことがある。

 

 

 

 ゲームの恋愛と、現実の恋愛は、別物だ、と。

 

 

 

 臨場感が違うし、非合理的な感情に振り回されちゃうし、何より恥ずかしさと怖さがとんでもない。

 世の乙女たちは、みんなこんな戦いを潜り抜けて好きな人と結ばれてるのか? もうそれだけで歴戦の猛者として尊敬できちゃうんだけど。

 

 ギャルゲーや乙女ゲーでは負け知らずの私でも、初体験となる現実の恋愛にはどうしようもなく弱い。

 果たして自分がどれだけ歩さんを惹きつけられるのか、惹きつけられているのか。

 それが全然わかんないし、わかんないからこそ怖いんだ。

 

 もし、何とも思われてなかったら。

 私の体や顔、声、性格じゃ、歩さんには好かれないんじゃないかって。

 それが怖くて怖くて、仕方ない。

 

 

 

 ……でも、もう怖いだとかなんだとか言ってられない段階に入ってしまった。

 

 ブルボンちゃんには、負けられない。

 歩さんの担当がどれだけ増えたとしても、やっぱり1番は私であってほしい。

 彼に救われたウマ娘として、これからの生涯は彼と共に歩み、彼が危うくなった時にはその手を取って助けたい。

 

 

 

 だから……。

 もう、私は迷っていられないのだ。

 

 さぁ、覚悟を、決めよう。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「歩さん!」

「ん、どうした?」

「い、一緒に、デー…………ぇー、っと……あ、その、感謝祭、一緒に回りませんか」

「ああ、いいぞ。1時間くらいなら」

 

 むりだった。

 

 迷うとか覚悟とか、そういうお話じゃない。

 いざ口に出そうとすると、かっと頭に血が上って、興奮と恐怖がすごくて、脈がどくどくして、無理。

 

 いや、言っとくけど逃げてるとかじゃないよ?

 別に逃げてるとかそんなんじゃ全然なくて、ただちょっとだけ怖くて、ほんのちょっとね? ほんのちょっと怖いなーって……。

 いや別に怖くないが? これはあくまで戦略的撤退だし?

 そもそも、デートするんだったら歩さんを1日独占できる日に言ったほうがいいだろう。

 そうだそうだ、そうに間違いない。これはデートという非日常的イベントの希少価値を保つために取った積極策。日和って逃げたとかそんなんじゃないからね!?

 

 

 

 そんなわけで、私は歩さんと大感謝祭を回ることになった。

 残念なことに、誠に遺憾ながら、デートという形にはならなかったけどね。

 

 ……とはいえ。

 ビビってるとかそういうんじゃないとしても、一切動かないわけにもいかない。

 

「あの……」

「ん? ……あぁ」

 

 歩さんの手の辺りで自分の手をもじもじさせていたら、すいっとその手が拾われる。

 思わず見上げた先で、歩さんは微かに微笑んでくれた。

 

「今日は人が多い。君の体格では、一度はぐれると再会も難しそうだからな」

「っ、はい!」

 

 絶好の大義名分に、思わず口角が上がる。

 

 そう、これはあくまではぐれないためだから!

 別に他意は……いや他意はあるけども! むしろ他意しかないんだけども!

 

 

 

 * * *

 

 

 

 2本の模擬レースと、凛々しい後輩や将来有望な未来の後輩との交流も終わった後。

 ブルボンちゃんの様子を見に行く予定らしい1時間後まで……。

 私は歩さんと一緒に、久々の感謝祭を歩いた。

 

 

 

 春の大感謝祭は、秋の大感謝祭とはだいぶ空気が違う。

 

 体感だけど、秋の方はお祭りと文化祭を足して2で割ったみたいな空気感だった。

 穏やかで、けれど楽しく、浮ついていて、同時にどこか落ち着いている。

 そんな満ち足りた空間の中で、ウマ娘たちがわちゃわちゃと楽しんだり楽しませたりするんだ。

 

 でも、春の大感謝祭は、全くの別物だ。

 秋を静とするなら、春は動。

 そこらじゅうでウマ娘が駆けまわり、勝どきを上げたり、あるいは悔しさを叫んだり。

 あっちを見れば障害物競走、こっちを見れば早押しクイズ、ミストレセンだとかビーチフラッグだとか色々な企画が同時に行われてる。

 それだけ活気のある催しが行われてれば、ファンもウマ娘も自然と熱量が上がるわけだ。

 

 秋は文化祭に近いけど、春は体育祭に近い。

 むくつけき……という表現は乙女に使うべきでないにしろ、アスリートとしての本性がまろび出る。

 その結果、トレセンはとんでもない熱気に包まれているのだった。

 

 

 

 ……とはいえ、今の私たちの目的はそっちではない。

 

 いや、歩さんと一緒ならそっち系も楽しめるだろうけど、そもそも私は今日4本も運動系企画に出るわけで、そっちは十分お腹いっぱいだ。

 なので私たちは、盛り上がる運動系の企画からはちょっと離れ、比較的静かな一角へと避難してきた。

 

 運動系企画が行われるグラウンドから少し離れた校舎沿い、生徒たちによる出店が並んでるスペース。

 その中でふと見かけた出店に、歩さんの手を引いたまま走り寄る。

 

「あ、にんじんアイスですよ! 買ってもいいですよね?」

「カロリー的なことを気にしているなら問題ないぞ。お金的なことなら奢る」

 

 この世界にはありふれた、にんじんアイス。

 名前そのまま、にんじん味のアイスである。

 

 いくつか種類はあるけど、今回見つけたのは最もメジャーなもので、スティックが刺さった半シャーベットのアイスキャンディだ。

 私が懐からお財布を取り出していると、歩さんが聞いて来る。

 

「ウィル、にんじんアイス好きなのか」

「えぇ、まぁそこそこ。ネイチャに味を教えられまして」

 

 あれはいつだったかな。まだまだ暑い頃だったから、去年の8月か9月あたり?

 そろそろちゃんと走らなきゃなーって頃に、リハビリ頑張ってるからってネイチャに奢ってもらったんだよね。

 

 さて、いくつかの小銭を店員ウマ娘に手渡して、念願の アイスにんじんを 手に入れたぞ!

 早速舌を付けてみると、ぴりりとした冷たさとまろやかな甘さを感じる。

 そうそう、これ。やっぱり夏場はアイスだよね。まだ夏じゃないけども。

 

「すみません、俺も1つ。……うん、慣れ親しんだ味だ」

「えへへ、良いですよね」

 

 アイスの味や冷たさもそうだけど……。

 

 こういう体験。

 好きな人と、同じものを食べて、感想を言い合う。

 なんか、いいじゃん。青春っぽくない?

 

 私は前世じゃ厭世的で、そういうのに疎かった。

 だからこそ、こうして二度目の生でそういうのを楽しめるっていうのは……すごく、幸福だね。

 

 

 

 ……しかし、前世か。

 あの頃は、にんじんのアイスを食べるようになるとは思わなかったなぁ。

 いや、探せばあったんだろうけど、やっぱりアイスと言えばバニラとかじゃない? 

 

「なんか……感覚的な話なんですけど、アイス業界でにんじんがバニラよりも高いシェアを占めてるの、違和感ありません?」

 

 半ば独り言のように呟いた言葉を、歩さんが拾ってくれる。

 

「あ、それすごくわかる。絶対バニラの方が広まってる……ような気がするよな」

「え、歩さんもわかるクチですか」

 

 おぉ、ちょっと意外だ。

 

 ウマ娘世界のにんじんの人気は凄まじく、何故かハンバーグに1本丸ごと刺したにんじんハンバーグなる謎メニューが一世を風靡しているレベルだ。

 

 催眠系の転生チート持ちが全世界をにんじんに染めたんかってレベルの人気を誇るにんじん。

 まさか歩さんがこの甘い誘惑を振り切り、バニラの良さを理解しているとは……!

 

「どうやらこの世……この時代のにんじんは、品種改良の果てに柔らかさと甘さを手に入れているらしい。

 愛されるのはある意味で当然だろうが……やっぱりバニラだよな。クーリッシュとか」

「クーリッシュ良いですね! 個人的には爽とかも好きです」

「爽、良いね。溶けても美味しいし」

 

 は、話が……合う……!!

 え、すごい、こんな話合うんだ!?

 この世界にここまでにんじん脳じゃない人間いたんだなぁ。

 いやまぁ好みって人それぞれだし、そんなもんなのかな。

 

 ……いや、考えてみれば私、そもそも嗜好の話で盛り上がれる程親しい人、あんまりいなかったわ。

 両親とは割と早い段階で関係が破綻しちゃったし、初等部の頃までは友達の1人もいなかった。

 トレセンに入ってからは、歩さんに昌さん、ネイチャにテイオー、マックイーンさんと、ブルボンちゃんライスちゃん、他後輩ちゃんたち数人できたくらいか。

 

 その中でもちゃんと話すのって、同陣営の歩さんと昌さん、ブルボンちゃん、それに親友であるネイチャ。あとはよく私のことを聞いて来るライスちゃんくらい。

 顔が広いネイチャなんかに比べると、人付き合いはかなり少ない方だと言えるだろう。

 

 昔に比べればマシにはなったけど、やっぱり私、根がコミュ障なんだよね。

 わざわざ友達作ろうとするのとか、面倒くさくてさ……。走ってた方が楽しいし。

 

 その結果、この世界じゃにんじんがとんでもない人気を誇ってるってぼんやりと理解してこそいるけど、それがどれくらいの割合なのかはわかんない。

 案外、にんじんがそんなに好きじゃないって人もいるのかな。

 

 

 

 にんじんアイスペロペロしながらそんなことを考えていると、歩さんに訊かれる。

 

「ウィルの方こそ、にんじん、そんなに好きじゃないのか? ウマ娘はにんじんが好きなのが通例だが」

「普通に好きですよ? ただ、アイスにまで求めるかと言うと……」

「あぁ、肉は好きだがパフェに入れるとなると話が変わる的な」

「すごい例えだなとは思いますけど大体そんな感じです」

 

 実際、好きな食べ物を1つ選ぶなら、やっぱり甘めのにんじんソテーだし。

 昔、まだ家庭崩壊する前にお母さんが作ってくれたんだよね。前の世界のとは全然違う口触りの良さと甘さに、赤ん坊ながらすごく驚いたのを覚えてる。

 

 最初の自己紹介の時にそれを言ったのを覚えててくれてたのか、歩さんも時々にんじんソテーを作ってくれる。今日の昼食にも少しだけ入ってたね。

 歩さんのはお母さんのとは全然味付けが違うんだけど……それはそれで美味しい。繊細で優しくて、なんかこう、奥深い感じだ。

 

「ちなみに俺は、クランキー系で中がバニラのアイスが一番好き」

「わかりみが深い……。私、クレープ系も好きです」

「あれもいいな。ただ夏は下の方から溶けてこぼれやすいのがたまに瑕」

「あー、カップじゃないアイスだといつも付き纏いますよね、溶けてこぼれる問題。あとアイスじゃないですけど、ハンバーガーとかも具材が漏れたりしません?」

「ハンバーガーの方は縦に潰せば漏れなくなるぞ。ライフハックな」

「いやそれ味落ちません?」

「落ちるが?」

「駄目じゃないですか……」

「まぁ男って腹に入ればそれでいい、みたいなところあるからな……」

「名家出身の歩さんでもそうなんですか?」

「え? あ、いや……まぁ、昔はそうだった。

 今は……せっかくなら美味しいものを食べたい、という思考の余裕くらいはあるかな」

「いいですね、もっと美味しいもの食べましょう! ほらあそこ、にんじんキャンディーににんじんわたあめ、にんじん焼きそばもありますよ!」

「本当ににんじん尽くしだな……。まぁ美味しいからいいんだけどさ」

「じゃあ、あのにんじんおしるこ行ってみますか」

「にんじん……おしるこ……?」

 

 どうでもいい、けれどすごく楽しい話をしながら、私は歩さんと歩く。

 

 ……この手に、彼の温かさと、大きさを感じながら。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 で、色んな出店を見ながら、しばらく歩いてる内に。

 

「……ん?」

 

 何やら、視線を感じた。

 

 いや、一応今はファン感謝祭なわけで、そりゃあジロジロって程じゃないにしろ、ある程度ファンから見られることは想定済みなんだけどさ。

 

 まぁ私は注目を集めすぎるだろうってことで、ウマ耳を隠せる大きめのニット帽とサングラスを着用してはいるけど……。

 それでも、髪や背格好から、ファンにバレることは想定済みだ。

 

 現に今日も、何度かファンに声をかけられたりしたしね。

 「やっぱりトレーナーと仲良いんですね!」とか「トレーナーとのデート中申し訳ないんですけどサインください!」とか言われちゃった。

 へへ、デート。デートかぁ……! やっぱ外から見るとデートに見えちゃうかなぁ!

 まぁ実際、トレーナーと2人きりでお祭り回ってるわけだし? 名目上はどうあれ、事実としてこれはもうどう見てもデートだしね!

 

 

 

 しかし、この世界には良い人が多いってのはわかってたけど、歩さんと手を繋いで感謝祭を周ってるのがここまで受け入れられるとは思わなかったなぁ。

 

 普通、少なくとも前世の世界においては、アイドルは男女問わず異性の影が差すと怒られたり炎上したりするものだった。

 競走ウマ娘だってアイドルとしての気質があるし、そういうのは厳禁だと思ってたんだけど……。

 実際には、案外そういうのも受け入れられやすいというか、純粋なアイドル程にタブーって感じじゃなさそうだ。

 

 勿論、私たちはまだ学生なわけで、成人済みのトレーナーと「恋愛」に発展してしまうと社会的にヤバいんだけど……。

 少なくとも、淡い想いを抱いてる程度ならセーフって感じだ。

 何なら、この前調べたけどこの世界には「トレウマ」なる概念があるっぽいしね。理解のあるファンが多くて助かるよ、いやホントに。

 

 ここからはあくまで妄想だけど……。

 この辺は、根本的にウマ娘は別種族って意識が響いてる気がする。

 

 ウマ娘は人間と非常に似た見た目をしてるけど、あくまで全く別の種族だ。

 ……いや、人間の父から生まれるのに別種族ってどういうこと? って思わなくもないけど、とにかくそういうことらしい。

 

 だからこそ、ウマ娘を可愛いと思い応援することはあっても、それ以上はない。

 人間の本能が「異分子」であると認識するから、性欲や独占欲が比較的湧きづらいんだ。

 もっと深い感情を持つには、その子をよく知ることによって「自分と同じ存在だ」と認識する必要があったりなかったり……。

 

 ……とか、そんな感じ? 割とてきとうだけども。

 

 いや正直、この辺はよくわかんないんだよね。

 私や他のウマ娘のことを、独占欲の宿った目で見る人は少ない。

 これはウマ娘への加害事件の発生率を見るに間違いないだろう。

 

 ただ、その理由はよくわからないんだよね。

 まるでこの世界がそういうルールに守られているかのように、ウマ娘に対する目は優しいんだ。

 どうなってるんだろうな、ホント。

 

 

 

 あれ、ずいぶん話が逸れちゃったな。何の話だっけ?

 ……あー、そうだ、視線を感じたって話。

 

 歩さんとおしゃべりしながら歩いていた私は、ねっとりと絡みつくような、覚えのある視線を感じ取り、立ち止まる。

 

「ウィル?」

 

 ……私は、この視線を知っている。

 

 まるで舌でねぶるような、ねちょついた若干の気持ちの悪さ。

 でも同時に、本気の下衆ではないこともわかる、悪意の少なさ。

 

 これは、間違いない……ッ!

 

「オタクが、推しを眺める目……!」

「ウィル??」

 

 歩さんの手をにぎにぎしながら、周りを見回す。

 この視線の性質からして、当該オタクは恐らく、観葉植物になりたい系と見た。

 

 であれば堂々としているのではなく、気配を隠してどこかに潜んでいるはず……!

 

 数秒、視線を移動。

 

 屋台の陰、いない。

 大樹の洞の傍、いない。

 木の裏、いない。

 

 ……いや、木の上か!

 

「見つけた!」

「ウィル??? あの???」

 

 私が送った視線と、こちらに飛んできていた視線が交わる。

 その瞬間、相手は……。

 

 

 

 ぐらりと、姿勢を崩した。

 

 

 

「ちょっ!」

 

 遠目にも耳が見えたし、あのオタクちゃんはウマ娘だ。

 そしてウマ娘なら、たかが数メートルの高さから落下したってどうにもなりはしないだろう。

 

 ……でも、駄目だ。

 一応知り合いの子が怪我するかもしれないとか、普通に寝覚めが悪い!

 

 「アニメ転生」はさっき使ったばかりだけど、このくらいの距離なら……。

 「コンセントレーション」に、アレ(・・)アレ(・・)で、ギリギリ、届くッ!!

 

「ふッ!!」

「うぃ゛」

 

 多分、国内で誰も勝てないだろう最高のスタートを切った私は、勢いそのまま地面を駆け……。

 木の上から落ちて来るちっちゃい少女の体を、片手でギリギリキャッチ。

 彼女を体の内へ抱え込み、歩さんから仕込まれた受け身術でゴロゴロと転がって事なきを得る。

 

 舞い散る埃、ざわつく野次馬、そして腕の中にはピンク髪のウマ娘ちゃん。

 

 ……ふー、なんとか間に合ってよかった。

 

 いやまぁ、なんか逆に大事になっちゃった気がしないでもないけど……いくらウマ娘とはいえ、打ち所が悪いと後遺症残ったりもするからね。

 将来有望な、私を楽しませてくれるかもしれないウマ娘に、そんなことは許せませんよ。

 

 

 

「……さて、大丈夫?」

「ひ、は、はひ……」

 

 ちょっと無理くりしたせいで、引き倒すような形になっちゃったウマ娘ちゃんに声をかける。

 

 眼下には、多分初等部の3年生くらいだろう……いや、背丈的には1、2年もあり得るか? それくらいの風貌があった。

 その中でも特徴的なのはやはり、ピンクのツーサイドアップと大きな赤のリボンだろう。

 クリクリとした目は淡い空色で、今は何故か涙を浮かべてこちらを見ている。

 

 可愛らしい、未来の競走ウマ娘の卵。

 私はその見た目に、すごく見覚えがあった。

 

「久しぶり。元気してた?」

「え……ひょ? 認知?」

「いや認知って……去年の秋に相談所に来てくれた子だよね? 途中で鼻血で倒れちゃった」

「なっ、え、そんな、覚え……嘘、嘘ォっ!? ホシノウィルムさんがあたしなんかをォ!?」

「そりゃあ覚えてるよ。あなた、すごくキャラが濃いし」

 

 美少女としてそれでいいんかって思うくらいに顔芸を披露したり、ウマ娘へのめちゃくちゃ深い愛を持っていたり、限界オタクだったり。

 一度見たらそうそう忘れられないでしょ、この子。

 

 しかもこの子、公式レース走るごとにファンレターくれてるっぽいしね。

 私が負けた有記念の時なんか、「結果的に負けたとしても、これ以上ないって程の最っ高の走りでした!!」って内容を20枚近い大長文で伝えてくれてた。

 

 ここまで主張が強くて、忘れるわけないでしょ。

 むしろなんで覚えられてることにびっくりしてるんだよ。君、絶対皆の記憶に残るタイプだからね?

 

 私はその子の自意識の低さにちょっと呆れてたんだけど……。

 取り敢えずどいた方がいいか、と体勢を立て直すことにした。

 今私、この子を押し倒してるような体勢だ。ちっちゃい女の子に対してこの姿勢はよろしくない。世間体的に。

 

「っと……取り敢えず、怪我がなくてよかった。ほらお嬢さん、お手を拝借」

「ひ、ひゃだ……!」

 

 ひゃだってるピンクの子の手を引っ張り上げて立たせ、軽くボディチェック。

 突然のことに動転してるっぽいけど、特に外傷はなさそうだ。焦点も合ってるし取り敢えず一安心。

 

 ほぅと息を吐いていると、ピンク髪のウマ娘ちゃんはがばっと頭を下げて来た。

 

「そっ、そのっ、すみませんでしたッ!! ちょっとウマ娘ちゃんウォッチングしてたらお2人の姿が目に入って、咄嗟に隠れなければと思ってしまい……!」

「まぁ気持ちは分かるけども。君はオタクであると同時に将来有望な競走ウマ娘なんだから、怪我には気を付けないと駄目だよ?」

「す、すみませ……え、えぇっ!? あたしなんかが有望……ッ!?」

 

 ピンク髪のウマ娘は、やけにぎょっとした表情で反応する。

 私はコクリと頷いて口を開いた。

 

「誰より近くで推しを見たい。その輝きを目指したい。……その想いがあれば大丈夫。

 君はきっと強くなるよ。だから……トゥインクルシリーズじゃ厳しいかもしれないけど、ドリームトロフィーリーグで待ってるからさ。いつか、一緒に走ろうよ」

「うッ、なァッ、がはッ!!」

 

 あ、倒れちゃった。

 ……流石に推しの過剰供給だったかな、今のは。

 

 オタク側の経験は我ながら潤沢なんだけど、推し側の経験はまだまだ足りないなぁ。

 どれくらいで相手が許容限界を超えるのか、測りかねるところがある。特にこういう限界オタクちゃん。

 

 

 

 しかしこの子、ほんと根っからのオタクって感じだね。

 感情表現豊かで、何かを追い求めて、その渇望を満たすために道を外れることを厭わない。

 

 ……だからこそ、きっとこの子は強くなる。

 

 私とはまた違う意味で、走ることへのモチベーションが高い。

 奇異の目で見られることも、自分が苦しい想いをすることも、少しだって辛くはなく……。

 ただ、眩い光をその目で見るため。

 それだけのために、彼女は走るのだ。

 

 頑張れる意味と理由を持ってる子は、強い。

 彼女なら、あるいはG1を獲れるような、そしてドリームトロフィーリーグに上がって来るような、ネームド級のウマ娘になれるかもしれない。

 

 元オタクとして、やっぱり同志には感情移入しちゃうし、彼女の未来に期待したいところだね。

 

 

 

「それはそれとして、この子を保健室に運ばないと。歩さん、私ちょっと……あれ、歩さん?」

 

 あっ、やべ。

 無意識に手を繋いだまま思いっきり引きずったせいか、歩さんはぐったりしてて意識がない。

 ……ついでに言うと、気持ち、歩さんの腕がぷらぷらしてる。

 

「あ、歩さん! 歩さーん!!」

 

 

 

 ……その後、本日のデートは保健室デートになってしまったのだった。

 取り敢えず歩さんは無事だったみたいだ。本当に良かった……。

 

 彼自身は笑って許してくれたけど、流石に罪悪感が抑えきれない。

 いやもうホント、咄嗟のことだったんです、ごめんなさい。

 この分はきっと、大阪杯で汚名返上します。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ちなみにこの日の大感謝祭、私は出た企画で全勝。

 無事に使った分の「ご褒美権」を取り戻したのだった。いぇい!

 

 ……まぁ、最後の1件に関しては、割と運任せだったというか、同じチームの子たちの奮闘のおかげだったけどね。

 

 

 







 ピンク髪のツーサイドアップで小柄なオタクウマ娘……一体何ネス何タルなんだ……。
 確認したら、秋の大感謝祭でこの子が登場したのは51話。実に70話前。
 ……な、ななじゅう? 体感20話くらいだと思ってた……。時間の経過が早すぎる……。



 次回からは、怒涛の別視点ラッシュ。
 春の大感謝祭の一方その頃をいくつかお届けします。



 次回は3、4日後。別視点で、三冠の味の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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Shadow Breakers

 今回は別視点、とあるウマ娘の視点です。
 かなり前から書こうと思ってた内容でした。実現できてウレシイ。





 

 

 

 ────足りない。

 

 足りない、足りない、足りない。

 

 暗い、満たされない、つまらない、響かない、腹に溜まらない……。

 

 あるいは、単に……渇く。

 

 その感情を、内から湧き出る渇望を、何と表現したものか。

 

 

 

 あの頃。

 私がまだ、飢えを知る前。

 

 目の前にある背中を、揺れる芦毛を、見知った気配を追いかける。

 私が追い付こうとすれば背中は更に遠ざかり、それを見て私ももっと脚を速めて……。

 私とねーちゃんはどこまでも互いを高め合っていた。

 

 ……そう。

 私がねーちゃんの背中を追い越してしまう、その時までは。

 

 あの日々に感じていた、心の底から満たされる充実感。

 本気を出し合い、誰かと競り合い、熱と熱をぶつけ合って勝利を目指す、あの感触。

 

 私は今でも、それを追い求めている。

 

 

 

 ……だが。

 現実は、私に牙を剥いた。

 

『……もうっ……無理……っ。ほんっと最悪……なんであんな速い子がウチに……!』

『ムーリー……あーあ、本気出しても敵うわけないじゃん』

 

 熱を失っていく。

 私と走れば、皆一様に、熱を失っていくんだ。

 

 私は渡り歩いた。

 多くの教室を、野良レースを、あるいは都落ちしてきたウマ娘を……。

 私の渇きを満たしてくれる相手との勝負を、求めて。

 

 勿論、その中には、私を超えるウマ娘もいた。

 本格化を迎えたウマ娘には、勝てないこともあった。

 ゴールラインを先に越えたウマ娘に対して、たまらない熱を覚えたこともあった。

 

 

 

 けれど。

 それでも、結末は変わらなかった。

 

 

 

『こんな……っ、こんな、本格化も来てない子が……っ!? 私の、私の2年は……!!』

『だって、そんな、おかしい! 私が負けるなんて!! こんな子供に!?』

 

 目の前で、熱が、火が、光が、消えていく。

 

 私が走って立てた風で、彼女たちの火は、かき消えてしまう。

 

 

 

 それが……嫌だった。

 

 私が走りを楽しめなくなることも……彼女たちが、もう二度と走れないだろうことも。

 

 それでも、あの満たされる瞬間を、一瞬の輝きを、忘れることが出来なかったから。

 だから、走って、走って、走って……その内、走る場所さえもなくなっていって。

 

 私は徐々に、諦めに近づいて行った。

 もう二度と、あの楽しい走りはできないのだろうと。

 ただ走りを楽しむには、私は強すぎるのだろうと。

 

 そういうものなのだと諦め、見切りを付けていって……。

 

 

 

 ……そうして、ある時。

 

「ブライアン。中央トレセンの、春の大感謝祭に行こう」

 

 ねーちゃんに……姉貴に、そう誘われた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 多くのファンとウマ娘たちによって盛り上がる、トレセン学園の春の大感謝祭。

 姉に連れられそこに来た私は、ただぼんやりと、目の前で行われる勝負を眺めていた。

 

 早食いだとか、大縄跳びだとか、借り物競走だとか……。

 少し視線を巡らせるだけでもいくつもの企画が視界に入り、そしてそこでは何十人何百人というウマ娘たちが覇を競っている。

 

 ここには、トレセン学園には、多くのウマ娘がいる。

 鹿毛、黒鹿毛、栗毛、芦毛。見たことのあるウマ娘もいれば、見たことのないウマ娘も。

 そしてその尽くが、全国でも選りすぐり。トップレベルの優駿たちだ。

 

 中央トレセン学園は入学の際、非常に厳しい試験が課せられる。

 一般的な学校と同じように筆記試験もあるが、姉貴によれば、何より見られるのは実技部分……つまり、競走ウマ娘としての走行能力らしい。

 

 ダート、短距離、マイル、中距離、長距離。その内で自分の得意とする距離を1人、9人、18人立てで3度走り、そのタイムやレース展開を元に合否が測られる。

 この試験は非常に厳しいらしく、私の姉貴ですらかなりギリギリの合格だった。

 本人は「読みが甘くて従来のプランが崩れてしまった。もう一度機会があればもっと上手く走るさ」とは言っていたが……それはともかく。

 

 つまるところ、トレセン学園に在籍するウマ娘たちは、姉貴と並ぶ精鋭たちの集まりなのだろう。

 実際こうして見ると、確かに私がいた地域にいたウマ娘たちより、一様に強い。

 恐らく、今の私が横で走っても……勝てないだろう程に。

 

 

 

 ……けれど。

 きっと、良い勝負は、できるのだろう。

 あの背中に、迫ることくらいはできるのだろう。

 

 そして、その時……あのウマ娘たちは……。

 

 

 

『こんな……っ、こんな、本格化も来てない子が……っ!? 私の、私の2年は……!!』

 

 

 

 いつか聞いた絶叫が耳に蘇り、思わず顔をしかめる。

 

 1年程前、より強いウマ娘との戦いを求め、私は中央から転校してきたというウマ娘と走った。

 結果から言えば、私はあの時、あのウマ娘に勝つことができなかった。

 2バ身の差を付けて、負けたんだ。

 

 中央に入ったという実績と、本格化による身体能力の上昇。

 これらを、私は覆すことはできなかった。

 

 それなのに……。

 それなのに、彼女の光は、私の目の前で消えてしまった。

 自分の努力を否定されたように感じ、走る意味を見失って、その脚を止めてしまった。

 

 

 

 その光景が、忘れられない。

 

 追っていた背中が、止まってしまう。

 目指していた光が、潰えてしまう。

 私の憧れが、終わってしまう。

 

 

 

 ──姉貴の背を越えた、あの時のように。

 

 

 

 だから、渇く。

 

 あの満たされる感覚が欲しいと、あの楽しかった頃が恋しいと思って。

 だから、他のウマ娘と走って……。

 

 ……そうして、再び、光を消してしまうのか?

 私のわがままで、ウマ娘を潰すのか?

 

 再び、そこに思考が戻る。

 何度思い返しても、結局はそこに行きついてしまう。

 

 

 

 走りたい。

 強いウマ娘の背を追いかけるあの悦楽を、再び味わいたい。

 

 けれど、私が走れば、相手のウマ娘は潰れる。

 私の強さが、才能が、そのウマ娘を絶望させる。

 ……伸びた影が、光を塗りつぶす。

 

 そうならないウマ娘を求めて、私はずっと挑戦を続けて来た。

 結局……そんなウマ娘は、どこにもいなかったけれど。

 

 

 

 中央のウマ娘ならば、あるいは私の渇きを満たしてくれるかもしれない。

 伸びた影に惑わされず、私の前を走ってくれるかもしれない。

 

 そう、心のどこかで期待していたが……。

 

「……駄目だ」

「ブライアン?」

 

 結局、どこも変わらない。

 

 私は、ナリタブライアンは、強いのだろう。

 だが、強い光は強い影を生み、他の光を呑み込んでしまう。

 そして私の周りの光が消えていった時……いつかは、私という強い光すらも、影に呑まれる。

 

 変わらない。

 変わらないんだ。

 

 いつか、私自身も、影に呑まれるという未来は。

 

 それが嫌になり……いいや、輝くウマ娘たちの笑顔が、あまりにも眩しくなって。

 私は姉の隣を離れ、企画で勝負していたウマ娘たちから目を逸らして、歩き出した。

 

 

 

 何故、私は彼女たちのように、楽しむことができないのか。

 強く生まれたことが罪だと言うのか。

 才能を持つウマ娘は、楽しく走ることすら許されないのか。

 

 煩悶する思考を抱えながら、目的地もなく歩き……。

 

 

 

 そして。

 

「うぐ」

「おわっ、と」

 

 ……そのウマ娘に、出会った。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 曲がった角でぶつかったのは、1人の鹿毛のウマ娘だった。

 

 恐らくトレセン学園の生徒なのだろう、ここの制服を着ている。

 セミロングにした鹿毛、前に一房だけ垂れた黒鹿毛。

 見開かれた瞳は青みがかった白に近く、思わず尻もちを付いた私を、少し驚いたように見ていた。

 

 身長は……私よりも一回り低いか。

 まぁ、本格化を迎えたウマ娘の体格は、フォームに最適な形で固定されるという話もある。単純に体の大きさで歳を計ることはできないだろうが。

 

 ……しかし、このウマ娘。

 どこかで見たことがあるような気がしないでもないが……。

 

 

 

「大丈夫? ごめんね、ちょっと急いでたから。えっと、立てるかな」

「……問題ない」

 

 伸ばされた手を無視し、自力で立ち上がる。

 体の大小で力が決められるわけではないものの、それでも自分より小柄なウマ娘に助けられるのはストレスだ。

 ……いいや。思えば、小柄なウマ娘とぶつかって私だけが倒れている時点で、プライドも何もあったものではなかったのだが。

 

「ん、怪我とかないみたいだね、良かった」

「問題ないと言った」

「あはは、そうだね。……さて、こんな校舎裏でどうしたの? お父さんお母さんとはぐれちゃったとか?」

 

 頭1つ高い私を見上げながら、余裕のある表情で私を子供扱いしてくる鹿毛のウマ娘。

 正直なところ、その扱いに苛立つ思いがないわけでもなかったが……。

 

「……構うな」

 

 それ以上に、私は、恐れた。

 この鹿毛のウマ娘の、純真な表情を……私から伸びた影が、塗りつぶしてしまうことを。

 

 だから深く関わることのないよう、すぐに立ち去ろうとした、んだが……。

 

 

 

「ブライアン!」

 

 ちょうどその時、私を追いかけて来たらしい、聞き慣れた声が聞こえた。

 ……なんて間の悪い。

 

「姉貴……」

 

 振り返った先に、豊かな芦毛を持つ姉の姿が見える。

 途中で振り切ったはずの姉貴は、相変わらず私を追いかけて来ていたようで、少し苛立ったような表情で私に近付いて来る。

 ……いや、これは「苛立った」じゃない。

 ただ、私を心配してくれているだけか。

 

「まったく、いきなり駆け出すから何かあったのかと……」

 

 つかつかと私に駆け寄ってきた姉貴は……。

 

 ピタリと、私の後ろにいるウマ娘を見て、その動きを止めた。

 その目は見開かれ、視線は僅かに動き続けて情報を掴もうとしている。

 

 ……あの姉貴が、緊張している?

 

 私が眉をひそめている前で、姉貴は呟いた。

 

「ホシノウィルム、先輩……?」

 

 

 

 ホシノウィルム。

 

 その名は、聞いたことがある。

 確か、そう、去年7年ぶりにクラシック三冠を達成したウマ娘。

 目の前のレースに集中してばかりだったから、直接そのレースを見たことはないが……。

 

 ……この、鹿毛のチビが?

 

「お前が、ホシノウィルム?」

「ん? うん、ホシノウィルムだけど……」

 

 鹿毛のウマ娘、もといホシノウィルムは、僅かに驚いたような表情で私の方を見て来た後……。

 ぱっと、姉貴の方に視線を移した。

 

「っていうか、もしかしてあなた……ビワハヤヒデちゃん?」

 

 気持ち表情を緩め、ホシノウィルムはてててと姉貴の方へと駆け寄る。

 それに対し、姉貴は目を見開いた。

 

「……! 知って、いただけていたんですか。まだデビューもしていない、ジュニア級のウマ娘を」

「うん。歩さん……私のトレーナーも警戒してたし、私個人としても注目してるからね」

「驚きました。あなたはあまり他のウマ娘の名前を覚えない、と聞いていましたから」

「それは……うん、あんまり否定はできないけど。それでも、注目株はちゃんと覚えてるよ。選抜レースの大差勝ちは結構噂になってたしね。

 それに、君とは一度どこかで話したいとも思ってたんだ。やっぱり目標はクラシック三冠?」

「……そうですね。当面の目標はそちらになると思います」

「ふむ、成程。その先、ターフの上で叶えるべき自分の目標があるわけだ」

「! ……ええ」

「いいね。走る理由がある子はきっと強くなるよ。期待してる。

 ……あ、喉渇いてない? そこの自販機で何か奢ろうか? コーラとか。炭酸抜くよ?」

「え、炭酸……抜く?」

「……あれ、反応が芳しくない……なんで?」

 

 

 

 姉貴と話しているホシノウィルムに、思わず手を伸ばしかける。

 

 ……目の前にいるのは、史上2人目の、無敗の三冠ウマ娘。

 

 大逃げという破天荒極まる脚質で、6つのG1タイトルを取った現役最強ウマ娘。

 史上初めてクラシック級で、グランプリレース・宝塚記念を制した傑物。

 氷のような冷静さと炎のような情熱を両立する、多彩なる一等星。

 あるいは……あらゆる不可能を覆し得る、今を生きる最新の神話。

 

 ホシノウィルムを指す記号は、数えきれない程にある。

 それだけ多くの人間が、ウマ娘が、彼女という鮮烈な光に目を焼かれている証左だ。

 

 だから私も、その光に惹かれ、思わず手を伸ばしかけて……。

 

 ……けれど、手は、途中で止まった。

 

 

 

 確かに、彼女の輝きは眩しい。あまりにも鮮烈すぎるくらいだ。

 その輝かしい背中を負い、いつか届くようにと手を伸ばすのは、きっと最高の体験だろう。

 

 ……だが。

 その光もまた、私の影が覆い隠してしまうかもしれない。

 彼女も私と走れば、あの目を……希望を失った目を、するのかもしれない。

 

 そう考えると、思わず指先が震え……。

 けれど同時、自分の渇きを忘れることはできず。

 

 伸ばした手は、中途半端に空を切るだけだった。

 

 

 

 私がそんなことをしている間に、ホシノウィルムは、言った。

 

「……で。さっきから殺気を向けてくる黒鹿毛の彼女とは、どういう関係なの?

 彼女は姉貴って言ってたけど……」

「ええ、自慢の妹です」

「ふーん、そうなんだ。……ああ、どこかで見た気がしたけど、二期でハヤヒデちゃんの隣にいた子か。一期でもどこかで見た気がするけど……うーん?

 

 ウマ娘の聴覚でも聞き取れないくらいに小さく何かを呟くのは……。

 

 これ以上ない程に、美味そうな香りのする、獲物。

 

 ……ああ、駄目だ、抑えきれない。

 自分の中にある、獣の性を。

 

「アンタ」

「ん、何?」

 

 振り返ったホシノウィルムは、私の向けるギラついた視線にも動じず、静かに聞き返してくる。

 

 どこまでも理想的な態度に、強すぎる自信に、その光に、私は……。

 

「私と走ってくれ。レースを、してくれ」

「いや、無理だよそれは」

 

 考える様子すらなく、にべもなく断られる。

 嫌だからというわけではなく、当然のことを諭すような口調で。

 

「何故だ」

「まぁ、理由は大きく分けて2つあるね」

 

 そう言って、ホシノウィルムは1本目の指を立てた。

 

「多分君にとってつまらないだろう方から挙げると、競走ウマ娘と模擬レースをしたい場合、相手のトレーナーに話を通さなきゃいけないんだ。

 私たちの体調や体力は、全部契約トレーナーが管理してる。それはつまり、私たちが自由にはできないってこと。

 私にある程度本気を出させたいなら、私のトレーナーの許可を取るのは必須になるわけだ」

 

 それは……不可能だ。

 私はまだ、トレセン学園に入学すらしていない。

 契約トレーナーもいないし、勿論相手のトレーナーに話を通せるだけのコネもない。

 

 ……だが、そんな都合で諦められるわけがない。

 思わず目を細めた私に対して、彼女は薄く苦笑を浮かべ、2本目の指を立てた。

 

「そして何より。今の君じゃ、私の相手としては不相応に過ぎる。

 まだ本格化も来てない君では、私の感覚に……10バ身以内に一度入って来ることすらできない。レースが成立しないんだ」

 

 自分とお前の間には、決して埋められない、絶対的な差があるのだと。

 目の前の、鹿毛の競走ウマ娘は、そう告げていた。

 

 私はそれに、苛立つことはなかった。

 いいや、むしろ……心の底から、ゾクゾクとした喜悦が湧き上がる。

 

 彼女は、今、私の前を走っているのだ。

 目の前に、追いかけられる背中がある。目指すべき光がある。

 それを追い抜いてしまうまでの刹那のひと時の、どれだけ貴重なことか。

 

 だからこそ……。

 このウマ娘と走りたい。

 その背中を越えたいと、そう思ってしまうんだ。

 

「頼む。私にできることならする」

「いや、だから無理だよ。さっきも言ったけど、本格化も来てない今の君じゃ、まだ私とは走れないって。

 ……というか、なんでそんなに私と走りたいの? 相手に飢えてるの?」

「飢えている……ああ、そうだ。私は飢え、渇いている」

 

 この感情を何と表現すれば相手に伝わるのか、私にはわからない。

 故に、抽象的な表現になってしまったが……。

 

 ホシノウィルムは、ただそれを聞いただけで、「ああ、成程」と頷いた。

 

「うん、大体理解した。そういうことね」

「……理解? 私の、この渇きを?」

「ま、そんなに珍しい話じゃないからね。

 中央に来れるウマ娘って、地元じゃ負け知らずなことも多いんだ。私なんて、自慢じゃないけど向かない脚質と距離でも大差勝ちばっかりだったし。

 そして、そうやって走ってる内に周りの子のやる気が死んじゃって、一緒に走れる子がいなくなるっていうのも……これまた珍しい話じゃないわけだ」

 

 彼女はいとも簡単に、私の渇きの正体を言い当てた。

 

 そう、一緒に走れるウマ娘の不足。「独走」はできても「競走」ができなくなること。

 それこそが、どうしようもない、私の渇きだ。

 

「だったら……」

「いや、駄目だよ。何度も言うようだけど、今の私とあなたじゃ『競走』できるレベルになってない。

 頼むなら、私以外の子にしなよ。今年のジュニア級の子たちとならいい勝負になるでしょ」

「……それじゃ、駄目だ。また、私の影が、アイツらの脚を止めてしまう」

 

 思わず出た、弱音のような曖昧模糊な言葉。

 それを聞いて、ホシノウィルムは顎に手を当て考え込んだ。

 

「んー? 影、影……写し鏡、いや、行動のもたらす副次的産物みたいな意味合いか……? ……あー、そうか。この時点で競走への執着が生まれると、そういうことに……。私は負けないことばっかり考えてたから、この辺違いが出るなぁ」

 

 彼女はブツブツと呟いて数秒考えた後、「よし」と頷き、改めて私に向き直る。

 

「君の都合とか、望んでることは大体わかった。でも、やっぱり私は君と一緒には走れない。

 ……けどその代わり、君のために走ってあげる。

 この後12時半から、Cブロックの4番で私の模擬レースがあるんだ。見に来てよ」

「自分の走りを見ろ、と?」

「いや、違う」

 

 ホシノウィルムは、私に対してニコリと……いや、ニヤリと笑った。

 まるで未熟な子供を嗤うような、あるいは面白がるような、そんな意地の悪い笑顔で。

 

「そのレースで見てほしいのはさ、私以外のウマ娘だよ。

 ……君がとんでもなく舐めまくってる、トゥインクルシリーズのウマ娘たちさ」

 

 よくわからないことを、言ったのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 結果を見れば、その模擬レースは酷いものだったと言えよう。

 

 1着入線のウマ娘から2着入線のウマ娘まで、その差は実に20バ身以上。

 そもそも、致命的な程、勝負になっていない。

 国内最強の生きる神話に対して、G2未勝利のウマ娘たちでは、とてもじゃないが分が悪かった。

 

 それはつまり、灰の龍の飛び抜けた性能を示すものであり、歴然とした格差の象徴であり……。

 ウマ娘たちにとっての、決定的すぎる敗北だった。

 

 ……だからこそ。

 ホシノウィルムでもなく、その大きすぎる格差でもなく、彼女たちのことを見ていたのは……私と、ごく一部だけだっただろう。

 

 ホシノウィルムが指定した見るべき対象は、彼女自身ではなく、「私以外のウマ娘」。

 だから私はずっと、先頭をひた走る彼女ではなく、その後ろを走るウマ娘たちを見ていた。

 

 ……しかし、視界の端に捉えても、わかる。

 圧倒的と言っていいスタートダッシュ。

 とても追いつけない程の猛加速。

 最後の瞬間に緩むどころか、むしろ冴え渡る末脚。

 彼女は、その模擬レースの出走ウマ娘の中で、明確に1人だけモノが違った。

 

 

 

 ああ……やはり、ホシノウィルムはバケモノなのだろう。

 それこそ私と同じく、光が強すぎるが故に影が伸び、他の光を掻き消してしまう程の。

 

 だからこそ、私にはわかってしまう。

 彼女の影が、他の全てのウマ娘の光を掻き消すと。

 

 絶望が、彼女たちの希望を覆い尽くす。

 自分たちとホシノウィルムの間には、決して埋め得ない差がある。

 どれだけ努力したところで、工夫したところで、我慢したところで、関係なく……。

 才能の多寡という、どうしようもない最初の段階で、彼女たちは「ホシノウィルムには勝てない」と決まってしまっているのだ、と。

 

 それを目の前で、こうも見せつけられるんだ。

 彼女たちからすれば、積み上げて来た努力を否定されるようなもの。

 抱いていた希望は叩き折られ、その目をどうしようもなく曇らせるのだろう。

 

 それはもはや避けられない未来で……。

 私は何度も、彼女たちから目を背けそうになった。

 

 

 

 ……けれど。

 

「…………、何?」

 

 私の見切りは、外れた。

 

 

 

 誰一人として、レース中に諦めた者はいなかった。

 ホシノウィルムが想定以上の力を振るうのに対し、最初こそ驚き戸惑ってはいたが、すぐに……彼女たちもまた、本気になった。

 

 ……あのウマ娘たちも、わかっているはずだ。

 ホシノウィルムには、勝てないと。

 

 素質が違う。能力が違う。技術が違う。……次元が、違う。

 どれだけ自分たちが本気を出したとしても、あるいは本気以上の力を出したとしても……。

 ホシノウィルムが、ある程度とはいえ本気で走れば、決して敵わない。

 

 それなのに、彼女たちは諦めなかった。

 目を見開き、歯を食いしばり、必死に脚を動かして。

 懸命に、最後まで、ゴールラインを越えるその瞬間まで……走り続けた。

 

 そうして、肩を上下に揺らして荒れた息を整えながら、遥か遠い先で追い抜けなかったウマ娘が観客に手を振っているのを憎々し気に眺め……。

 

 もっと、と。

 もっと強くなりたい、と、涙ながらに、トレーナーに訴えていたのだ。

 

 

 

 彼女たちの光は……消えて、いなかった。

 深すぎる絶望の影の中で、それでもなお、希望は潰えてはいなかった。

 

 

 

 

 

 

「どうだった?」

 

 気付けばいつの間にか、首に巻いたタオルで汗を拭くホシノウィルムが隣にいて。

 ぼんやりとターフを眺めていた私に対し、いたずらっぽい微笑を浮かべながら、感想を尋ねて来ていた。

 

 どうだったか、と。

 今見たものの感想を訊かれれば……。

 

「これが、中央トレセンか」

「そうだよ」

「あれが、トゥインクルシリーズのウマ娘か」

「そう」

「……ああ、認めよう。確かに私は、アイツらのことを舐めていた」

 

 そう、白旗を上げざるを得ない。

 

 

 

 私は、彼女たちのことを舐めていた。

 決定的な差を見せつけられれば、諦めるだろうと。

 ここで折れて、走るのをやめてしまうのだろう、と。

 ……強いウマ娘と走れば、もう二度と、真っ当に走ることはできないだろう、と。

 

 けれど、彼女たちは……私の予想の上を行った。

 

「中央トレセン、すごいでしょ。私も最初、びっくりしたよ」

「ああ、確かにすごいな」

 

 そんな素朴な感想が出てしまうくらいには、彼女たちの健闘に、私はショックを受けていた。

 

 バケモノとの次元の違いを見せつけられ、愕然とし、苦痛を覚えながら……それでもなお立ち上がる。

 何度負けてもその背を追い続け、そしていつかはそれを抜き去りたいと望む。

 

 ……そう。

 まるで、過去の私と同じように。

 

 トレセン学園のウマ娘たちは、ただ捕食されるだけの肉ではない。

 地に脚を付け、相手を食らおうと駆ける、獣だったのだ。

 

 

 

「皆が、ああなのか」

「そりゃ、最初はそうでもないけど……クラシック級の夏を乗り切ったメンツは強いよ。

 ガチガチに勝ち続ける怪物か、負け続けても諦めないガッツのある子しか残らないからね」

「成程」

 

 「諦めないこと」。

 競走ウマ娘にとって最も肝要であり、同時に最も難しいかもしれないことだ。

 

 ここに入学したウマ娘の中でも、それができないヤツは、自ら去っていく。

 残るのは自然と、最大の素質を持ったウマ娘だけになる、というわけだ。

 

 ……そこで、ようやく得心する。

 あぁ、成程。

 ホシノウィルムが私に見せたかったのは、教えたかったのは、これか。

 

「お見通しというわけか」

「まあね、あなたと私はよく似てるから。誰かと競うことに取り憑かれてるところなんて、まさに」

 

 ま、私がそうなったのは割と最近のことなんだけど、と付け加え。

 彼女は小さく苦笑して、話を続ける。

 

「ここには、君を満足させるものがあるよ。追い付けない背中も、諦めずに追って来るウマ娘も。

 だから、君も来なよ、トゥインクルシリーズ……中央トレセンに」

 

 そう言って、ホシノウィルムは私を迎えるように両手を広げた。

 

 可哀そうなウマ娘に慈悲をかけている……。

 ……のでは、ない。

 

 コイツもまた、中央トレセンに巣食う獣の一匹。

 コイツはただ、より強いウマ娘と走りたいだけ。自分に迫って来れるウマ娘を求めているだけだ。

 

 ……そして同時。

 私はそうして、追わせてくれる背中を、求めている。

 

「……私が追い付くまで、アンタは前を走ってくれるのか?」

「ん……君、今何年生?」

「初等部6年だが」

「となると……クラシック級のジャパンカップとか有記念で走るとしても2年半。私はシニア級3年末か……。

 どうだろう、その頃の私、まだトゥインクルシリーズにいるかなぁ。ドリームトロフィーリーグまで来てくれれば、確実に走れるんだけど」

 

 トゥインクルシリーズで高い成績を残したウマ娘は、その次の段階であるドリームトロフィーリーグへ参加する権利が与えられる。

 もしかしたら自分は、その頃にはそちらに移っているかもしれない……と。

 ホシノウィルムは、そう言っていた。

 

 それは……面白くない。

 こんな絶好の獲物を、考えられる限り最高の味をするだろう相手を、みすみす逃してしまうのは。

 

 思わず目を細め、睨み付けた私に対し……。

 ホシノウィルムはしかし、「大丈夫」と笑った。

 

「そんなに心配しなくとも、君を楽しませてくれるウマ娘は必ず出てくるよ」

「そんなことが起こり得ると?」

 

 私は今まで、姉貴以外のウマ娘と走って満足できたことはない。

 姉貴は間違いなく優駿と言っていい存在だ。それと同じ、あるいはそれを超えるようなウマ娘が、そうやすやすと現れるとは思えなかった。

 

 だから私は、どこか懐疑的に、その言葉を疑ったが……。

 ホシノウィルムは、どこか確信を持ったような表情で頷いた。

 

「うん、起こるよ。……なにせ、私もそれ、体験したしね。

 君を追い詰めるウマ娘。それは一見弱々しく儚いように見えて、とんでもなく諦めが悪くて頭の良い子かもしれないし……。

 あるいは、君を超えるようなめちゃくちゃな天才かもしれないよ?

 どう、想像すると楽しくなってくるでしょ?」

 

 恐らく、自らのライバルたちを思い浮かべてのものだろう。

 ホシノウィルムは喜悦の表情を、ちらりとだけ覗かせる。

 

 そして、その瞳は……。

 ついっと、私にも向けられた。

 

「ま、私も君と走ってみたいし、できるだけ長く走るよ。それで、もしも走ることになったら……」

 

 彼女は、そう言って……。

 どこかで見たことのある、笑みを浮かべて、言う。

 

「その時は、全力で叩き潰す。

 食われたくなければ、全力で向かってきなよ?」

 

 

 

 ……ああ、思い出した。

 

 これは、腹を空かせた獣が、牙を剥いた時の表情だ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「ふ……」

 

 ……ああ、なんて、眩しいのか。

 

 ホシノウィルム。

 現役どころか、歴代最強とまで謳われる、三冠ウマ娘。

 トゥインクルシリーズで一等輝く、眩き天上の()

 

 あれを食らえば、どれだけ満たされるだろう。

 この渇きが、飢えが、どれだけ満たされるのだろう。

 

 ああ……走りたい。

 あの背中を、追い抜きたい。

 

「……そのためには」

 

 まず、アイツと同じ場所にまで辿り着かなければ。

 

 ヤツの言ったように、まずは中央トレセンを目指そう。

 多くのウマ娘たちが走る、私の理想の舞台。

 そこに立って、多くのウマ娘たちを超えながら……ヤツと同じだけのものを勝ち取る。

 

 早熟の証明、ジュニア級年末のG1レース。

 ウマ娘にとっての強さの極致、クラシック三冠。

 

 それらを片端から平らげた後、メインディッシュだ。

 

 ……あぁ、やってやる。

 欠片の容赦もなく、やってやろうとも。

 

 待っていろ、ホシノウィルム。

 私は必ず、お前を捉え……そして、抜き去って(食い千切って)みせる。

 

 

 







 そんなわけで、未来の三冠ウマ娘、シャドーロールの怪物のお話でした。
 このオリ主、まーたライバル(になり得る)ウマ娘に火を点けてる……。
 ウィルが2話前で「模擬レースで1戦だけ本気を出したい」と言っていたのは、こういうことでした。ただ走りたいだけだと思ってた人は反省してください。

 ナリタブライアンはここから8か月後に入学となるんですが、堀野君と契約して鬼のような三冠排出率にしてもいいですし、ネイトレと契約してつよつよライバルになってもらってもいいですし、ハヤヒデと同門にしてもそれはそれで面白いですね。
 どう調理しても美味しい逸材、ナリタブライアン。果たして彼女の未来がどう転ぶのかは、三女神のみぞ知る。



 次回は3、4日後。別視点で、罪と後悔の果ての話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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And they are dying bad end after.

 別視点第二段、今回は妹ちゃん視点です。

 公式の情報が殆どなかったから大感謝祭の設定それっぽく組んだら、ニンダイでまさかの大感謝祭テーマのゲーム発売が発表された件。
 やっぱりアレか、一流のウマ娘ともなるとビームとか撃てるのか。今からでもプロット変更してウィルにビーム撃ってもらうかなぁ……。





 

 

 

 実のところ、中央トレセンに来た去年の秋に比べて、私が業務に携わる時間は、むしろ減少している。

 

 あのクソバ鹿アホボケ兄さんが「自分にできるんだから昌にもできるはず」と押し付けて来る無限にも等しい仕事(本人曰く新人向けの雑務)をこなしてた頃は、コイツマジで私を殺す気かって思ってたけど……。

 ある意味でその経験が活きたのか、慣れて来る頃には私の仕事の能率は跳ね上がって、同じ業務を半分どころか4分の1くらいの時間でこなせるようになったからだ。

 

 よって今は、多少兄から課せられる課題が増えたり、案件や調査の量が増えたとしても……うん、多分1日5時間は睡眠時間を確保できると思う。

 勿論、まだホシノウィルムさんやミホノブルボンさんを1人で担当するのは厳しいけど、それは彼女たちが世代の中心だからこそ。

 程々の人気のウマ娘なら、サブなしでもなんとかトレーナーをやっていけるんじゃないだろうか。

 ……いや、これは慣れてきたが故の慢心だな。調子に乗りすぎないようにしないと。

 

 とにかく私は、いささか高い壁を越えた。

 仕事は最初の頃が一番キツいってよく聞くけど、このやり方はある意味それを煮詰めたような感じだったのかもしれない。

 去年からインターン扱いでここに入った私は、なんとか「辞めよう」とは思わないまま、それを乗り越えられた、ということになる。

 

 

 

 ……が。

 

 業務時間は減ったとしても、業務量はむしろ格段に増えているわけで。

 私はその日も淡々とキーボードを叩きながら、ジリジリとメンタルを弱めていた。

 

 『彼女』と別れてからの兄さんの態度にも表れてるけど、トレーナーにとって一番楽しいのは、ウマ娘たちと触れ合ったり育成をしている瞬間だ。

 

 というか、私たちはウマ娘たちを育てたくてトレーナーになったんだ。

 そりゃあ本懐を果たす瞬間が一番満たされるのは当然の話で……。

 

 逆に言えば。

 こういう雑務をやってる時間は、どうしても面倒になってしまうのだ。

 

「…………ふぅ」

 

 仕事に一区切り付けて、ため息。

 

 目の前のモニターには、この数日分のお金の動きを入力し終わった会計ソフトが映ってる。

 後は、合計額が一致してることを確認して、予算案の方に細部の調整をして、領収書を纏めて、いくつか判子を押して、それから兄さんにいくつか連絡しなきゃ。

 

 そんなことを考えながら、私は当月残高をチェックして……。

 

「あ゛」

 

 ズレ、てる。

 通帳上の残高と、会計ソフト上の、残高が。

 

 えっと差は……通帳の方が……2万飛んで889円、多い。

 

 なんだこれ。

 どこ間違えた。

 奇数ってことは貸方借方逆にしたわけじゃない。

 こんな中途半端な金額に心当たりはない。

 単純な金額の入力ミスっぽい感じもしない。

 

 ……原因、わかんない。

 マジ? 何百件の記入の照らし合わせしなきゃいけないの?

 

「あぁー……」

 

 切れた。

 集中力が、もうこれ以上ないくらい、完璧にプッツン切れた。

 

 ただでさえ8時間くらいずっと書類仕事してて限界だった上、1時間以上かかった記入の調べ直し……。

 流石に、メンタルに限界が来てしまった。

 

 よし、ちょっとだけ休憩しよう。

 5分くらい思考を引き離せば、集中力も多少は戻って来るでしょ。

 

 そう思って、私はその場で大きく伸びをして……。

 

「んー……ん?」

 

 

 

 ふと、見上げた先に。

 

 黒いナニカが、2つ、見えた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 私こと堀野昌には、霊感……のような何かがある。

 

 正直、これに関しては、よく分からないことの方が多い。

 これが異常なことだとわかってすぐ、私は両親や兄たちのような肉親にさえ、このことを言うのをやめてしまったし……。

 そういう専門家に相談に行こうかと思ったこともあるけど、最初に当たったのがとんだインチキ霊能力者で、露骨にそこにいた変なモノが見えていなかったようだったから、同類を探すのも諦めた。

 だから、この霊感のようなものが本当は何なのか、私自身にさえよくわかってはいないんだ。

 

 ただ確かなのは、2つ。

 私は、大半の人々が感知も接触もできない者に対して、見て、聞いて、触れて、あるいは消すこともできるってこと。

 それと、私がそうやってナニカを認識するためには、波長? みたいなものが合う必要があること。

 

 そう、私の霊感は、そんなに強いものじゃない。

 経験則上、ソレらを見るためには、波長のようなものを合わせなくてはならないのだ。

 

 その日の気分とか体調、食べたものに月のものの周期。

 その他様々な要素を元に……つまり殆どランダムに、私はソレらと波長が合う。

 

 そうなってしまえば最後、それがズレるまでの間、私はソレらを認識してしまう。

 子供の頃は、そうやって変なモノが見えて困ったことも多かったけど……それはともかく。

 

 

 

 だからこそ。

 その日に見えた黒いナニカも、そういった一過性のモノだと思ったんだ。

 偶然波長が合ってしまった、それこそ30分も経てば、存在を認識することもできなくなるような、どうでもいいものだと。

 

 実際のところ、その「色」も、特別珍しいものじゃなかった。

 多分元は人間かウマ娘だったんだろう、複雑な色。

 黒くてぐちゃぐちゃした中からは、深い後悔と絶望の感情が垣間見える。

 

 どっちも、決して珍しいモノじゃない。

 高度な知性体の方がこういうモノになりやすいってのは経験則で理解してるし……。

 死を迎えて尚消えられないソレらは、暗い感情を抱えていることが多いんだ。

 

 だから、私は……。

 

「……仕事するか」

 

 ソレらを、無視することにした。

 

 どうせ波長がズレれば、見えなくなるモノだ。

 こちらへの強烈な悪意とかも感じられないし、放っておいても害はないだろう。

 

 まぁ、私がソレらを認識してるとあっちに気取られてしまえば、何かしら行動を起こして来る可能性はあるけど……。

 こっちは幼少期からそういうモノに触れ合ってきたベテランだ。存在丸々無視することにも慣れてる。

 

 異常があっても無視すればいいし、何か起こっても気にしなければいい。どうしても害になるようなら、最悪消してしまっても構わない。

 多くの人に「存在しない」と定義されているように、ソレらはこの世界になくていいモノ。本来交わるべきでないモノ。

 気にしすぎても、気苦労を背負い込むだけだ。

 

 

 

 そんなことよりは、会計作業の方がずっと優先度は高い。

 何せ、こんなことでもしっかりこなさないと、ホシノウィルムさんやミホノブルボンさん、ついでにあのバ鹿兄さんも困ってしまう訳で。

 

 無駄なことに労力を割くよりは、サブとはいえ世話を見ているウマ娘である、ホシノウィルムさんやミホノブルボンさんの力になってあげたい。

 おまけ程度に、メインのトレーナーである兄さんの手伝いをしたい。

 

 ……すごく今更で、根本的なことだけど。

 堀野昌という人間は、霊だとか化け物だとかよりもウマ娘のことが好きな、堀野家の娘なのだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……と。

 つい1か月程前は、そうやって呑気に構えていたわけだが。

 

「はぁ……」

 

 流石に、そろそろ看過できなくなってきた。

 

 確認していたミホノブルボンさんのシューズの納品書から目を上げると、そこにはやはり、黒いぐしゃぐしゃしたナニカがいる。

 前よりも鮮明に捉えられるようになってきたソレらは、今日も今日とて、うにょうにょとトレーナー室の片隅を漂っていた。

 

 ……消えない。

 全っ然、消えない。

 

 30分もすれば波長がズレて見えなくなるはずと思ってたけど、そんなこともなく。

 私の予想に反して、それらはずっとそこにあり続けた。

 

 私が最も長く活動する場所、中央トレセンのトレーナー棟、兄に割り当てられたトレーナー室。

 他に比べてそこそこ綺麗に整頓されているその部屋の、外に続く扉に向かって左奥の隅。

 2つの黒いナニカは、私が初めて目撃して以来、ずっとそこに佇んでいる。

 ……あぁいや、急にどこかに行ってしまう、例外的な時間もあったんだけど。

 

 更に言えば、ただ消えずにそこにいるというだけじゃなく……。

 ソレらは徐々に、より鮮明に見えるようになってきていた。

 

 ただ「黒い」「魂の色っぽいモノが見える」程度にしか認識できなかったそれは、いつしか「ぐしゃぐしゃしている」「やや浮いている」「時折行動している」と、複雑な認識ができるようになってきている。

 

 それはつまり……ソレらと波長が、更に合ってきている、ということを意味するのだろう。

 

 

 

 どうしたものかなと、書類を置いて、頬杖を突いた。

 

 今のところ、ソレらは悪い兆候を見せているわけじゃない。

 そこにいることで兄さんやウマ娘たちに悪い影響が出たことはないし、恐らく私がソレらを認識できていることには気付いているだろうに、特にアクションをかけてくることもない。

 

 生きた人間のような行動を見せないことから、自分たちが死んでいることには気付いてるっぽくて……。

 けれど、だからと言って寂しさからこちらを引きずり込むわけでもなく、おかしくなって変な行動を取るわけでもなく。

 

 ソレらは、ただ、そこにいるだけのモノだ。

 ……特定のタイミングを除いて、だけど。

 

 

 

 もしもソレらが害になるものであれば、話は簡単だった。

 さっさと消し去ってしまえばよかったんだ。

 

 どうやら私は、霊的な感覚こそ弱いが、破壊力? 祓う力? みたいなものはそこそこ強いらしく、昔からそういったおかしなモノには抗することができた。

 

 というか、それまで弱かったら、多分この歳まで五体満足で生きて来れなかっただろう。

 おかしくなってしまったモノに引きずり込まれて子供の頃に死んでいたか、少なくとも四肢の1本でも持っていかれていた。

 

 そうならなかったのは、ひとえに私に抗える力があったからだ。

 いざという時は、消し去ってしまえばいい。

 その意識があったからこそ、私はそういったモノに過度に怯えることもなく、ここまで生きて来れたというわけだ。

 

 まぁとは言え、そういうモノなら何でも消し去れるっていうわけではない。

 そういうおかしなモノらにも強弱があって、それこそ神様みたいなヤバいものとか、堕ち切ってドロドロになったモノとかもいる。

 そういう手を出しちゃいけないものは、消し去るとかそういう前の段階で、そもそも認識しただけで害になったりもするのだ。多分私の力も効かないだろう。やったことないけど。

 

 逆に言えば、そういうのを除けば……まぁ、なんとかなる。

 触れ合った時点で体調が悪くなったり、変なモノに波長が合いやすくなったりもするから、正直取りたくない手ではあるけどね。

 

 

 

 で、この黒いナニかは、どれだけ強いのかって話だけど……。

 ぶっちゃけ言って弱い。すごく弱い。

 多分だけど、消そうとする私に対して、悪影響を及ぼすことすらできないだろう。

 

 だから、ソレらが悪意を持ってたり、私や兄さん、ウマ娘たちの害になるのなら、その時は消してしまえばいいと思っていた。

 

 

 

 けれど、その黒いモノは、害がない。

 そこにあっても、私が見ても、何なら露骨に近づいても、強い反応がない。

 

 そうなると、私としても積極的に消す理由はないわけで。

 君子危うきに何とやら。私はこれまで、ソレらをだらだらと放置してきた。

 

 

 

 ……しかし。

 それが1か月も続くとなると、ちょっとばかり話が変わって来るわけで。

 

 私は仕方なく、ソレらに対してアクションを起こすことにしたのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「……めんどくさい」

 

 思わず、トレーナー室で一人、呟く。

 

 今日はトレセン学園、春の感謝祭の日。

 ミホノブルボンさんは友人のサクラバクシンオーさんと遊びに出ているし、ホシノウィルムさんと兄さんは今日出る企画のために外に出ている。

 一方私は、昨日アクシデントで残してしまった仕事を片付けるまでトレーナー室に籠ると宣言した。

 

 ……つまるところ。

 今日は、私以外の誰も、このトレーナー室に来ない。

 

 この黒いモノに対してアクションを起こすには、絶好のタイミングと言えるだろう。

 

 

 

「ちょっと、そこの、変なの」

 

 私は口を開きながら、書類を机に置き、ソレらに近付く。

 

「聞こえてんの? アンタたちに話しかけてるんだけど。言葉分かる?」

 

 反応は…………ある。

 ソレらは、僅かに身をよじった。

 偶発的なものじゃなく、私の言葉に対して反応してるっぽい。

 

 ……ただ、それ以上のアクションはなかった。

 

 これは……どっちだろうな。

 私の言葉を理解できず、ただ話しかけられたことだけはわかって、反応したのか……。

 それとも、あちらの言葉を私が理解できるほどには、私の波長が合ってないのか。

 

 ただ1つ確信できたのは、私の言葉は相手に届いてるってことだ。

 一昨日試した時は、この距離まで詰めても反応1つなかったのに、今話しかければちゃんと反応する。

 それはつまり、向こうからはともかく、こちらからの言葉は届いていることを意味する。

 

 なら、コミュニケーションの取りようはある。

 

「取り敢えず、聞こえてるっぽいか。そっちは話すとかできない感じ?」

 

 言葉に、再びソレらが揺れる。

 聞こえてるし、私の言葉の切れ目に対して素早く反応してきた。

 喋ることはできないみたいだけど、こっちの言葉を理解はできてるのかもしれない。

 

 それなら、聞きたいことを聞かせてもらおうかな。

 

 

 

「そ。それで……アンタたち、ここにいていいの?」

 

 

 

 ……反応なし。

 

 言葉を理解できていない……とは、思えない。

 私は恐らく、半年(・・)という短くない時間をかけて、コレらと波長を合わせた。

 そこまで合ってしまえば、不意にズレるようなことはないだろう。

 この言葉も、十分に伝わっているはずだ。

 

 だから、反応しなかった理由は……ひとえに、ソレらが「咄嗟に反応できなかった」からだ。

 

「……あのさ。それでいいと思ってるの?」

 

 呆れながらの言葉にも、反応はなし。

 

 

 

 ……あぁ、ムカついて来たな。

 こんなんでいいと思ってるのか。

 こんな状況で、ただ「そう」しているのが正解だと信じているのか。

 

 そんな訳がないのに。

 ただ逃げているだけの末路など、バッドエンドですらない。

 ……いや、既に「終わってしまった」ソレらは、ある意味バッドエンドの先の存在か。

 

 「終わってしまった」モノがどうなろうと、私の知ったことではないけれど……。

 死んでなお逃げ続けるソレらが目に入ると、それだけで腹立たしかった。

 

 ソレらを認識できるのは、私だけ。

 ソレらに何かを言えるのも、その意思を知ることができるのも、私だけだ。

 

 であれば、私のすべきことは……。

 

 きちんと、向き合わせることだろう。

 

 

 

「……付いて来なさい。

 あなたたちが、同じことを繰り返したくないのなら、ちゃんと彼女のことを見て」

 

 その言葉に。

 

 黒い、2つのナニカは、今までになく強く、震えた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 私の持つ霊感モドキ。

 これでこの世のものでないナニカを認識するためには、波長を合わせなければならない。

 

 これが合う条件は、大きく分けて2つ。

 

 1つは、先述の通り、私の状態だ。

 調子が良いとか悪いとかそういう大雑把なものじゃなく、多分何十何百という条件によって決まる、無作為でランダムに近い状態の変動。

 これが上手く噛み合った時に、相手のことを認識できるようになる。

 

 つまるところ、こちらの方法では、自発的に波長を合わせることはできないし、合ったとしてもすぐにズレて認識できなくなる。

 だから今、私の後ろを付いて来ている黒いソレらとは、この方法で波長が合ったわけではないんだろう。

 

 

 

 恐らくはソレらと波長が合った理由なんだろう、もう1つの方法は……。

 

 ソレと縁のあった者の近くに、居続けることだ。

 

 例えば、私が兄と共に共同生活を送った果てに、『彼女』との波長が非常に近づいたように。

 知り合い、友達、近親者、あるいは家族。

 そういった縁のあった者と共に時間を過ごすことで、少しずつ、私の波長はソレに近づいていく。

 

 私が見ていた者との関係が深ければ深い程に速く、私の波長はソレに近付いて……。

 それこそ、半年も近くにいれば、そのウマ娘の家族だったモノくらいは見えるようになるはずだ。

 

 

 

 ……その、黒い2つのモノに見えるのは、昏くて痛々しい感情。

 深い後悔と、絶望。

 こうして魂だけが浮き出た死人には決して珍しくない、ありふれた……悲しいモノだ。

 

 そしてその想いは、とあるタイミングで膨れ上がり、2つの黒いモノは、逃げ出すようにいなくなる。

 そのタイミングとは……。

 

 トレーナー室に、彼女が……。

 ホシノウィルムさんが、入って来た瞬間だ。

 

 

 

 それらの情報を照らし合わせれば……。

 この、2つの黒いモノが、元々は何だったのかは、想像に難くなかった。

 

 ……だからこそ、ムカついたんだ。

 

 

 

 私はこの前話した時に、本人からソレらの話を聞いた。

 嫉妬に狂い彼女を無視した母、母を愛する余り彼女を見なかった父のことを。

 「私とは、噛み合わなくて。歯車が1つ噛み合わなければ、機械って簡単に壊れちゃうんです。私が悪いとか、2人が悪いとかじゃなくて……ただ、相性が悪かった。それに尽きます」と、静かに告げられた。

 

 ただ、それだけだ。

 別に私は、その光景を実際に見てきたわけじゃない。

 

 私に、彼女に同情するような権利はないだろう。

 私が生まれ育った堀野の家は、温かかった。

 カッコ付けのコミュ障である父、頭のネジの飛んだ長兄、前世の記憶を持つ次男と、問題のある人間は多かったけど。

 それでも、上手く回っていた。それぞれがそれぞれに気を遣い、楽しくやれていた。

 彼女の言葉で言えば、これ以上ない程に、歯車が噛み合った家庭だったと言える。

 

 だからこそ。

 その温かさを知り、本物の冷たさを知らない私は、彼女に同情すらできない。

 その感情を知らないから。同じ情を、持っていないから。

 

 

 

 ……だけど、ムカつくくらいは、許されるはずだ。

 

 死んでしまって、取り返しが付かなくなって、そこでようやく自分たちのしたことに気付いて。

 後悔して、もはや何も取り返せないことに絶望して……。

 そのまま未練たらたらでこんなところにまで出て来て、そのくせ直視はできずに避けてまわるなんて。

 

 ふざけてる。

 そんなこと、許されるわけがない。

 

 

 

 ただの義憤だ。

 関係ない人が勝手に怒ってるだけ。

 

 私にそんな怒りをぶつける権利はない。

 誰かを正しく裁ける程に私はできた人間じゃないし、そうじゃない以上、私の行動は全てが私刑。

 そこには正しさなどどこにもない。

 私がここで行動を起こすこと、その全てがきっと誤りだろう。

 

 わかってる。

 そんなこと、全部わかってる。

 

 わかった上で……何度そう自分に言い聞かせても、私の足は止まらなかった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そうして、黒いモノを背後に連れて、辿り着いた先は……。

 春のファン大感謝祭で賑わう、トレセン学園の一区画。

 ……を見下ろせる、校舎の片隅だ。

 

「……いた」

 

 目的の人物2人を発見し、私は動かしていた足を止める。

 

 どうせ一緒にいるだろうと思ってたけど、やっぱり予想通りだ。

 ま、ホシノウィルムさんは普段からあんなに好き好きオーラ出してるし、兄さんだってそれを憎からず思ってる様子を見せてる。

 お祭りの日に一緒に回らないとか、あり得ないとは思ってたけどね。

 

「見て、そこにいるから」

 

 背後にいる黒いモノに、言葉少なに言う。

 ソレらはうぞうぞとうごめき……まるで躊躇するように、その場から動かない。

 

 絶望と後悔に染まっていたソレらは、今は、強い強い恐怖の色に染め直されている。

 

 それが……尚更、ムカついた。

 

「……見ろ。アンタたちが崖に追い込んだ子の今を、ちゃんと見て、知れ。

 それが加害者の……いいや、あの子を産んだ親の、最低限の責任でしょうが」

 

 脅すように言うと、ソレらは硬直して……それからようやく、窓の方へと移動した。

 

 

 

 ……勝手にムカついて、勝手にキレておきながら、なんだっていう話だけど。

 正直に言えば、ソレらの恐怖は、決して理解できないものじゃなかった。

 

 自分たちが一時の激情、一時の喪失感で、その人生をめちゃくちゃにしてしまった相手。

 愛し愛されるはずだった、自分たちの家族になるはずだった、無辜の子供。

 

 ソレらは命を亡くしてその体から離れ、そこでようやく冷静になったんだろう。

 そして現実を見て、自分たちのやってしまったことを自覚した。

 

 遺した子供のその先を見るのは、即ち、自分たちの罪に正面から向き合い続けるに等しく……。

 ……もしも彼女が、今にも死にそうな顔で、命を捨てるように走っていれば……。

 それはきっと、ソレらの心を壊してしまう光景なのだろう。

 

 だからこそ、ソレらは怖がっている。

 それこそ、消えて(死んで)しまうことと同じくらいに、現実に向き合うことを恐れている。

 

 その気持ちは、共感こそ理解できないけど、理解はできるものだ。

 

 

 

 ……でも。

 だからって、中途半端に近づいて来たくせに、覚悟ができないから見ない、なんて。

 そんな選択が正しいとは、決して思えない。

 

 だから私は、ソレらに彼女を見るように強いて……。

 だからソレらは、きっと決死の覚悟で窓の外を覗き見て……。

 

 

 

 

 

 

 ……そうして。

 

 娘が、アホ面晒したクソボケトレーナーと一緒に、満面の笑顔でお祭りを巡っているところを、見た。

 

 

 

 

 

 

 目の前の黒いモノは、固まった。

 理解できない現実に困惑し、あまりにも希望に満ちた現在に瞠目する。

 

 私はそんな、ホシノウィルムさんの過去を縛っていた影に、静かに告げた。

 

「……アンタたちがどれだけ後悔しようと、絶望しようと、過去は絶対に変えられない」

 

 そう。

 過去は覆らない。

 

 私の知るある者は、かつての悲劇を受け入れ、乗り越え。

 私の知るある者は、自らと共に痛ましい悲劇を葬り、未来を託して。

 私の知るある者は、受け入れられない悲劇を忘れ、前に進んだ。

 

 それぞれが、それぞれの方法で前に進んだ。

 けれど、ただ1人として、その壮絶な過去を変えられた者はいない。

 

 人は、時間という軸を持たない。

 今この時を生きるしかない私たちは、それがどれだけ辛いものであろうとも、1度体験してしまった過去を覆せない。

 

 それは酷く、悲しく虚しい事のように思える。

 「これまで」が駄目だったら「これから」も陰ってしまうと、そういうことを示すのだから。

 

 

 

 ……けれど。

 

 人やウマ娘が今を生きることは、何も絶望だけを示すわけではないんだ。

 

「そうして迷っている間に、だらだらと時間を無駄にする間に、今は過去に、未来は今になる。

 ……そうして、アンタたちの想像もしないような未来がやって来る。

 勿論、アンタたちが想像してたように、ホシノウィルムさんが駄目になっていく未来もあったかもしれない。誰にも出会えず、そのまま朽ち果てるような悲惨な未来もあったかもしれない。

 でも、そうはならなかった。

 今のあの子は良き出会いを経て、走ることを、今を生きることを楽しんでる」

 

 未来は、悲惨な可能性を内包しているのと同じように、明るい可能性もまた、その中に孕んでいる。

 

 負けないことに腐心し、その心を凍てつかせて、いつしか腐り落ちてしまうような未来があれば……。

 トレーナーや後輩、ライバルにファンの方々。たくさんの、灯のような温かさに包まれて、走り競うことを何よりも楽しむ、と。

 そんな未来もまた、起こり得るんだ。

 

 ホシノウィルムさんは、天運と、そして何より彼女自身の強さと決意で、この現在を勝ち取った。

 今の彼女は眩しいくらいに明るくて、お返しと言わんばかりに周囲に熱を振りまく、最高にキラキラした無敗の三冠ウマ娘。

 

 きっと誰より幸せな、ハッピーエンドのその先にいる、1人の乙女なのだろう。

 

 

 

「アンタらが何もしなくたって関係ない。

 あの子は1人で過去を乗り越えたし、これから先も未来に進んでいける。

 ……もっとハッキリ言おうか。あの子の未来に、アンタたちはもう、必要ないんだ」

 

 死者は……。

 既に命の亡い者は、今命を持つ者に、干渉すべきじゃない。

 きっと、だからこそ、大半の人間はソレらを認識できないんだ。

 

 命が絶たれるというのは、この世界の現在との繋がりが絶たれるということ。

 既に過去の、影の中の存在となったソレらは、今まさに光の中にある彼女と触れ合うべきじゃない。

 

「アンタたちの罪は、なくならない。未来永劫、許されることはない。

 今更親面しようと、あの子のことを想ったつもりになろうと、その後悔も絶望も晴れることはない」

 

 私の言葉を聞いて……。

 ソレらは、ただ、立ち竦む。

 

 ただ、ガラス1枚を隔てた向こう側で、温かな幸せに浸る、自らの娘を見て……。

 

 

 

 ……そこで後悔や絶望を覚えるのではなく、ほんの僅かでも「良かった」と思えるのなら。

 

 きっとあなたたちには、罰を受ける権利があるのだろう。

 

 

 

「……だから、見てなさい。あなたたちの介在する余地すらなく、幸せになっていくあの子を。

 決して気付かれないまま、触れ合えないまま、報われないまま……最期の時まで、彼女をこの世界に産み落とした責任を持って、見ているの。

 それがあなたたちが果たせる、最後の責任。あなたたちが受けられる、最後の罰」

 

 それが果たして、あなたたちにとって、自らの成し得なかった奇跡を見る、罰となるのか……。

 あるいは、ただ1人の娘が幸せになるところを見る、救いとなるのか。

 それは、私には量りかねるけれど。

 

 

 

 結局その2人は、私が昼食を取りに行くまで……。

 ずっと、幸せな一人娘のことを、見守っていた。

 

 

 







 罪には然るべき罰があるべきだし、罰の先には救いがあるべきだと思います。
 『彼女』がそうであったように、『彼ら』もまたそのように。



 それはそれとして、実は寺生まれのTさんレベルの除霊力(?)を持ってる妹ちゃん。名家生まれのAさんです。
 その強さで凡人は無理でしょ……と思われるかもしれませんが、元より妹ちゃんは「トレーナーの名家に生まれ、トレーナーとして生きようと決めた」人間。霊感なんてモノがあっても邪魔なだけですから、自己評価には繋がりません。
 更に言うと、そもそも霊感が弱くてそういうのを見ることも稀なので、滅多に振るうこともありません。1年に1、2回くらい。
 ホラー系のお話で時々いる、何故か在野のバチクソ強い霊力持ち人間みたいなもんですね。



 次回は3、4日後。別視点で、憧れと大敗とその先の話。
 別視点は多分あと2話くらい。本格的にレースが始まる前に色々整理したいんです、許して……許して……。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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蕾は未だ、庭園の影に

 別視点回第3段。
 今回は祝福の名を持つあの子の視点です。





 

 

 

 あの日、お姉さまと交わした言葉は、今でも忘れてない。

 いいや、きっと、忘れられないと思う。

 

『君も、駄目な自分を変えたいと思うなら、そうすればいいんだよ。

 君にはその力がある。経験者の私が保証するよ』

 

 暗い夜の道の中で、それでも輝く星のように、温かで明るい言葉。

 ライスはそれを聞いて、本当に……本当の本当に、救われたんだ。

 

 

 

 あの日、お姉さまと話すまで……。

 ライスは、庭園の青いバラだった。

 いいや、青いバラだって、自分を諦めてたの。

 

 ライスは昔から、隣にいる人を不幸にしてしまう。

 嫌なことが起こったり、何か壊しちゃったり。

 その種類こそ色々あったけど……いつもいつも、周りの皆に迷惑をかけてしまうことは変わらなくて。

 

 自分はそういうモノなんだって、諦めてた。

 世界で一番駄目なウマ娘で、きっとずっと変われないんだって、諦めてしまってた。

 

 

 

 けど、あの日。

 お姉さまは、ライスに教えてくれたんだ。

 

 ライスより、もっと不幸なウマ娘もいて。

 でも、そんなウマ娘だって、皆を幸せにできるように変われて。

 ……ライスも、自分の力で、そうやって変わっていけるかもしれないって。

 

 諦めて、冷たくなっていた心に、温かな光が差した気がした。

 こんなライスでも、変われるんだって……そう、信じてくれるウマ娘がいる。

 ライスが強くなるのを、一緒に走れるのを、待ってくれるウマ娘がいる。

 

 

 

 お姉さまは、ライスに大切なことを教えてくれた。

 庭園に咲いて、諦めて萎れていたライスに、日のあたる窓際への行き方を教えてくれた。

 

 だからこそ……そんなお姉さまに、喜んでほしかったんだ。

 

 目をかけて良かった。

 待ってて良かった。

 期待して良かった。

 楽しく走れて良かった。

 

 そう言って、笑ってほしかった。

 

 きっとそれが、ライスが幸せの青いバラになる最初の条件。

 ライスを救ってくれたウマ娘を、今度はライスが幸せにする。

 そんなこともできないようなら、道行く人たちみんなを幸せにすることなんて、きっとできないもの。

 

 

 

 ……だから。

 ライスにとっての最大の目標は、お姉さまのライバルになることで……。

 

 そのためにも、ブルボンさんには注目してたんだ。

 

 

 

『……ふふ、まぁ私とぶつかるにはシニア混合のG1レースに出なきゃいけないし、その分たくさんレースに勝たないといけないけどね。

 勝ち上がってきなよ、ライスシャワー。ブルボンちゃんを超えて、さ』

『ブルボン、さん……?』

『そう、ミホノブルボンちゃん。君がクラシック三冠を目指すんなら、彼女は間違いなく壁になるよ。

 何せ、私のトレーナーが持った、2人目の担当ウマ娘でもあるしね』

『ウィルム先輩と同じ、トレーナーさんの……』

『ブルボンちゃんは強いよ。きっと君の良いライバルになる。

 だからまずは、彼女の背中を目指してごらん。きっとそのレースが、君を新しい自分へ導いてくれるからさ』

 

 あの日、お姉さまが指定した、ライスシャワーが目標にすべき背中。

 お姉さまと同じトレーナーさんの下で指導を受ける、三冠を目指す逃げウマ娘。

 

 無敗のジュニア級王者、ミホノブルボンさん。

 

 お姉さまに追いついて一緒に走るために、強いウマ娘になるために……。

 私はまず、クラシックレースを目指さなきゃいけない。

 お姉さまの話だと、そこで壁になるのがブルボンさん、という話だった。

 

 確かにブルボンさんは、強い。

 無名の血……いわゆる寒門であり、更には逃げっていう難しい脚質を選びながら、メイクデビューやG1朝日杯でその溢れんばかりの才気を証明したんだから。

 

 当然ながら、ライスやトレーナーさんは、そんなブルボンさんのことを強く意識してた。

 ブルボンさんについての調査は欠かさなかったし、合同トレーニングの時も、ブルボンさんに負けないよう必死に走ったんだ。

 

 だから、ライスにだって勝機は十分にある、と。

 そう思って、私は、レースに臨んで……。

 

 

 

 

 

 ……けど、結局。

 

 ライスは、お姉さまの言葉の真意を、理解してなかったんだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 3月29日。

 ライスにとって、半年ぶりの公式レース……。

 1800メートル、G2、スプリングステークス。

 

 私とトレーナーさんはそこに、渾身の力を注ぎこんで挑んだ。

 久々のレースってこともあるけど……何より、初めてブルボンさんと競えるレースだから。

 

 縁がなかったというのもあるけど、昨年末以降はライスが脚部不安を起こしてしまって、公式レースに出走することできなかった。

 だから、こうして公式レースの場でブルボンさんと競うのは、初めてのことになるんだ。

 

 ……とはいえ、その時のライスに、大きな不安はなかった。

 

 その日まで、ライスはしっかりと走ってきた。

 合同トレーニングの時に一緒に走ったこともあるし、ブルボンさんの呼吸もなんとなく掴んでる。

 中盤から追い上げてブルボンさんの後ろに付いて、最終直線で一気に追い抜いて差し切るっていう、トレーナーさんと一緒に立てた作戦もある。

 

 その上、お姉さまに教えてもらったこともあるんだ。

 「コンセントレーション」っていう、限りなく最速に近いスタートを切る技術。

 お姉さま曰く、「かなりライスちゃんに向いてる」らしい技術でもある。

 これを習得するために、何度も何度も目の前で見せてもらったり、一緒にスタートしてみたり、体感を話してもらったりと、お姉さまには本当にお世話になった。

 ある意味で……その、お姉さまとの絆の象徴。そう言ってもいい、ライスのとっておきだ。

 

 だから、負ける気はなかったんだ。

 相手がブルボンさんだろうと、今日は絶対に譲る気はなかった。

 

 

 

 ……それなのに。

 

 

 

『既に200も通過しました、逃げ切り態勢濃厚ミホノブルボン! ライスシャワー追い上げるがしかし距離はなかなか縮まらない!

 これは圧勝ムード、衰えぬ脚でそのまま綺麗にゴールイン!!』

 

 

 

 ……勝てない。

 

 勝てなかった。

 

 スタートが、速かった。

 タイミング自体はライスとそう変わらないけど、加速力が段違いで。

 圧をかけようとしたライスの手を、ブルボンさんは一瞬ですり抜けていった。

 ……ライスは、忘れてたんだ。

 そもそもお姉さまから教わった「コンセントレーション」は、お姉さまがそのトレーナーさんから教わったものだってこと。

 同じトレーナーさんが付いてるんだから、ブルボンさんだって抜群にスタートが上手くなることは、当たり前のことだったんだ。

 

 中盤に、隙が無かった。

 ブルボンさんは、垂れなかった。

 いいや、垂れないどころじゃない。速くもならなければ遅くもならない、完全な等速疾走。

 番手のバクシンオーさんと大きな差が付いてることもあって、もはや誰も手の出しようがない。

 その越えられる気がしない後ろ姿は……どこか、お姉さまを連想させる程で。

 

 終盤に……届かなかった。

 外目から一気に迫って、ブルボンさんに肉薄するつもりだったのに……。

 差が、まったく縮まらない。

 結局、何百メートルとかけて、詰められたのは3、4バ身程度。

 その丸々倍、ライスとブルボンさんの間には、差が広がっていた。

 

 つまり。

 ブルボンさんの背中は、ライスが想像してたより、ずっと、遠かったんだ。

 

 

 

 

『2着入線ライスシャワーに4バ身の差を付け、その強さを見せつけました!

 素晴らしき脚の速さ、成長の早さ! 距離適性という大きな壁を越え、皐月賞を制するのは彼女になるのか!?』

 

 

 

 4バ身。

 距離にして、大体10メートル。

 数字にすれば、そんなに長い距離でもない。

 

 その日ライスたちが走ったレースは、実に1800メートル。

 この距離を2分弱で駆け抜けるウマ娘たちにとって、10メートルなんて、それこそ1秒もかからず詰められる距離でしかない。

 

 ……けれど、その1秒が、その僅かな距離が、私にとっては……遠い。

 ブルボンさんの背中は、とてもじゃないけど、この手の届かないところにあった。

 

 

 

『昨年ホシノウィルムに続いて、血統を越えた勝利を見せてくれるのかミホノブルボン。新たな伝説の樹立に期待が高まりますね』

 

 

 

 ……あぁ。

 そうか、そうなんだ。

 

 あの日、お姉さまが言っていたことが、ようやくわかった。

 まずはブルボンさんを目指してみなさい、と。

 何はともあれ、まずは彼女を越えてから、と。

 

 それは、つまり……。

 

 お姉さまは、ライスより、ブルボンさんを評価してる、ってことだ。

 

 ライスよりブルボンさんの方が、強い。

 だからこそ、「ブルボンさんに勝て」じゃなくて、「ブルボンさんの背中を目指せ」って言ってたんだ。

 

 

 

 マイラー気質のブルボンさんに対して、ライスはステイヤー気質。

 今回のレースの距離では、ブルボンさんの方に分があるっていうのは間違いない。

 

 けど、たとえ距離が延びたとしても、あの走りを……どこまでも緻密で自由な走りを見せたブルボンさんを越えられるか、と言うと……。

 正直、自信がなかった。

 

 ブルボンさんが見せつけた、圧倒的な強さ。

 G2にしてはかなり強力なメンバーの揃ったスプリングステークスで4バ身の差を付けて圧勝する、恐ろしい程の身体能力と計算能力。

 

 この2つを破れる程に……今のライスは、強く、ない。

 

 だから、多分……。

 まだライスは、ブルボンさんに勝つとか負けるとか、そういう段階にはなかったんだ。

 

 隣を走っているのがお姉さまと、お姉さまと同格のネイチャ先輩、そしてブルボンさんだけだったから、相対的に近く見えていただけで……。

 実のところ、ライスシャワーとミホノブルボンの間には、大きな大きな隔たりがあるんだ。

 

 

 

 ブルボンさんまでの距離は、遠い。

 でも、お姉さままでの距離はもっともっと、遥かに遠い。

 

 ……だから、ライス、頑張らないと。

 

 クラシックレースまでは、もうたったの1か月。

 頑張って、少しでもブルボンさんとの差を縮めないといけないんだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 トレセン学園、春のファン大感謝祭。

 ずっと楽しみにしていたそこに、ライスは結局、参加しなかった。

 

 本当は、いくつか企画に出るネイチャ先輩の手が空くタイミングで、お祭りを回ろうって話をしてたんだけど……。

 やっぱりライスは、数日前の負けが忘れられなかった。

 

 

 

 あのスプリングステークスの大敗の後……。

 トレーナーさんにも、サブトレーナーさんにも、そしてネイチャ先輩やお姉さまにも、慰めてもらった。

 

 今回は残念だった、次はきっと。勝負は時の運だから。徹底して対策を立てよう。ドンマイ。惜しかったね。良く頑張ってた。

 

 いくつもいくつも、たくさんの慰めの言葉をもらった。

 

 ……でも。

 ライスにとっては、その言葉こそが痛かったんだ。

 

 負けたくなかった。

 初めてブルボンさんと走れるレース。

 お姉さまが課してくれた、ライスが幸せの青いバラになるための、最初の挑戦。

 

 だから、負けたくなかった。

 ライスは、ライスの強さを証明したかった。

 ブルボンさんに、お姉さまにだって追い付けるんだって。

 きっと多くの人を幸せにできる、勝利を勝ち取れるウマ娘なんだって。

 

 ……けど、届かなかった。

 トレーナーさんの戦略、お姉さまから教わった技術。

 それらがあった上でも、ブルボンさんよりライスの方が、弱かったから。

 

 それが悔しくて、慰めの言葉が辛くて。

 だからライスは……。

 

 ただ、走った。

 

 

 

 トレセン近くの、人通りの少ない川沿いの真っすぐな並木道。

 ライスはそこを走りながら、荒い息を吐いていた。

 

「ふっ、ふっ、はっ……!」

 

 肺が、痛い。

 吸い込んだ息が、喉を、体の中身を焼く。

 体の末端は感覚を失い、その意識までもがチカチカと明滅する。

 

「くっ……!」

 

 朝からひたすらに走り続けること、しばらく。

 ライスのスタミナは、いよいよ限界に近付きつつあった。

 

 そこまで速いペースではないけど、もうずっと、何時間も走りっぱなしだった。

 今の私だと、これ以上は走り続けられないみたい。

 ……でも、お姉さまなら。ホシノウィルム先輩なら、まだまだ笑って走ってるだろうと思う。

 

 本格化してからの時間が丸々1年少ないって、そう言い訳するのは簡単だけど……。

 今のライスは、とてもお姉さまには追い付けない。

 それだけが、辛くて痛い事実だった。

 

 

 

「ライスさん、一旦休憩しよう! ちょっとフラついてる!」

 

 後ろから、段々聞き慣れてきた、でも少しだけ焦ったような声が届く。

 

 声の主は、ネイチャ先輩やライスに力を貸してくれる、サブトレーナーさん。

 ネイチャ先輩を見るために感謝祭に参加しているトレーナーさんに代わって、今はライスのトレーニングを見てくれてる。

 

 その言葉を聞いて、もっと走るべきだって、そう思いはしたけど……。

 多分、ライスが故障を起こせば、悲しんでくれる人たちがいる。

 トレーナーさん、ネイチャ先輩、サブトレーナーさん、それにお姉さまも、多分ブルボンさんや堀野トレーナーさん、他にも友達だって。

 だからきっと、今無茶をするのは、正しいことじゃない。

 

 声に従って脚を緩めたライスに、すぐにサブトレーナーさんが漕ぐ自転車が追い付いて来る。

 差し出されたタオルを受け取って、ライスは思わず、膝に手を突いた。

 

「はぁ、ふぅ、ふぅー……」

 

 頭が、ガンガンする。

 熱がこもって、じわじわと広がるような、締め付けられるような、変な感じ。

 

 ……いざ立ち止まると、疲れがどっと押し寄せて来た。

 ちょっと、無茶、しすぎちゃったかも。

 

「ライスさん、これ、スポーツドリンク。冷えてるから、ゆっくり飲んで」

「ごめ、ん、なさい……助かり、ます」

「こんなことで謝るな。俺たちトレーナーの……いや、俺はまだサブトレーナーだけど、俺たちの本来の仕事なんだから、これくらいはさせてくれ」

 

 サブトレーナーさんはそう言いながら、自転車を立ててライスの顔を覗き込んでくる。

 

 ……ライス、今、どんな顔してるんだろう。

 汗でぐしゃぐしゃだろうし、あんまり人に見せたくはないんだけど……。

 今は、それを取り繕うだけの元気がなかった。

 

「うん、疲労困憊だな。そこのベンチで休もう、ライスさん」

「……はい」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ライスは、本質的にはステイヤーらしい。

 これは、ライスを拾ってくれたトレーナーさん、ライスたちの陣営の調査・分析担当になりつつあるサブトレーナーさんや、お姉さまやお姉さまのトレーナーである堀野トレーナーさん……。

 ライスがお世話になってる皆が、口を揃えて言ってることなの。

 

 実際、ジュニア級の時に出走した1200メートルのG3レース、新潟ジュニアステークスでは、脚を残したままゴールしてしまって、かなり大きく負けてしまった。

 それに対して、先日の1800メートルのG2レース、スプリングステークスでは……あれも大敗ではあったけど、それでもタイム的にはだいぶ縮んだんだ。まぁ、それでも脚は残ってしまったんだけど……。

 とにかく、やっぱりライスにとっては、1800メートルはまだ短すぎたみたいだけど。

 

 そういう実体験からしても、やっぱりライスは距離が長い方が走れるんだと思う。

 ステイヤーっていうのは、主に長距離を主戦場にする、スタミナ自慢のウマ娘のこと。

 ライスはこれから、長く使える脚で勝負していくべきなんだろう。

 

 でも……。

 ライス、そこに1つ、決して小さくない疑問があるんだ。

 

 ……ライス、本当に、スタミナ自慢って言えるのかな、って。

 

 

 

 目を閉じて、思い浮かべる。

 去年の、お姉さまとネイチャ先輩が走った、菊花賞のことを。

 

 去年の菊花賞は、本当にすごかった。

 リアルタイムで見た時も、改めて映像を見返しても、何度でもすごく興奮できる、最高のレースなんだ。

 

 いつも通り突き抜けて、常識なんて知るかと言わんばかりに駆け抜けるお姉さま。

 3000メートルっていう長距離の中、賢明に体力を温存しながらお姉さまに迫るネイチャ先輩。

 本来トップスピードで駆け下りてはいけない淀の坂を、2代前の三冠ウマ娘を思わせる加速で一気に駆け降りて……。

 そこからは、お姉さまとネイチャ先輩の末脚勝負。

 

 あと1バ身という近距離にまで詰められて、しかしそのネイチャ先輩の勢いに乗るように再加速するお姉さま。

 渾身の力を振るってそれに追いすがり続け、決して勝利を諦めずに喰らい付くネイチャ先輩。

 2人とも、すごくキラキラして、ギラギラして……。

 

 すごかった。

 圧巻の、名勝負だった。

 

 とんでもないレースを前に、ライスはポカンと口を開けて、それを見守ることしかできなかった。

 

 

 

 ライスは今、クラシック級だ。

 あと半年すれば、シニア級との混合レースに出走することができる。

 そうなれば……ネイチャ先輩やお姉さまと、走ることになるかもしれない。

 

 そうなった時……。

 ライス、あの2人に対しても、「スタミナ自慢だ」なんて言えるかな。

 体力だけで、勝負していけるのかな。

 

 私と同門の先輩であるネイチャ先輩も、私の憧れであるお姉さまも、どちらもステイヤーだ。

 いや、ネイチャ先輩は長距離も走れるだけで、これからは中距離を中心にしていく方針らしいけど……3000メートルの菊花賞で、お姉さまとあそこまで競り合えるんだもん。少なくともスタミナ自慢であることは間違いない。

 対してお姉さまは、莫大なスタミナを持ち、他の子のスタミナをすり潰す、純粋なステイヤー。その性質上、やはり距離が延びる程有利になる。

 

 2人の背中は、遠い。あまりに遠すぎる。

 今のライスじゃ、追い付けない。

 あの時の、菊花賞の2人ですら、追い付く前に体力が尽きてダラダラと垂れてしまう。

 

 

 

 いや、そもそも、それどころじゃない。

 去年のお姉さまとネイチャ先輩に追いつけないどころか……。

 今年の菊花賞、ライスはブルボンさんに勝てないかもしれないんだ。

 

 距離への適性で言うなら、ライスとブルボンさんを比べた時、菊花賞はライスに分がある。

 ブルボンさんの血統は、彼女の適性が短距離やマイル距離にあることを示してるから。

 

 実際、確かにブルボンさんは、長距離に向かないものらしい。

 当時は噂にもなってたし、この前ブルボンさん本人に聞いたけど……。

 ブルボンさん、ジュニア級の頃には、自分の目標を応援してくれるトレーナーさんを探すのに相当苦心したんだって。

 

 最初に契約したトレーナーさんとも、ブルボンさんの適性と夢のギャップについて、意見が合わなかったらしい。

 それも意地悪なんかじゃなくて、前のトレーナーさんはブルボンさんのこれからのことを真摯に想ったが故にこそ、マイラーに転向することを強く勧めてきたんだって。

 それでも、それがいくら正しいとしても、ブルボンさんには譲れない一線があって……最終的には、合意の上での契約解除を行ったらしい。

 「次に会ったら、改めてオペレーション『謝罪』を実行します」って、ブルボンさんもちょっと申し訳なさそうにしてた。

 

 その後、自分の目標を受け入れてくれるトレーナーさんを探して……。

 ……ウィルム先輩が、自分のトレーナーさんを紹介してくれたって、ブルボンさんはそう言ってた。

 

 

 

 お姉さまが、何の意味もなく、自分のトレーナーさんとの契約を提案するわけがない。

 きっとその時点で、お姉さまはブルボンさんの素質を見抜いてたんだろう。

 自分の信頼するトレーナーさんの下で学べば……あるいは、自分と同じように、無敗の三冠を獲り得る逸材だって。

 

 ……そう。

 お姉さまが見出したのは、ライスじゃなくて、ブルボンさんだったんだ。

 

 

 

 勿論、ライスはライスのトレーナーさんに不満があるわけじゃない。

 というか、すごくすごく感謝してるし、あの人がトレーナーさんで良かったって思ってる。

 

 ライスの周りにいれば自然と不幸になるのに、それでも「構わないよ。ライスのためならえんやこら、だ」って笑ってくれるトレーナーさん。

 きっとライスには、ライスみたいなウマ娘を見てくれるトレーナーさんは、あの人しかいない。

 

 確かに、よく本人が自嘲してるように、能力だけで見れば堀野トレーナーさんに劣ってるかもしれないけど……。

 きっと、ウマ娘のトレーナーって、能力だけで決まるものじゃない。

 だからライスは、今のトレーナーさんと契約できて、本当に良かったと思ってる。

 

 

 

 ……ただ、もしも。

 もしも、お姉さまが契約したのが堀野トレーナーさんじゃなくて、ライスたちのトレーナーさんだったら。

 ネイチャ先輩とお姉さまがどっちも、ライスの同門の先輩だったら。

 それは、とても……とっても、幸せだっただろうな、って。

 

 そんな、あり得ない夢を、見たくなる時があるんだ。

 

 

 

 でも、現実は、夢とは違う。

 

 お姉さまが契約したのは、堀野トレーナーさんで。

 お姉さまが見出したのは、ミホノブルボンさんだ。

 

 ライスとトレーナーさんはこれから、そんな2人を相手取ることになる。

 

 とんでもない好成績と類まれなる観察眼から、例外的に経験の少ない中でウマ娘との専属契約を許され、その期待に応えるかの如くお姉さまを見出し、無敗の三冠に育て上げた堀野トレーナーさん。

 

 誰もが「その目標は不可能だ」と諦める中でお姉さまがその才気を見出し、その期待に応えるかの如くメキメキと力を付けて、1800メートルでも4バ身の差を付けて圧勝したミホノブルボンさん。

 

 この2人は、今年のクラシック級の子たちにとって、台風の目と呼んでいい存在だ。

 

 

 

 ……ライス、そんな2人に、勝てるのかな。

 

 ブルボンさんはマイラー気質で、ライスはステイヤー気質。

 だから、距離が延びれば延びる程に有利になるはずだ。

 

 ……でも。

 

 2000メートルの皐月賞。

 2400メートルの日本ダービー。

 ……3000メートルの、菊花賞。

 

 どこまで距離が延びれば、ライスは勝てるんだろう。

 

 …………いいや。

 そもそも、あの堀野トレーナーさんなら。

 「不可能を覆す」と言われる三冠ウマ娘を育てた人なら……。

 ブルボンさんの距離適性の問題も、解決してくるんじゃないかな。

 

 そうなれば、ブルボンさんの不利は覆る。

 ライスは、ライスの持つ強みだけで、ブルボンさんに勝たなきゃいけなくなる。

 

 

 

 ブルボンさんに、抗うには……。

 とにかく、ライスも頑張るしかない。

 

 ライスはお姉さまみたいに、すごい素質があるわけでもない。

 ネイチャ先輩みたいに、すごく頭が良いわけでもない。

 

 ライスは、ただ……。

 

『いや、すごいね。自分で教えておいてなんだけど、まさかこんなに早く「コンセントレーション」と呼んでいいレベルに上達するなんて。

 やっぱりライスちゃん、私と同じように、無駄な思考を切り捨てて集中する才能あるかも』

 

 ……ただ、あの時、お姉さまに言われたことだけが自慢で。

 

 余計なことを切り捨てて、とにかく走る。

 走って、走って、走って……ライス自身の力で、ブルボンさんの背中を越えて、お姉さまに辿り着く。

 

 そのために、無駄なことは考えず、とにかく頑張るんだ。

 ブルボンさんに負けないために……そしていつか、お姉さまに追い付いて、お姉さまを幸せにして……。

 

 ライス自身も、窓辺に咲く、青いバラになるために。

 

 

 

「サブトレーナーさん。ライス、行きます」

「うーん……うん、わかった。ただ、危なそうになったら止めるからな」

「……はい」

 

 

 







 ライス視点のブルボンはラスボスみたいなもんです。
 なにせ憧れのウマ娘のパートナーであるトレーナーが、憧れのウマ娘の見出した傑物を育ててるわけですからね。
 ……まぁ実際は、別に見出したとかじゃないんですけどね。むしろ「なんでこんなことに」って頭を抱えてたりしたんですけど。

 しかし、女の子が思い詰めて頑張るシーン、見てて辛いけど、書いてても辛い……。



 次回は3、4日後。別視点で、走る理由の話。
 すみません、前回は別視点ラッシュ、今回も含めて2回って言ってたんですけど、今回含め3回に延びそうです。
 ぶっちゃけウィルと堀野君イチャイチャさせすぎて情報整理を怠りました。反省はしているが書いてて楽しかったし後悔はしていない。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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※個人の感想です。必ずしも効果を保証するものではありません。

 リアルでごたごたがあったのと、今回の視点の子の喋り方が難しくて、めちゃくちゃギリギリの投稿になっちゃった……。

 今回は別視点、ウィルの同門の後輩のあの子の視点です。





 

 

 

 中央トレセン学園、春のファン大感謝祭当日、4月1日。

 私ことミホノブルボンは、契約トレーナーであるマスターから、1日のクールダウン期間……休暇をいただきました。

 

 本来本格化中の、特にクラシック級の競走ウマ娘にとって、一秒一瞬という時間は決して失うべからざる自らを育成するためのリソース。

 体を鍛え、技術を磨き、心を保ち、レース勘を培う。

 それを以て私たち競走ウマ娘は、コンマ1秒でも早くレースに勝利できるように、ひたすらに自らを向上させ続ける。

 

 それこそが、競走ウマ娘の最大にして最優先のタスク。

 私たちはトレーナーの指示に従い、このタスクをループ処理する必要があるのです。

 

 

 

 ……しかし、何事にもイレギュラーは存在します。

 その中でも最大のものは、疑うべくもなく、トレーニングスケジュールにおけるクールダウンの必要性でしょう。

 

 ウマ娘の体は人間のそれと比べて強靭ではありますが、無尽蔵のスタミナを持つわけではありません。

 むしろ競走ウマ娘に限れば、より大きな運動を行いエネルギーを消費する分、必要となるクールダウンの期間は人間のアスリートよりも多く、また長くなるかもしれません。

 故に、トレーニングの合間には、体力を回復させるためのクールダウンの期間が一定以上必要となるのです。

 

 

 

 このクールダウンは、大別して二通りに区別されます。

 

 まず、短期的な疲労を回復する目的のもの。

 30分から2時間に一度取られる、10分から20分程度の休憩。

 マスター曰く、一度トレーニングを切り上げることで疲労を取りながらメンタルをリブート、高くなってしまったランニングコストを下げる。

 これによって、私たちが起こす事故の発生確率を低下させ、下がってしまったトレーニングの効率を持ち直すことができる、とのことです。

 

 そしてもう1つが、長期的な疲労を回復するための、1週間に一度から二度程度の、丸々1日を休暇に使うもの。

 蓄積した重い疲労をリセットし、事故の発生確率を下げ、何より私たちの脚の寿命を縮めないようにするための措置……と、伺っております。

 

 この2つの内、私がその日に頂いたのは、当然ながら2つ目の長期的クールダウン。

 

 より正確に言い表せば、マスターは感謝祭に際して私のスケジュールを調整し、ここに1日休暇のタイミングを合わせてくださった、ということになります。

 

 

 

 本来であれば、お祭りを見学することよりもトレーニングを行う方がタスクの優先度が高いため、今日も大感謝祭に参加することなく自主トレーニングにでも赴いていたでしょうが……。

 マスターに「君の体力は完全に調整してある。ここで休むのが最高効率だ」と言われてしまえば、その合理性に頷かざるを得ません。

 

 私のマスターこと堀野歩トレーナーは、ホシノウィルム先輩を無敗のままに三冠に導いた、確かな能力を持つ契約トレーナー。

 そのマスターが、この数週間のトレーニングのデータを元に、「今日休むべきである」と判断している。

 であれば私は、マスターに従うウマ娘として、その提案を呑むのみでしょう。

 

 そういった事情から、私はトレーニングを中止し、休暇を取ることになったのでした。

 

 

 

 ……しかし、どうしたものでしょうか。

 

 普段の休暇であれば、私は自室でレースや走りの教本の読み込みや、ステータスの健常化を図るための休眠に時間を使うのですが……。

 ファン大感謝祭中は、原則として寮の自室の使用が禁止されているので、それは難しいでしょう。

 

 そもそも大感謝祭は、トゥインクルシリーズを見てくださるファンの方々に対して、ウマ娘たちがアピールを行う場。

 自室の使用制限は、ウマ娘側が自室に引きこもって休むようでは大感謝祭の原義に反する、という意図の制約なのでしょう。

 

 なお、このルールは、厳密には守られていないものと推測されます。

 同室のフラワーさんからは、自室の利用は名目上禁止されてこそいるものの黙認されているらしい、と伺いました。

 

 大感謝祭中は普段と違い、学園の保健室は外来の方々への対処に当たることになります。

 また、校舎やグラウンドにも外来の方々が来てしまいます。

 そのため、体調を崩したウマ娘が休養する場が、自室の他になくなってしまう。

 結果として、締め切りたくとも締め切れない、難しい状況になってしまっているそうです。

 

 ……しかし、事実上使用可能とはいえ、原則的に禁止された事項を敢えて犯す必要はありません。

 よって、本日は大感謝祭終了まで、栗東寮の利用は不可能であると考えるべきでしょう。

 

 しかし、他に腰を据えて本を読める場所や、十分に休養が取れる場所があるとは思えません。

 ファン大感謝祭の間は、ウマ娘の寮を除く殆どの場所にファンの方が入ります。それこそ自室以外の場所では、ファンの方に目撃されてしまうでしょう。

 そうなれば、自然と多くの視線がこちらに寄せられ、あるいは話しかけられてしまうことは想像に難くありません。

 

 十全に心身を休めることは難しい、と認識した方が良いでしょう。

 

 

 

 以上を以て私は、『オペレーション:休養』は困難であると判断。

 大感謝祭の当日をどうして過ごすか、悩んでいたのですが……。

 

 

 

「ブルボンさん! もしもご予定がないのならば、この学級委員長と共に感謝祭を回りませんか!?」

 

 

 

 ……思わぬ方から、お誘いを頂いたのでした。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 サクラバクシンオーさん。

 綺麗な鹿毛の髪を持つ、自称、バクシン的学級委員長。

 

 彼女は私と同世代であり、ライバルでもあるウマ娘。

 私と同じく逃げの脚質を選ぶウマ娘であり、先日のスプリングステークスでも先行争いを行い、マスターから伝授された「先手必勝」のスキルによって勝つことのできた相手。

 

 現時点では、極めて強力なウマ娘というわけではないようですが、マスター曰く「今はまだ開花していないが、スプリンターとしては抜群の素質を持つ子」であるとのことです。

 ……同時に、中距離や長距離にはあまりにも適性がないため、三冠レースではまず警戒する必要はない、とも仰っていましたが。

 

 そして私は、以前から彼女とは度々交流を図らせていただいており、明文化したわけではありませんが、彼女とはいわゆる「友人関係」に当たる間柄であると推察します。

 短距離からマイル向けの距離適性を持つ逃げウマ娘同士、時々コミュニケーションを図る仲、と表現するのが適切でしょうか。

 

 彼女の「学級委員長的」思想は非常に複雑怪奇で理解の難しいものではありますが、その思想や行動自体は非常に行動的かつ善良。

 共にあって大きな問題はなく、また多くの刺激を受けられる、有用な関係性であると推考します。

 

 実際、念のためマスターに確認した際にも、「サクラバクシンオーは素晴らしいウマ娘だ。きっと良い学びがあるだろう。スピードボーナスとか」とのことでした。

 「スピードボーナス」という言葉の意味は詳細不明ですが、恐らく走りの糧になるだろう、という意味であると推察できました。

 

 

 

 そんな彼女からの申し出は、私の抱いていた「如何に休日を消化するか」という難題を解決し、同時に私の走りのヒントと成り得る可能性のあるもの。

 私としては、断る理由はありませんでした。

 

 そうして、大感謝祭当日。

 

「見てください、ブルボンさん! 『脚が速くなるかもしれない焼きにんじん』ですよ! 食べるだけでスピードを培えるとはなんたる僥倖っ!! 早速食してみましょう!!」

「サクラバクシンオーさん、調理過程を観察するに、あの焼きにんじんに脚が速くなる成分は入っていません。『かもしれない』という描写と併せて考察すれば、誇大広告であるものと思われます」

「ちょわっ!? つまりこれは詐欺ということですか!? 学級委員長的にそんなことは許せません、このような悪辣な商売は即刻やめるように一言言って来なければ!!」

「あくまでも脚が速くなる『かもしれない』焼きにんじんという意味では誤った表現は……サクラバクシンオーさん、推奨、やめてください。これ以上の干渉は営業妨害にあたると推定」

「止めないでくださいブルボンさん! 私は学級委員長として、不正を許すわけにはいかないのです!!」

「これ以上の言葉による行動抑制は困難であると推察。マスターからのエマージェンシーオーダー『トラブルは未然に防ぐのが第一』を実行するため、実力行使へとフェーズを移行します」

「なっ!? ま、まさかブルボンさんまでも悪の手に落ちたというのですか!? くっ……しかし、私は皆を助ける学級委員長! ブルボンさんのことも必ず救ってみせますっ!! バクシンバクシーンッ!!」

 

 ……計算外のトラブルはありながらも、私たちは『オペレーション:休養・感謝祭見学』を実行。

 

 ウィルム先輩の出場する企画を見学したり、バクシンオーさんの友人がやっているという出店を訪ねたりして……。

 多くの出店や企画を見て、時間を過ごしたのでした。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 『オペレーション:休養・感謝祭見学』の開始から、3時間9分41秒が経過。

 サクラバクシンオーさんの腹部から音が鳴ったことを契機として、私たちは昼食を摂取することとしました。

 

 競走ウマ娘は本来、トレセン学園の食堂で食事を取ります。

 ですが、ファン大感謝祭中はこの食堂が、一般の方々に開放されるのです。

 普段から食事の供給が追い付かないこともあるこの食堂、外来の方に加えて普段通りにウマ娘にも食事を提供することは難しい。

 そのため、大感謝祭中は学園所属の競走ウマ娘の使用が制限されています。

 

 一応、事前に申請しておけば、学園の方からお弁当を出していただけるそうですが……。

 多くのウマ娘は、出店での食べ歩きや外食で食欲を満たすそうです。

 ウィルム先輩曰く、「お祭りムードの中で食べると美味しく感じるからね。実際はそうでもないんだけどさ」とのことでした。

 

 私個人としては、目標達成のための走行が可能なだけ栄養が補給できれば、それ以上に求めるところはなかったのですが……。

 私には「三冠達成」という目標と同時、父により「社会性の向上」というミッションが課されています。

 

 何を以てどのようにこのミッションを達成すべきかは、未だ判然としませんが……。

 社会性とは、社会集団の一員であるのにふさわしい性質。つまるところ、一般的なウマ娘の中に溶け込める、他と大きく違わない性質と言えます。

 つまるところ、社会性の獲得とは、「他のウマ娘と大きく違わない性質」を身に付ける、ということ。

 

 恐らくは私自身の意識の希薄さに起因すると思われる、私と他のウマ娘の間にある、差。

 一般的なウマ娘と同じ行動を取ることは、これを埋める一助になると推察できます。

 

 故に、私はサクラバクシンオーさんと共に、近くにあった屋台の焼きそばを購入、手近なベンチに座って摂取することとなりました。

 

 芦毛のウマ娘が売っていたそれは、正しくウマ娘用というボリュームを持ち、十分なカロリーが補給できるという意味では理想的な食事でした。

 しかし、十全にトレーニングを行おうと思えば、他にいくつか取るべき栄養素が多くあるのも事実。

 後でいくつかサプリメントを飲む必要があるでしょう。マスターに相談しなくては。

 

 

 

 そう考えながら焼きそばを頬張っていた私に、サクラバクシンオーさんは声をかけてきました。

 

「しかし先日のスプリングステークス、ライバルながら素晴らしいバクシンでしたね、ブルボンさん!

 私も『更にトレーニングを積まなくては!』と改めて奮起した程です!」

 

 キラキラと輝く瞳をこちらに向け、彼女は恐らくは賞賛と思われる言葉を口にしました。

 他のウマ娘であれば、その言葉の意図を正確に聞いていたところでしょうが……。

 データベースを参照するに、サクラバクシンオーさんの言葉に、他意というものは含まれないと予測できます。

 では、こちらはどのような反応をすべきか……。

 

 データベースの中から適切な対処法を模索。ヒット1件。

 『誰かから賞賛を受けた時は、どんなことであれ、ひとまず素直に感謝すること』。

 マスターから頂いた緊急時対処プロトコルを想起。

 

 私はペコリと、サクラバクシンオーさんに頭を下げました。

 

「その賞賛はありがたく受け取らせていただきます」

「えぇ、どうぞ受け取ってください! この学級委員長が認めたのですから、あなたは間違いなく素晴らしい走りをしたのです!」

 

 サクラバクシンオーさんはそう言って笑い、その手に所有していたパックの焼きそばを口に含みました。

 

 

 

 ……学級委員長。

 時々、サクラバクシンオーさんが挙げるワード。

 

 しかしながら、「学級委員長」というワードが指す言葉と、彼女の意図するニュアンスの間には、決して小さくないギャップがあるように感じます。

 私はふと、それが何を意味するのか疑問に思い、彼女に対して尋ねました。

 

「サクラバクシンオーさんは、時折『学級委員長』というワードを発します。

 その『委員長』とは、何を意味する言葉なのでしょうか」

 

 その疑問を呈することで、三冠レースを有利に進められるわけではないでしょう。

 しかし恐らく、社会性の向上というミッションにおいては、他者への理解を深めることは有益に働くものと思われます。

 そのためにこそ、私は今の質問を口に……。

 

 

 

 ……いいえ、違う。

 

 エラー。自らの論理の破綻を確認。

 私は今、彼女にそれを尋ねた際、そのようなメリットを考えて発言したわけではありません。

 

 ただ……何の意図もなく、ふと疑問に思ったことを、口に出した。

 

 必要でない行動を……。三冠達成のためでもなく、社会性の向上のためでもない行動を取った?

 何故私は、今、このようなことを……?

 

 

 

 自らの非論理性が露呈し、内心で自問自答する私の横で……。

 サクラバクシンオーさんは、「よくぞ聞いてくれました!」と立ち上がります。

 

 それから彼女は、手の上の焼きそばを摂取することも忘れ、彼女の過去について話してくれました。

 

 その内容については、非常に独自性の強い言葉と独特な特徴のある思考過程が見られ、完全な理解は困難を極めましたが……。

 要約すると、以下の内容であったと記憶しています。

 

 

 

『私は、生まれた時から選ばれた者でした。すごく頭も良かったしすごく速かったのです』

 

『選ばれた者は、皆の規範となり導かなければなりません』

 

『即ち、皆を導く学級委員長こそが私、私こそが学級委員長なのですよ!』

 

 

 

 …………???

 

 確かに、サクラバクシンオーさんが速いことには、異論を挟む余地はありません。

 中央トレセン学園に入学し、トゥインクルシリーズのG2レースに出走する。

 統計的に見てもこれは決して容易いことではなく、間違いなく素質が必要となるもの。

 故に、彼女が走ることについて才能を持っている、と。

 この件に関しては、異論を挟む余地はないでしょう。

 

 しかし、サクラバクシンオーさんが「頭が良い」かと訊かれれば、そこには多少の疑問が発生します。

 データベースによれば、彼女の学業の成績は下の中といったところ。

 普段の言動から類推するに頭の回転は決して遅くないと思われますが、直接的な記憶力や思考過程について「優秀」という形容が正確であるとは思い難い、という評価に落ち着きます。

 

 選ばれた者、つまり能力のある者が規範となるべき、という言葉については、強く否定するべき部分はありません。

 ですが、必ずしもそのようにある義務が発生するかと言われれば、それは否であると推測。

 力ある者が力なき者を守護するのは美徳であるとインプットされていますが、必ずしも約束されている義務とは言えません。弱者の庇護は義務でなく、あくまで努力義務なのです。

 

 更に言えば「学級委員長」というものは、おおよそ10人から30人程度の人数で形成される団体である「学級」において、選挙または指名を受けて選出され、特定の事項の調査や処理に当たる人物である、と認識しています。

 彼女の言うように「サクラバクシンオー=学級委員長」という式が成り立つのであれば、彼女は常に学級委員長であることになり、選挙あるいは指名を受けて選出される、という部分が矛盾します。

 

 総じて言えば。

 サクラバクシンオーさんの言葉は疑問を感じるところの多い、ウィルム先輩の言葉を使えば「ツッコミどころ満載の」ものだった、と言えるでしょう。

 

 

 

 どの疑問から問い質すべきか思考していると、サクラバクシンオーさんは再び口を開きました。

 

「どうやら私の学級委員長としての姿勢に感服し、言葉が出ないようですね!」

 

 感服……感服?

 私は今、感服しているのでしょうか。

 

 私は昔から、感情というものに疎い。

 故に、今感じているこれが、彼女の言う通り「感服」に当たる感情なのか、あるいはそれ以外の何かなのか、明確に定義できません。

 

 論理的に考えて、サクラバクシンオーさんの話す言葉は他者を第一に考え、自ら行動しようとする立派なものであると思われます。

 そこに感じ入り、感心する部分が一切なかったかと言われると、それは否……なのかもしれません。

 

 このどこかもやもやとした、納得がいかないような、自らの意見を述べたくなるような気持ち……。

 これが、「感服」なのでしょうか、マスター……?

 

「……そうですね。私は感服しているのかもしれません」

「そうでしょうとも! やはりブルボンさんの胸にも正義の炎は燃えているのですね! 素晴らしいことですとも、ええ!」

「? いいえ、特に胸が炎上しているという事実はありませんが」

「恥じることはありませんよ、ブルボンさん! 誰しもその胸の内には正義の炎を燃やしているのです!」

 

 ……??????

 

 私はあくまで一般的なウマ娘であり、特に胸部に発火する機能は備わっていないはずなのですが……。

 もしや、私のデータベースに記載がないだけで、ウマ娘は皆体内に発火機能を持つのでしょうか。

 念のため、マスターに確認しておいた方が良いかもしれません。

 明日、朝のミーティングで尋ねてみることとしましょう。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 その後も、サクラバクシンオーさんの話は続きました。

 

「そんなわけで、優秀にして神童で神速であった私は、なるべくして学級委員長となりました。

 そうして皆さんの規範となれるよう、誰よりも速いウマ娘としてバクシンを開始したのですよ!」

 

 もはや完全に冷めてしまっているであろう焼きそばを片手に、「ふふんっ!」と不思議なポーズを取るサクラバクシンオーさん。

 

 その言葉には難解な部分が多いですが……ひとまず、理解できたことが1つ。

 

「要約すると、あなたは自らが決定した『学級委員長』という目標に近付くために走り始めた、と」

 

 そこに関しては、私にも理解できるところがあります。

 

 ミホノブルボンというウマ娘は、幼い頃に父と共に見た、そして今はマスターと見ている、「三冠」という夢を叶えるために走っています。

 それと同じように、サクラバクシンオーさんは「学級委員長」という夢に近づくために走っている、と。

 

 彼女は非常に難解な精神性を有しており、簡単には理解を図れないでしょうが、少なくともそこだけはよく理解できた……と。

 

 私は、そう思ったのですが。

 

 

 

「はえ? 違いますよ?」

 

 

 

 サクラバクシンオーさんはキョトンとした表情で、こちらの言葉を否定しました。

 

「違う?」

「ええ。先程も言いましたが、私は既に学級委員長ですから。今更目指すものではありませんよ?」

 

 そう言って、サクラバクシンオーは小首を傾げました。

 

 既に学級委員長、という言葉の意味は理解できませんが……。

 彼女はもう、その目標を叶えている、と。

 

 ……であれば。

 であれば、何のために……?

 

「では……サクラバクシンオーさんは、何のために走っているのですか?

 既に最大の目標を、夢を叶えてしまい……至るべき頂に立った後、あなたは何故、何のために走っているのですか?」

 

 知らず出た言葉は、どこかその矛先が自分を向いているようで、息苦しさのような不可思議な感覚を検知します。

 

 しかし、思わず眉をひそめてしまった私に対し……。

 サクラバクシンオーさんは、どこまでも快活に笑って答えました。

 

 

 

「そんなことは決まっていますよ! 私が嬉しく、何より誇らしいからです!!」

 

 

 

 ……それは。

 私には、ミホノブルボンには、理解し難い感覚でした。

 

「嬉しい……誇らしい?」

「ええ! 皆を導く最速の学級委員長である自分が、私は好きなのです! 

 だから走る! 誰よりも速いスピードを以て駆け抜ける! バクシンする!!

 それがこのサクラバクシンオーが、トゥインクルシリーズを走る理由なのです!!

 ですから、次のレースではブルボンさんにも負けませんよ!? バクシンバクシーンッ!!」

 

 そう言って、彼女は拳を握って突き上げ……。

 その手の上にあった、焼きそばのパックをひっくり返したのでした。

 

 

 







 次回! 次回で絶対に別視点ラッシュはおしまいです!
 いや本当に全然展開進まなくて申し訳ないんですけど、次回でようやく各陣営の情報が出揃います。
 そうすればいよいよ、大阪杯や皐月賞は目の前!
 ……いやはや、主人公が多すぎると扱いが難しいですね。



 次回は3、4日後。別視点で、ホシノウィルムの弱点の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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帝王に逃走はないのだ

 別視点第五弾、ついに今回で別視点ラッシュ終わりです。
 春のライバルになりそうなあの子のお話ver.2。





 

 

 

 「龍」、と。

 誰かが呟いた声が、耳に入る。

 その声は呆然としたようなもので、思わず口からまろび出たと言った感じで……。

 直感的な言葉だからこそ、ある意味において核心を突いていた。

 

 故にこそ、多くの人がそれに同意する。

 確かに今、目の前にいる存在は、神話に登場する龍の類であると。

 

 ……ま、それもそうだろう。

 ボクたちの目の前では、信じられないような奇跡が起こっていたんだから。

 

 

 

 たたた、と音がする。

 ウマ娘がグラウンドを駆ける音だ。

 ただし、流石に公式レースのような速さではなく、あくまで小走り程度のものだけど。

 

 ……問題は、走っている彼女が、目隠しをしてるってことで。

 

 彼女はその両眼を塞がれたまま、小走りに駆けながら、その手に持つ棒を縦に振り抜く。

 それは過たず、他の参加者の頭に吸い込まれるように滑り……。

 スパン! っていう気持ちの良い音と共に、彼女の競争相手が1人、脱落に追い込まれた。

 

「……っ!」

 

 その音に反応し、あるいは怯えて、他の参加者が棒を振り下ろす。

 耳を頼りに探し当てたか、あるいはただの偶然か、彼女の頭に直撃コースだ。

 目が見えていない今、彼女の脱落は避けられないって、きっと誰もが思っただろうけど……。

 

 ボス、と。

 振られた棒は空を切り、地面に叩きつけられた。

 

 寸前に身を躱した彼女は、反撃と言わんばかりにもう1度棒を振り……ものの見事にクリーンヒット。

 また1人、脱落者が出てしまった。

 

 

 

 ……うん。

 まぁ、こうなることはわかってたけどさ。

 実際に見てみると、あまりにも一方的な試合運びに、呆れの声が出そうになるね。

 

 今、ボクたちの前で無双を繰り広げているのは、ホシノウィルム。

 ボクの友達であり、同時に最大のライバルでもあり、今のトゥインクルシリーズの台風の目と言っていいウマ娘だ。

 

 淡くて綺麗な鹿毛のセミロングをたなびかせ、青白い瞳を目隠しで覆って、その手には柔らかくてしなりのある棒を持ち。

 今は小走りにフィールドを駆け抜けながら、彼女の存在に気付いて動こうとしたウマ娘を、その手に持つ棒で片端から狙い撃ちしてる。

 

 ……そう、狙い撃ちだ。

 

 本来、ウマ娘はその目を塞がれてしまえば、まともに走ることもできなくなる。

 当然だよね。ボクたちは本来、どこにラチがあるとかどこに他のウマ娘がいるとか、そういうのを目で見て知ってるんだから。

 

 でも、あの子は違う。

 目で見なくとも、それがわかるんだ。

 

 ボクの考えを裏付けるように、ウィルムは目隠しをしたままに、振られた棒を躱し、あるいはぶつかりそうになるウマ娘を避けて、フィールド中を駆け回る。

 そうして一切の容赦なく、一方的に犠牲者たちを刈り取っていって……。

 

 

 

 結局、試合開始から30秒を待たずに、決着は付いた。

 

 大半のウマ娘を薙ぎ払っての圧勝。

 もはや蹂躙と言う他ない、とんでもなく酷い、一方的な勝利だった。

 

 

 

 勝負の最中は困惑してざわついていた観客も、最後の1人を打倒したウィルムを見て、思わずといった感じで歓声を上げてる。

 

 理屈はわからないけど、ホシノウィルムは気配切りで無双したんだ。

 それは多分、ただの気配切りにしては集まり過ぎたお客さんたちの望む展開で……。

 だから、多少わからない部分があったとしても、大いに盛り上がっちゃうわけだね。

 

 目隠ししたままあんなに動けるウィルムは、異常と言えば異常だけど……まぁそもそも、ウィルムは普段から異常だし。

 普通のウマ娘は大逃げして、最後もなお十分な末脚を振るう、なんてことはできないんだ。

 更に言えば、会長と同じように無敗で三冠を獲ったり、これまで不可能とされてたいくつもの偉業を成し遂げる、なんてのもそう。

 

 あの子が常識外れなのは今更な話で、だからこそ困惑は最低限。

 それ以上に、勝利の興奮に浸ることができたんだろう。

 

 

 

 

 

 

 ……まぁ、ボクからすれば、想像通りの結末って感じだったけどね。

 

「ふーん……わかってたけど、普段から聴覚が強化されてるのは確定か」

 

 ぼそっと呟いて、ボクは興奮する観客の中から抜け出した。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ごった返すお客さんたちの波を抜けて、校舎の中をしばらく歩く。

 

 ファン大感謝祭はトレセンでもかなり大きなイベントで、外部の人たちも入って来るから、なかなか落ち着ける場所なんてないんだけど……。

 蛇の道は蛇ってヤツなのか、2年間もここに在籍していれば、ある程度空いてそうな候補に目星が付く。

 

 そこは普段、特に雨の日なんかは、学園所属のウマ娘でごった返す場所。

 けれど今日に限っては、ボクみたいな知恵の回る子以外は使わないから、ガランとした空間になってるはずの場所でもある。

 

 そう、そこは即ち……。

 学園内の、ジム施設だ。

 

 

 

 お祭りの日にもトレーニングをするような子は、まぁ少ない。

 競走ウマ娘はプロのアスリートでもあるけど、まだ子供でもあるんだ。年に2度だけのお祭りの日にまでストイックにトレーニングしてる子は少数派と言える。

 

 ……まぁ、中にはウィルムみたいに走ることを何よりの娯楽とするランニングジャンキーで、休日も走りたがるような子もいるだろうけどさ。

 そういうのはちょっと例外っていうか、少なくとも一般的なわけではないんだ。

 

 普通に考えれば、たまのお休みくらいはトレーニングなんて忘れて、自分の趣味なり何なりをしたくなるってもの。

 更に言えば、春のファン大感謝祭ではシニア級の強いウマ娘には企画への参加が求められるし、直後にレースを控えて体を休めたがる子も少なくない。

 

 だからこそ、いつもは人が多いジムも、絶好の休憩スポットになるわけだ。

 

 で。

 ボクはそこで、1人のウマ娘と待ち合わせをしていた。

 

 

 

 早歩きで待ち合わせの場場所に向かうと、ジムスペースの片隅、壁に沿う形で配置されたベンチで、ボクの友人が待っていた。

 

「あ、来ましたわね」

「ごめーん、お待たせ!」

「こういう時は、今来たところ……と言うのでしたか? まぁ、そこまで待ったわけではありませんから、お気になさらず」

 

 ボクにとってはライバルでもあり、親しい友人でもある、メジロマックイーン。

 彼女は今日も今日とて、口元に微笑を浮かべた余裕の表情で、軽く手を挙げてくる。

 

「ごめんね、時間もらって」

「構いませんわ」

「そっちの企画は?」

「直近のものは2時間後に。昼食を取ることや集合も考えて、使えるのは1時間ですわね」

「そんなに使うつもりはないけどね」

「あら、私としては1時間全て使ってもらっても構いませんわよ? 今のあなたとの意見交換にはそれだけの価値があると思っていますから」

 

 「今の」あなた、か。

 ……これ、喜ぶべきなのかな。それとも恥ずかしがるべきなの?

 

 ま、いいや。

 今のボクを認めてくれるっていうんなら、悪い気分じゃないし。

 

 ボクは取り敢えずマックイーンが座っていたベンチの隣に座って、口を開いた。

 

「んじゃ、研究会、やろっか」

 

 

 

 少し前に、ウィルムの研究をマックイーンに見られて以来。

 なんやかんやで、ボクとマックイーンは、定期的に彼女についての研究会をするようになった。

 

 まぁ研究って言っても、トレーナーたちがやっているようなちゃんとしたものじゃないけどね。

 ホシノウィルムの走りの映像を見たり、走った時のことを思い出しながら、同じウマ娘としての感覚とか所感を話すとか、そんな感じ。

 

 いやまぁ、そう言う意味じゃ、ボクはあんまり役に立てないんだけどさ。

 

 ぶっちゃけて言うと、ボクは最近のホシノウィルムを知らない。

 ボクが彼女と走ったのは、模擬レースで1回と皐月賞、日本ダービー、そしてこの前の有記念で、合計たったの4度だけ。

 それも有記念を除く3つは、ほとんど1年前のレースだ。

 唯一の例外である有記念も、中盤から全然脚が伸びなくて、ウィルムのことを感じられる程に近づくことはできなかった。

 総じて、ボクは最近のウィルムと走ったことがない、と言えるだろう。

 

 それに対して、マックイーンは最近のウィルムに詳しい。

 いや、詳しいっていうか、ウィルムが直近に出走したジャパンカップと有記念を走ってるんだよね。

 ジャパンカップでは2着、有記念では4着と好走したし、当然ながらウィルムにもかなり迫ってる。

 多分マックイーンは、最近のウィルムを一番よく知るウマ娘ってことで間違いないだろう。

 

 そうなると、この研究会において、ボクは経験面じゃ足を引っ張ってしまうことになるんだけど……。

 まぁ、これでも天才だからね。ウィルムの走りを見てて色々と気付くことが多いのはボクの方だし、考察力まで加味すれば釣り合いは取れてるかな?

 

 

 

 さて、そんなわけで。

 大感謝祭当日の今日も、ボクとマックイーンは研究会を行っているのだった。

 

「それで、前回出た課題についてはどう? 考えてみた?」

「考えはしましたが……えぇ、確かにあなたの言う通りな部分はありましたね。微妙な違和感程度ではありましたが」

 

 前回の研究会で出た議題は、ジャパンカップの時と有記念の時で、ウィルムに何かしらの違いがあったか、ってもの。

 

 ま、普通に考えれば、違いはあったに決まってるけどね。

 自分が信頼していたトレーナーが、自分を導いてくれていたトレーナーが、事件に巻き込まれて意識不明になったんだ。

 そんな状態で、恐らく万全だったはずのジャパンカップと同じように走れるわけない。

 

 ……でも、ここで大事なのは、「彼女の走りが万全だったか」じゃないんだ。

 

「ジャパンカップの際と、有記念の際のウィルムさんには、確かに違いがあったと思います。ただ、それを具体的な言葉にするのは……」

 

 小首を傾げるマックイーン。

 まぁこの辺りは感覚的な話だもんね。言葉にする方が難しいと思う。

 

 ボクにできるのは、せめて……怪しいところを洗い出すくらいかな。

 

「個人的には、さ。レースの前半に注目したいんだ」

「前半……というと、サイレンススズカさんとの先行争いですか?」

「いや、その前。ターボも含めた3人での先行争い」

「あら、そこを……あぁ、なるほど」

 

 マックイーンは視線を上に上げ、口元に拳を当てて少し考えたけど……。

 すぐ、合点がいったようにこっちに視線を戻した。

 

「確かに、私もトレーナーさんとレースを振り返った時、違和感を持った部分がありました。

 何故ウィルムさんは、ターボさんとスズカさんの競り合いが完全に終わるまで仕掛けなかったのか」

「そう、そこそこ。ターボが垂れ始めた辺りから仕掛けても悪くはなかったと思わない?」

「そうですね……。スズカさんの闘争心に火を点けてしまう可能性を考えると、少し難しいところではありますが」

 

 多分、直感なんだけど。

 ここで大事なのは、彼女が十全に走れたかどうかじゃなく……。

 

 いつもの「ホシノウィルムらしい作戦」で走ったかどうか、だ。

 

「全体的に見ても、あの有記念のウィルム、そこまで悪い走りをしてたとは思わないんだ。ただ……唯一、難癖を付けられるとしたら、それはあそこだと思う」

「難癖って……」

「まぁウィルムの走りは特殊過ぎて、どこが間違ってるかもわかんないって部分も大きいけどさ。

 いつも通りの抜群なスタート、掛かりもせず、スズカだけを適切に封殺する速度感。完璧ではないにしろ、確かにホシノウィルムらしい走りだったけど……」

「あそこで仕掛けなかったところが引っかかる……ウィルムさんらしくない走りだったと?」

「本当に誤差レベルだけど、そんな感じがする」

 

 あくまで感覚的な話だから、マックイーンに伝えるにはどうすれば、言葉選びに迷うけど……。

 

「レースってさ、慎重すぎてもいけないし、だからと言って大胆すぎてもいけないじゃん?

 普段のウィルムってその辺りが絶妙なんだけど、あの日は結構慎重に寄ってた気がするんだよね」

「……あぁ、なるほど。言葉にされれば、確かにその通りですね。

 確かに、ウィルムさんはあの日、いつも以上に慎重だった気がします」

 

 

 

 ホシノウィルムというウマ娘は、かなり大胆な戦略を取って来る。

 そもそも大逃げっていうのが極めてダイナミックな脚質だし、宝塚記念での大逃げの放棄や、有記念でのサイレンススズカとの猛烈な先行争いを見ても、とてもじゃないけど慎重派とは言えないだろう。

 

 しかし同時、ただ大胆なだけじゃないのが、あの子のすごいところで。

 大逃げはとんでもなく難しい脚質で、ただ速く走るだけではターボのように垂れてしまう。

 自分の中のペースを適切に保ち、そして恐らくウィルムに限っては他のウマ娘との距離感を把握することで、自分にとっての適切なペースを掴まなきゃいけないんだ。

 ホシノウィルムは、その繊細な調整を、毎度のように適切にこなしている。だからこそ、大逃げでG1に連勝、なんてこともできるわけで。

 

 総評すると、ホシノウィルムの走りは大胆不敵でありながら、極めて慎重で繊細。そのどちらかに偏ることもなく、綺麗に両立していると言っていいだろう。

 ……ま、強いウマ娘の走りは、多かれ少なかれそうなんだけどさ。

 

 

 

 でも、あの日のウィルムの走りは、ちょっと違った。

 スズカへの仕掛け時に関してだけは、どこか慎重に寄ってたというか……ハッキリ言ってしまえば、臆病だった気がするんだ。

 

「ふむ……。ホシノウィルムさんの戦術は彼女のトレーナーさんが組み立てていると聞きます。しかし有記念の際は、トレーナーさんが不在だった。

 つまり……戦術の大枠は成形し終わっていたけれど、細部は詰められなかった。だからウィルムさんは、どこで仕掛けるかに迷い、慎重さを取った、ということでしょうか」

「ありそうな話じゃない?」

「えぇ、十分にあり得る話かと」

 

 ボクとマックイーンは頷き合い、改めてあの日の回想をする。

 

 空前絶後の有記念、そこで勝利を刻んだのは、ホシノウィルムを差し切ったスペシャルウィークだった。

 スペシャルウィークとホシノウィルムの間に付いた差は、3センチメートルというほんの僅かなもの。

 あの差が、ウィルムのほんの少しだけ過ぎた慎重さから生まれた、とするのは……そこまで違和感のある話ではないと思う。

 

「もしもこの推論が正しければ……つまり」

「うん。ホシノウィルムの『弱点』が見えて来る」

 

 ボクとマックイーンは、神妙な顔で頷き合った。

 

 

 

 ホシノウィルムは、おおよそ弱点のないウマ娘だ。

 大逃げっていう破天荒な脚質を取り、更には長距離を走るようなステイヤーでありながら、これといった明確な弱点が見当たらない。

 

 スタートの精度は極めて高く、掛かり癖があるわけでもなく、コーナリングも非常に流麗、作戦も判断力も良好であり、スタミナも十分以上に備えて、その最高速度も非常に速い。

 

 彼女はおおよそ、ステイヤーとしては十全に過ぎる素養を、その身に宿している。

 

 

 

 ……けれど。

 それはあくまで、「競走ウマ娘ホシノウィルム」と「堀野歩トレーナー」が揃った場合の評価だ。

 

 

 

「トレーナーが介さない、彼女単体の状態であれば、咄嗟の判断の際に慎重に寄ってしまう、ということでしょうか」

「そうだね、多分ウィルムの判断力が、根本的に保守的なんじゃないかな。

 ……いや、もしくは、ウィルムはそういう状況での判断力を培う場があんまりなかったのかもしれない。

 前に何度か話したことがあるけど、あの子の契約トレーナーはちょっと異常だよ。とんでもない観察眼とレースの読みしてる。ぶっちゃけボクより鋭いと思うよ、アレ」

「テイオー以上……? え、冗談とかではなく?」

「うん、本気で」

 

 確かウィルムと一緒に入院してた頃かな、ちょっとあのトレーナーと話したことがあったんだけど……。

 理屈屋なのにボクよりレースの読みは鋭いし、何よりウマ娘の体についての知識がとんでもない。

 ボク自身も、「その歩き方だと少し脚に負担がかかるからこうした方がいい」ってアドバイスもらっちゃったし。

 

 堀野歩っていうトレーナーは、少しばかり異常だ。

 あまりにも失礼だし、正確には言葉にしにくいから、誰にも言うつもりはないけど……。

 こう、なんというか、この世界にあっちゃいけない異分子、みたいな印象さえ受ける。

 

 ボクがそう感じるような、とんでもないトレーナーが付いてたんだもん。

 そりゃあウィルムも、自分で何かを判断する機会は少なかっただろうな、って思う。

 

「多分、あのトレーナーが戦術面で強すぎたから、ウィルムは自分で判断する必要がなかったんだ。

 トレーナーが言う通りに走れば勝てるんだもん。レースの中で大胆に行くとか慎重に行くとか、そんなことを考える必要はない。

 その上あのトレーナー、もしも展開が思い描いてた筋道から外れても、多分無数にサブプランを組んでるんだと思う。更に言えば、完全に予想から外れても……ま、ウィルムの判断力も、ちょっと慎重寄りってだけでそこまで悪いわけじゃないからね。これまでは対処出来てたんだ」

 

 つまりは……やっぱりあの2人は、チートスペックのコンビだってことだ。

 

 ズバ抜けた素質を持ってて、大逃げっていう対策のし辛い脚質を選ぶウィルム。

 そんなウィルムの唯一の弱点と言ってもいい慎重に寄った判断力を、あまりにも鋭い観察眼と万全に過ぎる作戦で補うトレーナー。

 

 あの2人が合わさると、もう手の付けようがない。

 おおよそ隙のない、無敵のコンビになってしまう。

 

 

 

 けれど、逆に言えば。

 片方であれば、まだつけ入る隙があるってことだ。

 

 まぁ、隙って言っても、それこそサイレンススズカとスペシャルウィークっていう二大巨頭をぶつけてようやく勝てるっていう、針に糸を通すような小さな隙だけど……。

 

 それでも、いくら小さくても、隙は隙。

 他の誰かが付け込めたのなら……ボクだって。

 

 

 

 

「付け入るとすれば、多分ここだ。っていうか今のところ、ここ以外に隙が見当たらない。

 なんとか堀野トレーナーの想定外に出る……のは、ちょっと厳しいか。正直、知恵比べで勝てる気がしないんだよね、今のあの人。

 だとすれば、未確定の要素がレースに上がっていれば……いや、それもあの観察眼だもんなぁ。どこまでボクたちのことを見抜いて来るのか……」

 

 半ば独り言のように呟いていると、ふとマックイーンが言ってくる。

 

「……やはり変わりましたね、テイオー。

 昔のあなたなら、『ボクなら真正面からぶつかれば勝てるし』とでも言っていそうなものでしたが」

 

 ……確かに。

 あのダービーを、あるいは有記念を経験するまでのボクであれば、きっとそう言っていたと思う。

 

 自分以上の素質なんて、この世界にあるとは思ってなかった。

 誰かと同じだけ頑張れば、当然自分が勝つって思ってたから。

 

 ……でも、今は違う。

 

「実際、真正面からぶつかってダービーで負けてるからね。あれだけ全力で負けたんだから、今更ウィルムに素養だけで勝てるとは思ってないよ。

 ……ま、それでもボクは勝つ気でいるけどね。走りの素質では負けても、レースへの勘では負けてるとは思わないし?」

 

 実際、レースの勘っていうただ1点のみで比べれば、ボクは多分ウィルムに勝ってる。

 

 あの子の体はそれこそ抜群の素質がある。ハッキリ言ってしまえば、この世界の会長以外のウマ娘は、きっと素質で彼女には勝てないんじゃないかって思うくらいに。

 でも、頭の出来とか精神の方向性まで完全にレース向きかって言われれば、それは否だ。

 ホシノウィルムの圧倒的なチート性は、あくまで体と「思考力増加能力」に限ったものっぽい。 

 思考の動かし方にまで一分の隙もないわけじゃないのは、今さっき結論を出したばかりだもんね。

 

 だからこそ、こうやって対ウィルムの戦略を練ってるわけで。

 そもそもウィルム側だって、これ以上ないくらいにしっかりと作戦を組んでくるんだ。こっちもバッチリ対策してようやくイーブンってものじゃん?

 

 ……いや、なんか言い訳するみたいになっちゃったけどさ。

 多分、競走ウマ娘として本気になるって、こういうことだ。

 

 自分にできる全てをする。考えられることを考えて、走れるだけ走って、全力で壁に立ち向かう。

 それが今、ボクにできる唯一のことで……。

 きっと、ウマ娘・トウカイテイオーにとって、すごく大事なことなんだと思う。

 

「ふむ……。参考までに、1つ伺ってもよろしいですか?」

「何?」

 

 色々と考えていたボクに、思案顔をしてたマックイーンが尋ねて来る。

 その顔は……これまでに見たことがない程、真剣なものだった。

 

「何故、そこまでウィルムさんに拘るのですか?

 今のあなたは、走ることやレースの勝利というより、彼女に勝つことにこそ執着しているように思えるのですが」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 トウカイテイオーにとって、ホシノウィルムというウマ娘は、すごく複雑な存在だ。

 

 突如として現れ、自分のプライドを根こそぎ奪っていった憎き敵であり。

 全力を出して抗うべき、高すぎる壁であり。

 憧れの会長に次ぐ、ボクがなり損ねた2人目の無敗三冠ウマ娘であり。

 ところどころおかしなところもあるけど、付き合ってみれば案外普通の女の子らしかった友人であり。

 ……そして、これはきっと一方的だろうけれど、自分以上の才能を持っている、少しだけ妬ましい相手でもある。

 

 念のため言っておくと、別にホシノウィルムは悪いヤツってわけじゃないんだ。

 むしろ、彼女単体で見れば、まぁまぁ良い子だと思うよ? 

 

 気は回るし話も面白い。一緒にいて、決して不快なわけじゃない。

 そもそもそうじゃなきゃ、友達になんてなってないしね。

 あの子は間違いなくボクの友達で、何か困ったことでもあれば助けるし、嬉しいことがあったら祝うことだってする。それくらいには彼女のことを気に入ってるんだ。

 

 ただ……やっぱりボクからすると、色々と思うところもある、っていうのも事実なんだよね。

 

 

 

 去年の……つまり、ボクたちがクラシック級だった年の、春までは。

 ボクは、三冠レースの最有力候補だった。

 誰もが「トウカイテイオーが三冠を獲る」って疑ってなかったんだ。

 ……今思うと、なんだか信じられないけどね。

 

 あの頃はまだ、ウィルムがそこまで頭角を現してなかった。

 いや、彼女自身はホープフルステークスで大差勝ちしたりして頭角を現してたんだけど、世間がそれを認めてなかった感じかな。

 

 この界隈には、フロックという言葉がある。端的に言えば、「まぐれ勝ち」って意味だ。

 ウマ娘たちによるレースは、その日の天気とかバ場の状態といった運の要素も決して小さくない。

 だから、強いウマ娘を他のウマ娘が打倒するような、大番狂わせも起こり得る。

 それを世間はフロックって言って……当時のウィルムは、そういうものだと思われてた。

 

 実際には、この世界にまぐれ勝ちがあるかないかと言われると……まぁ、ありはする。

 レースの運の要素次第で、強いウマ娘が沈むことも、そこまで強くないウマ娘にチャンスが回って来ることも、起こり得るんだから。

 

 それでも、基本的なトコができてないと、いくらまぐれを掴んでも勝てはしない。

 G1レースで大差勝ちした時点で、ウィルムは間違いなく実力者だった。

 それを当時、世間は……そしてボクも、見落としてたんだ。

 

 ま、皐月賞の頃にはその評価も逆転して、ボクは僅差の2番人気に落ちてたんだけどさ。

 

 

 

 そんなわけで当時、自分が一番強いんだって調子に乗ってたボクにとって、彼女の存在はすっごく癪に障った。

 この世界じゃ絶対的な指標ってされてる血統的にも見るべきところがなくて、そのトレーナーも今年から専属を持つっていう新人で、更には大逃げなんていうピーキーな脚質で……。

 そのくせ、メイクデビューのウイニングライブ後や、インタビューでボクについて訊かれた時には、ほとんど直球にボクを煽ってきたりするんだもん。

 いわゆる売り言葉に買い言葉? 変なこと言われたらムカつくなんて、当たり前のことじゃない?

 

 ……まぁ、仲良くなった後に聞いてみたら、ウイニングライブ後のアピールについてはそういう意図はなかったみたいだし、インタビューについても「あれは、その……そう、当時は私がテイオーに対してヒール的な立ち位置でしたから、ロールプレイしたんですよ」って言ってた。

 ボクに喧嘩を売りたかったとかじゃなくて、最初にアクシデントがあって、それからはファンのために演技してた、ってこと。

 ホシノウィルムは、別にトウカイテイオーのことを意識してたわけじゃないんだ。

 

 まぁ、つまりさ。

 ……結局全部、ボクの独り相撲だったんだよね、悔しいけどさ。

 

 結局、皐月賞でボコボコにされて、全力で行って領域まで使ったダービーでも僅差で負けて、しかも致命的なことに、そこで骨折までしちゃって。

 復帰した直後の有記念では、走法も完成してない上体調の健全化も間に合わず、不甲斐ない結果になっちゃったし。

 

 ……本当、あの子のライバルって名乗るのも、おこがましいくらいだよ。

 

 

 

 

 

 

 それでも。

 あるいは、だからこそ。

 

 大阪杯は、勝ちたいんだ。

 

 

 

 

 

 

 ボクはトウカイテイオーだ。

 永遠の皇帝に続く、帝王になるウマ娘だ。

 

 無敗の誓いも、三冠の夢も、既に散ってしまったけれど……。

 それでも、ボクがトウカイテイオーだってことに、なんら変わりはない。

 

 あの日、ウィルムがそう望んでくれたように……。

 ボクは、ボク自身に誇れる「トウカイテイオー」であり続けたいんだ。

 

 

 

 だから、勝ちたい。

 あの常識破りの、神話の如き星の龍に。

 そして、未だ遠く背中しか見えない、永遠の皇帝に。

 

 そこに細かい理屈はない。

 何故越えたいかとか、何故あの2人なのかとか、そんな理由はどこにもないんだ。

 

 強いて言えば……そうだな。

 

 

 

「ボクが1人の競走ウマ娘で、ウィルムがまだボクの前にいるから、だよ」

 

 

 







 長かった別視点ラッシュもついに終わり。堀野君とウィルがイチャイチャしてる裏では、割とシリアスなスポ根物語があったりしたよ、というお話でした。

 次回からは堀野君とウィルの視点に戻ります。
 いや本当は掲示板回も挟みたかったんですけど、流石にこれ以上はテンポがね……。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、新たな装いの話。



(追記)
 誤字報告を頂き、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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男の子ってこういうのが好きなんでしょ?

 久々に堀野君視点に戻って来ました。
 大阪杯までもう間もなく、そろそろレースの……戦いの日々が帰って来ます。


 

 

 

『今年の、G1シーズンが始まる』

 

 設置されたモニターの中で、CMが流れる。

 

 レース場の俯瞰映像をバックにナレーションを読み上げるのは、ウィルと並ぶ史上ただ2人の無敗三冠ウマ娘、シンボリルドルフ。

 ドリームトロフィーリーグ現役、なおかつ既に本格化を終えた三冠ウマ娘ということで、彼女はこういう時、声優や俳優としても採用されがちなんだけど……。

 

 流石と言うべきか、改めて聞くと、声から伝わる威厳がすごいな。

 彼女はまだ成人すらしていないはずの年齢なんだけど、その言葉には下手な大人なんかより余程強い自信と威信に満ちた響きが感じられる。

 流石は永遠の皇帝、その威風に陰りなしと言ったところだろうか。

 

 ……今は本格化中だから仕事を受ける頻度も低いが、ルドルフと同じく無敗三冠ウマ娘であるウィルも、将来的には読み上げる側に回ることもあるんだろうな。

 正直なところ、レースでの彼女以上に日常の彼女を多く見てることもあってか、彼女があのルドルフ程の威厳を持てるか、俺としては少し不安ではあるんだが……。

 

 いや、ことウィルに限って、そんな心配は不要かな。

 最近は俺の前では殆どしていないようだけど、彼女は本来、仮面を被るのが得意なはず。

 「威厳のあるウマ娘」としての仮面を被ることも、やろうとすればできてしまうんだろう。

 そもそも要領が良い上、幸か不幸か幼少の頃の経験から、半ば無意識的に相手の顔色を読んでしまう癖があるっぽいからな。

 

 ……というかそもそも、俺は演技を学んだことがない。というかむしろ、普段の彼女の言動から学ぶことの方がずっと多い。

 こと演技という面において、俺がウィルにしてやれることは多くないだろうな。ちょっと悲しいけど。

 

 

 

 そんなことをぼんやり考えている間に、CMは次の場面に移行していた。

 

『今年最初の芝のG1レース、大阪杯。競うは灰の龍と無冠の帝王、そして多くの優駿』

 

 映像にピックアップされたのは、少しだけセピア調に編集された、去年のダービーの終盤。

 ホシノウィルムとトウカイテイオーによる、決死の末脚勝負だ。

 

 こういったCMは、当然ながら人気や実力のあるウマ娘の映像が流れるわけだが……。

 

 世間的な人気で言えば、現在のトゥインクルシリーズでは、ホシノウィルムの一強状態と言えるだろう。

 見向きもされない寒門の出から実力で成り上がっていくシンデレラストーリーや、奇抜で独特でありながらもどこか過去の優駿を想わせる走り、彼女自身のSNSでのファンサービス等の努力によって、もはやホシノウィルムの名声は揺るぎのないものとなっている。

 ……いやまぁ、一部では「爆死芸人」やら「一般通過ガチャ運クソ雑魚三冠ウマ娘」やら呼ばれているようだが、それはともかく。

 

 そんなわけで、今年の大阪杯を取り上げるのなら、やはりそこでの注目株は彼女になるだろうが……。

 ……難しいのは、次点。つまり二番手だ。

 

 今回の大阪杯は、なかなか豪華なメンバーとなった。

 もはや語るべくもないホシノウィルム、本人たちも認めるライバルであるトウカイテイオーの他にも、有力なウマ娘は揃っていて……。

 ウィルの同期であり、皐月賞や菊花賞でも競ったG1ウマ娘、ハートブロウアップ。

 1つ上の世代で、マックイーンやライアンと並んで三強とも称された昨年の大阪杯覇者、イノセントグリモア。

 あの有記念でマックイーンに次ぐ5着とかなりの好走を見せた、ダイサンゲン。

 更にネームドで言えば、そこまで目立つ戦績を上げているわけではないものの、イクノディクタスも参加している。

 

 この中から人気の2番手を選ぶとなると、なかなか難しいところがあったようだが……。

 どうやら映像を見るに、その枠にはトウカイテイオーが収まったらしい。

 去年の日本ダービーでウィルをハナ差まで追い詰め、激しいレースの結果互いに負傷した、というドラマ性が評価された結果かな、これは。

 

 ……ただ、実力の面から見ても、この評価の順は適正だと思う。

 トウカイテイオーは……今のトウカイテイオーは、強い。

 ステータス、スキル、そして彼女自身のやる気と体の調子。どれを取っても一級品だ。

 その上、彼女はレースの天才だ。実際に走っている中でどんな隠し玉が飛び出てくるかもわからない。

 一切の誇張なく、去年の菊花賞のネイチャや、天皇賞(秋)のマックイーンと並ぶレベルの脅威だろう。

 故にこの大阪杯、まず間違いなく、ウィルとテイオーが1着を争い合う構図になるはずだ。

 

 ……更に言えば、頭の痛いことに、今回の大阪杯にはどうしても計り切れない変数があるからなぁ。

 俺にできる最善は尽くすし、ウィルなら大丈夫だと信じてはいるんだが、どうしてもその頭痛の種を無視することができない。

 あぁもう、ホント俺、領域と相性悪いな。去年もあれだけ悩まされたっていうのに……。

 いやまぁ、「アプリ転生」のデータには現れない、トレーナーとしての経験が直に出る部分だから、まだ新人に毛が生えた程度である俺に不利であることは至極当然だと言ってもいいんだけどさ。

 

 

 

 さて、シニア級G1レース大阪杯の次は、クラシック級のG1レースだ。

 

『「はやさ」の証明、皐月賞。競うはサイボーグの如き逃げウマ娘と、未だ年若き優駿の卵』

 

 こちらでピックアップされたのは、ジュニア級年末G1レースの覇者の中で、唯一皐月賞への出走を決めている、ミホノブルボンだ。映像はこの前のスプリングステークス。

 現状無敗でG1タイトルも獲得、更に先日のG2レースでも4バ身差の圧勝を見せたんだ。妥当な評価と言えるだろう。

 

 皐月賞の他の出走ウマ娘と言えば、ライスシャワーやマチカネタンホイザも出走するが……。

 その2人とは先日のスプリングステークスで、ある程度格付けが済んでしまっているような印象。

 レース場やコースが違う訳でもなく、距離の延長も、言ってしまえばたった200メートルだ。期間もそこまで空くわけではないし、スプリングステークスと皐月賞で、結果に大きな差は出ないだろうと予想されているらしい。

 まぁ実際は、その200メートルが非常に大きかったりするのがこの界隈なわけだが……それで4バ身が覆るかと言われると、うん。

 

 ……しかし改めて、俺の担当は見事に2人とも選ばれた形になるな。

 どちらも間違いなく何年に一度と表現できる大天才だし、妥当と言えば妥当なんだが……そんな子たちと契約できるとは、本当に出会いの運は強いな、俺。

 いや、ブルボンはあっちの方から声をかけられたんだけどさ。

 

『もう1つの三冠の道、桜花賞。競うは小さな天才と、華々しき早咲きの優駿』

 

 一方桜花賞で選ばれたのは、同じくジュニア級年末G1の覇者、ニシノフラワー。

 先日のチューリップ賞では展開の不利が重なった結果、惜しくも2着に敗れてしまったが……。

 それを除けばこれまで全て1着入線、総合的にも連対率100%勝率80%と、数字だけで見てもとんでもない実績を残している。

 

 少なくとも短距離からマイルまでで言えば、あるいはブルボンに匹敵しかねない程の実力だ。

 幸いと言うべきか、彼女はティアラ路線を歩むらしく、三冠路線を歩むブルボンとは少なくとも半年はぶつかることはないだろうが。

 

 ……そういえば、この前ブルボン本人から聞いたが、ブルボンとフラワーは同室だという話だったな。

 こんな2人が1つの部屋に収められているのはどうも運命を感じざるを得ない。

 ウィルがハッピーミークと同室というのも含め、やはりネームド……というか強力なウマ娘同士は引かれ合う運命にあったりするんだろうか。

 いわゆる三女神様の紡ぐ縁、というヤツ。ウィルがテイオーやネイチャと同じ年代になったのも、あるいはそういうモノなのかもしれない。

 

 

 

『鎬削る勝負の舞台、今年栄誉を勝ち獲るのは、新たなヒーローか、それとも』

 

 ルドルフのその言葉と共に、画面はブラックアウト。

 『大阪杯 4月5日 15:40』という白の文字列が出て、CMは終わった。

 

 いやぁ、すっごいカッコ良い感じに仕上げてきたな。

 正直めちゃくちゃ好みだし、担当たちがカッコ良く活躍する姿は心を震わせるものがある。これからも是非、こっち方向でCM作ってほしいな。

 

 ……ま、それはちょっと難しいってことはわかってるけどね。

 

 こういうカッコ良い映像は実のところ、あまりコンテンツへの新規参入率が高くならない。

 もっとコンテンツのファンの数を増やそうとするなら、分かりやすい魅力とか映像のツッコミどころなどを用意し、コメディチックにした方がいいだろう。

 

 今回カッコ良い方向に舵を切ったのは恐らく、わざわざCMで新規参入を募る必要もないくらいに、現在のトゥインクルシリーズが盛り上がっているからだ。

 この前URAの企画部の方と話した際に聞いたことだが、どうやら現在のトゥインクルシリーズのアクティブなファンの総数は、めでたくオグリキャップ現役時代や黄金世代全盛期を超えたらしい。

 統計上のデータで言っても、トゥインクルシリーズが創設されて以来のフィーバーと言えるだろう。

 

 ま、それもむべなるかな。

 シニア級2年にはマックイーン、シニア級1年にはウィルを筆頭とする三星、クラシック級にはブルボンにライス、未だ見出されてはいないがジュニア級にもBNWがいるわけで、ここしばらくは名勝負に困りそうもない。

 

 そんなわけでURAとしては、今は新規参入を狙うより、この時期に付いた顧客をしっかりと根付かせる方針を選んだらしい。

 そんな理由もあって、こういうコア向けのCMも流せたわけだ。

 

 極めて個人的な感想になるけど、良い時代に生まれついたなぁと思います。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……で。

 

 言った通り、現在のトゥインクルシリーズは大盛り上がりな状態だ。

 主催のURAとしちゃイケイケドンドン、この人気をしっかり定着させて人気を維持したいのだろう。

 

 そんな中で、この爆発的人気の発起人であるホシノウィルムが放置されるわけもなく。

 大感謝祭翌日、大阪杯直前の4月2日。

 大いなる人気に大いなる責任が伴った結果、彼女はURAの企画に参加する運びとなったのだった。

 

 

 

 今更ながらこれで良かったのかなぁ、大阪杯を考えると追い切りがベストだったんだけど……などと。

 俺が顎を指で擦りながら、俺がそんなことを考えていると。

 

 不意に、くいくいと袖が引かれた。

 

「ね、歩さん、カッコ良かったですね」

 

 なんとも可愛らしく同意を求めて来たのは、俺の隣でモニターを見ていたホシノウィルム。

 彼女は見慣れた微笑みを浮かべ、こちらを見上げてきているのだが……。

 

 今の彼女は、1か所だけ、見慣れないところがある。

 それは……恰好だ。

 

 

 

 彼女が身に纏うのは、いつもの制服やジャージ姿ではなく、遠征の際や休日にお出かけする際に見るクール寄りな私服姿でもなく、またG1レースに出る際に着る例の露出面積多めの勝負服でもなく。

 

 彼女は、今……。

 見慣れない、2着目の勝負服を身に付けていた。

 

 白のシャツに薄灰の少し長めのスカート、白タイツ。

 その上に深い群青のオーバーサイズのロングコートを着込み、胸元には1着目のものと同じ、灰色の星のブローチ。

 いつもの左右対称の耳飾りに加え、右耳付近には王冠を模した髪飾りも追加。

 更にその手には、しっかりと白手袋を着ける徹底ぶりだ。

 

 

 

 総じて言えば、その見た目は……。

 

「うん、めちゃくちゃカッコ良いな」

「ですよね!」

 

 にこっと笑うウィルは可憐で可愛らしいことこの上ないが、勝負服の方はマニッシュでカッコ良いことこの上ない。

 着ている彼女自身は小柄な方で身長も低いんだが、決して猫背にならない自信ありげな立ち振る舞いがそうさせるのか、むしろ良いギャップになって……こう、なんだろうな、少し謎めいた強キャラ感?みたいなものが醸し出されている。

 うーん、カッコ良い。カッコ良すぎる。正直たまんないです。

 

 ロングコートは中二病的と言う人もいるかもしれないが、やっぱり長い裾はロマンだ。オーバーサイズなのも含めて、彼女の小柄な体には似つかわしくない程の裾がマントのように思えてすごく良い。

 しかもこれ、コートが覆う面積が広いからダークヒーロー感があるけど、一度それを脱いだら中は白のシャツと薄灰のスカートという清廉潔白さ。これ絶対悪いように見えるけど良いヤツじゃん。雨の日に捨て猫拾ってるタイプだよ。

 そこに白手袋だ。いや白手袋って執事さんとキザなトリックスターしか着けないでしょこんなの。でもそうやって肌を晒さないのがカッコ良いんだよね、わかる。

 そして更には王冠型の髪飾り。これ深読みっていうかただの妄想だけど、謎めいた怪盗のように思える彼女の正体は亡国の王子なヤツでしょ。で、やけに小柄な王子だなと思ったら男装の麗人で姫君なのだ。いやしかし実際のウィルは寒門だ、姫君はちょっと合わないか? 多分無敗三冠や華々しい戦果から来るイメージなんだろうし、白雪姫の後日談的な成り上がりのお姫様とかそっち系だろうか。コートのサイズが釣り合ってないところからも未熟なイメージを抱かせがちだが、むしろそれは物語中盤で脱ぎ去って光堕ち&成長の演出のためにも思えて……。

 

「歩さん? 大丈夫?」

「ん、大丈夫だ」

 

 ウィルの新衣装について二次創作の妄想を膨らませていたら、目の前の彼女にコクリと小首を傾げられてしまった。

 まずいまずい、落ち着かないと。

 いくらすごく好みなカッコ良い勝負服のウィルが目の前にいるからって……。

 

 ……いやしかし、ホントにカッコ良いな。

 

「ウィル、手袋の端引っ張ってキュッてやるヤツやって」

「えー、またですか? 歩さんは仕方ないなぁ」

 

 めんどくさそうな台詞とは裏腹に、ウィルはニヤニヤ笑った後、すっと表情を消して……。

 そして、左手で右手の白手袋の端を握り、キュッと引っ張って、目力を利かせる。

 

 おぉー……!

 

「うーん、やっぱりカッコ良い」

「もー、何度やらせるんですか?」

「いやだって君、その見た目で手袋キュッとするとか、もうロマンじゃん?」

「気持ちはわかりますけどね」

「それに君、演技力高いから、これぞまさしく俺の見たかったもの! って感じするし」

「まぁ、自分の能力を評価されるのは嬉しいですけども。嬉しいですけども? もっと褒めてくれても構いませんけどもー??」

 

 ふふーん、とウィルはその場でターン。

 コートの裾を自慢げに振り回し、俺に見せつけるようにした。

 

 改めて、予想以上にカッコ良く出来上がったな。

 

 URA賞受賞前に「次の勝負服はどんなものがいい、という要望はあるか?」と訊いた際、「今使ってる勝負服は見た目が寒そうなので、次は暖かそうな見た目のものがいいですね」と返って来た時は、どうなることかと頭を抱えたが……。

 URA勝負服製作部と何度も協議を重ねた結果、なんとかこうして形になった。

 

 いや、協議を重ねたって言っても、正直俺はそこまで貢献していないんだけど。

 俺たちで決めたのは「メインのカラーを黒・青・白(薄灰)の3色に絞ること」「マニッシュな雰囲気にすること」「露出面積を極力抑えること」の3つで、そこ以外は完全にあちら依存。

 ここまでカッコ良い勝負服に仕上げてきたのは、ひとえに勝負服製作部の実力と言わざるを得ない。

 

 グッド。グレート。パーフェクト。

 流石はURA、”カッコ良さ”というものをよく理解(わか)っている。

 

 

 

「いや、ていうか勝負服の話じゃないですよ? CMの話ね?」

「わかってるわかってる。……ところでウィル、こう、コートの裾バサッと翻すヤツも見せてほしくて」

「だーかーら、もうっ! CMのカッコ良い私のこと、見てくれてました!?」

「いや、俺現実で君のカッコ良いところを一番近くで見てたし、何百回と繰り返し見たし、なんなら今も見てるからな。今更映像を見ても、『流石ウィル、最高の走りだ』くらいしか思うことがないっていうか」

「うっ……ぐ、本当に歩さんは、隙あらばそういうこと言って! この、この!」

「ごめんごめん」

 

 べしべしと俺の腰あたりが殴られる。

 

 ……こう、アレだよな。ウマ娘基準でのじゃれつくって割と冗談にならないというか、威力90のタイプ一致技くらいの強さがあるっていうか。

 ぶっちゃけ鍛えてなかったら「あいたっ」って言っちゃいかねないくらいの痛さなんだよね。

 

 契約トレーナーとして、そして俺としては、担当との……ホシノウィルムとの距離が、気軽にボディランゲージを取ってもらえるくらいに近いのは嬉しい。

 もしここでオーバーなリアクションを取れば、彼女は以降距離感を見直してしまうかもしれない。そうでなくとも、必要のない罪悪感を覚えてしまうかもしれない。

 そういう意味じゃ、やっぱり体を鍛えておいてよかったと思う。

 

 ……ま、鍛えたとはいえ、普通に痛いものは痛いんだけどね。ウマ娘パワーってすごい。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そんな風にウィルとじゃれついていると、横から声がかかった。

 

「ちょっと、そろそろ出番だよ?」

 

 そう言ってきたのは、来たる大阪杯でウィルのライバルとなる、トウカイテイオー。

 彼女も彼女で、これまでの礼服を思わせるものとは別の勝負服を着ていた。

 

 2着目になって露出面積が一気に減ったウィルとは対極的に、1着目ではあまり肌を出していなかったテイオーは2着目になって一気に軽装化。赤・黄・黒の三色で彩られる、ボーイッシュな衣装となった。

 特に目立つのは、やはり右肩に負うそのマントだろうか。先端にいくにつれて黄色に染まっていく赤の布は、腰に付けられた羽飾りと合わさり、どこか不死鳥の翼を思わせる。

 

 

 

 ……物的証拠はないから、あくまでも仮説だが。

 ウマ娘に与えられる勝負服は、そのウマソウルに求められるイメージ、偶像なのではないか、と思う。

 

 例えばシンボリルドルフには、王者としての豪奢さと凛々しさが。

 例えばメジロマックイーンには、落ち着いた優雅さとメジロの名に誓う誇りが。

 例えばミホノブルボンには、機械的な正確さや流麗な美しさが。

 それぞれの勝負服には、それぞれのウマソウル……つまり、前世の馬に寄せられる想いが込められているように思うんだ。

 

 ……まぁ実際、ほぼ間違いなくそうなんだけどね。

 前世アプリ「ウマ娘 プリティーダービー」は史実の名馬を擬人化していたわけで、その勝負服もその名馬たちをイメージしてのもの。

 それと近しい関係にあると類推されるこの世界の勝負服も、そりゃあ元になった馬=ウマソウルのイメージを強く受けてのものだと考えられるわけだ。

 

 で、そういう意味では、このトウカイテイオーの勝負服……モチーフは、不死鳥だろうか。

 赤と黄の2色は燃え上がる炎を思わせ、腰に回したベルトには羽の飾りが付いている。

 そこから連想されるのは、やはり不死鳥、フェニックス。その身を焼かれて灰となってもその中から蘇る、不滅性の象徴だ。

 

 史実におけるトウカイテイオー号は、幾度の骨折を経験し、それでもなお走り続けた馬だったはずだ。

 そのタイミングまで覚えているわけじゃないけど……確か、引退するまでに計4度。

 トウカイテイオー号は、それだけの骨折を経験してなお立ち上がり、レースを走り続けたのだ。

 確かに、不死鳥と呼ばれるに相応しい存在だろう。

 

 

 

 さて、そんなテイオーは、彼女のトレーナーの隣から、どこか呆れたような視線を向けてきている。

 

「あのさ、もう出番直前だよ? もうちょっと緊張とかした方がいいんじゃない?」

「あら、テイオーは私がテレビ番組程度で緊張なんてすると思うんですか?」

「いやまぁ、しないだろうけどさ。じゃあ集中とか、流れを思い返すとか」

「バッチリ頭に入ってます。ご迷惑はおかけしませんよ」

「いや、だからってさぁ、その……」

「むしろ、ちゃんと歩さんニウムを補給しないとフルスペック出ませんからね」

「アユ……え、何?」

 

 歩さん、ニ……? いや何それ、俺もわからないんだけど?

 文脈から類推するに、自分のトレーナーとの触れ合いなくしてはちゃんとできない、的なニュアンスだと思うんだけど……。

 

 ウィルはよく分からないことを言った後、ちょっと体を傾けて、俺の方に頭を差し出して来る。

 お決まりの動作に、思わず苦笑。

 俺は近付いた頭に手を乗せて、軽く撫で回す。

 

 ……うん、今日もサラサラで触り心地の良い髪だ。

 一房だけ黒鹿毛の走った、鹿毛のセミロング。

 触り慣れた感覚ではあるけれど、何度こうしても飽きる時が来る気がしない。

 

 それに何より……。

 俺の手の下で、彼女が心底嬉しそうに頬を緩めるのが、嬉しい。

 まるで、彼女が俺を想ってくれているようで……。

 あぁいや、兄さんや昌ともやった意見交換が正しければ、実際彼女が、その……俺にそういう想いを抱いている可能性は、決して否定できないわけだけど。

 

 しかし、そう考えると、あまりこうやって触れ合うべきではないのかな。

 単純接触効果もあるし、担当ウマ娘に対する接触はもう少し控えるべきなのでは……。

 いやしかし、ウィル自身がこうすることを望んでいるわけで、それを否定は……。

 彼女の現在の要望と彼女の未来の展望、どちらが大事かと考えると……。

 

 ……いや、未来のことばかり考えて現在をないがしろにするのも、現在を重視しすぎて未来を捨てるのも、どちらも間違いな気がするな。

 決定的な一線を踏み越えさせてしまい、彼女の心が傷つくことがなければ問題ないわけで。

 どちらも適切に、バランス感覚を持って、今も未来も大事にしたい。

 

 それが俺なりの……堀野歩の、契約トレーナーとしての正しさ。

 ……なんだと思う。多分。

 

「歩さん?」

「ん……いや、何でもない。君の調子を整えられるなら、なんでもするさ」

「ん? 今『なんでも』って言いましたよね?」

「言ったけど……」

「じゃあその……あの、髪のついでに、顔とかも撫でたりしてくれません? わ、私、ほら、割と幼い状態で成長止まってますし、頬とかぷにぷにしてますよ? きっと柔らかくて触り心地良いですよ? ハマっちゃうかもしれませんよ?」

 

 ウィルはそう言って、何故かわたわたと頭の上に置いた手を揺らしてくる。

 

 顔も撫でてほしいって、どういう欲求なんだそれは。

 というか、仮に相手に好感を持っているとして、なんで顔を撫でてほしいって思うんだろう。

 彼女の心の機微はなかなかに難しい。これもいわゆる乙女心というヤツなんだろうか? 今度その手の本を読んだり、兄さんや昌に相談したりしてみようか。

 

 と、それはともかく。

 彼女がそう望むのなら、しない理由はどこにもないな。

 

「……ん、これでいいか?」

 

 ウィルの顔を、下から包み込むように持ち上げる。

 

 うわ、ホントにふわふわもちもちだ。

 しかも、手から伝わる彼女の体温が……なんかこう、すごく安心する感じ。

 

 ……この感触は、確かに、ちょっとハマりそうかも。

 これを完全再現したフィギュアとか出したらバズり間違いなしだぞ。今度URA企画制作部に話を持ち込んでみようか。

 

「わふ、あゆふひゃん、あお」

「あ、いや、すまん」

 

 あ、マズい、ウィルの顔が赤い。っていうか真っ赤だ。

 そんなに力を入れたつもりはなかったけど、息が詰まってしまっただろうか。

 

 あるいは……いや、流石に顔を触られたからって恥ずかしくなることはない、か?

 俺は恋心とか乙女心について詳しくないけど、どれくらいから恥ずかしくなるんだろうか。

 流石にキスなり告白なりは恥ずかしいってのは想像できるんだけど。

 

 ……思えば俺、生まれてから……っていうか前世から、覚えてる限り、あんまり何かを恥ずかしいって思ったことないんだよなぁ。

 いつの間にか、羞恥心っていうものをどこかに取り落してしまったのかもしれない。

 ……それこそ、俺がもう思い出せない前世の初等部の頃に、何かあったりしただろうか?

 

 

 

「堀野トレーナー、そろそろ」

 

 赤くなったウィルの頭を撫でながら考えている内、トウカイテイオーのトレーナーから声がかかる。

 見ると、いよいよこちらにも合図がかかっていた。

 

「行けるか、ウィル」

「と、当然! この勝負服、見せびらかしてきますね」

「ふふん、ボクの方が目立っちゃうもんねー!」

「ほう、それでは勝負しますか、テイオー。番組終了後のSNSの反応の数とかで」

「人気的にウィルの方がめっちゃ有利じゃん! ハンデとかないの?」

「ハンデのある戦いで勝っても嬉しくないでしょ、私もテイオーも」

「確かに……」

 

 俺の担当ウマ娘はテイオーと語らいながら、舞台裏から出て行く。

 それと同時、テイオーのトレーナーが俺の隣に寄ってきた。

 

「ここからは、見守るしかないね」

「問題ないでしょう。ウィルもトウカイテイオーも、賢い子たちですから」

「そうだね。……うん、良い信頼関係を築けているようで何よりだ」

「そりゃあ、担当ウマ娘ですから。ウィルのことは信じていますよ、それこそ世界の誰よりも」

 

 小声で会話を交わしながら俺達は、モニターを見上げる。

 少し前まではCMが流れていたそこに、今は1つのテレビ番組が映っていた。

 

 動画投稿サイトや生放送が流行し、全体的にテレビが下火になっている現代だが、それでもなお今日は多くの人々が、この番組を見ているはずだ。

 何故なら、この番組は……。

 

 

 

『さぁ、ここまでは去年の主要レースについて振り返って来ました。

 ここからはいよいよ、今年の春のG1レースについて語っていきます。

 更に、今回はなんと! あの現役最強級のウマ娘さんたちに、世界初公開の新たな勝負服で来ていただきました!!

 どうぞ拍手でお迎えください、「星の世代」のホシノウィルムさん、トウカイテイオーさんです!!』

 

 

 







 久々の堀野君視点が楽しすぎてめちゃくちゃ筆乗りました。
 本当は今回で番組終わりまで行くつもりだったんだけど、そもそも始まりに辿り着けなかった……。
 結果的に次回予告詐欺になってしまって申し訳ない。訂正しておきます。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、合同インタビューの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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誰よりも強い君以外は認めない

 前回に引き続き、テイオーとの合同インタビュー番組のお話。





 

 

 

 有望そうな未来の後輩ちゃんを見出したり、歩さんと楽しく回ったり、残り2回のご褒美権を死守したりした大感謝祭が終わって、翌日。

 私とテイオーは、URA公式がスポンサーに付くテレビ番組に出演することになった。

 

 舞台裏でしっかりと歩さんニウムを補給させてもらって元気を出した後、私はテイオーと一緒に番組の表舞台へと上がっていく。

 え、歩さんニウムって何だよって? 歩さんの温かさを感じることで孤独に冷え込む心にモチベーションをもらうことだよ、言わせんな恥ずかしい。

 

 そしてカーテンを潜り、表舞台に出た、その瞬間に感じたのは……。

 熱のこもった、たくさんの視線。

 番組の撮影を観覧する、多くのファンの方々が、こちらに視線を注いでいた。

 

 前世の頃なら、この熱視線だけで怯んでしまったかもしれないけど……。

 こちとら何十万という人間に熱視線を向けられる競走ウマ娘だ。今更視線の10や20に動揺するわけもない。

 

 そんなわけで。

 

「どうもー! トウカイテイオーでーす!」

「ホシノウィルムです、こんばんは」

 

 そう言いながら、私たちはカメラの画角に入って行ったのだった。

 

 

 

 たたたっと駆け出すテイオーは、観覧席やカメラに向かって元気いっぱいに手を振っている。

 それに対して私は、落ち着いたテンションで軽く手を振るのに留めた。

 

 こういうメディア出演で大事なのは、個性とバランスだ。

 2人のペアで出るんなら、片方が元気いっぱいなら片方はクール系が良い。

 どっちもやる気いっぱいだとちょっと疲れちゃうし、どっちもクール系だと取っつき辛いからね。

 片方が突っ走って片方がブレーキ役なくらいの方がバランスがよく見えるし、画的にも映えたりするらしい。ちょっと前の撮影でスタッフさんに聞いた。

 

 今回の場合、テイオーが元気系だと世間的に知られている以上、私はそこまで強く主張することなく、軽く微笑むくらいの態度で臨むのがいいだろう。

 私が今すべきことは、むやみやたらに目立つことじゃなく、このお仕事を完遂し、番組を成功させることなんだから。

 

 ……と。

 そんな私の思惑と、観覧客さんたちの思惑は全く別のものであり。

 私とテイオーが現れた瞬間、そして特に、私が現れた瞬間に。

 ざわりと、観覧席には興奮と動揺が広がった。

 

 ま、この反応は、そこまで意外なものでもないけれどね。

 

 

 

 私たちが所定の席に着くと、司会が改めて声をかけてくれる。

 

「お越しいただきありがとうございます、ホシノウィルムさん、トウカイテイオーさん。

 いやぁ、2着目の勝負服もよくお似合いですね!」

「ありがとうございます、私もこれ、すごく気に入ってるので嬉しいです。テイオーは?」

「勿論ボクもお気に入り! 大阪杯からしばらくはこれで出るつもりだよ!」

 

 にっこり笑うテイオーを包むのは、見慣れたものとは別のシルエット。

 

 そう。

 私とテイオーは今、新たな勝負服を身に着けているのだ。

 

 

 

 テイオーは去年の企画で、私はURA賞受賞の時にもらった新勝負服。

 

 私の方は、以前の赤を基調としたボーイッシュな服から、群青を基調とするマニッシュなものに一新。

 深い群青のロングコートを主体とするカッコ良い系のファッションで、頭には王冠型の髪飾りが追加されてる。

 1着目のボーイッシュでシンプルだったものから一気に雰囲気が変わり、我ながら強キャラ感の溢れるものとなった。どや。

 

 しかも色々と様変わりした一方で、胸元には1着目と同じ形の星のブローチがあったりして、変わらない点も残ってるという素敵仕様。

 後方腕組み古参面ファンの皆もニッコリだ。

 

 歩さんからの評価もめちゃ高い一品となっており、私個人としてもすごく気に入ってる。

 ボディタッチの機会とか、意識してもらえることとかがぐっと増えるからね。

 

 

 

 で、テイオーの方は私とは真逆で、マニッシュな礼服っぽい衣装からボーイッシュな赤い衣装へ。

 インナーにショートジャケット、下には丈短めのスカートとかなりの軽装で、その色合いも白青赤黄の王道ガンダムカラーから、赤黄黒の燃え上がるような三色へ。

 

 私、この衣装に、すごく見覚えがある。

 いや、この目で直に見たのは今日が初めてなんだけど、モニター越しに見たっていうか……。

 

 ……そう。

 これぞ前世アニメで見た、骨折から復帰したテイオーの、2着目の衣装である。

 

 思えば、前世アニメでテイオーがこの衣装を着たのは、大阪杯からだったっけ。

 復帰直後のレースでこれを着て快勝した……んだよね、確か。

 アニメを見たのはだいぶ前、というかもはや前世のことだし、その上当時はレースの知識が全くなかったから、ぼんやりとしか覚えてないけど……。

 

 ……というか、私の記憶が正しければ、前世アニメのテイオーってこの世界のテイオーに比べるとちょっと復帰が遅くて、有記念じゃなくて大阪杯からだったよね。

 スピカの皆と初詣に行った後だったはずだから、少なくとも有記念ではなかったのは間違いない。

 

 宝塚記念以降は歩さんに夢中だったり色々あったりで考え忘れてたけど、既にテイオーは……この世界は、前世アニメっていう正史から離れちゃってるんだよね。

 ……いや、正史って言うんなら、〈チーム・スピカ〉がなかったり沖野Tがいなかった上、私という異分子が三冠獲っちゃったりで、とうの昔に……というかもはや、最初から別物ではあったんだけども。

 

 それでも、前世アニメの流れとこの世界の流れの違いに、少なからず私が関わってるっていうのは間違いない。

 テイオーの獲るはずだった皐月賞やダービーを、力づくで奪っちゃったこともそうだし……。

 テイオーの負傷を軽くして、復帰を4か月早めたのも、私や歩さんの行動の結果だろう。

 

 ダービーの直前、私と歩さんは積極的とは言えないまでも、テイオーのために色々と画策した。

 その結果、骨折の早期発見と治療に入ることができて、結果として有記念からの復活になったんだ。

 

 私の行動が実を結んで、彼女を助けたと思うと、ちょっと……いや、かなり嬉しい。

 だってさ、あのトウカイテイオーの負傷を、少しだけとはいえ軽減できたんだよ?

 そりゃあ誇らしい気持ちにもなるってものだよね。

 

 理想を言うのなら、ここから何度も続くかもしれない負傷もなんとか軽減、可能なら防止できればいいんだけど……。

 

 

 

 ……と、話が逸れ過ぎた。

 とにかく、私とテイオーは新たな勝負服をいただいた、って話ね。

 

 そんなわけで、新たな勝負服のお目見えとなったこの番組。

 当然と言うべきか、観覧席からは黄色いどよめきが上がることになった。

 

 私もテイオーも、勝負服として割合的に多い可愛い系の衣装ではなく、1着目に引き続き男装的なカッコ良い系の衣装だもんね。

 こういうの、やっぱり女性ファンとしては結構嬉しいのではなかろうか。前世の「私」だったら、推しのカッコ良い衣装とか見たら絶叫して気絶してたまであるし。

 

「お二人ともすごくカッコ良い衣装ですが、ご自身としてはお気に入りのポイントなどは?」

 

 黄色い声に便乗するように、司会が尋ねて来る。

 

「ボクはやっぱり、右肩のマントかな! どうこれ、ヒラヒラしてカッコ良いでしょ!」

 

 即答したテイオーに続いて、私は少し考え込むような姿を見せてから回答。

 

「私は……うん、この星のブローチですかね。1着目と同じものなので、愛着があります」

「なるほどなるほど、やはり競走ウマ娘さんにはそれぞれの勝負服へのこだわりがあるんですね! 大阪杯ではそういった部分にも要注目ですよ!」

 

 司会は上手くまとめて、話を進めた。

 前座の次……本日の本題へと。

 

「それでは改めて、お二人には今年の春のG1シーズンについて伺っていこうと思います。

 直近の大阪杯……は、やはりお二人も語りたいところも多いでしょうね。

 なのでまずは、お二人が直接関係しないクラシック級の三冠レース、皐月賞と桜花賞について語っていきましょう!」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 皐月賞、桜花賞。

 これらはそれぞれ、クラシック三冠レース、トリプルティアラレースの内の1つだ。

 

 今更語るまでもないけど、トゥインクルシリーズのクラシック級には、世代最強を決める2つのレース群がある。

 それこそが、クラシック三冠と、トリプルティアラと呼ばれるレースシリーズだ。

 

 私も去年駆け抜けたし知名度的にも語るまでもないだろう、皐月賞、日本ダービー、菊花賞の3つで構成される、クラシック三冠。

 そして、それらとほぼ時期を同じくして行われる、桜花賞、オークス、そして秋華賞の3つで構成される、トリプルティアラ。

 

 これらはどちらも、同一の世代の中での最強決定戦だ。

 では何故、2つに分けられているかと言えば……距離の得意不得意があるからだね。

 

 クラシックレースは2000メートルから3000メートルの間で競われるのに対して、ティアラレースは1600メートルから2400メートルと、少しばかり短い距離での開催になる。

 つまるところトリプルティアラは、マイル距離から中距離までを主体とし、でも長距離はちょっと厳しいような、マイラーからミドルディスタンスまでのウマ娘たちの戦場となるわけだ。

 多分、ブルボンちゃんも適性だけで見るとこっち向きなんだろうね。

 

 世代の区分として使われる「クラシック級」という名前通り、どちらかと言えば注目されるのは、昨年私も参加したクラシックレースの方。

 ティアラレースはクラシックレースに比べると、ちょっと地味に思われがちだ。

 

 現に、最強議論になると歴代三冠ウマ娘の名前はよく上がるけど、トリプルティアラのウマ娘の名前はそこまで挙がらないしね。

 ……いやまぁそもそも、これまでの歴史でトリプルティアラを獲得したのはただ1人、魔性の青鹿毛メジロラモーヌさんだけって事実も大きいと思うけども。

 

 ちなみに、短距離に特化したスプリンターやダートに特化したウマ娘たちはこの最強決定戦にも参加できず、というかそもそも走れるG1レースが少ないということで、ちょっと不満の声が上がってたりもした。

 で、こういう不満の声を受けて「誰もが活躍できるレース」を指標に掲げて創設されたのが、つい先日マックイーン先輩が勝ちぬいたURAファイナルズだったりする。

 ダート、短距離、マイル、中距離、長距離と様々な条件が整えられ、世代の中でもその分野に限った最強を決める、っていう催しなわけだ。

 この企画を立案してほぼ1人で作り上げたっていうちっちゃい理事長さん、ホントめちゃくちゃ良い人だよね。普通に尊敬するよ。

 

 

 

 さて、話を戻して。

 そんなわけで、これから語るのは2つのレース。

 今年のクラシック三冠の始まりである皐月賞と、トリプルティアラの始まりである桜花賞だ。

 

 私たちが頭の中で会話を練っていると、いよいよ司会が話を始める。

 

「世間的には、皐月賞はミホノブルボンさん、桜花賞はニシノフラワーさんが一歩リード、という見方をされていますね」

「そうですね……私はニシノフラワーさんにはあまり接点がありませんが、ブルボンちゃんはかなり強力ですよ。適性の壁を越えてクラシック三冠、というのも決して夢物語じゃないと思います」

「ホシノウィルムさんはミホノブルボンさんと同門、同じ契約トレーナーに就いているのでしたね」

「いやぁ、去年の三冠ウマ娘が言うと説得力違うねー。でもまぁ実際、この前のスプリングステークスでは見事に大勝してたし、皐月賞の最有力候補ではあるよね」

 

 ブルボンちゃんを持ち上げる私に、うんうんと頷くテイオー。

 

 ブルボンちゃんが勝ったスプリングステークス、2着のライスちゃんまでは4バ身差だったけど、そこから3着の子までは更に3バ身空いてるからね。

 高いスタミナで何とか食い下がったライスちゃんを除けば、あるいはライスちゃんを入れたとしても、あれはブルボンちゃんの独壇場だったと言えよう。

 

 勿論、他に強いウマ娘がいないってわけじゃないけど……それでも、ブルボンちゃんの実力はちょっと群を抜いている。

 ……まぁ、これは公平を期すべきテレビ番組。あんまり強い言葉は吐けないけども。

 

「皐月賞はスプリングステークスと同じ、中山レース場右内回り。言うならば距離が200メートル延びるだけですもんね。

 弥生賞1着のリボンララバイさんを筆頭に強力なウマ娘も出走予定ではありますが、やはりあの強烈な逃げ切り勝ちを見ると、皐月の舞台でも、と望みたくなりますね」

「リボンララバイも弥生賞で2と半バ身差、かなり強さが出てたけどね。特に末脚は冴えてたし」

「ただ、ブルボンちゃんのスプリングステークス、上がり3ハロンで見ても37秒3のライスちゃんに続く37秒6ですからね。後半に垂れるはずの逃げウマ娘なのに、末脚まで鋭いっていうのはとんでもないことですよ」

「……ねぇそれ、遠まわしな自慢?」

「ホシノウィルムさんも、後半に垂れないことに定評がありますからねぇ」

「あ、すみません。無意識に」

 

 ははは、と観覧席から笑い声が上がる。

 良かった、なんとか笑いは取れたらしい。

 ……これSEとかじゃないよね?

 

 

 

「一方、桜花賞はどうでしょう」

「こちらもこちらで、強力なウマ娘が揃ってますね。単純に勝率で見るとニシノフラワーさんが強いんですが、連帯率や掲示板入りの確率を見ればなかなかの役者揃い。楽しみですね」

「言いたいこと全部言われちゃった……」

「あ、ごめんなさいテイオー」

 

 やば、ちょっと段取り失敗。

 ある程度の台本とリハがあるとはいえ、こういうトークは割とアドリブだから難しいなぁ。

 

 ちょっと肝を冷やした私に対して、司会が上手く手を差し伸べてくれる。

 

「では、レース場についてはどうでしょう?」

「阪神右外の1600、だっけ。ボク、実は阪神走ったことないんだよね。大阪杯が初だったり」

「私は内回りだけど宝塚で走りましたね。最終直線直前の仁川の坂が、逃げとか先行の子にはちょっと厳しい感じでしょうか」

「ニシノフラワーは基本先行だっけ。じゃあ若干不利かな?」

「どうでしょう。言っても高低差は2メートル、有名な京都レース場の淀の坂の半分ですからね。通過するのも一度きりですし、上手くスタミナをやりくりさえすれば不利を回避はできますね」

 

 ……え、私が走った時はどうしたって?

 呪いが解けて領域にも覚醒して、その上チートも解禁されて脳がズギューンってなってたから、最高効率の走りを計算し続けてぶち抜いたわ。

 参考にならない先輩でごめんね?

 

「ウィルムとしてはこの桜花賞、どう見てる? やっぱりニシノフラワーが本命って感じ?」

「ですね。可愛い後輩のブルボンちゃんと同室らしいですから、その縁もありますし、応援してます」

「あ、そっか、ミホノブルボンとニシノフラワーって同室なんだけっけ。冷静に考えるとすごい偶然」

 

 いや本当にね。

 ジュニア級王者が2人同じ部屋、しかもそれぞれクラシックレースとティアラレースの最有力候補ってどういう確率だよ。

 トレセン学園って2000人のウマ娘抱えてるのよ? 殆どが寮に入ってるんだよ?

 ……いやまぁ、あのオールラウンダー先輩と同室の私が言えることでもないんだけどさ。

 

「テイオー的にはどうですか?」

「個人的には、この前のチューリップ賞でニシノフラワーを破ったチョコチョコに期待したいかな。当日のバ場とか調子次第ではあるけど、末脚には見るものがあるし」

「なるほど、桜花賞も皐月賞に優るとも劣らぬ大決戦となりそうですね。トリプルティアラの最初の1つ、果たして取るのは誰になるでしょうか?」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 クラシック級の子たちに関してはこんなものか。

 大きな問題も起きずに展開が進んで、内心で安堵の息を吐く。

 

 勿論、私やテイオーが言っている意見は、この場で考えて出してるわけじゃない。

 というかそもそも数日前にリハーサルとかやってるしね。多少話の流れが変わったりすることはあっても、言うことの大枠自体は最初から決まってる。

 

 ま、そりゃそうだよね。こう見えて私たちって、割と影響力のあるインフルエンサーだし。

 下手なことを言えば炎上不可避。ちょっと誰かに肩入れするような態度見せるだけでもアウトな可能性すらある。

 流石に同門の後輩を応援するくらいはセーフだろうけど、肩入れして過大評価するのは駄目だろうね。

 

 ……うーん、改めて、メディアって面倒くさい。

 色々あってファンへの感謝を痛感した私ではあるけど、それはそれとして、この……こういう、なんだろうな、配慮って言うの? そういうのへの忌避感はどうにもなくならない。

 

 こっちにインタビューしてきてるのに、本心を話せなかったり、あるいは過剰な言葉で飾らなきゃいけなかったり。

 そういうのって本末転倒じゃない? って思うんだけども……。

 いや、心を傷つけられる人がいるなら、そこに対応しなきゃいけないってのはわかるけどさ。

 わかるけども……なんというか、アレだ、おじいさんとおばあさんとヤギ。万人が納得する回答なんてこの世界にはないんだよね。

 それなのに、無理に全員が納得する回答を作ろうとするもんだから、誰も何も言えなくなっちゃう。

 

 仕方ないことではあるけど、どうしようもないことではあるけども……どうにもなぁって。

 ま、これも仕事だし、仕方ないからその通りにこなすけども。

 これでも一応、ジュニア級……つまり2年前から芸能界入りしてる、プロみたいなものだしね。実際に露出が多くなったのはクラシック級からだけども。

 

 

 

 さて、改めて。

 これでクラシック級の話が終わった。

 

 クラシック級の1つ下であるジュニア級は、まだまだレースも始まらないし、G1レースがあるのは年末から。今から展望を語ったところでただの妄想、夢物語でしかない。

 そんなわけで、クラシック級の次は私たち、シニア級の話になる。

 

「やはり次は、シニア級レースですね。ホシノウィルムさんとトウカイテイオーさんには、今後の展望なども含め、大阪杯への意気込みを語っていただきたいと思います」

 

 ……ま、そういう意図のキャスティングだよね、これ。

 今回の大阪杯において、恐らく最も注目されるの、私とテイオーだもん。

 

 

 

 実のところ。

 ホシノウィルムをイーブンな状態から最も追い詰めたのは、ナイスネイチャでもメジロマックイーンでもスペシャルウィークでもなく、トウカイテイオーだったりする。

 

 私の成績は有記念以外全勝なわけだけど、その有記念では私のトレーナー、歩さんが不在だった。

 つまるところ、私は半身が欠けたような、不完全な状態だったわけだ。

 言い訳がましい、というか普通に悔しさからの言い訳だけど、これはちょっとイーブンとは言い辛い。

 

 で、そんな有記念を除いて、最も私が差を詰められたのが……そう、去年の日本ダービー、テイオーとの決戦。

 いやまぁ、あっちは領域覚醒しててこっちはまだだった、って部分は少なからず大きいんだけどさ。

 けど、そこは外的要因ってわけじゃなく、私たちの早熟具合。少なくとも条件的にはイーブンと言っていい状態だったはずだ。

 

 あっちはバチバチに覚醒してて、追い詰められに追い詰められた瞬間。

 降りしきる雨の中、最終直線で爆発的に加速して、一気に迫ってきたテイオーの足音を、よく覚えてる。

 

 それに対して私は、テイオーの走りを見て思い付いた超前傾姿勢を試し、なんとか勝てたはいいものの、ものの見事に自爆して炎症を起こしてしまったわけだけど……。

 

 ……今思うと、アレは歩さんのウマ娘にあるまじき行為だったな。

 いくら勝っても、あの人の下に無事に戻らなかったら、意味がない。

 あの人が求めてるのは勝利とか名声じゃなく、身近な人と当然のように明日再会できることなんだから。

 

 もしも、もしもあそこで私の競走人生が尽きてしまったら、あの人のことだから「俺がちゃんと鍛えられなかったからホシノウィルムは潰れたんだ」とか思ってたはずだ。

 そしたら……ホシノウィルムが彼の新たなトラウマになってしまったかもしれなかったのか。

 

 うわ、鳥肌立った。最悪の可能性すぎる。

 いやホント、そうならなくて良かった。無茶しても炎症程度で抑えられる自分の脚の頑丈さに感謝しかないよ。転生チート万歳!

 

 ……閑話休題。

 とにかく、トウカイテイオーは唯一無二、私をイーブンな条件からハナ差まで追い詰めたウマ娘だ。

 

 しかし、ダービー直後に骨折が発覚し、遅れて私も宝塚記念で骨折。

 次の直接対決は遅れに遅れて有記念となったけど、そこではスペ先輩やスズカさんに話題を攫われてしまったし、何より私には歩さんがおらず、テイオー自身が本調子ではなかった。

 

 しかし、今、私の横には歩さんが立ってくれていて、テイオーは本調子を取り戻した。

 

 故に、この大阪杯。

 私とトウカイテイオーは、あの日のダービーの続きを、再度の決着を期待されているのだ。

 

 

 

 リハーサルでこれを聞かれた時は、まず私が軽く受け答えしたはず。

 そう思い、私が口を開きかけたところで……。

 

 不意に、テイオーが話し出した。

 

「ボクは今のところ、大阪杯に全力を注ぐつもり。一応天皇賞にも出るつもりだけど、先のことは大阪杯が終わってから考えるよ。

 なにせ、ボクのライバルの一等星はステイヤーだ。戦う距離は長ければ長い程、ボクの不利になっちゃう。

 ……だから、この大阪杯で、ボクに最も有利な舞台で、超えるよ」

 

 横から、熱を帯びた視線を向けられた。

 

 以前やったリハーサルとは違う流れの、アドリブ。

 その時よりもずっと熱い、言葉と視線。

 

 ……あは、なるほどね。

 

 テイオーがこの企画を受けた理由って……。

 

 

 

 公の場で、私に、挑戦状を叩きつけるためか。

 

 

 

 面白い。楽しい。嬉しい。あるいは、愛おしい。

 そんな感情が、胸の中を埋め尽くす。

 

 テイオー……ホント、楽しいことしてくれるね。

 

「みんな期待してくれてるように、ボクはこの大阪杯で、ウィルムにリベンジする予定。

 無敗三冠の夢は破れちゃったけど、トウカイテイオーはそんなトコで終わってあげないよ? 一等星だって超えて、ボクこそが永遠の皇帝に次ぐ、絶対の帝王だって証明してみせる」

 

 真摯な想いの告白に、私以外の全員が気おされ、思わず一拍黙り込む。

 ……けど、その沈黙は長続きはしなかった。

 すぐにテイオーが「ニシシ」って感じで笑ったからだ。

 

「……って感じかな! ま、そうやすやすと勝てるとは思ってないけどさ、全力で行くから。みんな、応援よろしく~!!」

 

 ちょっとふざけたような口調に、周りからは笑いが起こった。

 

 ……いやぁ、上手いな、テイオー。

 

 テレビ番組っていう公の舞台で挑戦状を叩きつけながら、きちんとエンタメに戻した。

 場慣れ……っていうより、雰囲気を調整する要領が良いんだろうね、この感じ。

 私も多少は要領は良い自信があるけど、この手のコミュニケーションは……あんまり経験がないし、テイオー程できるとは思えないな。

 

 

 

「なるほどなるほど! では、ホシノウィルムさんの方はどうでしょう」

 

 考えてる内、こっちに話題が振られる。

 

 ……よし。

 売られた喧嘩は、買ってあげますか。

 

 私は、自分の口角が上がるのを感じながら、口を開いた。

 

「そうですね。私としては、ファンの方々の期待を裏切らない、私らしい走りをしたいと思っています。

 大阪杯、天皇賞(春)、そして宝塚記念。春シニア三冠ルートの全てで勝利を刻み、万全の状態で以て凱旋門賞へと挑みたいですね」

 

 そう言って、私はチラリと横に目を向けて……。

 こちらを見ていたテイオーと、視線がかち合った。

 

「……えぇ、勿論、そこに立ち塞がる壁は正面から越えましょう。

 それがターフを駆ける名優であろうと、偉大なるオールラウンダーであろうと……あるいは、復活した帝王であろうとも。追い縋る全てから、私は逃げ切ります」

 

 あぁ。

 灼けるような、熱。

 

 お前を倒す、超える、絶対に差し切る、と。

 テイオーの視線からは、煮え滾る野心が、ひしひしと感じられた。

 

 ぶるりと、快感に体が震える。

 本当に……本っ当に、ライバルって最高だ。

 それも、相手はテイオー。本物の、レースの天才。

 

 確信した。

 大阪杯は、絶対に、最高に熱いレースになる。

 

 

 

 ……さてと、それはそれとして。

 そろそろこっちもオチに行かないと、だ。

 

「……ま、つまりはいつも通りですね。

 私は私らしく、ファンの皆さんと私自身のために、最高に楽しく走りたい。最高に熱いレースをしたい。

 そのためにも……ふふ。皆さん、応援、よろしくお願いしますね?」

 

 

 







 妄信にも似てるようなライバルへの信頼って良いよね……。



 そんなわけで、お膳立てはようやく終了。
 ようやく次回から、大阪杯が始まります。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、大阪杯前編。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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徒然芝

 大阪杯前編。
 いやこれを大阪杯と呼んでいいのかは微妙なところですが。





 

 

 

「実のところ、ホシノウィルムは一般的に言われている程無敵ではない」

 

 大阪杯当日。

 ウィルを阪神レース場に送り届け、レース前の激励も済ませた後。

 俺はスタンドで、傍らの担当ウマ娘とサブトレーナーに講釈を垂れていた。

 いや、講釈というか、もはやお決まりになったレースへの考察なんだけも。

 

「ウィルは今、世間から『トレーナー不在で、なおかつサイレンススズカとスペシャルウィークを同時に相手取ってようやく抑えられる化け物』という認識を受けているが……流石にその評価は過分と言わざるを得ないだろう。

 彼女もあくまで1人のウマ娘。神がかりな脚と素質を持ち合わせるアスリートであろうと、等身大の少女であることは忘れてはならない」

「……なんか今日、えらく予防線が厳重じゃない?」

 

 腕を組んで話していたところに、横から昌の言葉が飛んでくる。

 あとついでに、ちょっと硬めのチュロスをかじる音も。

 

 名家の出としては、食べながら話すのは行儀が悪いぞ、と言いたいところだが……。

 この子、昨日からろくに食事取れてなかったからな。

 レース開始の時間も近いし、ここは仕方ないと思うべきだろう。

 

 名家の行儀やプライドと、トレーナーとしてすべき話。

 この2つなら、後者の方が優先度が高いんだから。

 

「データベースを参照するに、マスターの話の進め方は重度の慎重派であると推測されます。

 私たちがホシノウィルム先輩の力量を見誤らないように、という配慮ではないでしょうか」

 

 そんな風に昌に取りなしてくれたのは、ミホノブルボン。

 昌が買って来てくれたあんぱんを片手に、彼女はターフの方に視線を投げている。

 

「…………」

 

 そんな様子を見て……取り敢えず、安心。

 深く考え過ぎて追い詰められている、なんてことはなさそうだな。

 

 

 

 ミホノブルボンは、大感謝祭の日辺りから、何かに悩んでいる風だった。

 ミーティングではどこかぼんやりしていたし、トレーニングの際にも精彩を欠いていた。

 何より彼女の得意とするはずの坂路を走った時なんか、不意に立ち止まって何かを考え込んでしまうこともあったんだ。

 

 彼女は恐らく、今、何らかの個人的な悩みを抱えている。

 それがどんなものであるかは、情報が少なく推察も難しいが……。

 これがなかなか、対処が難しいんだよなぁ。

 

 ウマ娘の悩みにどう向き合うかは、トレーナーの難題の1つだ。

 

 勿論、悩む彼女たちを放置するようなことはあってはならない。契約トレーナーとしての職務には、担当のメンタルケアも入っているのだから。

 

 だが、だからと言って無理に言って聞き出すのは逆効果だろうし、1人で悩む時間も必要なはずだ。

 入れ込んでいるウマ娘に手を出すのは危険だし、手助けは時に人の成長を妨げてしまう。

 

 俺たちトレーナーと担当ウマ娘との距離感は、近すぎてもいけないし遠すぎてもいけないのだ。

 

 そんなわけで、ある程度以上に重症化するか、あるいはあちらから相談してくるまで、こちらからは触れないようにしていたんだが……。

 

 どうやら今、大阪杯を前に、ひとまず割り切ることができているらしい。

 彼女はこの大阪杯を見て、少しでも自分の走りに活かそうとしている。

 真面目なブルボンらしく、「今はレースに集中しなければ」と自制して切り替えているのだろう。

 

 ……もしも相談に乗るとしても、大阪杯の後になるかな。

 

 

 

「兄さん?」

「ん、話を戻そうか」

 

 ブルボンの方に傾いていた思考を、再びレースへと向ける。

 

 大阪杯。

 阪神芝、右内回り、2000メートル。

 

 このレースを、端的に表現すれば……。

 

「2000メートルは、中距離としては最短に近い距離だ。

 ミドルディスタンスのトウカイテイオーにとっては最も有利で、ステイヤーのホシノウィルムにとっては最も不利なものと言える。

 ……勿論、マイルや短距離も含めれば『最も』とは言い辛いが、俺はウィルをマイル以下の距離に出す気はないからな。

 総じて、条件的にはトウカイテイオーが有利と言っていいだろう」

 

 距離で言えば、去年の皐月賞の時と同じで……。

 しかし、ウィルとテイオー両者ともに、あの時とは比べ物にならない程の成長を遂げている。

 

 ウィルは、彼女の最大の欠陥であった敗北への忌避感を乗り越え、過去との決別も済ませて、掛かり癖を解消した。

 そのステータスやスキルも、まさしくトップクラスと言う他ない状態だ。去年11月時点では一枚劣ると言わざるを得ない状態だったスペシャルウィークやサイレンススズカと比べても、遜色ないと言っていいレベルに脚を踏み入れていた。

 ……更に言えば、例のサイレンススズカ対策も既に形になっている。この大阪杯でお披露目する形になるだろう。

 

 対してテイオーも、半年もの休養期間があったとは思えない程に、急速に力を付けている。

 彼女にとっての最大の弱みと言ってよかった慢心を捨て去り、あの負担の大きすぎる走法も、先日のトレーニングを見るに別物と言っていいレベルに改良されていたようだった。

 更にステータスやスキルに関しても、脚質や距離適性の関係上単純に比較することは難しいが、総合値で言えばあのメジロマックイーンと肩を並べかねない程になっている。

 特に注目すべきは、持っていたはずの「レースプランナー」が消え、その代わりと言わんばかりに「レースの天才」というスキルが追加されていることだ。推察するに、スペやスズカが持っていたのと同じ特殊スキルだろうな。

 総じて、今のテイオーはまさしく一線級のウマ娘。星の世代の二等星に相応しい実力者だろう。

 

 あの有記念の大敗から、たったの4か月。

 まさかとは思っていたが、本当にここまで仕上げて来るとはな。

 ウィルの言う通り、そして「アプリ転生」が示す通り、まさしく彼女は「レースの天才」なのだろう。

 

 その上で、ウィルにとっては不利で、テイオーにとっては有利な条件での勝負となるわけで……。

 今回のレース、ホシノウィルムが確実に勝つ、とは断言できないものになる。

 

 ……というかそもそも、「確実に勝てる」なんて言葉は、互いの実力が余程離れていなければ出せないものだ。

 国内最高峰のG1レースで、こんなことを言える方が異常事態なんだけど。

 

 

 

「確認だけど、兄さんは今回のレース、トウカイテイオーさん以外のウマ娘は警戒していないの?」

 

 昌に言われ、顎に手を当てて、2人以外の出走ウマ娘のことを思い出す。

 

「実力者は数人いるが……先程パドックで確認した限り、調子が噛み合っていないな。

 ハートブロウアップは絶不調、ダイサンゲンやイノセントグリモアは不調。その他のウマ娘は単純に地力の問題でウィルには迫れないはずだ。

 出遅れや掛かり、事故でも起こらない限り、この流れは変わらないと思う」

 

 ウマ娘のレースは、何もステータスだけで決まるわけではない。

 ……とはいえ、少なからずそこに依存する部分はある。

 ステータスが低ければそれだけ活躍し辛いし、スキルがなければいざという時力を出せないからだ。

 

 あくまでも領域や覚醒状態という例外があるというだけで、原則的にはレースはステータスとスキル、適性によって決まるのだ。

 だからこそ、俺は昔からレース展開の予測を得意としていたわけで……。

 

 ……逆に言うと、「アプリ転生」や資料を読んだだけの浅知恵では測ろうとしても測りきれない、領域と覚醒状態が本当に怖いんだけども。

 

「今回の大阪杯は、ウィルとトウカイテイオーの一騎打ちになる可能性が高い。

 恐らく、少なくとも3バ身、更に開けば5バ身。2着から3着の間には差が開くだろう」

「そんなに……?」

「まぁ、ウィルはその素質だけで言えば、長い歴史でも10本指に入るレベルの優駿だろうからね。

 加えて言えば……すごく手前味噌で情けないけど、彼女のトレーナーである俺も一応は堀野の家で学んだ人間だから、多少は彼女の力になれている……と思うし」

 

 ……しかし、そう考えると恐ろしいな、テイオーの実力。

 

 ホシノウィルムは、恐るべき天才だ。

 なんというか、この世界にはあらざるべきバグとでも言うような、圧倒的な素質を持っている。

 本格化を迎えたばかりである時期の、桁違いの初期ステータス。レース1回で大逃げを掴んで来るような、並外れたセンス。「思考力増加」という、トンデモチートパワー。

 その全てを持っている彼女は、間違いなく走るために生まれて来た優駿と呼べるだろう。

 

 更にそこに、一応とはいえ堀野のメソッドを学び、「アプリ転生」というチート能力を持っているトレーナーが付いているわけで。

 今の彼女は……多少身内贔屓なところがあるとしても、それこそシンボリルドルフやサイレンススズカに並ぶ、史上最強のウマ娘の一角だと思う。

 

 ……で。

 そんな彼女に付いて来てるテイオーは……なんなんだろうな。

 

 いやそりゃ、テイオーだってトップレベルの優駿だよ?

 でも、初期ステータスが高かったりしたわけでもないし、今のところ常軌を逸したチートパワーを持ってる様子はないんだ。

 更に言えば、テイオーのトレーナーはベテランでこそあれ、流石にこちらもチートを持ってるわけじゃないだろう。

 その上、テイオーはウィルより2か月多く休養していたはずで……。

 

 それなのに、今、テイオーはウィルの「ライバル」として……つまり、ウィルを打ち負かし得る強敵として、あのターフに立っている。

 

 ウィルは彼女を称して「本物の天才」と言っていた。

 確かに、ウィルとの間にある差を埋め、懸命に食い下がって来るテイオーは天才と言えるだろうな。

 

 いやしかし、それだとまるでウィルが「偽物の天才」とでも言っているようで、ちょっとやだな。

 まるで彼女の才能がズルか何かだと言っているように聞こえてしまって……。

 

 

 

 …………ん?

 今、なんか引っかかった。

 

 この世界にあらざる……ズル……「チート」パワー?

 

 ホシノウィルムは「思考力増加」というチートレベルの特殊な能力を持ってる。

 一方俺も、「アプリ転生」という真正のチート能力を持ってる。

 

 俺たちはどこか、似ている気がする。

 

 本来ありえないはずの、血統を無視して現れた、ズルと呼んでいい程の高い素質。

 大人のそれとまでは言い辛くとも、その年齢にはそぐわない程の理性と思考。

 ここまでの……特に最初の内に多かった、ネームドのウマ娘に対する多少過剰な反応。

 これだけ強力かつ印象的でありながら、前世アプリでテイオーのライバルとして名前が上がらなかった記憶。

 

 ……まさか。

 

 いや、まさかとは思うが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ホシノウィルムも俺と同じく……。

 前世の記憶とチートを持つ、転生者?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……い。

 いや、いやいやいや。

 

 流石にそれは結論を急ぎすぎているだろう。

 

 そもそもこの世界には、アプリには存在しなかったチートじみた能力が他にも存在する。

 サイレンススズカが持つ先頭絶好調状態なんかその典型だし、ある意味ブルボンの正確無比な感覚もその1つだろう。

 

 変な期待とかせず冷静に考えた時、「ホシノウィルムが転生者で、『思考力増加』能力がチートである」可能性と「ホシノウィルムがチートレベルの超常的な素質を持っている」可能性なら、後者の方がまだ現実的だと思う。多分。

 

 というか、ただウィルがとんでもない素質を持ってたからって、それを転生者と繋げるのは無理がある。

 ……なんかやだな、そういう歪んだものの見方から、同じく前世の記憶を持つ転生者に会ってみたいっていう自分の欲を感じる。

 しかもそれが、2年の時を共にしてきた愛バであれば尚更良いと……。

 

 ……はぁ。久々に重い自己嫌悪。

 俺、今日も頑張る彼女に対して、なんて勝手なイメージを着せてるんだろうか。

 

 前世の記憶を持つ転生者など、この世界に他に存在するとは思えない。

 単純な話、それだけ母数がいるのなら、多少は世間的に知れ渡るはずだからだ。

 この情報が行き交う現代社会において夢物語とされている以上、転生後に記憶を持ち越す人間は極めて少ない……それこそ何兆人に1人とか、あるいは俺だけである可能性が高い。

 

 昌という理解者を得られたことはこの上ない幸福だったが、同じ転生者という同類は得られない。

 そんなことは、とうの昔に呑み込んだはずだったんだけどな……。

 最近は肩の力が抜けたと言われることが増えたが、こういうところまで緩むのはよろしくないな。改めて気を付けなければ。

 

 契約トレーナーは、ウマ娘に寄り添い、支えるべき存在。

 互いに助け合うことはまだしも、一方的に救いを求めるようなことはあってはならないんだから。

 

 

 

「兄さん? どうしたの眉寄せて」

「……あ、ごめん。なんでもない、ちょっと変な想像しちゃっただけ」

 

 軽く頭を振り、俺は改めて視界をターフの上に投げる。

 転生者云々は、取り敢えず忘れよう。今は気にしてる場合じゃないし。

 

「……じゃあいいけど。それで、改めて聞くけど、なんで今日はやけに予防線が厚かったの?」

 

 空気を換えるように聞いてくる昌に、何と言うべきか迷う。

 昌単体であれば簡単に説明できたんだけど、横にブルボンがいるとな……。

 

 ……いや、むしろブルボンなら、殊更何も聞かず、納得してくれるか?

 

「ん……端的に言えば、今回のレース、俺が測れない部分が大きいからだな」

「測れないっていうと……」

「領域だよ」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 領域。

 前世の名称で言うところの、固有スキル。

 

 ウマ娘の極限の集中力が引き起こすゾーン状態……と認知されているこれだが、実際には恐らくそれだけではない。

 ウィルの体験談を聞く限り、その本質は彼女たちの中にあるウマソウルによる、自らの「世界」の展開。自分の周囲に効率良く走ることのできる心象風景の世界を広げる、といったところだろうか。

 まぁ勿論、これはまだ仮説の段階……というか、観測できない以上妄想の段階を抜けないんだが、それはともかく。

 

 今回の大阪杯においては、恐らくこの領域がキーになるだろう。

 ……いやまぁ、そもそも領域がキーにならないレースなんて、これまでになかったかもしれないが。

 

 

 

 俺の意図したところが伝わらなかったのか、昌は「は?」と首を傾げた。

 

「領域って……ホシノウィルムさん、もう領域は習得してるよね。もっと洗練させるって意味?」

 

 あー、そっか、そこからか……。

 そうだな、前世アプリをやったことがない人にはそこから説明しないといけないだろう。

 

「いや、違う。……昌、ブルボン、この前2つ目の領域の話をしたのを覚えてるか?」

「えっと……2つ目の領域を得るためには、2着目の勝負服を着なきゃいけない……だったよね」

「勝負服という『形』に、ウマ娘の魂という『色』を着色することで、領域という『絵』になる。故に、そのウマ娘の走りへのイメージ、ファンの総意である勝負服は、領域に強く影響する、という内容であったと記憶しています」

「うん、ありがとう」

 

 ブルボンの記憶力、改めてすごいな。

 あれか? サヴァン症候群ってヤツ? 持ってたら持ってたで色々と苦労しそうな記憶力だけど、正直少しだけ羨ましい。

 

 俺、何気に物忘れ激しい方だしな。

 今年のローテーション決定の際にも、ブルボンに迷惑かけちゃったりしたし。

 

 と、それはさておき。

 

「今ブルボンが言った通り、勝負服は『形』だ。それを着るウマ娘は、領域という『絵』における『形』を規定されてしまう。つまり……」

「……もしかして、2着目の勝負服を着ている間は、1つ目の領域が使えない?」

「うん、そういうこと」

 

 まぁ、俺の『形』やら『色』やらという推論が正しいとは限らないが……。

 少なくとも、昌の言うことは間違いない。

 

 俺は一旦話を切り上げ、ターフの上でストレッチしているウマ娘たちの方に視線をやった。

 

 他のウマ娘たちから少し距離を置いて、2人のウマ娘が立っている。

 片や、深い群青のコートに身を包んだ大逃げウマ娘、ホシノウィルム。

 片や、燃えるような赤いジャケットを羽織る先行ウマ娘、トウカイテイオー。

 

 不敵な笑みを浮かべて何かを話している、新たな勝負服に身を包んだ2人だが……。

 「アプリ転生」によれば、彼女たちのスキルからは、有記念時点ではあったはずの領域……『天星の蛇龍』と『究極テイオーステップ』の表記がなくなっている。

 そして勿論、今のところ2つ目の領域の表記はない。

 

 ……つまるところ。

 今、彼女たちは領域が使えない状態に戻っているのだ。

 

 

 

「それって……その、マズくない? 他の子たちは領域を使ってくるかもしれないのに、新しい勝負服を着た子は使えないの?」

 

 昌の指摘は尤も至極。

 俺もそこは難しいと思ったが……。

 

「話を聞くに、2つ目の領域の習得は、1つ目の習得よりずっと簡単らしい。

 ロジック的には……『絵』の例えで言えば、既に『形』に『色』を通す感覚自体は理解しているわけだから、勝負服の『形』さえ掴めば簡単なんだとか」

「そういうものなの……?」

「少なくとも、これを聞かせてくれたシンボリルドルフは、2着目の衣装を着たそのレースで2つ目の領域を開いたらしい」

 

 話を聞くに、URA賞を獲った直後の天皇賞(春)でのことらしいが……。

 それを聞いた昌は、何とも言えない顔で眉を寄せた。

 

「うーん……それは……」

 

 彼女の言いたいことはわかる。

 何せ、シンボリルドルフはシンボリルドルフだからな。

 

 ただ、心配はご無用だ。

 俺の担当ウマ娘を舐めないで欲しい。

 

 俺は人差し指を立てて言う。

 

「確かに、シンボリルドルフの才能が故かもしれないが……才能という点では、ウチのウィルだって負けてないと思う」

 

 俺の言葉に、昌は眉をひそめた。

 

「……時々、親バ鹿ならぬトレーナーバ鹿だよね、兄さん。シンボリルドルフさんに負けてないって」

「実際、ホシノウィルム先輩の才能は飛び抜けたものがあります。シンボリルドルフ先輩と才覚の面で同等以上という仮定も、在り得ない話ではないと推測します」

「それはそうかもしれませんけど……いや、流石に永遠の皇帝とは……」

「こっちだって無敗三冠だぞ。なんならこの大阪杯で勝てば、G1勝利数も並ぶし」

 

 いや実際、シンボリルドルフとホシノウィルムを比べれば、少なくとも独自の素質という面ではウィルが勝ると思うんだよね。

 当時のメイクデビューの映像を見るにルドルフの初期ステータスも普通だったっぽいし、恐らくこれと言ってチート級の能力も持ってはいない。

 レースへの感覚や要領に関しても、ウィルは流石「切れ者◎」と言うべきか、とんでもない要領の良さを見せてるしな。

 

 ……そういう意味で、俺はウィルが然るべきタイミングで2つ目の領域を発現させることを疑ってはいないんだけど。

 問題は、それが今回になるかはわからない、ってことなんだよな……。

 

「シンボリルドルフさんより才能で優ってるなら、彼女も今回のレースで領域を開けるんじゃない?」

「その条件が整えば、な」

「条件って、領域を会得する条件は確か……えっと」

「1つ目、そのウマ娘が心身共に充足し、完成された状態であること。

 2つ目、そのウマ娘が自分に合った走りを実現できていること。

 3つ目、そのウマ娘が走りを楽しむこと。

 4つ目、相応する勝負服を身に着けること」

「ありがとう、ミホノブルボンさん。……この4つなら、ホシノウィルムさんは満たしてるんじゃない?」

「あぁいや、そっちじゃなくて……」

 

 俺はそこについて語ろうとしたけど……。

 開けかけた口を、レース場に響く実況解説の声が止めた。

 

 

 

『さぁ、いよいよゲートインが始まります。

 晴天に恵まれた本日、今年最初の芝の中長距離G1レースには絶好の日と言えるでしょう。

 果たしてこのレースの行く末は、現代に紡がれる神話の新たな1ページか、小さな帝王の最初の冠か、あるいは新たなヒーローの誕生秘話か!?』

『注目はやはりダントツの1番人気、5枠9番ホシノウィルム。有記念で無敗神話は惜しくも破れてしまいましたが、今なお龍は健在か?

 輝く1等星に抗うは2番人気、1枠2番トウカイテイオー。完全に復調したという話ですが、果たして長い療養期間を感じさせない走りで一等星に下剋上を見せられるか』

 

 

 

 

「……少し脇道に逸れて、時間を使い過ぎたな。

 要約すると、今回のレースは領域の発現という、俺でも測れない部分が大きなウェイトを占めている。

 故に、少しばかり予防線を張らせていただいた、というわけだ」

「少しばかり? ……まぁいいけど、兄さんから見てホシノウィルムさんが負けちゃう可能性は、実際どれくらいだと思ってるの?」

「だから、このレースは測りきれないってば」

「概算でいいから」

 

 難しいこと言うなぁ、この子。

 うーん……概算ね。

 

 ……阪神レース場。芝。良バ場、状態良好。晴れ。2000メートル。右回り。地形。坂。直線距離360・370・270。急激な勾配変化。その先90。

 大逃げで差を離す。スタートは万全。トウカイテイオーはどう来る? 好位に控えて差すとすれば仕掛けるのは向こう正面中盤以降? 1400からラインを上げるのでは間に合わない。基礎ペースを落とすとすれば。ウィルはいつそれに気付く? トウカイテイオーのスタミナは700余りと控えめ、しかし「レースの天才」は表記上回復スキル。大阪杯の距離なら問題なし。詰めるとすればダービーと同じく二段階での加速か。領域を開く可能性。どの作戦を取りどのように加速しどのように詰める。「思考力増加」は既にバレている前提で考え、ウィルの上がり3ハロンペースから逆算。必要になる最低限の距離は? やはり中盤からのロングスパート、終盤でのラストスパートしか勝ちようがないか。俺が観測できない切り札はあるか? 領域、ウマソウルについて、何かしら気付いていないことは? ウィルの精神的欠陥については。いや、少なくともそこは問題ない。トウカイテイオーがホシノウィルムに迫るとすればそれは終盤、既に彼女は熱している。であれば残る懸念事項はやはり……領域への覚醒。その一点のみ。

 そこを加味して、ホシノウィルムの総合的な敗北の確率を求めるとすれば……。

 

 うん。

 

「30%かな」

 

 色々考えて出た、酷く大雑把な数値。

 そこまで極端に高いわけではないと思うんだが……どうやら、昌は驚いたようだった。

 

「30%!? そんなにあるの!? 30%ってことは一撃必殺が当たる確率だし、つまり当たるかどうかの50%だし、それってつまり100%ってことじゃん!」

「一撃必殺……昌ってポケモンとかやるんだね。ちょっと意外。あととんでもなく理論破綻してるよ」

「いやそこじゃないから! ポケモンはやるけど! そうじゃなくて、30%って!」

 

 まぁ、言いたいことは理解できるけども。

 

「いや昌ね、G1レースの勝率が70%というのはすごいことなんだよ? ウィル、すごく強いんだよ?」

「だってホシノウィルムさんが負けるところとか、あんまり想像できないし……」

「そりゃまあ、領域と『思考力増加』が揃ったウィルはすごいからね。

 でもそれまでの……ダービーの頃までのウィルは、あれで結構ギリギリの戦いだったんだからね?」

 

 

 

 去年のダービー辺りのことを思い出し、ちょっとばかり鬱屈とした気分になる。

 

 ウィルの勝利もそうだけど……正直俺も、当時はかなりギリギリだった。フィジカルもメンタルも。

 

 今思うと、あの頃はめちゃくちゃ焦ってたよな。

 ネイチャが、そしてテイオーが続々と領域に目覚める中、ウィルを領域に導けない不徳。

 彼女の素質を上手く伸ばせず、レースの度にライバルとの差が縮まっていく光景。

 

 それが、辛かった。

 自分の無能さを……自分が何もできないことを、何もできていないことを、見せつけられるようで。

 

 その苦しさが、あるいは俺の視界を狭くしていたのかもしれない。

 ウィルの向けてくれる信頼に気付かず、俺のような若輩ではなく、もっと良いトレーナーに教導を受けるべきだと考えた。

 それこそが、競走ウマ娘としての彼女のためだと、そう思って……。

 ……酷い、裏切りをしてしまって。

 

 そうして。

 

『私はっ! 他の誰でもない、あなたの……『堀野のトレーナー』じゃない、たった1人の、堀野歩トレーナーの!! あなただけの担当ウマ娘なんですよ!! あなたと信頼関係を結んだウマ娘なんですよ!?』

 

 彼女は、俺に向ける無上の信頼を、言葉にして教えてくれたんだ。

 

 その後、ウィルは自分の力で過去を乗り越え、競走ウマ娘として一皮剝けて帰って来た。

 素晴らしい、完璧と言う他ない走りを見せてくれた。

 

 ……あぁ、思い返しても、やっぱり。

 俺はあの日に、ホシノウィルムに救われたんだろうな。

 

 まったく、何が「いつの日か、私にあなたを救わせてください」だ。

 俺が君を助けた分は、既に十分返してもらってるっていうのに。

 

 

 

「兄さん?」

「ん……すまん。ちょっと古傷というかなんというか」

 

 いや古傷というか、どっちかと言えば黒歴史。担当にめっちゃ迷惑かけて助けられたっていう黒歴史だ。

 あーもうホント、過去にタイムスリップして自分をぶん殴ってやりたい……。殺してやりたい……。ウィルが向けて来てる想い……好意はともかく、信頼には気付くべきだろ、トレーナーとして……。

 

 ……あー、駄目だ駄目だ、切り替えなきゃ。

 今はウィルのレース直前だ。黒歴史はもう過去のもの、悶えるのは後でいいんだから。

 

「ん、ん。とにかく、今回のレースはウィルとテイオーが領域を開けるかにかかってると言ってもいい。

 まぁどうあれ、俺たちとしては、ウィルの勝利を信じ続けるだけだな」

「……結局、信じるしかないんだよね、私たちは」

 

 あぁ、その通り。

 トレーナーは、実際に走るわけじゃない。

 ウマ娘を鍛え、導き、信じる。

 俺達にできるのは、それくらいだ。

 

 だからこそ、精一杯、応援しないとな。

 

 

 

 * * *

 

 

 

『さぁ、ウマ娘たちのゲートインが完了。いよいよ出走準備が整いました』

 

 

 

 いよいよ、始まる。

 久々の……俺からすればジャパンカップ以来の、リアルタイムで見られるホシノウィルムのレースが。

 

 知らぬ間に、口角が上がっているのを自覚した。

 また彼女の走りを見られると思うと……それだけで、嬉しい。

 

 あぁ、だからどうか見せてくれ、ウィル。

 俺に、君の、脳が沸騰するような、最高の走りを。

 

 培ってきた研鑽が、積んで来た努力が積み重なった、その果ての……。

 俺と君とで作り上げた、「競走ウマ娘ホシノウィルムの走り」を。

 

 

 

『春の中・長距離三冠第一弾、大阪杯。栄冠を掴むのは誰か!

 …………今スタートしました!』

 

 

 

 その瞬間。

 

 ホシノウィルム(灰の龍)は、飛び立った。

 

 

 







 そんなわけで、大阪杯スタートです。

 本当はもうちょっと先まで書こうと思ってたんですけど、書いてる内に内容が膨らんでそこまで行けなかった……。
 内容も散文的だし、もうちょっとプロットの作り方工夫した方がいいかもしれない。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、大阪杯中編・龍視点。



(雑談)
 「流石に海外レースをちゃんと実装するのは難しいだろうし凱旋門賞書いちゃお~w」とか思ってたら凱旋門賞シナリオ来ちゃったんですけど!? もうそこそこプロット組み上がってますけど!?
 ローレルストーリー読んだ時に「あれ、これ凱旋門賞実装……? いやまさかな」とは思ったんですけど、だからってホントに来るとは思わないじゃん!?
 ど、どうしようこれ……! 取り敢えず読んでみないと……。

(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!
 測ると量ると計るの使い分け、難しすぎ。


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サイレンススズカ絶対倒すマン

 女の子やぞ。

 大阪杯中編、ウィル視点です。





 

 

 

 数か月前。私とブルボンちゃんの今年のローテーションを決定した、その少し後のことだろうか。

 私はトレーナーに、こう言われたと思う。

 

『正直言うと、君に関して、これ以上手を入れなければならない部分は少ない。何故なら、現在のホシノウィルムは大きな弱点を有さないウマ娘だからだ。

 スタートも良好、掛かりもしない、コーナーも上手ければスタミナは十全、末脚までキレる。大逃げウマ娘として、これ以上はないと言っていいだろう。

 ……故に、これから取るのは有記念で立ち塞がった君の天敵、サイレンススズカへ特化した対策だ』

 

 サイレンススズカさん。

 私が有記念の前半で競った、異次元の逃亡者とあだ名される、私と同じ大逃げウマ娘。

 

 前世アニメでも、スペ先輩の先達として圧倒的な走りを見せてたスズカさんだもの。

 当然、とんでもなく強いってことはわかってたし、警戒してはいたんだけど……。

 実際に走ってみると、正直、想定の何倍もヤバかった。

 

 スタミナのやりくりとか考えてないのかっていう走りで──実際、彼女は先頭にいる限り体力が無限に湧いて来るらしいし、本当に考えてなかったんだろうけども──、こっちがチートまで使ってるっていうのに、それからすら逃げ切るかと思うくらいの速さ。

 今思い返してみても、あの有記念時点では、「アニメ転生」を使わずにスズカさんを越えることはできなかっただろうと思う。

 実際、「アニメ転生」の制限時間ギリギリ、頭痛がし始めるくらいでなんとか越えられたわけだし。

 

 まぁ、逆に言えば。チートを使ったとはいえ、あの異次元の走りを越えられたのは、私の新たな誇りの1つだったりするんだけど……。

 

 

 

 ……とはいえ、いつまでも後輩気分じゃいられない。

 スズカさんとの戦いは、終盤じゃなく序盤のもの。言ってしまえば前哨戦だ。

 ここで大きな負担を強いられる現状を、そのままにはしておけない。

 

 スペ先輩やスズカさんはトゥインクルシリーズから退き、ドリームトロフィーリーグへと歩みを進めた。

 つまり、トゥインクルシリーズにいる私とは、しばらくの間対戦することはないんだ。

 

 でも、それはあくまで「しばらくの間」だ。

 私がドリームトロフィーリーグに進めば、再びスズカさんとぶつかる可能性は、高い。

 そうなれば、また私は前半で「アニメ転生」という切り札を切らなきゃいけなくなる。

 そうなると当然、本来はそれを使うはずの後半の方で不利になるわけで……。

 

 私と歩さんは、これを何とかしようと対策し始めた。

 つまるところ目指したのは、スズカさんに対して確実に、なおかつ負担少なく勝つ方法の模索だ。

 

 ……いや、そんな方法があるのなら、他のウマ娘全員がやってそうではあるけど。

 そう思った私だったけど……歩さんが提示してくれた答えは、案外簡単で単純なものだった。

 

 

 

「3歩で、サイレンススズカに勝つ。

 それが……ホシノウィルム。次に君の身に付けるべき技術だよ」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 回想を終えて、まぶたを開く。

 

 白く眩しい視界に映るのは、ずっと先まで続いた煌めくターフと、私の周りを覆う無機質なゲート。

 それからついでに、1つ飛ばした隣で、ちょっとうずうずしてるライバルのウマ娘の姿も。

 ……いや、うずうずしてるっていうか、なんかこっち見て来てるな。

 

 あの子は……私の入ったゲートの2つ隣の内側だから、4枠7番……あぁそうだ、有記念でかなり好走した、ダイサンゲンちゃんだっけ。

 どうやら私をかなり意識してるらしくて、彼女はチラチラとこっちの様子を伺っている。

 

 が、その視線は唐突に途絶えた。

 ダイサンゲンちゃんが視線を戻したとか、そういうわけじゃなくて……。

 私のすぐ横、また1人のウマ娘がゲートインを果たしたからだ。

 

 落ち着いた様子の栗毛のウマ娘。特徴的なのは綺麗な流星と、ウマ娘としてはちょっと珍しい眼鏡……。

 私もよく知る前世アニメのネームドウマ娘、イクノディクタスちゃんだ。

 彼女はチラリとこちらを見た後、すぐにターフに視線を戻した。

 

 いやぁ、すごいマークされてるなぁ、私。

 まぁ、このレースのダントツ1番人気だもん、マークされない方がおかしいし……。

 何より、誰かを意識してるって意味じゃ、私も人のこと言えないんだけどさ。

 

 ……そんなわけで、大阪杯出走直前、ゲート入りの時間。

 私は物思いにふけりながら、その時が来るのを待っていた。

 

 

 

「すぅ、はぁ」

 

 軽く、深呼吸。

 ……さて、セルフチェックでもしようか。

 

 脚の状態は万全、違和感なし。精神状態も良好、気になる部分もなし。

 作戦はきちんと記憶に入ってるし……「アレ」のイメトレも完璧。

 

 つまるところ、今の私は絶好調。

 いつも通りと言えばいつも通り、レースに全てを注げる状態だ。

 

 うん、そうじゃなきゃいけないよね。

 

 なにせ今回走るのは……あの大阪杯なんだから。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 トウカイテイオー世代のシニア級1年目にあたる、大阪杯。

 これは、前世アニメで見た、テイオーの復帰戦だ。

 

 日本ダービー後に骨折を起こし、三冠を諦めなければならなかったトウカイテイオー。

 けれど彼女は、「無敗」を貫くために再び立ち上がり、このレースに挑んだ。

 

 その結果は、圧勝。

 1年弱ぶりのレースという不利を跳ね除け、彼女はその実力が健在であることを証明する。

 そうして、あのマックイーンさんとの天皇賞に続くわけだけど……。

 

 この世界のテイオーは、前世アニメのテイオーちゃんとは、ちょっと違う。

 

 そもそも復帰戦はこの大阪杯じゃなくて去年の有記念だし、何より……。

 

 

 

『このレース、勝たせてもらうよ。

 ボクはトウカイテイオーだ。ホシノウィルムの「絶対」を、ボクこそが覆してみせる』

 

 

 

 さっき言われた言葉を思い出して、ゾクリと背筋が震えた。

 あぁ、いけない、喜悦は抑えないと、自然と口角が上がってしまう。

 

 ストレッチしている時に真正面からぶつけられた、殺意にも等しい敵愾心。

 しかしそれは、冷たく痛い憎悪によるものじゃなく、熱く滾るような闘争本能によるもの。

 

 こちらを害し貶めるのではなく、自分を高め続けることで、必ずお前を越えてみせると……。

 私の最強のライバル(トウカイテイオー)は、その視線だけで堂々と伝えてきた。

 

 そうして、あの言葉。

 自分を、トウカイテイオーを証明するために、お前を倒す、と。

 どこまでもエゴイスティックに、どこまでも自分勝手に、彼女は私に宣言したんだ。

 

 

 

 その決意を秘めた視線に、灼け付くような熱に、私は見覚えがあった。

 いや、「ホシノウィルム」は覚えがなかったんだけど……「私」は、確かにそれを知っていたんだ。

 

 夢をかけた優駿。

 絶対の帝王。

 何度事故で挫けても、何度悔しさに突き落とされても、それでも這い上がり続けた奇跡の象徴。

 

 あの日、あの時に見た、私の憧れ。

 

 トウカイテイオー。

 

 日本ダービーの時より、なお強く。

 焦りもなければ悲しみもなく、ただただ目の前のレースに集中しきった彼女は……。

 私が憧れていた鮮烈な光、そのものだった。

 

 

 

 ……そんなあなただからこそ。

 このレース、負けられない。

 

 

 

 越えたいのは、私も同じなんですよ、テイオー。

 

 あなたが私を、最大のライバルと目して、その背中を越えたいと思ってくれてるのと同じように……。

 私だって、あの日に見た光を、憧れを、この脚で越えてみたいんだ。

 

 この世界に生まれついた、1人のウマ娘として。

 前世で憧れたあなたを、全力全開の帝王を……あの奇跡のような走りを、越えたい。

 

 

 

 あぁ……思えば私、あなたをちゃんと超えられなかったんですね。

 少なくとも、私自身の意識の中では、あなたを超えられたような気がしなかった。

 

 これまで、ホシノウィルムとトウカイテイオーが競ったレースはたったの3度。

 皐月賞、日本ダービー、そして有記念。

 けれど、そのどのレースでも、最初から最後まで本気で競い合ったことはない。

 

 皐月賞のあなたは、まだ本気になり切れていなかった。レースに集中できていなかった。

 ただ普通に走れば勝てるから。まだ敗北を知らなかったから。

 あなたはただ、いつも通りに走ろうとして……私に、負けてしまった。

 

 日本ダービーのあなたは、最後の最後で脚を緩めてしまった。

 未来の勝利を望むからこそ、最後まで無理をし続ける道を選ばなかった。

 誇りやプライドを投げ捨ててでもその道を選べたのはとても尊いことと思うし、きっとそれは彼女にとっての正解の1つではあるけど……1つだけ、自分勝手を言わせてもらうなら。

 最後の瞬間まで本気のあなたと走れなかったことは、ちょっとだけ残念だった。

 

 有記念のあなたは、まだ走りを模索していた。

 本気で勝ちたいと望むからこそ、年末の大一番を試金石として使うことを選んだ。

 足首への負荷は少なく、それでいてちゃんと速度の出る走法を模索して……それを調整する場として、年末の大一番、グランプリレースを消費した。

 

 あなたと、最初から最後まで、全力全開で走れたことはなかった。

 本当に「帝王を越えた」と思えた勝利は、これまでになかった。

 

 

 

 でも、今がその時だ。

 

 あの日本ダービー以来、あなたはちゃんと私に、レースに向き合ってくれるようになった。

 ダービーと有記念ではあなたの脚の調子から、本当の本当に本気の勝負とはいかなかったけれど……。

 

 その走法も仕上がったらしく、怪我のリスクの少ない今回こそが、その時。

 

 

 

 大阪杯は、その距離2000メートル。

 ステイヤーの私からすれば足を余しかねない、ミドルディスタンスのテイオーからすればその瞬発力を活かしやすい、絶好の距離。

 ここで全力のテイオーを超えれば、文句なんて出せないくらいの、完璧な勝利になるはずだ。

 

 だからこそ、この大阪杯は、特別。

 

 無冠の帝王が、灰の龍に挑むレースであると同時……。

 同時に、1人の転生者が、憧れのウマ娘に挑むレースでもあるんだから。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「……ふぅ」

 

 興奮と、僅かな不安を、息にして吐き出す。

 

 ……どうだろう。

 勝てるかな、トウカイテイオーに。

 

 自画自賛になって申し訳ないけど、私は正直、とんでもなく強いウマ娘だと思う。

 転生チートのおかげで身体スペックも高いし、脚も他の子たちに比べて頑丈だ。

 その上「アニメ転生」での思考力爆増もある。

 ぶっちゃけ並大抵のウマ娘には……というか、それこそ相手が三冠ウマ娘級の相手だろうと、簡単に負けてやる気はない。

 

 が、相手がトウカイテイオーとなれば……流石に不安にもなるってものだ。

 

 ありとあらゆる不利を、逆境を、不可能を覆した、奇跡の復活劇。

 「勝てるわけがない」と言われたレースを実力だけで勝ち切ったのが、トウカイテイオーだもの。

 

 彼女が本気を出した時、そこにある不可能は不可能でなくなる。

 ……ぶっちゃけ彼女、私なんかより余程「不可能を覆す」存在なんだ。

 

 いくら私が、転生チートウマ娘とはいえ……。

 あのトウカイテイオーに確実に勝てるかと訊かれると、正直疑わしいと思ってしまう。

 

 

 

 ……でもね。

 今の私は、1人じゃないんだ。

 

 ゲートの中から視線を投げた先には……。

 昌さんやブルボンちゃんに何かを話している、歩さんの姿があった。

 

 競走ウマ娘は、1人で走るわけじゃない。

 トレーニングを付けてくれて、私生活まで支えてくれて、私たちを導いてくれるトレーナーさんと、二人三脚で走るんだ。

 

 だから……だからきっと、私だけじゃなく、歩さんとなら。

 2人でなら、あのトウカイテイオーにも勝てるって、信じられる。

 

 ……いいや、ちょっと違うな。

 信じられる、じゃない。

 

 ただ、勝ちたいんだ。

 あなたと私の2人で……あのライバルに、最高のレースに。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 私がターフを眺めながら自分の心をまとめていると、その時が訪れた。

 

 

 

『さぁ、ウマ娘たちのゲートインが完了。いよいよ出走準備が整いました』

 

 

 

 聞こえて来る実況の声が、忍び寄るレースの気配が……私の心を冷やす。

 

 けれど、その「冷やす」っていうのは、決して悪いものじゃない。

 

「……良い寒さだ」

 

 心から湧き上がる炎を消すことはなく、けれど一時的に底の方に封じ込めて、ひたすらに目の前のレースに集中させてくれる。

 荒れ狂う興奮と不安は徐々に沈静化していって、思考が一方向のみに向けられて……。

 

 そうして、スタートに万全な状態が整っていく。

 

 

 

 あぁ……感じる。

 多くの視線、期待、不安。

 歩さんが、そしてファンの皆が、私に想いを向けてくれているのがわかる。

 

 勝って欲しい。

 より良い走りを見せて欲しい。

 期待に応えて欲しいって。

 

 何万人という人たちが、ホシノウィルムに夢を見てくれている。

 

 ありがとう。

 そうして期待され、応援されるからこそ、私たちは前を向いて走れるんだ。

 

 そして、だからこそ、その期待に応えたくなる。

 皆の夢を背負って走るのが、私たち競走ウマ娘なんだから。

 

 

 

 スタートの時間までは、あとわずか。

 

 重心を落とし、集中する。

 

 いつでも駆け出せる体勢で、前を向いて、精神を研ぎ澄まして──。

 

 

 

 

 

 

『春の中・長距離三冠第一弾、大阪杯。栄冠を掴むのは誰か!

 …………今スタートしました!』

 

 

 

 

 

 さあ、今こそ、「飛翔」の時。

 

「……ッ!」

 

 ウマ娘が認識できる、最速のタイミングで。

 私が振るうことのできる、渾身の力で。

 大逃げという脚質として、絶妙な塩梅で。

 ……その全てが整っているからこその、盤石の態勢で。

 

 私は、地面を蹴り上げる。

 

 

 

 

 1歩。

 この脚に振るえる全ての力で、体を前へと蹴飛ばして。

 

 2歩。

 余りの速さに崩れかけた姿勢を整え、それよりもなお加速して。

 

 そうして、3歩。

 ……前もって設定していた、目標速度に到達する。

 

 

 

 言葉にすれば、ただそれだけ。

 私が全力で芝を蹴り飛ばし、抜群のスタートを切ったというだけだ。

 

 けれど、たったそれだけのことで……。

 私は、ただ1人だけの世界に、入った。

 

 まさしく、大空に飛び上がったように。

 

 

 

『いつも通り抜群のスタートを切って前に出たのはホシノウィルム、一気に前に躍り出て先頭の座を確かなものとしました!

 17人は揃って綺麗なスタートですが、いやしかしホシノウィルムが速すぎる! 3バ身4バ身とぐんぐん差が開きます! 内からイクノディクタスが後を追うが、初速の違いか差は開くばかり!』

『これは……すごいですね。とんでもないスタートダッシュ、もはやスプリンターと見紛うばかりです。有記念の反省からか、その翼は未だ衰えることなしといったところでしょうか』

 

 

 

 ……有記念で私が競ったサイレンススズカさんは、理論上、無敵のウマ娘だった。

 

 完璧なタイミングと言っていいスタートダッシュを決め、圧倒的な加速力で先頭に立ち、その後はスタミナの縛りを受けずに、最高速度でどこまでも逃げ続ける。

 そんなことができたらそりゃあ強いだろうねっていう、文字通りの「夢の走り」だ。

 

 実際、チートレベルで強いはずの私でさえ転生チートの「アニメ転生」を使わなければ追い抜けなかったわけで……。

 あれで終盤、領域まで使われたら、他のウマ娘はもうどうやったって勝てないだろう。

 

 まさしく、理論上最強。

 ぼくのわたしのかんがえたさいきょうのうまむすめ、というヤツである。

 ……ホントに転生者じゃないのかな、あの先輩。

 

 そもそもさ、「スタミナが無限になる」って能力があまりにもチートすぎるんだよ。

 スタミナ無限ってことはつまり、ゲートからゴール板前まで、常に全力疾走できるってことだ。

 スタミナの割り振りが肝要になるウマ娘のレースの競技性を真っ向から否定してるようなもの。とんでもない天然チートである。

 ……いやまぁ、600メートルとはいえスタミナ無制限のトンデモ走法のできる私が言うことじゃないかもしれないけどさ。

 

 

 

 とにかく、サイレンススズカは強い。

 いやもう強いっていうか、ぶっちゃけ彼女を越えられるのはチート持ちである私か、あるいはレース前半に領域を使う大逃げウマ娘くらいのものだろう。

 

 ……まぁそもそも、現在トゥインクルシリーズのG1級のウマ娘やドリームトロフィーリーグのウマ娘の中に、大逃げウマ娘は少ない。

 それを基本戦術にするのは、スズカさんと私、それからちょっと贔屓目に見てターボくらいかな。

 

 ターボの領域がどんなものかは知らないけど、多分ターボじゃスズカさん相手はキツいはず。

 つまるところ、スズカさんに勝つことができるのは、おおよそ私だけ、ということだ。

 

 それ自体は光栄だ。

 あの異次元の逃亡者に勝てるっていう称号は、シンプルに嬉しい。

 

 嬉しい、が……。

 この状況を、看過してはおけないのも事実。

 

 サイレンススズカさんには、いつかリベンジしなきゃいけない。

 いつかは必ず、真正面から逃亡者を超えなきゃいけない時が来る。

 

 更に言えば、彼女との戦いを制した後に、他のウマ娘たちにも勝たなきゃいけない。

 だからこそ、最も確実に、最も少ない消耗で、サイレンススズカを超える必要がある。

 

 そして考え得る限り、その方法は、ただ1つ。

 

 

 

 そもそも、サイレンススズカに、一瞬たりとも先頭を譲らない。

 スタートダッシュの段階で、私がサイレンススズカよりも、ずっと前に出る、ってこと。

 

 

 

 私はそれを為し得るために、歩さんの指導の下、徹底的にスタートを練習した。

 「アニメ転生」の思考加速も使って、新たに教えられた技術を走りに馴染ませながら、とにかくより速いスタートダッシュを追い求め続けた。

 

 その結果生まれたのが、これだ。

 

 タイミングも、加速力も、走りの勘も整えて、これ以上ない完璧な状態で走り出す。

 そうして……レース開始から3歩目までに加速を終了させ、既定の速度に到達する。

 

 これこそが、歩さんの組み上げてくれた、私の新たな技術の集合。この数か月の鍛錬の結晶。

 

 名を、「三歩飛翔」。

 

 先手必勝を誓うスズカさんから確実に先頭をもぎ取るための、ホシノウィルムの新たな切り札の1つだ。

 

 

 

『ホシノウィルムの埒外のスタートダッシュから始まった大阪杯、現在2番人気トウカイテイオーは先行集団外側で見ている。一方3番人気ハートブロウアップは後ろから3頭目、ゆっくりと状況を見ています。

 大歓声がゴール板前から第1コーナーへ尾を引く中で、今ホシノウィルムが第一コーナーへ入っていきました、現在400メートル通過!』

 

 

 

 目論見通り、私は抜群のスタートを切った。

 一気に番手の足音を引き離し、現在9バ身差。

 そう間もなく、これ以上加速することもなくとも、大差に広がるだろう。

 

 レース展開は順調そのもの。

 500メートルまでに2番手との距離を大差に広げるというプランは、問題なく果たせるはずだ。

 

 ……ただ、まぁ。

 

 それだけ早くスタートを切れば、当然ながら負荷もあるんだけども。

 

「…………」

 

 私の身に付けた新たな技術「三歩飛翔」は、端的に言えば、スタートで限界以上の加速をするってもの。

 限界以上ってことは、つまりは私の脚に許される範囲を超えて、という意味で……。

 ああいや勿論、長期的な脚へのダメージとか、そういうんじゃないけど。

 単純に、これを使おうとすると、一気にそこそこスタミナを消耗してしまうんだ。

 

 ……とはいえ、今回はそれも問題にならないんだけどね。

 

 私は、歩さん曰く、マックイーンさんに並ぶスタミナを持つ、生粋のステイヤー。

 そんな私にとって、この2000メートルの舞台で脚を使い切るなんて、そもそもありえないわけで。

 

 つまり。

 少なくともこのレースにおいては、「三歩飛翔」は、ほぼノーリスクで使えるってわけだ。

 

「ふっ……!」

 

 勢いそのまま、遠心力を殺しながら息を入れ、適度に脚を回す。

 

 息はまだまだ乱れてない。まだまだスタミナには余裕がある。

 このペースでなら、最後まで綺麗に走り切るとができるだろう。

 

 ……いや、むしろ。

 なんか、こう、何とも言い難い違和感を感じる。

 

 

 

『現在第二コーナーを快調で飛ばす新衣装のホシノウィルムを先頭とし、大きく開いて2番手は8番イクノディクタス! 3番手カジュアルスナップ、続いて外にトウカイテイオーとなっています!』

『縦に広がった展開ですが、ホシノウィルムが参加しているにしては例外的にローペースな展開ですね。あのスタートダッシュからこの展開は意外ですが、果たしてこれは龍の策略か、それとも?』

 

 

 

 もしかして……ちょっと遅い、か?

 

 私はいつも通りに走ってたつもりだったけど、気付けば少しだけ、予定よりもペースが遅くなってる気がした。

 これは……いや、「三歩飛翔」はちゃんと使いこなせるように調整した。歩さんからもお墨付きをもらったくらいだし、そこが問題なわけじゃない。

 では、不調? いや、これもありえない。もし私が不調なら、あの歩さんが見逃すはずがないし。

 無意識にテイオーの圧に屈した……とも思えない。むしろ楽しくて口角が上がりそうなくらいなのに。

 

 となると、これは……。

 

 もしかして、ハメられた、か?

 

「……さて」

 

 どうかな、これは。

 もしも私の予想通りなら、正直びっくり、そこまでやって来るか、って感じだけど……。

 

 ……いいや、やって来るか、あのテイオーなら。

 突発的にネイチャレベルの策謀を練って来ても、何らおかしくはない。

 

 しかし、だとすると……。

 歩さんのプランの中でも、かなりマズいトコに入ったな、これ。

 

 

 

 歩さんは、今回の大阪杯の前半部分で、6つのルートを想定していた。

 

 万全に前半を駆け抜けられる、Aルート。

 「三歩飛翔」によって想定以上のハイペースで走ってしまった、Bルート。

 まだまだ不慣れな「三歩飛翔」が不発し、万全なスタートとまではならない、Cルート。

 普段よりもローペースで走ってしまう、Dルート。

 私の不注意から、スタートで出遅れてしまう、Eルート。

 ……事故や不慮のアクシデントが発生する、Fルート。

 

 前にあるもの程私の有利に事が運んでいる展開で、逆に後に行けば行く程不利な展開だ。

 

 これらの想定の内、今回入ったのはDルート。

 最悪とまでは言えずとも、決してよろしくはない展開かな。

 

 しかもこれ、DルートはEやFとは別の意味でマズいんだよね。

 なにせ、EやFはあくまで不運や私のミスによるものだけど……Dは十中八九、他のウマ娘の策にハマっちゃったことを意味するんだから。

 

 

 

 歩さんには注意されたし、気を付けたつもりだったんだけど……マジか、あれで遅れてたのか。

 正直言って、全然わからなかった。1人2人なら足音から気付けたはずだけど……まさかテイオー、バ群全体を誘導したっていうのか?

 まさか、ネイチャレベルの扇動? 前もって布石を撒いていたのか?

 

 ……いや、違うか。

 思わず踊らされるくらい……誰もが、トウカイテイオーに注目していた、のか。

 

 全く、流石と言わざるを得ないな。これじゃどっちが1番人気かわかんないね。

 

 ……でも、これだけじゃ、駄目だ。

 これだけじゃ、負けてあげられないよ、テイオー。

 

 

 

『向こう正面の直線に入りました、依然変わらず先頭はホシノウィルム。輝くターフに群青のコートが映えますね』

『他のウマ娘からは距離が離れているためわかりづらいですが、ややギアを上げましたね。この距離からテンポを上げるつもりなのでしょうか?』

 

 

 

 ……よし、おっけー。

 今度こそ歩さんと決めた規定ペースに乗せた。

 

 ここからあと……ハロン棒通過。あと1200メートルか。

 良くないルートに入ったのはマズかったけど、まだまだ全然取り返せる。

 

 それに……いいや、むしろ。

 

 

 

 

 

 

 ゾワ、と。

 

 青い、陽炎のような炎が、視界の端に映った。

 

 

 

 

 

 

 ……なるほど。

 そういうことも、あるのか。

 

 思えばコレは、別に終盤に開くと限ったものじゃない。

 最終コーナー以降に開くものが多いらしいけど、序盤とか中盤に開くものもあるらしいって、ネイチャから聞いたことがある。

 その効果だって、速度が限界を超えるもの、一気に加速するもの、走るガッツを取り戻すものと多種多様。

 まさしく、十人いれば十色の領域があるわけだ。

 

 で、1つ目の私の領域……歩さん曰く、「天星の蛇龍」だったか。

 あれは、終盤に他のウマ娘を見て熱を感じることで開き、多分速度の上限が取り払われたり加速力が伸びたりと、総合的なスペックが上がるものだった。

 

 ……でも、2つ目の領域も、必ずしも終盤に開くとは限らない。

 

 こうして、レースの折り返し、中盤あたりがそのタイミングとなることも、ある。

 

 

 

「……ふふ」

 

 視界に、少しずつ、青い炎が増えて行く。

 

 この感覚、よく知ってる。

 

 まぶたの裏に焼き付いた、数多の星々が輝く空。

 私を温めてくれる、全てが詰まった世界。

 

 この炎は、あの星々と同じだ。

 歩さんの言葉で言うところの『形』は違うけれど……どちらも、流し込まれた『色』は同じ。

 

 青い炎が、視界に、ヒビのように走る。

 これは、私を温めてくれるもの。私を燃やしてくれる熱。

 

 あぁ、もう少し。

 もう少しで、この手に掴める。

 

 私の2つ目の、領域を、この手で────

 

 

 

 

 

 

 ────掴んだはずの、領域は。

 

 私の手を、すり抜けて、消えた。

 

 

 

 

 

 

 ……あぁ、クソ。

 なるほど、そういうことか。

 

 私は今、確かに領域を開きかけた。

 「天星の蛇龍」と同じ要領で、青い炎という『形』に私の『色』を流し込んだ。

 

 ……でも、開き切らなかった。

 あともう少しのところで……しかしながら、決定的な壁に阻まれて、領域を開けるタイミングは過ぎ去ってしまったんだ。

 

 そして、開きかけた領域の残滓がこの手に触れて、ハッキリとわかった。

 

 

 

 この、2着目の勝負服の領域。

 

 この距離(2000m)この(ロー)ペースだと……。

 消耗具合が足りなくて、使用できないらしい。

 

 

 

 あー、もう。

 確かにさ、思ったよ? 皆にダービーの続きを望まれてるとは。

 私とテイオーだって、あの日の続きを走るような気持ちで、このレースに臨んではいると思うよ?

 

 でもさ、領域が使えないってトコまでは再現しなくていいんだけど!?

 

 

 







 スキル進化!

「先手必勝」→「三歩飛翔」
 スタート時にスタミナを使って一気に前に出る。他の大逃げウマ娘と競う場合は更に加速する。〈作戦・大逃げ〉

 条件1:サイレンススズカとの先行争い勝利するorレース序盤に発動する加速スキルを2つ以上所持する
 条件2:パワーが800以上になる



 ホシノウィルム
『???』 未収得
 レース中間付近でスタミナを消耗していると……???



 ウィルの2着目の領域は、最大スタミナから計算した消耗割合で開くタイプ。
 2000メートルでそれと知らず発動するには、三歩飛翔のデメリット込みでも、今のウィルは育ちすぎていました。マエストロとかもあるしね。

 それと、スタートダッシュで発動していたのは、「コンセントレーション」「大逃げ」「三歩飛翔」「盤石の構え」の4つ。
 サイレンススズカ……逃げさせん……お前だけは……。



 次回は3、4日後。別視点で、大阪杯後編・帝王視点。



(追記)
 ついに来ちゃった、一等星ことシリウスシンボリさん。
 ウィルとか世代の設定を練ってた当時はシリウスさんのことを忘れててですね、うかつにもウィルのシンボルとして星と龍を採用しちゃいました。
 結果として、本作では一等星と呼ばれるウマ娘が2人もいることになります。
 紛らわしくてごめんなさい。シリウスさんファンの方にも本当に申し訳ない。
 でももう引っ込み付かないし、一等星は1つじゃなくたくさんあるってことで、どうぞよろしくお願いします。


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空の虹霓、地の虹霓

 虹霓(こうげい)
 虹のこと。また、中国では虹は空を飛ぶ蛇と思われていたことより、蛇や龍を指すこともある。

 大阪杯後編。
 今回はウィルとトレーナーの視点を離れ、帝王の視点からお送りします。





 

 

 

 メイクデビュー。

 葉牡丹賞。

 ホープフルステークス。

 弥生賞。

 皐月賞。

 日本ダービー。

 宝塚記念。

 菊花賞。

 ジャパンカップ。

 そして、有記念。

 

 ホシノウィルムがこれまでに出走した、10の公式レース。

 更にそこに、最近は少なくなったみたいだけど、一昔前はしょっちゅう出走していた、非公式の模擬レースの数々。

 

 大阪杯の数週間前、ボクはそれらの映像を見てて、1つ、疑問に思ったことがあった。

 即ち……。

 

 ホシノウィルムは、一体何を基準にして自分の速度感を測っているのか、だ。

 

 

 

 色んな面で人間よりもスペックが優っていると言われるウマ娘だけど、勿論と言うべきか、そこには例外も存在するんだよね。

 

 例えば、燃費。

 ボクたちは高い身体能力を持ってる代わりに、人間に比べるとすごく燃費が悪い。

 どれくらい大食いかはウマ娘にもよるんだけど、どれだけ少なくとも成人男性くらいは食べるし、特に多い場合は……この前見たスぺ先輩たちのアレは、うん、正直ちょっと引いたよね。

 どう見ても本人の体より多い体積が口に流し込まれていくんだけど、どれだけ食べても箸が止まらないんだもん。しかも全部食べ終わっても、ちょっとお腹が膨らむくらいで済んでる。一体どんな消化能力してるんだろう、スぺ先輩とかオグリ先輩。

 

 燃費の他にも、思考能力もその1つだ。

 ボクたちは体こそすごいけど、その頭は人並みだって言われてる。

 いや、時速70キロで走りながら冷静に考える頭があるんだから、頑丈さは人よりは優れてるって言ってもいいかもしれないけど……。

 少なくとも、頭の回りの速さは、普通の人のそれと変わらないんだ。

 ……約1名の例外を除いて、だけどね。

 

 更には、聴覚と嗅覚を除く感覚も、そう。

 ボクたち、匂いだけでも個人を特定できるくらいには鼻が鋭いんだけど、この特徴的な耳からか、聴覚に比べると案外知られてなかったりする。

 でも、逆に言えば、それを除く五感……視覚に味覚、触覚なんかは、人間とそう大差ないんだ。

 思考能力と同じように頑丈でこそあるものの、センサーとしての機能は普通。

 その他にも、時間感覚とか平衡感覚とかも、基本的には人間の枠に収まっているレベルなんだって。

 ……これもまた、一部の例外を除いてだけども。

 

 

 

 で、だ。

 感覚が……特に、視覚や時間感覚が人間と同じであるボクたちは、実際に走りながら体感でタイムを測る、なんてことはできない。

 どれくらいのペースで走ってるかはわかっても、その正確な速度までは割り出せないんだ。

 だからこそ、トレーニングや追い切りの時も、トレーナーにストップウォッチで測定してもらう必要があるわけで。

 

 勿論、さっき言ったような例外……感覚が機械のように正確だって話のミホノブルボンとか、それこそ思考力増加能力を使っている状態のウィルムとかなら、そういうこともできるんだろうけど。

 

 ……が、それはつまり、逆に言えば。

 思考力増加能力を使っていない前半のウィルムは、ボクたちと同じ、普通のウマ娘として走っているはず。

 大まかなものはともかく、自分のペースの正確無比な調整は難しいはずだ。

 

 ウマ娘は、常に同じペースで走るわけじゃない。

 芝やバ場の状態、天候とかレーンに直線コーナーの条件……そして、他のウマ娘との位置関係。

 それらに合わせて、ボクたちは走る速度を調整するんだ。

 

 でも、逃げウマ娘は。違う。

 彼女たちは、他のウマ娘よりも前に出て、前半から距離を離すことが多い。

 だから、他のウマ娘たちと競い合い、そこから適切なペースを測ることもできない。

 結果として、あまりにも飛ばしすぎてスタミナを浪費したり、逆に緩く逃げてしまった結果差されたり、といったことも起こり得るわけだ。

 

 ……それが一般的なウマ娘であれば、の話だけど。

 

 ウィルムは、思考力増加の他にもう1つ、特殊な力を持ってる。

 まぁ思考力増加の方が目立つし、こっちがメインっぽく思いがちだけど……。

 「走ってる間、聴覚がめちゃくちゃ鋭くなる」ってのも、十分すぎる程強い力だ。

 

 春の大感謝祭での気配斬りを見て確信したけど、ウィルムはその聴覚で、自分の周囲10バ身くらいの足音を聞き取ってる。

 直接見たり気配を感じたりしなくとも、半径25メートル範囲内の相手なら、その動きを手に取るように感知できる、ってわけだ。

 

 

 

 では、改めて、ウィルムは何を基準としてレース毎にペースを整えているのか。

 

 多分だけど、ウィルムはこの鋭い聴覚を使って、レース序盤にペースを整えてるんだと思う。

 自分の聴覚が届いている間に、つまり2番手との差が大差に開くまでに、ボクたちの足音を聞き取って、それを元に自分のペースを調整してるんだ。

 

 これは流石に想像でしかないけど、指標としては……ハロン棒とか、坂かな。

 そういうコース上の目印までに、2番手との距離を何バ身まで開ける、と。

 そういう目標をこなすことで、彼女は「そのレースに合った自分のペース」を掴んでるんだと思う。

 

 

 

 一見して、それは非常に大きなアドバンテージだ。

 本来逃げウマ娘が掴めないハズの適切なペースを、正確に見出すことができる。

 ホシノウィルムの持つ、恐るべき素質。

 正直、ボクも最初は「ヤバいなぁ」って思ってたんだけど……。

 

 少しして、気付いた。

 ……この特徴は、利用できる、って。

 

 

 

 相手の特徴に付け込むなんて、ちょっとズルいような気もするけど……。

 なにせ、相手は龍。

 レースに絶対をもたらす永遠の皇帝の後継者であり、ボクにとって最も強いライバルだ。

 

 新たに生まれた神話の「絶対」を打ち破るためには……ボクも、ボクが使える全てを使わなきゃ。

 

 ボクは1つ頷いて、スマホでネイチャに連絡を取った。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 この大阪杯において、最も注目を集めているウマ娘は誰か?

 そう訊かれれば、100人中99人は「ホシノウィルムだ」と答えると思う。

 

 なにせ、会長以来の無敗の三冠ウマ娘。

 その称号に寄せられる期待を決して裏切らず、クラシック級で平然とシニア級混合レースを勝ち進んだ、稀代の大逃げウマ娘なんだもん。

 先代の最強大逃げウマ娘であるサイレンススズカも有記念で打ち破った今、ホシノウィルムは「史上最強の大逃げウマ娘」と呼べるはずだ。

 その素質が評価・注目されないわけがない。

 

 その上彼女は、有記念で初の敗北を刻んだ直後。

 その初めての挫折を乗り越え、きちんと調子を取り戻してるか、多くのファンが気にしてる。

 

 そりゃあ当然、ボクを余裕でしのいだ1番人気にもなるはずで。

 彼女は今、色んな意味で話題性には事欠かないウマ娘と言えるだろう。

 

 

 

 そう、大阪杯で最も注目を集めているのは、ホシノウィルムで間違いない。

 

 ……けど、他の出走ウマ娘から最も警戒されているウマ娘は彼女じゃないんだよね、これが。

 

 ホシノウィルムが大逃げする。これはもう、仕方のないことだ。

 圧をかけようが何をしようが止まったり掛かったりすることもなく、自分勝手に逃げ続ける龍。彼女はそれこそ、同じ大逃げウマ娘が相手でもしない限り、止まることはない。

 同じ脚質の子を除けば、彼女に干渉できるのは、スタートの一瞬を除けば後は最後の一瞬だけ。

 そんな破天荒な相手を警戒しても、作戦上の利点がない。それだけ周りの子たちに払う注意が減って、レースに勝てなくなるだけだ。

 

 ホシノウィルムは討伐目標でこそあるけど、レース展開に何かをもたらすファクターにはならない。

 あぁいや、レースのペースを上げてくるからファクターではあるけど、彼女の存在によってこちらの走りが大きく乱れるようなことはない、って言うべきかな。

 

 だからこそ。

 ホシノウィルムはたくさんの視線を集める子でありながら、同時にその安定感から、ある意味ではあまり警戒されないウマ娘でもある。

 

 故に、本来は彼女が集めるべき出走ウマ娘の視線は、次点で警戒すべきウマ娘に向けられる。

 今回で言えば、警戒されるのは1番人気のウィルムではなく、2番人気の……。

 そう。このボク、トウカイテイオーだ。

 

 そして警戒されるってことは、それだけボクの動向に注目が集まる、ってことでもあって……。

 そうなれば、後は簡単だ。

 

 スタートは好調に切りながら、その後敢えて遅めの速度を維持して。

 まるでバ群の脚を引っ張るように、それよりほんの少しだけ遅い速度を出せば……。

 みんな、「それが適切なペースなんだ」って勘違いしてくれる。

 

 その状況は、思っていたよりも簡単に作れた。

 恥を忍んでネイチャに教えてもらったアレコレが十全に働いた、って感じだね。

 

 

 

 ……ただ、正直、これがウィルムに刺さるかは、賭けだった。

 

 ホシノウィルムへの考察が正しい自信自体はあったんだけど、ボクのレース設計をあの堀野トレーナーがどこまで読んでくるかわからない。

 もしかしたら、全て読まれた上で、ボクには思いもよらない策で、全部ひっくり返されるかもしれない。

 

 そして、もしも堀野トレーナーが気付かなかったとしても、ウィルム自身が気付く可能性もある。

 これはすごく単純な欺瞞だ。後で映像を見返せば「なんで気付かなかったんだろう」って言っちゃうくらいの、わかりやすい一手。

 ただ、それはやっぱり岡目八目な部分もある。

 実際に走りながら、この違和感を見抜けるかは……まぁ、ボクなら気付くかなってくらいか。

 

 つまるところこれは、ウィルムが2番手から逃げ切るのが早いか、それとも違和感に気付くのが早いかっていう賭け。

 その結果は、レースが始まる直前までのボクにはわからなかったんだけど……。

 

 ここに関しては、ウィルムが新たなスタート技術を身に付けてたっていう状況が、逆にボクにとって有利に働いた。

 

 

 

 ボクがやろうとしてる作戦は、端的に言えば「ウィルムが2番手との間に大差を付けるまで、バ群全体のペースを落とす」こと。

 それによって、ウィルムにこのレースでの適正ペースを誤解させて、脚を余らせる。

 謂わば、ホシノウィルムがバ群の遅さに気付くのと、あるいは2番手との間に大差を付けるのと。どちらが早くなるか、という賭けなんだ。

 

 そういう意味では、あの子がそのスタートダッシュを更に鍛えてきたのは、ボクにとって都合良く噛み合ったと言えるだろう。

 なにせ、彼女が2番手に大差の距離を付けるまで……つまり、違和感に気付くまでの時間が、だいぶ縮んだんだからね。

 

 

 

 そういった偶然の有利もあって……。

 

 大阪杯、ボクの策は、無事に成功した。

 

 

 

 * * *

 

 

 

『縦に広がった展開ですが、ホシノウィルムが参加しているにしては例外的にローペースな展開ですね。あのスタートダッシュからこの展開は意外ですが、果たしてこれは龍の策略か、それとも?』

 

 

 

 今。

 ボクが向ける、視線の先で……。

 先頭の位置をほしいままにするウィルムは、ペースを落として走っていた。

 

 ホシノウィルムはステイヤー。

 高いスタミナを持つが、瞬発力の面で言えば他の子たちに一枚劣るところがある。

 ……いや正直、他のウマ娘はともかく、ウィルムに関してはその瞬発力もかなりのものがあるけど、それはともかく。

 

 このまま行けば、彼女は確実に脚を余らせる。彼女の最大の長所を活かせなくなる。

 そうなれば、ボクの瞬発力なら差し切ることもできるはずだ、って。

 

 そう思いながら、じわじわとペースを上げていたボクの前で……。

 

 

 

『向こう正面の直線に入りました、依然変わらず先頭はホシノウィルム。輝くターフに群青のコートが映えますね』

『他のウマ娘からは距離が離れているためわかりづらいですが、ややギアを上げましたね。この距離からテンポを上げるつもりなのでしょうか?』

 

 

 

 ウィルムは、900メートル辺りで、一気に脚を早めた。

 

「くっ……」

 

 合わせてペースを上げて、13バ身くらいの距離を保ちながら、ボクは思わず顔をしかめる。

 

 ……ボクの作戦が、バレた。

 

 どうやって、気付いた?

 周りにペースを比較できるウマ娘もいないし、流石に思考力増加能力も使わずに実況解説の声を聞けたとは思えない。聴覚とかの問題じゃなく、ボクたちのレースへの集中力や自分の立てる足音の煩さから、それは殆ど不可能なはず。

 であれば、どこだ? ウィルムはどこから気付いた?

 

 今のウィルムに、新たに疑いの種を持てる根拠はない。

 であれば、根拠のない直感か……あるいは、最初から種自体は持っていた?

 

 ……後者かな、多分。

 

 ボクの策は正直、かなり単純なものだ。

 あのネイチャと策を巡らせ合っていた堀野トレーナーが、これを読めないとは思わない。

 だから、「トウカイテイオーがバ群のペースを遅らせる可能性がある」ってウィルムに伝えてて……その結果、ウィルムは策にかかること自体は防げなくとも、自分の走りの微妙な遅さに勘付けた、ってとこ?

 

 ……あぁ、そうだね。そうだった。

 ボクが戦う相手は、ただのウマ娘じゃない。

 ウマ娘と、そのバックに付いているトレーナー。

 その2人が作り上げる、「競走ウマ娘の走り」、なんだもんね。

 

 

 

 ……で、あれば。

 

 ボクだって、自分のトレーナーを頼っていいよね?

 

 

 

 * * *

 

 

 

 一瞬、まぶたを閉じた。

 

 ここから、ボクがレースに勝ちうるルート。

 あの一等星に届く、ビジョンを思い浮かべる。

 

 

 

 正直に言って、ホシノウィルムとトウカイテイオーを比べると、前者の方が……強い。

 身体的なスペックもそうだし、走りの技術もそうだ。

 

 去年一緒に入院してた時、ウィルムから、少しだけ彼女の過去を聞いた。

 ずっと走っていた。それ以外に趣味や特技もない、それだけの人生だった、って。

 彼女は自嘲気味に言ってたけど……ボクからすれば、それはとんでもないことだと思えた。

 

 だって彼女は、ボクがレースを舐めて勝つのが当然と思ってた頃から、死に物狂いで走り続けてたんだ。

 更に、本気になった後も、長いリハビリや走法の模索でだいぶ出遅れてしまった。

 そりゃあ、現時点で負けてるのも当然だろう。

 

 ……だからこれは、格上への挑戦だ。

 状況を整え、万全の態勢を作り、策で上回って、それでようやく勝つ見込みができるくらいの。

 

 その上で、ボクが迫るまでホシノウィルムに脚を緩めてもらうっていう、一番望ましかった未来からは、離れてしまった。

 であれば……ここから勝つためには、どうすればいいか。

 

 

 

『……ホシノウィルムは、このレースでは領域を開けないかもしれない』

 

 一昨日、トレーナーから聞いた言葉が脳裏に蘇る。

 かつて会長を無敗の三冠に導いた、老獪なトレーナーの声が。

 

『これまでの経験から言って、恐らくウマ娘は、その勝負服によって得意な条件が変わるんだ。

 ルドルフは2着目を身に着けて、天皇賞(春)を筆頭とした長距離のレースが少しだけ得意になった。

 これは俺の私見で、何も根拠はないけど……多分、勝負服が変えるのは、領域だけじゃない。

 勝負服は、そのウマ娘の走り自体を、少しだけ変えてしまうんだと思う』

 

 最初はただ、会長のトレーナーだからって思って選んだんだけど……。

 適切にトレーニングをサポートしてくれて、可能な範囲で気も利かせてくれて、でも駄目なところはしっかりと怒ってくれて。

 そうしていつしか、ボクは彼のことを、自分の相棒のように思うようになっていた。

 

 そんなトレーナーはあの日、ホワイトボードの前で人差し指を立てて、ウィルムについての考察を語っていた。

 

『俺の考察が正しければ、ホシノウィルムの1つ目の領域は非常に条件が緩く、その分効果も控えめなものだったと予想される。

 そして、彼女が本質的にステイヤーであることを考えても、2つ目の勝負服はより長距離に特化したものである可能性が高い』

 

 その言葉には、正直、希望的観測が多かったけれど……。

 でも、彼は、皇帝の杖と呼ばれたトレーナーだ。

 信じようと思ったし……何より、信じたいと思った。

 

『領域の条件が1着目よりも厳しければ、その緩さに慣れた彼女では、想像よりも厳しい条件と走る距離の不一致で、領域にまで手が届かない可能性があるわけだ。

 だから、大阪杯でホシノウィルムが領域を使えない可能性は、十分に考えられると思う。

 ……まぁ、全てが可能性の話ではあるけどね』

 

 脚を折る可能性があるとわかっても、ボクが本気で望んでいると知れば、日本ダービーへの出走を認めてくれて。

 クラシック級の後半に走法を変えるなんていう挑戦に、どこまでも真剣に付き合ってくれて。

 そして、この大阪杯に勝てると、心の底から信じてくれている、彼を。

 

『だから、もしもそうなったら……ホシノウィルムの領域が不発に終わったら。

 すぐにペースを上げて、最終直線までに、彼女の後ろ4バ身あたりまで詰めるんだ』

 

 ボクのパートナーを、信じたい。

 

『信じてるよ。レースの天才、トウカイテイオー』

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ボクが目を凝らす先、ずっと前方で。

 領域が開く、特有の威圧感が集まって……けれど、形にならず霧散する。

 

 ……トレーナーの言う通り、ウィルムは領域の展開に失敗したらしい。

 それがどんな理由かは、ちょっと考察のしようもないけど……。

 

 トレーナーの予測は、見事に命中したってことだ。

 

 今ウィルムが通過したのは、10のハロン棒の横。

 ボクの位置はそこから離れて、12バ身くらいか。

 

 ここからゴールまで、あと1000メートル以上ある。

 ボクのスタミナからすると、ここからロングスパートしてしまえば、終盤に全力の末脚が出せるか微妙なところなんだけど……。

 

 うん。

 信じるよ、トレーナー。

 

 

 

『おっと、トウカイテイオー仕掛けました! 王道な戦術を選ぶ彼女としてはかなり積極的な展開ですね!

 すぐに第3コーナーですが、掛かってしまっているのでしょうか?』

『最後まで脚が衰えないホシノウィルムに最終直線だけで勝つことは困難、という判断かもしれません。

 果たしてどこまで位置を押し上げるつもりなのか?』

『釣られるようにして加速するウマ娘と自分のペースを維持するウマ娘で綺麗に分かれました、大阪杯はむしろここから始まるのか!?』

 

 

 

 ……落ち着け。

 ここで焦ったり、変に燃えすぎちゃ駄目だ。

 

 付いて来る子がいなくなってから、内に切り込み……コーナーでかかる遠心力を、上手く逃がす。

 大丈夫、コーナー内での加速は、これまでしっかり練習してきた。

 

 ホシノウィルムの背中までは……多分、あと8バ身。

 目標相対距離まで4バ身、残された距離のリミットはおおよそ400メートルくらいだろうか。

 1000メートル時点から、200メートルくらいで4バ身近く距離を詰めたんだ。

 このペースなら十分いけるはず……。

 

 

 

 ……いや、そう甘くはないか。

 

 ボクの視線の先で、ウィルムが、その速度を上げた。

 

「……、くっ」

 

 当然と言えば当然か。

 

 ウィルムの聴覚の有効距離は、多分10バ身くらい。

 こうして距離を縮めれば、「トウカイテイオーが加速してきてる」ってことは知られて当然。

 そうなれば、スタミナを余しているウィルは、当然のように加速してくる。

 

 あー、もう、困ったな。

 ウィルムのペースに付いて行って、更に距離を詰めようとするのなら、多分スタミナが持たない。

 

 ステイヤーであるウィルムに対して、ボクはミドルディスタンス。

 スタミナの面で見れば、正直かなり見劣りするものがある。

 だから、ただウィルムのペースに追従するだけでは……いつもマックイーンがしてるみたいに、擦り潰されて終わりだ。

 

 最終直線で全力を出そうと思えば、ここはスタミナを温存すべきだろう。

 でもそうすれば、トレーナーが出してくれた条件を達成できなくなる。

 

 トレーナーの条件を守るためには、ここで更に加速すべきだ。

 でもそうすれば、まず間違いなく最後までスタミナが持たない。

 

「……どっちだ」

 

 選べきのは、どっちだ。

 スタミナと、距離。

 王道と、トレーナー。

 

 ボクが選ぶべきは……。

 

 

 

 ……いいや、違う。

 

 前提が間違ってる。

 

 

 

 トウカイテイオーは、天才だ。

 トレーナーが信じてくれて、ウィルムが望んでくれてるんだ。

 間違いなく、ボクは、天才なんだ。

 

 そして、ボクが天才だっていうのなら。

 あのウィルムを越え得る、「本物の」天才だっていうのなら……。

 

 

 

 どっちも、選べるくらいじゃなきゃ駄目だ!

 

 

 

「すぅー……」

 

 大きく息を吸い込み、脚に渾身の力を込める。

 

 大丈夫。

 ボクならできる。

 

 だって、ボクは……。

 トウカイテイオーなんだからッ!!

 

「はッ!!」

 

 

 

『2番手入れ替わってトウカイテイオー、懸命に追いすがる!! 一気にペースを上げて先頭ホシノウィルムまでの距離を詰めていきます! 早すぎるスパートと思われましたが、まだ殆ど息は上がっていない!

 ダービーと同じく、またこの2人のマッチレースとなるか! 龍と争えるのは帝王のみ、もう他のウマ娘は土俵にも上がれない!!』

『ホシノウィルム、早くも前傾姿勢に入りましたね。ここから最終直線まで、果たしてどれだけ距離が詰められるのか?』

 

 

 

 息を吸い込んで、吐き出せ。

 酸素がないと、体を動かせない。だから、もっともっと。

 いっそ過呼吸になるくらいに、呼吸を繰り返せ。

 

 もっと脚を速く動かせ。

 脚への刺激に、そろそろ末端の感覚が薄れてきている。

 それでもなお、丁寧に、獰猛に、前を目指し続けろ。

 

 2つを、両立するんだ。

 息を入れながら、加速する。

 

 そうしなきゃ……あの龍には、届かない!

 

 

 

『トウカイテイオー迫る! トウカイテイオーが迫っているぞホシノウィルム! 最終コーナー入って残り600メートル、その差はおおよそ5バ身! このままかわしかわされてあの日の再現となるか? あるいは帝王がついに冠を手にするか!?』

 

 

 

「はっ、く……!」

 

 脳が、冷たさを感じる。

 視界が、ぼんやりと歪む。

 

 ……無茶をしてるのはわかってる。

 そもそも、息を入れながら加速するなんて、不可能だ。

 脚を壊してでもって言うのなら、あの走りをすればいいってだけだろうけど……。

 それはもう、できない。

 

 大きく脚を伸ばす、ストライド。

 トレーナーとの話し合いの結果、ボクはもう、あの走りを捨てるって決めた。

 そして、それに敵うくらいの、ちゃんとした走りを見つける、って。

 

 だから……。

 今はとにかく、ボクにできる最高の走りを。

 

 芝の生える大地に丁寧に脚を下ろして、丁寧に蹴り上げる。

 その反動を一切無駄にせず、全てを走ることに費やす。

 渾身の力で、ホシノウィルムに追いすがる。

 

 あと……あと、もう少しだ。

 もう少しで……届く!!

 

 

 

『さぁ残り400メートル、コーナー抜けて最終直線! トウカイテイオーとホシノウィルムの間の差はたったの4バ身だ!!』

 

 

 

 届いた。

 

 4バ身。

 たった、10メートル先。

 

 そこに、ボクの目指した、「絶対」の壁がある。

 

 レースに絶対をもたらす皇帝に次ぐ無敗の三冠ウマ娘、ホシノウィルム。

 大空をたった1人で舞う龍。

 圧倒的な大逃げで全てを捻り潰す、絶対強者。

 

 胸の底から、熱が込み上げた。

 

 ここまで来たっていう達成感。

 ここからやってやるっていう使命感。

 そして何より……。

 

 

 

「行け、テイオー!!」

 

 

 

 ボクのことを信じてくれた人たちの、願いと想いを感じて。

 その夢に応えたいと、そう思って。

 

 

 

 その熱が……世界を、塗り替えた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 熱の籠った、不毛の大地。

 そこでボクは、1人佇んでいた。

 

 ……あぁ、なるほど。

 この大地こそが、ボク自身。

 怪我で焼け焦げ、その走りを見失った、ただその内に熱を秘めただけの、もはや実りの望めないウマ娘ってわけだ。

 

 でも、それも、今日ここまで。

 

 背後から、強い輝きを感じて振り返る。

 そこには、1枚の羽が、大空から落ちて来ていた。

 

 あの日跳んだ大空への、寂寥。

 その大空を自由に飛翔するライバルへの、憧れ。

 そして何より、もっと走りたい、あの子に勝ちたいっていう、身勝手な希望。

 

 それを素直に、胸の中に受け入れて……。

 ボクの背中には、1対の赤い翼が生える。

 

 

 

 ボクはもう、あの日のように、自由に大空を跳ね回るようなことはできない。

 アレは脚の寿命っていう、大きすぎる代償を払うものだったから。

 

 ……でも。

 自由に跳ぶことはできずとも……。

 ただ一時、飛ぶくらいなら、今のボクにだってできるんだ。

 

 翼をはためかせると、自分の体が持ち上がるのがわかった。

 ……行ける。

 いいや、行ってみせる。

 

「君の『絶対』なんて、認めない」

 

 飛んでやる。

 最強のライバル(ホシノウィルム)のいる、あの空に!

 

 

 

「絶対は、ボクだッ!!」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 あの日と同じく、風を纏うようにして、ボクは走る。

 渾身の力でターフを蹴飛ばし、この身に残った力を全部、走りに変えて。

 領域も開いて、手札も切って、姿勢低く空を舞う龍に、迫る。

 

 残るは300メートル、ウィルムとの差は3バ身。

 

 距離的には、かなり微妙なところだけど……。

 

 

 

 ……行ける、と。

 

 熱く煮えたぎる思考の片隅で、冷静なボクがそう言った。

 

 

 

 多分、転機は、トレーナーの戦術だった。

 

 1000メートルから早めにロングスパートを切れ、と。

 多分、その言葉の真意は、領域云々ってところじゃなくて……。

 ウィルムを、焦らせることだったんだ。

 

 あの有記念で、ウィルムは慎重すぎる判断が故に負けた。

 だから次は……この大阪杯は、そうはなるまいと自戒するはず。

 もっと大胆に、もっと早めに動こうと、そう思うはずだ。

 

 そしてさっき、予想以上に早く仕掛けて来たボクに、ウィルムは動揺したんだろう。

 そうして、有記念の失敗を思い出したあの子は、「思考力増加」をちょっとだけ早く使った。

 多分、5秒かそこら。距離にして100メートルくらい早い段階で、彼女は切り札を切ってしまった。

 

 だからホシノウィルムは、最後の5秒間、この前傾姿勢のスパートを維持できなくなる。

 それだけあれば、勝てる。

 1バ身残っていても……今のボクなら、差し切れる!!

 

 

 

『さぁ最後の200メートル、その差は2バ身と少しといったところか!? ここから最後の登り坂!!

 負けられない、負けられないぞトウカイテイオー、今度こそと気炎を上げて坂を登る!!』

 

 

 

 負けたくない。

 勝ちたい。

 

 この子に……ボクの得た、最も高い目標に。

 もしくは、絶対を僭称する龍に。

 あるいは、最高のライバルに。

 

 だからボクは、頭も真っ白にして、ただただ前へ、前へと走り続けて……。

 

 そうして。

 

 

 

 チラリと、彼女が、こちらを覗き見た。

 

 

 

 ……あぁ、その視線に、その色に、見覚えがある。

 

 君も、同じなんだ。

 ホシノウィルムも、この熱の中で走ってたんだね。

 

 片やG1レース6勝の覇者、片や重賞未勝利の挑戦者。

 片や破天荒に過ぎる大逃げと、片や王道の極みの先行。

 

 立場も脚質も、何もかもが正反対なボクたちだけど、その想いは1つで。

 

 目の前のウマ娘に、勝ちたい。

 自分の憧れを、超えたい。

 

 ただ、それだけ。

 

 

 

 ……だから。

 

「あぁぁぁぁあああああああッ!!!」

「が、ぁぁぁああああああああッ!!!」

 

 飾り立てない、獣じみた咆哮を上げて、ボクたちは走る。

 

 走って、走って……そうしてついに、ウィルムの思考力増加の期限の、残り100メートルまで来て。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでも、ホシノウィルムは、止まらなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『2人がもつれ込むようにしてゴォォオオオルインッッ!!

 目視では確かではありませんが、勝ったのは…………勝ったのはホシノウィルム!!!

 今年の大阪杯を制したのはホシノウィルム、トウカイテイオーまでの着差はハナ差!

 龍と帝王の2度目の決戦、ここに決着!!』

『G1シーズンのレース1本目からとんでもない名レースとなりました!

 これはメジロマックイーンも含めて行われる次の天皇賞が楽しみですね!』

 

 

 

 * * *

 

 

 

「かっ、は、はぁ……ゲホッ」

 

 ゆっくりとスピードダウンしながら、ボクはぐちゃぐちゃの息を整える。

 

 あー……クソ、負けた。

 

 走っている本人だから、わかる。

 ウィルムまで、あとちょっと……20センチくらい、足りなかった。

 

 ……あぁ、もう。

 こんなに滅茶苦茶疲れてさ。

 「絶対は認めない」なんて言っちゃって。

 それで負けてるんだもん、世話ないよ。

 

 

 

 あー……。

 

 あー、もう、くそっ、くそっ、くそっ!

 

 悔しい、悔しい悔しい悔しい!!

 

 

 

 あと少し、あと少しだった!

 手を伸ばせば掴める距離、脚が伸びれば届く距離、すぐそこにあの子はいた!

 それなのに……その「あと少し」が、届かなかった。

 

 有利なレースだったんだ。

 2000メートルっていう距離、ウィルの新たな勝負服と領域会得の失敗。

 明らかに、今回はボクに有利な条件だった。

 

 それなのに、負けてしまった理由は……まぁ、考えるまでもなく、最後のヤツだ。

 絶対制限時間を超えたはずなのに、ウィルムは止まらなかった。ボクの想定を上回ってきた。

 30秒がタイムリミットなんじゃなかったの? あるいは、そう偽装してた? どっちにしろ、完全に想定外だった。

 

 更に言えば、前半でウィルムを抑えるために敢えてペースを落としてたのも、今思うと失敗だった。

 途中で気付かれてしまって、更には接近に気付かれて加速されたから、脚を十分に余らせることができなくなった。

 結局、総合的に見ればマイナスの方が大きくなってしまったと思う。

 

 策士策に溺れるというか、なんというか。

 ……簡単そうに思えて、なかなかネイチャみたいにはやれないな。

 やっぱりアレって、一種の才能なのかもしれない。ちょっとボクには向かない戦い方だ。

 

 他にも……あそこで息を入れた方が良かったんじゃないか、あそこでもっと頑張れば、なんて反省は無限のように湧き出してくる。

 

 

 

 ……でも、どんなに悔しがっても、現実は変わらない。

 

 届かなかった。

 あと少しだけ……届かなかったんだ。

 

 それがとにかく、悔しくて、悔しくて悔しくて……。

 

 ……それなのに。

 なんだか、何かを得たような満足感もあって。

 これだけ全力を出して負けたんなら、っていう、変な納得感もあって。

 そして、次回こそは絶対勝つっていう、未来への熱もあって。

 

 これが、全力を出して負けたってことなんだろうな、って。

 そうわかっちゃうのが、なんだかなおさら悔しくて。

 

 本当さ。

 強すぎるライバルを持つと、色々大変だよ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「はぁ、はぁ……ふぅ」

 

 ようやく息を落ち着けた後、ボクはウィルムを目で探した。

 

 これだけ有利な条件でなお、このボクに競り勝ったんだ。

 恨み言と、それから祝福の1つでも贈らなきゃ、気が済まないってもので。

 

「どこに……」

 

 そうして視線を向けた先で……。

 

 

 

 ウィルムは、ターフに、手と膝を突いていた。

 

 

 

 ……え?

 いや……え、何?

 なんで? ウィルム、だってボクよりスタミナあるはずで。

 それなのに、なんで、あんなに苦しそうに。

 

「ウィルム?」

 

 思わず呟いて、駆け寄った。

 

 近付いて、それで初めて、彼女が痛みをこらえるような表情をしてるのがわかって。

 それと、全身が震えているのが、見えてしまって。

 

 その光景が、ボクに、最悪の想像をさせた。

 

 

 

 ……嫌だ。

 嫌だよ、ウィルム?

 

 そんなことないよね?

 だってボク、まだ君に勝ってない。

 もっともっと、君と走りたい。

 

 こんなところで終わりなんて、そんなの、全然納得できないよ!

 

 

 

「ウィルム、ウィルム! ちょっと、冗談やめてよ!!」

 

 思わず肩を掴んで、がくがくと揺さぶる。

 ただのドッキリだとか、何かの間違いだって言って欲しくて。

 

 そして……。

 

「テイオー……」

「! 何、ウィルム!?」

 

 彼女の掠れた声に、思わず上擦った返事をして。

 

 

 

 

 

 

「あの、揺らさないで……吐きそう」

「え?」

「あまりにも本気出しすぎて、頭が痛くて……ゆ、揺らされたら、本気で吐きそう……あ、ごめん出る」

「は?」

 

 本当に芝の上に嘔吐し始めたウィルムに、絶句した。

 

 

 







 空を飛んで人々の夢という虹をかけた龍は、今度は地の上に鮮やかな虹をかけたのでした。
 なんて酷いオチだよ。



 大阪杯もこれにて終了。
 いつものように掲示板回と別視点回を入れて、フィジカルお化け3人組による天皇賞(春)編に入ります。



 次回は3、4日後。掲示板回。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


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【朗報】ホシノウィルムさん、無事【脳震盪】

 今回は掲示板回。
 ホシノウィルムのゲロイン属性獲得により大混乱な回です。


 

 

 

1:名無しのレースファン ID:qhM1CFFeF

 https://umatter.com/Hoshino_wyrm/status/1811988394756

 

 

2:名無しのレースファン ID:aOpfpeeBl

 うおおおおおお!

 

 

3:名無しのレースファン ID:hjzG/Shyl

 はー良かったほんとこういうのもう無理マジで

 

 

4:名無しのレースファン ID:/Gz2rh7J1

 良かった……良かった……!

 

 

5:名無しのレースファン ID:Q0SypklxE

 心臓に悪すぎるだろレース展開といい直後といい! やめてくださいしんでしまいます

 

 

6:名無しのレースファン ID:WoMTAzH7d

 良かった、俺の生きる理由なくなったかと思った……

 

 

7:名無しのレースファン ID:R1akC3dsv

 重すぎるわウマッター、どんだけアクセスされとんねん

 誰か内容書き起こし頼む

 

 

8:名無しのレースファン ID:SnpRZawol

 正直三女神クソすぎ殺すぞって思ったけどやっぱ三女神様しか勝たんわ 三女神様のことバ鹿にするヤツアホ

 

 

9:名無しのレースファン ID:+NKS9Fpxl

 おっっっっっも

 

 

10:名無しのレースファン ID:WNjeaPUUq

 ありがとうテイオー ありがとう堀トレ ありがとうお医者さん

 

 

11:名無しのレースファン ID:/BMjAxJwo

 倒れ込んだ時もう完全に終わりと思ったわ

 ほんと良かった安心した

 

 

12:名無しのレースファン ID:y8NhXU1d9

 話題に事欠かないよなこの三冠ウマ娘。でもこういう話題は今後勘弁してくれよな

 

 

13:名無しのレースファン ID:buiJYWMoF

 大阪杯、これまでにないくらい白熱してたからなぁ(毎回言ってる)。

 倒れ込むのもやむなしと言えばそれはそう。

 

 

14:名無しのレースファン ID:HKjoBs7fj

 >>7

 ホシノウィルム @Hoshino_wyrm

 

 私です、皆さんご迷惑おかけしました。

 色々聞きたいことなどもあると思うんですが、ひとまず私は無事です。

 脳震盪か何か起こしたみたいで、一時的にすごく気分が悪くなっちゃいました。

 勿論、この後のウイニングライブには出席します。あのダービーの再現にはしませんから、ご安心を!

 

 

15:名無しのレースファン ID:VaWjwcgkc

 全日本が凍り付いた30分だったな。

 あまりの混乱で悲鳴すら上がらないあの感じ、いつかの天皇賞を思い出したわ

 

 

16:名無しのレースファン ID:5m2e7YsJD

 やべまだ手が震える

 

 

17:名無しのレースファン ID:+NPkV6eCf

 もうライブとかいいから早く帰って休んでくれ。というかちゃんと医者にかかれ

 

 

18:名無しのレースファン ID:b1Jv8GyOY

 続報

 https://umatter.com/HLN_Ay_tra_cen/status/18121076394629

 

 

19:名無しのレースファン ID:PgsN+ykr5

 心臓シクシクしてたけど元気そうで安心したわ

 

 

20:名無しのレースファン ID:LAWElraTT

 無敗三冠繋がりもあって、ルドルフの遠征前の故障思い出した。

 強い優駿程事故りやすいジンクス、勘弁してほしいな……。

 

 

21:名無しのレースファン ID:LbK0UPLui

 無事だあああああああああああああ!!!

 

 

22:名無しのレースファン ID:Sb+HxsVIa

 モニター越しにここまで絶望できるんだ→ウマッター見ただけでここまで安心できるんだ

 

 

23:名無しのレースファン ID:wn1SyJP2G

 >>18 

 堀野歩 @HLN_Ay_tra_cen

 

 お騒がせしました、ホシノウィルムのトレーナーの堀野歩です。

 ホシノウィルムは現在医務室にて安静にしており、その体調も快方へ向かっています。

 本人の意志を尊重し、ウイニングライブへ参加した後は、病院で精密検査を受ける予定となっております。

 |

 今後の状況については本人のアカウントや当アカウントから次いでご報告いたしますので、学園などへの問い合わせ等はお控えください。

 

 

24:名無しのレースファン ID:PXga64UVu

 止まってた心臓が動き出した

 

 

25:名無しのレースファン ID:/fvxLsKz0

 すまん、今ようやく仕事終わったんや

 何があったんか教えてくれ頼む

 

 

26:名無しのレースファン ID:cOjtITewf

 間違ってもトレセンにお気持ちメールとか送るんじゃねーぞお前らわかってんだろうな

 

 

27:名無しのレースファン ID:wq2raudu4

 まだ原因がちゃんとわかってないっぽいのが怖いわ。脳震盪「か何か」て。

 

 

28:名無しのレースファン ID:FdH8tjFTd

 大阪杯本スレもようやく盛り上がり始めてるわ。良かったね

 

 

29:名無しのレースファン ID:lufx16lJC

 今はとにかく信じて待とう。ひとまず体調は快方に向かってるらしいし。

 

 

30:名無しのレースファン ID:hmaz5m7ju

 冷静に考えると、時速70キロとかで走ってるんだからそりゃ脳震盪とか起こってもおかしくはないよな。龍に至ってはわけわからんフォームなんだし尚更

 

 

31:名無しのレースファン ID:zBKLH3pju

 心臓に悪いわバ鹿!!!!! 良かったなんともなくて本当に良かった

 

 

32:名無しのレースファン ID:lBncISSZw

 >>25

 大阪杯完走後ホシノウィルムがふらついて倒れ込む

 →テイオーが駆け寄って呼びかけるが立ち上がれず、嘔吐

 →ラチ飛び越えてトレーナーが駆けつける

 →意識の混乱と身体麻痺を確認し、お姫様抱っこで医務室に運ばれる

 →龍の突然の体調悪化に故障の気配を感じてお通夜ムード

 →ウマートからするとひとまず大丈夫そうで安心 ←New!

 

 

33:名無しのレースファン ID:9IZVNXd7X

 まるでダービーを再現するような状況

 ダービー直後テイオーとウィルは故障

 無敗三冠ウマ娘が海外遠征する直前の故障

 

 嫌な予感とフラグが満載で正直今回ばかりは終わったと思ったわ

 

 

34:名無しのレースファン ID:18kZCz5UA

 ウマ娘が脳震盪ってなかなか珍しくないか

 

 

35:名無しのレースファン ID:aOIXvPsGb

 もう無事だからなんでもいいわ! 良かったー!!

 

 

36:名無しのレースファン ID:y9aylt2Az

 生きてて良かったーと思うわけ(泣)

 

 

37:名無しのレースファン ID:GHOuHQeXX

 お前ら浮かれすぎ!!!!!!!!!!!! ホシノウィルム無事で良かった!!!!!!!!!!!!

 

 

38:名無しのレースファン ID:N2C5Kn9N4

 まぁ今回のホシノウィルム、中盤以降なんか調子狂ってそうだったからなぁ……。

 調子狂った上であんな加速してきたテイオーに勝ったコイツが一番狂ってるわ化け物かよ。

 

 

39:名無しのレースファン ID:y+dIy4C4Z

 ほう、爆死芸人に加えてゲロイン属性獲得ですか 大したものですね

 って言おうと思ったけど、流石に脳震盪のガチゲロは揶揄えねぇわ。お大事に。

 

 

40:名無しのレースファン ID:HWCNHtXsz

 無茶してまでテイオーに勝ちたかったのか、無茶しないと勝てないのがテイオーだったのか

 

 

41:名無しのレースファン ID:QctAOcOGd

 良かった、大阪杯が秋天に並ぶ大逃げ破壊レースになるところだった

 

 

42:名無しのレースファン ID:rFFRGpFfV

 >>34 実際ゲートに頭ぶつけたり転倒でもしない限り、脳震盪を起こすことは殆どない。それだけウマ娘の体は頑丈らしい。

 ホシノウィルムってめちゃくちゃ体強いと思ってたけど、脳周辺はそうでもなかったりするのかな?

 

 

43:名無しのレースファン ID:IUGijfIPG

 >>38 今回のテイオーマジでヤバかったからな。有見て流石にか~って思ってたけど全然現役で化け物だったわ。なんであの末脚に勝てるんだよウィルム

 

 

44:名無しのレースファン ID:ae7TgoX2y

 大阪杯は怪獣大戦争って感じだったし、むしろ惜敗とはいえウィルムと競って無傷のテイオーの方がおかしいのでは……?

 

 

45:名無しのレースファン ID:NCyazss0+

 >>39 俺には見えるぞ、事態が落ち着いてきたらネタにしだすお前らの姿が

 

 

46:名無しのレースファン ID:y4xWIXKu5

 冗談抜きで日本どころか世界が凍り付いた30分だったわ。世界トレンド1位だぞホシノウィルム良かったな良くねーよボケ

 

 

47:名無しのレースファン ID:BbsO2eojJ

 12R出走直前になって凍り付いてたレース場がようやくがやがやし始めとる

 

 

48:名無しのレースファン ID:UZuY+pAr0

 青いどころか白い顔して呆然自失で帰宅してたウィルムオタク君たち、見てるー?w

 君たちの大好きなホシノウィルム、治ってまーす!www 良かったね♡

 

 

49:名無しのレースファン ID:SgzZvWINN

 今ホシノウィルムを失うのはヤバい

 

 

50:名無しのレースファン ID:wMxLM2+fM

 良かった無事か! 正直競走能力喪失はなくともしばらく休養くらいはあるかもしれんと思ってた

 

 

51:名無しのレースファン ID:aPuOFxLVy

 取り敢えず原因究明と再発防止だな。追い切りしすぎて体調不良だったとかなのかもしれんし、トレーナーとかトレセンからの発表待ち?

 

 

52:名無しのレースファン ID:MtjNsw50d

 バチクソ熱い最高のレースだったし、これが暗い記憶にならなくて何よりだよ

 

 

53:名無しのレースファン ID:DQbOi1fHw

 テイオーからのリプ来たな

 

 

54:名無しのレースファン ID:HmqGYm7jQ

 序盤これまで以上に抜きん出た超速スタートダッシュ、中盤からロングスパートと言わんばかりに加速、テイオーに詰められながら600メートル以上超前傾姿勢

 なんというかこう、普通に無茶しすぎたんじゃねーかなこれ

 

 

55:名無しのレースファン ID:Ngh+Jx6cO

 >>51 追い切りの不備はないんじゃないかね。公開トレーニング見る限りそこまで厳しくも緩くもない、いつものホシノウィルムの追い切りって感じだったし。いやまぁホシノウィルムのいつものは並みのものではないけどもさ。

 トレーナー側の問題と言うよりは、むしろウマ娘側の問題な気がする。レース中に何かあったとか?

 

 

56:名無しのレースファン ID:2vZmfxK7J

 天皇賞は回避して一応療養しないか? 正直ちょっと怖いんだが

 

 

57:名無しのレースファン ID:rIbFbTV/3

 無茶せず休んで欲しい気持ちもあるけど、正直無茶してでも天皇賞走って欲しい気持ちもあるな。

 ホシノウィルムは今間違いなく伝説を作ってる最中だし、それが果たしてどこまで行くのか期待してるんだよね

 

 

58:名無しのレースファン ID:7i3Sea3k+

 ビビリすぎなのはわかってるんだけど、ターフに嘔吐までした後ウイニングライブやるのは本当に怖いというか、今すぐ精密検査してほしい。

 

 

59:名無しのレースファン ID:cwonlYfeb

 テイオーのリプ、負け惜しみ2割心配8割。勝負が終わればノーサイド感あって好きだわこういうの

 

 

60:名無しのレースファン ID:U8nnqtmWx

 まぁこうなるだろうなという感じではあるが、今すべきは杞憂とか妄想ではなく、ホシノウィルムを信じて待つことなのでは?

 本人がやるって言うんだから素直にウイニングライブ見守ってやろうや

 

 

61:名無しのレースファン ID:KY4Qrn4qi

 脚だけが震えてたとかでもないし、脚じゃなくてやっぱ脳の問題なのかな。それはそれで怖いんだが。

 

 

62:名無しのレースファン ID:1BqN0QIuB

 自分の同期で宿敵で親友な相手が自分との競走で勝ち逃げした直後に倒れ込んだから、そりゃ不安にもなるわなという。テイオーもいつか勝ちたいと思ってるだろうし。

 

 

63:名無しのレースファン ID:sRjQZ4dEr

 春天で倒れるならまぁ長距離だし酸欠とかもあるだろうなって思うけど、大阪杯で倒れるっていうのがなかなか不安を煽ってる感じだな。スタミナはまだ限界から遠かっただろうし、不調の理由がマジで脳震盪くらいしか思いつかん

 

 

64:名無しのレースファン ID:7bivb6QyT

 まだ色々不安はあるけど、ひとまず無事っぽいからもうそれでいいや

 

 

65:名無しのレースファン ID:hxfjaek20

 正直ウィルムが崩れ落ちた瞬間、数年前の秋天の大ケヤキ思い出してこっちも吐きそうになったわ。

 ここでまた大逃げのスターを奪うようなら三女神が畜生すぎる

 

 

66:名無しのレースファン ID:7ZzqItlDI

 ダービー終わった時もぶっ倒れてたよねウィルム。あの時は骨折したテイオーと両倒れだったけど。

 

 

67:名無しのレースファン ID:B3XnnOTkG

 日本ダービーの唯一の心残りがお通夜ムードのウイニングライブだったから、俺は誰が何と言おうとライブやってくれるの嬉しいよ。元気な姿を見せて安心させてくれ

 

 

68:名無しのレースファン ID:dunUjLA97

 そういやウィルム、JCも宝塚も勝ってるし、あとはエリ女に勝てばライブ曲がSpecial Record!のレースコンプか。いやG1レースをコンプってなんだよという話ではあるが。

 

 

69:名無しのレースファン ID:syuH3zrVt

 クソ不謹慎なことわかって言うけど、ライバルに勝つために無茶しまくってその結果ぶっ倒れるとかすげぇ少年漫画チックだよね。まぁ実際に目の前でやられると肝が冷えるんですが……

 

 

70:名無しのレースファン ID:DsaMq7lsf

 >>60 これofこれ お前ら黙ってライブ楽しみにしてろ

 ちなみにワイはグレーのペンラ追加で5本購入した

 

 

71:名無しのレースファン ID:wWFX3A4mJ

 今回スタートといいレース展開といい異次元の戦いすぎて付いて行けんかったわ。その果てに脳震盪てどうなってんだマジで

 

 

72:名無しのレースファン ID:L1Piw7P1o

 >>66 それだけ毎回テイオーとの走りが熾烈すぎるって話でしょ。

 一時期はネイチャ格上げの話もあったけどやっぱテイオーが二等星だよ。龍をここまで追い詰められるのは帝王しかいない。

 

 

73:名無しのレースファン ID:KtD1l+cBC

 しっかり表に出るくらい悔しがってたのに、今はただウィルムの無事を願ってるテイオー尊い

 ウィル×テイ、ありです。

 

 

74:名無しのレースファン ID:4zOunSWzR

 沈黙の日曜日ならぬ沈黙の30分だった。三度は体験したくないぞこの静寂。

 

 

75:名無しのレースファン ID:wjYYmY7nT

 まぁアレや、サイレンススズカも帰って来たしホシノウィルムも無事。終わりよければ全て良しやな。

 いや良くねーわボケ。三女神様ドラマ好きすぎるだろ見る側の気持ちにもなれ心臓がいくつ必要なんだよ

 

 

76:名無しのレースファン ID:7wRteqggQ

 >>71 わけわからんウィルムの超速スタートダッシュ

 →それなのに何故か不自然に遅い展開

 →ウィルムのロングスパート

 →テイオー何故かコーナー前からスパート開始

 →ウィルム更に猛加速

 →テイオーぶっ飛んだ超加速

 →差されかけるもギリギリウィルムの逃げ切り勝利

 

 なんだこのわけわからんレース!?

 

 

77:名無しのレースファン ID:VDsgdKRsT

 間違いなく良い勝負だったしウィルムも無事っぽいし、全方位丸く収まったな!

 強いて言えば多分まともに見てもらえないだろう今日の阪神12Rはちょっとカワイソス

 

 

78:名無しのレースファン ID:yuoV3SQHs

 >>73 ウィルテイなんてとっくに王道カプじゃ情弱が。

 去年秋以降のツーショとか見とらんかったんかボケニンジン。

 でも堀ウィルが一番ガチ。異論は認めない。

 

 

79:名無しのレースファン ID:WK24WvWEV

 何はともあれ、春シニア3冠の1つ目はホシノウィルムが獲ったな。春天は一番得意だろう長距離だし、残った難題は2200の宝塚になるか?

 というかマジで凱旋門行くのに宝塚にも出るんか? エルコンくらいしっかり体調整えてもええんやで?

 

 

80:名無しのレースファン ID:TXw2bhWn8

 >>75 三女神「お楽しみいただけたかな?(暗黒微笑」

 

 

81:名無しのレースファン ID:WjXxXoCnn

 良かった本当に良かった、今すごい脱力感に襲われてる

 

 

82:名無しのレースファン ID:NGbUJ04fQ

 >>79 言うて今のホシノウィルム止められるヤツっておるんか? サイレンススズカおらんのやぞトゥインクルシリーズには。ターボは長期療養中やし

 

 

83:名無しのレースファン ID:YdidCGHMP

 またホシノウィルムの走りが見られそうでおじさんは嬉しいよ……

 

 

84:名無しのレースファン ID:WeqHasloq

 無事ってわかったら一気に気が抜けたというか……もう今日は仕事手に付かんな。サボるか。

 

 

85:名無しのレースファン ID:G7dON36xZ

 >>76 多分レースのペースはテイオーが遅らせてた。序盤若干動きがおかしかったし。それに気付いたウィルムがロングスパートというかペースを釣り上げた。ここまでは十中八九間違いないと思う。

 でもここから先はマジでお互い何考えてるかわけわからんかったな。解説が待ち遠しいぜ。

 

 

86:名無しのレースファン ID:Pk0fI+1fR

 去年JCから追い始めたワイ、推しの無事に感涙不可避

 

 

87:名無しのレースファン ID:T0QfeGRwe

 こういうことがあるたびに、レースに勝つとか負ける以前に全員無事にレースを終えてほしいって気持ちが湧いてくるわ

 でも2、3回レース見るとやっぱ勝ってほしいって思っちゃう。レースの魔性が出てるな。

 

 

88:名無しのレースファン ID:woT0D45pH

 取り敢えず不安で眠れないような展開は回避できたな。

 あとは精密検査の結果待ち。安全第一思考の堀トレがウイニングライブを許したわけだし、そうそう悪いことにはならない……と思いたい。

 

 

89:名無しのレースファン ID:4QIEJ3wRM

 ホシノウィルムが倒れて寝込んだ父が無事と聞いて起床してきたわ

 今はかじりつくようにスマホで情報追ってる

 

 

90:名無しのレースファン ID:CrZfwQ9pa

 数日は気が抜けなさそうだけど、取り敢えずめちゃくちゃ重症とかそういうわけじゃなさそうで安心したわ。

 後はゆったり、良い報告を待とうぜ

 

 







 この混乱も、全てホシノウィルムってヤツの仕業なんだ。
 信用できないのはホシノウィルムだ。あいつはレースを楽しんでいる。ライバルを倒すことで自分の脚を試しているんだ。

 世間的には割とギャグで済まない大混乱な現在、ウィルや堀野君たちがどうしているかは待て次回、です。



 次回は3、4日後。別視点で、兄さんブチ切れの話。



(追記)
 誤字報告を頂き、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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おこなの?

 今回は別視点、微妙な立場のあの子の視点です。
 大阪杯直後、ホシノウィルム陣営に何が起こっていたか、その真実に迫る。





 

 

 

 私の下の兄は、苛烈か温厚かで言えば、極めて温厚な方だと言えるだろう。

 

 そもそも生まれてこの方、兄さんがキレてるところとか、見たことないし。

 私が如何に兄さんに辛く当たろうとも、軽く罵倒しようとも、あるいは直球にバ鹿にしようとも、むしろ申し訳なさそうな顔してぺこぺこ謝って来るくらいだ。

 

 一番感情を出したのは……多分、私に前世の記憶の件を打ち明けてくれた時か。

 でも、あの時に感じたのは怒りじゃなく、深すぎるくらいの絶望だけだった。

 

 ……そう。兄さんは生まれた瞬間から、その根底に暗い絶望を抱えていた。

 その暗闇が、怒りだとか悲しみなんていう感情を塗り潰していた部分もあったんだと思う。

 

 表に出て来る感情は、義務感、責任感、そして小さな親愛と……それから、憐憫ばかりで。

 そんな、見てるだけでイライラする人間こそが、私の下の兄さんだった。

 

 強いて例外を挙げれば、トレセンに入る一週間前くらいからは、珍しくテンションが高かったことを覚えてるけど……。

 幼い頃のことはあまり覚えてないけど、兄さん、少なくとも私の自我が芽生える頃からはずっとトレーナーになるための研鑽を続けてたもんね。

 いくら呪われてたとしても人間であることには変わりないわけで、流石にその努力が実を結んで嬉しかった……のかもしれない。

 

 ……いや、嬉しかったっていうか、「ようやく誰かを助けられる立場になった」っていう安堵感かな。

 兄さん本人が『彼女』のこと、そして初等部の頃の記憶を忘れてしまった今、もはやそれは、妄想する他ないことになってしまったんだけど。

 

 

 

 ともかく、兄さんはすごく温厚な人だ。

 それは呪いが解けた現在も変わらない。

 

 感情が表に出て来ること自体は増えたけど、長い間続けてきた在り方が癖になったのか、少なくとも激情を周りにまき散らすようなことは今までになかった。

 むしろ前まであった緊張感というか束縛感というか、そういうものが消えたことで、以前にも増してのほほんとしているというか……良い意味で肩の力が抜けた感じだった。

 いや、もちろん締まるべきところは締まってるんだけどさ。

 

 多分兄さんにとって、多少不愉快なことがあったとしても、それを補って余りある程に……今が、幸せなんだろう。

 目に見えない使命感に動かされるわけではなく、自分が育てるウマ娘たちと触れ合えること。そして自分を慕ってくれるウマ娘たちを、のびのびと育成できること。

 それは兄さんにとって……前世まで含めればそれこそ数十年ぶりになるだろう、達成感のある日々だっただろうから。

 

 だから兄さんは、感情を荒立たせることなく、幸せに毎日を過ごしていて。

 私はそれに、確かに『彼女』の為したことの意味を感じていて。

 

 ……けれど、だからこそ。

 

 

 

 

 

 

「ウィルッ!?」

 

 

 

 

 

 

 初めて聞いた大声に、思わず、身が竦ませた。

 

 

 

 春の中長距離G1レース群、俗に言うところの春シニア三冠。

 その1本目にあたる、大阪杯。

 

 迫り来るテイオーさんからなんとか逃げ切り、勝利を収めたホシノウィルムさんだったけど……。

 彼女はゴールするや否や、スピードを落として、倒れ込んでしまった。

 

 そして、それを見た兄さんは、大声を上げたのだ。

 

 

 

 兄さんは、極めて緻密なデータ主義者だ。

 信じ難いことに実在したらしい転生チートを用いた観察による数値と、堀野の家に蓄えられたもはや誰も見向きもしないデータ群の記憶。

 これらを用いて、これから何が起こるかの予測を、未来予知にも等しいレベルで行うことができる。

 だからこそ兄さんは、データのみで予測できることにめっぽう強いんだ。

 

 ……でも、それは、さかしまに言えば。

 データで予測できないことに弱い、ってことも意味する。

 

 例えば、領域がその典型例だろう。

 ウマ娘たちが引き起こす、私たち人間には観測できない、正体不明の現象。

 アレは多分、ウマ娘の魂が起こしている現象だ。領域が開く前に彼女たちの「色」が煌めくことからして間違いないと思う。

 

 つまり領域というのは、今もスタンドの隅っこからホシノウィルムさんのことを見守っている2人と同じような、不可思議なミステリー現象なのだろう。

 そりゃあ科学的には観測できないだろうね。霊感とか霊障とかそっち系のモノは、基本的に科学と相性が悪いし。

 これを感じられる人間は、本当にごく一部、変なモノを見てしまう私の同類だけだろう。

 

 これに関してはいくらチート持ちの兄さんといえども例外ではなく、私が時々見るよくわからないモノどもを観測することはできないっぽい。

 領域を引き起こす「色」についても……この前話した時、なんとなくうっすら理解しているような感じもしたけど、ハッキリとわかってるような様子じゃなかったし。

 

 つまるところ、当たり前の話だけど、兄さんはウマ娘の全てを理解できているわけじゃないんだ。

 領域の解放とか、彼女たちの不可思議な因縁……そして、ホシノウィルムさんの特殊な能力といったものについて、兄さんは確かな予測ができるわけじゃない。

 

 そうして、だからこそ今、兄さんは……。

 

 完全に想定外の、決して認めがたい現実を前にして、絶叫したのだろう。

 

 

 

 正直に言うと、めちゃくちゃビビった。

 

 想定外の事態に直面したのは、兄さんだけじゃない。

 「まさか兄さんがそんな声を上げるとは思わなかった」という意味であれば、私だってとんでもなく想定外だもの。

 

 だからこそ、私の体は硬直してしまって……。

 

 ……けれど、一瞬の後に動き出せたのは、幼少の頃から学んできた護身術のおかげだった。

 

 恐怖とか衝撃っていうのは、どうしても身を竦ませる。

 危険を感じ取った脳が、全身に行動の抑制命令を出してしまうからだ。

 

 そういう時にもなお自由に体を動かす方法は、私の知る限り2つ。

 そういった鉄火場に、体と頭を慣らしておくか……。

 あるいは、そういった状況においても必要な行動を行う、というルーティンを組んでおくこと。

 

 私たち堀野家のやり方は、後者。

 何が起こっても、その時に取るべきだと思った行動を取る。

 それを「癖」として、体に沁み込ませるのだ。

 

 そして、ホシノウィルムさんが倒れ込んだその時。

 兄さんにとっての「取るべき行動」は、周りの観客を突き飛ばしてでも彼女の下に走ることで……。

 私にとっての「取るべき行動」は……。

 

「っ!」

 

 兄さんの襟元を掴み上げ、思いっきり引っ叩くことだった。

 

 

 

 断っておくと、私は決して暴力的な女じゃない。

 言葉の暴力って意味ならともかく、実際に誰かに手を上げることは滅多にない。そういうのって前時代的だと思うし、避けるに越したことはないと思う。

 名家に生まれた責務として護身術を習いこそしたけれど、これは文字通り身を護るための術。積極的攻撃に使うものじゃないし。

 事なかれ主義と笑いたければ笑え。荒っぽいことは不幸しか生まないし、ないに越したことはないのだ。

 

 だが同時、技というものは、振るうべき時には振るわなければ意味がない。

 それと同じように、肉親への暴力というのもまた、振るうべき時には振るわねばならないんだ。

 ……いや、これは加害者側が言うべきことじゃないってのはわかってるけど。

 それでも、良くないやり方だってわかってても、私にはこうしなきゃいけない義務がある。

 

 具体的に言えば。

 腐っても自分と同じ家で育った兄が、少なからず尊敬している兄が、焦りと動揺から間違った対応を取りそうになった時は……。

 妹である私こそが、止めなきゃいけないんだろう。

 

 

 

 叩かれた頬を赤くして、こっちを……っ、こっちを、血走った目で見て来る兄に向かって。

 私は、叫んだ。

 

「落ち着け、バ鹿兄! 今アンタがすべきことは何!? 感情任せに暴走すること!?

 違うでしょ!! 冷静沈着に状況に対処する、じゃないの!?」

 

 ……マズいな、ちょっと注目されてる。

 隣にいたミホノブルボンさんもそうだけど、周りにいる観客たちが……倒れたホシノウィルムさんに啞然としてた人たちが、何事かとこっちを見てる。

 

 私はまだ新人だからともかく、もはやかなりの知名度を持ってる兄さんに、変な風評が付くのは好ましくないんだけど……。

 

 ……むしろ、今の兄さんには、その環境が良かったのかもしれない。

 

「っ!」

 

 私の声と観客の目線にようやく熱が冷めたのか、兄さんははっとしたような表情を浮かべる。

 そして数秒目をつぶって深呼吸した後、しっかりとネクタイを締め直して、こっちを見てくる。

 

「……ごめん、助かった、昌」

 

 その目は……数秒前に見たものとは別物で、いつもの兄さんのものだった。

 

「ん。さっさと彼女のところに行って来て」

「了解」

 

 そう言って兄さんは、観客たちの間を縫ってターフの方へ向かう。

 ……あの様子なら、取り敢えず大丈夫かな。

 

 ちらと見たターフの上では、ホシノウィルムさんが四つん這いのまま。

 全身が小さく震えてるけど……脚が特別震えてるわけじゃない。まだ希望はあるはずだ。

 とにかく、今は少しでも、彼女のサブトレーナーとしてすべきことをしなければ。

 

 私は振り向き、いつも通り落ち着いて……いるように見えて、どこか落ち着かない様子のミホノブルボンさんに声をかけた。

 

「ごめんなさい、お見苦しいところをお見せして。……それで、早速で申し訳ないんだけど、ホシノウィルムさんのために医務室に場所を取ってもらいに行きます。ミホノブルボンさん、手伝ってもらえますか?」

「……了解しました」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……と。

 そんな感じで、私たちは割とシリアスな一幕を送っていたんだけど。

 

 医務室に緊急移送された本人は……。

 

 

 

「それで、テイオーがズバァッ!! ってすっごい走って来て! こりゃ負けられないぞって思って、こうなったらやってやる! ってアニ……思考力増加を早めに使ってですね! いや確かにちょっと早すぎたっていうかハロン棒まではもうちょっと距離があったんですけど、これを覚えて早1年、そろそろ成長とかしてもしかしたら制限時間伸びてるかなって思って!」

 

 

 

 この様子である。

 

 私は思わず、眉を揉んだ。

 ……こう、なんというか、温度差がすごい。

 

 

 

 私のトレーナーバッジとミホノブルボンさんのよく知れた顔でなんとか医務室の一角を借り受けて、待機すること数分。

 

 兄さんにお姫様抱っこされて、医務室に運ばれてきたホシノウィルムさん。

 彼女は素人目で見ても、かなり苦しそうにしていた。実際、10分くらいはベッドの上でじっとしてたんだけど……。

 時間が経つにつれて少しずつ楽になってきたらしく、彼女はその内、私たちに向けて自主的に状況を説明し出した。

 

 以下、要約。

 大阪杯終盤、このままではトウカイテイオーさんに負けると思い、ホシノウィルムさんは「思考力増加能力」を30秒という制限時間を超過して使用した。

 それは5秒という短い時間ではあったけど、それでもどうやら彼女の脳に強い負荷を与えたらしい。

 ズキリという頭痛を皮切りにして、彼女は「頭の中がぐっちゃぐちゃになっていく」感覚を味わった。

 なんとかトウカイテイオーさんに勝とうとゴールまでは耐えきって、直後に能力をオフ。

 しかし時既に遅く、体が痺れてまともに立つことすらできなくなり、また思考もまともに利かなくなってしまった……と。

 

 どうやら、以上が事の顛末だったらしい。

 

 で、それを話し終わるくらいには、ホシノウィルムさんもだいぶ元気……というか、思考力? が戻って来たらしく。

 ベッドで上体を起こして、「そんなことよりですね!」と今日のレースの楽しさについて語り始めてしまった、というわけだった。

 

 

 

 ……普段であれば。

 私も兄さんもミホノブルボンさんも、楽し気にレースを語る彼女を、微笑ましく見守っただろう。

 

 ホシノウィルムさんは、年齢にはそぐわない程冷静で理知的なところもあれば、逆に年齢にはそぐわない程幼げでいたいけなところがある、不思議なウマ娘だ。

 殊にレースの前後は、彼女の幼さ……というか、目の前のことに盲目的に没頭してしまうところが出る。

 

 私たちは、あくまで個人的にはだけど、彼女のそういうところが嫌いではないんだ。

 いつもクールな──あぁいや、兄さんの前ではそれはもうお砂糖ドロドロの頭お花畑な思春期ガールになっちゃうけど、兄さんのいない場所ではクールな──ホシノウィルムさんが、そういう部分を見せてくれるというのは、信頼を感じるし。

 

 ……だけど。

 今この場で、そういった弁を振るうのは……ちょっとアレだったかもしれない。

 

 なにせ、私の横にいる兄さんから、ちょっとばかりチクチクした雰囲気が漏れ出てるし。

 

 

 

「それでですね! やっぱり終盤もすごかったんですけど、中盤以降ガンガン前に出て来るテイオーの威圧感ったらもう……」

「ウィル」

「あ、はい」

 

 それは、静かな呼び声だった。

 でも同時、今まで聞いた兄さんの声の中で、一番威圧感のあるものだった。

 

 ……あー、すごい。

 兄さん、未だかつて見たことないキレ方してる。

 

「レース前に、言ったはずだ。君が領域を開き切れず、最終直線に入った時点で5バ身以内に迫られたら、それはもう敗北のパターンだと。そうなれば、俺と君の敗北だ、と」

「あ、いや、そうなんですけど……でも、勝ちたくてですね?」

「それは理解する。君もウマ娘として、勝ちたい気持ちはあるだろうな。

 ……それで、君の気持ちのままに走った結果、レースの後、どうなった」

「どうなったって……さっき言った通りレース後に倒れ込んで」

「その後は?」

「その後? ……えっと、すみません、正直言うとちょっとまだ、記憶とか意識が曖昧で」

 

 ホシノウィルムさんは、少し考え込むように首を傾げた。

 

 あ、良かった、記憶が混濁してたのか。

 いや、それを良かったって言うのはちょっとアレだけど、兄さんとかファンの人たちの想いとか考えずにはしゃぐような子じゃないはずって思ってたからね。

 

 彼女はまだ中等部3年生。本来は、それくらい自分勝手でも許される歳ではあるんだけど……。

 それでもこの子、一応プロのアスリート兼アイドルだからね。

 自分が楽しむのも勿論大事だけど、同時にファンのこととか……ついで程度に、私たちのことも考えてもらわなくちゃならない。

 

 ……うん、酷なことを強いてるっていう自覚はある。

 私が中学生の頃なんて、身内の権力争いモドキとか家族とのぎくしゃくとか自分のことで精一杯で、とてもじゃないけど他人のことなんて気にしてられなかったのに。

 自分にできなかったことを子供に求めるなんて、大人の傲慢だ。本当はすべきじゃないんだろうけど。

 

 なんて。

 私がそんなことを考えている前で、ホシノウィルムさんは「あ」と口を開いた後、すさまじく引きつった表情を浮かべた。

 

「……あ、あの、歩さん。色々と言いたいことはあるんですけど……ひとまず、あの件に関してはちょっと記憶の中から消してもらえると……」

 

 ……あぁ、うん。

 あの件って言うと、その、乙女の尊厳を吐き出しちゃった件かな。確かに、恋する乙女としてアレは……うん、ちょっと痛手だったかもしれない。

 いやまぁ、ウチの兄は真剣に走った末のアレ程度で、ホシノウィルムさんに嫌なイメージを持ったりはしないだろうけど……本人としてはそりゃあ気になるよね。

 

 でもね、今はそこが本題じゃないんだ、ホシノウィルムさん。

 

 

 

「ホシノウィルム」

 

 兄さんは、一層増す威圧感と共に、彼女の名を呼ぶ。

 多分それで、ようやくホシノウィルムさんは兄さんの激情に気付いたんだろう。

 

「あ、あれ? え、あの……もしかして、その、怒ってたり、します?」

「ホシノウィルム」

「はっ、はい!」

 

 いや、横からの威圧感エグいってホントに。

 今まで護身術の訓練として実戦形式やった時でさえ、ここまでの威圧感はなかったぞ。もしかして本気度の違いみたいなヤツ? 相手の骨を折る気でやる訓練より殺意が高いとか、正直怖いんだけど?

 

 とはいえ、今更私に止められる話じゃないし、下手に茶々を入れて兄さんを刺激すべきじゃないだろう。

 私は努めて無表情を保って、兄さんとホシノウィルムさんの話の行方を見守った。

 

 

 

「君の勝利に拘る気持ち自体は、決して否定すべきものではないと思う。

 だがな、ホシノウィルム。君が無理をして……骨折するなり、脳を患うなりすれば、君を応援していた人たちの想いはどうなる?」

「あ……えと」

「その上で……言ったはずだ。今回は敗北するパターンだ、と。

 今回は、俺の情報戦と調整の負けであり、君の地力と運の負けだった。俺たちとテイオーたちでは、後者の方が上回った。今回の大阪杯は実質的な敗北、それが真実だ。

 勿論、俺が君に敗因を作ったのは申し訳なく思うが……」

「そんなっ!? 歩さんは、あれだけ私のことを考えて……」

「関係ない。俺は君に対して、完全な策を用意できなかった。それだけが真実だ。

 そして同時……こう言うのはなんだが、君はそうして俺に足を引っ張られた上で、テイオーの猛追を跳ね除け5バ身後方まで近付けさせない程の実力はなかった」

「……それは、確かに、そうですけど」

「その結果、君はレースの熱に浮かされすぎて、無理をした。自分の脚や脳の寿命を縮めかねない……そんな方法を取ってしまった」

「……っ!」

「俺の不徳の致すところだ。君を万全な状態に仕上げられなかった。君に完璧な作戦を与えられなかった。

 だから君の取った判断、その責任の一部は俺の負うべきものでもある。

 そんな俺の言えたことではないが……俺はパートナーとして、君に、そんなリスクのある判断を取って欲しくはなかったよ」

 

 

 

 …………いや、エグい。

 あまりにもエグすぎる……。

 

 相手に理解を示した後、最悪のケースを想定、現実を突きつけ、自分も悪かったと謝罪、しかし相手の同情は拒絶し、自分と半同一化した相手の非難、そして本題である相手の選択の否定、再び自分も悪かったとケアして、ここまで理屈攻めしてきたくせに最後の最後で感情論。

 良くも悪くも、流石は堀野で誰より必死に学んだ兄の交渉術って感じだ。

 ……しかし、こうも理知的に相手の心を追い詰める弁舌、担当ウマ娘に向けるかね、フツー。

 

 いやまぁ、今後こういう無理な選択を取ってほしくないって気持ち、そのために一度強く言う必要があるって意図はわかるけどね。

 実際、ホシノウィルムさんの取った選択は、多くの人は望まない、あまりにもリスクの高すぎるものだっただろう。

 

 「思考力増加能力」は非常に強力だが、使い過ぎれば強い頭痛が走り、その内まともに走れなくなる、ってことは既に検証が済んでいた。

 結果的には無事に済んだけど、もしもレースでトップスピードに乗っている間にその「走れなくなる」状態になってしまえば、彼女はまともに受け身も取れない状態で、70キロという速度で投げ出されてしまっていたかもしれない。

 彼女はそのリスクのある選択を、制限時間が伸びているかもしれないという希望的観測と、トウカイテイオーに勝ちたいという一時的な欲望を元に、取ってしまったのだ。

 

 トレーナーとしても、保護者としても、その選択は決して褒められたものではないだろう。

 ……殊にそれが、担当の勝利ではなく、担当が健全に走り続けることを第一に考えているだろう、兄さんからすれば、尚更に。

 それについてきちんと話し、本人に自覚を持たせるのも、あるいはトレーナーの仕事なのかもしれない。

 

 

 

 それにしてもやっぱり、ここまで心を抉る必要はあったのかなぁと思うけど……。

 ……あぁいや、つまるところ、そういうことか。

 

 あの場で完全に焦りとか恐怖とか怒りを抑え込んだものと思ってたけど、そうじゃなくて。

 兄さんは今も、ホシノウィルムさんに怒っているんだ。

 だからこそ、ちょっとだけ、八つ当たりしちゃってる……の、かも。

 

 大人としては、ちょっとアレな態度かもしれないけど……。

 兄さん、幼少の頃の経験を考えれば、精神的な成長は小学生の時点から止まっちゃってたかもしれないんだ。これくらいは許してあげるべきかもしれない。

 

 思えばこの2人、似た者同士でもあるんだな。

 年齢にそぐわない程賢いところもあれば、逆に幼いところもある。

 その特徴は、ある意味では兄さんにも当てはまるんだ。

 

 要するにコレ、思わずやりすぎちゃった子供と、それに納得できない子供だ。

 

 そんな2人に、思わず私は苦笑しかけてしまったんだけど……。

 

 

 

「ごっ……ごめん、なさい」

 

 そう言ったホシノウィルムさんは、唇を結んで俯いた。

 

 多分ホシノウィルムさんにとっては、兄さんから強い怒気をぶつけられるのは、相当に堪えることだったんだろう。

 熱していた思考は冷や水をかけられるように冷静になり、そうして初めて自分がしたことを振り返った。

 

 新たなる無敗三冠ウマ娘、ホシノウィルム。

 彼女は今、世間から最も多く注目されている存在だ。

 

 彼女は今回の大阪杯の勝利によってG1レースを7勝し、ついにシンボリルドルフに並んでこの世界で最も高い頂に辿り着いた。

 それはつまり……次走である天皇賞(春)に勝ってしまえば、ついに史上唯一無二の戦績を手に入れる、という意味でもある。

 更に、今秋には世界最高峰のG1レースである凱旋門賞にも挑戦するし、夢の舞台でスペシャルウィークへリベンジすることを多くのファンが待っている。

 

 そんな彼女に、脳の障害なり、脚の故障が発生して、競走能力が失われてしまえば……。

 多くのファンが……そして誰よりも兄さんが絶望することは、想像に難くない。

 

 勿論、その上でも走ると言うのなら、それを止める手立ては、私たちにはない。

 競走ウマ娘の中には、そうやって一瞬の輝きのために全てを投じるような子もいる。

 それが本人の望みであれば、私たちトレーナーは、それに殉じなければならない。

 ……いや、これはトレーナーではなく、「堀野のトレーナー」の思考になるかもしれないけど。

 

 でも、ホシノウィルムさんは、きっとそれを望んでいたわけじゃない。

 兄さんがホシノウィルムさんに、何よりも無事に帰還することを望む人ならば……。

 ホシノウィルムさんは兄さんに、何よりも幸せに救われることを望んでくれる子だから。

 

「わ、私……歩さんと、勝ちたいって、思って。テイオーに負けたくないって……。

 違うんです、私、歩さんを悲しませたかったわけじゃなくて、勝って、一緒に喜びたくて……」

 

 ホシノウィルムさんは、その目を潤ませて、取り繕うように、縋りつくように言って……。

 兄さんはその表情を見て、一瞬たじろいだように止まった後、その言葉に、頭を撫でることで応えた。

 

「……すまん、俺も冷静じゃなかった。君のことを責めたかったわけじゃなかったんだ。

 君が頑張ってくれたことは、その意思自体は、とても嬉しい。でも……それで君を喪うことになれば、俺は多分、めちゃくちゃにへこむ。

 だから……」

 

 その柔らかそうな髪を撫でていた手が、ゆっくりと滑って、彼女の頬に流れた涙を拭った。

 

「だから、俺のエゴになって悪いと思うけど、どうか無理はしないでくれ。

 俺だって君と勝ちたいが……今日勝って終わるよりも、明日も明後日も勝ち続ける道を選びたいんだ」

 

 それはまるで、あの日本ダービーのトウカイテイオーのように。

 そこで全てを使い切るのではなく、この世界(中央)で走り続けるために、一時の敗北さえも認めて呑み込み、力としろ、と。

 

 それはきっと、ウマ娘によっては、決して受け入れがたい方針だっただろうけど……。

 

「はい! 私も歩さんと、もっと走っていたい、です!」

 

 そう言って、ホシノウィルムさんは、涙を流しながら兄さんに抱き着いた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ホシノウィルムさんの方向性を再確認した後。

 

 彼女が本当に大丈夫なのか、多少(兄さん基準)の医療の知識を持つ兄さんが軽く診察して。

 取り敢えず無事であることを確認して、改めてこれをどう処理するか皆で頭を悩ませて。

 ホシノウィルムさんが「ファンの皆さんを安心させるために、ウイニングライブだけはどうしても出たい」と主張したから、軽く動いて眩暈や頭痛がしないか確認して。

 ひとまず脳震盪か何かを起こしたということにして、ウマッターからファンの方々に報道して。

 ライブ直前までしっかりと安静にしてもらいながら、私とミホノブルボンさんは外して、兄さんと2人きりで話してもらって。

 ホシノウィルムさんはバッチリとライブ曲を踊り切った後、アピールでファンの方々に感謝すると同時、心配をかけたことを謝罪もして。

 

 それからすぐ、近くのウマ娘専門病院に直行。

 数時間の精密検査の果てに、脚にも頭にもなんら異常がないことを確認して、その日は終わった。

 

 一応今後経過観察していく予定だけど、ひとまず悲観するような状況ではないようだ。

 ……はぁ、本当に良かった。正直、トレーナー免許試験の合否確認の時よりずっと肝が冷えたよ。

 

 

 

 で。

 大阪杯は阪神レース場で行われる。当然、中央のトレセン学園までは相当距離があるわけだ。

 こうして精密検査などに時間を使えば、とてもじゃないが日帰りはできず、ホテルを取ることになった。

 

 そうして、本日の女子部屋となった、かなりお高めの部屋で。

 私とミホノブルボンさんの見守る前で、不可能を覆す灰の龍、無敗の三冠ウマ娘、あるいは七冠ウマ娘たるホシノウィルムさんは……。

 

「今日は本当にご迷惑おかけしました……」

 

 見事な土下座を敢行していた。

 

「ちょっと、顔を上げてくださいホシノウィルムさん! もうそれは決着の付いた話ですし、そこまでしなくとも結構ですから!」

「そうです、ウィルム先輩。謝ることなどありません、どうか顔を上げてください」

 

 そんな感じで、しっかりと謝罪を済ませてきたウィルムさんと共に……。

 私とミホノブルボンさんは、夜が更けるまで、色々お話をして過ごしたのだった。

 

 いやまぁ色々っていうか、主にホシノウィルムさんの恋バナとか、ミホノブルボンさんの走りについてばかりだったけども。

 

 

 







 ちなみに女子会が行われている頃、堀野君は「なんで俺はあんな言い方を……そもそも勝ちたいと望むことに罪はないし……あんなに平静を欠くなんて、トレーナー失格じゃないか……」と落ち込んでいる模様。



 競走ウマ娘としての在り方って十人十色というか、一瞬の煌めきに賭けたい子もいれば、逆に息長く走りたい子もいると思います。
 そんな中で、改めて明確になった2人の方針は「安全第一、無理は厳禁」。
 ……まぁ、堀野君はウィルにあまあまなので、許容できる範囲では許容するでしょうが。



 次回は3、4日後。別視点で、誇りと在り方の話。
 今回の別視点は次回で終了。登場人物が増えると書かなきゃいけないことが増えて大変ですね……。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでないものは訂正させていただきました。ありがとうございました!


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肺にちっちゃい換気扇入れてんのかい!

 今回は別視点で、最強ステイヤーの一角たるあの子の視点。





 

 

 

 最近、メディアに多く取り上げられるにあたって、私はとある疑問をぶつけられることが増えました。

 それ即ち、『どうすれば長い距離をスタミナを切らさずに走ることができるのか』。

 

 どうやら私ことメジロマックイーンは現在、世間からホシノウィルムさんに次ぐか、あるいはそれに並ぶ現役最強のステイヤーとして認められている様子。

 だからこそ、なのでしょうね。

 多くの方々が、ステイヤーを目指すウマ娘のために、長距離を走る際のコツを聞こうとしてくるのです。

 

 勿論その度に、走っている最中の心持ちや息の入れ方について話させていただいているのですが……。

 

 正直に言えば、それらはただの誤魔化しにすぎません。

 歯に衣着せず言うと、私の走りに「コツ」などというものは存在しないのです。

 

 メジロマックイーンの走りは、極めて王道的な、先行からの好位抜け出し。

 セイウンスカイさんやナイスネイチャさんのように、自らの走りによって他者に干渉し、誘導するものではなく。

 トウカイテイオーのように、抜群のセンスによって導かれる最適解の走りというわけでもなく。

 ホシノウィルムさんのように、異次元の脚で空を飛ぶようにターフ上を駆けるわけでもない。

 

 ただ、優れた持久力を以てハイペースでレースを進め、他の子たちが限界を迎えて垂れてしまうまで、どこまでも走り続けるのみ。

 決して複雑な戦術ではない。ただその力を証明するだけの走り。

 自らの持って生まれた素質を……メジロの血を、走りによって知らしめているに過ぎない。

 

 故に、私の走りに、コツは存在しないのです。

 ただどこまでも己を鍛え、己に相応しい走りをするのみ。

 私はそれしか知らず、そしてそれこそが私の走りなのですから。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そうしてその日もまた、私は自らを磨くトレーニングに没頭していました。

 

 世間的には良くも悪くも大いに賑わった大阪杯の翌日、4月6日月曜日。

 私たちはアスリートであると同時に学生でもあるので、午前中は素直に校舎で授業を受けて、午後からトレーナーさんとのミーティングを経て、本格的にトレーニングを開始。

 

 本日取り掛かるのは、脚に適度な負荷をかけながら肺活量を伸ばす、プールトレーニング。

 私は学園公認の水着を着込み、プールの中を懸命に泳ぎ続けていました。

 

 メジロマックイーンの持つ最大の強みは、やはりそのスタミナ。

 他の出走ウマ娘が付いて来れなくなるハイペースでレースを進め、ただ1人だけ快速のままゴールする。

 それが、私の勝ちの黄金パターンです。

 

 ……しかし、次走である天皇賞で当たるのは、同じくスタミナ自慢であるホシノウィルムさんと、レースの天才トウカイテイオー。

 とてもではありませんが、これまでと同じように走って勝てるとは思えません。

 

 故に、私は少しでも自らの長所を伸ばすために、こうして脚を休めながらスタミナの増強ができるプールトレーニングに努めているのでした。

 

 

 

 プールの壁に手を付け、完走……ならぬ、完泳を果たして。

 私は腕で体を持ち上げてプールサイドに上がり、ストップウォッチを握っているトレーナーさんの方に目を向けました。

 

「ふぅー……! トレーナーさん、タイムは?」

「マイナスコンマ8秒。伸びてるし、まだ余裕もありそうだ」

「それは、幸いですわ。こんなところで止まってはいられませんものね」

 

 疲労感はありますが、それ以上に、少しずつ自分にできることが増えていく充実感が心を満たします。

 次はもっと速く走れる。次はもっと強く走れる。

 そうして一歩ずつ一歩ずつ、小さな歩みを積み重ねて……。

 きっとその蓄積こそが、私たち競走ウマ娘を勝利に導くのです。

 

 そうして、自らの積み重ねた研鑽で勝ち獲った勝利こそが、きっと私の走る意味。

 過たず、メジロの血の証明となるでしょう。

 

 

 

 軽く柔軟をしながら疲労を抜いていた私に、トレーナーさんは少し気遣ったような声をかけてくださいました。

 

「……うん、良い調子だ。正直ちょっと心配だったけど、あのニュースの直後なのに、良く集中できていると思う」

 

 あのニュース、とは……まぁ、疑うべくもなく、ホシノウィルムさんのことでしょうね。

 

 私のライバルである彼女が、昨日の大阪杯の完走後に倒れ込み、嘔吐までしたという知らせ。

 確かにあれは、かなりショッキングなニュースでした。

 

 ウマ娘にとって最も重い障害は、やはり競走人生に直結する、その脚のもの。

 しかし、それに次いで重いのが、脳の障害です。

 

 時速70キロメートル弱で走る私たちは、下手に転倒したりゲートやラチに頭をぶつければ、その勢いが故に重い脳の障害を発生させかねない。

 故にホシノウィルムさんのそれも、下手をすれば競走能力の喪失まで考えられる、恐ろしいものだったのですが……。

 

「確かに驚きましたが、正午に本人から『大丈夫』と連絡がありましたから。それに……」

「それに?」

「彼女が、私のライバルであるホシノウィルムさんが、その程度で挫折する子だとも思いませんわ。

 たとえ障害に脚を取られようと、必ず乗り越え、むしろ強くなって戻ってくると、私は信じています」

「……そう言いながらも、朝は『大丈夫ですわよね!?』ってワタワタしてたけど」

「信じるのと心配するのは別なのです! もう忘れてくださいまし!

 それに、トレーニング中はきちんと切り替えているのですから構わないでしょう!」

 

 お恥ずかしい話ですが……正直に言えば、確かに朝は動揺していました。

 

 なにせホシノウィルムさんは、私にとって、ただのライバルというだけではない。

 あの子と、そしてあの子のトレーナーさんに、私は救われたのですから。

 

 

 

 去年の、京都大賞典の日まで。

 私は、度重なる敗北と、上手く走れない自分の不甲斐なさで、精神的に追い詰められていました。

 

 名家メジロの血をこの身に宿しているというのに、天皇賞にも宝塚記念にも勝つことができず、何度もファンの皆さまの期待を裏切ってしまい……。

 まるで曇天の下、雨でぬかるんだ地面に足を取られるように、私はどうすればいいのかわからなくなっていたのです。

 

 そして、そんな私の暗闇を晴らしてくれたのが、あの2人。

 ホシノウィルムさんと、そのトレーナーである堀野トレーナー。

 

 堀野トレーナーの助言によって、私は真の意味でトレーナーさんと共に、一心同体で歩む覚悟を固めることができて……。

 そして、私の前を楽しそうに走るホシノウィルムさんの背中があったからこそ、これ以上ない全力でレースに向き合うことができたのです。

 

 勿論、実際に立ち上がったのは私であり、それを支えてくれたのはトレーナーさん。

 しかしきっと、あの2人がいなければ、私は今も暗闇の中でもがいていた。

 

 ホシノウィルム陣営は紛うことなく、メジロマックイーンとそのトレーナーの宿敵でもある。

 しかし同時に、私たちになくてはならないライバルであり、私たちを救ってくれた恩人でもあるのです。

 

 そんなホシノウィルムさんに、事故が発生したかもしれない。

 彼女の勝負への熱情が、道半ばで折られてしまったかもしれない。

 ……もう二度と、彼女と走れないかもしれない。

 

 そんなことになれば、誰だって動揺もしようというものでしょう?

 

 たとえ競走ウマ娘としては決して珍しくないことだとしても、それが大事な友人のこととなれば、やはり話は別で。

 驚愕と、悲嘆と、それから不安が押し寄せました。

 

 彼女は、誰よりも走りを楽しんでいる。

 今を走ることを、誰かと競うことを、誰よりも喜んでいるのです。

 そんな彼女が、こんなところで不意に終わってしまうなんて、考えたくもない。

 

 

 

 そして何より……。

 まだ私は、彼女にリベンジを果たせていないのです。

 最大の壁にして、最強のライバルである彼女に、ここで立ち止まってもらっては困るというもの。

 

 私はまだ、彼女たちへの借りを返せていない。

 あの日助けてもらった恩に、私は報いねばならない。

 故に、強者との、燃え上がるような全力のレースという、彼女が最も望む形で以て……借りも、雪辱も、全てを果たさせていただきます。

 

 同時に……。

 今度こそ、その高すぎる壁を越える。

 灰の龍を、必ず討ち果たしてみせましょう。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……と、そんな明け透けな想いを語るには、少し人の目が多すぎますわね。

 トレーナーさんと2人きりの場所でなら、この想いを吐き出すこともやぶさかではないのですが。

 

「宝塚記念では3と半バ身差、ジャパンカップでは半バ身、有記念では2バ身弱……私はウィルムさんに負け続けています。

 全力を出せる彼女に勝ちたいと思うのは、おかしなことではないのではなくて?」

 

 少しむくれながらトレーナーさんに言い返すと、彼は苦笑して「ごめんごめん」と謝ってきた後、ふと真面目な顔をして言ってきました。

 

「しかし、ホシノウィルムも勿論恐ろしいけど……次回の天皇賞には、トウカイテイオーも出走予定だ。

 有記念の時は振るわなかったが、大阪杯を見るに今の彼女は超一流のウマ娘だろう。

 まず間違いなく、君とホシノウィルム、そしてトウカイテイオーによる三つ巴の戦いになるな」

「えぇ……そうですわね」

 

 トウカイテイオー。

 無冠の帝王として知られる、もう1人の私のライバル。

 

 彼女もまた、春の天皇賞に出走予定なのでした。

 

 日本ダービーでのウィルムさんとの激戦の末に骨折が発生し、長期間の療養と新たな走りの模索に追われて、有記念では今一歩振るわなかった彼女ですが……。

 昨日の大阪杯では負傷前の全盛期を超えたと思う程の走りを見せてくれました。

 名実共に、トウカイテイオーは最前線に復帰したものと思っていいでしょう。

 

 勿論、個人的な交友関係を持つ私は、彼女が未だ恐るべきライバルであるとは認識していましたが……。

 それにしても、まさかあれ程とは。

 

 まさしく、小さな帝王。

 やはり彼女は……あの日見た通りに、恐るべきウマ娘なのでしょう。

 

「あのテイオーと……ついに、競うことになるのですね」

 

 

 

 まぶたを閉じると、今でもあの日の光景が脳裏に過ります。

 

 私がテイオーと知り合ったのは、彼女の入学直後。

 すさまじい才を持つウマ娘の噂を聞いて、彼女の選抜レースを見に行った時でした。

 

 この目で見たトウカイテイオーは、確かにとんでもない傑物でした。

 圧倒的な脚力と、素晴らしく柔軟な足腰の関節。

 途轍もない瞬発力で、彼女は3番手の位置から大外を一気に追い上げ、結局ゴールした時には2着に大差を付けての1着を獲得。

 

 悠々と、余裕で勝ち切った彼女を見て、背筋にひやりとしたものが走ったことを覚えています。

 アレはまさしく、真正の怪物。

 最強に至り得るウマ娘の誕生を、私はこの目で見てしまったと、そう思わされたのです。

 

 その後、少し機会があって彼女と話すことがあり、交友関係を持つに至ったのですが……。

 

 実のところ、私とテイオーは、今までに同じレースを走ったことがなく。

 そこにホシノウィルムさんまで交えたレースともなれば、それはもはや今後あるかもわからない、空前絶後のレースと言えるでしょう。

 

 なにせ、競走ウマ娘のアスリート人生は、そう長くない。

 同じメンバーでもう一度走ることなんて、私たちにはできないのですから。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「……しかし、改めて考えると、恐ろしい運命ですわね。あの灰の龍と無冠の帝王が同じ世代とは」

 

 一昨年の私は、この目で才を確認したテイオーこそが覇権を握ると疑わなかったものですが……。

 実際は、そうはならなかった。

 ホシノウィルムさんという、誰もが予想しなかった伏兵が、帝王の覇権を崩したのです。

 

 実際のところ、当時の私はウィルムさんの噂は聞きこそすれ、あの日に見たテイオーの走りを超える程とは思っていませんでした。

 しかし、彼女の持っていた才気もまた、私の予想を大幅に上回っていた。

 葉牡丹賞とホープフルステークスの大差勝ちを以て、ウィルムさんは私たちに、そして世間に、その実力を見せつけました。

 

 灰の中より生まれた、恐るべき蛇。

 あるいは、被った灰すら振り払った、輝ける一等星。

 彼女は油断していた帝王の喉元を食い千切り、慢心を捨て去った帝王さえ激闘の果てに討ち取った。

 

 結果としては、皐月賞と日本ダービーの2つ、どちらともホシノウィルムさんが勝ち獲った形。

 しかし、もしも彼女たちが別々の世代に生まれていれば、きっと……いいえ、間違いなくそれぞれどちらも、2つの冠を独占していたでしょう。

 

 私の意図を汲んでくれたか、トレーナーさんも頷いてくださいました。

 

「間違いない。あんな才能の塊が同じ世代に2人いるとは、つくづく三女神様は悪戯好きだよ。

 というかそもそも、あのトウカイテイオーがまだ重賞未勝利という時点でおかしいんだ。本来は彼女の実力なら、それこそ無敗三冠だって夢ではなかったくらいなのに」

「そうですわね。……それこそテイオーがG2に出走すれば、簡単に重賞も勝ち獲れるのでしょうが」

「トウカイテイオーはその道を選ばないだろうね。彼女が勝ちたいのは重賞ではなく、ホシノウィルムだ。彼女と真正面から戦っての勝利を望むはず」

「えぇ……そうでしょうね」

 

 その気持ちは、わからないでもありません。

 なにせ、私とて同じ気持ちなのですから。

 

 トゥインクルシリーズに燦然と輝く一等星、ホシノウィルム。

 シンボリルドルフに続く無敗三冠、現世で新たな神話を紡ぐ龍。

 彼女程に今、多くのウマ娘たちから「勝ちたい」と思われるウマ娘は、他にいないでしょう。

 

 そしてそれは、テイオーや私もまた、例外ではなく……。

 ……えぇ、そう。

 私もまた、ウィルムさんに勝ちたいと望むウマ娘の1人。

 

 彼女とは世代が違うこともあって、菊花賞や秋の天皇賞は勝ち獲ることができましたが……。

 正直に言って、そこにホシノウィルムさんがいれば、必ず勝てたとは思い辛い。

 

 テイオーと同じように、激戦を強いられて……。

 ……いいえ、これまでの私では、きっとそこまで行くことすら難しかったかもしれませんが。

 

 

 

 ホシノウィルムというウマ娘を本当に追い詰め切ったウマ娘は、これまでにたった3人だけ。

 サイレンススズカさんとスペシャルウィークさん……そして、トウカイテイオー。

 

 その中でも、完全な状態でのホシノウィルムさんを追い詰め切ったのは、トウカイテイオーただ1人。

 

 私もこれまで、宝塚記念とジャパンカップと有記念で計3戦、ホシノウィルムさんと競いましたが……。

 あの時でさえ、彼女は底の底を見せなかった。

 

 無論、全力ではあったのでしょう。

 確かに彼女は、彼女の持つ全ての力をぶつけて来た。

 あの抜群のスタートダッシュも、不可思議な前傾姿勢も、彼女の持ちうる全てを。

 

 ……けれど、全力以上の、限界を超えたものではなかった。

 去年と昨日モニターを通して見た、トウカイテイオーとの戦いで見せたような、自らの負傷やダメージすら顧みない恐ろしい程の走りではなかったのです。

 

 勿論、そうして無理に走り、故障することが正しいわけではありません。

 ありませんが……しかし、それだけの覚悟をぶつけられたわけではないのも、また事実。

 

 あのジャパンカップの時。

 私は彼女まで1バ身の猶予を保たれ、そしてその差は決して縮まらず、逆に伸びもしなかった。

 完璧に速度を合わされ、何があっても問題ないように「対処」されていたのです。

 

 それはつまるところ、あの時、ホシノウィルムさんが明確に力をセーブしていたことを意味します。

 

 私は彼女に全力は出させることができても、死力までは尽くさせられなかった。

 それこそが、それだけが、私の前に残酷に立ち塞がる真実でした。

 

 

 

 ……ですが、それらはあくまで、中距離レースでのこと。

 

 宝塚記念は2200メートル、ジャパンカップは2400メートル、有記念でさえ2500メートル。

 ステイヤーである私にとって、得意な距離とは言い辛いものがありました。

 

 本来メジロマックイーンの戦い方は、高い持久力を活かしてハイペースでレースを進めるというもの。

 そういう意味では、来たる春の天皇賞は、これ以上ない機会と言っていいでしょう。

 

 舞台は淀の坂の立ち塞がる京都レース場、3200メートル。

 G1レースとしては最長の距離であり、コース自体も非常に消耗しやすいもの。

 つまるところ、高いスタミナを具えるメジロマックイーンにとっては、最も有利な条件での戦いとなるのです。

 

 ここでならば、あるいはホシノウィルムさんさえも……。

 

 ……と。

 ここまで考えて、私は思わず自らの思考に苦笑を漏らしてしまいました。

 なにせ「最も有利な条件」などと語りながら、私は去年、天皇賞に勝つことができなかったのですから。

 

 

 

 去年の天皇賞、私の前に立ちはだかったのは……。

 黄金世代の一角、トリックスターの名を冠する、セイウンスカイさん。

 

 正直なところ、1年半という本当に長い期間の療養の果ての参戦、まさか彼女があそこまで衰えず、どころか力を蓄えているとは思っていませんでした。

 あるいは、今思えばこれすらも、セイウンスカイさんによって思考を誘導されていたのかもしれませんが……。

 

 とにかく、私はセイウンスカイさんの策略にまんまと乗せられ、天皇賞で敗北を喫しました。

 そしてそのセイウンスカイさんに、ウィルムさんは宝塚記念で勝っているのです。

 

 更に言えば、何も長距離を得意とするステイヤーは私だけではなく。

 ホシノウィルムさんもまた、高い持久力で周りを磨り潰す生粋のステイヤー。

 春の天皇賞において有利なのは、彼女もまた同じで。

 

 総じて言って。

 私とホシノウィルムさんの間には、まだ埋められない差が開いていると言っていい。

 

 だからこそ、宝塚記念でも、ジャパンカップでも、有記念でも、私は彼女に負けたのです。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「…………」

 

 ……私は去年、何度も敗北を喫しました。

 

 確かに、私は現在においても、ホシノウィルムさんに優っているとは言い難いでしょう。

 確かに、トウカイテイオーの才気は、それこそ背筋が凍り付く程のものです。

 

 けれど、それでも……。

 

 

 

 ……いいえ、違う。

 そんなことはどうでもいいのです。

 

 私は私。

 メジロの血を引き、彼女たちに勝つことを目指す1人のウマ娘、メジロマックイーン。

 

 私はホシノウィルムのように、自由奔放に駆けることはできない。

 私はトウカイテイオーのように、天才的な走りをすることはできない。

 

 ただ自らの素質を以て勝利し、メジロの血の強さと在り方を証明して……。

 そうして、盾の栄誉を、この手に。

 

 それこそ、私が……「メジロマックイーン」が生まれ持った、運命なのですから。

 

 

 

「マックイーン?」

 

 気付けば、どうやら私は少し考え込んでしまっていたようで、トレーナーさんに心配げな声をかけられてしまいました。

 いけませんね。熱を上げるのは結構ですが、今はトレーニングの最中。

 ひとまず、目の前のことに集中しなければ。

 

「いえ。改めて、天皇賞での勝利を誓っていたところです。トレーニングに戻りますわね」

 

 そう言って、私が再びプールに戻りかけたところで……。

 ポロン、とトレーナーさんの腰の辺りから音が響き。

 

「……待った、マックイーン」

 

 スマホを見た彼に、私は呼び止められました。

 

「なんでしょう?」

「これ」

 

 そう言って手渡された彼のスマホには、ウマッターのホシノウィルムさんのアカウントが表示されており、そこには……。

 

 

 

『ご心配おかけしました、私です。

 色々と精密検査にかかったのですが、結論としてはオールオッケー、一切問題なしです。

 次回天皇賞(春)も勿論出走しますよ。テイオーとマックイーンさんとの戦い、勝つのは私です!』

 

 

 

 ……あぁ、やはり。

 来てくださるのですね、ウィルムさん。

 

 私と、テイオーと、そしてあなた。

 三つ巴の……運命の戦いへ。

 

「……さぁ、改めて勝ちに行こうか、マックイーン」

「えぇ。今度こそ、勝利をこの手に」

 

 

 







 次走天皇賞(春)は、TM対決ならぬHTM対決。もしくはWTM対決?
 ネイチャとミーク先輩を除けば現役三強と呼んでいい3人での戦いになります。
 果たして、帝王は、名優は、龍を討つことができるのか?

 ……なんかいつの間にか、ウィルが魔王みたいになってきてるな?



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、立て直しと次の戦いの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。
 天皇賞の春と秋を間違えたのはこれで2度目です。なんでこんな間違いするんですかね?


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彼と彼女と春天の季節
お前もしかしてまだ自分だけが悪いとでも思ってるんじゃないかね?


 意味がありそうでなさそうな意味深な描写すき

 そんなこんなで天皇賞(春)編、開幕です。





 

 

 

 いつかの、悪い夢の、続きを見た。

 

 

 

 その場を包む、静寂。

 自分が見ている目の前で、夢と希望の全てが潰える瞬間。

 

 そんな中で、聞こえた音は、ただ1つ。

 

 骨が、砕ける音が。

 肉が、引き裂ける音が。

 ……命が、終わる音が。

 

 熱狂が冷め逝く中で。

 その音だけが、スタンドまで聞こえた、気がした。

 

 

 

『無理をさせすぎた』

 

 「その子」のパートナーが暗い顔で語ったように、原因は、ひとえにそれに尽きた。

 

 灰を被った蛇。

 その血統を乗り越えた、例外中の例外。

 素質はなく、望みもなく、けれどその努力で以て帝王を超えて、誰もが驚く無敗の二冠。

 

 ……しかし、そもそも。

 「その子」が帝王に勝つこと自体が、無理で、無茶で、無謀で。

 

 その皆が望んだ夢を、半端に叶えてしまった代償こそが、その結果。

 

 灰を被った蛇は天に昇り(・・・・)、その名の通り星になった(・・・・・)

 

 それが、「その子」が辿り得た可能性。

 灰の蛇の、バッドエンドの1つだ。

 

 

 

 ……でも、そんなの、あんまりだと思う。

 

 

 

 「その子」は懸命に走って、走って、走って。

 可能な限りの努力をして、誰かの期待に応えたいと、愛される自分でありたいと、あるいはただ誰かに勝ちたいと、そう願い走り続けて……。

 

 それで得た勝利が、達成した偉業が、悲劇で終わって良いはずがないんだ。

 

 

 

 だから、それが運命だというのなら……。

 彼女が無理をすることが、その挫折に繋がるというのなら……。

 

 俺はきっと、これまでも、これからも。

 彼女の無理を認めることはできないし、してはいけないのだろうと思う。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ぼんやりとした微睡みから、目を覚ます。

 頭は……冴えてるな。ちょっと浅い眠りだったのかもしれない。

 

「はぁ……」

 

 しかし……なんとも意味深な、それでいてよくわからない夢だったな。

 

 夢というのは大抵、無茶苦茶なモノだ。

 なんでそんなことを、ってことを思ったり。

 なんでそんな展開に、ってことが起こったり。

 なんでそれに納得できるのか、って展開に納得してしまったり。

 

 根本的にカオスで、よくわからないもの。

 理解しようとしてもできないし、そうする意味もないもの。

 それが夢だ。

 

 今日見た悪夢も、そういったものだってことはわかってるんだけど……。

 

「……久々に見たな、悪い夢は」

 

 知らない天井を見上げるのはやめて上体を起こし、取り敢えずスマホのアラームをオフに。

 それから、ぼんやりと考える。

 

 俺はかつて、結構悪夢を見る方だった。

 特に堀野の家にいた頃は、3日に1回は見ていたくらいだ。

 ……まぁ、勿論内容とかは覚えてないんだけども。

 

 が、ここ最近は寝付きも良くて、全くと言っていい程に悪夢を見なかったんだよな。

 多分だけど、毎日の激務による疲労と……それから、2人の担当が少しずつそれぞれの夢に近付く充実感で、ぐっすりと気絶するように眠れていたのかもしれない。

 あまりにも眠りが深ければ問題だろうが、そういうわけでもないしな。基本的にはスマホのアラームで起きることができているわけで。

 

 

 

 しかし、最後に悪夢を見たのはいつだっただろうな。

 

 ……あぁ、そうだ。

 多分、宝塚記念の日に見た、妙な夢以来か。

 

 そう言えば、今日の夢は、どことなくあれに似ていたような……。

 

 ……あー、いや、駄目だ。

 もう今日見た悪夢のことを忘れてしまった。

 

 夢は記憶に定着しにくい。

 一説によると記憶の整理整頓の際のビジョン的なモノらしいし、根本的に記憶する必要性がないんだ。

 だからこそ、寝起きにすぐ思い出して書き留めたりなどして、起床後に改めて定着させないと、すぐに忘れてしまう。

 

 まぁ、夢はあくまで夢。ただの記憶のモザイクでしかないはずだ。

 それならまぁ、忘れてしまっても構わないだろう。

 

 なにせ、夢は覚えていても何も生まない。

 今の俺にとって、大切なのは現在(いま)であり、過去(いつか)ではないのだから。

 

 そもそも夢の内容だって、何かを意味してるわけでもないだろう。良い夢か悪い夢かなんて、その時の精神状態にもよるし……。

 

 

 

 ……昨夜の、精神状態?

 

「あ」

 

 そうして、俺は思い出した。思い出してしまった。

 昨日、レースを走り終えた担当に対して、自分がやらかしてしまったことを。

 

「あぁ……おぉ、うわ、うわぁ……」

 

 ヤバい、鬱。マジでめちゃくちゃ鬱。

 俺、何やってんだマジで……。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 本日は4月6日。

 ホシノウィルムが大阪杯で限界を超えた走りを見せ、レース後に倒れ込んでしまった、翌日であった。

 

 ウィルは大阪杯で危険な暴走をしてしまって、俺もその後最悪な暴走をしてしまったが、昌の仲裁もあってなんとか纏まった形になり。

 彼女の無事を確認した後、少しだけ2人で話して、その後はウイニングライブに出席。

 その後はウィルを急いで病院に担ぎ込み、安全を取って徹底的な精密検査にかけ、その間に昌と2人でURAの職員と情報共有したり今後の予定を立てたりして。

 

 それが終わる頃には、時刻は既に0時近く。

 担当2人には後部座席で寝てもらって、俺が送り届けようとも思ったんだが……2人と昌に止められ、結局近くのホテルに泊まることになった。

 

 大阪杯直後ということで混雑していたので、仕方なく堀野の名前を使って、ちゃんとした部屋を確保。

 担当2人のことは昌に任せて、俺は1人で部屋を取って眠りに就いたんだが……。

 

 そう、そうだった。

 昨夜は自らの失態に、とんでもなく頭を悩ませてたんだった。

 

 多分、あの懊悩が、悪夢を招いてしまったんだろうな。

 

 

 

 ……しかし、改めて。

 

「ウィルにはひっどいことをしてしまった……」

 

 昨日、俺はレースを走り終えたウィルを、手酷く叱責した。

 いや、叱責と言うには、あまりにも理屈が通っていなかったな。

 アレはただ、自分の怒りをぶつけていただけだ。

 

 ウィルが倒れ込んだ瞬間の、焦り、悲しみ、恐怖、絶望、怒り。

 そういった感情は、一時は昌のおかげで抑え込めていたんだが……。

 ……楽しそうにレースのことを語るウィルを見て、それがぶり返してしまった。

 

 それで……本当に情けないことに。

 俺はウィルに、その負の感情を、ぶつけてしまったわけだ。

 

 あぁもうホント、何やってんだ俺。

 自分を何だと思ってるんだ。感情むき出しにするとかガキか。

 それも相手が担当とか、最悪にも程があるだろうが。

 

 俺はウィルと違って、年齢を重ねた大人だ。

 それも、個人的な感情を抑制し、大義のために殉じなければならない名家の出。

 もっと言えば、前世の記憶と人格を受け継いだ、転生者でもあるんだ。

 

 精神年齢は高くて当然、自分の感情なんぞ抑え込めてなんぼ。

 こう言うと傲慢に聞こえるかもしれないが、スタート地点から他と違うんだから、この辺は他者より優れて当然なのだ。

 

 そんな俺が、あろうことか自分の感情を相手に押し付け、怒りを露わにするとは……。

 酷い失態だ。あまりにも酷すぎて頭を抱えてしまうレベル。

 

 

 

 彼女の行動を咎めること自体は、あくまで俺の視点からすればだが、そんなに悪いものじゃなかった。

 ウィルはレースに楽しさを感じると熱くなる。

 これ自体は悪いことではないが、テイオーとの激戦のように熱くなりすぎると、思わず無理をするラインに踏み込んでしまうんだ。

 これはダービーの時点からわかっていたことで、俺としては少し認め辛い部分だったので、いつかタイミングさえあれば指摘しようとは思っていた。

 

 今回の大阪杯で言っても、もしも「思考力増加能力」のデメリットが走っている最中にやってきた場合、最悪彼女は受け身も取れず転倒していたかもしれない。

 もしもそれで彼女の脚が折れ、あるいは脳に重い障害を負いでもすれば、俺は勿論彼女の知り合いと全国のファンが嘆き悲しむことは想像に難くない。

 それに何より……もう彼女には、宝塚記念の時のように、負傷してほしくはないのだ。

 

 だから今回、ここに関して彼女に注意喚起できたのは、悪いことではなかったと思う。

 

 しかし、目的はともかく、手段が非常に悪かった。もはや最悪に近いレベル。

 というか、結果的に目的を達成できただけで、あの時の俺の主目的は怒りを露わにすることだったし、ウィルがここを反省してくれたのは、言うならば偶然噛み合っただけだ。

 つまるところ、ただの棚からぼた餅。

 偶然……というか、ウィルの賢さや昌の仲裁のおかげで、なんとか形になったに過ぎない。

 

 もしもウィルの精神年齢がその実年齢と同程度だったり、あの場に昌がいなければ、ただ無用にウィルの心を傷つけて終わってしまっていたかもしれない。

 改めて、彼女には無体というか、大人げないことをしてしまったと思い、俺は俯いた。

 

 

 

 ……あぁ駄目だこれ、考えてると永遠に落ち込んでしまう。

 反省はともかく、落ち込むのは極めて生産性のない行動だ。早く次に進まなければ。

 

 そうだな、取り敢えず、これから取るべき行動を考えよう。

 

 1年前の俺であれば、「こんな俺はホシノウィルムのトレーナーに相応しくないだろう」と思い、彼女より良く育ててくれるトレーナーを探すとかしてたかもしれないが……。

 それはもう、取ることのできない、というか取りたくない選択だ。

 

 ウィルは俺のことを信頼してくれているし、俺はそんな彼女の信頼に応えたいと思っている。

 それに……お互い、信頼以上の感情もあるし。

 俺は自分こそがウィルのトレーナーでありたいと思うし、多分ウィルも俺にトレーナーでいてほしいと思ってくれている……はずだ。自意識過剰でなければ。

 

 今更、ウィルとのこの関係から逃げたいとは思わない。

 彼女が俺を望んでくれるのならば、俺はそれに応えたいし……。

 ……こんなことを言うのは公私混同に当たるかもしれないが、俺だって彼女の隣にいられることを望んでいるんだから。

 

 であれば、今回の件で失態を犯し、信頼を失ってしまっただろう俺が、次に彼女に対して取るべき行動は何かと言えば……。

 

「……謝ろう。精一杯」

 

 それしかあるまい。

 

 悪いことをすれば償う。駄目なことをしたら謝る。

 これは小学生でも習う、現代社会における常識である。

 

 ……いやまぁ、俺にはもう小学生時代の記憶はないんだが。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 本当は、朝の内に謝罪を済ませようと思っていたんだが……。

 残念ながら、そう上手くは展開が運ばなかった。

 

 というのも、ウィル、こう見えて朝に弱いんだよな。

 それも生半可じゃなくて、めちゃくちゃに、とんでもなく弱い。

 

 情報によると、普段は周囲にそういう弱みを見せないため、朝早くに起きて意識がしっかり覚醒するまでベッドで過ごしているとのことだったが……。

 昨日は大阪杯での限界を超えた全力疾走、その後の諍いによる精神的疲弊、ウイニングライブでのファンへのアピールに精密検査での就寝時間の遅延と、色々要素が重なった。

 

 その結果、なのだろうな。

 今朝のホシノウィルムは意識が覚醒しきらず、過去最高にふにゃふにゃしていた。

 

 朝食のバイキングで顔を合わせた時も、既にシャキッとしてる昌やいつも通りのブルボンに引きずられるようにして現れた彼女は、半分くらいは……いや、9割は意識がない状態だった。

 一応ちゃんとした服に袖を通してはいるんだが、明らかに他者に着せられた様子。

 その上、昌に「ホシノウィルムさん、いくつかてきとうに取って来ましょうか?」って言われた時も両目を閉じたまま「んー……」って呻っていたし。

 

 もそもそと目玉焼きを頬張って口元を黄色くするウィルはすさまじく可愛かったし、なんなら1日中眺めていたいくらいだったが……。

 流石に、トレセンに帰らずホテルに滞在し続けるわけにもいかない。

 

 チェックアウト、そして出発の頃になって、ようやく正気に近づいてきたウィルを車の中に押し込んで、俺の運転で中央に戻るのだった。

 

 ……正直、車内はちょっと気まずかった。

 上手く会話を続けてくれた昌のおかげでなんとか耐えられたな。ありがとう昌。

 

 

 

 さて、そんなわけで時は正午過ぎ、トレセン学園の俺のトレーナー室にて。

 俺は、頭を下げて誠心誠意、心からの謝罪を行った。

 

「改めて謝罪させてほしい。すまなかった、ウィル。

 昨日のアレは、レースを頑張った君に対して、心無い仕打ちだったと思う。これからは決して、あのような態度は取らないことを誓う」

 

 こんな謝罪1つで、信頼が戻ったりすることはないだろう。

 行動によって失われた信頼は、行動によってしか取り返せない。

 

 だが、これは1つの区切りだ。

 失ってしまった信頼を、今後の行動で少しずつ取り返していく、という宣言。

 これから少しずつ自分の行動を変えていく、というスイッチ。

 

 ウィルにも、そう感じてもらえればいいな。

 

 

 

 ……と、俺はそう思っていたのだが。

 

 俺の予想に反して、神妙な面持ちをした彼女は、受け入れてくれるでもなく、逆に拒否するでもなく。

 

「いえ、謝るのはこちらもです」

 

 ぺこりと、逆にウィルの方にも、頭を下げられてしまった。

 

 思わず固まる俺を前に、彼女は謝罪の言葉を並べる。

 

「歩さんの心を何も考えず、あなたのウマ娘に相応しくない判断をしてしまって……本当に、すみませんでした」

「いや、それは君が勝ちたいと望んで……」

「はい、勝ちたいと望んだのは事実です。あの時は、テイオーとの勝負の熱に浮かされて、何も考えずに走ってしまって……。

 でも、私の本当の望みは、歩さんと一緒に何の悔いもなく勝つことです。歩さんが、大事なパートナーが悲しむような勝ち方をしたら、何の意味もないんです。

 だから……だから、私の方こそ、すみませんでした! もうあんなことはしません! しませんから、あの、その……」

「その?」

「契約解除だけは、どうか……。私、もっとちゃんと、歩さんのウマ娘として頑張りますから!」

 

 そう言う彼女は、必死さを滲ませる口調で叫び、頭を下げ続けていた。

 

 

 

 …………。

 

 あぁ、そうか。

 そうなんだな。

 

 俺と彼女は……案外、似た者同士なのかな。

 

「ふ、くくっ」

「え、な、ちょ! 笑うところじゃあないですけど!?」

「いやすまない。決して侮辱するような意図はなくてな。少し、なんというか、嬉しくなったというか」

「嬉しい?」

 

 俺は笑いを消して、「ん、ん」と咳払いした後、心の内を語る。

 

「契約解除はやめてほしい、君に相応しくなる、と……その言葉は、元々俺のものだったからな。

 君が俺と同じようなことを考えていると、おかしいような嬉しいような、複雑な心境で」

 

 去年の宝塚記念で、全てを置き去りにする彼女の走りに魅せられて以来。

 俺は、彼女のトレーナーでありたいと、彼女に相応しい存在でありたいと、強く望むようになった。

 

 もっとあの脚を育てたい。

 あの走りの極致を知りたい。

 ……そして、彼女のパートナーでありたい。

 これからも、彼女の隣にいるために。

 

 だからこそ「力不足で契約解除」なんてことにならないよう、必死に彼女に相応しいトレーナーであろうと思ってきたんだが……。

 そういう想いは、どうやらお互い様だったらしい。

 

 俺のウマ娘として……か。

 そうだな。彼女はずっと前から、そう言ってくれていたものな。

 

 

 

 そうして想われている以上、その件に関しても、きちんと謝らなきゃいけないだろう。

 

「不安にさせてしまってすまなかった、ウィル。

 だが、俺はもう、何があっても君に契約解除を求めたりはしないよ。たとえ君が俺にとって本意でない行動をしたとしても、その時はきちんと話し合って、止めてほしいと言おうと思う。

 ……いやまぁ、そんなことを言っておきながら昨日のあの無様だ、信頼できないと言われれば何1つ言い返せないが」

 

 いや、本当にね。

 これが言えるの、そういう事態になっても冷静に対処できた奴だけでしょ。

 マジでどの口が言ってんだよ状態だよ。我ながら恥ずかしいわ。

 

 自分の厚顔無恥さに思わず苦笑する俺を前に、ウィルは安堵したように息を吐いた。

 

「良かった……。帰りの車でちょっと張り詰めてるみたいな空気感じてたので、もしかしたらって思って、ちょっと怖くて……」

「いや、君にどう謝ったものかと考えていてな」

 

 俺の方も、ウィルから張り詰めた空気を感じて、気まずく思っていたんだが……。

 なるほど、俺たちは互いに深読みしすぎた結果、警戒心を露わにしていたらしい。

 

 なんとも言えないすれ違いに苦笑する俺だが、ウィルの方は笑い事ではないと言わんばかりに、がばっと身を乗り出してきた。

 

「というかそもそも、歩さんは謝る必要なんてないんですよ! 私と歩さんの2人の敗北だったのに、それを受け入れられなくて、皆をすごい混乱させちゃった私が悪いんですし!」

「君はただウマ娘の本能に従っただけだ、なんら悪いところはない。ただそれが俺の主義と相性が悪いというだけだ。だからこそ、そこについては話さねばならないと……。

 いや、論点がズレてるな。今回露出した問題は、俺が感情的になり過ぎたと言う部分で……」

「それこそ悪くなんてないです! だって歩さん、それだけ私のことを大事に想ってくれたってことじゃないですか! トレーナーが担当を大事にすることが間違いなはずないです!」

「それを言ったら君だってそうだ。勝ちたいという自分の熱を、俺のために曲げてくれようとしている。根本的に、ただ勝ちたいと、もっと走りたいと思うそれが悪いはずがないんだ」

「いや、だからそうじゃなくて、そもそも歩さんに謝ってお願いするのは私の方で、これからも2人で二人三脚で走っていくにはですね……」

「俺の方こそ君に謝らねばならないし、それに己の至らなさが君を傷つけるなどトレーナー失格で……」

 

 そんな感じで、俺とウィルは激論を交わしていたんだが……。

 

 

 

「……あの、もういい?」

 

 煮詰まった議論に、昌の声が挟まる。

 俺とウィルに同時に視線を向けられて、俺の妹は辟易としたような表情で言った。

 

「いやこれ平行線だし、お互い相手を大事に想ってるってことはよーくわかったからさ。

 もうどっちが悪かったかじゃなくて、喧嘩両成敗でお互い気を付けようね、ってことで先に進まない?

 私たちに必要なのは犯人捜しならぬ自首合戦じゃなくて、これからの指針の協議だと思うんだけど」

 

 ……む、確かに言えている。

 

 俺は、俺が悪かったのだと思う。

 昨日は過度に感情を出しすぎたし、俺の存在が彼女の方針を歪めてしまうから。

 

 彼女は、彼女が悪かったのだと思う。

 背負った希望を放り出して走ってしまったし、俺の願いを裏切ってしまったから。

 

 俺たちは故意でなく互いの領分に踏み入ってしまったし、それが悪かったのだという自己嫌悪を止められない。

 であれば、どちらか片方が悪かったのではなく……。

 両者共に、悪い部分があった。反省すべきところがあった、と。

 そう片付けるのが、最も自然な形かもしれない。

 

 ウィルの方を窺ってみると、あちらもあちらで「確かに」という表情。

 いや、例によって無表情寄りではあるけど、いつもより僅かに眉が上がってるし、耳も立ってるからな。長い付き合いだ、これくらいはわかる。

 

「……そうだな、それでは、この件はお互い謝って終わり、ということで。それでいいか、ウィル」

「ええと……うん、それでいいと思います。改めて、今回はごめんなさいでした」

「俺の方も、悪かった。次回から気を付けるよ」

 

 そんなわけで、俺はウィルと頭を下げ合って、それで手打ちとしたのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、俺とウィルの不毛な自首合戦が終われば、次に考えるべきは、昌の言う通りこれからの方針だ。

 

「さて、今回の件に関して、これから取る改善策だが……これに関しては、俺とウィルがそれぞれ互いに求めることについて語るのが早いか」

 

 俺がそう言うと、ウィルは可愛らしくコクリと首を傾げた。

 

「求めること、ですか?」

「要は、お互い破ってはいけないルールを明確にしておこう、という話だ。

 俺はウィルに対して、『思考力増加能力』の30秒を超過した使用、及びその期間外の前傾姿勢……天星スパートの使用の禁止を求める」

 

 結局のところ、俺が求めるべきはそこだ。

 

 ホシノウィルムの持つ、天然チートとでも言うべき「思考力増加能力」。

 そして彼女の生み出した埒外の走り、「天星スパート」。

 

 これらを上限を超えて使うことは、彼女の体に対して強すぎる負担を強いる。

 謂わば、強い薬みたいなものだ。用法用量を守る内はレースで強い効果を為すが、それを破った瞬間に彼女の体の毒となる。

 

 だからこそ、俺は彼女のトレーナーとして、今後はそれを徹底して守らせるべきだろう。

 

 トレーニングの際も、勿論レースの中でも。

 俺は俺にできる限りのリスクヘッジを行い、彼女たちを無事に走らせ、その帰りを迎える。

 

 それが、トレーナーとしての俺の役割なのだ。

 

 

 

 ……と、俺が俺のすべきことを再認している最中。

 

 目の前のウィルは、顎に手を当てて考えていた。

 

「なるほど、そういう感じ。では私は……いえ、私からは特に、制限すべきことなんてないんですが」

「悪いが何か捻り出してくれ。そうじゃなきゃ対等という形にならないし」

「そうですよね……あぁ、それじゃ」

 

 彼女はちょっと申し訳なさそうに、儚げに笑う。

 

「もしも私が、また駄目なことをしたら、ちゃんと叱ってください。

 今回で改めて自覚したんですけど、私、自制心が強い方じゃないみたいなので……その分は、歩さんが抑えてくれたら助かるなって」

「……厳しいことを言うなぁ」

 

 俺は思わず、後ろ頭を掻いた。

 

 彼女の言葉はある意味で、理知的に彼女を叱るという自らの責務を放り出し、感情を暴走させた俺への皮肉のようですらあった。

 お前は教導者として取るべき、最も初歩的なことすらできないのだと、そう言われているようで……。

 

 ……でも、そうだな。

 彼女が求めるのなら、俺は応えるしかない。

 できないなら、できるようになるしかないよな。

 

「わかった、心がけよう。君が道を間違えそうになれば、いつでも俺が止める」

「な、なんか、尚更パートナー感のある言い方に……いえ、そう、それを望んだのは私なんですけども」

 

 ウィルは恥ずかしそうにコホンと咳払いし、堪えきれなかったように不器用な笑みを漏らした。

 

「……まぁ、その。その辺り、お互いよろしくです、はい」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、ひとまず話は落ち着いた。

 

 ごたごたがあったから対応していたが、本来今日は春のG1シーズン真っただ中の月曜日だ。

 いよいよ始まるブルボンの三冠への挑戦、その最初の一歩である皐月賞は2週間後に控え、ウィルの次走である天皇賞(春)すら3週間後。

 当然ながら、彼女たちは可能な限りトレーニングに勤しむべき状態。

 

 そんなわけで早速、担当2人をトレーニングに向かわせようと思ったのだが……。

 

 そう言おうと口を開いた俺の言葉は、ブルボンが上に挙げた手によって止められた。

 

「ん、どうしたブルボン、何か言いたいことがあるのか?」

「肯定。発言の許可をいただきたく」

「構わない。言ってみてくれ」

「了解しました」

 

 ぺこりと頭を下げて、ブルボンは改めて口を開く。

 

 

 

「『ご褒美権』を行使し、要請します。

 マスター、お手隙の際に私の両親への挨拶をしていただきたく思います」

 

 

 

 その言葉に。

 今までにへにへと笑っていたウィルが、凍り付いた気がした。

 

 

 







 しんみりとした空気を吹き飛ばす唐突な爆弾投下。
 担当ウマ娘は「2人」いたッ!



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、もやもやと後輩たちの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!
 色々とミスが多かったです。言い訳になりますが、ちょっと余裕がなかった……。


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恋愛クソ雑魚と頼れる先輩両方の性質を併せ持つ♣

 そろそろ走るか……♠





 

 

 

 私のトレーナーが、ブルボンちゃんのご両親にご挨拶するために、ブルボンちゃんと2人で出かけた。

 

 私の、トレーナーが。

 ブルボンちゃんのご両親に、ご挨拶するために。

 ブルボンちゃんと、2人で、出かけた。

 

 彼女の、実家に。

 

 …………いや?

 全然気にしてないが。

 全く以てこれっぽっちも欠片たりとも少しだって気にしてないんだが???

 

 「君が間違ったら俺がいつでもその道を正すよ」なんていうパートナーどころか伴侶に告げるようなことを言ってきた後、というかよりにもよってその数十秒後に他のウマ娘のご両親に挨拶しに行くことを決めるとかいう浮気トレーナーのことなんて全然気にしてないが?

 というかそもそも私と歩さんの間には今更他者が挟まることなんてできようはずもない絶対的で不可侵の絆がある(はずだ)し、それはもう1人の担当ウマ娘となったブルボンちゃんだって例外ではないんだが?

 

 は? 「でもお前ご両親にご挨拶っていうイベントにビビってんじゃん」って?

 これっぽっちもビビってないんだが!?!?

 

 いいか? よく聞け。

 私は歩さんに、とうの昔に、実に1年半近く前に、両親に挨拶に来てもらってるんだよ。

 

 あの日、寒空の下、どこまでも真摯に私に向き合ってくれた歩さん。

 どこまでも真面目で、それなのに優しくて……だからこそ私は、当時の私にとってかなり重かった両親の話をできた。

 歩さんは、そんな仄暗い私の過去を、受け入れてくれた。

 その上で、私の両親に「ホシノウィルムさんをお預かりしています」とか「彼女を導きます」って言ってくれたんだ。

 

 更に、それだけじゃない。2回目の挨拶だってちょっと前に済ませた。

 もうこれは完全にそういうこと。実質的には婚約みたいなもんでしょ。違う? そっかー。

 

 まぁでも、その人の好さで私の心を溶かしてくれたのは歩さんで、そんな歩さんの心を救ったのは(多分)私なんだ。

 つまるところ、私と歩さんの間には、救い救われるという人とウマ娘が結ぶ中でも最も強固で無敵の関係性が築かれているのである。

 

 今更ブルボンちゃんが歩さんを連れてったとしても、その関係性が脆弱になるわけでもなく、また反転するわけでもなく。

 そうして大きな大きなアドバンテージがある以上、今更ブルボンちゃんに遅れを取るわけもなく……。

 

 つまり。

 「恋のダービー1番人気」はこのホシノウィルムだッ!! 依然変わりなくッ!

 

 

 

「あの、先輩?」

 

 

 

 ……と、強気に出たいところではあったが。

 実際のところ、事態はそう楽観視できる状況でもない。

 

 そもそもの話だけど、歩さんは担当のことを、恋愛感情を持って見たりはしないだろう。

 どこまでもトレーナーとしての使命に真っ直ぐで職務に忠実な彼は、担当ウマ娘のことを担当ウマ娘としてしか見ていない。

 言うならば、すごく真面目な先生みたいな感じ。生徒は生徒、恋愛対象には入らないのだ。

 

 故に必要なのは、直接的なアプローチ──つまり、告白だとかデートだとか、そういうちょっと恥ずかしくなるようなヤツ──ではなく、間接的で回りくどい、日常に内在するようなもの。

 

 歩さんにとってのヒロインというのは、日常を一気に塗り替える非日常系ヒロインではなく、幼馴染みたいな日常系ヒロイン。

 いつも隣にいて当然の存在だったが、ふとした瞬間に対象に「異性」を意識してしまい、そんな自分に自己嫌悪しながらも相手との新しい距離感を求める……みたいな。

 

 そういう関係性、そういう展開でしか、歩さんの担当ウマ娘である私が彼とお付き合いとかしたりするルートは存在しないのである。

 

 

 

 だからこそ、私は歩さんの隣で、積極的なアプローチは避けて明るい毎日をエンジョイしていたわけだけど……いやホント、アプローチにビビってたとかじゃなくあくまで戦略的にね? こうした方が良いと思ったからね?

 

 でも、やっぱり、競合相手が出てくると話が一気に変わって来る。

 

 それが生半可な相手ならば「最初の担当に勝てる担当ウマ娘など存在しない!」と言い放つこともできようが……。

 相手があのミホノブルボンとなると、お話が別のものとなるわけだ。

 

 え、何? なんでブルボンちゃんが特別かって?

 

 

 

 おっぱいがデカいからだよ。

 

 

 

 いやそんなトコ? と思われるかもしれないが、おっぱいが大きいことはこと恋愛においてはスーパービッグアドバンテージなのだ。多分。

 なにせ、前世知識にはなってしまうけど、ギャルゲーとかエロゲーにおいて巨乳ヒロインってもうそれだけで人気なんだもん。

 男性はやっぱり、基本的には胸の大きな女の子が好きなのだ。あとついでに一途な幼馴染とか清楚系委員長とかオタクに優しいギャルとかクール系優等生とかも好きらしい。男の人っていつもそうですよね! 

 

 ……てか時々思うんだけど、清楚系って何だろうね。逆説的に言えば清楚系じゃない子はみんな汚濁系なんだろうか。

 あとオタクに優しいギャルってのも前世じゃよく聞く概念だったけど、ぶっちゃけギャルだろうがそうじゃなかろうが、女の子の対応はその子の性格次第なので、オタクにも優しく接するギャルって実在はすると思うんだよな。まぁオタクに理解を示すかとか好意を持つとかはまた別の話だと思うけども……。

 

 いや、ちょっと話が逸れた。

 ブルボンちゃんのお胸の話に戻ろう。

 

 

 

 ブルボンちゃんは、実に豊満な体をしていらっしゃる。

 いや豊満っていうか、全身デカい。いわゆる恵体ってヤツだね。

 

 競走ウマ娘は本格化が始まる際に、その体型が最適なものに固定されるんだけど……ミホノブルボンにとってのそれは、大人の女性に近いものだったらしい。

 身長も高くて体格も良い。ぶっちゃけ見た目だけなら大学生でも十分通じるレベルの見た目だ。

 というか、顔の良さと胸の大きさまで含めれば、大学のミスコンも圧勝できる見た目、と言うべきか。

 

 そして先述の通り、男性の感じる異性の魅力において、胸の大きさは大きな加点ポイントになるっぽい。

 勿論個人の嗜好によっては、小さい方が好きとかない方がいいとかいっそ同性の方がいいとかあるだろうけども、基本的にはデカい方が好きっぽいんだ。ソースは前世のネット。

 

 つまるところブルボンちゃんは、ただそこに存在するだけで、ある程度とはいえ男性の気を引いてしまう可能性のある、魔性のウマ娘ちゃんなのだ。

 

 更に言えば、ブルボンちゃんってば、声も良いし性格も良いんだよね。

 いやまぁ、前世で言えば二次元に属してた女の子なわけで当然と言えば当然なんだけど……。

 たとえ次元が1つ増えたとしても、というか美少女度そのまんま次元が1つ増えたことで、彼女の美少女力は増していると言ってもいい。

 画面の中から飛び出してきた美少女そのものなんだもん、あんなのもはやズルだよね。そりゃあ惹かれるのも当然ってわけで。

 

 

 

 対して私ことホシノウィルムは……性格は、理想の女の子なんかじゃない、等身大のめんどくさい女だ。

 歩さんが他の子と絡んでると嫉妬もするし、モヤモヤもするし、寂しがるし、時には暴走することもある。多分男性からすると、そこそこめんどくさいだろうなって思う。

 

 その上外見も、ブルボンちゃんと違って色気なんて欠片もない、初等部の子供って言われても違和感のないロリロリボディだ。

 まぁ顔の良さはウマ娘の種族値で保証されてるけども……やっぱり男性からすると、ブルボンちゃんの方に魅力を感じるんじゃないかな。

 

 めんどくせーロリ体型女と、可愛げのある真面目なわがままボディ(中等部2年)。

 この2つを比べてどちらに魅力があるかなんて、火を見るよりも明らかだ。

 

 あんな強い武器を持った子が相手なら、覇王翔吼拳……もとい、私も私の強みを使わざるを得ない。

 

 最近ようやく恋愛クソ雑魚を自覚した私だが、対抗の手段と弾丸くらいは持っているのだ。

 本当はこんなことしたくはなかった。焦りすぎっていうか、それこそ歩さんの恋愛対象外の非日常系ヒロインになりかねないからだ。

 

 けど、こうなってしまえば、もはや猶予などない。

 「ご褒美権」を使って一気呵成に……!

 

 

 

 

「先輩!」

 

「んっ……え、何、どうしたの?」

 

 大声に反応して、巡らせていた思考が引き裂かれる。

 

 そうしてようやく視界に入ったのは、トレセン学園のグラウンド、ターフより内周に敷設されたダートコース。

 ……そう言えば私、トレーニングの最中だったっけ。

 

 あー、マズいな。流石にトレーニング中にぼんやりし続けるわけにはいかない。

 

 先日も確認した通り、私は歩さんのウマ娘として、事故を起こしたり怪我をするわけにはいかない。

 彼が望むのは、担当の栄光ではなく、その安寧。

 勿論トレーナーとして全力で支えてはくれるけど……根本的に、歩さんは私たちの帰還をこそ喜ぶ人間なのだ。

 

 そして私は、彼のウマ娘だ。

 彼の「担当」ウマ娘でも「競走」ウマ娘でもない。彼のパートナーたるウマ娘。

 

 であれば、私は彼の望みをこそ、最優先にすべきだ。

 勝利よりも安定を。一瞬の輝きよりも長い競走人生を。

 それこそが、堀野歩とホシノウィルムというペアの、基本指針なのである。

 

 勿論、歩さんとブルボンちゃんや、あるいは来年以降増える気しかしない新たなる担当の子たちとの関係は、また違ったものになるかもしれないが……。

 

 ウマ娘とトレーナーの関係に正解はなく、それこそ十人十色の形がある。

 私と歩さんの指針はそれ、というだけである。

 

 

 

 改めて、脚を止めて、一度大きく深呼吸。

 

 そうして、後ろから付いて来る、へとへとな後輩ちゃんに話しかけた。

 

「ごめんね、ソウリちゃん。ちょっとボーっとしてた」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ソウリちゃん、もとい、ソウリクロスちゃん。

 私の可愛い後輩ちゃんの1人だ。

 

 ブルボンちゃんやライスちゃんと同期の、トゥインクルシリーズに属する現役競走ウマ娘。

 広義においては、私と同じ逃げの脚質を用いる子でもある。

 ……というか、私の走りに憧れて逃げをメインの戦術にしてくれたらしい。なんとも嬉しい話だね。

 

 実のところ、最近、彼女とはちょっと絡みが少なかった。

 というのも、私が大阪杯を前にして追い切りしてたからね。流石にシニア級の追い切りにクラシック級の彼女を巻き込むわけにもいかなかったわけで。

 

 で、その追い切りを必要とした大阪杯が終わった今、私にはちょっと余裕がある。というか、どうしても余裕が発生してしまう。

 公式G1レース、それもテイオーとの激戦で負った疲労を、天皇賞までに抜かなきゃいけないからだ。

 そんなわけでこれから1週間程度は、一旦トレーニングの負荷を下げることになった。

 その上なんと、危険な選択をした罰ということで、自主トレ禁止も厳命されてしまった。泣きそう。

 

 そんなわけで今日の午後は、軽く流す程度にダートコースのランニングをする予定だったんだけど……。

 

「あ、先輩」

「ソウリちゃん? お久しぶり」

「お久しぶりです!」

 

 偶然にも食堂で、ソウリちゃんと遭遇。

 せっかく負荷の軽いトレーニングだしってことで、昌さんの監修の下、トレーニングを共にすることになった、というわけだ。

 いや、共にすることになったっていうか、共にするようにお願いして拝み倒した、が正しいんだけど。

 

 歩さんにも確認した後、渋々という表情で頷いてくれた昌さん。

 その後、あっちのトレーナーさんに確認を取ってもらったんだけど、特に問題もなくするっと話が通ったらしい。どうやら私のネームバリューも大きな仕事をしたのだとかなんだとか。

 

 そんなわけで突発的に始まった、ソウリちゃんとの併走中……。

 私はぼんやりしすぎて突っ走っちゃったらしく。

 

 気付けば、必死に私に付いて来ようとしたソウリちゃんは、かなりへとへとになっていた。

 

 以上が、事の顛末なのでした。

 ……なっさけないなぁ、私!

 

 

 

 * * *

 

 

 

 昌さんからスポドリを2本受け取って、ターフに座りこんじゃったソウリちゃんに片方渡しながら、ゆったりとした調子を心がけて、声をかける。

 

「ほんとごめんね、ちょっとぼんやりしてて……。先輩としてちょっと情けない」

 

 本来先輩ならば、後輩ちゃんには弱みなんて見せるべきじゃない。

 ことに私は、これでも結構強めの先輩なのだ。いや別に競走の成績と人柄に相関関係はないだろうけども、せっかくなら強くて頼れる先輩と思ってほしいじゃん?

 

 そんなわけで、私は後輩ちゃんの前では、頼れる先輩たろうと心がけていたのだけれど……。

 こんなカッコ悪いトコ見せちゃ、先輩失格だよね。自分の至らなさにちょっと落ち込むくらいだ。

 

 そんな私に対して、ソウリちゃんは疲れた様子ながら、ぶんぶんと両手を振ってくれた。

 

「い、いえ、そんなにお気になさらず! 先輩も、やっぱり大阪杯でのアレとか、色々考えなきゃいけないことあるでしょうし……」

 

 ソウリちゃん、優しいなぁ。

 私のせいでかなり疲れただろうし、多少なら八つ当たりしたっていいのに。

 やっぱりウマ娘って基本聖人メンタルっていうか、良い子が多いよね。

 

 あと、別に大阪杯のことを考えてたってわけではないんだけど……わざわざ説明するにはアレすぎることだし、そこに関しちゃ一旦スルーで。

 取り敢えず、今はしっかり謝罪せねば。

 

「ごめん、次からは気を付けるよ」

「大丈夫です。それに、私も……将来的には、先輩について行けるようにならなきゃいけませんしね」

「うん、そうなってくれるのを待ってるよ」

「あはは……。一体いつになることやら」

 

 ソウリちゃんは控えめに笑顔を浮かべた。

 ……けど、その表情にはどこか、ほんの少しだけ悲しみが隠されてるように思えた。

 

 私に……というか、強いウマ娘に追いつけないことに、少なからず思うことがある……んだろうか。

 んー、何かあったのかな、これ。

 

 これに近い感じは……あぁそう、今年の初め辺りにもちょっとあったような。

 いやでも、あの時とは全然違うな。

 

 捻くれてるとか、やさぐれてるって感じじゃない。

 ただ、なんかこう……落ち込んでる?

 

 

 

 ソウリちゃんは今、落ち込んでいる。

 ただ、それはぱっと見ではわからない。皆を心配させないようにっていう気遣いからだろう、対外的には何事もないように取り繕ってるからだ。

 

 でも、仮面被りのプロである私からすれば、すぐにわかるレベルのペラペラの嘘だ。

 彼女は今、確実に、何かの悲しみを抱えている。

 

 その悲しみの所以は何だろうと、私は頭を捻った。

 

 今年の頭、彼女はブルボンちゃんのあまりの強さに、やさぐれていた。

 一緒に走っても、全然追い付けない。その差が全く埋まらない。

 彼我の実力の差を知って、それに腐っていたんだ。

 

 でも、今の彼女は、あの時とは……なんというか、少し雰囲気が違う。

 苛立ちとか焦りみたいなものはなくて、彼女が見せているのは、静かな諦観と……そして、仄かな憧れのような表情で。

 

 ……うん、悩むのは性に合わないな。素直に聞いてみよう。

 

 

 

「ソウリちゃん、何かあった?」

「いや、別に何も……」

「言ってみなよ。誰かに相談した方がすっきりするだろうし……ただの愚痴でも、聞いてあげるから」

「…………あー、もう、本当。先輩、目良すぎです。全然隠せないですね」

 

 彼女は苦笑した後、両手で持つペットボトルに視線を落として、語り出した。

 

「……なんていうか、最近になって、ようやくわかってきたんです。ブルボンちゃんのすごさ」

「ブルボンちゃんのすごさ、か」

「はい」

 

 ソウリちゃんの手の中で、スポドリのペットボトルがべこっと音を立てる。

 

 彼女は「おっとと」って冗談めかして言った後、一度深呼吸して、空を見上げて静かに言う。

 

「……この前のスプリングステークスを見て、あー、モノが違うなって思っちゃって。

 とんでもない速さでスタートして、その速度を維持したままゴールって……とんでもないですよ。そんなことできれば、そりゃあ最強じゃないですか。

 私、自分も一緒に走ったらってイメージして……でも、全然勝てなくて。ブルボンちゃんの走りも、レースの展開も全部わかってるのに……それなのに、どんなに贔屓目に見ても3着とか4着が限界で」

 

 ……スプリングステークスのブルボンちゃん、ぶっちゃけかなりすごかったからなぁ。

 

 スタートから一気に抜け出して他の子たちからの干渉と展開による不利を防止し、スタミナを活かしてリードを広げたままに疾走し続け、終盤まで垂れずに駆け抜ける。

 

 あれは私の走りにも近しいもの。

 歩さんから伝えられた、彼女の目指していた走りの、完成形だ。

 

 そりゃあ強い。まだ未熟で自分の走り方を確立してない同期の子たちじゃ、相手にならないだろう。

 これが長距離ならば話は別だったかもしれないけど、スプリングステークスはマイル距離、ブルボンちゃんの大得意な距離だったものね。

 

 そんなわけで、あまりにも強い走りを見せたブルボンちゃんだったけど……。

 強い光は、それだけ濃い影を生むもの。

 あの走りは、ソウリちゃんを含めて、多くの子に彼女との格の違いを悟らせたのかもしれない。

 

 

 

 ……が。

 それでソウリちゃんの心が折れているかと言えば、そうではなかった。

 

「すごいですよね、ブルボンちゃん。スタミナとかスピードもそうですけど、やっぱり何よりあのペースキープ……。あれ、実質的には外部からペースを乱せないみたいなものじゃないですか。

 どうにかするには、彼女の内面を揺さぶらないと駄目……でも、前には見せてた掛かり癖も最近はあんまり見られないみたいですし、どうすればいいのかって考えると、ちょっと憂鬱になって」

 

 独り言っていうか、多分愚痴みたいな感覚なんだろう、彼女は弱音を吐く。

 

 ……でも、その弱音は、決して勝負を投げ出したものじゃない。

 むしろ、強敵相手にどう抗するか、必死に考えてのものだった。

 

 それを聞いて、私は思わず、彼女には聞こえないくらいの小声で「へぇ」って呟いてしまう。

 

 ソウリちゃん……思ってたより、ずっと面白くなってるじゃん。

 

「……それだけ差を実感して、諦めてないんだね?」

「当然ですよ。言ったじゃないですか、菊花賞に出て、ブルボンちゃんに勝つって!

 今もその目標は変わってません。……ただ、その難易度が思ってたより高いって、今更ながらに痛感してしまった、ってだけで」

 

 ため息を吐いていたソウリちゃんは一転、ぐっと拳を握り締めてやる気をアピール。

 ……が、すぐにへろへろと力は抜けてしまった。

 

「……わかってるんですよ。というか、真剣に勝とうとしてたら、わかりました。

 私とブルボンちゃんじゃ、モノが違う。素質とか適性とか、あるいは努力の才能とか、そういうものが致命的なくらいに足りてないって」

「まぁ……そうだね」

「うぐっ、わかってたけど先輩に肯定されると傷つきますね……」

 

 実際、ブルボンちゃんとソウリちゃんでは、残酷な差がある。

 

 ミホノブルボンは、歩さんも認めるトップクラスの優駿だ。

 とんでもないストイックさによる過酷なトレーニングと、彼女自身の柔軟で素直な体質によって培われた、高すぎるくらいの基礎スペック。

 ソウリちゃんも警戒してる、正確無比な感覚器官による、完璧なペースキープとスタミナ管理。

 そこに、歩さんの教える安定した勝利のための技術と、走り方の方針が加わるんだ。

 

 ぶっちゃけ、前世アニメのようにライスちゃんが菊花賞で彼女を差し切れるかはかなり微妙……というか贔屓目なしにブルボンちゃん優勢だと思う。

 それだけ、今の……あのスプリングステークスのブルボンちゃんは、驚異的だった。

 

 対して、ソウリちゃんは……言葉を濁さず言えば、トップクラスとは言い辛い。

 優駿ではあるが、あくまで重賞級のウマ娘って感じだ。

 

 決して勝てないウマ娘じゃない。

 むしろ「自分は普通のウマ娘」という言葉に反して、彼女はかなりの上澄みだ。重賞レースにだって十分出走可能だろう。

 

 でも、上澄みの、更に上澄みにはなれない。

 勝ててもG2が限界で、G1勝利はかなり運とか展開が噛み合わないと……あるいは、どう足掻いても望めない。

 それが、私から見たソウリクロスというウマ娘だった。

 

 

 

 けど……。

 

 あるいは、その評価は改めるべきかもしれないな。

 

 

 

「……でも、今のソウリちゃんは、結構手強そうだ」

「え?」

 

 歩さんもよく言ってるけど、ウマ娘のレースの勝敗は、シンプルな能力差だけで決まるわけじゃない。

 むしろ、それぞれの想いとか気合とか、そこから湧き出るいつも以上の力や領域。

 そういったもののウェイトも、これがなかなか大きいのだ。

 

 だからこそ、今のソウリちゃんは、ちょっとばかり侮れない。

 

「ソウリちゃん、本気になってようやく差が実感できたって言ってたよね。

 それってつまり、ブルボンちゃんとちゃんと競えるレベルになったってことだよ」

「……え、っと」

 

 あー、この辺りって案外本人は自覚しにくいもんな。

 何と言って伝えるべきか頭の中で筋道を立てながら、私はスポドリを口に含み、飲み込んでから言った。

 

「まだトレセンにも入ってない子ってさ、走ることの厳しさとか苛烈さとか全然知らないし、上澄みがどれだけすごいかもわかんないから、自分も活躍できるかもって思うでしょ?」

「うっ、こ、心が痛い……」

「大丈夫大丈夫、みんなそうだよ。私もそうだったし」

「私も……って、ウィルム先輩も!?」

「あはは、私だって普通のウマ娘だからさ。入学した時は、私は最強のウマ娘で勝って当たり前、負けるはずがない、なんて無意識に思い込んでたよ」

「そ、それは……あながち間違いでもないのでは」

「そんなわけないさ。実際、これまでの人生で2回、負けたことあるし」

「逆に言うと2回しか負けたことないんですね……」

 

 片方は最初の模擬レース、もう片方は去年の有記念だ。

 公式非公式含めて、私が敗北したレースはあの2つきり。

 

 ……そう言えば、あの最初のレースで私を下した栗毛の子、今は何をしてるんだろうか。

 名前も聞かなかったし顔も覚えてないから、はっきりしないんだけど……。

 

 あぁいや、思考が逸れてるな。

 それでさ、と話を戻すことにした。

 

「そういう子が現実を見ることができないのはさ、余りにも実力差が開きすぎてるから、って部分もあるんだよ。

 例えるなら、天上の星。あまりにも遠すぎるから、どれくらい遠いのかすらよくわからない」

「あぁ、その感覚はわかります。ウィルム先輩がまさにそんな感じですし」

「ありがとう。……でもさ、ソウリちゃんにとってのブルボンちゃんは、そうじゃなくなったんだよね?」

「っ、……なる、ほど」

 

 そう。

 今のソウリちゃんにとって、ブルボンちゃんは天上の星ではない。

 

 本気になって彼女を追いかける内、ソウリちゃんはブルボンちゃんへの現実的な距離を掴んだ。

 自分と彼女がどれだけ離れていて、どれだけその距離を詰めるのが厳しいのか、それを理解することができたんだから。

 

 謂わば、今のソウリちゃんにとって、ブルボンちゃんは天上の星ならぬ、天井の星飾り。

 背伸びして、道具を使い、脚立を用いれば、十分にその手は星に届き得る。

 

 それを称して、私は「ちゃんと競えるレベルになった」と言ったのだ。

 

 

 

「それに、自分が相手より劣ってることを真正面から認めて、その上で相手に勝つためにどうすればいいのか、必死に考えてるでしょ。

 そういう手合いが一番怖いって、私は知ってる」

 

 諦めない。

 言葉にすれば簡単そうに聞こえるけど、実際はすごく難しいことだ。

 

 頑張ることは、辛い。

 それが無理難題のためであれば、尚更に。

 

 星は遠い。手を伸ばしても、届くわけがない。

 土台最初から無理だった。人の身、ウマ娘の身では、星を掴むことはできない。

 

 そう言って自らが志した道を諦めるウマ娘を、私は、私たち中央トレセン学園所属のシニア級ウマ娘は、文字通り山程見て来た。

 

 星の遠きに望みを絶たれ、競走ウマ娘として死んでいく。

 上を目指すことを諦めて、ただ1つの栄光を譲って、腐り落ちていく。

 ……ハッキリ言ってしまえば、中央トレセンとはいえど、殆どのウマ娘はそういう道を辿るんだ。

 

 そんな中で……周りが努力を諦めて楽になっていく中で、自分1人だけはそれを貫く。

 

 それは、とても虚しく厳しい道で……。

 

 だからこそ、それができる子は、怖い。

 

 

 

 私は、それをよく知ってる。

 

 いくつかの模擬レースと、菊花賞で見たように。

 日本ダービーと大阪杯で見たように。

 

 あるいは、出走したレースで何度も何度も見る、多くの顔触れのように。

 

 「どれだけ辛くとも、1着を諦めないこと」。

 それはきっと、「優駿」となるための、必須条件の1つなんだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「先輩……」

 

 私が語り終えると、ソウリちゃんは、どこかポカンとした表情でこちらを見ていた。

 

 ありゃ、唐突すぎたかな。思いのまま言っただけなんだけど。

 

 私は改めて、言葉を紡ぐ。

 

「確かにブルボンちゃんは、掛け値なしに強いよ。なんてったって私のトレーナーが育ててるんだもん、間違いなく今年のクラシック三冠最有力候補だ。

 でも……ソウリちゃんは、それを崩し得る一角になるかもしれないって、今なら思える」

 

 単体じゃ……うん、ちょっと無理かもしれない。

 

 確かに今のソウリちゃんは怖いけど、相手は歩さん旗下のブルボンちゃんだ。

 ソウリちゃんと戦う菊花賞の頃には弱点は全部潰されてるだろうし、彼女の走りは完成を超えて安定してるだろう。なんなら領域を習得してる可能性すら高い。

 

 そんな状態の、十全すぎるブルボンちゃんに、単身で挑んで勝てる同期の子は……多分、いない。

 ぶっちゃけあの鬼がかったライスちゃんですら、まともにやって勝てるかわからないくらいだ。

 

 ……でも、競走っていうのは、常に1対1のタイマン勝負ってわけじゃないからね。

 

「どれだけ頑張っても、状況が悪すぎると負けちゃうことはある。私の有記念もそうだったし」

「サイレンススズカ先輩が、先輩を擦り減らして……スペシャルウィーク先輩が、差し切った」

「そうそう、それ」

 

 正直、あの時の記憶には、あまり苦みがない。

 悔しいことは間違いないけど、清々しい悔しさしか残ってないというか……まぁ、歩さんが復活したっていうのもあるだろうけど。

 

 だから私は、割と気軽に、それを言うことができた。

 

「だからソウリちゃんは、あの時の、ホシノウィルムに対するサイレンススズカになればいい。

 ……あぁ、勿論、擦り減らすだけ擦り減らして負けろって意味じゃないよ? そうやってブルボンちゃんを追い詰めて、誰かと一緒に倒して……それで、一番美味しい一着を持っていく。

 まだ現実的なプランとは言い難いけど、それが一番、勝ち目のある展開じゃないかな」

「スズカ先輩に……」

 

 ソウリちゃんは、ちょっと考え込んでたみたいだったけど……。

 何か決意したようにコクリと頷き、こっちを見上げてくる彼女の瞳は、決意の光に満ちていた。

 

「……やってみます。私は私なりに、私にできることを」

「うん。ソウリちゃんの走り方、きっと見つけてね」

 

 気合を入れ直したらしい後輩ちゃんと一緒に、私はしばらくの間、心地よく走ることができたのだった。

 

 

 







 なお数時間後の栗東寮某室には、「両親にご挨拶とかNTRやんけ~~!!」とベッドに顔を埋めるクソカッコ悪い先輩がいた模様。
 寒暖差でグッピーが死ぬ。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、走りを楽しむということの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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此方も信じねば…無作法というもの…

 ブルボン父とかいう原作に殆ど台詞が存在しないエミュレートキラー。
 性格とかも解釈の余地ありですし二次創作殺しすぎませんかねこの人……。





 

 

 

 俺のもう1人の担当ウマ娘であるミホノブルボンの故郷は、トレセンから南に飛んで本州を抜け、九州の片田舎にある。

 

 九州には俺の兄が勤めている地方トレセンがあるんだけど、そこからも少し離れた場所。

 そこそこの家と、それ以上の数と広さの畑や田んぼが敷き詰められた……という程ではないにしろ、そこらじゅうにある地方。

 しっかりとコンクリで舗装された道と土で固められた道が、大体同数くらいになるようなところ……と言えば、この辺りの環境も少しイメージしやすくなるだろうか。

 

 徐々に暑くなってきた空気の中に、むせ返るような土と草の匂い。

 中央に出てからは見ることの少なかった山々の緑は白く霞み、澄んだ空気が肌に心地良い。

 平地よりもずっと多く、ぼこぼこして走りにくい坂道の数々は、通行にはともかく脚を鍛えるには向いているかもしれない。

 

 どこか既視感を覚えるような、穏やかで温かい時間が流れる静かな場所。

 

 ……ミホノブルボンというウマ娘は、ここで生まれ育ったんだな。

 

 肌寒く静謐なホシノウィルムの故郷に赴いた時とはまた違う、嬉しいような感動するような、複雑な感慨が込み上げた。

 

 

 

 ……まぁ、とは言っても、俺にとっては割と見慣れた光景ではあるんだが。

 

「不慣れな方からすると、多少歩行難易度が高い可能性があります。地面の凹凸にご注意ください」

 

 空港から出て電車に乗り、それから歩くことしばらく。

 その内、地面の舗装は荒くなり始め、側溝の蓋もガタガタし出した。

 

 ブルボンからすれば、そういう部分を注意したつもりだったんだろうが……。

 そこに関しちゃ心配は無用だ。

 なにせ俺は「不慣れな方」ではない。幼い頃に散々体験したからな。

 

「心配ない。というのも、俺も地元は九州の田舎で、しかも家は山の中だったからな。こういう道には慣れている」

「そうなのですね。新規情報を獲得、アーカイブに保存します」

「いやまぁ、わざわざ覚えてもらう程の情報でもないんだけどな」

 

 生真面目なブルボンに苦笑しながら、俺は見慣れない、そして同時にどこか見覚えのあるような景色に目をやる。

 

 この、すぐそばに生命豊かな自然がある感じ。

 中央にいればすぐに忘れるかとも思っていたが、やはり故郷の気配ってのは覚えているものだなぁ。

 

 

 

 

 ……と。

 

 事が事だ、流石にずっと悠長に構えてはいられない。

 

「さて、ブルボン。改めて、今日の目的だが……」

「はい」

 

 彼女は俺の横を歩きながら、1つ頷き、言った。

 

「私の両親に、ご挨拶いただきたいと思います」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ブルボンの実家は、小さな一軒家だった。

 

 ……いや、待て、全然そんなことないわ。

 だいぶ掠れて来つつある前世の記憶を参照すれば、むしろ一般家庭としては大きい方だと言えるはずだ。

 単純に名家の経験で俺の価値観がバグってるだけだこれ。あんまり良くないな、気を付けないと。

 

 ちょっと前に聞いた話、ブルボンの父親は元々地方のトレーナーだったという話だ。

 中央に比べれば流石に見劣りするとはいえ、ウマ娘のトレーナーは専門職で高給取り。彼女の家庭の懐事情は決して悪いものではないはずだ。

 

 

 

 さて、そんな家の前で、俺はブルボンにバレない程度に小さく深呼吸した。

 ……うん、流石に緊張が避けられないな。

 

 ウィルの両親の墓前に向かう時にも緊張はしたけど……。

 最初に行った時には、まだ堀野のトレーナーという仮面を被っていたから、ここまで強烈な緊張感は覚えなかった気がする。

 そして二度目は……今思えば、ウィルと2人だったから、そこまで緊張しなかったのかな。

 

 更に言えば、ウィルはご両親が既に他界していたため、ご挨拶とは言ってもあくまで墓前での報告に過ぎなかった。

 思えば、これは俺にとって初の、担当ウマ娘のご両親との対面か。

 そりゃあ初めてのことであれば緊張もしようというもの。

 

 無理に気に入られる必要はないにしろ、失礼のないようにせねばと、俺は改めて気合を入れ直す。

 

「マスター」

「あぁ」

 

 こちらを見てくるブルボンに頷きを返すと、彼女は自宅のドアを規則的に三度叩いた。

 

「はい、少々お待ちください」

 

 すぐさま返って来たのは、壮年の男性らしい声。

 そのまま少し待っていると、ドアのカギを開け、俺たちの前に1人の男性が現れる。

 その人こそは……。

 

「……久しぶりだな、ブルボン」

「はい、お久しぶりです、お父さん」

 

 ミホノブルボンの、父親だった。

 

 

 

 ミホノブルボンの、父親。

 彼を見て感じた第一印象は……俺の父に似た人だな、というものだった。

 

 いや、勿論だけど血が繋がってるわけじゃなく、見た目は似ても似つかない……とまでは言わないまでも、別に似ているわけではない。

 

 父は割と顔の彫りが浅い方だったが、ブルボンの父親は逆に深かったり。

 更に、父に比べればブルボンの父親はいささか体格に劣るところもある。……いやまぁ、日本人の平均身長からするとむしろ俺の父の方がちょっとデカいんだろうけど。

 

 そういったもの以外にも、いくつも小さな違いがある。

 故に、見た目は全く異なるんだが……。

 

 どことなく、雰囲気が父に近い気がするんだよな。

 自分にも他人にも厳しくて、いつも凛々しく厳めしくて……でも、根は不器用ながら優しくて。

 そんな父に、少し似ている気がしたんだ。

 

 

 

 そして……よく知る人に似ていたからだろうか。

 俺は抱えていた緊張が解れていくのを感じながら、そこまで気負うことなく声を出すことができた。

 

「こんにちは。ミホノブルボンさんをお預かりしている、堀野歩と申します」

 

 彼は厳めしい表情のまま俺に目を向け、見定めるように軽く視線を巡らせた後、コクリと頷いた。

 

「ようこそいらっしゃいました、いつもブルボンがお世話になっております」

 

 非常に慇懃で、しっかりとした態度だ。

 ……けれど、彼がこちらにいささか強い警戒心を向けてきているのもわかる。

 

 ま、それも当然だろう。

 ブルボンのご両親ときちんと話すのは初めてのことで、あちらからすれば自分の大事な娘がどこのウマの骨に育てられているのかもわからないのだ。

 

 今日は会話を以て互いへの理解を深め、少しでも信頼感や連帯感を培い、信頼を得られればいいな、と思ってるんだが……。

 どうだろう。俺のやり方が気に入っていただければいいんだけど。

 

「さぁ、どうぞ中へ。……ブルボン、お前のトレーナーさんを案内してあげなさい」

「はい。それではマスター、私の先導に続いてください」

 

 トレーナーとして1つの戦場に向かうような心地の俺を置いて、ブルボンは気持ちいつもよりテンション高く、実家の扉を潜ったのだった。

 

 普段はあまり感情を表に出さない……というかあまり感情の起伏が激しくないブルボンではあるが、やはり久々にご両親に会えたことは嬉しいんだろうな。

 彼女の珍しい歳相応の姿に、俺は自然と頬が緩むのを感じた。

 

 正直、その気持ちはよくわかる。

 俺も去年帰省して久々に父に会えた時なんかは、流石にちょっと嬉しかったし。

 

 生まれ育った家というのは、どうしても愛着が湧くものだ。

 愛用の家具だとか、よく知る傷の入った壁、使い慣れたコップに、懐かしい味。

 そういったものに包まれる、絶対的な安全地帯。思わず気を抜いてしまう自分の場所。

 

 いつもは機械的で淡々としているように見えるブルボンにも、そういう愛着を持った実家があり、家族がいるのだろう。

 

 

 

 ……彼女にも、そういう場所が用意できればいいんだけどな。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて。

 応接間に通された俺は、改めてブルボンと隣り合って座る、彼女の父親と向き合った。

 

 厳めしい表情でこちらを見て来る彼は、恐らく自分の愛娘に相応しいトレーナーかどうか、俺のことを見極めようとしているのだろう。

 

 彼にとってミホノブルボンは、優駿だとか競走ウマ娘である前に、大事な1人の娘であるはずだ。

 故にこそ、中央トレセンにおける保護者の代替であるトレーナーを、おかしな人間に対して許すわけにはいかないのだろう。

 

 ここで俺が信頼に値しない人物であると認識されれば……最悪、今後のブルボンに対するトレーナー業務にも関わって来るかもしれない。

 

 

 

 ……まぁ、だとしても、俺が取るべき態度は変わらない。

 飾ることなく、俺は俺らしく、だ。

 

 俺は、ホシノウィルムとミホノブルボンのトレーナーだ。

 彼女たちを導く者であり、彼女たちに全幅の信頼を寄せてもらえる人間だ。

 そんな俺が、自分のやり方に自信を持たず、他人の前で取り繕うというのは、ある意味で彼女たちへの裏切りになる。

 

 俺がすべきは、常に最善を尽くし、自分のやり方とその結果に自信を持つこと。

 自分が育てたウマ娘は間違いなく最高の状態だと、胸を張ることだ。

 だから過剰に卑下したり、自分のやり方や在り方を否定するようなことは、担当たちのことを思えばこそ、してはならないのである。

 

 ……以上、ちょっと前に昌にいただいた説教の受け売りでした。

 

 当時は全くその発想がなかったんだが、言われてみれば道理な話だ。

 最近はそれに気付かなかった自分の察しの悪さを恥じながら、彼女から教えてもらったことを実践しようと心がけているところ。

 

 とはいえ、自信はこれまでの成功体験の積み重ねだ。

 才能が欠如し、色々と躓くことも多かった俺が、一朝一夕で身に付けられるとは思わないが……。

 そこは、これから改善していくしかないだろうな。

 誠心誠意担当たちのために頑張って、それで彼女たちが無事に勝ち続けられたら……いつかは俺も、自分に自信が持てるようになるだろうか。

 

 ……しかし、相変わらずよく物事を考えてるというか、俺の気付かないことを教えてくれるよなぁ、昌。

 一応、トレーナー業という意味じゃ、俺が1年半以上先輩のはずなんだが……。

 それでもこうして教えてもらうことがあるっていうのは、やっぱりあの子の要領の良さ、俺の要領の悪さが故なんだろうな。多分。

 

 

 

 そういうわけで、俺は他者に対してトレーナーとしての自分を取り繕うことを禁じた。

 勿論、それは担当ウマ娘の父親に対面している今も変わらない。

 

 担当ウマ娘の保護者の方との関係性は、良好にしておくに越したことはない。

 そういう意味では、取り繕ってでも彼の機嫌を取る、というのも選択肢の1つなのかもしれないが……。

 

 優先順位を間違ってはいけない。

 俺にとって一番大事なのは、担当ウマ娘自身だ。

 

 彼女たちへの裏切りになると言われれば、取り繕いなど許されない。

 たとえ相手が彼女たちの父親だとしても、嫌悪されるリスクがあったとしても。

 俺は精一杯、俺なりの誠意を尽くすだけだ。

 

 

 

 そんなわけで。

 

「改めて、本日はお招きいただきありがとうございます。こちら、お受け取りください」

 

 俺は対面に座るブルボンの父に向かって頭を下げ、手土産を渡す。

 何を置いても、まずは礼儀だ。

 礼儀というのは、自分は相手と同じ共通認識があり、話し合え理解し合える存在であるという意志表明。これを欠いて会話というものは成立しない。

 ことに今回は、相手が担当ウマ娘の父親。俺は大事な一人娘をお預かりしている身なのだ。言葉でも態度でも礼を尽くすに越したことはない。

 

「お気遣いありがとうございます」

 

 対してブルボンの父親も、これまた慇懃な態度で返して来る。

 あちらもこちらと同じ気持ちだと嬉しいんだが……まぁ、むしろ娘を育成する者として俺のことを見極めようとする警戒心の方が強いかもしれないな。

 

 そんなことを思っていると、彼は横に座るブルボンをチラリと窺った後、改めて話を始める。

 

「どうでしょう、最近のブルボンは」

「トレーニングという意味であれば、ミホノブルボンさんはとても頑張ってくれていると思います。

 トレーナーをなさっていたということで既にご存知のことと思いますが、彼女は外部からの刺激に対して非常に素直な体質です。強い自制心もあり、現在は順調に能力を伸ばしています」

 

 こちらデータです、と予め作っておいた資料を差し出す。

 ブルボンと契約してから1年弱の、彼女のステータス……を、そのまま出すのは流石に怪しすぎるので、タイムや走破距離の数値を並べているものだ。

 更に、その横にはかつて堀野家に半ば死蔵されていた各種データも並べ、比較できるようにしてある。

 

 それらを見てみればすぐにわかるけど、ブルボンの成長率は、ちょっとばかり抜けている。

 前述の通り、彼女の成長率とトレーニングへの前向きな姿勢がもたらした結果なんだろうが……。

 

 

 

 ブルボンの父親は、数分間それらをめくり、眺めていたが……ピクリと、その手が止まった。

 ページ数からして、数か月前のデータか。

 

「確かに、急激に成長していますが……やはり、中長距離は……」

「ええ。マイルに比べると、些か伸びが悪かったことは事実です」

 

 ミホノブルボンは、間違いなく優駿だ。

 しかし、いくら優駿であろうとも、適性……というか、血統の壁というものはある。

 

 今ここにはブルボンの母親はいないが、聞くに彼女もまた競走ウマ娘だったのだという。

 彼女が所属していたのは地方のレースシリーズで、走ったのは主に短距離からマイルのレース。

 つまるところ、彼女の適性はスプリンター向きのものであったということで……。

 その娘であるブルボンもまた、生まれ持った適性はそちらに寄っている。

 

 逆に言えば……本来中長距離は、彼女の本分ではないのだ。

 

 もしもブルボンがクラシック三冠を夢見ていなければ、俺は間違いなく、彼女の適性に合った道を勧めただろう。

 クラシック三冠ではなくトリプルティアラ、あるいは三冠系のレースに拘らず、スプリンターズステークスやマイルチャンピオンシップなどを主眼に据えてもいい。

 そうして担当ウマ娘が最も活躍できる場所を選定するのも、俺たちトレーナーの仕事だからな。

 

 しかし、実際には、俺たちは異なる道を選んだ。

 ブルボンが結果を残せるかわからない、クラシック三冠という道を。

 

 

 

 あるいは、今更ながらにその判断を疑われたのかもしれない。

 ブルボンの父親は、少しだけ目を細めて、こちらを見てきた。

 

「堀野トレーナーは……ブルボンの三冠という目標を、どう思われていますか?」

 

 ……難しいことを聞かれてしまったなと、内心で苦笑する。

 

 これは、「トレーナーとしてどのようなあり方が正しいか」と同じ、正答のない問いだ。

 

 ブルボンの目標を支持すると答えれば、それは即ち彼女に無理と困難を強いることになり。

 ブルボンの目標を否定すると答えれば、担当の意志を無視して走らせることになる。

 

 どう答えても、どうあっても、何かしらの負の側面は避けられない。

 

 ……今一度確認するが、俺は今後、自分のやり方に嘘は吐かない。

 自分のやり方、取った判断、これからの未来を卑下も誤魔化しもするべきじゃない。

 しかしその上で、できる限りこの人の……担当の親御さんの信頼は得たい。少なくとも「お前などトレーナーとして認めない」という展開だけは避けなければならない。

 

 目標地点はそこで、そのための筋道は……殆ど整ってると言っていいだろう。

 一度まぶたを閉じてシミュレーションし、俺の本心を彼に向けて告げた。

 

 

 

「先に申し上げておきますと、私は個人の方針として、担当ウマ娘の望みを第一に考えます。

 トレーナーの仕事は、彼女たちの持つそれぞれの夢を叶えるための助力。その達成への現実的な道を整え、舗装し、彼女たちが走れる状態へすることだと思っています」

 

 それは、俺がまだ堀野のトレーナーであった頃に持っていた指針に似た理念だ。

 

 トレーナーは自らを捨てて、担当ウマ娘に尽くすべし、と。

 流石に今は、そこまで苛烈な思考は持っていないが……。

 

 それでも、担当になった子たちの抱いた想いは、遂げさせてやりたいと思う。

 

 トゥインクルシリーズは、全国に住む何万というウマ娘が切望する、輝ける舞台。

 彼女たちが勝利を望むレースにおいて、勝利できるウマ娘は18人中1人だ。

 そしてそんな苛烈で厳しい戦いを、天気やバ場、出走ウマ娘といった条件が一致する戦いを、彼女たちは一生に一度しか体験できない。

 

 『勝者の一滴の汗と、敗者の海の如き涙。それを受けて輝くのがトゥインクルシリーズだ』、と。

 あの日に聞いた、今でも耳に残っている父さんの言葉は、決して嘘偽りではない。

 1人の勝者を生むために17人の敗者が生まれ、二度と同じレースを走る機会は訪れない。

 そんな残酷な世界なのだ、ここは。

 

 ……であればせめて、彼女たちが子供心に抱いた夢と希望を、可能な限り叶えてやりたい。

 この残酷な世界でも、俺の手が届く限り、多くのウマ娘に笑っていてほしい。

 

 歪であろうが利己的であろうが、それこそが今の俺が抱けた1つの希望。

 堀野歩の新たな理念であり、新たな理想なんだ。

 

 

 

「なるほど。それでは、ブルボンの望みだからこそ、共にクラシック三冠の路線を歩む覚悟を決めた、と」

「いえ、それだけではありません」

 

 どことなく納得の気配を見せる彼に、俺はゆったりと首を振った。

 

 彼の言い方であれば、まるで俺が彼女の望みに殉じる気でいるように聞こえる。

 当然ながら、俺にそんな気は毛頭ない。

 

「まだ資料の最後までは目を通されていませんよね。どうかミホノブルボンさんの走りの成果を、最後までご覧ください」

「……ええ。では失礼します」

 

 そうして、改めて資料に目を落とした彼は……。

 

 数分後に、その凛々しく細められていた目を、少しだけ見開く。

 

「…………これは」

 

 そこに記されているデータは、ミホノブルボンの、ここ1か月のランニングデータ。

 そして、それらの数値が意味するところは……。

 

 

 

「ミホノブルボンさんは、既に中距離への適性不安を乗り越えました。

 少なくとも、2499メートルまでの距離において、もはや彼女が遅れを取ることはありません」

 

 

 

 そう。

 俺の目には……「アプリ転生」には、しっかりと映っていたのだ。

 

 ミホノブルボンの中距離適性が、おおよそ1か月前に、BからAに上昇したところが。

 

 その結果として、彼女のトレーニング中のタイムは急激に、なおかつ目に見えて縮まることとなった。

 

 彼女はその感覚について、「自分の中で歯車が噛み合った、あるいは錆び付いて回らなかった歯車に油を差されたような感覚」と称した。

 恐らく、中距離に区分される距離のランニングを繰り返したことで、彼女の意識の中でこの距離のペース配分への経験が蓄積されていったのだろう。

 そしてそれが閾値を越えたことで、彼女は1つ上の段階に至ったのだと予測できる。

 

 とにかく、ミホノブルボンの中距離適性は、A……例外的なウィルのそれを除けば、一般的に最高と呼べる値に至った。

 これを以て、皐月賞と日本ダービーにおける彼女の最大の敗因は、除去されたと言っていいだろう。

 

 後は各種ステータスを整え、彼女の掛かり癖へ対策し、領域の展開を模索しながら……菊花賞に向けて、長距離の適性も向上させる。

 それさえこなしてしまえば、彼女の勝利はすぐそこに見えて来る。

 

 夢物語でも何でもない。

 ミホノブルボンのクラシック三冠達成は、世間で思われているよりも、ずっと現実的なのだ。

 

 

 

「……なるほど。あのホシノウィルムと同じように、あなたがブルボンに血統の壁を越えさせた、と。

 あなたからすれば、ブルボンの夢も十分達成可能な範囲にあると、そういうことですね」

 

 彼女の父の言葉に、俺は静かに首を振った。

 

「いいえ。先程も言った通り、私がしたのは道を敷くところまで。

 その辛く苦しい道を実際に走ったのは、彼女と……彼女を走らせた、自身の意志の強さです」

 

 これは謙遜でもなんでもない。

 

 確かに俺は、考え得る限り最も彼女を成長させ得るトレーニングプランを組んだ。

 これだけやれば、確実に適性も伸びるだろうと思えるプランを。

 

 ただしそこには、彼女の精神衛生への考慮が、致命的な程に欠けていた。

 

 

 

『「ご褒美権」を行使します。私のトレーニングプランは、可能な限りハードなものとしてください。

 クラシック三冠達成のためならば、どれだけ厳しいトレーニングにも耐えてみせます』

 

 それは、去年の11月のベゴニア賞直後、ブルボン本人に言われたことだった。

 

 自分がクラシック三冠で勝つためには、この上なくハードなトレーニングが必要だと予測される。

 その夢を叶えるためならば、どんなトレーニングにも耐え抜いてみせる、と。

 彼女はいつもの無表情ながら、その瞳に確かな決意を秘めて、そう言った。

 

 それこそが、自分の望みだと。

 ミホノブルボンの、本当にしたいことなのだと。

 そう言われてしまえば、是非はない。

 

 俺は彼女の言う通り、事故を起こさないギリギリの、極めて高負荷のメニューを組んだ。

 それこそホシノウィルムのそれに迫る、並大抵のウマ娘には耐えられないものを。

 

 極力脚への負荷をかけないためにも、スタミナを鍛えるプールトレーニングの頻度を増やし、彼女も走り慣れている坂路も1日に何度も走らせて、その上本来は身を休めるべき夜にも軽度ながら運動を課し。

 外に情報が漏れないように合同トレーニングの際には負荷を落とし、むしろその時くらいしか脚を休められないくらいの、地獄のような日々を彼女に強いた。

 あのサイレンススズカですら2年に1度ペースでしか伸ばせなかった距離適性を1年弱で1つ伸ばすには、それだけハードなトレーニングが必要だった。

 

 そうして俺は、彼女がその負荷に耐えきれることを信じ、万が一のためと自分に言い聞かせて、サブプランも立てていたんだが……。

 

 

 

 結果から言えば、ミホノブルボンは、見事にそのプログラムを完遂した。

 

 トレーニングの苛烈さに弱音を吐いたり、そのために調子を崩すことは、ついに一度もなく。

 彼女はついに、自らの限界という壁を、乗り越えた。

 

 

 

「スタミナの不安も、適性の不足も、彼女は乗り越えました。

 幼い頃に父と見た夢を叶えたいという彼女の意志が、肉体の限界を上へと撥ね上げたのでしょう。

 だからこそ私は、彼女の三冠は決して夢物語でないと、むしろ必ずや叶えられるものと信じています」

「ブルボン……」

 

 彼は少なからず驚いた目で、横に座るブルボンの方を窺い……。

 しかしブルボンは、その首を横に振った。

 

「マスター、一点、訂正します」

「ん、何か見解の相違があったか?」

 

 正直、何を言われるのかと、俺はちょっとビビリながら彼女の真意を問うたんだが……。

 

 彼女はその胸に手を当て、瞳に信頼の光を映して、俺の方に語りかけて来た。

 

 

 

「クラシック三冠は、かつて私が父と共に見た夢であると同時、今私がマスターと共に掲げる目標です。

 私は、父とマスター。この両人の期待を背負って走っていると認識しています。

 故に、より正確には『父と見た夢、マスターと目指す目標のために努力した』、という表現が妥当なものであると考えます」

 

 

 

 俺は、彼女のその言葉を聞いて……思わず、固まってしまった。

 

 彼女が敬愛する父と並べて、あなたとの目標の為に走っている、と……。

 正直、ブルボンにそうまで言ってもらえる程に、信頼を寄せてもらっているとは思わなかったんだ。

 

 これがウィルであれば、まだ納得できる。

 彼女は今は亡き両親との仲が険悪であり、無意識下で誰かに愛されることを求めていた。

 その代償的欲求が最も近い位置にいた年上の男性である俺に向く、というのは……受け入れられるかはともかく、納得のできる話だ。

 

 だが、ミホノブルボンにそういった精神的余白はない。

 彼女は今、真摯にクラシック三冠に向き合っている。

 他の事に対して割いている思考リソースは最低限だと思っていいだろう。

 

 そんな彼女に対して俺がしてきたのは、トレーニングプランの立案や体調管理、消耗品の補充や走りに関する相談に乗るなど、トレーナーとして当然のことばかり。

 

 まさかそれだけで、三冠のことで頭を占められたブルボンが、実の父親に並ぶ程の信頼を向けてくれるとはとても思えなかった。

 むしろトレーニングの過酷さを加味すれば、嫌われてもおかしくないくらいだったのだが……。

 

「ブルボン……彼のことを、信頼しているんだな」

 

 俺の言葉を代弁するように、ブルボンの父親が彼女に訊ねる。

 

 対して、ブルボンはコクリと頷き、言った。

 

「前に担当してくださったトレーナーも、少ないながら存在する友人も……皆が『そうなればいい』と願うことはあれど、私のクラシック三冠達成を、心の底から信じてくださることはありませんでした。

 ホシノウィルム先輩でさえも、皐月賞と日本ダービーはまだしも、菊花賞まではわからない……と」

 

 ……あるいは、それが正常な反応なのかもしれない。

 

 ミホノブルボンというウマ娘は、常識的に考えて、長距離に向いてはいない。

 その血統が示す通り、彼女はどこまでも短距離・マイルに向いたウマ娘なのだ。

 

 その上、たとえ適性の問題を置いておくとしても、クラシック三冠は決して楽な道ではない。

 これまでの長いトゥインクルシリーズの歴史においても、ホシノウィルム含めて5人しか存在しないのだ。その道の厳しさも察せるというもので。

 

 確かに、彼女のクラシック三冠という壁は高い。

 それを信じ難いという気持ちも、決して理解できないものではない。

 

 けれど……。

 

「しかし、マスターは現実的に、私に可能な範囲でのプランを立て、菊花賞での勝利への計画を立ててくださいました。

 私がそのハードなトレーニングを完遂できると、そしてその果てに、菊花賞に勝利できるものと信じてくださったが故に」

 

 ミホノブルボンなら。

 素晴らしく柔軟な体、強すぎる精神を併せ持つ彼女なら。

 ……あのスプリングステークスで、この上ない走りを見せてくれた、俺の担当ウマ娘なら。

 

 獲れる。

 クラシック三冠……いいや、ウィルに次ぐ、無敗の三冠だって獲れるはずだ。

 

 俺は、あの宝塚記念で、学んだ。

 トレーナーの仕事は担当ウマ娘を支え、その道を舗装し、走りやすくすること。

 そしてそこを走っていく担当を、信じて待つことだ。

 

 だから。

 

 たとえ、それが困難なことであろうとも。

 たとえ、信じ難い程高い壁であろうとも。

 ……たとえ、彼女の運命が、それを否定するものであったとしても。

 

 俺は彼女の、クラシック三冠の達成を、信じている。

 

「そして、かつてお父さんに、信頼には信頼で返すべきであると教えていただきました。

 故に私は、私のことを信じてくださるマスターを信じるべきであると判断しました」

 

 

 

「……なるほどな」

 

 対面に座るブルボンの父親は、彼女の言葉を聞いて数秒考え、頷いた。

 そして俺に目を向けて、口を開く。

 

「堀野トレーナー。あなたにとってブルボンは、何ですか?」

 

 その質問は、非常に多義的で、答え難いものだった。

 

 ……けれど。

 

 相手が、元トレーナーであれば。

 ウマ娘に真摯に向き合ってきた人ならば。

 

 こう答えれば、俺の想いは伝わるはずだ。

 

「私にとって、彼女は……」

 

 ある意味当然の話で、ただ当たり前の事実を並べるようで……。

 

 けれど、俺たちにとっては、きっと別に大きな意味を持つ、1つの記号。

 

 

 

「ミホノブルボンは、俺の担当ウマ娘です」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 最後の問答を終えた後、ブルボンのお父さんの俺に対する態度は、心持ち軟化したように思えた。

 多少は信頼を得られた……のかな。そうだとすれば嬉しいけども。

 

 そんなわけで彼と、学園でのブルボンの様子や仲の良いウマ娘、ウマ娘の育成論とか根性論の是非について話している内に、あっという間にお昼になった。

 そのまま昼食をいただくことになり、不在にしていた御母堂の手料理がテーブルに並べられる中……。

 

 唐突に、ブルボンが口を開く。

 

「お父さんとマスターに、ご意見を聞きたいことがあります」

 

 

 

 ……なんとなく、その言葉に、彼女の真意を悟った。

 

 そもそも何故、皐月賞を前にした今、俺を実家に招いたのか。

 両親に契約トレーナーを紹介するだけなら、別に1月や2月でも良かったはずだ。

 彼女にとって大事なレースである皐月賞の直前である今である必要はない。

 

 だから多分、彼女がこのタイミングで、「ご褒美権」を使ってまで俺を実家に招いたのは……。

 自分だけでは解決できない何らかの問題が発生し、彼女の言葉を信じるならば、最も信頼しているらしい俺たち2人に、そのことを相談したかったから。

 その心残りを、皐月賞までに解消したかったからだろう。

 

 元トレーナーであり尊敬する父と、自分の「マスター」であり信頼する俺に、その答えを求めている。

 

 だから俺は、彼女の疑問に対して真摯に向き合おうと、居住まいを正して……。

 

 

 

「走ることを楽しむには、どうすれば良いのでしょうか」

 

 

 

 彼女らしい、けれど非常に難しい悩みに、どう答えたものかと頭を悩ませた。

 

 

 







 本当はこの後もしばらくお話が続く予定だったんですけど、例によって例の如く尺が足りなかったので、ブルボンご両親挨拶編はここまで。
 堀野君とブルボン父が最終的にどこまで距離感が近づいたのか、どれくらい信頼を得られたは、三女神のみぞ知るところです。

 次回はブルボンの挨拶アタックに焦ったウィルが暴走するかもしれないお話。
 つまりはラブなコメ100%の、砂糖でできたお花畑回です。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、家具と子供の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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走れウィルム

 めっちゃギリギリの投稿になりました……!
 執筆が遅れた理由は、殆ど書き上げた後になって、「今回堀野君視点じゃなくてウィル視点じゃね?」って気付いたからです。アホですね。
 正直全部書き直しは辛かった……。





 

 

 

 ウィルムは激怒した。

 必ず、かのトレーナーの歩を射止めねばならぬと決意した。

 

 ウィルムには恋愛がわからぬ。

 ウィルムは中央のウマ娘である。芝の上を走り、ライバルたちと切磋琢磨して暮らしてきた。

 けれどもNTRの気配に関しては、人一倍に敏感であった。

 

 そうして今日夜分、ウィルムは寮を抜け出し、寮長を越え警備を越え、500メートルくらいは離れたトレーナー室にやってきた。

 

 

 

 ウィルムには父も、母もない。今のところ夫もない。勿論内気な妹なども存在しないので、実質的には天涯孤独だ。正直ちょっと寂しい。

 だがウィルムは、トレセン学園のある律儀なトレーナーを、遠からず花婿として迎える気でいた。

 ……い、いや流石に花婿は早くない? 今は取り敢えず、彼氏……とか? 大事な人、とか? 今日のところはそこら辺で許してやろうと思います。

 

 とにかく、ウィルムはそれゆえ、普段のやり取りで互いの信頼感や想いを遠回りに確認し合い、満足感と共に日々を過ごしていた。

 

 

 

 ところで、ウィルムには可愛い後輩があった。

 ミホノブルボンである。

 今はこのトレセン学園で、歩さんの指導下で競走ウマ娘をしている。

 

 その後輩と、ウィルムはとても仲良くしていたのだ。

 トレーニングの時にはスタートダッシュとかコーナーのコツを教えたり、逆にブルボンちゃんからはペースキープのコツとか聞いたりもしたし。……いやまぁ、お互い感覚の部分が大きかったし、学びになったかは微妙なところだったけど。

 それに私生活でも、一緒に外に軽く食べに行くとか、最近増えたらしい友達との付き合い方の相談に乗ったりとか、色々やってるくらいには仲が良いのである。

 

 そんなわけで、可愛い後輩とのコミュニケーションは盛んだった。

 ブルボンちゃんの反応は毎度毎度素直で素朴で可愛らしいので、非常に楽しみである。

 

 しかし、毎日を過ごしているうちにウィルムは、トレーナーとブルボンちゃんの関係を怪しく思った。

 いや、別にそこまでおかしいことはないんだけれども。

 

 もう既に実質的には私に堕ちてるようなもので、歩さんが私のものであることは当たり前なのだが、けれども、なんだか、担当としての信頼感ばかりでなく、ブルボンちゃんの女性的な魅力が、やけに恐ろしい。

 のんきな私でも、流石にだんだん不安になってきた。

 

 (中略)

 

 そうして、ウィルムは単純なウマ娘であった。

 これ以上ブルボンちゃんにリードを埋められてなるものかと、歩さんから帰還の報を貰うと着の身着のままで、だだだっとトレーナー室に向かったのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 以上が事のあらまし。

 つまるところ、そろそろテコ入れの時間。

 アニメとかだと一旦水着回とかが挟まるヤツなのだ。

 

 勿論、私と歩さんの間に不可侵レベルの絆があることは、もはや疑いようのない事実だ。

 私は彼を救ったし、彼は私を救ってくれた。もう長いこと一緒にいる、以心伝心のパートナー。

 何なら家族や保護者のいない私にとっては、この世界で最も親しく、そして信頼できる人でもあったり。

 

 けれども、「長い時間を共にした経験が培ってきた絆」が絶対のアドバンテージだと言うのならば、世の幼馴染系ヒロインはみんなトップティア、常勝無敗のはずである。

 彼女たちが負けヒロイン属性と言われている時点で、決して予断を許される状況ではない。

 

 

 

 と、そんなわけで、寮を抜け出してたったかたったかトレーナー室に向かった私。

 

 緊張と興奮と僅かな疲労から乱れた息を整えて、扉をノックすると……向こうから返って来たのは「どうぞ」という聞き慣れた声。

 それだけで緩んじゃいそうになるだらしない頬に気合いを入れて、私は扉を押し開く。

 

 そこにいたのは……やっぱり、歩さんただ1人。

 今日一日中央トレセンを離れ、ブルボンちゃんのご両親との挨拶を済ませてきたらしい彼は、改めてパタパタとキーボードを叩き、仕事に精を出しているようだった。

 

 ……ここにいないところを見るに、どうやら昌さんは先に上がったらしい。

 いやまぁ、自室に持ち帰って仕事をしてるのかもしれないけど。数日前にお話しした時は、大阪杯以降仕事超忙しいって言ってたしね。

 

 勿論ブルボンちゃんの方も、今日は全休なのでトレーナー室には不在。

 今はこのトレーナー室にいるのは、歩さんただ1人である。

 

 ふっふっふ……計画通り。

 いや嘘、行き当たりばったりで偶然上手く事が運んだ感じだ。

 

 

 

 で、その歩さんは、こちらを見るなりビックリしたような表情を浮かべた。

 そりゃ驚かれるか。アポ取ったりもせず、いきなり来ちゃったから。

 

「……ウィル?」

「こんばんは……えっと、来ちゃいました」

「来ちゃいましたて……寮の門限はとっくに過ぎているはずの時間だが」

 

 歩さんはキーボードを打っていた手を止めて、苦笑しながらこちらを見てくれる。

 門限破りを窘めはしてるけど……来訪を迷惑に思ってる感じはない、かな?

 

 正直、少なからずホッとした。

 

 2月辺りからは落ち着いてた私のウマ娘としてのお仕事も、大阪杯の勝利以降またぶり返してきた。

 それはつまり、昌さんもそうだけど歩さんのお仕事も増えたってことを意味する。

 もしかしたら、歩さんが今取り掛かってるお仕事が死ぬほど忙しくて、訪ねたら迷惑になっちゃうんじゃないか……なんて可能性も、頭の片隅にあったんだ。

 

 ……いや、歩さんのことだから、並大抵の仕事よりは私のこと優先してくれそうな気もするな。

 何なら大事な仕事に取りかかってる最中でも、私が「お時間ください」って言ったら普通に仕事放り出して付き合ってくれそうまである。

 

 …………なんか、考えると心配になってきた。

 本当に大丈夫かな。

 

「えっと、今、お時間大丈夫ですか。急ぎのお仕事だったら出直しますが……」

「いいよ。今やってたのはそこまで急がなきゃいけない仕事じゃない」

「ちなみに何を?」

「君のライバルたちの成長率をエクセルで管理しながら、海外のウマ娘のレース映像を見てたところ」

「お、海外の方ちょっと気になります。今年の凱旋門賞の有力候補とかいました?」

「いやぁ……今年も去年に続いて小粒って感じだ。これという台風の目は確認できてない。

 今のところの最有力は、君とマックイーンが去年のジャパンカップで擦り潰したウィッチイブニングという感じだが……彼女は今年に入って調子を崩してるようだし」

 

 ウィッチイブニングちゃんって言うと……あぁ、あの鹿毛の子か。

 確かフランスのウマ娘で、魔法を使えるって自称するちょっとナルシスト気味な子……だったかな?

 

 正直、あのジャパンカップの時は、めちゃくちゃ気合の入ったマックイーンさんに意識を集中させてたから、他の子ってあんまり印象に残ってなかったんだよなぁ……。

 ウィッチイブニングちゃん、歩さんとか世間からはすっごい評価されてるっぽいし、実はフランス本国だと強キャラだったりするんだろうか。

 

 というか、調子崩してるって大丈夫かな。

 あんまり縁のないウマ娘ではあるけど、やっぱり一度一緒に走った子が調子を崩してるって聞くと、どうしても心配になる。

 

「何かあったんでしょうか。ジャパンカップの時は、走りはともかく精神的には好調そうでしたが」

「いや、君たちが容赦なく圧殺したのが堪えたんじゃないかと思うんだが」

「……あー」

 

 あの時は……うん、マックイーンさんと一緒になって、ハイペースで飛ばしまくったからなぁ。

 

 聞いた話、欧州の芝は日本のそれに比べて深く根付いているため、走るのにパワーを必要とする。そのためレース展開は比較的重いものになるんだとか。

 逆に言えば、日本の芝は走りやすく、レース展開が早くなるんだよね。

 

 そんなわけで、私たちのペースは欧州の子たちのそれと比べると、だいぶ速いんだと思う。

 ハイペースで走り、他の子のスタミナをすり減らすスタイルのマックイーン先輩と競うと、それはなおのことで。

 

 日本のハイペースなレース展開や私の大逃げに不慣れな海外の子には、あのジャパンカップはちょっとばかり厳しい戦いだったかもしれない。

 なにせ、私たちに付いて行こうとすると自然にスタミナを浪費しちゃうわけで……抜本的に走り方を日本向けに改造しないと、自分の走りのテンポが崩れちゃうものね。

 

 そして、ナルシスト系の子って、勝ちまくってる間はいいんだけど……その自信を挫くレベルの敗北を味わっちゃうと、ドツボにはまりやすいからなぁ。

 ウィッチイブニングちゃんもそういう負のスパイラルに囚われちゃったのかもしれない。

 

 ちょっと申し訳ないと思わないでもないけど、これもレースの結果だ。どうか受け入れて、そして乗り越えて、もっと強くなってほしい。

 どっちみち、次に競う時にはあっちのホームグラウンドになるわけだし……。

 

 

 

「……と、そうじゃなくて!」

 

 ぶんぶんと頭を振り、改めて話題を戻す。

 

 こーいう話は明日以降でもできるのよ。

 今は歩さんと1対1じゃないとできない、というか勢いのある今じゃないとできない話をしなければ。

 

「今日はちょっと用がありまして、時間をもらえたらって思うんですけど、構いませんか」

「勿論。君のためならどれだけでも時間を作るよ」

「うへへ……あ、ちなみにブルボンちゃんが同じことを言って来たら?」

「当然時間は作るが」

「むぅぅ」

 

 やっぱりえこひいきはしてくれないかー。

 まぁそもそも、歩さんは仕事に私情を絡めたりはしないタイプだ。相手への好感度の高さで、担当に対する態度を変えたりなんかしないだろうけども……。

 

 でもなー。やっぱり、ちょっとなー。

 そういう歩さんだからこそ好きになったんだという恋心と、こういう時にも贔屓されたいという乙女心。

 素直に喜べもしなければ悲しめもしない、すっごく複雑な心境です。

 

 まぁ、今日はそれを少しでも揺るがすために、ここに来たわけだけど。

 

「ではちゃちゃっと話を済ませますけど……」

 

 そこで、私は歩さんのデスクに手を突いて、言った。

 

 

 

「私も、ご褒美権行使です。

 ……今度、あの家の家具、見に行きましょう!」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 実のところ、私は帰れる家がない。いわゆるホームレスというヤツである。

 ああいや、一応賃貸という形になっているらしい寮に住んでるし、ホームレスって言うのはちょっと語弊があるかもしれないけども……それはともかく。

 

 私がかつて住んでいた北海道の実家は、トレセンに入る際に土地ごと売っちゃった。

 当時は両親の死を認められない心理から遺産に手を付けられなかったし、その結果奨学金とか消耗品による借金もすごかったし、とにかくお金が必要だった……。

 ……というのもあるんだけど、今思えば、ぶっちゃけ無意識的に辛い過去から逃げるつもりで手放したんだろうなって思う。

 

 今になって思うと、すっごい情けない……そしてもったいないことをしてしまったな。

 

 あの家は、私と両親の記憶が詰まっていた。

 勿論その中は、辛い過去もある。お母さんから向けられた憎々し気な瞳も、お父さんから向けられた空っぽの瞳も……まだまだ、まぶたの裏から離れてはくれない。

 

 でも同時、楽しかった時代の記憶もあるんだ。

 家族団らんの中で、今世ではまともな人間になれるかなって、そう思えてた頃。

 温かくて、幸せだった毎日の記憶が。

 

 辛い記憶を思い出さないようにするためには、楽しかった記憶ごと消す必要があって……。

 それを全部捨ててしまうのは、今の私からすると、とんでもなくもったいないことだと思えた。

 

 この前調べたら、もう家は解体されてしまったようだったし、後悔先に立たずなんだけどさ。

 

 

 

 ……やべ、なんかしみじみとしてしまった。

 とにかく、今言いたいことは1つで。

 そういう事情もあって、私は今やマイホームを持ってないってこと。

 

 で、そんな私に気を遣ってくれた歩さんは、今年の2月22日、私の誕生日にとんでもないプレゼントをくれた。

 

 家、である。

 

 ……家。

 それも分譲マンションの一室とかじゃなく、めちゃめちゃデカい一軒家。

 一回だけ歩さんに連れられて見に行ったことがあるけど、2階建ての8LDK。

 流石に屋外プールとかめちゃでか庭園とかがあるわけじゃないけど、十分に豪邸と呼んでいいレベルのお家だった。

 

 普通さ、誕生日にこんなの贈る?

 いくら名家出身と言えど、金銭感覚狂い過ぎてない?

 

 あるいは、もしかして……その、アレかな。私への、愛情? みたいな?

 

 ……ま、そんな都合の良い展開はないだろうけど。

 

 歩さんは昔から、担当のためなら全力な人だ。

 私たちのトレーニングのために最新の機材の導入案を理事会に通してくれたり、私財を投じて近くのレンタルグラウンド貸し切ってくれたり、なんかよくわかんないけど大量の瓦を買ってきたりもする。

 

 今回も、そういうのの一環なんだろう。

 私に帰る家がない……言ってしまえば、精神を安定させる拠り所がないことを気にして、あくまでも担当ウマ娘のため、その走りを十全にするためにやってくれたんだと思う。

 

 ……いや、でも、本当に?

 マジのガチで二心なく、担当の走りを完璧にするために何千万とか何億とか、そんな金額を払うの?

 だとしたら、狂ってるなぁ、歩さん。

 

 ……ま、そういう過度に真面目なところも好きなんだけどさ。

 はーもう、惚れた弱みとはよくいったものですよ。

 

 

 

 で、だ。

 私は結局、そのお家というめちゃでかプレゼントを突っぱねてしまった。

 

 理由は、まぁ、色々あった。

 あまりにもデカすぎるプレゼントにビビってしまった、とか。

 好きな人からの心尽くしに感極まった、とか。

 ……あとは、まぁ、その、ちょっとだけ下心も。

 

 その結果……。

 

 

 

『歩さんの家に住ませてください』

 

 

 

 ……などと。

 恥ずかしすぎることを言ってしまったのだ。

 

 謂わば、同居の約束。いやもはや同棲の約束?

 あなたが所有し住んでいる家に、私も住ませてください、と。

 

 そして歩さんは、そんな私のお願いを、呑み込んでくれた。

 将来を……約束? してくれた? みたいな!?

 

 ……う、また恥ずかしくなってきた。顔が火を噴きそうだ。

 

 

 

 と、とにかく!

 私は誕生日に、家をプレゼントされた。

 それ自体は突っぱねてしまったので、本来は私がどうこうできるものじゃないんだけど……。

 それでも歩さんは、今でもその家の主導権を、私に置いてくれているんだ。

 

 けど、私も歩さんも忙しかったってこともあって、今のところあの家はノータッチ。

 まだ新築ほやほや、家具の1つも入っていない状態のまま放置されている状態だ。

 一応歩さんがハウスキーパーさん? を雇って状態を維持してるらしいけどね。

 

 でもそろそろ、あの家にもテーブルとか椅子とか……ベッドとか? 色んな家具を入れたっていい頃合いだろう。

 

 そうなれば……ね?

 やっぱり、一緒に住むわけですし? 気に入った家具とか、色合いとか? そういうのを話し合うためにも、一緒にお店に行って選ぶっていうフェーズが必要じゃない?

 

 私は競走ウマ娘で、しかも絶賛春のG1戦線中。

 本来ならこんなラブコメに時間を使ってる暇はないのかもしれないけど……。

 同時に、思春期の女の子でもありますし? こういう時期にしかできない体験を積んでおくのも大事な人生経験ですし? 時にはいいんじゃないでしょうか。

 

 トレーナー当人である歩さんからすれば、これまで組んで来たトレーニングプランが瓦解するわけで、ちょっと難しいかもしれないけど……。

 こうしてご褒美権を使えば、多少のごり押しも利くというもの。

 そもそも本来、褒美ってそういうものだし? こーいう時々のお茶目は許していただけると幸いです。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、そんなわけで。

 

 歩さんと一緒に家具を選びに行くぞッ!!

 

 「これ良くないですか?」とか「うーん、配色が……」とか、そんなこと話しながら互いの将来に思いを巡らせ、イチャイチャラブラブ一時のスイートタイムを過ごすんだッ!!

 

 これを以てブルボンちゃんに大差を付け、二度と逆らえないようにしてやるッッッ!!! いや別に最初から逆らってきてるわけではないけども!

 

 

 

 

 

 

 ……などと。

 

 そんな風に考えていた時代が、私にもありました。

 

「それでは、こちらのモダンなシェルフなどどうでしょう。落ち着いた意匠と調和の取れた色彩が空間を整えてくれると思いますよ。こちら、完成予想図です」

「ふむ……幅はどうでしょう。できれば歩ける空間を少し広く確保したいのですが」

「縦50センチ、横40センチ、高さ80センチですね。取り外しできるキャスターも付属していますので、邪魔になれば場所を移すこともできます」

「なるほど。……高さを調整することはできますか? あと20センチ程足したいのですが」

「了解しました、問題ないと思われます」

「ありがとうございます、それから……まだ年若い彼女が使うには少しカラーが暗すぎるので、もう少し彩度を高く」

「承りました」

 

 歩さんは私……じゃなく、インテリアコーディネーターのおじ様と、家具について話し合っている。

 ついでに言うと、ここはお値段異常な某お店でもホームセンターでもその他家具が並ぶお店でもなく、なんかすっごいオシャレなインテリアが並ぶオフィスだ。

 

 

 

 ……なんか、違う。

 

 なんか思ってたんと違うぞ、これェ!!

 

 

 

「ウィル、君はどう思う?」

「あ、えっと、いいんじゃないですかね……」

 

 いや正直、こんなハイセンスなインテリアとか配置の良し悪しなんてわからんし、思いの外ガチすぎる話題に全然付いて行けないんだけど。

 私、「水色とベージュならどっちが良いと思う~?」とか、「あ、この収納の模様、綺麗で素敵~☆」とか、そういうレベルの家具選びを予期してたんだけどなぁ。

 ご褒美権使った時に調子に乗って「(デート)プランは歩さんにお任せしますね♡」なんて言ったのが運の尽きだったかぁ……。

 

 

 

 というかそもそもさ、予想出来て然るべき事態だったんだよね、これ。

 

 思えば、歩さんの金銭感覚はぶっ壊れてる。

 誕生日プレゼントで、家なんか贈ってくれるくらいに。

 

 あるいは、壊れてるって思うのはあくまで一般家庭基準な私の感覚で、すっごいお金持ちな名家としては、歩さんくらいの感覚が普通なのか……?

 ……って、そんなわけないよな。

 昌さんすごいブチ切れてたもんね、家をプレゼントするってなった時。

 

 いやしかし、今回インテリアコーディネーターを起用するって話になった時は、昌さんも特に否定せず、むしろ当然のことのように頷いてたんだよね。

 もしかしたらこの辺の事情は、家具をオーダーメイドするとこまで含めて、名家としては普通なのかもしれない。

 

 改めて、名家の力ってすげー。決定的な文化圏の違いを感じるよ。

 私は付いてゆけるだろうか、お金がある世界のスピードに。

 

 

 

「ウィル?」

 

 ちょっとぼんやりしていた。というか唖然としてた。

 私も将来住む家の話だし、しっかり聞かないとな。

 

「……あ? えっと、何の話でしたっけ」

「ベッドはダブルでいいかという話だが」

「ベッドはダブルでいいかと言う話!?」

「いや突然の大声」

 

 ダブル!? ツインじゃなくてダブル!?

 つまり、つまりその、あれだよね……2人で、一緒に寝る、同衾的な?!

 

 え、本当に!? ちょ、ちょっとそんな積極的な、インテリアコーディネーターの人も聞いてるんですよ今!! 私も今日はそこまでしっかり変装してるわけでもないですし、というかそもそも身長低くてロリ体型だし、聞かれて大丈夫なヤツなのこれ!?

 

 い、いや、大丈夫とかじゃなくて、歩さん……これ、これ! お誘いってことだよね!?!?

 頭が沸騰しそうに熱い。思わずこの場から逃げ出したくなる。というか無意識にちょっとお尻浮かせてた。

 

 けども……ここで逃げちゃダメだ。

 今ここで勇気を振り絞らないと、今度こそ恋のダービーに勝てなくなるぞ、私ッ!!

 

「いいです!! ダブルで、全然! むしろウェルカム!!!」

「今日はテンション高いね? まぁでも了解、では材質など決めていくが……」

「そ、そこは歩さんにお任せで……! 私は特に選り好みとかしない方なので!! はい!!」

「あ、そう? わかった。……それでは、この子にはこの白基調の落ち着いたフレームのもので、俺のはこっちの……」

 

 ……いや、待て。

 なんか聞き逃せないフレーズなかったか今。

 

「はい? 私のと、歩さんの?」

「え? ……えっと、ほら、せっかくだし俺も、どんな形であれこの家を使わせてもらおうかと思っているわけだが……駄目、か?」

「いやそれは良いっていうかそもそも前提というかむしろ使ってもらわないと困るんですが」

「あぁ良かった、安心した。どこかで意思のすれ違いがあったのかと……。それでは改めて、俺の部屋に運ぶ分は、この黒のもので」

「………………???」

 

 いや、意思のすれ違い自体はどうやらあるっぽいですねこれは。

 

 え、ダブルだよね?

 ツインとダブルって……ツインがベッドを2つの奴で、ダブルが1つのベッドで寝よう的な意味だよね?

 ダブルを……2つ? ダブルツイン? ターボ?

 

 混乱にお目目をくるくるさせる私を気遣うように、歩さんはゆったりと声をかけてくれる。

 

「ウィル、やはりクイーンサイズにしておくか? もしも寝相が不安なら、ベッドは大きいに越したことはない。今からでもサイズ変更しておく?」

「……いや、理解しました。サイズですよね、私はそこまで広くなくとも大丈夫です」

「了解した。それではダブルで」

 

 ……正直、途中からわかってたよ。

 というか、言っちゃえば最初からわかってましたとも。

 

 歩さんが急にそんなこと言い出すわけないもん。

 ダブルっていうのは所詮ベッドのサイズの話で、それを2つそれぞれの分頼むって話ね。

 

 わかってたわかってた。そんなことだろうと察していましたとも。

 

 ……でもそれはそれとして、急に梯子を外されるのは、やっぱつれぇわ……。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そんな感じで、私の必殺の切り札だったはずの家具選びは、甘い話題の1つもなく淡々と進み、淡々と終わった。

 なんなら私なんて、ほとんど意見も出さないままに終わってしまった。

 

 だってさぁ、コーディネーターさんがすっごいセンス良いのよ。

 流石は歩さんが依頼した人と言うべきか、カッコ良くて優雅で調和の取れた、その上で機能性も抜群の家具群をセレクトしてくださったんだ。

 最初に「こういう方向で」って伝えさえすれば、後は特にこっちから何も言わなくとも、勝手にすごく良いのが出来上がるんだもん。

 

 一方で歩さんも、基本的にセンスはあると言うか、物の良し悪しは分かってる感じに意見を出す。

 出すんだけど……時々コーディネーターさんが「いやぁ、それは……どうですかね……」みたいな苦笑いを浮かべる場面もあった感じだ。

 そういう時のは……まぁ、私から見てもちょっと避けてほしいというか。なんとも歩さんらしいね。

 

 で、そんな2人に対して私は……ぶっちゃけると、普通にセンスがない。

 前世でもそっち方向に殊更強いわけじゃなかったし、今世に来た後も走り一辺倒で勉強なんて全然してなかったもんね。そりゃあセンスを磨く経験もないわけで。

 

 そんなわけで、私はまともに提案とか意見もできず……。

 テキパキ決められていく間取りに対して「何か意見した方がいいのかなぁ」とか「いや普通に良いなこの雰囲気」とか「え、普通にここで暮らすの楽しみになってきた」なんて思いながら、ぼんやり見守ることしかできなかったわけだ。

 

 結果としては素敵なお家が出来上がりそうだから、そっちは良かったんだけど……。

 

 

 

「……うーん」

 

 メインミッションである、歩さんとの恋愛好感度上昇は達成できなかったなぁ。

 

 いやまぁ、今回に関しちゃ、私のプランが甘すぎたよね。

 歩さんは名家出身なわけで、金銭感覚とか物ごとの方針が私とは全然違うってのは前からわかってた。

 家具を選ぶって言った際に「どこかのお店で一緒に選びましょう」とか条件指定しとけば、少なくともコーディネーターさんというお邪魔虫の発生は防止できたはずだ。

 

 というかそもそも、家具選びでイチャイチャするってのが無理な方針だったかなぁ。

 必殺の切り札みたいに思ってたけど、確かにちょっとインパクトは弱いか。これなら素直にデートとか申し入れた方が良かったかもしれない。……その名目は思い付かないけど。

 

 まぁ、前回はなぁなぁになってしまった同棲の約束を、しれっと確かに取り付けられたのは良かったんだけど……。

 なんというか、ちょっと満足感が足りない。

 

 私の時間を使って、そして歩さんの時間をもらったにしては、残念な結果になっちゃったなぁ。

 

 

 

 そんなことを思いながら、コーディネーターさんが持ってきてくれた完成予想図を見ていると……。

 ふと、気になったことがあった。

 

 倉庫、客間、事務室兼作業部屋、それから私の部屋、歩さんが使うらしい部屋など、使用用途が決定してる部屋の他に……。

 1つだけ、不自然に家具などが配置されず、明確に空けてある部屋があったんだ。

 

「歩さん、これ、何の部屋ですか?」

 

 特に気負わず聞いてみると、歩さんは一瞬だけたじろぐように黙って、言った。

 

「そこは……何かあった時のための予備、というのもあるが。

 メインの用途は、将来の……君にできるかもしれない、家族のためのものだ」

「家族、って……」

 

 それは……。

 

 ……それ、は。

 

 あー…………うん、はは。

 やっぱり、恋愛対象としては見られてないんだろうなぁ、私。

 

 将来、私にできるかもしれない、家族。

 つまり……歩さん以外に、私が家族を持つだろうって、そう言われてるんだろう。

 

 わかっていたことではあったけど、意識の違いに、少し悲しくなる。

 私は、歩さんと結ばれたいと、ずっと一緒にいたいと、そう思ってるけど……。

 歩さんにとってそれは、そこまで優先度の高い未来ではないんだなぁって、そう思わされるようで。

 

 でも、そんな感情を、この人に押し付けるわけにはいかない。

 

「あー、なるほど。すみません、そんなことまで考えさせてしまって」

 

 努めて、笑顔を形作る。

 悲しさなんてどこにも感じさせない、完璧な笑顔を。

 

 それでこの感情を取り繕い、誤魔化そうとして……。

 

 

 

 けど……そうだね。

 そんなもので誤魔化せる領域は、とっくの昔に過ぎていて……。

 

 けれど私たちは、まだまだお互いのことを知らなかった。

 

 

 

「……やはり、子供については、少し思うとところがあるか?」

「子供?」

 

 言葉の意味を理解し損ね、おうむ返しに問う。

 そうして見上げた先にあったのは……少し物憂げな表情をした、歩さんの顔だった。

 

「確かに君は……親というものに、あまり良い印象を持たないかもしれない。子供を育てる自信がないというのもあるかもしれない。

 だが……いつか、子供を持ちたいと思う日が、もっとたくさんの家族が欲しいと思える日が、来るかもしれない。

 君にはこれから、無限にも近しい時間がある。その時間が君を変えてくれるかもしれないんだ。

 だから、その万が一の場合に備えてだな……」

「いやあの、別に親とか子供に悪印象はないんですが」

「え、そうなの!?」

 

 本気で驚いた顔をする歩さんを見て、ふと気付く。

 

 ……そうだよね。

 私、両親への想いとか、あれ以来全然語ってなかったじゃん。

 

 それなら、誤解して当然だ。そもそも情報が足りないわけで。

 

「もう両親との過去には決着をつけましたから、今は思うところなんてありませんよ。強いて言えば、どこかで私のレースを見守って、自分の子供は強い子に育ったって誇りに思っててもらえれば、それだけで十分です」

「そうか……良かった」

 

 安堵の息を吐く彼に、続けて「子供に対しては……」と、語りかけて気付く。

 

 私、自分の子供のこととか、考えたことなかったな、と。

 

 ……そっか、そうだ。

 私もウマ娘。性別で言えば女性なわけで、将来的には子どもを生むこともあり得るんだよなぁ。

 前世ではついぞそういうことに縁がなかったから、実感が湧かないというのが正直なところだけど。

 

 しかし、ウマ娘の能力はその血統による部分が大きく、いわゆる2世には大きな期待がかかる。

 自分で言うのはなんだけど、割と結果を残した私は、多分世間からも子供を望まれるだろう。

 もちろん、だからと言って誰かとの婚姻を強制されるとかそういうわけじゃなく、自由恋愛の原則は守られてるわけだが……。

 

 私の場合は……。

 

「ん?」

 

 チラリと視線を向けた先では、歩さんが首を傾けている。

 

 この、カッコ悪いところも多いけど、肝心なところではカッコ良い、私の最愛のパートナーと……その、将来的には、子供を……。

 

 

 

「……ッ!!」

 

 あっつ! 顔あっっっつ!!

 

 マズい。この思考はマズい! 頭が沸騰した後破裂しそう!!

 

 この思考を続けるのは駄目だ! 一旦思考放棄! 話を逸らさねば!!

 

「あっ、あの! えっと……そう、そうだ! わ、私の……こ、こども? の部屋はあるのに、私の相手の部屋はないんですねー……って、はは、当然ですかね、分けられないのが正常? っていうか、一緒に住んでる? みたいな、えっと、あはは……」

 

 な、何言ってるんだ私!? 動転したからって変なこと口走りすぎでは!?

 混乱に混乱が重なってもはや平静に思考が働かないっていうか、思ったことが全部口からゲロゲロと流れ出ていくんだが!?

 

 あせあせしすぎて完全に空回ってる私。多分これが漫画なら今頃「つつつ」みたいな汗が飛び散ってることだろう。

 

 

 

 そして、そんな私を見ていたトレーナーは、私の言葉に数秒硬直した後……頭を抱える。

 

「……ごめん。いや、すまん。完全に意識の外にあった。

 そうだよな……そういう可能性もある。ああ、クソ……我ながらなんとも恥ずかしい……」

 

 しばらく自省するように、小声でブツブツと言葉を漏らしていた歩さん。

 しかし心配そうにする私の視線に気づいたか、軽く頭を振り、咳払いをした後話し出した。

 

「君に相手ができたら、俺が責任を持って客間を改造しよう。それで構わないか」

 

 あ、マズい。そっち方向を意識させるのは恋愛的にポイント低い。

 私は他に恋愛対象を見つけたいわけでもなく、そして見つけるつもりでもないのだ。

 

「あー……えっと、その。まぁアレです、その必要がない可能性……も、あるわけでして?

 勿論相手ができないとかじゃなく、いやできるかどうかは相手の想い次第としても、可能性の1つとして、あり得るわけですよね? ですよね??」

 

 熱暴走した思考のままに、ペラペラと口が回る。

 ひっどい無様さだなぁ、私。

 前世と今世の色んな経験で、多少は仮面も厚くなったと思ってたんだけど、ちょっと焦ればこのザマ。

 もうちょっとなんとかならなかったんですかね我ながら。

 

 で、そんな醜態を晒す私に対して、歩さんは……。

 

 

 

「……あー、まぁ、そうだな。そういう可能性も……ある、か?」

 

 

 

 そう言って、少し気まずそうに……いいや、気恥ずかしそうに、頬を掻いた。

 

 

 

 

 

 

 ……え?

 

 え、いや、これ、どういうこと?

 

 

 

 なんか、こう……すっごい脈アリな気配を感じるんですけど!?

 

 

 







 トレーナーは、ひどく赤面した。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、今の彼女とライバルの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!
 日本語警察、めちゃくちゃ助かります……!


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もしも2バ身以内に入られたら大樹のウロの下に埋めてもらっても構わないよ!

 ババーン(置きSE)





 

 

 

 トゥインクルシリーズの春のG1シーズンは、大阪杯と共に始まる。

 そこまでにもG1レースがないわけではないんだが、本格的にラッシュが始まるのはそこからで……。

 

 4月は大阪杯に桜花賞と皐月賞、早ければ天皇賞(春)。

 5月はNHKマイルカップに始まり、かしわ記念にヴィクトリアマイルとオークス、そしてやはり栄えある日本ダービー。

 6月も安田記念に帝王賞、そしてグランプリである宝塚記念が続く。

 

 この時期は、毎週のようにG1レースが開催される。

 というか、5月に至っては週に2回開催されることすらあるくらいだ。

 

 ファンの方々は勿論、俺たちトレーナーやウマ娘たちにとっても、大忙しで大盛り上がりのシーズンだと言えるだろう。

 少し汚い言い方になるけど、URAに取っては書き入れ時とも言えるかな。

 

 当然ながら、そんな時期には世間の注目がウマ娘に集まりやすく、その分PRやタイアップ等の仕事もまた増えるわけで……。

 G1ウマ娘の契約トレーナーは、来たるG1レースに備えて彼女たちを育てたいという思いと、レース出走のためにも仕事を回さなければいけないという、苦悩に満ちた二者択一の決断を下すことになる。

 

 

 

 ……というのが、普通なんだろうが。

 幸運なことに、俺はその例に当てはまらないんだよね。

 

 そもそも俺の担当するウィルとブルボンは、現時点で両人ともにかなりの人気を得ている。これまで出走してきたレースやライブでの、彼女たちの努力の成果だ。

 故に、案件などをこなさずとも、G1レースに出走するだけの能力と人気を兼ね備えているのである。

 

 更に言えば、それだけじゃない。

 仮に彼女たちを仕事に送り出さなければならないとしても、俺は苦悩する必要がないんだ。

 

 俺の持つ不可思議な「アプリ転生」の力は、現役競走ウマ娘の調子を明らかにする。

 「調子」というと大雑把だけど、要は身体能力(ステータス)習得技術(スキル)向き不向き(適正)特殊な状態変化(コンディション)などのことで。

 

 更に、「アプリ転生」はこれらと同時、ウマ娘の「やる気」を5段階で表示してくれる。

 

 この「やる気」というのもなかなか難しい概念なんだけど、端的に言えば集中力とか、精神の入れ込み具合のことを意味してるっぽい。

 やる気が上がればトレーニングの効率が上昇、レースでも良い結果を残しやすい。そしてその逆も然り、というわけだ。

 

 で、やる気が下がった時には、一緒にお出かけしたり1日全休を与えることで気分転換をさせ、持ち直すことができる場合が多い。

 まぁ、何か迷いや悩みがある場合は、きちんとそれを聞いて一緒に悩むことで解決したりもするし、例外はあるんだが……それはともかく。

 

 この「気分転換」というのは、多分、学校で言うところの休み時間的な意味合いを持つんだろうと思う。

 一度その行為を切り上げ、思考に区切りを付けることで、再開した際に集中力を取り戻す時間。

 要するに、ウマ娘だって時々はトレーニングを切り上げ、気分転換することも大事だ、という話だ。

 

 

 

 さて、今更ながらにこんな話をして、何が言いたいかと言えば。

 彼女たちのやる気が「好調」に落ちて、ちょっと集中力が切れて来たな、というタイミングでお仕事を回すと、思考に一旦の区切りを付け、ちょっとだけやる気を持ち直すことができるのだ。

 

 勿論、ちゃんとお休みを与えたりするよりは回復量も低いので、これにばかり頼ることはできないが……それでも、お仕事を入れるのに最善のタイミングを掴むことはできるわけで。

 

 どこでお仕事を入れるのが正しいのか、と考える必要もなく、俺はその正答を知ることができる。

 より正確には、それらをデータ化し分析・予測することができる。

 

 そのため、俺は常に担当ウマ娘の体力ややる気の推移をエクセルに纏め、それを以て次に彼女たちに取らせるべき行動を割り出しているのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そんなわけで、その日も俺は、モニターとにらめっこしていた。

 そこに表示されているのは、ウィルとブルボンのトレーニングプラン。

 その予定表を見ながら、俺はどこに仕事を入れるか、どこで休ませるか、追い切りとかレース後のことも加味して、数か月後のことに思いを巡らせていたんだが……。

 

 そんな時。

 不意に、コツコツと、トレーナー室のドアがノックされた。

 

 時刻はまだ午前11時、担当2人は授業を受けているはずの頃合いだ。

 となれば、そのノックの主にも、ある程度見当が付くというもので……。

 

「どうぞ」

 

 モニターから視線を上げて、そちらを窺うと……ドアの向こうに立っていたのは、予想通りの人物。

 そこそこの量の書類やファイルを抱えた、俺の妹でありサブトレーナー、昌だった。

 

 彼女は書類の山をどさりと俺のデスクに置いて、それらを分別しながら告げる。

 

「兄さん、これ、理事会から。老朽化したフィットネスバイクの交換の件と、暖房設備修繕の件。どっちも可決されたって。

 で、こっちは事務局から……ここからここまでがホシノウィルムさんに来た仕事の依頼で、残りがミホノブルボンさんに来た仕事のまとめ。受けるんなら改めて連絡くださいって」

「ミホノブルボンに来る依頼も増えて来たね。もう並のG1ウマ娘より多いかな」

「ま、皐月賞の最有力候補だからね。天然ファンサもエグいし、そりゃあ取材もしたいってものでしょ」

 

 その言葉に、彼女にバレない程度に小さく笑う。

 

 数か月前……なんならスプリングステークスの日まで、世間はブルボンの皐月賞出走に懐疑的だった。

 適性距離が短距離の寒門のウマ娘が、2000メートルのクラシックレースを勝つのは不可能だと。

 

 しかし、ブルボンは1800メートルのG2レース、スプリングステークスを制し、適性の壁は努力によって越えられることを証明した。

 そうして今や、彼女こそが皐月賞の最有力候補だ。

 

 勿論、昔からブルボンのことを信じてくれていた人は少なからず存在したし、逆に今も三冠の達成は不可能と断じる人も多いんだが……。

 

 それでも、今は彼女を信じてくれる人が多数派と呼べる領域に達したんだ。

 これほど嬉しいこともない。

 

 

 

 と、俺がニヤニヤしているのを後目に、昌は最後に残ったファイルをデスクの端に置いた。

 

「……で、これが頼まれてた資料。量多すぎるし、必要なら要約してもいいけど」

「それくらいなら2日あれば読めるから大丈夫だよ、ありがとう」

「2日、ね……。まぁいいや、取り敢えず書類とかはこれで終わり。

 ……あぁ、それと、たづなさんから伝言が1つ。『最近はきちんと有休を消化してくれて嬉しいです。あとは残業を減らしていただければもっと嬉しいです』だって」

「あはは、それは無理だなぁ」

 

 今日も今日とて仕事が増えた。たづなさんには悪いけど、今日は徹夜のサビ残かもわからんね。

 有給に関しては、担当2人のご褒美権のために使用することは増えたけど……逆にそれでスケジュール圧迫されるから、むしろ残業は増えるんだな、これが。

 

 正直、こういう書類仕事は多少面倒ではあるんだけど、担当のためを思えばえんやこら。この程度もこなせないようなら中央のトレーナーはやってけないのである。

 

 それに、今は昌もいてくれるし、俺もだいぶ業務に慣れたから、去年の今頃に比べたら遥かにマシだ。

 あの頃は睡眠時間が15分の日とかザラだったし……今考えるとよく死ななかったなぁ、俺。

 

 

 

 ……と、忘れてしまわない内に、言うべきことを言っておこう。

 

「ありがとう、昌。お使いみたいなこと頼んでごめんね」

「いい。兄さんだけにできることがあるなら、兄さんはそっちをすべきでしょ」

 

 そう言って、ぷいっと視線を逸らす昌。

 相変わらず、俺の妹は優しさに満ちてるなぁ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、取り敢えず書類の確認をしてから資料を読もうか、と思ったが……。

 自分のデスクに就いて仕事に取りかかると思われた昌は、しかし予想に反してその場に立ったまま、俺に声をかけてくる。

 

「……ところで、どうなの?」

 

 唐突な言葉に、思わず小首を傾げる。

 

「えっと、何の話?」

「何って……2人のレース。皐月賞と天皇賞」

「ああ、それか。言ってなかったっけ?」

「作戦会議ではちょっと話したけど、あれは担当の2人の前だったから、言えないこととかもあったでしょ。実際のところ、勝てそうなの?」

 

 ちらりとこちらを見て来る昌の瞳は、若干の不安に駆られていた。

 

 ……あー、そうか。

 そりゃ、ちょっと不安にもなるよね。

 

 

 

 昌がトレセンに来てから、おおよそ半年の時間が過ぎた。

 去年は新しい仕事と環境に慣れること、そして俺が昏倒している間は穴埋めをすることに必死になっていた彼女だが、今年に入って仕事が一段落し、また業務にも慣れたことで、余裕が出て来たのだろう。

 

 そして余裕が出てくれば、色んなことを考えられるようになる。

 サブとはいえ自分が担当している2人が、次のレースで勝てるのか。

 もっと言えば、レースに出てもいい状態なのか。

 

 大阪杯でウィルが負けかけ、そしてあんなことになった直後だ。

 まだトレーナー経験の浅い昌が、担当の出走するレースを不安に思うのは、決しておかしなことじゃないと思えた。

 

 ……というか、本来はそういう不安が出る前に、俺が昌に情報共有を済ませておくべきだったな。

 本当に俺は、我ながらつくづく人に気遣いができないというか……今後はこういうところにも気を付けていかねば。

 

「オッケー、わかった。ちょっと資料出すから待ってて」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 堀野昌は、俺の複雑な事情を知る、現状唯一の人間だ。

 

 色々あって、彼女には俺が前世の記憶を持つことや、転生特典のチートを持っていることを知られてしまっている。

 まぁ、この世界がアプリの世界だとか、その辺の都合は混乱を避けるためにも言ってないんだけど……。

 

 故に彼女にならば、というか彼女にだけ、俺の「アプリ転生」による観測についても、隠すことなく語ることができるのだ。

 

 一応、俺の「アプリ転生」によるステータスの数値化に関して、ウィルやブルボンは「俺の観察眼が並外れている」ということで納得してくれているが……。

 前者に関しては彼女にしては珍しいポンコツさ、後者に関しては持ち前の天然さによるものだろう。

 いつどんなところでガバが出るかもわからないので、この辺はあんまり積極的に話すべきではないだろうな、と思ってる。

 

 

 

 そしてもう1つ、担当に……特に、ウィルには話せないことがあるんだよね。

 それは……。

 

「正直な話、天皇賞でウィルが負けることはまぁあり得ないと思う」

 

 こういう話だ。

 

 俺はそれを言った後、持っていた資料をデスクに置く。

 ホシノウィルムの分析資料、その最新版である。

 

「それ、部外秘だから。読み終わったらシュレッダーかけて」

「了解。……でも、後で確認できるように、一部は残しておいた方がいいんじゃないの?」

「過去のデータはオフラインのPCに残してある。とにかく、それは絶対に外に漏らしちゃ駄目」

「了解」

 

 いくつか言葉を交わしながら、俺と昌は資料を覗き込む。

 そこには、つい一昨日「アプリ転生」で確認した、ウィルのステータスが記載されていた。

 

 

 

 ホシノウィルム

 

 ステータス

 スピード S+  1070

 スタミナ UG  1205

 パワー  A+  993 

 根性   A+  943

 賢さ   A   827

 

 適性

 芝S ダートC

 短距離D マイルC 中距離A 長距離S

 逃げS 先行B 差しD 追込G

 

 スキル

 三歩飛翔

 盤石の構え

 先頭プライド

 弧線のプロフェッサー

 逃げ直線◎

 脱出術

 押し切り準備

 全身全霊

 踏ませぬ影

 コンセントレーション

 円弧のマエストロ

 深呼吸

 大逃げ

 根幹距離○

 一匹狼

 

 

 

「……強くない?」

「強いが?」

 

 昌のよくわからない疑問に対して、俺は首を傾げながら返した。

 

 いや、そりゃ強いでしょう。

 

 この子、史上最強の逃げウマ娘って言われてるんだよ?

 今のトゥインクルシリーズの中心だし、2人目の無敗三冠ウマ娘だよ?

 その上、まだ本格化も終わってなくて、絶賛成長中なんだよ?

 

 そりゃあ強いに決まってるでしょうよ。

 

「いや、有記念の時のスペシャルウィークさんとかサイレンススズカさんと比べても、全然負けてないっていうか……。

 ああいや、そっか。普段の様子見てると忘れがちだけど、彼女ってあの2人に並ぶ、何なら越え得るウマ娘なんだよね。……普段の様子見てると忘れがちだけど」

 

 なんで2回言った? と訊きたくなる気持ちもあるけど……。

 ……まぁ、うん。

 

 正直日常生活でのウィルは、ハッキリ言って強者の貫禄とかまるでない。

 走りたくてウズウズしてるか、走ってウキウキしてるか、誰かと話してニコニコしてるか……あるいは俺と話してニマニマしてるか、って感じだ。

 とてもじゃないけど最強級ウマ娘という威圧感はないし、なんなら一部のファンはこんなウィルを見ると軽度の脳破壊を受けるかもしれない。

 

 ただ、ことがレースとなると、普段の反動と言わんばかりに禍々しいまでの威圧感を出す。そういう多面性を持つのがウィルというウマ娘だ。

 そして、その風格は決してただのこけおどしではなく、今や彼女はトゥインクルシリーズでもトップクラスの能力を持っている。

 

 有記念の反省から、基礎的なトレーニングを積み直し、ステータスも向上。

 レースでの経験や、そこで感じた弱みや強みなどの彼女が拾ってきた気付きを元に、新たなスキルもいくつか習得した。

 

 今や彼女は、間違いなくトゥインクルシリーズでも最強の一角……あるいは、横に並ぶ者なき無双の領域に足を踏み入れている。

 

 ……でも、こういうこと、普段のウィルを見てると忘れそうになるんだよなぁ。

 

 これまでの三冠ウマ娘って、幻のセントライトも伝説の戦士シンザンも、常識破りのミスターシービーに永遠の皇帝シンボリルドルフ、その全員が、その形は違えど共通して強い存在感を持っていた。

 

 けど、普段のウィルは……なんというか、本当に普通の女の子って感じだ。

 いや、勿論特徴的なところもあるんだけど、三冠ウマ娘って感じはしないんだよなぁ。

 だから時々、彼女がすさまじい存在だってことを忘れそうになってしまう。

 

 でも、そういう普通の女の子なところも、レース中に魅せる修羅の如き様子も、全てがウィルの一面だ。

 そこは忘れないように気を付けないとな。

 

 

 

 と、そんなことを思っていると、昌から声がかかる。

 

「兄さん、このスキル、名前だけ書かれても全然意味わかんないんだけど」

「あぁ、そうか。ごめん、今度から効果も追記する。俺が把握してる範囲になるけど」

「うん。……てか、このスキルの名前、なんというか……ゲームチックなんだね。兄さんが考えたの?」

「あー……まぁ、そんなとこ」

 

 この世界はゲームの世界で、だからこそこんなゲームチックなんだよー……などとは、流石に言い辛い。

 というかそもそも、俺自身この世界が何なのかよくわかってないしな。

 

 「アプリ転生」が前世アプリの画面と酷似してることから、前世アプリとこの世界の間に何かしらの関係があるのは間違いないだろうけど。

 ここがゲームの中の世界で、だからこそ俺のチートがこのように作用している可能性もあれば……。

 ここはゲームの世界ではないけど、チートが俺のよく知る形に変わって作用している可能性もある。

 

 いやもう、この辺は考えたって答えの出ない問いではあるんだけどさ。

 それにしても、触らぬ蛇に祟りなしだ。

 たとえ昌にだって、この辺の事情は話すべきじゃないだろう。

 

「もう1つ聞きたいこととしてはさ、このスタミナの『UG』って表記は何なの? SSとかはまぁ、ステータスの評価なんだろうって感覚的にわかるけど、UGはその上ってこと?」

「…………いや、何なんだろうね?」

「なんで兄さんもわかってないの? 見えてるんだよね???」

 

 いやホント、これわかんないんだよなー。

 

 そもそも俺の記憶じゃ、ステータスは1200、ランクはSS+で打ち止めになるはずだったんだよね。

 なのに、先日のウィルのトレーニングが上手くいって「あーこれスタミナカンストしたか」と思ったら、1200より更に伸びて、ランクも知らないUG表記になるんだもん。

 ぶっちゃけどうなってるかよくわからん。

 

 これはアレなのかな、俺が比較的早期にウマ娘から離れちゃったのが問題なのかな。

 俺の知らない間にステータスの上限が取っ払われるアップデートがあったとか?

 

 というかカンストしないにしろ、それならランクはSSSとか3Sとかじゃないの? あるいはXとかならまだわかんなくもないけど……UGって。

 Uは多分ウマ娘の頭文字のUなんだろうけど、Gは何? グレード? ウマ娘グレードとかあるの最新の環境?

 

 ランクでGなんてそうそう使わな……あ、いや待て、前世アプリのランクって確かGからSS+だったよな? これ、もしかして最低値のGか?

 だとしたらここから伸ばしていけばUFとかUEになる? もっともっと上があるってこと?

 

 ……マジかぁ。当時はステータスカンストすら作るの結構大変だったんだけどなぁ。

 やっぱり俺が離れた後のウマ娘、育成ウマ娘もサポカもガンガンインフレして、最終的には全ステ2000とかになったりしたんだろうか。怖すぎる世界だな。ライスストーリーのブルボン涙目じゃん。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「……まぁ、その話は置いておいて。改めて、天皇賞の話に戻ろうか」

 

 俺はデスクの引き出しから、天皇賞(春)の開催される京都レース場の見取り図を取り出し、デスクに広げる。

 

「知っての通り、春の天皇賞は3200メートル、G1レースの中で最も長い距離で競うレースだ。

 当然だが、レースの距離が長くなればなる程に、ウマ娘はスタミナを要求される。そしてスタミナという側面において今のウィルに勝てる子はいない。

 適性の面でも、芝、長距離、逃げの3つがSのウィルは、他よりも段違いに走りやすいはずだ」

 

 ぴっと、昌が手を挙げる。

 話を中断して悪いが言いたいことがある、ってことだろう。

 

「どうぞ」

「ありがとう。話の腰を折ってばっかで申し訳ないんだけど、なんでホシノウィルムさんって適性が3つS評価なの? 他の子のデータって、全員高くてAでしょ?」

「……わ、わかんない」

「さっきからわかんないことばっかりじゃん……」

「いや、多分……そこに関しては、ウィルの才能的な部分なんじゃないかと……」

「才能って言うんなら、それこそトウカイテイオーさんとかもSなんじゃないの?」

「うーん……」

 

 まぁ確かに、ウィル本人も認めていることだけど、単純な才能という意味ではトウカイテイオーはホシノウィルムを上回っている……はずなんだよな。

 

 レースへの直感、技術の活用、走法の発想……すべての意味で、トウカイテイオーは「走る」という事柄に天賦の才を持っている。

 

 ホシノウィルムが彼女に勝っているのは、シンプルにこれまでの努力の絶対量の違いだ。

 生まれてこの方……とまでは言わないが、幼い頃から文字通り命懸けで走っていた彼女が、最近になってようやく本気を出し始めたトウカイテイオーに負ける道理はない、という話で。

 

 ……が、しかし。

 適性という、生まれ持った才能によるものが大きい部分で、彼女は確かにテイオーに勝っている。

 

 ブルボンがその身を以て証明したように、ウマ娘は努力によって適性を伸ばすことができる。

 だからこそ、ウィルのそれも彼女の努力の結果なのだと、そう思っていたが……。

 

 冷静に考えると、努力によって適性をSに伸ばすことができるのなら、ドリームトロフィーリーグに進むような子は、皆がSランクの適性を持っているはずだ。

 そうでないということは、つまるところ……努力で伸ばせるのは、あくまでAランクまで、という仮説が浮き上がって来る。

 

 しかしそうなると、ホシノウィルムがトレセン学園入学時点でSランクの適性を3つも持っていたことは、大いなる疑問だ。

 それはまるで、彼女がズルでもしていたかのようで……。

 

 

 

 ……ズル。

 

 …………ズル(チート)、か。

 

 

 

「……ウィル、もしかして……」

「兄さん?」

 

 思わず呟いた言葉に、昌が不審そうな声を上げる。

 

「あー……いや、すまん、なんでもない」

「なんか今日ぼんやりしてない? 大丈夫?」

「大丈夫大丈夫、昨日は5時間も寝たんだから!」

「『も』って言う程長い時間でもないんだけどね、それ……」

 

 この推論、昌にも相談しようかと思わないでもなかったが……。

 いくらなんでも、まだまだ妄想の余地を出ないし、証拠なんて欠片たりとも存在しない。

 

 もう少し……もう少しだけ様子を見てから判断しよう。

 それに、俺の予想が正しければ……ウィルはあまり、これを他人に知られたがらないかもしれないし。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「改めて、天皇賞のライバルの話だが……そんなウィルに対して、2番人気になるだろうメジロマックイーンは、既に自慢のスタミナで劣っている。

 まぁスキルまで含めれば、持久力自体はマックイーンが上回るかもしれないが……最高速度でウィルが大きく勝っている以上、末脚勝負でウィルが押し負けることはない。というか、そうならないように俺が作戦立案するから問題ない」

 

 マックイーンは強力なウマ娘だし、この前調査で見た限り、調子も万全のようだったが……。

 本格化も終えてしまい、身体能力でウィルに上回られてしまったというのが厳しいところだろうな。

 元より彼女はフィジカルで戦うタイプのウマ娘、その点で負けてしまうとシンプルに不利だ。

 彼女も彼女のトレーナーも、共に愚直で真っすぐなタイプ。流石に策で負けるとは思い辛いし。

 

「……領域はちゃんと開けるの? ホシノウィルムさん、大阪杯じゃ領域を開けずに、テイオーさんに迫られてたよね」

「そっちは問題ない。ウィルは大阪杯で感覚を掴んだらしい。天皇賞なら問題なく領域は開けるそうだ」

「それは良かった……けど、領域の打ち合いになったら……勝てるの?」

 

 唯一気になるのがそこなんだよな……。

 

 俺は何かと領域というモノに悩まされることが多いが、今回もまた例に漏れない。

 ホシノウィルムは勿論、マックイーンの2着目の領域も詳細不明だ。どんな条件か、どんな効果か何一つとしてわからない。

 今回の天皇賞における、予測できない大きな要素の内の1つである。

 

 ……ただ。

 領域が、そのウマ娘の魂、ウマソウルによるものだとすれば……。

 

 ホシノウィルムの魂の輝きは、きっと他の誰にも負けはしないだろう。

 

 実際に走るわけではない俺にできるのは、とにかく担当のことを……ウィルを信じることだ。

 だから、領域の効果や精度に関して、俺は疑うという選択肢を捨てている。

 

「大丈夫。勝つよ、ウィルは」

「……なるほど、わかった。今はそれでいいかな」

 

 

 

 さて、マックイーンの話が終われば、次は……。

 

「トウカイテイオーさんは? 大阪杯の時は、かなり苦戦してたけど」

「……言っちゃなんだけど、トウカイテイオーが今回の天皇賞で勝つことはあり得ないと言っていい」

 

 俺はテイオーの調査書を他の書類の上に置いて言った。

 

「彼女は確かに天才だが、長距離の適性は一段劣るB。そして何より、スタミナが600しかないのが致命的だ。

 ウィルとメジロマックイーンがペースを跳ね上げるだろうこのレースにおいて、彼女に十分なスタミナがあるとは決して言えない。

 だから、トウカイテイオーは、まず1着は取れない。どれだけ好走しても5バ身は……ああいや4バ身……いや、余裕をもって3バ身……念には念を入れて2バ身は離されるはずだ」

「最後の方で一気に自信なくしてない?」

「いやだって、相手はトウカイテイオーだしなぁ……」

 

 これまでテイオーには、何度も苦汁を飲まされてきた。

 日本ダービーでは策の読み合いに敗れ、大阪杯では俺の予想を超える好走を見せる。

 流石はトウカイテイオーと言うべきか、あるいは流石は皇帝の杖と言うべきか、あるいは単に相性が悪いのか、俺はとにかくテイオーに関して読み誤ることが多い。

 

「まぁでも、先頭から2バ身は離れる。絶対離れる。もしこれで2バ身以内に入って来るようだったら……申し訳ないけど、正直もう俺の手には負えない」

「諦めた……」

「いくら計算してもそれを上回られるようなら、データ屋は諦めるしかないのです」

 

 ……まぁでも、今回は流石に不可能というものだろう。

 

 天皇賞(春)の開催されるレース場は、淀の坂の立ち塞がる京都レース場。

 その距離はG1レースの中でも最長の、3200メートル。

 その上、ライバルは圧倒的ハイペースランナーな、ウィルとマックイーンの2人。

 

 この状況で、テイオーが1着から2バ身以内に入るようなことがあれば……それはもはや奇跡とでも呼ぶしかない現象だ。

 奇跡というのはそう起こらないからこそ奇跡と呼ぶわけで、そんなにポンポン起こしてもらっては困る。いや本当、めちゃくちゃに困るのだ。

 

 

 

「と、そんなわけで。ウィルの得意分野であるこの長距離レースにおいて、今の彼女が敗北することはまずないと思う。

 ……なんて、本人に言ったら興ざめしそうだから、言えないけどね」

「あぁ……うん、確かに」

 

 ウィル、敗北の可能性のある、熱いレースが好きだからなぁ。

 確実に勝てるレース、負ける可能性のないレースとなると、ちょっとテンションが下がってしまう可能性は否定できない。

 故に、この件は黙秘しておくのが賢い選択だろう。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、そんなウィルの話は終わり、次はもう1人のウマ娘の話だ。

 

「次に、ブルボンの皐月賞か」

「ブルボンさん、かなり苛烈なトレーニングしてたけど……脚の方は大丈夫なの?」

「様子は見てるけど、問題ないはず。一応兄にも定期的に相談してるけど、このプログラムなら大丈夫だろうってお墨付きもらってる」

「兄貴が? ……なら大丈夫か」

 

 脚の状態に関しては、恐らく問題なし。

 勿論、これだけハードなトレーニングをしている以上、警戒を怠るべきではないが……今のところ、上手くやれていると言っていい。

 

 ……ブルボンに「ご褒美権」を使ってまで言われてるんだもんな。

 事故を起こさせず厳しいトレーニングを積ませるこの綱渡り、なんとかこなしていかなきゃいけない。

 

 

 

「で、だ。皐月賞に勝てるかどうかで言えば……ぶっちゃけ、こちらも間違いなく勝てるはずだよ。

 ライバルは2バ身差で弥生賞を制したリボンララバイや、トライアルの若葉ステークスを4バ身差で制したデザートベイビーなど、粒揃いではあるが……それでも、ミホノブルボンには及ばない」

 

 そう言いながら、俺はデスクにミホノブルボンの分析資料を置いた。

 

 

 

 ミホノブルボン

 

 ステータス

 スピード C+  529

 スタミナ C   401

 パワー  C   490

 根性   B   622

 賢さ   D+  383

 

 適性

 芝A ダートC

 短距離C マイルB 中距離A 長距離C

 逃げA 先行E 差しG 追込G

 

 スキル

 先手必勝

 地固め

 逃げコーナー○

 末脚

 コンセントレーション

 円弧のマエストロ

 前途洋々

 逃げのコツ○

 

 

 

「……ホシノウィルムさんのデータを見た後だと、どうしても弱く見える」

「皐月賞の時点でここまで育ってるのはすごいんだけどね。去年のテイオーの数値を全部越えてるし、間違いなくトップランクのウマ娘だよ。

 ウィルやライスシャワー、ソウリクロスとのトレーニングが良く活きてる」

 

 実際、今年の他の出走ウマ娘と比べると、彼女は一回り以上優っている。

 

 ステータスは日本ダービーでも十分通用するレベルで、中距離の適性が上がったことで適性もオールA。スキルは彼女との相性なども考慮しながら、可能な限り汎用的で強力なものを覚えさせたつもりだ。

 

 彼女のストイックさ、真面目さなどが大きく響き、ミホノブルボンというウマ娘はこの半年で大きく躍進した。

 今や皐月賞という小さな……いや、短い舞台に、彼女の足取りを止められる者は存在しないだろう。

 

 しかし、そんなデータを目にしてもなお、昌はどこか心配そうな様子。

 

「兄さんが注目してた、ライスシャワーさんはどうなの? 彼女たちもブルボンさんの障害にはならない? 大阪杯みたいにあっちだけ領域を開いたりすれば、マズいことになるんじゃないの?」

「いや、ならないね」

 

 俺は小さく頭を振り、答える。

 

「この前見て調査した限り、彼女は今、領域を開ける状態じゃない。

 そんな半端なライスシャワーでは、ミホノブルボンを追うことはできても、追い抜くことはできないよ」

 

 ……昌には伝えないけど、本当に怖いのは、その後。

 

 距離の延びる日本ダービーもそうだが……やはり何より、本来彼女の勝つことができない菊花賞。

 そここそが、ブルボンにとっての最大の勝負所になるだろう。

 

 







 よーし、次回のレースは勝ったな! 風呂入って来るわ!

 本当は堀野君が調べてきたテイオーとかマックイーン、ネイチャ、そしてライスの様子とか、ブルボンの最近の様子についてもうちょっと語ろうと思ってたんですけど、気付けば尺がなくなってました。
 むしろなんでプロット作ってる時は書き切れるって思ったんでしょうね?



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、皐月賞前夜の話。



(本編に関係ない呟き)
 作者「ウマ娘二次創作書くんだし凱旋門書いちゃうぞ~! 公式からの情報ほぼゼロだから自由に書けるな! よ~し、プロット完成!」
 ウマ娘さん「突然ですが凱旋門賞シナリオ実装しまーす!」
 作者「いや間が悪すぎでは!? まぁでもシナリオがふわふわしてたらこっちでアドリブ効かせていい感じに持ってくこともできるか……」
 ウマ娘さん「シナリオは憧れへの挑戦を軸とする激アツスポ根物語でーす! スピードシンボリ掘り下げまーす! つよつよライバルいまーす! 元ネタクソ強ウマ娘も来まーす! レジェンドさんも来まーす! みなさんジンクスを破って日本の夢を叶えてくださーい!!」
 ミ゜「作者」

 レジェンドたちは強敵でしたね……。いや本当に。
 初見ジンクス破りなしで挑んで、エルの惜敗の再現になった時は泣きそうになりました。残り10メートルくらいで差し切られるの本当に心に来る。

(本編に関係ない呟き2)
 皆さんがこれを読んでいる時、作者は多分燃え残った全てに火を点けてると思います。

(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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たった1つの変わったやり方

ホシノウィルムのヒミツ④
 実は、ずっと練習しているが口笛が吹けない。





 

 

 

 歩さんと家具を選びに行ってから、おおよそ1週間と少し。

 私やブルボンちゃんは、ひたすらトレーニングの日々を過ごしていた。

 

 平地のランニング、坂路、室内プールでのスイミング、時には座学とかレースの映像視聴に、わけわかんないくらいデカいタイヤ引きも。

 トレーナーに言われるままに、色んなことをコツコツと毎日こなしてきた。

 ……トレーナー、あのクソでかタイヤどこから見つけて来たんだろう。横に倒してもブルボンちゃんの身長の3倍くらいあるんだけど、どんな車に使われてるんだアレ?

 

 

 

 とまぁ、タイヤのことはどうでもいいとして。

 

 本当のことを言うと、もうちょっとだけ日常を楽しみたい気持ちはあった。

 何せあの日……歩さんが、ちょっとデレた? 疑惑があったんだ。

 

 そこについてもうちょっと深堀りしてみたいというか、本当に歩さんが……その、私の好意に気付いてくれてる? というか、受け取ってくれたりしてくれてる? のか?

 その辺を、ちゃんと確かめておきたかった。

 

 だって、もしもこれが私の勘違いじゃなくて、本当に、歩さんが私の想いを受け止めてくれるんなら……。

 …………えへ。

 えへ、えへへへ。

 

 あ、い、いや、勿論今すぐ告白なんて短慮なことはしないよ!?

 そんなことしたって職務に忠実すぎる歩さんは断らざるを得ないだろうし、というか仮に受け入れたら中等部の女の子に手を出したヤバい大人になっちゃう。

 私の方だって、恋愛に夢中になりすぎてレースが疎かになっちゃう予感がある。恋は盲目、恋愛は人の脳を破壊して浮かれポンチDQNにする魔力があるのだ。

 

 勿論将来的には……それこそ学園を卒業したら、好き放題浮かれたいなぁとは思うけどね。

 でも、せっかくお母さんの夢だった競走ウマ娘になれたんだもん、今はその夢を背負って精一杯に駆け抜けたいと思う。

 

 そんなわけで、今愚直に告白なんかしても、歩さんにも私にも悪いことしか起きない。

 これはビビってるとかじゃなくて、あくまで論理的に考えてお互いの利にならないから行動を起こさないだけなのは留意されたし。

 

 

 

 ただ、告白とかの直接的な行動はしないにしても、現時点で歩さんが私の想いを受け止めてくれるかを確認することは決して無駄にはならない。

 だって、もしもそうなら、「もう少し待ってほしい」って言えるんだもの。

 

 歩さんだって自由恋愛の権利を持っているわけで、私以外の誰かを……好きになったりとか、お付き合いしたり結婚したりすることも、できる。あー想像しただけでNTRの味で吐きそう。

 

 でも……私が学園を卒業するまで待っていてもらえれば、その……改めて、お付き合い? とか、将来的には一緒になったり? とか、そういうのできるわけだし。

 

 私、自分で言うのもなんだけど、結構優良物件だと思うしね?

 これでもウマ娘ってことで顔は良いし、実績的にも日本で私に勝てるウマ娘は1人くらいしかいないし、お金いっぱいあるし、あと基本インドア派だから面倒なこと言い出さないし……あとは……そう、それにあんまり記念日とか気にする方じゃないし!? あ、でも、誕生日と出会った日と宝塚記念の日と有記念の日の4日は大事にしてほしいかもだけど……。

 とにかくお買い得! お買い得ですよ私! お手頃契約で無敗三冠ウマ娘があなたの伴侶に! おまけに今なら凱旋門賞日本史上初勝利まで付いて来る!

 

 ……いや、うん。

 歩さんは、こっち系で攻めても意味ないよなぁ。

 プレミア感云々より相手との幸せで穏やかな毎日を望む方だろうし……勿論私ならそんな日々をプレゼントしてあげられるけど、それは他の女性もそうだしなぁ。

 

 うーん、どうしたものか……。

 

 

 

 ……ていうか、アレだな。

 

 皐月賞前日にこんなこと考えてる時点で、私はもう、だいぶ恋愛浮かれポンチになってるのかもしれない。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 皐月賞。

 

 言わずと知れた、クラシックレースの1つ目の冠。

 中山レース場、右内回り2000メートル。最も脚と成長の「はやい」ウマ娘が勝利すると言われる、伝統あるG1レースであり……。

 去年私が7バ身……いや、8バ身だっけ? そのくらい差を付けて快勝したレースでもある。

 

 いやぁ、あの頃が懐かしい。

 まだ私は走りを楽しんでるって自覚できてなかったし、テイオーは本気出せてなかったなぁ。

 

 1年前のことなのに随分昔に感じるというか……。

 正直、あの頃の自分のあまりの駄目駄目さに、恥ずかしくなっちゃうくらいだ。

 何が私は勝たなきゃ価値がないだよ、誰かと走ることの楽しさも歩さんへのこの想いも何も知らない無知なメスガキがよぉ……。あー、顔を埋める用の枕が欲しい。

 

 

 

 と、少し話が逸れてしまったか。

 

 皐月賞に参加できるのは、クラシック級の時のみ。

 平たく言えば、競走ウマ娘としてトゥインクルシリーズに登録してから2年目。

 さらに分かりやすく言えば、中等部2年のタイミングだ。

 

 私ことホシノウィルムは、今年度中等部3年になったシニア級なわけで、勿論この皐月賞に参加することはできない。

 本当は楽しいレースとあらば参加したいのだけれど、規則なら仕方なし。

 その代わりと言ってはなんだけど、1週間後のテイオーとマックイーンさんとの天皇賞を、精一杯楽しませてもらうとしよう。

 

 

 

 で、そんな皐月賞に、ウチの陣営からは可愛い後輩たるブルボンちゃんが出走予定だ。

 彼女の出走する、初の中距離区分のレース。前回のスプリングステークスから200メートル延びて、ブルボンちゃんの適性から言うとまた少しだけ厳しいレースになるだろう。

 

 勿論、レース当日である明日は、私たちの陣営全員で応援&見学に行く予定。

 明日は結構朝早くから、ブルボンちゃん含む4人で中山レース場に行かねばならない。

 

 そんなわけで、私もブルボンちゃんも今日のトレーニングは早めに切り上げた。

 流石のトレーニング大好きウィルムさんと言えど、寝坊で後輩のレースに遅れるようなことはあってはならない。ちょっと寂しいけど、今日はしっかり休むとしよう。

 ……私、ちょっとだけ朝に弱いからな。歩さんに会う2時間前には起床しておかねば。

 

 あ、自主トレと言えば、最近はライスちゃんが自主トレ誘ってくれないんだよなぁ。

 まぁ時期的にも皐月賞直前、そりゃあシニア級のウマ娘と走って調子が乱れたりしたら大変だ。

 だから仕方ないと言えば仕方ないんだけど……。

 

 

 

「うーん……」

 

 栗東寮の靴箱にいつも使ってるトレーニングシューズを入れてから、思わず腕を組んで悩む。

 

 一緒の自主トレ、ただ公式レース前だから遠慮されてるってだけならいいんだけど……どうにもそれだけじゃなさそうなんだよなぁ。

 

 今朝、食堂でライスちゃんに出くわした時……いや出くわすっていうか、遠くからパンをもきゅもきゅしてるのを見かけた時って言うのが正確なんだけど。

 その時のライスちゃん、なんというか、ちょっと入れ込んでるっぽかったんだよなぁ。

 

 例えて言うと、ほら、アレだ。

 前世アニメ2期で、春天絶対出ないマンになってた頃の、塞ぎこんじゃってる様子というか。

 あの時に比べれば全然マシな程度っぽかったんだけど……それでも、空気感のベクトルとしてはあれに近い感じで。

 

 何かしらの悩みとか憂鬱とかがあるっぽいのは、遠目でもわかった。

 

 ……でも、問題はそれをどうするか、なんだよなぁ。

 

「どうするかなぁ」

 

 私はライスちゃんの先輩なわけで、彼女が何か悩んでいるのなら、相談に乗りたいところではある。

 

 ただ……今日は重賞の、それもクラシックレースの前日なんだ。

 この時期のウマ娘は、追い切りやレースへの緊張感もあってピリピリしていることが多い。

 本来は、同陣営でもないウマ娘にちょっかいをかけていいタイミングではないんだよね。

 

 勿論、私は善意で彼女の不調をなんとかしようと思っているわけだけど、善意で取った行動が必ずしも良い結果を生むわけでもない。

 ライスちゃんのことを思えばこそ、ここは一旦待ち、皐月賞が終わってから声をかけるべきだろうか。

 

 それとも、皐月賞を悔いなく走るために、今こそ話しかけるべきか?

 ……いや、そもそも私が接触して悩みを解決できるとは限らない。

 彼女の悩みをなお深めてしまう可能性もあるし、それで彼女の走りが更に駄目になったら……あんまりよろしくない。

 

 「自分の走りが悪かったから負けた」と認めることは、私たち競走ウマ娘にとってすごく大事だ。

 その意識こそが、私たちの成長に繋がり、私たちの走りをより良くするから。

 

 しかし、仮に私が彼女と接触し、結果として彼女の走りを駄目にしてしまえば……ライスちゃんの中には、たとえほんの僅かとしても、「先輩のせいで負けた」という意識が生まれ得る。

 勿論ライスちゃんは優しい子だし、そう思わない可能性もないわけではないけど、その可能性があることは確かで……。

 それが原因で、ライスちゃんの道行きが閉ざされてしまう可能性を考えると……なかなか難しい。

 

 歩さんとの勝負や前世アニメ2期で憧れた彼女の想い、そしてこの前歩さんに言われたこともあるし、私はこれからもライスちゃんをしっかり強くしていかねばならない。

 同陣営のブルボンちゃんの強化も、彼女のライバルであるライスちゃんの強化も、どっちとも進めていかなきゃいけないっていう、なかなか複雑な状況なんだけど……。

 

 その上で、今、どうすべきかなーって、そんなことを悩んでいると……。

 

 

 

「……うお」

「先輩」

 

 私が歩みを進めようとした先には、いつか見たことのあるような光景があった。

 

 寮の廊下に、明日が本番ということで早めに帰されたはずのブルボンちゃんが待ち構えていたのだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 時は夕食前、ブルボンちゃんの部屋にて。

 彼女の勧めでベッドに座らせてもらった私は、なんとなく呟いた。

 

「なんか懐かしいな」

「懐かしい?」

「ブルボンちゃんは覚えてない? 去年の皐月賞の前の日も、こうやってお話ししたこと」

「なるほど、確かにアーカイブに記録が残っています。改めて、去年に続き今年もお時間をいただきありがとうございます」

「いやいや、去年はともかく、今年は私が時間をもらう側だよ。明日皐月賞に出るのはブルボンちゃんなんだし」

 

 去年の皐月賞前日。

 私は今日と同じように、ブルボンちゃんにお話に誘われた。

 

 前にも言ったように、公式レースの直前のウマ娘には、あんまりちょっかいをかけるべきじゃない。

 この辺は、トレセンの学生寮に住む者の暗黙の了解だ。

 故に、まだほとんど接点のない後輩であるブルボンちゃんからの急な申し出は、本来は結構無作法とされるヤツだったんだけど……。

 彼女が前世アニメでも見た憧れのネームドだったことや、可愛い後輩であることから、私はそれを了承。

 

 持ちかけられた相談の内容は……確か、自分の血統と目標の間のギャップのことだったな。

 

 実際には転生チート持ちっていう種も仕掛けもあるんだけど、世間から見れば、私は全く無名の──というか、競走ウマ娘にすらなることのできなかった──母から生まれ、皐月賞1番人気に輝いた突然変異のウマ娘。

 そんな私に、ブルボンちゃんは血統の壁を越えることについて訊きたがったんだ。

 

 ……というか、後から聞いた話になるけど、あの話し合いの直前にブルボンちゃんは前のトレーナーさんと破局したらしいし、本当に夢を叶えられるか不安になってしまった、って感じなんだろうね。

 で、それに対して私は、歩さんの考察と私の見た前世アニメを元に勇気付けて……って感じだ。

 

 ブルボンちゃんなら、絶対にクラシックレースの場に立てる。

 私を追ってくれるウマ娘の1人になってくれる、って、そんな風に言った……んだったかな、多分。

 

 正直、この1年は色々なことがありすぎて、もう1年前の記憶すらもおぼろげなんだよね。

 流れは間違ってなかったと思うけど……どうだったかな。

 

 そして、そんなこんなの1年後。

 今度はブルボンちゃんの皐月賞前日に、私は再びブルボンちゃんとの話し合いに呼ばれたわけだ。

 

 

 

「それで、どうしたの? ブルボンちゃんならトレーナーの言葉を守って、早めに休みそうなものだと思ってたんだけど……」

 

 今日のトレーニング終わりのミーティングでは、歩さんから「明日に備えて各自早めに寝ておくように」との通達があった。

 大事な日の前日なんだし、そりゃあみんなしっかり寝るだろう。だからいちいち確認しなくともいいんじゃないかって思ったけど……そういう当然のことを毎回確認するのも管理者の大事な仕事なんだとか。

 まぁその後、昌さんに「兄さんは何時に寝るの?」って聞かれて「多分……まぁ、日付が変わるくらいには……」と目を逸らす、なんて一幕もあったんだけどね。

 

 そんな風に医者の不養生やっちゃってる歩さんだけど、一方ブルボンちゃんはすっごく真面目な子だ。

 たとえ自分が言ったことすらできてないダメダメな歩さんに言われたことでも、素直に従うだろうと思ってたんだけど……。

 

 

 

「いえ、これはマスターにより入力された優先オーダーの実行のための行動です」

「マスター……トレーナーに?」

 

 思わず、その言葉に首を傾げる。

 あぁいや、相変わらずのブルボンちゃん弁を理解できなかったわけじゃなくてね?

 

 彼女の特殊な言い回しには未だに慣れないものの、取り敢えず、マスター=自分のトレーナーさん、入力=伝えられた、優先オーダー=優先するべき約束、くらいはわかるようになってきた。

 彼女と付き合うようになってからおおよそ1年、積み重ねた時間とは偉大なものである。

 

 しかし、歩さんが皐月賞前日に、休む以上に優先させること……?

 

 あの人、担当ウマ娘の安全と健康最優先の人だし、レース本番の前の日は「頼むから自主トレはやめてくれ」って言ってくるくらい、徹底して休ませに来るイメージがあったんだけど。

 

 ……いや、もしかしてアレって、私だけか?

 私が自主トレばっかりしてるから仕方なく言われてたり?

 ブルボンちゃんみたいに言うこと聞く真面目な子には別の対応してたってこと?

 

 いやまぁ、そこは確かめようもないし、歩さんの前で今更良い子ちゃんぶろうとは思わないからいいとしても、だ。

 

 そこまで歩さんが優先する約束、かぁ……。

 

 うん、ちょっと真剣に聞いてみようか。

 

「わかった。元から真面目に聞くつもりだったけど、ちょっと襟を正すよ。

 ……それで、相談って話だったよね。どんな話なのかな」

「では、端的にお聞きしますが」

 

 コクリと、ブルボンちゃんは頷き……訊いてきた。

 ちょっとばかり、色んな意味で、頭の痛くなる質問を。

 

 

 

「どうすれば、走ることを楽しめるのでしょうか」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 少し、話は逸れてしまうが。

 

 歩さんと出会うまでの私は、走りを、他のウマ娘との競走を、楽しんでいなかった。

 

 その理由は……まぁ、アレだ。

 端的に言えば、ちょっと捻くれていた、と言うべきか。

 

 両親との死別を認められず、事実だけを受け入れた気になって、でも心のなかではどこか生きてるんじゃないかって錯覚して。

 それで、お父さんに認められるには、誰かに愛されるには、とにかく負けずに勝ち続けるしかないんだって、そう思っていた。

 

 だから、楽しさを感じるとかそれ以前に、負けないことに躍起になっていたんだ。

 

 優しい人なら、これを「両親との死別によって起こった悲しい精神疾患」とか、そんな風に言ってくれるかもしれないけど……。

 当人である私からすれば、ただ捻くれてただけだと思う。

 

 両親から愛されなかったことが悲しくて、それを認めたくなくて、意地を張ってなんにも楽しくないって頬を膨らませて。

 すっごい子供っぽいっていうか、本当に中等部の女子かよっていうか……。

 

 

 

 まぁ、うん。ハッキリ言おう。

 

 割と黒歴史気味なのだ、昔の私。

 

 

 

 両親のことはいいよ? 愛すべき、そして間違いなく愛した、私の両親だ。

 でもね? 両親の死から逃げ出していじけてた私は……正直、我ながらすさまじく恥ずかしいんだ。

 前世の記憶とか人格も持ち込んだ転生者のくせに何イジイジしてんだよって、そう思ってしまう。

 

 だからこそ、あの時代の私のことは、あんまり知られたくない。

 

 前世で中等部……中学生だった頃に、授業中に手慰みに書いてた、全ページの10分の1も書き切ってない落書きノートの中身みたいなものだ。

 その話を持ち出されたら必死に止めるし、多分顔も赤くなっちゃう。知り合いに見られたら憤死しかねないくらいの赤っ恥。

 

 ファンの皆に見せるような表側はともかく、あの頃の私の内実を知るのは、今や歩さんにネイチャとそのトレーナーくらい。

 みんな気が良いからあんまりからかったりはして来ないけど、私からすれば怖い事この上ない。

 

 正直、あの時の私を知る人は、これ以上は1人たりとも増やしたくはないんだ。

 

 

 

 ……で。

 

 何の因果か、ブルボンちゃんの相談は、私のそういう過去を思い出させるものだった。

 

 思わず後輩ちゃん向け余裕の先輩フェイスが凍り付くくらいのショックを受けている私に気付かず、ブルボンちゃんは情報開示を続ける。

 

「私は、自身が自我の薄い……物事に執着を覚え辛い性質であると自覚しています。

 しかし、マスター曰く、領域を開く4つの条件の内の1つは『走りを好きであること』。

 父に聞くと、『好き』とは、『楽しい』という感情を覚える行為を指す言葉だと言っていました。

 故に、私はクラシック三冠の達成のため、走ることを楽しむ必要があると推測します」

 

 ……なるほどね。

 その話は理解できた。いや、ブルボンのお父さんもうちょっと言葉多めに話した方がいいんじゃないかなと思わなくもないけど、とにかくブルボンちゃんの話の内容と思考過程は理解できた。

 

 理解できた、けど……。

 

「……ごめん、それへの相談は一旦置いておいて、聞いてもいい?

 それって、歩さんとの……えっと、優先オーダーだっけ。それはどう繋がってるのかな」

「はい。元より、本件はマスターに相談し、回答を求めたものとなります。

 しかしマスターは、これに関して明確で具体的な答えをくださることはなく、『それは君自身で見つけ出すもの』『もしもどうしようもなく見つけられなかったら、ウィルに助言を求めるように』とのオーダーをくださいました。

 それに従い、皐月賞直前まで走ることを楽しもうと試行錯誤を繰り返しましたが、結局それは達成できず、こうして助言を求めることとなった次第です」

 

 

 

 …………あぁ、なるほど、そういうこと。

 

 歩さんったらもう……あー、もう、ほんともう!

 

 ちょっと黒歴史を掠られたことに、思うことがないわけじゃない。

 ない、けど……それに憤慨する本能以上に、これが一番スマートな解決法だろうなっていう理性の納得が先立ってしまう。

 

 確かに、これが最適だ。

 ブルボンちゃんに、走る楽しさを教えるのも。

 今のトゥインクルシリーズを、クラシックレースを盛り上げるのも。

 そして……私が密かに気にしてた、申し訳なさに言い訳をするのも。

 

 

 

 せっかくならちゃんと相談してほしくはあったけど……。

 ま、こうして何も言わずに行動を期待してもらえるっていうのも、ある意味じゃ信頼の証かな?

 

 いいでしょう。

 可愛い後輩ちゃんのためにも、私自身のためにも、歩さんの思惑に乗ってあげようじゃないですか。

 

 

 

「……なるほど、わかった。確かに私に相談してもらって正解だ」

「では……」

 

 私に楽しさを感じる方法を聞こうと、ブルボンちゃんは気持ち身を乗り出してくるけど……。

 残念。今言えることは何もないのです。

 

「ごめんね。これに関しては、口で説明することはできない」

「……では、どうすればいいのでしょうか」

 

 ほんの僅かに眉をひそめたブルボンちゃんに、安心させるように笑いかける。

 

「どうすればいいかと言えば、簡単だ。明日の皐月賞、精一杯頑張って」

 

 そう言って、私はベッドから立ち上がった。

 ブルボンちゃんは首を傾げるけど……うん、こればかりはね。

 

「こういうのは、ただ口で言うだけじゃ嘘になっちゃう。実際に自分で走って、感じて、掴んで、モノにしないといけないんだ。

 だから、私にできるのは、精々……」

 

 言おうとして、ふと気付く。

 

 あ、これ、いつも歩さんが言ってたことだ、って。

 

「精々、その道を敷くところまで。

 実際にそこを走ろうと頑張るのは、ブルボンちゃんの役割だよ」

 

 ……えへへ、嬉しいな。

 私も、歩さんみたいに、誰かを助けられるかもしれないんだ。

 可愛い後輩ちゃんを……上手くやれば、2人も。

 

 思わず本心からの笑みを漏らして、それじゃ行ってくるね、と片手を挙げる。

 「どこに」って尋ねてくるブルボンちゃんに、よくぞ聞いてくれましたと思いながら、ちょっとカッコ付けて、私は答えた。

 

 

 

「君を楽しませてくれる子のところに、だよ!」

 

 

 







 ウマ娘にレースの楽しさを理解(わか)らせる方法は、古今東西ただ1つ。



 次回からは、また別視点がいくつか。
 まぁ今回に関しては、皐月賞やったりあの子の視点やったりと色々あるのでね……。
 そんなわけで、そちらもそちらでお楽しみいただけると幸いです。



 次回は3、4日後。背を追う子の視点で、ヒーローの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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i故に

 今回は別視点、背を追うあの子の視点です。





 

 

 

 結局。

 ライスは、ブルボンさんを越える方法を見出せなかった。

 

 1か月弱前の、スプリングステークス。

 あの日のブルボンさんは、とんでもない強さだった。

 

 誰より早く駆け出して、誰より速く駆け抜けて……。

 ブルボンさんを見てたライスでさえ、どこでどう攻めればいいかわからずに、4バ身も差を付けられてしまったくらいに。

 

 最速でスタートを切って、誰にも干渉されないままに首位を独走。

 最初から最後まで一定のペースを維持して、垂れたところを差し切ることさえ許さない。

 自分の体の強さを押し付けての、どうしようもない圧勝。

 

 ……そう。本当に、どうしようもなく。

 ブルボンさんは、圧倒的な力を以て、「勝つべくして勝った」んだ。

 あれだけのメンバーの、皐月賞のトライアルレースである、G2スプリングステークスで。

 

 

 

 ……どうすれば、あのブルボンさんに勝てるんだろう。

 

 ただひたすらに強靭なフィジカルと、それを最大限に活かせる計算。

 一定のペースで走るってことは、つまりスタミナのロスが全くないってことで。

 つまるところ、ブルボンさんの走りに、弱点というものはないんだ。

 

 だから、わからない。

 ブルボンさんに勝つ方法、その背を越える方法が、わからない。

 わからないから、がむしゃらに走って……がむしゃらに走っていると、なおさらわからなくなる。

 

 

 

 ライスは、ブルボンさんに勝たなきゃいけないんだ。

 それが、お姉さまに与えられた、私が青いバラになるための道筋だから。

 

 でも……。

 あの走りを、どうやったら越えられるのか、わからない。

 

 スプリングステークスでは、第三コーナーからペースを上げて、ブルボンさんに迫った。

 それがいつものライスの定石で、先行ウマ娘の常識。

 だから、トレーナーさんとも打ち合わせて、最初からこの戦術で行くことは決まってたんだ。

 

 けれど……どうしようもなく、届かなかった。

 少しずつ追い上げはしてたけど……それは、本当に少しずつ。

 1ハロンかけて1バ身も縮まらないくらいのペースだった。

 

 あんなのじゃ、ブルボンさんには追い付けない。

 けど……あれ以上のペースを出すのは、今のライスじゃ難しい。

 

 だから、少しでも速くなれるよう、ひたすらに走って、走って、走って……。

 

 

 

 ……それでも。

 全然、追いつける気がしなかった。

 

 あの背中に。

 私の前を逃げ続ける、ブルボンさんに。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「……はぁ、はぁ」

 

 結局、皐月賞前日になっても、ライスは勝ち目を見出せていなかった。

 

 トレーナーさんは「ライスなら展開次第で十分勝ちを拾えるよ。落ち着いて行こう」って、そう言ってくれたけど……。

 

 ……自分のことだからわかる。

 トレーナーさんの予測は、ライスへの慰めか、あるいはブルボンさんのことを過小評価してるって。

 

 今のライスじゃ、展開の是非もなく、2000メートルのブルボンさんには勝てない。

 そもそもブルボンさんの戦術が展開に左右されるものじゃないから、ライスの走りがバ場状態とかバ群の動きと噛み合うかって問題になるけど……。

 どれだけことが上手く運んだって、ブルボンさんまでは届かない。

 

 だから、このままじゃマズいって、そう思って……。

 本当は休むべきその日の夜も、ライスは走りに出ていた。

 

 

 

「はぁ……ふぅ」

 

 地面を蹴る脚が重くなってきた頃、脚を止めて、ベンチに腰かけて……思わず俯く。

 

 ……何やってるんだろう、ライス。

 トレーナーさんには「焦らなくていいから、今日はゆっくり休もう」って言われて……。

 それなのに、こうして勝手に寮を抜け出して、走ってしまって。

 

 良くないことだって、わかってる。

 わかってるけど……でも、少しでも多く走らないと、ライスは強くなれない。

 お姉さまみたいな才能もないし、ブルボンさんみたいな素質もないライスは、とにかく走り続けないとダメなんだ。

 

 けど……本当にこれで良かったのかなって、そう思ってしまう。

 一緒に歩むべきトレーナーさんの言葉を無視する形になって、良かったのかって。

 

「……どうすれば、良かったんだろう」

 

 ちりちりと、胸の奥が焦げるような錯覚。

 

 皐月賞までは、あと1日を切ってる。時間にして、多分19時間くらい。

 このままじゃ間に合わないって、わかってる。

 でも、これ以上どうすればいいかは、わからない。

 

 どうすれば。

 どうすれば勝てる?

 ライス、どうすればいいの……?

 

 

 

 

 

 

 ……なんて。

 ライスがそう思いながら、肩を上下させている時。

 

 その人は、魔法みたいに……。

 いいや、流れ星みたいに、急に現れた。

 

 たったったって、軽快な足音が聞こえて。

 こんな夜中にここに来る人なんて少ないはずだから、思わず警戒して身構えるライスに……。

 ひょこっと顔を覗かせたその人は、笑いかけてくれたんだ。

 

「やっと見つけた、ライスちゃん!」

「……お姉、さま」

 

 ライスの憧れる、お姉さま。

 去年の皐月賞覇者であり、無敗三冠ウマ娘。

 

 ホシノウィルム先輩が。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ライスが休憩中だったってこともあって、お姉さまと2人揃ってベンチに座る。

 ちょっとだけ乱れた息を整えるお姉さまの横で……ライスは、混乱の真っ最中だった。

 

「あの、お姉さま。なんで……どうしてここが?」

 

 ライスが使ってたのは、トレセンからちょっと離れたところにある山の中のお寺。

 少し前にトレーナーさんが教えてくれたスポットで、お姉さまにも教えてなかったはずなのに……。

 

 そんな中途半端にしか言葉にならなかった疑問に、お姉さまは苦笑で応えた。

 

「結構探したよ。ネイチャに心当たりを聞いて……それからずっと走り回ってさ」

「は、走って探して!?」

 

 私にとってかなりハイペースで3000メートルを駆け抜けても、「ジョギング程度だからね」って言ってほとんど息も乱さないお姉さま。

 そんなお姉さまが、今はちょっと肩を上下させてるってことは……。

 

 つまり、それだけ本気で、ライスを探してくれたってことだ。

 

「ど、どうしてそこまで……?」

 

 思わず口に出した疑問に、お姉さまは微笑んでくれた。

 

「どうしてもライスちゃんに伝えたいことがあったからさ」

「伝えたいこと?」

「うん」

 

 お姉さまは頷いた後、少し間を空けて、空を見上げる。

 

 釣られて、ライスも見上げると……。

 

 お昼まで続いてた雨が降り止んで、雨雲さんがいなくなった空。

 そこには綺麗なお星さまがたくさんたくさん浮かんでいて。

 

「……綺麗」

 

 ライスは思わず、そう呟いてしまった。

 

 思い返してみると、こうしてゆっくり落ち着いて空を眺めるなんて、いつぶりだろう。

 スプリングステークスの日以来、ずっとずっと勝つためにってトレーニングに集中してて、まともに休むような暇もなかった。

 体を休める時間はあっても……なんていうか、心は常に走ってた。どうすればもっと速くなれるのかって、そんなことを考えてた気がする。

 

 だから、なのかな。

 久々に見上げた空は、すっごく綺麗に見えたんだ。

 

 

 

 空を見上げて、ちょっとぼんやりしてたライスに、お姉さまが声をかけてくる。

 

「これは、あくまで個人的な意見なんだけどさ。走るのって、楽しくないといけないと思うんだ」

「楽しい……ですか?」

「うん」

 

 ちらっと横顔を覗くと、お姉さまは星を見上げながら、どこか未来を信じるような表情で呟いた。

 

「ライスちゃんはさ、走るの、好き?」

 

 その質問に、ライスは即答できなかった。

 

 それは簡単な質問のはずなのに、とても難しい質問のように思えたんだ。

 

「……どう、なんでしょう。

 昔は、好きだったと思います。誰かと走って勝つのが、嬉しくて、楽しくて。

 でも……今は」

「今は?」

 

 お姉さまの相槌は落ち着いて、優しくて、温かくて。

 解されるように、私の心が、口から流れ出る。

 

「……ライスは、人を不幸にしちゃうから。

 ライスが走れば、一緒に走る子が不幸になったり、レースが駄目になったりして……」

「どうして、そう思うの?」

 

 そう思う、理由。

 ライスが、自分を不幸な子だって思う……思うようになった理由。

 

 

 

「……あぁ」

 

 ……そうだ、思い出した。

 

 まだ、ようやく自我がハッキリした頃。

 子供たちで走る運動会のレースで、私が圧勝した時に。

 

 ライスは、自分が駄目な子だって、そう自覚したんだった。

 

「ライスは…………勝っても、人を不幸にしてしまうから」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 その日は、ライスの通ってた学校の、運動会の日だった。

 

 その運動会では、人は人と、ウマ娘はウマ娘とかけっこをするっていう競技があって……。

 当時は走ることをすっごく楽しんでたライスも、勿論そこに参加した。

 

 全力で脚を動かして、荒れる息と痛む肺を懸命に抑えて、そうして誰よりも早くゴールして。

 

 そうして、観客席を見た。

 誰かを笑顔にできたかなって、笑ってくれてるかなって、そう思って。

 

 

 

 ……でも。

 

 一番最初に見えたのは、残念そうにしかめられた顔だった。

 

 多分、ライスが走ったレースの、他の出走ウマ娘の親御さんだったんだと思う。

 ライスが勝ってしまったから。その誰かの、勝利を奪ってしまったから……。

 

 その結果、誰かを、不幸にした。

 

 ライスが、誰かを幸せにしようとして取った行動は……。

 その真逆の結果を、生んだ。

 

 

 

「あ、ぁ……」

 

 ライス、駄目な子、だ。

 

 

 

 それが、駄目な子(ライス)の始まりのお話。

 誰かに言えば、「なんだ、そんなこと?」って言われかねないような……つまらないお話だった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 あの日に受けた衝撃を、あの日に感じた悲嘆を……。

 思い出さないようにしていたことを、思い出した。

 

 まぶたの裏にはまだ、あの時の残念そうな顔が焼き付いてる。

 でも、この過去は、この運命は……きっと、ライス自身が決着を付けるべきもの。

 お姉さまから答えをもらったら、永遠に前に進めなくなっちゃう気がする。

 

 だから、まぶたを開けて、自分のことだけを話した。

 

「……ライスは、人を不幸にしかできないウマ娘です。

 ライスが勝てば、誰かが不幸になる。ライス以外のウマ娘を応援している人が、みんな不幸になる。

 今でも、ライスは勝ちたいって、それで誰かを幸せにしたいって、そう思ってるけど……」

「それでも、走るのが辛い?」

「……辛い、とまでは言いませんけど。

 それがわかった時から、楽しいって思うことは、ほとんどなくなったかもしれません」

「そっか」

 

 その後、しばしの沈黙。

 お姉さまと2人で、夜空を見上げた。

 

 勿論、ライスが勝つことで、喜んでくれる人もいる。

 あの運動会の時も、ライスが1着を取ったことを、両親は喜んでくれたけど……。

 

 でも、レースで勝てるのは、たった1人だけ。

 輝かしい勝者が1人生まれるのと引き換えに、その何倍、時には十何倍もの敗者が生まれるんだって、ライスはそう知ってしまった。

 

 それこそ、今見上げている星空みたい。

 「美しい」って思える星は、人がその目で捉えられる星は、宇宙にあるすべての星のごく一部。

 遠すぎて見えないような星もあれば、そもそも光を発さない星もあって。

 輝かしいものの陰に、そういった輝けない多数がいて……。

 

 もしも、ライスが1着に輝けば、他のすべてのウマ娘は輝きを失う。

 そうして、その子たちを応援してた人たちは、不幸になってしまう。

 

 ……仕方ないことだって、わかってはいるんだけどね。

 勝利は残酷で、痛くて苦しいものなんだ。

 トレセンに来て、お姉さまに出会って、忘れかけてたけど……その現実は、確かに変わらずそこにある。

 

 

 

 そんなことを考えていると……。

 しみじみと、お姉さまが呟いた。

 

「……ライスちゃんは、本当に優しいよね」

「優しい……ですか?」

 

 お姉さまにかけてもらった言葉に、首を傾げる。

 今の話に、優しいって思ってもらえるところなんて、ないと思うんだけど……。

 

「優しいよ。そんなに他人のファンのことを想えるウマ娘って、そうそういないから」

「それは……ただ、ライスは怖くて。その人たちを不幸にするのが怖い、臆病なだけのウマ娘なんです」

「うん、確かに臆病とも言えるかもね。だから、臆病な優しさ、かな。

 少し羨ましい。私には、その素質はないから」

 

 どこか寂しそうに言うお姉さまに、慌てて手を振る。

 

「そっ、そんな! お姉さまは優しいです!」

 

 けど、お姉さまは気恥ずかしそうに……いや、どこか気まずそうに言ってくる。

 

「……まぁ、確かにライスちゃんに対しては、結構優しくしてきたつもりだよ。

 でも、それはさ、ライスちゃんの頑張りが報われてほしいっていうエゴと、私のライバルになってくれそうだからっていうだけ。

 要するに、ライスちゃんの臆病な優しさとは違う、利益ありきの利己的な優しさなんだよ、私のは」

 

 自嘲するお姉さまに、ライスは思わず眉をひそめてしまう。

 

 ライスからすれば、それだけでも十分優しいと思う。

 だってお姉さま、皐月賞の直前にブルボンさんの相談に付き合ってあげたっていう話だし……。

 あの日、お姉さまを追いかけてたのがバレた日にも、「一緒に走ろう」って優しく言ってくれたんだ。

 

 どんな思いから出たものであろうとも、ブルボンさん……はちょっと断言できないけど。

 少なくとも、ライスはそんなお姉さまに救われてる。

 

 ……それに、ライス、知ってるよ?

 お姉さまが、仲良くしてたライスの同期の子がトレセンを去ることになってしまった時、本当に残念そうにしていたこと。

 

 露悪的に「自分のため」なんて言ってるけど……お姉さまはやっぱり、他の誰かのために動ける、とっても優しい人なんだと思う。

 ……多分、直接言っても否定されちゃうから、今は黙っておくけど。

 

 

 

 そうして、お姉さまはふと、ライスの方に向き直って言った。

 

「ライスちゃん、おじいさんとおばあさんとロバ……じゃなくて、ウマ娘か。あのたとえ話知ってる?」

「えっと……ごめんなさい、多分知りません」

「謝ることじゃないよ、大丈夫。

 あるところに、疲れたおじいさんと疲れたおばあさん、そして元気で力持ちなウマ娘がいます。

 3人は家まで帰らなきゃいけないのですが、残念ながら車やバス、電車はありません。こうなったら歩いて帰るしかありませんね。

 さてそんな時、3人はどうやって移動すればいいと思いますか?

 はい、ライスちゃん、答えてみて」

 

 ライスはちょっとだけ悩んで、答えた。

 

「えっと……ウマ娘が、2人を背負って歩いて運ぶ、とか?」

「ウマ娘を自分に重ねたのかな? うん、優しいライスちゃんらしい答えだと思う」

「うぅ……」

 

 さっきから褒められてばかりで、ちょっと照れてしまう。

 でも、実際ウマ娘が元気で力持ちなら、疲れてる2人を背負ってあげた方がいいと思うんだ。

 というか、疲れたおじいさんやおばあさんを、これ以上歩かせるべきじゃないって思う。

 

 でも、褒めてくれたってことは、これが正解なのかなって思うライスに対して……。

 お姉さまは、ちょっとだけ意地悪に微笑んだ。

 

「でも、それを見かけた人はこう言いました。

 『2人も人を背負わせるなんて、ウマ娘がかわいそうだ!』ってね」

「あぅ、確かに……」

 

 ウマ娘は人よりも力持ちで、大抵1人くらいは人間を背負っても走れたりする。

 けど、流石に2人となると……重さもそうだけど、体勢を崩さないようにする姿勢の制御がかなり大変そうだ。

 

「じゃ、じゃあ、『おばあさんだけ背負う』で」

「見てた人は『おじいさんがかわいそうだ』って言うね」

「『おじいさんだけ』……」

「『おばあさんがかわいそう』って来る」

「う、うぅ……じゃあ、『3人とも歩いて帰る』ですか?」

「『あのウマ娘、薄情じゃない?』って言われるね」

「むうぅ……」

 

 もしかして、近くにあるものを使ってソリを作ったりするのが正解なのかな。

 ライスがそう悩み始めた時、お姉さまは苦笑を漏らした。

 

「ごめんごめん、実はこの問題って、正しい答えがないんだよ。

 どの方法を取っても、どんな結論を出しても、絶対に一定数のイチャモンが付くんだ。

 ……現実のレースと同じようにね」

 

 そこまで聞いて、ライスはようやくお姉さまが言いたいことが、ちょっとだけわかった気がした。

 

「残念だけどさ、レースに限らず、「誰もが納得のいく結末」なんてものは、そうそうないんだよね。

 私もさ、去年結構言われてたよ? 特に皐月賞と日本ダービーの時なんかさ、『なんでお前みたいなぽっと出が勝つんだ』とか『テイオーが勝つはずだったのに』とか、もっと酷い時は『テイオーの代わりにお前が骨折れよ』とかね」

「そっ、そんな……酷い……」

 

 想像の何倍も酷い悪態に、ライスは息を呑む。

 前の2つだけでも酷いけど……最後のなんて、当時のお姉さまはなんて思ったか。

 

 ……けど。

 お姉さまは悲しむことなんてなく、むしろライスに向かって笑顔を見せた。

 

「まぁ、でもさ。私はこういう悪態、そんなに嫌いじゃないんだよ」

「え……な、なんで」

「だってこれ、私憎しじゃなくてさ、テイオーが好きだから言ってるんだよ。

 自分が大好きで応援してたウマ娘が負けて、しかも骨折してしまって……感情のぶつけどころがなくなって、その結果私に八つ当たりしてきてる。

 確かに、罵倒されるのは悲しいし、なんでそんなことをって思うけど、そういう人たちだってウマ娘が憎いんじゃなくて、好きだからこそ思わず口に出しちゃうんだと思う。

 そういう暴走した愛を受け止めてあげるのも、勝ったウマ娘の役目だ」

 

 暴走した愛を受け止めるのも、勝ったウマ娘の役目。

 ……そうなのかな。

 

 あの日に向けられた残念そうな顔に、ライスはショックを受けるんじゃなくて……。

 それもまた愛だって、受け入れるべきだったのかな。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 考え込む私に対して、お姉さまは「それとさ」って話を続ける。

 

「何より忘れちゃいけないよ、ライスちゃん」

「何を、でしょうか」

「そんな風に、あなたが負けたら『悔しい』って思ってくれるファンが、あなたにもいるってこと」

 

 お姉さまはポケットから取り出したスマホを少し触って、「ほら」って言って見せてくれる。

 そこには、「ライスシャワー 皐月賞」と入力された、ウマッターの検索画面が表示されていて……。

 

 

 

『皐月賞一押しはライスシャワーでしょ! ミホノブルボン差し切りも全然夢じゃない!』

 

『ライスシャワー、公開トレーニングでもめちゃくちゃ頑張ってるし応援したい。皐月賞なら距離も伸びるし勝てる。絶対勝てる。』

 

『頑張れライス! 皐月賞も応援してる! でも去年みたいな思いはしたくないから体は大事にね』

 

『皐月賞は流石にミホノブルボンだと思うけど、ライスシャワー来たら最高に熱いよな。今年のクラシックレースの目玉はこの2人か?』

 

『ライスシャワーマジで頑張れ! 長らくトゥインクルシリーズ見て来たけど今までで一番応援してる! 皐月賞でミホノブルボンに勝つところ見せてくれ!!』

 

 

 

「これ……」

 

 思わずスマホを握りしめるライスの手を、そっとお姉さまの手が包み込んだ。

 

「あなたが勝てば喜んで、あなたが負ければ悲しむ。そういうファンは、他のウマ娘と同じように、あなたにもいる。きっとネイチャや君のトレーナーさんだってそう思ってくれる。

 ……正直言えば私だってさ、勿論同陣営のブルボンちゃんを応援はしてるけど、きっとライスちゃんが負ければ、それはそれで悲しくなっちゃうと思う」

 

 ファンのみんなに、ネイチャ先輩に、トレーナーさん。

 そして……お姉さま。

 

 ライスを応援してくれるファンが……いる。

 

 私が1着を取れば、悲しむ人がいるように、喜んでくれる人もいて……。

 それは、きっとどんなウマ娘でも変わらないんだろう。

 

「……レースの世界は残酷だ。すべての人を幸福にするような救世主にはなれないかもしれない。

 でも、応援してくれる人たちを幸せにすることは、ライスちゃんにもできるはずだよ」

 

 そうして、お姉さまはニコリと笑って、言った。

 

 

 

「だから、目指してみなよ。そういう、誰かを幸せにできる、ヒーローをさ」

 

 

 

 その言葉に、思わず息を呑む。

 

 ヒーロー。

 誰かを幸せにする……祝福を届ける、ヒーロー。

 

 その言葉は、なんというか、すごくしっくりきた。

 まるで私の心に、目指しているものに、ピッタリとハマるような……そんな響きだった。

 

 青いバラ。

 誰かを幸せにできるヒーロー。

 

 ……叶うのなら、ライスも、そんなウマ娘になってみたい。

 

 

 

 けど、だからこそ、どうすればいいかって悩んでしまうところもあって。

 

「……でも、ライス、皐月賞でブルボンさんに勝てるとは思えなくて……どうすればいいのか」

 

 本当は言うつもりじゃなかったのに、思わず弱音を吐いてしまう。

 

 結局、勝てなきゃ、みんなを幸せにするヒーローにはなれない。

 けど、どれだけ頑張っても、ライスじゃブルボンさんには追い付けそうになくて……。

 

 思わずため息を吐くライスの横で、お姉さまは顎に手をやって「うーん」と考える。

 

「何度か合同トレーニングしてた時から思ってたんだけど、ライスちゃん……」

「は、はい」

「ぶっちゃけ、器用な方じゃないよね」

「うっ!!」

 

 ちょっとだけ気にしてたところを突かれて、思わず胸を押さえた。

 

「テイオーみたいに天才的なわけでもないし、ネイチャみたいにレースメイクできるわけでもない。私みたいに思い切った走りも難しそうだし、ブルボンちゃんみたいに感覚が鋭いわけでもない。

 強いて言えば、フィジカルで押すマックイーンさんに近いタイプかな?

 でも、大局的に視点を持とうとすると集中力が切れて精彩に欠けることがあるよね」

「うぅ……」

 

 ……それは、トレーナーさんにも言われたことだった。

 

 ライスシャワーは、器用じゃない。

 星の世代の3人みたいにそれぞれの強さを持ってるわけでもないし、ブルボンさんみたいに強すぎるフィジカルと感覚機能を持ってるわけでもない。

 

 というか、そもそもそういう長所を持つ以前に、ライスは大きな短所を持ってる。

 それが、全体を見渡せないってところだ。

 

 他のウマ娘がどこにいる、どういう展開になる、だからこう動かなきゃいけない。

 そういうことを考える、レース勘と呼ばれる部分が、ライスは他のG1級ウマ娘たちに比べて弱い。

 それはこの前の、ブルボンさんに追いつけなかったスプリングステークスでも実感したことだった。

 

 そういうダメなところをお姉さまに知られてるのは、恥ずかしくもあり、同時によく見てもらえてるようで嬉しくもあるけど……。

 

 ふと、気付く。

 これって、なかなかマズい事態かも?

 

「も、もしかして、それって堀野トレーナーさんも知って……」

「え? うん、まぁ間違いなく知ってると思うよ。私が気付けて歩さんが気付かないとかありえないし」

「うぅ……」

 

 ブルボンさんのトレーナーさんが私の弱点を知ってるってことは、それだけブルボンさんの走りや作戦が私に強くなるってことだ。

 更に自分に不利な条件が出て来るようで、少し凹んでしまう。

 

 しかし、お姉さまは慌てた風にぶんぶんと腕を振った。

 

「あぁいや、ごめんごめん。大丈夫だよ、ブルボンちゃんは作戦も何もない走りだから、ライスちゃんの弱点を知ってても知らなくても変わらないからさ」

「それは良かったです……けど、いつかお姉さまと走る時は、結局不利になっちゃいますよね」

「あ、それはうん」

 

 うぅ……やっぱり克服するべきなんだろうなぁ、この短所。

 

 そう思って肩を落としていたライスに、しかしお姉さまは言ってきた。

 

「……いや、でも、いいんじゃないかって思うよ」

「え?」

「確かにライスちゃん、レース中は視野狭窄になっちゃうかもしれないけど、それは一点に集中できるっていう長所にもなり得る。バ鹿とハサミは何とやらって言うし、それはそれで使いこなせばいいさ」

「使いこなす……」

 

 レース中の視野狭窄を、一点集中に……。

 ……あ、そうか、そんな方法もあるんだ。

 

「多分、ライスちゃんなら、1着になる子がいいかな」

「1着になる子……?」

「うん、ライスちゃんがいなければ、本来1着になるだろう子。ほら、1着の子を超えたら絶対1着になるじゃん?

 だから、そのレースでいっちばん強い子に勝つことだけに集中して、ただひたすらそこに専心、ってのはどうかな?」

 

 ……やっぱり、お姉さまってすごい。

 まるで自分でも体験したかのようにすらすらと、ライスの駄目なところとか、それを長所として活かす方法を提案してくれた。

 

 

 

 一番強い子に、一極集中。

 ライスに……できるかな。

 

 ……いや、できるかな、じゃなかった。

 

 一番最初に、お姉さまに教わったこと。

 できるか考えるくらいなら……自分の力で、それをやるんだ。

 

 

 

「明日……トレーナーさんと、色々話し合ってみます」

「うん、それがいい。そのためにも、今日はもう休みな」

「はい……あっ」

 

 立ち上がろうとして、かくっと脚の力が抜けた。

 マズい、って思うよりも早く、横から伸びて来た手に抱き上げられる。

 

「おっとと……体力の限界かな、っと」

 

 お姉さまはその言葉と共に、ライスの体を抱え上げて……。

 こ、これっ……お姫様抱っこ……!?

 

「さっきの、おじいさんとおばあさんとウマ娘の話だけどさ。私もライスちゃんと同じで、疲れた人がいるのなら背負って行った方がいいなーと思うよ。ま、ライスちゃんは軽いから抱っこだけどさ。

 そんなわけで、できるだけ急いで帰るから、少しだけ待っててね。寝ててもいいよ?」

「ひゃい……!」

 

 う、うぅぅぅ……!

 こんなの、恥ずかしすぎて寝るどころじゃないよぉ!!

 

 

 







 ライバルになる子にやる気着火マン、参上。

 ライスのもやもやも多少晴れたところで、次回からはいよいよ、今年のクラシックレース1つ目、皐月賞です。



 次回は3、4日後。夢を追う子の視点で、皐月賞。
 ちょっとまだわかりませんが、もしかしたら前後編になるかもです。短く纏めるの下手くそなので……。



(追記1)
 本作を投稿し始めて1年が経過しました。
 活動報告の方で、謝辞と今後のことについて述べさせていただいております。
 また、ちょっとした裏話なども書かせていただいているので、ご興味のある方は是非ご一読ください!

(追記2)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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火を点けろ、燻った彼女に

 しかし体は競走を求める





 

 

 

 4月19日。

 その日、とあるレース場のターフに立った私の耳にまで、いつもより遠く小さく、実況解説の声が届きました。

 

 

 

『さぁ、雨の降りしきる中山レース場、今年もこの日がやってきました!

 新進気鋭の顔触れが揃う、クラシックロードの始まり、皐月賞!!

 最も「はやい」ウマ娘が勝つと言われるこの舞台で、より早い成長、より速い脚を見せつけるのは誰だ!?』

 

 

 

 皐月賞。

 

 4月中旬、中山レース場、右内回り2000メートル、フルゲート18人立て。

 この条件下で競われる当該レースは、クラシック三冠を構成する冠の1つ。

 伝統あるG1レースであり……父との夢、マスターとの目標である道のりの一歩目でもある。

 

 昨年から……いいえ、あの日、父に連れられて見た有記念の日以来備えて来た、一生に一度のみ挑める、夢を叶える唯一の機会。

 

 そのレースが、ついに今日、始まるのです。

 

「…………」

 

 ターフの上で軽くストレッチをし、自身の脚の調子を確かめる私の下に、再び声が届きます。

 

 

 

『1番人気はやはりこの子しかいないでしょう。ここまで無敗のジュニア級王者、「サイボーグ」とも呼ばれる逃げウマ娘、ミホノブルボン!』

『他の子たちと比べても、仕上がりが一回り違うことが見て取れますね。筋肉の付き方といい気合の入り方といい、素晴らしいと言う他ありません。

 適性の壁を越えた勝利に向けて準備は万端。スプリングステークスの時のような正確無比な走りをまた見せてくれるでしょうか』

『昨年の無敗三冠ウマ娘ホシノウィルムに続く、2年連続の無敗の皐月賞に期待が高まりますね』

 

 

 

 私ことミホノブルボンは、どうやら多くの方に期待され、今回のレースにおける1番人気に選ばれたようでした。

 

 これは、普通ならば緊張を感じる場面なのかもしれません。

 念願のレースであり、二度と訪れることのないチャンス。夢の成就に向ける挑戦、その最初の一歩。

 その上で、数十万、あるいは数百万という、数多くの方々の期待がこの身に集まり、この背にのしかかっているのだから。

 

 ……しかし。

 今、私が感覚しているのは、充足感のみ。

 

 父と共に1つの夢を抱いて以来、私はひたすらに鍛錬を積み、自らの体を鍛え上げて来た。

 本格化が始まる前から地元の坂道を走り込み、トレセンに来てからもターフを走り続け。

 特にこの半年強の間は、マスターの下でハードなトレーニングを繰り返し……。

 そうして、ようやくここまで来たのです。

 

 マスターが提示した、私の走りにおける3つの問題……適性、スタミナ、掛かり癖。

 これら全てにある程度の処理を終え、致命的な欠点を克服。

 

 体の調子は非常に良好であり、成長も実感できている。

 思考のノイズも極小で、集中力も上々。

 

 マスターのおっしゃっていた通り、現在のコンディションはまさしく「絶好調」、オールグリーンと呼べる状態にあると言っていいでしょう。

 

 故に、今の私であれば、かけられるすべての期待を背負って走ることも可能であると推測します。

 

 

 

 そして、何より……。

 マスターは、おっしゃってくださいました。

 『ミホノブルボンの走りは、究極的には他者とのものではなく、自分との戦いだ。君が最高の走りをしさえすれば、クラシック三冠は必ず獲れる』と。

 

 マスターは、私の勝利を確信してくださっている。

 私の引く血にとって適切とは言えないこの場においてもなお、自らの担当ウマ娘は勝利するものと、当然のように勝つものと、信じてくださっている。

 

 故に、恐れるべきことはない。

 

 私が今携わるタスクは、課せられたオーダーをこなし、皐月の冠を我が物とすること。

 

 ファンの方々の期待も、私自身の夢も、その全てを棚に上げ……。

 マスターの立ててくださった綿密なオペレーションに基づき、今なすべきことを正確になすのみ。

 

 

 

 

 

 

 ……後から思えば、恐らく、事はマスターとウィルム先輩の想定通りに進んでいたのでしょう。

 

 ただ機械的に走れば良い、と。

 私はそう認識していたが故に、他のウマ娘を視界に入れることはなく……。

 

 

 

『3番人気を紹介しましょう、ライスシャワー!』

『スプリングステークスでの走りが評価された形になりますね。粘り強いガッツが魅力のウマ娘、果たして中山2000メートルでその真価を発揮しきれるか?』

 

 

 

「一点、集中……ブルボンさんに、ついてく……」

 

 そう呟く、1人の友人の異変に、気付くことはなかったのです。

 

 

 

 * * *

 

 

 

『ウマ娘たちが続々とゲートに入って行きます。流石は皐月賞、素晴らしいメンバーですが……どうでしょう、今回のレース、どこに注目すべきでしょうか?』

『注目はやはりミホノブルボンですね。彼女がスプリングステークスと同じ戦略を取るなら、他のウマ娘たちは彼女のペースに付いて行けるかのふるいにかけられます。

 去年程になるかはわかりませんが、スタミナを要求されるハイペースなレースになるかもしれませんね』

 

 

 

 じっと、ゲートの中で出走を待ちながら、アーカイブに保存された今回のレースプランを想起。

 

 今回の皐月賞における作戦は、前走スプリングステークスから変更なし。

 ラップタイムを重視した、一定の速度での走り。

 全てのハロンタイムを12秒から誤差コンマ4秒以内に収めた、一切のロスを出さないベストな走行。

 

 その為に、今回は外的要因によって進路を妨害される、あるいは影響されて速度を上下するようなことはあってはならず……。

 バ群に巻き込まれないためにも、まずは万全なスタートダッシュを実行し、ハナを切らねばならない。

 

 

 

『さぁ、各ウマ娘のゲートイン完了。出走の準備が整いました。緊張の一瞬……』

 

 

 

「……すぅ……ふぅ」

 

 細く息を吸って、吐き、集中を開始。

 

 問題は起こり得ません。

 私は既に、マスターとウィルム先輩から、その方法を伝授されている。

 

 ……オペレーション『スタートダッシュ』、開始します。

 

 

 

 

『…………今スタートしました!!』

 

 

 

 ガタンと鳴る音と同時に、右脚に込めた力の全てを解き放つ。

 

 最速のスタート。並びに、最大限の加速。

 2つを兼ね備えるスタートは、アーカイブに記録された私のデータの中でも有数の、まさしくこれ以上ない完全なものであり……。

 

 オペレーション『スタートダッシュ』、完遂。

 

 結果、私は一瞬の後、バ群の先頭に躍り出ました。

 

 

 

『全ウマ娘まずまずのスタートを切った中、好スタートでハナを切るのはミホノブルボン! 一気にぐいと引き離してリードを広げ、既におおよそ3バ身か!』

 

 

 

 極限の集中、及び停止状態からの急加速技術。

 マスターに言わせれば、スキル名『コンセントレーション』と『先手必勝』。

 私を教え導く方と、先を行く方。この2者から学んだ技術は、確かに実を結んだ。

 

 これ以上ないと言っていい、万全の態勢をもってスタートし、体感速度は即座に目標速度に到達。

 マスターの懸念なさっていた、ケース11……出遅れによりバ群に包囲される、最悪の展開は回避できたと言っていいでしょう。

 

 逃げウマ娘にとって最も大きな脅威となる展開は、序盤の先行争いと終盤のスタミナ切れ。

 その中でも、特にマスターが警戒なされているのは、前者。先行争いに敗北してしまうことでした。

 『どれだけステータスやスキルを鍛えても、出遅れてバ群に囲まれ、そのまま抜け出せずに負ける、なんてことは珍しくない』とのこと。

 

 そのため、私はマスターと担当契約を結んだ後、最初の内はスタートダッシュについての技術を、ウィルム先輩の実践と共に教わったのですが……。

 

 その教導は、確かに力になりました。

 

 私はバ群を突き抜け、脱出。

 これにて、皐月賞における第一フェーズは突破となりました。

 

 

 

 ここからは、第二フェーズに移行。

 以後は定速での走行を継続し、後続との距離を保つのが目標となる。

 

 マスター曰く、平均12秒での疾走は、他のウマ娘たちにとってはかなりのハイペース。

 故に、私のペースに付いて来ようとするウマ娘はその殆どがスタミナ切れを起こし、脅威ではなくなる。

 

 残る脅威は、自らのペースを守り、終盤に鋭い末脚を見せて来る、自制心と理性の強いウマ娘と……。

 私に付いて来ることのできる、豊富なスタミナを持ったウマ娘の2通り。

 

 特に警戒すべきは……やはり、後者でしょう。

 

 

 

『もう1人好調にゲートを飛び出したのはライスシャワー、前を見据えて内に陣取っていきます。続く3番手は横に広がって各ウマ娘懸命に続く形。2番人気リボンララバイは後ろから展開を窺っている』

 

 

 

 ……いけない。

 余分な思考をカットし、空いたリソースを走行に割り当てる。

 

 ミホノブルボンの走りは、自分との戦い。

 他のウマ娘の気配に気を取られ過ぎれば、再びあの「熱」に襲われてしまう。

 

 今思考すべきは、私自身がマスターによりインプットされた作戦を完遂できるかどうか、ただその1点。

 ミホノブルボン、オーダーを続行します。

 

 

 

 走りやすく調整された芝を踏みしめ後ろに蹴り飛ばしながら、再確認を実行。

 

 第二フェーズにおいて肝要なのは、とにかく自らのペースを乱さないこと。

 

 私を追うウマ娘、あるいは並びかけて来るウマ娘。

 彼女たちの存在に惑わされず、常に最適のペースを守り続ける。

 

 ウマ娘のレースにおいて、アクシデントは往々にして発生するもの。

 微妙な脚の踏み外し、後方からの圧力、予想外の進路変更など、いつ何時、何が起こるかわからない。

 であればこそ、浪費したスタミナと残ったスタミナを計算し、そこから最適なペースを計算し続けなければならない。

 

 故に、冷静に、淡々と。

 決して他のウマ娘の存在に惑わされず、私自身のペースで走り続ける必要があるのです。

 

 

 

『外からデザートベイビー、ライスシャワーは内ラチ沿いを維持して今第一コーナーに入りました!

 まず先頭はミホノブルボンです、ミホノブルボンが3バ身近くリードを広げています。

 続いて2番手はルンバステップとヤッピーラッキー、間を空けずすぐ後ろをライスシャワーが追走、3バ身開いてムシャムシャ、外にデザートベイビーと並びました』

『ミホノブルボンが引っ張り上げてハイペースな展開ですね。前の子たちのスタミナは持つでしょうか』

 

 

 

 緩い下り坂を駆け下り、向こう正面の直線に入る。

 

 脚は軽快、スタミナの浪費は誤差範囲。

 現時点で計画の修正は必要なし。

 

「はっ、はっ、はっ……」

 

 マスターの意図した通り、2番手のウマ娘が上がって来る気配を感じますが……。

 努めて冷静を保ち、対処を開始。

 

 以前マスターに閲覧させていただいた各ウマ娘の資料、及びマスターの立案した作戦より、該当すると思われる2者のデータを参照します。

 

 ケース01・04に当たる今回、前に詰めてきているのは恐らく、ルンバステップ、及びヤッピーラッキーの2人であると推定。

 内、ルンバステップは先行の作戦、特に前に付けて最終コーナーから差し切りを得意としているようですが……その中距離適性はC。マスターの提示したハイペースに、いつまでも付いて来られるとは思えない。

 また、ヤッピーラッキーも同じく前に付ける戦法を主としますが、彼女はスタミナの値が307と低めだったことを記憶しており、同じくこのペースに付いて来ることは厳しいはず。

 

 ……以上より、警戒及び処置の要なし。

 

 私はただ、ペースを保って走り続けるのみ。

 

 

 

『その後のグループ、間にはナルキッソスにマチカネタンホイザが続いています。

 そうしていよいよ第三コーナーに入ろうかというところ、変わらずミホノブルボン先頭です! 堂々と3バ身のリードをキープ!

 ルンバステップとヤッピーラッキーはやや下がり気味、番手は変わって内からライスシャワー、ライスシャワーが上がっていきます! 残り600を切った!』

 

 

 

 ……想定していたよりも、後方からの威圧感が、強い。

 より正確には、ただ私がウマ娘の存在を感じ取り、気を逸らせているだけなのでしょうが。

 

 マスターが挙げた、ミホノブルボンの抱える問題の内の1つである掛かり癖は、一応の処置こそ済ませましたが、決して完治したわけではない。

 他のウマ娘の存在を検知すると共に、私の中には不明な「熱」が発生する。

 この熱に浮かされるままに走ってしまえば、私は適切なペースをキープできなくなるのです。

 

 これへ施策した対処は、大きく分けて2つ。

 ホシノウィルム先輩との併走で、他のウマ娘の威圧感に慣れること。

 そして、それでも避けられない部分は、マスターの明快な指示とレースへの集中によって、無理やりに封じ込めること。

 

 二重の対策によって、私は自らから湧き出る熱を封殺することを可能とした。

 

 しかし、根本的に他のウマ娘に熱を感じることは、依然として変わるわけではなく。

 だからこそ、最初はそれを、ただ私自身が熱を感じ浮かされかけているだけだと思っていましたが……。

 

 

 

『さぁいよいよ第四コーナーの半ば、外からリボンララバイが上がってきた、デザートベイビーと並んで追い上げています!

 しかし2番手は譲らないライスシャワー、ミホノブルボンまでの距離をじわじわと埋めていきます!!』

『ここからが勝負所! 追い上げるのはライスシャワー、少し後ろにリボンララバイ、デザートベイビーが並んでいる! 中山の直線は短いぞ、後ろの子たちは間に合うか!?』

 

 

 

 ……違和感を、検知。

 

 これは、ただの焦燥ではない。

 

 

 

 第四コーナーを抜け、最終直線に入って、ようやく感じ取ったそれは……。

 

 ライスシャワーさん。

 

 何度も併走した彼女の、その気配が、徐々に私に近付いてきている。

 

 これは……ケース01・04・13に該当。

 問題ありません。この事態もまた、マスターによって想定済み。

 

 ライスシャワーさんとは、これまで何度も合同トレーニングで走って来ましたが……。

 最後の1か月、私は2000メートルで、一度たりとも彼女に敗北してはいない。

 以前のスプリングステークスでも、彼女との間には4バ身の差が開いた。

 

 警戒を怠ることはありませんが……障害になる程でもない。

 

 プランの変更の要はなし。

 このまま走行を続行して、問題ない……。

 

 ……ない、はずです。

 

 

 

『ライスシャワーグイグイと追い上げる! 3番手にはデザートベイビーとグレイトハウス、ここで間を割って上がってきたのはゴーイングノーブル!

 ハイペースが祟ったかバ群の勢いが衰えていく中、しかし負けじとミホノブルボンを追う4人!! 中でも前に出たのはライスシャワー、皐月の冠まであと1バ身で残り200!!』

 

 

 

 ……いいや。

 

 この気配。

 後ろを振り返りたくなる、確認せずにはいられない、この殺気にも近しい気配。

 

 合同トレーニングの際にも、スプリングステークスでも、こんな威圧感は感じたことはない。

 以前までのライスさんとは……何か、違う?

 

 気配は、なお以て近付いて来る。

 

 迫って来ている。

 肉薄している。

 あと少しで……差し切られる。

 

 

 

 負ける。

 

 

 

 そう、思った瞬間。

 以前何度も感じていた、身を焦がすような熱が、体の内から吹き上がる。

 

 掛かり癖と呼ばれていたもの。

 私を急かし、押し上げ、コントロールを奪い取る、不明な熱。

 他のウマ娘を認識し、それと競うことで沸き上がってしまう、「何か」。

 

 駄目だ、と。

 そう自重する暇すらなく、脚が、体が、堰を切って動き出した。

 

 エネルギーパイプ(血流)、圧力増加。

 緊急弁(痛覚)閉鎖、リミッター(速度制限)解除。

 タービン(筋力)全開、ブースター(脚力)最大。

 この身の持ちうる最大出力を、推力へと変換。

 

 前へ。更に、更に前へ。

 

 負けないために。

 勝つために。

 誰より早くゴールに駆け込むために。

 

 

 

 ……強敵(ライバル)に、打ち克つために!

 

 

 

『しかしミホノブルボン、ここでラストスパートに入りました! 堂々とそのスピードを見せつける!

 追い上げていたライスシャワーが、むしろ引き離される! これが、これこそがミホノブルボンの本気なのか!?』

 

 

 

 肺が、過剰に動作する。

 脳が、単一の思考を繰り返す。

 脚が、その機能を低下させていく。

 

 しかし、それでも……最後の、瞬間まで……!

 

 

 

『先頭はミホノブルボン! ミホノブルボン今、堂々と5連勝でゴールインッ!! 2着ライスシャワーとの差は2バ身余り、これが今年の「はやさ」の王の姿!!』

『ミホノブルボン、無敗の皐月賞勝利を刻みました! 2年連続の無敗の皐月賞です!!

 クラシック三冠の最初の一角を手にしたのはミホノブルボン! 夢の成就まで残る壁は2つだ!!』

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ゴール板の前を駆け抜け、ゆっくりとペースダウン。

 荒れた呼吸と精神を、肩を揺らしながら整える。

 

「はぁ、はぁ……っ、はぁ……」

 

 

 皐月賞、には……勝つことが、できた。

 確かに、誰よりも早く、私はゴールに駆け込むことができた。

 

 しかし……。

 

 とても、完璧な勝利とは、言えない。

 

 

 

「マスターからの、オーダー……不履行」

 

 今回マスターから下されたオーダーは、私にとって最速のペースをゴールする瞬間まで守り続けること。

 中央値12秒、誤差コンマ4秒以内となるように、自らの走りをコントロールすることでした。

 

 しかし、最後の200メートル、私は自らの使命を投げ出して駆け出してしまった。

 

 ライスさん……ライスシャワー。

 彼女から感じた圧は、他の比ではなく。

 

 それを受けて、私はマスターから承ったオーダーの実行を放棄し、全力疾走を開始したのです。

 

 なんとか最後まで走り抜けることはできたものの、もしも距離があと400……いいえ、200メートル長ければ、スタミナ切れの発生により、垂れていたかもしれない。

 そう思えば、この勝利は決して盤石なものではなく、むしろ薄氷の上のものだったと言えるでしょう。

 

 

 

「マスター……」

 

 マスターとは、ミホノブルボンというウマ娘の体調を整備し、その作戦を立案してくださる方。

 私が脚であるとすれば、マスターは頭脳。

 あるいは、私が皆に言われるようなメカであるとすれば、マスターはそのパイロットなのです。

 

 私たちが互いに力を尽くさなければ、レースという勝負には勝てない。

 それなのに私は、マスターの意向を無視し、自らの焦燥のままに走ってしまった。

 

 これは、ミホノブルボンというウマ娘の走り、私とマスター間の関係性、及びその中で培ってきた信頼性の否定にも等しい、恥ずべき行為。

 深く、反省せねばならないでしょう。

 

 

 

「はぁ……ふぅ……」

 

 手酷い失策を恥じると共に……あの瞬間に感じた、存在の圧を想起。

 

 私は昨年より、マスターの立案されたトレーニングプランの下、ホシノウィルム先輩と併走することで、他のウマ娘の存在感に感覚を慣らしてきました。

 

 無論、ウィルム先輩とて併走で全力を出していたわけではないのでしょうが……。

 それでも、やはり無敗三冠のウマ娘と言うべきか。

 いざ走るタイミングになれば、ウィルム先輩は普段の様子とは異なる、並大抵のG1ウマ娘を凌ぐ強烈な圧力を発する。

 

 その気配に慣れていたからこそ、私はスプリングステークスでサクラバクシンオーと先行争いをした際にも掛かることなく、自らのペースで走れたのです。

 

 ……しかし。

 今回ライスシャワーから感じた圧は、並のものではなかった。

 ウィルム先輩から感じたそれを超えることはないにしろ、思い起こさせる程のものであり……。

 

 つまるところ、今回のライスシャワーは、私が獲得した耐性を凌駕する程の威圧感を放っていた。

 その結果、私は掛かってしまった、と。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 状況整理、及び原因推定は完了。

 次に考えるべきは、これへの対策……オーダーを放棄したことへの謝罪と共に、これをマスターへ上奏せねばならない。

 

 アーカイブを参照するに、ライスシャワーは日本ダービーにも出走予定であったはず。

 そこまでに、彼女に対抗する手段を模索、及びその手段の獲得を……と。

 

 私がそう思いながら、息を整えている時。

 

 

 

「おめでとう、ブルボンさん」

 

 件のライスシャワーが、ゆっくりと歩み寄って来ました。

 

「ありがとう、ございます」

 

 彼女の言葉に応えながら、様子の観察を開始。

 黒い勝負服に身を包む彼女は、多少息が乱れてこそいるものの……それでも、大きく消耗している様子はない。

 

 流石は、ホシノウィルム先輩の認めるステイヤー。

 マスターに閲覧させていただいたデータでも、私と彼女の間には大きなスタミナの差がありました。

 

 彼女にとっては、このハイペースでの2000メートルという距離も、大して長いものではなく……。

 きっと、2400、3000と距離が延びる度に、彼女は更に手強くなるのでしょう。

 ……距離が延びる程に、抑えきれない無理の出る、私とは真逆に。

 

 これからのクラシックレースにおいて、きっと彼女は、大きな障害となる。

 

 だからこそ、私は、彼女に……。

 

 

 

「ライスさん……いえ、ライス」

「何? ブルボンさん」

 

 荒れる息を整え、私は彼女に向き合って……。

 

 そうして、右手を差し出しました。

 

「また、走りましょう。日本ダービーの日を、楽しみにしています」

 

 

 

 ……自らの発したはずの言葉に、衝撃を検知。

 

 楽しみにしている。

 彼女と走ることを……楽しみにする。あるいは、楽しむ。

 

 衝動的にこの口からこぼれた言葉が、私の本心を表しているとするのなら……。

 

 私は……既に、走ることを楽しんでいる?

 ただ、自らの感情を正確に分析できていなかっただけで、その感情は既に持っていた?

 

 だとすれば……まさか。

 この、他のウマ娘の存在を感じ、胸を焦がす熱さが……。

 

 ……この熱が、「楽しさ」なのでしょうか?

 

 

 

 内心で思慮を進める私は、差し出した右手に小さな感触と確かな熱を感じ、意識を目の前に戻しました。

 

「うん」

 

 そう言って頷いた、ライスシャワーは……。

 どこか底冷えのする笑顔を、私に向けたのでした。

 

 

 

「ブルボンさんのペースはわかったから、日本ダービーでは、もう負けないよ。

 ライスはブルボンさんを越えて……『ヒーロー』になるんだから」

 

 

 

 その瞳にあった強い輝きに、不可思議な情動と、鼓動の高鳴りを感知。

 

 そして……あぁ。

 なるほど、ようやく、理解に至りました。

 

 これが……これが、ホシノウィルム先輩の抱いていた、レースへのモチベーション。

 

 

 

 正面から彼女の視線に向き合い、私は彼女の言葉に応えました。

 

「いいえ、ライス、私は次も負けません。

 マスターのオペレーションに従い、私は……あなたというライバルから、逃げ切ってみせる」

 

 

 







 可能な限り文字数圧縮して、なんとか1話に収まりました。
 そんなわけで、ミホノブルボンは皐月賞を勝利。
 次のレースは1週間後のウィルの天皇賞。担当が2人になったこともあってこのシーズンはなかなか忙しいですね。大丈夫か堀野君、過労死しないか?

 と、その前に、次回はちょっと久々かもしれない掲示板回。
 いつものように飛ばしても大丈夫なヤツなので、苦手な方は読み飛ばしていただいて。



 次回は3、4日後。掲示板回。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


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【クラシック三冠】皐月賞実況スレpart3【はやさの証明】

 例によって飛ばしても大丈夫なタイプの掲示板回です。





 

 

 

729:はやきこと名無しの如く ID:tSrdXWA1u

 四角

 

 

730:はやきこと名無しの如く ID:0SuZvexmG

 行け行け行けブルボン行け勝て勝て

 

 

731:はやきこと名無しの如く ID:JnJ0/Df3h

 流石にブルボン2000mはキツいのか!? 

 

 

732:はやきこと名無しの如く ID:mGHZxH//7

 ライス追い上げヤバ

 

 

733:はやきこと名無しの如く ID:He7XR5kTr

 ゴーイングノーブルこれ行けるって!

 

 

734:はやきこと名無しの如く ID:FnUbbyU9b

 こんな鬼ハイペースの中なんでこれだけ付いて行けてんだよ

 

 

735:はやきこと名無しの如く ID:A4bsQT/AS

 2000逃げ切りは厳しいか……?

 

 

736:はやきこと名無しの如く ID:KbWwn0Fz2

 いえまだ行けます、ミホノブルボンさんはこれまで本当の底を見せたことがありません! これは逃げ切り濃厚です!

 

 

737:はやきこと名無しの如く ID:tSrdXWA1u

 400

 

 

738:はやきこと名無しの如く ID:LSIl4gjO6

 適性の壁は厚いか

 

 

739:はやきこと名無しの如く ID:YgxJbYfcf

 ヤバいヤバいあと2バ身

 

 

740:はやきこと名無しの如く ID:RhRC8Y4Dx

 中山の直線は短いぞ、後ろの子たちは間に合うか!?

 

 

741:はやきこと名無しの如く ID:LTKR+2SuT

 別にブルボン推しでもないけどこういう時逃げウマ娘応援しちゃう

 

 

742:はやきこと名無しの如く ID:m326td4QZ

 中山の直線は短いぞ、後ろの子たちは間に合うか!?

 

 

743:はやきこと名無しの如く ID:klfBnYHgo

 この中山の直線いつも短いな

 

 

744:はやきこと名無しの如く ID:2HnLjNJii

 中山の直線は短いぞ、後ろの子たちは間に合うか!?

 

 

745:はやきこと名無しの如く ID:tFypZeeTu

 中山の直線は短いぞ、後ろの子たちは間に合うか!?

 

 

746:はやきこと名無しの如く ID:Sxyfl0J2G

 中短後間すき でも笑っちゃうからやめてほしい

 

 

747:はやきこと名無しの如く ID:Bi2VQVozz

 >>736 ホンマか!? 信じてええんか!?

 

 

748:はやきこと名無しの如く ID:MHLGDqJIf

 マジで中山だと毎回言ってる気がするなこれ

 

 

749:はやきこと名無しの如く ID:EgGJz5Utz

 ライスシャワーってこんな前めに付ける子だったか?

 

 

750:はやきこと名無しの如く ID:r9DIEv5qZ

 あああああああリボンララバイ垂れたあああああああ

 

 

751:はやきこと名無しの如く ID:tzZSeLRkb

 もうここまで来たら2年連続逃げの無敗皐月賞見せてくれ頼む

 

 

752:はやきこと名無しの如く ID:Yto2WVaIS

 ライスシャワーヤバくね? このハイペースでまだ加速するんか?

 

 

753:はやきこと名無しの如く ID:XLU8LATGo

 グレイトハウス来た! グレイトハウス来た!

 

 

754:はやきこと名無しの如く ID:/lU7tDYhK

 ゴールデンノーブル上がれえええええええ!!!!

 

 

755:はやきこと名無しの如く ID:vKv9s9Y5z

 今ブルボンちらっと振り向いた?

 

 

756:はやきこと名無しの如く ID:XJobyn4pl

 無理かこれ

 

 

757:はやきこと名無しの如く ID:bjKcYRKSW

 ギリライス差し切りそう

 

 

758:はやきこと名無しの如く ID:L73uZBveN

 最後までブルボンを信じろ 祈れ、手を塞いで

 

 

759:はやきこと名無しの如く ID:tSrdXWA1u

 200

 

 

760:はやきこと名無しの如く ID:c9/392sMH

 まぁそもそも生まれ持った適性の問題あったしここまでこうs

 

 

761:はやきこと名無しの如く ID:AOMKYEg/O

 加速!?

 

 

762:はやきこと名無しの如く ID:imCMvbFak

 まだ加速できるんかブルボン!?

 

 

763:はやきこと名無しの如く ID:1Gz7W2mur

 は?

 

 

764:はやきこと名無しの如く ID:GgaKDPyfQ

 ライス頑張れ! 行ける!

 

 

765:はやきこと名無しの如く ID:5RPu8Z8Ca

 マジかこれ

 

 

766:はやきこと名無しの如く ID:MRsXKrHwE

 また逃げ差し!?

 

 

767:はやきこと名無しの如く ID:ur6zEnj9v

 うわ

 

 

768:はやきこと名無しの如く ID:IQW06z10H

 なんで離されんねん逃げウマ娘に どうなっとるんやこれ

 

 

769:はやきこと名無しの如く ID:V4G4onjwi

 あーそっか、トレーナーが……

 

 

770:はやきこと名無しの如く ID:Uj7AP85f8

 おい誰やブルボンに2000は長いって言ってたヤツ出てこい!

 

 

771:はやきこと名無しの如く ID:/f15Oaz5m

 流石に決まったか!?

 

 

772:はやきこと名無しの如く ID:33jcm4/fp

 これは王者の貫禄!

 

 

773:はやきこと名無しの如く ID:AzA9pR68u

 はやすぎワロタ

 

 

774:はやきこと名無しの如く ID:fJcCbAAiP

 サイボーグ追い詰めたらリミッター外れるヤツだこれ!!

 

 

775:はやきこと名無しの如く ID:Gk4f4qaiB

 マジかぁクッソぉ……

 

 

776:はやきこと名無しの如く ID:d3Lf7wu4+

 タンホイザ完全にスタミナ枯らされた

 

 

777:はやきこと名無しの如く ID:97lMMXRcW

 これブルボン、はやいというか強いのでは?

 

 

778:はやきこと名無しの如く ID:tSrdXWA1u

 ゴールイン!

 

 

779:はやきこと名無しの如く ID:JyIO0U5NP

 はっや

 

 

780:はやきこと名無しの如く ID:YLdAgqW6k

 マジか……2年連続で寒門・逃げ・無敗の皐月か……!

 

 

781:はやきこと名無しの如く ID:Hd3of3AEF

 これ地味にすんごい伝説見てない?

 

 

782:はやきこと名無しの如く ID:TSN8rop93

 おめでとうブルボン!

 

 

783:はやきこと名無しの如く ID:mRaMp+Xay

 うおおおお

 

 

784:はやきこと名無しの如く ID:ZRD8WONWc

 推しが負けて残念だけどそれはそれとしてブルボンすげーな!

 

 

785:はやきこと名無しの如く ID:8H2Hi1AaQ

 去年もここで同じこと言った気がするけど、これトゥインクルシリーズの歴史動いたんちゃうか?

 

 

786:はやきこと名無しの如く ID:JP8r9v4ZA

 適性の壁あるからブルボンにクラシックレースは無理って言ってたヤツら顔真っ赤wwwwwあっつwwwww分析家気取りしてごめんwwww

 

 

787:はやきこと名無しの如く ID:LuR6ypwnk

 常識が壊れた音がした

 

 

788:はやきこと名無しの如く ID:g7d1zuiq9

 マジで!? マジで勝ったの!? え、夢とかじゃなく!?

 

 

789:はやきこと名無しの如く ID:HlX5nIx/V

 >>781 全然地味じゃねーよ派手に伝説見てるわ

 

 

790:はやきこと名無しの如く ID:yLhVZtUKw

 これ三冠あるんか……? 寒門で? その上逃げで?

 いやまぁホシノウィルムっていう前例はあるけど、短距離向けの血統で……?

 

 

791:はやきこと名無しの如く ID:VZAVdvbfE

 >>769 これ見て思い出したわ、そういやブルボンのトレーナーあのおイカれスーツトレか

 

 

792:はやきこと名無しの如く ID:/nL8JkVQV

 というか今回の皐月賞おかしいだろ、なんで短距離血統が1着でステイヤー気質が2着なんだよ。同世代のミドルの子たちはこれからどんな顔してレースに出ればいいんだよこれ

 

 

793:はやきこと名無しの如く ID:tSrdXWA1u

 確定

 

 1着 ミホノブルボン 2:00:05

 2着 ライスシャワー 2.1/2

 3着 ゴーイングノーブル 4.1/4

 4着 グレイトハウス 2

 5着 リボンララバイ ハナ

 

 

794:はやきこと名無しの如く ID:SOqyThTp2

 相変わらずのブルボン、強すぎる勝ち方だったな。ダービーも期待できるぞこれ。

 

 

795:はやきこと名無しの如く ID:2fjQU2p0o

 これまたエグい差が付いたな……

 

 

796:はやきこと名無しの如く ID:ujXzli3T9

 スタミナ勝負になって地力が足りない子が磨り潰された感じ?

 

 

797:はやきこと名無しの如く ID:0anwurw2T

 >>786 おま俺

 

 

798:はやきこと名無しの如く ID:pYcjRwwfp

 堀トレはアレか? 寒門の逃げウマ娘に二段ジェット積み込む性癖とか持ってるんか???

 それで結果を残してる以上「あんた程の実力者がそう言うんなら……」となるしかないが

 

 

799:はやきこと名無しの如く ID:rnTkuLQBu

 スタートエグい、スタミナモリモリ、ラストスパートまで垂れないどころか加速する

 なんだこのウマ娘無敵か?(1年ぶり2度目)

 

 

800:はやきこと名無しの如く ID:l/dh+WAye

 もうなんか新しい脚質区分必要なんちゃうか。逃げ差しって言葉を公的にしよう

 

 

801:はやきこと名無しの如く ID:ucIjiNfKu

 >>791 一瞬「?」ってなったけど堀野トレーナーのことか

 そっか、もしブルボンがこのまま勝ち上がったら、2年連続無敗三冠ウマ娘を輩出した新人トレーナーが生まれるのか……え、小説かドラマの話?

 

 

802:はやきこと名無しの如く ID:TGhld3Jzo

 ブルボン最強! ブルボン最強!

 

 

803:はやきこと名無しの如く ID:yW1GtPbp9

 毎度言ってる気もするけど、見ごたえのあるレースだったな。

 一見ブルボンがただ力押しで勝ったように見えるけど、実のところあと1歩でライスに差し切られそうでもあった。これまで一定速度の疾走っていう余裕を見せてたブルボンが、ようやく底を見せた感じだ。

 これは日本ダービーが俄然楽しみになってきたな。

 

 

804:はやきこと名無しの如く ID:kTvmLbTH7

 >>736 今更だけどこの敬語ニキの観察眼エグいな? なんでこの時点で「濃厚」まで言えるんだよ

 

 

805:はやきこと名無しの如く ID:GixuROJjO

 もうミホノブルボンはそういうものとして受け入れるとしても、まさかライスシャワーがここまで伸びるとは思わなかったな。これ距離延びて来たら普通に勝ちうるよね多分

 

 

806:はやきこと名無しの如く ID:+w3C/Gcmp

 でっか……残した結果がね

 

 

807:はやきこと名無しの如く ID:e5NE4mXg0

 お?

 

 

808:はやきこと名無しの如く ID:yrfIl2oyo

 握手

 

 

809:はやきこと名無しの如く ID:xSjzZczsX

 こういう互いに健闘を讃え合うの、良いよね……

 

 

810:はやきこと名無しの如く ID:KbWwn0Fz2

 あーダメダメ尊すぎます! これまで視線を向けるのは三冠だけで他のウマ娘なんて歯牙にもかけなかったブルボンさんが初めて他のウマ娘に手を差し伸べてライスさんの方も動揺もなくそれを取る……! まさしくレースを通した相互理解!! 正しき意味でのライバル誕生!! ウマ娘同士でしか起こり得ない会話を超えたコミュニケーションッ!! あぁ、こんな光景を見られるなんて、本当に生まれて良かった……ッッ!!!

 

 

811:はやきこと名無しの如く ID:08xPtwl57

 やっぱブルボンも認めるレベルだったのか、今回のライス。

 スプリングステークスの時とは、何と言うかこう、覇気とか走り方とか、そういうのが何となく違ったもんな

 

 

812:はやきこと名無しの如く ID:AX4CjAXKE

 これは、今年のクラシックレースの本命と対抗は決まったかな?

 

 

813:はやきこと名無しの如く ID:/Z4KYYAsc

 ブルボン笑ってない?

 

 

814:はやきこと名無しの如く ID:AFk0svyIj

 どこぞの龍と違って自然で純朴な微笑が映えますね……

 

 

815:はやきこと名無しの如く ID:8kkZ0xVLx

 2、3着の着差4バ身離れたかー。ノーブル割と良いレース勘してたんだけど、スタミナ量の違いかね

 

 

816:はやきこと名無しの如く ID:LedSrrsBd

 ミホノブルボンって笑うことあるんだ……

 いやライブの時には笑ってるけど、基本的にはいつも無表情だからな……

 

 

817:はやきこと名無しの如く ID:U6LanlBQj

 「はやい」ウマ娘はミホノブルボン。

 残るは「運の良い」と「強い」ウマ娘。果たして誰になるか。

 

 

818:はやきこと名無しの如く ID:EAW37P/Qz

 良いもん見たわ。やっぱ逃げ切り勝ちってロマンあるな

 いやまぁ最近は割と食傷気味ではあるんだが

 

 

819:はやきこと名無しの如く ID:7qH6dYgzH

 >>801 ちょっと待って?? 新人???

 正直トレーナー方面はシンザンなんだけど、え、ウィルムとブルボンのトレーナーって新人なの!? 新人トレーナーがこんな子たち育ててんの!?

 

 

820:はやきこと名無しの如く ID:Sdjym+/Hn

 今の内にブルボンのぱかプチ取って来よう。これ絶対品薄になるわ

 

 

821:はやきこと名無しの如く ID:pQGMkKOCf

 >>814 笑顔下手クソ無敗三冠ウマ娘さんの罵倒はそこまでだ

 

 

822:はやきこと名無しの如く ID:q4336PVf8

 これダービーとか菊花賞になったらスタミナもっとシビアになるんだよなぁ……。地獄か?

 

 

823:はやきこと名無しの如く ID:0FWplaJIs

 やべー全然熱が抜けない 今年の皐月賞もめちゃ熱レースだった

 

 

824:はやきこと名無しの如く ID:HkXLbh07C

 わんちゃん今年のG1ベストバウト決まったかもわからんな

 

 

825:はやきこと名無しの如く ID:l7VIHpuXA

 >>819 そうやで。堀野歩トレーナーは中央トレセンに就任して4年目、ホシノウィルムが初の担当ウマ娘

 なんならウィルムのライバルのネイチャのトレーナーも新人だったりする。

 こっちもこっちで狂った世代なんだよね

 

 

826:はやきこと名無しの如く ID:eerV/+kwb

 ブル×ライ……アリ、だな

 

 

827:はやきこと名無しの如く ID:EuWYFIoSW

 >>824 おじいちゃん、それ大阪杯でも言ってたでしょ

 

 

828:はやきこと名無しの如く ID:ab+Bv6lPa

 ミホノブルボン一強と思われていた皐月賞、まさかライスシャワーがここまで好走するとは。

 これは今年のクラシックレースは荒れそうですね(1年ぶりn度目)

 

 

 

 







 1番人気なのに勝ってこんなに驚かれることある?
 まぁメジャーじゃない寒門出身だし、適性も全くかみ合ってない(と思われてる)し、その上王道じゃない逃げ脚質だしね……。


 次回は3、4日後。トレーナー視点で、対策会議と「熱」の話。
 最近レースの話ばっかりで日常パートができてない気がする……。担当2人になるとこのシーズンは忙しいですね。


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Let's Party エンジョイしなきゃもったいない だってクラシックレースは1回

 ちょっと体調を崩して1回お休みをいただきましたが、無事快復したので復活しました。
 これからも3、4日に1回ペースで投稿していきますので、どうぞよしなに。

 それはそれとしてオーガポンかわいすぎ。スグリ君、見てる~?





 

 

 

 ホシノウィルムの大阪杯、そしてミホノブルボンの皐月賞が終わった。

 

 振り返ってみれば、どちらもかなり僅差での勝利だったと言えるだろう。

 大阪杯は、トウカイテイオーの驚異的と言う他ない走りで、ほんのハナ差まで追い詰められ。

 皐月賞は、ライスシャワーとの差が2と2分の1バ身にまで縮まった。

 

 ……なんか、俺の担当するウマ娘、いつもこんな感じじゃないか?

 最初はフィジカルの強さで圧倒するけど、徐々にライバルたちが覚醒して追い詰められていく……と。

 こんな展開、去年のクラシックレースでも見た気がするな?

 

 まぁ、それはつまるところ、それだけウィルやブルボンが早熟で強力、ということなんだろうけども。

 

 競走ウマ娘というヤツは、強力なウマ娘と走れば、まるで引っ張られるように強くなるもので……。

 ウィルやブルボンの強さが、ライバルの、そしてレース全体のレベルを向上させてしまっている。

 その結果として、俺たちは更に強くなることを強いられる、というわけだ。

 

 残念ながらというか何と言うか、この競走の世界では、独走というものは許されないのである。

 先を走る者ができるのは、追いすがって来る子たちに負けないよう、日々鍛錬を重ねることだけ。

 何事においても、成長というものに近道などないのだ。

 

 

 

 ……と、少し話が逸れてしまったな。

 

 とにかく、ウィルとブルボンは、今年最初のG1レースを突破した。

 となれば、俺たちが今すべきことは、ただ1つ。

 

「それでは、定例の作戦会議と行こうか」

 

 そう。

 もはやテンプレと化しつつある、地固めの時期だ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ブルボンの皐月賞の翌日、正午過ぎ。

 俺たちは、俺に割り当てられたトレーナー室に集まっていた。

 

 自身のデスクに座る昌と、椅子に座る担当ウマ娘2人。

 3人に見えるように、俺はホワイトボードに本日の用件を書き込んでいく。

 

「さて……まずはウィル、君の話をしようか。

 君の次走は、6日後に迫る天皇賞(春)。京都レース場3200メートル、G1レースとしては最長の距離になる」

「これまで走ったことのない距離でのレース……楽しみですね!」

「そこで不安とか緊張とか全くなく『楽しみ』と言えるのは、君の長所の1つだと思うよ」

 

 呑気と言うか何と言うか。

 ……いや、実際のところ、呑気なわけではないんだろうな。

 彼女は自分のライバルの強さを知っている。ただ、それを恐れるのではなく、そこに闘争本能を燃やし「楽しさ」を見出しているだけ。

 

 強力な相手を意識しすぎて調子を落とすウマ娘も多い中、強敵との対決を前向きなモチベーションに昇華できるのは、間違いなくホシノウィルムの強みの1つだろう。

 

 

 

 さて、それではデータの考証といこう。

 

 デスクの中から今回のレースのコース見取り図や特徴、統計的な天気とバ場状態についてまとめたプリントを出し、彼女の前に広げる。

 

「春の天皇賞は、この国のレースで最もスタミナを要求されるレースと言っていいだろう。

 G1レース特有の緊張感と強敵、3200メートルという長距離、そしてコーナーで2度に渡って立ち塞がるスタミナ喰らいの淀の坂。

 その全てがウマ娘の体力を食いつぶし、失速を誘発する」

 

 京都レース場の右外回り、3200。

 天皇賞(春)では、向こう正面の直線から始まり、レース場を1周半するように走ることになる。

 

 去年このレースを競ったのは、菊花賞を獲って現役最強ステイヤーとして目されつつあった、ターフの名優メジロマックイーンと、復活した黄金世代の古豪……俺にとっても思い入れの深い、トリックスターことセイウンスカイ。

 

 両者共に、長距離レースに適合するだけの高いスタミナを保有するウマ娘であり……。

 2着と3着までの間に3バ身もの着差が生まれたことからも、彼女たちの高い実力と同時、何よりこのレースで必要とされるスタミナの水準の高さが読み取れる。

 

 ……が。

 俺の愛バは、その要求に応えられるだけの実力を持っている。

 

「つまるところ、スタミナ自慢の君にとって、最も適切で有利なレースと言えるだろうな」

 

 ウィルのスタミナは、今や俺の知る上限たる1200を越えている。

 この数字は、今年本格化を終えたマックイーンですら手が届かなかった境地。

 それどころか、俺が今まで見てきたあらゆる媒体の記録を見ても、ここまで特定のステータスが高まったウマ娘は他にいなかった。

 彼女の特異的な体質と俺の持つチートによる管理、その2つが合わさったからこそ生まれた、飛び抜けたステータスだ。

 

 短距離レースがスタートの早さや初期段階の加速などの技術が最重要視されるのに対し、長距離レースでは長く走り続けられるスタミナやガッツなどの身体能力が肝要になりやすい。

 そういう意味で、今回のレースはすさまじいステータスを持っているウィルにとって、これ以上ない程有利なものになるはずだ。

 

 

 

「でも、今回もライバルは強いですよね」

「あぁ、そうだな」

 

 どこか期待するような、あるいは恍惚とするような彼女の言葉に応じて、今回のレースの出走ウマ娘たちの資料も、3束まとめてデスクにドン。

 3人がそれぞれ読み始めたのを確認して、俺はホワイトボードにマーカーを走らせる。

 

「最大の強敵は、やはりメジロマックイーンだろうな。

 ウィルと同じステイヤーであり、トップクラスのスタミナと凄まじく整ったフィジカルを持っている。

 作戦は先行抜け出し一辺倒だが、その高いスタミナ故にミドルペースが格段に速い。他のウマ娘は彼女のペースに付いて行けず、結果的に独走状態になることが多い。去年の秋の天皇賞が良い例だろう」

 

 メジロマックイーンの名前の前に「○」を書き込む。

 

 マックイーンは、フィジカルの強さを主体とするウマ娘だ。

 自らの生まれ持った才、その身に流れる血の尊さを証明するかの如く、小手先の策ではなく自分の身体能力で勝負する。

 その走りは、これと言った強みがないとも言えるが、同時にこれといった弱みがないとも言える。

 故に、身体能力……特にスタミナに劣るウマ娘は、どうしても彼女に勝つことが難しくなる。

 

 ……逆に言えば、身体能力で優るウィルは、彼女に対して有利と言えるだろう。

 去年、まだ慢心が目立ち、特殊な策を弄さなかった頃のトウカイテイオーに近い状態か。

 

 

 

「そして、次点で警戒すべきは、トウカイテイオーだ。

 彼女は適性こそ1歩劣るが、ここぞと言う時の爆発力がバ鹿にならない。俺もウィルも何度も苦しめられてきた」

「苦しめられてきたっていうか、私は楽しめられてきましたが」

「そうだね、君はね。……彼女の作戦は同じく先行抜け出しだが、マックイーンと違って大きくアドリブを利かせて来る。単純な脅威度で言えばマックイーンには劣るが、変数の要素は彼女の方が大きい」

 

 トウカイテイオーの隣には、「▲」。

 

 今のテイオーは去年と違い、慢心がない。

 ウィルのことを過小評価はしてくれないだろうし、どころかチャレンジャーとして考え得る限り全ての手を使ってこちらを追い詰めて来るだろう。

 

 策を巡らすという意味ではネイチャに近いが、データと合理を元に作戦を立てるネイチャと違い、テイオーの走りは彼女の特殊な感性……いわゆる天才性による部分が大きい。

 そのため、彼女の取って来るレースプランは読み辛い。悔しいが、ちょっとトラウマ気味だ。

 

 ……とはいえ。

 流石に、トウカイテイオーに今回の天皇賞は厳しいだろう。

 相手はスタミナ1200越えのウィルと、1100オーバーのメジロマックイーン。

 この国内最長のレースで、スタミナお化けな2人のペースに付いて行けば、どうしたってガス欠は避けられないはずだ。

 

 …………そうだよね?

 いや、流石に無理があるよね? あるはず……。多分そう。部分的にそう。

 

 

 

 俺は2人の名前をまとめて四角で囲った後、その外にもつらつらと何人かの名前を書き込んでいく。

 

「この2人が今回の天皇賞における最大の障害でありライバルとなるはずだが、当然ながら出走するのは彼女たちだけではない。

 弥生賞皐月賞菊花賞、そしてこの前の大阪杯と、何かと君と縁のある……つまりはG1レースの常連である実力者、ハートブロウアップ。

 最近になって上がり調子を見せ、直近1年で掲示板を外したことのないユグドラバレー。

 去年の有記念で驚異的な末脚を見せつけたダイサンゲン。

 恐らくは君と先行争いをすることになるだろう、メジロパーマー。

 他にも、エレガンジェネラルやカジュアルスナップといったウマ娘たちも出走予定だ」

 

 流石は八大競走の1つ、栄誉ある天皇賞と呼ぶべきか。

 今年の天皇賞には、かなり豪華なメンバーが揃った。

 

 ……とはいえ。

 その中心に立ち、誰よりも存在感を放つのが彼女であることは、疑うべくもない。

 

 

 

「熾烈なレースになる。マックイーンはともかくテイオーの手の内は読み辛く、他のウマ娘たちだって黙ってはいないだろう。

 だが、俺と君なら勝てると信じている。今まで通りの、そして今まで以上の走りを、ライバルとファンたちにお見せするとしよう」

「はい!」

 

 ウィルの頷く顔は、前向きなやる気と充実感に満ちていた。

 

 

 

 ……さて、ウィルの方はこれでいいだろう。

 ぶっちゃけると、今の彼女に過剰な手出しは必要ないんだ。

 

 ウィルの精神状態は、完成している。

 走りを楽しみ、そこに集中しながらも、同時に何気ない日常を楽しむことも忘れない。

 競走ウマ娘として、今の彼女以上の状態はそうそうないだろう。

 

 更に言えば、肉体的にもそうだ。

 悪質なコンディションはなく、成長率も順調と言う他ない。

 

 今の彼女は、俺が余計な導きをせずとも明日に走っていける。

 むしろ、俺の方が彼女に引っ張ってもらっているような状態なんだ。

 

 故にこそ、必要以上の会話は必要ない。

 後はただ、俺と彼女で「競走ウマ娘ホシノウィルムの最善の走り」を作り上げるだけである。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、一方で。

 ミホノブルボンの精神状態は、未だ完成しているわけではない。

 

 いや、当然と言えば当然なんだけどね。

 彼女はまだ中等部2年生、ランドセルを肩から下ろしてたったの2年しか経っていない。

 ウィルと比べてずっと良い体格で錯覚しそうになるが、ミホノブルボンはまだ、子供と言っていい年代なのである。

 むしろこの歳で完成している方が少数派。道半ばで迷っているような子の方が多いのが実情だろう。

 

 そして同時、彼女はいわゆる思春期に該当する年代でもあるんだが……。

 こと彼女に限っては、その情緒の薄さ故か、そこまで跳ねっ返りも大きくないのが幸いなところ。

 

 ああいや、それを言うならウィルもそうなんだよな。彼女も彼女で、この年頃の少女にありがちな自己顕示欲とか承認欲求とかを出すタイプではない。

 それどころか、その歳には見合わない程に精神的な成熟を感じるような……。

 

 …………あー、また状況証拠が出て来てしまった。

 いや、今はこのことはさて置こう。考えても仕方のない話だ。

 

 

 

 とにかくミホノブルボンは、子供らしい反抗心の少ない、いわゆる手のかからない子供だ。

 しかしそれは同時に、彼女の情緒の未発達と、走りへのモチベーションの低さも意味している。

 

 彼女が走る理由は、少なくとも皐月賞前までは、「クラシック三冠を獲ること」「マスターにそうオーダーをいただいたから」でしかなかった。

 ハッキリ言って、競走ウマ娘としてあまり望ましい状態ではない。

 

 彼女の人生は、クラシック三冠では終わらない。

 その先には更なるレースとシニア級が。

 そしていつかはドリームトロフィーリーグが。

 競走を引退しても、その先にはまだ、長い長い時間が待っているのだ。

 

 彼女の生き、走る道は、彼女自身の意志で決めていかねばならない。

 幼い頃に定めた目標や、誰かの言うままに走っているだけでは、きっといつか後悔することになる。

 

 ここに関しては、去年ウィルにやったように、俺が多少なりとも解決しなければならない問題だろう。

 ブルボンの走りの改良には、こういう部分の精神的成長が不可欠だろうし……。

 契約トレーナーの仕事は、競走ウマ娘としてだけでなく、ウマ娘としての彼女たちに向き合うことも含まれるのだから。

 

 

 

 故に、俺は口を開き、ブルボンに訊ねた。

 

「次は、ミホノブルボンの次走である日本ダービーだが……その前に、君に訊いておこう。

 皐月賞はどうだった?」

 

 問うたのは、なんとも曖昧で玉虫色に取れる疑問。

 しかし、ブルボンは俺の期待通りの答えを返してくれた。

 

「どうだったか、と問われれば、辛勝であったと思います。

 油断していたわけではありませんでしたが……ライスシャワーさんは、想定の約188%の出力を持っていました。故に、大きく追い詰められ、余裕を失う結果となりました。

 マスターのオーダーを破ってしまったこと、改めて謝罪いたします」

「構わない。俺の指示……オーダーは、あくまで君が勝利するために有効なプランを示しているだけだ。君が満足した勝利を勝ち獲れるのならば、オーダーを守る必要はない」

「しかし、マスターのオーダーがなければ、私たち競走ウマ娘は正しく走ることはできません。

 殊に私は、データを並べ計算することはともかく、それを元に正しくレースプランを組み立てることに長けてはいません。変わらず、俯瞰的にレースを見ることのできるマスターにオーダーを下していただければと望みます」

「ああ、任せてほしい。君のトレーナーとして、すべきことをするよ」

 

 これにて、ブルボンが最後に暴走したことについては手打ちだ。

 

 というか、そもそもアレ、別に暴走と言う程ではなかったしな。本当に謝る必要もないんだが。

 

 土台、俺がブルボンに提示した「目標速度」は、余裕のあるペースだった。

 いや、より正確に言えば、彼女がそのスタミナをきっちり使い切れるペースではあったんだが……。

 

 競走ウマ娘には「根性」、つまりスタミナ切れを起こしても走り続けられるラインがある。

 で、ブルボンは繰り返し坂路を走った成果だろう、これが他ステータスに比べて一回り以上高い。

 彼女が多少暴走したとしても、それを補えるだけのバッファがあったわけだ。

 

 そして、その暴走したスピードに関しても、彼女のステータス的なスピード……最大速度の範囲内。

 ダービーや宝塚記念のウィルのように、無理やりな走りで自身の限界を超える速度を出そうとしたわけでもない。

 

 故に俺は、残り200メートルでの疾走について、彼女を咎めるつもりはなかった。

 むしろ、そこで彼女が感じたことにこそ意味があるのだと思う。

 

 

 

「さて。その件に関して咎めるつもりはないが……ブルボン、以前に相談してくれた件に関してはどうだった?」

「はい、報告させていただきます」

 

 ブルボンはコクリと頷いた後、彼女の癖らしい相変わらずの無表情に近い、しかし仄かに熱の入った表情で語った。

 

「確かに、マスターのおっしゃった通りでした。

 ホシノウィルム先輩に相談し、皐月賞を走った結果、私は確かに競走に『楽しさ』を感じ取れたと認識しています」

 

 それを聞いて、俺がブルボンからウィルの方に視線を移すと……。

 彼女は、「やってやりましたよ!」と言わんばかりのドヤ顔で、ブルボンからは見えないようにサムズアップしてきた。

 

 うん、まぁ。

 確かに君を焚き付けたというか、君が動いてくれるように誘導したんだが。

 そして、君は俺の期待通り……というか、期待の3倍くらいにはライスシャワーを焚き付け、想定ギリギリのところにまで覚醒させてくれたわけだが。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ブルボンのご実家に赴いた日。

 

 俺はブルボンの「どうすれば走りを楽しめるのか」という問いに、「自分で掴め。もしも掴めなかったらウィルに訊ねろ」と返した。

 

 そして同日の夜、トレーナー室を訪れたウィルと話した後、彼女に1つお願いをした。

 「本来は俺が願うべきことではないんだが、気が向いた時でいいから、前までと変わらずライスシャワーのことを見ていてほしい」と。

 

 これらの行動を取った理由は、ただ1つ。

 

 ミホノブルボンのライバルとして、ライスシャワーを強化するためだ。

 

 

 

 競走ウマ娘がレースを楽しむ条件は、ただ1つ。

 そのレースに、自分と同じ土俵に立ち、肉薄して来て、あるいは越え得るウマ娘がいることだ。

 

 去年のウィルなんかは、典型的な例と言えただろう。

 あまりの圧倒的な強さに誰も付いて行くことができておらず、だからこそ諦めずに走り続けるネイチャに、そして自分に迫って来るテイオーに、「熱」を見出した。

 

 

 

 故に、俺は今年も同じことをしようとした。

 ミホノブルボンに迫ることのできるウマ娘を、ライバルを用意しようと。

 

 ……そして、転生者である俺は、知っていた。

 ミホノブルボンを追い詰めることのできるウマ娘は、同世代ではただ1人だと。

 

 レコード破りの、漆黒の刺客。

 あるいは、青いバラを咲かせる、誰かのためのヒーロー。

 

 祝福の名を持つウマ娘、ライスシャワー。

 

 彼女をおいて、他に適任者などいはしない。

 

 故に、俺は彼女を、仕立て上げることにした。

 ミホノブルボンが、レースを楽しむための立役者。

 彼女にとっての、無二のライバルへと。

 

 

 

 しかし、ここで困ったことが1つ。

 直近の調査の結果からして、ライスシャワーが明らかに入れ込んでしまっていたことだ。

 

 契約したトレーナーでもなし、そこまで詳細に事情は探れなかったが……。

 どうやらライスは、去年のウィル程ではないが、「勝たなくてはいけない」という強迫観念から焦燥感を覚えているらしい。

 

 その上、どうやらアイツはライスシャワーというウマ娘を伸ばしあぐねているらしく、本来取るべき戦略である徹底したマーク戦法を意識させてはいなかった。

 ……あぁいや、これに関しては前世の知識を持ち越したりステータスが見える結果、自然と最適な戦略を割り出せる俺の方がおかしいのかもしれないが。

 

 ともかく、今のライスシャワーでは、残念ながらミホノブルボンのライバルにはなり得ない。

 

 故に、その戦術の是正はともかくとしても、早急に彼女の精神状態を持ち直させる必要があった。

 そしてその適任者こそが、ライスシャワーと親しくしている、ウィルだったんだ。

 

 

 

 俺とウィルは現在、それぞれブルボンとライスに肩入れし、どちらが勝つかの代理戦争のようなことをしている。

 勿論、これはあくまでお遊びの範疇。

 ウィルだって完全にライスに肩入れするというわけじゃなく、あくまで「ライスに困ったことがあれば相談に乗るし、教えられることは教える」くらいのスタンスで、基本的にはブルボンを応援してくれている。

 

 ……が。

 ウィルは、ああ見えてとても気にしいだ。

 

 ブルボンの善性を感じながら毎日を過ごす中で、それとなく「私ブルボンちゃんに悪いことしちゃってるなぁ」と言いたげな表情を見せるようになった。

 

 これは、あまりよろしくない。

 ウィルに物憂げな表情は似合わない。

 あの子にはちょっとニチャったような笑顔──最近はよく笑うおかげか、結構マシになってきた──の方がずっと似合うのだ。

 

 

 

 そんなわけで。

 ミホノブルボンのライバルとしてライスシャワーを強化すると同時……。

 「ライスちゃんに手を貸すことが、最後はブルボンちゃんのためになる」という言い訳もできるよう。

 

 俺はウィルに、ライスシャワーの件を託したのだった。

 

 

 

 まぁ、託したと言っても明確に言葉にしたわけじゃないんだけどね。

 もしもこう動いてくれたら嬉しいな、くらいの気持ちでかるーく焚き付けただけ。

 

 しかし、今のウィルの表情を見るに、どうやら俺の意図は殆ど完璧に伝わっているらしい。

 流石、察しの良さは随一だ。よく察しの悪さで昌に叱られる俺としては羨ましいことこの上ない。

 

 …………あと、ついで程度だが。

 彼女と以心伝心できたことが、ちょっとだけ嬉しくもあった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そんなわけで、俺の仕掛けは無事成功。

 協力してくれたウィルに、俺はこそっと一瞬だけサムズアップを返し、話を再開する。

 

「では、ミホノブルボン。君の感じた『楽しさ』について、詳細な報告を頼む」

「はい」

 

 彼女はじっとこちらの瞳を見据え、言葉を紡ぐ。

 

「最初に『それ』を感覚したのは、残り634メートル地点。

 後方より迫るウマ娘の威圧感に、私は内から発生する『不明な熱』の存在を検知しました。

 これまでに幾度となく私の走りを乱し、掛からせてきた『熱』。それは時間の経過、及び2番手のウマ娘との距離の接近に伴って更に出力を増加しました。

 そして残り182メートル、排熱限界に到達。私はスタミナの換算を停止し、全速力での疾走を開始しました」

 

 相変わらずすさまじい記憶力に難解な表現だ。

 まあ、どちらも慣れてしまったし、今更驚くこともないけど……。

 

 問題は、そこから先の話だな。

 

「それについて、君はどう思った?」

 

 俺がそう尋ねると、彼女は数秒まぶたを閉じて考えた後、改めて口を開いた。

 

「……最初は、この『熱』は私の走りを乱す悪性のノイズであると判断し、抑え込もうとしていました。

 しかし、レースが終わった後、私は……ライスさんに、『また走りましょう。次のレースも楽しみにしています』と、そう告げていました。

 以上より、私はライスシャワーとの競走を無意識的に楽しんでいたと推測。彼女と走る際に噴出していた『熱』こそが、ウィルム先輩のよく語る『レースを楽しむ』という感情であると認識しました」

「なるほど」

 

 

 

 ……正確に言えば。

 

 その『熱』自体は、楽しさではないのだろう。

 

 ミホノブルボンの感じている熱とは即ち、ウマ娘の競走本能。

 誰かに負けたくない、誰より速く駆け抜けたいという、極めて個人的な欲望だ。

 

 言葉遊びのようだが、その『熱』に熱中することこそが、きっと「走りを楽しむ」ということで……。

 最初からその『熱』に浮かされていたブルボンは、実のところずっと昔から走りに熱中し、楽しんでいたとも言えるのだが……。

 

 問題ない。

 大切なのは、彼女自身が「自分はレースを楽しんでいる」と気付き、そう定義することだったからな。

 

 これでようやく、彼女は大事な1歩目を踏み出したことになる。

 

 

 

 ぶっちゃけて言えば、ここに関してブルボンが気付いてくれるかどうかは、だいぶ賭けだったが……。

 ウィルの協力もあって、ブルボンは無事にそれを察知し、俺は賭けに勝つことができた。

 

 安心して思わず細く息を吐いた俺に、ブルボンは胸に手を当てて言ってくる。

 

「つきましては、マスターに『ご褒美権』を使用しての要請があります」

「なんだ?」

「目標『クラシック三冠の達成』に追加し、サブ目標として『菊花賞におけるライスシャワーの打倒』を登録したいと思います」

「ふむ」

 

 俺が視線で真意を問うと、彼女はその瞳の奥に、薄く炎を燃やして言った。

 

 

 

「ライスシャワーさんには2000メートルの時点で、残り2と半バ身まで追い詰められました。

 であれば、3000メートルの距離になれば、むしろ私の方が不利となるでしょう。

 その場で、彼女に勝ちたい。そうして同時に、父との夢、マスターとの目標を叶えたい。

 それが私の……ミホノブルボンの、2度目に抱く、新たな夢です」

 

 

 

 ……要するに、「負けかけたのが悔しいから、今度は相手に有利な場で完膚なきまでに勝ってやりたい」ってことか。

 

 なんというか……。

 ウィルといいブルボンといい、一度火が付くと苛烈だなぁ、と思う。

 

「あぁ……やろう。

 俺と君で、菊の舞台でライスシャワーに勝ち、文句なしの三冠を獲るぞ」

「オーダー、了解。ミホノブルボン、奮起します」

 

 

 







 今回ブルボンの作戦会議まで行けなかったのは仕様です!! いつもの尺の調整ミスじゃないです!! これだけは真実を伝えたかった。

 そんなわけで、次回は割とこの直後のお話。
 いっつも恋愛雑魚なところばっかり見せてるし、久々に先輩らしいこと、しよう!



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、模擬レースと領域の話。



(追記)
 誤字報告を頂き、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました。


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戦慄怪奇ウマ娘 コワすぎ! File-02【一極集中!黒い刺客】

 投稿だよ投稿!

 花子さん回、恐怖と滅茶苦茶さがいい感じにないまぜになっててすき。





 

 

 

 足に履いた蹄鉄付きのトレーニングシューズを、トントンと芝に打ち付ける。

 

 私たちウマ娘が走って一番痛めやすいのは、やっぱり足首の関節だ。

 長い距離を私たちのスピードで走れば、当然ながら脚に負担が溜まる。

 特に柔軟に動く関節や、強い負荷のかかる骨なんかは酷くて、だからこそ私たちは頻繁に故障を起こしてしまうわけだ。

 

 土台、時速70キロメートル前後というウマ娘の走る速度は、人間の体型の生物が取れる速度ではなかったりする。

 ウマ娘特有の超絶謎パワーがあるからこそ、この疾走は叶えられてるわけだけど……それでも、あるいは当然と言うべきか、そこで発生する負荷自体は避けられない。

 

 故に、時には「ガラスの脚」と呼ばれる程に、私たちの脚は繊細で壊れやすいんだ。

 

 前世のお馬さんには詳しくなかったけど、もしかしたら彼ら彼女らも脚が脆かったりしたんだろうか。

 だとすると……みんな、大変だっただろうな。

 走りたくても走れない。もっと走っていたくても立ち止まるしかない。その精神的な束縛感は、私も去年体感したところだ。

 まぁ私の場合は、献身的なまでに支えてくれる理解あるトレーナーがいたからこそ、そこまで苦しくは感じなかったんだけども。

 

 ……ん、あれ?

 私、いつの間にかお馬さん視点で物事を考えてるな?

 文字通り、思考が人間離れしちゃってるような。

 いや、前世は人間だったとはいえ、今世ではウマ娘に転生したわけだし、妥当と言えば妥当なのかな。

 

 しかし、思考の変化というのはちょっとばかり恐ろしい。

 仮にだけど、もしもウマ娘のまま前世の世界に戻ったりなんかしたら、絶対生きにくいだろうな……。

 厩舎なんか見たら扱いの悪さに眩暈しそうだし、桜肉とか見たら多分吐いちゃいそう。下手すれば「人間の都合ばっかり優先しやがって」って声を出しちゃうかもしれない。

 

 前世でやり残したことは、まぁ、ないわけではないんだけど……こうまで思考の基軸が変わってしまうと、どうしても戻ったとしても生き辛さが勝ってしまいそうだ。

 そういう意味でも、もう前の世界に戻りたいとは思わないし……。

 というか、正直前の世界よりもこっちの世界の方が愛着があるし、手放し難い。

 

 やっぱり私、もうしっかりとこの世界の住人なんだなぁ、ってしみじみ痛感するね。

 

 

 

 っとと、脚のことから思考が逸れてしまった。

 

 とにかく、私たち競走ウマ娘の脚は強く、同時に脆い。

 勿論と言うか意外にもと言うか、これに関しては転生チートウマ娘である私も例外じゃないんだ。

 日本ダービーや宝塚記念の時もそうだったけど、いくら転生チートでつよつよな体を授かった私でも、過度な無茶をすると問答無用で炎症を起こしたり骨折したりもする。

 

 ……「アニメ転生」の方はともかく、こっちって正直チート(ズル)って呼べる程強くはないよね。

 もしかして、私の体が強いこと自体はチートじゃない、ただホシノウィルムが突然変異的に強いだけだったりするのかな。

 ……いや、ないかな。いつだったか、歩さんも「入学時点で不自然にステータスが高かった」って言ってたし、やっぱり私の体の強さにも転生特典が関わってる可能性が高いと思う。

 

 まぁアレだ、あんまりチート過ぎてもレースは面白くはない。

 程々に……それこそ、ネイチャやテイオー、マックイーンさんと対等なレースができるくらいの強化だったのは、私にとってはこの上なく幸いなことだと言えよう。

 

 

 

 まぁでも、程々の強化ってことは、下手すれば普通に怪我とか骨折とかしかねないってことでもある。

 歩さんのウマ娘として、そんな愚を二度と犯すわけにはいかない。

 

 そんなわけで、運動前の準備運動は万全に。

 軽く関節を解したり体を動かして、事前のストレッチをこなしていく。

 

 普段なら、もうちょっと楽してもいいかもだけど……。

 今日は後輩ちゃんと、初めてちゃんと走れるんだもの。

 

 しっかりと準備して……ボッコボコに理解(わか)らせてやらねば、だ。

 

「先輩」

「ん、準備オッケー。それじゃ、やろっか」

 

 声をかけてくれたジャージ姿のブルボンちゃんに、笑顔で返す。

 

 

 

 それじゃ……程々に、やりますか!

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ブルボンちゃんの皐月賞が終わった、翌日。

 私たちの陣営は、いつもの作戦会議を行った。

 

 私に対してはいつも通り、レースの条件や特徴、ライバルウマ娘の確認。

 それから会議の終わり際に、「明日までに確認するように」って詳細なレースプランの書かれたファイルを手渡されたくらいだ。

 

 一方でブルボンちゃんに対しては、いくつかの聞き取りとか確認が行われた。

 具体的に言えば、彼女が「不明な熱」というものを感覚した経緯と、それについてどう思うか、とかなんだけど……。

 

 結論から言えば。

 ブルボンちゃんはついに、レースを楽しむことを覚えたようだった。

 いやぁ、めでたい。今日の夕飯はお赤飯かな? いや確か普通にサバの味噌煮とおひたしとかだったと思うけども。

 

 まぁでも、彼女が楽しめたと言うのも納得のいく話だ。

 なにせ皐月賞のライスちゃん、ちょっとばかりすごかったもんね。

 

 周りの誰がどう動くとか、レースのテンポがどうとか、あるいは自分の残りスタミナとか、そんな頭を悩ませることを一切考えてない。

 ただひたすら、最終的に差し切れるだろう距離で、ブルボンちゃんのことを追従し続けた。

 もしもブルボンちゃんがあのままのペースなら、ギリギリ差し切られちゃったかもしれないくらいの……いや、確実にハナ差で差し切られるだろう、絶妙な距離感だった。

 

 そんなライスちゃんの極まり具合に、どうやらブルボンちゃんのお尻と心に火が付いたらしい。

 皐月賞が終わった後のブルボンちゃんの目は、1か月後の日本ダービーでの再戦に向けて、燃えに燃えていた。

 

 わかる。

 すっごいわかる。

 それまで楽勝だった中で急に追い詰められると、一気に熱くなれるんだよね。わかるよその気持ち。

 

 どうやら私がライスちゃんを焚き付けたことが、ライスちゃんにもブルボンちゃんにも良い影響を与えたようで、ちょっとばかり……いやごめん見栄張った、正直めっちゃ嬉しかった。

 私、去年は歩さんに助けられるばっかりだったからね。そこでもらったものを、少しでも後続の子たちに引き継げたって考えると、そりゃあ当然喜ばしいってもので。

 

 ……いや、ホントだよ?

 2人がもっと手強くなってくれたとか、楽しめそうな未来にまた1歩近づいたとか、そんなんで喜んでるわけじゃないからね?

 

 

 

 さて、そんなこんなで。

 ブルボンちゃんはその胸に湧く熱を、「楽しさ」であると定義した。

 

 それ自体は、非常に良いことだと思うんだけど……。

 同時に、彼女のクラシックレースという面で見ると、決して小さくない問題が生じたことも事実だった。

 

 具体的に何かと言えば……。

 ライスシャワーが強すぎる、ってことだ。

 

 ブルボンちゃんがレースをハラハラ楽しめるようにライスちゃんを焚き付けた私だったんだけど、流石にあの覚醒っぷりは想定外だ。

 そりゃあ、ある程度ちゃんと話を聞いたりアドバイスとかはしたけどさ、ちょっと話したくらいであんなにピタッとハマるように自分の走りを見つけられるもんかね、普通……?

 まぁアレだ、何気なく放った言葉が誰かの感性にぶっ刺さってしまうこともあるってことだろうな。

 先輩としては嬉しい限りだ。ミホライ派の元オタクとしては不安なところもあるが。

 

 ともかく、ライスちゃんは皐月賞で一気に手強くなった。

 そんなライスちゃんにブルボンちゃんは差し切られかけ、闘争本能全開で全力を出してしまった。

 結果として、2着ライスちゃんまでは2と2分の1バ身の差が付いたわけだけど……。

 

 ぶっちゃけこれ、決して油断できる状態じゃないんだよね。

 何せ、今回のレースでライスちゃんは「ミホノブルボンが隠していた本気のペース」を見てしまった。

 恐らく日本ダービーでは、ライスちゃんはそのペースに合わせて走れるようになってるだろう。

 

 ……つまるところ、ブルボンちゃんはここまで隠し持っていた手札を晒してしまったんだ。

 そしてライスちゃんは、手札フルオープンの相手を差し切ることに特化した走りをしてるわけで……。

 今のままのブルボンちゃんでは、日本ダービーでライスちゃんに勝てないかもしれない。

 

 

 

 勿論、そんなブルボンちゃんを見放す歩さんじゃない。

 作戦会議の場で、彼の考えたブルボンちゃん強化計画が明かされることになった。

 

 で、そこで提案されたのが……。

 私とブルボンちゃん、2人きりの模擬レースだったわけだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 手際よくトレーナーが予約していたトレセンのターフで、私とブルボンちゃんはスタートラインに付く。

 

 ……付く、んだけど。

 スタートフラッグを振り下ろすべきトレーナーは、まだ所定の位置には付いておらず。

 サブトレの昌さんと共に、外野の整理と呼びかけに奔走していた。

 

「トレーナーたち、大変そうだねぇ」

「彼女たちは何のためにここに集まっているのでしょうか」

 

 ブルボンちゃんの言葉に、周りを見回す。

 そこには……というか私の視界の中には、ちょっとばかりすごい人数のウマ娘やトレーナーがいた。

 いたっていうか、私やブルボンちゃんの走るターフを取り囲んでいる、が正しい表現かもしれない。

 

 50人……いや、100人くらいはいるだろうか。黒髪、茶髪、黒鹿毛に鹿毛に栗毛、ところどころに芦毛も見える。

 私とブルボンちゃんがここで準備運動をしている間に、気付けば競走ウマ娘やトレーナーたちが集まって来てしまったわけだ。

 

 そして、彼ら彼女らの目的は……。

 まぁ、今からやることを考えると、わかりやすいよね。

 

「みんな見たがってるんだよ、私たちの走り」

「ファン、ということでしょうか」

「あー、まぁそれもあるだろうけど……半分くらいは、同業他社の調査的な?」

「……すみません、もう少し平たい言葉でのリピートを要請します」

 

 それブルボンちゃんが言う? なんて思って苦笑しながら、私は話す。

 

「ほら、私たちって一応G1ウマ娘、トゥインクルシリーズのトップ層じゃん?

 そんな私たちが模擬レースするってなると、その技術を見て盗んでやろうとか、あるいは展開を参考にしようとか、もしくはもっと直接的に私たちの戦力調査してやろう、って人も出て来るんだよ」

「なるほど」

「ま、単純にファンっぽい視線も感じるけどね」

 

 軽く見回してみると……あ、あの熱っぽい視線を向けて来る栗毛の子とかは多分ファンっぽい。

 なんかどこかで見たことあるような気もするけど……うーん、ハッキリと記憶には残ってないな。誰だったっけ、あの子。

 

 あんまり視線を合わせ続けるのもマズいので、他にも視線を巡らせる。

 うーん……ファンっぽい子の割合は、半分くらいかな?

 残りの半分はやっぱり調査目的っぽい。

 ま、ホシノウィルムの弱点なんて、この国の競走ウマ娘なら誰もが知りたいだろうしね。1つでも多くのレースを観察しようって思うのは、わからないでもないよ。

 

 例えば……。

 ……あれ? 

 あそこにいるの……ミーク先輩と、先輩のトレーナーさん?

 事前に告知したわけでもないのに、見に来てくれたのか。

 ちょっと嬉しい……けど、トレーナーさん同伴ってことは、これは宝塚記念に向けた戦力調査かな。

 

「ま、でも、気にせず走ろう。本番になれば、この何百何千倍って人たちが見に来るわけだしね」

「はい」

 

 ブルボンちゃんの方も、外野の圧には動じず、やる気満々って感じだ。

 その視線からは、秘められた僅かな熱も感じる。

 

 状態は決して悪くない。花開く前の蕾って感じ。

 後は……その熱との付き合い方を学ぶだけだね。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 トレーナーたちが外野の誘導を終える頃には、いよいよ観客の数は200近くなっていた。

 とはいえ、今更その程度の数で緊張する私たちでもない。

 始まるまでの間、私とブルボンちゃんは、このレースの打ち合わせをしていた。

 

 今回の模擬レースは、決して本気のレースではない。

 あくまでブルボンちゃんの成長のため、ちょっと本気を出した私の走りを体感してもらうためのヤツだ。

 その辺りは、最初から言っておかねばならないだろうから。

 

 

 

 当然と言えば当然だけど、ウマ娘の身体能力の成長は、対数関数的になる。

 最初の内はぐんぐんと豪快に伸びるけど、極まれば極まる程にその成長は緻密かつ微量になっていく。

 だからこそ、クラシック級の内は早生まれのウマ娘や早熟のウマ娘が有利だったりする。

 そういう意味で、まさしく皐月賞は速度と成長のはやさを求められるレースなわけだ。

 

 ちなみにだけど、歩さんのデータに表される数字には、この辺りの事情が組み込まれてないっぽい。

 要するに、ステータスが100から200になるのと1000から1100になるのでは、数値的な上昇幅は同じでも実態には差が出るみたいだ。

 勿論、歩さんはそういうところにも気付いてるし、その上でレースを読んでるっぽいから問題ないみたいだけども。

 

 話を戻して、ブルボンちゃんは現在クラシック級4月。まだまだ伸び盛りといった年頃だ。

 ……いや、年頃て。なんか言い方が一気に老けてるカンジして嫌だな。

 えーと、時期。そう、時期ね。身体能力がすごく伸びやすい時期だ、うん。

 

 しかし、それは同時、道半ばとも言える。

 シニア級でだいぶ極まっている私を相手にするには、ちょっとばかり時期尚早だろう。

 多分彼女と本気でやり合えるのは……それこそ、クラシック・シニア級の混合レースの始まる秋辺りからだろうか。

 

 ……そう考えると、去年宝塚記念に出走した私、だいぶ無理な勝負に挑んでたんだなー。

 結果的には勝てたけど、それだって初めて使う領域に「アニメ転生」に天星スパートと、正真正銘全部を出し切ってギリギリの辛勝だったし。

 

 私が勝てた要因には転生チートパワーもあったわけで、ブルボンちゃんも同じことをできるかと言われると流石に疑問が残る。というかぶっちゃけ無理ゲーだ。

 だからこそ、今回のレースでブルボンちゃんが勝つことは、まずあり得ない。そもそも私に本気を出させることすら不可能だろう。

 

 そしてと言うか、だからこそと言うか。

 今回のレースは、本気で競ってどちらが上か決めるものじゃない。

 私はブルボンちゃんに多少手加減……と言うと聞こえが悪いけど、ある程度実力をセーブしてレースに挑むことになる。

 アレだ、少年漫画でよくある、全身に重りを付けて戦うみたいな。

 

 ま、それでも負けてはあげないけどね?

 なんなら、負けそうになったら普通に本気出しちゃうけどね?

 

 私これでもつよつよ先輩で売ってますし?

 先輩尊厳の破壊はいただけないし?

 

 ……それに。

 ブルボンちゃんがそれだけ強いのなら、私の本気の熱を感じてもらうのも、きっと悪くないしね?

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そうしていよいよ、何百人かの観衆に包まれ、私たちの模擬レースが始まる。

 

「2人共、待たせたな。位置に付け」

 

 トレーナーの声に、私とブルボンちゃんは改めてスタートラインに付いた。

 

 思考が冷えていくのを感じながら、私はスタートダッシュの体勢を取る。

 ブルボンちゃんは奇しくも……ではなく、当然ながら殆ど同じ姿勢。

 

 歩さんから教わったスタート技術は、私もブルボンちゃんも同じだ。

 故に、同じ姿勢、同じ状態からスタートすることになるんだけど……。

 

「用意……!」

 

 ……それでも。

 

 私とブルボンちゃんの間には、覆せない差が、ある。

 

 

 

 フラッグが振り下ろされると同時、私たちは芝を蹴って駆け出した。

 

 スタートの瞬間は、並んで。

 しかし……。

 

 1歩、2歩、そして3歩。

 

 瞬間的に加速を終了させた私は、ブルボンちゃんよりも大きく前に出る。

 

「……っ!」

 

 研ぎ澄まされた聴覚が、後方から響く息を呑む声を聞きとる。

 

 ふふ。驚いてくれたかな。

 最大速度には制限をかけてるとはいえ、加速力は結構出したからね。だいぶショッキングなんじゃないだろうか。

 

 私は持てる技術も最大限に活用して一瞬で加速を済ませ、ブルボンちゃんに3バ身余りの差を付けた。

 勿論、速度自体は控えめにしてるから、すぐにブルボンちゃんが追い付いて来る。

 今度はそれに応じて、ちょっとだけペースアップ。

 ブルボンちゃんからピッタリ1バ身の距離を保って、疾走を開始。

 

 今回のレース、距離は皐月賞と同じ2000メートル。

 本番でもない模擬レースだし、ブルボンちゃんは昨日よりもペースを落とすはずだったんだけど……。

 ふふ、私に追いつこうと焦ったのか、ちょっとだけペースが逸り気味だ。

 

 ……あ、と思ったらちょっとペース落とした。

 焦ってることに気付いて、きちんと調整してきたな。

 

 流石はブルボンちゃん、ペースキープの感覚は、私なんかよりずっと鋭い。

 けど……これがもし本番なら、今消費したスタミナが後になって脚を引っ張って来るだろう。

 せっかくの模擬レースなんだし、失敗が少しでも学びになればいいね。

 

 

 

 その後、レースは殆ど併走に近い展開を見せた。

 

 なにせブルボンちゃんは常に定速で走り、そして私は彼女のペースに併せている。

 どちらが前に出るか競うこともなく、ひたすらに走り続けた感じだ。

 

 そんな中、第2直線を越えるところまで行っても、当然ながら私はまだまだ余裕だった。

 歩さん曰く国内最高の持久力は伊達じゃない。このくらいの緩いペースなら、多分4000メートルくらい走り続けられるんじゃないだろうか。

 

 このまま、私はブルボンちゃんに勝つことができるだろう。

 まだまだ彼女相手に勝利は揺るがない。先輩ですから。

 

 ……けれど。

 だからと言って、ブルボンちゃんが弱いってわけでもなかったんだよね。

 

 

 

 懺悔も兼ねて、正直に言おう。

 私はその時まで、ブルボンちゃんを舐めていた部分があった。

 

 だってさ、私一応さ、皐月賞であのテイオーに8バ身くらい差を付けて勝ったんだよ?

 それに対してブルボンちゃんは、甘くスイッチ入ってたとはいえ、ライスちゃんに2と半バ身。

 G1勝利の時点ですごいことだってわかってはいても、無意識的に「まぁそれくらいか」って思っちゃったところがあるのは否定できない。

 

 それに、歩さんが見せてくれたブルボンちゃんのステータスは、私の半分よりちょっと高いくらい。

 「現時点において」と限定すれば、私とブルボンちゃんの間には、覆し得ない差があったはずなんだ。

 

 そう、私たちの間には差がある。

 差があるからこそ……。

 

 実際に一緒に走って、痛感する。

 ミホノブルボンというウマ娘は、ホンモノの天才だ、って。

 

 レースも終盤が迫った今、しかしブルボンちゃんの足取りに乱れは感じられない。

 本来短距離適性であるはずのブルボンちゃんが、この距離を、そこそこ本気の私と一緒に、なかなかのペースで走ってもなお、だ。

 

 その上、やはりと言うべきか、本当に全くと言っていい程にペースが乱れない。

 正しくサイボーグのような、冷徹で淡々とした走り。

 私の「寒い」モードとはちょっと違うけど、レースに……と言うか、歩さんの指示である自らのペースキープに、全力で集中してる。

 

 ……うん、良い。

 すごく、良い走りだ。

 

 ミホノブルボンは、強い。

 より正確には、これから先、もっともっと強くなるであろうウマ娘。

 

 あの日に感じた滾りは、やっぱり嘘じゃなかった。

 

 この子はきっと、私を……楽しませてくれる。

 

 だから……。

 君になら、見せてもいい。

 

「行くよ、ブルボンちゃん」

 

 

 

 第三コーナー、中盤。

 私は、込み上げる熱を開放し、領域を開いた。

 

 

 

 まぶたの裏に焼き付いた、星の光に包まれた宇宙。

 多くの人に、多くのウマ娘に支えられる、温かな愛の届く場所。

 

 私の世界。私の領域。

 

 天に輝く、星の(ソラ)

 

 

 

「これは……これが」

 

 私の領域に呑み込まれたブルボンちゃんの、呆気に取られた声が届く。

 

 そうだよ。

 これこそが、君の持つ「熱」の最終段階。

 君とライスちゃんがきっと至る、競走ウマ娘の秘奥。

 

 まぁ秘奥と言っても、一定以上に踏み込んでくる子はほぼ確実にこれを持ってる。

 謂わば、ホンモノの一流に至るための第一歩に過ぎなかったりするんだけどね。

 

 そして、きっと……。

 君が本気になったライスちゃんに勝ち続けるには、これくらいモノにしなきゃ駄目だ。

 

 

 

 私は、今でも覚えてる。

 前世アニメ2期の、マックイーンさんと対決した時のライスちゃん。

 その目からは幽鬼の如き光を漏らし、ありとあらゆるものを投げ出して、ただ「メジロマックイーンを下す」という一点のみに極度集中した、その姿。

 

 前世の私は……競走ウマ娘のレースのことなんて何も知らなかった私は、ただその姿を「カッコ良い!」なんて思ってた。

 全身全霊で強敵に立ち向かうなんて、スポ根モノの王道中の王道。

 ただ美少女がわちゃわちゃするんじゃなく、過ぎるくらいに引き締められた表情で走る彼女は、それこそ当時のテイオーやマックイーンさんを越えるくらいには「主人公」だったから。

 

 でも、今は、とてもじゃないけど「カッコ良い」じゃ済まない。

 あの顔ができるウマ娘は……怖い。

 同時に、早く競いたい、とも思う。

 

 奇しくもと言うか、彼女と同じトレーナーを持つ先輩である、ネイチャのそれに近い感覚だ。

 レースの全部を考えて、全ての条件を利用して、こちらを貶めるべく罠を張るネイチャ。

 レースへの思考を捨て、ただ1人のみに集中し、追い縋るために全力を尽くすライスちゃん。

 全く逆と言っていい方向性を持つ2人だけど、ただ1つ共通するのは、その恐ろしさ。

 

 極まった時のネイチャは、何を考えてるかわからない。

 転生特典と幼少期からの努力の2つで対抗してる私にとって、ネイチャの頭の回りは驚異的だ。それこそ「アニメ転生」でも使わないとこっちの思考が追い付かないだろう。

 そしてフィジカルメインで戦う私にとって、ネイチャの戦い方は最も相性が悪い。

 去年歩さんが語った言葉を使えば、「ホシノウィルムにとって最も強いライバルはトウカイテイオーだが、最も恐ろしいライバルはナイスネイチャ」なんだ。

 

 そして、皐月賞のライスちゃんの気配は、ネイチャのそれに近かった。

 勿論、あの菊花賞の時のネイチャ程じゃない。あの時のネイチャはホントにガチガチにヤバかったし。

 

 でも、その萌芽は確かに芽生えていた。

 私に「怖いなぁ」と思わせるモノが、そこにはあったんだ。

 

 だからこそ。

 今のブルボンちゃんには、武器が必要だ。

 怖いライスちゃんから逃げ切るための、最後の切り札が。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 模擬レースはそのまま、つつがなく終わった。

 

 結果は、私が6バ身差を付けての勝利。

 「最後は手加減はなし」とのことだったので、脚に負担が残らない程度のスパートをかけた。

 

 言っちゃなんだけど、順当な結果だ。

 私が勝つまで宝塚記念にクラシック級の勝者が出なかったことからもわかるように、この時期のクラシック級の子が同格のシニア級の子に勝つのは、不可能にも近いことだったりするんだ。

 今回のレースは、悪し様に言えば、ただの弱い者いじめ。勝者の決まった出来レースだった。

 

 ……が。

 そんな茶番じみたレースでも、本気で取り組めば、多少なりとも見えてくるものはあるというもので。

 

「感謝します、ウィルム先輩。おかげで、私が目指すべきベクトルが発見できたと思います」

 

 レース後のブルボンちゃんの顔は、いい感じに晴れていた……と思う。いつもの無表情だからハッキリしないけど、誤差レベルで。

 

 ライスちゃんにばかり協力してちゃ、先輩としての名が廃るってものだからね。

 時には、それこそ自分の奥義を見せるくらいには、彼女に協力してあげねば、と思っただけですよ……。

 

 ……なんて、そんなカッコ悪いこと言う訳にもいかず。

 私は彼女に「頑張ってね、期待してるよ」と微笑んだのだった。

 

 微妙にカッコ悪い先輩でゴメンね、ブルボンちゃん……。

 

 

 







 勝負服と領域の関係なんですが、
 ・領域の初回開放には該当する勝負服を着用する必要アリ
 ・2回目(習得)以降はジャージや体操服でも展開可能
 ・ただし勝負服を着ると該当する領域に固定される
 みたいな感じです。フクザツ!



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、堀野昌の真実の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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罪には罰を、罰には赦を

 展開早めにしないと読者さんも退屈だろうなーとも思うんですが、まだまだ書かなきゃいけないことがたくさんあるので、もうちょっと日常回です。
 自分には短く書いたり早めに進めたりするのは向かないなーと痛感しますね。





 

 

 

 ここ最近痛感したことだが、トレーナー業を効率的にこなすためにも、心と体の健康は非常に大事なファクターとなる。

 

 物を食べなければ空腹感で思考が進まず、その内腹痛と胃痛によって更に思考リソースを食われる。

 睡眠を取らなければ集中力が欠如し、多面的に思考を進めることができなくなる。

 ストレスが溜まれば担当たちへの対応がおざなりになってしまうかもしれないし、そうなれば信頼関係が崩れてしまいかねない。

 

 俺たちは自分で走るアスリートでこそないが、そのアスリートたちを育てるべく存在するトレーナー。

 ならばこそ、彼女たちと同じように、俺たちも常に万全の状態を維持するべきなのだろう。

 

 ……なんて。

 そう思えるようになったのは、実は最近の話だったりするんだが。

 

 去年までは、自分の時間を可能な限り削って、少しでも彼女たちの為になるようにと行動してた。

 食事も睡眠もおざなりだったし、あまり感じることはなかったけどストレスも溜まっていたと思う。

 時々話す兄さんにも心配をかけてばかりだった。今思うと、すごく申し訳ないことをしたな。

 

 まぁ、去年はウィルがこの上なく快調だったこともあって俺も手一杯だったし、まだまだ仕事に慣れていない時期に超頑張ったからこそ、今はある程度こなせるようになったとも言える。

 結果論にはなるけど、やり方を転換したのが今年からになったのは、むしろ良かったのかもしれないが……。

 

 

 

 とにかく。

 俺は今年に入ってから、トレーナーとしてのやり方を転換した。

 ……色々あって転換せざるを得なかった、というのが正確な表現かもしれないけども。

 

 今は去年とは違い、きちんと食事や睡眠を取り、時にはトレーナー業に関係しない個人的な趣味にも精を出すという、極めて人間的文化性に溢れる毎日を送っている。

 

 まぁ、その趣味っていうのも1月に1回、多くても2回程度ではあるんだが……根本的にウマ娘のトレーナーはかなりの激務だし、ここはもう仕方ないだろう。

 真っ当にウマ娘のトレーナーをしていれば、おおよそ他に本格的な趣味を持てる暇は生まれない。トレーナー業自体を趣味にしていかねば生活が成り立たないのだ。

 俺の持った趣味を行うのだって、あくまでトレーナー業に専念するための思考の整理とリセットのためだし、結局のところすべてはトレーナー業に集約しているわけだ。

 

 ずっとトレーナー業に取り組んでるばかりじゃ、どうしても思考が閉塞しがちだからな。

 休む時にはしっかり休み、頭を休めなければならない。

 

 たとえそれが、クソ忙しいG1シーズンの最中であっても、ね。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ウィルとブルボンの次走対策会議と久々の模擬レースが終わり、ウィルの天皇賞に向けた追い切りが始まって、数日。

 ふと、何の予定も入らない休日が訪れた。

 

 ウィルは天皇賞前の最後のお休みだし、ブルボンもそれに付き合って外出したいとのことだったので予定をズラしてお休み。

 俺たちの陣営の担当ウマ娘たち2人が、どちらともお休みとなった。

 そうなれば当然、俺たちトレーナーのこなすべきタスクも減少する。

 

 その上、彼女たちが不在の時にこなすべき仕事……2人に来た仕事の確認と処理や、他陣営の戦力調査、各種報告書とか論文、関係者への根回しといったことも、タイミング悪く終わってしまっていた。

 

 春のG1シーズンは、ウマ娘の競走興行にとっての繁忙期。

 殊にうちの担当2人は話題沸騰中ということもあって、かなりの数の依頼が来ていたんだが……。

 繁忙期というのは、つまるところそれだけ忙しいという意味でもあるんだよな。

 

 1か月に1度のペースでG1レースに出る2人にとって、この時期はフィジカルとメンタルの調整に尽力すべき期間だ。

 仕事の依頼はあまり多く受けることはできず、それこそURAからの公式な依頼以外は殆どを断ることになってしまう。

 結果として、彼女たちの仕事によってかかる負担も、このシーズンが終わった直後に比べるとだいぶ少なくて済むわけだ。確認書類自体はかなり増えてしまうけどね。

 

 そして、取り組むべき仕事が少ないということは、他のことに時間を使えるということでもあり……。

 俺たちは既に、やれるだけの調査や書類作成などを済ませてしまっていた。

 

 そもそも、昌はまだ新人の時期とはいえ、トレーナーの名家である堀野出身のため、ある程度仕事のいろははわかっていたし……。

 俺には、ウマ娘のステータスを一目で見抜く「アプリ転生」っていうチートもあるものな。

 調査やデータの整理にかかる時間は、他のトレーナーに比べて格段に短いわけだ。

 

 ウィルの天皇賞のライバルに関しても、つい昨日確認して回ったばかり。

 やはり注目すべきは、メジロマックイーンとトウカイテイオーの2人だろう。

 

 ウィルはかつてマックイーンに勝ったことこそあるが、あれは2000メートルというマックイーンが本領を発揮できないレースだった。これが3200メートルとなれば、決して無視できない脅威となる。

 対し、トウカイテイオーはマックイーンに比べると流石に実力で劣るが、大阪杯の時に比べてスタミナ・根性共に上昇しているし、回復スキルもいくつか習得していた。今回の天皇賞でも本気で向かってくることは疑うべくもないだろう。

 

 逆に言えば、今回の天皇賞において、その2人の他に脅威になる相手はいない。

 レースへの対策は既に取り終わっている。後は当日まで、ウィルの状態を最良に保つだけだ。

 

 

 

 そういうわけで、担当は不在で、こなすべき仕事もその大半を処理し終えて……。

 その日は極めて珍しい、すべきことのない日だったんだ。

 

 最近はお休みの度に、半分くらいの確率でウィルにお出かけに誘われたりもしていたんだが、今日はブルボンと一緒にどこかへお出かけするとのことでそれもなく。

 最後に念のためメールフォルダを確認しても、2件程連絡こそ来ていたけど、その処理も10分程で終わってしまい。

 

 その日は、朝の9時の時点で、完全にやることがなくなってしまった。

 

 俺や昌は社会人であり、トレセン学園に雇われる立場の人間だ。

 しかし、学園という名目を保つために雇用という形を取ってこそいるものの、その実態はどちらかと言えば個人事業主に近い状態であり、休みの日をズラすなり勝手に働くなり残業しまくるなりと、割と自由に活動することができる。

 まぁ、あんまり働きすぎるとたづなさんとか理事長に怒られたりもするんだけど……そこはもう、ウマ娘のトレーナーだからな。働かないならともかく、働きすぎるのは仕方がないというものだろう。

 

 

 

 で、俺の今年の休暇の消化状況と言えば……。

 

「今年の取得休暇日数が119日、有給が14日で……有給はもう3日使った。休暇は残り112日か」

 

 たづなさんがどうしてもと言うので有給は積極的に使ってこそいるが、そもそもの休暇の取得状況は芳しくはない。

 ウィルのお願いで使用した有給まで合わせても、約4か月で10日。

 そう考えると、1年でおおよそ30日くらい休める計算になるだろうか。

 おおよそ休みというものがなかった去年に比べると、これでもだいぶ休みが増えたと思うんだけど……。

 

 ……いや、冷静に考えると、30日休暇を取るのはちょっと無理か。

 夏が来れば海外遠征だし、それが終われば、ウィルのことだからまたレースに出たがるだろう。そうでなくとも、勝てばお仕事の依頼は激増するだろうし。

 ブルボンだって菊花賞へのトレーニングが苛烈になるし。

 比較的穏やかだったこれまでとは違い、休暇を取得するだけの暇はなくなっていくはずだ。

 

 となると、今年の休暇は20日使えるかどうか、だろうか。

 ……報告を上げる時にはバレないように上手く取り繕わないと、たづなさんからお説教を受けそうだ。というか最悪理事長に呼び出されて熱血説教を受けかねない。

 

 いや、というかそもそもさ、ウィルとブルボンを同時に担当して、まともに休暇なんぞ取れるわけがないと思うんだよね。

 片や史上2人目の無敗三冠。そして今やG1レース7勝、永遠の皇帝と並ぶ国内最多勝利の栄誉を得た稀代の大逃げウマ娘でもある。

 片や次なる無敗三冠に近付きつつある皐月賞ウマ娘。血統と適性という大きすぎる壁を越えクラシック三冠を獲るのではないかと期待される年若き優駿。

 俺が担当しているのは、実力も伸びしろも注目度もカンスト状態の2人だ。当然ながら、それに比例して業務の量はなかなかすごいことになっている。

 

 その上、割と最近気づいたんだけど、どうやら俺の情報収集の方針は他のトレーナーに比べても相当に慎重かつ膨大らしい。

 仲良くしている同期のトレーナーと話す時、何度かどうにも噛み合わないなと思うことがあったんだが、どうやら一般的なトレーナーは1年後のレースの戦力調査とかはしないらしいんだよな。

 ……不安にならないんだろうか、それ。俺だったら将来のプランの組めなさに滅茶苦茶不安になりそう。

 

 

 

 そういうわけで、普段から多忙極まる俺や昌は、1年を通しても殆ど休暇を取得することができない。

 だからこそ、せっかく時間が空いた今のようなタイミングには、一旦レース関係から思考を切り替えてリセットするためにもしっかりとお休みをいただくべきだろう。

 

 とは言っても、俺には仕事関係を除けば、趣味なんて1つしか持ってはいない。

 休暇にすることなんて、部屋の掃除か体の調整、睡眠かその趣味くらいしかないんだよなぁ。

 

 掃除や整理も終わってるし、睡眠も十分に足りてる。

 であれば、今日はやはり趣味に精を出すべきだろうか。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そんなことを思っていた俺に、声がかかる。

 

「兄さん、こっち終わった」

 

 言いながら俺のデスクに書類を置いたのは、サブトレとして2人を共に支えてくれている俺の妹、昌。

 彼女にはいくつか仕事を頼んでいたんだけど、どうやらそれを終えたらしい。

 軽く確認してみるけど……うん、しっかり処理されてるっぽい。詳細は明日検分するけど、少なくとも大きな齟齬はないな。

 

 俺は書類を揃えてファイルに収めながら、昌に笑いかけた。

 

「お疲れ様、昌。それじゃ今日はここまで、後はお休みで大丈夫だよ」

「了解」

 

 ふぅ、と息を吐く昌は、やや疲れ気味と言った様子。

 ここ1週間は働きづめだったし、一時期前なら疲労困憊で倒れそうになっていたと思うんだけど……流石は昌、早くもトレーナー業に慣れて来つつあるらしい。

 彼女がトレセンに来たのは去年の8月末という話だったから、今月でサブトレーナー歴8か月になるか。

 やっぱり、時期を同じくする頃の俺より、昌は習熟が早い気がする。

 まぁ、多少なりとも先達の俺がやり方とか教えられるし、耐えられるギリギリくらいの仕事を振って鍛えてたってのも大きいかもしれないが……。

 

 しかし、この仕事を数十分で片付けることができた、か。

 いよいよ昌も、しっかりトレーナーをやっていけるくらいには仕事に慣れて来てるな。もう重賞級のウマ娘なら1人で担当できるはずだ。

 やっぱり秋は、昌にこっちに残ってもらってブルボンを支えてもらうのがいいだろうな。その後は、彼女の望み次第ではあるけど、サブトレを続けてもらうか独立させるか……。

 

 

 

 そんなことを考えていた俺は、何か言いたげに昌が俺を見ていることに気付く。

 今日は担当ウマ娘が不在ということで、コンタクトではなく眼鏡の向こうから、どことなく不安げな視線がこちらに向けられていた。

 

「ん? 何、どうかした? あぁ、明日ならまた8時に……」

「兄さん、今日は何をして過ごすの?」

 

 やや食い気味に聞いてくる昌にやや面食らいながら、素直に答える。

 

「え? えっと、釣りにいくつもりだけど」

 

 相手の意図を掴み損ねたぼんやりとした回答。

 それに対して、昌が返してきた言葉は……正直なところ、完全に予想外なものだった。

 

「……ね、それ、私も付いて行っていい?」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 俺の現状唯一の趣味は、釣りだ。

 いやまぁ、月1くらいしかできないし、特段上手くもない……というかスカイに聞く限りではかなり下手みたいだし、趣味って言える程やり込んでいるわけじゃないけどさ。

 

 ただ、ぼんやり釣り糸を垂らしながら、最近のこととか考えてる時間は、静かでゆったりとしていて、何と言うか……落ち着く。

 頻繁に行おうと思うとちょっとアレかもしれないけど、月1ペースでゆったりとした時間を過ごすには、ちょうど良い習慣であると思う。

 

 それに加えて、良い釣具を買ってみたり、スカイに聞いたテクニックを試したり、より良い餌を仕込んでみたり。

 そういった試行錯誤を繰り返す内、前よりは明らかに魚がかかるようになったし、そういう成長要素が楽しめるのも良いところだ。

 ……まぁ、うん。結局今も1日に2、3匹釣れるかどうかだし、釣れたとしても小物ばっかりなんだが。

 

 

 

 そんなわけで、俺はその日も釣り糸を垂らしに海を訪れていたんだが……。

 

 まさかそこに、昌まで加わるとはな。

 

 

 

「それで、どうしたの?」

 

 快晴とは言えないまでも、気持ち良い晴れの照らす海。

 予備の竿を抱えて同じように海に向き合う昌に、俺は婉曲に尋ねた。

 

 兄妹だからこそ断言できるけど、昌はこういう静かな時間を好む質ではない。

 子供の頃からそうだけど、この子は動きとか変化とか、そういうアクティブなものを好む方だ。

 休日には、自室で静かで落ち着いた時間を過ごすより、彼女なりの趣味に精を出すタイプだろう。

 

 更に言うと……すごく情けないことを言うようだが、普段の言動から考えても、彼女は多分俺のことをあまり好きではないのだと思う。

 いや、多分、家族としての愛情がないわけじゃない。けど、人間としてはちょっとどうかと思う……みたいな、そういう扱いなんじゃないかな。

 

 だからこそ、なんでせっかくの休みの日にわざわざ俺に付いて来たのか、結構疑問だったんだが……。

 

「……まぁ、色々。ちょっと言っておきたいことがあったっていうか」

「言っておきたいこと」

 

 いつも明朗快活な昌が、こうして口ごもるのはなかなかに珍しい。

 オウム返しに確認すると、彼女はコクリと頷いた。

 その唇はきゅっと結ばれ、眉根はキュッと寄っている。

 

 ……なんか、ちょっと様子が変だな。

 落ち込んでる……じゃなくて、緊張してる?

 

 こんな昌は珍しいな。

 この子、大事な試験やパーティの前でも、むしろ自分を奮い立てるように強気なことが多いんだが。

 

 そんなことを思っていた俺に対して、昌はちらっと一瞥を投げて……。

 

 そうして、ちょっとばかり驚くべきことを言ったのだった。

 

 

 

「誰にも言ったことなかったんだけど、私、霊感あるんだよね」

 

 

 

 れいかん。

 

 冷感……いや、霊感?

 

 え、霊感? いわゆる第六感とか霊視とか、そういう方向性の霊感?

 

 

 

「……そっかぁ」

 

 思わず口から漏れた言葉は、そんなぼんやりとしたものだった。

 いや、正直どう反応しろって言うんだ感が強いよこれ。

 

 言うならば、親しい友人からいきなり「隠してたけど、実は俺、某国の王様なんだよね」って言われたイメージに近い。

 すさまじく現実感がない。思わず「本気で?」と訊きかけて、失礼だろうと思ってやめたくらいだ。

 人間は大抵の場合、相手に一定のリアクションを求めて言葉を出すわけで、こういう唐突で狙いの読めない、なおかつインパクトが大きくて混乱する言葉には、上手く返し辛いのだ。

 

 

 

 しかし、霊感か……。

 

 大前提として、俺は彼女の言葉は信じたいと思う。

 

 堀野昌という女性は、俺にとってすごく特別な人間だ。

 俺にとって大事な家族であり、可愛い妹であり、今はサブトレをしてくれる協力者であり、俺の前世関係の知識を唯一知り、信じてくれている人でもある。

 

 だからこそ、俺も彼女の言葉を信じたいと思う。

 たとえ、それが突拍子もないような、冗談じみたものだとしても、だ。

 

 ……が。

 それにしても、彼女の言葉は唐突すぎた。

 

 霊感。

 普通の人間には見えないものを見たり感じたりすることのできる、超常的な感覚。

 

 勿論、俺は前世も今世もそんなものは持ち合わせてはいない。

 いや、「アプリ転生」によるステータス等の知覚をこれに数えるのなら、ある意味では持っていると言ってもいいかもしれないが……。

 それでもやはり「自分が見えないものが見える」と言われると、少し身構えてしまう。

 

 

 

 しかし、だからと言って昌の言葉を信じたいと思う心に嘘はない。

 故に、ひとまずは彼女の話を聞くことにした。

 

「……えっと、具体的には何が見えるの?」

「変なモノ。元々生きてたモノもいれば、そうじゃないのもいる。それから、その人の魂の色も」

「変なモノは置いといて、魂の色か。どんな感じ?」

「うん。その人だけの色っていうか人間とかウマ娘がそれぞれ違う十人十色の色を持ってて……あ、そうだ、ウマ娘が領域を開く時はピカッて光ったりもする」

「あぁ、そうなんだ」

 

 うん、よくわかった。

 

 ガチだな、これ。

 

 

 

 領域は、ウマソウル……つまるところ、前世世界の馬から受け継いだ魂によって発生する現象だ。

 いや、正確にそういう描写があったわけではないし、何なら結構前のことだからうろ覚えだけど、そういう設定の仄めかしがあった記憶がある。

 

 だが、この世界の人間は、それを認識することができない。

 ウマ娘のウマソウルなんてものは科学的に解明されておらず、そもそもこの世界と前世の世界が関連してるなんてことは誰も知らない。

 故に、領域を発生させるのはあくまでウマ娘の「種族的」特異性であると認識されている。

 

 つまりは……何と言えば伝わりやすいか。

 チーターは脚が速いとか、イルカは超音波で周りを感知するとか、蜂が毒を持つとか。

 ウマ娘が速く走れたり、人間には感知できない領域というモノを開いたりするのは、そういった種族的な特徴であると。それが世間一般の認識なのだ。

 まぁ、科学的に解明できるものではないようだし、間違えるのも仕方ないと思うんだけどさ。

 

 しかし、今。

 昌は「魂」と言った。

 俺のように前世の知識を持ち合わせなければ繋がらないはずの、固有スキル(領域)ウマソウル()

 この2つを関連するものとして語った時点で、彼女が一般的には感覚できないナニカを感じているのは間違いのない事実になった。

 

 前世の知識を持ち、ウマ娘の魂に多少なりとも知識のある俺だからこそ、彼女が「ソレ」を見ていると確信できる。

 

 

 

 ……あぁ、安心した。

 

 これで俺は、昌のことを心から信じることができる。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「……ごめんね」

「は? 何が」

 

 思わず口を突いて出た謝罪に、昌はやや苛立ったような、あるいは不安に思うような声を出す。

 もしかしたら、俺が「悪いけどそれは信じられない」って言ったりするのかと思ったのかもしれない。

 

 違うんだ、昌。

 俺が謝りたいのは、そこじゃない。

 

 俺は海から彼女に視線を移して、改めて頭を下げる。

 

「全然、気付いてあげられなかった。昌が霊感を持ってるって……気付くべきだったのに」

 

 俺がそう言うと、彼女は……安堵したような、あるいは怒ったような、不審に思ったような、複雑な表情を浮かべた。

 

「いや、隠してたんだから、気付かないのは当然でしょ。兄さん以外の誰だって気付いたことなかったし」

 

 確かに、昌は隠し事が上手い。

 ウィルみたいに仮面を被るのが上手いってわけじゃないけど……なんというか、人の心を推し量るのが上手で、だからこそバレないように立ち回るのが上手いというか。

 

 対して俺は、ご存じの通りコミュ力はちょっとばかり貧弱だ。

 昌がちゃんと隠そうとしたことを、誰も気付かなかったことを、気付けるとは思い難い。

 

 けれど……。

 

「いや、俺だけは気付かなきゃいけなかったんだ。

 だって俺は前世の記憶を持ってて、そういう他人とは違うことの苦しさとか、それを他人に信じてもらえない辛さを知ってる。

 そして、昌はそんな俺の秘密を信じてくれた。共有してくれた。

 だからこそ、俺は、相談される前に昌の秘密に気付かなきゃいけなかった。昌に助けられる分、こっちも助けなきゃいけなかった。

 だから、改めて、気付かなくてごめん。1人で辛い思いをさせて、ごめんね」

「…………」

 

 

 

 しかし……霊感か。

 創作物だと、むしろ霊感を持っていることで被害に遭うようなことも多いよな。その辺大丈夫だろうか。

 

「でもさ、すごくにわか意見になっちゃうけど、大丈夫なの? 見えちゃうからこそ危ない、みたいな話もあるけど」

「……まぁ、時々大変だけど」

「そっか、そうだよね。もし何か手助けが必要なこと、そうでなくとも話を聞いて欲しいってことがあれば何でも言ってね、力になるから」

 

 俺は昌に、色んな面で助けられてきた。

 いや、直接的に何かしら助けられたっていうわけではないけど……。

 それでも、前世の記憶なんていう胡散臭すぎるものを信じてくれた昌には、精神的に強く支えられたと思っている。

 

 だからこそ、今度は俺が昌を支えるべきだ。

 彼女の霊感を信じ、何か困ったことがあれば可能な限り力になるべきだろう。

 

「…………はぁ、そう。そんなに簡単に信じちゃうんだ、霊感」

「まぁ、信じられるって思ったし……何より、昌の言葉だからね。信じるよ」

「ふーん、そ。ま、いいけど」

 

 昌はこちらを一瞥した後、何とも言えない表情で、海の方を見る。

 

 その表情は、喜んでるようにも、怒っているようにも、あるいは照れているようにも見える、なかなか複雑なもので。

 人とのコミュニケーションに秀でるわけではない俺には、昌が今何を考えているのかは読み解けない。

 

 けれど……。

 彼女の表情は、いつもよりも少しだけ、本心に近いように思えた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ちょうど俺の竿に手応えがあり、かかったと思ったら稚魚だったのでリリースした後……。

 昌は、改めてといった感じで口を開いた。

 

「それじゃ1つ、兄さんに相談しときたいことがあるんだけど」

「うん、何?」

 

 俺はできるだけ気負わせないように軽く、しかし同時に可能な限り真摯に、昌の言葉に応えた。

 

 もしかしたら、厄介なナニカに絡まれたとか、そういう話だろうか。

 その場合は、堀野のツテで有名なそっち方向の先生を頼るべきか。

 いや、もしくは、俺の前世の知識や転生知識で何かしら力になれるかもしれない。

 

 俺はとにかく、彼女の力になろうと、内心密かに意気込んで……。

 

 しかし。

 彼女の口から出てきたのは、想像すらできなかった言葉だった。

 

 

 

「ホシノウィルムさんのご両親さ、まだこっちにいるんだよね」

 

 

 

 俺は、その言葉の内容を理解するのに、数秒を要した。

 

 それは、昌が霊感を持つというのなら、十分に予測できるはずのものだったのに……。

 全く以て、これっぽっちも予期できなくて。

 

 思考の空転と、瞬きの回数が増えることを感じながら、掠れる声を捻りだす。

 

「……本当に、ウィルのご両親が?」

「本当にいる。今ここにはいないけど……多分、今も遠巻きに、彼女のこと見守ってるはず」

「…………ごめん、ちょっと混乱してる。正直、すぐには呑み込めない」

「それでいいと思う。取り敢えず、今はその事実だけ知っといて」

 

 そうして昌は、釣り竿を揺らしながら、独り言のように言葉を漏らす。

 

「最初は、いい気味だって思ってたけど……あの2人、すごく反省してるし、後悔してるんだよ。ホシノウィルムさんの近くには行けずに、それでもこの世に留まり続けて、幸せを願うように遠巻きに見守ってるくらいにはさ。

 それに、あのままじゃホシノウィルムさんとご両親の関係性は、悲しいままで終わっちゃう。そんなの兄さんも嫌でしょ?

 だから……あと2、3か月くらいすれば、私、多分あれと話せるようになるからさ。兄さんが適切だと思うタイミングで、あの子に何かしらの形で言葉を届けてあげてほしいんだ。

 あの2人がホシノウィルムさんにやったことは、最低だと思うけど……それでも、文字通り死んでも死にきれないくらいに反省してるんだ。それならせめて、一言言葉を贈るくらい、してもいいと思う」

 

 ……そうか。

 俺に霊感のことを打ち明けてくれたのも……全部、ウィルのため、そのご両親のためか。

 

「……相変わらず、優しいね、昌は」

「優しいとかそんなんじゃない。ただ……あぁ、もう、どうでもいい」

 

 昌はちょっと機嫌を害したような顔で、一旦リールを巻き、その先に餌がきちんと付いていることを確認して再び海に投げ込む。

 

 相変わらず、褒められると弱いな。

 そういうところは昔から変わらず、可愛いなと思う。

 

 

 







 ウィルもそうですが、妹ちゃんも割とハピエン厨。
 ちゃんと反省してる以上、多少なりとも救いはあって然るべき派閥です。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、堀野歩の真実の話。



(追記)
 投稿日時を間違えていて、少し遅れての投稿になりました。すみません!

(追記2)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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おかわりもいいぞ!

 うめ うめ うめ





 

 

 

 トレセンで好きなスポットある? と聞けば、ここに所属するウマ娘の半分くらいはこう答えるだろう。

 「食堂!」と。

 

 ウマ娘は、ああいや、勿論例外はあるかもしれないけど、基本的にご飯を食べるのが好きな傾向にある。

 というのも、そこには多分、ちゃんとした理由があるっぽいんだ。

 

 私たちウマ娘は人間と同じくらいの体型なわけだけど、人間に比べてかなり激しい運動を行う。

 その辺の無茶は、歩さんですら詳細にはわからないという、ウマ娘特有の謎パワーによって叶えられているわけだけど……。

 いくら不可思議極まるウマ娘パワーと言えど、流石に永久機関なわけもなし。

 そこで消費するカロリー……熱量は、その分ちゃんと食事を通して摂取せねばならない。

 

 そうして運動を行って、体内の残存エネルギーが減っていくと、体は更なる栄養を求める信号を出す。

 まぁ平たく言っちゃえば、空腹感を覚えたりお腹が鳴ったりするのだ。

 

 で、俗に言う通り、空腹は料理における最高のスパイス。

 満腹の状態よりも空腹の状態の方が、味覚は刺激を鋭くキャッチする。

 そんな状態で美味しい食事を取れば、当然ながら好きにもなってしまうというもので。

 

 以上を繋げると、「ウマ娘はいっぱい走るからすごくお腹が空く」→「お腹が空くから食事が美味しい」→「ご飯を食べるのが好きになる」という図式が成立するわけだ。

 

 

 

 この世界にウマ娘として転生した私も、やはりこのシステムの例に漏れない。

 トレーニングの前後はすごくお腹が空くし、そういう時に食べるご飯はめちゃくちゃ美味しく感じる。

 ちょっと悔しいけども、如何な転生者といえど、種族の本能には逆らえないというわけだ。悔しい、でも食べちゃう! ぱくんぱくん。

 

 そんなわけで、今日もワイワイガヤガヤと活気に満ちる食堂で、私は食堂の職員さんに注文を付けた。

 

「大満足ミックスフライプレートAセット、ライス特大盛り、飲み物は牛乳、汁物はお味噌汁で。それと単品でにんじんハンバーグ、肉ごぼううどん、海鮮丼と、それからおいなりさんもお願いします」

「は~い。えー、料金2320円になります」

「支払いはカードで」

「はい……確認しました。それでは番号札を取ってしばらくお待ちくださーい」

 

 私は発行された番号札を取り、今日のご飯を思って思わず微笑を漏らす。

 あ、職員さんがちょっと変な顔してる。素顔出すのも程々にせねば。

 

 トレセン食堂のメニューは、小食な人間の職員さん向けの小盛りから、大食いウマ娘用の超絶スペシャル大大大盛りまで、とんでもなく広い範囲を抑えている。

 

 その内、私が頼んだのは、全部合わせるとウマ娘向けメニューとしても結構な量だった。

 こう見えて私、昔から結構な大食漢なのです。

 ……まぁ、歩さんの前では、あんまり食べ過ぎないようにしてるけどね。恥ずかしいし。

 いっぱい食べる君が好きって言葉もあるが、アレは※ただし太らない場合に限る、という注釈が付くヤツだからな……。

 

 しかし改めて、この量で2000円強ってめっちゃ良心的な価格だよなぁ。

 しかも栄養も豊富な上、しっかりと美味しいっていうのが本当にすごい。

 

 私は一応、北海道にいた頃に一人暮らししてたからわかるんだけど、これ、本来は倍以上お金を取ってもおかしくないヤツなんだよね。

 どれだけ格安で食材仕入れればこの値段で出せるんだろう。いや、人件費とかも考えると多分ペイできないよね。ひょっとすると、赤字覚悟の値段設定なのかもしれない。

 こっちを赤字経営してもトゥインクルシリーズでのレース興行で取り戻せるっていう判断だろうか。私たちウマ娘からしたら、ありがたいことこの上ないな。

 

 

 

 超コスパご飯に内心で感謝を捧げていると、後ろから声がかかる。

 

「ウィル、相変わらず食べるねぇ」

 

 ちょっと呆れたような声と視線の主は、私の親友でありライバルであり、今は休養中の競走ウマ娘、ナイスネイチャ。

 

 私は彼女とは違うクラスだし違う陣営なんだけど、それでも昼食の時なんかは一緒することも多い。

 ま、陣営やライバルっていうのと学生的な友達関係はまた別のものだ。むしろ、レースの中で友情が培われることで、それらを兼ねることも決して少なくないのが実情。

 

 そんなわけで、レースではバチバチに手加減なくやり合う私たちではあるけど、トレセン学園内では……特に学生らしく授業が行われる午前中や食事を取る際には、一緒にいる時間もある。

 

 今日はトレーナーやブルボンちゃん、ライスちゃんに呼ばれることもなかったし、せっかくだからとネイチャと一緒に食事を取ることにしたのであった。

 

 

 

「よく食べるのは……正直、ちょっと卑しい理由ですが。

 私、早くに両親亡くして、トレセンに来るまではかなりの借金持ちでしたから。美味しいものをいっぱい食べられるのって幸せなんですよ」

「おおう、思ったよりもハードな理由が飛び出てきた」

「まぁ、G1勝ちまくってる今は、むしろ資産がすごいことになってるんですけどね。毎日遊んで暮らせるくらいには」

「そして思ったよりもすごい自慢が飛んで来た」

「というか、むしろネイチャの方は、トレーニングもあるのにそれで足ります?」

 

 私より早く来て注文を終えていたネイチャが持っているお盆には、私の食事の4分の1にも満たない量しか乗っていなかった。

 大盛りカレーライスににんじんスティックサラダ、それとミルクティーくらいだ。

 ウマ娘どころか、人間の男性でも十分に完食できるであろう量しかない。

 

 いっぱい走るウマ娘として、それだけしか食べないのは如何なものかと思ったんだけど……。

 訊くと、ネイチャは眉をひそめ、何かを誤魔化すように笑った。

 

「ま、まぁ……ちょっと、うん。ウィルに誤魔化すのは無理だと思うからぶっちゃけると、体重がね?」

「あぁ、ネイチャって故障での休養中だからトレーニング緩めですし、この前カフェの新作いっぱい出たって言ってましたもんね。やっちゃいました?」

「うぅ、あれは失敗だった……。私、結構太っちゃう体質だからなぁ」

「大変ですねぇ」

 

 いや、本当は大変かどうかは知らんけど。

 私、前世でも今世でも、体重とかって気にしたことないんだよねぇ。

 

 前世では自分の容姿とか気にする質ではなかったし、そもそも食にあんまり興味がなくて多くは食べなかったから、太ることもなかった。

 一方今世では、体作りのためにもいっぱい食べてはいるけど、こっちは体質がね……。

 

「むしろ、ウィルはそんなに食べて太らないの? 毎日そのくらい食べてるよね」

「あー、私、どうやら太らない体質らしくて。歩さん曰く、基礎代謝がすごく高くてそちらにカロリーを食われてるんじゃないか、って」

「そ、そんだけ食べて太らないの!? ズルじゃん!!」

「……まぁ、横に大きくならない分、縦にも大きくはならないんですけどね」

 

 ネイチャは羨ましがってくれてるみたいだけど……。

 多分だけど、私、この体質のせいもあって身長が伸びなかったんだって思うんだよね。

 成長に使うはずの栄養まで、基礎代謝に食われちゃってるみたいな? いや知らんけど、そういうことなんじゃないかなーって思うのです。

 

 まぁ、代謝が高いからこそ、手がいつも温かいっていう恩恵もある。

 そこを言い訳にして、冬の間は歩さんの手を握り放題なので、それはそれでいいんだけどさ。

 

 でも、本格化が始まると体格固定されちゃうっていうのがね……。

 こんなロリ体型じゃ、成人男性の興味はなかなか惹きづらい。せめてあと10センチくらいは伸びてほしかったんだけどなぁ……。

 

「はぁ、痩せたい……」

「はぁ、成長したい……」

 

 私とネイチャは、それぞれの悩みにため息を吐いたのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 その場で嘆いていても、話も食も進まない。

 私たちは不毛極まる話を切り上げ、私の分のメニューを受け取って、近くの席に着いた。

 

 当然と言えば当然なんだけど、私たちは結構有名なウマ娘だ。

 シンボリルドルフ会長と並ぶ無敗三冠&国内最多勝の私と、G1こそ取ってないけどその私が認める強きライバルのネイチャだもんね。

 そんな私たちがいるとそりゃ多少は注目されるわけで、いくらか向けられる視線を感じるけど……。

 私もネイチャも、そんな好奇の目には慣れっこだ。暗黙の了解で無視を決め込む。

 

「さて、いただきます」

「いただきまーす」

 

 2人して手を合わせながら、合唱。

 

 うん、今日もトレセンの学食はめちゃ美味しそうだ。

 エビフライやヒレカツなど各種フライが盛られたミックスフライは見るからに揚げたてで、お箸で触れただけで衣のサクサク感が伝わって来る。

 これに添付された甘辛のソースやタルタルソースを付けて、それをこの文字通りの「山」盛りご飯と一緒に口に入れれば、口の中にはこの上ない幸せが生まれるに違いない。

 

 更に、ちょっとフライと油に飽きて来たら、そこには肉厚でジューシーなハンバーグと、それに刺さったまろやかな甘さを持つにんじんが待っている。かけられた濃厚なデミグラスソースが眩しい。

 そしてお次は海の幸、海鮮丼。マグロっぽい赤身とかホタテとかイクラとかが乗ったこれは、お醤油をかけてちょっと大口でいただく予定。

 脂が喉を滑り落ちれば、ちょっとさっぱりした口で肉の出汁がよくなじんだうどんをすすり、最後の締めには落ち着いてお味噌汁。

 あとついでに本格化が終わったら背が伸びるよう、願掛けとして牛乳も。

 

 あぁもう、想像するだけでたまらない。さっそくお箸と口を動かすとしよう。

 

 

 

「うぇへへ」

「ウィル、口元緩んでるよ」

「おっと」

 

 ネイチャに指摘されて、慌てて表情を立て直す。

 

 うーん……最近、表情を繕うこと忘れがちなんだよなぁ。

 元はこの仮面、お父さんに嫌われることを避けるためってのと、両親を喪ってこの世界を1人で生きていく上で、誰かに騙されたり弱みに付け込まれたりしないようにと被っていたんだけど……。

 

 今は、私は1人で生きてるわけじゃないってわかってる。

 

 私を救い育ててくれた歩さん、もう半年以上支えてくれてる昌さん、ライバルであるネイチャやテイオー、マックイーンさん、可愛い後輩のブルボンちゃんにライスちゃんにソウリちゃん……そして、それだけじゃない。

 私を生んでくれた両親、快く家に迎え入れてくれた歩さんのご家族、ライバルたちのトレーナーさん、そして私を応援してくれる多くのファンたち。

 

 私は多くの人に支えられ、守られ、時に元気付け、助けている。

 そういった連鎖的に続く互助の関係こそが世界であり、人生というものだと。

 私はそれに気付くことができたのだ。それはきっと、この上なく幸せなことだと思う。

 

 だからこそ、私が過度に気を付ける必要はないんだ。

 私の死角は歩さんが、昌さんが見ていてくれる。助けてくれる人がいるから。

 

 それに、多少感情を表に出したりしたところで、みんなに嫌われるとも思えないし。

 現に歩さん、最近はあんまり仮面被ってないけど、むしろどっちかと言えば嬉しそうなくらいだし。

 

 そういうわけで、正直今の私には、この仮面を被り続ける必要性はないんだけど……。

 まぁ、そこはなんというか。

 ほら、急にキャラチェンジなんかするのは良くないし? みんな困惑するかもしれないし?

 そういうわけで、私は未だ惰性で仮面を被っているのであった。

 

 必要性がなくなった分、前に比べるとだいぶ脆くなってしまっているけどね。

 

 

 

 何はともあれ、私たちは食事を始める。

 年頃の女の子としてはどうかと思わないでもないけども、やっぱり美味しいものをいっぱい食べられるのは幸せだ。

 ……昔は、食事なんて栄養補給できれば何でもいいって思ってたんだけどね。

 本当、人生って何が起きるかわからないし、自分がどう変わるかなんて予想も付かないものだ。

 

 サクサクジューシーなフライとちょっと固めに炊かれた白米を口に運ぶ作業を繰り返していると、ふとネイチャが聞いてくる。

 

「そいえば、最近はどーなのよ」

「どうって、何が?」

「レースだよレース。天皇賞までもう数日じゃん? 準備は万端?」

 

 普通、レース直前のウマ娘にこういうこと聞くのは、ちょっとセンシティブだったりする。

 ネイチャ、普段ならそういう空気をすごく大切にするイメージがあるんだけど……。

 

 ま、私たちの仲だもんね。

 そんな余計な気遣いは、むしろ失礼ってものでしょう。

 

「逆に聞くけど、私が準備を怠ってると思います?」

「いや全然。……ホント、少しくらい怠ってくれるならつけ入る隙もあるってものなのにさ」

「そんなこと言って。実際怠ったりなんかしたら、少なからず軽蔑するでしょうに」

「まーそうだけどさぁ」

 

 私たちは、同じレースシリーズを走るライバルだ。

 当然ながら、同じレースに出走すれば、お互いがお互いを越えようと全力を尽くすことになる。

 

 しかしながら、真に越えたいのは相手ではなく、相手の「全力」。

 血の滲むようなトレーニングを経て、これ以上ないくらいにレースに集中し、確信する程に必勝を誓っている……。

 そんな相手だからこそ、本気で越えるに値するのだ。

 

 そこは私も勿論、目の前のネイチャも同じこと。

 何かと冷めがちな態度の目立つ子ではあるが、その奥底には誰より熱いガッツが眠っていることを、私はよく知っている。

 

 いやー、今ならわかるな、アニメ1期のグラスちゃんがスぺ先輩に「今日のスペちゃんなら、私の相手じゃありません!」した時の気持ち。

 レースに集中できてないライバルとかマジで興醒めすぎるもんね。

 自分が越えたいと思えた数少ない相手が、レースでその全力を振るってくれず、弱いものイジメみたいに倒さねばならないなんて……スペ先輩には悪いけど、私なら「最悪」とか言っちゃうかもしれない。

 

 私たちのレース人生は短く、出走できるレースは限られている。

 ライバルとして目しているネイチャでさえも、私はまだ3回しか公式レースで一緒に走れていないんだ。

 

 だからこそ、その滅多にない機会くらい、お互い全力を尽くし合いたいと思う。

 そうじゃないと、勿体ないもんね?

 

 

 

「実際、天皇賞はどんな感じなの? 相手はあのテイオーとマックイーンさんなんでしょ?」

 

 ネイチャの言葉に、改めて思考を現実に戻す。

 数日後に迫った天皇賞。ライバルはテイオーとマックイーンさん……。

 

「そうですね、警戒すべきなのは間違いないです。まぁ、負ける気は欠片もありませんが」

「それはあっちもそうだと思うよ。誰だって勝つ気で来るでしょ」

「うーん……」

「んう? 何、どうかした?」

 

 私はうどんをちゅるちゅるして、しっかり吞み込んでから、言う。

 

「ん、ん。なんというか、この前のテイオー、『大阪杯でこそ勝つ』って感じだったんですよね。

 この状況でこそ譲れない、絶対に勝つ、みたいな」

「大阪杯で勝てなかったから、それよりウィルの有利になる天皇賞じゃ勝てないって?」

「いや、私はそうは思いませんが。むしろ私の勘はテイオーをこそ警戒しろって言ってるんですが。

 でもそれは、あくまでテイオーをライバルとして認めてる私の感想であって、実際大阪杯でギリギリ負けちゃったテイオー自身としてはどう思ってるのかなーと」

「あぁ……いやでも、天皇賞は回避するとか、そう言う話は来てないよね?」

「はい。だからこそ、テイオーが勝ちに来る気なのか……というか、どういう考えで天皇賞に来るのか、ちょっと読み辛くて」

「あー……私も最近はテイオーと話せてないからなぁ」

「まぁあの有記念を調整に使ったテイオーのことです、何かしら目的というか狙いはあるんでしょうが、はてさてどう出て来るか」

 

 その辺りは歩さんも首を傾げてたからなぁ。

 今私の目の前でミルクティーを飲んでるネイチャなんかはその辺、最適解を求めてくるというか、最大目標に向けてすごく素直に動くから、まだ読みやすいらしいんだけど……。

 対してテイオー陣営は変幻自在、どう出て来るかわからない、とのことだ。

 自分でも言ってたけど、歩さんはどうにもテイオーたちと相性が良くないらしい。

 

 ま、アレだ。

 トレーナーとウマ娘は常に二人三脚。

 歩さんが苦手な相手に対しては、私がなんとかするとしましょう。

 

 任せてほしい、私はこれでも転生チート無敗三冠国内G1最多勝ウマ娘なんだからね。

 

 ……我ながら、枕詞、どんどん多くなってきたなぁ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 どんどんパクパクと食を進めること20分かそこら。

 私たちは、無事に昼食を完食した。

 とは言っても、私もネイチャも……特にネイチャは腹八分目というところだろうが。

 

 ……さてと、良い感じに落ち着いたところで。

 そろそろ、話題の切り出し時だろうか。

 

「実はですね、ネイチャ。今日はちょっと相談がありまして」

「ほう、ウィルが相談とな」

 

 そう。

 今日、私はネイチャに、1つの相談を持ちかけるつもりだった。

 それも、少なくとも私にとっては、すごく大事な相談を。

 

「話を聞いてくれるんなら、ケーキを奢ります」

「う、ぐ……いや、私今ダイエット中だし……」

「ケーキ1つくらいならそう変わりませんし……これは、あくまで棚からぼたケーキ。ネイチャ自身が頼んだものじゃありません。たとえそれを食べたとしても、ただ捨てるよりずっと良い行動のはず。だから、ネイチャはこれを食べるという決断をしても、悪くないんです。ね?」

「くっ……! ……いいよわかった、話を聞きましょう!」

「ありがとうございます、ネイチャ。流石私の親友」

「やっすいなぁ親友って言葉!」

 

 

 

 オーダーした300円近くする美味しいケーキが届くのを待ってから、私は口を開いた。

 

「先に言っておくと、今回は真面目な相談です」

「おう……ウィルの真面目な相談か。正直ちょっと身構えるね」

「身構えてもらって結構。そうしてもらっていいくらい、真剣なものですから」

 

 そう。

 今回ネイチャに相談するのは、私にとって最も大事な話になる。

 

 あるいはホシノウィルムという存在の根幹を覆してしまいかねないくらいの、とてもとても大事な話。

 

 私は知らず俯いて、声のトーンを落として言う。

 

「本当に、ネイチャだからこそ相談するんですよ。意味、わかってくれますよね」

「……うん、わかった。聞かせて」

 

 きゅっと表情を引き締めて、ネイチャは真剣な表情になってくれた。

 あぁ、本当にありがたい。こんな友人だからこそ、何でも相談できるというもので。

 

 だからこそ……本当は誰にも相談できないようなことさえ、話せるんだ。

 

 

 

 私は一度、大きく息を吸い込んで、吐き……そして、ゆっくりと話し始めた。

 

「相談の内容はね、歩さんの、つまり私のトレーナーのこと。

 最近、ちょっと気付くというか……もしかしたら、って思うことがあって」

「うん」

「その仮説は、私たちの関係を揺るがしかねないくらいのもので……それに、私がそれに勘付いてるって、歩さんには知られるわけにはいかないようなコトで。

 でも……もしもそれが本当なら、私と同じってことで、それが本当に嬉しくて」

「その仮説っていうのは……?」

 

 ネイチャに聞かれて、私は……。

 高鳴る胸を押さえつけ、意を決して、言った。

 

 

 

 

 

 

「もしかして歩さん、私のこと好きなんじゃないか、って……!

 も、もしそうなら、両想いなんじゃ、とか……!! そんなこと思ったりして!」

 

 

 

 

 

 

 い……。

 言っちゃった、言っちゃった、言っちゃった!!

 

 私の1番……ではないけど、2番目の秘密。

 歩さんへの、恋心。

 

 カッと熱くなる頬を、思わず手で包む。

 いくら相手が親友のネイチャと言えど……うぅ、恥ずかしい!

 

 だ、大丈夫だよね。ネイチャ、こう見えて口は固いし、他のウマ娘に言ったりしないよね?

 でもどうしよう、「え、そうなの!?」とか過剰な反応されたら! 恥ずかしすぎて逃げ出しちゃうかもしれない……!

 

 あーもう! 土台恋愛偏差値3くらいしかない私がコイバナとか恋の相談とか無理があったんだ!

 もう駄目だ私5秒後には顔真っ赤にしてここから逃げ出してるんだろーなーあーあネイチャがそんな反応するんだもん仕方ないよなー!!

 

 

 

「……まぁ、そんなことだろうと思ったけども」

「え、ちょ!? あの、これでも一応渾身の告白だったんですが! かなり勇気を振り絞ったんですが!? 親友のネイチャだからこそ勇気を持てたんですが!?!?」

 

 思ったよりずっと冷淡な反応に、逃げ出しかけていた足が滑る。

 幸い椅子があったから大丈夫だったけど、なかったらずっこけていたところだった。

 

 な、なんで……?

 友達が、親友が! 一世一代の告白をしたっていうのに! 好きな人を明かしたっていうのに!

 もうちょっと大きい反応があってもいいんじゃないかなって私思うんですけど!?

 

「いや、ウィルが堀野トレーナーさんのこと好きとか前から知ってたし」

「え゛!?」

 

 えっ、な、は!? なんで知って!?

 いやバレるわけないんだが!? 私ちゃんと隠してたんだが!?!?

 

 動揺を隠し切れない私の前で、ネイチャは頬杖を突いて、楽し気にこっちを見てくる。

 

「まぁいいけど……うーん、堀野トレーナーさんがウィルのこと好きなんじゃないかって? あの堀野トレーナーさんが?」

「あ、えーと、そう、そう……なんじゃないかなって。その可能性はあるっていうか、まぁそういう想いを多少なりとも持っていたっておかしくはない、かなーと思ったり? もしくは、そういった感情が一切ないと証明する方法はないんじゃないかなーと思う所存です……」

 

 言ってる内に、どんどん自信がなくなっていく。

 

 というか冷静に考えると、歩さんが私のこと好きとか、ありえないような気がして来た。

 だって歩さん、公私混同とか絶対しないタイプだし。

 しばらく前から彼の言う「堀野のトレーナー」は卒業したみたいだけど、それでも自分の担当ウマ娘に恋愛感情を持つようなタイプかと言われると、首を傾げるどころか横に振らざるを得ない。

 

「合同トレーニングの時、堀野トレーナーとはたまに話すけど……あんまイメージ湧かないっていうか。

 取り敢えず、なんでそう思ったか聞いていい?」

「えっと、ちょっと前に、なんかそれっぽい態度が……」

「うーん……それってさ、恋愛感情って言うより、自分の担当ウマ娘として特別に親愛の情を感じてるってだけじゃないの?」

「うッ!!」

 

 痛いところを突かれて、思わず胸を押さえる。

 

 正直に言うと、そうなのかもしれないと思ってはいたんだ。

 親愛と恋愛の境目って、ヒヨコの性別くらいに難しい。特に恋愛経験値が未だ乏しい私には、その見分けは困難だ。

 だから、もしかしたらあの時の手応えも、ただの親愛の情の延長なんじゃないかって……そう、思わないでもなかった。

 

 でも、でもぉ……うぅ。

 

「やっぱり、そう、なんですかね……」

「あぁいや、そんな肩を落とさなくても……別にそうと決まったわけじゃないからさ」

「そうですよねっ! ワンチャンありますよねっ!!」

「うわビックリした。躁鬱?」

 

 でも、確かにあの時、手ごたえはあったんだ。

 

 私の相手の部屋が必要なくなる……つまり、元から部屋のある歩さんが私のパートナーとして添い遂げる、その可能性があるという……そういう、そういう感じのアレ!

 確かにあの時、私は、歩さんとの関係の進展を感じたのである。

 

 そう、そうだ。

 仮にネイチャの言う通り、まだまだ親愛の領域に留まっているとしても……ここから先もずっとそうってわけじゃあない。

 関係性は確かに進んでいる(はず)。

 

 このままめげずに、歩さんにアタックしていくぞ!

 ……程々に! 恥ずかしすぎて逃げ出さないくらいに!!

 

 

 

「まったく、年頃の女の子の恋はお熱いねぇ。ネイチャさんには眩しすぎるくらいですよ」

「は? 何言ってんですかネイチャ、あなたも自分のトレーナーさんのこと恋愛的に好きでしょうが」

「なぁッ!?」

 

 

 







 (恋愛の)深淵を覗いている時、深淵もまたこちらを覗いているのだ。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、天皇賞直前インタビューの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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煽り全一ウマ娘

 ドゥラメンテサプライズ登場! とかあったら嬉しいけど流石にないか~
 →あ り ま し た

 本作の着想元になった子の1人でもあるのでめちゃめちゃに嬉しいです!





 

 

 

 トゥインクルシリーズのG1レース、天皇賞。

 これは、その名からも察することができる通り、長い歴史と高い格式を持つレースだ。

 

 世代最強を決める若き優駿の華の道、クラシックレース。

 もう1つの覇道、もう1つの王冠の所有者を決める勝負、ティアラレース。

 6月と12月に競われる少し早めのドリームマッチ、グランプリレース。

 

 これらと並んで注目されるのが、春と秋の2度に渡って競われる天皇賞。

 国内最高峰のG1レースである、八大競走の1つなのである。

 

 で、この天皇賞に含まれる2つのレース……天皇賞(春)と天皇賞(秋)。

 これらの最たる特徴が、その条件の違いだ。

 

 天皇賞(春)は国内G1最長の3200メートル、それもスタミナを食いつぶされやすい京都レース場での開催で、長く使える脚の質を測られるが……。

 逆に天皇賞(秋)は、中距離区分最短の2000メートルで、そこまで多くのスタミナは求められないが、その分瞬発的な爆発力が求められる。

 

 これらの2つは、正しく真逆の素質、真逆の能力が要求されるレースなわけだ。

 

 大きく条件が違う理由は、一説によると昔は「短い距離も長い距離も走れるのが強いウマ娘」とされていたから、らしい。

 流石に短距離やマイルは競技性が異なるとしても、ある程度の持久戦になる中距離から長距離はその全てを制覇してこその強者、というわけだ。

 

 ……しかし実のところ、2000メートルや2400メートルの皐月賞日本ダービーと、3000メートルの菊花賞では、求められる素質があまりに大きく異なる。

 三冠ウマ娘が生まれにくい理由の1つがそれで、皐月賞や日本ダービーを制することのできるミドルディスタンスの子は、しかし菊花賞では苦戦を強いられたりするんだ。

 結果として、口さがない評価にはなるが、菊花賞は前2つで勝てなかった子たちの「敗者復活戦」なんて言われることもあるんだが……それはさておき。

 

 最近は「ウマ娘はそれぞれの得意とする部門で結果を残せばいい」という思想が大きくなって来ているので、それだけが強さだと認識されるわけではない。

 ない、んだが……それでもやはり、三冠ウマ娘への尊敬然り、中距離も長距離も制することができるウマ娘が強者として扱われる風習はあるな。もはや慣習のような暗黙の了解だ。

 

 いやまぁ、そりゃあ幅広い強さを持ってりゃ、当然強者ではあるんだけどね。

 ただ「活躍できる距離の幅の広さ=強さ」って理屈でいくと、この世界で最強なのはハッピーミークってことになるんだよなぁ。

 あの子はこれまで、短距離から長距離までの全てで、1回ずつG1レースに勝ってるわけで。

 

 ……改めて考えてもおかしいよね、ミーク。

 全距離G1制覇とか、こんなの空前絶後の記録だろう。とてもじゃないが、今後彼女以外にこれを達成できる子が現れるとは思えない。

 その距離適性は全てがA、何なら脚質適性まで先行と差しがA。並外れたと表現して差し支えない適性の広さ、そして高さだ。

 正直、ウィルと同格か……見方によっては彼女以上の才能だと思う。

 

 まぁ、それでも最強は俺のウィルなわけだが……それは宝塚記念で証明するとして、だ。

 

 

 

 ……だいぶ大きく話が逸れた。

 閑話休題、天皇賞の話に戻ろう。

 

 天皇賞は長い歴史と高い格を持つ、トゥインクルシリーズでも有数の一大レースだ。

 勝者には表彰式で楯が下賜されることから、このレースで勝つことは「盾」とも呼ばれ、決して少なからぬウマ娘たちが栄誉を勝ち取るその日を目指している。

 

 ……そう。

 それはまさに今口を開いたウマ娘も、例外ではなく。

 

「えぇ。今回の天皇賞は、1人の挑戦者として挑むつもりですわ。

 盾の栄誉はメジロ家の宿願。しかし、だからと言ってその重圧に潰されるわけにはいきません。

 私はメジロのウマ娘として、そして1人の競走ウマ娘メジロマックイーンとして、このレースに真摯に挑むつもりです」

 

 その手にマイクを持ち、向けられたいくつものカメラに向かって、メジロマックイーンは堂々と語ったのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 出走ウマ娘への、レース直前インタビュー。

 

 非常に大きな興行であるトゥインクルシリーズのG1レース直前となれば、この手の企画は必ずと言っていい程に開催される。

 流石は国民的スポーツと言うべきか、テレビ新聞ネット記事問わず、この類の企画はかなりの話題性を持っているのだ。

 

 そして、俺の担当ウマ娘は、既にどちらもG1タイトルを獲得している実力者。

 更に言えば、どちらも出走したG1レースで1番人気に推されるくらいに人気と実力を併せ持っている。

 そうなれば当然、ウィルやブルボンもインタビュー企画に招かれることが多いわけで。

 

 これらの企画はほぼほぼ間違いなく、俺たちに依頼が届く前にURAに話が通っている。

 故に、そもそもURAの傘下であるトレセン学園に所属する俺やウマ娘は、実質的にはこれらを断ることはできない。

 トレーナーにとっては、上からの命令による強制的なお仕事だ。学生であるウマ娘たちにとっては、授業……いや、社会見学とか修学旅行とか、そういう認識かもしれないな。

 

 そういう事情もあって、俺たちはこれまでに何度もインタビューを受けてきた。

 とはいえ、しっかりしてる子が多くて忘れそうになるが、ウマ娘たちはまだまだ年若い子供。大人である俺たちトレーナーが横に付いたり、あるいは舞台袖から見守ったりするのが常だ。

 まぁ、最近のウィルはそつなく、それでいてしっかりと新鮮味を意識した回答をしてくれるので心配はいらないだろうが……。

 ブルボンの方は、もうちょっと監督の必要があるかもしれない。自発的には笑顔を浮かべたりしない子だし、結構天然な受け答えも多いからな……。

 

 

 

 そうして今回の天皇賞でも、俺たちの元にはインタビューの依頼がやってきた。

 

 期日は天皇賞の2日前……つまりは、今日。

 その日、俺はウィルを伴い、テレビ局を訪れていた。

 

 そこは1月に最低でも1回、最大であれば10回近く出入りすることもある場所だ。

 俺たちもいい加減慣れたもので、ウィルももはや緊張の様子も見せず「早くトレーニングに戻りたいですし、今日の収録は早く終えられるといいですねぇ」なんて言いながら楽屋入りしたんだが……。

 

 そこには俺たちだけではなく、他にも2組のウマ娘とトレーナーがいた。

 

 当然、トウカイテイオー陣営とメジロマックイーン陣営だ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 今回の天皇賞で最も注目されているのは、3人のウマ娘。

 

 1人は、文句なしの現役最強、それも春の天皇賞において有利なステイヤーである、ホシノウィルム。

 無論、俺の愛バは最強なので、今回の天皇賞も勝つのだが……有識者の中にはウィルが3200メートルを走った経験がないことを不安視する者もいる。

 実際、公式レースでその距離、その条件を走ったことがあるというのは、かなり大きなアドバンテージになる。逆に言えば、その経験がないことはディスアドバンテージになってしまうわけだ。

 まぁ、それでも勝つけどな。

 何故なら彼女は、俺の愛バ、ホシノウィルムだから。信じる理由は、それだけで十分だ。

 

 1人は、現役最強格のステイヤーである、メジロマックイーン。

 昨年の秋の天皇賞に引き続き、悲願を果たさんとレースに臨む彼女は、その距離適性やステータスがレースの条件にこの上なく噛み合っている。

 更に、彼女には去年春の天皇賞を走った経験がある。これは三者の内、彼女だけが持つ有利条件だ。

 そして極めつけに、今の彼女には強者故の慢心や重責による精神不安が見当たらない。その精神も肉体も、まさしく万全と言っていい状態だ。

 今の彼女は、極めて安定したG1ウマ娘と言えるだろう。まさしく、失敗のない名優と言ったところか。

 

 1人は、他2人に比べると条件的な不安はあるが、その隣に並び立てる優駿である、トウカイテイオー。

 どうやら彼女は、大敗してしまった皐月賞やこの前の有記念などから、安定して好走するウィルとマックイーンに比べて、やや浮き沈みが激しいウマ娘だと考えられているらしい。

 ……実のところ、一面において、その考えは正しい。

 沈みはともかく、彼女程に浮きが激しいウマ娘を俺は知らないからな。

 テイオーが本気を出す時、俺の見ているステータスとか観察した調子なんてデータは全て無意味と化す。

 安定はしないが、跳ねた時の爆発力が恐ろしい……こちらは奇跡を起こし得るウマ娘、という感じかな。

 

 

 

 ホシノウィルムはもはや語るべくもなく、史上最強として勝利を最有力視されており。

 メジロマックイーンは去年の天皇賞(秋)を制し、天皇賞連覇への期待がかかり。

 トウカイテイオーはその実力に反してG1どころか重賞未勝利であり、だからこそこの実力者たちを下しての勝利に夢を抱かせている。

 

 去年のとんでもない有記念があったからこそ、そこまで話題沸騰って感じではないけど、それにしても3人の優駿が集うということで今回の天皇賞はかなり耳目を集めている。

 

 総合的な実力で言っても、他に強力なウマ娘がいないというわけではないが、それでもこの3人は飛び抜けている状態だからな。

 俗に「HTM対決」「三強」なんて呼ばれているくらいに、その差は隔絶している。

 

 最強か、安定か、奇跡か。

 天皇賞の勝者予想はこれらの三派閥(と大穴狙い)に分かれ、混沌を極めている……というわけだ。

 

 となれば当然、ファンの方々としてはそれぞれのウマ娘の話を聞きたがるというもので。

 そんなこんなで、この3者同時インタビューが企画されたのであった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 楽屋で出くわした3人は、それぞれが友人関係を築いていることもあって、ウマ娘同士で楽しく話し合い始めた。

 俺たちトレーナーはそんな彼女たちを微笑ましく見守りながら、今日の仕事についていくつか打ち合わせを済ませ……。

 

 そうして、待つことしばらく。

 スタッフに呼ばれてスタジオに赴き、いよいよインタビューが始まった。

 

 今回は3人の同時インタビューということもあり、俺たちトレーナーが映るだけの画面の余裕がない。

 そんなわけで、ウマ娘の3人は舞台の上で並んで座り、俺たちトレーナーは舞台袖からその様子を眺めていた。

 

 

 

 司会はまず、マックイーンに対して話を振っている。

 

「メジロマックイーンさんは昨年の天皇賞でも好走されていましたよね。

 唯一のシニア級2年目ということもあり、この3人の中では最も経験をお持ちかと思われますが、自信の程はどうでしょう」

 

 去年の天皇賞……。

 俺がスカイを焚き付け、結果的に彼女の敗北を導いてしまったかもしれないレース。

 その話題が挙がると、どうしても心に引っかかるものがある。

 

 間違ったことをしたつもりはない。

 ただスカイにファンだと、応援していると、嘘のない想いを伝えた。

 ……ウィルに必要だった、この上なく強力なライバルを用意するために。

 

 だが……恐らくは、その俺の行動の結果として、メジロマックイーンは天皇賞に敗北した。

 勝つはずだった、叶うはずだったメジロ家の悲願を、逃してしまった。

 

 それを思うと、少しだけ心にしこりが残ってしまって……。

 

 けれど、当の彼女は全く気にしていないというように、軽く首を振ったのだった。

 

「去年の天皇賞では、セイウンスカイさんの素晴らしい奇策にしてやられましたが……逆に言えば、私には1度、厳しいレースを走った経験があるのです。

 敗北の経験も飲んだ苦汁も、その全てを糧にして、今年こそはライバルに、そして私自身に打ち克ってみせますわ」

 

 綺麗に話を畳んだマックイーンは、チラリとテイオーやウィルの方に目を向ける。

 必ずやお前たちを打ち破ってみせると、その視線に敵愾心と期待を込めて。

 

 

 

 ……それを見て、ふと思う。

 いつまでも去年の天皇賞を引きずるのも、彼女への侮辱になってしまうかな、と。

 

 彼女はもう、過去の敗北を振り切っている。

 後悔し、自省し、それを……いいや、人生のあらゆる経験を、自分の成長に繋げている。

 

 彼女が糧にしたものを、さも悪いモノであるかのように扱うのは、あまり良くないかもしれない。

 過度に色んなものを背負い込み過ぎるのは悪い癖だと、いつも昌に言われているし……。

 それは、彼女がそうして培ってきた努力と成長の否定になってしまいかねない。

 

 いい加減、思考を切り替えなきゃな。

 罪悪感を感じるのはいいが……記憶の中の過去を、背負い込みすぎないようにしなければ。

 

 

 

 一瞬だけまぶたを閉じて反省した後、改めてマックイーンの様子を観察。

 

 メジロマックイーンは、流石と言うべきか、精神も肉体も完璧に仕上げてきている。

 G1レースである大阪杯を避けただけあって、不調の兆候は欠片たりとも感じられない。この天皇賞に全力を注ぐつもりなのだろう。

 

 元より彼女の実家であるメジロ家は、天皇賞の勝利をこそ主眼に据える方針だ。

 自らをメジロのウマ娘であると強く自覚するステイヤーの彼女にとって、今回のレースの勝利は宿願と言えるものだろう。

 

 既に去年、彼女は秋の天皇賞を制した。

 雨降る中の東京レース場、冷静沈着に事を進め、まずは1つ目の楯を勝ち取ったんだ。

 

 であれば、次に目指すべきは春秋連覇。

 ステイヤーとしての本領を発揮し、誰もが認めざるを得ない完璧な結果を残すのみ。

 

 覚悟の決まったマックイーンは、「アプリ転生」で見ても当然のように絶好調。

 今回の天皇賞では、ほぼ間違いなく良い走りを見せてくれるだろう。恐らくはウィルを追い詰めて来る程の、良い走りを。

 

 ウィルのライバルとしては、相手に取って不足はないんだが……。

 正直、トレーナーとしては頭が痛い。

 なんでウィルのライバルになる子たちって毎度毎度調子が良いんだろう。普通は不調とか絶不調も珍しくないはずなんだけどな……。

 

 いや、他陣営の不調を願うより担当の強化で解決を図るべき、ってのはあるんだけどさ。

 それにしたって、ウィルの出走するレースって毎度毎度難易度がハードなんだよなぁ……。

 

 やっぱりアレか、スタンド使いと同じで強者と強者は惹かれ合うんだろうか。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 それからしばらく。

 マックイーンがいい具合に語り終えたところで、司会が話の矛先を変える。

 

「それでは続いて、トウカイテイオーさんにも伺いたいと思います。

 どうでしょう、天皇賞への意気込みの程は?」

 

 訊かれたテイオーは、表情を動かすことなく答える。

 

「そうだね。……多分、みんなが思ってる通り、今回のレースじゃ2人に比べるとボクが不利だと思う。

 天皇賞じゃ、ボクは格下のチャレンジャーだ。大阪杯の時みたいに自信満々には挑めない。

 でも、まぁ、そうだね。ボクはボクらしく、2人に挑もうと思ってるよ」

 

 おぉ……。

 想定していたものよりもかなり控えめというか、低姿勢。

 自信過剰気味なことの多いテイオーにしては珍しい気がする。

 

 そう思ったのは俺だけではなかったのだろう、彼女の横に座っていたマックイーンが口を挟んだ。

 

「あら、テイオーにしては弱気な発言ではありませんこと?」

「弱気っていうか事実でしょ。勝てる勝てないはともかく、ボクは2人みたいに長距離を走るのが得意ってわけじゃないし?」

「だとしても、『それでも勝つ』と言うのがテイオーだと思っていましたが」

「ん? ボク、勝てないとは言ってないよ?」

 

 そこで、テイオーはクスリと不敵な笑顔を漏らす。

 

「ボク、勝つよ。そのために、客観的に戦力分析してるんだから。

 不安視じゃなくて客観視。弱気じゃなくて冷静に見て、ボクは不利だと思ってる。

 でも、不利なことは前提として、勝ちに行く。それが新しい『トウカイテイオー』だからね!」

 

 そう、胸を張って堂々と語るテイオーは……。

 ……うん。こっちもこっちで、いい具合に気合が入っているな。

 

 というか、あの自信家の気が強かったテイオーが「不利なことは前提として」、か。

 正直、想定外なくらいの変わり様だ。去年初めて話した時の彼女と同じウマ娘とは思えないくらい。

 

 勝気というか、前向きなところは変わってはいないようだが……。

 勝利のため。ライバルに勝つため。自分の本懐を遂げるため。

 そのためならば、人もウマ娘も、どれだけでも自分を変えられるのだろう。

 

 ……俺も頑張らないとな。

 もっとより良いトレーナーになって、もっとより良く彼女たちを支えていくために。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「トウカイテイオーさん、ありがとうございました。

 それでは最後に、ホシノウィルムさんに天皇賞について語っていただこうと思います」

 

 さて、他の2人が終われば、当然ながら彼女の番が回って来る。

 いつも通り、表向きの薄い微笑を浮かべている……俺の担当ウマ娘、ホシノウィルム。

 

 正直、不安がないと言えば嘘になる。

 最近こそ安定した受け答えが出来ているものの、クラシック級の前半なんかはだいぶアレだったからな。

 本人には喧嘩を売ってるつもりはないらしいんだが、どうしても合間合間から強者故の傲慢が垣間見えるタイプだったり、肝心なところで言葉のチョイスがアレだったりするんだ、この子。

 

 とはいえ、自分は勝って当たり前という思想は、今や過去のもの。

 テイオーやネイチャとの熾烈なレース経験もあり、今は「強いライバルと楽しく熱いレースをしたい」という方向性に進んでくれたので、その気配もだいぶマシになってくれたんだが……。

 

 そんな今になっても、やはり彼女にお鉢が回ってくると緊張が走る。

 トレーナーとしてというよりは保護者代行として、変なことや誤解されかねないことを言ったりしないかと思ってしまうんだ。

 彼女が演技を得意とすることはわかっているが……それでも、どうしてもな。

 

 果たして、ハラハラしながら見守る俺の視線の先で。

 ホシノウィルムはマイクを握り、カメラに向かってニヤリと笑った。

 

 

 

「勝ちます。……この一言以上に、ホシノウィルムの言葉が必要でしょうか」

 

 

 

 ……うわぁ。

 

 傲慢ここに極まれりと言うか、なんというか。

 まぁ俺自身、今のホシノウィルムの走りでテイオーやマックイーンに負けるとは思っていないので、彼女の自信の程は理解できないわけではないが……。

 

 それにしたって、公式の場でここまで言ってしまうのはだいぶ豪気だ。

 ホシノウィルムのネームバリューがあまりにもすごいからかろうじて許されるだろうけど、一歩間違えれば他のウマ娘やそのファンに喧嘩を売っていると思われるレベルの発言だぞ、これ。

 

 もしかしてウィルの精神はクラシック級の頃にタイムリープでもしたかな? と、俺が思わず額に手を当てたところで……。

 ウィルは、冗談めかすような笑顔を浮かべた。

 

「……なんてカッコ付けてみましたが、流石に今回そこまで言うのは難しいですね。

 片や奇跡を起こす帝王、片や失敗のない名優。この2人を相手にすれば……」

 

 彼女はそこで言葉を区切り、横にいるテイオー、マックイーンを見やる。

 自らを苦しめ、追い込むライバルであると同時、たくさんのことを教えてくれる大切な友人。

 

 そんな彼女たちを見て、ウィルは……。

 心の底から楽しそうに、年頃の少女らしく、笑う。

 

「この2人と走れば、どうしようもなく、最高に楽しいレースになるはずです。

 えぇ、私はそれを全力で楽しみ、そして全力で勝ちます。皆さんに期待される通りに勝って魅せます」

 

 胸に手を当て、ウィルは笑ってそう言った。

 

 ……ただしその笑顔は、穏やかで優しいものではなく。

 むしろ、牙を剥き出しにした獣のように獰猛なものではあったが。

 

「勿論2人だけじゃなく、ライバルの17人全員に期待しています。

 テイオーもマックイーンさんも、私を追ってくれる皆さんも。頑張って追いかけてくれないと、どこまでも逃げ続けちゃいますよ?」

 

 煽るような、あるいは奮い立てるような、上から目線の挑発。

 それに対して、彼女のライバルたちは、真正面から応えた。

 

「いいよ。ウィルが逃げるんなら、地の果てまでだって追いかけてやるから!」

「テイオーが地の果てならば、私は天を駆けて追いましょう。あなたの背を越えるために」

 

 

 

 あぁ、本当に、もう。

 この子ったら、相変わらず他のウマ娘を奮い立てるのが上手いんだから。

 

 舞台袖で頭を抱える俺の両肩に、テイオーとマックイーンの両トレーナーが手を置いてくれる。

 その手は、気性難のウマ娘を抱えることへの慰めのようにも、あるいは自分のウマ娘のやる気を引き出してくれたことへの感謝のようにも感じた。

 

 

 







 ウィルが煽りまくるおかげで、ダービー以降ずっとボス級のレースが続いてるんですけど、どういうことなの?
 おかしいな、転生チートで無双しまくる快活な物語のはずだったのに……。

 次回からはいよいよ天皇賞に突入。
 どこまでも・地の果てへ・空を駆けて。この3人の走りはどこに行き着くのか?



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、天皇賞前半。



(雑記)
 最近ちょっと体調と精神状態が芳しくなく、絶賛スランプ中です。どうにも筆も乗らなくて、読者様にも申し訳ない。
 もしかしたら次回以降投稿頻度が安定しなくなる……かも。無理しない程度に頑張ります。

(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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青く萌える国から

 も・える【萌える】
 [動ア下一][文]も・ゆ[ヤ下二]
 草木が芽を出す。芽ぐむ。

 オタク的な萌えではないのでご用心。





 

 

 

 ようやくと言うべきか、あるいはもうと言うべきか。

 待ちに待ったテイオーとマックイーンさんとの決戦、天皇賞(春)の日が来た。

 

 舞台は、去年の菊花賞以来となる京都レース場、右外回りの3200メートル。

 府中にあるトレセン学園を拠点とする私たちからすれば、遠出した先での決戦になる。

 幸い、レースの開始はちょっと小腹が空くお昼の頃合いからなので、私たち出走ウマ娘は心持ちゆったりとレース場へと向かうことができる。

 

 ……まぁ、運転手であるトレーナーさんやサブトレーナーさんからすると、長時間のドライブを強いられるわけで、結構しんどいかもしれないけども。

 歩さん、昌さん、いつも本当にありがとうございます。

 

 本当は、飛行機とか電車とかの公共交通機関を使えれば2人に楽をさせてあげられるんだけど……ウマ娘ってアイドルでもあるからね。

 G1レースはアイドルで言うドームライブみたいなモノで、そこに電車なんかで向かえば当然大騒ぎになってしまう。

 もっと言うと、もしも乗ってた電車の運転手が事故なんて起こしたら、とんでもない重さの責任が降りかかってしまうんだ。

 

 そんなわけで、競走ウマ娘がレース場へと向かう際は、原則的にトレーナーたちの運転する車による送迎が義務付けられているわけだ。

 

 これが大規模なチームとなると、専用にバスを借りたりするらしいんだけど……それはともかく。

 その日、頑張って早起きした私は、昌さんの運転する車で、おおよそ6時間程かけて京都レース場へと辿り着いたのだった。

 

 

 

 レース場内に直接乗り付け、そこからすぐにそそくさと控室の方に移動。

 主役とは思えないコソコソっぷりだけど、万が一にもファンの方と出くわすわけにはいかないからね。

 

 そうして辿り着いた控室。

 念のためかなり早めに出たから、まだまだ本番までには時間がある。

 私は長時間の移動で凝り固まった体を伸ばしながら、トレーナーと今日の打ち合わせを開始した。

 

「さて、体の調子はどうだ、ウィル」

「ん、んー……うん、悪くありませんね。まだちょっと体が固まってる感じしますけど、十分許容範囲。本番までには本調子になれるでしょう。

 空腹感も不快感も倦怠感もなし、違和感もゼロ。コンディション良好という感じです。

 歩さんから見るとどうです?」

「こっちから見ても絶好調だ。よし、いけそうだな」

「勿論! いつも通り、楽しいレースにしましょう!」

 

 私はニコッと歩さんに笑いかけたんだけど……。

 彼はあくまで真剣な顔で、私の前に1本指を立ててくる。

 

「毎度の確認になるが、事故にだけは気を付けろ。脚に違和感を感じれば無理はするな。それから、無理に勝つのではなく、当然のように勝つべし。……いいな?」

「はい……前回はすみませんでした……」

 

 痛いところを突かれて、流石に身を縮こまらせる。

 

 大阪杯じゃ、歩さんにすっごい心配かけちゃったからな……。

 もう二度とあんな真似はできない。ファンのためにも、歩さんのためにも。

 

 だから、決して無理はせず、自分の持ちうる限界を超えないスペックで、当然のように勝つ。

 それが今回からの、ホシノウィルムの新たなレース方針だ。

 

 というかそもそも私、転生チート持ちのウマ娘だからね?

 本来は無理なんてするまでもなく、簡単に勝ってしまえるはずで……。

 ……そう考えると、やっぱネイチャとかテイオー、マックイーンさんっておかしいよね? なんでチート盛られてる上努力も欠かしてない私に迫って来れるんだみんな。もしかして今のトゥインクルシリーズってちょっとおかしいのでは? 

 

 いやまぁ? 私にとっては、ちょっとおかしい方が好都合なんだけどね?

 私に迫ってくれる子たちが多い方が、レースは楽しめるし!

 

「……よし。ニヤニヤしてるくらいのテンションが君にはちょうどいいだろう。

 今回も悔いなくレースを楽しみ、そして勝ってくるように」

「はい!」

 

 満面の笑顔で答えた私の頭を、歩さんは優しく撫でてくれた。

 

 えへへ……よし、歩さんニウム補給終了!

 勝つぞ! 天皇賞!!

 

 

 

 * * *

 

 

 

 それから数時間は、歩さんたちと雑談を交えながら、体の調子を整えて待機。

 URAの職員さんに呼ばれたら、観客席に向かう皆と別れてパドックに向かう。

 

 そこでは周遊して脚の調子を整えながら再び待機で、自分の番が来たらパドックで皆にアピール。

 アピールの方法はウマ娘によって多種多様だけど、私の場合は、今でも歩さんと考案した腕組み仁王立ちを続けてる。

 ただし、不敵な笑みと……その場その場で思いついた軽いファンサービスを交えて、だ。

 

 1着目の勝負服のマントギミックはなくなってしまったものの、半ば慣習的に胸元のブローチを弾いた後、私は軽く周りを見回して……。

 そこで、いつぞや見た記憶のある熱っぽい視線を向けてくれてる栗毛の子を発見。

 おぉ、わざわざレース場まで来てくれるなんて、結構熱烈な私のファン……かな? 嬉しいね。

 

 そんなわけで、さり気なくその子の方に向けてウインクを決めて、それから改めて仁王立ち。

 努めて自信ありげな笑顔を作って胸を張り、王者としてその場に立つ。

 感心するような声と同時に結構黄色い声も上がってたし、ファンサとしては良い感じだったんじゃないだろうか。

 

 

 

 パドックでのアピールが終われば、ついに本バ場入場。

 私たちはいよいよ、京都レース場のターフに足を踏み入れたのだった。

 

「すぅ……ふぅー」

 

 気持ち良く晴れ渡った空の下、柔らかで気持ちのいい良バ場。

 私はその決戦の場に立ち、大きく息を吸い込んだ。

 

 肺の中に、清涼でありながら、張り詰めた空気が入って来るのを感じる。

 

 あぁ、このレース直前特有の空気……。

 

 多くの人の夢と期待。

 トレーナーさんたちの尽力と信頼。

 ウマ娘たちの血と汗と涙。

 

 それらの先にある、この緊迫した雰囲気。

 おおよそ1か月ぶりの……G1レースの空気だ。

 

 喉が渇く。肌がヒリつく。心が闘争を求める。

 胸の底にある魂が震えているようにすら感じる。

 早く走らせろ、早くレースをさせろ、早くアイツらを超えさせろって……獣の本性丸出しに、このレースと、そしてそこに出走するウマ娘を喰らおうとしてる。

 

 あぁ、たまんないな。

 

 この感じ。楽しいレース直前の、沸き立つ心。

 これが嫌いなウマ娘なんて、きっと世界のどこにもいないだろう。

 

 

 

「ホシノウィルムさん、すごい顔になっていますわよ」

「おっと」

 

 言われて、ちょっと表情が崩れてたことに気付く。

 危ない危ない。レースは勝負であると同時にエンターテインメント、可能な限り外面は整えねば。

 いやまぁ、これまでも闘争本能全開の顔は散々見せちゃってるし、今更という気がしないでもないが。

 

「あは、すみません。レースのことを考えると昂ってしまって」

「気持ちはわかります。……私も、あの有記念以来、あなたと走れる日を心待ちにしていましたから」

 

 私に声をかけてくれたのは、歩さん曰く今回の天皇賞における最大の難敵、マックイーンさん。

 芦毛をたなびかせる彼女は、いつも通りの泰然自若。レース前だと言うのに平常心で落ち着いてる……ように見える。

 

 ただ、それはあくまで遠くから見た時の話。

 近くで、彼女と真正面から向き合えばわかるだろう。

 その瞳の奥には焼け付くような炎が燃えて、突き刺すような視線は「お前を喰らう」と百の言葉より雄弁に語っている。

 

 あぁ、きっと、数秒前までの私と全く同じ目だ。

 

 ふふ……マックイーンさんも、全然抑えられてないじゃん。

 いや、遠目から見ればバレない程度だし、ファンの方にはただ強気に微笑んでいるように見えるだろう。そういう意味じゃ、隠し切れてるのかな。

 

 まぁ何にしろ、楽しい戦いができそうで嬉しいけどさ。

 

「調子良さそうですね、マックイーンさん。何よりです」

「えぇ、今日の天皇賞に勝つため、万全以上の準備を整えて来ましたから」

 

 マックイーンさんはそう言って、私たちがこれから走るコースの方に目をやった。

 釣られて同じ方に視線を投げた私に、静かで、けれど決意に満ちた声がかかる。

 

「……あのジャパンカップの日から、あなたの背を如何に越えるかを考え続けて来ました」

「ですか。良い策は思いつきましたか?」

「いいえ、残念ながら。ホシノウィルムさん、あなたは強い。小手先の策で勝てる程に小さな壁ではありませんわ」

 

 言葉とは対極的に、彼女の声音は明るかった。

 ちょっと意外に思って彼女の方を見上げると、マックイーンさんの方も、いつの間にか私を見ている。

 正々堂々と、真正面から、私に向き合ってくれていた。

 

「ですが、だからこそ強く思い直せました。

 私は栄えあるメジロのウマ娘、メジロマックイーン。であれば、策を講じて壁を越えるのではなく……私自身の力で壁を打ち砕くべし、と」

 

 策を講じるのではなく、ただ自らのスペックを以て、他のウマ娘をすり潰すように走る。

 

 それは、歩さんが言っていた通りの戦い方。

 メジロマックイーンにとって最も慣れ親しんだ基本戦法であり、そして恐らく、彼女にとって最良の戦法なんだろう。

 

「……そうですね。そういうマックイーンさんの方が、ちょっと怖いです」

「ちょっと、ですか。ふふ、流石と言うべきでしょうか?」

「いえごめんなさい、正直に言うと結構怖いです」

 

 そう言った後、私はニヤリと笑う。

 

「まぁ、どれだけ怖くても、勝つのは私ですが」

「その自信、今日で砕いて差し上げますわ」

 

 冗談交じりのようでいて、しかし本気の言葉の応酬。

 当然だ。当日にもなっておためごかし言ってて勝てる程、今回の天皇賞は甘くない。

 

 私とマックイーンさんは不敵に笑い合い、お互いの闘志を共有したのだった。

 

 

 

 ……しかし、私を越える方法を考え続けた、か。

 そりゃ、ちょっとマズいんじゃないかなぁ。

 私のことばっかり見てたら、他に視線が行かなくなる。それじゃこのレースは勝てないよ。

 

「でも、考えなきゃいけないのは私だけじゃないですよ。ライバルは他にもいますし……何より、このレースには彼女がいますから」

 

 言って、私が視線を向けたのは……。

 少し離れたところで、黙々とストレッチをしている、トウカイテイオー。

 

「私だけでなくテイオーの方も警戒しないと、足を掬われてしまいますよ?」

 

 マックイーンさんは、私の言葉に対して「ふむ」と顎に手をやった。

 

「テイオー……ウィルムさんは、想像以上に彼女を警戒しているのですね。

 有記念から見て、彼女の限界距離は恐らく2400メートル程度。過度な警戒は必要ないだろう、というのが私たちの判断だったのですが」

 

 うん。マックイーンさんの言うことは正しい。

 歩さんの分析でも、テイオーの長距離適性はBランク。その上スタミナの面でも、それを保つ技術こそあれど、私やマックイーンさんよりは地力の面で劣る。

 

 だから、警戒しないっていうのは、あくまで理論的に見れば正しい判断だと思うんだけど……。

 

「あの子は、奇跡を起こせるウマ娘です。道理も条理も捻じ曲げて勝利を拾いに来る、天才と言う他形容できない怪物。

 私の直感は、マックイーンさんと同じくらい、テイオーを警戒しないとマズいって言ってます」

 

 マックイーンさんには言えないけど、これはちょっと嘘。

 

 実のところ、私の勘は、マックイーンさん以上にテイオーを警戒しろって言ってる。

 

 まぁ、前世アニメによる刷り込みの警戒なのかもしれないけど……。

 それでも、レースにおいて警戒し過ぎるってことはないだろう。

 

「直感、ですか……」

「信じられません?」

「いいえ……なるほど、頭に入れておきましょう」

 

 ……まぁ、でも。

 私たちの警戒が本気のテイオー相手に意味を持つかは、ちょっと怪しいところだけども。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 時間が経つごとにひきしまっていく空気の中、ストレッチと周遊しながら待つ内に、ついにゲートインの時間が訪れる。

 

 今回の私の枠順は、5枠9番。

 内すぎもせず外すぎもしない、いわゆる中枠だ。

 

 一般的に言って、天皇賞(春)は内枠有利だ。

 スタミナを枯らされる長距離レースにおいては、できるだけ走る距離が短い方が良いからね。

 外から走り出すよりも内から走り出した方がインコースに近く、有利になるわけだ。

 

 では、今回私が入った5枠はと言うと……どうやら、かなり良くない枠番らしい。

 歩さん曰く、8つの枠の内、勝率で見ると下から2番目なんだとか。

 

 ……ま、私にはあんまり関係ないことだけどね。

 

 枠番の影響は、主に序盤のコース取りと位置取り争いで現れる。

 誰より早く駆け出し、誰より速く加速して、一瞬でインコースをもぎ取る私には、あまり強い影響が出ることはない、というわけだ。

 勿論、内枠であれば距離的なアドバンテージは大きいんだけどね。それでも他のウマ娘たち程には枠番に左右されない。

 

 では、その影響が大きく出るだろう、ライバルたちの位置と言えば……。

 

 

 

『さぁ、全国のレースファンが固唾を呑む18人のゲートイン、今最後にトウカイテイオーがゲートへと入っていきました。

 5枠にトゥインクルに輝く一等星、3枠にターフに踊る名優、大外には無冠の帝王だ! 舞台も役者もこの上なく、正しく今、決戦の時来たる!』

 

 

 

 マックイーンさんは内枠で、そこそこ有利って感じかな。

 確か、データ的に1番勝率が高いのが1枠で、その次が3枠だったはず。

 彼女はかなり良い位置を引き当てたと言っていいだろう。

 

 テイオーの方は……残念ながら運に恵まれず、よりにもよって一番の大外だ。

 先行脚質で、その上スタミナに不安の残るテイオーには、かなりキツいディスアドバンテージ。

 まぁ、それでも、テイオーは上がって来るだろうけどね。

 

 なにせあの子は、「勝てるはずがない」と言われる戦いにすら勝てる子なんだ。

 道理も条理も蹴っ飛ばして、私の元まで来てくれるはず。

 

 

 

 ……さて、そんな彼女から逃げ切るためにも。

 

 今は、スタートに集中しなきゃね。

 

「あぁ……寒い」

 

 レース前の緊迫感に、思考が凍て付いていく。

 どうでもいい思考が切り捨てられ、ただスタートの瞬間に意識のリソースが集中していく。

 

 全身を通る神経を、やりすぎな程過敏に。

 脚部の筋肉を、張り詰めて収縮させ。

 視界に映すのは、ただ煌めく白い景色だけ。

 

 駆け出す準備は万全。

 後は、歩さんと私が、これまでに積み重ねたものを信じるだけだ。

 

 

 

 

 ……さぁ。

 

 行くぞ!!

 

 

 

『今スタートしました!』

 

 

 

「ふッ……!!」

 

 三歩飛翔。

 歩さんと一緒に編み出した、ホシノウィルムだけのスタートダッシュ技術。

 

 今回もこの作戦は成功し、私は誰よりも早く、そして速く駆け出す。

 加速を終えた4歩目を踏み出す時には、既に周りのウマ娘たちよりも1、2バ身程前に出た。

 

 

 

『まずまず揃って飛び出す17人、一際飛び出したのはやはりホシノウィルム!

 続いて行くのはトウカイテイオーか、メジロマックイーンか?』

 

 

 

 頭の中で暴れるウマ娘たちの足音を整理して、それぞれの立ち位置を整理。

 

 流石は天皇賞と言ったところか、スタートから大きく出遅れたウマ娘はいない。

 インコースを取るために、内に切り込まなきゃいけないんだけど……そんな彼女たちの進路を妨害して、斜行として失格処分にされたらたまらない。

 後ろの子たちの邪魔になったりしないよう、余裕を持って内に入って行く。

 

 ……よし、しっかりと内に付けた。

 後方バ群との距離は2バ身くらいか? こちらも歩さんの想定通り。

 

 オッケー、序盤の展開としては万全だ。

 

 歩さんのプランで言うケース1、最良のパターン。

 であれば、ここからは……。

 

 ペースを上げて、擦り潰すべし。

 

 

 

『さぁいきなり縦に開く形、ホシノウィルムを追うのは2バ身程開いて外にメジロパーマー、そして4番のクライネキステ、カジュアルスナップ、外からトンネリングボイス。

 すーっと下がって様子を見る5番メジロマックイーンは現在6から7番手、11番ポイズナスを挟んでトウカイテイオーが睨み合う! しかしやはりメジロマックイーンが前に出るか?』

『現在1周目の第3コーナーの下り、早めのレース展開でぐんぐんとバ群が縦に広がります。自慢のスタミナで軽やかに脚を振るうホシノウィルムに、果たして誰が付いて行けるのか?』

 

 

 

 今回に向けてバッチリ仕上げてきたコーナリングで、コーナーの中にある下り坂を駆け下りる。

 本気でスパートをかける時ならともかく、多少のハイペースくらいでなら不自然に膨らむなんてあるわけもない。

 

 さて、足音は……2番手の、多分メジロパーマー先輩っぽい音が、5バ身くらい離れただろうか。

 もっと一気に離せる予定だったんだけど、存外粘って来るな。ある程度私のペースに追従してくるつもりだろうか。

 まぁ、私からすれば、それはむしろありがたいことなんだけど。

 

 

 

 すごく初歩的な話になるけど、レースで勝つ条件は、大きく分けて3つだ。

 スピードで上回るか、スタミナを枯らし切るか、あるいは策にハメるか。

 

 1つ目はわかりやすい。シンプルな差し切り勝ちだ。

 良い位置を取ってひた走り、第3コーナーあたりからの末脚勝負で一気呵成、そのまま勝ち切る形。

 最も基本的な方法であり、多くのウマ娘が選ぶ道であり、だからこそレースの花形でもある。

 このやり方の長所として、複雑なところが少なく、展開の良さと自分の力量次第で勝てる。逆に言えば、地力が足りなければ……つまり格上の相手には、決して勝てない戦い方とも言える。

 

 2つ目はちょっと特殊で、ライバルたちのスタミナを枯らし、末脚のキレを落とすっていうやり方。

 マックイーンさんや私が得意とするヤツで、存在感を放つ私たちがペースを上げることでレース全体の展開を速め、それに付いて来ようとした子たちの体力を枯らし切る。

 ハイペースで走れるスタミナ、それを適切に割り振るアドリブ力、最後に勝ち切る負けん気とスピード、その全てが要求されるやり方だ。

 だが、それらさえあれば、大きな差を付けて余裕で勝つことができる。

 歩さん曰く「恐らくはこの世界で最も安定し、最も地力が必要とされる戦い方」だ。

 

 そして3つ目が、ネイチャの得意とするところ、何かしらの策にかけて皆の調子を落としたり良い展開を作り出すヤツ。

 言動や態度、走り方によって周りのウマ娘たちを操り、レースの展開を意のままにコントロールする。

 言葉で言えば簡単そうに聞こえるものの、当然ながらその難易度は青天井。17人の動きを完璧に管理するとか、私でも「アニメ転生」なしじゃまずできないと思う。

 当然ながら安定度なんて皆無な、そのウマ娘の才覚に強く依存する戦い方。

 しかし同時、時にジャイアントキリングすら成し遂げる恐ろしさを秘めているのも事実だ。

 

 で。

 以上3つの内から、3200メートルという長い距離のレースにおいて、スタミナ自慢のホシノウィルムが最も勝ちやすい戦術を選ぶとするなら……。

 

 当然ながら、2番目。

 他の子たちのスタミナを枯らし、擦り潰してしまうのが最適だ。

 

 

 

「……ふ」

 

 序盤から追ってくれるウマ娘がいるのは、私にとって有利条件だ。

 

 私1人がずっと先にいるより、何人かが先頭を追ってペースを上げてる方が、後方集団の子たちは焦ってくれるだろう。

 自分たちもペースを上げねばと、そうでなくては追い付けなくなると……最終直線に入る頃にはゴールされているかもしれないと。

 

 更に、このレースには私以外にもう1人、メジロマックイーンっていうスタミナ自慢がいる。

 普段は冷静なウマ娘でも、上がっていくペースに多少なりとも応じざるを得なくなるはずだ。

 

 

 

『1周目のホームストレッチに入りました。

 先頭は語るに及ばずホシノウィルム、6バ身程開いて2番手メジロパーマー、そこから1バ身ずつ開く程度でクライネキステ、ポイズナス、トンネリングボイスが追走。

 そして6番手、メジロマックイーンはここにいる。良い位置に付けて心地良く走っていますね』

『トウカイテイオーは彼女にしては少し後ろ目に11番手、これは戦略によるものなのか?』

 

 

 

 ……いい感じに釣れてはいるんだけど、それでも私の聴覚に入っているのは4人くらい。

 マックイーンさんとテイオーの足音は……聞こえない。

 あの2人はどっちもレース上手だ。ここで大幅に掛かったりはしてくれないかな。

 

 であれば、少なくとも十全なスタミナを持つマックイーンさんとは、末脚勝負になるか。

 テイオーは……勝負できるくらいに、最後までスタミナを残してくれればいいけど。

 

 まぁ、いい。

 今はとにかく、自分の走りを貫くのみ。

 

 既に1000メートルを通過し、残る距離はおおよそ3分の2。

 スタミナは、ペースを速めた分やや削れているけれど、想定通りの消耗だ。

 

 元よりこのレースで、スタミナを惜しむつもりなんてない。

 そんなことしてちゃマックイーンさんを倒せなくなるし……何より、私自身の限界も破れない。

 

 そう。

 このレースは、テイオーやマックイーンさんを倒すだけのものじゃない。

 

 私も、大阪杯では破れなかった壁を、改めて破らないといけないのだ。

 

 

 

『スタンド前を通過していくホシノウィルム、京都のスタンドがうなり捩れる!

 5番メジロマックイーン、18番トウカイテイオー、そして9番ホシノウィルム! やはりレースの中核を担うのはこの3人! この3人に注目です!』

『全体を見るとやはり見慣れたハイペース、しかし今回は3200メートル、果たしてこのまま走り抜けることはできるのか?』

 

 

 

「…………」

 

 大阪杯で垣間見た、「向こう側」。

 この加速する視界の先の、私だけの世界。

 

 大丈夫、もう感覚は掴んでる。

 このレースでなら、開けるはずだ。

 

 

 

 さぁ……。

 

 そろそろ、心を燃やしていこう。

 

 

 

『長く歓声の続く中、先頭は今第1コーナーへ。

 流石は歴戦の18人、1人として自らの心と折り合いを欠くウマ娘はいません。ここからどのような展開になるか、レースはようやく折り返しといったところ!』

 

 

 

 徐々に消耗して、痛みを感じ、動きにくくなる体。

 まだまだ長く残る、走らねばならない距離。

 

 スタンドから注がれる惜しみない声援、決して負けられない、負けたくないレース。

 後方から迫り来る恐るべき熱源と、私の胸の底から溢れ出るマグマのような熱源。

 そして何より、こうして走り、競うことへの、この上ない程の歓喜。

 

 条件は整った。

 

 私の視界に、青い、炎のように揺れるヒビが走る。

 

 

 

 思うに。

 1つ目の領域は、「私」の領域であったと思う。

 

 転生者であり、今世に居場所を持てなかった私が、自分の居場所(せかい)を見つける。

 そういう、私自身の精神性が反映された領域だった。

 

 であれば、2つ目に開く領域は、どんなものになるのか?

 

 それは……きっと、恐らく。

 前世の「私」ではなく、今世の私自身の持つ景色。

 

 ホシノウィルムの、原風景。

 

 それがどんなものになるのかは、私自身にもわからなかったけれど……。

 

 

 

 バキ、バキ、と。

 音を立てて、視界が割れる。

 青い炎のヒビの向こうに、何かが見えた。

 

 限界を超えてなお走ろうと。

 もっと走りたい、その先の景色を見たいと。

 

 その想いに、私の魂が応えて。

 

「あぁ……!」

 

 バリンと、視界が砕け散る。

 

 

 

 そうして、ようやく、今。

 

 2つ目の領域が、開いた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そこは、晴天の下の、だだっ広い草原だった。

 

 地平線の彼方まで続く、青々しい草の覆う大地。

 手入れされていないために鬱蒼として、けれど寒さからかそこまで高くはならず。

 視界を遮るのは、何本か生えただけの低木と……静謐で侵しがたい区画だけ。

 

 緑と茶と、青と白。

 そのたったの4色のみで彩られた、人の命が感じられない程に穏やかな世界。

 

 

 

 あぁ、なるほど。

 確かに、「競走ウマ娘ホシノウィルム」の原点と言えば、この景色をおいて他にはない。

 

 ここは、地元北海道の、名前もない平原。

 トレセン学園に入学する前に何年も走り続けた、ホシノウィルムの鍛錬の場だ。

 

 

 

 痛い程寒くて、悲しい程静かな、空っぽの草の原。

 幼い頃は、ここのことを、そうとしか認識できなかったけれど……。

 

 今は、違う。

 

 肌を撫でる心地良い風。

 少しだけ体の冷える、走るのにちょうど良い気温。

 脚に返って来る反動は、大きすぎもせず小さすぎもせず。

 

 あぁ、なんて走りやすい場所なんだろう。

 いいや、あるいは長期間走った結果、私自身がここに馴染んだのだろうか。

 

 

 

 この草原を走るのは、本当に久々。

 それこそ、トレセンの寮に入る前日以来だろうか。

 

 きっと今なら、あの日よりも、ずっとずっと早く、気持ちよく走れるはず。

 そして……きっと、この先の景色さえも見られるはずだ。

 

「よし」

 

 距離は1600メートル。

 コンディションは絶好調。

 脚は、あの日よりも、ずっとずっと軽い。

 

 

 

 それじゃ……。

 久しぶりに、全力のランニングといこうか!

 

 

 







 2着目の領域、展開。
 その真価と天皇賞の行く末は、待て次回。



 次回は3、4日後。帝王視点で、天皇賞(春)中編。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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あまりに不確かな可能性を、追いかけてあの子は……

 帝王の視点で、天皇賞中編です。





 

 

 

「トウカイテイオー、なんで天皇賞出るんだ? 出走回避すればいいのに」

 

 いつぞや、そんな言葉が、風に乗って聞こえて来た。

 

 まったく、失礼しちゃうよね。

 ウマ娘ってかなり耳が良いんだから、そういう陰口は本人のいないところで叩いて欲しいものだ。

 

 いやまぁ、その時のボクはシューズを買うために軽く変装して出かけてたから、気付かれないのも仕方なくはあるんだけどさ。

 

 

 

 ……でも、まぁ。

 言ってた人の気持ちは、分からなくはない。

 

 トウカイテイオーは大阪杯で、ホシノウィルムに敗れた。

 その着差は、ハナ差。

 僅かな差ではあるけど、ホシノウィルムは確かに、ボクよりも早くゴール板の前を通過したんだ。

 

 2000メートルという、ボクにとって極めて有利で、彼女にとって極めて不利な戦場で……。

 言い訳もできないくらいに、完膚なきまでに、してやられた。

 

 ボクたち自身の間ではともかく、世間的に見れば、十分すぎるくらいに格付け完了って感じ。

 ホシノウィルムは最も輝く一等星で、ボクはあくまでも二等星。

 その順番は、決して覆ることはない。

 

 

 

 ボクに有利な状況で。

 なおかつウィルムに不利な状況で。

 それでもなお、ウィルムが勝った。

 

 ならば、ウィルムに有利でボクに不利な戦場に出ればどうなるかなんて……。

 ま、誰が見たって簡単にわかる、自明の理ってヤツだろう。

 

 それなのに、何故天皇賞に出走するのか?

 勝てる見込みもないレースに出走して、無為に脚を消耗させて、何をしたいのか?

 

 ……そんなのさ、答えは1つだよね。

 

 

 

 勝ちたいんだよ。

 

 ボクたちウマ娘は、いつだってそのために走ってる。

 勝つために、誰かの背中を越えるために、一瞬一瞬を燃やしてるんだから。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 とはいえ、だ。

 ボクがどれだけ頑張ろうと、不利な状況自体は覆らない。

 

 

 

『いよいよこの日が来ましたね、HTM三強対決の天皇賞(春)!

 1番人気は無敗三冠G1最多勝の恐るべき灰の龍、星の世代の一等星ホシノウィルム!

 2番人気に推されたのは失敗なきターフの名優、連対率88%を誇るメジロマックイーン!

 そして3番人気には、未だ無冠ながら力強き小さな帝王、輝く二等星のトウカイテイオー!

 この3人が揃うレースは有記念以来、トウカイテイオーが本調子を取り戻してからは初のこととなります』

『3人共、現在のトゥインクルシリーズのトップ層と言える子たちですね。

 特にホシノウィルムとメジロマックイーンは生粋のステイヤー、強靭な肺活量と長く使える脚を持っています。順当にいけば、このレースでも首位争いに加わって来るはずですよ』

 

 

 

 体を伸ばしながらレース開始を待つボクの耳に、遠くから実況と解説の声が届く。

 

 悔しいけど、ボクはウィルムやマックイーンに比べて、一段劣って見られてる。

 トウカイテイオーは他2人に比べて長距離の適性やスタミナに乏しいため、このレースは距離限界を大きく越えている……というのが、一般的な見方なんだ。

 

 ……仮にだけど、ボクが去年皐月賞とかダービーを獲っていれば、評価は違ったかもしれない。

 あのホシノウィルムからG1を獲れるウマ娘だとか、あるいは強敵を退けて二冠を獲ったウマ娘だとか、そういう風評があれば、あるいはこの2人に並べられたかも。

 

 けど、実際のところ……ボクは確かに強くはあるけど、現在重賞未勝利のウマ娘に過ぎない。

 だからこそ、ある意味じゃ贔屓目なしに、比較的公平に実力を評価されてるみたいだ。

 

 そして……その評価は、正しい。

 今回、ボクはライバル2人に比べて、圧倒的に不利だ。

 

 

 

 そう。ボクは今回、すごく不利だ。

 そんなことはわかってる。とっくの昔に重々承知だった。

 

 その上で、ボクは今回の天皇賞に、出走することを決めた。

 結局は、それが全てだ。

 

「……ふぅ」

 

 正直に言って、ボクの勝機はあまりにも薄い。

 

 展開が最悪なものにならず、ボクが間違えることなく、そしてウィルムが開くであろう領域が想定を遥かに越えないものであれば、あるいは……ってレベルだ。

 

 大阪杯でわかったことだけど、残念ながらボクにレースプランニングは向かない。

 とすれば今回は、磨き上げてきた実力と感覚だけが頼りの、針に糸を通すようなレースになるだろう。

 

 でも、そんなレースを前にして……。

 

「やるぞ」

 

 やるしかない、でもなく。

 やらなきゃいけない、でもなく。

 ボクの口から自然と漏れた言葉は、「やるぞ」だった。

 

 うん。我ながら、悪くない精神状態だ。

 張り詰めているけど、余裕がある。

 追い込まれているけれど、冷静になれてる。

 ウィルムとマックイーンを強敵と認めはしても、過度に怯えることもない。

 

 勿論精神だけじゃなく、肉体だって万全だ。

 不利なレースであの2人の強敵と競り合うんだもん。これ以上ないくらい完璧に仕上げてきてる。

 

 あの先月の大阪杯だって、ここまでの充実感を覚えることはなかった。

 間違いなく、今のトウカイテイオーは、過去最高の状態と言えるだろう。

 

 

 

 後は……。

 

 チラリと、ライバルの方に視線を向ける。

 このレースの最有力候補とされている鹿毛と葦毛の2人は、軽くストレッチしながらもバチバチに視線を交えている。

 

 あぁ、遠くから見ても、やっぱり威圧感がすごいや。

 マックイーンもそうだけど、レースを前にしたウィルムは豹変するからな。

 なんというか、犬の群れに紛れ込んだ狼……いや、まさしくドラゴン? みたいな感じ。

 

 でも、そっちに視線をやってたらボクは勝ちを手放すことになる。

 あの2人に気を取られないよう、自分の走りに集中しなきゃね。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 結局のところ……。

 何故ホシノウィルムが無敵なのかと言えば、それはあの子が大逃げっていう脚質を取るからだ。

 

 抜群のスタートからダントツでハナを切って、バ群から影響を受けることを阻止。

 全員の視界に入る先頭に立つことでバ群を牽引し、全体的なペースを吊り上げ。

 追ってきたウマ娘に対しても、埒外のスタミナでラストスパートをかけて逃げ切る。

 

 ただスペック的に強靭なだけであれば、つけ入る隙なんてそこら中にある。

 けれど、無尽蔵とも思えるようなスタミナと差しウマ娘と比べても遜色のない末脚を備え持ち、その上で大逃げという脚質を取ることで、彼女は弱点を減らしているわけだ。

 

 それでも当初は、他のウマ娘が接近した時の掛かり癖や、走りや思考の固さっていう弱点は残ってたんだけど……。

 恐らくはネイチャとのレースと契約トレーナーの指導によって、それらはあっという間に是正されてしまい、今やホシノウィルムに明確な弱点なんてものはありはしない。

 

 ネイチャみたいにそれに専念するならともかく、ボクが付け焼刃でやった程度の策略じゃ、もはやウィルムの足元に小石を置くことすらできはしない。

 

 

 

 一方で、メジロマックイーンは非常に安定した成績を収めている。

 その理由は、ただただひたすらに高いスペックだ。

 強靭と言う他ないスタミナと長く使える脚を持ち、だからと言って末脚がキレないわけでもない。総合的なスペックが高い、って形容が一番適切だと思う。

 

 ウィルムみたいに、完全に隙がないわけじゃない。

 というか、王道の戦法を取るからこそ、付け込む隙は多分にある。

 

 けれど、襲い掛かるそれらを、全てフィジカルの暴力で蹴散らして進むのがメジロマックイーンだ。

 あの子のウィルム並みのスタミナは、彼女のレース中の基礎ペースを跳ね上げる。それに付いて行こうとしたウマ娘は皆体力がカラになるまで付き合わされ、そしてそのまま垂れていくわけだ。

 

 あの子に作戦勝ちしようと思えば、最低でもマックイーンに付いて行けるだけのスタミナが必要になり……そして、今のトゥインクルシリーズでそれを実現できるのは、多分ウィルムとかネイチャくらい。

 

 圧倒的なフィジカルによる、問答無用の「圧勝」。

 ウィルムに比べると脳筋な感じはするけど、マックイーンにはマックイーンなりの必勝法があるわけだ。

 

 

 

 この2人に共通するのは、とにかく莫大なスタミナ。

 特にウィルムなんて、あの子が本当に体力を枯らし切った姿、それこそ去年の有記念くらいでしか見たことがないくらいだ。

 

 だからこそこの2人は、G1最長距離である天皇賞において、最も有利なウマ娘であり……。

 

 ボクが真っ当に走るだけでは、とてもじゃないけど、2人には追い付けない。

 

 

 

 ……そう。

 

 このレースは、真っ当に走っても勝てないんだ。

 

 ボクの基本戦術である先行、好位差し。

 4、5番目辺りの好位置に付いて、最終コーナーや直線で一気に抜き去る戦法。

 ただこれをやるだけじゃ、勝てる見込みはゼロだ。ハイペースのバ群に呑み込まれてスタミナを枯らされ、最終直線で思うように脚を動かせなくなる。

 

 であれば、どう戦うべきか?

 

 ホシノウィルムとメジロマックイーンに勝つために、トウカイテイオーは、どう走るべきか?

 

 

 

 ……その答えを、ボクは1つしか思いつかなかった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

『今スタートしました!』

 

 

 

 ガタン、という音と共に駆け出す。

 

 可能な限り、最速で駆け出したつもりだったけど……。

 やっぱり、あの子の方が、ずっとずっと早かった。

 

 

 

『まずまず揃って飛び出す17人、一際飛び出したのはやはりホシノウィルム!

 続いて行くのはトウカイテイオーか、メジロマックイーンか?』

 

 

 

 ……落ち着け。

 大丈夫、焦るな、自分を信じろ。

 

 他を気にせず、ただ自分の走りを貫く。

 それこそが、ボクが唯一見出した、このレースの答えなんだから。

 

 

 

『さぁいきなり縦に開く形、ホシノウィルムを追うのは2バ身程開いて外にメジロパーマー、そして4番のクライネキステ、カジュアルスナップ、外からトンネリングボイス。

 すーっと下がって様子を見る5番メジロマックイーンは現在6から7番手、11番ポイズナスを挟んでトウカイテイオーが睨み合う! しかしやはりメジロマックイーンが前に前に出るか?』

『現在1周目の第3コーナーの下り、早めのレース展開でぐんぐんとバ群が縦に広がります。自慢のスタミナで軽やかに脚を振るうホシノウィルムに、果たして誰が付いて行けるのか?』

 

 

 

 ウィルム……想定以上のペースだ。

 

 レースが始まるまでは、マックイーンならあの子のペースに付いて行くこともできるかって思ってたけど、どうやらそれは間違いだったらしい。

 今日のウィルは、どうにもいつも以上にペースが速い。

 いや、普段のレースに比べればちょっと遅いくらいだけど……これが3200メートルのレースであることを考慮すると、速すぎるくらいのはず。

 

 何を考えてのことだろうと一瞬だけ考えて、「あぁ、領域か」って納得。

 なるほど、ウィルの2つ目の領域は、ある程度消耗するのが条件なのかな。

 そして多分、領域を開いた時の効果に、疲れにくくなるか回復するか、そういうものもあるんだろう。

 前回の大阪杯でその気配を掴んだウィルムは、早速それをフル活用するつもりでペースを上げて来ているわけだ。

 

 あぁ、困ったな。

 ただでさえ堅牢だったウィルムが、もっと抜き辛くなってしまった。

 

 ……それでも、今の方針を崩すつもりはないけど。

 

 

 

『1周目のホームストレッチに入りました。

 先頭は語るに及ばずホシノウィルム、6バ身程開いて2番手メジロパーマー、そこから1バ身ずつ開く程度でクライネキステ、ポイズナス、トンネリングボイスが追走。

 そして6番手、メジロマックイーンはここにいる。良い位置に付けて心地良く走っていますね』

『トウカイテイオーは彼女にしては少し後ろ目に11番手、これは戦略によるものなのか?』

 

 

 

 前の様子を窺いながら走っているボクを、何人ものウマ娘が追い抜く。

 まるで最終直線で垂れたウマ娘みたいに、ボクの位置はジリジリと後ろに下がっていく。

 

 本来なら、これはあまり良い状態じゃない。

 ボクは先行ウマ娘、2~6番手くらいの位置に陣取って走るのが常道だ。

 レース中盤までに追い抜かれれば、バ群の中での位置が下がっていく。

 そうなれば当然、終盤に追い抜かなきゃいけないウマ娘が増えて、その分取れる進路は狭く、必要となる速度も上がってしまう。

 

 だからこそ、ボクたちは本来、ある程度レース全体のペースに付いて行かなきゃいけないんだけど……。

 

 今回に限って、ボクは、それを放棄することにした。

 

 

 

『スタンド前を通過していくホシノウィルム、京都のスタンドがうなり捩れる!

 5番メジロマックイーン、18番トウカイテイオー、そして9番ホシノウィルム! やはりレースの中核を担うのはこの3人! この3人に注目です!』

『全体を見るとやはり見慣れたハイペース、しかし今回は3200メートル、果たしてこのまま走り抜くことはできるのか?』

 

 

 

 このペースに付いて行けば、途中で体力が底を突いて、確実に詰む。

 

 であれば、どうすべきか?

 簡単だ。付いて行かなければいい。

 

 

 

 ボクが今気にするべきは、バ群の動きでもレースの趨勢でもない。

 自分の走り、それだけだ。

 

 そう、今回ボクが考えた作戦は、すごく単純なもの。

 

 ウィルムやマックイーンの作るペースには一切乗らず、ボクがこのレース場の3200メートルを走る際に最も効率の良いペースで、最も効率の良い走りをする。

 

 レースを走るのではなく、まるで自分勝手に独走するようにして……。

 そうして最後に、まるで追込ウマ娘みたいに、後方から一気に差し切る。

 

 考えて、考えて、考え抜いて……。

 それでも結局、2人の出走する天皇賞に勝つ方法は、これしか思い付かなかった。

 

 

 

 勿論、この作戦には、たくさんの困難がある。

 あまりにもその質が高すぎて、もはや不可能に近いような困難が。

 

 そもそも定石を破るというのは安定を捨てるということで、そんな破天荒な走りに対して、周りのウマ娘がどう反応し、レースの流れがどう変わるのかはわからない。

 仮にこれが終盤まで上手く通ったとしても、ウィルムたちのペースに乗ってボクを追い抜いた、たくさんのライバルの間を縫うように進路を見出し、かわして行かなきゃいけない。

 仮にこの2点を通過したとしても、最後に待ってるのはウィルムとの末脚勝負だ。今までに一度だって、ボクはウィルムの末脚に勝ったことがないのに。

 

 ……改めて考えても、酷く現実味のない戦法。

 もはや成功する方が奇跡みたいな勝ち方だ。

 

 現実的とは言えないどころか、「正気か?」って言われるような戦法。

 多分、このレースが終われば、世間は尽くボクを罵倒するだろう。

 レースの基礎もわかってない、愚かな走り方だったって。

 

 ……でも。

 この勝ち目のないレースで、多分それが、ボクの唯一勝ち得る方法で。

 最終的にはトレーナーも、「わかった。テイオーを信じる」って認めてくれた方法でもあるんだ。

 

 だから後は、自分の感覚を……。

 あの子が「本物の天才」って言ってくれた、ボクのレース勘を信じる。

 

 

 

『長く歓声の続く中、先頭は今第1コーナーへ。

 流石は歴戦の18人、1人として自らの心と折り合いを欠くウマ娘はいません。ここからどのような展開になるか、レースはようやく折り返しといったところ!』

 

 

 

 足りてない。

 ボクには、何もかも足りてない。

 

 ウィルムみたいに、どんな不可能も覆して勝利を刻む化け物でもなければ……。

 マックイーンみたいに、このレースを走り切れる圧倒的なスタミナがあるわけでもない。

 

 だから、できることはなんでもする。使えるものは全部使う。

 

 コーナーでは走りを最適化し(円弧のマエストロ)、直線でも無駄な疲労を抑える(好転一息)

 蓄えてきたものを温存して(食いしん坊)、身体に負債のように溜まる熱を冷まし(クールダウン)

 速度を緩めながら脚を溜めて(泰然自若)、自らのプランと走りのみに集中して(一意専心)

 追い抜かれても動じずに(不屈の心)、消耗に反して燃え上がる心のままに脚を動かし続ける(火事場のバ鹿力)

 

 トレーナーから教わったこと、会長から教えてもらったこと。

 勿論それだけじゃなく、ウィルやマックイーンの……そして歴代の優駿たちの走りの映像から、見て盗んだあらゆるもの。

 ボクが持ち得る、あるいは持ち得るものでなくとも、この場である程度再現できる技術、技法、走り。

 その全てを使って、走る。

 

 ……大丈夫。

 ボクの直感は、行けるって言ってる。

 

 このまま全てを使って、ボクがボクらしく走れば……。

 ホシノウィルムを差し切るのは、不可能なことではないって。

 

 

 

 

 

 

 ……ただし、それは。

 彼女が想定外の力を振るってこなかったら、の話だけど。

 

 

 

 

 

 

 ゾクリと、心胆寒からしめる気配が、前の方から迫って来る。

 

 これまでに何度も感じてきた、競走ウマ娘の秘奥、領域の気配。

 それも……この感じ。

 

 間違いない。

 ウィルのものだ。

 

 

 

 すぐさま、世界が塗り替わる。

 

 一見して、レース場から大きく景色が変わったわけじゃない。

 眼下に生えた芝はあまり手入れされてない草に変わって、ラチとかスタンドが見えなくなって……それから、すごく空気が冷えたくらいか。

 

 そこは静かで、穏やかで、寒くて……けれど、どこか柔らかな世界。

 

 これが、新たなウィルムの領域。

 地平線の彼方まで続く、青々しい草原。

 

 

 

 あぁ、想定通りだけど、マズいな。

 

 天皇賞でも群青の勝負服で来てる時点で、領域を開く算段が付いてるのはわかってた。

 その上、ウィルの体力を考えてもややハイペースに思えるこの展開。恐らく領域による効果には、スタミナの消耗度合いの減少、もしくは回復が含まれてる、ってのも予想が付いた。

 

 実際、ボクの視線のずっと先で、ウィルは自分の世界を楽し気に走っている。

 速度は……多分、領域を開く前後で大きくは変わってないかな。

 ただ、あれだけのハイペースでの走りだというのに、疲労がかさんでる気配が薄い。

 

 ということはやはり、領域の効果で疲労を和らげているのは間違いないか。

 

 そこに関しては、想定通りではあるんだけど……。

 

 速度が変わっていないというのは、完全に予想の外だった。

 いや、予想外というか……「そうであるはずがない」って思ってたんだ。

 

 

 

 ……一等輝く灰の龍(ホシノウィルム)の領域が、ただ穏やかで回復するだけの世界?

 

 ありえない。

 

 あの子の本質は、静じゃなくて動、消極的じゃなく積極的。

 疲労を受けてただ対応するという受け身な反応が、彼女の底であるはずがない。

 

 

 

 領域というものには、種類がある。

 

 一番典型的なのは、もっと速く、もっと強く走れるようになる、トレーナー曰く「速度型」の領域。

 次に多いのが、目標とした速度に辿り着くまでが早くなる「加速型」の領域だ。

 

 というのも、トレーナー曰く、この偏った傾向にはロジックがあるんだとか。

 

 1つ目の領域は多くの場合、ボクたちウマ娘の夢とか自己実現欲求とか、そういう部分が反映される。

 つまるところ、「誰かに勝ちたい」「もっと速く走りたい」という想いが、そのまま速度とか加速力に結びつくんだって。

 

 で、領域を2つ会得できるのは、トゥインクルシリーズでも極々一部。1世代に1人か2人、どれだけ多くても片手で数えられる程度で、1人もいないことも決して珍しくない。

 そういうわけで、多くのウマ娘にとって、領域=1つ目の領域であり、それは多くの場合速度や加速型の領域なわけだ。

 

 

 

 でもその実、領域の形は文字通りの千差万別。単純に速くなるだけとは限らない。

 

 ……あぁ、今でも昨日のことのように思い出せる。

 ボクが領域を開くきっかけになった、会長とネイチャとの模擬レース。

 その中で見た、あまりにも精度の高い、会長の領域を。

 

 あの時まだまだ未熟だったボクは、会長の領域を見て、その威圧感に思わず道を開けてしまった……。

 ……ように、感じた。

 

 けど、実際のところは違ったんだ。

 今ならわかる。アレはただ怯えさせられたとか、圧に動じたとか、そんなんじゃない。

 

 「無理やり」どかされた。動かされた。

 ボクの意思に関係なく、まるでそうなって当然とでも言うように、インコースから叩きだされたんだ。

 

 これは、後でトレーナーに聞いた話。

 会長の1つ目の領域は元々、速度型の領域だったらしい。

 ただ、会長は領域の練度を高めていった結果、それを2つの効果の複合形に変化させた。

 

 「速度型」で更にスピードアップするのと同時、他のウマ娘を強制的に動かす「干渉型」の領域。

 「周囲のウマ娘をインコースから弾き出し、拓いた覇道を自分のみがひた走る」っていうとんでもない効果を持つ、会長の切り札の1つだ。

 

 

 

 その存在を知っているボクだからこそ、ウィルムの新しい領域には違和感を持てた。

 

 回復型の領域……そういうものもあるって話自体は、聞いたことがあった。

 長距離を走るウマ娘が稀に目覚める、より長い距離を走るための領域。噂だと、あのスーパークリーク先輩もこのタイプだったらしい。

 

 けれど……。

 こんなに地味で消極的なものは、とてもじゃないけどウィルムには似合わない。

 

 ということは……まだ、何かあるんじゃないか?

 ウィルムは、まだ底を見せてないんじゃないか?

 

 もしかしたら考えすぎなのかもしれないけど、ボクはどうしても、そう思わざるを得なかった。

 

 

 

『悠々余裕の一人旅ホシノウィルム、第2コーナー回って向こう正面に入ります。

 改めて位置取りを確認しましょう、先頭を行くは予想通りにホシノウィルム、続いて大きく離れて6バ身程か懸命に食らい付くメジロパーマー、2番手4番クライネキステ、3番手11番ポイズナス、そして4番手に堂々とメジロマックイーン! 好位置に付けて着々とレースを進めているぞ!

 一方でトウカイテイオー、トウカイテイオーは大きく下がって13番手辺りでしょうか。インコースでじっと機を窺っている、まだまだレースは読めないぞ!』

『時計で見るに、どうやらトウカイテイオーは自分の適性ぺースを貫く腹積もりのようです。果たしてこの作戦が吉と出るか凶と出るか? 京都レース場の直線はおおよそ400メートル!』

 

 

 

「……まぁ、いい」

 

 ウィルムの領域の風景は、すぐに溶けて消えた。

 領域の展開が終わったことを確認して、ボクは意識的にウィルムから視線を離す。

 

 あの子は良くも悪くも、本当に人の視線を引き付けるけど……。

 今回に限っては、むしろ彼女の方を見ちゃいけない。

 

 だって、ボクは1人のレースを走るんだ。

 1人で脚を溜め、1人で末脚を振るい、1人でゴールする。

 ただ、その過程でみんなを追い抜くだけ。誰よりも早く、ゴール板の前を駆け抜けるだけ。

 

 仕掛け時は第3コーナーの登り坂……を、越えた先にある下り坂。

 そこが、ボクの体力的な臨界点。そこより先にスパートすれば、最後の最後で垂れてしまう。

 

 だからその時までは、ひたすらに平常心を保つんだ。

 走り方がブレてこのレースのペースに乗ってしまえば、その時点でボクの負けは確定しちゃうんだから。

 

 

 

 

『さぁ緩やかな登り坂が始まります、そろそろ第3コーナー、ここからが仕掛けどころ!

 春の楯も取って連覇の偉業を叶えるかメジロマックイーン! 春の楯こそ我が物として初の冠を手にするかトウカイテイオー! それとも楯も変わらぬとばかりにここでも力を見せつけるかホシノウィルム!』

 

 

 

 ……ウィルムとは、大きく差が開いている。

 先頭からここまで、15バ身あるだろうか。

 

 ボクの周りには今、ウィルムのペースについて行けなかったか、あるいは付いて行かなかったウマ娘たちが7人程。

 その中で、ボクはまるで囲まれるようにインコースを走っていた。

 

 もうすぐ第3コーナーの上り坂。

 下り坂に備えて、そろそろこのバ群の中から脱出しなければならない。

 

 

 

 でも、大丈夫。

 何の問題もない。

 

 ボクを取り囲む子たちは、ウィルムでもなければネイチャでもなく、マックイーンでもない。

 

 つまり、何が言いたいかっていうと……。

 

 勝負にもならない、ってことだ。

 

 

 

「邪魔」

 

 口の中で呟いて、一瞬だけ脚を緩める。

 そうすれば自然、左隣を走っていた子が少しだけ前に出て……。

 そこに、ちょうど1人分、ウマ娘の通れる隙間が生まれる。

 

 これで、邪魔な壁は崩れた。

 後はただ、そこを抜けるだけだ。

 

 まるでステップを踏むように進路を変えて、ボクを囲んでいた子たちの中から抜け出す。

 見方によっては、斜行と取られる可能性すらある、危険なやり方ではあるけど……。

 今は、一瞬だって時間を無駄にはできないんだ。

 

 バ群の中から抜けきり、登り坂は半ば。

 脚は……大丈夫、十分すぎる程に残ってる。

 ここまで全力でやってきたもんね。淀の坂だって、今のボクは止められない。

 

 

 

 ……あぁ、そうだ、そうだとも。

 全力でやってきた。ボクにできることは、全部、全部、全部やった。

 

 驕りも誇りも、全部この身と心から叩き出した。

 誰よりもウィルムのことを見続けて、嫌になるくらいに観察した。

 やり過ぎて炎症寸前になるくらいに、ひたすら体を鍛えた。

 長距離レースを走る技術を培うために、過去の天皇賞の映像は残っている限り全て見た。

 定石も安定も全部投げ捨てて、唯一勝ちうる非常識な戦法を選んだ。

 

 そうして捨ててきたもの全てを炉に放り込んで、今のボクは走っている。

 

 それだけ、勝ちたい。

 勝ちたいんだ。絶対に、今回こそ。

 

 ホシノウィルムと、メジロマックイーン。

 これまで一度だって勝てていない、強くてカッコ良いウマ娘たち。

 

 あの子たちにこの上なく有利で、ボクにはどうしようもなくらい不利な、この戦場は……。

 ここを逃せば、二度と訪れないかもしれない、完膚なき勝利のチャンスだ。

 

 

 

 だからこそ……。

 

「ふぅ……ッ!!」

 

 第3コーナーの頂点に辿り着いた瞬間、走り出す。

 あの2人に追い付いて、追い越すために……僕にできる、最大の力で。

 

 

 

 ……前へッ!!!

 

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 

 おかしな話、だけれど。

 その時、遥か遠くにいるはずの彼女の声が、耳元で聞こえた気がした。

 

「さて……聞こえてきたな」

 

 微かに、それでも確かに。

 その声は、まるでボクの魂に響いたとでも言うように、ここまで届いたんだ。

 

 

 

 ……そうして、もう1つ。

 こっちもこっちで、本当に、おかしな話だけれど。

 

 

 

 彼女の、既に閉じてしまったはずの領域が、再び開いた、気がした。

 

 

 

「皆の、声援が」

 

 

 

 視界を埋める、草原が。

 風に揺らめいていた、足元の草が。

 

 ゴウと、青く燃え上がる。

 

 

 







 お忘れかもしれませんが、というか多分ほとんどの読者様がお忘れかと思いますが、テイオーはその才気で「習得していない上位(レア)スキルをその場で再現」できます。
 イメージとしては、ヒントさえ獲得していれば使える(ただし覚醒具合によって使用回数制限アリ)みたいな感じです。
 つまり、覚悟キメれば大量に乱発してくるわけですね。だからって回復レアスキル8連打は化け物すぎ? それはそうかも……。



 次回は3、4日後。続けて帝王視点で、天皇賞(春)後編。
 次回で決着の予定です。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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ボクの小規模な奇跡

 テイオー視点で、天皇賞決戦編です。





 

 

 

 風に乗って、足元の草が揺れる。

 静かで、穏やかで、柔らかい、地平の彼方まで続く草原。

 

 そんな世界の中央に、彼女は立っていた。

 

「あぁ、聞こえる」

 

 彼女が胸に握った拳を当てると、そこに青い炎が宿る。

 それは、赤よりもずっと熱い、全てを焼き尽くす色。

 その胸から込み上げる、あるいは自分自身すら焼かれかねないその熱を……。

 

 

 

「私を燃やしてくれる、声が」

 

 彼女は、腕ごと、振るった。

 

 

 

 炎は散り、草原いっぱいに広がって……。

 彼女の肌寒かった世界を、青い炎と、肌を焼く熱が埋め尽くした。

 

 草は炎へ。緑は青へ。

 舞台装置が改まり、世界は今、全く別のものとなる。

 

 静かで穏やかで柔らかだった世界から、苛烈で激しく刺々しい……。

 けれど、恐らく、何よりも彼女自身が望んだ世界へ。

 

 

 

「これが、ホシノウィルム(わたし)の歩む道」

 

 轟々と燃え上がる草原の中。

 彼女は……群青の勝負服に身を包んだホシノウィルムは、青炎を纏って走り出す。

 

 自分の世界を、自分の記憶を、自分の過去を、自分の経験を。

 自分の持ち得る限りの全てを、炉に入れ、燃料として。

 

 

 

「全てを踏み越え、全てを糧にし、今……誰よりも前へッ!!」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 鳥肌が、立った。

 

 ……これが。

 これが、ホシノウィルムの2つ目の領域の、神髄。

 今の彼女の、心象風景。

 

 見れば、直感的に理解できる。理解できてしまう。

 今までの人生を燃料として……人生の意味の全てを賭けて、今、彼女はレースを走っているんだ。

 

 彼女にとっての人生は、ただこの時走るためのもので。

 今できる走りこそが、これまでに生きてきた人生の結集。

 

 まさしく命懸けでの走り……。

 いいや、違うな。

 一つの生に、走りに、人生を賭けているって言うべきか。

 

 

 

 なるほどね。

 そりゃ、これまで勝てなかったはずだよ。

 

 ボクはまだ、本気じゃなかった。

 いや、これでも本気のつもりだったけど、それでも彼女に比べれば甘かった。

 

 ボクだって、培ったもの全てをぶつけてきたつもりだったんだ。

 でもそれはあくまで、選抜レースを走って、本格化を迎えて、トレーナーの下で育ててもらって……。

 そうしてトレセンに入ってからの、たった2年の蓄積でしかなかった。

 

 対して、彼女は、根本的に違ったんだ。

 彼女がぶつけるのは、その人生の全て。

 生まれて、育って、積み上げてきたものを、1つ残らず走りに注ぎ込んでいる。

 

 去年、ウィルから聞いたことを思い出す。

 自分は昔から走ってた、走ることしかないようなウマ娘だった、って……。

 今更になって、あの言葉が紛れもない事実だったんだと痛感する。

 

 彼女は物心付いてからずっと、ボクがこの1か月でやってきたくらいの本気さで走っていたんだろう。 

 この肌寒い草原で、ひたすらにひたすらに、妄執と言っていいレベルで自分を鍛え続けた。

 その経験の濃さは、正直言って想像を絶するものがある。

 

 

 

 だからこれは、単純な質量の問題だ。

 2年間頑張ってきた蓄積と、10年以上死に物狂いで稼いだ蓄積。

 そのどちらが大きくて、どちらが勝つかなんて、もはや考えるまでもない自明の理だ。

 

 しかも何が問題って、「ウィルムの真似をしてこっちも人生を賭ける」……なんて、そんなことはできないってこと。

 あの領域を見るに、ボクとウィルムじゃ、これまでに生きてきた人生の本気度が違い過ぎる。

 燃料の量が同じで質が悪ければ、ただの下位互換になるだけで終わってしまう。そうなれば張り合うことすらできずに終わるだけ。

 

 結局のところ、ボクはボク自身の力で、このウィルムに勝たなきゃいけないわけだ。

 

 

 

 視線の先、青い炎に包まれながら走るウィルムは、ぐっと目に見えて加速した。

 領域を開いて加速するってこと自体は珍しくないけど……スタミナ回復した上にここまで加速してくるなんて、もはやズルの領域に足を踏み入れてるって。

 

 スタミナはめちゃくちゃにある、脚を溜める技術もある、大逃げでレースをめちゃくちゃにする、末脚までキレる上に領域まで埒外。

 しかもそれらの能力の内大半が、才能ではなく努力で培われたものときた。

 もはや嫉妬も羨望も越えて、ただただ呆れるしかない。

 

 ……でも、呆れてばかりもいられないな。

 何せ……ボクは今、そんなウィルムの背中を追ってるんだから。

 

 

 

 * * *

 

 

「ッ!!」 

 

 京都レース場の第3コーナー、淀の坂の下り坂。

 そこから、ボクは渾身の力で加速を始める。

 

 第3コーナーって言うとレースも終盤に思えるけど、コーナーと直線合わせて、まだここから800メートルも残ってる。

 その上今はコーナーで、決して緩くないカーブの中の下り坂だ。ここで加速しすぎれば経済コースから外れてしまうし、残る距離を走るだけのスタミナを失う可能性もある。

 

 けど、ボクは今、ウィルムに大きく差を付けられてる。

 この距離を詰めるには、最終直線や第4コーナーからじゃとても足りない。

 去年の菊花賞のネイチャみたいに、下り坂を味方に付けないと……勝てなくなる。

 

 

 

 そう。

 あれだけの領域を見せられてもなお、ボクは勝ちを諦めていない。

 

 確かに、ウィルムのそれは、ボクにない圧倒的な強さだ。

 ズルみたいな素質がある上にずっとずっと死に物狂いで走ってきて、その十年を超える経験の全部をぶつけてくるとか……そんなの、真っ向から向き合ったら勝つのは不可能に近いよね。

 

 でも、それは「不可能に近い」であって、「不可能」ではない。

 少なくともボクの直感は、まだ諦めるべきじゃないって言ってる。

 

 ウィルムの領域込みの速度は確かに速いけど、それでもボクの全力の末脚の方が速い、はず。

 その領域を何秒間持続できるのか、そしてボクがここから如何に綺麗に走るか次第で……たとえ現実的ではないにしろ、勝てる確率は存在する。

 

 ならば、諦めるわけにはいかない。

 いや……諦めたくない!

 

 

 

『トウカイテイオーが動いた! 800の標識を過ぎたところでトウカイが動いたぞ! ぐんぐんと前へ駆けて開いた差を一気に詰め切るつもりか! 残り700通過でここからが未知の道のりトウカイテイオー!

 ホシノウィルム、メジロマックイーンもスパートをかけてここからが勝負所! 残り300メートル余り逃げ切れるかホシノウィルム!?』

 

 

 

 ウィルムの背中は、ずっと遠い。

 それこそ、今にもゴールしてしまいそうに見える程。

 

 けど……それでも。

 

 一瞬だけ、まぶたを閉じる。

 そうすれば、まぶたの裏に、これまでに見てきた多くのウマ娘の走りが蘇った。

 

 昂る鼓動のままに駆けた優駿の姿。

 怪物と呼ぶ他ないすさまじい爆発力。

 1人2人とかわしていく怒涛の追い上げ。

 スピードスターの華麗な抜け出し。

 あと一歩まで迫った王手。

 

 そして……これまで何度も辛酸を舐めさせられた、龍の全身全霊の末脚。

 

 

 

 ウィルム。

 君が君自身の人生、その全てをぶつけてくるのなら……。

 ボクは、ボクの見てきたもの全てを使う。

 観察して、研究して、実践して、盗んで、未だ身に付けることは叶わず、その場その場のアドリブ的な再現にしか過ぎないそれらを。

 

 人の袴で相撲を取るようで、本っ当に悔しいけれど……。

 少なくとも、今のボクが君に勝つには、君と対等以上に走るためには、こうするしかないから。

 

 

 

『とっ、トウカイテイオー、トウカイテイオーだ!! トウカイテイオーが追い込んでくる!!

 恐ろしい速さでぐんぐん差を詰め、一瞬で先行集団を抜き去って最終直線へ!! これが帝王の真の実力なのか、前方メジロマックイーンまで3バ身、ホシノウィルムまで6バ身!! 適性の壁を超越して今、帝王が初の冠に手を伸ばす!!

 負けるなホシノウィルム! 負けるなメジロマックイーン! そして負けるなトウカイテイオー!! 残る距離は200メートル!!!』

 

 

 

 左右に鋭く進路を変えて、他のウマ娘たちを抜き去って……。

 もはや今、視界に入っているウマ娘は、ずっと前のウィルムと、少し前にいるマックイーンだけ。

 

 いける。

 このままなら、マックイーンを差し切って、ウィルムに迫れる。

 

 

 ……しかし、あるいはこれこそ「フラグ」ってヤツだったのか。

 ボクがそう思った時、景色が切り替わった。

 

 ウィルムの炎に包まれた世界から切り替わるように……。

 前方から、白い空の世界が迫り来る。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 それは、失墜の夢。

 落ちぶれ、堕落し、敗北して、悲願を果たせぬままに力尽きる、そんな幻想。

 

 それを体現するように、彼女は空から墜落していた。

 

 今こそ失敗なき名優と呼ばれているものの、メジロマックイーンというウマ娘には、多くの失敗と挫折の経験があった。

 その筆頭が、去年の天皇賞(春)での敗北。

 多くのファンの期待とメジロ家の宿願を背負い、けれど勝利することができなかった、悲劇のレース。

 

 

 

 ……しかし、その失墜も、長くは続かない。

 

 閉じていたまぶたを開けば、そこには赤い羽根がある。

 それは、彼女を奮い立たせたとあるウマ娘の、1着目の勝負服のカラーであり……。

 ……もしかしたら、長いことライバルとして意識し合っていたボクが着ている勝負服のカラーでも、あるかもしれない。

 

 彼女がそれを胸に抱くと、その背には一対の翼が生える。

 彼女をどこまでも連れて行く、空を舞うための翼が。

 あるいは……ライバルたちと共に、ターフの上を走るための翼が。

 

 

 

「この翼で、高く高く……羽ばたいてみせますわ!」

 

 そうして、彼女は手を伸ばす。

 更に先へ。もっともっと前へ。

 

 勝利と栄光と、そしてライバルへの勝利。

 それだけを、焦がれる程に求めて。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 マックイーンが、2つ目の領域を展開した。

 

 初めて見たそれは、まさしく新生の領域。

 悲嘆と失墜の中から立ち上がり、飛び立つっていう心の風景だ。

 

 文字通り翼が生えたように走る彼女は、ぐんとその速度を上げる。

 

 シンプルな速度型の領域で、ほぼ確定。

 会長やウィルのように複雑なものじゃないシンプルな効果は、フィジカル重視のマックイーンらしい領域と言えるだろう。

 

 ……でもそれは、シンプルであるが故に、強い。

 

 ボクとマックイーンの距離の縮まりが、一気に小さくなる。

 流石はウマ娘の秘奥と言うべきか、領域の効果は絶大だ。

 今のマックイーンは、使えるものを全部使っているボクでも差し切れないかもしれないくらいに、速い。

 

 

 

 マックイーンを差し切らなきゃ、ウィルムも差し切れない。

 このままじゃ、ボクはこのレースで何もできずに負けてしまう。

 

 それは、嫌だ。

 勝ちたいんだ。あの子に。あの子たちに。

 

 だから……。

 

「勝つのは……ボクだッ!!」

 

 ライバルを前にして、高鳴る鼓動と込み上げる熱を、現実にぶちまけた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 視界を塗り替えて現れるのは、灼け付いた不毛の大地。

 この景色を見るのは2度目、あの大阪杯の日以来だ。

 

 性質としてはマックイーンのそれに近い、挫折と再起を誓う領域。

 この中でなら、ボクはマックイーンよりもウィルムよりも、ずっと速く走れる。

 

 

 

 ……けど、それでも。

 

「足りない」

 

 これじゃ、まだ足りない。

 また逃げ切られて終わってしまう。

 

 焼け付く大地程度の熱では、あの全てを焼き尽くす青い炎には勝てない。

 あの温度には……人生の全てを炉にくべて走るあの子の、殺意にすら近い闘争本能には、敵わない。

 

 

 

 でも、どうすればいい?

 

 ボクの中に、これ以上の熱はない。

 トウカイテイオーというウマ娘の熱は、ホシノウィルムには敵わないんだ。

 

 多くのウマ娘の技術を盗んで勝手に使い潰そうとも、根本的な魂の温度、これまでの人生の熱の総量とでも言うべきもので、ボクは彼女に勝てない。

 であれば、その心模様を強く反映される領域でも、彼女に勝てるはずはなくて……。

 

 

 

「まだ、足りない」

 

 それでも、諦めきれない。

 

 ここまで来たんだ。

 ボクに極めて不利な戦場で、使えるもの全てを使って、あと一歩のところまで来た。

 

 勿論、無理をした代償はあった。

 頭は使いすぎで割れるように痛い。

 酸素が回ってないのか、視界はぐにゃりと歪んでる。 

 脚も違和感こそないものの、既に感覚を失って久しい。

 肺だって壊れたように酸素を欲して、喉をガクガクと揺らしてる。

 満身創痍だ。これ以上ないくらいボロボロで、もはや立っていることさえも難しいくらい。

 

 それでも、脚は止めない。止めたくない。

 

 だって、勝ちたいんだ。

 今度こそ、これ以上ないっていう走りをして、あの子と競って、勝ちたい。

 

 だから……!

 

「もっと、もっと熱く!!」

 

 

 

 

 

 

 その、瞬間。

 

 灼け付いて不毛になっていたはずの大地から、溜まっていた熱が炎となって吹き上がる。

 

 でも、これは……この熱は。

 ボクから出たものじゃ、ない。

 

 半ば呆然としていたボクの背中に、炎と熱波が吹きつけて……。

 

 そこから、声がした。

 

 

 

『テイオー、負けるな!』

『大逆転見せてくれ!』

『行けるぞ! 差し切れ!!』

 

 

 

 聞こえた。

 たくさんの、ボクを応援してくれる、ファンの声が。

 

 それが……ボクの中にあったものなんかよりずっとずっと熱い熱になって、ボクの背中を押してくれて。

 

 そうしてボクは、空に巻き上げられる。

 

 

 

『あとちょっと!』

『このペースなら……!』

『テイオーの勝つ姿が見たいの!』

『天皇賞で初の重賞勝利飾ってくれ!』

『奇跡見せてくれ!』

 

『行け、トウカイテイオー!!』

 

 

 ……その声で、ようやく気付いた。

 

 見落としてたのは、これだったんだって。

 

 

 

 あぁ、バ鹿だったなぁ、ボク。

 

 ウィルを相手に「ボクに使える全部」で……言うならばボク1人きりで挑むなんて、その前提から間違ってた。

 

 ボクにはこんなにもたくさんの味方がいるんだもん。

 それを頼らず、一緒に戦わないなんて、そんなの舐めてるにも程がある。

 

 まぁ、その数自体は、ウィルやマックイーンに勝てないかもしれないけど……。

 それでも、こんなにも心強い。

 

 

 

 吹き付ける炎は、ボクの背中に集まって形を成す。

 大阪杯の日に得た翼よりも、もっと大きくてもっと強い翼。

 マックイーンのそれに似た、けれどボクだけの翼。

 ……いいや、ボクたちの翼!

 

 あぁ、これならきっと行ける。

 

 あと200メートルしかないけど……。

 ここから、本当のレースを始められる!!

 

 

 

「トウカイテイオーの走りは、ここから、だぁぁああああ!!!」

 

 そう言って、ボクは……。

 彼方の星に向けて、この手を伸ばした。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 風を切る音が聞こえた。

 それが自分が加速した音だったって気付いたのは、ずっと後のこと。

 

 ただでさえ満身創痍だった時に、極端に集中力を要する領域まで開いたからか、いよいよ思考も限界を超えてしまったらしい。

 もはや真っ当に意識を保つのも難しいくらいで、他のウマ娘の姿さえもまともに認識できない。

 

 それでも、あの子に勝ちたいって気持ちだけは、全然萎えることがなくて。

 もっと前に走りたいって、その想いだけが爆発するように心を焦がし、脚を動かして。

 

 だから白ばむ視界の中で、ただ、すぐ近くにあるような、あるいはずっと遠くにあるようなゴールに向かって、全力で。

 

「が、ぁぁぁぁぁああああああああ!!!」

 

 走って、走って、走って……。

 

 

 

 

 

 

 そうして、最後に。

 

「……ついに、追い付かれちゃったかぁ」

 

 そんな、聞き慣れた声が、聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 

 気付けば、地面に転がっていた。

 視界の先には、ただただ遠い、青い空と白い雲。

 手の届かないところにあるそれらは、倒れ込んだボクのことをなんか気にかけることもなく、ただ静かに流れていく。

 温かくなってきた空気と相まって、なんだか穏やかな雰囲気だ。

 

 ……まぁ、ボクの肺は未だにズキズキ痛んでるし、狂ったように酸素を求めてる。脚も棒になったみたいだし、完全にグロッキーってヤツ。全然穏やかなんかじゃない、ひっどい状態なんだけどさ。

 

 

 

「はぁ……はぁ、ふぅ……」

 

 我ながら、頑張ったなぁって思う。

 

 とてもじゃないけど、これ以上の走りはなかった。

 

 この1か月、ボクはボクに出来る全てをやった。

 あらゆる努力を積んで、あらゆる技術を盗んで、その全てをレースにぶつけた。

 適性の不適と、スタミナ不足。この2つの壁を越えるために、ボクにできる最大限、最高効率の鍛錬を、トレーナーと一緒に積んできたつもりだ。

 

 レース本番でも、持ってるものを不足なく全て出し切った。

 展開も悪くなかったし、ミスも一切ない、完璧な走りだったはずだ。

 何ならみんなに背を押してもらって、トウカイテイオーとしての限界以上の力まで出せたとすら思う。

 

 これ以上の走りは、ボクにはできなかった。

 これ以上のレースは、きっとボクにはできないだろう。

 

 それが……なんというか、残念だった。

 

 

 

 当然の話だけど、この世界で全く同じレースなんてのは二度と行われない。

 ボクが同じ走りができないかもしれない、ってのもそうだけど……。

 マックイーンはもうシニア2年目、ドリームトロフィーに進んでもなんらおかしくない頃合いだし。

 ウィルムだって、去年の宝塚記念とかでもわかるように身体的な限界はある。

 

 だから、来年もこの3人で、このレースを走れるとは限らないんだ。

 

 それに、たとえ走れたとしても、これ以上の走りをできる気もしないし。

 2人に完璧に勝つには、このレースしかなかったのに……。

 

 

 

 ……いや、違う、そうじゃなくて。

 勝てないかもしれない、なんてことが残念だったわけじゃなくて。

 

 ボクは、ただ、単純に……。

 

「……もっ、と……」

 

 もっと、2人と一緒に、走りたかった……のかな。

 

 

 

 熾烈なレースだった。

 一瞬でも気は抜けない、ずっと頭に血が昇りっぱなしの、地獄みたいなレースだった。

 

 でも、その厳しさが、激しさが、すごく……すごく、楽しかった。

 満ち足りて、心が躍って、胸が高鳴って、たまらなく楽しかったんだ。

 この、ライバルと一緒にやった、どっちが速いかを決める、すごく高度なだけの追いかけっこが。

 

 だから、こんなに痛くて苦しいのに、2人と走れる時間が終わってしまったことが、そしてもうこの2人と走る機会が来ないかもしれないっていうのが……すごく、残念で。

 

 

 

「テイオー、大丈夫ですか?」

 

 荒い呼吸のまま、ぼんやりと青い空を見上げて考えていると、上の方から声がかかった。

 

「……マック、イーン」

 

 青と白に染まってた視界に、サラリと垂れる芦毛と、気遣わし気な、でもどこか複雑な感情の混じった瞳が映り込む。

 

 マックイーン……やっぱり、余裕そうだね。少なくとも、ボクに比べると。

 あんな距離走ったのに、それでもまだ立って、誰かに声をかける、なんてことができてる。

 

 ……やっぱり、長距離じゃ、勝てないなぁ。

 

「すごい、や。マックイーン」

「何を仰っていますの。もう、皮肉ですか?」

「皮肉……?」

 

 マックイーンが伸ばしてくれた手に掴まって、なんとか上体を起こす。

 

 そこで……ようやく、すごい歓声とどよめきが、耳に入った。

 

 見れば、スタンドからレースを見ていた観客たちが、ボクたちの方を見て何かを言ってる。

 あまりに混沌としてるから、それぞれが何を言ってるのかはわからないけど……。

 かろうじてわかったのは、どうやらボクとウィルムの名前を呼んでるっぽいこと。

 

「…………?」

「その反応……なるほど、そこまで集中していた、ということですか。

 テイオー、掲示板をご覧なさい」

 

 掲示板。ボクたちの着順を確定して皆に伝えるための、大きな電光掲示板。

 ボクがそちらに視線を投げると、そこには……。

 

 

 

 1着のところに、ホシノウィルムの9番が表示されてて。

 2着に、ボクの18番が表示されてて。

 

 ……2つの間にある文字は……。

 

 「写真」。

 

 

 

「…………あ、え?」

 

 写真。

 写真判定。

 

 要するに、目視じゃどっちが1着だったか判断できないくらいに激戦だった、ってこと……のはずだ。

 

 ボクがその意味を必死に噛み砕こうとしていると、マックイーンはボクの横に膝を突いて言ってくる。

 

「完敗です、テイオー。この3200メートルの天皇賞で、まさかここまで綺麗に地を舐めさせられるとは……。どうやら、ウィルムさんの言葉は正しかったようですね」

「ウィルム、の……?」

「彼女は、あなたが必ず伸びてくると信じて疑っていませんでした。どれだけ理屈の上で不可能でも、あなたなら奇跡を起こせると。……えぇ、まさしくその言葉通り。綺麗に差し切られてしまいましたわ」

 

 マックイーンは、平静を保ったような表情でそう語ってるけど……。

 よく見れば、彼女は両手の拳を、血が出るんじゃないかってくらい強く握ってた。

 

 マックイーンはよく言ってた。

 メジロのウマ娘にとって、天皇賞の楯は何よりの悲願。去年の天皇賞(春)に敗北した以上、二度目は許されない、って。

 

 だから彼女にとって、春の天皇賞は大きな勝負の舞台だったはずだ。

 その上、適性のあるウィルムに負けるのならまだしも、適性のないボクに負けたのは、彼女のプライドを大きく傷つけてしまったのかもしれない。

 

 思わず「次はわからないよ」なんて慰めを言いかけて……やめる。

 

 そう言って謙遜することは、正々堂々と戦った彼女への侮辱に他ならないし……。

 それにボク自身、もう一度走れるかどうかなんて、わからないから。

 

 

 

 何を言うべきか迷っていると、ボクたちに1つの足音が近づいて来る。

 3200メートルの長距離を走って乱れの1つもない王者のそれの主は、疑うまでもなく。

 

「テイオー」

 

 ……ホシノウィルム。

 

 今にも倒れそうなくらいに疲弊したボクと違って、ウィルムは全然余裕がある感じ。それこそ、ここから後1000メートルくらいなら追加されても走れますよってくらいだ。

 

 その余裕は、そのカラッとした表情からも見て取れる。

 この子はレースを終えると、いつも満足気な笑顔を浮かべてるんだけど……。

 今日は、いつもに比べて一層、その笑顔が色濃いように見えた。

 

 彼女はこっちにたたたっと歩み寄ってくると、不意にボクの両手を掴み……そして、それをぶんぶんと振ってきた。

 

「テイオー、テイオー、あぁ、トウカイテイオー! 最っ高ですよ、流石はトウカイテイオーです!!」

 

 ウィルムの顔には、自分が負けかかった、あるいは負けたかもしれないことに対する不平不満や悔しさなんて、欠片もなかった。

 ただこのレースで自分を追い詰め、楽しませてくれたライバルへの感謝と感激だけが、ありありとその顔に表れている。

 

「正直最終コーナーまで詰めてこなかった時はどうかと思いましたが、素晴らしいと言う他ない末脚でした! というかなんで『アニメ……じゃなかったスパートしてる私より速いんですか、どれだけ鍛錬積んできたんですか! 私が言うのもなんですけどとんでもないですねぇ吸収力と精神力! もはや賞賛する他ありませんこれは!」

 

 嵐のように飛んでくる言葉に、まだ全然本調子じゃない脳がキンキンと痛む。

 褒めてくれてる……んだと思うんだけど、あまりに感情的な言葉の羅列だ。全部理解するのは、今のボクにはちょっとキツい。

 

 幸い、ウィルムはすぐにこっちの様子に気付いてくれたようで、ハッとした表情を浮かべてくれた。

 

「あ、ごめんなさい、落ち着きますね、ハイ。

 ……とにかく、すごく良い走りでした。まさしく奇跡を起こすウマ娘トウカイテイオーです」

「あー……うん、ありがと」

 

 正直、今褒められても、微妙に喜び辛いというか……現実に、認識が追い付いていないというか。

 

 ウィルムにここまで走りを認めてもらったのは、初めてのことで……それだけウィルムに迫れた、ってことだよね。

 いや、迫れたっていうか……そう、写真。写真判定になったんだよね?

 

 写真判定ってことは、これまでにないくらいウィルムに迫れたってことで。

 それに……それに、まだ結果が確定してないってことで?

 

 

 

 ……勝てた?

 

 ウィルムに……勝てた、かもしれない?

 

 そんな……そんなこと、あるの?

 いや、確かに、これ以上ない走りができたと思う。思うけど……。

 

 でも……そっか。

 

 ウィルムに、やっと、そこまで迫れたんだ。

 やっと、隣に並ぶところまで行けたんだ。

 

 

 

 ようやく思考が現実に追いついてきたボクの前で、ウィルムはまた口煩さを再燃させていた。

 

「いつかは、とは思っていましたが……ついに、ここまで追い付かれてしまいましたね。流石はトウカイテイオー。私の最高のライバルです!

 勿論マックイーンさんも、えげつなく強かったですよ! あんな早めのスパートかけてスタミナが持つとは、恐るべしですね! 1バ身差付けるつもりだったのに半バ身しか付けられませんでしたし、とんでもなくすごかったです!」

「評価には感謝しますが……必勝のつもりで挑んだレースで、1人だけ明確に敗れたのです。正直に言えば、悔しさが優りますわね」

「ナイス悔しさです! 敗北の悔しさはバネになりますからね、次回マックイーンさんと走る時が尚更楽しみです! 今度はもっともっと追い詰めてくださいね!」

 

 「次に走る時」「今度」って言葉を聞いて、ふわふわと浮きかけた気分が、少しだけ沈む。

 

 マックイーンが次に出るのは、多分、次の天皇賞を見据えて秋からになるだろう。

 けれど、ウィルムは秋になったら海外遠征に出てしまう。

 ボクは……大阪杯と天皇賞の疲れを抜くためにも、しばらくは休養になる予定だし。

 

 この3人でまた走れるのは、いつのことになるんだろう。

 ……もしかしたら、そんなタイミングは、もう巡って来ないのかな、って。

 

 この上なく高い壁、この上なく強いライバル、この上なく苛烈なレース。

 こんなにも条件が揃って、楽しく挑めるレースは……もう。

 

 

 

 そんなことを思ってたボクに、けれどウィルムは笑いかけてくる。

 

「ね、3人で約束しましょう、約束!」

「約束ですの?」

「そうです! 来月の宝塚で再戦しましょう! 今度こそは完全に勝ち切ってやります!」

 

 子供みたいに無邪気に笑って無茶を言うウィルに、思わずマックイーンと目を合わせて笑ってしまう。

 

「申し訳ありませんが、私は秋の天皇賞までは鍛え直しですわ。この条件で負けてしまう今、再びあなたと競っても勝ち目がありませんもの」

「ボクは……一旦、大阪杯と天皇賞の疲労抜き。それにもっと強くなりたいし、多分、レースに出られるのは……半年後くらいになるんじゃないかな」

「そ、そんな……私、秋は凱旋門賞ですよ!? 宝塚を逃せばしばらくは2人と走れないんですよ!? そんなの生殺しじゃないですか!!」

 

 何が生殺しなのかはよくわからないけど、ウィルは悔しそうに握った両手をぶんぶん上下に振る。

 そして言葉にならない呻き声を上げながら、小声でブツブツ呟いた。

 

「それじゃ、秋の……いや、天皇賞は微妙って言われてるし、ジャパンカップは抑えろって……うぅぅ」

 

 あんなに強かったライバルが見せる幼児性に、棘を抜かれたような気分になる。

 というかウィル、ファンの前では結構クールというかカッコ良い系で売ってるのに、こんなの見せて大丈夫だろうか。今更かな。

 

 

 

 あーでもないこーでもないと頭を捻っていたウィルは、ようやく納得できる答えを見つけたのか、深く頷いてボクたちを見て来た。

 

「わかりました! 今年の有記念! 有記念でもう1回この3人で走りましょう! 今度は追い付かせたりなんかしません、ボッコボコにしてやりますから!!」

 

 それは、すさまじく直球な宣戦布告だった。

 次に走ったら自分が勝つと、負けるためにレースに出て来いと。

 それにぴくっと来ないわけではなかったけど……。

 

 ……それ以上に。

 初めて、ウィルムの気持ちが、よくわかってしまった。

 

 この3人でまたレースができたら、どれだけ楽しいだろう、と。

 そして、その次のレースでこそ、自分はぶっちぎりで勝ってやる、と。

 

 だから……。

 

「……いいよ。ボクの方こそ、今度は完勝してやるから!」

「えぇ。メジロのウマ娘として、正々堂々と挑みますわ」

 

 ボクたちは、1つの約束を結んだのだった。

 

 

 

 もう二度と、同じレースは開催されない。

 この天皇賞(春)は終わってしまって、その結果を覆すことも、過程を体験することもできない。

 時間は川と同じように、流れていくばかりで逆流はしないものだから。

 

 ……けど。

 きっと、今回以上の、もっと良いレースを作ることは、できる。

 

 そう信じて、ボクたちはそれぞれ、年末までの短いようで長いモラトリアムを歩み始める。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 天皇賞(春)。

 その1着入線を決める写真判定の審議は、実に20分以上に渡って続けられた。

 

 異例の長さで続けられたこの審議の果てに出された、たった1つの結論は……。

 

 

 

 ホシノウィルム、及びトウカイテイオーの、1着同着。

 

 センチメートル単位ですら優劣の定まらない、トゥインクルシリーズ史上初の、G1レース1着同着となったのだった。

 

 

 

 ボクはその後、「適性の壁を正面から破壊した奇跡のウマ娘」「トゥインクルシリーズ現役で唯一ホシノウィルムと並べるウマ娘」なんて言われて、ちょっとばかり注目されたんだけど……。

 

 正直、奇跡というには成し遂げきれない、中途半端な結果になってしまったなぁ、と思う。

 

 だってボク、マックイーンと天皇賞には勝てたけど、ウィルムには勝ててないもん。

 同着ってことは横並びってことで、彼女とは勝ち負けがまだ決まってない。

 

 だからこそ。

 ボクは、インタビューで向けられたマイクに向かって、高らかに宣言する。

 

 今度こそ、決して大言壮語じゃない、ボクの新たな目標を。

 

「もう星の光に目を焼かれるばかりじゃない! 有記念では、今度こそ完全に勝ちに行くんだから!

 ファンのみんな、期待しててよね!」

 

 

 







 ホシノウィルム
 『青く燃えるクリカラ Lv5』
 レース中間付近でスタミナを消耗していると草原の上で持ち直す、長距離レースで最終直線に入った時先頭に立っている場合は燃え上がってひた走る。

 メジロマックイーン
 『最強の名を懸けて Lv5』
 レース終盤かつ最終コーナー以降に前の方で詰め寄られると速度を上げ続ける

 トウカイテイオー
 『絶対は、ボクだ Lv6』
 最終コーナー以降に前の方で追いすがっていると最終直線を走行中不屈の闘志で速度がすごく上がる。
 更に不利な戦場である程に帝王としての意地を見せ大きな奇跡を起こす。



 そんなわけで、天皇賞(春)でした。

 ウィルの新領域は、「今世では色々あったけど、それら全てが今の自分を作っている大切な過去」であることを認め、その全てを競走ウマ娘としてのパワーに換える(走る燃料にする)というもの。平たく言えば、アタシ再生産です。
 「青く萌える国(故郷)から」やってきたウィルが、「青く燃えるクリカラ(龍)」になる、という言葉遊びをしたかった。

 そして、ウィルに競り勝つまでは行かずとも、ついに並ぶことのできたテイオー。
 これを以て本作最強キャラランキングは、
 1位:1、2話登場の某モブ栗毛ウマ娘(ウィルに1バ身差勝利)
 2位:スペシャルウィーク(ウィルに3センチ差勝利)
 3位:トウカイテイオー(ウィルと同着)
 となりました。参考までに。

 さぁ、残すところは宝塚記念。ここまで目立ってこなかったあの子との戦いが来ます。
 ですが、その前に別視点回。掲示板と、ウィル陣営と……それから、どこかの誰かの視点の順の予定。



 次回は、3、4日後。掲示板回です。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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【史上初】盾は『2枚』あったッ!6枚目【G1同着】

 いつもの読み飛ばしても問題のない掲示板回です。





 

 

 

1:名無しのウマ娘ファン ID:egXSR4xOh

 取り急ぎ

 

 

2:名無しのウマ娘ファン ID:A+pGGihGU

 >>1 おつ

 

 

3:名無しのウマ娘ファン ID:I9mH3CDA6

 2枚なのか6枚なのかどっちだよ

 

 

4:名無しのウマ娘ファン ID:3Ds7IHcaz

 >>1 おつ

 

 

5:名無しのウマ娘ファン ID:5jkdQQa/j

 埋まるのはっや

 

 

6:名無しのウマ娘ファン ID:1jom7bzRW

 >>1 おつ

 

 

7:名無しのウマ娘ファン ID:xMHnci2cN

 >>1 おつ

 

 

8:名無しのウマ娘ファン ID:0zktIuAcE

 長距離G1でウィルムが1着 →知ってた

 同着が存在する →ファッ!? 史上初やが!?!? ヤバすぎやろマックイーン

 マックイーンじゃなくてテイオー →!?!?!?!?!?!?

 

 

9:名無しのウマ娘ファン ID:Omj21d4NZ

 2枚どころの話じゃなくなってきて草

 

 

10:名無しのウマ娘ファン ID:b2rLRe2iO

 細かい話だけど盾じゃなくて楯な

 

 

11:名無しのウマ娘ファン ID:XnxsJjnjf

 盾の栄誉を勝ち獲ろうとしたらわけわからん適性破壊末脚喰らったのかわいそすぎだろマックイーン

 まぁテイオーがいなくともウィルムに追いつけなかったっぽいのは残念だが

 

 

12:名無しのウマ娘ファン ID:GwbFWewnm

 >>1 おつ

 

 

13:名無しのウマ娘ファン ID:1SlW0Ba3z

 適性絶対主義おじさん敗北www

 

 

14:名無しのウマ娘ファン ID:3tCl/w8IQ

 テイオーの走り何回見ても意味不明すぎておもろい

 バ群抜けるのも進路変えるのも末脚の鋭さもエグすぎだろどうなってんだよ

 

 

15:名無しのウマ娘ファン ID:LjMq0zvCk

 上 が り 3 F 3 4 秒 0

 

 

16:名無しのウマ娘ファン ID:NeyWf4G0N

 おかしいな俺の見間違いじゃなければ最後中距離レース以上の速度でゴールしたように見えたがそんなわけないよな今回のレースは3200メートルだもんなそれだけはあり得ないよ

 

 

17:名無しのウマ娘ファン ID:vFNXrXI51

 テイオー最強! テイオー最強!

 

 

18:名無しのウマ娘ファン ID:pMq8KQEtS

 テイオーが怪物すぎて全然触れられないけど、3着マックイーンから4着ユグドラバレーまで6バ身空いてるのも異常なんだよなぁ

 今のトゥインクルシリーズは上澄みが上澄みすぎる

 

 

19:名無しのウマ娘ファン ID:9bfN5HDlF

 俺は信じてたよ。テイオーなら奇跡起こせるって。

 まぁでもマックイーンに勝つのはともかくウィルムに追いつくまでいくのはやべーなとは思うが

 

 

20:名無しのウマ娘ファン ID:q1VCM4E8L

 去年の3月の俺「うーん今年はテイオー一強世代!w」

 去年の4月の俺「ウィルム最強! ウィルム最強!」

 去年の5月の俺「この世代は数多の星の輝く夜空みたいな世代でそれぞれにオンリーワンの強さと輝きがあって……」

 去年の10月の俺「刺さったらネイチャが一番強いまでないかこの世代?」

 去年の12月の俺「いややっぱウィルム一強だろこれスペとスズカいなくなったら誰が倒すんだこの龍」

 今の俺「もしかしてただ晩成だっただけでテイオーが一番ヤバいのでは?」

 

 

21:名無しのウマ娘ファン ID:XTxteGpdj

 >>11 辛いこと言うようだが、結局のところ実力を持ってなかったor発揮できなかったマックイーンが悪いよ。まぁあの2人越える実力って何? という話ではあるが

 

 

22:名無しのウマ娘ファン ID:ciY5QH1Yc

 龍に続いて帝王まで不可能を覆していくのか……(震え声)

 

 

23:名無しのウマ娘ファン ID:lSwQAkrfJ

 >>11 レースにかわいそうも何もないだろ。強いウマ娘が勝って弱いウマ娘が負ける、それだけ。

 敢えてかわいそうなこと挙げるなら、素質の有無とトレーナーの相性くらいか?

 

 

24:名無しのウマ娘ファン ID:iVafeSMyV

 >>16 現実を見ろ トウカイテイオーが中距離どころかマイル並みのスピードでゴールインを決めてG1レース1着を取ったという現実を

 

 

25:名無しのウマ娘ファン ID:Te/iVUTUF

 おっさんのレース観戦場と化してるラーメン屋経営ワイ、店に響いてた「うおおおおおおお!」って声が「うおおおおおおお!!!???」ってなってて何事かと思ったわ

 後で何が起こったか知って「そりゃああなるわな」となりました。

 

 

26:名無しのウマ娘ファン ID:AOYFxNC13

 テイオーが初の冠を手にしたのはめでたいし、初のG1同着の凡例が生まれたのはすごいことだけど、それ以上に適性の壁ぶっ壊してテイオーがウィルムに並んだっていうインパクトがヤバい。エグすぎて現実味ゼロだわ。

 

 

27:名無しのウマ娘ファン ID:1Ox96aMCB

 >>21 辛辣だけど真理よな

 

 

28:名無しのウマ娘ファン ID:waYewLVsd

 >>20 おまおれ

 

 

29:名無しのウマ娘ファン ID:TLQ2PY10L

 テイオー鬼つええ! このまま前を走るやつら全員ぶっちぎってやろうぜ!

 

 

30:名無しのウマ娘ファン ID:RJxSBQPMp

 盾が一度に2枚下賜されることになるとはな……。こんな展開これから3、40年くらいは見れなさそう

 

 

31:名無しのウマ娘ファン ID:FXfBww4x+

 テイオーファンとして俺は嬉しいよ

 ずっとウィルムの背中を追って来て、ようやく届いたんだ。それもウィルムの超有利なフィールドで

 

 

32:名無しのウマ娘ファン ID:ngbLmhXdM

 テイオーが強いのはもうどうしようもなく間違いないことなんだけど、同時にウィルムもあんなありえん末脚と同着で済んでるんだよな

 やっぱおかしいわこの世代、多分神に愛されてる

 

 

33:名無しのウマ娘ファン ID:Jp+1sWj1i

 >>20 なんだこの手の平ドリル!?

 

 

34:名無しのウマ娘ファン ID:8w1zOsQxV

 自称レース有識者ワイ、テイオーの異次元さに自信を折られる

 

 

35:名無しのウマ娘ファン ID:nJvqpAdqj

 こんな化け物がG1どころか重賞すら獲ってなかったってマジ?

 

 

36:名無しのウマ娘ファン ID:xcqnui+lL

 >>13 真面目な話、血統の適性云々で言えば、ゴリゴリの寒門で地方でもほぼ勝ち星が上がってなかった血統のウィルムがアレな時点でボロボロよな

 

 

37:名無しのウマ娘ファン ID:+eef8qn4N

 マックイーンも強かったしウィルムも相変わらずだったけど、やっぱ今回のヒーローはテイオーだな。

 スタミナ・適性の壁越えて1着もぎ取ったの化け物すぎる

 

 

38:名無しのウマ娘ファン ID:Csjn4dbgM

 ウィルム今までにない程ニコニコでワロタ。いつもは勝者インタビューの頃には落ち着いてるはずなんだけど、まだ幼児退行したままでしたね……。

 

 

39:名無しのウマ娘ファン ID:nPTiVuuFz

 全然違うじゃん!

 言ったよね、今回の春天は適性的にマックイーンとウィルムの一騎打ちだって!

 なのにこのとんでもないドラマは何!?

 

 

40:名無しのウマ娘ファン ID:ZQsDQ0YWE

 異例のG1レース同着

 異例のNEXT FRONTIERダブルセンター

 異例の同時勝利者インタビュー

 

 

41:名無しのウマ娘ファン ID:5E7Qzpclr

 >>15 イカれてるよこの速度 本当に中距離レース並やんけ

 

 

42:名無しのウマ娘ファン ID:u0XjMylg7

 >>22 いいだろ、帝王だぜ?

 

 

43:名無しのウマ娘ファン ID:ofvKYdaUo

 >>25 店長おって草

 

 

44:名無しのウマ娘ファン ID:KzEAqPEfE

 現地のどよめきエグかった。特にテイオーがウィルと並んだ瞬間、悲鳴と絶叫と歓喜の声で耳潰れるかと思った。

 わんちゃんオグリの有の時以来の声量だったかもしらん

 

 

45:名無しのウマ娘ファン ID:h9w5pDQJO

 Q.ライバルの大逃げがエグいです。どうすればいいですか?

 A.300mで10バ身以上詰め切れるだけの異常末脚でぶった切ってください。

 

 

46:名無しのウマ娘ファン ID:6aIFOyTK0

 ファーwww ようやく休日出勤終わって結果覗きに来たらお祭り騒ぎやんけ!!

 

 

47:名無しのウマ娘ファン ID:DDsmj1/fs

 >>39 異常な結果です。

 

 

48:名無しのウマ娘ファン ID:v/BbZz2F0

 >>31 わかる。下位グレードで慣らすことすら避けてウィルムとの戦いに拘り続け、走って走って走り続けてようやく隣に辿り着いたんだもんな。すげぇよテイオー。

 

 

49:名無しのウマ娘ファン ID:H1VXxXcHT

 前スレもそうだったけど、やっぱこう、ウィルムってレースに向かうチャレンジャーというよりは推しの前に立ち塞がるレイドボスみたいな扱いされてるなこれ?

 

 

50:名無しのウマ娘ファン ID:b5AAMIdIC

 こんなことあるんだ……生きてる間に見られるとは

 

 

51:名無しのウマ娘ファン ID:NdlYqdYkG

 あのウィルムによくぞ追いついたと賞賛すべきなのか、あるいはあのテイオーの異次元の末脚相手によく同着で逃げ切ったと思うべきか……。

 

 

52:名無しのウマ娘ファン ID:nPTiVuuFz

 >>47 もういいよ、私レースファン続ける!

 

 

53:名無しのウマ娘ファン ID:uBbnj1lp9

 ウィルム最推しだけど今回でテイオーもファンなったわ! 自走も楽しみ

 

 

54:名無しのウマ娘ファン ID:hClzfRL+U

 >>34 マジでこれ もう自分の感覚とか常識を何も信じられない

 

 

55:名無しのウマ娘ファン ID:yJ12hx+Na

 ウィル×テイしか勝たん

 

 

56:名無しのウマ娘ファン ID:/Gj5aNqsZ

 注目してる人少ないけどマックイーンもすごかったんだよなぁ。

 結果として3着にはなってしまったものの、言うてウィルとテイオーとの差半バ身だけやぞ。これチャンピオンは3人いたヤツでしょ。

 

 

57:名無しのウマ娘ファン ID:PdUmjlVY7

 G1レースの1着同着の前例ができたことは良いことだと思うね。今後判定できないレベルの差だった時に同着として通しやすくなる

 

 

58:名無しのウマ娘ファン ID:21s01Sn1X

 今回何気にすごいのが、テイオーはマジで全力全開のウィルムに追いついたことなんだよな

 トレーナーが不在だったり前半で他の大逃げウマ娘と消耗し合ったりしたわけじゃない、マジで完全な状態のホシノウィルム相手に同着取ってる

 

 

59:名無しのウマ娘ファン ID:YP+vLKT+L

 2枚あった(6枚)ってどういうことなの……

 

 

60:名無しのウマ娘ファン ID:EY3cHeKzF

 >>36 こういうことがあると、ミホノブルボンの三冠も全然夢じゃないなってなるよね

 

 

61:名無しのウマ娘ファン ID:iryASNY7i

 正直テイオーなんでこのレース出るんや回避でええやろって思ってましたすみません……

 ウマ娘の可能性って無限大なんだなって……もうホントに……

 

 

62:名無しのウマ娘ファン ID:T3yzjtbR/

 テイオー明らかに展開から遅れてしまってるし、これはもう無理やろ……。

 →あれ、なんかすごい脱出してないか?

 →なんかとんでもない末脚振るってないか!?

 →マジか!? これあるのか!?

 →行けー! テイオー!!!!!

 

 もう完全に走りに魅せられちゃったわ。まさに主人公みたいな走りだった。

 

 

63:名無しのウマ娘ファン ID:HdUH5PbMO

 >>49 何を今更。あの子は今のトゥインクルシリーズの中長距離ウマ娘全員にとってのラスボスやぞ

 今回ようやく「追いつける」ウマ娘は現れたけど、「追い抜ける」子はいない。唯一追い抜いた総大将はドリームトロフィー行っちまったし

 

 

64:名無しのウマ娘ファン ID:HFD/F34QX

 少し自慢っぽくなってしまうかもしれませんが、不肖あたしはあのダービーを見て確信しておりました! ホシノウィルムというウマ娘に同世代で最初に追いつけるとすれば、それはトウカイテイオーをおいて他にないと!! あぁまさしく運命の2人!! 永遠のライバル!! 関係性だけでご飯100杯行けますねぇっ!!

 

 

65:名無しのウマ娘ファン ID:3ZoKYUMXt

 いやぁ……なんというか、良いレース見たわ。すごいな本当

 

 

66:名無しのウマ娘ファン ID:/YTWihMr3

 >>62 本当にこれ、単純に走りに惚れた

 

 

67:名無しのウマ娘ファン ID:/A4hV9Mb/

 地方トレーナーワイ、テイオーの末脚を見て震える

 あんなんまだ本格化も終えてないウマ娘が出していい速度じゃないって

 

 

68:名無しのウマ娘ファン ID:VlOJ/lI9+

 敬語ニキネキいて草。今日も荒ぶっとるな

 

 

69:名無しのウマ娘ファン ID:azHYJ++jX

 >>60 ブルボン担当してるの堀野トレやぞ。そもそも最初から非現実的じゃない

 

 

70:名無しのウマ娘ファン ID:1RRjXcHFP

 でもウィルムの何が怖いって、最後の200mテイオーはめちゃくちゃ必死な顔してるんだけど、ウィルムの方はすさまじく獰猛な笑顔ってことなんだよな。

 レース後も肩が上下してる程度だったし、もしかしてあのペースの3200mでも余裕なんかこの三冠ウマ娘……?

 

 

71:名無しのウマ娘ファン ID:1JP1+7R1J

 >>56 俺はマックイーンに注目してたぞ。半バ身空いてると言えば聞こえは悪いけど、逆に言えばあの2人に対して半バ身しか開いてない。至極当然のように最強級。

 

 

72:名無しのウマ娘ファン ID:uJWXF8QLt

 >>67 やっぱアレってトレーナーからしても異常なの?

 

 

73:名無しのウマ娘ファン ID:v927EPtwk

 >>57 個人的にはあんまり同着は好きくないので複雑。判別できるなら多少無理にでも優劣付けてほしい

 

 

74:名無しのウマ娘ファン ID:4xu7m77WV

 初クラシック級宝塚とか無敗三冠とか目立つ記録を残したホシノウィルムに対して、テイオーはまだG11勝目ではあるけど、ドラマで言ったら全然負けてない感ある

 

 

75:名無しのウマ娘ファン ID:sGWzZqh0K

 トウカイテイオーに2等星の座は相応しくないとか言ってた奴~~~www 俺ですすみませんでした。

 

 

76:名無しのウマ娘ファン ID:01I+bfDuk

 ネイチャ早く復帰してくれ~~~前にいる2人が爆速で進んでいくぞ~~~

 

 

77:名無しのウマ娘ファン ID:MRnidWZ3K

 星の世代と言えば同じ大逃げウマ娘でウィルムを消耗させられるツインターボとかもいるんだけど、ネイチャと同じく休養中だからなぁ

 今ホシノウィルム倒せるのはホントにテイオーしかいない

 

 

78:名無しのウマ娘ファン ID:72FaD6YMG

 テイオーはブレがでかいウマ娘とは思ってたけど、上振れるとここまでいくの?

 皐月賞の時とか有記念の時みたいに不調だったり折り合いが悪いとかだったりすると活躍できないんだけど、噛み合うと龍にすら届くのか……。

 

 

79:名無しのウマ娘ファン ID:xFNOkulbu

 >>62 わかるよ。あれはファンを生む走りだった。

 おじさんキステちゃん一筋だったけど、最後の方はテイオーに釘付けにされちゃったし

 

 

80:名無しのウマ娘ファン ID:/A4hV9Mb/

 >>72 おかしいとかって次元じゃない。アレはもはや異常。

 スペックは超高水準程度に収まってるけど、レース中に見せた走りの技術がエグすぎる。それこそドリームトロフィーリーグのウマ娘だってあそこまで芸術的な走りはそうそうできないレベル。

 今回同着止まりだったのは、スペックの方が足引っ張ったからだよ。もしテイオーがもっと長距離に適性持ってたら確実にウィルム差し切ってた。

 

 

81:名無しのウマ娘ファン ID:K9/+oBv5s

 ぶっちゃけ言うとウィルムがフランス行ってる間主役不在になりそうで嫌だったんだけど、テイオーとマックイーンいるんなら楽しめそうだな。

 秋天はマックイーンが出てくれるだろうし、そこにテイオーが来てくれるかどうか

 

 

82:名無しのウマ娘ファン ID:ofZYjzXdQ

 ウマ娘のつよつよ度はウィルムとの着差で測られるという風潮

 

 

83:名無しのウマ娘ファン ID:WiOrNi/Wx

 天皇賞同着!?

 天皇賞同着!?!?

 

 

84:名無しのウマ娘ファン ID:bZexI/tTy

 >>75 これまでは

 1等星>>>>>(越えられない壁)>>>>>2等星>3等星

 くらいのイメージだったけど、今回で

 1等星>=2等星>>>3等星

 くらいになったわ

 

 

85:名無しのウマ娘ファン ID:TyD03wg2/

 テイオー、ついにウィルムを捉えて血統の強さを証明しながら、同時に距離限界を大幅に突破して血統だけが強さじゃないってことも証明したことになるな。

 ある意味じゃウィルムにすら勝る偉業なのでは?

 

 

86:名無しのウマ娘ファン ID:NxidqqG1v

 帝王伝説はここから始まる……!?

 

 

87:名無しのウマ娘ファン ID:T0+d/0V9T

 今回の最終直線の映像、絶対テイオーの次走レースの宣伝に使われるだろ。というか使え。

 

 

88:名無しのウマ娘ファン ID:PJfuZDxFe

 勝利者インタビューのウィルム、ニッコニコでテンション高くて、見た目もあって幼児みが強かったな。隣にいるテイオーがカバー入ってたのも尚更それっぽかった

 ロリコンホイホイがよぉ……

 

 

89:名無しのウマ娘ファン ID:7R0HKx8x5

 海外のニュースサイトでバチクソバズってて草 まぁそうなるな

 

 

90:名無しのウマ娘ファン ID:PxKpYTx0z

 >>80 ドリトロ越え!? え何それテイオーセンスだけでそこまでいってるってこと!? 何なの???

 

 

91:名無しのウマ娘ファン ID:dMdyOztUK

 テイオー……強くなったな(後方腕組みファン面)

 

 

92:名無しのウマ娘ファン ID:u6IJVxhlR

 ウィルムの次走が宝塚、マックイーンは秋天か。宝塚にも出てくれたら嬉しかったんだけど、それで骨折でもしたら最悪だしな。

 というかウィルムは自重しろ。お前去年も無理に宝塚出て折ったやんけ

 

 

93:名無しのウマ娘ファン ID:v8TCKkdcX

 >>76 ネイチャはレースメーカーだし走らなくても練習的なことはできるんじゃね?

 復帰した時にはまたウィルム追い詰めるくらいの好走見せてほしいな

 

 

94:名無しのウマ娘ファン ID:CbeNQ+NhC

 >>89 ウィルム何気に人気もあるからな。それに並ぶ者が現れたとなるとそりゃあね

 

 

95:名無しのウマ娘ファン ID:8BSPoQEhb

 >>61 いやわかるよその気持ちは。テイオーファンの俺も、正直言うとテイオーが勝つとは信じられなかったし

 

 

96:名無しのウマ娘ファン ID:AUwt9AVAN

 ここ数年史上初の偉業発生し過ぎでは?

 なんかホシノウィルムを中心に競走ウマ娘のレベル爆発的に上がってないか……?

 

 

97:名無しのウマ娘ファン ID:QuZAXJHmn

 >>92 思い出させるのはやめてクレメンス……(去年阿鼻叫喚民)

 流石に今回は1か月くらい余裕あるし、去年みたいに酷いことにはならなはず。そう信じる。欲言うなら史上初の宝塚連覇も見たいし。

 

 

98:名無しのウマ娘ファン ID:lXN/wcm2f

 うぅぅ、もう1回マックイーン交えた3人の走りが見た過ぎるんだが!?

 頼むからウィルム無事に戻って来て、ジャパンカップでも秋天でも有でもいいから、また3人で走ってくれ~~~!!

 

 

 







 Q.G1同着になっちゃったらウイニングライブのセンターどどどどどーすんの どーすんの??
 A.テレビでレースを見てたら突然レース場に招集された振付師が死ぬ気でダブルセンターの振り付けを考案し、テイオーが溢れ出る才気でそれを覚えて、割とアドリブとライブ感で実行。

 このレース1から10までテイオーの才能に依存してんな?



 次回は3、4日後。別視点で、祝勝会で残念会で誕生日会の話。


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フリーレン様、昨年のダービーは最近の投稿ではありません。もう1年も前のことですよ。

 もうそんなにか。人間の時間は早いね。

 ちなみに第二部完結も8か月前です。

 フェルン、それは流石に嘘だよ。第二部完結は2か月前だよ。



 ……気付けば本当に長引いちゃってますね!? リアル8か月かけて作中4か月しか進んでないの!? 本当に!?
 一応、自分なりのペースでちゃんと進めてるつもりだったんですけど……これはもうちょっとペースを上げなきゃいけないかも。





 

 

 

 私の属する堀野歩トレーナーの一陣は普段、担当ウマ娘の公式レースを勝利で終えると、祝勝会を開く。

 

 もはや通例になりつつあるけど、実のところこれ、最近始まったばかりの風習だ。

 なにせ私が提案してからのことだし。

 

 去年までの兄さんは、前世の記憶から精神的に乾いていたということもあり、担当ウマ娘のメンタル的な部分への配慮が限りなく薄かった。

 ……いや、まぁ。私がトレセンに来た時には、家にいた頃よりは多少マシにはなってたと思うけれど。

 

 それでも、兄さんの担当ウマ娘との付き合い方はすっごく……こう、ビジネスライクと言うか……とにかく多面的な配慮に欠けたものだった。

 「競走ウマ娘の」管理はやはり限りなく上手いようだったけど、ウマ娘の……乙女の精神状態の管理がちょっとアレだったんだ。

 

 ま、人間得手不得手はあるもので、それを補い合うからこそのコミュニティだ。

 そんな兄さんのサブトレーナーに就いた以上、私は私のできることをしよう、と。

 そう思った私は、トレーナーとしての研鑽を積みながら、担当ウマ娘のメンタルケアに回るようにしたのだった。

 

 で、そのメンタルケアの一環として兄さんに提案したのが、レース後の祝勝会or残念会。

 レースに勝つにしろ負けるにしろ、そのことを盛大に祝うなり悲しむなりのちょっとしたお祭りを行い、次の日からは新たな気持ちでトレーニングに臨んでもらう、と。

 そういう狙いと……何より、何か月もトレーニングを頑張ってきたウマ娘たちへの労いが必要だろうと思ってのことだった。

 

 まぁ実際のところ、ホシノウィルムさんは何より走ることを楽しんでるし、ミホノブルボンさんも走ることに対してすごく真面目で前向き。

 日々のトレーニングを苦にしているかと言えばそれはないだろうし、祝勝会よりも次のレースとそのためのトレーニングを望みそうな子たちなんだけど……。

 

 それでもとにかく、切り替えっていうのは大事だ。

 頑張った子には、頑張っただけのご褒美を。堀野のトレーナー云々の前に、人間として当然の話だよね。

 

 

 

 そんなわけで、ホシノウィルムさんの参加する天皇賞(春)が開催されたその日も、私たちは小規模ながら祝賀会を行った。

 

 ……ただ、この祝賀会っていうのがなかなか難しくて。

 

 ホシノウィルムさんやミホノブルボンさんは、今のトゥインクルシリーズの花形。全国どころか全世界規模で顔の売れた存在だ。

 そんな彼女たちを、よりにもよってレース直後に下手な場所に連れて行ったりなんかすれば、ファンに見つかって大騒ぎになってしまうだろう。

 

 故に、祝勝会の会場はそこそこ値が張って客層が良い店の中から、彼女たちの願望も交えて選ぶことになるんだけど……。

 今回はせっかく京都に来ていることだし、いつもより更に高めの料亭に行くことになった。

 

 もう入口からして世界観をバッチリ出してるタイプの、あからさまな高級店。

 私と兄さんはこういうの慣れっこだし、ミホノブルボンさんも相変わらずのマイペースっぷりで気にしてないみたいだけど……。

 本日の主役の1人であるはずのホシノウィルムさんは、ちょっとおどおどしちゃってたな。

 

 ま、こういうのに慣れてもらう必要もあるだろうし……。

 お祝いが2つ重なった今日くらいは、それはもう豪勢に祝わないとね。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 仲居さんに風情のある個室に通してもらって、一息つく。

 担当ウマ娘のG1レース直後ということもあって、ここまでかなり気を張っていたけど……それもここまでだ。

 ここから料亭を出るまでの間、おかしな人に見つかる危険はない。

 

 流石高級料亭と言うべきか、ここは外に音を漏らさない仕組みも完璧だし、人伝にも決して外部に情報が漏れない。

 何せ元々、やんごとなき家系の……つまり私たちのような名家の人間が、会談に使うような場所だからね。その辺りのセキュリティは万全なわけだ。

 

 

 

 そんなわけで、ちょっと気を抜いて──約1名は、最初から全く緊張感もなく兄さんの左腕に引っ付いてたけど──今日のレースのことや次走のことなんかを話している内に、料理が届き始める。

 

 パーティと言ったら、やはりまずは乾杯の音頭。

 兄さんはウーロン茶の入ったグラスを持ち上げ、私たちを見回して口を開く。

 

「みんな、グラスは持ったな? ……よし。それでは、ホシノウィルムの天皇賞(春)勝利に、そしてミホノブルボンの誕生日に、乾杯!」

「いえーい、乾杯!」

「乾杯!」

「乾杯」

 

 そう、今日の食事会の題目は、ホシノウィルムさんの祝勝だけじゃない。

 今回は、ミホノブルボンさんの誕生日会も兼ねているのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 今日は天皇賞(春)の開催された4月26日なんだけど……。

 実は、ミホノブルボンさんの誕生日は、4月25日。つい昨日のことだった。

 

 当然ながら、トレーナーである私や兄さんがそのことを忘れるわけもなく。

 私は昨日の内に、彼女に集中力を高めてくれるアロマとデフューザーをプレゼントした。

 ちょっとクール寄りでありながら確かに可愛さを秘めるデザインで、ちょっとお高めで機能性も抜群。匂いはウマ娘からしても主張の強すぎない清涼系のヤツだ。

 我ながら、結構良い感じのセレクトだと思う。自画自賛。

 

 一方で兄さんは、ここ20年のダービーと菊花賞のデータを編集してまとめたスクラップブックをプレゼントしてた。

 どうやら実家に死蔵されてるデータまで引っ張って来てるらしく、中身はとんでもなく重厚で長大。私なんか、正直言ってその厚さを見ただけで「うげっ」となったくらい。

 ミホノブルボンさんの「クラシック三冠」っていう夢を応援してのプレゼントだろう。こんな時にまで真面目というか何と言うか……。

 

 ……まぁ、ブルボンさんは私のより兄さんのプレゼントに強く反応してたんだけどさ。

 正直、ちょっと悔しい。兄さんにこういうので負けるなんて……。

 

 

 

 ちなみに、私や兄さんが誕生日プレゼントを贈るところを目撃したホシノウィルムさんは……。

 「あー、いや、忘れてたわけじゃないよ!? ないけど、ほら、明日本番だし、ちょっと用意する時間が取れなかったというか……!!」とあたふたしていたのだった。

 

 まぁ、仕方ないことだと思うけどね。ホシノウィルムさん、ここ最近は「テイオーとマックイーンさんとレース!!」ってすっごい夢中でトレーニングしてたし。

 ホシノウィルムさんに限らず、レースに臨むウマ娘はレースに一極集中しがちだ。物忘れの1つや2つくらい発生してもおかしな話じゃない。

 

 で、結局「本当にごめんなさい、ちゃんとプレゼントを選びたいので1週間だけ時間をください……」と平謝りしてた。

 うん、ミスした時に素直に謝れるのは偉いね。

 社会人でもできない人がいるっていうのに、自己中心的になりがちな中等部の年頃にこれができるのは、本当にすごいと思う。

 

 ……改めてこの子、精神性が大人に近いよね。自己と他者をきちんと認識できてる、というか。

 やっぱり、兄さんと同じで転生者だったりするんだろうか。だとすればその破天荒なまでの素質にも納得がいくし。

 

 

 

 と、少し話が逸れてしまった。ブルボンさんの誕生日の話に戻ろう。

 

 私たちは、それぞれが個人的にプレゼントを渡しはしたけど……。

 流石にホシノウィルムさんの出走レース前日に、大々的にパーティを開くわけにもいかず。

 誕生日の本格的なお祝いは、ブルボンさんにはちょっと申し訳ないけど、今日のホシノウィルムさんの「祝勝」会と一緒に行おう、ということになったのだった。

 

 

 

 ……そう、祝勝会。

 お疲れ様会ではなく、祝勝会だ。

 

「いやーでも、今回は本当にヒヤっとしましたよ。まさか長距離のレースでトウカイテイオーがあそこまで伸びてくるとは! すごーっ! て感じです!」

 

 正直なところ、私たちの陣営の誰もが、今回のレースにおけるホシノウィルムさんの勝利を疑っていなかった。

 彼女のことを無意識的に神格化してしまいつつあった……というわけじゃなく、シンプルに彼女の能力が飛び抜けて高かったからだ。

 

 兄さんの転生チート──実のところ、それが本当に転生特典と呼ばれるヤツなのか、あるいは兄さんの生まれ持った特異な能力なのかはわからないんだけど──である、「アプリ転生」ってヤツ。

 それによれば、ホシノウィルムさんのステータスとスキルは、何かの間違いなんじゃないかってくらいに飛び抜けていた。

 それこそ、あの慎重派の兄さんが「このレースにおいて、ホシノウィルムが負けることはあり得ない」って断言してしまうくらいに。

 

 それなのに、トウカイテイオーは迫って来た。

 追込ウマ娘かと疑いたくなるレベルの末脚で、最終直線で一気に上がって来て……。

 

 そうしてついに、ホシノウィルムさんに追いついてしまったんだ。

 

 彼女が、そんなことをできた理由は……。

 

「とんでもなかったですよねアレ! 完全にアドリブであそこまで伸びてくるの、流石はトウカイテイオー、本物の天才です!!」

 

 そう。

 アドリブ、だった。

 

 

 

 今、気まずそうな顔でブルボンさんのグラスにジュースを注いでる兄さんは、確かに観察眼が鋭い。

 なにせ、対象のウマ娘を視認すれば、数値化した能力と習得している技術を把握できるのだ。その命中率に関しても、今のところ百発百中。読み間違えたことはない。

 正しくチートレベルの能力と言っていい。理論上、兄さんよりも正しくウマ娘の能力を測れるトレーナーは存在しえないだろう。

 

 だが、そんな兄さんも測れないものがある。

 それが、不測の事態だ。

 

 ……なんか言葉遊びみたいになっちゃったけど、これがなかなか難しい問題で。

 

 兄さんは昔から理論派かつデータ主義だ。そりゃあ数値化したステータスが見えてりゃそうなるだろうと思いきや、話を聞くにどうやら前世から続く気質らしい。

 

 で、そういう兄さんが最も苦手とするのは、レース中の成長や爆発、そしてアドリブ。

 データを頼るからこそ、データに表れない部分にはどうしようもなく弱いわけだ。

 

 今回のトウカイテイオーの走りは、兄さん曰く「本来は持ち得ない技術を無理やり持ち寄って縫い付けた」ようなアドリブ性の強すぎる走りだったらしい。

 らしい、って言うのはどの走りがどの技術に基づくものなのかは、兄さん本人にしかわからないからね。

 

 まだ身に着いてない、知識だけ知っているような技術。

 それを脳内でシミュレートし、即興で自分の体に落とし込んで、常に揺れ動くレースの中で適切なタイミングで用いる……。

 本当にとんでもないことをしてくるよね。言葉で聞いただけでも、直接走るわけじゃない私たちトレーナーでさえ、その難易度の高さには察しが付くくらいだもん。

 ホシノウィルムさんが時々言う「トウカイテイオーは本物の天才」って言葉は、限りなく真実に近いんだろう。

 

 そして私の兄さんは、そういう感覚派の天才と、最悪に相性が悪いんだ。

 

 

 

「……ウィル、すまん。今回も読みを外してしまった」

 

 罪悪感が抑えきれなかったんだろう、ペコリと頭を下げる兄さんに、カニの脚から身を出していたホシノウィルムさんは慌てたようにぶんぶんと手を振った。はみ出た身がぷりぷり揺れる。

 

「いえいえいえ、何を仰います! 歩さんは『テイオーはレースのペースに合わせずに自分の走りを貫いて来る』って読み、当てたじゃないですか!」

「そこは当たったが……まさかテイオーがあそこまで伸びてくるとは思わなんだ。完全に伸びしろを見誤ってしまった」

「そこは得意不得意ありますからね。だいじょーぶだいじょーぶ、気にしてませんよー?」

「ま、まぁ、そう言ってもらえるのは嬉しいが……」

 

 ホシノウィルムさんはカニを置いて立ち上がり、兄さんの背中をぺしぺしと叩いて慰める。

 それを受けて、兄さんは……うん、ちょっと困ったような、困惑したような表情を浮かべてる。

 

 うん、そりゃ困惑するよね。

 ……ホシノウィルムさん、まだランニングハイが抜けてないんだよなぁ。

 

 

 

 ホシノウィルムは、レースに強い悦楽と幸福を見出す生粋の競走ウマ娘だ。

 なので、レースを走り終えた後は興奮からハイになってしまうんだけど……。

 それでも、レース後に勝利者インタビューとウイニングライブに備えて休んでる内に落ち着いてくれるのが通例だった。

 

 けど、今回のレースがいつにも増して楽しかったからなのか。

 勝利者インタビューになっても、ウイニングライブが終わっても、そうして今になっても……。

 彼女はまだ、その熱を落ち着けられていないようだった。

 

 

 

「第一、私たちはパートナーじゃないですか! 歩さんの相性の悪い相手には私が、私の相性の悪い相手には歩さんが対処すればいいんですよ! 今回だってそれでレースには勝てたじゃないですかぁ!」

「ウィル、何か変なもの飲んだ? 酔ってない?」

「酔ってませーん! 極めてシラフです!!」

 

 兄さんがこっちを見てくるけど、首を横に振って返す。

 車での送迎中もこの調子だったけど、彼女が飲んだのはクーラーボックスに入れていたスポドリとジュースだけで、アルコールの類はそもそも持ってきてすらいない。

 当然ながら、ここで出て来た飲み物もノンアルコールだ。いくらお祝いとはいえ、彼女たちの周りでお酒なんて飲むわけにもいかないしね。

 

 つまるところ、これはアルコールに酔ってるわけじゃない。

 ただ、レース後のハイが続いているだけなのだ。

 極めてアレな言い方をすれば、浮かれポンチなのであった。

 

 

 

 しかし、ホシノウィルムさんのハイテンションに、兄さんは付いて行けてない。

 その表情はまだ曇ったままだ。

 

「もー、なーんでそんなにテンション低いんですか! せっかく勝ったんですから、もっともっと喜ばないとじゃないですか!」

「あー……君が嬉しいのなら、いいんだが。やはり同着だと勝った気がしないんじゃないか、と……」

「あぁ、まぁ正直そういう側面もありますね。私はレースに勝ちたいんじゃなくてライバルに勝ちたいわけで、そういう意味では今回のレースは万全な勝利とは言えなかったかもしれません」

 

 ふむ、と顎に手をやりながら、カニの身をポン酢にくぐらせるホシノウィルムさん。

 ペラペラと話を続けながらも箸を運んでるの、器用だな……。兄さんなんて、さっきから完全に箸を置いて腕を組んじゃってるのに。

 私も冷める前に食べちゃおう。

 

「でも、いいんですよ、私の一番の目的は勝利じゃなくてレースを楽しむことですから!

 テイオーと最高のレースができたんです。私に思うところはありません。

 それに、次は勝ちます! そのためにバッチリ鍛え上げてくださいね!」

 

 にへへと笑うホシノウィルムさん。

 その顔には、とてもじゃないけど嘘はなさそうだ。

 

 

 

 ……うーん。

 やっぱりこう、人間とウマ娘、大人と子供の思考方針の違いを感じるな。

 

 私も兄さんもそうだけど、大人っていうのは結果ばかりを求めがちだ。

 特に競争や競走となれば、その過程ではなく、誰を上回ることができたかの結果ばかりを見てしまう。

 

 ふと、思い出す。

 子供の頃、私は学校へと通う道で遊んでいた。

 友達と話し、笑い合いながら、白線を踏まないよう歩いたり、電柱の周りを回ったり……。

 

 けれど成長してからは、いつしかそうしたことはしなくなった。

 周りからの視線が恥ずかしくなったというのもあるけど、それ以上に、どこかへと向かう過程はあくまでも手段であって、それ以上ではなくなった。

 だから、その過程を楽しむ、なんて発想自体がなくなってしまった。

 

 そういう幼児性を……いいや、過程を見ることのできる彼女たちの視点は、大事にすべきだと思う。

 それはきっと、なくしてしまえば、二度と戻らないものだ。

 

 だから、私はちょっとわざとらしく咳払いして、兄さんに言う。

 

「兄さん、反省は後でしょ。今はお祝いの場なんだからさ」

「……そうだな、うん。今はとにかく、お祝いしよう」

 

 そう言って、ようやく兄さんはその表情を解して、箸を握った。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 流石は料亭の味と言うべきか、運ばれてくる料理の味はかなり良かった。

 繊細で独特な風味と舌触りのものが多くて、食べていて飽きが来ない。

 兄さんも「これはなかなか」って顔してたし、払った値段分の味はあったかな。

 

 ……ただ、当のホシノウィルムさんは、若干微妙な顔。

 というか、初の味覚に戸惑ってる顔かな、あれは。

 

 繊細な味ってつまりは薄めの味付けってことだし、食べ盛りな歳頃の彼女としては、もう少し濃い目の味の方が好きかもね。

 私も中等部高等部の頃、立食パーティとかでつまむものより、そこらのファストフードの方が舌に馴染んだりもしたし、気持ちはわかるよ。

 

 その上、彼女は一般家庭の……ちょっと特殊な生い立ちだ。

 こういう味にはあんまり舌が慣れないんだろうね。

 

 まぁでも、今や彼女も日本の中心の1人だ。これからはパーティや食事会に呼ばれることも増えるだろう。というかもう増えて来てるし。

 今の内に、この手の食事に慣れておくのは悪いことではないはずだ。

 ……馴染めるかどうかは別として、ね。

 

 

 

 一方で、本日のもう1人の主役であるミホノブルボンさんは、やはりいつもの無表情で、時折話に加わりながらもひたすらに箸とフォークとスプーンを動かし続けていたんだけど……。

 その姿を見ていると、少なからず罪悪感が湧いて来る。

 

「改めてごめんなさい、ミホノブルボンさん。せっかくの誕生日のお祝いを、他のお祝いと一緒にしてしまって……」

 

 声をかけた私に、ブルボンさんは口パンパンに詰めた料理を呑み込んだ後、改めて応えた。

 

「問題ありません。私としては、むしろこの形が好ましかったと認識しています」

「好ましかった?」

「はい」

 

 ブルボンさんは、テンションが上がり過ぎて「ご褒美権行使です! あーん! あーんを要求します!」とかやってる浮かれポンチ2人組に目を向けながら、静かに言った。

 

「私は、ホシノウィルム先輩ではありませんから」

「……と、言うと?」

「昨年の、ホシノウィルム先輩の皐月賞の記録を記憶していらっしゃいますか?」

 

 当然だ。あの記録はあまりにも衝撃的だった。

 ウマ娘のトレーナーであれば、あるいはウマ娘のトレーナーを志す者であれば、おおよそ誰もが記憶しているだろう。

 その上、私にとっては実の兄の担当ウマ娘の活躍だったんだもの。当然記憶には色濃く残っている。

 

「1分58秒2。当時のレースレコード、シンボリルドルフさんの記録を3秒近く縮めた、8バ身差の1着……ですね」

「はい。これを以て、ホシノウィルム先輩は『世代のクラシック三冠最有力候補』と見なされるようになりました」

 

 そう、ホシノウィルムというウマ娘の力が完全に周知されたのは、あのレースだった。

 

 元よりG1ホープフルステークスでの大差勝ちによって実力は示していたものの、それがジュニア級G1であったことやフロックの可能性などから、確かな評価には繋がっていなかったんだけど……。

 

 当時三冠最有力候補であったトウカイテイオー相手に、8バ身。

 そして、あの永遠の皇帝シンボリルドルフ相手に、3秒。

 この差こそが、世間にホシノウィルムを受け入れざるを得ない状況を作った。

 

 寒門の、名も知られていないウマ娘の血統でありながら……。

 それでもなお「ホシノウィルムこそが最強である」、と。

 そう、誰もが認めざるを得なかったんだ。

 

 

 

 ブルボンさんは当時に思いを巡らすように数秒黙った後、話を続けた。

 

「けれど、そんなホシノウィルム先輩も、日本ダービーでは一気にハナ差まで詰められました」

 

 ホシノウィルム世代と呼ばれていた彼女たちの世代の名称を、星の世代へと変えたレース。

 8バ身の差を付けられ、実力差を叩きつけられたトウカイテイオーが、一度はホシノウィルムを差し切り、あとほんの少しで逃げ切りかけた一件だ。

 

 ホシノウィルムも無敵ではない、それに迫り得る存在は確かにいる。

 それがトウカイテイオーであり、ナイスネイチャである、と。

 

 そこまで聞いて、ブルボンさんの言いたいことが……『自分はホシノウィルム先輩とは違う』という言葉の意味が、ようやく予想できた。

 

「そんなホシノウィルム先輩に対して、私が皐月賞で付けた2着との差は、2バ身余り。

 適性の側面で予測しても、これからの戦いは指数関数的に厳しくなるはずです。

 ……それこそ、次回の日本ダービーで、ライスさんに差されてしまいかねない程に」

 

 それは……端的には言えないと思うけれど。

 

 今回の天皇賞で確信できたけど、あのダービーでホシノウィルムさんをかわしきれたのは、トウカイテイオーさんだからだ。

 彼女の圧倒的と言える才気と努力あってこそ、ホシノウィルムというウマ娘に迫れた。

 

 ライスシャワーさんに、同じだけの才気があるとは限らない。

 今ミホノブルボンさんが抱えている懸念が適切とは限らない。

 

 ……でも、それは同時、ブルボンさんがそれだけ、ライスシャワーというウマ娘を警戒しているということでもある。

 その警戒心自体は、決して悪いモノじゃない、かな。

 

 彼女は胸の前で拳を握り、少しだけ下に向けたその目に、微かな感情を燃やして、言う。

 

「私は、ホシノウィルム先輩とは違う。先輩のように、他に意識を向けながらトレーニングを行ってなお勝つ、という器用なことはできないでしょう。

 故に私は、ミッション『クラシック三冠』達成のため、更に鍛錬を積みたいと望みます。

 そのためには、クールダウンの時間は可能な限り短い方が都合が良い」

「なるほど」

「……とはいえ」

 

 そこまで言って、彼女は握っていた拳を開いて、視線を上に上げる。

 その先にいたのは……いや、何やってるのかなあの2人は。互いに魚の切り身をつまんだ箸を向け合って、牽制し合ってる? みたいだけども。

 

 どことなく緊迫したような、しかし本人たちは幸せなのだろう胸焼けしそうな光景を見て……。

 ブルボンさんは、ほんの少しだけ、口角を上げた。

 

「勿論、そういった私の都合と、先輩のレースの勝利は全く別の話。本日の天皇賞勝利を祝うことには異存ありません。

 そして、そこで私の誕生までも祝っていただけるのであれば、それが最も良い形なのだと推測します」

 

 トレーニングの時間を減らしてまで、自分のためにパーティをしてほしいとは思わない。

 けど、誰かのためにパーティを開くのまでは否定しないから、そのついでに祝ってくれたら嬉しい、と。

 

 なるほど……。

 ……うーん。

 

「? どうかしましたか」

「いえ、私もあまり人のことを言ってはいられないな、と」

「???」

 

 

 

 ミホノブルボンさんのプレゼントの件然り、今回のバースデーパーティの件然り……。

 どうにも私、自分の「普通」を前提に考えすぎてるかもしれない。

 

 普通、この年頃の女の子は、可愛い小物を欲しがるだろう、とか。

 普通、誕生日のお祝いは、他のイベントとは別にやってほしいだろう、とか。

 

 そういう、私が属していた「普通」の常識に、視点をロックしてしまっている。

 

 でも、彼女たちはただの女の子じゃないんだ。

 女の子である前に、1人の競走ウマ娘。

 少なくとも、ホシノウィルムさんやミホノブルボンさんは、そういうタイプなんだろう。

 

 そういう子もいるんだって、ちゃんと理解して寄り添わないと、メンタルケアとか言ってられない。

 少なくとも今回に限っては、私より兄さんの方がウマ娘に寄り添えてたんだもん。これは深く反省しないといけないことだ。

 

 

 

 ……よし、反省。

 そして、反省したからには、行動を改めなければ。

 

 私は1つ頷いて、しっかりとミホノブルボンさんの目を見ながら言った。

 

「……よし。明日からも一緒に頑張りましょう、ミホノブルボンさん!」

「文脈は理解しかねますが、はい。クラシック三冠達成の日まで、どうかよろしくお願いします」

 

 

 







 最近ちょっと張り詰めがちだったので、平穏な日常を一つまみ。
 ちなみにウィルは今バチクソテンション上がってますが、1度寝たらリセットされます。つまり、明日の朝はいつも以上になかなかベッドから出て来られないでしょう。



 次回は3、4日後。遥か遠くの誰かの視点で、始まりの話。



(禊)
 私はここに、感想を寄せていただいた読者様ににわか知識で間違ったことをドヤ顔解説してしまったことを謝罪いたします。
 他の読者様にご指摘いただいて自分のミスに気付いた時、顔から火が出る程恥ずかしかったです……。
 もし今回も読んでいただけていたら、本当にすみませんでした!! 自分が全面的に間違ってました!!

(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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Lady, ready to go!

 ちょっと短めの別視点回です。




 

 

 

 4月24日。

 ホシノウィルムとメジロマックイーン、そしてトウカイテイオーがぶつかり合った天皇賞(春)の開催日から、2日前のこと。

 

 日本より遥か遠く、直線距離にしておおよそ9500キロメートル。

 少なくとも2度海を越えた先にある島国、日本では「イギリス」と呼ばれるその国の首都郊外には、1つのレース場がある。

 

 サンダウンパークレース場。

 7月にはクラシック級のウマ娘がシニア級のウマ娘と走ることのできる初のG1レース、エクリプスステークスが行われる、当地のウマ娘のレース場としてはメジャーな場所の1つ。

 

 近代レースの基礎を築いたとされる国だけあり、イギリスでのウマ娘のレースの人気は非常に高い。

 日本の中央の1年の総レース数は各種含めて4000弱だが、対してイギリスは15000以上。国内のレース場も60を数え、まさしく国民的スポーツの体を成している。

 

 故にこそ、4月というこの時期にも盛んにレースは行われる。

 サンダウンパークレース場もその例に漏れず、平日金曜日の今日もまた、1つのレースが開催される予定になっていた。

 

 とはいえ、このレースは優駿たちの死闘であるグレードレースではなく、オープンレースでも、プレオープンレースですらない。

 

 未勝利戦、条件は右回りの10ハロン(2000メートル)

 

 つまるところ、未だレースに勝ったことのない、当地のレースシリーズへの参加権を持たないウマ娘たちのレースである。

 

 

 

 競走ウマ娘のメイクデビューが始まるのは、通例として6月。

 そこからおおよそ1年余りの間、ジュニアからクラシック級のウマ娘たちは、初の勝利を求めてメイクデビューや未勝利戦を走ることになる。

 

 グレードレースやオープン、プレオープンレースなどの一般的なレースの出走条件は、既に1度以上レースで勝利を収めていること。

 故に、この1年強を通して勝利を収められなかったウマ娘は「シリーズへ参加するだけの実力がない」と見なされ、勝負の舞台に上がることすら許されない。

 一応、一部の特殊なレースに出走することや、地方のレースシリーズへの参加は許されるが、少なくとも大幅に動きを制限されることになるだろう。

 

 だがこれは、殊更に理不尽な処置というわけでもない。

 ある程度の実力を持つウマ娘であれば……それこそグレードレースに勝てるようなウマ娘であれば、未勝利戦は数回走れば確実に勝ち上がる。

 それに勝てないということは、つまるところ素質か努力かセンスか技術かメンタル、あるいはその全てが不足しているということを示しているのだ。

 

 そしてそういう意味で、4月の未勝利戦は注目を集め辛い。

 めぼしい強者は粗方勝ち上がってしまい、残すはオープンやプレオープンを主軸に戦うウマ娘ばかり。

 中には本格化の遅れや故障からデビューが遅れる優駿も存在するものの、そういったウマ娘たちはどうしても晩成になり、早期の活躍が望み辛い。

 

 故にこそ、その未勝利戦もまた、そこまで多くの注目を集めているわけではなかった。

 

 いつもの未勝利戦、いつもの勝負。

 その先に、もしかしたらグレードレースに挑めるようなウマ娘の卵が1人誕生するかもしれない、と。

 

 レース場に集まっていた観客の多くは、あくまでもその程度の期待しか持っていなかったのだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そして今、この未勝利戦の開始を待つ、1人のウマ娘がいる。

 控室で体操服を着て、トレーナーと共にレース開始の時を待つ彼女は……。

 

「見て見てトレーナー! ほら、2日後『ハルテン(HARUTEN)』だよ! 名優(Actress)帝王(Empress)との激突だよ!!

 ね、どうなる!? どうなると思う!?」

 

 自らのトレーナーに向けて、スマホの画面を見せつけていた。

 

 そこに表示されているのは当然ながら、これから走るレースの情報……などではなく。

 遥か遠い島国で行われる、別シリーズのG1レースだった。

 

 一般論としては、レース前のウマ娘はそのレースに一意専心するもの。

 レースは一瞬一瞬が他のウマ娘たちとの駆け引きだ。どこで仕掛け、どこで加速し、どこで差し切るか。常に揺れ動く展開の中でそれを冷静に判断し、選択しなければならない。

 故にこそ、本来出走ウマ娘は他の全てを排し、目の前のレースに集中しなければならないのだが……。

 

 そういう意味では、そのウマ娘は全くと言っていい程、目の前のレースに向き合っていなかったと言っていいだろう。

 

 だが、本来その態度を諫めるべき彼女のトレーナーもまた、差し出されたスマホの画面を見て、仕方なさそうに笑うばかりだった。

 

「……まぁ、君の憧れの彼女が勝つんじゃないか」

「だよねだよね、きっと勝ってくれるよね! 楽しみだなぁ!」

 

 ウマ娘はニマニマと笑い、未来のレースに思いを馳せる。

 

 海の彼方の憧れのウマ娘が、数日後のレースで、如何にカッコ良く勝つか。

 どんな破天荒なプランで、どんな凄まじい走りで勝つのか。

 今、彼女の興味はそこにしか向かっていないのだった。

 

「距離の適性で言えば、やっぱりあの子と名優(Actress)が優勢だと思うんだよね! 特にあの子はとんでもないスタミナあるから、3200メートルだって楽勝でしょ? 確かに名優(Actress)はすっごいけど、それでもあの子の方がきっと強いし!」

帝王(Empress)は?」

帝王(Empress)も怖いね! むしろ底が見えない分名優(Actress)より怖いかも。でもスタミナのことを考えると、3200って無茶苦茶長いしなぁ」

 

 むむむ、と鹿毛の髪をたらして考え込むウマ娘。

 しかし彼女はすぐさま、ガバッと顔を上げた。

 

「ま、でもあの子が勝つに決まってるけどね!」

 

 自分のことではないのに自信満々に、彼女は「あの子」の勝利を確信していた。

 その表情を見て、トレーナーは思わず苦笑してしまう。

 

「……アン、本当に好きだよね、あの子のこと」

「当然でしょ! 無敗の三冠(undefeated triple crown)だよ? そりゃあ憧れちゃうよね!」

三冠(Triple Crown)なんて、最近じゃウチの国でもあんまり挑む子いないけどね」

「そういう問題じゃないのー! 強者の証なの! カッコ良いでしょ!!」

 

 ぷんすこと怒りを見せるウマ娘に、彼は「そうかもね」と答えながら、思う。

 

 彼女のことを知らない人間は、今はこんなに表情豊かなウマ娘が、まさか1年前は殆ど感情を表に出さない静かなウマ娘だったとは思わないだろうな、と。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 彼が担当しているウマ娘は、歯に衣着せずに言えば、かなりの変わり者だ。

 熱しにくく冷めにくいとでも言おうか。何かに興味を持つことが少なく、しかし一度興味を持つとそこに熱中してしまうタイプ。

 とはいえ、彼がそうだと理解したのは、つい半年ほど前のことなのだが。

 

 

 

 出会った頃の彼女は、競走ウマ娘にしては多少珍しく、走りへのモチベーションが低い子だった。

 非常に良い血統を持つが故に競走ウマ娘としての未来を期待され、その期待に流されるようにしてトレセンに入り、だからと言ってレースに本気になることもできず、なんとなく走っていた……そんなウマ娘。

 

 彼が選抜レースを見てスカウトした時も、殆ど表情を動かさず「ふーん……じゃあよろしく」と、極めて興味なさげに了承された程だった。

 故に彼は、まずは彼女にレースへの興味を持ってもらうことを目指していたのだが……。

 

 

 

 去年の9月頃だろうか。

 1つの出会いが、彼女を大きく変えた。

 

『見て、見て見て見てトレーナー! これ、これすごくない!?』

 

 今までにない程興奮した様子で彼女が見せて来たスマホには、レースの映像が映っていた。

 どうやら数か月前に投稿された動画のようだが、それは自分たちの主戦場である西欧のものではなく……遥か彼方、日本のものらしかった。

 

 本音を言えば、他の国のレースより前にイギリス(ここ)のレースに興味を持ってほしかったところだが……と。

 そう思ったトレーナーは、しかし実際にその動画を見て、深く納得することになる。

 

 大きくバ群を引き離して大逃げし、爆発的な末脚で上がって来たウマ娘にかわされ、しかしそれを再び差し返して勝つ……。

 画面の中の鹿毛のウマ娘は、とてもではないがG1レースのものとは思い難い、とんでもなく強い勝ち方を見せた。

 

 確かに、感動に値する……というか、もはや呆れる他ないもの。

 それこそ、数年前に西欧を荒らして行った異次元の逃げウマ娘にも並ぶ、力強すぎる走りだ。

 

 と、それはともかく。

 彼にとって今何より大事なことは、このレースそのものではなく……。

 

『ねぇねぇ、この子、なんて名前なの!? この文字読めないんだよ、トレーナーならわかる!?』

 

 彼の担当ウマ娘が、その瞳を輝かせていること。

 出会って以来初めて、レースや競走ウマ娘に、強い関心を持っていることだ。

 

 だから彼は、手早くそれを調べ、彼女に伝えた。

 

 セミロングに伸ばした鹿毛、一房だけ垂れた黒鹿毛。

 小柄で、青白い光彩の瞳を持つ、大逃げのウマ娘。

 

 何度か実況でも呼ばれていたその名は……。

 ホシノウィルム(HoshinoWyrm)と、そう言うらしい。

 

『ホシノウィルム! なんだかカッコ良さそうな名前! どんな意味なの?』

『えぇと……多分、「星の竜(Dragon of Stars)」かな?』

『ドラゴン! うん、確かにあの強すぎる勝ち方、人では勝ちようのないドラゴンって感じ!』

 

 確かに、と彼女のトレーナーは頷いた。

 

 確かに、映像の彼女は強い。

 ……いや、あまりにも強すぎる、と言うべきか。

 

 クラシック級の5月のものとは思えない、途轍もない走りだ。

 それこそ、これを見ただけで自身の才能の欠如を悟り、心を折られてしまうウマ娘が出てしまいかねない程に。

 

 故に、彼は少しばかり、自身の担当ウマ娘のことを心配していたが……。

 

 そんな杞憂をよそに、彼女は楽しそうにきゃーきゃーと黄色い声を漏らし、ホシノウィルムの公式レースの映像をひとしきり見た後。

 

 その瞳を爛々と輝かせ、言ったのだった。

 

『ね、トレーナー! 私、この子と戦いたい!』

 

 ……それが。

 彼と彼女の、不遜とも言える程高い目標が定まった瞬間だった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 トレーナーが一昔前の、自分と彼女のターニングポイントとなった事件に思いを馳せていると……。

 いよいよ彼女に、お呼びの声がかかった。

 

「あ、もうレースか。それじゃ行ってくるね」

 

 極めて軽くそう言ってピッと手を挙げるウマ娘に、トレーナーもまた軽く頷いて応える。

 

「うん。勝ってきな」

 

 そこには、この2人の間だけの信頼感があった。

 

 トレーナーは、自分の担当ウマ娘ならば、当然のようにこのレースに勝つことができるのだと。

 ウマ娘は、トレーナーの指導を受けた自分が、まさかこのレースで負けるはずがないのだと。

 

 それを感じ取り、ウマ娘はニコリと笑う。

 

「当然! あの(Dragon)に勝つには、こんなところで負けてらんないからね!」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そうして、この日。

 新たに1人のウマ娘が、勝負の舞台に足を踏み入れた。

 

 そのウマ娘の体格は比較的小柄で、左耳に連結した白いティアラ型の耳飾りを付けている。

 少しクセの付いた金髪の上に、一筋の流星。

 視線をもう少し下にやれば、初の公式レースで10ハロンという長い距離を走ってなお、余裕綽々と輝く黄金の瞳の光が見えるだろう。

 

 王道の先行抜け出しの策を図り、見事に好走。

 稍重になったバ場など気にも留めず、最終コーナーで大外から一気に1着に躍り出、その後は影も踏ませぬ綺麗な独走。

 9番人気という評価も跳ね除け、2着との間に2バ身半もの着差を付けて、その血統の強さと自身の才気を示した。

 

 その名が示す通りの「わかりやすく」強い勝ち方に観客は驚嘆し、遅く現れた期待の新星を喜んで受け入れた。

 遅咲きの花ではあったが、それでも期待できるウマ娘が出て来た。

 この子ならグレードレース、あるいはG1レースすらも目指せるかもしれない、と。

 

 

 

 ……しかし。

 今回のレースで新たにできた彼女のファンたちは、ウイニングライブ後に彼女の語った言葉を聞いて、絶句することになる。

 

 

 

『私の目標は……今年の凱旋門賞に出て、日本から来るホシノウィルム(HoshinoWyrm)に勝つこと! というか凱旋門賞に勝つことです!

 確実に出走するためにも、取り敢えず2週間後のオークストライアルに勝って、オークスに勝って、そこから月1でG1レースに勝っていきます! そんなわけで、応援よろしくー!!』

 

 

 

 デビューしてから2か月でG1レースであるオークスに勝ち、そこからG1を制覇していく……。

 そうして、デビューした年に凱旋門賞に出走し、勝利する。

 

 言うまでもなく、すさまじいまでの大言壮語(ビッグマウス)

 多くのファンは、それを幼さの残る夢であると認識し、あるいは無理難題だと肩をすくめた。

 これが去年の6月であればまだ話が違ったかもしれないが、4月にようやく上がって来たのでは、到底間に合うものではない。

 それでも、その叶わない夢を応援することが、今日良いレースを見せてもらったお礼……あるいは、ファンの役目なのかもしれない、と。

 

 

 

 彼女の言葉を心の底から信じていたのは、ただ1人。

 

「よし……俺も、期待に応えないとな」

 

 舞台袖から彼女を見つめる、トレーナーだけだった。

 

 

 







 クラシック級4月にデビューして月1ペースでG1制覇していってそのまま凱旋門賞に勝つ……というのは、この世界では非常に困難です。困難というかもう不可能に近いヤツ。

 日本のレースで例えると「クラシック級2月にデビュー、ステップレースから桜花賞→NHKマイルカップ→オークス→安田記念→(時期的に在り得ませんが1か月後に開催されるとして)つよつよメンツのジャパンカップに勝利」くらいの難易度と思ってください。
 ぶっちゃけウィルのローテより過酷かもしれません。

 もし本当にこれをこなして来るというのなら……ウィルにとっても、恐るべきライバルとなるでしょう。
 勿論、こなすことができれば、ですが。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、悔しさと友人の話。



(雑記)
 わかってはいたんですけどイクイノックスつっよい……。
 秋古馬三冠、期待してます。

(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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彼と彼女と宝塚の季節
驕りと誇り


 タイトルがスタァライトばっかになっちゃってる気がするんですが、設定とか言葉が本作と噛み合いが良すぎてね……。

 それでは新章、宝塚記念編スタートです。
 とはいえ、まずは一旦のスローダウンから。





 

 

 

 4月26日、ウィルの天皇賞(春)は、トウカイテイオーとの1着同着という形に終わった。

 これを以て俺たちの陣営は、一旦の小休止に入った形となる。

 

 今シーズン、担当の出走予定のレースは、残り2つ。

 直近が5月31日、ブルボンと獲る2つ目の冠、G1日本ダービー。

 そしてその次がまた1か月後の6月28日、史上初の連覇を賭けたウィルの宝塚記念だ。

 

 ブルボンの皐月賞からウィルの天皇賞までが1週間と、昨日までとんでもない過密スケジュールだったからこそ、俺としては少しばかり肩の力が抜けた思いだ。

 ……いや、この脱力感は、ただ仕事を終えた安堵だけではないかもしれないが。

 

 ともあれ、やはり俺だけでなく、同陣営の他3人もどこか落ち着いた様子だった。

 考えてみれば、皐月賞と天皇賞だけじゃない。

 ブルボンのスプリングステークスから始まり、次週にウィルの大阪杯、2週間でブルボンの皐月賞、1週間後にはウィルの天皇賞……。

 担当が2人になったこともあって、この1か月はレースレースレースと、とんでもなく忙しなかった。

 

 それが、今回は次のレースまで、1か月以上の猶予があるんだ。

 多少気が抜けるのは、自然なことだったかもしれないな。

 

 緊張を常に保つことはできない。

 ああいや、できないわけじゃないか。寿命を前借りして延長する技術はある。俺も使ってた。

 だがそれはともかくとして、健常に緊張を維持するためには、定期的に緩和を挟まねばならないのもまた事実。

 

 この1か月、みんなよく頑張ってくれたし……。

 ここは一度、全員で足を止めた方が良いかもしれないな。

 

 

 

 そんなわけで、天皇賞翌日の27日。

 俺たちはそれぞれの次走対策会議を行った後、半日の休暇を取ることとなった。

 

 一応、3人それぞれの休暇の使い方を軽く聞いておく。

 何故かと言うと、放っておけばウィルが毎回のように自主トレに精を出してしまうからだ。そういう時は過度なものにならないよう、適切なトレーニングプランを組まねばならない。

 昌に関しても、この仕事やってれば急用が入ることも多いからな。お互い所在地くらいは把握しておいた方がそういう時にスムーズだ。

 

 まず、クラシック三冠を目指すブルボン。

 彼女はどこぞの先輩に似たか自主トレをしたいとのことだったので、軽く時間や距離の枠組みを組んでメモを渡した。

 過去の統計から言って、この年頃のウマ娘は休暇となれば、外に出かけたり友人と遊んだりする傾向が強いはずなんだがな。

 特に「アプリ転生」を持つ俺は、その体力を事故の発生ギリギリまで追い詰めることも多いので、担当ウマ娘である彼女たちは、それこそ丸一日寝て過ごす選択をしてもおかしくないのだが……。

 どうにも俺の担当は、どちらも自主トレ好きというか、走ることに熱心すぎるきらいがある。

 いや勿論、契約トレーナーとしてはこの上なくありがたいことなんだけどね。熱くなりすぎて暴走したりしない限りは。

 

 俺のサブトレを務めてくれている妹の昌は……。

 何やら、溜まっている趣味を片付けるとのこと。

 趣味というのが何なのか聞いてみたらすっごく嫌な顔をされてしまったので、その中身までは定かではないけど、どうやら部屋に籠るようだしインドア系の趣味らしい。

 昌、あれでいて結構サブカル面もイケるクチだからなぁ。もしかしたらそっち方向かもしれない。

 そう言えば、「給料が出るまでは広告費でやり過ごす」みたいに言ってたし、もしかして何かしらのサイトとかチャンネルとか運営してるんだろうか。

 ……嫌だなぁ、どうしよう妹がアフィカスとかやってたら。その時はちょっとお話が必要かもしれない。

 

 最後に春シニア三冠を期待されるウィル。

 彼女の予定も、予想通り自主トレ……かと思いきや、今日は部屋で体を休めるとのこと。

 正直、耳を疑った。次に自分の頭を疑った。そうしているとウィルがジト目で「私が休むって言うの、そんなに変ですか?」と言ってきたので頭をブンブン縦に振った。ウィルはちょっと拗ねた。

 いや、意外でしょ……この子、これまでは俺の方から言わない限り休まなかったし。

 率直に「何を企んでるの?」と訊いてみると、心外そうに唇を尖らせて「いや、昨日のレース結構苛烈だったので、一旦体を休ませるんですよ……」ととんでもなく理性的な返事。

 「すごいな……自主トレ欲を抑えて休めるようになったのか。偉いぞ」と感動のままに頭を撫でると、ちょっと嬉しそうな表情を浮かべながらもパンチされてしまった。

 

 

 

 さて、一方で俺はと言えば。

 3人が帰って行ってからも、少しだけトレーナー室で作業することにした。

 

 というのも、他に意識を向けて感覚が鈍ってしまう前に、すべきことがあったからな。

 

 そんなわけで俺は1人きりのトレーナー室で、昨日の天皇賞のレース映像を見ながら、その展開とそれぞれの動きのデータ化を試みて……。

 

 改めて、トウカイテイオーの常識外れっぷりに頭を抱えることとなった。

 

 

 

 ハッキリ言おう。

 意味がわからない。

 

 俺はこれまで、何万というレースを見てきた。

 勿論ただ観戦しただけではない。

 その中で出走ウマ娘たちのコンディションを見比べ、彼女たちのステータスやスキルがレースにどう作用するか、死に物狂いで研究してきた。

 

 故にこそ、俺にはレースでの展開が予想できる。

 そのレースにおいて、誰が誰を意識し、どんな戦術を取って来る可能性が高いか、その時誰が勝利に近付くか、数値で割り出すことすら可能だった。

 

 ……可能だった、はずなんだが。

 

 

 

 何度見ても、今回のトウカイテイオーの走りは、俺の常識の外に出ている。

 それも、圧倒的に、だ。

 

 レースを見る直感はもはや俯瞰的視点でも持っているんじゃないかという程で、咄嗟のフェイントや仕掛け方は強引でありながら流麗、フレーム単位で見ても無駄な動作がほぼ絶無。

 レースを見る才能、体を動かすセンス、それに付いて行けるフィジカル。

 それら全てを持ち合わせる、ウィル曰く「本物の天才」の面目躍如といったところだろうが……。

 

 トウカイテイオーの恐ろしいところは、それだけじゃない。

 

「……円弧のマエストロ。クールダウン、不屈の心。他3つ……いや、4つか?

 いや、スタミナもそうだが、何よりこの加速……どうして淀の坂でここまで加速できる? 4メートル越えのコーナー内の下り坂だぞ?

 いや、わかる。何故できるかはわかるが……弧線のプロフェッサーと曲線のソムリエで無駄をなくした上で、スピードスターに怒涛の追い上げ、それに他にも5つ? いや……6だろうな」

 

 トウカイテイオーがレース中に使ったであろう、いつかの映像で見たような気もする上位のスキルを、指折り数える。

 

 俺の数え間違いでなければ。

 その数は、20を、優に越えていた。

 

「…………」

 

 俺は、自らの持ち得る全ての技術を用い、ホシノウィルムを完璧に鍛え上げてきたつもりだ。

 考え得る最良のプランで、そのステータスと共にスキルも万全なものとしてきた。

 

 その結果、現在彼女が所有する上位スキルは、オリジナルのスキルに昇華した三歩飛翔も含め、10個。

 あのトウカイテイオーが未だ5つしか持っていないことを考えると、この10個という数がどれだけ多いか察しも付くというものだろう。

 

 ……だが。

 ウィルがレース上で実際に発揮した上位スキルは、不発した脱出術を除いて、9つ。

 

 対して、トウカイテイオーが……20オーバー……?

 

 

 

「…………マジで、意味、わからん」

 

 思わず、粗い口調の愚痴が口からこぼれ落ちる。

 うわ、我ながら久々にやっちゃった。衝動的に口走ってしまったのは、一番最初にウィルのことを見た時以来かもしれない。

 

 初見時のウィルも、そりゃあ衝撃的だった。

 意味深なコンディションに高すぎるステータス、圧倒的と言う他ない、けれどなんとも評価し辛いレースの走り方。

 あれはあれで、ブラッドスポーツという言葉を全否定したくなる程のショックだったが……。

 

 今回のテイオーの才気は、まさしくあのウィルに並ぶ程のモノだった。

 比較的とはいえ浮き沈みの激しいウマ娘だ。今回の天皇賞(春)は、恐らく彼女の上限に近い──はず、多分。流石にこれ以上があるとは思いたくない──ものだったんだろう。

 

 だが、だからと言って、ウィルに……俺の愛バである、ホシノウィルムに並ぶ?

 

 ホシノウィルムの後ろではなく、横に、他のウマ娘が存在する……?

 

 メンタルの揺れを感じた。

 これは、困惑? 動揺? 焦燥? 苛立ちか?

 

 担当を勝たせてやれなかったことに、今更?

 

 ……バ鹿が。

 同着を取られた癖して、一丁前にトレーナー面か?

 あの子を勝たせてやれない俺に、何の価値が……。

 

 

 

「……あー」

 

 一旦思考を停止し、額に手を当て、クールダウン。

 

 ……駄目だな、これ。

 昌やウィルから、自虐はやめるよう言われている。

 自分を過度に貶すな。それは最終的に他者への侮辱にも繋がるから、と。

 

 一旦キーボードから手を離し、椅子を引いて伸びをする。

 そうしてまぶたを閉じ、30秒程自分を見つめ直して……。

 

 ……うん。

 俺、今結構追い詰められてるな、と感じた。

 

 

 

 当然の話ではあるが、この1か月忙しかったのは陣営の3人だけじゃない。

 ウィルとブルボンのメインのトレーナーである俺もまた、そこそこのハードワークを強いられた。

 ブルボンの走りをより最適化するのもそうだけど、結果としては無意味に終わったが、トウカイテイオー対策は二重どころか三重四重の対策を取っていたし……。

 まぁ、直近数日は睡眠時間あんまり取れてなかった感じ。

 

 そうして体調と共に少しメンタルが落ちかけていたところに、俺が万全に整えたウィルが、初めてレースで勝ちきれなかったという結果が重なった。

 

 有記念でウィルが敗北した時は……正直に言うと、あまり実感がなかったんだ。

 俺の感覚では、ブルボンの朝日杯FS前夜に意識を失い、目覚めた時にはウィルの有が終わってしまっていた。

 ウィルには本当に心の底から申し訳ないが、俺の主観からすればどうしようもなく、介在の余地すらなく彼女の敗北が決まってしまっていたんだ。

 実のところ、大事な時に呑気に寝ていたという自分への怒り半分、どうしようもない現実へのままならない感情半分、といった感じで、敗北へのショック自体は薄かった。

 

 だが、今回の天皇賞は違う。

 俺が万全に整え、完璧であると判断し、送り出したホシノウィルムの……完璧な「競走ウマ娘・ホシノウィルムの走り」。

 それが、敗北はしないまでも、無二の勝利を刻めなかった。

 

 どうやら俺はその事実に、相当深くショックを受けているらしい。

 

 

 

 俺とウィルならば、誰にも負けないと思っていた。

 ホシノウィルムの凄まじいまでの素質と体の頑健さ、何の因果か堀野歩が持つことになったおかしな力と培ってきた各種能力。

 これらが合わされば、誰にも負けるはずがないという、驕りがあった。

 

 ……いや、驕りではないな。

 ホシノウィルムの力も、トウカイテイオーの脅威性も、正当に評価していたつもりだった。

 故にこそ、俺には微塵も油断はなく、できることは全てした。

 だからこれは、驕りではない。

 

 では、驕りでないならば何なのか?

 今、俺が心を揺らされているのは何故なのか?

 

「……むむ」

 

 難しい。

 自分の心だと言うのに……いや、自分の心だからこそなのか。

 この心理状態をどう言い表せばいいかわからない。

 

 

 

 見慣れた木目の天井を見上げながら、ぼんやりと考える。

 

 今考えるべきは、この心理状態の正体ではなく、これの落ち着け方だ。

 

 明日からは再び、ウィルやブルボンのトレーニングの管理と、本格的なレース対策や他陣営の調査なども始まるわけで、ずっとこんな心理状態を続けるわけにはいかない。

 結局のところ心理状態の把握は、あくまでもそれを落ち着けるための一手段に過ぎないんだ。

 

 だが、このままトレーナー室にいても、これが解決するとも思い辛い。

 昨日の天皇賞を思い出せば、考えを巡らせていた脳内リソースがモヤモヤに奪われてしまう。

 ここは一旦、ウマ娘やレースから、思考を逸らすべきだろう。

 

 

 

 となれば……今日取るべき行動は、1つ。

 

「行くか、釣り」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 珍しく短いスパンで赴いた、海釣り。

 雲間から差す陽射しに照らされる中、俺はちょっとしけた風に吹かれながら、釣り竿その他を持っていつものポイントに向かったのだが……。

 

 そこには、久しぶりの先客がいた。

 

「おりょ? おにーさん、久しぶりー」

 

 プラプラと呑気に手を振る、オーバーオールのウマ娘。

 

 彼女の名は、セイウンスカイ。

 俺の前世の愛バであり、今世の釣り仲間、友人である。

 

 

 

 俺は突然の再会にちょっと驚きつつも、彼女の言葉に返事を投げる。

 

「久しぶり、というか……つい数日前にもLANEで釣具について相談させてもらったわけだが」

「いやいや、リアルに会ったのは数か月ぶりじゃん? だったら久しぶりでしょー」

「それもそうか」

 

 取り敢えず、立ったままでもアレだな。

 俺は彼女の隣でクーラーボックスを置いて折り畳み椅子を展開、それに腰かけながら釣り竿の針を海に向かって放り投げた。

 

「お。結構手慣れたね~」

「まぁね、ここ数か月で何度も釣りに向き合ってきたから」

「向き合うって、相変わらずまっじめ~」

「それだけが取り柄なものでね」

「で、釣れるようにはなりました?」

「……まぁ、小さいのなら、3匹くらいは」

「にゃは♪」

 

 軽く言葉を交わしながら、2人して釣り糸を垂らす。

 ちらと見ると、スカイのバケツには既にそこそこ大物が2匹程入っている。

 流石だなぁ……という思いすら湧かない。だって釣りでスカイに勝てるわけないし。

 

 ……ん。

 明確な技術と結果の敗北なのだが……。

 ここでは、メンタルを揺らされないんだな。

 

 ということはやはり、俺は単純に勝てなかったことを悔しがっているわけではないのか。

 

 むぅ、我ながらなんとも難解な心理状態だ。

 

 

 

「……お兄さん、なんか悩んでる?」

 

 俺の顔色を覗いたのか……いや、覗くことすらなく察したのだろうか。

 スカイは、海の方に視線をやりながら、何気なく訊いて来る。

 

「あぁいや……」

 

 一瞬誤魔化そうともしたが、冷静に考えるとセイウンスカイの観察眼を誤魔化せるわけがないし……。

 何より、今の俺はトレーナーではなく、一般釣り人A。

 釣り人の友人Sに相談するくらいは、構わないだろうか。

 

「……まぁ、お恥ずかしい話だが、ちょっとな」

「ふーん。どしたの?」

 

 ちらりと視線を向けて来るスカイ。

 その瞳に宿っているのは、既に色々と察していそうな色。

 

 だが、それはあくまで彼女の中の推論でしかない。

 これは俺が、俺自身の言葉で話さねばならないものなのだろう。

 

 手の中の竿を握り直しながら、脳内でどう話すべきか整理し、声を吐き出した。

 

「君のことだ、昨日の天皇賞は見ていただろう?」

「そりゃあね。結局ウィルムちゃんには勝ち逃げされちゃったし、あの子がドリームトロフィーに来たときのために、ね?」

「であれば、結果も知ってるよな」

「すごいよねー、史上初だよ史上初。同着ってだけでも珍しいのに、G1レースの1着同着って」

「……お恥ずかしい話だが、その件で今、メンタルを崩してる。そして、その理由がわからない」

「あー……」

 

 俺の恥ずかしい独白に、スカイは何とも言えなさそうな表情で苦笑し、軽く竿を揺する。

 

「うん、まぁ、気持ちはわかるかな」

「わかってくれるか」

「ごめん嘘。わからないけど想像はできる、が正しいかも」

 

 ちょっと茶化すように笑うスカイ。

 けれどその瞳は、全く笑っていない。

 

 あるいは、俺が彼女のことを一方的によく知っているからなのか。

 彼女のいつもの取り繕った笑みの中に、仄かな悔しさと虚しさの感情が、透けて見えた。

 

「セイちゃんはさー、ほら、お兄さんと違って挫折とか失敗とかいっぱいしてきてるんですよ」

「俺もしてるが? わんさかしてるが?」

「いやいや、お兄さんのはアレでしょ? 得意分野以外の部分でしょ? 具体的には、トレーナーとしての能力じゃなくて、コミュニケーションとか人間性とかそっち方向の」

「…………え、ストーカー?」

「なわけないでしょ。見てたらわかるよ……なんとなく」

 

 なんでわかるのかはセイちゃんにもわかりませんが、と。

 そう付け加えて、彼女はそこで口を閉ざす。

 

 見れば、彼女の手に持つ竿が震えていた。

 彼女はクイクイと手慣れた調子で竿を引きながらリールを巻いて……。

 

 ……しかし、残念ながらその先には、何かの海藻が引っかかっているだけだった。

 

「ありゃ、引っかけちゃったか」

「ワカメ?」

「アオサ。……お兄さん、セイちゃんのトゥインクルシリーズの戦績は知ってるよね?」

「皐月賞及び菊花賞の二冠、天皇賞(春)覇者。G2も3勝で、13戦8勝、連対率76%。

 そして、それらのレース中でも、最大の戦果を選ぶとすれば2つに絞られるだろうな。

 菊花賞でのコンマ6秒もの差を付けた独走。3分3秒2の勝ち時計で、ぶっちぎりで当時の3000メートルのワールドレコードを更新したこと。

 そして1年半という長すぎるブランクを越えて、メジロマックイーンを破った天皇賞(春)。

 俺は個人的には前者が好きだが、後者も後者でとんでもない偉業だった」

「あ、うん。……トレーナーって、もうシリーズ抜けたウマ娘の記録、そんなに覚えてるもんなの?」

「言っただろう、俺は君の一ファンでもあると」

「……あー、やりづら」

 

 彼女は海藻を針から外しながら、ちょっと恥ずかしそうに顔を掻く。

 相変わらずと言うか、直球な言葉には弱いらしい。

 こういうとこ可愛いんだよねこの子は。

 

 スカイはこほんとわざとらしく咳払いし、話を戻す。

 

「話戻すけど、セイちゃんはさ、結構頑張ったし、まぁそこそこ走りに自信あるわけですよ。

 ……あ、これお兄さんだから言うんだからね。他言無用、セイちゃんとの約束ね?」

「ああ。そしてわかってるさ。君の内に秘めた誇り高さ、俺は好きだからな」

「う! ……いや、そうじゃなくて、そこだよそこ!」

「え?」

 

 スカイは恥ずかしさを誤魔化すように大きめの声で言ってきた。

 そこ……? 俺が好きってとこ?

 そりゃ、君のことは競走ウマ娘としても1人のウマ娘として見ても好きだが……。

 

 どうやらスカイが言っているのは、そこではないらしい。

 ピッと俺の方を指差して、ちょっと赤い顔をした彼女は言う。

 

「誇り高さ! 要はそこが問題!」

「……?」

 

 誇り高さ?

 

「お兄さんはさ、これまでトレーナーとしてはほぼ失敗してこなかったわけじゃん? あぁいや、ちっちゃい失敗は置いといて。

 お兄さんが健在の中で、担当がレースに勝てなかったことって、なかったでしょ」

「……まぁ、確かにそうだな。ウィルもミホノブルボンも強いし」

「確かにあの2人も強いけど、それはそれとして。

 ……だからお兄さんの心の中には、いつの間にか誇りができてたんじゃないかって思うわけですよ。

 それを傷つけられちゃったとか、そんな感じじゃない?」

「誇り……」

 

 誇り、か。

 そんなものが、俺の中にあったのだろうか。

 

 昌やウィルからはしょっちゅう、俺は自己肯定感が低すぎると言われている。

 最近は俺も、自分がその傾向があるのだろうな、くらいの自己認識はできている。

 

 そんな俺が、自らに誇りを……?

 

 

 

 ……いや、違う。

 そうか、わかったかもしれない。

 

 

 

「少し違うな」

「ありゃ、そう?」

「俺は、自分のことを信じていない。なにせ才能というものをからきし持ち合わせていないものでな」

「えぇ……? そうかなぁ」

「そうだよ。そして自信がないからこそ、俺が誇りに思っているのは俺自身の技量じゃない」

 

 そうだ。

 俺が誇りに思っているとすれば、その対象はただ1つ。

 

「俺は、俺とウィルで作り上げる、『競走ウマ娘ホシノウィルムの走り』に誇りを持っているんだ。

 彼女と共に作り上げる、この世界にたった1つ、唯一無二の、最高の走り。

 それだけは、何があっても絶対に譲りたくはないんだろうな、俺」

 

 だからこそ、今回トウカイテイオーに追い付かれそうになったことに、俺は「悔しさ」を覚えた。

 俺とウィルが積み上げて来たものが負けかけた。地に付いたとまでは言わないが、俺たちの努力を否定されたような気になった。

 

 だから、俺はただ、悔しかったんだ。

 それが、この2日間の感情の変化、その正体だった。

 

 

 

「……しかし、そう考えると1つ、不満が出て来てしまうな」

「不満?」

 

 手元に軽い揺れを感じて、半ば反射的に釣り竿を振り上げ、リールを回す。

 結果は……あ、糸切られた。

 

 イマイチこの辺が上手く行かないんだよな、なんて思いながら、俺は話を続ける。

 

「まぁ、不満というか、ただのエゴなんだけどね。……どうせなら、ウィルにも同じように悔しがってほしかったな、なんて」

 

 今のホシノウィルムにとっての最優先目標は、強いライバルと楽しいレースをすることだ。

 いやまぁ、今のっていうか、俺自身がそういう風にしてしまったんだが……。

 

 結果として、ハッキリ言ってしまえば、彼女にとって勝利はそのための手段の1つとなっている。

 

 自分が勝利を目指して誰よりも速く走れば、周りのウマ娘がもっと速くなって付いて来てくれる。

 自分が強くなればなるだけ、どこまでもレースは過熱し続ける、という寸法だ。

 

 勿論、だからと言って勝負に勝てなかったことに悔しさを覚えていないわけではない。

 明確に負けてしまった有記念の時なんか、駄々っ子になるまで悔しがっていた。

 だがそれでも、前世まで含めて何十年、ようやく小さな誇りを抱くことができた俺と比べれば、彼女の「悔しい」という感情は、かなり小さいように思える。

 

 二人三脚、人バ一体のパートナーであるからこそ、同じ想いを抱き、共有したい。

 俺はつい、そう思ってしまうのだが……。

 

 

 

「いやぁ、それはどうでしょうね?」

 

 どうやらスカイは、そう思わないらしい。

 思わずチラリと様子を窺うと、彼女もこちらに視線を投げかけていた。

 

「まぁ、気持ちはわかりますよ? 大切なパートナーだからこそ、同じ考え、同じ嗜好、同じ趣味を持ってほしい。そういう気持ちはね」

 

 その言葉は、恐らく彼女の趣味を示唆していたんだろう。

 

 セイウンスカイの趣味は、言うまでもなく今やっている釣りだ。

 だが、恐らく彼女と最も親しいであろうトレーナーは、別段それを趣味にしているわけではない。

 

 彼女は数か月前、俺に「釣り仲間が欲しかったんだよね」と言っていた。

 そこから察するに、恐らく彼女はこれまでに何度かトレーナーをその道へと誘い、しかし結局断られているのだろう。

 

 だが……。

 

「でもまぁ、それはそれでもいいんじゃないかな~って、セイちゃんは思いますね」

 

 海に視線を戻す直前の彼女の瞳には、深い親愛の情が宿っていた。

 

「さっきも言ったけど、気持ちはわかりますよ? でも同時、そういうのが違うのも良いなって思う。

 だってさ、トレーナーとウマ娘はパートナー、互いに足りないところを補い合うのが強みじゃん? 全部同じだったら埋められる部分も足りない部分も同じになっちゃう。

 だから、トレーナーとウマ娘は、似てるけど正反対、くらいでいいんですよ。……多分ね」

 

 

 

 ……ふ。

 なんとも惚気てくれるな、この子。

 

 思うところがないわけではなかったが……それ以上に、あの子の言葉を思い出す。

 

 『私たちはパートナーじゃないですか! 歩さんの相性の悪い相手には私が、私の相性の悪い相手には歩さんが対処すればいいんですよ!』

 

 ……本当、恥ずかしいことに。

 本来、彼女たちを教え導く立場だっていうのに、俺は彼女たちから学んでばかりだ。

 

「そっか。……そうだな。そうだといい」

「うんうん。おにーさん、前と比べて話がわかるようになっててセイちゃんは嬉しいです!

 ま、担当があんまり悔しがってないんなら、その子の分までお兄さんが悔しがってあげればいいじゃないですか。

 そういうのが適材適所ってモンでしょ?」

 

 

 

 適材適所か……うん、その通り。

 

 きっと、俺には俺で、できることがある。

 ホシノウィルムでは手が届かないところ、トレーナーとしての領分。

 

 俺が今すべきは、きっと、自分ができないことを嘆いてウジウジと悩み続けることではなく……。

 自分の手の届くところから、少しずつこの手を伸ばしていくことだ。

 

「取り敢えず、このムカムカを釣りにぶつけてやるか!」

「いや、それ逆に釣れなくなっちゃいますよ?」

 

 

 

 

 







 堀野君は友人として、スカイと定期的に連絡を取ってます。
 主にレースの分析や策についての意見交換、良い釣具やテクニックを教えてもらったりとかですね。
 なおこの頻度はウィルとの連絡のそれに迫るレベルであり、これをウィルが知るとかなりむくれます。ぷんぷんです。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、帝王と休息の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました。


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寝る寝る寝るね

ホシノウィルムのヒミツ⑤
 実は、幼少の経験から、苦痛や疲労への耐性が強い。
 ただしその分、自分の疲れや体調の悪化は余程でないと自覚できない。

 今回はちょっと短め。





 

 

 

 天皇賞(春)が終わった次の日。

 私たちは次走の対策会議をした後解散、半日の休暇と相成った。

 

 まぁ、ここまでの1か月、レースレースレースとかなり忙しかったからね。

 私も流石に疲労が溜まってるのか、気持ち思考が停滞しがちだ。精神的にちょっと行き詰まっちゃってるのかもしれない。

 

 そんなわけで私は、ストレス解消のために自主トレをする……こともなく。

 大人しく、早めに寮に帰ることにしたのだった。

 

 

 

「全く、トレーナーったら失礼しちゃうよね。私だって休むべき時は休むって言うのに」

 

 ちょっとだけぷんすこしながら、殆ど人通りのない寮の中を歩く私。

 

 歩さんったら、私が「今日は休みます」って言ったら5回くらい「ほんとに? 嘘じゃなくて? エイプリルフールはもう終わったぞ?」とか聞いて来るんだもん。流石に失礼じゃない?

 

 いやまぁ、本気で怒ってるわけじゃないけどね。

 歩さんが私のことランニングジャンキーって思ってるのは、ひとえに私のこれまでの行動の結果だ。

 休憩に入ったら走り、お休みになったら走り、なんならトレーニング中にも必要以上に走ってたし。

 ……うん。思い返してみると、結構やることやってるよね、私。ジャンキーって思われても仕方ないかもしれない。

 

 

 

 まぁ、それはともかくとして。

 

 今回自主トレをせず、素直に休もうと思った原因は、大きく分けて3つ。

 なんとなく走る気にはなれなかったっていう、気分的なものが1つと……。

 何より、流石にあのレースの後休まないのはヤバそうだなー、と思ったのが1つ。

 

 メジロマックイーンというフィジカルギフテッドと、トウカイテイオーという天才とのレース。

 今回の天皇賞(春)は、とんでもない死闘だった。

 

 マックイーンさんもテイオーも、宝塚記念は回避して秋から再起するって判断をせざるを得ないくらい、大きく消耗を強いられる戦い。

 実のところ、それが私にもたらした消耗も、決して小さくはなかった。

 

 勿論、歩さんが特に反応しなかったことからもわかる通り、脚に重大なダメージが発生したというわけじゃない。

 私の脚は相変わらず頑丈で、月1でレースに出るくらいなら大してダメージを感じない。

 いやまぁ、そういうのは本人には自覚し辛いものだったりするんだけどさ。

 それでも、ある程度体が仕上がって来た今、月1ペースの出走なら問題ないだろう、というのが精密検査の末の歩さんの分析だったわけで。

 

 

 

 とにかく、今回私が休息を選んだのは、単純な消耗からじゃない。

 ああいや、正確に言えば気持ち頭が回らない感じはあるけど、まぁこれはレース後の疲労とストレスからだろうし……。

 

 それ以上に、今日休もうと思った理由の最後の1つとして。

 私には、考えるべきことがあった。

 

 トウカイテイオーというライバルを超える方法と、宝塚記念で立ち塞がって来るライバルについて、だ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 自室に戻って来た私は、私服に着替えてベッドに横たわる。

 そうして一度息を吐いて、ぼんやりと天井を見つめながら考えた。

 

 どうすれば、私はテイオーから逃げ切れるだろうか? と。

 

 

 

 ダービー、大阪杯、天皇賞と走って来て、ついに私はテイオーに追いつかれてしまった。

 最初は大きく開いていた差を、完全に埋められてしまったんだ。

 

 ……でも、まぁ。

 正直なところ、あまり悔しさは感じてないんだよね。

 

 だって、相手は前世アニメ2期の主人公……つまりこの世界の中心点の1人、トウカイテイオー。

 勝てるはずがないとまで言われたハヤヒデちゃんとの戦いを制し、奇跡を体現した絶対のウマ娘。

 私の憧れ。私の見た夢。私の、最推しの1人。

 

 そんな子を相手にして逃げてたんだ。

 いずれは追い付かれるかもとは思ってたし、むしろ案外長く逃げ切れたなとまで思うくらい。

 転生特典の「アニメ転生」のパワーもあるけど、私自身の努力と、何より歩さんの協力のおかげだ。

 

 うん、我ながら頑張ったな。

 

 

 

 ……が、それはそれとして。

 悔しく思いはしないけど、このままじゃダメだな、とは思った。

 

 私は灰の龍、星の世代の一等星、ホシノウィルム。

 日本のあらゆる人に「最強」を期待されるウマ娘だ。

 

 ファンに、ライバルに、後輩に、先輩に、昌さんに、ソウリちゃんライスちゃんブルボンちゃんに、それから誰より歩さんに……。

 皆が、強い私を、最強の私を望んでくれている。

 

 その期待に、応えたい。

 私を見て、好きになって、愛してくれる皆への返礼として……。

 「もしかしたら、ホシノウィルムならやってくれるんじゃないか」っていう夢を叶えたい。

 

 だから、負けられないんだ。

 ネイチャ相手であろうと、テイオー相手であろうと、凱旋門賞であろうと……あるいは、ドリームトロフィーリーグに上がった先にいる、もう1人の主人公相手であろうとも。

 そう易々と、負けてやるわけにはいかない。

 

 

 

 ……それに何より、もっと楽しいレースをしたいしね!

 

 テイオーは強かった。強くなった。

 思い上がりでなければ、私のことを追いかけて一気に上がって来てくれたんだ。

 

 であれば私も、それに応じて、もっと頑張らねばなるまい。

 

 次にテイオーと戦うことになるのは、凱旋門賞後の秋のレース。

 それまでに、もっともっと強くならねば。

 

 

 

「……あー、なんか」

 

 初めてだな、多分。

 「強くなりたい」と、そう思うことは、これまでになかった気がする。

 

 昔は「強くならねばならない」と、半ば義務的に思ってた。

 歩さんに救われてからは心境が変わったけど、今度はただ「レースを楽しみたい」っていう一心だった。

 

 もっと強くなりたいと、あの子に勝ちたいと。

 そう、心の底にこうも火を灯されたのは、多分初めてのことだ。

 

 ……初めてだからこそ、正直、感情を持て余すところもあるんだけどさ。

 

 

 

 テイオーは、強い。

 いや、「強い」っていうか、もう「ヤバい」って領域に足を踏み入れてる。

 

 あの子は正真正銘、典型的な主人公タイプだ。

 圧倒的な素質と素養を持ち、何より窮地に陥った時の覚醒っぷりがエグすぎる。

 特に、今回見せた終盤の末脚。アレはもはや怪物のそれだ。

 いや、私が言うなって思うかもしれないが、ぶっちゃけ私基準でもありえん化け物レベルだったんだよ。

 

 一般的に言って、ウマ娘のレースは、時代の経過と共に洗練されていくものだ。

 20年前に1着を取った子の勝ち時計は、20年後には同レースで8着程度の記録に落ちたりする。

 これは私たちの技術やレースの展開への研究が進むと共に、優駿の血がより洗練されることで、競走ウマ娘のスタンダードな水準が上がるため。

 だからこそ、ウマ娘のレースは血統が重視される「ブラッドスポーツ」なんて呼ばれたりもする。

 

 まぁ、私とかブルボンちゃんみたいな寒門出身の突然変異が、大事に培ってきた血筋を超えてきたりもするわけで、血統だけが全てというわけではないんだけど……。

 

 それでも、血筋というのは決して小さくないパワーを持ってる。

 超良血と言っていい血筋のテイオーがアレなことを見ても、これに関しては間違いないだろう。

 

 ……いや、それにしたって天皇賞(春)のラスト600メートルを中距離並みのペースで駆け抜けるのは、もう血とか常識とか色々超えてる気もするけども。

 テイオーのあの走り、総合タイムはともかく、上がり3Fのタイムだけならあと20年は抜かされないんじゃなかろうか。

 化け物じみた素質だけで血筋の常識ぶっ壊すのやめてくれませんかね。いやこっちこそ私が言えたことじゃないかもしれないけども。

 

 

 

 で。本質的に、ホシノウィルムは早熟で、トウカイテイオーは晩成と言える。

 

 私はトレセンに来る前から必死に走ってたから、トゥインクルシリーズに参加した時点である程度の実力を持ってた。

 ……歩さん曰く「本格化前にここまで高い実力(ステータス)を持っているのは前例のない事態」らしいので、転生特典による効果もあるかもしれないけどね。

 

 一方でテイオーは、皐月賞の時のアレを見てもわかるように、最初の頃は努力の質が中途半端だったんだよね。

 だからこそ、体の成長とか心の整い方が万全でなく、血筋の力を引き出し切れてなかった。

 それが引き出された途端、たった1か月で7バ身以上の差を詰めてきたり、長距離で私に追いついてきたりするわけだ。

 

 ……血統のことを考えてもなお、とんでもない化け物だな、テイオー。伸び方が尋常じゃない。

 私、これでも転生チート持ちなんですけど? なんで平然とチート超えて来るんですかねホント……。

 

 

 

「うーん……」

 

 なんかベッドでただ横になってるというのもアレなので、布団を被って目を閉じながら考える。

 あー、なんか落ち着く。ずっとこうしてたい。

 ……じゃなくて、そう、テイオーのことね。

 

 どうすれば、あの才気の怪物よりも速く走ることができるだろうか。

 

 正直な話、ホシノウィルムには大した才能はない。

 まぁ「私」自身の要領は良い方だけど、それはあくまで要領に過ぎない。

 要は「物事の習熟が早い」というだけであって、テイオーのように「走りに関することなら何でもわかるし何でもできる」とかいうぶっ壊れギフトではないんだ。

 

 まぁ私、転生特典で強化されてるとはいえ、元の血統的にはアレなウマ娘だからね。

 それだけでレースを勝ち切る才気、なんてものを持っているわけではない。

 

 勿論、これまでに勝ってきたんだもの、私には他に武器がある。

 あるが……それも、この上なく強力かと言われるとそうでもない。

 

 転生特典は強力ではあるけど、あくまで脚が頑丈なのと一時的に思考が爆速になるだけで、走りを完璧にする以上のことはできない。

 まぁ真っ当な思考力の子なら出せない、という意味では上限突破と言えるだろうけど……それでも、テイオーのように理屈も常識も全部ぶっ飛ばして、なんてことはできないんだ。

 

 前世知識っていうアドバンテージもあるけど、それにしたって前世の「私」の競馬やレースへの知識はあまりにも半端で活かせることが少ない。

 もうちょっと競馬とかについて詳しければ、あるいはトレーナー抜きでも中央で戦えたかもしれないな。

 あぁいや、でも駄目だな、それ。歩さんに出会う機会がなくなってしまうかもだし。

 

 とにかく私は、それらの強みを全部ひっくるめて、ようやくテイオーという怪物から逃げ切ることができていたわけだが……。

 

 ついに今回、その限界が来てしまったわけだ。

 

 

 

 元より、わかっていたことだ。

 トウカイテイオーからは、逃げ切れない。

 何故なら彼女は、強くて可愛くてカッコ良い、ネイチャの言葉を使えば「キラキラした主人公」だから。

 

 前世で彼女を推していたオタクとしての「私」は、そんな彼女の素晴らしい躍進に、驚きながらも大いに喜んでいるんだけど……。

 今世で皆の期待に応えようと走る「ホシノウィルム」は、これは油断ならないやべー展開だぞと心を震わせている。

 

 

 

 ホシノウィルムという競走ウマ娘は、奇策を巡らせるタイプではない。

 いやタイプではないっていうか、そもそも巡らせることができないと言うべきか。

 

 大逃げという脚質は、バ群から大きく離れる走り方。

 他のウマ娘たちからの影響を受けない代わり、影響を与えられないという短所もあるわけだ。

 精々できるのは、私の存在を意識させて、レース全体のペースを上下させる程度だけど……。

 大阪杯の時にテイオーに手玉に取られたことから考えても、やっぱり私にそっちの才能はなさげだ。

 

 だからこそ、最近の私は自分のスペックを押し付けて勝つ、マックイーンさんと同じような戦い方が主眼になっていたんだけど……。

 テイオーも同じフィジカル頼りで突っ込んできて、それであんな有利な条件でも負けかけたんだから如何ともし難い。

 

 どうしようもないんだよなぁ……本当に、テイオーは最強のライバルだよ。

 

 

 ……結局のところ、私にできることは、とにかく体を鍛えることだけだ。

 歩さんの指導下で、とにかく……とにかく、走って、体を鍛える……。

 

「…………?」

 

 あれ、なんか、思考が鈍い……鈍くなってきた。

 

 ……っていうか、あれ、なんで私、布団に入って目を閉じてる?

 

「ん、うぅ……」

 

 あ、駄目だ。

 

 意識が途切れ、途切れに……。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 結論から言おう。

 

 熱を出した。

 

 いや、正直、なんかおかしいな? とは薄々思ってたんだよ?

 今日は走るより色々考えたいなーとか思って自室に帰ってきたり、自然と布団被っちゃったり目をつむっちゃったり。

 なーんか体が本能的に動くというか、やけに体を休めたがってるなーって、ちょっとだけ思ってた。

 

 まさかそれが、体調を崩していたからだとは……。

 

 

 

「37度、3分……」

「……微熱、ですね。……食堂に言って、お粥を作ってもらいますので、ウィルちゃんは寝ていてください」

「すみません、先輩……」

 

 帰って来たミーク先輩の心配する声で目を覚まして、顔が赤いからと体温計を渡され、私はようやく自身の体調の悪化を確認した。

 確かに、気付けば体は怠いしちょっと熱っぽい。

 目を動かすと若干の痛みがあるし、関節も凝ってる感じだ。

 

 案外わからないものだね、自分の体調悪化って。さっきの作戦会議の時には、気合が入ってたからか、全然認識できなかった。

 いや、歩さんや昌さんに何も指摘されなかったことも考えると……諸々が終わって気が抜けてしまい、寮に帰って来てから急激に悪化したのかな。

 ここ最近急に暑くなって、夜は軽装で寝ることが多かったんだけど、もしかしたらそれで体を冷やし過ぎちゃったのかもしれない。

 

 今や、体を動かせない程ではないにしろ、ベッドから立ち上がるのが酷く億劫になるくらいには、全身に怠さを感じている。

 そうしてあろうことか、同室のミーク先輩をパシリのように使ってしまった。

 いや、あっちから行ってくれたのを使ったとするのは、若干違う気もするけど……。

 

 

 

「……うぅ、なさけな……」

 

 思わず弱音を漏らしてしまう。

 

 ホントは今日、ミーク先輩に改めて宣戦布告するつもりだった。

 2か月後の宝塚記念、ネイチャは療養中だし、テイオーとマックイーンさんは回避するらしいし、恐らくはハッピーミークとの戦いになるだろう……というのが、歩さんの読みだった。

 

 実のところ、ハッピーミークというウマ娘は、私にとって特別な存在だ。

 去年どころか一昨年、ダメダメだった私に付き合って、アドバイスをくれたり邪魔しないようにしてくれたりして、ずっと支えてくれた先輩。

 その付き合いは契約トレーナーである歩さんよりなお長く、ぶっちゃけ言えば両親のいない私にとって、この世界で一番長く付き合ってる相手だ。

 

 特に、トレセンに入ってから1年の間、私がレースの楽しさに目覚めるまでは、本当にミーク先輩のお世話になった。

 彼女がいなければ、あるいは今、ここに私はいないんじゃないかって程に。

 

 

 

 そんな特別な相手だからこそ……。

 私は、ミーク先輩との決着を付けたかった。

 

 

 

 トゥインクルシリーズ現役で最強のウマ娘は誰かと訊けば、人それぞれに十人十色の答えがあると思う。

 しかしそれでも、その名が上がりやすい傾向のあるウマ娘は存在する。

 

 最近は奮ってないらしいけど、マイル・短距離路線で走ってるダイイチルビー先輩。

 既に本格化を終えて完成に最も近い、最強級ステイヤーのメジロマックイーンさん。

 才能の暴力で全てを捻じ曲げる理不尽の極み、この世のバグみたいな存在であるトウカイテイオー。

 レースを自在に操り、自分が勝つ状況を創り出すことに長けた、レースメーカーのナイスネイチャ。

 新進気鋭の無敗皐月賞ウマ娘、適性の壁を越え得る走りを見せるミホノブルボンちゃん。

 短距離・マイル方面で抜群の素質を見せつけて桜花賞を制した、ニシノフラワーちゃん。

 

 そしてこの私、天皇賞勝利でG1レース8勝となり、国内最多勝の称号をシンボリルドルフ会長から奪い取ったホシノウィルムと……。

 短距離、マイル、中距離、長距離。その全てのG1レースで勝利を収めたオールラウンダー、ハッピーミーク先輩。

 

 1年前に聞いた時と同じく、ミーク先輩は今も、最強の一角に座している。

 であればこそ……相手が強く、親しい相手だからこそ、雌雄を決したいと望むのはウマ娘の性だろう。

 

 本当は、去年の有記念で決着を付けるつもりだったけど……。

 私も歩さん関連のごたごたがあったりで、互いに結果が振るわずなあなあに終わってしまった。

 

 だから、今度こそ勝ちたい。

 次にいつ2人で走れるかもわからないんだ。

 ここ、宝塚記念という場で、私はミーク先輩に勝って……。

 日本最強のウマ娘として、フランスに殴り込んでやるんだ。

 

 

 

 ……と。

 

 そんな風に決意を決めていた私ですが、現在ミーク先輩にお粥をスプーンで口に運ばれてます。

 ふーふーまでしてくれて優しい……! でもその分、自分の無様っぷりが悲しすぎる……!

 

「……熱くないですか?」

「らいじょふれふ……」

 

 味は薄いけど、ピリピリ痺れるように感覚がおかしい今の舌には、これくらいがちょうどいい。時々転がってるちっちゃいにんじんもほろほろ崩れて美味しい。

 

 弱った時には、人の気遣いが温かく響くものだ。

 ……いやまぁ、私あくまで微熱だし、別にそこまでしんどいわけでもないんだけどさ。

 

「んっ……すみません、先輩」

「……いいえ。……こういう時くらい、先輩っぽいこと、させてください」

「ミーク先輩は、いつも私の尊敬する先輩ですよ」

「……ふふ、ぶい」

 

 先輩はお粥を掬ったスプーンをこちらに差し出しながらもう片方の手でブイサインを作り、芦毛を揺らして微笑む。

 

 口数が少なくて自己主張少な目、ちょっと独特で突飛な発想をしてて、感情が表に出てこないおっとりした表情してるから誤解されがちだけど、ミーク先輩は変なウマ娘じゃない。

 落ち込んでれば気付いて事情を聞いてくれるし、弱ってれば助けてくれる。

 そんな至極真っ当に優しい、理想の先輩みたいなウマ娘なのだ。

 

 

 

「ちょっと、申し訳ないです……。ミーク先輩に、私、何もお返しできてなくて」

 

 私が両親から愛してもらえなかったことにふてくされてたやべー奴だった時期から、ミーク先輩は嫌な顔1つせず私と付き合ってくれた。

 そんな彼女に対して、私が何かをお返しできたかと言うと……何もない。

 精々が時々ジュースとかお菓子とかを供する程度で、それだって私たちG1ウマ娘からすれば大して大きな加点要素じゃない。

 

 歩さんに次ぐ恩人とすら言っていい彼女に、レースを前にしたこんな時まで迷惑をかけてしまう。

 それに、ちょっとばかり罪悪感を覚えてしまった私だけど……。

 

 ミーク先輩は、首を横に振った。

 

「……いいえ。……ウィルちゃんには、たくさんもらってますから」

 

 お菓子とジュースのことか。

 いやいや、受けた恩はあんな即物的なものじゃ返せないだろう。

 

「いや、足りないですよ。もっと、なんというか、先輩に恩返ししたいです」

「……うーん。……それなら、1つ、お願いがあるのですが」

「何でしょう。私にできる範囲でなら」

 

 言うと、ミーク先輩は相変わらず感情の読めない無表情で、しかしその瞳の奥に確かな炎を燃やして、言った。

 

 

 

「……宝塚記念……本当に、全力で、来てください。……私は、今度こそ、超えてみせますから」

 

 

 

 「今度こそ」って言うのは、有記念でしっかり決着を付けられなかったこと……だけじゃないかな、この感じ。

 

 彼女が何を考えてるのかは、残念ながらわからない。

 私はハッピーミーク先輩のことを、何も知らない。

 ネームドではない彼女のこと、その物語を、私はこの目で見ることはできなかったから。

 知っているのは、その優しい心根と青空を見上げる癖、それから……シニア級に入るまでは重賞未勝利で、そこから3年でG1レースを4勝するまでになった晩成型のウマ娘だっていう事実くらい。

 

 だから、彼女が何を思って、何を超えたがっているのか、私にはわからなかったけど……。

 

「ええ、勿論。……覚悟してくださいね、私、この2か月でもっともっと速くなりますから」

 

 そう言って、私は先輩に、ニヤリと微笑みかけたのだった。

 

 

 

 まぁ、その後。

 

「私、ホシノウィルムでえふっげほっごほっ」

「……大丈夫ですか、ウィルちゃん」

 

 結局、微妙に決まりきらない感じになっちゃったけども。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ちなみに、その数時間後。

 

 そろそろ消灯時間になる頃、うとうとしていた私は、ふと思い出す。

 

「……あ、トレーナーに、体調崩したって、言ってない」

 

 …………ま、まぁ明日でいいでしょ。

 そこまで体調悪いってわけでもないし、もしかしたら明日には落ち着いてるかもしれないし?

 夜分遅くに連絡したら、歩さんの好感度的なのが下がっちゃうかもしれないし?

 

 よし、取り敢えず寝よう。

 明日にはきっと、また元気にターフを走り回る毎日が始まるはず……。

 

 

 

 と、そう思っていたんだけど。

 

 翌朝、体温を測ってみたら……。

 

「……37度、7分」

 

 やべ。

 完全にやっちゃったよこれ。

 

 

 







 寝不足だったり疲れてたりする時、なんやかんや理由を付けて体がベッドに向かうことあるよね。



 次回は3、4日後。堀野君視点で、看病と遠隔管理の話。



(本編に関係ない呟き)
 葬送のフリーレンの二次創作始めたので、お暇な方は是非ご覧ください!

(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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看病とはいったい……うごごご

 前回のあらすじ:ホシノウィルム、風邪を引く。


 

 

 

 早朝、ホシノウィルムが熱を出したという情報が飛んできた。

 

 正直、結構慌てた。

 いや、結構じゃないな。座っていた椅子から立ち上がりかけて、滑って転ぶくらいには大慌てした。珍しく昌に心配されたが、今はそれどころではない。

 

 当然ながら、俺はトレーナーとして、そして保護者代理として、彼女の調子を伺わなければならない。

 急いで届けるべきものを買い込み、彼女の元に向かうことにした。

 

「……落ち着け、俺」

 

 ドクンドクンと、心臓がうるさい。

 

 ここ1か月の過労が祟ったのかとか、体力は管理してたのにとか、最悪何らかの感染症の可能性もとか、もしかしたら競走の続行が不可能になるかもとか。

 根拠のない仮定と嫌な妄想がいくつもいくつも頭をよぎり、しかしそれに踊らされるわけにはと、急ぎながらも焦らないように栗東寮に向かう。

 

 まだ登校していなかったウマ娘たちに驚愕の目で見られながらも、事前に電話で話を通しておいたので大きな問題もなく、フジキセキの案内でホシノウィルムの部屋に辿り着く。

 普段であれば、ウマ娘たちのパーソナルスペースに踏み入ることに罪悪感でも覚えるところだっただろうが……この時は気が急いていたせいか、正直言ってウィルのことしか頭になく。

 

 だからこそ、彼女の部屋に辿り着き、そのドアを勢いよく開いた時。

 

「ウィル!」

「ふっ……と、はえ?」

 

 そこで、部屋に設置したポールで懸垂してるウィルを見た時、すさまじい感情の濁流が俺を襲った。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「全く君は……自分が今熱を出しているというのがわかっているのか?」

 

 ひとまず懸垂をやめさせて、深く深くため息を吐く。

 気まずげに笑うウィルは、多少の汗を滲ませている。そこそこの時間運動していたと見える。体調を崩しておきながら、だ。

 

「いやすみません本当……ミーク先輩も登校しちゃって1人になると、やっぱり手持無沙汰で……」

「だとしても寝てなきゃ駄目でしょうに」

「一昨日からあんまり体を動かせていなかったのが気になって、せめて軽い筋トレだけでもと」

「どれくらい?」

「え?」

「どれくらいやった?」

「……まぁ、30分くらい?」

 

 駄目ですかねえへへとばかりに笑うウィルに、改めて深く息を吐く。

 

 呆れと……彼女には言えないが、何より安堵のため息だった。

 

 ……まぁ、アレだ。

 酷く驚いたし、こうしてたしなめてはいるが、ある意味では良かったとも思う。

 

 連絡を受けた時は「ホシノウィルムが体調を崩した」とだけ聞いていたから、どんな状態なのかわからなかったが……。

 もしもこれで彼女が、ベッドから立ち上がれないくらいに憔悴していたり、あるいは彼女とは思えないくらい静かに寝ていたりしたら……俺のメンタルは、激しく揺さぶられたかもしれない。

 

 だが実際は、なんとも彼女らしいこの様子だ。

 こんな時にまでいつも通りのウィルの姿は、俺の焦っていた心をだいぶ落ち着かせてくれた。

 

 

 

 ……ま、それはそれとして、さっさとベッドに連れ戻して寝てもらうのだが。

 

「ほら、ウィル。早く寝なさい。今日は俺が看病するから」

「はーい……」

 

 ウィルは残念そうな表情の中に、どこか嬉しそうな色を滲ませ、けれど渋々といった風を装って俺の言葉に従う。

 その手を取って、彼女をベッドに導いて……。

 

 ……あぁ、やはり、少し熱いな。

 ウィルの手はいつでも温かいが、今回はいつにも増して体温が高い。

 

「悪い、少し触れるよ」

「はい?」

 

 一言断って彼女の額に手を当てると、手にひりつきを感じる僅かな高温を感じた。

 感覚から言って、恐らく37度半ばだろうか。

 

「まったく。元気してるから熱が下がったのかと思ったが、熱は出たままじゃないか」

「……あの、そういうのって自分のと比べて相対的に測るものじゃないですかね。手の感覚でわかるものです?」

「俺、昔はそこそこ体調崩しがちだったからな。多少はわかるよ」

 

 幼少期の頃合い、俺は3か月に1回くらいの高頻度で体調を崩していた。

 当時は「今世は体弱めなんだな」なんて思っていたけど、今思えば、まだ体も成長し切らず体力もない時期に3徹も4徹もしてれば当然のことだったかもしれない。

 

 たとえ体調を崩しても症状が軽度の内は勉強や鍛錬も続けていたわけだが、重症になると流石に休まざるを得なくなるため、自分の体温や状態に関してはそこそこ気にしていた。

 結果として、俺はいつしか自分の手で体温を測るのに慣れてしまったわけだ。

 自慢できる程ではないが、ちょっとした特技みたいなものと言えるだろう。

 

 

 

 さて、そんなわけでため息1つ、俺はウィルのことを強制的にベッドに放り込むことにした。

 背中と膝からひょいっと持ち上げ、有無を言わさず抵抗も許さず、ちょっと乱れたベッドに向かう。

 

「わ、わ」

 

 子供扱いが恥ずかしいのかウィルは赤くなっているが、今回ばかりは無茶した罰と思ってもらおう。

 

 

 

 ウィルをベッドに運んで布団をかけ直した後。

 俺の方は彼女に許可を取り、机に添えられていたウィルのものだろう椅子に座らせてもらうことにした。

 

「改めて、おはよう。調子はどうだ、ウィル」

「おはようございます。調子は……うーん、正直不調はあんまり感じてないです。

 多少怠いのと、若干ボーっとして集中するのが難しいくらい?」

「うん、それ普通に不調だね」

 

 症状自体は自覚できてるけど、感覚が薄くて気にならず、気になったとしても呑み込むタイプか。

 彼女の過去を思えば、あるいはそれも当然のことかもしれない。

 

 どれだけ痛くても走るしかなく、どれだけ苦しくても泣きつける相手がいない。

 そういう環境に、この子は何年もその身を浸していたのだ。

 

 責めるのはお門違いだし、あるいはそれが、彼女の在り方なのかもしれないが……。

 それでも、少しずつ、誰かに頼ることも覚えてほしいな。

 ……俺が言うな、という話かもしれないけどさ。

 

「できればこれからは、何かあったらすぐに言って欲しい。正直、朝連絡をもらった時は肝を冷やしたよ」

「すみません……。で、でもその、あんまりLANEすると引きません?」

「担当からの連絡で引くわけないだろう」

「1分に10回くらい送りますし、内4回は送信取り消ししますよ?」

「流石に引くかも」

「嘘つき!」

「うん、嘘。別に引かないからいつでも送っておいで」

 

 冗談交じりに互いの要望をすり合わせる。

 

 連絡は密に取るに越したことはない。

 それが1分に10度メッセージが来るというなかなかアレな頻度だったとしても……まぁ、悪くない。

 流石に全部に返信はできないだろうけど、それでもいいなら問題はないさ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、少し雑談もして落ち着いたところで……。

 俺は、来る前に買って来たレジ袋に手を伸ばした。

 

「あ、もしかして、何か買ってきてくれました?」

「うん。冷えピタと経口補水液、あといくつかカットフルーツとゼリー」

「すみません、助かります……」

「それから、体を冷やさないようにブランケットとカイロと厚手のソックス、風邪薬に解熱剤と頭痛薬、ティッシュボックスとタオルも新品を6枚程。あと明日病院の予約取ってあるから、今日中に体調が良くならなかったら検査行こうな」

「思ったよりガチ」

「担当が体調を崩したと聞いてガチにならないヤツはトレーナー失格だよ。もし要らないなら俺が使うから言ってくれ」

「要ります! トレーナーからもらったものを拒むヤツはウマ娘失格ですし!」

「いや、それはおかしい気もするが」

 

 取り敢えず、持って来たものを列挙していく。

 最大サイズのレジ袋にぎちぎちに詰めて来ただけあって、展開するとなかなかの量だ。

 特にブランケットとかティッシュボックスあたりはかなり幅を取る。

 

 とはいえ、栗東寮は学生寮としてはかなり一部屋一部屋のサイズが大きいし、整理さえすれば置くこと自体は問題ないかな。

 

 軽く周りを見回すに、ウィルの部屋はそこそこ片付いている。

 ……というか、案外ちゃんと女の子らしいインテリアだな。

 

 ベッドの枕元には自分とネイチャ、テイオーにマックイーンのぱかプチや、いつだったか発売されたウィルを模したクッションが所狭しと配置され、サイドテーブルには可愛らしいランプや小物入れが置かれている。

 壁の棚には、いくつかの写真立ても並んでいた。あれは……宝塚記念の時と菊花賞の時の優勝写真、それに……あれ、俺の写真?

 

 そんなことを思っていると、病人とは思えない程の俊敏さで身を起こしたウィルが、俺の首を掴んでぐいっと彼女の方に向け直す。

 

「ちょっと! 女の子の部屋をジロジロ見るのはちょっと問題では!? デリカシー!!」

「あぁ、すまない。いや、思いの外年頃の少女らしい部屋をしている、と思ってな」

「私が残念系だったのは去年までの話ですから! ……いやごめんなさい、本当のことを言うとネイチャがコーディネートしてくれただけですけど」

「ネイチャか」

 

 確かに、ウィルの交友範囲の中だと、こういうところで強いのは彼女だろうな。

 テイオーやライスもできないわけではないだろうけど最近は走ることに全力だし、マックイーンはちょっと高級志向でウィルに合わないだろうし、ブルボンは……うん。言うに及ばずだ。

 ウィルの嗜好に方向性を合わせつつも、可愛さを出しながらバランスの取れた内装を選ぶとすれば、やはりネイチャが最適だろう。

 

「良い友達を持ったな」

「ええ、私には勿体ない程……じゃなくて! あんまり部屋の中ジロジロ見ないでくださいね! 特に写真とか! デリカシーですからね!!」

「ごめんね……」

 

 確かに、異性に部屋をジロジロ見られるのはちょっとアレかもしれない。

 俺も部屋がウィルとブルボンのグッズで所狭しと埋まってるし、あんまり人に見せられる状態じゃないんだよな。

 ……いや、単純に気恥ずかしがってるんだろうウィルと、とても他人に見せられる状態じゃない俺の場合では、ちょっと事情が異なる気もするんだけども。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 熱を出した人間が取るべき行動は、何をおいても休むことである。

 そんなわけで、本日のウィルの予定は、丸一日ベッドに入っていること。

 更に言えば、睡眠を取ることができればベストだな。

 

「さて、どうだ、眠れそうか?」

「うーん、眠気はないですね。なにせ昨日ぐっすり寝てましたし、まだ起きてから数時間ですし」

「そうか。……それなら、話でもしていようか。横になっているだけでも、だいぶ疲労は軽減されるだろう」

「ですね! ……えへへ」

 

 ウィルはベッドの中で、例のちょっとアレな笑顔を浮かべた。かわいい。

 

 ……そう言えば、最近はウィルとゆっくり話すタイミングを持てていなかった気がするな。

 勿論毎日のようにLANEはしてるし、トレーニングの合間に話すことなんかはあったけど、長時間2人きりで話すなんていつぶりだろうか。

 

 本当は今日は、改めてテイオーの走りの研究を行う予定だったのだが……まぁ、時にはこういう時間を取るのも良いだろうな。

 トレーナーとウマ娘間の絆は、彼女たちの走りをより良いものとする、なんて話もあるくらいだし。

 

 本当は俺の力だけで彼女を押し上げたいところだが、それではテイオーのような才気の化け物に敵わない可能性がある。

 それなら、神でも仏でも絆でも、ありとあらゆる手段に頼って彼女を支えねば。

 

 

 

 そんなことを考えていた俺は、ウィルの言葉に現実に引き戻された。

 

「えっと……いつまでいてくれるんでしょう」

 

 見れば、彼女は眉を寄せて、どこか不安げな表情を浮かべている。

 

「ん? まぁ、夕方辺りまではいようかと思っているが。迷惑か?」

「いえ、そんなことは! ただ……その、大丈夫ですか? ブルボンちゃんのトレーニングとか」

「あぁなるほど、それを気にしていたのか。よく気が回るな、君は」

 

 俺の陣営は実のところ、実質的に俺のワンマンに近い形で回っている。

 特に担当たちの疲労とトレーニング時間の管理に関しては、俺が見て判断し、決定する形。

 昌にも考えさせてはいるが、これに関しては陣営の運営のためではなく、彼女が独り立ちする時のために目を培わせているという側面が強いし。

 

 そんな俺が抜ければ、ブルボンのトレーニングが上手く回らないのではないか、と。

 彼女はそう心配しているわけだ。

 

 ……弱った時ですら他人の心配とはね。

 相変わらず、根っこが善性な子だ。

 

 だが、そこに関しては心配に及ばない。

 

「試してみたいことがあったからな。これはある種、ちょうど良い機会だったよ」

「試してみたいこと、ですか?」

 

 彼女がそう言った時、ちょうど俺のポケットに入っていたスマホから音が鳴った。

 ウィルに許可を取ってから、それを見ると……。

 

「うん、問題ないな」

 

 昌のアカウントから届いたのは、制服を着たブルボンの全身を映した……なんか自撮りっぽくなっちゃってる写真だった。

 

「……ちなみに、誰からのどういう連絡か、聞いていいですか? ちょっと重いですか、こういうの?」

「重い? とは別に思わないが。今届いたのは、ほら、ミホノブルボンの写真だよ」

「あぁなるほど、ブルボンちゃんの自撮りですか。うんうんなるほど、自撮り。自撮りですね。

 ……ブルボンちゃんの自撮りですかッ!?!?

「えっ、いや、ただのミホノブルボンの写真だが?」

 

 がばっと起き上がり、俺の手を……というか、俺のスマホを手に取るウィル。

 病人とは思えないくらいの勢いで引っ張られ、スマホを覗き込まれる。

 

「え、何? どうした?」

 

 目を白黒させていると、ウィルは安心したようにほうと息を吐いた。

 

「……エッチな自撮りじゃないんですね」

「エッチな自撮りなわけがなくない?」

 

 なんでブルボンが俺にそんな自撮り送って来ることになるんだ。

 というか、ブルボンが何故か両手でピースサインしてるからなんかそれっぽくなってるだけで、あくまで昌に撮ってもらった写真だし。

 

 ……前から思ってたけど、この子って時々、ちょっとこう……おかしくなるよね。

 発想がどことなく、こう、オタクチックというか、なんというか。

 

 勿論、ホシノウィルムというウマ娘の生涯の中で、彼女がそういう文化に浸っていた時間はありはしなかったはずだ。

 故に、本来そちら側に思考が傾くことなんて、あり得るはずがないんだけど……。

 

 

 

 ……ねぇ、これ、前から思ってたんだけどさ。

 

 やっぱりこの子、俺と同じ転生者じゃない?

 

 このホシノウィルムらしくない思考、前世でそういう時間を持ってたからそっちに引っ張られてる、って考えた方が余程自然に思えるんだけど。

 

 やけに成熟した考えといい、文字通りこの世のものとは思えないような素質といい、彼女が転生者であると判断できる要素はかなり多い。

 勿論、それらは状況証拠に過ぎない。「確実だ」と断言するためには、やはりウィル自身にそれを確認する他ないのだが……。

 

 そうなれば、俺は、ウィルとの関係の瓦解のリスクを踏むことになる。

 トゥインクルシリーズのレースで立て込んでいる今は、そんなリスクは冒せない。

 故に今は、まだこの仮説の真相を確かめることはできない。

 

 でもさ、こんなにも状況証拠が揃うと、やっぱりそうなんじゃないかなーと疑ってしまうわけで。

 多分、俺自身の「同族が欲しい」という欲望もかなり入っているとはいえ、そろそろこれを無視するのも難しくなりつつあるんだよなぁ。

 

 

 

 ……と、それは一旦置いておくとして。

 

「というか、制服姿の自撮りって何に使うんですか? そっち目的じゃないですよね。証明写真とか?」

「自撮りじゃないし、君の言う『そっち』が何かはわからないが、これはさっき言った試してみたいことに関するものだ」

「あ、そうだ。その試してみたいことって言うのは?」

「その前に、少しメールをしていいかな」

「あ、はい、どうぞ」

 

 パタパタとスマホを指で叩き、ブルボンへの返信を入力。

 彼女の体力の状態や、そこから導かれる最適なトレーニング法、気を付けるべきいくつかの情報の伝達に、トレーニングを見てくれることになっている昌自身への伝言。

 

 よし、まぁこんなものか。

 送信、と。

 

 俺はスマホをポケットに仕舞い直し、再びウィルに向き合う。

 

「さて、それでは俺が試したかったことについてだが。

 端的に言えば、今回は俺がリモートでトレーナーをできるかどうかの試金石になるんだ」

「えーっと……言葉と状況から察するに、担当ウマ娘の様子を直接見ることなくトレーニングを付けること、でしょうか」

「その通り。察しが良くて助かるよ」

 

 わしゃわしゃと頭を撫でると、ウィルは「うぇへへ」と蕩けた声を漏らす。

 

「宝塚記念が終われば、俺は君に伴い、凱旋門賞に挑むために海外に向かうことになる。その間、日本にいるミホノブルボンのトレーニングを見ることができなくなってしまう。

 故に、今の内にこれが可能かどうか調べておこう、というわけだな」

「あぁ、そっか、そうですよね。私がフランスに行ってる間もブルボンちゃんは日本に残るわけで……」

「その間は、昌にサポートに回ってもらうことになるな」

 

 ウィルはそもそもその発想がなかったのか、はっとした表情で頷いた後、ちょっと申し訳なさそうな顔で俯いた。

 

「……ちょっと、申し訳ない気がしますね。私が凱旋門に挑むせいで、菊花賞に挑むブルボンちゃんから、トレーナーを取り上げてしまうことになるわけですか」

「気にするな……と言って、気にならなくなるものでもないか。

 だが実際のところ、気にする必要はないんだ。俺たちの時代には、スマホとLANEという便利なツールがあるからな」

 

 改めてスマホをかざし、彼女にミホノブルボンの自撮りを見せる。

 

「知っていると思うが、俺はウマ娘を見れば、その子の残った体力や育ち具合を見て取ることができる」

「改めて考えると、とんでもなくすごい能力ですよね、それ。パドックとか見ればそのレースの結果まで予想できるわけで……。

 え、もしかして、その自撮りって」

「うん、そういうこと。俺は映像とか画像越しにでも、状態を観察できるんだ」

 

 俺のよくわからん「アプリ転生」という力は、実のところ、かなり汎用性が高い。

 映像や写真を通してでも、とにかくウマ娘を見さえすれば、その子のステータスが読み取れるんだ。

 条件と言えば、相手が現役の競走ウマ娘であることくらい。

 

 故に、例えばニュース記事に添えられた小さな写真であろうが、相手が現役の競走ウマ娘であればステータスを覗くことができるし……。

 逆に、直接会ったとしても、相手が引退後のウマ娘であればステータスを見ることができないわけだ。

 

 これのおかげで、俺は遠隔からでもトレーナーとしての義務を果たすことができる。

 

「だから、ミホノブルボンに定期的に自撮りを送ってもらえさえすれば、それに応じてトレーニングプランと注意事項を返信し、体力や状態の管理が可能なのでは……と思ったわけだ」

「なるほど、それがブルボンちゃんの自撮りの真相と、歩さんの『試したいこと』なわけですか。

 ……実際のところ、どうですか? できそう?」

 

 僅かに不安そうなウィルを安心させるように、俺は頷いた。

 

「可能だろうな。小さい問題がないわけではないが」

「その問題というと?」

「時差だ」

「……あー、そうか、そうですよね。確かに」

 

 日本とフランスの間には、おおよそ8時間の時差がある。

 フランスよりも日本が8時間程進んでいる形。

 要するに、フランスでの1時は日本の9時、というわけだ。

 

 で、ブルボンから飛んでくるメッセージと自撮りは……まぁ、取り敢えず朝の6時、昼の12時、夕方の6時の3回だとして。

 このタイミングは、フランスでは夜の10時、朝の4時、昼の10時にあたる。

 夜と昼の10時はまぁいいとして、朝の4時にも応答しなければならないわけで、睡眠時間をどのように確保するかが、なかなか難しい課題になりそうだ。

 

 まぁでも、そこに関しては俺がなんとかすればいいだけの話。

 担当2人に支障が出るわけではないので、大きな問題ではない。

 

 強いて言えば、出すべきオーダーの微妙なニュアンスを伝えにくくなること、それから若干のタイムラグが問題と言えば問題になるだろうが……それも、致命的なものじゃない。

 

 ミホノブルボンへの、リモートでのトレーナー的監督行為。

 これは、決して不可能ではない。

 

「すみません、ご迷惑おかけします」

「謝るな。これは俺自身が選んだ道でもある。

 俺は君が走るのならばその隣にいたいし、そのために能力も付けたつもりだ。

 昌もブルボンも、その選択を認め、支えてくれると言ってくれてるんだ。

 俺は……俺たちは、後は勝ちに行くだけ。そうだろ?」

「……そうですね。勝ちましょう!」

 

 ウィルはぐっと拳を握って、ニヤリと笑った。

 

 うん、やっぱり、彼女には不敵な笑顔が良く似合う。

 まぁ一番似合うのは、先程も見せた、ちょっとネチャっとした、自然と漏れ出る笑顔なんだが。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 それからしばらく、俺がカットフルーツをウィルの口に運ぶ作業を繰り返していた頃。

 ふと思い出したと言わんばかりに、ウィルは言ってきた。

 

「……ところで、ですね。祝勝会では言えませんでしたが、ちょっと歩さんに相談したいことがあったんですよ」

「ほう? 言ってみな」

「いや、曖昧模糊で正答のない相談ってことはわかってるんですけどね? ……もっと強くなるには、どうすればいいかなーと」

「……ふむ」

 

 彼女がそんなことを言うのは珍しい……というか、おおよそ初めてのことだ。

 

 ホシノウィルムはずっと、その素質と素養で問答無用の勝利を収めて来た。

 

 もしかすれば俺の「アプリ転生」と同じく転生特典なのかもしれない、異次元の初期ステータスと適性、コンディション。

 生来走り続け、そして俺の下でも走り続けたことによる、すさまじいまでのステータスの向上。

 この2点において、ホシノウィルムは決して他者の追随を許さない。

 

 単純なステータスの比較で、ホシノウィルムに勝てるウマ娘は、おおよそこの世界に存在しない。

 

 ……しかし、ただ「才能」という一点だけで全てを覆す怪物も、この世界にはいたわけで。

 

「天皇賞のテイオー、すっごい強かったですし……歩さんのことを疑うわけではありませんけど、これまで通りのトレーニングじゃ厳しいかも、って思ってしまって。

 だから、もっと強くなりたいんです。今度はキッチリテイオーから逃げ切れるように」

 

 ……そうか。

 

 ウィルは走りを楽しむ事を第一にしている、と思っていたが……。

 

 

 

「もう、負けたくないんです。歩さんと私の作った最高の走りが負けるなんて、認められない」

 

 

 

 ……なんだ。

 彼女もちゃんと、俺たちの走りに、誇りを持ってくれてるじゃないか。

 

 

 

「……よし、わかった。それなら、精一杯考えようじゃないか。

 俺たちの走りをずっとずっと良くして、もう誰にも止められない、最強の走りにしよう」

「はい!」

 

 それから俺たちは時間も忘れ、日が傾くまでの間、話し合いを続けた。

 

 ホシノウィルムの持つ長所と短所、彼女にできることできないことの整理から始まり、どのレースで得意不得意だとか、こう走れば相手はこう来るだとか、そう言えばあのレースはどうたらこうたら。

 いつしかウィルの走り以外のことにも話は流れ、病気とか看病とかそういった前提の話すら忘れて、共通の趣味の話を続けたのだった。

 

 トレーナーとしては、病人相手にこんなことを続けるのはどうかと思ったが……。

 

 すごく楽しい時間だったと、後から思い出してもそう思う。

 

 

 

 ……まぁ、ウィルがハイテンションになりすぎた結果。

 

「あっついなぁ! 暑い暑い! もう汗とかめっちゃ出ちゃう!

 あーあ汗すごいなー! これこのままにしたら風邪とか悪化しちゃうかもなー! 誰か拭いてくれたら嬉しいんだけどなー!!」

 

 大して汗もかいていないのに、顔を真っ赤にしてそう言ってきたのには困ったが。

 

 ……実際に拭いたかって?

 

 …………まぁ、これも保護者代理の役目だからな。

 可能な限り目を離して、背中だけは拭いた、と言っておく。

 

 結局全っ然汗をかいてはいなかったので、「そういうからかいはやめなさい!」とお説教することになったのだが。

 

 

 

 放課後になると彼女の友人や先輩後輩が訪れ始め、部屋がウマ娘と見舞い品でパンパンになり始めたので、俺は退却することにした。

 

 最後に熱を測った時、その熱はだいぶ下がっていた。

 きっと明日には復調し、再びあの綺麗な走りを見せてくれるだろう。

 

 

 







 個人的な話なんですが、昔はイチャイチャ系書いてると恥ずかしくなってたんですけど、今は冷静に書けるようになりました。人間は適応する生物なんですねぇ。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、走る者と走らない者の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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ピンクのくろすがはしるとき

 最初は「ピンクのそうりがはしるとき」ってタイトルだったんですけど、このタイミングで「そうり」はちょっと怖いからね……。





 

 

 

 さて、私が風邪から復調してから、2週間程が経った。

 私やブルボンちゃんは相変わらず、次のレースに向けて、日々懸命に走っていたんだけど……。

 

 その日はちょっとしたイベントがあったので、私たちは一旦トレーニングを切り上げることになった。

 

 ……いや、「ちょっとした」じゃないか。客観的に見れば、結構デカ目のイベントだ。

 具体的に言えば、ライト版日本ダービーである。

 

 

 

「いやぁ……すごいことになっちゃいましたね」

 

 トレセングラウンド内、ターフを取り囲む傾斜の付いた芝。

 そこに腰を下ろした私は、眼下のターフを眺めながら、ぼんやりと言った。

 

 私の視線の先にいるのは、18人のクラシック級のウマ娘。

 今年の皐月賞3着、上位2人に次いで活躍を期待されるゴーイングノーブルちゃん。

 同じく皐月賞4着、中団に付けて追い上げ差し切りを狙うリボンララバイちゃん。

 皐月賞6着、テイオーと同じような先行抜け出しを得意とするデザートベイビーちゃん。

 更には、今のところあまり結果は振るっていないけど、ネームドでもあるマチカネタンホイザちゃん。

 皐月賞に参加していた、G1級のウマ娘たちが勢ぞろいだ。

 

 更に、それだけじゃない。

 弥生賞では3着を取る好走を見せながらも皐月賞には参加できなかったらしいオリジナルシャインちゃんや、ダービーのトライアルレースを制したタクティカルワンちゃんもいる。

 私は詳しくは知らないけど、歩さん曰く、今年のダービーに参加し、高確率で活躍するであろう強さを秘めた子たちらしい。

 

 ……そして、そんな彼女たちの中にあって、誰よりも目立つ2人。

 皐月賞1着、サイボーグの如き正確無比な走りを見せる、ミホノブルボンちゃん。

 そしてそんなブルボンちゃんを唯一2バ身差まで追い詰めた、ライスシャワーちゃん。

 

 今年のクラシック世代の中長距離、その最高峰。

 今日はなんと、そんな超絶豪華メンバーが走る模擬レースが開催されるのだった。

 

 そしてレースの条件は、左回りの2400メートル。

 傾斜や直線・曲線の長さが違うとは言え、実質的には日本ダービーと同等の条件。

 

 故に、今から行われるのは、ライト版日本ダービー。

 本番まであと3週間を切った今、その予行練習をするかのように、出走予定のウマ娘+αのレースが開催されるのであった。

 

 

 

 実質的には、日本ダービーの結果を測る試金石。

 

 そんなレースが開催されるとなれば、当然ながらとんでもない数の見物客がやってくる。

 それは私たちのような、シニア級のウマ娘ですら例外でなく……。

 

「『すごいことになった』って、そもそもこの模擬レース開催したのってアンタんところのトレーナーさんなんだけど?」

 

 そうツッコんで来るのは、私の右に座り込む親友、ナイスネイチャ。

 

「ていうかウィル、去年はしょっちゅうこういうレース開催してたじゃん。……あ、ってことはウィルとかブルボンじゃなくて、あのトレーナーのやり方なのか」

 

 呆れたような口調から一転、なるほどって頷いてるのは、私の左で足を組んでるライバル、トウカイテイオー。

 

 俗に三星なんて呼ばれる私たちも、模擬レース見物に訪れていたのだった。

 

 

 

 実際、こういうレースは見学しておいて損はない。

 ウマ娘の走りは千差万別だし、その身に修めた技術もまたウマそれぞれ。

 ある程度仕上がってるクラシック級以上のウマ娘であれば、その走りを見れば学べる、あるいは盗めるものがあることも多い。

 

 それが今年のクラシック級の注目株たちが勢揃いとなれば、もはやこれを見ないのは機会損失だ。

 真っ当な判断ができる人やウマ娘であれば、是が非でも見たいと望むところだろう。 

 

 そんなわけで、現在グラウンドには何百人という人やウマ娘たちが集まっている。

 というか何なら、よくテレビで使ってるデカいカメラを担いでる人までいる。

 耳聡い人たちだなぁ。まだこのメンツが集まるって情報流れてから1日経ってないと思うんだけど。

 

 

 

 ……とはいえ、何も歩さんも、こんなにド派手なイベントを開催したかったわけではないんだよね。

 

「誤解なきように言っておきますけど、今回こんな大騒ぎになっちゃったのは、私たちが悪いってわけじゃないですからね?

 むしろ、どこかのウマ娘ちゃんが情報出て即決即断で参加表明してきたってのが大きいんですからね?」

「うっ……」

 

 私の言葉に呻きを漏らしたのはネイチャ。

 ま、彼女のところの後輩ちゃんの話だもんね。

 

 今回開催する模擬レースがこんな豪華メンバーになったのは、実のところ、ライスちゃんの参加っていう要因が大きい。

 

 ぶっちゃけブルボンちゃんだけなら、そこそこのメンバーが揃いはすれど、多分今の半分くらいの集まりだったんじゃないだろうか。

 実際、去年私が模擬レースのメンバーを募った時も、ネイチャは大体応えてくれたけど、G1級のウマ娘にはむしろ敬遠されるくらいだった。

 まぁ、大逃げである私と走ったら最悪走りの調子を崩してしまうので、それを回避しようって意図だったのかもしれないけど……。

 

 ともかく、ブルボンちゃん単体であれば、そこそこのメンバーで終わってた可能性が高い。

 けれどそこに、皐月賞2着のライスちゃんが参加することで……このレースで戦える相手は、現在のクラシックレース最上位層2人となった。

 ブルボンちゃん対策だけじゃなく、ライスちゃん対策までできる、うま味の強いレースになったわけだ。

 

 で、ライスちゃんが即断で参加を表明したために、この情報が早期に広まった結果。

 他の優駿たちも、自分の力を試す為&戦力調査のために、このレースへの参加を続々表明してきた、というわけだ。

 

 ライスちゃんだけのせいとは言わないけど、ブルボンちゃんや歩さんのせいにされるのもなんだかなぁ、という状態なわけだ。

 

 

 

「あー、ていうかさ! この3人で集まったの、ちょっと久々じゃない?」

「え、そうだっけ?」

 

 話題を変えようと無理やりひねり出したネイチャの話題に、テイオーはちょっと意外そうな顔。

 そんな彼女に、私は苦笑いを浮かべる。

 

「今『そうだっけ』って言った子が、今年入ってからピリピリしてて声かけづらかったですからねぇ」

「そんなに?」

 

 そんなに。

 

 テイオー、今年に入ってから……というか去年の有記念が終わってから、それはもう話しかけづらかったからね。

 ずっと走りのこと考えてるような感じで、寄らば斬るみたいな雰囲気。

 なんなら一部の後輩ちゃんからは「テイオー先輩どうかしたんですか?」って訊かれたまである。

 

 まぁ、ウマ娘にはそういう時期がある。ソースは有記念の時の私。

 なので、私は特に何か言うでもなく、テイオーが本調子に戻るのを待っていたんだけど……。

 

 ここ最近は言動も柔らかくなり、雰囲気も自信満々だった頃に戻って来つつある。

 しっかり自分を取り戻してきたらしい。

 

「天皇賞が終わってから軟化したみたいだけど……何かあったの?」

「んー……まぁ、なんというか、ようやく自分の走り方を完璧に掴めた、みたいな?」

「自分の走りを掴めてなかったテイオーにハナ差まで詰められてたんですか、これまでの私……」

「なんだよー、掴んだって追い抜けなかったんだから、悔しいのはどっちもどっちでしょ?」

 

 どっちもどっちじゃないんだよなぁ。

 こちとら転生特典持ちですよ? 特典込みでも勝てない=特典抜きの地力じゃ圧倒的に負けてる、ってことだからねコレ。

 

 まぁ、テイオーの地力に勝てないのは当然と言えば当然なんだけどさ。

 相手は良血の大天才。血統がおおよそ良いとは言えず、レースに関しても所詮は要領が良いだけの凡人である私が、普通にやって勝てる相手じゃない。

 

 ……言ってて悲しくなるな、これ。

 まぁ自分が凡人だってことくらいはわかってたけどさ。

 

「ま、気が抜けたってよりは良い感じに整ったみたいだし、悪いことじゃなさそうじゃん?

 私としちゃ、一気に2人に差を付けられたみたいで、ちょーっと焦る部分もあるけどさ」

「ネイチャともちゃんと走ってみたいんだけどねー。まだ復帰しないの?」

「復帰は秋からだねぇ。どこかの誰かさんたちみたいに、無茶して競走人生擦り減らしたくないからさ、ネイチャさん」

「私たちも別に競走人生減らしたくて走ってるわけじゃないですが?」

 

 いやまぁ、確かに結構危ない走りをしてる時はあったけども。

 ダービーでは完走直後に昏倒したし、宝塚後は脚折れたし、有では本当に限界中の限界まで振り絞ったし、大阪杯でも吐いちゃったし……。

 ……いや、冷静に考えると私、確かに結構無茶苦茶してたかもしれない。反省してます、はい。

 

「ていうか、テイオーだって人のこと言えなくない? 宝塚記念回避して休養するらしいじゃん」

「ボクは元から決まってたんです~! ボクの脚じゃこれ以上は危ないんですぅ~!」

 

 テイオーもテイオーで、ダービーでは骨折するわ春天ではぶっ倒れるわ、脚の脆さ以上に無茶苦茶な走りで怪我してる印象。

 思えば私たち、案外似た者同士か? あのテイオーと似てるとか、ちょっと照れるね。

 

 ……まぁでも、私は無理はもうやめたんだ。

 これからは地道にコツコツ、勝つべくして勝ち、G1勝利数を増やしていく。

 それが新生・ホシノウィルムの方向性なのだよ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そんなこんなで話している内、模擬レースの開始が近づいてきたらしい。

 コースの内ラチの中で何かしらを話していたトレーナーさんたちが、出走ウマ娘に声をかけている。

 

「お、始まりますか」

「勉強させてもらうとしようかねぇ」

 

 いざ始まるレースに目を輝かせる私とネイチャに、テイオーが尋ねてくる。

 

「実際、2人は誰が勝つと思う?」

 

 え、それ訊く? 訊いちゃう?

 いやいや、流石にその答えは一択ですよ。

 

 

 

「そりゃあブルボンちゃんでしょ」

「まぁライスだよねぇ」

 

 

 

 ……?

 ???

 

 ネイチャ?????

 

 私が思わずネイチャの方を見ると、彼女もまた怪訝そうな目でこちらを見ていた。

 

「いやいや、皐月賞では2バ身以上差付けてたんですよ?」

「そうだね。でもライス、あれから2週間必死にトレーニングしてたし、距離も400メートル延びてるんだけど?」

「トレーニングで言うんならブルボンちゃんだって必死にトレーニングに取り組んでるんですが? 距離だって既に中距離までなら克服してるって歩さん言ってましたが?」

「まぁそりゃあブルボンの努力は認めるよ? 合同トレーニングの時見ててもすごい前向きに取り組んでるもんね。でもさ、ライスのトレーニング1回見てみ? ホントすごいからあの子」

 

 はー?

 何がレースメーカーですかこの子、レースのことぜーんぜんわかってないですよ。

 今回もウチの後輩が勝つに決まっているのだが???

 

「ライスちゃんとは定期的に走ってますけど、確かにすごいですよ。正直私から見てもとんでもないなこの子って思わされることもあります。でもね、ブルボンちゃんだってとんでもなく真面目で良い子ですから! この前だってトレーニング後に疲れ切ってる中で『私が片付けますので、ウィルム先輩は上がっていただいて大丈夫です』なんて言ってくれましたからね!」

「それ言うならライスだってすっごい良い子なんだけど? 最近かなりトレーニングに入れ込んでるのに、ふとした時に『ネイチャ先輩、いつもありがとうございます』って頭下げてきたりするんだよ。普通できる普段の感謝とか? 気恥ずかしさとかあるでしょそういうの」

 

 喧々諤々と議論を交わす私たちを見て、テイオーはボソッと呟いた。

 

「先輩バ鹿……」

 

 誰がバ鹿ですか誰が。

 

 

 

「まぁでも、真面目な話、ブルボンちゃんとライスちゃんは互角に近いと思いますよ」

 

 スタートラインに並ぶ子たちを見る。

 やっぱり、中でも強そうな感じがするのは、ブルボンちゃんとライスちゃん。

 この2人は18人のメンバーの中でも1枚上手な感じの雰囲気を醸し出している。

 

 そして直近の皐月賞のことを考えれば……まぁ、やっぱりちょっとブルボンちゃん優勢だとは思うんだけど、ほぼ互角な実力が予想された。

 

 その上で、レースの勝敗を決める分水嶺は……そうだな。

 

 ブルボンちゃんが、他のウマ娘を見て掛からないか。

 そしてライスちゃんが、良い展開の中で走れるか。

 

 この2点が、大きく響いてきそうだ。

 

「そうだねぇ。ライスも特別レースの展開作りが上手ってわけじゃないし、素直に走りやすい状態が整ってくれればいいんだけど……どうだろうなぁ」

「走りやすい状態かぁ。ボク、意識したことないなぁ」

「そりゃテイオーは走りにくかろうが無理やり突破するからね。春天の時なんか、あんだけ取り囲まれててなんで脱出できるんだーって感じだったし」

「え? 一瞬テンポ落として隙間縫えば簡単じゃない?」

「簡単じゃないけど?」

「あー、それわかります」

「なんでアンタがわかるのよ、大逃げでしょうが」

 

 ネイチャには呆れられたけど、私、故郷では差しで走ってたからね。

 そういうダメな展開に押し込まれたら、地力の高さで無理やり展開を破り捨てるのが最高効率だってことは、骨身にしみてわかっておりますとも。

 

 ……まぁ、それをこの中央のG1レースなんかでできるとは思えないけども。

 

 私がフィジカル突破できてたのは、あくまで相手との実力差が隔絶してたから。

 あの天皇賞でそんなことしてたって聞くと、やっぱこの子天然チートだなー、と思う。

 

 

 

「ブルボンちゃんの方は、あの子の掛かり癖次第ですけど……まぁ、それとの付き合い方を学びさえすれば、って感じですね」

「あー、掛かり癖ってどうしようもないって言うもんね」

 

 私たち三星は全員、掛かりとはあんまり縁がないから、ちょっと他人事気味だ。

 クラシック級序盤の私はかなり酷い掛かりっぷりだったけど、今はそれも皆無だからね。

 

「掛からないようになるまで走るしかないって感じ?」

「いやー、今の感じ、軽減はできても完全にやめさせるのは無理そうでしたね。

 癖とは言いますが、あれは多分、闘争本能を抑えるべき弁が弱いっていう、生来のものっぽいです」

「あー……そりゃあ困るね」

 

 そう、困る。

 何が困るって、闘争本能それ自体は、決して悪いものじゃないってことだ。

 

 ただ熱を抑えるのでは走りが弱くなるだけで、でも抑えなければ過剰に暴走してしまう。

 なかなか難しいよね、自分の気性との付き合い方ってヤツはさ。

 

「なので、あとはそれを上手ーく利用しないと……お」

 

 そんなこんな言ってる内に、眼下の参加者たちはスタートラインに付いた。

 

 いよいよ、レースが始まるらしい。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 今回の模擬レースの主催である歩さんの手で、フラッグが振り下ろされる。

 

 それと同時、誰よりも速く駆け出したのは……。

 期待を裏切らず、ミホノブルボンちゃんだ。

 

「うっわ、クラシック級のスタートじゃないね、相変わらず。流石はウィルの後輩」

「私の方が速いですけどね」

「後輩可愛がるかマウント取るかどっちかにしなよ」

 

 ブルボンちゃんのスタートダッシュは、かなり速い。

 流石はスタートダッシュ教の開祖、歩さんの担当ウマ娘。その速度は他のウマ娘の比ではない。

 

 

 

 ……ただ、今回は、独走とはいかなかった。

 ずば抜けた彼女に迫ろうと、懸命に追いすがる子がいたからだ。

 

「おお」

「ありゃ?」

「付いて行く気かー、無謀じゃない?」

 

 三者三様の反応を漏らす私たち。

 

 ブルボンちゃんの疾走に、1人のウマ娘が追従する。

 セミロングに伸ばした綺麗なピンク色の髪をたなびかせ、彼女の背を負うのは……私のよく知る後輩ちゃんの1人。

 

「ソウリちゃん、やる気だなぁ」

「誰?」

「私の可愛がってる後輩ちゃんですよ」

 

 ネイチャもテイオーも、彼女のことを知らない。

 残念だけど、当然かもしれない。

 だってソウリちゃん、現状の成績は、殊更に良いわけじゃないんだ。

 

 3戦1勝、メイクデビュー以後一度も勝ち星を上げられていないウマ娘。

 当然ながら、G1級ウマ娘たちの並ぶこの場において、彼女の知名度やその肩に負わされる期待は、おおよそ最底辺と言っていい。

 この模擬レースに参加できたのだって、ブルボンちゃんがプッシュしたが故に主催者権限で参加できた、というのが真相だ。

 

 

 

 だけど……。

 今の彼女は、決して無力なウマ娘ではない。

 

「……へぇ」

 

 テイオーが、ちょっと興味を引かれたように、小さく声を上げる。

 ネイチャの方を覗き見れば、彼女は眉をひそめてソウリちゃんを見てた。

 

 ソウリちゃんは付いて行っている。

 付いて、行けている。

 ミホノブルボンというウマ娘の平均ペース……通常のウマ娘にとっての、かなりのハイペースに。

 

 勿論、ソウリちゃんはかなりの無理をしているのだろう。

 土台、彼女は自分でも言っているように、特別な才能を持ったウマ娘ではない。

 ああいや、G2級の素質は十分に持っているとは思うんだけど……。

 天賦の柔軟な体、クラシック三冠への強烈な執着、私というちょっとしたサポーター、そして何より歩さんという最強のトレーナーが揃った、ミホノブルボンちゃん程ではない。

 

 だからこそ、彼女は無理をしている。

 ……でもそれは、逆に言えば、無理をすればついて行けているんだ。

 

 

 

「あの子の名前教えてよ、ウィルム」

「ソウリクロスちゃんですよ」

「あんな子見落としてたのかぁ……うーん、ちょっと失敗」

 

 ブルボンちゃんの「ハイペース」は、G1レース基準でのもの。

 そこに付いて行けるというのは、つまるところ……。

 

 ソウリクロスというウマ娘が、G1級のウマ娘に、足を踏み入れかけているということに他ならない。

 

「……ふふ」

 

 ソウリちゃんの戦績は、1勝2敗。

 しかしこれは、「今年の1月までの」記録だ。

 

 公式レースは普段のトレーニングの総決算だ。

 しかし、レースで勝利を目指そうとすれば、対策のために時間を取られてしまう。

 レース場の構造の把握、専用の技術の習得、戦略の構築、そして追い切り。

 それらに使う時間は、決して少なくない。

 だから、頻繁にレースに出走しようとすれば、結果的に鍛錬に使える時間が少なくなり、実力が中途半端なものになってしまいかねないんだ。

 

 ソウリちゃんには、そうして公式レースに出ながら体を鍛える余裕はなかった。

 高い素質も素養も持たない彼女が菊の舞台での勝利を遂げるには、誰もが当然とする余裕すら投げ捨てなくてはならなかった。

 

 故に、ソウリクロスは決断した。

 2月以降、公式レースへの出走を取りやめ、トレーニングに専念することを。

 

 菊花賞に出るための条件は2つ。

 十分な人気と実力を持つか、2種のG2レースのどちらかで3着以内に入ること。

 彼女はそれを最低限に達成できるだけに出走するレースを絞り、その他を捨てた。

 

 その結果として……。

 

 必死な顔で、唇を結んで、その目をかっと見開いて。

 ソウリちゃんは今、ブルボンちゃんと同じ景色の中で、走っている。

 

 

 

 そして、誰もが思いもしなかった伏兵が、展開を大きく捻じ曲げる。

 

「掛かったね」

「まぁ、状況が状況ですから」

 

 ブルボンちゃんは、想定外の脅威を前にして、掛かってしまった。

 

 彼女はこれまで何度もソウリちゃんと走ってきたけど、それらは全てトレーニングでのこと。

 本気を出したソウリちゃんと走ったことは、ない。

 

 更に言えば、自身のペースに付いて来るとも思わなかっただろう。

 ソウリクロスは逃げウマ娘だ。

 けれど、ミホノブルボンという怪物に敵い得るほどの傑物ではない。

 そして彼女自身、それを悟れないほどに愚かでもない。

 

 故に、彼女は彼女らしく、その身の程に合った走りをすると、そう思い込んでたんだろうね。

 

 けれど……。

 あるいは、それが、彼女の抗い方なんだろう。

 

 彼女は今、更に速度を上げたミホノブルボンの疾走に、それでもなお追従し続けて……。

 

 

 

 ……そうして。

 

「ここまでか」

「いやぁ……伏兵だったね」

 

 そうして、限界に至った。

 

 残り600メートル程だろうか、ソウリちゃんの脚が、鈍る。

 圧倒的なハイペース、絶望的な素質の差を前に、精神より前に肉体が限界を迎えた。

 

 想定外の伏兵は、前半の無理が祟り、ズルズルとバ群の中に沈んでいったのだった。

 

「……うん、頑張ったね、ソウリちゃん」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 その後は、誰もが想像した展開になった。

 

 ミホノブルボンが逃げ切るか、ライスちゃんが差し切るか、だ。

 

 結果は、やっぱり道中での掛かりが致命的だったか、ややペースダウンしてしまったブルボンちゃんをかわし、ライスちゃんが差し切り勝ち……。

 ……と思われたところで、ブルボンちゃんが根性の再加速。

 

 結果として、半バ身差、ギリギリでブルボンちゃんが逃げ切った形となった。

 

「う~……ライス、惜しかったなぁ」

「まだまだ勝ちを譲ってはあげられませんねぇ!」

「ウィルはどこ目線なの?」

「先輩目線ですが?」

「後輩の褌で相撲を取るのやめな?」

 

 そんなこんなで、大盛り上がりのレースは終了したのだった。

 

 

 

 正直に言えば、今回のレースの結果は、割とどうでもいいんだ。

 これはあくまで模擬レース、本番ではないんだから。

 

 大事なのは、このレースから何を学ぶか。

 そういう意味で、きっと今回の模擬レースは、かなり良い経験だったんじゃないだろうか。

 

 順調に走っていたはずが、想定外の奇襲に掛かってしまったブルボンちゃんにとっても。

 そんな彼女に、皐月賞の時よりも更に迫ることのできた、ライスちゃんにも。

 そして……今の自分の限界を見極められた、ソウリちゃんにも。

 

 ……さて、この3人、果たしてどこまで伸びて来てくれるかな。

 今から楽しみだよ。

 

 

 







 ウィル:ブルボンが良い子すぎてめちゃくちゃ身内贔屓している。
 ネイチャ:ライスが良い子すぎてどちゃくそ可愛がっている。
 テイオー:1人だけ後輩がいないので「何言い合ってんだこの2人」となっている。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、彼女に勝つ方法の話。



(追記)
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終わりがないから色々と『終わり』 それが『デスマーチ・レクイエム』

 ヤツはもう、どこかへ向かうことはない。
 特にヤツが「仕事の終わり」に到達することは、決して……。





 

 

 

 図らずとも、プチ日本ダービーとでも呼ぶべき規模になってしまったブルボンの模擬レースが終わった、その翌日。

 俺は今日も今日とて、書類仕事に精を出していた。

 

 担当のトレーニングの様子を見たり、レースやレース場の考察をしたり、他の出走ウマ娘の陣営の調査を行うことに比べて、デスクワークはとても退屈で一辺倒だ。

 直接的に担当たちと関わるわけでもないし、正直に言ってあまり好きではないのだが……。

 それでも、担当たちの役に立つことだけは間違いない。

 

 誰かが表舞台で華々しく活動するためには、誰かが裏方作業をこなさねばならない。これは世の真理だ。

 ミュージシャンやアイドルのライブなんかがわかりやすい例だろう。舞台に上がる人間の何十倍という人間が、彼ら彼女らを支えるために働いている。

 それはウマ娘のレースやウイニングライブもまた、例に漏れないわけで。

 

 俺たち契約トレーナーの仕事は、まさしくその裏方作業の取り仕切りといったところ。

 俺たちの仕事は、彼女たちが余計なことに煩わされることのないよう、そして世間が彼女たちに夢中になれるよう、そこに差し障る全てを排除すること。

 そしてそのための施策こそが、この書類1枚1枚なのである。

 

 故に、どれだけつまらなくとも、退屈であろうとも、書類は淡々と片付けていかねばならないのだ。

 

 

 

 ……とはいえ、トップレベルのアスリート兼アイドルであるウマ娘たちを支える契約トレーナーは、一般的な裏方とは業務量が違う。違い過ぎる。

 具体的に言えば、トレーナーの名家出身で事前に業務の予習をしていた俺でさえ、少し油断すれば押し潰されてしまいかねないくらいには。

 

 殊にその日は、5月も半ば、トゥインクルシリーズはまさにシーズン真っ盛り。

 ブルボンが制したクラシックレースの皐月賞や、フラワーが獲ったティアラレースの桜花賞。そしてウィルやテイオーが熾烈な戦いを繰り広げた春シニア三冠、いくつかのダートやマイルのG1レース。

 これらの激戦からもたらされる熱を以て、世間は良い意味で彼女たちのレースに浮かされている状態。

 

 それはつまり、現在ウマ娘のグッズやイベントなどの需要が跳ね上がっているということであり……。

 トレーナーは普段の業務や次回レースへの対策に加え、その人気に伴って増えるお仕事の依頼を捌くことになる。

 

 2人のG1ウマ娘を抱える俺たちの陣営もまた、多忙を極めていた。

 具体的には、1日18時間労働くらいが普通になりつつあった。

 昌が業務の途中で事切れるように気絶するレベルの、地獄のデスマーチである。

 

 ……担当の前ではなんとか最低限取り繕ってはいるけど、この時期はホント地獄だ。

 まぁ、流石に去年のこの頃に比べたらマシだけどね。去年は急増した仕事に頭がてんやわんやになって、無意識にウィルへの配慮が欠けてしまっていたくらいだし。今思うとよく倒れなかったな、俺。

 

 労働基準法などというものは、中央トレセン学園には存在しない。

 いや存在はするけど、そんなもんに遵っていては、ウマ娘のトレーナーなんぞできない。

 故に、上から命令されたわけではなく、あくまで自由意志によって、俺たちトレーナーはたづなさんの「お願いですから残業はやめてください! お願いですから!」という訴えをスルーしているのである。

 いつもごめんなさい、ご迷惑をおかけします、たづなさん。

 

 

 

 とはいえ、ここまで忙しくなる陣営はそう多くない。

 一般的な陣営は、1日12時間程度の労働時間で事足りるはず……らしい。少なくともたづなさんはそう言っていた。

 

 それなのに、俺たちがこんなにも苦戦している理由は、大きく分けて2つ。

 俺や昌が、まだまだトレーナーとして不慣れで、力不足というのが1つ。

 そしてもう1つ、こっちが大きいんだけど……。

 今更な話になるが、担当2人がとんでもない化け物だからだ。

 

 日本における最高峰の栄誉の1つ、クラシック三冠。

 距離限界を越えてそれを目指し、今最もそこに近付いているとされる、ミホノブルボン。

 

 これまでただの一度として達成できなかった悲願、凱旋門賞での勝利。

 呪われているのかとすら思える程に成し遂げられないそれに、けれどあるいは彼女ならばとまで言われる、ホシノウィルム。

 

 現在のトゥインクルシリーズの中核を担うこの2人を担当に持つ以上、どのトレーナーよりも多くの仕事が舞い込んでくるのは当然な話なのだ。

 

 トークショーやテレビドラマ、ラジオ番組のゲスト出演。

 タイアップ商品の展開やURA公式のグッズ販売。

 CMの撮影に雑誌コラムの執筆、インタビューとか動画の撮影。

 

 舞い込んでくる仕事は多種多様で数多く、そしてその処理を1つ間違えただけで、下手すれば億単位での損失や賠償が出たりする。

 

 正直、2年前にウィルを担当するまでは、まさか自分がいきなりこんな重責ある立場になるとは思わなかったが……。

 気付けばその業務にも慣れて、無心で……というか、半ば無意識的に片付けられるようになってきた。

 

 

 

 右手では、書類の束を捲りながら判を付いたりサインを書いたり、あるいは脇にどけて。

 左手では、前に置いてある紙媒体に纏めたデータを、オフラインのパソコンにひたすら入力していき。

 ついでに、目の前のウィンドウではここ1か月の海外のグレードレースの映像を流し、注目株のウマ娘の分析を行う。

 

 うーん……やっぱり、もっと効率を上げたいところだ。

 

 あと2本くらい腕が欲しいな。海外ウマ娘の分析データを纏めるだけの手が足りない。

 あ、それと目も欲しいな。後頭部にあれば、全方面360度の作業が可能。捗りそうでいいね。

 あーでも、そうなると流石に思考のリソースが足りない気がするな。脳も欲しいな脳も。というか頭良くなりたい。

 

 ……まぁ、流石にそこまで行くと冗談だけど、腕が欲しいのは本当だ。

 人の腕とまでは言わなくとも、猫の手でも欲しい。いやもうネズミの手でも、いっそノミでもいい。1万分の1%だけでも効率を上げたい。

 

 

 

 ……なんて。

 そんなことを思っていると、横から昌が声をかけて来る。

 

「……最近、ますます気持ち悪さが増したよね、兄さんの動き」

「突然のディス。酷くない?」

「そんな動きしながら普通に喋れるところ、マジでキモいと思うよ」

「殊更に異常な動きはしてないと思うんだけどね」

 

 そりゃあ、俺がこれを全部片手で、しかも今のと同じスピードで片付けてるとしたらキモいとは思うけどね。ちょっと人間業じゃないし。

 でも俺がやってるのは、あくまで人間なら、頑張れば誰だってできる範囲のことだ。

 それを気持ち悪いって言われるのはちょっと心外。欲を言えばすごいって言って褒めて欲しいよね。

 

「ていうか目の動きがキモい。1秒で何度も右に左に動かして、疲れないの?」

「最初の頃はかなり疲れてたけど、慣れたよ」

「慣らさないでよそんなことに。老眼になるよ?」

「昌もやってれば慣れるよ」

「やらないし慣れないから」

 

 勿体ないなぁと思って、チラリとあっちの方を窺うと……。

 昌は、片手で書類を捲り、片手でキーボードを叩いている。

 いわゆるシングルタスクの状態だ。

 

「これはお兄ちゃんとしてというより先輩トレーナーとしてのアドバイスなんだけど、両手でそれぞれ別の作業をやると、効率が倍近くになるよ」

「何当たり前のことを当たり前のように語ってんのよ、そんなこと普通できないから。ちょっとは自分の特異性を理解してほしいんだけど」

「いやいや、昌ならできるって。最初の頃は頭がガンガンして爆発しそうになるかもしれないけど、慣れたら業務効率上がるからさ。ね?」

「自分が化け物になったからって妹まで巻き添えにしてくるモンスターか? 私はあくまで一般トレーナーとして生きてくからね」

 

 フラれてしまった。悲しい。

 同期とか後輩トレーナーにもおススメしたことあるんだけど、いつも断られちゃうんだよなぁ。

 

 これは特別な技術じゃない。

 謂わば、利き腕が左利きなのを右利きに矯正するような……いや、両利きに矯正するようなもの。

 時間をかけ、努力を続ければ、誰でも到達し得るものだ。

 

 だから、それをしないっていうのは、大きな損失だと思うんだけど……。

 

 まぁでも、この矯正って腕だけじゃなく頭にも慣れさせる必要があって、そこそこ長めの時間がかかる。

 日々トレーナー業に勤しむ皆がやるには、やや厳しいものがあるかもしれないな。

 

 けど、どうしても、勿体ないなぁと思ってしまう。

 これを身に着けるのは、最高効率でトレーナー業を行うのには必須だと思うんだけどなぁ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、そんなこんなで、昌と一緒に仕事を捌いている内……。

 ガラガラと音を立てて、トレーナー室の扉が開く。

 

 視線を上げた先にいたのは、俺の担当ウマ娘の1人、ミホノブルボン。

 ちらと時計を見ると、短針はまだ頂点を過ぎたばかり。

 午前中の授業が終わってそう間もなく、まだトレーニング前の集合には早すぎる時間帯だ。

 

 とはいえ、ウマ娘が暇な時に契約トレーナーのトレーナー室に入り浸るのは珍しい話じゃないんだけどね。ウィルなんか、2日に1日はここでスマホを触ったり俺や晶と雑談したりしてるし。

 ただ、一方でブルボンは、暇な時にもトレーナー室に近寄ることが少なく、頻度としては2週間に1日くらい。いや、最近はやや増えて、1週間に1日くらいになったかな。

 

 とにかく、ブルボンがこんなに早くトレーナー室を訪れるのは、ちょっとばかり珍しいことだ。

 俺はパチパチと目を瞬かせながら、ひとまずブルボンに挨拶を投げかける。

 

「こんにちは、ミホノブルボン。ずいぶん早いが、昼食はきちんと取ったか?」

「こんにちは、マスター。食事は、エネルギーバーとゼリーを少々」

「今更指摘するまでもないが、時間がある時はきちんと栄養のある食事を摂ったほうが良いぞ」

「はい。ただし、本日は一件、マスターへ相談するべきタスクが存在し、そのために時間を惜しんだ形となります」

「相談か」

 

 これまた珍しい。

 ブルボンは、クラシック三冠以外にはあまり興味を持たない子だ。

 そして同時、すごく物分かりが良い……というか、俺というトレーナーの判断に全幅の信頼を置いてくれているウマ娘でもある。

 

 故に、主にトレーニングの方針や効果、レースのことについて質問をすることはあっても、説明すればきちんと飲み込んでくれるし……。

 そもそもそういった質問をすること自体、自我が希薄気味な彼女にはだいぶ稀なことだったりするんだ。

 

 

 

「ちょっと待ってくれ」

 

 俺はひとまず、書類を捲っていた手を止め、それらをデスクの端に寄せ……ようとしたんだけど、既にデスクはパンパンだったので、ひとまず彼女の顔が見えるように山の上に山を重ねる。

 晶の方も、ブルボンに同席の可否について確認を取り、仕事の手を止めて静聴構えだ。

 

 相談を受ける準備は完了。

 さっそく用件を伺おう。

 

「よし、それでは聞こうか。相談とは?」

 

 聞くと、ブルボンは声を詰まらせたような一拍を空けて、答える。

 

「私はライスさんに……菊花賞に、勝てるでしょうか」

 

 ……あぁ、なるほど。

 これは俺の察しが悪かったかな。

 

「昨日の模擬レースか」

「……はい」

 

 

 

 昨日俺たちが開催した模擬レースは、2400メートルという、日本ダービーに近い条件だった。

 けれど、そこでミホノブルボンは、ライスシャワーに半バ身差しか付けられなかったんだ。

 

 ミホノブルボンが血統的に短距離・マイル向きであるのに対して、ライスシャワーは中・長距離向き。

 クラシック三冠レースは進行する程に距離が伸び、ブルボンにとっては不利に、そしてライスにとっては有利になっていく。

 

 それなのに、2400メートルという日本ダービーと同等の条件でなお、わずかな差までに追い詰められたんだ。

 

 それに対して、彼女は……。

 あぁ、今、彼女の瞳の奥には仄かな感情が窺えた。

 

 この調子では、菊花賞で逃げきれなくなるかもしれないという、不安。

 もっと急速に力をつけなければならないという、焦り。

 迫ってくる追っ手、そして詰まる実力差への、恐怖。

 ……そして僅かながら、自分の走りを破られた、怒りも。

 

 それはなんともミホノブルボンらしくない……そして、競走ウマ娘らしい感情だ。

 

「…………」

 

 気付けば最近の彼女は、だいぶ競走ウマ娘らしくなってきた気がする。

 いや、元が競走ウマ娘らしくなかったかと言えばそうじゃない。

 あれはあれで、ミホノブルボンという1人のウマ娘らしくはあったのだが……。

 

 皐月賞以来、というかレースの中でライスシャワーの気配を感じ取って以来、彼女の中には小さく熱いものが宿ったように思う。

 まさしく、ホシノウィルムがその心に煌々と燃やす炎、その種火とでも言うべきものが。

 

 競走ウマ娘として、彼女は少しだけ変わった。

 あぁ、きっとこれは、良いことだ。

 

 

 

 しかし、彼女の成長は喜ばしいとして……。

 

「ふむ」

 

 その疑問には、何と答えたものかな。

 

 いつもなら、彼女に彼女自身や菊花賞の分析データを見せながら、これがこうだからこうなって勝てる、と丁寧に説明するところだが……。

 今の彼女は、ミホノブルボンにしては珍しいことに、思考を感情に支配されている。

 理論も理屈も、本当の意味で彼女を納得させることはできないだろう。

 

 で、あれば……行動あるのみか。

 

 

 

「わかった。それならば……」

 

 俺は頷き、少しだけ書類を整理して立ち上がる。

 

「君が、自分はどんなレースにも勝てると信じられるよう、彼女に力を借りよう」

 

 そうして、ポケットからスマホを取り出し、彼女にメッセージを送った。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「ふぅ、突然呼ばれたので何事かと思いました」

 

 招集をかけたウィルは、昼食を切り上げてまで駆けつけてくれた。

 こちらとしては「トレーニング開始より少し前に来てくれ」としか言ってなかったんだけど、偶然にも近くにオグリキャップがいたらしく、ハイパーメガ盛り大満足デラックスプレートを平らげてなお物足りなそうだった彼女に、残った食事を譲って来たのだという。

 

「そんなに急ぐわけではない……というか、言った通り、トレーニング開始の5分前までに来てくれればよかったんだがな」

「まったく、私と歩さんの仲じゃないですか。困った時はお互い様、そういうの言いっこなしですよ?」

 

 そう言う彼女の表情は、なんというか……頼れるイケメン彼氏、とでも言うべきものだった。

 この子、時々こういうスパダリみたいなトコ見せるんだよなぁ。

 悔しいけど、ちょっとキュンとしてしまう。

 

「……時々、君がすごく頼りに思えるよ」

「時々ですか?」

「ふ。いつも、かもな」

 

 まぁ、頭を撫でられてえへえへ言ってるところを見ると、やっぱり子供だなぁと思うのだが……。

 それはともかく、今はブルボンのことだ。

 

 

 

「──ということで、頼めるかな」

「なるほど……」

 

 俺がお願いしたいことを説明すると、彼女はちょっと悩むように顎に手を当てた。

 

「難しいか?」

「いえ、多分できる……と思います。走ってる時に威圧感を抑えるとかやったことないので、上手くできるかは微妙ですが」

「すまん、君からすると不愉快なことかもしれないが」

「確かに、気持ちの良いことではないかもですが……まぁ、歩さんとブルボンちゃんのためです。担当ウマ娘として、先輩として、一肌脱ぎましょうとも」

 

 胸に拳を当ててドヤ顔するウィル。

 

 うん、今回は頼らせてもらおう。

 ブルボンに「熱」の扱い方の感覚を知ってもらうには、それが最短の道であるはずだ。

 

 ……ちょっとだけ、ズルいやり方かもしれないけどね。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 幸運にも、その日は芝のコースの一部を予約していたので、場所自体は自由に使うことができた。

 そんなわけで俺は早速、ジャージに着替えた2人を連れて、グラウンドに出る。

 

 バイザーに挟んできたプリントで直近1週間のデータをおさらいしながら、俺は彼女たちに……というかブルボンに語りかけた。

 

「さて、ミホノブルボン。今日はウィルと併走をしてもらう」

「それが、菊花賞に勝つためのプラン……ということでしょうか」

「そうなるな。併走とは言うが、実質的には模擬レースだと思って、全力で走ること」

「ミッション、了解しました」

 

 コクリと頷いたブルボンに、横を歩くウィルが、ちょっと心配気に話しかける。

 

「ブルボンちゃんにとっては2日連続の模擬レースになるけど。負担とかは大丈夫そう?」

「はい。むしろ今は、より重いトレーニングを積むことを望みます」

「そっか。ま、歩さんがストップかけないってことは、ひとまず大丈夫そうかな」

「あぁ、問題はない」

 

 「アプリ転生」で覗けるブルボンの体力は、まだまだ残っている状態。失敗率はゼロだ。

 昨日走ったのも公式レースではなく、あくまで練習の模擬レース。脚の寿命的な意味でも、まだ余裕はある計算だった。

 

 ……そして何より、ウマ娘の状態は、何も脚の健康だけじゃない。

 彼女の精神的な動揺の解消も、後悔なくレースを走ってもらうには大事なファクターだからな。

 

 

 

 細々とした注意事項を話しながら歩いていると、グラウンドの借りた地区に辿り着いた。

 

「それでは、それぞれ位置に就け。

 条件は昨日と同じ、左回りの2400メートルだ」

 

 俺の担当2人は、それぞれスタートラインで、開始の瞬間に備える。

 その姿勢は似通ったもの。……いや、それも当然か。なにせどちらも、俺が教え込んだわけだし。

 

 ただ、姿勢が近いとは言っても、その練度は大きく異なる。

 トゥインクルシリーズで鍛錬を積みながら走った年数はウィルの方が1年長く、特殊に変化したスキルである「三歩飛翔」もあって、彼女の方がより鋭いスタートダッシュを切ることができる……。

 

 ……はず、なのだが。

 今回は、ウィルには別の走りをお願いしたからな。

 ブルボンの想定通りの、「追う」展開にはならないはずだ。

 

 

 

 俺がフラッグを振り下ろすと同時、2人のウマ娘は駆け出す。

 勿論先んじて先頭を取ったのは、ホシノウィルムではなく、ミホノブルボンだった。

 

「……?」

 

 一瞬だけ怪訝気な表情を浮かべはしたものの、すぐさまその感情を押し殺したブルボンは、自身の最適なペースまで加速する。

 それに対して、わざと出遅れたウィルは、いつもの彼女とは違う走り方を取った。

 

 ブルボンから後方、5バ身。

 まっとうなウマ娘であれば、その存在を感知すらできないくらいの場所を、彼女のペースに併せて走る。

 

 脚質で区分すれば、先行……いいや、差しくらいのポジションだ。

 まぁ、アレは主にバ群との関係性で区別されるものなので、2人きりのレースではあまり意味のないものなんだが……それはともかく。

 

 大逃げではなく、逃げでもなく、先行ですらなく、差しのポジション。

 俺が一番最初に見たウィルのそれに近い走りだ。

 

 勿論、ウィルは脚質適性からして、この走りには適していない。

 彼女にとってこの走りは、あまり気持ちの良いものにはならないかもしれないが……。

 

 これにはちゃんとした意味があるんだ。

 今日ばかりは先輩として、ちょっとだけ我慢してもらおうか。

 

 

 

 結局のところ、先日のレースでブルボンが敗北しかけた原因は、大きく分けて2つ。

 ライスシャワーと、ソウリクロスだ。

 

 ライスが末脚で追い詰めて来るのは、ある意味では仕方のないことだ。

 強いウマ娘は誰だってライバルに追いかけられるもので、ライバルというものは一度火が点いてしまうととんでもない伸び方をしてくる。ソースはネイチャとテイオー。

 

 俺たち追われる側にできるのは、全力で彼女たちの追跡から逃げ続けること。

 何度迫られ、負けかけ、あるいは本当に負けてしまったとしても……それでも逃げ続け、逃げ切る。

 そのために、トレーニングを積み上げ続けることだけだ。

 

 容易くは解決できないもう一方の問題に対して、比較的解決しやすいのは、ソウリクロスの存在の方。

 彼女の存在……というより、ブルボンを掛からせる逃げウマ娘の存在は、彼女の走りを大きく乱してしまう。

 だからこそ、可能な限り掛からないようにウィルの存在感に慣らしていたわけだが……。

 その「慣れ」にも、限度というものはある。

 

 土台、ブルボンの掛かり癖は、そう簡単に解消できるものじゃない。

 ブルボンが本気の……つまり公式レースのウィルと走れるのは、どう足掻いても菊花賞の後になってしまうし。

 併走や模擬レースのウィルの存在感に慣れた程度では、クラシック級の本気のウマ娘にも揺さぶられてしまう。

 

 ……まぁ、これはあくまでも、想定内のことではあるのだが。

 

 元々、ウィルの存在感に慣らすのは、あくまでも一時しのぎの策に過ぎなかった。

 本質的に、ブルボンの掛かり癖によるデメリットを解消する方法は、たった1つしかない。

 

 問題は、その感覚を、ミホノブルボンが掴むことができるかどうか。

 

 

 

 俺が見守る先で、2人の併走はいよいよ最終コーナーに入る。

 状況は変わらず、ミホノブルボンのペースを基準とした走りに、5バ身空けてウィルが追う形。

 

 しかしここで、その形勢が崩れる。

 

「さて……ここから」

 

 最終コーナー。

 そこからウィルは、渾身の力で加速した。

 

 クラシック級とシニア級の間には、1年という長い長いトレーニング期間のギャップがある。

 故に、ミホノブルボンとホシノウィルムの標準的なペースには、大きな差があり……。

 ここまでブルボンのペースに併せていたウィルは、結果的に足を溜めていた形になる。

 

 多少の不慣れはあれど、国内シニア級でもトップクラスの競走ウマ娘たるウィルの追い上げは、ブルボンとの差を簡単に埋めるだけの圧倒的な速度を叩き出す。

 

 5バ身空いていたはずの差は、そう間もなく3バ身2バ身と縮まり、すぐさま1バ身へ。

 

 爆発的に膨らんだ存在感に、追い上げて来る脅威に、あるいは狩られるという実感に。

 ブルボンは、果たして、どう反応するか……。

 

 掴んでくれれば、それで良し。

 仮に掴めなくとも、最悪……。

 

 ……いいや、ここは信じるべきだろうな。

 俺の担当の、驚異的なまでの学習能力を。

 

 

 

 そうして、その瞬間。

 

「……良し」

 

 カチリと、スイッチが切り替わるように。

 あるいは、彼女の中の火種が、一気に燃え上がるように。

 

 彼女の走りが、明確に、変わった。

 

 

 







 担当の感覚を破壊した挙句、今度は出来レースで無理やり心に着火マンするトレーナーがいるらしい。とんだ悪徳野郎だな!
 まぁ勝てば官軍負ければ賊軍って言うしね……。

 ブルボン強化フラグもピコーンしたということで、次回からはちょっと時間が飛んで日本ダービーに入ります。
 ……本当はこの辺りでブルボンのつよつよお尻について言及したいんですけど、一歩間違うとイメージを著しく損なう表現になりかねないのが怖すぎる。許して……。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、日本ダービー前編。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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ホースマンズ・ドリーム

 ウマ娘やってるとダービーのこと軽視しやすくなりがち問題。
 あらゆる競馬関係者にとっての夢の舞台なんだよなぁ……。





 

 

 

『早いもので5月も末、梅雨の迫る本日東京レース場で開催されるのは、すべてのウマ娘が目指す頂点、日本ダービー!

 クラシックレースの2戦目であり年に一度の夢の舞台。今日新たに歴史に蹄跡を残すのは、18人の内の誰になるのか!』

 

 

 

 ターフを眺める私たちの元まで、実況の言葉が響く。

 

 トゥインクルシリーズのG1レース、日本ダービー。

 去年これを制した私ではあるけど、実のところ、当時の私はこのレースが持つ意味を理解してはいなかった。

 

 まだお父さんの言葉に囚われた私が興味を持ってたのは、レースで敗北しないことと、一緒に走る相手。

 ぶっちゃけ強敵が出て来るのならオープンレースだろうが大歓迎だったし、逆に強敵がいないのならG1レースだろうがお断り、と思ってたのが実情だったんだよね。

 

 勿論、今はそうじゃない。

 あの宝塚記念で自分の世界を確立して以来、私の視界には、ファンのキラキラした目が入って来るようになった。

 格が高い、難しい、強敵揃いのレースに出てほしい。そうして勝ってほしいと、どこまでも貪欲に、どこまでも純粋に望む目が。

 

 今の私は、それに応えたいと望んでる。

 力を貸してくれるファンに、結果と言う形でお返しをしたいと。

 だからこそ、今年に入ってからのホシノウィルムの目標は「できるだけたくさんのG1レースに出ること」、そして「凱旋門賞に勝つこと」の2つになったわけだ。

 

 

 

 ……で。

 そんな風に、ファンのことも見ることができるようになったからこそ、気付けることもある。

 

 それが、日本ダービーというレースの、一種異様なまでの盛り上がり方だ。

 

 

 

 早いものでもう1年の折り返しが迫る、5月末日のこと。

 トゥインクルシリーズで使われるメジャーなレース場の1つ、東京レース場。

 そこには、実に20万人近い人間とウマ娘が集まっていた。

 

 当然ながら、一般に開放されている区画にはとんでもない人だかりができており、ちょっと湿気を感じるくらいの熱気がそこら中に充満している。

 それでも誰もが笑顔でレースを楽しみにしている辺り、まさしく年に数回しかない祭典といった風。

 元オタクの私的には、ちょっとだけ馴染みのある雰囲気だ。

 

「うーん、盛況ですねぇ」

 

 思わずぼんやり呟いた私の言葉に、横を歩いていた歩さんが苦笑し、昌さんは眉をひそめた。

 

「え、なんですかこの感じ。私また何か言っちゃいました?」

「言っておくが、君とテイオーのダービーこそ、最も人を集めたダービーだぞ。

 前年アイネスフウジンの19万6千人を越え、今のところ史上唯一20万人を集めたレース。入場者数の世界レコードだ」

「そうだったんですか!?」

 

 マジか。これより多かったのか。

 それは……みんな大丈夫だったかな。熱中症とか脱水症とかならなかった?

 

 ていうか、世界レコード? そんなに注目されてたんだなぁ。

 確かに、今の私は控えめに言って日本で一番人気のあるウマ娘な自負はあるけど、対して当時の私って結構アレな子だったと思うんだけどね。

 

「なんでそんな人が多かったんですかね? 皐月賞でテイオー千切っちゃったから?」

「要因を1つに絞るのは難しいが……本来逃げウマ娘に不利なダービーでアイネスフウジンが伝説的勝利を収めた翌年、皐月賞でテイオーを破った君の活躍が期待された、というのもあるだろうな」

 

 なるほどね。

 レースの王道の勝ち方は、やはり差し切り勝ち。

 しかし、あるいはだからこそだろうか。ハナを切って走り出す逃げは、とても目立つが活躍しにくいレースの花形であり、その活躍を望む声も多い、ってことか。

 

 特にアイネス先輩の当時の人気ってすごかったらしいし、それに乗っかった形で私も人気が出たわけだ。

 今思うと、確かにテイオーのライバルから1人の競走ウマ娘へと、私の外からの評価がガラッと変わったのはダービー出走くらいからだった気もする。

 うーん、役得と言おうか棚ぼたと言おうか。先輩にはちょっと申し訳ないな。

 

 

 

 顎に手を当てそんなことを考えていると、昌さんはちょっとしらっとした視線を向けてくる。

 

「ホシノウィルムさんって、時々ちょっと、なんというか、抜けてますよね」

「ま、まぁ……ちょっと去年は色々あって、お客さんにまで気を回している余裕がなかったというか」

 

 当時のことを掘り返されるのは、恥ずかしい。

 あの時はまだまだ心身ともに未完成で、領域すら習得してない中途半端な走りを披露しちゃったわけだし。

 

 まぁ、過去は全部未熟な黒歴史と言えばそれはそうなんだけどね。

 多分今の私も、1年後の私から見るとめちゃくちゃ酷い走りをしてるって見られるんだろうし、2年後は1年後の私にそう言うだろう。

 恥の多い人生を送って来たどころか、恥の塊みたいな人生を送ってるのが私なのである。

 

 

 

 私は過去の恥を誤魔化すように、ぎゅうぎゅう詰めになるレベルで集まっているファンを眺めた。

 

「でもやっぱり、レースの当事者として見るのと、客観的に見るとでは全然違いますよ。

 日本ダービー……こんなに注目される、すごいレースだったんですねぇ」

 

 20万人近い人たちが、今から行われるレースを見に来てる。

 これは、本当にすごいことだ。

 

 だってそうでしょ。

 色んな趣味、色んな題材を持ち寄るコミケですら、来場者数は多くても1日平均20万人だったと思う。

 

 でもダービーでは、それと同じ人数が、たった1つのレース、たった1つの題材のために集まるんだ。

 改めて、この世界の「ウマ娘のレース」というコンテンツの強さと人気を感じるよ。

 そりゃ国民的スポーツって呼ばれるわけだよね。

 

「やっぱりトゥインクルシリーズって人気があるんですね。再認しました」

 

 感心して頷いている私の横で、昌さんは額に手を当て、歩さんはまた苦笑している。

 

「……この子、自分がその人気を爆発させてるって自覚はあるのかな」

「ないよ。ウィルはそういうの無頓着な子だからさ」

「ファン相手にはサービス精神旺盛なんだけど……プロ意識が高いのか低いのかよくわからないよね」

「プロ意識は高い。ただ自分の興味ないことにはとことん視線が向かないとこあるんだよね」

「あー、勉強とか」

「毎回赤点スレスレラインで冷や冷やするよね……」

「あのーすみません、そういうのって本人の聞いてないところで言ってもらえますか。流石にちょっと申し訳なくなってくるので」

 

 本当にすみません。特に勉強はすっごくすみません。

 これウマ娘共通の問題だと思うんですけど、机に座ってるとついつい走りに意識が流れて、全然集中できないんです……。

 気付けば体は競走を求めてグラウンドに走り出しちゃうんですよ……。

 

 いやでも、真面目な話、無敗三冠ウマ娘が赤点で落第とかスキャンダルって次元じゃない。

 次回のテストからは、もうちょっと頑張らなきゃな。

 

 取り敢えずはこのレース見て、ブルボンちゃんをしっかり祝って、ぐっすり寝て、明日から頑張ろう。

 一旦体調を整えて、万全の状態からスタートするのがスマートな選択というヤツである。 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 と、いつの間にか話が逸れてしまった。

 私の話じゃなくて、今はダービーの話ね。

 

 一応、事実として知ってはいた。

 日本ダービーは、特別なレースだ。

 

 海外から刺客が来るジャパンカップや年末の大一番である有記念に規模こそ劣ってしまっているけれど、来場者数は未だ全レースで最大。

 恐らく「国内で最も大きなレース」と言われれば、これを挙げる人も多いことだろう。

 

 クラシック級5月という絶妙な時期に、2400メートルというメジャーな距離で競われるそれは、「最も運の良いウマ娘が勝つ」という風評に反し、かなり実力の要素が大きく出るレースだ。

 特に最終直線が長いことが大きくて、多少展開が悪くとも、後方のウマ娘が追い上げられるだけの余地がある。

 そのため誰しもが活躍するチャンスを持ち、だからこそシンプルな実力のぶつかり合いになりやすい、というわけだね。

 

 クラシック三冠全体を中・長距離の世代最強を決める戦いであるとするのなら、ダービーは世代の主人公を決める戦い。

 そう言っていいくらいの、高い格と適度な条件の揃ったG1レースなのである。

 

 

 

 ……けど、そうやって条件が平等に近くなったことによる弊害もまたあるわけで。

 

「クラシックレース2つ目の冠、日本ダービー。このレースは、逃げウマ娘に不利だ」

 

 人差し指を立てて解説を始めた歩さんの言葉が、まさしく私の真意を代弁してくれた。

 

「本来……まぁ、他を大きく千切ったり叩き合いや差し返しをしたりするどこかの大逃げウマ娘を例外としての話だが、逃げウマ娘の勝ち方の王道は『逃げ切り』だ」

 

 ……一体誰のことなんだ、って茶化すような空気でもないかな。

 ひとまず今はスルーしましょう。後でちょっとぷんすこするけど。

 

「最初からハイスピードを出す関係上、逃げウマ娘の終盤の速度はどうしても後方のウマ娘たちに劣る。

 そのため、他のウマ娘との位置関係や自分の残存スタミナを考え、後ろの子たちが出して来るトップスピードから逃げ切れるだけのリードを最終直線までにキープしておく、というのが必須になるわけだ」

 

 歩さんの口から語られるのは、確かに私には縁遠い世界の話だ。

 私はトレーナーの指示通りにズバーンと抜け出てそのまま走って、最後に叩き合って抜かせない……いわゆる「逃げて差す」、あるいは「大逃げして追い込む」ってのが基本戦術だしね。

 レース中に色々考えて調整するのは、それこそ第3コーナー以降の「アニメ転生」使用中くらいだ。

 

 あくまで想像だけど、序盤からスタミナだの残存距離だの考えて走るのは、なかなかに骨が折れそうだ。

 みんな頭使ってレースしてるんだなー。すごいや。

 ……もしかして、ただ私がバ鹿なだけか? 一応歩さんの指導で、戦略眼は鍛えてるつもりなんですが。

 

 

 

 懊悩する私の横で、歩さんは無表情でレース場を見ながら話を続ける。

 

「しかし、この日本ダービー……と言うより東京レース場では、逃げ切りは難しい。全レース場でもトップクラスに長い、525メートルの最終直線があるからだ。

 どんなに優れたウマ娘であろうと、コーナー内で速度を出しすぎれば遠心力に弾かれてしまうため、トップスピードまでは出せない。

 だが直線に入ったら話は別だ。故にこそ最終直線が長いということは即ち、先行・差し・追込のウマ娘が脚を残すことが少なくなる……つまりは全力を出すことができることを意味する。

 相対的に、後半に全速力を出せない逃げウマ娘は不利になる、というわけだ」

 

 この部分はすごくわかる。

 私も去年、ダービーの長すぎ直線とテイオーのとんでも末脚に苦しめられた。

 ていうか、なんならホシノウィルムが完全に追い抜かれたのって、多分あのダービーのテイオーと有記念スズカさん+スペ先輩だけだからね。

 逃げウマ娘にとっての525メートルという距離の厳しさは、もはや語るに如かずといったところだ。

 

「客観的に見て、今回のダービーはミホノブルボンにとっての2つ目の試練となるだろう。

 中距離区間への適性を試された皐月賞に続いて、400メートルの距離延長と長い最終直線に対応し切れるかを測られる日本ダービー、といったところだな」

 

 

 

 歩さんはそこまで言ってふぅと息を吐き、さっき昌さんが買ってきてくれたジュースを口に含んだ。

 

 私たちの陣営では、レース前には歩さんによる解説と展開予想が語られるのが通例になっている。

 一応1か月くらい前の対策会議でも語られている内容ではあるんだけど、自分のレースでもないと1か月もすれば忘れてしまいがちだから助かるね。

 

 ……ちなみにこの解説、地味にネットで話題になってるんだよね。

 この前エゴサしてる時に知ったんだけど、ホシノウィルムのトレーナーがレース前に毎回そのレースの解説をしてるってことは既に知れ渡っており、レースの時にこの近くに陣取れるのはかなりのラッキー扱いされてる。

 歩さんの解析はかなり正確だし、その上私orブルボンちゃんのどちらかが近くにいるってことだしね。

 一般の方からすると、レース観戦としては垂涎の環境なのかもしれない。

 

 

 

 と、それはさておき。

 

「ライバルになりそうな子は、やっぱりライスちゃんですか?」

 

 私が訊くと、歩さんはきゅっと眉を寄せ、顎に手を当て考えるような表情。

 

「……そうだな。悔しいけど、ライスシャワーは強敵だ。

 皐月賞の時よりミホノブルボンとのステータス上の差は少しだけ埋まっているし、スタミナに限っては元より高かったのが更に上がっている。状態も非常に良好で、精神的にかなり仕上がっている状態だ。

 長い最終直線を考えても、間違いなく2着は彼女になるだろう」

「2着は、ですか」

「勝つのはミホノブルボンだからな」

 

 おぉ、歩さんにしてはちょっと珍しい、断言だ。

 

「その心は? 信頼ですか?」

「信頼半分、客観的予測半分、といったところ。

 実際のところ、何かしら事故を起こしたりしない限り、今回勝つのはあの子だよ」

 

 どうやら想像以上に高く評価されてるな、ブルボンちゃん。

 

 ……あぁ、違うか、これは。

 いや、ブルボンちゃんが高く評価されてるのは間違いないけど、多分歩さんが見ているのは別のポイントだ。

 

「もしかして、ライスちゃんって……」

「うん、まだ見えない(・・・・)。だから見えてる(・・・・)ブルボンには勝てないよ」

「途中で覚醒するパターンもあるんじゃないですか? 私もそうでしたし」

「あり得るね。でも、同条件ならブルボンが勝つよ。今回は張り合ってくる逃げウマ娘もいないし、彼女の敗北条件が揃っていない」

 

 堂々と断言する歩さんは、なんというか、少し珍しい感じ。

 ついこの前の大阪杯とか天皇賞の時なんて、「多分勝てるはずだ。恐らく。可能性としては勝てる方が高い。はず」みたいな、とんでもなく消極的な姿勢だったのに。

 

「……なんか歩さん、落ち着いてますね?」

「わかるか。いや、わかるよな、ずっと一緒にいた君なら。

 ま、これまでずっと苦しめられてきた要素を味方に付けることができたんだ、落ち着きもしようというものだろう」

「あぁ、なるほど」

 

 そう言う歩さんは、どことなく今の状況を楽しんでいるように見えた。

 

 でも、気持ちはわかるよ。

 歩さん、いつも領域に頭抱えてたもんね。

 それなのに、今回だけは領域をブルボンちゃんだけが覚えてる状態だ。いつもと違って完全にアドバンテージにできた状態。

 そりゃあちょっとばかり、落ち着きもでてくるってもんか。

 

 

 

 なんだか微笑ましい気持ちで歩さんを見てると、去年のことを知らない昌さんが歩さんに尋ねる。

 

「……えっと、これまでそんな酷かったの?」

「まぁ、クラシック級の頃から、テイオーに先を越されネイチャにも先を越され、シニア級に入ってもテイオーに2つ目を先に取られたり条件が合わなかったりと、なにかと領域とは相性が悪かったんだよね、俺。正直自尊心ボロボロになったよ当時は」

「そんなに……」

「いやぁ懐かしい。大変でしたねあの頃は」

 

 わざわざ昌さんに言う気はないけど、去年の今頃、歩さんめちゃくちゃ鬱かつ視野狭窄になってたもんなぁ。

 どう考えたって歩さん以上のトレーナーさんなんていないのに、もっと良い人を探すからトレーニング付けてもらえ、とか……あー思い出すだけでちょっとムカムカしてきた。

 

 土台領域なんて、厳しいトレーニングは前提として、上手く心と体が噛み合うタイミングが来なければ目覚めないものだ。

 それを身につけられないのはトレーナーとウマ娘2人の問題であって、トレーナー個人に責任がいくものじゃない。

 

 ブルボンちゃんの場合も、歩さんが方向性を示していくつかのレースでしっかりと身に馴染ませ、ブルボンちゃんが自分自身との向き合い方を見つけ出したからこそ習得できたのであって……。

 

 ……あれ。

 ていうか問題があったのって、もしかしなくとも私側では?

 歩さんが領域と相性が悪いというよりは、私が領域を身に付けるのが遅すぎたり条件が合わないレースに出ちゃったりしたのが悪いのでは?

 私、歩さんの心を支えるどころか、無駄にダメージ負わせちゃってないか。

 

 い、いや、2人で抱える問題だし? どっちが悪いとかないし?

 まぁ責任で言えば歩さん:私が2:8くらいになるかもしれないけど、それでも2人が悪かった、って感じだし?

 

 ……今度、歩さんの肩揉んであげよう。デスクワークで凝ってるだろうし。うん。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ちょっと申し訳なくなっている間に、私たちが見る本バ場に、いよいよウマ娘たちが入場し始める。

 

 実況解説は彼女たちについて、1人1人の詳細を丁寧に語っていくが……。

 やはり、彼女に焦点が当たると、周りのボルテージが一気に上がった。

 

 

 

『1番人気は当然この子、無敗の皐月賞覇者、7枠15番ミホノブルボン!

 血統的な距離限界を不安視されていた彼女ですが、先月の皐月賞では群を抜けた実力を示し、2バ身差の逃げ切り勝利を刻みました。

 正確無比にラップを刻む走りは、まさしくサイボーグの如し。栗毛の超特急は2つ目の冠を手にし、その夢へと近づくことができるのか!』

『これ以上ない仕上がり、周りのウマ娘とは一回り違いますね。これは期待できそうです。

 仮に彼女が1着を取れば、3年連続で逃げウマ娘の日本ダービー勝利となります。ダービーの常識と距離適性の常識、2つの壁を越えられるでしょうか?』

 

 

 

「7枠15番は……ちょっと美味しくないですよね」

「そうだな」

 

 ゲートインは基本的に、奇数の番号から入って行って、偶数の番号へと続く形。

 要は1番3番5番と始まり17番まで入った後、今度は2番4番6番と入って18番まで続くんだ。

 

 で、ゲートに長期間入っていると、結構個人差はあるけど、閉塞感とかレース前の緊張に当てられて、どうしても集中力が削がれる。

 なので、後から入る偶数番の内枠、2番とか4番辺りが一番好ましかったんだけど……。

 残念ながら、結果は真逆、奇数番な上に外枠だ。

 

「ブルボンちゃん、ゲートは結構苦手なタイプですよね。大丈夫でしょうか」

「問題ないはずだ。……多分」

「多分ですか」

「彼女の心のことは、彼女自身にしかわからないからな」

 

 そりゃそうだ。

 けど、歩さんが「問題ないはず」って言うってことは、何かしらの勝算があるってことだろう。

 

 本来は先輩たる私も、色々察して「そうですね」って後方腕組先輩面したかったんだけど……。

 最近はブルボンちゃんと分かれてトレーニングすること多くて、イマイチ彼女の変化を実感できてないんだよね。

 

 まぁ、今日のブルボンちゃんは皐月賞の時よりなんとなくドッシリしてるというか、強そうな気配はある。具体的には、なんかこうオーラっぽいモノを感じるレベル。

 「いやオーラって何だよ」って思われるかもしれないけど、あるんだよそういうのが。ちょっと近寄り辛くすら感じる、威圧感的なモノ。ウマ娘になってみればわかる。

 多分これ、歩さんが「覚醒」って呼んでるものに近いと思うんだけど……それはともかく。

 

 そういう、オーラみたいなのを出してる時のウマ娘は、強い。

 ダービーのテイオー、菊花賞のネイチャ、ジャパンカップのマックイーンさん。これまで何度も、私はそんなウマ娘たちに苦戦させられてきた。

 

 今回のブルボンちゃんも、良い走りを見せてくれそうだという予感がある。

 果たしてそれが現実になるかは、彼女の走り次第なのだけれど。

 

 

 

『2番人気はこの子、7枠13番ライスシャワー!

 皐月賞でただ1人ミホノブルボンのペースに追従し、2着を勝ち取ったことが評価された形ですね。

 この東京レース場でこそ、祝福の雨は降り注ぐのか? 彼女の奮闘にもご注目ください』

『ライスシャワーの魅力は、何と言ってもその長く使える末脚。皐月賞よりも400メートル延びた距離、そして500メートルの長い最終直線は、彼女にとって有利条件となるでしょう。ミホノブルボンを止めるのは彼女になるのか?』

 

 

 

 一方でライスちゃんは、まだオーラまでは纏ってないような感じ。

 ハードなトレーニングが故か、確かに今の彼女は、ブルボンちゃんのライバルと目されるくらいには強そうだ。

 

 ……だけど、心身共に、整い方はブルボンちゃんの方が更に上だろうね。

 あとはレース中の覚醒次第だけど……まぁ、難しいかなぁ。

 

 だってブルボンちゃん、去年のダービーの時のテイオーみたいな目をしてたし……。

 私自身、どちらに惹かれるかと言えば、ブルボンちゃんの方だ。

 

「今年の主人公はブルボンちゃんかな」

 

 私はボソリと、誰にも聞かれないくらいの声で呟いた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

『さぁ、今18番グレイトハウスがゲートに入って行きました。

 全18人のウマ娘たちのゲートインが完了。出走準備が整いました』

 

 

 

 そうして、始まる。

 

 東京レース場、芝の左回り2400メートル。

 天気は曇り、バ場は稍重、フルゲートの18人。

 

 年に1度、世代の中心を決める……。

 日本ダービーが。

 

 

 

『……スタート!!』

 

 

 







 僕はね、読者様。今回でダービーの描写に入りたかったんだ。
 でも、残念ながら尺は有限で、他の描写を書いていると続けるのが難しくなる。
 そんなこと、もっと早く気付けば良かった……。

 そんなわけで、お待たせして申し訳ない。次回いよいよレースが始まります。



 次回は3、4日後。夢に迫る者の視点で、日本ダービー後編と、自分との戦いの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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熱よ、力を!

 エルデンリングDLC、いつになるんだ……?





 

 

 

『さぁ、今18番グレイトハウスがゲートに入って行きました。

 これにて全18人のウマ娘たちのゲートインが完了。出走準備が整いました』

 

 

 

 アナウンスを聞きながら、再度のコンディションチェック。

 

 脚部、及び身体の状態、良好。

 精神状態(システム)、オールグリーン。

 走るという行為を取る上で、これ以上ない状態と言っていいでしょう。

 

 クラシックレース2つ目の冠、日本ダービー。

 父やマスターと共有する夢、クラシック三冠を成し遂げるためのレースの1つ。

 これに対し万全の状態で臨めることは、僥倖と言う他ありません。

 

 ハードなトレーニングに耐え得るだけの頑丈な体に生んでくれた両親。

 そして、私をここまで鍛え上げてくださったマスターのおかげで、私はここにいる。

 

 けれど、それに対して私は……。

 皐月賞では、マスターのオーダーを守ることができず。

 模擬レースでは、ソウリさんの存在に自らの熱を抑えることができず。

 ここに至るまで、何度も醜態を晒して来ました。

 

 父の娘であるウマ娘ミホノブルボンとしても、マスターの契約した競走ウマ娘ミホノブルボンとしても、これ以上の失敗は許されない。

 

 故に、必ずや勝たねばならないのです。

 

 父の子供として、マスターのウマ娘として……。

 そして、競走ウマ娘・ミホノブルボンとして、この名に相応しくなれるように。

 

 

 

 この戦い(・・)に、勝つ。

 

 

 

『……スタート!!』

 

 

 

 ゲートが開く瞬間、私は渾身の力で地面を蹴り跳ばしました。

 やや遅れて、ガタンという音と、ビュウと吹き抜ける風の流れを知覚。

 

 「コンセントレーション」及び「先手必勝」、「地固め」。

 マスターがそう呼ぶ3つの戦術は過不足なく成功し、私はバ群の中から一気に突出。

 100メートル弱の登り坂を一瞬で駆け上がり、前を向く私の視界から、他のウマ娘の存在は消え去りました。

 

 

 

『どっと飛び出したミホノブルボン好スタート! 徐々に内にコースを変えながらミホノブルボンハナを切ります。

 続くはライスシャワー、クレイジーインラヴ、ミニオーキッドが前に出る。そこにゴーイングノーブル、マチカネタンホイザ、えーナルキッソスにデザートベイビーという並びでしょうか』

『2400メートルは彼女たちにとって未知の距離、果たして逃げや先行ウマ娘はどのようにペースを作って行くのかに注目です』

 

 

 

 スタートは問題なく成功。

 対抗バは不在、独走の形を確認。

 フェーズ1をケース01で完了、続いてフェーズ2に移行します。

 

 脳内で自らの残存リソースと条件を整理、それらを元に今回のレースの最適なペースを算出。

 残存スタミナは89.62%。舞台は東京レース場、左回り、2400メートル、稍重、芝の状況良好。

 

 ……計算終了。

 この状況下における最適ペースは、秒速16.72メートル。

 

 フェーズ2では、可能な限りこのペースをキープすることがメインタスクとなります。

 ですが、私の体は常に完璧なペースキープをこなせる程、繊細な動きができるわけではない。

 故に、常に速度の計測と調整を行い、誤差が生まれる度に修正していく必要があります。

 

 とはいえ演算と数字、行動の修正は、私の得意とするところ。

 これまでに何度も訓練してきたこともあり、今更失敗することなどあり得ない。

 

 ……故に、フェーズ2で失敗することがあるとすれば、それは内的要因ではなく、外的要因によるもの。

 競合する程の逃げウマ娘の存在しない今、もしもそれが発生するとすれば……。

 

 私の背後を追う、ライスシャワーさんによるものでしょう。

 

 

 

『位置争いが落ち着いたところで1コーナー回り終わりました、2コーナーカーブに向かうところで早くも抜けましたミホノブルボン! リードは4バ身余り広がっています。

 番手争いは内にミニオーキッド外にソワソワ、間を縫うようにライスシャワーが一歩前に出ているか?』

『外枠だった影響か、ミホノブルボンは快速の逃げを打っていますね。皐月賞の時と変わらない、あるいは更に速いペースでラップを刻んでいます』

 

 

 

 棘のように背に刺さる視線を、感知。

 決して外さぬと言わんばかりに突き刺さり、心胆を寒からしめる不気味な視線。

 

 その主を、今更間違えるはずもありません。

 2週間前の模擬レースでも向けられたそれは、ライスシャワーさんのもの。

 私を容赦なく追い抜かさんと、そして討ち負かさんとする、捕食者の瞳。

 

 チリ、と。

 心を凍らされるような、あるいは焼かれるような、不可思議な感覚。

 これまでに何度か味わった……私の中の熱が、暴れ出そうとする前兆。

 

 しかし……。

 

「……まだ」

 

 まだ、その熱に浮かされるには、早すぎる。

 

 

 

『さぁコーナー抜けて向こう正面に入りここで1000メートル地点を通過、通過タイムは59秒9、完全にミホノブルボンのペースですね』

『2年前のダービー覇者、アイネスフウジンよりもなおハイペース! 最後までこのペースを維持できるのか、そしてそれに最後まで喰らい付けるウマ娘は誰なのか!』

 

 

 

 ……マスターはいつか、私に仰いました。

 『ミホノブルボンの走りは、自分との戦いである』と。

 

 私は肉体的な刺激の吸収率において、他に類を見ない逸材であるとのことで。

 故に、ミホノブルボンという競走ウマ娘に単純なスペックで勝てる者は殆ど──少なくとも同世代には──存在しない。

 だからこそ、私の走りは他者との競走ではなく、自分との戦いなのだ、と。

 

 それを伺った当時は、私が正しくマスターのプランを実行すれば勝てるのだと、そう解釈しました。

 他に惑わされず、きちんとオーダーを達成することが勝利へ繋がる。

 寒門出身の逃げウマ娘、ホシノウィルム先輩を無敗の三冠に育て上げたマスターのプランに従えば、私は確実に勝利できるのだ、と。

 

 しかし、それは浅い理解でしかなかった。

 

 マスターの言葉の真意を理解したのは、2週間前のウィルム先輩との併走でのこと。

 その終盤に、私は悟ったのです。

 私が勝つべき相手は、ライスシャワーでも、ソウリクロスでも、クラシックレースでもない。

 

 この、胸の底から込み上げる熱。

 競走ウマ娘としての、己自身の本能こそが、真なる戦いの相手なのだと。

 

 

 

 ……しかし、この本能は容易く抑え込めるものではない。

 如何に気を付けようと、あるいはホシノウィルム先輩の気配に慣れようと、その獣性を完全に抑えることはできなかった。

 結果として、想像以上に好走したソウリさんの影に怯え、私は十全に走ることができなかったのです。

 

 無理に抑え込もうとしても、暴発するのみ。

 しかし何もしなければ、それに踊らされてしまう。

 

 であればどうすべきか……。

 

 その答えは、ただ1つ。

 自らの内に潜む獣と折り合いを付けるべし。

 

 

 

『向こう正面を駆けて行きます18人の優駿、中団にはデザートベイビー、ナルキッソスはここでスルスルと上がって行った!

 最後方からはオリジナルシャインが睨みを利かせている、果たして追い上げは叶うのか?』

 

 

 

 フェーズ2、想定の範囲内で進行中。

 

 今回該当するのは、ケース01。

 ライスシャワーさんが番手を取り、レースを進める中で徐々にリードを詰めて来る、という仮定。

 マスターが想定した「最も確率の高いレース展開」であり、「最もミホノブルボンが追い詰められる可能性が高い未来」。

 それが今、現実となっている。

 

 マスター曰く、ライスシャワーの最大の強みは、その集中力。

 彼女の集中力は狭く深い、極めて指向性の高いもの。

 ただ1つの事象に対し極限まで集中し、どこまでもその1つと向き合い続ける。

 誰かを差し切る(刺し斬る)ことだけに特化したナイフのような在り方。

 それこそが、ライスシャワーというウマ娘の、唯一にして最強の武器である、とのこと。

 

 そんな彼女の取る戦術は、ただ1人の強敵をマークし、そのウマ娘の背を越えることだけに集中するというもの。

 複雑なことを考える必要などない。本来1着を取るウマ娘よりも前に出れば、それは即ち自分こそが1着を取ることになるのですから。

 

 ……そしてその戦法は、ミホノブルボンへの、極めて有効な対処法でもある。

 

 自らの熱をコントロールし切れず掛かってしまう私にとって、極端に強い意識を向けられることは、致命的な隙になり得る。

 本来17分割とは言わないまでも相応に振り分けられるはずの意識を一点に注がれてしまえば、私はそのウマ娘のことを意識せざるを得ない。

 そして一度他者を意識してしまえば、どうしてもこの胸の熱が疼いてしまうのですから。

 

 そういった意味において、ライスシャワーは正しく、ミホノブルボンの天敵と呼べる存在でしょう。

 

 

 

 ですが……。

 いいえ、だからこそ。

 

 私は、理解せねばならなかったのです。

 

 ミホノブルボンは、ライスシャワーと戦うわけではない。

 ミホノブルボンは、日本ダービーと戦うわけではない。

 

 ミホノブルボンは、ただ、自身と戦うのだと。

 

 

 

『さぁいよいよ3コーナーの下りに入っております、先頭は変わらずミホノブルボン。番手ライスシャワーとの距離はぐっと詰まってあと1バ身!

 ソワソワとマーメイドタバンも懸命に食い下がるが少し下がって1バ身、やはりこのハイペースに付いて行けるのは彼女しかいないのか!』

 

 

 

 ライスシャワーは、1着になるはずのウマ娘の背を越えれば勝てるのだと思い、ただ1人に意識を集中する道を選んだ。

 他のウマ娘や状況、バ群に向けるはずの集中力を、ただ1つに注ぎ込む。

 故に、自身がゴール板の前を駆け抜けるその瞬間まで、決して集中は乱れず、相手の背中を見失うことがない。

 

 他を捨て、一点に集中することで、本来以上のパフォーマンスを発揮する。

 それは1つの戦術、1つの真理なのでしょう。

 彼女が自身の気性と向き合い、トレーナーや先輩と共に編み出した、彼女独自の走りなのでしょう。

 

 ……であれば。

 彼女に、そして菊花賞に勝つためには、私もまた、それと同じだけのものを捨てる必要がある。

 

 そして、私が何を捨てるべきなのかは、マスターが既に教えてくださっていた。

 

 『ミホノブルボンの走りは、自分との戦い』であると。

 

 つまるところ……他のウマ娘を見る必要はない。

 状況を、バ群を、私以外の全てを、気にする必要はない。

 

 1着を取るはずのウマ娘の背を越えれば、自然と1着が取れるように……。

 ミホノブルボンが最高の走りをすれば、自然と1着が取れるのだと。

 

 マスターは、信頼してくださっているのです。

 私とマスターが設計し組み上げた、「ミホノブルボンの走り」を。

 

 ……その信頼に、今こそ、応える。

 

 

 

『後方にはクレイジーインラブ、デザートベイビー、ナルキッソスが第3集団を形成。そしてフルーツパルフェも中団やや前まで上がって来ました!

 大ケヤキを越え4コーナーへ、ここからが勝負所! 後方集団追い込みをかけられるか!?』

 

 

 

「……ふっ」

 

 小さく息を吐きながら、再度の計算を開始。

 スタミナのロス、想定より-1.6%。誤差圏内、プランの細部調整を実行。

 目標速度を秒速16.81メートルに再設定。速度の微調整、完了。

 

 後方からの圧は、なお強く。

 それはもはや無視できるレベルにはなく、私の内心で滾る熱は、爆発寸前に追い詰められていました。

 

 他のあらゆる条件に囚われず、私の走りを貫く。

 それこそがマスター、堀野歩トレーナーに見出された、ミホノブルボンの走り。

 

 けれどやはり、その最大の障害となるのが、掛かり癖。

 

 私は自らの獣性を、最後まで抑え込むことができない。

 この熱はいずれ爆発し、自身の脚を過剰に昂らせてしまう。

 

 これは、避けられないことなのでしょう。

 何故なら、きっとその「熱」こそが、ミホノブルボンというウマ娘の本質の1つであるが故に。

 

 

 

 ……ウィルム先輩との併走の直後、マスターに言われた言葉を想起。

 

『自分を否定するな。その「熱」は決して悪いものじゃない。

 今の君に必要なのは、熱を排除することじゃない。それを自分の力として使いこなすことだ。

 ……とは言っても、君は既に、その感覚を掴んだのかもしれないが』

 

 いいえ、マスター。

 私にとって、感覚とは不確定の変数。

 それらは定義付けされ、確かな名前を頂いて、初めて意味を成す。

 

 マスターが教えてくださるからこそ、私は私を知ることができるのです。

 

『とにかく、自分の走りを乱すな。

 すぐさま先頭に立ち、残った距離、バ場、条件……そのコースにおける最適な速度を維持し続けろ。

 そうして……』

 

 自分の熱を、獣性を、飼いならして(・・・・・・)みせろ、と。

 

 マスターは、そう仰ったのです。

 

 

 

 私の熱は、抑え続けることはできない。

 けれど、本質的にこれは、「誰にも負けたくない、誰より速く走りたい」という本能的な衝動。

 であれば……。

 

 「誰よりも速く走るため」という動機で、熱の溢れ出るタイミングを遅らせる程度は、可能。

 

 

 

 視界には、最終コーナーで大きく曲がる曲線。

 後方のウマ娘たちがそうであるように、私もまた、ここではトップスピードを出すことはできない。

 

 故に。

 

「まだ……」

 

 まだ……まだあと、100メートル。

 

 この曲がった視界が直線的に是正される、その時まで耐えなければ。

 

 マスターのオーダー通り、最終直線に入った瞬間に。

 この、胸の中に吹き荒れる熱を……。

 

 

 

『ミホノブルボンのリードは1バ身、ライスシャワーが2番手! 3番手グレイトハウスまでは2バ身余り、大歓声が轟く中勝負は最終直線に持ち越された!!

 525メートルの長い長い直線、果たしてミホノブルボンは逃げ切れるか──!?』

 

 

 

 ……その熱を、推進力へと、変換する。

 

 ライバルに、レースに……。

 そして何よりも、自分自身に勝つために。

 

 

 

 右脚が、芝の揃う大地を捉える。

 強く、強く、今までにない程に強く、大地を蹴った私は……。

 

 そこにあった()を、呆気なく破ることができたのでした。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 何1つとして見えはしない、光源のない暗闇の中で。

 

「起動」

 

 私の口からは、自然とその言葉が漏れ出しました。

 

 それは、競走ウマ娘ミホノブルボンが勝負を決めに行くという宣告。

 あるいは、自らの中にある熱を使うという宣言。

 

 言葉に応じるように、青い照明が薄く周りを照らし、ここが宙へと飛び立つための滑走路であることを明かします。

 とはいえその照明は暗く、全てを伺うには不完全な薄暗闇。

 

 しかし、今はそれが心良い。

 

 私は、セイウンスカイ先輩やナイスネイチャ先輩のような、柔軟な演算回路を持っているわけではない。

 どこまでも愚直に、目の前のタスクに注力することしかできない。

 

 故に、自分1人しか見えないこの暗闇こそが、周りのことなど考えなくて良いこの空間こそが、ミホノブルボンにとって最適な環境なのです。

 

 

 

「リミッター解除」

 

 次のキーワードを口にすると同時、全身に熱が巡りました。

 私がこれまで、幾度となく苦しめられてきた熱が。

 

 しかし……その獣性を、私は飼い慣らす。

 致命的な破綻にすらなり得るその熱を……私の力として、使いこなしてみせる。

 

「セット」

 

 新規動力の適用を開始。

 既存動力と併せた最適化及び再計算、そして走りの換装を開始。

 

 腰部安定化パーツ、推進機として再形成。

 脚部装甲を展開、排熱を開始。

 

 ……最適化、及び再計算、完了。

 目標速度を秒速17.26メートルへ更新。

 

 行ける。

 今なら、誰よりも先へ。

 

「オールグリーン」

 

 心の底から湧き出る熱を、純粋な推力へと変換。

 

 エネルギーパイプ(血流)、圧力最大。

 緊急弁(痛覚)閉鎖、リミッター(速度制限)解除。

 タービン(筋力)全開、ブースター(脚力)増加。

 

 発艦準備、完了。

 

 

 

「……ミホノブルボン、始動!」

 

 

 

 滑走路を駆け、加速を開始。

 踏み出す一歩ごとに、前へ前へと加速していき……。

 いつしか空を駆けるような速さになり、私の体は滑走路から飛び出しました。

 

 そこで見えたのは、いつか見たウィルム先輩のそれと近い、星の瞬く宇宙空間。

 

 しかし、それが持つ意味合いは、先輩のものとは大きく異なる。

 

 ここは、冷たい空っぽの宙を星々が照らす内在世界ではなく……。

 空気抵抗も最果てもない、どこまでも一定の速度で飛んで行ける、私の飛行場。

 

 この中ならば、私は……。

 どこまででも、誰よりも速く、走れる。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 言語化の難しい、奇妙な感覚でした。

 私の視界にあるのは、当然ながら、東京レース場のターフ。

 しかしそれと同時、まるでまぶたの裏に焼き付いているかのように、「私の世界」が見える。

 そして私自身、そのどちらにいるかわからない……いいえ、両方に同時に存在しているように感じる。

 

 これが、領域。

 競走ウマ娘の、次のステージ。

 

 まるで現実というレイヤーの上に、自らの内的世界を重ねるような状態。

 確かにこの世界でならば、普段以上の走りをすることもできるでしょう。

 何故なら……領域とは即ち、自らが走るのに最適化された、自分だけの世界なのだから。

 

 そしてその領域を開き動かす燃料こそが、「熱」。

 私たち競走ウマ娘の闘争本能、勝利を望む純粋な想い。

 

 ……なるほど、マスターとウィルム先輩が「熱を消す方法」ではなく「熱との付き合い方」と表現されていた理由が理解できました。

 

 この熱がなければ、ウマ娘は次の段階へと進めない。

 「勝ちたい」という欲望がなければ、私たちは前へと走れないのですから。

 

 

 

 そして、私は今……。

 

 その段階を、1つ、進んだ。

 

 

 

『ミホノブルボン先頭! ミホノブルボン先頭のまま400を切りました! ここからは未知の世界!

 長い直線の中、しかしそれでもなおミホノブルボン健在!! 内からミニオーキッド、外の方からレベレントがやってきた! 中からライスシャワーも懸命に粘るがしかし、それでもなお2バ身から3バ身と差は開くばかりだ!!』

 

 

 

 想定の、遥か上を行くパフォーマンス。

 

 感覚する脚の重量は、普段の3分の1未満。

 踏みしめる芝の感触には痛みも不快感もなく、ただ充足感と快感だけが心を満たす。

 痛んでいた肺も歪んでいた視界も、今このひと時だけは気にはならない。

 

 

 

 この透き通った世界の中で走ることが、誰よりも速くゴールを目指せることが……。

 

 ……この上なく、心地良い!

 

 

 

 更なる熱が、心を舐める。

 もっと速くと、ミホノブルボンの魂が求めている。

 

 ……行ける。

 まだ、もっと速く、走れる。

 

 再計算開始。

 目標速度をアップデート。

 新規目標、秒速17.61メートル。加速を開始。

 

 流れる風が頬を切る。

 澄んだ視線の先には、広大に続く芝と、どこまでも広がる宙。

 クリアな思考はただ、最も早くゴールすることだけを考えて。

 

 

 

 ……あぁ。

 

 マスターのオーダー通り、私は今、自らとのみ戦えている。

 熱という獣性を飼い慣らし、最適かつ最速の速度を目指している。

 

 

 

 であれば、マスターの言う通り……。

 

 ミホノブルボンが、敗北するはずがない。

 

 

 

『ミホノブルボン更に引き離す!! 3バ身から4バ身、未だそのペースは衰えを知らない!!

 これはもはや決まったか、決して詰められないセーフティリード!!

 もう大丈夫だミホノブルボン、4バ身程の差を付けて2400を逃げ切りゴールインッ!!』

『6戦6勝、去年のホシノウィルムに続いて、またもや無敗の二冠バが誕生!! 血統による距離適性、そして東京ダービーの長い直線という大きな壁を越え、その圧倒的と言う他ない力を示しました!

 そして同時、アイネスフウジン、ホシノウィルム、そしてミホノブルボンと、3年連続で逃げウマ娘がダービー制覇! 今新たなる伝説が更新されています!!

 そしてその伝説は秋の京都へと引き継がれていく! 2年連続の無敗の三冠バというビッグドリームに期待が高まりますね!』

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ゴール板の前を踏みしめると共に、脚から力が抜けるような感覚。

 

 私の身に残った力は、ほぼ全て使い果たしました。

 誤差は、0.02%。

 スタミナの分配と速度の調整は、成功したと言っていいでしょう。

 

 スローダウンしながら、私は努めてゆっくりと息を吐きました。

 

「ふぅ……」

 

 まぶたを閉じて、思考を巡らせます。

 

 皐月賞の時のように、マスターのプランを破ってしまい、辛うじて勝ったわけでもない。

 かと言って前回の模擬レースのように、熱を使い損ねて暴走してしまったわけでもない。

 

 マスターのプランを遵守した上での、完全な勝利。

 ミホノブルボンというウマ娘の、強さの証明。

 

 ようやく……。

 ようやく、父とマスターに捧げられる勝利ができた。

 ようやく、私はあの人の娘であり、マスターのウマ娘なのだと、誰にでも堂々と言える。

 

 ……本当に、良かった。

 

 

 

 そして、この日本ダービーの勝利が意味するところは、もう1つ。

 

「あと1勝で、目標達成……」

 

 私の目標は、クラシック三冠の達成。

 そのために勝利せねばならないレースは、皐月賞、日本ダービー、菊花賞の3つ。

 

 残ったのは、菊花賞。

 秋に開催される、クラシックロード最後のG1レース。

 

 舞台は京都レース場、右外回り、3000メートル。

 血統的には短距離・マイル向きであるミホノブルボンにとって、クラシック級で挑む中では最も適性のない、不利になるだろうレース。

 

 しかし、これに勝てば、私はようやくクラシック三冠という夢を叶えることができる。

 父とマスターと共に見る唯一の夢を、叶えることができるのです。

 

 

 

 ……けれど、そこには、きっと壁が立ち塞がるでしょう。

 小さな、けれど途轍もなく大きな壁が。

 

「ブルボンさん」

 

 背後からかけられた声に、私は振り向きました。

 

 その先にいたのは、2400メートルというレースを走ってなお肩の1つも揺らしてはいない、小柄な黒鹿毛のウマ娘。

 ……そして恐らくは、私にとって、最大のライバルとなるだろうウマ娘。

 

 ライスシャワー。

 マスターが認める、生粋のステイヤー。

 菊花賞における最大にして最強の障壁。

 

 レース中に常に私を強く意識し続けていた彼女は、しかし今もその様子を変えず。

 未だ勝負は終わっていないと言わんばかりに、こちらに鋭い……射殺すような視線を向けて来ていました。

 

 その瞳の奥には、煌々と燃え盛る炎。

 彼女もまた、私と同じく、その内に獣を飼っているのでしょう。

 

 ……あるいはそれは、獣と呼ぶにはあまりにも無邪気さのない、底知れない冷たさを持っているようにも思えましたが。

 

 

 

「すごかったよ、ブルボンさん。日本ダービーでこそ勝つって思ってたのに……まさか、もう領域まで使ってくるとは思わなかったな。

 皐月賞でブルボンさんの限界は見たって思ってたけど、私とトレーナーさんの読みが甘かった。

 ブルボンさんのポテンシャルは、ずっとずっと高かったんだね」

 

 勝者への賞賛と、自責。

 しかし、それには1つ、決して頷き難い部分がある。

 

 故に私は頭を横に振り、彼女の言葉を否定しました。

 

「いいえ、私が強かったわけではありません。あなたが、強かったんです」

 

 その言葉に、ライスさんは眉をひそめました。

 4バ身の差を付けてレースを制した私が、2着のライスさんを評価することに、違和感を覚えたのかもしれません。

 

 ですが、私にとってはそれが事実なのです。

 

「ライスさんは、強かった。皐月賞でも、模擬レースでも、私を追い詰めてくださった。

 その苦戦が、あなたという強者の存在が、私をここまで高めてくれたのです」

「ライスが……?」

 

 

 

 ミホノブルボンの走りは、自身との戦い。

 究極的に、私は他者とレースをすることはない。

 

 けれど、競う相手もいないレースのために体を鍛えられる程に、私は無駄な行動を取ることはできないのです。

 私が自身に集中するのは、結局のところ、誰よりも速くゴールするための方法に過ぎない。

 ライスシャワーやソウリクロスのようなライバルがいるからこそ、私はどこまでも自分と向き合って走ることができるのです。

 

「『ライバルの、強敵の存在が、競走ウマ娘をより強くする』と……マスターのその言葉を、よく実感できました。

 ライスシャワー。あなたがいなければ、きっと私は領域を開くところまで行き着かなかった」

 

 どうすればライスシャワーに勝てるのか。

 どうすれば掛かり癖を解消できるのか。

 その問題点を見つけられたのも、それを解決しようと動けたのも……。

 そして何より、領域を開くための燃料を得られたのも。

 全ては彼女たち、ライバルのおかげだったのです。

 

 

 

 だからこそ……。

 

 この借りは、同じ形で返しましょう。

 

「ライス、菊花賞で待っています。そこでこそ、決着を付けましょう」

 

 私のその言葉に、ライスさんの瞳の奥の熱が高まることを感じました。

 冷たく青い炎が、ゆらりと……のように立ち昇る。

 

「うん。……次は、もっと強くなってくるからね」

 

 そう言う彼女は、もはやウマ娘と言うよりは、幽鬼(おに)とでも呼ぶべき様子で。

 

 きっと……いいえ、間違いなく。

 菊花賞は厳しい戦いになるだろうと、そう予感させられました。

 

 

 

 

 私にとって菊花賞での勝利は、必ず叶えるべき大願。

 しかし同時、彼女への借りを返せないままでは、きっと心残りができてしまうでしょう。

 

 だから、私は……。

 菊花賞で、全力のライスシャワーとぶつかり、勝つ。

 

 マスターのウマ娘として、必ずや成し遂げてみせます。

 

「負けませんよ……ライス」

「いいや、私が勝つよ、ブルボンさん」

 

 私たちはそう言い合い、瞳の奥の熱を交感したのでした。

 

 

 







 ミホノブルボン
 『G00 1stF∞ Lv1』
 出遅れずに最終直線で前の方にいると速度が上がる、前方の順位をキープしていた場合はすごく上がる



 普通逃げウマ娘って最終直線までで稼いだリードを守り切る走りをするはずなんですけど、なんでこの子G1の最終直線でリード広げてるんですかね?
 この先輩にしてこの後輩ありって感じですね。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、不明な脅威の話。



(雑記)
 イクイノックス、もうここまで行くと「強すぎぃ……」という感想しか出て来ませんね。まさしく絶句というヤツです。
 G16連覇、獲得賞金最多おめでとう。有馬も無理しない程度にお願いします。

(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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お、丁度いいくらいの凱旋門賞があるじゃねぇか。こんな年の凱旋門賞ならウィルが獲れるぜ

 人はそれをフラグと呼ぶんだぜ





 

 

 

 大きな事故が発生することもなく、ブルボンの日本ダービーは無事終わった。

 結果はおおよそ想定通り、ライスシャワーに4バ身差付けての勝利だ。

 

 かなり大きく差を付けての勝利とはなったが、この結果は2着のライスシャワーが弱いことを示すわけじゃない。

 3着を取ったレベレントが、ライスから更に4バ身半遅れていることからしても、彼女がG1レースに勝ち得るだけの力を持っていることは見て取れる。

 

 では何故、こんなにも差が付いたかと言えば……。

 単純な話、ブルボンの走りがライスの想定の外にあったからだ。

 

 ライスシャワーは極端と言っていい程に高いスタミナと根性で、長距離すら余裕で走り切るステイヤー。

 しかし、あるいはだからこそだろうか、瞬間的な速度……つまりスピードの値だけを見ると、G1級ウマ娘として高水準ではなかったりするんだ。

 

 彼女の戦術はその不足をカバーするものでもあり、とにかく1着の子に注目し、自分の脚でもその子を差し切れるだけの距離感を保っている。

 つまるところ、俺の友人でもあるトレーナーと共に、マークしたウマ娘の大体の走りやタイムを解析し、それを元に走りのプランを立てているわけだ。

 

 だが、今回に限っては、ブルボンがその予想を大幅に裏切った。

 本来はそれまでと同じ速度で駆けるはずだった最終直線で領域に覚醒し、大幅に加速。

 スピードの面でブルボンに劣るライスシャワーは、そのとんでもないペースに付いて行くことができなかったというわけだ。

 

 要は俺も何度か食らった、不意の領域覚醒による想定外の失敗である。

 

 

 

 いつもしてやられていた領域で、今回はこちらが綺麗に勝ち切れた。

 それ自体は喜ばしいし、俺個人としても弱点を克服できたようで、ちょっと嬉しくはあるんだが……。

 

 それは同時に、彼女の持つ最大の鬼札を切ってしまったことも意味する。

 

「問題は、菊花賞だな」

 

 ウィルとブルボンのトレーニングを眺めながら、俺は独り言を呟く。

 

 そう、問題は菊花賞だ。

 俺の前世の世界の史実でもアプリでも、ブルボンは皐月賞と日本ダービーに勝利していたはず。

 つまるところ、俺がいなくとも、彼女はここまで勝つことはできたんだ。

 

 だからこそ、問題は菊花賞。

 前世世界において、彼女が勝つことのできなかったレース。

 

 ……彼女は俺を、自分のトレーナーとして選んでくれた。

 あなたが良いのだと、そう言ってくれた。

 そうして俺を信頼し、二人三脚でここまで一緒に歩んできてくれた。

 

 だからと言うわけではないが……いいや、やっぱりだからかな。

 私情を仕事に持ち込むのは、良いことではないかもしれないが……。

 そんな彼女だからこそ、彼女が本来勝てなかったはずのレースだろうと、勝たせてあげたいと思う。

 

 

 

 ただ、そこには俺が不在なトレーニング期間や、彼女の長距離適性が未だCであること、単純なスタミナの不足と、問題が山積みだ。

 

 実際今も、俺の視界の先では、担当2人の併走が行われているわけだが……。

 3000メートルと定めた距離の中で、ブルボンは2400メートル辺りから露骨にペースが落ちた。

 今回はいつもの算出した最適ペースでの走りではなく、俺が割り出した菊花賞の逃げ切り可能想定ペースで走らせたんだが……。

 やっぱり、今のブルボンにはまだまだ厳しいか。

 

 まぁ、スタミナの不足の方は、今のペースで想定通りに進めれば十分なんとかなるだろう。

 やはり最大の問題は適性不足。

 ステイヤーとして極まった素質を持つライスに、果たして抗えるかどうか……。

 

 

 

 と、そんなことを考えていると、唐突に横から声がかかった。

 

「確かにねぇ。ダービーは一見強い勝ち方してたけど、アレって領域で誤魔化しただけっぽいし。

 ……まぁ、去年ダービーで同じように領域で勝ちに行ったボクの言うことじゃないかもしれないけどさ」

 

 女性的と言うよりは中性的、ちょっと舌が回ってないような調子が特徴的な少女の声。

 

 俺が知る限り、それを発するのはただ1人だ。

 

「トウカイテイオー」

「こんにちは、ウィルムのトレーナー」

 

 ウィルのライバルであり、親しい友人でもある、トウカイテイオー。

 いつの間にか横に立っていた彼女は、ニコッと人当たりの良い笑顔を浮かべ、こちらに挨拶してきた。

 

 

 

 唐突なウィルのライバルの出現。

 驚いたかと言えば勿論驚いたが、それ以上に疑問が先立つ。

 

「こんにちは。今日はどうした? ウィルに何か用か」

「いや、別に用はないかな。強いて言えば、暇だったから?」

「なるほど、気まぐれに見に来たのか」

「まぁそんな感じかな~」

 

 テイオーは割と気分屋な子だ。

 先日のダービーを見てブルボンの様子が気になったのかもしれないし、あるいは単にふとウィルムの顔が脳裏に過ったのかもしれない。

 そんなこんなで、特に理由もなくトレーニングを見に来たらしい。

 

 ま、競走ウマ娘が友人のトレーニングを見学することは、決して珍しいわけじゃない。

 勿論そのトレーニングを公開している場合に限るけど、少なくとも今回は秘しているわけじゃないしな。

 

「そうか。ゆっくりしていけ」

「うんうん、歓迎するといいぞよ?」

 

 いや別に歓迎はしないけどね。

 俺の立場からすると、あくまでウィルと共に打ち倒すべきライバルだし。

 ……あと、個人的な都合にはなるけど、テイオーとはどうも相性が悪いんだよね。どうしてもちょっとばかり、苦手意識みたいなものは生まれてしまうわけで。

 

 

 

 表情に出そうになる苦笑を内心で押し殺していると、テイオーは2人の方に目をやりながら口を開いた。

 

「で、菊花賞が何だっけ?」

「何って……君の言う通り、ブルボンにとって菊花賞は本当の試練になるだろう、という話だ」

「まー、ブルボンってそもそも長距離向いてなさそうだもんね。中距離まではなんとかなりそうだけど、長距離となるとちゃんと走れるかは微妙な感じ」

「……ちなみに、なんでそう思う?」

「え? なんとなく?」

「そっか……」

 

 思わずため息が漏れる。

 それ自体は恐らく正しいだろう考えだけど、それを一切の理屈抜きで導いてるところが、もうね。

 

 これだから、天才は困る。

 ……いやまぁ、俺も「アプリ転生」とか前世知識も込みでブルボンを測ってるわけで、同類と言えば同類なのかもしれないが。

 

 

 

 これは、そこそこ研究して割り出した結論なんだけど……。

 「アプリ転生」で覗ける距離適性というのは、つまるところ、その距離におけるペースとスタミナの割り振りへの直感的センスだ。

 

 で、ミホノブルボンの長距離適性はC。

 ライスシャワーのAよりも、2段も劣ってしまっている。

 

 距離の適性が下がれば、競走ウマ娘はそのレース全体を通したペース感を見失う。

 つまり、どこでどの程度のペースを維持するべきか、どの程度脚を使うべきかわからなくなるわけだ。

 ブルボンは残った距離や自身のスタミナ等のデータから計算してペースを割り出すので、比較的この影響を受け辛いが……完全に受けないというわけではない。

 

 そして、ペース感が掴めない公式レースでは、傾向的に言って多くのウマ娘は慎重になりすぎてしまう。

 そうすればいつも通りの速度を出すことができず、結果的に脚を余してしまったりするわけだ。

 

 長距離適性がCのブルボンは、菊花賞では末脚自慢と言うわけではないライスと同レベルにまでスピードが落ちてしまうかもしれない。

 そうなれば、今回のダービーのように直線で引き離すことすらできず、スタミナ自慢であるライスにはどうやっても勝てなくなってしまう。

 

 これがブルボンの菊花賞における、最も難しい問題だった。

 

 

 

 テイオーも、直感的に距離適性問題の大きさを認識してるんだろう。

 2人の方から俺の方へと視線を移し、尋ねて来る。

 

「長距離に慣れさせるプランは順調?」

 

 うーん、こういうのは、あまり他に漏らすのはよろしくないんだが……。

 彼女はブルボンの直接的なライバルというわけでもないし、これを知られたとしても問題はないか。

 そもそも、適性の向上は知られたところで対処のしようもないしな。

 

「順調、と言えるかは、微妙なところだな」

「何その反応」

「当然試みてはいるが、菊花賞までに生粋のステイヤーレベルまで鍛え上げるのは難しいだろうからな。だから、順調かと言えば難しい」

 

 俺は去年から今年にかけて、ブルボンの中距離適性をBからAに、1段階向上させた。

 そこでの経験や積んだレーニングからの分析を元に判断すると、ウマ娘の距離適性を1段階伸ばすには、どれだけ短くとも半年はかかる、という結論が出たんだ。

 

 勿論、中距離の適性向上が終わると同時に、彼女のトレーニングメニューは長距離の適性を上げるためのものに切り替えてはいるが……。

 それでも、菊花賞までに上げられる適性は、恐らく1段階が限度。

 

 菊花賞に出走する際のブルボンの長距離適性は、ライスシャワーより1段劣る、Bが限界だろう。

 

 

 

「惜しいな。菊花賞が来年の4月辺りであれば、そこまで鍛え上げられたと思うんだが……」

 

 ブルボンを万全な状態で送り出せないことに、ちょっと悔しさを感じていると……。

 横に立つテイオーは、どこかジトッとした目を向けて来ていた。

 

「……いや、あのさ。自分が異常なこと言ってるってわかってる?

 血統的に向いてない子をステイヤーにするって、それ魔改造だよ? 普通、こんな短期間でできるものじゃないんだけど?」

「いや、多分そうでもないはずだぞ。サイレンススズカとかが良い例だ」

 

 サイレンススズカ。

 今はドリームトロフィーリーグに所属する、異次元の逃亡者の名で知られる大逃げウマ娘だ。

 

 本来、彼女はマイルから中距離向けのウマ娘。

 彼女の長距離適性は、クラシック級の時点ではEだったはずなんだけど……去年の有記念の時にはBまで、つまりは3段階伸びていた。

 

 サイレンススズカの競走歴は、去年で6年目。

 とは言っても、今のトレーナーが付くまで、そして沈黙の日曜日の後の療養のために、彼女は相当の時間を取られている。

 総合的に、適性の向上に使えた時間はこの半分、3年と見るべきだろう。

 そして、3年で3つ分適性を上げたということは、平均1年に1つのペースで上がっているわけだ。

 

 で、サイレンススズカは、ブルボンのように殊更に長距離を目標とするウマ娘ではない。

 ……とはいえ、興味がないというわけでもないんだよな。先頭を走れるのならマイルだろうが中距離だろうが何でもいいってタイプだ。

 故に、恐らくは「ついでに長距離も走れるように」とトレーニングを積んでいった結果、適性が上がったのだろう。

 

 だが勿論、それは優先度の高い目標ではなかったはずだ。

 あくまでも「いつかは走れるようになれたらラッキー」程度のもので、だからこそ1年に1つのペースだったんじゃないだろうか。

 

 まぁ後半には結構考察とか妄想も入ってるけど、確かに言えることは1つ。

 「アプリ転生」のような特殊な力など持っていなくとも、トレーナーはウマ娘の適性を伸ばすことができる、ということだ。

 

 であれば、長距離を主眼に据えるブルボンと契約し、堀野の歴史が紡いで来た叡智と「アプリ転生」というチート(?)まで持っている俺は、その2倍の速度で適性を上げられるのも当然だろう。

 

 

 

 そう思った俺だったが……。

 横にいるテイオーは、柵にべたっと寄りかかりながら、どことなく怪訝そうな目を向けて来る。

 

「……あのさ、スズカ先輩の契約トレーナーが誰かわかって言ってる?」

「え? いや……まぁ概要は知ってはいるが、そこまで詳しくはないかな」

 

 この世界のスズカのトレーナーは女性で、目の前のテイオーのトレーナーと同じく、原則的に1人しか担当を持たない変わり者らしい。

 ただ、トレーナーとしての実力は確かで、特にウマ娘の秘めた力を見抜く観察眼は高く評価されているのだとか。

 

 ただ、これはスカイのトレーナーに聞いた話なんだが……。

 どうやら彼女は……なんというか、グローバルな自由人らしい。

 

 担当ウマ娘の脚や走りが日本のレースに向かないと判断すると、すぐに海外へと飛び出したり、なんなら拠点をそっちに移したりする。

 一応日本の中央トレセン所属ということにはなっているけど、1年に1月程度しか帰ってこないようなことすらある。

 本人はやはり故郷ということもあってか日本が好きらしいが、そんな拘り以上に担当が活躍できる状況を探してしまう人なのだとか。

 

 去年のトレーナー忘年会も、来年のレースの調整がどうとかで参加していなかったし、俺も殆ど話したことはない。

 その上、ルドルフのような化け物を担当したことはほぼなく、スズカ以前は良くてG2級のウマ娘を担当するのみ。

 だから、彼女のことは殊更詳しくはなかったのだが……。

 

 

 

 彼女のトレーナーから聞いたのか、どうやらテイオーはスズカのトレーナーについて、俺以上に知っているらしい。

 ピッと指を立てて、それを教えてくれた。

 

「あの人、ウマ娘を魔改造するプロだよ。ていうか殆どそれ専門?

 スズカ先輩を引き取ったのも、『自分ならスズカの走りをもっと良いものにできる』って思ったかららしいし……実際、それで大逃げさせたら成功したわけで」

「……あー、なるほど」

 

 確かに、思い返してみると……。

 彼女の過去の担当は皆、最初期には適性に合わない走りをしていたり、あるいはブルボンのように適性のない距離のレースを目指していた気がする。

 なるほど、彼女がウマ娘を選ぶ基準はその辺りにあるのかもしれない。

 

 実際、気持ちはわからないでもないね。

 何せ俺も、マイル距離を差しで走っていたウィルを見て「なんと勿体ない」と声をかけたわけだし。

 

 ……仮定の話をしても仕方ないけど、もしも彼女がスズカと契約しておらず、あの当時のウィルを見れば、あるいはスカウトしていたのかもしれないな。

 そうなれば当然、新人の俺より実績ある彼女の方が契約していたはずで……。

 

 ……いや、この想像はやめよう。

 なんか脳が破壊される予感がする。

 

 

 

 頭を振る俺を後目に、改めてテイオーは言ってきた。

 

「あの人が3年かけてやってることを1年でやるって、相当ヤバいと思うんだけど」

「……いや、サイレンススズカとミホノブルボンでは、生まれ持っての長距離適性に差があるからな」

「え、スズカ先輩ってかなりの良血だよね? 寒門な上短距離向けなブルボンの方が適性あるの?」

「それが突然変異ってヤツの恐ろしさだな……」

 

 スズカとブルボンは適性的には近く、どちらもマイルから中距離あたりで本領を発揮できるウマ娘だ。

 しかし、最初期の長距離の適性1つを取れば、良血のスズカはEで、寒門であるブルボンはC。ブルボンの方が2段階も上だったりする。

 

 やっぱこの世界、全然ブラッドスポーツじゃないな。

 突然変異、怖すぎる。2年連続で契約してる俺が言うことでもないかもしれないが。

 

 

 

 で、それともう1つ。

 

「それに、俺は特別すごいことをしてるわけじゃない。あくまでも俺に見える範囲の情報から、過去の範例を元に最適と思われるトレーニングを課してるだけだ。

 すごいとすれば俺じゃなく、その範例を見つけ出すに至った過去のトレーナーたちの努力だよ」

「ふーん……」

 

 テイオーは納得がいかなそうだが、こればっかりはな。

 

 

 

 道具がすごいのか、それを使う人がすごいのか。

 この間には、とても大きなギャップがある。

 

 例えば、パソコンを使って高度な計算をする。

 この程度のことは、少し勉強すれば誰にだってできる。使用者がやっているのは、ただ数字を打ち込むことだけなのだから。

 故にこの場合、すごいのは使用者ではなくパソコンの方である。

 

 しかし、例えばパソコンを使って、独創的でこれまでにない絵を描く。

 これは誰にでもはできない、その人だけが生むことのできる、唯一無二のものを生み出す行為。

 故にこの場合、すごいのはパソコンではなく使用者の方だ。

 

 で、俺がそのどちらに該当するかと言えば、前者。

 すごいのは「アプリ転生」というチート能力と、堀野がこれまでに培ってきた長い研鑽の歴史。

 俺はあくまでそれを使い、当然出るべき結果を収めているに過ぎない。

 

 

 

 俺はまだ、俺にしかできないことを成し遂げてない。

 

 ウィルの成し遂げた初のクラシック級ウマ娘の宝塚記念勝利だって、俺はスカイに策で負けた。ウィルの覚醒がなければ、あのレースはそのまま負けていただろう。

 G1最多勝の栄光も、ダービーや宝塚での醜態を考えれば、俺自身の功績とは言い辛い。「アプリ転生」と堀野の叡智、その二点を以てなお支えられなかったのだから。

 

 まぁ、この辺りは多少卑下は入っているかもしれないが……。

 転生特典を持っている(かもしれない)ウィルならば、それらは俺がいなくとも達成できたかもしれないとは思うんだよな。

 

 多分、俺が、自分のことを認められるようになるのは……ウィルと共に、空前絶後の領域に足を踏み入れた時になるんだろうな。

 長い歴史の前にも後ろにも、決してそのようなことは起こり得ないかもしれないこと。

 

 それこそ、凱旋門賞の優勝、とか。

 

 ……うん、流石にそこまで行けば認めざるをえまい。

 ウィル1人の努力ではここまでは来れなかった。

 俺とウィルだから来れたんだ、と。

 

 だから、ウィルのためにも、そして俺自身のためにも……。

 まずは目の前のことから、頑張らないとな。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……と、改めて内心で奮起していると。

 いくらかテンションが上がった声音で、テイオーが訊いてくる。

 

「で、ウィルの方はどうなの?」

「……そっちが本題か」

「別に本題とかないけど? ボクがここに来たのもなんとなくだし?」

 

 彼女は鼻歌でも歌いそうなわざとらしさで、ウィルたちの方に向き直る。

 

 いやまぁ、いいけどね。

 いくら訊かれたってウィルに不利になるようなことを言うつもりはないし、逆にウィルの不利にならない程度の情報なら隠す気はないし。

 

「宝塚記念か凱旋門賞、どっちのことが訊きたいんだ。その先のことは言えないぞ」

「まずはやっぱり宝塚記念かなぁ。今年も勝てそう?」

「……勝てる、はずだ」

「これまた微妙な返事だね」

 

 いや、レースの勝敗なんて、普通はそう断言できるものじゃないと思うんだけどね?

 その上、今回はちょっと不確定要素が大きいんだ。ちょっと断言していい領域にはない。

 

「なにせ、ハッピーミークが未知数だからな」

「ミーク先輩ねぇ……」

 

 そう、今回のライバルはハッピーミーク。

 黄金世代の最後の1人、遅咲きの白い大輪だ。

 

 

 

 今回の宝塚記念で警戒すべきウマ娘は、当然ながら複数いる。

 ウィルやマックイーンの出走した天皇賞で3着、次いで安田記念ではヤマニンゼファーに次ぐ2着と好走続きのユグドラバレー。

 去年の有記念の好走がまだ記憶に新しいダイサンゲン。

 そして最近、爆逃げコンビとして名を轟かせつつある、ネームドのメジロパーマーとダイタクヘリオス。

 

 しかし、その全員を越えてなお警戒すべきだと判断したのが、ハッピーミークだ。

 

 彼女のこれまでの戦績は、31戦11勝。G1レースに限れば4勝。

 この時点で類まれなる優駿ではあるが、彼女には更にとんでもない特徴がある。

 それが、「あらゆる距離のG1レースで勝利した」史上初のウマ娘だ、ということだ。

 

 俺は前世アプリの「ウマ娘 プリティダービー」を知っているし、彼女の距離適性が全てAであることも見えているのでまだわかるんだが、一般人にとっては彼女はとんでもない存在だ。

 それこそ無敗三冠を獲ったウィルと同じくらいに評価されてもおかしくない。

 

 

 

 ……おかしくない、はずなんだが。

 

「ハッピーミークは何故か話題に上がりにくいからな。データ集めもなかなか捗らない」

 

 そう。

 本来は史上初の快挙を成し遂げたウマ娘として人気になってもいいはずだが……。

 実際のところは、彼女は極めて人気が高いわけではないんだよな。

 

 恐らくその要因は、彼女が自己主張の少ないタイプなことと、それから……。

 

「ミーク先輩、戦績が極端だもんねぇ」

 

 テイオーが訳知り顔で語った通り、彼女の戦績が非常に安定しないことだ。

 

 ハッピーミークは、G1スプリンターズステークスで3バ身差で1着を取ったかと思えば、ほぼ同条件のG3オーシャンステークスで3着に敗れたりすることもある。

 そのレース内容も、すさまじく冴え渡るような完璧な差しを見せることもあれば、こう言ってはなんだが凡庸な先行を見せることもあったりする。

 

 とにかく、彼女には戦績にも走りにも、安定感というものが欠けているのだ。

 

 ……まぁ正直、これらの理由だけで全距離G1制覇が評価されないのは、ちょっとばかり違和感が残る。

 もしかしたら、彼女のウマソウル……というか、前世アプリのオリジナルウマ娘であり、本編に大きく絡むことのないライバルキャラという立ち位置が、何かしらイタズラしてる可能性もあるわけだが。

 

 

 

 それはともかく。

 今大事なのは、話題に上がりにくいからこそ、ミークの調査が難しいということだ。

 

「ハッピーミークの調子が上振れるタイミング、あるいは条件。それを明確に割り出すまでは、確実に勝つとは断言できない。勝ちたいとは思うがな」

「全然わかってないの? その条件ってヤツ」

「いや、9割5分は絞り込めてるが」

 

 言うと、テイオーはなんとも微妙な表情でこっちを見てくる。

 時々ウィルにも向けられる、ちょっとこっちを責めるような視線だ。

 

「……流石に慎重派すぎない?」

「いやいや、こんな確率信頼できるわけないだろう。5%で失敗するってことはつまり、5%で失敗するってことだぞ?」

「すごいや、前後で1つたりとも情報量が増えてない」

 

 いや実際、「失敗率5%」って言葉を信じられるか? という話ですよ。

 俺は前世、確率1%の失敗を踏んで育成に失敗した男。同じミスを繰り返したくはない。

 

 真面目な話、これが何度でも繰り返し試行できる前世アプリならともかく、俺はそんな可能性を踏ませて担当に怪我なんてさせたくはない。

 20回に1回失敗すると言っても、最初の1回でその確率を引き当てる可能性はあるんだ。

 「どのトレーニングに誰がいる」なんて運要素のないこの世界で、わざわざリスクを負う意味はない。

 

 

 

 と、ちょっと話が逸れてしまったけども。

 

 とにかく、ミークの調子が整う条件、その残った5%が完全に埋まるまで、確実に勝利できるとは言い辛いのが現状だ。

 ……まぁ、俺の推察が正しいとすれば、たとえ条件が判明しても対処できない可能性も高いんだが。

 

 そればっかりは……正直、俺1人では如何ともしがたい。

 精一杯対策を練った後は、ウィルに頼ることになるだろう。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 とまぁ、宝塚記念はそんなところで。

 俺たちの話題は、自然と次に移った。

 

「で、凱旋門賞は? 対策は万端?」

「むしろ万端なわけがないんだよなぁ……」

 

 テイオーの言葉に、俺は苦笑を漏らす。

 まぁ、彼女は特に海外遠征をのぞんでいるわけでもないし、その困難を知らなくても不思議ではないか。

 

「海外のレースは……特にヨーロッパ辺りのレースは、日本のそれとは全く条件が異なる。

 日本の芝は硬く反発力があるが、対してロンシャンの芝は反発力が低く、自分の体を蹴り上げるのによりパワーを要求される。

 コースの形状も、日本の楕円形のような形と違って平仮名の『つ』のような形だし、レース展開も日本に比べてローペース、ぶつかり合う競り合いも積極的に行われる。

 当然ながらファンの求める走りの形、理想的な勝ち方も変わるし、ウィルは語学がアレなので現地の言葉は喋れないだろうし、そもそも水や食事が馴染むかどうかだってわからない。

 他にも、8時間という大きな時差による生活リズムの乱れ、殆どの観客が自分のファンではないというこれまでにないアウェー感、日本のウマ娘は凱旋門賞に勝てないというジンクス……海外のレースに挑むとなると、壁になる要素は本当に多いんだ」

 

 半分は脳内で不利条件を整理するための言葉だったが、それを聞いたトウカイテイオーはぱちくりとまぶたを瞬かせる。

 

「お、おぅ……なんというか、海外遠征となると、すごいんだね」

「ああ。そして問題は、それらの殆どが、当地に赴いてから対策するしかないもの、ということだ。

 だからこそ、早い時期からフランスに向かって適応を進めたエルコンドルパサーは、本当に勝利の寸前まで踏み込めたわけで」

「で、どうするのそれ? ……って、宝塚記念が終わるまではどうしようもないのか」

「そうだな」

 

 精々できるのは、今のうちに仮住まいの状態を整えておくこと、使用する家具やアメニティ各種の搬入、当地の空気や水の調査、ウィルの食生活の管理と整理と調整。

 そして何より……海外ウマ娘の戦力調査だ。

 

 

 

「1つ幸いなことがあるとすれば、今年は海外のウマ娘の中に、これといった最強が存在しないことだ。

 今のところ最も脅威的なのはウィッチイブニングだろうが……彼女はこの春、どうやら調子を崩しているらしいしな」

 

 あまり前向きな話ではないが、強烈なライバルがいなければレースの勝利は容易くなる。

 そういう意味で、今年の凱旋門賞は狙い目と言っていいだろう。

 海外のウマ娘たちは何とも言い難い小粒な子が多く、それこそ目の前のテイオーのような化け物は見当たらない。

 

 とは言っても、海外のウマ娘はクラシック級の子でも、勢いがとんでもないからな。

 これから各国のダービーやオークスも始まるわけだし、駆け上がって来る子たちには警戒しなくてはならないが……。

 

 それでも、圧倒的に強いシニア級ウマ娘がいないだけ、頭痛の種は少ないと言っていいだろう。

 ウィルを越え得るようなクラシック級のウマ娘なんて、そうそういるものでもないだろうし。

 

 

 

 ……と、そう思ったんだが。

 

「どうかなぁ」

 

 俺の話を聞いたテイオーは、むしろ訝し気に首を傾げた。

 

「何がだ?」

「いや、今年の海外ウマ娘はそうでもないってトコ」

「少なくとも、俺が観測している範囲では、今のところ脅威的な子はいなかったはずだが……?」

 

 今年は他の日本ウマ娘の中に凱旋門賞出走の意思を見せた者はいなかったと思うが、誰か海外の強いウマ娘の心当たりでもあるんだろうか、と。

 そんな俺の予想を裏切り、彼女は……少し意地悪そうに笑う。

 

「あのさ、もしもウィルがいなかったらさ、ボクってここまで強くはならなかったんじゃないかなって思うんだよね。

 ネイチャもそうだし、多分ブルボンとかライスもそうでしょ?」

「まぁ……俺が認めるのもなんだが、その側面はあるかもしれないな」

「ね? ……ってことはさ、海外にもいるんじゃない? ウィルに火、点けられちゃった子」

「む」

 

 考えたくはないが、あり得る話だ。

 まぁ、遥か遠い島国のレースに注目し、それに感銘を受けるなんて、限りなく可能性の低い話ではあると思うが……。

 

 ウィルに火を点けられて覚醒した子がいる可能性は、決して否定できない。

 

「ちなみにそれは、何かしら確証のある話か?」

「いや、ただの直感だけど」

 

 テイオーの直感かぁ……。

 ある意味、確証よりも怖い言葉だぞ、それは。

 

 ……よし、もうちょっと細かく調べてみるか。

 これでウィルのライバルになり得る子を見落とした、なんてなったら……。

 俺だけにできることとか、そんなことを言ってられる状況でもなくなるしね。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そんなことを語っている内、ふとテイオーの視線が揺らいだ。

 

「ん……よし、そこそこ勉強になったし、そろそろお暇しようかな」

「勉強? え、君、そっちが目的だったのか?」

「色んなトレーナーの考え方とか勉強しといた方が得だからね! にっしっし、騙されて色々話してやんのー!」

 

 にやにや笑うテイオーだが……。

 むしろ、今回はこちらが色々教えてもらったような形だ。拒むようなことなどあり得ない。

 

「別にこの程度、いつでも話すよ。ウィルのレースが心配だったり俺の意見が聞きたかったらいつでも来るといい。

 それに、今回は俺も色々勉強になった。話に付き合ってくれてありがとう、トウカイテイオー」

「えー、普通そこで感謝とかする? そこは悔しがってよー……っと、やば」

 

 やば?

 

 テイオーは首を傾げる俺の背後を見て、耳と尻尾をピンと立て、「それじゃ!」と言ってすたこら走って行ってしまった。

 どうしたんだろうと思いつつ、改めて担当たちの方に視線を向けようとした時……。

 

 俺はそこでようやく、ゾクリと背筋を凍らせる、背後の威圧感に気付いた。

 

 

 

 

 

 

「歩さん……なんだか、テイオーと楽しそうにお話されてましたね?」

 

 

 

 

 

 

 ……お、俺、別に悪いことしてないはずなんだけどなぁ……。

 

 

 







 この後めちゃくちゃ拗ねられた。

 そんなわけで情報整理回でした。
 ブルボンの方はしっかりした壁と対処法があるけど、ウィルの方はミークパイセンの力の詳細もわからなきゃ凱旋門賞で誰が来るかもわからない状態ですね。
 めちゃくちゃ綺麗に明暗分かれたな……。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、学生としての本分の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!

(雑記)
 イクイノックス、間違いなく世界最強馬でした。
 たくさんの感動をありがとう。


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わたしは勉強ができない

 ここらで日常回をひとつまみ。





 

 

 

 ホシノウィルム。

 この言葉を、インターネット上のてきとうなプラットフォームやSNSの検索欄に打ち込むと、大体こんな感じのサジェストが出る。

 

『ホシノウィルム 強い』

『ホシノウィルム なぜ』

『ホシノウィルム かわいい』

『ホシノウィルム 爆死』

『ホシノウィルム 長距離』

 

 ……うん。

 これを見れば、私がみんなにどう思われてるか、大体わかるってものだ。

 

 

 

 「強い」とか「長距離」は、そのまま競走ウマ娘ホシノウィルムの評価。

 自慢じゃないけど私は結構な高評価をいただいてるし、特に長距離には強いからね。

 まぁ唯一の負け戦も長距離だったんだけど……アレは歩さんがいなかった上にスズカさんスペ先輩の連戦がキツかっただけだし。

 

 「なぜ」は多分、レースに詳しい人が検索した結果なんじゃないかな。

 クラシック級で宝塚記念に勝つとか、逃げで三冠を獲るとかは、私が現れるまではほぼ無理だって言われてたらしい。

 そんなレースを勝ち上がってきたからこそ、私は今「不可能を覆す新たな神話」なんてカッコ良いあだ名をいただいている。

 そんなわけで、これは「何故そんなことができるのか」あるいは「何故寒門のウマ娘がここまで上がって来れたのか」ってところだろう。多分。

 

 「爆死」は……おい誰だこれ検索したの。

 いや誰っていうかたくさんの人が検索したから出て来てるんだろうけどさ、ちょっと私のイメージ歪んでませんかね。

 いや、そりゃあさ? ウマッターに時々ガチャの爆死画像とか投稿するよ? だってそうでもしないと無為に散った私の石が浮かばれないもの。

 でもさ、アスリート兼アイドルに対してこの扱いて。みんな私のこと芸人だと思ってません?

 

 ……最後のはなんとも微妙な評価だったけど、まぁ今は置いておこう。

 こういうのは本人が言ったところでどうにかなるものでもないし。

 

 

 

 サジェストにはその後「トレーナー」とか「恋人」とか「炎上」とか続く。

 この辺りは、競走ウマ娘なら誰でも付きそうなサジェストだね。

 

 「トレーナー」は思ったよりも下にあるけど、あまり表には出ないからかな。

 「恋人」とか「炎上」は……まぁ、なんというか、やっぱりそういうのを気にする人もいるよね。

 幸い私はこれまで炎上騒動に発展したことはないので、サジェスト順はずいぶん下。いやまぁクラシック級の頃に無自覚に色々やらかしはしてたんだけど、歩さんが何とかしてくれてたらしいのでセーフ。

 

 

 

 とにかく、この辺りがホシノウィルムのパブリックイメージなわけだ。

 いや爆死に関してはこんなイメージ持たれたくはないんだけども、まぁ付いてしまったものは仕方ない。もはやこのデジタルタトゥーを背負って生きていく他ない。

 

 だけど当然ながら、これらのイメージが私の全てってわけではない。

 世間的にはあまり知られていない、表には出さないような面もまた、ある。

 

 例えばそれは、ずっと練習してるのに未だに口笛が吹けないことだったり。

 あるいは、致命的と言っていいくらいに朝が弱いことだったり。

 

 そして、あるいは……。

 実は勉強が不得意、ということだったりする。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「あ゛ー……」

 

 私は後ろに倒れ込み、ちょっとファンにも歩さんにも聞かせられない呻き声を上げる。

 

 ぐるりと視界が塗り替わり、見えたのはちょっとだけ見慣れた天井。

 現在私がいるのは、私の部屋と少し似た、けれどもっと年頃の女の子らしい内装の、栗東寮のとある一室だった。

 

 そして今現在、この部屋の主である私の親友ナイスネイチャが、べたっと床に転がる私に呆れたような視線を向けて来ている。

 

 うーん、等身大の視線が心地良い。

 最近じゃこんな素直な視線向けてくれる子も減っちゃったからなぁ。

 

 ……いや、考えてみると、今世でこんな素直な感情ぶつけてくれるのってこの子だけな気がするな。

 交友関係の狭さを嘆くべきか、あるいはその深さを喜ぶべきか、悩ましいねぇ……。

 

「……あのー、ウィルさんや? 真面目にやる気はあるのかい?」

「勉強嫌いです」

「知ってる。でもやらなきゃいけないってこともわかってるでしょ?」

「わかってますけど……現実逃避したい……お部屋の掃除とかさせてもらえませんか……」

 

 勉強からの逃避と言えば、やっぱり部屋の掃除だよね。

 何か気になるから勉強に集中するためと言い訳して始め、いつしか手に取っていた漫画や雑誌に目を通し始めて時間を無駄にするのは定石だ。

 私も前世じゃ試験前だけ部屋が片付いてる系女子として名を馳せたもの。

 

 ……ただ、問題は2つ。

 今が現実逃避とかしてる場合じゃないってことと……。

 ここが私の自由にできる部屋じゃないってことだね。

 

「他人の部屋の掃除なんてさせてもらえるって思う?」

「駄目ですか……? こんなに可愛らしいミステリアスなクール系美ロリがうるうる上目遣いで寂し気にお願いしても……?」

「言っとくけどアンタがミステリアスだったのもクール系だったのも、良くて去年のダービーまでだからね。その後はただ自分を倒してくれる相手を求める悲しきバーサーカーだったじゃん」

「なんだとぉ……」

 

 いやまぁ、ちょっと自覚はあるから否定はしないけれども。

 

 最近じゃ私、ファンにすらランニングジャンキー扱い受けてるらしくて、生温かく苦笑いされることもあるし。

 昔は謎めいたヴィラン扱いされて、カッコ良いって言われるようなこともあったんだけどなー。何が悪かったんだろう。やっぱガチャの爆死報告か。

 

 

 

 天井を見つめて今は昔の遠い過去へと思いを馳せる私の頭に、上からデコピンが降って来た。

 

「あいたっ」

「というか、話を逸らさないの。そもそも今日勉強会したいって言ってきたのはアンタでしょうに」

「う~……」

 

 どちゃくそスパルタな言葉に、けれど何一つ言い返す事すらできず、私はただ床に転がるばかり。

 そんな私を再び無理やり席に座らせて、私の親友は大きくため息を吐いた。

 

「まったくこの子は……どうして走ること以外はこんなに駄目駄目なのかねぇ」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ブルボンちゃんが日本ダービーに勝利して、1週間。

 6月に入ってトレセン学園含む府中は無事梅雨入りを果たし、今も窓の外からはしとしとと雨粒が落ちる音が聞こえて来る。

 

 世間じゃジューンブライドとか言ってわちゃわちゃしてる人もいるらしいけど、個人的にはあまり好きになれない時期だったりする。

 お布団はジメジメするし雨で外でのトレーニングは潰れやすいし……ついでに、そこまでファッションに気を遣う方じゃない私でも歩さんの前でくらい良いカッコしたいのに、髪がボサボサになりやすいし。

 

 まぁでも、この1か月を越えればそこに来るのはサマーシーズン。

 1年で最も日が長い、つまり効率良くトレーニングできる時間が長い、ボーナスタイムが待っている。

 

 そんなわけで私ことホシノウィルムは、来たるハッピーミーク先輩との決戦宝塚記念に向けて、雨にも負けず湿気にも負けず、懸命にトレーニングを積む毎日を送っていた。

 

 

 

 ……送っていた、んだけど。

 

 私たち競走ウマ娘は、プロのアスリートであると同時、中から高等部の学生でもある。

 面倒だけど、学生の本業である勉強も怠るわけにはいかないわけだ。本っ当に面倒だけどね!

 

 とはいえ、そこに要求されるハードルは、流石に一般的な学生に比べて低い。

 トレーナーが就いて現役の競走ウマ娘として走ってる子は午後の授業が免除されてたりするし、試験の範囲も私の前世の記憶のものよりはだいぶ狭い気がする。うろ覚えだから多分だけど。

 授業内容も、競走ウマ娘としての知識や教養関係が入って来るので、レースに興味さえ持てれば割と頭に入ってきやすい。

 

 つまるところ、一般人の学生さんと比べれば、私たちはだいぶ楽をさせてもらっているのだ。

 まぁ、その上でなお全然点数取れない子もいるんですけどね! ここに1人な!

 

 

 

 悲しき現実に乾いた笑いを浮かべていると、ネイチャがちょっと心配そうにこちらを見下ろしていることに気付いた。

 かわいそうな子判定はガチ目に傷つくから勘弁してほしいな。

 

「真面目に勉強しなよ、ウィル。アンタ要領は良いんだし、ちゃんと勉強さえすれば簡単に点数取れるでしょうに」

「マジレスやめてください、泣きますよ」

「アンタが泣いて勉強するのなら、アタシは心を鬼にしてマジレスするよ」

「この友達の鑑がよぉ……」

 

 ネイチャがあまりにも良いヤツすぎて泣ける。

 ついでに興味がなさすぎる似たような名前ばっかりの地理単語にも泣ける。

 

 でもなー、どうしてもやる気出ないんだよなー。

 

「なんで勉強とかする必要あるんですかね……?」

「うわでた、追い詰められた時の思考」

 

 いや、これに関しては逃避とかじゃなくて、割と本気でそう思うんだよね。

 

 私はガバッと上体を起こし、ベッドから憐れみを向けてきているネイチャに向かって、ピンと人差し指を立てた。

 

「一般的に、学生が人生で殆ど役に立たない知識を頭に詰め込むのって、結局は社会に出た時に困らない程度の教養を身につけることと、良い学歴を手に入れて生涯で稼ぐ金額を上げるためじゃないですか」

「あまりにも言い方が良くないから肯定したくないけど、まぁ一部の人にとってはそうかもね」

「でも私たち競走ウマ娘って、ぶっちゃけ強い子なら現役時代に生涯収入稼いで人生早上がりできちゃうじゃないですか」

「いや流石にそこまでは…………」

 

 ネイチャは否定の言葉を止めた後しばらく黙り込み……。

 一転、真面目な顔をして聞いてくる。

 

「あのぉ、ウィルさんや。不躾なことを聞いて申し訳ないんだけど、参考までにアンタがこれまでに稼いだ金額、教えてくれない?」

「いいですよ?」

 

 確かこの前歩さんに教えてもらったことには……と口を開こうとしたら、何故かネイチャは手でそれを制してくる。

 

「待って! ……口で言うのはやめて」

「え、なんで?」

「いや、あんまりショックを受けたくないっていうか……アタシ自分で言うのもなんだけど庶民的なウマ娘だし、価値観壊されそうで怖い」

 

 何言ってんだこの子。ネイチャも菊花賞2着有3着と、結構稼いでるだろうに。

 流石にG1勝ったことないネイチャとG1最多勝の私だと、文字通り桁が違うかもしれないけど、それでも多分事業の元手になるくらいには稼いでるでしょ、現時点でも。

 

 まぁ、トレセンに来る前の金銭感覚で考えると狂いそうになる、って気持ちはわかるけどね。

 私は既に一周回って、感覚が壊れて事実のみを認識するようになったので、口座の金額が増えても「やったぁ」くらいしか思わなくなったけども。

 レース1回で億単位のお金が入って来るとか、良くも悪くも一般的な学生には過ぎたる感覚なのですよ。

 

 

 

 結局、ネイチャはさんざん懊悩した後、結局苦し紛れって感じで、指を2本立てた。

 

「……上の2桁。上の2桁だけ教えて」

22(にじゅうに)ですけど」

「ウッ」

「ネイチャ? ネイチャ、どうしたんですか……って、息してない!?」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 一時はぶっ倒れてしまったネイチャだったけど、すぐさま正気を取り戻した。

 それとついでに本題も思い出してしまった。

 

「いくらお金があっても幸せになれるかは別! 将来自分なりの幸せを見つけるために、今はちゃんと勉強するべし!」

「熱血系の教師みたいこと言い出しましたね今度は」

「まぁ今のアンタがそこら辺見誤るとは思い辛いけど」

「親友からの信頼の厚さに思わず涙が出そう」

「でもそれはそれとして、自分の親友が頭悪いとか嫌だから勉強してね」

「かと思いきや絆を盾にされて別の意味で涙が出そう」

 

 いい加減逃げ切れなくなったので、大人しくプリントに向き合うことにする。

 

 目の前に並ぶのは、おおよそ私の人生の豊かさとは関係しそうに思えない地方の川とか山の名前。

 これを覚えたら走りが上手くなるって言うんなら何十時間でも勉強するけど、特に意味がないとわかっていることに力を注げる程、私は物分かりがよろしくない。

 

 故に、集中しなくてはと奮起した10秒後には、先週のダービー良かったなぁとか宝塚記念楽しみだなぁとか凱旋門賞どんな子と走れるかなぁとか考えてしまう。

 で、そんなことを考えていると、後方からネイチャ先生の集中しなさいチョップが襲い来るわけだ。

 

「あいたっ」

「まーた他のこと考えてるでしょ」

「むしろ凱旋門賞を前にして視界をブレさせるなって方が無理ですよね」

「それは……そうかもしれないけど。今は勉強!」

「もはや私のために凱旋門賞にでてくれる海外のウマ娘たちに失礼では?」

「アンタのその思想こそが失礼だと思うけど」

「あーもうわかりましたよ勉強もできない子が凱旋門賞優勝なんてできないだろうって言うんでしょう!? そこまで言うなら勝ってやりますよ勉強せず!」

「そろそろツッコミにも疲れて来たから真面目にやってもらっていい?」

「はい……」

 

 どうやら私、もう逃げられそうにない。ちょっと泣きそう。

 

 

 

 流石に付き合ってもらってるネイチャに申し訳ないし、勉強しなきゃいけないのも事実なので、地理に取り組むことにした。

 とは言っても頭の方は未だ回ってくれそうにないので、ひたすら手を動かして書き取り書き取り。

 

「はぁ……」

 

 よくさ、転生モノだと二周目特有の知識を使って神童に! とかあるじゃん?

 あれ、全部嘘です。

 いやごめん、流石に全部かはわからないけど、でも大半は嘘だと思うんだ。

 

 人間……いや今はウマ娘なんだけど、とにかく私たちの記憶力って、実のところ結構ポンコツだ。

 定期的にある程度刺激しておかないと、すぐにものを忘れていってしまう。

 

 私は小学校の頃は荒れに荒れてたし、二周目の人生(ウマ生)でまともに学校に通うまで、実に10年以上の月日がかかってしまった。

 そしてそれは、興味のない単純記憶系の知識を失うには十分な程の時間だったんだ。

 

 結果として私は、国語や英語、理科系の科目はともかくとして、数式の解き方を覚えてない数学、興味がなかった日本史世界史地理は割と壊滅的な状態。

 特に歴史なんか、ウマ娘の存在によって中途半端に前世から変わっているので、記憶が混濁して仕方がないって感じ。

 一度学んだことをもう一度学び直すという億劫さも相まって、私のモチベーションはそりゃあもう底を突いている。

 

 ……底を突いてはいるが、それはそれ、これはこれ。

 競走ウマ娘としてのお仕事をやってても感じるけども、やりたいことを仕事にしてもある程度は興味のないこと、やりたくないことが付いて来るものだ。

 長い待機時間とか気乗りしないお仕事なんて、決して珍しい話じゃない。

 

 そんなわけで、勉強もその内の1つ。

 競走ウマ娘としてやらなきゃいけないお仕事だ……と、考えよう。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 カリカリと、無心でシャーペンを走らせる。

 

 何時間もこんなことを繰り返すのは正気を失いそうな作業だけど、実は私コツコツと書くのは慣れっこだったりする。

 なにせ1日に千以上のサインを書いたこともあるしね。

 急に決まったイベントに対応するためのヤツだったんだけど、今思い出してもアレはキツかった。ウマ娘の体じゃなかったら確実に腱鞘炎になってたと思う。

 

 しかし、今回はあの時と違って、1つ1つのクオリティが不問。

 丁寧すぎてもいけないし粗すぎてもいけないという、簡単なようでいて超難しい調整を強いられることはないんだ。

 自分さえちゃんと読めればいいし、なんなら自分が読めなくてもいい。脳への刷り込みにおいては書くという経験こそが大事で、このノートが他者の目に触れる予定もなし。

 修羅場に突入したお仕事に比べて、書き取り作業のなんと気楽なものか。

 

 ただ、完全に思考停止して機械のように指を動かせばよかったあの時と違って、今回は内容を記憶に定着させるためにも、頭を動かさなきゃならない。

 そこはやや面倒臭ポイントだね。

 

 

 

「……なんかバグって日本の川全部消滅しませんかね」

「日本滅ぼす気?」

「こんなめんどくさい名前の川と山だらけの国……滅んでしまえばいいんだ……!」

「未だかつてない程幼稚な理由の闇堕ち」

 

 時折ネイチャと雑談を交わしながらも、手だけは止めずにつらつらとノートの余白を削っていく。

 昔から、マルチタスクは得意な方だ。勉強しながら会話くらいなら楽々できる。

 

 ネイチャの方に迷惑なんじゃないか、って最初の頃は思ってたけど……。

 この子、元々成績は悪くないし、次回試験の範囲も逐次復習してるとのことで、そもそも全然切羽詰まってはいない。

 勉強会とは言ったものの、実際には私がネイチャに付き合ってもらってるような状態で、だからこそこういう雑談もあまり嫌がられてる雰囲気はなかった。

 

 まぁあまりそればかりだと怒られてしまうから、適度に勉強と雑談を織り交ぜていくんだけどね。

 

 

 

 時たま、本当に稀だけど、ネイチャの方から声をかけてくることもあった。

 

「ウィル、ここなんで『悲しんでる』なのかわかる?」

「んー……あーこれ、確かひっかけですよ。えーっと、ほらここ、結構前ですけど『あの子は決まって悲しい時に前髪をイジる。どうやらそれは癖のようだった』ってあるじゃないですか」

「ホントだ。ってことはここの心情って……」

「喜んでるムードだけど悲しんでるんですよねこれ。抜粋された文だけ見るとなんでこの子が悲しんでるかの背景情報はわからないようになってますし、作問者のいやらしいことで」

 

 私は国語の教科書はもらったらすぐに読み込むタイプだったので、そっち系の問題ならお役に立てる。

 まぁネイチャも別に国語が苦手というわけじゃないし、そもそも私の知恵が必要になるタイミングなんて限られてるんだけども。

 

 ネイチャ先生、こんな「いやー全然勉強してないわー」みたいな顔しながら、テストの点数毎回クラス3位くらいだからね。私なんかよりずっとずっと頭が良いのである。

 いつも「また3位かぁ……」って落ち込んでるけど、私からすりゃ「何言ってんだこの化け物」って感じである。こちとら万年赤点スレスレだぞ。

 

 ……というか、今更だけどこの子、なんでG1級の実力保持しながら平然とテストの点数上位帯なんだ? 

 もしかしてネイチャだけ1日の時間が72時間だったりするのでは?

 

 ジトリと睨む私の視線に勘付いたか、ネイチャはため息を吐いて言う。

 

「言っとくけど毎日コツコツ復習してれば、ある程度は普通に点数取れるからね?」

「ネイチャ、もしも私が『G1なんて毎日バリバリ走ってれば普通に勝てますよ!』って言ったらどう思います?」

「ごめんねウィル、アタシが間違ってた。ウマ娘にも得意不得意はあるよね」

「ご理解いただけて幸いです」

 

 悲しいかな、私たちにはそれぞれ、どうしても手の届かないものがある。

 いやまぁ、ネイチャだって展開さえ良ければG1獲れるだろうし、私もやる気さえ出せれば点数は取れると思うんだけど……。

 それがなかなかできないからこそ、私たちはため息を吐くしかないわけで。

 

「人生、上手くはいきませんねぇ……」

「一生遊んで暮らせそうな貯金がある子の口から出る言葉とは思えないねぇ」

 

 私は仕方なく、再びノートに向き合うのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そうして6割沈黙2割質問2割雑談な数時間が経ち、寮の消灯時間が近づいて来た。

 

 捗りは……まぁ、程々といったところ。

 元より人との勉強会に効率なんて求めてはならない。

 

 私がネイチャに求めるのは、私が逃げ出そうとしたら止めてくれること、わからないところを教えてくれること、そして仄かな癒しとなってくれること。

 その点において彼女は、おおよそ完璧な仕事をしてくれたと言っていい。

 

 実際のところ、効率はともかくとして、私が何時間も机に向かっていられることなんてそうそうない。

 ネイチャには感謝しないとね。

 

 まぁ、そのネイチャは……。

 

「ウィル、頑張ったね。偉いぞ~」

 

 そう言いながら頭を撫で撫でしてくるので、素直に感謝の言葉は言い辛いんだけども。

 

 この子、私のこと初等部の子供か何かだと思ってる?

 お? 私無敗三冠ウマ娘ぞ? G1最多勝ウマ娘ぞ? ついでに前世では一応大学受験一発合格してそこそこの国立受かってるぞ? 今受けたらまず受からないだろうけども。

 

 

 

 まぁでも正直、そんな風に思われても、仕方なくはあるんだよな。

 私がちゃんと勉強に集中するなんて実に前世以来だし、それがとてつもなくレアケースってことは、付き合いの長いネイチャなら悟ってくれてるだろう。

 

 ただ、今回は、集中しなきゃいけないだけの、のっぴきならない理由があったんだ。

 

 来たる期末試験は7月頭、宝塚記念のたった3日後から始まる。

 流石に追い切りやめて試験勉強なんてするわけもなし、悠長に1週間前から対策、なんてことは言ってられない。

 

 そして、ここで赤点など取ろうものなら補習行きは確定。

 補習なんて受ければ当然、7月前半は学校に拘留される。

 

 そう。

 本来は夏季の長期合同合宿が始まる7月の前半に、学校に拘留されるのだ。

 

 勿論、そんなこと許せるわけがない。

 私はこの夏にもっともーっと強くなって、秋にテイオーとネイチャ、マックイーン先輩をぶっちぎってやると決めている。

 それなのに、補習なんかで時間を無駄にはしていられない。

 

 ……と、それが理由の半分で。

 もう半分はと言えば……。

 

 

 

 トレセンの夏合宿と言えば、海! 水着! 解放感!!

 

 去年は事故のリハビリで逃してしまったけど、今年こそは掴んでやるぞ。

 歩さんとの……水着デートイベントの、チャンスをな……ッ!!

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そうして、少し先の話、宝塚記念が終わった後。

 

 私はテストで平均70点という、私にしては大健闘な得点を取り、よっしゃこれで褒めてもらえるしお願いも聞いてもらえる、トレーナーイチャイチャイベント確変入った! とガッツポーズしたんだけど……。

 

 結局のところ、私がどんな点数を取ろうと、この計画を達成することは不可能なのであった。

 

 いやまぁ、ちゃんと話聞いてなかった私が悪いんですけどね。

 とほほ~……もうテスト勉強はこりごりだよ~……。

 

 

 







 何故プランが必ず失敗するのかは、もう少し後のお話で……。

 こういうギャグ中心回書いたの久々な気がしますね。
 シーズン入るとにレースの密度が高すぎてシリアス密度上がっちゃって、なかなか塩梅が難しい。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、青空と新星の話。



(謝辞)
 気付けば本作のUAが200万を越えてました。
 いつもご愛読の程ありがとうございます!!

(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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青空になる

 軽いぱかぷちを 枕にしたら 深呼吸(レース中盤に息を入れて わずかに疲れにくくなる)


 

 

 

 6月も中旬に入り、ウィルの宝塚記念が近づいてきたある日のこと。

 俺は河川敷の草むらに寝転がり、空を見上げていた。

 

「空は……遠いな」

「…………」

 

 隣にいる男からは、何も返答はない。

 戸惑ったような雰囲気だけが、穏やかな川辺の空気に乗って伝わって来るばかり。

 それでも俺はめげず、感想を口にし続けた。

 

「底抜けに青いし、どこまでも広がってるし、改めて見るとすごく壮大」

「…………」

「というか、落ち着いて空を見上げたのなんて久々だな。ここ最近はちょっと忙しかったし」

「…………」

「あー、青い。青いなぁ。空、めっちゃ青いわ。スーパーブルー」

「……堀野君、良いお医者さん紹介しようか?」

「流石に失礼じゃない?」

 

 隣からちょっと酷いことを言ってきたのは、俺の個人的な友人でもある、ナイスネイチャやライスシャワーと契約しているトレーナー。

 彼はどことなく気づかわし気な目線をこちらに向けてきていた。

 

 ……まぁ、突然「今日時間はあるか」と誘われたからホイホイ出向いたら河川敷に連れ出され、こうしてぼんやりと空を眺めて時間を過ごしてるんだ。

 仮に俺でも、事情を知らなければ「大丈夫かコイツ?」となるだろうけども。

 

 しかし、これも担当ウマ娘のため……。狂人とは言うまいな。

 

 

 

 ネイチャたちのトレーナーはため息1つ、ちょっと咎めるような視線を向けて来る。

 

「まぁ流石に今のは冗談だけど……本当にどうしたの堀野君? 仕事は?」

「終わらせてきた」

「あ、仕事って終わるものだったんだ……」

 

 一転変わって虚ろな目。

 あぁ、やっぱりコイツの陣営も、この春は大変だったんだろうなぁと感じさせるね。

 

 トレーナーにとって、春と秋は超の付く繁忙期。

 クラシックレースに出るようなG1級の子、特に人気が上位に上がって来る子と契約しているトレーナーにとって、その期間は睡眠すらままならない激務の日々となる。俗に言うデスマーチだ。

 

 コイツは春は休養していたネイチャと同時、今年のクラシックレースでミホノブルボンに対する対抗バ的ポジションだったライスシャワーと契約していた。

 つまりは、日本でもトップクラスに視線を集めたウマ娘を育てていたんだ。

 そりゃあもう、仕事とトレーニングに追い回される悪夢のような毎日だったはず。ソースは去年の俺。

 

 ただ、コイツの陣営の春のレースは、先日の日本ダービーで終わりだったはず。

 6月に入った今、ある程度仕事も落ち着いたのではないかと思い、今日これに誘ったわけだが……。

 

「もしや、忙しかったか。時間をもらったのは悪かったかな」

「いや、そこは大丈夫、ちょっとは落ち着いてるから。昨日もちゃんと眠れたし」

「おぉ、眠れるのは良いことだな」

「本当にね……」

 

 眠れているにしては、だいぶげっそりとした顔で頷いているのが……。

 まぁ、眠れない日が続くとちょっと気落ちするのはわからなくもない。これもソースは去年の俺。

 

 

 

 ちょっと雰囲気が重くなったことを察したか、彼は改めて言ってくる。

 

「で、今日はどうしたの? 流石にここで寝るのが本題ってわけじゃないんでしょ?」

「そうだな、流石にそんなセイウンスカイみたいなことをするわけじゃない」

「あの子そんなこと言うの……?」

 

 まぁ、うん。

 あくまで前世アプリでの印象だけど、トレーニング抜け出して河川敷で寝転がりながら、隣をポンポン叩いて「トレーナーさ~ん、ここ、空いてますよ~?」とか言ってきそうだよね。

 そういう小悪魔……というか気ままな猫みたいなところも彼女の魅力なわけだが、それはともかく。

 

 言われた通り、そろそろ本題に入ろうか。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 俺は続けて空を見上げながら話を始める。

 

「改めて、来てくれて感謝する。実は情けないことに、1つわからないことがあってな。俺以外の視点の意見を聞いてみたいと思ったわけだ」

「わからないこと……?」

 

 おいなんだその「堀野君にわからないこととかあるの?」みたいな目。

 そりゃあ俺にだってわからないことはある。

 ……というか、中央に来てからは学ぶことだらけの新鮮な日々を送ってるくらいだ。

 

 彼は眉をひそめていたが、すぐに軽く頭を振り、胸に手を当て安心させるように笑った。

 

「わかった。僕なんかで力になれるかはわからないけど、謹んで相談に乗らせていただくよ」

「いや、そんな仰々しいものじゃないんだが」

 

 まぁ、せっかくならきちんと相談に乗ってくれた方が嬉しいに決まってる。

 状況を利用するようで申し訳ないが、今は彼の生真面目さを頼りにさせてもらおう。

 

 そう思いながら、俺は改めて空を見上げる。

 今日は梅雨には珍しい晴天で、まばらに散る白色より青色の割合が多いくらいだ。

 

 気持ちの良い天気だな、とは思うが……。

 俺には、それ以上の何かを見いだせない。

 

 だからこそ、他の視点が必要なわけだが。

 

 

 

「話は、ハッピーミークのことだ」

「ああ、彼女の。宝塚記念のライバルだもんね」

 

 そう、ウィルにとってライバルとなる、そして恐らくは脅威となり得るウマ娘、ハッピーミーク。

 前世アプリに続いて、彼女は再び、俺の前に立ち塞がって来た。

 

 まぁ、勝負の舞台はURAファイナルズではなく、宝塚記念に変わったわけだが……。

 俺にとって宝塚記念は、ウィルの魅力に本当の意味で気付くことのできた、そして本当の意味で彼女のトレーナーになり始めた、特別なレース。

 やっぱり彼女は要所で立ちはだかるライバル、といった感じがするね。

 

 

 

 さて、そんな彼女に打ち勝つため、俺は調査と対策を開始したわけだが……。

 

「端的に言えば、ハッピーミークのことがわからないんだ」

「わからない……か」

 

 俺には、ハッピーミークがわからなかった。

 

 いや、勿論、わかっていることはある。

 ハッピーミーク。現在高等部2年、綺麗な白毛とどこかぼんやりとした独特な雰囲気が特徴的な、前世アプリではライバルキャラ的立ち位置だった元ネタを持たない(オリジナルの)ウマ娘。

 

 得意脚質は先行と差しだが、距離とバ場に関しては短距離から長距離、芝にダートと何でも行けるとんでもなく万能な脚を持つ。

 そしてこの世界では幅広い距離適性を最大限に活用し、瞬発力が求められる短距離から高いスタミナが求められる長距離まで、それぞれの距離でG1タイトルを1つずつ保有している、と。

 

 これだけだ。

 俺はこれ以上に、彼女のことを知らない。

 ……知れない、と言った方が正しいかもしれないが。

 

 

 

 横にいる友人に、尋ねる。

 

「ハッピーミークはどんな走りをするウマ娘だ?」

「え?」

「積極的か消極的か、レースを支配するか自分の強みを押し付けるか、前めに付けるか慎重にいくか。どんな走りをするウマ娘なのか、具体的に言えるか?」

「それは……」

 

 言いかけた彼の口は、緩やかに止まる。

 

 コイツはネイチャのトレーナー、去年の有記念でハッピーミークと走ることになった際、その能力を測ったはずだ。

 

 しかし……恐らく俺と同じように、答えは出なかったのだろう。

 

 だから今も、彼は明確な答えを返せないでいる。

 

 ただ、それは決して責められるべき瑕疵ではない。

 仮にも堀野の薫陶を受けた俺ですら、彼女の走りを分析できなかったんだ。一般家庭の出で同期の彼がそれを見出せないのも無理はない。

 

 

 

 俺は上体を起こして視線を空から川に移し、半ば独り言のように言う。

 

「ハッピーミークの走りは、変幻自在だ。

 先頭や最後尾に立つことこそないが、それ以外は文字通り『何でも』する。

 番手に付けた積極的な先行策、自身の強さを活かした好位抜け出し、展開を見る中団からの差し切り、そして最後尾近くからのジリジリとした追い上げ……どの戦術を取って来るかはレースによって異なる。

 更に、全ての距離を走ることのできる瞬発力とスタミナを持っているからこそ、どの距離から仕掛けてくるかも読めない。

 結果的に、彼女の走りを読むことは、不可能と言っても過言じゃない」

 

 世界には様々な考え方の人とウマ娘がいるが、そのほとんどに共通する点がある。

 それは、何事においてもその人にとって最適の手段や方法、やり方を選ぶということだ。

 

 レースにおいてもこれは例外ではない。

 多くのウマ娘たちは、彼女たちの気性と能力に基づいた、最適の走りを選ぶ。

 

 ウィルならば、バ群から影響を受けず、他の子の調子を乱しながら自分の強さを押し付けられる大逃げ。

 ブルボンならば、他のウマ娘を考慮しない自らの最適ペースでのラップ走。

 ネイチャならば、レースの展開自体をコントロールし最も有利な状態を作るレースメイク。

 ライスならば、他のことを気にせず1人を追いかけ続ける徹底マーク。

 

 そこには確かに、ステータスや適性に基づく法則性があった。

 故に、彼女たちの能力を可視化できる俺は、その気性や性格さえ掴めれば、レースの展開や結果の予測を比較的容易にこなすことができるわけだ。

 

 ……ただ、これには一部例外がある。

 それは「自分の思う最適解」ではなく、直感的に選んだ「本来は情報を持たないが故に選びえない、本当の最適解」を選んでくるトウカイテイオーだったり……。

 取り得る戦術の幅の広さ故に最適解を絞り切れない、ハッピーミークだったりするわけだ。

 

 

 

「彼女の戦術は多彩で、ただ実力を測るだけではどう出てくるか予想し辛い。

 故に、実力と同時、彼女個人の性格を分析しようと考えた。その結果……」

「……え、もしかして、プロファイリングしてるの?」

「もどき、だけどな」

 

 プロファイリングとは、犯罪心理学を元にした調査手法。

 現場に残ったデータを元に、犯罪者の人物像や心理状態を特定するというものだ。

 

 何故その行動を取ったのか。何故その結果が残ったのか。

 そしてそれらは、犯人がどのような心理状態であれば起こり得るのか。

 その心理状態になるためには、どのような過去があるべきなのか。

 

 徹底したデータと計算の連続により、仮説を証明するようにその人間性を割り出すという、比較的俺向けな調査のやり方だ。

 

 ……とはいえ、当然ながらハッピーミークは別に犯罪者でも何でもない。

 むしろウィルから話を聞くに、かなり善性の強い聖人……聖バ? である。

 

 なので今回の場合、プロファイリングって言葉は犯罪の調査手法ではなく、単に「相手の言動や状況から心理状態を推し量る」という意味で使っているわけだが。

 

 

 

「ハッピーミークには、空を見上げて物思いに浸るという癖があるらしい。そして同室のウィル曰く、特に好きなのは青空とのことだ」

「青空かぁ……あ、だから今日なんだ」

「久々に晴れたからな。彼女を真似て、その行動の意図を量るチャンスだった」

 

 ……ただ、結局、彼女の心理状態は掴めないままだ。

 

 空を見上げても、俺にはそれは、ただの青空としか思えない。

 それは俺の価値観から既に幼児性が抜けてしまっているからか、あるいはハッピーミークの価値観が特殊だからか、そもそも俺と彼女では世界観が大きく違うのか……。

 未だそれすらもわかっていない状態だ。

 

 

 

 俺が微妙な顔で空を見上げると、釣られたように隣の彼も空を見上げ、差し込んだ日光に思わずといった感じで手をかざした。

 

「青空を見て何を思うか、かぁ。

 一般的に思うのは、解放感とか爽快感だよね。あまり悪いイメージは湧かないんじゃないかな」

「そうだな。青空が好きらしいし、悪い印象を抱いてはいないんじゃないかと思う。勿論何かしらの強迫観念によって嫌いなものを見ている可能性はあるが、無視していいレベルだろう」

「で、その『良い印象』の中身がわからないと」

「ああ。彼女が何故空を見上げるのが好きなのか。青空の何が好きなのかがわからない。

 ……まぁ、それがわかったところで、彼女の走り方が理解できるようになるとも限らないんだが」

 

 情けない話だが、ハッピーミークへの対策は、割と万策尽きている。

 俺なりに色々と試みてはいるものの、策を絞り込めないことにはレースの作戦が立てられず、作戦が立てられないことにはウィルに適切なトレーニングを付けることもできない。

 

 ある意味で、ハッピーミークは俺にとって相性の悪いウマ娘だ、ということだろう。

 

 俺の相棒であるウィルにそれを告げれば、「そういう時は私に任せてください!」とふんすふんすしながら言ってくれるだろうが……。

 それは極力避けたい未来だった。

 

 テイオーに続いてハッピーミーク対策までウィルに依存するとなると、もはやこの春、俺がウィルにしてやれたことは何もなかった、ということになる。

 一方的に支えられる関係など、とてもじゃないがパートナーとは言えないだろう。

 

 俺は彼女のトレーナーとして、彼女のパートナーとして、相応しくなりたい。

 故になんとか彼女への対策を立てようと、藁にも縋る思いでこうして空を見上げているのだが……。

 

 

 

 やっぱわかんないな、どうしようかなこれ。

 というかそもそも俺、あんまり人の心理状態には強くないんだよね。その辺は兄と妹に大きく出遅れちゃってる感じだし。

 

 途方に暮れていると、ふと思いついたというように、ネイチャのトレーナーが言った。

 

「青空とは言ったけど、今日は結構雲あるよね。ハッピーミークが好きなのって、どれくらいの青空なんだろう」

「どれくらいの……」

「晴れと曇り、青と白の割合の話。青空って言っても多少雲があった方が映えて良いって人もいるだろうし、逆に雲1つない状態が好きって人もいそうじゃない?

 ハッピーミークが好きなのはどんな青空なんだろうって思ってさ」

「ん……」

 

 申し訳ないけれど、その言葉は、半分程しか俺の耳には入ってこなかった。

 それ以上に、彼の言葉の一部が、脳内に引っかかったからだ。

 

 青と白。

 

 その言葉を聞いて、なんとなく、何かが繋がった気がした。

 

 ハッピーミークの髪や勝負服のカラーは、白。

 そして彼女が好きだったはずの水族館のカラーは……一般的に言えば、青だろう。

 

 空模様の色合いと、彼女に纏わる2点が一致している。

 

 これらの色合いの合致は、偶然の産物なんだろうか。

 前世アプリを考えれば、キャラクターのメインカラーを統一しただけ、という見方もできるが……。

 ここは、俺の生きる現実は、アプリゲームの世界ではない。

 何かしらの意味があっても、おかしくはない……か?

 

 仮にそうだとすれば、それは何を意味しているのか。

 青と白。それらの二色は彼女にとって何を象徴している?

 

 青は空と水族館。

 彼女が好きなもの。遠い空、ガラスを隔てた水の中。

 共通するイメージは、非日常や非現実感。遠くて綺麗な理想の世界とか、そんな感じだろうか。 

 

 白は勝負服、雲。

 勝負服はそのウマ娘のイメージ。そして雲は空への視覚を妨げるものでもある。

 となると、これは自身と、現実的な障害。理想へと至れない、それを妨げている……自身の限界、とか?

 

 ……これは、ただの思い付きだ。

 まだ仮説の段階にも入れていない、妄想レベルのたわごとに過ぎない。

 

 けれど、だとすれば、そう。

 彼女の根底にあるのは……。

 

「憧憬、か……?」

「堀野君?」

 

 声をかけられて、ようやく自分が物思いにふけっていたことに気付く。

 人を付き合わせておきながらぼんやりするとか、失礼にも程がある。以後は気を付けないと。

 

 ……でも、ひとまず着想をくれた彼には感謝せねばな。

 

「ありがとう、ちょっと見えたかもしれない」

「見えたって、何が?」

「ハッピーミークっていうウマ娘のことが、少しだけ」

 

 勿論、この仮説が正しい確証など、どこにもありはしない。

 1人になったタイミングでじっくりと思考を進める必要があるだろう。

 

 けれど……うん。

 最初のとっかかりくらいは、掴めた気がする。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 この気付きを大事にしないと、と頭に刻み込んでいると……。

 横のネイチャのトレーナーが、改めてという感じで声をかけてきた。

 

「取り敢えず、光明が見出せたなら何よりだよ。

 ……ところで、僕も君に会ったら聞きたいことがあったんだけど、いいかな」

「ああ、構わない。今日わざわざ来てもらった恩もある、大抵のことには答えよう」

 

 この男は優男の雰囲気を出しているが、これでなかなか抜け目ないところがある。

 自分の担当を支え、勝たせるためならば、多少自分が顰蹙を買うようなことも厭わずずけずけと要求を出して来るんだ。

 貸しを1つ作ろうものなら、1年後にニコニコ笑顔で「それじゃ利息分まで含めてキッチリ返してね? 大丈夫、ただちょっと教えて欲しいこととやってほしいことがあるだけだから」と言ってくるようなタイプである。

 

 まぁ、それでも通すべき筋は通すし、何より全ては己の担当のための行動。

 個人的な好悪で言えば、好感を覚えこそすれ、とても不快には思えない男なんだが。

 

 そして俺は今日、そんな男だと分かった上で彼に頼ったんだ。

 当然、対価を要求されるのも織り込み済みだし、ウィルやブルボンのトレーニングの支障にならない範囲でなら、それに応えようと思っていた。

 

 

 

 ……しかし。

 どんな無茶ぶりが飛んでくるかと身構える俺の予想に反し、彼は苦笑いを浮かべた。

 

「いや、今回はそういうのじゃなくてさ……ああいや、僕に利益がないわけじゃないんだけど、どちらかと言えば堀野君の考えを聞いて参考にしたいな、と」

「考え? いいけど、何のことだ?」

 

 ネイチャやライスの秋のレースだろうか。

 しかし、その辺りに別陣営である俺が意見を出すのはちょっとな……。

 

 

 

 思考の先走った俺に対し、彼は自身のスマホを取り出して何度かタップし、こちらに見せて来る。

 

 そこに表示されていたのは、とあるレース映像。

 ただし、そこに表示されている文字も、飛び交う歓声も、どちらも日本のものじゃない。

 

 そして俺は、その映像を、何度もこの目で見ていた。

 つい先日行われた海外のG1レース、その名も……。

 

「オークスステークス……俗に、英オークス」

「やっぱり堀野君も見てたんだ」

「当然だ、海外の主要なグレードレースは見ているさ」

「え、全部?」

「少なくとも映像が上がっているものは全部だな」

 

 なにせ、今年はウィルが凱旋門賞に出走予定なんだ。事前のリサーチを欠かすのは愚の骨頂。G1レースなんて見逃そうものならとんでもない失態だ。

 そんなわけで、今話題に上がった、イギリスで競われたオークスにも当然目を通していた。

 

 エプソムレース場、11ハロン106ヤード……おおよそ2300メートル。

 このレースを制したのは、3番人気のウマ娘。

 

 オークスに出るからには、前世世界では牝馬だったのだろう。比較的小柄な体格で、左耳には連結した3つの白いティアラ型の耳飾りを着けている。

 特徴的なクセのある金髪の上には、一筋の綺麗な流星。

 余裕と自信に満ちた金の瞳は、レース中、ただゴールだけを見つめていた。

 

 彼女は逃げウマ娘に次ぐ番手でレースを進め、最終コーナーから加速して先頭に抜け出し。

 そこから追走してくる1番人気のウマ娘と競い……残り1ハロン、つまりは200メートルで更に加速、一気に3バ身半も引き離してこのG1レースを制している。

 

 しかも、何が恐ろしいって、2着と3着の差だ。

 この子に付いて行けたのは、1番人気だったウマ娘ただ1人のみ。

 他のウマ娘たちはものの見事にそのスタミナを枯らし尽くし、2着の子から3着の子までには20バ身もの差が広がっている。

 

 それこそエルコンドルパサーとモンジューによる凱旋門賞の時のように、1着と2着の子のみのマッチレース。

 しかもその差は、G1レースとしてはあまりにも大きなものだった。

 

 正直なところ、今年の英オークスにはこれといった強烈な実力者こそいなかったが……。

 それを考慮してもなお、G1級のウマ娘を大きく千切るこれは、かなり強い勝ち方と言えるだろう。

 

 なにせ、ウィルのダービーでも大概テイオーから後ろの子には差が付いていたが、それでも20バ身も離れてはいなかった。

 日本と西洋の環境の違いもあるし、早熟具合でウィルを越えているとまでは思わないが、それでも間違いなく稀代の怪物。

 歴史的な優駿の卵……いいや、雛と言っていいだろうな。

 

 

 

 それを俺がわかっていると確認した上で、彼は聞いてくる。

 

「どう思う、これ?」

「どう、とは?」

「その後のインタビュー見ても、どう見てもホシノウィルムを意識した走りでしょ、これ」

 

 逃げと先行という脚質、そしてレースの規模の違いはあるが、終盤に伸びてきた他のウマ娘と競り合い、そして最後の最後で再点火し差し切る……。

 その点において、確かに彼女の走りはウィルを想起させた。

 

 そして何より、インタビューで彼女が語った……というか、言い放った言葉。

 

 

 

私こそ新たな竜殺しの英雄!(I'm a new dragon slayer!)

 

 

 

 「竜」とは、灰の龍とも呼ばれているホシノウィルムのことだろう。

 なにせ、今世界で最も有名な竜と言えば、ホシノウィルムに他ならないし。

 まぁ細かいことを言うと竜じゃなくて龍、ドラゴンじゃなくてウィルム。この辺はウィル検定5級のイージー問題なので是非とも覚えて帰ってほしいんだが……。

 

 それはともかく。

 

 まさか、あそこまで直球にウィルのことを意識し、そして煽って来るとは。

 

 何かの勘違いかと思い、そのウマ娘のことを調べれば、出るわ出るわ。

 デビュー以来、彼女はインタビューを受けるたび、ウィルのことや日本のレースについて語っている。

 語りまくっている。語りすぎている。

 

 今日のレースのことを聞かれれば、ウィルのラップタイムを並べて語り。

 印象に残るレースを聞かれれば、ウィルの天皇賞(春)の走りの素晴らしさを語り。

 意識しているライバルを聞かれれば、当然という顔でウィルのデビューからの来歴を語る。

 

 とんでもないファンもいたものだ。

 いやもうファンというか、あの執着っぷりはもはやストーカーのそれに近いかもしれないけれども。

 

 そんな彼女が、自分こそが竜を打ち倒す者だと言ったんだ。

 アレは「自分こそが競走ウマ娘ホシノウィルムを打倒するんだ」という意志表明だろう。

 

 デビュー時には「6月から毎月G1レースを征して凱旋門賞に出走する」なんて無理難題を語り、会場の空気を終わらせた……なんて話もあったんだが。

 実際、あのレース結果を見れば、少なくとも世代最強級という評価は決して不当なものではあるまい。

 毎月G1を征するという話もあながち冗談ではなくなってきたし、凱旋門賞への出走もやにわに現実味を帯び始めた、といったところか。

 

 ……普通、デビューして数か月ですることじゃないんだけどな、両方ともに。

 

 

 

 で。

 そんなウマ娘に、名指しで挑戦状を叩きつけられた感想としては……。

 

「別に、大して何も思いはしないよ」

 

 自分でも驚いたことに、無感動だった。

 いや、無感動とは違うか? 「面白いことをしてくれるな」とは思ったわけだし。

 

 この感情、何と言い表すのが妥当だろうな……。

 言うなれば、それこそテイオーやネイチャと競うことになった時と同じ、来たる強敵との戦いに備えなければという、静かなやる気が湧いてきているというか。

 

 そんな俺の落ち着きを不思議に思ったか、ネイチャたちのトレーナーは片眉を吊り上げた。

 

「へえ……僕が見た感じ、あの子はかなりの脅威に見えたんだけどね。そんな子に挑発されて、何も思うところはない、と?」

「先に言っておくと、脅威であることは認めるよ」

 

 実際、デビューしてから1か月強で、G1タイトルであんな強い勝ち方をしているんだ。

 その才気は、それこそトウカイテイオーと並ぶか……あるいは、それ以上なのかもしれない。

 

 先日テイオーの直感した、「ウィルが火を点けてしまった海外のウマ娘」。

 その中でも、彼女はおおよそ最高峰の素質を持つ子なんだろう。

 俺の知識も直感も、そして「アプリ転生」も……その全てが「彼女こそが凱旋門賞における最大の脅威足り得る」と告げている。

 

 

 

 ……が、それでも。

 

 ぼんやりと空を見上げながら、俺は心の中にある想いを口にした。

 

「俺は、俺の能力を信じない。つまらないミスは勿論、根本的な方針の間違いだってあったからだ。

 どう足掻いたって俺は、完璧で間違いのない存在にはなれない」

「それは誰だってそうだよ」

「だろうな。でも、誰かができないことは、自分もできないことの言い訳にはならない。

 究極的には、全てをできるべきなんだ。俺たちウマ娘のトレーナーは」

 

 俺たちトレーナーの肩には、全てがかかっている。

 1人の少女の限りある人生も、1人のアスリートの不確定な行く末も、数えきれないファンたちの熱烈な期待も……。

 あるいは、日本におけるレース興行の発展や、その先の未来さえも。

 その全てが、俺たちの双肩にかかっている。

 

 故に、ウマ娘のトレーナーであれば、その事実を正しく自覚し、背負わねばならないのだと思う。

 それを忘れ、失敗することは、決して許されないのだから。

 

「……だから、俺は俺を信じない。いつか自分が失敗する可能性がある以上、そして失敗してしまった過去がある以上、信じるわけにはいかない」

「なんというか……本当に自分に厳しいね、堀野君は」

「無能なりの方法論だよ」

 

 俺はウィルのように要領が良くない。

 だからこそ、常に自らの失敗に備える必要がある。それだけだ。

 

 

 

 ……ただし。

 それは、俺1人の場合に限るわけだが。

 

 

 

「とは言っても、そんな俺でも信じられるものはある。

 ウィルと俺で作り上げた、この世界に唯一無二の『競走ウマ娘ホシノウィルムの走り』……それだけは、ベストに近いものだと信じられる。

 だから、俺とウィルの2人でなら、負けることはない。たとえ相手がとてつもない大器であろうと、不利なフィールドであろうと、世界を相手取ろうと……変わらずな」

 

 俺はそう言い、横にいる男の方に視線を向ける。

 そして、少し驚いたような表情の友人に向けて、ニヤリと、わざとらしい程に笑顔を浮かべた。

 

「だから、ナイスネイチャにもライスシャワーにも、負けてはやらないぞ。

 俺はあの子をもっと強くする。もう二度と、誰にも負けないくらいに」

 

 

 

 ぱちくりと、その目を瞬かせていた彼は……。

 

 ……ゆっくりと、その表情を笑顔に変えた。

 これまでに見たことのない、覇気のある笑顔に。

 

「なんだか今、ようやく君と同じ土俵に上がれた気がするよ。

 上等だ。ネイチャとライスのトレーナーとして、1人の男として、その挑戦受けて立つ」

 

 

 

 その言葉の大半は、頷けるものだったんだけど……。

 一応、これだけは言っておくか。

 

「……いや、別に男とか女とかは関係ないが。ジェンダーフリーな世界だし」

「いやそういうんじゃなくてね!? ただのノリみたいなのだからねこれは、決してそういう差別的意図のある発言じゃないから!!」

 

 







 「G1で1着から3着までが23バ身差www作者流石に盛りすぎだろwww」と思われるかもしれませんが、自分は一切盛ってません。海外だと稀にあるヤツなので……。
 これだけは真実をお伝えしたかった。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、宝塚記念に向けての話。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!


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笑顔は無敵のはず、だから……!

 日常回に限りなく近い何か。





 

 

 

 時は6月中旬過ぎ。

 いよいよミーク先輩との決戦、宝塚記念が迫って来た。

 

 この戦いに向けて、私たち陣営の準備は、上々といったところだ。

 

 歩さんのトレーニングは、ちょっと前まではどこか迷いのあるような感じがしてたけど、最近はすごくカッチリとした方針の下行われてる。

 対する私も歩さんの熱意に応え、走ったり運んだり持ち上げたり勉強したりと、日々のトレーニング1つ1つに集中して取り組んでいた。

 

 そんな日々を過ごしていたから当然と言えば当然なんだけど、歩さんの分析によると、私の能力も順調に伸びていってるみたいだ。

 2200メートル距離の宝塚記念ではあまりスタミナを使わないのもあり、最近はもっぱらレース映像を見るなどの座学で戦略眼を鍛えたり、力の限りフィットネスバイクを飛ばして最高速度を上げようとしてたりが多め。

 結果として、主に最高速度や戦略眼の項目の数字が、目に見えてモリモリと上昇していった。

 

 いやあ、改めて成長が数字に出るのってすごいね。

 前世じゃあんまり筋トレとかにハマれなかった私だけど、これだけ目に見えて成長があると、モチベーションも上がろうというものだ。

 

 

 

 そんなわけで、楽しいトレーニングライフを過ごしていたんだけど……。

 勿論、私がすべきは、トレーニングだけじゃない。

 これでも一応日本最高峰のウマ娘だし、色々と表舞台に立たなきゃいけないこととかもあるわけだ。

 

 一番典型的なのがCMや広告、動画や写真の撮影で、これがなかなか時間を取るんだよね。

 数日前なんか、丸々1日取られたりもしたくらいだ。

 

 私は比較的演技が得意な方(勿論、所謂「芸能人声優とか芸能人俳優としては」という話で、それをお仕事にしてる人ほどじゃないけど)で、監督の覚えもめでたく、撮影も早めに済むことが多かった。

 だから、今まではあんまり時間を取られなかったんだけど……。

 

 その日の監督は割と凝り性……というか、私にちょっと理想を持っちゃってるような人で。

 その上、撮影予定が動画だけでも宝塚記念の広告を4通りと凱旋門賞を6通り、そして秋のレース群を3通り。更についでと言わんばかりに写真集や等身大パネルの撮影もこなす必要があり。

 

 監督の激烈な拘りによるリテイクとか、流石にかさむ疲労とか、そういう要因もあってほぼ一日かかった大変なお仕事であった。

 まぁ私はウマ娘だし、歩さんが定期的にお水とか持ってきてくれたからいいんだけど……スタッフさんたちなんて10時間くらい立ちっぱなしで水も飲んでないからね。

 後半なんか、照明さんはもう目が虚ろになっちゃってた。それでも懸命にレフ板を構える職業意識の高さは天晴だったけども、社会人の悲哀を感じたよね。

 

 そうして窓の外が真っ暗になって撮影が終わった後、カメラマンさんがへとへとの表情で「すみません監督が……」なんて私と歩さんに頭を下げに来た。

 悪いのはカメラマンさんじゃないし、というかそもそも誰も悪くはないので、「良いものを作るにはこだわりが必要ですし、気にしていません。スタッフの皆さんこそ、本当にお疲れ様でした」と返すと、すごい泣きそうな表情で「ご理解いただけて嬉しいです……今後もよろしくお願いします!」って頭を下げられてしまった。

 

 多分あのカメラマンさん、ずっと損な立ち回りをしてるんだろうなぁ。

 クセも実力もある上司を持つと大変だなーと思う。

 

 その点、私に命令を下してくる上司……上司というかパートナーだけど、トレーナーである歩さんはクセが少なくて付き合いやすい。

 いやまぁ、クセがないわけじゃないんだけどね。結構沈みがちなトコとか、自分を責めすぎるトコとか。

 でもそういう駄目なところも含めて味があるというか、「いつか自己肯定感マックスにして幸せにしてやりて~~~」って思えるんですよねこれが。

 

 ……あれ、これどっちかと言えば、ヒロインと言うよりヒーロー的思考になってないか私?

 これでも一定の乙女心はあるわけで、できればドラマチックに胸キュンするような体験もしてみたいんですけども……。

 

 でもそれ去年、めちゃくちゃにしたといえばしたんだよね。なにせ私、初恋したんですよ奥さん。これほど乙女チックな体験なんてそうそうないだろう。

 ということで、今年のトレンドは一方的じゃなく双方向の救済。

 時代は救われ待ちのヒロインじゃなく、むしろ救い合いの相互救済型ヒロイン。私にも需要はあるはずだ。多分。

 

 

 

 ……と、少し思考が逸れてしまった。

 私のお仕事の話ね。

 

 トレセン学園の上位組織、日本のレースを取り仕切る団体、URA。

 春先に凱旋門賞出走を決定して以来、あの人たちは私をプッシュすることを決めたようだった。

 いや、前からプッシュは結構されてたんだけどさ、どうやら歩さん曰く、この春はクラシック級の時よりも更に公式な仕事が舞い込んでくるようになったとのことだ。

 

 元オタク的な観点から言わせてもらうと、元はマイナーだった推しが乗りに乗って広告に出まくったりするのは、嬉しいと思うと同時に、ちょっと寂しいものがある。

 身近だった存在が手の届かないところに行っちゃった感覚と申しますか。

 

 なので、一般のお仕事が減って公式の仕事が増えることは、ちょっと残念と言えば残念だったんだけども……。

 

 ま、それも凱旋門賞が終わるまでの話だ。

 たとえ勝とうと負けようと、凱旋門賞が終われば、私の注目度はある程度下がるだろう。

 

 凱旋門賞の勝利は、今まで1度として達成されたことのない、遥かな日本の夢。

 あらゆる人から強くそれを願われると同時、大きく異なる適性や競技性から、「アスリート人生を崩すくらいなら無理をして出走しないでほしい」という意見すらある過酷な挑戦だ。

 

 だからこそ、それに挑むと決めた私をURAは推し出す決定を下し、またファンの皆は応援してくれてるわけで。

 

 まぁ、凱旋門賞が終わっても私は現役最強の1人であることは変わらないわけで、急激に仕事がなくなることはないだろうけど……。

 少なくとも、今みたいに忙しくはなくなるはずだ。

 

 ……多分。

 流石にちょっとは落ち着けるよね?

 

 

 

 * * *

 

 

 

 で、そんなある日。

 私はアンティークな落ち着いた雰囲気の喫茶店で、無意識にため息を吐いていた。

 

「はぁ……」

「ホシノウィルムさん?」

「あ、いや、すみません」

 

 名前を呼ばれて対面に人がいることを思い出して、ひとまず謝罪。

 いけないいけない、人の目の前でため息はちょっと失礼だし、なんか構ってちゃんみたいで印象がよろしくない。

 

 この人とも長くなってきたし、今更色々繕う必要はないかもしれないけど……。

 親しき中にも礼儀あり、失礼なことはしちゃ駄目だよね。

 

 実際、私の吐いたため息は、彼女に少なからず気を遣わせてしまったようだったし。

 

「そうですよね、お疲れですよね。最近はトレーニングと仕事ばかりですし。やっぱり兄さんに言ってもう少しお休みを増やしてもらいましょうか」

「い、いえ、むしろそれは困ると言うか」

「ふふ、冗談です。ホシノウィルムさんにとっては、ある意味トレーニングの日こそ休日ですもんね」

 

 そう言って穏やかに笑うのは、私の想い人の妹さんである、堀野昌さんだ。

 彼女はまさしく良いトコの出という優雅な所作で、ティーカップの紅茶を口に含む。

 

「トレーニングして体力回復できるなら良いんですけどね。休む必要もなくなりますし」

「普通、トレーニングって避けたいと思うものらしいですよ?」

「変わった人たちもいるんですねぇ」

「ええ、そうですね。案外近くに」

 

 私たちは軽口を交わして、冗談めかしてクスクス笑う。

 

 

 

 私たちの陣営のサブトレーナーを勤める彼女とは、こうして度々、個人的なお話をさせてもらってる。

 大体1か月に1回くらいかな? 「近くにカフェができたので一緒に行ってみませんか?」とか「実家の色々で映画のチケットをもらってしまって。もしお時間があればどうでしょうか」とか誘ってもらえるんだよね。

 

 昌さんは歩さんと違って、コミュニケーション重視の人だ。

 いや、重視っていうか、なんとなく「兄さんの不足分はこっちが補わないと」って思ってるような空気を感じるので、わざとそうしてるのかもしれないけども。

 

 とにかく、彼女は私たち担当ウマ娘と、積極的にコミュニケーションを取ってくれる。

 トレーニング後の差し入れくれたりとか、LANEで長々とした雑談に付き合ってくれたりとか、さりげなくトレーニング方針に不満がないか確認してくれたりとかだね。

 

 そういう時の彼女は、普段のカッチリした様子とは違って結構フランクで、歩さんの幼少期のエピソードとか大学時代にあったこととか、色々と教えてくれたりする。

 で、そういう時の昌さん、すっごい話上手いんだよね。抑揚の付け方とかが、なんというか、自分の話を聞かせるのに慣れてる感じがして、聞いてて面白い。

 

 そんな彼女のコミュニケーションの一環が、こういうお話だ。

 カフェとか昌さんの部屋とか私の部屋とかの落ち着けるところで、1、2時間くらい個人的な話をする。

 今年に入ってから定着した、定期的なイベントである。

 

 ところで、私にとって堀野昌さんは、ただのサブトレーナーというだけじゃない。

 彼女は、堀野歩さんの妹さんでもあるんだ。

 つまるところ、将来的にも一緒にいたい想い人の妹さん……将来家族になる(予定)の人である。

 

 そう考えれば、彼女と親しくなるに越したことはない。

 あ、今捕らぬ狸の皮算用って言ったヤツは後でターフな。2000メートルで私に勝てるまで走らせ続けてやる。

 

 ……それと、ついでに。

 妹であり、歩さんのことをよく知ってるであろう彼女に、好きなモノとかコトとか性格とか仕草とか、そういうのを教えてもらえればなぁという私欲が混じってることも、まぁ否定はできないよね。

 

 

 

 現在、ホシノウィルムと堀野歩の間には、レベルマックスの信頼関係がある。

 ペルソナ的に言えば既に大切なものとかもらってコミュもしくはコープマックスになってる段階だ。

 

 こればっかりは流石に、思い上がりとか浮かれてるとかじゃなく、事実だと断言できる。

 私たち、それぞれの思い残しをレースを通して解消したコンビだからね。

 物語的にはメインストーリー終了後のコンビみたいなもので、そりゃあ信頼関係はバチバチだ。

 

 が、多分それは、恋愛感情には繋がっていない。

 ペルソナ的には、親友ではあるけど恋愛関係ではない状態。

 現実的には、いわゆる「優しい人だとは思うよ?」みたいな状態なのである。絶望。

 

 まぁ、中等部の学生と恋愛するとか、成人男性としてはどうかとは思うので、ある意味今の状態がベストではあるんだけどさ。

 私、一応前世じゃ大学まで行ってますし? 歩さんと恋愛関係になっても、精神的な意味ではなんら問題はないと思うわけですよ。

 

 とは言っても、心はともかく体は中等部なんですけど。

 ……というか、中等部というよりは初等部レベルの矮躯ではあるんですけども。

 

 出っ張るところは出っ張ってないし、つるつるすとーんな体つき。おおよそ女性的な魅力はゼロと言っていいだろう。

 そしてこれまでを見てる感じ、歩さんにはペドとかロリ趣味はないっぽいんだよね。安心すべきか落胆すべきか微妙なことに。

 

 肉体的魅力に欠ける私は、精神的に歩さんを堕とすしかない。

 そのためにも、あの人のことを教えてもらえるのは万々歳なのであった。

 

 

 

「ホシノウィルムさん?」

「あー……いや、ごめんなさい。何でもないです」

 

 数瞬黙り込んだ私に対して、怪訝そうに昌さんが名前を呼んでくる。

 どうやらちょっと考え込んでしまっていたみたいだ。いや、ホント申し訳ない、どうにも今日はボンヤリしてるな。

 

「昌さんの言うのも、ちょっとあるかもしれませんね。疲れがたまってるのかも」

「ホシノウィルムさんにも疲れって溜まるんですね」

「……私のこと、化け物か何かだと思ってます?」

「走っても走っても止まらない悲しきバーサーカーとは思っています」

 

 そう言って冗談交じりに笑った昌さんは、一転表情を心配へと変えて、言ってくる。

 

「いくらウマ娘とは言っても、流石に体力の上限はありますよね。一昨日の仕事なんて、23時まで続いてしまいましたし」

「そうですね……正直、ちょっと疲れはあるかもです。

 でも、この程度なにするものぞですよ。歩さんの感じてる疲れに比べれば全然でしょうし」

 

 冗談交じりに歩さんを比較対象に挙げると、昌さんの眉がきゅっと寄る。

 

「アレと比べちゃいけませんよ。兄はその辺、文字通りの人でなしなので」

「人でなし」

「どれだけ苦痛を感じても止まれない……いえ、今は止まらない、が正しいかな。

 担当ウマ娘のためとあれば、頭の割れそうな頭痛を感じても平然と動く人ですから」

「えぇ……それは……」

 

 思わず唸った私を前に、昌さんはテーブルに置かれた紅茶を軽くかき混ぜながら、仕方なさそうにため息を吐いた。

 

「苦痛を感じることが行動を止める理由にはならないんですよ、あの人は。人として大事なところ……自分を大事にするっていう価値観が壊れているんです。

 まぁ、とはいえ前よりはだいぶマシにはなりましたけどね。最低限の健康管理はしてるみたいですし、限界が近づけば極稀に頼ってくれることも増えましたし」

「昔は今より酷かったんですか……?」

「えぇ、明らかに。初等部の頃から3日4日の徹夜は当たり前、それこそ気絶するまで勉強なり鍛錬なりを欠かさない阿呆……いえ失礼、化け物の類でした」

 

 あんまり良い言い方に変わったように感じないのは気のせいだろうか。

 ていうか、初等部の頃から3日4日の徹夜って……それでよくちゃんと成長できたな歩さん。

 

 

 

 私が歩さんの初等部時代に思いを馳せていると、昌さんは急に、その頭を下げてきた。

 

「けど、今は……担当ウマ娘のことを十全にサポートするためとはいえ、きちんと休むことや体調管理の重要性を多少は理解してくれました。

 ホシノウィルムさん、あなたのおかげです。改めて、愚兄の妹として感謝させてください」

「私、そんなに何かしたってわけではないと思うんですけど……」

「いいえ、あなたのおかげですよ」

 

 頭を上げた昌さんは、一口紅茶を啜って、苦い顔をする。

 多分、ただ紅茶の苦みを感じたってわけじゃなく、過去の思い出を噛みしめているんだろう。

 

「兄さんは、私や兄貴が……ああ、長兄のことです。私たちが何を言っても、行動を改めませんでした。

 それが何故かと言えば簡単で、その行動を……兄さんが『やるべきだ』と思った行動よりも、高いモチベーションになる動機を、兄さんに与えられなかった。

 『彼女』の呪いのような言葉を超える何かを、私たちは兄さんにあげられなかったんです」

 

 昌さんの口から聞かされた、歩さんの過去。

 かつて出会った女の子に乞われた「助けて」という言葉を聞いてあげられず、その子は手の届かないところで亡くなってしまった、と。

 

 その何気なく発された一言に、歩さんは呪われた。

 誰かのために、何かを為すために、自分は努力し続けなくてはならないと、その心の臓の奥深くに刻み込まれてしまった。

 

 そしてそれは、自分の体や命より、あるいは愛する家族の言葉より、尚重かったんだろう。

 

 

 

 けれど……。

 

「だからこそ、去年兄さんが帰省して来た時には驚きました。『ただ1人のウマ娘を担当するために堀野の在り方を捨てる』なんて言い出すんですから。

 より多くを救うのではなく、誰かを救えるようにあるのではなく、ただ1人のみに執着する。

 それはつまるところ、あの呪いに等しい言葉を超えるくらいに、何かに惚れちゃったってことを意味してるんですから」

「惚れる、ですか……」

 

 あの人を惚れさせたなら、それほど嬉しいことはないけど……。

 ここで言う意味は、違うんだろうな。

 

「ええ。兄さんは宝塚記念で、あなたに……競走ウマ娘ホシノウィルムの走りに、心を奪われた。

 その走りを支え、より高めることが、兄さんにとっての最優先目標になった。

 ……その体験がなければ、きっと今も、兄さんや『彼女』は……」

「彼女?」

 

 何気なく出た言葉の文脈が掴めずに聞き直すと、昌さんは一瞬だけ硬直した後、頭を振った。

 

「……いえ。とにかく、ホシノウィルムさんがいなければ、兄さんは今も、駄目駄目バ鹿兄さんのままだったでしょう」

 

 そう言う昌さんは、その顔に薄い安堵感と……ほんの僅かな、寂寥感を浮かべていた。

 

 

 

 私が何と言えばいいかわからずに口をもごもごさせていると、彼女は表情を穏やかなものに戻しながら、私に微笑みかけてくる。

 

「だから、ホシノウィルムさんには感謝してるんです。本当に、愚兄がいつもお世話になっております」

「い、いえいえ! その、むしろこちらがお世話していただいてる側ですし! お互いに助け合っている関係と言いますか!」

 

 実際、私も歩さんのおかげで救われたんだ。

 

 過去を振り切ることができたのは、あの人だけじゃない。

 両親との死別をずっと引きずって、あの冬の寒さに凍え続けていた私に、彼は寄り添ってくれた。

 献身的に支えて、私が走りを楽しめる環境を作って、多くの人に愛されているって実感をくれた。この世界に生まれてきたことを認められる機会を作ってくれたんだ。

 

 それは、もしかしたら、彼の心の内にあった強迫観念から来るものだったのかもしれないけど……。

 

 ……でも、きっと。

 今の歩さんが当時の環境に置かれたとしても、同じことをしてくれたと思う。

 

 あり得ないくらい真面目な努力家で、不器用だけど優しくて、すごく後ろ向きだけどそれでも一生懸命で、どこまでも担当ウマ娘のために頑張ってくれる。

 私が好きになったのは、そういう人だから。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 なんだかちょっと恥ずかしくなってもじもじと揺れる私を見て、昌さんは少し目を見開いた後、ため息を吐く。

 

「……しかし、こうして普通の女の子らしいところを見ていると、改めてあなたをあんなに頑張らせてしまったことに罪悪感が湧いてきましたね」

「あ、そういえば、ここ数日の頑張りの話でしたね」

 

 かなり話が逸れてしまってたけど、元は私の疲労がヤバめというお話だった。

 

「まぁでも、明日は1日お休みをいただいてますし、ちょっとここ数日立て込んだだけですよ。

 それに、私とか凱旋門賞の注目度を考えたら、これでも結構お仕事減らしてもらってる方なんじゃないですか?」

「……よくわかりますね。確かに、兄の方からURAに言って、ある程度抑えてもらってはいますが」

「需要と供給を考えたら、私の露出なんてどれだけあっても良い状態でしょうしね」

 

 手前味噌な話だけど、ホシノウィルムは日本現役最強と言っていいウマ娘だろう。

 なにせ天然チートな努力の鬼である歩さんに支えられる、ガチでチートな転生ウマ娘なんだもの。そりゃあ天下の1つや2つは取って当然という話。

 

 で、そんなウマ娘が日本の夢であり世界最高峰のレースである凱旋門賞に出走しようって言うんだ。

 注目度はそれこそ青天井、アイドル的にも競走ウマ娘的にも、売り込むのは今を除いて他にあるまい。

 

 

 

 

 当然ながら、私はその辺りも納得した上でお仕事をコツコツこなしていたわけだが……。

 

 昌さんは私に向かって、軽く小首を傾げた。

 

「普通、中等部の頃って、自分に求められるものを客観視したり、理屈で自分を納得させたりできないと思うんですけどね。最近の子、あるいはウマ娘って早熟なのかな」

「あー、どうでしょう。そうかもしれませんね」

 

 私、転生ウマ娘だからね。その辺の感性は、ちょっとばかり一般ウマ娘とズレてると思う。

 ……純粋な中等部の頃の私ってどんなだったかなぁ。もっと自己中心的、っていうか自分の属するコミュニティのことばっかり考えてたような気がする。

 

 子供の世界って狭いもので、家庭とか友達関係だけが全てだ。

 じき成長すれば、そこの外にも色んな数と種類の世界があるってことを知ることができるんだけど……それを知らない間は、狭いコミュニティだけが唯一の世界。

 だからどうしても、そのことばかりを考えてしまうわけだ。

 

 でも、私は前世で大学まで進んだ人生2周目系ウマ娘。

 当然ながら他のウマ娘と比べて、多少は精神的に成長しているとも。

 ……まぁ、本能を抑えるのは、ちょっと苦手気味ではあるけども。

 

 

 

 と、そんなことをバ鹿真面目に言うわけにはいかないし、もう1つの理由の方を言っておこうか。

 

「そうですねぇ……やっぱり、支えてくれるファンの為なら頑張れますよ。いつも応援してもらってるせめてものお礼みたいなものです。

 なにせ今回の宝塚記念も、凱旋門賞程ではないにしろ、かなり期待されていますからね」

 

 宝塚記念。

 これは有記念と並ぶグランプリレース。

 出走できるウマ娘がファンによる投票によって決まる、ちょっと特殊なG1レースである。

 

 普段のレースは、それまでのレースから判断されるそのウマ娘の実力や、付いているファンの数などの複数の要素を基準として、URAが出走の可否を決めている。

 これに対してグランプリは、ファンが望み投票さえすれば、多少実力にギャップがあっても出走が可能。

 普段G1には出てこないけど味のある走りをするウマ娘なんかも見ることができるわけだ。

 

 故にこそ、宝塚記念は上半期の人気上位のウマ娘による決戦となる。

 トゥインクルシリーズでも有数の一大レースである有記念に比べれば流石に劣るとしても、ファンにとっては待ちに待った垂涎のレースに他ならない。

 

 で、私は去年、初のクラシック級での宝塚記念勝利を飾った。

 これが世間的には結構ショッキングな出来事だったらしく、今でもメディアの方で取り上げられるとこれについて話されることもあるくらいだ。

 ホシノウィルムの成し遂げた最初の奇跡。覆した最初の不可能としてね。

 

 そして、だからこそ。

 私の宝塚記念連覇を望む声は、かなり多い。

 

 宝塚記念に2年連続で優勝したウマ娘は、これまでに存在しない。

 なにせ上半期の決戦だ、連覇は不可能……と言う程ではないにしろ、少なくともこれまでに叶えられたことのない偉業ではある。

 

 私の最終目標は、それこそ不可能に近いとされる凱旋門賞の勝利。

 前人未到の領域に足を踏み入れるための第一歩として、まずは宝塚記念連覇を、というわけだ。

 

「期待してもらってるなら、それに応えたいと思うのは自然なことでしょう。レースでも、プロモーションでも。

 私が多少頑張って皆が楽しめるなら、それに越したことはありませんしね」

 

 我ながら殊勝なこと言ってるなーとは思うけど、我ながら驚くべきことに、これが本音だ。

 いつも支えてもらってる、応援してくれているファンへの恩返しなら、今の私は多少は頑張れる。

 それが回り回って自分のためになるのなら尚更だ。

 

 

 

 でも、そのためには1つ、条件があるわけで。

 

「だから、私が今ちょっと疲れ気味ってこと、歩さんには秘密にしててもらえませんか……?

 多少疲れてるとは言ってもまだまだ大丈夫ですし、あんまり心配かけたくもないので」

 

 歩さんは、噂では冷徹とかスパルタとか言われてるらしいけど、実際はめちゃくちゃに心配性な人だ。

 私が疲れ気味だなんて知れば、今以上にトレーニングやお仕事を減らしてしまうかもしれない。

 

 その気遣い自体はありがたいけど、でもそれは私の望むところじゃない。

 私は今、ちょっとくらい頑張ってでも、できることをしたい気分なんだ。

 

 でも私のその言葉に、昌さんはちょっと困ったように眉を寄せた後……。

 ふぅと息を吐いて、言った。

 

「別に、私が黙っておくのは構いませんけど……」

「ありがとうございます」

「いえ。ただ、あまり意味はないと思いますよ」

「え? いや、でもやっぱり歩さんに無用な心配はかけたくなくて」

「そうではなく……まことに腹立たしいことに、あの兄はことウマ娘の体調に関して、読み間違えることは殆どないですから。あなたが疲れ気味であることにも気付いているはずです」

「確かに……そうですね」

 

 脚の耐久性とか寿命はともかくとして、歩さんが私やブルボンちゃんの単純な疲労の度合いを読み間違えたことは、これまでになかったはず。

 

 でも、気付かれてるんだったら、何かしら言ってきそうなものだけど……。

 怪訝に思いながらカフェラテを啜る私に、昌さんは「これはあくまで推測ですが」と前置きした後、語った。

 

「認めるのは癪ですが、兄さんもいつまでもクソアホニブチン大バ鹿野郎ではありませんから。あなたの意図を汲んで融通を利かせているのかもしれません。

 あるいは、それこそファンの方々と同じように、ホシノウィルムっていう競走ウマ娘に期待して、夢を見てるのかも。

 ……ま、ただそうすべきと判断してるだけかもしれませんが」

 

 昌さんは冗談っぽく言って、軽く肩をすくめた。

 

 歩さんが、私に、期待してくれてる……。

 当たり前のことかもしれないけど、そう思うと、胸に中にうずうずとした衝動が湧いてくる。

 

 そっか、そうだよね。

 何よりまずは、パートナーの期待に応えないと、だ。

 

「どちらにしろ、本当に厳しくなればストップが入るはずです。

 それまでは……そうですね。私たちと一緒に頑張りましょうか」

 

 仕方なさそうに笑う昌さんに、私は心の底からの笑顔で応えた。

 

「はい!」

 

 

 

「あ、それとホシノウィルムさん、こんなことを言うのは心苦しいんですが、その顔はあまり公の場ではしない方が良いかもしれません」

「え!?」

 

 

 







【速報】ホシノウィルムさん、自分の笑顔の異常性に気付く【ようやく】



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、宝塚記念前編。
 こんな空気のまま突っ込んでいいのかと思わなくもない。



(雑記)
 クソデカぬいぐるみ、普通に需要ありそう。

(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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稀中必殺の領域展開

 宝塚記念、開幕。
 まずは堀野君視点から。





 

 

 

『票に託されたファンの夢、想いを力に変えて走るグランプリレース、宝塚記念!

 上半期の決戦、そしてホシノウィルムの夏の国内最終レース……ついにこの日がやってきました!

 去年、史上初めてクラシック級でこのタイトルを勝ち取った龍は、続けて連覇という次なる奇跡を起こすことができるのでしょうか?』

『ホシノウィルムにとっては、同時に史上初の春のシニア三冠もかかったレースでもあります。これを達成すれば国内最強という称号は決して揺るぎないものとなるでしょう。今も観客席からは大きな期待が声と熱の形で伝わってきます。

 果たして勝つのは常識破りの灰の龍か、それとも彼女を破って新たなトゥインクルシリーズの主役が現れるのか』

 

 

 

 担当2人とコツコツトレーニングを重ねている内に……。

 ついに、この日がやってきた。

 

 G1、宝塚記念。

 ホシノウィルムにとって、凱旋門賞以前の最後の国内レースとなる、決戦の日だ。

 

 

 

 レースの舞台は阪神レース場。

 中央トレセンから車を飛ばしても数時間かかる、そこそこの遠征となる。

 

 移動中はまともに手足も伸ばせない。ウマ娘によってはそれだけでも調子を崩してしまうこともあるんだが……。

 こと俺のウィルには無用な心配だ。

 

 今日も今日とて、ホシノウィルムは絶好調。

 先程控室で別れた時も、満面の笑顔で「最高の走りを更新してきますね!」と、鼻息荒くむふーっとしていた。

 

 思わず苦笑が漏れてしまいそうになるくらい浮かれている様子だったが……。

 だからと言って、レースに集中できてないわけじゃないのがウィルの面白いところ。

 

 「アプリ転生」で見ても、俺自身の目で見ても、今の彼女は最高の状態。

 天皇賞(春)の時点から更に問題点を解消し強みを伸ばし、ステータス的にも大きく成長している。スキルも新規に習得し、勿論調子も「絶好調」だ。

 

 正直なところ、彼女というウマ娘をここまで育てたことを自慢にすら思える、良い仕上がりだった。

 彼女は間違いなく、俺と彼女で作り上げた「ホシノウィルムの走り」、その現時点での最高到達点を見せてくれるだろう。

 

 そして、だからこそ……。

 同時にそれが、恐ろしくもあったんだが。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「それで、今回の分析はどうなの?」

 

 ターフの状態を観察していたところで、横から声がかかる。

 見れば、買って来たばかりのアツアツのお好み焼きを呑み込んで、隣にいる昌がこちらに視線を投げて来ていた。

 

 察するに、いつも通りレースの分析を話せということだろう。

 もはや毎度恒例の質問なので俺も疑問を挟むことはなく、先程見たパドックでの様子も含め、今判明している情報から推察できることを口にする。

 

「まず、先月の作戦会議でも行ったが、改めて前提情報を共有しておこう。

 今回の宝塚記念の最大の特徴は、ホシノウィルムとダイタクヘリオス、メジロパーマーと、比較的珍しいはずの大逃げウマ娘が3人も揃っているところだろうね」

 

 本来逃げ、そして大逃げは勝ちの定石ではない。

 G1級の大逃げウマ娘なんて、そうそう多くはないはずなんだが……。

 何の偶然か、去年の有記念に続いて、グランプリレース2連続での大逃げ3人態勢だ。

 

 その上、前回とは3人中2人が別人ときた。

 ウィルを育てた俺が言うのもなんだが、どうなってるんだこの周辺の世代は。いくらなんでも大逃げウマ娘が多すぎる。ブームでも来てるんだろうか。

 

「それぞれの実力で言えば、ダイタクヘリオスは4番人気に推されているだけあって、これまでもマイル区間で何度か好成績を残しているし、この2200メートルという距離ならば十分に活躍が望めるだろう。……まぁ、彼女には人気が高くなると敗北するというジンクスもあるんだが。

 一方メジロパーマーは、1か月前の新潟大賞典から逃げ戦法を確立したばかりで人気も決して高くはないが、新潟大賞典の逃げ脚には鋭いものがあった。古豪で競り合いにも強い印象があるし、決して油断できる相手ではないといったところか。

 そこに我らがホシノウィルム。こうして大逃げが3人もいるんだ、序盤の展開は過酷になるだろうな」

 

 逃げウマ娘、特に大逃げウマ娘は、その多くが後続の存在感を悟らないためにこそ、大きく逃げを打つ。

 つまりミホノブルボンのように、他のウマ娘の存在を感じると掛かってしまい、まともにレースができなくなるケースが多いわけだ。

 

 特にダイタクヘリオスはその傾向が顕著であり、競うウマ娘がいれば十中八九掛かるだろう。

 また先頭を走ることを主眼とするメジロパーマーは、ほぼ間違いなくそこに追従するはず。

 他のウマ娘たちはそのペースに付いて行こうとして自然とレース自体のペースも上がるだろうし、先頭から番手までの距離が開けば仕掛けどころの難しいレースにもなってくる。

 

 流石に、無制限に加速するサイレンススズカや、後半のことを考えずエンジン全開してくるターボのいた有記念程に、えげつない展開にはならないと思う……思いたいが。

 

 とにかく、このレースは3人の大逃げウマ娘たちによる先行争いと、後続の子たちのそこに追従するか自分のペースを貫くかの選択から始まるだろう。

 

 

 

「で、その3人の中では誰がハナを切るの?」

「そりゃウィルだよ。負けるわけないでしょ」

 

 昌の問いに、迷うことなく即答。

 

 当然ながら、そんな大逃げウマ娘の激しいぶつかり合いでも、勝つのはウィルだ。

 というか、俺たちはそのために鍛錬してきたんだ。

 

 この春、ウィルに積んでもらった最初のトレーニングは、スタートダッシュ。

 有記念で序盤に消耗しすぎた反省を糧とするため、そして次回サイレンススズカと競った時に確実に勝つため、ウィルにはおおよそ最速のスタート技術を身につけてもらった。

 

 もはや序盤の先行争いでウィルより前に出られる子は、トゥインクルシリーズの中には……というか、日本の競走ウマ娘には、1人として存在していない。

 それこそ夢の舞台の名バたちだって、彼女を越えることは不可能だろう。

 

 そんなわけで、俺の読みが間違っていなければ……。

 このレースはウィルが先頭を取り、それを他の逃げ、大逃げウマ娘が追う形で始まるはずだ。

 

 

 

 で、序盤の先行争いが終われば、中盤。

 1周目の坂を登ってから第三コーナー辺りまでの話になる。

 

「中盤の見どころとしては、ユグドラバレーやエレガンジェネラルといった先行ウマ娘たちが、どこまで距離を詰めて来るかだろうな。

 序盤に空けたリードをどこまで縮められるかで、終盤に出さなければならない速度も変わって来る。しかしあまりにも中盤に気合を入れすぎれば、終盤の叩き合いに勝つだけのガッツを残せない。

 後ろの子たちにとっては、その辺りの判断の難しいレースになるはずだ」

「どの子が上がって来そう?」

「3番人気のユグドラバレーは順当に強いし、気合も入ってる。恐らく向こう正面から前めに詰めて来るだろうね。

 一方で5番人気、ウィルとは初の対戦になるミュシャレディも上がって来る可能性はあるけど……まぁ、彼女の場合は脚質も考慮して、上がるのは1600メートル辺りからになるか」

 

 どのウマ娘がどこから上がって来るかは、バ群の状態やレース展開に大きく左右されるし、正直判断し辛いところもあるんだが……。

 人気上位の2人はやはり確かな実力を持っていることもあり、おおよそ伸びて来るのは間違いない。

 

 問題は、「彼女」がどう出て来るかだが……。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「ハッピーミークさんは? 彼女も強いんでしょ?」

 

 まるで俺の想いを代弁するかのような昌の言葉に、俺は上を見上げる。

 そこに広がっているのは、この梅雨の時期にして雲1つない、気持ちが良いくらいの快晴の空模様。

 

 考え得る限り、俺にとっては展開の読みやすい、最良の状況で……。

 ウィルにとっては走りにくい、最悪の状況になってしまったな。

 

「ハッピーミークに関しては……まぁ、『恐らくこう来るだろう』という予想くらいならあるけど」

「言ってみてよ」

「引かない?」

「引く? 自分で聞いといて引くわけないでしょ」

「序盤好スタートを切ってから内に切り込んでバ群中で6番手のポジションを確保、インを突きながらポジションキープして第一コーナーを回り、第二コーナーに入ってややしてからバ群の空隙を突いて僅かに外に出ながら5番手まで上がって直線を走り、1300メートル地点前後から更に位置を押し上げて4番手、1400メートル地点からロングスパートで一気に加速してダイタクヘリオス、メジロパーマーをかわし、最終直線時点でウィルまで3バ身、そこから更に加速して差を詰め切って来る……と思う」

「キモ」

「やっぱり引くじゃん。今のは流石に俺悪くなくない?」

 

 手に持つお好み焼きを守るように身を捻られる。

 誠心誠意答えたのにこの態度、ちょっと涙出そう。

 

「いやそこまで読めるのは普通にキモいから。何なの? ホシノウィルムさんじゃなくてハッピーミークさんのトレーナーなの?」

「は? 俺はウィルとブルボンのトレーナーなんだが?」

「な、なんで急にキレ気味なのよ……冗談だって」

 

 いや全然キレてないけど。

 一瞬体が火照りかけたくらいで、これっぽっちもキレる要素はないけども。

 

 

 

 ……まぁでも、真面目な話、俺だってここまで読めるのはレアケースではあるんだよね。

 

 担当でもないウマ娘や、競う相手であるトレーナーのことを知る機会は、案外少ない。

 そのウマ娘やトレーナーの性格を知らねばあちらが立てて来る作戦は読めないし、だからこそ俺は「アプリ転生」の力を借りても、相手のウマ娘の走りを完璧に読み切ることは不可能。

 

 ……不可能、なんだが。

 ナイスネイチャなどごく一部のウマ娘に関しては、必ずしもこの限りではない。

 それはその子、あるいはそのトレーナーが、わかりやすい最適解の走りを求めるからであり……。

 

 そして恐らくは、ハッピーミークの走りは、その極致にある……のだと、思う。

 

 

 

「今回の宝塚記念に向けて、ハッピーミークのこれまでの走りを調べ直した。特に彼女が重賞に勝ち始めたシニア級1年目以降を。

 その上で、わかった。ハッピーミークの走りは、大きく分けて2通りに分類できるんだ」

「2通り?」

「G1で快勝する時の、ずば抜けて良い走り。そして、G2でも惨敗する時の、凡庸な走りだ」

 

 俺がそう言うと、昌は眉をひそめた。

 

「はぁ……そうは言うけど、ウマ娘って普通はそんなものじゃないの? ……いや、ホシノウィルムさんとかミホノブルボンさんみたいなごく一部の例外を除いて、だけどさ」

 

 流石にそこはわかってるよね? と尋ねられて、頷く。

 

 そう、ウマ娘は、いつでも最良のコンディションで走るわけじゃない。

 転生特典らしき力によってその調子を管理できる俺だからこそ、そしてレースの際に絶好調を保てる彼女たちだからこそ。

 あるいは、そんな彼女たちに影響を受けた者たちだからこそ、常に全力の走りができたんだ。

 

 一般的なウマ娘は絶好調の状態でレースに臨めることは稀だし、時には不調、そして絶不調の状態でレースに出走することもある。

 そういう意味で、走りの調子が良い時悪い時があるのは、決して異常なことではない。

 

 ……ないんだが。

 

「ハッピーミークの走りは、極端に良い時と極端に凡庸な時しかないんだ。

 勿論、レースの展開や彼女の調子次第で走りの内容は変わるから、分析が難しかったが……明らかにスイッチが入っている時と入っていない時があるように分析できた」

「……うーん。言ってること、感覚的には理解できないこともないけど」

 

 昌はそう言いながらも微妙な顔。

 そんなに綺麗に好調不調が分かれることがあるんだろうか、と考えているんだろう。

 

 うん、極めて正しい疑問だ。俺もそれは思ったし。

 

「それでいいと思う。というのも多分、これって領域の影響だし」

「領域……それがハッピーミークさんの領域ってこと?」

「多分ね」

 

 俺はそこまで言って、ちらりと左を見た。

 そこには、こちらに視線を向けながら、黙々と……あるいはもくもくとたこ焼きを頬張っている俺の担当ウマ娘、ミホノブルボンの姿がある。

 

「領域はウマ娘それぞれに十人十色。分類するにしても数々の種類がある。

 ミホノブルボンのそれのようにシンプルな自身の強化もあれば、ウィルの2着目のような複雑な条件での持久力の回復と自身の強化の合わせ技のようにな」

 

 ウマ娘の領域は、文字通りの「固有」スキル。

 それぞれのウマソウルに基づく、世界に2つとないものだ。

 

 そしてそれは、時に現実にはあり得ないような事象まで発生させる。

 

「そして、時に……シンボリルドルフの領域は、ライバルを理想のレーンから『弾き出す』のだという」

 

 ルドルフの領域に関しては、俺の前世の知識にはない話だったが……。

 いわゆる、練度を上げ続けた領域の昇華というヤツだろう。

 

 この世界ではスキルも進化するんだし、領域の効果が変わっていてもおかしくはない。

 というか、なんなら天皇賞(春)でテイオーがそれっぽい状態になってたしね。

 

「自己強化型、回復型とはまた違う、他者の行動を抑制、あるいは強制する領域……ここではわかりやすいように干渉型の領域とでも呼ぼうか。

 ハッピーミークがそれを持っている可能性は、高いと思ってる」

「なるほど……?」

 

 昌は半信半疑という感じだったが、まぁ気持ちはわかるよね。

 他人から行動を強制されるとか、俺たち人間の価値観からすると、正直実感湧かない。

 

 ただ、ウィルに聞いたところ「領域ならそれくらいはあり得ますね。なんならネイチャの2着目とかはそっち系になるかも」とのこと。

 バリバリの競走ウマ娘であるこの子の感覚で「あり得る」のなら、実際あり得てしまうのだろう。非常に恐ろしいことに。

 

 

 

「一点、疑問をよろしいでしょうか」

 

 俺の言葉が一区切りするのを待ち、たこやきもごもご状態から復帰したブルボンが声をかけてくる。

 俺が頷いたのを見て、彼女は改めて疑問を口にした。

 

「ハッピーミーク先輩の走りが極めて優れる場合と凡庸な場合の2パターンに大別されるという話と、同先輩の領域が干渉型のものであるという話。この2点はどう関連するのでしょうか」

「ああ、そこは今から話すつもりだ。ありがとう、しっかりと話を聞いてくれていたようで嬉しいぞ」

 

 人と話をしていると、結構主題を見失ったりしがちだと思うんだけど、どうやらブルボンはしっかり幹や枝葉を捉えて聞いているらしい。

 何気ないことだけど、とても偉いことでもあるので、その頭に手を伸ばし、軽く撫でようとして……。

 

 ピクリとその耳が動いたのを見て、手を止める。

 

「あ、悪い、不快か」

「……いえ。タスクの実行をお願いします」

「ああ」

 

 ペタンと垂れた耳はできるだけ避けて、いい子いい子と頭を撫でる。

 耳と尻尾を見るに、少なくとも悪い気はしていないようで安心。

 

 ……頭撫で、思春期の女の子からは嫌がられるってわかってはいるんだけどね。

 ウィルの頭を撫でてる内、すっかり癖になっちゃってるな。

 ウィルやブルボンはちょっと感性が特殊な子だからいいとしても、来年辺りから増えるかもしれない子もそうとは限らない。気を付けないと。

 

 そう思いながらブルボンをなでりなでりしている俺を、昌は「えぇ……」というどこか納得いかなそうな表情をして見ていた。

 

 

 

「さて、話を戻すが……ハッピーミークの走りの良し悪しと、干渉型領域の関係だな」

 

 そろそろ切り上げようと手を離すと、瞳にどこか寂し気な色を滲ませるもんだから、なかなか時間がかかってしまったが……。

 ブルボンが満足するまで頭を撫でまくった後、改めて話を始める。

 

「先程俺は『ハッピーミークの走りは良いか凡庸かの両極端』と言ったが、これは本来発生し得ない。何故なら、バ群やレースの展開次第では、意図せずして良い走りになったり、その逆もまた起こり得るからだ。

 特に、凡庸な走りの方はともかくとして、前者の良い走りは常に一定のクオリティを保っていた。

 これは領域により他者、もっと言えばレースのコントロールなしには成立し得ないと判断した」

「レースを操る……ネイチャさんみたいなレースメイクをするってこと?」

「いや、ネイチャやスカイのアレは本人の技量、技術だし……多分、ミークのソレはもっと不可解だ」

 

 そのレースの大雑把な流れを作る、とか。

 自分の周りの集団を風除けにして詰める位置を決める、とか。

 そういう、現実的な次元の話じゃない。

 

 何度か見たG1レースの、そして彼女が走ったURAファイナルズ決勝の映像。

 アレらを見て判断するに……。

 

 

 

「多分、ハッピーミークはその領域を完全に開けば、他の全てのウマ娘の動きを操ることができる」

 

 

 

 シン、と。

 一瞬、間が空いた。

 

 それは恐らく、言葉を聞いても呑み込めない当惑の時間。

 それが過ぎ去ると、昌は目を見開き、思わずといった感じで叫んだ。 

 

「ちょっと待って、それ……全て!? レース丸ごと領域で操るってこと!? 何それ、領域とはいえ流石にチート過ぎるんじゃないの!?」

「昌、静かに。ここはレース場だ」

「あっ、うん……ごめんなさい」

 

 周りの方にすみませんと軽く頭を下げてから、改めて彼女の言葉に応える。

 

「……うん、だいぶ法外な領域と言っていいね」

 

 今はドリームトロフィーリーグで走っている史上初の無敗三冠ウマ娘、永遠の皇帝シンボリルドルフでさえも、領域によって相手を一時的にレーン移動させるのが限界だ。

 それがバ群、そしてレース全体のコントロールとなれば、もはや離れ業と言っていいだろう。

 

「本当にそんなことができるの……?」

 

 昌がそんな疑問を口にするのは、当然の結果と言えたかもしれない。

 

 というか、俺だってこんな結論は拒みたかった。

 いくら領域って言っても限度があるぞとか、そんなことされたらもうどうしようもないぞとか、弱音を言って逃げ出したかった。

 

 でも、俺はウィルのトレーナーだ。

 今すべきは現実逃避ではなく、冷静な分析である。

 

「彼女が抜群の走りを見せる時には、一定の法則性があった。

 それは、ハッピーミークが完璧にバ群の動きを読み切った動きをしていたことだ」

「完璧にって、つまりは誰がどこで動き出すとか、誰が後ろから跳んでくるとか、そういうこと?」

「そう。明らかにそれがわかっていなければできない動きをしてたんだ」

 

 この子がこのタイミングで前に出るからそこを突いてバ群から脱出する、とか。

 後ろにこの子が付いて来てるからペースを落とさない、とか。

 

 ハッピーミークの冴えた時の走りからは、明らかにそういう思考が読み取れた。

 

 あの時、彼女には、見えていた。

 そのレースで、誰がどう動くか。バ群がどのように推移するか。

 

 ……俺にすら見えないものが。

 

「レースの想定をするにも限界はある。自慢じゃないが、俺はそこそこレースを学んで来たし眼も鍛えて来たつもりだが……それでも、全てを見通すことはできない。

 正直に言って、俺よりも学べる環境にいなかったハッピーミークが、俺以上に理論的にレースを予測できるとは思えない」

「……領域を使って、見通している?」

「いいや。見通すだけなら、彼女自身の走りの鋭さに、完全性に説明が付かない」

 

 他のウマ娘の動きを完璧に予測し、自らもそれに対応する完璧な走りをし……レースを、己の意のままに進める。

 

 それは、原義的な意味での「レースメイク」。

 自分の意のままにレースを「作る」、本来は圧倒的強者にしか許されない絶技。

 

「結論として、最も可能性が高いと俺が判断したのは……。

 ハッピーミークの領域は、『自分も含めたレース全体の動きを想定し、支配し、操り、最適な勝利のルートを辿る』もの。

 変幻自在の脚質と能力を持った彼女だからこそできる、とんでもない……それこそドリームトロフィーリーグ級でも通用するレベルの領域だ」

 

 

 

 昌は、そのあまりにも非現実的な内容に、黙り込む。

 ブルボンの方は動揺していないかと思ったが……ターフを一点に見つめるこの感じ、内容の理解に思考を費やしているな。

 

 まぁ、こればかりは動揺するなという方が無理な話。

 最強のライバルと目していたトウカイテイオーとの戦いを終えた先に、まさかこれ程の相手がいたのかと、俺だってそう思ってしまったくらいだ。

 

 ……ただ、調査を徹底している俺が今更そう認識したことからもわかる通り、彼女のその力は、決して目立つものじゃない。

 何故かと言えば、恐らくはこの領域、そう簡単に出せるものじゃないからだろう。

 

「しかしこの領域、恐ろしい効果によってのものか、かなり重い代償もあるらしい。

 恐らく彼女の領域は、とんでもなく使い辛いものだ。なにせ、これを開く条件の1つは、恐らくは俺たちにはどうしようもない、天気だからね」

「は? 天……気?」

「そう、天気」

 

 昌とブルボンが、上を見上げる。

 そこには、底抜けに青く、見ているとどこまでも落ちて行きそうにすら思える、雲1つない空が広がっている。

 

「彼女の領域が開く条件の内の1つは、『天気が晴れであること』だと思う。

 実際、これまでのレースで彼女の走りが冴えている時は、毎度晴れだった。曇りや雨の時には一度としてあの綺麗な走りは見せなかったんだ」

「偶然……じゃないの?」

「彼女の癖や嗜好を考えると、偶然ではないと思う」

 

 領域に求められるのは、強力な効果だけではない。

 いつでも使いたい時に使える、自身の走りに合った展開条件の緩さも大事な要素だ。

 

 その点で言えば、ハッピーミークの領域は、極めてクセが強いと言えるだろう。

 なにせ雨が降っていれば当然、空にある程度雲があっても、その時点で領域の展開が不可能になる。

 他に領域を使えるウマ娘がいるのなら、その時点で大きく出遅れてしまうわけだ。

 

「……1つっていうことは、他にも条件があるの?」

「あると思う。彼女の冴えた走りは、晴れていれば必ずしもできるものではないみたいだったし。

 2つの条件を満たさねば展開できないのか、ウィルの2つ目の領域と同じ2つの段階があるのかはわからないけど、両方の条件を満たさなきゃ本領は発揮できないんだろう」

「それは……なんというか、なかなか難儀な領域。その分効果が強いってこと……?」

「良い結果に高いリスクはつきものだ。それらしいことを言うのなら、より具体的で深い心象の世界を再現するためには、相応に整った状況が必要、ということだろうか」

 

 この辺りは人間の感覚では測りきれない部分なので、チラリとブルボンの方を覗く。

 

「既に領域を開いたウマ娘として、あり得る話と思うか?」

 

 彼女は数秒間の黙考の後、コクリと頷く。

 

「より自らの走りに適合した状況を揃えることで、洗練された領域を用いる……。確かに、現実的にあり得る話であると思います」

「そうか……」

 

 より厳しい条件を満たしさえすれば、あれだけ苦しめられたテイオーの領域以上の効果が出てくるかもしれないわけだ。

 領域というものに若干の苦手意識を持つ俺にとって、これはかなり恐ろしいことだった。

 

 特に今日は、梅雨の時期とは思えないくらいの気持ちの良い日本晴れ。

 少なくとも、ハッピーミークの領域の第一条件はこれ以上ないくらいに満たしてしまっているはずだし。

 

 せめて2つ目の条件が満たされなければいいんだが……。

 多分、そんなに都合良く事は運ばないんだろうなぁという、嫌な確信がある。

 

 

 

「……ねぇ、さっき兄さんが言ってた展開予想はどっちなの? その領域が開いた時? それとも条件を満たせなかった時?」

「前者だね。というか、前者だからこそ読めるんだよ。なにせ、それがハッピーミークにとって、考え得る限り最適なレース展開になるはずだから」

 

 ハッキリ言ってしまうと、ハッピーミークのステータスだけを見れば、ウィルの敵にはなり得ないんだ。

 

 すべてのステータスが900前半から後半で固まった平均型、弱点がないと言えば聞こえは良いが、それは同時に、特化した強さがないことも意味している。

 サイレンススズカはスタミナや根性、賢さを捨て去ったスピード特化、スペシャルウィークはパワーや根性に長けた追い上げ巧者だったが、ハッピーミークには弱点がない分、彼女たちのような長所もない。

 

 ……そして何より、ウィルはもう、半年前の彼女じゃない。

 

 そのステータスは賢さを除いて全てが1000を越え、スキルも序盤終盤と逃げの脚質にとって肝要な部分では一切の隙がない。

 仮定の話をするのはナンセンスだとわかってはいるが、仮に今の彼女であればあの有記念だって制することができただろうと思えるくらいに、ホシノウィルムは強い。

 

 そんなホシノウィルムに、あのスペックのハッピーミークが勝つには、どのような展開の中でどのような状態であればいいか?

 

 ハッピーミークにとって最高の展開でレースが進み、彼女が彼女の全力を出し切れて、なおかつウィルが全力を出し切れない状態。

 当然と言えば当然だが、これがベストだ。

 

 そして、それはつまるところ、ハッピーミークにとってのレースの最適解ということであり……。

 それを端的にまとめたのが、先程の走りの予想、ということだった。

 

 

 

「……一応聞くけど、領域を使われたとしても、ホシノウィルムさんに勝機はあるのよね?

 レースをコントロールしてくるって、ホシノウィルムさん結構苦手な方だったと思うんだけど」

 

 眉をひそめた昌が、恐る恐るという感じで聞いて来る。

 

 いつしか動いていた箸は止まり、彼女のお好み焼きから上がっていた湯気は消えつつある。

 どうやらあの子の心配で、食事も喉を通らない状態らしい。

 

 ……まったく、何を言ってるんだか、この子は。

 

「あの子はホシノウィルムで、俺はそのトレーナーだ。それが答えだよ」

 

 俺はそう、確かな自信を持って応えた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

『さぁ、ウマ娘たちがゲートインしていきます。こうして見て、注目のウマ娘たちはどうでしょうか』

『2番人気の1枠2番ハッピーミークは、落ち着いて空を見上げていますね。ただ1人上を見上げる彼女の目にはこの先のレース展開が映っているのか。

 3番人気3枠6番ユグドラバレー、こちらも落ち着いてレースに臨めているようです。ゲートの中で深呼吸1つ、今度こそG1タイトル獲得なるか。

 そして……1番人気8枠16番ホシノウィルム、いつも通り勝気な笑顔を浮かべています。彼女の紡ぐ新たな神話に期待がかかりますね』

 

 

 

 今回のホシノウィルムは、8枠16番。

 比較的外目からのスタートで、単純な距離で言えばやや不利ではあるが……。

 

 最初の直線の長い宝塚記念では、枠順はあまり大きく意味を成さない。

 それ以上に重要なのは、彼女たち自身の実力と調子だ。

 

 その点において、今のウィル以上にポテンシャルを持つウマ娘なんて、他に存在しない。

 

 

 

『さぁ、いよいよゲートインが完了。出走の準備が整いました』

 

 

 

 ちらりと、熱に満ちた綺麗な瞳が向けられた気がした。

 

 その視線は、必ずや勝ってみせるから私を見ていて欲しいと、そう訴えかけてきている。

 

 ああ、見ているとも。

 君の、この春、この国での最後のレース。

 

 幾度目かの、起こるべくして起こる奇跡の瞬間を。

 

 

 

「行け、ウィル」

 

 

 

『……スタートしました!』

 

 

 







 ハッピーミーク
 『??? Lv8』
 天気が晴れの時……?



 うわっ……ミーク先輩の領域、強すぎ……?



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、宝塚記念中編。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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灰と白

 久々にスケジュールが狂って直前での投稿になりました。

 それはともかく、ウィル視点で宝塚記念中編です。





 

 

 

 私にとって、ハッピーミーク先輩は、謂わば白いふかふかのお布団のような存在だった。

 ふわふわで癒されて、でも身を委ねて頼ることもできる大好きなもの、って意味でね。

 

 ミーク先輩との関係は、実のところ期間的に言えば歩さんとのそれよりも長く、お世話になった親戚の方を除けばこの世界で最長のものになる。

 実に3年もの間、私がトレセン学園にやって来た直後、栗東寮に入った時から続いてるんだ。

 天涯孤独の身である私は、これ程長く太く続いた関係を他には持っていない。

 

 で、そんなミーク先輩と私は、ルームメイトとしては結構仲が良い部類に入ると思う。

 

 ミーク先輩はほわほわしてて可愛くて、見てるだけで癒される。

 それでいて肝心な時には頼れるし、なんだかんだ甘やかしてくれる包容力もすごい。

 要するに、多くの人類が思い描く理想の先輩だってことだ。

 

 そんな先輩に私は……まぁ、至極当然ながら、懐いた。

 だって、楽しいことがあれば話聞いてくれるし、辛いことがあれば愚痴も聞いてくれるし、落ち込んでれば自分のトレーナーの面白い話してくれるし、1人になりたい時は放っておいてくれる。

 これほどありがたい存在はそうそういない。もはや理解ある彼女ならぬ理解ある先輩、スパダリならぬ……何だろう、スパセニ? スパエル? って感じだもん。

 

 特に、精神的に余裕のなかった、そしてまだ歩さんのことを人として信じ切れていなかったジュニア級の頃なんか、どれだけミーク先輩の存在が支えになったかわからないくらい。

 

 そういう意味じゃ、私が救われた要因の1つには、ミーク先輩の名を挙げることもできるだろうね。

 本当に追い詰められた人って、他人からの言葉を受け入れることもできないわけで、当時歩さんからの言葉や行動を受け入れられるだけの余裕があったのは、ミーク先輩のおかげだったんだから。

 

 いや、本当に感謝するしかない。

 ミーク先輩、いつもありがとう。

 

 

 

 しかし、今思うと奇妙なことに、私たちは3年という長い時間を共にしながらも、喧嘩の1つもしたことがなかった。

 ちょっとしたトラブルなんかは度々発生したけども、毎度ちゃんとお話し合いで解決できている。

 これに関しては……私の特殊性とミーク先輩の気性故だろうか。

 

 最近は自分でも忘れちゃいそうになるけど、私はこれでも前世の記憶を持つ転生者であり、並の中等部の子たちに比べれば、幾分か精神的に大人……なハズだ。

 いやまぁ、感情を抑えるのはあの頃に比べて下手になってるし、ちょっと恋愛脳になりすぎてる自覚はあるし、ウマ娘としての本能を抑えきれてないのはわかってるけど……。

 それでも、ちょっとピキッときたくらいなら、怒りを抑え込んだり相手を認めたりすることもできる。

 

 で、ミーク先輩の方も、流石は高等部3年生と言うべきか、中等部の子たちとは比べ物にならないくらいに落ち着いてる。

 多分彼女の気性の部分も大きいと思うんだけど、世界観次第では不思議系お姉さまとして後輩たちに囲まれてもおかしくないくらい、こっちと気持ちの良い距離感を保ってくれるんだよね。

 

 それとついでに、私たちがお互い、トレーナーさん大好きだってことも理由の内に添えておこう。

 私は信頼的にも恋愛的にも歩さんのことが好きだし、ミーク先輩は同性で恋愛感情はないっぽいけど親愛と友愛なら私にも負けないレベル。

 だから、お互いトレーナーのダメダメなトコを言い合って盛り上がったり、「でもそういうところも含めてほっとけないんですよね」「……わかります。すごく」とかため息を吐いたりもできるわけだ。

 

 

 

 そんな私たちなので、自分らしい生活をしながら程々に相手に気を遣っての共同生活も、そこそこ上手くいってる。

 

 私にとってハッピーミークというウマ娘は、いつもすごく癒してくれるし、同時にもたれかかるのも許してくれる、まさしく理想を体現したような先輩であり……。

 

 

 

 ……そして同時、いつか真正面から競ってみたいウマ娘でもあったんだよね。

 

 

 

 G1レース4勝。

 

 私が言うと皮肉みたいに聞こえるかもしれないけど、これはとんでもなくすごい記録だ。

 この時点で「歴史に名を刻む」って言葉を使ってもいいくらいの、確かな優駿の証明。

 

 それも、短距離から長距離まで、芝の上なら全距離踏破だもん。こんなの、多分私ですらできない。

 更に言うと、まだ勝ってはないけどダートの上でも十全に走れるらしいし、そっちのG1レースもその内勝ち切ってしまうかもしれない。

 ハッピーミークという名前は、間違いなくトゥインクルシリーズの歴史の中に残るはずだ。

 

 どの距離でも勝てる、勝ち得る可能性を持つウマ娘。

 距離などに関係なく勝利を掴む、本当の実力を持つ存在。

 

 そんな人と走りたくなるのは、競走ウマ娘としては自然な話だろう。

 きっとミーク先輩がドリームトロフィーに上がれば、「あともうちょっといてくれれば戦えたのに……!」って悔しがるウマ娘たちが続出するに違いない。

 

 幸運なことに、私はそんなミーク先輩と戦う機会を得た。

 

 ……でも、去年の有記念じゃ、あの人との走りを存分に楽しむことはできなかった。

 

 歩さんのために走ろうと、歩さんのウマ娘として走ろうと、私は私で必死だったし。

 ミーク先輩の方も、歩さん曰く「セイウンスカイとナイスネイチャという競合他バが2人もいた」せいで、最高の走りとはいかなかったみたいだし。

 

 「有記念で決着を付けよう」なんて言ってたんだけど、やっぱり現実ってフィクション程上手くは運ばないもので、どっちも勝ち切ることはできず。

 結局あの約束も、なあなあで流れてしまったんだよね。

 

 

 

 だからこそ……今。

 私は、とても嬉しい。

 

 この宝塚記念で、ミーク先輩と走れることが。

 フランスに行く前に、今度こそ正真正銘、最も長く付き合ってきた先輩と決着を付けられることが。

 

 

 

 * * *

 

 

 

『さぁ、ウマ娘たちがゲートインしていきます。こうして見て、注目のウマ娘たちはどうでしょうか』

『2番人気の1枠2番ハッピーミークは、落ち着いて空を見上げていますね。ただ1人上を見上げる彼女の目にはこの先のレース展開が映っているのか。

 3番人気3枠6番ユグドラバレー、こちらも落ち着いてレースに臨めているようです。ゲートの中で深呼吸1つ、今度こそG1タイトル獲得なるか。

 そして……1番人気8枠16番ホシノウィルム、いつも通り勝気な笑顔を浮かべています。彼女の紡ぐ新たな神話に期待がかかりますね』

 

 

 

 快晴の下、阪神レース場。

 ゲートで待つ私たちの元にまで、実況解説の言葉が届く。

 

 レース中になると足音とか極度の集中で聞こえなくなっちゃうけど、その直前までは普通にこういうのも聞こえるんだよね。

 そこそこ距離はあるけど、私たちの耳って特別製だし、良くも悪くも結構音拾っちゃうんだ。

 

 レース前に余計なことを言われたら集中を乱されるからって、これを嫌う子も少なくないんだけど、私は案外嫌いじゃない。

 他の子たちが言う程私は集中を乱されないし、何より聞いてて楽しいもんね。

 ウィットに富んだ言い回しでレースを盛り上げてくれるのは、私たち競走ウマ娘からしてもありがたいし……。

 おまけに、私って女の子にしてはカッコ良いモノに惹かれる質だったりするので、龍とか神話とか言われるとテンション上がるんだよね。えへへ。

 

 ……と、それはさておき。

 そろそろ、レースのことを考えようか。

 

 

 

 私たちの陣営のウマ娘は、基本的に歩さんが組み上げたプランに沿って走る。

 

 けど、ネイチャやテイオーと話してみるに、どこの陣営もトレーナーのプラン通りに走るっていう形を取ってるってわけでもないらしい。

 テイオーの場合は、テイオー自身のセンスがヤバすぎてトレーナーが作戦を立てると脚を引っ張っちゃうらしいし……。

 ネイチャの場合も、得意分野だからってむしろネイチャ主導で作戦を立ててるんだとか。

 

 まぁトレーナーって、流石はその道のエリートと言うべきか、レースのことはよく理解してるけど……必ずしも全てをわかってるわけじゃないからね。

 私のトレーナーである歩さんはかなり理解のあるトレーナーだと思うけど、それでも時折「あー、やっぱりこの辺は実際に走らないとわかんないか」って部分はある。

 

 走りってどうしても理論より体感的な部分が多いし、特にウマ娘の走りは領域とか魂とか半ばファンタジーみたいな要素が頻出する。

 ちょっと言い方は悪いけど、机上の空論での理解には限界があるんだよね、多分。

 

 ただ、それでも歩さんが立てる作戦に従うのは、そのレースプランの完成度がめちゃくちゃに高いから。

 他陣営のウマ娘の分析と観察、それに基づくレースの展開予想は、必ずしも当たるってわけではないけど、それでもかなりの命中精度を誇ってる。

 

 これは他のトレーナーさんたちと比べても、かなり群を抜いたものらしい。

 今はテイオーと契約してる、かなりの大ベテランであるトレーナーさんでさえ、3~4人のウマ娘たちならともかく、18人のウマ娘によるレースの展開予想は難しいらしい。

 この前話したけど、ある程度「この子はこう出て来るんじゃないかな」というものはあっても、それらが組み合わさって化学変化を起こすバ群の動きの予想まではできないと思う、とのことだった。

 

 歩さん、本当にすごい人だ。

 流石は私のトレーナー。どや。

 

 そして、歩さんの観察眼の鋭さは、私たち担当ウマ娘にも向けられているわけで。

 自分でも完全には測りきれないスペックを熟知し、それを元に最高の走りを組み上げてくれる歩さんのプランニングは、あまりレースメイキングが得意じゃない私たちにとってこれ以上なくありがたい助けだ。

 

 

 

 当然ながら、今日の宝塚記念でもプランを組んでもらってるんだけど……。

 

 ……さて、今回は、どれ程有効に活きるだろうか。

 

 歩さんから、ミーク先輩の特異性については聞いている。

 そしてそれが、恐らくは先輩の領域に依存しているだろうことも。

 

 ミーク先輩の領域。

 その展開条件の1つ目は、天気が晴れであること。

 2つ目の条件は、推測こそできても確定情報はなし。

 今日の天気は雲1つない日本晴れだから、1つ目の条件は満たしていると思っていいね。

 

 で、その効果は……驚くべきことに、「レース全体のコントロール」。

 ここに関しては歩さんも半信半疑というか、「そうだとは思うが詳細は不明だ。とにかく自分の動きが操られる可能性があることを頭に入れておいてくれ」って感じだった。

 

 でも実際、これはあり得る話だ。

 なんてったって、領域で体を勝手に動かされることは、現実にあるらしいし。

 

 テイオーはクラシック級の頃、シンボリルドルフ先輩と模擬レースしたことがあるらしいんだけど、その時に領域の影響を受けて内ラチ沿いから叩きだされた、って言ってたんだよね。

 領域に覚醒してない状態での体感は「あまりの威圧感に道を空けてしまった」って感じだったらしいけど……普通に考えてそんなわけないもんね。テイオーああ見えて結構強心臓だし。

 

 他者に干渉する領域。

 その行動を支配する領域。

 

 これは、確かに実在する。

 そして歩さんがそう読んでいる以上、ミーク先輩は高確率で、それを持ってるはずだ。

 

 

 

「…………」

 

 ターフを眺めながら、想いを巡らせる。

 

 相手の行動を操る領域。

 あるいは、レースを支配する領域。

 

 果たしてそれは、どんな心理状態、どんな心象風景がもたらすものなんだろうか。

 

 私はミーク先輩のことを、そう多く知ってるわけじゃない。

 勿論同室である以上、他の子たち程に知らないわけじゃないけど……。

 先輩はあんまり話をする方じゃないし、自分のことを語るタイプでもない。

 そしてあの先輩とは、心が剥き出しになるような死闘を通して感情を交えたことも、まだない。

 

 だから、私にはわからなかったし、知りたかった。

 お世話になった先輩が、どのような景色の中で生きているのか。

 そして、未だ現役最強を誇り続ける古豪が、どのような走りをしてくれるのか。

 

 

 

 幸運なことに、私は今から、ハッピーミークというウマ娘のことを知ることができるはずだ。

 

 さっき本バ場に入って言葉を交わした時、ミーク先輩の瞳の奥には、揺らめく熱があった。

 そしてその熱は、口よりも行動よりも雄弁に、私に告げていたんだ。

 

 あなたを倒してみせる、と。

 

 ダービーの時のテイオー、菊花賞の時のネイチャ、ジャパンカップのマックイーン先輩に有記念のスペ先輩。

 彼女たちと同じ、チャレンジャーの目であり、同時に強者の目。

 煮え滾り暴れ狂う競走ウマ娘の本能を飼い馴らし切った、静かながらギラついた目。

 

 あの目をしたウマ娘が、弱かった試しがない。

 

 きっとミーク先輩は、このレースの中で、領域を完全に開き切る。

 歩さんの読みが正しければ、私の行動は干渉され、コントロールされてしまうだろう。

 果たしてそれが、これからどんな結果を生むか、今の私にはまだわからないけれど……。

 

 1つ、確かなことは。

 

「……寒い」

 

 これが、私が本気の本気を出すに値する、最高の走り、最高のレースになるだろうってことだけ。

 

 

 

『さぁ、いよいよゲートインが完了。出走の準備が整いました』

 

 

 

 ゲートが開くのを待つ間、ふと視線を向けた先で、歩さんと目が合う。

 

 レース直前のウマ娘とトレーナーに、今更言葉なんて必要ない。

 視線だけで心を交わして、一言。

 

「行ってきます」

 

 私は脚に渾身の力を溜め……。

 

 

 

 

 

 

『……スタートしました!』

 

 

 

 

 

 

 ゲートが開いた刹那、解き放った。

 

 当然、誰よりも早い出だし、誰よりも速い加速。

 このレースには大逃げウマ娘が他に2人も参加しているわけだけど、それでも私が頭1つ抜けて、速い。

 

 一歩、二歩、三歩。

 持ち得る限りの力を芝にぶつけて、加速。

 

 ……よし。問題なく、スタートは成功だ。

 

 

 

『ちょっとばらついたスタートになりました、ワイズマンレイズややタイミングが合わなかったか。

 さぁ先頭を行くのはホシノウィルム、大方の予想通りに連覇の夢を懸けてホシノウィルムが先頭に立ちました!

 続くのはメジロパーマー、それから外からエレガンジェネラル、エレガンジェネラルが先行で続きます。そして8枠の2人に挟まれるようにしてダイタクヘリオス、そしてユグドラバレーもここに追走!』

 

 

 

 このレースには、3人の大逃げウマ娘が参加してる。

 1人は、マイルを中心に結果を残してる、ダイタクヘリオス先輩。

 もう1人は、ついこの前逃げ戦法を確立したっていう、メジロパーマー先輩。

 

 有記念でもそうだったけど、大逃げウマ娘の天敵は大逃げウマ娘だ。

 スズカ先輩にとっての敗因がツインターボとホシノウィルムだったように、ホシノウィルムの敗因もまたツインターボとサイレンススズカだった。

 誰よりも先頭を目指す私たちは、先行争いの果てに互いを過熱させ、互いのスタミナを無駄に削り合ってしまう。

 

 ……けれど、今回に限っては、そして私に限っては、問題にならない。

 なにせ、2200メートルを走るには、十分すぎるスタミナを持っているんだもの。

 

 

 

『第1コーナーに入りバ群が綺麗に形成されましたが、先行集団と追込集団が綺麗に2つに割れましたね。

 3人の逃げウマ娘たちのデッドヒートに付いて行くか、あるいは自分のペースを守るか。選択の難しいレースとなりました』

 

 

 

「…………」

 

 それぞれのウマ娘の位置を確認。

 

 後方2バ身、外めから鳴るのは、やや荒れた足音。

 この前の天皇賞で確認した、メジロパーマー先輩のものだ。

 

 その後に続くのが、こっちは去年の有記念で聞いた、ダイタクヘリオス先輩。

 そこにエレガンジェネラル先輩が続いて……。

 横並びした、ちょっと無理してる感じのあるウマ娘の足音は、まだ聞いたことがないな。

 

 で、その後方の足音は、ちょっとごちゃ付きすぎててわからない。

 ミーク先輩の足音は、スタートの時一瞬だけ聞こえたけど、すぐにバ群に潜ってしまった。

 少なくとも6番手以降に付いているわけで、もしかしたら先行じゃなく差しを狙ってるのかもしれない。

 

 あるいは……ギリギリ私に悟られない位置で、足音を気取られるのを避けてる、とか?

 

 ……いや、それはあり得ないかな。

 私の聴覚の聞き取り範囲の限界は、私自身にしかわからない。

 どの程度距離を空けて、どの程度バ群の中に入れば私が認識できないか……なんて、そんなこと他人がわかるはずもないし。

 

 

 

 ……まぁ、ひとまずそれは置いておこう。

 今は他人の走りより自分の走りだ。

 

 今回歩さんが立ててくれた前半のプランは、あまり大きく離し過ぎず、後半に向けて脚を溜めること。

 とは言っても、ある程度はリードも広げないといけないし、メジロパーマー先輩とダイタクヘリオス先輩を除いて7、8バ身は離させてもらうけど……。

 先行集団に対して、聴覚の限界である10バ身までは開かない。

 いつミーク先輩が仕掛けて来るか聞ける位置で走っておかないと、奇襲をかけられるかもしれない。

 

 不意打ちで領域を開かれて、体の制御を奪われてまともに走れなくなる、っていうのが今回の最悪の展開なんだから。

 

 

 

『大観衆の夢を乗せて走る第2コーナー。トウカイテイオー、メジロマックイーン共に不在ではありますが、やはりこの子、ホシノウィルムが宝塚記念を面白くさせてくれます!

 先頭は依然として16番ホシノウィルム、そして2番手には3バ身程開いて12番メジロパーマー、外から3番のダイタクヘリオス、ここまでは平均ペースか?』

 

 

 

 レースは順調に進んでいる……ように、思えた。

 

 私は後続を引き離して、確かに先頭に立っている。

 きちんと盛り上がりつつも落ち着けているし、走るポジションもコース取りも悪くないし、このまま第3コーナーまで駆け抜けるのが上策のはずだ。

 

 

 

 だけど……。

 

「……?」

 

 レースが進むにつれて、徐々に小さな違和感が芽生えて来た。

 

 なんか……。

 なんか、遅くないか?

 

 第2コーナーも中間、ここまでで既に800メートルは過ぎてるはず。

 このレースにおける行程の、実に3分の1が終了していることになる。

 

 ……だというのに、脚や肺にかかる負担が、思ったよりも軽い。

 

 ブルボンちゃんみたいに正確な体内時計を持ってるわけじゃない私は、今のペースがどれくらいかなんて、感覚的にしかわからないけど……。

 

 少なくとも、大逃げウマ娘3人が先頭を争うレースにしては、消耗が少なすぎる気がする。

 

 いや……いや、違う。そうじゃない。

 大事なのは、何かがズレてるような……間違ってるような……そんな、微かな違和感。

 

「これは……」

 

 その違和感は、一度気付いてしまえば、チリチリと肌を刺激してくる。

 けれど、それが具体的に何なのか、そして何がおかしいのかが、理屈で割り出せない。

 どこかで覚えがあるような気はするけど、それがどうにも思い出せない。

 

 確かに、レースのペースは遅い気がする。

 でもそれは、時に起こることだ。

 バ群の展開、それぞれの調子、レースのコースやバ場次第では、自然とペースが落ちることもある。

 

 だから、違う。

 本質的に言えば、レースの遅いこと自体が問題なんじゃない。

 

 問題はそれ自体じゃなく、何故大逃げウマ娘が3人もいるレースで遅くなったかの理由の方で……。

 そして何より、この走れば走る程、僅かずつ増えていく、違和感だ。

 

 

 

『向こう正面に入りまして、先頭は依然としてホシノウィルム! 続いて2番手にメジロパーマー3番手にはダイタクヘリオス、この並びは変わらずといったところ。

 そこから少し間を置いて2番のリボンガボット、やや前に出た2番人気ハッピーミークが続き、ピンクの勝負服エレガンジェネラル、3番人気の6番ユグドラバレーはここにいる! 悲願のG1制覇なるか!?』

 

 

 

 向こう正面に入って数秒、ミーク先輩の足音が聞こえ始める。

 

 ここで位置を押し上げてきたか。

 歩さんの読み通りだ。

 「ハッピーミークが最高の走りを見せる条件が整えば、彼女はそうしてくるはず」と、歩さんはそう言っていたし……。

 

 ……?

 

 いや、待て、おかしい。

 おかしい? 何が? いや、待て、今何を考えてた? 何に引っかかった?

 クソ、なんか頭が回ってないぞ、どうしたんだ私。

 

 ミーク先輩は最高の走りを見せる条件が……つまりは領域の展開条件が整えば、歩さんの読み通りの最適な走りをしてくる。

 その領域こそが、ミーク先輩の走りを研ぎ澄ませる。

 

 でも、おかしい。

 領域が開けるかどうかは、今のところわからないはずだ。

 だって領域の条件が満たせればそのまま開くはずだし、ミーク先輩はまだ領域を開いては……。

 

 

 

 

 

 

 ……開いて、る?

 

 

 

 

 

 

 ゾクリと、胸の底から怖気が込み上がる。

 次いで思うのは、困惑に混乱、焦燥と、それから不甲斐ない自分への怒り。

 

 なんで今、ここに至るまで、気付かなかった?

 

 気付く契機はいくつもあったはずだ。

 

 妙に回らなかった頭。

 異様に遅くなったペース。

 そして何より……後方から感じる、ほんの僅かな圧力。

 

 そんなはずがないと、無意識に否定していたのか。

 これに常識なんて通じないって、私は誰より知っていたはずなのに……。

 

 ……あるいは、思考すらも操作されているのか?

 

「やられた」

 

 結局、気付いた時にはもう遅くて。

 

 もう、私の周囲は……。

 

 領域特有の雰囲気(・・・・・・・・)に包まれていた。

 

 

 

 私の見て来た限り、領域は大きな変化をもたらすものばかりだった。

 視界ではレース場の上に領域特有の景色が重なって見え、これを開いたウマ娘の威圧感は爆発的に膨らみ、その能力も飛躍的と言っていいレベルで跳ね上がる。

 

 少なくとも、テイオーも、ライアン先輩もマックイーン先輩もスカイ先輩も、ネイチャも、そしてスペ先輩も、転生チートウマ娘である私でさえも、皆がそうだった。

 多分、それがこの世界の一般的な領域の形なんだと思う。

 

 でも、だからこそ。

 そういう固定観念があったからこそ、気付けなかったのかもしれない。

 

 目の前の景色は変わってない。

 ついこの前にも大阪杯を走ったばかりの、阪神レース場のターフ。それだけだ。

 

 ミーク先輩の威圧感も能力も、殊更に上がってはいない。

 強いて言えば、その圧力がほんの少しだけ強まってはいるけど、それだって優駿特有の威圧感と言われれば納得してしまうくらいのもの。

 

 しかしその領域の気配は、遅効性の毒のように私が気付けない内に、その場に浸透してしまっていた。

 

 

 

 ……ミーク先輩は、変わったウマ娘だ。

 

 あらゆる距離、あらゆるバ場に適性を持ち、既にG1を4度も制しておきながら、G2で惨敗と言えてしまうような走りをすることもある、捉えどころのないウマ娘。

 その心理状態も、私は決して嫌いではないけど、普通とはちょっとズレてると言わざるを得ないだろう。

 

 であるならば……。

 ウマ娘の心を表すとされる領域もまた、変わり種なのかもしれない。

 

 一瞬で花開き、爆発的な結果を生んですぐに閉じる、のではない。

 誰にも気付かれないくらいゆっくりと開きながら、自らにとっての理想の展開、理想の世界を形作る領域……?

 

 

 

 それを悟った瞬間。

 私の脳内で、数々の要素が繋がった気がした。

 

 シニア級に入るまで、一度も重賞で勝ったことがなかったという話。

 本格化が終わってもなおステータスの延び続ける、特殊な晩成型のウマ娘だってこと。

 歩さんから聞いた、ミーク先輩の中にあると思われる、理想と現実の相反するイメージ。

 この微かな領域の気配から感じ取れる、強い憧憬の想い。

 そして、いつぞや向けられた、挑戦的な瞳の色。

 

 

 

 ……あぁ、なるほど、理解できた気がする。

 

 先輩の領域って、全く違うようでいて、私の領域とお仲間なのか。

 

 これは……うん。

 ますます負けられなくなったな。

 

 

 

 領域の影響か頭は回り辛いし、脚も重い霧……いや、雲に絡めとられるような感じで、動かしにくい。

 多分、レースを走るウマ娘たち全員が……ミーク先輩を除く全員が、同じ影響を受けてるんだろう。

 しかも、私の想定が正しければ、この効果は走る内にもっと強くなっていくはずだ。

 

 ……流石は、今でも続く「現役最強」の一角。

 彼女はテイオーやマックイーン先輩と並べてもなんらそん色はない。

 それどころか、領域だけに限れば、頭1つも2つも抜けているかもしれない。

 

 まったく、この人が世間からあんまり評価されてないとか、世界って歪んでるよ。

 私は今、こんなにも恐怖と喜悦に背筋を震わせてるっていうのにさ。

 

 

 

 ……でも、それでも。

 勝つ。

 勝ってみせる。

 

 それが、多くの人がホシノウィルムに求めている姿だし、歩さんがかけてくれる期待だし……。

 きっと、ミーク先輩が私に求めている、理想でもあるから。

 

 

 

 知らず口端を歪めて、心の中で呟く。

 

 確かに、これは一本取られてしまいましたが……。

 ……勝負はここからですよ、先輩?

 

 

 







 よくある「貴様は既に我が術中よ!」というヤツ。
 ちなみにこの違和感、ウィルがアレだから気付けただけで、一般的なG1級ウマ娘はレース終盤にようやく気付けるくらいのヤツです。
 まぁテイオーは3秒くらいで気付くけど。



 次回は3、4日後。白を求める者の視点で、宝塚記念後編。
 もしかしたら後編は更に前後編分かれるかもしれない。できれば次回で終わりたいなぁ……。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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空と宙

 ミーク先輩視点で、宝塚記念後編。
 頑張って文字数圧縮しても13000字、正直前後編にすれば良かったと後悔してなくもない。





 

 

 

 私にとって、ホシノウィルムちゃんは、謂わば空を飛ぶ青い鳥のような存在でした。

 

 遥か高い、青い空。

 そこを誰より自由に飛び回る、いつしか空との境界すら失っちゃいそうな青い鳥。

 

 ……私の理想。

 いつかそうなりたいと願った、夢。

 

 それが今、私の前で走っている。

 

 1人のライバル……競走ウマ娘として。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 3年前、カニさんみたいなウィルちゃんと初めて出会った時、私にはわかりました。

 

 ウィルちゃんは、根っこのところは、私と同じなんだって。

 

 

 

 私たちは多分、元々は、そんなに大したウマ娘ではないんです。

 

 スペちゃんやエルちゃん、グラスちゃんにキングちゃん、ツルちゃん……そして、スカイちゃん。

 私は、あの黄金色に輝いていた皆とは……違う。

 

 彼女たちのように、何かしらのすごく強い運命に導かれてるわけじゃない。

 仮に導かれていたとしても、それはきっと、大して強くはないもので。

 

 どこかにある運命と、遥か遠くの何かと、私は繋がってない(・・・・・・)

 

 何か特別なモノになりたい、何者でもない端役。

 結局のところ、私はそんな、どこにでもいるようなウマ娘だったんだと思います。

 

 

 

 実際、私はクラシック級の頃まで、全然勝てませんでした。

 

 何度もトレーニング中にスカイちゃんと競って。

 何度も重賞レースに出続けて。

 何度もトレーナーに勝ち方を教えてもらって。

 

 それでも、全然、勝てなかったんです。

 

 トレーナーは、困っているようでした。

 これまでに例のない適性を持つ私を、どう育てればいいのか。どう導けば、活躍させられるのか。

 名家出身であるトレーナーでさえ……本当は、もっとたくさん担当を勝たせて、いっぱいの人から賞賛を受けてたはずのトレーナーでさえ、私を勝たせることはできなかったんです。

 

 それで思い詰めたトレーナーとすれ違っちゃって、スカイちゃんのトレーナーさんに助けてもらったり、そこからはたわいもない話をよくするようになったりもして……。

 

 

 

 そうしている内に、ようやく、自分のあるべき姿が見えて。

 私は少しずつ、重賞レースに勝てるようになりました。

 

 

 

 本当に少しずつ。

 まずはいくつかのG3レースに。

 半年が経って、G2レースに。

 そうして1年が経ってようやく、G1レースに。

 

 シニア級2年目の、春の天皇賞で……。

 私はようやく、トレーナーに相応しい、現役最強格のウマ娘になることができたんです。

 

 

 

 ……けれど。

 

「……あれ……?」

 

 気付けば、私の周りにいたはずの彼女は……いいえ、彼女たちは、いなくなっていました。

 

 まるで太陽のように眩しく、水槽の向こうのように綺麗で、キラキラと輝いていた、みんな。

 けれどある者は、大きな功績を残して、次の段階であるドリームトロフィーリーグに上がり。

 ある者は、自身の心と体の折り合いが付かず、既に1つの全盛期を過ぎてしまっていて。

 

 私が「これでみんなに追いつける」って思った時には……。

 もう、「数多の優駿が集う黄金の瞬間」は、終わってしまっていた。

 

 

 

 そこで私は、ようやく、気付けたんです。

 私と、他のウマ娘では、生きている時間が違うんだって。

 

 私はシニア級2年目を越えても、少しずつですが成長する、超晩成型のウマ娘。

 シニア級4年目を迎えた今も、身体の調子は悪くありませんし、まだトゥインクルシリーズで勝てていないレースもたくさんあります。

 「まだ次の段階に進むには早い」というのが、トレーナーと一緒に話し合った答え。

 だから当然、まだまだトゥインクルシリーズで走り続ける気でいます。

 

 でも、普通の子は……特にG1ウマ娘は。

 その子とトレーナーの判断によっては、シニア級1年目の終了と共にドリームトロフィーリーグに上がったり、あるいは引退するような子も、決して少なくはありませんでした。

 

 特に私の世代からは、ちょうど世代間の決戦となるURAファイナルズが始まりましたから……。

 これを契機として、次のステージに進む子たちは多かったんです。

 

 

 

 ずっとライバルとして競っていたスカイちゃんも、その例外ではありませんでした。

 とはいえあの子の場合は、ドリームトロフィーリーグに進むと断言したわけでもなく、故障から来る致し方のない判断だったんですが……。

 

「ま、セイちゃんも頑張りましたしね? 一旦お休みということで~」

 

 URAファイナルズの決勝、長距離部門。

 そこで優勝を飾った直後に、彼女は屈腱炎を発症し、一線から退かざるを得なくなりました。

 

 仕方なさそうに、けれどどこかやりきったという風に満足気に笑うスカイちゃん。

 それを見て、私は肩を落としてしまいました。

 

 ちょっと申し訳なさそうになって「ごめんね」って言うスカイちゃんは、私は残念に感じているって、そう思ったんでしょうが……。

 

 ……実際、私の胸に押し寄せた感情は、スカイちゃんへの同情以上に、無念の想いが大きかった。

 

 結局、ただの1度も、スカイちゃんには勝てなかった。

 

 あの眩しい青と雲の空に、この手が届くことはなかったと……。

 そう、思ってしまったんです。

 

 

 

 その年、見事と言う他ない走りで、URAファイナルズの長距離部門決勝で勝利を刻んだのは、セイウンスカイ。

 

 ……そして、誰の記憶にも残らない2着は、ハッピーミーク。

 それが、黄金世代の一角に数えられながらライバルたちに一度も勝てなかった、何者にもなれないウマ娘の名前でした。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……そんな私だからこそ。

 ウィルちゃんを、私と同じ、何者でもなかった彼女を、応援したいと思ったんです。

 

 私だってG1ウマ娘。出会った時に一目見て、彼女が他の入学生の子たちよりもずっと強いのはわかりましたが……。

 それはきっと才能じゃなくて、彼女の頑張りが実を結んだものだったんだと思います。

 

 現に彼女は、私たちの部屋に荷物を運びこむ時、びっくりするくらいの量の練習用のシューズを持ち込んでいました。

 程々の自主トレじゃ、1年かけても使い切れないような量。

 それを彼女は、入寮してからたったの2か月で履き潰していました。

 ……その後、新たに契約したトレーナーにはこってりと絞られたそうですが。

 

 

 

 そんな彼女に、私はどこか、自分を重ねてしまっていたのかもしれません。

 

 誰にも注目されないままトレセンに来て、名門のトレーナーに目をかけてもらって、得難い強力なライバルを得て、一生懸命に頑張っている……。

 

 小さく幼い彼女の姿に、私は、あの日の自分の姿を見ていたんです。

 

 勿論、ウィルちゃんがとっても良い子で、個人的に仲良くなったということもあるのですが……。

 それと同じくらい、私はあの子に、自分の叶えられなかった夢を託したかった……のかも、しれません。

 

 あの青と雲の空を越えるという、夢。

 そして、もう1つの……私だけのものじゃない、夢も。

 

 

 

 ……そして、あの日。

 夢の片割れは、これ以上ない形で果たされた。

 

 

 

『今、ホシノウィルムが1着でゴォォオオルイン!!!

 信じられません、ホシノウィルム、ホシノウィルムです!!

 クラシック級王者ホシノウィルム、宝塚の主役を勝ち取り、ファンの夢と願いを叶えた!!

 史上初の宝塚記念クラシック級勝者はこの子、ホシノウィルムだーーっ!!!』

『2着はセイウンスカイ、3着はメジロライアン!

 見事に古豪と最優、そして隠れた実力者を差し切り、彼女に不可能がないことを証明してみせました!!

 地を這う蛇は天に昇り、空を舞う龍へと生まれ変わった!!

 伝説はまだまだ続く、果たして彼女はどこまで私たちに夢を見せてくれるのでしょうか!!』

 

 

 

 私は、この目で見届けました。

 

 何者でもなかったはずの彼女が、確かに「何者か」になる瞬間。

 蛇と呼ばれたウマ娘が、青空を越えて宙へと昇り、龍に転生する……その雄姿を。

 

「あぁ……」

 

 無意識に胸に手を当てたことを覚えています。

 

 心の底から歓喜と憧憬と、それから僅かばかりの嫉妬と……。

 何より、みんながいなくなってから久しく感じなかった、煮え滾るような熱が、沸き上がったんです。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 あの日の熱は、今も絶えず、胸の底で燃え続けています。

 

 あの走りを見てから、ずっとずっと……ウィルちゃんを、越えたかった。

 日本最強と呼ばれ、世界でも注目される、常識破りの大逃げウマ娘。

 彼女に、レースで、勝ちたかった。

 

 でもそれは、ウィルちゃんを、私のライバルだった彼女に重ねているからじゃありません。

 

 ただ、私は……。

 1人の競走ウマ娘として、この空を自由に飛び回る鳥のような後輩に、勝ちたかったんです。

 彼女よりも高く飛んだ先にこそ、私がなりたかった私が、求めていた青色が、あるはずで。

 

 だから……。

 

 

 

 ……この宝塚記念。

 私がもらいますよ、ウィルちゃん。

 

 

 

 * * *

 

 

 

『向こう正面に入りまして、先頭は依然としてホシノウィルム! 続いて2番手にメジロパーマー3番手にはダイタクヘリオス、この並びは変わらずといったところ。

 そこから少し間を置いて2番のリボンガボット、やや前に出た2番人気ハッピーミークが続き、ピンクの勝負服エレガンジェネラル、3番人気の6番ユグドラバレーはここにいる! 悲願のG1制覇なるか!?』

 

 

 

 

「ふぅ……ふっ」

 

 息を吐きながら、向こう正面に入った今、改めて状況を整理しましょう。

 

 先頭、ホシノウィルム。

 2番手、2バ身空いてメジロパーマー。

 3番手、1バ身空いてダイタクヘリオス。

 そこから一気に4バ身程度空けて、先行集団。

 そして私は今、5番手の位置で、内に付いたリボンガボットから少しだけ後ろの位置で走っていました。

 

 

 

 ……よし。

 ここまでは、予想通り(・・・・)

 キッチリと、ピースとピースが噛み合っています。

 

 安堵と、それから僅かながら喜びが込み上げました。

 

 今回は運が良かったと、そう言わざるを得ません。

 6月っていう雨の多いこの時期に、ここまで綺麗に晴れてくれたこと。

 神さまがいるのなら、感謝しなくちゃ。

 

 でも、それ以上に感謝すべきは……。

 たくさんの、何百って数のてるてる坊主を作ってくれた、トレーナーや同じチームの後輩ちゃんたち。

 支えてくれているみんなのおかげで、私はウィルちゃんに、追いすがることができる。

 

 あの青空の先、彼方の宙の一等星に、手を伸ばすことができる。

 

 

 

「……まだ」

 

 ……ハッピーミークというウマ娘は、自分で言うのもなんだけど、そこまで強いウマ娘じゃありません。

 

 ずば抜けたフィジカルエリートであり、自分らしく走るだけで他のウマ娘たちを追い詰めることができる、メジロマックイーンちゃん。

 レースに関してこれ以上ない程の天才的感覚を持ち、理屈を飛び越えて奇跡のような走りすら見せるトウカイテイオーちゃん。

 そして誰より、大きくリードを付ける大胆な大逃げをしておきながら、後半も殆どペースを落とさず、なんなら上げることすらある、ホシノウィルムちゃん。

 

 他の現役最強と言われるウマ娘たちのように、高い身体能力を持っているわけでもなければ、ずば抜けたセンスを持っているわけでもない。

 特筆すべき、これといったわかりやすい長所を持っていないんです。

 

 それも、当然のことでしょう。

 私は普通の……トレーナーとライバルに恵まれただけの、どこにでもいるようなウマ娘の1人でしかないんですから。

 

 でも。

 いいえ、だからこそ。

 そんな「名のある」ウマ娘たちに対抗するために、私は、私の世界を磨き上げたんです。

 

 

 

 一瞬だけ、まぶたを閉じる。

 すると、視界は阪神レース場のターフから、白い世界に切り替わりました。

 

 その中で、私はまた1つ、パズルのピースを埋めていきます。

 

 ……ウィルちゃんは、もう、気付くでしょう。

 私の領域が、このレースの余白を埋めていること。

 自分の行動が、制限されつつあることを。

 

 その上でウィルちゃんは……。

 

 少しだけ、1バ身半だけ、更にリードを広げようとする。

 

 

 

 ……でも、そうはさせません。

 

 

 

『第3コーナーをカーブして第4コーナーに向かいます先頭集団、依然として、依然として先頭はホシノウィルム! しかしここでハッピーミークが前に出て4番手! そしてダイサンゲンとミュシャレディも上がって来た! 内からユグドラバレー、外からメジロパーマーも追い上げている!

 残るは600メートル余り、いよいよ決着の時が迫る!!』

 

 

 

 手に取るように、わかりました。

 ウィルちゃんが、パーマーちゃんが、ヘリオスちゃんが、バレーちゃんがサンちゃんがレディちゃんが……バ群が、レースがどう動くのか。

 

 ……いいえ、わかる、という表現は正しくないかもしれません。

 私はそれらを、現在進行形で組み上げているんですから。

 

 

 

 パチ、パチ、パチって、1つ1つピースを組み上げる。

 1人で、淡々と、ずっと遠い青空を想いながら。

 

 私の世界では、レースは、ジグソーパズルでした。

 いくつものピースの四面がそれぞれ独自の形をして、最後には1つの形に結びつく。

 そうして組み上げて、最後に描かれる絵柄こそがレースの結果で……。

 それはきっと、レースが始まる時に既に決まっているもの。

 

 勝敗は戦いが始まる前に決まっている、なんて言うけれど、それはきっと正しいのだと思います。

 その子の持つ根本的な素質。それまでに積み上げて来た努力やトレーニング。その日の調子。その世界の精度。バ場の状態や距離、どちらに回るか。観客の人数。

 そういったことが、たくさんの条件が、パズルのピースになる。

 

 1つ1つでは何の意味があるのかわからない、ただの記号の集合。

 それらを繋ぎ合わせて、試行錯誤して、完成するまで何度も組み直して……。

 

 そうして最後に、望む絵図が完成するように、残った穴を私が埋める。

 多様な走りができる私自身が、私の勝利という絵のための、最後のピースになる。

 

 それこそが私の世界であり、私の領域であり、私の走り。

 

 

 

 決して、強力な世界ではありません。

 

 私はみんなみたいに、自分の能力をはるかに超える結果なんて生めない。

 私は私、何者でもない私。自分の走りを限界以上のところに持っていけはしない。

 

 ……でも。

 限界以上の力は出せなくても、理想の走りはできる。

 

 レース前に、青い空を見上げて、考えるんです。

 

 どう走るのが最適なのか。どこでどう加速するか。どのように脚を動かすか。

 手の振り方。目線の動き。姿勢の制御。重心の移動。

 

 全部、事前に想定していた動き。

 最後のピースになるように、頭の中で作り上げていた動き。

 

 今日は綺麗に晴れてくれたおかげで、もう、私というピースの形は定まっています。

 

 後はただ、その通りに走ればいいんです。

 取るべき走りを完璧になぞって、レースという絵を、完成させるために。

 

 

 

 パチリと、また1つ、新たなピースをはめ込みます。

 外側から囲い込むように、このパズルの余白を丁寧に埋めていく。

 

 それはつまり、このレースに参加するウマ娘が、行動の選択肢を失う、ってことを意味しています。

 

 ……ふと、昔、スカイちゃんに言われたことを思い出します。

 私の領域に操られそうになった、あれは危なかったよ、と……。

 URAファイナルズが終わってしばらく経った後、少しだけ鋭い視線と共に、彼女は言ってきました。

 

 けれど、それは誤解でした。

 私の領域は、他のウマ娘の行動を操作するようなものじゃない。

 

 ただ、その子の動きが、バ群の動きが、私にとって最高の結果になるように、余白を埋める。

 他の行動に移るという選択が取れないよう、他の選択肢を取るという行動が取れないよう……。

 私と同じ位置にまで、皆に降りて来てもらう。

 

 皆の逃げ場をなくし、「白い世界」に閉じ込める。

 私の領域は、ただそれだけのもの。

 

 

 

 ……そうして、今。

 私のパズルは、完成しつつありました。

 

 

 

『ぐっと伸びてきましたハッピーミーク、ダイタクヘリオスとメジロパーマーをかわして一気に2番手に躍り出た!!

 負けじと追いすがるメジロパーマー、同じく駆け上がるユグドラバレー!! 残り400メートルと3バ身、勝負は最終直線に持ち越された!!』

 

 

 

 ここまでローペースのレースで溜めていた脚は、十全。

 ここからは、ただ全力で、彼女を差し切るだけ。

 

 確かに、ウィルちゃんの脚は恐ろしいですが……。

 

 それでも。

 白い世界の中にいるウィルちゃんになら、私は。

 

 

 

「……勝ちます!」

 

 

 

 パチリ、と。

 パズルの、最後のピースが、埋まりました。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そこは、まるで霧に包まれているような、白一色の世界。

 どれだけ足掻いても抜け出せない、雲の中の一幕。

 

 その中でも、私は走りました。

 

 こんな私でも、応援してくれる人はいる。

 私のファンの方々も、友人たちも、後輩ちゃんも、かつてのライバルも……。

 そして誰より、トレーナーも。

 

 みんなが応援してくれる。

 みんなが、私の背を押してくれる。

 

 だから……止まれない。

 

 こんなところでは。

 こんな、世界では……!

 

 

 

「……ここから」

 

 脚に力を込めると、すっと体が軽くなりました。

 

 それは、ここまでに積み上げて来た、全ての結集。

 勝利を刻むための最後のピース。

 

 

 

 行ける。

 

 空に躍る鳥のように、海に舞う魚のように……。

 

 

 

 今なら、あの世界に、行ける!

 

 

 

「もっと、上がって……!」

 

 

 

 まるで飛ぶように、あるいは泳ぐように、私は上へと飛び上がり……。

 

 そうして、どぽんと。

 雲を突き抜けるように、あるいは水に潜るみたいに、世界の色が変わりました。

 

 白から青へ。

 蒼穹の彼方、幻想の向こう。

 どこまでも自由に走れる、私の至るべき世界へと。

 

 どこまでも広くて、遠くて、無限に続くような綺麗な世界。

 たった一時、たった一瞬の煌めきに過ぎないけれど……。

 

 今だけは、私も……彼女たちのように……!

 

 

 

「誰よりも、前へ!!」

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 視界には、揺らぐ緑のターフと共に、綺麗な青色の世界が広がります。

 

 レースというパズルを完璧に組み上げての、領域の完全な展開。

 この中であれば、他の子たちをパズルの絵図通りの白い世界に閉じ込めたまま、私だけ理想的な青い世界で走ることができる。

 

 ……ただ、この展開は、簡単なことじゃありません。

 綺麗に晴れた日に青空を見上げてパズルのピースを集めて、それらを1つ残らず、1回も間違えずに組み上げなくちゃいけませんから。

 

 この展開が完全に成功したのは、今回を合わせて、たったの8回だけ。

 その他は、そもそも晴れた青い空が見えずにピースが揃わなかったり、仮に揃ってもその形を読み間違えたり、組み込む場所を間違えたりして、何度も失敗してきました。

 成功率は……多分、20%もないでしょう。

 

 

 

 けれど、今日。

 阪神レース場の、綺麗な晴れ空が見えた時、確信しました。

 

 今日はきっと開ける。

 あの青い世界へ、行ける。

 

 だって、このレースの中核を担い、その流れを作るのは、間違いなくウィルちゃんで……。

 私はウィルちゃんを、誰よりも長く、隣で見て来た。

 

 そのピースの形を、今更見間違えはしません。

 そのピースを嵌める場所を、今更迷ったりはしません。

 そのピースが形作るレースを、今更読み間違ったりは、しません。

 

 ウィルちゃんのことは誰よりも……。

 誰よりも長く一緒にいた、私が一番知っているんですから。

 

 

 

『ホシノウィルム逃げる逃げる! しかしここで追い込んで来るのが古豪ハッピーミーク!!

 残るは2バ身と少し、決してセーフティリードとは呼べないぞホシノウィルム!!

 さぁここから坂! 阪神はここから坂がある!! 下りから急に切り替わった登り坂、逃げウマ娘の天敵!! 果たして逃げ切れるかホシノウィルム!! 残りは200メートルッ!!』

 

 

 

「はっ、はっ……!」

 

 息が荒い。

 けれど、脚は軽い。

 

 行ける。

 

 私の脚は、まだ残ってます。

 ウィルちゃん程じゃないけど、長距離だって走れるくらいにはスタミナもあるんですから。

 

 

 

 けれど、焦っちゃ駄目。

 

 ウィルちゃんの……あの赤の勝負服を着たウィルちゃんの領域。

 トレーナーと研究して割り出した発動条件は、多分「自分の後方1バ身より前にウマ娘がいる」こと。

 ここで焦って前に出れば、私は領域を開いたウィルちゃんに差し返されて、負けてしまうでしょう。

 

 はっきり言って、領域を開いたウィルちゃんには、勝てません。

 どんなピースをどのように組み合わせても、彼女が本気を出せた時点で、私の敗北という結果が確定してしまう。

 今の彼女は、それだけ飛び抜けた場所にいるんです。

 

 だから、詰め切るべきは、残り50メートルのギリギリの位置。

 そこから、領域を開いたウィルちゃんが加速しきる前に……私がハナ差だけ前に出て、ゴール板の前を駆け抜ける。

 これがレース前に思い描けた、ウィルちゃんに対する唯一の勝ち筋でした。

 

 

 

 行ける。

 行ける、行ける、行ける。

 

 領域を開かせず、全力を出させず、ピースの一欠片としてコントロールして……。

 

 勝てる。

 ホシノウィルムに。

 今を生きる、新たな伝説に。

 

 あともう少し、もう少しで……私も、そっちに……!!

 

 

 

 * * *

 

 

 

「なるほど、歩さんの読み通り」

 

 

 

 彼女の言葉が、静かな青の世界に、反響しました。

 

 ……駄目だ。落ち着かなきゃ。

 

 大丈夫。抜け出せない。出られるはずがない。

 あの白の世界を出るには……私の領域の影響を脱する方法は1つだけ。

 同じように自分の世界を、つまり領域を展開するしかありません。

 

 けれど、私の完成させたパズルの絵では、ウィルちゃんは抜け出せていなかった。

 抜け出そうと領域を開いた時にはもう既に遅く、加速し切らない内に私に差し切られる。

 それが、私の描いた絵図。私の作った未来。

 

 覆せるわけがない。

 

 だって、完全に開いたこの領域を破ったのは、これまでにただ1人。

 青と雲の空の名を持つ、この世界の主人公みたいなウマ娘だけで……。

 

 

 

 ……そうして。

 そのスカイちゃんすらも差し切ったのが、ウィルちゃんでした。

 

 

 

「スペ先輩に、テイオーに、そしてミーク先輩。お手本はたくさん見た。

 ……今度は私の番だ!」

 

 

 

 この声は?

 そもそも、この声は何?

 

 前から聞こえてる……ものじゃありません。

 それにしては鮮明すぎるし、何より……これは、ただの声ではない。

 

 これは相手の、強い心の声。

 ……相手? 何の相手?

 

 それは……。

 

 

 

 領域が、干渉した、相手……?

 

 

 

「……あ、重なってる? 重なってますねこれ。うわー、すごい久々! 聞こえますかミーク先輩!」

 

 ウィルちゃんの声が、心の声が、聞こえました。

 

 重なるって……まさか、領域が?

 

 トレーナーから、聞いたことがありました。

 2人の競走ウマ娘の領域が衝突した時、ごく稀に、互いの想いが通い合うことがある。

 それを、「領域が重なる」と表現するのだと。

 

 今、それが、起こっている……?

 

 混乱する私を他所に、ウィルちゃんはハイテンションに言葉を続けます。

 

「先輩、ミーク先輩! 流石ですよミーク先輩! 正直、途中で領域に呑まれてるって気付いた時にはこれまでにないくらいゾッとしました!

 その上、領域の展開条件を見破って綺麗に対策してくるなんて……やっぱり現役最強の一角って言葉にはなんら嘘偽りありませんね!」

 

 それはきっと、言葉として聞けば、ただ興奮している声とだけ捉えられたのでしょうが……。

 

 ……違う。

 

 今は、ウィルちゃんの感情が、ダイレクトに伝わって来る。

 

 彼女の心にあるのは、歓喜。

 ライバルが自分を苦戦させる程に強いことと、楽しいレースができること……。

 

 そして何より、そのライバルを今から超えること。

 それを、彼女は心の底から喜んでいました。

 

「ふふっ……ええ、勿論超えますよ。超えてやりますとも。

 私は今日、ハッピーミークを超えて……名実ともに、日本最強になりに来たんですから」

 

 ゾクリと、震えるような声。

 

 マズいと、本能が警笛を鳴らします。

 しかし、これでいいんだと、理性は私に言い聞かせてきました。

 

 私がウィルちゃんを読み間違えるはずがない。

 レース開始時点で、彼女というピースの形は完全に理解できていたはず。

 

 パズルだって、過不足なく埋めきったんです。

 ウィルちゃんは、このまま走れば私に差し切られ、無理に領域を開こうとペースダウンすればそれが致命打になって勝てなくなる。

 

 既に、私の勝利っていうパズルの絵は、完成している。

 

 だからこのまま走ればいいと、理性がそう言う間にも。

 このままでは負けると、本能的な直感はそう告げて来て……。

 

 

 

 そうして、迷っている内。

 眼下の雲が、割れました。

 

 

 

「行きますよ……ミーク先輩ッ!!」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 暗く冷たい暗闇の中を、彼女は走っていました。

 何一つ見えるものはない、何一つ照らすもののない、空っぽの世界。

 しかし彼女は、寒さにも冷たさにも負けず、ただ前を向いてひたむきに脚を進め……そして。

 

 パッと、数多の星が、一斉に灯ります。

 そこは何もない虚無の世界なんかじゃなく、満点の星の宙。

 彼女の生を祝福する、温かく美しい充実した世界。

 

 

 

 そうして、今……。

 

 そこにもう1つの、星が生まれる。

 

「もっと速く、もっと楽しく……もっと、もっと熱く!!」

 

 ゴオッて、音を立てて……。

 彼女自身に。

 その心の底の、無色だった魂に、灰色の火が灯ります。

 

 

 

 数多の光の中でも、一等強く光る炎……。

 いいえ、これは、一等星の星の光でしょうか。

 

 誰かに温められるばかりの、名もなき惑星ではなく、自分自身が誰かを照らす恒星たらんと。

 彼女のその決意が、その脚に新たな力をもたらす。

 

「さぁ……前へ! 誰よりも前へ!」

 

 そう叫び、星空の下、一層存在感を増して走り出す彼女の口元は、子供のように純粋な笑みに彩られていました。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……ウィルちゃんに、領域を、開かれた。

 

 どうして?

 今のウィルちゃんの位置は、まだ私の1バ身半前。

 この距離なら、領域を開かれることはない、はずなのに。

 

 何が……まさか、領域の昇華?

 こんな土壇場のタイミングで?

 それも、条件の緩和なんていう、これ以上ない程的確な昇華を……!?

 

 

 

「信じてもらっていますからね」

 

 遥か彼方から……空を飛ぶ私のずっと上、彼方の宙から、声がかかりました。

 

 見上げれば、そこにいるのは……。

 いつしか、最初に見た時よりずっとたくましくなっていた、ウィルちゃん。

 彼女はその目に楽しさと喜び、そして尊敬を込めて、私の方を見下ろしてきていました。

 

「たくさんの人から信じてもらっていますから。

 ファンの皆さん、後輩ちゃんたち、ライバル、トレーナー……たくさんの人に、私の活躍を信じてもらってます。

 だから私は、その期待に応えます」

 

 ……そう。

 今や彼女は、日本最強。

 誰よりも活躍を期待され、勝利を望まれるウマ娘。

 

 その熱に、想いに背中を押されているからこそ、それに応えたいと……。

 その想いが、その熱が、重なった領域を通して伝わってきます。

 

 そして、その想いは……。

 

 

 

「ミーク先輩も、同じですよね?」

 

 

 

 ……私も、同じ。

 

 こんな私に、中途半端で何者にもなれなかったような私に、期待してくれる人たちがいるんです。

 ファンの方々、かつて競っていたライバルたち、トレーナー。

 少なくない数の人たちが、私の走りを望んでくれる。

 

 それに……。

 ウィルちゃんも、その1人なんでしょう?

 

「ええ、それはもう! すごい走りを見せてくれると期待してましたし、実際は想定の遥か上を行かれました! 流石は敬愛すべき、私の先輩です!」

 

 テンション高くそう告げた後……。

 彼女は、ニヤリと笑うように、呟きました。

 

「……最後まで、そうあってくれるんでしょう?」

 

 ちょっと挑発的な言葉に、思わずクスリと笑ってしまいます。

 

 ……ええ、当然です。

 

 私だってウィルちゃんや……みんなと同じ、競走ウマ娘ですから。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 領域の重なりが解けると同時。

 私は、残った力で体を前に蹴り飛ばしました。

 

 ……私の組んでいたパズルの絵は、既に崩れてしまいました。

 ウィルちゃんを白い世界に閉じ込めて、私だけが全力を尽くせる状態で、最後の最後に詰め切るつもりだったのですが……。

 

 領域には、領域。

 ウィルちゃんが自分の世界を開いたことで、私の領域の範囲から出てしまった。

 

 こうなれば、領域を開いた者同士、正面衝突するしかないでしょう。

 

 ……たとえ、それでも勝ち目がないとしても。

 

 

 

 ウィルちゃんと私の間には、覆せないフィジカルの差があります。

 今のあの子と同条件で競っても、勝てる見込みはありません。

 だからこそ、私はトレーナーと相談して、たくさんピースをかき集めて、そうならないように絵を作ったんですから。

 

 既に、状況は詰んでいます。

 今のウィルちゃんはもう、レース前の彼女じゃない。

 たった1つ、けれど確かに1つ、ピースの形が変わり、膨らんでしまった。

 もはや私の望む絵図は描けません。

 

 ……けれど、それでも。

 

 

 

 私の前を走った彼女たちは、「もう無理だ」と思えば、レースを諦めたでしょうか。

 

 

 

 いいえ。

 いいえ、彼女たちは、決して諦めなかった。

 

 最後まで諦めず、懸命に走り続けた。

 だからこそ、みんなの姿は、こうも心に残っているんです。

 

 そのことを、私は誰よりもよく知っている。

 思わず目を背けたくなるくらい眩しいそれを、ずっとずっと見ていたんですから。

 

 だから……。

 だから、私も。

 彼女たちと同じ、黄金世代の競走ウマ娘として、最後の最後まで……!!

 

 

 

「くっ、ぁぁぁああああああああ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ホシノウィルム逃げ切り態勢!! ハッピーミーク懸命に追うが差は縮まらず、その脚色は衰えることを知らないッ!!

 そして今、やっぱりこの子、ホシノウィルム!! ホシノウィルムが逃げ切った!!!

 史上初の宝塚連覇! 春シニア三冠!! もはや疑う余地もなし、トゥインクルシリーズ現役日本最強ウマ娘ホシノウィルム!!

 神話は新たな一編を紡ぎ、次に刻まれるのはフランスでの戦い! 次なる奇跡は起こるのか!?』

 

 

 

 * * *

 

 

 

「はぁ……はぁ……」

 

 必死に走ったが故の、強い倦怠感と疲労感。

 しかしそれは、これまでにない程に重いものでした。

 

 それも当然でしょう。

 本当の本当に、底の底まで、力を全て出し切ったんですから。

 

 ……まぁ、それでも結局。 

 あの空を舞う鳥に、手が届くことはなかったのですが。

 

 

「……ふぅ」

 

 何もする気になれず、ぶらりと腕を垂らして、ただ上を見上げます。

 目に映るのは雲1つない、青く広く、どこまでも続く空。

 

 それと同じように……不思議なことに、私の心も、澄んでいました。

 

 勿論、悔しいという気持ちはあります。

 みんなの期待を裏切ってしまった。ウィルちゃんに勝てる数少ない機会を逃した。

 その悔しさは、今もフツフツって、胸の中から込み上げてきています。

 

 それに、ウィルちゃんに勝って何者かになるんだってそう思ってたのに、それが出来なかった。

 それがとても残念で、悔しくて、たまらなくて……。

 

 

 

 でも。

 ……悔しくてもいいかなって、そう思います。

 

 

 

 領域が重なった瞬間、ウィルちゃんがそれに気づくまでの刹那。

 私には、ウィルちゃんの感情が理解できたんです。

 

『強い! すごい! 私ももっと!!』

 

 ……ウィルちゃんが、あのウィルちゃんが。

 私のことを、本心から、すごいと思ってくれた。

 

『これが本当の晩成型! スペ先輩と同じ黄金世代! 私と同じなのに全く違う、最高のウマ娘!!』

 

 私もまた、黄金世代の1人だと。

 あのスペちゃんとも並べる存在なんだって、そう認めてくれた。

 

 その心の声が、熱が、私の心も温めてくれたのかもしれません。

 いつしか私は、自分の目的なんか忘れて、ただ真っすぐにレースを楽しんでいたんです。

 

 それがなんだか楽しくて、嬉しくて、こそばゆくて。

 

 だから、今日はこうして悔しいままでいいかなって、そう思ったんです。

 だって私は……名もないウマ娘とか、黄金世代の落ちこぼれとして、灰の龍に負けたんじゃない。

 1人のウマ娘として、1人のウマ娘に、負けたんですから。

 

 

 

 そして同時に。

 この子ならって……そうも、思ってしまいました。

 

 この子なら、私たちの……。

 黄金世代の遺した夢を、叶えてくれるかもしれない、って。

 

 

 

「ミーク先輩!」

 

 そうしてぼんやりと空を見上げていると、彼女が声をかけて来てくれました。

 

 私にとっては可愛い後輩であり、同じトレセン学園生の友達でもあり、同じレースを走ることもあるライバルでもあり……。

 敬愛すべきウマ娘、ホシノウィルム。

 

 彼女は興奮を抑えきれない様子で、キラキラとした目を向けて来ました。

 ……長い付き合いですが、これを直に向けられるのは初めてのこと。

 想像していた通り……というか、想像していた以上に可愛らしく子供っぽい様子に、私は思わず「ふふっ」と笑いを漏らしてしまいました。

 

 

 

 この子は本当に、いつもそう。

 カッコ良いのに可愛くて、すごく強いのにどこか頼りなくて。

 

 それが、私の愛すべき後輩、ホシノウィルムちゃん。

 

 ……そんな、すごいのに普通な彼女だからこそ、夢を見てしまうんでしょうね。

 

 

 

「ウィルちゃん。……多くを語る必要は、ありませんよね」

「はい。良い勝負、良いレースでした」

 

 領域を重ね合った者同士、既に想いの交感は済ませています。

 だから私たちは、ただお互いの健闘を称え、握手を交わしました。

 

 わっと、観客席の方から聞こえる声。

 ……やっぱり、ウィルちゃん、すごくたくさんの人に見られているんですね。

 それが少し羨ましいような……でも、ちょっと大変そうな。

 

 でも、それを少しも負担に感じていない彼女になら……。

 私も……いいえ、私たちも、想いを託してもいいでしょうか。

 

 

 

「……ウィルちゃん」

「はい」

「……私たちにとって、エルちゃんの凱旋門賞での惜敗は、大きな悲劇でした。……それはもう覆せないレース結果で、何をしたって変わることはありません。

 ……でも、感情的に、どうしても呑み込めないものはありますから」

 

 願う。

 

 暗雲を越えて、空を掴んで、新たな星になった彼女に……。

 

 ……いいえ。

 

「新たな日本一のウマ娘として。凱旋門賞を……世界を、獲って来てください」

「はい!!」

 

 

 







 ハッピーミーク
『Blue or White Lv8』
 天気が晴れの時レースの展開と自分の走りの計画を立て、徐々に他のウマ娘の走りを乱す。
 更に最終直線まで計画通りに走れた時、理想の自分を目指すべく青い世界へ駆け出す。

 ホシノウィルム
『天星の蛇龍 Lv5』
 レース終盤に他のウマ娘の存在を感じると、星々の輝きを受けて燃え上がり勝利を誓う。
 更に残り200メートルで先頭にいる時、心を燃やして星となる。



 ミーク先輩の領域は、
 ①何バ身離れても問答無用のリーチ無限でバ群全体に影響
 ②いつの間にか徐々に開く領域に巻き込まれ、気付かない内にミーク先輩の計画通りに走るようになってしまう
 ③自分は限界を超えられないとか言いながら、完全に開くとスペックが跳ね上がる
 というもの。
 これを破るには、レース中に成長するか領域を開くしかありません。
 勿論後者は対策されるので、実質的に前者ができる主人公タイプの子しか勝てません。
 もうなんかレイドボスみたいですね先輩。



 宝塚記念編も無事終了。
 これにて春のレースは全て終了となりました。

 次回からはちょっと久々の掲示板回も含む番外編を挟み、いよいよ海外遠征への挑戦が始まります。



 次回は3、4日後。掲示板回。



(追記)
 ハッピークリスマスイブ!
 こんなめでたい日にお伝えするのは恐縮なんですが、来年からちょっと忙しくなりそうなので、3、4日に一度の投稿ができなくなるかもしれません。
 本作は既にある意味本編終了済みですし、どうかご寛恕の程を。

(追記2)
 ドウデュース君おめでとう! レジェンドもおめでとう! すごいなホントに!

(追記3)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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【史上初】無敗三冠ウマ娘ホシノウィルムさん、強すぎてうっかり日本一になってしまう【春シニア三冠】

 例によって飛ばしても問題ない掲示板回。
 アンカー多すぎても読み辛いし返信がないと悲しいし、書くたびに掲示板形式って難しいなーと思いますね。
 お楽しみいただければ幸いです。





 

 

 

1:名無しの龍信奉者 ID:siLJ9DZ6s

 強すぎ

 

 

2:名無しの龍信奉者 ID:fT6vA0LwA

 なんかもう強すぎて、強い以外の感想出てこないんだよね

 

 

3:名無しの龍信奉者 ID:QIeTXnfPi

 そっか春シニアってまだ誰も取ったことなかったんか

 

 

4:名無しの龍信奉者 ID:mUEM1XJma

 春シニア三冠とかいう秋シニアと対比するために作られたヤケクソ称号勝ち獲るのヤバすぎるわ。こんな走って脚大丈夫なの?

 

 

5:名無しの龍信奉者 ID:kcskLLK2r

 強すぎて(嘘偽りなし)

 

 

6:名無しの龍信奉者 ID:OE5cN/xC7

 マックイーン→長距離で1バ身差敗北

 テイオー→敗北or同着

 ミーク→1.1/2バ身差敗北

 

 もう国内の誰も止められないでしょこの子化け物すぎる

 

 

7:名無しの龍信奉者 ID:F6xhglUJZ

 うっかりとかいう次元じゃないんだよなぁ……

 

 

8:名無しの龍信奉者 ID:tmg1AhN6x

 日本が世界に誇る史上最高傑作のバグ

 

 

9:名無しの龍信奉者 ID:sYye8+vmu

 2000メートル:行けます!

 3200メートル:行けます!

 2200メートル:行けます!

 逆に何なら行けないんだ君は

 

 

10:名無しの龍信奉者 ID:kYjAWjYyN

 ミークならあるいはと思ってたけど無理かー。つよすぎ

 

 

11:名無しの龍信奉者 ID:EA7D0Y1l8

 激アツだったわ今回のレース。3着パーマーだしやっぱ大逃げの時代来てる。

 

 

12:名無しの龍信奉者 ID:r2n8bZnQm

 春シニア三冠って史上初だったんだ

 

 

13:名無しの龍信奉者 ID:KxkYOa9Wx

 まぁウィルムがつえーのはそりゃもうねって感じだけど、ミークも強いわやっぱ。

 終盤ありえん加速したウィルムに付いて行けるのは流石G14勝した優駿だわ。

 

 

14:名無しの龍信奉者 ID:CMTD0p250

 実況テンション高すぎて笑った。いやまぁ俺も友人とめちゃくちゃ盛り上がったけど。

 

 

15:名無しの龍信奉者 ID:qqcqL7YxR

 ぅゎょぅι゛ょっょぃ

 

 

16:名無しの龍信奉者 ID:d1x83wCnz

 うっかりで日本一になるな

 

 

17:名無しの龍信奉者 ID:Hq2+a+DpM

 こんな化け物止められるヤツおらんやろ! なおテイオー

 

 

18:名無しの龍信奉者 ID:gz5JUSj4d

 結局なんで今回は序盤ローペース気味だったの? 脚溜めるって言ってもウィルムのスタミナあれば序盤から飛ばせたと思うんだけど。

 

 

19:名無しの龍信奉者 ID:DtJawgGgv

 >>4 堀トレ曰く「まだ余裕はあるが、一旦休ませながら遠征を始める」とのこと

 

 

20:名無しの龍信奉者 ID:tCrhes8SW

 春のG1レースもう終わりか。あっと言う間だったな……。

 今年もウィルムの怪物フィジカルが見れて俺は嬉しかったよ

 

 

21:名無しの龍信奉者 ID:3b2wqPw5h

 >>10 ちょっとわかる。あの黄金世代で走ったミークなら……って思いは正直あったな。

 まぁでもウィルムのアホ末脚に付いて行けてる時点でミークもとんでもない化け物だったけどね。流石は今に残った黄金の一欠片。

 

 

22:名無しの龍信奉者 ID:EnVJpu3rg

 むしろウィルムが凱旋門賞勝てなかったらもう向こう20年は勝てないだろこれ

 逃げっていう有利条件、悪路にも弱いわけじゃないし、めちゃくちゃ強いパワーもあって、本人の気質も言っちゃなんだが繊細さはない。

 勝利条件はバッチリ整ってるぞ

 

 

23:名無しの龍信奉者 ID:A/gCT5drE

 強ォォォォォォいッ説明不要!!

 

 

24:名無しの龍信奉者 ID:SA2hbED6n

 >>21 ちなみにホシノウィルムさんとハッピーミークさんは栗東寮のルームメイトで日常的にもとても親しくしているとのことです。ホシノウィルムさんはレース前のインタビューで「私にとって唯一無二、最高の先輩です。だからこそ敬意を持って全力で挑ませていただきます」と語っていましたし、ハッピーミークさんも4月の生放送で「ウィルちゃんは可愛い後輩です。でも、すごく強い子でもありますから、胸を借りるつもりで走ります」って言ってたんですよ。仲の良いお互いがお互いをライバルとして意識し合う、もはやこれは相思相愛! 競走ウマ娘の華ですねぇ!!

 

 

25:名無しの龍信奉者 ID:GzuXnmuKB

 序盤のスタートダッシュも中盤の大リードも終盤の叩き合いも楽しめるとか、なんてお得な日本最強ウマ娘なのだよ……

 

 

26:名無しの龍信奉者 ID:DhZvHBmnm

 うわでた

 

 

27:名無しの龍信奉者 ID:CF/QXSMi+

 ホシノウィルム? 強いよね。序盤、中盤、終盤、隙がないと思うよ。もう……誰も勝てそうにないよ。

 

 

28:名無しの龍信奉者 ID:nW3WI98Se

 芝

 

 

29:名無しの龍信奉者 ID:+7JSp66He

 出たわね敬語ニキネキ

 

 

30:名無しの龍信奉者 ID:w5jeywTCf

 風物詩みたいになってきたなこの敬語大長文

 

 

31:名無しの龍信奉者 ID:+WhMt7HA8

 なんで序盤から飛ばして終盤まで加速できるのか? その真実を探るべく、我々調査隊は先月の月刊トゥインクル掲載トレーナーインタビューvol.78堀野歩編を購読するのであった

 

 

32:名無しの龍信奉者 ID:J1BnyNVMq

 >>9 それ言うんだったら芝もダートも1000メートルから3600メートルまで走れる対戦相手の方がぶっ飛んでるんだよなぁ……

 

 

33:名無しの龍信奉者 ID:wlUhVDqAu

 >>17 テイオーも並んでるだけで止められてはいないってのがウィルムのヤバさなんだよ。

 現状ウィルムに明確に勝てたのは、ドリームトロフィーでさっそく1勝目刻んだスペと、デビュー前に対戦したっていう正体不明の栗毛のウマ娘だけ。マジで誰なんだ栗毛のウマ娘。

 

 

34:名無しの龍信奉者 ID:FRBVPYl8g

 敬語ニキネキ的には今回のレースはどうだった?

 

 

35:名無しの龍信奉者 ID:4Zkm4iAb/

 >>12 有みたいにG1ウマ娘全員が目指すような格の高いレースもなく、ジャパンカップみたいに海外ウマ娘がガンガン乗り込んで来ることもないから、ライバルだけ見れば秋シニアよりは質が劣りがち

 けどだからこそ、強い子は脚を気にして春シニア三冠全部に挑むことが割と少ないし、2000から3200っていう広すぎる距離の幅のせいでなかなか勝ちきれない

 まぁどこかに強敵との戦いを求めて芝中長距離G1をローラーする無敗三冠ランニングバーサーカーでもいれば話は別だろうけど、そんな子いるわけもないしな!

 

 

36:名無しの龍信奉者 ID:8Ew8ZMpmi

 強すぎぃ……(ユグドラバレー推し感) もう全然勝てるビジョンが見えないんですがそれは

 

 

37:名無しの龍信奉者 ID:mtmti6oFF

 見ごたえのあるレースだったのは間違いないんだけど、同時になんか不思議なレースだったな

 時計的にも飛び抜けたレコードってわけでもないのに、なんか全体的に進行が遅かったというか

 

 

38:名無しの龍信奉者 ID:SA2hbED6n

 >>34 控えめに言って最の高なレースでしたね!!! 個人的見どころとしては終盤の競り合いは勿論、中盤以降、急に差を広げようとしたホシノウィルムさんにピッタリ合わせて加速するハッピーミークさんです! 殆どラグのない追走は徹底したマークと高度な展開予想を思わせます。ハッピーミークさん、やはりシニア級4年目というだけあってレースの熟練度で言えばトゥインクルシリーズでも随一ですね! しかし同時そのアドバンテージすら破壊してしまうホシノウィルムさんのフィジカルや粘り強さ、勝負勘もまたとんでもない才気の怪物と言わざるをえません! 願わくば門を越えた先の年末の中山レース場でもこの2人のレースを見たいものです。

 

 

39:名無しの龍信奉者 ID:sYV7DVV3D

 ぶっちゃけ星の世代ってこともあってあんまホシノウィルム一強みたいな空気は好きくないんだけど、じゃあ日本最強は誰だと聞かれると「そりゃあホシノウィルムでしょ」となるんだよな

 

 

40:名無しの龍信奉者 ID:Hq2+a+DpM

 >>33 言うてテイオー最近は良い意味で落ち着いてるし、割と勝機ありそうだけどな

 

 

41:名無しの龍信奉者 ID:ikBXKI1A4

 今年の春からウィルムのレース映像に海外のコメント爆増してるけど「フェイクだろ?」ってコメントあって笑う。気持ちはわかるよ

 

 

42:名無しの龍信奉者 ID:RfDC6T8fM

 >>38 相変わらず熱がすごォい! そして観察眼もすごいねホント。合わせて加速したのとか全然わかんなかったわ

 

 

43:名無しの龍信奉者 ID:+OLdFGcWI

 >>25 ぶっちゃけこれウィルムの人気の理由の一因だと思うわ

 レース初心者さんでも明確にわかりやすく強いし、序盤から終盤まで見どころが絶えない。テイオーとかマックイーンみたいな王道戦術のウマ娘にはない強みだし、ネイチャみたいに高度すぎるわけでもない。

 そらオグリ以来のブームにもなるわなという

 

 

44:名無しの龍信奉者 ID:TxwJO94w3

 >>33 この栗毛ってまだ特定できてないの?

 

 

45:名無しの龍信奉者 ID:9CytYVLUt

 ウィルム、お前が日本の柱になれ

 

 

46:名無しの龍信奉者 ID:y53zBiOZ/

 うおおおおおここまで行ったらもう世界獲ってくれ!

 

 

47:名無しの龍信奉者 ID:6IHPgyKXO

 何が日本最強だよ、ホシノウィルムなんて所詮寒門の出の突然変異で選抜レースから頭角を現して大差大差と連戦連勝、G1ホープフルステークスも皐月賞のトライアルである弥生賞も大差勝ちして、当時一強と言われていたテイオーに皐月賞や日本ダービーで競り勝ち、かなりのメンバーが揃った宝塚記念で史上初のクラシック級での勝利を刻むが非業の故障が発覚、出走が絶望視されていた菊花賞で奇跡の復活を果たしてルドルフ以来の無敗三冠達成、マックイーンとの決戦となったJCを制覇した後にトレーナーが意識不明の重体になるも懸命に走り続けてスペ・スズカを相手取って2着の好走、その後意識を取り戻した堀トレとの黄金コンビ復活で大阪杯天皇賞(春)宝塚記念と勝ち星を上げ続け、ついにはあのルドルフを抜いて国内G1最多勝になり、史上初の宝塚記念連覇と春シニア三冠を達成して、これまでの歴史から考えて不可能だとされていたことを叶え続けてるだけじゃねぇか

 

 

48:名無しの龍信奉者 ID:KmK8k7dTS

 なんで先行とか差しウマ娘以上の末脚が出せるんですか?(現場猫感)

 

 

49:名無しの龍信奉者 ID:m2mlm2bG8

 >>38 もう君レースの解説とかに転職した方がええんちゃう? マジで参考になりますありがとうございます

 

 

50:名無しの龍信奉者 ID:+oqT/l1V8

 強い この走りには、もうそれだけしか言えない

 

 

51:名無しの龍信奉者 ID:tzPsCV3cG

 飛び級してドリームトロフィーリーグ行くべきだよこの子は。トゥインクルシリーズじゃもう誰も止められないでしょこれ。

 

 

52:名無しの龍信奉者 ID:GN9bUSDVO

 >>37 ミークの参加するレースは時々なんか変な展開になるね。案外レースメイクタイプなのかも?

 

 

53:名無しの龍信奉者 ID:3EmiyOCA0

 >>47 改めて見るとなんだこの無法っぷり!?

 

 

54:名無しの龍信奉者 ID:x4j2wxkWO

 まぁ俺は最初から思ってたけどねウィルムならここまで来れるって。皐月賞の時から注目してたし?

 

 

55:名無しの龍信奉者 ID:gLtQMdBc5

 >>47 流石に芝 これは日本最強ですわ

 

 

56:名無しの龍信奉者 ID:0wxPMG8AK

 今更勝つことそれ自体には驚かない、というかむしろ納得感まであるけど、やっぱ春シニア三冠とか史上初連覇って言葉聞くとうおっ流石にそれは強すぎ……となる

 

 

57:名無しの龍信奉者 ID:m9o0OGFsE

 >>38 敬語ニキネキいつも最高のレースとしか言っとらんやんけ! まぁ気持ちはわかるが。

 

 

58:名無しの龍信奉者 ID:VZuozR84O

 言うて今回の宝塚も結構豪華メンツだったんだけどな。

 大逃げウマ娘多数に先行のG1ウマ娘、ウィルムを打倒する状況は整ってた。

 有の時との違いは……やっぱトレーナーの存在かなぁ。

 

 

59:名無しの龍信奉者 ID:qVrG39FQU

 これ2年連続で年度代表ウマ娘選ばれるのでは?

 前例ってどんなもんだっけ

 

 

60:名無しの龍信奉者 ID:KwDO98g+a

 普通ウマ娘ってこう、レース毎に調子良かったり良くなかったりするもんじゃないのか?

 なんでこの子ずっとコンディション保ててんの?

 

 

61:名無しの龍信奉者 ID:Op4iKNwi/

 >>44 まだウィルムが全然注目されてない時代だし、ウィルム含む出走メンバーも誰が勝ったか覚えてないらしいしで特定困難。せめてトレセンにデータ残ってたらいいんだけど、嘘か真か選抜レースの記録って1年単位で消されるって話も聞いたし無理かな

 

 

62:名無しの龍信奉者 ID:6shWJxHgK

 強靭! 無敵! 最強!

 

 

63:名無しの龍信奉者 ID:qtng3tZ3S

 これからしばらく日本でウィルムのレース見れないってマジ? スズカみたいになかなか帰ってこないとかやめてくれよな! マジで。

 

 

64:名無しの龍信奉者 ID:9hhjKZ0bq

 >>47 小説とかドラマの話かな?

 

 

65:名無しの龍信奉者 ID:NouIJS2hm

 何気にパーマーが3着取ってるのもすごいんだよな。ホシノウィルムでもないのに大逃げ同士で競り合って上位入賞だもん。いやホシノウィルムでもないのにって何?

 

 

66:名無しの龍信奉者 ID:6+P9i0qYP

 バ鹿みたいなスタミナ! とんでもねー速さ出せる脚! バ群運ゲー回避できる大逃げ!

 冷静に考えるとウィルムってめちゃくちゃ脳筋戦法じゃないか???

 それが出来るなら苦労はしないっていうのはウマ娘側にも言えるんじゃないか???

 

 

67:名無しの龍信奉者 ID:OkGR94TxB

 >>54 誇れる程古参でもないじゃねーか!

 

 

68:名無しの龍信奉者 ID:5S5hY6VGr

 これ凱旋門賞楽勝か?? ライバルになりそうな子っている?

 

 

69:名無しの龍信奉者 ID:SSzUQaNCb

 >>59 多分今のところ3人いたはず。シンザンとルドルフとあと1人誰だっけか。

 

 

70:名無しの龍信奉者 ID:nj/XsQp9N

 >>60 堀トレの手腕

 

 

71:名無しの龍信奉者 ID:AWFMD+rL8

 ガチャでは勝ったためしがないくせにレースではめちゃくちゃ勝ちまくるからなこの子

 ガチャでは勝ったためしがないくせに

 この前も新しく始めたソシャゲで20万溶かしてたくせに 

 

 

72:名無しの龍信奉者 ID:o+0JT8Siq

 ホシノウィルム強すぎるでしょナーフはよ

 プリプロでも強すぎて環境壊してたしこの子マジで何なの? 運命的に強者なの?

 

 

73:名無しの龍信奉者 ID:MrafWUu/a

 >>68 去年JCで3着だったウィッチイブニングとか?

 

 

74:名無しの龍信奉者 ID:fEOfM3kvH

 近い世代の中長距離G1級ウマ娘のトレーナー、頭抱えてそう

 まぁ秋からはしばらくウィルムは海外だし安心だな! なお有

 

 

75:名無しの龍信奉者 ID:e+E7el8A3

 >>64 今まさに生まれている神話なんだよなぁ……

 

 

76:名無しの龍信奉者 ID:0AUcQGRMH

 >>68 ぶっちゃけ今の海外はちょっと小粒気味。存在感で言うとマジでウィルムが世界一だし

 まぁ今がちょうどダービーとかオークスの時期だし、もうちょっと時間経たないと判断できないけど

 

 

77:名無しの龍信奉者 ID:CdFBwfJjB

 中央でG1レース9勝かぁ、とんでもなさすぎ。この記録抜けるウマ娘、今後出て来るのかなぁ。

 

 

78:名無しの龍信奉者 ID:Rb7YO04vX

 >>71 あれトレーナーのアカウントからお叱り入ったの距離感の近さ感じてすき

 そりゃ中等部3年生がソシャゲで20万溶かしたら怒らなきゃだからね……

 

 

79:名無しの龍信奉者 ID:PTrm1u7lJ

 日本最強□リ

 

 

80:名無しの龍信奉者 ID:3i85G9Oon

 シニア級1年目ってことは多分本格化も終わってないんだよね? ……ここからまだ育つんかこの子?

 

 

81:名無しの龍信奉者 ID:00QwQwx9/

 個人的に贔屓にしてるレース解説チャンネル、ウィルムが出るレースに関しては「なんでこんなスタミナ持つんですかね? 普通バテると思うんですけどよくわかんないです!」って言っててワロタ

 解説チャンネルが解説を投げるな

 

 

82:名無しの龍信奉者 ID:WQj1rsATv

 >>76 個人的には今年の英オークス獲った子に注目してる。かなり強い勝ち方だった。

 

 

83:名無しの龍信奉者 ID:t2OyxErHi

 >>79 ロリじゃないんですけどっ! トレセン? の学園に通ってるんですけどっ!?

 

 

84:名無しの龍信奉者 ID:eJH3kjcat

 去年有終わった後一時期「ホシノウィルムなんて大逃げ当てて掛からせて差しウマ娘で千切れば勝てるんや!」みたいな説あったけど今回で完全に否定されたな

 やっぱあれはスズカとスペだからできたことだわ。他の子に真似できるとは思えん

 

 

85:名無しの龍信奉者 ID:IVCylZKQ5

 これは二代目日本一 しかも今回は防衛側じゃなくて攻勢側

 世界を獲って来てくれ、龍

 

 

86:名無しの龍信奉者 ID:PxHe0UI8w

 >>79 身長低くてファッション系の仕事あんまり回ってこないって話すき。

 見た目は綺麗系なのに中身がアレだし、その上身長考えるとガーリー寄りになっちゃうし、功績が功績だから可愛い系にも演出しにくいからね……。

 

 

87:名無しの龍信奉者 ID:iT7dnU6xc

 仕事入って手が離せなくて今結果知ったけど、勝ったかぁ……いや、そりゃ勝つよなぁホシノウィルムなら。ホント最強だこの子

 

 

88:名無しの龍信奉者 ID:9Rxqnn4uo

 >>74 ウィルムと同着勝ち取ったテイオーが日本にいるの覚えてる???

 

 

89:名無しの龍信奉者 ID:C5FNsersu

 >>79 ファンサも神で鬼程強くてアイドルパフォーマンスも高い、胸がないくらいしか欠点がないウマ娘

 

 

90:名無しの龍信奉者 ID:IkG9YRSJ6

 そういえば今回運良く堀トレのちょっと後ろで観戦できたんだけど、レース前にミークの動きほぼ完璧に的中させてて肝が冷えたわ

 ウィルムばっかり注目されがちだけど、やっぱ堀トレの性能もおかしいよ。こんなんチートコンビやんけ

 

 

91:名無しの龍信奉者 ID:qtuth+HP3

 ミークシニア級4年目でまだまだ現役なの強すぎる。これが桐生院直伝鋼の意志か……。

 

 

92:名無しの龍信奉者 ID:D2aMY5DCa

 頼むから凱旋門賞勝ってくれ お前がこの不可能という呪いを壊してくれ

 

 

93:名無しの龍信奉者 ID:g6mF1cgbi

 >>84 他のプレイヤーと協力しないと勝てないとかレイドボスか? しかもそれもトレーナー不在っていうクソデカデバフ込みって大魔王か何かかこの子?

 ……なんでテイオー同着取れたんだ改めて?

 

 

94:名無しの龍信奉者 ID:o4PQZFrnd

 今を生きる神話とか龍とか最初の頃はだいぶ大仰だなと思ってたけど、最近は無事馴染んできてしまったな。マジで神話を目撃してる気分だよ今は

 

 

95:名無しの龍信奉者 ID:ETuU6ZvMl

 >>54 ホープフルからの大ファンワイ、高みの見物

 いやーウィルはクると思ってたんすわ!w

 

 

96:名無しの龍信奉者 ID:4ad4SkMUW

 >>89 ナイムネ、バカニシタ……オデ、オマエ、クウ……!!

 

 

97:名無しの龍信奉者 ID:7+d2NMb/Z

 >>91 鋼の意志というか鋼の身体というか……。

 

 

98:名無しの龍信奉者 ID:suEeJ1vDL

 ウィルムの海外遠征って帯同バなし? 流石に菊花賞目指すブルボンは連れて行けないよな

 

 

99:名無しの龍信奉者 ID:8KlN7B5Bl

 >>93 今を生きる龍です。

 そしてその首を狙う帝王だからです。

 

 

100:名無しの龍信奉者 ID:vzbOkLzaM

 もう今年のレース半分終わりかー! ウィルムが現れてから時間経つの早すぎ!

 凱旋門賞ちょっと怖いけど楽しみだ。無事に帰って来てほしい。

 

 

 

 







 そんなこんなで、宝塚記念編終了。
 そしてシニア級春のレース編もついに終了です! なんと有記念から80話かかったらしいですね。気付けばすごい間延びしちゃったな……。

 そんなわけで、次回からは(比較的)サクサクいく予定です。
 今回で今年の投稿はおしまいなので、来年から……三が日が終わってから本気出す!



 次回は1月4日予定。トレーナー視点で、せめてプールに行こうの話。
 ホシノウィルムの合宿イチャイチャ海デート計画は叶うのか……!?(ネタバレ:叶いません)


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彼と彼女と世界の季節
このロリコンどもめ!


 新年1発目からアレなタイトルですが、明けましておめでとうございます!
 今年もポツポツ投稿していきますので、どうぞよろしくお願いします。





 

 

 

 宝塚記念から数日、梅雨明けを迎えたとある日の、うららかな午後。

 トレーナー室に、控えめなため息が響いた。

 

「はぁ……」

 

 それを発したのは誰あろう、現在トゥインクルシリーズのみならず、全世界の競走ウマ娘界隈を賑わせる生ける神話、ホシノウィルム。

 いつもはファンに向けて自信満々で溌剌とした言動を見せる彼女は、しかし今、その表情をどんよりと曇らせている。

 

 ……っていうか、ぶっちゃけすごく落ち込んでいた。

 

「あー、その、ウィル」

「……なんでしょう」

「元気を出せ……というのも違うよな。なんというか……」

「……いいんです。歩さんは悪くないですし、っていうか悪いの完全に私ですし……。

 今はほっといてください、1時間くらいで元気になりますから」

 

 無気力に呟いたウィルは、現在ソファに座ってだらんと脱力している。

 彼女の横に座った昌はその頭を撫でて、少しでも元気が出るようにとメンタルケアしているが……まぁ、効果は見られないな。

 

 

 

 ここまで落ち込んだウィルは、ちょっとばかり新鮮だ。

 この子って基本──昌の話では、俺の前以外ではそうでもないらしいけど──テンションが高いし、ダウナーなウィルを見ることは結構少ないんだよね。

 

 宝塚記念以来、感情豊かなところを見せてくれるようになったウィルだが、その感情は主に喜怒楽に傾いて、哀方面には滅多に伸びないというのが実情だ。

 強いて言えば有記念周辺がそうだったんだろうけど……その頃は俺の方が意識を失ってしまってたしな。

 

 契約トレーナーとしてはこんな思考どうかとは思うが、正直、彼女の見慣れない面を発見することに少なからず喜びを感じる。

 あぁ、この子もこういう風に落ち込んだりするし、無気力にもなったりするんだ。

 けどその上で、相手に気を遣うこともできる、優しい子なんだ……と。

 ウィルの新たな一面を見つけられた気がして、嬉しいんだ。

 

 ……が、堀野歩個人の感情はさておいて。

 

 彼女の保護者代理として、このまま彼女を放置するのはよろしくないだろう。

 

 

 

「あー、勘違いしてほしくはないんだけど、ウィルが頑張ってくれたことは本当に嬉しいんだ。

 宝塚に向けたトレーニングメニューはかなりハードにしたし、その上で君が不得意な勉強に励んで、あそこまで点を取ってくれたんだ。

 トレーナーとして、その努力を誇らしいと思う。やっぱりウィルはやればできる子だなと思ったよ」

 

 なんとか気を取り直してもらおうと色々言ってみるものの、彼女のどんよりとした雰囲気は全く変わってくれはしなかった。

 というか、話せば話す程に沈み込んでいくまであった。

 

「やればできる……はは、そうですね……まともに話も聞いてないし、スケジュール管理もできないですけどね……」

「あれだけ頑張っていたんです、多少注意散漫になるのは仕方ないことだと思いますよ。むしろ、そんなホシノウィルムさんを気遣って、兄さんがちゃんと文章に出して説明すべきだったんですよ」

「そうだな、俺の配慮が欠けていたと思う。だからそんなに自分を責めるな、ウィル」

「……こんなこと言うのは2人に悪いってわかってるんですけど、今大人の対応されると、こんなことで落ち込んでる自分がすっごいガキっぽくて更に凹みます」

 

 あぁ駄目だ、もう完全に鬱モードに入ってる。

 ネガティブ思考って一度沈んじゃうと、どんなこと言われても全部悪い方に捉えちゃったりするからな……。俺も身に覚えがある。

 

 しかも今回の場合、割とホントにウィルが悪いから、なんとも慰めにくいんだよな……。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ウィルがこうなってしまったのは、今から10分程前のこと。

 

 宝塚記念を制し、名実ともに日本最強のウマ娘となったウィル。

 だが当然、これが彼女の唯一無二のゴールというわけではない。

 むしろ、世界への挑戦という意味では、ようやくスタート地点に立ったとすら言える状態だ。

 

 だからこそ心機一転の意味も込めて、彼女の午前中の授業が終わり次第、今後の予定を話し合う予定だったんだが……。

 

 

 

「歩さん……私、今年の夏は頑張りますね!」

 

 トレーナー室に来るや否や、ぐっと拳を握り、決意を秘めた瞳でこちらを見上げてくるウィルに、俺は頷いた。

 俺の担当ウマ娘は、相変わらず走りへのモチベーションが高いなと思いながら。

 

「ああ、慣れない土地にハードなトレーニングだが、頑張ろう。俺も全力で君のことを支える」

「あ、いえそっちじゃなくて……ん?」

 

 ウィルはそこで小首を傾げる。

 

「夏……秋からでは? あっちに行くの」

「いや、夏だが。言っただろ? 宝塚記念が終わったら準備を始めて、君の体調が整い次第発つ、と」

 

 ピシリ、と。

 俺の聞き間違い、あるいは幻聴でなければ、確かに彼女の顔からそんな音が聞こえた。

 

「……ん? いえ、あの、合宿は?」

「大丈夫、既に話は通している。君は不参加でも問題ないよ」

「え、っと……海は?」

「海? ……うーん、あっちでの本拠地からは100キロくらいかかるかな。

 どうしようもなく行けない距離ではないから、もしも何か用があれば言ってくれ。スケジュールを調整する」

「み、水着……」

「水着? ……室内のプールトレーニングか? 勿論当地でできるよう計画は立てているぞ」

「…………が、がっしゅく……」

 

 彼女は、何か重大な発見をしたという風に、真面目な表情で黙り込み……。

 

 そして数秒後、がっくりと肩を落としてしまった、というわけだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、回想は程々にして、どうやってウィルを慰めればいいかを考えよう。

 そのためにはまず、ウィルが何故こうも落ち込んでいるのかを考察しなければ。

 

 先程の会話の内に出て来たキーワードは、合宿、海、水着、そして2度目の合宿。

 以上のワードから考えるに……どうやらウィルは、合宿に参加したかったように思える。多分。

 

 問題は、何故参加したかったかだが……。

 

 希少性? 1年に1度しかないイベントに対する興味?

 友人関係? ネイチャやテイオーと何か約束をしていた?

 海自体に何かの意味が? 何かしらの思い入れがある?

 水着? 合宿は学園指定の競泳水着着用。アレが好きなのか? いやそんな様子は認められなかったはずだが……。

 

 

 

 いや、待てよ?

 

 ウィルの合宿。

 そうだ、去年、あの子は……。

 

 ……そうか、わかったぞ。

 

 ホシノウィルムは、クラシック級で宝塚記念に勝利した史上初のウマ娘だ。

 しかし、その勝利には1つの代償があった。

 それが脚の骨折だ。

 

 非業の故障を発生させたウィルは、その後菊花賞での復帰に向けて、懸命に病院でのリハビリに臨むことになったのだが……。

 当然ながらこの際、彼女は合宿には参加できていない。他のウマ娘に当てられてオーバーワークでもすれば事だからだ。

 

 つまるところ、ウィルはおおよそ唯一、夏の合宿に参加したことのないシニア級ウマ娘なのである。

 

 彼女の年代を考えれば、同年代間での共感や共通の体験が重要であることは想像に難くない。

 ウィルは自分だけが合宿に行っていない、海に行っていないことを残念に思っていたのだろう。

 だからこそ、今年もいけないという事実を聞いて意気消沈してしまった……と。

 

 うむ、我ながらかなり理路整然とした仮説だと思う。

 これはホシノウィルム検定準一級も遠くはないのではあるまいか。

 

 

 

 ……よし。

 そういう方向の落ち込みなら、対処法がないでもない。

 

 いや、かなり場当たり的なものになるし、抜本的な解決には繋がらないんだが……。

 こういうのは気分の問題だ。

 ここまでレースレースで忙しなかったし、一旦のリフレッシュということで1つ。

 

「よし、それなら……昌、明日1日、こっち頼めるか」

「え? いや、それはいいけど……」

「助かるよ」

「?」

 

 ちらりとこちらを覗いてくるウィルに、俺は笑いかける。

 少しでも彼女が元気になれればいいなと、そう祈りながら。

 

「もう今年の合宿はどうしようもないけど……トレーニング外で水辺で遊ぶ機会くらいは作れるさ。

 ウィル、明日のお休み、時間をもらってもいいか?」

「え……あ、え、はい!」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ホシノウィルムは現在、恐らくは世界でもトップクラスの知名度を誇る存在だ。

 そうなると、いわゆる有名税というヤツで、彼女の行動は結構大きく制限されてしまう。

 

 それこそ水遊びなんかはその典型で、ウィルは今や、そういった場所で普通の子供のように遊ぶことはできない。

 公共に開放されているプールに行けば騒ぎになるし、海なんて行けばなおさらだ。

 トレセンのプールはあくまでトレーニングのためにある場所で原則として遊びに使うことはできないし、勿論病院などのリハビリ用プールも語るに及ばず。

 

 となると残った選択肢としては、貸し切りができる類のプールや、そこそこのホテルにはありがちな個人用プールとなるが……。

 前者は今からだと予約が間に合わない可能性が高いし、後者は……狭いんだよな、ああいうの。ウマ娘であるウィルが泳ぐには、少し手狭だろう。

 

 となれば、彼女が安全に、なおかつ落ち着いて泳げる環境を用意する手段は……1つ。

 

 

 

 そんなわけで、ウィルがどんよりと落ち込んでしまった、次の日。

 

 俺はしっかりと変装したウィルを伴って、空の便を使って数時間。

 久々に、九州の実家への帰省を果たした。

 

 

 

 久々に帰って来た家は、以前と殆ど変わらない。

 少し蒸し暑い夏の空気の中、しかしどこか清涼に感じる森の空気と、耳がおかしくなりそうな程のセミの鳴き声。

 門には細かく補修されているところなどもあったが、それでもやはり、俺のよく知る実家のままだ。

 

「あ、あの……すみません、今更ですけど、何故ご実家に」

 

 少なからず汗をかきながら、何故かちょっと緊張してる様子で尋ねてくるウィルに、「あれ、言ってなかったか」と思いながら、改めて説明する。

 

「君は1人の競走ウマ娘だ。そして、今全世界で注目されるトップアスリートでもあり、トップアイドルでもある」

「そうですね?」

「……だが同時、君は学生で、ただの女の子でもある。その役職や役割があるとしても、だからと言って他の子たちが楽しめることを君だけが味わえないというのは……少し、酷な話だ」

「まぁ、確かに……仕方ないことではありますけどね」

 

 そう言って首を傾げるウィルは、どこか諦めたような表情。

 やはり彼女は、こういうところが大人っぽい。なんというか、「これは仕方ないことだから」って、分別が付けられるんだよな。

 

 だが、本来子供は分別など付けず、楽しんでいいものなんだ。

 

「そんなわけで、合宿のように2か月も続くわけではなく、海に行けるわけでもないが……せめて1日だけでも水辺で遊ぶことができないかと思ってな」

 

 正直、ウィルがそういった水遊びに興味を持っているとは思っていなかった。

 娯楽よりも走ることを選びがちな子だ、今回も「海外遠征、新鮮な気持ちで走れますね! 楽しみです!」とか言ってくるんだろうな、と思っていたんだが……。

 

 やはり彼女も、普通の年頃の女の子。

 合宿という学生的なお祭りイベントを逃すことには抵抗感があったのだろう。

 

 しかし、海外遠征や凱旋門賞への出走は、今や日本全体が望むこと。もはや簡単には覆せない。

 彼女のその気持ちだけで今から海外遠征を遅らせることは……まぁ余程強くそう望まない限り、選択肢に入れてはならないだろう。

 

 去年に続いて、今年もウィルは合宿には参加できない。

 残念ながら、この事実を覆すことはできない。

 

 ……であれば、その代わりに、ささやかでも祝日を用意したいところだ。

 ホシノウィルムが人目も気にせずはしゃげる、最近じゃ滅多にない機会を。

 

 

 

「というわけで、改めて。ウチのプールを使わせてほしいのですが」

「ああ、それがお前と担当ウマ娘のためであれば、自由にしなさい。

 ……お前自身がどう思おうと、お前は堀野のトレーナーだ。だから、当家の施設を使う際に、わざわざ俺に許可を取る必要はない」

「ありがとうございます」

 

 帰り次第父から許可をいただき、ガチガチになってしまっているウィルを伴って、プールに敷設された更衣室に向かう。

 

「こ、こういうこと……ですか。確かに、水辺で遊ぶ機会……」

「ああ。まぁ、友人もいないし期間も短いし、君が満足してくれるかはわからないが」

「い、いえ! いえいえ! その、嬉しいです! むしろ都合が良いっていうか……!」

 

 ウィルはあたふたと手を振り、にへらと笑う。

 そこには、昨日浮かべていた鬱屈とした感情は、殆ど残っていなかった。

 

 良かった。どうやら無事に、お眼鏡に適ってくれたらしい。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 堀野邸のプールはそこそこ広くて、50メートルのレーンが8つ並ぶ形。

 堀野のトレーナーの担当するチームの療養やトレーニングに使われることがあるのもあって、複数人で使っても問題のない広さが確保されている。

 その内容に関しても、水温や水嵩の調整や清掃も含めてほぼ常に整備されているため、いつでも使用可能な状態だ。

 

 どうやら最近はあまり使われていなかったみたいだけど……。

 昔は兄さんや昌と一緒に、遠泳の練習とかしたりもしたな。懐かしい。

 水泳はトレーナーの必修科目だった。なにせ、競走ウマ娘のトレーナーとして、もしも彼女たちが海で溺れかけたりした時は、誰よりも早く対応しなければならないからね。

 ちなみにタイムは大体いつも年齢順で、俺は1回も兄さんに勝てなかった。何なら昌に負けることも何度かあった。泣ける。

 

 そんなことを思いながら、更衣室で手早く着替えを行う。

 俺自身はプールに入る気はないが、まぁ遊びの場でピッチリしたスーツというのも少し仰々しいものな。

 ラフなシャツとスラックスを身に着けて、プールサイドに向かった。

 

 

 

「ウィルは……まだか」

 

 広いプールサイドには、俺以外の姿はなかった。

 

 ただちょっと格好を変えるだけの俺と、水着に着替えるウィルでは、色々と違うんだろうな。多分。

 それに、昔から昌も着替えとかには時間を使ってたからな。やはり女性は身だしなみに時間を使うものなのだろう。

 まぁ、着るのが学園指定の競泳水着である以上、殊更に身だしなみを整える必要はないと思うが……。

 

 さて、彼女を待つまで手持無沙汰……にはならない。

 なにせ今日は、ウィルのための小さな祝日だ。

 準備せねばならないもの、確認せねばならないことはたくさんある。

 

「母さん? ……そう、お願いします。はい。……あー、シロップはひとまず全種。はい、それと焼きそばも。王道らしいので……」

 

 持ってきていたスマホで母にいくつかお願いをしながら、タオルやビート板、念のための浮き輪、念には念を入れた酸素吸引機などを用意していると……。

 

 

 

「……あ、あの」

 

 更衣室の方から、声がかかる。

 疑うまでもなく、ウィルのものだ。

 

 じゃあよろしくお願いします、と母に告げて電話を切り、振り返ると……。

 

 そこには、見慣れない姿のウィルがいた。

 

 頭には、赤いリボンの巻かれたつばの広い麦わら帽子。

 薄灰色の中に黄色のラインが入った、体に張り付くショート丈のタンクトップ状のトップス。

 同色のスポーティな雰囲気を漂わせるボトムス。

 その上に、丈の長い軽く透けた白のシャツ。

 

 それらを身に着けたウィルは、これまでにないくらいに顔を真っ赤にして、麦わら帽子のつばを掴んで必死にその目を隠していた。

 

 

 

「…………」

 

 そんな彼女を見て、一瞬、言葉に詰まる。

 

 かけようとしていた言葉はあった。

 事前に台詞も用意はしていた。

 

 けれど、ホシノウィルムの姿に、そんなものは吹っ飛んでしまった。

 

「……あの、何か……こう」

「あ、あぁ、そうだな。いやすまない、少し驚いてしまって」

 

 てっきり、学校指定の競泳水着を着てくるものだと思っていた。

 というか、彼女のスケジュールは管理してるし、その上でこんな水着を買いに行くような暇はなかったはずだった。

 それなのに、いつの間に用意したのか……なんというか、すごく等身大な、「らしい」水着を着て、彼女は俺の目の前に立っていた。

 

 それに、驚いてしまって……。

 

 

 ……いや、違うな。事実を歪めるべきじゃない。

 俺が驚いたのは、彼女が知らない水着を着ていたことじゃない。

 

 正直に言えば、見惚れてしまったんだ。

 彼女の水着姿と、それを恥じらう表情に。

 

 困ったな。

 俺、ウィルに惚れてるのは、走りと内面だけのつもりだったんだけど……。

 どうやら俺はもう、どうしたってロリコンの誹りを免れないらしい。

 

 ……はぁ、もう。

 相手は中等部の幼い女の子で、それも担当ウマ娘だっていうのに……人の感情っていうのは、なんともままならないものだ。

 

 

 

 まぁ、こうなってしまった以上、今更本心を隠すというのもおかしな話だ。

 何事においても、良いものは良いと賞賛すべき。それは芸術であろうと美食であろうと、あるいは競走ウマ娘の能力であろうと、もしくは少女の容姿であろうと変わらない。

 だから俺は、努めて心を落ち着け、チラチラとこちらを覗いてくる彼女の目を見て、口を開く。

 

「うん、似合ってるし、綺麗だ。すごく」

 

 少したどたどしくなってしまった俺の言葉を聞いて、ウィルは……。

 

「っ、~~~~~!!」

 

 声にならない悲鳴? を上げて、帽子で完全に顔を隠してしまった。

 あぁ、もったいない。すごく魅力的な表情だったのに……。

 

 

 

 ……と、そうじゃなくて。

 

 今大事なのは、ウィルのちょっとした休暇だ。

 

「……それじゃ、どうする? 早速泳ぐか?」

「お、泳いで来ます!」

 

 そう言うや否や、ウィルはどぼんとプールに飛び込んでしまう。

 

「あ、おい待て! まずは準備運動!」

「大丈夫! 大丈夫ですから、ちょっと5分くらいこっち見ないでください!」

 

 な、なんで……?

 

 俺が伸ばした手は虚しく空を切り、ウィルはとんでもない勢いで泳ぎ始めてしまった。

 

 ……ええと、俺、もしかしてまたマズいこと言っちゃったのか?

 いや、今回の場合はただ恥ずかしがってるだけなのか?

 あるいは、泳ぐ以前に何かしらやりたいことがあったとか……?

 

 駄目だ、わからん。乙女心は難しすぎる。

 どうやら俺のホシノウィルム検定準一級はまだまだ遠いらしい。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ウィルは宣言通り、5分程すると、やや平常心を取り戻してくれた。

 

「い、いやぁ、久々に思い切り泳ぐと気持ち良いですね! あはは……」

「君、先週にもプールトレーニングしていたが」

「思いっきり、自分の泳ぎたいように泳ぐって意味ですから! あと今はそういう野暮なツッコミはノーセンキューです!!」

 

 俺はプールサイドに置いてある椅子から、彼女の爆走ならぬ爆泳を眺めていたのだが……。

 プールから上がり、しとどに濡れたウィルは、パタパタと顔を仰ぎながら、少しぎこちなく俺の隣に座って来た。

 

 思わずチラリとそちらを窺うと、ちょっと不安げな視線が向けられる。

 

「あ、濡れてるの、嫌ですか」

「いや、そうではなく……うん、改めて見ても、綺麗だなと」

「も、もういいです! それはもういいですから! ありがとうございますっ!」

 

 両手をぶんぶん振ってやめろと告げてくる。

 俺としては、いくら褒めても褒めたりないくらいなんだが……まぁ、やめろと言われればやめよう。

 シャツが下の水着にぴったり張り付いてるのを見るのは、ちょっとアレかもしれないし。

 

「あの、歩さんは泳がないんですか」

「ん……まぁ、特に予定はないかな」

「泳ぎましょうよ! せっかくの機会なんですし!」

 

 ちょっと興奮してるのか、尻尾をぶんぶん振りながらそう言ってくるウィル。

 機会……機会か。

 確かに、家を出てからは水泳の鍛錬をする機会はなかったな。

 どれくらいなまったか、久々に確かめてみるのも悪くないかもしれない。

 

 そう思った時……。

 

 「えいっ!」と声が聞こえて、冷たい感触が体を襲った。

 

「ぬおっ」

 

 見れば、ウィルが横から抱き着いてきている。

 そうなれば当然、彼女の体に付いていた水も俺の服に沁み込んでくる。

 

 わざとそうしたのだろう、ウィルはニヤニヤと笑ってこちらを見上げてくる。

 

「へへっ、濡れちゃいましたね! これならもう泳がない方が損ですよ!」

「……まったく。先にプールに入って待ってなさい、水着に着替えてくるから」

「はーい!」

 

 元気よく片手を挙げるウィルを後目に、俺は腰を上げた。

 

 ……あまりわがままを言わない彼女が、こういうことをするとは。

 多少なりとも、ストレスの解消にはなっているのかな。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 その後、ウィルと2人、プールを満喫した。

 

「歩さん、遅いですよ~?」

「いや、君ね……ふぅ。ウマ娘のスピードとかスタミナとかと、同じにしないでほしい……。

 これでも俺、人間としては、結構泳げてる方だからね?」

「そういえば、それもそうかな? 人間ってどれくらい泳げるのが普通でしたっけ」

「どうかな……正直、俺も泳ぐのは久々だから、ちょっとわかんないけど……」

 

 200メートルのスイミングでめちゃくちゃ差を付けられ、ウィルにニヤニヤイジられたり。

 

 

 

「え、これ……!」

「海には行けないが、できるだけ再現しようと思ってな。

 海と言えば焼きそばとかかき氷、浜焼きという話を聞いたので、用意してみた」

「おぉ、すっごい……! 初めて見ましたよこういうの! いただきます!」

「うん、俺も一緒にいただくよ」

「むぐ……いや美味しいですねこれ! 本当にめちゃくちゃ美味しいですよこの焼きそば!! むしろ美味しすぎです! 海で食べるのってもっとこう、ジャンクな焼きそばなんじゃないですか!?」

「……質に関しては指定し忘れたな」

「まぁ美味しいなら良いですけどね! おかわりください!」

 

 プールサイドで昼食を取ったり。

 

 

 

「……そう言えば、かき氷のシロップは色や香料が違うだけで、ほぼ全て同じ味らしいな」

「え゛っ、そうなんですか!?」

「らしい。ほらこっち、ブルーハワイ。あーん」

「あ、えっと、……あーん!」

「どう?」

「……えっと……確かに同じ、ですかね?」

「何故疑問形」

「いや、ドギマギと、あとは冷たいから味覚がちょっと……あ、だからバレにくいんですかね」

「あぁ、確かに。ちょっとズルいな?」

「まぁお祭りですからね~。こういうのは気分第一なんでしょう」

 

 デザートを食べながら、くだらない話をしたり。

 

 

 

「歩さん、何気に整った体してますよね……。鍛えたりとかしてるんですか?」

「程々かな。最低限筋力の維持はしてるけど、基本は昔取った杵柄だよ」

「古い杵柄でここまで細マッチョになれますかね」

「うーん……まぁ、その手の身体管理もトレーナーとしての義務と思ってたからな。昔は結構頑張ってたんだよ」

「あー、なるほど……」

「ウィルだって、昔からずっと頑張ってきたからこそ今があるだろう?」

「そうですねぇ……言われてみれば、割と似た者同士?」

「そうだな、俺は結構ウィルに共感できるところは多いよ。そうじゃない部分も多いけど」

「え、それ良い意味ですよね? 凸凹が噛み合ってるって意味ですよね?」

 

 食後しばらくは、色んな話をしたり。

 

 

 

「そう言えば、私の泳ぎのフォームって歩さんから見てどうですか?」

「悪くないぞ。良くもないけど」

「なんとも言えない微妙な評価……」

「いやまぁ、君の本職は走ることだしな。無理して矯正する必要はないかなと」

「まぁそれはそうかもですが……。ちなみに走ることは?」

「そっちは完璧。流石は俺のウィル」

「うぇへへ……」

「隙あり!」

「うばっ!」

「さっきの仕返しだ」

 

 水の中でゆったりと話したり、急に水のかけ合いを始めたり。

 

 

 

 そうして1日、トレーニングも忘れて遊び倒して……。

 夕日が差し始める頃には、ウィルの憂鬱な表情は、どこかへと吹き飛んでいた。

 

「はー、楽しかった! ありがとうございます歩さん、大満足です!」

「ふぅ……なら良かった」

 

 正直、ウマ娘である彼女の体力に付いて行くのは、結構大変だったが……。

 

「よし、改めて海外遠征、頑張りましょう!!」

 

 笑顔でぐっと拳を上に突きあげるウィルを見られたので、頑張った甲斐はあったな。

 

 

 

 ……さて。

 そろそろ良い頃合いか。

 

 今日はウィルの祝日、一旦の小休止だ。

 であれば……明日からのトレーニングに向けて気合を入れ直せるように、1つ、伝えておこう。

 

「ウィル」

「何でしょう」

「海外遠征に行く前に、1つ、模擬レースをしよう」

「模擬レース?」

 

 小首を傾げるウィルに、俺は……ニヤリと、笑いかける。

 

「ああ。君の望んでいた相手と、ようやく都合が合った。

 海外に行く前に、決めよう。……過去の無敗三冠と今の無敗三冠、どちらがより速いのかを」

 

 

 







 堀野君、完堕ちのお知らせ。
 最後の牙城、崩れちゃったね……。

 そうして次回、すごく遅くなったあの無敗三冠ウマ娘との模擬レース。
 もうお忘れの方も多いと思うんですが、半年前の入学式で、新入生に挨拶する代わりに模擬レースをする権利をいただいていました。



 次回は1週間以内。ホシノウィルム視点で、最強と過去に取りこぼしたものの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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皇帝の行程の唯一の拘泥

 ギャグノルマを先んじて回収していくスタイル。





 

 

 

 ドリームトロフィーリーグ。

 これは、トゥインクルシリーズの上位にあたるとされるレース群だ。

 

 ただ、上位だから当然と言うべきか、これへの参加条件はトゥインクルシリーズのそれのように緩いわけじゃない。

 ……いや、トゥインクルシリーズだって全国規模で見ればかなり狭き門なんだけど、ドリームトロフィーリーグは更に何十倍と厳しいんだよね。

 なにせ、トゥインクルシリーズに足を踏み入れる子が1年に400人前後いるのに対し、ドリームトロフィーリーグは多くても10人程度だもの。

 

 トゥインクルシリーズの参加条件が「トレセン学園に入学し、メイクデビューか未勝利戦で1勝を挙げること」であるのに対して……。

 ドリームトロフィーリーグの参加条件は、「トゥインクルシリーズで一定の成果を収め、URAから招待をもらうこと」。

 

 この「招待」ってのがなかなかの曲者で、ぶっちゃけ言えば重賞に安定して勝つこともできない子は、まず招かれることはない。

 更にただ戦績を挙げればいいってわけでもなく、G1級ウマ娘でも招かれないこともあれば、逆にG3の子が招かれるようなこともある。

 歩さんから聞いた話によると、もちろんその実力もそうだけど、人気とか気性、本人の意思、そしてレース興行全体における貢献度なども加味して、総合的に判断されるものなんだとか。

 

 とはいえ、第一の選定基準は、勿論実力だ。

 私ことホシノウィルムは勿論、ライバルであるネイチャやテイオー、マックイーンさんにミーク先輩辺りは、まず間違いなくお呼びがかかるだろう。

 

 ……というか、多分マックイーン先輩やミーク先輩は、既にお呼びがかかってるんじゃないかな。

 もう十分に上がっていい時期なんだし。

 

 

 

 招待されたウマ娘が、トゥインクルシリーズからドリームトロフィーリーグへと進むタイミングは、それぞれの陣営の判断に委ねられる。

 で、結構千差万別なんだよね、これが。

 

 例えば、典型的なのが黄金世代だろう。

 前世アニメで私が親しんだグラスちゃんやエルちゃんは、シニア級1〜2年目である程度見切りを付けて、ドリームトロフィーリーグに進んだ。

 対してスカイ先輩やスペ先輩は、トゥインクルシリーズの中でライバルと決着を付けるためにと、去年までずっとここに残ってた。

 そして我がルームメイトであるミーク先輩なんかは、未だにバリバリ現役でトゥインクルシリーズを走り回っている。

 

 で、そういう進級タイミングの平均を取ると、大体シニア級1年が終わった辺りからシニア級2年目の夏ごろまでになる。

 トゥインクルシリーズで全てのレースを走ることが許され、1年。

 この時期に、有力なウマ娘は、次のステージに進むかどうかの選択を強いられるのだ。

 

 

 

 ……しかしそうなると、1つ疑問が生じる。

 ドリームトロフィーリーグは、果たして本当にトゥインクルシリーズの上位なのか、と。

 

 

 

 ウマ娘には、いわゆる「ピークアウト」と呼ばれる現象がある。

 一般的には絶頂を示す言葉ではあるけど、「そこから先は降っていくしかない」、という後ろ暗い意味合いもある。

 私たちウマ娘が使う場合は、後者のことを指すことが多い。

 

 競走ウマ娘は、その全盛期が過ぎれば、後は徐々に衰退していくだけ。

 実力は向上しにくくなり、それまでの力は出せなくなって、レースでも活躍できなくなっていく。

 

 競走ウマ娘には、明確な寿命がある。

 いくら事故を避けても、脚を健康に保ったとしても、超えられないラインというものは存在するんだ。

 

 

 

 ……でも、それなら、ドリームトロフィーリーグはどうなるのか。

 トゥインクルシリーズの先、大半はシニア級以降にようやく脚を踏み入れるこのシリーズは、ピークを過ぎたウマ娘たちによるレースになることも多い。

 

 それでは、果たしてこれらは、トゥインクルシリーズよりも高位のレース足り得るのか……?

 

 その答えは、今、目の前にあるウマ娘が教えてくれるだろう。

 

 

 

「久しぶりだね、ホシノウィルム。ずいぶんと待たせてしまったようで、申し訳ない」

 

 

 

 最近はだいぶ箔がついてしまったせいで、私を前にすると緊張しちゃう子も多いんだけど……。

 彼女はそんな様子もなく、それどころかむしろ、こちらに気遣わしげな感情を込めた視線を向けてくる。

 

 無敗三冠、現役最強。

 そんな称号に欠片も怯む様子がないのは、彼女自身もそれらを備えているからだ。

 

 たなびく鹿毛の長髪に、綺麗に流れる流星。

 クールな顔貌の中から、怜悧に光る視線がこちらを見つめている。

 緑をメインカラーとする威厳のある勝負服には、彼女の獲ったG1タイトルと同じ数、7つの勲章が輝いていた。

 

「今日は良いレースにしよう」

 

 そう言って凛々しく微笑む彼女の名は、シンボリルドルフ。

 

 中央トレセン学園の現生徒会長であり、かつてトゥインクルシリーズで史上初の無敗でのクラシック三冠を成し遂げた英雄であり……。

 そして、現在5連勝中の、ドリームトロフィーリーグの現役最強ウマ娘だ。

 

 

 

 この人は私と違って、普段から威圧感が漏れ出してるタイプなんだけど……。

 模擬とはいえレースを前にした今、彼女の圧はいつにも増して、もはやこちらを押し潰さんばかりに放たれている。

 

 いやはや、すごいね。

 正直、ここまでの圧力は感じたことがない。

 

 ダービーや春天の時のテイオーのそれに近くて、しかしそれよりも一回りも二回りも研ぎ澄まされた……まさしく皇帝の威厳。

 いいや、もはや神威と言っていいかもしれないな。

 

 

 

 ……けど、ビビってはやらない。

 彼女が最強であるように、私だって最強だ。

 その立場が対等であることを示すように、私は彼女に笑顔を返した。

 

「えぇ、お待ちしていました。

 あのテイオーの憧れの人であり、いくつもの偉業を成し遂げた……唯一無二、レースに絶対をもたらすとされる永遠の皇帝。

 あなたと、レースを走れる日を!」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 今年の頭、新入生たちに在校生代表挨拶をすることを代償として、私はルドルフ先輩と模擬レースをする権利を手に入れた。

 けど、実のところ、今の今までそのレースは実現してなかったんだよね。

 

 というのも、私もルドルフ先輩も、今年はめちゃくちゃ忙しかったんだ。

 私の方は、今年のレースに向けたトレーニングは勿論、去年のこの時期とは比べ物にならない量の依頼が舞い込んできてたし……。

 生徒会の仕事とトレーニングとお仕事、三足の草鞋を履くルドルフ先輩も、今年の春はかなり多忙だったらしい。

 ……多分、私がトゥインクルシリーズを盛り上げまくったせいだろうな。

 何も悪いことってわけじゃないけど、ちょっとだけ申し訳ないような気がしないでもない。

 

 ま、そういう理由はさておき。

 今大事なのは大事な大事な模擬レースの約束がおじゃん……とは行かずとも、なかなか実現しなかったことで。

 いつしか時は流れに流れて、ついには半年もの時間が経過し……。

 

 宝塚記念も終わって、実に2週間。

 ようやく、私とルドルフ会長の予定が合う、この日が訪れたのだった。

 

 

 

「正直な話、私としても、君とは一度走ってみたかったんだ。その機会が得られて嬉しいよ。

 ……まぁ、このように仰々しくなってしまったことは、少し申し訳ないがね」

 

 私の前に立ち塞がるルドルフ会長はそう言って苦笑し、辺りを見回した。

 

 トレセン学園のターフに立つ私たちの周りには、16人の勝負服を着たウマ娘。

 そしてそんな出走ウマ娘たちを取り巻くのは、外ラチ周辺どころか校舎の中にまで詰めかけた、何千何万という数の観客たちとこちらに向いたカメラ。

 ターフの芝はいつになく綺麗に整えられ、更にはいつもはないはずのゲートがわざわざ用意され、何なら「無敗三冠特別記念」と書かれたゴール板まで用意されている。

 

 

 

『さぁ、今衝突する過去と現在! 三冠と三冠! 最強と最強!

 日本の全ウマ娘ファンが望んだ、奇跡のエキシビジョンマッチ!

 シンボリルドルフ対ホシノウィルム!! ここに実現です!!!』

『両者共に言わずと知れた、この国の誇りと言っていい競走ウマ娘たちですね。

 当然ながらその身体の整い方、技術共に、国内最高峰の水準です。他出走ウマ娘たちの気合も十分、これは良いレースが期待できますね』

 

 

 

 なんなら、ちょっと離れたところに立った仮設テントには実況解説の人たちまでいる。

 しかも、私もよく実況してもらってる、URA公式の人だ。休日出勤お疲れ様です。

 

 ここまでくると、トレセン学園の模擬レースというよりは、もはやレース場でやる重賞レースみたいな盛り上がりだ。

 いや、出走ウマ娘全員が勝負服を着ているあたり、重賞というかG1レースか。

 

 

 

 確かに、私も正直ここまでの規模になるとは思ってなかった。

 

 ただまぁ、考えてみるとそりゃそうだよね。

 これまでの歴史上に、無敗のままにクラシック三冠を獲ったウマ娘は、ただ2人。

 その2人がぶつかるとなれば、大騒ぎになるのはある種当然の話かもしれないね。

 

 しかし、流石に無敗三冠対決ってだけで、ここまでの規模になるとは思えない。

 こうなったのは……やっぱり、私が凱旋門賞に行くからだろうか。

 

 日本の悲願、凱旋門賞。

 ここに出走するっていうのは、それだけ重い価値を持ってるんだろう。

 

 

 

「……ホシノウィルム」

「はい?」

 

 ちょっと真面目なイントネーションで名前を呼ばれ、改めてルドルフ会長の方に向き直る。

 

 彼女は今、先程までとは少し違う表情を浮かべていた。

 薄く微笑みを浮かべた、強者としての余裕を携えたものじゃない。

 真剣で、真っ直ぐで……どこか後ろ暗いような、複雑な視線をこちらに向けてくる。

 

「君は、私のトゥインクルシリーズでの過去を知っているかな」

「えっと、一応は」

 

 去年の今頃から、歴代の優駿に興味が湧くことも増えて、ちょこちょこ歩さんから教えてもらったりするんだけど……。

 ルドルフ会長のトゥインクルシリーズ時代の話は、ドラマチックで面白かったし、よく覚えてる。

 

 

 

 史上初の無敗三冠ウマ娘、シンボリルドルフ。

 彼女は名家シンボリ家の出であり、その良血をこの上なく証明した優駿だ。

 

 メイクデビューに加えオープンレースを2つ、そして弥生賞から皐月賞、日本ダービー、セントライト記念に菊花賞と勝ち続け、無敗の三冠を達成。

 続くジャパンカップでは、前三冠ウマ娘ミスターシービーや海外からの刺客たちすらも押しのけたカツラギエースに持っていかれてしまったけど、有記念でしっかり1着を獲って逆襲完了。

 これらの戦績を以て、彼女は文句なしの年度代表ウマ娘として表彰されたのだった。

 

 シニア級に入って日経賞を経た後、ルドルフ会長は前三冠ウマ娘ミスターシービーと天皇賞(春)で決着を付ける。

 常識破りの菊花賞を再現するかのような相手に対し、それでも動じることなく自らの走りを貫き、ついにG1レース5勝。伝説の戦士シンザンと並ぶ五冠達成を成し遂げた。

 

 そうして、秋からの海外遠征に備え、まずは宝塚記念に出走しようとしたんだけど……。

 

 

 

「シニア級、1年。海外遠征を前にした宝塚記念直前で、私は脚部不安を発症した。

 当然宝塚記念は出走回避することになったし、海外遠征など行ける状況ではなかった」

 

 彼女はどこか遠くを見るような目で、そう語った。

 正直、心中察するに余りある。

 もしも私がそんなことになれば……流石に、うわーんとなってしまうかもしれない。

 

 まぁ、私には歩さんがいるから、あんまり故障に関しては心配してないんだけどさ。

 春のネイチャの脚部不安発見といい、あの人ホントにそういうトコには目敏いから。

 

「……正直、あまりの不甲斐なさに落ち込んだし、何より運命を憎んだよ。

 私とトレーナー君ならば、たとえあの門であろうと勝てるという自信……いいや、確信があった。

 しかし、まるでそれを許さないかのように、運命は私に故障という結果を押し付けて来た。

 ある意味では、私のせいで日本のウマ娘の凱旋門賞勝利が遠のいたと言ってもいい」

「それは……ルドルフ会長のせいでも、トレーナーさんのせいでもないです」

 

 歩さんがちょっとおかしいってだけで、普通のトレーナーは、事故の防止とか故障の早期発見なんてことはそうそうできない。

 というか、努力や鍛錬だけでそれができてしまうのなら、中央トレセンのトレーナーという傑物揃いのメンバーがウマ娘に故障なんて許すはずがない。

 

 歩さん本人はよく「自分には才能がない」なんて言ってるけど、持って生まれた才能がなきゃあんなのできるわけがないんだ。

 トモを見ただけであそこまでウマ娘のことを分析できるんだから、その観察眼は特別な才と言う他ないだろう。

 

 ……でも、残念ながら、ルドルフ会長のトレーナーは歩さんじゃなかった。

 大事な時期だし、気を抜いたりしてたわけじゃないのは間違いない。その上で発生してしまったアクシデントだったんだろう。

 事故が発生するのも、故障が発生するのも、仕方のないことなんだ。

 

「そうだね。私のせいでも、トレーナー君のせいでもない。

 ……そう納得できれば、どれだけ良かったか」

 

 ルドルフ会長は、チラリと、こちらに向けられているカメラの方を窺った。

 

「……私に帯同するはずだったシリウスは、1人だけで海外へ臨んだ。

 そうして、数々のレースで好走を見せていたのに……凱旋門賞に敗北し、レースで勝つことができなかった結果、当時は散々に言われたんだ。

 私がそこにいれば、あるいは何かが変わったのではないかと、そう思わざるを得ない」

「それは……」

 

 シリウスシンボリ。

 確か、ルドルフ会長の幼馴染だっていう、凱旋門賞に挑戦した日本のウマ娘の1人。

 

 あるいは、ルドルフ会長が海外に行けなかったという鬱憤もあったのかもしれないけど。

 ルドルフ会長の顔色からして、当時のシリウスシンボリの扱いは……あまり良いものではなかったんだろう。

 

 あるいは、ルドルフ会長が胸を痛めているのは、そこが大きいのかもしれない。

 「すべてのウマ娘が幸せに暮らせる世界」を目標とする彼女にとって、半ば自分のせいで身近な誰かが不幸になったという事実は、相当に重かったのだろう。

 

 ……なんとも、辛いね。

 どうしようもない、人智の及ばない範囲での悪運と、それに基づく不幸。

 

 悲しくて、寂しい話だ。

 

 

 

 私が苦い顔をしていると、ルドルフ会長は小さく首を振り、苦笑した。

 

「すまない、ここまで言うつもりはなかったんだが……君は聞き上手だね」

 

 ルドルフ会長はそう言って、その表情を微笑に戻し、空を見上げた。

 

 梅雨も明けた今日は、雲の隙間からそこそこ綺麗な晴れ間が窺える良い天気。

 釣られてそれを見上げながら、私は彼女の言葉を聞いた。

 

「何が言いたかったかというと、だ。

 私は君を……トレセン学園生徒会長としてでも、ドリームトロフィーリーグの先達としてでもなく、シンボリルドルフ個人として応援したいんだ」

「応援、ですか」

「ああ。私が過去に成し遂げられなかったことを……シニア級1年目の宝塚記念に出走し、そして当然のように1着を獲った君にこそ、託したい。

 世界の頂、凱旋門賞。その場における、日本のウマ娘の捲土重来を」

 

 だいぶ重いものを託されちゃったなと、私も思わず苦笑を漏らした。

 

 ……けど多分、ルドルフ会長と同じ想いをしてる人は、少なくない。

 これまでに凱旋門賞に挑んだ、4人のウマ娘たち。

 かつて彼女たちに想いを託した者たちは、きっと今、彼女たちの分まで凱旋門賞での私の活躍を望んでくれてる。

 ある種の敵討ち、逆襲のように。

 

 それを望んでくれる筆頭が、黄金世代の一角としてエルちゃんを見送った、ミーク先輩であり……。

 共に行くはずだった幼馴染を見送るしかなかった、ルドルフ会長なんだろう。

 

「その上で、君に対して私が出来ることは何かと考えた時……結局、ただ1つしか思いつかなかった」

「それは……?」

 

 訊くと、彼女は……。

 

「この模擬レースで、全力を尽くすことだ」

 

 キロリと、こちらに鋭い眼光を向けてきた。

 

 

 

「手加減も、容赦もしない。私の全身全霊、本気を見せよう。

 日本という井の中にいるならば、せめて空の深さを知っていくといい」

 

 

 

 その言葉と共に、ルドルフ会長の威圧感が一層強くなる。

 ただのウマ娘として漏れ出すだけのそれではなく……。

 目の前のレースに全てを注ぎ込む、競走ウマ娘としての気配を、隠すことなく醸し出し始めた。

 

 あぁ、これが、シンボリルドルフ。

 レースに絶対をもたらす、永遠の皇帝。

 ドリームトロフィーリーグにて二度目の全盛期を迎えた……もう1人の、現役最強か。

 

 肌がピリピリ痛む。

 脳がジクジクと熱を帯びる。

 

 この人と、今から走れるんだと思うと、たまらない。

 心が躍って仕方ないんだ。

 

「改めて、良いレースにしよう。……君が、私から逃げられるのならば」

「くくくっ……ええ、ええ、いいでしょうとも! 良いレースにしましょう! あなたが私の逃げを追えるのならば!」

 

 

 * * *

 

 

 

 私とルドルフ会長が、互いに健闘を誓いあっていた時……。

 

「ちょっとー、2人で何を話してるの?」

 

 赤い勝負服を着たウマ娘が、ちょこちょこっと駆け寄ってきた。

 

 ちょっとふざけたような様子なのに、それでもなおとんでもなく強そうな雰囲気を漂わせてる彼女は、トウカイテイオー。

 ネイチャに並ぶ私のライバルであり、本当は秋からまた競い合う予定だった、トゥインクルシリーズの優駿だ。

 

 今回の模擬レースでは、公式レースの環境に近づけるべく、トレーナーが16人のトゥインクルシリーズの競走ウマ娘を募ってくれた。

 ホシノウィルムと、そして何より滅多に走れないシンボリルドルフ会長。

 2人の無敗三冠ウマ娘と走れるっていう滅多にない機会からだろう。かなり多くの立候補者が来てくれたらしい。

 

 で、その中には、最近はすっかり見慣れた赤い勝負服を纏うテイオーもいたし……。

 

「…………」

 

 ちょっと焦ったような顔で黙り込んでる、いつもの勝負服を着たネイチャもいた。

 

 

 

 テイオーがルドルフ会長と話したがってそうなのを確認して、私は頭を下げて2人の前を離れる。

 2人ともっと話していたいと思う気持ちはあったけど、それ以上にネイチャの様子が気になった。

 

 今年の頭に脚部不安で休養に入った彼女とレースを走るのは、実に去年の有記念以来。

 個人的には、ルドルフ会長と走るのと同じくらい、ネイチャがどこまで強くなってきてるかも楽しみにしてたんだけど……。

 

「ネイチャ」

「……あ、ウィル」

 

 近づきながら話しかけると、彼女はどこかぼんやりした表情で、こちらに視線を向けてくる。

 さっきよりはマシだけど、なんというか……ネイチャにしては、精彩に欠けるな。

 

「どうかしたんですか? なんか、雰囲気が……」

 

 訊くと、彼女はちょっと目を見開いた後……。

 「表情に出る程だったかぁ」って、ため息を吐いた。

 

「……いや、ヤバいね。本気の会長、マジでヤバい」

「確かにすごいですけど……そんなに?」

「ああ、そっか、ウィルはわかんないか」

 

 正直、なんかちょっと失礼な言い方にむっとしかけたけど……。

 続くネイチャの言葉に、怒りなんて簡単に吹っ飛んでしまった。

 

 

 

「勝てる気がしない。どんなプランで走っても、今の会長は策にハマってくれない気がする」

 

 

 

「…………そこまで?」

 

 ネイチャが。

 あの、前の日までは割となよなよしてるけど、レース本番になれば勝気に「勝つから」って言ってくるネイチャが、「勝てる気がしない」って……。

 

 私が目をパチクリさせていると、ネイチャは一層顔をしかめて、親指の爪を噛み始める。

 

「前からバ群で抑え込んでも、ぺース落とさせても、進路塞ごうとしても、仮に何か吹き込んでも……効く気がしない。どうしようかな……」

「それは直感? それとも分析?」

「どっちも。いや、やっぱヤバいねドリームトロフィーの競走ウマ娘って」

「まぁ、ルドルフ会長はドリームトロフィーでも現役最強らしいですし、必ずしもあんなに強そうとは限らないと思いますが」

「今思うと、去年のあの模擬レースはめちゃくちゃ手加減されたんだなぁ……ちょっと凹むわ」

 

 うーん……これは、あんまり良くない状態かも。

 レースを前にして、相手に気後れしてしまってる。

 私は、そんなネイチャと走りたいわけじゃない。

 

 肩を落とす彼女の顔を掴んで、ぐいっと持ち上げた。

 

「ほらネイチャ、考えるのは結構だけど、落ち込んだりしちゃ駄目ですよ。

 これからレースなんだもん、精一杯走って、楽しんで、そして学びを掴まないと!

 ……それに私のことも見てくれないと、イジけちゃいますよ? 久々のレースなんだから!」

 

 彼女はパチクリとその目を瞬かせた後……。

 ふっと、薄く笑顔を浮かべてくれた。

 

「そうね。去年と同じ、これも経験か……。

 将来的にはウィルも会長も倒せる戦略考えなきゃなんだし、いっちょ頑張るか!」

「そうそう。……ま、ネイチャがどんな作戦を立てて来ようと、私が勝ちますけどね!」

「言ってくれるねぇ……このやろ、このやろ!」

 

 ぽかぽか殴って来るネイチャに「バーリア!」とか言って笑い合っていると……。

 

 いよいよ、出走の時間が近づいて来た。

 

 

 

 ……さぁ。

 ドリームトロフィーリーグ、現役最強、シンボリルドルフ。

 

 お手並み拝見、といきましょうか。

 

 

 







 今回で決着までいこうと思ってましたが、あまりにも尺不足だったので、次回堀野君視点から皇帝とのレース本番です。

 ちなみに、ドリームトロフィーとピークアウト関連の話は、元からこのタイミングでやろうと思ってました。
 なんかすごいタイミングでアニメ三期と話題が被っちゃいましたね。慌ててちょっとだけ味付けを変えることになりました。



 次回は1週間以内。トレーナー視点で、退翳覇道の話。



(宣伝)
 宣伝し忘れてましたが、三人称の習作も兼ねてブルーアーカイブの二次創作を書き始めました。
調月姉妹のやべー方
 タイトル通り、ミレニアムのやべー生徒会長のやべーお姉ちゃんがキヴォトスライフをエンジョイするお話です。
 ご興味がありましたら覗いていただければ幸いです。

(追記)
 誤字上告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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皇帝は二度刺す

 実は39度6分出して寝込んでました。今もちょっと影響残ってて正直クオリティがちゃんと保ててるか判別が付かない……。
 いやぁ、久々にここまで体調を崩しました。皆様は体調お気をつけて。





 

 

 

 明らかにテンションの高いウィルとトレーニングを積むこと1週間。

 ついに、その日が訪れた。

 

 ホシノウィルムとシンボリルドルフによる、恐らくは史上最も注目される模擬レース。

 あるいは、最強と最強による、エキシビジョンマッチだ。

 

 本来、模擬レースは主催するトレーナーの主導の下で行われる。

 今回の場合、俺たち側がルドルフ陣営に対してレースを申し込んだ形なので、俺が取り仕切るのが普通なんだが……。

 今回のレースは、少しばかり規模が大きすぎた。

 

 なにせ、平日の昼に行われる模擬レースだというのに、学園には何千何万人というファンがレースを見ようと詰め掛け、学園側もこれを受け入れている。

 URAの公式アナウンサーやゲート、ゴール板まで導入され、もはや公式レースもかくやという規模感。

 

 ここまで来ると、一トレーナーが取り仕切ることのできるレベルを大きく超えている。

 そんなわけで、今回は半公式企画、URA主催でのイベントと相成った。

 

 

 

 ……しかし、そうなると俺たちトレーナーは少しばかり手持無沙汰になってしまうんだよな。

 

 勿論、自分の担当ウマ娘に今回のレースの展開予想を聞かせたり、それに基づく走りのプランを提示したり、もしもの時のためのサブプランを伝えたり、万が一のためのサブサブプランを伝えたり、更に警戒を厳とするためサブサブサブプランを伝えてウィルに引かれたり。

 そういったことは、先んじてやっておいたんだが……。

 

 トレーナーの仕事は、ウマ娘を日常的に鍛え、ライバルたちの調査を行い、レースのプランを立案するところまで。

 それが終わると、いざレースが始まるまでは、これといってすべきことがないんだ。

 

 勿論、自分の担当の状態に陰りがないかとか、他のウマ娘たちの調子はどうかとか、色々と見るべきもの考えるべきことはあるんだが……。

 「アプリ転生」を使える俺からすれば、それらは彼女たちを見ただけで終わってしまうことだし。

 

 それよりはむしろ、まだ分析の済んでいないレースについて考えたり、他のトレーナーとの意見交換をしていた方がいいだろう。

 

 

 

 そんなわけで、俺は個人的な友人でもあるネイチャのトレーナーと共に、出走前のウマ娘たちを眺めていた。

 

「改めて、今回はネイチャをレースに参加させてくれてありがとう。彼女のようなレースメーカーがいると、レースが一気に難解になるから、是非とも参加してほしいと思っていたんだ」

「こちらとしても、ホシノウィルムに加えて、ドリームトロフィーリーグの現役最強との実戦経験を積めるんだ。願ったり叶ったりだよ。

 ……というか、トゥインクルシリーズに参加していて、この模擬レースに出たがらない子はそうそういないんじゃないかな?」

「逆に自信を喪失しないよう避ける子たちもいると思うがな」

「ああ、それは確かに。ネイチャやライスがそう言うタイプじゃないから、忘れかけてたよ」

 

 競走ウマ娘と一言でまとめるのは簡単だが、その性格は千差万別。

 圧倒的な強者の存在に奮い立つ子たちもいれば、逆に大きすぎる実力差に萎縮してしまうような子もいるんだ。

 

 ただまぁ、彼の言う通り、多くのウマ娘にとって垂涎のレースであることは間違いないのだろう。

 今回の模擬レース、「トゥインクルシリーズ現役であること」「重賞で1勝以上していること」という結構厳しめの条件を設定したんだが、それでもなお、今までのどのレースより多くの参加の応募が来た。

 

 そしてその中には、ウィルと同世代であり、彼女の良き友でもありライバルでもある、トウカイテイオーやナイスネイチャもいたわけだ。

 

「欲を言うなら、ライスも参加させてほしかったけどね」

「無茶を言うな。トウカイテイオーとナイスネイチャの2人を入れることでさえ、私情の入れすぎだと判断されかねないんだ。ウィルが個人的に仲良くしている上、まだクラシック級のライスシャワーまで入れれば、完全にアウトなラインだよ」

 

 基本的に、本格化が始まってからの期間は、そのまま競走ウマ娘としての能力に繋がる。

 まだクラシック級6月時点のライスは、このレースに参加するには若すぎる。

 なにせ、今回のレースの相手はあのシンボリルドルフとホシノウィルム。せめてシニア級1年、可能ならばシニア級2年以降のウマ娘でないと厳しいだろう。

 

 そういう意味では、既に本格化を終えた優駿であるミークやマックイーンが参加してくれれば、なお良かったのだが……。

 残念ながら、2人からは応募が来なかった。

 

 領域を重ねたウィルから聞いた話では、ミークの領域開放条件には、相手をよく知る必要があるらしいので、ルドルフのいるレースでは本領発揮は厳しいという判断だろう。むしろここは見学して情報収集に回るつもりなのかもしれない。

 一方マックイーン陣営の判断としては、大阪杯や宝塚記念を回避するくらいだし、秋の天皇賞に向けて万が一にでも調子を崩さないように、という感じだろうか。

 

 

 

「しかし……夢の舞台の最強、シンボリルドルフ。実際に見てみると、やっぱりオーラがあるね」

「違いない」

 

 今はウィルと何かを話している、シンボリルドルフ。

 カメラ越しには何度も見たことがあるし、なんなら何度も話したことのある相手ではあったが……。

 やはり、レースを前にした彼女は、威圧感が違う。

 

 ある意味で、その在り方はウィルに近しい部分がある。

 あの子もレース以外の時とレースの時で、全く雰囲気が違うからな……。むしろ、乖離度合いで言えばルドルフより上かもしれないくらいに。

 普段あんなに普通の女の子してるウィルが、ことレースになると狂犬みたいな雰囲気を醸し出すんだから、競走ウマ娘というのはわからないものだ。

 

 

 

 ……と、ウィルのことはさておいて。

 今はルドルフのことだ。

 

「堀野君の見立てでは、どう? 勝てそうかい?」

「……厳しい戦いになるだろうな」

 

 思わずそう言って、眉をひそめてしまうくらいに、シンボリルドルフは掛け値なしの強者だ。

 

 彼女は既に本格化を終え、本来はピークアウトを迎えていてもおかしくはないはずの歳なのだが……。

 そのステータスは総合的に見て、ウィルの若干下。つまりは、トゥインクルシリーズの現役ウマ娘の最高峰の水準を維持している。

 

 何故彼女がそこまで強いのかと言えば、これがなかなかに興味深い話で。

 ドリームトロフィーリーグに移籍したウマ娘は、全盛期の力を取り戻すのだ。

 

 これは、ほぼすべてのウマ娘に共通する現象。

 一説には、トゥインクルシリーズを超えるハードなレースや強いライバルたちの存在が、彼女たちの魂に再び火を点ける……なんて言われてもいる。

 

 それぞれのウマ娘が、各自の全盛期を取り戻して競う。

 故にこそドリームトロフィーリーグは、異なる世代から集う優駿たちの、夢の舞台足りうるのだ。

 

 

 

 ……そして、彼女たちが取り戻す実力というのは、あくまでステータスの話に限った話で。

 技術の面で言えば、何年もの間ターフで走り続けた彼女たちは、トゥインクルシリーズのウマ娘よりも格段に優れていることが多い。

 

 殊にルドルフはその面が顕著で……。

 「アプリ転生」で覗ける彼女のスキル欄は、なかなかすごいことになっている。

 

 『鎧袖一触』『一陣の風』『ハヤテ一文字』『決意の直滑降』『烈風一閃』『鋭脚一閃』『気炎万丈』『迅速果断』『真打』『皇帝の眼差し』『内的体験』『決死の覚悟』『大局観』『神業ステップ』『円弧のマエストロ』『レースプランナー』『神色自若』『右回りの鬼』『風霜高潔』。

 

 金の……つまり、上位のスキルに限ってもこれだけの数だ。

 下位のスキルも含めれば、それはもう、とてもトゥインクルシリーズでは見ることのできない量となる。

 

 更に言えば、彼女の領域である『汝、皇帝の神威を見よ』。

 このレベルは、俺が見て来た中で最高の値である「9」。

 前世アプリではついぞ見ることのなかった、システム上3年間では決してたどり着けない境地。

 テイオーに続いてウィルも成し遂げたという「領域の昇華」も、当然ながら終わっているだろう。

 

 その上、ダメ押しにもう1つ。

 シンボリルドルフの持つ、もう1つの金枠のスキル……『翳り退く、さざめきの矢』。

 

 一見しただけならば、ただの上位スキルとしか思えないんだが……。

 今までのトレーナー経験から嗅覚でも育ったのだろうか。

 このスキルからは、猛烈に嫌な予感がしたんだ。

 

 ……それこそ、最悪の可能性を考えてしまう程に。

 

 

 

「ウィルにとって、これまでのレースは、その大半が勝機の高いものだった。

 だが、今回は違う。同格どころか、彼女にとって初となる明確な格上との戦いだ」

「言うねぇ。サイレンススズカやスペシャルウィークも同格だったって?」

「少なくとも、同じトゥインクルシリーズという枠組みにいた相手だったからな。今回のように理不尽なまでの差が付いているわけではない」

 

 ……それに、ハッキリ言えば、有記念時点でスペシャルウィークやサイレンススズカとはそこまで実力差が開いていたわけではなかった。

 勿論ステータスや領域では彼女たちの方が上ではあったが、ウィルなら覆し得る範囲だったんだ。

 

 ウィルがあのレースに負けたのは、やはり単純に、俺の不在が故だろう。

 あの時、もっと早く目を覚ましていれば、俺はウィルと共にレースを制していたのだろうな、と……。

 

 ……まぁ、そんな仮定の話をしても意味はないか。

 現実として、ウィルはスズカとスペのタッグの前に敗れた。それだけが事実だ。

 俺にできるのは無意味な後悔ではなく、同じミスを繰り返さないよう注意することである。

 

「そちらはどうなんだ。ナイスネイチャ陣営としては、シンボリルドルフへの勝機は見えているのか?」

「まぁ……こんなことを言うのは担当への背信になるかもしれないけど、ハッキリ言って勝てないね。

 ホシノウィルム、トウカイテイオーと来た時点でかなりの高難易度なのに、そこに永遠の皇帝まで加わるとなれば……もはや正攻法では攻略困難だ」

「ま、そうだろうな」

 

 ドリームトロフィーリーグとトゥインクルシリーズの間には、決して埋めがたい実力差がある。

 特にネイチャは、ただでさえ不足しがちな地力を策略によって補うタイプだ。今回のレースにおけるディスアドバンテージはウィルやテイオーよりも大きいだろう。

 

 それでもなおこのレースに出したのは……その敗北こそが、ネイチャをより上に連れて行くと判断したからだろう。

 

 そしてその判断は、俺も下したものだった。

 

「大切なのは、今回のレースで何を学ぶか。……せっかくだ、レースの『絶対』とやらを見せてもらおう」

 

 

 

 * * *

 

 

 

『さぁ……ゲートインが完了。ついにレースが始まろうとしています』

 

 

 

 ゲートの中に18人のウマ娘たちが揃い、レースの準備が整った。

 

 距離は2400メートル、右回り。

 天気は晴れ、バ場状態は良バ場で、これ以上ないくらいに走る土壌が整った状態だ。

 

 そしてゲートの位置は、ホシノウィルムは2枠3番、そしてシンボリルドルフは……8枠18番。

 単純な距離で言えば、ウィルに極めて有利で、ルドルフには不利な状態と言える。

 

 だが……。

 果たして、大いなる皇帝を前にして、その僅かな距離が何の意味を持とうか。

 

「…………」

 

 腕を組み、静かにレースを待つシンボリルドルフは、欠片たりとも翳りを見せない。

 

 その表情は、当然のように走り、当然のように勝つと、そう告げている。

 

「さて、トゥインクルとドリームトロフィー……その経験の差は如何ほどか」

 

 

 

『……今スタートしました!!

 快調に駆け出す18人! 果たして誰がこの特別なレースを制するのか!

 無敗で三冠を獲った新旧最強か! あるいはそれも下す英雄が現れるか!?』

 

 

 

 一斉に駆け出すウマ娘たちの内、突出したのはいつも通りホシノウィルム。

 誰よりも早く先頭の座をもぎ取り、勢いそのままに後続に差を付けていく。

 

 一方でトウカイテイオーは好スタートから3番手の位置を保持。

 シンボリルドルフは5番手、そしてネイチャが8番手のポジションに付いてレースが始まった。

 

「シンボリルドルフはやや外目に付けたね。大外枠から始まったから当然と言えば当然かもしれないけど」

「トウカイテイオーは好位置を確保。相変わらず抜群のレース勘だな……」

 

 恐らく、このレースの展開は、中盤までは大きく動かないはずだ。

 

 ホシノウィルムという大逃げウマ娘は、終盤になってもペースダウンしない。

 彼女を追い抜くためには相当の脚か……あるいは、それこそ領域を使う必要がある。

 逆に言えば、そこまでは全員が消耗を抑えるために力を使わないはず。

 

 これまでのレースでもそうだったように、多くの場合競走ウマ娘のレースは、展開作りと末脚、領域の打ち合いによって決まる。

 今回で言えば、終盤までにどれだけ足を溜めながら想定したスピードとポジションを保守できるか、そして終盤に入ってからのウィルを超える末脚と領域を使えるかで、このレースの勝者は変わって来る。

 

 

 

『第一コーナー入って先頭はやはりホシノウィルム! ぐんぐんとバ群に差を付けながら綺麗にカーブを曲がって行きます!

 シンボリルドルフはぐっと抑えて5番手の位置、先行集団で外から追走!』

 

 

 

 ふと思い出し、隣にいる男に訊いてみる。

 

「お前はシンボリルドルフの領域を見たことがあるのだったな。どうだったか覚えているか?」

「……どうだったかな。正直、当時はあまり領域っていうものを強く意識できてなかったから。

 ただ、多分間違いないこととしては……このレース、終盤からは位置取りは無意味になる」

「シンボリルドルフの領域の、レーン移動か」

 

 それについては、聞いたことがあった。

 

 シンボリルドルフの領域は2つ。

 その片方……あの緑の勝負服の領域は、「相手を強制的にレーン移動させる」、と。

 恐るべき効果の領域だ。これが真実なら、彼女はたとえバ群に囲まれ進路が見えない状態からでも、何の労もなく脱出することができることになる。

 

 勝つための領域と言うより、むしろ「運悪く負けることを避ける」ような領域。

 あるいはそれが、「勝って当然」のシンボリルドルフの、絶対を保守する在り方なのかもしれないが。

 

 

 

『向こう正面入りまして快速に駆け抜けていくのはホシノウィルム! 彼女を追いかけるのは3バ身程離れてステンツ、更に2バ身離れてトウカイテイオー!

 更に後方、5番手ではシンボリルドルフが泰然自若と走り、ナイスネイチャは7番手からレース展開を窺っている! 果たしてここから誰がどのように動くのか!?』

 

 

 

 ……シンボリルドルフのスピードは、1109。

 本格化を終えた全盛期のウマ娘として見ても非常に高水準な数字だが……。

 今のウィルのスピードは1126。シンボリルドルフのそれよりも、なお速い。

 

 互いが全力でまっとうに走るだけなら、シンボリルドルフは決してホシノウィルムに追いつくことはできないはずだ。

 

 しかし、レースとは流動的で、いつだって不測の事態に悩まされるもの。

 問題は残されたスタミナ、スキルの数と練度、そして何より……彼女たちの領域の差。

 

 

 

『さぁ、第3コーナー入ってここからが勝負所!

 トウカイテイオーがペースを上げて前を目指します! ホシノウィルムまでの距離は5バ身、果たして彼女の手は再び星に届くか!?

 それとも永遠の皇帝の神威が龍すらも下すのか!?』

 

 

 

 ……レース前の、シンボリルドルフの余裕ありげな表情を思い出す。

 

 彼女とて、ホシノウィルムの桁違いな実力の高さは理解できるはずだ。

 それなのに、何故、あの表情が浮かべられたのか。

 

 領域に余程の自信があるのか?

 確かに、シンボリルドルフの領域は、俺が見た中で史上最大のレベル9。

 その精度において彼女を凌ぐ者は、今この世界には1人とて存在はしないはずだ。

 

 だが、単純な領域のレベルだけで言えば、先日宝塚記念でウィルが越えたハッピーミークとてレベル8を数えていた。

 ただそれだけで……ただ1つの領域の精度だけで余裕を滲ませるには、ホシノウィルムは強すぎる。

 

 

 

 それでは、彼女は何に自信を持っていた?

 

 ……いや。

 何を、隠し持っている……?

 

 ドリームトロフィー現役最強。

 あるいは、史上最強とすら謳われるシンボリルドルフ。

 彼女は、一体何を……。

 

 

 

『さぁ、回って最終コーナー!!

 ホシノウィルムの地を滑るような超前傾姿勢に追いすがるひとまとまりのバ群!! 残る距離は400メートルッ!!』

 

 

 

 ふと、この状況を見て、疑問に思う。

 

 何故シンボリルドルフは、まだバ群から抜け出していないのか。

 

 彼女のステータスやスキルから判断するに、第三コーナーから抜け出して前に出るのが最適解のはずだ。

 ルドルフの領域の展開条件は、「終盤に3回他のウマ娘を抜かす」こと。

 このレースにおける終盤は第三コーナー辺りからだ。

 だからこそ、彼女はそこでバ群から脱出してロングスパートを開始し、より早いタイミングで先頭のウィルを目指すのが最適解だったはず。

 

 というか、そもそも。

 何故、まだ領域を使っていない?

 

 彼女が領域を使えば、他のウマ娘たちは内から外へとレーン移動を強いられるはずだ。

 その現象が起こっていない以上、彼女はまだ領域を開いていないことになる。

 

 何故? 他のウマ娘の領域に合わせるつもりか?

 ……いいや。ウィルの話では、干渉型の領域は、他の領域を開いたウマ娘に影響を及ぼすことはできないとのことだった。

 つまり、シンボリルドルフがその領域を展開しても、他のウマ娘が領域を開いていれば、そのレーン移動効果は喪われてしまう。

 

 であればやはり、まだ誰も領域を開いていない、第三コーナーでそれを使うべきだったはずだ。

 

 条件を満たせなかったのか?

 いや、あり得ない。歴戦の猛者である彼女が、比較的レース経験に劣るトゥインクルシリーズのメンバーを相手に、自身の有利な条件を掴めないとは思いにくい。

 

 なんだ? 何を……シンボリルドルフは、何を……?

 

 

 

「よし、今だ! 行け、ネイチャ!」

 

 隣から、担当の背を押す声援が聞こえて……。

 

 チリ、と。

 脳内で、火花が散った気がした。

 

「……マズい」

「え?」

 

 何故、シンボリルドルフが、ここまでバ群を脱出しなかったか。

 ウマ娘が終盤に特異な走りをする理由など、1つしかない。

 ……領域の展開条件を満たすため、だ。

 

 だが、彼女の領域である『汝、皇帝の神威を見よ』の条件ではない。

 

 これは多分、あの見覚えのないスキル……『翳り退く、さざめきの矢』の。

 スキルにまでスケールダウンさせた、2つ目の領域(・・・・・・)の条件か!

 

 

 

 ダン、と。

 

 シンボリルドルフが踏み込む音が、ここまで聞こえて来た気がした。

 

 

 

 瞬間。

 

「…………な」

「え……?」

 

 ホシノウィルムが、トウカイテイオーが、ナイスネイチャが。

 ガクンと、ペースを落とした。

 

 その走りが、精彩を欠く。

 特に、即座に体勢を立て直したウィル以外の2人は、一気にその走りの状態を劣化させられた。

 

 傍目から見れば、何かしらのアクシデントでもあったのかと思わされる、微かだが確かな変化。

 しかし俺の目、「アプリ転生」を通して見れば、それが異常な変化であることは理解できる。

 なにせ、基本的にはレース中に悪化しないはずの調子が、絶好調から好調まで落とされているのだから。

 

 しかし、それに驚く程の隙すらも与えられず。

 

 一瞬の後に、ウィルを含む全てのウマ娘が、弾かれたように内ラチ沿いから叩き出された。

 ただ1人、シンボリルドルフだけが、王の道を悠々と通ることを許される。

 

 押しのけられた、つまり領域の干渉を喰らったということは……ウィルの領域が、開いていない?

 いや、ウィルだけではなく、テイオーもネイチャも……。

 

 ……違う。

 状況から見て、これは……!

 

「領域を……強制的に、閉じさせられたのか!?」

「え? ……は!? 何それ!?」

 

 状況を見るに、そうとしか思えない。

 ウィルやテイオー、ネイチャは彼女たちの領域を展開し、ぶつけ合おうとして……。

 しかしその瞬間、シンボリルドルフによってそれらを霧散させられたんだ。

 

 本来はその自身の走りに最適化された世界の中で走れるはずだったのに、急にそれがなくなったんだ。

 調子を崩され、最適な走りが取れなくなってもおかしな話じゃない。

 

 ……これが、シンボリルドルフの隠し玉か。

 確かにこれなら、余裕を醸し出してもおかしくない。

 なにせその一手でこちらの最大のアドバンテージを潰し、なおかつ弱体化までさせられるのだから。

 

「レースに『絶対』をもたらす、永遠の皇帝……」

 

 シンボリルドルフめ。

 とんでもない一手を隠し持っていたものだ。

 

 

 

 結局。

 

 トウカイテイオー、ナイスネイチャを含むウマ娘たちは、猛然と突き進むシンボリルドルフに付いて行くことができず。

 そうしてなんとか調子を整え直したホシノウィルムでさえも、領域なしで永遠の皇帝と張り合うのは厳しかったようで……。

 

 1バ身半。

 

 大きな……とても大きな差を付けて、シンボリルドルフはレースを制した。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「大丈夫か、ウィル」

 

 レースを終えた担当に、俺はタオルや飲み物を持って駆け寄った。

 いつもなら、興奮で取り繕った表情が剥げているだろう頃。

 しかし今の彼女は、どこかぼんやりとした表情で、パチパチと瞬きしながらこちらを見て来る。

 

「歩さん……」

「何があった。こちらからは、突然君の領域が閉じたように感じられたが……」

「……いや、なんというか……」

 

 彼女は自分の中で記憶を整理するように、やや俯いて言葉を出し始める。

 

「私が領域を開いてすぐ、後ろから、一瞬だけルドルフ会長っぽい領域の気配がしたんです。

 でも、なんかおかしくて……それで、思わず振り向いて。

 その時、見えたんです。1本の、矢が」

「矢?」

 

 本物の矢、というわけではないだろう。

 領域がもたらす、幻覚のようなもの。彼女たちの魂がもたらす心象風景の延長。

 

「それが、私の領域をビリッと裂いて行って。途端に領域がぐらついて、展開を維持できなくなって。

 その直後に、ルドルフ会長があの領域を展開して、私は受けきれなくて弾きだされて。

 歩さん、あれって、やっぱり……」

 

 

 

「2つ目の領域の使用」

 

 

 

 ウィルの言葉に応えるように、俺たちに声がかかる。

 今回のレースの勝者の、始まる前と変わらない、威厳に満ちた声が。

 

 コトリコトリと、軽快な足音を立ててこちらに歩み寄って来るのは、シンボリルドルフ。

 勝者としての自信たっぷりに、彼女はこちらに話を投げかけて来た。

 

「ふふ……驚いてくれたかな、ホシノウィルム。

 君が海外に行く前に、これだけは見せたかったんだ。

 トゥインクルシリーズの更に先に進んだウマ娘の境地……この、2つ目の領域を」

 

 ウィルはその言葉に、数秒間、ぱちくりと瞬きを繰り返していたが……。

 急に目が覚めたという風に、ルドルフに詰め寄った。

 

「やっぱり! やっぱりアレ、領域2つ使ってましたよね!?

 1つは『領域を破る領域』で……2つ目が自己強化と他者干渉ですか? いやとんでもないですねやり口が!! こっちの領域は封じて防御できない干渉して、更には一方的に自分だけ全力出せるとか!

 ぐぅぅううう……悔しい! 悔しいけど、正直今回に関しては完敗です!! 良いレースでした本当にありがとうございました!! あと2つ目の領域ってどうやったら同時に使えるのか教えてください!!」

 

 感情が噴き出したようにまくし立てたウィルは、頭を下げたり袖を掴んだり訴えかけたりとせわしない。

 

 ルドルフはそれを微笑ましいような表情で受け止め、こちらに視線を投げて来る。

 

「どうすれば領域を2つ同時に使えるか……その答えは、堀野トレーナーであれば察しが付いているのではないかな?」

「……仮説段階のそれでいいのなら」

 

 俺は顎に手を当て、かつて考えていた仮説を口に出す。

 

「領域に時間制限があるのは、領域の展開が極度に集中力を要するからだとされている。

 そして現に、強力な効果を発揮する領域程に、その展開時間は短くなる傾向がある。

 であれば、領域の効果を増大させるのではなく、効率化と小型化を進めれば……脳への負担を減らすことさえできれば、2つの領域を使うこともできるのではないか、と。

 そう考えていた時期もあった」

 

 だが、結局のところそれは、机上の空論でしかない。

 その効果を落としてまで小型化して2つを併用するよりは、1つをより先鋭化して使いこなした方が効率が良いだろう、という結論が出たんだ。

 

 効果を一切落とさないままに効率化を図るのはあまりにも時間がかかりすぎるし、その間に同期のライバルたちに追いつかれてしまいかねない。

 故に、そんなことに手を出す余裕はないと、そう判断していたが……。

 

 ……まさか、シンボリルドルフが、そこまで自らの領域を高めているとは。

 殆どその効果を落とすことなく、むしろ並を遥かに超える効果を持ちながらも、もう1つの領域を同時に使える程に洗練された領域……。

 

 ……なるほど、レベル9。

 俺が見た中で最も高い領域レベルは、決して伊達ではなかったらしい。

 

 

 

「ふ……まさかそこまで見抜かれているとは思わなかったが。流石と言うべきかな。

 ドリームトロフィーリーグ……歴戦の優駿との戦いの中で、私は自身の世界と向き合い続け、この境地へと達した。

 ……どうだろう、安心したかい、ホシノウィルム?」

「安心、ですか?」

 

 きょとんとした表情を浮かべるウィルに、ルドルフは優しく笑いかける。

 

「君にはまだまだ、身に付けるべき技術もあり、磨くべき領域もあり、制すべきレースもあり、倒すべき相手もいるんだ。

 競走ウマ娘の世界は広く、空は底抜けに深い。きっと私たちが走る内、私たちすらも超えるような、圧倒的な才覚を持つウマ娘も現れるだろう。

 どれだけ君が強くなろうと、きっとこの世界は君を退屈させはしない」

 

 ……あぁ、それが、彼女の伝えたかったことか。

 

 ウィルは、真っ当にトゥインクルシリーズを走るには、あまりに強すぎる。

 ライバルを薙ぎ倒し、レースをもぎ取り、そうしている内に走る熱意と意味を見失うのではないかと……彼女はそう、心配してくれていたのだろうか。

 

 彼女の周りの誰かや、あるいは彼女自身が、そうなってしまったように。

 

 

 

 ……けれど。

 

 その言葉に、ウィルはちょっと意外そうに「おぅ……」と呟き……。

 そうして、くすりと、どこか子供らしく笑った。

 

「……ふふ、なんだ、そんなこと。

 元から心配してはいませんよ。そんなことは、ネイチャとテイオーが教えてくれましたから」

 

 ウィルが楽し気に走るのは、強いライバルと走り、超えるのが楽しいからだ。

 彼女の熱は、未だ枯れることを知らず、どころかむしろ増していくばかり。

 正直、トレーナーとしては、嬉しさ半分悲鳴半分といった感じだが……俺個人としては、これほど喜ばしいこともない。

 

 ウィルの楽し気な独白を聞いて、ルドルフは驚いたように目を見開き……。

 穏やかに、けれどどこか悔しそうに、笑った。

 

「そうか、君は良い友、良いライバルに恵まれたのだね。……あぁ、本当に良いことだ」

 

 

 







 シンボリルドルフ
『汝、皇帝の神威を見よ Lv9』
 レース終盤に3回追い抜くと最終直線で速度がすごく上がる。
 更に、皇帝の威圧が進むべき覇道を切り拓く。
『翳り退く、さざめきの矢 (Lv8)』
 レース終盤に先団で詰め寄られると最終コーナー以降に一射を放ちレース上の他一切の翳を払う。

 ルドルフ流の領域同時使用は、リソースをメイン領域に0.7、サブ領域に0.3使う感じ。
 サブ領域はスキルレベルにデチューンするため、昇華で追加された効果だけ効果発動。それでもめちゃつよ。



 そんなわけで、つよすぎルドルフとの模擬レースでした。
 ドリームトロフィーリーグで3バ身も4バ身も付けて勝ちまくる現役最強ウマ娘はやはり強い……! いやもう強いというか能力者バトルのハメ殺しみたいになってますけども。
 なお、そんな相手に1バ身半しか付けていないとのことで、ウィルはこのレースを機に本格的にドリトロのウマ娘たちに目を付けられたとか付けられてないとか。



 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で禁断の領域二度撃ちの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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領の話をするとしよう

 今並列で3作品程書いているのですが、雰囲気とか一人称三人称とか色々と作風ズラしすぎて、それぞれ書き方忘れちゃいそうになりますね。
 推敲してみると一部三人称みたいになっちゃってるところとかあって、あちゃーとなります。





 

 

 

 2つの領域の同時使用。

 

 これは私にとって、天啓と呼ぶに相応しいものだった。

 

 1つ使って強いものは、2つ使えばもっと強い。

 これはこの世の真理だろう。至極当たり前の話だ。

 けれど、ルドルフ先輩とのレースを経るまで、私には全くと言っていい程この発想がなかった。

 

 でも、これは仕方のないことだと思うんだよね。

 だって領域って、謂わば必殺技だ。最後の最後で気力を振り絞って出す、必殺の一撃なんだよ。

 普通そういうのって必殺必中、二の打ち要らずだ。それを打てば最後必勝を誓うからこそ、本質的には二撃目は必要ない。

 

 そう思っているのは多分、私だけじゃない。

 だからこそ、あの才気に溢れるテイオーですら、領域を2つ使おうとするなんて真似はしなかった。

 それが一般的な競走ウマ娘の考え方、謂わば常識みたいなものなんだ。

 

 だからこそ、シンボリルドルフの領域同時使用は、パラダイムシフトだった。

 私たち競走ウマ娘の常識、普通を覆し、新たなる地平を開く行為。

 

 で、あれば。

 現役最強の1人である私も、その後を追わないわけにはいくまい。

 

 

 

「そんなわけで、ちょっと練習してきました。領域の同時展開」

 

 ルドルフ会長との模擬レースの、2日後。

 朝一で訪れたトレーナー室で、私はトレーナーに結果を報告する。

 

 デスクに座った彼は、書類に判を押す手を止めてこちらを見てくれた。

 その涼し気な瞳と目線が合って、とくんと心が跳ねる。

 

 うぅ……だいぶ長い付き合いになってきたっていうのに、こういう不意のアクシデントには全然慣れないなぁ。

 これも惚れた弱みというヤツだろうか。

 

 だが、そんな恋愛クソ雑魚勢の私も、長年の付き合いの果て、多少は耐性ができてきた。

 こうして突然目が合っても、かろうじて目を逸らさずに合わせ続けることができるようになったのだ!

 

 うーん、我ながら成長を感じるぞぉ! 

 ていうかなんならもう恋愛クソ雑魚ではなくなってるのでは? 今はもう恋愛中級者くらいでしょ。なんなら上級者に足を踏み入れてると言っても過言じゃない。恋愛マスターまであと一歩。

 

 ……と、そんな風に内心舞い上がっていると、歩さんが言ってきた。

 

「急にブルボンとトレーニングがしたいと言い出して何かと思ったら、そういうことだったか。

 それで、どうだった。何か掴めたか」

 

 あ、そうだった、領域の話だったわ。

 取り敢えずそろそろ許容値を越えそうになってきたのでこそっと視線を外しながら、私は話を戻すことにする。

 

 領域の同時展開について何か掴めたか、とのことだったけど、そんなの当然……。

 

 

 

「はい。2つ同時に展開するところまでは成功しました」

 

 

 

「そうか、まぁ気を落とさず……ん?」

 

 頷きかけた歩さんは、一拍空けた後、きょとんとした瞳でこちらを見て来た。

 いつもより幾分か子供っぽい目でずっと見てたくなるけど、もう今日の目合わせ可能時間はオーバーしてるので、ちょっとだけ視線を逸らす。

 如何な恋愛上級者にも、限界というものはあるのである。

 

 歩さんは「聞き間違いか?」と言わんばかりに首を傾げ、言ってくる。

 

「すまん、もう1回言ってくれるか」

「2つ展開するところまでは成功しました」

「……え、成功?」

「成功しました」

「…………えぇ、マジ?」

 

 期待通りの間の抜けた反応に、思わずドヤ顔ダブルブイサイン。

 

 ふふふ、どうだ歩さん。

 テイオーやルドルフ会長だけじゃない。

 私だってあなたの予想と期待を越えることがあるのですよ? 目を離しちゃ、やですからね?

 

「いや、しかし、えぇ……?

 シンボリルドルフ、長年鍛錬し続けて、ようやく同時展開に行き着いたって話だったんだぞ? それを、たった1日でって、君……」

「これがホシノウィルムの力ってことです!」

 

 その言葉に、歩さんは背もたれにもたれかかって、思わずといった感じで天井を見上げた。

 

「君が史上最高峰の天才だということは知っていたが、それにしてもな。

 少なくともトゥインクルシリーズでは届かない境地を見せたと思っていただろうに……これを知ったらシンボリルドルフ、流石に落ち込みそうだなぁ……」

 

 

 

 腕を組んで呻る歩さんにふふふと不敵に笑っていると、横から声がかかる。

 

「……あの、これって私が聞いてていい話? 席外そうか?」

 

 黙って仕事をしながら聞き耳を立てていた昌さんの発言だ。

 ただ、私としてはその発言の意図がよくわからない。

 

 一方流石は兄妹と言うべきか、歩さんは一発でそれを察したようで、緩く首を振った。

 

「いや、その必要はない。昌も俺たちの陣営の一員だ、知っていてもなんら問題はない……と、俺としては思うんだが」

 

 あ、なんだ、そういうヤツか。

 昌さん、結構気にしいだよね。もう長いこと私たちを支えてくれる仲間だっていうのに、まだどこか部外者意識が残ってるというか。

 いやまぁ、将来的にはサブじゃない正規のトレーナーになって他の陣営を構えることにはなるんだろうけど、少なくとも今は全身全霊で支えてくれるんだもん。

 隠すべきことなんて何もない。あ、いや、私が転生ウマ娘ってことは除くけども。

 

 歩さんもこっちに視線を向けて来てるし、私からもちょっとだけ言い添えておこうかな。

 

「大丈夫ですよ。この方法、多分私にしかできないので。メソッドとか持ち出そうにも持ち出せません」

 

 ドヤ顔のままにそう言うと、歩さんが「あぁ」と声を上げた。

 

「ようやく分かった。君……思考力の増加を使ったのか」

「おぉ、流石ですね! 正解です!」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 領域は、短いもので一瞬、長いもので10秒余りしか展開を維持できない。

 その原因は、ひとえに私たちの脳の限界だ。

 

 領域は、競走ウマ娘の秘奥。

 自らの走りに極限まで集中し、レースに全てをぶつけることで初めて展開できる、人間のアスリートで言うところのゾーンみたいなものだ。

 

 だからこそ、領域を使うと、私たちはとんでもなく集中力を消耗してしまう。

 勿論、レースの最中は脳内麻薬がドッバドバだから、領域を閉じた後にヘロヘロになっちゃったりはしないんだけど……。

 それでもやっぱり、領域を使った本気のレースと、領域を温存した遊びのレースでは、消耗具合が全然違うように思う。

 

 そして、だからこそ、領域を2つ同時に使うのは難しい。

 なんてったって、1つ使うだけでもかなりグロッキーになっちゃうんだ。

 2つ同時に使おうとすれば、脳が爆発してしまいかねない。

 

 故にこそ、領域の同時使用はウマ娘にとって至難の業。

 史上最強とまで謳われるシンボリルドルフが、10年近い月日をかけて身に付けるに相応しい、神業とでも言うべきものだ。

 

 

 

 ……しかし、そんな神業も、転生チートウマ娘たる私にとっては再現可能な範囲だ。

 

「私には『アニメ……じゃなくて、天星スパートの時の思考力増加があります。

 領域が脳の負荷で2つ同時に出せないのなら、思考力増加状態を使えば出せるのではと思った次第です」

 

 領域の限界が脳のリソース、つまり思考力不足によるものと言うのなら、思考力が爆増してる状態の私ならいつも以上に領域が使いこなせるのでは、と。

 

 いやホント、今思えばこれ、気付いて然るべきだったなと思う。

 コロンブスの卵ってヤツだろう、こういうのは最初に思い付くまでの道のりが長い。

 ルドルフ先輩の領域の同時使用を見て、その上で歩さんに同時使用の可能性の講釈を聞かされ、私はようやくこの発想に思い至った。

 

「なるほど、脳への負荷を軽減するのではなく、脳の容量自体を増やすという発想か。

 面白いな。ユニークだ。まさしくホシノウィルムにだけ許される天才の所業というか……」

 

 歩さんはテーブルの上で両肘を突いて指を組み、まぶたを閉じて考え込む。

 

 幼少期からずっとトレーナーになるべく勉強をしていた影響だろうか、この人、ウマ娘に関しては結構研究者気質というか、考え込んだりしがちなんだよね。

 

 ま、歩さん程じゃないにしろ、私もそういう実験は好きだ。気持ちはわかる。

 昨日だってブルボンちゃんとソウリちゃんに付き合ってもらって、色々と比較実験とかやったもんね。

 ……何度も3000メートルを走ったから、2人ともだいぶへとへとになってたけど。

 まぁ菊花賞の長距離に慣れるためにってブルボンちゃんの方からもお願いされてたし、過度にはやってないからセーフセーフ。

 

 

 

「……待て、それなら1つの領域を更に……なんというか、その精度を上げるということもできるのか?」

 

 ふと訊いて来た歩さんの言葉に、私は首を振る。

 

「それも試しましたよ。駄目でしたけど」

「駄目か……」

「できたとしても、領域の展開時間を若干伸ばすのが限界ですね。この辺りは多分、領域の精度の問題っぽくて……うーんと」

 

 感覚的な話が多いので、領域を体感できない歩さんにどう説明したものかと悩んだけど……。

 ふと、前に歩さんが良い例えを使ってたことを思い出す。

 ちょっと用法は違うけど、今回もアレが使えそうだ。

 

「領域を絵に例えると、思考力……脳のリソース増加は、言うならばキャンバスを広くすることです。

 キャンバスが広くなったからって、絵自体が上手くなるわけじゃないでしょ? それと同じように、領域の精度が上がることもないんですよ」

「あー、なるほど、感覚的にわかりやすい。絵を多く描ける、つまり領域を複数使える余裕ができたというだけで、領域自体の性能を上げられるわけではない、と」

「まぁ多少は余裕ができるので、その分1秒未満の時間延長くらいはできるっぽいんですが、その程度ってことですね」

 

 あるいは、その1秒こそが勝負の趨勢をひっくり返すこともあるかもしれないけど……。

 ま、そこは今回の本題ではないし……何より、領域を併用しようとするのなら元より使えない選択肢だ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 歩さんがコーヒーを一口含み、話を軌道に戻す。

 

「すまん、話が逸れたな。それで、領域を同時に使えたという話だったが……」

「そうですね、確かに使えるところまでは行きました。それは事実です」

「……察するに、何か問題発生という感じか」

 

 そうなんだよねぇ……。

 私はため息を吐き、昨日のことを思い出した。

 

「問題は3つくらいあるんですけど、小さいのと中くらいのと大きいの、どれから聞きます?」

「まぁ、使い始めたばかりの技術に欠陥があるのは当然のことだな。その解決には俺も協力しよう。

 では、小さいのから順に聞こうか」

 

 まぁ問題とは言っても、小さいのはそもそも解決済みだったりするんだけど……。

 情報共有の意味でも、歩さんには伝えておこう。

 

 

 

「まず、一番小さくて軽い問題は、領域が使うリソースの話です。

 端的に言うと、領域を併用しようとすると、消耗する集中力がめちゃくちゃに増えます」

「あー……マルチタスクみたいなものか。両手で1つの行動を取るだけなら簡単だが、右手と左手で別の行動をしようとすると、途端に慣れと集中を要する、みたいな」

「大体そんな感じですね、多分」

 

 まぁ私は左右の手で別のことをやろうとしたこととかないからわかんないけど、多分難しいんだろうな。

 ……「アニメ転生」使えばそれくらいはできちゃいそうだけど。今度やってみるか。

 

「直感的な部分が大きいんですが、多分普通のウマ娘の脳のリソースが10とすれば、領域を1つ使う場合は8から9くらい使うんだと思います」

「それで、2つ使うとどうなる?」

「領域1つにつき50くらい使いますね。合計100」

「インフレの波が激しすぎる」

 

 いやでも、実際それくらいなんだよねこれが。

 転生チートウマ娘である私は、本格的に「アニメ転生」を使わなくても、走ってる最中ならそこそこ思考力の上昇が働いてるっぽい。

 周りの音が聞き取りやすくなってるのも、多分これで脳の処理速度が上がってるおかげだと思う。

 

 そんな私でも、「アニメ転生」なしで領域を同時に使おうとしたら、頭がぐつぐつしそうになって咄嗟に切り上げたんだ。

 正直、チート能力なしで領域を併用してるルドルフ会長は、化け物以外の何者でもないと思う。

 

「……つまりシンボリルドルフさんは、本来100のリソースを使う行為を、10まで抑えていると?」

 

 ゾッとしたような昌さんの言葉を、私は肯定しようとして……。

 しかしその前に、歩さんが首を横に振った。

 

「いや、恐らくそれは違う。

 俺の見立てでは、シンボリルドルフは片方の領域を、その効果を落としてまで、スキルの……常用できる技術のレベルにまで落とし込んでいた。

 勿論脳のリソースは喰うのだろうが、ウィルの語った領域の併用によるコストの増加は発生しなかったのだろうと思う。

 だから恐らく、本来それぞれ8から9のリソースを使うものを、2と8か、3と7辺りまで削ったのだろうと思う」

 

 さらりと言われたけど、いやその、何?

 

「あの、領域を技術に落とし込むとか、それはそれでちょっと信じられない化け物なんですが。

 そんなことできるんですか?」

「できるっぽい。俺の目にはそう見えたし」

「なら間違いないですね……信じ難いことに……」

 

 歩さんの観察眼と慎重さは、私が一番よく知ってる。

 この人がこれだけ強く断言するってことは、それはもはや確定事項に近い状態なのだ。

 

 まぁ、何やらボソボソと「継承固有の上位スキル化……いやしかし、本人の固有……そもそもこっちじゃ想いの継承が……」とか呟いてるから、歩さんにもはっきりとはわかってないっぽいけどさ。

 

 ……歩さん、時々私がウマ耳ってこと忘れるのか、独り言が耳に入って来ることがあるんだよね。

 そういう時は歩さんの考えが知れて、ちょっと得した気分になる。

 あと時々、独り言で容姿とスキルとか絶賛してくれたりもするので、そういう時は舞い上がるくらい嬉しくなっちゃって、その場を逃げ出したりもする。

 

 恋愛上級者と言えど、不意の誉め言葉には弱いのです。

 

「……私からすれば、1回見ただけでそこまで見て取れる兄さんにも、そのリソースを100使う行為ができたホシノウィルムさんも、信じられない化け物なんですけど」

 

 昌さんはちょっと引いていた。

 まぁ、歩さんはアレとして、私は転生ウマ娘だからね……。

 

 

 

 ……と、一旦話を戻そうか。

 

「それで、領域を併用すると消耗しやすくなるという話なんですが、実はこの問題は既に解決済みです。

 なんとか増加した思考力で補える範囲でしたので」

 

 なるほど、と歩さんは頷く。

 その瞳はこちらを見ているようでいて、ちょっと遠いところに焦点が当たってる。

 多分、2つの領域がレースにもたらす影響とか、私の走りがどう良くなるかを考えてくれてるんだろうけど……。

 

 それはちょっと、捕らぬ狸の皮算用というヤツだ。

 先にあと2つの問題を整理しないとね。

 

「ただこれ、中くらいの問題でもあるんですが……。

 領域の併用、本当に消耗が酷くて、増加した思考力が通常時並みに落ちます。

 安全を考えると、天星スパートとの両立はちょっと厳しいかもしれません」

 

 それを聞くと、歩さんの眉がきゅっと締まる。

 

「む……終盤の天星スパートは君の最大の強みの1つ。それが使えないのは少し厳しいか?」

 

 私が去年の宝塚記念で身につけた、天星スパート。

 「アニメ転生」を使って有り余る思考力を走りに傾け、より最適で最速の走りを実行することで、スタミナの消耗を抑えながらより速度を出すことができるこの走り方。

 

 私はこれに、何度も助けられてきた。

 なんなら、これがなければ勝てない戦いも多かったくらいだ。

 

 謂わば、領域と並ぶ、もう1つの必殺技。

 これを手放すとなると、領域が1つ多く使えるとしても、不安が残る気持ちもわかる。

 

 ……まぁ、更に言うと、まだ最大の問題が残ってるんだけども。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「さて、最後に大きな問題です。というか、最大にして致命的な問題です」

「……嫌な予感のする言い方だ」

 

 申し訳ないけど、多分歩さんが思ってる以上に最悪の結果が待ってると思う。

 なんなら私だって、昨日は「マジかぁ……」って落ち込んだくらいだし。

 

「領域の同時使用はできました。確かに、2つの領域を同時に開くことはできました。

 ……ただ、それだけでした」

「それだけ?」

 

 コクリと頷き、あまりにも残念な現実を告げた。

 

 

 

「領域効果、出ませんでした」

 

 

 

 私がそう言い放った時の雰囲気は、何とも筆舌に尽くし難かった。

 

 当惑、混乱、疑念。

 そういう嫌な感じの雰囲気が、トレーナー室に充満する。

 

 で、いち早く……というか1秒足らずでそういった感情を処理し終えた歩さんが、訊いて来た。

 

「……つまり、アレか。

 領域は開けたのに、加速などの効果が見られなかった……通常時の走りと何も変わらなかった、と」

「はい」

 

 歩さんは少し視線を下に向けて、表情を歪める。

 私を責めてる……って感じではなくて、純粋に疑問を感じている風だった。

 

「効果が現れない……何故だ?

 ウィルが言うんだ、確かに領域は開けたんだろう。しかしその効果が現れない……領域の機能不全。

 2つ同時に展開したことで干渉しているのか? それとも何かしら、やり方に不備がある?

 ……駄目だ、わからん。そもそも領域を2つ展開するなんて過去の堀野の資料にもなかったからなぁ。データを取ることも難しいし、理由の絞り込みが難しい」

 

 思考を纏めるためか、独り言を並べながら考え込んでいた歩さんは、ふと思い立ったように顔を上げてこちらに訊いて来る。

 

「ウィル、所感を聞きたい。領域を1つだけ開いた時との、感覚的な違いはなかったか」

 

 違いがあったかと言えば、答えは明白だ。

 

「ありました。……なんと形容すればいいかはちょっと難しいんですが、なんというか、領域の景色がぐちゃぐちゃっとしちゃったんですよね」

「ぐちゃぐちゃっと。……2つの領域の心象風景が混ざってしまった、ということか?」

「そんな感じ……ですかね? 正直、自分でもよくわからなかったんですけど」

 

 領域は感覚的なもの。

 開いた際に見える景色だって現実のものじゃなく、言うならばウマ娘としての魂が見せる幻想みたいなものなんだと思う。

 

 で、私は前世でオタクだったからある程度なんとかなってるものの、根本的には語学が堪能な方じゃないし、この現象について説明するのがなかなか難しいんだよね。

 問題点なんかは昨夜から「どう説明したものか」と考えていたからなんとかなるものの、アドリブで話そうとすると……うーん。

 

「なんというか、宙とか炎とか、そういうのがごっちゃごちゃになっちゃって。

 絵で例えると……こう、モチーフがたくさんありすぎて纏まりがない、みたいな?」

「なるほど……それを聞いて、少しわかった気がする」

 

 口に手を当て、歩さんは語る。

 

「察するに、君のやり方で2つの領域を同時に展開することは、1つのキャンバスに2つの絵を同時に描くことなのかもしれない。

 右手と左手で別の名画を描くのは絶技には違いないが、その結果生まれるのは2つの絵が混じった混沌とした謎の絵画だ。

 それ単体を見れば、決してクオリティが高いとは呼べないものになるだろう」

「なるほど? だからルドルフ会長は片方の領域をスキルにまで……ってことですかね?」

「いや、さしものシンボリルドルフとはいえ、君のように領域を完全に併用することは不可能だろう。

 領域を2つ使おうとして取った次善の策が、偶然噛み合ったのだと思う」

 

 勿論推論に過ぎないが、と言い添える歩さん。

 まぁルドルフ会長周りの話はソースもないし、想像レベルではあるだろうけど……。

 

 キャンバスに2つの絵を、という件は、結構的を射てる気がする。

 

 

 

「しかし、そうなると……領域の併用はちょっと無理めですかね。

 私の領域精度だと、まだスキルに落とし込むとかはできそうにないですし、だからと言って領域のままに同時に展開すると混ざっちゃうみたいですし。

 その上『アニメ転……ではなく天星スパートを使えないとなると、リスクだけがあってリターンが皆無なわけですしね」

 

 昨日領域を2つ開けた時は、興奮のあまり脳汁ドバドバだったんだけど……。

 思考のリソースはバ鹿食いするわ領域効果は両方ともなくなるわ、その上混ざった領域の中で走るのは違和感がすごくて気持ち悪いわで、正直かなりガッカリした。

 

 それでも情報共有の必要はあるだろうと、あとおまけに歩さんなら妙案を出してくれたりするかなと思って、こうして報告したわけだけど……。

 なんというか、こう、救いがなさすぎるね。

 

 まぁ歩さんの言った通り、初めて使う技術なんてものは失敗前提のものだ。

 ひとまず展開自体には成功したということで、1つの経験として残しておくべきだろうか。

 

 

 

 ……と、私の方は、割と諦めかけてたんだけど。

 

「ん? いや、方法はあるんじゃないか?」

 

 歩さんは、平然とそう返してきた。

 

 思わず目をぱちくりさせる。

 さっきの話、割とどうしようもない、みたいなニュアンスがあったと思うんだけど……。

 

「単純な話、君の失敗はキャンバスが1枚だからであって、別の絵を同時に描く能力自体はあったんだ。

 つまり、そのキャンバスが2枚あれば併用は成立するはずだ。そうだろう?」

 

 事もなげにそう言い放った歩さんに、昌さんがジト目を向ける。

 

「……あのさ、絵とかキャンバスっていうのはあくまで例え話でしょ? そんなことできるの? ……どうです、ホシノウィルムさん?」

「え? うーん……やったことがないので何とも……」

 

 キャンバスを2枚……と言われても、ちょっとイメージが難しい。

 要するに領域を展開する世界を2つに分ける、みたいな感じだと思うんだけど……うーん、どうしよう。

 「アニメ転生」中なら、自分の思考を2つに分けるとかできるかな? いや、ちょっとどうすればいいかイメージ湧き辛いし無理か?

 

 呻りながら考える私に対し、歩さんは言ってくる。

 

「ウィル、君は確か、領域の光景は透明な別のレイヤーのように、現実の景色と重なって見えると言っていたな?」

「あ、はい、そんな感じです。これもなかなか説明するのが難しいんですが」

「であれば、そのレイヤーをキャンバスと捉えよう。それをもう1枚増やす……と捉えると、どうだ」

 

 領域の景色。

 あれをキャンバスとして、2層用意する……。

 

 あ、ちょっと想像しやすい。

 

「……で、できる、かも? いやちょっとまだ確信できるレベルじゃないんですけど、ちょっとはイメージできた感じします」

 

 私がちょっと迷いながらも頷くと、歩さんは穏やかな顔で笑ってくれた。

 

「よし、それならひとまず領域併用の最初の一歩は踏み出せたかな。

 これからは基礎的なトレーニングと並べて、君の領域併用のための試行錯誤もやっていこう。

 もう海外遠征はすぐそこだし、海外での調整と同時にやることになるが……できるか?」

「っ! ええ、歩さんと一緒なら!」

 

 よ、よし、こうなったらやってやる!

 というか、歩さんが期待を寄せてくれてるんだもの、やらないなんて選択肢はない!!

 

 海外の土地に慣れながら、凱旋門賞に向けて基礎トレーニングを積みつつ、領域の併用の練習……。

 

 ……いや、やっぱりちょっとオーバーワークなのでは? ウィルは訝しんだ。

 

 

 







 まとめ
 領域同時展開はできるけど、天星スパートは封印になり、今のところ効果も出ない。

 宝塚記念から約2週間が経過し、そろそろ2人の海外遠征が迫ります。
 その前に、2人の日本での思い残りの解消をば。



 次回は一週間以内。トレーナー視点で、育てられた故にの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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故きを訪ねて温かきを知る

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 ウィルの海外出立の日が、いよいよ目の前に迫ってきた。

 

 彼女の次走は凱旋門賞のステップレースであり、ウィルにとっては不慣れな海外での調整の成果を試す叩きの場でもある、フランスのG2フォワ賞。

 その開催は9月13日……今からおおよそ、2か月後だ。

 

 空気や水や食といった海外の環境、そして何より日本とは全く違う芝に脚を慣らすためには、時間はあるに越したことはない。

 極論を言えば、今すぐにでもあちらに渡りたいくらいだ。

 

 それでもまだ俺たちが日本にいるのは、ひとえに宝塚記念の疲労抜きと、日本でできる最終調整のため。

 それが終わりつつある今、日本に居座る理由はなくなってきた。

 

 

 

 ……が。

 海外に行く前に、いくつか済ませておくべきことがあった。

 

 とはいえ、向こうの拠点の用意は完了しているし、トレーニングに必要な各種施設の準備もできた。

 当然ながらライフラインの確立と、ウィルのおおよその食生活のプランニングも完成、大方の情報収集とその対策も終わっている。

 ホシノウィルムのトレーナーとしては、俺は既に準備万端な状態なのだが……。

 

 堀野歩個人としては、少しばかり心残りがある。

 いや、心残りというか、ただの個人的なこだわりみたいなものなんだけど。

 

 

 

 ウィルの次なる目標である凱旋門賞は、芝における世界最高峰のレース。

 これまで、日本のウマ娘に勝てた者が1人たりともいない、前人未到への挑戦だ。

 

 これまでだって熾烈極まるレースは多かったが、凱旋門賞はその極みだ。

 ここに出走するのは、大半が既に国際G1を勝ち抜いたウマ娘たちであり、中には4勝5勝を上げる歴史的優駿だって珍しくはない程。

 

 そんなレースにウィルは、本場ではないバ場やアウェーな環境という、決して小さくないハンデを背負って出走するんだ。

 これはまさしく、俺とウィルの3年間の鍛錬の結集であり、総決算。

 俺たちが作り上げる「ホシノウィルムの走り」の答えを出さねばならない戦いになるだろう。

 

 

 

 そんな戦いの直前だからこそ、俺は一度、初心に戻っておきたいと思った。

 この日本で言うべきことを言ってすべきことをして、全てを済ませてから、すっきりした頭でフランスの地を踏みたいんだ。

 

 というわけで……。

 

 俺は、お世話になった人たちに、お礼回りをすることにした。

 ……いや、変な意味じゃなく、本当にお礼を言って回るって意味でね。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 俺がこの生涯で最もお世話になったのは誰かと考えれば、その答えは明白だ。

 俺をこの世界に生んでくれて、無力な幼児であった俺を育ててくれて、無償の愛情を注いでくれた母。

 そしていつも俺の目標でいてくれて、トレーナーとしてのイロハを徹底的に仕込んでくれた父。

 堀野家の、俺の両親である。

 

 とはいえ、九州に住まう両親に直接会いに行く余裕はない。

 先日帰省したのはあくまでウィルの精神的休暇のためであり、言ってしまえばあくまでホシノウィルム陣営のためだ。

 凱旋門賞を前にして、陣営のためでもない個人的な都合に、丸1日を費やせる程の余裕はない。

 

 なので、少し申し訳ないけど、電話で話すことにした。

 

 

 

「先日ぶりです、父さん」

『ああ。その後、調子はどうだ』

 

 父の声は、相変わらず凛々しいものだった。

 そこそこ歳を召されているはずなのに意気軒昂、全くと言っていい程衰えを感じない。

 流石は堀野家の現当主、威厳がすさまじいな。

 

 ただ、その声の中には、聞き慣れていなければ気付かない程の、ほんの少しの優しさがあった。

 やはり、彼女のことを気にしてくれているのだろう。ありがたいことだ。

 

「ご心配ありがとうございます。状態は良好です。一昨日も『領域の併用のための特訓です』と、危うくオーバーワークになる直前まで走っていましたよ」

『……聞いたのはお前の調子だったのだが……まぁ、いい。

 領域の併用。先日メールで送って来た情報の件か。改めて聞くと、にわかには信じ難い話だな』

 

 父さんは呻るように呟き、一拍空けて「疑っているわけではないぞ」と付け足した。

 

 かつて中央でトレーナーをしていた父さんの担当ウマ娘の中で、領域を会得したウマ娘は2人きり。

 内片方はドリームトロフィーに行かず引退してしまったため、夢の舞台にまで上がったウマ娘はただ1人なのだという。

 

 そしてその子の時代には、ドリームトロフィーリーグですら、領域の併用なんていう現象は発生していなかったらしい。

 

 ウィルも「領域の併用とか、ちょっと普通の発想じゃないですよ。ルドルフ会長、卵をテーブルに叩きつけられるタイプですね」と言っていたし……。

 やはりアレは、シンボリルドルフが切り開いた新次元なのだろうな。

 

 そしてだからこそ、トレーナー業を離れた父さんは、領域の併用など想像もしていなかったのだろう。

 

 

 

「昨日、それらについて詳細に纏めた報告書と推察を送りました。そちらもご確認ください」

『了解した。お前の手に入れた情報は、堀野の未来に繋がるだろう』

「いえ。堀野の家に少しでも貢献できれば幸いです」

 

 俺は既に「堀野のトレーナー」を辞めてしまった身ではあるが、名家に生まれた以上、生家に尽くすのは当然の行動と言える。

 というか名家としての教育云々を除いても、ただ生んでもらっただけではなく、莫大な資金を使って育ててもらい、これでもかという程にトレーナーとしてのハウツーを学ばせてもらったんだ。

 堀野家から受けた恩は計り知れない。受けた恩は返すのが当然だろう。

 

 しかし、俺の言葉を聞いた父さんは少し黙り込んだ。

 あれ、何か失言したか。そう思い、少しばかり焦ったのだが……。

 

 

 

 遥か彼方から聞こえる父の声は、想定外の言葉を告げて来た。

 

『今のは、堀野の当主としての言葉だ。俺個人としては、別の言葉を用意している。

 堀野に関係なく、俺はトレーナーとして育っていくお前を、そしてそれを通して自分らしさを見つけていくことを、嬉しく思う。

 ホシノウィルムさんとの縁を大事にしなさい、歩。きっと彼女は、お前の世界を広げてくれる』

「…………」

 

 俺の父は、極めて真面目な人だ。

 堀野の家に生まれ、トレーナーとなるように育てられ、それを忠実に叶えた人物。

 

 彼は親である前にトレーナーであり、人である前にトレーナーなのだ。

 どこまでも堀野のトレーナーとして、そして堀野の当主として生きている人だと、そう思っていた。

 

 だからこそ……その父親らしい言葉には、少しばかり面食らってしまった。

 

 勿論、そういった言葉をかけてもらうことは今までにもあった。

 だけど、父がそれをトレーナーとしての言葉と同列に語るのは、多分初めてのことだったと思う。

 

 しかも、今は凱旋門賞の直前だ。

 あくまでもトレーナーとして励むようにと、そう言われると思っていたのだが……。

 

 

 

「なんというか……珍しいですね、父さんがそのようなことを言うのは」

 

 返答に困り、なんとか絞り出した言葉に、電話の向こうから浅く吐いた息が聞こえた。

 

『このようなことを今更言うのはあまりにも卑怯かもしれないが、正直に言えば、今となっては後悔し、反省している。

 俺はお前に対して、トレーナーの先達としてではなく、父として接する時間を増やすべきであったと』

「父として……ですか」

 

 確かに、俺にとって父は、父親というよりは偉大なる先達という印象が強い。

 しかし、そんな父だからこそ目標にできたし、尊敬していたというのもまた事実。

 少なくとも大きな背中を見せるという意味で、父は立派に「お父さん」をしていたと思うんだが……。

 

 

 

 

『昌から時々、最近のお前の様子を聞く。

 以前よりずっと前向きに、ホシノウィルムさんのトレーナーとして励んでいるとな』

「昌……」

 

 俺は昔から家族に色々と心配をかけがちだったし、これも要監視対象としての報告みたいなものだと思うんだけど……。

 なんだか、いつもの様子を知られると思うと、恥ずかしいな。

 

 思わず後頭部に手を回す俺をよそに、父は話を続ける。

 

『良い傾向だ。お前は昔から抱え込みすぎるところがあったし、常に緊張を解けていなかった。それがお前の長所でもあったが、同時に最大の欠点でもあった。

 故に、ある程度弛緩して業務に向き合えているのなら、それ以上のことはない』

「そう……でしょうか」

 

 自分では、ちょっと気が抜けすぎだと思うところはあるんだが……。

 スカイといい昌といい父といい、皆が今の状態を肯定してくれる。

 

 少なくとも外から見れば、今の俺の状態は好ましく見える……ということだろうか。

 

 

 

『……これが、ちょうど良い機会か。1つ、謝罪をさせてくれ』

「謝罪、ですか?」

 

 父が俺に謝ることなどあっただろうか。

 

 もしかして、堀野のトレーナーの件かな。

 いつだったか、堀野のトレーナーの理念を押し付け過ぎたと、そう言われたのを思い出す。

 

 だが、その件に関しては、謝罪されることじゃない。

 そもそも誰が何と言おうと、堀野のトレーナーは俺が俺自身で選んだ道だ……。

 ……とは、もう威張って言えないが。

 なにせ俺、その道を途中で投げ出してしまったわけで。

 

 しかし、これに関して俺に後悔はない。

 堀野のトレーナーという道は、確かに多少苛烈なものだったかもしれないが、そもそも俺がウマ娘のレースが好きだったからこそ目指したもの。

 そしてそれを途中で投げ出したのは、ホシノウィルムというウマ娘に惚れこんでしまい、より彼女のトレーナーとして専心するために必要だったことだ。

 

 そこに多少の誘導はあれど、俺にはいつだって、自分で道を選ぶ自由があった。

 だからこそ、誰かに謝られる筋合いはないんだ。

 

 

 

 ……と、そんなことを思っていたが。

 父が言ってきたのは、全く別のことだった。

 

『昔、お前は言ったことがあったな。「自分には前世の記憶があるのだ」と』

「!」

 

 その苦々しい記憶は、俺の記憶の中にも残っている。

 

 今生で初めて、自分が転生者であると明かそうとした時。

 当時最も信頼していた父と兄に対し、俺はそれを告げて……。

 結局、信じてはもらえなかった。

 

 冷静に考えればわかりそうなものだ。

 自分の世界に全くないものを、人は心の底から信じることはできない。昌だって、あくまでも「信じ難いけどそうとしか思えない」という状態なんだ。

 

 どれだけ親しい相手であろうとも、生中には俺の記憶の件を明かしてはいけない。

 それは学びとなり教訓となり、俺の中にしかと刻まれた。

 

 

 

 俺の成長の糧となった過去の一件を、父は微かに後ろめたそうな感情を秘めて語る。

 

『あの時、俺は……お前の言葉を信じるべきだったと思う。

 それが嘘であれ真であれ、俺は父親としてその言葉を正しいと信じ、十分な対話の上でお前の見ている世界を知るべきだった。

 そうすればお前は、もっと早く……』

「早く?」

『……いや、覆水盆に返らず、詮無き事だ。

 今更謝ろうと、お前の時間が返るわけでもなく、何かを返してやれるわけではないが……俺は父親として、子との付き合い方を誤った。

 故に、謝る必要がある。すまなかった、歩』

 

 その謝罪に対して、俺は何を返すべきかわからなかった。

 

 そもそも、俺の中で父は……なんというか、完全超人のようなイメージがあったんだよな。

 中央のトレーナーとして分家の誰も文句を付けようがない優秀な成績を残し、本家に戻ってからも家の発展に貢献し、手のかかる3人の子供を育て切った。

 これ以上尊敬できる男性は、そうそういまい。

 

 だからこそ、ここまできちんとした父の謝罪は、俺にとって少なからず衝撃的で……。

 

 同時に、自分が間違っていたと内省すれば、相手が誰であろうと素直に頭を下げられる潔さは、間違いなく俺の知る父のものだった。

 

 

 

「謝る必要は……」

 

 ありません……と言いかけて、これは違うかと思い直す。

 俺自身がどう思おうと、相手は謝りたいと思ってるんだ。

 ならばそこは素直に受け取ることこそ、誠実と言うべきだろう。

 

 ……相手が実の父だと考えると、少々不遜な物言いになってしまうかもしれないが、それでも。

 

「いえ、謝罪を受けます。俺は気にしていませんので、以後は父さんもお気になさらぬよう」

『気遣いに感謝する』

 

 仲直りと呼ぶにはあまりに淡々として、まるで予定調和のように事は済んだ。

 まぁ、そもそも仲たがいすらしてはいなかったのだが……。

 

 それでも。

 

『……凱旋門賞が終わり、ある程度落ち着いたら、ゆっくり話をしよう。

 俺は今からでも、お前のことをもっと知りたい。お前がトレーナーとして見た景色を、知った知識を……あるいは、お前の前世のことを、聞かせてくれ』

「はい。その時は、是非とも」

 

 それでも、あるいはこれは、長く続いた親子の諍いの終わりだったかもしれない。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 思わぬ方向に話が流れてしまったので、そろそろ本題に戻す。

 

 これまでに自分を育ててくれたこと、トレーナーという指標を示してくれたこと、その手本を見せてくれたことに、俺は改めて感謝を伝える。

 それに対し父さんは、少しばかり黙り込んだ後、「……こちらこそ、お前には多くのことを教えられた。ありがとう」と言ってくれた。

 

 何かを教えたような覚えはないものの、往々にして人は無自覚に相手に影響を与えるもの。

 少しでも父さんに何かを与えられたのなら、それ以上のことはない。

 

 そして今は母が不在らしいので、申し訳ないけど父の方から伝言してもらうことにしたんだが……。

 

『伝言自体は問題ないが……同じように、お前が今日頃電話をかけてくるだろうと、母さんから伝言を預かっている。

 「ホシノウィルムさんとのフランス旅行、楽しんでね。ただし羽目を外しすぎないように」とのことだ』

 

 むしろ逆に、お言葉をいただいてしまった。

 

 ……母さん、遠征のことを旅行か何かと勘違いしてないだろうか。

 

 

 

 さて、それから少しだけ雑談をし、最後に「凱旋門賞、ホシノウィルムさんと共に、満足のいくレースをしてこい」と鼓舞されて、父さんとの電話は終わった。

 

 ……うん、こう言ってはなんだが、出だしはいい感じだ。

 きちんとこちらからの感謝を伝え、知らず喉に刺さっていた小骨も取れた。

 この調子でお世話になった皆に感謝を伝え、日本に残す悔いをなくしていこう。

 

 

 

 次にお世話になったのは……こういうのはあまり順位を付けるべきものでもないだろうけど、強いて言えばやはりウィルだろう。

 俺の人生にとって最大の転換点になった、そして最も多くのことを学ばせてくれたウマ娘。

 感謝を伝えるというのなら、やはり彼女を外すわけにはいかないが……。

 

 結論から言うと、ウィルはパスすることにした。

 理由は単純明白で、そんなもんはフラグでしかないからだ。

 

 考えてもみてほしい。

 一大決戦を前に仲間が「ずっと言えなかったけど、これまでありがとう。これからもよろしく」とか言い出したら、それはラスボス前なのか敗北フラグなのかどちらかだ。

 

 そして俺もウィルも、まだまだ走りを止めるつもりはなく、凱旋門賞はあくまで通過点にすぎない。

 故にここで仰々しく想いを伝えるのは、あまりにも不吉極まる行為だ。

 勝負は時の運なところもあるし、迂闊なことをして三女神の不興を買いたくはない。

 

 

 

 で、ウィルをパスするとなると、次に食い込んでくるのは兄さんや昌、そしてブルボンだろう。

 ずっと迷惑かけたりお世話になったり、改めてウマ娘の素晴らしさを教えてくれたりした3人には、感謝せざるを得ない。

 

 なので、兄さんには誠意を込めて、直接会える2人にはしっかりと頭を下げて、謝意を告げた。

 

 ……告げた、のだが。

 

『気にしなくていいよ。歩が前を向けたなら、それが一番のお返しみたいなものだから』

「そういうのいいから。あ、いややっぱよくない。感謝の気持ちがあるなら仕事手伝って。私今週末は休み入れたいから」

「私はマスターに救助された側。感謝される謂れはないと推測します」

 

 それぞれ、割とサラッと受け流されてしまった。

 

 いや、毎度父とのそれのようにしっとりしたかったわけではないんだけど、なんというか……。

 思い切って頭を下げたのを軽く流されると、なんだか恥ずかしいんだよな。

 

 やっぱり今度から、謝意を向けられたら素直に受け取るようにしよう。

 人の振り見てではないけど、やはりふとした瞬間にこそ学びはあるものだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、担当ウマ娘や肉親の次は……。

 やはり、このトレセン学園を経営する理事長である、秋川やよい理事長だろう。

 

 秋川理事長には、陰ながらだいぶお世話になった。

 そもそも俺が3年前、例外的にサブトレーナーや教官を経由せず専属トレーナーになれたのは、秋川理事長がそれを認めてくれたおかげだ。

 ひいてはその年にトレセン学園に入学していたウィルに出会えたことも、彼女と契約することができたのも、全ては理事長のおかげである。

 

 ……冷静に考えると、とんでもない大恩人だな。俺にとってもウィルにとっても。

 というか、今のウィルの活躍やトゥインクルシリーズの勃興を考えると、全体的に陰のMVPでは?

 

 更にその上、先日のルドルフとの模擬レースなんか良い例だけど、理事長はウマ娘のためとあらば結構無茶をしてくれる。

 とても採算なんて合わないだろうに、ただの模擬レースをあそこまで盛り上げてくれたんだ。

 学園の利潤を考えなければならない理事としては失格かもしれないが、トレセン学園のトップとしては、秋川理事長は間違いなく適切な人材だろう。

 ……時々思うんだけど、彼女は理事長じゃなく校長の方が向いているのではあるまいか。

 

 そして当然ながら、俺もウィルも、秋川理事長には死ぬ程お世話になっている。

 引き合わせてくれた上に色々助けてくれるとか、感謝してもしたりない程の大恩人だ。

 日本を出て凱旋門賞に挑む前に、やはりあの人には一度しっかりお礼を言わねばなるまい。

 

 

 

 そんなわけで、たづなさんを通してアポを取り、俺は秋川理事長に面会した。

 

「歓迎ッ! 久しぶりだな、堀野歩トレーナー!」

「お久しぶりです、秋川理事長」

 

 そう言葉を交わし、俺は対面に座った理事長に目を向ける。

 

 ……しかし、改めて見ると、その小柄さに驚くな。

 

 俺の胸あたりまでしかない、まるで少女のような体格。

 というか本当に少女と呼んでいい年齢なんだが……。

 それでいて、組織の長として不足ない以上の働きをしているのだから、それを初めて見た時のインパクトは結構すごいものがある。

 

 しかし、どれだけ見た目や実年齢が幼かろうと、彼女は俺たちトレセン学園トレーナーにとって欠かすことのできない大事な存在だ。

 1年でもこのトレセンで働いていれば、とても舐めるだなんて発想は残らない。だって下手したら俺たち以上に働いてるし。

 

 しかし、彼女は疲労など欠片も見せることなく、むしろ俺に向けて豪快に笑いかけて来る。

 

「うむ、ホシノウィルム共々好調なようで重畳ッ! 私たちトレセン学園は君たちの挑戦を全身全霊で応援するぞ!」

「ありがとうございます。いつもわがままを聞いてもらって、本当に助かります」

「構わない、全てはウマ娘の明るい未来のためだ!

 ホシノウィルムは今や、日本中のウマ娘たちに夢を届ける存在。そして同時、我が校の在校生の1人でもある。

 必定ッ! 我々が彼女の背を押すのは当然のことだ!」

 

 彼女は笑ってそう言い、いつの間にかその手に握っていた扇子を開く。

 

 ……まぁ、その後ろに立つ秘書のたづなさんは、「また理事長の悪い癖が……」と言わんばかりに頭を抱えているので、やはりかなり無理をしてくれたようだが。

 

 

 

「それで、堀野歩トレーナー。何か話があるとのことだったが、何の用だ?」

「海外遠征の前に、お世話になった方にあいさつ回りと感謝を、と。

 改めて、4年間お世話になりました。これからも、ホシノウィルムと共にお世話になります。どうぞよろしくお願いします」

 

 そう言って頭を下げると、「うむ、堀野歩トレーナーらしい律儀さだ!」という声が聞こえる。

 どうやらひとまず不興を買うことはなかったようだ。

 顔を上げた時に見えたのは、笑顔の秋川理事長だった。

 

「場合によっては嫌味に映ることもあるだろうが、私は君のそういうところが好きだぞ!

 まぁ、もう少し余裕を持ってもいいとは思うがな!」

「そんなに余裕がなさそうに見えるでしょうか」

「4年前に比べればずっとマシにはなったぞ!」

 

 それはつまり、今もちょっと見苦しく見えるという意味では……?

 喜んでいいのか、反省すべきなのかすらわからないな。

 

 

 

 思わず微妙な顔をしてしまう俺に対して、理事長はふと、その表情を真面目なものに変えた。

 

「……堀野歩トレーナー。4年前のトレーナー資格試験の面接の際、私が君に聞いたことを覚えているか」

「はい」

 

 4年前、「ここまで必死に鍛錬を積んだのだから絶対に受からねば」と、乾坤一擲の覚悟で臨んだトレーナー資格試験。

 その最後の面接で、秋川理事長は俺にこう尋ねて来た。

 

「ウマ娘のトレーナーをするにあたり、最も重要なことは何か……ですよね」

「その通り! それに対して君は、こう答えた。

 自分を殺すこと。そして、全てを以てウマ娘のことを支えることだ、と」

 

 ああ、そうだ。そう言った。

 当時の俺は、堀野のトレーナーとして、そうすべきだと心から信じていた。

 

 自分を持たず、担当のために全てを捧げるべきだ。

 そこに感情を挟むべきではない。自らの欲望を持つべきではない。

 己の全てを犠牲にしてでも、彼女を、彼女たちを支えるべきだと。

 

 もはや懐かしくすら思える、その信条。

 あるいは、あれを貫いていれば、俺には別の未来があったのだろうか。

 

 ……まぁ、たとえあったとしても、それが明るいものであるとは限らない。

 俺としては、あの日選び取った未来こそが最善であったはずだと、そう信じるしかないわけだが。

 

 

 

 遠い過去を思い出して懐かしんでいると、秋川理事長が静かに尋ねて来る。

 

「今でも、答えは変わらないか?」

 

 躊躇わず、首を横に振る。

 

 俺は堀野のトレーナーとしての道を、理想を、捨て去った。

 これまでの人生で培ってきたものを捨ててでも、俺自身が支えたいと思える、ただ1人の競走ウマ娘を見つけたから。

 

「……ウィルは、よく俺に言います。

 きっと競走ウマ娘にとって一番大事なのは、走ることを楽しむこと、誰かとのレースを好きになることだと思います、と。

 俺も、今は同意見です」

 

 前世で読んだ何かの本では、「自分を救えないようなヤツには誰かを救うことはできない」とあった。

 

 正直、それを読んだ時には、あまりよく意味を理解できなかったんだが……今なら、それもわかる。

 

 

 

「ウマ娘にとって、走ることを好きになるのが最も大事であるように……。

 トレーナーにとって最も大事なのは、まずウマ娘を好きになること。

 自らの担当を、その走りを、誰よりも好きになることこそ、トレーナー業を行うにおいて最も重要なことだと、今はそう思います」

 

 

 

 俺の内心をそのまま吐露するような言葉に、秋川理事長はまぶたを閉じた。

 彼女から何かの言葉が発されることはなく、俺も何かを言うこともなく……。

 

 そうして、気まずい沈黙の時間が流れる。

 

 ……え、何かマズいことを言ってしまっただろうか。

 ちょっと不安に思い始めた、その時。

 

 プルプルと、秋川理事長の体が震え始め……。

 

 

 

「感ッ、動ッ!!」

 

 

 

 ……彼女の帽子に乗っていた猫ちゃんが思わず跳び上がる程の、大声で叫んだ。

 というか、なんなら俺やたづなさんもビクリと跳び上がりかけた。

 

 驚愕に固まる俺たちの前で、彼女は「感動」と書かれた新たな扇子を広げる。

 俺に向けられたその目は眩い程の熱に満ち溢れていた。

 

「堀野歩トレーナー、私は嬉しい! 嬉しいぞ!!」

「な、何がでしょう」

 

 隠し難い困惑と共に尋ねると、理事長は「うむ」と腕を組む。

 

「君がトレーナーとして優秀であることは、資格試験の結果と新人研修での成績が示していた。

 君は間違いなく、数年に一度、あるいは数十年に一度の逸材だ。

 だからこそ、教官やサブトレーナーを経てゆっくりと育てるべきだと、たづなはそう言っていたが……」

 

 あ、そうだったんだ。

 ちらりとたづなさんの方を見ると、何とも言い難い表情で頷かれる。

 

 まぁ実際のところ、俺を除く全てのトレーナーはそれらの経験を糧にトレーナー業を行うわけで、それがより妥当な判断だとは思うが……。

 

 しかし、恐らくは当時も全く同じ動きをしたのだろう。

 秋川理事長は、激しく首を振った。

 

「だが! だが、だ! 私は一秒でも早く、君に思い出してほしかったのだ!」

「ええと、何を……」

「ウマ娘への、愛だ!!」

 

 ビシッと扇子をこちらに突き付け、理事長はその目を見開く。

 

「言葉を交わす中で、君の中からは確かなウマ娘への愛を感じた!

 しかし同時、その想いは君に忘れられかけ、どうしようもなく曇ってしまっていた……!

 故に! 君に本当の意味で一流のトレーナーとなってもらうべく、早期にウマ娘の専属担当を許したのだ!

 そして君は、愛する担当ウマ娘と二人三脚で走る中で、確かにその気持ちを取り戻した! これに感動せずして何に感動するというのかッ!!」

 

 ……そうか。

 以前聞いた時は、「君のように優秀な者を遊ばせておく余裕は学園にない」と言われたが……。

 あれは、表向きの理由。

 

 俺がホシノウィルムの走りに惚れて思い出した、この気持ち。

 これを思い出させるために、秋川理事長はわざわざ、特例を……。

 

 

 

 彼女から向けられていた親心のような想いに、俺は思わずジンとしてしまっていたのが……。

 次の瞬間、秋川理事長はしゅんと小さくなってしまった。

 

「……ただ、経験不足による業務効率の想像以上の悪化や、ホシノウィルムという逸材と共になったことでこなさねばならない業務量がすごいことになってしまったのは、私からしても予想外ではあったのだが。

 一度許した以上、今更決定を覆すこともできず、精々たづなに君を手助けさせることくらいしかできなかった。

 君の為を思ったつもりが、結果として君のことを酷く痛めつける結果になってしまった。そこに関しては、本当にすまなかった……」

 

 やっぱりあの量は予想外だったんだ……。

 

 実際のところ、ウィルがダービーを走ってた頃の俺の業務状況は、今思うと「よく死ななかったな俺」という感じだった。

 獅子は我が子を千尋の谷に落とすと言うが、本当にそんな高さから落としちゃったら普通に死ぬ。

 鍛えるにしても、ちょっとばかりオーバーワークだったなぁと思わないでもない。

 

 彼女の背後に立っていたたづなさんも、頬に手を当ててため息を吐た。

 

「すみません、堀野歩トレーナー。理事長の思い付きであんなことになってしまって……。

 私は止めたんですが、どうしてもこれが必要なのだと聞いてもらえず」

「謝罪ッ! そこに関しては完全に私の責任だ! 申し開きのしようもない!」

 

 ぐっと頭を下げる理事長に、しかし俺は首を振り、笑って応えた。

 

「謝罪を受けます。そして、私は気にしていません。

 確かに苦しい時期も、辛いこともあったことは事実です。けれど、理事長のその判断のおかげで、私はウィルに……愛バに、巡り会うことができた。

 だから、これこそが最善の『今』であると思いますし、むしろ理事長には感謝しています。

 私に専属担当を許していただいて、そして陰ながら支えていただいて、ありがとうございました」

「ありがとう、そう言ってくれると本当に救われる」

 

 理事長はそう言って1つ頷き、ガタッと立ち上がって、その手に持つ扇子をこちらに突き付けた。

 

「……よし! 改めて、堀野歩トレーナー! トレセン学園理事長として君に1つ、指令を下す!」

 

 そう言って、彼女はいたずらっぽく笑い、扇子を開く。

 

「凱旋門賞に出走し、君の愛バたるホシノウィルムと共に、最高のレースをしてくること!!

 よろしく頼んだぞ!!」

 

 その扇子には、「激励」という文字が並んでいた。

 

 

 







 こういう伏線回収みたいな小骨取り回、やってて一番楽しい。



 次回は1週間以内。ホシノウィルム視点で、育てたが故にの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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新心鬼影

 しばらく語っていなかった彼女たちのことをちょこっと。





 

 

 

 私は基本、レースの格とか歴史とか、そういうのはどうでもいい派だ。

 レース自体よりも、そこに出て来る出走ウマ娘とか、観に来てくれるファンの方が大事だと思ってる。

 

 勿論、「このレース、アニメゼミで見たところだ!」と盛り上がったりとか、「あの子とあの子と同時に戦える!」とワクワクしたりとか、「オイオイオイ来てくれたファン多いわこのレース」と奮起したりとかすることはある。

 

 けど、良い意味で意識の高い他のウマ娘たちが思ってるように、「このレースに勝つためにこそ走るんだ」とか、「このレースに出るために全てを」みたいな気高い想いは、ぶっちゃけ全くない。

 

 畢竟、強いウマ娘と走れるんならオープンレースでもいいし、微妙な相手と走ることになるんならG1レースでもちょっと……と思ってるまである。

 まぁ、栄えあるG1レースでメンツが微妙になることとかそうそうあることじゃないし、そっちの方はあんまり心配してないけども。

 

 いやさぁ……レースの格とか歴史とか、そういうのの価値って、よくわかんないんだよね。

 シンボリやメジロみたいな良家で育てばそういう教育を受けるのかもしれないけど、私は中央どころか地方のレースも走れなかった平々凡々なお母さんの娘だし。

 子供の頃に見て感動したレースなんかあれば話は別かもしれないけど、その頃には家庭崩壊からお父さんの呪い背負ってよいこらしょだったし。

 レースの歴史とか格とかをちゃんと学び始めたのは中等部2年辺りからで、その頃には私バリバリG1連勝してたから、「すごいレースなんだよ」って言われても「まぁ普通に勝てるけども」って感じで全然実感湧かなかったし。

 

 うん。

 やっぱりこれ、私の環境が特殊すぎるからだな。

 私は悪くない、環境のせいだったんだ……なんて、そんなことは言うつもりはないけども、まぁある程度仕方ない部分もあるってことはご理解いただきたい。

 

 

 

 ……が、だ。

 そんな風にレース自体には思い入れのない私といえど、流石に凱旋門賞となると思うところはある。

 

 未だ日本のウマ娘が勝つことのできていない、世界最高峰の芝のレース。

 これに勝つということは、殆ど直接的に「芝における最強のウマ娘」であることの証明になる。

 

 注目度も難易度もこれまででトップクラスどころか、間違いなく頭1つ抜けてダントツの1位。

 歩さんも「俺と君の走りの完成形を見せるべき時だ」と言っていたし……。

 つまるところ、このレースはラスボスみたいなもの。私の旅路の1つの果てだ。

 

 強者と戦うこととレースを楽しむこと以外にはこれといった目的もなく走っている私だけど、流石にここまで来ると「いよいよだなぁ」という感慨はあるわけで。

 

 トレーニングのクールダウン中、私は座って息を整えながら、空を見上げていた。

 

 

 

「……もう2年半か」

 

 長いようで短い、ほんの瞬き程の間に過ぎて行った時間だったな。

 

 トレセン学園に入ってからの2年半で、ホシノウィルムの生涯は大きくその色合いを変えた。

 どうしようもなく色のなかった寒い灰色の世界が、たくさんの星々の輝きに彩られる、燃えるような熱い世界に変わったんだ。

 

 ……けれど、あの灰色の世界が、辛く苦しかったあの日々が、無意味であったとは思わない。

 あの頑張り続けた毎日があったからこそ、私はトゥインクルシリーズで活躍できる力を手に入れた。

 

 無駄なことなんて何一つない。

 辛かった日々も、失敗した経験も、悲しかった失敗も。

 その全てが確かな意味を持ち反省に繋がり、今の私を作り上げてるんだ。

 

 

 

 で、そういう意味ではやはり、私が一番感謝しなきゃいけないのは……。

 私の、今は亡き両親だろうなと思う。

 

 私をこの世界に生まれ変わらせてくれた、お父さんとお母さん。

 まぁその後、色々すれ違いがあったのはアレだけど……それでもやっぱり、私をこの世界に生んでくれたのは、これ以上ないくらい感謝してる。

 

 ただその上で、1つ、悲しいのは……。

 2人の形見が、殆ど残ってはいないことだ。

 

 家財も家も、全部売ってしまった。 

 その理由としては、お金が足りなかった、っていうのもあるけど……無意識の行動ではあったけど、私はあの日々を思い出すものを視界に入れたくなかったんだと思う。

 だからこそ、2人の残した細々としたものも、全部捨てるか売るかしてしまったんだ。

 

 残ったものは、ただ1つ。

 

 自分の耳を……当然ながら顔の横ではなく、上に付いているウマ耳を触る。

 ムニムニかつふさふさで触り心地の良い感触だ。

 しかし、触っている中で、他とは違う固い感触に差し当たる。

 

 薄灰色を基調とした、金属製の……ちょっと複雑で正直よく分からない形状をした、両耳の耳飾り。

 かつてはお母さんの使っていた、そしてついぞターフの上では見られることのなかったものだ。

 

 まだ私が赤ん坊の頃……お母さんの心が擦り減る前、彼女はこれを私にくれた。

 「私には必要ないものだから、いつかあなたが、これを使えますように」って、夢と希望を込めて。

 

 だから私はずっと、これを付けたまま中央で走ってきた。

 私の走りでお母さんの未練が晴らせるのなら、それ以上のことはない。

 誰かの夢を背に乗せて走るのも、ウマ娘の役目だからね。

 

 

 

「……お父さんとお母さん、どこかから見てくれてるかなぁ」

 

 やや赤みを増してきた空に、ぼんやりそんなことを思う。

 

 魂とか輪廻転生とかって、普通の人にとってはただのオカルトなんだろうけど……。

 こと実際に転生してこの世界に流れ着いた私にとっては、決して否定できないものなんだよね。

 

 死んでしまった後、両親はこの世界に生まれ変わったかもしれないし、私と同じようにどこかの世界に既に転生してしまっているかもしれない。

 

 けれど、願わくば……。

 いや、正直、これは願うべきものではないのかもしれないけど。

 お父さんとお母さんが、どこかの世界に転生する前に、私の走りを見てくれてればなって思う。

 

 2人は最後まで、私を恨んで逝ってしまった。

 だから今更、私の走りなんて見たくはないかもしれないけど……。

 

 2人がこの世界にいた証、この世界に生んだ私が、確かに結果を残してるって知って欲しい。

 2人の生涯が決して無意味じゃなかったって、そう思って欲しい。

 

 ……まぁ、こんなのはただのエゴでしかないんだけどさ。

 慰めになるかなんてわからないし、むしろ逆に腹立たしいかもしれないし、そもそも生まれ変わったかも、この世界にいるかもわからないんだけど……。

 

 それでも。

 

「……見てくれてるといいな」

 

 そう思ってしまう私は、やっぱり自己中心的なのかもしれないね。

 

 

 

 ……さて、と。

 そろそろ休憩も終わりでいいだろう。

 歩さんのスケジュールだと、あと5分くらい休む予定だけど、そろそろ体と心に溜まる熱に耐えられなくなってきた。

 

 ウマ娘っていうのは、走るためにできている。

 であれば今は、とにかく走るのみだ。

 

 私は今や、とんでもなくたくさんの夢を背負っている。

 止まるわけにはいかないのである。

 ……いやまぁ、ぶっちゃけただただ走りまくりたいだけなんだけどさ。

 

「よいしょっと!」

 

 声を上げて立ち上がり、私はターフへ向かおうとして……。

 

「……ん?」

 

 ふと、温かい手に、優しく背中を押された気がした。

 

 振り返っても、そこには誰もいない。

 気のせい……だったのかな?

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ふと過去を想ってややセンチメンタルになってしまったけど、そもそもこういうのはちょっと私のキャラじゃない。

 どちらかと言えば、そういうシリアスは歩さんの担当な気がする。

 私はこれからのレースとか歩さんとの未来を考えて、競走ウマ娘らしく遮二無二走っていればいいのだ。

 

 さて、それでは改めて未来の……私の最終目標であるレースのことを考えよう。

 

 凱旋門賞は、これまで以上に熾烈極まるレース。

 レースそのものに集中し切らなければ、とても勝つことはできないだろう。

 日本にいる今、私にできるのは、全ての未練を断っておくことだ。

 

 そんなわけで私は、トレーニングの合間を縫って、友人や先輩、後輩ちゃんに会いに行くことにした。

 

 

 

 まず、私の最大の友達であるネイチャや、最強のライバルたるテイオーは……。

 ……まぁ、日常的にご飯とか一緒に食べてるし、パスで。

 改めて挨拶とか恥ずかしいしね。ま、最悪行く当日とか前日とかでいいでしょ。

 

 ならばと、マックイーン先輩に会いたいところだったんだけど……。

 どうやら彼女はメジロ家の用事で、ここ1か月程トレセンを離れているとのこと。

 とはいえ、メジロの施設でトレーニングはできるし、秋からはちゃんとレースに出てくれるらしい。そこは安心だ。

 なのでLANEで、これまで競ってくれた感謝と秋の天皇賞の健闘を祈るメッセージを送った。

 返信は……なかなか来ない。ちょっと忙しくしてるのかな。

 

 

 

 さて、お次は後輩ちゃんだ。

 勿論一番に会いに行ったのは、同陣営の後輩たるブルボンちゃん。

 真面目な彼女は今日も今日とて、菊花賞に向けて距離限界を延ばすために必死に走り込んでいた。

 

 彼女のことだから、こう言うと多分「むしろ私が」って言うと思うけど……。

 思えば、彼女にはすごくお世話になった。

 何度も併走に協力してもらって、数日前に領域の展開実験もさせてもらったもんね。

 

 そんな彼女に何のお返しができるかと考えたけど……。

 結局のところ、私にはただ走ることしかない。

 なので丸一日使って、ブルボンちゃんのトレーニングプランに合わせて併走したり、私にできる限りのアドバイスをしておいた。

 ……とは言っても、歩さんの監督下にあるブルボンちゃんに、アドバイスなんて必要ないかもしれないけどね。

 

 たった1人の同門の後輩ちゃんだ、本当はもっと協力した方がいいのかもしれないけど……。

 彼女はもう自分の走りを見つけ、2本の足で立っているんだ。

 ミホノブルボンはもう、一人前の競走ウマ娘。

 私の手出しなんてなくとも、どこまでも駆けて行けるだろう。

 

 ……きっと私が気にすべきは、まだそこまで行けてない後輩ちゃんたちである。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、その次の日。

 

 私が向かったのは、ソウリちゃんのところだった。

 

 私が特に親しい後輩ちゃんの1人である彼女は、今年の5月から、1月に1本の頻度で公式レースに出走してる。

 つい先日なんて、初めての出走となった重賞レースで見事に勝利を収め、ついに重賞ウマ娘の仲間入りを果たした。

 

 けど、そのレースを見ていた限り……。

 彼女はブルボンちゃんと違って、未だ自分らしい走りを見出せているわけじゃないようだ。

 

 まぁ、当然と言えば当然だろうか。

 自分の世界を掴めるのは、トップ層のウマ娘とバチバチに競えるほんの一握りのウマ娘だけであり、つまるところG1に出走するような子たちだけだものね。

 

 彼女が走ったのはあくまでG3、重賞の中では最下級のレース。

 G1級の化け物ウマ娘が乱入してくるようなこともなく、そのレベルはやっぱりG1に比べるとかなり低かった。

 

 彼女はまだG2とかG1の、あのヒリヒリとした雰囲気を感じていない。

 理論も理屈もぶっ飛ばして、最強のウマ娘が迫って来る感覚も、味わっていないんだ。

 

 そして正直、今の彼女がそこまでの力を持ってるかと言えば、微妙なところ。

 ……というか、こんなことを言うのはなんだけど、持ってないだろう。

 

 彼女はここ数か月、かなり急激に力を付けている。

 去年のネイチャと同じ、いわゆる夏の上がりウマ娘というヤツだろう。

 いや、夏って言うにはちょっと時期が早いか。春の上がりウマ娘、っていうのが正確かな?

 

 ただ、それでも届き得ない高みというものは存在するわけで。

 今の彼女は、「運次第ではG2に勝てるかもしれないウマ娘」といったところ。

 まだブルボンちゃんやライスちゃんと競えるって程ではないかな。

 歩さんの要警戒リストの中でも、彼女の名前は8ページ目にしか載っていなかった。現状では菊花賞への出走できるかも微妙、という感じだったし。

 

 ……応援すると言った手前、そんな状態の彼女を放置して海外に行くのは、あまりに義にもとる。

 そんなわけで、ちょこっとテコ入れすることにした。

 

 

 

「せっ、先輩と模擬レース、ですか……?」

「うん。やろっか」

 

 さて、みんな大好きパワーレベリングのお時間です。

 

 ブルボンちゃんの時もそうだったけども、私にできることといえば走ることくらいだ。

 彼女に強者とのレース経験が足りないというのなら、させてあげればいい。

 このトゥインクル現役最強の私が、しっかりと稽古を付けましょうとも。

 

「大丈夫、流石に本気じゃ走らないよ。クラシック級の子くらいのペースで行くから……私のことをブルボンちゃんだと思って、君自身の逃げを試してみな」

「私自身の……逃げ」

「何かやりたいことがあるんでしょ? 見てればわかったよ」

 

 直近の3つのレース、ソウリちゃんは何かを試しているようだった。

 ただ、結局それは形にはなっていないっぽい。

 ……少なくとも、ブルボンちゃんやライスちゃんを直接的に打倒できる程ではないかな。

 

「G1レースは、私が言うのもなんだけど、かなり修羅の世界だ。

 とんでもない衆人環視の中、不可避的に高まる緊張、ライバルの強烈な威圧感。今ソウリちゃんが走ってるレースより、もっともっと本領を発揮しにくくなる。

 しっかり技術を身に着けておかないと、本番じゃ何もできず負けちゃうだけだ。

 だから……私相手に試し打ちしておきなよ。多分、ブルボンちゃんの逃げのペースを再現できるのって、日本でも私くらいだし」

 

 ま、流石に完全再現は無理だけどね。

 

 ブルボンちゃんの逃げの特異性は、何と言っても極めて精確な体内時計による一定速度での滑走だ。

 漏れ出す「アニメ転生」によって多少思考力が増加しているとはいえ、私には彼女程精確な体内時計はない。あの機械みたいな速度維持は無理だ。

 

 それでも、私も転生チートウマ娘。

 いつも一緒に走ってるブルボンちゃんのペースは覚えてるし、それに合わせたペースで走って疑似再現することくらいはできる。

 

 ……そうして、多分彼女が一番望んでるであろうことも、見せてあげられる。

 

「勿論、領域も味わわせてあげるよ。

 早く自分の走りを見つけられるよう、お手本になってあげる」

「! ……なるほど、わかりました。それじゃ、よろしくお願いします!」

 

 

 

 ガバッと頭を下げて来たソウリちゃんと、それから何時間か走ったり、領域について話したりした。

 

 その感触としては……。

 ……うん、思ってたより悪くない、かな。

 

 ソウリちゃんの走りからは、明確に「やりたいこと」が感じられた。

 菊花賞に勝つために、ブルボンちゃんに勝つために、どうすればいいか。どうしたいのか。

 それがよく考えられた走り、よく練られたプランだったように思う。

 

 そして何より、彼女はウマ娘にとって必要なことを、よくわかってた。

 

 何度目かのレースを終え、へとへとになって両膝に手を付いたソウリちゃんは、それでもなお私の方を見上げて、笑ってたんだ。

 

 

 

 これなら……あるいは、万が一もあり得るかもね。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、私にはもう1人、様子を見ておきたい後輩ちゃんがいる。

 そして正直、私はソウリちゃん以上に、彼女のことを心配していた。

 

 実力に関して言えば、彼女は素晴らしいものを持ってる。心配の必要なんて全くない。

 菊花賞におけるド本命は勿論ブルボンちゃんだけど、対抗バはほぼ間違いなく彼女だろう。

 歩さん曰く、私やマックイーン先輩に次ぐと言っていい生粋のステイヤー。淀の坂と3000メートルという距離は彼女に大きく味方するはずだ。

 

 だから、ソウリちゃんにしてたような実力的な意味では、私は彼女を心配してない。

 ライスちゃんを心配してるのは、全く別の意味だった。

 

 

 

「とはいえ、こっちはどうするかなぁ……」

 

 「ありがた迷惑」とか「余計なお節介」って言葉もある。

 ライスちゃんに関しては、ここで関わっておくべきか、そして関わるならどういう温度感でいくか、なかなかに悩ましいところだ。

 

 今のライスちゃんは、良くも悪くもすごく張り詰めてる。

 皐月賞の前後からその気配はあったものの、ブルボンちゃんが領域を開いた日本ダービー以降はその気配が顕著に漏れ出した。

 

 彼女が私に連絡を取って来ることも、かなり減ってしまった。

 当然そうなれば、夜間一緒に自主トレすることも殆どなくなるわけで。

 お話しする相手もなく寒々しい──あくまで比喩で、むしろ最近は暑いくらいなんだけど──夜道を走るのは、なかなかに寂しいものである。

 

 一応LANEで「最近どう?」って聞くと、かなり遅れて「すみません、自主トレに熱中しちゃってて……」とか返信は返って来てるし、嫌われたわけじゃないとは思うんだけど……。

 

 察するにライスちゃん、前世アニメでも見た極限集中モードに入っちゃったんだろうな。

 

 

 

 今でも覚えてる、前世アニメでの、春の天皇賞前のライスちゃん。

 瞳から青い炎を漏らし、黒く禍々しいオーラを纏って、いつもの彼女とは似ても似つかない鋭い視線で月下のグラウンドを走っている、その姿。

 

 アレは、私が前世アニメの中でもトップクラスに好きなシーンの1つだ。

 春の天皇賞に向けて、マックイーン先輩も間違いなく本気で臨んではいたんだけど、ライスちゃんの取り組み方は……なんというか、鬼気迫っていた。

 その本気度の違いとでもいうべきものが、天皇賞(春)の残酷な差を生んだのだ。

 

 前回の合同トレーニングの時のライスちゃんは、そんな恐ろしい気配をちょっとずつ纏いつつあったように思う。

 それこそ……この私さえ、ゾクッと背筋を震わせ、口端を上げてしまう程の、冷たい威圧感。 

 

 今のライスちゃんは、ブルボンちゃん打倒と菊花賞勝利のために、精神を集中している。

 どこまでも、自分を研ぎ澄ませているんだ。

 

 

 

 今のライスちゃんは、子供の頃の私に近い。

 自分の全てを賭けて、その命さえも懸けて走る、決死の姿勢。

 

 あるいはそれこそが、前世アニメでも取り上げられた通り、ライスシャワーというウマ娘の本気の姿なのかもしれない。

 

「うーん……」

 

 私的には、ウマ娘は走るのを楽しまなきゃいけないと思う。

 けど、それはあくまでホシノウィルムのスタンスに過ぎない。

 必ずしも全てのウマ娘が走るのを楽しめば速くなるかと言えばそういうわけでもなく、ライスちゃんのようにギリギリに研ぎ澄まされてこそ力を発揮できる子もいる。

 

 となれば、私が変に絡んでその鋭さを鈍らせるのは違うかもしれない。

 

 

 

 ……しかし。

 私は、その苦しさを知っている。

 

 勝たなきゃいけない理由があるから、命懸けで走るのは耐えられる。

 けれど、あくまで耐えられるってだけで、脚は痛いし心は寒い。

 今となっては、もう一度体験したいとはあんまり思えない体験だ。

 

 ライスちゃんが勝つために必要だと言うのなら、その決死の努力を無為にすべきではないと思う。

 しかし、その寒々しい苦しさは、なんとか緩和してあげたい。

 

 とあらば、私がすべきは……よし。

 

 

 

 その道に、私も寄り添うことか。

 

 

 

 私の中には、切り替えられるモード的なものがある。

 言うならば二重人格的なアレだ。実際には三重だけど。

 

 1つが、レースの熱さに浮かされて積極的に押し込む「熱い」モード。

 1つが、フラットで柔軟性高めの通常時、「温かい」モード。

 そうして1つが、かつて培ったレースへ極限集中する姿勢の残滓、「寒い」モード。

 

 かつてはレースの気配を感じれば自動的に切り替わっていたこのモードも、今や自在に切り替え可能。

 とは言っても、公式レースやこの前のルドルフ先輩との模擬レースくらい本気を出す時じゃないと、わざわざ切り替えたりはしない。

 そんなことしなくったって、ホシノウィルムは勝てるからね。

 

 

 

 ……だから、ってわけじゃないけど。

 私の「寒い」モードの姿を見せた後輩は、多分彼女が初めてだと思う。

 

 「ホシノウィルムはその時に応じて雰囲気を変えるウマ娘だ」ってよく言われる。

 実際、それは間違ってない。

 

 ファンの前では、ファン向けの顔を。

 ライバルの前では、ライバルの顔を。

 後輩ちゃんの前では、後輩ちゃん向けの顔を。

 レースの前には、レースの顔を。

 そして、トレーナーの前でだけは、本当の「私」の顔を。

 

 それぞれの仮面……というか、それぞれの表情を使い分けるのが私の処世術だから。

 

 だからこそ、私は後輩ちゃんにその顔を見せたことはなかった。

 ……というか、この「寒い」表情を誰かに見せること自体、だいぶ久しぶりな気がするけど。

 

 

 

「お姉、さ……ま……?」

 

 ライスちゃんは、僅かにたじろいだようだった。

 事前に打ち合わせたわけでもないのに、自主トレしてたところに私が現れたことに……ではなく。

 本気の私の、今まで見たことのない雰囲気に。

 

 ……酷く冷たく、相手に興味もなく、ただ競い合いを制すること、相手を下しレースに勝つことだけを目的とした、この仮面。

 最近のライスちゃんの雰囲気を、更に鋭く冷たくしたようなソレに。

 

 私はそんな彼女に対し、ゆっくりと口を開く。

 

「久しぶり、ライスちゃん」

 

 

 

 温かく、あるいは熱くぶつかり合うことが後輩ちゃんのためになるなら、そうしよう。

 けれど、ライスちゃんの場合は、むしろそれが脚を引っ張ることに繋がってしまうかもしれない。

 

 ライスシャワーというウマ娘は、本質的に熱されることを望んではいない。

 誤解を恐れず言えば、彼女にライバルは必要ないんだ。

 

 ただ遥か遠くにある、目的地、目標、背中……あるいは、夢。

 それが、ただ1つあればいい。

 

 それなら、私の役割は1つだろう。

 ライスちゃんが辿り着くべき先を……命懸けで走った、先達として。

 

 

 

「……それじゃ、走ろうか」

「え、っと……」

 

 戸惑うライスちゃんに、私は笑う。

 いつも意識的に浮かべている明るいものじゃなく……。

 冷たく酷薄な光を放つ、冬の夜の青い星のような笑顔で。

 

「もらってばかりじゃなんだから、菊花賞前の最後のプレゼント。

 今までみたいなぬるい温度で馴れ合うんじゃなく、痛いくらいの冷たさで……ホシノウィルムが、本気で相手をしてあげる」

 

 決してその手の届かぬ、遥か彼方の空の目標(ほし)

 それを与えることこそが、きっとライスちゃんにとって最高の発破材になるはずだ。

 

 

 

 ライスちゃんの瞳がきゅっと細まる。

 そして、気のせいか……チラリと、その目に見覚えのある青色の炎が走った。

 

「……よろしく、お願いします」

 

 さて、軽く揉んで……いや、本気で叩き潰してあげよう。

 より高みを知り、より強きを知り、どこまでも……きっといつか、私の背中に迫るまで、強くなってくれるように。

 

 ……あぁ、先日のルドルフ先輩も、こんな気持ちだったんだろうね。

 

 

 







 支え方も寄り添い方も人(ウマ)それぞれ。

 さて、2人の心残りの消化も終わり、いよいよ舞台はフランスへ。
 ……と、その前にちょっと、日本に残す2人の別視点をば。



 次回は一週間以内。サブトレーナー視点で、趣味の話。


(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!
 今回は過去一レベルで誤字が酷かったです……。ちょっと集中力に欠けてました。反省。


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ブンブンハローぱかチューブ

 どうもウマキンです

 日本に残るサブトレーナーの視点です。





 

 

 

 トレーナーを目指す人間は、そこに辿り着くまでの長い道の中で、必ず1つの言葉を聞くことになる。

 

 それは、「トレーナー辞めますか? それとも人間やめますか?」というもの。

 

 ……ちょっと悪趣味な風刺だなとは思うけど、まぁ、言い出した人の気持ちはわかる。

 

 根本的に、ウマ娘のトレーナーは……特に、中央のトレーナーはとんでもない激務だ。

 それもそのはず、トレーナーというのは役割のごった煮。

 世界的人気を誇るスポーツのアスリート、兼皆の憧れのアイドル、兼近く親しき他種族、兼まだまだ幼く純粋な心を持つ子供……。

 そんな彼女たちのコーチであり、プロデューサーであり、親善大使であり、保護者。

 トレーナーはそれらを、一手に引き受けなければならないのだ。

 

 そりゃあ当然激務にもなるし、自由に使えるような時間も殆どなくなって、結果的に「健全なライフスタイルを送れる人間」ではなくなる、というわけね。

 

 

 

 ……いや、わかる。

 言いたいことはわかるよ。

 こんなの1人の人間に背負わせるには重すぎる役割だと思うよね。

 普通に考えて分業すればいいじゃんって、そう思うよね。

 

 しかし、トレーナーの双肩にそれらの重圧が集中してしまうのには、ちゃんとした理由があるんだ。

 ……けど、その説明をする前に、これまでのウマ娘のトレーナーの歴史を理解する必要がある。

 少し長くなるぞ。

 

 

 

 当然と言えば当然の話なんだけど、ウマ娘と人間は、全くと言っていい程に遺伝子の離れた別種族だ。

 まぁ、そんな別種族でありながら共存し合い子を成せるというのは、なんとも不思議な話ではあるけど、それはさておき。

 

 だから、人間とウマ娘、そしてトレーナーと競走ウマ娘の歴史は、お互い手探りで行う長い長い暗中模索の歴史であった。

 

 で、過去の人々だってバ鹿じゃない。

 ウマ娘たちのレースを補佐する中で、当然ながら「トレーナーを分業スタイルにする」ということが試されたことがあった。

 というか、殆どの国なり地域なりで一度は試された。その方がずっと効率的に思えるもんね。

 

 ……けど、結論から言うと、この試みはいつだって2つの要因から失敗してしまう。

 

 

 

 1つ目の要因は、関わる人間が多数になったが故の責任感の欠如と、コミュニケーション不足の結果のヒューマンエラー。

 

 なんて名前かの心理効果は忘れちゃったけど、人間ってその仕事に関わる人間が複数いると、「他の人がちゃんとやってくれるでしょ」みたいな感じで、責任感がなくなるんだ。

 そうなると、報連相とか思考の共有がおざなりになり、何をどこまでやったかの確認なども完全じゃなくなって、お預かりしているウマ娘さんの管理に不備が生じてしまう。

 

 更に言えば、あのアホ兄さんを見てもわかるように、どれだけやったって人間完全には感情を捨てきれないもので。

 役職間での不和なんて生まれようものなら最悪で、ウマ娘をサポートするという本懐から離れて派閥争いなんて起こってしまう可能性すらある。

 

 それをなくす方法は簡単で、複数人じゃなくて1人で担当すること。

 複数の凡人に任せておくんじゃなく、ただ1人の秀才に背負わせた方がミスが減る、というわけだ。

 

 いやそれ本当に減るか? 管理項目増えすぎて管理しきれなくない? って思うかもしれないけど……。

 それを「減らせる」ような本当の秀才にしかトレーナーという仕事は許されない、って言ったらお察しいただけると思う。

 トレーナーの資格試験、日本で取れる全資格の中でダントツで難しいからね。色んな方向で。

 

 「自分たちトレーナーには、万一のミスさえ許されない」。

 これはよく兄さんが言ってる、口癖みたいなものだ。

 

 厳密に言えば人間である以上ミスは避けられないんだけど、実際にそれはそうで。

 トップアスリートのコーチ、トップアイドルのプロデューサー、そして他種族間の親善大使、子供を守る保護者。

 それらを背負う以上、失敗なんてすれば大惨事も大惨事。

 炎上なんて軽いもんで、下手すれば国家間とか種族間の問題まで発生しかねないんだもの。

 そうしてミスを犯すよりは、たとえ負担が大きくても1人で担当すべき、というのが現代の一般化した考え方なのだった。

 

 だからこそ、ある意味でトレーナーというのは、必要悪ですらある。

 競走ウマ娘というスターを輝かせるために必要不可欠な、社会的な犠牲。

 星の輝きを目立たせるための、暗い闇。

 

 そういう意味でも、「人間やめますか」って標語は割と的を射ちゃってるんだよね……。

 

 

 

 と、1つ目の要因は割と暗いものなんだけど、2つ目は明るいもの……というか、ちょっとファンタジーな雰囲気漂うものだ。

 「競走ウマ娘の能力は、特定の人間との絆で増幅される」という、なんとも不思議な現象が確認されているから、というヤツ。

 

 いや、意味がわからないんだけど、どうやらマジっぽいんだよねこれが。

 

 複数人で分業してた時代に比べて、1人のトレーナーがウマ娘と付き合い、その中で交友を深めていった時代の方が、彼女たちの平均的能力は上がっている。

 これは、歴史上の数多のデータが証明していることだ。

 

 何故それでウマ娘が強くなるかの理由は……ぶっちゃけ、わかっていない。

 少なくとも、堀野の家にはその情報は落ちてなかったし、前世の知識を持つっていう兄さんに聞いても「俺にだって……わからないことくらい、ある……」って言われてしまった。

 

 ウマ娘関係って現代科学ですら判明してないことも多いし、仕方ないと諦める他ないかな。ここを追求するのはトレーナーではなく研究者のお仕事だろう。

 兄さんの転生チート(?)とかウマ娘の領域みたいな感じで、「そういうもの」として受け入れる他ないだろうね。

 

 

 

 ともあれ、そういった事情があって、トレーナーの分業は非効率的で意味がないものとされている。

 トレーナーの内、ウマ娘と絆を深め二人三脚していくメインはただ1人。

 サブトレーナーはあくまで、メイントレーナーの業務を補佐するのがお仕事だ。

 ……まぁ、大人数のチームだと、むしろサブトレーナーの方と絆が結ばれる、なんてことも珍しくはないらしいんだけど、それはともかく。

 

 私たちトレーナー(とはいえ、私はまだ見習いのサブだけど)は、ウマ娘たちの全ての責任を背負い、彼女たちを支えるために文字通り粉骨砕身せねばならないわけだ。

 

 一応お給料が高めとはいえ、実質的には担当のレースの結果に基づく出来高制なところあるし、休みなんて年に30日あるかないかだ。

 まだ学ぶことの多い私なんか、1年の半分も過ぎた今、多分5日すら休日を取ってない。

 

 まさしくウマ娘を好きでなきゃやってけない、ブラックなお仕事なわけだ。

 

 

 

 そんなわけで、私はトンデモ激務なトレーナー業に就いていて、とてもじゃないけど他のことに時間を使う暇がない。

 

 ……ない、んだけど。

 それはそれとして、堀野昌という女にも、個人的な趣味はあるわけで。

 

 なんとか予定していた仕事と急に入った仕事に始末を付け、ホシノウィルムさんが出立する直前の日曜日、丸一日の休暇を取得。

 久々に……本当に久々に、趣味の方に精を出すことにした。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 私がそれを始めたのは、高校生の頃だった。

 

 誰だって──いや、兄貴や兄さんみたいな例外はいるけど、基本的には誰だって──そうだと思うんだけど、これくらいの歳って承認欲求に踊らされてしまいがちだ。

 恥ずかしながら、これは私とて例には漏れなかった。

 

 ……というか、優秀過ぎる長男と努力の鬼である次男を持っていたからこそ、誰かに自分を認めてもらうことに飢えていたと思う。

 故に、学業やトレーナーとしての勉強の間を縫って、承認欲求を満たせる道を見つけようとしたのだ。

 

 だけど、私は一応とはいえ、堀野で教育を受けた女だ。

 最低限のネットリテラシーは持っていたし、将来的なリスクになるような行動は避ける程度はできた。

 顔出しは勿論、声出しだって特定される危険性がある。そして下手をすれば、それは将来的な負担に繋がってしまうし……下手をすれば、将来的に担当するウマ娘にまで迷惑をかける可能性すらある。

 比較的刷新的な名家である堀野は、そういう方面の教育も厚いのだ。

 

 なので、そういった方向性は避けることにして。

 結果として私が選んだ道が……。

 

 動画投稿、であった。

 

 

 

 

 動画や生放送の配信。

 これは、ぶっちゃけて言えば、現代では飽和しきったエンターテインメントだ。

 

 私が生まれた頃とは違って、今はSNSや各種動画配信サイトで誰でも映像を共有できる時代。

 最近は「初等部の子供が動画配信する」なんてことさえ珍しくないくらい、配信というものは一般化してきつつある。

 

 つまるところ、ここは既にレッドオーシャンだ。

 何の面白さもない動画や配信に人が来ることなどまずあり得ず、なんらかの魅力や取り柄、メリットがなければ人に見てはもらえない。

 

 そう思った当時の私は、自分の持っている強みを活かすことにした。

 

 

 

 堀野昌は、そこまで何かしらに秀でた才能を持ってるわけじゃない。

 才能の塊みたいな化け物のアホと、才能なくても努力で補えばよくない? スタイルのバ鹿に比べたら、多少小器用だってことは、とても自慢にはならないし。

 

 だけど、そんな私でも誇れることがあるとすれば……。

 ……いやごめん、これは自分の功績じゃないから、別に誇れることではないんだけど。

 堀野家という、中央基準でも全国5本指……はちょっとキツくても10本指には余裕で入る、トレーナーの名家に生まれたことだ。

 

 ウチは歴史自体は長いけど、在り方は割と現代に適合してるタイプの家。

 トレーナー教育も一子相伝とかそんなわけでもなく、兄妹全員が受けることができた。

 

 なので、私も……まぁ、最低限は修めている……と言っていいはず。

 

 ……こういう時に自信を持って「私はできる!」って言えないの、ムカツクなー。

 医者とトレーナーを両立してる化け物とか、初の担当を史上最強に持ってった化け物が身近にいるせいで、我ながらどうしても見劣りを感じてしまう。

 

 とはいえ、それでも一般家庭の方よりかは、幾分かウマ娘に詳しいはず。

 仮に知らない事実があっても、過去の資料が保管されてるから調べやすい。

 

 話が面白い自信もなければ、容姿……は、客観的に見て上の中くらいで最上でもない私としては、やはりこの知識を活かすしかないだろう。

 

 そんなわけで、私は高校生の頃から、家族には隠してこっそりとウマ娘の解説動画の投稿を始めた。

 

 

 

 ……とはいえ、高校生にもなれば、ある程度現実だって見えてくるわけで。

 一応、動画作成のハウツーを学んだり流行りのスタイルを取り入れたりと、自分なりに努力こそしてみたものの、何のネームバリューもない新人が動画を投稿したってそうそうバズるもんでもない。

 

 新人の動画なんて誰も見ないし、誰も見ないから再生数とかも上がらないし、そういうのが上がらないからランキングにも載らないし、載らないからこそ誰も見ない。

 動画配信サイトに投稿される動画はとんでもなく膨大なんだ。そんな中から偶然私の動画にたくさんの人が辿り着いてくれる……なんてことが起こるはずもない。

 

 だから、どうせこれも今までの努力と同じように、大して結果も出せず無為に終わるんだって。

 そう、思ってたんだけど……。

 

 

 

「……まさか、ここまで伸びるとはなぁ」

 

 私の眼前には、自分のチャンネルの管理ページ。

 そこには、私のチャンネルを登録してくれた人の数が書いてあるわけだけど……。

 

 その数字は、実に52万。

 

 トップクラスとまでは言えないにしても、相当に人気のチャンネルと言ってもいいと思う。

 

 

 

 チャンネルがここまで伸びた要因は……色々あると思うけど、主に運だ。

 6本目に出した動画が専門家の目に留まって、「これはなかなかすごいぞ」と言っていただけたのがSNSでバズってたのが転機だった。

 

 ギャグに寄せながらも真面目に解説した芸風がウケたらしくて、一発屋で終わることもなく、次やその次の動画もそこまで再生数は下がることなく……。

 サムネイルをシンプルかつ求心力強めな感じにしたり、サクッと見れる切り抜きやショートなどを作ったのも功を奏したか、むしろ登録者や再生数はゆっくりと伸び続けてくれた。

 

 私自身、友人と遊ぶ以外の自由時間は殆ど動画作成とかその勉強に傾けていたので、努力が報われたようで嬉しかったのを覚えてる。

 今思えば、私があんな家庭環境の中でも大して歪まずに育つことができたのは、母のケアとこの反響が大きかったのかもしれない。

 

 それに、そこそこ広告料も入るから、生活の足しにもなってくれるしね。

 去年から無給でサブトレーナーの研修に入れたのも、この広告料の貯金があったからだし。

 

 

 

 しかし、動画の作成というのは、かなり時間がかかるものだ。

 私の場合、結構細かいところにまで凝っているので、10分の動画を作るのにかかる時間は短くて4時間、長くて8時間。

 それに加えて解説内容のネタ探しや裏取りなどもあり、更に動画作りの勉強と流行り廃りの調査、新たなスタイルを取り入れるための動画視聴を含めれば、大体20から30時間かかると見ていい。

 

 勿論、トレーナー業を続けながら、日常的にこんなに長い趣味の時間を持つのは不可能だ。

 ここ1年は、投稿のペースが著しく下がってしまっている。

 

 とはいえ、52万人。ハーフミリオンの登録者が私の動画を待ってくれてるんだ。

 たとえペースが遅くなろうとも、動画投稿自体を止める気は、今のところない。

 

 そんなわけで私は、極まれに取れる休暇を使って、平均して半年に1本くらいのペースで動画の投稿を続けている。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「さて……」

 

 今年の4月から入った、女性トレーナー寮の私室。

 

 カーテンを閉め、エアコンを付けて、身軽な服装に着替え、コンタクトを外して眼鏡をかけて。

 私は自前の、編集用のパソコンを起動した。

 

 トレーナー室で使っているもの程じゃないけど、かなりのハイエンドモデルだ。

 とは言っても、数年前の、という枕詞が付くけれど。

 登録者数が10万人を越えた時に記念に買ったものだけど、最近ちょっと動作が不安定になってしまって、ガタが来つつある気がする。

 

 まだまだ働いてもらうけど……買い時、考えないとなぁ。

 

 そんなことを考えながら、キャスター付きの椅子に座り、私は指を組んで大きく伸びをする。

 

「……やりますか」

 

 

 

 編集ソフトを立ち上げ、ファイルに纏めた素材たちを切り貼りしていく。

 

 私のチャンネルでは、主に競走ウマ娘の解説動画を投稿している。

 その中でも特に、あまりメジャーではないところの、いわゆる知られざる歴史やドラマ、過去の優駿にレース場の特徴といった内容が大半だ。

 

 現役のウマ娘は、追おうと思えばいくらでも追えるし、SNSが発達した今情報を得ることも容易だ。

 けど、まだネットが普及していなかった30年前以前のウマ娘については、情報を集めようとしてもなかなか難しい。

 ……それに、ぶっちゃけあんまり今のレースに繋がるところがないし、興味を持つ人は多くないんだ。

 

 ただ、興味を持つ人が少ないっていうのは、単純にそれに興味を持つきっかけがないからだ。

 配信サイトを見ていて、ふと出て来たサムネで興味を持ってくれる人は少なくないようだし……。

 実際、私もそういう需要を狙っている。

 

 

 

 ……けど、今回作る動画は、そういうんじゃない。

 

 使う素材は、古ぼけたものじゃない、最新の綺麗な画像。

 集めた資料は、30年前でなく、たったの2、3年前だ。

 動画にできるネタは、古本屋に買いに行かずともネットで調べるだけで、いつもよりも何十倍と簡単に集められた。

 

 今回取り上げる題材は……すぐ傍にいるウマ娘。

 多くのウマ娘の解説チャンネルが、ここ1年、こぞって取り上げた史上最強の優駿。

 

 灰の龍。

 あるいは、夜空に輝く一等星。

 

 ホシノウィルムだ。

 

 

 

 本当は、こんな動画を作るつもりはなかった。

 

 私は、中央のトレーナーの卵だ。

 余人と比べれば何倍も現役ウマ娘の情報は集めやすい。

 やろうとすれば、それこそ陣営しか知り得ないはずの情報をリークすることだって難しくない。

 

 ……だからこそ、現役の子たちを取り上げるつもりはなかった。

 

 職業的に守秘義務を敷かれていることも珍しくないし、そうでないものだって、一般から裏取りのできない情報を流布するのは決して良いこととは言えない。

 

 私の目的は……これを始めた当初は誰かに認めてもらいたいってだけだったけど、今は、より多くの人にウマ娘とそのレースについて興味を持ってもらいたいと思ってる。

 だからこそ、リークなんてズルはせず、あくまで一般のファンと同じ目線で動画を作る。

 それが私のポリシーだった。

 

 

 

 勿論、今回だってウチの陣営のリークなんてするつもりはない。

 あくまでファン目線で知ることのできる情報を纏める予定だ。

 

 けれど……それでもやはり、公平な動画にはならないだろう。

 どうしたって、ホシノウィルムさんサイドに付いたものになってしまうと思う。

 

 私は、あの子の努力を、兄さんの次に近くで見て来た。

 すべての人の願いを叶えようと、あらゆる期待に応えようと……そして何より、内なる根源的欲求を満たそうと、誰より楽しそうに走るその姿。

 

 まさしく、ウマ娘という種族の象徴だ。

 誰よりも走ることを、競うことを、そして勝つことを、彼女は心より楽しんでいる。

 

 あれほど応援したくなる後ろ姿は、そうはない。

 動画で取り上げようとすれば、どうしたって私は彼女を貶すことができない。

 

 彼女には、ぱっと思い付くだけでも、いくつも悪いところがある。

 実力が伴っているとはいえ時に傲慢が過ぎることもあるし、興味を持った人以外に対して興味がなさすぎるし、兄さんの言い付けさえ破って自主トレすることも多いし、あとついでに恋愛的にクソザコすぎる。

 

 けれど、それを補って余りある程に……彼女は輝いている。

 トゥインクルシリーズにて瞬く、ただ1つきりの一等星として、思わず目が眩みそうな程に。

 

 その輝きに、私は既に網膜を焼かれてしまった。

 今更、たとえ嘘でだって、競走ウマ娘ホシノウィルムを貶す言葉を吐くことはできない。

 

 だからこそ、私はこれまでたくさんのリクエストをいただきながらも、ホシノウィルムさんに近い位置にいながらも、そしてそれがどれだけ反響を生むかも理解していながら、今まで彼女を取り上げた動画を作ったことはなかった。

 

 ……けれど、それなら何故、今になって公平性を欠く彼女の動画を作っているのか。

 

 答えは、簡単だ。

 

 

 

 もはや動画の大部分の作成が終わり、締めのシーンを残すのみ。

 私はそこに、キーボードを叩いてテキストを打ち込んでいく。

 

『ホシノウィルムさんは、今年の10月4日、凱旋門賞に出走予定!

 彼女の神話の最先端、日本の悲願が果たされる瞬間を皆で見届けましょう!』

 

 そこまで書き込んで、ポツリと呟く。

 

「……期待を背負えば背負うだけ、レースを走る力になる、か」

 

 それは、彼女から聞いた言葉だった。

 

 ファンから見てもらう程、期待してもらう程、その夢を背負う程、ウマ娘は強くなる。

 それは酷く非現実的で、根性論みたいな話だ。

 

 だけど……。

 

「あの目は、とてもじゃないけど嘘を言ってる感じじゃなかったよね」

 

 少なくとも、ホシノウィルムさんは、本心からそう言っていたと思う。

 

 

 

 堀野昌は、堀野歩が抱える担当ウマ娘をサポートする、サブトレーナー。

 ホシノウィルムさんを、そしてミホノブルボンさんをサポートし、彼女たちの走りがより良くなるように支えるのが私の役目だ。

 

 でも、ホシノウィルムさんのトレーニングや体調の管理は、ハッキリ言って兄さんで事足りるんだ。

 メンタルに関しては……昔はとても足りないと思ってたけど、最近はむしろ、兄さんと一緒にいるのが彼女にとって一番心地良い環境なんだろうなと思うようになったし。

 その仕事などのスケジュールだって、兄さんは2人とも分刻みで管理している。

 

 よく冗談交じりに「猫の手も借りたい」なんて言ってるけど、実際には兄さんは、もう2人の担当のことを管理し切れている。

 去年のダービーの頃には全く手が回らず、過労で気絶したりもしてたらしいけど……。

 私が徐々にトレーナー業に余裕を見出してるのと同じように、兄さんも更に慣れてきたんだろう、2人の優駿を担当してなお、ある程度休む余裕も持てているんだ。

 

 我ながらこんなことを言うのは情けないばかりだけど、兄さんたちの陣営にとって、私は実務的な意味では必要のない存在。

 むしろ、3人から学ばせてもらってるばかりなのが現状だ。

 

 その上、今年の夏から秋は、ホシノウィルムさんは私の手の届かない海外で戦うことになる。

 その期間中、私は何一つとして、実務的に彼女を支えることができないんだ。

 

 ……でも、だからって落ち込んでるわけにもいかない。

 私は私にできることをしないとね。

 

 

 

 確かに兄さんは実務方面では化け物だけど、なんでもできるってわけじゃない。

 私には私のやり方がある。

 兄さんにできない、彼女を支える方法があるはずだ。

 

 ホシノウィルムさんが、ずっとずっと力を出せるように……。

 未だ彼女のことを知らない人にも、夢を抱いてもらわないといけない。

 

「……あとは、エンコードかけて終わり、と」

 

 この動画が、果たしてどれだけの人に届くかはわからない。

 でも、できれば1人でも多くの人に届いて、ホシノウィルムさんへの期待を持ち、あるいは更に増してくれればいいと思う。

 

 それがきっと、世界の頂点で覇を競う、彼女の背を押してくれるはずだから。

 

 

 







 ちょくちょく仄めかしてた妹ちゃんの趣味はこれでした。
 本当はもうちょっと前にネタバラシするはずだったんですが、色々あってここまでずっとお流れに……。

 あと、最近世界観の掘り下げしてないなと思って久々に地の文バリバリに書いてみたんですけど、やっぱり楽しいですね……。
 まぁ展開は全然進まないので程々にしなきゃいけないんですが。



 次回は3、4日後。担当ウマ娘視点で、ただ1人のレースの話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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憧れは一体から最も遠い感情だよ

 タイトルのネタ切れって言い始めてしばらく経つんですが、未だになんとかなってるのは純然たる奇跡です。
 でも今回のタイトルは思いつかなくて8時間くらい悩みました。

 あ、栗毛の超特急ちゃん視点となります。





 

 

 

 一説に、ウマ娘の身体に出せる速度のリミットは、時速70キロメートルとされています。

 勿論、これはあくまでもカタログスペック上での話。

 現在、私たちウマ娘が現実的に出せる速度は、本格化を終えたウマ娘の末脚をして時速66キロメートル余りが限度。

 これが現在主流の定説であったと記憶しています。

 

 私たちウマ娘は、意思なき機械ではなく、心を持つ生物。

 どこまで鍛錬を積んだとしても、無駄な動きや動揺を完全に消し去ることはできない。

 殊にそれが本番、トゥインクルシリーズの公式レースともなれば、焦りや緊張、あるいは激情と呼ばれる内なる情動が、筋肉の動かし方に少なからず無駄を生んでしまう。

 

 これに関しては、極めて高い能力を持つ堀野歩トレーナー……マスターの担当ウマ娘である私、ミホノブルボンもまた、例に漏れません。

 

 どれだけ計算を重ね、そこから導かれたプラン通りに走ろうと試みても、完全な等速での疾走は不可能。

 

 レースへの緊張や他のウマ娘の存在感への焦燥から、無駄な動きが増えてしまうのは勿論……。

 

 他のウマ娘たちに影響され、ペースを速めてしまうこともあり。

 その圧に踊らされ、無意味にスパートを早めてしまうこともあり。

 もしくはレースの様子から、併せてペースを落としてしまうこともある。

 

 それらの不可避的なアクシデントにより、無駄に脚を消耗し、あるいは無駄に脚を余らせてしまい、予定していた通りの速度での疾走は成功せず。

 そのため、現時点において、私はこの人為的ミスの回避に成功したためしがありませんでした。

 

 現に、私のこれまでの生涯で最も完全に近い走りであったと自負できる、新たな世界すらも開けたあの日本ダービーの時でさえ、ハロン単位で見て最大コンマ4秒の差があったのです。

 未だマスターと共に目指す目標、「一定速度での隙のない走り」には程遠い状況と言えるでしょう。

 

 未熟。あるいは、未達でしょうか。

 私の走りは完全でなく、立ちはだかる壁は非常に高く。

 

 私は未だ、菊花賞に……。

 いいえ。

 

 あの、昏い威圧感を持つライスさんに勝利できるだけの、確かな自信を持てずにいる。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ウィルム先輩の出立が直前に迫った、7月中旬。

 その日は、私がマスターに直接的に指導を受ける最終日でした。

 

 とはいえ、そのような日でも、現役競走ウマ娘である私がすべきことは変わらず。

 

 自らの脚が蹴り付けるターフ、そこから返って来る衝撃や痛み、体感する速度と経過時間から、現在のペースと理想のペースの差と、その調整のために必要なパワーを算出しつつ……。

 常時微細な調整を加えながら、私はトレセン学園のグラウンドを走行していました。

 

 

 

「はっ、はっ、はっ……!」

 

 やや感覚の薄れつつある脚底が芝を捉え、それを蹴り飛ばす。

 

 横を通り過ぎたハロン棒を視認。 

 今、私が踏み越えたのが、スタートから計測して2400メートルとなる地点。

 それは、先日の日本ダービーで体験した、現在のミホノブルボンの公式レースにおける最大走行距離でもありました。

 

 ここから先は、トゥインクルシリーズにおいて「長距離」と区分される距離。

 つまるところ、私にとっては未知の領域にあたります。

 

 

 

 ……マスターに出会う前にお世話になっていたトレーナーは、こう仰っていました。

 「ミホノブルボンに、中距離以上を走る素質はないと言っていいだろう。長距離でG1レベルの走りをするなんてもってのほかだ」と。

 

 当時の私は、父と共に抱いた夢である無敗の三冠を勝ち獲るため、その言葉に反発して自主トレーニングを実行してしまいましたが……。

 今になって思えば、その指摘は大きく間違ってはいなかったのだと認識しています。

 

 幸いにも私、ミホノブルボンには、多少なりとも秀でた身体能力がありました。

 高い速度出力を可能とする脚力も、その最大速度に到達できるだけの瞬発力も、鍛錬の苦痛や脚部の痛みに耐えるメンタルも、レース中にも活かせる正確な体感や感覚も。

 鍛えれば鍛える程に、過去の多くのデータを持つマスターにすら驚愕される速度で、私の能力は伸びているようでした。

 

 けれど……その一方で、スタミナはなかなか伸び辛い。

 短距離は当然走れ、マイル距離までは問題なく。

 しかし中距離になれば技術で補わねばならぬ不足が発生し。

 ……長距離になれば、恐らく致命的に足りない。

 

 元トレーナーが仰っていた通り、そしてマスターから伺う通りに。

 ミホノブルボンにとっての最適な距離はマイル、どれだけ長くとも中距離まで。

 少なくとも、努力という変数を考慮しなければ、これは真実なのでしょう。

 

 

 

 更に、ステータスだけの問題ではなく……。

 マスターによる数か月の強化プランを経ても、未だ私の長距離適性は、Cランクのまま。

 

 距離とバ場の適性は、1ランク差が付けば決定的な遅れに繋がると、マスターはそう仰っていました。

 実際、去年の有記念において、ウィルム先輩がサイレンススズカ先輩に競り勝てた要因の1つは、彼女の長距離適性がBであったから。

 もしもその適性がAであれば追い付くことはできなかっただろう、というのがマスターの主張でした。

 ……ウィルム先輩はその言葉に頬を膨らませて抗議していましたが、この情報は現在必要なものでないため、記憶の想起を停止。

 

 トゥインクルシリーズのトップランク、G1レースに出走するようなウマ娘は、皆極限までその身体能力を鍛え上げている。

 そのため、それぞれの身体能力や走りの技術の差は、多くの場合、ほんの僅かなものであり……。

 故にこそ、該当する距離にどれだけ慣れているか、どれだけ本領を発揮できるかが非常に大きなウェイトを占めるというのは、理屈の通った話でした。

 

 そういう意味で、長距離の適性がCランクの私は、菊花賞において大きなディスアドバンテージを背負った形になります。

 なにせ、ライスシャワーさんの、そして出走すると思われるウマ娘の半数以上の長距離適性は、A。

 私はそこから、二段階も下なのですから。

 

 

 

 ……しかし、それでも。

 諦めるわけには、いかない。

 

 

 

「っ、ふっ……!」

 

 一瞬だけ乱れかけた息を再び押さえつけ、再度芝を蹴り飛ばします。

 

 肺の痛み。脚の重さ。視界の滲み。

 それぞれの感覚から、自らの限界が迫っていることを感知。

 

 残された体力は、概算して、7%。

 これ以上の走行は困難であると、全身から脳に対しエマージェンシーコールが上がっています。

 

 スタミナは尽きた。

 長距離の適性は、決して私に味方しない。

 

 それでも……まだ。

 

 私には、まだ、マスターの下で鍛え上げて来た技術がある。

 

 コーナーの中で内に付きながら、一瞬だけ脚を緩め……。

 

「すうっ……ッ!!」

 

 乱れる呼吸を抑え込み、大きく大きく息を吸い込んで、再びぐっと加速。

 ほんの少しだけ、脚が軽量化される錯覚を覚えました。

 

 

 

 まだ、走行は可能。

 

 あと少し。

 

 まだ、あと、少し……あの、ゴールまで……!

 

 

 

 

 

 

「ストップ!」

 

 

 

 

 

 

 ターフに響いたマスターの声に、走行状態をスローダウンに切り替えました。

 

「……く」

 

 ゆっくりと立ち止まりながら、現在の状況を確認。

 

 本日のトレーニングは、一定以上のペースを保って限界まで走り続ける、夏の合宿前の最終テスト。

 

 その結果判明した、私の走行可能限界距離は……。

 3000メートルまで、あと200メートル残した、2800メートル。

 

 規定のペースを保って駆け抜けることこそが、ミホノブルボンの走り。 

 それが叶わないのならば……とてもではありませんが、G1レースに勝つことなどできない。

 

 目標、未達成。

 

 やはり、私にとって長距離の壁は……高い。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 立ち止まり、膝に手を突いて息を落ち着けていると……。

 横から、声がかかりました。

 

「お疲れ様、ミホノブルボン」

 

 気付けば、マスターが私の横に立ち、タオルを差し出してくださっていました。

 鋭い聴覚を持つウマ娘である私が接近に気付くことができなかったのは、未だ響く耳鳴りのせいか、あるいは思考を巡らせていた結果か。

 

 とにかく、マスターの気遣いを無下にするわけにはいきません。

 

「ありがとう、ございます……」

 

 受け取ったタオルを顔に当てると、いつの間にか肌に張り付いていたものが剥がれていく感触。

 まだ準備体操を終え、走り出したばかりだというのに、私の額には既に汗が流れているようでした。

 

 ウマ娘が消耗する体力は、出力する速度が速ければ速い程、指数関数的に多くなる傾向にあります。

 私が基準としている時速59キロメートルは、逃げウマ娘の駆け出しとしては非凡なペースではありませんが、それを常に続けるとなればかなりのハイペース。

 

 疲労がかさむこと自体は、想定内でしたが……。

 その量は、事前に立てていた想定を超えていました。

 

 ここまでにトレーニングを怠ったことはなく、懸命に走り続けてきたというのに。

 それでもまだ、ミホノブルボンにとって、3000メートルは長すぎる。

 

 その上、菊花賞本番になればどうしても本領は発揮できなくなり、淀の坂が立ち塞がり……。

 そして何より、きっと京都の舞台には、あのライスシャワーがいる。

 

 このままでは、菊花賞に勝てないことは、自明でした。

 

 

 

「焦っているか?」

 

 横からかけられるマスターの言葉に、コンディションチェックを開始。

 自らの感情にトラブルシューティングを実行し、不明なエラーを炙り出します。

 

 程なく、結果は出ました。

 

「……はい。『ステータス:焦燥』を検知しました。現在、私は焦っているようです、マスター」

「ふむ」

 

 マスターは顎に手を当て、軽く首を捻りながら仰いました。

 

「資料を読んでいないわけではないよな」

「はい。私の育成プランの内容は、全て把握しています」

 

 マスターが組んでくださった、対ミホノブルボンに特化した育成プラン。

 どのタイミングでどの能力を、あるいはどの技術を、どう向上させるのか。

 それらが事細かに綴られたそれは、おおよそ穴という穴が存在しない完璧なもの。

 より正確には、どうしても生じてしまう(リスク)を回避できるだけの、膨大な量のサブプランや調整案が纏められ、結果として本来のプランの記述の数十倍の量となったものです。

 

 マスターが、私のマスターとして果たしてくださった、これ以上ない仕事。

 ミホノブルボンの未来を予知してくださる、予言書にも近しい膨大なデータと紙の束。

 

 当然ながら、私はその内容を暗記しています。

 その最後に書かれているのは、ミホノブルボンの菊花賞の勝利。

 ライスシャワーが、ソウリクロスが、そしてその他のあらゆるウマ娘があらゆる努力をし、あらゆる作戦で以てあらゆる走りをすることまでが想定された、徹底的な予想図。

 

 その上で、このままロスなくトレーニングを続ければ、本調子のままに挑むことができれば、私は菊花賞に勝つことができる、と。

 マスターは、そう結論を出していました。

 

 であれば、私はただ、それを信じればいい。

 

 それは、理解しているのですが……。

 

 

 

 「ふむ」とマスターは頷き、その瞳が私の目を覗き込んで来ます。

 

「つまり、理屈ではなく感情の問題、というわけか。やはりライスシャワーのことが気になるか?」

 

 自身についての事柄でありながら、私には薄い自覚しかありませんでしたが……。

 

 恐らくは、マスターの推測は正しいのでしょう。

 

「……肯定します。私はライスシャワーさんの存在感を……無視できずにいるのだと思います」

 

 先日の日本ダービーにおいて、私は追い上げて来るライスさんの気配に対し、胸中に熱さを感じました。

 彼女の存在感は凄まじく、その実力も確かに高く。

 故にこそ私は、領域を開くことで彼女を打倒した。

 

 そうして彼女を1人の脅威として、ライバルとして認め、互いに菊花賞の勝利を誓ったのです。

 

 ……けれどそれ以来、ライスさんの雰囲気は、変わってしまった。

 鋭く、冷たく、暗く……まるで、冬の夜の月のようなものに。

 

 私を目標として、より正確に言えば「獲物」として捉え、彼女は精神を研ぎ澄ましている。

 

 合同トレーニングの際に私はその圧力を感じた。

 マスターの組んでくださった理論上、問題なくそれから逃げ切れるとわかっているというのに……。

 それでも、今もなお、その時の衝動的な動揺と焦燥を忘れられずにいる。

 

 それはつまるところ、契約トレーナーのプランを、予想図を、信じ切れていないということでしょう。

 トレーニングのプランニングを全面的にマスターに委託し、ただ走ることに集中すべき担当ウマ娘として、あるまじき姿。

 

 その全身全霊で私のことを支えてくれるマスターに対し、不義理と言っても過言ではありません。

 私は衝動的に目線を下げ、顎から垂れ落ちる汗に視線を移してしまいました。

 

 

 

 ……しかし。

 

「こういう時、トレーナーとしては『焦る必要はない』とか言うべきなんだろうが……。

 ……うん、ま、焦るよな。気持ちはわかるよ」

 

 今までに聞いたことのない、マスターの柔らかな響きを持つ言葉に、視線を上げると。

 

 そこには、どこか居心地悪そうに後ろ頭に手をやり、苦笑を浮かべたマスターの姿がありました。

 

「ミホノブルボン、クールダウンも兼ねて、少し落ち着いて話そうか」

 

 

 

 * * *

 

 

 

「まず最初に言っておくが、君の感じているその焦燥は、極めて合理的なものだ」

 

 他のウマ娘たちの邪魔にならないよう、グラウンドのターフから外に出た後。

 外ラチにもたれかかり、今もグラウンドを駆けるウマ娘たちを見ながら、マスターはそう仰いました。

 

「ライバルが成績を伸ばし、結果を残しているのなら、追い立てられる側が焦るのは誰にでも共通する話。ある意味、それこそが先を行く者の宿業とも言えるだろう。

 君の抱いているその感情は決して不合理なものではなく、また持っていて不自然なものでもない」

 

 私を落ち着かせようとしてのことか、マスターの声音は淡々としていました。

 

 しかし、それはただ言い聞かせるというには、内部に冷え切らない熱が籠っているように感じられ……。

 それが、私にはどこか確信を秘めた体験談であるかのように聞こえて、疑問の提起を招きました。

 

「マスターも、そうなのでしょうか?」

「俺? いや、俺はむしろ皆を追う側だし……」

 

 マスターはそこで一旦口を閉ざし、軽く頭を振りました。

 

「……いや、悪い、今のは俺の悪い癖だ。

 俺も、そうと気付かないことも多いが、焦ることはよくあるよ。

 それこそ去年なんか、自分の育てたウィルがライバルたちに追いつかれそうになって焦りに焦って……トレーナーとしてあるまじき、最悪の失敗だってしてしまった」

「それは……」

 

 少々、想像が困難です。

 

 私から見れば、マスターは完璧と言っていい、最高の契約トレーナーでした。

 トレセン学園から例外的に初年度で専属契約を許され、その期待にホシノウィルムという隠れた逸材を見つけ出し、無敗三冠ウマ娘へと育て上げることによって、これ以上ない程に応え。

 トレーナー契約を断たれ救援を求めていた私の求めにも応じ、おおよそ否定すべき箇所のない完璧なトレーニングプランを組んでいただいた上、こうして相談にも乗っていただいている。

 

 堀野歩トレーナーは、ウマ娘の契約トレーナーとしてこれ以上ない程の実力を持っている、まさしく稀代の天才トレーナー。

 

 決して欠けるところのない、それこそ私の父と同じ、完璧な人であると。

 

 そう、思っていたのですが……。

 

 

 

「完璧な人間なんてこの世界には……いや、どんな世界にもいないさ。

 ウィルだって、走るという一点においては他に類を見ないが、その代わり無意識の驕りが酷かったり、どれだけ言っても勝手に自主トレしたり、何かあるとすぐに舞い上がってしまったり、無意識にインタビューで爆弾発言したり、あまえんぼスイッチが入ると1日離れてくれなくなったりするだろ?」

 

 ……推測。

 挙げられた内容の内の半数以上は、マスターへの親愛から来る行動なのではないでしょうか。

 

 そう提言しようとも思いましたが……。

 先輩に確認を取ったわけでもなく、物的証拠の薄い推測でものを語るのは避けるべきでしょう。

 この提言は一旦保留とし、次回ウィルム先輩との会談の際にファクトチェックを実行した後へと延期することを内心で決定。

 

 

 

 私がそんな思考を広げていると、マスターが空を見上げ、懐かしむように呟きます。

 

「俺だって焦るし、失敗するし、反省する。

 というか、むしろそうして反省するからこそ更に前に進めるわけで、これ自体は決して悪いことじゃないと思うんだ。

 大事なのは、失敗を恐れることでも、そこでただ後悔することでもなく、失敗を元に反省し、再発防止に努めることだ」

 

 自分に言い聞かせるようなマスターの言葉に、私は思考の整理が追い付かず、何と返そうか迷った後。

 

「……父も、そうだったのでしょうか」

 

 聞いても、仕方のないことが、口を突いて出てしまいました。

 

 

 

 ……私はこれまで、どこかマスターに父を重ねて見ていたように思います。

 

 完璧で、欠点の一切ない、尊敬すべきトレーナー。

 自らを育ててくれる、絶対の信頼を置ける男性として。

 その背中を、父と重ねていたのです。

 

 けれど、マスターにも失敗があり、欠点があったというのなら……。

 あるいは、完璧に思える父にも、そういった傷があったのだろうか、と。

 

 けれど、それは極めて意味の薄い質問であったのでしょう。

 そもそもマスターは、父と長期間一緒に過ごしたこともないのですから。

 

「俺は君のお父さんの人となりについて詳しくは知らない。だから、必ずしもそうだと断言はできないな」

 

 想像通りの返答に、私は頷き、その質問を取り下げる旨を口に出そうとし……。

 しかし、マスターの方が早く、言葉を連ねました。

 

「だが……いや、なかなかタイムリーな話になるな」

 

 ぼんやりと呟くようにそう言った後、マスターは私に視線を向け、普段よりも些か柔らかい口調で仰いました。

 

「こういう話を君にするのは初めてだったと思うが……実のところ、俺も自分の父のことを完璧な人だと思っていた。トレーナーとしても、父としても、だ」

「マスターの、お父様……」

「すごい人だよ。トレーナーとしても結果を残し、堀野の家の地位もより上に押し上げた。今だって、俺が尊敬する人を2人挙げるとしたら、間違いなく片方はあの人になる。

 ……だけど、あの人もミスをしないわけじゃなかったらしくてな、この前その謝罪を受けたところだ。

 能力や才能の違いはあれど、俺と同じ。完全無欠の人間ではなかった、ってことだな」

 

 クスリと、マスターは自然な笑みを漏らします。

 

 それは、ホシノウィルム先輩と接触している際を除けば、私が初めて観測した……。

 マスターの、「人らしい」表情。

 ……決して、父は浮かべない、表情でした。

 

 

 

 特に理由なく、その表情を観察していると、マスターはふと顎に手を当てます。

 

「しかしこう思うと、俺は君に境遇的に似ているところがあるな。

 父に憧れて育ち、様々な困難に直面しながらも他をある程度離す良いスタートを切れて……しかし、ライバルに追い詰められて焦る。

 まさしく去年俺の通って来た道だ」

 

 マスターも去年、この焦燥感を味わっていた。

 その事実を知り、私の胸中に不可思議な情動が発生。

 

 それが如何なる名前のものか推し測ろうとしている間に、マスターは先程とはまた違う、穏やかな笑顔を浮かべます。

 

「だから、安心していい。

 ライバルの猛追に焦りながらも、自分にできることを自分なりにやって、勝つ。それは俺が体験し、そして達成した道だ。

 君の焦りは然るべきもの。否定も拒絶もしなくていい。

 ただそれを受け入れた上で、自分にできる全てをして、全力で挑む。

 そうすれば、君の努力は必ず報われる。……ソースは、俺だ」

 

 その言葉と共に、私の頭に置かれた手は……。

 いつかの、父の手とは、全く別の感触。

 

 

 

 それを以て、ようやく……私は、1つの事実を悟りました。 

 

「……マスターは、マスターなのですね」

「ん? まぁ、俺は確かに君のマスター……というかトレーナーだが」

「いいえ」

 

 ターフの中を見ながら首を振り、内心で再定義を実行。

 

 

 

 それは小さく、決して大きな意味を持ち得ないだろう、私の個人的な理解。

 

 この人は、この人だけの人生を生きて来た1人の人間であり、既に1つの試練を乗り越えたトレーナーであり。

 1年半前の私は全く知らなかった誰かであり、それでも今は尊敬できる相手であり。

 

 そうして、何より。

 他の何者でもない、私の、ただ1人のマスター(トレーナー)であると。

 

 

 

 

 ……だから。

 

「マスター」

「ん、なんだ?」

「私たち(・・)は、菊花賞に勝てるでしょうか」

 

 かかっていたフィルターの除去に成功し。

 自らの「マスター」であるという認識を正常化し。

 

 そうして、彼を、本当の意味で認められたから。

 

「……勝つさ。俺と君で掲げる夢を、必ず叶えてみせる」

 

 ようやく、その言葉に、その力に、その心に。

 

 私は、背中を預けることができる。

 

 

 

 

 マスターは仰いました。

 「ミホノブルボンの走りは、究極的には他者とのものではなく、自分との戦いだ」と。

 レースの状態に左右されず、バ群の状況などどこ吹く風。

 ただ1人、万全の状態で走ることこそが、私にとって最高の状態であると。

 

 けれど、私はその解釈を間違えていた。

 

 結局のところ、ウマ娘は1人で走ることなどできない。

 トゥインクルシリーズへの出走条件の1つにトレーナーとの契約が挙げられていることからもわかるように、私たちは常にトレーナーの指導の下で走っている。

 

 私たちの走りは常にトレーナーと共にあり、私たちの戦いは常にトレーナーとの共闘になる。

 故に私は、個人であっても、孤独ではなく。

 ミホノブルボンは、マスターと共に、自分自身と戦っていくのでしょう。

 

 

 

 私は4秒間に亘って、マスターと視線を交わし……。

 コクリと、頷きました。

 

「その言葉を、信じます。

 私たちが作り上げ、マスターが信じてくださる『競走ウマ娘・ミホノブルボン』の性能であれば、淀の坂も越えられると」

「ああ、俺を信じろ。そして勝ちにいくぞ」

 

 マスターの自信に満ちた言葉に、焦燥感の沈着を確認。

 

 先程までと変わらない状況。

 明確な根拠に欠ける肯定と断言。

 それは本来であれば、何の安心ももたらさないはずのもの。

 

 ……しかし。

 今はそれが、これ以上ない程に頼もしい。

 

 その言葉と判断を、なんら根拠なくとも、ただ信じることで……。

 マスターに、この無為な感情の処理を委託することで、走りに集中できる。

 

 たとえ勝利する自信がなくとも、マスターの信頼を通して、私の勝利を信じることができる。

 

「はい……私のマスター。これからも、よろしくお願いします」

 

 あと、200メートル。

 あと、1つ分のランク。

 

 先程までは余りに高く感じられたそれらも……。

 マスターと2人なら、超えられて然るべきだと、そう思えました。

 

 

 







 ひっそりウマ娘堕ち(覚醒)ブルボン。
 こう、メイン2人にも気付かれない内に覚醒するっていうのもサブストーリーっぽいかなって……。

 次回からはいよいよ海外遠征編です。
 海外なんてもうしばらく行ってないし言語も堪能な方じゃないので、にわかを晒さないか心配で仕方ないですねぇ!



 次回は一週間以内。トレーナー視点で、空での半日の話。
 旅行って飛行機乗ってる時が一番テンション上がるところない?


(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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レッドフェイスグレイドラゴン

 日本から特殊召喚





 

 

 

 ホシノウィルムと俺の、海外出立の日が来た。

 

 朝早くに寮に迎えに行き、「むぅ……んあ!」と言葉にならない呻きと共に抵抗してくるウィルからタオルケットを巻き上げ。

 寒さからか縮こまる布団の中から運び出し。

 ほぼ無意識状態の彼女を無理やり背負って運搬。

 えっちらおっちら車に詰め込んで、昌の運転で空港へ出発した。

 

「……兄さん、さっきのすっごい犯罪的な絵面だったよ。誘拐かと思った」

「俺はトレーナーを執行しただけなんだが?」

 

 

 

 空港に着く頃にはウィルも意識を取り戻し、可愛らしく耳をピコピコさせていた。

 落ち着かない、不安を感じている……しかし同時、尻尾もフリフリさせているところからして、これからを楽しみにしている、というところだろうか。

 

「ふー……私、何気に日本を出るのは超久しぶりです」

「……ん? 君、確かこれまで日本を出たことなかったのでは?」

「あ、あー! いや、そうでしたねぇ。長距離の移動が久々、でした」

「ついこの前も阪神まで移動したが」

「飛行機で、です! 春に北海道行ったぶりじゃないですか!」

 

 わたわたと慌てて言い繕うウィル。

 すごく、そりゃあもうビックリするくらいに怪しい。

 

 ……いや、もうこれ、転生者なことほぼ確定じゃない?

 この子今、絶対「前世まで含めて久々」って意味で言ったでしょ。

 俺の中ではもう、ウィルが転生者であるという仮説、ほぼ確定に近付いてきてるんだけど?

 

 とはいえ……うん。

 今、それを指摘する必要はないだろう。

 

 彼女の抱える秘密、彼女の保持する記憶。

 それは無理に聞き出すものじゃない。彼女が言いたいと思った時に言えばいいのだ。

 

 それに、彼女が転生者だったとしても、別に何も変わらない。

 そうした長い記憶が俺の担当ウマ娘であるホシノウィルムを作り上げてくれたのだとすれば、それは喜ぶべきでありこそすれ、否定すべきことではないしな。

 

 

 

 さて、空港で多くのファンに見つめられながらしばらく待ち、いよいよ出立の時が来て。

 

 それまでずっと隠れていた、秋川理事長やたづなさん、同期や知り合いのトレーナー、そしてテイオーやネイチャ、ターボに、ウィルを慕う後輩たちという一団がばっと出て来て、「ホシノウィルム必勝!」と書かれた横断幕と共に見送りをしてくれたりもして。

 

 それに一度は笑顔を返したウィルが、しかし機内に向かう中で、数年前北海道を後にした時のことを思い出したのか、「……えへへ。今回は、いっぱい見送ってもらっちゃいました」と流した嬉し涙を拭いたりもして。

 

 同時に俺も、ここまで多くの人に、こんなにも応援してもらえているんだと、少なからず感じ入る気持ちと共に改めて気合を入れ直し。

 

 

 

 そうして、俺とウィルを乗せた飛行機は、静かに日本を後にした。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ……さて。

 如何にもラスボス前の最後の会話みたいな感動的な一幕が終わり、俺たちは前向きな気持ちで機内に乗り込んだわけだが……。

 

 時に、日本からフランスへ飛ぶのにかかる時間はどれ程かご存知だろうか。

 

 答えは……12から13時間。

 おおよそ半日余りである。

 

 部屋に入ってすぐ、窓辺へと駆け寄ってキラキラとした目で外の景色を眺めていたウィルだったが、どこまでも広がる悠久の空と未来への展望が彼女の興味を惹き付けられたのは、おおよそ20分程。

 雲を越え、高度が安定してからしばらくすると、ウィルはちょっと不満げな顔を浮かべた。

 

「飽きました、暇です」

 

 そのなんとも情けない表情とへにょりと垂れた耳に、思わず苦笑を漏らす。

 相変わらず、なんとも締まらない子だ。……そういうところ、こちらも気を張らなくて済むので、俺は好きなんだが。

 

「ま、想定通りだな。空って舞い上がってからしばらくすると、代わり映えなくなるから。

 色々と暇潰しの道具はあるが……まずは話でもしてるか?」

「します!」

 

 ベッドの上で軽く跳び上がり、彼女は俺の座る椅子の傍まで這って来る。

 

 

 

 さて、何の話をしようかと頭を回したが……。

 俺が何かを口にする前に、ウィルの方から話題を出して来た。

 

「いやしかし改めて、最近の飛行機ってすごいですね! これもうホテルですよ!」

 

 そう言って、ウィルは自分の乗るベッドを軽く叩いた。

 

 確かに、一般的に言う「飛行機」のイメージからは離れるかもしれないな。

 

 ウィルが現在だらけている、3人までなら横になれそうな広いベッド。

 その傍に添えられた、体に負担のかからない2つの椅子。

 俺もウィルも殆ど見ていないが、大型のモニターには今朝のニュース映像が流れている。

 

 流石にバスルームの類はないし、スペースもそこまで広くはないが、下手なホテルよりは寛げる空間と言えるだろう。

 

「ツテがないと使うの難しいスイートルームだからな、この部屋。最近は一般利用も始まったらしいけど」

「へ~、やっぱり名家出身ってそういう時に強いんですね……。あ、ちなみにここ、いくらくらいしたんですか?」

「往復500くらい?」

「ごひゃく!? ……って驚いておいてなんですが、最近金銭感覚がぶっ壊れちゃってあんまり高額にも思えなくなってきたのが怖いですね……」

 

 まぁ、500万くらい、彼女なら割と簡単に稼げてしまうからな。

 その年収から考えると、走りに関わる消耗品以外は普段からかなり質素な生活を送ってるわけだし、週末のお楽しみ……というのは少し厳しいにしても、半年に一度のお楽しみに使うくらいならそこまで問題もないだろう。

 まぁ、今回に関しては俺が全額出してるけども。

 

 殊に今回は一生に一度かもしれない、凱旋門賞への挑戦なのだ。

 狭いシートの上で堅苦しい思いをするより、ある程度伸び伸びと体を動かせる状態で臨むべきだろう。

 海外遠征では、その途上のストレスの軽減も大事な要素だしな。

 

「そんなスイートルームとはいえ、ここは空の上に浮かぶ精密機器の中だ。君が全力ではしゃいだりすれば航行に支障が出る可能性がないでもない、体を動かすのはストレッチ程度にしてくれよ?」

「流石にそこまで常識ないことないですよ私も。……まぁ? 勿論? 歩さんが構ってくれれば、の話なんですが!」

「それなら問題ないな。12時間は案外短いぞ」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 2年前、ウィルと付き合い始めた頃。

 俺は、彼女と何を話せばいいか全くわからなかった。

 勿論走りやレースのことならいくらでも話せるのだが……まぁ、ハッキリ言ってしまうと、俺とウィルの間にはそれしかなかったからな。

 当時はとにかくレースに負けたくないウィルと、堀野のトレーナーたらんと必死な俺で、両者共に歩み寄るだけの余裕が欠けていたと思う。

 ……今更ではあるが、大人としてその余裕のなさはどうなんだ、過去の俺。穴があったら入りたい。

 

 が、これが1年前になると、お互いだいぶ緩和したと思う。

 ウィルは宝塚記念にてその冷たい世界から完全に脱し、俺も彼女を担当するためにこれまでの生き方を捨てることを決意。

 結果として……まぁ、そこそこに雑談もこなせる程度には仲が深まったと思う。

 特に大きかったのは、やはりウィルの入院だったかな。1か月近く毎日のように話で時間を潰したことで、多少なりとも話の進め方などの勉強になった。

 

 ……さて。

 それでは現在、俺たちがどのくらいの距離感になったかと言うと。

 

 

 

「そこでね? テイオーが言うんですよ。『でもウィルが引いたら絶対ハズレじゃん』って。

 失礼じゃありません? 私八冠ウマ娘ですよ? 宝塚記念連覇も春シニアも史上初ですよ? 世界最強ですよ?」

「一番くじに関係なくないそれ? ……で、どうだったんだ。引いたの?」

「引きました」

「結果は?」

「…………E賞とF賞が合計7つ」

「知ってた」

「あと1回! あと1回引いたら絶対A賞でしたから!!」

「その根拠のない自信はどこから湧いてくるんだよ」

 

 ウィルは俺の膝の上でぎゃいぎゃいと騒ぎ、その両手を振り回す駄々っ子モード。

 とはいえ、ウマ娘としてのフルパワーではなく、あくまで人間の少女並みの力だ。

 きちんとセーブするだけの理性は残してくれている。

 えらい。えらいので、ご褒美を差し上げよう。

 

「はいはい。ほら、ブドウだぞー」

 

 サイドテーブルに置いていたブドウを一粒、彼女の口元に寄せると……。

 彼女は「む」と呟き、不機嫌そうな表情は変えることなく……と思いきや、よく見たらめちゃくちゃ上機嫌な色を隠しきれない表情で、パクリとそれを頬張る。

 

「んむ……あ、ほれ、皮もはへられるタイプです?」

「イエス」

「んっ。食べやすいし、種もないし、甘さと酸味が噛み合ってて……すごい美味しいですねこれ。もしかしてこれも高級品?」

「勿論」

 

 実のところ、閉塞感や動けない状態を嫌いがちなウマ娘にとって、飛行機の中はかなり強いストレスを受ける可能性のある空間だ。

 

 勿論、どれほど嫌うかはウマ娘によるし、前世の世界の馬たちと違ってウマ娘は強い理性を持っているので多少は耐えることもできるが……。

 流石に12時間という長期間ともなると、心的負担がバ鹿にならない。

 海外遠征の難しさの1つには、こうして開幕からストレスを負わされるというのもあるんだよな。

 

 そんなわけで、このフライト中はウィルのストレスを最低限に抑えるため、最高品質のサービスを用意している。

 このブドウは勿論、お菓子の類も彼女の口に合いそうな中で味の良い高級品を選んだし、機内食もしっかりしたものが届く予定だ。

 

 勿論、そういった飲食関係だけではなく、俺自身も彼女の望むように行動しようとは思っているのだが……。

 

 ……しかし、この状況は如何なものか。

 

 

 

「ところでウィル」

「あんえすか?」

「俺の膝枕って……なんというか、良いの?」

 

 俺は現在、ウィルのスペースとして立ち入らないつもりだったベッドの上で、しりもちをつくように足を伸ばしている。

 で、その膝の上にウィルが頭を乗せている状態だ。

 

 つまるところ、一言で表すとすれば……膝枕だ。

 

 勿論俺が自分からこんなことをするわけもなく、ウィルに「枕が合いませんので!」と強請られた形。

 いや、絶対俺の膝の方が合わないと思うんだけど……という俺の考えに反し、彼女は軽くポジションを正しながら、落ち着いて言ってくる。

 

「良いっていうか……あったかいですし、どっちかと言えば落ち着くって感じですね。

 あ、勿論続行希望です。歩さんの足が痺れたら流石にやめますけども」

「え~……」

「何ですかその声。もう痺れました?」

「そっちは大丈夫だけども」

 

 いや、なんだろう、ちょっと戸惑うというか。

 

 俺は前世でいわゆるオタク的コンテンツにある程度触れていたので、膝枕というものに対する憧れは理解できないでもないが……。

 それが自分に向くとなると、なんというか、ちょっとビックリしてしまうものがある。

 

 普通こういうのって女性が求められるものなのでは?

 男の膝枕とか誰が得をするんだ?

 ていうか俺、そこそこ体鍛えてるし、多分全然柔らかくないぞ。

 それと単純に、枕としても高すぎるのではなかろうか。

 あと、くんくんと匂いを嗅ぐのは恥ずかしいのでやめてほしいなって思います。

 

「まぁ、君が望むのならばするが……ねぇ?」

「な、なんですか、そんな配偶者の変な性癖に付き合わされて疲れたような目をして!

 ……冷静に考えると今の私、自分の性癖一方的にぶつける最低女だったりします?」

「いや、俺としては拒絶の感情は殆どないぞ。ただ、こんなのが良いのかっていう困惑の感情が強くてなぁ……うん」

「膝枕の良さとかわからない感じです?」

「多少はわかるつもりだよ? ただ、自分がやるとなると……本当に気持ち良いのかそれ? と思ってしまうというか。普通は女性が求められる側なのでは? とも思うし」

「あ、じゃあ歩さんが寝る側なります? ほら」

 

 ウィルはそう言うや否や、しゅばっと起き上がって足を伸ばし、パンパンと自分の膝を軽く叩く。

 うーん、犯罪的に眩しいお膝。というか彼女の歳を考えると、不用意に触るのは割とガチで犯罪なんだけども。

 

 ウマ娘って、太陽の下に出ても日焼けとかあんまりしないんだよなぁ。

 1年をずっとトレーニングに勤しんでいたウィルも、その肌は雪のような白さを保ったまま。

 

 ……っとと、そうじゃなくて。

 

「いや、君ね、競走ウマ娘の膝ってめちゃくちゃ商売道具よ? それもあのホシノウィルムのものを使った膝枕なんて、どんな高級品だって話で……」

「やめときます?」

「せっかくだしよろしくお願いします」

 

 彼女自身それを望んでるっぽいし、こうなれば旅の恥はかき捨てだ。

 いや、まだまだ旅に出たばかりなんだけども。

 普段なら観衆の目を気にするところだけど、今日は人の目が全くない、というのもあるしね。

 

 

 

 そんなわけで、俺は彼女の膝に頭を乗せたのだけれど……。

 ちょっと不安そうに見下ろしてくるウィルと視線を合わせながら、俺はポツリと呟いた。

 

「……ちっさ」

「何が!? 何がですか!? 事と次第によっては訴訟も辞さないですよ!?」

「え、いや、膝のスペースがだけど。こうして身を頼りにすると、君が小柄な少女だということを改めて思い知るよ」

「あ、ああ、そういう。まぁ私、体だけだとかなり小さいですしね。

 ……今胸も小さいよなって思いましたか!?」

「被害妄想エグくない?」

 

 ウマ娘というのは、それぞれで体格が変わるんだけど……。

 ウィルは多くのウマ娘の中でも、最も小柄なタイプだ。

 

 身長は145センチで、数値だけで言えばあのライスシャワーと同じだ。

 彼女はライスと触れ合う時、大体いつも先輩風を吹かせているが、第三者から見ると同年齢の友達が背伸びして頑張っているようにしか見えないんだよなぁ。そういうとこも可愛いが。

 

 ……というかむしろ、ライスと比べて、耳の大きさの差で身長負けてるまであるかもしれない。

 ウィルも体格にしては大きい方だけど、ライスってとびきり大きい方だからね。

 

「しかし、殆ど顔を動かす余地がないな。あと非常に引き締められていて硬い。思ったより高いし」

「不満たらたら! ここはお世辞でも褒めるところでは!?」

「でも確かに、なんというか……落ち着くな。人肌の温かみからか? あとよく知る人の匂い?」

「あっちょっ! 嗅がないでっ! お、乙女の恥じらいという言葉をご存知でない!?」

「君だってさっき俺の膝枕ですんすんしてたじゃん」

「バレてたんですか!?」

 

 そりゃあんな夢中で嗅がれればね。

 そんなに良いのか俺の匂い。まぁウィルに会う前からずっと体臭のケアは欠かしていないので、少なくとも酷すぎることはないと思うけども。

 

 ……あるいはアレか? 恋愛感情を抱いた相手の匂いだから快いと思えるとか?

 理屈はわかるけど……これまた自分のこととなると、なんとも体感し辛い話だな。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ずっと膝枕してたらウィルの興奮が高まっていくばかりなので、いいところで切り上げた。

 彼女は他の子よりはだいぶ落ち着いた性分ではあるが、そうして溜め込んだ分、爆発した時の暴走はかなりすごいものがある。

 飛行機の中で暴れられたら危ないし、何より他の乗客や乗務員の迷惑になってしまいかねないからな。

 そういうのは現地に着いて、俺たちだけの時にやっていただくということで。

 

 そんなわけで、ベッドから降りて椅子に戻ろうと思ったんだが……。

 

「行っちゃうんですか?」

「む? 無論、話はこれからも続けていいが」

「……もっと、近くで話したいです。もっと」

 

 戻れなくなってしまった。

 契約トレーナーは、担当ウマ娘のしゅんとした顔に弱いのだ。

 

 

 

 しかし今日のウィル、なんかこう、いつもよりテンション高くない?

 いやまぁ正直、俺だって結構テンション高くなっちゃってる自覚はあるけれども、ウィルはそれに比べてもだいぶすごいと思う。

 普段のウィルなら絶対言わないからね、こんなこと。

 

 まぁ、彼女にとっては(少なくとも今生では)初の海外渡航だ。

 こうして雲上の碧空を飛ぶ飛行機の、それも一般ではそう使われないスイートルーム。

 更に言えば、この3年の間ほぼ一切なかった、誰からも絶対に見られていないという確証の持てる状況。

 これらの非現実的な状況が、彼女のテンションを上げてしまっているのかもしれない。

 

 ま、なんにしろ、ウィルが望むのならば俺はそれに従う他ないな。

 

 ……ただ、ウィル、俺の左腕に抱き着くのはやめてくれまいか。

 いくら人の目がないとはいえ、大人が不用意に中等部の生徒に触れるのは色々と問題があるんだよね。

 ていうか、ぶっちゃけ俺も人間なわけで、様々な方向で好意を持っている担当に抱き着かれると……ちょっと何も思わないままではいられないんだよね。恥ずかしながら。

 

 とはいえ、俺はこれでも、元は堀野のトレーナー。

 自制心には多少の自信がある。

 

 鋼の意志で以て表情を維持し、俺は改めてベッドに座り直した。

 

「……ふふふ、歩さんもこういうの嬉しいんですねぇ」

 

 全然維持できてなかったらしい。

 ……ま、バレてしまったのなら仕方ない。

 

「は? 嬉しいが? 君と触れ合えて嬉しくないわけがないが? 可能ならずっとこうしていたいまであるんだが?」

「すっ……す、素直すぎませんか、ちょっと。そこは恥ずかしさとかから否定しとくところでは?」

「たとえ嘘でも誤魔化しでも、君と一緒にいる時の気持ちを否定したくはないよ」

「うっぐッ……こ、この……ホンット変わんないですよね歩さんそういうとこ! どうせ誰にでも言ってるんでしょう!?」

「……? いや、こんなこと言うのは君だけだが」

「うぐぐぐぐッ!!」

 

 何やらわたわたと慌てるようにしながらも、彼女は両腕を俺の腕に絡めたまま。

 

 結局、2人で寄り添いながらベッドに腰かけて、数時間、尽きることなく話を続けていたのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 飛行機が日本を出たのは9時半……の予定だったが、結局遅れて10時半となった。

 そしてフランスまでにかかる時間は、12時間余り。

 つまり、俺たちの体感では、到着は23時過ぎのことになる。

 

 ……が。

 日本とフランスの間には実に8時間の時差があり、日本の方が時間が進んでいる形だ。

 

 結果、俺たちがパリに降り立つのは、現地時間では16時過ぎの予定となった。

 

 

 

「ん、む……」

 

 飛行機があと1時間で現地に到着しようという頃、ウィルのまぶたが下がりがちになり始めた。

 

 彼女の就寝時間は、大体いつも10時半から11時。

 そこから7時間の就寝を経て、朝のランニングに出る日常だ。

 

 つまるところ、普段ならそろそろ寝る時間である。

 

 その上、聞いた話だと昨日はワクワクしてしまってあまり眠れなかったらしいし、今日もかなりテンションが高かったので、疲れてしまったのだろう。

 ついに眠気が限界に来たらしい。

 

 窓の外は夕方どころかまだ真昼だというのに眠くなってしまうとは、つくづく体内時計は正確なものだ。

 実際俺の方も、僅かに疲労がかさんできた実感がある。まだまだ我慢できる範囲ではあるが。

 

 

 

 さて……本来ならばウィルをしっかり寝かせてあげたいところではあるが、今回はそうもいかない。

 

 なにせ、ホシノウィルムだ。

 現在世界で最も人気のある、最強のウマ娘だ。

 

 そんな彼女が自分の国に来るともなれば、その国のレースファンやウィルのファンは皆、その姿を一目見ようと空港に駆けつける。

 彼女の姿を頻繁に見ることのできる日本でさえ出国の時はかなり賑わってたんだ、フランスとなればそりゃあ多くの人の目が集まると予想される。

 いや、予想されるというか、ほぼ間違いない。到着1時間前の今ですら、既に人でごった返しているところだろう。

 

 そして同時、そんなファンの中に紛れるように、取材陣や記者が押しかけてくる可能性も高い。

 そこで見せた姿や言った言葉は、そのままフランス中を駆け巡るというわけだ。

 

 いわゆる芸能人というヤツは、人前で隙のある姿を見せるわけにはいかない。

 特に、ウマ娘はアイドル的人気も高いんだ。ウィルの最悪な寝起きを史上初公開する場としては最悪と言えるだろう。

 

 なので、ゆっくりと本格的に眠らせるわけにはいかないが……。

 

 

 

「ウィル、30分程寝なさい。いいところで起こすから」

 

 幼少期から、睡眠時間を最低に保つため色々と実験してきたので、知っている。

 30分以内の睡眠なら、そう寝ぼけることもなく、かなりスムーズに起きることができる。

 というか、自分が眠れたのか実感することもできず、ただ眠気がある程度飛んだ状態になるんだ。

 

 昔はこれを使って、朝昼夜それぞれ30分ずつ寝て眠気を飛ばす、なんかもやってたな。

 今となってはちょっと懐かしい。

 

 これならウィルも、ある程度眠気を飛ばしながらフランスに降り立つことができるだろう。

 

 

 

 俺の言葉が耳に入っているのかいないのか、ウィルは身をよじりながらベッドに倒れ込む……が。

 

「うおっ」

 

 俺の左腕は、放してくれないままだった。

 

「ちょ、ウィル」

「歩さん……一緒に……」

 

 寝ぼけているのだろう、彼女はぽつぽつと言葉を呟きながら、既にその目を閉じている。

 このままではマズい。色々と。

 

「ウィル、俺はあっちの椅子に座っているから……」

「ごほうびけん……」

「雑に切ったな切り札を」

 

 やられた。

 「ご褒美権」は、俺への絶対命令権。

 これを使われた場合、少なくとも俺の出来る範囲において、彼女の望みを叶えなければならない。

 たとえそれが、ただの寝言であったとしても、である。

 

 そして今回……はっきり言ってしまえば、彼女の「お願い」を断る理由が、非常に薄い。

 一般人の目もないし、ご褒美の内容もあくまで「一緒に横になる」ところまでだ。

 俺がそれ以上何もしなければ、問題は起こらない。

 

「……ふぅ。わかった、添い寝な、添い寝」

 

 両手を挙げる……ことはできないけれど、片手を挙げてホールドアップ。

 

 俺は諦めて彼女の隣に横になり、それからの30分間を、彼女の頭を撫でたり天井を眺めたりすることに費やすことになったのであった。

 

 ……ちなみに、ウィルに無意識に抱き締められた左腕は、あとちょっとで脱臼しそうになった。

 無意識下で抑えが利かなくなったウマ娘の握力と腕力、ヤバいね。

 

 

 

 余談だが。

 

 翌日フランスで放映されたニュースでは、ウィルの来訪が広く知らされたわけだが……。

 到着の興奮からか、やけにウィルの顔が赤かったと、一部で話題になっていたらしい。

 

 

 







 【吐息を感じる距離感】あなただけのトレーナーと添い寝♡ 抱き着いて過ごす、絶対誰にも邪魔されない温かな30分【ASMR】



 次回は一週間以内、ホシノウィルム視点でこれもう同棲だろの話
 甘すぎて砂糖吐くと思った読者様、まだ2人の恋愛フェイズは終了してないぜ……!



(雑記)
 謎のマスクドじゃなくなった三冠バ、カッコ良すぎない?
 それに比べてウチの三冠バは……どうしてこうなった。

(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!
 なんかウィルが堀野君のことをマスターとか呼んでたんですけどどんな誤字??? 完全に前回のノリが残ってましたね……。


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ふぁーい日本のお米でしょって言う.rar

 OK和食タイム





 

 

 

 たかたかたかと、特訓用シューズに打ち付けた蹄鉄が、人通りの少ない道路で音を立てる。

 

 前世の世界だと、馬が走る擬音と言えば「ぱからっぱからっ」が代表的だと思うんだけど……。

 実際、柔らかめの地面を軽く走るとそんな感じの音が鳴るので、やっぱり私ってウマ娘なんだなぁって思うよね。

 ちなみに固いアスファルトを走ると今みたいに「たかたか」って感じ、本気で走ったりすると「どかどか」って感じになります。参考までに。

 

 前世の馬と今世のウマ娘は、前世アニメの設定上当然と言うべきかもしれないけど、近しい部分がある。

 

 ……まぁ私の生きるこの世界は、正確には前世アニメの世界ってわけではないみたいなんだけども。

 なにせ主人公たちのパートナーたる沖野トレーナーが不在だし、ブロワイエちゃんとかゴルシちゃんとかもいない。

 前世で見たアニメウマ娘にかなり近い、二次創作的な世界なのかもしれない。

 

 ま、実のところ、私的にはこの辺はどうでもいいんだけどね。

 ここは私が生きる新たな世界。それだけだ。

 前世アニメで得た知識を有効活用することはあっても、それに縛られたり振り回されるのはご免だし。

 ……昔なら「原作ブレイクとか勘弁」って言ってただろうけど、いやはや私も変わったものだね。

 

 

 

 とにかく、前世の馬とこの世界のウマ娘は、かなり近い特性を持ってる。

 もっと言えば、私たちウマ娘は野生の本能に踊らされてしまいがちだ。

 歩さんに聞いた話だと、一般的なウマ娘は、狭い場所を嫌ったり、違う環境に置かれると大きなストレスを受けたり、そういう野性的な感性を残している子も多いらしい。

 

 ……が、私は転生チートつよつよ八冠ウマ娘。そんな常識には当てはまってはやらない。

 いやまぁ今回に限っては、チートもつよつよも八冠も関係ないんだけどさ。

 

 多分、私の魂? 精神? あるいは自我? そういうのが前世から引き継がれているのが原因だと思うんだけど、ホシノウィルムはあんまりそっち方向の野性的本能が強くない。

 やろうとすれば全然我慢できるレベルだ。

 その分と言わんばかりに、走りを楽しむ本能はかなり強いらしいんだけど……。

 

 正直、この辺のロジックは自分でもよくわかってないんだよぁ。

 いや実際、私の魂ってどうなってるんだろうね?

 元からこの世界に生まれる予定だったホシノウィルムの魂に憑依したのか? それとも私とホシノウィルムの魂が合体したのか? あるいは単に輪廻転生して無から生えてきたのか?

 そういうの、自分でもよくわかんないんだよなぁ。生まれた時から自意識はあったし、所謂乗っ取りではないとは思うんだけども。

 

 

 

 ……ま、考えても仕方ないかな、この辺は。

 

 話を戻すと、私はあまり本能的なストレスを受けることはない。

 ゲートの中のような閉所に入っても割と平気な方だし、周囲の環境が変わってもそこまで強いストレスを覚えたりはしない。

 

 勿論それは、こうして日本とは全く違う環境に来ても、同じく。

 

「やっぱり日本とは違うなぁ、フランスって」

 

 そんな声と共に私の吐息は、誰に理解されることもなく、日本に比べてちょっと涼しい空気の中に溶けていく。

 

 そう。

 今私が走っているのは、日本を離れて9500キロメートル、フランスの某所。

 エルブレーっていうトコらしいけど……正直私、フランスの地理にはまったく詳しくないので、その辺はよくわかんない。

 とにかく、フランスのどこかの川沿いだ。

 

 飛行機が着陸してから、おおよそ2時間程。

 なんか当然のように歩さんの車(日本で使ってたヤツとは別の新車)が駐車場に停めてあったり、既に家財の運び込まれた拠点があったりと、あまりにも準備万端な状態で始まったフランスライフ。

 

 歩さんが色々な手続きとか報告とか連絡に追われる中で、暇になった私は、慣らしも兼ねた土地勘を掴むためのジョギングを開始した。

 

 飛行機の中じゃ柔軟くらいしかできなかったし、現地での慣らし運転もしなきゃだし……。

 まずは拠点周辺の土地勘を掴んで、自主トレに適したスポットを見つけねばならないしね。

 

 現在は7月中旬なわけだけど、今年の凱旋門賞は10月4日。

 本番までは実に3か月近くあるわけで、こんな長期間自主トレができないとか、鬱になっちゃう。

 そんなわけで、私は良さげなランニングコースを開拓するため、てってこてってこと拠点周りを走っているのであった。

 

 勿論、というか流石に、今回は歩さんに許可をもらってる。

 「拠点から離れすぎないように」との約束も交わした上で、スマホや水の他にも、押すと警報を鳴らしながら歩さんの方に連絡が行くようになってるボタン付きのGPS? みたいなのも持つようにって押し付けられてしまったけども。

 

 ちょっと心配し過ぎじゃない? とは思うけど、そんな気持ちが嬉しい私なのであった。

 

 

 

 ただ、歩さんの心配する気持ちも、正直わからないでもない。

 

 というのも……やっぱりここは、日本とは全然違うみたいだし。

 

「日本とは結構、街の感じが違うなぁ」

 

 ぱっと見て感じる違いは、土地の使い方の豪快さだ。

 日本は無限に山があるせいで割と土地ぎっちぎちに建物とか道路が詰まってる印象なんだけど……。

 フランスはそこまで山は多くなくて、その分使える土地が広いんだろう。道路も歩道もめちゃくちゃ広いし、結構人通りの少ない道でもウマ娘レーンが用意されてるし、すんごい広い庭のある建物とかあるし、街路樹とかの緑も豊か。

 

 加えて言えば、空気とか気温も結構違う。

 東京の都心部に比べて自然が多いからだろうか、もう夏だというのにそこまで気温は高くないし、空気も匂いもいつもと違うんだよね。私の語彙力じゃ適切な表現が浮かばないけど。

 

 

 

 更に、当然と言えば当然だけど、すれ違う人たちの中に日本人は絶無だ。

 大体みんな茶髪だったり金髪だったりで、やっぱり日本人とは顔の彫りとか雰囲気とかが全然違う。

 

 なんか人間は遺伝子の多様性を求める云々で、近くにいる人よりも海外の人とかに魅力を感じやすい、みたいな話を聞いたことあるんだけど……。

 この様子だと、ありゃあ嘘だね。

 いや、別にこの国の人たちに魅力がないってわけじゃない。イケメンだなーって思うことはある。

 けど、歩さんの方が100倍くらいイケメンだし、好きだし。うん。

 

 そしてそんな人たちの中には、時々こっちを驚いた表情で二度見して来る人もいた。

 やっぱりあんまり見ない日本のウマ娘が珍しいんだろうか……とは、流石に思わない。

 私はホシノウィルム、現在世界中で話題沸騰中のスターウマ娘。

 誰かが走ってると思って何の気なく視線を向けたら、世界規模の大スターがいたりなんかすれば、誰でもビビるよね。

 

 一応キャップを被って髪も中にまとめてたり、透過度の低いサングラスかけたりはしてるんだけど、それでもファンの目から隠れ切るには無理がある。

 というか正直、最初から隠し切れるとは思ってない。

 変装っていうのはやり過ぎると怪しくなって逆に注目されちゃうものだし、ウィッグとかはランニングの時邪魔になるからしたくないし、ある程度バレるのは必要経費の内だ。

 

 そんなわけで、気付いてくれた熱心なファンには軽く手を振ったりサングラスズラしてウインクしたりと、ファンサービスをプレゼント。

 運転してる人はともかく、歩いてた人はちょっとぽーっとして立ち止まったりしちゃうので、こういうところはやっぱり日本のファンと変わらないね。

 

 私、外面と走りだけは良いから、カッコ良い立ち回りするとウケが良いんだわこれが。

 元オタクなので、この辺の需要は理解してるつもりである。

 

 ……まぁ、肝心要の想い人たる歩さんには、そういうのはむしろ不評だったりするんだけど。

 「君のそれは取り繕ってる時のヤツだろ。俺が好きなのは、素の……普段の歳相応なところを見せてくれる君だからな」とのことです。

 この人はなんでいつもこんなこっ恥ずかしいこと言えるんだホント。

 恥という感情を自己肯定感と共に前世に置き去りにしてきたの? 無敵なの?

 

 

 

 * * *

 

 

 

 周りの景色を頭に叩き込みながら色々考えて走っていると、ジョギングの終わりの時間が来た。

 

 歩さんに用意してもらったこっち用のスマホを取り出して、結構メジャーらしい競走ウマ娘用の地図アプリを開くと……。

 走った座標の履歴は、歩さんに制限された範囲の中の大半を埋め尽くしていた。

 

 段々日も傾いて来たことだし、今日はこれからの予定もある。

 ちょうど拠点に近くにいることだし、切り上げるとしよう。 

 

「……ふぅ、悪くない感じ。思ったより不調はないな」

 

 クールダウンのため、早歩きの速度でとことこと私たちの拠点へ歩く。

 

 

 

 そうして、10分余りで辿り着いたのは……。

 何の変哲もない、フランスの家屋。

 家屋は横に大きく庭も広くて、そこそこの富裕層が住むような感じのヤツだ。

 

 私は渡してもらった合鍵……を、手のひらに置いて思わずにやにやと笑った後、改めてそれを鍵穴へと挿し込み、横に捻る。

 すると、カタンと音がして、扉のロックが外れた。

 

 そう。

 この割とでっかい家屋こそが、私たちのフランスでの拠点。

 歩さんがツテを辿って借りてくれた、貸家であった。

 

 

 

 競走ウマ娘が海外遠征に臨む場合、多くの場合はホテル住まいとなる。

 海外に落ち着いた住まいを用意できるトレーナーは少ないだろうし、安全性という意味でも比較的信頼がおけるので、当然の選択肢と言えるだろう。

 ……まぁ私たちウマ娘ともなると、その安全性も完璧とは言い難いんだけどね。

 熱狂的なファンの熱意って、良くも悪くもすっごいから。

 私のファンの中にも、建てた大型賃貸マンションに、わざわざ許可を取ってまで私にちなんだ名前を付けた人とかいたらしいし。どんだけ私のこと好きなんだよ。

 

 他の選択肢としては、所属トレセンがその国のトレセンと連携が取れている場合、特別に半留学みたいな形で寮に泊めてもらい、トレーニング施設を借りたりするってのもあるらしいんだけど……。

 こっちはすごく良い選択肢のように思えるけど、まだまだ思春期のウマ娘たちにとって、言葉が通じずコミュニケーションが取れない海外のウマ娘との接触がどう働くかわからない、というリスクも秘めている。

 ま、リスクが云々って言い始めたら、どの選択肢にもある程度のリスクはあるわけだけど。

 

 そんな中で、私たちの陣営が選んだ選択は……。

 「歩さんが個人的に家を借りて、そこを拠点とする」、であった。

 

 ホテルより、日本でのそれに近い環境を整えることができる、自由にしていい借家。

 その中から、レース場やレッスンスタジオ、駅などへの距離、治安やロケーションなどの要素を考慮して徹底的に厳選した、賃貸の一戸建て。

 これを、ホシノウィルム陣営やトレセンの名義じゃなく、海外では業界の人でもないと知らない歩さんの名前で借りることで、拠点バレのリスクを極力軽減する、とのこと。

 

 数時間前に私が初めて入った時には、新築かと疑うくらいにリフォームされ尽くしてたし、既に家具から消耗品までなんでも揃ってて、立派に「おうち」していてビックリした。

 なんでも、半年前……つまり凱旋門賞への出走が決まった今年の頭から、こっちに人をやって準備してたんだって。

 ……改めてこの人やべーなって思った。用意周到すぎるし、マネーパワーがエグい。これが名家かぁ。

 

 

 

 と、まぁそんなわけで。

 今の私には「帰るべき家」があるのだ。

 

 そうなれば、どうなるか?

 

 ドアの前で息を整えて、「ただいま~」と敢えて間の抜けた声を上げながら扉を潜ると……。

 

 

 

「おかえり、ホシノウィルム。ご飯も風呂も準備はできてるぞ」

 

 

 これこのように。

 エプロンを付けたトレーナーが、私を迎えてくれるわけだ。

 

 

 

 ……ふふ。

 ふふふ、ぬへへへへ、うへへへへへへ!

 

 や、やばい、思ったより破壊力高いなこれ!

 すごい、帰った家に……歩さんがいる!

 おかえりって言ってくれる!

 ご飯の準備とかしてくれてる!

 空気が冷え込んでない! むしろ超暖かい! というか顔が熱すぎてまともに前も見れない!

 

 大好きな人と2人きりの生活が送れて、私のために夕飯とか用意してくれて、こっちに慈愛の目を向けてくれて、家で待っていてくれて……!

 こんなのもう同棲じゃん! 海外旅行ってことも考慮したらハネムーンじゃん! 私たち新婚じゃん!?

 

 しかも、いつもはレースの後にもらっていた、「おかえり」。

 近しく親しい人にかけるこの言葉を、温かさを、毎日のように……いいや、毎日もらえてしまうんだ!

 

 これが……これが、幸せ……?

 そうか、幸せってこういうことを言うんだ……!

 

 

 

「ただいまです! えへ、えへへ……」

 

 どうしても綻んでしまう顔を、両手で抑える。

 まずい、頬が……頬が緩む……! ほっぺたが落ちるって美味しいものを食べた時の表現じゃないんですか!? もう今にも蕩けて落ちそうなんですけど!!

 

 私のそんな様子を見てか、歩さんは穏やかに笑い、こちらに手を差し出して来る。

 

「ほら、行こう。食事が冷めてしまうし……夜からはこちらの記者会見もあるからな」

「はい! ……えへへ、私フランス料理って食べたことないので楽しみです!」

 

 そう言って、私は未だ見ぬ食べ物に心からワクワクしていたんだけど……。

 

「え?」

「え?」

 

 歩さんは、何故かきょとんとした目を、こちらに向けてきた。

 

 

 

「なんで和食なんですか!?!?」

 

 私たちが赴いたリビングに並べられていたのは、見慣れたラインナップだった。

 ご飯、お味噌汁、鯖の味噌煮、ほうれん草のおひたし、肉じゃがに、大きなにんじんハンバーグ。

 つまるところ、いつもと代わり映えしない、日本あるあるのメニューであった。

 

「ハンバーグもあるし、正確には和食じゃないぞ」

「いやそういう定義上の話じゃなくて! なんでフランスまで来て日本いた時と同じもの食べなきゃいけないんですか!

 ここは当地の料理とか味わって『わーこれがフランスの味なんだー』って展開では?!」

「え、食べたいか? 作ってもいいけど、結構繊細な味付けも多いし、君の舌に合うかはわからないぞ」

 

 作ってもいいけど、って……え、もしかして。

 

「……これ、歩さんが作ったんですか? 頼んだとかデリバリーじゃなくて?」

 

 最近は結構高級嗜好に染まっちゃってる私だけども、根っこの部分は小市民。

 「海外旅行をすれば、現地の料理を食べるのが当然」という意識があった。

 ……というか、海外にまで来て日本の料理を食べることになるとは思わなかった、っていうのが正確かもしれないけども。

 

 けど、歩さんはむしろ、私の疑問にぱちぱちと目を瞬かせた。

 

「そりゃあそうでしょ。この辺に君の嗜好を完全に掴んだ日本料理店なんかないよ」

 

 私の嗜好に合った、ってことは……。

 もしかして、ここに並んでる料理、私の嗜好に合わせて作ったってこと?

 

「……私の好き嫌い、歩さんに教えてましたっけ」

 

 あんまり記憶ないんだけどな、と首を傾げていると……。

 歩さんは一つ頷いて、言う。

 

「教えるというか、まぁ調べたな。寮で出る給食の献立を見たり、ネイチャやテイオーに君が残した給食のメニューを聞いたり、外食した時の反応を見たり。

 君、なんだかんだ本当に美味しいもの食べた時の反応はわかりやすいし、それに沿って作ったつもりだ。……勿論、全てが全てそういうわけではないが」

「な、なんでそんなことを……」

「いつか言っただろう、トレーナーたればウマ娘に料理を作る機会もある。その時に備えて技術を培うこと、そして君の嗜好を調べることは当然だよ」

 

 そ、それは、なんというか……。

 

 

 

「歩さん……私のこと、好きすぎでは!?」

 

 

 

 相手の嗜好を理解するためにその友達に聞きこんだり、メニューを調べたり。

 そういった行動は、一般的に言えばストーカー行為に近い。

 

 が、ストーカーというのはされる側がする側に好意を持っていないことを前提とするものだ。

 歩さんと相思相愛──この場合の「思う」は「想う」ではないだろうし、「愛」は競走ウマ娘へ向ける「愛」なんだろうけども──の私からすれば、それは純愛的行動に他ならない。

 

 というか、もはや愛が重いまである。

 私だってそこまではしないよ? 精々がバレンタインに備えて昌さんから情報収集するくらいで。

 男性って記念日とかあんまり覚えないって聞いてたんだけど、そんなこと全然なくない? むしろめちゃくちゃ覚えてくれてるじゃん歩さん。

 

 ……私なんて、春までは歩さんの誕生日すら知らなかったのに。

 そのくせ、自分がされると「私のこと考えてくれてるんだなー」なんて嬉しくなっちゃうんだから、我ながら全く以て度し難いものだ。

 

 

 

 そんなわけで、てれてれと身をよじる私に対し、歩さんは至極当然という顔で言う。

 

「そりゃ好きだが……まぁでも、これに関してはどちらかと言えばトレーナーとしての話だな。

 人間もそうだが、生物は急激な環境の変化に弱い。そのため、まずは空気や周囲の環境に慣れてもらい、料理の方はおいおい少しずつ慣らす方がいいだろう、とな」

「ああ……うん、なるほど。ちょっと残念な気もしますが、歩さんらしい理論的な話ですね」

 

 急激にすべてを変えてしまうと、心も体も付いては行かない。

 故に、まずは空気とか雰囲気とかに慣れて、それから食生活も慣らしていこう、と。

 

 ……いや、だからってわざわざ相手の味の嗜好を調べ上げたり、自分で料理作ったりするのは、もはやトレーナーの領分を過ぎてるんじゃないかって思うんだけど。

 そりゃダービーの後に「他のトレーナーに委任とかふざけたこと抜かしてんじゃねぇぞ」って脅したのは私だけどさ……。

 流石にその辺は、専門家に委任してもいいんじゃなかろうか。

 

 歩さん、私に関することで他人に委任するのってウイニングライブ関係だけで、それ以外はホントに全部自分でやっちゃうんだよなぁ……。

 そういうところが過労に繋がっちゃってるんじゃないかとウィルム思うんですけども。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 何はともあれ、これ以上喋ってご飯を冷ましてしまうのも良くないだろう。

 私たちはそれぞれまだ慣れない席に着き、新鮮な風景の中で「いただきます」と手を合わせた。

 

 さて、まずは……そうだな、やっぱり主菜とご飯からかな。

 私はまず好きなものから食べちゃうタイプなので。

 

「んむ……あ、美味しい! えっ美味しすぎません? いや本当に美味しいんですけど!」

「嬉しいしありがとうだけど、何その美味しいの三段活用?」

「いや、ハンバーグってこんな……こんな感じでしたっけ!?」

 

 まず舌に触れるのは、表面にかけられたソース。

 デミグラスソースだと思うんだけど、なんかこう、出汁? がすごくて、めっちゃ濃厚。

 そして肝心のお肉の部分。最初に噛んだ時の噛み応えが凄く気持ち良く、直後に中からじゅわっと肉汁が溢れてきて、そのくせ中のお肉はふわっと柔らかくすごく食べやすい。

 

 走りによってちょっとだけ疲労した脳に、ぎゅぎゅぎゅーっと来るジューシーさと美味しさだ。

 今まで食べてきたハンバーグは何だったの? ただのジャンク? ファストフード?

 ……と、思わずそう思ってしまったくらいには、歩さんの作ってくれたハンバーグは美味しかった。

 

 自然と喋るのを止めてパクパクとハンバーグを口に放り込む作業に従事し始めた私に、歩さんは穏やかな微笑を向けてくる。

 

「結構しっかり時間をかけて作ったからな。トレセン学園の給食は比較的質が良いとはいえ、栄養と原価、手間といったコスト重視の食事に負ける気はないさ」

 

 おぉ、ちょっと自慢げ。歩さんにしては珍しい。

 

「歩さん……本当に料理上手いんですねぇ」

「あれ、前にも作ったことあったと思うんだけどな……」

「いや、確かに前にも食べて美味しかったんですが、今回はもっともっと美味しい気がします」

「時間かけたのと、君の嗜好の研究が進んだからかな」

「それと愛の力ですかね!」

「ウィル? ……っとと、このままでは冷めてしまうな。ほら、食べてくれ」

 

 歩さんの言う通り、鯖の味噌煮とご飯を口に放り込む。

 うん、これもすっごく美味しい。これに比べるとトレセンの鯖はカスや! ……いやごめん、ネタとはいえ流石に失礼だね、普通に美味しいです、はい。

 

 でもこれ、私の好きな濃い目の味付けで、明らかに手間暇かけて作ってくれたんだなってことがわかる。

 なんというか、日本を思い出す味だ。まだ離れてそんなに時間は経ってない、どころか1日も経ってないけども。

 

 

 

 ……あれ? ていうかちょっと待って。

 遅れて気付いたけど、この鯖とかお米とか、さっき食べたハンバーグにしても、今思うと日本で馴染みのある味すぎない?

 同じ料理を作るにしろ、食材に土地柄というものがでるはずなのでは……?

 

「あの、この材料ってどこで買ってるんですか? 近くのスーパー?」

「日本から運び込んで近くの倉庫に貯蔵してる」

「全部日本から? え、それすごい量じゃありません?」

「3か月分となると結構すごい。輸送費めっちゃかかった」

「えぇ……歩さんがめっちゃって……。あの、現地のスーパーで買おうとか思わなかったんですか」

「君の口に合うかわからないし、食中毒などの危険性も考慮するとなかなかね……」

 

 気持ちはわかんなくもないけどさ、普通そういうのってかかるお金とか手間を考えると諦めない?

 この人、コスパとかいう思考方法持ってないんだろうか。

 ……持ってないんだろうなー。私を支えるためならいくらでも使っていいって思ってそう。

 それが嬉しくもあり、同時に怖くもある。私はどこまでいったって根っこが小市民なので。

 

 

 

 なんとも言えない気持ちでお味噌汁を口に含むと、これまたすごく私の好きな味。

 ……あ、思い付いた。思い付いちゃった。思い付いちゃったからには言っちゃおうせっかくだし。

 

「毎日飲みたいですね、このお味噌汁……なんちゃって!」

「了解、明日から毎日用意するから、飽きたら言ってくれ」

「そうじゃないんだよなぁ」

 

 私は思わず頭を抱える。

 くそぅこのとんちんかん、並大抵のことでは揺るぎそうにない。恥を知れ恥を!

 

 やっぱりもっとアタックが必要だな! 力こそパワー!!

 

「あ、そうだ、あーんしてくださいよあーん! せっかく2人しかいないんですし、普段はやれないことやりましょう!!」

「やっぱ君まだテンションおかしいね? いいけど……土壇場で恥ずかしくなって爆発とかするなよ?」

「しませんよ自分から誘っておいて! ほら! ほら、あ、あーん!」

「あーん」

「…………やっ、やっぱ無理っ!!」

 

 爆発した。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、そんなこんなでいちゃいちゃしていた私たちだけど……。

 

 忘れてはならない。

 私たちは実のところ、競走ウマ娘とトレーナー。

 なにも新婚……し、新婚! 旅行として、フランスに来たわけではないのだ。

 ……まぁ、3か月も同棲するって考えると、もはやそれ以上な気がしないでもないけども。

 

 

 

 そんなわけで、私と歩さんは仲良く食事と片付けを済ませた後、正装に着替え、夜闇迫るフランスの街へと足を伸ばす。

 

 目的地は……3か月後の決戦の地、ロンシャンレース場。

 

 そこで私たちは、この国での最初のインタビューを受ける手筈になっている。

 

 故にそこまでは、歩さんが用意した車に乗って、10キロくらい離れたパリの近郊に向かうのだった。

 

 

 

 ……ただ、お仕事だからって固くなってたかと言えば、そうでもなく。

 

「しかし、インタビューってやっぱりフランス語ですよね。やっぱり私、ちょっとはフランス語言えるように勉強した方が良かったのでは?」

「言うは易く行うは難し。君、3年間勉強した英語すら喋れないだろうに」

「しゃ、喋れますし~!! アイキャンスピークイングリッシュですし~~~!!!」

「『私は日本の威信にかけてこの凱旋門賞という戦いに勝利してみせます』。はい英語で」

「アイウィンベリーベリーガイセンモンショーアンドカケルニホンノイシンアーッ!!」

「やけくそすぎて海外翻訳版みたいになってるが。……いや、今回は英語翻訳だし合ってるのか?」

 

 私たちはふざけ合い、笑い合いながら、車での移動時間を過ごしたのだった。

 

 

 







 堀野君は名家出身な都合上、海外に慣れてます。
 なのでウィルとは温度差があるわけでした。



 次回は3、4日後。トレーナー視点で、煽りレベル99のインタビューの話。



(本編に関係のない呟き)
 エピソードアイギスリメイクやったー!!!

(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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あいつトレーナーの話になると早口になるよな

 やめなよ。





 

 

 

 ウマ娘のインタビューや取材、記者会見といったイベントは、基本的にそれ相応の場所で行われる。

 典型的なところで言うと、ホテルの大ホールやレンタルできる式場、そしてレース場内に敷設されるスタジオブースなどだ。

 

 そういった場所選びは、する側とされる側が協議の上で決定し、インタビューする側がレンタルするのが基本。

 ……そして、残念と言うべきか、あるいは当然と言うべきか。

 インタビューの際は、される側のウマ娘の「格」とでも言うべきものが、される側の発言権の強さに繋がって来る。

 どうしても勝ち上がれないウマ娘の陣営は発言権が弱く、あまり立派な場所を選べない。

 この辺りの残酷なシステムに、思うところがないと言えば嘘になるが……。

 

 

 

 一旦、それはさておき。

 そういう意味においては、俺たちホシノウィルム陣営は、非常に強い発言権と存在感を持っている。

 ……非常に強いというか、ぶっちゃけ世界最高峰だろうな、うん。

 

 ウィルがこれまでに積み上げてきた努力の蓄積、そしてレースを通して残してきた結果が、彼女の価値を凄まじく高めている。

 そしてそれは、今や海外のレース界隈にすら通じる程のものとなった。

 

 3年前の凱旋門賞でエルコンドルパサーが好成績を残して以来、世界的にも高く評価されるようになった日本のウマ娘。

 その中でも史上最強とまで謳われる、才気煥発の大逃げウマ娘。

 13戦12勝、G1レース9勝、連対率100%。

 敗北したのは、様々な不利条件が重なった有記念の時のみ。

 

 如何な世界の頂点凱旋門賞、その出走ウマ娘たちの中でも、彼女の戦績は一つも二つも頭抜けている。

 横並びな実力で競い合うことが多いトップアスリートたちの中で、ここまで突出して結果を残す方がおかしいんだ。

 日本のクラシック三冠ウマ娘は未だ史上に5人しかいないし、無敗三冠となれば2人、そして八冠となると唯一無二である。

 改めて、俺の担当はとんでもない怪物だと思う。

 

 ……まぁ、若干一名、もしかしたら凱旋門賞までに迫って来るかもしれない子はいるんだが。

 まさかデビューから3か月足らずで、無敗のままG1オークスに2連勝してしまうとは……。

 素質は感じていたし、ステータスの面でも急成長は見せていたが、彼女は自分と時分を乗りこなす力も持っていたということだろう。

 海外の、特にヨーロッパのクラシック級のウマ娘には、日本の子たちにはない勢いがある。

 このままノリにノって来れば、あるいは凱旋門賞では彼女こそがウィッチイブニングを超える脅威になるかもしれないが……。

 

 既に彼女の分析と対策は完了している。

 この続きを考えるのは、次回彼女が出走するヨークシャーオークスの結果を見てからにしよう。

 

 

 

 数か月後の対戦相手の話はともかく、本題に戻ると。

 

 ウィルの、というかホシノウィルム陣営の発言力は非常に強い。

 ホシノウィルムは世界に名だたる大スターであり、おおよそ百年に一度レベルの天才アスリートであり、百年に一度レベルの超絶美少女でもある。

 日本のURAに該当する、こちらのレースを運営する団体だって、そりゃあ厚遇せざるを得ないのだ。

 

 それは、今回のフランスでの初めてのインタビューについても例外ではなく。

 場所やタイミングなどの条件は、基本的にこちらの意見を吞んでもらえることとなった。

 

 俺の方には殊更拘りはないので、実際に走るウィルの意見を重視すべきだろうという判断から、彼女に意見を仰いたのだが……。

 「どこでもいい」と言われるだろうという俺の予想に反し、ウィルは明確な意思を出してきた。

 

『それなら、決戦の舞台たるロンシャンレース場どうですか? ああいや、レース場内のインタビューするトコじゃなくて、せっかくですしターフの上とか。

 ほら私、やっぱりメインはアスリートじゃないですか。その辺を考えると、自分の戦場で語るっていうのがカッコ良いかなって』

 

 カッコ良いかどうかはともかく──まぁウィルのことだし、間違いなくカッコ良く決めるのだろうなとは思うが──、戦士として戦場で撮られたいという気持ちはわからないでもない。

 俺もやっぱり、自室で書類捌くよりトレーナー室でやる方が気合入るしね。

 

 まぁ、そのためだけにレース場の本バ場を占有するというのは結構アレなのだが……。

 ウィルなら許可も取れるだろう。なにせウィルだし。

 もし通らなかったらまぁこちらの方でちょっとゴリ押せばいい。

 人を頷かせる方法は、何も説得だけではないしな。

 

 そんなわけで、先方フランスレース運営とのあくまで穏便なお話合いと交渉の結果。

 レース終了後の夜にはなるが、本バ場の使用の許可をいただいた。

 

 そんなわけで、フランスに到着した日の夜。

 俺はウィルと共に、ロンシャンレース場に向かうのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ところで、ウィルはフランス語が話せない。

 

 これは別に彼女の成績があまり振るわないからではなく、ぶっちゃけトレセン学園生できちんとフランス語を話せる生徒は極少数だ。

 アスリートではない一般的な中等部の子供でも話せる子は少ないだろうし、その上で競走ウマ娘ともなれば日々のトレーニングなどに時間を取られてしまうんだ。

 時間と根気のいる言語の勉強が遅れてしまうのは、仕方のないことだと思う。

 

 彼女単体でこの遠征に挑むのなら、最低限相手が言っていることを理解できるだけのリスニング能力くらいは培った方が良いのだろうが……。

 まぁ、そこに関しては問題ない。

 

 なにせ、トレーナーというのはこういう時のためにいるのだから。

 

 

 

 夜の闇が迫るロンシャンレース場、本バ場。

 俺とウィルは2人並び立ち、外ラチの向こうに目をやる。

 

 そこには、ちょっととんでもない数のカメラやメモ帳、人の目と、並々ならぬ熱があった。

 

 並大抵のウマ娘であれば、直面しただけで硬直しかねない量の熱視線が、俺たちに降り注いでいる。

 が、俺やウィルが今更そんなものに怯むはずもなく。

 

 俺は目線だけウィルの方に投げて、確認を取ろうとし……。

 その口元が不敵な笑みに歪んでいるのを見て、大丈夫そうだなと、内心で苦笑を浮かべる。

 

 ウィルはとっくの昔に覚悟完了して、「海外からの刺客・競走ウマ娘ホシノウィルム」の仮面を被っている。

 準備万端、気合十分。いっちょ舐められないようにぶちかましてやるかという気合すら感じるくらいだ。

 個人的には、程々にしてほしいところなんだけど……まぁ、ウマ娘の道行に付き合うのがトレーナーのお仕事であり、彼女のパートナーとしての願望でもある。

 

 俺はラチの外に並ぶインタビュアーの方に向き直り、フランス語で言った。

 

『それでは、インタビューを始めさせていただきます』

 

 

 

 トレーナーである俺は、当然ながらマルチリンガルである。

 英語、中国語、アラビア語、フランス語、スペイン語、ロシア語、ドイツ語にインドネシア語。

 ウマ娘を支える上で必要になる可能性がある言語は、程々に修得している。

 最近はヒンディー語も覚えたいなーと思いつつも、なかなか時間を取れなくて苦戦中という感じ。

 

 その中でも特に、海外遠征をする上で必須となる英語やフランス語、中国語辺りは、各地の訛りまで勉強したし、やろうとすれば通訳ができるくらいには喋れるつもり。

 

 そんなわけで、現地の方とウィルの間を繋ぐ通訳は、俺の仕事だ。

 日本にはないこっちだけのニュアンスやその逆も少なくないし、互いにわかりやすく伝わるよう心がけないとな。

 

 ……と、思っていたのだが。

 

 

 

 手を上げた中で、俺が指したインタビューが、フランス語の質問と共にマイクを向けて来る。

 

『日本とヨーロッパ圏では走りの条件が大きく異なりますが、どのように思われますか?』

 

 うーん……なんというか、若干の皮肉を感じる質問だ。

 

 現状、凱旋門賞に勝利した日本のウマ娘はいない。

 それは日本と欧州での芝や気候、レース展開などの条件の違いによる。

 つまるところ、悪意を以て解釈しようとすれば、その質問は「お前ウチのレースで勝てると思ってんの?」という冷笑とも取れるのだが……。

 

 インタビュアーから向けられた質問を、そのままウィルの頭上のウマ耳に耳打ちで伝えると……。

 彼女は耳をピクピクと震わせた後、今度は俺をしゃがませ、耳元でぽそぽそと言ってくる。

 

「『その程度の不利条件で私が負けるわけねーだろボケがよ』って言ってください」

「言えないが?」

 

 強気すぎるでしょこの子。

 一応アウェー環境だよ? なんでそんな堂々としてられるの? 心が鋼なの?

 

 彼女が本心からそう言っているのなら普通にそのまま伝えていいんだが……。

 今回は明らかにふざけて言ってるし、伝えない方がいいだろう。

 

 こういった通訳を噛ませたインタビューでは、本人と通訳の声が両方マイクに入るようにしなければならない。

 滅多にあることではないが、通訳が誤訳したり、故意に内容を捻じ曲げてしまうこともある。

 そうならないよう、両方の台詞を記録に残さねばならないわけだ。

 

 で、そういった事情をウィルは熟知している。俺がしっかりと教え込んだ。

 それなのに、わざわざマイクに入らないよう耳打ちしてきてるって時点で、本気でそれを言いたいわけではないことは明白だ。

 

 俺が半ば呆れた視線を向けると、彼女はこちらを見上げておかしそうに笑う。

 インタビューの際、ウマ娘が何をどう言うかトレーナーと相談することは珍しくはない。

 まだ中等部である彼女たちが、大人の助けなしで、誤解なく世間に意見を伝えるのは難しいしな。

 なので、こうして軽く相談すること自体は、特に違和感なく見られるだろうが……。

 

 こうした場でもふざけるのはちょっと問題なので、目で軽く制しておく。

 ウィルの方もちょっとやり過ぎの自覚はあったのか、「ごめんなさい、こんなところにしておきますね」と目線で伝えてきた後、改めてインタビュアーの方に向き直った。

 

 その表情は凛々しく立ち姿は威風堂々。

 まさしく伝説のウマ娘……らしい仮面を被って、彼女は語る。

 

「私は私、ホシノウィルムらしくあるのみ。それが即ち、私の新たな勝利の歴史への道となりますので」

 

 なかなか難しい翻訳を求めてくるなぁ……。

 まぁ、訳せないわけではないが。

 

 彼女、インタビューの時はカッコ付けたりクールぶったりすることが多いので、その辺りの語彙はきちんと蓄えてある。

 それがなければ、咄嗟に適した訳を出せたかはわからない。やっぱり事前準備は大事だね。

 

 

 

 ウィルはその場その場で仮面を切り替える。

 

 ファンの前では、ファンサービス精神旺盛なスターの面を。

 カメラの前では、泰然自若と落ち着いた傲慢な強者としての面を。

 レースの前では、ただ目の前の競走に燃えるアスリートの面を。

 

 そういった、いわゆる「ホシノウィルム」のキャラ作りの部分は、実のところ俺は殆ど関わっていないんだよな。

 多少口を出したことはあったが、95%はホシノウィルムの単独独自プロデュースと言っていい。

 

 彼女が呪いを乗り越え、ある程度仲を深めた頃、俺も一緒に考えようかと言ったこともあったが……。

 どうやらウィルにはその辺りに強い拘りがあるらしく、「任せてください、バッチリキャラ作ってみせます!」と言われてしまった。

 

 その結果が、現在トゥインクルシリーズをアスリート・アイドルの両面で沸かせているウマ娘。

 普段はクールでありながらファン想いで、レースになると燃え盛る、ホシノウィルム。

 

 ……なのだが。

 ぶっちゃけ演技なのはクール部分くらいで、他は素なんだよなぁ。

 「ライブも本気で臨みたい」と言って追加レッスンを望む程にファン想いだし、走ることや競うことに向ける熱意はもはや語るまでもない。

 

 しかも最近は、俺と一緒にいると結構素がまろび出てしまうから、クールなところが演技だとファンに気付かれてしまってる節があるし。

 その上で楽しんでくれる良いファンばかりなので、結果としては良かったけどね。

 

 

 

 まぁとにかく、パブリックイメージとしてのホシノウィルムはそんな感じだ。

 

 その上で彼女が、凱旋門賞前の当地での初インタビューにどんな姿勢で臨んだかと言えば……。

 

 

 

『初の海外渡航とのことでしたが、ご感想は?』

「やはり日本との環境の違いを強く感じます。けれど、私のトレーナーが支えてくれますので、そこまで強い緊張感を覚えることもなく落ち着けていると自負しています。ご心配なさらずとも、万全ですよ」

 

『注目されている現地のウマ娘はいますか?』

「いませんね。本番では、私を燃え上がらせてくれるウマ娘がいることを期待します」

 

『凱旋門賞への意気込みは?』

「このレースだから、というものはありません。いつも通り、トレーナーと作り上げた最高の走りをする。それだけしか考えていませんし、それだけで十分ですから」

 

『現地のファンに向けて一言お願いします』

「皆さんの歴史の中で培われてきた言語で喋れないことを申し訳なく思います。その代わりと言ってはなんですが、こちらの歴史に私の名前を刻んでいきます」

 

 

 

 ……とんでもなく好戦的な姿勢だった。

 

 もはや自分が勝つことは当然で予定調和だと、彼女は言外にそう語っている。

 それはこの国の全てのウマ娘に、そしてその子たちのファンに喧嘩を売るような態度だと言っていい。

 

 恐ろしい。

 何が恐ろしいって、全く知らない土地、全く知らないアウェーな環境の中で、これだけ平然と喧嘩を売れる胆力が恐ろしい。

 いや、なんか微妙にこっちに寄りかかって来てるし、俺を精神的な柱にして繕ってるのかもしれないけど。

 

 世界最高峰たる凱旋門賞に対してこんなことを言うのは、普通ならば冒涜ですらあるんだけど……。

 彼女の場合は、ただのビッグマウスというわけでもない。

 ホシノウィルムはそれを言えるだけの、そしてそれに現実味を持たせるだけの結果を残してきている。

 

 だからこそ、半端に阿るよりは、強気に振舞った方がいい。

 日本より訪れた当代最強の刺客として、真正面から喧嘩を売った方が盛り上がる、と。

 この国のレース興行を盛り上げ、レースファンたちもその熱に吞み込むべく、彼女は意識的にヴィランを買って出たのだ。

 

 まったく、恐ろしい子だ。

 俺が何か言うまでもなく、自分に求められる役回りを理解し、当然のようにそんな役回りを買って出ているんだから、とても中等部の子供とは思えない精神性をしていると言っていい。

 ……うん、やっぱりこの子転生者だわ多分。むしろこんなに出来た中等部の子供がいてたまるか。

 

 

 

 俺は半ば呆れつつも、その表情をトレーナーとしての仮面の下に隠し、ひたすらにインタビュアーとホシノウィルムの間を繋ぐ通訳に徹し続けた。

 

 向けられる質問の中には、ウィルの調子に釣られたか、結構挑戦的なものもあったが……。

 

 

 

『現在日本のウマ娘が凱旋門賞に勝った記録はありませんが、そのことをどう思われますか?』

「私が頂いている異名を考えれば、そのジンクスがこれからどうなるかはお察しいただけるかと思います」

 

『3年前に敗れたエルコンドルパサーさんについては』

「偉大なる先達と思っています。そして先達の大きな背を越えることが、私たち新時代の役目であるとも」

 

『ご自身の走りはこのフランスの大地でも通用すると思いますか?』

「私は競走ウマ娘、走りの自信の程は口でなく脚で語ります。フォワ賞での走りを見ていただければ、その答えはご理解いただけるはずです」

 

 

 

 なんとも上手くいなすものだと思う。

 

 こういった悪趣味な質問は、こちらの精神を揺さぶってボロを出させるためのもの。

 けれど、多少イラつくくらいはしてるかもしれないが、彼女は強者としての威厳と微笑を保ったままに堂々と答えていった。

 

 特に話術について授業などした覚えもないんだが、もしかして機転でここまで舌を回してるんだろうか。

 流石というか、驚異的な要領の良さだ。改めてこの子が天才であることを思い知る。

 

 

 

 

 

 

 ……が。

 

 好事魔多しと言ったところか、残り時間15分といったところでアクシデントが発生する。

 

 いや、アクシデントっていうか、事故っていうか……。

 

 

 

『遠征を共にするご自身のトレーナーについてはどう思われますか?』

「歩さ、トレーナーの話ですか!!」

 

 ウィルが思いっきり暴走した。

 

 

 

 

 

 

「私とトレーナーの関係性の説明をする前に私たちのこれまでを理解する必要があります。少し長くなりますよ。

 まず私とトレーナーが出会ったのはある夜、綺麗な月が照らす下でのことでした。未だ契約トレーナーを見つけられず自らの不甲斐なさからオーバーワークをしていた私に、歩さんは手を差し伸べてくれたんです。歩さんは私を誰よりも輝かしき道へと導くと誓い、私は彼に自らの人生をかける。それがトレーナーとウマ娘としての契約より前に私たちが結んだ、最初の契約でした。

 当時の私は今よりずっと未熟で、精神的にも幼く、自らの二本の脚で立つこともままならない生まれたてと言っていいウマ娘。そのくせ跳ね返りだけは一丁前に強く、扱い辛いウマ娘であったことは間違いないでしょう。

 けれど、歩さんはそんな私を決して突き放しはしませんでした。私の幼い心と体に寄り添いその氷を溶かすように、急激ではなくゆっくりと歩み寄ってくれた。今思えばそれが私というウマ娘を成長させてくれた一番の要因だったのではないかと思います。

 これは自論ですが、トレーナーとはウマ娘のトレーニングを上手く付ければ良いというわけではなく、その心に寄り添うことで心身の合一を図るべき者であると思います。契約トレーナーと担当ウマ娘の関係性を指してよく二人三脚という言葉が使われますが、真の理想はその先、二人二脚の完成、即ち2人で作り上げた『ぼくのかんがえたさいきょうのきょうそううまむすめ』を体現すること。

 そして殊この一点に関して、歩さん程私と好相性なトレーナーはこの世界には存在しません。まさしく私たちの出会い、私たちの契約は運命だったと言っていいでしょう。即ち運命の夜。その日私は運命に出会う」

 

 

 

 あかん、彼女の口が止まらん。

 話を止める隙が全く以てこれっぽっちもない!

 

 自分語りならぬトレーナー語りする隙を与えた俺が悪かったのか……!?

 

 

 

「正直に言って当時専属契約を結んだ頃の私は、トレーナーが誰であろうと関係ないと思っていました。誰に付こうと懸命に走り続けて自分を鍛え上げれば負けることはないと、本気でそう思い込んでいた。けれどそれは致命的な間違いだった。ウマ娘1人いればいいのならトレーナーという存在は必要がない。トレーナーと2人で歩み走るからこその競走ウマ娘なんです。

 私がそれを思い知ったのは去年の3月、歩さんと共に故郷を訪れた時でした。お父さんとお母さんに最近のことを報告した後歩さんに心を曝け出して、支えてもらって、ネイチャに貰った熱と併せて一気に私の世界が拓けたんです。

 当時の私が走りやレースに熱中できたのは、間違いなく寄り添ってくれた歩さんがいてくれたから。そうしてウマ娘は心の一部をトレーナーに預けることでより良く走ることができる。とはいえこれはまだ第一段階であり、ウマ娘とトレーナーが辿り着くべき極致ではないのですが。

 歩さんはいつでも私を支えてくれていましたが、それはあくまでトレーナーとしての責務という側面が大きく、私もただ助けられるだけで何も助けられていなかった。本当に私たちに必要なのは前述の通り二人二脚。果たして右脚が左脚の不足を支えるばかりで私たちは万全に走ることができるでしょうか? 否、走ることはできない。互いが互いのミスを補い不足を補完し合う平等な関係を築いて初めて、私たちは一体への合一を成し遂げられるのです」

 

 

 

 いや本当に止まらないな。しかも全然噛まない。どうなってるんだウィルの滑舌と肺活量。いやまぁ肺活量はウマ娘だから当然かもしれないけど。

 

 しかし、いい加減止めないとヤバい。

 俺はウィルの前に手を伸ばして制止しようとして……。

 その手を、ウィルは途中で止め、目線で意思を伝えて来る。

 

 『恥ずかしがらないでいいんです、ここは言わせてください』と。

 

 違う、そうじゃない。

 俺はめちゃくちゃ嬉しくはあっても恥ずかしくはないし、多分今夜ベッドで目をつぶった辺りで恥ずかしくなるのは君の方だぞ。

 

 と、そんな俺の想いは届かず、ウィルは軽快に言葉を転がし続ける。

 

 

 

「そうしてその一歩があの日本ダービー後の事件でした。メンタルもフィジカルもズタボロになった歩さんがちょっとあり得ないくらい酷いことをして、私はそれに怒った。そう、怒ったんです。一方的に助けられるばかりの関係では発生し得ない感情、ただの部下や教え子ではなく対等な相棒になるために必要な一歩だったと思います。まぁ当の歩さんには少し悪いとは思うんですけど。

 でも、それで私の中にあった歩さんへのスパダリフィルターは崩れ去って、ようやく1人の普通の男性として見ることができるようになった。災い転じて福となすと言いますか人間万事塞翁が馬と言いますか、それこそが私が歩さんと同等になるための第一歩になってくれた。

 だからこそ私は歩さんの方にもそうあって欲しいと願った。故にこそ、まずは私の走りに見惚れてもらおうと思ったんです。ただトレーナーとして義務的に管理してもらうのではなく、まず私を、私だからこそ支えたいと思ってもらう。それが真の意味で担当ウマ娘になる第一歩だと。

 そうして私は宝塚記念に、運命に挑み、そうして欲しかったものを掴み取った。真の意味で競走ウマ娘となり、真の意味で歩さんの担当ウマ娘となり、真の意味でこの世界に生まれ落ちた1つの命となった。

 まぁそれで脚骨折しちゃったんですけどね。でもそこで歩さんが付きっ切りでずっとお見舞いに来てくれたり差し入れを渡してくれて、その中で私たちは色んなことを話し合って少しずつ互いを知っていって、あ、その時歩さんってば必死に話題を探してくれたんですよ。それも私がショックに感じないようにって相当に言葉を選んでくれて、そういう不器用な心遣いがやっぱりきゅんきゅんするっていうか、私この人担当ウマ娘で良かったなぁって思うというか。ところでこの時私は初めて歩さんの家族構成を知ることになったんですが、やっぱり歩さんって昔からダメダメだけどすごく真面目な頑張り屋さんなんだなっていうのが家族エピソードの中からにじんでて……」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 結局ウィルは、フランスの寒空が見下ろす中、15分に亘って俺との過去話を語り続けた。

 

 結果として、翌日ニュースサイトにはでかでかと『ホシノウィルム、来訪直後盛大に惚気』と出て。

 

 当のウィルは、日を跨いで冷静になったのか、昼くらいまで真っ赤になって、俺と目線を合わせることすらできなくなっていた。

 

 はぁ……この子、こういうところがほんっと……。

 

 可愛すぎてこっちまで赤くなりそうだわ。

 全くこの子は、油断も隙も無い……!

 

 

 







 一部メディアによる意訳:私の勝ちで結果が決まってるレースの話なんかよりウチのトレーナーの話しようぜ!



 次回は一週間以内。ちょっと変則的なタイミングですが掲示板回を挟みます。
 なんでかって? 出国前にやる予定だったのを丸っと忘れてたからだよ!!



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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【朝一番から】ホシノウィルムさん、海外に出てまずやることは……【糖度マックス】

 このインタビュー……何か、変……?
 まぁクソデカいトレーナーいちゃつきゾーンがあることはこんなん一々言ってもしゃあないんで……。
 ……アッ! 謙虚さ! 謙虚さがない! 謙虚さがなぁぁァァァァァァアアアアアい!!!!
 (スマホぽちぽち)乙名史! 乙名史ィィィィイイイイイイイ!!!!!!



 今回は読み飛ばしても問題なしの掲示板回です。
 定期的にやろうと思ってたんですけど、ついつい忘れがちになっちゃいますね。


 

 

 

1:名無しのウマ娘ファン ID:j8jm6FKLh

 ト レ ー ナ ー 自 慢

 https://news.umagle.co.jp/articles/2295730

 

 

2:名無しのウマ娘ファン ID:/V0JSJWby

 堀ウィルはガチ!!

 

 

3:名無しのウマ娘ファン ID:AYblAwl9k

 くそっ!寝た後だっていうのに砂糖吐くようなもん見せやがって!!

 

 

4:名無しのウマ娘ファン ID:HK5ZBtWpY

 あれおかしいなブラックコーヒー飲んだはずなのに甘すぎるなむしろ俺の口から無限に砂糖が流れ出てくるな

 

 

5:名無しのウマ娘ファン ID:2xLESFZaE

 これで笑わないヤツいる????

 

 

6:名無しのウマ娘ファン ID:/fa4MrVhN

 インタビュー時間:24分18秒

 レースについて語る時間:7分21秒

 トレーナーについて語る時間:16分57秒

 

 レースに向けたインタビューですよね? 推し語りする個人配信じゃないですよね?

 

 

7:名無しのウマ娘ファン ID:LedN/ce1F

 表情も変えず淡々とリアルタイム通訳する堀トレが一番おもろい どんな感情?

 

 

8:名無しのウマ娘ファン ID:FMT9vcF9Q

 すげぇなこの子、15分間殆ど隙間なく喋り続けてら。ウマ娘特有の肺活量かこれが。あるいは愛の為せる技なの?

 

 

9:名無しのウマ娘ファン ID:UOnF4Nl1c

 やっぱ初の海外遠征緊張するんかなとか思ってたら全然落ち着いてて笑うんだよね。なんなら国内の時よりハジけてんなぁ!

 

 

10:名無しのウマ娘ファン ID:4dSy6S5QJ

 昨夜の俺「はぁ、ついにウィルムが海外に行ってしまった……大丈夫かな、心配だ……」

 今の俺「なんか大丈夫そうですねこの感じは」

 

 

11:名無しのウマ娘ファン ID:NSf3H+YHT

 惚気エグすぎィ!!

 

 

12:名無しのウマ娘ファン ID:GHzlDyYCE

 これウィルはトレウマ勢確定ってことでよろしおすか!?!?

 

 

13:名無しのウマ娘ファン ID:/McJ0sS4D

 堀ウィルはガチすぎんだろ……

 

 

14:名無しのウマ娘ファン ID:7DBBpWDw6

 語り始めてからトレーナーの呼び方が「トレーナー」から「歩さん」に変わってたところを見逃さなかったマン「語り始めてから呼び方が「トレーナー」から「歩さん」に変わってたところを見逃さなかったぞ!!」

 

 

15:名無しのウマ娘ファン ID:3hBQJOjtU

 は?

 

 ……は?

 

 

16:名無しのウマ娘ファン ID:fmNEpz3ES

 おいおいおい、かなり攻め攻めな発言もあって現地メディア読めないけどとんでもない盛り上がり方してるっぽくてワロタ

 これが炎上商法ってヤツですか?

 

 

17:名無しのウマ娘ファン ID:mKXio67cU

 ありのまま今起こったことを話すぜ……!

 俺はレースの意気込みを聞こうと思っていたのに、気付けばトレーナーとの惚気話を聞かされていた! 

 何を言ってるかわからねぇと思うが俺も何が起こったのかわからなかった

 専属自慢だとか能力マウントなんてチャチなもんじゃ断じてねぇ、もっとゲロ甘なものの片鱗を味わったぜ……

 

 

18:名無しのウマ娘ファン ID:E1arD7y92

 今動画見てるけど後半ずっとトレーナーのこと喋り続けてて笑う

 そしてトレーナーの方も淡々と通訳してて笑う

 記者たちも真面目な顔で惚気話聞いてて笑う

 なんだこの空間!?

 

 

19:名無しのウマ娘ファン ID:8RUFTWdSz

 誰か止めてやれよこの暴走!

 

 

20:名無しのウマ娘ファン ID:OEfaYcv9A

 うっひょ~~~新鮮な堀ウィルたまんね~~~~~!!

 

 

21:名無しのウマ娘ファン ID:201N0CSV8

 ちょっと凄まじい勢いで新情報落ちて来て興奮してるんだけど何なんだ契約前の最初の契約ってエモすぎて一冊描けるぞnmmnだから描かないけどさぁ!!!!!

 

 

22:名無しのウマ娘ファン ID:jrsxwiuzJ

 >>7 無表情のように見えてちょっと嬉しそうに口端歪んじゃってるんだよなぁ

 

 

23:名無しのウマ娘ファン ID:xvoVWhQzh

 全世界のウマ娘ファンが注目する初回インタビューでこれかぁたまげたなぁ

 

 

24:名無しのウマ娘ファン ID:3py0ox2Gx

 日本の威厳さん、ないなった……海外からのイメージが恋愛脳になってもうた……

 

 

25:名無しのウマ娘ファン ID:Mg/ydYTb0

 >>12 とっくの昔から確定してたんだよなぁ

 今回ほどじゃないけど、これまでのインタビューでも堀トレのこと訊かれた時はかなり饒舌になってたし

 

 

26:名無しのウマ娘ファン ID:zyIn8ix9j

 トレウマだ! コイツらトレウマ勢だったんだ!! うまぴょいしたんだ!!!

 

 

27:名無しのウマ娘ファン ID:KaHCft/Gt

 ────は? 萌え

 

 

28:名無しのウマ娘ファン ID:S2C8CZGou

 >>19 インタビューは相手の情報抜いてなんぼだし、気持ち良く話してくれるのを止めるわけないんだよなぁ……。

 まさかそのままインタビュー時間終わりまでずっと語られるとは思わんし

 

 

29:名無しのウマ娘ファン ID:q7OoFlovr

 いくらなんでもテンション上がり過ぎでしょこの子! 可愛いね♡

 

 

30:名無しのウマ娘ファン ID:eUQqIecHa

 許せねぇ~~~~!! 堀野歩とかいう男、ちょっと金持ちでイケメンで謙虚な性格してて、当時評価されてなかったウィルム見つけ出して心身共に支えて無敗三冠獲らせながら互いに助け合う相棒として3年間を共にしてG1最多勝にしただけでウィルムにここまで想われるとかこんなんNTRやんけ~~~!!!

 

 

31:名無しのウマ娘ファン ID:p7z+nkG+M

 >>16 言い方が悪すぎるわ。ウィルムは元から割とヴィラン役引き受けてくれる良い子やぞ

 

 

32:名無しのウマ娘ファン ID:/q3lZ2X1B

 これ終わった後会場どんな空気だったんだ……?

 

 

33:名無しのウマ娘ファン ID:c1WCzohtc

 レース大好き一家ワイ、朝家族全員でインタビュー見てたらお茶の間ブリザード直撃

 いやまぁトレーナー好きなのは良いけどさぁ!

 

 

34:名無しのウマ娘ファン ID:tNIPdwAbT

 海外行ったら大体皆ガチガチに緊張するか覚悟キマってるかなんだけど、なーんでこの子はノリノリで隙あらばトレーナー語りしてるんですかね? フケか?

 

 

35:名無しのウマ娘ファン ID:NEMxWE0M4

 動画右下の記者が2分に1回くらい「あれーおかしいな?」みたいな感じで頭掻くの芝

 

 

36:名無しのウマ娘ファン ID:IpT3nQAtf

 >>30 脳破壊されてて芝 九朗スレかな?

 

 

37:名無しのウマ娘ファン ID:q+74mjPxc

 「スパダリだとかヒーローだとかを求めるっていうのもまぁナシじゃないんですけど、結局のところパートナーはお互い歩調を合わせて一緒に進める関係が一番ですよ。どちらかが一方的に助けるだけの関係では無理が響きますし、どちらも求めない関係は空虚になりますから」

 ↑中等部の学生の発言です

 

 

38:名無しのウマ娘ファン ID:wWbW46d5X

 何話してるのマジで 15分も続くか普通?

 

 

39:名無しのウマ娘ファン ID:2vGoxE4cQ

 >>30 これで惚れない方がおかしいだろもはや

 

 

40:名無しのウマ娘ファン ID:RkuIwVKSf

 >>30 寝てから言え!

 

 

41:名無しのウマ娘ファン ID:lt6bPeOBg

 非公式wiki爆速で書き換わってて芝

 

 

42:名無しのウマ娘ファン ID:JmNU0LdKd

 >>30 むしろこれ以上求めるものなんてないだろ

 

 

43:名無しのウマ娘ファン ID:CpRcrAyMc

 >>34 シンザン無知で申し訳ないんだけどフケって何?

 

 

44:名無しのウマ娘ファン ID:9w3/ilMlg

 あーたまんね~~~! ウィルムのこういうシリアスとシリアスの間にすっとぼけた恋愛ボケぶっこんで来るのマジで性癖刺さるゥ~~~……

 

 

45:名無しのウマ娘ファン ID:wfgK8tDPi

 >>37 パートナーへの価値観が大人過ぎる

 

 

46:名無しのウマ娘ファン ID:9EzK/KIFv

 >>40 競走ウマ娘への恋、当然ながらNTRじゃないし、それどころか最初に見出したのはトレーナーなのでBSSにすらならずただの横恋慕でしかないのがめちゃくちゃおもろい

 

 

47:名無しのウマ娘ファン ID:6SiELkmjL

 多分ウィルム視点でこれまでの歴史がここまでちゃんと語られたのって初だと思うんだけど、いくらなんでもロマンチックすぎない? 流石に誇張というか思春期特有の誇張は入ってると思うけど

 

 

48:名無しのウマ娘ファン ID:JTEWA0o1F

 >>43 端的に言うと恋愛脳堕ちしてレースに集中できてない状態

 ちなみにウィルムは恋愛脳ではあるがレースに集中できてるよくわからん状態なので、フケにはあたらないと思われ

 

 

49:名無しのウマ娘ファン ID:kX1cvKshy

 >>16 お、シンザンか?

 ウィルムは去年、当時一強とまで言われてたテイオーの感想聞かれて「まぁ三冠は私が獲るから無理だけど、良いウマ娘ではあるんじゃないっすか?w」かました女やぞ

 昔から煽りスキルは超一級や

 

 

50:名無しのウマ娘ファン ID:Sg0eiJ640

 >>38 続 き ま し た

 

 

51:名無しのウマ娘ファン ID:k/U/NUJT1

 >>37 熟年夫婦か? まだ付き合い始めて3年目ですよね??

 

 

52:名無しのウマ娘ファン ID:ym83OcoLq

 一般通過中央重賞ウマ娘なんだけど、正直トレーナーとこんなドラマ体験して良い関係築けるってそれだけで死ぬ程羨ましい。G1とかは雲の上すぎて羨ましいとか思えないけど

 

 

53:名無しのウマ娘ファン ID:T8Y4sEE6t

 強ければ何やってもいいって思ってるのか?!

 いやまぁアンタ程強いなら何やってもいいか……。

 

 

54:名無しのウマ娘ファン ID:BoE4D6OvB

 朝からゲボ吐きそうなだるっだるのあまあまトークやめろォ! 自分のこと振り返って泣きたくなるから……

 

 

55:名無しのウマ娘ファン ID:J7+/MKdjo

 >>52 マ?

 

 

56:名無しのウマ娘ファン ID:HSDZviEPv

 日本のファンを安心させるための高度なムーブやろなぁ……!

 真面目な話するとルドルフの先例もあるし、やっぱ凱旋門行くとなると少なからず不安になるし、個人的にはこれがベストだったと思うよ。安心感すごいし

 

 

57:名無しのウマ娘ファン ID:H1tctVUTJ

 >>52 ガチだとしたらこんな肥溜め見てないでさっさとトレーニング行け! あと応援するから名前教えて♡

 

 

58:名無しのウマ娘ファン ID:DLaUKkGDV

 >>52 キラキラした現役競走ウマ娘がこんな暗い穴倉覗き込んでんじゃねー!! テメーは光の中で幸せに生きてろ!!

 

 

59:名無しのウマ娘ファン ID:lgab0Jk1W

 最近気づいたんだけど……ウィルムって、もしかして……恋愛脳のポンコツなのか……!?!?

 

 

60:名無しのウマ娘ファン ID:hmnJODjya

 マジで何やってんのこの子!? 海外遠征一発目のインタビューですよね!?

 

 

61:名無しのウマ娘ファン ID:rg+Kso/l9

 (この子ガチャとトレーナーのことになると急にアホになるな……)

 

 

62:名無しのウマ娘ファン ID:A8tlYXykS

 >>56 実際安心感はエグい。楽しそうで何よりだわ

 

 

63:名無しのウマ娘ファン ID:TJlkiQmYK

 流石節々から感じる「堀ウィルはガチ」感で数多のトレウマアンチ共を血祭に上げて来た夢男キラーは格が違った

 

 

64:名無しのウマ娘ファン ID:CIPBgAan/

 >>56 これofこれ。いつも通りで安心した

 

 

65:名無しのウマ娘ファン ID:P5kd3/0oX

 >>59

 >>61 ほう、ようやくその境地に行き着いたか

 

 

66:名無しのウマ娘ファン ID:3s5E0O3Wd

 正直トレウマ概念あんま好きくないし堀ウィルは体格差エグくて苦手だったんだけど、どこかで

 「ウィルムは両親を早くに亡くしてるため家族の愛情に飢えている」

 「堀トレはウィルムの良き保護者兼頼れる人であろうとしている」

 って話聞いてからかなりイケる口になったわね

 

 

67:名無しのウマ娘ファン ID:nbKAh5hkf

 >>59 既出 去年の秋には割れてました

 

 

68:名無しのウマ娘ファン ID:WFEF4rfLa

 >>52 流石に嘘だよね? 嘘じゃなかったらこれまでみたいに好き勝手色々言えなくなるんだが???

 

 

69:名無しのウマ娘ファン ID:YgOwFFbMy

 >>66 は? 良すぎか? 推します

 

 

70:名無しのウマ娘ファン ID:noL60bV8f

 フランスの某ニュースサイト「島国のドラゴン、勝てる勝負に興味なし」

 メディアさんポッカポカ!w

 

 

71:名無しのウマ娘ファン ID:pQAf7dzhN

 インタビューってこれでいいのか? ウィルムの知らない話がたくさん聞けたのは満足度高いけども

 

 

72:名無しのウマ娘ファン ID:MjqGASvbC

 >>66 これなんだよな、家族(ただし父娘か夫婦かは解釈による)としての親愛感がある

 まぁやってることは初々しいバカップルなんだけど、それでも根っこのところに恋への憧れとかこの人でいいっていう妥協じゃなく「この人しかいない」って確信がある気がする

 

 

73:名無しのウマ娘ファン ID:Iy/w8fEA2

 トレウマ勢の中でもトップクラスでイチャコラ度高いんじゃないですかねこの子

 というかG1勢の中でここまで開けっぴろげにトレウマしてる子が少ないと言うべきか

 

 

74:名無しのウマ娘ファン ID:9JJBCrAyV

 >>54 おかしいな、俺はまだ何も書き込んでなかったはずなのに俺のレスがあるぞ?

 

 

75:名無しのウマ娘ファン ID:w1itqLRbu

 低血糖だから朝から糖分補給助かる

 やっぱ嘘多すぎて助からない

 

 

76:名無しのウマ娘ファン ID:13aTyXmS8

 >>71 まぁウィルム自身がバチクソ破天荒な子なので、世間ウケさえ良ければいいんじゃね?

 正直ありきたりなインタビューよりは奇抜な方が話題性出るしね

 

 

77:名無しのウマ娘ファン ID:JQHHIpeEc 

 堀ウィル供給助かる これでまた生きていける

 

 

78:名無しのウマ娘ファン ID:Ri395OjZC

 ガチで堀トレのことが好きなんやなってのが伝わって来るわ。嫌という程にな!!!

 

 

79:名無しのウマ娘ファン ID:e5m8zI5oJ

 >>73 最近は割とトレウマ受け入れられがちだけど、一昔前は競走ウマ娘にアイドル的な処女性が求められてたんや

 だから慣習的にG1獲るような子は表じゃイチャコラしない

 

 

80:名無しのウマ娘ファン ID:bUoMUA92h

 へェ……いつもは『歩さん』って、呼んでるんだねェ……(ニチャァ)

 

 

81:名無しのウマ娘ファン ID:VsMJHA2e0

 個人的にはトレウマ大歓迎派閥なのでもっといちゃつけ全国のトレーナーとウマ娘

 

 

82:名無しのウマ娘ファン ID:7LesU7cQN

 思ったより、こう、湿気を感じる関係性なんやな

 噂に聞く限り堀野家って一線引くタイプの育成論だった気がするんだが

 

 

83:名無しのウマ娘ファン ID:wYmPN+zE6

 >>79 多分堀トレが新人()なこともあってか、結構オープンよねこの2人は

 まぁそれがなお新時代って感じして良いし、変な雑音には惑わされず自分たちらしさを貫いて欲しいわ

 でもブルボンにまで手出したら○す

 

 

84:名無しのウマ娘ファン ID:fDYm9FmiP

 >>79 へーそうなんか

 

 

85:名無しのウマ娘ファン ID:F2Z3vqSJS

 現地のファン、ずっと供給のない砂漠で生きて来たのにいきなりこんな濃密な堀ウィルぶつけられたら最悪死ぬんちゃうか

 

 

86:名無しのウマ娘ファン ID:liVe9dyhU

 >>83 お前も時代に取り残された老害やんけ!!

 

 

87:名無しのウマ娘ファン ID:h3sHhYVPc

 うおっすげぇ惚気 夫婦かな?

 

 

88:名無しのウマ娘ファン ID:FZmIvlTrf

 >>39 ウィルムの言ってることが正しいとしたら、堀トレってバチクソ高いスペックに一部分の精神的脆さを持ち合わせる魔性の男やんけ!

 正直女だったら俺も危なかったかもしらん。正直クソ顔良いし。

 

 

89:名無しのウマ娘ファン ID:bgef3yWFx

 >>80 キm

 

 

90:名無しのウマ娘ファン ID:OT7F5l0Eo

 昨夜ワイ「はー次の堀ウィル供給は冬か……そこまで生きれる自信ねー……」

 今朝ワイ「あ^~濃厚な堀ウィル原液助かるゥ~~~……。あと半年は生きて行けます」

 

 

91:名無しのウマ娘ファン ID:bImhZ20iJ

 レースファンにはちょい申し訳ないけどエンタメとしておもろすぎた

 

 

92:名無しのウマ娘ファン ID:qpwQ753dE

 フランスでどう思われてるかって思ってる杞憂民結構いてウケる

 愛の国フランスやぞ(ド偏見)

 

 

93:名無しのウマ娘ファン ID:eLWxE+XI3

 >>87 夫婦だが?(天下無双)

 

 

94:名無しのウマ娘ファン ID:InSLpD6HQ

 あーだめだめ可愛すぎます

 ウィルムのこういう幼さを見るとやっぱ恋愛対象じゃなく娘的な視線で見ちゃうな

 まぁこんなロリに夢中になってたらソイツはロリコンだけどな!! まさかそんなヤツいねぇよなァ! なあ堀野歩トレーナー!!!

 

 

95:名無しのウマ娘ファン ID:mUc1D/6c4

 いつも以上のテンション開放可愛すぎて永遠にリピれるなこれ

 個人的には22:15辺りの「まぁこう見えてめっちゃダメダメな人なので歩さんの魅力は大半の人がわからないかもしれませんが私だけがわかってればいいんですよパートナーなんだから!」の早口感がたまらん

 

 

96:名無しのウマ娘ファン ID:A+KvxcQpU

 >>87

 >>93 いちゃラブ円満夫婦なんだが?(無敗三冠)

 

 

97:名無しのウマ娘ファン ID:j1klHe3SL

 ??????????????????????可愛すぎますねどう考えてもこれは供給過剰なんですがどうなってるんですか前世でどれだけ徳を積んだんですか私はなんでこんなに萌えるんですか恋するウマ娘って

 

 

98:名無しのウマ娘ファン ID:NOP4xyiXD

 >>92 実際現地メディアは割と良い意味で盛り上がってる印象ある。

 あっちの掲示板の反応見てる感じ、従来のウィルムのクールな印象から、実際に見た時の外見の幼さとか恋愛脳なところがギャップになってかなりウケてるっぽい。

 

 

99:名無しのウマ娘ファン ID:ssJQt/tkq

 まぁもうちょいレースの話してほしかった感はあるけど、それ以上にウィルムが元気そうで良かったよ

 いやちょっと元気すぎない? いつものレース終わりの時くらいのテンションじゃない君?

 

 

100:名無しのウマ娘ファン ID:SThwKSwgj

 もうこんなんハネムーンだろ

 お幸せにとしか言えねぇ(脳破壊後感)

 

 

 

 







 こうして世間では盛り上がっている一方、堀野君は妹ちゃんに、ウィルにネイチャに、電話でガミガミお説教を受けるのであった。



 次回は1週間以内。ホシノウィルム視点で、あらゆるバ場への適応、最強の後出し転生チートの話。
 異(世)界神翔宇居夢


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私の転生チートがおかしいって、弱いって意味だよね?

 ちょっと難産気味な回でした。





 

 

 

 入国直後、ロンシャンレース場でのインタビューが終わって、2日が経過した。

 

 この間、色々あった。

 

 歩さんに怒られる……まではいかないにしろ、「君ちょっと暴走しすぎじゃない? せめて10分に収めてくれないと」「終わった後すごい雰囲気だったし、ネットでもすごい反響だぞ」「個人的にはとても嬉しくはあったが、そういうのは2人きりの時に……な?」とお小言をいただいたり。

 

 その日の夜、寝る前になってようやく冷静になり、ハイテンションのままに自分のしでかしたことに、枕を抱えて足をバタバタさせてしまったり。

 

 あとは、ふと気になってエゴサをしてみたら、なんか大量に脳破壊された人が出て来て、何とも言えない気持ちになったりもしたね。

 

 

 

 ……なんか、こう、あれだよね。

 脳破壊って傍観者とか当事者とかだから笑ったり怒ったりできるけど、これがいざ「される」立場になると、何とも微妙な気持ちになるもんだ。

 

 いや、私が元々その人たちの内誰かの恋人だったり妻だったりで誰かに寝取られたっていうんなら「申し訳ないなぁ」って思うのかもしれないけどさ。

 私、その人たちの顔も名前も知らないのよ。

 強いて言えば、私のファンなんだろうな、ってことくらいしかわからないわけで。

 そんな人たちが「私を取られた」って言ってても、そもそも私その人たちのものじゃないしなー、という微妙な感想しか出てこないんだよね。

 

 私はファンの皆のことをめちゃくちゃ好きだけど、その「好き」はラブじゃなくてライクだし、愛じゃなくて好ましい、だ。

 別に恋愛感情を向けてもらう分には構わないんだけど、アイドルとしてもアスリートとしても、そして1人の乙女としても、それには応えられないんだ。

 裏切られたように感じられても……そのご期待に沿えず申し訳ないというか、うん、どうしようもない。

 

 あ、もしかしてBSSなりWSSのヒロイン側ってこんな気持ちなのかな。

 好きは好きだけど、別に性とか愛の対象じゃありませんでした的な? 裏切ってごめんというよりは、その想いに応えられなくて、不幸せにしてしまったことが申し訳ない的な?

 うわー、一気に気持ちがわかってしまった。人生で絶対役に立たない知見を得ちゃったよ。

 

 ……フランスに来て一番に知ったのがこれかぁ。競走ウマ娘としてどうなんだろ、これ。

 私、なんていうか、ほんと要所要所でキマらないよね。

 

 

 

 ともあれ、数日もあれば、良くも悪くも興奮と感情は褪せていく。

 恥ずかしさとか微妙な感情とか見慣れぬ土地への興奮とか、そういった一時の感情も徐々に落ち着きを見せ、私はゆっくりと平静を取り戻しつつあった。

 

「ウィル、今日はリクエスト通りカレーにしてみたぞ」

「わぁいカレー! ウィルムカレーだいすき!」

「合わないかもしれないが約束の味噌汁と、それからハムサラダもあるからこれも。あ、ドレッシングはこの中から選んで」

「いぇーい和風ドレッシング! フランス感ゼロ♡ ゼロ♡ ゼロ♡」

 

 嘘。正直まだあんまり落ち着けてない。

 

 いや、そりゃさぁ!

 好きな人と3か月とはいえ同棲生活!

 しかもめちゃくちゃ美味しい料理作ってくれたり、掃除も完璧にこなしてくれたり!

 疲れて帰ってくれば家で待っててくれる、スーパーパーフェクトパートナー!!

 果てにはお願いすれば添い寝(あくまで寝付くまで隣で横になるだけ)もしてくれる!!!

 

 こんなの落ち着けって方が無理でしょ!! どう考えても!!

 

 私を笑ってるそこのお前! じゃあお前はこんな環境で興奮せずにいられるかって話!!!

 え、いられる? すご。私の師匠になってほしい。

 

 前世じゃ大学まで行った精神を引き継ぎプレイしてる私ではあるが、今世の体はあくまで中等部のもの。

 どうやら精神は肉体に強く引きずられるものみたいで、私の精神性はもはや完全に中等部レベルにまで退行してしまっている。正直ちょっと恥ずかしいけども。

 しかも、自分で言うのはなんだけど前世も幼少期も割とアレだったから、人の特別な善意とか温かみとかにすごく弱いんだ。

 

 つまるところ、無限大の愛情(ただし競走ウマ娘に向けたもの)をくれる歩さんに、私はめちゃくちゃに弱いのだ。よわよわなのだ。

 こうして同棲なんてしてしまえば、テンションが上がってしまうのは仕方のないことだと思うのです。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 と。

 そんな風にまだふわふわ調子だけど、私がフランスの地に慣れてきているのは、確かな事実で。

 

 歩さんは、カレーをパクパク口に入れている私を微笑みながら眺めて、言った。

 

「……よし。そろそろだな」

「ほおほお?」

「ああ。明日から、こっちの芝で走ってみるか」

 

 

 

 堀野歩というトレーナーさんは、ゴリゴリの慎重派だ。

 石橋を叩き、叩き、叩き、遂には叩き割ってしまい、「ああやっぱり耐久度が足りなかったか」とか抜かして鉄筋コンクリートで橋を建築し始める。そんなちょっと困った愉快な人である。

 

 フランスに来てからもそのスタンスは変わらず、「まずは環境や時差に体を合わせるのが先決だ」と、芝の上で走ることを禁止されていた。

 別に走ること自体は問題なくない? 無理しない程度にセーブすればいいのでは? と思ったら、「君芝の上で走ったら楽しくなって走りたくなっちゃうでしょうが」と真顔で返された。

 流石トレーナー、私のことをよくわかっていらっしゃる……。

 

 

 

 でも、ついに彼のお眼鏡に適ったようで、私はようやく芝の上を走ることを許された。

 

 つまるところ……本気のトレーニングと自主トレ解放である!!

 

 よーし、いっぱい走るぞォーッ!!!

 

「明日に備えて今日は自主トレは30分な。走って良い範囲も、既にアプリの方に送ったから」

「はい……」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 競走ウマ娘のレースは、世界的に人気のあるコンテンツだ。

 

 いや、より正確に言うのなら、「人気がある」なんて言い方じゃ甘い。

 ダントツで世界一愛されているコンテンツ、と言っていいと思う。

 

 前世の世界じゃここまで一強なコンテンツは多分なかったと思うし、比喩じゃ表現し辛いんだけど……。

 例えて言うのなら、前世の日本におけるサッカーとか野球とかのスポーツ関連とアイドル関連を全部足して割らない、みたいな感じかもしれない。

 

 多くの人が私たち競走ウマ娘を見てくれている。

 リアルタイムでレースを見てくれているのは、多分数十万単位。

 けど、遅れて動画で見てくれる人は何百万人といて、そこにアイドルとしてのパフォーマンスも加えれば、私たちのファンは多分千万人単位になる。

 

 前世の世界で、オリンピックとかプロ野球とかの世界的スポーツ競技を一切見ない・知らない人は多くなかった。

 それと同じように、この世界ではウマ娘たちを見ない人の方が少数派なのだ。

 

 この世界じゃそれが至極自然なことだけど、前世の感覚を持つ私としては、これがとんでもないことだって理解できる。

 人の好き嫌い趣味嗜好を貫通するレベルで、競走ウマ娘のレースは人の心に響いているんだ。

 アスリート冥利に尽きるよね、本当に。

 

 で、その結果として。ホシノウィルムくらいバチバチに活躍しまくると、日本でその名前や見た目を知らない人はまずいないくらいになる。

 なんなら世界規模で見ても結構浸透してるくらいだ。歩さんの話だと、ダートがメインのアメリカ周辺でも私の名前は結構知られているとかなんとか。

 

 勿論、日本で私に続いているネイチャやテイオー、マックイーン先輩、そしてドリームトロフィーの先輩たちもまた、かなりの人気を博している。

 ネイチャなんかはラジオとか動画配信系の露出も結構増やしてるんだけど、喋りのプロより何倍も数字出しててクラクラするよ。

 ネイチャもまぁまぁ技術持ってるとはいえ、プロに知名度で殴り勝ってる光景は元オタクとしてはなかなかに思うところがあったりなかったり。

 

 

 

 と、ちょっと話は逸れてしまったけど、とにかく。

 それくらい、競走ウマ娘のレースっていうのは、世界的一大コンテンツなのである。

 

 で、そうともなれば、競技者のための特訓施設なんかもしっかり整えられているわけで。

 トレセンを卒業したドリームトロフィーリーグの競走ウマ娘や、今の私のように現地トレセンの施設を使えない海外のウマ娘のための施設が、フランスにも結構あるらしい。

 

 歩さんは、私たちの愛の巣(愛の巣!)にそこそこ近いところにあるそれを借りてくれた。

 

 

 

 私たちにとっての本番は、ロンシャンレース場での凱旋門賞。

 更に言えば、1つ前の同レース場でのフォワ賞も本番と言っていいかな。

 

 で、ロンシャンレース場……というかヨーロッパのレース場は、日本のそれとは全く違うらしい。

 インタビューの際に入りこそしたけども、私はまだあそこのレース場で走ったことはないので、確かなことはわからないけど……。

 確かに、歩さんから見せてもらった見取り図のコースの形状とか、ラチとか掲示板とか、色々と日本のそれとは違っていたと思う。

 

 で、そんな中でも、日本のウマ娘の前に立ち塞がって来るのが……。

 芝と、それに基づくレース性の違い、らしい。

 

 

 

「レースに使われる芝は、2つに分けられる。野芝と洋芝だ」

 

 レンタルターフに向かう車中。

 運転席に座る歩さんは、空き時間を利用しての授業タイムに入る。

 

 私はこの時間、結構好きだ。

 授業で学ぶ、いつ役立つかもわからない縁遠い知識と違って、歩さんは実践的で必要不可欠な知識を教えてくれる。

 だから自然と興味も湧くし、更には歩さんボーナスで楽しさは3倍増し。

 楽しめないわけがなかった。

 

「あ、それ授業でやったような気がします! あんまり覚えてないですけど」

「ちなみに日本中央トレセンの教育カリキュラムでは、これを習うのは1年秋だ」

「…………名前覚えてるだけ偉くないですか?」

「めっちゃ偉い。150点あげる」

「えへへ」

 

 

 

 と、おふざけはともかく。

 

「それで、野芝と洋芝というのは?」

 

 私が話を促すと、歩さんの講釈が始まる。

 

「まず、野芝。これは端的に言えば、日本で君が走っていた芝だ」

「なるほど。それでは洋芝が……」

「ああ。こちらで使われている芝だな」

 

 続けて歩さんが言うことには、こっちの洋芝はいくつかの特徴を持っているらしい。

 

 まず、野芝と比べて丈が長く柔らかく、地中の茎の密度が濃い。

 地中で太い茎が絡みついている野芝に対し、洋芝は細い茎が幾重にも重なる形に形成される。

 そのため水を地面に逃がしにくく、バ場状態が悪くなりやすい。

 それもあって、野芝に比べて反発力が弱く、上を走るのに大きなパワーを要する。

 結果的に時計は遅くなりやすい。

 

 ……つまり、速く走りにくくてパワーのいる芝ってことね! 了解!

 

 

 

「了解してなさそー……。まぁいいか、今からそれを実感することになるし。

 次に、和洋のレース性の違いだ。バ場に違いがあるからこそ、日本のレースと西洋のレースは結構大きく異なっている」

「まぁ、至極真っ当な話ですよね。戦場が違えば戦い方も違う。日本の芝とダートの違いみたいな感じ」

「まさしくその通りだ。察しが良くて助かるよ。

 一般的に言って、芝がクッションとなるため走りやすい芝のレースに比べ、ダートは走る際に強いパワーを要する。

 そのため力自慢のウマ娘が活躍しやすく、レースの基準となるパワーや、瞬時に加速するために必要な瞬発力も跳ね上がる。

 そしてこの『速く走りにくい』という特徴は、実のところ洋芝にも当てはまる。そのため、近年では芝のウマ娘よりダートのウマ娘の方が凱旋門賞に勝てるんじゃないか、という話もある」

「まぁ今年で芝のウマ娘が勝つので、その言説は弱くなりそうですけどね」

「発言が強すぎるんだよなぁ……同意はするけども」

 

 いや実際、私と歩さんで負けることとかある?

 歩さん曰く、今年の出走ウマ娘は結構小粒気味って話だったし。

 まぁテイオー級の化け物が来れば楽しいレースもできるかもしれないけど……。

 

 

 

「そういえば、ちょっと話はズレますけど、あの子どうなりました? 何でしたっけ、私のこと意識してるっていう」

 

 出国前に聞いた、もしかしたら伸びてくるかもしれないって言うウマ娘。

 最近続報を聞いてないな、と思ってたんだけど……。

 

「…………」

「え、なんですかその感じ」

 

 歩さんのどことなく不穏な沈黙に、私は困惑。

 カーブの際にちらりと見えた彼の横顔は……私と同じような、困惑の顔?

 

「いや……正直わからない」

「わからない? 歩さんが?」

「俺にだってわからないことはあるさ。特に強い競走ウマ娘のことは」

 

 ハンドルを握る歩さんは、視線は前に投げたまま、ぼんやりと語る。

 

「過去のデータを調べた。あの子はジュニア級からクラシック級の序盤まで、決して高いステータスを有していなかった。

 それなのに、デビュー時にはかなり飛び抜けて高い能力を持っていた。ぶっちゃけ入学時の君と同格、並大抵のウマ娘では勝てないレベルだ。

 あまりに急激な成長だった。恐らく原因は君なのだろうと思うが……」

「え、私?」

 

 私、その頃は……ええと、今年の1月とか2月でしょ?

 その頃は、普通に歩さんときゃっきゃうふふしてただけだと思うんだけど。福引で大爆死したりルドルフ会長に挨拶させられたりとか、そんな感じ。

 

 海外のウマ娘に接触とかした覚えはないんだけども……。

 

「競走ウマ娘は、時に強敵を意識することによって爆発的に成長する。

 それこそ去年のダービーのテイオーが良い例だ。皐月賞では大敗を喫した君に対し、策など巡らせることなく迫ってみせた。

 そこに物理的な距離は関係しない。あくまで大事なのは『意識すること』だからな。手近なウマ娘の方が意識はしやすいだろうが、今のご時世遠くのウマ娘に感化されることも珍しくはない。

 そんなわけで今回もまた、君の偉業がまた1人のウマ娘を覚醒させた、というわけだ」

「うわ……放っておいても勝手に他のウマ娘が強くなってくれるとか最高ですね!」

「バーサーカーこわぁ」

 

 歩さんはちょっと引くように呟いた。

 まったく、失礼なもんです。私に熱を教えてバーサーカーにしたのはあなたでしょうに。

 

 

 

 ちょっと不満げに頬を膨らませてると、歩さんは取り繕うように言う。

 

「こほん。……さて、肝心の相手の実力だが、ぶっちゃけここからどこまで伸びるか未知数だ。

 今までは遥か遠方、存在も感じ取れなかった君というライバルが、今は手の届く距離にいる。

 その意識が、彼女をどこまで伸ばすかはわからない」

「へぇ、楽しい勝負になりそうですね。まさかとは思いますが……負けちゃう?」

「勝つさ」

「その言い方なんかフラグくさいからやめてください」

「え、なんで?」

 

 なんとなく。

 

 

 

「……と、話が逸れたな。レース性の違いに戻ろう。

 日本の野芝はスピードが出やすいため、こちらのものに比べて『高速レース』などと呼ばれたりする。レースの基礎ペースが速く、その分ラストスパートの速度の伸び幅は控えめなのが特徴だな。

 対して、こちらの洋芝は恒常的なスピードが出せないからこそ、鍛えられた瞬発力による終盤の末脚の鋭さは驚異的。そして序盤中盤の競り合いも激しくなる傾向にある」

「なるほどなー。……となると、激しい競り合いに慣れてない日本のウマ娘にとって、先行とか差しは結構キツめです? 終盤の末脚勝負も不利でしょうし」

C'est exact.(その通り。) 故に数年前のエルコンドルパサーは、派手な逃げの策を取ったわけだ」

 

 ほへーと納得。

 先行とか差しみたいな脚質は、バ群に対してどのポジションで走るか、だ。

 こっちのバ群、レースの基準ペースに併せたら、どうしたって終盤に競り負けてしまう。

 

「そういう意味じゃ、逃げとか追い込みが有効? ……でも、追い込みだと末脚勝負で苦戦しますかね。なにせ日本とはラストスパートの基準加速度が違うでしょうし。

 最初っからバ群に付き合わず、自分の最適ペースで走れる逃げが最適?」

 

 私の推論に対し、歩さんは「惜しい」と付け加えた。

 

「その考え方が主流だったんだが、エルコンドルパサーの時の反省もあってか、近年はそれに対するカウンターとしてラビットがマークして掛からせてきたりもするんだよな。

 結果として今は、凱旋門賞は逃げではまず勝てない、と言われたりもするんだ」

「ラビット……って確か」

「同陣営のウマ娘が、他の子を勝たせるために無理にペースを速め、有力な相手を突いたりすることだな。

 西洋じゃ一般的な戦法の1つだし、今回も君を掛からせようとしてくる子はいるだろう」

「うーん、日本じゃちょっと受け入れられそうにないですよね、この戦法。確実に勝率を上げる戦法ではあると思いますが」

 

 卑怯だとかラビットになったウマ娘がかわいそうだとか言われそう。

 個人的には、本人が納得してやってるのならいいと思うんだけどね。

 自分が勝つ必要はない、自分たちが勝てばいい。そう割り切って戦って来るのなら、それは立派に戦法だし、強敵だ。

 そこで競技に参加してすらいない他人が口を挟むのは、まさしくお門違いというヤツだと思う。

 

 だけど、ファン視点からすると面白くない、というのもわかる。なにせ元オタクだから。

 こういう時には基本アスリートよりファンの意識優先だ。日本ではまだしばらくの間、公にはラビットの戦法は使われないだろうね。

 

 

 

 そんなことを考えていた私の前で、歩さんは苦笑を漏らした。

 

「まぁ、君には通用しないだろうがな」

「当然。こう言っちゃなんですが、ラビットになるってことは私を倒し得る一線級じゃないってことでもありますからね。ぶっちゃけそんな子に焦らされる私じゃありません」

 

 ブルボンちゃんなんかを見てると、ウマ娘がやっぱり前世の馬らしい本能を残してることがわかる。

 相手がどんなウマ娘であれ、その存在自体が自分の本能に火を点け、掛かってしまう。

 それはどうやら、ウマ娘の常であるらしい。テイオーみたいなとんでも大天才であれば話は別かもしれないけども。

 

 ……が。

 私は、前世での魂? が混ざってる? からか、その辺の弱点がない。マジでない。本当に絶無。ただ相手がそこにいるってだけで焦って掛かっちゃうことはないんだ。

 

 仮にそれがネイチャやテイオーみたいな因縁のライバルであっても、例外ではない。

 まぁ、相手の挑発にムカッと来て掛かっちゃうこととかはあるかもしれないけどね。

 ネイチャなんかは感情を煽るの上手いし、技術的に掛からされることは十分にあり得る。

 

 けど、そういう本能的な掛かりがないって時点で、ウマ娘としては特例的な程の強みになるらしい。

 

「特殊な素質故ラビットが通用せず、なおかつバ群に影響されず確実に有利なポジションを取れる大逃げウマ娘。

 そういう意味では、君は凱旋門賞において、最もと言っていい程に有利な日本ウマ娘だろうな」

 

 

 

 歩さんはそう結んだあと、「だが」、と付け加える。

 

「その有利はあくまで他の日本のウマ娘と比べた相対的なもの。君がこちらの洋芝に慣れない限り、勝利は遠いだろう。

 というわけで、まずは何よりそこを解決するぞ。『アレ』の使用も許可する」

 

 

 * * *

 

 

 

 歩さんがレンタルしてくれた施設に到着。

 いざ、アイドルウマ娘ではなく競走ウマ娘として芝に脚を踏み入れて……。

 

 まず第一に感じたのは、歩さんの言った通り、日本のものとは全く違う芝の感触だった。

 

「柔らかい……いや、重い?」

 

 沈み込むような、やや頼りないような、不思議な感じ。

 本当に同じ芝かと見紛う……とまでは言わないけど、ここまで感触が違えば、確かに全く別の戦場という表現は適当だと思い知る。

 

「ふむ……」

「行けそうか、ウィル」

「……正直、断言はできませんね。なので、早速『アレ』使います」

「よし、行け」

「はい!」

 

 歩さんの許可をもらい、走り出す。

 

 まずは1歩、2歩、3歩。

 事故が発生しないよう、慎重に加速していき……。

 

 4歩目で、使う。

 私の持つ最大の力……『アニメ転生』を。

 

 

 

 多分、私の転生特典の1つなのだろう、『アニメ転生』。

 これは端的に言えば、「走行中のみ思考力を爆増させる」というもの。

 継続可能時間はおおよそ30秒間、一度使えば数時間は再使用不可能。

 それが私の持つ、恐らくは転生特典なのだろう力の概要だ。

 

 発動すると同時、私の体感時間は非常にゆっくりになる。

 人が認識する時間は絶対的なものではなく相対的なものであり、なおかつ体感的なもの。

 つまらないことがあれば時間の進みが遅くなるように、楽しいことをしている間は時間の進みが速くなるように、その進み方は場合によって変動し得る。

 

 私の場合はメンタル的な手法ではなく半物理的な手法によって時間の進みを鈍化させる。

 つまるところ、現実から得られる情報量に対して、それを処理する速度の大幅な上昇。

 本来1秒間かけて処理すべき1の情報量を100分の1秒で処理するが故に、他のことを考えるだけの余裕が生まれる、というわけだ。

 

 イメージとしては、ちょっと暗いけど、走馬灯が近いかな。

 一説には、アレは命が絶たれるような危機に瀕した時、それを回避するためにこれまでの人生を振り返って解決策を探しているのだという。

 そしてその際は、咄嗟に脳をフル回転させるために、時間がゆっくりに感じられるのだとか。

 

 私の『アニメ転生』はそれに近く、思考力の増加に反比例して、時間の流れが遅くなっている。

 故に、一歩一歩足を動かす毎に、ここの芝がこうなってるとか、ここはこう踏み込むだとか、後方の様子とか私の残ったスタミナとか、そういうことを分析・思考・構想する余裕が生まれるわけだ。

 

 実際今も、5歩目を踏み込むまでにターフの分析とこれからの走りの構想構築をしながらもこれだけ考える余裕があるわけで、チートとはげに恐ろしきものだ。

 

 

 

 ……さて、それはともかくとして。

 差し出した5歩目の脚が地面を捉え、私は構想を進める。

 

 車の中で歩さんから教わったこと、野芝と洋芝の違い。

 確かに歩さんが言っていた通り、こっちの芝は、やや脚が沈み込むような感覚がある。

 走るのにパワーのいるバ場。トレーニングの際時々走るダートに近い気がする。

 言っていた通り、芝で走るウマ娘よりもダートのウマ娘の方がこっちでは活躍できるかも? でも芝に慣れる必要があるし、それはそれで苦労がありそうだけど。

 

 脚が沈み込み、反発力が低いということは、それだけ強めに踏み込む必要があるということで。

 速度もそうであるように、いつも以上にパワーを入れれば当然スタミナは多めに消耗してしまう。

 凱旋門賞は2400メートル、しかし走るのに必要なパワーの高騰を考慮に入れて、日本式に直せば……消耗するスタミナは、2800とか2900メートル分になるだろうか。

 

 そういえば、日本と世界では、レースの距離の区分が違うんだったか。

 日本での中距離は1800から2499メートルまでを指すんだけど、世界的な中距離は1900から2100メートル、だったはず。ちょっとうろ覚えだけど。

 

 2400メートルの凱旋門賞は「Long」、つまり長距離に区分される。

 この区分けに若干違和感のあった私だけど、確かにこのバ場であれば2400メートルは長距離、ステイヤーの領分に入るんだろう。

 

 つまるところ、私の本領だ。

 

 

 

 正しい角度。

 正しい力の込め方。

 正しい脚の力。

 

 適した踏み込みをすれば、ターフは必ず応えてくれる。

 

 そして、必要となるそれらの条件は、既に頭の中で算出し終わっていた。

 

「……ふッ!!」

 

 5歩目。

 私は、一気に加速し、私自身のミドルペースにまで速度を上げる。

 

 慣れないバ場で速度を出すと、転倒とか足首の捻挫とかの危険性もあるんだけど……。

 「アニメ転生」使用中はそんな心配もない。常に頭を回していれば危険なんてないし、あったとしても回避可能。ソースはライスちゃんとの自主トレでの危機回避。

 

 次の6歩目で、5歩目で感知した微妙な誤差や誤謬を正す。

 7歩目、8歩目と踏み出す内、走りは完全な形に近付いていく。

 

 そうして30秒が終わる頃には……。

 日本での走りにはまだ届かないにしろ、ひとまず見られるくらいにはなっていたと思う。

 

 うん、我ながら悪くない。

 これから毎日やっていけば……多分、フォワ賞で無様を晒すことはない、かな。

 

 

 

 5分間の試走を終えて、歩さんの方に走り寄ると……。

 歩さんは、私と手元のタブレットの間で視線を何度も行き来させながら、眉根を寄せていた。

 

「この短時間で、推定適性GからEに……? その上思考力増加中はB? なんだそれ……えぇ……?」

 

 ……私、また何かやっちゃいました?

 

 

 







 ギャグと説明とチートと、色々詰め込もうとした結果ごちゃごちゃした回になっちゃったかなぁと反省。
 でも要素分けたらちょっと間延びしそうだったしなぁ……うーん。



 次回は堀野君視点で、対フォワ賞分析とまだ見ぬ強敵の話。



(本編に関係ない呟き)
 伝説のポケモンが寝てるからって常に帯電してバンバン落雷降ってる草原で寝るの、もはや狂人では?
 いいキャンチケとなかよし焚いてチャンスお祈りしないと4匹目は難しそうかなぁ。

(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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強敵の大体二人

 2人(2人とは言っていない)
 いよいよタイトルがネタ切れしてきました(n回目)。


 

 

 

 フランスに渡ってから、1週間程が経過した。

 

 驚くべきことに、ウィルはこちらの芝を走ることになった初日、いきなり洋芝の適性を2段階くらい上げた。

 

 一応、誤解なきように付け加えれば、これは何も絶対に正確な評価というわけではない。

 俺の『アプリ転生』で見ることができるバ場適性は、今も昔もダートと芝……つまり野芝だけだ。

 これまでの経験からして、俺の『アプリ転生』は俺がゲームから離れた時点ではなく、もっと先の仕様を反映しているみたいだ。

 あれから前世ゲームで海外のレースや洋芝が実装されたのかは知らないが、仮にされていたとしても、マスクデータかイベント系のデータになっていた、ということだろう。

 

 故に、正確には洋芝の適性を測ることはできないんだが……。

 それでも、これまで海外遠征してきた日本のウマ娘たちのデータや、本場のG1レースのタイムなどから、ある程度は推察と考察もできるわけで。

 

 俺から見て、走り始めたウィルの姿勢は割と滅茶苦茶で、一瞬止めようかと思うくらいに乱れていた。

 つまるところ、適性G。

 全く以て不慣れな、その脚で走るのには適さない地形だったのだろうと思う。

 

 ……が。

 「思考力増加」中のウィルの走りは、最低でもBレベルの適性を有していると思えた。

 

 想像してもみてほしい。

 走り出して4歩目くらいで、わけわからんくらい急激に走り方が最適化され、推定適性が5段階くらい爆伸びする様を。

 

 一般常識のあるトレーナーとしては、正直、絶句する。

 いや、絶句するどころかドン引きレベルだ。ウィルはぎこちない顔で「だ、大丈夫ですよ? 怖くないですよ~? だから引かないで、ね?」と言ってきたけど、流石にちょっとビビるよこれは。

 

 いやまぁ、俺としても、ウィルの思考力増加能力にそれをこそ期待してたんだけどさ。

 彼女の慮外の集中力なら、あるいはこの洋芝にさえ簡単に適応できるのではないか、と。

 

 でも、流石にここまでとは想定していなかったんだよなぁ……。

 初日はひとまず慣らし。ここから1週間以内に1段階ずつの上昇を目指し、まぁ実際にはそれも厳しいだろうから2週間に1段階を目途にして……本番までにC、欲を言えばBまで上げられればいい、と。

 そういうプランだったわけだが……。

 

 どうやら俺は、まだまだホシノウィルムというウマ娘を侮っていたらしい。

 

 この世界において、適性は指数関数的に上がりにくくなる傾向があるので、これからも毎日2段階上がる、なんてことはないとは思う。流石にね。

 むしろ、頭を使って上げられるのはこの二段階が上限で、後は俺が想定していた通り、長い時間を使って体を慣らすことが必要になるのかもしれない、とも思える。

 

 が、それらは当然ながら俺のプランを瓦解させるものではなく、むしろかなりの前倒しを求めるものだ。

 

 改めて、俺の担当は完全に常識の外にいる存在らしい。

 流石は暫定転生チートウマ娘と感心すればいいのか、あるいは呆れればいいのか。

 

 ……俺もあんまり人のこと言えないか。数値化も大概チートだし。

 

 

 

 と、そんなわけで。

 もう少しウィルが洋芝に慣れてからにしようと思っていた作戦会議を、少し早めに開催することにした。

 

「それでは、君の次走、フォワ賞に向けての情報共有と作戦会議を開始する」

「わーぱちぱち!」

 

 ウィルと共に住んでいる家の居間、テーブルの上に各種資料を並べながら宣言。

 対してウィルは、少し大げさに両手を鳴らすことで応えてくれる。

 

 去年の夏からはブルボンや昌が参加していたため、2人きりの作戦会議は1年ぶりになるだろうか。

 久しぶりになるからか、あるいはまだテンションが上がったままだからか、ウィルはにこにこしながらテーブルの下で脚を揺らしている。

 尻尾もゆらゆら揺れているし、どうやら楽しみにしてくれているらしい。

 

 少し珍しいな、と内心で首を傾げる。

 彼女は座学より実践派。作戦会議もそこそこ楽しみはすれど、基本的にはそこまでテンションが上がるわけじゃないんだが……。

 

「今日は楽しそうだね。どうした?」

「そりゃ楽しいですよ! なにせ海外初の、そして久々のレースですし!」

「あ、そういう」

 

 なるほど、楽しいというよりは、来たる戦いに向けて意気込んでいるらしい。

 この子、レースを何より楽しむ性質上、気合を入れる様子と楽しそうな様子が表裏一体なんだよね。

 

 ホシノウィルム検定準一級を自負する俺も、この辺りの見分けは付かない。まだまだ未熟である。

 確かな参考書とか論文がないから勉強しようにも難しいんだよね、乙女心とウィルの宙……。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、それでは改めて、本題に入るとするか。

 

「まずはフォワ賞について確認していくぞ。何か疑問があればすぐ訊くように」

 

 

 

 フォワ賞。

 それは、凱旋門賞のステップレースの1つだ。

 

 日本のウマ娘は国内のレースに集中しがちだが、実のところ他国と距離的に移動しやすいヨーロッパでは、ウマ娘が他国のレースに出るということは珍しくない。

 故に、G1レースの優先出走権を得るためのステップレースも、国境を越えた広い範囲、多い回数開催されることが多かったりする。

 

 世界最高峰のレースたる凱旋門賞もその例には漏れず、ステップレースは5か国に亘り、実に15回近く行われる。

 

 そして、フォワ賞はそんなレースの中でも、最も注目されるものの1つだった。

 

 他と何が違うかと言えば、開催地と条件だ。

 

 クラシック級のウマ娘による、G2ニエル賞。

 同じくクラシック級の決戦、G1ヴェルメイユ賞。

 そしてウィルの次走であるシニア級レース、G2フォワ賞。

 

 この3つのレースは、ロンシャンレース場、2400メートルのコースで競われる。

 そこには、悪路になりやすいバ場に10メートルという高低差の坂、そしてフォルスストレートと、日本のレース場にはないたくさんの特徴があるわけだが……。

 それは一旦、さておくとして。

 

 つまるところ、フォワ賞は凱旋門賞とほぼ完全な同条件の、シニア級のグレードレース。

 本番に向けたこれ以上ない調整の場であると共に……。

 ここで結果を残したウマ娘は、凱旋門賞でも実力を発揮できる可能性が高い、というわけだ。

 

 

 

「でも言ってもG2レースですよね~。手強い相手っているんですかぁ?」

 

 ちょっとふざけて訊いて来たウィルに、俺は真面目な顔で頷く。

 

「いるぞ。というか、凱旋門賞前に行える実戦での調整の場なんだ、当然強者も参戦してくるさ。

 ……ウマ娘は、君のように叩きなしで全力を振るえる子ばかりではないということ、きちんと覚えておくといい」

「そういうもんですか」

 

 現に、3年前にパリに舞ったもう1人のチャンピオンことエルコンドルパサーも、このレースに出走、調整の成果を見せてクビ差で勝利している。

 何気にこれが日本のウマ娘初の勝者だったりもするんだよな。G2ってこともあってあまり注目されることは多くないけど、エルが確かに力を持っていた証左だ。

 

「今年の注目株は? どんなもんです??」

 

 ワクワクした雰囲気を隠し切れないウィルに訊かれ、俺は苦笑しながらテーブルに並べた書類の中から2枚を並べ直す。

 

「俺が強く注目しているのは、2人だな」

 

 

 

 今年のフォワ賞で脅威になり得るウマ娘は、2人。

 

 内片方は、既にウィルが対戦経験のある相手だ。

 

「覚えてるか? ウィッチイブニング」

「あ、去年のジャパンカップで私とマックイーンさんでボコった相手ですよね」

「そうそれ。よく覚えてたな、偉いぞ」

「えへへ……」

 

 褒めると撫でて欲し気に頭を向けてきたので、存分になでなで。

 ウィルの頬はによによと吊り上がり、最近はだいぶマシになってきた素の笑顔を浮かべる。

 あの笑顔、最近はあまり見られなくなって嬉しいやら寂しいやら。

 

 しかし、去年「私に3バ身以上差を付けられるウマ娘とか、一々覚えてないですよそんな雑魚」みたいな態度だった頃に比べて、だいぶ軟化したなぁと思う。

 最近の彼女は、同じレースを走った子に限りこそするが、あまり注目されていなかったり結果を残せなかったような子でも、名前を出せば「えーと、あ、あのレースにいた子ですよね?」と言えるくらいには覚えられるようになってきている。

 

 他人に興味を持てるのは、人としてもウマ娘としても非常に良い傾向だ。

 これが褒めずにいられようかという話で、俺は彼女の頭を思う存分撫で繰り回した。

 

 ……で、2人で1つの椅子に座り、10分程なでりこなでりこしていると、彼女がはっと目を見開く。

 

「いや撫でてくれるのは嬉しいですけど、今はレースの話!」

「あ、話戻していいの?」

「です! それで、ウィッチイブニングちゃんはどんな感じです?」

「戦績は資料に纏めているが……一言で言うと、この子かなり安定感がないんだよな」

 

 ウィッチイブニングの戦績は、非常に良い。凱旋門賞に出るような子だ、当然と言えば当然だけど。

 去年のジャパンカップ出走の前なんか、G1ヴェルメイユ賞に勝利し、そのまま凱旋門賞ではノーブルシンガーに続く2着。

 凱旋門賞2着ということは、つまりは芝の戦場で世界2位に等しい。まさしく大戦果と言えるだろう。

 

 ……が、安定して好成績を収めているかと言えば、そうでもなく。

 ノリにノッている時は1着か2着、連対して当然。

 しかし調子を崩してしまうと5着6着、オープン相当のレースにも勝てなくなる。

 ウィッチイブニングはそういう、上振れ下振れの激しいウマ娘なのだ。

 

 ノッている時の彼女は非常に脅威だ。矛盾しているようだが、安定して結果を出して来る。

 去年のジャパンカップの際にはかなり調子が良かったからか、インタビューの際も自信満々で、『ボクの魔法で捉えられない相手はいない!』とドヤ顔していたのを覚えている。

 

 が、直後にウィルとマックイーンに叩き折られ、意気消沈。

 そのせいもあってか、彼女は今年の夏まで再び調子を崩しているようだった。

 

 そのままであれば、凱旋門賞においてはあまり脅威にならないかとも思ったんだが……。

 先日のG1、サンクルー大賞前のインタビューでは、『去年の借りを返すために、ボクの魔法は更に進化した!』と明るくなっていた。

 実際のレースでも見事に勝利……とまでは行かずとも、勝率58%連対率83%の怪物バレルージュに続いて2着入線。

 確かに調子を取り戻しつつある、と言えるだろう。

 

 去年ジャパンカップで圧勝したのは、彼女が日本の高速競馬に適応できず、ウィルとマックイーンのトンデモハイペースに磨り潰されたから、という側面が大きい。

 洋芝というウィルにとってのアウェー環境で、なおかつウィッチイブニングの本領が発揮できるホームで、果たしてどちらに軍配が上がるかは……。

 

 いやまぁ俺たちが勝つけども。

 は? 負けないが?

 

 

 

「で、ウィッチイブニングちゃん以外のもう1人はどんな子なんです?」

 

 露骨に楽しそうに、肩を摺り寄せ、尻尾をこちらの足に絡めながら言ってくるウィル。

 もう8月なのでこうも密着すると少し暑いのだが、この1週間でいい加減慣れっこなので特に言及もせずそのまま話を戻す。

 

「もう1人は、ネディリカという子だな」

「ネディリカ……ちゃん? ……多分聞いた覚えないと思うんですけど、忘れてるだけです?」

「いや、こっちに関しては君は知らないかもしれない。というか知らないだろう」

 

 フランスではかなり有名な子なんだけど……国内ですら対戦相手以外のウマ娘の名前を殆ど憶えないウィルのことだし、知らないのは仕方ない。

 その分、俺がきちんと調べておけばいい。

 ウマ娘の不足を補うのもトレーナーの仕事の1つなのだから。

 

「ネディリカ。フランス当地のウマ娘だ。

 多少掛かり癖はあるが、かなり強力な差しウマ娘だな。パリ大賞やガネー賞といったG1レースを制し、その連対率は70%弱。

 応援するファンの数も相応に多く、恐らくはウィッチイブニングに続く三番人気になるだろう」

「へー」

 

 ウィルはぽけーっと聞いているが、流石は凱旋門賞に挑むウマ娘と言うべきか、この戦績は結構すごい。

 いや結構というか、本当に世界最高峰の上澄みなんだが……どうしても横にウィルがいると霞んでしまうな、この辺りの感覚。

 

 ネディリカの連対率は、実のところウィッチイブニング以上。つまるところパフォーマンスの安定感では、欧州の世界2位を超えているわけだ。

 これだけの成績を誇るG1ウマ娘は、日本にだってそうはいない。

 ……まぁ、それに関しては、どこぞのウマ娘がG1レースを荒らし回っているという理由もあるのだが。 

 

「ちなみにその性格は、フランスの子にしては珍しく、というわけでもないが、割と質実剛健な子だな。

 今回のフォワ賞に対しても……ニュアンス的に意訳すると『東より来たる龍、この国のウマ娘としての誇りを以て下してみせましょう』とのことだ」

「……武人? グラスちゃんかな?」

「国に誇りを持ち、友に誇りを持ち、レースに誇りを持ち、そして何より自らに誇りを持つ。

 そういった類の、志の高いウマ娘だな。確かにグラスワンダーのタイプに近いかも」

 

 フランスのウマ娘たちは、比較的……こう、軟派な子が多いんだよね。

 アッパーテンションで非常に前向き。

 レースにガチになりがちな日本の子たちとは少し違って、言うならばウィルのように、純粋にレースを楽しもうとする子の方が多い傾向がある。

 

 とはいえ勿論、それはあくまで「傾向」なので、そうでないウマ娘もたくさんいる。

 ネディリカはそんな子たちの1人、というわけだ。

 

「長所としては、やはり末脚の鋭さだな。直線での差し切りが基本戦術なわけだが、レース勘が良いとでも言うべきか、スパート開始のタイミングなどには天性のものを感じる。

 一方弱点は、シニア級ウマ娘としては自制心がイマイチなところと、単純なスペックかな。掛かったりして折り合いを欠くことが多く、また真っ当に競り合いをしてもウィッチイブニング級が来ると競り負けることも多い。勿論勝つこともあるが」

 

 ……より正確に言えば、スペック不足の方は弱点とは言い難いんだけどね。

 

 そもそもアスリートの勝負というのは、余程の才能を持っていない限り、上澄みになればなる程スペック的な差が生まれにくい。

 ひとえに人間(またはウマ娘)の体と精神の限界というヤツは、そこに近付けば近づく程に成長を阻害してくる。

 自然、上澄み同士の戦いには、個性が生まれることはあっても、スペック的な差が生まれ辛いのだ。

 

 ……が。

 ごく一部のやべー天才は、そんな上限を取っ払ってしまうというか、無視してしまうというか。

 典型例は、ホシノウィルムとトウカイテイオー、それにメジロマックイーン。

 ウィルはトレセン入学時点のステータスがちょっと常識では考えられないくらいに高く。

 テイオーは覚醒時のステータスの上がり方と本番での爆発力が尋常ではない。

 マックイーンもマックイーンで、スタミナの伸び方がちょっとヤバすぎて周りが追い付けない。

 

 そんな怪物級の彼女たちにとって、「他のウマ娘と五分五分に近く、確実に勝てるかわからないステータス」というのは弱みたり得てしまうのだ。なんとも恐ろしいことに。

 

 

 

「勿論、他にも驚異的なウマ娘はいる。……が、やはりこの2人が最大の壁になるだろうな」

 

 俺はそう言葉を結ぼうとして……。

 

「……いや、訂正。違うな、君の壁はそこじゃない」

「というと?」

 

 きょとんと目を丸めた彼女に、俺は不敵に微笑みかける。

 

「結局のところ、君にとっての最大の敵は、この土地だ。

 洋芝への適性、空気や食などの違い、環境の変異。それに適応しさえすれば……日本でもここでも、君に壁も敵もないさ」

「えへへ……そう言われると、期待に応えなきゃですね!」

 

 

 

 * * *

 

 

 

「とは言っても、凱旋門賞では敵がいるわけだが」

「え!? さっきは敵はいないって言ってましたよね?」

「すまんありゃ嘘だった。いや嘘ではないにしろ、若干の誇張の入った表現だな。

 ……というのも、今年の凱旋門賞はちょっとヤバくなりそうなんだ」

 

 言うと、ウィルは思い切り眉を寄せた。

 

「…………歩さんがヤバいって言うとか、どんなですか。近年は小粒揃いって聞いてましたけど……。

 まさか去年の有記念級とか言いませんよね?」

「いや割と真面目にそれくらいかもしれん」

「は? え、は!? ホントに!?」

 

 これまでにない程の驚愕を見せるウィルに俺はコクリと頷いて、いくつかのウマ娘のデータを纏めた資料を差し出した。

 

 

 

 フランスにおける凱旋門賞は、日本で言うところの有記念みたいなものだ。

 格も人気もダントツトップ、まさに1年に1度の祭典的な位置づけである。

 

 それだけ強い相手と戦え、それだけ多くのファンに見られ、それだけ高い夢の舞台に立てるんだ。彼女たちが奮い立つのも当然と言えるだろう。

 凱旋門賞に出走したウマ娘の力が残っていて、なおかつ当地のトゥインクルシリーズに所属したままであれば、翌年も連続で出走することも多い。

 

 が、今年はその出走メンツが、大きく様変わりしつつある。

 今年の頭辺りにどこぞの龍が参戦を発表して以来、元は出走予定のなかった子たちがもぞもぞと胎動を始め、5月辺りから本格的に参戦を表明してきているのだ。

 

 そしてそのメンツは、今年に入ってから一気にぐんと実力を伸ばしている。

 ホシノウィルムが影響を与えたのは、新規新鋭のあの子だけではなかったというわけだ。……トレーナーとしては、かなり頭の痛いことに。

 

 結果として、現在凱旋門賞へ出走予定のメンバーは、ウィルを除いても20、30年に一度のレベルでの精鋭が集いつつある。

 ウィルを含めば、恐らく向こう50年は見られないだろう豪華なメンバーになる……かもしれない。

 

「目の前のことに集中してもらうために、ここまで伝えて来なかったが……結果として、また予想を外す形となってしまった。

 そこに関しては本当に済まない。慙愧に堪えないよ」

「いや、むしろ1年前とかにレースの予測とか立ててる方がすごいんですよ? 私としてはいつもありがとうございますって感じですよ?」

 

 あせあせと両手を振ってフォローしてくれる優しい担当の頭を撫でながら……。

 

 改めて、今年の凱旋門賞の出走メンバーについて説明を始める。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 今年の凱旋門賞は、すさまじいメンツが集まりつつある。

 

 まず、先程フォワ賞で挙げた2人、ウィッチイブニングとネディリカ。

 この2人は十中八九、というかほぼほぼ100%の確率で凱旋門賞にも出て来るだろう。

 洋芝特有の非常に強力なパワーを持つ追い込み&差しウマ娘だ、この2人だけでも決して油断はできない相手となる。

 

 が、それに加えて。

 今回は更に、複数人の優駿が集ってきた。

 

 

 

 まず目に入るのは、先行ウマ娘、マム・クリスティ。

 

 つい先日の愛ダービーを、当レース史上初の12バ身差、そして以前の記録を3秒も短縮するというウルトラレコードで勝ち切った、天性の怪物。

 この春で一気に実力を伸ばしてきた、現在話題沸騰中のスターウマ娘だ。

 

 数日後にもG1レースに出走する予定で、俺の目から見ても勝利濃厚。

 もしもそこで勝つことができれば、勝率67%という恐るべき数字を刻んで凱旋門賞に出走することになるだろう。

 

 まぁ、愛ダービーのアレは自陣営のラビットにペースを作ってもらっての勝ち方なので、ウィルが大逃げで大きくペースを乱す凱旋門賞では本領発揮とはいかないかもしれないが……。

 それでも、爆発力だけならウィッチイブニングすらも凌駕するだろう強敵だ。

 レースの2回に1回以上勝っているという実績は、彼女単体で見ても並々ならぬ実力を持っていることを示している。

 

 

 

 次に、先行か差しで来るだろう、エムリーヌ。

 

 新進気鋭のクラシック級ウマ娘。

 これまで出走したレースはメイクデビューを除いて2つともG1レースであり、初戦サンタラリ賞は惜しくも2着に敗れたが、続く仏オークスでは勝利を刻んだ。

 

 まだデータが少ないとはいえ、この子もこの子でデビューから3か月でG1レース勝利、勝率67%は脅威の数字だ。

 日本ではそうそう見ることのできない躍進っぷり。

 西洋のクラシック級ウマ娘は日本の子たちに比べて勢いがあるとは思っていたが、やはり恐ろしいものだな。

 

 当然ながらそのステータスもかなり高く、このまま行けば、クラシック級のウマ娘ながら十分に凱旋門賞に挑みうる実力を持ち得るだろう。

 特にその仕掛け時までの我慢強さ、そしてその時が来た際の爆発力はかなりのものがある。

 

 夏に入ってからは短めの休養に入っているが、9月のヴェルメイユ賞から再始動予定。

 そこでどれだけ強い勝ち方を見せて来るか、そしてどれだけ仕上がっているかには要注目だろう。

 

 

 

 まだまだいます、次なる注目株は先行ウマ娘、ミセス・エステル。

 

 当然のようにG1ウマ娘であり、勝率も50%ピッタリ、連対率に至っては80%。

 なんでこんな戦績良い子たちばっかり出て来るんだろうね。いや凱旋門賞だからっていうのが全てなんだけども。

 

 勿論その実力も折り紙付きで、更にマム・クリスティに12バ身差を付けられたことから末脚強化月間に入ったらしく、凱旋門賞の頃には粘り強い相手になっているだろうことが予想される。

 ちなみに家庭の都合で各地のトレセンを転々としているという少し珍しい境遇の子でもあり、専属のトレーナーは彼女に付いて行くために頻繁に転勤しているらしい。大変そうだ。

 

 

 

 皆が皆、押しも押されもしない強敵たち。

 今年の凱旋門はまさしく決戦となるだろう。

 

 ……が、しかし。

 

 何が恐ろしいって、ここまで挙げて来たとんでもない優駿の中に、本命がいないってこと。

 いや、勿論凱旋門賞の本命はホシノウィルム一択なんだが、彼女のライバルとしての本命は別にいる。

 

 故に俺は、最後に、彼女の話を挙げた。

 

 

 

「そして、更にもう1人。

 誰よりホシノウィルムを意識し、殆ど注目されない立場から一気に駆け上がって来た、エムリーヌすら上回るクラシック級の若き女傑。

 『一度も負けることなく、1か月に1度G1レースに勝っていく』という宣言を、彼女は今のところ2つのオークスに連勝するという形で叶えている。

 デビューして3か月未満で、4戦を経て連対率100%、勝率100%、G1レース2勝。

 このヨーロッパで、君の飛翔を止め得ると最も期待されているウマ娘」

 

 ウィルが、ニヤリと笑う。

 

 そう、これまでに俺が何度か話題に出してきた相手。

 龍を打ち倒す新たなドラゴンスレイヤー。インタビューで語ったその自称から「英雄姫(Heroic Princess)」なんて呼ばれ方をされ始めている、ホシノウィルムにとって最大の壁になり得る存在。

 

 その名も……。

 

 

 

「アンダースタンディブル。

 莫大なスタミナと他を圧倒するスピードで相手を磨り潰す……その名の通り『わかりやすい』強さを持つ、君やメジロマックイーンに近いスタイルの競走ウマ娘だよ」

 

 

 







 オリジナル要素と史実要素を織り交ぜて送る凱旋門賞編。
 正直に申しまして史実レースに詳しいわけではないので、調べたりしながら頑張って書いてます。
 もし間違いとかあったら遠慮なくご指摘ください。作者が泣きますので。



 次回は1週間以内。ホシノウィルム視点で、不意打ちエンカウントの話。


(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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悪意なき『うまぴょい』の謎

 海外遠征編始まってからコイツら永遠にイチャコラしてんな?
 今回もイチャコラします。





 

 

 

 時は8月中旬。

 私がフランスを訪れてから、早くも3週間が経過した。

 

 今回の旅行は全3か月。7月の中盤辺りに来て、10月頭の凱旋門賞に勝って帰るところで終わる。

 つまり、既にその内の4分の1、割合で言えば25%が経過したことになるわけだ。

 

 ……早い。あまりにも時間の流れが早すぎる。

 

 楽しい時間は一瞬で過ぎていく。それはこの3年弱の時間で嫌という程思い知っていた。

 体感、幼少期の10倍くらいの速度だったしね、歩さんとの日々。

 

 でもそれにしても、この歩さんとのドキドキ海外遠征旅行は……。

 あまりにも、あまりにも時間が経つのが早い!!

 体感5倍速だ。クロックアップだ。もはや時間の流れが歪んでるんじゃないかと思うレベルだよ。

 

 まぁ好きな人との実質ハネムーン、かつ世界最高峰への挑戦なんだもの、楽しいのも充実してるのも当然と言えば当然なんだけどさ。

 それにしたって、飛ぶように時間が過ぎていくのは困る。もっともっと楽しみたいのに!

 

 あーもう、すごいなー、世の新婚さんたち。

 新婚旅行って長くても1週間って聞くけど、よくそんなので我慢できるよね。

 私、こんな幸せな時間なら、欲を言えば1年くらいは過ごしたいし、理想を言うのなら一生こうしてたいくらいなんだけど。皆我慢強いなぁ……。

 

 

 

 と、そんなことを私が思ってる一方で。

 歩さんの方も、拠点の中という、絶対に誰からも見られることのない衆人環視状態から離れられる場所を得たからか、日本にいた頃よりもだいぶ私に寛容な気がする。

 

 前はふざけ半分本気の距離詰め半分でくっ付きすぎると、ちょっと困ったような顔で「ウィル」とたしなめられていた。

 まぁでも、仕方ない。オタク君は推しが異性と1メートル以内に入っただけで発狂してしまう生物だ。ソースは前世の私。あの頃は若かった。

 それを考えると、歩さんの対応は非常に正しい。

 いくら相棒であり契約トレーナーである歩さん相手とはいえど、トレウマ概念は受容できる人とできない人がいるのだから。

 

 ……が、こっちに来てからは事情が違う。

 何気ない顔で作戦会議中にくっ付こうが、料理中に後ろから抱き着いて匂いを嗅ごうが、しれっと歩さんのベッドに潜り込もうが、注意されこそすれ止められはしない。

 まぁ流石に「トレーナーたるもの担当ウマ娘を綺麗にする義務もあるのでは!?!?」と提案したお風呂一緒ドキドキ大作戦は拒否されてしまったけども……。

 逆に言えば、そこまで行かない行為は基本黙認されてる。

 

 しかも、大抵は「仕方ないなぁ」という、どこか嬉しそうな表情を滲ませながら、だ。

 

 

 

 これ……歩さんも私のこと好きなのでは!?!?!?!?

 

 

 

 などと、素人はそんなことを思ってしまうところだろうが、歩さん検定三段(自称)の専門家たる私から言わせてもらえば、それはまずあり得ない。

 

 歩さんが私を想ってくれてるのは確かだ。

 でもそれは、競走ウマ娘へのものであって、女としてのものではない。

 

 だって私、こんな体型だし。

 走り以外じゃ、他のウマ娘たちとそんなに変わらないどころか、性格に至ってはこの聖人ばっかりの世界じゃかなり悪い方だと思うし。

 お金はめっちゃ稼いでるしこれからも困ることはまずないと思うけど、歩さんは名家出身なこともあってそういうのに惹かれる質じゃないし。

 

 普通に考えて、歩さんが私に恋愛的な好意を持つ理由がない。

 それこそ私みたいに、理由とか理屈とか飛び越えて「この人しかいない」って運命にでも出くわさない限りあり得ないと言っていい。

 そして、私が歩さんにそこまで想われてるかと言えば……正直、そこまで傲慢になり切れないというのが本音だった。

 

 凍り付く世界に囚われていた私は、歩さんに救われた。

 決して急なものじゃない、私のペースに併せてくれた歩み寄り。

 そして、強力なライバルたちと走れるように組まれた、レーススケジュール。

 あの人のおかげで、私は温かな星を見ることができた。

 

 それに対して、私が歩さんにしてあげたことは……なんとも微妙だ。

 歩さんが倒れた時だって、私にできたのはただレースを頑張ることだけ。

 直接的に彼を助けられたかと言えば、正直そんなことはないわけで。

 歩さんが私にどれだけ感情を持ってくれてるかは、疑問の残るところではある。

 

 いやまぁ、結構好きでいてくれてるとは思うけどさ。

 でもほら、私って元厭世的なオタクだったし、対人関係においては経験値が足りなくて勘違いしがち。

 ネイチャとのファーストコンタクトがアレになってしまって以来、変に思い上がりはしないよう注意しているのです。

 

 

 

 まぁ要するに、歩さんの態度は「担当ウマ娘が凱旋門賞という高負荷の戦いに出るのだから、自分は体を張って彼女のメンタルケアをしよう」「その上で、頼ってくれること、自分が役に立てることが嬉しい」って感じなんだろうと思う。

 

 ……うわー、改めて考えると今の私、結構酷いな。

 メンタルケアの名目で体まさぐったり匂い嗅いだりするとか、まさしくパートナーに自分の性癖押し付ける最低なヤツじゃん。

 まぁ歩さん自身、そこまで不快感は出してない……というか、むしろプラスな感触があるからやめないけども。

 

 やっぱりアレかな、トモを見ればウマ娘を測れるらしいけど、ちゃんと体を触って状態確認しておきたい的な?

 あるいは保護者的な視点で、子供が甘えてくれて嬉しい的な?

 そういう側面もある……のかもしれない。わかんないけど。

 

 何にしろ、お互いにウィンウィンなら行動を躊躇する理由はなし。

 私は存分に歩さんとイチャイチャしながら毎日を過ごしているのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 さて、そんな日常の中の1日。

 私はいつも通り、自主トレのランニングに出ていた。

 

 拠点からの距離の制限も解かれ、今は時間内ならどこまででもランニングに出て良い許可をもらってる。

 いや、勿論フランスの外に出るとなると論外だけども、常識の範囲内なら問題ないって感じだ。

 

 そんな中で私が気に入ったのは、拠点から走って10分程のところにある川沿いの道。

 かなり長いこと続いてる道で、信号はほぼなくウマ娘用のレーンもあり、なおかつそこまで人通りも多くない、まさしく自主トレのためにあるようなスポットだ。

 

 ちなみに、横を流れてる川の名前を歩さんに聞いてみたところ、セーヌ川というらしい。

 ロンシャンレース場の近くを流れてる川と同じ名前でちょっと驚いたんだけど、聞いてみるとセーヌ川は細かく分岐したり纏まったりしながら、何百キロと続いているんだとか。

 すごいなーフランスの風土かーと思って聞いていると、「いや日本にもそういう川はいくつもあるからな」と呆れられてしまった。

 地理に全然興味がないことがバレちゃったな。今更だけど。

 

 

 

 フランスはエルブレー。

 せせらぐ川の音の中に、私の小声が響く。

 

「君の愛バが~、ずきゅんどきゅん走り出し~ふっふー!」

 

 今朝は朝食(にんじんの甘めソテー含む)を「あーん」してもらったこともあり、この上なくご機嫌るんるんだった私は、かの有名な電波……もといアッパーなお歌『うまぴょい伝説』を口ずさみながら走る。

 

 前世アニメでは、あまりにも意味不明な歌詞やハイテンションすぎるメロディーに「何これ……何?」とちょっと引いてしまったこの歌。

 当然というかなんというか、この世界にも存在した。ウイニングライブの楽曲として。

 

 ただ、これは私が歌い踊ってきた他のものと違って、かなり新しい曲らしい。

 というのもこれが世間にお披露目されたのは、実に3年前。

 ミーク先輩たちの黄金世代で創設された、URAファイナルズ決勝の勝者に贈られる、すごく特別な曲として作られたらしい。

 

 ……世代の頂点の決戦で!?

 

 バチクソ熱い戦いが終わった後に、こんな電波ソングを!?!?

 

 現在URAファイナルズは、本格化最中のクラシック級で競われる三冠やティアラに次ぐ、本格化が終わり成熟しきった子たちによる、最後の世代決戦として扱われてる。

 しかもクラシック級の時と違って、予選準決勝決勝と3回に渡ってあらゆるバ場で競われるため、「出走条件を満たせずそもそも勝負の土俵に立てない」ということは起こり得ない。

 文字通り、「あらゆるウマ娘が最高の栄誉を得るチャンスを得る戦い」であり、だからこそ「本当の世代の頂点を決める決戦」たり得るのだ。

 

 改めて言おう。

 こんな熱すぎる戦いの後のウイニングライブで、あんな電波ソングを!?!?!?

 

 

 

 ……と。

 そう思っていた時期が、私にもありました。

 

 今年のURAファイナルズ、マックイーンさんが勝った長距離部門とウイニングライブを見て、私の中でのこの曲の印象は大きく変わった。

 

 いや、電波ソングなのはそうなんだけど、逆にそれもまた良いっていうか。

 めちゃくちゃ激アツでバチバチでサイコーなレースの後、むしろこのわけわからんハイテンション感が観客の熱が冷めることを許さず、そのままウイニングライブをお祭りムードに持ち込むんだ。

 

 言うならば、春映画みたいなもの。

 「もうここまで来たなら熱けりゃなんでもいいわ」みたいなテンションになって、一周回って楽しんで見てしまうのだ。

 

 結果として、「うまぴょい伝説」は既に日本社会にかなり広まっている。

 カラオケに行けばほぼ確実に履歴に残ってるし、口ずさんでる人を見かけることも少なくない。CMとか広告に使われることもままある。

 

 誰が企画したのかはわからないけど、すごい思い切りだよねぇ、これ。

 きちんと結果を残してるっていうのが尚更すごい。

 でも50年後とかに近世の研究家が「なんで流行ったんだこれ……?」ってめっちゃ迷走しそう。

 

 

 

 と、そんな話は置いといて。

 

「今日も~かな~で~る~、はぴはぴだりん……はぴはぴダーリン!」

 

 ダーリン! その言葉の魅力に、思わず歌を止めてしまう。

 

 ダーリンかぁ……良い響きだぁ……。

 勿論、私の脳内に浮かんでいるのは1人の男性。

 いつかあの人のこと、「ダーリン」って呼んだりとか、呼ばなかったりとか?

 そういう明るい未来を妄想するだけで楽しくなってしまうね。

 

 と、それはさておき。

 

「はぴはぴだりん、321ごーふぁい! うぴうぴはにー……うぴうぴハニー?」

 

 ……改めて考えると、うぴうぴハニーって何?

 

 いや「はぴはぴ」は分かるよ。ハッピーハッピーだよね。超幸せ。

 でも「うぴうぴ」とは一体……?

 う、うぴ……うぴ……駄目だ全然わからん。

 英語に強ければ何か思い浮かぶこともあるんだろうか?

 いや、いきなりうまぴょいだのうまぽいだの言い出す歌に、今更意味を求めるのもナンセンスかな。

 

 …………結局うまぴょいって何のことなんだろうね?

 私たちはどこから来たのか、うまぴょいとは何なのか、私たちはどこへ行くのか?

 それは決して答えの出ない、永遠の謎なのかもしれない。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 まぁいいや。

 というか、ホントにどうでもいいなコレ。

 

「うぴうぴはにー、321うー……ふぁい!」

 

 一曲歌い終えて……正確には1番までしか歌ってないけど、そこはノリで置いといて。

 小声で、なおかつウマ娘の速度でジョギングしながらだから、聞いてくれる人なんていなかったわけだけど、それでも一曲歌い終えると、存外に気持ちの良いもので。

 ただでさえテンションの高かったのに、これには私の楽しさが有頂天。

 

 ぶっちゃけ他人から見たらちょっと怖いかもしれないくらいのニコニコ笑顔で、私は穏やかな朝の町を駆けていく。

 

 あぁ、歩さんイチャラブ補正のおかげで全てが輝いて見え、美しく聞こえる……。

 

 日本よりいささか涼しい空気と、その中に差し込むまだまだ低い太陽の光。

 川のせせらぎの音、そこに乗るよくわかんない小鳥と虫の鳴き声。

 私の足が程々に舗装された道路を捉える音と、それに追うように走っている足音……。

 

 ……足音?

 

「ん」

 

 なんか、ついて来てる子いるな。

 え、いつの間にいた? やば、小声とはいえ歌ってたからか全然気付かなかった。

 

 

 

 私は走っている間、耳が良くなる。

 正確に言えば、耳が良くなるというより頭が良くなってるんだと思うけど。

 

 元々ウマ娘は耳が良いんだ。けど、その聴覚で聞こえる音全てを聞き取ろうとすると、人間とほぼ同じ性能の脳じゃオーバーフローしてしまう。

 その点私は、走ってる間には『アニメ転生』がちょっとだけ漏れ出して思考速度が上がり、普段は無意識に切り捨ててる雑音も脳で処理できてしまう……。

 ……ってロジックなんじゃないかな。確証はないけども。

 

 とにかく私は、走ってる間は『アニメ転生』をオンにせずとも、大体10バ身、25メートル周囲の音を細かく聞き取ることができる。

 

 故に、こうして後をつけて来てる足音も聞き取ることができるってわけだ。

 

 

 

 さて、足音の件。

 最初はただ偶然一緒になっただけかとも思ったんだけど……。

 

 私がペースを上げたら、同じようにあっちも上げ。

 下げたら、当然のようにあっちも下げて来る。

 これは……完全に尾行されてると思って良さそうだ。

 

 んー……この足音、当然と言えば当然だけど、聞き覚えがない。

 歩さんが超頑張って走って来てるってわけじゃなさそうだし、サプライズでネイチャやテイオーがこっちに来てるってこともなさそう。

 というかネイチャとかテイオーは、つい昨夜LANEのグループで海で楽しそうに遊んでる画像を送りつけて来やがったので、まずあり得ないんだけども。

 

 足音に乱れがないところからして、無理はしてなさそう。

 ジョギング程度のペースとはいえ、ウマ娘に楽について来れるのはウマ娘だけだ。

 ということは、相手はウマ娘だろう。

 

 歩調に乱れや不慣れさ、困惑もなさそうだし、本格化が始まったばかりのジュニア級の子でもないな。

 ということはクラシック級かシニア級のウマ娘か。

 

 欧州で私が知るクラシック級以上のウマ娘と言えば、去年ジャパンカップに来てくれた子たち。

 その中でも、やっぱりシルバーピジョンちゃんとウィッチイブニングちゃんが印象深い。

 が、彼女たちの足音ともちょっと違う感じ。

 なんというか、2人に比べて重みを感じない、けれどさかしまに力強さを感じるような、そんな足音。

 

 結論としては、「私の知らない」「クラシック級かシニア級の」「ウマ娘」。

 ……駄目だ、全然絞り込めないな。

 

 

 

「うーむ……」

 

 さて、どうするか。

 

 自主トレ中、知らないウマ娘に尾行されるのは、実のところ初めてではない。

 去年はライスちゃんに追っかけられて、それから知り合うことになったりもしたのだ。

 この追跡の犯人が誰なのか知り、何故自分を追いかけてくるのか問い詰めてみれば、新たな縁もあるかもしれないけど……。

 

 問題は、私の言語能力が終わってるってことなんだよなぁ……。

 日本の義務教育で教育カリキュラムが組まれている英語ですら危ういんだ、他の言語の知識はほぼ絶無。

 一応、前世大学に通ってた時の杵柄で中国語なら多少読めはするけども、当然ながらうろ覚え。というかほぼほぼ覚えてない。いわんやフランス語をや。

 

 そうなれば当然、こっちで話されるネイティブのフランス語なり英語なりに対応できるわけもなく。

 多分、身振り手振り程度でしかコミュニケーションができないと思うんだよね。

 

 それなのにわざわざこっちから話しかけるのは、なんかこう……ねぇ?

 相手にも悪いし、気まずいし?

 

 

 

 ……と、そうも思ったんだけども。

 ふと、「こういうのは良くないか」と思い直す。

 

 せっかく海外に来てるのに「相手に悪いから」とか「面倒くさいから」なんて理由でチャレンジを避けるのは保守的に過ぎる。

 新たな出会い、新たな成長は、挑戦からしか生まれ得ない。

 

 ウマ娘の身体能力、そして私の転生チートを考えればそこまで危険という危険もないだろうし、話しかけてみようか。

 ボディランゲージとか指差しとか、そういうので意思疎通はできるでしょ、多分。

 

 

 

 そんなわけで、私は足を止めて振り返る。

 

 20メートルくらい向こうに、急に足を止めた私に合わせ、急停止するウマ娘が1人。

 少しだけ茶の混じった綺麗な金髪と、左耳に付けた大きなティアラ状の耳飾り、私程じゃないけど小柄な体格。

 その目にはサングラスをかけているが、奥の瞳は恐らく私のことを見つめているんだろう。

 

 その姿を、どこかで見たことがある気がして、僅かに引っかかり……。

 しかし、今はとにかく、この子に対処しなくてはと思い直す。

 

 位置とか足音からして、彼女が私を尾行してきた子ってことは間違いない。

 取り敢えず話しかけてみよう。フランス語はちんぷんかんぷんなので、英語が通じればいいんだけど。

 

「あー……Hello. What's your name?」

 

 思ったより何も言葉浮かばなくて取り敢えず名前尋ねたけど、これって結構高圧的かな?

 というか誰かを追いかけてたらいきなり振り返って来て「お前名前は?」って訊いて来るの、かなり怖いかなもしかして。

 

 そう思って、ちょっと焦ったんだけど……。

 

 

 

 彼女は、ちょっと動揺するように顔を左右させた後、私に視線を合わせてきた。

 

「W, well, let me see……あなたは、ホシノウィルムさん、ですか?」

「え、日本語!?」

 

 いや前半はちょっと聞き取れなかったけど、後半は日本語だ。

 若干発音とかイントネーションに不安のある、ネイティブとは言い難いものだったけど……。

 それでも、私が一発で聞き取れるくらいには確かな日本語。

 日本語は習得が困難って話も聞くし、ここまで綺麗に話せるのはすごいのかもしれない。

 

「日本語、あなた話せるの!? すごい、まさか現地で日本語話せる子と会うとは思ってなかった!」

「Wait please! I'm……少し話せる、日本語。勉強します、しました。だから、ゆっくりとお話、される必要があります。……してください?」

 

 彼女は困ったようにわたわたと手を振り、言ってくる。

 思ったよりしっかりした発音だ。文法があやふやって言うよりは緊張で頭が真っ白になってるっぽく感じるし、かなり日本語が堪能な子かも。

 すごいなー、私なんて英語もままならないのに。インテリ系ウマ娘、ちょっと憧れちゃう。

 

 っと、それはそうとして、いけないいけない。

 かなり日本語が上手いとはいえ、相手はあくまで欧州圏のウマ娘。

 母国語でもない言葉をハイスピードに言われると、頭が理解し切れないんだよね。ソースは前世で大学受験した際リスニングに苦しめられた私。

 

 だからゆっくりと、あんまり複雑な言葉は使わずに話さないと。

 

 

 

「うん、わかった。そして、あなたの疑問に答えると、私はホシノウィルムだよ」

「ホシノウィルム……さん!」

 

 胸に手を当てて答えると、彼女は……おぉ、すごい、めっちゃキラキラした目を向けてくれてる。

 

 キラキラして手の届かない星を見上げるような、熱の籠った視線。

 

 この感じ、覚えがある。

 ファンの視線だ。

 

 この子、パッと見そこそこ体も仕上がってるっぽいし、私について来たスピードからも、競走ウマ娘だと思うんだけど……。

 もしかして、私のファンなのかな。

 

 競走ウマ娘が他の競走ウマ娘のファンになることは、決して珍しい話じゃない。

 例えば私は、ネイチャとかテイオーの出るレースは必ずリアルタイムで観戦してるし、時には変装して歩さんと一緒にレース場にまで見に行くので、ある意味じゃファンと言えるだろう。

 あと聞いた話だと、プレオープン・オープン級のウマ娘は、仕事がそこまで忙しくならないので、G1ウマ娘の追っかけを趣味にする子も多いらしいしね。

 

 実際、私の予想を裏付けるように、彼女は言った。

 

「私! 私、ファンです! ホシノウィルムさんの!」

「そっか……うん、ありがとう」

 

 これに関しては掛け値なしに嬉しい。

 本拠地である日本を飛び出て、地球の裏側にも等しいこんな欧州にまでファンがいてくれる。私のことを見て、知って、愛してくれる。

 これを喜ばない競走ウマ娘はまずいないだろう。

 

 

 

「私、そこで、偶然にホシノウィルムさんのことを見つけて。それで、……well, 追って走ってしまって……」

「大丈夫、ちょっと驚いたけど、気持ちは嬉しいよ」

 

 競走ウマ娘は、子供だ。

 いや、私もその一員だから、あんまり他人事を語るようには言ってられないんだけど……。

 私は一応、前世で大学まで進んだこともある。多少は上から目線になっても許されるはずだ。多分。

 

 とにかく、トゥインクルシリーズ(フランスでは別の言い方らしいけど、とにかくこれに当たるレースシリーズ)のウマ娘たちは、アイドルでありアスリートであると同時、中等部から高等部のただの子供でもある。

 スターを前にしてちょっとだけ暴走してしまうのも、年相応の行動と言っていいだろう。

 

 そして私は、彼女の保護者でもなく、教師でもなく、トレーナーでもなく……こう言ってはなんだけど、友人でもない。

 だから、その迂闊な行動を注意することはない。

 

 今はただ、彼女の暴走も肯定し、ただ非日常のままに楽しんでもらうこと。

 それがスター、インフルエンサーとしてのお仕事だ。

 

「いつも応援ありがとう。私も、ファンの皆のおかげで走れるよ」

「そっ……um……私たちも、エネルギーをもらいます。ありがとうございます!」

 

 笑顔を向けると、あちらも少し顔を赤くして、照れたような笑顔を返して来る。

 言葉はぎこちないけれど、表情だけでも気持ちは十分に伝わる。

 

 ファンの純真な気持ちは、嬉しい。

 その気持ちは巡り巡って私を温める熱になってくれて、走る燃料になってくれるからだ。

 そうして走った姿が、今度はファンの気持ちに熱を点け、再び私たちに愛を向けてくれる、と。

 この正の循環が、競走ウマ娘を何よりも高めてくれる。

 

 競走ウマ娘たちはファンなしには走れない。

 そして、ファンは競走ウマ娘なしではレースを楽しめない。

 

 私たちは互いに互いを必要としているんだ。

 

 

 

「あなた、名前は?」

「A, アン、です。そう呼ばれています」

「アンちゃんか。良い名前だね」

 

 競走ウマ娘の名前としては短すぎるし、あだ名だろうか。

 海外に興味がなさすぎて、それが欧州で一般的なものなのかすら判断できないけど……。

 日本のオタク文化的には、「アン」って名前のキャラクターはそう珍しくもない。

 私にとっては、むしろなじみ深い名前と言えた。

 

 綺麗な白い肌を興奮で赤く染めた彼女は、「ありがとうございます!」とまた目をキラキラさせている。

 ……いや、キラキラというか、うるうるしてる。

 

 これアレだな、オタクが推しを目の前で見たり話したりした時の、感涙。

 私も同じような体験あるからわかる。

 

 もしかしてアンちゃん、思ったより結構ヘビーなホシノウィルムファンか?

 冷静に考えると、もしかしたら「私が好きだから」って理由で日本語勉強してるのかもしれないし、だとしたらこう見えてめちゃくちゃに重いオタクちゃんなのかもしれない。

 

 

 

「ふふ……それじゃ、アンちゃん。フォワ賞も見てくれるかな?」

「Of course! すごく、すごく、楽しみにしてます!」

「うん、是非お楽しみに。当然、勝つからね」

 

 言って、1つウインクし、「それじゃあね!」と私は再び走り出す。

 

 せっかく日本語のできる海外ウマ娘だ、本音を言うともっと色々話したり聞いたりもしたかった。

 惜しい気持ちは、否定できないんだけど……。

 

 ファンとの交流は程々に。

 やり過ぎると、トラブルに繋がってしまったり、ファン間での不公平感を煽ってしまったりと、色んな問題を招いてしまうからね。

 

 元オタクとして、その辺りはしっかり弁えてるつもりです。

 

 

 

 再び走り出した私に、アンちゃんの足音が続くことはなかった。

 今日はここまで、という意図を汲んでくれたらしい。

 

 いやー、良いファンを持ったな。

 もしフォワ賞で見かけることがあったら、また声をかけてみるのも良いかもしれない。

 

 そんなことを思いながら、私はジョギングを再開した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして、本日の自主トレ終了時間寸前になって、ふと思い出す。

 

 あの金髪。あの体格。あの耳飾り。

 レースの時の勝気そうな雰囲気と、少しおどおどしていた彼女とは、どうにもイメージが結びつかなかったけど……。

 

 

 

「……アンダースタンディブル」

 

 

 

 現状勝率100%、今年の英愛オークスを総なめした英雄姫。

 

 アンちゃんの見た目はまさしく、歩さんの作ってくれた資料に載っていた、写真の彼女そのものだったような……。

 

 

 

 いやでも、そんな偶然出会うこととかある?

 

 私がいるエルブレーは、パリからそこそこ離れてる。

 自然、パリにあるっていうトレセンからも結構離れてることになる。

 

 そりゃあウマ娘は足が速く、行動範囲が広い。

 トレセンからここまで脚を延ばすウマ娘も、いるかもしれない。

 

 だけど、逆に言えばその広い行動範囲の中で、偶然自主トレ中のホシノウィルムと現地のスターであるアンダースタンディブルが出会うことなんてあり得るだろうか?

 その確率と比べると、よく似た他人である可能性の方が高くない?

 

 しかも、レースの時の堂々とした自信ありげな雰囲気とは全く違う、まさしくオタクって感じの立ち振る舞いもあり。

 私自身、しっかりと資料の写真を覚えてなかったこともあり、確かに彼女だとは断言できない。 

 

「…………他人の空似か?」

 

 どちらにしろ、不思議なこともあるものだ。

 私はぼんやりと、そんなことを思った。

 

 

 

 ……と。

 そんなことを考えていた私はしかし、家に帰ってかけられた「おかえり」の言葉に全てを忘れ。

 今夜も歩さんにあーんしてもらってマッサージもしてもらって髪を梳いてもらって添い寝もしてもらって、最高すぎる夜を過ごしたのだった。

 

 海外遠征サイコー!

 

 

 







 2日後の食事中に「あ、そうだ」と雑談のネタとして初めてこの話を聞いた堀野君は頭を抱えたのであった。



 次回は1週間以内。別視点で、竜が地上に降り立つ日の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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ドラゴン・ファンガ・ヒーロー

 今回はウィルのライバルになりそうなあのウマ娘の視点。
 限界オタクウマ娘、アンちゃんの正体に迫る。





 

 

 

 フランス、パリのトレセン学園にて。

 トレーナー棟1階の隅、数か月前までは空室だったが、この短い間に随分と使用者の色に染められてしまったトレーナー室で……。

 1人のトレーナーが、パチパチとキーボードを叩いている。

 

 トレーナー業が激務となるのは、日本でもフランスでも変わらない。

 むしろ、諸外国と地続きであり、様々な意味で距離が近いフランスでは、諸々の手続きのせいで日本よりも若干忙しくなる傾向にあるくらいだ。

 故に、今日もそのトレーナーは業務に追われているのであった。

 

 ……勿論、そのハードワークの原因は、何も彼だけにあるわけではなく。

 というかぶっちゃけて言えば、彼のすぐ傍にいるとある存在が原因の9割を占めており。

 

 

 

ただいま(I ' m b a c k)トレーナー(T r a i n e r)!!」

 

 

 

 今まさに、この半年のハードワークの元凶が、トレーナー室に突撃してきた。

 

 バターンと豪快に扉を叩き開けて部屋に入って来たのは、1人のウマ娘。

 

 茶の混じった金髪、左耳にティアラ状の耳飾り。

 小さい体ながら、色々な意味でパワフルなウマ娘が、ニッコニコの満面笑顔でトレーナーに歩み寄る。

 

「いやはや、お待たせお待たせ~」

「お疲れ。ずいぶん遅くなったね、アン」

 

 本来、彼の担当ウマ娘であるはずの彼女……アンは、2時間以上前に戻って来るはずだった。

 

 しかし、そろそろ所定の時間というところでトレーナーの元に「ごめんトレーナー、もうちょっと走ります!」と連絡が届き。

 30分毎に「もうちょっと!」「あと少し!」とカラオケ気分で延長され……。

 結局、2時間も延びに延びたわけだ。

 

 しかし、自らのトレーナーの苦言にすら聞こえる言葉に対して、アンは少し恥ずかしそうに頬を掻くばかり。

 

「ホントはすぐ帰るつもりだったんだけど……いざ会ってみると、思ったよりすごくてさ。

 ちょっと熱が冷めなくて、いっぱい走ってきちゃった!」

「で、もう冷めたのかい?」

 

 トレーナーの言葉にアンは大きくぶんぶんと首を振り、そのどこか吸い込まれそうな灰の瞳を輝かせる。

 

「全然! いやー、やっぱりヤバいね、ホシノウィルム! 想定の5倍くらいヤバいよ!」

 

 彼女が語ったのは、1人の海外のウマ娘の名前。

 

 アンがずっとご執心の、東洋最強の怪物だった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 彼の担当ウマ娘の名は、アンダースタンディブル。

 現在4戦4勝、絶賛G1オークスに2連勝中でスターダムにのし上がっている競走ウマ娘である。

 奇しくも(正確には偶然ではないのだが)ホシノウィルムを追うように現れた彼女は、今年の凱旋門賞における東洋の龍の対抗バとして、あるいは本命中の本命として注目を集めているが……。

 

 彼女も最初からこのように期待を向けられていたわけではなく、またこのようにレースに前向きであったわけでもなかった。

 

 契約当初の彼女は非常に無気力で、トレーニングにもあまり乗り気ではなかった。

 その上、本格化が遅れたこともあってあまり身体能力が伸びず、血統にも殊更目立つところがない故に、選抜レースの時は殆ど無名からのスタートだった。

 

 ……しかし、そんな彼女は、運命の出会いによって大きく変わった。

 偶発的にホシノウィルムのレースの動画を、その走りを見たことによって、大きく感化されたのだ。

 

 以後はトレーニングにもレースにも非常に前向きになり、レースでも抜群の活躍を見せるようになって、一気に一線級の競走ウマ娘として咲き誇り……。

 現在も、「凱旋門賞でホシノウィルムと戦い、勝つ」という最終目標のため、トレーナーと二人三脚で走ってくれている。

 

 

 

 ……しかし、この最終目標、「ホシノウィルムのいる凱旋門賞での勝利」の難易度は、限りなく高い。

 

 アンダースタンディブルのデビューは、彼女のメンタルと本格化の遅れによって後ろ倒しになり、今年の4月末にまでズレ込んだ。

 結果として、デビューから凱旋門賞までに残された期間は、たったの6か月となってしまった。

 

 クラシック級のウマ娘が凱旋門賞で活躍すること自体は、西洋ではそこまで珍しくないが……。

 それにしても、デビューして半年というのは、かなり大きなディスアドバンテージ。

 他のウマ娘たちよりに比べてトレーニングに使える時間も少なく、格の高いレースに挑むためにファンに付いてもらう時間も限られている。

 その上で世界最高峰の芝のレースに勝とうと言うのだから、これはもはや不可能への挑戦に等しい。

 

 その上、あのホシノウィルムだ。

 大逃げという、ラビットたちをねじ伏せレース全体を狂わせ得る狂気の脚質。

 凱旋門賞の2400メートルどころか、芝の状態が違うとはいえ3200メートルを走ってなお末脚までキレるという狂ったスタミナ。

 差しウマ娘や追込ウマ娘と張り合え、むしろ上回ることさえある理解不能な速度。

 レース環境が違う故に本領発揮とはいかないだろうが、それにしても脅威であることに変わりはないだろう。

 

 更に言えば、ホシノウィルムの他にも脅威となり得るウマ娘たちは数多い。

 それこそ、言い方は悪いが、これまでのアンのレースなど霞んで見えてしまう程だ。

 

 

 

 ただ、だからと言って彼らがこの挑戦を前に怯んでいるかと言えば、そんなこともなく。

 

『いいじゃん、不可能への挑戦! 「不可能を覆す竜」に挑むんだもん、それくらいじゃないと!』

 

 アンに至っては、むしろ大いに奮い立っていた。

 

 「不可能を覆す」という言葉は、彼女の憧れ(推し)にもよく使われるものだ。

 絶対と言われた血統の壁を越え。

 長い歴史の中で誰一人勝てなかった宝塚記念(T A K A R A D U K A)を制し。

 非常に不利と言われているらしい逃げでの三冠(triple crown)すらも達成して。

 ホシノウィルムは、その唯一無二の存在を、日本に、そして世界に示した。

 

 当時のアンはレースに強い興味を持っていなかったので知らなかったが、フランスのウマ娘界隈でもその件はやにわに話題になっていた。

 

 欧州において、逃げは「勝つための戦法ではない」。

 ラビットを用いてレースをコントロールするのが主流である世界において、逃げは勝利を放棄し、仲間を勝たせるための手法に他ならなかった。

 

 そんな常識が覆されたのは、数年前。

 敗北前提のはずの逃げ、それをさらに先鋭化させた大逃げという破天荒な脚質で、世界中のレースを荒らし回った異次元の逃亡者、サイレンススズカ。

 彼女の存在によって、欧州ではにわかに「逃げ」という脚質の再評価が始まり……。

 去年のホシノウィルムの台頭によって、完全にその必要性が定着した形だ。

 

 ミドルペースが落ちやすい洋芝に、前目に付ける逃げはあまり適さないこともあり、まだこちらで活躍する子が出て来ることはないかもしれないが……。

 それでも、サイレンススズカやホシノウィルムが、「大逃げ」という破天荒な脚質の存在感をヨーロッパに示し、ついに評価を強いたというのは事実だ。

 

 それを聞かされたアンは、思った。

 

 そんな相手に立ち向かうのだから、自分とて難行の1つや2つ、こなしてしかるべきだろう。

 ついでに言えば、ご大層にも英雄とまで呼ばれてるんだ。そういった試練を越えるのは、ファンの皆だって望んでるだろうし、と。

 

 彼女は常に前向きで自信満々なのである。

 

 

 

『……まぁ、デビュー後2か月で無敗でオークス連勝するっていう時点で、既にだいぶ不可能への挑戦なんだけど。

 アンはそれを叶えてしまったからね。ファンももっと大きな夢を見たがるだろう』

 

 苦笑してそう言いながらも、トレーナーもトレーナーで、この目標に竦むことはなかった。

 

 彼はウマ娘との専属契約を許されて、5年。

 とてもベテランとは言えない、むしろまだまだビギナーの域にいるトレーナーと言っていいだろう。

 

 だが、彼の恩師……この仕事のイロハを叩きこんでくれたとある名トレーナーをして、「少なくとも眼力だけは確か」と言われたトレーナーでもある。

 彼が選び抜き、スカウトしたウマ娘は、文字通り抜群の素質を持っていた。

 

 それこそ……彼女が本気を出して、彼が舵取りさえ間違えなければ、簡単にレースに勝ててしまう程に。

 あるいは、それこそ最速で世界最強の座に君臨しても、なんら違和感はない程に。

 

 

 

 ……が、それだってローマは一日にして成らず(Rome wasn't built in one day)だ。

 

 凱旋門賞等のG1レースに向けたファンへのパフォーマンスや、レースの出走を知らせるための広報活動、そして勿論レースに勝つためのトレーニング。

 彼らがせねばならないことは、無数にある。

 

 そして、今日アンがやってきたこともまた、凱旋門賞の勝利に向けて必要なことの1つ。

 

 即ち、敵情視察だった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 凱旋門賞において、最も脅威となるのは誰か……。

 これを推察するのは、アンのトレーナーには難しかった。

 

 何せ国際G1、それも名誉ある凱旋門賞だ。

 出走してくるのは、各国の国内最強級や、その子のラビットにあたるウマ娘たちばかり。

 外国から来るウマ娘たちも多く、情報収集が行き届かず脅威性を測れないウマ娘も多く、更に言えばどれだけ当地の芝に適合できるかもわからない。

 

 つまるところ、不確定情報が多すぎて、それぞれの実力を測ることすら難しい。

 それこそウマ娘の実力を数値化でもできなければ、正確な脅威性を比較することは不可能だろう。

 

 

 

 ……だが、ただ1つだけ、トレーナーが確信できることがある。

 

 レースに対する感覚が極めて鋭い自分のウマ娘が、あれだけ注目しているのだ。

 少なくとも、ホシノウィルムが最上級の脅威になり得る存在であることは疑いようもない。

 

 だからこそ、その調査が必要だった。

 それも、実際のレースで覗けるもの以外の……もっと直接的な調査が。

 

 『じゃあ偶然を装って実際に会ってみて調査してみれば良くない?』

 

 ……名案と言うべきか、迷案というべきか。

 アンが提案してきたのは、割とモラルというもののない作戦だった。

 

 なんならホシノウィルムの拠点の場所をSNSの情報から割り出したり、その自主トレーニングのルートを分析したり、それが始まる時刻を特定したりしたのもアンだ。

 フランス随一のホシノウィルムファンを名乗るだけあると言うべきか、ストーカー……もとい追っかけとしての素質は十二分らしい。

 トレーナーはちょっと引いた。

 

 真っ当な社会的常識のあるトレーナーとしては、国賓にも等しい他国のウマ娘(それもどのような気性かすら明らかではない)に対して、不用意に接触すべきではないと主張したが……。

 

『私、ホシノウィルムのファンだし! ファンがスターに会いたいって思うのは自然なことでしょ!?』

 

 という理屈で、結局押し切られてしまった。

 

 元より彼はアンの素晴らしい素質に惚れ込んで積極的にスカウトした身。

 彼女に強く出られると、どうにも弱いのであった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「……さて、それでは改めて。実際に会ってみた日本の怪物はどうだったかな。勝てそうに見えた?」

 

 彼の担当ウマ娘アンダースタンディブルは、非常に鋭いレース勘を持っている。

 それこそこれまでのレースでも、短い時間でも他のウマ娘たちと触れ合えば、彼我の戦力差さえ理解してしまえた程に。

 

 故にこそ、彼女がホシノウィルムに触れ合い、何を感じたかは非常に重要だ。

 それ次第で、これからのトレーニング計画を変更する、あるいは抜本的な戦い方自体を変える必要性も出て来る。

 

 故に、トレーナーは少なからぬ緊張感を持ってそれを尋ねたのだが……。

 

 笑顔の担当ウマ娘から返って来た応えは、悪い意味で彼の想定の斜め上のものだった。

 

 

 

「うん、無理! 勝てないわアレは!」

 

 

 

 アンが高らかに言い放った言葉に、トレーナーは目を見開く。

 

「それは……君がそこまで言うのは、珍しいね」

 

 アンダースタンディブルは、こう見えてかなり誇り高い……というか、強者の誇りとでも呼ぶべきものを持っているウマ娘だ。

 

 これまでのメイクデビュー、オープンレース、そしてG1レースの全てで、彼女は「勝つのは当然だし、このレースから何をどれだけ学べるかが大事じゃない?」と言い放ち、そしてその言葉通り当然のように勝って来た。

 彼女はそれを言うだけの素質を持ち、それを叶えるだけの力を持っている。

 東洋において最高の素質を持っているのがホシノウィルムなら、欧州において最高の素質を持っているのはアンダースタンディブルだと、そんな声まで上がるくらいに。

 

 そんなアンが、こうも堂々と「勝てない」と断言するとは思ってはいなかった。

 というか、彼女の誇りがそれを許すとは思えなかった、と言うべきだろうか。

 

 

 

 対してアンの方はと言えば、彼の予想を裏切り、あっけからんと笑う。

 

「いやー、本物を直で見ると、想定よりも威圧感がとんでもなかった! レースモードでもないのに、今まで相手してきたどのウマ娘より超超超格上って感じだよ!

 憧れのウマ娘が目の前にいるっていう緊張感も相まって、頭真っ白になってまともに話せもしなかったよ、あはは! めっちゃ恥ずかしー!」

 

 結構日本語勉強したんだけどねー、と少し悔しそうに……。

 しかしそれ以上に、自分の推しに会うことができた興奮を隠しきれず。

 彼の担当ウマ娘は、子供のように脚と尻尾を揺らし、満面の笑顔で言った。

 

 誤解なきように言えば、これまでに彼女が対戦してきたウマ娘は、決して弱者だったわけではない。

 例年に比べれば比較的小粒ではあったが、それでもG1級ウマ娘たちだ。

 皆それぞれが、確かな実力と特徴を持つウマ娘たちだった。

 

 それなのに、彼女たちとは比べ物にならないとすると……。

 

「…………いいや、今はそこじゃないな」

 

 嫌な想像を振り払うように、トレーナーは頭を振った。

 

 彼の仕事は、ウマ娘の担当トレーナー。

 すべきことは妄想ではなく、目の前の脅威への対処法の考案だ。

 

 

 

「……それじゃあひとまず、調べに行ったことの報告、してもらえるかな」

「オーケー!」

 

 いつにも増してハイテンションな担当ウマ娘は、そう言いながらまぶたを閉じ……。

 

 一転、再びまぶたを開いた彼女の顔からは、一瞬にして興奮と表情が消えていた。

 そうして、「競走ウマ娘アンダースタンディブル」は、静かに語り始めた。

 

「……まず、私たちの予想通り、超感覚(・・・)の範囲は20メートル強だね。

 そしてこちらも予想通り、感覚の正体は多分聴覚だ。おおよそ間違いないと言っていい」

「流石、正確な測量だね」

「この日の為に、かなり綿密に計画を立てたからね。抜かりないよ」

 

 彼女は、ホシノウィルムの純然たるファンでもあるが……。

 同時、確かに、東洋の龍に挑む競走ウマ娘の1人でもある。

 

 故に、憧れのスターと触れ合うことを心から楽しむと同時、きちんと調査もこなしていた。

 

 その調査項目の1つが、ホシノウィルムの「超感覚」であった。

 

 アン曰く、ホシノウィルムは確実に、いずれかの感覚がすさまじく優れている、とのこと。

 レースを見ていれば、明らかに気付けないはずの地点で後続の子の存在に気付いているシーンがあるし、時にはそれがライバルだと確信するような笑顔を浮かべることもあった……のだと言う。

 

 正直に言えば、トレーナーの目では、そこまでの特殊性は見いだせなかったのだが……。

 彼女がそれをみつけられたのは、ひとえにファンの熱意故か、あるいはレースへの鋭い感性故か。

 

 とにかく彼女は、直にホシノウィルムに会うおおよそ唯一の機会を使って、その仮定を確かめに行った。

 

 ……そしてどうやら、見事にホシノウィルムの鋭い感覚を特定してきたらしい。

 

「精度はかなり精密だったけど、足取りを合わせたら(・・・・・・・・・)聞こえてなかったみたい。

 ただ、少しでもズレたら感知されるっぽくて、レース中に使うのはかなり厳しいね」

「……君の話だと、セイウンスカイ(Seiun sky)はそれを使っていた、という話だったけれども」

「そうだね、多分、ホシノウィルムただ1人を潰すためだけにそこまでやったんだと思う。

 先達にそこまでさせるホシノウィルムがすごいって話だね!」

「あるいは、そこまで徹底した対策を取る、セイウンスカイの執念を褒めるべきか……」

 

 セイウンスカイ。

 それは、凱旋門賞で健闘を見せたあのエルコンドルパサーの同期であり、ライバルであるらしいウマ娘。

 

 彼女はそこまでして、勝利を追い求め……。

 けれどそれすら、ホシノウィルムは跳ねのけてみせた。

 

 それだけで、ホシノウィルムというウマ娘の脅威性が伺える。

 

 

 

 日本出身のウマ娘と、その策略に思いを馳せるトレーナーに、アンは真面目そうな表情を崩し、苦笑を向ける。

 

「でもさ、これはもう取れない選択肢だと思うよ。

 そもそもこれは、まだクラシック級だったホシノウィルムの身体能力(ステータス)が自分より劣ってたからできた戦法だし。

 自分の本来のランニングスタイルから外れた走りで張り合えるからこそそれができたんだ。

 今の、あんなぶっ飛んだホシノウィルム相手に、この戦略は成立しない。最初から最後まで全力で挑まないと、その背に手すら届かず終わっちゃう」

「なるほどね」

 

 彼からしても、それは頷ける話だった。

 

 時折聞く話だが、欧州と違い、日本ではクラシック級の子が活躍することはあまり多くないらしい。

 特に6月に開催される宝塚記念までは、これまでの歴史上、一度たりともシニア級の子をクラシック級の子が上回ることはなかったとのこと。

 その最初の例であり、現状唯一のケースが、去年の宝塚記念だった。

 ……という話は、トレーナーは自分の担当から100回近く聞いたので知っている。

 

 これはホシノウィルムに不利なフィールドであり、言い換えればセイウンスカイに有利な宝塚記念というフィールドだからこそ通用した戦法なのだろう。

 

 まぁ結果としては、信じられない程の末脚を見せたホシノウィルムによって、他のウマ娘ごと逆に差し切られてしまったのだが……。

 それでも、あの時、ホシノウィルムが不可思議な程の覚醒を見せなければ、勝っていたのは間違いなくセイウンスカイだった。

 あの一時に限れば、確かに有効な戦法だったのだろうと思う。

 

 

 

 ……が、それはそれとして。

 一切対処法なし、では作戦会議も終われない。

 故に、トレーナーは直截に尋ねることにした。

 

「それじゃあ、ホシノウィルムの弱点(weak point)は何か見つかった?」

 

 競走ウマ娘の弱点は、何も身体能力の低さだけではない。

 

 例えば、走る際の無駄な癖、右回り左回りの効率。

 例えば、精神的な脆弱性、掛かりやすさ。

 例えば、他のウマ娘への意識、油断や慢心。

 

 それらが1つでもあれば、付け込める大きな隙になる。

 

 故に、トレーナーとしてはかなり気になるところだったが……。

 

 

 

 しかしアンは、相変わらず満面の笑顔で……首を振った。

 

「ない!」

「…………そうかぁ」

「いや、あると言えばあるんだけどね。瞳の奥にそこはかとなく強者故の傲慢さが見えたと思うし。

 ただ、それは誇りとか矜持じゃない。私と同じ、『自分は当然勝つ』っていう確信だった。

 その上普段のSNSでの発信とかを見るに、トレーニングとかレースを楽しんでるっていう天性のレースジャンキー。とてもじゃないけど慢心は期待できないね」

 

 いやぁまいったアッハッハと、ニッコニコの嬉しそうな笑顔で語る担当ウマ娘を見て、トレーナーは内心で頭を抱える。

 

 元より気性難の気があり、付き合い方の難しいウマ娘ではあったが……。

 今や契約当時とは全く違う意味で、彼女の気性は厄介なものになってしまった。

 

 

 

 アンダースタンディブルは、恐らくこの世界の誰よりも、ホシノウィルムというウマ娘に期待している。

 彼女のダービーにその目と脳と心を焼かれ、自分も走ろうと思い立った彼女は、彼女の熱烈すぎる程のファンになると同時……。

 その背に果てなき大きさを、決して届くことなき遠さを求めているのだ。

 

 彼女はその頬を手で包み、顔を紅潮させて歌うように独り言ちる。

 

 その瞳は、表情は、まさしく恋する乙女のそれに近く……。

 

 しかし、決定的に違うこととして。

 彼女の口端は吊り上がり、そこから鋭く光る犬歯が覗いていた。

 

「あぁ……うん、やっぱりそう。『今の私』じゃ勝てないなぁ。

 どうしよう。どうしよう! ここからどうやってあの子に勝つか……あぁ、楽しみ、楽しみだ!」

 

 

 

 ……そう。

 アンダースタンディブルは、ただアイドルに憧れるだけの、「普通の女の子」ではない。

 

 強き者に憧れ、その背を越えるために命を燃やすことを求める。

 そんな、ある意味でホシノウィルムと同じ、「天性の競走ウマ娘」なのだ。

 

 そんな彼女にとってホシノウィルムは、最高のアイドルであり、最高のライバル。

 彼女が長い生涯でついに出会うことができた、本気で追いかけるに値する、運命の相手なのだった。

 

 

 

 自身の担当ウマ娘の「らしさ」に苦笑いしつつ、トレーナーは改めて言う。

 

「……まぁ、それをどうするか考えないとね。

 相手は大逃げウマ娘、レースの展開で不利を背負うことはまずない。つまるところ、上振れも下振れもしない、一定のパフォーマンスを出しやすい状態だ。

 取り敢えず……後日開催される、フォワ賞を見てみよう。そこで彼女の、こちらの戦場での実力を測れるはずだ。

 案外、なかなか適合できずに困っている可能性もあるしね」

 

 そう言って頷いたトレーナーは、しかし。

 

「チッチッチッ……甘いよトレーナー」

 

 ニヤリと笑うアンに、指摘される。

 

「星の竜が、適性なんかに負けるわけがない。

 だって彼女は空を飛ぶ者だもの。土地なんかに縛られるわけがないんだ。

 それに……終盤になれば、あのよくわからない『思考力の増加』まで使ってくるんだもん!

 間違いなくフォワ賞にも勝って、私にとって最高のライバルになってくれるよ!」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 アンダースタンディブルから滲み出るのは、ホシノウィルムへの好意であり、興味であり、夢想であり、敵愾心であり。

 

 それはつまるところ……ホシノウィルムが好み、その身から放つものと同じ。

 純粋な、ウマ娘の熱だ。

 

 どこか似ているようなところもあり、あるいは真逆なところもある2人の競走ウマ娘、ホシノウィルムとアンダースタンディブル。

 

 果たしてどちらの熱がより熱く、ウマ娘を前へと駆り立てるか……。

 それが試される日は、着々と近づいていた。

 

 

 







 アンちゃんのホシノウィルムへの感情は、テイオーや他のウマ娘と出会わなかった場合のウィルがネイチャに向ける感情に近いものです。
 要は「あなただけが私を熱くしてくれる……!」っていう激重感情ですね。



 次回は一週間以内。別視点で、一方その頃そっちもそっちで大変な日本の話。



(追記)
 誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!


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西の国から

 今回はフランスを離れ、日本で合宿に勤しむ同陣営の2人視点でお箸休めの回。
 毎回甘すぎる展開を書いてると糖尿病になっちゃう。





 

 

 

 これは常々感じる話だけど。

 人というのは難儀なもので、失ってようやく、自分が持っていたものや周りの環境の大切さに気付く。

 

 ……いや、今回は別にシリアスな話ではないし、何かを喪ったわけではないんだけどね。

 

 私の兄であり、とんでもないクソボケであり、そして補佐すべきトレーナーである、堀野歩。

 そして兄さんの愛バであり、現役最強の競走ウマ娘であり、十中八九将来的には年下の義姉になるだろう、ホシノウィルムさん。

 

 2人がフランスに発ってから、実に1か月半が過ぎ去った。

 

 その結果、私はこの2人の存在の大きさを痛感することになったのだった。

 

 

 

 ぶっちゃけて言えば、トレーナーとしての兄さんの言葉に、おおよそ誤りはない。

 あ、コミュニケーション方面で難が出ることはあるけど、今は一旦棚に上げるとして。

 こと「ウマ娘を育てる」という実務的な方面で、兄さんが判断を間違えることはまず絶対にない。

 

 兄さんは、堀野歩というトレーナーは、化け物だ。

 幼少期から知ってたつもりだけど、実際にトレーナーとして隣に並ぶと、その壊れっぷりを痛感する。

 

 ウマ娘の能力を一切の誤差なく数値化する目……兄さん曰く転生チート。

 堀野家の、マニュアルを作成する以外にはほぼ使われていなかった、死蔵されるばかりの膨大なデータを9割方記憶した、馬鹿げた脳内のデータ量。

 そして何より、文字通り「死ぬ程」努力することを厭わない、化け物じみた精神性。

 

 1つでもあれば天才だとかギフテッドと呼ばれるだろうものを、あのバ鹿は3つも持ち合わせてるんだ。

 最上級のトレーナーになるのは当然だったのかもしれない。

 

 

 

 そういうのを痛感したからだろうか。

 最近はもう、兄さんに追い付け追い越せみたいな気は失せて来た。

 

 アレはもう、そういう生き物。

 人間がどこまで鍛えても象に殴り勝つことはできないように、凡人(わたし)がどこまで学ぼうとも化け物(にいさん)には勝てないだろう。

 

 諦めてしまった、という言い方もできると思うけど……。

 私的には、なんというかこう、割り切ったという感情が強い。

 

 そもそもトレーナーに勝つも負けるもないし、私が兄さんに勝手に劣等感を感じて、競っているように感じていただけだもの。あっちは競う気すらないだろう。

 

 そんなことに目をやって精神をかき乱し、結果として担当するウマ娘を疎かにするわけにはいかない。

 私は私のフィールドで、私のやり方でトレーナーとして頑張ればいい、と。

 この数か月で、そう思うようになってきた。

 

 思えば私がトレーナーを目指したのだって、兄さんへの対抗心半分、家業とウマ娘に関わりたい気持ち半分といったところだったんだけど……。

 どうやら私の中では、いつの間にか前者に比べて後者の比重が大きくなっていたらしい。

 

 きっかけは多分、去年の冬。

 兄さんが変わって、『彼女』と別れた、あの時。

 あの時、私が苛立ち、ムカついて、絶対に認めないと思っていた相手は……消えたんだ。

 

 だから、あれからは兄さんを見るたびに無性に苛立つこともなくなって──だからと言って、殊更に態度を軟化させたりはしないけれども──、割とのびのびとサブトレーナー業務に勤しめるようになった。

 元からウマ娘やレースが好きだったのは間違いないし、ずっと気がかりだった問題が解決したとなれば、そちらが重くなっていくのも自然なことだったのかもしれない。

 

 ちゃんとウマ娘のことを見て、そっちに専念するようになった。

 そういう意味では、私は最近になってようやく、ちゃんとトレーナーの卵になれた……のかも。

 

 

 

 ……あ、いや、思考が逸れちゃったな。

 

 話を戻すと、兄さんはウマ娘のトレーナーとしては、これ以上ない程の化け物だ。

 特に今年に入ってからは、トラウマをなくして無理もしなくなった結果、思考の隙とか偏りが消え、なんというか、心身共にみなぎってる状態。

 今の兄さんはかなりヤバい。割と本気で世界最強のトレーナーかもしれないと思うくらいに。

 

 で。

 そんなトレーナーが横にいると……やっぱり、安心感があるんだよね。

 

 もしも私が無知故の、あるいは集中力不足によるミスをしたとしても、全部ダブルチェックしてる兄さんが確実に気付いてくれる。

 だから……。

 

 ……うわ、めちゃくちゃ最悪だな私。

 今、内心で「責任を感じなくて楽なんだよな」とか考えちゃってた。

 私はサブとはいえ、中央トレセンに所属するトレーナーだ。ウマ娘の子たちのアスリート人生を、青春の一欠片を預かる身だ。

 もっと仕事に、ウマ娘に責任感を持たないと。

 

 そう考えると、ある意味じゃ兄さんのいないこの環境は、私にとって良いものなのかもしれない。

 なにせ兄さんがいない以上、ミホノブルボンさんに関して、大局的な判断や中期長期的な計画はともかく、咄嗟の判断や瞬間瞬間の指示は私が行わなきゃいけない。

 当然ながらその際、緊張感を持ち、責任を伴って判断を下さねばならない。

 

 失敗してはいけないが、もし失敗しても致命的なことには繋がらない、この環境。

 これが私のメンタルとスキルを、より向上させてくれるはずだ。

 

 あの兄さんが留守を任せてくれた以上、私には最低限の実力はあるんだと思う。

 ……というか、この1年で不可避的に実力を付けさせられた。

 あの兄、一見身内にはガバガバに甘いようでいて、その実一切の甘えを許さないスパルタだからなぁ。

 

 ま、どんな経緯であろうと、技術はバッチリ身に付いてくれてる。

 後はそれを振るうことに慣れながら、より昇華させていくだけだ。

 

 ……って、私がそう考えるところまで、兄さんは想定してるんだろうな。

 「昌は努力家だもんな、これも良い機会だと捉えてくれるだろう」、とか?

 そういうわかったフリしてくるところは、相変わらずムカつくなぁ。

 

 

 

 さて、そんな不安と挑戦の毎日。

 

 小さなミスは何度かあったものの、トレーナー不在の新米サブトレーナーということで、たづなさんやネイチャのトレーナーさんにフォローしてもらって、なんとか致命的な失敗は避けられた。

 本当にあの2人には感謝しかない。いつか何らかの形でお返しできればいいけど。

 

 ……というか、兄さんってサブトレ経験せずトレーナーやってたらしいけど、どんな精神してたらできるんだろうそんなこと。

 不慣れが故の不安とどんどん溜まる書類とか手間のストレス、かなりヤバいんだけど。この上でいきなり正規のトレーナーやれとか言われたら普通に無理じゃない?

 いや、実際無理だったからこそ、話に聞く「ダービーの時の致命的な失敗」があったんだろうけど。

 ……流石の兄さんにも限界はあるんだと思うと、なんか少し安心するな。ちょっと趣味悪いけども。

 

 一方で私はと言えば、ホシノウィルムさん関係の仕事は基本的に兄さんの方に飛ばされる上、今はまだブルボンさんのレースシーズンでもないので、比較的余裕のある状況だ。

 勿論負荷はかかってるけど、徹夜は一週間に一日程度で済んでるし、平均睡眠時間も6時間はある。

 実家で勉強してた時と同じくらいのスケジュール。この程度で調子を落とすようじゃ、トレーナーとしてはやっていけない。

 

 

 

 仕事の出来に関しても、たづなさんから「勤め始めて1年弱で無敗二冠の逃げウマ娘を担当できるのはすごいことですよ。自信を持ってください!」と言ってもらえた。

 多少の気遣いとおだてが入ってるとは思うけど、最低限はなんとかなってると思っていい……はず。

 

 ……まぁそれに関しては、ミホノブルボンさんが手の掛からない子だってことも大きいけどね。

 あの子、ウマ娘としてはかなり珍しいことに、メンタルのブレが殆どないんだよね。

 実際には私にはわからない微細な差はあるみたいで、兄さんから時々「カラオケに連れて行ってあげて」「一緒にお散歩にGO」といったよくわかんないオーダーが来ることもあるんだけど……。

 トレーニングへの真面目な姿勢が変わらないってことだけでも、トレーナーとしてはすごくありがたい。

 

 

 

 更に言えば、彼女のその姿勢があってもなお、私は完璧にトレーナーをやれてるってわけじゃない。

 

 自分の不足は、私自身が一番よく感じられる。

 というか、1人でブルボンさんを担当し始めて、すぐにわかった。

 

 データだ。私にはデータが足りなさすぎる。

 

 「こうなった時にどうすればいいか」のマニュアルが私の中にないから、咄嗟の判断ができない。

 勿論、これまでの通例通りのお役所仕事な判断ばかりではいけないと思うけど、それでもやっぱりマニュアルがあるとないとじゃ速度も安定感も段違い。

 

 なので最近、「ようやく息子と和解できた」と、感情を隠そうとはしてるものの全く隠し切れず、心底嬉しそうに通話で報告してきたバ鹿父さんに、実家の資料の転写を送ってもらった。

 兄さんの後を追うようでちょっと癪だけど、まぁ無駄にはならないだろう。多分。

 

 

 

 そんなわけで、この1か月半。

 

 昼はブルボンさんのトレーナー代理として、山盛りの仕事を捌きつつ、兄さんのプランに従ってブルボンさんのトレーニングを監督観察し。

 夜は資料を読みこんで分析したり、堀野の歴史に刻まれたミホノブルボンさんに近いウマ娘(そんな子ほとんどいないんだけど)を探してデータ集める、と。

 そんな毎日を送ってたのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そんな毎日の中の、8月上旬の正午。

 

 私はいつものように、彼方フランスに通話をかける。

 

「聞こえる?」

『──うん、問題なし』

 

 僅かなラグの後、それに応えたのは、当然ながら兄さんだった。

 

『昌、カメラお願い』

「ん」

『ブルボンも、軽く動いてくれ』

「了解しました、マスター」

 

 あくまで、ブルボンさんのメインのトレーナーは、兄さんだ。

 だから、学園の朝礼前の8時、授業が終わりトレーニングを始める前の正午、そしてトレーニング終了後の20時あたり。

 1日3回、兄さんと通話を繋げて、15から30分程のミーティングを行っている。

 

 ちなみにこれ、ホシノウィルムさんも参加することがあるけど、ランニング中、あるいはトレーニング中ということで参加しないことが大半だ。

 ……いっつも走ってるなあの子。兄さんのことだから体力管理は徹底してるんだろうけど、いつ休んでるんだろうホント。

 

 そんなことを考えながら、私は立てていた三脚カメラの位置と高さを調整。

 そのレンズが向く先では、ブルボンさんが直立したり、軽く体を揺らしたり、くるっと一回転したりしている。

 

 

 

 兄さんの化け物観察力こと、転生チート。

 警戒心の強すぎる兄さんはこれを担当の子たちに話していないらしく、「トモを見ればそのウマ娘のことが大体わかる」って説明しているらしい。

 今回も、実際には一目写真を見ればわかるくせ、その嘘の現実味を増すために、動く映像が必要、ってことにしてるんだって。

 

 ……いや、そんなので誤魔化される!? あり得なくない!?

 と、そう思わないでもないけど……。

 

 ホシノウィルムさんは、言っちゃなんだけど兄さん信者というか、「歩さんの言うことなら正しいんでしょうね!」って感じだし。

 ブルボンさんだって「マスターを疑う行為は、競走ウマ娘としてのポテンシャルに悪影響をもたらします」と、合理的じゃないって理由で一切の疑いを捨てちゃってる。

 

 結果として、2人の担当ウマ娘たちは、どちらも兄さんの言葉を全く疑っていないのだった。

 

 なんだ……なんだこの特異な2人……!?

 いやまぁ、あの変わり者の兄さんと契約するんだ、変わり者のウマ娘になるってのはわからない話じゃないけれども。

 それにしたって、なかなか変わった2人が集まったなぁと思う。

 類は友を呼ぶというヤツかな。……それだと一般人な私まで変人みたいになっちゃって嫌だなぁ。

 

 

 

 

 そんなことを考える間にも、イヤホンの向こうからは兄さんの声が届く。

 

『さて……うん、少し疲れが取れたな。調子も絶好調を維持、ステータスは微増。

 昌、体力のメモリを6つ右に。それからスピードの数字を1、根性の数字を1増やして』

「了解」

 

 ミホノブルボンさんがその場でくるくるする一方、私はカメラの調整を終えると、オフラインのPCの前に座り、兄さんの指示に従ってエクセルにデータを入力していく。

 あっちでもパタパタとキーボードを叩く音が聞こえるし、担当のデータは逐次更新してるんだろう。

 

 ……改めて考えると、なんとも変な空間だ。

 担当ウマ娘のミホノブルボンさんは無表情でくるくる、カメラはそれをじっと捉え、私は右手でキーボードカタカタ、兄さんはフランスからお話。

 外から見るとだいぶシュールに映るんじゃないか、この光景。

 まぁ、鍵もかかってるし防音もしっかりしてるし、まず外から見られることはないだろうけども。

 

 

 

 兄さんがブルボンさんの状態を見た後は、カメラを切ってブルボンさんも着席、これからのプランの話し合いが始まる。

 

『さて、トレーニングは予定通り……いや訂正、やっぱり少し休憩を増やすか、事故が怖いし。

 ブルボン、プランBからC、EからFの間のクールダウンタイムをそれぞれ3分半追加』

「プラン修正を受諾しました」

「ちょっと待ってね……おっけ。バッファ、25分弱になっちゃうけど大丈夫?」

『元よりそのために取っていた余裕だよ。

 ……あ、それから明日のトレーニング後のミーティング、申し訳ないけど30分後ろ倒しで。ウィルのプロモの仕事が入っちゃったから』

「了解」

 

 ……忘れちゃいがちなんだけど、兄さんたちがいるフランスと日本では、7時間余りの時差がある。

 こっちでは8時、12時、20時のミーティングは、あっちにとっては1時、5時、13時のタイミングになるはずだ。

 

 そして、契約トレーナーである以上当然と言えば当然なんだけど、兄さんがこのミーティングに遅れたりすっぽかした試しは一度もない。それどころか、疲れたり眠たそうな気配すら見せたことがない。

 よくそれで睡眠時間を確保できるなと思ったら、「1時間半の睡眠を3、4回は取れてるから大丈夫。むしろかなり余裕ある」とのこと。

 生活リズムとか体内時計って言葉がないんだろうかこの生物。

 

 今もあっちは5時くらいのはずなんだけど、声からは寝ぼけた様子なんて欠片も感じない。

 まぁ兄さん、ホシノウィルムさんとは対極的に、かなり朝に強い方だから判断し辛いけど……しばらく寝てないんじゃないのこれ?

 

「兄さん、ちゃんと寝てる?」

『上の兄さんみたいなこと言うね、昌。心配しなくてもちゃんと寝てるし……ぶっちゃけて言うと、お恥ずかしい話5分前までベッドで寝息立ててたよ。

 とはいえ勿論、今はちゃんと頭を回してるからご安心』

 

 いや強すぎでしょ朝に。良すぎでしょ寝起きが。

 

 ……しかもこれ、天性の素質ってわけじゃなく、後天的な訓練で手に入れてるからなぁ。

 人の才能を羨むのは良いけど、努力で身に着けた実力を羨むのは、何というか、違う。

 そういう意味で、悔しいけど兄さんの能力の大半は羨めないんだよね。そこもちょっとムカつくところ。

 

 

 

 その後、改めて3週間先までのざっとした予定を確認し終えた後。

 兄さんは、自身の担当ウマ娘に声を投げかけた。

 

『ミホノブルボン、何か言いたいことなどあれば』

「いえ、必要十分なサポートを受けていると愚考します。

 強いて言うならば……」

『何だ?』

 

 彼女は少しだけためらいがちに、口を開く。

 

「……マスターが不在であることに、突発的に不可思議な精神的動揺を覚えることがあります」

 

 いや、めっちゃ気持ちわかる~~~!

 私もすっごい不安なんだよね、兄さんいないの。

 

 ぶっちゃけて言うと、私、世代の中核たる無敗二冠のウマ娘を担当できる程の実力もカリスマもない。

 ミホノブルボンさんが不安に思うのは、当然すぎるんだよね。

 

 そんなわけで、私は思わず苦笑を浮かべてしまったんだけど……。

 どうやら彼女はそれを誤解してしまったらしい。

 

「無論、サブトレーナーに信を置いていないという意味ではありません。いつも変わらぬサポートに感謝しています」

「大丈夫です、ミホノブルボンさん。兄さん……自らのメイントレーナー不在の環境に不安を覚えることは、なんらおかしなことではありませんよ」

 

 悲しいと言えば悲しいけれども、事実なので仕方ない。

 こちとら20年続けて来たんだ、天才と比べられてガッカリされるのは慣れっこなんだよね。

 そういうのへの対抗策はただ1つ、ガッカリされないように努力していくしかない。

 

『昌からは何かある?』

「特にないかな。強いて言えば凱旋門賞後のプランをざっとでいいから教えて欲しいくらい」

『ウィルは一応秋シニアルート、ただ……まぁ、様子を見ながらって感じかな。

 ミホノブルボンは菊花賞に専念して、その後のことは改めて話し合って考えよう』

「ん、予定は未定、と」

『一応いくつかプランは組んでるから、後で文章で送るよ』

「じゃあ、ホシノウィルムさんの様子は?」

 

 それを聞いた兄さんは、「ふふ」と微笑を漏らし、僅かに楽しそうに語る。

 

『まぁ……好調も好調、かな。かなりハイテンションにトレーニングに臨んでくれてる。走りへの前向きさは日本にいた時を凌ぐレベルだ』

「むしろ不安になってきたなそれを聞くと……」

 

 ただでさえランニングジャンキーの気があるホシノウィルムさんが、こっち以上って……。

 色んな意味で大丈夫なのかな、あっちは。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 それからいくつかの情報伝達をした後、イヤホンの向こうから聞こえた『歩さんただいまーっ!』という聞き慣れないけど聞き覚えのあるはしゃぎ声と共に、今回のミーティングは終わった。

 

 思わずブルボンさんと目を合わせてしまう。

 

「……ホシノウィルムさん、元気そうでしたね」

「肯定。先輩がお元気そうで何よりです」

 

 そう言って、私たちは頷き合う。

 漏れ聞こえる話からして、まず間違いなく意気軒昂であることは予想できていたけど、実際に声を聞くとやっぱり安心感が違った。

 

 兄さんがいるんだし、私たちが心配することなんてないのかもしれないけど……。

 サブとはいえ、私だって彼女のトレーナー。どうしても心の片隅に、彼女を案じる気持ちがあった。

 

 そして恐らく、それはブルボンさんも同じだったんだろう。

 彼女はいつもの無表情ながら、ほんのわずかな安堵を滲ませていた。

 

 

 

 それを見て……ふと。

 ホシノウィルムさん、愛されてるなぁ、と思う。

 

 彼女の辛い過去は……一応、知らず地雷に突っ込まないようにと、触りだけは聞いている。

 親から愛を注がれなかった子供。孤独の中で生きることを強いられた少女。

 ……今は亡き『彼女』に、少しだけ似ている生き様だ。どうも兄さんは、そういう女の子と縁があるらしい。

 

 けれどホシノウィルムさんは、既にその運命の軛から抜け出した。

 

 ファンを愛し、愛されることを知った。

 兄さんやミホノブルボンさん、ナイスネイチャさんにトウカイテイオーさん……そして私といった、親しく付き合える人と出会った。

 今の彼女は、もう孤独じゃない。隣にはいつもべったべたの相思相愛な兄さんがいる。

 

 結局のところ、彼女の魂は、冷たく厚い灰の色。

 あの深く昏い群青とは、似ても似つかないんだ。

 ……色合いは結構近いだろうって? うるさいな、フィーリング的には遠いんだよ。

 

 とにかく……もう、ホシノウィルムさんがそっちの道に転がり落ちることはないだろうな、と思う。

 そしてついでに、澄んだ色になった兄さんも、変に歪むことはない。

 

 そして、『彼女』の決断が、このハッピーエンドの先を描いているのだとすれば……。

 きっと私は、それを見届けなければならない。

 それが、この世界で唯一彼女が存在したことを知る、私の役目ってものでしょう。

 

 ……まぁ、だからって目の前で口から砂吐きそうなダダ甘プレイを見せつけられるのは、いい加減勘弁なんだけども。

 

 

 

 さて、そんな幸せ絶頂期なホシノウィルムさんに、そして今からまさに分水嶺に向かおうとするミホノブルボンさんに、私がしてあげられることと言えば……。

 結局のところ、ただ1つだ。

 

「……さて、それではこちらもトレーニングに出ましょうか。

 いつまでも彼女の背を追い続けるわけにもいきませんし……せっかくの合宿です、兄さんを驚かせるくらいにしっかりと鍛え上げてしまいましょう」

「任務了解。ミホノブルボン、プロトコル『トレーニング』を開始します」

 

 兄さんのプラン通りに、そして兄さんの想定以上に細かいケアで、ミホノブルボンさんを支える。

 そうして彼女に強くなってもらって、菊花賞どころかその先、シニア級の子たちとの戦いになるジャパンカップや有記念でも活躍できるレベルに鍛え上げ……。

 

 ホシノウィルムさんにとって、追う者から逃げ続ける、熾烈な体験をもたらし。

 ミホノブルボンさんにとって、三冠を越えてもなお続く、新たな道を提示する。

 

 それが、兄さんと私の今のお仕事なんだ。

 

 ……「去年はウィルが気持ち良く走れるように強いライバル用意してたんだよね」って聞いた時は、やっぱこの兄頭おかしいわと思ったんだけど……。

 回り回って自分も同じことをしてるんだから、まったくトレーナーってヤツはどうにも。

 

 苦笑しながら、私は合宿での宿泊先を出て……。

 ブルボンさんと共に、砂浜でのトレーニングに向かったのだった。

 

 

 







 もうちょっと語りたい気もするけど、ここまで来たらノイズになりそうなのでさっくりと消化。
 ブルボンの話はまた帰国後に。



 次回は1週間以内。ウィルと少しだけ因縁のあるあの子の視点で、前哨戦・G2フォワ賞。


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